TITLE : 日本人とユダヤ人
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はじめに
口あけて はらわた見せる ざくろかな
「外国人や外国文明に対する批評は、自己および自国民の潜在的欲望の表出である」とヤーシュヴ・ベン・ダーネルは言った。一度でよいから男女混浴をしてみたいとか、一度でよいから思い切って犬を殴打してみたいとか、一度でよいから、女性にかしずかれてみたいとか、一度でよいから月を眺めて放尿してみたいとか、――さまざまな抑圧を、他国人に託して放散した上で、一転して今度はそれを批評し、あわせて自己の優越感を満足させる。――といったやり方は、やっている御本人とその国民にとっては、恰《かつ》好《こう》なレクリエーションであろうが、対象にされた国民こそ、いい面の皮だといわねばならない。
「ユダヤ人は怠《なま》け者である。彼らは七日に一度必ず休むから」といった二千年前のローマ人(彼らも休みたかったであろう。特に下層民や奴隷は)以来、こういったレクリエーションの対象とされつづけたユダヤ人にとって、一部の欧米人の日本評ぐらいこっけいなものはない。こういったこっけいの上塗りをする考えは全くなかったのだが、いま、自分の書いたものを読みかえしてみると、実に、二千年にわたるユダヤ人の潜在的願望が随所に顔を出しているのに、われながら驚いた。「安全と自由と水が空気のようであったら」「『お互いに人間じゃないか』といえる社会であったら」「鍵《かぎ》も城壁も不要な国であったら」等々々。ものを書くということは、所《しよ》詮《せん》、こういった自己表白なのであろう。従って、本書の題名も、簡単に『日本人とユダヤ人』としてもらった。出版者は別の表題を考えていたようだが。
私はユダヤ人であるから、「さとき人は知恵を隠す、しかし愚かなるものは(自分で)自分の愚かさを表わす」「愚かなる者のくちびるは、自分を捕えるわなとなる」「隣人をあなどる者は知恵がない」「剣をもって刺すように、みだりに言葉を出すものがある。しかし知恵ある人の舌《ことば》は人を医す」といった古きユダヤの賢者の言葉を正しいと思っている。従ってアメリカ的率直さとは「理解していません」に外ならず、西欧的傲《ごう》慢《まん》さとは「理解する気は毛頭ありません」に外ならないと思っている。ましてや「礼儀よりも真理」などというゲルマン人の言葉などには全く無縁で、「優しい舌《ことば》は命の木」であると思っている。また、自分がごく平凡な人間であることを知っているから、「すぐれた言葉は愚かなる者には似合わない……」という遺訓を守り、偉そうな言葉を並べたお説教などする気は全くなかった。にもかかわらず、両国民の文化も環境も歴史も余りに相違しているので、理解しようと努力しつつもなお理解しきれなかった点が多々あることと思うし、「言葉多ければ、と《ヽ》が《ヽ》を免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある」という祖先の教えを守りきれず、ついつい非礼となった点もあるかと思う。もしあれば「強者の宥《ゆう》恕《じよ》」をお願いし、理解不足の点は御教示いただければ幸いである。「愚かなる者は悟ることを喜ばず、ただ自分の意見を言い表わすことのみを喜ぶ」と相成っては、御先祖様に相すまないからである。
本を書くということはまことに大変なことだが、一方、読むという努力もまた大変である。古きユダヤの賢者が言ったように、「まことに、本を作れば際限がない。多く学べば体が疲れる」のであるから、本書を読んでくださろうとする方々には心から御礼を申し上げ、その労を謝したいと思う。
日本の文字は実に便利である。上から下へも書けるし、左から右へも書ける。また必要に応じて右から左へも書ける。書く方向の自在さという点では、おそらく世界最高の文字であろう。英文は縦書きはまず不可能だし、たとえ無理をしてやっても、読むことができないし、ヘブル文字は右から左へしか書けないことを思えば、実にすばらしい特質と言わねばならない。驚いたことに、この日本の文字の最高の長所を圧殺してこれを英文のように、左横書きに統一せよという議論があるそうである。これも、日本では、時々現われて泡《ほう》沫《まつ》のように消える珍論の一つであろうが、幸いにも山本書店主が、そういう珍論にまどわされず、読者の「体が疲れ」ないように最も読みやすい組み方を考えて下さったことをも併せて感謝したい。
イスラエル暦五七三〇年 イヤルの月の第十五日
イザヤ・ベンダサン
目 次
はじめに
一 安全と自由と水のコスト
――隠れ切《キリ》支《シ》丹《タン》と隠れユダヤ人――
二 お米が羊・神が四つ足
――祭司の務めが非人の仕事――
三 クローノスの牙と首
――天の時・地の利・人の和――
四 別荘の民・ハイウェイの民
――じゃがたら文と祝砲と西暦――
五 政治天才と政治低能
――ゼカリヤの夢と恩田木工――
六 全員一致の審決は無効
――サンヘドリンの規定と「法外の法」――
七 日本教徒・ユダヤ教徒
――ユーダイオスはユーダイオス――
八 再び「日本教徒」について
――日本教の体現者の生き方――
九 さらに「日本教徒」について
――是非なき関係と水くさい関係――
十 すばらしき誤訳「蒼ざめた馬」
――黙示的世界とムード的世界――
十一 処女降誕なき民
――血縁の国と召命の国――
十二 しのびよる日本人への迫害
――ディプロストーンと東京と名誉白人――
十三 少々、苦情を!
――傷つけたのが目なら目で、歯なら歯で、つぐなえ――
十四 プールサイダー
――ソロバンの民と数式の民――
十五 終りに――三つの詩
あとがき―― 末期の一票
人間はなぜ創造の第六日目に造られたのか。これはもしおまえが傲《ごう》慢《まん》で身をふくらませたら,蚤《のみ》だって創造においてはおまえより先んじていた,と言いうるためである。
タルムドより
賢者とは?  すべての人から学びうる人
強者とは?  自己の熱情を統御しうる人
富者とは?  自らのくじ(運命=分け前)に満足を感じうる人
尊い人とは? 人間を尊ぶ人
ベン・ゾーマ
その人の行いがその人の知識より偉大なときは,その知識は有益である。
しかし,その人の知識がその人の行いより大になるときは,その知識は無益である。
ラビ・ハニナ・ベン・ドーサ
日本人とユダヤ人
メシアが来たとき,この世の体系の内にある何かが存在をやめるとか,また何らかの新奇なものがこの宇宙の組織に導入されるとか言ったようなことは,絶対に考えてはならない。
世界は常の通りに運行するであろう。
イザヤの言葉「狼《おおかみ》は小羊と共にやどり,豹《ひよう》は子山《や》羊《ぎ》と共に伏し……」(イザヤ書10章6節)は,イスラエルが異教徒の悪意の中にも安全に住みうることを示す比《ひ》喩《ゆ》的表現である。
その時には飢《き》饉《きん》も戦争もなく,ねたみも争いもないであろう。繁栄は広がり,すべての慰めは豊かに見られよう。
世界を通じて,主を知ることが唯一の務めとなるであろう。そしてそのとき人びとは非常に賢明になり,今は隠されているものの内奥を悟り,死すべきものの能力の範囲内において,創造主の知識のすべてに到達しうるであろう。
マイモニデス(1135‐1204)
一 安全と自由と水のコスト
――隠れ切《キリ》支《シ》丹《タン》と隠れユダヤ人――
もう二十年以上昔のことである。日本人K氏は貿易再開に備えて渡米した。当時はまだ対日感情の悪いころで、列車の中で、日本人とわかると集団リンチを受けかねまじき情況だった。K氏はニューヨークで、有名なアストリア・ホテルに宿泊し、出張所開設に飛びまわっていたが、人びとの悪意ある態度や冷たい応対には全く神経をすりへらし、ホテルの私室だけが唯一の憩いの場所になってしまった。格式あるホテルだけに、たとえ営業上当然とはいえ、顧客へのサービスは十分だったからである。
少し落着くと、両隣りの部屋にいるのがユダヤ人で、しかも彼らは宿泊しているのでなく、ここに住んでいるのに気がついた。「なるほどユダヤ人てやつは金持だなあ、こちらはホテル代まで、本社から、やかましく言われているのに」と思いつつ、それとなく、この両隣りのユダヤ人を観察していた。彼らは確かに貧乏とはいえない。しかし生活は実に質素であり、文字通り一銭一厘《りん》といえどもおろそかにしないし、服装といい、身の廻《まわ》り品といい、不必要なものは一切身につけていない。しかもその持物には、何一つとして贅《ぜい》沢《たく》品はない。帽子、背広、靴、ライター、時計、万年筆、どれも目立たぬ普通の品である。食堂で顔を合せるとき彼らのメニューをそれとなく眺めれば、これも節約という感じが強かった。「なるほど、けちでしまり屋で金にきたないのか」。K氏はユダヤ人に対する世評を裏書きする思いで、それを眺めていた。
ただこのユダヤ人たちは、別に、日本人に悪感情をもっていないように見えた。否、むしろ親しげであった。滞在が長びくにつれて、K氏は、いつしか両隣りのユダヤ人家族と親しくなり、渡米以来の孤独感と人なつかしさから急速に親しさを増していって、ついに家族同様の口をきくまでになった。
ある日のことK氏は、初めて彼らに接して以来、心の底にもっていた一つの疑問を口にした。「あなた方御一家は、どうしてこのホテルにお住いなのですか。ここの部屋代その他を考えれば、快適な立派な郊外の住宅で、もっともっと豊かに楽しく生活できるでしょうに」と。実際、一杯の紅茶も一枚のトーストも、一般の家庭生活のそれと比べれば、話にならぬほどハイコストである。何がゆえにここに住んで質素な生活をする必要があろう。普通の住宅を借りて、大いに豪勢にやった方がずっと良いはずではないか。当然の疑問であった。だがユダヤ人の答えは、全く彼が予期せぬものであった。「ここは安全ですから」と。K氏は、この『安全』という意味を突差に理解しかねた。ユダヤ人は彼の顔を見ると静かにつづけた。「このホテルは国賓も泊りますし、外国の賓客や著名人も泊りますので、もし事故があると大変なのでニューヨークの警察は常時特別に警戒していますし、その上連邦政府の秘密警察《シークレツト・サービス》が絶えず警戒しています。さらに、ホテル側でも、外国の賓客などに事故があったらそれこそ大変ですから、超一流の警備会社と契約して、最も有能な制服・私服のガードマンに絶えず警戒させていますし、ホテル自身にも警備員がいます。その上、フロントその他も、警備という点では絶えず教育され訓練され、行きとどいていますから、ここより安全なところはないわけです。安全にはコストがかかります。しかし、この世のあらゆることは、生命の安全があってはじめて成り立つわけで、もし生命を失えば、その人にとっては、この世のすべてのことは全く無意味です。もちろん、あなたのおっしゃる郊外の豪邸も豪《ごう》奢《しや》な生活もすべて無意味になってしまいます。ですから、まず、自分の生命の安全を第一に考えて、この安全のためには、たとえ他の支出を削れるだけ削ったとしても、当然のことではないでしょうか」と。
日本にもホテル生活をしている人はいる。しかしそれは、あるいはステイタス・シンボルのゆえ、あるいは優雅な生活と便益もしくは虚栄のためであっても、身の安全のためではない。
五番街のソニーに日章旗がひるがえり、一方New YorkはJew Yorkだといわれるほどユダヤ人人口のふえたこのごろなら、このユダヤ人の言葉も、被害妄想のように聞えたであろう。しかし当時のK氏には、ある程度理解できたのである。というのは当時は彼自身の場合だけでなく、日本国内でも、頻発していた大争議の際、労組の夜討ち朝《あさ》駈《が》けを怖《おそ》れた社長が、家族全員をホテルに移したという話も聞いていた。確かにホテルの方が家族の安穏を守りうる。だがこういった状態は、日本人にとってはあくまでも異常な事態である。が、ユダヤ人にとっては、それは、二千年つづいた常態であった。習い性となる。最も高級な(従って最も安全な)ホテルに住んで、爪《つめ》に火をともすような生活をする。外部のものから見れば「金持のくせにひどいけち」と映ったであろう。しかし彼らにとっては、そのホテルは、出るに出られない場所であったのだ。ここにだけ安全があり、ここにだけ精神の平静と安《あん》堵《ど》がある。ということは、そこだけが「わが家」なのである。それは、当時のK氏にも理解できることであった。
「だが!」とK氏はまた考えた。こういう行き方はユダヤ人にとってかえってマイナスなのではないか。確かにそうならざるを得ないような気もするけれど、彼らは別に「旧敵国人」ではない。単なる誤解や偏見に基づくことなら、もっと積極的に出ていって、ほかの市民と交われば、自然に解決するのではないか。ユダヤ人は逆に、誤解や偏見をあおるとまでは行かないまでも、固定化する生き方を、自分の方で取っているのではないか。ある日K氏は、この疑問を率直に披《ひ》瀝《れき》してみた。ユダヤ人の答えは簡単であった。「しかし、外なるゲットーを出れば、内なるゲットーに入らねばなりませんから……。確かに『内』を選ぶ人もいます。昔からいました。しかし私は『外』を選んでいるのです。その方が楽ですから」と。K氏にはこの言葉の意味がよくわからなかったが、何か深く心に残るものがあった。そこでその時から十数年もたった後に、私に、このユダヤ人が何を言ったのかを問うたのである。これがK氏と私との出会いであった。
「内なるゲットーと外なるゲットー」と言ったのはユダヤ人国家の父、テオドール・ヘルツェルである。ユダヤ人はゲットーに押し込められている、が、ゲットーの内部にいる限り、安全であり自由である(少なくとも普通の国ならば)。しかしひとたびそこから外部に出、いわゆる「同化ユダヤ人」になるなら、自分の精神のまわりを黒幕で包んで、全く心にもない生き方をしなければならない――いわば隠れ切《キリ》支《シ》丹《タン》が仏教徒として振舞ったように生きなければならない。これは、自らの精神をゲットーに押し込めることで、これを彼は内なるゲットーと呼んだのである。「内なるゲットー、外なるゲットー」という言葉は、ヘルツェルが言い出したのであろうが、こういう見方は古くからユダヤ人の間にあった。というのは、ちょうど隠れ切《キリ》支《シ》丹《タン》と同じの隠れユダヤ人が、中世には実に多くいたからである。彼らはマラネンといわれ、宗教的迫害の強かったスペインでは特に多かった。かく言う私もマラネンの子孫であるから、その実態はよく知っている。彼らは、何代にもわたって、あくまでも敬《けい》虔《けん》なカトリック教徒として振舞う。自分の精神を黒幕でつつみ、そこに大きくカトリック教徒と書いて生きているわけである。嘘《うそ》か本当か知らないが、カトリックのさる有名な聖人は、実はマラネンなのだそうである。こういうことがあっても別に不思議ではない。身の安全を考えれば、彼らは、どのカトリック教徒よりもカトリック教徒らしく振舞わねばならず、少しの嫌《けん》疑《ぎ》もうけないためには、教会や僧院に多額の寄附をしなければならない(これはちょうど、アストリア・ホテルの部屋代のようなもので、安全のための多額の費用である)。しかし、そうやっても、いつかはばれる。ばれた時のお仕置は、隠れ切《キリ》支《シ》丹《タン》が受けたお仕置よりももっとひどい。炭火でじわじわと焼き殺されるなどというのは、まだまだ軽い方であったろう。そこで、毛すじほどでも身に危険を感ずれば、何もかも放り出して逃亡しなければならない。ある者は「死ぬなら故国で」とパレスチナに逃れ、またある者は「地中海のニューヨーク」ヴェネツィアに逃れた。
皮肉なもので、マラネンであることが発覚して助かった例もある。イギリスは一二九〇年にユダヤ人を全部放逐したから、イギリス国内にはユダヤ人は一人もいないはずであった――ということは、残ったユダヤ人はマラネンになったということである。ところがクロムウェル時代になると、カトリック(法王党)への弾圧がはじまった。一六五六年にスペイン人ロドリグ・ローブルトという者が法王党のゆえに起訴されたが、彼は、自分はユダヤ人でありカトリック教徒ではない、と自白した。裁判所もこれにはこまって、クロムウェルに直接裁断を仰いだらしく、彼は免訴になっている。
このように見てくれば、一体、「内なるゲットー」に住むべきか、「外なるゲットー」に住むべきかは、だれでも迷うであろう。これはちょうど、切《キリ》支《シ》丹《タン》禁制のとき、もし徳川幕府が日本のどこかに小地域の切支丹地区を設けて、ここにいる限り切支丹は自由であるとしたら、それがどんなに不便で白眼視されても、多くの切支丹は隠れ切支丹にならずにここに集ったであろう。ゲットーはまさにそれであるから、この迷いは大きい。ユダヤ人国家の提唱者、前述のヘルツェルが、いわゆる同化ユダヤ人の出身であって、この「内なるゲットー」の苦しみをなめつくした人であること、そしてこの人が、この二つのゲットーの両方から逃れ出るには、ユダヤ人国家創設以外に道がないと考えたこと、それは少しも不思議ではない。
日本人にはこういった経験はない(隠れ切《キリ》支《シ》丹《タン》を除けば)。日本人は常に自由であった。戦後急に「自由」を与えられたから、日本人には自由の有難味がわからないなどというのは誤った俗説であろう。私は戦前の日本に生まれ育った人間だが、戦前でも、どこを探しても内なるゲットーも外なるゲットーもなかった。もちろん何事にも例外はあろう。しかしほとんどすべての日本人は、この島のなかで、何の内的束縛も外的束縛もなく、自由自在に生きていた。確かに、ハワイやアメリカやブラジルに移住した日本人も多い。しかしその中に、内的ゲットーや外的ゲットーから逃れるため、一団となって移住したという人びとを私は知らない。皆、大いに海外に雄飛すべく、また故郷に錦《にしき》を飾るべく出て行ったのである。自由は、日本にはあり余るほどあった。ましてや、生命の安全を求めて海外に出て行った日本人など、私は全く知らない。もちろん例外はある。だが、一部の人がその例外を強調すればするほど、私には、羨《せん》望《ぼう》の溜《ため》息《いき》が出るだけなのである。
「生命の安全が何よりも第一である」といえば、「あたりまえだ、そんなことはユダヤ人から聞かなくたって、よくわかっている」と日本人は言うであろう。だが、駐日イスラエル大使館がまだ公使館であったころ、日本人に親しまれたある書記官がつくづくと言った。「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思いこんでいる」と。この言葉は面白い。生きるために、水より大切なものはないということは、何も「ユダヤ人から聞かなくたって、よくわかっている」。では、銀座のバーで「おひや」一杯で一万円請求されたらどうであろう。「ジョニ黒ですら一万円なのだから、何よりも尊くかつ不可欠の水が一万円なのは当然だ」とその人は言うであろうか。「冗談じゃない、それとこれとは別問題だ、水一杯で一万円とは何だ、暴利だ、暴力バーだ」と警察沙《ざ》汰《た》になるかもしれない。
安全に対する態度もまさにこれと同じである。軍隊とか警察とかいうものは、国民の税金で維持しているガードマン、いわばナショナル・ガードマンだといった考え方は、戦前にもなかったし戦後にもない。戦前の青年将校にそんなことを言えば「無礼者!」と叩《たた》き切られるかも知れない。また戦後は、自衛隊は税金泥棒であり、「警察は敵」である。税金が防衛費に使われ、戦闘機が一機何億円とか新聞に出ると、まるで「おひや」一杯で一万円請求されたような非難が新聞の投書に出る。政府は、一生懸命、防衛の必要をPRする。しかしそれはまるで、朝、会社へ出勤しようとする夫をつかまえて、奥さんが「水より大切なものはないし、将来のことは予測できないのですから、是非、水筒をもっていって下さい」といって、夫の肩にむりやり水筒をかけようとするのに似ている。日本は、安全も自由も水も、常に絶対に豊富だった(少なくとも過去においては)。だから、それがいかに大切だからといって、そのために金を払おうという人はいない。だが砂漠に行けば水筒一本の水が時にはジョニ黒一万本より価値があり、位置と環境によっては、飢えをしのいで最高級のホテルに泊るのと同じようなこともしなければならない。だがこれを理解してもらうことは、まず不可能に近い。いや、こんなことを書いただけで「このベンダサンという男は再軍備論者だな」ということになりかねない。だが日本が軍備を増強しようが撤廃しようが、それは日本人にのみ関《かかわ》りのあることで、私にはどちらでも別に関係ないことだ、ということは忘れないでほしい。私はただ事実をのべているのである。
日本民族は、何の苦労もなく育ってきた秀才のおぼっちゃんである。といえば、多くの日本人から、ごうごうたる反論がまき起るであろう。しかしその反論の一つ一つを検討すれば、おぼっちゃんほど、自分も人並みの苦労はしたと言いたがるそれと同じなのである――少なくともユダヤ人の目には。
日本人にとって安全なのはあたりまえであった。もちろん、あらゆる人間には危険はある。次の瞬間、天から隕《いん》石《せき》がふって来てあの世に行くかも知れない。しかしこれを恐れて頑丈な構築物から出ない人があれば、それは確かに被害妄想狂であろう。長い間、日本人にとって、危険とはそういうものであった。「地震・雷・火事・おやじ」これは私たちユダヤ人にとって、実に興味深い言葉である。この中には、戦争も、伝染病も、ジェノサイドも、差別も、迫害もない。いや日本にも戦争があり内乱があった。という人があるかもしれない。しかしあの百年戦争のとき、戦禍と黒死病でフランスの人口は半分になり(これがどんなことか、日本人には切実に感じられないであろう)、パリでは、次から次へと屍《し》体《たい》と「生きている屍体」(黒死病に感染した人間は、生きたまま、屍体として城壁外へ出す)とを運び出したため、これを餌《え》食《じき》にして狼《おおかみ》が大繁殖し、ついにパリは狼軍に包囲されて全員が餓死しそうになった、などという経験は、江戸市民にも京都市民にもない。いやそれどころか、日本には城壁都市というものさえなかった。「城壁のない都市などというものは、殻のないカキと同様、当時の人びとには考えられなかった」のだが、日本では、むき身のカキが平然と生きていた。城壁を造るのは大変な仕事である。どれほど大変かは、エルサレムの城壁を補修したネヘミヤの記述を読めばわかる。その上この城壁は、平時にはまことに不便きわまりない障害物で、文字通り無用の長物である。なぜこんなものを造ったのか、一に安全のためである。安全のためにはすべてをしのばねばならない。ところが日本では、城壁どころか、西欧的な意味の鍵《かぎ》さえなかった。私が子供のころの農村では夏など、外から、カヤの中で寝ている人を眺めることができた。「殻のないカキ」どころではない。ドアに鍵を下さなければ精神の安定を得られない国民(ということは殆《ほとん》どすべての国民だが)には考えられないことである。と同時に、すべての安全のための施設が日本人には無用の長物と見えても不思議ではない。あの戦国時代ですら武田信玄は城を建てず「人は城/人は石垣/人は堀/情けは味方/仇《かたき》は敵なり」と言っていられた。ユーラシア大陸では、たとえ信玄とて、こうは言っていられない。
ユーラシア大陸の都市には、もう一つの殻が必要であった。水を守る殻である。エルサレムや、メギドの地下水道は余りに有名である。これを造り、水を確保するのは、城壁を作るのと同じぐらい大変なことであった。さらに、伝染病、特にペストを防ぐための構築物、すなわち下水道も絶対に必要であった。だがこの二つも日本では必要でなかった。都市の無秩序、下水道の不備、公徳心の欠如などが新聞で盛んに論じられるが、こういったことはすべて、一都市を内から全滅させる恐るべき伝染病、ペストやコレラから身を守る構築物だったわけで、日本ではその必要がなかったから、現状は当然の帰結といえる。周囲には海という巨大な天然の浄化槽があり、しかも、流れの早い短い川という天然の清掃装置があった。何《なに》故《ゆえ》に巨大な下水道網などという無用の長物を造る必要があったであろう。すべては「水に流せ」ば、それでよかったのだから。
日本人にとって最も恐しいものは、確かに地震であったろう。関東大震災の東京・横浜の被害は原爆よりすごい。第一、いかなる意味の予告さえない。原爆だって、地震のように全く予告なく来たわけではない。また雷を台風と解するなら、これは地震についで恐しいもので、特に農作物の被害は地震の比ではない。またこの地震と台風で併発する火災も、木造都市の日本では恐しいものであったろう。だがこれらの災害には二つの大なる特徴がある。一つは無差別だということ。簡単にいえば、そこにいるユダヤ人だけが災害をうけ、他の人は平穏無事だということは絶対にない。もう一つは一過性ということである。過ぎ去れば終りであって、地震は一瞬、台風は文字通り一過、火事も焼け落ちればそれで終りである。確かに日本でも最近は人災という言葉が使われている。しかしこの語も、「天災への配慮不足」という意味であって、本当の意味の人災ではない。人災とはユダヤ人が受けてきたような災害に用いられるべきであろう。これは「一過」しない。千年でも二千年でもじりじりとつづいて、いつ果てるとも知れないのである。日本人はあらゆる災害を天災とうけとめる。従って「過ぎ去って」しまえば「まだ煙のたつ焼跡で、早くも復興の槌《つち》音《おと》」となる。日本人の敗戦の受けとめ方もこれと同じで、まさに「大戦一過」で、すぐさまトントンぶきの家を建てはじめた。こういった行き方は、すべての日本人に共通している。日本人の忍耐という言葉は、首をちぢめてじっと台風一過を待つことであっても、人間が存在する限り何千年でもつづく人災に対処するため、何代にもわたって重荷を負いつづけること――あるいは城壁を作り、あるいは下水道を作り、あるいはホテルに住むなどして――、ねばりづよく何とかして生きつづけること、この重荷のためどれだけコストがかかろうと、営々と働きつづけてそれを半永久的に子々孫々まで担いつづけること、といった意味はない。ギリシア語では忍耐という言葉は運ぶという言葉と同じだが、日本人の忍耐は、じっと台風一過を待っている姿であり、これを積極的に受けとれば文字通り「待てば海路の日和《ひより》」である。ああ、何と恵まれた民族であろうか。
さて、災害の最後に顔を出すのが「オヤジ」である。これは単なる語《ご》呂《ろ》合せではあるまい。このオヤジという言葉はおそらく「圧倒的なボスおよびそれに象徴される政治的・人間的諸関係」の意味であろう。これは私たちユダヤ人には非常に興味深いことである。と言うのはこのオヤジも一過性の天災のように扱われていることである。「ガミガミ言われたら口答えせず黙ってきいていろよ。オヤジはな、言っちまえばあとはカラッとしているのだから」。こういった忠告を耳にしたり口にしたりしなかった日本人は、おそらくおるまい。まさに「オヤジ一過」をじっと待っているのである。その底には、そういう状態が半永久的に続くことはあり得ない、という信念がある。オヤジも一過性であるという信念は政治の世界でも同じで、少しく古い新聞をひっくりかえして見ると、吉田茂氏がまるで天災のように扱われ、一日も早く「一過」せよと言っているように見える。また六〇年アンポも七〇年アンポも同じで、まるで台風が近づいたり過ぎ去ったりするような書き方である。台風の目は全学連、その中心気圧は何ミリバール、どこどこの方向に進む。勢力は増しているとか衰えているとか――、すべての日本人は、これは「一過」するものだから、進路にあたる者は、台風に備えるように備えておけば良い。あとの人間は一過をまてば良い、という態度をくずしていない。
では過ぎ去った後はどうなのだ。だれも何も言わないし、何も書かない。いや何々以後などと書かれた評論はあっても、その論述自体が「一過」である。ということは、本当のことは「言わず語らず」のうちに、すべての人に自明なことだからであろう。新聞にはよく「政治不在」とか「政策不在」とか書かれている。これはおそらく「オヤジ存在、政策不在」という意味なのであろう。文化人の主張するような意識的な政治や政策が、本当に日本に存在したことがあるのだろうか。いや、存在する必要があるのだろうか。そんなものは存在しない方がかえってみなが幸福なのではないか。といえば大きな反論に直面しよう。だが私は、日本人は一種の政治天才であり、その天才的行き方は、天才にのみ可能で他の民族にはまねができないと思っている。そして天才の常として、自らはかえって、それを自分の欠点だと信じきっているのだ、と思っている。だがこれについては後の章でくわしく論じよう。
話をもとへもどそう。「地震・雷・火事・オヤジ」――日本は実に平和であった。平和でありすぎた。ディケンズの小説を読めば十九世紀でさえロンドンからドーバーまで行くのがいのちがけであったし、メリメを読めばナポレオン三世の時代ですら、パリからマルセイユまで隊を組んで行かねばならぬことがあった。当時、東海道五十三次を、女がひとりで旅ができた。確かにゴマのハエもいたであろう。しかし同時代のロンドンとドーバーの間は、女がもしひとりで行くといえば気違い沙《ざ》汰《た》であった。はじめから不可能なことであった。これは現時点でも同じである。日本ぐらい安全なところはない。確かに共産圏は、ある意味では最も安全である――が、何かに誤解され、連行されたらそれでおしまいという点では最も危険である。自由主義国はこの点では安全だが、太平洋のかなたのある港湾とそれから内陸にのびるハイウェイなどには、徳川時代の東海道などとは比べものにならぬほどのすごいゴマの大バエがぶんぶんとんでいるのも事実である。
こういうゴマのハエだらけの社会に生きつづけてきた国民は、また特にその中のユダヤ人は、だれでも保険ということを考える。しかし日本では厳密な意味での保険といった考え方はきわめて稀《き》薄《はく》である。日本人の生命保険に関する考え方は、戦前には貯金の一形態であり、今でもその色彩が強い。当時は徴兵保険などというのがあったが、これは保険ではなく一種の貯蓄である。今でも「子供が大学に入るころ満期になるように」などというのもこれと同じである。これは少しくおかしい。保険と貯金とは正反対のはずである。貯蓄は将来の安全確固が前提のはずで、保険は将来の不安が前提のはずだ。これは大部分の日本人が、大宅壮一氏と同じようにその心底では保険の必要を認めていない(すなわち安全は「ただ」のはずだ)から、従って保険のセールスマンは、これを「一種の貯蓄ですよ、利殖ですよ」といって売り込まざるを得なくなる。いわば正反対のものにすりかえて売っているのであり、おそらく日本ではこれ以外に方法がないであろう。
本当に保険に入るのなら、その前に、家の構造から子供の教育まで、当然、やっていることがあるはずである。フランスの農民がナポレオン金貨を床下に埋めるのも一つの損害保険、ユダヤ人がダイヤの指輪をはめるのも一つの生命保険である(といってもおわかりにならないであろう。数人の暴漢に襲われたら、指輪をぬいて「ダイヤだぞ」と叫びつつ相手に投げつけ、そのひまに逃げる)。これは序の口であって、ユダヤ人なら子供のときから、徹底した保険教育をうける。それがどのようなものか、次の話を読んでいただきたい。
実をいうとこの話は余りしたくないのである。もう十年以上前だが、私はある日本女性から「ユダヤ人は嫌《きら》いだ」とはっきり面と向って言われたことがある。彼女はアメリカに留学していたが、ある日、偶然、隣家のユダヤ人が実に奇妙なことをするのを見聞してしまった。このユダヤ人には五人の子供がいた。ある日その父が息子のひとりに「二人で財産を隠しておこう」といい、百ドルを屋根うらの壁のすき間に押し込み、それを「兄弟にも母にも絶対に言ってはいけない」と言っているのを知ってしまったのである。「何ということでしょう。本当に守《しゆ》銭《せん》奴《ど》ですわ、親兄弟にまでお金を隠すなんて――あれじゃあ、偏見をもたれるのもあたりまえですわ」。そんな奴《やつ》らは人面獣心だといった言い方であった。
私には兄弟はいないが、やや似た経験がある。私の場合はもちろん、この日本女性が見聞したユダヤ人の場合にも、その前に、父親がこんこんと息子に言ってきかせたことがあるはずなのだ。これが危険の分散すなわち保険の第一歩なのだ。そして、そうするのが家族のためであり、家族の安全のためであって、家族を愛しているからにほかならない。もしかりに家族のひとりがマフィアにでも誘拐されたとしよう。リンドバーグの子ならいざ知らず、無名のユダヤ人の子がひとり消えても新聞種にもなるまい。警察がユダヤ人に何をしてくれよう。地方警察の中にマフィアの手先がいないとだれが保証してくれるであろう(と考えざるを得ないのは残念なことだが――)。息子は拷問に合い、家の金のありかをすべて白状させられた上で、嬲《なぶ》り殺されてセメントづめにされて海に投げ込まれても、何のニュースにもならないであろう。だがもし私がこういう目にあったら、家の金のありかなど知らない方が気が楽であろう。たとえ自分の身の不幸はなげいても、知らないことは本当に知らないのだから、どんな拷問にあっても家族に累を及ぼす心配はない。私ならその方が気が楽である。中世以来、何度もくりかえされたゲットー掠《りやく》奪《だつ》は、相互に知らないことが保険の第一歩とユダヤ人に教えた。もちろん、掠奪が終れば、生き残った家族はみなそれぞれ自分だけが知っている場所から金を取り出して、互いに助け合ったことは言うまでもない。わざと知らせない、わざと知ろうとしない、ということは、守銭奴とは違う行為なのである。だが、「誘拐に対処するよう教育せよ」といえば「それは人間不信を教えることだ」という反論が出るほど平和な日本では、今でも、このことを本当に理解してくれる人は少ないであろう。まして十数年前では、私はその日本女性に、何も言えなかったのである。
話は横道にそれるが、これはまた「日本人は秘密を守れない」という通説に通ずるものがある。確かに日本人には「秘密=罪悪」といった意識があり、すべて「腹蔵なく」話さねば気が休まらない。と同時に、秘密を守るということがどういうことか知らない。アメリカ人はずいぶんアケッピロゲに見えるが、守るべき秘密は正確に守る。良い例が原爆製造である。日本では、造船所のまわりによしずを張ったり、軍需工場の近くに来ると汽車の窓をしめさせたりしていた――何とナイーブな! アメリカはB29の写真や設計図まで平然と公表していた。だが原爆の製造は完全に秘密を守り通していた。私は昭和十六年に日本を去り、二十年の一月に再び日本へ来た。上陸地点は伊豆半島で、三月・五月の大空襲を東京都民と共に経験した。もっとも、神田のニコライ堂は、アメリカのギリシア正教徒の要請と、あの丸屋根が空中写真の測量の原点の一つとなっていたため、付近一帯は絶対に爆撃されないことになっていたので、大体この付近にいて主として一般民衆の戦争への態度を調べたわけだが、日本人の口の軽さ、言う必要もないことまでたのまれなくても言う態度は、あの大戦争の最中にも少しも変らなかった。私より前に上陸していたベイカー氏(彼はその後もこういった職務に精励しすぎて、今では精神病院に隠退しているから、もう本名を書いても差し支えあるまい)などは半ばあきれて、これは逆謀略ではないかと本気で考えていた。「腹をわって話す」「口でポンポン言う」「腹はいい」「竹を割ったような性格」こう言った一面がない日本人は、ほとんどいないと言ってよい。従って相手に気をゆるしさえすれば、何もかも話してしまう。しかし、相手を信用し切るということと、何もかも話すこととは別なのである。話したため相手に非常な迷惑をかけることはもちろんある。従って、相手を信用し切っているが故に秘密にしておくことがあっても少しも不思議でないのだが、この論理は日本人には通用しない。
