サテュリコン
ペトロニウス/岩崎良三訳
目 次
第一部
第二部 トリマルキオの饗宴
第三部
宿にて
船路
クロトンにて
『サテュリコン』について
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登場人物
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エンコルピウス……主人公、物語の語り手
アスキュルトス……その友人
ギトン……主人公の寵愛する少年奴隷
アガメムノン……雄弁術の先生
メネラウス……アガメムノンに従う助教師
トルマルキオ……奴隷出身の大富豪。「三度祝福された人」の意
フォルトゥナタ……その妻。卑しい生まれの女
ディオゲネス……金持ちの解放奴隷
ダーマ、セレウクス、ピレロス、ガニュメデス、ニケロス、プロカムス……解放奴隷
エキオン……ぼろ商人
ヘルメロス……アウグストゥスの司祭。解放奴隷
ハビンナス……アウグストゥスの司祭。大理石工
スキンティッラ……その妻
エウモルプス……不遇な天才を気取る老詩人
リカス……船主。主人公のもとの主人
トリュパエナ……遊び女
キルケー……ポリュアエヌス(主人公の偽名)の愛人
オエノテア……生殖神を祀る社の年老いた女司祭
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第一部
「『これらの傷を、余は民衆の自由を擁護せんとして獲《え》た。この眼《まなこ》を、余は諸君のために失った。子供らのもとへ余を導く手を与えよ。余の膝は腱《けん》を切られ、からだを支えることあたわず』などとわれわれの雄弁術の先生たちが叫ぶとき、かれらは一種の狂気に悩まされているのではなかろうか? もしこれらの演説が初心者に雄弁への道を切りひらく役を果たすものならば、堪え忍びもしよう。ところが事実は、このような大げさな題目と空虚に鳴りひびく言葉とは、法廷にはじめて一歩を踏み入れたその弟子に、まるで別世界につれて来られたという感じを抱かせるだけである。
ぼくの思うところでは、これが学校において青年たちがなぜあのような低能になるのかという理由である。なぜならかれらはそこでは、日常生活について何事も見聞することがない。それは鎖につながれて海岸に立っている海賊とか、人の子にその父親の首を切れという布告を認めている暴君とか、三人あるいはもっと多数の処女の血を要求する悪疫流行時の神託とかいったようなもので、いわば辞句の飴玉《あめだま》であり、言葉も事実もことごとく罌粟《けし》と胡麻《ごま》の実を撒《ま》きかけられているのだ。こんな食物で育ったものが十分な分別をわきまえ得ないことは、台所に住むものが悪臭を放っているのと同様である。
雄弁を衰亡させたことに関しては、雄弁術の先生たちがだれよりもまず責められるべきだということをどうかあえていわせていただきたい。聴衆の耳をただくすぐるつもりでいうあなた方の馬鹿気た、無意味な言葉で、雄弁の本質をあなた方は無力にし、また堕落させてしまったのだ。ソポクレスやエウリピデスがいおうとする適切な言葉を見出した時代、青年たちはまだ演説にしばられていなかった。ピンダロスや九人の抒情詩人たちがホメロスの詩句を使うにはあまりに遠慮がちであった頃、世聞知らずの衒学者《げんがくしゃ》もなおまだ青年の天性をそこねてはいなかった。この証拠として詩人のみを引合いに出さなくともよい。プラトンないしはデモステネスもこの種の訓練を受けたとはぼくには考えられない。偉大なスタイルといわば謙譲なスタイルであって、斑点だらけのものでもなければ、誇張に満ちたものでもない。それはそれ自身の自然の美しさにより天翔《あまかけ》るのだ。
近頃アジアからアテナイに蔓延《まんえん》してきたあなた方の誇大で乱脈な饒舌は、有毒な惑星のように、大望ある青年の心を汚し、いちど弁説の規則が破られると雄弁はおしと変わり果てたのである。要するにその時以来何びとが、トゥキュディデスやヒュペレイデスの名声に匹敵しえたであろうか? 詩歌のみがあおざめたのではなく、健康に害のある同じ食物で養われたかのように、あらゆるものが白髪の老年に達する力を欠いている。絵画もまた、傍若無人なエジプト人がこの高尚な芸術への近道を見出して以来〔機械的なテクニックで描く方法を発明したことを指すものらしい〕、同じ運命をたどったのである」
アガメムノンはかれが学校で汗を流して演説した時間以上に、柱廊でぼくが演説するのを許そうとしなかった。けれどもかれはこういった。
「青年よ、きみの議論には月並みでない味がある。しかももっとも珍重すべき点は、きみが良識をわきまえていることだ。それゆえ私はきみに職業上の秘密を打ち明けよう。あのような課題を選ぶことは先生たちが悪いのではない。かれらは狂人病院にいるのだ、だから狂人たちとともに騒ぎ狂わなければならないのだ。もしもかれらが青年たちを歓ばすものを教えなかったならば、キケロがいうように弟子もなく『学校にひとりとり残される』だろう。かれらは富豪の食卓を乞いあさる喜劇の阿諛者《へつらいもの》〔いわゆる食客ないし居候〕のように、まず何が自分たちの聴衆を歓ばすのに適しているかを考えてみるのだ。聴衆の耳をくすぐってその意を迎えなければ、目的を達することはできないのだ。それゆえ雄弁の先生はまるで漁師のように、魚の求めるのを知っている餌《えさ》を鉤《はり》につけていなければ、獲物をうる望みもなく岩の上にとり残されるだろう。では何をすべきか? 自分たちの子供を厳格な訓練によって学ばさせようとしない両親たちを責めるべきだ。まず第一に、かれらの希望は他の一切のものと同様に野心に捧げられている。そこでかれらの希望が充たされるのを見たくて我慢できなくなって、まだ未熟な学生を法廷に出し、これ以上高尚なものはないとみずから認めている雄弁術を、乳離れしたかしないかといってもよい子供たちに押しつけるのだ。もしもかれらがその子供たちに課程を一歩一歩進めることを許して、好学の青年が堅実なる読書によって仕込まれ、その心が賢人の言葉によって固められ、そのスタイルを容赦なく推敲《すいこう》し、模倣しようと欲するものに耳をかたむけ、そして年少者が歓ぶようなものは大したものではないと確信したならば、そのときこそ雄渾《ゆうこん》なる雄弁はそれ自身の尊厳と権威とをかちうるであろう。ところがこんにち、少年は学校で時を空費し、そして青年は法廷で笑いものになっているのだ。さらにそれよりいちだんと悪いことには、かれらは年老いて学校時代に覚え込んだ誤りを認めようとしないことだ。けれども私がルキリウス〔ローマ諷刺詩の父といわれる〕の謙譲に関する即興詩を軽視しているとはどうか思わないでいただきたい。私は私の感ずるところを詩にしてみよう。
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厳正なる芸術に成功することを求め、
かつその心を偉大なる労作にかたむける者には、
まず浪費を避くるという厳しき法によって、その人格を磨かしめよ。
暴君の王宮における尊大なる顰蹙《ひんしゅく》を気にかくるなかれ。
蕩児《とうじ》とともに食客のごとく、晩餐をかち獲《え》んとするなかれ。
放蕩にふけり酒におぼれて、心の情熱を失くすなかれ。
あるいはまた舞台の前に坐り、金銭を貰って俳優のおどけづらに喝采するなかれ。
されど武装せるトリトニスの塞《とりで》〔アテナイを指す〕のほほえむところか、
ラケダエモンの移住者の住む土地か、
あるいはシレネス〔サイレンたち。半人半鳥の魔女で美妙な歌声によって多くの船人を誘ってこれを難破せしめて貪り食ったという〕の住居に、
詩歌にたいする最初の歳月を与えしめよ。
そしてマエオニア〔ホメロスはマエオニアの生まれであるともいわれるので、形容詞として用いるときは「ホメロス」の意味となる〕の泉をその豊饒なる魂に飲ましめよ。
ついでソクラテス派に飽き足れば、
手綱をゆるめて自由民のごとく、力強きデモステネスの武器をふるわしめよ。
それよりローマの作家らを周囲に充満せしめ、
いまやギリシアの音《ね》より解放せられたばかりなる魂をひたして、
その趣味を変えしめよ。
いっぽう法廷より退きて、その書物を自由に追わしめよ。
そしてひそかに迅速なる韻律《いんりつ》にて鳴り響く調べをつくらしめよ。
つぎに饗宴とすさまじき詩歌に記録されたる戦いと、
剛毅なるキケロが発せるごとき荘重なる言葉とをほこらかに語らしめよ。
なんじの魂にこれらの高邁《こうまい》なる目的をまとえかし、
しからば十分なる霊感を得て、滔々《とうとう》たる大河のごとく、
なんじの心より詩女神《ビーエリア》たちの言葉を注ぎ出すならん」
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ぼくはこの演説にすっかり注意をうばわれて傾聴していたので、アスキュルトスがこっそり立ち去っていたのに気がつかなかった。そしてぼくが聞いたこの熱弁のことを夢中になって考え込みながら庭園を歩き廻っているあいだに、明らかにアガメムノンの模範演説のあとでだれかがふるった即興的|獅子吼《ししく》を聞き終えたらしい大勢の学生たちが柱廊にやってきた。青年たちがかれの意見を笑い、全体としてそのスタイルの傾向を非難している間に、ぼくはそっと脱け出る機会をとらえて、アスキュルトスのあとを急いで追いかけはじめた。けれどもぼくは道を正確に記憶していなかったし、自分の宿がどこにあるのかも知らなかった。そこでいくらどっちへむかって行ってもまたもとの同じ場所に戻ってきてしまうので、とうとう歩くのにすっかり疲れはてて汗を流してしまった。そこで野菜を売っている一人の老婆のもとに行って、こういった。
「ねえ、おばさん、ぼくの住んでいるところをごぞんじありませんか?」
彼女はぼくの馬鹿丁寧さにうっとりさせられて、「ええ、よく知っていますよ」と答えると、起き上がって先に立っていった。ぼくは彼女を女予言者だと思った。……
そして二人がとあるへんぴな場所に着いたとき、この親切な老婆はつぎはぎだらけな垂れ幕をかきわけて、こういった。
「ここがおまえの家さ」
こんな家はぼくは知らないよと、いおうとした時に、掲示板のあいだに幾人かの男や裸の女たちがこそこそ歩き廻っているのに気がついた。淫売窟につれて来られたのだなとさとったときはもう遅かった。ぼくはあの狡猾《こうかつ》な老婆をのろった。そして顔をおおって淫売窟をつきぬけて向う側に行こうとしたとき、その戸口でアスキュルトスにばったり出くわしてしまった。ぐったりとして半ば参ってしまっているようなようすはぼくと同じであった。かれもここへ例の老婆につれて来られたらしかった。ぼくは笑いながらかれに呼びかけて、いったいこんな不愉快な場所で何をしていたのかとたずねた。かれは両手で汗を拭きながら答えた。
「ぼくの身に何ごとがふりかかったかを知っていたならばなあ」
「いったいどうしたのだ?」
とぼくがきくと、かれは絶え入るばかりの声で、こういった。
「ぼくは自分の宿がどのへんにあったかどうしても見つけることができずに、町じゅうを歩き廻っていたのさ。すると人品いやしからぬ一人の男がぼくに近づいてきて非常にていねいな態度でご案内しましょうといってくれた。そしてごく薄暗い路次をいくつか曲がって、ここへつれてきたのさ。それからぼくに金をくれて熱心に誘惑しはじめた。もう女将《おかみ》が部屋代をとってしまっていたし、それにその男はぼくをしっかりつかまえてしまっていたのだ。もしもぼくにあの男よりも腕力がなかったなら、最悪のことがおこったにちがいないね」……
そこにいるだれもが媚薬《びやく》に酔っているように思えた。……けれども二人は協力して寄せ手をはらいのけた。……
路次の角にギトンが立っているのを、霧のなかで見るようにぼんやりと認めたので、ぼくはかれのもとへ急いでいった。……ぼくが食事の用意をしておいてくれたかねと弟にたずねたとき、かれは寝台の上に坐り込んで、拇指《おやゆび》で流れ出る涙を拭きはじめた。その顔つきがぼくを不安にしたので、どうしたのだとたずねた。かれは事実ぐずぐずといつまでもいいしぶっていたが、おどしたりすかしたりすると、ようやくつぎのように答えた。
「あなたのお友達の、あのお兄さんがいましがた私たちの宿へやってきて、私を手ごめにしようとしはじめました。私が大声をあげると、あの方は剣を引き抜いてこういいました。『もしもおまえがルクレティアなら、おまえはおまえのタルキニウスをみつけたのだ〔ルクレティアはコラティヌスの妻だったが、タルキニウスに犯されて自殺した〕』と」
ぼくはこれをきくと、アスキュルトスの顔をめがけて拳骨をふるって叫んだ。
「なにか言い分があるか? 吐く息までも汚れている、女のようににやけた男娼《だんしょう》め!」
アスキュルトスは最初はぎょっとしたようすをしたが、ぼくよりもさらに大げさに拳骨をふりあげ、またはるかに大きな声でわめき立てた。
「黙れ、卑猥《ひわい》な剣闘士め! 相手をやっつけてまんまと円形劇場の柵《さく》から逃げのびたやつめ! 黙れ、全盛時代でさえ清純な女性に顔を合わせることもできなかった夜盗め! ちょうどこの少年がいまこの宿でおまえのお椎児であるのと同じに、庭ではおれがおまえのお気に入りだったではないか」
ぼくはいい返した。「おまえは先生の演説からこそこそ逃げ出したではないか?」
「空腹で死にそうなときにどうすればよかったのだ、馬鹿、壊れたガラスびんか夢判断にすぎない文句に耳を傾けていなければならないとでもいうのかね? ヘルクレスにかけていうが、おまえはおれよりはるかにいやしいやつだ、どこかでご馳走に呼ばれようと思って詩人に喝采などするとはな」
そこでぼくらのあさましい喧嘩は哄笑《こうしょう》のうちに終って、もっとおだやかな調子で他の問題を論じはじめた。……
けれどもかれの侮辱が記憶にまたよみがえってきた。「アスキュルトスよ」とぼくはいった。「きみといっしょに仲よくやってゆくことはできないと思うね。ぼくらの荷物は分け合って、めいめい自分の稼ぎで貧乏神を駆逐しようではないか。きみは学者だ、ぼくだってそうさ。ぼくはきみの稼ぎの妨害はせぬ、ぼくは別の方向をとろう。さもないと毎日千度もの原因で衝突し、町じゅうにぼくらの醜聞をふりまいてしまうよ」
アスキュルトスは反対もせずにいった。
「今日のところはまるで学者のように晩饗に呼ばれているのだから、今夜はむだにしないようにしよう。しかし明日は、きみが望んでいるのだから、ぼくは新しい宿屋と別の弟をさがすよ」
「他人の楽しみを待っているのは退屈なものさ」とぼくはいった。……
このようにあわただしい別れ方をさせたのは、じつはぼくの煩悩《ぼんのう》であった。事実ぼくの愛するギトンと昔どおりの関係を取り戻すために、かれの嫉妬ぶかい看視からのがれたいとまえから望んでいたのであった。町じゅうを見物したのちに、ぼくは小さな部屋に戻った。そしてとうとうぼくは心からの接吻を求め、少年をひしと抱きしめて人もうらやむばかりの幸福を満喫した。万事がまだすまないうちにアスキュルトスがひそかに戸口にしのびより、閂《かんぬき》をむりにゆり動かせて弟と戯れているぼくをみつけてしまった。かれは嘲笑と喝采で部屋をみたすと、ぼくらをおおうていた掛け蒲団を引きはがしていった。
「何ごとをしでかしているのだい、おれたちの友情を解消したいとおっしゃっていたわが純真な友よ」
かれはののしるだけでは満足せずに、道具袋から革紐《かわひも》をとり出すと本気になってぼくを鞭打ちはじめた。
「おまえの弟とこんな取引きをするのはやめにしろ」と無礼な言葉を添えながら。……
ぼくらが盗人市場にやって来たときはもう薄暗くなっていた。そこでぼくらは大した値打のあるものではないが、たくさんの品物が売りに出ているのを見た。そのいかがわしい出所をまぎらすために都合のよいことには薄闇があたりをおおっていた。そこでぼくらは一着の外套《パツリウム》〔簡単なギリシア式外衣〕を盗み出し、きらきらした色が買手の目をひくことを望みながら、おりを見て市場の一隅でその端をひろげた。しばらくするとどこか見覚えのある一人の田舎者が一人の若い女とともに近づいてきて、その外套《パツリウム》をこまかに調べはじめた。いっぼうこの田舎者の顧客の肩にかかっている下着《トウニカ》〔半袖(または無袖)で膝のへんまで達するシャツないしはシミーズに相当するもの〕に視線をそそいでいたアスキュルトスは、たちまちびっくりして唖然《あぜん》としてしまった。ぼくもその男を見たとき、はっとした。ぼくらが失くした下着《トウニカ》をあの淋しい場所でみつけたのはこの男だなと思ったからである。この男こそたしかにその人物だったのだ。けれどもなにか乱暴なことをしはしないかと相手の目つきに信頼しなかったアスキュルトスは、まず自分が買手であるかのようなふりをして近よると、その田舎者の肩から下着《トウニカ》をはずして、注意ぶかく手さぐりしてみた。おお、奇蹟的な運命の戯れよ! この田舎者はその縫い目にせんさく好きな手をまだ触れていなかったのだ。そしてそれがまるで乞食のぼろででもあるかのように、卑下した態度で売りつけようとした。アスキュルトスはぼくらの隠しておいた金にまだ手がつけられていず、また売手がとるに足りない男であることを知ったとき、ぼくを人混みから少し離れたところにつれ出して、こういった。
「兄弟よ、ぼくが失くしたことをぶつぶついっていたあの財宝が舞い戻ってきたのだぜ。あれは例の下着《トウニカ》だ。金貨はそっくり手もつけずにあるらしいのだが、どうしたものだろう? どういうふうにしてぼくらの法律上の権利を主張したものだろう?」
ぼくは贓品《ぞうひん》をふたたび見ることができたのみならず、ぼくにかかっていた不愉快きわまる嫌疑から幸運にも解放されたので非常に嬉しかった。ぼくはまわりくどいやり方には反対であった。われわれは堂々と民事訴訟で争い、もしも他人の財産をその正当なる所有者に引き渡すことを拒むなら、法廷で判決を下してもらうべきだといった。
けれどもアスキュルトスは法律を恐れていた。
「この場所ではぼくらを知っているものはだれもいないし、ぼくらのいうことをだれも信用しないよ」とかれはいった。「あれはぼくらのものであり、それをぼくらはよく承知してはいるのだが、ぼくはあの品を買いとることを主張するね。ぼくらの貯金を安く買い戻したほうが、結果はどうなるものかわからない裁判などに訴えるよりも利口だよ。
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金銭のみが支配するところで、
また貧乏な訴訟人のけっして勝つことのできないところで、
法律がいったいなんの役に立つであろうか?
犬儒派《キュニクス》〔克己を唯一の美徳として、富貴、快楽、学問、芸術等をいっさい冷笑視した〕の頭陀袋《ずだぶくろ》をたずさえて時勢をあざけるご本尊が、
いつも金銭で真理を売るのをつねとしているのだ。
それゆえ裁判は競売となんら異なるところなし。
そして訴訟事件に臨席する騎士然たる陪審員は買収によって判決する」
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けれどもぼくらは豌豆《えんどう》と羽団扇《はうちわ》豆とを買うつもりであった二アッセース以外には、一文も持ち合わせていなかったので、ぐずぐずしていてぼくらの贓品がなくならないように、外套《パツリウム》を思っていた値段よりも安く手放して、さらに大きな儲けのためには、少しくらいの損をしようと決心した。そこでぼくらの商品をちょうど拡げてみせたとき、これまで田舎者のそばに立っていたヴェールで顔をおおった女が、注意ぶかく外套《パツリウム》のしるしをみていたが、いきなり両手で外套をつかむとみるや、声を限りに「泥棒!」と叫んだ。ぼくらは面くらったが、しかしなにもいわないで、得心するものと思われないように、汚いよれよれの例の下着《トウニカ》を引っ張って、この人たちの持っているものこそわれわれのものだと、同じように憤然として叫んだ。けれどもたがいの主張が一致していないし、この騒ぎをききつけて駆けつけてきた仲買人たちは、当然習慣によってぼくらの憤激をあざけり笑うのであった。なぜなら一方はきわめて高価な外套《パツリウム》を要求しているのに、こちらは見苦しからぬつぎはぎ細工にもならないぼろを要求していたのだから。そこでアスキュルトスはたくみにかれらの笑い声をとめさせて静かにさせると、こう発言した。
「さて諸君、だれでも自分のものがもっとも愛着のあるものだ。かれらがわれわれの下着《トウニカ》を渡してくれるなら、われわれもかれらの外套《パツリウム》は返却しよう」
例の田舎者と女とはこの交換で満足したが、しかしもはや幾人かの夜警たちがぼくらを罰するために呼ばれてきていた。かれらは外套《パツリウム》をたねにいくらかもうけようとしていたので、問題となっている物品はかれらに供託しておいて、翌日われわれの告訴を裁判官に吟味させるように説き伏せようとした。それにもっと重大な問題が生じている、すなわち双方ともに窃盗罪の嫌疑がかけられているのだとせまった。また保管人が任命されるべきだと提議した。そしてときおり法律事務を手がけたことのある仲買人の一人で、額が斑点《しみ》だらけな禿げ頭の男が外套《パツリウム》をつかんでこれは明日提出するからといった。けれどもその真の目的は外套《パツリウム》をこんな盗人の一群に預ければ、われわれが罪を負わせられないように指定の時刻になっても出頭しないだろうと思って、かれらは握りつぶしてしまうつもりであることは確かであった。
ぼくらの願うところがかれの希望と一致していることは明白であった。そして思いもうけぬ幸運が双方の希望をかなえるためにおとずれた。ぼくらがかれの持っているぼろは公衆の前に見せなければならないといったとき、その田舎者は腹を立てて下着《トウニカ》をアスキュルトスの顔に向かって投げつけた。そしてこれでもう苦情のたねはなくなったわけだから、大喧嘩をひき起こした外套《パツリウム》は手放してくれと要求した。……
ぼくらは貯金は取り戻したと思ったので、急いで宿に帰り、扉を閉めると、ぼくらを訴えたやつらや仲買人たちの悪知恵を大笑いしはじめた。かれらのずぬけたずるさが金をぼくらに戻してくれたのだった!
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「ぼくは欲するものを即座に手に入れたくはない、安易な勝利はぼくを喜ばさない」
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ギトンの心づくしで夕食がぼくらのために用意されていた。それを腹いっぱい食べ終えるか終えないうちに、扉をおそるおそる叩く音が聞こえた。
ぼくらはあおくなって、どなたですかとたずねた。
「扉を開けなさい。そうすればわかります」と答えた。
ぼくらが話し合っているあいだに、閂《かんぬき》がひとりでにはずれ、扉がとつぜんギーと開いて訪問者が現われた。さっき田舎者のそばに立っていたヴェールで顔をおおった女であった。
「私をだましおおせたとでも思ったの?」と彼女はいった。「私はクヮルティッラさまの侍女ですよ。あなた方は洞窟の前であの方の祈祷なさるのを邪魔しましたね。いまご自分でこの宿に来ておられます、そしてあなた方とお話ししたいのだそうです。なにもこわがることはありませんよ。あの方はあなた方の過失を責めようとも、罰しようともなさいません。それどころか、いったいどんな神様があのように礼儀正しい方たちを、あの方の秘境にお導きくださったのかとふしぎに思っておられるのですよ」
ぼくらはなんと返事をしたらよいのかわからないのでまだひとこともいわなかった。するとクヮルティッラ自身が一人の少女をつれて入ってきて、ぼくの寝台の上に腰かけると、長いあいださめざめと泣いた。そのときでさえぼくらはひとことも口に出さないで、たくみに用意されたいつわりの苦痛で流す涙を呆然と眺めていた。これみよがしな涙雨がやむと、彼女は頭巾《ずきん》からつんとした顔を現わして、関節が鳴るほど両手を強くねじりながらいった。
「なんとずうずうしい人たちなんでしょう、小説に出て来る盗賊さえ打ち負かすほどの手くだをいったいあなた方はどこで覚えたの? 本当に私はあなた方を憐れみます! なぜなら何びとも罰を受けずには、禁じられているものを見ることができません。事実私たちの秘境は人間に出会うよりも神様に出会うほうがたやすいくらい、たくさんの神々に護られているのですよ。私が復讐しにここに来たのだと思わないでください。私が受けた侮辱よりも、あなた方のお若いお年のほうがお気の毒です。なぜならば、無分別があなた方をゆるすべからざる行為に導いたのだと私はなお信じております。昨夜はひどく苦しみました。そして三日熱にかかったのではないかと心配したほど、恐ろしい悪寒《おかん》でふるえました。そこで私は夢をみているあいだに、薬がさずかりますようにお祈りしました、するとあなた方をさがし出して、そのうまい考えで激しい痛みをやわらげてもらえと告げられました。けれども治療法などは大した問題ではありません、事実私の胸のうちにはもっと大きな悲痛が荒れ狂っていて、私を避けられない死の淵《ふち》へと曳きずり込むのです。
それはあなた方の若いかるはずみが生殖神《プリアプス》〔酒神デイオニュソスと恋愛の女神アプロディテの子。庭園、ぶどう園などの神で、後期ローマ人は盗賊の番や案山子《かかし》の役をするものとして赤く色どったその像を建てていたが、同時にこれは生殖の神でその像には巨大な陽物がつけられていた。そして鎌やコルヌコピアを手に持っていた〕の礼拝堂で目撃したことをふれまわって、神々のお教えを世間の俗衆にもらしてしまいはせぬかということなのです。ですから私はあなた方の膝に嘆願の両手をかけて、私たちの夜のおつとめを笑いものにしたり、わずか千人足らずの人たちのみ知っている長年の秘密を口外したりしないようにお願いし、また祈っているのです」
彼女はこの哀願を終えると、ふたたびさめざめと泣いて、涙にむせびながら身をふるわせ、ぼくの寝台に顔と胸を埋めてしまった。ぼくは可哀想やら恐ろしいやらで当惑してしまった。ぼくは彼女に元気を出すように、そしてどちらの点でも安心するようにといった。だれも彼女の祈祷を他にもらしたりしないし、またもし神々が彼女の三日熱をなおすなんらかの方法をお示しになるようなことがあれば、ぼくらの身の危険を賭けてもその神慮に力添えをいたしますといった。この約束をきくと彼女は急に元気よくなって、矢つぎばやにぼくに接吻し、涙から笑いへと一変して、ぼくの耳のあたりに垂れさがっている長い髪の毛をやさしくかき撫でた。そして「仲直りをいたしましょう」と彼女はいった。「それからあなた方に対する告訴は撤回します。けれどももし私が求めている治療法を私に約束してくださらなかったら、明日私の受けた恥をそそいで、私の名誉を維持しようと、大勢の人々を用意しておいたのですよ。
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軽蔑されることは不名誉です。
条件を持ち出すのは不遜《ふそん》です。
どんな道をすすめることも私は愛します。
なぜといえば、確かに賢人といえども軽蔑されるときは喧嘩に加わるでしょう。
そして人々を殺さないものがいつも最後の勝者となります」……
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そこで彼女は両手をたたきとつぜん大きな声で笑い出したので、ぼくらはびっくりしてしまった。先に入って来ていた侍女もぼくらのそばで同じく笑い、クヮルティッラとともに入ってきた少女もまたこれにならった。すべての場所が茶番めいた笑い声で鳴りひびいたが、いっぽうぼくらにはどうしてこうもすばやく気分を一変することができたのかわからなかったので、最初はおたがい同士の顔を、つぎに女たちの顔をただ見まもっているばかりだった。……
「今日はこの宿に何びとも立ち入ることを禁じておきました。なんの邪魔もなく私の三日熱をあなた方がなおすことができるようにね」
クヮルティッラがこういったとき、アスキュルトスは一瞬度胆をぬかれてしまったし、ぼくはといえば、ガリアの冬よりも冷たくなって、ひとことも口をきくことができなかった。けれども友人たちが居合わせてくれたことが、この災難をいくぶんほっとさせた。もしもぼくらにかかかってきたところで、相手はたんなるかよわい三人の女性ではないか。ぼくらはよし男らしい点がほかにないにしても、少なくとも男性だ。それにまたぼくらの衣服はよりいっそう活動に適している。事実ぼくは、もしも真実の組み打ちになったなら、ぼくはクヮルティッラに、アスキュルトスはその侍女に、ギトンは少女にとそれぞれ取り組む手はずをきめていた。……
〔舞台はクヮルティッラの邸《やしき》に移る〕
そのときぼくらのあらゆる固い決心は、驚愕のまえにぐにゃぐにゃになってしまった。そしてはっきりとした死の影がぼくらの不幸な目をおおいはじめた。……
「どうか奥さん、なにかよくないことをたくらんでおられるなら、早くしてください。ぼくらは責め殺されるほどの大罪は犯していませんよ」……
プシケという名前の侍女が床の上に注意ぶかく毛布をひろげた。そしてぼくの陽物を興奮させようとしたが、千の死神がとりついたようにそれは冷却し切っていた。……アスキュルトスは頭を外套《パツリウム》のなかに埋めていた。他人の秘密をじろじろみるのは危険であるということを戒められていたからであると思う。……
侍女が懐中から二本の紐をとり出して、一本でぼくらの足を他の一本で手をしばった。……
ぼくらの会話の継ぎ目が切れたのでアスキュルトスはいった。
「さあ、ぼくには一杯やるだけの値打がないのかな?」
そこでぼくが笑ったので、侍女はうっかり口をすべらして、両手をたたいていった。
「お若いお方、あなたにはもう差し上げました。ご自分で薬はすっかりお飲みになったんですよ」
「それはほんとう?」とクヮルティッラがいった。「エンコルピウスが媚薬《びやく》をみんな飲んでしまったの?」
そして彼女は横腹をゆすって心地よさそうに笑った。……少女がギトンの首をとらえて、少しも抵抗しない少年に無数の接吻を浴びせかけたときには、………ギトンでさえとうとう笑いをこらえられなくなった。……
ぼくらは不幸にも進退きわまって助けを呼ぼうとした。しかし救いに来てくれる者は一人もいなかった。そのうえぼくが助けてくれ、市民諸君よと叫ぼうとすると、プシケが髪針で頬をつくし、一方では少女が媚薬を浸してあった濡れた海綿でアスキュルトスを脅すのであった。……
ついに褐色のけば立ったらしゃ服を着て帯をしめた一人の男色者《かげま》が入ってきた。かれはあるいはぼくらに尻をこすりつけたり、あるいはひどい悪臭を放つ接吻でぼくらの口を汚したりしたので、鯨骨で作った鞭を手に持ち、裾をまくり上げていたクヮルティッラも哀れなぼくらを助けてやるようにと命じた。……
ぼくらはいずれもあの恐ろしい秘密は死んでも守りますといとも厳粛に誓った。……
格闘士《パラエストリータ》の一隊が入ってきて、ぼくらを純粋な油でこすって元気づけてくれた。ともかくそのために疲労をすっかり消し去ったので、ぼくらはふたたび晩餐服を着て次の部屋に案内された。そこには三台の臥台《がだい》が置かれて、つぎのすばらしいご馳走がみごとに用意されていた。ぼくらは席につくようにこわれた、そして驚くべき前菜《オルドーヴル》で食事が始まると、ぶどう酒やファレルナ酒〔アウグストゥス帝が愛飲したセティヌムを除けば、これが帝政ローマ時代にもっとも愛好された〕で酒びたしになった。さらにいくつかの料理を平らげて、眠り込もうとしたとき、クヮルティッラがいった。
「あらまあ、一晩じゅうをプリアプスの神様に捧げる義務があるのをご存じのくせに、眠ろうなんてよくも思えますわね?」……
アスキュルトスはさまざまの苦労で、まぶたがすっかり重くなって眠り込んでいた。するとかれがうとうとしている間に、すげなくはねつけられていた侍女が、かれの顔一面に煤《すす》を塗りつけ、唇と首はまっ赤に塗ってしまった。もはやぼくもいろいろな迫害で疲れきっていたので、ようやくほんのわずかばかりのあいだの眠りを味わった。部屋の内外にいる召使たちも皆ぼくにならって眠ってしまった。客人の足もとに横になっている者があるかと思えば、壁によりかかったりあるいは閾《しきい》の上でたがいに頭をくっつけ合って目を閉じている者もいた。灯火の油がすでに燃えつくしてしまって、いまにも消えそうな光を投げていた。するととつぜん二人のシリア人が食堂内に盗みにしのび込んできたが、欲張って銀皿の上で酒壷《さけつぼ》の奪い合いを演じたので、二つに割って壊してしまった。食卓も銀皿といっしょにひっくりかえったが、たまたま遠くまではね飛んだ杯が臥台の上にだらりと横になっていた侍女の頭に打ち当った。この一撃に彼女は悲鳴をあげた、そして盗賊たちを発見すると、泥酔している仲間の幾人かを呼び起こした。盗みにやってきていたシリア人たちは見つかったと思って二人とも並んで臥台の上に横になると、まるでずっとまえから眠っていた者のようにいびきをかきはじめた。
この時までに召使頭が起き上がって、ちらちらしている灯火に油を注いだ。少年奴隷たちもちょっと目をこすって、それから自分たちの持ち場に戻った。するとシンバルを持った一人の少女が入ってきて、この真鍮《しんちゅう》楽器のものすごい音ですべての人の目をさまさせてしまった。酒宴がふたたび始められ、クヮルティッラはふたたび酒盛りにぼくらを呼び戻した。シンバルを持った少女はこの底抜け騒ぎに対する陽気な気分をさらにあおり立てた。……
一人の男色者《かげま》が入ってきたが、これはまったく低能きわまる、この家にいたってふさわしいやつで、両手を打ち合わせて痛いとうめくと、つぎのような唄を吟誦した。
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「さアさ、ここへ急いで集まったり、集まったり、男色好きな者よ、
足をひろげて、道を急いで、柔軟な腰と、
敏活な尻と、淫らな手で矢のように走れ、
老いも、若きも、デロス〔エーゲ海の小島の名であるが、宦官を手広く輸出するので有名であった〕流の去勢者も!」
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歌い終えるとぼくにひどい悪臭を放つ接吻をしたが、やがてぼくの臥台に上ってきて、あらん限りの力で抵抗したにもかかわらずぼくを裸にしてしまった。かれは長いあいだ一生懸命にぼくの陽物の上にがんばっていたが、むだであった。髪油がとけて汗とまじってかれの額にしたたり、頬《ほお》の皺《しわ》のあいだにつまっているたくさんの白粉《おしろい》はまるで雨にさらされて、ぼろぼろになった古壁を思わせた。ぼくはもはや涙を禁じえなかった。どうにも我慢がならず、悲しみにかられて叫んだ。
「おたずねしますが、奥さん、これがお約束の寝酒《エンバシコエタス》〔ここでは二重の意味に用いられている。すなわち男色者の意味と卑猥な形をした酒器の意味がある〕なんですか?」
彼女はやさしく両手を叩いていった。
「まア、お利口な方ね、まるで機智の泉ね。おやおや、男色者《エンバシコエタス》を寝酒ともいっていることをご存じなかったの?」
そこでぼくの友人がぼくよりも割のいい分配にあずからないように、こういった。
「誓って申しますが、この食堂のうちで休業しているのはアスキュルトスただ一人のようですが?」
「あら、そうだったわ、それではアスキュルトスにも寝酒をあげましょう!」
とクヮルティッラはいった。この言葉をきくと男色者はほこさきを変えて、ぼくの友人の上に乗り移り、お尻と接吻でかれを覆いかぶせた。この間ギトンはかたわらに立って、腹を抱えて笑いころげていた。するとクヮルティッラはかれに気がついて、あの子は何者かとひどく好奇心をそそられてぼくにたずねた。あれはぼくの弟ですと答えたとき、「それではなぜ私に接吻してくれないの?」といった。そしてそばに呼んで唇を押しつけた。間もなく彼女はかれの衣服の下に手を差し込んで、まだ発育し切っていないかれの陽物をいじりまわした。
「これは明日になれば私たちの逸楽をすばらしく刺激する前菜《オルドーヴル》として役立ちそうね。でも今日は逸品〔逸品asellusはローマの美食家が賞翫した鱈《たら》の類であるが、同時に俗語で(驢馬のように大きな陽物を持った男)を指す〕のあとですから並みの料理など食べないわ」
彼女がこういっているとき、プシケが笑いながら近づいてきて、何ごとか彼女の耳にささやいた。
「ええ! そうね!」とクヮルティッラがいった。「名案だわ! なぜって私たちのパンニュキスの処女を奪わせる絶好の機会ではなくって?」
ただちにごく可愛い一人の少女がつれて来られたが、どうみても七歳以上には思えなかった。これはクヮルティッラがぼくらの部屋にはじめて伴ってきたのと同じ少女であった。みんなはやし立てて二人をめあわせることを要求した。ぼくはびっくりして、とても恥かしがりやな少年であるギトンにはそんな淫らなことはふさわしくないし、また彼女とても女性が受けなければならない待遇を忍ぶだけの年齢には達していないと断乎としていった。
「なんですって? 私がはじめて男を知ったときよりあの子が若いんですって? もしも私が処女であった頃を思い出すようなことがありましたなら、私のユーノーの女神〔ユピテル神の妃で結婚、妊娠等を司る女性の守護神であったと同時に娼婦の守護神〕がお怒りなさいますように! なぜって私も若い頃には私と同じ年頃の少年と戯れていたのよ。そうして年がゆくにつれてもっと大きな若者と交わるようになり、とうとうごらんのような年齢に達したのよ。ですからこういうことわざができたんだと確かに思うわ。『仔牛《こうし》を選んだものは、牡牛を差し挙げることをよくする』〔このことわざは有名なクロトンの力技者ミローの演じた離れ業に関するものである。かれはオリュンピア競技で二歳の牡牛を一マイルの八分の一運んだ。それから拳骨の一撃でこれを斃《たお》した。ミローはこの牛がまだ仔牛であったときから毎日運ぶ練習をつづけていたのである。なお牡牛は俗語で「陽物」をもさす〕ってね」とクヮルティッラがいった。
そこでぼくの弟一人ではさらに重大な侮辱を受けるといけないので、ぼくも結婚式に立ちあうために起き上がった。すでにもうプシケは婚礼のヴェールで少女の頭を包んでしまっていたし、男色者がもう手に炬火《たいまつ》を持って先頭に立ち、泥酔した女たちが長い行列をつくって拍手しながら、結婚の床を見事な敷物で飾っていた。すると淫らな冗談に興奮したクヮルティッラは、立ち上がるとギトンをとらえて寝室につれ去った。
明らかに少年は少しも逆らおうとはしなかったし、少女さえも婚礼という言葉に悲しみもしなければ、怖がりもしなかった。そこで扉が閉められて、かれらが横になったとき、ぼくらは婚礼部屋の閾の前に坐り込んだ。そしてまっ先にクヮルティッラが好奇心に燃ゆる目を不都合な目的のために設けられた隙間におしつけて、子供たちの戯れを淫らな一心不乱さでうかがった。彼女はまたこの同じ光景をみせようとぼくを静かに引き寄せた。そしてぼくらがじっとのぞいたとき、二人の顔が相触れた。彼女は覗くのをやめるたびごとにすぐ唇をつき出して、いわば人目をかすめた接吻をくり返し浴びせかけた。……
ぼくらは寝台に横になって、なんの心配もなくその後の夜を過ごした。……
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第二部 トリマルキオの饗宴
ついに三日目の日がきた。自由に振舞える饗宴が約束されていたのに、ぼくらは傷つき痛み、逃亡のほうがここに休息するよりまだましであった。そこでどうしてこの切迫したあらしを避けようかと憂欝《ゆううつ》な思案にふけっていたとき、アガメムノンの奴隷の一人がぼくらの当惑しているところへ割り込んできていった。
「どうしました? 今日はだれの家で饗宴があるのかご存じないのですか? トリマルキオというこのうえもないしゃれ者ですよ。かれは自分の寿命から時がどれだけ失われたかを絶えず知るため、食堂に時計とラッパ手とを用意しているのです」
そこでぼくらはいっさいの煩悶を忘れて慎重に上衣を整え、今まで心からぼくらに召使として仕えてきたギトンに浴場へ伴するようにいいつけた。
ようやく身装《みなり》をととのえてぼくらは散歩に出た。それからどちらかといえば、むしろ戯れにボール投げの仲間に加わった。するとたちまち赤い下着《トウニカ》を着込んだ一人の禿げ頭の老人が、幾人かの髪を伸ばした少年たち〔主人の放埓な快楽のため仕える奴隷は長髪を蓄えることを許されていた。髪をのばしているということは、すなわち堕落を意味していた〕とボール投げをしているのに気づいた。ぼくらの注意をひいたのはその少年たちではなく――かれらとてもそれに価したけれども――せわしく緑のボールを投げつづけている|括り靴《ソレア》〔室内や浴場ではく靴。表向きこれをはくことは非常な不作法であると考えられた〕をはいたこの家の主人であった。かれは一度地に蝕れたボールは二度とけっして投げない。袋にいっぱい持って立っている一人の奴隷が遊戯している人たちに代りを渡してやるのである。ぼくらはまた他の奇妙な点にも気づいた。それは二人の宦官《かんがん》がその仲間の両極点に立っていて一人は銀製の尿瓶《しびん》を持ち、もう一人のほうは勝負がつづけられているさいボールを手から手へ投げたときにではなく、地におとしたときに数えるのである。この見事な遊戯を眺めていると、メネラウスが駆けてきてこう教えてくれた。
「きみたちに食卓の席を与えてくださるのはこの人ですよ。きみたちの眺めているこの遊戯こそかれの饗宴の始まりにほかならないのです」
メネラウスがいい終えるか終えないうちに、トリマルキオはかれの指をピチピチと鳴らした。すると一人の宦官がこの合図に駆けよって、遊戯をつづけているかれのために尿瓶を支えた。膀胱《ぼうこう》をらくにさせてしまうと、かれは指洗盤を求めて手を浸し、それから一人の少年の頭髪で拭いた。
