トレント最後の事件
E・C・ベントリー/宇野利泰訳
目 次
一 凶報
二 巷《ちまた》をさわがせて
三 朝食
四 さ迷う手錠
五 突つきまわる
六 バナー君登場
七 黒衣の婦人
八 検死審
九 新しい手がかり
一〇 富める者の妻
一一 未発表の記事
一二 悩みの日々
一三 激発
一四 手紙を書いて
一五 裏の裏
一六 痛手の上に
解説
[#改ページ]
主要登場人物
[#ここから1字下げ]
シグズビー・マンダーソン……アメリカ実業界の巨頭
メイベル・マンダーソン……マンダーソン夫人
ジョン・マーロウ……マンダーソンの秘書
カルヴィン・バナー……マンダーソンの秘書
マーティン……マンダーソン家の執事
セレスティーヌ……夫人の小間使
バートン・カプルズ……夫人の叔父
ジェイムズ・モロイ卿……新聞社の社長
マーチ……ロンドン警視庁の警部
フィリップ・トレント……画家で名探偵
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
一 凶報
わるい知らせと、わるい知らせに見えるだけのもののあいだに、世人はどのようにして、正しい差別をつけることであろうか?
策謀家をもって知られたシグズビー・マンダーソンは、何者かの手によって放たれた凶弾で、そのしぶとい頭脳を粉砕されるにいたったのだが、社会はそれに対して、一滴の涙さえ流さなかった。それはむしろ、この世の富が、いかにはかないものであるかを教えたにすぎなかった。この死者は、おどろくばかりの巨大な富を蓄積したのだが、その死にさいして、忠実な友として悼《いた》みの言葉を述べる者もなく、死後に名声を伝える行為も知らずに、わずかの間に忘れ去られてしまったのだ。ただ、その死が報道されたとき、実業界の渦中に身をおく人々だけが、天地も一時にくずれるかと、はげしい衝動にたじろぐのが見てとれただけである。
かれの祖国の波瀾にみちた経済史をひもといてみても、かれほどに実業界に威力をふるった男は見出だせなかった。かれはいわば財界の霊廟に、神として祀《まつ》りあげられた存在で、強力な資本を駆使し、巨富をかち得た巨頭も少なくないが、かれの場合、一種独特のおもむきがあった。アメリカ人の胸には、いまだに海賊物語への郷愁が影を落としているが、その青白い円光は、かれの背後にこそ輝いているのだった。意識的に市場|攪乱《かくらん》を企てるウォール街の侵略者を駆逐する闘士として、かれは長年にわたって、財界鎮護の神と崇《あが》められていたのである。
かれの祖父も、そこは往時のこととて小規模ではあったが、ウォール街に覇《は》をとなえた海賊王の一人だった。奪いとった財宝はその子に遺したが、これは株式操作による利を漁《あさ》らず、地道な金融業者として、その長い生涯をおえた。そしてその代に、いちじるしく利を産んだ資産は、そのままマンダーソンに伝えられた。
生まれついて、巨富をもたぬ生活のなにかを知らずに育ったマンダーソンは、新しい時代のアメリカ財閥の子として、富豪階級の伝統と習慣とに落ちつき、安定した人生を楽しく送るものと思われていたが、かれの場合はいささか趣きを異にした。もちろんかれは、その幼時から受けた教育によって、富める者にふさわしい生活環境についてのヨーロッパ的考え方を植えつけられていた。金をいくらかけようと、それをおのれの口からは叫びたてない。けばけばしさを避けた壮麗さこそ、趣味として望ましいものと教えられていたのだ。だが、その一方において、かれが享《う》けついだ五体のうちには、四十九年代の金鉱師、かれの祖先がそれであった投機師たちの、血が煮えたぎっているのだった。
事実、かれの実業界における経歴の初期にあっては、天才的な賭博師以外のなにものでもなかった。だれよりも優秀な頭脳を、もっぱらスリルに富んだ投機に駆使して、むかうところ敵を知らぬ神童ぶりを見せた。セント・ヘレナ島には、≪戦争とは美しき事業≫の言葉が刻みこまれているが、若き日のマンダーソンも、ニューヨーク株式市場での壮烈な大乱戦に、おなじおもいを味わったにちがいなかった。
そのうち、かれの身の上に変化が起きた。父親が死んだのは、マンダーソンが三十の年だったが、かれにふさわしい神の権力と栄光とが、新しい啓示となってあらわれたように思われた。アメリカ人特有の、すばやくて、かつ弾力のある適応性にもとづいて、株式市場の喧騒に耳をふさぐと、もっぱら、父親が遺した堅実な銀行事業に、その全力を傾注することにした。数年ならずして、その巨大な会社の全機構は、かれの手に掌握《しょうあく》されるにいたった。その会社たるや、よい意味での保守性、堅実性、資力からいって、荒れくるう実業界の大海に、毅然としてそそり立つ断崖にも似た存在だった。若いころには、世間の顔をそむけさせる行為も多かったが、それもいつか影を消して、あらゆる意味で、かれの人間は変わっていった。こうした変化の生じた理由は、だれも自信をもって説明することはできなかったが、おそらく、かれがただひとり尊敬の念をはらい、愛していたであろうその父親の、末期《まつご》の言葉がものをいったのではないであろうか。
かれは金融界を牛耳《ぎゅうじ》る巨頭の地位を確保しっつあった。そしてまもなく、その名は全世界の証券市場に喧伝されるにいたった。マンダーソンの名を口にする者は、かれのうちに、アメリカ合衆国がもつ巨大な富の強固にして、底知れぬ基盤の象徴を見出だしているのだった。かれはカルテルの形成を志し、全国的な規模をもって各企業を統合し、誤りのない判断で、公私の各事業に、資本の援助をあたえた。そしてしばしば、指導的立場にあって、ストライキを粉砕し、貧しい労働者の家庭を破滅の淵《ふち》におとしいれた。鉱山、鉄鋼、牧畜、その企業がなんであろうと、いったんその労働者が、かれに反抗し、株序を乱す気配を示すと、かれはかれら以上に、無法で非情な行動に出るのを躊躇《ちゅうちょ》しなかった。ただし、これはみな、合法的な事業目的を遂行するためになされた。したがって、かれを呪い罵《ののし》る声は少なくなかったが、金融資本家と投機家たちのうちに、かれを非難する者はみられなかった。かれはアメリカ全土に手をのばし、富力の維持とその操作に邁進《まいしん》した。強力にして冷静、失敗を知らぬかれの行動は、偉大性に特別の嗜好をもつこの国の人々の喝采を享《う》け、≪巨人≫との異名をたてまつられるにいたったのだ。
しかし、このようなマンダーソンにも、意外ともいえる一面があった。それは長いあいだ、秘書その他の側近、ないしは、客気《かつき》にはやる青年時代を知る友人のほかには、想像もゆるされぬままに秘められていたのであるが、今日、アメリカ経済の着実な進展と安定との支柱と目《もく》されているマンダーソンも、かつて投機師として傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な活躍ぶりを示し、ウォール街をふるえあがらせた当時のことを思い起こし、人知れずノスタルジアといったものを感じているのだった。古くからの知人の表現を借りると、現在のかれの状態には、たとえば大西洋に凶暴のかぎりをつくした海賊≪黒ひげ≫が、その戦利品を元手にして、ブリストルで堅気《かたぎ》の商人になったような趣きがあったそうだ。ときにはそうした海賊も、突如、眼に凶悪な光をみなぎらせ、短剣を口に、帽子のバンドで硫黄《いおう》マッチをするといった恰好を見せることがある。わがマンダーソンにしても、そぞろ懐旧の情に駆られるあまり、マンダーソン・コウルファックス商会の奥まった一室で、投機市場に奇襲をかける計画を立ててみることもあった。できあがった腹案は、いちおうタイプさせるが、実行に移したことは一度もなかった。海賊≪黒ひげ≫が、その内心の反乱を鎮圧して、≪スペイン娘≫の一ふし二ふしを口ずさみつつ、なにくわぬ顔で帳場へむかったであろうように、マンダーソンもまた、相場のうごきがおさまったあと、投機社会のだれかれをつかまえて、あのとき自分が出動していれば、百万ドルは握ったはずだと語っては、罪のないよろこびを味わうのが例だった。「わしが引退してからは、ウォール街も退屈な場所になったようだな」そうした未練がいまだにかれの口をもれるので、≪巨人≫にもこうした弱さがあるのかと、財界人は驚くと同時に、ほほえみながら評判するのだった。
かれの死が報道されると、その時期が市況が沈滞していたときであったことも手伝って、投機市場は恐慌のあらしに吹きまくられた。地震で崩れ落ちる高塔のように、株価は二日問暴落をつづけ、ウォール街は阿鼻《あび》叫喚の地獄《インフェルノ》と化した。アメリカ全土にわたり、およそ投機に手を染める人々のあるところ、そこは廃墟と変わり、自殺の洪水に見舞われた。ヨーロッパにあっても事情はおなじで、少なからぬ人々が、みずからの手で生命を奪い去らねばならなかった。かれらの運命は、一面識もない金融業者のそれと、それほどまでにつよく結びついていたのである。パリでは、ある著名な銀行家が、しずかに取引所から出てきたが、その宏壮な玄関前で、突然、死体となって打ち倒れた。わめき叫ぶ黄金の亡者どものあいだに、薬壜を手ににぎりしめながら。フランクフルトでは、大寺院の高塔から、身を投じた者があった。赤色の塔を、さらに赤く血に染めて。あるいは刃物、あるいはピストル、あるいはまた、首に縄を巻き、さまざまな手段で、人々は死をいそいだ。イギリスの片隅で、その冷酷な心臓を、金銭の獲得にささげつくした一人物が、この世に別れを告げたというだけのことで。
なによりの不幸は、この打撃が最悪の時期に訪れたことだった。当時ウォール街は、恐慌の予感におののいていた。というのは、ちょうどその一週間前、ハーン系諸銀行の主宰者であるルーカス・ハーンが逮捕されて、その背任横領があかるみに出るという事件が起きた。≪巨人≫と行動をともにするか、ないしはその支配下にある資本系統は、その影響を最小限に食いとめようと、狂奔している最中だった。この爆弾が落下した当時は、株価が実情以上の高値にあったので、この社会の常識からいっても、その崩落は必然と思われていた。穀物の不作が伝えられていたし、二、三の鉄道会社の業績報告書は、予想に反して不振だった。しかし、この広範囲の投機界で、どの領域に値下りのうごきがみられても、時を移さずマンダーソン一派が出動し、市場の維持にあたっていた。その一週間を通じて、機敏ではあるが浅薄な、貪欲《どんよく》なくせにセンチメンタルな投機者心理は、速く巨人の手が、その防衛にさしのべられているものと信じこんでしまった。新聞は筆をそろえて、マンダーソンがウォール街のブレインと、一時間ごとに連絡をとっていると書きたてた。ある新聞にいたっては、過去二十四時間のうちに、ニューヨークとマールストンとのあいだにとりかわされた電報の数を、料金の数字まであげて報道した。また、その新聞によると、マールストンにおける郵便物の洪水を処理するために、とくに電信公社は、優秀な技師を何人か、現地に派遣したそうである。別の新聞の記事では、マンダーソンはハーン銀行破産のニュースを聞いて、休暇をとりやめ、モーレティニア号で帰国する手配をした。ところが、まもなく情勢が好転したことを知ったので、またしても腰を落ちつけることにしたと伝えていた。
しかし、これらはすべて虚報だった。多かれ少なかれ意識的に、経済記者たちがさわぎ立てた結果であって、さらにその源をたどると、マンダーソン・グループの狡猾《こうかつ》な実業家がでっちあげたものであることがわかった。この連中はまったく意識的で、かれらはこの際、民衆に巣食う英雄崇拝的幻想を利用するのが最良の方策と考えたからなのだ。ところが、いくら連絡しても、マンダーソンからは返事がこない。けっきょく事態を収拾して、実際の勝利者となったのは、鉄鋼業界の大立者ハワード・B・ジェフリーだった。そうした事情で、問題の四日間は、不安のうちに終始していたが、それでもどうやら、平静をとりもどすにいたった。土曜日になっても、ジェフリー氏の足もとでは、エトナ火山の爆発にも似た地鳴り震動がつづいていたが、だいたいにおいて、氏の努力は功を奏したと思われた。投機市場は安定し、徐々にではあるが、相場も上昇気配を見せはじめた。その夜ウォール街は、ふたびやすらかな眠りをとりもどし、疲れてはいたものの、平穏無事を愉しむことができた。
月曜日になって、寄り付きの時刻がせまると、証券街のいたるところに、ぞっとするような風評が流れだした。それは電光のようなスピードで伝わっていったが、どこに出所があるのか不明だった。おそらく、電報で売り注文を受けた仲買人の店員が、電話口でもらしたのが糸口と思われた。一度、回復にむかっていた株価表に、またしてもすさまじい痙攣《けいれん》が生じた。五分ののち、ブロード街にある青空市場は、狂気じみた様相に変わった。物|憂《う》いようないつものざわめきが、真相を知ろうとあせるかん高いわめき声に転じたのだ。証券取引所の内部も、蜂の巣をつつく騒ぎとなり、人々は帽子もかぶらずとび出して行くかとみると、すぐにまた、とびこんでくる。ほんとうか? と、だれもがたずねた。そしてだれもが、唇をふるわせながら、「なあに、値鞘《ねざや》かせぎの空売り筋が、損失をカバーするために流したデマさ」と答えるのだった。その十五分あと、ロンドン取引所の立会い終了時刻直前に、突如、≪ヤンキー株≫の暴落が伝えられた。それだけでじゅうぶんだった。ニューヨークの市場が引けるには、まだ四時間というものが残っていた。マンダーソンを救世主として、市場の守護神とあおぐ防御戦術も、けっきょくは無残に崩壊し去ったのだ。かえってそれは、殲滅《せんめつ》的な威力をもつ敵戦力に姿をかえて、その案出者たちの陣営に逆襲してきたのであった。ジェフリーは専用電話を耳に、歯をくいしばったすさまじい形相で、不幸なニュースに聞き入っていた。現代のナポレオンは、せっかくのマレゴンの勝利〔イタリア北東部マレゴンでオーストリア軍に大勝した〕が、一挙にして潰滅《かいめつ》するのを知ったのだ。その三十分後に、夕刊が発行され、すべての新聞に、マンダーソンの死体発見の記事が載った。こうした場合のつねとして、その死は自殺と報道された。しかし、その夕刊がウォール街に配達される以前に、すでに恐慌旋風は猛威をふるって、ハワード・B・ジェフリーとその一党を、枯葉のように吹きとばしていたのだった。
この騒ぎも、けっきょくはなんの意味もなくすぎて、この世のうごきは、すこしの変化も見せなかった。穀物は太陽の下に、あいかわらずの成熟をつづけていたし、河川の水は舟を運び、数百万のエンジンに動力をあたえていた。牧場の羊と鶏は、いよいよ肥えふとり、牛馬の群れは数をました。人々はいたるところで、さまざまの天職にいそしみ、労役を苦にする色も見せない。ときには|戦争の女神《ベロナ》が寝がえりをうち、なにやら寝言めいたことをつぶやかぬこともなかったが、それでも浅い眠りからは醒めずにはいてくれた。現実に眼をふさがれ、半ば狂気に落ちた賭博者たちの百万か二百万をのぞけば、マンダーソンの死は、投機市場における一挿話にすぎず、人類にとって無意味なものであり、この世の生活といとなみに、いささかも影響をおよぼすことはなかった。生きているあいだこそ、商工業界の広範な分野に、強力な指導力を発揮し、絶大の権力をふるってはいたものの、いったんその遺体が葬られたとなると、なんともみじめなものだった。同世代人は意外な発見におどろいたが、シグズビー・マンダーソンの名で行なわれていた独占勢力の存在も、かならずしも経済界の繁栄のために、不可欠の条件ではなかったのだ。恐慌は二日のあいだにおさまって、あと片づけも簡単にすみ、破産者の姿は影を消した。市場はたちまち、常態をとりもどしたのであった。
みじかかった狂乱事態が、まだ完全におさまったとも見えぬうちに、イギリスのある名家でのスキャンダルがあかるみに出て、両大陸の人々の注意を奪い去ってしまった。しかもその翌朝には、シカゴ行き急行列車が転覆するという事故が起こり、そのまたおなじ日に、著名な政治家が、ニューオルリーンズの街頭で、その細君の弟の手で射殺される事件まで生じた。それやこれやで、さしもの≪マンダーソン事件≫も、発生後一週間とたたぬうちに、アメリカ全新聞の編集者の眼には、すでにニュース価値に乏しいものと映《うつ》るにいたった。あいかわらずアメリカ人の観光客は、ぞくぞくとヨーロッパを訪れて、貧窮のうちに死んでいった文人たちの記念碑、記念像の周囲につどい集まったが、母国の生んだ富豪の生涯をかえりみる者は皆無に近かった。かれもまた、若くしてローマの陋巷《ろうこう》に死んだ詩人とひとしく、その遺骸を異境の土に埋めていたのであった。しかし、モンテ・テスタチオの麓《ふもと》に眼るキーツの墓をおとなう者の数は増しても、マールストンの小教会のかたわらにやすらうマンダーソンの霊に、弔意を示そうとする同国人は、いまもむかしも寥々《りょうりょう》たるものである。
[#改ページ]
二 巷《ちまた》をさわがせて
≪レコード≫新聞社で、調度らしい調度をそなえた場所というと、ここひとつであるが、そのジェイムズ・モロイ卿の部屋で、テーブルにおいた電話のベルが鳴った。卿がペンをもった手で合図をすると、秘書のシルヴァー氏が仕事をおいて、受話器をとりあげた。
「どなたですか?」とかれはいった。「どなた?……聞きとれませんが……ああ、バナー君か……そう。しかし……この午後は、ひどくいそがしがっておいでなんで、あすにしてはもらえませんかね……え? ほんとうですか? それだったら――ちょっと待ってくださいよ」
秘書は受話器をジェイムズ卿にさし出して、
「カルヴィン・バナーからです。シグズビー・マンダーソンの右腕といわれている男です」と簡単に説明して、「直接お話ししたいことがあるそうです。なにか非常に重大なニュースだといっています。ビショップスブリッジからの長距離電話ですから、はっきりは聞きとれませんが」
ジェイムズ卿は受話器を見やったが、あまり気ののらぬようすでとりあげると、
「もしもし」と、大声にいって、耳をかたむけた。が、そのつぎの瞬間、熱心に注目していたシルヴァー氏は、卿の顔に、つよい驚愕と恐怖の色が浮かびあがってくるのを見た。
「たいへんなことだ!」
ジェイムズ卿は小声にさけぶと、受話器をにぎったまま、腰を浮かせた。耳はまだ電話の声に聞き入っている。ちょっと間をおいては、なるほど、なるほどと、くりかえしていたが、やがて、受話器を耳にあてたまま、壁の時計に眼をやって、受話器ごしに、早口の指示をシルヴァー氏にあたえた。
「フイギスとウイリアムズを、大至急、さがしてきてくれ!」
シルヴァー氏は部屋をとび出していった。
ジェイムズ卿は長身で頑強な体躯と、さえきった頭脳に恵まれた偉大なジャーナリストで、出身はアイルランド、年齢はだいたい五十というところ。浅黒い顔に口ひげが黒い。仕事にかけては、いまだかつて疲労の色を見せたことがないという精力ぶりが、ひろく世に知れわたっていたが、かれもまたその世間の評判を知って、アイルランド人特有の皮肉をとばしてはよろこんでいた。ただし、大言壮語で相手を煙にまくといったわけではない。秘密めかしたり、該博《がいはく》な知識をひけらかしたりしないかわりに、むこうが気をもたせる態度に出たとなると、造作なくそれを見やぶって、頭からおさえつけてしまう。ととのった容貌と、いつもきちんとしている身だしなみに、育ちのよさがうかがわれるが、しかし、そのどこかに、癇癖のはげしさがひめられていることも事実で、いったん、気にいらぬことが生じたとか、仕事に熱中しはじめた場合は、たちまち眼と眉のあたりに、けわしいものが浮かびあがってくるのである。そのかわり、その鷹揚《おうよう》な性格を傷つける事実のおこらぬかぎり、卿ほどに心あたたかい人物はないといってよいのだった。
卿が社長の地位にある新聞社は、イギリスでも最有力の朝刊紙≪レコード≫を発刊し、同時に、印刷部数の最多数を誇る≪サン≫新聞も所有していた。それぞれの社屋は、おなじ通りにむかいあって建っていた。そのうえ、卿自身も、≪レコード≫紙の主筆として編集実務にあたり、就任以来、この国でもっとも有能とみられる記者たちを、その全部門にそろえていた。天賦の才に恵まれぬ者は、授けられたものを最大限に活用すべきだというのが卿の持論であるが、卿こそは天賦の才にも恵まれ、しかも、活用できるものを最大限に駆使することを忘れていなかった。だいたいジャーナリストというやからは、他人を尊敬するのにすなおでないものだが、そのなかにあって、卿はひとり、すべての部下から絶対的な信頼をかちえていたのであった。
ジェイムズ卿は数分間にわたって、熱心に耳をかたむけ、ときにはするどく質問をはなっていたが、やがて、つぎのように話をむすんだ。
「うかがっておくことはそれだけですか? 発見して、どれくらい経過しています? ……なるほど、むろん、警察へ知らせたのはよいことです。しかし、召使たちは? ほう。すると、そこではもう、だれもが知っておるんですな……よろしい。やってみましょう。……いや、バナー君。電話してもらって、まったくありがたい。恩に着ますよ。こんなうれしいことはありませんぞ。こんどロンドンへ出てきたら、まっさきにわしをたずねてくだきい。……ああ、それは大丈夫だ。心得ていますとも。では、さっそく活動を開始する。ごきげんよう」
ジェイムズ卿は受話器をおくと、眼の前の書籍立てから、汽車の時間表をひき出した。すばやくそれに眼を通しているところへ、シルヴァー氏がいそぎ足にもどってきた。そのうしろに、眼鏡をかけた、いかつい顔の男と、敏捷そうな眼つきの青年とがしたがっているのを見ると、卿は時間表を投げだして、力づよい言葉で命令を下した。
「フイギス、わしのいう事実を書きとめてくれ」ジェイムズ卿は、さきほどまでの興奮は、素振りにも見せず、冷静な表情で、早口にしゃべりだした。「書きおわったら、できるだけはやく記事にすることだ。≪サン≫の特別版に間に合わせんければならん」
いかつい顔の男はうなずいて、壁の時計を見あげた。三時を数分すぎていた。手帳をとり出すと、大きな書きもの机の前に椅子をひきよせた。
「シルヴァー」つづいてジェイムズ卿はいった。「ジョーンズにこういってくれ。大至急、地方特派員に電報を打たせるんだ。なにもかも放擲《ほうてき》して、即刻、マールストンヘ出張しろとな。ただし、電文に、理由を書かせてはいかんぞ。≪サン≫が街頭に出るまで、よけいな文句は、ひとことももらすんじゃない。――わかったろうな。それからウイリアムズ、きみはむこうの≪サン≫社へ行って、アントニー君にこういうんだ。トップの二段をあけて待機《たいき》しておいてほしい。ロンドン中をひっくり返す特ダネがはいったといってな。とにかく、たいへんなスクープだから、用意万端|怠《おこた》るなといえ。あと五分もすれば、フイギスの筆記がおわる。記事にまとめるには、アントニー君の私室がいいだろう。行きがけに、ミス・モーガンに声をかけて、すぐここへくるようにいってもらおう。それから、トレント君と話したいんだが、交換手にいって、どんな手段に出てもいい。電話口へ呼びだす手配をさせろ。きみも、アントニー君に用向きを伝えたら、すぐもどってきて、ここで待機しているんだぞ」
機敏そうな眼の青年は、あっというまに姿を消した。
ジェイムズ卿はフイギスをふりむいた。こちらもまた、すでに、鉛筆をかまえて待っていた。卿は両手をうしろに、部屋中を歩きまわりながら、口ばやに、しかもはっきりした言葉で口述を開始した。
「シグズビー・マンダーソン殺害さる」
フイギスはまったくの無表情、きょうはよい天気だといわれたように、なんの感情も示きずに速記をつづけた――手慣れきった感じだった。
「氏はこの二週間、その夫人と二名の秘書をつれて、ビショップスブリッジに近いマールストンにある別邸、ホワイト・ゲイブルズ荘に滞在中だった。この邸は四年以前に買い求めたもので、それ以来マンダーソン夫妻は、夏期の何日かを、そこに過ごすのが毎年の例であった。
昨夜、氏は毎日の習慣どおり、十一時半に寝室にはいった。が、やがて起きあがって、邸をはなれた様子である。その時刻はまったく不明で、今朝にいたるまで、氏が邸をあけていたことに気づいた者はいなかった。死体は十時ごろ、庭師が、庭内の物置小屋の近くで発見した。銃弾が左眼を貫通していて、即死と推定される。所持品の奪われた形跡はないが、両の手首にのこる傷が、格闘の痕を示している。即刻、マールストンの村からストック医師が呼ばれ、まもなく、検死が行なわれる予定である。ビショップスブリッジ警察からも、捜査官が現場に急行したが、いまだに発表をさし控えているところをみると、犯人の手がかりをつかんでいないものと推察される――
そんなところだな、フイギス。アントニー君が待っておるから、はやく行ってやってくれ。わしが電話で、用意させておくよ」
フイギスは顔をあげて、
「警視庁からも、腕利きの刑事が一名派遣されたとつけくわえたらどうです? まちがいないと思うんですが」
「よろしくやってもらおう」とジェイムズ卿はいった。
「マンダーソン夫人はどうしているんです? 現場にいたのですか?」
「おったとも。夫人がどうかしたのか?」
「はげしいショックで」と記者は意見を添えた。「目下、面会を禁止されているとつけくわえましょう。読者の感動をよびますよ」「わたしだったら、そんなことはしませんわ」と背後に、落ちついた声があった。声の主はミス・モーガンだった。青白い顔をした、ものしずかなこの女性は、口述筆記がつづけられているあいだに、無言のまま部屋にはいってきていたのである。つづいて彼女は、ジェイムズ卿にむかっていった。「わたしはマンダーソンの奥さまとお会いしたことがあるのです。とても健康的で、頭もしっかりしたご婦人でした。あのかたなら、ご主人が殺されたと聞かされても、ショックでからだを痛めるなんて、そんなことは考えられませんわ。おそらくいまごろは、警察に協力して、りっぱに活躍しておられるのではないでしょうか」
「つまり、あんたに似たタイプというわけだな」
卿はちょっと笑顔を見せた。ミス・モーガンのものに動じない沈着ぶりは、社内でも定評があるのだった。
「フイギス、そこのところ削ったほうがよいらしいぞ。では、行ってくれ。ところでミス・モーガン。あんたに頼みたいことがあるのだが、だいたい見当がついておるのだろうな?」
「マンダーソンの経歴調査でしょう。それでしたら、ごく最近のところまで用意してございますわ」黒いまつげを伏せて、情勢を考慮しながら、彼女は答えた。「偶然のことですが、つい数ヵ月前、あのひとの履歴を調べてみる必要がおきたのです。そうしたわけで、朝刊には、じゅうぶん間にあわせられますわ。二年前に、ベルリンまで出向いて、化学工場の争議を解決した事件がありました。≪サン≫ではとりあえず、そのときのせた略歴をつかっておけばよいでしょう。あれはたしか、とても要領よく書いてあったと記憶しておりますわ。あれ以上には書けないくらいでした。いうまでもないことですが、切りぬきはたくさんとってあります。たいていは、興味のないものばかりですけど。次長さんたちが出社なされたら、ごらんにいれるつもりでおります。それに、写真のほうは、うちの社で特写したのが二枚ございます。そのほかにも、トレントさんがおなじ船にのりあわせて、あの夫妻を描いた絵がありますの。このほうが、写真よりよくできておりますわ。でも、社長のご意見が、よくできた絵より、下手でも写真のほうが読者によろこばれるというのでしたら、両方おもちしておきますから、お好きなほうをおとりください。わたしの見たところ、たしかに≪レコード≫社は、ほかのどの社よりも、先んじておりますわ。もっとも、朝刊に間にあわせるために、特派員を送ることだけは、現場が不便すぎて、無理なんではないでしょうか?」
ジェイムズ卿はふとい吐息《といき》をもらして、
「わしが口を出す余地はなくなったようだな」と、机にもどってきた秘書のシルヴァーに、わざと愚痴っぼい口調でいった。「このひとときたら、旅行案内まで暗記しているんだから、かなわんよ」
ミス・モーガンはあとの言葉を待つように、袖口を直しながら、
「ほかにご用はございませんか?」
と、きいた。そのとき、電話のベルが鳴った。
「あるとも。ひとつだけだがね」ジェイムズ卿は答えて、受話器をとりあげながら、「一度きみに、ものすごい失敗をやらせてみたいんだよ。あとあとまで、語り草になるようなやつをだ。それでなければ、わしらの存在価値が怪しくなるんでね」
彼女はほんの瞬間、魅力ある微笑らしいものを浮かべたが、なにもいわずに部屋を出て行った。
「アントニー君か?」
それからジェイムズ卿は、道路ひとつへだてただけの≪サン≫新聞の主筆と、念入りな打ちあわせにとりかかった。もともと卿は、≪サン≫社の建物へ足を入れたことがなかった。「夕刊紙編集室の空気が好きだなんて人間がいるから不思議だよ」というのが卿の口癖だった。新聞街のミュラー〔ジョアキム・ミュラー。フランスの元帥、ナポレオン一世の義弟〕と称されるアントニー氏は、旋風にのって飛びまわるような、時間ひとつに勝負をかける騒々しい仕事によろこびを感じていた。そして、朝刊紙についての批判に、ジェイムズ卿が夕刊紙にむけるのとおなじ言葉を語るのだった。
その五分ほどあと、制服を着た給仕がはいってきて、トレントさんが電話口に出ましたと告げた。ジェイムズ卿は、すぐにアントニー氏との話を打ちきって、
「その電話、こちらへまわしてくれ」
卿はそういって、数分後、つながった電話にむかって、大声をはりあげた。
「もし、もし」
相手の声も、即座に答えた。
「もし、もし、どころじゃない様子ですね。で、ご用件は?」
「こちらはモロイだ」
と、卿がいいかけると、
「わかっていますよ」と相手はさえぎって、「ぼくはトレントです。絵筆をにぎっている最中でしたが、肝心なところへ、邪魔を入れられました。よほど大事な用件でなくては、おもしろくありませんね」
「トレント君!」ジェイムズ卿はおしつけるような口調になって、「大事な用件にちがいないさ。ぜひとも、きみの力を借りなければならんのだ」
「仕事ですか? 遊びのほうだとうれしいんですが」と声が答えた。「あいにくとぼくは、休暇なんぞとりたくない状態でしてね。仕事への意欲が強烈に湧いてきたところなんですよ。すばらしい傑作かできそうなんで、もうすこし、そっとしておいてはくれませんか」
「それどころじゃないんだ。重大な事件がおこってね」
「なんです?」
「シグズビー・マンダーソンが殺されたのさ――頭を撃ちぬかれてね――むろん、だれの仕業《しわざ》かわからない。死体は今朝発見されたばかりだ。場所はビショップスブリッジ近くのかれの別荘――」
そのあとジェイムズ卿は、いましがたフイギスに速記させた事実を語ってきかせて、
「きみ、どう思うね?」との質問でむすんだ。
相手は返事のかわりに、なにもいわずに、ただうなった。
「どうなんだ?」
ジェイムズ卿はうながした。
「食指がうごきますね」
「行ってくれるか?」
また、ちょっと、無言がつづいた。
「どうした? 聞いておるのか?」
相手は急に、口をとがらしたような声でしゃべりだした。
「まだそれだけでは、わざわざ出かけるだけの事件かどうか、判断がつきかねますね。なんともいえませんよ。怪奇な謎に富んだ殺人かもしれないが、毎日お目にかかっている単純な事件かもしれません。死体からなにも盗まれていないところはおもしろそうですが、案外、浮浪者かなんかが、庭へもぐりこんで眠っていたのを、マンダーソンが追いはらおうとしたことから起きたことかもしれませんね。あの男だったら、手荒いまねをしたでしょうからな。加害者のほうだって、身の安全のためには、金品なんか物色しないほうが利口だくらい考えますよ。遠慮のないところ、シグズビー・マンダーソンみたいな男が制裁をくわえられたと聞くと、拍手したくなるくらいですな。その英雄を絞首台へ送る仕事とあっては、手なんか貸したくありませんよ。ひょっとすると、社会正義のための行動かもしれませんからね」
ジェイムズ卿は電話口で、にやりと笑った――どうやら、トレント誘い出しに成功したらしい。
「なんだね、トレント君。きみも近ごろは、すっかり弱気になったようだな。とにかく、出張して、様子を見てきてくれたまえ。それで、出馬したものかどうか、判断がつくだろう。きみが乗りだすほどの事件でなければ、遠慮なく手をひくがいい。それはそうと、いま、どこからかけているんだね?」
「風のまにまに吹き流されているかたちでさ」と、漠然とした返事だった。「空、空、空、人生の歓《よろこび》びは空にありですよ」
が、ジェイムズ卿はあくまでも強引《ごういん》だった。
「一時間以内にきてくれるだろうね?」
「うかがえるとは思いますが」と返事はあいかわらず、気がのっていない様子だった。「何時までに行ったらいいんです?」
「そうこなくてはならん! 時間はじゅうぶんあるんだ――じつは、ありすぎて弱っているのさ。今夜は、地方連絡員にまかせる以外に手がないらしい。現場へ行くにしても、急行列車は、日に一本しかない。それも三十分前に出てしまったところだ。つぎは鈍行《どんこう》で、パディントン発、夜の十二時というやつなのさ。なんなら、わしの≪パスター≫をつかってもらうか――とジェイムズ卿は、スピードの猛烈にはやい自家用車の名をあげて――、しかし、どっちみち、着くのは夜になるから、きょうの仕事にはならんだろう」
「しかも、それでは今夜、不眠であかさなければなりませんよ。ごめんこうむりたいですね。汽車にしましょう。ぼくはだいたい、汽車旅行というのが大好きなんです。おれは罐焚《かまた》き、焚かれもする。赤帽の歌う唄でもある――」
「なんだね、それは?」
「こっちのことです」と悲しげな声でいって、「それはそうと、そちらの記者に、現場近くのホテルをさがして、部屋を予約する電報を打っておいてもらいたいですな」
「その手配はするから」とジェイムズ卿はいった。「できるだけはやく、顔を見せてくれ」
卿は受話器をおいて、書類の整理にかかった。すると、下の街路で、するどい叫びがきこえた。卿は、あけはなした窓に近よってみた。興奮した少年たちの群れが、≪サン≫社の階段を駆けおりて、せまい街路を、フリート街にむかって走って行くところだった。各自が新聞の束と、大きなビラをかかえこんでいる。その簡潔な文句が読みとれた。
シグズビー・マンダーソン殺さる
ジェイムズ卿は顔をほころばせて、機嫌よさそうに、ポケットの小銭《こぜに》を鳴らした。そして、すぐそばに立っている秘書のシルヴァー氏に話しかけた。
「いいビラじゃないか。札ビラが降ってくるぞ」
それは、マンダーソンの墓碑銘にふさわしい言葉だったのだ。
[#改ページ]
三 朝食
そのつぎの朝の八時ごろ、ナサニエル・バートン・カプルズ氏はマールストンのホテルのベランダに立って、朝食のことを考えていた。氏の場合、この表現は文字どおりの意味にとる必要がある。氏は実際、朝の食事のことに頭をめぐらしていたのだった。だいたいこの人物は、時間の余裕のあるかぎり、生活上のあらゆる行為について、熟慮しないではいられぬという習癖があった。その前日、死体を発見するという出来事に遭遇したので、興奮はする、忙しく動きまわらねばならぬ。あれやこれやで、食事どころのさわぎではなかったので、ふだんの日にくらべれば、栄養摂取量がずっと少なくなっていたのだった。
朝、起き出てから、すでに一時間ちかく経過していることもあって、すっかり空腹を感じていた。そこで氏は、トーストを三枚、卵は一個余分にふやし、そのほかはもちろんいつものとおりとることにきめた。栄養分の不足は、そんなことでおぎなえるものではないが、まだ昼の食事もあることで、あとまわしにすることもできるのだ。
そこまで腹がきまると、カプルズ氏は食事の注文をする前に、しばらく周辺の風光を味わうことにした。波浪に浸蝕されて孔《あな》だらけになった巨岩が、鏡のような海面から顔をつき出している。海岸の断崖はなだらかな斜面に移り、牧場、畑、立木の群れと、秩序だった甘美な姿を展開し、果ては遠く、荒地のかなたへ消えている。カプルズ氏は鑑賞家の眼で、そうした眺望を愉《たの》しんでいた。
氏は中背の痩せ型で、すでに六十に近く、もともと体質はひ弱なほうだが、年のわりには、しんのつよさがあって元気だった。口ひげもあごひげもまばらで、好人物らしくうすい口もとをかくしていない。眼はするどいが明るい感じで、高い鼻ととがったあごが、牧師めいた印象をあたえて、それがまた、いつも好んで、地味な黒服を身につけ、おなじく黒のソフト帽をかぶっているので、いっそう強調されたかたちだった。
事実、氏はあらゆる点で、牧師そのものだった。異常なほど良心的であったし、勤勉で、かつなによりも秩序を重んじる精神の持ち主。そのかわり想像力はまったくなかった。それも、氏が育った環境の影響で、当時は召使を新しく雇い入れるのに、新聞広告を利用したものだが、氏のところではその文句に、≪厳粛なる一家≫と謳《うた》ったものだった。
この暗欝な城砦から、氏はみごと脱出した。しかも、聖なる資性を、ふたつまでも失なうことなくして――そのひとつは、かぎりない心のやさしさであり、いまひとつは、ユーモアには関係ないが、純真なあかるさをたたえた気分だった。一時代まえに生まれて、聖職者としての教育を受けていたら、おそらく枢機官《すうきかん》ぐらいにはなっていたのではなかろうか。
だが、実際のかれは、ロンドン実証主義者協会の名誉ある会員であり、停年退職となった銀行家であり、そして、子供のないやもめ暮らしの男だった。謹厳《きんげん》ではあるが、それはそれなりに愉しさにみちた生活を送っていた。その毎日は、主として書物と博物館のあいだに過ごされ、興のおもむくままに、奇妙なくらい関連性をもたぬ種々雑多な部門で、深遠な知識を根気よく蓄積していたので、大学教授、図書館司書、その他研究に一生をささげる専門学者のあいだでは、それと名を知られるにいたっていた。しずかに落ちついた、いわばうす明りにも似た世界に生き甲斐を感じ、なごやかでいて、ばかさわぎをしない学究グループの晩餐会に列席すると、氏はとたんに、生き返ったような気持を味わうのだった。そのもっとも愛好する文人はモンテーニュである。
そのカプルズ氏がベランダの小卓で、朝の食事をおえようとしていたときだった。大型の自動車が、ホテルの前の道へはいってきた。
「あれはだれだね?」氏が給仕にたずねると、その若い男は気のなさそうな返事をした。「支配人さんですよ。駅まで、お客さんを迎えに行ったのです」
車がつくと、ポーターが玄関へ駆けだして行った。カプルズ氏は思わず、よろこびの叫びをあげた。氏よりはだいぶ年下だが、どこかしまりのない感じの長身の男が、車から降りるのを見たからだ。その男はベランダへあがってきて、いきなり帽子を椅子に投げだすと、頬骨のはったドン・キホーテめいた顔に、あかるい微笑を浮かべてみせた。あらいツイードの服、頭髪、みじかい口ひげ、どれもこれも、ある程度しまりがない。
「カプルズさんじゃありませんか。奇遇ですな!」
男はさけんで、カプルズ氏に立ちあがるひまもあたえず、その手をきつくにぎりしめた。「きょうのぼくは、われながら驚くほど運がいいんです」新しく到着した男は、発作でも起こしたようにしゃべりだした。「一時間とたたぬうちに、二度までうれしいことにぶつかりましたからね。お元気ですか、カプルズさん? しかし、なんでまたあなたは、こんなところにおいでなんです? 食いちらした食事の残骸を前に、さきほどまでのはなやかな面影をしのび、なぜかくも無残な姿に変わりはてたかと、そぞろ無常をかこつといったところですね。なんにしても、お目にかかれて、こんなうれしいことはありませんよ」
カプルズ氏も、微笑で顔をくしゃくしゃにして答えた。
「いや、トレント君。ひょっとしたら、あんたの顔が見られるんじゃないかと思ってはおったが、やはりお会いすることができましたな。あんたもなかなかお元気のようで結構です。くわしい話は、あとでゆっくりお聞かせするが、そのまえに、食事をすませたらどうです? このテーブルヘもってこさせましょうか」
「お願いしますよ!」相手はいった。「すてきな朝食をとらせていただきましょう。洗練された会話の愉しさ、再会のよろこびに、乾くことのない涙まで流してというわけですな。手を洗ってきますから、そのあいだに、いまの若いドイツ人の給仕に、テーブルの支度をいいつけておいてくだきい。すぐにもどってきますからね」
かれはホテルの奥に姿を消した。そのあと、カプルズ氏はしばらく考えこんでいたが、やがて給仕の控え室へ電話をかけに行った。もどってくると、友人はすでに席について、お茶をつぎ、さて、どれから手をつけたものかと、子供のような無邪気な眼つきで、ずらりとならんだ皿を見わたしていた。
「きょうはおそらく、一日中、いそがしいおもいをすることになるでしょう」それがかれの癖とみえておかしなくらい、ぽつんぽつんとしたいい方をした。「夕方までのいそがしさは、食事どころじゃないと覚悟していたんです。ぼくがやってきた理由は、むろん察しがついておいででしょうが」
「ついていますとも」カプルズ氏は答えた。「いうまでもなく、殺人事件の記事を書くため」
「そういってしまうと、味もそっけもなくなりますね」トレントと呼ばれた男は、ひらめの身をほぐしながらいった。「むしろ、こういっていただきましょうか。血の復讐者に代わって、罪ある者をさがし出し、社会正義をあきらかにするためだとね。それがぼくの商売なんです。お求めに応じて、どちらのご家庭へも出張いたします、というわけです。ことに、こんどの事件では、なかなか幸先《さいさ》きがいいんです。すこし腹に詰めこんでから、ゆっくりお話しいたしますよ」
しばらくしゃべるのをやめて、まるでなにかにつかれたように、夢中で食事をとっていた。カプルズ氏はその様子を、愉しそうに眺めていたが、やがてまた、長身の新来者が口をきった。
「このホテルのマネジャーは、大した判断力の持主でしてね。それに、ぼくのファンでもあるんです。ぼくの手がけた事件については、ぼく以上に知っているんですよ。ぼくがくることは、昨夜、≪レコード≫社からの電報で承知していたそうで、ぼくはけさの七時に駅につきましたが、すでにかれは、乾草の山ほどもある車で迎えにきていました。ぼくのきたことをひどくよろこんでくれましてね。名誉だというんですよ」
かれはお茶のコップを手にしながら、話のさきをつづけた。
「いきなり口をきった言葉が、なんだと思います? 被害者の死体をごらんになりますか? ――ご希望でしたら、さようはからいます、というんです。カミソリみたいにするどい男ですな。死体は村のストック医師のところに運んであって、発見当時のままにしてあります。解剖はけさ行なわれる予定ですか、間にあわれてよかったですな――そんなことをいうんですよ。それから、車を病院へまわしてくれましたが、その途中、事件について、じつにくわしく説明してくれました。そんなわけで、村へ車がついたときは、この事件に関してなら、どんな事情だろうと、ぼくの知らないことはないといったくらいでした。このような土地で、ホテルのマネジャーをしていると、医者とのあいだに、特別の縁故みたいなものができるんですな。死体のおいてある部屋に通るにしても、なんのトラブルも起こりませんでしたよ。警備の巡査も、いないわけじゃなかったのですが、新聞へは書かないでくださいというだけで、なんのうるさいこともいいませんでした」
カプルズ氏も口をはさんで、
「わしもあの死体だったら、移動されるまえに見ておいたが、これといって変わったところも見あたりませんでしたな。ただ、弾《たま》が眼にあたっているのに、顔の形が、ほとんど変わっておらんのと、血がろくに出ておらんことが、記憶に残っておるくらいですよ。もっとも手首はひどくすりむけて、打撲傷を受けておるようでした。しかし、あんたみたいな専門家にかかると、もっとこまかな点に、手がかりになるものが発見されるのかもしれませんがな」
「いや、ぼくもすでにこまかな点で気づいたところがあるのです。しかし、それがはたして、手がかりといえるかどうかは、まだいまのところ、わかりませんがね。おかしいと思ったことはあります。手首の件もそのひとつです。あなたはいま、すりむけて、打撲傷を受けているようだといわれましたが、どうしてそれがわかりました? もっとも、あなたはマンダーソンの殺される前に、ここで会ったことがあるのでしょうが――」
「それはありますよ」とカプルズ氏はいった。
「ではそのとき、両の手首を見ておいたというのですか?」
カプルズ氏はちょっと考えてから、
「そんなことはありませんな。そういわれて思いだしたが、わしはここで、マンダーソンと会った。そのときあの男の着ておったワイシャツは、えらくカフスがかたいみたいで、袖口から手の甲のあたりまではみ出しておったのです」
「あの男は、いつもそんな恰好だったらしいですね」とトレントはいった。「マネジャーがいっていました。ところで、あなたは気づかれなかったかもしれませんが、ぼくはひとつ、マネジャーに指摘しておいたことがあるのです。死体の袖口からは、そのカフスがのぞいていないのです。つまり、上着の袖にもぐりこんでいたのですな。いそいで上着をひっかけて、カフスをひっぱり出すのを忘れたのでしょう。そうしたわけで、あなたには手首が見えたんですよ」
「なるほど。するとそれも、手がかりのひとつといえますかな」とカプルズ氏は、すなおにうなずいて、「あんたの推理によると、かれは起きあがるがはやいか、大いそぎで着がえをすませたことになりますね」
「というわけです。しかし、ほんとうにそうだったんですかね? マネジャーもあなたとおなじことをいっていました。マンダーソンさまは、身なりに気をつかわれるかたでした、とね。マネジャーはマネジャーなりに推理していました。マンダーソンはなにかの理由で、早朝ベッドをはなれ、まだ家内の人たちが起きださぬうちに、庭へ出ていった。それが証拠にと、かれはいうのです。あのかたの靴をごらんなさいとね。マンダーソンさまは、とりわけお履物にやかましかったのです。ところが、この靴ひもはどうです? いそいだせいか、ずいぶん乱暴にむすんでありますよ。そこで、ぼくがうなずいてみせると、マネジャーはさらにつづけて、おまけに、入れ歯までが、お部屋におきっぱなしになっていたそうで、よほどおいそぎだったにちがいありませんな。ぼくはそれにうなずきましたが、これだけはいっておきました。そうまでいそいでいたのなら、どうしてこのように、きちんと髪を分けてあるのかな? ひどく念入りに、手を入れてあるじゃないか。それにまた、身につけるものは、ひとつのもれもなく身につけている。下着はそっくり着こんでいるし、カフス・ボタン、靴下どめ、懐中時計と、なにひとつ、忘れたものはない。ポケットには、鍵から小銭まで、のこらずはいっているんだぜ。ぼくがそういってやると、マネジャーは説明にこまった様子でした。あなたでしたら、どう説明なさるおつもりです?」
カプルズ氏はまた考えこんだが、
「してみると、着がえの途中からいそぎだしたんですな。上着と靴は、最後に身につけるものだから」
「しかし、入れ歯はちがいますよ。義歯を入れている連中にきいてみればわかることです。そのうえ、身だしなみのよい男のはずだのに、起きたまま、顔も洗っていない始末です。それからみると、はじめからあわてていたとしか考えられませんね。それに、まだありますよ。チョッキのポケットのひとつは、セーム皮の縁《ふち》どりがしてあるんです。金時計を入れるためですね。ところが、肝心の時計は、べつのポケットに入れてありました。毎日の習慣をまちがえるとは、よくよくのことだとみねばなりますまい。その事実は、かれがひどく興奮して、おそろしくいそいでいたことを示しているといえますし、一方では、ぜんぜんその正反対のしるしとみることもできるのです。目下のところは、どちらとも断定しかねます。さしあたっては、現場を調査してみることです。それには、マンダーソン家の人たちの協力がほしいんですがね」
そのあとトレントは、またも食事に専念しはじめた。カプルズ氏は微笑を含んで眺めていたが、
「たしかに、それが必要ですな。しかし、その件でしたら、わしにもなんとか、お手伝いができますぞ」
そして、トレントが驚いた様子で顔をあげたので、つけくわえていった。
「さきほど、あんたの出張を心待ちにしておったといいましたな。そこの事情を説明すると、じつはマンダーソンの妻というのが、わしの姪《めい》にあたるんでしてな」
「なんですって――」トレントはナイフとフォークを、大きな音を立てておいた。「カプルズさん、からかっているのではないでしょうね?」
「むろん大まじめですよ」カプルズ氏は熱をこめて答えた。「あれの父親、ジョン・ピーター・ドメックは、わしの家内の兄でした。あんたにはまだ、姪のことも、その結婚のことも、なにも話してありませんでしたが、じつをいうと、思い出すのも不愉快な話なので、できるだけ口に出すのを避けておったわけです。ところで、わしは昨夜、マンダーソンの家へ行っておったんですよ――そう、そう、かれの家といえば、ここからも見えますぞ。あんたもさっき、車で前を通ったはずだが」
氏は、三百ヤードほどさきに見えるポプラの木にかこまれた赤い屋根を指さした。それは、眼下の谷あいに見える小村落から、一軒だけ、ぽつんとはなれて建っている邸だった。
「そう、通りました」とトレントはいった。「やはリマネジャーが、ビショップスブリッジからの途中で、ほかのことといっしょに説明してくれました」
カプルズ氏はさきをつづけた。
「あんたの名声と、解決なさった事件は、この村でもずいぶん評判になっておるんです。それはそれとして、さっきの話をつづけますと、昨夜わしは、あの家へ出かけていって、マンダーソンの秘書の一人で、バナー君というのから、あんたのことを聞いたんです。警察がどうやら事件をもてあましておるらしいので、≪レコード≫新聞があんたを派遣したという話をですよ。バナー君はそのときも、あんたの成功した事件を、ひとつふたつあげましてな。わしがそれを、姪のメイベルに話してきかすと、これがまた、すっかり乗り気になったんです。いや、メイベルはあれで、案外元気ですぞ。もともとが気のつよい性格なんですね。アビンジャー事件で、あんたの書いた記事を読んだ記憶があるなんてことも話しておりました。ただあれは、こんどの事件を書きたてられるのを怖れましてな。できるだけ新聞記者に会わずにすむようにはからってくれと、くりかえしわしに頼んでおるんです。その気持は、トレント君、あんたにはわかってもらえましょうな。むろん、あんたがたの仕事を無視しておるわけではないので、それにわしの姪も、探偵としてのあんたの才能は、十二分に買っておるんですから、調査のさまたげになるようなまねはしませんよ。わしはこういってきかせました。トレント君はわしの友人なんだ。彼がすぐれているばかりでなく、相手の感情を考慮に入れてくれる親切な人だってね。そんなわけで、あれもあんたのおいでをお待ちしておるんですよ。むろん、よろこんで協力することはまちがいありません」
トレントはテーブルごしに、カプルズ氏の手をにぎりしめて、無言のうちに、つよくふった。カプルズ氏は、話がうまく運んで行くのに気をよくした様子で、
「わしはいましがた、姪に電話しておきました。あれもたいしたよろこびようでしたよ。ご遠慮なく、お調べねがいます。邸であろうと庭であろうと、ご自由に調査なさるよう、伝えてくれといっていました。ただ、直接お目にかかることはごかんべん願いたいそうで。ずっと部屋にとじこもったままなんです。さんざん刑事たちの質問を受けて、疲れきってしまったらしいんです。それに、お会いしたところで、役に立つような話はできぬし、二人の秘書とマーティン――これは執事ですが、おそろしく頭のよい男でしてな。この三人が、ご質問にはなんなりとお答えできるはずだといっていましたよ」
トレントは事件について考こみながら、食事をおえた。ゆっくりとパイプをつめると、ヴェランダの手すりに腰を下ろして、しずかにいった。
「カプルズさん、この事件には、あなたがご存じでいながら、ぼくに知らせたくないことがあるのではないでしょうか?」
カプルズ氏はぎくっとして、驚きの眼を相手にむけた。
「それは、どういう意味です?」
「マンダーソン夫妻のことですよ。いいですか。ぼくはこの事件で、最初からおかしいと思ったことがあるのです。こうして急に殺されたのに、だれひとり悲しんではいませんね。ホテルのマネジャーにしたところで、見たこともない人間が殺されたように、まったく冷静にしゃべっていましたよ。毎年夏には、親しくつきあっていたはずですのにね。あなたにしてもそうです。冷淡としかいいようがありませんよ。そしてマンダーソン夫人――失礼なことをいうようですが、どのような女でも、夫が殺されたとなれば、もうすこし取り乱すものではないでしょうか? これにはなにか、相当の理由がありますな。それとも、ぼくの思いすごしでしょうか? マンダーソンは変わったところのある男でしたか? ぼくは一度、おなじ船に乗りあわせたことがあるんですが、口はきいていないのです。知っているのも、公《おおやけ》の面だけで、これはいうまでもなく、いい感じは受けていませんよ。そのへんのところが、事件に関係をもっているのではないでしょうか? 念のためにうかがってみたのですがね」
カプルズ氏は長い時間をかけて考えていた。まばらなあごひげを撫でながら、海のほうに眼をやったままだったが、けっきょく、トレントに顔をむけていった。
「わしとあんたとの仲だから、遠まわしな表現はやめておきましょう。――率直にいうと、あの男を好きな人間は、おそらく世界中に、ひとりだっておらんでしょう。身近にいる連中が、あんなにきらっておるくらいですからな」
「なぜなんです?」
と相手が口をはさむと、
「その説明はちょっとむずかしい。だれも上手にはしゃべれますまい。しかし、わし自身が、わしの気持を自分に語るとしたら、こんなぐあいになりますかな。あの人間には、他人に対する同情心がない。完全に欠けておるんですよ。たしかに、表面のつきあいだけでは、反撥させるようなところは見せておらん。無作法というわけでなし、底意地のわるいところも見えん。むろん話していて退屈な男でなく、むしろ、愉快につきあえる部類に属しますよ。しかし、よくよく観察すると、自分の計画、自分の意志は、あくまでやりとげんことには承知できん。仕事のためには、どんな相手だろうと、犠牲にしてはばからんという性格がわかってくる。あるいはわしの思いすごしかもしれんが、かならずしも、思いすごしでは片づかぬはずですよ。そんなわけで、わしはあえていいますが、メイベルは不幸な女でした。わしはだいたい、あんたの二倍ほどの年上だ。親切なあんただから、同年輩の友人みたいにつきあってくださるが、世間はやはり、年寄りあつかいをする。それだけに結婚生活上のトラブルを打ちあけられることもちょいちょいあるので、いろいろと不幸な実例を知っておるが、わしの姪夫婦の場合くらいひどいのはありませんな。わしは姪のことなら、赤ん坊のころから知っておる。だからこそ、こんなことをいうのだが――いや、トレント君、おわかりだろうが、わしはこの≪知っておる≫という言葉を、かるがるしく使ってはおりませんぞ。はっきりいえるんだが、あれはまったく、よくできた女性なんです。気立てはやさしいし、することもちゃんとしておる。ほかの取り得《え》は別にしても、模範的な婦人といってよいはずだ。ところがその彼女を、マンダーソンはしばらく前から、じつにみじめな状態にさせておったのです」
「どんなことをしたのです?」
とトレントは、カプルズ氏が口をやすめたあいだに質問した。
「わしも、それとそっくりおなじ言葉で、質問してみたもんです。すると、彼女の答はこうでした。マンダーソンは、なにか胸に、もやもやしたものをもっていて、それを話そうともしないのだそうです。そのために、夫婦間の溝《みぞ》は、たえず深まるばかりだというのでした。なにが原因で、そんなことになったのか、背後にどんな問題がひそんでおるのか、わたしには見当もつきかねた。姪自身が、思いあたるような理由がないというのですからこまりました。しかし、ほんとうのところは、姪が知らんわけはないのです。ただ、あれの自尊心が、口にするのをゆるさなかっただけですな。そうした状態が何ヵ月かつづいたのですが、とうとう、一週間ほど前、メイベルはわしへ手紙をよこしました。というのは、わしが唯一の近親だからです。母親はあれが子供のころに死んでいるので、ジョン・ピーターが死んでからというもの、あれが結婚するまで、わしがいわば、親代わりをつとめていたようなわけです――五年前に結婚するまでですね。ところで、こんど手紙で助けを訴えてきましたので、わしはいそいで出かけてきました。わしがここに居あわせたのは、そういったわけがあったからなんです」
カプルズ氏は口をやすめて、お茶をのんだ。トレントはパイプをふかしながら、暑い六月の風景を眺めていた。
「しかし、わしとしては、ホワイト・ゲイブルズ荘に滞在する気はありませんでした」と、カプルズ氏はつづけて、「むろんあんたは、社会経済機構、労資の問題について、わしがどんな見解をとっておるかご存じと思うが、あんたにしたところで、マンダーソンという男が、その莫大な資本力を、いかに悪辣《あくらつ》な方法で駆使しておったかご承知のはずだ。世間の顰蹙《ひんしゅく》を買ったことも一度や二度ではないんですからな。とりわけ、わしが指摘したいのは、三年前に起きたペンシルヴァニアの炭鉱争議のことです。あれ以来わしは、個人的な嫌悪《けんお》は別としても、あの男を社会の毒虫、犯罪者と呼ぶべきだと考えるようになりましたよ。
そんなわけで、わしはこのホテルに泊まって、姪とはここで会うことにしました。あれもまた、いまわしが、あんたに告げたような内容を、くどくどと語ってきかせるのでした。心配やら恥ずかしさやら、それでいて、世間体をつくろっていかねばならぬ緊張から、くたくたになってしまった経過を述べたてて、どうしたものかとわしの意見をきくのでした。そこでわしは、直接マンダーソンにぶつかって、なにが理由で、そういう態度をとるのか、説明するように要求しろと教えました。しかし、あれはそのようなはしたないまねはしませんでした。前々から、夫の態度が変わったことには、気のつかぬふりをしていたのです。自分が傷つけられていることを、夫の前で口にすることは、あれの誇りがゆるさなかったんですな」
そしてカプルズ氏は、太いため息とともにつけくわえた。「頑固に沈黙をまもっておるために、ますます誤解がふかまるという現象は、世間にはざらにあることでしてな」
トレントはそこで、突然、きいた。
「彼女はマンダーソンを愛していたのですか?」
しかし、カプルズ氏がすぐに答えようとしなかったので、トレントは質問に、訂正をくわえて、「かれを愛する気持が、いくらかでも残っていたのでしょうか?」とききなおした。
カプルズ氏はティー・スプーンをいじりながら、ゆっくりと答えた。
「残っていなかったと思う、とでも、ご返事しておきましょうかな。しかし、トレント君、あれを誤解せんでおいてもらいますよ。夫を愛しておらんなどとは、口が裂けてもいう女ではないんです。かれの妻でいるあいだは、自分自身にもいったことがありますまい。それにまた、マンダーソンにしてからが、最近でこそ、わけのわからぬ渋面《じゅうめん》をつくっているものの、以前はかなり、思いやりのある親切な男だったんですよ」
「彼女は、夫の口から説明を求めることを拒否したんですね?」
「そうですよ」とカプルズ氏は答えた。「こういうところが、ドメック家一族の気質でしてな。わしは経験から知っておるが、自尊心というやつが介入する問題だと、てこでも動こうとしない性分なんです。そこでわしは、よく考えたあげく、翌日、機会をねらっていて、マンダーソンがホテルのそばを通りかかるのをつかまえました。ほんのちょっとでよろしい、話したいことがあるからというと、かれは木戸をはいってきて、ちょうどあんたがかけているところへ、腰を落ちつけるのでした。姪が結婚してからも、手紙一本やりとりしていないのですが、それでもわしのことは、憶えていてくれたようです。わしはさっそく話しだしました。率直に、問題の核心に触れたんです。メイベルが打ち明けたといってやりました。わしを夫婦間の問題にひきこんだことの良し悪《あ》しは別として、メイベルは目下、ひどく悩んでおる。わしの姪だから、代わって質問するが、なんのためにメイベルをあんな目にあわせておるのかといいましてな。わしには当然、質問する権利があるはずだと、つけくわえてやりましたよ」
「かれはどう答えました?」
トレントは外の景色を眺めているふりをしながらも、口もとには微笑をもらしていた。温厚そのものといったこの好人物が、百戦錬磨のマンダーソンを詰問している図が、ほほえましく思い浮かんできたからであった。
「ろくに返事もせんのです」カプルズ氏は悲しげに答えた。「実際、ひどいもんでしたよ。いまでも、その言葉どおり、くりかえすことができますが、無愛想そのものでしたな――カプルズさん、余計なおせっかいはやめておきなきい。家内だって、自分のことぐらい、自分で片づけますよ。わたしには、最近それがわかってきました。ほかにもわかったことがありますがね! こんな調子で、平気なものでした。ご承知のように、あの男は、どんな場合も、自制を失なったことがないといわれていますが、なるほど、世間の評判に嘘はないと感じました。ただ、眼だけはぎょろっと光りました。弱みのある相手なら、それだけでふるえあがったことでしょうな。しかし、わしはそれを怖れるどころか、すっかり腹を立ててしまいました。かれのいった最後の文句、それに、それをいうときの調子――あればかりは、ちょっとまねのしようがありませんが――それで、むかむかしてしまったんです。もともとわしは、姪が可愛いくてたまらんのです。あれはわれわれ一族の――いや、わし自身の家にあっても、いわば一人娘みたいな存在ですからな。わしの家内は、自分の子供として育てあげたんです。そんなわけで、わしはメイベルの悪口を聞かされて、その場の興奮した空気が手伝ったこともありますが、まるで死んだ家内の悪口をいわれたみたいに感じたものです」
「それで、かれにくってかかったわけですね」とトレントは、声を落として、「どういう意味かときいたのでしょう?」
「そのとおりですよ」カプルズ氏は答えた。「するとあの男は、しばらく無言で、わしの顔をみつめておりましたが、そのうちに、顔に青筋が立ってきましたよ――おそろしい顔つきで、こんなことを、ゆっくりというのでした――ちょっと、深入りしすぎたようですな、とね。そして、あとはなにもいわずに、立ち去ってしまったんです」
トレントは考えながらきいた。
「深入りしすぎたとは、あなたと会ったことをいうのでしょうか?」
カプルズ氏は答えて、
「その言葉だけでは、そういうふうにもとれますが、問題は声の調子ですよ。なんとも異様な、無気味な感じを受けました。そのときの印象からいうと、なにか陰険な決意をかためているとしか考えられませんでした。ところが、遺憾なことには、わしはそのとき、冷静にものを考える力を失なっていましてな、いきり立ってしまったんです」
カプルズ氏の言葉には、言いわけがましい調子がこもっていた。