個人の安全も一国一民族の安全保障も、原則は同じであろう。しかし、日本では、カキに果して殻が必要なりや否やで始まるから、知らせないこと、知らないことも、安全には必要だなどという議論は問題にされない。さらに防衛費などというものは一種の損害保険で、「掛け捨て」になったときが一番ありがたいのだ、ということも(戦前戦後を通じて)、日本では通用しない。戦前の軍人に「あなた方は、お役に立たないことが(すなわち無用の長物であることが)最大の御奉公なのだ」などと言ったら、それこそ「無礼者め」であったろう。そして咢《がく》堂《どう》翁の言った「平時の軍人は晴天の唐《から》傘《かさ》」という言葉も、戦後の「税金泥棒」も、実は、同じ論理の帰結の別の表現にすぎない。とすれば敗戦の悲劇も、戦後の議論の混乱も、「安全と水とは無料が当然」という生《しよう》得《とく》の考え方に発している。いや、これは考え方といったような生やさしいものではない。もう、問答無用の自明の公理なのである。従って、いかに効率的に、低コストで安全を計るかなどという考えは、その考え方自体が論外になってくる。自衛隊が災害救助に出動すると、急にその評価が高まり、新聞の扱い方まで暖かくなる。いわば、天災に対処するものなら意義はあるが、他の面では、全く無意義かつ有害とされるのである。
ああ、日本人は何と幸福な民族であったことだろう。自己の安全に、収入の大部分をさかねばならなかった民と、安全と水は無料で手に入ると信じ切れる状態におかれた民と、――私は、ただ溜《ため》息《いき》が出てくるだけである。だが、余りに恵まれるということは、日本人がよく言うように「過ぎたるは及ばざるが如《ごと》し」で、時にはかえって不幸を招く。深窓に育った令嬢や、過保護の青少年は、何かちょっとしたことに出会うと、すぐに思いつめてしまう。大学受験に失敗して自殺したなどはその典型的な一例であろうし、いわゆる一家心中も、多くはこの部類に入る。ユダヤ人などは、もし思いつめていたら、とうの昔に、一家心中ならぬ民族心中をやらねばならなかったであろう。考えてみれば、太平洋戦争の末期における「一億玉砕」の主張は、思いつめた「民族心中」の思考かも知れない。余りに恵まれた民族が、「古今未《み》曾《ぞ》有《う》」の事態に接した場合、こうなっても不思議はあるまい。
新聞紙上のいわゆる「人生相談」や「女性相談」は、日本人の考え方・生き方を、個々の事情に即してのべているだけにきわめて興味深いが、そのどれを読んでも、ユダヤ人ならこう答えたであろうと思われる解答はない。たった一つだけ、まさにユダヤ人の解答そのものと思われるのがあったので、それをのべておこう。これは、発明研究家のT氏がS新聞に書かれていたことである。氏のもとには、発明に関して指導や助言を求める多くの手紙が来るのだが、ある日、何をまちがえたか「女性相談」の手紙がまいこんで来た。そこで氏は、自分の任でないとことわりつつも、次のように返事をされたという。「どんな珍案・愚案でもよいから、これが解決案だと思う案を三十ほど書いて送れ。その中から、これが良いと思われるものに〇印をつけて送りかえしてあげよう」と。その返事は来なかった。しかし大分たって、すべてのことが解決したという礼状が来たという。
私が非常に面白かったのは、これがまさにユダヤ人の生き方だからである。ユダヤ人にとっては、明日がどうなるかは絶対だれにもわからないので、明日の生き方は、全く新しく発明しなければならないのである。生き方を発明するのも、機械・機具を発明するのも原則は同じで、可能な案をまずたてねばならない。そしてその案の中から、珍案愚案を一つずつ消して行き、最後に残ったもので生きねばならないのである。しかし、日本人には、こういう生き方が必要なわけがなかった。そこで、思いもよらぬ事態にはじめて接すると「思いつめて」しまわざるを得なくなる。しかしユダヤ人なら、アウシュヴィッツでいくら思いつめてもはじまらない。そこで、どんな珍案でも愚案でもよいから提出して、何とか生きる道を探そうとする。ユダヤ人の議論ずきは有名である。「シオニストが三人よれば五つ政党ができる」と、なくなった前イスラエル首相エシコル氏は言ったが、諸君がテル・アヴィヴの町をちょっと散歩すれば、まるでつかみ合いでもしそうな勢いで、文字通り、口角アワを飛ばしているユダヤ人に出会うであろうし、キブツをのぞいてみれば、もっとものすごい議論に出くわすであろう。そこで日本の新聞などには、イスラエル共和国は小党分立だから政情不安定だなどと書かれる。しかし、イスラエル共和国の内閣の寿命をお調べになれば、おそらく世界で最も安定した政府の一つだと言わざるを得ないであろう。ユダヤ人がいかに大声で論じても、だれも、少しも「思いつめて」いないのである。議論とは何十という珍案・愚案を消すためにやるのであって、絶対に、「思いつめた」自案を「死すとも固守」するためでないことは、各人自明のことなのである。ここに大きな差がある。戦後の日本の政界や政治的グループを見ると(戦前も同じだが)、必ずそこに「思いつめ集団」がいる。戦前および戦争中の青年将校グループや一時期の社会党や左翼グループは、確かに「思いつめ集団」であったし、少なくとも思いつめたようなジェスチュアはとっていた。
ここにやはり、恵まれた日本の、昔ながらの生き方があると思う。日本は平和で、日本人は同胞に親切だから、だれかが思いつめれば、周囲の者が何らかの方法で手を貸してやるのが当然であった。「まあ、あんなに思いつめているのに、だれも手を貸してやらないなんて」という非難の言葉は、私自身も耳にしたことがあるし、また思いつめた当人も、思いつめればだれかが助けてくれるはずだと期待する場合もあるのであろう。「死んだなら/たった五両と笑うべし/生きていたなら/二分と貸すまじ」。それならば死ぬ前に、二分を五両になるまで借りる方法を、珍案・愚案も含めて、三十ほど立案できなかったのか――いや、これはユダヤ人的思考であろう。そして思いつめているが故にその人の言は聞くべきである。というのは日本人独得の考え方であろう。確かに、二・二六の安藤大尉は思いつめていたであろう。樺美智子さんも思いつめていたであろう。そしてその思いつめが、人びとを引きずって行った――だが、これが西欧なら、たとえユダヤ人が何かを思いつめたとて、だれも指一本動かしてくれない。思いつめられるということは、また、安穏無事の一つの証拠にちがいあるまい。安穏だからこそ、思いつめている余裕があり、周囲もそれを何とかしてやる余裕があるのであろう。だがこれは、国際社会にも、ユダヤ人の生きた社会にも通用はしない。――思いつめたからといって、自己の生存も、自己の安全も、自己の希求も確保できない。これらのすべては、自らの手で、高いコストをかけて、保存しなければならない、というのが、二千年の体験から割り出したユダヤ人の結論であり、日本人と根本から違う点なのである。
二 お米が羊・神が四つ足
――祭司の務めが非人の仕事――
「日本人は犬を虐待する」とイギリスの大衆紙が報道したときの、日本人の反応は興味深かった。西欧通のいわゆる「文化人の解説」そのものといったA新聞の論調や「血のしたたるビフテキを食べながら動物愛護とは恐れいる」といった素朴な反感や、経済的発展に対する「ジェラシイ」だろうとする説等いろいろあって面白かった。しかし大体見たところでは、多くの日本人はけげんな顔をしていたように思う。
この場合、けげんな顔をするのが当然なのである。そうしないで、もっともらしいことを言っているのは、嘘《うそ》つきの知ったかぶり屋だと断言してよい。なるほど日本にも偏執狂的犬ぎらいは居るであろう、しかしイギリスにだっている。だが、デモまでした日本の愛犬家とイギリスの犬嫌《ぎら》いを比べたところで、これはどうにもならない。イギリス人のみならず、西欧人が何となく感ずることは、広い意味の家畜に対する態度が、日本人と西欧人とでは、何か根本的に違う、といった一種の違和感なのである。そしてこの違和感を巧みに突いたがゆえに、「犬虐待」の報道が大きな関心を呼んだといえる。この点では、この記者のカンはなかなか鋭い。
彼らは、「血のしたたるビフテキを食べながら動物愛護を説く」のでなく「血のしたたるビフテキを食べるから動物愛護を説く」のである。このビフテキという言葉を米におきかえてみたら、その感情がある程度は理解できるのではないだろうか。
日本人は(本人は気がつかなくとも)米に特別な感情をもっている。昔の日本人は「ゴハン粒の一つ一つには観音様が宿っておられる」といって一粒も無駄にせず、洗い流した飯粒を集めてかめにつめ、のりにした。苗《なわ》代《しろ》にはしめなわをはった。講談によれば、水戸黄門は米俵に腰を下ろしたため百姓女から火吹竹で撲《なぐ》られた。ではこのように尊く、観音様の宿っているお《ヽ》米《ヽ》を、石川五右衛門のように釜《かま》ゆでにして食べてしまうのはおかしいと言う者があれば、言っている本人が少々おかしいであろう。米は命の糧《かて》だから神聖なのである。
全く同じことが(否、それ以上のことが)、遊牧民(または牧畜民)の家畜について言える。昔のユダヤ人にとって、それは羊であった。羊の乳からチーズを作るなどといえば、多くの日本人は驚くであろう。日本人の用いるのは牛乳とせいぜい山《や》羊《ぎ》乳だが、羊であれ、らくだであれ、ろばであれ、すべての家畜の乳はしぼられて、遊牧民には欠かせぬ食糧である。その筋《すじ》も内臓も骨髄も食糧、毛は衣料、皮は装身用具、ある場合にはちょうど家具にあたる。また彼らの家すなわち天幕は山羊の毛で、それを張る綱やひも、また楽器の弦も羊の腸である。昔はその肩甲骨が書写板であり、皮は紙であった。「羊は命の糧《かて》」であり、いわば米、否、米以上であった。とすれば日本人が米を神聖視する以上に彼らが羊を神聖視しても不思議でない。
私は戦前、ある山伏(だと思う)の儀式を参観したことがある。台つきの大きなおわんのようなものに、たきたての御飯を山盛りにする。その時の説明では、この湯気を八《や》百《お》万《よろず》の神々に送るということであった。私には非常に興味深かった。というのは昔のユダヤ人に同じような儀式があったからである。それは石をつんだ壇の上に薪を高くつみ、その上に、子羊を殺して丸ごと横たえ、火をつける。そしてその「香ばしい煙を天に送る」のである。一方は湯気、一方は煙だが、同じ考え方であり、羊と米は、このように、同じようにあつかわれているのである。
ユダヤ人が農耕を主とするようになっても、この風習は長く残った。これは古い伝統を守っただけでなく農耕牧畜併用であり、また周囲の遊牧民と接触しつづけたからであろう。従って、「羊」という言葉がまさに「お羊」で、「命の糧《かて》」といった特別な意味で、また「自らを殺して人を生かす」といった宗教的な意味で用いられても不思議ではない。新約聖書を開けば、「神の小羊」といったような表現が実に多いのに気づかれるであろう。これは何もユダヤ人だけではない。ユーラシア大陸のほとんどすべての民族は、何らかの点で遊牧民に接触し、時には彼らに征服され、その伝統と生活様式をうけついでいる。一方日本人は、過去において、遊牧民と全く接触せず、牧畜をいとなんだ経験の全くない、実に珍しい民族なのである。
「確かに遊牧民に接したことはない、しかし牧畜を営んだことはある」と反論されるかも知れない。確かに武士は馬を飼い、農民は牛を飼った。しかしそれは牧畜民の意味する牧畜ではない。武士にとって馬は武器であった。佐野源左衛門でなくとも「錆《さび》たりとはいえ一すじの槍《やり》、やせたりとはいえ一頭の馬」であり、日本の軍隊では馬は「活兵器」といわれていた。牛はちょうど耕《こう》耘《うん》機の動力、すなわち米を作るに必要な道具もしくは動力であっても、牛それ自体に人間の生活が依拠していたわけではない。これは日本人にとって必要悪だったはずである、というのは「四つ足はけがれたもの」だったから。インド人が牛を食べないのは牛が神聖だから殺して食べるようなことはしないのであって、中世の日本人のように「けがれているから」食べないのではない。
日本人は家畜を「けがれたもの」と規定し、その処理に従事する人びとを穢《え》多《た》非《ひ》人《にん》として差別した。一方牧畜民は家畜を宗教的に聖なるものと考え、従って屠《と》殺《さつ》は祭司の聖なる務めであった。イスラエルでは、ヨシア王の申《しん》命《めい》典《てん》革命(紀元前六四〇年ごろ)で、はじめて一般人も屠殺してよいことになったらしい(これには異論もあるが)。おそらく昔は、ちょうど村の鎮守のように地方地方に聖所があり、家畜を屠《と》殺《さつ》するときはそこへ連れて行って、所定の宗教的儀式の後に屠殺したのだが、この地方聖所がエルサレムの神殿に統合されるとそれが不可能になったからであろう。いずれにしろ屠殺は聖なる仕事であり(ちょうど稲の刈入れのように)、家畜自体は絶対に「畜生」とは考えられなかった。このチクショーという言葉は実に象徴的である。イエス・キリストが馬小屋で生まれた(馬小屋は誤りで家畜小屋であろう)ことを、日本人キリスト教徒は、神の子が地上最低の場所でチクショーと共に生まれたと解し、これに特別な意味づけをする。だが当時のユダヤ人(のみならず他の多くの民族でも)では、一般人が家畜小屋で生まれることは、普通のことであった。というのは人間と家畜の同居は、当然の状態だったからである。家は大きな一間で、半分が一段高くなっていて、人はそこに寝る、低い方は家畜が寝る――庶民の普通の風景であった。従って「のみしらみ、馬が尿《しと》する枕《まくら》もと」はあたりまえであって、詩人に特別な感慨を起させることではない。
日本では、けがれた「四つ足」と同居するなどとは、実にとんでもないことであった。私は、日本で一番開けていないといわれる十津川の奥の村落で泊ったことがあるが(ユダヤ人どころか、外人などは始めてということで、さんざん眺められたが、実に親切な人たちであった)この貧しいといえる家の造りは実に興味深かった。母《おも》屋《や》の台所には、懸《かけ》樋《ひ》から例のコストなき水が流しに流れている。そこを出て下《げ》駄《た》ばきで少し行くと別棟の風《ふ》呂《ろ》がある。さらに先に便所が、そしてさらに先に家畜小屋がある。台所の水は風呂の水と共に便所を水洗し、家畜小屋の汚物を水洗し、その先の大きな「ため」に入る。この「ため」の下の斜面が畑で、肥料をかつぎ下ろしては、からの桶《おけ》をかつぎ上げるという、まことに合理的な仕組になっていた。この屋の主人に「家畜も便所も風呂も同じ屋根の下に入れたら便利でしょう」などと提言したら、それこそ精神状態をうたがわれたに相違ない。
家畜といったが、ここに面白い例外がある。それはユダヤ人(およびイスラム教徒)と豚の関係である。ユダヤ人の豚の扱い方はちょうど中世の日本人の家畜の扱い方と同じであって、まさに「けがれた四つ足」である。私にとって何よりも面白いことは、中世の日本人が本当のスキヤキをした――すなわち「食器がけがれるから」といって鋤《すき》をステーキ鍋《なべ》にした――のと同じことを、イスラエル共和国の軍隊がやっていることである。豚肉は、乏しい予算内で必要な蛋《たん》白《ぱく》質とカロリーを十分補給するという点から考えれば、喉《のど》から手が出るほど使いたい。そこで豚肉も出る。しかし食器は使わないで、豚用特別容器に盛られ、これは他の食器と混ぜないのである。
例外をもう一つ、日本側にあげよう。日本人が営んだ唯一の「牧畜」に養蚕がある。もっとも昆虫は畜に入るかどうか知らないが、一時代の日本の農家の天井裏には、牧場に計算すれば何万ヘクタールからの収入に等しいものがしまいこまれ、白い、人の指ぐらいの羊が青い葉の間を這《は》っていた。われわれには実にうすきみ悪いイモムシだが、養蚕業者は彼らを「オカイコサン」と呼んでいたのが興味深かった。この人びとは、牧畜民が家畜を「お牛さん」「お羊さん」といった扱い方をしても、別に不思議がらないであろう。
確かにいろいろな例外はある。しかし家畜は「命の糧《かて》」で、神や救世主の象徴にしていた諸民族、そして屠《と》殺《さつ》は祭司の宗教的業務としていた諸民族が、四つ足はけがれたもの、四つ足を処理するのはけがれた人としてきた民族の動物の扱い方に(外面的には全く遺漏がなくても)何か違和感を感じても、少しも不思議ではない。それは一時代前の日本の農民がアメリカ人の米の扱い方を見たら、それがどんなに合理的で衛生的であろうと何か違和感を感じたであろう、それよりもはるかに大きな違和感なのである。
日本人の大きな特徴の一つは牧畜生活を全くしなかったこと、遊牧民と全然接触しなかったこと。従って遊牧民的思考と牧畜民的行き方が全く欠如していることである。その一例としてあげられるのが奴《ど》隷《れい》制度と宦《かん》官《がん》がなかったことであろう。「確かに宦官はなかったが人身売買はあったし、今もある」という人があるかも知れない。だが、人身売買と奴隷制度は関係がない。奴隷とは人身ではないからである。これは家畜であって、家畜の中に牛や馬や羊がいたようにヒトもおり、家畜が売買されると同様に奴隷も売買されたのであって、これを不思議と思う者がいるわけがなかった。実質的に奴隷がいなかったのはイスラエルだけだといえる。これはモーセの律法特に申命典が奴隷をもてないようにしていたからであって、むしろ例外である。
奴隷すなわちヒト家畜の値段は、ローマ時代には大体ろばの二倍から三倍であったらしいが、あらゆる商品と同様、需要と供給により値段が上下した。紀元七〇年のユダヤ戦争の後でローマ人が、ユダヤ人の捕虜をギリシアで競売したときには、余りに数が多すぎて値段が暴落し、ろばの半値になったという。奴隷が虐待されたというのは後代の偏見で、最近の研究では非常に大切にされたらしいことがわかっている。大カトーの時代には、ある祭の日には奴隷を上座に据えて主人が給仕したという。さらに昔には、毎日のようにそうしたのであろう。しかし、だからといって奴隷が人間として大切にされたのではない。というのは、まず家畜のせわをすませ、これに食物をやってから自分の手足をすすいで食事をするのは、牧畜民族では当然のことだったからである。従って、奴隷はあくまでも貴重な家畜として大切にされたにすぎない。近代になるとこのヒト家畜が国際商品となっている。自動車専用船ならぬヒト家畜専用船がアフリカ = アメリカ両大陸間を絶えず往復していた。そして陸揚げされたヒト家畜は、堂々と競売された。ちょうど家畜のせりと同じで、台の上にたたせられたヒト家畜を、バクロウならぬヒトロウがせり落し、それぞれ農場へ売り込んだ。皮肉なことにヴァージニア州の最初の奴隷所有者は白人でなく黒人の地主なのである。従ってこれは、もちろん単なる皮膚の色の問題ではない。家畜は労働力であったが、同時に常に、繁殖させてその子供を売るための利殖の元本でもあった。オンナ家畜は、間断なく妊娠しているように配慮された。もちろん孕《はら》んだ牝《め》牛《うし》よりはるかに大切にされたが、それは、あくまでも家畜として大切にされたのである。もちろんどこの国でもどの時代でも動物虐待者はいるから、『アンクル・トムの小屋』はすべてがフィクションではないが、例外であろう。むしろ『風と共に去りぬ』の「立派な奴隷をあんなふうに扱うはずがない」という言葉の方が正しいであろう。だが、いずれにせよ、奴隷が「人語を解する家畜」であったことに変りはない。
家畜が「けがれた四つ足」でなく、しめなわを張って然《しか》るべき命の糧《かて》であり、しかも人と家畜が同居し、人の一部が家畜として扱われる、という状態は、ある場合には実は慄《りつ》然《ぜん》として然るべき状態なのである。口《こう》啼《てい》疫《えき》という病気がある。これがひとたび侵入すると家畜は全滅するから、この病気にかかった家畜はすぐ殺して焼き捨てねばならない。最近イギリスでは三十万頭の家畜が焼き捨てられた。とすれば、もしヒト家畜の中に、奇妙な「思想」というヴィールスをもった家畜がいると思われた(または誤認された)場合はどうなるか。その伝染を防ぐためヒト家畜を全部焼き捨てるのが当然の措置であろう。これから先は、ユダヤ人である私には、書くのが苦痛だが、アウシュヴィッツとはまさにそういうものであった。だから、このユダヤ人という、伝染病にかかった家畜は殺されて焼かれた。そして家畜だから、当然のことに、その骨は肥料にされ、その髪は何かの原料にされ、その他、利用しうるものはすべて利用され、その上、遺族には屠《と》殺《さつ》料が請求された。これは、いわゆる「残虐行為」ではない。確かに戦争中の日本軍にも残虐行為があった。しかし日本人が殺した相手はあくまでも「敵」であったし、少なくとも「敵」と誤認された「人間」であった。伝染病にかかった家畜のように、是非善悪でなくその存在自体がよろしくない、というのではなかった。たとえ日本刀で捕虜の首を切ることはあっても、高能率の屠殺機械を作り、屍《し》体《たい》を何かの原料にするなどとは、日本人には到底考えも及ばないことであった。
アウシュヴィッツ的思考の基になる考えは(もちろん考えだけだが)牧畜民乃至《ないし》はその後《こう》裔《えい》なら、どこの国にもある。皮肉なことに、もちろん、ユダヤ人にもある。私はユダヤ人だからユダヤ人のことを誤解されたくないが、これを言わねばフェアではあるまい。二千年前のことだが、有名なラビ・エレアザルは「アム・ハ・アーレツ(一種の賤《せん》民《みん》)は見つけ次第八ツ裂きにして良い」といった。弟子が驚いて「八ツ裂きとは少しくひどいではないですか、せめて屠《と》殺《さつ》といわれたら」というと「家畜は屠殺するとき祝福せねばならない、だがアム・ハ・アーレツはその必要がない」と答えた。彼の目には、ある種の人間は、家畜以下だった。だがくどいようだが誤解されてはこまる。家畜以下ということは、けがれた四つ足以下という意味ではない。否四つ足はけがれていないが故に、アム・ハ・アーレツには、屠殺という言葉を使ってはいけないのである。それから二千年後、ユダヤ人は主としてドイツで同じ憂《うき》目《め》にあった。家畜にふれても少しも不潔とは思わないが、ユダヤ人にふれたというだけで全身を洗うドイツ人は当時は珍しくなかった。従ってこういった差別を、日本における「穢《え》多《た》非《ひ》人《にん》」への差別と同一視してはならない。これはむしろ職業上の差別だが、前者は、人と、差別された者との間に家畜が入ることによって、決定的な差別となっているからである。
動物愛護の本家を自任するイギリスでは、しばしば一部の人が犬以下に扱われている。その犬の扱いも、日本人の目から見れば実に奇妙な「愛護」であろう。「動物愛護だなんて、あれじゃまるで犬のアウシュヴィッツだ」といった日本人を私は知っている。この人は、牧畜民のことは何も知らないのだが、そのカンは、いわゆる評論家よりはるかに鋭い。日本人は牧畜民でないから、「動物は動物で生きて行け、人間は人間で生きて行こう」といった行き方をする。また人間→→家畜→→賤《せん》民《みん》ではないから動物は人間の領分にいない。そこで動物が人間の領分を侵さない限り、平和共存で行こう、もし交際する余地があるなら交際しよう、といった行き方になる。この場合、動物の方へ極端に重点がかかれば犬《いぬ》公《く》方《ぼう》綱《つな》吉《よし》将軍の行き方になるし、今でも日本には小綱吉はいくらでもいる。一方、高崎山のサルはうまくいっているその典型であり、また、食事時になると何十匹という猫が集ってくるが、食事が終ればさっさと自分の領分へ散ってしまう鎌倉のある家猫の話もその一つであろう。これは、日本人にとって当然である。彼らは彼らで生きて行けるし、生きているのである。しかし日本にはじめて来た宣教師ヘボンは、犬は犬で生きて行け、人は人で生きていく、という日本人の行き方が全く理解できなかったらしいし、それから一世紀たっても、ヨーロッパ人にはこれが全く理解できないのである。
無理もない。牧畜民にはこういう考え方は全くないのだから。飼っているのかいないのかわからない状態などというものは、ありえないのである。これは、どちらが良いとか悪いとか言えることではない。しかし欧米人が米の扱い方を何も日本人に学ぶ必要がないのと同じように、日本人が、動物の扱い方で、何もイギリス人に学ぶ必要はない。ましてや、一部の評論家のように、彼らの考え方に迎合して奇妙な、筋の通らない、持ってまわったような珍論を新聞に発表する必要などはない。それは、全く無意味で、誤解に誤解を重ねるだけであろう。
動物の扱い方だけでなく、他にも同じことがある。遊牧民の生き方と農耕民の生き方は全然ちがうのである。いかに積極的に勤勉に働いても家畜の数が急増するわけではない。第一、遊牧民には「遊牧民のような怠《なま》け者」という言葉もあるように、日本的勤勉さなどは皆《かい》無《む》だし、第一無意味である。羊の腹を一心不乱になでたところで繁殖が加速するわけではない。ただただ忠実な管理者として見守っているだけで十分なのである。農耕民の生き方はちがう。ユーラシア人は、この二つの生き方がミックスしているが、日本人は遊牧民から断絶していたから、純農耕型勤勉になり、純農耕型積極経営になっても少しも不思議ではない。せっかちだとか、過当競争だとか、不合理な勤勉さなどという批評は、まことに的はずれである。ではそれについて以下にのべよう。
三 クローノスの牙と首
――天の時・地の利・人の和――
ユダヤ人の故郷、イスラエル共和国に来ると、だれでも驚くことがある。ここは「地上の模型」なのである。ネゲブへ行けば砂漠、フーレ湖(今は干拓されたが)付近へ行けば湿地帯でかつてのマラリアの地、厳冬のエルサレムでは氷《ひ》雨《さめ》がふって、二、三年に一度は雪までふるが、同日同時刻に、直線距離で二十二キロのイェリコへ行くとクーラーが必要である。ヨルダンの両岸は昼なお暗き熱帯のジャングルだがヘルモンの頂上は四時雪をいただき、一方、セフェラに下れば典型的な地中海気候のなだらかな沃《よく》地《ち》だが、東へと高地を一つ越えれば死海の沿岸で、昆虫以外には生き物のいない荒涼たる岩地である。レバノン共和国の観光ポスターの唱《うた》い文句は「スキーと海水浴が同時にできます」だが、イスラエルにもこれと同じことがいえる。日本の四国より少し広い地域に、熱帯・寒帯・温帯・砂漠・湿地・平地・丘陵地・海・湖・塩湖・川が入り組んでいて、いわば全地球のミニ版になっている。こういう所に住んでいれば、地上のどういう環境のところに移住しても余り驚かなくなるであろう。ユダヤ人が全世界に散っても、その場所場所である程度順応できたのも、こういう環境に育ったからであろう。また多くの人が指摘するように、パレスチナという地は、勤勉で細心なものには豊《ほう》饒《じよう》だが、ちょっと油断をすればすぐさま、細々と羊を飼う以外に方法のない荒《こう》蕪《ぶ》地になってしまう。地はカリを含んで肥《ひ》沃《よく》だが、水が少ない。そこで、この肥沃を生かすには、春の雨と秋の雨を徒らに流してしまわぬよう、常に細心な注意と土地の保全を要求される。「働かざる者は食うべからず」で、この意味の言葉は『ミシュナ』にありパウロも口にしている。ユダヤ人の性格を自らかえりみると、この地が与えた影響は絶対に無視し得ない。勤勉・細心・計画性、環境の変化へのすばやい対処など――。
一方、日本を見ると、これまた別の意味で地球のミニ版である。というのは赤道直下の気候にもなれば、シベリア以上の積雪にもなる。ボルネオの密林のように湿度が高くなることもあれば、東京砂漠などという言葉が新聞に出るほど乾燥しきったカラッカゼが吹くこともある。そして日本では、これがほぼ正確に一定期間で循環している。これを見るとつくづく、日本人とは「九十日の民」だという気がする。清《せい》少《しよう》納《な》言《ごん》の言う通り「ただ過ぎに過ぐる物。帆をあげたる舟、人の齢《よわい》、春夏秋冬」であって、九十日という、あっという間に過ぎる期間ごとに、生活の仕方を変えて行かねばならない。日本人にとって、これは先祖伝来のことだから今更それを大変だと言ってもはじまらないが、外部から見るとつくづく大変なことで、怠《なま》け者やノロマには生きて行けない世界である。確かにこの世界では、「ノロイ」ということは無能ということであり、従って何としても勤勉で、少々せっかちにならざるを得ない。「何ごともアラーのおぼしめし」などといって、戸口でのんびり水たばこを吹かしていれば、日本では確実にあの世に行ってしまう。やはり、小さなキセルにせわしげに煙草《たばこ》をつめ、長火鉢のふちでせっかちにカンカンとたたいているのがふさわしい。梅雨もあれば台風も来る。「怠惰によって屋根は落ち、無精によって家はもる」と昔のユダヤの賢者は言ったが、この言葉はむしろ日本人にふさわしいであろう。怠惰では一刻も生きて行けないのだから。
砂漠の国は一まず措《お》くとしても、たとえばイギリスに住めば夏服はいらないし、シンガポールに住めば冬服はいらない。だが日本ではホンコン・シャツも外《がい》套《とう》も必要だし、冷房も暖房もいる。しかも梅雨期と秋とには、また全く別の国である。外国人の奇妙な意見として、一笑に付していただいても結構だが、私には、寝《しん》殿《でん》造りと十二単衣《ひとえ》とは、まさに冷暖房つき生活方法だという気がする。この家は、兼好法師の提言をまつまでもなく夏むきに造られており、床下を小川が流れて冷房になっている。だが、これでは冬は寒くてやりきれないから、寒くなるとともに衣服を重ねて行き、酷寒時には十二枚になる。いわば冷房つきの家で防寒衣をつけて生活するのが、当時の最高のぜいたくではなかったのか、と思っている。人間は大体において、その時代時代に応じた最も合理的な生活方法をとる。ただ、時代が過ぎるとその環境がわからなくなるので、後世から見れば不合理かつ不便と見えるだけなのであろう。寝殿造りに十二単衣は、九十日ごとの転換にふさわしい生活態度で、形はかわってもその実質は、今日までつづいているのではないであろうか。洋服と着物の併用を単なる模倣と考えたり、また羽仁もと子女史のように不経済な二重生活と考えるのは誤りであろう。これは日本の気候を考えると実に合理的である。
さて、この環境は、直接に日本人に影響を与えただけでなく、稲作を通じて、間接にも、徹底的な影響を日本人に与え、同時に徹底的な訓練を全日本人にほどこした。いわばこの環境は全日本人の「鬼の大松」だったと言ってよい。一口に農業とか稲作民族とかいっても、その実態は日本とは非常に異なる。パレスチナ周辺でアラブ人が行なっていた農業とは、麦をばらばらとまくと家畜をつれて移動してしまい、稔《みの》ったころ来て刈り入れるといった行き方であり、また同じ稲作といっても、フィリピンに行けば、米は年に三度もとれるのだから、みなそれぞれ自分の好む時期に適当にもみをまいているにすぎない。こういった農業と日本の稲作を比べれば、日本の農業はまさにキャンペーンであって、私はこれを「キャンペーン型稲作」と名づけている。そして稲作だけでなく、現在では、日本人はすべての事業を、この型でやっているのも事実である。
日本の稲作は(場所にもよるが)気候の点で少しく無理があるから、否《いや》応《おう》なし、待ったなしの緻《ち》密《みつ》な計画のもとに手ぎわよくやらねばならない。三月に苗《なわ》代《しろ》、梅雨期に田植え、台風前の結実、秋の快晴にとり入れといったスケジュールは崩せない。遊牧民的基準から言えば、まるで秒きざみである。『百姓嚢《ひやくしようぶくろ》』に次のように記されているのも当然であろう。
天の時を敬《つつし》み、地の利にしたがふは、人間の常理也。ことさら農人は、一日も天の時、地の利をつゝしみ、従ふ事なくんば有《ある》べからず。耕穫収芸、みな天の時にして、暦の用なり。暦は朝廷の政事にして、民の時を授けたまふ。皇道の第一、天下の至宝なり、天文官、来年の暦を造りて十一月天子に奉る。これを暦奏といふ。これを諸方に頒《わか》ちあたへ給《たも》ふ事、和漢の例なり。日本末代に至て、伊勢の神官家、諸国万民へ頒つ事と成《なり》て、普《あまね》く時を授く。本朝は神国にて、太神宮より時を授け給ふも、有《あり》がたき風俗也《なり》。殊に農家耕作、時を敬むを第一とす。一日を懈《おこた》るときは、一月の凶となり、一月の懈《け》怠《たい》は百日の凶となれり。これらの了《りよう》簡《けん》、をのをのその土地の気候、方角の気運にしたがいて、尤《もつとも》差別あらん。天の時の春夏秋冬は、日本六十余州同時なりといへども、東西南北、地土の方位に従《したがつ》て、風雨雪《せつ》霜《そう》、旱《かん》水《すい》寒熱温冷、をのをのひとしからず。此《この》故《ゆえ》に草木万物、みな同じき事なし。都《すべ》て天気の運行は、一様なりといへども、大地に受《うく》る所に、はなはだ不同ありて、六十六国は六十六のかはりあり、深く心をつけて、をのをの応不応の子細を詳《つまびらか》に察すべし。一草一木を植《うう》るといへども、其《その》地《ち》の方位を考ふる事なきときは、繁栄する事なし。一家一宅の間といへども、一物をのをの天地一体の理にして、四方八位備《そな》はれる故に、その主気差別あり。况《いわんや》一、二里を隔《へだて》し所をや。まして南北十里を隔し地、其《その》気《き》かはりあり。三四十里相《あい》去《さる》所《ところ》、地気尤《もつとも》等しからず、委《くわし》くは地理学の人に習ひしるべし。
何しろ刈入れ日時はきまっていて動かせない。すべてここから逆算しなければならない。「一日をおこたるときは一月の凶」であるから、遅れは死にもの狂いで取りかえさなければならない。一日ちがいで一方が収穫百パーセント、一方がゼロになることは、台風をひかえての取入れでは少しも不思議ではない。これがまた「ノロマ」は無能、やる気がないのは罪悪で、そして「なせばなる」の哲学を生む。
中世の日本では人口の八十五パーセントが農民だったというから、国民のほぼ全員が、一千数百年にわたってこういう訓練をうけつづけて来たわけである。従って、一定期日を定めて、そこから逆算し、いわゆる秒きざみのスケジュールで事を運ぶ点では、全世界広しといえども日本人の右に出るものはいない。真珠湾の攻撃であれ、オリンピックや万国博の開催であれ、また戦後のさまざまの会社の復興であれ、まさにキャンペーン型稲作の現代版的行き方である。
ソヴェトの大計画経済において、一方ではタービンができているのに発電機ができないために三年も遊んでいる発電所があるかと思えば、もう一方ではその逆で、発電機は来たのにタービンができないため同じく三年も遊んでいる発電所があっても、だれも別に気にはしないし、これがアラブの諸国となれば、さらにさらに徹底している。これを日本人は不思議がるが、遊牧民なら当然のことなのである。第一、羊の数をふやそうと「なせばなる」と言いつつ羊の腹をこする人間がいたら気違いだし、発情期でもないのにむやみに交尾させようとしたら、させる方がばかなのである。従って遊牧民的生き方から見れば、日本人の行き方(特に時間を切るという行き方)は全く不可解で気違いじみたものに映っても少しも不思議ではない。ヨーロッパ人は遊牧民的行き方と農耕民的行き方がミックスしているから、同じように計画をたてても日本人とは行き方がちがう。特に「請負い」における日本人の働きぶりは理解できないし、下請という日本人特有の一種の「稲作型小作制度」も理解できない。そこで二重構造だの、過当競争だの、エネルギーの浪費だのと批判はするが、批判されている方がずんずん収穫をあげてしまうので、実をいうとあっけにとられているのである。では一つ、日本人のまねをしてやれと思っても、少なくとも遊牧民には、それは絶対に無理である。一千数百年にわたる基礎訓練がないのだから。