仔細《しさい》にわたって述べる余裕はないのでそれははぶくが、それからぼくらは浴場〔入浴の順序は脱衣後発汗させるため室内の空気を温めてあるテピダリウムを通ってからカルダリウムで入浴しそれからフリギダリウムで冷水に入る習慣であった〕へ入った。発汗室でしばらく汗を出したのち、冷水室へ移った。トリマルキオはすでにからだじゅうに香油を塗らせ、亜麻製の布は使わずにもっとも柔かい羊毛で作られた毛布でマッサージをさせていた。そうしているあいだ、二人のマッサージ医はファレルナぶどう酒をかれの目の前で飲んでいた。そしていい争ってみんなこぼしてしまった〔健康を祝して乾杯するときは神々の好意を懇請するため、ぶどう酒を食卓の下にこぼす習慣であった〕。トリマルキオはこれは自分の健康を祝しているのだといった。それからかれは真紅の毛氈《もうせん》の外套に包まれて舁《か》き床《どこ》のなかに入れられた。胸に徽章をつけた四人の先触れ奴隷と小さな年寄じみたただれ目の、主人トリマルキオより醜いかれのお気に入りの一人の少年が奴隷の曳く手車に乗って先立った。これが行ってしまうと小さな一対の笛を持った音楽師が先頭に近づいて、まるでかれの耳に何か秘密をささやいているかのように奏しつづけた。
ぼくらはすっかり驚いたまま行列に従って、アガメムノンといっしょに入口に到着した。門柱には、つぎのように記した掲示がかけてあった。
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主人の命令なしに戸外に出る奴隷は百の笞刑《ちけい》に処す
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ちょうど玄関の内側に緑衣に桜色の帯をつけた門番が銀の皿の中に豌豆のさやをむきながら立っていた。扉の上に黄金の鳥籠がつるされ、そのなかから斑点のあるカササギが訪問者にあいさつした。ぼくはこのすべてのようすをあきれて見ていたが、危うく引っくりかえって脚を折るところであった。なぜなら入って左手の、門番の詰所からいくらも離れていないところに、一匹の鎖につながれた巨大な犬が壁に描かれていて、その上に頭文字で、
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この犬に注意せよ
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と書いてあったからである。仲間はぼくをあざ笑った。けれどもぼくは勇気を奮い起こし壁全体を調べてみた。そこには注意書〔奴隷の首の周囲につけられた貼り札には、その生国や才能や肉体的欠陥などが記されていた〕のつけられた奴隷市場の模様が描かれていた。トリマルキオ自身は長髪を蓄え、メルクリウスの杖を持ち、ミネルウァが腕をかしてかれをローマヘと導いている。それから物好きな画家はたとえばいかにしてかれが簿記を学んだか、またいかにしてそれから執事にされたかというようなことをことごとく忠実に題名をつけて描いていた〔メルクリウスは商業の神でトリマルキオの保護神であった。この神は神々の使節でもあり、その使節の杖には二匹の蛇がからんでいる。ミネルウァは知恵、手芸をつかさどる女神〕。壁がまさに尽きようとするところではメルクリウスがかれの長い顎をつかんで、最高の主教席を占めさせていた。かたわらに|幸運の女神《フォルトゥナ》が彼女のコルヌコピア〔豊饒の象徴の角〕を持って立ち、三人の|運命の女神《パルカ》が黄金の糸をつむいでいた。ぼくは廊下で壮丁《そうてい》の一群が監督に訓練されているのに気づいた。また一隅に小さな廟を容れた巨大な戸棚が置いてあるのを見た。その内部には銀の家庭守護神《ラレース》とウェヌスの大理石像とトリマルキオの最初に剃ったひげ〔ひげを剃ることは成年に達した象徴であった。すなわち十六、七歳に達したときまっ白なトガに着換える元服の式と同時になされた〕が保存されてあるといわれている大きな黄金の箱とがあった。
ぼくは門番に中央にはどんな壁画があるかとたずねてみた。
「イリアスとオデュッセイア」とかれは答えた。「それからラエナスの剣闘の光景が描いてあります」〔ラエナスはポピリウス一族に属する有名な家系の名。かれらは傲慢で残酷な性格で知られていた。すなわちここではラエナスによって寄付された剣闘の場面が描かれてあったのである。この光景をホメロスと並べているのはトリマルキオの野卑な趣味を諷刺している〕
ぼくらはこの時には食堂へさしかかっていたので、多くの壁画をさらに詳細に調べてみる余裕はなかった。入口のところで執事が勘定を受け取っていた。ぼくは食堂の門柱に権標《ファスケース》〔一種の取権を表徴する権標〕がかけてあるのを見て少なからず驚いた。そしてその末端は船の青銅の舳《へさき》のようになって終っていて、つぎのごとく記されていた。
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アウグストゥスの司祭〔アウグストゥスのために犠祭をつかさどる名誉職。解放奴隷がこの司祭に選挙されることを金であがなうのが常であった。いわば解放奴隷中の特権階級である〕ガイウス・ポンペイウス・トリマルキオにかれの執事キンナムス寄贈す
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この記銘の下に二本の灯火を持ったランプが円天井から垂れ、二つの掲示が門柱の両方にかけてあり、ぼくの記憶に誤りがなければ、その一つにはこう記されていた。
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われわれの主人ガイウスは十二月三十日および三十一日はよそで食事す
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もう一つの掲示には、月と七惑星の運行が示され、幸運の日と不吉の日とがその区別を現わす飾り鋲でしるしづけられていた。
これらの光景に十分歓を尽したので、ぼくらは食堂に入ろうとしたとき、とくにこの任務のために配置されていた奴隷の一人が「右足から始めに〔ローマ人は閾《しきい》を越す時や旅行に出発するとき左足から始めるのは不吉であると考えた〕!」と叫んだ。一瞬、だれかがこの閾《しきい》を越すときの規則を破りはしないかという心配からぼくらはおのずと神経質となった。そしてちょうど右足を揃えて一歩踏み入れたとき、笞刑《ちけい》のため裸にされた一人の奴隷がぼくらの足下に身を投げ出して刑罰から救ってくださいと懇願しはじめた。かれをそんな羽目におとしいらせた過失というのはほんの些細なことであった。かれは執事の衣服を浴場で盗まれてしまったのであるが、それは多く見つもっても一〇セステルティほどの価のものであった。そこでぼくらはふたたび右足から歩み戻って、ホールで金銭を計算しながら坐っている執事にその奴隷をゆるしてやるように乞うてみた。
「私を困らせるのは損失よりむしろ奴隷の不注意である」とかれは傲然《ごうぜん》とぼくらを見上げながらいった。「かれは私の誕生日に私の食客の一人が贈ってくれた正餐用の礼服を紛失したのである。もっともただ一度洗濯はしてあったが、それは真実のテュリウス紫〔フェニキアのテュリウスにおいて産した古代の有名な染料。この染料は高位高官の衣服に用いられた〕であった。さてどうしたものだろう、よろしい! あなた方に免じてかれをゆるしましょう」
かれの特別な親切を恩にきてちょうど食堂へ戻って来たとき、弁護してやった奴隷が走りよって来て、接吻を浴びせかけてぼくらを驚かせ、その慈悲心に感謝した。
「簡単に申しますが」とかれは叫んだ。「あなた方はだれがこの恩をこうむったのかすぐにおわかりになりましょう。なぜならこのお礼にはご主人の召し上がる特別上等のぶどう酒を差し上げますよ」……
それからアレクサンドリアから来た奴隷たちに雪で冷やした水を手の上に注いでもらいながらやっと席についた。他の者が代わってぼくらの足を清め、非常な巧妙さで逆剥《さかむけ》を剪《き》った。そしてこの不愉快な義務を果たすあいだもずっと歌いつづけていた。ぼくは奴隷のすべての者が歌えるか否かを実験してみたいと思ったので、ぶどう酒を一杯注文した。すると待ち構えていた奴隷がただちに金切り声で歌いながらそれを注いでくれた。たとえ他のものを求められてもかれらは同様にやるに相違ない。じっさいそれは紳士の私邸の食堂にいるというより無言劇《パントミイムス》の一座に加わっているような気がするのであった。それから新しい位置の定め方で第一の座席を保留しているトリマルキオを除いたすべての人々が席についたので非常に見事な前菜《オルドーヴル》が運ばれてきた。さて前菜盆の上には小さなコリントス産の黄銅の小さな驢馬《ろば》が二つの籠をつけていて、その片方には白の、他方には黒いオリーヴの実が入っていた。また驢馬は二枚の銀皿がかぶせてあって、その皿の縁にはトリマルキオの名と銀の重量とが彫りつけてあった。それから蜂蜜と罌粟《けし》の実を入れて蒸したグリス〔リスに似た美味な動物〕が皿に結合した小さな橋を支えていた。また銀の焜炉《こんろ》の上に湯気の立っているソーセージがあり、焜炉の下には炭火に擬してシリア産のすももとざくろの実とが入れてあった。
これらの趣向を論じ合っていると、トリマルキオがどっと起こる音楽とともに運ばれてきた。そして非常に注意ぶかく彼が小さなクッションの上に下ろされると、不注意者は笑いをもらした。なぜなら剃られたかれの頭は真紅の外套から現われ、すっかり包まれている首の周囲に広い紫の立縞〔これがトウニカについているのは皇族、元老院議員及び騎士に限られていた。トリマルキオがこのしるしのついたナプキンを掛けているのは、もちろんかれの悪趣味にすぎない。また純金の指輪をはめることは騎士階級以上のしるしであるから、トリマルキオは一見黄金に見える指輪を用いたのである〕がつき、またぐるりと総《ふさ》が垂れているナプキンをだらりと掛けていた。かれの左手の小指には薄く鍍金《めっき》した大きな指輪がはまっていた。そしてさらにつぎの指の最後の関節には、まったく純金とも見える少し小さな指輪をはめていた。しかし事実はまるで星のような鋼鉄を結合したものであった。これだけの富の発揮にも満足せずに露出した右の腕には黄金の腕輪が飾られ、またギラギラする黄金で留めた象牙の飾り輪がからみついていた。そしてかれは銀の小楊枝で歯をつつきながらいった。
「友人諸君よ、まだ食堂に出るには、私の気がすすまないのですが、いつまでも私が参加しなくては諸君のお邪魔になりますから、私自身の楽しみはいっさいあきらめてきました。しかしこのゲームを片づけてしまうことくらいは許してください」
一人の奴隷がテレピン樹で作った西洋碁盤と水晶の骰子《さい》を持ってかれに従っていたが、黒と白の棋子《こま》の代りに金と銀の貨幣を使うという凝り方にぼくはとくに注意をひかれたのである。いっぽうトリマルキオはあらゆる下司口《げすぐち》をききながら遊戯をやっていたが、ぼくらがまだ前菜《オルドーヴル》にかかっているうちに、柳の籠をのせた盆が運ばれてきた。そのなかには木製の雌鶏がまるで卵をかえしているかのようにまるく羽根を拡げていた。二人の奴隷がすぐつづいて現われると、いちだんと高まる音楽の響きにつれてわらくずのなかをさがし始めた。するとたちまち孔雀《くじゃく》の卵〔その肉は卵とともに美味なため高価であった〕が転び出てきて一同の客に手渡された。トリマルキオはこの光景に視線を転じていった。
「友人たちよ、孔雀の卵が鶏の下に置かれてあったのは私の命令によるものです。けれどもやれやれ、どうかまだかえっていなければよいがな。まだ吸えるかどうかためしてみてください」
そこでぼくらは重さが少なくとも半リーブラもあるスプーンをとって卵を割ってみた。それは捏子《ねりこ》で出来ているものであった。それをぼくは雛《ひな》がすでにかえっているのだと思ったものだから、危うく自分の分を棄ててしまうところであった。
しかし「なにかこのなかにうまいものが入っているにちがいない!」と経験を積んだ客がいうのをもれきいたので、ぼくはさらに殼のなかを指先でさがしてみると胡椒《こしょう》で味をつけた卵黄にとりまかれている肥えたフィケドラ鳥〔小さな渡り鳥の一種で丸ごと食べられ非常に美味であった〕を発見したのである。
トリマルキオはすでにこのときにはゲームを中止していて、かれの前にある同じ料理にかかっていたが、甲高い声で、二杯目の蜜酒〔ぶどう酒四に対して蜜一を香料とともに混ぜたもの、食事のはじめに飲んだ〕が欲しい方は自由に注文していただきたいと叫んだ。するととつぜん、音楽が合図にわきおこって前菜《オルドーヴル》は一群の奴隷たちの手でまた歌いながら運び去られていった。しかしこの混雑に添え皿の一枚を取り落したので、一人の奴隷が床からそれを拾い上げた。トリマルキオはこれに気づくと、その奴隷の横面をぴしゃりと平手で打って叱りつけ、もう一度改めて皿を落すように命じた。すると用具係の奴隷の一人が入ってきて、銀皿を他の汚物とともに箒《ほうき》で掃き去っていった。つづいて二人の長髪のエティオピア人がちょうど円形劇場のなかで砂を撒くときに使われるような小さな革袋を持って現われ、ぶどう酒をぼくらの手の上に注いだ。だれも水を持って来てはくれなかったのである。
あくまで洗練されたわれわれの主人の趣味を十分に称讃すると、かれは答えていった。
「軍神《マルス》は公平を愛しますから、どなたも別個の食卓についていただきます。そうすれば不愉快な奴隷たちがまざり合って通っても、さほど暑くるしく感じないでしょう」
同時に注意ぶかく石膏で栓をされたいくつかのガラスびんが運び込まれてきたが、その頚部にはつぎのごとく題した付箋《ふせん》がついていた。
オピミウス収穫のファレルナぶどう酒百年経過〔ありえない酒なので、トリマルキオ及びその客たちのぶどう酒に対する無知を示す〕
ぼくらがこの表題を読んでいるとき、トリマルキオはてのひらをたたいていった。
「ああ! ぶどう酒は人間よりもこんなに長命なのだ! 乾杯してください、酒こそ人生です。私は真実のオピミウスのぶどう酒をご馳走しましょう。昨日はこれほどよいものは出さなかった。諸君よりははるかにすぐれた客人と食事をしたのだが」
そこでぼくたちはこれを飲みながら、このすばらしい款待を詳細にほめそやしていると、一人の奴隷が銀の骸骨を持って現われた。その関節と背骨とはどの方向にも、すべて動かしたり曲げたりすることができるようにたくみにつくられていた。一、二度卓上に投げ出して、動かすことのできる締め金でさまざまの姿勢を示させると、トリマルキオはつぎのようにいい足した。
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「ああ! あわれなる人間よ、
人間の存在のすべては無に等し、
地獄《オルクス》へ行けばわれらもまたなんじといっしょになるのだ。
されば幸福が許されるあいだは生きよ」
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ぼくらの称讃はつぎの盆が運ばれてきたので一様にさえぎられた。それは期待していたような大きさではなかったけれども、その珍奇な形がぼくらの目をいっせいに惹《ひ》いた。黄道十二宮をかたどった丸い皿がぐるりと並べられて、それぞれの星座に適応する料理が料理頭の手によって盛られていた。すなわち、白羊宮の上には豌豆《エンドウ》で作った牡羊の頭、金牛宮には一片の牛肉、双子宮には油で揚げた睾丸と腎臓、巨蟹宮《きょかいきゅう》には王冠〔トリマルキオはこの星座の下で誕生したから〕、獅子宮にはアフリカのいちじく〔獅子もいちじくもともにアフリカで得られる〕、処女宮にはまだ子を生まぬ牝豚の子宮、天秤宮《てんびんきゅう》には片方はパン菓子を、他方には菓子をのせた天秤、天蝎宮《てんかつきゅう》には海のいせえび、射手宮には野うさぎ、磨羯宮《まかつきゅう》には山羊の角、宝瓶宮《ほうへいきゅう》には鵞鳥《がちょう》、双魚宮には二尾の鯔《ぼら》がのせられ、さらに中央には緑の草をつけた芝生の上に蜂蜜の巣が置かれてあった。一人のエジプト生まれの奴隷が吐き気をもよおさせるような声でぶどう酒とラセルピキウム〔北アフリカ沿岸に産する高価な珍味の植物〕を讃美する一曲をきしらせなから、パンを銀のパン焼き器にのせて持って廻った。こんなとても食べられないような料理には手がつけられないので興ざめしているぼくらをみると、「どうぞ召し上がってください」とトリマルキオはいった。「これは食事の調味料《ユース》でもあり、慣例《ユース》でもあるのです」かれがそういうかいわぬうちに四人の奴隷が音楽に合わせて駆けよると、盆の上部を取り除いた。するとその下には実際またもう一つの皿があって、肥えた雄鶏と牝豚の乳房とさらに中央にはペガススに見える翼を生やした野うさぎが現われた。盆の隅にある四つのマルシュアス〔サテュルスの一つと考えられ繁殖の神として売笑婦などのしばしば行く広場にその像は立てられていた〕の像もまた目をひいた。かれらはまるで溝のなかで泳いででもいるかのような恰好の魚の上におちんちんから胡椒《こしょう》入りのソースを小便していた。ぼくらはみな、奴隷たちによって始められた拍手に加わって、笑いくずれながらこれらの珍味にとりかかった。トリマルキオもまたこの道化《どうけ》た思いつきにぼくらと同じように喜んで、「切れ」といった。するとただちに肉切り人が進み出て、音楽につれ水オルガン〔アレクサンドリア人クテシビウスの発明になる楽器〕の音で剣闘士が戦っているかのように思われる身振りで肉を切り裂いた。なおもトリマルキオはきわめてだらしない声でいいつづけた。
「肉切り! 肉切れ!」ぼくはこんなにしばしばくり返される言葉はまた何かのしゃれにちがいないと思ったので、上席の男に臆面もなくこれをたずねてみたのである。かれのほうがこの種の催しはしばしば見ていたから、ただちに答えた。
「ほら、あの肉を切っている男はね、|肉切り《カルプス》という名なのだ。それでカルペといえば、いつでも同じ一言でかれの名前を呼ぶと同時に命令することにもなるのさ」
ぼくはもうこれ以上食べることができなかったので、できるだけ知らないことを聞こうと隣席の男にむかっていろいろのこじつけ話をたずねはじめた。そしてここかしこに走り廻っている女性は何びとであるかと問うてみた。
「彼女はトリマルキオの妻女でフォルトゥナタといってね」とかれは答えた。「彼女は自分の金をモディウス枡〔穀物をはかる枡〕ではかる。そして以前は何者であったかというのかね? 失礼ながらきみは一片のパンさえあの女の手から得ようとは思わなかったでしょうよ。今はといえば、そのわけといわれは知らないが、彼女は天に昇ってしまってトリマルキオにとってすべてなのだ。事実もし彼女が真昼に闇だといえばかれはそれを信ずるでしょう。かれは何をもっているか自分自身でも知らないほどのたいへんな物持ちだ。それなのにこの牝狼はきみなどには思いもつかぬようなものさえ抜け目がない。彼女はおだやかで真面目で慎重だが、毒舌で褥《しとね》に坐ったカササギのように夫を尻にしいている。それから好きな人はどこまでも好きであるし、嫌いな人はどこまでも嫌いだ。トリマルキオといえば鳶《とび》〔鳶はローマ人にとっては貪食の象徴であったのみならず、無限の飛行力をも意味した〕が一日じゅう飛んでも飛び越せないほど広い土地を持っている百万長者中の百万長者で、かれの家の物置には他の人々が全財産として持っている以上の銀皿が横たわっている。それからかれの奴隷の数はといえば! やれ、やれ! 私はかれらの十人のなかの一人でもその主人を見知っていようとはヘルクレスにかけても信じない。ところが事実かれはたった一言でどんな荒くれ男でも錐《きり》の穴をくぐらせることができる。かれがなにかものを買うなどと想像してはいけない。あらゆるものが自分の屋敷内で育つのだ。羊毛、シトロン、胡椒、求めれば雄鶏の乳でも見出せるだろうよ。けれども実際はかれの羊は十分によいというまでには育たないので、タレントゥムから牡羊を買ってかれの牝羊とともに飼っている。それから自家産のアッティカの蜜を得るために、ギリシア産のものと交媒《こうばい》させて、よりよい自家産のものを得ようと望んで、かれは蜜蜂をアテナイから輸入した。つい二、三日まえにもかれはインドにきのこの菌糸の積荷を注文した。それから野生の驢馬《ろば》〔普通の驢馬よりも力があった〕の子でないような騾馬《らば》は一匹も持っていない。きみがここに見られる褥にはすべてどれ一つとして紫や真紅の詰め物が入ってないものはないのだ。かれはそれほど大きな幸福を授けられているが、かれの仲間の、他の解放奴隷《リーベルトウス》〔自由を金であがなって奴隷の身分を脱したもの。騎士や平民からは蔑視されていた。トリマルキオもこの階級に属す〕を軽蔑してはいけない。かれらだって非常な金持なのですから。きみの見られる方向の臥台の下端に横になっている人は、じつに八十万セステルティ持っているが、かれはまったく無一文から身を起こして、少し以前には、背中で材木を運んでいたのだ。事実かどうか知らないが、かれは妖魔の帽子〔妖魔はその帽子を盗まれると守護していた財宝を開け渡さなければならないという迷信があった〕を奪ってたくさんの財宝を発見したのだというもっぱらのうわさだが、もしも神様が贈ったものならば私は何びとをもうらやみますまい。いまだにかれは頬に主人に打たれた指の跡〔主人が奴隷を解放するときにはそれまでの権力のしるしとして頬に平手打ちを与える習慣であった。ここではまだ解放されて間もないという意〕を見せている。けれども卑下するようすもなく、つい先日もかれの長屋に、つぎのような貼札をした。
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ガイウス・ポムペイウス・ディオゲネスは邸宅を買いとりしゆえ、この長屋は七月一日より借家人の求めに応ず
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あそこの解放奴隷の席に横たわっている男をどう思いますか。かつては何不自由のない人でした。私はかれを責めようとは思わない。かれは百万セステルティを手中に収めていたけれども悲運に出会ったのだ。私はかれが自分の頭髪までも抵当に入れているのではないかと思っている。それはヘルクレスにかけてもかれの過失でないと確信しているが。世の中にかれ以上の好人物はいないでしょう。何もかも着服してしまったのはかれの憎むべき解放奴隷たちなのだ。仲間の鍋《なべ》の沸き方が悪くなって、事業が一度傾くと、たちまち友人というものは半減するということをご存じでしょう。今はこんな状態だけれど、以前はどんなにりっぱな商売を営んでいたことだろう! かれは葬儀屋だった。かれは王様のごとく食事をするのが常だった。毛皮のまま料理された牝豚や苦心して作った菓子や遊戯や料理人や菓子職人! 食卓の下には普通の人々がその地下室に貯蔵しているより、もっと多くのぶどう酒がこぼされた。かれは人間ではなく、物語のなかの王子のようだった。事業が傾いたとき、かれは債権者が破産するにちがいないと臆測することを恐れてこんなふうな競売広告を出しました。
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ガイウス・ユリウス・プロクルスは不用物品を競売に付す」
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トリマルキオはこの愉快な話をさえぎった。料理はすでに運び去られ、ぶどう酒で上機嫌になった仲間たちは世間話をしゃべりはじめていた。かれは臥台に背を横たえていった。
「さて諸君はこのぶどう酒を快く飲みほされたい。魚が泳ぐには何かなければなるまい。円皿の蓋の下に諸君が見られた料理で私が満足しているとでもお思いですか。『これがなんじらの知れるウリクセスなりや?』〔ウリクセスはオデュッセウスのラテン名。知恵の権化と考えられていた。すなわちトリマルキオがおのれの知恵を以下に誇るため引用したのである。「諸君に出すご馳走があれで全部だと思っているのですか?」との意味であろう〕何を諸君は期待しておられる? 人は食事に臨んでもその学問を忘れてはなりません。神よ、私が男の中の男になることを望んでくださった私の主人の屍《しかばね》に休息を与えたまえ! 私の知らないことを教える力のある人はだれ一人いないでしょう。さっきの料理が証明したように、十二の神々の住む天空は多くの形象に変わります。そしてあるときは白羊宮となる。この天象の下で生まれる者はだれでも多くの羊群と羊毛と恥知らずの額と鋭い角のある大頭とを持っている。多くの衒学者《げんがくしゃ》と若い牡羊はこの星の下で生まれたのです」
ぼくらはかれのすばらしい占星学に喝采した。するとかれはさらにいいつづけた。
「それから全天が金牛宮に変わる。すると蹴りぐせのある男と牛飼いと食うことしか考えないような人々が生まれる。双子宮の下では二頭立ての馬車馬と同じ軛《くびき》をかけられた二頭の牡牛と放蕩者と内股膏薬とが生まれる。私は巨蟹宮の下で生まれました。それゆえ私は多くの足で確固と立ち、海にも陸にも財産がある。蟹《かに》はそのどちらにも住めますから。そしてこれこそ私がこの星の上に何ものをも捧げない理由です。なぜなら私は自分の誕生の星を圧しつぶすことを恐れるから。獅子宮の下では貪食家と暴君とが生まれ、処女宮の下では女と逃亡奴隷と囚人とが生まれ、天秤宮の下では肉屋や香料商や小売商人らが生まれる。毒殺人や暗殺人は天蝎宮の下で、野菜をみているのかと思っていると燻肉《くんにく》のほうへ手を出す斜視の男は射手宮の下で、心配で額に角を生やしている苦労性の人々は磨羯宮の下で、宿屋の主人〔おそらく酒を水で薄めて飲ませるから〕と脳髄に水のつまっているやつとは宝瓶宮の下で、司厨長《しちゅうちょう》と修辞学者とは双魚宮の下で生まれる。かくして世界は磨臼《うす》のごとく回転し、つねになんらかの不幸をもたらして人間の生と死とを惹き起こすのです。諸君は皿の中央に緑の芝生を見たでしょう。そして芝生の上に蜜蜂の巣を見ました。これは理由なくしてやったことではありません。母なる大地は卵のように丸くなった世界の中央に横たわり、すべての幸福は彼女のなかに蜜蜂の巣におけるがごとく含まれているのです」
「すてきだ!」とぼくたちはいっせいに両手を天井のほうへ挙げてアラートス〔前二五〇年頃のギリシアの天文詩人〕もヒッパルコス〔ギリシアの天文学者、アラートスの詩に関する注釈を書いた〕もかれに比ぶべくもないと誓いながら叫んだ。とうとう最後に召使たちが入ってきて、鳥網と狩猟用の槍とを持って待ち伏せている狩人や、あらゆる種類の狩立て道具等を刺繍《ししゅう》した絨毯《じゅうたん》を臥台の前にひろげた。ぼくらがまだどう解釈すべきか当惑していたとき、食堂の外部で一騒動がおこった。すると見よ、ラコニア〔いわゆるスパルタ〕産の猟犬の一群が入ってきて食卓の周囲をあちこちに走り始めたのである。それにつづいて頭には解放奴隷の帽子をかぶり、その牙には棕櫚《しゅろ》の小枝で編んだ二個の籠に一方には乾した棗椰子《なつめやし》の実、他方には生の実をいっぱいに入れたのをかけた非常に大きな野猪を載せた盆が運ばれてきた。その周囲には捏粉《ねりこ》菓子で出来た仔豚がまるで乳を吸っているかのように横たわっていて、ぼくらの前に持ち来たされたものは牝であることを示していた。この仔豚こそ客人の家へのみやげの贈り物であった。しかしながら野猪を切りに近づいてきたのは鶏を引き裂いたことのあるぼくらになじみの肉切り人ではなく、脚絆をつけた軽便な緞子《どんす》の猟衣を着た長いひげのある巨大な男であった。かれは猟刀を引き抜いて野猪の脇腹に猛烈な勢いで突き刺した。するとその一撃でそこから多くのツグミが飛び出したのである。鳥もちを塗った竿を用意していた捕鳥者たちが食卓の周囲をひと廻り飛んだツグミをただちに捕えた。するとトリマルキオは来客におのおの一羽ずつ受け取るように命じて、そしてつけ加えていった。
「さあどんなに美しいどんぐりを森の豚が食べていたかをごらんください」
すると奴隷たちがやってきて牙にかかっている籠から来客一同に乾したのと生まのと二種の棗椰子の実を分配した。そうしている間にぼくは少し離れて一人でいることができたので、なぜあの豚は解放奴隷の帽子をかぶってやってきたのだろうかという疑問にすっかり心を奪われていた。いろいろ馬鹿げた臆測をめぐらせたのち、ぼくを悩ませている難問を説明役の友人に思いきって質問してみた。かれはいった。
「きみの奴隷だってきみに話すことができるさ。謎などは実際なにもないよ、理由は明白だ。昨日この野猪が食卓に現われたとき、腹にこたえそうだったので来客は食べずに暇をやったのだ。それだから今日かれは奴隷の身分を脱した解放奴隷としてこの饗宴の席に戻ってきたのだ」
ぼくは自分の愚鈍さを呪った。そして尊敬すべき人々のあいだでかつて食事をしたことがなかったように思われないため、それ以上質問することをやめた。ぼくらがまだ話しつづけているとき、毛髪にぶどうの葉と常春藤《きづた》とをつけた一人の美少年があるときはブロミウスにまたあるときはリュアエウスやエウヒウスに扮しつつ入ってきた。かれは小さな籠に丸いぶどうの実を盛って、かれの主人のつくった詩句を非常に甲走った声で歌いながら進んできた。トリマルキオはこの声のほうへ振り向いて、
「ディオニュソスよ、自由になれ!」〔酒神ディオニュソスをローマ人はバッコスと呼んだ。これを古イタリアの植付けと結実とをつかさどる神リーベルとも同一視した。すなわち酒は人間を心配から自由(liber)にしてくれるためこの酒神をリーベルと呼んだのである。トリマルキオはディオニュソスに扮した少年奴隷に自由を授けた。すなわち「心配からわれわれを自由にしてくれるかれを私が自由に解放してやった」またつぎに「私は自由の神を父として持っている」云々は、「私は私の保護神のうちにリーベル(酒神=自由の父)を持つ、すなわち私は自由の身に生まれた者である」というしゃれである〕といった。少年は帽子を野猪から脱がすと自分の頭にかぶった。するとトリマルキオはふたたびつづけていった。
「さて諸君は私が自由の神を父として持っていることを否定はなさらないでしょう!」ぼくらはトリマルキオの言葉に喝采した。そして少年が廻ってきたとき、心から接吻した。
この料理のあとでトリマルキオは立ち上がって退席した。暴君が立ち去るとともにぽくらは自由になったので客と無駄話に興じはじめた。そこでダーマがまず大杯にぶどう酒を注《つ》がしてこういい出した。
「昼などは有っても無きがごときものだ。諸君が振り向きもしないうちにもう夜がおとずれてくる。だから寝床から食卓にまっすぐ行くにこしたことはない。馬鹿に気候が冷たくなったね。私は入浴でやっと暖を取ることができた。しかし熱い一杯は外套と同じに暖まるね。私は水を割らないぶどう酒を飲んだのでまったく酔ってしまった。酒が頭にきている」
かわってセレウクスが語りはじめた。
「私は毎日は入浴しない。浴場係は晒《さら》し布屋のように引き裂くね〔ペトロニウスの時代にはまだ石鹸が用いられず、羊毛のけば立った布で洗ったので痛かったのであろう〕。水は歯を持っている。そしてわれわれの心臓を毎日溶かす。しかし蜜酒を一杯飲んでいる時には寒さなどくたばってしまえだ。とにかく今日は風呂に入れなかった。私は葬式に行ってきたのでね。愉快な男で正直者であったクリュサントゥスが往生したのだ。かれが私に話しかけたのはついこのあいだのことであった。まったくついこのあいだのことであった。今でもまだかれと話しているような気さえする。ああ! ああ! われわれは風でふくらました歩き廻る袋にすぎず、蝿よりも取るに足らないものだ。蝿は蝿なりになにかの役に立つがわれわれは単に気泡にすぎない。もしもかれが断食療法を試みなかったらどうなったであろうか? まる五日間一片のパンはおろか一滴の水さえもかれは唇を通さなかった。それなのにかれは死んだ、医者が殺したんだ。いやそれがかれの不幸な運命だったのだ。医者なんていうものは気休め以上の何ものでもありはしない。ともかくかれはりっぱな棺衣でおおわれた棺台に載せられて手あつく葬られた。哀悼も申し分なかった。――かれは数名の奴隷を解放した〔遺言で奴隷を解放することは一般の習慣であった。そしてその棺台は解放されたというしるしの帽子をかぶったその奴隷たちによって運ばれた〕――かれ自身の細君は涙をおしんではいたものの。おそらく彼女に親切でなかったからだろう。しかし、女という女は鳶《とんび》のたぐいだ、かれらに親切などつくすことはいっさい無用だ。それはまるで親切を井戸のなかへ投げ込むのとまったく同じだ。しかし昔の恋は蟹のように身をはさむね」かれにはうんざりさせられた。するとピレロスがしゃべり出した。
「現に生きている人間について話そうではないか。かれは当然の報いを受けたのだ。かれはりっぱに生きりっぱに死んだ。苦情をいわねばならないことが何かあったでしょうか。かれはほとんど青銅一文から身を起こし、いつも糞堆のなかから一厘銭でも歯で拾い上げる覚悟をしていた。だから蜜蜂の巣のように育ちに育ったのだ。ヘルクレスにかけて、私はかれが大枚十万セステルティを、それもみんな現金で遺《のこ》したものと信じている。私は犬のように正直者ですから本当のことを話さねばなりません。すなわちかれは荒々しい物言いをし、饒舌で喧嘩の権化のような人でした。かれの兄弟はりっぱな人で友人たちにはきわめて忠実で物惜しみをせずにすばらしいご馳走を振舞いました。最初のうちは運が開けなかったけれども、しかしはじめてのぶどうの収穫がかれの身代を立ち直らせたのです。なぜならかれはぶどう酒を好き勝手な価格で売ることができたからです。かれが世に出ることができたのは遺産を譲り受けたからですが、かれは自分に実際遺されたものよりはるかに多くを盗み取った。あのでくのぼうは兄弟に対する腹立ちまぎれに、財産をどこの馬の骨ともわからぬやつに譲り渡した。自分の親戚から逃げようとする者ははるかに遠く行かなければならない。しかしかれは幾人かの予言者的な奴隷を持っていたが、かれらがかれを亡ぼすことになったのです。人から話されたことをいつでも信じようとする男は、とくに事業家としては、成功しないものです。しかし実際かれは本来ならばかれのものではなかった遺産を得てその生涯を楽しんだ。かれこそ運命の寵児で、手に触れるものをことごとく黄金に変えた。しかし万事が順調にいっているときはらくなものです。かれが死んだときは何歳だったと思いますか? 七十余歳だったのですよ。しかもかれは角のように頑強で、齢をよく支え、髪はカラスのように黒かった。私はかれを昔から知っていたが、最後までかれは放蕩者でした。ヘルクレスにかけても、私はかれが家のなかにいる者は犬にまで手をつけたにちがいないと考えます。実際また女好きで、あらゆるものに対してミネルウァのような男〔知恵、文芸、発明、科学等をつかさどる多方面な才のある女神ミネルウァのごとく、何にでも手出しのできた男の意味と、あらゆる女に対しても手早い男であったという皮肉の意味をも含む〕でした。いや私はかれを責めているのではない。これは単に事実、かれが墓のなかに持っていったいっさいをいったにすぎません」
ピレロスがこういい終えると、ガニュメデスがはじめた。
「きみらは天にも地にも関係のないことについてしゃべっているが、小麦の価がどんなにわれわれを苦しめているかについてはだれもまだ注意していないね。ヘルクレスにかけて、私は今日、一口のパンにも出くわすことができないと誓う。旱魃《かんばつ》はどれだけつづくのだろうか、飢饉がはじまってからまる一年たった。パン屋と共謀して『自分の背中を掻けばおまえの背中も掻いてやる』という警保官《アエデイリス》〔ローマの公共建築物とか市場などを監督するとともに警察事務や穀物の配給などをもつかさどった。ゆえに賄賂などを取って小麦の価を引き上げたものらしい〕は地獄に墜ちよ。だから細民が苦しんでいるのだ。なぜなら上流階級のやつらは年じゅうサトゥルナリア祭〔農神サトゥルヌスの祭。十二月十七日におこなわれ、その祝祭は一週間つづけられた。ローマ人は飲食や賭博やその他平常ならば許されないことにふけった〕をつづけている。ああもしも私が最初にアジアから来たとき、ここで私が見つけたあの獅子のような男たちさえいたならば! あのころは活気のある何ものかがあった。豊饒《ほうじょう》なことはシキリア島〔今日のシチリア島で小麦のローマへの主要な供給地〕の内地に似ていた。そしてどんなにかれらがこの吸血鬼どもをまるでユピテル神〔前五世紀頃よりギリシアのゼウス神と同一視された〕自身が怒っているかのようになぐりつけたことか! 私はサフィニウスという男を憶えているが、かれは私が少年のころ、古いアーチのそばにいつも住んでいた。かれは人間というよりむしろ胡椒の実だった。かれは踏みつける大地をどこといわず焦がした。しかし正直で確かな男で、友人には誠実でかれとなら暗闇のなかで大胆にもイタリア拳〔右手を挙げ指を拡げて急にそれを下げてその拡げた指の数をいい当てる遊び。すなわち本文は闇のなかでもごまかさないで正直にやるという意〕が遊べただろう。しかし元老院ではいつもどんなに一人のこらず粉砕したことか。かれはけっして言葉はりっぱではなかったが単刀直入であった。大広場で弁論するとき、かれの声は戦場のトランペットのように高まった。けっして汗もかかなければつばも出さなかった。かれの調子にはアジア的スタイル〔演説におけるアジア的スタイルは仰々しい誇張に充ちたもので、一般にはローマ人によって軽蔑された〕の気味があったと私は信じている。そしてわれわれに対してまるでかれが仲間の一人であったかのように、じつにていねいに名を呼んであいさつを交わしたことか。あの頃は食料品が馬鹿に安かった。青銅で二人がいっしょになっても食べきれないほどの大きなパンがいつでも買えた。しかし今は牡牛の目よりも小さいのをよく見かける。ああ! ああ! ものごとが日ごとに悪くなってゆく、この町は仔牛の尾さながら下り坂だ。しかしなぜわれわれの生活よりも、自分の財布のなかに金を入れることばかり考えている、あの三個のカウヌス〔小アジアのカリアの沿岸にあった古代の都市〕産の乾いちじくにも価せぬ警保官《アエデイリス》らをわれわれは戴いているのか? かれは家にほくそ笑みながら坐っていて、ひとが世襲財産として持っている以上の金を、一日にもうける。私はかれが金貨で一千デナリをどこで得たか知っている。もしわれわれに勇気でもあったら、かれはあんなに満足してはいられまい。今日、ひとは自分の家においてこそ獅子であるが、戸外においては狐にすぎない。私はといえば、すでにぼろを食ってしまった。そしてもしこのような物価がつづくなら、小屋も売ってしまわなければなるまい。もし神も人もこの町に憐憫《れんびん》をくださなかったなら、いかなることが起こるであろうか。私は幸福をねがうから、これらのすべては神のなされた業であると信じる。なぜなら何びとも今日では天が天であることを信じない。断食をおこなう者もなく、ユピテル神に対して少しも注意をはらわない。かれらはみんな目を閉じて自分自身の財産を数えるのみだ。昔主婦たちはよそ行きの着物を着、バラバラの髪と純真な心を持ち、はだしのまま丘に登り、雨を贈るようにユピテルに祈ったものだ。するとその場で――そのとき降らなければけっして降らないのだが――どしゃ降りに雨が降るのがつねだった。そしてかれらはみんな濡れねずみになって帰ってきた。しかしわれわれには信仰がないから、神々は足に痛風を病んでいる。だから田園は焼き乾きになっているのだ」
「おお、あんまり縁起でもないことをいいなさるな」とぼろ商人のエキオンがいった。
「『よい時もあれば悪い時もある』と田舎者がかれの斑《ふ》入りの豚をなくしたときいいました。今日起こらないことは明日起こるでしょう。そうして人生は押しすすめられてゆくのです。ヘルクレスにかけて、もしも国民が分別さえ持っていたなら、他人の土地をわれわれのものより好いなどということはできないと私は誓います。現在は苦労しているが、しかしそれはわれわれだけではない。同じ空がわれわれのすべての上にあるとき、われわれはあまりに気むずかしくしてはいけない。もしもきみが他のどこかにいたならば、この町では焼いて食べるばかりになっている豚が歩いているとでもいうだろう。やがてわれわれは、三日続きの祭日に、すばらしい見世物が見られることを考えてごらんなさい。それは単なる職業的剣闘士〔剣闘士は主として奴隷の身分〕の一味でなく大多数は解放奴隷です。われらのティトゥス〔クーマエの金持の名〕は非常な意気でのぼせ上がっています。とにかくなにかしらしでかすでしょう。私はかれと懇意にしていますが、かれは不徹底は嫌いなんです。かれはもっとも鋭い剣先を見せて、一歩も退かず、全観衆が見物のできる中央で屠《ほふ》らせるでしょう。かれはその資力を持っている。かれは父親が不時の死にあったとき三百万セステルティ遺された。たとえ四十万使ったところでかれの遺産は痛痒《つうよう》を感じないだろうし、しかもかれの名前は永久に残るでしょう。かれはすでに何人かの道化《どうけ》役者と、二輪戦車に乗る女戦士とグリュコ〔同じくクーマエの金持〕の細君と恋をしている現場を押えられた家令とを集めました。諸君は世の嫉妬ぶかい夫たちと情人たちのあいだで起こりがちな、あのわいわい喧嘩が見られるでしょう。グリュコのような一セステルティウスの価値しかないやつが自分の家令を野獣に投じてしまおうとしている。かれはただ恥をさらしただけだ。あの奴隷になんの咎《とが》があろうか。かれはいわれたとおりにしなければならなかったんだ。あの淫婦こそむしろ牡牛に突きとばされるのが恰好だよ。しかし驢馬を打つことさえできない男はその鞍《くら》を叩くからな。ヘルモゲネスの娘が好い結果をもたらすなどとどうしてグリュコが思ったことがあるものか。かれには飛んでいる鳶の爪を剥がすこともできた。それに何ごとも親ゆずりだからね。グリュコよ、グリュコよ、きみはきみの家庭内の醜聞を人前であばいた。生きている限りきみは恪印《らくいん》を押された男だ。そしてそれは地獄以外にぬぐい去ることができない。しかし人間の咎はわが身に戻ってくるものです。私にはマムマエアがどんなご馳走をわれわれに与えようとしているか嗅ぎ出すことができます。私と私の家族のおのおのに二デナリずつですよ。もしかれがそうしたら、ノルバヌス〔当時の有名な弁護士の名〕の人気をことごとく奪い去るでしょう。満帆をさっと張り上げてかれを打ちのめすに相違ありません。実際あのノルバヌスはわれわれになにをしたことがあるのか?