「いまから考えると、ずいぶんばかなことをいったものですが、とにかく夢中で、あれこれといってやりました。法律の許容する自由には限界があるんだ。妻だからといって、どんなひどい扱いをしてもよいものではないといった調子でね。そして、さらに口がすべって、事業人としてのかれの経歴まで攻撃してしまったんです。きみみたいな男は生かしておくべきでないとか、そのほか、とりとめのないことを、わめきたてました。場所はこのベランダで、五、六人の客が見ている前でした。もちろんわしの言葉は、みなの耳へはいりました。わしにしても、興奮の最中でありながら、その人たちの視線が、わしに向けられているのに気がついていたくらいです。そのあと、いくらか落ちつきをとりもどすと、わしはホテルのなかへはいりました。やはり、居合わした人々の視線を浴びながらです」
そしてカプルズ氏は、大きくため息をつくと、椅子の背へ身をもたせかけた。
「そして、マンダーソンは? かれはなんとかいいましたか?」
「ぶすっとしたまま、口をきかんのです。わしの顔をみつめて、黙りこくっているだけ。あいかわらず、落ちつきはらっていましたな。わしの言葉を、かるく笑いながして、さっさと木戸から出て行ってしまったもんです、ホワイト・ゲイブルズ荘の方向へね」
「それは、いつのことでした?」
「日曜日の朝ですよ」
「では、その後、生きているあいだは、お会いになっていないのですね」
「そうです」とカプルズ氏はいいかけて、「いや、正確には――顔だけは、一度、見ています。その日おそくなってから、ゴルフ・コースで出っくわしているんです。しかし、わしは口もききませんでした。そして、その翌朝に、死体となって発見されたというわけです」
ふたりは無言のまま、しばらくはたがいの顔をみつめていた。海水浴をしていた滞在客の一団が、どやどやと階段をあがってきて、さかんにしゃべりたてながら、ふたりのそばのテーブルに陣どった。給仕も近よってきた。カプルズ氏は立ちあがって、トレントの腕をつかむと、ホテルの横手にある細長いテニス・コートへひっぱって行った。
「こんな話をはじめたのも、あんたにぜひ、聞いておいてもらいたいことがあったからで」
とカプルズ氏はそのあたりを、ゆっくり歩きまわりながらいった。
「わかっていますよ」トレントはていねいにパイプをつめ、火をつけると、すこし吸ってからいった。「なんでしたら、そのわけというのを当ててみましょうか」
カプルズ氏の厳粛な顔が、とたんに、微笑にくずれたが、なにもいわなかった。
「あなたはそれを、ありうることだと考えた」トレントは、考えこみながら言葉をつづけた。「マンダーソン夫妻のあいだに、ただの夫婦間のもめごと以上に、深刻なものがあることをですね。あなたはぼくがその事情を嗅《か》ぎつけることを気にしておられたのだ。ぼくが病的に冴えた想像力を駆使すれば、マンダーソン夫人がこの犯罪に関係していることを発見するにちがいないと考えた。そこであなたは先手を打った。ぼくが意味もない考慮に捕われぬうちに、正しい事情を話して聞かせ、夫人に対するあなたの意見を、ぼくにまで押しつけようとなさったのだ。あなたはぼくが、あなたの判断力に敬意をはらっておるのを知っておいでですからね。どうです? ちがいましたか?」
カプルズ氏は、手を相手の腕において、力をこめていった。
「ご明察ですよ、トレント君。ではひとつ、わしの話をきいてもらうか。そのかわり、なにもかも、かくさずお話ししますからね。じつをいうと、マンダーソンが死んだことは、わしとしてはむしろうれしいんです。あの男は、経済界を動かす人間としても、害悪こそ流せ、ろくなことはしないといえるんです。そのうえ、わしには娘同然のメイベルに、沙漠のような人生を味わわせた。しかし、よろこびはよろこびとして、この殺人の嫌疑がメイベルにかかるようなことがあってはたいへんだと、それがまた、わしの心配になってきたんです。あのように繊細で、人のよい彼女が、すこしのあいだであろうと、警察から乱暴なとりあつかいを受けるかと思うと、居ても立ってもおられん気持になったのです。メイベルはそのような捜査に耐えるようには生まれついておりません。ふかい傷痕《きずあと》を刻みこまれるにちがいないのです。最近の若い婦人は、二十六ともなれば、平気でそのような試練を切りぬけられるでしょう。実際、高等教育とかいうやつのおかげで、それくらいのことはちっとも怖れんという連中が多い。借りものかもしれんが、警察の捜査なんかにびくともしない。いわば鎧《よろい》かぶとを身につけたといったところですな。現代女性におけるこうした傾向を、いちがいに悪いというわけではないが、とにかく幸か不幸か、メイベルはそういった連中とは別世界の人間なんです。わしたちのまわりにうようよしておる、とりすましただけの婦人たちとちがうように、はねかえりの現代女性ともちがうんです。あれは頭脳がすぐれておるかわりに、性格はしとやかなものなんで、趣味と感覚が教養と一体になって――」
カプルズ氏はさらに、両手を漠然とふりながらつづけた。
「――上品でつつしみぶかい。女らしい奥ゆかしさ。つまりはわれわれの眼から見た理想的な女性ですな。時代の子供でなくて仕合わせでしたよ。トレント君、あんたはたしか、わしの家内をご存じないはずだが、メイベルはじつのところ、わしの家内そっくりでしてな」トレントはうやうやしく頭を下げた。それからふたりして、しばらく芝生を歩いていたが、やがてまた、かれが質問した。
「その彼女が、どうしてマンダーソンなんかと結婚したのです?」
「知りませんな」
カプルズ氏があっさり答えた。「どこか惹《ひ》かれるところがあったのですかね?」
とトレントが、なおもきくと、カプルズ氏は肩をゆすって、
「聞くところによると、女はだいたい、自分の周囲で、いちばん社会的に成功している男に惹きつけられるものだそうだ。なにぶん、あのように強引《ごういん》で、得手《えて》勝手な男のことだから、まだ恋を知らぬ女の心ぐらい、どんなに簡単に捉えることができたか、想像するまでもないことですよ。ことに、なんとしてでも手に入れようと、本腰をいれてかかった場合はね。世界中に名を知られている男が言いよるんだから、これ以上力づよいものはありますまい。むろん彼女も、かれが財界の大立者だぐらいは聞いていたはずです。あれがそれまで知っていたのは、美術、文芸といった方面の連中ばかりですから、財界に巣食っている人間には、魂のない冷血漢が多いものだということは、考えてもみなかったのだと思います。いや、それどころか、わしの見たところでは、いまだに彼女、その点正しい考えに達しておらんようです。あのふたりのあいだに不幸な結びつきができたことを、わしがはじめて聞かされたときは、すでに手おくれの状態でした。求められもせぬのに、いまさら反対意見を述べたところで仕方があるまいと、わしはけっきょく沈黙をまもってしまったんです。メイベルにしたところで、結婚年齢には達していたことですし、マンダーソンとの結びつきとあっては、世俗的な見地からいえば、非難すべきどころか、これ以上の良縁はないといってよいくらいのものです。あれだけの財産を見せつけられたら、どんな女だって、魔力のとりこにされてしまいますよ。メイベルにしても、年収何百ポンドかの資産はあったのですが、それだけにかえって、百万という金額の魅力が実感できたのでしょうな。もっとも、それはわしの推測にすぎませんから、誤解のないようにねがいますよ。わしの知っておるかぎりでも、彼女は何十人かの青年から求婚を受けて、そのどれにも承諾をあたえていなかった。いわんや相手は四十五になるという男だ。彼女が心の底から、結婚を希望しておったとは信じられない。そのときだって、信じはしなかった。しかし、とにかく彼女は、かれと結婚する気になったのです。どうしてそんな気になったのかときかれると、わしとしては、知らんと答えるほかに、いいようはありませんがね」
トレントはうなずいてみせて、さらに二、三歩すすんでから、時計を出して、
「たいへんおもしろいお話で、肝心の用件のほうを忘れてしまいました。けさのぼくは、時間が足りないくらいなんです。さっそく、ホワイト・ゲイブルズ荘へ出かけなければなりますまい。そこの調査に、正午ごろまでかかると思います。そこでまたお会いできれば、発見した事実について、話しあうことができましょう。もっとも、なにかの都合で、もうすこし手間どるかもしれませんがね」
「わしはけさ、散歩に出る予定でいたんです」とカプルズ氏は答えた。「ゴルフ・コースのそばに、≪|三つの酒だる《スリー・タンズ》≫という小さな酒場がありまして、そこで、昼食をとるつもりでおりました。できれば、そこでお目にかかりたいものですな。その場所ですか? ホワイト・ゲイブルズ荘の前の道を、さらに四半マイルほどさきへ行きますと、二本の木のあいだに屋根が見えるんです。料理は簡単なものしかできませんが、なかなかどうして、結構な味ですよ」
「ビールさえ出してもらえれば、ぼくはそれで満足なんです。パンとチーズぐらいはあるでしょう。神よ! よこしまなおごりを拒《さ》け、われらの素朴な生活をまもらせたまえ、ですな。では、のちほど」
かれはベランダを下りて、帽子をカプルズ氏にふってみせてから、いそいで姿を消した。そのあと、老紳士は芝生の上のデッキ・チェアに場所をうつして、両手を頭のうしろにあてがうと、雲ひとつないまっ青な空に眼をやった。
「まったくいい男だ。あんないい人間は、めったにいるもんじゃない。しかも、頭がおそろしく切れるときている! 選《よ》りに選って、あの人物があらわれるとは、なんともおかしな話じゃないか!」
[#改ページ]
四 さ迷う手錠
画家であり、その父もまた画家であったフィリップ・トレントは、まだ二十代のうちから、イギリス画壇に名声をあげていた。さらにくわえて、かれの絵の売れ行きはよかった。その成功の根底には、もって生まれたすぐれた才能はもちろん、ときどきは強烈な創作熱に、われを忘れることもないではないが、だいたいにおいて、せかずいそがず、不断に仕事をつづけてゆく努力がものをいっていた。といって、父の名声に頼らなかったといっては嘘になる。譲り受けた資産もじゅうぶんにあったので、売り出すための悪あがきで、非難を受ける危険は避けることができた。しかし、なんといってもその成功を助けたのは、かれ自身それを意識しなかったが、だれからも好感をもたれるという、身についたかれの魅力だった。元気いっぱい、いきいきしたユーモアに富む青年の気性は、いつの時代でも人気の中心となるものだが、トレントはそれにくわえて、他人への思いやりにあふれていたので、人気以上の人気をかちうることができたのであった。
かれの特徴は人を見る眼のするどさにあった。しかし、相手の内心をはっきり見抜いていながら、それをあからさまに口にすることなく、表面だけはさりげなくつくろって、あたらずさわらずにつきあっていたので、だれもがそれと気づくことがなかった。陽気に笑い興じているときはもちろん、ひたむきに制作に打ちこんでいるときでも、その顔からいきいきした表情が消えることはなかった。美術とその歴史とについての該博《がいはく》な知識は別としても、かれの教養は野放図といってよいほど広範囲にわたり、とりわけ、文学への愛好が目立っていたが、それでいて、三十二になったかれには、いまだに笑いと冒険との少年気分が、そのまま残っているのが見えた。
しかし、かれは本業の絵画以外の才能で、百倍も有名になったのであった。それとても、いわば一時的な気まぐれに端《たん》を発したことだった。ある日、かれが新聞をひろげてみると、この国にはめずらしい種類の犯罪事件が、紙面いっぱいに書き立てられていた。それは列車内の殺人事件だった。状況は謎につつまれていて、容疑者として、ふたりの人物が逮捕された。こうした事件に興味をそそられたのは、これがはじめての経験だったが、友人たちが、あまりにも熱心に議論しているので、つい誘われて、数種の新聞記事を読みくらべてみる気になったのだ。そのあいだに、いつかかれ自身も事件にひきこまれてしまって、われながら驚くほどに、想像力が活躍しはじめた。このように興奮したのは、芸術上のインスピレーションが湧きあがったときと、自分個人の冒険をこころみたときのほかには、かつてなかった現象だった。夜になって、かれはその推理を長文の手紙に書きあげると、≪レコード≫新聞社の主筆あてに送った。その新聞社を選んだのは、格別意味があったわけではなく、たまたま同紙が、もっとも詳細な事実を、もっとも知的な筆で伝えていたからにすぎなかった。かれはその手紙によって、ポーがマリー・ロージェ事件でみせたとおなじことをやってのけたのだった。
新聞の記事以外に手がかりをもたずに、軽視されていた事実のうちに、重要性をさぐり出し、目撃者の立場にいる人物に嫌疑をかけた。ジェイムズ・モロイ卿は、その全文を、大見出しつきで掲載した。そしておなじ日の夕刻、夕刊紙≪サン≫は、かれが指摘した男が逮捕され、犯行を自白したことを報道した。
ジェイムズ卿はロンドン市内とあれば、どの隅々も知りぬいていたので、トレントの所在をつきとめるのに骨は折らなかった。ふたりはすぐさま親交をむすぶことになった。他人とつきあう場合、年齢の差を相手に忘れさせる天与の才が、トレントにはそなわっていたからである。そしてまたかれは、≪レコード)社の建物の地下をのぞいて、そこに据えつけられた輪転機の姿に、新しい情熱を感じた。かれがその絵を描きあげると、ジェイムズ卿は一眼見ただけで買いとった。卿はそれに、ハインリッヒ・タライ画風の機械風景という名をつけた。
それから数ヶ月後、イルクレーの謎として知られる事件が起きた。ジェイムズ卿はトレントを晩餐《ばんさん》に招いて、この青年画家の心を動かしにかかった。臨時仕事にしては、驚くほどの金額を提示して、≪レコード≫社の特派員として、イルクレーまで出むく気はないかと誘ったのだ。
「きみだったら申し分ない」卿はしきりにおだてあげた。「文章は書けるし、人の口を割らせるこつも心得ている。報道記者のテクニックぐらい、三十分もあれば、わしが教えて進ぜる。なによりも犯罪事件についてのきみの頭が必要なのさ。きみには、想像力と冷静な判断とがかねそなわっておる。この解決に成功したら、さぞ愉快なことだろうな!」
トレントにも、おもしろそうな仕事と思われた。煙草をふかしながら考えてみたが、馴れぬ仕事だから逡巡《しゅんじゅん》するだけで、拒絶するほど明白な理由がないとの結論に到達した。二の足をふみたいようなことに出会うと、かえって反撥するのが、かれ平常の習性だったこともあって、けっきょくかれは、ジェイムズ卿の申し出を承諾することにした。
そしてトレントは、この事件も、みごと解決してみせた。二度、あざやかに警察の鼻をあかしたことが知れわたると、かれの名は、あらゆる階級の人々の口の端《は》にのぼることになった。だが、事件の終了もまたずに、かれはふたたび画業に専念して、ジャーナリズムに食指を動かす気配は見せなかった。ジェイムズ卿は、美術にふかい理解をもっていただけに、ほかの編集者のように、高給でかれを誘惑するというまねは手びかえた。
しかし、その後も難解な事件が起こると、国内と海外とを問わず、卿はつねに、かれの協力を求めた。それにつづく数年のうちに、おなじような問題の解決に、出張を依頼されたことが三十の余におよんだ。ときにはトレントも、制作にいそがしいのを理由に、拒絶したこともあったし、また真相の発見におくれをとったこともあったが、とにかく、≪レコード≫社との非公式な提携の結果が、かれをイギリスにあって、もっとも有名な人物に仕立ててしまった。ただかれの場合、世間に知られているのは名前だけで、それがどのような人物であるかは、まったく秘密のままに残されていた。モロイが主宰する各新聞に対しては、かれ個人の消息について、絶対の沈黙をまもるように要求したし、競争者であるほかの新聞が、ジェイムズ卿の有力なスタッフを宣伝するはずはなかったからだ。
このマンダーソン事件は、案外簡単に片づくのではないか――トレントはホワイト・ゲイブルズ荘へつづくだらだら道を、いそぎ足に下って行きながら、口のなかでつぶやいていた。いくらカプルズが賢明な老人であるにしろ、自分自身の姪のこととなると、公平な判断を下すのは無理な話である。しかし、ホテルのマネジャーまでが、彼女については、その容姿の美しさばかりでなく、「あれだけのご婦人は、そうざらにあるものではありません」と、その人柄のよさを激賞していたのを忘れることができない。マネジャーは文筆の徒ではなかったが、それでもその言葉に、彼女のイメージをトレントの心に焼きつけるにじゅうぶんなだけのものがそなわっていた。――このへんで、あのかたの声を聞いて、にっこりしない子供はありませんよ。いえ、子供ばかりじゃありません。おとなにしてもおなじことです。夏になると、あのひとが避暑においでになる日を、だれもが首を長くして待っているんです。といっても、ただやさしいというばかりで、ほかにはなんのとりえもないご婦人もありますが、あのかたは、そんな連中とはちがいます。ちゃんとした背骨をおもちなんです。わたしの言葉の意味、おわかりになっていただけるでしょうね。つまりあのかたには、勇気がおありなんです。筋金《すじがね》一本、ピンと通っているのです。そんなわけで、あのかたの身に、こんどのような事件が起きたことを、同情していない人間はいませんよ。マールストンじゅうさがしたって、おそらくひとりもみつかりますまい。もっとも、なかには、これであのかたも、仕合わせになれるんじゃないかなどと、口をすべらせる連中もいることでしょうが……
トレントははやいところ、マンダーソン夫人に会ってみたかった。
広々とした芝生と植込みを越えたところに、くすんだ色の赤煉瓦の二階家が、正面を見せて建っていた。大きな破風《ゲイブル》がふたつならんでいるので、ホワイト・ゲイブルズ荘の名がそこから出ていることがわかった。けさは車のなかから、ちらっとのぞいただけだったが、こうして近くで眺めてみると、現代様式の新建築で、できてから十年とたっていないことがわかる。庭園の手入れも申し分なかった。イギリスの田舎に見られる裕福な人たちの住居は、どのように小規模のものであっても、ゆたかな平和につつまれているものであるが、これもまた、その例にもれていなかった。
邸の前には、道路をへだてて、みずみずしい牧場が、海岸の断崖までつづいている。その背後では、そこかしこに森かげを見せている風景が、いったんはひろい谿間《たにま》へ下り、さらにまた浮かびあがって、末は荒地のかなたへと消えている。このような場所が、おそろしい犯罪のシーンになろうとは、想像もゆるされぬことであった。邸の様子を眺めただけでも、その落ちついたたたずまいに、召使の訓練も申し分なく、上品で、ものしずかな生活が行なわれていることが見てとれた。ところが、その裏手、庭園と炎暑に白ちゃけた道路とをへだてる生け垣の近くに、庭師の道具をしまう物置小屋があって、そこの壁板に投げつけられたような恰好で、死体がころがっているのが発見されたのであった。
トレントは車道についた門を抜けて、そのまま道路沿いに、問題の物置小屋へ近づいていった。四十ヤードほどすすむと、道はするどい角度で邸からはなれて、生い茂った林のなかへはいってゆく。その曲がりかどのところで、庭園はおわっていた。そこに生け垣があって、白く塗った木戸がついている。場所が場所だけに、庭師か召使のほかは出入りする者もないように見える。押してみると、蝶番《ちょうつがい》がはずんで、造作なくひらいた。そのさきは小径になって、外がわの生け垣と背の高いしゃくなげの植込みのあいだにはさまれながら、邸の裏手へつづいている。植込みの切れたところで、またひとつ小径が別れていて、これを伝って行くと、小ぎれいにできた木造小屋の前に出る。そこはすでに林のなかで、邸の正面の一角にむかいあった位置になるのだった。
死体は、邸からは見ることのできないむこうがわに横たわっていた。かりに女中のひとりが、その前日の早朝、小屋へむいた窓から顔を出してみたにしても、だんなさまのように大金持になれたら、どんなにかうれしいことだろうと考えた程度で、彼女の視線は、そこまで達していなかったにちがいない。
かれは注意ぶかく、小屋の周囲からはじめて、内部まで調べてまわったが、死体の横たわっていたあたりで、長くのびた草が踏みにじられている以外、変わった様子は発見できなかった。さらにまた、庭園のあたりまで、捜査の範囲をのばし、かがみこんで、するどい眼と敏感な指さきを働かし、入念にさぐつて歩いたが、結果はやはり、皆無にひとしかった。
すると、玄関のドアが音を立てたので、かれは捜査の手をやすめた。それがここへきて、はじめて聞く物音だった。それからトレントは、長い脚をのばして、車道のふちまで行ってみると、男がひとり、邸を出て、正門へむけていそいでいるところだった。小石を踏む音に気づいたのか、その人物はすばやくふりかえって、トレントを見た。まっ青な顔は、いかにも疲れきった様子で、すさまじい表情を示している。それでいて、それが青年の顔であることにまちがいはなかった。青い眼がやつれはてて、極度の緊張と、疲労とを語っているが、その眼のまわりには、まだいまのところ、皺《しわ》らしいものも見られない。ふたりはたがいに近よった。青年の広い肩幅、しなやかでいて頑健そうな体格は、トレントの眼を見張らせるだけのものがあった。疲労のために弾力性を失なってはいるが、その身のこなし、美しく整った顔立ち、みじかく刈ったやわらかな金髪、そして、トレントに話しかけた調子からみて、特殊の教養が影響をあらわしていた。ははあ、この男、オックスフォード出身だな――トレントはすぐに、そう察した。
青年はあかるい口調になっていった。
「あなたがトレントさんですか? お待ちしておりました。カプルズさんが、ホテルから電話で知らせてくださったのです。ぼくはマーロウといいまして――」
「マンダーソンさんの秘書のかたですな」
トレントはマーロウ青年に好感をもった。
この男、肉体的にはよほど疲労しているとみえて、いまにも倒れそうな様子を見せているが、それでもこのような階級に属するこの年ごろの青年らしく、清純な生活と健康な精神とに恵まれていることが、はっきりとうかがわれるのだった。そしてその時は疲れているくせに、トレントのするどい視線にもめげず、つよく撥《は》ねつけるだけの異様なきらめきを秘めていた。トレントはそれを、この男には、眼の前にあるものの奥を見てとろうとする習慣があるので、そのような眼つきになるのだと解釈した。とにかくそれは、≪夢見るような≫と形容するには、あまりにも知的で、あまりにも強固な意志力を示していた。以前どこかで、これとおなじ眼つきを見たことがあると感じながら、トレントは話をつづけた。
「こんどはまた、あなたがたもひどい目に会いましたな。さぞ、驚いたことでしょう、マーロウ君」
「肉体的には、かなりこたえましたが、大したことではありません」しかし、青年は疲労の色を露骨に見せて答えた。「日曜日は夜どおし、きのうはきのうで、ほとんど一日中、車を飛ばしていましたのでね。昨夜にしても、事件の知らせを聞いてからは、一睡もしていない始末です。もっとも、眠っていないのは、ぼくだけにかぎりませんが……。しかし、トレントさん、あいにくとぼくは、ゆっくりしていられませんので。検死審の打ち合わせに、医者のところまで出かけなければならんのです。たぶん検死審は、明日ひらかれることと思います。では、よろしかったら、邸へおいでになって、バナー君に会っていただけませんか。かれはさきほどから、お待ち申しているのです。事情はくわしくご説明いたしましょう。ごらんになりたい場所は、どこでもご案内するはずです。バナー君もやはり、秘書のひとりでして、アメリカ人ですが、よくできた男です、あなたのお世話は、万事かれがする予定になっています。それから申し忘れましたが、警察のかたが、おひとりおみえになっております。ロンドン警視庁のマーチ警部さんというかたで、昨日、お着きになりました」
トレントは思わずさけんだ。「マーチが! かれとぼくとは、古い友人ですよ。しかし、どうしてそう早く、くることができたのでしょうね?」
「わかりませんね」とマーロウは答えた。「とにかく、ぼくが昨夜、サウサンプトンからもどってきますと、すでにこのかたは、召使たちに質問しておいででした。今朝にしても、八時から出張しておいでです。いまは書斎においでと思いますが、そこは――邸のはずれに、フランス窓があけたままになっているのが見えますね、あれが書斎なんです。いかがです? あそこまでおいでになって、お話しになってみませんか?」
「もちろん、行ってみますとも」
トレントがそう答えると、マーロウは会釈《えしゃく》して、立ち去った。車道が周囲を縫っている庭園は、芝生があつくのびているので、その上を歩いても、猫のように音をたてなかった。その数分後、トレントは建物の南端に立って、あけ放した窓のなかを、微笑を含んだ顔でのぞきこんでいた。そこには、半白の髪をみじかめに刈って、おそろしいほどがっしりした肩幅の男が、うしろ姿を見せていた。かがみこんで、テーブルの上にひろげたおびただしい書類に眼を通しているところだった。
「あいかわらず、これだ」
とトレントが憂鬱そうな声を出すか出さぬうちに、なかの男は、おどろくほどのすばやさでふりかえった。
「ぼくという男は」とトレントはつづけた。「子供のときから、ここぞとねらったことがあると、きまってその希望が崩折れるんだ。こんどこそ、警視庁の連中を出し抜いたと思ったところ、例によって例のごとく、警視庁きっての巨漢警察官に先手を打たれているんだからね」
警察官はにやにや笑いながら、窓ぎわまで歩みよってきて、
「もうそろそろ、あらわれるころと思っていましたよ、トレントさん」とかれはいった。「あんたの好きそうな事件ですからね」
トレントは部屋へ足を踏み入れて、
「ぼくの好みをいわせてもらえば、できれば、あなたという憎たらしい競争相手を介入させないでおきたかったですよ。いや、それどころか、ずっとはやめにスタートを切られているんだから負けましたね。いや、かくしてもぼくは知っているんですぜ」
と、かれは、部屋の内部に、すばやく視線を走らせながら、言葉をつづけた。
「それにしても、どうしてこんなまねができたんです? もともときみのすばしっこいのはわかっている。どんな駿馬だって顔まけするくらいの人物だが、それにしても、きのうの夕方から仕事にかかっているとは驚きましたよ。警視庁は、秘密裡に航空部隊でも組織したんですか? それとも、悪魔との連繋《れんけい》をとったんですか? なんにしろ、内務大臣に質問する必要がありますな」
そこは、警察官のことで、マーチには洒落《しゃれ》っ気らしいものはなかった。まじめな顔で、つぎのように応じた。
「わけはいたって簡単ですよ。たまたまわたしは、休暇をもらっていたんです。家内をつれて、ハルヴェイまできていました。そこはこの海岸沿いに、ほんの十二マイルほどさきへ行ったところで、きのうそこの警察から、この事件の話を聞いたんです。わたしはすぐに、課長へ電話で連絡をとって、担任させてもらったんです。きのうの夕刻、自転車で駆けつけて、それ以来、捜査にかかっているというわけでさ」
そこでトレントは、さりげない調子でいった。
「その返事で思いだしたが、マーチ警部夫人にお変わりはありませんか?」
「かつてないほど元気ですよ」と警部は答えて、「あれもときどき、あんたのことを口にしますぜ。うちの子供たちと遊んでくださったことをね。しかし、トレントさん。よけいな気は使わんでもいいですよ。この部屋を調べたければ、そんなふうに無駄口をきくことはいりませんぜ。遠慮なくごらんになるんですな。あんたのやり方は、こちらもちゃんと心得ている。そうやって、ここまできたからには、すでにこの家の女あるじに話をつけ、捜査の承諾を得ているにちがいありませんな」
「まあ、そういったところですよ」と、トレントも笑って、「こんどはきみを負かしてくれようと考えたんです。アビンジャー事件では、すっかりしてやられましたからな。この古ぎつねに、返礼をしてみせるつもりです。そんなわけで、きみのほうだって、社交的辞令にこだわっている必要はないんです。では、そろそろ、仕事の話にはいるとしましょうか」
かれはテーブルに歩みよって、そこに整理してならべてある書類に眼をやってから、ロール蓋づきの机があけてあるのを見て、すばやくその引出しをのぞきこんだ。
「すっかり調査ずみですね。ではいよいよ、ゲームにとりかかるとしますか」
トレントは過去において、仕事の上で、マーチ警部と顔を合わせたことが数回もあって、かれが警視庁の犯罪捜査部門で、最有力なスタッフとして重んじられているのを知りぬいていた。ものしずかではあるが敏腕で、どちらかといえば、切れすぎるくらいの老練者であること。性格はきわめて豪胆、凶悪な犯罪者を相手にして、かずかずの輝かしい勝利をおさめていたのである。そのくせ、人間的な面からいうと、その肩幅にあつみがあるように、警察界きって人情にあついことは有名だった。トレントとかれとは、どこか暗黙のうちに気持の通じあうところがあるとみえて、顔をあわせた当初から、奇妙な交友関係がむすばれていた。トレントは相手の経験を尊重することに、すなおなよろこびを感じていたし、警部は警部で、だれよりもトレントを信頼して、他人には話さぬことまで、打ちあけて語るのがつねだった。どんな事件であろうと、ふたりがそろって関係することになると、微細な点にわたって、相談しあうのがかれらの愉しみだった。むろんそこには、必要な規則があり、限界が存在していたが、トレントという男が、警察方面から入手した秘密情報を、かるがるしく新聞紙上に発表するようなまねをしないことはわかっていたし、さらにまた、ふたりはそれぞれ、自分の所属する機関の名誉と特権にかけて、事件解決の手と思われるものを発見し、もしくは思いついた場合、相手に秘めておく権利を保留しておくことが申しあわせてあった。トレントの意見では、そうすることによって、捜査上でのスポーツマンシップの原則が確立できるというのだった。もともと勝負ごとに興味をもつマーチは、相手とのむすびつきを、そのするどい知性の利用においていたのだから、よろこんでトレントの提案に同意して、かれとの≪ゲーム≫をきそいあう腹をきめた。かくてふたりは、新聞と警察との威信にかけて競争しあった結果、ときには経験と組織の力が勝利を占めたこともあったし、ときにはトレントの犀利《さいり》な頭脳と奔放な空想力、あらゆる偽装を破って、重要な事実を本能的につかみとる才能に凱歌があがったこともあった。
このときもマーチ警部は、トレントの最後の言葉に、心からの同意を示した。そしてふたりは、フランス窓の両側によりかかって、眼前にひろがっているふかい平和と、しずかにかすんだ真夏の輝かしい風光を眺めながら、事件の検討にはいっていったのだ。
トレントはうすい手帳をひろげて、しゃべりながらも、その部屋の略図を、軽いがしかし、しっかりしたタッチで描きはじめた。これがこうした場合のかれの習慣だった。ときには気がなさそうに描くこともあったが、それでいてそれが、思わぬときに役立つこともすくなくなかった。
書斎は建物の端にある、広くてあかるい部屋で、双方の壁には、思いきり大きな窓があけてあった。部屋の中央に据えた大テーブルのほかに、フランス窓からはいってくると、壁にむかって左側に、ロール蓋のついた机がおいてある。内部に通じるドアは、左手の壁の奥にあって、それとむかいあった位置には、中仕切《なかじき》りをさかいに両面にひらく式の大きな窓がひらいていた。そのドアのさらに奥には、美麗な彫刻をほどこした古風な三角戸棚が、丈高く、部屋の隅を飾っている。戸棚はいまひとつあって、これは暖炉の横のくぼみにおいてあった。壁はすべて書籍におおわれていたが、わずかに壁が顔を見せているところには、春信の色刷りが何枚かかけてある。トレントはこれを、あとでゆっくり観賞するつもりだった。書物は数が多いばかりで、古本市場から、ひとまとめにして買ってきたものかなにかで、食指をそそりそうなものはひとつもない。事実、棚からひき出されたことは一度もないように思われた。装丁はどれも贅沢なものだが、いわばそれは、偉大なイギリスの小説家、エッセイスト、歴史家、詩人のたぐいが、枕をならべてここに討死しているといったかたちである。数脚の椅子は、戸棚やテーブルと同様に、オーク材に彫刻をほどこした古雅なもので、肘かけ椅子と、机の前に据えた事務用の回転椅子だけに近代調が漂《ただよ》っていた。要するに、金はかけているが、極端なくらい、さむざむしい感じの部屋である。もち運びのできる品といっては、テーブルを飾っている、美しい色彩を沈めた大きな青磁《せいじ》の壷と、マントルピースにおいてある時計といくつかの葉巻箱、あとは机にのせた卓上電話機ぐらいなものだった。
「死体は見ましたか?」と警部がきいた。
トレントはうなずいて、
「それに、死体のあった場所もね」
「この事件は、最初からして、奇妙な印象をあたえますよ」と警部はいった。「ハルヴェイで報告を聞いたとき、おそらくありきたりの強盗殺人で、犯人は浮浪者かなんかだろうと思ったものです。この付近では、あまり浮浪者が徘徊《はいかい》する話も聞かんそうですがね。しかし、いざ調査にかかってみると、なにかとおかしな点にぶつかるんです。いまではあんたも気づいておられると思うが、まず第一に、被害者は自分の地所内の、邸からいくらもはなれていない場所で射殺された。しかし、外部から侵入した形跡は、まったく残っておらんのです。それに死体からも、なにひとつ盗まれたあとが見られない。これで、二、三の事実が存在しなければ、明白な自殺と断定してしまうところですな。それに、自殺を推定させる理由はまだあります。家人の話によるとここ一ヵ月ばかりマンダーソンは精神状態がふつうではなかったそうです。あんたもすでに聞いておられると思うが、かれと夫人とのあいだに、トラブルがあったことはたしかで、かれの夫人に対する態度が、がらっと変わっていたことは、召使たちも気づいていたのです。事実、マンダーソンは殺される前一週間ほど、ろくに夫人とは口もきいていないそうです。なにが理由かわかりませんが、マンダーソンはすっかりふさぎこんで、人が変わったように無口になっていたといいます。これは夫人の小間使の話ですが、かれの様子を見ていて、近く、怖ろしいことが起こるんじゃないかと、心配していたというのです。もちろん、どんな男でも、ときどきはそんなふうになることがありますが、それにしても、まんざら召使たちの話に、意味がないともいいきれますまい。どうです、トレントさん。これはけっきょく、自殺なんじゃないですかな。そうじゃないという理由がありますか?」
トレントは窓ぎわに腰をおろして、膝頭をつかんだ姿勢で答えた。
「ぼくの知っているかぎりの事実は、その説に反対していますね。第一の理由は、いうまでもないことだが、凶器がいまだに発見されない点ですよ。ぼくもさがしたし、きみもさがした。それでいて、死体の横たわっていた付近に、銃器の存在した形跡は見当たらない。第二に、手首についていた傷ですね。あのすりむいた痕《あと》と打撲傷は、まだなま新しいものと見えますよ。だれかと格闘して、生じたものとしか考えられない。第三には、あの死体は眼を撃たれているが、自殺するのに、そんなまねをする者はいないでしょう。そのほか、この村のホテルのマネジャーから聞いたこともあるんです。大したことではないかもしれぬが、関係があるとみていいのじゃないですかな。マンダーソンは、その朝出かけるにあたって、身仕度はすっかりととのえていたが、それでいて、入れ歯を忘れていたというのです。死体になって発見されても、見苦しいざまを見せまいと気をくばっていた者が、義歯を忘れるということが考えられますか?」「その最後の点は気がつかなかった」とマーチ警部はすなおにうなずいて、「たしかに意味がありますな。しかし、じつをいうとわたしとしても、自分で思いあたった点から、これは自殺ではないという結論に達しているのです。その思いつきに該当する事実を、けさからこの邸でさがしていたところですが、あんたもおそらく同様のことをはじめる気持でいるのでしょうね」
「そのとおりですよ。きみはうまいことをいった。これはたしかに、思いつきの事件ですね。では、マーチ君、頑張るとしましょうよ。この邸の人間を、ひとりのこらず、疑ってかかるんですな。いいですか、だれをぼくが疑っているか、いっておきましょうか。第一は、いうまでもなく、マンダーソン夫人ですよ。そのつぎに、ふたりの秘書を疑っている。たしか秘書は、二名いたのでしたね。どちらを、より以上に疑ってよいものか、そこまではまだわからないが、とにかくこのふたりは怪しいと思わなければならない。つぎは執事と夫人の小間使だが、そのほか、全部の使用人を、いちおう疑ってみる必要がある。ことに、靴磨きの少年などというやつは、どの事件でも怪しい存在ですからな。ときに、この邸には、どんな使用人がいるのです? むろん、かれらが何人いようとも、のこらず疑ってかかる用意はあるんですが、念のために、教えておいてもらいましょうか」
「おもしろいことをいいますな」と警部は笑って、「しかし、それも捜査の第一段階としては、安全第一で、結構な方針ですよ。ただ、わたしは昨夜以来きょうにかけて、かれらの全部に質問してみたのです。その結果、かなりの人数は、容疑者の範囲から除外することができたつもりです。すくなくとも、現在のところはですね。もっとも、あんたはあんたで、別の結論に到達されるのもご自由だが、とにかく、この邸の召使をあげてみましょう。執事と小間使、それに料理人と、女中が三人、そのうちひとりは、まだ年若い娘です。運転手もいるにはいますが、手首を骨折したとかで、この邸へはきていないんです。しかし、靴磨きの少年だけは、あいにくとおりませんな」
「庭師はどうです? きみは怪しい人物について、ひとことも触れようとしませんな。庭師ですよ、マーチ君。ずるいですぞ。これはそっとかくしておいて、ゲームに勝とうという目算《もくさん》ですか。そんな了見だと、ルール違反のかどで、裁定委員会に報告しますぜ」
「庭園の世話は、村の男を雇ってやらせているのです。この男は、週に二回、通ってきています。わたしもその男と話しあってみましたが、最近は金曜日にきていたそうです」
トレントはいった。
「とにかく、その男も疑っておかねばならん。使用人がおわったら、この建物自体ですよ。とりあえずぼくがねらうのは、この部屋ですよ。ここには、ちょっと怪しいふしがある。たしかここは、マンダーソンがその時間の大半を過ごしていた場所ですね。それに寝室がある。寝室にはとくに気をつける必要がある。しかし、いまのところは、ここにいるんですから、この部屋からはじめることにしましょう。きみもここは、調べかけたばかりと見えますね。おそらく寝室は、調査をおえてしまったんでしょうが」
警部はうなずいて、
「マンダーソンと夫人と、それぞれの寝室をすませましたよ。別に気づいたところもありませんでしたな。マンダーソンの部屋は、しごくあっさりしたもので、調度品もろくにないといった状態で、手がかりらしいものは発見できませんでした。マンダーソンというのは、簡易生活をモットーにしていたんじゃないですか。身のまわりの世話をさせる男も使っていなかったくらいで、寝室なんか、服と靴とがあるから、それとわかるようなもので、でなかったら、刑務所の独房とまちがえたところですよ。いまでもおいでになれば、わたしが見たままになっていますよ。それが、きのうの朝、何時か知りませんが、マンダーソンが出ていったままなんだそうです。
つぎに、その隣りの、マンダーソン夫人の寝室をあけてみますと――これはたしかに、独房とはちがいました。いや、とくにあの夫人は、部屋を飾るのが好きなようですな。ところが、あいにくなことに、死体の発見された朝、そこを片づけてしまったんです。小間使の話によると、夫人が、死んだ夫の寝室とつづいた部屋では、眠ることができないといいだしたんだそうです。トレントさん、女性としては、きわめて自然な感情ですよ。それで、いまでは夫人は、客用の寝室のひとつを使っているのです」
「なるほどね」トレントは、ひとりごとのようにつぶやきながら、小さな手帳に、なにやら鉛筆を走らせていたが、「マーチ君、きみはマンダーソン夫人に眼をつけているんですね? どうです、それにちがいないでしょう? その、警部らしく、なにげなく話している口ぶりがくさいですよ。ぼくもはやいところ、夫人に会っておくんでしたな。きみはすでに、彼女に不利な証拠をにぎって、しかもそれを、ぼくにかくしているんだ。それとも、彼女は無罪だという見きわめがついたんですか? すましこんで、ぼくに時間を空費させようとするのが真相かな。まあ、よろしい、これはきみとぼくとのゲームですからね。それにしても、ゲームはだんだんおもしろくなってきたようだ」そこでトレントは、いちだんと声を高めて、「では、マーチ君、寝室はあとまわしとして、この部屋はどうなんです?」
警部は答えた。
「ここは書斎と呼ばれていて、マンダーソンは書きものをするとか、その他、屋内にいる時間の大半を、ここで費やしていたらしいんです。夫人との仲が冷たくなってからは、夜間もひとりで暮らしていたのだが、邸にとどまっているあいだは、やはりこの部屋にいたようです。召使たちに関するかぎり、かれの生きている姿を見たのは、やはりこの部屋だったとの話です」
トレントは立ちあがって、もう一度、テーブルの上においてある書類に眼をやった。マーチはそれを説明して、
「ほとんどが商用の手紙とか記録のたぐいですよ。報告書、会社の設立趣意書といったものばかりで、私信もいくらか、あるにはありますが、わたしの見たところでは、問題になりそうなものはありませんな。
アメリカ人の秘書がいるんですが、こいつがちょっと変わっていましてね、わたしとしても、はじめて出っくわしたくらいおかしなところがある男なんです。けさ、わたしといっしょに、あの机を調べていましたが、この男、マンダーソンのところへ、恐喝状が舞いこんだものと思いこんでいるんです。殺人事件が起きたのも、その結果にちがいないと主張するのですが、一枚のこらず調査してみたところ、どれもこれもふつうの手紙ばかりで、それらしいものは見当たりませんでした。ただひとつ、われわれが発見した異常な事実というと、かなりの金額の紙幣束《さつたば》と、ばらのままのダイヤモンドを入れた小さな袋が二個出てきたことです。わたしはバナーに、安全な場所へしまっておくようにいっておきましたが、どうもマンダーソンは、最近投機の意味で、ダイヤモンドを買い漁《あさ》っていた様子ですな。それはかれにとって、新しい計画だとみえて、秘書の話では、相当熱を入れていたようなんです」
「このふたりの秘書はどうでしょうね?」とトレントはきいた。「ぼくはここへくる前に、邸の外でマーロウというのに会いましたが、なかなかの好男子のくせに、眼つきだけはするどすぎましたよ。あれはまちがいなくイギリス人だから、もうひとりのほうがアメリカ生まれとなりますね。マンダーソンはなんのために、イギリス人の秘書なんか雇ったんですかね?」
「マーロウ自身が、それを説明していました。アメリカ人の秘書は事業専門で、その方面では、マンダーソンの片腕になって働いていたそうです。いつもかれのそばをはなれないスタッフのひとりだったのです。ところが、このマーロウのほうというと、事業家としてのマンダーソンにはまったく関係がない。その方面のことは、いっさい知っていないのです。仕事はもっぱら、マンダーソンの馬、自動車、ヨット、そのほかスポーツ関係の世話をすることにあったのです――いわば、なんでも屋ですが、金を使うほうの仕事を受けもっていたのですね。秘書のひとりは事業のほうにかかりっきりで、手いっぱいの状態だったとみえますよ。わざわざイギリス生まれの人間を雇い入れたことには、大した意味がなくて、いってみれば、ただの気まぐれなんです。マンダーソンはイギリス人の秘書が使ってみたくなったんでしょうな。もっともかれは、マーロウ君の前にも、何人かそういった男を使っていたそうです」
「趣味が役に立ったというわけですね」とトレントはいった。「現代の財界を牛耳《ぎゅうじ》る巨頭中の巨頭といった男の娯楽係ときては、おもしろいどころのものではありますまい。もっとも世間は、マンダーソンの道楽というと、極端なくらいの清遊だとうわさしていましたよ。そういえばマーロウの印象も、ペトロニゥス〔古代ローマの風刺作家〕がよろこびそうな方面は苦手《にがて》と見受けられましたね。ところで、当面の問題にもどることにするが」とかれは、ノートを参照しながら、「いまきみは、こと≪召使に関するかぎりは≫、生きているマンダーソンを見たのは、この部屋が最後だといいましたね。その意味は――?」「かれは寝室へはいりしなに、夫人と話しあったことは事実です。しかし、それを別にすると最後にその姿を見たのは、マーティンという執事で、それがこの部屋でした。わたしは昨夜、この男の話を聞きましたが、かれもよろこんで話しましたよ。だいたいこういった事件は、とかく召使たちの興味をわかすものらしいですね」
トレントは窓の外の、日の光にあふれた斜面に眼をやりながら、すこしのあいだ考えこんでいたが、最後にいった。
「その男の話を、もう一度聞いてみる気はありませんか?」
マーチ警部は返事のかわりに、ベルを鳴らした。痩せぎすの、きれいに顔を剃った中年男が、いかにも召使らしい身ごなしであらわれた。
「こちらはトレントさんといってね、奥さまから、邸内の捜査と、きみたちへの質問の許可をもらっておいでなんだ」と警察官は説明して、「きみの話を聞きたいといっておられるんだよ」
マーティンはうやうやしく一礼した。かれはトレントを紳士として応対することにきめたらしい。しばらくそうしてあつかっていれば、やがてはこの人物が、言葉のほんとうの意味で、紳士と呼ぶにふさわしいかどうかがわかってくると考えたのであろう。
「さきほどあなたさまが、お邸に近づいていらっしゃるところを拝見しておりました」
冷やかながらいんぎんな口調で、マーティンはいった。この男、ゆっくりと、ひとことひとことを考えながらしゃべるのが癖と見えた。
「奥さまからも、できるかぎりのご便宜をはからうようにとご指示を受けております。日曜日の夜の事情をおききになりたいのではございませんか?」
「そうなんだ。それを話してもらいたいのさ」
トレントはことさらに、重々しい口調で答えた。マーティンの様子から、喜劇にでも登場しそうな印象を受けて、愉快でたまらなくなったのである。それでもかれは、吹き出したくなるのを、無理におさえて、耳をかたむけた。
「わたくしが最後にだんなさまをお見かけしましたのは――」
しかし、トレントはその言葉を、しずかにさえぎって、
「それはあとのこととして、最初に、その夜のことを、夜の食事のすんだあとから、くわしく話してもらいたい。どんなささいなことでも、もれのないようにな」
「お夕食後でございますね?――はい、夕食がおすみになりますと、だんなさまはマーロウさんとごいっしょに、果樹園を抜ける小径を散歩なさいました。そのあたりを、なにかお話しになりながら、行ったり来たりしておいででした。なにもかも話せとおっしゃるので申しあげるのですが、よほど重大なお話のようにお見受けしました。なぜ、そう考えるかと申しますと、おふたりは裏口からおもどりになりましたが、そのときだんなさまが、こんなことをおっしゃったのを憶えているからです。はい、わたくし、すぐそばにおりましたので、お言葉がはっきり聞きとれました。『もしハリスがそこにいたのだとすると、一刻も猶予できぬ重大なことだな。いますぐ出発するにこしたことはあるまい。しかし、だれにもそれをしゃべるんじゃないぞ』だんなさまがそうおっしゃると、マーロウさんはこう答えました。『承知しました、ぼくは服を着替えるだけでよろしいのです。用意はできていますから』このほうは言葉どおりでないかもしれませんが、意味はほとんど変わりないはずです。わたくしがいた調膳室の窓ぎわを通りながら、おふたりはこんな話をしておいででした。それからマーロウさんは、寝室のある二階へあがって行き、だんなさまは書斎へおはいりになって、ベルを鳴らしてわたくしをお呼びになったのです。さっそくおうかがいしますと、明朝、配達夫にたのむようにと、何通かのお手紙をおわたしになりましたうえで、マーロウから、月夜のドライヴをすすめられたから、それまでおまえ、寝ずに待っているようにとおっしゃいました」
「それはおかしいな」
と、トレントがいうと、
「わたくしもへんだと思いました。しかし、≪だれにもそれをしゃべるんじゃないぞ≫との、さきほどのお言葉を憶いだしまして、ははあ、月夜のドライヴというのは、それをごまかすための手段かと考えました」
「それは、何時ごろのことだ?」
「十時ごろだと思います。わたくしにそうお命じになりますと、だんなさまはマーロウさんが降りてきて、車を玄関へまわすのをお待ちになっている様子でしたが、やがて、奥さまのいらっしゃる客間へはいっておいでになりました」
「それが、どうしてきみには、おかしく感じられたんだね?」
するとマーティンは、ちょっと相手を小ばかにしたような調子で、
「おたずねだから申しあげますが」と、奥歯にもののはさまった言い方をした。「今年、このお邸に避暑においでになりましてから、だんなさまがあのお部屋におはいりになったのは、あのときがはじめてのことだったからです。夜分はいつも、書斎でお過ごしになっておいででした。もっとも、あの晩にしても、お客間にいらっしたのは、わずか数分のあいだで、すぐに出ておいでになって、その足で、マーロウさんとごいっしょにお出かけになったのです」
「するときみは、ふたりが出かけるのを見ていたというんだな?」
「はい、さようで。車はビショップスブリッジのほうへむかって行きました」
「そのあとで、もう一度、マンダーソン氏の姿を見たというのかね?」
「一時間かそこらあとのことですが、だんなさまはまた、書斎においででした。おおよそのところ、十一時十五分すぎぐらいだったと思います。教会の鐘が十一時を打つのを聞いた記憶がありますんで……これでわたくし、耳ざといほうなんでございます」
「マンダーソン氏がベルを押して呼んだんだな。え? そうなんだろう? で、書斎に顔を出して、どういうことになった?」
「だんなさまは、戸棚から、ウィスキーの細口壜とサイフォン、それにグラスをお出しになりました。はい、それはいつも、あの戸棚に入れてあるものでして――」
トレントは片手をあげて、その言葉をおさえると、
「そこのところを、はっきり聞いておきたいのだ。いいかね、マーティン。マンダーソン氏は酒が好きだったのか? これはけっして好奇心からきくのじゃないぜ。事件の解決に役立つと思うからこそ、はっきりさせておきたいのさ」
「存じております」とマーティンも、まじめな顔つきで、「警部さんにも申しあげてありますことで、よろこんでご返事いたします。だんなさまは、あれだけのご身分のかたにしましては、嘘のようにまじめな生活をなさっておいででした。わたくしは四年近くもおそばにおりますが、お夕食に、葡萄酒を一ぱいか二はい、ごくまれに、昼のお食事に少量、そのほかは、ウィスキー・ソーダをときたまおとりになるほかは、アルコールのたぐいをお口になさるのを拝見したことがございません。そうした習慣がおありにならなかったとしか考えられません。もっとも、朝になって、グラスをのぞいてみますと、ソーダ水がわずかに残っていたこともありました。ですから、ときにはウィスキー・ソーダを召しあがったこともあったようですが、それも多量ではございますまい。とにかく、ご酒のほうには、やかましいことはおっしゃいませんで、お選びになるソーダ水も、ありきたりのものでした。そこでわたくし、さし出がましいようでしたが、以前につとめたお邸で覚えたことから、天然鉱泉をおすすめしたことがございますが、これもお聞き入れにはならなかったくらいなんです。それはともかく、だんなさまはそれらの品を、このお部屋の戸棚におしまいになっておられました。必要以上の用を、わたくしどもにお命じになるのがおきらいだったからです。したがって、お呼びがないかぎりは、わたくしもお食事のあとでは、ほとんどおそばへうかがわないようにしておりました。それにはそういったわけがあったからです。なにかお命じになりますと、いそいで持参いたしまして、そのあと、すぐに引き退《さ》がるよう気をつけていたのです。ほかにご用はございませんかとおうかがいしますと、とたんにごきげんがわるくなるのでした。つまりだんなさまは、日常のご生活が、驚くほど質素なかたでごぎいました」
「よくわかったよ。それで、その晩、十一時十五分ごろ、ベルを押してきみを呼んだわけだな。そのとき、どんなことをいったか、はっきり記憶しておるかね?」
「ある程度、正確に申しあげられると思います。たいしたことはおっしゃいませんでしたが、最初はバナーさんのことで、もう寝室へさがったかとおききになりました。かなり前に、二階へあがって行きましたとお答えしますと、重大な用件で、電話がかかってくるはずだから、だれか、十二時三十分まで、寝ないで待っていてほしい。マーロウはわしの用で、サウサンプトンまで、車をとばして留守だからな。どうだ、マーティン、おまえ、起きていてくれないか。電話がかかったら、その内容を書きとめておけばよろしい。わざわざ起こしにくるにはおよばんよと、こうおっしゃるのでした。そのあとで、ソーダ水のサイフォンの新しいのをもってくるようにとおっしゃいましたが、わたくしの記憶しております範囲では、それで全部だったように思われます」
「そのとき、氏の様子に、変わったところはなかったかい?」
「はい、いつもとすこしも変わっておりませんでした。わたくしが呼ばれてうかがいましたときは、机の前にお腰かけになって、受話器を耳にあてておいででした。たぶん、相手の出るのをお待ちになっていたのでしょう。わたくしをごらんになりますと、いまお話ししたご用をおっしゃいましたが、そのあいだも、耳から受話器をはずそうともなさいませんでした。わたくしがサイフォンを持参したときも、お話の最中の様子でした」
「どんなことをしゃべっていたか、憶えているかね?」
「ほとんどございません。どこかのホテルにいる男のことで――どっちみちわたくしには興味のないことでした。サイフォンをテーブルの上において、すぐにその場をひきさがりましたが、ドアをしめかけたところで、≪かれがホテルにいないことは、まちがいないんだな≫――といったようなことをおっしゃっておいででした」
「そしてそれが、生きている姿を見た最後であり、声を聞いた最後だったというんだね?」
「いいえ、そうではございません。そのすこしあと、あれは十一時半でしたが、わたくしは調膳室で腰かけて、時間つぶしに本を読んでおりました。ドアがすこしあけてありましたので、だんなさまが二階の寝室へおひきとりになる足音が聞こえました。わたくし、さっそく書斎のドアをしめにまいりまして、正面玄関のドアにも、鍵をかけました。それだけで、あとはなにも、耳にしておりません」
トレントは考えこんでから、試しにいってみた。
「むろんきみのことだ。電話のかかるのを待っていて、ついうとうとするということはあるまいね」
「とんでもごぎいません。わたくしはそのあいだ、ずっと緊張して待っておりました。だいたいわたくし、寝つきはよくないほうでして、ことに、海辺へまいりますと、まったく眠れなくなる性分なんです。あの晩にかぎらず、ベッドへはいりましても、十二時を打つころまでは、本など読んでいる始末なんでして――」
「それで、電話はかかってきたのかい?」
「それが、ついにかかりませんでした」
「かからんのか。ところで、きみは近ごろのように暑い夜は、窓をあけ放して寝るのだろうね?」
「はい、しめたことは一度もございません」
トレントは手帳に最後のメモを書きこんでから、慎重な面持で、それまで書きつけた全部に眼を通した。それから立ちあがると、しばらく、眼を伏せたまま、部屋中を歩きまわっていたが、やがて、マーティンの前で足をとめると、
「どこといっておかしなところはない。万事、はっきりしたように思えるが」とかれはいった。「ほんのすこしだけ、たしかめておきたいことが残っている。きみはベッドにはいる前に、書斎の窓をしめに行ったんだね。どの窓をしめたのかい?」
「フランス窓でございます。あれは昼間からあけたままにしてありました。ドアにむきあった窓のほうは、めったにあけたことはございませんが――」
「カーテンはどうした? 邸の外から、部屋の内部が見えたかどうかを知りたいのだが」
「それは見えました。お庭のあちら側に出ますと、書斎の内部はまる見えの状態です。このように暑いときは、カーテンをひいたことはございませんから。夜分になりますと、だんなさまはこの椅子におかけになって、葉巻を口になさって、外の闇に眼をやっておいででした。ご事業のお客さまは、そちらからのぞきこむこともございませんし――」
「なるほど。では、この件はどうだろう? きみは耳ざとくて、マンダーソン氏が食後の散歩をすませて、庭園からもどってくるのを聞いたそうだが、自動車のドライヴから帰ってきたときは、どうだったんだね?」
マーティンはちょっとためらっていたが、
「そうおっしゃられて憶いだしましたが、そのときの足音は聞いていませんでした。このお部屋から、ベルでお呼びになりましたので、おもどりになったのを知ったようなわけでした。玄関からおはいりになったのでしたら、当然足音が聞こえたはずです。それに、玄関のドアをあけたてする音もしなければなりません。おそらく、フランス窓からおはいりになったのではありませんか」
そして男は、すこしのあいだ考えていたが、つぎのようにつけくわえた。
「いつもですと、だんなさまは玄関からおはいりになって、そこに帽子と外套をかけ、ホールを通って書斎におはいりになるのですが、あのときは、よほどおいそぎだったとみえます。はやく電話をおかけになりたかったのでしょう。それで、芝生をまっすぐ横ぎって、フランス窓にむかわれたにちがいございません――大事な用件がおありのときは、そういうことをなさるお方でした。そういえば、いま思いだしましたが、帽子までおかぶりになったままでした。外套のほうはテーブルの端に投げ出してありましたが……わたくしへのご用は、するどい口調でおっしゃいました。いつもおいそがしいときは、そのお癖が出ますんで。実際、だんなさまははきはきしたご性分で、遠慮なくいいますと、せっかちということになりますかな」
「してみると、そのときもよほど、いそがしがっていたのだな。しかし、いまきみは、ふだんとべつに変わった様子も見えなかったといったじゃないか」
皮肉な微笑が、マーティンの顔を横ぎった。
「失礼でございますが、そうおっしゃるのは、だんなさまをご存じないからでして、あのようなご様子はめずらしくない方なんです。いえ、むしろあれが、平常のだんなさまだと申しあげてよろしいかと思います。わたくしにしましても、あのご様子に驚かなくなりますまでには、かなりの時間がかかったくらいです。あのお方は、黙って葉巻をふかしていらっしゃるか、本を読むとか考えごとをなさるとか、あるいはまた、書きもの、口述、ないしは電報をお打ちになる。それをみんな、一時になさいまして、ときにはそれが、一時間以上もつづく場合もあるようなわけです。見ているわたくしどもが、頭がくらくらしてくるくらいでした。あの晩、電話をかけるのにいそいでいらしたぐらい、とりたてていうほどめずらしいことではないのです」
トレントは警部をふりかえった。警部は、その視線の意味がわかったとみえて、トレントが打ち出した線にのって、質問をはじめた。
「ではマーティン。マンダーソンさんが電話で話しこんでいるので、窓はあけたまま、電燈はつけっぱなし、飲みものをテーブルの上において、部屋を出てしまったというのだね?」
「さようでございます。警部さん」
マーティンはそう答えたが、警部の質問を受けたとき、かれの態度に微妙な変化が生じたのを、トレントのするどい眼は見のがさなかった。しかし、巨漢警察官がつぎの質問に移ったので、注意はふたたび、本題にもどった。
「その飲みものの件だが、マンダーソンさんは就寝前には、ウイスキーを飲むことはめったにないといってたな。その夜にかぎって、飲んだのかね?」
「さあ、どうでしょうか。お飲みになったかどうかは、朝になって、女中がお部屋を掃除したとき、グラスも洗ってしまいましたので、はっきりしかねるんです。ただ、ウィスキーの細口壜は、あの晩、いっぱいに詰めてあったことはまちがいありません。わたくしが数日前に、補充したばかりですし、その晩も、新しいサイフォンをもってあがりましたさい、念のためにたしかめておきましたから。はい。それがわたくしどもの習慣になっておりますので」
警部は片隅にある高い戸棚の前に立って、なかからカット・グラスの細口壜をとり出すと、マーティンの前のテーブルにおいた。
「こんな程度じゃなかったんだろうね」とかれは、落ちついた口調でたずねた。「これは、けさ調べたときのままだがね」
壜のなかのウィスキーは、半分以上減っていた。
どんなことにも動じそうにないマーティンも、このときはじめて、その態度をぐらつかせた。いそいで細口壜を手にすると、眼の前にかかげてみたが、唖然とした表情で、ふたりの顔へ眼をやった。そして、しばらくしてから、ゆっくりといった。
「わたくしが最後に見たときから、半分ちかく減っております――つまり、日曜の晩にくらべてということですが」
「この邸のだれかが飲んでしまったわけでもないだろうね?」と、トレントが慎重な口ぶりで問いただすと、
「そんなばかなことが!」思わずマーティンは、大声を出したが、あわててつけくわえて、「いや、とりみだして失礼しました。あまりのことに、驚きました。いままでの経験からいっても、こんなことは、一度もあったことがございません。女中たちも、これに手を触れないことになっております。それは断言できますし、かりにわたくしが、一ぱい飲みたいなと思いましても、この壜の厄介になる必要はないのです。ほかにいくらでもございますもので――」
そしてマーティンは、もう一度壜をとりあげて、意味もなく中身をのぞきこんだ。その姿を、警部は満足しきった顔で眺めていた。ちょうど気に入った自分の作品をみつめている名工といった表情である。
トレントは手帳の新しいページをひらいて、鉛筆のさきでたたきながら考えていたが、やがて顔をあげるといった。
「あの夜、マンダーソン氏は、晩餐のために着替えをすませたんだろうね?」
「もちろんでございます。ドレス・ジャケットをお召しになっていました。ご自分ではそれをタキシードとお呼びになって、お邸で夜のお食事をなさいますときは、きまってお召しになるのでした」
「最後にきみが見たときも、その服装でいたのかね?」
「上着だけはちがっていました。お食事のあと、書斎でお過ごしになりますときは、いつも古い狩猟服にお着替えになるのでした。色の明るいツイードでして、イギリス人の好みから申しますと、ほんのすこし、派手なところのあるものです。最後にお見かけしたときは、それをお召しになっていました。いつも、この戸棚にかけてございまして――マーティンは話しながら、戸棚をあけてみせた――釣竿とか、そういっただんなさま用の道具といっしょにおいてありますので、お食事のあと、わざわざお二階まで、着替えにいらっしゃる手間をはぶいておりました」
「ディナー・ジャケットは、やはり戸棚にかけておくのかね?」
「はい。女中が朝になって、お二階へおもちすることになっていました」
「朝になってか」とトレントは、ゆっくりした口調でくりかえすと、「ちょうど話が出たから、朝の様子もきいておこう。たしかマンダーソン氏がいなくなっていることは、十時に死体が発見されるまで、だれも気づいていなかったんだね」