この点アメリカ人は少しく違う。彼らはその移民の初期に、このキャンペーン型稲作に非常に似たことをせざるを得ない環境に追いこまれた。これは、食糧がなくなるまでにトーモロコシが成熟してくれねば全員が餓死するという状況に追い込まれたピルグリムス・ファーザースにしろ、ついに妻を殺してその肉を塩《しお》漬《づけ》にして飢えをしのぎ、自らも絞首刑に処されたヴァージニアへの移民にしろ、長期にわたって、等しく追い込まれた一つの環境であった。面白いことに、アラブの遊牧民を起点として、西へ西へと進むほどこの型が強くなって行き、日本はその極点に立っている。
だがこのキャンペーン型稲作は、もう一つの決定的な特徴を日本人に与えた。「天の時、地の利、人の和」はまさにこの特徴を表わしている。かつては、全日本人の八十五パーセントが、ある時期(天の時)になると一斉に同一行動を起した(人の和)。田植の時には全日本人が田植えをしなければならない。ゴーイング・マイ・ウェイなどとうそぶいていれば、確実に餓死するか他《ひ》人《と》様《さま》のごやっかいにならねばならぬ。私の親しいある日本人農民は言った「私は篤農でも精農でもなく、単なる隣り百姓です」と。もちろんこれは彼の謙《けん》遜《そん》であるが、面白いのはこの「隣り百姓」という言葉である。隣りが田植えをはじめれば自分も田植えをする、隣りが肥料をやれば自分もやる、隣りが取り入れれば自分も取り入れるのである。隣りが立派な農民なら、確かにこれが安全な道であろう。「何と自主性がない」などという文化人がいたら、そういう方が少々頭が足りないのであって、自ら隣り(模範)を選び、その通りにやるのは立派な一つの自主性であり、しかも的確にまねができるということは、等しい技量をもたねば不可能であるから、その技量に到達するよう自らを訓練することも自主性である――、少なくとも、キャンペーン型稲作においては。欧米は百年にわたって、日本人に、隣りの百姓にされていたわけであろう。
だが、と文化人は言うかも知れない。それが進んで、隣りがピアノを入れればピアノ、隣りがカラーテレビを入れればカラーテレビとなると、これは自主性のない恥ずべきことであると。しかし私は必ずしもそうは思わない。明治における驚嘆すべき義務教育の普及と文盲の一掃、さらに戦後における大学教育の普及は、同じ「隣り百姓」の論理だと思う。東南アジアやアラブの諸国では、いくら義務教育令を出しても空文になってしまう。遊牧民は本質的に文字通りマイ・ウェイであるから、隣りがどこへ行こうが関係がない。ましてや、隣りが大学へ行くなら、自分の方も、三度の飯を二度に減らしても子供を大学にやることなどは絶対にない。私は昔、野口英世の母の物語を読んだ。彼女は学校に行けなかったので、教場の外で盗み聞きして、砂の上に指先で文字を書いて学んだという。これは本当に向学心乃至《ないし》は学問的興味であろうか、そうなら終生勉学をつづけたはずである。おそらく、皆が行けるのに自分が行けないのは不合理だと感じたのであろう。今でも同じことを口にする日本人は多い。「みんな高校に行っているのに、あの子だけ行けないのは、かわいそうですから」。まさに、キャンペーン型稲作の行き方である。こういう社会では、マイ・ウェイ型人間のたどる運命は、社会から排除されるか、社会がこれを矯正してしまうかのいずれかであろう。全学連の闘士の十年後の姿を見れば、この矯正または排除が実に的確に行われているのがわかるであろう。
日本人は全員一致して同一行動がとれるように、千数百年にわたって訓練されている。従って、独裁者は必要でない。よく言われることだが、明治というあの大変革・大躍進の時代にも、ひとりのナポレオンもレーニンも毛沢東も必要でなかった。戦後の復興も同じである。戦後の復興はだれが立案し指導したのか。ある罷《ひ》免《めん》された大使が、ドゴール、毛沢東、ネールの名はだれでも知っているが、吉田茂などという名は特別な知日家を除けばだれも知らないと言っているが、これは事実である。明治以来ある程度知られた日本国総理といえば東条氏であるが、彼の名すら忘れられようとしている。事実彼は、どう見ても独裁者とは縁遠い存在である。免職になった良き夫・良きパパなどという独裁者はいない。また日本の暗殺の系譜もこれを示している。独裁者から民衆を解放するために行われた暗殺はない。日本の暗殺はまた別の事件である。
遊牧民の世界はこれと全くちがう。全員一致で一定の方向に向う必要ががんらい皆《かい》無《む》なのであるから、そうしようと思うなら「アラブの砂は固く手で握らねばばらばらになる」のである。一定の家畜がいれば、その持主は文字通りマイ・ウェイを行く。かつては(今でも)国境などが考えられぬ無限の草地を、家畜の意に従って歩きまわっていればよかった。こういった民に、一定の方向に向って統一行動を取らせようとすればコーランと剣、すなわち宗規と強権が絶対に必要であり、打ち勝たねばならぬ強大な敵か競争相手が必要であった。すなわち最も温和なスローガンでも「追いつけ、追いこせ」であり、それでもばらばらになりそうになれば、どうしても「宿敵イスラエル」が必要となる。だが日本人にはこんなスローガンは必要ではなかった――いつの時にも。毛沢東のことを考えると、彼は、孫文が流《りゆう》砂《さ》の民と評したこの民族を、一つのキャンペーン型民族にかえようとしているかに見える。端的にいえば、中国人を日本人に改造しようとしているのであろう。この試みが成功するか失敗するか私は知らないが、ただ一つ確言できることは、それをするには毛沢東が必要だという事実であり、このこと自体、中国人は日本人たりえないことを証明していると思う。まして、他の国々においてをや、である。
今までのべたような面では、日本人には「実におみごと」と申し上げる以外に言葉はない。だがすべての楯《たて》には両面がある。ここでクローノス神話を思い起すのは私だけではあるまい。ギリシア神話のクローノス(時間)は首の長い怪物で、自らが生んだ子を追いかけて食べてしまう、ゼウスだけがその首に跳《と》び乗って食い殺されるのをまぬかれたと――。日本人はまさにクローノスの鼻先をかけている。生きるために米を食べ、米を食べるために米をつくり、その米をつくるためにクローノスに追いまくられ、そのクローノスに殺されないために米を作り、その米を作るためクローノスに追いまくられる……という循環をくりかえしてきた。年々歳々クローノスは長いくびをのばして遠慮なく背後に迫る、立ちどまることは許されない。加えて九十日ごとの変転が追い打ちをかける。まさにクローノスは、牙《きば》と爪《つめ》をとがらして遠慮なくつかみかかってくる。この秒きざみともいえるスケジュールに追いまくられ、無我夢中のうちに月日は過ぎて行く。クローノスの牙はもうすぐ、身にとどこうという晩年に、ふと一瞬思い返せば、すべては文字通り「夢のまた夢」のようにうち過ぎ、すべてはまことに「いと、はかなし」と感ぜられても不思議ではない――クローノスの鼻先を、食われまいとして、生涯、力いっぱい力走しつづけてきたのだから。とすると一体、人生とは何なのだ。ただ夢中で「過ぎに過ぎゆく物」なのか。従って珍しくもクローノスの首に跳《と》び乗って悠々としている人を見ると、悟りを開いた人だといって感心する。だがそんなことを言えば、遊牧民はみな悟りを開いている。アラブに技術指導に行った日本人が、何年かいるうちに、つくづく、自分の生き方は何なのだろう、人生とか生きるとか言うことはどういうことなのだろうと考えさせられた、という。そうであろう。遊牧民は、クローノスの首に跳び乗っているのが常態なのである。悟りもくそもない。いや逆で、たまたまクローノスの鼻先を駈《か》ける人間が出れば「真理をもつ人」(悟った人)すなわち指導者なのである。この国では「人も獣も草も木も、大地から出て大地に帰り」、大自然は文字通り永遠に動かない。時の経過に乗って自分も同じように過ぎて行く。こういう世界では「永遠とは今」であり「千年も一瞬もともに神の時」である。従って清少納言は現われない。
と言ったところで、日本人には所《しよ》詮《せん》、理解しがたい状態なのである。いや、哲学的・思弁的に理解できないといっているのではない。生活の実感として理解できないのである。それがどれほど理解しがたいことか、一つの実例をお話しすれば十分であろう。日本にも聖書の読者がいる。聖書には「待つ」という言葉があるが、日本人にとってこれは「まだか、まだか、まだか……」といらいらしながら待つこと(すなわち、期待の成《じよう》就《じゆ》と、迫り来るクローノスの首を二つながら絶えず意識していること)だが、遊牧民にとっては、時の流れに乗っている状態にすぎないのである。
たとえばイエーメンのユダヤ人の物語がある。彼らは、その地に移ってから二千年近くたち、その間、外部の文明世界からは隔絶された状態にあった。ある日のこと、文字通り風の便りに、神はその約束を果たされ、パレスチナの地に自分たちの祖国が建てられたと聞いた。その瞬間、四万三千人のユダヤ人が(特別の事情のある千人を除いて)、すべてを捨てて歩き出した。どこへ。もちろん祖国へである。彼らは全員、女も子供も、岩山を越え砂漠を過ぎ、まずアデン目がけて歩き出した。イスラエル共和国政府は驚き、輸送機をチャーターして彼らをアデンからイスラエルへと運んだ。史上最初の空輸による民族大移動として、この事件は有名である。彼らは飛行場まで来たとき、大きな輸送機を見ても少しも驚かなかった。当然のようにそれに乗り込んだのには、迎えに来た者の方が驚いた。それをただすと彼らは平然として答えた。「聖書に記されているでしょう、風の翼に乗って約束の地へ帰る、と」
こういう物語は、二十世紀の今日、目の前で起っているから、否定の方法がないが、もしこれが聖書や古文書に記されていることなら、日本人は言うであろう「伝説さ」と。私はこれについてよく日本人に質問する「五年待ったのなら信じられますか」と。日本人はいう「もちろん、信じられます」「では十年では、……では百年では、……では千年では」。クローノスの首に乗っていれば、一年も二千年も同じだが、牙《きば》の先を駈《か》けていればこの差は決定的である。一年も二千年も同じだと、理屈としては口にする日本人もいる(キリスト教徒には)。けれども、彼らは絶対に、時間を、そのように生きてはいない。イエーメンのユダヤ人は、何も、日本人が待つような待ち方で待っていたのではない。そんなことは、だれにだって不可能なのだから。
遊牧民の世界の時間を生きることは日本人にはできない。時間は各人各人別であるとか、永遠とは時間が無限にのびた状態ではない、などといっても、日本人が口にすれば、いらざる小理屈である。というのは、言っている本人が、そういっているその時にも、クローノスの牙《きば》の前を駈《か》けているのだから。従って私は、日本には、キリスト教徒はいないと思っている。主の再臨を、日本人的な待ち方(といっても、日本人にはほかに待ち方があるわけではない)で待っていたら、全員がノイローゼで死んでしまうはずだからである。だがこの問題については「日本教徒」で言及したいと思う。
四 別荘の民・ハイウェイの民
――じゃがたら文と祝砲と西暦――
日本とパレスチナを比較するとき、私は、「神よ、これは余りに不公平です」といわざるを得ない。日本人を、ユーラシア大陸から少し離れた箱庭のような別荘で何の苦労もなく育った青年と見るなら、ユダヤ人は、ユーラシアとアフリカをつなぐハイウェイに、裸のままほうり出された子供である。日本人は戦争を知らない、いや少なくとも自国が戦場になった経験はない、と言えば、多くの日本人は反論するだろう。だがその反論自体が、日本人の、たぐいまれな恵まれた環境を物語っているにすぎない。
まず日本の歴史に記載されている戦争を検討してみよう。保《ほう》元《げん》の乱、平《へい》治《じ》の乱などはクーデターであって戦争ではない。この程度のクーデターなら、二十世紀の今日でも、ユーラシア、アフリカ、南アメリカでは日常の茶《さ》飯《はん》事《じ》であって、事件の中にすら入らない。この乱の結果、二百何十年とか絶えてなかった死刑が復活したというのが本当なら、まさに夢の国のお話である。
日本最大の内乱といえば関ケ原の戦いだが、この決戦が何と半日で終っている。戦争というより、大がかりな騎士団のトーナメントである。第一、戦う前に、自分の系図一巻をお互いに暗《あん》誦《しよう》し合うなどということは、トーナメントの礼儀であっても、戦争の作法ではない。ましてや付近の農民が、手弁当でそれを見物に出掛けるとあっては、およそ、ユーラシア大陸の戦争には縁が遠い催し物である。つづく大阪夏の陣と冬の陣も同じである。確かに大阪城は当時の東アジア最大の城《じよう》塞《さい》であったろう。しかしこの攻囲戦は、ネブカドネザルの十四年にわたったツロの攻囲と比べれば、到底、攻囲戦などといえるものでなく、せいぜいアンボワーズ城乗っとりの模擬戦といったところにすぎない。
いや、日本にも戦国時代があった。戦乱相つぐ百年があったと言われるかも知れない。しかしあの程度のことなら、中東では、実に三千年もつづいた状態のうち、比較的平穏だった時代の様相にすぎない。秋になって農民の取り入れが終ると、今度は遊牧民が取り入れに出かける。すなわち農村を襲って収穫と家畜のすべてを奪い、抵抗する者と動けない者は殺し、動ける者は奴《ど》隷《れい》としてつれ去る。運べないものは火をかけて焼き払い、そして追跡不能の砂漠へと姿を消してしまう。この行事は三千年以上昔のギデオンの時代から、二十世紀まで連綿とつづいている。聖書のギデオンの記事と、一九三六年にパレスチナを旅行したキッテルの記述とが、余りに似ているのにだれでも一驚する。遊牧民にとっては、この取り入れは当然のことで、良心の痛みなどは、もちろん全然感じなかった。農民が嬉《き》々《き》として取り入れにはげむように、彼らも嬉々として取り入れに出かけただけのことである。先代のサウド王が王位についた時、彼は、これをやめさせない限り、農民の育成も、遊牧民の定着も全く不可能だと知った。だがやめさせる方法はない――これは当然のことで、農民に取り入れをしてはならないというのと同じなのだから。従って彼が、これをやった者は一人残らず(子供に到るまで)射殺するという手段をとったとて、安直に非難してはならないのである。確かに、これ以外の方法はなかったであろう。イスラエル共和国を訪れた人の中には、全員が殺されて、記念碑だけが残っている初期のキブツの跡を見学した人もいるだろう。だがこれを、ユダヤ人に対するアラブ人の憎しみと簡単に考えてはならない。もし遊牧民に消されたアラブ人のフェラヒン(農民)の集落の跡にも碑を立てたら、パレスチナとその周辺は、文字通り、碑でうまってしまうであろう。日本の戦国の角逐が、これとは根本的にちがうことは、何も一々記録をあたる必要はあるまい。さらに、当時日本に来たイエズス会宣教師の手紙をごらんになればよい。西欧も中東もインドも中国も(ということは当時の世界の殆《ほとん》どすべてを)直接に見たか間近かに見てきたこれらの人びと、当時には珍しい、ほぼ世界中を直接に見聞した人びとが、戦国の日本のことを何とのべているか。その手紙とパレスチナ周辺の農民とを比べてみれば、少なくとも次のように言えることは確かである。戦国時代の日本は、当時の世界で、最も平和で安全な国の一つであったと。
さてこのような日本人が、日本人の基準で、戦前、「わが国未《み》曾《ぞ》有《う》の国難」といった蒙《もう》古《こ》襲来も、ユーラシア大陸の国々の基準では、当然のことながら記録にも残らない小事件なのである。第一、蒙古軍が占領できたのは壱《い》岐《き》と対馬《つしま》と博多の一隅にすぎなかった。たとえ神風が吹かなくとも、蒙古軍の日本占領は不可能だったに相違ない。彼らが北九州を征圧した後、命知らずの海賊がうようよしている瀬戸内海を通って大阪湾に上陸し、京都に攻めこむことは、まず至難のことと言わねばならない。また山陽道を陸路進めば、腹背を絶えず海上と山地からの遊撃軍の攻撃にさらし、しかも補給路を確保することは不可能である。たとえ大阪に到着しても、楠正成のような侍集団が湿地と水田と山と川によってゲリラ戦をやれば、一歩も進み得まい。それを突破してかろうじて京都を取ったところで、鎌倉への進撃はおろか、占領地を維持することもできまい。結果は、日本武士団と農民軍に嬲《なぶ》り殺しにされるのがおちであったろう。神風はむしろ、彼らにとって神風だったかも知れない。一言にしていえば、この事件は、敵が国境地方に押しよせ、国土のほんの一部を一時占拠したが撃退され、その兵力・装備・補給能力から見れば、全土制圧ははじめから不可能だったという状態である。この程度のことなら、ユーラシア大陸では、文字通り年中行事であった。戦前の軍部や青年将校の言動を思い起してみると、こういう別荘地でのんびり暮していた、世間知らず(というより戦争知らず)のお坊っちゃんが、日清・日露の勝利で頭に来てしまった、という感がする。そして太平洋戦争の敗北となったわけだが、この時も国土が戦場になることは免れた。生活の場が戦場になるということがどういうことなのか、おそらく日本人は永久に知ることがないであろう。
「知らない」ということは何とも致し方ないことである。マリ・アントアネットが「貧乏人はパンを食べられないというが、パンがなければお菓子を食べれば良いのに」といったと言う。日本人の平和論が、私の耳には、これと同じ響きをもって聞えてきても致し方がない。しかし、だからといって日本人を十二歳の子供あつかいにするのは、出稼人の子孫の偏見であろう。そうでなく、平和な別荘で文字通りおかいこぐるみで育てられ、秀才だが世の荒波を知らない人物、従って外にでると、何ごとにもすぐ緊張して固くなる人物、図《ずう》々《ずう》しさがむしろ美徳とされる外部の世界を、唖《あ》然《ぜん》として眺めている育ちの良い人物、しかも無能でもお人好しでもなく、キャンペーン型稲作に、千数百年にわたり徹底的に訓練された特殊技能の持主、というべきであろう。従って日本人の能力や考え方は、他の国の尺度では計れない。AがわかっていればBは当然わかっているはずであり、AができればBもできるはずであると考えて、日本を分析したり、批判したり、予測したりした者は、すべて、それ相当のむくいをうけているはずである。だが話が横道にそれたようだ。ここで私の祖国へ話をもどそう。
日本と比べて、パレスチナは一体どうだったか。昔から「陸橋」といわれたこの地は、常に戦場であった。チグリスの巨人は北から攻め下り、ナイルの巨人は南から攻め上った。海の民は海岸に進攻し、あるいは海岸沿いにエジプトに進み、一方ヨルダンの彼方《かなた》からは絶えず遊牧民がなだれ込んだ。これが実に四千年にわたって間断なくつづけられ、これを詳述すれば、一冊の膨《ぼう》大《だい》な書物になってしまうだろう。ここでは簡単に以上のように記しておくにとどめる、それ以外に方法がないから。
何ともすごい歴史だといわねばならない。だが誤解しないでほしい。一国民の捕囚とか全国民の完全虐殺とかいった恐しいことも、何もユダヤ人だけが経験したことではないのである。ドーソンの『蒙《もう》古《こ》史』を読めば、ジンギスカンの部下のユーラシア全地域にわたる行動は、まさに、これにまさる物《もの》凄《すご》さの一言につきる。
日本人は、この物凄さを知らないだけでなく、祖国喪失の苦しみも知らない。「内なるゲットー」の苦しみを知っていたのが隠れ切《キリ》支《シ》丹《タン》だけなら、祖国喪失の苦しみを知っていたのはおそらく「じゃがたらおはる」だけであろう。私の青春のころ、日本で、このおはるのことが流行歌になったことがあり、年輩の人は今でも記憶しておられよう。それに刺《し》戟《げき》されたのか、私はこの「じゃがたら文」を探し出して読み、涙を止《とど》め得なかった。寛文十一年、混血児のゆえに「じゃがたらへ放流せられ」故国を失ったこのおはるさんの手紙は、まさにラブレターである。「ちはやふる神《かん》無《な》月《づき》とよ、うらめしの蛍《ほたる》や……」ではじまるこの一文は、実をいうと私は、はじめ、日本に残してきた恋人への文かと思って読んでいたのである。ところがそうではない。これは日本という国土、母なる国を恋うる手紙である。実にあらゆるラブレターを越えた切々たる慕情の披《ひ》瀝《れき》である。その末尾の「……我《わが》身事《みのこと》今までは異木の衣《い》しよう一日もいたし申さず候《そうろう》。いこくにながされ候とも、なにしにあらえびすとは、なれ申《もうす》べしや、あら日本恋しやゆかしや、見たや、見たや、見たや」という絶叫とも言える文章には、本当に涙をとどめ得なかった。「見たや」というこの具体的な言葉。もし彼女が密航できたら、殺されるとわかっても日本に帰ってきたであろう。ちょうど多くのユダヤ人が、殺されると知りつつパレスチナにもどったように。その後彼女が中国人と結婚しても文をおくりつづけ、七十六歳で死んだ後、その子がまた文を送ったけれども「公けより止《とめ》させ給《たま》ひてのちは、いかが成《なり》行《ゆ》けん、しらず」とある。彼女の母国への慕情は、その地に生まれた子供にまで伝わっていく。これはまさに、ユダヤ人の「シオンを慕いて涙流しぬ」である。ユダヤ人にはこれが常態だったが、おはるさんは、日本人では、本当の例外にすぎない。日本人の殆《ほとん》どすべては、こんな経験はない。従って自分たちがいかに恵まれているかを全然自覚していないし、自覚すべく対比する対象もない。おはるさんを除いては。
こういうことは大変結構なことだが、一面、困ったことだともいえる。別荘育ちのお坊っちゃんは時々、とてつもないことを考えたり主張したりして、周囲のものを唖《あ》然《ぜん》とさせる。「ありゃあ、有能で頭が良く、礼儀正しく、しかもバイタリティーに富む、実に立派な男だと思っていたのだが、ああいうひとりよがりを言ったりやったりする点では、やはりお坊っちゃんなんだなあ」という言葉は、日本人にそのままあてはまる。例をあげよう。ただ政治上の問題は徒らな論議を生むだけだから、習慣とか礼儀とかの面に限ってみよう。
オリンピックの時、確かに朝日新聞だったと思うが、次のような趣旨の投書が載っていた。「自衛隊が祝砲を射《う》つというが、これはまことに平和の祭典にふさわしからぬ行為である。日本は平和国家である。祝砲を射つなどということはやめよ」といった論旨であった。これに対して何か反論が出るかと思っていたら、何も出なかった。「祝砲」という国際間に確立した儀礼が、どのような経過で発生し、どういう意味をもつかを、この投書は全く考えなかったと見える。祝砲の発生にはいろいろな説があるが、端的に言えば「私は自らの手で武装を解除し、平和と友好のうちにあなたをお迎えします」という意志表示なのである。昔の大砲は筒先からまず火薬をこめ、ついで弾丸を押しこみ、火門から火《ひ》縄《なわ》で火をつけて発射した。従って、一発弾丸をこめると、発射する以外に弾丸を抜く方法がない。たとえば船が港に近づいたとしよう。艙《そう》口《こう》からにょっきりと砲口が出ている。これに弾丸がこめてあるのかないのか、だれにもわからない。しかしこの船が港外で全砲を発射し、このまま(すなわち砲口を外に突き出したまま)入港すれば、これは確実に自らの手で武装解除したことになる。一方、周囲の砲台も同じようにすれば、これも自らの手で武装を解除し、平和と友好裏にその船を迎え入れるという意志表示になる。外国の皇帝や使臣が来たとき、目の前で砲を発射して(もちろん空砲だが)そのままにしておくことは、同じような意志表示である。従って祝砲を発射しないことは敵意の表示であって、戦闘準備は完了している、必要あればいつでもぶっぱなすぞ、という意志表示とも受けとられる。従って祝砲なしなら、「戦闘準備は完了している、必要あらばいつでも砲弾をお見舞するぞ」といいつつ、世界中のオリンピック選手を迎えたことになってしまう。
こういえば一番おどろくのは、その投書者自身であろう。「私はそんなつもりは全然なかった」と言うに相違ない。だが本人の「つもり」がどうであろうと、前記のような意志表示ととられても仕方がない。祝砲程度のことは、まあ、どうでもよいであろう。しかし、日々の投書を見ていると、国際問題その他について、同じようなひとり合点の速断が実に多く、しかもそれを、決定的な真理のように断定し、異論を挟む余地を与えない、といった語調が多いのである。「……やはりお坊っちゃんなんだなあー」である。
もう一つ例をあげよう。それは西暦を使うのは世界の大勢だから、元号をやめて西暦一本にせよという主張である。これも確かに朝日新聞の投書欄にあったと思う。この場合も、まだ明確な反論にお目にかからない。私はこの提案には日本人キリスト教徒が反対するだろうと思っていたが、案に相違し、キリスト教徒が大賛成なのには少々驚いた。もっとも後の章でのべるように、日本にはキリスト教徒は居らず、日本教徒のキリスト派なのだから、驚く方が間違いかもしれないが。
この場合、まず、聞きずてならないのは「世界の大勢」という言葉である。イスラム圏はイスラム暦を用い、小乗仏教の国は仏暦を用いている。中華民国は今でも民国五十九年(一九七〇年)である。日本人はよくアジア、アジアと口にするが、「世界」といった場合、平気で、イスラム圏や仏教圏を除いてしまう。これは何もこの場合だけではないが――。第一、西暦という訳がおかしい。これはADすなわちラテン語の「主(イエス・キリストの生誕)より」の略語であって、イエスを救世主《キリスト》と信ずる人びとの年号だから「キリスト教暦」と訳すべきであり(イスラム暦、仏暦と訳すのなら)、従って用いている国は、キリスト教圏およびかつてのキリスト教圏(もちろん共産圏の一部とかつてのキリスト教国の植民地も含めて)である。
もちろんこれを「西暦」と訳して、便利だから活用するというのは大変けっこうなことである。ユダヤ人も大いにこれを利用はしている。しかしそれは元号を廃止せよということにはならない。第一、日本国天皇がナセル大統領か、イラン皇帝か、セイロンの国主に親書を送る場合どういうことになるだろう。その日付が「主イエス・キリストの生誕より一九××年」となっていたら、ナセルなら抱腹絶倒するであろう。
キリスト教暦を西暦と訳して(というより修正して)これを利用する。この行き方は、偶然の一致だろうがユダヤ人も同じである。ユダヤ人はキリスト教徒ではないから正規の場合はあくまでもユダヤ暦を使う。イスラエル共和国の独立宣言には、「ユダヤ暦五七〇八年・イヤルの月の十五日」と記されており、その下に一九四八年五月十四日と併記されている。またキリスト教暦を使っても絶対にキリスト教暦としては使わないのである。すなわちユダヤ人にとってはナザレのイエスは、ユダヤ教ナザレ派のすぐれたラビであっても、救世主《キリスト》ではないのだから、BC(キリスト以前)のかわりにBCE(Before Christian Era=キリスト教期以前)、AD(主より)のかわりにCE(Christian Era=キリスト教期)を用いる。この書き方は「西暦」と似た発想であり、通常はこれしか使わないと言ってもよい。だが便利だから使うということと、元号を廃止せよということは全く別のことである。どうしても元号を廃止しなければならぬ理由があるなら(私にはあると思えないが)、その時は、西暦をADとせずCEとしなければおかしいが、これを用いればまた抱腹絶倒する者もいよう。「ほほう、今度はユダヤ人のまねか」と。何のためにそんなことをする必要があるのだろう。何が故に元号を廃止しなければならないのか、私には全くわからない。
お坊っちゃんというものは、どんなに優秀でバイタリティーに富んでいても、気の弱い甘えん坊で、依頼心の強い一面がある。前記の二つの例、およびこれに類する主張は、相異なる方向(一方は独自性の主張、一方は共通化の主張)に現われながら、その底にあるのは一種の気の弱さだと私は思う。この点日本人は、裸でハイウェイに放り出されたユダヤ人と少しちがう。少し前、革新陣営は盛んに「孤児論」をとなえた。曰《いわ》く、「アジアの孤児になる」「世界の孤児になる」と。日本が「児」とは恐れいるが、この孤児論の表現が、「米中ソの保障による非武装中立」という考え方であろう。金持のアメリカ・パパと、社会保障の行きとどいたソヴェト・ママの間にあって、労働党イギリスを兄とし、アジアの国々は弟たちとする状態とでもいうのであろうか。主唱者自身が本気ではあるまいが、もしこんな提案を本当にやったら、すべての関係諸国から、「冗談もいい加減にしてくれ」といわれるにきまっている。また中共大躍進の時、ある進歩的文化人が「日本は将来、中共の属国にならねばやって行けなくなる」と言っていたが、本気でたのんだら、きっぱり断わられるにきまっている。軒を貸せば母《おも》屋《や》をとるにきまっている、このものすごい民族の安全を保障して手に負えない競争相手を育てようなどとは、気でも狂わない限り、米中ソとも考えはしない。それを理解できないのがお坊っちゃんのお坊っちゃんたるゆえんだともいえるが。
政治面では、ほかにもよく、こういった議論が出る。しかし不思議なことに、これへの明確な反対論はいつも出ない。そのくせオリンピックでは祝砲は射《う》ったし、元号もおそらく廃止されることはあるまい。その他の議論も、だれも正面切って反対せずに常に黙殺されていく。黙殺された方はますます大声を出す。しかし声が大きくなればなるほど、一方はさらに徹底してこれを黙殺して行く。まさに「犬は吠《ほ》える、されどキャラバンは行く」の姿。全く知らんぷりで、進んで行ってしまう。
この沈黙のうちに進んで行く実体が、日本人本来の一面で、自らはっきり意識せず方向と速度を定めているのが、その隠れた「政治的才能」なのであろうと私は思う。その実体が何であるのか、何かの明確な政治哲学に基づいているのかどうか、それについては次章で追及しよう。
五 政治天才と政治低能
――ゼカリヤの夢と恩田木工――
天才乃至《ないし》は天才的人間というものは確かにこの世に存在する。私が神戸の小学校に通っていたころ、ずばぬけて数学のできる日本人同級生がいた。全く癪《しやく》にさわるほど出来るのである。彼に言わすと私が予習や復習をするからいけないので、全く白紙の状態で教室に来ればするりと頭に入ってしまう、というのである。私は彼の忠告どおりにした。するとますます成績が悪くなって落第しそうになった。政治のことで、うっかり日本人のまねをしたら、これと同じ結果になるのが落ちであろう。天才乃至は天才的人間の特徴は、自分のやったことを少しも高く評価しない点にある。そして、他人の目から見れば実に下らぬ児戯に類することを、かえって長々と自慢するものである。例としてよく引合いに出されるものに、シーザーが自らの発明と称して、『ガリア戦記』で得々と解説している「架橋機械」がある。日本人も、時々、こういった「架橋機械」の自慢はするが、私の目から見れば、日本人のみが行いえた政治上の一大発明については、だれも黙して語らないし、だれも一顧だに与えていないのである。
私が言うのは「朝廷・幕府併存」という不思議な政治体制である。これは七百年以上つづいたわけだから日本の歴史の大部分は、この制度の下にあったといえる。これは一体、だれのアイディアなのだろう。考えてみれば不思議である。しかしこの独創的な政治制度も、戦前は「わが国の国体にもとる」ものとされ、あの軍人勅諭では、「世のさまの移り変りてかくなれるは人の力もて引きかえすべきにはあらねど」も、まことに「あさましき次第なりき」とされていて、出来ることなら消してしまいたい事態だとされている。かわって戦後ともなると、何もかもいっしょにして「封建的」の一言で片づけられ、この不思議な制度は、常に無視され、黙殺されているのである。
朝廷・幕府の併存とは、一種の二権分立といえる。朝廷がもつのは祭儀・律《りつ》令《りよう》権とも言うべきもので、幕府がもつのは行政・司法権とも言うべきものであろう。統治には、一種の宗教的な祭儀が不可欠であることは、古今東西を問わぬ事実である。無宗教の共産圏でも、たとえば、レーニンの屍《し》体《たい》をミイラにして一種のピラミッドに安置し、その屋上に指導者が並んで人民の行進を閲するのは、まさにファラオの時代を思わせる祭儀である。誤解されてはこまるが、私は絶対に、こういった行為を野蛮だと言っているのではない。蛮行とはもっと別のことであって、このような祭儀行為とこの祭儀を主催する権限とは、常に最高の統治権者が把持してきた、非常に重要な権限だ、という事実をのべているのである。
だが、祭儀権と行政権は分立させねば独裁者が出てくる。この危険を避けるため両者を別々の機関に掌握させ、この二機関を平和裏に併存させるのが良い、と考えた最初の人間は、ユダヤ人の預言者ゼカリヤであった。近代的な三権分立の前に、まず、二権の分立があらねばならない。二権の分立がない所で、形式的に三権を分立させても無意味である。それがいかに無意味かは、ソヴェトの多くの裁判を振りかえってみれば明らかであろう。西欧の中世において、このことを早くから主張したのはダンテである。彼は、この二権の分立を教権と帝権すなわち法皇と皇帝の併存という形に求めた。法皇は一切の俗権が停止されねばならぬ。皇帝は法皇に絶対に政治的圧力を加えてはならぬ。そして両者が車の両輪のごとくになって、新しい帝国が運営さるべきであると考えた。だがダンテの夢は夢で終った。彼が、日本の朝廷・幕府制度のことを知ったら、羨《せん》望《ぼう》の余り、溜《ため》息《いき》をついたであろう。
ダンテの夢が夢で終ったように、ゼカリヤの夢も夢に終った。しかし私はこのゼカリヤの提言をユダヤ人の誇りと思っているので、以下に聖書協会訳に従って少しく彼の言葉を引用させていただきたい。もっとも、彼の表現は、当時の習慣に従って黙示文学の手法をとっているから、きわめてわかりにくいけれども(黙示文学については後述しよう)。
主の言葉がまたわたしに臨んだ、「バビロンから帰ってきたかの捕囚の中から、ヘルダイ、トビヤおよびエダヤを連れて、その日にゼパニヤの子ヨシヤの家に行き、彼らから金銀を受け取って、一つの冠を造り、それをヨザダクの子である大祭司ヨシュアの頭にかぶらせて、彼に言いなさい、『万軍の主は、こう仰せられる、見よ、その名を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる。すなわち彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に座して治める。その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある』。またその冠はヘルダイ、トビヤ、エダヤおよびゼパニヤの子ヨシヤの記念として、主の宮に納められる」
ここの意味を摘記すると「その名を枝という人が……ヤハウェの神殿を建て……王座に座して治める。ひとりの祭司がその右手にあり、両者の間に平和の一致がある」。すなわち政庁は二権併存であり、治めるのは枝だが、冠をうけるのは大祭司、ただし、これは枝のためであって彼のためではなく、その冠は最終的には神殿におさめられてしまう。一方、枝の方は祭司の認証(すなわち平和の一致)があってはじめて王として働きうるのである。これでわかるように、大祭司と総督は併存し、相互に干渉せず職務を分担する。そして総督は大祭司を維持すると共に、総督の就任には大祭司の認証が必要だということであろう。
日本の天皇はヨーロッパ的意味の皇帝ではない。少なくともインペラトールではない。美々しい鎧《よろい》に身を固め、馬上豊かに騎士団を引き具して行く皇帝の姿は絶対に日本の天皇にはない。私は、ずいぶん探したのだが、まだ、鎧をつけた天皇の像を見たことがない。また天皇は必ず「こし」に乗っている。その外容はヨーロッパ的に見れば、皇帝よりもむしろ法皇に近い。私は、天皇を、後述する「日本教」の大祭司だと考えている。そして将軍はまさに総督である。もう一度問う、このすばらしい制度は、一体どんな政治哲学に基づいて、だれが考案したのであろうか?