息を吹きかければ、ばったり倒れるようなもうろくした一セステルティウスの価値しかない剣闘士をかれは観せてくれた。私はもっとりっぱな野獣と闘う剣闘士を見たことがある。ランプの笠の絵から抜け出たような貧弱な騎兵をかれは打ち倒した。諸君はかれらをただの雄鶏にすぎなかったと思われたでしょう。一人は驢馬のような足つきだし、他の一人はわに足で、もう一人はさながら生ける屍で、戦わないさきに腿の筋を断たれた不具だった。気力のあったのはたった一人のトラキア人であったが、かれはあまりに教科書どおりに戦った。結局かれらはみんな鞭打たれ、群集は『なぐってしまえ』と吠え立てました。なぜならかれらは確かにまぎれもない逃亡奴隷にすぎなかったのです。『とにかく私は諸君に一つの見世物を与えた』とかれはいった。そこで私は答えました。『私は喝采してあげた。それを数えあげてみなさい。私は自分が貰ったもの以上のものをきみに返した。親切は親切を受ける価値があるといいますからね』さて、アガメムノンよ、あなたはまるでこういっているように見えます。『この人弱らせは何のためにくどくどしゃべってるのか?』と。私がしゃべるのはしゃべることのできるあなたが何も語らないからです。あなたはわれわれのような身分ではない。だからわれわれ貧乏人の饒舌をあざ笑っているのでしょう。あなたがあまり学問をやったため馬鹿になっているということはわれわれみんなが知っています。しかしそれは大したことではない。いつか田舎の屋敷に来て私の小さな家をご覧になることをすすめさせていただけませんか。われわれは何か食べ物――若い雌雛か卵を見つけます。それは申し分ありますまい。今年の天候はあらゆるものをめちゃくちゃにしてしまいましたけれど、われわれを満腹させる何かは見つけられるでしょう。私の小さな息子はすでにあなたの弟子として育っています。かれはいま四の割算ができます。もしかれが成長したら、あなたのあとについて行く小さな召使となるでしょう。暇があるときはいつまでも石板から頭を上げません。鳥を飼うのがむしょうに好きですが、利口でなかなかいいところのある息子です。先日も私はかれの金翅雀《ひわ》を三羽殺して、イタチが食ってしまったのだといっておきました。けれどもかれは他の道楽もやりだして夢中で絵を描いています。さらにかれはいまではギリシア語に熟達してラテン語もりっぱにたしなみはじめました。もっともかれの先生はあまりにわがままで一つことに永続きがしませんが。かれはなにか書物をくれと私にいってきますが、働こうとはしません。私にはもう一人の子供があって、学者ではないが非常にせんさく好きで、自分で知っている以上のことをあなたに教えることができます。ですから休日にはたいてい家に帰ってきますが、なにを与えてもかれは満足します。私はこの息子に先日も何冊かの赤文字の表題のついた法律書を買ってやりました。私はかれが財産を管理するために法律を少しやることを望んでいますので。法律は金になります。しかしいまかれはまったく文学にかぶれています。もしかれが落ちつけないのなら地獄以外には何者も奪うことのできない理髪師か競売屋かせめて三百代言のような商売を学ばせるつもりです。だから私は毎日やかましくいいます。『私のいうことを信じなさい。プリミゲニウスよ、何を学ぼうともおまえ自身のために学ぶのだ。三百代言ピレロスを見なさい。もしかれが学問をやらなかったら、今ごろは餓死していることだろう。かれが背中に品物を結えつけて売って歩いていたのは大して昔のことではない。それがいまではノルバヌスに匹敵しうる男になっている。学問は財宝であって、身につけた商売はけっして亡びない』と」
このようなうわさ話がひろまろうとしたとき、トリマルキオは額を拭きながら入ってきて、香水で手を洗い、しばらく休んでからいった。
「みなさん、お許しください。私の腸は便秘してこの数日返答をしません。医者たちも途方にくれています。けれどもザクロの皮と酢に漬けた松脂《まつやに》がききました。ですから今はもう私のお腹も以前のように行儀よくなるだろうと思っています。またお腹がごろごろ鳴ると諸君はそこに牡牛がいるのかと思うでしょう。退席したいと望む方は恥かしがるには及びません。われわれはみんな頑強には生まれてきていません。ご不浄をがまんすることほどつらいことはありません。それは神様《ユピテル》自身にも堪えがたいことです。フォルトゥナタよ、なぜおまえは笑うのか、私をいつも夜じゅう目覚しておくのはおまえです。私は諸君が食卓についていても勝手になさるのをさまたげません。それに実際医者はご不浄を我慢するのを禁じています。いよいよ切迫してきましたらあらゆるものが――水も台付き便器もその他の小さな入用な品も部屋の外に準備してあります。私のいうことを信用なさい、水気が脳髄に上昇するとからだ全体に充血をきたします。私は本当のことをいい出すのをあまりに遠慮していたため、死にいたった多くの人を知っています」
ぼくらはかれの寛大さと恩恵に感謝した。そして笑いをこらえるためにひんぱんに杯を乾した。しかしぼくらはよく人がいう奢侈《しゃし》の丘の半途にもまだ達していないということに気づかなかった。食卓が音楽につれて清められたとき、白い豚が食堂に曳かれてきた。それは名指奴隷《ノーメンクラトル》〔主人が会った人の名を記憶していて必要なときそれを主人に告げてやる係の奴隷。トリマルキオは丹精してつくった料理の名をこの係の奴隷に告げさせて見栄を張ったのである〕のいうところによると、小さな鈴と皮の口輪をつけた一つは二歳で、他のは三歳と六歳くらいのものであった。ぼくは軽業師が入ってきて、その豚に街の群集に見せるような驚くべき芸でも演じさせるのだろうと思った。しかしトリマルキオは、
「このなかのどれをすぐに食卓に上《のぼ》せたいとお望みですか」といってぼくらの期待を打ちくだいた。
「雌鶏とかペンテウス〔テーバイの王。酒神バッコスの儀式を軽蔑したため、バッコスの母親とその姉妹に引き裂かれた〕のようにこま切れにすることとか、そういった些細なことならどんな田舎者にも料理ができますが、私の料理人はいつも丸ゆでにした仔牛を供することになれています」
そしてかれはすぐ料理人を呼び出すように命じ、ぼくらが選び出すのを待たず、最年長の豚を殺すようにいいつけた。そしてはっきりした声で、
「どの組におまえは属しているか?」といった。第四十組から来ました、とかれは答えた。
「おまえは買われたのか、それともこの屋敷で生まれたのか?」
「そのどちらでもありません。私はパンサの遺言であなたに贈られたものです」
「それならば気をつけて調理しなさい。さもないとおまえを行列の先駆けの組におとしてしまうぞ」
料理人はこのように主人の権力を片時も忘れないように注意されると、調理場へ食物を引き下げていった。するとトリマルキオは表情をやわらげ、ぼくらを見廻しながらいった。
「もしこのぶどう酒を諸君が好まないならば替えさせましょう。それを飲んでみて吹聴《ふいちょう》しなければいけません。神の恩恵によって、私はぶどう酒は買いません。ここで諸君の口を濡らすものは、いずれも私の郊外の土地でできたものです。私はまだその土地を知りませんが、タラキナ〔ラティウムの町〕とタレントゥムとの境界にあるという話です。私はアフリカに行こうと思い立ったとき、自分自身の領地内を航海してそこに到着できるように、シキリア島を私の小さな領地の一つにしたいものだとちょうどいま考えているところです。しかしアガメムノンよ、今日は何があなたの演説の論題でしたか話してください。私はみずから法廷で弁論はしませんが、家庭で役立てるために学問をしました。そして私が学業を軽蔑《けいべつ》しているとは思ってくださるな、私は一つはギリシア語の、いま一つはラテン語の二つの図書館を持っています。もしもあなたが私を愛するなら、あなたの演説の論題はなんであったか教えてください」
そこでアガメムノンが「貧乏人と富者とは不和であった」といい出したとき、トリマルキオは「貧乏人とはいったいなんですか」といった。
「これはうまい!」とアガメムノンは叫んで、なにかの問題の説明をつづけていった。トリマルキオはただちにいい返した。
「もしそれが事実であるなら論争の必要はないわけだ。またもし事実でなければ、それはまったくむだなことだ」
ぼくらはかれのあれこれの放言を讃めはやしつづけていると、かれはいった。
「親愛なるアガメムノンよ、ヘルクレスの十二の偉業〔ヘルクレスはミュケナイの王より課せられた十二の難業を完遂して不死の生を得た〕やウリクセスの話やどのようにしてキュクロプスが拇指で火箸を曲げたか〔この一節はトリマルキオのキュクロブスとキルケーとを混同したウリクセスの冒険談に関する支離滅裂な記憶〕という話を覚えていますか。私は子供のときにホメロスのなかでこれらの話を読んだものでした。私は自分自身の目で確かにシビュラ〔十人の女予言者の一人で、かめのなかで暮らしていた〕が、クーマエのかめのなかに吊るされているのを見たことがあります。そして少年たちがギリシア語で彼女に『シビュラよ、おまえはどうしたいのか?』と呼びかけると『私は死にたい』と彼女もギリシア語で答えるのがつねでした」
かれはまた自慢話をしようとしたが、そのとき巨大な豚を載せた盆が食卓の上いっぱいに置かれた。ぼくらはその早さに驚いた。そして鶏でさえこんな短時間で料理されるはずはないと断言した。ことにその豚はさっきの野猪よりもはるかに大きく見えたから。そこでトリマルキオはつくづくとそれを眺めながらいった。
「なんだなんだ! 腸《はらわた》を取り出してないではないか。ヘルクレスにかけて、私は取り出してないと思う。料理人をここへ呼び入れなさい!」
料理人は悄然《しょうぜん》として食卓のそばに立ち、腸を取り出すのを忘れたのだといった。
「なに? 忘れていたって?」とトリマルキオは叫んだ。「胡椒《こしょう》とカミンを入れ忘れたくらいにおもっているのか? こいつを剥いでしまえ!」
ただちに料理人は裸にされて、二人の拷問係のあいだにはさまれて、打ちしおれて立っていた。ぼくらはみんなかれを許してくれるように哀願してこういった。
「ありがちなことですから、どうかゆるしてやってください。もし今後もこんなことをしでかすようなことがあれば、われわれはだれ一人かれのために懇願はいたしませんから」
ぼくだけはひどく残忍なきびしい気持になって自分自身を制することができずに、身をかがめてアガメムノンの耳にささやいた。
「確かにあいつはひどく悪い召使にちがいありません。豚の腸を取り出すことを忘れるような男がいるでしょうか。ヘルクレスにかけて、もしかれが魚を料理するときに忘れたとしても、ぼくはかれを許さないでしょう」
ところがトリマルキオはそうでなかった。かれは表情を上機嫌にゆるめて、
「よろしい。もしおまえの記憶がそんなに悪いのなら、われわれの目の前で腸を取り出してみなさい」
といった。料理人は下着《トウニカ》をつけると、ナイフを手に取り、豚の腹をあちらこちらふるえている手で斬りまくった。切口はすぐに内部からの圧力でひろがってソーセージと黒いプディングが転がり出た。これを見て奴隷たちはわれを忘れて喝采し、「ガイウス〔トリマルキオの名〕に幸いあれ!」と叫んだ。料理人はぶどう酒と銀の冠とを報いられたのみならず、コリントスの皿に載せた杯をも与えられた。
アガメムノンがつくづくとこれを眺めているのを見て、トリマルキオは「私は真正のコリントスの皿を持っている唯一の人間です」といった。私はかれが例の傍若無人さでその皿をコリントスからみずから輸入したのだと言明するのだろうと思った。しかしかれはたくみにもいった。「諸君はおそらく、どうして私だけがコリントスの皿を持っているのかとたずねられるでしょう。明らかな理由は、コリントスという名の銅細工人からその皿を買ったからです。しかしコリントスという細工人から得たのでなければ、いったいなにがコリントス細工でしょう? 私を愚者だとは考えないでください。私はどうしてコリントスの皿が最初につくられたかをすっかり知っています。イリウム〔トロイアの別名〕が攻略されたとき、狡猾漢《こうかつかん》であり、また偉大な破廉恥漢であったハンニバルは、いっさいの銅像や黄金や銀を集めて、一つの大きな塊に積み上げて火をつけたので、それらは一つの合金黄銅にとけ合ってしまったのです。細工人はこの塊を取って皿や添え皿や小さな像をつくったのです。これがあれでもなければ、これでもない、すべてのものを一つにしたコリントス地金の生まれた理由です。私につぎのようにいうことをお許しください。自分ではむしろガラス器のほうが好きだ。ガラス器にはとにかく臭みがないからと。そこでもし壊れやすくなかったら、私は黄金よりもこのほうを選びます。そのうえ、こんにちではこのほうが廉価です。しかし、かつて壊れないガラス器をつくった細工人がおりました。そこでその発明を皇帝《カエサル》〔性格のきわめて無慈悲であったティベリウスを指すものと思われる〕に披露することを許されました。そして器をカエサルからふたたび手渡していただくと、かれはそれを床の上に投げつけた。カエサルはおそろしくびっくりされました。しかしそのガラス器を床の上から拾い上げてみると、青銅器のようにへこんだだけでした。するとかれは小さなハンマーを懐中から取り出して、造作もなく器を元のようにしてしまったのです。こうしてかれは天国の椅子にでも掛けたかのように思いました。ことにカエサルが『ほかにだれかこのようなガラスをつくる方法を知っているものがあるか?』とたずねたときには。まあごらんなさい。かれがいいえと答えると、カエサルはかれの首をたちまち刎《は》ねてしまいました。なぜといって、もしこの秘法が他にも知られてしまえば、われわれは黄金をまるで塵同様に考えるようになるでしょう。私自身はすっかり銀器に熱中しています。一ウルナ入る大口杯を約百持っていますが、それにはどのようにしてカッサンドラ〔トロイアの女予言者であるが、トリマルキオはメデアと混同して話している〕が息子たちを殺したか、またあたかも生けるがごとく死んだ息子たちが横たわっているところが彫られています。私は千個の水差しを持っていますが、それはムムミウスが私の旧主人に遺したもので、ダエダルス〔ギリシアの伝説的名匠。クレタ島のミノス王の妻パシパエがウェヌスに呪われて美しい牡牛と通じ人身牛首の怪物ミノタウルスを生んだとき、ダエダルスはこの怪物を閉じ込める迷宮をつくった。トリマルキオはこの伝説をホメロスにあるトロイアの木馬と混同して話している〕がニオベをトロイアの馬のなかに閉じ込めているありさまが描かれています。またヘルメロスとペトライテス〔共に有名な剣闘士〕の争闘がすべてどっしりした杯に彫ってあるのも持っています。じっさい私の鑑識眼はどんな金高でも人に売りはしません」
このように話しているとき、一人の奴隷が杯を取り落した。トリマルキオはかれを眺めていった。
「早く立ち去って自分で鞭打て、おまえは馬鹿なやつだから」
奴隷はただちに唇をたれて哀願をはじめた。
「なぜ私に頼むのか」とトリマルキオはいった。「まるで私がおまえに対して残酷ででもあるように。おまえがそんな馬鹿なことをしないで、しっかりするように説教しているだけのことだ」
ついにぼくらの懇願でかれは奴隷を許した。放免されるとその奴隷は食卓の周囲を廻りはじめた。するとトリマルキオは、
「水は外に! 酒は内に!」〔水を割らぬ酒をすすめようとしていった言葉〕
と叫んだ。ぼくらは――なかでもどうしてつぎの饗宴への招待を獲得するかということを、もっともよく了解していたアガメムノンはこのたくみなしゃれをのみ込んだ。しかしながらトリマルキオはぼくらのお世辞で愉快そうに飲みつづけて、ほとんど酩酊に近づいたときいった。
「諸君のうちのだれもが私のフォルトゥナタに踊ることを求めないが、私のいうことを信じたまえ。カンカン踊り〔挑発的な身振りでやるギリシア喜劇の舞踊。舞台以外でこれを踊ることは泥酔の徴候か乱行であると考えられていた〕を彼女よりうまく踊れる者はだれ一人いない」
それからかれは両腕を額の上に挙げて、俳優シュルスのまねをはじめると、召使一同の者は声を合わせて、
「マデイア! ペリマデイア!」〔ギリシアの道化芝居中のレフレインであろう〕
と歌った。もしフォルトゥナタがかれの耳にささやかなかったなら、かれはみずから中央に出てきたであろう。そんな低級な馬鹿なことは威厳に関すると彼女はいったにちがいない、と私は想像した。けれどもかれの気まぐれよりも変わりやすいものはないのであって、一瞬間はフォルトゥナタをはばかったが、つぎの瞬間にはその生来の性癖にかえろうとした。しかしかれの舞踏に対する熱情は、一人の書記がまるで官報でも読み上げるように、つぎのごとく読みはじめたので、まったくさえぎられてしまった。
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「七月二十六日。クーマエにおけるトリマルキオの領地にて三十人の男子と四十人の女子出生す。大麦五十万モディ打穀場より穀倉に取り入れらる。牛五百頭馴らさる。
同日。われわれの主人ガイウスの守護神をののしりしため、奴隷ミトリダテス礫刑《はりつけ》に処せらる。
同日。千万セステルティは投資されざりしため金庫に戻さる。
同日。ポンペイイのわが庭園に火災あり。管理人ナスタの家より出火せしものなり」
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「なに?」とトリマルキオはいった。「いつポンペイイで私が庭園など買ったか?」
「昨年です」と書記は答えた。「ですからまだ貴下の帳簿には載っておりません」
トリマルキオはかっとなって、
「私の名で買ったいかなる土地といえども六カ月以内に報告がなければ、私の勘定にすることを禁ずる」といった。
つぎにかれの警保官の布告やある猟場番人の遺言状が読まれた。その遺言書の追加のなかではトリマルキオは相続からは除外されていた〔この一節はトリマルキオが遺産などには無頓着であることをみずから誇示したもの〕。それから管理人の名や、浴場係と密通して夜番である夫に離婚された女の解放奴隷や、バーイアエ〔カンパニアの小都会〕に追放された門番や、告訴された執事の名や、部屋づきの召使のあいだに下された判決について読み上げた。
しかしついに軽業師が人ってきた。一人のきわめて愚鈍な阿呆《あほう》が梯子を支えて立ち、奴隷に段々を昇らせ、その頂上で俗謡に合わせて踊らせた。それから燃えている箍《たが》をくぐらせたり、歯でかめを取り上げさせたりした。これはありがたくない商売だなどといっていたトリマルキオ以外にはだれもこれを賞称する者はなかった。世界じゅうにかれが真の快楽をもってみられるものは二つしかない――それは軽業師とラッパ吹きとでその他の見世物はすべてたんなる馬鹿げたことにすぎないといった。
「実際」とかれはいった。「私はかつてギリシア喜劇の一団を買ってみたが、しかし私はかれらにアテラナ〔イタリアの比較的洗練された道化芝居〕を演じさせたかったので、笛吹きにラテン語の唄だけをやることを命じました」
ちょうどトリマルキオがこのように話していたとき、奴隷がかれの上に墜落してきた。奴隷たちはこぞって叫び声をあげた。客もまた同様であった。が、それはこの胸くそが悪くなるような男のためにではなかった。そいつが首をくじけば、喜んで見ていたかもしれなかった。それよりはむしろ、親しくもない男の死に涙をそそがねばならない羽目になっては、饗宴も不吉な結末となりはしないかと心配したからであった。
トリマルキオ自身は声高くうなり、傷ついたらしい腕の上に身をかがめていたので、医者たちが駆けつけた。そしてその先頭には、髪を乱し、手に杯を持ったままのフォルトゥナタが、私はみじめな不幸な女ですと叫びながら駆け寄った。墜落した奴隷はといえば、すでにぼくらの足もとを這い廻って許しを求めていた。私はこの嘆願もなにか馬鹿馬鹿しい逆転をひき起こすのではないかと恐れた。豚の腸《はらわた》を取り出すのを忘れた料理人のことがまだ私の記憶から消えていなかった。そこでなにか自動装置のようなものでも壁間から現われるのではないかと、私は食堂をすっかり見廻しはじめた――とくに紫の毛布の代りに白いので主人のくじいた腕を繃帯した一人の奴隷が打たれているのを見てから。私の疑惑は長くはつづかなかった。懲罰の代りにトリマルキオの下した裁決はその奴隷を自由の身に解放することであった。あれほどの権力ある者が奴隷ごとき者のために傷つけられたなどとは何びとにもいわれないように。
ぼくらはかれの処置を称讃した。そこで人間の運命というものはいかに変わりやすいものであるかをいろいろと語り合った。
「ああ、だからこの災難も、記録もなしに、見すごしてしまってはならない」とトリマルキオはいって、ただちに書板〔今日の手帳に相当する蝋を塗った板。スティリュスと称するとがった棒で文字を書いた〕を取り寄せ、ちょっと知恵をしぼってから、つぎのような腰折れ詩を朗読した。
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「思わざることが予期せずして起こるは、
われらが上に運命《フォルトゥナ》の女神がいて
万事を支配するためなり。
それゆえに奴隷よ、ファレルナぶどう酒を注げ」
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このエピグラムからいろいろ詩人についての議論がはじまった。そしてしばらくは詩の極致はトラキアのモプススの手にあると主張されていた。するとトリマルキオはいった。
「先生、おたずねいたしますが、あなたはキケロとプブリリウス〔前四五年頃の有名な道化芝居の作者〕との差をどうお考えですか? 私の考えでは一はさらに雄弁であり、他はさらに高尚なものです。じっさいこれよりもよいものがありうるでしょうか?
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マルスの城壁〔ローマをさす〕は奢侈の大きく開けたる口に沈みぬ。
バビュロニアの綴れ錦のごとき羽毛の孔雀《くじゃく》はなんじの味覚をたのしますべく囲まれて飼わる。
ヌミディアの雄鶏〔ほろほろ鳥〕も去勢鶏もまた、なんじのために。
われわれの可憐なる異国の客、母性愛の象徴たる
冬に追放された鳥、温かい季節の前ぶれたる細長き脚の
羽音騒々しき鸛《こうづる》〔美味で知られていた〕さえも、いまやなんじの浪費の鍋に巣をつくれり。
インドの三つの真珠よりなる耳飾りをなんのために求むるや?
他人の寝床に御しがたき足をあげる
なんじの妻が真珠と珊瑚《さんご》とで飾られるためなりや?
なんのためになんじは緑のエメラルド、高価なる玻璃《はり》を求むるや?
正直は紅宝石のなかより輝き出るべきなりということを除いて、
なんのためにカルタゴの宝石のなかなる光を求むるや?
なんじの花嫁が人前に、亜麻の薄紗《うすぎぬ》に身を包みて、
裸で立ち現われるのも同然なふうの薄衣を纒《まと》いてよきものなりや!
[#ここで字下げ終わり]
さて文学についでは何がもっともむずかしい職業だと考えますか?」とかれはいった。「私は医者と両替屋だと思う。医者は病気の男が懐中に何を持っているか〔病気の診断ばかりでなく、その支払い能力があるか否かを知ること〕、またいつ熱が生ずるかを知らなければならない。――けれども私自身はかれらがとくに大嫌いです。たえず鴨を食えと命じますからね。両替屋は銀貨と銅貨とを見分けなければなりません。禽獣のなかでは牛と羊がもっとも熱心な働き手です。牛にはわれわれは食べる糧《かて》を負うているし、羊は羊毛でわれわれを着飾らせてくれますから。羊毛の襦袢《じゆばん》を着て、しかも羊肉を食ったりするとは言語道断なおこないです。それからじつのところ、私は蜜を吐く蜜蜂がもっとも神聖な動物だと思っています。神様《ユピテル》から蜜を持ってくるのだとさえいわれていますが。そしてかれらは針を持っているが、それは甘いものがあるところにはかならず酸っぱいものが見出されるためです」
ちょうどかれが哲学者の商売をけなしていたとき、杯に入れられた札《ふだ》が廻された。そしてこの仕事をまかされた奴隷は客への贈り物〔この福引の意味はみんな言葉のしゃれである〕を声高く読みはじめた。
「腐った銀貨」――ハムが酢瓶の上に載せられてもたらされた。
「枕」――羊の首の一片が出された。
「セリサピアと侮辱《コントウメリア》」――新ぶどう酒に浸した乾菓子が林檎《コントウス》と棒《マルス》とともに与えられた。
「韮《にら》と桃《ペルシカ》」――鞭と匕首《シーカ》が渡された。
「雀と蝿取り」――乾ぶどうとアッテイカの蜜とが取り上げられた。
「正餐服と外出服」――一片の肉と書板《ノートブック》とが渡された。
「運河《カナリス》と足秤」――|野うさぎ《カナリス》と上靴とがもたらされた。
「|八ツ目うなぎ《ムラエナ》と文字」――|二十日ねずみ《ムス》が蛙《ラナ》といっしょに結ばれたものと、一束の砂糖大根の根とが取り上げられた。
ぼくらは大声で笑いつづけた。私の記憶から消え失せてしまったその種の冗談が数知れぬほどあった。
いっぽうアスキュルトスはわれを忘れて、両腕を差し上げ、あらゆるものを嘲弄して涙が出るまで笑いくずれた。これは私の上隣りの席を占めているトリマルキオに招かれた客の一人を激昂させた。
「なにを笑っているのか? 去勢羊《まぬけ》め!」とかれはいった。「私の主人の款待《かんたい》がきみを喜ばすには足りないとでもいうのか? きみは確かにもっと金持で、もっとりっぱな宴会になれているのだろう。だからこの家の守護神が恩寵を垂れますように、もし私が隣に坐っていたならあいつの羊鳴きをすぐさまやめさせてやるのだが。他人を嘲弄する可愛らしい果物め! どこから来たのかもわからない夜飛び歩く、自分自身の小便にも価しない放浪人め! 要するに、もしかれの周囲に小便をひっかけてやったら、どこに避難すべきかわからないだろう。ヘルクレスにかけて、私はいつもは腹を立てないのだが、しかし蛆《うじ》は柔かい肉のなかに生まれるものだ。あいつは笑っている。なにがおかしいのだ? きみの父親はきみが生まれたとき黄金を神々に献じたほどに並み以上の人間なのか? きみはローマの騎士か、それなら私は王様の息子だ。『しからばなぜ奴隷だったのか?』というのだね、それは自分で奴隷になったからだ。貢ぎ物を納めなければならないような地方の王様になるくらいならローマの市民になるほうがよいと思ったからだ。そしてこれからは何びとも私を嘲弄できないような生活をしてゆくつもりでいる。私は男の中の男だ、頭にはなにもかぶらずに出歩くし、びた一文も他人から借りてはいない。召喚状を発せられたこともなければ、裁判所で『借りた金を返せ』と私にいった者は一人もいないのだ。少しばかりだが土地も買い、金属の小皿も集めている。また二十人の胃袋と一匹の犬を養っている。私は自分の奴隷だった妻を何びとも軽んじないように、彼女の自由をあがなってやった。私は自分をあがなうために、千デナリ支払った。私はアウグストゥス司祭に無償で任命された。私は墓のなかで赤面する必要のないように死にたい。きみはきみの背中を振り返って見ることができないほど忙しいのかね、きみには他人の虱《しらみ》は見つけることができても自分にたかっている大ダニは見出せないのだろう。きみ以外にはだれもわれわれがおかしいなどとは思いはしない。そこにきみよりも年長のきみの先生がおいでになるが、われわれに満足していられる。きみは乳離れしたばかりの子供だ! ムとマとをはっきり区別していうこともできない。きみは粘土の壺《つぼ》だ、いや水浸しの革紐だ、柔かだが上等なものではない。きみのほうがもっと金持なら二度の昼食と二度の晩餐をとるがよい。私は財産よりも名声のほうをとる。要するに、だれが二度と私にやかましく催促したことがあるかね? 私は四十年間奴隷であった、しかし何びとも私が奴隷であるか自由な身分であるかを知らなかったよ。私がこの町《コロニア》に来たときは、髪を長くした少年だった。公会堂はまだ建っていなかった。しかし私はりっぱな威厳ある人物で、その爪といえどもきみなどの全身よりもっと値打のある私の主人を喜ばそうと骨折ったのだ。そして家のなかにはときどき私をつまずかそうと足を差し出す者がいた。しかしながら――主人の守護神に感謝します――私はかれらの手中から脱れた。これが真の試練というものだ。自由民として生まれ出ることは『ここへおいで』というように容易なことです。だがエンドウ畑の山羊のように、どうしてそう茫然としているのだね?」
この言葉で私の足下に立っていたギトンは、長いあいだ忍んできた笑いを不謹慎にも爆発させてしまった。アスキュルトスの敵はこれに気づいて、この少年のほうへかれの非難を転じた。
「きみもまた笑っているのか!」といった。「ちぢれ毛の玉ねぎめ! なに、愉快なサトゥルナリア〔この祭のときには奴隷も自由民とともに底抜け騒ぎをすることができた〕で、まだ十二月だと思っているのか? しかしいつきみは奴隷の身分から解放されたのだ? 自分でどうしたらよいのかもわからない、この縛り首に処すべき悪漢、からすの餌め! 神様《ユピテル》の怒りがきみときみを取り締まることのできない主人の上に降りかかることは疑いない。私はもしも、ここにおられる解放された奴隷諸君に対する尊敬さえなかったならば、腹をいやすために、いま即座にきみの当然受くべきものを与えてやるのだが。われわれは十分満足しているのにきみを取り締まることのできないやつは道化者にすぎない。実際主人が主人なら、奴隷も奴隷だ。自分の母親に対してだって銀貨二枚ほども気にかけない。よろしい。きみといつか大通りで出会うこともあるだろう。このねずみめ! もぐら塚め! きみの主人に錐《きり》の穴をくぐらせるまでは私は上にも下にも伸びまい。またいかにきみがオリュンプスの神様に助けを求めたところで、ヘルクレスに誓ってきみを容赦しないよ。きみの長い八インチの美しい髪と、銅貨二枚にしか価しないきみの主人を用心せよ。よろしいとも、私の歯できっと捕えてやるから。たとえきみが黄金のひげ〔神の像は時に黄金のひげで飾られた。すなわち「きみがみずから神様だと思っても」の意か〕を持っていたとて、私という者がわかれば嘲笑するのをやめるだろう。私はアテナの怒りを、きみとそれからきみを最初に愛玩物に育てた男にくだしてやる。
私は幾何学とか批評といったような愚劣な子守唄は学んだことがない。しかし石に彫った文字は知っています。また金高と重さと分量とを百分することができる。じっさいもしきみがお望みなら二人で賭けましょう。さあ、ここに金を置く。きみは修辞学を知っているにもかかわらず、きみの親父はきみに金をむだに使ったということを今わからせてあげよう。さて、『私はわれわれのどの部分か? 私は遠く来る、私は広く来る。私を解いてみなさい』〔このような謎は宴会で愛好された遊戯であった。解答者には賞金が与えられ、解くことのできない者は、罰として一定量のぶどう酒を一息に飲まされた〕また私はきみにわれわれのどの部分が走りかつその場所から動かないか、またわれわれのどの部分が成長して、かつ小さくなるかを告げることができる。きみはなんと壺のなかのねずみのように跳ね廻り、せかせかし、大騒ぎをすることよ! だからきみがきみの情婦から盗んだ黄楊《つげ》の指輪〔ヘルメロスは騎士階級の表象たるアルキュルトスのはめている黄金の指輪を、単に黄楊製のものであると見なして、情婦から盗んできたような指輪をはめていても自分はいっこう驚かないぞといっているのである〕に私が気をもんでいるなどと思わなかったら、きみの口を閉じるか、きみの存在などにほとんど気づかないきみ以上の人間をうるさがらせるな。盗人《ぬすっと》の神よ助けたまえ! 取引所《フォルム》へ行って金を借りてみようではないか。きみはやがてこの鉄の印形が信用を博するのを見るだろう。おお、ずぶ濡れの狐は美しい見ものだ! 私はきみに死刑宣告を下して最後まで追いつめないうちは、金もうけをしようとも、あるいは私の死ぬさい、人々が自分らもあいつのように死にたいと神に誓わせるような、よい終りをとげようとも望まない。このようにきみを教えこんだやつも偉いものだ――先生じゃない、間抜けさ。われわれは本当に教育を受けた。われわれの先生はいつもこういっていたよ。『きみのものはちゃんとしてありますか? キョロキョロしないでまっすぐ帰りなさい。また長上をののしらないように注意しなさい。それと反対に曖昧屋の数を数えあげても、そんなやつは銅貨二枚の値打もないのだ』と。私がかく見られるごとき私となったのは自分自身の手腕のためです。それを私は神に感謝しています」
アスキュルトスはかれの非難に口答えをはじめたが、同輩の解放奴隷の雄弁に喜んだトリマルキオは、
「さあさあ、そんな口論はやめにしよう」といった。「愉快にしたほうがよい、それからヘルメロスよ、若い者にはゆずってやりなさい。かれの血は煮え返っているのだから、きみに思慮がなければならない。このような場合は負ける者がいつも勝利を得るのだ。きみだって若い雄鶏だったころはココ! ココ! ココ! と叫ぶばかりで、なんの分別もなかったのだ。だからもっと面白いことをやることにして、あらためてホメロス吟誦詩人〔ホメロスの叙事詩などの職業的吟誦詩人〕のやることでも見ながら楽しむことにしよう」
ただちにその一隊が人ってきて、槍が盾に当って鳴り響いた。トリマルキオは褥《しとね》の上に起き上がって吟誦詩人がギリシア語の韻文で会話をはじめたとき、もったいぶったふうであったので、かれはふしをつけた声でラテン語の本を読み出した。すぐにかれらは沈黙してしまった。するとかれは「どんな話をかれらがしていたかおわかりですか?」といった。「ディオメデスとガニュメデスとは二人兄弟であった。ヘレネがかれらの妹であった。アガメムノンは彼女を奪い去って、鹿をその代りにディアナに捧げた。そこでホメロスはどのようにトロイア人とパレンティウム人とが戦ったかを語っているのです。もちろんかれは勝った。そしてかれの娘イピゲニアをアキレウスに妻として与えた。これはアヤクスを狂わしめたのです。そしてかれはこれからただちにそのテーマを説明するでしょう」〔ここで作者は故意にトリマルキオをして誤りだらけの神話を物語らせている。すなわちヘレネの兄弟とはカストルとポルックスのことであり、アガメムノンはじつはパリスであり、ヘレネの略奪とアガメムノンが狩りの女神アルテミスにおのれの娘イピゲニアを犠牲にしようとする話と混同しているのである。またパリスをアガメムノンにしてしまったごとく、ギリシア軍の総帥アガメムノンをパリスにしてしまって、ギリシア人をパレンティウム人と呼んでいる。つぎに出るイピゲニアはクリュセイスの誤り。アヤクスはウリクセスがアキレウスの兜を得てしまったので発狂し、羊の群を殺して自殺した。よってトリマルキオはアヤクスに扮した奴隷に兜をかぶせ、仔牛に狂人のごとく突撃させたのである〕
トリマルキオが語り終えると、ホメロス吟誦詩人は叫び声をあげ、奴隷たちは煮た仔牛に本当の兜をかぶせたのを載せた奉納用の皿をあちらこちらへと駆け廻りながら運び込んだ。つづいてアヤクスが入ってきて小刀を引き技くと、狂人のように突撃して縦横に突き刺し、切先の上に肉片を集めて驚いている客たちに仔牛を分配した。しかしぼくらにはこの素敵な工夫を嘆賞する暇もなかった。とつぜん天井ががたがた鳴って食堂全体が震動しはじめたからである。ぼくは屋根を貫いて軽業師でも落ちてくるのではないかと心配して、狼狽して立ち上がった。他の客もまた同様に驚いて、空からどんな変ったことを知らせているのかといぶかりながらじっと見上げた。すると見よ、天井が裂けると、明らかに巨大な樽《たる》からはずしたものと見える大きな箍《たが》が下がってきて、その周囲には黄金の冠や雪花石膏の香料|函《ばこ》が掛けてあった。そしてぼくらはこれらの贈物《アポポレータ》を受け取ることを懇請された。食卓をふたたび見返ったとき、いくつかの菓子を載せた皿がもうそこに置いてあった。その中央には菓子職人によってつくられた生殖神《プリアプス》の像が立っていて、型通りの風采でその広い前掛けにぶどうやあらゆる果物を抱えていた。待っていたとばかりにぼくらはこの珍味に手を伸ばした。するととつぜん新たなトリックの繰り返しがわれわれの愉快な笑いを取り戻させた。じっさい、菓子と果物とにはそれぞれわずかに触れただけなのに、サフランを勢いよく噴出しはじめたのである。そしてぼくらの口のなかにまで間断なくわずらわしい液がふりかかった。これは水をそそぐ用意をした儀式のようななにか神聖なものに相違ないと思ったので、ぼくらはみんな立ち上がって叫んだ。「この国の父、アウグストゥスに幸あれ!」しかしこのような礼拝《らいはい》ののちでさえも果物をつかむ者がいるのを見たので、ぼくらもナプキンをいっぱいにした。とくにぼくは、というのもギトンの着物《トーガ》の褶《ひだ》には贈り物も十分入れられないと思ったので。しばらくして三人の奴隷が短くはしょった白い下着《トウニカ》を着て入ってきた。そのなかの二人は首の周囲に魔除けをつけた家庭守護神《ラレース》〔結婚、葬式、子供の成年式のさい崇拝された〕の三つの像を卓の上に置き、他の一人はその間に「神よ、われわれを恵みたまえ!」と叫びながらぶどう酒を注ぎ廻った。
トリマルキオはその像の一は利益、他のは幸運、第三のは所得と呼ぶのだといった。それからトリマルキオにそっくりな大理石の像が運ばれてきて、他のすべての人々が接吻したとき、ぼくらはそうしないのが恥かしかった。すべての人がたがいに精神と肉体の健康を祈ると、トリマルキオはニケロスを眺めていった。
「いつもきみはもっと気持のよい仲間であるのに、ひとこともいわなければ不平も鳴らさないのはなぜか私にはわからない。どうか私を幸福にしてくれるつもりなら、きみの経験してきたことでも話してください」
ニケロスは友人の愛想よさに喜んでいった。
「もし私がそのような好意あるあなたに接して欣喜雀躍《きんきじゃくやく》しないようなら、私にはもうけっして金もうけができませんように! それならば、ほんのお慰みまでにお話ししましょう。けれどもここにおられる学者方が笑いはしないかとおそれていますが。しかし笑いたい方はお笑いください。私は私の話をしましょう。笑ったとて私にどんな傷を与えることができましょう! 笑われるくらいは嘲弄されるよりもまだましですから」とこの主人公は語ってからつぎのような話をはじめた。
「私がまだ奴隷であったとき、あるせまい街に住んでいました。その家はいまではガウィラのものですが。そこで神様の思召しだったのでしょう、私は宿屋の主人テレンティウスの細君と恋におちいりました。諸君も記憶しておられるでしょう。タレントゥム生まれのメリッサ、美しくまるまると頬の可愛いやつでした。しかしヘルクレスにかけて私が彼女を愛したのは肉体的な欲望からでもなければ、彼女が美しかったからでもなく、むしろ善良な性質のためであったことを誓います。私が彼女になにか求めてもかつて拒まれたことがありませんでした。もし彼女が一アスもうければ、私にその半分をくれました。私も持っているものはみんな彼女の懐中に入れてやりました。そして彼女はけっして私をだまさなかったのです。ところがある日彼女の夫は田舎の家で死んでしまいました。そこで私はどうして彼女のところに行こうかと盾と脛当てとで奮闘しました。諸君もご存じのごとく逆境においてこそ真の友人というものが現われるものです。ちょうどこれは私の主人がいろいろの些細な用務を帯びてカプアに行っていたときでした。私は機会をとらえて、第五の里程標までいっしょに行ってくれるように私の家の宿泊人の一人を説き伏せました。かれは兵士でした。そして下界《オルクス》の王のように勇敢でした。私たちは一番|鶏《どり》のなく時刻に走り出しました。月は真昼のように照っていました。墓場にさしかかったとき私の連れは石碑を眺めにそばに行ったので、私は歌いながら腰を下ろして墓石を数え出しました。それから友人のほうを振り返ってみると、かれは着物をすっかり脱いで道ばたへ捨てているので私は心臓が鼻にとび出したようにどきっとしました。そしてその場に生きた心地もなく立ち止まっていると、かれはその着物の周囲に小便をして〔一つのタブーでふたたび帰ってくるまで着物が紛失しないように石に化せしめる力があったのである〕とつぜん狼に化けてしまったのです。どうか私が冗談をいっているのだと思わないでください。世界じゅうの財産をやるからといっても私はうそは申しません。しかし私が話しましたように、かれは狼に化けると、吠えながら森のなかに走って行ってしまいました。最初、私は自分がどこにいるのかもわからぬくらい呆然としていました。それからかれの着物を取りに行ってみると、みんな石に化していました。私のように恐怖で死にかかった者はありますまい。しかし私は剣を技いて愛人の家に着くまでたえず空を斬ってゆきました。私は幽霊のように入っていって、ほとんど息も絶え絶えでした。汗は両脚を流れ、目はどんよりして、かろうじて意識を回復することができました。私のメリッサは私がそんなに遅く外に出たのをふしぎに思いながらいいました。『もしあなたがもう少し早く来てくだされば、少なくとも私たちの手助けができましたのに。さっき一匹の狼が農場に闖入《ちんにゅう》して、家畜を咬み殺し、ちょうど屠殺者《とさつしや》のように血を流させたのです。逃してはしまいましたが、私たちは馬鹿にはされませんでした。なぜなら奴隷が槍でかれの首に穴をあけてやりましたから』これを聞いてから私はもはや目を閉じていることができませんでした。そして夜が明けるとまるで盗賊にあった宿屋の亭主のように私の主人ガイウスの家に走り戻りました。そして着物が石に化していた場所に行ってみましたが、そこには血溜りのほかになにも発見することができませんでした。私が家に帰ったときは、例の兵士は牡牛のように寝床に横たわっていて、医者がかれの首のあたりを診察していました。そこで私は彼が狼|憑《つ》きだと悟り、後日までかれといっしょに食事をすることができませんでした。いや私には殺されたってそんなことはできません。他人は好きなように考えるでしょうが、しかし私自身がもしうそをいっていたなら、諸君のすべての保護神が私を罰しますように」