「さようでございます。だんなさまはふだんから、お起こしするとか、なにかおもちするとか、そういったおいいつけをなさいませんでした。奥さまとは別の寝室でおやすみになって、ふつう、八時ごろにご起床になりました。すぐに浴室へおいでになって、九時ちょっと前には、階下へ降りていらっしゃるのでした。もっとも、ときには九時、十時までおやすみになっておいでのこともありました。奥さまのほうは、いつも七時にお起こしすることになっていまして、その時刻には、女中がお茶をもってまいります。きのうは奥さま、いつものように、お居間で朝のお食事をなさいました。だんなさまはまだ、おやすみのこととばかり思っていましたが、そこへエヴァンスが駆けこんできて、あのおそろしい出来事を知らせたのでございます」
「そういうわけか」と、トレントはいって、「ついでに、もうひとつだけ、きいておきたい。きみはきっき、ベッドにはいる前に、玄関のドアに錠をおろしたといったね。きみが戸締りをしたのは、そこだけなのか?」
「玄関はたしかに、わたくしが錠をおろしました。このあたりでは、その程度の戸締りでじゅうぶんなんです。でも、わたくしはさらに、裏口のふたつのドアにも鍵をかけました。階下の窓は、いちおう、ずっと見まわりました。朝になっても、前夜のままでした」
「あけた形跡はないというのだね。では、この点はどうだ? ――これがおそらく、最後の質問になるだろう。死体が発見されたとき、身につけていた服装だが、その日のマンダーソン氏としては、おかしくないものを着ていたかね?」
マーティンはあごを撫《な》でて、
「じつはわたくし、あの死体を拝見しまして、ひどく驚きました。お身なりがおかしいのです。最初は、どこがどうおかしいともわかりかねましたが、見ておりますうちに、だんだんとそのわけがわかってきました。まず、カラーが眼につきました。だんなさまは、夜会服をお召しになるときのほかには、あのカラーはなさいません。そのほか、胸の広いワイシャツにしろなんにしろ、その前の晩、お召しになっていたものばかりなんです。おとりかえになったのは、上着、チョッキ、ズボン。あとは茶色の靴に青いネクタイ。それだけでして、そのほかは全部、前夜のままなのです。服はもちろん、昼間お召しになるもののひとつでしたが、ワイシャツその他は、夜分お脱ぎになったのを、そのままおつけになったにちがいありません。よほどおいそぎになったのでしょうが、こんなことは、一度もこれまで、なかったことです。まだほかにも、そう思われるふしもございますが、とにかくあの朝のだんなさまは、お起きになると同時に、よほどおいそぎになったにちがいありません」
「たしかに、きみのいうとおりだ」とトレントはうなずいて、「きいておくことは、だいたいそんなところだろう。明快に話してもらって、助かったよ。またあとで、ききたいことができるかもしれないから、邸ははなれんようにしてくれよ」
「かしこまりました」とマーティンは、お辞儀をすると、しずかに部屋を出て行った。
トレントは肘かけ椅子に腰をおろして、ふとい吐息《といき》をもらした。
「大した男ですね、あのマーティンというのは。芝居に出てくる執事以上に執事らしい。あれだけのものには、今後二度とお目にかかれまい。正直になんでも話してくれるし、危険性のかけらも見えませんよ。マーチ君、きみはあの男も容疑の対象にしていたが、まちがいだったことは、明瞭になったんでしょうな」
マーチ警部はたじたじになって、
「わたしはなにも、あの男が怪しいとはいいませんよ。それに、あれだって、嫌疑をかけられていると思えば、ああなにもかも、話しはしないでしょうよ」
「さあ、それはどうかな。あれでなかなか、ぬけめのないところがある。むしろ、偉大な役者というべきでしょう。ただ、義理にも神経のこまかい人間とはいえませんよ。きみがあのマーティン――完全無欠の完成品――あの男を疑っているなんて、本人、夢にも考えていませんね。しかし、ぼくにはきみの腹のうちがわかっている。よろしいか、マーチ君。ぼくは法をあつかう官吏の心理について、専門的な研究をしてきたんですよ。この研究たるや、ほとんどかえりみられていない分野に属するが、どうしてどうして、興味|津々《しんしん》たるものがありますぜ。たしかに、犯罪者心理を対象にするより、ずっとおもしろい研究です。そのかわり、むずかしいこともむずかしい。いまもぼくが、マーティンに質問しているあいだ、きみの眼には手錠の影が浮かんでいましたよ。きみの唇は、言葉にこそしないが、たえずおそろしい文句をつぶやいていた。≪警察官としてあらかじめいっておくが、今後おまえの述べることは、ことごとく書きとめられ、おまえの犯行を立証する証拠として援用されることがある≫とね。ほかの人間ならだませるかもしれないが、このぼくの眼だけは、くらますわけにはいきませんぜ」
マーチ警部は愉快そうに笑いだした。トレントの冗談は、すこしもかれの気持を損《そこ》ねなかった。むしろそれは、自分の腕を買ってくれているしるしと思われた。かれはそう考えて、よろこんでいるのだった。
「じつをいうと、トレントさん、お察しのとおりですよ。わたしはたしかに、あの男に眼をつけました。これといって、たしかな証拠をつかんだわけではありませんが、ご承知のように、とかくこういった事件となると、召使がからんでいることが多いものでね。あの男にしても、妙に落ちつきはらったところが、くさいと思わなければなりませんよ。ウイリアム・ラッセル卿の事件で、執事が犯人だったことは憶えているでしょう。主人をベッドのなかで殺しておいて、それから何時間とたたぬうち、朝になったからといって、なにくわぬ顔で、寝室ヘブラインドをあげにいったんです。わたしはあの事件を担当していまして、邸内の女という女を、のこらず調べあげてみましたが、ひとりとして怪しいものは見当たりませんでした。なんにしろ、あのマーティンだけは、そう簡単に容疑者からはずすわけにはいきませんよ。まず、あの態度が気にいらない。あれはたしかに、なにかかくしているにちがいありませんな。そのうちに、かならず尻尾をつかんでみせますぜ」
「やめときなさい!」トレントはさけんだ。「つまらん予言は、控えておくのが利口ですよ。なによりも事実だ。事実について語りあうとしましょう。きみはマーティンの話に、おかしいと思うふしを発見したんですか? あの話を否定するだけの証拠をにぎっているとでもいうのですか?」
「さしあたっては、ありませんな。マンダーソンは車を降りて、マーロウと別れると、このフランス窓からはいってきたはずだといってましたね。あれはどうやら、ほんとうのことらしいですよ。翌朝、この部屋を掃除した女中にきいてみたんですが、窓ぎわにある絨毯《じゅうたん》の上敷きに、小砂利まじりの泥がついていたということですし、外の新しく敷いた砂利の上にも、靴跡がひとつ残っていましたからね」
マーチ警部はポケットから折り尺をとり出して、靴跡の残っているあたりをさし示した。
「あの夜マンダーソンがはいていたエナメル靴が、その跡にぴったりあてはまるんです」そしてかれは、つけくわえていった。「寝室へ行ってみればわかりますが、窓ぎわのいちばん上の棚においてあって、エナメル靴というと、それひとつしかありません。朝、磨いていた若い女中に、見せてもらいました」
トレントはかがみこんで、かすかに残る靴の跡に、するどい視線を走らせていたが、
「みごとですよ、マーチ君」と、さけんだ。「これに眼をつけるとは、さすがはきみだけのことがある。それに、ウィスキーの件もりっぱでした。あざやかに指摘してのけましたからね。ぼくはあやうく、≪アンコール!≫とさけびたくなったくらいです。あの点はたしかに、研究してみる必要がありますな」
「わたしはまた、あんたのことだから、説明はとっくについているものと思っていましたよ。ところで、トレントさん。まだ捜査にはいったばかりですが、いちおうの考え方として、こういう推理はどうでしょう? 夜盗の計画を立てたやつがある。おそらく、二人組の仕事でしょうが、マーティンもやつらに抱きこまれた。だからやつらは、銀食器のありかも知っておれば、客間その他の手ごろの品物のことも、くわしく心得ていたのです。その夜やつらは、邸の様子に眼を光らせていた。マンダーソンが寝室へはいると、マーティンはフランス窓をしめに行ったが、わざと鍵はかけずにおいた、盗賊たちは、十二時三十分にマーティンがベッドにはいるのを待って、書斎にしのびこむ。そこでまず、手はじめにウィスキーで元気をつける。ところが、マンダーソンは眠っていなかったと、まあ、仮定するんですよ。あるいは、やつらが窓をあけるのに、音を立てるかなにかしたと考えてもよろしい。マンダーソンはそれを聞きつけて、泥棒がはいりこんだと知りました。様子を見ようと、そっと起き出し、階下へ降りてくる。そして、ちょうどやつらが仕事にとりかかったところに出っくわす。盗賊たちは驚いて逃げだしたが、マンダーソンは追跡して、物置小屋近くで、ひとりをつかまえる。格闘に移って、賊のひとりは泡をくったあまり、自分の首にナワのかかるようなまねをしてしまったんです。どうです、トレントさん、こんなふうにも考えられるんですが、あんたの遠慮ないご批判は?」
トレントは答えていった。
「なるほどね。では、きみの言葉にしたがって、遠慮のないところをいわせてもらいますか。だいたいこの推理は、きみ自身が、どこまでそれを信じているか疑問ですね。第一に、きみのいわゆる夜盗たちが残していった証拠が見当たらない。マーティンの話によると、窓は朝になってから調べてみたが、前夜の戸締りをいじった跡はなかったそうだ。むろんこれだけでは、絶対的なものとはいえないが、ほかにも証拠はあるんですよ。もしそうだとすると、この書斎で、ひと騒ぎ起きたことになるはずだが、その物音を聞いた者は、邸のうちに、ひとりもいませんぜ。マンダーソンにしたって、邸のなかか外かで、大声をあげたにちがいないのだが、その声を耳にした者もいないんです。さらにまた、バナーやマーティンがおなじ棟の下にいるというのに、マンダーソンは声をかけようともしなかった。いや、いや、まだ、ある。きみの長い経験にかえりみて、邸の主人が、夜間、盗賊をおさえにかかるのに、まずさきに服装をととのえたなんてことがありましたか? 下着からワイシャツ、カラー、ネクタイ、ズボン、チョッキをつけ、上着を着こみ、靴下からエナメル靴と、完全に身支度をしたうえで、髪には最後の仕上げ、懐中時計までもっているというんですから驚きますよ。ぼく自身の好みからいうと、凝《こ》りすぎているといいたいほどめかしこんでいましたね。入れ歯を忘れたのが、唯一の手落ちというだけで、あとは満点に近いお洒落ぶりだったじゃないですか」
警部は大きな両手を組みあわせ、からだをかがめて考えていたが、けっきょくつぎのようにいいきった。
「たしかに、いまのわたしの推論はなりたちませんな。なんにしろあの男は、召使も起きださぬうちにベッドをはなれ、身なりまできちんとととのえて、自分の邸とつい眼と鼻のところで、十時には冷たくなって横たわっていたんですからね。すっかり硬直しきってね。そんなはやい時刻に、どういうわけで殺されたか、これをあきらかにするには、まだまだ相当、骨を折らねばなりますまい」
トレントは首をふって、
「その最後の問題、死体の硬直の問題ですが、それにもとづいて判断を下すのは、危険とみなければなりませんよ。ぼくも専門家に聞いてみたことがあるんですが、死後の体温低下と硬直についてのむかしながらの医学常識から、罪もない人間を絞首台に送ったこと、ないしは送りかけた例が、そうめずらしいことではないらしいんです。ストック医師も、おなじような古くさい観念をもっているんじゃないかしら? 開業医なんてものは、医者としては一時代前の人間ばかりですからな。あのストック氏が、検死審でばかなことをしゃべるのは、あすの太陽が東からのぼるのと同様、確実なことと思えますよ。ぼくはかれに会っているから、こうはっきりいえるんです。かれはおそらく、死体の冷却度と硬直状態からみて、死後これこれの時間を経過していると推定される、なんてことをいうでしょう。学生時代に使用した前時代の教科書をひっぱり出して、それと首っぴきで仕込んできた知識を披露するというわけですな。
いいですか、マーチ君。きみの長い職歴にもかかわらず、頭をかかえて考えこんでしまうような重要な事実を教えましょうか。死体の冷却度といっても、それをはやめたりおくらせたりする原因はいくらでもあるということですよ。たとえば、こんどの事件のそれは、物置小屋のかげで、長い露草につつまれて横たわっていた。マンダーソンが格闘の末倒れたか、突然生じたはげしい興奮状態の最中に殺されたとすれば、死体は即時に硬直を開始したともいえるんです。しかも、あのように頭部に傷を負った場合は、そうした例が多いようです。しかし、またその反対に、死後八時間から十時間経過して、はじめて硬直を開始することもあるんですよ。だから現代の法医学では、死後硬直を根拠にして、犯人を割り出すという手を用いなくなっている。マーチ君、きみとしては、おもしろくない制限でしょうがね。
そんなわけで、われわれが確実にいえることはこれだけです。マンダーソンが殺されたのが、みなが起きだして、仕事にとりかかってからのことだとしたら、だれかがその物音を聞いていなければならん。いや、おそらくは目撃した者もあったにちがいない。事実、かれが射たれたのは、人が起き出す以前だとの推定を基礎に、捜査をすすめる理由があるんです。見とがめられるような場所で、こんな荒仕事をやるばかもいませんからな。
そこで、いちおうその時間を、午前六時三十分としましょうか。マンダーソンがベッドにはいったのは十一時で、マーティンは十二時三十分まで、寝ないで待っていた。かりにマーティンが、ベッドにはいると同時に寝入ってしまったとしても、なお犯行までのあいだに、六時間なにがしというものが残るわけだ。六時間といえば相当長い時間ですよ。しかし、殺人が行なわれたのが何時だったにしろ、なぜ、かなりの朝寝坊だったマンダーソンが、六時半にもならぬ時刻に起きだして着替えをすましたか、また、目ざといはずのマーティン、バナー、そしてかれの夫人が、かれの動きまわっている気配、邸を出て行く物音を、どうして聞きとることができなかったか、そこの理由を説明づけなければならない。マンダーソンはよほど用心ぶかく立ちまわったにちがいない。おそらく、猫のようにこそこそ動いていたのでしょうね。どうなんです、マーチ君。きみもそのように感じませんか。なんにしろこれは、おそろしく変わったところのある厄介な事件といえますな」
警部もうなずいて、
「たしかに、そう見えますよ」といった。
「では」とトレントは立ちあがって、「ぼくはこれから、寝室を見てきますから、きみはここで、ゆっくり考えたらいいでしょう。ひょっとしたら、ぼくが二階をほっつきまわっているあいだに、うまい説明が思い浮かばんものでもない。しかし――」
とトレントは、ドアの前でくるりとふりかえると、急に腹立たしそうな声で、話に結論をつけた。
「あれだけきちんと服装をととのえた男が、どういうわけで入れ歯を忘れたのか――その理由がわかったら、教えてもらいたいものですよ。それを知ることができたら、ぼく自身、近くの精神病院にぶちこまれても苦情はいいませんよ。いや、実際、気が狂ったみたいに躍《おど》りあがってよろこぶかもしれませんね」
[#改ページ]
五 突つきまわる
だれもが知っていることだが、心のうちに、あるひとつのことを思いつめていると、予想もしていないときに、思いもかけぬ幸運のヒントが、ひょいと意識の上にあらわれることがあるものだ。いずれは好都合に運ぶにちがいないと、漠然とした確信を感じるのは、どういう現象なのであろうか。それは、運命から見放されそうになっている人間の、自棄かともみえるおもいでもなければ、楽天家の執拗な妄想でもない。いわばそれは、鳥が突然、草叢《くさむら》からとびたつように、大なり小なりの成功を目前にして、求めずしてあらわれてくる自信なのである。将軍が、戦闘開始にさき立つ未明に、きょうはかならず勝利をにぎると予感する場合もあろうし、緑の芝生の上で、ゴルファーの胸に、ロング・パットできっとはいるという信念が浮かぶこともあろう。書斎の入口へ通じる階段をのぼりながら、トレントはそのような成功の確信を、心のうちに感じているのだった。
雑多な臆測や推論が、整理されぬままに、心のうちにむらがるのを知りながら、トレントは重要な意義をもつと思われる観察を行なっていたのだが、まだそれらは、犯罪を解く合理的な推理にまではまとまっていなかった。しかし、階段をのぼって行くかれは、この事件を解決する光明が、近くあらわれるにちがいないと、かたく信じて疑っていなかった。
その邸の寝室は、絨毯《じゅうたん》を敷きつめた広い廊下の両側にならんでいた。廊下は、高窓から明りをとって、邸の端までつづいているが、そこで、せまい廊下につきあたる。召使たちの部屋は、そのせまい廊下に面していた。マーティンの部屋だけが例外で、二階へのぼる中途の踊り場からはいれるようになっていた。そこを通りすぎるとき、トレントはちょっと、なかをのぞきこんだ。まっ四角な小さい部屋で、きちんと整頓してあったが、なんの変哲もない様子だった。トレントはそこから、またも階段をのぼって行った。からだを壁にもたせかけるように、足もしずかに運んで、音をたてぬように注意していたが、だれの耳にも聞きとれるほど、木のきしみが大きくひびいて、かれがのぼって行くことをはっきり示していた。
マンダーソンが寝室に使っていたのは、二階へあがって、すぐ右側の部屋と聞いていたので、かれはまっすぐ、そこへ足をむけた。かけがねと錠をためしてみたが、異常はなかった。つぎに、鍵の切りこみを調べてから、部屋の内部を見まわした。
それは案外小さなスペースだが、奇妙なくらいがらんとした感じだった。化粧道具のたぐいも、この大富豪の持ちものにしては意外なほど質素な品である。室内はすべて、その朝、庭園で、おそろしい事件が発見された当時のままになっていた。皺になったシーツや毛布が、せまい木製の寝台の上に投げ出されたままで、窓からさしこむ陽光に照らし出されていた。枕もとの粗末な小卓に、水をたたえた浅いグラス鉢がのっていて、なかに義歯が沈めてあるが、それにも、陽の光はかがやいていた。そのほか、小卓の上には、鉄製の燭台がひとつ立っている。いくつかの服が、底に藺草《いぐさ》を張った二脚の椅子のひとつに、だらしなくかけてあるし、化粧台に使っている箪笥の上にも、さまざまな品物が、よほどあわてた男がとりちらかしたように、乱雑にのせてあった。
トレントはそれらの品を綿密にながめまわして、部屋の主が、顔も洗わず、ひげも剃らなかったことに気づいた。指先で、鉢のなかの義歯をひっくり返してみて、その不可解なものの存在に、またしても眉をひそめた。
陽光があかるく射しこむこの小部屋は、その空虚さと乱雑さのうちに、なにかぞっとさせる気配を感じさせて、眺めまわしているトレントの眼に、妻が眠っている部屋のドアを、恐怖におびえた顔つきで気にしながら、晩の薄明りのなかに、音をたてぬように身支度している、長身|痩躯《そうく》の男の姿を、幻のように浮かびあがらせるのだった。
トレントはぞっと身ぶるいをして、気持を現実にじきもどすために、ベッドの両側の壁にはめこんだふたつの戸棚をあけてみた。そのどちらにも、服がいっぱいはいっていて、それがどれも、選《え》りぬきの品ばかりだった。衣服のたぐいが、この部屋に眠っていた男の数少ない道楽のひとつであることは一目見ただけで明瞭だった。
マンダーソンはまた、靴にかけても、財力にまかせて贅《ぜい》をつくしていた。木型をはめ、ていねいに手入れされされたたくさんの靴が、壁ぎわの低く長い二段の棚にならべてあった。深靴はひとつも見られなかった。トレントも良質の靴皮に趣味をもっていたので、たちまちこの多くの靴に気を奪われて、みごとなコレクションを、鑑賞的な眼つきで眺めまわした。見たところマンダーソンは、形のととのった小さい足を自慢していた様子で、どの靴も幅がせまく、先のまるい独特の形をした美しいものである。そしてそれらが、おなじ靴型からつくられたものであることもあきらかだった。
突然、かれは、上の段にあるエナメル靴に、眼をやった。
すでに警部の口から、そのあり場所を聞いていたので、マンダーソンが殺された前夜にはいていたものは、すぐに発見できた。相当はき古してあるが、ごく最近磨いてあることも、一見してわかった。甲皮の部分に、かれの注意をひくものがあった。かれは腰をかがめ、顔をしかめて、気のついた部分を、ほかの靴のおなじ部分とくらべてみた。それから、そのエナメル靴をとりあげて、甲皮と底皮のつぎ目のあたりを調べた。
このようなことをしながら、トレントは無意識に、口笛をかるく吹きはじめた。もしマーチ警部がそこにいたら、たしかにそのリズムは、聞きおぼえのあるものであったはずだ。
自制心のつよい人間は、それだけにまた、知らず知らずのうちに出る癖をもっているものである。そしてそれが、その癖を知っている相手に、内心の興奮をおさえつけていることをもらしてしまう結果になるのだが、トレントの場合も、なにか強力な手がかりをつかんだとなると、ある種のメロディの一節が、かるく口笛で吹きだされる。そこまではマーチ警部も心得ていたが、その曲がメンデルスゾーンのイ長調≪無言歌≫の第一楽章であることまでは知らなかった。
かれは靴を裏返して、巻尺で寸法をはかり、底の部分をていねいに調べてみた。両方とも、かかとと土ふまずのあいだのくぼみに、赤土がかすかについているのがみえた。
トレントはそれから、靴を床の上におくと、背中で手を組んで、窓ぎわへ歩みよった。あいかわらず、口笛をかるく吹きながら、ぼんやりと窓外の風景に眼をやっていた。そのうちに、突然、わけのわからぬことを口走った。それもまた、かれがなにかを思いついたとき、よくする癖だった。いそいで、靴棚のところへひきかえすと、敏捷にかつ慎重に、そこにある靴のひとつひとつを調べだした。
それがすむと、こんどは椅子にかけてある服をとりあげて、これもまた念入りに調べてから、もとの位置にもどした。つぎは衣裳戸棚へ歩みよって、なかにかかっているものを注意ぶかく調べた。それから、化粧台の上に散らばっている小物に、もう一度、眼をむけてから、空いている椅子にかけ、頭を両手でかかえこんで、数分間、絨毯をじっと見下ろしていた。すると、また、急に立ちあがって、マンダーソン夫人の寝室に通じている扉のドアをひらいた。
その大きな部屋が、それまで使用されていた私室としての地位を奪い去られたばかりであることは、ひと目見ただけで明白だった。女性の化粧台の上にありがちの小物類は、のこらずとりのぞいてあって、ベッド、椅子、小机の上にも、衣裳、帽子、ハンドバッグ、小箱の類は、いっさい見当たらなかった。引出しのなかにとじこめられているのをきらって、手袋、ヴェール、ハンケチ、リボンなどが、勝手に飛びだし、散らかってる様子もなかった。それはまるで、客のいないときの来客用の寝室そのままだった。しかし、調度類や装飾などをこまかに見ると、因襲《いんしゅう》にとらわれない、きびしい趣味がうかがわれて、不釣合いな結婚をした夫人が、おのれひとりの夢を見、寂しく物思いにふけっていた様子が、部屋の装飾の完璧な色彩や様式に、まざまざとあらわれているのだった。トレントはそれを見て、夫人が芸術的なものによって、さびしい心を慰めていたことを知った。そしてそれと同時に、まだ会っていない夫人への興味が、しだいにつよまってくるのが感じられた。夫人が負わされた重荷を考え、そしてまた、かれのあわただしく動きまわる心の前に、徐々に深刻さを増しつつある事実に思いをひそめて、その眉はおもくるしく曇ってくるのだった。
かれは、ドアに面した壁のなかほどに切ってある高いフランス窓に近よった。それをひらいて、鉄の手すりのある小さなバルコニーへ出た。すぐ眼の下に、邸の壁にそって、せまい花壇があり、そのさきはひろびろとした芝生が、はるかかなたまでつづいている。その果てが、急に低まっているのは、果樹園になっているらしい。もうひとつの窓は、書斎から庭園へ出るフランス窓の真上にあたっていて、上下に開閉する式になっていた。部屋の奥の隅には、廊下へ通じる第二のドアがあって、朝になると、そこから女中がはいってくるし、夫人もまた、そのドアから外へ出るものと思われた。
トレントはベッドに腰をかけて、手帳に、その部屋と隣室の図面を、手ばやく書きとめた。ベッドは、ふたつの部屋をつなぐドアと上げ下げ窓の中間にあって、その頭をマンダーソンの寝室との境壁にむけていた。トレントはしばらく、枕をみつめていたが、ゆっくりとそこに横になって、ひらいているドアを通して、隣りの部屋へ眼をやった。
この観察をおえると、かれはまた起きあがって、ベッドの両側に、それぞれテーブル掛けをかけた小卓がすえてあるのを、図面の上に書きくわえた。ドアから遠いほうの小卓には、銅製の優美な電気スタンドがおいてあって、コードは壁に接続されていた。トレントはそれを綿密に調べ、つぎに、室内のほかの電燈と接続しているスイッチを見た。それは、どこの家でもそうしてあるように、ドアをはいって、すぐ内側の壁にとりつけてあるので、ベッドの上からでは、手のとどかぬ位置にあった。かれは電燈が全部異常のないことを知ると、満足そうに立ちあがった。そのあとは、いそいでマンダーソンの部屋へもどってベルを鳴らした。
執事が、なんの表情もなく、直立不動の姿勢で戸口にあらわれた。その顔を見て、トレントはいった。
「もう一度、きみの手を借りたいんだ。マンダーソン夫人づきの小間使に会えるようにはからってもらいたいのさ」
マーティンは答えて、
「かしこまりました」と、いった。
「それ、どんな娘だね? 気のきくほうかしら?」
「フランス人です」と、マーティンは簡単にいって、ちょっと間をおいてから、つけくわえた。
「まだこの邸へ来てから、いくらもたっていないのです。ですが、おたずねですから申しあげますが、世間のことは、相当に知っている娘と思われます」
「顔はやさしいが、はらは見かけとだいぶちがうという意味か」と、トレントはいった。「なあに、かまわんよ。すこし質問してみたいのさ」
「すぐにうかがわせます」
執事は答えてひきさがった。トレントはそのあと、手をうしろに組んで、せまい室内を歩きまわっていると、予想したよりはやく、黒い服をきちんと着こんだ小柄な女が、ものしずかに姿をあらわした。
夫人づきのこの女中は、トレントが芝生を横ぎって、この邸へ到着したときに、大きな茶色の眼で、好ましそうにかれを、窓から眺めて、この名探偵(かれの評判は、この邸の召使部屋にまでひろがっていたのである)に呼ばれてみたいという、はかない望みをいだいていたのだった。ひとつにはこの名探偵の前で、ひと演技やってみたい気持があった。それほど彼女の神経は昂《たか》ぶっていたが、しかし、彼女の芝居っ気は、ほかの召使たちのあいだでは評判がわるく、いや、そればかりか、マーチ警部の尋問を受けたとき、この警察官のきびしい態度に度胆《どぎも》をぬかれたかたちで、芝居っ気どころか、ちぢみあがっているのだった。いまもトレントをちょっと見て、これはさっきの警察官とちがって、思いやりがありそうだと、ほっとしたばかりのところである。
だが、部屋へはいると同時に、この相手もまたなかなかの難物で、最初に好い印象をあたえるためには、へんな媚《こ》びなど見せたらぶちこわしだと、さすがにこの女、本能的に感じたらしい。そこで彼女は、ものやわらかに、しかも率直な態度で、つぎのようにいったわけである。
「なにかわたくしに、お話しがおありだそうですね」そして殊勝げにつけくわえた。「わたくし、セレスティーヌと申します」
「そうだったね」トレントは事務的に、冷静な態度でいった。「じつはセレスティーヌ、きみにきいておきたいことがあるんだ。きのうの朝七時、きみは夫人のところへお茶をもっていったね。そのとき、このふたつの寝室のあいだのドアはあいていたかしら?」
セレスティーヌは、とたんに生きかえったように元気づいた。
「オー・イエス!」彼女は、得意の英語で、しかも慣用語をつかっていった。「ドアはいつもどおり、あいていました。そして、わたくしは、いつもどおり、それをしめました。ですが、それには、説明がいると思います。お聞きになってください! わたくしが、あそこの別のドアからはいりますと――あの、ムッシュー、すみませんが、むこうの部屋へ行っていただくと、よくわかるんですけど」
彼女自身が、足ばやに、あいだのドアまで行って、トレントの腕をつかむと、夫人の部屋へ押しやるようにした。
「よくごらんになってくださいね! わたくしがこういうぐあいに、お茶をもってお部屋へはいりまして、ベッドに近づきますと……ええ、ベッドのすぐそばへくるまで、ドアはわたくしの右手にあって――いつもあいているんですが――ええ、そうなんです。でも、ムッシュー、おわかりになっていただけると思いますが、わたくしには、マンダーソンさまのお部屋のなかは、なにひとつ見えません。ドアはベッドのほうにむかってひらいていますので、こちらから近づいたのでは、なかは見えないのです。わたくしはなかを見ないで、ドアをしめました。そうするようにいいつかっているからです。きのうもそのとおりにいたしました。つまり、お隣りの部屋は、なにも見ていないのです。奥さまも天使のようにおやすみでしたから、なにもごらんにならなかったはずです。わたくしはドアをしめまして、お茶の盆をおき、カーテンをあけ、お化粧道具をそろえてひきさがりました。申しあげることは、こんなところですわ」
そこでセレスティーヌはひと息ついて、両手を大きくひろげてみせた。
彼女の動作や身ぶりを見ながら、しだいにその話にひきこまれていったトレントは、そのとき、つよくうなずいて、
「それで様子がはっきりしたよ」と、いった。「いや、すまなかった、セレスティーヌ。要するに、夫人が起きて、部屋で着替えをしたり、朝食をとっているあいだも、マンダーソン氏は当然、自分の部屋で寝ているものと思っていたとみていいんだね?」
「はい、そうなのです」
「ではだれも、マンダーソンがいないことには気づかなかったというわけか」とトレントは、つぶやくようにいって、「セレスティーヌ、きみのおかげでたいへん助かった」
そしてかれは、もう一度、もとの部屋へ通じているドアをあけた。
「どういたしまして」とセレスティーヌは、小部屋から出て行きながらいった。「マンダーソンさまを殺した犯人は、ぜひムッシューにつかまえていただきたいと思いますが、あのかたが亡くなっても、わたくし、それほどお気のどくとは思いませんのよ――」
そして彼女は、廊下へ出るドアの把手《とって》に手をかけていたが、その姿勢でふりかえって、突然、びっくりするような乱暴な調子でつけくわえた。そのときの彼女は、はっきり口から音がもれるほど、歯をくいしばり、その小ぢんまりした浅黒い顔に、赤く血がさしていた。得意な英語も、どこかへおき忘れたとみえて、フランス語でさけぶようにいった。
「気のどくだなんて、思うもんですか! ちっとも思わないわ!」
つづいて彼女は、大声でしゃべりだした。「でも、奥さまは――奥さまは、とてもいいかたですわ――あんなにおきれいで、尊敬できるかたってありませんわ! 男のほうはそれにひきかえて! 陰気で、気むずかしく、思いやりのない――いやな男! わたくしには、あのひとがどんな男か、ちゃんとわかるんですわ! ほんとうですわよ。こんな男が生きているということが、わたくしにはがまんできないくらいでした。ええ、ほんとうに、いやな男――」
「おしゃべりはやめたまえ、セレスティーヌ」
トレントはするどく、彼女の言葉をさえぎった。その長広舌は、トレントに、かれ自身の学生時代を思い出させたからだ。
「そんな芝居じみたことはやめたほうがいい! 第一、うるさいよ。胸のうちに、おさめておくべきことだ。常識のある人間は、軽率にしゃべりまくるものじゃない。階下《した》にいる警部が、きみのおしゃべりを聞いたら、どんな面倒なことになるかわからんぞ。それに拳骨をそんなにふりまわすこともいらない。なにかにぶつからぬともかぎらんからな」
セレスティーヌは、かれのきびしい眼光に射すくめられて、たちまちおとなしく変わったので、こんどは言葉をやわらげて、トレントはつづけた。
「なんにしろ、きみはマンダーソン氏がこの世から消えたのを、だれよりもよろこんでいるようだが、それもつまリ――これはぼくの想像だが――マンダーソン氏はきみが期待したほど、目をかけてくれなかったというわけだな」
「ぜんぜん、眼をむけようともしませんでしたわ」
とセレスティーヌはそっけなく答えた。「それはまた、ひどかったな――」と、トレントは笑って、「きみはつまらぬお茶運びにはもったいない女性だ。誕生日の星が燃え立っている感じさ。澄みきってしかもはげしい、赤く燃えたつきみの星は、天上にあってこそふきわしいものなんだ。とにかく、セレスティーヌ、ぼくはいまいそがしいんだ。これで、失礼するよ。たしかにきみは美人だよ!」
セレスティーヌは、予期もしなかったお世辞をいわれたと思ったのか、その驚きが、気持を落ちつかせたとみえて、肩ごしに、チラッと微笑をトレントにむけると、ドアをあけて、すばやくそこを立ち去った。
小部屋にひとり残されたトレントは、腹の癒《い》えるまで、セレスティーヌの国の言葉で、なにか痛烈に罵《ののし》ってから、ふたたび仕事にとりかかった。前にも一度調べたことのある靴をとりあげて、そこにおいてある二脚の椅子のひとつにのせ、もうひとつの椅子には、かれ自身の腰をおろした。手をポケットに入れたまま、かれはこのふたつの声なき証人に眼をすえた。ときどき、聞きとれぬほどかすかな音で、例の曲を数小節、口笛で吹いていた。室内はしずまりかえって音もしない。あいている窓の外では、木々のあいだに、小鳥のさえずりが聞こえている。ときおり、そよ風が流れてきて、窓辺のつる草をそよがせるが、部屋のなかの男は、きびしく憂鬱な顔で、物思いにふけり、身動きひとつしなかった。
このようにして、かれは三十分ほど坐りつづけていたが、急に立ちあがって、靴をていねいに棚へもどすと、廊下の踊り場へ出て行った。
廊下のむこうがわに、ふたつの寝室のドアが見えていた。トレントは、すぐ眼の前にあるドアをあけて、なかへはいった。その部屋は、厳格にいえば、整頓されているとはいえなかった。片隅に、ステッキだの釣竿だのが、乱雑に立てかけてあるかと思うと、別の隅には、書籍がうず高く積みあげてある。化粧台やマントルピースの上においてある雑多な品――パイプ、ペンナイフ、鉛筆、鍵、ゴルフのボール、古手紙、写真、小箱、鑵《かん》、壜《びん》などといったものを整理するのは、女中にもむずかしいことであったろう。二枚のみごとな銅版画と、数枚の水彩画とが、壁にかけてあった。そのほかにも、額ぶちへ入れた木版画が何枚か、これは壁にかけずに、衣裳戸棚の横に立てかけてある。
窓の下には、短靴や長靴がならべてあった。ここでもトレントは、部屋を横ぎって、窓下に近づき、その靴を熱心に調べてみた。そのうちの何足かは、巻尺を出してはかったりしたが、そのあいだもたえず、かすかな口笛を鳴らしつづけた。その仕事が一段落すると、はじめてベッドの端に腰をおろして、陰鬱な眼つきで、部屋のなかを眺めまわした。
まもなく、マントルピースの上にのせてある数枚の写真が、その注意をひいた。それはマーロウとマンダーソンの乗馬姿の写真で、かれは立ちあがって見に行った。そのほかにも、アルプスの有名な高峰を撮したものが二枚ほどあったし、三人の青年が立っている色あせた写真もあった。そのうちのひとりは、まぎれもなくかれのよく知っている、痩せた青い眼の青年で、十六世紀ごろの兵士に扮したものか、みすぼらしい軍服姿だった。もう一枚の写真は、どこかマーロウに似たところのある、堂々たる体躯の老婦人だった。
トレントは、マントルピースの上に、蓋をあけている箱から煙草を一本、機械的につまみ出すと、それに火をつけて、以上の写真をみつめていた。そして、つぎには、煙草入れの横にある平たい皮ケースに眼をむけた。
それは簡単に蓋があいた。なかには、精巧な小型のレヴォルヴァと、実弾が二十発ほど、ばらのままで入れてあった。ピストルの台尻には、≪J・M≫という頭文字が彫りつけてある。
トレントが銃尾をあげて、銃腔をのぞきこんでいると、階段に足音がして、あけっ放したドアの前に、マーチ警部が姿を見せた。「どうしましたね――」
いいかけてかれは、トレントのしていることをみると、足をとめた。知的なその眼が、やや大きく、見ひらかれた。
「そのレヴォルヴァは、だれのものです?」とかれは、なにげない調子できいた。
「もちろん、この部屋のあるじ、マーロウ君のものですよ」トレントは台尻の頭文字を指さして、同様、かるい調子で答えた。「マントルピースの上にあるのを見つけたんです。小型で、手ごろなピストルですね。最近使用したとみえて、注意ぶかく掃除してありますよ。もっとも、ぼくは銃器のこととなると、さっぱり知識がないんですがね」
「わたしは相当知っているつもりですが」警部は、トレントのさし出すレヴォルヴァを受けとって、「あんたもご存じと思うんですが、わたしは銃器については、ちょっとした専門家なんです。しかし、専門家でなくとも、ある程度はわかるはずですがね」
そしてかれは、レヴォルヴァをマントルピースにのったケースにもどし、かわりにそのなかから、実弾を一発とりだした。それを大きなてのひらにのせ、チョッキのポケットからなにか小さなものをぬき出すと、てのひらの上の実弾とならべておいた。それもまた小さな鉛の弾で、先端がすこしつぶれているうえに、新しい掻き傷が光っていた。
「これが例の弾《たま》ですか?」
トレントは警部のてのひらをのぞきこみながらいった。
「そうです。被害者のやられたやつです」と、マーチ警部は答えて、「頭蓋骨《ずがいこつ》のうしろでとまっていたのですが、ストック医師が一時間ほど前にとりだして、地方警察までとどけてくれたんです。この光っている傷は、医師の道具がつけたものですが、ほかの部分にある痕は、発射されたとき、銃身によってできたものです。その銃身はこいつによく似たやつらしいですよ」いいながらかれは、そのレヴォルヴァをたたいてみせた。「おなじ型、おなじ口径。こんな特徴を弾に残すものは、このピストル以外には考えられませんね」
ケースのなかのピストルをあいだにおいて、トレントと警部は、しばらく眼と眼を見あわせていた。トレントがまず、口を切った。
「この事件は、どこか狂っていますね。どうみても気ちがいざただ。狂気の徴候が、はっきりとあらわれている。現在、われわれにわかっているのは、マンダーソンがマーロウを、車でサウサンプトンへ派遣したこと、マーロウがそこへ出かけて、殺人が行なわれたあと、数時間して、昨夜おそく帰ってきたこと、これだけはまちがいないとみていいでしょうね?」
「そうですな。現在のところ、そこまではまちがいありませんね」
とマーチ警部も、(現在のところ)という言葉に、ちょっともったいをつけていった。
「ところが」と、トレントがつづけた。「このよく磨いて、こっそりしまってあったピストルを見ると、つぎのような推論を下したくなりますよ。マーロウはサウサンプトンなどへは行かなかった。その夜のうちに、邸に帰ってきていたにちがいない。なんらかの方法で、マンダーソン夫人や召使たちに眼をさまさせずに、マンダーソンを起こし、服をつけさせ、庭へつれだした。そこで、無法にもマンダーソンを射殺して、慎重に凶器の手入れをしてから、邸にひきかえした。そして、さっきと同様、邸の人たちに気づかれぬように、ケースにピストルをもどして、わざわざ、警官の眼に触れるような場所においた。そのあと、かれは邸をぬけだして、あの大きな車といっしょに、その日一日、どこかにかくれていて、夕方、素知らぬ顔で姿をあらわした。どうです、この推理は? かれが姿を見せたのは何時でした?」
「午後の九時をちょっとすぎていましたね」警部は、疑わしそうな顔つきで、トレントを見つめながら、「で、トレントさん、あんたのいうとおり、このピストルを発見したことを根拠とすれば、そうした推理もなりたたないこともありませんな。しかし、それもちょっと乱暴すぎるようにも思えますね――その推理が成立するためには、出発点がしっかりしていなければならない。殺人が行なわれた時間には、マーロウはこの邸から、五十マイルないし百マイルの距離のところにいたことは疑いないのです。かれはたしかにサウサンプトンヘ行っていましたよ」
「どうしてそれが、そうまではっきりいえるんです?」
「昨夜、かれを尋問して、供述をとったんです。かれは月曜日の朝六時三十分に、サウサンプトンヘ着いていますよ」
「ばかばかしい!」と、トレントははげしくさけんだ。「かれがなんと供述しょうと、そんなことが問題になりますか! きみだって、まさかそれを信じはしないでしょう。ぼくが知りたいのは、かれが事実、サウサンプトンヘ到着していたかどうか。そして、それを、どのようにして、きみが確認したかですよ」
マーチ警部はくすくす笑いながらいった。
「あんたをかついでみようと思ったんでさ。いまとなったら、話してもさしつかえないでしょうが、わたしはきのうの夕刻、ここへ到着して、マンダーソン夫人や召使たちから、あらましの話を聞いたんです。まず最初にやった仕事は、電報局へ行って、サウサンプトンの警察あてに、電報を打ったことでした。
マンダーソンはベッドにはいる前に、夫人にむかっていったそうです。自分は最初の考えを変えた。サウサンプトンヘはマーロウをやって、あすの船で出発するある男からの重要な情報を受けとらせることにしたとね。
それは事実を述べていたのだと思ったが、あんたも知っているとおり、そのときわたしの眼のとどく範囲にいなかったのは、この邸の人間のうちでは、マーロウひとりだったのです。かれはその日おそくなって、はじめて車で帰ってきたんですよ。そこで、事件の捜査を、それ以上すすめる以前に、サウサンプトンの警察へ電報を打って、かれの行動調査を依頼したんです。その返事は、けさはやく受けとってありますよ」
かれはそこで、依頼紙をとり出して、トレントに見せた。それには、つぎのような文言がしたためてあった。
[#ここから1字下げ]
「ご照会の人物および車は、今朝六時三十分、当地ベッドフォード・ホテルに到着。マーロウと署名し、車はホテルのギャレジにあずけ、係員にはマンダーソン氏所有のものと告げた。そのあと、入浴と朝食をすませると、アーヴル行きの汽船に、ハリスという船客をたずねた。同船が正午に出帆するまで、同人をさがし歩いていたとのこと。その後、ホテルで昼食。午後一時十五分ごろ、車で帰途についた由、船会社の係員の話では、先週、ハリス名義で船室の予約を受けたが、ハリスなる人物は乗船しなかったという。バーク警部」
[#ここで字下げ終わり]
「簡単な文言だが、これでじゅうぶんでしょう」
とマーチ警部がいった。トレントはその電報をくりかえして読んだうえで、警部の手にもどした。
「マーロウの話もこれとぴったり一致しています」と警部は説明した。「かれはハリスの姿が見えぬので、おくれてくるのではないかと、埠頭《ふとう》を三十分ほどもうろついていたんだそうです。ついにその男があらわれないので、ぶらぶら歩きながら、いったんホテルヘもどって、昼食をすませると、すぐ帰ることにきめたというのです。
そこでかれは、マンダーソンへ電報を打っています。
≪ハリスきたらず。乗りおくれし模様。帰途につく。マーロウ≫
その電報は、その日の午後、まちがいなくこの邸にとどいて、故人にあてたほかの手紙類といっしょにおいてありました。しかし、マーロウは車を相当なスピードで飛ばしてきたとみえて、くたくたに疲れていましたよ。
マーティンから、マンダーソンの死亡を聞かされると、気絶せんばかりに驚いたそうです。長時間眠っていないところへ、そのようなことを聞かされたので、わたしが昨夜会ったときなど、いまだにその打撃から立ちなおっていない様子でした。しかし、かれの話は、完全にすじが通っていましたね」
トレントはレヴォルヴァをとりあげて、しばらくはなんということもなく、弾倉《だんそう》をぐるぐるまわしていたが、
「マーロウがピストルと実弾とを、不注意にもこんなところへおいといたために、マンダーソンの生命が奪われることになったのでしょうか」と、そのピストルをケースヘもどしながら、もう一度、口のなかでつぶやいた。「だれだって、こんなものが眼に触れれば、つい、手を出したくなるものな」
しかし、マーチ警部は首をふって、
「この事件を考える場合、このレヴォルヴァにこだわっても、大して役にたたんのではないでしょうか? かなり変わった型のピストルですが、最近これが、イギリスではずいぶん普及しているんですよ。元来はアメリカからわたってきたものではありますがね。護身用のためか、悪事をはたらくためか知りませんが、ピストルを買おうとする連中は、半数以上、この型と口径に手を出すらしい。なかなかよくできていますし、ズボンの尻ポケットに入れて、簡単にもち歩けますのでね。悪党にしろ、善人にしろ、これをもっている者というと、数千人はいるかもしれませんよ。たとえば――」と警部は、なにげない調子でつづけた。「マンダーソン自身も、それとまったくおなじものをもっているんです。階下の机のいちばん上の引出しに入れてありましたよ。わたしはそれを見つけ出して、げんにこのオーバーのポケットに入れてありますよ」
「は、はあ! そこまでこまかいことを知りながら、いままでぼくには、ひとこともしゃべらんのですね!」
「まあ、そういったところです」と警部は、すましたもので、「しかし、あんたもピストルを一挺、発見したんですから、五分五分じゃないですか。さっきいったように、こういったピストルは、事件の解決には役立たんでしょう。この邸の連中ときたら――」
そのとき、ふたりの男をハッとさせることが起きた。警部はすぐに口をつぐんだ。半びらきのままにしておいたドアが、しずかにあいて、戸口にひとり、男があらわれたのだ。その男は、蓋のあいたケースのなかのピストルを眺め、それから、トレントと警部に眼をうつした。かれが歩いてくる足音に気づかなかったふたりは、示しあわせたように、その男の細長い脚を見た。ゴム底のテニス靴をはいているのだった。
「あなたはたしか、バナーさんでしたね」
とトレントがいった。
[#改ページ]
六 バナー君登場
「ぼくは、カルヴィン・C・バナーといいます」
はいってきた男は、くわえていた火のついていない葉巻を、口から手へもちかえると、ややかたくるしいあいさつをした。それまでに会ったイギリス人は、初対面の場合、形式ばった話し方をするのが多かったもので、トレントの性急な口のきき方には、多少まごつかされた様子だった。
「あなたはたしか、トレントさんでしたね」とかれはつづけた。「マンダーソン夫人から、さきほど、うかがいました。やあ、警部さん、おはようございます」
マーチ警部はうなずいて、アメリカ風のあいさつにこたえた。バナーはなおもつづけて、
「部屋へ行こうと思って、あがってきますと、ここの部屋で、聞きなれぬ声がしましたので、ちょっとのぞいてみたようなわけです」と、気やすそうに笑ってみせた。「立ち聞きでもしていたのかとお考えかもしれませんが、そんなまねをするぼくではありません。ただ、ピストルといった言葉を耳にしたものですから――やはり、ピストルについて話していらしたのでしょうね?」
バナーは痩せがたの、どちらかといえば小柄な青年で、きれいにひげをあたり、骨ばってはいるが、色が白く、女性的といってもよい顔立ちだった。大きくて黒い理知的な眼をしていて、黒く波うつ頭髪は、まん中からわけてあった。葉巻をはなしたことのないその唇は、くわえていないときは半ばひらかれたかたちで、不思議な表情をたたえている。いわばそれは、なにかをたえず待ちかまえているように見えた。そのかわり、葉巻を口にしていると、そうした表情は消えうせて、まったく冷徹で、機敏そのものといえるヤンキー気質を示すのだった。
生まれはコネチカット州で、大学を卒業したあと、証券業者の事務所につとめていた。その事務所におけるマンダーソンの取引を、かれがしばしば扱っていたことから、この≪巨人≫の目にとまったのである。マンダーソンは、しばらくかれを観察したのち、秘書に採用したのだった。もちろんかれは、典型的なビジネスマンであり、その点では百パーセント信頼できる人物である。先見の明のあることはもちろん、きちょうめんであるし、万事につけて、仕事は正確だった。こうした特徴だけのことなら、似たような人物はいくらでも見つかるかもしれないが、マンダーソンがとくにかれを雇い入れた理由は、この男、なにをやらせても機敏で、秘密を厳守し、とりわけて、株式市場の動静をとらえることにかけて非凡な直観力をそなえていたからであった。
トレントとアメリカ人は、たがいに相手を、冷静に観察していたが、やがてふたりは、それぞれのさぐりあいに満足を感じたらしく、まずさきに、トレントが快活な口調で話しだした。
「警部が説明しているところですが、ぼくがいま、ピストルを発見して、マンダーソンを射ったものはこれでないかといいだしたのですよ。ところが、マーチ君の話によると、このピストルでは、証拠としてたいして役に立たぬとのことなんです。あなたがたのあいだでは、この型のピストルが流行しているそうですね。これだったら、このへんでは、だれもが持っているといわれたところなんです」
バナーはその骨ばった手をのばして、ケースからレヴォルヴァをとり出した。
「そのとおりです」と、バナーは、扱いなれた手つきで、それを操作《そうさ》しながらいった。「その点、警部のいわれるとおりです。ぼくの国では、これを≪リトル・アーサー≫と呼んでいて、近ごろでは、これを尻ポケットに入れて歩く人間が、万をもって数えるくらいなんです。ぼくの手には、ちょっとかるすぎる感じですがね」
バナーはそういいながら、上着の尻のあたりを、手さぐりにさぐりながら、恰好のわるいピストルをとり出した。
「手にとってごらんなさい、トレントさん。ただし、弾がはいっていますよ。ところで、≪リトル・アーサー≫ですが、これは、この夏、われわれがここへくるちょっと前に、マーロウ君が亡くなった主人にすすめられて、しかたなしに買ったものです。二十世紀の男で、ピストル一挺もっていないなんて、ばかの骨頂だといわれたんです。そこでかれは、ぼくには相談もしないで買いに出かけて、店員が出してよこしたものを、そのまま買ってきたのでした。もっとも、べつにわるい品でもありませんがね」
バナーはいちおう、妥協したところを示して、照星《しょうせい》のあたりをのぞいてみながら、
「マーロウ君も、最初はからっきし下手でしたが、ここ一月ばかり、数回、ぼくがコーチしてやったので、ここのところ、かなり腕をあげました。しかし、どういうものか、いまだにもち歩くことはしないようですな。ぼくなんか、ズボンをはくのと同様に思っていますがね。じつをいうと、ここ数年にわたって、だれか、マンダーソン氏を狙っているような気配があったのです。そんなわけで、ぼく自身はいつももち歩いていました。それが、とうとう」とバナーは、悲しげに言葉をむすんだ。「ぼくが居あわせないときに、不意を襲われてしまったんです。では、このへんで失礼させていただきましょうか。ビショップスブリッジまで行ってこなければなりませんので。近ごろは仕事が多くなりましてね。びっくりするほど、たくさんの電報を打つ必要があるんです」
「ぼくも出かけなければならんのです」と、トレントがいった。「≪三つの酒だる≫という酒場に、約束があるんですよ」
「では、ぼくの車でお送りしましょう」と、バナーが親切に申し出た。「ちょうどその酒場のそばを通りますから。警部さんもおなじ方角に行かれますか? ああ、ちがいましたか? では、トレントさん、ごいっしょにまいりましょう。車を出すのを手伝っていただきますかな。あいにく運転手が休んでいますので、車の掃除のほかは、なんでも自分でやらなければならんのですよ」
バナーは、おなじ調子で、のんびりとしゃべりつづけながら、階下へ降りると、家のなかを通って、裏手のギャレジヘトレントを案内した。そのギャレジは、ぎらぎらする真昼の陽光を避けた涼しい木蔭に、邸からちょっと離れて建っていた。
しかし、バナーは車を出すのを、格別いそぐ様子もなく、トレントに葉巻をすすめたりしていた。トレントがそれを受けとると、自分も葉巻に火をつけた。それから、革のステップに腰をかけると、骨ばった手を、膝のあいだに組み合わせて、するどい視線をトレントにむけた。
「トレントさん」と、しばらくして、かれはいった。「お役に立ちそうなことを、二、三申しあげておきたいんです。あなたのこれまでの功績はよく存じております。あなたは聡明なおかただ。ぼくは聡明なおかたとおつきあいするのが好きなんです。あの警部のほんとうの力量は、まだはっきりつかんでおりませんが、どうもぼくには、それほどいい頭をもっているとは思えないんです。気のきいた質問をしてくれれば、なんなりと答えるつもりでいましたが、そして、事実、答えもしましたものの、しかし、質問もされないことまで、ぼくの考えを述べる気にもなりませんのでね」
トレントはうなずいて、
「この国の警察官は、ほとんどがそういった印象をあたえるようですね。いかにも役人であるといった態度が影響しているのだと思いますよ。しかし、いっておきますが、マーチ警部はあなたの考えているのとは、かなりちがった人物ですよ。広くヨーロッパを見わたしても、あれだけ俊敏な警察官は少ないくらいでね。まず、第一級の人物といえますな。頭の働きは、さしてするどいほうでもないが、うっかりした見逃がしは、絶対にしたことがないんです。なんといっても、長い経験がものをいっていますからね。ぼくの得意は想像力ですが、警察の仕事では、想像力より、経験のほうがはるかに重要だとわかりますよ」
「経験のほうですって? そんなばかなことがありますか!」バナーははっきりいってのけた。「少なくとも、この事件にかぎっては、ありきたりの経験なんかではまにあいませんよ。第一の理由として、うちの主人自身が、なにか自分の身に危険がせまっていることを知っていました。いまひとつの理由は、主人自身、この危険は避けられないと考えていた形跡があるのです」
トレントは、ステップにかけているバナーの反対側に、木箱を据えて、それに腰をおろして、
「たしかに、重要なことらしいですね」と、かれはいった。「ぜひ、あなたの考えを聞かせてもらいたいものですね」
「ぼくがこう申しあげる理由は、ここ二、三週間前から、うちの主人の態度が、急激な変化を示してきたからです。お聞きおよびかとも思いますが、あのかたは自制心のつよいひとでした。あれほど冷静で、あれほど強固な信念をもっていた人物は、ひろい実業界を見わたしたところで、そう簡単には見つかるものではありません。おそるべき沈着さというより言葉がないくらいです。そしてこのぼくは、だれよりもあのかたのことを知っているのです。その生涯をかけた仕事を、いっしょにしてきたんですからね。おそらく、あのお気のどくな奥さまよりも、もっとほんとうのところを知っていると思います。いうまでもありませんが、マーロウ君などとは比較にならんわけです。あの男は、事業のうえでの秘書ではないのですからね。要するにぼくは、マンダーソンの古い友人以上に、あのかたのことを知っていたつもりです」
「ほう、かれにも友人はあったのですか?」と、トレントが言葉をはさんだ。
バナーはするどく、かれをみつめて、
「だれかがすでに、あなたに話したんですね」と、いった。「正確にいえば、友人はなかったともいえましょう。毎日、あのひとが会っていた有力な人たちのうちには、知人といえる人間は大勢いました。つれ立って、ヨット旅行や狩猟に出かけることもよくありました。しかし、マンダーソンさんが心から打ちとけて話しあえる友人となると、ひとりでもいたとは考えられないのです。
ぼくがいいたかったのは、最近のあのかたの心配ごとなんです。数ヵ月前から、あのかたは、自分の力ではどうにもならぬ問題で、始終、悩みつづけているようにみえました。憂鬱な顔つきで、ろくに口もきかず、まるで人が変わったようになっていたのです。
こういう状態は、ずっとつづいていまして、なにかがその心に、重くるしくのしかかっているように見えました。しかも、数週間前からは、さしもの自制心も失なわれてきたようでした。ここのところを、よく聞いてください、トレントさん」
とバナーは、トレントの膝をつかんで、
「それを知っているのは、ぼくだけと思われます。ぼく以外の人たちには、ただ気むずかしくて、元気がないといった程度の様子を見せただけですが、ぼくとあのかたが、ふたりだけで事務所にいるとか、どこかほかのところで、いっしょに仕事をしているような場合、ちょっとしたことでも気にいらないと――これは嘘ではありません! ――びっくりするような剣幕で、どなりだすのでした。
げんにこの邸の書斎でも、なにか気にそわぬ手紙を読んだとみえて、ものすごくわめき散らし、この手紙を書いた奴に合わせろとか、ばかにしていやがるとか、インディアンも口走らぬような品のわるい言葉をわめきたてたことがありました。しまいには、かえって気のどくに感じられてきたほどで、人間がこうも変わるものか、ぼくとしても、あんな現象を見たのは、生まれてはじめての経験です。
それから、まだあります。あのかたが亡くなる一週間ほど前、ぼくの経験でも例のないことでしたが、あのかたは急に、仕事をしなくなってしまったんです。そして、アメリカで非常な事態が起きているのを知りながら、舞いこんでくる手紙にも電報にも、返事ひとつ出そうとしないのでした。ぼくには、その心配ごとがどのようなものであるかわかりませんが、それがあのかたの神経を痛めつけ、すり減らしてしまったことにまちがいはありません。ぼくも一度だけ、医者に診察してもらうことをすすめましたが、たちまち一喝されてしまいました。
あのかたのこうした一面は、ぼくのほか、だれも知りません。たとえばこの書斎で、そのような狂暴性を発揮しておられるところへ、マンダーソン夫人がはいってきたと仮定しましょう、あのかたは一瞬のうちに、いつもどおりのおだやかな顔つきにもどり、冷静そのものに変わってしまうのです」
トレントがそこで質問した。
「するとあなたは、それがある秘密の心配ごと、だれかがかれの生命を狙っているといった恐怖心に根ざすものだと判断したのですね?」
バナーはうなずいた。
「つまりあなたは」と、トレントがつづけた。「過度の緊張による神経衰弱で、精神に異常をきたしていたと考えたんですね。いまの説明を聞くと、あるいはそうかと、ぼくも思いますが、しかし、アメリカの大事業家のうちには、しばしばそういう状態になるひとがあるのではないでしょうか? 新聞などに、よく、そういう記事が出ているようですが」
「そんな考え方は、しないでいただきたいですね」とバナーは、むきになっていいたてた。「急に成金になった連中には、どうにも身がもてなくて、気が狂う者もないとはいえません。しかし、マンダーソンほどの大実業家で、気がふれたという男の話は聞いたことがありませんよ。それは人間のことですから、他人から見れば、多少は気違いじみている点もあるかもしれませんが」
とバナーは、考えこみながら、つけくわえた。
「しかし、それも、真の意味での気違いというわけではありません。猫がきらいだとか、あるいはまた、ぼくの場合みたいに、魚の料理は見るもいやというのもいるでしょうが、とにかく、あのかたの場合も、そういった個人的な奇癖と見てよいでしょう」
「では、マンダーソンさんの癖というと?」
「たくさんありました。だいたい、必要以上に大げさなこととか、贅沢なものとなると、目の仇《かたき》にしていました。普通の金持だったら、なんとも思わないことでしょうに、あのかたにかぎって、高価な持ちものや装飾品のたぐいは、いっさい用いようとしませんでした。身のまわりの世話にしても、ひと手をわずらわせず、呼びもしないのに召使たちがそばにまつわりつくのさえきらいました。服装には気をつかうほうで、ことに靴にかける金は、呆れるほどの金額にのぼっていましたが、身のまわりの世話をするための召使だけは、雇おうともしなかったんです。他人に自分のからだをさわられるのが、よほどいやだったとみえますね。他人にひげを剃らせたことは、けっきょく、一生に一度もなくておわったようでした」
「そのことは、ぼくも前に聞いたことがあります。しかし、なぜそんなことになったんでしょうね?」
「そうですね」バナーは、ゆっくり答えた。「けっきょくは生まれついての気性によるものだと思います。だいたいにおいて、猜疑《さいぎ》と嫉妬のつよいひとでした。うわさによると、父も祖父も、おなじような気性だったらしいのです……いってみれば、骨をくわえた犬が、ほかの犬もその骨を狙ってるものと思いこんで、いらいらしているようなものですね。まさか、理髪師が首を掻き切りはしないかと、真剣に怖れたわけでもないでしょうが、そういうこともないことはないと、いちおう、危険をおかすのを避けたかたちだったのでしょう。事業の上でもおなじことで、だれかに、もっている骨を狙われているものと信じていたのです! むろん、いつもそうだとは申しませんが、相当その傾向がありました。
こうして、あのかたはしだいに、財界でのもっとも用心ぶかい策謀家といった存在になってしまいましたが、それがまた、その成功を助けたことも否定できません。しかし、だからといって、あのかたが気違いだということにはなりませんよ。あなたはあのかたが亡くなる前、頭がおかしくなっていたかをたしかめたいお気持らしいが、そんなことはないと断言できますね。ただ、なにか思いわずらうことがあって、神経衰弱になっていたことは、確信をもっていえると思うんです」
トレントは考えこんで、さかんに葉巻をふかしていた。そして、バナーがどの程度まで、主人の家庭のいざこざを知っているのか、その点にさぐりを入れてみようと決心した。
「マンダーソン氏は、奥さんとのあいだがうまくいっていなかったようですね」
「そうなんです」と、バナーは答えた。「しかし、あの偉大なマンダーソンが、そのようなことで、あれほど心を乱したとは考えられません。絶対にノーです! そんなことで、気が転倒してしまうほど、あのかたはちっぽけな人間ではないのです」
トレントは半信半疑で、その青年の眼に見入った。しかし、青年のするどく強烈な眼の奥にうかがえるものは、根づよい純潔さだけだった。バナーは、夫婦間の不和など、どのように深刻なものであっても、偉大な人間にとっては、苦しみの原因になるはずがないと確信しているのだった。
「しかし」と、トレントがきいた。「あのふたりの仲がわるかったというのは、どういうところに原因があるのです?」
「ぼくにはわかりません」と、バナーはそっけなく答えて、葉巻をふかした。「そのことは、マーロウ君とも話しあったことが何度もあるのですが、ついに結論を出せずにおわりました。 ぼくは最初、こう思ったんです」バナーは急に、からだを前にのり出すようにして、声を一段と低めた。「あのかたは、子供ができないのを失望して、不満を感じだしたんではないかとね。だが、マーロウ君の話では、失望したのは奥さんのほうで、ぼくの考え方はあべこべだというのです。あるいは、かれの考えのほうが正しかったかもしれません。あの男は、夫人つきのフランス人の女中の言葉から判断したのですから」
トレントは急に、顔をあげて、かれを見た。
「セレスティーヌですね!」
そしてかれは考えた。あの女がいおうとしていたのは、そのことだったのだ!