事実、祭儀と行政司法と宮廷生活とが混合していた中世ヨーロッパの政府は、「政府」などといえるしろものではなかった。それと比べれば幕府すなわちヨリトモ政府は、何とすばらしいものであったろう。おそらく当時の世界の模範であったに相違ない。これは絶対に私の独断ではない。少しでも日本の歴史を知っている外国人はみな同じ感慨をもつ。たとえば世界史を書きながら日本には殆《ほとん》ど言及しなかったH・G・ウェルズにしろ、内心では余り日本を高く評価していなかったネールにしろ、このヨリトモ政府だけは、見逃しえないのである。だが、これをさらに研究しようとすれば大きな障害につきあたる。それは日本人自身が、このことを少しも高く評価しない、という現実である。天才とはそういうものなのであろうか。
いずれにせよ、ここで、政治というものが実務として独立した。実務である以上、能力あるものがこれを担当する。北条氏は陪臣にすぎないが、この陪臣が当時の全日本の行政を実に長期間担当している、しかもあくまでも陪臣として。ということは、行政司法を担当するのは天皇であらねばならぬ、とだれもが考えなかったからであろう。みごとな分立といわねばならない。そしてこれが、源平二大政党の政権交互担当といった考え方にまでなってくる。もう一度問う、一体全体、こういった考え方は、どこから生まれたのか? これも中国の模倣なのか。私は中国のことはよく知らないが、どう考えてもそうは思えないのだが……。
さらに不思議なことがある。「民・百姓のためなら、天皇を遠島にするも致し方ない」といった北条義時の考え方、また「天皇様御《ご》謀《む》反《ほん》」といった考え方、だが一方、「もし錦《きん》旗《き》を立てて」天皇が先頭に立ってくるなら「馬を下り、弓のつるを切って」いかような御処分にも従えと泰時にいったその言葉。この朝廷・幕府併存制度の先覚者の言葉は、勝海舟が『氷《ひ》川《かわ》清《せい》話《わ》』で言及しているように、非常に明確で立派な政治理念の裏打ちがあったはずである。これらの政治理念は、中世ヨーロッパの皇帝や宰相や騎士団の考え方とは、雲《うん》泥《でい》の差があることは、言うまでもない。だがこういった問題は、私には余りにむずかしすぎる。そこでここでは、日本人が、二権分立というユダヤ人が夢みて果たせなかった制度を、何の「予習」もせずにいとも簡単にやってのけ、しかも自らは少しもそれを高く評価していないという事実は、中扉に載せたラビ・ハニナ・ベン・ドーサの言葉を思い起させるということを指摘するにとどめよう。
宗教・祭儀・行政・司法・軍事・内廷・後宮生活というカオスの中から、政治すなわち行政・司法を独立させた日本人が、その後どのような政治思想を基にして、現実の政治を運営していったか。その特徴をもっともよく表わしているのは『日《ひ》暮《ぐらし》硯《すずり》』であろう。この本は、私にとって実になつかしい思い出がある。戦争中、アメリカのある機関で、日本研究のため徹底的に研究されたのがこの本であり、私は今でも、これが「日本人的政治哲学研究」の最も良いテキストだと考えている。というのは第一に、非常に短く、少し日本語ができれば短期間に通読できること、第二に、ヨーロッパ式政治学の影響をうけていないから、まるで「コシュカリョフ大佐の執事」の文章のような奇妙、きてれつなレトリックがないこと。第三に、松《まつ》代《しろ》藩という非常に狭い地区だけのことであるから、まるで試験管内の実験のように明白なこと。第四に、「ひぐらしすずりに向いて」一気に書きあげたものであり、しかも筆者がいわゆる文人ではないから、後章でのべる「言外の言」で表現するような点が全くなく、従って直《ちよく》截《せつ》に理解できること。第五に、財政建て直しの記録であるから、その方法、過程、成果がはっきり現われ、どこの国の人にも理解できること。第六に、それでいてユダヤ人やヨーロッパ人には夢想もできないような行き方で、一見すべてが非常に不合理・不公平でありながら、すべては「まるくおさまって」おり、あらゆる人がその「仁政」を謳《おう》歌《か》していること、である。
私は今でも記念に、昭和十五年の古い本をそのままもっているが、日米開戦の数か月前に本書を多量に購入してアメリカに送った、当時のアメリカの要路の当局者に、ある意味では敬意を払わざるを得ない。ユダヤ人の私が『日《ひ》暮《ぐらし》硯《すずり》』について日本人に講義をするのは少々僭《せん》越《えつ》だと思うが、おそらく今では、読んだことのない人の方が多いと思うので、少しく次に紹介しよう。
西暦一七五六年ごろ、信州真《さな》田《だ》藩は洪水・地震その他のため財政困難となり、幕府から一万両借金したが、それでももうどうにもならぬ、というところまで追いつめられた。百姓一《いつ》揆《き》は言うまでもなく、驚いたことに足軽のストライキまで起っている。おそらくこれは、日本のストライキ史の第一ページであろう。この難局に直面した藩を十三歳で相続した明君幸豊は、わずか十六歳のとき、末席家老の恩田木《も》工《く》の人物を見抜き、これを登用して一挙にすべてを改革した。
当時三十九歳の恩田木工は、その任にあらずと辞退したが許されず、そこでまず、「もし拙者申す儀を『左様ならぬ』と申す者御《ご》座《ざ》候《そうろう》ては相勤まり申さず候間、老分の方を始め諸役人中、拙者申す儀は何事に依らず相《あい》背《そむ》くまじく申す書付相《あい》渡《わた》され候よう」と全権委任を明確にしてもらい、そのかわり自分の任期を自ら五年と定め、もし失政あればどんな処分でもうける誓詞をしてこれを引受けた。このあたりまでは、別に西欧と変わりはない。ところがこの恩田木工、家に帰ると早々に、今後は一汁一飯のみとし、衣服は新調せず、妻は離婚し、子供は勘当し、親類は義絶し、雇人は全部解雇すると申しわたす。人びとは驚いてその理由を問うと、今後自分は一切「虚言(といってもいわゆる「うそ」ではあるまい、無責任な言葉の意であろう)申さない」、しかし「女房始め子供、家来共、親類衆中も虚言申し候ては『木工が虚言申すまじくとは申せども近き親類始め家内の者、あの通りならば、木工からして合点ゆかず(木工だってあやしいものだ)』と疑い申すべく」これでは改革はできないからであると説明する。そこで一同は、自分らも一汁一飯、一切虚言しないから、今までのままにしてくれと懇願し、起《き》請《しよう》して、もとのままでいることを許される。これも、命令指示は朝令暮改せず、言明した通りに必ず実行するという、人びとの信頼感の獲得のためなら、方法が日本的で非常に面白いという点を除けば、どの国でも行われたことで、別に珍しいと言うべきではないであろう。
ついで諸役人を集め、今まで「半知御借」などといって給与を全額支払わなかったが(すなわち月給が遅配・欠配していたが)、今後はすべて全額支給する。ただしそのかわり、信賞必罰で、「御奉公に粗略これあり候《そうら》はば」必ず罰する旨言明する。それが終ると、いよいよ、庄《しよう》屋《や》、長《おさ》百姓、町方等に、「よくもの言ふ者」をつれて出頭するようふれを出すのである。ここからがいよいよ恩田木工の独《どく》擅《せん》場《じよう》なので、全文を引用してみよう。
さて定日には、御家老を始め諸役人、残らず大広間へ列座にて、恩田木工、百姓中召し出だされ、申し渡され候趣きは、
手前も江戸表へ召し出だされ、殿様、御親類中様御対座にて、勘《かん》略《りやく》奉《ぶ》行《ぎよう》仰せつけられ候故、たつて御辞退申し上げ候へども、御免これなきにつき、御《お》請《う》けは申し上げけれども、自分の働きにて此《こ》の役儀相勤まる事にこれなき故、今日皆の者どもと篤《とく》と相談致す儀これあり、呼び寄せ候間、先づ手前が申す儀を一通り聞いて、其《そ》の上にて皆々の存じ寄りを申すべく候。
先づ以《もつ》て、殿様御《ご》不《ふ》如《によ》意《い》につき、只《ただ》今《いま》まで御領内の者ども、殊の外難儀致す儀候故、此《この》度《たび》手前勘略奉行に相成り候へば、尚《なお》以て御領分難儀にもこれあるべしと、気の毒に存ぜられ候が、先づ手前儀、第一、向後虚言を一切言はざるつもり故、申したる儀再び変《へん》替《たい》致さず候間、此の段予《かね》て皆々左様相心得居り申すべく候。さて又、向後は手前と皆の者どもと肌を合はせて、万事相談してくれざれば勘略も出来申さず、手前の働きばかりにては勤まらず候間、何事も心やすく、手前と相談づくして呉《く》れよ。これが第一、手前が皆への頼みなり。
さて此の上に、皆々が不得心なれば、手前が役儀も勤まらず候間、切腹致すより外はこれなく候。依つて、手前に首尾よく役儀勤めさせてくれるも、又切腹させるも、皆々の料《りよう》簡《けん》次第に候間、如何《いかが》致し候や、皆々の所存を聞き度《た》く候。さりながら、斯《か》様《よう》に庭中にては、皆の者返答もあるまじく候間、先づ今日は帰り、総百姓と相談して、追つて返答して呉《く》れよ。
今日皆と相談する趣きは、先づ第一に、虚言を言はざるつもり故に、申したること再び変《へん》替《たい》は致さず候間、左様に心得て呉れよ。嘘《うそ》も言はずば、皆の為《ため》に悪《あ》しかるべきや如何《いかん》。
と尋ねられ候時、皆一同申し上げ候は、「只《ただ》今《いま》までも御役人様方の嘘《うそ》を仰せられ、御だましなされ候には難儀仕り候処《ところ》、向後仰せられ候儀を再び変改遊ばされずとの御《おん》事《こと》、千万有難く存じ奉り候。諸人大慶此《こ》の上なく御座候」と申し上げ候へば、
然《し》からば、此の儀、皆も得心致し、手前も満足せり。
さて次に、手前儀、祝儀愁《しゆう》歎《たん》に依らず、総じて音物を一向受けず候間、何程軽き品たりとも持参無用に致すべく候。それとも賄《わい》賂《ろ》も取らずば、皆の為《ため》に難儀になるや。
と申され候へば、一同有難き趣き申し上げ候。
さあらば、以後皆々の願《ねがい》の筋は手前が承り届け候間、其の外へ賄賂遣《つか》ふに及ばず。総じて諸役人も、向後音物致すこと皆々無用に致すべき事なり。
これまでは千人の足軽、百人は所々の番に残して、九百人は月々村々へ年貢催促に遣はし候由、いよいよ左様に候や。此の後は以後一人も出し申さざるつもりにて候間、左様相心得申すべく候。
それとも、出しつけし人《ひと》高《だか》出さずば、皆々難儀に相成り申すべきや如何《いかん》。
百姓一同、「其《そ》の儀は尚《なお》以《もつ》て有難き御儀に存じ奉り候。御足軽衆、在《ざい》方《かた》へ御出で候ては、御年貢催促ばかりにては御座なく、五日も七日も逗《とう》留《りゆう》のうへ荒びられ、困り、諸人難儀仕り候。以来一人も御出し下さるまじくとの御事なれば、千万有難き仕合せに存じ奉り候」段申し立て候へば、
此の儀も皆々得心にて満足せり。
さて又、手前事も長き事は測り難き故、先づ五箇年此の役儀相勤め候つもり故、其の間、地《じ》方《かた》普《ぶ》請《しん》等は格別、御《お》上《かみ》へ勤め候役儀は免じ候つもりに候間、左様に相心得べく候。それとも、皆の為に、役も勤めずば難儀になるべきや如何《いかん》。
と尋ね候へば、一同、「諸役御免との御事、重々有難き仕合せ」の旨申し候へば、
然《し》からば、此の儀も、皆々の者得心にて満足せり。然からば、いよいよ右の通り相心得申すべく候。
さて、次の段がよくよく相談せねば相成らざる事なり。皆よく聞いて呉《く》れよ。
これまで先納・先々納を差上げ候百姓共、参り居り候や。此の者共は何《なに》故《ゆえ》先納・先々納は差上げ候や。但《ただし》、先納すれば、何ぞ勝手によき筋これあり候て先納致し候や如何《いかん》。
百姓申し上げ候は「御役人様より仰せつけられ候故、迷惑千万には存じ奉り候へども、余儀なく差上げ候」段相答へ候へば、
それは縦《たと》ひ役人申しつけ候ても、当年貢より外は出さざる筈《はず》に候。先納さへ過分の事なるに、先々納まで差上げると云《い》ふ事あるものか。其《その》方《ほう》共《ども》はよくよくの暗鈍《たわけ》者《もの》なり。さて又、百姓共が心よく出せばとて、役人が先納・先々納まで取上げると云ふ事があるものか。甚だ無慈悲なる致し方なり。公儀にあるまじき事なり。此《こ》の段は大《おお》暗鈍《たわけ》ともいふべきなり、役人は無慈悲なり。
斯《か》くいふは、皆これ理《り》窟《くつ》と云ふものなり。何を云ふにも、御上御勝手御《ご》不《ふ》如《によ》意《い》ゆゑ、是非なく先納を百姓より取らざれば御用が弁ぜぬ故に、村役人も先々納まで申しつけたるものなり。これ役人の無慈悲にては全くなけれども、詮《せん》方《かた》なさの御奉公なり、百姓共も、先納・先々納を差上ぐるといふも、御勝手御不如意にして、御内証をよく存じたる故、迷惑ながらも役人の私《わたくし》ならぬ事を合点して、先納・先々納差上げたるものなり。然《し》からば其《その》方《ほう》達はよく直《ちよく》なる者ども、左様に直なる御百姓を御持ちなされ候殿様こそ、結構なる御果報なれども、御勝手の御直りなさらぬといふは、さてさて是非もなき次第なり。
さりながら、向後は先々納は勿《もち》論《ろん》、当年貢の外、先納も申しつけまじく候。左様に相心得べく候事。
御用金出したる者ども相詰め候や。其方共は何《なに》故《ゆえ》に御用金を差上げ候や。上納すれば利息にても下され候や、何ぞ勝手によき筋これあり候て差上げ候か如何《いかん》。
百姓ども申し候は、「只《ただ》今《いま》まで折々御用金差上げ候へども、御利息下され候儀は勿《もち》論《ろん》、元金にても卒《つい》に御返済遊ばされ候儀御座無く候て、難儀至極仕り候。御役人中様より厳しく御取立なされ候故、是非なく差上げ候」
さればとよ、役人より申しつけ候とも、何分御座らぬといふ断り申すべき筈《はず》なり。縦《たと》ひ公儀より御用金仰せつけられ候とも、手前共が江戸へ出て、御座らぬと云《い》うて出さぬとて、殺すにもならず。然《し》かれば、出る筈はなき訳なれば、それを云ひつけ次第出すといふは、其《その》方《ほう》達が所持して居ればとて御返済無き金を出させると云ふは、余りとは非道の仕方なり。
斯《か》く云ふは理《り》窟《くつ》なり。誠は御上に御金なき故に、江戸表の御役儀も御勤めになりかね候故、其方共の当時持ち合せたるを幸ひに無心して、拠《よんどころ》なく御用金も出させて、江戸表の御用も弁じたるものなり。返済したくとも、元来なきもの故に、仕方なさに其の儀なく打過ぎたるものなり。然《し》かれば、役人の非道と云ふものにもあらず、其方共が江戸御用の訳を篤《とく》と知りたる故、迷惑ながらも差出したるものなり。それ故、御用も御《お》間《ま》欠けなく相済み、奇特千万なり。其方達が出金故、江戸表御役筋御首尾よく相勤まり、殿様にも御満足遊ばされ候事神妙なり。
然かれば、此の以後、御用金等一切申しつけまじく候間、左様に相心得申すべし。
と申し渡され候へば、一同「有難き仕合せ」と請《う》け申しける。
御年貢未進致し候者共参り居り候や。其方共は未進致し候や。総じて田地と云ふものは、御上納を致し諸役を相勤め候上にて、妻子を養育して楽しみ、家内暮さるるほど積もり置きたるものなり。蒔《ま》きつくる節に蒔きつけ、相応に養ひをして、時節を違《たが》へず耕作すれば、御年貢なき理はこれ無き筈《はず》に候。然かるに未進を致すは、第一家業を疎《おろそ》かにして、人並に耕作もせぬ故なり。御年貢上納するほど作り出さぬと云ふは不《ふ》届《とどき》千万なり。其の上、先納・先々納さへ差上げ候者もあるに、未進すると云《い》ふは言語道断、不《ふ》届《とどき》者《もの》なり。憎き奴《やつ》原《ばら》、寸々にしてくれても慊《あきた》らぬ者共なり。役人は又、何とて此《こ》の者共には未進させて置きたるぞ。骨を削《そ》ぎてもさつと取り立つべき筈《はず》なり。それに未進させて置きしは、役人大べらぼう、憎き奴原なり。
(評に曰《いわ》く、此《こ》の時の気《け》色《しき》、二日とも見られぬ恐しき有様なり。面を上げたる者一人もなかりしとぞ。)
斯《か》く云ふは理《り》窟《くつ》といふものなり。殿様御勝手御《ご》不《ふ》如《によ》意《い》の事も存じ、前御用金を出し、先々納まで差上げ候者ある中に、未進するといふは、よくよく貧にて内証に物なき故の事なるべし。其《その》方《ほう》共も人並に急ぎ上納はしたくは思ふべけれども、不仕合せに遇《あ》ふか、長《なが》煩《わずら》ひするか、不慮の災難にあへるにて、耕作も存分ならぬ故、収納少なき事なるべし。さぞさぞ難儀なるべし。甚だ不《ふ》便《びん》千万、気の毒なる事なり。役人も亦《また》其方共の物無き事をよくよく知りて、未進も容赦して置きたるものなり。これは役人の仁政といふものなり。誠に有難き事なり。然《し》からば、此の上「未進候分は差上げよ」と申しつけたればとて、元来無きものなれば、差出すべき手段もあるまじ。いよいよ御取りなさらぬは御上の御損、上納せぬは其方共の得《とく》にして、只《ただ》今《いま》までの未進の分は以後上納に及ばず、残らず下し置かれ候ほどに、左様に相心得申すべく候。其の代り、当年貢は一粒も未進させる事はならぬぞ。きつと上納仕るべし。万一此の未進致す者等これあらば、曲《きよく》事《じ》に申しつくべく候間、左様相心得べく候。縦《たと》へば裸に相成り候ても上納仕るべく候。
一同、「畏《かしこま》り奉り候」旨申し聞え候。
此《こ》の者共も手前の申す儀得心にて満足なり。
先納・先々納致し候者共へは、何《なに》卒《とぞ》御返済なされたきものなれども、皆知りたる通り一向御引当これなく、其《そ》の上に今皆の聞く通り、未進の分は呉《く》れてしまひければ、愈《いよ》々《いよ》以《もつ》て先納・先々納の分へ返済出来ぬなり。依つて、只《ただ》今《いま》まで先納したる分は御上の取《と》り得《どく》にして、其《その》方《ほう》共は出し損にして呉《く》れよ。此《こ》処《こ》が皆への無心なり。得心して呉れ候や。
と相尋ね候へば、一同「畏り奉り候。向後先納・先々納申しつけまじくと先刻仰せつけられ候へば、只今まで差上げ候分は一粒も頂《ちよう》戴《だい》仕るまじく候。左様御聞き届けになるやうに」と申《もうし》立《た》て候へば、
先づ以て皆々得心してくれて、千万過分に存じ候。それに一つの無心あり、此の段は今日直《ただち》に返答も相成るまじく候間、帰村の上、篤《とく》と総百姓へ申し聞かせ、熟談の上返答してくれよ。
其の無心といふは、右の先納・先々納を損にして、其の上当年貢を上納して呉《く》れよ。さなくては、一向御取続きに相成らず候。若《も》し此の儀、其方共得心してくれねば、手前が切腹といふはこゝの事ぢや。其方共も算用してみたかも知らねども、手前算用にも積もらせ、自身にても当つてみたれども、先づこれが頼み事なり。何かにつけて、御領分の者共より賄《わい》賂《ろ》を遣《つか》ふこと、年中には百石《こく》につき積り、銭何程、又年中諸役へ人足手間費《つい》えの分、銭に積もり百石に何程、さて九百人の足軽年貢催促に出し候節、月々ゆゑ年中に割合ひ百石につき、此の者共の泊り・賄ひ・人足入用、百石につき何程、右の品々〆《しめ》上《あ》げて見れば年貢高のうち七分ほどなり。みなみな無益になくなりてしまへば、御《お》上《かみ》の御《お》為《ため》にもならず、百姓の方の費《つい》えのもの入りにて、其《その》方《ほう》共の損毛。此《こ》の七分の上に今三分出せば、当年貢相済むなり。此のところを、帰村の上、総百姓へ申し聞かせ、向後七分の損毛なしに、只《ただ》三分足せば当年貢が済み候間、当月より松《まつ》代《しろ》は御年貢月割にて上納して呉《く》れよ。此《こ》処《こ》が総百姓への拠《よんどころ》なき無心なり。それとともに、皆の所存次第にて、手前に役儀首尾よく勤めさせるも、又は切腹させ候とも、皆の料《りよう》簡《けん》次第のところなり。此の訳《わけ》、皆へ言ひ聞かせ、篤《とく》と熟談の上、追つて返答して呉《く》れよ。
と申され候へば、皆々「畏《かしこま》り奉り候。今日直に御《お》請《う》け申し上げ度《た》く存じ奉り候へども、かへすがへす総百姓へも申し聞かせ候やう仰せつけられ候ことゆゑ、罷《まか》り帰り、有難き御政道の趣き申し聞かせ、悦《よろこ》ばせ候うへにて、重ねて御請け申し上ぐべし」と御受け申し上げ候事。
御用金差上げ候者共へは、これまた御返済になり度《た》きものなれども、皆々知りたる通り、元来なきものなれば、只《ただ》今《いま》返済ならぬなり。又、かく言ふは如何《いかが》はしけれども、人々の身代、只今相応にても、不仕合せなれば、子孫に至り貧になるべきも知れぬものなり。依つて、万一左様の節は、利息を加へて遣《つか》はし度きものなれども、それはとてもならぬ故、元金にて子孫へ下され候やうに致すべく候間、只今なければとて身代潰《つぶ》れるといふ程の事もこれあるまじく候間、子孫の為《ため》、元金にて殿様へ預けて置いたと思うて呉《く》れよ。これまた皆への無心なり。と申され候へば、「皆々有難く存じ奉り候。御上の御用に差上げ候金《きん》子《す》の事なれば、一向御《お》貰《もら》ひ申す所存御座なく候ところに、子孫に至り難儀の節は下さるべしとの御事に御座候へば、此の上もなき御慈悲、生《しよう》々《じよう》世《せ》々《ぜ》有難き御厚恩にて御座候」と、皆々感涙を流して御礼申し上げ候へば、(封建的と軽《けい》侮《ぶ》するなかれ。大革命前のフランスの貴族と農民の間にはこういうつながりはなかった)木工殿申され候は、何《いず》れも手前が申すこと得心して呉《く》れて満足せり。唯《ただ》今《いま》まで悪《あ》しかりし事、遠慮なしに護符に相認《したた》め、よく封じて差出すべし。
と申され候へば「畏《かしこま》り奉り候」と申して、皆々悦《よろこ》び勇んで帰村仕り候事。
(こゝに深き思慮ありとして諸役人、列座の衆中、何《いず》れも木工の器量を見、感じて居られしが、此の時に至つてさつと色を変じて、(ここに脱落があるらしい)追《おつ》而《て》出すべしと言ひ渡す。)
総百姓中は帰村のうへ、村々にて総百姓を集めて「今度木工様仰せ渡され候趣き斯《か》様《よう》斯《か》様《よう》」と一々申し聞かせ候へば、これを承りて、「あの足軽共の在《ざい》方《かた》へ出て荒びるには困り果てたるに、向後一人も出すまじくとの仰せなれば、こればかりにても有難き事なるに、以後諸役までも御免との事なれば、向後倍金、二年分づつ御年貢差上げ候ても苦しからず候。早々御《お》請《う》け申し上げ、殿様、木工様、御安気遊ばされ候やうになし下され候へ」と、皆一同に悦《よろこ》び申しける。名主・組《くみ》頭《がしら》挨《あい》拶《さつ》には「皆の衆左様に得心の上は、早々御役所へ罷《まか》り出で、御請け申し上ぐべく候。手前共まで面目を開くと申すものなり」と大慶致し、「さて、木工様の仰せられたる護符を認《したた》め申すべく候。」
今までの意趣晴しは此《こ》の時ぞ、有難き事なり、誠に闇《やみ》の夜に月の出でたるこゝち、胸の曇りも晴れて、これより行末安楽になるべしと、悦《よろこ》び勇まぬ者こそなかりけれ。
それより村々護符を認め、総百姓相談の上、名主・長《おさ》百姓等御役所へ罷《まか》り出で、申し上げ候趣きは、先だつて仰せ渡され候趣き、総百姓へ残らず申し聞かせ候ところ、有難く存じ奉り候て、当年貢は勿《もち》論《ろん》、二年前なりとも差上ぐべしと申し候間、何時なりとも御用次第に仰せつけられ下し置かれ候へば差上げ度《た》き旨、皆々一同申し候間、左様に思《おぼ》し召《め》し下さるべき旨申し上げ候へば、
手前が申す趣き、総百姓まで得心して呉《く》れて、皆々の蔭《かげ》にて手前も御役儀相勤まり、痛き目もせず。これ皆百姓中の蔭なり。其《そ》の上、「入用ならば二年分なりとも上納致すべし」との事、百姓中の志、御聴きに達するならば、御前にもさぞ御満足に思し召さるべし。さりながら、当年貢さへ上納致し呉《く》れゝば存分に候間、二年分上納に及ばず候。総百姓の志は浅からず、過分千万。上納をも致すべき旨、上聞に達すべく候間、其《そ》の段よくよく申し聞かすべし。
さて又、家業油断なく出精すべし。申すまではなけれども、家業を疎《おろそ》かにする者は天下の大罪人なり。家業出精して其の余力あらば、分限相応の楽しみは何やうの儀も苦しからず候間、兎《と》角《かく》家業出精の上には、楽しみならば、慰みは浄《じよう》瑠《る》璃《り》・三味線、又は博奕《ばくち》なりとも、好みたる事をして楽しむべし。さりながら、博奕は天下一統の御《ご》法《はつ》度《と》なれば、商売に致す者等これあらば、きつと曲《きよく》事《じ》申しつくべく候。これに依つて、博奕を商売に致す儀は決して相成り申さず候。きつと相慎み申すべく候。慰みに致し候分は苦しからず候。予《かね》て左様に相心得べく候。総じて、人は分相応の楽しみなければ、又精も出し難し、これに依つて、楽しみもすべし。精も出すべし。
さて又、仏神を信仰する心なき者は、災難多きものなり。依つて、神仏をよくよく信仰して、現当二世を祈るべし。
さて、先だつて申しつけし護符は認め持参致し候や。と申され候へば、「持参仕り候」と差出だす。
これは手前が見るものにあらず。御前へ御覧に入るゝなり。皆々帰りて出精せよ。とて帰しける。
即刻御前へ差出で、申し上げられ候は、「御《お》悦《よろこ》び遊ばされ候へ。御勝手十分に相直り申すべく候。其《そ》の訳《わけ》は、御借用金の分は残らず横さまに相成りてしまひ申し候へば、無借金の上、当月より十万石まるく納まり申し候。一粒も紛失御座なく候故、御勝手十分に相調ひ申し候。其の上、一人も御上を御恨み申す者御座なく候。却《かえ》つて有難がり候て、『二年分なりとも上納仕るべし』と申し候故、当月より滞りなく御年貢上納仕り候筈《はず》に御座候。これみな御前の御仁心深き故の御高徳にて御座候」と申され候へば、御前にも殊の外満足に候。「これ我が徳に非ず。皆其《その》方《ほう》が働き、広大の勲功、金石にも銘すべき忠勤なり」と称美遊ばされ候へば、木工殿も有難き御《ぎよ》意《い》を謝し奉り、「さて又、これは百姓共が相認め候ものにて御座候」と、密々にて差上げ、「御覧遊ばさるべし」と申し上げ候ひて、木工殿それより退出致され候。
さて御前より木工殿を召され、「領分の者共相認め候護符を見よ。此《こ》の通りなり」と仰せられ候へば、見候上にて、「定めて斯《か》様《よう》に御座あるべしと存じ奉り候」「これをば如何《いかが》取計らひ申すべきや」と御尋ね遊ばされ候へば、「少しも御心配遊ばされまじく候。これらの者共は、どちらへもつく者ゆゑ、善き人が使へば善くなり、悪《あ》しき人が使へば悪しくなるものに御座候へば、虞《おそる》るに足り申さず候。これらの者共は死罪にも申しつくべき程の不《ふ》届《とどき》に候へども、斯様の悪事致し候者共は、器量これなくては相成り申さず候故、其《そ》の器量を使ひ候へば、一《ひと》かど御用にも相立ち候ものに御座候間、御前へ直《ただち》に召し出だされ、随分面を和《やわ》らげ遊ばされ、今度木工へ領分の政道の義を申しつけ候へども、一人にては万事行届くまじく候間、其《その》方《ほう》共へ木工が相役申しつけ候間、木工が指図を受けて、木工と肌を合せて、万事計らひ申すべき旨仰せ渡され下さるべし」と申され候へば、君の仰せには「それにては其方が害にはなるまじきや」と仰せられ候へば、「いや、少しも構ひ御座なく候」と申し上げ候へば、「其方が為《ため》にさへ悪しくなくんば兎《と》も角《かく》も」との仰せ故、木工は退出す。
即時に右の者共を御前へ召し呼ばれ、平日よりも面を和らげ、右の趣き仰せつけられ候へば、皆々「畏《かしこま》り奉る。有難き仕合せ」の旨御《お》請《う》け申し上げ、退出す。
ここで諸役人一同も、衷心より木工に協力するようになる。従って彼は、内部から妨害される心配はなくなる。このほかにも二、三のエピソードがあるが、同じような趣旨なのでそれは除こう。私は、日本人以上に(?)日本語ができるということで、この翻訳を命ぜられ、できる限り詳細な注と解説をほどこしたテキストを委員会に提出し、委員たちの質問に答えるように命ぜられた。私は、この日のことを永久に忘れないであろう。驚いた顔、あきれた顔、全く不可解という顔。何をどれから質問してよいのか、みな本当にとまどっていたのである。確かに理屈でいえば、これは全く不合理なのだ。不公平なのだ。一方では先納・先々納までしたものがあり、一方には未納のものもいる、またわいろを取ったものは取りどくなのだ。一体、何でこれが御仁政なのだ。だが、民が一人残らず喜んでおり、木工を讃《たた》えているのは事実なのだ、日本人の頭の構造は一体どうなっているのだ。――最初に質問したのは、委員会の書記で私と同年のユダヤ人イザァク・ツィビであった。彼の質問はまことにドイツ系ユダヤ人らしかった。「木工はいかなる律法に基づき、それをどう解釈して、この改革を行なったのか。まずその律法が知りたい」。これが彼の質問であった。ユダヤ人はすべて「モーセの律法」に準拠して事を行なう。従って、すべての人が正しいとするなら、それは、皆が知《ち》悉《しつ》しておりかつ心服している律法に正しく準拠しているはずだと考え、またイスラエルには債権債務を帳消しにするヨベルの年というのが四十九年に一回ずつあり、人びとはこれを当然と考えていたので、何かそういった規定があるのではないかと考えたのも自然であった。その他のアメリカ人の疑問は、要約すれば次のようであった。「なぜこういう不公平が支持されるのか。一方に先納・先々納があり、一方に未納がある。もしそれが、税負担の不合理に基づくなら、まず税法を改正すべきだし、脱税なら徹底的に徴税すべきだ。一体、正義と公平を彼らは何と考えているのだ。云《うん》々《ぬん》……」「一体、わいろを取った人間を、証拠を握った上で不問に付するとはどういうことか。それでは全く、わいろは取りどく(ということは取らなかった方が損)で、その人間どもが逆に重用されるとは、全く、われらの倫理・道徳から見れば腐敗の極なのに……」。当時の対日感情は、もちろん、最悪の状態であった。従って、好意ある見方が全くないときは、この木工の仁政は、欧米人の目には、背徳と不公平そのもので、これを御仁政などといっている日本人は、狂気の沙《さ》汰《た》だということになる。私の翻訳は上手ではなかったであろう。しかしそれでも『日《ひ》暮《ぐらし》硯《すずり》』の文章にあふれる感嘆の讃《さん》辞《じ》は伝え得たらしく、それだけに、皆が皆、何とも理解しかねることになってしまうのであった。
私は日本に生まれ育ったので、余り抵抗もなくこの書を訳しただけに、委員たちの質問には、全く、しどろもどろになってしまった。今ならば、こういったであろう「みなの質問は愚問である。というのは木工自身が、『かく申すは理屈なり』といっている。みなが言っているのはその理屈なのだ。木工は、それを否定するところからはじめている。ということは木工にも百姓にも『理外の理』ともいうべき共通の思考の基盤があり、木工はそれに基づいているのである。で、その『理外の理』が、いかなる律法に基づくか、というのが、研究すべき目標ではないのか」と。事実、これが日本人の行き方なのだ。――というのは、木工は一例にすぎないのだから。戦後の日本の、破産に頻した会社を建て直した記録をみれば、すべて「木工流」であるし、日本自体の復興の基本も、煎《せん》じつめれば、恩田木工の行き方にほかならないからである。