ぼくらはすっかり驚かされて沈黙してしまった。しかしトリマルキオはいった。
「きみの話を疑うどころじゃない。毛髪が逆立ったほどだ。というのも私はニケロスがけっしてでたらめをいう男ではないことを知っていますから。この人はまったく信用できるしけっして饒舌ではありません。さて私も自分の恐ろしかったことをお話ししたい。あのタイル葺きの屋根にのぼった駿馬の話のようなふしぎなものです。私がまだ髪をうしろに垂らしていた頃――子供のときから私はキオス人のような生活〔キオス人は奢侈と不行跡の生活で有名であった〕をしてきていたので――私の主人のお気に入りの奴隷が死にました。ヘルクレスにかけて、彼は真珠でした。あらゆる点で完全な少年だった。そこでかれの哀れな母親が悲嘆にくれ、私たちの多くが慟哭《どうこく》していたとき、とつぜん妖婆《ストリーガ》〔子供を害するものと信ぜられた妖婆〕が金切り声を出しはじめました。犬が野うさぎを追い駆けてでもいるような声だった。そのときそこには一人のカッパドキア人がおりました。背の高い、少し大胆な腕力家で、怒る牡牛を地上から持ち上げることができるほどでしたが、かれは臆せずに刀を抜いて、左手を注意ぶかく隠しながら扉の外に荒々しく出て行きました。すると妖婆がそのまんなかを走った、ちょうどそのあたりだ――私が触れるものにはなんの害もありませんように――私たちはうなり声を聞いた。しかし正直に本当のところをいうと、妖婆を見たわけではありません。われわれの馬鹿は戻って来ると寝床の上に身を投げ出してしまいましたが、からだじゅうまるで鞭で叩かれたかのようにまっさおでした。もちろん魔物の手がかれに触れたからです。私たちは扉を閉じてふたたび儀式に立ち戻りました。しかし母親が息子の屍に手をさし伸べて触れてみると、それがわらの束になっているのを見たのです。心臓もなければ内臓もなんにもなかった。妖婆が少年をさらってその代りにわらの人形を置いていったのだ。私は諸君に夜飛び廻るふしぎな知恵を待った妖婆がいて、ありとあらゆるものをくつがえすことができるのだという事実を信じていただきたい。それから背の高い馬鹿は以前の色に戻らず、二、三日のうちに狂人のように狂い廻って死んでしまった」
ぼくらはびっくりしてその話をすっかり信じ込んだ。そしてテーブルに接吻〔祭壇に見たてて神に祈ったのである〕して夜の妖婆にぼくらが晩餐ののち帰宅するまで外に出ないように祈った。じっさいこのとき灯火が二重に燃えているように見え、食堂全体が一変して見えるように思えた。するとトリマルキオはいった。
「さあ、プロカムスよ、きみは何も話さないのですか? 私を慰めてはくれないのですか? きみはいつも面白い喜劇の対話に抒情詩を添えて歌う、もっと愉快な仲間だったではないか。ああ! ああ! 甘いカリアの乾しイチジクもいまは老いたか!」
「そうです、私が痛風にかかって以来、私の戦車競走の時代はおしまいになりました」とかれは答えた。「私が若い頃は危うく肺病になりかけたほど歌ったものです。ダンスだって、喜劇の対話だって、理髪店での冗談だってだれが私以上にやれましたか? アペレス〔有名な悲劇役者〕以外にだれが私と競争することができましたか?」そしてかれは手を口にあててわけのわからない気味の悪い叱声《しっせい》を出し、あとでそれはギリシア語であるとぼくらに断言した。
するとトリマルキオはトランペット吹きのまねをしてみせたのち、クロエススと呼ぶかれのお気に入りの奴隷に視線を向けた。その少年はただれ目で汚い歯を持っていた。そして不自然に肥満した黒い小犬に緑色の首輪を結んでやっていた。かれは椅子の上にパンを半切れ投げてやったが病気にかかっている犬はそれを欲しがらないので、のどのなかへ詰め込んでやった。これはトリマルキオにかれの務めを思い出させたとみえて、「わが家と奴隷の保護者」スキュラックス〔犬の名〕を連れて来るようにと命じた。ただちに鎖につながれた巨大な犬が曳かれてきた。そして門番から一蹴りされて坐るように注意を受けると、卓の前にうずくまった。するとトリマルキオは一片の白いパンを投げてやりながらいった。
「この家のなかにはこいつ以上に私を愛してくれるものはいません」
その少年はスキュラックスがそのように過分にほめられたので気を悪くし、小犬を床の上に下ろして喧嘩をけしかけた。スキュラックスは犬のならわしにしたがって、食堂をぞっとさせるような吠え声をとどろかせ、危うくクロエススのマルガリタをこなごなに引き裂こうとした。大騒動は犬の喧嘩だけで終わらなかった。シャンデリアが食卓の上でひっくりかえり、あらゆる杯を砕いてある客は熱い油を振りかけられた。トリマルキオはこの損害に狼狽したとはみられたくなかったので、少年に接吻して自分の背中に上るようにといった。かれはただちに馬乗りにまたがると空いたほうの手でトリマルキオの肩をぴしゃぴしゃと叩いて、「頬、頬、何本触れた?」〔子供の遊戯で、一人の子供が目隠しされ、他のものがその頬に触れて、何本の指が触れたか、あるいは何人で触れたかを当てさせる〕と笑いながら叫んだ。しばらくのあいだトリマルキオはこれを辛抱していたが、つぎにたくさんの杯をとり揃えるように命じて、ぼくらの足下に坐っているすべての奴隷たちに、つぎのような規定をつけ加えながらぶどう酒をくばらせた。
「もしも拒むようなお客がいたら頭の上からそそいでやるがよい。仕事は昼間、今は歓楽!」
この親切を示したあとに、つづいて珍味の皿が運ばれてきた。もしもぼくのいうことを信じてくれるなら、そのことを思ってみただけで気持が悪くなろう。つぐみの代りに肥えた鶏肉がぼくらの前にならべられ、また帽子をかぶった鵞鳥の卵〔生卵の一端に穴をあけて煮るとき、出てくる白味に小麦粉をまぜて帽子をかぶったようにしたもの〕を骨を技いた鶏だといいながら、トリマルキオはしきりに食べてみなさいとすすめたのである。そうしているあいだに、一人の儀仗吏《リクトル》が食堂の扉を叩いた。そして白い服を着込んで明らかに酒宴にいってきたような一人の男が大勢の従者といっしょに入ってきた。ぼくは大いに驚いて都督《プラエトル》〔植民都市の市長〕でも来られたのかと思った。そこで起き上がって素足で床の上に立とうとした。アガメムノンは私の心配を笑っていった。
「坐っていろよ、馬鹿だな! あれはアウグストゥスの司祭、ハビンナスで、一流の墓石をつくるといわれている大理石工だ」
私はこれを聞いて、ほっとしてふたたび横になった。そしてハビンナスの入って来るのを大いに歓迎しながら見まもった。かれはすでにまったく酔っていた。そして細君の肩に両手ですがっていた。いくつかの花輪を重そうにまとっていたが、軟膏《なんこう》は額から目のなかへ流れ込んでいた。かれは長官のつくべき席に坐りこんでしまうと、ただちにぶどう酒と熟い湯とを求めた。トリマルキオはかれが上機嫌なのに喜んで、大きな杯をかれのために命じ、どんなに款待されてきたかとたずねた。
「あなたさえおいでになっていたら、なにも欠けることはないのでしたに」とハビンナスは答えた。「というのも私の目はあなたとともにここにあったのです。ヘルクレスにかけて、それはりっぱなものでした。スキッサは彼女のあわれな奴隷のため、九日目のすばらしい葬式の宴〔葬式のあった九日目に開くもの。普通は簡単な料理が出た〕を開いてやり、死んでからかれを自由の身に解放してやりました。ですから彼女は収税吏に莫大な金額を払わなければならないだろうと思います。死んだ奴隷は確か五万からの価だったといわれていますから。しかしとにかく気持のよいことでした。たとえかれの屍の上にわれわれのぶどう酒を半分そそいでやらなければならなかったにしても」
「しかし」とトリマルキオはいった。「食事にはなにが出たのかね?」
「それができれば申し上げるのですが」とかれは答える。「私の記憶力というのはときどき自分自身の名前さえ忘れる始末ですから。しかし、まず第一に杯を冠のようにかぶった豚が出されました。これは蜜菓子と非常にたくみにつくられた鶏の内臓とで飾られていました。もちろんそのつぎは砂糖大根の根で、それからまじりけのない黒パンが出ました。私はといえば白いほうが好きです。そのほうが力がつきますし、腸のためによろしい。つぎの皿はイスパニヤの上等なぶどう酒を温かい蜜の上にそそいだものと、冷たいタルトでした。タルトといえばじっさい、私はあまりたくさん食べて、蜜浸しになってしまったくらいです。それからエンドウと羽団扇《はうちわ》豆と木の実のなかの好きなものとりんごが一個ずつ出ました。私は二つとって、ごらんなさい、このナプキンのなかに包んで持ってきました。家にいる少年奴隷に何にもみやげを持っていかなかったりすると大騒ぎになりますからな。そうだ、思い出しましたが、添え皿の上には熊の肉がありました。スキンティラはそれをうかつにも食べたものだから、危うく口に入れた物を吐いてしまうところでした。私にはかえって、普通の野猪のような味でしたから、一リーブラ以上も食べてしまいました。私にいわせれば、もし熊が人間を食うなら、人間には熊を食うそれ以上の権利があるのではないかと思う。最後に新しいぶどう酒にとかしたチーズと各自にかたつむりと豚の小腸と小皿にのせた肝臓と帽子をかぶった卵とかぶやからしや、汚い臭い小料理が出ました。いやもうたくさんだ! それから塩漬けのオリーヴの実が皿にのせてずっと廻されましたが、貪食なやつらは三つかみもとりました。しかしガイウスよ、フォルトゥナタはなぜ席におられないか教えてください」
「きみは家内のことをあまり知らないのだね」
とトリマルキオはいった。「家内は銀皿を一まとめにして、残り物を奴隷たちに配ってしまうまでは、水一滴も口に入れないのだ」
「それならば」とハビンナスは答えた。「奥さまが食卓につかない以上、私も席をはずしましょう」そしてかれがちょうど立ち上がろうとしたとき、主人の合図によってすべての奴隷は「フォルトゥナタ! フォルトゥナタ!」と四度以上もくり返して叫んだ。そこで彼女は黄色の帯を締め、桜色の下着《トウニカ》を下からのぞかせ、それから編んだ足輪と黄金で刺繍した白靴をはいて入ってきた。首の周囲に巻いていたハンカチで手を拭くと、ハビンナスの妻スキンティラの掛けている臥台に席を占め、彼女の手を叩きながら接吻していった。
「ほんとにまあ、あなたにお目にかかれて!」
それからフォルトゥナタは彼女の肥えた腕から腕輪をはずして、賞讃しているスキンティラに見せびらかしたりした。そしてついには足輪や彼女が純金製だといっている髪網《ヘアネツト》まで脱いでみせた。トリマルキオはこれを眺めて、みんなこっちへ持ってきなさいと命じた。
「見たまえ、女の足枷《あしかせ》を」とかれはいった。「いかにわれわれ馬鹿者がかすめとられているかがわかるでしょう。六ポンドゥス半リーブラもあるに相違ない。しかし私は自分ではメルクリウスに当然払うべき収入の千分の一で十ポンドゥスもする腕輪を買いました」
ついにかれはうそではないことを示すために秤《はかり》を取り寄せて、その重さをわれわれが認めるように持って廻らせた。スキンティラもまたよくなかった。彼女は幸運の函と呼んでいる小さな黄金の函を首からはずして、そのなかから二つの耳輪を取り出し、こんどはフォルトゥナタに眺めるように手渡した。
「夫の親切には感謝していますわ、これ以上のものはどなたも持っていないでしょう」
「なに?」とハビンナスはいった。「このガラス玉を買ってやるまではさんざん私を悩ませたくせに。じっさいもしも私に娘があったら、そいつの耳を切り落してやるよ。女さえいなかったら、なんだって二束三文で手に入るのだが。ところがそうでないから、われわれは温かい湯を沸かしてやって、冷たい水を飲ませてもらうのだ」
とかくするうちにほろ酔い機嫌の二人の女はたがいに笑いくずれて、酔ったまぎれの接吻をとり交わした。一人は世話女房としての節約を、もう一人は夫の愛情や浪費についてしゃべり散らしながら。二人がこのようにうちとけ合っているあいだに、ハビンナスはそっと起き上がってフォルトゥナタの足をつかんで臥台の上に転がした。
「あら! まあ!」と彼女は叫んだ。下着《トウニカ》は膝の上までまくれ上がった。すると彼女はスキンティラの胸によりすがって、燃えるように赤い顔をハンカチのなかに隠した。
小憩後、トリマルキオはデザート〔ラテン語ではデザートのことを「第二の食卓」という。トリマルキオはしゃれて文字通り第二の食卓を運び込ませた〕を出すように命じた。そこで奴隷たちは食卓をすべて運び去って、他のものを持ってきた。そしてサフラン色と朱色に着色した鋸くずと、今までみたこともない雲母《うんも》の粉とを床の上に撒き散らした。するとさっそくトリマルキオはいった。
「私としてはこの献立だけでほんとうに満足してもよいのだ。なぜならあなた方は第二の食卓につかれましたからね。けれども、もしなにかおよろしいものがありましたら、お取りください」
そうしている間にアレクサンドリアからきた少年奴隷が、熱い湯を配りながらナイチンゲールのまねをはじめた。トリマルキオはこれに対して、「調子を変えろ!」と叫んだ。するともう一つの冗談がはじまった。それはハビンナスの足もとに坐っていた一人の奴隷が、主人に命ぜられたのであろう、とつぜん甲高い声で叫びはじめたのである。
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「いまアエネアスは海のまんなかまで、かれの艦隊をひきいて進み……」
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ぼくの耳をいままでこれよりも鋭い声がつらぬいたことはない。かれはその声を高めたり、低めたりするのに野蛮な間違いをやるばかりでなく、そのなかにアテラナの詩をまぜたので、ぼくは生まれてはじめてウェルギリウスに悩まされたのである。しかし、かれがついに歌い終えるや否や、ハビンナスはこれに喝采していった。
「あいつは学校へ行ったこともないけれども、私がある香具師《やし》のもとへ送って教育したのです。ですから騾馬《らば》追いや香具師のまねをやらせればあいつに匹敵するものは一人もありません。あいつはおそろしいほど利口です。靴直しもやれば、料理もし、パンも焼けるというあらゆる才能のある奴隷です。けれども二つ欠点がある。それさえなかったなら完全な奴隷になるのですが。それはあいつが割礼を受けていることと、いびきをかくことです。あいつが斜視であることなど私はいっこう気にかけません。女神ウェヌスにだってそのくらいのきずはあります〔オウィディウス『アルス・アマトリア』にもウェヌスが斜視だとある。ウェヌスはいわゆる恋愛の神ヴィナス〕。こういう次第であいつには沈黙していることができず、また目を閉じていることもほとんどないのです。私はあいつを三百デナリで買いました」
スキンティラはかれの言葉をさえぎっていった。
「確かにあなたはこのたちの悪い奴隷の手くだのすべてはお話しになりませんね。あいつは女たらしです。いれずみ〔奴隷に対する規定の懲罰、すなわち不名誉のしるしとして皮膚にいれずみあるいは恪印を押された〕されているということを私は注意しましょう」
トリマルキオは笑っていった。
「私はカッパドキア人だと思っている。かれはどんな機会でも逃さないだろうが、ヘルクレスにかけてもかれを讃《ほ》めましょう。何びとといえども死んでしまった人には慰めを与えることはできないからね。だからスキンティラよ、どうか嫉《や》かないでください。私のいうことを信じなさい。われわれはあなた方女性なるものを理解しているつもりだ。私はまだ血気盛りの頃は、主人が疑いをいだくほど、女主人にくちばしをいれるのがつねでした。そこでかれは私を田舎にある土地の管理人に追放してしまったのです。――しかしお黙り、私の舌よ。そうすればパンをあげるから」
その無能な奴隷はほめられたものと思ったのか、懐中から粘土のランプをとり出して、半時間以上もラッパ吹きのまねをして見せた。ハビンナスは下唇を引っ張りながらかれといっしょに歌った。そしてついにかれは部屋の中央にまで出て行って、笛吹きのまねをして蘆笛《あしぶえ》をいじったり、外套と鞭とで騾馬追いのまねをしてみせたりした。そこでハビンナスはかれを呼んで接吻してやった。そしてぶどう酒を与えていった。「いつもより上出来だったぞマッサ、おまえには半靴をやろう」
もしこのとき、乾ぶどうとくるみとを詰めた捏粉《ねりこ》製のつぐみがデザートとして運ばれてこなかったなら、われわれの困惑は容易に終わらなかったであろう。つづいてウニに似せてつくった一面にとげをさしたマルメロの実が出された。これだけならまだ我慢ができるが、さらにもっと異様な料理が運ばれてきたので、ぼくらはそれに触れるくらいなら餓死したほうがましだと思った。あらゆる鳥や魚を周囲にならべた肥えた鵞鳥のように思えるものが出ると、トリマルキオはいった。
「諸君がここに見られるものは、すべて一つの材料から出来ているのです」ぼくはいつもの機敏さで、ただちにそれがなんで出来ているかを知ったので、アガメムノンに振り向いていった。
「もしこれらのものすべてが汚物か、あるいは少なくとも泥でつくられていたところで驚きはしません。ぼくはローマのサトゥルナリア祭のとき、このような模擬料理を見たことがあります」
ぼくが語り終えないうちにトリマルキオはいった。
「私はもっと大きくなりたいので――図体ではない、財産がですよ――料理人にすべてのものを一匹の豚からつくらせました。かれ以上に価値あるやつはおりますまい。お望みとあらば、牝豚の子宮で魚を、その脂で斑鳩《いかるが》を、腿肉で山鳩を、後脚で鶏をつくらせておめにかけよう。ですからかれにダエダルスというようなりっぱな名前をつけることを思いついた次第です。それくらい利口なやつですから、私は贈り物としてノリクム〔ドナウ何とアルプスとのあいだにある鉄と鋼鉄との産地〕の鋼鉄でつくったナイフをローマから持ってきてやりました」
かれはただちにそのナイフを持って入ってきて、それを吟味したり、賞めたり、またぼくらの頬にあてて刃の鋭さをためしてみることまでも許してくれた。
とつぜん、まるで溜池のなかで喧嘩をしてきたような二人の奴隷が入ってきた。とにかくかれらはまだ首のあたりまで水滴をつけていた。トリマルキオはかれらの喧嘩を裁こうとしたが、どちらもその判決には服しようとしないで、たがいに棍棒で相手の水がめを打ちくだいてしまった。かれらの少し酔っている無礼さに驚かされたが、喧嘩をしているのをよくよく見ていると、牡蠣《かき》とほたて貝とが水がめからこぼれ落ちるのに気がついた。すると他の一人の奴隷がそれを拾って、皿の上に並べるのであった。あの賢い料理人がこの風流事の相手だったのだ。かれは銀の焜炉の上にカタツムリをのせてぼくらに出した。そしておそろしく不愉快なふるえ声で唄を歌うのであった。ぼくはつづいて何ごとが起こったかを語るのが恥かしい。慣習をまったく無視して、幾人かの毛髪の長い少年奴隷たちが銀の盆に軟膏《コスメチツク》を入れて持って来て、横たわっているぼくらの足やくるぶしに花輪を巻きつけたのち、足に油を塗ってくれた。それから同じ軟膏がたくさん酒がめとランプのなかにそそぎ込まれた。フォルトゥナタはいまやしきりに踊りたがっていた。スキンティラはしゃべることよりも手を叩くことに余念がなかった。そのときトリマルキオはいった。
「ピラルギュルスよ、それからカリオよ、おまえたちは緑党〔戦車競走をする選手の緑組〕の後援者だが、食卓につくことを許してあげよう。それからメノピラよ、おまえの配偶にも食卓につくようにいいつけなさい」
するとたちまち食堂には奴隷たちが押しよせてきて、危うくぼくらは臥台から追い出されるところであった。とにかく、豚から鵞鳥をつくった料理人が、漬け物の汁やソースの悪臭を放ちながらぼくのすぐ上席を占めたのに気づいた。かれは席についただけでは満足せずに、ただちに悲劇役者エペススのまねをはじめた。それからすぐに主人につぎの競技には緑党が優勝するかどうかという賭けを申し込んだ。トリマルキオはこの論争に元気づいていった。
「諸君、奴隷だって人間だ。残酷な運命に踏みつぶされたとはいえ、われわれと同様に母親の乳を吸って育ったものです。やがてかれらにも自由の水が味わえるであろう。それも私の生きてるうちにです。要するに私の遺言のなかで、かれらをみんな自由の身にしようとしています。ピラルギュルスには土地と配偶の女を、カリオには長屋一棟と解放されるとき支払わなければならない五パーセントの金と寝床と夜具とを譲ろうと思っている。相続人にはフォルトゥナタを指名しておきますから、すべての友人諸君には彼女のことをよろしく頼みます。私は自分がすでに死んでしまったときと同様に、いまも奴隷たちに愛されたいのでこのことをことごとく公表しておこう」
かれらはみんな主人の親切に感謝しはじめた。するとかれは真面目になって遺言の写しを取り寄せ、奴隷たちの哀哭《あいこく》するうちに初めから終りまで大声で読み上げた。それからかれはハビンナスにむかっていった。
「親愛な友よ、どう思う? 私が指定しておいたような記念碑を建ててくれますか? 私の像の周囲には、きみの親切で思い出が死後も滅びないように、小犬と花輪と香料函と剣闘士ペトライテスのあらゆる争闘の図を描き出してくれることを心から希望する。それからこの墓は前面が百尺、奥行きが二百尺あることを望んでいる。なぜなら私は自分の周囲にあらゆる果樹が育ち、ぶどうがたくさん実ることを願っているから。人が生きているあいだは住む家を飾りながら、もっと長いあいだ住まなければならない墓に関していっこう心を悩まさないのはまったく誤っていると思う。ですからこの記述だけは是非ともつけ加えておいてください。
この墓は余の相続人に伝えず
遺骸が傷つけられるのを防ぐため、私は遺言のなかで十分の注意を払いましょう。解放奴隷の一人を有象無象《うぞうむぞう》が私の墓に駆けあがって汚したりしないように埋葬所の見張人にしておこう。墓の上には満帆の船と高官服を着て、五つの金の指輪をはめ、大勢の前で袋のなかから金を配りながら法官席に坐っている私を彫ることを願います。私がかつて一人あたり二デナリの公開の晩餐をやったことを記憶しているでしょうね。またよろしかったら食堂と多くの人々がそこで愉快に楽しんでいるところを彫りつけてください。私の右手には私のフォルトゥナタが鳩を持ち、帯に結ばれた小犬を曳いている像を、また私の寵愛の少年とぶどう酒がこぼれないように石膏で封じたたくさん入るかめとをつけてください。それから破れたかめに少年がよりかかって泣いているところを。また中央には日時計をつけて、時を知ろうとする者は否応なしに私の名が読めるようにしてください。ではこの碑文が適当なものであるかどうか慎重に考えてみて欲しい。
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マエケナスの解放奴隷ガイウス・ポムペイウス・トリマルキオここに横たわる。アウグストゥスの司祭職を不在中贈られ、ローマにおけるいかなる組合委員《デクーリア》にもなり得たるもそれを拒絶す。神を恐れ、勇敢で、信頼すべき人物にて、哲学者にはけっして耳をかさざりしが、無一文より身を起こし三千万セステルティを遺す。トリマルキオよ、さらば、通行人よ、なんじもまたさらば」
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こういい終えるとトリマルキオはさめざめと泣きはじめた。フォルトゥナタも泣きハビンナスも泣いた。それからすべての奴隷もまるで葬式の参列者のように泣いて、食堂を慟哭《どうこく》の声で充たした。じっさい、ぼくも大声で泣き出そうとしたときトリマルキオがいった。
「よし、よし、われわれが死ななければならないと知っているなら、なぜ命あるあいだだけでも楽しくしないのだろう? 諸君を愉快にさせてあげたいから、風呂にでも入ろうではありませんか。けっして後悔はされないことを保証します。炉のように温かくしてありますから」
「ほんとうですとも、ほんとうですとも」とハビンナスがいった。一日を二日にすることは私にとってこのうえもない喜びです」〔入浴は食事の前にするので、また風呂に入らないかと誘われたことはまたつぎに食事があることになる。一日に二度正餐をとることはすなわち一日を二日にすることになる〕そしてかれは素足で起きあがり、手を叩きながら出て行くトリマルキオのあとにしたがった。
ぼくはアスキュルトスを眺めていった。
「きみはどう思う? ぼくは風呂など見ただけで死にそうだ」
「そうとも」とかれは答えた。
「だからかれらが風呂に入っているどさくさまぎれにこっそり逃げ出そう」これには賛成だった。ギトンがぼくらを廊下を通り抜けて入口まで案内したが、そこには鎖につながれた犬がいて、ものすごい吠え声でぼくらを迎えてくれたので、ついにアスキュルトスは溜池のなかへ落ち込んでしまった。ぼくはといえばこれまた絵に描いた犬にさえ驚かされたくらいだし、そのうえまた酔っていたので、泳ごうともがいているかれを助けようとしている間に、同じ深淵《しんえん》にはまってしまった。しかし執事が仲に立って犬をしずめ、ぼくらを助けて乾いた地上に引き上げてくれた。ギトンは少しまえにこの犬に非常にずるい方法で身代金《みのしろきん》を出していたのだった。吠えられたさい、宴会でぼくがかれにやったものをすべて投げ出してしまったので、この食物をやったことが犬の怒りをしずめたのであった。しかしぼくらは寒かったので、とにかく扉の外に出してくれるように執事に熱心に乞うてみたが、かれは答えた。
「もしあなた方が入って来た扉から出られるものと思っていたらそれは間違いですぞ。どんな客人もいまだかつて同じ扉から送り出されたことはありません。一方から入れば、かならず他方から出てゆくのです」
こんなみじめな状態で、ぼくらは一つの新しい迷宮にとじ込められてしまったので、風呂にでも入りたいと思うより仕方がなかった。そこでこんどは浴場へ案内してくれるように頼んだ。そして着物を脱ぐとギトンが入口で乾かしはじめたのでぼくらは風呂に入った。そこは冷水槽のような狭い場所だった。そしてトリマルキオはそのなかにまっすぐに立っていた。ぼくらはここでさえもかれの胸が悪くなるような自慢話から逃れることができなかった。かれは雑沓を離れて入浴するくらいよいものはないといった。そして昔はちょうどここにパン焼き場があったと話した。それからかれは疲労を感じて腰を下ろすと、浴室の反響に誘われて、天井にむかってほろ酔いの口を開くとメネクラテス〔エペソスの詩人。ネロはとくにかれを愛好したという〕の歌を――かれがいったことを理解できたものが私に話してくれたところによれば――引き裂きはじめた。他の客たちは手をつないで、あらん限りの笑い声を鳴りひびかせながら風呂のふちを走り廻った。またある者は自分の手を背中で結んで床の上から指輪を拾い上げようとしたり、あるいはひざまずいてうしろにそり返って自分の足指の先に触れようとする者もあった。人々が喜戯しているあいだに、トリマルキオのために熱くしてあった浴槽のなかに入っていった。
こうして酒気をふるい落してからぼくらは他の食堂へ案内された。そこではフォルトゥナタがすでに彼女自身のすばらしいご馳走を拡げていた。青銅の漁夫の小像をつけた食卓の上にかかっているランプや、純銀の卓や、周囲に黄金を塗った陶器や、目の前で漉《こ》してそそがれたぶどう酒などにぼくは目を見張った。するとトリマルキオがいった。
「諸君、私の奴隷の一人が今日最初のひげを剃《そ》りました。神よ、禍いをそらしたまえ!〔ローマ人が他人を賞めたために不幸がないように祈る挿句である〕かれは、非常に注意ぶかい節約家です。ですから大いに飲んで夜が明けるまで祝宴をつづけましょう」
かれが話している最中に雄鶏がときをつくった〔とつぜん雄鶏がときをつくることは不吉な前兆と考えられた。ぶどう酒をこぼしたり指輪をはめ代えたりするのも不吉を逃れるため神に祈る迷信である〕。その騒音にトリマルキオは狼狽して、ぶどう酒を食卓の下にこぼすように命令し、またランプにまで振りかけさせた。そのうえ右手に指輪をはめ代えて、こういった。
「理由もないのにあの鶏のラッパ手が合図をするはずはない。火事でもおこったか、あるいは近所でだれかが死にかかっているのでしょう。われわれを救いたまえ! なんの前兆なのか私に知らせてくれるものにはほうびをあげよう」
かれが語り終えるか終えないうちに、その雄鶏は近くのどこからか捕えられてきた。するとトリマルキオは殺して鍋に入れて料理してしまえと命じた。そこで先刻豚で鳥や魚をこしらえた腕利きの料理人によって切り裂かれて料理鍋のなかへ投げこまれた。ダエダルスが湯を煮立てるあいだにフォルトゥナタは黄楊《つげ》の磨《す》り臼《うす》で胡椒を挽《ひ》いた。
この珍味を食べ終えると、トリマルキオは奴隷一同にむかっていった。
「なぜまだ食事をすまさないのか? おまえたちはさがって他の者に代わらせるがよい」そこで他の一組が入ってきた。そして前の組は「ガイウス、ご機嫌よろしゅう!」今度の組は、「ガイウス、万歳!」と叫んだ。このときぼくらの歓楽が最初にさまたげられる事件がおこった。それは新しい給仕人といっしょにどちらかといえば顔のきれいな少年奴隷が入ってきたが、トリマルキオはかれを見ると長いあいだにこれに接吻したのであった。そこでフォルトゥナタは彼女の法律上の権利を主張するためにトリマルキオをののしりはじめ、欲望を制することのできない下劣な恥知らずだと叫び、最後には、「犬め!」とさえつけ加えた。トリマルキオは彼女の罵声に立腹して杯を顔に投げつけた。彼女はまるで目でもつぶされたかのように絶叫して、ふるえる手で顔をおおった。スキンティラもまた驚いて、おののきふるえている彼女を胸のなかにかくまった。おせっかいな一人の奴隷がフォルトゥナタの頬に冷水の入った水差しをあてがうと、彼女はその上にうなだれて、吐息をついたり、すすり泣いたりしはじめた。しかしトリマルキオはいった。
「いったいどうしたというんだ? この歌い女〔音楽や売春を職業としたシリアから来た女〕には記憶力というものがないのか? 私はおまえを奴隷市場の台の上から買いとって、われわれと対等な人間にしてやったのだ。しかるにいまは寓話のなかの蛙のように尊大ぶって、自分の胸につばも吐かない〔これも不吉を避けるためのタブー〕。でくのぼうだ。女じゃない。もしおまえがあばら家で生まれていたら、宮殿の夢を見ることすらできなかっただろうに。しかし私は保護神の恩寵を受けたいから、この兵士の長靴をはいたカッサンドラ〔トロイアの没落を予言したトロイアの女予言者。野蛮な恥知らずな女の意〕を屈服させてみよう。そして私はといえば愚かな人間ではあったが、千万セステルティと結婚したかもしれなかったのだ! 私がうそをいっているのではないことはおまえだって知っているだろう。隣の金持の女に雇われていた香料商のアガトが私を呼びとめてこういったことがあった。『あなたの子孫を絶やさないように忠告しますよ』と。しかし私はお人好しだったし、軽薄な男のように見られたくなかったので、おまえに操を立てたのだ。いいとも、私の愛を得るためにおまえが爪で墓の中の私をふたたび掘り出すのを望むようにしてやろう。しかしおまえがおまえ自身に何をしたかということをすぐわからせてやる。ハビンナスよ、私の墓の上に彼女の像などはいっさいつけてはくださるな。さもないと死んでしまってからも向っ腹を立てられます。そして私がどんなに罰を与えられるかを知らせてやるため、私が死んだときでさえも接吻を許すまい」
この落雷が終わると、ハビンナスはその怒りをやわらげるように懇願しはじめた。
「だれにでも欠点はあるものです。われわれは人間であって、神様ではないのですから」
スキンティラも涙を流しながら同様なことをいって、かれをガイウスよと呼びかけ、その保護神の名において気をしずめるように乞うた。トリマルキオはもはや涙を制することができず、つぎのように叫んだ。
「ハビンナスよ、きみはきみの財産を享楽しようと望んでいるのだから、もしなにか私が悪いことをしたら、どうか私の顔につばをかけてくれ。私があの倹約家の少年に接吻したのは、かれが美少年だからではない。いかにもつましいからだ。かれは割算することもできるし、見るや否や書物を読むこともでき、月々の賃銀で一揃いのトラキアの甲冑《かつちゆう》も買ったし、自分の金で長椅子と小柄杓《こびしやく》も買いました。かれが私の掌中の玉に値しないとでもいうのだろうか? しかしフォルトゥナタは反対でしょう。それがおまえの考えです。千鳥足の女め! 私はおまえがしたことをよく考えて見るように忠告する。この鳶《とんび》め! けれども私の可愛い女よ、私を腹立たせるな、さもないと私の怒りを思い知らせてやるぞ。おまえも知っているように、私が一度決心すれば、釘づけにした板のように動かすことはできないのだ。
しかしながら生命あることを忘れないように、どうか、諸君、愉快にしてください。私はかつては現在の諸君のようなものでありましたが、私自身の手腕でこのような私になれたのです。人間をつくるものは細心であることです。他のすべてはくずにすぎません、『うまく買って、うまく売れ』他の人々はこれとちがったことを申されるかもしれませんが。私は幸福で燃えています。なに、まだ泣いているのか? このいびきかきめ! 泣くに価する目にあわせてやるから用心しなさい。しかし私がちょうどお話ししようとしたように、この幸福をもたらしたものは私の節制心です。アジアから来たとき、私はこのろうそく台と同じ背だった。じっさい、私は毎日それで自分の丈《たけ》を計ってみるのがつねでした。そして口ひげができるだけ早く生えるようにランプの油を唇に塗ったものだった。だが私は十四年間主人のお気に入りでした。主人のいわれたとおりにするのになんの恥がありましょう。そのうえ私は女主人をも満足させました。諸君は私の意味するところはよくご存じでしょうからこれ以上申し上げますまい。私はうぬぼれたりしたくありませんから。それから神々の思召しによって、その家の実際上の支配者になりました。そしてごらんなさい、主人の小さな頭脳を私の手中におさめた。要するに私を皇帝《カエサル》とともにかれの共同相続人にしたのです。そして私は元老院議員ほどの遺産を譲り受けた。しかし人間というものはどれほど持っていても満足するものではない。私は事業を熱望していた。諸君を退屈させないように簡単に申します、五隻の船を建造して、ぶどう酒を積み込み――その頃はちょうど黄金の重さに価していましたが――ローマに送りました。諸君はこしらえごとと思うかもしれませんが、それはことごとく難破してしまった。実際のことです、おとぎ話ではありません。一日に海神ネプトゥヌスが三千万セステルティをひと呑みにしてしまったのだ。それで私が降参してしまったとでも思いますか? いや、ヘルクレスに誓って、その損失は私の欲望を刺激したにすぎなかった。何ごともなかったように、私はさらに大きな、もっと幸運をもたらすような船を建造した。だれ一人私が勇敢な男でないとはいえないように。大きな船ほど堅固だということをご存じでしょう。私はふたたびぶどう酒やベーコンや豆、香料、奴隷などを積み込んだ。そのときフォルトゥナタは見上げた行為をしてくれました。彼女は宝石と衣類とをすべて売り払って、金貨百枚を私の手に渡してくれました。それが私の財産の酵母《こうぼ》になり、やがて神の望まれていたことがおこって、私は一航海で一千万セステルティの純益をあげました。私はただちに旧主人の所有していたすべての土地を買い戻し、家を建てて奴隷と家畜を買いましたが、それからは私の触れるものはことごとく蜜蜂の巣のようにふえていった。私が国庫の全収入よりも多く所有するようになったとき、帳簿を片づけて、大規模な事業から引退し、解放奴隷に金を貸すことをはじめました。それはちょうど事業をつづけてゆくのがいやになっていたとき、たまたまこの町《コロニア》に来たセラパと呼ぶ小さなギリシア人で神々の秘密を知っている占星家にすすめられたからです。かれは私がまったく忘れてしまっていることをごくはじめからすらすらと説明しながら話してくれた。そしてただ前日私が食べたものをいい当てるときは的中しなかったけれども、しじゅう私といっしょに暮らしていたのかと思うくらいだった。
ハビンナスよ、きみはおぼえているかね――きみはそのときそこにいたように思うが――かれはこういいました。『あなたは配偶者をどこからか連れてきた。あなたは友人運には恵まれていない。あなたが受けるに価するほど何びともあなたに感謝していない。あなたは広大な土地を持っています。またあなたは腋の下に毒蛇を養っています』と。そしてこれは口外してはならないのだけれども、今日でさえなお私には三十年四カ月十二日の寿命が残されているのです。そのうえやがて私はもう一つの遺産を譲り受けるでしょう。そのように神の託宣が私に告げているのです。もし私の領地をアプリア〔南伊カラブリアの北〕までひろげることさえできたら、私の生涯は満足するところまでゆけたことになります。とかくするうち、メルクリウスが見まもっていてくれるあいだに私はこの家を建てた。きみも知っているように小さな小屋だったのが、いまは寺院ほどもある。食堂が四つ、寝室が二十、大理石の柱廊が二つ、それから二階の食堂と、私自身が寝る寝室とこの毒蛇《かない》の居間とりっぱな門番小屋とがある。また来客用の空室も十分あります。じっさい、友人のスカウルスがこちらへやって来たときも滞在するのにここ以上気に入った場所はなかったほどだったし、海辺にかれの父親の邸を買ってやったぐらいだ。まだ諸君にすぐ示すことのできるものはたくさんあるけれども、私のいうことは信じなさい。一アス持っていれば、一アスだけの価値があることになるので、人間はその所有しているものによって価値づけられるものなのです。だからかつては蛙であったきみの友人が王様になっている。とにかくスティックスよ、私が葬られようとする経帷子《きようかたびら》と軟膏と私の屍にそそぐためのかめから一口のぶどう酒を持ってきてくれ」
するとさっそくスティックスは白い屍衣《しい》と高官服《プラエテクスタ》とを食堂に持って入ってきた。そしてトリマルキオはぼくらにそれがりっぱな羊毛でできているように感じられるかどうかをたずねた。
それからかれは少し笑いながらいった。
「スティックスよ、二十日鼠や≪しみ≫に食われないように気をつけなさい。さもないとおまえを生きたまま焼いてしまうぞ。すべての人々が私の幸福を祈ってくれるよう、私は盛大に葬られたいのだ」
ただちにかれは甘松香のびんの栓を開け、ぼくら一同に塗ってくれた。そしていった。「私は生きているときのように死んでからもこの香が好きでいたい」
この後でかれは杯にぶどう酒を注がせて、「諸君は私の葬式に招かれているものと想像されたい」といった。
いっさいが嘔吐をもよおさせるようになってきた。だれよりも愛想がつきるほど酔っぱらってしまったトリマルキオが、新しい遊びを命じたとき、幾人かのラッパ吹きが食堂に入ってきた。するとかれはたくさんの枕の上によりかかってから、自分の床の端の上に長々とねそべった。
「私が死んだものと想像して」とかれはいった。「なにか面白い曲をやってくれ」
ラッパ吹きは葬式の曲を高らかに吹き出した。とくにその仲間のなかでもっとも忠実な奴隷の葬儀人は近所じゅうの目をさましてしまうほどものすごく吹いたので、近くの街を巡察していた夜警はトリマルキオの邸宅が火事なのかと思い、とつぜん扉を押し破り水と斧《おの》とを持ってとび込んできて、その職務を果たすための騒動をひき起こした。ぼくらはこの絶好な機会をとらえて、アガメムノンにふたことみこと声をかけてから、まるでほんものの火事から逃げ出すように、すばやく逃げ去った。
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第三部
宿にて
ぼくらがさまよい出た道を導いてくれる松明《たいまつ》もなければ、もう真夜中でひっそりとしていて、灯火を持っているだれかに出会う見込みもまずなかった。そのうえ、ぼくらは酒に酔っていたし、このあたりにはいっこう不案内なので、日中であっても途方にくれたろう。そこで谷に転がっている小石やびんの破片などの上をまる一時間も血のしたたる足を曳きずっていったのちに、ようやくギトンの機知で道がはっきりした。この用心ぶかい少年は真昼でさえ道に迷うのを心配していたので、白墨であらゆる柱や円柱に目印をつけておいたのであった。これらの目印はまっ暗闇でも目に見えたし、夜目にも目立つその白さはぼくらの見失った道をはっきりと指し示してくれた。けれど宿にたどりついたときでさえ、ぼくらの苦境はまだ軽減されなかった。老婆がお客たちと長いあいだ鯨飲《げいいん》していて、たとえ燃えている火を近づけても気づかないほどであった。もしトリマルキオの急使がすばらしい十台の荷車で来合わせなかったならば、ぼくらはおそらく戸口の階段の上で夜明かしをしなければならなかったろう。ほんのしばらくのあいだ乱暴な音を立ててから、かれは扉を打ち壊すと、そこからぼくらを屋内に入れてくれた。……
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神々と女神たちよ、それはなんという夜だったことよ!
寝台はなんと柔かかったことよ!
ぼくらは熱烈に抱擁し、それから接吻して、
ぼくらの無我夢中の魂を交わし合ったのだ。
この世の煩《わずら》いよ、さらばよ、
かくてぼくの破滅がはじまった!