バナーはトレントに見つめられたのを誤解して、
「ぼくはひとを中傷しているんではありませんよ。マーロウ君はそんな人間ではないのです。かれはフランス語がうまくて、フランス人そっくりにしゃべれるのです。そこでセレスティーヌが興味を感じて、いつもかれをつかまえては、ゴシップを聞かす相手にしていたのです。フランス人の女中なんてものは、そういう点で、イギリス人の女中とはまったくちがいますからね。それに女中であろうとなかろうと」
とバナーは、語気をつよめて、つけくわえた。「なんにしろ、女がこのようなことを男にしゃべるなんて、ぼくにはその気持がわかりませんよ。フランス人という人種は、始末のわるいものですね」
いいながらかれは、ゆっくりと首をふってみせた。
「ところで」と、トレントがいった。「さっきのあなたの話にもどりますが、マンダーソン氏は、自分の生命が狙われていると怖れていたそうだが、かれの生命を脅《おび》やかしていたのはだれなんです? ぼくにはまったく、見当がつきかねるんですがね」
「恐怖という言葉はどうかと思います」バナーは考えながらいった。「不安という程度、あるいは気がかりというくらいが適当なところかもしれませんね。なんにしても、あのかたを脅やかすというのは、なまやさしいことではないのです。あのかたはそれに、予防手段を講じるどころか、そんなまねをするのは、むしろ避けていたといってもよいのでした。それよりも、ぼくの考えに誤りがなければ、はやいところ、けりをつけてしまいたいと望んでいたようです。そうでなかったら、なぜあのように、夜おそく書斎の窓ぎわに坐っていたり、わざわざピストルの的《まと》となりやすい白いワイシャツを着こんだりしていたのでしょう? ところで、あのかたの生命を狙っていたのはだれかという問題ですが――」
とバナーは、微笑をうかべながらいった。
「あなたには、アメリカで暮らしたことがないからわからないのです。ペンシルヴァニアの炭坑争議ひとつをとってみても、妻子をかかえた三万人からの労働者たちが餓死するか、マンダーソンに屈服するかというどたん場まで追いつめられたのです。自分たちをそのような目にあわせた男に、風穴をあけてくれようと、機会を狙っている手ごわい相手が、アメリカだけでも三万人はいるんですよ。そのなかには、飽きずに何年間も狙っていて、相手が忘れたころ、殺してみせるといった無法者だっているんです。十年前、ニュージャージーで起きた事件ですが、ひどい仕打ちをしたのを根にもって、アイダホまで追って行って、ダイナマイトで殺したという例もあるのです。マンダーソンさんは大西洋をわたって、このイギリスへきていましたが、そんなことで、あの連中の乱暴を食いとめることは不可能でした。アメリカで、大実業家として成功するには、相当な勇気と覚悟が必要だというのは、誇張でもなんでもないのです。むろんあのかたは、自分に恨みをいだく危険な人間が、アメリカじゅう、いたるところに存在していることを、ずっと前から知っていたのです。おそらく、そのうちの何人かが、ぜがひでも、殺してしまおうと、最近動きだしたことを、なにかの機会に知ったのだと思います。もっとも、ぼくにはぜんぜん腑《ふ》に落ちないことは、なぜあのかたが、わざわざあのように、危険に身をさらすようなことをしていたかです。――なぜ危険を避けようとしないで、きのうの朝みたいに、射殺されるために庭園へ出ていったかなんですよ」
バナーはそこで、いったん言葉を切った。ふたりはしばらく、眉にしわをよせて、葉巻からうす青い煙をただよわせながら、黙ったまま坐っていたが、やがて、トレントが腰を上げていった。
「なかなか奇抜なご意見ですね。しかし、きわめて合理的でもあるようです。ただ、問題は、その説が、ほかの事実と矛盾しないかということです。ぼくが新聞に書くことを、いまここでしゃべるわけにはいきませんが、これだけはいっておきましょう。この事件は計画的な犯罪で、その点、驚くほど巧妙に仕組んであるということです。あなたのお話をうかがって、たいへん参考になりました。いずれまた、話しあう機会かあると思いますが」そしてかれは、時計を見て、「友人をながいあいだ、待たせてしまいました。では、出かけましょうか?」
「二時になりましたね」と、バナーもまた、自分の時計を見て、ステップから立ちあがっていった。「ぼくたちのニューヨークでは、ちょうど午前十時なんです。ウォール街をご存じないのでしょうね、トレントさん。いまごろ、あそこでは、地獄のような騒ぎがもちあがっているでしょうね。おたがいに、あんなところに居あわせなくて仕合わせでしたよ」
[#改ページ]
七 黒衣の婦人
こころよいそよ風になぶられて、海は断崖のすそに、白い波がしらを打ちつけていた。陽光が、まだら雲の浮かぶ空から、さんさんと地上にふりそそいでいる。いまはイギリスにおける、もっとも気持よい気候なのだ。眠り足りなかったトレントは、八時前から起き出して、教えられたとおりの道をたどり、岩のあいだの入江に降りると、澄みきった水のなかへ飛びこんだ。灰色の大きな岩を避けて、波の荒い海へと出て行った。しばらくは、沿岸の潮流にさからって泳ぎまわっていたが、こころよい疲労とともに、甦《よみがえ》ったような気分にひたりながら、またもとの入江にもどってきた。十分ほどして、ふたたび断崖をよじ登るときには、こんど関係することになった事件に感じる重苦しい嫌悪の念を、さっぱりと洗い流して、心のうちに、きょうの午前中の行動予定を思いめぐらしているのだった。
それは、かれがこの地に到着した翌日で、検死審のひらかれる当日だった。きのうの捜査は、バナーと別れたあと、ビショップスブリッジまで出向いたものの、はかばかしくは進展しなかった。おなじ日の午後、かれはカプルズ氏といっしょに、酒場を出ると町へ行った。薬局ですこし買物をして、写真屋としばらく打ち合わせをし、さらに電報局では、返信料つきの電報を打った。電話局でも、なにごとか問い合わせた。カプルズ氏はあまり関心を示きなかったので、かれからすすんで、事件に触れるようなことはせず、調査の結果とか、これからの計画などについても、ひとつとして話はしなかった。
ビショップスブリッジからもどると、トレントは≪レコード≫新聞社あてに、長文の記事を書き、同紙の地方支局員の手を通じて打電させた。それから、カプルズ氏と夕食をともにしたあと、ベランダでひとり、瞑想にふけりながら、その夜を過ごしたのだ。
トレントはいま、断崖の道をのぼりながら、このように不愉快な事件に出会ったのもはじめてだが、このように自分を没頭させた事件もはじめてだと、自分自身にいいきかせていた。新鮮な気持で、金色の陽光を浴びながら、考えてみればみるほど、この事件くらい悪質で、挑戦的なものはないと思われてきた。昨夜のかれは、胸に抱いた疑惑や、見聞きした事実などがひしめきあって、探索する頭脳を占拠していたので、数時間のあいだ、眠りに落ちることをさまたげられていたのだ。それが、こうして朝になって、輝かしい陽光と空気のなかに立つと、海洋のきびしいまでの清純さに、身も心も洗い清められたからか、罪ふかい犯行の暗黒面がはっきりと意識され、犯行動機に対するはげしい不快感が、いよいよつのってくるのだった。しかし、これでかれの熱意も、ふたたび眼ざめるにいたり、捜査の感覚もよみがえってきた。もはや、いたずらに思い惑《まど》っている場合ではない。良心のとがめなど感じている必要はない。かれの気持としては、その日のうちに、捜査の網を張りめぐらして、目的を完全にはたしてしまうつもりだった。それにはまず、午前中に片づけておかねばならぬ仕事があった。そしてまた、これはそれほど重大な意味のものではないが、反応をみるために昨日打った電報の返事も、待ち遠しいもののひとつだった。
ホテルへもどる道は、断崖の頂上に沿って、やや迂回していた。海面から見て、気がついていたのだが、古い崖崩れが、いまだにその跡を示している地点があった。そこまでくると、凹凸のはげしい岩を洗い、砕《くだ》けて散っている波の優美な動きが眺められるはずだった。かれは崖縁に近づいて、下を見おろした。が、その眺望は、数フィート下に突き出ている広い岩棚にさまたげられていた。それは、かなり大きな部屋ほどの広さで、針金のような草が茂り、三方はけわしい崖にかこまれたかたちである。その岩棚が、ふたたび断崖となって切り立っている端に、女がひとり、祈り曲げた膝を両手で抱き、沖を走る汽船のたなびく煙に、じっと眸《ひとみ》をすえたまま、夢見るような表情で、腰をおろしていた。
訓練によって、視覚には自信のあるトレントに、この婦人の姿は、かつて見たこともないほど美しい絵と映った。風になぶられ、ほんのりと赤く頬を染めた、イギリス南部の女らしい色白の顔は、端正で、かつ、ふっくらした線を見せている。ただ、ふたつの黒い眉が、ほとんど触れあわんばかりにひきよせられているあたりに、なにか深刻な感じが漂っていたが、それも、奇妙なくらい大らかな口もとで、そのきびしさから救われていた。どんな愚かな男でも、この美しい眉毛を見たら、恋人に捧げる十四行詩を書くことができるであろう。トレントは心のうちに、そうしたことを考えた。鼻すじは通って美しく、長すぎるという非難を、きわどいところで逃がれている。上向きかげんのその鼻には、どんな男も見とれてしまって、内心、気恥ずかしいおもいをするにちがいない。ピンでとめた帽子は、そばの草むらにおいてある。そよ風が濃い黒髪をなぶり、顔をおおっているはずの幅広のリボンを、二本ともにうしろへなびかせて、えり首にたばねた小さな巻毛をそよがせている。なめし皮の靴から、ぬぎ捨てた帽子にいたるまで、この婦人は黒一色につつまれて、つやのない黒布が、あらわな頸筋《くびすじ》をおおっていた。身につけているものは、すべて趣味もよく、着こなしも上手だった。見たところ、夢見るような繊細な精神の持主らしいが、成熟した婦人だけがもつ、着こなしという最古の歴史を誇る技術が、身についていることもあきらかだった。
いま、彼女は、膝を抱くようなかたちで、すばらしい曲線美を描くその肉体の優越感に、本能的なよろこびを感じていると思われた。衣裳には、フランス風な趣味が感じられた。そしてその顔には、春の太陽と風と海とに恵まれた、活気あふれる女性の輝きが見られ、近代的な女性として、申し分のないものを、あますところなく示している。いいかえると、イギリスの女としてはめずらしく、ましてや、アメリカの女にはおよそ類のない、純粋な生気がみなぎっている。無意識の自信にみちみちた女性ということができるであろう。黒衣の婦人を見た驚きで、一瞬、トレントは立ちどまったが、すぐにまた、彼女の頭上の断崖を通りすぎた。歩きながらも、いま、心に書きとめたものの姿を、理性と感情とで理解しょうとしていた。いつでもかれのするどい眼と俊敏な頭脳は、反応のにぶい人々には考えられぬほどの敏捷《びんしょう》さで、対象のうちに食い入っては、感覚は眼ざめ、歓喜の声をあげ、知覚の働きを倍加した。すでにこの瞬間には、かれの記憶の上に、おそらくその生涯を通じて、消え去ることがないであろう画像が、くっきりと痕を残しているのだった。
トレントは芝草の上を、足音も立てずに過ぎ去ろうとしたが、そのとき、それまでひとり物思いにふけっていた婦人が、突然、からだを動かした。その長い手を、膝のまわりからほどいて、猫のような優雅さで四肢とからだを伸ばすと、ゆっくりと首を起こし、朝の輝きとすがすがしさをかき集めるように、指をひらいて、両手を高くあげた。それは、まぎれもなく、ひとつのジェスチャーだった――自由を求めるジェスチャーだった。存在し、所有し、前進し、あるいは、人生を楽しむことを決意した魂の動きを示すものだったのだ。
が、かれは通り過ぎながら、彼女の様子をちらっと見ただけで、ふりかえろうともしなかった。すでにその婦人が何者であるかを、一瞬にして悟ると同時に、眼前の輝かしい朝の風景に、陰鬱なカーテンを引かれたような気持を味わったのであった。
カプルズ氏はホテルで朝食をとっているあいだ、トレントがいっこうに話にのってこないのに気づいた。かれはそれを、前夜眠れなかったせいだと言いわけしていたが、カプルズ氏のほうは、小鳥のように飛びまわりたいほどの気持になっていた。検死審の予想が、元気づけているのである。氏はトレントを相手に、古代からの伝統をもち、ある時代には、さかんに行なわれた裁判である検死法廷の模様について、薀蓄《うんちく》を傾けて説明をしているのだった。その手続きにおいては、法規や判例からの拘束を受けず、羨ましいくらい自由であることを力説したのだが、やがてその話題は、その朝、もち出されることになっている事件に移っていった。
「昨夜、わしは夕食をすませてから、あの邸へ行ってみたのだが」と、氏はいった。「そのとき、バナー青年がわしに、あの犯罪について、こんな推論を立ててみたと話してくれました。あの青年には、なかなかしっかりしたところがありますな。話していることの意味が、ときどきわからなくなることもあるが、あの年代の青年としては、まれに見るほど、卓抜な社会観をもっていますよ。マンダーソンが、自分の片腕として、秘書に抜擢《ばってき》したのも当然だと思いますね。自分でもいっておったが、マンダーソンの死がひき起こすと予想される事業の混乱も、電話一本で押さえてみせると、相当自信のある言葉を吐いていましたよ。そして、わしがメイベルのためにとらねばならぬ手続きとか、遺言状の条項の効力が発生するまで、メイベルがどういう行動をとったらよいか、そういったことについて、なにかと有益な助言をしてくれました。そんなわけで、かれの口から聞かされると、この事件は労働者階級の復讐だという解釈も、あながち、こじつけとも考えられない気がしたんです。わしがその理由を質問すると、あの男は、強力な労働組合から敵意をもたれた男が、その生命に、どのような方法の攻撃をこうむったか、数々の実例を示して、説明してくれました。りっぱに目的をはたした例が、相当数あるようですな。いや、トレントさん、わしらはおそろしい時代に生まれあわせたものですね。現代社会における物質的要素と精神的要素との不均衡が、これほど平和を脅やかし、これほど社会機構をゆるがしている時代は、かつて人類が知らなかったことです。わしの判断によると、現在のアメリカほど、前途|暗澹《あんたん》たる国はないんじゃないかな」
「ぼくは」とトレントが、気のりのしない口調でいった。「アメリカという国は、金もうけにも狂気の沙汰だが、それと同時に、清教徒的気質のほうも、まだまだつよく残っていると思っていましたが」
「あんたのいっとることは」とカプルズ氏は、できるだけ話をおもしろくしようと努力して語った。「清教徒気質を賛美しておることにはなりませんぞ――清教徒気質という言葉そのものが便宜上のもので、どちらかといえば、正確な用語とはいえんのです。あんたをつかまえて、講義がましいことをいうのもおかしなものだが、そもそも清教徒なるものはですな、イギリス教会の礼拝や儀式のうちに、気にくわない要素があるというので、そいつの追放を目的としたイギリス回教会の一派をあらわす言葉なんです。しかし、あんたの観察力もなかなかしっかりしておる。それが真実だという証拠は、マンダーソンの場合で、はっきり証明されておる。あの男が、潔癖と禁欲、自制心といった徳義をもっておったことは、わしといえども信じんわけじゃない。ところが、トレントさん。わしのいう道徳的要素とは、もっともっと、価値のあるものを含んでおらねばならんのですよ。わしらの能力にはかぎりがあるんで、科学のもたらす目まぐるしい機械文明に追いまくられているうちに、わしらの内部に存在する人間性の神聖さを発展させようとする情熱が失なわれていく。農業用機械は、農村から収穫祝いの祭をとり上げてしまったし、機械力にたよる旅行は、むかしながらの宿屋を廃止させて、旅行の楽しさを奪い去ることになった。これ以上、実例をあげる必要もありますまい。わしがいま述べている考えは」と、カプルズ氏は、落ちついた手つきでトーストにバターを塗りながら、話のさきをつづけた。「ふつう世間からはまちがいだと見られている。いや、わしと同様に、人生の内面的な問題をふかく思索している人たちのあいだにも、誤っていると批判する者がないわけではない。しかし、わしはそんなことに頓着なく、自分の説が正しいと確信しておるんです」
「それは、もっとつよい言葉で表現したほうがいいように思われますね」と、トレントは、テーブルからはなれながらいった。「なにか手ごろな文句があるでしょう。たとえば、≪カトリック教反対≫とか、≪外国人に課税せよ≫といったふうに集約して表現すれば、かなり多くの賛同者が出てきて、生命を賭けてもついてくるんじゃないでしょうか。それはとにかくとして、あなたはたしか、きょうの法廷へ出られる前に、ホワイト・ゲイブルズ荘へ行くとおっしゃっていましたね。そろそろお出かけにならんと、検死審に間にあいませんよ。ぼくも用がありますから、いっしょに出かけましょう。ちょっとお待ちください、カメラをもってきますから」
「いいですとも」と、カプルズ氏は答えた。
それからまもなく、ふたりはホテルを出た。しだいに暑さを増してくる朝の空気のうちに、ホワイト・ゲイブルズ荘の屋根が眺められる。緑の濃い木々のあいだにのぞいている赤い布切れにも似た沈鬱《ちんうつ》な色は、トレントの現在の気分をそのまま表現しているようだった。心は重く、不吉なおもいに悩んでいた。さきほど見かけた、あの美しく、生気をもって輝いている婦人の頭上に、一撃がくわえられることは避けられぬにしても、かれ自身の手をもってしたくはなかったのだ。幼いとき、母から教えこまれて以来、必要以上の騎士道精神が、いまだにその心のうちに残っているのだが、そうした紳士的な考え方はもちろん、愛すべきものを傷つけたくないという芸術家らしい恐怖心までが、この場合、妙に反動的なものに感じられるのだった。しかし、そうはいっても、このままなんの結果もえずに、犯人捜査を打ち切ってよいものであろうか? 事件の性質から、犯人の逮捕を見ぬままに放棄《ほうき》するという考えは、あとに心の悩みを残すだけである。たしかにこの事件は、いままでにその例を見なかったもので、その真相をつかんでいるのは、自分ひとりとかれは確信していた。そして、その日のうちに、その確信が妄想にすぎぬかどうかを試してみるつもりでいた。万が一、自分の考えがあやまっているにしても、それを後悔するのは、事態がよりあきらかになってからのことでよい。それまでは良心の責苦《せめく》を気にしないことにきめた。どちらにしても、そのいずれであるかは、きょうの午前中にはわかるはずである。
ふたりが、車道についた門をはいって行くと、玄関の前で、マーロウとバナーが立ち話をしているのが目についた。玄関のかげには、さきほど見た黒ずくめの喪服をまとった婦人が立っていた。
ふたりを見ると、彼女はゆっくり芝生を踏んで近づいてきた。トレントが考えていたとおり、その上体をまっすぐにのばした歩き方で、均斉のとれた、かろやかな足どりだった。彼女はカプルズ氏から紹介されて、トレントにあいさつしたが、そのあいだも、金色の斑点《はんてん》のある茶色の眼を、やさしくかれにむけていた。悲しみの仮面をつけた、やつれて蒼白いその顔には、さっき断崖のふちで、後光のように輝いていた感動の光は、うかがうこともできなかった。彼女は低い落ちついた声で、適当な言葉を用いた月並みなあいさつを述べた。カプルズ氏とも、ふたこと三こと、言葉をかわしてから、彼女はトレントのほうへ眼を向けて、
「ご成功を祈りますわ」と熱のこもった口調でいった。「自信はおありになりますの?」
トレントは、彼女からそうきかれた瞬間、思いきって答えた。
「ぜひ成功したいと考えています、マンダーソン夫人。事件がすっかり片づきましたら、あらためてお話ししたいと思います。事実を新聞に発表する前に、ご相談する必要がありそうですから」
彼女には、その意味がちょっとわかりかねた様子で、悲しげな色をちらっと眼に浮かべて、
「はい、必要がおありでしたら、どうぞ、いつでも」といった。
トレントはつぎの言葉をいい出そうとしたが、ふと、ためらった。夫人としては、すでに一度、警部に話して聞かせたことを、ここでまたくりかえすのは望ましいことでなく、質問されることさえ避けたがっているにちがいないと考えたからである。しかし、かれ自身の気持としては、すこしでもながく彼女の声を聞き、彼女の顔を見ていたいと、心の底で望んでいるのがいつわりのないところだった。しかし、これから口にしなければならぬ事柄が、かれの心をひどく悩ました。それは、あまりにも異常だったからだ。この事件に関係してから、常識はずれの事実をたびたび聞かされたものだが、どうにかそれを、ひとつの図式にまとめあげたつもりでいたのに、これはしかし、それにも、あてはまらぬ奇怪さであった。だが、それもまた、彼女にききただせば、一気に解き明かしてくれないものでもない。それができるのは彼女だけだ。かれはそう考えて、最初の決心どおり話しはじめた。
「お邸内を勝手に調べさせていただいたうえ、事件の捜査に、いろいろと便宜をおはかりねがって、お礼の申しようもない気持でおります。そのご親切にあまえて、すこし質問させていただきたいことがあるのです。お答えにくい質問ではないと思いますが、いかがなものでしょうか?」
彼女は疲れたように、トレントの顔を見て、
「ご質問を避けるようなばかな女ではないつもりです。なんなりと、おたずねいただきますわ、トレントさん」
トレントはいそいで質問に移った。
「おききしたいのは、ひとつだけです。ご主人が最近、ロンドン銀行から、おびただしい額の現金を引き出されて、こちらへお運びになったことがわかっているのですが、いまでもここにおいてあるのでしょうか? なんのために、そのようなことをなされたか、その理由をご存じでしょうか?」
彼女はびっくりしたように、眼をみはって、
「そんなこと想像もできませんわ。あのひとがそんなことをしたことさえ、わたくし、存じませんの。いまお聞きして、ほんとうにびっくりいたしましたわ」
「驚かれたわけは?」
「まさか主人の手もとに、そんな多額の現金があったとは、わたくし、考えてもみなかったからです。日曜日の夜、主人は車で出かけます前に、わたくしのいた客間へまいりました。なにかいらいらしている様子で、紙幣でも金貨でもいい、あすまで貸してくれと頼むのでした。これまで、主人がお金をもっていなかったことはなかったので、それを聞いて、わたくし、びっくりいたしました。あのひとの札入れには、いつでも百ポンドやそこいらの現金がはいっていたからです。わたくしは書きもの机の鍵をあけて、もっているかぎりのものをわたしました。だいたい、三十ポンドちかくあったと思います」
「なぜ金が必要なのか、説明しませんでしたか?」
「なにも申しませんでした。主人はそれをポケットに入れまして、マーロウから無理に誘われたので、月夜のドライヴに行ってくる、案外それでよく眠れるかもしれないと申しました。ご存じかと思いますが、主人はずっと、不眠症に悩まされていたのです。それから、マーロウさんといっしょに出かけて行きました。そのときは、日曜の夜だというのに、お金が必要とはおかしなことだと思いましたが、それもすぐに忘れてしまいまして、ついぞこれまで、思い出しもしませんでした」
「まったくおかしな話ですね」
とトレントは、遠くを見つめるような表情でいった。そのあと、カプルズ氏が、夫人に検死審の打ち合わせをはじめたので、トレントは芝生のほうへむかって行った。そこではマーロウが、ただ意味もなく歩きまわって、かれの近づくのを待ちかまえていた。ふたりが顔をあわせると、青年はさっそく、その日の法廷について語りだした。
かれはまだ、疲れがとりきれないのか、興奮もおさまっていない顔つきだったが、それでもおだやかな口調で、地方検察の尊大さとか、ものものしいストック医師の態度とかを、ユーモアまじりに語ってきかせた。だが、トレントが徐々に、話題を事件の疑問点に移してゆくと、マーロウの態度も真剣さをとりもどしてきた。
「バナー君はぼくにも、その意見を述べていましたが」とかれは、トレントがアメリカ人の秘書の説をもち出すといった。「ぼくにはどうも、納得《なっとく》しかねるんですよ。なぜかといいますと、かれの説では、この事件の異常な事実を解明できないものがありますからね。しかし、ぼくもながいあいだ、アメリカに住んでいたので承知していますが、そういったメロドラマめいた復讐劇がないこともありませんね。それがアメリカにおける労働運動の一面を示す特徴でもあるのです。アメリカ人は、行動好きですし、また、そういった仕事に、技倆《ぎりょう》をもっているともいえるのです。マーク・トウエンの≪ハックルベリ・フィン)の話をご存じですか?」
「自分の名前同様、知っていますよ」と、トレントが答えた。
「偉大なアメリカの物語のうちでも、あれがもっともアメリカ的な物語ですが、これがやはり、わずか二十分もあれば片づく黒人少年ジムの救出計画を、何日も費やし、困難と戦い、ロマンチックに工夫するトム・ソーヤーの苦心談なんですよ。アメリカ人という人種は、もともと秘密結社とか、仲間同志の団結とかが好きなんですね。どの大学にも、秘密の合図や握手の仕方がありますし、政治運動としての不知主義党《ノー・ナッシング》〔一八五三年から六年にかけて、政治の実権を土着人の手で占めようとした運動〕の運動をお聞きになったことがありましょう。KKK団〔南北戦争後、黒人や北部アメリカ人を圧迫するために起こった秘密結社〕にしてもそのひとつです。それからユタ州で、ブリガム・ヤング〔モルモン教の指導者〕が起こした三文小説そこのけの流血事件をごらんなさい。このモルモン教の創設者も純粋のヤンキーですが、かれらがなにをしたかは、あなたもご存じのことと思います。どれもこれも、アメリカ人気質のあらわれですね。本人たちはおもしろ半分にやっているようですが、ぼくにいわせると、なかなか重大な問題ですな」
「たしかにそこには、おそろしい面がありますね」と、トレントもいった。「その気質が、犯罪とか悪徳にむすびつけばむろんのこと、ただの奢侈《しゃし》と結合した場合でも、おそろしい結果を生む可能性がありますね。しかし、文明社会に反抗して、人生を思うがままに生きようという決意には、ぼくとしても、ひそかに尊敬の念を抱いているのです。
それはそれとして、手近な問題にもどりましょう。きみはバナー君が信じているように、マンダーソン氏はある脅威を感じて、精神に異常をきたしていたというのは、たしかな事実と考えていますか? そういえば、あの真夜中に、きみをサウサンプトンへ送り出すなど、正気の沙汰とはいえないようですね」
「正確にいうと、十時ごろでした」と、マーロウが答えた。「しかし、かりに真夜中に寝ているところを起こされても、ぼくはそれほど驚かなかったでしょう。ぼくたちがいま話しあったことの実例ですからね。マンダーソン氏は、なにごとによらず、ドラマチックにやってのけたい性格なんです。アメリカ人的趣味が、人並みすぐれてつよいんでしょうね。したがって、世間から、あの男は不意打ちの名人だとか、どのような反対があろうとも、がむしゃらにつきすすんで、あくまでも初志をつらぬく人間だという評判をたてられても、むしろそれが気に入っているのでした。こんどの場合も、ハリスという男から情報をとりたいと思いたつと――」
トレントがいそいで、言葉をはさんだ。
「そのハリスというのは、何者です?」
「だれも知らないのです。バナー君でさえ、そんな名は聞いたことがないそうで、まして、どんな用事か、想像もつかないといっていました。ぼくが知ってる範囲では、先週所用でロンドンへ出たとき、マンダーソンさんに頼まれまして、ジョージ・ハリスという男のために、月曜日に出帆する船の一等船室を予約してやっただけです。たぶんマンダーソンさんは、その秘密情報を電報で送らせたのではぐあいのわるいことを知ったのでしょう。急にハリスから、直接手に入れることにきめたのです。すでに汽車のない時間でしたから、ぼくを車で行かせることにしたのだと思います」
トレントは、だれか聞いている者がいないかと、あたりを眺めまわしてから、深刻な顔つきになって、マーロウの耳にささやいた。
「ひとつだけいっておきたいことがあるんです。きみが気づいてるかどうかは疑問だが、執事のマーティンは、きみがドライヴに出かける前、果樹園でマンダーソンととりかわした会話の終りの部分を耳にしているのですよ。マンダーソンがこういったのを聞いたというのです。≪もしハリスがそこにいたのだとすると、一刻も猶予できぬ重大なことだな≫そんなことをいったそうですな。
ところで、マーロウ君、きみはもちろん、なんのためにぼくがここへきているか承知のはずだ。ぼくはこの事件の調査に派遣されたのです。だから――いや、怒らんでもらいますよ。きみはマンダーソンの口から、いま述べたような言葉を聞かされた。それでも、その用件がなんだか知らないというつもりですか? そこのところを、はっきりさせておきたいんですがね」
マーロウは首をふって、
「しかし、知らないことは知らないんです。ただ、ぼくはそう簡単に怒りだす人間ではありませんし、それに、あなたが疑問をもたれるのも当然と思いますよ。あそこで、ぼくたちがとりかわした会話は、なにひとつかくさず、警部の耳に入れておきました。そのときマンダーソンさんは、ハリスに会ってもらわねばならんが、その用件を教えることはできないと、はっきりいっておりました。とにかく、ハリスをはやく見つけて、どういう事態になっているか、その情報を知りたいのだといい、報告書を受けとってくるようにいうのでした。あの言葉は、そのときいったことなんです。ハリスはひょっとすると、姿を見せないかもしれないが、≪もしハリスがそこにいたら、一刻も猶予できぬ重大なことだな≫といいました。そんなわけで、ぼくにはそれ以上のことはわかりかねるのです」
「マンダーソン氏は、きみに誘われたから、月夜のドライヴに出かけると、夫人にいってきかせたそうだが、いまの話は、その前のことなんですね。きみに用を命じたことを、どうしてかれは、そのようにかくし立てしなければならなかったんでしょう?」
マーロウは困ったような態度を見せて、
「なぜだときかれても、ぼくにわかるはずがありませんよ」
「だが、なぜだろう?」と、トレントは地面に眼を伏せて、自分自身にいい聞かせるようにつぶやいた。「なぜかれは、それを夫人にかくしたのだろうか?」
そしてかれは、マーロウの顔を見あげた。するとマーロウが、冷静な口調でいいそえた。
「それに、マーティンにもかくしていたらしいのです。あの男もおなじ嘘を聞かされたそうです」
トレントは、急に首をふって、この話題を打ち切りたい様子を示した。そして、内ポケットから紙入れをとり出して、そのなかから、なにも書いていない新しい紙片を、二枚とり出した。
「この二枚の紙を見てください、マーロウ君」と、かれはいった。「以前、これを見たことがありませんか? なんの紙切れか、思いあたることがあったらうかがいましょう」
マーロウは受けとった紙片を一枚ずつ、両方の手にもって、不思議そうな表情で眺めてから、
「今年の小型の日記帳から、ナイフかはさみで切りとったものらしいですね――十月のところからだ」
そしてマーロウは、なおも紙片を裏がえして眺めていたが、
「なにも書いてないではありませんか。ぼくの知っているかぎりでは、この邸内で、こんな日記帳をもっている者はいませんよ。しかし、これがどうかしたんですか?」
「なんでもないかもしれないが」とトレントは、あいまいにいった。「きみの眼に触れたことがなくても、この邸のだれかが、こういう日記帳をもっていたのかもしれませんな。ぼくにしても、きみがかならずしも、知っているとは思っていなかったんです――ほんとうのところ、きみが知っていたら、かえって意外に感じたかもしれない」
そのときマンダーソン夫人が、ふたりのそばへ近づいてきたので、トレントはすぐに話を打ちきった。
「叔父が、そろそろ出かけたほうがよいのじゃないかと申していますが」と彼女はいった。
「わしは、バナー君と歩いて行くよ」と、カプルズ氏もそこへあらわれていった。「至急片づけねばならん用事があるんでね。メイベル、おまえは、こちらのお二方といっしょにきたらいい。法廷へ出るまえに、どこかで落ちあうことにしておくか」
トレントは彼女にむきなおって、
「マンダーソン夫人、申しわけないのですが」といった。「ぼくがけさ、おうかがいしましたのは、さがしたいものがありましたからで、それを調べるほうが肝心なので、まだいまのところ、検死法廷へ出席するかどうかはきめていないのです」
彼女は格別、気にしてもいないような眼つきで、かれを眺めた。
「どうぞ、トレントさん。ご自由になさっていただきます。でも、わたくしたちはみな、あなたを頼りにしておりますのよ。ちょっとお待ちになってね、マーロウさん、すぐ支度してきますわ」
彼女は家のなかへはいり、カプルズ氏とバナーは門へむかって、ゆっくりと歩き出した。
トレントは、マーロウの眼をみつめて、
「すばらしいかたですね、あの夫人は」と、小声でいった。
「あなたはまだ、夫人をご存じないもので、その程度のおっしゃり方しかなさらんのです」マーロウもまた、おなじように低い声でいった。
「すばらしいなどという表現では、足りないくらいのひとですよ」
トレントはそれには答えず、草原のむこうにひろがっている海を見つめていた。その静けさのなかを、あたりの空気をやぶるように、せわしげな靴音が近づいてきた。ホテルからきたらしく、道路のかなたから、ひとりの少年が、ふたりのほうへ小走りに走りよってきた。手にオレンジ色の封筒をもっていたが、それが電報であることは、遠くからでも、すぐにわかった。トレントはその少年が、さきに出かけたふたりの男のそばを通り過ぎるのを、なにげないふうで見まもっていたが、マーロウのほうをふりむいていった。
「別にどうというわけもないのですが、きみはオックスフォード大学出身ですか?」
「そうなんです」と、マーロウは答えた。「なぜそんなことをきかれるのです?」
「ただ、ぼくの推測が正しいかどうか、試してみたかっただけです。人間の経歴というものは、ほとんど推測できるものですからね」
「たしかに、そういうものですな」と、マーロウもいった。「あなたもぼくも、いろいろと特徴をもっていますからね。ぼくはあなたの経歴を知らなくても、画家だといいあてたでしょう」
「どうしてわかりました? 髪を長目に刈っているからですか?」
「いえ、とんでもない! その視線ですよ。物や人を見る眼の動きが、画家のものだからです。たえず視線が、細部から細部へ走り――眺めるというより、見抜くといったところがありますからね」
さっきの少年が、息を切らして近づいてきて、
「あなたあての電報です」と、トレントにいった。「いま、きたところです」
トレントは、ちょっと失礼するといって、封筒を破った。とたんに、その眼にありありと、よろこびの色が浮かんで、それを見ていたマーロウの疲れきった顔にも、おだやかな微笑がかすめたほどだった。
「いいニュースらしいですね」とマーロウは、半ば自分にいい聞かせるようにつぶやいた。
トレントは、そういうかれをちらっと見たが、マーロウのその顔から、なにも読みとることができなかった。
「ニュースというわけでもないんですが」と、トレントは説明した。「ぼくのつまらぬ推測が、またひとつ、的中《てきちゅう》したんですよ」
[#改ページ]
八 検死審
その日の事件を担当する検死官は、地方在住の事務弁護士として、きょうが一生のうち、ただ一度訪れる晴れがましい日であることを意識していた。その日一日は、当然、自分が全世界の注目の的《まと》となる。それをじゅうぶん意識した検死官は、一日だけのはかない名声を、なんとしてでも意義あらしめようと、ふかく心に期していたらしい。かれは元来、陽気な気質の大男で、あたえられたこの事件のドラマチックな様相に、つよい興味と関心とをいだいていた。マンダーソンの奇怪な死が、自分の管轄区域で起きたと聞いて、かれは自分こそ、イギリス中での幸運な検死官であると考えたのであった。雑多な事実を整理統合するすぐれた能力にくわえ、感動的な言辞を豊富に使って、陪審員を意のままにする術《すべ》も心得ていたし、またときには、証拠の法的解釈が多少疑わしくても、それをおしつけてしまうことにも巧妙だった。
検死廷にあてられたのは、舞踏会や音楽会の会場に使用するため、最近ここのホテルが建て増したもので、まだ家具も入れてない細長い部屋だった。最前列には、新聞記者たちが着席し、検死官のデスクの片側には、証言をする予定の人たちが並んでいる。その反対側には、頭を油で光らせた陪審員たちが、見かけだけはゆったりとした態度で、二列になって席を占めていた。それ以外の場所は、すべて一般傍聴人が詰めかけていて、厳粛な気持で、開廷の宣言に聞き入っていた。場なれしている新聞記者たちは、ひそひそと話し合い、そのうちでもトレントの顔を見知っている者は、仲間の記者の耳もとで、やつはまだ出廷していないぞ、とささやいているのだった。
最初の証人には、被害者の妻が呼び出されて、死体の確認が行なわれた。検死官は彼女に、被害者の健康状態や、周囲の状況などについて、若干の質問をしたのち、夫の生前、最後に会ったときの模様を説明させた。哀れな喪服姿を見るときは、だれしも同情を禁じえないものだが、検死官もマンダーソン夫人の証言のあいだ、気の毒そうな表情を見せていた。
彼女は証言をはじめるにあたって、顔をおおっていた厚いヴェールをあげて、その顔をあらわした。その極端な蒼白さと、いかにも落ちついた態度とが、見る者に奇妙な印象をあたえた。それはけっして、冷酷な女といった感じではなかった。そのときの彼女を見て、まず頭に浮かぶことは、彼女がことのほか興味ある女性だということであった。むろんそれは謎《なぞ》めいた女性だという意味ではない。不幸な境遇におかれて湧きあがるさまざまな感情を、その強烈な個性の力が、おさえつけているのが見てとれるということだった。彼女は証言の途中で、一、二度ハンカチを眼がしらへあてはしたが、その声は低くはあっても、最後まではっきりと聞きとれた。
彼女は、つぎのような証言をした――彼女の夫は、日曜日の夜、いつもとおなじ就寝時間に寝室にはいった。かれが寝室に使っている部屋は、元来、彼女の寝室に付属している化粧室で、そのあいだのドアは、夜間、いつもあけ放してあった。化粧室にも、彼女の寝室にも、廊下へ出るドアが別にあった。彼女の夫は、寝室の調度類をできるだけ簡素にしておくことを好んだので、小さな部屋に寝る癖があった。
夫が二階へあがってきたときは、彼女はすでに眠りこんでいたのだが、夫の寝室に明りがついたので、いつもそうだが、半ば眼ざめたような感じを受けた。そして彼女は、夫の部屋に声をかけた。そのときもまだ、眠りからさめきっていなかったので、なにをしゃべったのか、はっきりはおぼえていなかった。しかし、夫が月夜のドライヴに出かけたのを思い出して、気持よく走れたかというようなことと、いま何時になるかといった質問をした記憶があった。
彼女が時刻をたずねたのは、眠ってから、それほど時間がたっていない気がしたし、一方ではまた、夫がドライヴから帰ってきたのだとすると、相当おそい時刻でなければならぬと思えたからであった。彼女の問いに答えて、マンダーソンは十一時半だといい、さらに、気が変わって、ドライヴは中止したのだといった。
検死官は質問した。
「被害者は中止の理由を説明しましたか?」
「はい、申しました」と、夫人は答えた。「その理由を申しました。主人の申したことは、いまでもはっきりおぼえております。それといいますのも――」
といいかけて、彼女は困ったような顔つきで、口をとじた。
「その理由というのは?」
検死官がおだやかに、さきをうながした。
「主人はたいていの場合、仕事のこととなるとわたくしには知らせてくれませんでした」証人は反撥するように、あごをあげて答えた。「女には興味のないことだと思っていたからです。ですから主人が、マーロウさんをサウサンプトンへやって、翌日の船でパリへたつ人から、重要な情報を受けとらせることにしたと話しましたときは、わたくしかえって、驚いたくらいでした。主人はなおもつづけて、事故さえ起こさなければ、マーロウとしては、それほどむずかしい仕事ではない。自分も車にのって出かけたが、一マイルほどさきで降りて、歩いて帰ってきた。そのほうがかえってよかったとも申しておりました」
「そのほかには? まだなにかいいませんでしたか?」
「わたくしのおぼえています範囲では、ほかにはなにもいわなかったはずです」と、証人はいった。「わたくしはとても眠かったので、また、いつとはなしに寝入ってしまいました。夫が明りを消したのを、おぼろげにおぼえているだけです。生前の主人については、それが最後の知識となりました」
「その夜、ほかにはなにも物音を聞かなかったのですか?」
「開きませんでした。女中が朝の七時に、お茶をもってきてくれるまで、一度も眼をさまさずにおりました。女中はいつもするとおりに、境のドアをしめましたが、わたくしとしては、主人はまだ眠っているものとばかり思っておりました。あのひとは、眠りをじゅうぶんにとる必要がありまして、朝おそくまで寝ていることも、そうめずらしいことでもなかったからです。わたくしは居間で朝のお食事をとりまして、主人の死体が発見されたのを聞きましたのは、十時ごろだったと記憶しています」
そのあと証人は、ふかく首をたれて、尋問のおわるのをしずかに待っている様子だった。
しかし、尋問は簡単におわらなかった。
「マンダーソン夫人」検死官の声は、同情的ではあったが、幾分かそこに、きびしい調子がくわわっていた。「こうした悲しい事態にさいして、このような質問を行ないますことは、あなたに対し、苛酷なことかもしれませんが、これもまた、職務上やむをえぬものとおゆるしください。あなたと亡くなられたご主人とのあいだでは、すでにかなり以前から、愛情と信頼性が失なわれているとの風評がありますが、はたして真実でありましょうか? あなたがたご夫婦のあいだが疎遠になられたというのは事実でしょうか?」
夫人はまた、居ずまいをなおして、質問者のほうへ、紅潮した顔をむけた。
「もし、そうしたご質問に答弁が必要とお考えでしたら」と、彼女は冷静にいってのけた。「誤解を避けますために、申しあげることにいたしましょう。主人といっしょになりまして、わたくしに対する主人の態度が、はじめて一変いたしました。それは、ここ数ヵ月の現象ですが、わたくしは当然、不安を感じまして、悲しいおもいを味わっておりました。主人は非常に無口になり、わたくしを疑るような様子を見せました。以前ほど、主人の顔を見ることもなくなり、その間主人は、ひとりきりでいたいという気配を、露骨に示すように見えるのでした。
なぜこのような変化が起きたか、わたくしにはその理由がわかりません。でも、それに対して、なにかいい方法はないかと考えまして、こちらの体面を傷つけない範囲で、できるだけのことをしてみました。わたくしたちのあいだを、なにがこのようにへだててしまったのか、わたくしにわかるはずもございませんし、主人も話してはくれないのです。でも、くどくどしくその理由をたずねることは、こちらの自尊心がゆるしません。そこでわたくしは、主人の気持がなおるまで、以前と変わらぬ態度をもちつづけようと、真剣に考えていたのですが、いまとなっては、その理由も永久に知ることができなくなりました」
最後の言葉のあたりで、がまんしようとしてもがまんできず、ついには声をふるわせだした証人は、そういいおわると、顔のヴェールをおろして、しずかに姿勢を正した。
陪審員のひとりが、ためらいがちに質問した。
「そうしますと、あなたとご主人のあいだでは、口論といったことはなかったのですか?」
「一度もございません」
その言葉は、精彩を欠いてはいたものの、マンダーソン夫人のような婦人に、そのようなことがあったかと考えるだけでもぶしつけだといっているのだった。そのひどい誤解に、手きびしく返報したといった感じである。
そのあと検死官は、最近、ほかに夫の心を悩ましたことがあったかと質問したが、夫人はもとより、なにも知らなかった。
検死官が、質問のおわったことを申しわたすと、ヴェールに顔をつつんだ夫人は、戸口へむかって歩み去った。ほんのしばらく、人々の眼は彼女を追ったが、検死官がつぎの証人として、マーティンを呼び出すとともに、人々の視線は、この男の上に集まった。
ちょうどそのときだった。トレントが戸口にあらわれて、人々の群れをかきわけながら、ホールにはいってきた。しかし、かれはマーティンを見てはいなかった。その視線のむかっているさきは、人ごみのあいだを縫って、いそぎ足にかれのほうへ近づいてくる、均斉のとれた女性の姿だった。かれの眼は、それを見て、またしても憂いに曇った。かるく頭を下げて、戸口の横に立つと、マンダーソン夫人が、小声で、かれの名を呼ぶのを聞いて、思わず、はっとした。そして夫人のあとをついて、一歩二歩、ホールに歩み出た。
「おねがいいたしますわ」と彼女は、奇妙なほどきれぎれな、弱い声で話しかけた。「邸にもどりたいのですが、途中まで送っていただけないでしょうか。戸口の近くで、叔父を見つけることができればよかったのですが、あいにくわたくし、急に目まいがいたしまして……いいえ、大丈夫です。外の空気にあたりさえすれば、じきによくなると思いますの……でも、わたくし、これ以上ここにはいられませんわ。おねがいです、トレントさん!」
トレントが、その場のがれの思いつきをいおうとすると、夫人はつよくさえぎって、
「わたくし、はやく邸へ帰りたいんです」
力こそないが、かれをむりにでも、ひっぱり出そうとするように、彼女の眼が、一瞬、かれの腕を、しっかりと握りしめた。が、すぐにまた、男の腕によりかかって、それを頼りに、頭を低くたれたまま、しずかにホールを出て行った。そして、かしの木蔭の道を、ホワイト・ゲイブルズ荘へむけて歩きだした。
トレントはおし黙って歩いていた。頭のなかは、狂気の渦《うず》がさか巻いていた。なんというおれはばか者だ! この事件についての、かれだけしか知らぬ事実、推測、疑惑が、暴風のように、かれの頭をかけめぐるのだった。しかし、その腕の上におかれた、頼りなげな彼女の手の感触は、ひとときもかれの意識から去ることがなかった。おれはかれを狂喜させ、しかし、それと同時に、そうした自分の心の動きに対して、怒りと困惑の念に駆りたてるのでもあった。
かれは夫人をともなって邸へもどり、彼女を居間の長椅子に落ちつかせたが、そのときでさえ、表面上は、いかにも気づかわしそうな態度を示していたが、その仮面の下で、自分の行動をはげしく呪っていた。ヴェールをあげて、夫人は真剣な感謝の色を眼にうかべ、あらためて率直に礼をのべた。「からだのぐあいも、だいぶよくなりましたから、お茶でも飲めば、すっかり落ちつくでしょう」と彼女はいって、かれの大事な仕事を邪魔してしまったのではないかと、そればかりを気にしていた。心の底から自分の態度を恥じているらしく、簡単に証言を終えることができるだろうと思っていたのに、最後に思いがけない質問をされたために、あんなふうになってしまったのだといった。かれが遅刻した言いわけをすると、彼女はいった。
「あなたに聞かれないでよかったと思いますわ。ですけど、むろん新聞に出れば、お読みになりますわね。あんなことをしゃべらされて、わたくし、とてもショックを受けましたわ」と彼女は、ありのままを述べて、さらにつけくわえた。「恥をさらしたくないと思って、努力していましたので、疲れてしまいましたの。それに、戸口のところで、みなさんが顔をじろじろ見るんですもの! あのとき、むりなわたくしの頼みをおききくだきって、もう一度、お礼を言わせていただきますわ……つい、あまえてしまって」
彼女は事実、疲れたような弱々しい微笑を浮かべて、おかしな言葉で話をおえた。トレントは彼女の冷たい指の感触が、いまだにそこを去りやらず、自分の手がふるえるのを感じて、彼女のそばをはなれた。
召使たちや死体を発見した男が、それぞれ証言台に立ったが、どれといって、新しい材料を新聞社に提供するほどのことはなかった。警察側の証言も、このような事件の検死審ではすべてそうしたもので、まったく精彩を欠いて、要領をえないものだった。しかし、被害者の秘書バナー氏のそれだけは、その日きっての注目を浴び、被害者の妻が打ち明けた家庭内の不和についての興味ある証言さえ、影のうすいものにしてしまったくらいだった。かれは一度、トレントに話したことのある内容とおなじことを述べたてたのである。記者たちの走るペン先は、この若いアメリカ人の陳述を、一語ももらすまいと書きまくり、イギリスやアメリカの主要新聞には、ほとんど一行も削られずに、掲載されることになった。
最後に検死官は陪審員にむかって、自殺ともとれる夫人の証言も、じゅうぶんに考慮すべきものがあることを説明したが、当日の世論は、そのような自殺説など、すでにどこかへ吹きとばしていた。警察がわの証言が指摘したように、証拠の示すところによると、自殺説はとうてい考えられることではなかった。検死官もその点については、死体のそばにピストルが見当たらなかった事実を強調していた。
「もちろん、この問題は非常に重要なものであります」と、検死官は陪審員に説明していった。「事実、本事件でもっとも大事な論点はそこにあるといってもよいのであります。諸君は死体をごらんになり、さきほどは医学上の鑑定の結果もお聞きになったはずです。しかし、ご記憶をあらたにするために、本検死官の覚え書きから、この点に関係のある部分を朗読することが適当かと考えます。ストック医師はつぎのようにいっております――医学的な専門語は、すべて省略しまして、証言のうちのわかりやすい部分だけをくりかえしますが――医師の意見によりますと、死体は死後六時間から八時間を経過したもので、死因は銃創によるものでありました。弾は左眼から貫入して、脳底に達し、脳髄《のうずい》を完全に打ちくだいていました。銃創の外部所見で判断しますと、自分の手でくわえた傷であるという仮説は成り立ちません。ピストルを左眼に押し当てた痕跡もなく、至近距離から発射された模様も見当たらぬのであります。それにまた、ピストルをこの程度に眼からはなして、自分の手で発射することは、物理的にいって不可能であります。
また、ストック医師の鑑定によりますと、死体の状況からでは、死の直前に、格闘が行なわれたかどうかは確言することはできないとのことです。医師が死体を診たときは、発見されたままの状態であったのですが、死体は射殺された場合にだけ示す倒れ方をしていたといっております。格闘の形跡は、その姿勢に関するかぎりみとめられませんが、一方、両の手首ならびに下膊部《かはくぶ》についている擦過傷《さっかしょう》と打撲傷は、きわめて最近のもので、医師の意見では、これは暴行の跡であるというのであります。
この点に関連して、バナー氏の証言が、重大な意味をもっているとみとめないわけにいきません。まことに驚くべき現象でありますが、最近のアメリカにおきましては、被害者のごとき地位にある人物が、このような性質の危険にさらされているのは、それほど意外なことではないのだそうです。また、アメリカの産業界においては、労働階級の不満が、われわれ幸福なイギリス人には想像もできぬ程度の段階に達していることは、すでにご承知のかたもあると考えます。本検死官もこの点について、証人に詳細に問いただしてみました。しかし、本官は、死因に関するバナー氏個人の推測を、そのまま諸君に押しっけようとは考えておりません。その点は、とくに強調しておきます。ただ、バナー氏の証言には、諸君の考慮をわずらわしたい問題がふたつ提出されております。第一に、被害者は、なんらかの程度で脅迫を受けていた形跡のあること――いいかえれば、通常の人たち以上に、殺害される危険にさらされていた可能性の問題であり、第二に、この証人が述べたような、被害者の最近の態度の急変からみて、死亡前の数日間、とくにはげしい不安におびえていたと思われる点であります。これらの諸点を合理的に検討され、さらにほかの証言も勘案されて、結論を出していただきたいと考えるものであります」
検死官は、バナー氏の証言が正鵠《せいこう》をえているという自分の見解を、はっきりと表示したあと、陪審員の評決を求めた。
[#改ページ]
九 新しい手がかり
「どうぞ」と、トレントは大声で答えた。
カプルズ氏がホテルのトレントの部屋にはいってきた。それは、検死審での陪審員たちが、わざわざ退席して評議するまでもなく、予想どおり、単独または数人共犯による殺人事件であると答申した日の夕刻のことだった。トレントはいそがしそうに眼をあげただけで、琺瑯引《ほうろうび》きの写真皿に浮いているものを、窓から射しこむ光のなかで、ゆっくりと動かしては、夢中で観察をつづけていた。顔色はひどく蒼白く、神経質な動きを見せていた。
「そのソファにおかけください」と、かれはすすめて、「ただし、お気をつけねがいますよ。この部屋の椅子は、スペインの宗教裁判所が閉鎖になったときの競売市で、一山いくらで買ってきた物らしいですからね……ほう、このネガはなかなか優秀だぞ」とかれは、写真のネガを高くかかげて、光線にすかし、首をまげて、じっとみつめながら、言葉をつづけた。「もう水洗いはじゅうぶんだし、乾くのを待つあいだ、散らかっているものを片づけておきましょう」
トレントが、水盤、皿、箱戸棚、箱、壜などが散らばっている机の上を片づけていると、カプルズ氏はその器物を、あれこれと手にとって、子供のように、ものめずらしげに眺めていた。
カプルズ氏が、ひとつの壜の栓をとって、においをかいでいるのをみて、トレントはいった。
「それは定着剤をとりのぞくための薬品で、ネガの処理をいそぐときには、とても便利なものですよ。しかし、呑《の》めといわれると困りますね。定着液はとりのぞいてくれますが、人間のほうも、同様、この世からとりのぞいてしまいますからね」
そしてかれは、残っていた最後のがらくたを、マントルピースの上にのせてしまうと、カプルズ氏の前にあるテーブルに腰をおろした。
「ホテルの部屋のよいところは、仕事の邪魔をする余分の装飾がないことです。だいたいホテルの部屋なんてものは、のんびりできるようにできてはいませんからね。あなたはこの部屋に泊まったことがありますか、カプルズさん? ぼくはこれと同じ部屋に、数百回も泊まっているんですよ。イギリス中、どこへ行っても、ぼくにはこの部屋がついてまわっているんです。つまり、≪ホテルの部屋≫とくると、どれもみな、おなじものなんです。どこか遠い田舎で、これとちがった感じの部屋をあてがわれたら、ぼくはおそらく気がへんになるでしょうね。このテーブル掛けをごらんなさい。ぼくはハリファックスのある村に泊まって、インクをこぼしたことがあるんですが、そのしみが、ちゃんとここにもありますよ。イプスウィッチで泊まって、絨毯を焦がした穴が、やはりここにもありますしね。そら、そこの壁の≪無言の同情≫という絵ですが、あれはバンベリーのホテルで、ぼくが靴を投げつけたことがあるんですよ。ガラスだけは、とりかえたとみえますな。とにかくぼくの傑作は、全部、こういった部屋からの産物なんです。たとえば、きょうの午後にしても、審理廷がおわったあと、ここで、すばらしいネガを数枚仕上げましたからね。階下に、とても優秀な暗室があるのです」
トレントがこうした話をするときは、仕事に興奮しているときなのだが、それはカプルズ氏も承知していた。そして、なにをかれが調べているのか怪《あや》しみながら、相手になってしゃべりだした。
「検死審の話がでたので思い出したが、わしは、今朝メイベルがお世話になったお礼をいいにきたんです。メイベルが証人席をはなれてから、気分がわるくなるなんてことは、想像もしていませんでしたよ。落ちついていたようだし、平常から、あれだけ自制心がつよいのだから、心配はしていなかったんです。あれのことはあれにまかせておいて、ほかの証言を聞くほうが大事だと思ったんですよ。それが、あんなことになったのだが、あんたがいてくだすって、ほんとうに助かりました。メイベルも、とても感謝していました。おかげでいまは、すっかり元気になっていましたよ」
トレントは両手をポケットに入れてかるく眉をよせたが、なにも答えなかった。そして、しばらくしてから、話しだした。
「ぼくは、あなたがはいってこられたとき、じつにおもしろい仕事をやりかけていたのです。その話をしましょうか。これが、ちょっと高級な捜査方法なんですよ。いまごろは、マーチ警部も同様のことをやっているはずです。もし、やっていなければ、この勝負はぼくのものときまるんですがね」
かれはテーブルから飛び降りると、寝室へ姿を消した。そして、すぐにまた、変わった品物が、いろいろと並べられてある画板を手にもどってきた。
「まず、このごたごたした品物から、説明しなければなりませんな」と、かれは品物をテーブルの上にひろげながらいった。「これは大型の象牙《ぞうげ》製ペーパーナイフですね。それから、この二枚の紙切れは、ぼくの日記帳から切りとったものです。この壜のなかには、義歯《いれば》が入れてあります。こちらには、よく磨いたくるみの木箱があります。これらの品物のなかには、今夜のうちに、ホワイト・ゲイブルズ荘に住むある人物の寝室へもどしておかねばならぬものがあるのです。おわかりですか? ぼくがどういう人間であるかを――思いたったとなると、どんなことでもやってしまうんです。今朝、みんなが検死審へ出かけたあとで、無断借用をしてきたんですよ。だれだって、それと知ったら、憤慨するにきまっていますからね。この画板の上に、まだひとつ、残っているものがありますが、手を触れずに、なんであるか当ててみませんか?」
「むろん、わかりますとも」とカプルズ氏は、興味ぶかそうに、のぞきこんでいった。「ただのガラス鉢じゃないですか。指を洗うフィンガー・ボールらしいですな」
しかし、カプルズ氏はしばらく、慎重に眺めたうえで、
「格別、変わったところもなさそうだが」
「ぼくにも、変わったところといってはわかりませんが」と、トレントが答えた。「しかし、これがおもしろいものであることはわかるんです。このずんぐりした壜をとって、栓をぬいてください。なかにはいっている粉が、なんであるかおわかりですか? あなたもたぶん、子供のときに、ずいぶん飲まされたはずのものです。子供に飲ますものですが、通常グレイ・パウダーと呼んでいる粉で、成分は水銀と白亜《はくあ》です。これがなかなか、大したものなんですよ。では、ぼくが紙の上で、フィンガー・ボールを横にしてもっていますから、ここのところへ、その粉をふりかけてみてください……うまい! その手並みはエドワード・ヘンリー卿はだしですな。あなたは前にも、経験がおありですね、カプルズさん。しろうとばなれのした手つきだ」
「冗談じゃぁりませんぞ」と、カプルズ氏は、トレントがこぼれた粉を壜へもどすのを見ながら、まじめくさった顔でいった。「なんのことだか皆目《かいもく》わからんが、わしのやったことは、どういうことになるんだね?」
「粉のふりかかった部分を、らくだの毛のブラシで、かるくはらうんです。さあ、もう一度、見てごらんなさい。前にはなにも見あたらなかったところに、なにか見えるはずです」
カプルズ氏はのぞいて見て、「これは不思議だ」と、さけんだ。「灰色の大きな指紋が、ふたつ見える。さっきはたしか、なかったものだ」
「ぼくはこれでもホークショー〔トム・テーラー作『仮出獄者』の登場人物、探偵の俗称となる〕のひとりですからね」と、トレントが説明した。「よろしかったら、ガラスのフィンガー・ボールについて、簡単な講義をお聞かせしますよ。これを手でもちあげれば、肉眼では見えないが、指の跡がつくものです。つまりそれが、指紋ですな。人間の手というやつは、どんなにきれいにしていたところで、完全に乾いていることはないのです。ことに、心配ごとのあるときなど、とりわけ湿ってくるものです。その手で、冷たいなめらかな物体の表面にさわると、かならずそこに、指紋を残します。この小鉢も、ごく最近、かなりしめった手でさわられているのですよ」
そこでかれは、もう一度、粉をふりかけて、
「この反対側にも、親指の指紋が見えるでしょう――どれもみな、非常にはっきりした、よい指紋です」
声を大きくしてしゃべっているわけではないが、かすかな灰色の指紋を見つめているかれの顔つきに、内心、興奮に燃えていることが見てとれた。
「これは人さし指のはずですよ。あなたのように学識のあるかたには、申しあげるまでもないことですが、この指紋は、左右|相称的《そうしょうてき》な三角状をしている単一|螺旋《らせん》渦巻型というもので、こちらの中指の指紋は、中心部に十五本の線がある単純|環状《かんじょう》型です。なぜ十五本の線があると知っているかというと、このネガに映っているふたつの指紋を詳細に調べたからなんです。ごらんなさい!」
かれはネガのひとつを、ようやくかげりだした陽の光にかざして、ペンの先で示した。
「おなじものであることがおわかりでしょう。ここで隆起線が分岐していますね。そちらの指紋にも、おなじものが見られるんです。中心部の近くに小さな疵《きず》がありますが、これもまた、おなじことで、隆起線の特徴がいくらでも見出だせます。専門家にかかれば、フィンガー・ボールの指紋と、ぼくが撮影したネガの指紋が、同一人物の手によってつくられたことが、簡単に、あきらかにされるでしょう」
「なるほど、で、この指紋はどこで撮影しました? そして、これが、どういう意味をもっているというのです?」
とカプルズ氏が、眼を大きく見はってきいた。
「マンダーソン夫人の寝室ですよ。あそこの正面の窓で見つけたものです。左側の窓ガラスの上についていました。窓をもってくるわけにもいかないので、ガラスのむこう側に、黒い紙を当てがって、撮影してきました。それに、このフィンガー・ボールはマンダーソンの部屋にありました。かれは就寝時に、義歯をはずして、これに入れておいたものです。こちらのほうはもち運べますので、無断借用してきたんですよ」
「まさか、それはメイベルの指紋ではなかろうね」
「そんなことは考えられませんね」と、トレントは、きっぱりいってのけた。「マンダーソン夫人の指紋にくらべれば、おそらく、二倍の大きさがあるでしょう」
「では、彼女の夫のものにちがいないな」
「そうかもしれません。その点を、もう一度、調べてみることにしましょう。たぶん、はっきりさせられると思いますよ」
トレントはまた、かるく口笛を吹きながら、青白い顔を緊張して、まっ白な粉のはいった小壜の栓をあけた。
「これは油煙なんです」と、かれは説明した。「ちょっとの間、この紙片をもっていてください。これが、問題の指紋を見せてくれるのです」
そしてかれは、自分の日記帳から切りとった紙片を、用心ぶかくピンセットではさみ、相手の眼の前にさし出した。紙片にはなんの跡もついていなかった。その紙片の表面に、黒い粉をふりかけて、さらにそれを裏返し、反対側にもふりかけた。それから、しずかにその紙をふって、遊離《ゆうり》している粉をはらい落とした。その紙片を、かれは無言のまま、カプルズ氏の前にさし出した。紙片の片側には、フィンガー・ボールと写真ネガの上に見たとおなじ指紋が、はっきり浮き出ていた。かれはフィンガー・ボールをとりあげて、それと比較してみた。その紙片を裏返すと、そこにも、小鉢に灰色についているのと、まったくおなじ親指の指紋が、黒々とあらわれていた。
「おなじ人物のものですね」と、トレントはかるく笑っていった。「まず、そんなところと見当をつけていたんですが、これではっきりさせることができました」
そしてかれは、窓のそばへ歩みよって、外を眺めながら、
「これでわかった」
と、ひとりごとのように、低い声でくりかえした。その調子には、なぜか、苦渋《くじゅう》のひびきがあった。カプルズ氏は、なんのことやらわからぬままに、しばらく、トレントのうしろ姿を見つめていたが、
「わしには、まだ、はっきりできぬが」と、すこしたってから、思いきったようにいった。
「指紋のことは、わしもこれまで、たびたび聞かされておったが、実際上、どういうふうにあつかうものか、以前から見たい見たいと思っていたくらいで、興味はじゅうぶんあるんですよ。しかし、マンダーソンの指紋と、この事件とのあいだに、どういう関係があるのかとなると――」
トレントはいそいで、テーブルのそばへひっかえしてきて、思わせぶりな調子で、言葉をはさんだ。
「この事件の調査をはじめるにあたって、ぼくはあなたと共同歩調をとって行くつもりでいましたが、ここしばらくは、事件についての話ができなくなりました。といっても、あなたの分別を疑ってのことではありませんから、わるく思わないでください。ただ、これだけは申しあげておきます。もし真相が、ぼく以外の人間の手で発見されると、非常に悲惨な結果をもたらすおそれがあるのです」
そしてかれは、暗鬱な、いかにもせつなそうな表情で、相手の顔を眺めながら、テーブルをたたいた。
「ぼくはいま、おそろしい立場におかれているのです。いまのいままで、ぼくの考えている事実がまちがっていてくれればいいと、そればかりをねがっていました。いや、その事実の上に立ったぼくの推理が、あるいはあやまっていてくれることをねがっていたのです。それをたしかめる方法は、たったひとつ残されていますが、それをやって見るだけでも、なみなみならぬ勇気が必要なのです」
かれはカプルズ氏のびっくりしたような表情を見て、急に顔に微笑をうかべた。
「すみませんね、こんな気の滅入《めい》る話をお聞かせして。なるべくはやい機会に、くわしい説明のできるようにしましょう。そうだ、この壜の粉のいたずらが、まだ半分もすんでいなかった」
かれはさきほどは、用いようとしなかった椅子をテーブルにひきよせて、幅広い象牙《ぞうげ》の刃をもつペーパーナイフをテストするために、腰をおろした。カプルズ氏は、驚きを押しかくして、ふかい興味を感じたように身をかがめると、油煙の壜をトレントの手にわたした。
[#改ページ]
一〇 富める者の妻
マンダーソン夫人は、ホワイト・ゲイブルズ荘の居間の窓ぎわに立って、こまかい霧雨《きりさめ》にふるえている外の景色を見つめていた。六月のそのころとしては、めずらしく天候がぐずついていた。陰鬱な海面から湧きあがる白い霧が、渦を巻いて草原に吹きよせてくるし、灰色一色に塗りつぶされた空からは、ピンのさきのようにこまかな糠雨《ぬかあめ》が降りつづき、ときどき窓ガラスに吹きつけては、絶望のため息にも似たわびしい音をたてる。夫人は悲しげな面持で、暗く、うそ寒い戸外の光景に眼をやっていた。夫を失ない、人生に希望を失なった孤独な女性にとって、それはまたとない憂鬱な日だったのだ。
ノックの音がした。夫人ははっとしたように気をひきしめた。世を厭《いと》う心に負けつつあるのに気づくと、彼女はいつも、無意識のうちにそうするのだった。
「おはいり」
そう答えると、女中がはいってきて、「トレントさまがおいでです」と告げた。そして、こんなはやい時間に訪れたことを、トレントさまは言いわけなさって、緊急でしかも重大な用件があるので、ぜひ奥さまにお会いしたいといっているとつけくわえた。
マンダーソン夫人はトレントに会うことにした。彼女は鏡の前に立って、そこに映《うつ》る自分のオリーヴ色の顔に見入っていたが、ちらっと顔をしかめて、トレントがはいってきた戸口のほうをふりむいた。
夫人はトレントの様子が、これまでとちがっていることに気づいた。寝不足とみえて、疲れたような顔をして、いつも見せている上機嫌な微笑は影を消し、打って変わったあらたまった表情を見せているのだった。
「さっそく要件にはいらせていただきますが」彼女との握手がすむと、かれはいった。「じつは正午にぼく、ビショップスブリッジを出る列車をつかまえたいのです。しかし、これは奥さんだけに関係のあることですが、いちおうこの件を片づけてしまわないうちは、出発するわけにもいきません。マンダーソン夫人、ぼくは昨夜、おそくまで仕事をして、その後明け方まで、眠りもせずに、考えぬきました。そしていま、ぼくはやっと、どうすべきか判断がついたところなんです」
「それで、お疲れになっていらっしゃるんですね」と彼女は、やさしくいった。「おかけになりません? この椅子がおらくですわ。むろんわたくし、あなたのお話が、この恐ろしい事件と、通信員としてのお仕事に関係のあることは存じております。わたくしにお答えできることでしたら、なんなりとおききになっていただきます。それにトレントさん、たとえ仕事のためであろうと、あなたがわたくしを必要以上にわるい立場に追いこむようなことはなさらないと信じておりますから。おいそがしいのに、こうまでしてわたくしにお会いになりたいとおっしゃるには、きっとそれだけの理由があるのだとわかりますの」
「マンダーソン夫人」とトレントは、言葉をいちいち吟味しながら、ゆっくりと話しだした。「あなたを必要以上にわるい立場に追いこむことはしたくありませんが、やむをえず、そういうことになりそうな感じがするのです――あなたとぼくとのあいだだけの話で済めばいいのですが、とにかく、ぼくのおたずねすることに、正直に答えるも答えぬも、すべてあなたご自身おきめになることです。
ところで、ぼくは名誉にかけて申しますが、あなたのご主人の死について、だれも気がつかぬ――いや、気がつきそうにも思われない重大事実を発見しました。それで、その事実を発表するか、それともさしひかえておくか、それを決定するためにおうかがいしたのです。ぼくの発見したことは――それが事実であることは、じゅうぶん証明できるものと、ぼくはかたく信じているのですが――いずれにしろ、あなたに非常なショックをあたえるにちがいありません。いや、それよりも、さらにわるい結果になるかもしれません。もしそうなることが、はっきりしますれば、ぼくはこの原稿を公表しないことにきめます」
といって、かれは細長い封筒を、そばの小さなテーブルの上においた。
「そして、このなかに述べていることは、永久に新聞に掲載させないようにはからいます。申しあげておきますが、この封筒のなかには、≪レコード≫紙に掲載予定の長文記事とともに、編集長あてのみじかい私信が入れてあります。あなたがぼくの質問に答弁を拒否されることはご自由ですが、もし拒否なされば、編集長に対する責任から、これを本日ロンドンへ持参しまして、その処理を編集長に一任しないわけにはいかなくなります。ぼくとしては、この事実から生じる可能性を想像して、それだけを理由にし、この原稿をおさえるわけにはいかないのです。しかし、この質問に答えられるひとは、あなた以外にはありえないのですから、そのお答えによって、ぼくの想像している可能性が、ただの可能性にとどまらぬことを教えていただければ、ぼくも紳士として――」
かれはそこで、ちょっと口ごもったが、またつぎのようにつづけた。
「奥さんによかれと願う者として、ぼくのとるべき行動はひとつしかありません。この封筒のなかの記事を発表しないことです。警察への協力も、当然避けることになります。申しあげたことは、おわかりになったでしょうか?」
かれは冷静さのうちにも、幾分の不安をまじえてききただした。夫人は手を前に組み、肩をひいて、凍りついたように、かれを見つめている。その蒼白い顔には、なんの表情もあらわれていないのだ。それはちょうど、検死廷におけると、まったくおなじ態度だった。
「よくわかりました」と、マンダーソン夫人は低い声でいった。そして、ふかく息を吸いつづけて、「どんなおそろしいことを発見なさったのか、どんな可能性を思いつかれたのか、わたくしにはわかりかねますが、とにかく、それを話しにきてくださったことは、うれしいと思いますし、ありがたいことと感謝しております。では、お話しいただきましょうか」
「それがあいにく、できませんので」と、トレントは答えた。「あなたには秘密にする必要はないと考えますが、新聞社に対する責任からいって、ここでお話しするわけにはいかないのです。お話をうかがったうえで、あなたのためにも秘密にしておくべきだとわかりましたら、ぼくの原稿はあなたにさしあげましょう。お読みになって、お破りになって結構ですから、ここはぼくを信頼して、お答えをねがいたいと思います」
そしてかれは、以前によく見せたように、熱情をこめて話しだした。
「ぼくはこんな謎めいた話は、心底からいやだと考えているのです。しかし、この秘密をつくったのは、ぼくではありません。ぼくとしても、こんなつらいおもいをしたのは、生まれてはじめての経験です。あなたがぼくを、餌をかぎまわる猟犬のように軽蔑してくださればよいのですが、それもなさっていただけぬだけに、いっそうつらく感じられるのです。まず最初に、おたずねしなければならぬことは――」と、かれはまた、無理に冷やかな口調にもどって、「あなたは検死廷で、亡くなられたご主人のあなたに対する態度が変わり、最近数ヵ月間、疑いぶかく、無口になったが、その理由はわからなかったと証言されましたが、それはほんとうのことでしょうか?」
マンダーソン夫人の黒い眉がつりあがり、眼にきらめくものが浮かんだ。彼女は急に、椅子から立ちあがった。トレントも同時に立ちあがって、テーブルから、いまさし出した封筒をとりあげた。かれのその態度は、会見もこれでおわりだと示しているのだった。しかし、夫人は手をあげて、かれをとどめた。顔に血がのぼり、あらい息づかいで、彼女はいった。
「あなたには、ご自分のたずねていらっしゃることの意味がおわかりになっているのでしょうか? わたくしが偽証をしたとでも考えておいでなんでしょうか?」
「そうです。そのとおりです」とトレントは、平然とした顔つきで答えた。そして、ちょっと間をおいてからつけくわえた。
「ぼくが、上品なつくり話をうかがいに、わざわざおうかがいしたのでないことは、あなたもごぞんじのことと考えます。マンダーソン夫人、尊敬すべき人間は、宣誓した以上、どんな場合でも、ほんのすこしでも、真実を曲げられるものではないという言葉は、上品な嘘にすぎぬようですな」
かれは追い出されるのを覚悟していると見える態度で立っていたが、彼女はなにもいわなかった。そして、無言のまま、窓ぎわへ歩いて行った。トレントも悲痛な表情で、こまかくふるえる彼女の肩の動きが落ちつくまで、そのうしろ姿をみつめていた。やがて、彼女は顔を暗鬱な外の世界にむけたまま、はっきりといった。
「トレントさん。あなたには、ひとに信頼感をあたえる力がおありですわ。わたくしも、あなたの前でしたら、だれにも知られたくないこと、うわさされたくないこと、そのほかどんなことでも、お話ししてもさしつかえないような気がいたしますの。それに、わたくしにはよくわかりませんが、あなたのなさっておいでのことには、それ相応の重大な理由があるにちがいないと思われます。いまおたずねのことに、正直にお答えすれば、司法の正しい運営のために、なにかお役に立ちそうに考えます。
でも、真実をお知りになりたければ、ずっと以前のことから聞いていただかねばなりません――それは、わたくしの結婚当時のことという意味ですけど。いまさら申しあげなくても、大勢のかたたちからお聞きになっておいでと思いますが、けっきょくのところ、わたくしたちの結婚は、幸《しあわ》せな結びつきとはいえなかったのです。
そのころのわたくしは、まだ二十になったばかりで、マンダーソンの力と勇気と信念とに、尊敬の気持を感じておりました。力づよい男性をそのときはじめて知ったからです。しかし、その後まもなく、わたくしはマンダーソンが、わたくし以上に仕事を愛していることに気づきました。そして、それと同時に、わたくしは自分を偽っていたこと、自分を盲目にし、自分の感情を故意に曲げ、不可能なことを可能と信じこんでいたことを知らねばならなかったのです。それといいますのも、イギリスじゅうの娘が夢にも見たことのないような、巨額の富が自分のものになるという考えにまどわされていたからなのです。