問題の焦点をつき、ある意味で私に助け舟を出してくれたのはツィビであった。木工をみなが讃嘆するのは、すべての人が支持する「基本的律法」にのっとっているはずだという考え方である。この基本的律法は何なのか。もちろんモーセ流の神の律法ではない。木工が基本にしているのは「人間相互の信頼関係の回復」ということなのだ。そのためにはまず自分の姿勢を正し(ちょうど六〇年アンポ直後の池田首相のように)、相手に対する絶対的信頼を披《ひ》瀝《れき》する(低姿勢で)。この底には「人間とは、こうすれば、相手も必ずこうするものだ」という確固たる信仰が相互にある。これがなければ、一切は成立しない。ということは、「人間教乃至《ないし》は経済教」ともいうべき一つの宗規が、意識されるにせよ、されないにせよ、「理外の理」として確立していることにほかならない。木工は明確に言っている。まず生業(経済)、次に娯楽、第三に神仏信仰(宗教)と。ここには、日本人が絶えず口にする「人間」「人間的」「人間味あふるる」といった意味の人間という言葉を基準にした一つの律法があるはずで、日本人とはこの宗教を奉ずる一宗団なのだ(だがこの点は後章で考察しよう)。義時はすでにその律法を知り、それにより明確に二権を分立した。従って神の義(絶対的正義)の地上における実現が政治の目標――これはユダヤ人も十字軍も神聖同盟も、またある意味ではアメリカ人もソヴェト人も、また、ミロバン・ジラスもそう考えたのだが――などと木工が考えるはずがない。それゆえ政治は義の実現より経済的安全に志向する。とはいえ彼は「エコノミック・セイント」であっても「アニマル」ではない。従って、「只《ただ》有難き御政事なり」なのである。もうひとりのエコノミック・セイントをあげれば二宮尊徳がおり、戦前はすべての小学校に彼の像があった。木工と同じタイプでない政治家は、日本ではすべて失脚して来たし、今後も失脚するであろう(外国人がその人をどんなに高く評価しようと)。そして日本が、実に驚嘆すべき変革をとげつつ、なお政情が安定しつづけてきた秘密は、この木工の考え方の底にある一つの宗教的律法を理解しない限り、外国人には全く理解できないものであろう。
一方ユダヤ人はどうなのだ。私はユダヤ人を政治低能と規定する。イスラエルの長い歴史をふりかえっても、一人の恩田木工もいない。当然であろう。二権分立もできなかったし、またこういう人が出現する背景も基盤もなかったのだから。本書を校正している最中、沖縄返還のニュースをきいた。米中ソを巧みにあやつり、何とみごとな政治的勝利よ! 一滴の血も流さず失われた国土を取りかえすとは! と思っているのは私だけではない。西欧の新聞にもそういった論調がみえ、それを日本の新聞は「そねみ」に似た感情を抱いている、と評している。だがこの成果は、ヨーロッパ人がやるようなやり方で手に入れたものではない。あの天才的に数学のできた私の学友と同じである。予習や復習をしないからできたのであろう。
私にはもう、ユダヤ人の政治低能ぶりを書く元気はなくなってしまった。せめて、徳川家康クラスの人がいたら、パレスチナが沖縄のように無血・無償でユダヤ人の手にかえってくる機会はいくらでもあったのである。ナポレオンがエジプトを占領してパレスチナに進撃したとき、当面の敵トルコ軍の総司令官はユダヤ人のハイム・ファルヒだった。ナポレオンは彼と政治的取引をもくろみ、「パレスチナをユダヤ人国家たらしめ、エルサレムをその首都とする」と宣言した。もし日本人なら、本能的に、トルコ、イギリス、フランスの三勢力を巧みにあやつり「漁夫の利」でございとばかりに、パレスチナにトルコ連邦内の自治共和国を作り、名目的宗主権はトルコで、実質的にはイギリスと結ぶ独立国を作りあげるぐらいは朝飯前であったろう。もう一度いう、以上のような機会は、いくらでもあったのだ。ユダヤ人は、契約が最初に来るから、まず既得権を作りあげるという離れわざができない。これのごく初歩がかろうじて出来たのがヘルツェルであり、その時やっと、イスラエル共和国が約束されたのである。ああ政治天才よ! そしてわれら政治低能よ。
六 全員一致の審決は無効
――サンヘドリンの規定と「法外の法」――
紀元前七〇一年、と言えばずいぶん昔のことだが、ユダの国の南西部、今度の「六日戦争」でも戦場となったガザ地帯の近くのモレシテという小村に、ミカという人が住んでいた。この地方は最も豊《ほう》沃《よく》な小麦の産地で、彼も独立自営農民であったらしい。簡単にいえば田舎《いなか》の百姓のミカである。ところが何かの動機で(当時の表現によれば神の召命をうけて)彼は預言者として活動を始めた。この預言者(プロフェトス)というのは、必ずしも予言者もしくは予見者・先見者の意味ではない。むしろ、神から言葉を預託された者の意味であろう。このお百姓のミカさんは、いろいろのことを宣《の》べ、その一部が旧約聖書の『ミカ書』に収録されている。もちろんこの『ミカ書』なるものの全部が彼の言葉ではない。後代の多くの言葉が加えられ、またさまざまな再編集も行われているから、確実に彼の言葉だと言えるのは一章から三章までであろう。キリスト教徒はミカを、イエス・キリストの出現を予言した預言者として珍重するが、もちろんこれは後代の勝手な解釈であって、何の根拠もない。ただキリスト教徒はこれ以外の点ではミカに何の関心も示さないので、日本人キリスト教徒にミカについて聞いても、おそらく何も知らないであろう。
このミカ氏は、実に驚くべき進歩的な意見を口にした。すなわち〓富者(地主・資本家)が貧者(労働者・農民)を搾取するのは罪である。〓哂故に、この搾取した富によって築かれたエルサレムの神殿は罪の成果であるから、ヤハウェ(神)自身がこれを打ち壊すであろう、と。神殿を、それが表象する現体制と見、神の意志を必然と解するならば、まことに近代的な考えといわねばならない。だが、ミカの言った意味はそれだけではない。神殿を増築し、美しく飾るということは、言うまでもなく一心に神を拝し、神を讃《さん》美《び》し、神に仕える行為である。そして、この行為を一心に、全く私心なく、心をこめてすればするほど、それが神の意志に反してくるということである。一種の弁証法といえよう。弁証法の祖はまさに預言者ミカであるといえる。富者の横暴を怒る言葉は、彼より古い預言者、テコアの牧者アモスにもあるが、アモスの場合は、はっきりと搾取を不可としているのではないから、この点でも彼が最古の人かも知れない。次に少しく彼の言葉を引用してみよう。
寝床の上で不義を計り 悪を練る者はわざわいである。
彼らはその手に力あるゆえ 夜があけるとこれを実行に移す。
すなわち田畑をむさぼってこれを奪い 家をむさぼってこれを取る。
人をしいたげてその家を奪い 人をしいたげてその嗣業を奪う。
貧者の生活を犠牲にして、神殿は壮大になり、立派な家がエルサレムに建っていく。
お前たちは血をもってシオンを建て 不義をもってエルサレムを建てた。
そういうことをしている支配階級は次の言葉を聞くがよい。
こうしてから彼らがヤハウェを呼んでも ヤハウェは答えられない。
彼らの行いが悪いから かえってその時には み顔を隠される。
それなのにお前たちは、厚顔にもなおヤハウェに寄り頼んで
「ヤハウェがわれらの中におられるではないか だから災いがわれらに臨むことはない」という。
それゆえシオンは お前たちのゆえに田畑となって耕され
エルサレムは石塚となり 神殿の高台は木のおい茂る高き所となる
…………
ヤハウェは言われる。その日には 私はお前たちのうちから馬を絶やし 戦車をこわし お前の国の町々(エルサレム)をたやし お前の町々を滅ぼす。
この言葉は、当時の人びとには実にショックだったらしい。というのは、戦時中の日本人に、天《あま》照《てらす》大《おおみ》神《かみ》が自ら伊勢神宮をぶちこわし、東京を田畑にかえてしまう、といっているようなものだからである。といっても当時の人びとがどういう反応を示したかは『ミカ書』に記されていないが、それから百年後には彼の言葉はよくおぼえられていたからである。それは預言者エレミヤの時代、ユダ滅亡の時代である。エレミヤもエルサレムの壊滅を預言し、そのため、ゼデキヤ王(王と聖書に記されているが正しくは執政である)に殺されそうになった。その時、司政官シマヤが彼を弁護して、百年ほど前にミカが同じことを言ったが、時の王ヒゼキヤ(彼は賢王として有名である)はミカを殺そうとせず、逆に罪を神に告白して、赦《ゆる》しを求めたではないか、と言っている。とすると、ミカの言葉は、当時の為政者に大きなショックを与えたらしい。そして、シマヤの言葉にも見られるように、この考え方はユダヤ人の思想の中に確固たる根を下ろしたのである。このミカの言葉を、日本流に、時勢を憤慨した詩と思ってはならない。いわゆる「昭和維新の歌」ではないのである。当時の人は、イザヤのように、エルサレムは神の名の鎮座したもう特別な町で、神殿がその中心だと考えていた。従って、神殿とエルサレムを壮大にすることは、神を讃美する行為なのである。ずっと後代の十字軍さえ、掠《りやく》奪《だつ》品を僧院に贈れば、これは立派な行為であっても、絶対に僧院長は「お前は殺しかつ盗んだから、この品物を神に捧《ささ》げたことによって、神はお前を罰して殺す」とはいわなかったであろう。ミカの思想は、まさにそれを口にしたこと、すなわち神のためにした行為によって神に罰せられる、という考えである。
キリスト教徒がキリストと呼ぶナザレ派のラビ(教師)イエスや、ラビ・ガマリエル門下の逸材で、同じようにキリスト教徒が使徒パウロと呼んだ、ローマの市民権をもつパリサイ派のサウロの発想にも、同じことが見られる。すなわち、神の戒命(律法)に、一点一画もおろそかにせず絶対的に従うこと自体が、神を信じないこと(すなわち神に従わないこと)になる、という考え方である。
ユダヤ人の思想家をたどって行けば、ミカ以来、多かれ少なかれ、こういった考えをもたなかった思想家はいないといえる。イエスと同時代の多くのラビたちも、中世のラビたちも、カール・マルクスもその発想の基底は同じである。また戦前パリでアインシュタイン博士の解説的な講演を聞いた同胞の思い出によると、同じような発想が博士の学説の根底にあると思わざるを得なかったそうである。
この発想は、いわばもう血となり肉となって、ユダヤ人の体質のようになっている。それは学者が意識的に体系的学説を組み立てる場合だけでなく、日常の瑣《さ》事《じ》や政治・経済の運営にまでしみこんでいるのである。その一例として、表題にかかげたサンヘドリンの規定のことをお話ししよう。
サンヘドリンというのはイエス時代のユダヤの国会兼最高裁判所のようなもので、七十人で構成されていた。当時の法律は、いわばモーセ以来の律法が厳として存在し、問題はその解釈と適用だったから、厳密な意味では立法権はないが、新解釈には「立法」といえる面もあった。またこの解釈と判例に基づいて判決を下したのだから最高裁判所でもあった。イエスに死刑の判決を下したのはこのサンヘドリンである。この判決に(新約聖書の記述が歴史的事実なら)少々問題がある。いや少々どころではない。実に大きな誤判をやっているのである。
というのは、サンヘドリンには明確な規定があった。すなわち「全員一致の議決(もしくは判決)は無効とする」と。とすると、新約聖書の記述では、イエスへの死刑の判決は全員一致だったと記されているから、当然、無効である。この場合どう処置するかには二説あって、一つは「全員一致」は偏見に基づくのだから免訴、もう一つは興奮によるのだから一昼夜おいてから再審すべし、としている。だがイエスの場合、このいずれをも無視して刑が執行されている。律法の番人を自任していたサンヘドリンにしてはいささか解せぬことだが、これは私の考えではおそらくキリスト教発生時の創作だろうと思う。というのは当時のキリスト教徒はもちろんその殆《ほとん》どすべてがユダヤ人であったから、彼らは、イエスの処刑は違法だと言いたかったのであろう。事実彼らはイエスをモーセ、エリヤ、ダビデの正当の後継者と信じ、救いの主と信じていたから、違法に処刑されたと考えるのが当然であったろう。しかし、それが、時も所も異る日本に来ると、日本人キリスト教徒のように「一人の反対もなかったということは、いかに人間が完全に罪に染まっているかを如《によ》実《じつ》に示している」といった見方にかわってしまう。というのは日本では、全員一致の議決は、最も強く、最も正しく、最も拘束力があると考えられているからである。だがユダヤ人もそうだと考えてはこまる。その逆で、その決定が正しいなら反対者がいるはずで、全員一致は偏見か興奮の結果、または外部からの圧力以外にはありえないから、その決定は無効だと考えるのである。ミカ以来の考え方の表れである。
日本では、「全員一致、一人の反対者もない」ということが、当然のこととして決議の正当性を保証するものとされている。時には、多少の異議があっても、「全員一致」の形を無理にもとる。もっと極端な場合は、明らかに全員ではないのに、全員の如《ごと》くに強弁する。たとえば「全国民が一致して反対している安保を強行し……」といった言い方である。これはどう考えてもおかしい。少なくとも国会で賛成の投票をした人は賛成しているはずであるから。だが、これがサンヘドリンが機能していた時代のユダヤだったら大変である。これらの主張はすべて、自らの主張は無効であると主張していることになってしまうからである。
ミカの弁証法の最も奥底にあるものは、人間には真の義すなわち絶対的無《む》謬《びゆう》はありえないということであろう。これはただ神にのみあるのであって、人間はたとえ一心不乱に神を賛《たた》え、神の戒命を守り、神に従っていても、そうする行為自体の中に誤りを含む、という考え方である。従って、全員一致して正しいとすることは、全員が一致して誤っていることになるはずで、たとえわずかでも異論を称《とな》える者があるなら、その異論との対比の上で、比較的、絶対的正義に近いこと(すなわち無《む》謬《びゆう》に近いこと)が証明されるわけで、従って、少数の異論もある多数者の意見は比較的正しいと信じてよい、ということなのである。全員が一致してしまえば、その正当性を検証する方法がない。絶対的無《む》謬《びゆう》はないのだから全員が誤っているのだろうが、それもわからない。従って誤りでないことを証明する方法がないから、無効なのである。
ある種の国民は、口を開けば全員が同じことをいう。毛沢東の中国も、スターリン時代のソ連も、北朝鮮も。その場合、日本人は、「すじ金入り」「鉄の団結」といった国を、ある人は讃《さん》嘆《たん》し、ある人は畏《い》怖《ふ》を感ずるらしいが(新聞記事などで見ると)、ユダヤ人は本能的に「あれは全員が誤っている」と考える。事実、どんな正しい意見でも、一つの意見には必ずその意見と矛盾するものを含むから、その面に目をとめれば、基本的には同意見の人から、かえって強い反対が出るはずなのである。すなわち反対すること自体が、実は、同じ意見であることを証明する場合すらあるのであって、だれ一人反対しないということは、だれ一人支持していないことにもなるのである。
いささか説教調になってしまった。「ユダヤ人から弁証法の講義などうけなくとも、そんなことはよくわかっている」とお叱《しか》りをうけそうである。だが、私が言いたいことは、日本人には別の弁証法があり、日本人は意識しないでそれを使っている、ということなのである。ちょうどユダヤ人が、無意識のうちにミカの弁証法を使っているのと同じであって、日本人は「人間的弁証法」とでも言うべきものを使っている。
まず第一に、日本では、「決議は百パーセントは人を拘束せず」、という厳然たる原則がある。戦争直後、ヤミ米を食べずに餓死した裁判官がひとりいた。ということは、その人が例外なのであって、他の裁判官はもちろんのこと、この法律を議決した議員も、その議員を選出した国民も、だれひとりとして、国会の議決によるこの厳然たる法律に、百パーセント拘束されていなかったことを示している。ユダヤ人ではこうはいかない。正統派ユダヤ教徒の律法厳守の厳格さは、もしこれを刻明に話せば、たいていの日本人は驚きあきれ、時には失笑し、まず「話半分としても、厳格なものですなあ」という返事がかえってくるのが落ちである。だが話は半分ではないのである。細かい説明はしないが、戦後、アメリカ軍人であってワシントン・ハイツに駐在していたあるユダヤ人のもとに毎土曜日(というのは安息日)アルバイトに行っていた日本女性の、驚きあきれた話をきけば十分であろう。彼女は、その家庭に、夕刻に電灯をともしに行き、十一時に消灯に行ったのである。というのはユダヤ人はその律法によって、安息日には絶対に動かないからである。日本人にはまことにあきれた話だが、昔はもっとひどかった。ローマのポンペイウスがエルサレムを攻撃したとき、はじめは何度強襲しても成功しなかった。その時ひとりの物知りがそっと彼に言った。「安息日に攻撃なさい、彼らは殺されても動きませんから」と。ポンペイウスは半信半疑で攻撃した。するとその言葉の通りであった。従ってエルサレムは落城した。全く「バッカじゃなかろうか」であろう。
しかし、ユダヤ人だけでなくアメリカ人にも、日本人から見れば少々ばかげたことがある。裁判では、陪審員がまず有罪か無罪かをのべる。有罪ときまればあとは全く法律が自動的に作用するから、さまざまの犯罪を重ねたものには「懲役二百五十六年」などという判決が出る。日本人の目から見れば、百年だろうが、百五十年だろうが、二百年だろうが、人間がそんなに生きているはずはないから、こんな数字は無意味であろう。しかしアメリカでは、それはあたりまえのことで、法は法として百パーセント適用されねばならないからであって、その人間がその期間の全部を服役できるかできないかは問題外なのである。
日本では、満場一致の決議さえ、その議決者をも完全に拘束するわけでないし、国権の最高機関と定められた国会の法律さえ、百パーセント国民に施行されるわけではないから、厳守すれば必ず餓死する法律ができても、別にだれも異論はとなえない。法律を守った人間はニュースになるが、破った人間はもちろん話題にものぼらない。といって全日本が無法状態なのではない。ここに日本独得の「法外の法」があり、「満場一致の議決も法外の法を無視することを得ず」という断固たる不文律があるからである。従って裁判もそうであって「法」と「法外の法」との両方が勘案されて判決が下され、情状酌量、人間味あふるる名判決などとなる。日本人はこの不文律を無意識のうちに前提とするが、これは日本独得のもので外国にはないから、外国の会社などと契約を結ぶ場合、法律の専門家ですら、えてして大きな失敗をするわけである。戦後のこういった失敗例を列挙すれば、一冊の本となろう。
ではこの法外の法の基本は何なのであろう。面白いことに、それは日本人が使う「人間」または「人間性」という言葉の内容なのである。今のべたような「人間味あふるる判決」とか、また「人間性の豊かな」「人間ができている」「本当に人間らしい」とかいう言葉、またこの逆の「人間とは思えない」「全く非人間的だ」「人間って、そんなもんじゃない」「人間性を無視している」という言葉、さらに「人間不在の政治」「人間不在の教育」「人間不在の組織」という言葉、この、どこにでも出てくるジョーカーのような「人間」という言葉の意味する内容すなわち定義が、実は、日本における最高の法であり、これに違反する決定はすべて、まるで違憲の法律のように棄却されてしまうのである。守れば餓死するような法律などは、「そんな人間性を無視した法律を守る必要はない」と全国民が考えると、その瞬間に違憲として棄却されるから、ないも同様になる。それならこの法律を国会で廃止すれば良いではないか、と主張する外国人が居れば、まことに日本を知らぬ奴《やつ》といわねばならない。というのはこの法律は「人間性を無視しない範囲内」では厳然として存在し、それをおかせば罰せられるのである。従って、「そりゃ、ヤミをやらねば食って行けないし、おれもやってるけど、あいつはやりすぎるよ、あんなことまでやれば、つかまるのはあたりまえだ」ということは、人間性という法外の法の保障する範囲がはっきりきまっており、これをのりこえれば、すぐさま、国会の定める法により処断される、それが当然だ、という考え方である。このヤミという言葉はもう昔話である。今、同じような位置にあるのが税であろう。日本の税法をモーセの律法のように厳格に適用すれば、結果において脱税していない日本人はひとりもおるまい。
さてここで問題になるのは日本人のいう「人間」「人間性」「人間味」「人間的」とは、いったいどういう内容で、それを基とする「法外の法」とはどんなものか、ということであろう。日本人自身これをどうお考えか、是非ききたいと思う。ただ私すなわち一ユダヤ人の考え方からすると、これは一種の宗教的規定だといわざるを得ない。
宗教、まさに宗教なのだ。といっても宗教の定義もまたむずかしいが、イスラム教やユダヤ教が宗教なら、これは立派な一つの宗教である(もっともイスラム教やユダヤ教が宗教でないというなら別だが)。日本人が無宗教だなどというのはうそで、日本人とは、日本教という宗教の信徒で、それは人間を基準とする宗教であるが故に、人間学はあるが神学はない一つの宗教なのである。そしてこの宗教は、「人間とはかくあるべき者だ」とはっきり規定している。つまり一つの基本的宗規が存在するのである。すべての法律、規則、規定、決議は、満場一致であろうとなかろうと、この宗規に違反していないかどうか厳密に審査されねばならない。従って議決は常に最終的決定でなく、いわば満場一致の決議案にすぎないのだから、日本人は、これにさして神経質にならない。従って「全員一致の決議は無効である」などという規定を設ける必要もないのである。
ここに日本独得の弁証法がある。すなわち「人間性」と「法」との弁証法とも言うべきもので、これが非常にゆっくりだが一種の正→→反→→合をくりかえしていることは、日本の新聞論調とその推移をたどって行けば明らかであろう。どこの国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうでなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。この点、外国人にとって一番理解しやすい新聞は日本経済新聞とアカハタであろう。両者とも報道者の位置がはっきりしているから、対象とそれへの視点が共に明確であり、従って各自の立場からそれぞれの判断が下せるからである。ところがいわゆる一般紙となると、相当に日本のことがわかっているつもりの人間にとっても、一種の謎《なぞ》であり、何とも理解に絶してくる。この理解に絶したさまは、六〇年安保の際のA新聞の論調に対して、「オーナーはどうしたんだ」といったようなアメリカの新聞の論調にもあらわれていた。一方日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。また不偏不党とか公正とかは、その立場における自らの姿勢ないしは心構えのことであっても、そんな位置があるはずがない――というのは、そういう位置に立ちうるのは神だけである、というのがユダヤ教、キリスト教、イスラム教(フィネガンの定義によるとヘブライ = クリスト的宗教)にほぼ共通した考え方だからである。従って、人である限り、自らの位置を明確にしなければ公正《フエア》でないから、それを明確にせず、否、明確にしないことが不偏不党かつ公正だなどと言われると、西欧人の頭はこんがらがってくる。新聞を「新しい日本の現《アラ》人《ヒト》神《ガミ》」といったプスカム氏の言葉は必ずしも安直な皮肉ではない。
だが、私は、日本の新聞の立場は、いままでのべてきた「法外の法」であり、日本教の宗規なのだと思う。すなわち日本人がよく口にする「人間」「人間的」「人間味」といった不思議な立場に断固として立っている、というより立たされている。というのは、この一億近い日本教教徒の立場に立たずして、新聞社が存立できるはずがないからである。ではここで、日本教というものを探究してみよう。
七 日本教徒・ユダヤ教徒
――ユーダイオスはユーダイオス――
アメリカのように、その国で生まれた人間はすべてアメリカ人だと規定するなら、私は日本人である。すなわち、神戸市の山本通りで、木綿針を中国に輸出していたユダヤ人小貿易業者の家に生まれたユダヤ系日本人というわけだが、ユダヤ系日本人という概念自体がありえないから、私は、日本で生まれ育ったユダヤ人であっても日本人ではないということになる。こういった環境に育ったので、私は必然的に日本人とは何か、ユダヤ人とは何か、といった問題を具体的問題として考えざるを得なくなった。アメリカで生まれれば、どちらを見ても、古いか新しいかの差(といっても近々三百年足らずのこと)はあっても、所《しよ》詮《せん》〇〇系や××系、△△系であって、厳密にいえば、系のつかないアメリカ人など存在しないのだから、私の、何々人といったことへの考え方は、おそらくアメリカ人なみに雑《ざつ》駁《ばく》になったことであろう。
人種・伝統文化・国籍といった問題になると、日本人とユダヤ人には、奇妙な共通した問題がでてきてしまう。具体的な例をあげてみよう。「私の知人のある日本人画家の奥さんはフランス人であった。今では日本人であるが……」と言ったところで、それを聞いた気の早い日本の友人が、その画家がフランス出身の奥さんを離婚して日本女性と再婚したと思い込んでしまった。私が言った意味は、このフランス人であった奥さんは、日本の国籍を取得して日本の市民権をもっている、従って今では日本人である、という意味なのだが、そうとってくれる日本人はまずいない。彼女の国籍がどこであろうと、「あの奥さんは外人」なのであって、絶対に内人(?)すなわち日本人とは認めてくれないのである。この画家氏は、戦争中、奥さんがフランス人であるというので憲兵氏の訪問をうけた。画家氏が「家内は日本人です」というと、憲兵氏は目を白黒させたそうである。だがこの程度のことは当然であろう。鹿児島県には、島津義弘に連れてこられた朝鮮出身の陶芸師がおられるが、あれから三百年もたつのに、まだ日本人として認められず、外人として所遇されているそうだから。こうしてみると、日本人という概念には、日本国の国籍の有無などということは全く関係ないらしい。ましてや市民権云《うん》々《ぬん》など、言ってみてもはじまらない。この、国籍は無関係という点のみを取り上げてみれば、ユダヤ人もまさにそうで、どこの国籍をもとうとそれと関係なしにユダヤ人なのであって、これも市民権の有無などとは関係ないのである。では一体、ユダヤ人とは何なのか、日本人とは何なのか。
「六日戦争」のころ進歩的週刊誌に出た進歩的人士の論文によるとユダヤ人などというものは存在せず、それぞれ、フランス人、ドイツ人、イギリス人、アメリカ人等々が存在するだけなのだそうである。この論理はいささかナチスの論理の裏がえしで膚《はだ》に粟《あわ》を生じたが、そう主張する御本人も絶対に私を日本人とは認めないから心配はあるまい。これは、人種・伝統文化・国籍といった問題をわざと無視した判《はん》官《がん》びいきの親アラブ的極論であろう。こういう議論は別としても、ある新聞に載った「ユダヤ人の定義」は全く面白かった。それによると「ユダヤ人とはユダヤ教徒のことだとも言われるが、ユダヤ人の中にはキリスト教徒もいるからユダヤ教徒がユダヤ人だとは必ずしも言えない……結局ユダヤ人とは自分をユダヤ人と考えている人のことである云《うん》々《ぬん》」といった意味の文章である。この定義は、一種の語戯であっても定義とはいえない。この文章をギリシア語になおしてみれば、すぐにわかることである。
ユダヤ人という言葉は言うまでもなく日本語であり、これをギリシア語になおせばユーダイオスである。問題はこのオスという語尾なのだ。このオスという言葉は実にさまざまな日本語に訳されている。新約聖書を見てみよう。ユーダイオスはユダヤ人《じん》、ファリサイオスはパリサイびと、クレスティアノスはキリスト者となっているが(塚本訳だけはファリサイオスもパリサイ人《じん》)、原語のオスをどういう基準で「人《じん》」「びと」「者」と訳しわけたのか、私にはわからない。この点、両方を「人《じん》」で統一した塚本訳の方が筋がとおっている。
ところが学術書を開いてみると、たとえばミラー・バロウズ博士の『死海写本』の日本語訳では、同じ言葉が、ユダヤ教徒、パリサイ派、キリスト教徒と訳されている。さらにもっと専門的なM・ブラック博士の『死海写本とキリスト教の起源』の訳では、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、ガリラヤ派、サマリヤ派というように全部が派になっている。こう訳したのは、こう訳さねば意味が通じなくなるからであろうが、原語はいずれも同一の――オスである。私が前述のある新聞の定義は定義でなく語戯だといったのはこの理由である。というのはあの文章はギリシア語まじりに書きなおすと次のようになる。「ユーダイオス(ユダヤ人)とはユーダイオス(ユダヤ教徒)のことだとも言われるが、ユーダイオスの中にはクレスティアノスもいるから、ユーダイオスがユーダイオスだとは必ずしもいえない……云《うん》々《ぬん》」。これは全く意味をなさない文章で、読めばだれでも思わず笑い出すであろう。この文章が大新聞に載っても、みんなが平気で居られるのは、「人《じん》」「ひと」「者」「教徒」「教派」「派」といった日本語独得の不思議な使いわけである。
ユーダイオスの中のファリサイオスという言葉は、ユダヤ人の中のパリサイびとともいえるし、ユダヤ教徒の中のパリサイ派ともいえる。従ってユダヤ人の中にキリスト者がいるということはユーダイオスの中にクレスティアノスがいるということで、ユダヤ教徒の中にキリスト派がいるということでもある。従って、ユダヤ人の中にはキリスト教徒もいるから、ユダヤ人とはユダヤ教徒のこととはいえない、とはいえない。
こういう問題では使徒パウロは良い一例であろう。彼は自ら称して「ユーダイオス」だといい、一方「生まれながらのローマの市民」ともいっている。これをごく普通の日本語にすれば「ローマ人で、ユダヤ教徒キリスト派」だということになる。これを日本語の聖書は「ユダヤ人で」「ローマの市民権をもつ」「クリスチャン」とする。そしてこれを日本人は「人種的にはユダヤ人で、国籍ではローマ人で、宗教ではキリスト教徒」という意味にとる。だがまちがってもらってはこまる。パウロは死に至るまでユーダイオスであり、そのユーダイオスの中のクレスティアノスなのである。当時は今でいうようなクリスチャンなどというものはまだ存在していない。彼は、おそらくユーダイオスの中の、ファリサイオーン・バプテスタイ(洗礼パリサイ派)から、ユーダイオスの中のクレスティアノスに移った(すなわち教派の移動)のであって、ユダヤ人たること、すなわちユダヤ教徒であることをやめたことは、終生ない。従って彼のことをユダヤ人キリスト者と呼ぶなら、それはまさに、ユダヤ教徒キリスト派である。
大分長々とややこしいことを書いたので、読者の頭はまだ少しく混乱しているかも知れぬ。しかし、ユダヤ人キリスト者という日本語をギリシア語になおし、今度そのギリシア語を日本語になおすと「ユダヤ教徒キリスト派」となることは、おわかりいただけたと思う。とすれば、日本のキリスト教徒がよく使う「日本人キリスト者」という言葉はどうなのか。もちろんこれも同じで、これを一度ギリシア語になおしてまた日本語に移せば、同じように、「日本教徒キリスト派」となる。
以上のことを、ある新聞を皮肉った語戯だと考えないでいただきたい。日本人とは日本教徒なのである。ユダヤ教が存在するごとく、日本教という宗教も厳として存在しているのである。くどいようだが、これはイスラム教やユダヤ教を宗教と考えれば、の話である。もし宗教という言葉を別の意味に解し、イスラム教やユダヤ教は宗教でないというなら、日本教なるものは存在しないといえる。だがいかに(本心では)アジアには無関心な日本人でも、キリスト教のみが宗教で他は宗教でないとは言うまい。すでにふれたが、あらゆる宗教にはさまざまな教派があるように、ユダヤ教にもさまざまな分派があった。――サドカイ、パリサイ、エッセネ、ガリラヤ、ナザレ、サマリヤ等の諸派があり、大体主流とされるパリサイ派の中にも、洗礼パリサイ派という別派がまたあった。この洗礼パリサイ派なるものの存在を発見したのは、「アフリカの聖者」シュヴァイツァー博士である。日本教も同じでさまざまな分派がある。私の知っている範囲内でも、キリスト派、創価学会派、マルクス派、進歩的文化派、PHP派等々から、ちょうど二千年前のユダヤ教のゼロテース(右翼国粋派)から、もっと極端なシカリーまでいる。日本教の進歩的文化派左派の浅沼氏を刺したのはまさに日本教シカリー派の一員であった。シカとは短剣のことで、短剣をふるって、意見を異にする左派的分派を暗殺するので、この名があったわけである。だがこれらはいずれも分派であって、ユダヤ教徒であれ日本教徒であれ、その大部分を包合する本流は、特にこれといった自覚もなく、伝来の宗教的信仰と宗教的戒律の中にごく普通に生きて来たのである。ユダヤ人が庶民一人一人に至るまで、はっきりユダヤ教徒という自覚をもつに至ったのは祖国喪失の後である。事実、旧約聖書が最終的に編《へん》纂《さん》されたのは紀元一〇〇年のヤムニアの会議においてであり、タルムドの編纂はそれ以降である。