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ぼくが悦に入ったのは早計であった。というのはぼくがぶどう酒に酔っぱらって、ぶるぶるふるえる両手をゆるめるや否や、ありとあらゆる意地悪を思いつくアスキュルトスが少年を暗闇につれ去ってかれの寝台に移し、そして自分のものでもない弟となんの気兼ねもなく身を横たえたのであった。そしてギトンはあざむかれていることに気がつかないのか、それとも気づかないふりをしているのか、人間の義務を忘れて、他人の抱擁のなかに眠り込んでしまった。だからぼくが目をさまして寝台を手さぐりしてみると、快楽のたねはすでに盗み去られていた。……もし恋人たちになんらかの信用がおけるものならば! ぼくは二人もろとも剣をつきとおして、かれらの眠りをけっしてさめないものにしてやりたいとさえ思った。けれどももっと安全な考えにしたがって、ギトンを叩き起こし、いっぽうアスキュルトスにはいかめしい顔を向けていってやった。
「きみは卑怯にもぼくらの誓約と友情とを破ったのだから、いますぐにきみの荷物を片づけて、けがすなら他の場所を探しにゆきたまえ」これに対してかれは反抗しなかったが、ぼくらの盗品を売った金を、几帳面な正確さで分割してあとでこういった。「さて、この少年も分け合わなければね」
ぼくはお別れの冗談だと思った。けれどもかれは人殺しもしかねない剣幕で、剣を引き抜くといった。
「きみが抱き込んでいるこの獲物は、きみ一人には楽しませないよ。ぼくは拒まれたが、この剣を使っても自分の分け前は切りとらなければならないのだ」
そこでぼくも相手のするとおりに、外套《パツリウム》で腕を包み戦闘準備をととのえた。この愚かな気違い沙汰の最中に、憐れな少年はぼくらの膝にとりすがって、こんな木賃宿で二人のテーバイ人の悲劇〔オイディプス王の二人の息子エテオクレスとポリュネイケスとの決闘をさす。オイディプスは父を親として知らず殺し、また母を知らずして妃としたが、事実を知ってみずから目をえぐりとり二人の男子に呪いをかけて放浪の旅に出る。ポリュネイケスはエテオクレスに追放され、アルゴスに赴いて兵を集め六人の領袖とともにテーバイを攻める。二人の兄弟は城門の外で刺し違えて斃れた〕をくり返したり、おたがいの血で美しい友情の聖堂をけがしたりしないようにと、涙ながら哀願した。
「もしあなた方があくまで罪を犯そうというのでしたら、さあ、私のはだかののどを見てください」とかれは叫んだ。「あなた方の手をこちらに向けてその切先を突き刺してください。友情の誓いを破った私こそ、死ぬのが当然なんです」
ぼくらはかれの懇願で剣をおさめた。するとアスキュルトスがまず口を開いた。
「ぼくがこの喧嘩に結末をつけよう。とにかくこの子に兄弟となるものを自由に選びうるように、この子が好きなほうに伴させてやろうじゃないか」
ぼくとしては長いあいだつづいた親密さが血がつながっているも同然になっていると思いこんでいたので、なんの懸念《けねん》もなく、この取りきめを大急ぎで受諾した。そしてこの論争を審判者《ギトン》にまかせた。ギトンは思案もしなければ躊躇するようすもなく、ぼくの言葉が終わるや否や起き上がって、自分の兄弟としてアスキェルトスを選んでしまった。この判決にぼくはびっくりして、そのまま剣も持たずに寝台の上に倒れた。もしぼくが敵の勝利をそねんでいなかったなら、この宣告をきいて自殺してしまったであろう。アスキュルトスはかれの獲物をつれ、しばらくまえまでは愛しており、その運命を共に分ってきたぼくという友人を、見知らぬ土地にただ一人見棄てて、意気揚々と出て行ってしまった。
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友情の名は利をともなうあいだのみ持続する、
碁盤の上の碁石は変わりやすい勝負をする。
幸運がとどまるあいだは、わが友たちよ、
きみらは好意を示してくれるが、
幸運がひとたび去るや、きみらは恥ずべき逃走をもって、顔をそむけてしまうのだ。
一座が舞台でファルスを演ずる、
一人は父親と呼ばれ、一人は息子と呼ばれ、
また一人は金持の名を持つ。
やがて滑稽な役割が一巻の書物のうちに閉じ込められると、
たちまち真実の顔が戻ってきて、扮装は消え去るのだ。……
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けれども、ぼくは悲嘆にくれているいとまもなかった。宿に一人でいるのを助教師メネラウスにみつけられて、さらに苦労を殖やすことを心配していたので、荷物をかき集め悲痛な気持で海に近い淋しい宿の一室を借りることにした。ぼくはそこに三日間閉じこもって、見棄られ、軽蔑されたという思いに絶えず心を悩まされていた。ぼくはすでに重なる打撃で疲れきっている胸をみずから叩いて深い呻き声を発し、いくたびとなく大声で叫んだりした。
「なぜ大地は口を開いてぼくを呑み込むことができなかったか? 罪なき者にも怒りを示すあの海にしてもそうではないか! 法網をのがれ、試合場をだまし、主人を殺してあれほど数々の大胆な評判をかちえたこのぼくが、乞食として、追放人としてギリシア町〔ネアポリス(現ナポリ)をさす。この町は元来ギリシア人の植民都市であった〕の宿のうちに見棄てられているのだ。いったいだれがぼくにこんな孤独をもたらしたのだ? その若者こそありとあらゆる色欲にけがされ、追放に価するとみずから認めており、姦淫によって解放され、姦淫によって自由の身となり、少年時代は最高の価をつける者に売られ、少年と思った人でさえ少女のように取り扱った。もう一人の相手はどうだ? 成年服の代りに女の衣裳をつけ、その母親からけっして大人になるなと説き伏せられた少年で、奴隷屯所〔奴隷が夜など休息する半ば地下室となっているところ。当然あらゆる種類の不倫がおこなわれた〕では女の役をしていたやつだ。破産して乱行の土地を変えたのちに古い友情の名を棄て去って、恥知らずにもたった一夜の取引きに街の娼婦のごとくすべてを売った。いまも愛人たちはたがいの胸に抱かれて夜じゅう横たわっている。そしてかれらが疲れ果てたとき、ぼくの孤独を嘲笑するにきまっている。しかし罰せられずにはすまないのだぞ。ぽくに加えた不法に対して、かれらの憎むべき血をもって復讐《ふくしゅう》しなかったなら、ぼくは男でもなければ、自由民でもない」
こういってぼくは剣を腰につけた。腕力が弱くて戦さに負けないように、十分な食事をとって元気をつけた。ぼくはすぐ戸外にとび出して、狂人のようにあらゆる柱廊を歩き廻った。獰猛《どうもう》な、狂乱した表情で血と殺戮《さつりく》以外にはなにも考えず、復讐に捧げた剣の柄に絶えず手をかけているぼくに、詐欺師か夜盗であったらしい一人の兵士が気づいてこういった。
「おい戦友、きみはどの軍団の、だれの百人隊の者なのか?」
ぼくは思いきって百人隊長と軍団に関するうそをいってのけた。するとかれはこういった。
「そうか、するときみの軍団の兵士は白靴をはいて歩き廻るのかね?」
ぼくの狼狽した表情はうそをついたことを露見させてしまったので、かれは武器を引き渡し罰せられないようによく注意するがよいとぼくに命じた。こうして武器を奪われ、復讐の手段までとりあげられてしまったので、宿に立ち戻ったが、ぼくの向うみずの勇気はしだいしだいに冷却して、あの追剥ぎのずうずうしさに感謝する気にさえなりはじめた。……
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哀れなタンタルスは水中に立ちながら、
水を飲むこともできなければ、
頭上に垂れ下がる果実を摘むこともできない。
かれ自身の欲望がかれを苦しめるのだ。
これらのことは偉大なる富者の表情とて同じならん、
あらゆるものを眼前にして、餓死を恐れ、渇した口で飢餓を忍ぶときには……
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運命《フォルトゥナ》の女神は彼女自身のやり方を持っているのだから思案に頼ることは必要でない……
ぼくは、さまざまな種類のすばらしい絵画がある陳列館にはいった。いまもって時の毀損が勝利をえていないゼウクシス〔ギリシアの有名な画家〕の作品をみた。また真実の表現に自然そのものと匹敵しているプロトゲネス〔前四世紀の終り頃ロードス島に住んでいたギリシアの画家〕の素描には、一種の戦慄を覚えずに接することができなかった。けれどもギリシア人が単彩画家と呼んでいるアペレス〔古代の最大の画家。コリントス、アテナイ及びマケドニアの宮廷で制作し、アレクサンドロス大王の愛顧を受け、数枚の肖像を描いた。輪郭の正確なことと色彩の単純であった点で賞讃された〕の作品に移ったとき、ぼくは心から崇拝してしまった。かれの人物の輪郭はきわめて巧みにありのままに描かれているので、その魂まで描き出していると思えたほどであったから。ここでは鷲が空高くイーダの牧人〔ガニュメデスのこと。美少年であったため、ユピテル神が鷲になって捕えて、イーダ山からつれて来、おのれの酌取り役とした〕を運び去っているかと思うと、あすこでは清浄無垢なヒュラス〔ヘラクレスの愛した小姓。アルゴー船で遠征したとき、キオスで水を取りにやられ、水精女《ナーイアス》たちに泉の中に引き込まれた〕がわずらわしい水精女《ナーイアス》を拒んでいた。アポロは罪を犯せるおのが手を呪って〔アポロはヒュアキントスという美少年を愛していたが、これを嫉妬した西風《ゼピュロス》はアポロの投げた円盤が故意にヒュアキントスに打ち当たるようにして殺してしまう。その流れた血から「ヒアシンス」の花が咲き出た〕、地に生じたばかりの花《ヒュアキントス》で弦をはずした竪琴《たてごと》を飾っていた。ぼくはこれらのただ絵に描かれているだけの恋人たちの肖像のあいだで、まるでひとりぼっちでいるように叫んだ。
「このように恋は神々さえ傷つけるのだ。天上のユピテルは好きな相手が見つからないので、罪を犯しに地上に下りてきたが、しかしだれにも害は与えなかった。ヒュラスを犯した水精女《ニュムパ》はもしヘルクレスが彼女の求めを差し止めにくると信じていたならば、熱情をおさえたであろうに。アポロは少年の亡霊を花に生き返らせたのだ。そしてあらゆる寓話は恋敵のいない抱擁を物語っている。けれどもぼくはリュクルグス〔スパルタの有名な立法家。苛酷な立法をもって知られた〕その人よりも薄情な友人を仲間にしているのだ」
役にも立たない煩悶をしていたとき、みよ、憂えげな表情で、なにかはわからないけれど、偉大なことを嘱望しているように思われる白髪の老人が、陳列館に入ってきた。けれどもその服装はみすぼらしかったので、この特徴によって、あの金持連中が嫌うのがつねである詩人であるということが一見して明瞭であった。かれはぼくのそばにやってきてこういった。……
「私は詩人である、そしてはばかりながら下劣な精神の人間ではない、もし感謝の念がその資格のない者にも与えがちな栄冠にも多少なりとも信用がおけるものである限りはね。『それならなぜそんなにみすぼらしい服装をしているのか?』とおたずねになるかもしれないが、それはまさにこういうわけだ、すなわち天才崇拝は何びとをもけっして富裕にしたことがないからだ。
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海洋に託する者は大いなる利子をもって富裕になり、
戦闘と戦陣とを求める者は黄金をまとい、
いやしきへつらい者は紫の臥台に酔いしれて横たわり、
人妻を誘惑する者はその犯す罪により金銭をかちうるも、
雄弁のみはボロをまといて寒気に打ちふるえ、
むなしき舌をもってなおざりにされし芸術を呼び求むなり。
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まったくそのとおりだ、もしあらゆる悪徳を嫌って人生の正道を踏み出す者があると、かれはまず第一にその素行が他人と相違するがゆえに忌み嫌われるのだ。何びとにおのれと異なるものを是認することができよう? つぎに富を蓄積することのみに気をもんでいる人は、自分たちの手中にあるものよりも、もっとよいと考えられるようなものは何一つ求めないのだ、そこでかれらは学問を愛好する人たちを金銭よりも劣ったものにみせるために、できるかぎりの方法で非難するのだ」
「どういうわけで貧乏が良識の妹なのかぼくにはどうもわかりませんね」……
「ぼくがつましくしているゆえにぼくを嫌っている男が、軽減されうるくらいな罪ならよいのですが。なにしろかれは老練な盗人であるし、どんな娼婦よりも利口なやつですから」……
「財務官《クワエストル》の部下の有給官吏としてアジアに赴任したとき、私はペルガムム〔小アジアのもっとも富裕な都市。芸術が重んぜられた〕のある家庭に下宿した。部屋がりっぱであったばかりでなく、主人の息子が美少年だったので、私にはこの住居が居心地よかった。私は家の主人から色魔であると疑われないように、つぎのような方法を工夫した。すなわち食卓での会話が美少年たちの弊風に言及するたびに、熱心に憤激して、私の耳を犯す淫らな言葉にはいかめしい苛酷な態度を示してみせたので、とくに母親からは哲学者の一人と見なされるようになったほどであった。間もなく少年を体育訓練所《ギュムナシウム》にいっしょにつれてゆけるようになった。かれの勉強を指図するものは私であったし、かれの行動を指導してどんな強姦者も家庭に入って来ないように教え込んだり、忠告したりするのも私であった。……たまたま学校が祭日で早く終わり、陽気に騒ぎまわって、寝室に引きとるには大儀すぎて、食堂でわれわれがいっしょに寝たことがあった。真夜中ごろ、私は少年が目をさましたのに気づいた。そこでひどくおどおどした声でこういったお祈りをささやいたものだ。
『|恋の女神《ウェヌス》さま、もしこの少年に気づかれぬように接吻することがかないましたなら、明日この子に一|番《つがい》の鳩を贈ります』このほうびが貰えるときくと、かれはいびきをかきはじめた。そこで眠ったふりをしているかれに近づいて、急いでいくつかの接吻を盗みとってしまった。この発端に満足して、私は朝早く起きると選りすぐった一|番《つがい》の鳩を待ちどおしがっている少年のところに持って行って私の誓いを果たしたのであった。つぎの夜も同じように勝手な行動がとれたので、私は祈祷の文句を変えて『もし私がこのいたずらな手で、感づかれずにこの子をいじりまわすことができましたなら、私はこの子の従順さに対して一|番《つがい》のもっとも喧嘩好きな闘鶏を贈ります』といった。この誓いをきくと、少年はみずから私のほうへからだをこすりつけてきて、私が眠り込みはしないかと心配しはじめたようすだった、私はすぐにかれの懸念を安んじてやり、あの無上の喜びだけは除いて、かれのからだじゅうを飽きるほどいじりまわした。それから昼になって約束したものを持ってきて喜ばせてやった。三日目の夜も勝手な行動をとることができたので、私は起きあがると眠ったふりをしているかれの耳にこうささやいた。
『不死の神々よ、もし私がこの眠り込んでいる少年から、私の望ましい十分な交わりを獲得することができましたなら、そのような幸福に対しては最良のマケドニア種のアストゥリア馬〔スペインのアストゥリアが原産地である四肢の優美なるをもって知られた馬。ここでは同じような性質を持つマケドニア系統の馬をさす〕を贈ります。ただしかれがけっして、気づかないという条件で』少年はこれ以上熟睡したことがなかったほどであった。そこで私はまず手で乳のように白いかれの胸を撫で、つぎにかれの口に接吻し、それからあらゆる情熱を一点に集中した。翌朝かれは部屋で私からの贈り物をいつものように期待しながら坐っていた。さて鳩や闘鶏を買うことはアストゥリア馬を買うよりもどんなに容易であるかはご承知でしょう。それに加えてそのように高価な贈り物は、気前よすぎて疑いを招きはしないかと気づかったのです。一時間ほど散歩したあとで家に戻った私は少年にただ接吻してやっただけだった。かれはあたりを見廻して、私の首に両腕を投げかけ、『ねえ、おじさん、アストゥリア馬はどこにいるんですか?』といった。……
この破約によって私はやっと近づきうるようにひらいた道を、自分で閉ざしてしまったのだが、しかしまた勝手な行動をとることができた。事実二、三日間をおいて、同じような機会がわれわれにまえのときと同じような幸福をもたらしたので、父親がいびきをかきだすのをみるや否や、少年に元どおり私と仲よくするように乞いはじめた。慰みに快楽を与えさせてくれと、私のみなぎる色欲をほのめかすようなことをいろいろとかれにいってみた。けれども明らかに怒っていたかれは『お休み。さもないとお父さんにいいつけますよ』という言葉以外には何もいわなかった。ずうずうしさが無理に奪いとることのできないような障害などありえないものさ。かれが『お父さんを起こしますよ』といっている間に、私は這い込んで、拒むふりをしたにもかかわらず、快楽を奪いとってしまった。けれどもかれは私のいやらしさを喜ばなかったのではなかった。私がかれをだましたので、私の持っている莫大な財産を自慢してやった学友たちから笑いものにされ、面目をなくしたことを長いあいだぶつぶついったのち、かれはこうささやいた。『けれど私はあなたのようにけちなことはしたくありませんからね。よかったらもう一度してください』私はじっさいあらゆる悪感情を忘れて少年とふたたび仲直りをし、かれの親切を利用してから眠り込んだ。けれども成熟しきっていて、他人に身を任せることを切望する年頃になっていた少年は、一回のくり返しだけでは満足しなかった。そこでかれは眠り込んでいる私を呼び起こして、『もっとどう?』といった。かれの贈り物はまだ確かに私をうんざりさせるものでなかった。そこであえいだり、汗をかいたりして力をつかい果たし、かれの望んでいたものを与えてから、快楽に疲れきってふたたび眠りにおちいった。一時間もたたないうちにかれは私をつねりはじめてこういった。『なぜ私たちはもうしないの?』そのときあまりいくたびも目をさまされた私はひどく立腹して、かれ自身の言葉をそのままこういい返してやった。『お休み。さもないとお父さんにいいつけますよ』」……
かれの話に勇気づけられて、絵画の制作年代やぼくが疑問にしていたいくつかの問題に関して、ぼくよりもよく知っているかれの意見をききはじめた。それと同時に現代の沈滞している原因とか、美術がほろびてしまい、とりわけ絵画が以前の名残りを少しもとどめていないことなどについてたずねた。
「黄金欲がこんな変化をもたらしたのさ」とかれは答えた。「昔は美徳がなおそれだけで喜ばれていたし、りっぱな芸術が栄えて、後世を益するものが長いあいだ知られずにいないように、最高の奮闘が人類のあいだでおこなわれていたのだ。そこでデモクリトス〔前四六〇年頃アブデラに生まれたギリシアの自然哲学者〕は地上のあらゆる植物の樹液をしぼりとり、また石や小枝の効能を発見するため、その実験に全生涯を費したのだ。エウドクソス〔前四世紀のクニドスの天文学者〕は星や天空の運動を観測するために高山の頂きで年老いた。それからクリュシッポス〔ストア派の哲学者。エンコウソウは古代人が脳病や癇癪に特効あるものと考えた薬草〕はかれの発明力を増進させるためにエンコウソウでその精神を三度清めた。つぎに彫刻家に転じてみるとリュシッポス〔前四世紀の彫刻家〕は一つの彫刻の輪郭にのみ思いわずらっていたのでついに餓死してしまったし、青銅のうちに人間や動物の魂までほとんど捕捉したといいうるミュロン〔前五世紀の彫刻家。もっとも著名な作品は「円盤を投げる人」と「アテネとマルシュアス」の群像で、ともに比較的優れた模写によってこんにちに伝わっている〕は、死んだとき相続人が不要であったほど貧乏であった。けれどもわれわれは酒や女に惑溺《わくでき》している、そしてすでに発見されている芸術さえ鑑賞する用意がない。われわれは過去を誹謗《ひぼう》しながらしかも悪徳以外には何ものも教えたり、学んだりしていないのだ。討論術はいったいどこにある? 天文学は? またいみじき知恵の道は? 雄弁を獲得するために神殿に参詣して祈るものがあるだろうか? 哲学の泉に触れるものがあるだろうか? かれらは良識とか健康を求めようとさえせずに、神殿《カピトリウム》の閾《しきい》に触れるまえにすぐさま献金を約束し、ある者は金持の隣人を葬ってしまうことができますならとか、また他の者は財宝を掘り出すことができますならとか、あるいは無事に三千万セステルティが得られましたならとか祈るのだ。正義と善行の率先者たるべき元老院ともあろうものが、黄金千ポンドゥスを神殿《カピトリウム》に約束するのが習いであり、まただれも金銭のために恥じる必要がないように、ユピテルの神像さえも金銭をもって飾られている。だからあらゆる神々や人間たちが、あの狂気のギリシア人アペレスやペイディアス〔前五〇〇年頃生まれたアテナイ最大の芸術家の一人。彫刻家として有名であるのみならず、建築家、画家としても優れていた〕がつくったものよりも、もっと美しい黄金の塊のことばかり考えているときに、絵画が衰微したとてなんら驚くにあたらないのだ。きみのあらゆる注意はトロイアの陥落を描いたあの絵に集中されているようだね。では私が詩でその題目《テーマ》を説明してあげよう。
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いまや不安なる恐怖に疲れ果てしトロイアを包囲すること十年目の収穫期なりき、
予言者カルカス〔ギリシア軍のもっとも有名な予言者〕の信用は暗き憂慮のうちにふるえつつかかれり、
このとき、アポロの命により、イーダ〔トロイア近郊の丘の名〕の頂きは伐り倒され、
曳き下ろされて騎馬に似たる形に合わせし板に挽《ひ》かれぬ。
その内部には大いなる空洞開きて、
隠されたる穴のうちには軍勢をおさめえたり。
このうちに十年の長き歳月を戦いに焦燥せる戦士ら詰め込まれぬ。
害心あるギリシア人は四隅を充たし、
かれらみずからの祈願をこめたる奉納物のうちに待ちいたり。
おお祖国よ、千隻の船が撃退され、
陸は争闘より解放せられたりとわれら思いき。
かくのごとく馬に刻まれたる文字とシノン〔ギリシア軍の間諜。故意にトロイア軍に捕われて、木馬を城門内に引き入れるように説きすすめた〕の狡知に富める振舞いと、
悪にはいつも力強きかれの心とは、
ことごとくわれらの希望を鞏固《きようこ》にせり。
いまやうかつにも戦いより解放せられたる一群の人々は、
崇めんものと城門より急ぎ出ず。
かれらの頬は涙に濡れ、喜びに打ちふるえたる心は、
恐怖はすでに失せたりとて目に涙を浮かべつ。
ネプトゥヌスの司祭ラオコーン〔元来はアポロ神の司祭であるが、このときはくじにあたって臨時にトロイアのネプトゥヌス(海神)の司祭をつとめていた〕は髪をふり乱して、群衆をどよめきわたす。
たちまちかれは槍を引きしごきて、馬腹に突き刺したり。
されど運命の女神はかれの手を阻止し、
槍ははね返りて、欺瞞《ぎまん》を信用せしめたり。
されどかよわき腕に再度力をふるいて、
斧《おの》もて木馬の下腹部を打診せり。
閉じ込められたる若き兵士らは太き息をもらし、
打診がつづけるあいだ、木馬はおのれのものならざる恐怖にあえげり。
閉じ込められたる戦士らはトロイアを捕虜にせんとて打ち進み、
新しき狡猾《こうかつ》さによってすべての戦いを遂行せり。
見よ、さらに奇怪事の起これるを!
テネドス〔トロイアの沖にある島の名〕の嶮しき断崖《だんがい》、海を埋むるところに、
大波高くうねりて、砕けし波鎮まれる底より跳びかえり、
艦隊の海を圧倒し、樅《もみ》製の竜骨の重みに、
鏡のごとき海面の打たれて呻くとき、
静寂なる暗夜に遠く伝わりくる櫂《かい》の音のごとく響きわたる。
見渡せば波は二匹のとぐろを巻ける蛇を岩に打ち寄せ、
かれらの盛り上がれる胸に高き船体のごとく脇腹より泡沫を放つ。
その尾は轟音を発し、海面を動きまわるその頭部は、
爛々《らんらん》たる眼《まなこ》とともに光り輝きて海原を燃え上がらせ、
しゅうしゅうと音立てて波はわき立つ。
人々茫然自失す。冠をつけて司祭ら、
プリュギア〔小アジアの一地名で、そのうちにトロイアを含む〕の衣をまとえるラオコーンの二人の息子とともに、
犠牲のため立ちならぶに、突如としてひらめく蛇は、
そのからだをかれらにまきつけぬ。
息子たちは小さき手を顔にあて、おのれを救わんともせず、
たがいに兄弟を助けんとす。かくたがいに愛情を交わせば、
死みずからはあわれなる息子らを相互の恐れもて殺害す。
されど見よ、かよわき救助者たる父親は、
息子らの屍の上にその身を打ち重ねぬ。
いまや死を貪りたる蛇はかれをも襲い、
その手足を地上にひき倒したり。
司祭は生贄《いけにえ》となりて祭壇の前に横たわり、
大地をどうとばかり打ちたり。
かくしてトロイアの運命きわまれる都は、
儀式をけがすことによりまずその神々を失いぬ。
さて満月はその白き光をかかげて、
かがやく松明《たいまつ》をもって群小の星屑を導き、
ギリシア人らは馬を開きて、闇と酒におぼれたるプリアムス〔トロイア王〕の息子らのあいだに、
戦士らを注ぎ出したり。
先導者らはテッサリア〔ギリシア北東の一地方〕の軛《くびき》より解き放たれたる馬が、
突進するとき、その頭とたてがみとをもたげるごとくに、
武器もてその力をためす。かれらは剣を引き抜き、楯《たて》をふりかざして戦いはじめぬ。
ある者は酔いしれたるトロイア人を殺して、
万事窮する死にまでその限りを引き延ばさしむれば、
他の者は祭壇より松明に火を点じ、トロイア人のため、
いざ戦えとトロイアの聖所に祈るなり」……
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陳列館の内部を歩いていた人々のなかから、詩を吟じているエウモルプスめがけて石を投げつけたものがあった。そこでかれは、自分の才能に対する喝采と知って、頭をかかえて社殿から逃げ出した。かれがぼくまで詩人と呼びはしないかと心配していたので、逃げるかれのあとを追って海岸に出て、もう石のとどかないところまで達してようやく立ち止まるや否や、こういった。
「ねえ、その病気をあなたは追い払うことができないのですか? 二時間もぼくといっしょにいながら、あなたは普通の人間としてよりも詩人としてひっきりなしにしゃべっていますね。ですから人々が石をもって追いかけてきたのもいっこうふしぎではありませんよ。ぼくも石を懐中にしのばせておいて、あなたがわれを忘れ出したときには、いつでもあなたの頭から血を出させましょう」
かれは表情を変えていった。
「おお、若い友人よ。こういう目にあったのは今日がはじめてではない。なにかを吟誦しに劇場へゆくたびに、人々はこのような贈り物でいつも私を迎えてくれるのだ。しかしきみと喧嘩などしたくはないから、私は今日一日はこの食物を近づけぬようにしよう」
「よろしい」とぼくはいった。「もしあなたが今日のあいだその狂人じみたまねを誓ってしないなら、ごいっしょに夕食をやりましょう」
ぼくは家の管理人に夕食の用意を命じた。……
タオルと垢《あか》掻きを持ったギトンが、悲しそうな困惑したようすで壁によりかかっているのを見かけた。かれがすき好んで仕えているのではないことがよくわかった。そこでぼくの見誤りではないということを示すために、かれは嬉しそうにやわらいだ顔で振り向いていった。
「憐れんでください、お兄さん。ここには刃物がありませんから、自由に申し上げます。私をあの残酷な泥棒の手から奪い返してください。そしてあなたの後悔している審判者――私を存分に虐待し罰してください。あなたのお望みで命を失くすことは、不幸な私にとっては過分な慰めです」
ぼくはだれかに計画を立ち聞きされないように、愚痴をこぼすのはやめるよう命じた。ぼくらはエウモルプスを置き去りにして、――かれは浴室のなかで詩を吟じていた――薄暗い、汚い出口からギトンをつれ出して、ぼくの宿まで大急ぎで逃げ去った。それから扉を閉めて、かれを胸に抱き締め、涙で濡れている頬にぼくの顔をこすりつけた。しばらくのあいだはぼくらのどちらもひとこともいわなかった。なぜなら少年の愛すべき胸もまた、絶えずすすり泣きでふるえていたから。
「ああ、きみがぼくを棄て去ったのは不名誉な罪悪であった」とぼくは叫んだ。「けれどもいまなおぼくはきみを愛している。あれほど深傷《ふかで》を負うたぼくの心にはもうなんの傷痕も残っていない。きみの愛情を他人に与えたことに関してなにか言い訳があるのかね? ぼくはこんなひどい仕打ちにお似合いだったのかね?」
かれはぼくが愛しているのを感ずるや否や顔をもたげはじめた。……
「ぼくはぼくらの愛情の裁決を他の審判者にまかせたのではなかった。もう泣きごとはいうまい、もうすべてを忘れよう、もしきみが約束を守って、後悔しているという証拠を示してくれさえすれば」
ぼくは嘆息と涙をまじえて言葉を終えた。するとかれは外套《パツリウム》で顔をふいていった。
「ねえ、エンコルピウス。あなたの正直な記憶に訴えておたずねいたしますが、私があなたを棄てたのでしょうか、それともあなたが私を裏切ったのでしょうか? 私は二人の刃物を持った人を見たとき、より強いほうの人に難を避けたのだということはみずから認めます」
ぼくはこの知恵に充ちた胸にぼくの唇を押しつけ、両腕をかれの首にまわして、ふたたび仲直りしたこと、ぼくたちの友情がこのうえもない信頼のうちによみがえったことをはっきりわからせるために、かれをぴたりと抱きしめた。
もうまったく夜になっていた、そして女中が注文された夕食の用意をととのえ終えたとき、エウモルプスが扉を叩いた。
「幾人ですか?」とぼくはたずねた。そしてアスキュルトスがいっしょにやってきたのではないかと、注意ぶかく扉の隙間からのぞきはじめた。訪問者が一人だけなのを見て、ぼくはすぐに内に入れた。かれは低い寝台の上に横になって、それから食卓で給仕しているギトンをみたとき、頭を振っていった。
「私はきみのガニュメデスが気に入ったよ。今日は大いに愉快にしなければならんね」
こんな発端からせんさく好きな態度にぼくは不愉快であった。そしてアスキュルトスの生き写しを宿に入れてしまったことを心配した。エウモルプスはしつこくて、少年が飲物を持ってきたとき、「浴場のだれよりもきみが好きだよ」といった。かれはがぶがぶと杯を飲みほし、こんなにすっぱい目にあったことはなかったといった。
「なぜって、入浴中いま少しのところで鞭で打たれるところだったのさ」とかれは叫んだ。
「それというのは、私は湯槽《ゆぶね》の周囲を歩いてなかに坐っている人々に詩を吟じてやろうとしたのだ。そして劇場からと同じように、浴室からも突き出されたとき、私は隅々まであたりを見廻して、大声でエンコルピウスを呼んだのだ。衣服を失くしてしまった一人の裸の青年が、他の場所から同じようにやかましい憤激した声でギトンを熱心に呼んでいた。少年奴隷たちは私が狂人であるかのように、生意気きわまる人まねをして私を嘲笑した。ところが大勢の人々はかれのほうをとりまいて、手を叩きながらひどくおそるおそる驚嘆していた。じっさいかれは重そうでしかも大きな陽物を持っていたよ、その男自身のほうが陽物の付属物のように思えた。おお、疲れることを知らない青年よ! 思うに、昨日はじめて明日終えるといったやつだ! そこでかれはすぐに味方を見つけた。ローマの騎士階級かなにかの人で、人々は悪名の高い男だといっていたが、その男が自分の衣服をうろうろしているかれに着せてやって、そしてそのようなすばらしい授かりものをひとりだけで楽しもうと、こう私は想像するのだが――家へつれて帰った。もし私が証人を出さなかったなら、自分の着るものさえ浴場番から返してもらえなかっただろうよ。自分の人格《インゲニウム》よりも自分の陽物《イングイナ》を鍛える男にはるかに好都合なのだね」このようにエウモルプスが語っているあいだに、ぼくの顔色はいくたびもかわった。もちろん、敵の難儀を笑ったり、都合よくいったのを悲しんだりして。けれども、ともかくその話のことはなにも知らないようにひとこともいわずに夕食をならべた。……
「自分の手にあるものはつまらなく思われる、そしてわれわれの心は愚行に向かい、面倒を喜ぶのだ。
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パシス河〔黒海に注ぐ河〕の流れるコルキスより獲られたる雉《きじ》と、
アフリカ産のほろほろ鳥は容易に獲られざるゆえ風味よけれど、
白き鵞鳥と新しき羽毛にかがやく野鴨とは平凡な味なり。
海の果より獲られたる瀬魚《スカルス》〔ローマの美食家が賞翫した魚〕とシュルティス砂洲〔アフリカ北岸にある〕の鯛《アウラタ》は、
もし船を難破せしむれば賞翫さる。
鯔《ぼら》〔ローマ人が賞翫した魚〕にはすでに倦怠す。恋人は妻に打ち勝ち、
ばらは肉桂樹に屈す。なんにあれ苦心して
求めねばならぬものがもっともよきものと考えらる」
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「今日だけは詩をつくらないという約束はどうしたのです?」とぼくはいった。「どうか、あなたに石など投げつけたことのないぼくらだけは勘弁してくださいよ。同じ長屋で飲んでいる人々のうちたった一人でも、詩人の名を嗅ぎつけたら、近所じゅうをたたき起こして、同じ理由でぼくらまでもみんな圧しつぶしてしまうでしょう。ですからぼくらだけは勘弁してください、そして陳列館や浴場でひどい目にあったことを思い出してください」
ところがごく気のやさしいギトンはこのようにいっているぼくを非難し、その美しい姿にじつによく似合っているはるかに寛大な、また謙遜な忠告をして、年長者を叱ったり、また親切心から注文しておいた夕食を失礼な言動で台なしにしてしまうまで、主人役としての義務を忘れ果てるのは、ぼくのほうが間違っているといった。……
「きみのような息子をもったお母さんは幸福だね」とかれはいった。「徳行を積むことに強くありなさいよ。美貌と知恵とが一人にそなわることはまれなものだ。そしてきみの言葉がすっかり無駄になったとは考えなさるな。きみは私のなかに愛人を見出したのだ。私は詩のなかにきみの礼讃を十分に歌い込もう。私はきみを教えかつ保護しよう、そしてきみがいいつけないところにまでお伴するよ。エンコルピウスに対してなにも悪いことをするわけではない。かれは他の人を愛しているからね」
ぼくの剣を奪いとったあの兵士が、エウモルプスのためにもなったのだ。さもなければアスキュルトスに対して抱いていた怒りを、エウモルプスの血でもってぼくはやわらげたことであろう。ギトンはこんなお世辞にも分別をなくさずに、水をとりにゆくふりをして部屋から出ていった。そしてたくみに席をはずすことによってぼくの怒りを抑えた。そこで憤りが少し冷却したので、ぼくはいった。
「エウモルプスよ、そのような希望を抱くくらいなら、いっそのこと詩を語ってもらいたいね。ぼくは怒りっぽいし、あなたは色好みときている。このような気質がたがいにぴたりとゆくものでないことはおわかりでしょう。ぼくを狂人だと思って、ぼくの狂気に免じて、要するにすぐさまここを出ていってもらいたいものだ」
エウモルプスはこの通告にどぎまぎした。そしてなぜぼくが立腹しているのかもたずねずに、すぐ部屋から出てゆき、いきなり扉をばたんとさせて、完全に不意をくわせてぼくを閉じ込めてしまった。かれは鍵を奪いとって、ギトンをさがしに走り去った。
閉じ込められたぼくは首をくくって死のうと決心した。ちょうど壁ぎわにある寝台の枠《わく》に帯を結び終えて、その輪のなかに首を突っ込んだとき、扉が開いてエウモルプスがギトンといっしょに入ってきて、ぼくを危ういところで死神の領域から光明の世界へと呼び戻してくれた。とくに、悲しみからはげしい狂気にと駆られたギトンは叫び声をあげて、両手でぼくをまっさかさまに寝台の上に押し倒していった。
「エンコルピウスよ、もしもあなたが私よりも先に死ぬことができるなどと思っていたら大間違いですよ。私は最初死のうと思いました。アスキュルトスの宿に剣をさがしにいったのです。もしあなたを見つけ出すことができなかったなら、私は絶壁から身を投げて死んでしまったでしょう。死神は求めるものにとっては、遠くにいないということをみせてあげましよう。あなたが私にみせようとした場面を、こんどはあなたにみせてあげます」
こういったかと思うと、かれはエウモルプスの下男の手から剃刀《かみそり》を奪いとって、一、二度のどにあてて引くと、ぼくたちの足もとにどっと倒れた。ぼくは恐怖の叫び声をあげてかれのそばに身を伏せると、同じ刃物で死への道を求めた。けれどもギトンにはなんの傷痕もついていなければ、ぼくも少しも痛みを感じなかった。事実その剃刀は鍛えてなかったし、とくに少年徒弟に理髪師の勇気を仕込むために刃を鈍らせて、鞘《さや》があてがってあったのだ。だから下男はその刃物が奪いとられたさい、いっこう驚きもしなかったのだし、エウモルプスもぼくらの狂言自殺をひきとめようとしなかったのだ。
この恋愛劇が演ぜられているあいだに、ぼくらのささやかな夕食の一部をもって止宿《ししゅく》人が入ってきた。そして床の上に入りみだれて転がっているぼくらをじろじろ見廻したのち、こういった。
「きみたちは酔っぱらっているのかね? 逃亡奴隷なのかね? それともそのどちらでもあるのかね? いったいだれがそこへ寝台をひっくり返したんだ? なぜそんなにこそこそやっているのかね? きみたちはきっと部屋代を払わないで、闇に紛れて往来へ逃げ出すつもりなのだな。だがそうはさせないよ。この宿はあの貧乏な寡婦《かふ》のものではなく、マルクス・マンニキウスのものだということを教えといてやるよ」
「なに?」とエウモルプスが叫んだ。「きみはおれたちをおどかすつもりなのか?」
そういいながら、かれは手を伸ばして相手の顔を力いっぱいなぐりつけた。その男は客がみんな飲みほして空になっていた瀬戸物の小びんを、わいわい騒ぎ立てるエウモルプスの頭に投げつけてその額を割ると、部屋の外に大急ぎで出ていった。エウモルプスはこの侮辱に我慢がならず、木製の燭台をつかむと逃げる男のあとを追いかけていって、いくたびもなぐりつけてその額の復讐をした。宿じゅうのものが酔っぱらった止宿人たちといっしょに群がり集まってきた。けれどもぼくはエウモルプスを罰してやる機会をえたのだ。かれを閉め出しにして、この喧嘩好きな男に恨みをはらしたし、そしてもちろん恋敵のいない一人占めの部屋と夜とを楽しんだのであった。
話かわって一方では料理人や止宿人たちはエウモルプスが閉め出しをくったので、かれをなぐりつけ、そして一人がしゅうしゅういっている熱い肉だらけのつばをかれの目の上に吐きかけると、もう一人は調理台からフォークを持ってきて一戦まじえる身構えをした。なかでもひどく汚れたリンネルの前掛けをかけたただれ目の老婆は、左右高低のあるびっこの木靴でからだの平均をとりながら先に立って、鎖につながれた途方もなく大きい犬をつれてきて、エウモルプスにけしかけた。けれどもかれは燭台であらゆる危険から十分身を守った。
さっき壊された把手のあとにできた両開き戸の穴からぼくらはいっさいのことを目撃した。ぼくはかれが打ちのめされるのを眺めて喜んでいた。けれどもギトンは相変らず憐惘《れんびん》の情をけがさずに、扉を開けて危難を救いにゆくべきだったといった。ぼくの憤激はまだつづいていたので、辛抱できず、この同情ぶかい少年の頭を固く握りしめたこぶしで強く叩いてやった。するとかれはほんとに泣きながら寝台の上に坐り込んだ。ぼくはかわるがわる左右の目を隙穴にあてて、エウモルプスの災難をご馳走でも食べるかのように貪り食って、寄せ手に声援をおくった。すると夕食を邪魔された差配のバルガテスがこの喧嘩のまっただなかに二人の轎夫《かごかき》に運ばれてやってきた。かれは痛風で歩けなかったのである。かれは酔っぱらいや逃亡奴隷たちに騒々しい下品な声で長いあいだ熱弁をふるったのちに、エウモルプスを見てこういった。
「おお、もっとも雄弁なる詩人よ、あなたでしたか! 横着な奴隷どもはすぐ出て行け、そしてこの喧嘩からは手をひくのだ!」……
「わしのつれ合いがわしを軽蔑しているんでね、もしわしが好きなら、わしのために詩であいつの悪態をたたいてくださらんか? あいつに恥を知らせるためにね」……
エウモルプスがバルガテスとひそひそ話し込んでいるあいだに、一人の公奴〔公共造営物、上下水道の管理、死刑執行等を果たす役の奴隷〕と数名の者をつれた一人の執達吏が家のなかに入ってきて、光よりも煙ばかりいぶらせている松明《たいまつ》をふりかざして、つぎのような布告を読み上げた。
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「公共浴場において年齢十六歳、巻毛の、柔弱、美貌なる少年奴隷最近失踪す。名はギトンという。右の者をつれ戻すか、あるいは居所を知らせし者には千セステルティの報酬を与う」
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雑多な色の衣服を着たアスキュルトスが、人相書と約束の金を銀皿の上にのせて、その執達吏からあまり遠くないところに立っていた。ぼくはギトンにすぐさま寝台の下にもぐって、敷蒲団を寝台の枠の上に支えている帯紐に手と足を突っ込んで、ちょうど、昔ウリクセスがキュクロプスの牡羊の腹の下にぴたりとくっついたように〔ホメロスの『オデュッセイア』に出る挿話〕、寝台の下に身を伸ばして、追手の手から逃れるように命じた。ギトンはすぐさまこの命令にしたがった。そしてたちまち、両手を帯紐のなかにすべり込ませて、早業にウリクセスをもしのぐような手並みをみせた。ぼくは嫌疑のかかる余地を少しものこしておきたくなかったので、寝台の上に衣類を詰め込んで、ぼくくらいの背の男が眠っているような恰好に整頓した。
とかくするうち、執達吏といっしょにあらゆる部屋を歩き廻ってきたアスキュルトスがぼくの部屋までやってきたとき、かれはとくに注意ぶかく扉が閂《かんぬき》で鎖《さ》してあるのをみつけて希望をたかめた。すると公奴が斧《おの》を継ぎ目に突っ込んで閂をゆるめてしまった。ぼくはアスキュルトスの足もとに身を投げ出して、ぼくらの友情と、二人でともに分けあった難儀の思い出とによって、ともかくギトンにぜひ会わせてくれと嘆願した。さらにぼくの偽りの懇願を信じ込ませようとして、こういった。
「ぼくは知っている、アスキュルトスよ、きみはぼくを殺しにきたのだ。さもなければなぜ斧など持ってきたのだ? それならいいからきみの怒りを満足させたまえ、さあみてくれ、ここにぼくの首がある。さあぼくの血を流したまえ、きみはぼくの部屋をさがすという口実でそれを求めているのだ」
アスキュルトスは遺恨をすてさって、自分の逃亡奴隷以外には何も求めているのではない、また自分は何びとの死をも、いかなる哀願者の死をも欲するものではなく、まして命にかかわるほどの喧嘩をやってしまったあとでさえ、今なおもっとも親しい愛情をいだいている者の死などはもってのほかだといった。
けれども公奴もぐずぐずしているほど不精《ぶしょう》ではなかった。かれは宿の管理人から杖を奪いとると、寝台の下に突き込んで壁の隙間にいたるまでありとあらゆるところを突き刺した。ギトンは杖の先から身をちぢめておどおどと息をこらえ、唇を南京虫に押しつけていた。……
〔かれらはギトンを発見しえずあきらめて立ち去る〕
部屋の壊された扉はだれも入れないようにすることはできなかった。するとエウモルプスが憤激してとび込んできて、こう叫んだ。
「千セステルティをみつけたぞ、私は出ていった執達吏のあとを追いかけて、きみを密告するつもりだからな。きみはそれだけの価値が十分あるからね。そしてギトンがきみの手中にあることを教えてやるのだ」
かれは強情であった。ぼくはかれの足もとにひざまずいて瀕死の者を殺さないでくださいと嘆願した。そしてこういった。
「もしあなたが行方不明の少年の居所を示すことができるなら、やっきとなってもよいでしょうが、事実はかれは人混みのなかへ逃げ込んでしまったのです。どこへ行ってしまったものやらいっこう見当がつかないのですよ。エウモルプスよ、あの少年をどうかつれ戻してくださるか、それともアスキュルトスに返してやってください」
ぼくがちょうどこのようにかれに信じ込ませようとしたとき、こらえていた息を吹き出してしまったギトンがとつぜん三度もつづけさまに寝台をゆするほどのくしゃみをしたので、エウモルプスはこの物音のほうに振り向いていった。
「こんにちはギトン」
かれは敷蒲団を引きはがして、空腹なキュクロプスさえ容赦してしまったにちがいないウリクセスを見つけた。するとかれはぼくにむかっていった。
「これはいったいなんたるざまだ? 泥棒め! きみは捕まってもまだ真相を打ち明ける勇気がなかったのだね。じっさいもし人間の運命を左右なさる神様が、そこに吊るされているこの少年に合図のくしゃみを出させなかったなら、今頃私は阿呆みたいに飲み屋をうろつき廻っていたことだろうよ」……
ギトンはぼくよりもずっとおべっかが上手であった。かれはまず油にひたした蜘蛛の巣で、エウモルプスの額につくられていた切り傷の血止めをしてやった。それから破れた衣服を脱がせて、その代りに自分の短い外套《パツリウム》を着せてやり、つぎにかれがもうすっかり軟化してしまっていたので、かれを抱擁すると、まるで奄法《あんぽう》でもしてやるかのように接吻して、こういった。
「最愛のお父さん、私たちはあなたの手のなかにあるのです。まったくあなたの保護の下にいるのです。もしあなたの好きなこのギトンを愛してくださるなら、あの方を救う気になってください。私は焼きつくす火が私だけを敵とし、あるいは冬の海が私にだけ襲いかかることを望んでいます。この私があの方の犯すあらゆる罪のたねであり、原因なのです。もしも私さえいなければ、あなた方お二人は喧嘩をやめることができるでしょう」……
「私はいつでも、またいかなるところでも、その日その日をまるでその光がけっしてふたたび戻ってこない最後の日のようにしておくってきた」……
ぼくはどっと涙を流して、ふたたびぼくに対して親切な態度に戻ってくださいとか、またまことに愛人というものは狂気沙汰の嫉妬を制する力がないものですからなどと、乞うたり祈ったりした。同時にぼくは今後はかれを傷つけるような言葉も行為もいっさいしないように注意するから、真に教養ある人のごとく、その心よりあらゆる怒りを忘れ去って、傷痕を残さぬようにしてくださいといった。
「未開、未墾の地方では雪は長いあいだ残るものですが、開拓された地面からはいちはやく消え去ります。これと同じに、怒りは人の胸中にあるものです、それは学問のない心を取りまきますが、教養ある心をすべり去るものです」
「きみのいったことが真実であることがわかるように」とエウモルプスはいった。「ごらん、私は接吻で怒りを忘れてしまうよ。だからわれわれには幸運がともなうよ。荷物の用意をして私についてきなきい。それともきみがそうしたいならきみが道案内するさ」
かれがまだしゃべっているときに、扉を叩く音が聞こえた。そしてまばらなひげを生やした一人の水夫が入口に立って、こういった。
「なにをぐずぐずしているんだね? エウモルプスよ、まるで出帆の合図がわからないかのように!」
ぼくたちはみんな大急ぎで立ち上がった。エウルモルプスはずっと以前から眠り込んでいた下男に、手荷物をもってついて来いと命じた。ぼくとギトンとは旅のために持ってゆくものをみんないっしょにして、星を崇めてから〔航海者を保護すると信ぜられていたのは双子座のカストルとポルックスであった〕船に乗り込んだ。
船路
「あの少年は他人に気に入るからぼくは悩むのだ。けれども大自然のもっとも美しい作品はことごとく人類共有のものではないだろうか? 太陽はあらゆる人々のために照るのだ。数知れぬ星の従者をひきつれた月は野獣さえもその食物に導いてゆくのだ。水よりも美しいものがありえようか? けれどもそれは万人の街に流れるのだ。するとただ恋のみが報いられるものでなくして、むしろ盗むべきものなのだろうか? うむ、じつはぼくとしては、人々が妬《ねた》まなければりっぱなものなど何も持ちたくないのだ。ただ一人の、しかも老人のライヴァルなど大したものではない。よし何ごとかをしようとしたところで、息が切れて機を逸してしまうだろう」
ぼくは自信もなく、異議を申し立てるわれとわが心をあざむきながら、このように主張して、外套《パツリウム》で頭をおおうて眠ったふりをしはじめた。けれどもとつぜん|運命の女神《フォルトゥナ》がぼくの忍耐を破ろうとしたかのように、後甲板の上の人声が深い呻き声をもらすとともに、こういった。
「するとわしをだましたのかな?」
これは男の声でなんだか耳にしたことのあるものであった。そしてぼくの心臓はどきんどきんと動悸《どうき》を打った。けれども同じように憤怒にかられた女が、もっと猛烈にかっとなって、こういった。
「もし神々がギトンを私の手に引き渡してくださいましたなら、あの逃亡奴隷にどんなにすばらしい歓迎ぶりをみせてやることか!」
これらの思いがけない言葉の衝撃は、ぼくらのどちらをも血の気を失わせてしまった。ぼくはなにか困った悪夢のなかで追い駆け廻されているかのような気がした。そして長いことかかって、やっと口がきけるようになると、ちょうど深い眠りにおちいろうとしていたエウモルプスの衣服をぶるぶるふるえる手で引っ張って、こういった。
「お父さん、この船の持主はいったいだれなのですか? また何者が乗船しているのです? それを教えてください」
かれは眠りを邪魔されたので、立腹して答えた。
「きみが甲板上のいちばん静かな場所を占めたのは、われわれに少しも休息するのを許さないためだったのかね? この船の主人《あるじ》がタレントゥムのリカスで、追放されたトリュパエナをタレントゥムにつれて行くのだときみに語ったところでいったいなんになるのだ?」
ぼくはこの落雷にまったく胆をつぶして身震いした。そしてのどを震わしていった。
「|運命の女神《フォルトゥナ》よ、あなたはすっかりぼくに打ち勝ちました!」
ギトンはといえば、かれはすでにもうぼくの胸の上で気がとおくなっていた。すると汗が出てきてぼくら二人の息をふきかえらせた。ぼくはエウモルプスの膝にとりすがって叫んだ。
「憐れんでください、ぼくらは死んだも同然な人間です。同じ学問仲間のために手を貸してくださいませんか。ぼくらには死が迫ってきています。ぼくらは死を恩典として迎えるでしょう、もしそうすることをあなたが妨げなければ」
エウモルプスはこのように恨みぶかい言葉を浴びせかけられたので、何ごとがおこったのか了解できないし、また悪意を蔵する意図は毛頭ないこと、ただまったく単純な気持と本当の善意から、ずっと以前より自分でも行こうと思っていた航海の道づれに誘っただけであると、神々や女神たちにかけて誓った。
「ここになにかわなでもあるのかね?」とかれはいった。「そしてわれわれといっしょに乗船しているハンニバル〔第二ポエニ戦役におけるカルタゴの勇将。その狡猾な戦略にローマ人は立腹していた〕はいったいだれだね? タレントゥムのリカスはもっとも尊敬すべき人物だよ。かれは単にこの船の持主でかつ船長であるばかりでなく、幾つかの土地や売買の奴隷も持っている。かれは市場に託送された船荷を運んでいるのだ。これがわれわれが船賃を払わなければならないキュクロプスであり、海賊|頭《がしら》なのだ。それからかれのほかには、ありとあらゆる女性のなかでもっとも美しいトリュパエナがいるが、彼女は快楽をあさってここかしこへ運ばれてゆくのだ」