そのために、その後わたくしは、五年のあいだ、自分をさげすみつづけてまいりました。わたくしに対する主人の気持は……ちょっと口にはいえませんが……ここで申しあげておきたいのは、主人はわたくしに、社交界で名声をあげる女を望んでいたことです。よろこんで社交界に出て、花形となり、夫のために面目をほどこしてくれるものと信じていたのでした。この考えは、あのひとが抱《いだ》いていたほかの夢が錯覚とわかったあとでも、ずいぶん長いあいだつづいていました。わたくしは主人の野心の一部だったのです。わたくしが社交界で成功しなかったので、主人がひどく失望したのは当然のことでした。あんな抜け目のないひとですから、自分がどういう人間か知らなかったはずはありません。あのひとはわたくしより、二十も年上で、大きな事業上の責任を負ったばかりに、ほかのことまで顧みることができず、ただ事業一図に、それまでの生涯を送ってきたひとなのです。音楽とか書物、そういった実際生活にはなんの役にも立たぬ思想で育てあげられ、自分勝手な楽しみしか知らないわたくしのような女と結婚したことが、そのうちに不幸を招く危険があることを、あのひとは感じとったにちがいありません。それでいてあのひとは、わたくしがかれの社会的地位を引き立ててくれる妻だと、ほんとうに考えていてくれました。でも、わたくしにはそれが、とうてい不可能だとわかっていたのです」
マンダーソン夫人は、それまで一度も見せたことのない、はげしい情熱をこめた口調で語っていった。言葉が奔放《ほんぽう》に流れ出し、声は、過去数日間の衝撃と自制で押さえつけられていたものが、自然に自由な活路を見出だしたかのように鳴りひびいた。彼女は急に、窓の外を眺めていた眼をふりむけて、相手の顔を見つめながら話をつづけた。その美しい顔はいきいきと紅潮して、両の眼はきらきらと輝やき、手の動きにまで力がこもり、ながらく鬱積《うつせき》していたものを、一度にどっと吐きだしたいといった衝動に身をまかせた。
「社交界の人たち」と、彼女はいった。「あのひとたちは、なんという人なんでしょう! 尊い創作的な仕事にたずさわり、男も女も、自分の職業と芸術とに打ちこみ、理想と信念をもって、それを論じ合い、貧富入りまじった世界に生きてきた者にとって、社交界というところがどんなに意味のないものか、ふつうの人たちには想像のつくものではありません。通常の世界から飛びだして、社交界という別の世界へふみこむことが、どのようなものであるかが、おわかりになっていただけるでしょうか? 社交界で生きて行くためには、卑しい言い方かもしれませんが、驚くほどの金持でなければならないのです。その世界では、大事なものはお金だけ。だれでもが、まっ先に考えるのは、お金のことなんです。巨万の富をえたひとたちが、仕事に疲れ、暇をもてあましたときに夢中になることといっては、スポーツのほかありません。働く必要のないひとたちは、働かねばならないひとたちより退屈ですし、また不純な考えをもつものです。女たちの生きがいといえば、見栄《みえ》をはること、つまらぬ娯楽を楽しむこと、愚かしい不道徳な行為にふけることぐらいなものです。
このような生活が、どれほどみにくいものであるか、あなたはもちろん、ご存じのはずです。むろんなかには、聡明なひともいますし、すぐれた趣味をもつおかたもおいでです。でも、そのひとたちにしても、そういった雰囲気にわずらわされ、いわば骨抜きみたいな状態になっているのでして、けっきょく、つまらぬ女たちとは変わりありません。なんという空虚な生活でしょう! すこし大げさにいいすぎたかもしれませんけど。わたくしの場合もおなじことでして、あの世界にお友だちもできましたし、楽しいと思ったときも、すこしはございましたが、あとで感じるのは、空虚だけでした。ニューヨークとロンドンの社交シーズン――考えただけでも、ぞっといたしますわ! わたくしの家のパーティだのヨット遊び、そのほか、いろいろとしなければならぬつきあいにしても、いつもまったくおなじ顔ぶればかりで、おなじような空虚さを感じるだけでした。
そうして、お察しねがえると思いますが、主人はこういうわたくしの気持を、ひとつとして了解してくれませんでした。あのひとの生活は、社交界のなかだけではなかったからです。社交界の雰囲気につつまれているときでも、その心を占めていることは、事業上の計画と、それにともなう難問題の解決のことでした。夫はわたくしの気持に気づく様子もなく、わたくしもまた、あのひとにはなにもいいませんでした。知らせるのは、よいことではないと考えましたし、また、知らせる気にもならなかったからです。わたくしも、夫の地位と財産とを分かち合って、妻らしく行動するためには、なにかしなければならぬと思いました。でもわたくしにできることといいましては、あのひとの理想にそえるよう、社交的な手腕を発揮すること以外にありません。それでわたくし、努力いたしました。最善をつくしました。しかし、年がたつにつれて、だんだんそれが、つらくなっていくばかりでした……わたくしは、いわゆる評判のよいホステスにはなれなかったのです。どうして、なれるわけがございましょう? わたくしは落第でした。努力はしつづけたのですが……。
それで、ときどき、こっそりと暇を盗むようになりました。そうしますと、いやな表現ですが、契約の一部を果たしていないような感じで、気がとがめはしましたが、それでもはじめて、自分の生活を味わうことができました。昔の学校友だちで、旅行などする余裕のないひととつれだって、ひと月かふた月、遠くイタリアまで出かけて、ふたりだけで、安上がりな旅をつづけました。また、古いつきあいの質素なひとたちと、ロンドンにしばらく、いっしょに暮らして、劇場の切符を買うのにも、幾度も考えこんだり、廉《やす》い衣裳店はどこかと相談しあったり、そんなふうにして、むかしながらの生活を愉しむこともしてみました。
そのほかにも、まだふたつ三つ、愉しみがありましたが、そうしたことが、結婚してからのわたくしの生活で、いちばんうれしい時だったといえるのです。いままで、無事に過ごしてこられましたのも、そうしたお友だちがあったおかげといえましょう。しかし、わたくしが以前の生活にもどって、そのように楽しい時を過ごしたということを主人が知ったら、さぞいやな思いをするだろうと、意識しないわけにもいきませんでした。
それやこれやと、わたくしは気をまぎらわすために、できることはのこらずやりつくしました。そのうちに、それがとうとう、主人に気づかれてしまったのです……あのひとは、一度これはと疑ってかかると、どんなことでも、見抜いてしまう力をもっていました。社交界の花形にしようというあのひとの夢を、わたくしでは満たすことができないのは、ずっとまえにわかっていたはずですが、わたくしの想像では、夫は最初のうち、それはわたくしの欠陥のせいではなく、運がわるいだけと考えていたらしいのです。しかし、わたくしがどんなに表面を装っても、精神こめてその役割を果たそうとしていないことに気づいた瞬間、すべての事情を知ってしまいました。わたくしが、贅沢ではなやかな、巨富のあいだに生活して、それらのもののために、自堕落《じだらく》になってしまったひとたちをきらっていること、そしてその結果、そういった生活までもきらうようになったことを見抜いてしまったのでした。
それは、去年のことでした。はっきりした時期とか、なにがきっかけでそうなったかは、わたくしにもはっきりしませんが、主人以外のひとたちは、あらかたわたくしの気持を知っていましたから、そのうちのだれか女のかたでも、そっと主人の耳へ入れたのだと思います。夫は口に出しては、なにもいいませんでしたし、最初は、意地にも態度にあらわすまいと、努力をつづけている様子でした。が、とかくこうしたことは、神経にさわるものなのです――わたくしたちふたりのあいだには、徐々にその影響があらわれてきました。
わたくしはそれで、かれが気づいたことを知りました。しばらくしますと、おたがいにかたくるしい、うわべだけの夫婦仲になってしまいました。そうなる前のわたくしたちのあいだは――なんといったらよろしいでしょう――ものわかりのよい友人同志といったところがありまして、どのようなことでも、なんの遠慮もなしに、気がるに話しあって、賛成したり反対したりしていました。ところが、それもけっきょく駄目になってしまいました。ふたりいっしょに暮らしてゆくための、ただひとつの根拠があぶなくなっていくのを、うすうす感じていましたが、とうとうそれも崩れ去ってしまったのです。主人の亡くなるまでの数ヵ月間は、こういった状態だったのです」
と彼女は、ぽつんと話を切って、一仕事したあとで、からだをやすめるといったふうに、窓ぎわのソファのすみに身を沈めた。そしてしばらくのあいだは、ふたりともに口をきかなかった。トレントはそのあいだも、もつれた印象をいそいで整理しょうとつとめた。かれはマンダーソン夫人の率直な話を聞いて、内心驚かぬわけにいかなかった。その力づよい話しぶりにも驚嘆させられた。すべてを打ち明けてしまいたいという衝動にかられ、おのれの性情そのままをあからさまに語る彼女の姿のうちには、なにごとも積極的に行なわねば気のすまぬ彼女の真実のあり方がうかがわれたのだ。かれは前日の朝、彼女が幻想にふけり、不用意にも生《なま》の感情をさらけ出しているところを、偶然の機会に見てしまったが、そのどちらの姿にも、いままでかれらに見せていた、自制心のつよい、蒼白いままにひきしまったその表情からでは、うかがい知ることのできぬものがあった。
こうした驚きとともに、かれは彼女の妖《あや》しい美しさに、畏怖《いふ》に似た感じを抱かされていた。そして、その興奮は、かれの眼のうちに、ほとんど消えることもあるまいと思われる映像を焼きつけていたのだった。
かれの心は、事件の重大性の虜《とりこ》だったはずなのに、不思議な現象だが、いわばとるにたらぬ考えが、つぎつぎと湧きおこって制御できぬかたちだった……彼女のすばらしさは、ただ美しいからではない。その美しさが、強烈な個性とむすびついているからだと考えた。それまでかれは、イギリスの美しい女性は、どれもみな冷静な性質の持主ばかりで、情熱とは美しさを焼きつくして、失なわせてしまうものと考えていた。これまでかれが、どのような美しい女性に会っても、一度も心をうごかしたことがなかったのは、そこに理由があったからだ。もちろん、女性の才気の問題になると、かれもまた、ランプとはわけがちがうが、やはり光の冴えないものより、明るいほうに好感がもてた。しかし、それもまた、議論の余地があるぞと、かれの理性がさけんだのだ。すると、一方では本能が、まったくそのとおりだ。しかし、おれはこの女に、心を奪われてしまったんだと答えた。そしてこんどは、もっと奥ふかいところで、やはり本能が、そんなことはやめろ! とどなった。かれは、むりやりに関心を、彼女の話にひきもどした。それによって、押さえきれぬ確信が、急速にかたちをあらわしてくるのを感じた。彼女の話はりっぱなものだが、それだけでは、事件の解決に役立つことにはならないと……
かれはしずかにいった。
「おそらくいまのお話は、あなたのお心にひめておかれるつもりだったのでしょう。ぼくもまた、そこまでお聞きするつもりはありませんでした。それをあなたに話させてしまって、申しわけないものを感じております。しかし、くどいようで恐縮ですが、もうひとつ、――これはおそらく、いちばん大事な質問と思いますが」とかれは、冷水に飛びこもうとしているときのような緊張感をおぼえながら、「マンダーソン夫人、あなたに対するご主人の態度が変わったことは、ジョン・マーロウ君とは、関係がなかったのでしょうか?」
すると、トレントが怖れていたことが、ついに出現した。
「まあ!」
彼女は苦しげにさけんで、いきなり顔をあげた。あわれみを乞うように、両手をのばすと、それで、燃えあがるようにまっ赤になった顔をおおい、そばのクッションに、身を投げだした。ゆたかな黒髪と、心をいたぶるようなむせび泣きにふるえる肉体が、かれの眼の前に大きくひろがった。悲しみに身をまかせ、しどけなく内側へ曲げた脚のほか、かれの眼にはなにも映らなかった。高い塔が、突如、こなごなに崩壊《ほうかい》したように、彼女はくず折れ、絶望的に泣き悲しむのだった。
トレントは蒼白な顔で、しずかに立ちあがった。ほとんど無意識に、例の封筒を、よく磨《みが》かれた小卓のまんなかに、きちんとおいた。そして、ドアへ歩みよると、部屋から出て、音もたてずに、ドアをしめた。
数分ののち、かれはホワイト・ゲイブルズ荘を出て、雨のなかを歩いていた。どこへ行くあてもなく、なにものも眼に映らなかった。彼女の恥じ悲しむ姿を見たとき、その足もとにひれ伏して、許しを乞い、唇にまで出かかっていた言葉をいいつくして、自尊心など、永遠に消えてなくなれと、狂おしい衝動を押ししずめ、打ち消そうとする努力に、心ははげしくゆれ動いていた。そして、まだ夫の埋葬もすまさず、ほかに愛人のいる女に、くどくどと愛の言葉をささやき、それによって、かえって彼女が、かれをきらってくれさえすれば、この気ちがいじみた気持も押しつぶすことができるのではないかと考えた。
[#改ページ]
一一 未発表の記事
[#ここから1字下げ]
モロイ殿
ご不在の場合を予想して、この手紙をしたためておきます。同封の原稿にあるとおり、マンダーソンを殺害した犯人を見出だすことに成功しました。ここまでは小生にあたえられた任務ですが、この原稿のあつかい方いかんは、あなたご自身のおきめになることであります。小生の原稿にあっては、事件関係者のうち、これまでのところ、嫌疑をまったくかけられていない人物を、殺人犯として摘発していますが、その人物が逮捕される以前に、貴社がこの記事を発表されることはないものと確信しております。また、逮捕されたあとでも、裁判による有罪が決定されるまでは、同様発表は不法であると考えています。判決のあったのち、この原稿を公表されることは当然でありますし、判決以前にあっても、小生が書きしるした事実を、適当な記事に使用されることにも否《いな》やは申しません。それはすべて、あなたにお任《まか》せいたしますが、それと同時に、警視庁にも連絡をとられて、この原稿をお見せになることを希望いたします。これによって小生のマンダーソン事件に関する仕事は終了しました。いまさらのように、この事件には手を触れるべきでなかったと痛感しております。くわしくは原稿をご閲覧ねがつたうえで、ご諒察ください。
六月十六日
マールストンにて、フィリップ・トレント
[#ここで字下げ終わり]
本特派員はマンダーソン殺人事件について、≪レコード紙≫に寄せる三回目の原稿を書きはじめるにさいして、心のうちに、矛盾した感情が戦いあっていることをしるさねばならない。この記事はおそらく、本特派員の執筆する最後のものとなるであろう。以前の二回の記事のうちで、記者は、正義を守るために、ことさらに、たしかめえた事実の発表をさしひかえておいたが、いまだにその考慮が正しかったものと確信している。事実の公表によって、ある人物に警戒心を起こさせ、逃亡をはからせる危険さえあったからである。なぜかというに、その人物たるや、衆にすぐれた勇気と才智をそなえているからで、これより、その事実の詳細を述べることにする。ただ本特派員は、率直にいうと、これから述べる不信行為と、歪《ゆが》められた叡智《えいち》の物語をしるさねばならぬことに、心から不本意なものを感じている。これによって解決しえたと信じている犯罪の底ふかくひそむ動機なるものが、かならずや読者諸賢に対しても、不愉快な後味《あとあじ》を残すことになることを想像できるからである。
最初に送った報道に、記者が火曜日の早朝、この地に到着したときの状況をしるしたが、それはいまなお、読者のご記憶にあることと信じる。死体がいかにして、またいかなる状況の下で発見されたかを述べ、この犯罪をめぐる謎を詳細に説明し、地方警察の見解も、二、三紹介しておいた。さらに、被害者の家庭的状況にも触れ、死亡前夜における被害者の行動について精密にしるした。また、事件への関係の有無は不明であったが、マンダーソンの常用量をはるかに超えるウィスキーが、卓上壜から減少していたという、比較的小さな事実も述べておいた。
翌日、検死審が行なわれたが、その詳細な経過については、本紙の他の特派員に依頼したので、概括的な報告を送るにとどめた。そして、その日がまだ終らぬうちに、本記者はこの原稿を書いている。本事件の調査はすでに完了して、その結果、マンダーソン殺しの犯人として、当然、身の明かしをたてねばならぬ人物を探り当てることができたのである。
マンダーソンがその朝、いつもの時間より早く起き出て、邸外において殺害されたことは、この事件の中心となる謎であるが、それはさておき、この記事を読まれる数千の読者も感じられたと思うが、本事件には、二個の小疑問点がある。これは、本特派員も最初から気づいていたもので、そのひとつは、死体発見の場所が、邸から三十ヤードと離れていないにかかわらず、邸内にひとりとして、叫び声も物音も聞いた者がなかったことである。マンダーソンは猿ぐつわをはめられていたわけではなく、手首の傷も、攻撃した相手と争ったことを示している。それに、少なくとも一発は、ピストルも発射されている(少なくとも一発といった理由は、ピストルで人を殺す場合、ことに格闘していた場合、最初の弾丸ははずれることが多いからである)。執事のマーティンはよく眠れぬたちで、非常に耳ざとく、しかも、その寝室が、死体の発見された物置小屋に面しており、窓も明け放してあったことを知るにおよんで、記者はこの事実に、いよいよ不可解なものを感じたのであった。
最初から記者が気づいていた奇妙な小事実の第二は、マンダーソンがベッドのそばに義歯をおき忘れたことである。かれは起きあがると、ネクタイから懐中時計にいたるまで身につけて、完全に支度をととのえていたのに、永年、毎朝口に入れていた上顎《うわあご》の総義歯《そういれば》を、はめ忘れて出かけたとは奇怪である。それほどいそいでいたとも見受けられず、かりにそうだったとすれば、義歯以外の品も忘れていきそうなものである。義歯を使っている場合、朝起きると、これをはめるのが、第二の天性となっているのが常識といえよう。容貌の点はともかくとし、しゃべるにしても、たべるにしても、義歯なしでは不自由のはずである。
しかし、こうした異様な事柄も、当初は、事件の解決の糸口にならなかった。ただ、記者の心に、事件の奥にひそむものに対して疑惑を起こさせ、マンダーソンがいかにして、なんの理由で、何者に殺害されたかという奇怪な謎をふかめるばかりだった。
前置きはさておき、巧妙に隠されていて、最初の数時間の調査では気づかなかった点を発見したことを記述することにする。
本特派員は前の記事において、マンダーソンの寝室は、その調度類が質素であるにかかわらず、おびただしい数量の衣類や靴があることと、その部屋とマンダーソン夫人の寝室がつながっていることをしるしておいた。そしてその後、人に教えられて、靴をならべた二段の棚の上段に、かれが死亡前夜はいていた、特製のエナメル靴がのせてあるのを知った。手がかりになるとも思わず、記者はその以前に、並べてある靴の全部に眼を通しておいた。記者には偶然であるが、靴に対しての鑑定眼があり、そこにある靴のすべてが、最高の技術をもつ職人の手になるものであることを知った。しかし、この靴には、特異な点があるのに気づいた。ひもでむすぶ、かるい夜会靴で、底はうすく、爪先はまるい。ほかの靴同様、みごとに製作されていて、使い古されてはいたが、ていねいに磨いてあり、ほかの靴とおなじに木型に入れてあったので、型は崩れていなかった。
記者の眼を捉えたのは、甲皮といわれている部分の上部にある、わずかな裂け目だった。ひもつきの二枚の皮が、甲皮の上部と縫い合わせてあるのだが、こういうきちっとした靴をはいたときは、その部分が、もっとも緊張するところで、通常、開口部の底から、一針一針しっかり縫いつけ、丈夫にしてあるものである。ところが、記者の調べた靴は、双方とも、その部分の縫い目がとけて、皮がはがれていた。裂け目は僅少《きんしょう》なもので、一インチの六分の一もなく、靴をぬぎ、皮の緊張がなくなれば、ふたたび合わさってしまうので、靴に目のきく人でないかぎり、気づかずにおわる程度である。
ほかにも、同様に気づきにくく、よほどの注意をはらわぬとわかりかねるが、甲皮と底皮とをむすぶ縫い目にも、かなり緊張した痕《あと》があり、双方の靴の爪先と外皮の部分の合わせ目を仔細に見ると、その縫い目もひっつられた形である。
いうまでもなく、これが意味するところはひとつしかない。その靴を、足の大きすぎる人物が、無理にはいたということだ。
ところで、マンダーソンがいつも上質の靴をはいていて、よく手入れをし、その小ぶりのせまい足を、多少は誇りにしていたことはあきらかである。記者は、そこに並べられた靴のうちに、同様な痕跡をもつものは一足もないことをたしかめた。どの靴にも、無理に足を突っこんだ形跡は見当たらぬのだ。マンダーソン以外の何者かが、この靴を、ごく最近はいたことは明瞭である。裂け目のふちが、きわめて新しいことによって、それが判明する。
マンダーソンの死体が発見されたあとで、何者かがこの靴をはいたという可能性は考えられない。記者が靴の調査を開始したのは、死体発見後、おおよそ二十六時間経過していたが、その間に、その靴をはく必要のあった人物がありえようか? そしてまた、マンダーソンの生存中、かれから靴を借り受け、それをはいて、傷《いた》めた者があったという可能性も、無視してよいと考えられる。余人はとにかく、マンダーソンにかぎり、このように傷んだ靴をはこうとはしなかったであろう。そして当時、邸にいた人物といえば、執事と二名の秘書にすぎない。
しかし、かならずしも記者が、あらゆる可能性を考慮しつくしたとは断言しない――なんとなれば、記者は思考に抑制をくわえず、むしろこのような場合には、自由に働かすことがより賢明であると知っているからである。あの日の早朝、記者はマールストン駅で下車して以来、マンダーソンの事件の詳細で頭をいっぱいにし、その検討に没頭してきたが、突如、記者の守護神が眼ざめ、活躍しはじめたのであった。
いますこし現実的に話をすすめることにしよう。要するにこれは、仕事とか趣味のうえで、困難な問題にとり組んでいるとき、だれにも起こりうる心理作用の一面である。一連の不可解な事態に苦しむうちに、偶然か、あるいは懸命な努力の結果、問題解明の鍵となる事実をつかむとなると、それまでのさまざまな考えが、新しくその事実の周囲に集まってきて、鍵となる事実の真の意義が明瞭に理解される以前に、そのさまざまな考えが再整理されてしまう場合があるのだ。本事件の場合がそれで、記者の脳裡《のうり》に、≪マンダーソン以外の何者かが、この靴をはいたのだ≫という考えがはっきりかたまらぬうちに、雑多な想念が湧きあがり、それがすべて、おなじ方向を指示し、この新しい考えを支持するにいたったのである。
マンダーソンは夜間多量のウィスキーを飲む習慣をもたなかった。そしてまた、死体発見当時のごとく、カフスが袖裏にまくれこみ、靴のひももきちんとむすんでいないという、だらしのない身なりをしていたことも、かれらしくない。さらに、起床後、顔も洗わず、前夜とおなじワイシャツ、カラー、下着をつけ、チョッキのポケットのひとつに、時計を入れるための皮ぶちがつけてあるのに、別のポケットに時計をいれていた事実、これらすべては、平素のかれとはいちじるしく異なっている。
(むろん第一回の記事で、これらの点をあきらかにしたが、死体を調査したさいには、記者はいうまでもなく、ひとりとしてこれらの事実の意味に気づいた者はなかった)
当時の家庭事情からみて、マンダーソンが就寝にさきだって、今後の自分の行動を夫人に知らせたことも、同様不思議といえばいえるのである。最近こういう場合、かれが妻に話しかけたことは一度もなく、翌朝、義歯をはめずに寝室を出たことは、さらに異常といえるのであった。
こうした考えが、あの日の朝、質問し観察したことの記憶のうちから浮かびあがって、一度にどっと、記者の脳裡に押しよせてきた。それに要した時間はきわめてみじかく、読者がこの記事に眼を通されるより、はるかに早いスピードで、記者が靴を裏返しながら、重要な諸点を確認しているあいだに起こったのであった。≪あの夜、邸内にいたのは、マンダーソンではなかったのだ≫という決定的な考えが、なんの前触れもなく、心に浮かんできたのである。最初は、ばかげた妄想としか思われなかった。あの夜、夕食をすませ、マーロウと車で出かけたのは、まちがいなくマンダーソンだった。何人か、間近に見ていたから明瞭である。しかし、十一時に帰宅した男が、はたしてかれであったであろうか? この疑問は、当初ばからしいものに思われたが、記者としては、無視することもできなかった。暁の光が大地を照らし出すように、記者の心の広野に、かすかな光が忍びよってきたのである。まもなく、太陽がのぼってくるおもいがした。記者は脳裡に浮かぶ諸点について、ひとつひとつ、気を落ちつけて考慮してみた。なにが故《ゆえ》にマンダーソンに変装した人物は、マンダーソンらしからぬ行動をしなければならなかったか? その謎を、できれば解きあかそうと考えたのであった。
ある人物がマンダーソンの小さな靴を、無理にはいたことについて、その動機をさぐり出すには、それほどながい時間を要しなかった。足跡の検査は、警察も理解してくれるところだからだ。しかし、その人物は、自分の足跡を残さぬことに気をくばっただけでなく、逆に、ことさらにマンダーソンの足跡を残すために、配慮したのであった。記者の推測にあやまりなければ、その人物の目的は、その夜、マンダーソンが邸にいたと信じさせることにあったのだ。さらに、かれの計画は足跡を残すだけにとどまらず、マンダーソンの靴そのものを、邸内に残そうとはかり、それを実行したのであった。女中は、平常マンダーソンがそうしていたので、寝室のドアの外に、靴がおいてあるのを見ると、その朝おそく、死体が発見されたあとで、それを磨き、靴棚へもどしておいたのである。
この新しい見方で、義歯をおき忘れた事実を見返してみると、この事件のうち、もっとも常識はずれに思われた部分の謎が、たちどころに解明されることになった。義歯はそれをはめている人物から、とりはずすことのできるものである。記者の推測が正しい場合、その奇怪な男は、靴を邸へもち帰ったと同時に、おなじ目的で、義歯もやはり、もち帰ったものであろう。その意図は、マンダーソンが、その夜、邸にいて、寝室のベッドにやすんだことを、だれからも疑われぬようにはかることにあった。かくてこの推理は、≪偽のマンダーソンが家へもどる以前に、マンダーソン自身は死亡していた≫という結論に記者を導き、ほかのすべての事実も、この推論を支持していたのである。
たとえば、記者は被害者の衣類をあらためて調査してみた。記者の推測どおりであれば、マンダーソンの靴をはいた奇怪な男は、マンダーソンのズボンも、チョッキも、狩猟用の上衣も、同様、身につけたにちがいない。それらの衣類が、寝室内にあったことを記者も見ている。前夜、マーティンも、だれが見ても見まちがえのない上衣を、書斎の電話付近に腰かけていた男が着用しているのをみとめている。これらの事実は、だれが見てもそれとわかるこの上衣が、奇怪な男の計画のうちでも、重要な部分を占めていたことをあきらかにしている。マーティンがその男を一目見て、マンダーソンと見まちがえることを、その男はあらかじめ計算していたのであった。
そのとき、記者の推理は、それまで見逃していた点に思いあたって、中断された。その夜、マンダーソンは邸内にいたという、だれもが疑念を抱かなかった仮定が、非常につよく、関係者の頭を支配していたので、記者ひとりにとどまらず、だれもがつぎの点に気づかなかったのだ。それは、≪マーティンも、マンダーソン夫人も、その男の顔を、見ていなかった≫という事実である。
すでに述べたごとく、記者は≪レコード紙≫の速記者に依頼して、検死審の模様をくわしく報道させたが、そのさいのマンダーソン夫人の証言から判断すると、夫人はまったく、この人物を見ていなかった。その理由は、いずれのちほど説明することにするが、彼女は半ば眠っていたような状態で、一時間ほど前、生前の夫とかわした会話のつづきを、その人物と話しあったにすぎない。マーティンにしても、その男は電話の上にかがみこんでいるような恰好をしていたと証言している。してみれば、かれはその人物のうしろ姿しか見ることができなかったものと推察される。もちろん、その特徴あるうしろ姿は、マンダーソンに酷似《こくじ》していたにちがいない。かれはまた、マンダーソンがつねに用いるふち広の帽子をかぶっていたのだ! 頭と首のつけ根は、その特徴を明瞭に示すものだから、これを隠蔽《いんぺい》するための手段とみてよいであろう。要するに、その奇怪な人物は、体つきさえ、ほぼマンダーソンに似ていれば、上衣と帽子と、そして巧妙な物真似《ものまね》の才能を用いることによって、それ以外に、特別の変装するまでの必要はなかったのである。
記者は、その人物の冷静さと巧妙さについて、しばらく考慮してみることにした。そして、いちおう物真似の才にたけ、沈着に行動すれば、この計画が、安全かつ容易なものであることが判明してきた。この二個の点が保証されることによって、予想外の事故の起こらぬかぎり、正体の露見するおそれはなかったといえるのだった。
さて、話を上述の、故人の寝室に坐り、証拠の靴を眼の前におき、謎解きに苦慮していたときにもどすとする。怪しい人物が正面玄関を通らず、フランス窓から邸へはいった理由は、以上の記事を読まれた読者には、すでにおわかりのことと考える。玄関からはいれば、その奥の食器室にいた、耳ざといマーティンに、かならずやその物音を聞きつけられたであろうし、最悪の場合は、顔をつき合わせぬともかぎらぬからである。
つぎに、ウィスキーの問題がある。当初は記者も、これをさして重要視していなかった。七、八人の家族の家では、ウィスキーなどは、往々にして、原因不明の減り方をするものである。しかし、あの夜、あのような減り方をしたについては、なにか異常な感じを受けずにはいられない。マーティンがこれを知って、ものもいえぬほど驚いたことは事実である。この怪人物も、おそらくはそうであったと思われるが、血なまぐさい仕事と、死体の衣類のはぎとりという不快な行為を終えて、ひと息つき、さらにその後も、危険な役割を演じなければならぬのを考え、酒壜を見たときは、親友にでも出会ったように、飛びついたことと思われる。疑いもなく、かれはマーティンを呼ぶ前に、一ぱい飲み、マーティンをうまく欺《あざむ》きおわったあとで、またもう一ぱい、口にしたことは想像にかたくない。
しかし、かれはまた、度をすごすべきでないことを知っていた。その計画のうちでも、もっとも困難な部分が、そのつぎに控えていたからである。その仕事とは、マンダーソンの部屋へはいりこみ、マンダーソンが当然、その寝室にいたと信じさせる証拠をつくりあげることにあった。あきらかにそれは、かれの死命を制するほどの重大事であったのだ。この仕事には、半びらきのドアの向こう側にいる女性が目をさまし、いつかれを見つけるかもしれぬという危険がともなっていた。危険率は僅少であるにしても、胆《きも》を冷やすにたる性質のものであった! 夫人のベッドからの視野はかぎられたものであったが、たとえその見えないところに身をかくしていたにしても、もし、彼女が起きあがって、ドアまで近づけば、たちまち発見されるのは必定《ひつじょう》であった。
夫人のベッドは、境のドアからすこしはなれた個所で、壁に頭をつけた形で据えてあるが、それに寝ている場合、ドアを通して見えるものは、マンダーソンのベッドの枕もとにある戸棚だけである。さらにその人物は、家庭内の事情を熟知していたので、この時刻にマンダーソン夫人は、まず眠っていると考えてまちがいないと思っていたのであろう。かれにとって、いまひとつ好都合のことは、マンダーソン夫妻の仲が、最近疎遠になり、家中の者はそれを知っているのに、夫妻はそれをかくそうとして以前とおなじに、二間つづきの寝室を使用していたことである。かれはこの事実より押しはかって、マンダーソン夫人がかれの立てる物音を耳にしても、夫が帰ってきたものとして、とくに注意をはらうことはあるまいと予測していたのであろう。
そこで、この仮定を押しすすめ、記者はこの奇怪な人物が、寝室へはいりこみ、仕事にとりかかる様子を想像してみた。予想に反して、かれがもっとも怖れていた隣室からの声を聞いたときの、身の毛もよだつばかりの衝撃を考えると、記者も思わず、息を呑んだものである。
マンダーソン夫人自身は、そのときなにをしゃべったか、検死審では、思い出すこともできなかった。夫人は夫の顔も見ずに、ドライヴは楽しかったかとたずねたように思うと証言している。その場合、怪人物はなにをしたであろうか? ここに、この事件のもっとも重要な意味をもつ点があると、少なくとも本特派員は考えている。
かれの行動を想像してみると、まず、化粧台の前に立ちすくみ、おのれの心臓の鼓動を聞きながら、マンダーソンの声をまねて、夫人に答えたばかりでなく、聞かれもせぬのに、よけいな説明までつけくわえているのである。突然思いついたように、マーロウを車でサウサンプトンヘやり、翌朝の船でパリへたつ男から、重要な情報を受けとってこさせることにしたといっている。いままで、なにひとつ妻に知らせなかった男が、なにが故《ゆえ》にこのような細かいことを、しかも、彼女にはまったく興味のない事実を話したのであろうか? マーロウの行動について、なんのために、かくもくわしい説明をする必要があったのであろうか?
説明はこの程度にとどめて、記者はいよいよ、最終的な結論を提出しようと考える。車が出発した、およそ十時前後から十一時までのあいだに、マンダーソンは射殺されたのだが、その場所は邸から相当はなれたところと見ねばならない。だからこそ、射撃音は聞かれなかったのだ。死体は運びもどされて、小屋の近くにおかれ、衣服がはぎとられた。十一時ちかくには、マンダーソンではないある人物が、マンダーソンの靴と帽子と上衣を身につけて、庭に面したフランス窓から書斎にはいりこんだ。かれはまた、マンダーソンの黒いズボンにチョッキ、さらにはドライヴ用のコートと、その口からはずした義歯、殺人を行なった凶器とをもち帰った。
かれはこれらの品を隠しおえると、ベルを鳴らして執事を呼び、帽子をかぶったまま、ドアに背を向け、電話の前に腰をおろした。マーティンが部屋にいるあいだ、かれは電話の前を動かなかった。それから、寝室のある二階へあがって、マーロウの部屋へはいり、犯行に使用されたピストルを――それはマーロウの所持品であったが――暖炉の上のケースヘもどした。
つぎに、マンダーソンの寝室へ行き、ドアの外へ靴をおき、服は椅子の上に投げかけ、ベッドわきの小鉢のなかに義歯を入れると、寝室のなかにあったもののうちから、背広、靴、ネクタイを選びだした。
ここでひとまず、この人物の行動についての説明を中止して、解決の道を眼の前にひらかせる、いまひとつの問題にとりかかることにする。
この偽のマンダーソンは、何者であろうか?
その人物について知りえた事実、ないしは確実に推定できる事柄を検討した結果、記者はつぎの五個の結論を得た――
[#ここから1字下げ]
(1)この人物は、被害者と密接な関係にあった。マーティンの眼の前で見せた演技にも、マンダーソン夫人との談話にも、まったくあやまちをおかしていないのである。
(2)かれはまた、マンダーソンとからだつきが、とくに身長と肩幅の点で、ほぼ似かよっていた。身長と肩幅は、頭を帽子でかくし、しまりのない着つけでうしろ姿を見せた場合も、その特徴をかくすことはできない。しかし、その足は、マンダーソンの足にくらべて、やや大きめだった。
(3)かれは口まねと演技について、相当な才能をもっていて、おそらくは舞台に立った経験もあるはずだ。
(4)かれはまた、マンダーソン家の事情について、こまかい点まで知りつくしていた。
(5)かれには、なんらかの理由で、マンダーソンが日曜日の夜十二時すぎまで、生きてその邸にいたと、他人に信じこませる必要があった。
[#ここで字下げ終わり]
以上述べた範囲において、記者の結論は確実であり、あるいは、それにちかいものがあるとみる根拠がある。それが記者の観察した全貌であるが、これだけ判明すれば、事件の解決にはじゅうぶんと思われた。
この数ヵ条の結論を裏づけるために、記者はジョン・マーロウ氏について、氏自身および他の人々から聞きえた関連性のある事実を、おなじ順序によって示してみるとしよう――
[#ここから1字下げ]
(1)かれはほぼ四年のあいだ、故マンダーソン氏の秘書をつとめ、いたって親密な関係であった。
(2)かれとマンダーソンとは、身長がほぼ五フィート十一インチ程度で、からだつきはともにいかつく、肩幅も同様に広かった。マンダーソンはりっぱな体躯の持ち主だが、マーロウは二十ほど年下で、やや肉づきがうすかった。マーロウの靴はマンダーソンのそれより(記者は数足調べてみたが)、長さも幅も、おおよそひとサイズ大きかった。
(3)記者は、調査を開始した日の午後、前述の結論に到達してから、オックスフォード大学の同窓生で、演劇に趣味をもつ友人に、つぎのような電報を打った。
≪約十年前、オックスフォード大学に在学せるジョン・マーロウの演劇活動に関する記録を、至急、内密にお知らせ乞う≫
記者の友人は、翌朝(検死審の日の朝)の返電で、つぎのように知らせてきた。
≪マーロウは三年間、オックスフォード大学演劇研究会の会員たりしことあり、その後同会を主宰し、バードルフ〔シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」の登場人物〕、クリーオン〔同「ペリクリーズ」の登場人物〕、マーキューショー〔同「ロミオとジュリエット」の登場人物〕を演じて、卓抜なる性格演技を示す。パーティ等に、物真似で喝采を博し、剽軽《ひょうきん》なる人気者たりしことは、いまだに記憶に新たなるものあり≫
記者が電報を打ち、この貴重な返事を受けとるにいたった契機は、マーロウの個室のマントルピースの上に、フォルスタッフ〔シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」の登場人物〕の三人の従者に扮《ふん》したマーロウ自身を含む三者の写真を見たからであり、その写真には「ウインザーの陽気な女房たち」の題字がしるされ、オックスフォードの写真屋の名前も印刷されていたのであった。
(4)マンダーソンの下に働いているあいだ、マーロウは家族の一員として扱われてきた。したがって、召使たち以外には、かれこそ、もっともマンダーソン夫妻の家庭生活を、詳細にわたって知りえた者であった。
(5)記者はマーロウが、月曜日の朝六時三十分に、サウサンプトンのあるホテルに到着した確証をもっている。そして、マーロウ自身の話、および偽のマンダーソンが、夫人に寝室で語ったところによれば、マーロウはその地で、マンダーソンから依嘱された仕事にとりかかった。かくてかれは、車でふたたび、マールストンにもどり、殺人のニュースを聞き、ことのほか驚愕《きょうがく》し、ショックを示した。
[#ここで字下げ終わり]
以上が、マーロウに関する重要な事実である。われわれはここで、偽のマンダーソンについての結論第五号と関連させて、最後の第五号の該当事実を検討しなければならない。
まず、一個の重要なる事実に注意をはらわれたい。それは、≪車で出かける前に、マンダーソンがサウサンプトンのことを口にしたのを聞いたと証言するのは、マーロウひとり≫ということである。ふたりが話しあっていたことは、その一部を、偶然執事が耳にしていたことから、ある程度確証することができる。そして、マーロウの説明では、その旅行は出発にさきだって、あらかじめ両者のあいだに打ち合わせがすんでいたことになっているのだが、記者がマーロウに、なぜマンダーソンは、マーロウと月下のドライヴに出かけるといいたてて、本来の意図をかくさねばならなかったかと、その理由の説明を求めたとき、かれは黙して答えようとしなかった。しかし、この点は当初、記者の注意をひかなかった。マーロウは朝の六時三十分に、サウサンプトンにいたという事実で、完璧なアリバイをもっていたからである。執事のマーティンがベッドにはいったのが十二時三十分、それ以後に行なわれたと推定される殺人に、マーロウが関係していようとは、記者はもちろん、だれひとりとして考えてみなかった。ところが、不思議なことに、マンダーソンと目《もく》される人物は、ドライヴから帰ってくると、わざわざふたりの相手に対して、サウサンプトンの件を語り出している。しかもかれは、≪サウサンプトンのホテルを電話で呼び出して、マーロウがかれの用事で出むいたことを裏づける問い合わせまで行なっている≫のである。マーティンが書斎にいるあいだ、かれがせわしそうにかけていたのは、こうした電話であったのだ。
さて、つぎはマーロウのアリバイであるが、もしマンダーソンが、その邸内にいて、十二時三十分すぎまで外出しなかったとすると、マーロウがみずから手を下して殺人を犯したとは考えることができない。マールストンとサウサンプトンとのあいだの距離を考えれば、その点は明白であろう。マーロウがマンダーソンの用務をおびて、マールストンを車で出発したと思われている時刻が、十時から十時三十分のあいだにまちがいなければ、所定の時刻に目的地へ到着することは易々《いい》たるものである。しかし、四気筒十五馬力のノーザンバーランドなる中級車では、少なくともマールストンを十二時までに出発しないかぎり、六時三十分にサウサンプトンに到着することは不可能であろう。
以上は記者が、その日、マンダーソンの書斎で調査した結果であるが、自動車旅行に馴れている者であれば、ちょっと地図を参照して計算しただけで、上述の外見的事実より見て、なんらマーロウに嫌疑をかける余地のないことをみとめることになろう。
しかし、かりに事実が、外見どおりでなく、マンダーソンの殺害されたのは十一時以前であり、問題の時刻に、マーロウはマンダーソンに変装し、ホワイト・ゲイブルズ荘にふたたび姿をあらわし、マンダーソンの寝室へはいりこんでいたとすれば、マーロウが翌朝、サウサンプトンに到着していたという事実と合致しないことになる。それを合致させるには、≪マーロウはだれにも見られず、物音も聞かれぬようにして、十二時以前に邸を出て、車を目的地にむけて走らせていなければならない≫。そして、耳ざといマーティンは、電話のベルが鳴るのを待って、十二時三十分までドアをあけたまま、調膳室をはなれなかった。それはちょうど、寝室のある二階からの唯一の降り口、階段の下に見張りをしていたにひとしい。
この難問題を考えながら、本特派員の調査は最後の重大局面に到達した。上述した諸点をはっきり頭において、検死審の前日の残りの時間を、記者は多くの人々の話を聞き、推理の結果をひとつずつ照合し、研究してすごした。記者の考えの弱点のひとつは、マーティンが十二時三十分まで起きていたという確証がないことにあった。マーティンにその時刻まで起きているように命じたことは、おそらくマーロウが、自己のアリバイを決定的にしょうとする計画の一部であると思われた。もしこの推理が正しければ、かならずやどこかに、それを破りうるだけの鍵があるにちがいない。もし、その鍵が見当たらぬとなると、記者の推理はなんら価値のないものとなってしまうであろう。マーティンがベッドにはいったころには、マンダーソンの寝室にはいりこんでいた男は、サウサンプトンにむかって、数マイルの先を走っていたことを示さねばならない。
しかし、いままで述べてきた事実が、はっきりと頭にはいっている読者は、すでにお気づきのことと考えるが、記者にしても、偽のマンダーソンは、いかにして十二時以前に邸を抜け出したかという謎について、かなりはやくから確実性のある判断を下していた。だが、記者はそれをだれにも知らさなかった。それをたしかめるための調査を行っているところを見られれば、だれに嫌疑をかけているかが悟られてしまうからであった。その点を考えて、この調査を翌日までのばし、検死審がひらかれているあいだに決行することにきめた。検死審はホテルでひらかれ、マンダーソン家の主な人々は出廷するにきまっていたので、だれの妨害も受けずに、ホワイト・ゲイブルズ荘を独占することができると考えたからである。
事実、記者の予想どおりだった。ホテルで検死審がはじまった時刻に、記者はホワイト・ゲイブルズ荘で、調査に熱中していた。記者は手もとに、カメラの用意がしてあった。警察ではすでに、一般的に使用していたし、記者自身もしばしば用いている原理にもとづき、確実な証拠を求めたのである。
捜査状況の説明は省略して、発見し、写真に撮影したものについて、単刀直入に述べることにすると、マンダーソンの寝室にある箪笥の最上段右側の、よく磨かれた引出しの正面から、真新しい二個の指紋を採《と》った。マンダーソン夫人の部屋の窓ガラスでは、かなり古い数多くの指紋のうちに、新しい五個の指紋を採取することができた。そのフランス窓は、夜間はつねにあけ放してあり、窓の前にはカーテンがひいてあったようである。さらに、マンダーソンの義歯が入れてあったガラス製フィンガー・ボールの上にも、三個の指紋を発見することができた。
記者はその小鉢を、ホワイト・ゲイブルズ荘からもち帰った。そのほか、平常使用している化粧道具の類には、はっきりした指紋が数多くついているものなので、マーロウの寝室から、二、三の品をえらんでもち出した。なおその以前に、ポケット日記帳から切りとった紙片に、マーロウの鮮明な指紋を採っておいた。かれにその紙片を見せ、見覚えがないかときくことによって、それと意識させずに採取したのである。そのときかれは、数秒問、それを指ではさんでもっていたので、明瞭な指紋を残し、後刻、本特派員はそれを検出することができた次第なのだ。
陪審員が、ひとりないし数名による他殺事件と答申してから、二時間のちの夕刻六時ごろには、記者の調査はほとんど終了していた。そして、窓ガラスにあった五個の指紋のうちの二個と、フィンガー・ボールについた三個の指紋は、ともにマーロウの左手のものであり、窓ガラス上の残りの三個と、引出しに発見した二個は、おなじくかれの右手によってつけられたものであることが確証できる状態になった。
八時に記者は、ビショツプスブリッジの写真師H・T・コパー氏の設備を借り受け、氏の助力をえて、マーロウの指紋の拡大写真を一ダースほど作成した。これらの写真は、マーロウが記者の眼前で、それと気づかずに捺《お》した指紋、ないしはその寝室の品の上に残した指紋と、まったく合致することを明瞭に示していた。
こうして、マーロウが用事のないはずのマンダーソンの寝室へ、最近はいりこんだ事実があること、その寝室以上に用のないはずのマンダーソン夫人の寝室へもはいっていたことを確認したのであった。この記事が発表されるときには、この指紋写真も、同時に発表されることを希望するものである。
九時に、記者はホテルの自室にもどって、この原稿を書きはじめた。記者の推論は、なんらの疑点も残らぬ完全無欠なものとなっていた。
本特派員は、なおつけくわえて、つぎのような推論を提示することによって、本事件の捜査に終止符を打ちたいと考える。殺人の行なわれた夜、マンダーソンに変装した人物は、マンダーソンの寝室にいて、夫人に対し、マーティンに語ったとおなじに、マーロウは現在、サウサンプトンにむかっている途中だと話し、そのほか必要な処理をすますと、明りを消した。
そして、服のまま、ベッドに横たわり、マンダーソン夫人が眠りついたことをたしかめるまで待機した。やがて、起きあがると、死体に着せるための服や靴を腕にかかえ、靴下のまま、マンダーソン夫人の寝室を抜けて、カーテンのうしろへはいりこみ、窓の扉を手ですこし押しあけた。そして、バルコニーの鉄の手すりをまたぎ、芝生から数フィートしか離れていないところまでぶらさがった。
以上すべてのことを、かれはマンダーソンの寝室へはいってから、わずか三十分のあいだに、巧妙にやりおえたのである。かれが寝室へはいりこんだ時刻は、マーティンの証言を参照にすると、十一時三十分となるのであった。
その後の経緯は、読者ならびに警察当局においてご推測ねがいたい。翌朝、相当だらしない恰好で服をまとっている死体が発見され、マーロウは六時三十分、車でサウサンプトンに姿をあらわしたというしだいである。
小生はマールストンのホテルの一室で、この原稿を書きおえるところであります。時刻は午前四時。正午のビショップスブリッジ発の列車で、ロンドンヘもどり、到着しだい、すぐにお手もとまで、この原稿をお届けするつもりでおります。この内容を、警視庁犯罪捜査課までご連絡いただければ幸甚であります。
フィリップ・トレント
[#改ページ]
一二 悩みの日々
「マンダーソン事件担当の報酬として、お送りいただいた小切手、返送いたします」
トレントは≪レコード≫新聞社に、事件についての簡単な記事を書き送って、あまりおもしろくもない結末をつけると、その足でミュンヘンを訪れた。そこから、ジェイムズ・モロイ卿あてに送った手紙がこれである。
「ぼくの原稿は、ご送付いただいた報酬の十分の一の価値もありません。これはぼく個人の考えにすぎませんので、その理由は問わないでいただきたいのですが、こんどの仕事については、いっさい報酬を受けとるまいと考えているのです。そうでなければ、この小切手は、よろこんでちょうだいしていたことでありましょう。ご面倒でなければ、お届けした原稿は、通常どおり、一行いくらの計算をしていただいて、その金額全部を、どこかの慈善団体へ寄付していただくことも結構です。ただし、弱い者いじめを慈善と心得ている施設はお避けねがいましょう。
ぼくがこの地へきましたのは、二、三の旧友に会って、自分の考えを整理したいと思ってのことですが、なによりさきに、ぼくの頭にうかぶのは、しばらくのあいだは、しかし、なにか熱中できる仕事と取り組みたいということです。目下のところ、画筆をとる気持にはなれません。垣根ひとつ描けそうもないのです。貴社の特派員として、どこかへ派遣していただければしあわせです。冒険が必要な仕事こそありがたく、かならず興味ある原稿をお目にかけられると信じております。一度、そうしたうえで、はじめて落ちつきをとりもどし、絵の描けるような心境にもどれると思うのです」
ジェイムズ卿からは、即刻、クールランドとリヴォニア〔どちらもバルト三国の地方名〕へ出張せよと指示する電報が到着した。そこでは、革命軍の指導者がふたたび亡命して、都市といわず田園といわず、暴動の機運が、日夜、燃えあがりつつあった。トレントにとっては、各地を転々としなければならぬはげしい仕事だった。二ヵ月のあいだ、運命の命ずるままに、各地を歩きまわったが、運命はかならずしも、以前ほど苛酷《かこく》なものではなかった。ドラギレフ将軍がヴォルマールの街頭で、十八歳の少女に射殺されたが、それを目撃した新聞記者は、かれひとりだった。しかし、焼打ち、死刑、銃殺、絞首刑と、悪政がもたらした愚劣な結果を見せつけられているうちに、かれはまたしても、新たな嫌悪で、胸のわるくなるおもいを味わわされた。幾夜となく、危険には身をさらして眠ったことがあり、食物をとらぬことも、何日かつづいた。そのあいだもかれは、しょせんはむくいられぬ恋と知りながら、相手の女性の顔が、昼夜をわかたず、瞼《まぶた》の上に思いうかぶのだった。
かれはしかし、果てしもなくつづく、このつよい想いに、悲しい誇りさえ感じていた。かれはそれに、ひとつの現象として興味を感じ、むしろ驚異の眼をもって眺め、それによって、ふかく啓発されもした。こうしたことは、かれには経験のないことだった。他人の経験を見聞して、漠然と感じていたことを、ここにはっきりたしかめ得たわけであった。三十二歳のかれとしては、恋愛感情を知らなかったということはできない。ただ、それについてのかれの知識は、自分から求め、苦労して体得したものでないために、たえがたい思い出をともなうものでなかっただけである。異性への恋情が、現実に破れ去ったいまになっても、かれは愛情の不可思議に思いまどっているのだった。これまではむしろ、女性のよわさに対しては、奇妙な敬意をはらい、女性のある種のつよさに対しては、単純に恐怖の念をいだいて、現在、自分の情熱は胸の奥ふかく眠っているが、いつか呼びさまされて、求められることがなくても、時さえ得れば、叫び声を高らかにあげるにちがいないと、おぼろげのうちに信じこんでいたのだった。
しかし、その時は得たか、これがこのような不運なかたちをとってあらわれるとは、夢にも考えていなかった。メイベル・マンダーソンヘの愛慕の情について、かれ自身意外に感じている点がふたつあった。そのひとつは、突如としてそれが、気でも狂ったかのように燃えあがったことであり、いまひとつは、その恋の果てしない絶望感だった。この感情が起こるまでは、失恋の傷手に悩みつづけるなど、あまりに子供らしい、男子らしからぬ感傷と、一笑にふしていたものだが、いまや痛切に、そのあやまりを思い知らされた。そしてそれに気づいただけに、なおさらはげしい悲痛に明け暮れするのだった。
幻として、かれの眼前に浮かぶ夫人の姿は、はじめて彼女を見たときのそれだった――彼女に気づかれずに、崖ふちを通りすぎたとき、かれの眼を捉えた彼女の身ぶりだった。それは、夫を失なったことが、苦しみからの解放を意味していることを、言葉よりもなおあきらかに示していた。新しい自由をつかんだよろこびを、燃えあがる情熱にあらわしているのだった。そして、またその身ぶりは、かれが当初から抱いていた不安、彼女の夫の死は、彼女を愛する男との幸福な生活へ送りこむ旅券となるのではないかとの疑惑を、決定的に裏づけるものだった。いつからそういう疑惑をもちはじめたかは、かれ自身にも判然としなかったが、その種はおそらく、最初にマーロウに出会ったときにまかれたものと思われた。あの長身の有年の容貌と態度に、はっきりと感じられる気品が、不安定な気持にある女性に、つよい魅力をあたえたことは疑いない。トレントの心は、自動的に、その間の消息を読みとったのであった。そしてそれに、カプルズ氏がマンダーソンの結婚生活について語ったことがむすびついて、知らず知らずのうちに、かれの心の奥ふかく、こうした疑いを形づくっていたにちがいなかった。
殺人者の正体を看破しおわって、その犯罪の動機をさぐりだす段階に移ったとき、それはすでに、動かしがたい事実として、かれの心に焼きついていたことはたしかである。動機、動機! マーロウが、自分とおなじに、はげしい恋情にとりつかれ、おそらくは人妻の不幸を見るにしのびず、もっとも罪ぶかいボズウェル〔スコットランドの女王メアリーの夫を暗殺し、メアリーと結婚した〕のひそみにならったのではないかという推理は、極力避けたいと思った。そこでトレントは、ほかに動機をさがし求めたが、ついに、それ以外には考えつくことができなかった。いかに調査をつづけても、また、その後もたえず考えぬいたが、マーロウをそのような行為に駆りたてた動機は、それ以外には発見できなかったのだ。それがどれほどのはげしさをもっていたかは、もとよりかれの知るところではなかったが、かくまでつよい動機としては、≪恋情≫以外には考えられぬのであった。
ためらいを知らぬ大胆な精神に、恋情が圧力をおよぼしたとき、そのはげしさは想像を越えるものがあると考えられる。トレントの判断が正しいとすれば、この青年は気が狂っているわけではなく、生まれついての悪人というべきでもなかった。しかし、それだからといって、かれの犯した罪が消え去るわけではない。女のために、殺人の罪を犯すことは、さしてめずらしいものとはいえない。現代のなに不自由のない人たちのあいだでは、必然的に衝動性が減退し、さらにまた近代的な犯罪捜査技術が高く評価されている関係もあって、こうした犯罪が実行されることは、めずらしい現象になったが、だからといって、不可能になったというわけではない。このような犯罪を計画し実行するには、魅惑的な情事の息吹《いぶ》きに麻痺した魂と、それにくわえて大胆さと知力とをそなえておれば、こと足りるといえるのであった。
そしてまた、メイベル・マンダーソン自身も、その夫の生命を危くする計画がすすめられていたことを、じゅうぶんに知りぬいていたという考えも否定できない。このおそろしい推論を、トレントは苦悩に打ちひしがれながらも、何回となく打ち破ろうと努力した。殺人が行なわれたあとで、彼女が真相を知ったことは疑う余地がない。かれが突然、非情な態度で、マーロウとの関係を質問したとき、彼女がかれの眼前に泣きくずれた姿は、いまだに忘れることのできぬものであり、彼女とマーロウのあいだに、恋愛関係が存在しないことをねがっていたかれの最後の期待も、それによって無残にも打ちくだかれていたのだった。しかし、それは一方に、かれが発見した怖るべき結論を、いっそう確実にするものとも思われた。とにかく彼女は、かれがおいてきた新聞記事用の草稿を読んで、すべての真相を知ったはずである。あれ以来、マーロウ自身に、なんら嫌疑《けんぎ》がかけられた様子もないところをみると、彼女はかれの原稿を読んだあと、破棄《はき》してしまったものと思われる。おそらくは彼女の愛人を絞首台におくる秘密は、絶対に口外しないというかれの言葉を信じているのであろう。
しかし、彼女は殺人計画が熟していることを知りなから、罪ふかくも沈黙をまもっていたのではないか――そういう怖ろしい考えが、いかに消し去ろうとしても、トレントの心をはなれなかった。あるいは、何事かが起こるのを、うすうす、予感として受けとっていたのかもしれないが、あるいはまた、計画のすべてを知っていて、見て見ぬふりをしていたとも考えられる。とにかく、マーロウの犯罪の動機を、かれがはじめて疑いだしたのは、マーロウが外へ逃がれ出たのは、夫人の寝室を通りぬけることによってだという事実に思いあたってからであった。これだけはどうしても、記憶の外に捨て去ることはできなかった。彼女と顔をあわさぬ前は、両者ともに同罪であり、共犯者であるという考えに陥りがちだった。かれが心のうちに描いていた彼女は、猫のように愛憎がはげしく、無慈悲で、しかも、気ちがいじみた犯罪|教唆《きょうさ》者であり、おそらくはその犯罪における主要人物のひとり、激情に溺れる典型的なヒステリー患者であったのだ。
ところが、その後彼女に出会い、彼女と言葉をかわし、疲れた彼女を介抱してからは、こうした疑いこそ、もっとも破廉恥《はれんち》な考えであると、痛切に感じだしてきたのであった。かれは彼女の眼を見、口を見、その雰囲気に接した。元来トレントは、人間のもつ雰囲気から、悪い本性を嗅ぎとることができると、自信をもって考えている種類の男だった。そして、彼女を眼の前に見て、非常に善良な心をもった女性であることを、内心ふかく感じとったのだ。その感じは、あの日、彼女が断崖の上で、愛情に飢え、母性の本能にめざめることもなくすごした数ヵ年の束縛から、はじめて自由をかちえたよろこびにひたっている姿と、いささかも矛盾するものではなかった。彼女が愛情に満ちたりぬままに、マーロウに心をむけたことも、当然ありうることと考えはしたが、しかし、男の凶悪な目的まで知っていたとは、かれにはとうてい信じることができなかった。
だが、その忌《い》むべき疑惑は、昼夜の差別なくかれの心を去来して、マーロウが被害者の寝室で、いろいろと工作をつづけたことは、彼女の眼の前でしていたようなものであり、かれが邸から脱出したのも、彼女の寝室の窓からであったという考えを抑えきるわけにいかなかった。マーロウはそのとき、精緻《せいち》周到な計画の枠をはずして、つい彼女に、その意図をもらしてしまったのではなかろうか? それとも、――トレントはこのほうが、より可能性のつよいものと考えたが――彼女をうまく欺《あざむ》いて、彼女の眠っているあいだに、部屋を抜け出したのであろうか? 検死審での証言の模様を聞いても、彼女はマーロウが変装していた事実を知っていたとは考えられない。証言の内容は、あとからくりかえして読んでみたが、そこにみじんも嘘があるとは思われなかった。それともまた、あの美しい顔の彼女が――この疑問は、心のうちではさげすみながらも、いちがいに消し去ることができなかったのだが――ベッドの上に横たわりながら、部屋に足音がして、すべてはおわったとささやかれるのを、心待ちに待っていたのであろうか? およそ人間の心には、さまざまな不純な可能性がひそんでいるものであるが、善良で純真、しとやかそのものにみえる彼女の心の奥に、凶悪なまでの残酷さと欺瞞《ぎまん》とがかくされているとは、はたして考えられることであろうか?
かれはひとりになると、そうした疑惑に悩まされぬことはなかった。
かくてトレントは六ヵ月のあいだ、ジェイムズ卿のために、十二分の働きをみせて、それにふさわしい報酬をうけ、パリヘもどると、爽快な気分を回復して、ふたたび制作に熱中した。その精神には力がみなぎり、奇妙なほど雑多な組みあわせの人々にまじって、思った以上に、楽しい生活をはじめることができた。人種でいえばフランス人、イギリス人、アメリカ人。職業を見れば、画家、詩人、ジャーナリスト、警察官、ホテルの支配人、軍人、弁護士、実業家、ありとあらゆる種類の人々が相手だった。友人に対して、親しみと同時に興味をいだくかれの性格が、学生時代とおなじに、イギリス人にはめったにあたえられることのない特権をわがものとして、フランス人の家庭で、家族同様に歓待されるというめずらしい経験を味わうことができた。≪若人たち≫からも、心からの信頼を寄せられて、かれら若者たちが、遠く過ぎ去った十年前の自分のように、芸術と人生の秘密を、驚異の眼をみはって眺めていることを発見した。
フランス人の家庭にはいると、壁紙の模様から調度類の型にいたるまで、むかし見たものと変わらなかった。しかし、現在の≪若人たち≫には、遺憾ながら先輩たちとは、大きく異なるところがあった。浅薄で幼稚、才気などはみじんも感じられず、かれらが宇宙から学びとった秘密なるものも、往時の≪若人たち≫が学びえた秘密にくらべれば、重要さの点でも、興味の点でも、いちじるしく劣ることが否《いな》めなかった。
トレントはこうした事実を見てとって、悲しいことと感じていた。ある日、レストランで、恵まれた生活を送っているために、一見しただけではそれとわからぬが、おそらくはかれと同時代に、≪若人たち≫のひとりであったと思われる肥満した男と同席した。そしてそれ以来、かれのものの見方は一変した。この男は若い時代に、三、四人の仲間とともに、みずから称して、≪新パルナサスの隠者≫〔高踏派詩人の意〕と名乗っていた。その一派は、習俗を打ち破ることをモットーとして、詩人らしくもなく、街頭のカフェその他で、議論を闘わすことに熱中していたものである。その主張としては、詩の自由性を強調しているのだった。この≪新パルナサスの隠者≫が、いまは内務省の役人におさまって、勲章まで授与されているというのである。かれはトレントにむかって、フランスにとって、目下もっとも必要なことは、鉄の手による強権政治であるという意見を、とうとうと表明して、トレントにはまったく初耳だったが、この国のある裏切り行為に対して支払われた金額を、正確に述べ立てたりするのだった。
こうしてトレントは、変わってしまったのは自分自身と、官吏になった友人たちであって、若いジェネレイションは、いまもむかしも、変わるところがないのだという、旧態依然たる事実を見せつけられる羽目に陥った。しかもかれには、なにを失なったために、こうまでも重大な変化が自分に訪れたか、その理由をはっきりいいあらわすことができなかった。失なったものは高邁《こうまい》な精神といった単純なものではない。してみると、それはいったい、なんであろうか?
六月のある朝、マルティール街の坂を降りて行くと、その途中で、見おぼえのある人物が近づいてくるのに気がついた。それはバナー氏だったが、ここでまた会うのは願わしくないと考えて、どこかかくれる場所はないかと、いそいでまわりをみまわした。このところ、かれはようやく、絵画の制作に没頭することができて、心の傷も癒《い》えかけているのを感じていた。恋しい女性の姿も、しだいに念頭に浮かばなくなり、苦痛もそれにつれて、弱まりつつあった。かれとしては、あの三日間のにがい思い出を、ここでふたたび、憶《おも》いだしたくはなかったのだ。
だが、道はまっすぐで狭く、身をかくす場所とても見当たらなかった。そのうえ、アメリカ人のほうも、すぐにかれが降りてくることに気づいてしまったのだ。
トレントは、バナー氏の自然な、あたたかい態度を見て、おのれ自身が恥ずかしくなった。かれは以前から、このバナー氏が好きだった。ふたりは食事をともにしながら、長時間話しあった。バナー氏が、もっぱらしゃべるほうを受けもった。トレントはその話に耳をかたむけているうちに、いつかつりこまれて、心から楽しいものを味わい、ときどき質問をくわえたり、意見をのべたりするのだった。そのアメリカ人といっしょにいることが楽しいばかりでなく、つぎつぎと、びっくりするような言葉がとび出してくる話しぶりそのものが愉快だった。
バナー氏の話によると、かれはマンダーソン商会のヨーロッパ方面の責任者として、当分のあいだ、パリに在住することになったそうで、自分の立場と将来について、満足しているという話を、二十分にもわたってまくしたてた。その話題も、やっとおわりに近づいたとみて、トレントはここ一年ほど、イギリスをはなれていたことを説明して聞かすと、バナー氏はつづいて、マーロウがマンダーソンの死後、すぐにその父の事業に加入して、それをいっそう隆盛にもちこみ、その功績によって、実際上の実権をにぎるにいたったことを語った。バナーとマーロウのふたりは、以来ずっと親しい交際をつづけて、この夏にしても、ともに休暇を楽しむ計画を立てているというのだった。バナー氏はマーロウの事業に対する才腕を、熱心にほめたたえた。
「ジャック・マーロウは、生まれついて頭がいいんですな。あれで、もうすこし経験をつんだら、とてもぼくなんか、足もとにもよれなくなりますね。しょっちゅういじめられていることになりそうですよ」
バナー氏の話が、流れるようにつづけられるのに、トレントはじっと耳をかたむけながら、しだいに不安を感じだした。事件についてのかれの推理は、どこか大きなあやまりがあったのではないか? そうした疑惑が、徐々に浮かびあがってきたからである。バナー氏の話には、肝心の中心人物が出てこなかった。しかし、まもなくバナー氏は、マーロウがアイルランド娘と婚約したことを告げ、その娘の魅力を、心から熱烈にほめたたえるのだった。トレントはテーブルの下で、手をにぎりしめた。いったい、どうしたというのだろうか? かれの考えは動揺しはじめた。そしてついに、心ならずも、夫人の名を出して、あからさまに質問してしまった。
あいにくバナー氏は、夫人のこととなると、くわしくは知らなかった。しかし、マンダーソン夫人は夫の事件が片づくと、すぐイギリスを去って、しばらくイタリアで生活していた程度のことは話してくれた。つい最近、ロンドンヘもどってきたが、メイフェアの邸には住もうともせず、ハンプステッドの近くに、やや小さい家を買った。また、どこか田舎のほうにも、別に一軒買ったようであるか、社交界には、ほとんど出入りしていない様子だと語った。
「そして、あの莫大な資産を使ってくれる男を、あくびをしながら待っているそうです」とバナー氏は、哀調をおびた声でつけくわえた。「いいえ、ほんとうですよ。燃やしてもよいほどの金をもち、鳥に食わしてもいいほど資産をもっていながら、なにもしようともしないのです。マンダーソンは、財産の半分以上を、彼女のために遺したのです。その金を利用すれば、どれだけ彼女が、世間的に名をあげられるか、考えるまでもありますまい。美しいことも美しいが、あらゆる点で、あのようにすばらしい女性に、ぼくはこれまで、会ったこともありませんよ。しかし、彼女はどうやら、金の正しい使用方法を身につけないでおわりそうですね」
バナー氏の話は、いまやひとりごとに変わってしまった。トレントはもの思いに熱中して、そればかりに神経をあつめてしまったからである。トレントは間もなく、仕事があるからといいだして、ふたりは気持よく別れた。その三十分後、トレントは仕事場にもどったが、心ここにあらずといった顔つきで、いそいで荷物をまとめはじめた。かれは夫人と別れて以来、彼女の身にどういうことが起こっているかを知りたかった。なんとしてでも、それを見出ださねばいられぬ気持だったのだ。といって、かれから夫人に近づくわけにはいかなかった。最後に彼女と会ったとき、彼女にあたえた恥辱を思い出させたくなかったからで、夫人を遠くから眺めることさえ、かれとしては、気がひけるくらいだった。しかし、真相はあくまでもたしかめねばならない! ……カプルズ氏はロンドンにいるし、マーロウもまた、そこにいる……それに、いずれにせよ、このパリにも飽きがきているのだった。
こうした考えが、かれの心に去来したが、その考えの底には、かれの心を、無慈悲にもひきずりまわす、眼に見えぬ絆《きずな》が存在しているのを否定することができない。いかに無視しようとしても、いよいよひきずられる自分を呪うばかりだった。愚かなことだ、無益なことだ、なんというおれはばか者なのだ!
その後、二十四時間とたたぬうちに、かれのパリでの生活は、その脆弱《ぜいじゃく》な根をたちきられていた。かれははやくも、鉛色の海のむこうに、城壁のように白くきらめくドーヴァーの断崖を眺めているのだった。
その心に湧き起こったさまざまの衝動のうちから、かれは自分のすすむべき道を本能的に選び出してはいたが、あいにくとそれが、第一歩からつまずく羽目になってしまった。
かれは最初、バナー氏以上にその間の事情を知っているはずのカプルズ氏に会おうと決心した。しかし、カプルズ氏は旅行に出かけていて、あと一ヵ月は帰りそうにもないとのことだった。そうかといって、カプルズ氏の帰京をいそがせる適当な理由が見出せなかった。マーロウには、少なくとも実情の調査がすむまでは会わぬほうがよいと思った。そしてまたかれば、ハンプステッドまで出かけて行って、マンダーソン夫人の邸をさがし求めるといった、愚かしくも気恥ずかしい真似だけは、絶対に避けようと決心していた。邸にはいることはできないだろうし、その近所をこそこそ嗅ぎまわっていて、彼女の眼に触れたときのことを考えると、からだ中の血が顔へのぼってくるおもいがするのである。
まずホテルに落ちついて、スタジオをさがした。そこで、カプルズ氏が帰るまで、制作に没頭しようという計画だったが、それもけっきょく徒労におわった。
それから一週間ほどすぎた週末に、かれはある思いつきが頭に浮かんだので、さっそくそれを実行に移した。夫人はかれと最後に会ったときに、音楽に趣味をもっているという言葉を、ふともらしたことがあった。トレントはその夜から、定期的にオペラに通いはじめた。いつか夫人を見かけるかもしれない、自分自身は見つからぬようにしているつもりだが、あるいはかれの不注意から、夫人の眼に触れることがあるかもしれないが、たがいに相手に気づかないふりもできよう――だれだって、たまたまオペラで顔をあわせたところで、不自然とはいえないからだ。
その後は毎夜、かれひとりでオペラへ出かけ、入口のあたり、人の群がっているところは、できるだけすばやく通りぬけることにした。そして、毎夜、彼女が劇場にきていないことをたしかめて帰ってくる結果になった。そのような習慣が、彼女をさがし求めているという、やましさを押し殺すわけにはいかなかったが、一種の満足感はあたえてくれた。かれもまた、音楽を愛好していて、その魅力にひたっているあいだは、心の安らぎを感じることができたからであった。
ある夜、きらびやかな人たちのあいだを縫って、いそぎ足に劇場内へはいって行くと、だれかがかれの手に触れるのを感じた。その触感に、不思議な確信をみなぎらせて、かれはうしろをふりむいた。
彼女だった。悲しみや不安は、いつか消え失せ、やさしいほほえみをうかべ、イヴニング・ドレスの魅力につつまれて、以前にましてあでやかになった彼女が、かれの眼の前に立っていた。かれは口もきけぬ思いだった。彼女もまた、すこし、息をはずませていたが、あいさつをしたときに彼女の眼と頬には、なにか大胆なきらめきが浮かんでいた。
彼女はみじかい言葉でいった。
「トリスタンは、ちょっとでも聞きもらしたくありませんの。あなたもきっとそうですわね。幕間に、わたくしのところまで、おいでいただけません?」
そして彼女は、自分のボックスの番号を、かれに教えた。
[#改ページ]
一三 激発
その後の二カ月間、トレントの人生は、思い出しても身ぶるいが出るようないやな感じのものだった。その後、マンダーソン夫人とは六回ほど顔をあわせたが、そのたびに彼女は、いわば≪冷やかな≫親愛の情といったものを示していた。つまり、ただの知人というわけでもなく、といって、親密さが増してきたというのでもなく、その中間を行くような、いかにも計算しましたといった態度が、かれを悩まし、苦しめぬいた。そして、いっそう意外だったことには、ある夜彼女は、かれが少年時代から知っている、元気のよい老婦人ウォーリス夫人といっしょだったのだ。マンダーソン夫人は、イタリアから帰国したあとのことらしいが、どういうわけか、トレントの古くからの知人たちと交際するようになっていた。彼女の説明によると、その人たちが網を張っている土地に、住居をかまえることになったからだそうだ。そういえば、トレントの友人のうちで、彼女の家のすぐそばに住んでいるものが、数人はいたのだった。
その後、いつまでもトレントの記憶に、かすかではあるが、気恥ずかしい影を残したことであるが、その夜のオペラ劇場におけるかれは、いつになくとり乱して、落ちつきを失ない、顔を赤らめ、バルチック地方での冒険談を、ばかのようにしゃべりちらし、ふと気がつくと、ウォーリス夫人にばかり話しかけているので、ますます狼狽の色をふかくするのだった。相手の夫人のほうは、最初の出会いに示したかすかな興奮は素振りにも見せず、ほがらかにかれにむかって、海外旅行や、ロンドンでの新居の話、そのほか、ふたりが共通にもつことになった知人のだれかれについて語りつづけるのだった。
トレントはオペラの後半を婦人たちのボックスで聞いた。マンダーソン夫人の横顔と濃い頭髪、肩から腕にかけての線と、クッションの上においた手のほかは、なにひとつ眼にはいってはこなかった。漆黒《しっこく》の髪を見ていると、それはしだいに、かれを運命的な冒険に誘いこむ、出口もなく、奥行きも知れぬ魅惑的な森林のように思われてくるのだった……そして、劇場のはねるころには、かれは顔色も青ざめ、疲れきって、あいさつもそこそこに、あっけなく夫人たちと別れてしまった。
そのつぎに彼女に出会ったのは、ふたりとも招待されて、ある知人の別荘へ行ったときだった。そのときのかれは、できるだけ気持をおさえて、彼女の態度に調子をあわせるだけのことにして、つとめて上品にふるまうように気を配った。
ひとつおもいに悩みながら、かれは困惑と、自責と、思慕とに苦しめられ、その日その日を送っていた。というのも、彼女の態度が理解できなかったからだ。彼女がかれの原稿を読み、ホワイト・ゲイブルズ荘での最後の質問によって、かれが暗に示した疑惑を悟っていないとは考えられなかった。それなのに、どうして彼女は、なんの害もあたえたことのない男に対すると同様に、こうまでも親しみぶかく、うちとけた態度でつきあえるのであろうか?