日本人はそういう不幸に会っていないから、日本教徒などという自覚は全くもっていないし、日本教などという宗教が存在するとも思っていない。その必要がないからである。しかし日本教という宗教は厳として存在する。これは世界で最も強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである。日本教徒を他宗教に改宗さすことが可能だなどと考える人間がいたら、まさに正気の沙《さ》汰《た》ではない。この正気とは思われぬことを実行して悲喜劇を演じているのが宣教師であり、日本教の特質なるものを逆に浮彫りにしてくれるのが「日本キリスト者」すなわち日本教徒キリスト派であるから、まず、この両者に焦点をあててみよう。
宣教師はよく日本人は無宗教だというし、日本人もそういう。無宗教人などという人種は純粋培養でもしなければ出来ない相談だし、本当に無宗教なら、どの宗教にもすぐ染まるはずである。だから私は宣教師にいう、日本に宣教しようと思うなら、日本人の『ヨハネ福音書』と『ロマ書』はお読みなさい、そしてそれがすんだら日本人の旧約聖書の全部は不可能にしても、せめて『創世記』と『第二イザヤ』ぐらいは読まねばいけません、と。彼らは驚いていう。そんな本がありますか、と。ありますかには恐れ入る。そしてさらに日本教を研究したければ、日本教の殉教者を研究しなさい、というと目を丸くする。殉教者がいますか? あたりまえです。殉教者のいない宗教はありません。西郷隆盛という人、あの人は日本教の聖者であり殉教者ですというと、もう全くわけがわからないという自信喪失の顔付になってくる。そこで私はいう。いや何の御心配もいりませんよ。何十年か日本で一心に伝道してごらんなさい。そのうち老人になると、日本人はあなたのことをきっとこういって尊敬してくれますよ。「あの人は宣教師だが、まことに宣教師くさくない、人間味あふるる立派な人だ云《うん》々《ぬん》……」。何十年かたったら思い出して下さい。この「人間味あふるる」という言葉の意味と重さを。そしてそういわれたときに、あなたが日本教キリスト派に改宗したので、あなたの周囲の日本人がキリスト教徒になったのではないという事実も。
私は冗談を言っているのではない。日本教の中心にあるのは、前章でものべたように神概念ではなく、「人間」という概念なのだ。従って日本教の『創世記』の現代的表白に次のように書かれていても不思議ではない。
人《ヽ》の《ヽ》世《ヽ》を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯《ただ》の人である。唯の人が作った人《ヽ》の《ヽ》世《ヽ》が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人《ヽ》で《ヽ》な《ヽ》し《ヽ》の国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶《なお》住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容《くつろげ》て、束《つか》の間《ま》の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降《くだ》る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑《のどか》にし、人の心を豊かにするが故に尊《たつ》とい。
『草《くさ》枕《まくら》』を読まずに日本を語ってはならぬ。新聞記者などで、日本に二、三年いて、いっぱし日本通のような顔をした人間には、私はいつもそう言うことにしている。宣教師さん、この不思議な世界がいったいあなたに理解できると思うのか。思うのなら次の一文をお読みあれ。これが日本語で、『草枕』の中におさまっていると、実にみごとな詩だということが、あなたに想像できるだろうか。
世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴《やつ》で埋《うずま》っている。元来何しに世の中へ面《つら》を曝《さら》しているんだか、解《げ》しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのを以《もつ》て、さも名誉の如《ごと》く心得ている。五年も十年も人の臀《しり》に探偵をつけて、人のひる屁《へ》の勘定をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を数える。前へ出て云《い》うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えば猶《なお》々《なお》云う。よせと云えば、益《ます》々《ます》云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。方針は人《にん》々《にん》勝手である。只《ただ》ひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁《へ》をひるのを以て、こっちの方針とするばかりだ、そうなったら日本も運の尽きだろう。
漱石、この西欧の古典、日本の古典、中国の古典、仏典までを自由自在に読みこなし、自分の作品の中に縦横に駆使しえた同時代の世界最高の知識人が到達したのは、「人の世を作ったのは人だ」という、日本教の古来から一貫した根元的な考え方である。この世界には猫は住めても神は住めない。皮肉なようだが、旧約聖書には猫という言葉が全く出てこないのと対《たい》蹠《せき》的である。猫は主人公だけれど神のいない世界、神が主人公だが猫はいない世界、この二つの世界に同時に住めると思う人がいたら狂人であろう。
宣教師さん、日本教創世記、日本教イザヤ書はしばらく措《お》き、日本教にはどんな一面があるか、ある事件を通じてお話ししつつ、日本教『ヨハネ福音書』に進もう。昔、あなたのようにはるばる日本に来た一人の宣教師がいた。彼がある日、銅製の仏像の前で一心に合掌している一老人を見た。そこで宣教師は言った「金や銅で作ったものの中に神はない」と。老人が何と言ったと思う。あなたには想像もつくまい。彼は驚いたように目を丸くして言った「もちろん居ない」と。今度は宣教師が驚いてたずねた。「では、あなたはなぜ、この銅の仏像の前で合掌していたのか」と。老人は彼を見すえていった「塵《ちり》を払って仏を見る、如何《いかん》」と。失礼だが、あなただったらこれに何と返事をなさる。いやその前に、この言葉をおそらく「塵を払って、長く放置されていた十字架を見上げる、その時の心や、いかに」といった意味に解されるであろう。一応それで良いとしよう。御返事は。さよう、すぐには返事はできまい。その時の宣教師もそうであった。するとその老人はひとり言のように言った「仏もまた塵《ちり》」と。そして去って行った。この宣教師はあっけにとられていたというが、あなたも同じだろうと思う。これを禅問答と名づけようと名づけまいと御随意だが、あなたの言った言葉は日本教徒には全く通じないし、日本教徒の返事はあなたには全くわからないということは理解できよう。禅の公案には何を素材に使っても良いのである。仏典でも、金銅仏でも、猫の首でも、いわしの頭でもよい。もちろん、聖書でもよいのだということを忘れないように。日本人が、聖句を用いて盛んに禅問答をしても、驚いてはならない。そういう人たちは、日本教徒キリスト派といって、聖書の言葉で禅問答をやるのにたけている人びとであるから。川端康成氏がハワイの大学で言ったことをお忘れなく。日本では「以心伝心」で「真理は言外」であるのだから。従って、「はじめに言外あり、言外は言葉と共にあり、言葉は言外なりき」であり、これが日本教『ヨハネ福音書』の冒頭なのである。くれぐれも忘れないでほしい。あなたの生きて来た世界がユークリッドの世界だと仮定したら、日本教の世界は非ユークリッドの世界である。ユークリッドの定理を非ユークリッドの世界にあてはめて、世にも奇妙な証明をやってみたところで、それは、非ユークリッドの世界に住む人間にとっては、ただただこっけいで無意味なだけだということは、前に引用した漱石の「屁《へ》」の勘定のところを、あなたに批評させたらすぐにわかることだ。批評してごらん、日本人はその批評を聞いてあなたを的確に量る。そしてそれでおしまいなのだ。
一方同じことが、逆の面から日本教徒キリスト派にも言える。聖書は日本語に訳されており、その訳文がすでに禅的であるが、その読み方・解釈となると、まさに禅である。有名なイエスとピラトの問答の場面「われは真理を知らしめんとしてこの世に来れり」「真理とは何ぞ」といってピラトが返事もまたずに群衆の方へ出て行くところを、ある日本人牧師が解説していたが、ここの言葉と動作を、まことに絶妙な禅問答のように理解しているのには、私も非常に驚いた。奇想天外とはこのことだろうが、いくら何でも、ナザレのイエスとローマ人のピラトに禅問答ができるわけはあるまい。だがこんなことで驚くのは、私がまだ十分に日本教を理解していないからであろう。これも仕方がない。言外を悟るということは、日本語が完全にできるようになって始めて出来ることなのだ(この点、日本語を学ぶということは、言語の習得だけではだめで、言外の習得まで入るから、これを完全にやれるようになることは、私でも不可能。ましてや宣教師にできるわけがない)。そして実にこまったことに、日本教の根本理念を形成する「人間」なるものの定義が、すべて言葉によらず、言外でなされていることである。従って日本教の世界に外国人は絶対に入れないし、外国の宗教も日本には絶対に入れないのである。いくら聖書を日本語に訳しても、日本人は、最も大切なことは、言葉によらず言外によるから(驚いたことに、いや驚く方がまちがいだが、あるミッション・スクールの先生で、生徒に、聖書の真理は「行間からくみとれ」と講義していた)、これはもういかんともしがたい。聖書はその本文によらず、本文の言外によることになってしまう。従って、日本人にうけ入れられるのは、この言外だけになってしまう。それはもう聖書ではない。
前章でのべた法外の法と、今のべた言外の言、この二つが日本教の根本理念である「人間性」を定義しており、一切の異邦人は、この聖域に近寄ることを許されない。ローマ軍はエルサレムの神殿の至聖所に乱入することができたが、日本教のこの至聖所には、たとえ原爆をもっても押し入ることはできない。また異邦人は、日本語がペラペラにしゃべれても、この至聖所をうかがい知ることはまずできない。せいぜい、言外の周囲にあってこれを守っている言葉に近づくことができるだけである。従って何時間議論したって対話したって無駄である。ましてやその結果「日本人は結論をはっきり言わない」などという感想をのべるなら、言う方にはじめから、日本人と語る資格がないのだ、と言わねばならない。
とすればわれわれ異邦人が日本教に近づく道は三つしかない。まず日本人が、一民族・一国家・一宗団であることを、他の国との比較の上で証明し、第二に、日本教を体現している人の言行と生涯を考察し、第三に日本教徒の他宗教(この場合はキリスト教)理解の仕方の特質を探ることである。
ではまず〓からはじめよう。日本では結婚しようとする男女が次のような会話をしても少しも不思議でない。「式は何でやろうか。神式もいいけどキリスト教式もいいね」。なるほどこれで良いはずである。いずれにせよ日本教でなのだから。だがイスラエル共和国のような国ではそうはいかない。この国にはユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒(アラブ人)、ドルーズ教徒がいる。そしてそれぞれに宗教裁判所がある。この宗教裁判所というものが日本人には非常に奇妙に見えるらしく、ある人などは中世の異端審問所のように考えていたらしい。早のみこみはこまったものである。私はいつも、これは日本の家庭裁判所と同じようなものですよと説明する。すると大体のことがわかるらしい。事実ここで行うことは、結婚・離婚、養子縁組から相続、家庭内の法律的問題の調停であり、一審と二審があり、またここの調停もしくは判決に不服なものは本訴するわけだから、まさに日本の家裁である。ではなぜこれが宗教裁判所となっているかというと、前記のような問題は、ユダヤ人はラビ法典に従い、イスラム教徒はシャリア法典に従い、ドルーズ教徒はドルーズ教法典に、キリスト教徒はキリスト教法典に従うから、どれもこれもまとめて「家裁」というわけにはいかないのである。いずれの国でも国法のすそ野とも言うべきところに、宗教的な一種の慣習があり、多くの人はそれを守っていれば、だいたい、一生の間、裁判所などのごやっかいにならないのが常である。従って国民の大部分を規制しているのはむしろこの部分であり、イスラエル共和国ではそれが各々の宗教法であって、それの裁定を下すのが宗教裁判所である。ところがもし日本で、日本には、神道、仏教、キリスト教の三宗教があるから、その各々の宗教裁判所をつくれと主張するものがいたら、まず正気ではないであろう。私は今まで、日本において、こういった主張があったという話はきいていない。ということは、日本にはそんなものは必要でないし、必要があるなどと考えた人すらいないのである。宗教がちがえば生活のある面の規制がちがってくるのは当然なのだが、日本人の間にはそういった差はない。ミッションスクール出で洗礼をうけたはずの女性が神式で結婚し、仏式で葬式をしても、だれも別にあやしまない。これを、宗教的に潔癖でないと考えるなら考える方が誤りである。日本人は実に潔癖なのだから。これは、少なくともその実生活においては、ということは本心では、日本人はみな同一の日本教徒であることを、実際に示している。「何やかやと言ったってさ、所《しよ》詮《せん》同じ日本人(日本教徒)じゃないか」。その通り、所詮同一教徒であって、実は、何やかやというのはその言《こと》葉《ば》尻《じり》だけなのである。
さてこれが本格的な法律、すなわち憲法となると、この間の消息はさらに明らかになってくる。憲法改正(悪)絶対反対というが、日本人は、いついかなる時代にも憲法を改正したことがない。聖《しよう》徳《とく》太《たい》子《し》の十七条はしばらく措《お》くとしても、面白いのは大《たい》宝《ほう》律《りつ》令《りよう》である。時勢がかわって、律令では規制できなくなったら、これを改正すればよさそうなものをあえてせず「令外の官」を設ける。検《け》非《び》違《い》使《し》はこの「令外の官」だが、面白いことに、自衛隊も「令外の官」である。現憲法のどこを探しても自衛隊に関する規定は一条もない。従ってこれは「憲法違反」ではなく「憲法以外」であろう。普通の国民なら、憲法に何ら規定なき武力集団などがいては心配だから、一日も早く憲法を改正し、この集団を明確に規制しろ、と政府に要求するであろう。私はある日本人に同じことをいい、憲法に補則として次のような一条を付加したらどうかと提案したことがある。すなわち「自衛隊は国土防衛のための暫定的組織にして、その行動範囲は陸上自衛隊にありては日本国領土内、海上自衛隊にありては領海内および特に指定する公海のみとし、航空自衛隊にありては、前記の上空のみとする」としておくだけでも、国民も周囲の国々も安心だし、誤解も防げるのではないかと思う、と。ところがこれへの彼の返答はまことに奇妙であり、また興味深いものであった。「なるほど、そうかもしれない。だが今の日本では憲法には手がつけられないよ」と。彼の言っているのは理屈でなく事実である。憲法は日本人には常に手をつけられないものなのである。明治憲法にも現憲法にも憲法改正の規定があるが、いずれも空文である。明治憲法は不磨の大典であったし、現憲法は無比の平和憲法であるから――ということは、これらは絶対にいわゆる「法律」ではなく、日本教の宗教的律法いわば一種の聖典乃至《ないし》は宗団戒規なのである。どの宗教でも、その基本的な律法は神聖不可侵だから絶対に手がつけられない。そこで実情にそわなくなると、さまざまの解釈をほどこして実情にあわせた。イエスの時代にはそれがパリサイびとの仕事であった。このパリサイびとも大体五派ぐらいにわかれていて、ひどく厳格に解するものもあれば、ひどくゆるやかに解するものもいた。日本国憲法のまわりにも、さまざまなパリサイびとがいて、いろいろな解釈を行い、お互いに相手の憲法違反を攻撃し合うが、そのやり方はまさに、同一宗団内の争いといった様相を呈していて、外部のものには何が何だかわからなくなってしまう、文字通りの典型的な「神学者の争い」である。いずれにせよ絶対に、冷徹氷のような法理論の一分《ぶ》のすきも見せない冷静な議論とは縁遠いものである。そしてそれが当然であろう。日本国憲法は一種の「セレク・ハ・ヤハド」(宗団戒規)か、「セレク・ハ・エッダー」(信徒規定)なのだから。
八 再び「日本教徒」について
――(その二)日本教の体現者の生き方――
日本人すなわち日本教徒を手っとり早く理解するにはどうしたら良いか、という相談をうけた場合、私は即座に『氷《ひ》川《かわ》清《せい》話《わ》』を読めということにしている。確かに、記紀万葉より源氏・平家、枕《まくらの》草《そう》子《し》より徒《つれ》然《づれ》草《ぐさ》、さらに漱石、鑑三、川端康成まで読み、さらに仏典から日《ひ》暮《ぐらし》硯《すずり》、駿《すん》台《だい》雑《ざつ》話《わ》まで読めば良いのだろうが、外国人には(専門家は別だが)それだけ読破するのは到底不可能だから、私は前記の書をあげる。ただこの書にも難点はある。言うまでもなく『氷川清話』は勝海舟の談話を筆記したものだが、その中で海舟が言及しているさまざまの人物や、その人物が活動した明治維新という背景がわからないと理解できない。しかしそれらについてある程度の予備知識があれば、これにまさる本はない。
まず第一に勝海舟という人物が、その時代の第一級(もちろん全地球上での)の人物であったことによる。これほどの人物は確かに全世界を通じて一世紀に一人も出まい。彼と比べれば同時代のナポレオン三世などは紙《かみ》屑《くず》のごとく貧弱である。三度の食事も満足にできない貧家に生まれ、十二歳にして将軍家《いえ》慶《よし》に見出されて以来、海軍の創設、咸《かん》臨《りん》丸による渡米は言わずもがな、長州征伐、対外折衝、その他すべての難局には召し出されてその任にあたる。その間、反対派の刺客に常につけねらわれながら一人のボディガードも置かず、両刀さえもたない。現状を正確に分析し、当面の問題を解決する手腕は文字通り快刀乱麻を断つで常人とは思えないが、一方、遠い将来をも正しく予測している、実にすばらしい人物であって、まさに「政治天才」の民族の典型であり超人であるといってよい。事実、彼のことを少しでも知った外国人で、彼に感嘆しない人間はいない。私なども、イスラエルの歴史に、こういう人がひとりでも居てくれたらと思う。
彼のことを知れば、彼が、その時代の世界第一級の人物であったことに異論がある者はおるまい。ところが、この超人・勝海舟が「偉いやつじゃ」といって無条件で頭を下げている人間が、二人だけいる。西郷南洲と横井小楠である。『氷川清話』でもこの二人を称揚しているが、小楠のことはくわしく書いてないので、ここでは彼の語る南洲を取り上げてみよう。海舟は、彼の名を口にするたびに、ただただ讃《さん》嘆《たん》しきっているが、これは尋常のことではない。彼は一面、非常に辛《しん》辣《らつ》で人をくった人間であることは同じく『氷川清話』の次の一文で明らかなのだから。「おれが始めてアメリカへ行って帰朝した時に御《ご》老《ろう》中《じゆう》から『そちは一種の眼光を具《そな》えた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か目をつけたことがあろう。つまびらかに言上せよ』とのことであった。そこでおれは『人間のすることは、古今東西同じもので、アメリカとて別にかわったことはありません』と返答した。ところが『さようではあるまい。何かかわったことがあるだろう』といって再三再四問われるから、おれも『さよう、少し目につきましたのは、アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、みなその地位相応に怜《れい》悧《り》でございます。この点ばかりは全くわが国と反対のように思いまする』と言ったら、御老中が目を丸くして、『この無礼もの控えおろう』と叱《しか》りつけたっけ、ハハハハ……」と。また海軍卿《きよう》であったころ、来日したイギリスの海軍大将に平然と「貴国の女王陛下が喫せらるるものは何ぞ」と問い「大将あやしみてパンと肉を措《お》いてまた他にあらんや」と答えると「足下もまじめな大将なるかな」と言うぐらい、人を食ったところがあった。この眼中に人なしともいえる海舟が、またそうあって然《しか》るべき能力と知識と才気をもった海舟が、なぜ、西郷の名を口にするたびにあれほど嘆賞しつづけるのであろうか。
しかも嘆賞しつつ彼があげるエピソードは、おおよそ一見まことにつまらないもので、なぜ、これで西郷が偉大なのかヨーロッパ人やユダヤ人には理解できないのである。また勝海舟の彼への態度であるが、この実に怜《れい》悧《り》・俊敏な人間が、彼に対してだけは別人のようになってしまう。有名な品川における西郷・勝の会談は、絶対にヨーロッパ的な意味における交渉ではない。唯一の交渉らしい点は、その前日に勝が、皇女和《かずの》宮《みや》を人質にするようなことは絶対にしないと西郷に保証した一事ぐらいのものであろう。あとは、勝はすべてを西郷にまかせるという。ところが西郷の方は、江戸のことはよくわからないから、すべてを勝にまかせるという。巧みにイギリスを動かして対馬《つしま》からロシアを撤退させた、ある意味では実に狡《こう》知《ち》にたけた外交官勝海舟の姿はここにはない。さらにいよいよ江戸城明け渡しで、双方から六人ずつ委員が出る。官軍の六人委員が江戸城に入ってくるわけだが、城内には殺気がみなぎっている。この六人を斬《き》り殺して城を枕《まくら》に玉砕しようという考えが、一瞬すべての人の脳裏を走る(勝海舟すら――彼の告白によれば)。官軍側六人委員にもそれが自然に伝わる。名をあげていないが、そのひとりは、気が動転したためかぞ《ヽ》う《ヽ》り《ヽ》を片方ぬいで一方ははいたまま城内に入るという珍事まで起こす。六人委員のひとり西郷は、席につくと居ねむりをはじめ、やがてぐっすりと寝てしまう。――こういうエピソードが次から次へと語られ、それを語るたびに、海舟は、「西郷は偉いやつじゃ」と嘆声を発するのだが、さてどこが偉いのか。一体この、超人であり、また徹底的俗人(すなわち非宗教的人間)であった勝は、西郷の何を偉いといっているのか。
一つの鍵《かぎ》がある。「とにかく西郷の人物を知るには、西郷ぐらいの人物でなくてはいけない。俗物には到底わからない。あれは政治家やお役人ではなく、一個の高士だもの」という言葉である。西郷は政治家ではないのである。高士だという。高士とは何か、俗物にはわからないという。それならば聖人か聖者であろう。私はこの高士をユダヤ教の(後述のように)大ラビと同じものと考えるが、日本ではラビのことは余り知られていないから、一応、キリスト教徒のいう「聖者《セント》」とほぼ同じ意味に解してもよいであろう。聖者という言葉は日本では隠者に近いものとされている。確かに聖者には隠者の一面がある(といえば西郷にもある)が、同時に(西郷を政治家というなら)一種の政治家である。聖者といってもピンからキリまであるがたとえば代表的な聖者、聖フランチェスコを例にとれば、彼は確かに小鳥に説教したであろう。しかし同時に、現在の言葉でいえばさまざまの政治活動も活発にやり、また十字軍とともにエジプトに行って、イスラム教徒に伝道しようとするほどの積極性ももっていた。また聖ベルナルドスなどは、政治的折衝のため何回もアルプスを越えている。ではいったい聖者とは何かといえば、それは、全くの私心なきキリスト教の体現者なのである。従って、この体現者が、どういう場合にどうするかは(キリスト教徒なら)だれの目にも明らかであるから、この点に関する限り絶対的な信頼があるし、それがあるから、縄《なわ》の帯で裸足《はだし》で、食を乞《こ》いつつも、宮廷であれ法王庁であれ、どこへでもずかずかと入って行って、だれにでも何でも言えるし、問題が紛糾すれば、双方から白紙委任をうけた調停者たりうるのである。
こう見れば、西郷は日本教の聖者であり、セント・サイゴーだと考えて少しもおかしくない。そして大俗人勝海舟が無条件で嘆賞しているのも、まさにそこなのである。勝海舟は、一切を西郷にまかせると言いえた。ということは、西郷がすべてを、日本教の根本理念と律法と戒規に基づいて処置することは、疑問の余地がないからである。これに対して西郷は勝にまかせるといった。これは、西郷のもっている日本教の根本的理念は、勝にもわかっているはずだから(わかっているから、西郷にまかせると言えたのだから)、その理念に従ってやれば良いので、細かい点は、実情のわかっている勝海舟にまかせる、ということであろう。これは中世のキリスト教社会において、事態が紛糾した場合、一切を委任された聖者がすべてを裁定したのと非常によく似ている。勝の委任をうけた西郷はもはや官軍の参謀とはいえない。「いろいろむずかしい議論もありましょうが、私が一身をかけてお引受します」ということは、もはや、官軍の参謀ではなくて、一日本教徒としてすべてを裁定するということであり、もう一度いうが、勝が何もいわずに一任したのは、一にこの点にある。敵軍の参謀になら、こんな一任ができるはずがない。
西郷の最期、またその後の西郷への評価も、聖者の殉教と後代が聖者に対する光輪とによく似ている。まさに「聖者を殺し、その墓を飾る」である。殉教にはいろいろの型があるが、その一つに、本人よりも周囲が、結果において、彼を殉教させてしまうという型がある。彼の最期もまさにそれで、『氷川清話』にあるように「……この消息は俗骨にはわからない……つまり自然に推力がつきまとうて来るので、何とかしなくては堪えられないようになるのだ」である。勝海舟にはこの間のことがよくわかっている。「西郷も、もしあの弟子がなかったら、あんなことはあるまいに、おれなど弟子がないから、この通り今まで生き延びて華族様になっておるのだが、もしこれでも、西郷のように弟子が大勢あったら、……何とかしてやったであろう。しかし、おれは西郷のように、これと情死するだけの親切はないから、何か別の手段をとるよ……」。その通りであろう。しかし日本教の体現者である聖者に、「別の手段」などというものがあるはずはない。彼の死は典型的な殉教の一例である。理屈からいえば、彼は反乱軍の主領として賊徒として敗死したわけだが、やがて立派な銅像が立ち、神社がたつ。これが殉教者がつねにたどる姿である。
民衆は常に殉教者を愛する。しかし殉教者が常に大人物・大思想家というわけではない。民衆に非常に愛せられる小さな殉教者はどこの国にもいる。日本教のこの民衆的・小殉教者をあげれば赤穂《あこう》浪士であろう。外国人は泉岳寺に驚く。私の知るあるイギリス人は、日本人は復《ふく》讐《しゆう》を好むから、泉岳寺に香煙が絶えないと思いこんでいる。もちろんこれは誤りであって、すべての復讐者が赤穂浪士と同じ待遇をうけているわけではない。彼らが、日本教の信条と律法と戒規の通りになすべきことをなし、それを行なったために処刑されたことが、彼らを、民衆に最も人気のある殉教者にしているのである。日本教の存続する限り、泉岳寺に香煙が絶えなくても不思議ではない。
前章でのべたように、日本教の基本的理念は「人間」である。従って神学は存在せず人間学が存在する。だがこれが、法外の法で規定され、言外の言で語られているため、言葉で知ることが非常にむずかしい。従って日本教を知るには、それを体現している一人物の、思想と行動を出来うる限り解明していく以外に方法がない。この点で、西郷南洲の生き方や記したものこそ、最も良き研究対象であろう。
『南洲遺訓』や『手抄言志録』に見る彼の言葉は、偉大なる宗教人のそれであって、政治家のそれではない。こういう言葉は、それを体現し、その言葉を生きてきた人間でなければ口にできない。もちろんマキァベリは、生涯、こういった言葉と無縁であった。もちろん、いわゆるスローガンならもっと立派な言葉もあろう。だが西郷はこれらの言葉をスローガンとして掲げたのではないし、またこれらの言葉は、政治上のスローガンではありえない。次に少しく引用してみよう。
道は天地自然の物にして、人は之《これ》を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給《たも》ふゆゑ、我を愛する心を以《もつ》て人を愛する也《なり》。
人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽《つくし》て人物を咎《とが》めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。
これは偉大なるラビ・ヒルレルの言葉に通ずるものがある。ヒルレルは、日本では知られていないが、ルナンによればイエスの精神的な父であり、また、パウロの師ガマリエルの祖父である。
孟《もう》子《し》曰《いわく》。殀《よう》寿《じゆ》不《かわ》弐《らず》。修身以俟之《もつてこれをまつ》。所以立命也《めいをたつるゆえんなり》、(尽《じん》心《しん》上)
殀寿は命の短きと、命の長きと云《い》ふことなり。是《これ》が学者工夫上の肝要なる処《ところ》。生死の〓《かん》落着出来ずしては、天性と云ふこと相分らず。生きてあるもの、一度は是非死なでは叶《かな》はず、とりわけ合点の出来さうなものなれども、凡《およ》そ人、生を惜《おし》み死を悪《にく》む、是《これ》皆思慮分別を離れぬからのことなり。故に慾《よく》心《しん》と云ふもの仰山起り来て、天理と云ふことを覚《さと》ることなし。天理と云ふことが慥《たしか》に訳《わか》つたらば、殀《よう》寿《じゆ》何ぞ念とすることあらんや。只《ただ》今《いま》生まれたりと云ふことを知《しつ》て来たものでないから、いつ死ぬと云ふことを知らう様《よう》がない、それぢやに因《よ》つて生と死と云ふ訳がないぞ。さすれば生きてあるものでないから、思慮分別に渉《わた》ることがない。そこで、生死の二つあるものでないと合点の心が疑はぬと云ふものなり。この合点が出来れば、これが天理の在《あ》り処《か》にて、為すことも言ふことも一つとして天理にはづることはなし。一身が直ぐに天理になりきるならば、是《これ》が身《み》修《おさま》ると云ふものなり。そこで死ぬと云ふことがない故、天命の儘《まま》にして、天より授かりしまゝで復《かえ》すのぢや、少しもかはることがない。ちやうど、天と人と一体と云ふものにて天命を全うし終へたと云ふ訳なればなり。
(按)右は文久二年冬、沖永良部島牢《ろう》居《きよ》中、孟子の一節を講じて島人操坦勁に与へたるものにて、今尚ほ同家に蔵す。