「ですけれど私たちが逃げ廻っているのはその二人からなのです」とギトンがいった。そしてぼくらとの不和の原因を物語り、ぼくらにさし迫っている危険を説明してエウモルプスを驚かした。かれはすっかり面くらって、ぼくらにそれぞれ意見があれば述べるがよいと相談した。そしてかれはこういった。
「われわれはキュクロプスの洞穴に入ってしまったのだと思うがよい。われわれは出口をみつけなければならないのだ。さもなければ船を坐礁させて、あらゆる危険から逃れるのだ」
「いいえ」とギトンがいった。「それよりどこかの港に船をやるように舵取りを説き伏せましょう。もちろんその男にはたくさん金をやるのです、そしてあなたの弟が海に堪えられないで虫の息であると話すのです。あなたは舵取りの同情心を刺激して、あなたのために好きなようにしてくれるように、いかにも狼狽した顔つきをして涙を浮かべれば、あなたの欺瞞をおおいかくすことができましょう」
エウモルプスはそんなことは不可能だといった。
「こんな大きな船はただ陸で囲まれた港にだけ進めることができるものであるし、またわれわれの弟がそんなに急に参ってしまうなどということは信じがたい。そのうえリカスは親切気からひょっとすると船酔いの患者を見舞いたがるであろう。ねえ、きみ、われわれが進んで主人のほうを逃亡奴隷のところへつれてゆくほうが、どんなにか好都合なのではあるまいか。けれども、たとえこの船を針路からそらせることができ、またリカスが結局患者の寝台を見舞わなかったとしても、だれにもみられることなしに、この船をどうして脱け出すことができるかね? われわれの頭を隠してゆくのか、それともむきだしでゆくのかね? 隠していればだれもがあわれな患者に手を貸したがるだろうし、むきだしでいれば多かれ少なかれ自分の手で罪人布告をするばかりだよ」
「なぜできないのです?」とぼくはいった。「ぼくは思い切った手段をとるほうがよいと思います。ボートのなかに綱をそっと下ろして舫《もや》い索《づな》を切って、あとは運に任すのです。ぼくはエウモルプスにはこんな冒険はすすめません。罪もない人をなんの関係もない他人のごたごたに引きずりこむ必要がどこにありましょう。もしもぼくらが下りるとき、偶然の機会が助けてくれればそれで満足です」
「悪くない考えだ」とエウモルプスはいった。「もし実際にやれるものならばね。けれどもきみたちが逃げるのにだれが気づかずにいるだろうか? とくに舵取りは一晩じゅう寝ずに星の動きさえ見張っているのだ。もちろん、もしもこの船の他の場所から逃げようとするなら、眠らずに見張りをしているかれの目から逃れることもできよう。ところがボートを安全にしばっている綱がすぐそばに垂れている、あの舵そのものに間近かな後甲板から忍び出ようとしているのだ。そのうえ、エンコルピウスよ、あのボートのなかには夜でも昼でも絶え間なく一人の水夫が配置されているので、かれを殺すかそれとも腕力でまっさかさまにつきおとすかしなければ、この見張りを放逐することはできないということがなぜきみに思い浮かばなかったのかふしぎだよ。そんなことができるものかどうか、きみ自身の勇気にきいてみるがよい。私がきみといっしょに行くことについては、少しでも成功する望みがあるなら危険はいとわないよ。けれどもなんの理由もなく、つまらぬもののように命を投げ出すのはきみたちだって欲してはいないと思うが。さてこんな考えにきみたちは賛成するかどうかね。私がきみたちを二つの俵に包んで縛り上げ、荷物として私の衣類包みのあいだに押し込んでおくのだ。もちろん息をしたり食物をとることができるように、端のほうは少し開けたままにしておくさ。それから夜中に、なにかもっと恐ろしい罰を怖れた私の奴隷たちが海にとびこんだと叫び声をあげよう。そして港に入ってからなんの嫌疑もかけられずに、荷物のようにきみたちを運び出すのだ」
「なんですって! あなたはぼくらが、お腹が失礼なことをけっしてしない習慣になっている固形の人間のように縛り上げるんですって? くしゃみもしなければ、いびきもかかない人間のようにね? こういった計画はまえに一度成功した〔人目を避けるためクレオパトラは夜具袋のなかにもぐり込み、それを運ばせてカエサルのもとに赴いた〕ことがあるからですか? けれども一日くらいなら縛り上げられていることに我慢できるとしても、風が凪《な》いだり、あるいはその反対にあらしになったりして、もっと長いあいだぼくらがそんなことを余儀なくさせられたなら、いったいどうしたらよいでしょう? あまりに長いあいだ縛っておくと衣類でさえしわで台なしになり、包んでおいた紙は型を失うものです。年が若くてこれまでにこれといって労働もしたことのないぼくらに、彫像みたいにどうしてぼろを着て縛られていることが我慢できましょう?……なにかほかにもっと安全な方法をさがさなければなりません。ぼくが思いついたことを研究してください。エウモルプスは文学者ですからもちろんインクを持っているでしょう。ぼくらはインクをつかって髪の毛から爪の先まで染めるのです。そしてエティオピア人の奴隷のように、喜んであなたの前に立ちましょう。なんの拷問《ごうもん》も受けることなしに、色をすっかり変えることで敵があざむけるでしょう」
「なるほどね」とギトンがいった。「それから私たちがユダヤ人にみえるように、どうか割礼を施してください。それからアラビア人をまねるために耳に穴をあけてください。またガリア人が自分の息子たちだというように顔に白墨を塗ってください〔皮膚の暗褐色な地中海民族にとっては、白色のガリア地方の住民はとくに注意をひいた〕。たくみにうそをつくには多くの点が一致している必要があるのに、まるで単に色だけが私たちの形を変えうるものであるみたいに! 顔の上の染料の色がしばらくのあいだはつづきうると仮定しても、水一滴も皮膚になんのしるしもつくりえないと、またインクに衣服がくっつかないものと想像しても――にかわを用いないのに私たちにくっつくことがよくあるものですが――けれども、ねえ、私たちの唇をあのぞっとする厚みにふくらませることがどうしてできましょう? 毛髪を巻鏝《まきごて》で縮れ毛にすることができるでしょうか? それとも傷痕で私たちの額を切り裂いたり、わに足で歩いたり、くるぶしを地面につくほど曲げたり、それともひげを異国風に刈り込んだりすることができるでしょうか? 人工の着色は人のからだをよごすことはできるけれども、変えることはできませんよ。まあおききなさい。私は絶体絶命でこんなことを考えついたのです。私たちの頭を衣服で縛って、海のなかへひと思いにとび込みましょう」
「とんでもない!」とエウモルプスが叫んだ。「きみがそんな卑怯なやり方で命にけりをつけるとは! いや、私の忠告にしたがったほうがよい。私の下男は剃刀の一件でわかったように理髪師だ。すぐさまかれにきみたちの頭を剃《そ》らせよう。眉毛も同じようにね。それからきみたちが烙印で罰せられた奴隷に見えるように、私が額になにかうまく文字を書いてやろう。これらの文字がせんさく好きな人々の嫌疑をそらすだろうよ。それと同時に刑罰の影できみたちの顔を隠してくれるだろう」
ただちにその計画は実行にうつされた。そしてびくびくしながらぼくたちは舷側に歩いていって、頭と眉を剃ってもらうために理髪師にさし出した。エウモルプスは大きな文字でぼくら二人の額を埋めた、そして気前のよい手蹟でぼくらの顔じゅうに例の逃亡奴隷のしるしをのたくらせた。けれどもひどく船酔いに悩まされていた船客の一人が、たまたま胃を空にするために舷側によりかかっていて、月の光で理髪師が時ならぬ仕事をせっせとやっているのを目撃した。この男にはこれが運のつきた船乗りのする最後のお祈り〔水夫たちは難破が避けられぬとみるや髪やひげを海神に捧げる習慣があった。したがって船中でこれらを剃ることは不吉なものとされていた〕のように見えたので、縁起の悪いものとして呪詛《じゅそ》すると、いそいで自分の寝床に戻ってしまった。ぼくたちは船酔いの呪詛などは聞かないふりをして、この憂欝な仕事をつづけた。それから無言のうちに横になって、不安な眠りのなかに残りの夜の時を過ごした。……
「わしは夢のなかで生殖神《プリアプス》がこうおっしゃるのを聞いたような気がしたのだ。『おまえのさがしているエンコルピウスは、確かに私の手でおまえの船のなかに導いておいたよ』とね」
トリュパエナは悲鳴をあげていった。
「私たちがいっしょに寝たのだと思われるかもしれませんが、私もバーイアエ〔カンパニアの小都会〕の陳列館で見かけた海神《ネプトウヌス》の像が『ギトンはリカスの船の上で見出すぞよ』とおっしゃる夢をみたんですよ」
「これはエピクロス〔アテナイの哲学者〕が神のような人であることをきみらに示すものだ。かれはこのような冗談をきわめて機知に富んだやり方で非難している」とエウモルプスはいった。……
けれども、リカスはトリュパエナの夢の厄払いをしてから、こういった。
「神々の思召しを軽蔑しているように思われないために、船中をさがすことに異議はないだろうね」
すると前夜ぼくらのみじめな小細工をみつけてしまったヘススという名の男がとつぜん叫んだ。
「そうすると昨夜月の光で剃刀で剃られていたあの人たちはいったい何者だろう? どうもごく悪い前例をつくるものだと断言しますよ。風や波が威をたくましゅうしているときでなければ、生きている人間は船の上で爪や髪を剪《き》るべきものではないと聞いているのに」
この言葉を聞くとリカスは狼狽し、かつ激昂していった。
「わしの船の上で髪を剪ったものがあるんだって? しかも真夜中にね? すぐここにその悪党たちをつれてこい。わしの船を清めるためにだれの頭《こうべ》がとばなければならないかということを教えてやる」
「私がそれは命じたのですよ」とエウモルプスがいった。「私だってこの航海をいっしょにしなければならないのだから、なにも不吉なことをしようとしたのではない。あの悪党たちがあまりに長くて汚い髪を伸ばしていたからなんだよ。私はこの船を牢獄にしたくはなかったので、あの死刑囚たちに不潔なものをとり去るよう命じたのだ。同時にかれらの髪の毛で烙印が人目をさえぎって隠されないようにしたのだ。烙印の文字はだれの目にも読めるように十分見えていなければならないからね。そのうえかれらは私の金を共通の情人のために費《つか》い込んでしまったのさ。酒や香料でぷんぷんしているかれらをつい昨夜つれてきたのだ。事実かれらは私の世襲財産の名残りをまだぷんぷんさせている」
そこでこの船の守護神をなだめるために、ぼくらのおのおのに四十ずつの鞭打ちが課せられることになった。一刻の猶予もなく、立腹した水夫たちは綱を握って近づいてきて、ぼくらのなんの価値もない血をもって守護神のみ心をやわらげようとした。ぼくはスパルタ人の誇りをもって三回の打撃には堪えた。けれどもギトンはたった一撃であまりに強い悲鳴をあげたので、そのあまりにも聞きなれた声がトリュパエナの耳朶《じだ》を打った。そわそわし出しだのは彼女だけではなく、彼女の侍女たちまでがみんな、この熟知している叫び声に心をひかれて、この鞭打たれている科人《とがにん》のところに走ってきた。
ギトンの驚くべき美貌はすでに水夫たちの武器の力を奪ってしまい、なにもいわないのにその怒りをやわらげてしまっていた。するとすべての侍女が口をそろえて叫んだ。
「それはギトンなんですよ、ギトンなんですよ。乱暴な手は引っ込めなさい! ギトンなんですよ、奥さま、助けてあげてください!」
トリュパエナはもう確信をもっていたので、その嘆願に耳をかして少年のもとに大急ぎでとんできた。ぼくをよく知っていたリカスも、ぼくの声を聞きつけたかのように駆けてきて、手や顔には一瞥《いちべつ》もくれず、いきなりぼくの陽物を見あらためて、そこにねんごろな手を持ってゆくと、こういった。
「ご機嫌よう、エンコルピウスよ」
あらゆる顔かたちとからだとは姿を変えていたが、利口な男がこのように見事な逃亡奴隷のたった一カ所の検査を思いついたのだから、ウリクセスの乳母〔エウリュクレイア〕が二十年たってもかれが同一人物であることを示す傷痕を発見したことにだれ一人驚く必要はないわけだ。ぼくらの額の上のしるしがほんものの囚人の烙印であると思ったトリュパエナは、ぼくらが受けた刑罰を想像して悲痛な声をあげ、放浪の途中でどんな牢獄にいたのかと、どんな手が残忍にも烙印をつけたのかと、ひどくやさしい調子でたずねはじめた。
「けれどもね、もちろん」と彼女はいった。「自分自身の幸福を嫌うような逃亡奴隷たちはなんらかの折檻を受けるに価するのよ」……
怒り狂っているリカスは躍り出して叫んだ。
「なんて馬鹿な女だ! これらの文字が烙鉄《やきがね》できた傷痕だと思い込んでいるとは! わしはほんものの彫《きざ》み文字できゃつらの額が汚されていればいいとさえ望んでいるのだ。そうすればわれわれだってこのうえなく慰められように。ところがわれわれは役者の小細工でしてやられ、見せかけだけの彫み文字で愚弄されているのだ」
トリュパエナは憐れんでやるようかれに懇願した。というのは彼女はギトンに対する欲望をまったくなくしていたのではなかったから。けれどもかれの細君を誘惑したこととヘルクレスの社殿でかれに与えた侮辱とをまだ記憶していたリカスは、さらにいちだんと深刻に激昂した顔つきで叫んだ。
「おお、トリュパエナよ、不死の神々が人間のことに注意を払うということをおまえも知っていると思うが。これらの罪人を神々が知らないうちにわしの船の上につれてきてくださったのだ。そして夢のなかで暗合によってなされたことをわれわれにお告げになったのだ。だからよく考えてみなさい、神様ご自身が罰するようにわれわれに引き渡してくださったものを、どうして許すことができようか? わしは残忍な男ではない、けれどももし釈放すれば、自分で苦しまなければならないかとひそかに恐れているのだ」
トリュパエナはこの迷信めいた議論をきくと意見を変えて、それでは処罰に口を出すことはやめて、もっとも適当な報復に賛成するといった。彼女も自分の貞操に対する評判が公然と非難されていたことを考えると、リカスとちょうど同じようにひどい辱しめを受けていたわけであった。……
「私はまんざら無名の人物でもないと思っています。そしてかれらはこの義務を果たすために私を選んでいるし、かれらとその昔の交友とのあいだを調停してくれと乞うている。あらゆる旅行者がまず注意を払うのは信用して頼りうるきみのような人物を見出すことなのですから、この二人の若者が偶然わなにおちいったのだとは考えられないね。ですからもう復讐したことによってやわらげられた苛酷さはよそにそらせて、妨害せずに目的地に自由に行かせてやりなさい。怒り狂っている無慈悲な主人でさえも、もしその逃亡奴隷が後悔して立ち戻ってきた場合には、その残酷さを控え目にするものですよ。またわれわれはみんな、降服した敵は許してやるものです。きみはこのうえなにを望みなにを欲するのですか? これらの高尚な尊敬すべき若者たちはきみの眼前に哀願しながら横たわっているのではないか、そのうえさらに重要なことは、かれらがかつては緊密な友情によってきみと結ばれていたということです。もしもかれらがきみの金を使い込んだり、あるいはきみの信頼を裏切ってきみを傷つけてしまったとしても、きみがみたあの刑罰でもう満足してしかるべきであると私は誓いますがね。かれらの額の上にある奴隷のしるしと、不名誉な法律のしるしをみずからすすんでつけた烙印のある自由人の顔を見てください」
リカスはこの慈悲の嘆願をさえぎっていった。
「問題をごっちゃにしないで、それぞれの点を一つ一つはっきりさせよう。まず第一に、もしもかれらが自分自身の意志でやってきたのだったら、なぜ頭から髪の毛をすっかり取り除いたのかね? みずから姿を変える男は小細工を弄しようとしているので、償いがしたいのではない。つぎに仲裁人を通じてなんとかして慈悲を求めようとしているのであるならば、なぜきみはきみの被保護者を隠しおおせようと全力をつくしたのかね? 以上のべたことは、これらの悪党たちが偶然わなにかかったのであること、またきみがわれわれの怒りの攻撃を避けようとなんらかの工夫をさがし求めたのだということを明らかにしている。なぜならきみがきゃつらを高尚でかつ尊敬すべきだなどと呼んでわれわれをひがますなら、自信を持ちすぎて事件を台なしにしないように気をつけるがよい。罪人が刑罰に逃げ込むとき、被害者側はなにをすべきだろうか? きゃつらがかつてわれわれの友人だったというんだね! それならさらにもっと苛酷に取り扱う価値があるのだ。なぜなら他人を害する者は盗賊と呼ばれるが、友人を傷つける者は親殺しも同然だよ」
エウモルプスはこの不当な演説を反駁していった。
「夜の間にかれらが髪を剪ったこと以上に、この哀れな若者たちにとって不利な点はないのは知っている。このことがかれらが偶然この船に乗ったので、故意にやってきたのではないというなによりの証拠のように考えられる。さてこの明白な事実をそれがまさにおこったとおりにきみの耳に入れておきたいのだ。かれらは乗船するまえに、わずらわしくて無用に重い頭をらくにしようと欲していた。けれども早目に風が吹き出したので、髪を剪る計画を延期したのだ。かれらはしようと決めてしまったことをどこではじめたところで、なにもちがったことになろうとは考えていなかったのだ。かれらは船乗りの縁起や航海規則などにはまったく無知だったのだ」
「けれどもなぜかれらは憐憫の情を起こさせるために頭を剃ったのかね?」とリカスはいった。「髪のない頭がいっそう可哀そうなのがつねであるからではないかね。第三者の口を通じて真相を知ろうとすることは無駄だ。この悪党め、口を割れ! おまえの眉毛をこがしたサラマンドラ〔火蛇〕はだれなんだ? どんな神様におまえの髪を捧げたのだ? この毒殺人め!」
ぼくは罰せられるのがこわくて口がきけなかった。そして事件はまったく明瞭すぎるので、すっかり狼狽してしまい、いうべき言葉がみつからなかった。……ぼくらはうまい工合に何ごとを話すこともなすこともできなかった。なぜならぼくらの剃った頭の不面目さはいうに及ばず、ぼくらの眉毛も頭と同様に毛がなかったからである。けれども濡れた海綿で涙だらけな顔をふかれたとき、インクはぼくの顔じゅうを流れ、そしてすすけた雲のようにあらゆる顔かたちが汚れてしまったのはもちろんであった。怒りが憎悪にかわった。エウモルプスは権利も理由もないのに、自由な若者たちを醜くする者は何びとも許しておかないと叫んだ。そして怒った水夫たちの威嚇を、単に声だけでなく腕力でさえぎった。かれの抗議を下男ともっとも力の弱そうな一、二の船客が支持したが、かれらは実際的な助太刀となるよりもむしろ喧嘩の単なる同情者にすぎなかった。ぼくは何ごとも起こらぬようになどとは祈らなかった。ぼくはトリュパエナの顔に拳骨をつきつけて、もし彼女がギトンを傷つけずにそっとしておかなければ、暴力を用いるぞとずけずけと大声で叫んだ。なぜなら彼女は性悪な女であり、この船の上で鞭打たれる価値のある唯一の人物であったから。ぼくの向う見ずはリカスをいよいよ怒らせた。そしてぼくが自分のことは打ちすてて、ただ他人のために叫ぶのに憤激した。ぼくの侮辱で同じように興奮し立腹したトリュパエナは、船中のすべての人々を二派に分けてしまった。こちらでは下男の理髪師がぼくらにかれの剃刀を分けてくれ、一つは自分のためにとっておいた。向うではトリュパエナの奴隷たちが素手の拳骨をかため、また女たちの叫び声さえその陣列に欠かさなかった。舵取りだけは何人かのろくでなしの乱行によって惹き起こされたこの狂気沙汰をやめない限りは、船の面倒をみることを放棄すると誓った。それにもかかわらず、闘士たちの憤激は依然つづいた。敵は復讐のために、われわれは命のために戦った。双方ともに多くの人が倒れたが、致命的ではなかった。さらにもっと多くの者が決戦後の歩兵のように血だらけに傷ついて引きさがった。けれどもわれわれは依然として執念ぶかく狂い廻っていた。するときわめて勇敢なギトンは剃刀を自分の陽物に向けて、みずからそれを切断してこの紛争を終わらせると脅迫した。するとトリュパエナはうそいつわりでなく自由の身にきっと解放してあげるという約束で、この大それたことをおしとどめた。ぼくも理髪師の剃刀を自分ののどに数回振り上げたが、これはギトンが脅迫したことを実行するつもりはなかったのと同様に、べつに自殺するつもりではなかった。なおかれはすでに自分ののどを切ったことのある例の剃刀を握っていることを知っていたのであるから、この悲劇の役割をいっそう大胆にやることができたのである。
双方とも陣列にきっと身構えていた。そしてこれはなかなか尋常の戦闘ではないらしく思われたので、舵取りはやっとのことでトリュパエナに軍使として条約を結ぶよう説きすすめることができた。そこで昔からの形式的な約束がとり交わされ、そして彼女は船の保護神像から急いでとってきたオリーヴの枝を振って、勇敢にも談判に進み出てきた。そして彼女はこう叫んだ。
[#ここから1字下げ]
「いかなる憤りが平和を戦いに変えるや?
いかなる罪をわれらの手は犯せるや?
トロイアの英雄〔パリスのこと〕がこの艦隊にて
アトレウスの欺かれた子の花嫁〔ヘレネのこと〕を運ぶのでもなく、
逆上せるメデアがおのれの兄弟を殺して戦うのでもなし。
されどさげすまれたる恋は強きもの、
ああ! 何びとが剣を抜いてこれらの波間に破滅を招くにや?
ただ一人の死で何びとが満足せざるや?
海を打ち負かして、怒れる満潮の上に別の波を起こすなかれ」
[#ここで字下げ終わり]
この女はこれらの言葉を騒々しい大声で叫んだ。そして戦闘はしばらくのあいだ静まり返り、われわれの手は平和の道に呼び戻され、戦いは中止された。ぽくらの指導者エウモルプスはかれらの気持がやわらいだ好機をとらえて、リカスをきわめて猛烈に責めたのち、この条約に署名させた。それにはつぎのごとく記してあった。
[#ここで字下げ終わり]
「衷心《ちゅうしん》より貴女、トリュパエナは下記のことを約束するものなり。すなわち貴女はギトンにより貴女に加えられる非行に不平をいわざること、また本日以前に貴女に対して何ごとか為されしことありといえども、これを咎め、復讐し、あるいは他のいかなる方法にても追究せざること。また少年の意志に反していかなる命令も出さざること、すなわちその違犯として現金一〇〇デナリを支払うにあらざれば、抱擁し、接吻し、あるいは媾合したりせざること。さらに衷心より、貴下、リカスは侮辱的なる言辞あるいはしかめ面をもってエンコルピウスを追究し、あるいは夜間どこで睡眠するかを質問せぬこと。またもしかかる質問を発せるときは即金にて二〇〇デナリずつをその誹謗のおのおのに対して支払うべきこと」
[#ここで字下げ終わり]
こういう条件で平和が結ばれて、われわれは武器を置いた。そして誓いを立てたのちでさえ少しでも怒りの痕跡がわれわれの心中に止まっていないように、接吻を交わして過ぎ去ったことを忘れ去ることにきめた。あらゆる人が喝采した。われわれの憎悪はやわらいで、戦闘のために運ばれてきていたご馳走が、われわれの和解を陽気に結びつけた。すると船じゅうが歌で鳴りひびいた。そして凪ぎが不意に船の進行をとめたので、躍り跳ねる魚を槍で捕えるものもおれば、餌で魚をおびきよせ釣針を用いてもがいている獲物を引き上げるものもいた。またこの他に何羽かの海鳥が帆桁《ほげた》の一つにとまったので、一人の利口な猟師は蘆《あし》でできた継ぎ竿でこれらを捕えた。そして海鳥たちはこの鳥もちをつけた小枝でわなにかけられ、われわれの手中に運ばれてきた。かれらが飛ぶときには微風がむく毛をとらえ、海面をかすめて飛ぶときには軽く泡立つ波がその翼を打った。ちょうどリカスがふたたびぼくと仲よくなろうとしはじめ、トリュパエナがぶどう酒の最後の滴りをギトンの上にふりかけていたとき、酔っぱらったエウモルプスは頭に髪のない、烙印を押された罪人たちを皮肉ろうと試みて、きわめてお寒い機知をしぼったあげく、ふたたびかれの愛する詩歌の道に立ち戻って、毛髪に寄せるささやかな挽歌を吟誦しはじめた。
[#ここから1字下げ]
「肉体の唯一の装飾なる毛髪は抜け落ちぬ、
陰欝なる冬は春の髪を奪い去りぬ、
いまやこめかみはその日除けを剥《は》がれて打ちしおれてあり。
老いの頭上の広々とせる裸の空地は、
髪がすり切れたるところにかがやけり。
おお、欺瞞を好む神々よ、おん身は
われらの生涯に喜びを与えたる最初の者、
奪い去る最初の者なり」
「不幸なるものよ、つい先ほどまでは
なんじらの髪は照りかがやき、太陽《ポエブス》と太陽《ポエブス》の妹よりも美しかりき。
しかるにいまは青銅の像か雨中に生ずる丸きキノコよりもなめらかなり。
そして少女の嘲弄を恐れてあらぬ方を向く。
死がいかにすみやかにおとずれるものなるかを教えんと、
なんじの頭の一部はすでに滅びたることを知れ」
[#ここで字下げ終わり]
かれはこの後の詩よりももっと馬鹿げたものをさらに何行かつくろうとしたらしかったが、ちょうどその時トリュパエナの侍女がギトンを下甲板につれていって、この少年の頭を彼女の女主人の義髪で飾ってやり、そのうえ、箱のなかから眉毛までとり出して、たくみに毀損された顔立ちをたどって、かれの本来の美貌を完全に復旧させてやった。トリュパエナは真実の姿に戻ったギトンを認めると、あらしのような涙を流し、それからはじめて真の愛情をもって少年に接吻した。ぼくはもちろんこの少年が以前の上品さをとり戻したのをみて喜んだけれども、自分の顔は絶えず隠しつづけていた。なぜならリカスがひとことすらぼくに言葉をかけてくれようとしないので、ぼくがどんなに並み並みでなく醜くされているかがわかっていたから。けれども例の侍女がぼくの憂欝を救いにやってきてくれた。彼女はぼくをそばに呼んで、同じようによく似合う巻毛で飾ってくれた。事実ぼくの顔はまえよりもはるかに美しくかがやくようになった、ぼくの巻毛は金色であった!
すると危急なさいの代弁者であり、この現在の平和の生みの親であるエウモルプスは、われわれの浮かれ騒ぎが面白い話がなくて黙り込んでしまうのを防ぐために、女というものはいかに容易に恋におちいるものであるかとか、自分自身の息子さえいかにすみやかに忘れ果てるものであるとか、また他の男に対する情熱によって完全な狂気に引き込まれぬほど貞淑な女はいかに少ないものであるかなどと、いろいろと女性の移り気に対する罵言を放ちはじめた。かれは昔の悲劇や史上に有名な名前を考えていたのではなく、かれの存命中におこった出来事を考えていたのであった。われわれが聞きたければ、かれはそれを物語ろうといった。そこであらゆる目と耳とがかれに向けられると、かれはつぎのような物語をはじめた。
「エペソス〔小アジアのエーゲ海に面する古代の有名な商業都市〕に近隣の国々からも一目見たいというご婦人連を引きつけたほど貞淑で有名な人妻があった。そこで夫が亡くなったときには、髪を振り乱して葬式の行列にしたがい、そして露出した胸を群衆の見ている前で打つという一般の風習にも満足できずに、墓のなかにまで亡き人にしたがってゆき、ギリシア風の地下埋葬所に安置されてある屍を夜ごと日ごと見守って泣きくずれていた。このようにわれとわが身を責め、断食して死ぬことを求めている彼女を、両親も親戚もさえぎることができなかったし、役人たちもとうとう撃退されて彼女をそのなすままにしておいた。そして五日間も食物をとらずに過ごした彼女を、だれもみな世にもまれな女性の手本として嘆き悲しんだ。きわめて忠実な一人の侍女が、この不幸な女性のそばに坐って、彼女の悲しみに同情して涙を流すと同時に、墓のなかに置かれてあったランプが消えかかったときは油をさすのであった。そこであらゆる階級の人々がこれこそ貞淑と愛情の唯一のかがやける亀鑑であると認めて、町じゅうどこへ行ってもこの話しか語られなかった。
あたかもこのとき、この州の知事が何人かの盗賊を、この人妻が新しい屍に涙をそそいでいる小屋に近いところで磔刑《はりつけ》にするように命じた。そこで、その死体を埋葬しようとだれかが取り下ろすのを防ぐために、十字架を見張っていた兵士が、あくる夜、墓のあいだに灯火がはっきりとかがやいているのを認め、また哀哭している人の嘆き声を聞いたとき、だれがなにをしているのか知ろうと熱心に欲したのも人間の弱点のしからしめたことであった。そこでかれは地下の埋葬所に下りていったが、そこに非常に美しい女のいるのをみて、最初は下界の魔物か幽霊でも見たのではないかと思って狼狽して、思わず立ち止まってしまった。けれどもやがて屍が横たわっているのを見たり、彼女の涙と顔の上にある爪跡とをつくづくと見て、そのようすから亡き人に堪えられぬ熱望をいだいているのだと明らかに悟った。そこでかれは墓のなかに自分の夕食を持ち込んで、哀哭している女に無益な悲嘆をつづけないように、またなんの役にもたたないすすり泣きで心をくだかないようにと説きすすめはじめた。なぜならばあらゆる人は終りは同じであるし、またその住居も同じ墓場なのであるからなどと、傷ついた心を健全な状態に引き戻すようないろいろな陳腐な話をしてやった。けれども彼女はかれの慰めの言葉などはまったく無視して、いままでよりももっとはげしく胸を打ったり、かきむしったりし、また髪の毛を引き抜いて屍の上に置いたりするのであった。しかし兵士はなおも引きさがらずに、同じような激励の言葉をかけるとともにこの女に食物を与えようと試みたので、ぶどう酒の芳香に明らかに誘惑されてしまった侍女がとうとう最初に屈服してしまい、かれの親切な招待に手を差し伸ばした。それから食物とぶどう酒で元気づくと、自分の女主人の強情さを攻撃しはじめてこういった。
『こうしていて餓死するか、生きながら墓に葬られるかして、運命の女神が求めないうちにまだ死すべく定められていない魂を消耗させたとていったいなんになるのでしょう?
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亡き人の灰や埋葬された魂がそれに関心をいだくと思いたもうか?〔ウェルギリウス『アエネイス』から〕
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この人生を新たに生きなおそうとは望みませんの? あなたはこの女らしい弱点をふりすてて、許される限りは光明の祝福を楽しもうとは望みませんの? ここに横たわっているあなたの夫の屍そのものが、あなたに生きるように説き伏せるべきなのです』
だれでも食事をとることや生きることをすすめられたときには、いつでも喜んで耳をかたむけるものだ。そこで数日間の精進《しようじん》でのどがすっかり渇いていたその女性は、強情な心をやわらげて、最初に屈服してしまった侍女におとらず、がつがつと食物をつめこんだ。さて満腹した人をたいていどういうものが誘惑するのが常であるかご存じのことでしょう。兵士は彼女の貞操を攻めおとすために、生きることをその人妻にすすめて納得させたときと同様にたくみにとり入った言葉を用いた。彼女の純潔な目には醜くもなければ、訥弁《とつべん》でもない青年が映じた。侍女はいんぎんになさいと彼女に頼んでこういった。
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『あなたをかくも喜ばす恋に対してすら、戦いをいどみたもうや?
何びとの領土に落ちつかれしかを考慮せざるや?』〔『アエネイス』から〕
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なにをくどくどいう必要があろう? その女は肉体のその部分の精進もやめてしまい、そして勝ち誇った兵士はこのほうもまた納得させてしまったのだ。そこでかれらはもちろん埋葬所の扉を閉じて、その夜ばかりでなく、つぎの夜も、三日目の夜もいっしょに過ごしたので、この墓にやってきたものは友人でも、他人でも、このもっとも貞淑な人妻は夫の屍の上で最後の息を引きとってしまったものと想像したことであろう。
さてその女の美しさと秘密な恋とに魅せられた兵士は、かれの富が許す限りのよいものを買い求めて、夜になるや否や、この墓に運び込んだ。すると磔刑になった一人の男の両親が、見張りがゆるんでいるのをみて、夜の間に絞罪囚をとり下ろして、葬式をすませてしまった。任務を離れている間にしてやられた兵士は、翌日十字架の一つに屍がないのを見て、処罰されるのを恐れて何ごとがおこったかをその女に説明した。そして法廷の判決を待たずに、自分の剣で自分の怠慢を罰するつもりだと告げた。だから彼女は死者の場所を用意して、悲しい埋葬所におのれの夫と情人とをとじ込めればよかったのだ。しかしその女は純真であると同時に情深くもあった。彼女はこういった。
『神々が、私が愛する二人の男の埋葬を同じ場所でつぎつぎにすることを禁じたまわんことを。私は生きている人を亡きものにするよりは、死んだ人を役立てたいのです』
こういったのちで、彼女は夫の屍を柩《ひつぎ》のなかから取り出して、空になっている十字架にとりつけるように命じた。その兵士はこの気転のきく女の計画をまんまと利用した。そこで翌日人々はいったいどうしてあの死んだ人間が十字架に上ったのかとふしぎに思った」
水夫たちはどっと笑いながらこの話を受けとった。トリュパエナはひどくはにかんで、その顔をほれぼれとギトンの首の上によせた。けれどもリカスはにこりともしなかった。かれは腹立たしげに頭を横に振っていった。
「もしその州の知事が正しい人間だったら、夫の屍を墓のなかに戻して、その女を十字架に吊るすべきだった」
明らかにかれは心のなかでヘデュレ〔船長リカスの妻の名らしい〕のことや、かれの船がどんなふうに彼女の淫奔な駆落ちによって掠奪されてしまったかなどいうことをまた考えていたのだ。けれどもわれわれの約束した条約は遺恨をいだくことを禁じていたし、われわれの心を占めていた歓びは立腹する余地を与えなかった。
そうしている間にトリュパエナはギトンのひざの上に横になって、いまかれの胸を接吻でおおうているかと思うと、こんどはかれの剃った頭の義髪を直してやったりしていた。ぼくにはこの新しい同盟が悲しく、また我慢がならなかった。食事もとらなければ、飲物ものまず、かれら二人を腹立たしげに横目でみつづけていた。あらゆる接吻がぼくを傷つけたし、あらゆる愛撫をあの淫奔な女は工夫するのであった。ぼくは愛人を奪った少年のほうに腹を立てているのか、それとも、その少年を迷わせた愛人に怒っているのか、まだよくわからなかったけれども、かれらは二人とも、ぼくの目にはこのうえない憎いものであったし、ぼくが脱け出したあの監禁よりもっと悲しいものであった。そしてさらに悪いことには、トリュパエナは友人でありまたかつてはお気に入りの情人であったようにはぼくに話しかけてくれず、またギトンも当り前のやり方でぼくの健康を祝して乾杯するのが至当だとも考えず、みんなの会話にぼくを加えようとさえしなかった。いま友情が元どおりにしたばかりの傷痕が、また口を開くことを、かれが恐れていたのだとぼくは思う。悲しみに誘われて流れ出る涙は胸にあふれ、そして溜息にまぎらせた呻き声はぼくの命を奪わんばかりであった。……
リカスは主人としての高慢ちきな顔つきもせずに、友人として意にしたがうことを懇願しながら、かれらの悦楽をともにする許しを得ようと試みた。……
「もしきみが一滴でも自由人の血を持っているならば、あの女を娼婦以上には考えないだろう。もしきみが男なら、あんな女|陰間《かげま》のところに行かないでくれ」……
エウモルプスがいまおこなわれていることについて、なにか考えつくのではないか、そして、あの弁説の力を用い、詩でぼくを攻撃するのではないか、という恐れくらいぼくを悩ましたものはなかった。……
エウモルプスはもっとも形式にかなった言葉で誓いを立てた。……
こういったことをいろいろと語り合っているあいだに、海がおののきはじめ四方から雲が集まってき、太陽を征服してまっ暗闇にしてしまった。水夫たちは驚いて自分たちの配置に走ってゆき、あらしの来るまえに帆を巻きおさめた。けれども風はどちらか一方に波を押しやっているのではなく、舵取りはどちらに船を向けたらよいのか途方にくれていた。いまシケリア島にむかって風が吹いているかと思うと、こんどは北風がしきりにイタリアの海岸に吹きつけ、船を思うままにもてあそんであらゆる方向にねじり廻した。突風よりもさらに危険であったのは、舵取りにも舳《へさき》さえまるで見えないほどの濃い闇が、不意に陽の光をかき消してしまったことだった。するとあらしの敵意ある怒りがますます増大してくるので、リカスはぶるぶると身をふるわすと、哀願するように両手をぼくにさし出して、驚いたことには、こういった。
「エンコルピウスよ、われわれの危難を救ってくれ。この船にあの女神の外衣と神聖なガラガラ〔エンコルピウスがおそらく盗み去ったもので、ガラガラはエジプトの女神イシスの祭祀に用いられるもの〕とをふたたび返してくれ。どうか憐れんでくれ。きみはいつもなかなか同情ぶかいではないか」
けれどもかれがこう叫んだとき、あらしは海のなかへリカスを吹きとばしてしまった。一陣の突風がすさまじい渦巻《うずまき》のなかにいくたびもぐるぐるとかれを回転させ、呑み込んでしまった。トリュパエナの忠実な奴隷たちはほとんど暴力を用いて彼女をつれ出し、荷物の大部分とともにボートのなかに押し込んだ。そして死ぬにきまっている危機一髪のところを救った。……
ぼくはギトンを抱いて、泣きながら大声で叫んだ。
「ぼくらはこんな目にあわなければならなかったのか? 神々は二人を殺すときにのみしっしょにするとは? しかし|残酷な運命《フォルトゥナ》はこんなことさえも与えたがらない。見てごらん! いまにも波はボートを転覆させる。いまにも怒れる海は愛人の抱擁を引き離すよ。だからきみがほんとにこのエンコルピウスを愛してくれるなら、できる間に接吻しておくれ。そして襲い来る運命からこの最後の喜びを奪いとってくれ」
ぼくがこういったのでギトンは衣服を脱ぎ接吻してもらおうと顔をもたげたのでぼくは自分の下着《トウニカ》でかれをおおった。そしてどんな嫉妬ぶかい波でもたがいにしっかり抱き合っているぼくらを引き離さないように、かれは帯をぼくら二人にまきつけて、固く結んだ。そしてこういった。
「どんなことが起ころうとも、少なくとも海が運んでくれるあいだは、私たちはずっといっしょに抱き合っていられましょう。そしてもし海に情があって、同じ海岸に打ち上げてくれれば、通り合わせただれかが、人間の通常の親切心から私たちの上に石塚を建ててくれるか、それとも波の最後の仕事は、いくら怒り狂っていても、私たちをいっしょに無心の砂に埋めてくれることでしょう」
ぼくはいざというときのためかれにぼくのからだを縛らせ、それから臨終のために身なりをととのえた人のように、もうつらくもなくなった死を待ちもうけた。そうこうしているあいだに、運命の女神の命令によってあらしは最高潮に達し、船から残っていたものいっさいを奪い去ってしまった。檣《ほばしら》も舵も綱も櫂《かい》も船にはなくなって、天然のままの、加工してない材木のように波の上を漂流していた。……何人かの漁夫たちが手ごろな小さなボートに乗って、この難破船を掠奪しようと海にのり出してきたが、まだ何人かの生存者が自分の財宝を守りぬこうとしているのをみて、残忍な心を改めて、救助人にかわった。
われわれは船長室の下からふしぎな物音と野獣のような呻き声がもれてくるのを聞いた。そこでその物音のするほうへたどっていってみると、エウモルプスがそこに坐り込んで、一枚の大きな羊皮紙に詩を書き込んでいるのをみつけた。間近かに死が迫っているのに詩を書く余裕を持っているかれにはわれわれもびっくりした。そしてかれは抗議したけれども、無理に引きずり出して、分別を持つようにと懇願した。けれどもかれはわれわれの妨害に腹を立てて叫んだ。
「私の文句を書き終わらせてくれ。この詩はもう完成しかけているのだ」
ぼくはこの狂人を引っつかんで、怒号している詩人を陸に引っ張ってゆくため、ギトンに手をかすように命じた。……
この仕事をとうとうやりおおせたとき、ぼくらは漁師小屋に悲嘆にくれながらたどりつき、海水で台なしになった食物をとっていくぶん元気を回復した。そしてみじめきわまる一夜を過ごした。翌朝、どの地方へ行ったものかと相談し合っていたとき、ぼくはとつぜん、ゆるやかな渦巻に巻きこまれて岸に運ばれてきた一人の男の死体をみた。ぼくは暗澹《あんたん》たる気持で立ち止まり、涙に濡れた目で海の裏切りについて思いをめぐらしはじめた。ぼくは叫んだ。
「おそらく遠い土地にいるこの男を、いそいそと楽しげに待っている妻が故郷にはいるであろうに。さもなければこのあらしのことはなにも知らない息子か父親がいるはずだ。出かけるまえに接吻してあとに残してきただれかをかならず持っているにちがいないのだ。これが人間の意図であり、これが大きな野心の祈願なのだ。見よ、漂うているこの男のさまを!」
なおもまったく見知らぬ人であると思ってこの男をいたんでいると、波がまだ毀損していないかれの顔を岸のほうに向けた。ぼくはリカスを認めた、しばらくまえまではあれほど荒々しく残酷であったのに、いまはぼくの足もと近くに投げ出されているのだ。それでぼくはもはや涙をこらえることができなくなり、くり返しくり返し胸を打って、こう叫んだ。
「きみの癇癪《かんしやく》は、きみの兇暴は、いまどこにあるのだ? 見よ! きみは魚や獣の餌食《えじき》として捨てられている。少しまえまではきみは自分の支配力を誇っていたのに、あの大きな船はきみを救ってくれる板一枚も持っていなかったのだ。されば死すべく定められた人間には、気ままに大きな計画をもってその胸をみたしめよ。吝嗇漢《りんしよくかん》をして一千年ものあいだの欺瞞によってかちえたる富を費い果たしめよ。見よ! この男はつい昨日、自分の財産の勘定を調べていた。ふたたび故郷に帰る日さえ心のなかで決めていたのだ。神々よ女神たちよ、目的地から何と遠いところにかれは横たわっていることでしょう! けれどもこんなふうに人間に約束を果たすのは海ばかりではない。兵士の武器はかれを欺くし、神々に誓いを果たしている最中に家が倒れて埋められてしまう者もある。また車からすべり落ちてたちまち息を引きとる者もある。食物は大食漢を窒息させるし、倹約家は餓死する。よく考えてみれば難破はどこにもあるのだ。しかし波に打ち負かされた者には埋葬はないときみはいったね。われわれのかならず滅ぶべき肉体がどのように終わるか、火か、水か、それとも時の経過によるのかが、さも重大なことでもあるかのように! どんな死に方をしようと、あらゆるものは同じ場所におもむくのだ。けれども獣が屍を引き裂いてしまうときみはいうのだね、まるで火はもっと親切に屍を迎えてくれるかのように! われわれが奴隷に腹を立てているときには、もっとも重い刑罰として火あぶりを考えるくせに。とするとわれわれのどの部分でも埋葬されずに放置されないように、あらゆる苦心をするのはなんと愚かなことであろう」……
そこでリカスはかれの敵の手で積み上げられた薪の上で火葬に付された。いっぽうエウモルプスは死者の碑銘をつくりながら、何かこじつけた考えをさがすためあたりを見廻した。……
クロトンにて
われわれは喜んでこの最後の務めを果たし、それからわれわれの志した道をとってゆくと、間もなく汗をかきながら山の頂きに出た。そこからあまり遠くない高い峰の上に町が立っているのが見えた。われわれは当てもなくさ迷い歩いていたので、農場管理人からクロトン〔ギリシア人によってはじめられた植民都市で、イタリアの南端にある〕というごく古い町で、かつてはイタリア第一の都会であったということを教わるまでは、それがどこであるかも知らなかった。そのようなりっぱな土地にはどんな人々が住んでいるのか、また打ちつづく戦争によって富をすり減らされてしまって以来は、どんな商売がとくにむくのだろうかなどと慎重に質問しつづけた。
「おお他郷《よそ》の方々よ、もし商売人だったら仕事を変えて、なにか他の安全な生き方を求めなさい。けれどもしもっと上品な種類の人たちで、いつでもうそに我慢ができるならば、まっすぐに金もうけの道にむかって走っているのですよ。この町では学問の研究などはいっこうほめられません。雄弁の占める場所もないし、節約や潔白な習慣などは賞讃もされなければ、謝礼にもありつけません。この町で見受けられる人々はみんな二つの階級に分けられているのを知っておきなさい。すなわち遺産をあさられるものと遺産をあさるもののどちらかです。この町ではだれも子供など育てません。というのも、自分の血族に相続人など持っている人は晩餐にも劇場にもけっして招待されませんし、あらゆる金もうけを禁じられていやしい人々のあいだにひそんでいるのです。けれども妻を持ったこともなければ、近親もないものは最高の地位に達して、そういう人々だけが武人的であり、勇敢であり、潔白であるとさえ見なされているのです」かれはつづけていった。「あなた方は貪り食われる屍か、それを貪り食うカラスしかいないペストにやられた曠野のような町に行くのですよ」……
ぼくらよりも用心ぶかいエウモルプスは事態の目新しさに関心を向けて、そしてこういった種類の予言はうれしくもないと告白した。ぼくはこの老人は詩人の軽い気持で冗談をいっているのだと思った。ところがかれはこういった。
「私にもっと十分な舞台が与えられたらなあ。というのは、私のつくり話をほんとうらしく見せるために、もっとりっぱな人間らしい衣服と、すばらしい道具立てとがあればいいというのだ。ヘルクレスに誓っていうが、この仕事はぐずぐず延ばしてはおけないものだ。きみたちはすぐに大金持にしてあげよう。ともかく私の衣服が満足すべきものである限りは、どんなことを要求されても、またリュクルグスの家に押し込んで、なにを見出そうと私はこのことだけは約束するよ。当座に必要な現金はわれわれの母なる女神〔物質的な富を与えてくれるキュベレという女神〕が彼女の名誉のために私たちに授けてくださるものと信じている」……
「さてそれならば」とエウモルプスはいった。「なぜこの茶番劇を組み立てるのにぐずぐずしているのかね? この仕事が気に入ったなら、私をきみたちの主人にしてくれないか」
このべつに損にならない計略にはだれもあえて不平をいうものはなかった。そこでわれわれすべてのあいだでこのうそを安全に保つために、われわれはエウモルプスに服従し、火にも、投獄にも、鞭打ちにも、剣で殺されることにも、あるいはエウモルプスの命ずるどんなことにも堪え忍ぶと誓いを立てた。われわれは正規の剣闘士のようにもっとも厳粛に、われわれの主人に対して身も魂も捧げると誓った。この誓いが終ったとき、われわれは奴隷の役に扮してわれわれの主人にあいさつした。それからエウモルプスには非常に雄弁で嘱望されていた死んだ息子があること、老人は息子の食客や、友人や、また日々の涙のたねであるその墓を見ることから逃れたいという理由で、生まれ故郷を去ったのであるということをみんないっしょに教わった。またかれの悲しみは二百万セステルティ以上を失った最近の難破でますます増大したこと、かれを苦しめているものはその損失ではなく、従者を奪われて自身の品位が認められがたくなったことであること、さらにアフリカには土地と証文で三千万セステルティ投資してあり、かれの奴隷の群はヌミディアの田野にちりぢりに四散していて、カルタゴを確実に手中におさめることができるほどであるなどといいきかされた。こういった計画のもとに、われわれはエウモルプスにしばしば咳をし、ときには胃腸が弱いといっていっさいの料理に大っぴらにけちをつけるように命じた。それからかれは金や、銀や、期待はずれの農園や、いつも不毛な土地のことなどを語らなければいけない、そのほか毎日自分の取引き帳簿にむかって坐り、遺言書は毎月書き改めなければいけない、そしてさらに舞台道具を完全にするために、われわれの一人を呼ぶときはいつも間違った名をつかうようにする、なぜならばそうすれば主人がいまここにはいない他の召使のことを考えているのだということを明らかに示すことになるからなどと、こういった手はずがすっかり取り決められ、われわれは順調な、仕合せな結末を神々に祈って、それから道をすすめた。けれどもギトンは慣れない重荷を持ってゆくことができず、また下男のコラックスは力を貨すことを拒んで、たえず荷物をとり落し、あまりに早く歩きすぎるといってはわれわれを呪い、荷物をほうり出すか、それとも荷をしょったまま逃げ出すと断言した。
「あなたたちは私が荷馬か、それとも石運びの舟だとでも思っているのだね」とかれは叫んだ。「人間の仕事に雇われたんで、馬の仕事はまっぴらですよ。私の親父は貧乏人として私を遺してくれたが、私だってあなたたちと同じように自由の身なんですよ」
悪口雑言で満足せずに、かれはいくたびも片足を高くあげて、道中を不潔な音とそれと同時に不潔な匂いでみたした。ギトンはかれのずうずうしさを笑って、かれが音をたてるたびにそのまねをした。……
「お若い方々よ」とエウモルプスはいった。「詩は多くの人々を欺いてきた。なぜならだれでも脚韻を踏んで韻文を書き並べ、しだいに微妙な意味をまわりくどい言葉に織り込むようになると、もうたちまち自分はヘリコン〔ギリシアのボエオティアにある山。アポロ神と詩の女神たちの住む土地と考えられていた〕に駆け登ったのだと考えるからである。こうしてきらきらする警句で飾られた演説よりも詩のほうがたやすく作りうると考えて、法廷の演説に飽きはてた人々がしばしばなにかもっと楽しい港であるかのように詩の凪ぎのなかに避難する。けれどもいちだんと高貴な魂は、そんなおしゃれは好まないのだ。そして文学の広漠たる供水にひたらなければ、心はその成果を身につけることも、生み出すこともできない。いわば安価なすべての語法を避け、一般の慣用と異なる言葉を選び、『下劣なる俗衆を嫌って、しかしてそれを遠ざけ』〔ホラティウス『カルミナ』から〕なければならない。さらに警句は演説の本旨からとび出さないように注意しなければならない、しかも生地に織り込まれた色彩でかがやかなければならない。ホメロスはこれを証明した、また抒情詩人たちとかローマのウェルギリウスとかホラティウスのよき思いつきも然り。他のものは詩に導く道を見もしなければ、見ても踏むのを恐れたのだ。たとえば内乱〔カエサルとポンペイウスとの紛争〕というような大作品を試みるものは十分な学問がなければ、その重荷のもとに圧倒されてしまう。それは韻文で行蹟を物語るという問題ではない、歴史家がそんなことははるかによくする。それよりも、自由なる精神は証人の手に誓った陳述の正確さよりも、むしろ狂気に駆られた魂の予言と見えるように迂遠《うえん》な道も、神々の働きも、神話ずくめの苦しい警句も平気でまっしぐらに進まなければならないのだ。まだ最後の仕上げをへてないけれども、こんな詩はお気に入るかどうか。……
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戦利を獲ち得たるローマ人はいまや全世界を、
海も陸も太陽と月の軌道をも所有せり、
されど満足せず、いまや海面は荷船によりて
かき乱され、横ぎらる。もしもかなたに
隠れたる入江ありせば、もしも赤黄色の黄金を
産み出ずるいずこかの土地ありせば、そは敵なりき。
運命は戦いの悲しみにそなえ、
富の探求は続行されたり。
陳腐なる喜びも、俗衆に使いなじまれし快楽も気に入られず。
海上の兵士はコリントスの黄銅を賞《め》で、
地中より掘り出されたる宝石の輝色は
紫袍《しほう》に匹敵す。ここよりヌミダディア人はローマを呪い、
かしこより支那人は驚嘆すべき絹を掠奪され、
またアラビア人の群はその耕地を剥奪さる。
見よ、このうえの破壊と、血を流し傷負える平和を!