要するに彼女は、表面的にはそれらしい素振りも見せなかったが、あの事件以来、相当心に手傷をうけていることを、トレントは直観的に感じとっていた。ふたりきりで話をする機会はめったになく、まれに、わずかの時間、そうしたチャンスが訪れると、彼女はきまって、この話題をきりだそうとするので、かれのほうが、問題に触れるのを怖れて、わざと話題を変えてしまうのだった。この苦しみを解決するには、ふたつの方法が考えられるだけだった。そのひとつは、この国での仕事をすませしだい、即刻ロンドンを去って、遠くはなれた地へむかうことだった。こうした心の緊張は、かれにしても大きすぎる負担といえた。真実を追求したいという熱情も、いまや、まったくさめきっていた。事件の解決に大きな失敗をおかし、事態を完全に読みあやまり、彼女の涙をあやまって解釈し、人の名誉を傷つける愚かしい原稿を書いてしまったのではないかという疑惑が、しだいに心のなかに色をふかめ、もう一度調査しなおしてみるまでもなく、かれのあやまりは確実に感じられた。マーロウがマンダーソンを殺すにいたった動機も、いまさら考えてみる気もしなかった。カプルズ氏がロンドンヘもどってきたが、トレントは氏に会っても、なにひとつ、たずねようとしなかった。かれはいまになって、カプルズ氏の口から出た≪マンダーソンの妻でいるあいだは……夫を愛しておらんなどとは、口が裂けてもいう女ではない≫という言葉が、なるほどと思いあたるのだった。力をこめていわれたので、いまだにその言葉は、記憶に新しかった。ある夜かれは、カプルズ氏の墓場のようにがらんとした邸の晩餐によばれて、マンダーソン夫人に会った。しかし、その夜のかれは、ベルリンからきたある考古学者とばかり話しあっていた。
いまひとつの解決策は、彼女とふたりだけになるのを避けることだった。しかし、二、三日後、彼女から手紙を受けとった。その内容は、明日の午後、訪ねてきてほしいという招待だった。かれはそれを拒否する意図も見せなかった。これは正面きった挑戦状であったのだ。
彼女はまず、お茶を出し、そしてそのあと、しばらくは世間話に興じて、かれがやや熱をおびた調子で話しつづけるのに、気がるく合槌を打っているので、一度はかれをおいつめて、重大な用件をもち出すつもりでいたのを、途中で気をかえてしまったのかと、トレントはほっと胸を撫でおろすのだった。たしかに、いまの彼女の様子を見ると、事件にはなんの関心ももっていないように思われた。そのほほえみは、オペラ劇場で会った夜からこちら、ときどき感じることではあったが、ブラウンシュワイクの王女を評したつぎの言葉を思い出させた。≪その口もとは、はてしない魅力をもって心をときめかす≫と。
彼女はかれをもてなして、部屋じゅうを歩きまわり、所々の骨董商から求めた掘り出し物を、あれこれととりだしては、かれの前にならべ、それをさがし求め、発見し、値段の交渉をしたいきさつなど、笑いながら話してきかせた。そして、かれの希望に応じては、いつかよその邸で弾いたことのある、かれが愛しているピアノ曲を、もう一度、演奏したりするのだった。彼女のそれは、技巧のうえでも、感情のうえでも、完璧な演奏だった。トレントは前のときとおなじに、心から動かされた。
「あなたは生まれついての音楽家ですね」彼女が弾きおわって、最後の余韻が消え去ると、かれはしずかにいった。「それは、あなたのピアノを聞かせていただく前から、ぼくにはわかっておりました」
「わたくしは、ものごころついてから、ずっと弾いておりますのよ。これが何よりの楽しみですもの」
彼女は、なにげなくそういってから、微笑をうかべて、かれのほうへ上体をむけた。
「わたくしが音楽を好いておりますことが、どうしておわかりになりまして? ああ、そうでしたわね。オペラでお会いしたのでしたわね。ですけど、それでわたくし自身が、ピアノを弾くことがわかりますかしら?」
「いや、そんなことではないのです」かれはまだ、いま終ったばかりの曲に心を奪われたまま、ぼんやりと答えた。「はじめてお会いしたときからわかっておりました」
そういって、かれはその言葉の意味することに気がついて、一瞬、からだをこわばらせた。はじめてそのとき、過去が呼びもどされたのであった。
ちょっとの間、沈黙がつづいた。マンダーソン夫人はトレントを見やったが、またいそいで、視線をそらした。その頬が紅潮して、唇は、口笛でも吹いているようにすぼまった。そして、かれにも見おぼえのある、反抗するように肩をそびやかす動作を示すと、すっとピアノの前から立ちあがって、かれとむかいあった椅子に腰をおろした。
そして彼女は、靴の爪先に眼をやったままで、しずかな口調で語りだした。
「いいことをおっしゃっていただきましたので、わたくしの申しあげたかったことが、言いやすくなりましたわ。きょうあなたをお招きしたのも、じつはそのためでした。トレントさん、わたくし、もうがまんできなくなりましたの。ホワイト・ゲイブルズ荘でお別れして以来、あなたがあの事件で、どのようにわたくしのことをお考えになろうと、けっして気にするのではないと、自分自身にいいきかせてきました。あなたは、原稿を公表しない理由をおっしゃった以上、それをひとさまに口外なさる方でないことを信じていたからです。気にしなくてもよいのではないかと、自問自答してまいったわけです。でも、だからといって、気にしないわけにいかないことが、わたくしにはすぐわかりました。あまりにもおそろしい問題だからです。そして、あなたのお考えは、正しいものではなかったからです」
彼女は眼をあげて、冷静に、かれの眼をみつめた。トレントもまた、すこしの表情も動かさずに、彼女に視線をかえした。
「あなたというかたがわかるようになって」と、かれは答えた。「あのような考えを捨ててしまいました」
「ありがとうございます」
と、マンダーソン夫人はいった。そして、突然、ひどく顔を赤らめて、手袋をいじりながら、いい足した。
「でも、わたくしはあなたに、ほんとうのことを知っていただきたいと思いますの。もう一度、こうしてあなたに、お目にかかれるとは思ってもいませんでしたが」と、彼女は低い声でつづけた。「もしお会いできましたら、真相をお話ししなければならぬと考えておりました。ものわかりのよいあなたのことですから、お話しもしやすいですし、またわたくしにしたところで、すでに結婚した身で、若い娘とはちがいますので、必要があってお話ししなければならぬとなれば、さしてむずかしいことではないと思っていたのでした。でも、いざこうして、またお目にかかってみますと、そう簡単にきり出せるものでないことがわかりました。それも、あなたが話しにくくしておしまいになったのですわ」
「どうしてでしょうか?」
とトレントは、しずかにたずねた。
「さあ、わかりませんわ」と、夫人はいいかけて、「でも、そうですわ、わかりました。あなたがわたくしのことを、あんなふうに考えたり、想像なさったりしたことは、まるでなかったような態度をお見せになったからですわ。わたくしはお目にかかるまで、こんどお会いしたら、あなたはきっと、最後の質問をなさったときのように、きびしい眼つきで、わたくしをごらんになるものとばかり想像していました――ホワイト・ゲイブルズ荘でのことを、おぼえていらっしゃいます? でも、お会いしてみますと、そのような素振りはなさいませんし、ほかのお友だちと、ちっとも変わらない態度を見せてくださいました。あなたはほんとうに」彼女はそこで、ちょっとためらって、腕をかるくひろげてみせた。「おやさしいかたですわ。最初にオペラでお目にかかったあと、家へもどる途《みち》すがら、あなたがわたくしのことを、どなたかよそのかたと勘ちがいなさったのではないかと、本気に考えたくらいでした。きっと、わたくしの顔だけをおぼえていらして、どういう女か、思い出すことができなかったのではないか、そんなことまで考えましたわ」
われ知らず、みじかい笑いがトレントの口からもれたが、それだけで、なにもいわなかった。
彼女は哀願するようにほほえんで、
「といいますのは、あなたがわたくしの名前を口にされたかどうか、どうしても思いだせなかったからです。それで、そんなふうに考えてみたのですわ。でもそのあとで、アイアトンさんのお宅でお会いしたときは、わたくしの名前を口になさいましたわね。それでわたくし、やはり憶えていてくださったことを知りました。あのころの数日間、わたくしは何度となく、あなたにお話ししょうとつとめたのですが、どうしてもそれができませんでした。そしてしまいには、あなたはわたくしに、その話をさせたくないとお考えなので、わたくしが話しだしそうにすると、すぐに話題をそらせておしまいになるのだと考えるようになりました。ちがいますかしら? もし、そうでしたら、その理由をおっしゃっていただけません?」
かれは無言で、うなずいてみせた。
「なぜですの? なぜあんなふうになされたのです?」
しかし、かれはいぜんとして、黙っていた。
「では」と、彼女はいった。「わたくしの申しあげたいことを、さきに話してしまいましょう。そのあとで、なぜ話を避ける必要があったか、その理由をうけたまわりますわ。とにかく、あなたがわたくしに、事件のことを話させまいとなさるのを見て、わたくしの気持はかえってかたまってまいりました。どのようにあなたが避けようとなさっても、かならず申しあげてしまうつもりでいました。はっきり申しあげますけど、あなたのご想像のように、わたくしに罪を負う責任がございましたら、とてもそんなことはできなかったろうと考えます。あなたにしても、きょうわたくしの部屋へおはいりになったとき、まさかわたくしが、ここまで申しあげようとは、ご想像もなさらなかったのではありません? では、申しあげさせていただきますわ」
そしてマンダーソン夫人は、すこしのためらいも見せずに、いつもどおりの口調で、熱心に語りだした。まるで、彼女自身が事件の女主人公であったかのように。そして、ながいあいだ、苦しんできた誤解を、このさい一挙にときあかしたいという熱情を、顔いっぱいにみなぎらせて、
「あなたのお考えがまちがっていたことを、これからご説明いたしますわ」
と彼女はつづけた。トレントはいぜんとして、割りきれぬような表情で、彼女の顔をみつめながら、膝のあいだに、手をしっかりと握りしめていた。
「わたくしの申しあげますこと、信じていただきたいのです、トレントさん。世の中のことは、なにかと複雑なものでかくされておりますことや、矛盾したこと、どうにもならないあやまちなど、面倒なことがいろいろとありますけれど、真実をつかみたいと思う心はひとつだと考えます。わたくしとしては、あなたを非難する気持など、すこしもないということを、おわかりになっていただきたいのです。あなたの論理が飛躍しまして、ああした結論に到達されましたことも、わたくしはいままで、一度だってとがめだてる気持になりませんでした。わたくしと夫の仲が疎遠になっていて、それがどのように発展するものか、あなたは知っていらっしゃいました。わたくしの話をおききになる前から、夫がわたくしに、不愉快な態度を見せていたこともご存じだったのです。それなのに、わたくしは愚かにも、それについて、なにかといいごまかそうとつとめました。あのときのわたくしの説明は、最初から自分自身にいいきかせていたことを申しあげたにすぎません。でも、わたくしはあの忌《いま》わしい事実を知ってしまいました。夫は、わたくしが社交界の花形になれなかったことを失望したと申しあげましたわね。まったくそのとおりだったのです。夫は失望していました。けれど、ただそれだけの理由が、わたくしたちの不和の原因とは、あなたにしても納得されないことはわかっております。あまりにもばかげたことなので、わたくし自身、気づくことができなかったことを、あなたはちゃんと推測なさったのです。事実、あなたの推測どおり、夫はジョン・マーロウに、はげしい嫉妬を感じていたのでした。
あなたからその点を指摘されて、わたくしは、思わず、呆然としてしまいました。夫が死んで、屈辱と緊張の生活も終りをつげ、やっとこれで、夫の妄想から悩まされずにすむと思ったやさきに、あなたのお言葉は相当なショックでした。あのお言葉は、夫の秘書が、わたくしの愛人ではなかったのかと、はっきりおたずねになったとおなじことだったのです。トレントさん、わたくしがあのとき、泣きくずれ、とり乱した理由を知っていただくには、どうしてもこのことを申しあげなければなりません。わたくしの様子を見て、あなたはわたくしが、その推測をみとめたものとお考えになったのでしょう。わたくしにも責任がある、あるいは、共犯者ではないかと考えられたのではないでしょうか? わたくしがその計画に同意して――そう考えられたのではないかと、わたくし、とてもつらいおもいをいたしました。ですけど、あなたには、ほかに考えようがなかったのでしょうか? ――わたくしにはよくわかりませんけど」
それまで、彼女の顔から眼をはなさなかったトレントは、このひとことに、うなだれてしまった。そしてかれは、そのあと彼女の言葉がつづいても、二度と頭をあげようとしなかった。
「あのとき、わたくしがとり乱しましたのは、そういう意味ではないのでした。一時のショックと苦しみのせいで、いやな疑いをかけられたばかりに、過去のみじめな生活が思い出されてきたからなのです。そうして、やっと気をとりなおしたときには、すでにあなたは、わたくしの前にはいらっしゃいませんでした」
彼女は立ちあがって、窓ぎわの書きもの机のところへ行き、引出しの鍵をあけて、封緘《ふうかん》した細長い封筒をとり出した。
「これはあなたが残しておいでになった原稿です」と、彼女はいった。「二度も三度も、くりかえし読んでみました。こうした種類のことについて、なんとあなたは、するどい頭脳をおもちになっておられるかと、びっくりしたようなわけですけど――」いたずらっぽい微笑が、ちらっと彼女の頬に浮かんで、すぐにまた、消えていった。「でも、ほんとうにすばらしいと思いましたわ、トレントさん。自分のことが書かれているのも忘れて、とてもおもしろく拝見しました。この封筒をお返しするまえに、ひとりの女の名誉のために、ご自分の勝利の記録まで犠牲になされた。その寛大な紳士的ご処置に、どんなにかわたくしが感謝したことか、それを申しあげておきたいと思うのです。もしもあなたのご推測どおりならば、あなたの口から警察が報告を受けた瞬間、すべての事実があかるみに出てしまったことでしょう。あなたのご配慮は、じつにうれしく感じました。お疑いを受けて、あんなにつらかったことはありませんが、そのときでも、あなたのお気持を感謝することだけは忘れませんでした」
感謝の言葉をのべたとき、彼女の声はかすかにふるえ、その眼に、涙の露が光った。が、トレントはそれと気づかなかった。うなだれたままでいたからだ。彼女の言葉にさえ、上の空であるかのように思われた。膝の上に、上向きにおいたかれの手に、彼女はそっと封筒をのせた。やさしいその動作に誘われてか、かれはふと眼をあげた。そして、ゆっくりと、
「あなたは――」と、いいかけた。
彼女はかれの前に立って、手をあげてそれを制しながら、「お待ちになって、トレントさん。なにもおっしゃらずに、わたくしの話を、最後までお聞きください。現在のわたくしは、いままで、どうにもならなかったかたい氷が、ついに砕《くだ》けたといった、救われたような気持なんです。この説明をはじめるよろこびが消えぬうちに、最後までお話ししてしまいたい気持なのです」
彼女はまた、さっきかけていたソファに、もう一度からだを沈めて、「どなたもご存じないことをお話しいたしますわ。わたくしはそれをつつみかくそうと、きょうまで、できるだけのことをしてまいりましたが、でも、わたくしたち夫婦のあいだがおかしくなったことは、みなさんご存じのことと思います。ですけど、夫の考えていたことまで、知っているかたがあったとは考えられません。わたくしを知っておられるかたは、なおのことです。そのような状況のもとにわたくしがおかれているとは、想像することもできなかったにちがいないのです。
マーロウさんとわたくしとは、あのかたがわたくしどものところへこられてから、ずっと親しくしてまいりました。とても利口なかたでして――夫でさえ、あんなするどい頭の男は見たことがないといっていましたが――わたくしはほんとうのところ、少年を見るような眼で、あのひとを見ていたのでした。ご存じと思いますが、わたくしのほうが、すこしですが年上なんです。それに、まだあのひとは、子供っぽさがぬけきらぬくらいで、世間的な野心など、かけらさえもっていないのでした。そんなことも手伝って、よけい子供に見えたのでしょう。
ある日、夫はわたくしに、マーロウの長所はどこだとたずねました。わたくしは、ふかく気にもとめずに、お行儀のよいことですわ、と答えました。それを聞いて、急に夫が不きげんな顔つきになりましたので、わたくし、ひどく驚かされました。しばらくして、夫はわたくしの顔も見ないで、そうか、マーロウは紳士だからな。そのとおりだと申しました。
それについては、その後一度も、話に出たことはございませんでしたが、一年ほど前、わたくしがいつも懸念していたことが起こってしまいました。マーロウさんが、あるアメリカ人のお嬢さんと、熱烈な恋愛関係にはいってしまったのです。それも、よりによって、わたくしども知人のうちで、いちばんつまらない女性だったのです。ご両親は金持でしたが、とても勝手気ままなひとで、美人で教育もあり、女流運動選手といわれるほど、各種のスポーツに堪能《たんのう》でしたが、ご自分の享楽しか考えないようなひとでした。いくら利口なかたでも、ああまで無節操に浮かれ歩かれてはこまりものです。どなたもそれはご存じのことですし、マーロウさんにしても、耳にしていないはずはないのでした。つまりその娘は、あのひとをだましていたのです。どういう方法でだましたのかはわかりませんが、想像ぐらいはできます。むろん、彼女が、あのひとを好いていなかったとは申しませんが、とにかく、もてあそんでいたことは、わたくしにははっきりわかっているのでした。なにもかも、ばかばかしすぎる話なので、わたくし、ほんとうに腹を立ててしまいました。
そこである日、わたくしは湖で、ボートにのせてくれとあの人に頼みました。それはちょうど、ジョージ湖畔の別邸にいたときの話です。それまでのながいあいだ、あのひととふたりきりになったことがなかったのです。ボートのなかで、わたくしはあのひとに意見をいたしました。わたくしとしては、親切な気持で話したつもりだったのです。マーロウさんも、いちおうはわたくしのいうことを、殊勝《しゅしょう》な顔で聞いていましたが、しかし、すこしも信じようとはいたしません。わたくしこそ、その女の性質を誤解しているのだと、頭から反駁《はんばく》してくるのでした。わたくしとしましては、あのひとには、財産といえるものがないことを知っていますので、あなたの将来のためにもならないと申しますと、あのひとはむっとした顔つきで、彼女さえ愛してくれれば、きっとりっぱな人間になってみせるというのでした。もちろん、あのひとは名も売れていますし、つきあいだって広くて、その才能と友人関係からすれば、それが嘘でないことはわかりました。でも、その後まもなく、あのひとにも、ほんとうのことがわかるときがまいりました。
わたくしたちが湖から帰りますと、夫が手をかして、ボートからおろしてくれました。いまでも憶えておりますが、夫はなにか、マーロウさんに冗談をいっておりました。それだけのことで、その後、マーロウさんに対する夫の態度に、すこしも変化が見えませんでしたので、わたくしとマーロウさんとの仲を疑いだしたとは気づくことさえできなかったのです。
ですけど、その夜の夫は、わたくしによそよそしい態度をとりまして、怒っているとも見えませんでしたが、ろくに口をきこうともしないのです。いまから思えば、その日以後、夫は疑いをもちはじめまして、ずっと冷やかな、無口な態度をとりつづけていたのでした。夕食のあとで、わたくしに口をきいたのは、たった一度しかございません。マーロウさんが、ケンタッキーの農場のために買った馬のことを話してくれたのですが、そのとき夫は、わたくしにむかいまして、マーロウは紳士かもしれないが、馬の取引きでは、相当あくどいことをするんだぜ、と申しました。わたくしはそれを聞いて、意外に思いましたが、そのときも、また二度目に、ふたりきりでいるのを夫に見つけられたときでも、夫がなにを考えているのか、まだわたくしにはわからなかったのです。
二度目といいますのは、マーロウさんが例の娘から、ある人と婚約したから、よろこんでくれという、簡単な手紙を受けとった朝のことでした。ニューヨークの邸にいたときのことでして、朝のお食事の席で、あまりにもあのひとがしおれた様子をしていますので、病気ではないかと心配したのでした。そして、そのあと、あのひとの仕事部屋へ行きまして、どうかしまして? と、たずねました。そうしますと、あのひとはなにもいわずに、ただわたくしの手に、女からの手紙をおいただけで、窓のほうをむいてしまいました。わたくしとしては、これで万事、片づいたとよろこんだのですが、あのひとの気持を考えると、よろこんでばかりはいられません。どんなことをいったか、憶えておりませんが、庭をみつめて立っているマーロウさんの腕に、そっと手をおいたことを記憶しています。
ちょうどそのとき、わたくしの夫が、なにか書類を手に、あけ放したままのドアのところへ、顔を出したのでした。夫はわたくしたちの様子を、ちらっと眺めただけで、そのまましずかに、書斎へもどってしまいました。わたくしとしましては、マーロウさんを慰める言葉が耳にはいったので、それで夫は気をきかせて、席をはずしてくれたのだと考えました。むしろ、その思いやりに感謝していたくらいでした。マーロウさんは主人の姿も見ず、足音も聞かなかったと思います。
そしてその朝、夫はわたくしが外出しているあいだに、なにひとつ、いいのこすこともなく、西部へむかって、旅立ってしまいました。そのときでも、まだわたくしは、気がついていなかったのです。夫は、仕事の上で、必要がありますと、そんなふうに、急に旅行へ出ることが、よくあったからなのです。
それから一週間たって、夫が帰ってきまして、はじめてわたくし、夫の気持に気がつきました。青白い、おかしな顔つきでもどってきますと、いきなりわたくしに、マーロウはどこにいるかときいたのです。どういうわけか、そのときの声の調子に、わたくし、はっとするものを感じました。そして、一瞬のうちに、すべてを読みとることができたのでした。
わたくしは、息もとまりそうなおもいがしました。あまりにも腹が立って、気が狂うかと思われました。もしそれが、世間体も考えずに、夫と別れて、ほかの男へ走るような女だと見られたのでしたら、ああまで気にしないでもいられたと思います。はっきり申しあげますけど、あるいはわたくし、実際にそうしたまねをしたかもしれません。ですけど、信頼しているはずの人間に……そのようないやしい疑いをかけ、しかもそれを、ひたかくしにかくしているなんて、なんという卑劣なことでしょう。そんな疑いは、罪悪だとさえ思いました。心の誇りが、残酷なまでに、ふみにじられ、最後には、身ぶるいするようなおもいをしました。その場でわたくしは、夫の考えに気づいたことを、言葉にも態度にも絶対にあらわすまいと、かたく心に誓いました。いままでと、すこしも変わらぬ態度をつづけようと心にきめて、それを最後まで、おし通してきたのです。たとえ夫が謝罪して、わたくしがそれをみとめたとしても、いまはもう、どうにも破ることのできぬ壁が、わたくしたち夫婦のあいだをへだててしまったのです。でも、そうした変化に気づいたような態度は、わたくし、一度も見せずにすごしてまいりました。
そのような状態は、その後もずっとつづきました。二度くりかえせといわれましても、とうてい、できるわけのものではありません。夫はわたくしとふたりきりになりますと、きまったように、押しだまってしまいまして、いんぎん無礼といった態度を示すのでした。そして、できるかぎり、ふたりだけにならぬように、つとめているのがわかりました。心のうちに思っていることを暗示するような言動はとりませんでしたが、わたくしの勘《かん》では、わたくしが感づいたことは、夫も知っていたとみえるのでした。
そのようにして、わたくしたちふたりは、それぞれに意地をはって、相容れない態度をとっておりました。マーロウさんに対しては、どうしたわけか、夫は以前より、いっそう好意的な様子を見せました。ですから、マーロウさんだけは、疑われていることを知らなかったことと思います。わたくしは夫が、復讐を計画しているのではないかと想像もしましたが、それもけっきょく、妄想《もうそう》とわかりました。マーロウさんとわたくしとは、例の失恋事件以来、親しく話しこそしませんが、前とおなじに、お友だち同士としてつきあってきました。でも、ことさらに顔をあわせる機会を少なくするようなことはしまいと心がけました。そうして、わたくしたちはイギリスに移って、ホワイト・ゲイブルズ荘に住むようになりましたが、そこで夫の身に、あのような恐ろしいことが起こることになってしまったのです」
彼女は話がおわったことを示すように、右手を前にさし出して、
「そのあとのことは、あなたはだれよりも、ずっとくわしく、ご承知でしたわね」
と、つけくわえた。そして、顔に奇妙な表情を浮かべて、トレントを見あげるのだった。
トレントには、その表情の意味はわからなかったが、それまで抱いていた疑問の影は、いまではまったく、心のうちから消えていた。そして、彼女への感謝の念で、胸はいっぱいだった。生き生きした色が、急にかれの顔によみがえってきた。彼女の話がおわるずっと前から、トレントはその真実性をみとめていた。すでに、彼女と再会したその日以来、かれはホワイト・ゲイブルズ荘で、勝手な根拠に立って、つくりあげたかつての推理に、つよい疑問を抱いていたのだった。
かれはいった。
「なんといってお詫びをしてよいものかわかりません。ぼくの疑惑の生んだ結論が、いかにいいかげんな、独断的なあやまりであったか、言葉にいいあらわすこともできぬくらいなんです。事実、ぼくはあなたを疑っていました! ぼくがこのような愚か者であったことは、これまで気がついていませんでした。しかし、なにも気がつかぬほどの愚か者であったわけでもないのでした。ひとりきりでいるときなど、ときには自分の愚かしさを思いだして、自分で自分に鞭《むち》うったこともありました。真相はどうだったのだろうと、考えてみたこともあったのです。そして、なんとかしてそれを、弁明したいものだと思っておりました」
彼女はいそいで、かれの言葉をさえぎった。
「つまらぬことは、おっしゃらないでください! 考えてごらんなさい、トレントさん。事件の解決の鍵を握って、わたくしのところへおいでになるまで、あなたはわたくしを、たった二度、ごらんになっただけなんです」
ここでまた、彼女の顔に、奇妙な表情が浮かびあがった。
「あなたのようなおかたが、二度わたくしをごらんになったあとで、あのように力づよい証拠をつかみながら、それを無理に押しかくし、わたくしが無実であるようなふりをされたら、そのほうがずっと、愚かなことといえるでしょう」
トレントはその言葉に、熱のこもった調子でききかえした。
「ぼくのような男とおっしゃったが、それ、どういう意味でしょう? ぼくが正常な直観力をもたない人間だとおっしゃるのですか? あなたは第三者の眼に、単純率直な性格に映るかたではありません。カルヴィン・バナー氏もいっていましたが、あなたはけっして、すかし彫《ぼ》りの箱のように、見通しのきくかたではないのです。それだけに、あなたを知らない者でしたら、あれだけの証拠があれば、あなたを疑うこともないとはいえません。しかし、一度でもあなたにお会いして、あなたのまわりにただよう雰囲気に接した男が、ぼくが想像したような忌《い》まわしい疑惑を、あなたのうえに感じたとしたら、その者はよほどの愚か者といえるのです……自分の感受性に、なんの自信ももっていない大ばか者です。
あなたも気づいておられるように、ぼくがあの問題に触れまいとつとめていたのは事実です。ぼくはいわば、道徳的な意味での卑怯者でした。あなたに、あの問題をはっきりさせたいというお気持があるのを知りながら、あなたを傷つけた失敗を、もう一度つつかれるのを怖れて黙っていたのです。まるであの事件が起こりもしなかったようにふるまって、あなたの許しを乞おうと考えていたのでした。しかし、それではぼく自身が許すことができません。永久に、許すことはできないでしょう。そして、もしあなたにわかっていただけるなら――」そこでちょっと、言葉を切ってから、かれはまた、しずかにつけくわえた。
「これまで申しあげたことを、お詫びの言葉として受けていただきたいのです。ぼくはほんとうに、心からふかく悔《く》やんでいるのです。あのように興奮するつもりはなかったのですが――」かれはまだ、いいたいことが語りきれぬような表情で、言葉をむすんだ。
マンダーソン夫人は、声をあげて笑った。その笑い声が、かれの心を奪った。彼女が心からうれしそうな表情を見せて、突然愉しそうに笑い声を立てることは、再会後の経験で知っていた。その声を聞くのが楽しみで、かれは彼女をよろこばせようとつとめたことも、何回かあったのだった。
「ですけど、あなたが興奮なさるところを拝見するのが、わたくしにはむしろ楽しみでした」と、彼女は語りだした。「あなたってかたは、ご自分が興奮していらっしゃるのに気がおつきになると、とっさに、さっと冷静にもどられるのですが、そこのところが、とてもごりっぱに見えました。わたくしたち、ほんとうに笑顔でお話ができましたわね。あなたに、なにもかも打ちあけるのかと考えますと、おじけづくような気持がしたのですが、このようにお話ししあうことができて、ほんとうによかったと思いますわ。さあ、これで、いっさい、おわりました。あなたにも、理解していただけましたし、これでもう、この話はやめにいたしましょうね」
「そうおねがいしたいですね」トレントは、心の底から、ほっとした感じでいった。「ご親切にあまえて、ぼくの失礼は、とがめ立てなさらぬようにおねがいします。では、マンダーソン夫人、ぼくはこれで、お暇《いとま》させていただきます。こうした話のあとで、話題を変えてみたところで、地震の直後に、場取り遊びをするようなものですから」
そういってトレントは立ちあがった。
「そうですわね」と、彼女もいった。「ですけど、お帰りになるのは、もうしばらく、お待ちになって! おなじ問題のことですが、もうひとつだけ、申しあげたいことがあるのです。話しだしたついでに、洗いざらい、片をつけてしまったほうがよろしいと思いますから。どうぞ、もう一度、おかけになって」
そして彼女は、トレントがテーブルの上においた、例の原稿のはいっている封筒をとりあげて、
「これについて、お話ししたいことがございますの」
かれは眉をよせて、いぶかしそうに、彼女の眼をのぞきこんで、
「そうまでおっしゃるのなら、お話をうかがうことにしましょう」と、ゆっくりといい、「じつはぼくも、ひとつだけ、知りたいことがあるのでした」と、つけくわえた。
「それ、おっしゃってください」
「あの記事を新聞社へ送るのを、ぼくがとりやめにした理由は、たんなる想像にもとづいただけでしたが、真実でなければ、握りつぶすまでの必要はなかったわけですね。としたら、なぜあなたは、あの記事の内容をかくしておかれたのですか? ぼくは、あなたを誤解していたと気づいたとき、あなたが沈黙を守っておられる理由を考えました。そして、そのあげく、どのような悪事を働いた男にしても、あなたの手で絞首台に送りたくはなかったからだという結論に達しました。ぼくは自分に、そういいきかせていたものです。そのお気持はわかりますが、事実やはり、そうだったのでしょうか? もうひとつ、別の理由も考えられます。それは、あなたはなにか、マーロウの行為を正当化し、弁明できるような事実をつかんでおられるのではないかということでした。あるいはまた、人道的なためらいなどではなく、ただたんに、殺人事件の裁判などに関係して、公衆の面前に出ることが、ぞっとするほどいやだっただけかとも考えました。こういう事件では、大勢の証人が、強制的に証言をさせられますが、死刑に関係のあることなどに呼び出されるのは、自分自身の名誉に傷がつくと考えるひとも多いものです」
マンダーソン夫人は、微笑をかくそうともしないで、封筒の端で、かるく唇をたたいていた。
「トレントさん、あなたは、もっとほかの可能性に、お気づきになれなかったのですか?」
と、彼女はきいた。
「べつに」と、トレントも、とまどったように答えた。
「あなたはわたくしを誤解していらしたように、マーロウさんについても、あやまった考えをもっておられたのではないでしょうか。いえ、いえ、証拠となっているあの事実が、真実のものであることは、わたくしもまた存じております。でも、それはいったい、なにを示す証拠なのでしょうか? マーロウさんが、あの夜、わたくしの夫になりすまして、わたくしの寝室の窓からぬけだして、アリバイをつくったと証明できるのでしょうか? あなたの原稿は、くりかえし拝読してみましたが、わたくしには、そこに書いてあるような疑念はもてないのですが――」
トレントは、けわしい眼で、じっと彼女をみつめた。しばらく沈黙がつづいていたが、かれは口を切ろうともしなかった。マンダーソン夫人は、考えをまとめているかのように、スカートの皺《しわ》をのばすのに余念がなかった。
「あなたが発見なさった事実については、まだわたくし、どなたにも話しておりません」やがて彼女は、ゆっくりといった。「もしあれが公表されることになれば、マーロウさんに、致命的な打撃をあたえることになると思ったからです」
「そのとおりですね」
トレントは、なんの感情も示さずにいった。
「それに」夫人はなおも、思慮ぶかい澄んだ眼で、相手の顔をみつめながら、言葉をつづけた。「あのひとが無実であることは、わたくし、よく知っておりましたので、危険にさらさせたくはなかったのです」
そこでまた、言葉がとぎれた。トレントは、彼女の意見を考慮しているふりで、あごをなでながら黙っていた。胸のうちでは、漠然とではあったが、彼女の意見は正しいのだと、強いて自分にいいきかせていた。いかにも女性らしい考えかたである。そして彼女が、そのように女性らしいことが、かれにはなによりも好ましかった。知性によって、はっきりと示されている事実よりも、性格への信頼感を重視するというところに、彼女らしい心情があらわれているのである。それはそれで、ゆるされてよいことだとも考えたが、なぜかそこには、いらだたしい感じが残った。彼女がマーロウにもっている信頼感は、できればいますこし、消極的なかたちで表現してもらいたかった。≪無実であることは、よく知っていた≫と断言したのは、あまりにも合理性がなさすぎる。まったくそれは、彼女らしくもないことだと、トレントは腹のなかで、味気ないおもいで考えた。理性で考えて、おもしろくないことに逢着《ほうちゃく》すると、とたんに理性的でなくなることが、女性特有の考え方であるならば、そして、マンダーソン夫人にしても、その例外ではないとすれば、彼女はこれまで、だれよりも巧妙に、その特性をつつみかくしていたといえるであろう。
トレントはやがて、口をひらいた。
「あなたのお話しによると、マーロウは身におぼえのない罪を逃れるために、追いつめられた人間しかできないような方法で、アリバイをつくっていたことになりますね。かれは自分から、無実だといったのですか?」
彼女はがまんしきれないように、笑い声をすこし立てて、
「あなたはこのわたくしが、マーロウさんに説得されて、味方にさせられたとおっしゃるのですか。いいえ、そんなことはございませんわ。あのひとは無実だと、わたくし自身が確信しているだけです。こう申しあげますと、ばかな女だとお考えでしょうが、でも、トレントさん、あなたにしても、ずいぶん、理屈にあわないことをおっしゃっていらっしゃいますのよ! たったいまも、わたくしに会って、雰囲気に触れてからは、わたくしに疑いをもつなど愚かしいことと考えたと、真剣にお話しになりましたわね」
トレントは椅子のなかで、飛びあがりそうな気持になった。そういうかれを夫人はちらっと眺めてから、言葉をつづけた。
「わたくしと、わたくしのもつ雰囲気のお話は、ありがたいと思っていますけど、ほかの雰囲気の場合でも、当然、その権利をまもってやる必要があるのではないでしょうか。マーロウさんの雰囲気については、わたくし、あなたにくらべて、ずっとよく知っております。ながいあいだ、いつも見ていたからです。あのひとのことでしたら、なにもかも知っているとまでは申しませんが、殺人罪を犯すようなひとでないことは、まちがいなくわかっているのです。あのひとが殺人をたくらむなど、あなたが貧しい女の金をすりとるのとおなじように、考えられることではないのです。あなたでしたら、相手を殺すか、ご自分が殺されるかといった場合は、人殺しぐらいなさいましょう。わたくしにしても、時と場合で、そうした行動に出ないとは申しません。でも、マーロウさんだけは、どんな立場におかれても、人殺しはなさいません。あのひとは気性として、なにごとによらず興奮せず、冷静な寛大さで、相手を眺めて、どんなことでも、ゆるせるだけの理由を見出だそうとつとめるにきまっています。それがけっして、ポーズではないのです。あのひとのほんとうの姿なのです。見ているこちらが腹立たしくなることもあるくらいです。
アメリカにいたころのことですが、あのひとと同席している食卓で、私刑の話が出たことがありました。あのひとははじめからおわりまで、黙りこんだまま、表情もかえず、聞いていないふりをしているのでした。その態度で、どんなにあのひとが、そうしたことに嫌厭《けんえん》の情をもっているか、ひしひしと感じとれるのでした。肉体的な暴力が、たまらなくいやなのですね。その意味では、変人ともいえるでしょう。もっとも、暴力を憎むあまり、なにか予想外の行為に出るのではないかという印象をあたえたこともないわけではありません。そういった感じのひとが、世間には、ままあるものです。あの夜の事件で、あのひとがどういう役割を演じていたのか、わたくしには想像もつきませんが、でも、マーロウさんをすこしでも知っているひとなら、計画的な殺人行為に出たということは、信じないにきまっているのです」
彼女はそこで、話のおわったことを示すつもりか、しずかに頭をふった。そして、ソファによりかかって、トレントの顔をみつめた。
トレントは、彼女の言葉を注意ぶかく聞いていたが、
「そうまでおっしゃられると、これまではそれほど重要とも思っていなかったふたつの可能性を、もう一度考えなおしてみる必要があるようですね。あなたのお話を、そのままみとめるとしますと、かれはおそらく、正当防衛で相手を殺したことになるのでしょうな。でなければ、過失で殺してしまったのかもしれませんが」
夫人はうなずいて、
「もちろん、あなたの原稿を読ませていただいたとき、わたくしもそのふたつの理由を考えてみました」
「では、ぼくとおなじご意見ですね。ふたつの可能性のうち、どちらの場合であったにせよ、かれにとって、いちばん安全で、かつ必要だったのは、真実を警察に告げることにありました。それをしないで、いろいろと偽装工作をやったとすると、それはたしかに失敗でした。まずくいくと、裁判で、有罪の判決を受けることになるのではないでしょうか」
「そうですわね」と彼女も、疲れきったような顔つきでいった。「わたくしもそれについては、あらゆる角度から、頭が痛くなるほど考えてみました。ひょっとすると、犯罪を行なったのは、だれかほかのひとで、あのひとは、その犯人をかばっているのではないかとも考えました。でも、それはあまりにも、乱暴すぎる考えかたで、けっきょくあの事件の謎は、わたくしの力では、解決の光明をさがしあてることができず、ついにはあきらめるほか、どうしょうもないと知ったのです。
なんにしても、そのとき、わたくしにわかっておりましたのは、マーロウさんが殺人犯でないということ、それに、もしわたくしが、あなたの手でさぐりあてられた事実を発表すれば、裁判官や陪審員は、きっとあのひとを殺人犯と思いこんでしまうだろうということでした。それを、こんどお目にかかったとき、万事打ちあけて、お話ししようと心に誓っていたのですが、いまやっと、それを果たすことができました」
トレントは、てのひらの上にあごをのせたまま、絨毯をじっと見つめていた。そのうちに、真相を追求したいという情熱が、ふたたび心に、はげしい勢いで燃えあがってきた。かれは、マンダーソン夫人がマーロウの性格について抱いている信念を、そのまま鵜呑《うの》みにすることはできなかったが、しかしまた、これほどつよくいわれたとなると、やはりそれは、無視するわけにもゆかず、かれの推理は、相当はげしく動揺させられるのだった。
「その問題を解決するには、方法はひとつしかありません」とかれは、顔をあげていった。「それは、マーロウ君に会うことです。いずれにしても、このまま事件を放任しておくわけにはいきません。それで、ちょっとおうかがいしますが」といって、かれは言葉を切ってからつけくわえた。「ぼくがホワイト・ゲイブルズ荘を去ったあと、マーロウ君はなにをしていたのです?」
「その後、あのひとには会っておりません」とマンダーソン夫人は、簡単に答えた。「あなたがお帰りになったあと、数日間というものは、わたくし、からだのぐあいがわるく、お部屋から一歩も出ませんでした。癒《なお》ったときは、もうあのひと、邸をはなれたあとで、ロンドンで弁護士相手に、わたくしどもの財産の事後処理にあたっていました。葬式にさえ、姿を見せませんでした。葬式がすみますと、わたくしはすぐ、外国への旅に出てしまいました。そして、その数週間ののち、マーロウさんからの手紙がとどいて、事業面の後始末がおわって、今後のことは、いっさい弁護士にまかせたといってまいりました。なかで、わたくしの親切を非常に感謝していまして、心のこもった別離のあいさつを書いてよこしました。その手紙には、あのひとの将来に対する計画も書いてありませんし、さらに奇妙に思えたことは、夫の死についてひとことも触れていないのでした。わたくし、返事も出しませんでした。あのことを知っている以上、わたくしとしては、手紙を書く気になれなかったのです。その当時のわたくしは、あの夜のことを考えるたびに、身ぶるいの出るおもいをしたものです。それでわたくし、マーロウさんとは会いたいとも思わず、うわささえ、耳にしたくない気持でした」
「すると、あなたはマーロウ君の消息を、まったくご存じないのですか?」
「存じておりませんわ。でも、バートン叔父でしたら――それ、カプルズのことですが――あのひとでしたら、きっとお話しできると思いますわ。数日前に、叔父はマーロウさんと、ロンドンでお会いしたそうです。しばらくふたりで、話しあったといっていました。聞きたくもありませんので、いそいで話題をかえてしまいましたけど」
そこで彼女は、一度言葉を切って、いたずらっぽい笑いかたをしてみせて、
「それよりも、あなたご自身は、せっかく満足のいくようにおつくりになった劇の場面から、逃げだしておしまいになったかたちでしたが、マーロウさんのことを、どういうふうにご想像になっていらっしゃったのですか?」
トレントは、さっと顔を赤らめて、
「ほんとうにそのことを、お聞きになりたいのですか?」といった。
「ええ、ぜひ、聞かせていただきたいと思います」
と彼女は、しずかにいいきった。
「またぼくを苦しめようとして、そのような質問をなさるのですね、マンダーソン夫人。よろしい、ぼくが旅行をおえて、ロンドンヘもどったとき、たしかにこうなっているはずだと想像したことを申しあげましょう。それは、あなたがマーロウ君と結婚して、外国で暮らしておられるだろうということでした」
彼女は顔色ひとつ動かさず、トレントの言葉を聞いていた。
「あのひとの財産とわたくしのとを合わせたところで、わたくしたちは、ロンドンで楽に暮らすことはできなかったでしょう」彼女はもの思うような調子でいった。「かれはまったくの無一文だったのです」
トレントは彼女を見すえた――後日、彼女の語ったところによると、そのときトレントは、口をあけて、あっけにとられた表情をみせたまま、いつまでもそうしていたそうである。その瞬間、彼女はちょっと、とまどったような笑いかたをして、
「まあ、トレントさん! わたくし、なにか、とんでもないことを申しあげましたかしら? あなたは、もうご存じのこととばかり思っておりましたわ……いまでは、世間で知らないかたがないことですもの……わたくしも、みなさんから質問されて、何度となく説明してまいりました……わたくし、再婚しますと、夫が残していった財産の全部を失なうことになっておりますのよ」
この言葉がトレントにあたえた効果は、まことに奇妙なものであった。一瞬、かれの顔には驚愕《きょうがく》の色がみなぎったが、それが消え去ると、坐ったまま、しだいに緊張した表情に変わっていった。彼女は、椅子の腕をにぎりしめているトレントのこぶしが蒼白になるのを見て、まるでかれが、外科医の手術を受けようとして、苦痛を待ちうけている人間であるかのように想像した。しかし、かれはいつもより低い声で、こういっただけだった。
「ぼくは、すこしも知らなかった」
「そういうわけなのです」彼女は、指にはめた指輪をいじくりながら、落ちついた声でいった。「でも、トレントさん。こんなことは、それほどめずらしいことではございませんのよ。わたくしはむしろ、それをよろこんでいるのです。その理由のひとつは、この事実が世間に知れわたってからというもの、たいていの場合、わたくしのような立場におかれた女が、堪えしのばなければならないうわさから逃れることができたからです」
「よくわかります」かれは深刻な口調になっていった。「そして……もうひとつの理由といいますと?」
彼女は、さぐるようにかれの顔をのぞきこんでいたが、その質問に笑いだして、
「いえ、そのほうは、大した悩みではございませんの。わがままな気性と、贅沢な趣味と生活様式に馴《な》れ、父の遺産といっては少ししかもたぬ未亡人などと結婚する気まぐれな殿方は、まず、考えられることではございませんもの」
そして彼女は、首を左右に動かした。その身振りのうちにひらめいたあるものが、いくらか残っていたトレントの冷静さを、粉みじんに打ちくだいてしまった。
「そういう男にお会いなったことはないのですか、ほんとうに?」
かれははげしい動作で席を立ち、彼女のほうに、一歩近づいて、大きくさけんだ。
「では、人間の情熱というものが、かならずしも金によって左右されるものではないことをごらんにいれましょう。ぼくはこの問題に決着をつけたいのです――この事件は、ぼくの問題でもあるのです。はっきりいいますが、ぼくよりましな男たちは、ぼくのように、あつかましいことをいう勇気がなかったにちがいありません。その連中が、いいたくてもいえなかったことを、ぼくはここで申しあげましょう。ほかの男たちは、ばかなまねをするのが、怖ろしく感じられたのです。しかし、ぼくはちがいます。きょうの午後、あなたのおかげで、そうした感情に馴れてしまいました」
そこまでトレントは、一気にしゃベりまくってから、大声で笑って、両手を前にひろげてみせた。
「このぼくをよくみてください! 世紀の見ものですからね。ここに、あなたに愛を誓い、莫大な財産を投げ捨て、自分と結婚してくれとおねがいしている男がいるのです」
彼女は両手で、顔をおおった。かれは彼女が、とぎれとぎれに、こういうのを聞いた。
「いいえ、おねがいです……そんなふうに、おっしゃらないで……」
かれは答えた。
「恩にきますから、ここを去る前に、いいたいことを全部いわせていただきたいのです。あるいは、悪趣味だとみられるかもしれませんが、それもやむをえないと思います。ぼくはぼくの魂を救いたいのです。それには、ありのままを告白しなければなりません。あなたはご存じないことですが、ぼくはあなたが、マールストンの崖ふちに坐って、海にむかって、手をさしのべていらっしゃる姿を見ました。あれからずっと悩みつづけてきたのです。そのとき、ぼくの心を奪ったのは、あなたの美しさだけでした。あなたのおいでになる崖の上を通りすぎて、そのあたりの生あるものが、すべてみな、風と太陽のなかで、あなたを賛美する唄を歌っていると感じました。その歌声は、いまだにぼくの耳をはなれていないのです。
しかし、それだけでおわってしまったら、あなたの美しさも、いまごろは、ただのはかない思い出として残っていただけでしょう。そのあと、ぼくがあなたに腕をかして、検死審の行なわれたホテルから、お邸までお送りすることになりました――そのとき、どういうことが起こったと思います? そのとき以来、あなたの強烈な魅力が、ぼくの心を、完全にとらえてしまったのです。あれはぼくの一生に一度の恋愛でした。あの日の記憶は、ぼくの胸から消え去ることはありますまい。あの日がくるまで、ぼくは静寂な湖の美しさを称《たた》えるように、あなたの美しさを称えていただけでした。しかし、その日からのぼくは、湖の精の魅力にとり憑《つ》かれてしまったのです。つぎの朝、水の面に、波が立ちさわいで、湖の精が姿をあらわしました――夜どおし、はげしい疑惑に苦しめられたぼくは、疲れきって、あなたに質問するため訪れました。そのときのあなたは、その日までの蒼ざめたやさしさ、冷静な表情を捨て去って、眼をかがやかし、身振りもいきいきと、新しい生気にあふれていました。そして、これまでのあなたが、いかに長いあいだ、空虚な生活を送り、無駄に生命をすりへらしていなければならなかったか、その悲しみが、まざまざと感じとれるのでした。ぼくの心に、狂気じみたおもいが燃えあがりました。ぼくは、胸のおもいを口にしないではいられぬ欲求に駆られ、あなたの愛がえられなければ、ぼくの人生は、満ちたりぬ悲しみに、悩みぬかなければならぬことを知ったのです。永久に、その黒髪の網にとらえられ、その声の呪文にしばられて――」
「おやめになって!」彼女は、突然顔をあげ、頬を紅潮させ、そばのクッションを両手でにぎりしめると、声をあげてさけんだ。息づかいもあらく、早口に、脈絡もなくしゃべりだした。
「お聞きしていますと、わたくし常識を忘れてしまいますわ。どうしたとおっしゃるのです? あなたがどういうかたか、わからなくなってしまいましたわ――まるで、おひとが変わったよう――でも、わたくしは子供でないということ、お忘れにならぬようおねがいします。あなたのおっしゃること、うかがっていますと、初恋をしている少年のように、愚かな夢みたいな話に聞こえます。あなたは、どうお考えか知りませんが、わたくしには、そうとしか受けとれません。これ以上、うかがいたくないのです」彼女はすでに、半ばすすり泣いていた。「あなたのようなおかたが、どうしてこのような感傷的なことをおっしゃるのでしょう? 自制心を失なってしまわれたとしか思えません」
「そんなものは、とうになくしました!」トレントはそうさけぶと、突然、笑いだした。「どこかへ、飛んでいってしまいましたよ。ぼくも、そのあとを追って、すぐ出ていきます」
そしてかれは、真剣な顔つきで、彼女の眼を、じっとみつめると、
「やっと、心の雲も晴れました。ぼくはいままで、あなたの莫大な財産が気にかかって、気持を打ちあけることができませんでした。それが、あまりにも重苦しく、ぼくの心にのしかかっていたのです。われながらこういう気持は、感心できる話ではありません。簡単にいえば、臆病だったわけですからね――あなたの思惑《おもわく》を気にし、そしてまた、世間のうわさを怖れていたといってよいでしょう。しかし、なにもかもお話ししてしまって、ぼくの気持にのしかかっていた雲も消え、思い残すことはありません。ありのままの真実を打ちあけたいま、ぼくは平静な気持で、すべてに対処することができるのです。これを感傷と呼ばれようと、また、なんといわれようと、すべてあなたのご随意です。もともと、科学的に説明するつもりはなかったのですからね。ご迷惑だとお考えなら、無視していただけば結構なんです。しかし、滑稽な話だと思われたかもしれませんが、ぼくにとっては、きわめて真剣な問題であったことは、お忘れにならぬようおねがいします。あなたを愛し、あなたを尊敬し、あなたにまさる女性は、この世にいないと思いこんだ、ぼくの気持を申しあげたかったのです。では、これで失礼させていただきます」
しかし、夫人はこのとき、かれにむかって、両手をさしのべたのであった。
[#改ページ]
一四 手紙を書いて
「あなたというかたは、いったんいいだしたとなると」とトレントがいった。「思いどおりしないことには、承知できない性分なんですね。できればぼくは、あなたのおいでにならぬところで書きたかったのですが、しかし、どうしてもとおっしゃるなら、書くことは書きましょう。便箋《びんせん》をいただきます。星よりも、美しい天使の手よりも、もっと純白な便箋を――といいますのは、あなたの住所や名前が刷りこんでない用紙という意味です。ぼくとしても、気持のうえでは、相当犠牲をはらっていることを忘れないでいただきます。こんなに、ものを書くのをいやだと感じたことは、はじめての経験です」
彼女はなおも、かれが筆をとることをすすめた。そこでかれは、用紙にペンをかまえたままいった。
「どんなふうに書いたらいいのです? かれを、夏の太陽にでも喩《たと》えて、賞め称《たた》えますか? それとも、なにかうまい文句がありますかね?」
「おっしゃりたいことを、そのままお書きになったらよろしいでしょう」
と彼女は、はげますようにいった。するとかれは、首をふって、
「ぼくのいいたいことといえば――この二十四時間のあいだに出会った相手、男でも女でも子供でも、だれでもいい、会うひとごとに、ぼくはメイベルと婚約した、夢を見ているおもいなんだ――そういって聞かせたいのです。しかし、これから書こうとしている不吉な――とまではいわないにしても、かたくるしい公式文書的な性格をもつ手紙の書き出しには、適切なものではありますまい。マーロウ殿とまでは書きましたが、つぎはどんな文句にしましょうか?」
「ぜひお読みいただきたい原稿がありますので、同封してお送りいたします」
と彼女は、さきをうながすようにしていった。
「その文章では、一音節以上の言葉が、ふたつしかありませんね」とかれはいった。「この手紙は、やさしくひびいてはいけないのです。かれに、圧迫的な印象をあたえる必要があるのです。もっと、むずかしい感じの言葉をつかわなければなりません」
「どうしてなんです? なぜ、むずかしい言葉をつかう必要があるのでしょうか? わたくしにはわかりませんわ。弁護士だの実業家たちから、手紙をもらいますと、どれもみな、貴翰《きかん》拝誦いたしましたといったむずかしい文句ではじまって、おわりまでそれで押しとおしていますけど、でも、いざそのひとたちにお会いしてみますと、そんな面倒な話しかたは、ひとりとしてなさいませんのよ。わたくし、なんだかそらぞらしく感じられて」
「かならずしもそれは、そらぞらしいとはいえないのです」
トレントは、救われたといった表情で、さっそくペンをおくと立ちあがった。
「ぼくにひとつ、その理由を説明させてもらいましょう。ぼくたちイギリス人は、こまかい神経を使うのを、好まないのです。それで通常、みじかい簡単な言葉を愛用しまして、音節の長い語彙《ごい》はめったにつかいません。これは、言葉にかぎったわけではありませんが、すべて異例なものは、滑稽に感じさせるか、でなければ、荘重な印象をあたえるものです。たとえば、先見の明《インテリジェント・アンティシベーション》という言葉がありますが、かりにこの文句を、ヨーロッパのほかの国でつかったところで、おそらくはなんの注意もひかないでしょう。ところがわれわれの国では、この言葉を演説で耳にしたり、新聞の社説で読んだりすると、だれもがにやっと笑います。めずらしくたくみな言いまわしだと思われるからなんです。なぜでしょうか? これが、ふたつの長い音節の単語から成り立っているというだけのことです。表現されている観念は、冷凍の羊肉同様、きわめて平凡なことなんですがね。用語の不的確性《ターミノロジカル・インエグザクティテュード》〔チャーチルの議会演説中に出てきた言葉で、虚偽の意〕という例もありました。われわれはこの言葉を聞いて、大笑いしたものです。いまだって、思いだすと、笑いたくなりますよ! なぜ笑うかというと、ただその単語が長ったらしいだけなんです。荘重な感じを出したい場合にも、同様にわれわれは、長い言葉をつかって、その目的をはたします。事務弁護士が、≪わが法廷弁護士は通告せる指示にもとづき≫といったような、わけのわからぬ文句で、依頼人への報告書を書きはじめる場合は、その言葉によって六シリング八ペンス〔弁護士の通常の報酬〕を稼ぎだしている感じになるものらしい。笑ってはいけません! 冗談でもなんでもないのです。
おそらく、ヨーロッパ大陸のひとたちは、このような感じをもちますまい。かれらはみな、観念を愛好する人種でして、小売店の主人にしろ農夫にしろ、大部分のイギリス人とちがって、日常、おそろしくむずかしい言葉を、平気でつかっているのです。忘れもしません。かなり以前のことですが、ぼくはパリで運転手をしている友人と、食事をともにしたことがありました。中央郵便局のむかい側にある汚いレストランでしたが、そこの常連というと、運転手とか、荷運び人夫とか、そういった労働者階級の男ばかりだったのです。その連中のいうことを聞いていますと、なんでもない話をしているのですが、ロンドンの運転手では、とうてい理解もできないような言葉を平気でつかっているのでした。|職能上の《ファンクシヨナリ》とか、|忘れ得ざる《アンフォゲッタブル》とか、|根絶する《エックスターミネイト》とか、独立《インディペンデンス》といった言葉が、間断なくかわされているのでした。そしてこの連中は、どれもみな、身分の低い、陽気な赤ら顔の運転手ばかりなんですよ。よろしいですか」
夫人が近よってきて、ペンをとりあげて手渡そうとしたので、トレントはいそいで言葉をつづけた。
「ぼくはただ、説明のために実例をあげてみただけなんです。イギリスの運転手は、もっと教養がなければならんなどといっているのではありません。いや、むしろ、詩人キーツに大賛成なくらいです。≪たのしきかな、わがイギリス。よきかな、飾りなき駁者《ぎょしゃ》たち。われは愛す、その単純素朴なる姿を≫というところですよ。しかし、国として、産業を統率する頭脳力の構成分子たる人々の問題となると……おや、あなたは……」
「もう、たくさんですわ!」マンダーソン夫人はさけんだ。「そのようなお話はおやめになって、マーロウさんへの手紙をお書きになって! いまさら、おやめになるわけにはいきませんわ。さあ!」と彼女は、かれの手にペンをにぎらせた。
トレントは、いかにも気がすすまぬ顔つきで、ペンを眺めながら、
「ぼくのおしゃべりは、腰を折らないほうが賢明ですよ」と、がっかりしたようにいった。「いっしょに暮らすには、おしゃべりな人間より、ものをいわぬ男のほうか、始末のわるいものです。無口の人間には注意しなければなりませんよ。じつのところ、ぼくはこの手紙を書きたくないのです。うまくありませんな。こんな種類の手紙は書きたくないし、あなたとはおなじ部屋にいたいし、ふたつの気分が一致してくれないので――」
彼女は、かれがさきほどまで腰かけていた書きもの机の前の椅子に、かれをひっぱって行って、やさしくそこへかけさせた。
「とにかく、お書きになってみてください。わたくし、なにをお書きになるか拝見したいのです。そして、書きあがりしだい、マーロウさんのところへ送りますわ。ほんとうのところは、わたくし、この状態を、このままそっとしておきたいのです。でも、あなたがどうしても、真相をご存じになりたいとおっしゃるので、それでしたら、できるだけはやくするにこしたことはないと思うのです。さあ、はやくお書きになってください。お書きになるおつもりなら、すぐにでもおできになるんでしょう――お書きになりしだい、すぐ送りとどけますわ。面倒な手紙などは、一刻もはやくポストに入れて、とり返したいと思っても、どうにもできないようにしてしまったほうがよいと思いますのよ。いくらさわいでも、あとの祭りだという状態にしてしまったほうが――」
「そのとおりかもしれませんね」
とかれもいって、用紙にむかった。そして、発信場所はかれのホテルにしておいた。マンダーソン夫人は、やさしい光を眸《ひとみ》に浮かべて、うつむいたかれの頭の、やや乱れた髪をなでつけるような手つきをしてみせた。しかし、髪には手を触れず、黙って、ピアノのところへ歩みよると、しずかにそれを弾きはじめた。十分ほどして、トレントが口をひらいた。
「もしかれが、なにも説明したくないという返事をよこしたら、どうします?」
マンダーソン夫人は、くるりと、うしろをふりかえった。
「あのひとは、そんな返事をするわけがありません。あなたから告発されないように、弁明するにちがいないのです」
「しかし、ぼくには告発する気持はありませんよ。第一、そんなことはあなたがゆるさんでしょう。さっきも、そういっておられたようでしたね。しかし、かりにあなたがゆるしたにしても、ぼくにはその意志がないのです。それに、いまとなっては、すっかり自信を喪失してしまいましたし――」
「でも」と彼女は笑って、「あなたに告発なさる意志がおありにならないということが、あの気のどくなマーロウさんに、どうしてわかるとお考えになりますの?」
トレントはため息をついて、
「紳士淑女の道というのは、まったくやっかいなものですね!」
と、ばく然といった。「それはぼくだって、かっとなれば、どんなことをするかわかりませんよ。あとで後悔するにしましてもね。それも、あなたのようなかたなら、非常に恥ずかしく思うようなことを、です。たとえば、ひどい侮辱をくわえたやつに、一発食らわせるとか、まっ暗な部屋で、むこうずねをすりむいた場合、人に聞かせられぬような悪態をつくとかいったことをです。しかし、いまあなたが、ぼくにやらせようとしているのは、ちょっとちがいますね。無言の圧迫をくわえて、マーロウ君をおどかすようにけしかけている。地獄の破廉恥《はれんち》な鬼でもしないことです。犯罪でもおかしているようで、ぼくにはどうも気がすすみませんよ」
そうはいうものの、かれはやっと、書きはじめた。夫人はやさしい微笑を浮かべて、ふたたびしずかにピアノを弾きだした。
数分してからトレントがいった。
「どうやら書きあげました。お見せしますか?」
彼女は、うす暗くなった部屋のなかを、小走りに走りよって、書きもの机のそばの読書用スタンドをつけた。そして、かれの肩によりかかるようにして、その手紙を読みだした。
[#ここから1字下げ]
マーロウ殿
昨年六月、マールストンにおける不幸なる事件のさい、小生とお会いになったことは、たぶんご記憶のことと存じます。
あの場合、新聞社を代表するものとして、故シグズビー・マンダーソンの死亡事件を調査するのが、小生の役目でした。その調査の結果、小生はある結論に到達しました。それが、どのようなものであるかは、新聞社へ送るために書いた原稿を同封しておきましたから、ご一読ねがえればおわかりのことと思います。そして、とくに理由を申しあげるまでのことはないと考えますが、けっきょくこの原稿は、新聞紙上に発表せず、貴殿にもお知らせせぬままに葬り去りました。したがって、この原稿に眼を通した者は、小生をのぞいて、ただふたりあるだけです。
[#ここで字下げ終わり]
ここまで読んでマンダーソン夫人は、手紙から眼を上げ、黒い眉をよせて、
「ふたりですって?」
といぶかしげにたずねた。
「もうひとりというのは、あなたの叔父さんです。昨夜、あのかたを訪ねて、事情をいっさい、お話ししました。迷惑だったでしょうか? これ以上、あのかたにかくしておくことは、耐えられなくなったからです。この事件の捜査で、ぼくの発見したことは、なんであろうと、あのかたには打ちあける約束になっていたのです。黙っていることは、かくしだてをしているように思われましたのでね。もうそろそろ、最終的にはっきりさせなければならぬ時ですし、あなたのお話をうかがって、あなたをかばう必要のないこともわかりましたので、これまでの経過をすべて、カプルズ氏にお知らせしようと思いたったのです。あのかたはあのかたらしく、なかなかどうして、するどい助言をしてくれました。ぼくがマーロウ君と会う場合は、カプルズ氏に同席していただくつもりでおります。こちら側からみますと、かれとの会見は、ひとりよりもふたりのほうが有利ですからね」
彼女は吐息をもらした。
「もちろん、叔父に真相を知っておいてもらうのは結構ですけど、それ以外のかたでしたら、絶対、知らせないようにしていただきたいのです」と彼女は、トレントの手をおさえて、
「わたくしとしては、あのようにおそろしいことは、そっくりそのままふかいところへ埋めてしまいたいのです。わたくし、いまでも幸福ですけど、あなたがそのせんさく癖をじゅうぶん発揮なさって、あの事件の真相をつきとめ、それを土の下に埋めてしまってくだされば、もっともっと、幸福になれると思いますのよ」
そしてそのあと、彼女はまた、手紙を読みつづけた。
[#ここから1字下げ]
しかし、ごく最近になって、新しく二、三の事実を知ったために、従来の結論は変更せざるをえなくなりました。そして、小生はいぜんとして、発見した事実を公表する意図をもっていませんが、貴殿にご面接のうえ、貴殿のご説明をうけたまわりたいものと考えるにいたりました。貴殿としても、この事件を新しい角度から見なおすだけの根拠をおもちであれば、かならずや小生との面会をご快諾なさるものと確信しております。
貴殿にお会いする日時と場所とをご通知ねがえれば仕合わせですが、小生のホテルにてご面接いただければ、さらに好都合と考えます。いずれの場合にせよ、貴殿もご承知の、カプルズ氏に同席ねがいたいと思っております。なお、同氏はすでに、同封の原稿を読みおわっておられることを申し添えます。
フィリップ・トレント
[#ここで字下げ終わり]
「まあ、なんというかたくるしい手紙でしょう!」と、彼女はいった。「ご自分のお部屋でお書きになったのなら、こうまでかたくるしくはならなかったでしょうに」
トレントは、その手紙と原稿とをいっしょに、細長い封筒にいれて、
「おっしゃるとおりです」と、いった。「おそらくマーロウ君は、突然このようなものを受けとって、ぎくっとするにちがいありません。しかし、ぼくたちとしては、この封筒にまちがいが起こらぬように、万全の注意をはらわなければならんでしょう。直接、マーロウ君の手にわたすようにいいつけて、使いの者を送るのが、いちばんよい方法と思いますね。かれが留守のときはもち帰るよう。絶対おいたままにしてこないように、いってやってください」
彼女はうなずいていった。
「それでしたら、わたくしが手配いたします。ここですこし、お待ちねがいますわ」
マンダーソン夫人が部屋へもどってきてみると、トレントは楽譜棚のなかをかきまわしていた。彼女はかれのそばの、絨毯の上に膝をついて、
「うかがっておきたいことがあるのですが、フィリップ」と、いった。
「ぼくが知っている範囲のことでしたら、なんなりと」
「昨夜叔父とお会いになったとき、わたくしのこと――いえ、わたくしたちのこと、お話しになりまして?」
「話しませんでした」と、かれは答えた。「たしかあなたは、だれかに知らせるといったことには、触れなかったはずですよ。いますぐ世間に発表するか、あるいは、もうすこしあとまでのばすか、それをきめるのは、あなただと思いましたのでね。そうではなかったのですか?」
「では、叔父にはあなたから、お知らせをねがいますわ」彼女は、握りしめた自分の手に眼をやったまま、「あなたから話していただきたいのです。その理由は、おわかりになると思いますが……これできまりましたわね」
彼女はふたたび眼をあげて、トレントの眼をみつめた。そしてしばらく、ふたりのあいだに、沈黙が流れた。
かれはほっとした様子で、椅子にふかく、身を沈めて、「なんというすばらしさだ!」と、いった。「メイベル、情熱的にすぎず、刺激のつよくない、純粋に歓喜だけをあらわしている曲を弾いてください。全宇宙を肯定しているよろこびを表現した曲が聞きたいのです。こういった気分は、いつまでもつづくものではありませんから、味わえるときに、十二分に味わっておきたいのです」
彼女はまた、ピアノの前へ歩みよって、なにごとか考えながら、キイをたたいていたが、やがて、第九交響曲の主題を、全霊こめて弾きはじめた。それは、天国の扉のひらく音のように鳴りひびいた。
[#改ページ]
一五 裏の裏
セント・ジェイムズ公園を、はるか下に見おろす窓ぎわに、どっしりした古い樫材の机がおいてあった。かなりの広さの部屋で、よい趣味をもった人によってしつらえられた調度類と装飾にかざられていたが、現在住んでいる独身者にとっては、かえってなにかと重荷であり、扱いかねるといった風情だった。ジョン・マーロウは机の鍵をあけて、インク壷のうけ穴のうしろから、細長いかさばった封筒をとりだした。そしてかれは、カプルズ氏にいった。
「あなたはこれをお読みになったそうですね」
「二日前に、はじめて読みましたよ」と、カプルズ氏は答えて、ソファに腰をかけたまま、おだやかな面持で、部屋のなかを見まわしながら、「そして、それについて、トレント君とじゅうぶんに討議をつくしたものです」
マーロウは、トレントのほうへむきなおって、
「これがあなたの原稿です」と、封筒を机の上においていった。「ぼくも三度、読みかえしました。ここに書いてあるだけの事実をつきとめられるのは、あなたをおいて、ほかにはないと思いました」
トレントは、そのような賛辞には耳もかさずに、机のそばの椅子で、長い脚を組みあわせ、石のように黙したまま、暖炉の火をみつめていた。そして、しばらくしてから、その封筒をひきよせると、トレントはいった。
「きみはむろん、ここに書いてある以上のことを、われわれに話してくださるのでしょうね。真相が、どのように意外であっても、われわれは驚かぬつもりです。はやく、聞かせてもらいましょう。おそらく、お話は長いものになると思いますが、いくら長くても、ぼくはいっこうにかまいません。完全に納得できるまでうかがいたいのです。まず、その予備知識として知っておきたいのは、マンダーソンの人柄と、きみとかれとの関係です。ぼくは最初から、故人の性格が、この事件の重大な要素になっていると考えていたのです」
「ご推察のとおりです」マーロウはそっけない言い方をして、部屋を横ぎり、クッションのついた高い炉格子のはしに腰をおろした。「では、あなたのいわれた話からはじめます」
「その前に断わっておきますが」トレントは、マーロウの眼をのぞきこんでいった。「ぼくはきみの説明を聞きにきましたが、まだいまのところでは、この原稿に書いてある結論があやまりであると、考えなおしたわけではないのですよ」と、封筒をたたいてみせて、「きみがこれから話されることは、自己弁護として聞いておきます――おわかりでしょうね?」
「わかっています」
マーロウは、はっきりした態度で答えた。あくまでも冷静だった。一年半前に、マールストンで会ったときの、疲れはてた神経質なマーロウと、これが同一人物とは思えないほどだった。その長身の、しなやかなからだには、見ちがえるほどのたくましさが充実しているのだった。しかし、眉にあふれる誠実さ、澄みきった青い眼は別として、考えをまとめるためにためらっている様子を見ると、はじめて会ったとき、トレントを悩ました異様な感じが、いぜんとして残っているように思われた。ただ、ひきしまったその唇の線だけは、容易ならぬ事態におかれている立場を自覚し、それと対決しようとする意志の力を示していた。
「シグズビー・マンダーソンは、正常な精神の持主とはいえませんでした」マーロウは落ちついた声で語りだした。「ぼくの見たところ、アメリカの富豪たちは、その異常な貪欲《どんよく》、異常な努力と能力、そして異常な幸運とが因となって、たいていが異常な精神の持主になっているようです。かれらのうちには、知性というにたるべきものをそなえている人物はいないのです。マンダーソンが蓄財によろこびを感じ、たえずそれに熱中し、非凡な意志の力を駆使し、幸運にもまためぐまれていた点、すべて他の富豪たちと異なるところはありませんでしたが、ただ、ちがっていた点、卓越していたところは、まれに見るその知力でした。アメリカ人にいわせますと、かれのもっともいちじるしい特性は、目的をとげるためには、どのような無慈悲な行為でも、敢行できるところにあったそうです。しかし、それはかれひとりにかぎりません。計画を立てることさえできれば、その遂行のためには、他人の迷惑など考えない――そういった人たちは、めずらしいどころか、驚くほど大勢いるものです。
といってぼくは、アメリカ人には知性がないといっているわけではありません。国民そのものとしては、われわれイギリス人よりも、十倍は聡明といってよい連中です。しかし、マンダーソンが蓄財のために行なった事業の裏づけをなしている機敏さと先見の明、記憶力と精神的な粘りづよさ、それにくわえて、あのようにするどい知力をそなえた人間は、かれ以外には見あたるものではないといいたいのです。
新聞紙上では、かれを称して、≪ウォール街のナポレオン≫と呼んでいました。その文句が、どれほどの真実さをもっていたかということは、ぼく以外の人間には、完全にわかっていたとはいえないと思います。まず第一に、かれは自分の利益になることであれば、絶対に忘れることのなかった男でした。ナポレオンが軍事上の問題を処理したとおなじ組織的な方法で、かれが事業上の問題を処理していたことは、ナポレオンに関する書物をお読みになればわかることです。かれはつねに、石炭、小麦、鉄道、その他なんであれ、こと企業に関することであれば、要約された報告を手もとにおいて、ひまさえあれば、眼を通していたのでした。それによってかれは、どの事業家よりも大胆で、かつ賢明な計画を、つぎつぎと打ちだすことができました。ほかの事業家たちもみとめていましたが、マンダーソンという男は、すでに内容のわかりきった仕事には手を出さず、いつも世間の意表に出る計画を立てる人物だったのです。あれだけの成功をとげた理由の大部分も、おそらくはそこにあったと考えられます。かれが、本腰を入れて乗りだしたといううわさが立つと、ウォール街は大さわぎになるのがつねでした。そして、かれの敵も、クロケット大佐の探険談に出てくる連中のように、いとも簡単に、かぶとをぬいでしまうのでした。これから申しあげるかれの計画も、通常の人たちならば、相当ながい時間をかけて考慮したことでしょうが、マンダーソンにかぎっては、計画全体の細部にいたるまで、ひげを剃っているあいだにつくりあげることができたのでした。
マンダーソンの狡猾《こうかつ》さと無慈悲さは、わずかながらインディアンの血がその血管に流れていることに関係があると考えます。この血統の問題は、運よくも、かれ自身とぼくのほかには、知る人間もなくてすみました。ぼくが系図学に趣味をもっていることを知りますと、かれはそのあいまいな家系を調べてくれと頼んできました。そのときぼくは、かれがイロクォイ族の酋長モントウアと、そのフランス人の妻の血をひいていることを発見したのでした。その妻というのはおそろしい女で、二百年ほど前、ヴァージニア州北東部の森林地帯で、インディアン族のあいだに、残酷な政治による支配力をふるっておりました。マンダーソンの祖先は、そのころ、ペンシルヴァニアの州境で、毛皮の商いを業としていましたが、その仲間の何人かは、インディアンの女と結婚しています。その後もひきつづき行なわれた結婚で、モントウア以外のインディアンの血もはいっている可能性もあります。もちろん、その女たちの系図は不明です。しかし、アメリカの全土が、文明の光に浴するにいたるまでには、その先覚者たちは何代となく、こうした未開社会に立ちまじって生きてきたのです。
研究の結果、アメリカ人の系図構造には、土着のインディアンの血が、想像以上に大量に流れこんでいること、しかもその現象が、意外なほど広範囲にひろがっていることがあきらかにされています。新しく移住した家族は、古くから住んでいる家族と結婚しますが、その古い家族たちには、土着のインディアンの血を受けついでいる者が多かったのです。往時は、むしろそうした血統が、誇りとみられた場合もあったそうです。しかし、マンダーソンはその血統を恥じました。大戦後、黒人の問題がやかましくなるにつれて、かれのそうした気持は、ますますつよくなっていったと思われます。
かれはぼくの説明を聞いて、非常に驚き、だれにもそれをもらさぬようと頼みまして、必要以上に隠匿《いんとく》に気をつかっていました。もちろんぼくは、かれが生きているあいだ、だれにももらしたことはありません。かれにしても、まさかぼくが、この秘密をもらそうとは考えていなかったでしょう。しかし、そのとき以来、かれの混血の魂は、ぼくに対して、嫌厭《けんえん》の情を抱きだしたように思われました。このことは、かれの死亡前、一年ほどのときに起こったのでした」
「マンダーソンは、はっきりした宗教的立場をもっておりましたかね?」
突然カプルズ氏が、口を出したので、ほかのふたりはびっくりした。マーロウは、ちょっと考えこんでいたが、
「それについては、耳にしたことがないのです。ただ、ぼくのみたかぎりでは、礼拝とか祈祷とか、そういった宗教的儀式は、かれに無縁のことでしたし、宗教について口にしたのを聞いたこともありません。神という観念を、ほんとうに心にもっていたのか、また、感情を通じて、神の存在を知ることができたのか、はなはだ疑問だと考えます。しかし、子供のころのかれは、きびしい道徳に律せられた宗教的教育を受けたように思われます。その私的生活の面は、世間的な見解からいうと、清潔そのものといえました。喫煙をのぞけば、禁欲的というにちかい習慣を身につけていました。ぼくはマンダーソンと、四年のあいだいっしょに暮らして、かれがいろいろな形式で、相手を欺瞞《ぎまん》する行為に出るのを見てきましたが、直接ぼくにむかって、言葉のうえで嘘をついたことは、一度もありませんでした。平気で、他人を欺《あざむ》く行為をあえておかし、あらゆる術策を弄《ろう》し、市場の攪乱《かくらん》をはかってきた男の心に、瑣末《さまつ》なことにしろ、直接、面とむかって、嘘をつくことはしないという気持が、同時に存在しうるというのが不思議なくらいでした。
とにかく、マンダーソンというのは、そうした人物でした。しかし、ほかにもこんな例がないわけではありません。たとえば兵士の心理状態がそれです。兵士は、ひとりひとりを個人的に見れば、誠実な男であったにしても、敵を欺く必要が生じた場合は、いささかの躊躇《ちゅうちょ》もしないでしょう。勝負の法則を守りさえすれば、それもまた、ゆるされることなのです。実業家の多くは、同様のことが、事業の世界にもゆるされると考えているにちがいありません。かれらの場合は、つねに戦争状態とかわりがないのですから」
「悲しい世界だな」
と、カプルズ氏がつぶやいた。
「そのとおりです」と、マーロウもうなずいて、「ところでぼくはいま、マンダーソンの口から出たことは、そのまま受けとってまちがいないと申しあげました。しかし、かれが死んだ夜、ぼくははじめて、かれの口から明白な嘘を聞きました。そして、それを聞いたばかりに、ぼくは殺人犯として絞首台に送られるのをまぬがれたのです」
マーロウは頭の上の電燈をみつめた。トレントは落ちつきを失なった様子で、椅子のなかでからだを動かしていた。
「そのまえに」とトレントはいった。「きみがマンダーソンのもとで働いた数年間、かれとの間柄がどのようなものであったか、そこを正確に話してもらえませんか?」
マーロウは答えた。
「ぼくたちの間柄は、最初から最後まで、しごく具合よくいっておりました。むろん、友情といったものではありませんが、だいたいかれは友人をつくるような性分ではないのです。しかし、信頼された使用人と雇用主との関係としては、最高にうまくいっていたと思います。ぼくはオックスフォードを卒業すると、すぐにかれの秘書として雇われました。最初の予定では、現在やっていますように、父の事業を手伝うことになっていたのですが、一年か二年のあいだ、世間を知るために、他人の下で働いてきたほうがよいというのが、ぼくの父の意見でした。いろいろと変わった経験ができると思いまして、ぼくもすすんで、この秘書の役をひき受けたのです。そして、一年か二年という話が、とうとう四年になって、けっきょくはあのような終局をつげることになりました。もっとも、かれがぼくを秘書にしたいといいだした理由は、就職の資格として、誇りをもって話すわけにはいかぬような、いわば最低の技能のためでした。つまりはぼくが、チェスにすぐれた腕をもっていたからなのです」
この言葉をきくとトレントは、意味のわからぬような叫び声をあげ、手をたたいた。ほかのふたりは、驚いてかれを眺めた。
「チェスか!」とトレントはくりかえした。「ぼくたちがはじめて会ったとき、ぼくがまず、なにに気づいたかおわかりですか?」
トレントは、ついに立ちあがった。そして、マーロウのそばへ近づいて、あとの言葉をつづけた。「それはきみの眼でしたよ、マーロウ君。どこかで見たような眼だとは思ったが、いまやっと、それがわかりました。ほかならぬ、あの偉大なチェスの名手、ニコライ・コルチャーギンの眼でした。ぼくはその名手と、おなじ汽車に乗りあわせ、二日間も同室だったことがあるのです。その後も、このチェスの名手の眼は、忘れるはずもなかったのですが、あなたをはじめて見て、どういうものか、はっきり言い当てられませんでした。いや、よけいな話で、失礼しました」
トレントはそこで、いそいで言葉を切ると、ふたたび椅子に身を沈め、大理石のような姿にもどった。
マーロウはそこで、あっさりいってのけた。
「ぼくは子供のころから、チェスをやっていました。しかも、非常に上手な人に相手をしてもらっておりました。そんなものでも、才能といえるのでしたら、ぼくは遺伝的に、天賦の才をもっていたのです。大学では、学業でもほかの学生には負けなかったつもりですが、それ以上に熱を入れたのが、このチェスと演劇研究会でした。もっとも、遊びのほうは、そのほかなんでもやりました。ご存じでしょうが、オックスフォード大学では、勉学はそっちのけで、遊びの誘惑が数かぎりなくありますし、学校当局もそれを奨励しているくらいなんです。
ところで、最後の学期もおわりに近づいたころ、ある日、ぼくはクイーンズ学寮のマンロウ教授に呼ばれました。このひとだけは、ぼくのチェスでは、負かすことができませんでした。教授はぼくの腕前を、相当なものだと賞《ほ》めてくれましたので、それに礼をいいますと、教授はつづいて、狩猟もやるそうだなというのでした。ぼくもまた、ときどきはやりますと答えました。すると、教授はさらに、ほかにもなにか、得意なものがあるのかねとききますので、ありませんねと、ぼくはそっけなくいったものです。教授の質問の調子がこころよく感じられなかったからです――だいたいこの老人は、いつもきまって、相手をむっとさせる話し方を好んでいました。教授はそこで、いよいよむずかしい顔をして、じつは、あるアメリカの実業家の巨頭が、イギリス人の秘書をほしがっていて、あいだに立つ男から、オックスフォードに適当な青年はいないかときかれたのだ。そこで調べているのだがと打ちあけるのでした。その富豪がマンダーソンだったのです。しかし、教授はその名を、聞いたこともなかった様子でした。この老人ときては、新聞はほとんど読みませんし、三十年ものあいだ、ずっと学寮に寝泊まりしているのですから、知らないのも無理はなかったわけです。この老教授の話によりますと、採用のための必須条件は、チェスと乗馬に堪能《たんのう》で、オックスフォード大学を卒業した者ということになっているのだそうで、ぼくが綴字《てつじ》法さえおぼえれば、その職をうるチャンスはじゅうぶんにあるというのでした。
こうしてぼくは、マンダーソンの秘書になりました。ながいあいだ、ぼくはその仕事が、非常に気にいっていました。だれにしたところで、全盛期にある活動的なアメリカの富豪と生活をともにすれば、時間をもてあますなどということは、絶対にないと考えてよいのです。おかげでぼくは、学窓を出たあと、りっぱに生計を立ててゆくことができました。ぼくの父は、その当時、事業が思わしくなく、かなり苦しいおもいをしていたころでしたが、父から小遣をもらわないですんだだけに、ぼくはうれしくてたまらなかったのです。
一年たつと、マンダーソンはサラリーを二倍にしてくれました。かれはそのとき、相当の高額ではあるが、これだけ出しても、まあ、損はあるまいといいました。そのころには、ぼくも朝、乗馬の相手をするとか、夜間、チェスの前に坐るだけではなく、ほかの仕事も、かなりの程度やってのけるようになっていました。はじめは乗馬とチェスだけだった仕事が、邸でも、オハイオ州の農場でも、あるいはまた、メイン州での狩猟でも、馬、自動車、ヨット、すべてのスポーツにわたって、いつもぼくは、かれにつきそっていました。そのために、鉄道旅行の生き字引となり、葉巻の買入れの専門家になってしまいました。どんなことでも、おぼえこむように心がけていたからです。
マンダーソンといっしょに暮らした二、三年のあいだ、ぼくがかれとどういう関係にあったか、以上の話でおわかりになったことと思います。だいたいにおいて、ぼくには楽しい生活でした。いそがしい毎日を送り、仕事にも変化があり、興味ぶかいものでした。それにまた、自分個人も、じゅうぶん遊んで歩く時間と金がありました。一度は、ある娘に夢中になったあげく、いやな思いも味わいましたが、そのおかげで、マンダーソン夫人の、言葉にはいいつくせぬ親身の愛情をくみとることもできました」
マーロウはそこで、カプルズ氏のほうへ首をむけて、
「そのことについては、夫人がお話しになるかもしれませんが、マンダーソンは死亡する数ヵ月前から、かなり様子が変わったようでした。しかし、ぼくに対しては、少しも態度を変えませんで、かれらしい冷たいやり方ではありましたが、いぜんとしてぼくを、申し分ない寛大さであつかってくれました。秘書として雇ったときの条件であるぼくの能力に、かれが不満をもっている感じは一度も受けたことがありません。かれのそうした態度は、最後までつづいていたのですが、その死亡する前夜になって、はじめてぼくに、それまでずっと秘めていたふかくはげしい憎悪を、突然、示しました。ぼくはもちろん、ひどいショックを受けました」
トレントとカプルズ氏は、一瞬、眼と眼を見かわした。
「するときみは、かれから憎まれていることを、そのときまで気づかなかったのですか?」
と、トレントがたずねた。そしてカプルズ氏も、同時にたずねた。
「それはまた、どうしてなんですね?」
マーロウは答えた。
「ほんの少しでも、かれがぼくに悪感情を抱いているなど、あの夜まで想像もしませんでした。いつからかれが、そのような気持をもっていたか、ぼくにはむろんわかりません。なにが原因で、そういうことになったのか、それもまたわかりません。かれが死んだあと、あと味のわるいおもいで、何度もそれを考えてみましたが、けっきょく、狂人によくあるように、ぼくがかれに対して、裏切り行為を企てているといった信念による妄想なのでしょう。それ以外には、理由とて考えられませんでした。気ちがいじみた確信が根底をなしていたにちがいないのです。しかし、底の知れぬ狂人の妄想を、前もって知ることは無理な話です。憎い男を絞首台に送るために、みずからその生命を絶つ人間の心理――そのようなものが、あなたがたには想像できますか?」
カプルズ氏は椅子の上で、ぴくりとからだを動かして、「では、マンダーソンは自殺したといわれるのかね?」
トレントは、いらだつような表情で、カプルズ氏をちらっと見たが、すぐにまた、マーロウの顔に熱心な視線をかえした。いいたいことをいってしまったので、マーロウはほっとしたものか、その顔からは、蒼白さとゆがみとが、ある程度うすれて見えた。
「そのとおりです」
マーロウは簡単に答えて、質問者の顔を、正面から見かえした。カプルズ氏はうなずいて、
「あんたの話を検討する前に」と、抽象科学の問題を論ずるような調子でいった。「そのマンダーソンの心理状態について――」
「マーロウ君の話を、しまいまで聞いてしまおうじゃありませんか」
とトレントは口をはさんで、カプルズ氏の腕に、しずかに手をおいた。そして、マーロウのほうをむきなおると、
「きみはいま、マンダーソンとの間柄について話してくれたわけですが、こんどは、あの夜起こった事実について、話してもらいたいんです」
トレントが≪事実≫という言葉を、わずかに強調していうと、マーロウは顔を赤らめ、身をひきしめた。
「あの日曜日の夜、ぼくとバナーは、マンダーソン夫妻といっしょに食事をとりました」とかれは、ふたたび慎重に語りだした。「その夜のそれは、いつも四人がともにする晩餐《ばんさん》にくらべて、少しも変わったところは見られませんでした。マンダーソンはあまり口をきかず、憂欝そうな顔つきでしたが、そのころはそれが毎度のことだったので、ぼくたちもべつに異様とは思わず、三人で雑談をかわしていました。
食事がおわって、席を立ったのは、九時ごろだったと憶えています。夫人は客間へ行き、バナーは知人に会うために、ホテルへ出かけて行きました。マンダーソンはぼくに話があるからといって、邸の裏手の果樹園までくるように申しました。ふたりは小道を上り下りして、邸からは話し声を聞かれるおそれのない果樹園へ行ったのです。
そこでマンダーソンは、葉巻をふかしながら、冷静な態度で話しかけました。そのときほどおだやかな、ぼくに好意的な態度を見せたことは、かれとしてもはじめてのことと思います。そして、かれはぼくに、ある重大な仕事に手を貸してくれというのでした。非常に大きな事業で、極秘にしてくれなくてはこまるといいまして、それについては、バナーも知ってはおらん。きみもまた、できればその内容を知らぬほうがよい――そんなことをいうのでした。万事、かれの命令どおりに行動して、その理由など、気をまわすなと申しました。
マンダーソンは新しい仕事に着手するとなると、いつもきまってそういったやりかたをするのでした。ぼくにかぎらず、部下を手のうちの道具のように使いたいときは、かならずこういういいかたをするのでした。ぼくもまた、同様なやりかたでつかわれたものです。ぼくはもちろん、ご期待にそうようにいたしますと答えて、用意はつねにできていますといいますと、かれは、いますぐでもいいかねとたずねました。ぼくがまた、結構ですといいますと、マンダーソンはうなずいて――できるだけ、かれの言葉どおりに申しあげるようにしますが――では、いいかね、この仕事で、わしに協力してくれている男が、現在、イギリスにいるのだ。この男が、明日の正午、サウサンプトン出帆、アーヴル行きの船で、パリへたつことになっておる、名はジョージ・ハリスというが――いや、少なくとも、その名でかれは通っているんだよ――で、きみ、この名前に記憶がないかね? とききますので、ぼくはありますと答えました。一週間ほど前、ロンドンへ出かけたとき、明日正午に出帆の予定になっている船に、その名で、船室を予約してくるようにと、マンダーソンから依頼されたのです。その切符は、あなたにさしあげたはずですよといいますと、たしかに受けとった。その切符はここにあるといって、かれはそれを、ポケットから出して見せるのでした。
さてと、マンダーソンはいつもの癖で、ひとことごとに、葉巻のさきを、ぼくのほうへ突き出していうのでした。そのジョージ・ハリスが、明日、ロンドンをたつことができなくなったのだ。かれには、こちらにいてもらわねばならぬ事情が生じたのでね。そうかといって、バナーに行かせるわけにもいかない。しかし、だれかがその船にのって、ある書類を、パリまでとどけなければならぬのだ、さもないと、わたしの計画は水泡に帰してしまう危険があるのだよ。きみ、むろん行ってくれるだろうね? そこでぼくはいいました。むろん、やってのけますよ。そのために、こうして待っていたくらいですからね。
するとかれは、葉巻をかみながらいいました。
よろしい。しかし、これはきみ、ありふれた仕事とはちがうんだぜ。雇主に対して、普通に義務をはたしておればよいという仕事じゃない。要点はこうだ。目下、いそいでまとめねばならぬ取引きがあって、これが、わし自身はいうまでもなく、わしに関係があると見られる者は、ひとりとして表面にあらわれてはならぬ段階にあるんだ。いいかね、ここがいちばん、肝心なところなんだぜ。しかし、相手の男は、わしの顔はもちろん、きみの顔だって知っておる。もしもわしの秘書がパリへわたって、ある連中と会見したことがわかれば――こういったことは、どうやってみたところで知れてしまうものだが――それだけで、すべてはおわりということになるんだ。
かれはそういって、葉巻を投げすてると、こちらの考えを問いただすような顔で、じっとぼくをみつめるのでした。
ぼくは気がすすまなかったのですが、このような緊急の場合に、マンダーソンを失望させてもいけないと思って、気がるに答えました。できるだけ、人に見破られぬようにして、ベストをつくしてみましょうといったのです。そして、つけくわえて、変装にはこれで、相当自信のあるつもりです、といいました。
かれはそれで、安心したとみえて、顔をほころばせてうなずきました。そして、それはありがたい、きみだったら、わしの期待にそむかぬ仕事をしてくれると思っておったといいまして、具体的に、こまかな指示をあたえました。いますぐ、車にのって、サウサンプトンへたってもらいたい。適当な汽車は、いまからではつかまえられぬから、夜どおし、車を走らせてもらうことになろう。事故さえ起こらなければ、朝の六時には到着できるはずだ。サウサンプトンヘついたら、そのままベッドフォード・ホテルヘのりつけて、ジョージ・ハリスをたずねてもらいたい。かれに会ったら、きみがかれにかわって、パリへ行くことになったからといって、すぐかれに、わしのところへ電話をかけさせてくれ。交代の件を、一刻もはやくハリスに伝えることが、大事な点なのだ。
しかし、かれがそこにいるとはかぎらない。きょうわしは、電報で指示をしておいたのだが、あるいはかれ、サウサンプトンへ行かなかったかもしれないのだ。その場合は、きみはもう、あの男のことを気にする必要がない。ただそこで、船の出帆を待っておればよい。車はどこかのギャレジヘ、別の名で預けておくんだな。ただし、わしの名は、絶対つかわぬこと。これを忘れてはこまるよ。変装にも、じゅうぶん気をつけることだ。どんな変装をしようと、それはきみの勝手だがね。
それにまた、ジョージ・ハリスとして船にのることも忘れんでくれよ。どう姿を変えてもよいが、他人に話しかけたりすることは、できるだけ避けてもらうんだな。そして、パリに着いたら、セント・ピータースブルグ・ホテルに部屋をとる。そこできみは、ジョージ・ハリスあての手紙を受けとることになっておる。それには、わしがきみにわたす書類入れを、どこへもっていったらよいかがしるしてある。書類入れには鍵をかけてあるが、あつかいにはじゅうぶん注意してもらうぜ。動きはだいたいこんなところだが、はっきりのみこめたかね?