生物は皆死を畏《おそ》る。人は其《その》霊《れい》なり、当《まさ》に死を畏るゝの中より死を畏れざるの理を揀《けん》出《しゆつ》すべし。吾れ思ふ、我が身は天物なり。死生の権は天に在り、当《まさ》に之《これ》を順受すべし。我れの生るゝや自然にして生る、生るゝ時未だ嘗《かつ》て喜ぶことを知らず、則《すなわ》ち我の死するや応《まさ》に大自然にして死し、死する時未だ嘗《かつ》て悲むことを知らざるべし。天之を生みて、天之《これ》を殺《ころ》す、一に天に聴《まか》さんのみ、吾れ何ぞ畏《おそ》れん。吾が性は即ち天なり、躯《く》殻《かく》は則《すなわ》ち天を蔵《おさ》むるの室なり。精気の物と為《な》るや、天此の室に寓《ぐう》す。遊魂の変を為すや、天此の室を離る。死の後は即ち生の前なり、生の前は即ち死の後なり。而《しかし》て吾が性の性たる所以《ゆえん》は、恒《つね》に死生の外に在り、吾れ何ぞ畏れん。夫《そ》れ昼夜は一理なり、幽明は一理なり。始めを原《たず》ねて終りに反《かえ》らば死生の理を知る、何ぞ其の易《い》簡《かん》にして明白なるや。吾人は当《まさ》に此の理を以《もつ》て自省すべし。
これは彼の宗教的信仰といえよう。そしてこういう信仰を生き抜いてきた人は、一通の手紙で死んでしまうであろう。すなわち『手抄言志録』の〔評〕にあるように、
南洲城山に拠《よ》る。官軍柵《さく》を植ゑて之《これ》を守る。山県中将書を南洲に寄せて南軍殺傷の惨を極言す。南洲其《そ》の書を見て曰《い》ふ、我れ山県に負《そむ》かずと、断然死に就《つ》けり。中将は南洲の元《げん》を視《み》て曰ふ、惜しいかな、天下の一勇将を失へりと、流《りゆう》涕《てい》すること之《これ》を久しうせり。噫《ああ》公私情尽せり。
まさに殉教である。ナポレオンならば部下をエジプトに捨てて脱出することもできたし、自軍を雪の広野に潰《かい》滅《めつ》させても、なお、帝位を守るため、無理な徴兵をしてライプチッヒに出陣することができた。彼にはそれは絶対にできない。彼は絶対に「将軍」でも「軍人」でもなかったのである。
ナポレオンはセント・ヘレナに流された後、島の護衛兵が、彼を、前皇帝として遇しないといって、たえずいらいらしていた。それでも彼は「将軍」と呼ばれており、それにふさわしい待遇を得ていたはずである。一方西郷は、陸軍大将であろうが土百姓であろうが、そんなことは、どうでもよかったのである。『南洲逸話』には面白い話がたくさんあるが、一つあげておこう。
翁の故山に帰《き》臥《が》するや、武村の私邸に入り、毎日耕《こう》耘《うん》に従事し、自ら武村吉と称す。一日糞《こやし》桶《おけ》を荷《にな》ひ行く。士人某途上にて下《げ》駄《た》の鼻緒を断《き》り、翁を呼び止めて之《これ》を結《たて》しむ。翁唯《い》々《い》として命を奉ず。後幾年、翁之を士人に語る。士人驚き謝す。翁は、「益なきことを言ひ出せり、恕《ゆる》して呉《く》れよ」と、一笑に附したり。
ナポレオンに下駄の鼻緒をたてろと言ったら、どんな反響がかえって来たであろう。こういう点で西郷は実に不思議なほどイスラエルの偉大なるラビたちに似ているのである。ちょっと思い出しただけでも、前述の偉大なるラビ・ヒルレルは人足であり、有名なラビ・アキバは木こり、ラビ・ヨハナンは靴なおしであった。しかし、糞《こやし》桶《おけ》をかつごうと人足であろうと、下駄の鼻緒をたてようと靴をなおそうと、偉大なる宗教人の偉大さは少しも損傷されない。従って平然と(もちろんわざとでなく)それができるのである。こういう人物が生まれ、生き、殉教し、そして再評価されて人びとの心に生きつづける社会は、非常に宗教的な社会でなくてなんであろう。
以上のように見れば、西郷は、日本教の生んだ偉大な宗教人であり殉教者であったことは、異論の余地がない。しかし、それだからといって西欧の殉教者と同じであったとは、絶対に言えない。いや逆であったのだ。確かに殉教はしたけれど、殉教に至る方向はヘブライ = クリスト的宗教の方向と、全く逆なのである。彼らは、アンティオコス・エピファネース治下のユダヤ人であれ、初代キリスト教徒であれ、終末に生きていた。すなわち生命は永遠だが、宇宙には終末がある(それも間近い)と信じたがゆえに、平然と殉教できたのである。西郷はこの逆で、天すなわち宇宙は永遠であり、生命は、この永遠なる宇宙より出て宇宙に帰ると信ずるが故に、平然と殉教できたのである。「天之《これ》を生みて、天之を殺《ころ》す、一に天に聴《まか》さんのみ、吾れ何ぞ畏《おそ》れん。吾が性は即《すなわ》ち天なり、躯《く》殻《かく》は則《すなわ》ち天を蔵《おさ》むるの室なり……死の後は即ち生の前なり、生の前は即ち死の後なり……夫《そ》れ昼夜は一理なり、幽明は一理なり……」、太平洋戦争の特攻隊員の「悠久の大義に生き……死を見ること帰するが如《ごと》く……」も同じ考え方が基になっている。そしてここに日本教とヘブライ = クリスト的宗教の根本的な違いがあり、日本人が何としても理解できないのが終末論的世界観である。イエスやパウロの言葉は、もうすぐ宇宙がとけて流れて消えさってしまうという信仰を前提にした、いわば二千年前にふさわしい原始的な一面をもつ思想である。そしてこれが約千年後のマイモニデスになると、本書の中扉の裏に記したように、非常に進歩した思想になっているが、終末に生きるという点ではかわりない。これは一つの大前提である。だが日本教徒キリスト派は、絶対に、そういう前提でイエスやパウロの言葉を受けとってその言葉によって生きているのではない。逆であって、人の生は短くやがて(永遠なる宇宙)に帰するものだから、現世のことにのみ、自己の生命を投入してはならない、という教えとして受けとり、それに従って生きている。そこで、日本教徒キリスト派は、たとえ殉教しても、その殉教への道は日本教の西郷の道であって、初代キリスト教徒の道ではなく、もちろん、アンティオコス・エピファネース治下のユダヤ人の道でもない。
「殉教」これは実に大変なことなのだ。従って殉教者の信仰告白は、百の説法よりも、その宗教の真髄を表わしている。従って私は明治以降太平洋戦争終結までの日本人のキリスト教徒と称する人びとの、殉教の記録を調べてみた。そして驚いた。厳密な意味での殉教者は一人もいなかった。といえば、(主としてホーリネス教団から)反論もあるであろう。しかし私のいう意味は、全く妥協の余地なく棄教を命ぜられ、これを断固として拒否したが故に、法廷で死刑を宣告され、それでもなお《転向》を拒否して堂々と処刑されたキリスト教徒は一人もいないという意味である。確かにいない、そしていないはずである。戦後、キリスト教平和主義の偶像のようになっていた矢内原忠雄氏ですら、投獄はおろか留置場に入れられた経験もなく、検事の取調べを受けたという記録すらない。裁判をうけ、その記録が残っているのは浅見仙作氏(無罪)であり、この記録には、日本教徒キリスト派の主張が明白に出ているので興味深いが、同時に、たとえキリスト教に触発されても、日本人が日本教徒であることをやめること(いわば本当の改宗)は絶対にできないこと、たとえその本流からずれて行っても、一定の限界があることを示している。この限界は明示され、浅見氏も裁判官の三宅氏も、共に日本教徒であって、同一教徒として相互に理解しうる共通の基盤に立っていることはわかる。(どちらも相手を「正気の沙《さ》汰《た》とは思えない」とは思っていない)。そしてこの共通の基盤を掘り下げて行くと、西郷の基盤すなわち彼の人間理解と同じものになり、ここにあるのが実に日本教『創世記』の人間なのである。
九 さらに「日本教徒」について
――(その三)是非なき関係と水くさい関係――
一般にユダヤ人は金にきたない、といわれている。そういわれる理由が三つある。第一は、ユダヤ人はお《ヽ》か《ヽ》ね《ヽ》というものを持ったことがないからである。というと不思議に思われるかもしれないが、私のいう「おかね」とは「自国貨幣」の意味である。貨幣について経済学者はさまざまの定義をするが、その定義の中にいつも落ちているものが一つある。それは、自国への信頼感と国民的誇りの表象だという事実である。これが一つの事実であることはユダヤ人がだれよりもよく知っている。まずためしに、どこかへ行って千フランの紙幣を手に入れ、じっと眺めて見られるがよい。それは確かに「おかね」であり、ある価値の円と同じはずである。しかし、何となく不信感乃至《ないし》は違和感がつきまとうであろう。ユダヤ人はいつも他国貨幣しかもたないから、常にそれを純経済学的に扱う。従って紙幣の価値が下落しそうならほかのものにかえる。フランが下がりそうならマルクにかえる。日本人でも、もし手《て》許《もと》にフランとマルクがあり、自由に交換しうるなら、下がりそうな方を上がりそうな方にかえるのに、少しも躊《ちゆう》躇《ちよ》はしないであろう。だが一方、自国貨幣がこのように扱われるのを見たら、良い気持はすまい。ユダヤ人は自国貨幣をもつことがなかったから、貨幣を全くドライに扱える。従ってそういうものが不用と思えば、全く貨幣なしでもやって行ける。キブツがその一例である。「守銭奴のユダヤ人に、どうしてキブツが作れるのか」などと不思議がる人がいれば、これは、基本的認識が誤っているからだ、と言う以外にない。一言にしていえば、ユダヤ人は真の守銭奴の逆なである。国民と自国貨幣との関係に比べれば、その関係が実に水くさいのである。
ユダヤ人が金に汚いといわれるもう一つの理由は、十分の一税のためである。この十分の一税というのは申《しん》命《めい》典《てん》という古い律法に記されている規定で、全収入の十分の一を神殿(その後は教団)に収めるのである。この十分の一は、いわば「神の源泉徴収」のようなものであって、自分の全収入のうち一割は自分のものでないのである。これがどんなに大変な負担かは、おそらくクロヨンを怒るサラリーマン諸君には、よく理解していただけるだろう。だが、これの納付には日本の税務署のように温情があるわけではない。クロヨンなどというが、サラリーマンでも、アルバイトその他の収入やいわゆる社用費や取引先からの贈物などは、除外されている。しかし十分の一税では、たとえ一片のパンでも、自分の収入となったものはすべて、その十分の一を納めねばならないのだから、大変である。従って、世間的基準からすれば、その収入より、質素でないと生活していけない。これが金に汚いといわれる第二の理由であろう。申命典には面白いことが書いてある。これを誠実に実行すれば、おまえたちは、貸す者となっても借りる者とはならないであろうと。事実そうであって、まず自分の総収入を一銭一厘のまちがいなく正確に計算しなければならないから、すべての人が正確に自分の収入を把握していることになる。自分の収入を数字で出せば、とても、分不相応の乱費などできるものではない。従って、否《いや》応《おう》なく緻密な計画経済になるから、これまた金に汚いといわれざるを得ない、これがそういわれる第三の理由である。
マッカーサー時代に、東京近郊のグランド・ハイツに、Sというユダヤ人がいた。国籍はもちろんアメリカで、余りうだつのあがらぬ下級軍属である。ユダヤ人は、官吏や軍人になっても余り優遇されないから、特別な職務を除けば、一時的に勤めることはあっても、なるべくは独立自営をやりたがる。従って医者、弁護士、経理士、弁理士、商店主等々が多くなる。ところがこのSは余り覇《は》気《き》のないおとなしい方なので、いつまでも下級軍属に甘んじていた。貧乏人の子だくさん、七人の子持で、国には老母がいた。彼は他に取《とり》柄《え》はないが、現代では例外的とも言うべき実にまじめなユダヤ教徒であった。この十分の一税には、扶養控除・基礎控除などというけっこうなものはないから、彼にとっては実に大変な負担で、年がら年中、火の車だったわけである。
ある秋の新学期、彼はとうとうどうにもならない状態になってしまった。そこで全家族とも三度の食事を二度にへらしたのである。彼の奥さんには、非常に仲の良い日本人キリスト教徒の友人がいた。この友人が彼女に言ったのである。「三度の食事を二度にへらしてまで十分の一税を収める必要はないと思う。余裕のある時ならそれも良いけれども……」。だが彼女はきかない。そこでまた日本の友人は忠告した。「どうしても収めなければ気がすまないならそれも良いけれど、それなら、今月のように特別に出費の多い月はやめて、来月二か月分収めたら良いでしょう」と。ユダヤ人の奥さんはいった。「十分の一は私のおかねではなくあのお名(神)のおかねです。私は生まれてから人のものを取ったことはない。たとえ餓死しても取るつもりはない。ましてあのお名(神)のものを取るなど、死んでもできない」と。日本人の友人はいった「別に取るのではなく、今月やめて、来月二倍にすれば……」。ユダヤ人の奥さんはいった。「では、こういうことを考えて下さい。あなたが銀行員だったとしましょう。いま一銭もなくて、三度の食事を二度にへらしている。ではほんの二、三日、銀行のお金を流用しても、すぐうめてしまえば、それで良いと思います? そしてそれをその銀行の支店長の前で平気でやれます?」「…………」「私たちにとっては、生ける神を信ず、とか、ヤハウェは生く、とかいう言葉はそれと同じことなのです。私どもはキリスト教徒のように『生ける神の臨在を信ず』などと声を出していいません。そんなことをするのは銀行員が『われは生ける支店長の臨在を信ず』などと大声で言うのと同じで、そんなことをいえば、銀行にいるより精神病院に入った方が良いのと同じように、まことに奇妙に見えるのです……」。日本の友人は黙ってしまった。しかしそれから相当たって、この話を私にしたとき、彼女は半ば笑いながらいった。「でも、ユダヤ人の神様って水くさいのね。血がかよってないみたいだわ」。
これは実際にあったエピソードである。だが私がこの話をここへもって来たのは、宗教というものはユダヤ人にとって本来、こういったもので、それがおかねの扱い方に的確に出ている、という事を示すためにほかならない。こういう人間が、二十世紀の今日にも、実在するのである。ということは、二千年ほど前には、ほとんどすべてのユダヤ人がこの通りであったのは、おそらく事実であろう。ということは、新約聖書で語られているイエスの言葉もパウロの書簡も、まさにこういった人びとに向けられているのであって、二十世紀の日本人すなわち日本教徒に向けられているのではないという事実である。
この事実を無視して、日本語訳聖書を、真理は言外にあるという態度で読むなら、それはもう聖書ではなくて、日本教の教典である。事実日本教が、キリスト教によって触発され、それによって日本教を、キリスト教的に体系化することはできるし、キリスト教的思考方法や思考形式を用い、キリスト教的表現で宣布することもできるが、その本質はあくまでも日本教であってキリスト教ではない。日本人キリスト教徒もこのことをよく知っているから、キリスト教の日本的理解とか、聖書の日本的把握とかいう。たとえ、アメリカ人がユーゲニズムとかゼンとかいっても、それは日本の幽玄や禅とは無縁だとまで言いうる以上に、二十世紀の日本人が、パリサイズムとかケーリグマとかディダケーとか、カリスマとかを云《うん》々《ぬん》しても、二千年前のユダヤ人には無縁のことであろう。といって私はなにも、日本人に聖書はわかりっこない、などと言っているのではない。ユダヤ人自身が、さまざまの外来の文明に触発されてユダヤ教を形成していったように、日本人も、さまざまの外来文化に触発されて日本教を形成して行くのが当然であるが、それは、日本教徒がユダヤ教徒やキリスト教徒になりうることではない、といっているのである。
従ってキリスト教に触発され、キリスト教的表現で日本教を語る人を探って行けば、日本教の一面を最もよく知りうると考える。この点で日本人キリスト者 = 日本教徒キリスト派は、非常に貴重な存在である。
明治のはじめ「儒教は日本の旧約にして、キリスト教は新約である」とか「武士道とキリスト教精神は一致する」とかいった無邪気な時代は一まず措《お》くとして、日本人の新約聖書理解には終始一貫した明確な一つの前提がある。それは「律法対人間」という対置である。この対置から完全にはなれて新約聖書を講じた日本人を私は知らない。日本人が読むと、どうしてもそう読めてしまうらしい。特にパリサイ派とイエスの対決は、一方は重箱のすみをほじくる、まことに話のわからぬ非常識な律法主義者で、他方イエスは、これに対して愛と人間性を主張したまことに話せる人物になってくる。一体全体、本当にそうなのか? この疑問を提出することは、ユダヤ教徒にはありえても日本教徒にはありえない。さらにパウロとなると、これはもっと日本教を触発しやすい立場にある。「人の救わるるは信仰によるのであって行いによるのではない」から「律法は無用で信仰さえあれば良い」ということになり、「ただ信仰のみ」となってくる。そしてこれは親《しん》鸞《らん》の教えと相通ずるという、というなら、甘露寺明治神宮宮司のいう「ただ無心におがんでいれば良い」にも通ずるであろう。だがパウロは本当にそんなことを言ったのか。御本人がきいたら驚いてひっくりかえるのではないか? 日本人の書いたあるパウロ解説の結論では、「信仰とは神の前に身を投げ出すこと」だとなっている。身を投げ出す? だれがだれの身を投げ出すのだ、自分の意志で自分の身を投げ出すのか?
以上のことから三つのことが明らかである。まず「人間性」「無心」「身を投げ出す」、問題はここだ。日本教とは人間教であるから、神の方へ人間がタッチして行く。従って「さわらぬ神にたたりなし」である。「人間が神に向って、自分の方から身を投げ出す、その投げ出し方は無心(無条件の信頼)であらねばならぬ」ということであろう。従って投げ出すことに対して反対給付を求めれば「御《ご》利《り》益《やく》宗教」と軽《けい》侮《ぶ》される。とすれば、幼児が母親に身を投げかける、といったことになろう。この考え方の中に、一口にいうなら神と人との関係は「水臭いものではなく」「肉親的なものである」という考えがある。従って、前述の日本女性のように「ユダヤ人の神様って水臭いのね」という言葉が出てくる。この言葉は、本人が考えている以上に、非常に重要な言葉なのだ。ある意味では、日本教とユダヤ教の差を説いた最も高級な学術書にまさっている。では一体ユダヤ人はどうなのか。前述のユダヤ人は、何が理由であのような「水臭い」生き方をするのか、ここでもう一度考えてみよう。だが私はこのことでいわゆる神学者や神学生と議論をする気はない。「神学者の争い」という諺《ことわざ》もあるように、ユダヤ教であれキリスト教であれ日本教であれ、神学者とは、ある意味では全く始末におえない人びとで、時には珍学者・珍学生といいたくなることがあるからである。話は横道へそれるが、宗教家とは実に面白い人種であって、人間はずい分進歩したはずだが、こと宗教家に関する限り、二千年前も現代も、その様相に変化はない。ということは、これはまさに、人間の変らざる一面を如《によ》実《じつ》に示していることであり、その点では、宗教家とは、非常に貴重な研究対象だといわねばならない。だがそれはまた別問題だから、ここでは、そういう人びとを一切、考慮の対象から除いて、ごく平凡に、常識的に考えてみよう――一体、この「水臭い」とは何のことなのかを。
大昔、各部族には部族神がいた。これは大体において各部族の先祖と信じられているもので、部族のひとりびとりは、親疎はあってもその血縁にあたり、また部族自体がそれを中心とする一つの宗団であった。血縁関係、たとえば親子といった関係は、まことに是非なき関係である。たとえ「きょう限り、親でもなければ子でもない」といって勘当したところで、これはあくまでも社会的関係においてであって、親であり子であるということ自体は、人間の手で否定することはできない。部族神と部族との関係もまさにそれであり、日本人の「神・人関係」も、たとえその神が天照大神と呼ばれようとゴッドと呼ばれようと、まさにこの関係である。従って困苦に会えば神の愛の鞭《むち》と考え(『ヤコブ書』がそれを否定しているのに)、時には、「獅《し》子《し》が子を千《せん》仞《じん》の谷に落すと同じように」と表現して、神・人関係をあくまでも、親子のように、是非なき関係と考える。パウロの言葉を、「無心におがむ」「神の前に身を投げ出す」「ただ一心に信心すれば……」と解するのも当然であって、極端な場合は「母の胸に抱かれた幼児」のような心境とまで言われる。
ここで、「ミカの弁証法」を思い起してほしい。ミカは絶対に「神の愛の鞭《むち》」とは言っていない。イスラエルの神が、本当にイスラエルを滅ぼすぞ、と言っているのである。なぜこういう言葉が出て来たのか。これは、ユダヤ教の「神・人関係」が、一口にいえば血縁なき「養子縁組」だからである。不思議に思われるであろうが、これは事実なのだ。一体「養子」とは何なのか。契約によって親子になったので、契約が破棄されれば、はっきりと、何の関係もない他人(この場合は他神?)なのだ。旧約聖書に記されているように、「神はイスラエルを選んで自分の民とした」ということは、多くの民の中から選ばれて「養子」にされたことで、養子になるには当然、さまざまの契約があったわけである。この「選び」をユダヤ人の選民思想というが、選民思想という言葉を、エリート意識と誤解してはならない(日本の解説書ではよくこれが混同されている)。一方、旧約聖書には、「イスラエルはヤハウェを自分の神とした」とはっきり書かれているが、日本人キリスト教徒はこの言葉を口にしたがらない。これは「養子にされ、養子になった」ということなのだが、おそらく日本人の神概念と、根本的に相いれぬ点があるからであろう。事実日本人から見れば、これは非常に不思議な考え方であって、もし、太古から日本人が、「天照大神は日本人を選んで自分の民(養子)とし、日本人はそこで天照大神を自分の神(養父)とすることになった、そしてこの養子縁組に関して、細かい契約があった」と考えていたなら、日本人の生き方が、今と全くちがったものになっていたことは想像に難くない。神と人との関係は、つまるところ人と人との関係を律するからである。
なぜこのようになったか、神学者や歴史家はいろいろと深遠な解釈を下すであろう。だが非常に簡単に考えれば、それはユダヤ教の始祖モーセにある。モーセの一生は養子である。端的にいえば彼は捨て児で、ファラオの娘にひろわれて育てられ、長ずるに及んで自分がヘブル人であることを自覚し、横暴なエジプト人の監督を殺したゆえにミデアンの地(シナイ)に逃れ、ここで、ミデアン人の祭司エテロの養子となった。多くの学者は、ヤハウェはがんらいはミデアンの部族神で、ヤハとは、暴風もしくは雷をあらわす言葉だという。一言にしていえば「風雷神」であろう。エテロの養子となったことは、言うまでもなく、ヤハの養子になったことである。そして彼はエジプトに帰り、イスラエルびとの全員をひきつれて、またシナイに戻ったとき、モーセは、シナイ山にのぼってこの神と契約をした。有名なモーセの十誡の第一誡には何と書かれているか「汝《なんじ》、われのほか、何ものをも神とすべからず」と。この言葉は何を意味するのか。これは養子縁組の根本条件である。すなわち今日から「お前は、おれのほか、絶対にだれをも父親としてはならない」ということと同じであって、これが破られればすべての関係は無になる。その瞬間、父親は赤の他人になるのと等しく、ヤハウェは赤の他神(?)となってしまうのである。
それ以外の契約でも、もしそれを破れば「きょう限り父(養父母)でもなければ子(養子)でもない」ことになる。従って、人間の方で契約に違反すれば、その瞬間に、子としての権利は失われる。権利がないのに権利を主張するならそれは主張する方が正しくない。従ってこの契約はあくまでも守らねばならない。そして契約を守るとは、神の定めた律法を一点一画まで正確に守り抜くことである、というのがイスラエル三千年の歴史を貫く根本的な考え方であった。この考え方とそれに基づく生き方を日本人すなわち日本教徒に理解してもらうことは、まず不可能に近い。それが最も素朴な形で出てきたのが、前述の日本女性の物語で以上のような背景を知れば、これも別に不思議ではないであろう。
イエスもパウロも、もちろんこの考え方を基本にしているのであって、これを否定しているのではない。「律法よりも人間味」といった考え方は彼らにはない。そうでなく、律法を完全に守ること自体が、律法に反することになる、という考え方(これはミカの思想にも、「全員一致の審決は無効」にも通ずる)であって、当時の一部の進歩的なユダヤ教徒に共通する思想である。もちろん、いかなる人間もその時代の思想圏から飛び出すことはできない。従って両者の思想がこの思想圏の中にあるのは当然である。だが、その思想圏が(空間的にも時間的にも)消え失《う》せても、偉大なるものは残る。従ってイエスもパウロも偉大な思想家であることは間違いない。しかし、これら新約思想は絶対にキリスト教思想と同一のものではない。キリスト教は、新約思想とミトラ教の混合ともいえる面もある(日曜日はミトラ教の伝統であって、聖書には関係ない、誤解なきよう)から、キリスト教が、これと全く同じ考え方をしているとはいえない。しかしそれでもなお、伝来の宗教を捨てて外来の宗教を信ずることは、一つの「養子化」だといえる。従ってヨーロッパがキリスト教をうけ入れたとき、その神を「契約神」と考えたのは、以上の二つの方向から当然であった。しかし、日本のキリスト教徒は、たとえ「契約神」という言葉は口にしても、自らが「養子化」しているわけではない。逆に、それを「血縁化」して理解しようとしている。というより、そういう関係以外の人格的関係を考えることが不可能なのである――たとえば義兄弟、「親」分と「子」分。日本人の書いた多くのキリスト教図書を読み、その中でこの点を追及していけば、日本教の真髄、さらには日本的生き方の根本が、さらに明らかになるであろう。以上について反論されたい向きもあるであろう。だがそれは、次章で、日本的世界と聖書的世界がいかに決定的に断絶しているかを読まれてからにしていただきたい。
十 すばらしき誤訳「蒼ざめた馬」
――黙示的世界とムード的世界――
「理外の理」「法外の法」「言外の言」を考えれば、日本語が少々わかるから、日本の小説などが少しは読めるからといって、日本が理解できるなどと考えてはならないことは、異論の余地なき事実であろう。このことは逆もまた真なりであって外国語がペラペラだからといって、外国が理解できたと考えてはならない。ただこの場合の障壁は「言外の言」でも「法外の法」でもない。いわゆる聖書の民(ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒)への障害は、黙示文学、黙示文学的表現、および聖書の引用である。聖書の民には、聖書が余り深くくい入っているので、引用とことわらずに、自由自在にこれを使う。ちょうど日本人が「あの人もかつては今《いま》大《たい》閤《こう》と言われたのだが、今日のあの有様を見ると全く諸行無常だなあ」と言っても、わざわざ何からの引用などとことわらないのと同じである。いや、それ以上といえるかも知れない。前記の引用を外国語に訳すことが非常にむずかしいように、聖書の句や黙示文学的表現が縦横かつ無意識に使われている外国文学を正しく日本語に移すことは、はっきり言って不可能である。こまったことに聖書の句が、いつの間にか全く反対の意味で日本で通用してしまう場合もあるので、ことが、さらにややこしくなる。次章で「目には目を」をあげたが、これはキリスト教徒も誤用(悪意ある)しているから一応除くが、日本人のだれもが知っている聖書の句で、全く反対の意味に使われてしまっているのが「狭き門」である。
大学入試が近づくと、何人に一人の割合いの「狭き門」などという見出しで、大学の門が新聞に出る。この場合の「狭き門」とは、だれにでも知られ、みなが入りたがるが、多くの人が入れないで門外に残る門という意味であろう。新約聖書の「狭き門」にはそういった意味は全くない。だれにでも知られ、広い道が通じ、みなが殺到するのは「広き門」である。一方、だれにも知られず、低く狭く人が見向きもせず、ただ小道が通じている「門」(というより普通の日本語でいえば、潜《くぐ》り門か裏木戸のような、人ひとりがかろうじて通れる、全く目につかない入口のことである)から、体をよじるようにして入れ、というのである。その道を見つける人はほんのわずかだ、と聖書は書いている。従って、新聞が使っているような意味は全くないのだが、この新聞解釈が一般化すると、みんな「狭い門」とはそういう意味だと思い込んでしまう。翻訳者も、そういちいち原典の真意を確かめないから、通常使われているような意味だと思い込んで翻訳する。だが、これでは翻訳が少々無理だから、何とかつじつまを合わせようとすると、実に深刻で晦《かい》渋《じゆう》な名文になってしまう。読む方が、「ははあこれは狭き門の意味を日本流にとりちがえているな」とわかれば、それが一種の誤訳であることがわかるのだが、読む方もそうは思わないで、新聞解釈に従って読むから、たとえ原文と照合してもこの誤訳は絶対に発見できない。否、むしろ苦心の名訳とうつるであろう。
だがこの場合はまだ良いのである。いわゆる黙示文学乃至《ないし》は黙示文学的手法・表現となると、もう手におえない。では一体、黙示文学とは何かと質問され、これに正確に答えようとすれば膨《ぼう》大《だい》な一冊の文学論になってしまう。だが非常に簡単にいえば、ピカソのゲルニカを文章になおしたようなものだといえばいえよう。従って、何世紀かたって、ピカソがゲルニカを画《えが》いた歴史的背景が全くわからなくなれば、あの絵は、全くちがった情景描写(たとえば「死闘する闘牛士」といったような)とされる場合もあろう。しかしどう解釈されても、ゲルニカはやはり偉大な芸術であるように、黙示文学(といっても立派なものも下らないものもある)も同じように立派な文学の一ジャンルである。
黙示文学の歴史は非常に古いが、これを一文学として確立したのはやはりエゼキエルであろう。なぜこのような表現が生まれたかというと、ユダヤ人は、常に非常に具体的な民族であったので、抽象的な言葉を連ねる表現に満足できないからであろう。これは、イエスの「譬《たとえ》話《ばなし》」にも見られるように、一種の、判例主義みたいなものである。日本の表現法はこの逆で抽象的な言葉を次々に重ねていく、一種の条文主義である。たとえば「獣のように残酷な」という表現があるとしよう。これを強調しようとする場合、日本人なら「冷酷無情かつ粗暴にして一片の人間性もない獣のような残酷さ」といった言い方になる。一方ユダヤ人は、そういう方法をとらず、その獣を正確に描写して、残酷性を強調しようとするのである。これには別の理由もある。ユダヤ人は、モーセの第二誡によって、実質的には絵画・彫刻を禁じられたに等しかった。従って、ゲルニカを描こうとすれば、それを文章になおした形にならざるをえない。従って読者諸君が、一度実際にゲルニカを文章になおしてみれば、ある程度、その表現方法が理解していただけると思う。従ってこの逆も可能で、黙示文学はそのまま絵になるのであって、『ヨハネ黙示録』の多くの場面は、二千年にわたって、キリスト教美術の主要なモチーフになっている。またいわゆる「聖画」が氾《はん》濫《らん》する理由もこれであり、一方、古代のさまざまのレリーフや彫刻には、それを文章になおせば、そのまま黙示文学的表現になるものも少なくない。従って、こういった表現は、考えようによっては、別に珍しくないともいえる。
今ものべたように黙示文学は、それが記された歴史的背景を無視すればどんな解釈でもできるから、昔から「黙示録インタープリター」といわれる人が多く輩出した。これは本当の学問的解釈(たとえば『ヨハネ黙示録』の「六百六十六」という数は「ネロン・カイザル」を数字で表わしたものとするのは、文字に数字をあてはめて表現する当時の風習から正しく解釈したもの)ではなくて、黙示的表現を自分の時代の情況にあてはめた解釈なのである。世紀末から今世紀にかけて、これが非常に流行し、パン屋のおやじから肉屋のかみさんまでが、やれ何章何節は鉄道の出現を予言しているとか、ハレー彗《すい》星《せい》を予言しているとか、盛んに珍妙な解説をし、はてはレーニンの出現から日本の勃《ぼつ》興《こう》、関東大震災からヒトラーの出現まで予言されていることになってしまった時代があった(今でもこういった本があり、まことに珍無類である)。