野獣は高価に森より探し出され、
人を殺すために珍重される歯のある動物を
円形劇場に供給するため、人はアフリカの奥ふかくハムモン〔エジプト及びリビュアで崇拝された神。牡羊の姿をしている〕を悩ます。
艦隊は奇怪なる猛獣を積み込み、
踏み歩く虎は、群衆が喝采する間に
人の血をすするため、金色の宮殿〔金色の檻〕の内に運ばる。
ああ、余は率直に語り、われらの滅亡せんとする運命を
口外するを逡巡す。年頃に達せるばかりの少年たちが、
ペルシアの習慣により誘拐され、
肉欲礼拝のために睾丸は刃《やいば》をもって切り去らる。
そはまた花盛りの青春の過ぎ去るのを抑えつけられしうえ、
過ぎゆく年を遅らせるべく、取り去られて、
生殖器は失われ、自身をさがしても影形なし。
かくしてあらゆる人々は
売春を楽しみ、かよわき肉体の跛行《はこう》する足どりと、
ふさふさせる毛髪と、新しき名称の数々の衣服と、
人間を籠絡するいっさいのものが気に入らる。
見よ、アフリカの土地より掘り出されたる、
シトロン材の食卓は置かれ、
木目の斑点は黄金に似たるも、黄金もこの木の価値に及ばず、
奴隷の群や紫の衣服を反射して感覚を魅するを!
この実を結ばぬ素姓卑しき木材の周囲に、
酒におぼれたる群がつどい集まり、
世界じゅうの掠奪品は、富める兵士を
その武器がさびる間に堕落せしむ。
食道は奢侈《しやし》を考案するにたくみなり。
シキリアより瀬魚《スカルス》は海水に浸して、
生けるまま食卓に運ばれ、
ルクリヌス湖〔カンパニアのバーイアエに近い湖〕の岸よりもぎとられたる牡蠣は、
奢侈により食欲を新たにするため、饗宴の席を有名にす。
パシスの流れよりすでにあらゆる鳥はとりつくされ、
岸辺に声なく、ただ空しき風のみ荒寥《こうりよう》たる枝にそよぐ。
この狂気沙汰は選挙場にてもこれにおとらず、
羅馬市民《タウイリーテス》は金であがなわれ、掠奪品と利益のひびくほうに投票を変える。
人民腐敗し、ウ老院また腐敗す。かれらの支持は代価による。
老人たちの持てる自由と徳性は滅び去りて、
かれらの権力は進物により左右され、
かれらの威厳さえ金銭によりて汚されて顧みられず。
カトー〔大カトーの曽孫〕は屈服して群衆に打たる。
かれの征服者よりもさらに不幸なり。
そしてカトーより権標《ファスケース》を奪いとりたることを恥ず。
なんとなれば人民のこの不名誉と、素行の堕落とはただ一人の敗北にはあらず、
かれ一身のうちにローマの権力と光栄は失墜せり。
かくしてローマは不名誉きわまることにはおのれにふさわしき罰を受け、
掠奪されても仇をうつものなかりき。
さらにけがらわしき高利と金銭取引きとは、
平民を二重の渦中に投じて滅ぼしたり、
一つとして安らかなる家なく、一人として抵当におかれざる者なし。
あたかも音もなく骨髄を犯せる癩病のごとく、
狂気はかれらの手足に拡がり、心労は吠え立てつ。
武器は不幸なる人々を惹きつけ、奢侈によって失われたる幸福は、殺戮《さつりく》により回復せらる。
貧困者はいっさいを安全に賭けることを得〔直訳すれば「貧乏人の大胆は安全なり」有名な警句の一つ〕。
狂気と戦争と剣により目ざまされたる欲望をおいて、
健全なる理性の手段が、ローマを熟睡して横たわる
泥濘より起こしえたりや?
|運命の女神《フォルトゥナ》は三人の将軍〔第一回三頭政治の三巨頭、クラッスス、ポンペイウス、カエサルをさす〕をもたらしたり。
そして戦いの女神と死神とは、それぞれ積み重ねたる
武器の下に、かれらをことごとく埋葬せり。
パルティア人はクラッススを拘留し、
大ポンペイウスはリビュアの河畔に横たわり、
ユリウス・カエサルはその血をもって忘恩のローマをけがし、
大地はかくも多数の墓の重荷に堪え得ざるかのごとくに、
かれらの屍を離散せしめぬ。
これらが光栄のもたらせる名誉なり。
パルテノペ〔ナポリの昔のギリシア名〕と大都市ディカルキスの耕地とのあいだに、
切り開かれし大地の裂け目奥深く沈める場所ありて、
|冥府の川《コキユトゥス》の流れにうるおさる。
はげしき勢いにて外部に噴出する大気は、
かの有毒なる飛沫《しぶき》をまきちらす。
この土地は秋も緑ならず、畑はその芝土に
草を繁らすことなく、育てることなし。
しなやかなる藪は春も歌を競う小鳥のさえずりを
響かすことなければ、賑わすこともなし。
されど渾沌《こんとん》と黒き軽石のむさくるしき岩が、
その周囲に堤をなして糸杉の暗がりを喜びて横たわる。
この場所より冥府《デイース》の父はその頭をもたげ、
葬式の松明《たいまつ》をもって照らし、白き屍灰をもって斑《まばら》にし、
つぎのごとき言葉もて翼ある|運命の女神《フォルトゥナ》を煽動せり。
『人間界と天界の主権者なる|運命の女神《フォルス》よ。
おん身はあまりに確固たる権力には少しも喜ばれず、
たえず新奇なることを愛して、征服したるものをたちまち見棄てたもうが、
ローマの重圧の下におん身が征服され、
滅亡すべき群をさらに高く支えること能わざるを感じたまわざるや?
ローマの青年はおのが力を蔑視し、
おのが手の築き上げたる富の下に呻吟す。
見よ、あらゆるところにて掠奪品を浪費し、
富の悪用がおのれの破滅をもたらせるを!
かれらは黄金の建物と、星にまで高められたる王座を所有す、
かれらは突堤をもって波を駆逐し、
人工の海を耕地のまんなかに生ぜしむ。
不逞なる人間は万物の秩序を顛倒《てんとう》す。
見よ、かれらはわが王国さえも支配す。
大地はかれら狂人どもの事業のため刺し貫かれて切り開かれ、
いまや山々は洞穴が呻吟するにいたるまでくりぬかれ、
人々は宝石をかれらの虚栄のために利用するのに、
冥府の亡霊は天の光明を希望すと告白す。
されば立ち上がりたまえ、|運命の女神《フォルス》よ、
おん身の平和なる表情を戦いに変え、
ローマ人を掠奪して、死者をわが王国にもたらせたまえ。
わが唇が血をすすらざること久し、
スラの剣が鯨飲して〔前八二年スラがマリウス党を虐殺したことをさす〕、大地が血で肥えたる穀物をもって繁り、
太陽まで高まりしこの方、わが愛する|復讐の女神《ティシポネ》〔復讐の三女神のうちもっとも無慈悲な女神〕は、
彼女の渇せる手足を血にひたせることなし』
かくかれは語り終え、女神の手を引き寄せんとして、
ついに大地を切れ切れに寸断せり。
このとき|運命の女神《フォルトゥナ》は浮薄なる心よりつぎの言葉を発しぬ。
『おお、|冥府の川《コキュトゥス》の奥地も命に服する父よ、
おん身の祈願はかなえられん、もし少なくとも、
罪せられずに真相を語ることを許さるるならば。
わが心に生ずる怒りはおん身の怒りと同じく鋭く、
わが体内深く燃ゆる焔はおん身のそれと同じくはげしきものなれば。
われはローマを卓越せしめたるあらゆる資性を憎み、
われみずからの祝福に立腹せり。
これらの聳ゆる宮殿を建てたる神は、またそれらを滅ぼすならん。
これらの人々を焼き、わが渇望を血をもって満足せしむることはまたわが喜びとならん。
見よ、すでにわれは二つの戦いの死者をもって、
撒き散らされたるピリッピイ〔ブルートゥス軍がオクタウィアヌス軍に敗れた土地〕の野と、
テッサリアの焔を吹く火葬の積薪《つみまき》〔ポンペイウスがカエサルの軍に敗れたテッサリアのパルサルスにおける戦闘をさす〕と、西班牙《イベーリア》人の埋葬〔カエサルによるイスパニア遠征をさす〕を見たり。
すでに武器のすさまじき響き、わがふるえる耳のなかに高鳴る。
またリビュア〔カエサルのエジプト遠征をさす〕においてはニールス河の防塞呻吟し、
アクティウム湾においては驚愕せる人々と、
アポロにより愛せられたる軍勢を見たり。〔ギリシアの北西部アクティウムにおいて前三一年アントニウス及びクレオパトラを撃滅したアウグストゥス帝の勝利はアポロ神の加護によるものといわれている〕
さればおん身の占める渇ける領土を開いて、
新たなる亡霊を呼び寄せたまえ。
老水夫ポルトメウス〔冥府の川の渡し守の名。普通カローンと呼ぶ〕にはその小舟にて亡者どもを運び得ざらん。
そは全艦隊を必要とす。
また蒼白き|復讐の女神《ティシポネ》よ、おん身は
この限りなき滅亡に満足せられよ、
出血せる傷口を引き裂きたまえ。
全世界は切れ切れに寸断され、
冥府《ステュギア》の闇に引き込まれん』
女神がかく語り終えるや否や、一抹の雲ふるえ、
光芒裂けて一瞬間、焔の炸裂をひらめかせり。
闇の世界の父は地下に沈み、大地の胸の裂け目を閉ざして、
かの兄弟の一撃〔ユピテル神の電光をさす〕を恐れて蒼白となりぬ。
ただちに来たるべき人々の殺戮と破滅は、
天上よりの前兆により明らかにされぬ。
なんとなれば、太陽《テイタン》表情を醜くして血をはねちらし、
闇のなかにその顔を隠せり。
そのときすでにかれは内乱を見たりと思えるならん。
他方にては月《キュンテイア》がその満面を暗くして
この犯罪を照らすことを拒めり。
山々の頂きはすべり落ち、峰々轟然と裂け、
さ迷える流れは涸《か》れんとし、
つねの堤を超《こ》えてはもはや進まず。
大空は打ち鳴らす武器の響きにてやかましく、
ラッパは天までふるわせて、軍神《マルス》を目ざめさせ、
ただちにアエトナの山〔シチリア島のエトナ火山〕はつねならぬ火にのまれ、
空中高く閃光を打ち上ぐ。
見よ、墓と葬られざる屍のあいだに、
恐ろしき威嚇をつぶやく死者の顔を!
見知らぬ星にて取りまかれたる一条の昼をあざむく光
町々の火災を導き、大空《ユピテル》は新しき血の雨を降らす。
しばらくして大神《ユピテル》はこれらの前兆を明らかにしたまいぬ。
いまやカエサルは躊躇をことごとく放擲《ほうてき》し、
復警熱に駆られ、ガリアに対する紛争を打ち棄て、
ローマに対して武器を執れり。
そびえ立つアルペス山中に、
ギリシアの神により踏まれたる岩〔イスパニアの王ゲリュオンを殺しその牛を奪った帰途、英雄ヘルクレスが踏んだと伝えられる岩〕
下方に傾斜し、人々に近づくことを許すところに、
ヘルクレスの祭壇に捧げられたる場所あり。
冬はこれを凍れる雪もてとざし、
その白き頂きを空中にそびえさせ、
空はそこより退けるごとく見ゆ。燃ゆる太陽の光も、
春の季節の微風もやわらげることをえず、
氷と冬の霜とをもって硬く逆立ち、
そのいかめしき肩は全地球を支え得たり。
勝ち誇れる軍勢とともにカエサル、
これらの高地を踏みて一カ所を選びしとき、
この高き山頂より、はるかにイタリアの野を見わたし、
天高く両手をさし上げてかくいえり。
『万有の主たるユピテルと、かつてわが勝利を誇り、
わが偉業を担えるサトゥルヌスの土地〔イタリアの国土をさす〕よ、
余はみずからすすんでこれらの軍勢に軍神《マルス》を招くにあらず、
またみずからすすんで撃たんとてわが手を挙ぐるにあらざることの証人となりたまえ。
されど余がレーヌス河〔ライン河〕を血で染め、ガリア人がアルペスより、
わがカピトリウム〔ローマのユピテルの神殿の建っている丘〕に二度目の進撃をなさんとするのを遮断する間に、
わが都より追放されし傷によってやむをえずなすなり。
勝利はわが追放をさらに決定的にす。
ゲルマニア人の血と六十回に及ぶ勝利こそ
わが罪障のはじめなりき。
されどわが名声を恐るるは何ものぞ?
余が戦いを見まもる人々は何ものぞ?
傭兵は安価に買われたり、かれらにとりてはわが愛するローマは継母なり。
されど余は信ず、まったく罰せられず、報復なしに、
この右手を臆病者に縛らすことなしと。
憤激して征服者よ、行け、わが友よ、行け、
そして剣をもってわれらの動機を申し立てよ。
われらはみな一つの咎《とが》の下に召喚され、
われらすべての上に同じ運命かかれり。
わが感謝はおん身らの当然受くべきもの、
わが勝利はわれ一人のものならず。
そがゆえに、われらが戦勝を懲罰がおびやかし、
不名誉が征服の報酬なる以上は、
|運命の女神《フォルトゥナ》をしてわれらの運命のいかに帰するかを決定せしめよ。
戦端を開いて、威力を示せ。
確かにわが申し立てはなしとげられたり、
かくも多くの武装せる勇者のあいだにありては敗北を知らず』
かく声高く語れるとき、デルピーの鳥《とり》〔カラス〕、
空中によろこばしき前兆を与え、
飛翔《ひしよう》して大気を打ちたり。
また暗き森の左方よりふしぎなる声響きわたり、
それにつづきて火焔ひらめきぬ。
太陽《ポエブス》さえつねよりも明るき球をもてかがやき、
その顔のあたりに金色の燃ゆる暈《かさ》をつけたり。
これらの前兆に勇気づけられてカエサルは、
|戦い《マウオルス》の軍旗を進め、この不遜《ふそん》なる企てを開始すべくまず進み出ず。
はじめ氷と白き霜にとざされたる大地とはかれらに手向かいせず、
おだやかなる寒気のうちに静かに横たわれり。
されどやがて軍勢、密着せる雲を破り、
打ちふるえる軍馬、流れの結氷を飛散させるや、雪は融けて去りぬ。
よみがえれる河は山上より滔々《とうとう》と流れ落ちぬ。
されどまた何ものかの命令によるごとく停止し、
水は落下する流れをせきとめられて急に止まり、
一瞬まえに流れたる河はいまや停りて、砕くには固し。
それより先に油断ならぬ流れはかれらの行く手をあざむき、
かれらの前進を頓挫させ、馬も人も武器もろとも、
哀れなる破滅のうちに打ち重なりて倒る。
見よ、また雲は一陣の強風にあおられて、その重荷を落下させ、
軍勢の周囲に渦巻く突風起こり、
空はふくらめる雹《ひよう》によって砕かる。
いまや雲みずからが裂けて武器持つ人々の上におちかかり、
氷塊は海の波のごとくかれらの上に降りそそぎたり。
大地も天上の星もその堤にとりすがれる河も、深き雪のなかに覆没《ふくぼつ》されぬ。
されどいまだカエサルはしからず、丈高き槍にもたれ、
カウカススの高き峰より急ぎ下るアンピトリュオンの息子〔ヘルクレス〕のごとく。
あるいは大オリュンプスの頂きより下りて、
運命つきたる巨人族の武器蹴散らせるときのユピテルのはげしき表情にて、
大胆なる歩みをもって平坦ならざる地面を砕けり。
カエサル怒りてそびゆる峰々を踏み下るあいだに、
『風説《ファーマ》』驚愕し、翼を打ってすばやく飛び、
高くそびゆるパラティウム丘〔ローマ七丘の一つ〕の頂きを求む。
そしてこのローマの霹靂《へきれき》をもってあらゆる神々の像を衝撃す。
すなわちいかに船が海上を進みつつあるか、
またゲルマニア人の血を浴びて赤き騎兵が、
アルペス山脈を怒りに燃えて越えつつあるかを告ぐ。
戦闘、流血、殺戮、火災、また戦争のいっさいのさまがかれらの眼前に彷彿《ほうふつ》す。
かれらの心は乱れおののき、二つの意見に恐ろしくも分裂す。
一は陸路逃亡を選び、他はむしろ海路に信頼し、
公海こそいまやおのれ自身の国土より安全なりとす。
あるものはむしろ一戦を試みて、運命の決定を利用せんとす。
各人は恐るるほど遠く逃る。
この騒乱のうちに、人民はこの棄てられたる都の外に、急速に導き出さる。
かれらの痛める心かれらを駆りやるさまは悲愴なる光景なり。
ローマは逃亡を喜び、ローマ市民は戦争に畏縮し、
『風説《ファーマ》』の息吹きにかれらの家を嘆くままにまかす。
あるものは震える手におのが子らを抱き、
またあるものは家の守神を胸に隠して、泣きつつ戸口を去り、
見えざる敵に死が天降らんことを祈る、
涙のうちに妻を抱きしめる者、年老いたる父親を運ぶ若者、
また重荷を運ぶに慣れず、失うことを恐れるもののみ持ち去る者もあり。
愚か者は全財産を曳きずり、獲物を負いて戦闘に進む、
そしていまやすべては、あたかもはげしき南風《アウステル》が天上より吹き来たりて、
波を打ち上ぐるときのごとく、索具も舵も乗組員をも助けず、
あるものは重き松板を縛り合わせ、
あるものは静かなる入江と波おだやかなる岸に向かい、
あるものは帆をあげて逃走し、すべてを運命にゆだぬ。
されどなにとてかかる些事を嘆くや?
黒海《ポントゥス》を震駭《しんがい》させ、恐ろしきヒュダスペス河〔インドにある河〕を踏査し、
海賊を打ち破りたる〔前六七年、四十日間にキリキア人の海賊を地中海から一掃したこと〕岩にして、
近くは第三回目の勝利においてユピテルの心を揺り動かし、
黒海《ポントゥス》の苦しめられたる水とボスポルスの征服されたる海を平伏せしめたる、
大ポンペイウスは恥ずべくも二人の執政官〔マルケルスとレントゥルス〕とともに逃走し、
その帝王の称号を落しめたり。
かくて変わりやすき|運命の女神《フォルトゥナ》は逃亡にて向き変わりたる
ポンペイウス自身の背を眺めえたり。
かくも大いなる惨禍はまた神々の力をも打ち破り、
天上の畏怖《いふ》は騒乱を増大せり。
見よ、世界じゅうのやさしき神々は逆上せる大地を嫌悪して棄て去り、
人間どもの罪を宣告せられたる軍隊より身を逸《そ》らせるを。
まず|平和の女神《パックス》は雪のごとく白き傷つけられたる腕をもって、
打ち負かされたる彼女の顔をヘルメットの下に隠し、
この地上を去って|下界の王《デイース》の無情なる王国に逃亡す。
彼女のわきにつつましき『信義《フィデス》』と髪も解けたる『正義《ユスティティア》』と、
外套を寸断されたる『和名《コンコルディア》』の女神たち泣きつつしたがう。
されど下界《エレプス》の館《やかた》大きく口を開けるところに、
恐ろしき『復讐《エリニュス》』と険悪なる『戦争《ベルローナ》』と、
炬火を振り回す『報復《メガエラ》』と『破滅《レトウム》』、『謀叛《インシディアエ》』、
顔蒼白き『死《モルス》』の女神ら、
下界《デイース》の王の恐ろしき仲間進み出ず、
なかにも『狂気《フロル》』は手綱の切れ放れたる奔馬のごとく、
血にまみれし頭を振りあげ、千カ所の傷にて損われたる顔を、
血に染まりたる兜《かぶと》にてかばう。左手には、
無敵の突き痕にて裂けたる、重き盾を握り、
右手に燃ゆる松明《たいまつ》を打ち振りて世界じゅうに火を運ぶ。
大地はこれらの神々が侵入せるを感じ、
星は衝撃を受けて以前の平衡をとり戻さんとて動揺せり。
空の宮殿はことごとく粉砕せられてくずれ落ちたれば。
そしてまずディオネ〔元来はウェヌスの母だが、ここでは愛の女神ウェヌス自身をさす〕はカエサルの功業を導き、
|戦の女神《バラス》は丈高き槍をしごく軍神《マウオルス》の子〔ロムルスのこと。ローマの建国者であり、初代の王であったと伝えられている〕とともに彼女のわきにつきしたがう。
太陽《ポエブス》の妹〔月の女神〕とキュレネの子〔メルクリウス〕とあらゆる行為かれによく似たる、
ティリュンスの英雄〔ヘルクレス〕、大ポンペイウスを迎う。
ラッパはとどろき、髪を振り乱せる『不和《デイスコルデイア》』は、
下界の頭を空高くもたげぬ。
彼女の口もとにはすでに血が乾き、損ぜられたる両眼より涙流れ、
いら立てる歯はざらざらせる垢《あか》にみち、
舌には汚物をしたたらし、顔は蛇もてとりまかれ、
衣服はもだえる胸の前にて引き裂け、
震える手に赤き松明を打ち振りぬ。
彼女が|冥府の川《コキュトウス》と地獄《タルタルス》の闇をあとにせしとき、
彼女は名高きアペンニヌス〔アペニン山脈〕の高き峰々に進み出で、
そこよりあらゆる土地とあらゆる岸と、
全地球上を押し進む軍勢を見たり。
そしてつぎのごとき言葉を怒れる魂よりしぼり出しぬ。
『いまこそ、武器をとれ、国民よ、
なんじらの心が燃ゆる間に武器をとれ。
そして松明を町々の中心に置くべし。
隠れんとする者は命を失わん。女も、子供も、
齢《よわい》衰えたる老人も行かしむるなかれ。
大地自身を打ちふるわせ、粉砕せられたる家々をして戦いに加わらしめよ。
なんじマルケルスよ、法を保持せよ。
クリオ〔カエサルの支持者で、前四九年アフリカのユバで戦死〕よ、なんじは平民どもを畏怖せしめよ。
レントゥルスよ、なんじは力強き軍神《マルス》を阻止するなかれ。
そして神のごときカエサルよ、なにゆえなんじは武器をもちながら躊躇するや?
なにゆえ城門を撃砕し、町々より城壁をとり去りてかれらの財宝を奪わざる?
マグヌス〔ポンペイウスをさす〕よ、なんじはいかにしてローマの丘々を護るかを知らざるか?
かれをしてエピダムヌス〔北ギリシアのエピルスにある地名。ポンペイウスはここに堡塁を築いた〕の堡塁を求めしめ、
テッサリアの湾を人々の血をもって染めしめよ』
かくして『不和《ディスコルディア》』のあらゆる命令は
地上においてすでに遂行されたり」
[#ここで字下げ終わり]
エウモルプスがこれらの詩をきわめて流暢《りゅうちょう》に吟じ終えたとき、とうとうわれわれはクロトンに入った。その小さな宿で元気をとり戻したが、翌日はもっと構えのりっぱな家をさがしに出かけ、そして遺産あさりの群れに出会った。かれらはわれわれがどういう種類の人間であるか、どこからやって来たのかとたずねた。そこでわれわれのあいだでの相談でとりきめられていたように、誇張した言葉で能弁にどこからやってきたか、また何ものであるかなどいうことを知らせてやったが、かれらはそれを少しも疑わずに信用した。
かれらは自分の富をエウモルプスの上に積み上げようと猛烈に競争した。
遺産あさりは熱心にみんな贈り物をもってエウモルプスの好意をかち得ようとした。……
こういったことがながいあいだクロトンでおこなわれた。……そして幸福で充たされたエウモルプスは自分の財産の昔の状態を忘れ果てて、かれの知人たちにここでは何びとも自分の勢力に反抗しえないとか、自分の従者がこの町で何かの罪を犯しても友人の好意で罰せられずにすむだろうなどと自慢したほどであった。しかしぼくは毎日増えてゆくばかりのご馳走を腹いっぱい詰め込んだけれども、|運命の女神《フォルトゥナ》はぼくの保護から顔をそむけてしまったものと信じた。やはりぼくはときどき昔の習慣を考えてみて、自分にこういいきかせつづけた。
「もしずるい遺産あさりがアフリカに密偵を派遺してわれわれのうそを発見してしまったとしたら? あるいは召使が現在の幸運にあいて友人ににおわすか、意地悪から裏切りをしてすべての計略をあばいてしまったとしたら? もちろんわれわれはふたたび逃げ出さなければならないだろう。また新たに乞食として出発しなおして、いまやとうとう駆逐してしまった貧乏神を呼び戻さなければならないのだ。神々と女神たちよ、法網を逃れて生きるのはむずかしいものですね。そういう男は当然受けるべきものをいつでも心に覚悟しているのです」……
「あなたはご自分の美貌をよくご存じだから傲慢《ごうまん》なのですね。そして愛撫を与えずに、金で売るのですね。あなたの見事に櫛《くし》を入れた髪や、顔料で塗り立てられた顔や、また目のなかにある柔和なすねたようなようすや、一歩も度を超えてわきにそれないように技巧的に整えられている歩き方などは、その姿を金で自由に売るつもりでなければ、いったいどういうつもりなのですか? 私をよくごらんなさい。私は占いも知らなければ、占星家の眺める空にも注意しません。けれども私は人間の顔でその性質を知ります。そして歩き方を見れば、その人の考えがわかります。ですからもしあなたが私の欲しているものを私たちに売ってくださるなら、ここに買手が待ちかまえているのです。もしあなたがもっと情けぶかくなってそれを私たちにくださるなら、そのご好意には恩をきます。なぜならあなたが身分の低い奴隷だと告白なさるとき、あなたに対して燃やしている熱烈な欲望はますますたきつけられるのです。ある女たちはいやしい男たちに熱くなり、短い衣服をつけた奴隷か召使を見かけなければ、欲望も起こしえません。またあるものは剣闘士や、埃《ほこり》にまみれた騾馬追いや、あるいは舞台に身をさらして体面をけがす俳優に心を燃やします。私のご主人もこの種類のほうで、オルケストラ〔ローマの劇場では元老院議員の席に指定されていた〕から十四列をとびこえて、背後の下等な人々の席のあいだに愛人をあさります」
ぼくの耳を嬉しがらせの言葉でこんなふうに充たすので、ぼくはいった。
「ぼくをそんなに愛してくれる方というのは、もしやあなたではないでしょうね?」
このような間の抜けた言い回しをその侍女は大声で笑っていった。
「どうかそんなにうぬぼれないでくださいな。私はまだ奴隷なんかの下に寝たことはありませんし、絞罪に処さなければならないような悪者などに手を投げかけることは神様がお禁じなさいますように。そういったことや鞭打ちでできた傷痕に接吻したりするのは奥さん方に見られることです。私はただの侍女かもしれませんが、それでも騎士階級の方々の席以外には腰を下ろしませんのよ」
ぼくはそのような異常な情熱があるものかといぶかったり、また侍女が人妻の誇りを持ち、人妻が侍女の下賤な趣味を持っているなんてかわった人たちもいるものだと思いはじめた。それからわれわれの冗談話がさらにすすんだので、ぼくはプラタナスの木立ちにそのご主人をつれてくるように侍女に頼んだ。この決心はその娘を喜ばせた。そこで彼女は裳裾《もすそ》を高くはしょって、道の近くに生えていた月桂樹《ラウルス》の木立ちのなかへ入っていった。まもなく彼女は女主人を隠れていた場所からつれ出してぼくのそばにつれてきた。彼女は美術家のつくったあらゆる彫像よりも、もっとかんぺきなものであった。いかなる言葉もその姿をとらえることはできなかったし、なんと書きしるそうと筆が及ばないに相違なかった。彼女の髪は生まれつき波打っており、両方の肩全部にひろがっていた。額はせまく、髪の生えぎわがそこからうしろに梳《す》かされていた。眉は頬骨の端まで達して、両眼のそばで相触れんばかりであった。そしてこれらの目は月から遠く離れている星よりもかがやいていたし、その鼻は少しそっていて、その口はプラクシテレス〔前四世紀のギリシアの彫刻家。大理石を用いて人間の静穏な精神面を捉えることにとくに成功した巨匠〕が|月の女神《ディアナ》が持っていたと想像したような見事なものであった。またそのおとがいや首やそれから両手や黄金の軽い帯の下に置かれた彼女の足の輝き! 彼女はパロス島〔エーゲ海中にある島。白い大理石を産するので有名〕の大理石をいっこう冴えないものにしてしまっていた。そこではじめてぼくは昔の恋人ドリスを軽蔑した。……
[#ここから1字下げ]
何ごとが起こるのでしょう? ユピテルよ、
あなたがその武器を投げすてて、
天上の神々のあいだで沈黙されて黙劇《だんまり》をやろうとは?