ぼくはかれの指示を復誦してみました。そして、書類入れをとどけたら、その足で帰国してよいのかとたずねますと、帰りたければ、すぐもどってきてよろしい。しかし、これだけは気をつけてもらいたいな。どのようなことがあっても、旅の途中で、わしとの連絡はしないこと。パリへついて、もし手紙がとどいていなかったら、とどくまで待っていることだ。ことによると、何日かかかるかもしれない。しかし、手紙だけは、どんな簡単なものでも書かないでほしい。わかったね? ではできるだけいそいで、支度をしてもらおう。わしもきみの車で、途中まで、ドライヴすることにしよう。いそいでくれよ。
これでぼくは、あの夜、マンダーソンが語った言葉を、記憶にのこっているかぎり、正確にお伝えしたつもりです。
ぼくは部屋へもどって、昼間着る服に着かえ、必要な品を、いそいで旅行カバンにつめました。そのときのぼくの気持は、命じられた仕事の性質よりは、あまりにも突然な話なので、すっかり混乱しておりました。たしかそれは、この前お会いしたときにも、お話ししたように記憶しておりますが」
といって、マーロウはトレントにむきなおった。
「マンダーソンは、いかにもアメリカの人間らしく、とかくその行動に、小説にでも出てきそうな色あいがついていました。やることはけっきょくおなじなんですが、それをわざと謎めかしてみたり、なるたけ芝居がかったところを見せたがるという趣味があったのです。この場合がちょうどそれで、いかにもマンダーソンらしいことだと感じました。そこでぼくは、カバンをもつと、いそいで階下に降り、書斎にいるマンダーソンのところへ行きました。するとかれは、頑丈な出来の、皮の書類入れをわたしてよこしました。だいたい八インチに六インチほどの大きさで、鍵のついた皮ひもでしめてあったのです。ぼくはそれを、外套の横ポケットに、無理に押しこんで、車を出すために、裏手にあるギャレジヘむかいました。
車を玄関へまわそうとして、ひょいと思い当たりましたが、あいにくとポケットには、四シリングか五シリングしか入れてなかったのです。
あのころ、ぼくは金に不自由していたのです。あとでわかりますが、ここが非常に重要なポイントなので、くわしく申しあげておきます。当時ぼくは、借金で生活しているような始末でした。マンダーソンといっしょにおりますと、とかく金銭にだらしがなくなるのでした。社交的なつきあいも多いことで、友人の数も増しまして、そのなかには、親からの潤沢《じゅんたく》すぎるくらいの仕送りを受けている連中も少なくなかったのです。ことにニューヨークの仲間には、浪費するより能のないやからが多いのでした。しかし、ぼくは相当な高給をもらっていましたし、仕事がいそがしすぎて、かれらとのつきあいに深入りする余裕もなかったので、遊びの金にくるしむほどのことはありませんでしたが、じつは、ちょっとした好奇心から、つい、株式相場に手を出して、大きく失敗してしまったのです。
それも、よくある話で、ことに、ぼくたちのように、ウォール街へ出入りする連中のあいだでは、めずらしいことでもなんでもありません。ぼくも最初は、株なんてやさしいものだと考えていました。もっとも出だしは運がよかったので、用心ぶかくやれば、こんな確実なもうけはないと、たかをくくっていたわけですが、そのうちに、いやでも眼がさめねばならぬときがやってきました。一週間もたたぬうちに、ぼくはバナーの表現によると、金の回転がきかなくなったのです。大きな借金を背負うことになったのも、けっきょくは自業自得で、ついにはマンダーソンに打ちあけて、善処してくれと頼みこみました。かれは苦笑して、ぼくの話を聞いていましたが、やがて、かつて見せたこともないような同情を示して、サラリーで返済することを条件に、適当な金額を貸してくれました。今後は株に手を出すのではないぞ。かれがそのときいったことは、ただ、そのひとことだけでした。
そんな状態ですから、あの日曜日の夜、ぼくのポケットがからであることは、マンダーソンが知らぬわけはないのです。バナーがやはり、ぼくの無一文を承知していましたが、それもまた、マンダーソンが知らぬはずはありません。ひょっとすると、ぼくがつぎの給料日まで、バナーから借金をしていることまで、知っていたかもしれないのです。ぼくのサラリーは、前借金額を引くと、いくらも残らない計算でして、その事実を、マンダーソンが知っていたことは重大な意味をもっていますので、忘れないでおいていただきたいと思います。
そこでぼくは、車を玄関へまわすと、いったん書斎へもどって、マンダーソンにその事情を訴えました。
そのときに起こったことで、かすかではありましたが、ぼくははじめて、なにかおかしいぞと感じました。
ぼくが旅費を請求しますと、かれはすぐ、機械的に、ズボンの左ポケットへ手をやりました。かれはいつも、イギリス金で、百ポンド相当額の紙幣を、小さな紙入れにいれてもっていまして、これは毎日、変えたことのない習慣でした。ところが、かれは入れかけた手をとめました。それを見て、ぼくは不思議に思いました。そして、さらに驚いたことに、かれは聞こえるか聞こえないかといった声で、なにか毒づいているのです。こんなことは、いままでのマンダーソンにはなかったことです。もっとも、これは、バナーから聞いた話ですが、最近のマンダーソンには、バナーとふたりでいるときなど、こんなふうに、癇癪《かんしゃく》を起こすことが、ちょいちょいあったようです。紙入れをどこかへおき忘れたのだろうか? そういった疑問が、ぼくの頭をかすめました。しかし、その程度のことが、かれの重要な計画に、大きな影響をあたえるとも思いませんでした。
その理由をお話ししますと、ちょうどその前の週、ぼくはこまかな用事を片づけに、ロンドンへ出かけ、ジョージ・ハリスのために船室の予約をしたりしたのですが、そのとき、やはりマンダーソンの依頼で、銀行から一千ポンド引き出しているのです。それも、かれの言いつけどおり、小額紙幣ばかりでした。いつもとちがって、こんな多額の現金を、なんのためにおろしたのか、ぼくには理由がわかりませんでしたが、とにかくその札束が、書斎の鍵のかかる机にいれてあることにまちがいはないのです。ぼくはその日の朝はやく、マンダーソンが机の前に腰かけて、札束を数えているのを見かけているのですから。
しかし、マンダーソンはそれをとりに行こうともしないで、ぼくを見つめたまま、つっ立っているのでした。その顔には、怒りの色が浮かんでいましたが、不思議なことに、かれはその怒りを、無理におさえつけて、その眼をまた、もとの冷静さにもどしました。車のなかで待っているがいい、いくらか都合してくるからな。かれはゆっくりそういうと、ぼくとならんで書斎を出て、ぼくがホールで、外套に手を通しているあいだに、客間へはいって行くのでした。それはご存じのように、ホールをはさんで、書斎の、反対側にある部屋でした。
ぼくは玄関前の芝生へ出て、煙草をすいながら、行ったりきたりしていました。あの一千ポンドは、どこへやってしまったのか、そんなことを、くりかえし考えていたのです。客間においてあるのかしら? それもちょっとおかしな話だが、なぜかしらと考えながら、客間の窓の下を通ってみますと、その薄絹のカーテンに、マンダーソン夫人の影が映っているのが見えました。彼女は書きもの机のそばに立っていたようでした。窓はあいていたので、彼女の声が聞こえてきました。
三十ポンドぐらいでよろしかったらありますけど、それで足りますかしら? というのでした。それへの答えは聞こえませんでしたが、つぎの瞬間には、マンダーソンの影が、彼女の影にかさなりあって、ちゃりんという貨幣の音がひびいてきました。そのあと、マンダーソンが窓ぎわへ近よりましたので、ぼくはいそいで、その場を立ち去ろうとしたところ、こんどはかれの言葉が耳にはいりました。あまりにも意外な言葉で、いまでもぼくの記憶に、はっきりと焼きついていますので、正確にくりかえすことができるのです。――ちょっと外出してくる。マーロウから月夜のドライヴをすすめられたのさ。いっしょに行けといって、どうしてもきかないんだ。かれ、おそろしく熱心でね。そうすれば、よく眠れるだろうというんだが、あるいはそのとおりかもしれん――それがそのときの言葉なんです。
過去四年のあいだ、マンダーソンは、大小にかかわらず、直接面とむかった相手に、嘘をついたためしがないことは申しあげました。ぼくはあの人物の、浅薄かもしれぬが、一風変わった道徳観念を理解しているつもりでした。どうしても言い抜けられない質問を受けると、かれは答えることを拒絶するか、あるいは真実を伝えるか、かならずそのどちらかを選ぶものと信じこんでいるのでした。ところが、そのとき聞いた言葉は、なんであったでしょうか? それは、質問されて答えたものではありません。当初からでたらめのことを、自分からすすんで口にしたのでした。想像もできぬことが起こったのです。それは、もっとも親しい友人が、たがいに気持が触れあっている瞬間に、いきなり、ぼくの顔をなぐりつけたような感じでした。頭に血がのぼって、ぼくは芝生の上に、立ちすくんでしまいました。
玄関に、かれの足音が聞こえましたので、ぼくは気をとりなおして、いそいで車のそばへ近よりました。マンダーソンは、金貨や紙幣のはいった銀行の紙袋を、ぼくの手にわたして、これだけあれば、じゅうぶんすぎるくらいだろうといいました。ぼくはそれを、機械的にポケットヘつっこみました。
気持が、そのように興奮しているときには、なかなかむずかしいことでしたが、ぼくはマンダーソンと、それから行なわれるはずの、ながい自動車旅行について、道順その他を、立ち話で語りあいました。昼間、その道を走ったことが数回ありましたので、わりあい自然に、話しあうことができたのです。しかし、話のあいだに、疑惑と恐怖が、洪水のようにおしよせてきて、ぼくはたちまち、その波に巻きこまれてしまいました。なにがこわかったのかわかりませんが、ただなんとなく、マンダーソンという男がこわくなったのです。一度、そう感じると、恐怖の潮が、つぎからつぎとわき起こってくるのでした。なにかいやな予感がして、自分が狙われているような気持になってきました。といって、マンダーソンが、ぼくの敵であるはずはありません。そこでこんどは、ぼくの心は、なぜかれは、あのような嘘をついたか? そういう疑問の答えを求めだしたのです。心臓の鼓動は高鳴り、のべつまくなしに、あの千ポンドはどこへ行ったんだという疑問が耳に鳴りひびいてくるのでした。このふたつの疑問をむすびつける必要はないのだと考えて、ぼくの理性が、ぼくの心を納得させようとするのですが、危機を予想する人間の本能は、そんな声には、耳を貸そうともしないのです。
ぼくたちふたりは、車で出発しました。しかし、車をまわして、公道へ出ても、ぼくは無意識に車を操縦しているだけで、月光の下をすべるように走りながらも、口ではなにか、意味もないことをつぶやきつづけました。心は千々《ちぢ》に乱れ、はっきりした恐怖よりも、もっともっと、たちのわるい、ばく然とした不安におののいているのでした。
ご存じかと思いますが、邸から一マイルほどのところで、左側に門があり、その反対側がゴルフ場になっている場所を通ります。そこまで走ると、マンダーソンは降りるといいだしました。ぼくが車をとめますと、かればもう一度、万事、のみこんでくれたねと、念をおすようにいいました。ぼくはやっとの思いで、記憶を呼びもどし、かれからもらった指示を復誦して聞かせました。かれはよろしいといって、そのあと、では、行ってきたまえ、書類入れの件を忘れずにな、と念をおしたのが、ぼくの聞いたかれの最後の言葉でした。ぼくはかれと別れて、しずかに車を走らせました」
マーロウはそこで、椅子から立ちあがると、両手で眼をおさえた。自分の話に興奮して、頬を紅潮させているのだが、そこに、恐怖の思い出が浮かんでいるのを、ふたりの相手は見逃がさなかった。かれは、犬のようにからだをふるわせ、手を背後に組んで、暖炉の前に立ちはだかるようにしながら、ふたたび話のさきをつづけた。
「おふたりとも、自動車のバック・ミラーをご存じでしょうね?」
トレントは、そのさきの話に期待をかけて、顔の色までかがやかせてうなずいた。カプルズ氏は、自動車に対して、過激とはいえぬまでも、頑迷固陋《がんめいころう》な偏見をもって、その利用を拒んでいたので、あっさりと知らないことを白状した。
「それは小さな円形、もしくは長方形の鏡なんです」と、マーロウが説明をくわえた。「運転台の正面の風防ガラスの右側につき出ていて、うしろから車が追い越そうとするのを見てとるためのものです。これさえあれば、運転手はふりかえらずに、それと知ることができる仕掛けなんです。どの車にもついている装置で、むろん、ぼくの車にもありました。車が走り出して、マンダーソンの言葉が聞こえなくなったとき、ぼくはバック・ミラーのなかに、終生忘れないであろうものを見てしまったのです」
マーロウはそこで、ちょっと言葉を切って、眼の前の壁をみつめていた。
「それは、マンダーソンの顔なのです」とかれは、低い声でつけくわえた。「ぼくを見送って、数ヤードうしろの道路に立っているのですが、月光が、それをまともに照らし出しているのでした。そしてその顔を、バック・ミラーがとらえたのです。
身にしみこんだ習慣というのは、じつに不思議なものでして、ぼくはあのようなショックを受けても、奇跡的にハンドルから手をはなさず、着実安全な運転をつづけておりました。それにしても、おそろしい形相《ぎょうそう》でした。あなたがたもなにかの書物で、人間の眼のうちに浮かぶ地獄の悪鬼といったものを読まれたことでしょうが、そのときのそれは、そんなものにでも喩《たと》える以外にいいようのないおそろしさでした。そこにマンダーソンが立っているのを知らなかったら、ぼくもおそらく、それがだれの顔であるかわからなかったと思います。荒々しい憎しみにゆがめられ、白い歯をむきだし、勝ち誇った残忍さをうかべて、猿のような薄笑いをたたえているのでした。ぞっとするような狂人の顔です。その顔が、小さな鏡のなかに、ちらっと映ったのです。月光に照らし出されて、蒼白くひきつった面が、ぼくを睨《にら》みつけているのが見えただけで、そのほか、かれがどんな身振りをしていたか、そこまでは眼につきませんでした。それも、ほんの瞬間で、車はスピードを増して、すすんで行きました。そのあいだに、疑惑と当惑の雲が、急速に吹きはらわれて、ぼくの頭脳は、足もとで動いているエンジンのように、いそがしく回転しはじめました。ぼくにはやっと、事態を知ることができたのでした。
トレントさん、あなたは、あの原稿のなかで、人間の頭脳に、それまで渦巻いていた雑然とした考えが、急に自動的に整理されて、問題を一気に解決する新しい考えが浮かびあがることがあるといっていましたね。たしかにそのとおりです。そのときも、ぼくを背後からみつめている眼に燃えあがる敵意のはげしさを見てとると、たちまちそれが、サーチライトのように、ぼくの心を照らしてくれるのでした。ぼくはそのあと、冷静に事態を考えてみることができました。だれを怖れなければならぬかは、それまでにもわかっていたのですが、いまは、なにを怖るべきであるかまで知ったのです。そしてまた、感情に溺《おぼ》れている場合ではない、そんな余裕も時間もないのだということを、本能が教えてくれました。マンダーソンは、狂人のように、ぼくを憎んでいるのです。信じられぬようなこの事実を、ぼくはたちまち悟りました。だれもが感づいたことでしょうが、かれの顔には、憎しみ以上のものがあらわれていたのです。それは、憎しみを満足させた顔であり、呪うべき勝利をかちえて、有頂天になっている顔でした。ぼくがそれと知らずに、破滅へむかって追いつめられていくのを、心地よげに眺めている顔だったのです、ぼくにははっきり、その間の事情がわかりました。それにしても、ぼくはいったい、どのような破滅の淵《ふち》へ追いこまれることでしょうか?
ぼくは、そのさき、二百五十ヤードほど行ったところで車をとめました。道がするどく曲がっているので、さっきマンダーソンをおろした場所は、そこからでは見えません。ぼくは座席によりかかって、さらにまた、考えなおしました。なにかおそろしいことが、ぼくの身の上に起こることになっているのだ。それは、パリであろうか? きっと、そうにちがいない。でなければ、金と切符をもたせて、パリまで行かせる必要がないではないか。しかし、なぜ、パリでなければならぬのか? それを考えると、わけがわからなくなります。パリがとくに、メロドラマにふさわしい土地とも思えないからです。そこでぼくは、その点はしばらくおくとして、その夜、気のついたほかのことに、考えをむけました。ぼくが月夜のドライヴに、無理にかれを誘ったという嘘のことです。その嘘の目的はなんであろうか? ぼくに考えられるところでは、こうしてサウサンプトンヘむかっているあいだに、マンダーソンはひとりで邸へ帰ることになる。そしてかれは、ぼくについて、どんなことをいうつもりだろうか? ひとりで、車にものらず、邸へもどることを、どう説明するのだろう? この不気味な疑問に悩んでいるあいだに、ふと、ぼくの心に、最後の難問が浮かびました。あの千ポンドは、どこにあるのか? そして、ほとんど同時に、答えが出ました。千ポンドは、ぼくのポケットのなかにあるのだ!
ぼくは車から出ました。膝頭はふるえ、胸がわるくなってきました。かれの策略が、はっきり読めたとわかったからです。書類の件や、それをパリへ送りとどける話は、全部つくりごとだったのです。おそらくマンダーソンは、ぼくがその千ポンドを盗んだと公表することでしょう。ぼくはかれの金を身につけて、どう見ても犯罪者としか考えられぬ恰好で、イギリスから逃げ出そうとしていたのがあきらかにされるのです。かれは警察へ通告して、ぼくを追跡させるにちがいありません。ぼくはたとえ、パリまで行けたにしても、変名で車を預け、変装し、これまた偽名で予約しておいた船でイギリスを去り、パリに滞在しているところを捕えられるにきまっています。それは、金にこまった男か、あるいは、なんとしてでも金のほしい人間のやりそうな犯罪です。どのように事情を説明したところで、ぼくの言葉が信じてもらえないのは、眼に見えております。
ぼくを罪におとしいれようとする、おそろしい意図が判然としましたので、ぼくは書類入れをポケットからとりだしてみました。そのときは、緊張のあまり、ぼくの考えにあやまりはなく、かならずそこに、金がはいっているものと、かたく信じて疑いませんでした。その書類入れは、その程度の札束は楽に入れられるものですが、手で重さをはかってみますと、札束のほかにも、なにかはいっているように感じられました。あまりにもかさばりすぎているのです。ぼくを罪におとすために、札束以外に入れるとしたら、なんであろうか? 考えてみれば、千ポンド程度の金額は、ぼくのような男が、刑務所行きの危険を犯してまで、盗みとるほどのものではありません。この新しい疑惑に興奮して、ぼくは無意識のうちに、皮帯のとめ金をつかんで、とめ金と錠とをひきはがしてしまいました。ご承知のように、こうした書類入れの錠は、かなりもろいのがふつうなんです」
ここでマーロウは、いったん言葉をきって、窓ぎわにおいてある樫材の机のそばへ歩みよった。引出しをあけると、雑多な品物がいっぱいつまっていたが、そのなかから、鍵を入れてある箱をとりだして、ピンク色のテープで、目印をつけてある小さな鍵をぬき出した。
かれはそれを、トレントの手にわたした。
「これがそのときのおそろしい記念品ですが、しまっておきました。ぼくがこわした錠の鍵なんです。それがあのとき、ぼくの外套の左側のポケットに入れてあったのですが、それと知ってさえいたら、あんな面倒なことはしなくてすんだのです。外套のポケットへ入れたのは、いうまでもなくマンダーソンで、邸のホールにかけてあったときか、または、車でかれが、ぼくのとなりにかけていたときに、すべりこませたものにちがいありません。ちっぽけなものですから、わるくすると、数週間も気づかなかったかもしれませんが、ぼくはそれを、マンダーソンが死んで二日たったあと、見つけ出したのです。警察の手にかかれば、五分とたたぬうちに発見されたでしょうがね。そんなわけで、書類入れをポケットへ入れ、偽名をつかい、変装用の眼鏡をかけているぼくは、警察官の質問に、なんと答えたらよいのでしょうか? 鍵がポケットから出てきても、そこにあるのを知らなかったといいはる以外に、弁明のしようもなかったわけです」
トレントは、テープをもって、ただなんとなく、鍵をぶらさげてみていたが、
「この鍵が、書類入れの鍵だということが、どうしてきみにわかりました?」と、性急にたずねた。
「ためしてみたのです。見つけるとすぐに、二階まで行って、錠にさしこんでみました。書類入れをどこにおいたか、おぼえていましたのでね。あなただって、ご存じのはずでしたがね、トレントさん? ちがいましたか?」
マーロウの声には、かすかではあるが、からかうようなひびきがあった。
「やられましたね」とトレントは苦笑して、「たしかにぼくは、マンダーソンの部屋の化粧台の上に、ほかのがらくたとまじって、こわれた錠のついている大きな書類入れを見ましたよ。きみがそれを、あの場所へおいたというのですね。そこまではわからなかったが――」
とかれはいって、口をとじた。
「かくすまでの必要がなかったからです」と、マーロウがいった。「しかし、話をもとへもどしますと、ぼくは皮帯の錠をこわし、車のライトの前であけてみました。最初に眼についたのは、ぼくの予期していたものでしたが、そのほかに、意外なものが出てきたので驚きました」
かれはまた、話をとぎらせて、トレントの顔を見た。
「それはつまり」
トレントも思わず、口を出しかけたが、すぐに思いとどまって、
「これ以上、謎をもちこまないでもらいたいものですね」と、相手の視線にこたえるようにいった。「すでに、ぼくの原稿のなかで、きみの頭脳明断なことには、じゅうぶん敬意を表してあるつもりです。それをわざわざ、証拠までつきつけて、立証する必要はありませんよ」
「わかりました」と、マーロウはうなずいて、「つい、癖になっていますもので。あなたでしたら、もっとはやく、なかにマンダーソンの紙入れがはいっていたことに気づかれたことでしょう。ぼくはそれを見て、さきほど旅費を請求したとき、かれの手もとに紙入れがなく、こちらが驚くほど、腹を立てていたことを思いだしたのです。かれはその小さな紙入れを、ぼくが盗んだと思わせるほかの品といっしょに、書類入れのなかに包みこんでしまったのでした。あけてみますと、いつものように、何枚かの紙幣がはいっていました。もっともぼくは、それを数えようともしませんでしたが――
それに、大きい書類入れのほうには、ぼくがロンドンからもちかえった紙幣が、束のままで入れてありました。そして、それといっしょに、よく見かけたことのある鹿皮の袋が、ふたつも入れてあるのでした。まったく思いがけないものだったので、ぼくの心臓は、気持わるいほど、はげしい動悸を打ちはじめました。かなり以前から、かれは金にあかしてダイヤモンドを買い漁《あさ》っていましたが、それが袋にいれてあったのです。ぼくは、この袋もまた、あけてみようとしませんでしたが、手で押さえてみただけで、なかにダイヤモンドがはいっているのがわかりました。何千ポンドの値打ちがあるのか、見当もつきませんでしたが。ぼくたちは、マンダーソンがダイヤモンドを買い集めていたのは、投機のためだと思いこんでいたのです。いまにして思えば、それもまた、ぼくに汚名をきせるために、はやくからとりかかっていた工作でした。ぼくのような男が、他人のものを盗むとなると、よほどつらい誘因《ゆういん》がなければなりません。その誘因が、ちゃんとここに、用意されてあったのです。
これでやっと、かれの計画の全貌がわかりました。なんとか、対抗手段を講じなければなりません。と思うと同時に、なすべきことが、瞬間的に頭に浮かびました。邸から一マイルほどの場所で、ぼくはマンダーソンをおろしました。かれが邸へもどるには、いそいで歩いて十五分、ふつうの足では、二十分程度はかかるでしょう。もちろん、邸へもどれば、かれはすぐに、盗難にあったことを家人に語り、ビショップスブリッジの警察へ電話するにちがいないのです。ぼくがかれと別れたのは、五分か六分前のことで、いまあなたがたにお話ししたことは、そのみじかい時間に、すばやく考えをまとめたことなのです。かれが邸へたどりつく前に、追いつくのはたやすいことですが、顔をあわせれば、気まずい思いをしなければならぬのもわかりきったことです。しかし、面とむかって、ぼくの考えをいってやれば、さぞ気持がいいだろうとも思われたので、恐怖心もすっかり消え失せました。マンダーソンと顔をあわせるのを、愉快と思うような人間は、そうめったにいるものではありませんが、なんにしても、ぼくの心は怒りに狂っていたのでした。ぼくの名誉と自由は、かれの憎むべき陰謀によって、危機に瀕《ひん》していたからです。かれと顔をあわせたあとがどうなるか、そこまでは考えてもみませんでした。どうにでもなれ、といった気持だったのです。
そこでぼくは、車をもときた道へもどし、ホワイト・ゲイブルズ荘へむかって走らせました。そのときでした。ぼくは、右手の前方にあたって、一発の銃声を聞いたのです。
とっさに、ぼくは車をとめました。乱暴な考えかたですが、その銃声を、マンダーソンがぼくを狙って射ったものと思いこんだのです。しかし、すぐにその銃声が、それほど近くでひびいたものでないことに気づきました。月の光で、公道はあかるく照らし出されていましたが、人影はひとつも見られません。マンダーソンと別れた地点は、そこから、ほぼ百ヤードほどさきの角をまがったところです。一、二分して、ぼくはまた車を走らせ、ゆっくりとその角をまがりました。そこでまた、いそいで車をとめると、すこしのあいだ、しずかに車内に坐っていました。
門をはいってみますと、五、六歩さきの芝生の上に、マンダーソンが死骸となって倒れているのでした。月の光で、それがはっきり見てとれました」
そこでまた、マーロウは言いよどんだ。トレントは眉をよせて、さきをうながした。
「ゴルフ場でですか?」
カプルズ氏も口を出して、
「なるほど、そういうわけか。あそこはちょうど、第八コースの芝生になっておる」
氏はマーロウの話がすすむにつれて、しだいに興味を湧かしてきた様子で、興奮しながら、うすいあごひげをいじっていた。
マーロウはつづけた。
「ホールの旗のすぐ近く、芝生の上に、両手をひろげ、上着と外套の前をひらいて、仰向けに倒れていたのです。その蒼白い顔とワイシャツの上に、月光が異様にかがやいていました。むき出しの歯と、片方の眼が、やはり月光に、きらきらと光っているのでした。もう一方の眼は……ごらんになったとおりの始末です。こと切れているのが、はっきりと見てとれました。ぼくはその瞬間、なにを考えることもできず、呆然自失といった状態で、ただそのまま、その場へ坐りこんでしまったのです。一筋、どす黒い血の流れが、射ち抜かれた傷痕から、耳へかけてしたたっているのです。すぐそばに、かれの黒いソフトがころがっていて、足もとには、ピストルが落ちていました。
しかし、ぼくが、死体をみつめていましたのは、ほんの数秒のあいだと思います。やがて、立ちあがって、よろめく足をふみしめながら、死体のそばへ近づいて行きました。やっとこれで、真相がわかりました。おそるべき危険が、間ぢかに迫っているのが、ひしひしと感じられました。この狂人の狙いは、ぼくの自由と名誉を奪うだけでなく、ぼくの生命まで奪い去ることにあったのです。かれはぼくが、絞首台の恥ずかしめをうけることを望んでいたのでした。ぼくを破滅させるために、なんのためらいもなく、おのれ自身の生命まで犠牲にするつもりだったのです。おそらくかれは、そのはるか以前から、自殺したいというかなしい衝動に駆られていたのでしょう。自殺行為の最後の苦しみも、ぼくを道連れにできると考えただけで、悪魔のようなよろこびに変わっていったにちがいありません。その瞬間、ぼくの立場は、絶望的とさえ思われました。マンダーソンから、盗賊として告発されると考えただけで、おそろしい結果が眼に見えているのに、いままた、その死体を証拠にしてまで、ぼくを殺人犯として訴えようとしていることを、どう処置したらよいのでしょうか?
ぼくはピストルを拾いあげました。それが、ぼくの所有物だとわかりましたが、なんの感情もわきませんでした。マンダーソンは、ぼくが車をまわしているあいだに、それを、ぼくの部屋からもちだしたにちがいありません。それと同時に、ぼくは思いだしました。かれは以前に、同型のピストルとまちがうといけないという理由で、ぼくのピストルに、頭文字を彫《ほ》れとすすめたのでした。
ぼくは死体の上にかがみこんで、生きかえる見こみがないのを見とどけると、ほっとしたものを感じました。ここでぼくは、かれが犯人と格闘したと見られた手首のひっかき傷には、気づいていなかったことを申し添えておきます。これについては、そのときはもちろん、あとになっても、まったく気づかなかったのです。ぼくはいまでも、あれはマンダーソン自身が、自殺の直前、自分の手で傷つけたものだと考えております。それもつまりは、かれの計画の一部だったにちがいないのです。
ぼくには、こまかいことはわかりませんが、その死体を眼にした瞬間、マンダーソンの意図が見てとれました。かれはこの世と別れをつげるまで、検死審で自殺説など出ないよう、ぼくを殺人犯として、のっぴきならなくさせる工作を忘れなかったのです。できるだけ腕を伸ばして、苦労してピストルを射っていることが一目瞭然でした。それで顔には、硝煙の痕も、火傷も残っておりません。傷口はきれいなもので、流血もほとんどとまっていました。ぼくは立ちあがって、ぼくを破滅させようとする諸点を、いちいち検討しながら、芝生の上を歩きまわりました。
ぼくは、マンダーソンと最後にいっしょにいるところを見られています。かれは夫人に、マーロウから無理に誘われて、月夜のドライヴに出かけるのだと嘘をついております。あとで聞いたことですが、執事にも同様なことをいっていたそうです。そのままかれは、邸へもどらなかったのです。それに、かれを殺した凶器は、ぼくが所持しているピストルです。むろんぼくは、かれの陰謀を見抜いたおかげで、逃走、変装、財宝の所有といったような、罰を重くする罪状をかさねることはしなくてすみました。しかし、それがこのさい、なんの役にたつでしょうか? すでにそのときのぼくは、あらゆる希望を断たれた立場におかれていたのです。ぼくはいったい、どういう手段を講じたらよかったのでしょうか?」
マーロウは、机に近づいて、その上に腕を立て、からだをのり出すようにしながら、おそろしいほどの熱をこめていった。
「そのときのぼくの心理状態を諒解していただきたいのです。話がくどいとお考えかもしれませんが、どうしても申しあげておく必要があるのです。あなたがたは、そのときぼくがとった行動を、ばかげたことだとお考えかもしれませんが、しかし、けっきょくのところ、ぼくはそれで、警察に疑われずにすんだのです。ぼくは、チェス盤にむかっているときとおなじに、あらゆる点にわたって検討しながら、十五分ほど芝生の上を歩いていたと思います。さきのさきまで、冷静に読みぬく必要がありました。ぼくの立場を安全にするためには、おそらくはこの世で、もっともぬけめないと思われた頭脳が考えぬいた計画を、根底からくつがえしてしまう以外には、その方法がなかったからなのです。それに、ぼくを破滅させようというかれのプランには、まだこのほかにも、あくどい手段がかくされている危険が予想されるのでした。
対応策として、ふたつの方法を思いつきました。そのどちらをとっても、身の危険が、かならず避けられるとはいえないように思われるのですが、まず、ぼくにできることからいいますと、なにもかも、正直に打ちあけてしまうことです。死体を邸へ運びこみ、事実をそのまま話して、金やダイヤモンドをかえし、あとは正義の裁《さば》きに身をゆだねて、救いを待つということでした。
しかし、この考えを思いついたとき、ぼくは思わず笑いだしてしまいました。実際のところ、これまでぼくに対して、ひとことだって、文句らしい文句もいったことのない男が、このぼくに気ちがいじみた憎しみをいだき、おそるべき陰謀をたくらんでいたなど、いくらぼくが説明してみたところで、信じる者はないにきまっています。死体を運んで、しどろもどろに、釈明につとめている自分の姿を想像して、笑わずにはいられない気持でした。それからみても、たしかに狡猾《こうかつ》なマンダーソンは、ぼくよりも先手先手と打っているのでした。かれが細心の注意をはらって、内心の憎悪をかくしていたことは、その謀略の特徴を如実に示すものでした。鉄のような自制心をそなえた男でなければ、とうていできることではないのでした。
あなたがたもそうお考えになると思いますが、ぼくがいまお話しした事実は、マンダーソンの死という事実の前には、いかにも拙劣《せつれつ》なつくり話としか思えません。ぼくはその話を、弁護士に説明している自分を頭に描いてみました。聞いている弁護士の顔が、眼に浮かんでくるのでした。かれの心が、手にとるようにぼくにはわかりました。言いわけも程度がある。いつまでも厚かましく、ごたくばかりならべていると、死刑を一等減じてもらうチャンスまでがなくなってしまうのだ――おそらく弁護士は、そう考えるにちがいないのです。
事実、ぼくは逃亡しませんでした。死体を邸へ運んで、金もダイヤモンドも部屋へもどしました。しかし、それがなんの助けになったでしょうか? 主人を殺したあとで、急におじけづいて、盗んだ金と宝石をつかんでいる勇気を失なったと思われるだけです。おそらくぼくは、最初は脅迫するだけで、殺すまでの考えはなかったのだろうが、気がついてみると、殺人を犯していた。そしてそのあげく、気が転倒して、そうした後始末に狂奔《きょうほん》したのだと思われるのがおちでしょう。どう考えてみても、この程度の手段では、助かる見こみはないように思われました。
二番目にできることというと、見えすいた方法ではありますが、あたえられた状況にしたがって、すぐに逃亡することでした。しかし、これとても、救われる望みのないことは確実です。死体がそこに存在することが、第一の難点です。組織的な捜査をされても、しばらくは発見されない方法が講じられれば別ですが、かりにその方法があったにしても、実行しているだけの時間はありません。
ぼくが死体をどう処置しようと、あと二、三時間して、マンダーソンが帰宅しないことがわかれば、大騒ぎになるにきまっています。執事のマーティンは、自動車事故かと察して、警察へ電話するにちがいありません。暁方には、道路という道路は捜査され、各方面に問い合わせが行われることでしょう。警察では、犯罪の可能性もあると考えて、活動を開始すると思わねばなりません。マンダーソンが失踪したといえば、社会的にいって、重大事件です。警察としても、精力的に捜査網をひろげることでしょうし、港や鉄道の終着駅は監視されるにちがいないのです。二十四時間以内には、死体が発見され、ぼくは全国に指名手配されます。ほとんど全ヨーヨッパに手配されることでしょう。あらゆる新聞が、マンダーソンの死を、全世界にむかって叫びつづけている以上、マンダーソン殺しの犯人と目《もく》される男が、無事に存在していられる場所を、キリスト救国にさがし求めることは、まず、不可能といわねばなりますまい。他国の人間とあれば、ひとりのこらず疑われ、男も女も、そして子供までもが、捜査に協力するにちがいないのです。どこへ車を乗りすてようと、ぼくの足跡は、即刻さがし出されるにきまっています。どちらの方法をとっても、まったく望みはないと見なければならぬのですが、かりにそのうち、ひとつを選べといわれれば、信用されるとも思えませんが、事実をありのままに打ちあけるほうを選ぶべきだと、ぼくは心にきめたのでした。
しかし、事実よりも、さらにもっともらしく聞こえる話をつくり出せぬものかと、ぼくは絶望しながらも、なお考えつづけました。なにかうまいつくり話で、絞首刑を免れることはできないものか? つぎからつぎと、さまざまな考えが思い浮かびましたが、いま、そのひとつひとつを、くどくどと申しあげる必要はありますまい。どれをとっても、それぞれに危険があり、意味もないものと思われました。ぼくがマンダーソンを誘い出して、外出したまま、かれが生きてもどってくる姿は見られなかったという事実の前には、どのような嘘も影うすいものといわねばなりません。ぼくは死体のそばを行きつもどりつしながら、考えぬいた結果、どの考えも、思いきって捨ててしまうことに決心したのです。時がたつにつれて、運命がぼくの上に、いよいよ重苦しくのしかかってくるように感じました。そのとき、突然、ある不思議な考えを思いついたのです。
マンダーソンが夫人にむかって、ぼくに誘われて外出するといった言葉を、歌のくり返しかなにかのように、半ば無意識に、何度となくつぶやいていたのです。≪マーロウから月夜のドライヴをすすめられたのさ。いっしょに行けといって、どうしてもきかないんだ。かれ、おそろしく熱心なんだ≫という言葉をです。別にそうするつもりがあったわけではないのですが、そのとき、はっと気づいたことには、ぼくはマンダーソンの声をまねて、それをつぶやいているのでした。
トレントさん、あなたにはすでに発見されていますが、ぼくは物真似については、天才的とまでいわれたことがあります。夫人よりもながいあいだ、マンダーソンといっしょにいたバナーでさえも、ぼくがまねるマンダーソンの声色が、あまりにも巧みなので、何度か欺《だま》されたといっているくらいなんです。ご承知のように」
そこでマーロウは、カプルズ氏のほうにむきなおって、「かれの声はかん高い金属音のよく通るものでした。真似してみて、聞き手をびっくりさせたくなるような、ちょっとめずらしい声なので、それだけにまた、真似もしゃすいものなのです。ぼくは例の言葉を、もう一度、気をつけて口に出してみました。こんなぐあいに――」
とマーロウは、その言葉をつぶやいてみせた。カプルズ氏はあまりの巧妙さに、驚きの眼をみはった。
「そしてぼくは、そばの低い柵をたたいて、大声でいいました。マンダーソンは、生きて邸へもどらなかったとでもいうのか? そうはいかんぞ。生きたまま、邸へ帰らせてやるんだ!
三十秒とたたぬうちに、ぼくの頭に、計画のあらましがまとまりました。こまかなところまでは、考えている時間がありませんでしたが、だいたいの輪郭はできあがったのです。とにかくいまは、一分一秒を争う場合です。そこでぼくは、死体をかつぎあげると、車の床にのせて、膝かけでおおいました。帽子とピストルもひろいあげました。芝生の上には、その夜起こった事件の手がかりになるものは、なにひとつ残さなかったつもりでおります。
ホワイト・ゲイブルズ荘に車を走らせているあいだに、ぼくの計画は、急速にかたちを整えてゆきました。この胸が、興奮でふるえました。まだ、助かるみこみがある! 勇気さえあれば、それほど、むずかしい仕事ではないんだ。よほど異常な、予想外のことが起こらないかぎり、失敗するおそれはない。ぼくは大声をあげてさけびたいような気持になりました!
邸に近くなったので、ぼくは車のスピードをゆるめて、道路上を慎重に観察しました。動くものの気配は、なにもありません。邸の庭のはずれにある小さな木戸から、二十歩ほど手前のところで、道路の反対側の空地に、車を乗り入れて、乾草の山のうしろにとめました。
ぼくはそれから、マンダーソンの帽子をかぶり、ピストルをポケットに入れ、死体をかつぎあげると、よろめく足を踏みしめながら、月光に照らされた道路を横ぎって、木戸から庭へしのび入りました。そのときはすでに、落ちつきをとりもどして、あとは敏速に行動し、勇気さえくじけなければ、かならず成功できると確信をもつことができたのです」
マーロウはそこで、長いため息をついて、炉端のふかい椅子にからだを沈めた。汗に濡れた額を、ハンカチでぬぐっている。聞き手のふたりも、しずかにふかく、息を吸った。
「そのあとのことは、あなたがたのご存じのとおりです」
と、マーロウはいって、そばの箱から煙草をとって火をつけた。トレントはその手が、かすかにふるえているのを見守っていた。そういえば、トレントの手も、多少はふるえているようだった。
ちょっと間をおいてから、マーロウはまた、言葉をつづけた。
「あなたに見破られた靴のことですが、あれをはいているあいだ、ぼくはがまんできぬほどの痛みで苦しみぬきました。しかし、どこかが破れたことには気がつきませんでした。死体をおいた小屋のまわりや、小屋と邸のあいだのやわらかい土の上に、ぼくの足跡を残してはならぬと思いましたので、木戸からはいると、すぐに自分の靴はぬいで、かれの靴に、無理して足をつっこんだのです。ぼくの靴、上着、外套は、あとですぐに身につけられるように、死体のそばにおきました。フランス窓の外のこまかい砂利の上にも、部屋のなかの絨毯《じゅうたん》にも、はっきりした足跡を、わざといくつか残しておいたのです。死体の上着類をそっくりぬがせました。かわりに茶色の背広を着せ靴をはかせて、小物をポケットにつっこんでおく仕事は、身の毛もよだつような思いでやりとげました。口のなかから、義歯をとりだすのが、いちばんいやなおもいのする仕事でした。それに首が――いや、そんなことまで、お聞きになりたくはないでしょう。しかし、そのほうは夢中だったせいか、案外感じないですみました。なにしろ、絞首台の輪縄《わなわ》から、こちらの首をはずそうと、躍起《やっき》になっていたのですからね。ワイシャツの袖をおろすのと、靴のひもをきちんと結んでおくこととは、つい、うっかりしてしまいました。時計をいつもとちがうポケットに入れたのも、あわてていたための失敗でした。とにかく、大いそぎで、やってのける必要がありましたもので。
しかし、ついでに申しあげておきますが、ウィスキーの件は、あなたがたのあやまりです。一ぱい、飲んだことは飲みましたが、あとは、戸棚の上にあった懐中壜につめこんで、ポケットにしまいこんでおいたのです。その夜は、まだまだ心配なことや骨が折れるであろうことが、いっぱい目前にひかえていましたし、どうやってそれに耐えてゆけるか、予測もできませんでしたので、ドライヴの途中で、一、二はいは飲む必要があると思ったからです。
そういえば、あなたの原稿では、あの夜の自動車旅行について、すこし時間に余裕をもたせすぎた感があります。あの状態の車で、六時半までにサウサンプトンへ到着するには、どんなにはやく飛ばしても、おそくとも十二時までには、マールストンを出発していなければならぬとありましたが、ぼくが死体に、別な服を着せ、ネクタイや懐中時計をつけおわったのが、すでに十二時を十分すぎていました。それから、車にのって、出発しなければならなかったのです。しかし、あの深夜に、ヘッドライトもつけずに車を飛ばすのは、相当な冒険でした。いま、思いだしても、身が凍るような気持がしてきますよ。
そのあと、邸のうちでしたことでは、とりたてて申しあげるようなこともありませんでした。マーティンをさがらせておいて、つぎにとるべき行動を慎重に考えながら、ピストルの弾丸を抜きとって、ハンカチとペン軸で掃除をしたのです。ロール蓋のついた机を、マンダーソンの鍵であけて、札束と紙入れとダイヤモンドとをしまいこむと、また、もとのように、鍵をかけておきました。
二階にあがるときが、いちばん心配でした。マーティンは調膳室にいましたから、見とがめられるおそれはありませんでしたが、二階の廊下をうろうろしている者がいないともかぎりません。ほかの召使が寝しずまったあとで、フランス人の女中が廊下をうろついているのを、いくどか見かけたことがあったからです。バナーが熟睡する性質であることは知っていました。マンダーソン夫人は、日ごろの口ぶりから察しますと、十一時までには眠ってしまうようでした。だれもが知っているような不幸な結婚をしていたのに、あのような美しさと若さとを保っておられたのは、安眠なさるせいだと、ぼくは思っていました。しかし、なんといっても、二階へあがるのは不安な仕事でした。階上で、ちょっとでも物音がきこえたら、すぐに書斎に逃げこむ用意をしていましたが、さいわいなことに、なにごとも起こらず、無事に計画を果たすことができました。
二階の廊下へたどりついて、最初にぼくがしたことは、まず、自分の部屋へはいって、ピストルと実弾とを、ケースのなかにしまいこむ仕事でした。それがすむと、電燈を消して、ぼくはこっそり、マンダーソンの部屋にしのびこみました。
そこで、ぼくがしなければならなかった仕事は、先刻ご承知のことと思いますが、まず靴をぬいで、ドアの外におき、マンダーソンからぬがせてきた上着と、チョッキとズボンの中身を全部とりだして、黒いネクタイもいっしょにそこにおき、死体に着せるための背広と、ネクタイと靴とを選びだすことでした。そして、洗面台からベッドのそばへ移したガラス鉢に、かれの義歯を落としこみました。そのときに、あなたに見出だされたあの致命的な指紋がついたのでしょう。引出しのほうの指紋は、ネクタイをとりだしてからしめたときにつけたものにちがいありません。それから、ぼくは一度、ベッドの上に横になって、皺《しわ》をつけておく必要がありました。これらはすべて、ご存じのことばかりですが、ぼくのそのときの心理状態だけは、あなたがたにも想像のできぬくらいのものでした。ぼくとしても、とても言葉などでいいあらわせることではありませんでした。
ところが、このような作業にとりかかろうとしますと、とたんに、最悪の事態が生じました。眠っているとばかり思っていたマンダーソン夫人が、突然、部屋から声をかけてきたのでした。いちおうは、こうしたことが起こるのも、計算にはいれておきました。たしかに、その可能性があったからですが、しかし、いざ起こってみますと、そこはやはり、あわてぬわけにいきませんでした。だが……
ついでに申しあげておきますと、ぼくの当初のプランでは、マンダーソン夫人が、予測に反して眼をさましていた場合は、彼女の部屋の窓から逃げだすことは思いとどまって、たとえ、数時間かかろうと、そのままマンダーソンの部屋に待機しているつもりでした。そのあと、彼女には口もきかずに、玄関からこっそりと逃げだす計画だったのです。そのころまでには、マーティンもベッドにはいってしまうでしょうし、玄関を出るときの物音は聞かれるにしても、姿だけは見られずにすむと思ったからです。
死体の処置は予定どおり行なわねばなりませんが、そのあと、できるだけいそいで、サウサンプトンへ車を走らせることです。しかし、その場合には、朝の六時三十分にホテルに到着して、アリバイをつくりあげることは不可能です。そのときは、まっすぐに桟橋へ行って、わざと人目につくような恰好で、人探しをしていればよいと考えていました。いずれにしても、船が正午に出帆する相当前に、桟橋へ到着していなければならない。想像だけで、ぼくに殺人犯の嫌疑をかけることもないでしょうが、万一、疑われた場合には、かれを射殺してから、サウサンプトンまで、そんなにはやく着くことは不可能だと弁明するつもりでいました。それには、おそくとも午前十時までに、サウサンプトンに姿を見せていないことには、その釈明さえ怪しくなってきます。そのかわり、その時刻に桟橋をうろついていれば、マンダーソン家を出発したのは十時三十分だが、途中、車に故障が生じたので、手間どったといえばよいのでした。
そして、それでもぼくが怪しいというのであれば、その証拠を出してくれというまでです。そんな証拠が出せるはずはありません。ピストルは堂々と、ぼくの部屋においてあります。かりにそれが、殺人の凶器として使用されたことがわかっても、だれかほかの者がつかったにちがいないと、いいはればよろしい。邸ヘマンダーソンがもどったことが信じられているかぎり、だれもぼくを、殺人と関係があると主張できないはずです。そして、マンダーソンが邸へもどったことは、だれひとり疑いをもつはずがないと、ぼくは確信をいだいておりました。
しかし、それでもぼくは、絶対的に殺人とは無関係だという根拠をつくっておきたかったのです。それで、十倍も安心していられるからです。そこで、マンダーソン夫人の寝息のぐあいから判断して、彼女がまた眠りにおちたと知りますと、ぼくは靴下のまま、彼女の寝室を横ぎって、十秒とかからぬうちに、包みをかかえて、芝生の上におり立ちました。物音はまったくたてなかったと信じています。窓の前のカーテンは、やわらかで厚手のものだったので、すれ合う音も立てず、ガラス扉をすこし押しあけたときも、これまた、まったく音を立てませんでした」
マーロウは、新しい煙草に火をつけようとして、話を中断した。トレントがすぐに、話しかけた。
「邸からぬけ出すのに、きみは大きな危険を犯して、マンダーソン夫人の寝室を通りぬけましたね。その理由はなぜなのか、それをうかがいたいと思います。ぼくが実地に調査したところ、邸をぬけ出るには、側面からが一番よいことを知りました。反対側の窓から出ると、マーティンや、ほかの召使たちの眼にとまるおそれがありましたからね。しかし、夫人の寝室があるがわには、空いている部屋が三つもありましたよ。客用の寝室がふたつに、夫人の居間がありました。マンダーソンの部屋で、きみは計画どおりの仕事をすませたあと、いまいった三つの空室のどれからかぬけ出したほうが、はるかに安全ではなかったのでしょうか……きみが彼女の寝室の窓から出たという事実は――」かれはそのあと、冷やかな口調でつけくわえた。
「この事件があかるみにでた場合、あらぬ嫌疑を、夫人自身の上にかける可能性がありましたよ。むろんきみには、ぼくのいう意味がわかるはずですがね」
マーロウは顔を赤くして、トレントヘむきなおった。
「その点、あなたには諒解していただきたいんです、トレントさん」と、ややふるえ気味の声でいった。「そういう可能性のあることを、そのときぼくが知っていたら、夫人の部屋からぬけ出るようなまねはしませんでした。当然、別の危険を犯しました。なるほど、そういわれれば、その可能性もありました!」
そしてかれは、前よりは冷静になってつけくわえた。
「夫人の性格を知らぬ相手でしたら、あのかたが夫殺しのたくらみに関係があったのではないかと考えるのも、無理でないかもしれませんが――こういう表現が、お気にさわったらゆるしてください」
その言葉とその口ぶりを聞いていて、トレントの眼に、ちらっと赤信号があらわれたが、かれはわざと気づかぬふりをして、煙草の火を見つめていた。
しかし、トレントのそうした感情も、すぐに消えていったとみえて、かれもまた、マーロウに負けぬくらいの冷静さでいった。
「ぼくのいう可能性を、そのとき、きみが気づいていなかったことは、信用させてもらいましょう。しかし、そのこととは別に、ぼくがいまいったように、ほかの部屋の窓から出たほうが、より安全だったのではないでしょうか」
「そうお考えになりますか?」と、マーロウはいった。「どっちみち、そのときのぼくは、そうするだけの気力がなかったのです。ぼくはマンダーソンの部屋へはいると、半分怖ろしさで、ドアをしめてしまいました。問題をそのかぎられた部屋に集中したかったのです。その部屋での、予測できる危険というと、たったひとつしか考えられません。それは、マンダーソン夫人によって起こる危険だけでした。仕事はだいたい片づいたところですし、予期したように彼女は眼をさましましたが、そのあと、ふたたび、眠りに落ちるのを待てばよいのでした。思いがけぬ事故さえ起きなければ、道は確実にひらけていたのです。
しかし、となりの部屋へはいりこむためには、ぼくはもう一度、ドアをあけて、廊下へ出なければなりません。ワイシャツと靴下だけの姿で、マンダーソンの服や靴をかかえこんでいる恰好を想像してごらんなさい。廊下は、奥の窓からさしこむ月の光で、あかるく照らし出されておりました。いくら顔をかくしてみたところで、ぼくの立っている姿を見て、マンダーソンと思いこむ者はありますまい。マーティンが、邸内を見まわっているかもしれないのです。いつバナーが、寝室から出てこないともかぎりません。寝ているはずの召使のだれかが、向こうの廊下から、ひょっこり顔を出すおそれもありました。それまでにも、セレスティーヌが、そんなおそい時刻に、廊下をうろついているのを見たことがあるのです。ふつう、起こるわけはないのですが、しかし、ぼくには、あるいは、といった気持がありました。要するに、不安だったのです。ただひとり、マンダーソンの部屋にとじこもって、ぼくはこれから直面することになるであろう事実を、はっきりと悟りました。服のまま、マンダーソンのベッドに横たわり、ひらいたドアのむこうに聞こえている夫人の寝息に、耳をすませていますと、まだ懸念のほうはつよく残っていましたが、死体をはじめて見たときよりは、ずっと気持が楽になりました。マンダーソン夫人がぼくに話しかけたために、ぼくがサウサンプトンまで使いに出されたことを、もう一度、夫人に告げることができました。それによって、ぼくの計画を強固にする機会をつかめたことを、むしろよろこびたいくらいの気持になっていたのでした」
マーロウはそこまで語って、トレントの顔を見た。トレントもまた、わが意をえたりといった態度で、うなずいてみせた。
「サウサンプトンでのことは」と、マーロウがつづけた。「ぼくがそこに到着してから、どんな行動をとったか、じゅうぶんご承知のことと思います。ぼくはマンダーソンの口から出たハリスという謎の人物の件を、そのまま受けいれることにして、こちらの都合のよいように利用することにしました。もちろんそれは、優秀な頭脳が周到につくりあげた話で、ぼくなどがとうてい考えおよぶところではないのです。ぼくは出発する前に、書斎からサウサンプトンのホテルヘ、ハリスという男がきているかと、長距離電話で問いあわせましたが、案の定、ハリスなどは泊まっていませんでした」
そこでトレントがすばやくたずねた。
「きみがかけていた電話は、それだったのですか?」
「電話をかけた理由は、マーティンに上着と帽子だけを見せて、顔をのぞかれない用心でした。それはマーティンから見て、ごく自然な、見なれた恰好だったのです。しかし、そうしているうちに、ぼくはむしろ、ほんとうに電話をかけたほうが賢明だということに気づきました。ただかけるふりをしているだけでは、交換手が調査を受けたとき、その夜、ホワイト・ゲイブルズ荘からの長距離はなかったと報告するからです」
トレントがいった。
「なるほどね。ぼくも、最初に調査したのは、その件でしたよ。その電話の呼び出しと、ハリスが姿をあらわさないので帰ることにするという、きみから故人にあてた電報とを調べてみました――このふたつが、とくに重要だと考えられたからなんです」
ひきつったような微笑が、一瞬、マーロウの顔にうかんだ。
「これ以上、お話しすることはないようです。ぼくはマールストンにもどると、わずかに残っていた勇気をふるい起こして、あなたの友人の警部に会いました。つづいて、あなたがこの事件を担当されたと聞いて、ぼくはほんとうに、たいへんなことになったと考えました。いや、それどころではないのです。その翌日、ぼくが死体をおいた小屋のわきから、植えこみのあいだを抜けて、あなたの出てくる姿を見たとき、もっともっとびっくりしました。そして、その場であなたから、犯人として指摘されるのではないかと思っていました。それはそれは、おそろしい瞬間でした。さてお話しすることは、これで全部おわりましたが、あなたはさほど、驚かれないようですね」
そのあと、かれは眼をとじて、しばらく沈黙がつづいた。すると、トレントが突然、立ちあがった。
「反対尋問ですか?」マーロウがからだをかたくして、かれの顔を見あげた。
「とんでもない」トレントは長い手足をのばして、背のびをしながらいった。「足がしびれただけですよ。ぼくに質問はありません。きみの話は、そっくり信用することにします。といって、世間でよく聞くように、きみの顔が、ぼくの好みにあっているとか、うっかりきみにさからうと、厄介なことになるおそれがあるので、それを避けたいからだとか、そのような理由で信用するのではありませんよ。これはぼくのうぬぼれかもしれませんが、どんな相手であろうと、一時間ものあいだ、ぼくにそれとかんづかれずに、嘘の話を聞かせていられるものではないのです。きみの話は、たしかに異常なものでした。マンダーソンも異常な男でしたが、きみもやはり、通常ではありませんな。しかし、きみの行動が常軌《じょうき》を逸していたことはたしかですが、といって、きみがまともな人間らしく行動していたとしたら、裁判官や陪審員たちに、無実を信じさせることができなかったこともたしかです。この事件をふりかえってみて、疑問の余地のない点が、ひとつだけあります。それは、きみがじつに、勇気のあるひとだということです」
マーロウは、顔を赤くして、返事の言葉に迷っていた。かれが口をひらくまえに、カプルズ氏が、かわいた咳《せき》をして立ちあがった。
「わしとしては、あんたが犯人だと思ったことは、一度もないんだ」
マーロウは感謝のおもいと、意外な気持とをまじえて、氏を眺めた。
「しかし」とカプルズ氏は手をあげていった。「聞いておきたいことが、もうひとつあるんだがね」
マーロウは、無言でうなずいた。カプルズ氏はつづけて、「あんたのかわりに、だれかほかの人間に容疑がかかったとしたら、あんた、どうするつもりだったんだね? 裁判にでもかけられることになったらだよ」
「そのときのぼくの義務は、いうまでもなく、はっきりしています。弁護士のところへ行って、真相を打ちあけて、弁護士の手に、すべてをまかすつもりでいました」
トレントは声をあげて笑った。問題がすべて片づいてしまったので、かれはなんとなく、浮きうきする気持をおさえられなくなっていたのだ。
「そのときの弁護士の顔が、眼に見えるようですね」と、かれはいった。「しかし、実際問題として、だれひとり、嫌疑をかけられたものはいませんよ。だれにも、不利な証拠は提出されなかったのです。けさもぼくは、警視庁で、マーチ警部に会ってきました。かれもまた、バナー君の意見にかたむいていて、これはおそらく、アメリカのギャング秘密結社が、復讐をくわだてたのだろうといっていました。これでマンダーソン事件は、全部解決しました。長いあいだ、何人かの人間が苦しみましたが! しかし、おかしなものですな。自分の知能を誇っている人間にかぎって、ばかな真似をするんですからね!」
かれは、テーブルの上にあった分厚い封筒をつかむと、暖炉の火のなかに投げこんだ。
「これがおまえの運命なのだ! おまえがこの世に存在しなくなっても、だれひとりこまるものはないんだぞ。あっ、これはいかん。すっかり、おそくなってしまった――そろそろ、七時ですぞ。カプルズさんとぼくは、七時半に約束があるので、出かけなければなりません。では、マーロウ君。失礼します」
そしてかれは、マーロウの眼をのぞきこんで、
「ぼくはあなたの首に縄をまきつけようとして、あらゆる努力をはらった人間です。だがそれも、事情が事情だったからで、おそらくきみは、ぼくをゆるしてくれるでしょうね。さあ、握手してもらいましょうか」
[#改ページ]
一六 痛手の上に
「七時半に約束があるといってたが、あれはいったい、なんのことですね?」ふたりがアパートの宏壮な入口から出ると、カプルズ氏はすぐに質問した。「そんな約束をしたかしら?」
「もちろん、しましたとも」トレントが答えた。「あなたはぼくと食事をすることになっているのです。こういう場合に、お祝いをする方法といっては、ぼくがあなたに、夕食をおごる以外にないでしょう。いや、それはいけません! ぼくのほうが、さきにいいだしたんですから、今夜のところは、ぼくにおごらせてください。なかなかの難問だった事件が、やっとこれで、真相をあきらかにしたのです――ぼくはこの事件のために、一年以上も悩みぬきました。これが、夕食をおごる理由にならなくてどうします。しかし、カプルズさん、ぼくのクラブヘは行きたくありませんな。今夜はお祝いですからね。ロンドン・クラブなどというところは、いい気持になれる場所ではないのです。うっかりそんなところを人に見られたら、不名誉なうわさをたてられるにきまっていますからな。それに、クラブの晩餐ときては、いつだっておなじものばかりで、料理は変わっても、味はいっこうに変わらないんです。永久不変のクラブの晩餐に、飽き飽きしてる人間は、ぼくばかりじゃない。ほかにも大勢おりますよ。しかし、それもやむをえんことで、これからさきも、がまんしていかなければならんのでしょうが、今夜だけは、われわれの自由にさせてもらいます。なるたけお偉方の集まる場所は避けることです。どうでしょう、シェパードの店は? あそこへ行くとしませんか?」
「シェパードとは何者かね?」
ヴィクトリア街を歩きながら、カプルズ氏がおだやかにたずねた。トレントが、いつに似合わぬはしゃいだ態度を見せるのに驚いているのだった。通りがかりの警官までが、かれの顔を見やって、アルコールのせいと感ちがいしたらしく、その楽しげな様子に、寛大な微笑を送っていた。
「シェパードが何者ですって?」トレントは、ひどく大げさな身ぶりで問いかえした。「こういっては失礼ですが、カプルズさん。そういうご質問はこの不安な現代に流行している、定見のないせんさく癖のあらわれでしょうね。ぼくがシェパードの店で夕食をとりたいというと、あなたはすぐに腕を組んで、いかにも知性を誇るかのように、まだその店のしきいをまたがぬ先から、シェパードとは何者かとつめよってこられる。どうにも賛成できかねる現代精神の悪癖でしょうね。シェパードの店は、夕食を供給する場所なんです。シェパードがどういう人物か、そこまではぼくも知りませんよ。だいたい、シェパードなる人物が実在するのかどうか、そんなことも考えてみたことはありません。なにか宗教に関係のある神話的人物かもしれませんな。多くのアメリカ人の客が、クリストファ・コロンブスなど、生まれてこなければよかったと考えるほど、うまい羊の背肉をたべさせてくれるのが、このシェパードの店なんです……おい、タクシー!」
タクシーが、ゆっくりと、街のまがり角へ近づいてきた。運転手は行先きを聞いて、大仰《おおぎょう》にうなずいてみせた。
「シェパードの店へ行くといいだしたのは、もうひとつ理由があったからです」煙草の火をつけようとあせりながら、トレントがいった。「じつをいいますと、ぼくは、この世でもっともすばらしい女性と結婚することになったのです。これまでの経過を、もう一度ふりかえってみていただければ、あなたにもわかってもらえると思うのですがね」
「メイベルと結婚することになったんだね!」カプルズ氏がさけんだ。「実際、すばらしいニュースだ! よかったよ、トレント君。うれしいことじゃないか! 心から祝福させてもらいますぞ。あんたが上機嫌でしゃべりたい気持、それはよくわかる。当然のことですな。わしにしたって、ずいぶん古いむかしになるが、おなじような経験をしたおぼえがある――あんたの気持に、水をさそうというわけではないが、わしは以前から、そうあってほしいとねがっておった。メイベルはこれまで、あまりにも不幸でありすぎた。彼女は、りっぱな男の好伴侶となるように、人類最高の願いをこめてつくりあげられた女性なんです。しかし、彼女があんたに、どういう感じを抱いておるのか、そこまではわしにもわからなかった。あんたの気持のほうは、相当以前から察しておりましたが」
そしてカプルズ氏は、どのような卑しい相手でも、いつくしまずにはおかぬといった眼をきらめかせて、言葉のさきをつづけた。
「わしの家で、あんたたちふたりが、夕食をいっしょにしたときのことだ。あんたがペップミュラー教授の話をききながら、眼はじっと、メイベルを眺めているのを見て、わしにはそれと、すぐにわかりましたよ。わしは老人だが、そういうことになると、これでまだまだ、勘を働かすことができるんですよ」
「メイベルは、もっとまえから、察していたといっています」トレントは、やや元気のない様子で答えた。「ぼくは、ほんとうのところ、彼女に夢中な態度を、少しも見せなかったつもりです。しかし、なにぶんぼくは、感情をかくすのが下手なもので、あの老ペップミュラー教授でさえ、老眼鏡を通して、感づいたのではないかと考えています。しかし、その当時のぼくは、どのように彼女に夢中になっていたにしても、ただ心のなかの求婚者にとどまっていただけでして――」
いつかトレントも、元気をとりもどした顔つきでしゃべりつづけた。
「ところが、いまはそういかないだけにこまるのです。あなたからのお祝いの言葉には、心からの感謝をいわせていただきます。あなたの気持に嘘がないからです。もしわれわれの行動にまちがっているところがあれば、あなたははっきり、いやな顔をみせる残酷なひとですからね。ところで、今夜のぼくは、ばか騒ぎをしないではいられない気持です。たわいのないことをしゃべりたくてしようがないのです。うるさいでしょうが、がまんしていただきます。それとも、あなたのお好きな昔の歌でも、お聞かせしますか? いつもあなたが歌ってみえたのは、なんでしたっけ? こういうのではなかったですか?」
とかれは、タクシーの床で、器用に足拍子をとりながら、つぎのような一節を歌いだした。
黒ん坊じいさん、木の義足
煙草がなくても、だれにももらえぬ
隣りの黒ん坊、意地わるじいさん
いつもどっさり、煙草をもってる
さあ、合唱してくださいよ!
いつもどっさり、煙草をもってる
「おや、どうしました? 歌わないんですか? 天までとどくような声で、歌ってくださると思っていましたのに」
「わしはいままで、そんな歌は聞いたこともないのだ」カプルズ氏が抗議した。「むろん、歌ったこともありませんぞ」
「ほんとうですか?」トレントが不思議そうにいった。「では、そういうことにしておきましょう。とにかく、これは気持のよい歌ですよ。森のなかの小鳥が全部でさえずっても、この歌には勝てませんね。いまのぼくの気持を、これほどうまくあらわしているものはないんです。知らず知らずのうちに、口にのぼってくるんですよ。政治家バルフォア氏の講演を聞いて、バス・アンド・ウェルズの僧正がいったように、胸に満ちあふれているおもいが、口をついてとび出してくるようなものです」
「その話はいつのことですね?」
カプルズ氏がたずねると、トレントが答えた。
「発病|家禽《かきん》強制届出法案が提出されたときの話です。その法案が、けっきょく陽の目を見ずにおわったことは、あなたもむろんご記憶でしょうが――きましたよ!」
トレントは話の途中でさけんだ。車は横町を走りぬけ、かどをまがって、人通りの多い広い道に出ていた。
「さあ、着きました」
そして車がとまった。
「あれがそうです」
トレントはいって、運転手に料金をはらった。それからカプルズ氏を案内して、テーブルがたくさんならび、人声でざわめいている、鏡板をはりめぐらした細長い部屋へ通った。
「ここが、ぼくらの欲求を満たしてくれるはずの店です。そして、バラの花にかこまれた休息所でもあるのです。ぼくの気に入りのテーブルでは、すでに三人の競馬屋が、ポークをつついておりますから、ぼくたちはむこうがわの隅の席へ行くとしましょう」
トレントは給仕をつかまえて、なにやら熱心に話しあっていたが、カプルズ氏はそのあいだ、楽しい瞑想にふけるように、大きな暖炉の前で、からだをあたためていた。ふたりが席へつくと、トレントはさっそく話しかけた。
「ここの葡萄酒は、正真正銘、葡萄からつくってあるんですが、ところで、飲みものはなにになさいます?」
カプルズ氏は瞑想からさめて、つぎのように答えた。
「ミルク・ソーダをもらうとしますか」
「声が大きすぎますよ」と、トレントが注意した。「ここの給仕頭は、いたって心臓の弱い男でしてね、ミルク・ソーダなんてことが耳にはいったら、びっくりしてぶっ倒れますよ。カプルズさん、あなたはよほど、からだに自信がおありのようですね。それを否定するわけではありませんが、飲みものをまぜて飲むのはよくありませんぞ。その習慣のために、あなたよりずっと丈夫なからだの男が、早死した例があるのを忘れんでください。いまからでもおそくはない、そんなまねはおやめなさい。ソーダなんてものは、トルコの遊牧民にでもまかせるんですな。サモス酒を大いに飲みましょう。さあ、料理がきましたよ」
そしてトレントは、給仕をつかまえて、またなにか、注文の追加をした。給仕は料理をならべおわると、いそいで立ち去った。トレントはこの店で、かなりの上顧客《じょうとくい》とうかがわれた。
「ぼくが前から飲んでいる葡萄酒を注文しておきましたから、ひとつ、ためしてみてください。しかし、禁酒の誓いでも立てておられるのなら、禁酒の聖者の名にかけて、お手もとにある水を飲んでもらいますよ。まちがってもミルク・ソーダなんかを注文して、つまらぬ評判をたてないでいただきたいですな」
「わしはもちろん、そんな誓いは立てておりませんよ」カプルズ氏は、うまそうな羊の肉を眺めながら答えた。「ただ、葡萄酒はどうも苦手でしてな。以前、一壜買いこんで、どんなぐあいかためしてみたことがあるんですが、とたんに気持をわるくしてしまいましたよ。しかし、品質のよくない葡萄酒だったのかもしれない。あんたにおごってもらうんだから、あんたのいうとおり、少し味わってみるとしましょう。このめでたい夕を、わしがどんなによろこんでおるか、それをあんたに知らせるには、なにか変わったことをやってみなければならん。わしとしても、最近、これほど楽しい思いをしたことはありませんからな」
給仕がコップに葡萄酒を満たすと、氏は迷惑そうな表情で眺めていたが、
「マンダーソンの事件も、これで片がついたし、無実の人間の疑いも晴れ、あんたもメイベルも幸福な生活へはいることになった。これがうれしくなくて、どうします。めでたいことが、一度に押しよせてきたようなものだ! さあ、わがトレント君のために、乾杯させてもらおう」
そういってカプルズ氏は、葡萄酒をわずかばかり、口にした。
「あなたはほんとうにいいかたです」トレントは感動していった。「見かけによらず、おおらかな心をもっておられる。象がオペラを指揮することがありえないように、あなたがぼくに乾杯してくださるとは、夢にも思っていませんでした。カプルズさん! あなたの唇が、いつまでもバラ色に染まっているように、大いに飲んでください! ――いや、これはわるかったですね!」
カプルズ氏が、もう一度葡萄酒を味わうと、とたんにその顔に、不快そうな影がかすめた。それを見たトレントは、びっくりしたようにいった。
「あなたの好みにまで、つい、よけいなお節介をして、申しわけありませんでした。なあに、給仕頭のプライドなんか、問題にすることはありません。死んでしまったところで、ぼくたちの知ったことではないんです。かまいませんから、お好きなものを召しあがってください」
カプルズ氏がほっとしたように、禁欲主義的な飲物をとりよせて、もってきた給仕がひきさがると、トレントはテーブルごしに、意味ありげな視線をカプルズ氏に投げた。
「こんなに、がやがやと人声のうるさいなかにいると、かえって、人里はなれた山かげにでもいるようで、むしろ、遠慮なく話ができるくらいですよ。給仕は勘定場の若い女をつかまえて、なにかくだらんことをしゃべっていますし、まるでぼくたちは、ふたりっきりでいるようなものです。ところで、カプルズさん、きょうの午後の会見について、ご感想をうかがわせてもらいたいと思いますが」
かれはそういって、料理に手をつけはじめた。カプルズ氏もまた、羊肉をこまかく切りながら、その手を休めずに答えた。
「世の中には、ずいぶん皮肉な事情も起こるものだが、こんなのもめずらしいでしょうね。むろんわれわれは、マンダーソンの狂気じみた憎しみが、なんに原因していたか知っておった。ところが、当のマーロウが、まったく気がついておらなかったんだから、おかしなもんですよ。実際のところ、マンダーソンが嫉妬の妄執にとりつかれておったことは、われわれにはよくわかっておったのです。ただ、メイベルの気持をそこないたくなかったので、だれもがそれを口にすることをさし控えていたんですな。この処置は、まちがっておらなかったと思いますよ。あれでマーロウは、けっきょくのところ、マンダーソンから、なんの疑いをかけられておったのか、永久に知らずにおわってしまうんですな。不思議な話ですよ! しかし、よく考えてみますと、たいていの人間というものは、他人からどう思われておるのか、あるいは、どのような誤解を受けておるのか、いっさい知らずに過ごしている場合があるもんです。
たとえば、数年前の話だが、わしがひそかに、ローマン・カソリックに改宗したといううわさが飛んだことがある。多くの知人たちが、それを信じこんでおるので、ずいぶん驚かされたものです。どうしてこんなばかばかしいうわさが立ったかというと、わしがだれかに、週に一度は、肉食をしないのもいいことだと話したことにあるらしい。世間はそれだけのことで、てっきりわしが改宗したと信じてしまったんですな。マンダーソンがかれの秘書に対していだいた疑いは、おそらく、これよりもっと薄弱な根拠にもとづくものだったにちがいない。あんたもいっておられたが、マンダーソンのもつ、根づよくて、そしてあきらかに遺伝的と思われる疑いぶかさ、その嫉妬ぶかい気質について話してくれたのは、たしかアメリカ人の秘書バナー君でしたな……
なんにしても、マーロウ君の話は、きわめて正直なものと思われましたよ。このマンダーソン事件というのは、多少とも異常な精神がもたらしたものだとみとめさえすれば――いや、みとめんわけにはいかんでしょうが――本質的には、格別、驚くに価《あたい》することもないようですな」
トレントは大声をあげて笑った。
「ぼくは、はっきりいいますが、最初からこの事件を、異常なものだと思っていたのです」
するとカプルズ氏は、なおも論鋒《ろんぽう》を展開して、
「それは、こまかな点の動きだけを見たときの話でしょうな。本質的にいって、どこに異常なところがありますかね? ひとりの狂人が、途方もない妄想にとらわれて、想像上の加害者に対して、狡猾きわまる復讐計画を立てた。その計画には、かれ自身の命を奪うことまでが含まれていたというだけのこと。こう考えると、狂人のあり方について、少しでも知識をもっている者には、さほど驚くべきものでもなかったと思いますよ。
つぎに、マーロウの行動をふりかえってみると、かれはなんの咎《とが》もないのに、いくら真実を語ってみても、逃がれ出ることのできない立場に追いこまれた。しかし、これもまた、かつて例のなかったというほどのことでもありませんぞ。かれはおそろしく勇敢に、そしてまた、巧妙なごまかしを用いて、危機をまぬがれることができたが、そんなことは、毎日、そのへんで起こっているような気もするし、また、事実、起こっているんではないですかな」
そしてカプルズ氏は、原型をとどめないまでに切りきざんだ羊肉を、口のなかへほうりこんだ。
「ちょっとおうかがいしますが」トレントも、料理を口にするために、ちょっと間をおいてからいった。「そういう論法でいきますと、この世の中には、異常で非凡といったものは、ひとつもないということになりませんでしょうか?」
やさしい微笑が、カプルズ氏の頬にうかんだ。
「わしが意味もない詭弁《きべん》をもてあそんでおると思ってはこまりますぞ」と、氏はいった。「本質的な異常とはどんなものを指すか、例をあげて話せば、わしのいう意味がわかってもらえるはずだ。たとえば――いや、ちょっと待ってくださいよ……そう、そう。プールトンの研究所で発表した肝臓ジストマの生成過程などがいい例だ。あれこそ、本質的に異常なものと呼んでしかるべきでしょうな」
「ぼくはあいにく、そういった問題を論じるだけの知識がないのです」とトレントが答えた。「公正な科学の世界では、肝臓ジストマのつつましい誕生をよろこんで歓迎したかもしれませんが、遺憾ながらぼくは、それを聞くのがはじめてでしてね」
「まあ、あまり食欲をそそる話題でもなさそうでね」と、カプルズ氏は、相手の気持を考えていった。「その話はやめておきましょう。ところで、トレント君。わしがいいたいのは、もしわれわれが、眼をすえて見さえすれば、われわれの周囲には、ほんとうに異常なことが、いくらでもころがっているということですよ。われわれの知覚力ぐらい頼りないものはないんでね。部分的に意外に思われることに出っくわすと、それだけでその事件を、異常なものと考えてしまうんですよ」
カプルズ氏はひと息ついて、ミルク・ソーダを口へもっていった。その間トレントは、ナイフの柄《え》で、テーブルをたたきながら、心から氏に、賞賛の言葉を贈った。
「この数年、あなたがそんなふうに話されるのを聞いたのははじめてですよ。あなたこそ、ぼく以上にはしゃいでおられますね。世間ではこういう状態を歓喜と呼んでいますが、そのじつこれは、心の不安のあらわれでして、あまりほめたことではないのです。ぼくは相当はしゃいではいますが、それでも、マンダーソンの死が、平凡な事件として片づけられてしまうんでは、ただ黙って聞いているわけにはいきませんな。あなたがどういうご意見であろうとご勝手ですが、ああいう状況におかれたマーロウが、マンダーソンの身振りをまねて、危機を脱出したというのは、異常に巧妙な思いつきといわねばなりませんよ」
「巧妙だということは、わしもみとめる!」と、カプルズ氏が答えた。「しかし、異常だと評するには反対しますぞ! あんたの言葉を借りると、ああいう状況におかれた場合、ばかでないかぎり、たいていの人間は、あれくらいの思いつきはするでしょうよ。あの程度の思いつきは、いうなれば、外面的な事情だけに頼っているようなものですからな。マーロウはもともと、マンダーソンの声をまねるのがうまいので知られておった。演技力はじゅうぶんあるし、チェスの勝負師らしい根性もそなえておった。それにくわえて、あの家庭のしきたりにも通暁《つうぎょう》しておったのだ。その思いつきが、あざやかに成功したことはみとめるが、しかし、それは、あらゆる条件が、あの男に恵まれておったというだけのことでさ。あの思いつきを、本質的に考えてみると、それほど巧妙だとはいえんようですぞ。
たとえば、銃器が発射されたさいの反動を利用して、発射と同時に、弾丸を装填《そうてん》させる装置がありますな。ああいった独創的な思いつきと、同列に論ずるわけにはいきますまい。しかし、はじめにいったように、細部にわたって観察すると、この事件が異常な面をもっておることは、わしもみとめんわけではない。そのために、なにかと複雑な外観を呈したことは事実ですからな」
「ほんとうにあなたは、そういうふうに感じておられたのですか?」
とトレントは、こまったものだというように、皮肉たっぷりな口をきいた。しかし、カプルズ氏はトレントの皮肉など、いっこうに気にしない様子で、言葉をつづけた。
「あの事件が複雑になった理由は、マーロウがマンダーソンの行動に疑惑をもちはじめて、その計画を妨害するために、第二の精巧な計画を考えついたからといえる。こういう争いは、実業界や政界では、しょっちゅう起こっているものだが、犯罪の世界では、あまり見当たらなかったんですな」
そこでトレントもいった。
「いや、絶対に見当たらなかったと、ぼくはいいたいですね。どのように狡猾な犯罪者でも、あれだけ大がかりで、精巧な戦略を立てるところまではいきませんよ。それができれば、かれらだって、そうやすやすは捕えられずにすんだでしょう。どんなに敏腕な警察官でも、精巧な大戦略を立てる点では、通常の犯罪者より劣っていますからね。しかし、そういう奥ふかい精神的な特質は、犯罪者の性格と一致しないことが多いのです。クリッペンを考えてごらんなさい。かれはあれで、頭のよい犯罪者だといわれています。殺人を犯す場合、死体の処理がいちばん肝心なところだが、かれはそれを、手ぎわよく解決してみせました。しかし、そのかれにしても、その勝負のどのくらい先まで読んでいたかとなると問題ですな。犯罪者も警察官も、敏捷《びんしょう》で大胆な戦術家である場合が多いものですが、けっきょく思いつくことといっては、どちらの場合も、単純な計画にすぎないんですよ。けっきょくのところ、この事件でマーロウが示したような、先の先まで見透す戦略家的才能は、通常の社会にあっても、そうめったに見られるものではありませんからね」
するとカプルズ氏は、抽象的議論にやや飽いてきた顔つきでいった。
「きょう聞いた話で、気にかかることが、もうひとつあるんだが。もしマーロウが、なんの疑惑も起こさずに、うまうまマンダーソンの罠《わな》にはまりこんだとしたらどうなりますね? かれはまちがいなく、絞首刑になったことでしょうな。ところで、無実の人間に殺人の罪をきせようとして、その計画が成功しなかった例は、どのくらいあると思いますね? わしの見たところでは、むしろ反対ですよ。容疑者が情況証拠で有罪の判決を受け、無実の罪をさけびながら、死刑にされてしまった例が、予想外に多いんじゃないかな。したがってわしとしては、そのような証拠に基づいて決定された死刑の宣告など、絶対にみとめたくない気持ですよ」
トレントもいった。
「ぼくにしても、そんなものはみとめませんね。そうした状況のもとで、死刑を宣告するようでは、≪疑わしきは罰せず≫という言葉に示されている公正な法則が無視されてしまいますよ。アメリカの法律学者が明瞭にいっているんです。たとえ野良犬が、鼻のまわりに、ジャムをくっつけていたにしても、そういった情況証拠だけで、その犬にジャムを盗んだ罪を負わせてはならんとね。ぼくもその説に賛成なんです。
だいたい、罪もない人間に、悪意をもって、嫌疑のかかるように仕向ける計画は、いつの世にもあることでして、ことにアイルランドやロシア、あるいはまた、インドとか、朝鮮といった弾圧政治が行なわれている国には、よくある現象なんです。そういった国では、警察が危険な人物とねらっても、正当な手段では逮捕できないことがわかると、策略を用いて、目的をはたしてしまうものです。しかし、それはなにも、そういった国家の特徴ではないんで、わがイギリスの国事犯裁判にだって、よく似た例があるんですよ。ある実例では、無実の人たちに殺人の罪を負わせようとしたところだけでなく、主案者がその計画を、巧妙にやってのけた点も、マンダーソンの場合とそっくりのものがありました。そこでも、哀れな犠牲者たちを殺そうと計画した人間が、同様に自分自身の生命を捨て去っているのです。キャムデン事件というのがそれですが、あなたもたぶん、お聞きになっていると思います」
カプルズ氏はしかし、そのような事件は聞いたことがないと答えて、ポテトをひときれ、口へ入れた。
「ジョン・マンスフィールドが、その事件を材料にして、注目すべき劇を書きあげているんです」と、トレントが説明した。「こんどまた、ロンドンで上演されるようなことがあったら、ぜひ、ごらんになることですな。もっとも、どきどきさせる劇がお好きなものとしての話ですがね。ご婦人がたが、あの劇を見て、安っぽい感傷におぼれて、そっと涙をぬぐっているのをよく見たものです。ええ、嘘じゃありませんよ! しかし、あのときの俳優たちが、もっとすぐれた演技力をもっていたら、おそらくご婦人がたは、気つけ薬が必要なくらいの興奮状態になったでしょうな。
その事件というのは、こういった筋でした――ジョン・ペリーという男が、自分の母親と兄とを、人殺しの罪で告発したんです。そのうえ、自分もまた、それに手をかしていると申したてました。この男は、くどいほどくわしく事件の経過を述べまして、あらゆる質問に、はっきりと答えたのですが、ただ、おかしなことには、死体が見つからないのです。しかし、そのとき、酒を飲んでいたらしい裁判官は――いい忘れましたが、これは王政復古時代の話なんです――死体の見つからぬことなど、平気な顔で、無視してしまいました。むろん母親と兄とは、まっこうから犯行を否認しましたが、なにぶんジョンの証言がものをいいました。それだけが根拠になって、三人ともに、死刑にされてしまったのです。ところが、それから二年たって、その三人に殺されたものと思われていた男が、意外にも、キャムデンに帰ってきました。かれは海賊のために、海へさらわれていたのでした。その男が行方不明になったことから、ジョンがそういう奸計《かんけい》を思いついたのでした。死刑になることがあきらかな犯罪に、自分もまた共犯だと申したてれば、その証言に絶対嘘はないと信じさせる力がありますよ。そこがかれの狙いだったのです。だれだって、いくらほかの連中を死刑にさせたくても、自分自身の生命までは捨てませんからね。そう思うのが常識です。マンダーソン事件の場合もおなじことで、かりにマーロウが、ありのままを話したにしても、検察側がどうとるかとなると、答は火を見るよりもあきらかです。陪審員にしたところで、マンダーソンの計画を、そのまま信じることは、万にひとつ、ないといってよいでしょうな」
カプルズ氏はしばらく考えこんでいたが、やっと口をひらいた。
「わしはあんたのように、歴史的事実にはあかるくはない――いや、正直のところ、皆目《かいもく》知識がないといってもよいくらいだ。しかし、わしの子供のころのことで、この事件とよく似ているのがありましたよ。メイベルから聞いた話によって、この事件の底を流れておる精神的事実について諒解できたが、マンダーソンは、異常に根づよい、嫉妬から生じた憎悪をいだいておったのに、それをひたかくしにかくそうとした。それにくわえて、あの男が元米、ああいう陰険な計画を実行できる人間だということもわかっておる。しかし、大ざっぱな言い方かもしれんが、裁判を行なううえに、なによりもむずかしい仕事はなにかというと、こういった精神的事実を見抜くことにありますな。マンダーソン事件のように、そうした内心の事実を、故意にかくしておる場合もあるし、また、頭のわるい人間には、それをわかりやすく表現することができないので、関係者一同も見抜けなかったという場合もある。わしは少年時代を、エディンバラで過ごしたが、そのころ、サンドフォード広場の殺人事件というのが起きましてな、国じゅうがたいへんなさわぎになったもんです」
トレントはうなずいて、
「マクラクレン夫人の事件ですね。彼女はたしか潔白でしたよ」
「わしの両親もそう思っておったようです」と、カプルズ氏はいった。「わしも成長して、そのひどくいやらしい事件の話が理解できるようになると、やはり彼女は無実だと思ったものだ。しかし、この事件の謎は意外にふかくて、関係者全部が嘘をついておったのですな。そのために、嘘の背後にある真相を見抜くことが不可能で、けっきょく大部分の人たちが、ジェイムズ・フレミング老人に罪はないと思いこむようになってしまった。スコットランドが国をあげて、この問題について二派にわかれた。議会での討論の対象にさえなったんですよ。新聞にしてからが、二つの意見にわかれましてな、前代未聞の怒号と論戦がつづいたものです。あんたはもちろん、なにかの記録で読んだことでしょうが、あの当時、フレミング老人の精神的事実が判明しておれば、あんなにまで問題を紛糾《ふんきゅう》させんですんだんじゃないかな。わしはそれが、はっきりいえると思いますよ。ちがいますかね? あの老人の性格について、一部の連中が推測しておったことが事実だとしたら、老人自身がジェシー・マクファースンを殺しておいて、その罪を哀れな精神薄弱者の女にきせるということも、じゅうぶん可能性があったといえるんだ。可哀そうにあの女は、もう少しのところで、極刑に処せられたんだからね」
トレントも口を出して、
「フレミングみたいな平凡そのもののような老人でも、全人類に測り知れぬ謎をあたえることができたのです。すくなくとも法廷では、そのほとんどの人たちが、そういった感じを受けたにちがいありません。たしかに法律というものは、微妙な感覚を必要とするような事件に出会うと、とたんに精彩を欠いてしまうところがありますね。フレミング的人物をあつかうと、いとも簡単に、あやまちを犯してしまうのです。だいたい裁判にたずさわっているような連中は、その気質から考えても、勝とうが負けようが、森のなかに群がっている猿を相手にしているようなつもりでいるにちがいないのです。だから、ぼくはあえていうのですが、そういう連中には、ときどき、真実とはどんなものか、その鼻さきにこすりつけてやって、悟らせておく必要がありますよ。しかし、それも実際問題としてはむずかしい。こんどの場合にしても、マーロウが法廷にひき出されるようなことになっていたら、鈍感な十二人の陪審員たちから、どんなふうにあつかわれたか、それを考えると、ぞっとしてきますよ。マーロウ自身がいっているように、しゃべればしゃべるほど、ぜんぜん弁解しないよりも、もっとわるい結果になったことでしょうね。かれの釈明を支持するだけの証拠は、ひとつとして存在しないんですからね。検察側はなんの造作もなく、かれの釈明を粉砕《ふんさい》することでしょう。そして裁判官は、陪審員に事件の内容を説明するにあたって、いとも簡単に、検察側の見解を採用するにきまっていますし、陪審員は陪審員で――あなたはもちろん、陪審員をつとめたことがおありだと思いますが――評議のために別室へ引き揚げるがはやいか、マーロウという男はなんという図々しいやつだ。すぐばれるにきまっている見えすいた嘘をつくと、鼻を鳴らして憤激するにちがいありません。そして、たがいに仲間同士で、こんなはっきりした事件はありませんぞ。マーロウもどたん場で気がくじけたりしないで、最初の計画どおり、盗品をもって逃亡したほうが利口だったのに、などと語りあうのが落ちでしょう。
かりにあなたが陪審員になったと仮定してごらんなさい。マーロウがどういう人物か、なんの知識ももっていないんですよ。貪欲《どんよく》、殺人、強盗、突然の虚脱状態、無恥、厚顔、むこう見ずの嘘――そういったいやな事柄が、逐一書きつけてある記録を、怒りにふるえながら読むことになるのですが、あなたははたして、どういう気持になりますかな? まったくの話、マーロウの説明をきくまでは、あなたにしてもぼくにしても、かれを犯人と思いこんでいたくらいですからね――」
「まあ、まあ、待ってくださいよ!」カプルズ氏はナイフとフォークをおいて、トレントの言葉をさえぎった。「先夜、あんたとふたりで、この問題をじゅうぶんに検討しましたな。そのときわしは言葉に気をつけて、マーロウ犯人説を信じておるようなことは、もらしもしなかったつもりだがね。マーロウに罪のないことは、最初からわしは知っておったんです」
「あなたは、マーロウの家でも、おなじようなことをいっていましたね。ぼくはあのときも、それがどういう意味なのか、不審に思っていたのです。かれが無実なことは、絶対たしかだとおっしゃったが、どうしてそのように、確信がもてるのです! いつもは、言葉のつかいかたに、いたって気をつけておられるあなたが、ですよ」
「わしはたしかに、≪確信しておる≫といいました」
とカプルズ氏は、はっきりした口調でくりかえした。トレントは肩をすぼめて、
「あなたはぼくの原稿を読み、ぼくを相手に、あのように全面的に、事件の真相を論じあった。それでいながら、そのような確信をもっておられるのだとしたら、あなたは理性の働きなるものを、完全に放棄なさったとしか考えられませんな。そうした態度は、キリスト教の悪い面をあらわすものではないでしょうか。ひどくばかげていると同時に、ぼくの誤解がなければ、ひねくれた意味の実証主義というべきでしょう。とにかくあなたは――」
「まあ、まあ、わしにもひとこと、いわせてもらいたい」とカプルズ氏は、料理皿の上に両手を組んで、言葉をはさんだ。「わしが理性を捨て去ったなど、とんでもない誤解ですぞ。わしがかれを、最初から潔白と信じ、いまだにその確信を変えん理由は、わしがある事実を知っておるからなんだ。この事件が起きた当初から、わしにはそのことがわかっておった。いまあんたは、マーロウの裁判で、陪審員になったつもりで考えてみろといいましたな。しかし、そんなことを考えたところで、なんの意味もありませんぞ。なぜかというに、わしがあの男の裁判に出廷するとなると、それはまったく、別な役割をもっておるからなんです。わしはそのさい、被告のために、証言台に立って、証言をする立場にある。あんたはいま、かれの釈明を支持するだけの証拠は、ひとつとして存在せんといいましたね。ところが、あるんですよ。わしの証言が、それなんです」
そして氏は、いそいでつけくわえて、
「しかもそれが、決定的な証拠なのだ」
そういうとカプルズ氏は、ふたたびナイフとフォークをとりあげて、満足そうに食事をつづけた。その言葉を聞いているうちに、トレントは突然の興奮におそわれて、顔色をさっと変え、やがてはそれが、大理石のように血の気を失なっていったが、氏の最後の言葉を聞きおわると、ふたたび顔に紅味がさした。奇妙な笑い声をあげながら、テーブルをしきりにたたいて、
「そんなばかなことがありますか!」と、大声をあげた。「みんな妄想ですよ。ミルク・ソーダばかり飲んでいるので、夢でも見たのじゃないのですか。ぼくがあの邸で、捜査に熱中していたあいだ、あなたはすでに、マーロウが無実であることを知っていたというんですか」
カプルズ氏は、残った料理を口にほおばりながら、あかるい顔でうなずいてみせた。そしてかれは、食事をすますと、うすい口ひげをぬぐって、テーブルにからだをのりだすようにしていった。
「しごく簡単なことでしてね。じつをいうと、マンダーソンを射ったのは、このわしなんですよ」
「びっくりさせて、すみませんでしたな」
トレントは、カプルズ氏のそういう声を聞いた。かれは、潜水夫が水面へもがき出ようとするかのように、混迷状態からぬけだそうとして、必死のあがきをつづけていた。こわばった手つきで、コップをとりあげようとしたが、葡萄酒を半分ほど、テーブル・クロスの上にこぼしてしまった。せっかくとりあげたグラスも、口をつけずに、そのまま下においた。そして、ふかく息を吸い、あかるさのまったくない笑い声を立てて、息を吐き出した。
「つづけてください」
と、かれはいった。
「殺すつもりではなかったのだが」
ゆっくりと、フォークでテーブルの隅の長さを測りながら、カプルズ氏は語りはじめた。
「最初から、お話しすることにしましょうか。わたしはあの日曜日の夜、十時十五分ごろホテルを出て、就寝前の散歩をしておった。ホワイト・ゲイブルズ荘の裏手を走る野道を歩いておったんですよ。道路が大きくまがるところがあるが、そのかどはまがらずに、まっすぐすすんで行った。その道は、ゴルフ・コースの八番ホールに面した門の前に出るんです。わしは芝生の上を、崖のふちまで行ってみるつもりで、門のなかへはいった。ほんの二、三歩、すすんだかと思うと、門の近くで、自動車のとまる音が聞こえた。ひょいと見ると、マンダーソンが降りてくるではないですか。あんた、憶えておいでかな。わしはあんたに話しておいたはずだ。ホテルであの男と口論したあと、もう一度、生きているかれと出会っておるとね。それはあのときのことなんですよ。あんたから質問されたとき、わしは嘘をいいたくなかったものでね」
かすかなうめき声がトレントの口からもれた。そして、葡萄酒で口をしめして、石のような表情でいった。
「どうぞ、そのさきを」
「あんたも知っておいでのように」と、カプルズ氏はつづけた。「あれはあかるい月夜だった。しかし、わしは石垣のそばの木蔭におったので、あのふたりが、そんなところに人がいるとは、思わなかったのも無理はない。マーロウがさっき話したことを、わしはそこで、のこらず聞いてしまったんです。そして、車がビショップスブリッジの方向へ走り去るのも見た。そのあいだ、マンダーソンはわしに背をむけておったので、あの男の顔はうかがえなかったが、走り去る車にむかって、かれが左手の甲をはげしくふっておるのを見て、ひどく変に思ったもんです。しかし、わしはあの男と顔をあわせたくなかったので、かれがホワイト・ゲイブルズ荘へもどるのを待って動きだそうと考えた。ところがあの男、なかなか動こうともしないのだ。いや、それどころか、かれは、わしがいま通ってきた門からはいってきて、緑の芝生の上につっ立っておるんですよ。首を垂れ、両手をだらりと下げ、なにかこう、からだをこわばらせている感じなんです。緊張した表情で、しばらくそこに立っておったが、突然、その右手がすばやく動いて、外套のポケットヘはいった。と同時に、かれは顔をあげた。それが、月光に照らしだされて、むき出しになった白い歯と、ぎらぎら光る眼を見たとたん、わしはかれが正気を喪失したことを知ったんです。そんな考えが、わしの頭に浮かんだ瞬間、なにか、月光に反射して、きらめくのが見えた。眼をこらすと、かれはピストルを、自分の胸にあてているのだった。
ところで、ここで言っておきたいのだが、マンダーソンはそのとき、はたして自殺するつもりだったかどうか、その点わしは、いまだに疑問に思っておる。わしが介在《かいざい》しておるのを知らんかぎり、マーロウがマンダーソンは自殺したと思いこんでおるのは当然のことだ。しかし、わしはそう思わん。マンダーソンはおそらく、ただ自分を傷つけるだけで、マーロウにきせかけようとしたのは、強盗と殺人未遂の罪にとどまっておったのじゃないかと考えておる。
だが、その瞬間のわしは、自殺だと確信してしまった。そこで、無我夢中で、木蔭から飛びだすと、かれの腕をつかまえた。するとあいつ、凄《すさ》まじい唸《うな》り声をあげて、いきなりわしをふりもぎると、このわしの胸を、おそろしい勢いで殴りつけておいて、頭にピストルをつきつけたんですよ。しかし、わしはあいつがひきがねを引く寸前、その手首をつかんで、ありったけの力でしがみついた――あんたは、あの男の手首に打撲傷やかすり傷がついておったのを憶えておいでだろう。なにしろこちらは、生命《いのち》がけだからな。あいつの眼には、あきらかに殺意がひらめいておったんですよ。そこでふたりは、言葉にならぬ声をあげて、獣みたいに争った。わしは必死で、ピストルを持つかれの手を抑えつけ、もう一方の手も、きつくつかんではなさなかった。こんな場合に、これほどの力が出るものとは、われながら考えてはいなかった。そしてけっきょくは、どうするつもりかわからぬまま、本能的に、やつのなにももっておらんほうの手をつっぱなすと、電光石火のはげしさで、ピストルをもぎとってしまったのだ。
それは奇跡的に、暴発しないですんだ。わしが二、三歩飛びしさると、やつは野良猫みたいに、わしの喉笛めがけて、飛びかかってきた。その瞬間、わしはめくら滅法に、あいつの顔へ、ピストルを発射してしまったんだ。あいつとわしとは、一ヤードほどしかはなれていなかったように思う。やつはたちまち、がっくりと膝をついて、芝生の上に倒れてしまったんです。
わしはピストルをほうりだして、その上にかがみこんだ。手をあててみると、心臓の鼓動はとまっている。その姿をみつめて、わしは呆然と、その場にひざまずいてしまった。それからどのくらい時間が経過したか知らないが、車のもどってくる音が聞こえたんです。
トレント君、マーロウが思いつめた顔を、月光に青白くさらし出して、芝生の上を歩きまわっているのを、わしは九番のティのそばでのぞいていたんですよ。わずか数ヤードとはなれていないハリエニシダの木蔭にうずくまってね。姿をあらわす気になれなかったんです。その朝わしが、大勢の見てる前で、マンダーソンと口論したことは、ホテルじゅうの話題になっておるにちがいない。マンダーソンが倒れるのを見た瞬間、わしの頭には、わしのおかれた不利な立場、おそろしい結果の可能性が、一度にどっと浮かびあがった。わしのすべきことは明瞭だった。できるだけはやく、ホテルヘもどって、だれの眼にも触れぬようになかにはいり、自分を救うために一芝居打つことだった。むろん、だれにもこれをもらすことはできない。マーロウは死体発見の状況を、みなの耳に入れるだろうが、かれがそれを、自殺だと思いこむのはわかっていた。いや、かれにかぎらず、だれだってそう思うにちがいないのだ。
そのうちに、マーロウが死体をかつぎだしたので、わしはこっそり、石垣のそばを通って、かれの眼に触れるおそれのないクラブ・ハウスわきの道路へ出た。そのときのわしは、完全に冷静になって、気力さえとりもどしておった。その道路を横ぎり、垣根をまたぎ、ホワイト・ゲイブルズ荘の裏手をぬけて、ホテルへ通じている、さっきの野道へ出るために、牧草地を大いそぎで横ぎった。そしてけっきょく息をきらしながらも、ホテルへたどりつくことができたのだ」
「息をきらして……」
とトレントは、催眠術にかけられたように、相手の顔をみつめたまま、おなじ言葉をくりかえした。
「なにしろ、あんなに猛烈に走ったことはなかったものでね」と、カプルズ氏が説明した。「そこで、裏手からホテルに近づいてみると、窓があいているので、図書室のなかがまる見えだった。さいわい、だれの姿もそのあたりに見当たらないので、窓のしきいをのり越えた。ベルを鳴らしておいて、翌日書くつもりでおった手紙を書きだした。時計を見ると、十一時をすぎたばかりだった。ベルを聞いて、給仕がきたので、一ぱいのミルクと、郵便切手とを注文した。そしてそのあと、すぐにベッドヘはいったが、なかなか寝つかれるもんではなかったですよ」
語るべきことを語りおわって、カプルズ氏はしずかに口をとじた。そして、トレントが両手で頭をかかえこみ、うなだれたまま、言葉もなくすわっているのを見て、意外そうな表情を見せた。
「眠れなかったでしょうね」トレントは、うつろな声で、つぶやくようにいった。「昼のあいだ、あまりからだを動かしすぎると、眠れないことがよくありますよ。別に、心配なさることでもなかったんです」
トレントはまた、口ごもっていたが、やがて、蒼白な顔をあげて、
「カプルズさん、ぼくは眼がさめた気持です。こんごは二度と、犯罪事件には手をつけますまい。このマンダーソン事件が、フィリップ・トレントのあつかった最後の事件となるでしょう。かれの思いあがりも、これで、高慢な鼻をへし折られてしまいました」
そして、突然、その顔に微笑がよみがえった。
「たいていのことなら、我慢できないことはないのですが、人間の理性の無力さを、こうまでまざまざと見せつけられては、とうてい耐えきれるものではありませんよ。カプルズさん、これ以上申しあげることはありませんが、ぼくはあなたに負けたと、たったひとこといわせてもらいましょうか。謙虚な気持で、あなたのご健康を祈って乾杯します。そして、この晩餐の会計は、あなたにはらっていただきますよ」(完)
[#改ページ]
解説
「トレント最後の事件」は推理小説に恋愛をとり入れた名作として、一九一三年の発表時以来、最高の声価を持続している。しかし、作者のE・C・ベントリーは本職の推理小説作家でなく、この作品に成功したあとも、その分野で活躍する気持はなかった。いわば偶然の機会からの所産が、われわれ推理小説愛好者への大きな贈り物となったわけだが、その経緯を述べる前に、ベントリーの文筆家としての在り方を記しておくのが意味のあることだと思う。
エドモンド・クレリヒュー・ベントリーは、一八七五年七月十日にロンドン市の西端シェパーズ・ブッシュに生まれた。父親は官吏、中産階級の家庭である。初等教育は名門校のセント・ポール・スクールで受け、ここの一年上級にG・K・チェスタートンがいて、一生にわたる親交を結んだ。さらにオクスフォードのマートン・カレッジで歴史学を学んだ。卒業後、ロンドンに定住して、一九〇一年に弁護士を開業したが、わずか一年間で廃業し、翌一九〇二年には勧誘に応じて、自由党系の新聞「デイリー・ニューズ」の編集スタッフに加わった。この新聞が、一八九九年に始まった南阿戦争を非難し、イギリス政府の侵略政策を攻撃しているのが、自由と平等を熱愛する若き日の彼を共鳴させたからだという。一九一二年には、保守系の新聞で、当時最大販売部数を誇っていた「デイリー・テレグラフ」に転じて、海外問題を中心に健筆をふるい、一九三四年に一時現役を退くまで、主筆の地位にあった。その後、六年間隠退生活を送ったものの、第二次大戦が熾烈《しれつ》になると、ふたたび引き出されて、一九四〇年以後、新聞業界に返り咲いた。そして一九五六年三月三十日、ロンドンで死んだ。二人の息子があって、次男のニコラス・クレリヒュー・ベントリーはユーモア作家かつ挿絵画家として有名である。
以上の経歴が示しているように、ベントリーはその生涯を新聞業界に捧げ、ジャーナリストとしてトップクラスの存在であったが、生来、軽妙でいて辛辣《しんらつ》な才筆の持ち主だったことから、忙しい新聞記者生活の余暇に、短い戯詩戯文を作って、『パンチ』誌その他のユーモア雑誌に寄稿した。なかで評判をとったのが、二行ずつ韻を踏んだ四行の短詩形のうちに、古今の有名人の特質を、奇抜に、諧謔的に表現してみせる遊戯詩で、これが時好に投じて、大いに流行し、多数の模倣者が続出して、ついにはこの詩形が、クレリヒューと呼ばれることになった。彼はすでに一九〇五年に、その第一集の Biography for Beginners(初心者のための伝記)を、友人G・K・チェスタートンの挿絵入りで出版していて、著者名をE・クレリヒューとしておいたからだ。つづいて一九二九年には第二集の More Biography が、一九三九年には第三集の Baseless Biography(これには息子のニコラス・ベントリーが挿絵を描いている)が、そして一九五一年には Clerihews Completes が出版された。韻をaabbと踏むのと、第一行を主題とする人物のフルネームで始めることが必要なだけで、各行の長さは自由、詩形の不規則なのが軽快な気分をあらわすのに便利で、従来の遊戯詩のリメリック詩形(韻はaabbaと踏み、三行目と四行目が短い)に替って、その後も長く流行し、優れた作者として、出版界の大立者フランシス・メイネル卿、詩人のW・H・オーデン、アメリカの名司会者のクリフトン・ファディマンの名があげられている。そしてイギリス文学史にE・C・ベントリーの名が、この詩形の創始者として残ることになった。
要するにE・C・ベントリーは、本職がジャーナリストで、余技の遊戯詩で文人としての名を残し、偶然の所産の「トレント最後の事件」で、推理小説界の大家の列に加わった(もっともその前年に好短篇を発表しているが、ここでは後述するように、ノベル形式の作品を論議の対象にしている)。彼はこの作品を書くにあたって、あくまでも余暇の筆のすさびのつもりで、これを契機にこの分野に進出する意向はまったくなかった。だからその題名を「トレント≪最後の≫事件」とした。そしてそれが文学的にも経済的にも成功したが、生活行路を変更する気持は起こさなかった。しかし、この作品の声価と作者への尊敬の念は高まる一方で、チェスタートンが一九三六年に死亡すると、彼につづく推理作家クラブの会長に選ばれた。
では、ベントリーはなぜこの作品を書いたのか。それは、当時の娯楽読み物界の風潮への反撥だった。十九世紀末にコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物語が熱狂的に読者に迎えられてから、推理小説のいわゆる第一次黄金時代が訪れて、読書界はこの種の読み物で独占された状態にあった。ドイル亜流の作家たちは、神のような英知を持つ名探偵を登場させて、奇跡に近いその推理で読者を驚嘆させるために、あの手この手と工夫をこらし、名探偵の思考の絶対的な無|誤謬《ごびゅう》性を確立すべく、プロットを犠牲にしてはばからなかった。高級な読者層は、当然のことながら、この傾向を軽蔑した。作者の態度が生まじめで、真剣であればあるほど尚更である。ある日、ベントリーは親友のチェスタートンと話しあった。パロディを書いて、揶揄《やゆ》してやろうじゃないか。≪推理小説を書いて、推理小説一般の現実面を摘発する≫(ベントリーの自伝「あの頃のこと」のなかの言葉)ことで、作家たちを反省させる新風を吹きこもう、と。
チェスタートンは一九〇八年に「木曜日の男」を書きあげて、巻頭にベントリーに寄せる長詩を載せた。ベントリーは一九一〇年頃から腹案を練り始めたが、なかなか纏《まとま》らなかった。ハムステッドの自宅とフリート・ストリートの勤務先とのあいだを徒歩で往復しているので、その途上でプロットを考えた。執筆方針としては、すべてに逆手を用いる構想だった。短篇形式が全盛をきわめているから、その十倍の長さのあるノベル形式を用いる。筆致の仰々しさを排して、明るく軽快、ユーモアに溢れる作風にする。読者にパロディと悟らせるためである。主役の探偵は重苦しい人物でなく、むしろ浮薄な、たとえば、むやみに古人の詩句を口にして詩人ぶってみせる気障《きざ》な青年にする。当初、この青年の名にフィリップ・ガスケットという平凡なものを選んだのも、その趣旨である。そして、この主人公が努力の末に発見して、正しい解決と見たものが完全な誤りと知って愕然とするところから始めて、過去へ遡《さかのぼ》って書いていき、これに真相の判明する最後の章を付け加え、そのつなぎには、推理物のタブーになっている恋愛を採り入れる。
方針はこのように決めてあったが、書き始めてみると、迷いが生じた。動揺して、プロットに幾度も修正を重ねて、二年がかりで書きあげたが――実際は大成功であったのに――彼の意に満たなかった。たまたまロンドンの出版社に長篇小説コンテストがあったので、応募してみたが、みごと落選した。彼は出版の希望を捨てた。
その後、ある晩餐パーティの席上で、アメリカの出版社センチュリーの「若くて魅力的な人柄の」代表者と並んで坐ったことから、この原稿の話を持ち出した。数日後、アメリカから出版受諾の返事が届いた。条件は、主人公ガスケットの名をもう少し響きのよいものに改め、題名を「黒衣の女」とすることだった。これに力を得たベントリーは、イギリスでの出版も望んで、友人の作家ジョン・バッカンがネルソン社の出版原稿取捨を引き受けていたので、これに出版|書肆《しょし》の斡旋方を依頼した。バッカンは原稿を一読して、彼のネルソン社で出版することを承諾した。その題名が「トレント最後の事件」であった。
ところで本篇の内容であるが、ベントリー自身が「これは推理小説というよりは、推理小説一般を皮肉ったものだということに気付いた読者は少ないようだ」と書いているとおり、パロディにする作者の意図が立ち消えになったかたちだが、作品自体は当時の――遺憾ながら現代でもその傾向は是正《ぜせい》されていないようである――推理小説の因襲を完全に打破した画期的なものだった。アメリカの推理小説評論家ヘイクラフトは次のように賛辞を呈している。
――「トレント最後の事件」のプロットは非凡であり、非常に巧妙に構成されている。探偵の推理過程は卓越したものでありながら、その下した結論が真相とまったくかけちがっていたり、探偵に被疑者の女性と恋をさせたりして、推理小説のタブーを徹底的に打ち破っている。最後に判明する真犯人の正体にしても、クリスティの「アクロイド殺し」と同じようにまったく意外であるが、あのようにケレンたっぷりなものではない。性格描写も、ウィルキー・コリンズの「月長石」以来の見事なものだ。しかし、ひとこと注意しておかねばならぬのは、「トレント最後の事件」の正確な評価を下すにあたって、歴史的観点に立つべきだということだ。もちろんこの作品は、今日の非常に発達したものに較べても、見劣りすることは決してないが、そうかといって、華々しいものともいえないからである。しかし、極彩色と誇大が犯罪小説の表看板であった当時にあっては、この地味なところが本作品の特徴でもあったわけだ。時代の風潮のけばけばしい描写とは対照的な品のよさと控え目なユーモアは、まさに霧中の燈火のように貴重なものだった。このように判断して初めていえることだが、「トレント最後の事件」こそ、近代推理小説の誕生を示す偉大な里程標なのである。
以上の評語を敷衍《ふえん》して、ストーリーに具体的に触れることで読者の興味をそがぬ程度に、いささか蛇足的な説明を付け加わえておく。
当時の推理小説の作家たちは、次のように考えていた。作中に生きた男女を登場させるのは回避すべきである。人物をそれらしく表現するには、性格にまで立ち入って描写する必要がある。だがそれは、このジャンルの小説の領域外のもので、むしろプロットの構成に妨害となる。推理小説中の人物の心理は異常な状況に反応するもので、必然的に誇張される運命にあり、性格類型としては不自然であるのを免れず、多くの場合、虚偽でさえあるが、やむをえぬことである。
たとえば恋愛――普通、小説のとりあげるテーマは、ほとんどが男女間の愛情である。それが読者の求めるところであれば、作中に恋愛をとり入れるのに躊躇するものでなく、実際、推理小説にも恋愛が絡んでいないこともない。しかし、容疑者に恋愛させると、いわゆる情熱犯罪による事件となって、謎の分析は動機の解明に集中し、簡単にネタを割る結果に陥る。
推理作家のうちには、容疑者ばかりでなく、探偵にも恋愛させた者もいる。しかし、それはことごとくプロット自体には関係のない余計事で、探偵は冒頭の章で美女に出遭い、これと恋に落ちるが、この美女はけっきょく無意味なアクセサリーか、読者の目をまどわすための道具にすぎない。探偵の推理が彼女の出現によって動揺するようでは、プロットそのものの破綻《はたん》といわねばならない。読者の頭にある探偵のイメージは、超人的な能力を持つ思考機械であり、シャーロック・ホームズをして愛の言葉をささやかせるときは、ただそれだけで、彼をその王座からひきずり下ろす結果を招くのだ。
推理小説作家への次の大きな誘惑は、リアリズムの導入である。登場人物全員が大部分の頁を通じて、幸福に、快活に、ときにはお人好しに振舞っていて、終巻ちかく、ストーリーがクライマックスに到達すると、突如として、太陽神と見えていた男が半獣神に変貌し、口先のうまい求愛者が殺人鬼の正体を暴露する。なんとも違和感の目立つ結末だが、これが推理小説の宿命で、そのプロットを成立させるには、リアリスチックな人間描写とはおよそ裏はらなテクニックを用いなければならない。ここに、≪犯人はもっともそれらしくない人物≫テーマの最大の難点がある。
推理小説作家の抱えるこれらの厄介な矛盾を、ベントリーは「トレント最後の事件」でいっきょに解決した。悪人を悪人として描き出すのに躊躇しないで、その凶悪な性格と残忍な生き方を述べるのに、開巻の第一章を全面的に費した。しかもそれが、事件の色どりとか、頁を埋めるためのアクセサリー的作業でなくて、プロットに中心的な意義を持つ。そのかわりこの悪人を≪殺される男≫として、そうそうに舞台から退場させてしまう。彼が退場したにしても、その狂暴な意志が、死後もなおかつ強烈な影響力を持続するならば、プロットの構成上いささかも支障がないからである。
かくて中心的なテーマは、≪殺される男≫の凶悪な意志が組み立てた計画と決定した。その後は作者の筆が、オーソドックスな推理小説手法を忠実に追って運ばれる。探偵は手帳片手に部屋部屋を匍《は》いまわり、指紋を採取し、距離を測る。明快に論理を駆使して、情況証拠を把握していく。迅速、的確に進行する捜査過程を描写する筆の素晴らしさ。これはこれで完璧な推理小説であって、ルールを厳密に守るために、人物の性格を犠牲にするような姑息なテクニックは用いていないのだ。
しかし、自殺する男が、妻の愛人を絞首台に送るために策略を弄《ろう》するというテーマは、かならずしも斬新なアイデアではなくて、むしろ使い古された陳腐な手といえる。推理小説ずれのした読者は、直感的に妻の愛人に疑いの目を向けるし、さらに夫人の登場場面の叙述が見事であるだけに、かえって夫人への疑惑を強める怖れもある。普通小説のジャンルであれば、この三角関係からプロットのどのような進展も可能だが、推理小説としてはいかがなものであろうか。
ここでベントリーの第二の偉大なアイデアが示される。複雑な事件の謎が解きほぐされて、読者はほっとすると同時に、探偵の、作者の、そして読者自身の推理能力に満足感を味わう。しかし、この小説はなお数十頁を残している。まだ何か起こるのか。それとも、探偵の卓抜な推理に誤りがあったのか。ベントリーはあざやかにテーブルをひっくり返してみせる。恋愛要素の導入である。探偵自身に被疑者の女性への熱烈な恋情を抱かせ、謎解きを主体にしたプロットは恋愛を中心にした人間ドラマに一転する。その後は恋愛小説的な手法で、探偵の心境がこまごまと語られることになるが、そのディテールの一つひとつが精緻《せいち》に組み立ててあって、後段の推理小説的展開部分にみごとに対応している。この第二の解決にも、読者の謎解き欲求を充分に満足させるものがある。
だが、最終結末と見られたこの解決も、なおかつ影にすぎなかった。そしてベントリーの第三の偉大なアイデアが読者の意表に出る。推理小説はハッピーエンドを至上命令とされている。この条件を充たすために、作者は最後の章で、もう一度テーブルをくつがえしてみせ、予想外な事実を提供して、読者を唖然とさせるとともに、快い読後感を味わわせる、まさにグランド・フィナーレというべき結末である。
E・C・ベントリーは「トレント最後の事件」で自分でも驚くほどの成功を収めたが、これを最初で最後の作品にする当初の考えを変えることなく、この分野には進出の気持がないのを示していたが、新聞業界をいったん隠退した一九三六年に、四半世紀に近い沈黙を破って、H・ウォーナー・アレンと共作で、「トレント自身の事件」を発表した。素人探偵をやめ、前作の女主人公と同名の妻と子供に囲まれたトレントが、友人が被疑者になったことから再出馬する。トレント自身も嫌疑を蒙《こうむ》るので、この題名になった。正直なところ、推理の部分の弱い凡作である。
沈黙期間にも、短篇だけはときどきストランド・マガジンに掲載していたので、その十二篇を集録した「トレント乗り出す」を一九三八年に、そしてその後の短篇を集めた「トレントの事件簿」を一九五四年に公刊している。
一九七六年九月