いまやあなたの不機嫌な額に角を生やさしめ、
あなたの白髪を白鳥の羽毛の下に隠すべきときがおとずれた。
この人こそ真のダナエ〔ダナエは父のため塔内に閉じ込められていたが、ユピテル神が黄金色のにわか雨になって彼女をおとずれた〕です、思いきって、
彼女のからだにちょっと触れてごらんなさい。
いまにもあなたの手足は火のような熱で融けて流れるでしょう。
[#ここで字下げ終わり]
彼女は幸福であった、そして雲の背後から満月が顔をみせたのかと思ったほど、魅惑的にほほえんだ。すると彼女は指で言葉をあやつりながらいった。
「もしあなたが今年になってはじめて男を知った金持の女を軽蔑なさらないなら、おお、お若い方よ、私は妹を差し上げます。あなたはもう弟さんを持っていますね。私は聞き合わせることを怠りませんからよく承知しています。けれども同じように妹を持つことがどうして工合が悪いでしょう? 私は同じ地位を得たいのです。お気に召したとき、私の接吻がどんなものかお知りになればよいのよ」
「あなたの崇拝者のなかに一人の他郷《よそ》から来た男を加えることをさげすまぬように、あなたの美しさにかけて、私は懇願します」とぼくはいった。「もしあなたを崇拝することを許してくださいますなら、あなたはぼくが熱心な信者であるのを見出すでしょう。またぼくが何の供物も持たずに、この愛のお社《やしろ》に近づくものとは考えないでください。ぼくの弟を差し上げます」
「なんですって?」と彼女はいった。「あなたはその人なしには生きてゆけず、その接吻にあなたの幸福がかかり、私があなたを愛させたいようにあなたが愛しているあの子をくださるとおっしやるの?」
彼女が語っているときでさえ、しとやかなようすが彼女の言葉を魅惑的にし、心地よい響きがやさしく空気をふるわせたので、微風のなかでシレネスの合唱をきくのかと思ったほどであった。そこでぼくはいかにもふしぎな気がしてき、また空のあらゆる光がどうしたものか、まえよりも明るくさしてきたので、ぼくはこの女神の名前をどうしてもききたくなった。
「すると私の侍女は私がキルケーと呼ばれていることを申し上げなかったのですね?」と彼女はいった。「私はほんとのところ太陽の子でもありませんし、私の母もその軌道で回転する世界に好きなときにとどまったこともありません。けれども私は運命が私たち二人をいっしょにさせてくだされば、天に報いるべき恩恵を持つことになりましょう。確かにいま冥想しておられる神々はなにか計画を持っているのです。キルケーはポリュアエヌス〔主人公エンコルピウスのクロトンでの偽名らしい〕を理由もなく愛しません。これらの二つの名前が出会うとき、大きな火の球がいつも燃え上がるのです。ですからもしお気に召したなら抱擁してください。あなたはどんな密偵をも恐れる必要はありません、あなたの弟さんはここからは遠くにいます」
キルケーは沈黙した、そして鳥の翼よりも柔かな両腕でぼくを抱いて、色さまざま花の敷かれた地上に倒れた。
[#ここから1字下げ]
われらの母なる大地がイーダ〔クレタ島の中央にある山。ユピテルはこの山の洞穴内で生誕したと伝えられている〕の頂きにひろげたのは、
このような花であった。
ユピテルが彼女を抱擁し、彼女がその恋に屈したとき、
かれのあらゆる心は火となって燃え上がった。
そこにはばらや、すみれや、やさしく花咲ける灯心草《とうしんそう》がかがやき、
白ゆりは緑の草のあいだからほほえんだ。
そのような土地がウェヌスを柔かい草原の上に招き、
日はさらに明るくなって、かれらの隠れた悦楽を親切に見まもった。
[#ここで字下げ終わり]
ぼくたちはこの花のなかにいっしょに横になって、千度も軽い接吻を交わした。けれどもぼくたちはもっとはげしい悦楽を求めていた。……
「どうなさったの?」と彼女は叫んだ。「あなたは私の接吻がおいやなの? それとも私の息が精進していて、ぐったりしているとでもおっしゃるの? それとも私のからだが熱で濡れているのでしょうか? もしそのいずれでもないのでしたら、きっとギトンを怖がっているのね?」
ぼくは彼女の言葉にまっ赤になって、そして以前もっていたにちがいない力をなくしてしまい、からだじゅうの関節がはずれたかのように叫んだ。
「どうぞ、奥さま、あわれんでください。私の悲しみをあざけらないでください。なにか毒にやられたのです」……
「クリュシス、ほんとのことをお話し。私が醜くって? それともだらしがなくって? おまえの女主人をだまさないで。私はどうしてか知らないが、罪を犯してしまいました」
彼女はそこで黙っている娘から鏡を奪いとって、たいていの恋人たちの唇に微笑をつくらせるあらゆる顔つきを試みたのち、土で汚れた外套の塵を払うと、いそいでウェヌスの社に入ってしまった。そのかわりぼくは死刑の宣告を受けたか、あるいはまるで幽霊でも見たかのように愕然《がくぜん》としていた。そして自分の心にいったい自分は真実の悦楽を詐取されたのかたずねはじめた。
[#ここから1字下げ]
眠りをもたらす夜が夢をもって、われらのさ迷える眠りに戯れ、
大地に隠された黄金を日の光のうちに掘り出すときのごとく、
われらのあつかましい手は盗品をもてあそんで、財宝をつかむ。
汗は顔の面に流れ落ち、黄金の秘密をひとり知って悩める胸を、
だれかがもしや切り開くのではないかと、
深刻なる恐怖がわれらの心をとらえる。
まもなくこれらの喜びが、なぶられた心より逃げ去り、
現実の姿が立ち戻るとき、心はその失えるものを慕い、
そして他のことを忘れて過去の追憶にふけるのだ。……
[#ここで字下げ終わり]
「だから私はソクラテスのように真実に私を愛してくれることに対して、かれの名で感謝しますよ、アルキビアデス〔ソクラテスの友人。アテナイの貴族の生まれで美貌と才知で有名。本文は二人のあいだに男色関係があったといっているのである。すなわちエンコルピウスの不能についてギトンが怨み言をいっている〕はその先生の寝床にそのようにけがされずには横になりませんでした」……
「ぼくを信じてくれ、弟よ、ぼくには自分が男であるのかどうかわからないのだ、感ぜられないのだ。かつてアキレウスのようにたくましかったあのからだの部分が死んで葬られてしまったのだ」……
少年はぼくといっしょに人目を避けた場所にいるのをみつけられて、悪いうわさを立てられるのを恐れ、振り切るようにして家の奥のほうへ走って行ってしまった。……
クリュシスがぼくの部屋にやってきて、女主人からの手紙を渡した。彼女はこう記していた。
「キルケー、ポリュアエヌスさまにごあいさつを申し上げます。もしも私が淫らな女でしたら、私はあざむかれたと愚痴をこぼしたでしょう。ところがあなたの無気力にさえ感謝できるのです。私は見せかけだけの悦楽にあまりに長いあいだふけりました。けれどもあなたがどうなされているか、またあなたの足で無事に帰宅できましたかどうか知りたいのです。お医者さまは筋をなくした人は歩けないものだとおっしゃっていますが。私は思っていることを申し上げます、お若い方よ、あなたは麻痺を用心しなければいけません。私はあのように差し迫った危険にある病人をみたことがありません。あなたは死んだも同然ではありませんか。もしあれと同じような冷気が膝や手をおそったら、あなたは葬式の触れ手を迎えにやったほうがよいでしょうよ。私はどうかとおっしゃるの? ええ、私はもしひどく傷つけられようとも、あなたのような可哀想な方に療法を教えてあげることを厭いはしません。もし丈夫になりたかったら、ギトンに助けを求めなさい。あなたが三日のあいだ、弟さんなしで眠るなら、あなたの筋はなおると思います。私に関する限りは、もっと私を嫌うような人を見出してもいっこう恐れません。私の姿見と私の評判とはうそを申しません。できる限りご健在ならんことを」
クリュシスはぼくがこの怨み言を全部読み終えてしまったのを見たとき、こういった。
「こういったことは、とくにこの町ではしばしば起こるのですよ。ここでは女性というものは空からお月さまをおびき寄せることさえできるのですからね。ですからこの問題だってうまく解決してあげます。ただ私の奥さまにもっとやさしい返事を記せばよいのです、そうしてあの方の心をあなたの率直な親切心で元どおりにしてあげるのです。なぜなら、ほんとうのことを申しますと、あの方はあなたから侮辱を受けた瞬間からわれを忘れているのです」
ぼくは喜んでこの娘のいうことにしたがって、つぎのように手紙を書き記した。
「ポリュアエヌス、キルケーさまにごあいさつを申し上げます。奥さま、ぼくは自分の多くの短所を認めます。なぜなら、ぼくは人間でしかもまだ若いのです。けれどもこんにちまで致命的な重罪は犯しておりませんでした。罪人があなたに告白するのです、あなたがどんな罰を命じてもぼくは当然それを受ける価値があるのです。ぼくは裏切りをしました。人を殺しました、また社をけがしました。これらの犯罪に対してぼくの処罰を要求してください。死刑におきめになるなら、ぼくの剣をもってまいりますし、鞭打ちに処そうとなさるなら、ぼくは裸で奥さまのもとに走ってゆきます。ただ一つのことだけはお心に留めおいてください。仕損じたのはぼくではなく、ぼくの道具であったということを。兵士は用意しておりましたが、武器を持っていなかったのです。だれがあのようにぼくを狼狽させたのか、ぼくは存じません。おそらくぼくの心がぐずぐずしているからだを追い越してしまったのでしょう、おそらくあまりに熱望しすぎて躊躇している間にぼくのあらゆる情熱をつかい減らしてしまったのでしょう。なにをしでかしたのかいっこうわかりません。けれどもあなたは麻痺に用心しなさいとおっしゃいました、まるで病気がもっとひどくなって、あなたをぼくのものにする手段をぼくから奪いとってしまうかのように。けれどもぼくの弁解は要するにこういうことになります――もしあなたがぼくの欠点を直すことをお許しくださいますなら、ぼくはあなたを喜ばせてあげるつもりなのです」
この約束をもってクリュシスを立ち去らせると、ぼくは自分にそむいたからだに慎重な注意を払い、入浴してから適度に油を塗布し、それから精力をつけるような食物、すなわち玉ねぎとかソースをかけないカタツムリの頭などを食べ、控え目にぶどう洒を飲んだ。それから寝るまえに静かに歩いて気を落ちつかせ、ギトンなしでぼくの部屋に入った。ぼくの弟が力を奪い去りはしないかと恐れたほど、ぼくは彼女を喜ばそうと切望していたのであった。翌日心もからだもしっかりとして床を離れ、それからあの不運な場所がむしろ恐ろしかったけれども、例のプラタヌスの木立におもむいた。そしてぼくを案内してくれるクリュシスを木立のあいだで待ちはじめた。しばらくあちこち散歩したのち、ぼくは前日と同じ場所に腰を下ろした。するとクリュシスが一人の老婆をつれて木の下にやってきた。彼女はぼくにあいさつをすますと、こういった。
「どうなさいました、高慢ちき屋さん、正気づきはじめましたか?」
それからその老婆は懐中からさまざまな色の糸を編み合わせたものをとり出して、ぼくの首にまきつけた。それから塵につばをまぜ合わせて、それを中指につけ、ぼくの抗議を無視して額の上にそれでしるしをつけた。……
こうしたあとで、彼女は三度つばを吐き、それから三度胸の上に石をほうるように韻語を用いて命じた。そしてそれらの石の上に呪文をかけてしまうと、紫の布に包んで、それからぼくの陽物に手を置き、呪文の魔力をためしはじめた。……見る見るうちに、筋は指図にしたがって老婆の手を大きな躍動でいっぱいに充たした。すると彼女は大喜びで躍り上がって叫んだ。
「ほらごらん、クリュシス、ごらんよ、どんなに私が野うさぎを人のために目ざましてやったかを!」
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堂々たるプラタヌス、実にとりまかれたる月桂樹《ダプネー》、
ふるえる糸杉、はたまた剪定《せんてい》された松の揺れる頂きは、
夏の日陰を投げていた。
その間に泡立つ小川のさ迷う流れが、
さらさらと小石につき当たりつつ戯れていた。
これこそ恋にふさわしき場所なりと、
森のナイチンゲールも、町より来た燕《プロクネ》も証言した。
草や優しきすみれの上を飛び交いつつ、
そしてその奪われた恋を歌で追いつつ……
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彼女は金色の寝床の上に大理石のような首を押しつけ、落ちつき払った顔を花咲ける桃金嬢《ミルテ》の小枝であおぎながら、そこに身を伸ばしていた。そしてぼくを見たとき、昨日のぼくの粗暴さを思い出して少し顔を赤らめた。それからかれらがみんな二人を置いて立ち去ってしまったとき、そばに坐るように求めたのでぼくは腰を下ろした。彼女は桃金嬢《ミルテ》の小枝をぼくの両眼の上に置くと、まるで壁をぼくら二人のあいだに立てでもしたように前より大胆になっていった。
「どうなさいました? 可哀想な麻痺患者さん! 今日はすっかりなおって、ここに来たのでしょうね?」
「ためしてもみないで、なぜきくのです?」とぼくはいいかえした。そして彼女の両腕のなかへ全身を投げかけて、どんな魔法にも妨げられずに疲れ果てるまで彼女の接吻を楽しんだ。……
そのからだの挑発的な美しさによって、彼女はぼくを恋愛《ウェヌス》の喜びにまき込んでしまった。すでにしばしば高い接吻の音を立てて、ぼくらの唇がふれ合ったし、ぼくらの両手は組み合わされてあらゆる種類の愛の手くだを見出していた。またぼくらの魂までも一つものに融け合うまで、ぼくらのからだはたがいの抱擁のうちにからみ合ってしまっていた。……
明らかなぼくの侮辱はこの女を傷つけた、そこで彼女はついに復讐するため駆けていって、寝室係の下男たちを呼んでぼくの肩をなぐるように命じた。彼女はこのひどい凌辱《りようじよく》だけでは満足せずに、すべての糸紡女《いとひきおんな》やもっとも汚い仕事をする奴隷たちまで呼び集めて、ぼくにつばを吐きかけるように命じた。ぼくは両手を目にあてて何の哀願の言葉も発しなかった。なぜなら、ぼくは当然罰を受けるべきであることを知っていたから。そこで打たれたり、つばをかけられたりして、戸外にほうり出された。プロセレノスもまたほうり出され、クリュシスは鞭打たれた。そしてあらゆる奴隷たちは悲しそうにぶつぶついって、いったいだれが女主人の陽気な心をかきみだしてしまったのかとたずねた。……
そこでぼくは自分の立場をよく考えたのち、勇気をふるい起こし、そしてぼくの不面目をみてエウモルプスがうれしがったり、ギトンが落胆したりはしないかと恐れて、鞭打ちの痕を慎重にかくした。ぼくの威厳をなくさないようになしうる唯一の道は、病気をよそおうことであった。そこで仮病をつかって寝台にもぐり込み、火のような怒りのすべてをぼくのあらゆる災難のあさましい原因に向けた。
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三度恐ろしい両刃の斧を手に握ったが、
三度刃物を恐れた茎《くき》は突如ぶどうの蔓《つる》よりも弱くなり、
ふるえるために仕損じた。
もはや力失せ、いままでできたことがもうできなくなった。
なぜならば恐怖がこわばり、さらにいっそう寒いあの寒さで、
あいつは無数のしわでおおわれた陰嚢のなかに引っ込んでしまった。
だから私には刑罰を加えるために頭を出すことができなかった。
けれども陽物が死のごとき恐怖でおののいているので
私はもっと相手を傷つけうる冗談口をたたいた。
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そこでひじで起き上がりながら、ぼくはおおよそつぎのような言葉でこのがんこな相手を困らせてやった。
「なにをいうのか? あらゆる神々と人間の恥辱よ! なんとなればおまえの名前など真面目な事柄のあいだでは口に出してはならないものなのだ。天国から地獄へ引きずり下ろし、青春時代のみなぎる力を奪いとり、老境の終りの耄碌《もうろく》を課するとは、いったいおまえにどんな悪いことをしたのだ? どうかあらましでもよいからその確かな証拠をみせてくれ」
それからつぎのような詩〔この短詩は一種のパロディ〕でぼくの癇癪をもらした。
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それはかれより身をそむけて、じっと地面をみつめ、
しなやかな柳や罌粟《けし》の花の力ない首のように、
かれの言葉には少しもやわらいだ表情を示さない。
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それにもかかわらず、そのようにむごい問責を終えると、ぼくはこのような言葉を後悔しはじめ、自分の恥を忘れて、もっと威厳のある性質の人なら知ろうとさえ思わないような、自分のからだのある部分に言葉をかけてしまったことにひそかに恥じ入って顔を赤く染めた。
そこでしばらく額をこすったあとでぼくはいった。
「当然な非難をして自分の悲しみを慰めたところでなんの悪いことがあろう? それにわれわれはからだのさまざまな部分を、お腹やのどや頭でさえ、よくあることだが痛むときは呪うのがつねではないか? ウリクセスはかれ自身の心と論争したではないか〔オデュッセウスがわが家に帰宅した夜、女中のある者が男のもとに忍んでゆくのを見て殺すか、それとも今宵一夜のみ黙認するかとおのれの心と争い悶えたことをさす〕。またある悲劇役者たちはかれらの目をまるでそれが聞くことができるものであるかのように呪ったではないか〔ソポクレス及びセネカの悲劇『オイディプス王』をさすものであろう。「父を殺し母と結婚する」という予言が実現したことを知ったとき、オイディプスはみずからおのれの両眼をえぐり出して盲目となった〕。 足に痛風を病む人はその足を呪い、手に痛風を病む者はその手を、ただれ目の人はその目を呪うし、また足指をしばしば傷つける人はその不幸の一切をあわれな足のせいにするではないか。
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なにゆえ、カトーの弟子たちよ、きみたちは眉をしかめた額で私をみつめ、
そしてこの新しい天真爛漫な作品を非難するのか?
陽気な親切心が純粋な言葉をとおして笑うのだ。
そしてぼくの率直な用語は人々がなすことをみんな伝えるのだ。
なぜならばだれがいったい媾合《まぐわい》と
恋愛《ウェヌス》の喜びを知らないであろうか?
だれが温かい寝床のなかで手足を温めるのを妨げよう?
真理の父なるエピクロス自身は、
賢者の道は愛することであると命じ、
ここに人生の満足があるといわれたのだ。……
[#ここで字下げ終わり]
人々の馬鹿げた確信よりも不誠実なものはないし、また見せかけだけの真面目さよりも馬鹿げたものはない」……
この演説を終えてからギトンを呼んでいった。
「弟よ、きみの名誉にかけて話してくれないか。アスキュルトスがぼくからきみを奪い去ったあの夜、きみを辱しめてしまうまでかれは眠らなかったのか、それともかれはあの夜を一人寝で汚れなく過ごすことで満足したのかどうかを」
少年は両眼に手を触れて、アスキュルトスはなんの乱暴なこともしなかったと、もっとも厳粛に誓いを立てた。……
ぼくは閾《しきい》の上にひざまずいて、神々の好意をこのような詩〔プリアプスに呼びかけたもの。生殖神プリアプスは酒神バッコスと恋愛の女神ウェヌスの子孫であるといわれる〕で懇願した。
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ニュムパエ〔森、河、泉、海、山等に棲んでいた半女神〕とバッコスの友よ、
うるわしきディオネ〔ウェヌスの母なる女神〕が広々とした森に神として置き、
有名なるレスボス〔エーゲ海の島〕と緑なすタソス〔同〕がその意のままになり、
リュデイア〔小アジアの一地方〕人が不断の祭典をもって崇め、
その社をヒュパエパ〔リュディア地方の小都市〕のかれ自身の町に建てたる
バッコスの守護者にしてドリュアデス〔森に棲む半女神〕の喜びよ。
ここに来たりて、わがささやかなる祈りをききたまえ。
陰気なる血に汚れてはおん身のもとにわれはおもむかず、
また悪意ある敵のごとくに社に手を置きしこともなし、
されど貧しく欠乏に疲れ果てたるとき罪を犯したるも、
そはわが身のすべてにはあらず。
貧窮者の犯せる罪には咎《とが》は少なきものを、
これがわが祈りなり、わが心より重荷を取り去りて、
軽き過失は許したまえ、されば運命の好機われにほほえむとき、
かならずやおん身の光栄を崇めることなく捨ておかじ。
群のなかの父にして、角の生えたるいとも清浄なる山羊と、
うなる若き牝豚をやさしき犠牲《いけにえ》としておん身の祭壇に歩ません。
今年の新しきぶどう酒を大杯のなかに泡立たしめん。
ぶどう酒を飲みあかしたる若者たちを陽気な足どりにて、
三たびおん身の神殿を巡りて歩ません。……
[#ここで字下げ終わり]
ぼくがこういう祈祷をして自分の信用をまもるために賢明な計画を立てていたとき、醜い黒衣をまとうた一人の老婆が髪をたらして社の内に入ってきて、ぼくに手をかけ入口から外へ引きずり出してしまった。……
「どんな金切り声で鳴く梟《ストリクス》〔子供を害するものと信ぜられた妖婆〕がおまえさんの筋を食いつくしてしまったのかね? 暗闇の四辻でどんな汚物が死体を踏みつけてしまったのかね? あの少年に対しておまえさんの務めを果たすことさえできずに、おまえさんは虚弱で、病身で、疲れ果てて、坂道にさしかかった馬車馬のように骨折りと汗とを無駄づかいしたのさ。そして自分自身をあやまらせたことで満足さえせずに、神々を私に対してまでも怒らせてしまったんだよ」……
そして彼女は女司祭の部屋のなかへ抵抗しないぼくをふたたびつれてゆき、寝台の上に押しつけると、扉にかかっていた杖をとって、またなぐりつけたが、ぼくは返事もしなかった。そしてもしも最初の一撃で杖が析れて、打った力を弱めてしまわなかったら、彼女はきっとぼくの頭や腕を思うぞんぶんたたきのめしたことであろう。ぼくはわけても陽物のいじり工合に呻き声をもらしてさめざめと泣いた。そして右手で頭を隠して枕にもたれた。彼女も狼狽して涙を流し、寝台の向う側に坐って、ふるえ声であまりにぐずぐずと長生きしすぎてしまったことを呪いはじめた。すると女司祭がやってきて、こういった。
「なんだって私の部屋に入ってきたの? まるで出来立ての墓をおとずれたみたいな顔をして。おまけに会葬者でさえ笑う祭日じゃないの?」
「おお、オエノテアよ、ここにいるこの非常に若い方は悪い星の下に生まれたんですよ。この人は自分の財宝を少年にも、少女にも売ることができないのです。こんな不幸な人を見たことはありますまい。水に浸けたなめし革みたいにぐにゃぐにゃな陽物しか持っていないのです。要するにですね、快楽を少しも味わわずにキルケーの寝台から立ち去ることのできる男をどうお考えになりますかしら」
オエノテアはこれを聞いて、われわれのあいだに坐り込み、しばらくのあいだ頭を振ってからいった。
「その病気をどうしてなおすかを知っているただ一人の女が私ですよ。でたらめに私がするのだと思わないように、この若い方に一晩私といっしょに寝ることを命じます……そうすれば角のようにそれを堅くさせることができるかどうか、よくわかりましょう。
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この世で見かけるものはなんであれ私に従います。
私が望めば、花咲ける大地もその液汁を干からばせて元気を失い、
私が望めば、その宝を撒きちらし、岩も峨々《がが》たる石も、
ニールス河のごとく水をほとばしらせます。
私には海も波を立てずに静まりかえり、
風は私の足もとに黙ってその疾風を弱めます。
河も私には従い、ヒュルカニア〔カスピ海地方〕の虎や蛇にも、
私はじっと動かぬように命じます。
けれどなぜこんなつまらぬことをいいたてるのでしょう?
私の呪文で月影がおびき寄せられ、
太陽《ポエブス》も私がその軌道を無理に戻らせるときには、
身をふるわせて、火を吐く天馬の向きを変えねばなりません。
言葉の力はかくも強きもの、牡牛の激怒も、
処女の生贄《いけにえ》によって抑制され、しずめられます。
太陽《ポエブス》の娘キルケーは魔法の歌によって
ウリクセスの仲間の姿を変え、
プロテウス〔海神ネプトゥヌスに仕える海の精の一つ。自分の身を思うままに変えて逃げることができた〕はおのが意のままの姿をとりえます。
これらの術にたくみなる私はイーダの森を海のなかに置くことも、
河の流れを嶮しい峰の上に戻すこともできます」
[#ここで字下げ終わり]
ぼくはそのような荒唐無稽の約束に、非常にびっくりして身ぶるいした。そして老婆をもっと注意ぶかく眺めはじめた。
「さあ」とオエノテアは叫んだ。「私の命令に従いなさい!」そして注意ぶかく手を洗ってしまうと、寝台の上にかがみ込んで、ぼくをくりかえし接吻した。……
オエノテアは祭壇の中央に古机を置いて、おこっている炭でその上の炉《ろ》を一面に埋め、温めた松脂《まつやに》で年をへてひびの入っている杯を修理した。それから煙でよごれた壁に、杯をとり下ろしたときいっしょに抜けた木釘をもう一度打ちつけた。つぎに角ばった外套《バツリウム》を着ると、大きな料理鍋を炉の上に置き、同時に豆とか数知れぬほどこなごなに砕いた脳髄のひどくかびくさい破片などをつかうために入れて置いた袋を、叉《また》になった竿を伸ばして料理棚からとり下ろした。袋の口をゆるめて卓上に豆をいくらかあけると、ぼくによく念を入れて莢《さや》をむくようにいった。ぼくは命令にしたがい、注意ぶかい指先で粒を莢の汚いおおいから引き離した。けれども彼女は怠けているといってぼくを叱りつけ、急いで奪いとると歯で莢をたちまちに引き裂いてしまい、それを床の上に吐き出したが、それはまるで蝿の死骸のように見えた。……
ぼくは貧乏のやりくり上手と、どんな単純なことにも≪こつ≫というものがあるものだと驚嘆した。
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ここでは黄金をちりばめたインドの象牙もかがやかない、
大地も今は大理石の寄木細工《モザイク》をもって光らない、
そして大地の与えた贈り物をあざ笑うのだ。
けれども|農業の女神《ケレース》の森はその祭日に、
柳の小枝の簀垣《すがき》と、粗末な輪を早く回転してつくった
新しい粘土の杯とをもってとりまかれていた。
そこには柔かい蜜を入れる容器と、
しなやかな樹皮を剥いでつくった小枝細工の皿と、
酒神《バツクス》の血をもって染められたびんがあった。
そしてその周囲の壁は軽い籾殻《もみがら》と、はねかけられた泥とでおおわれていた。
そのうえに不細工な木釘の列があり、緑の灯心草の細い茎がかかっていた。
この他に、馥郁《ふくいく》たる花輪にからまって垂れている
柔かいナナカマドの実や、乾したキダチハッカや、
乾ぶどうの房などかれらの財宝を、
すすけた梁《はり》をもっておおわれた小屋が貯えていた。
その名声を後世に長く語り伝えるために
詩女神《ムーサ》が詩人カリマコス〔アレクサンドリア派の詩人〕をして不朽ならしめた
ヘカレー〔カリマコスが叙事詩に描いたアッティカの貧しい老婆で、テセウスを歓待した。テセウスはのちアッティカの王となる〕の崇拝にふさわしいアッテイカの土地に
昔住んでいた老婆がここにもいた。
[#ここで字下げ終わり]
老婆も同様に肉を一口食べながら、彼女自身の誕生日に生まれたものに違いない豚の脳髄を叉のある竿で蝿帳のなかへ戻そうとしたが、背の高さを補うためにつかった踏台が腐っていて、彼女の重みで壊れてしまったので、炉の上に彼女は投げ出され、びんの首が壊れてちょうどおこりかけたばかりの火を消してしまった。そしてまっ赤になっていた燃えさしが彼女のひじに触れ、あたり一面に撒き散らした灰が顔をおおってしまった。ぼくは狼狽して飛び起き、笑いをこらえて老婆を引き起こしてやった。……彼女は何ごともこの儀式を引き戻さないように火をふたたびおこすため、隣家へ駆けていった。……そこでぼくはこの家の戸口に赴いた。……すると昼間老婆から餌を貰うのがつねであったらしい三羽の鴛鳥《がちよう》がとつぜんぼくに突っかかってきて、気でも狂ったようにおそろしくガアガア鳴き立ててふるえているぼくをとりまいた。一羽はぼくの衣服を引き裂き、他の一羽はぼくの括《くく》り靴の紐《ひも》を解いて引き切ってしまった。この畜生たちの巨魁《きよかい》でもあり、親分でもあったもう一羽は、時を失せずに、ぎざぎざのあるくちばしでぼくの脚を攻撃してきた。これはまったく笑いごとはなかった。ぼくは卓《つくえ》の脚をもぎとって、この武器を手に猛然となぐりはじめた。ただの一撃では満足できなかったので、その鵞鳥を殺してぼくの名誉の仇を討ったのであった。
[#ここから1字下げ]
ヘルクレスの計略に強いられて、ステュムパルス〔ギリシアのアルカディアの地方名〕の鳥たちが、
空高く逃げ去り、悪臭ある翼のハルピュイアエが〔半鳥半女人の猛禽。ピネウスはトラキアのサルミュデッソスの王で二子があったが、自分の後妻を不当に遇したというので二人の息子を残虐に罰して盲目にした。そのため神罰を受けて盲目になり、かれの前に食物が置かれると、いつもハルピュイアエが空中から舞い下りてきてこれをさらっていったり、毒をしたたらせたりした〕
ピネウスの見せびらかしの料理に毒をしたたらしたのは、
かくばかりかとぼくは思う。
大気は打ちふるえ、異常な悲嘆をもって驚愕した。
そして天上の宮殿は上へ下への大騒動であった。
[#ここで字下げ終わり]
残った鵞鳥たちは床一面にひっくり返され、撒き散らされていた豆をすでについばんでしまったし、また首領を失くしてしまったので、おそらく社に戻ってしまったらしかった。そこでぼくは自分の獲物と勝利とを誇って部屋に戻り、死んだ鵞鳥は寝台の背後にほうり込み、大して深くもない脚の傷を酢《す》で洗った。それから叱られるのが恐ろしかったので、脱け出す計画を立てて、自分の持ち物をかき集め、この家を立ち去ろうとした。ぼくがまだ部屋の外に出ないうちに、オエノテアがおこった炭をいっぱい入れた壷を持って来るのを見かけてしまった。そこで引き返して外套《バツリウム》を脱ぎ、彼女の戻って来るのを待っていたように入口にたたずんでいた。彼女は折れた葦《あし》で燃しつけた火を起こして薪《まき》をたくさん積み上げ、友達がいつもの三杯をからにするまで帰させてくれなかったといって、遅くなったことの弁解をはじめた。
「私がいないあいだ何をしていたのだね?」と彼女はいいつづけた。「それから豆はどこにあるのかね?」
ぼくは称讃の言葉に価することをしたのだと思って、詳細にぼくの戦いぶりをことごとく語って聞かせ、彼女が意気鎖沈しているのをやめさせようと、損害の差引きとして鵞鳥をとり出してみせた。老姿はその鳥を見ると、まるでその鵞鳥が生き返ってふたたびこの部屋に舞い戻ってきたかと思われるばかりのとてつもない金切り声をあげた。ぼくは狼狽し、そしてこんな風変わりな罪を犯したことにびっくりして、なぜかっとなったのか、またぼくよりも鵞鳥のほうをもっと残念に思っているのかとたずねた。けれども彼女は両手を打ち合わせていった。
「この悪党め、よくもしゃあしゃあといえたものだね? おまえさんはどんなに恐ろしい罪を犯したのか知らないのかね? おまえさんは|生殖の神《プリアプス》のお気に入りの、あらゆる奥さま方の最愛の鵞鳥〔鵞鳥は出産をつかさどる女神ユーノーの召す鳥であった。「あらゆる奥さま方の最愛の」と記された理由である〕を殺してしまったんだよ。それからそんなことは大したことではないなどと思わないでおくれ。もしもお役人にみつかったら、おまえさんは磔架《はりつけだい》にゆくんだよ。私の家は今日までなんの汚れもなかったのだが、おまえさんが血でけがしてしまった。そしてこの司祭職を、私を放逐したがっている敵の手にやってしまったのだよ」……
「どうかそんなにがみがみいわないでくださいよ」とぼくはいった、「鵞鳥の代りに駝鳥《だちょう》を差し上げますからね」……
これにはぼくも呆れはてた。そしてその女が寝台の上に坐って鵞鳥の死を嘆いていると、ついにプロセレノスが犠牲に供する材料をもって入ってきた。そして死んだ鳥を見ると、なぜわれわれがそんなに元気をなくしているのかとたずねた。事情が判明すると彼女もまた大声で泣き出して、まるでぼくがただの鵞鳥を殺したのではなく、自分自身の父親でも殺してしまったかのようにぼくに同情した。ぼくはあきあきしたし、愛想もつきはてたのでこういった。
「どうか金を払うことでぼくの手を清めてください。もしあなた方を辱しめたり、あるいは人殺しでもやったというなら別問題ですが。さあごらんなさい。金貨二枚を置きます。これで神々と鵞鳥とが買えますよ」
オエノテアはこの金をみるとこういった。
「許してくださいよ、お若い方。私が心配したのはあなたのためなのです。あれは私の愛情を示したので、けっして悪意ではありません。ですからこの秘密を守るために私は最善を尺しましょう。けれども神々にあなたがなさったことをお許しくださるょうにお祈りをあげなさい」
[#ここから1字下げ]
だれでも金銭を所有するものは順風に航海する。
そして自分の運を自分の考えによってつくるのだ。
その男にダナエを妻に迎えしめよ、そうすれば
かれがダナエに語ったことを信ずるように、
アクリシウスに告げ得よう〔ダナエはアルゴスの伝説的王アクリシウスの娘。神託は彼女が生むであろう息子はアクリシウスを滅ぼすであろうと告げたので、かれは娘を結婚させまいと塔のうちに閉じ込めておいたが、ユピテル神が黄金色の雨となって降り下り、彼女に生ませたのがペルセウスで、予言は実現した〕
その男に詩をつくらせ、演説させ、あらゆるものをつまはじきさせ、
訴訟に勝たせ、そしてカトーをしのがしめよ。
法律家になるなら「証拠十分」「証拠不十分」を叫ばせて、
ことごとくセルウィウスとラベオーたらしめよ。
ぼくは多言を弄したが、現金さえ持っていれば、
なにを望もうとそれはやってくるだろう。
きみの金庫はそのなかに万能神《ユピテル》を閉じ込めているのだ。……
[#ここで字下げ終わり]
彼女はぼくの手の下に酒びんを置き、そして指をすべて伸ばさせて、韮《にら》とオランダゼリとでこすって、祈祷とともにぶどう酒のなかへハシバミの実を投げ込んだ。彼女はその実が浮き上がるか沈むかにしたがって、彼女の結論を引き出した。ぼくは内部がからで核がなく、空気がつまっているものは表面に浮いているが、よく熟して充実した重い実は底に沈んだのを見のがさなかった。……
彼女は鵞鳥を切り開いて、見事に肥えた肝臓を引き出し、それが示している模様でぼくの未来を占った。そのうえ、ぼくの犯した罪のあらゆる痕跡をなくすために、鵞鳥に焼串をまっすぐに刺しとおして、ぼくのためにりっぱなご馳走をつくってくれた。ぼくは彼女が話してくれたとおり、一瞬間まえは死刑になりかかっていたのではあったが。……
純良なぶどう酒を注いだ杯がすばやく廻された。……
オエノテアは皮製の陽物をとり出して、それに油とすり砕いた胡椒《こしよう》と、こなごなにしたイラクサの実をなすりつけ、それから少しずつぼくの肛門に挿し込みはじめた。
この残酷な老婆は同じ調製物をぼくの両股にも塗りつけた。それから金蓮花の汁液とカワラニンジンとを混ぜて、そのなかにぼくの陽物を浸し、ひりひりするイラクサの束を握って、へそから下の腹じゅうを徐々にまた規則正しくたたきはじめた。……
飲酒と淫欲とで老婆たちはひどくだらしなくなっていた。そして同じ道をとろうとして、いくつかの通りを通り抜け、「泥棒! 待て!」と叫びながらぼくを追ってきた。けれどもぼくは韋駄天走りに駆けて、すべての足指に血を流したがついに逃げのびた。……
「あなたの運命を以前軽蔑したクリュシスは、命を賭《と》してさえも、今はあなたにしたがってゆくつもりなのです」……
「アリアドネ〔クレタ島の王ミノスの娘〕の美しさがなんであろう? またレダ〔アエトリア王テスティウスの娘。ユピテル神は彼女を恋し、白鳥に姿を変えて近づいた〕の美しさも彼女に比較すればなんであろう? ヘレネやウェヌスも彼女に対してなんの誇るべきものを持っていようか? それから女神たちの器量争いを裁決したパリスさえ、もしその熱心な凝視で彼女たちと比較するために彼女を見たならば、ヘレネや女神たちをして彼女にゆずらせたことであろう。もしも接吻だけでも許してくれたなら、それともあの神々しい、天国のような胸を抱擁することができたならば、おそらくぼくの肉体はその力を取り戻すであろうに。そして毒に犯されて無感覚になっている部分がよみがえるであろうと信じている。どんな侮辱もぼくを疲れ果てさせはしない。ぼくは鞭打たれたことは忘れる、そして戸外にほうり出されたことは面白い冗談だと思っている。ただもう一度、彼女がぼくに親切にしてくれたなら」……
ぼくはまるで自分の恋愛の幻を追うかのように、いくどもいくども寝台の上を不安な気持で転々とした。……
[#ここから1字下げ]
神慮と仮借せぬ運命とが追いかけるのはぼくのみではない、
ぼくの前にはティリュンスの息子〔ヘルクレス〕がイナクス河の岸から追放されて、
天の重みを持ち上げさせられたし、かつてはラオメドン〔ギリシア神話におけるトロイア王〕が、
二人の神々の不吉な怒りを満足させた。
ペリアス〔テッサリアの王〕はユーノーの偉力を感じ、
テレプス〔小アジア、ミュシアの王〕はなにも知らずに戦った。
そしてウリクセス〔ギリシア名オデュッセウス。『オデュッセイア』は海神ネプトゥヌスの怒りに触れて地中海諸国をかれが放浪した物語である〕はネプトゥヌスの王国を怖れた。
そしてぼくにもまた、ヘレスポントゥス〔ダーダネルス海峡〕のプリアプスの激怒が、
この地上と白髪の海神《ネレウス》の海の上をついてまわる。……
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ぼくはギトンにだれかたずねてこなかったかときいた。
「だれも今日はまいりません」とかれはいった。「けれども昨日ちょっときれいな女の人が戸口にやってきて、押しつけがましい会話であきあきするまで長いこと私に話しかけました。そしてあなたはひどい目にあわせるだけのことがあるとか、もしもあなたの仇敵が告訴を主張すれば、奴隷の折檻を受けるだろうなどといいだしました」……
ぼくがぶつぶつ不平をいい終えるか終えないうちにクリュシスが入ってきて、駆けよると温かくぼくを抱擁していった。
「さあ、私は望み通りあなたをつかまえました。あなたは私の欲望であり、私の快楽です。この情熱の焔はあなたが私の血のなかでしずめてくださらない限り消すことはできませんよ」……
新参の奴隷の一人がとつぜん走ってきて、ぼくの主人が二日も仕事を離れていたので腹を立てているといった。ぼくにできる最良のことはなにか適当な言い訳を用意することだったらしい。ぼくを鞭打たずにかれの激しやすい怒りをやわらげることはほとんど不可能であった。……
もっとも上流階級に属するピロメラと呼ばれる貴婦人が入ってきた。彼女は若い頃は親切をほどこしてたくさんの遺産をしぼりとったが、今は年をとり盛りも過ぎ去ったので、息子と娘を子供のない老人におしつけ、その遺産を相続することによって自分の腕を確乎とひろげつづけていた。さてその貴婦人はエウモルプスのもとをおとずれて、その子供たちをかれの賢明な思慮に託し、かれの親切心に彼女自身と彼女の希望とをゆだねたのであった。かれこそ若い人たちに毎日諄々と健全な訓えを教え込むことのできる世界じゅうで唯一の人物であるから、つまり若者に授けうる唯一の相続財産であるところの能弁を聞きうるように、エウモルプスの家に子供たちを残しておくというのであった。彼女はその言葉どおりに実行した。非常にきれいな娘とその弟の少年とをともに部屋に残したまま、お祈りを捧げるため社にゆくふりをしたのであった。ぼくのような年のものまでお気に入りにしようとするほど倹約家のエウモルプスは、機を失せずその娘を男女の交わりの秘儀に案内した。けれども痛風で腰が不随であるとすべての人にいいふらしてあったし、またもしもその見せかけを最後まで保たなかったならば、われわれのお芝居のいっさいをまったく台なしにしてしまう危険があった。そこでかれのうそをあくまで信じさせるため、母親から推挙された親切心の上に坐るようその娘にすすめるとともに、コラックスには自分の横たわっている寝台の下に忍び込み、床の上に手を置いてその腰で主人を上下に動かすように命じた。かれは静かにその命令にしたがって、少女のたくみな動作に合わせて応答した。そうして事が終わりそうだとみるや、エウモルプスははっきりした声でコラックスにその務めをもっと早くやるようにはげました。こうして下男と愛人とのあいだに置かれて、この老人はぶらんこに乗っているように戯れた。エウモルプスはこのことを、一度二度と、自分の笑い声も含んだ楽しい騒ぎのなかでやってのけた。そこでぼくのほうはじっとなにもしないでいて、慣例を逸したりしないように、弟が鍵穴からのぞいて姉の操り人形に驚嘆している間に、凌辱に服従するかどうかを見るため、ぼくは攻撃にとりかかった。よく教え込まれていた少年はぼくの愛撫をはねつけなかった。けれどもぼくはまたもや仇敵の神を見出してしまった。……
〔やがてかれの力は回復する〕
「ぼくをふたたび完全に回復させえた偉大な神々よ! まことに魂を運び、運び返すメルクリウス〔ユピテル神の使者となる神で、翼のある兜を被り翼のある靴をはき、手には二頭の蛇の巻きついた杖を持っていた〕は、その親切心で立腹した手が奪い去ったものをぼくに取り戻してくださいました。プロテシラウス〔トロイア戦役にテッサリア人を率いて戦って、最初に戦死したギリシア人。故郷に残されたかれの妾ラオダミアはかれをきわめて愛していたので、神々は三時間(あるいは三日間)だけかれを甦らせて、妻のもとで過ごさせてやった。そしてふたたび夫と別れたとき彼女は自刃した〕やそのほか昔のお偉い人たちよりも、ぼくのほうがもっとひいきにされているということをあなたにみせるためにね」
こういってぼくは下着《トウニカ》を持ち上げて、エウモルプスにぼくのすべてを披露してやった。最初はかれは驚いた、それからさらに確かめるために両手をさしのべて、神々が与えてくださった贈り物に手をふれた。……
「神と人間の友人であったソクラテスはけっして店先をのぞき込んだこともなければ、大勢の群集の上に自分の視線をとめることをしなかったと自慢するのがつねであった。であるから不断に知恵と会話を交えることよりも幸福なことはないのだ」
「すべてそれは真実です」とぼくはいった。「そして貪欲な人々くらいすみやかに不運におちいるに価するものはありません。けれどももし群集をかき集めるため、釣針のように小凾やちりんちりん鳴る財布を見せなかったならば、どうして詐欺師や泥棒は生きてゆけるのでしょう? ちょうど口のきけない動物が餌につられてわなにかかるように、人間も希望を少しも握らなかったならば、捕えられないでしょう」……
「あなたが約束された金や奴隷たちを積んだアフリカからの船は、まだ着きませんね。遺産あさりの連中はあきはてて、かれらの寛大さをなくしていますよ。ですからぼくが間違っているのでなければ、われわれのいつもの幸運はあなたを罰するために逆行しはじめているのですよ」……
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「余が子女を除き、余が遺言のもとに遺産を受け取る者は、余の屍をこなごなに引き裂きて群衆の眼前にて食いつくすというただ一つの条件のもとに、余が遺したるものを獲得すべし」
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「ある国々においては死んだ人々はその親戚により食わるべしという法律が守られていて、その結果、病気の人々は肉を損ずるというので、しばしば非難されることをわれわれは知っている。であるから、私は友人たちに命令に逆らわずに、私の魂が地獄に堕ちるのを呪ったと同様に、快く私の死体を食うようご注意申し上げる」……
かれが富裕であるという非常な評判は馬鹿者たちの目と頭脳をくもらせてしまった。ゴルギアスは葬式を執行する用意をととのえた。……
「私はきみの胃袋がひっくりかえることについては少しも心配しない。もしきみがたくさんのうまいもので不愉快な一瞬間の払い戻しをすると約束するならば、きみは胃袋を命令にしたがわすことができよう。ちょっと目を閉じて、人間の肉ではなく、百万セステルティを食べるのだと想像したまえ。なおわれわれはその味をよくするような調味料をなにか見つけよう。どんな肉でもそれだけではまったくうまいものではない。人工的に変質させて、いやがる消化器に適合させなければならないのだ。けれどももしきみが前例でこの計画を支えてほしいと望むのなら申し上げるが、サグントゥム〔地中海に面するイスパニアの町〕の人々はハンニバルがかれらを包囲したさい、遺産の望みもないのに人肉を食べたのだし、ペテリアの人々もひどい飢饉のときに同じことをやった。もちろん、もはや空腹ではなくなったという以外には、そんなものを食べて何も得たわけではないが。それからヌマンティア〔第二ポエニ戦役で名高いイスパニアの町〕がスキピオによって奪取されたとき、胸に半ば食われてしまった子供の死体を隠している女たちも見つかったのだよ」……
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『サテュリコン』について
ギリシア圏の小説、散文による制作をひととおり経過して、ラテン語による創作に移ると、すぐに目につくのは、この両者のなすいちじるしい対照だろう。もっとも、ラテン系の創作といっても、純粋な「小説」として取りあげられるのは、本書ペトロニウスの『サテュリコン』と、約百年ほど後のアプレイウスの『黄金のろば』と、この二篇しか現代には伝わっていない。しかしこの両者がともに、ギリシア系の「ロマンス」、恋愛を主題とするともかく真面目な伝奇小説とはうって変わって、ともにきわめて写実的、現実的であり、また諷刺味に富み同時に猥雑な傾向も多分に加味されているのは、文化史的にもはなはだ興味ふかいことである。
また時代も比較的に早く、『サテュリコン』の作者を皇帝ネロの朝に、「優雅の判定者」arbiter elegantiae と聞こえた寵臣ペトロニウスその人とすれば、正しく第一世紀の中葉となる(六五年に死を賜わる)。『黄金のろば』は恐らく二世紀前半か中頃かの作であろう。そしてこの両者とも、「ミレトス物語」の系統に属するのは、見逃しえないことである。小アジアの大市ミレトスが、イオニア地方の中心として殷盛《いんせい》をきわめ、商工業も盛んに富み栄え、その風俗も遊惰に流れがちとの噂は、もう古典時代からの定評だった。イオニアで流行した寓話や小話の類が、やがてそうした風俗の乱れ、浮気女や密《みそ》か男の物語を数多く生み出したのもまた当然とされよう。しかしこれらを集め、おそらくは修飾の筆を加えて、散文の物語集を出したのは、われわれの知る限りでは、紀元前百年頃の人といわれるミレトスのアリステイデスの Milesiaka を始めとする。この本は名ばかりで今に伝わらないが、当時は大いに世の注目を招いたらしく、間もなくシセンナの手でラテン訳され、広く流布を見てパルティア軍と戦ったクラッスス麾下《きか》のローマ兵も、陣中にこれを大いに愛読したと伝えられる。『黄金のろば』がその態に倣うと宣言し、『サテュリコン』がこれをなかに紹介しているだけでなく、その趣きを多分に模しているのが、この「ミレトス風」の話である。
『サテュリコン』はまたヘレニズム時代に流行した形態を、その精神共々、自己の文学形式に利用している。それは、メニッポス風サトゥラの様式で、すなわち、散文体と詩形との交互のつぎはぎ模様である。後にはダンテの『新生』や、フランス中世の Cantefable(歌物語)にも認められるこの形は、シリアはガダラの人メニッポス(前三世紀)が始めたといわれるもので、ローマではワルロー(前一世紀初)につづき、カエキリウス、ティブルスらもこれを用い、ルキアノスにも『イカロメニッポス』などあるのは、人も知るごとくである。
ペトロニウスが、物語中に挿んでいる詩はなかなかすぐれたものとされ、トロイア没落や暴風雨の海の描写など賞揚されるが、惜しいことに、もとは一六巻を数えたと見られる長篇のうち、現在残るのは二巻分ほどの一部にすぎず、全体の構成はとうてい測知を許されていない。しかしだいたいにおいてそれは一種の「悪漢小説」のようなもの、今ではその元祖とされるもので、主人公(らしい)エンコルピウスとその対となるアスキュルトスと、二人のあいだを往来する美少年の奴隷ギトンとの三人が、地中海の港町を何かの罪の意識に追われながら彷徨する物語らしく、これに種々の猥雑な人物、情景がからまる。おそらく彼らは、オデュッセウスが海神ポセイドーンの怒りの下に漂浪をつづけたように、豊饒の生殖神プリアポスの呪いを受けて、さまざまな無下に色情的な放浪と災厄とに遭遇させられているらしくうかがわれる。
また本書の名声はとりわけて、現存する部分中の、『トリマルキオの饗宴』と呼ばれる一節によって高められているが、ここでは旧主人の少年奴隷だった主人公が、やがて一世の成り金として自立し、いまその邸宅で、突拍子もなく豪勢な饗宴を催す、その一々の様子が仔細に写し出される。あるいはこれにはネロ帝の饗宴が手本とされているかもわからないが、いい気で浅薄な知識をさらけ出す主人公や、贅沢でしかもくだらぬ食膳の一々、伴食の人々の描写など、強靱なリアリズムに裏づけられるいっぽう、その間にエペソスの寡婦の滑稽なミレトス話や、狼に化ける男の奇談など、いずれも特異な題材でこの一篇の価値を高める。そして、これら全体の裏には、諷刺とも偽悪趣味ともいわれない作者一流の、きわめて冷やかな、諦念にも似た放下と悲痛ともいうべき毀損とが認められよう。まさしくこれはかつてはきわめて有能な経世家であり、今はネロの放縦の手先きを勤めさせられているペトロニウスの作たるにふさわしい小説、あるいは自己批判の書であろう。もとよりこれをそう深酷に取らず、猥雑な興味本位の漫談として読むことも可能である。
一言なお本書の題名についてふれておけば、これは上記のようにメニッポス風のサトゥラ(原意は「取り混ぜの皿、雑餐」)に出る、これが後の Satira にホラティウス辺では変わってゆき、諷刺的なものにもっぱら用いられるが、元来は世相の多趣多様を描く、と解釈される。それゆえ、ペトロニウスのも、Saturae あるいは Satirae とする学者もあるが、稿本には Satyricon とされている。ギリシアの半羊神 Satyros からの連想にもとづくものである。(呉茂一)