五木寛之氏の『蒼《あお》ざめた馬を見よ』はその題名をロープシンの『蒼ざめた馬』からとっており、この『蒼ざめた馬』はその日本語訳の扉に摘記されているように『ヨハネ黙示録』六章六節からの引用で、この『ヨハネ黙示録』の馬は『ゼカリヤ書』の四頭の馬(これでは戦車をひいている)がもとになっているのだから、表題に関する限り黙示文学の系統にあるといえる。しかしロープシンは、日本語に訳されたとたん、黙示文学の系統からばっさりと断ち切られている。従って五木氏の小説にはもちろん、黙示文学的要素は全くない。
実をいうと、この『蒼ざめた馬』というのが厳密に言うと誤訳(おそらく最初の訳者青野季吉氏の)なのである。青野氏はおそらく英語からの重訳でPale Horseをそのまま日本語にされたのであろう。日本語訳の聖書では「青白き馬」となっている。これも正しいとはいえぬ。マーシャルの希英対訳版ではpale green(青緑色)となっており、おそらくこれが正しいであろう。原語はクローロスで、本来はみどりがかった黄色のこと(遠藤周作氏なら緑便色とでも訳す色か?)、また未熟な穂の色のことであり、オリーブの葉の緑の色をも示し、時には海の青、水の青も示す。さらに、晒《さら》した、色あせた、つやのないといった意味になり、転じて不機嫌を表わす場合もある。しかし、いわゆる英語のpaleと同じ意味ではないから注意するようにと、オクスフォード辞典はわざわざ注意している。一方、色を意味しない場合は、新鮮な、活気のあるの意味になり、クローロス・オイノスといえば、泡立ち沸騰する新しいぶどう酒のことであって蒼《あお》ざめた酒ではない。また涙と合わせれば、滝のように流すさまであって、蒼ざめた涙ではない。といっても、おそらく訳者も出版社もこの訳名を『青緑色の馬』と変えるつもりはあるまい。日本人は言葉にムードを求める。従って詳細に説明すると、よく「ナーンダそんな意味なの」と(特に女性には)言われ、強い失望感を表明される。従って蒼《あお》ざめた馬が青緑色の馬になっては、全く「興ざめた馬」になってしまって、これでは読者はついて来ない、とすれば、これはまさにすばらしき誤訳であろう。
では、この青緑色の馬、黙示録のこの興ざめた馬は、一体、どんな馬なのであろう。「黙示録の四騎士」(これは映画の題名にまでなっているが、どんな映画か内容は知らないのでそれにはふれないが)、という絵をごらんになった方がおられよう。古くは写本の挿絵から近くはコルネリウスの油絵まで、この馬たちは実に数多く描かれており、その中で、嵐《あらし》のような鼻いきを吹き出して突進して行く、青みがかった緑に彩色されている馬が、実はこの「蒼ざめた馬」なのである。
少し長くなるが、『ヨハネ黙示録』のこの部分を日本聖書協会の訳で引用してみよう。
小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。
小羊が第二の封印を解いた時、第二の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。すると今度は、赤い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、人々が互いに殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きなつるぎを与えられた。
また、第三の封印を解いた時、第三の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。そこで見ていると、見よ、黒い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、はかりを手に持っていた。すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな」。
小羊が第四の封印を解いた時、第四の生き物が「きたれ」と言う声を、わたしは聞いた。そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉《よみ》が従っていた。彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが、与えられた。
小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が祭壇の下にいるのを、わたしは見た。彼らは大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、「彼らと同じく殺されようとする僕《しもべ》仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」と言いわたされた。
小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されてしまった。地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴《ど》隷《れい》、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。そして、山と岩にむかって言った。「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。
以上のような終末的情景であり、ロープシンは、黙示文学的手法を縦横に駆使しつつ、当時のいわゆる黙示録インタープリターによって、またさまざまな絵画によって、読者も民衆もある情景を知っていることを前提にしてこの作品を書いている。しかし困ったことに日本では、訳者も読者も黙示文学も黙示文学的描写も知らずにこの作を読むから、原著とはまた別な一種の創作になり、それは、「蒼《あお》ざめた馬」という言葉がかもし出す、一種のムード的な世界であっても原作の世界ではなくなってしまう。
だが誤解しないでいただきたい。私は『誤訳』などという本を書く趣味はないし、もしこの訳者が黙示文学をよく知っていて、それを何とか表現しようとしたら、そんなものはとても読めたものではないし、一方、詳細な注をつけたら、それこそ注だけで一冊の本になってしまうことも知っている。ものはためし、一体どうなるか、ほんの一か所にだけ私が注をつけてみよう。最初の章の末尾に次のような文章がある。
私は今日モスクワの町を歩く。並木路は暗く、粉雪が降っている。どこかで塔時計の音楽がうたっている。私ひとりで他に誰《だれ》もいない。私の眼の前に平和な生活がひらけ、人々は忘れ去られる。そして私は心の中に聖なる言葉をもっている。
「われ、汝《なんじ》に暁の明《みよう》星《じよう》を与えん」
さて、「私の眼の前に平和な生活がひらけ、人々は忘れ去られる。そして私は心の中に聖なる言葉をもっている。『われ、汝に暁の明星を与えん』」。この文章は何を言っているのであろう。はっきり申し上げれば、訳者は何の意味かわからず訳し、一方、読者は、何となく妙だが、何か心を打つ、一種のムードをもつ文章だなと思いつつ読みすごすのであろう。ということは、言葉は追っても、だれも原文の意味することは読んでおらず、理解もしていないということである。
「われ、汝《なんじ》に暁の明《みよう》星《じよう》を与えん」これも『ヨハネ黙示録』からの(ちょっとひねった)引用である。暁の明星とは日本では夜明けを知らせる星の意味であろうし、またギリシア人なら金星(ヴィナス)であろう。まさかヴィナスをくれるという意味にとる人はいないだろうが(ヴィナスをくれるというなら、いやという男性はおるまいけれど)、だいたい、夜明けが近いという、日本伝来の意味にとられるであろう。
私は、こういった言葉は、ヘブル的用法とギリシア的用法を、はっきり訳しわけて、定訳の日本語を定めておいた方が良いと思う。『イザヤ書』では暁の明《みよう》星《じよう》とはルシファーのことで、日本語訳聖書はこれを「黎《れい》明《めい》の子」と訳している。良い訳だと思うから、ギリシア的用法の場合は暁の明星、ヘブル的用法の場合は黎明の子としたらどうであろうか。両者のもつ意味は全くちがうのである。だがここでロープシンが使っているのは、いうまでもなく黙示録の用法、すなわちヘブル的用法とギリシア的用法の混用である。従って黙示録インタープリターはさまざまな意味に解するが、まず何よりも先に原文を少しく引用してみよう。
勝利を得る者、私のわざを終りまで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄の杖《つえ》をもってちょうど土の器《うつわ》をくだくように、彼らを治めるであろう。それは、私自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。私はまた彼に明けの明星を与える……
鉄の杖《つえ》をもって土の器をくだく権威を、キリストが父なる神から権威を与えられたごとくに与えられる。という言葉をテロリストが口にしたとき、その意味はおのずと明らかであろう。この「鉄の杖」「土の器」は非常に有名な言葉だから、彼は、この「暁の明《みよう》星《じよう》」の前文を読者が知っているものとしてこれを書いている。とすると真意はむしろここにあって、「暁の明星」はつけたりかも知れぬが、それでも、一体、この「明星」とはどんな意味かさぐってみよう。おそらくこれは、イザヤ的な意味である。というのはロープシンは『ヨハネ黙示録』とともに『イザヤ書』をも愛読していたらしく、これを縦横に引用しているからである。一例をひこう。
七月二七日。
私はときどきワーニャのこと、彼の愛、信仰にみちた彼の言葉について考える。私は彼のいう言葉を信じない。それらの言葉は、私にとって日々の糧《かて》でもなければ、また、心の重石《おもし》ですらない。どうして愛の存在を信じ、神を愛し、愛によって生きられるのか、私には理解できない。もしそれらの言葉を語ったのがワーニャでなかったら、私は笑ったことだろう。しかし私は笑うことはしない。ワーニャは自己について、次のように語りうるのだから。
魂の呻《うめ》きにさいなまれ
俺《おれ》は暗い荒野を漂い歩いた
そのとき、岐路に立つ俺のまえに
六翼《セラフイム》天使が現われたのだ
そしてさらに――
天使は俺の胸を剣で切り裂いた
そして震える心臓をとりだし
開かれた胸に火となって
燃えさかる炭火を押し入れたのだ。
ワーニャは死ぬだろう。彼は存在しなくなるだろう。「火となって燃えさかる炭火」もまた、彼とともに消えてしまうだろう。私は自問する。彼と、たとえばフョードルとの違いは何処《どこ》にあるのか、と。二人とも人を殺す。そして二人とも絞首刑になる。二人とも忘れ去られる。違いは、行為にではなく、その言葉にあるのだ。そしてそのことを思うと、私は笑いだしてしまう。
一体何を言っているのか、訳者も読者も、ただ何となく何かのムードを感ずるのであろうが、理解はできないであろう。が、この部分は『イザヤ書』六章の冒頭を念頭において書かれたのは言うまでもない。この部分は「聖なる、聖なる、聖なるかな」というキリスト教徒の讃《さん》美《び》歌《か》にもなっていて、キリスト教徒ならだれでもよく知っているところだから、セラフィムとか炭火とか書かれれば、すぐに、この部分の黙示文学的表現が人びとの脳裏に浮ぶ。少し長いが次に全文を引用してみよう。
ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互いによびかわして言った。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。
その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
この時のセラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、わたしの口に触れて言った、「見よ、これがおまえのくちびるに触れたので、おまえの悪は除かれ、おまえの罪はゆるされた」。わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。主は言われた、「おまえは行って、この民にこう言え。『おまえたちはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。おまえたちはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。おまえはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。
そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。
主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。
その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。聖なる種族はその切り株である。
両者を並べて読んでみれば、私が何も説明しなくとも、ロープシンが何を言っているのか、読者には、ある程度は理解できよう。
そこでまた暁の明《みよう》星《じよう》にもどって『イザヤ書』のその部分を引用してみよう。
黎《れい》明《めい》の子、明けの明星よ、
おまえは天から落ちてしまった。
もろもろの国を倒した者よ、
おまえは切られて地に倒れてしまった。
おまえはさきに心のうちに言った。
『わたしは天にのぼり、
わたしの王座を高く神の星の上におき、
北の果《はて》なる集会の山に座し、
雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。
しかしおまえは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。
おまえを見る者はつくづくおまえを見、おまえに目をとめて言う、「この者が、地を震わせ、国々を動かし、世界を荒野のようにし、その都市をこわし、捕えた者をその家に解き帰さなかった者なのか」。
もろもろの国の王たちは皆、尊いさまで、自分の墓に眠る。
しかしおまえは忌みきらわれる月足らぬ子のように、墓のそとに捨てられ、
つるぎで刺し殺された者でおおわれ、踏みつけられる死体のように穴の石に下る。
おまえは自分の国を滅ぼし、自分の民を殺したために、彼らと共に葬られることはない。
以上でイザヤが言っているのはバビロンの王への呪《のろ》いと嘲《ちよう》笑《しよう》なのである。と同時にこの場合の暁の明星は地獄の底に落ちたルシファー(すなわちダンテのルチフェロ)である。前の黙示録の引用部分とこの部分を併せて読めばロープシンがいう「われ、汝《なんじ》に暁の明星を与えん」という言葉が、どんな意味内容をもつか、ある程度は理解していただけるであろう。と同時に、今までとは全く別の世界をかい間見た思いがするであろう。ロープシンが書き、その読者が読んだ世界は、それが日本語に訳され日本の読者が読んだ世界とは全く別のものであって、両者を通ずる橋はないといえる。だがロープシンならまだよい。これがドストエフスキーの作品だったら、あの縦横無尽ともいえる聖書の引用を、どう説明したらいいのだろう。
とはいえこれは訳者の責任ではない。たとえ訳者が一語一語精根こめて訳したとて、どうなるものでもない。しかしだからと言って、注をつけて行ったらどうなるのだ。わずかの一言に以上のような解説がいり、これとて到底十分とはいえない。が、もしこれを全編にわたってやれば、もう小説としてこれを読むことはできない。以上のことを考えれば、この『蒼《あお》ざめた馬』という訳書に誤訳があろうがなかろうが、そんなことは、はじめから大した問題ではない。ただ一つ私が気になったのは《生きながらえた犬よりは、死した獅《し》子《し》のほうがましだ》という言葉である。これは旧約聖書の『箴《しん》言《げん》』の有名な句「生ける犬は死せる獅子にまさる」の引用と思うが、これが逆になっていることである。著者がわざと逆にしたのか、原書の誤りか、誤訳かわからない。ロープシンは、他に、このような仕方の引用はやっていないので、わざと逆にしたとは思えないし、これにつづく記述を読むと、逆でない方が意味が通ると思うのだが、これとて、もはや枝葉末節のことであろう。
以上のようなわけで、翻訳は一種の創作であるといって良いであろう。だが、だからといっていい加減なことをして良いということにはならない。この点で、一種の憤激をおぼえたのはフォークナーの『アブサロム、アブサロム』の日本語訳である。この名が、旧約聖書からの引用で、フォークナーは、あのアブサロムの物語をふまえてこの作品を書いたことを訳者は知っている。知っているなら、訳者はなぜ、アブサロムの物語を読んでから翻訳しないのか。訳者は明らかに読んでいない、というのは末尾の解説のアブサロムに関する記述が、全くでたらめだからである。この物語は、日本語訳の旧約聖書に載っている。長いので引用はしないが、読者はそれを読んでほしい。それも面倒なら、山本書店版の『旧約聖書の人びと』Iのダビデの章を見てほしい。アブサロムのことが、わずか二ページに正確に記されているから、それと訳者の解説を照合してみられればよかろう。
英米文学はユダヤ人文学だといわれるほど、ユダヤ人作家の多い昨今である。翻訳にあたって、タルムドやカバラまで参照してくれとはいわないが、せめて旧約聖書ぐらいは参照してほしい。ユダヤ人作家はその語句を無意識に引用している場合が非常に多いのだから。旧約聖書も膨《ぼう》大《だい》すぎるという人は、せめて前述の『旧約聖書の人びと』および『イエス時代の日常生活』は何としても参照してほしいものである。
以上のことは、日本のほとんどすべての訳書にいえることで、私がたまたま目にしたものを例としてひいたにすぎない。原著者とその読者の世界と、訳書とその読者の世界とは、はっきり別なのである。この二つの世界が、どうやってお互いに理解するか、考えれば考えるほど、むずかしくなる。だが、その第一歩は、お互いに、非常に理解しがたいことを、まず率直に理解することであろう。これをいい加減にごまかしていては、真の理解は永久にできないであろうから。といっても私は何もお説教などする気はない。ただ前章でのべた問題について反論したい方は、まずこういった問題を解決してからにしていただきたい、といっているだけである。さもないと古きユダヤの賢者の言った「頭の空《から》の人間ほど議論を好む」という言葉の証明になってしまう。何も知らないで(ということは「頭が空で」)どんな名論卓説をのべても、それは「声を出す風」にすぎないから。それに対しての反論は「肺の強さ」だけの問題になってしまうからである。
十一 処女降誕なき民
――血縁の国と召命の国――
ある「ものずき」が調べたところによると、ユーラシア大陸の西から東まで、処女降誕で生まれた人間は一八五六人もいるそうである。もっともこれは調べがついた人数で、記録に残らなかったものまで含めれば、実に膨《ぼう》大《だい》な数となろう。とすれば処女降誕伝説は別に珍しいことではないことになる。そのうち西方の有名人をあげればナザレのイエスとプラトン、東方では清《しん》朝《ちよう》の始祖であろう。実に中国人は、三百年にわたって処女降誕者の子孫の支配をうけ、西欧人は二千年以上にわたって二人の処女降誕者の精神的支配をうけたのだから、これは実に面白い問題である。同時にユーラシア大陸ではこれが、それほど珍しい伝説ではなかったことをも意味している。だれもあえて異論をとなえなかったのだから。
ところが、処女から生まれた人間が絶対に存在しなかった民族が二つある。一つはユダヤ人であり、もう一つは日本人である。日本のことは、あくまでも私の調べた範囲内であるから、どこかに居るかもしれない。しかし、イザナミ・イザナギの両ミコト以来、処女から生まれた故に、特別な存在とされた人間は確かにいないし、また特に偉大な人間に処女降誕伝説を付加した形跡もないことは事実である。
ここで少しく、ナザレのイエスの処女降誕伝説についてのべよう。新約聖書はキリスト教文書ではない。後代のものと一部の例外を別にすれば、これはあくまでも「新約時代のユダヤ教文書」であって、キリスト教の成立と新約聖書の間には少なく見つもっても三百年の開きがある。キリスト教徒のいう「三位一体」などは新約聖書のどこを開いても出てこない。第一、人間が神を十字架につけて処刑するなどという思想は、モーセ以来の超越神の下に生きていた当時のユダヤ人の思想の中にあるわけがない。ニケーア会議までのキリスト教徒内の、現代人には全くわけのわからぬような論争は、イエスは神であるという思想を何とかこじつけて新約聖書に結びつけようとしたことにある。キリスト教は確かに聖書に依拠している、だが、聖書はキリスト教にその存立を依存しているわけではない。いわばキリスト教の一方的な片思いだから、たとえキリスト教が消えても聖書は残る。この関係はあくまでも明確にしておかねばならない。
話が少し横道にそれたが、新約聖書を新約時代のユダヤ教の文書とするなら、ユダヤ人にも処女降誕伝説があったことになるではないか、ということになろう。例外とはそこである。明らかにユダヤ人が書いたものには一言半句もそんな言葉は出てこない。それどころか暗にそれを否定している言葉がある。例えば『マルコ福音書』。この書は、いわゆる四福音書の中で最も古く、他の三書の台本になっている。これにはイエスの生誕と幼時については何も書いていないが、しかし、イエスがはじめて説教をしたとき、母親のマリアは非常に驚き、イエスが気が狂ったといって、他の子供たちをひきつれてイエスを取り押えに来たと、はっきり記している。これより見れば、イエスの出生も幼年時代も、普通の子供と少しも変らなかったことは明らかである。もし本当に、いわゆる聖画の題材になっている天使による聖胎告知や、出生の際の天使の来訪などがあったら、イエスが説教をはじめたからといってマリアが驚くわけがあるまい。ついでに言っておくがこの福音書は、イエスの墓が空《から》だったと記してはいるが、復活したイエスに会ったり話したりした記録はない(後代の加筆を除けば)。処女降誕にふれていないもう一つの書は『ヨハネ福音書』である。ヨハネはまたイエスがベイトレヘム(ベツレヘム)で生まれたことも暗に否定している。この二つの書を見れば、マルコにとっては処女降誕など考えも及ばなかったこと、ヨハネにとっては全く問題外だったことが明らかである。
処女降誕を記しているのはマタイとルカであるが、マタイの場合は、少しく趣きを異にしている。彼がいいたかったのは、その昔イザヤが「見よ、乙《おと》女《め》はらみて子を生まん。その名はインマヌエルと名づけらるべし」といったその人が生まれたのだ、と言いたかったのである。こういう言い方はどこの国にもある。面倒な説明をするより、当時のだれもが知っている記述を引用して、その人だという言い方である。イザヤが言った乙女とは、ヘブル語の、年の若い女という意味の言葉で、処女という意味ではない。しかしその後、旧約聖書がアレクサンドリアでギリシア語に訳されたとき(ヘブル語の出来ない二世・三世のため訳したと思われるが、伝説では七十人の学者が協力して訳したとされているので七十人訳《セブトウアギンタ》といわれる)、この乙女が、パルテノスと訳された。ギリシア語のパルテノスは処女の意味だから、これは誤訳だったかも知れないし、また当時のアレクサンドリアのギリシア語では、非処女の年若い女も意味したのかもしれない。私はギリシア語学者でないから、いずれとも言えないが、言葉というものが、場所と時代を異にすると、次第に意味が広く使われるのは事実であるから、後者ではないかと思っている。いずれにせよ、イエスの時代には、ユダヤ人はヘブル語ができなかった。おかしいと思われるかもしれないが、これは事実で、彼らはアラム語とギリシア語を使っていたのである。従って旧約聖書の引用は多くはこのセプトゥアギンタによってなされた。従ってパルテノス = 処女から生まれたとされているのである。だが、マタイの言いたいことは、あくまでもイザヤが預言した人が生まれたということであって、いわゆる処女降誕を強調しているのではない。
これがルカとなると全くちがう。処女降誕伝説はルカに始まると言ってよい。ルカは「最初のカトリック教徒」などといわれるが、いわゆる教会のイエスの伝記は、(クリスマスなどの聖劇で行われるそれなどは)ほぼ完全に、ルカの記述によっている。聖胎告知も、天使の祝福も記しているのはルカだけである。ユダヤ教徒の目から見れば、ルカは実に異教的でギリシア的で、ギリシア密儀宗教的である。無理もない。ルカはユダヤ人ではない。彼はおそらくアンティオキア生まれのギリシア人であり、セボメノイといわれた、ユダヤ教への改宗者であった。またルカの著作は、ユダヤ人を対象としたものではない。おそらくはローマの高官であったと思われるテオフィロスという人を対象に書いているのである。これは、ギリシア人がローマ人を読者として、非ユダヤ化したイエスを描いているのであって、ユダヤ人がユダヤ人を読者としてユダヤ人について書いたものではない。ということは、ユダヤ人には関係がない書物だということである。彼の記したものが、もっともキリスト教徒にマッチしたとしても少しも不思議ではない。だが彼は、生涯一度もイエスに会ったこともなければ、パウロ以外のユダヤ人には余り接触がなかったのも事実である。実はこのパウロ自身が、一度もイエスに会ったことがないのである。ルカ自身が前文でのべているように、彼は、さまざまな資料を自ら取捨選択して、自らの見解に合致するもののみを集めて『ルカ福音書』と『使徒行伝』を編成したにすぎない。従ってこれは、ちょうどフランス人のマルクス主義者が、自分の見解に適合する資料だけで日本史を再構成し、読者対象をソヴェト人にして著作した書物に似ているわけで、こういった書を日本人の著作とは言いえないと同様に、ルカの著作はユダヤ人の著作とは言いえない。また彼は、日本の一神学者も指摘しているように、イエスと旧約聖書(すなわちユダヤ人)との関係を極力否定しようとしている。初代キリスト教会の教父、いわゆる異端者マルキオンが、聖書はルカの著作とパウロの書簡だけでよい。他は不必要だといったのは少しも不思議ではなく、またハルナックが「当時パウロを理解していたのはマルキオンのみ」と言ったのも当然で、今でもキリスト教徒は実質的にはこの立場をとっている。著作という点ではルカの作が最もすぐれているのは事実で、そのギリシア語の美しさは、ルナンを驚嘆させた。彼が、キリスト教徒のイエス観を決定したといえる。そしてこれが、キリスト教とユダヤ教とを断ち切ったといえる。
イエスの教え自体は、非常にユニークな点があるとはいえ、当時のユダヤ教のラビの教えから、そうへだたったものではない。これは当然である。従って学者のいうプレ・クリスチャン(キリスト以前のキリスト教徒)ともいうべき人たちがいたことも事実で、新約学の権威マシウ・ブラック博士の言うように、キリスト教がクムラン・エッセネと呼ばれるユダヤ教の一派に発することは、議論の余地がない。
ユダヤ人すなわちユダヤ教徒が、キリスト教徒に対して徹底的に反発したことの一つは、彼の偉大性は、その出生が常人と違う点にあるというキリスト教徒の主張である。これはモーセ以来の伝統的考えと絶対に相いれない。生まれながらにして偉大なる人間などというものは、ユダヤ人の歴史には存在しなかった。モーセ、ヨシュア、サムエル、ダビデ、エリヤから偉大なる預言者たちに至るまで、すべて、生まれたときはただの人である。彼らがなぜ偉大なる仕事をなしえたか、それは神に召し出され、神に命ぜられ、そしてその使命を立派に果たしたからに外ならない。モーセは捨てられた子であった。サムエルは第二夫人の子であった。ダビデは一郷紳の末子であり、エリヤなどは文字通り、どこの馬の骨かわからないし、そしてその他の多くのものは、出生すら記されていない。またこの神の召命とか神より与えられた使命とかいうものは、当人にとっては有難いことでも、うれしいことでもなかった。モーセは、何とかして苦しい使命から逃れようと、一心不乱に辞退している。人間はすべて神の前に平等である。そして、神から使命を託された人のみが指導者たりうる。これは神の一存によるのであるから、その使命によってある地位についたからといって、それを自分の所有物のように子孫に譲渡することなどはできない。これがユダヤ人の根本的な考え方であった。従って指導者はカリスマ的指導者となる(このカリスマという言葉は、驚くなかれ、近ごろは日本のジャーナリズムにまで登場している。しかしどうも孫引きらしく、「贈物・下賜品」という原意を知らずに誤用されている場合もあるから注意してほしい)。従ってユダヤ人の根本的考えは王制と相いれない。確かにサウル王以来、ゼデキヤ王まで(正しくはエホヤキン〈エコニヤ〉王で、ゼデキヤは執政であるが)イスラエルは王制下にあった。しかし、これはちょうど日本の武家政治のようなもので、イスラエルの「国体に反する」政治形態と考えられつづけていた。生まれながらにして特別な人間は、「一神教下の平等」が本義であるユダヤ人には存在しないのである。これは確かに砂漠の民の哲学であろう。ナザレのイエスが、神により妊娠させられて処女から生まれ(ああ、モーセの神概念、見れば人が死ぬとまで考えられた全宇宙の創造者と何と相違するであろう)、しかもダビデの後《こう》裔《えい》なるが故に(その系図は捏《ねつ》造《ぞう》だが)、神の子、王にして大祭司である、などと考えることは、到底ユダヤ人に許容されることではなかった(そしておそらく現代人にも)。
人間が、何か異様なもの、たとえば幽霊とか妖《よう》精《せい》とかによってみごもったという考え方は、古来、いずれの国にもあった。そういった話なら、ほんのわずかだが『創世記』にあるし、イエス時代に書かれた『外《げ》典《てん》創《そう》世《せい》記《き》』という書(これは死海写本の一つとして最近、といってももう十年以上前だが発見された)にもある。だが、それによって生まれたものは、あくまでも異常なものであり、もちろん処女降誕ではないし、一種の怪異物語として存在するだけである。ユダヤ人には、出生による特別な人間(いわば神の子なるもの)が存在するとは絶対に考えられなかった。処女降誕なき民である。
そこで指導者は、あくまでもカリスマ的指導者であった。そしてこの体制を「国体の本義」と考えたことが、いかにユダヤ人を政治低能にしたかは、プソイド・メシア物語の系譜をたどれば明らかであろう。だがこれについては詳述しない。これを日本人に理解してもらうには、その前に記さねばならぬことが山のようにあるので、手をつけかねるのである。
一方、それではなぜ日本人に処女降誕がないのか。理由はおそらくユダヤ人とはちがうであろう。この、神話時代から連綿とつづいた万世一系の国では、一つには氏《うじ》素《す》姓《じよう》が何よりも大切であったことと、もう一つには性と生殖に関する考え方が、牧畜民とは全然ちがっていたためであろう。われわれが何よりも興味深く感ずるのは、ただに政治・経済だけでなく、芸術・技芸・宗教に至るまで現在もなお一種の相伝であることである。家元制度というのは非常に面白いが、ユダヤ人の目から見れば、日本のすべての機構は家元制度である。家元は子供がつぐ場合もあれば高弟がつぐ場合もある。しかし、いずれの場合もあくまでも相続である。たとえ分裂しても、互いに自分こそ正統派だと名乗って相続の正統性を相争い、新たに一派をたてた場合にも、何々の系統ということで、旧家元とつながっていると見られる。いかに枝葉が出ようとまさに万世一系であって、系統を逆にたどればどこかに行きつく。これを象徴的に言えば、歴代の天皇の中に処女降誕者はありえない、あったらそれこそ大変であるということであろう。従って、ルカのように処女降誕ということで、人間が否《いや》応《おう》なしにたどらねばならぬ出生の系図を一刀両断する素地は日本にはない。いわばイスラエルでは、神の召命ということで、その人間の系図や出生と関係なく一つのことが始まるがゆえに処女降誕はありえないし、一方日本では全くこの逆で、すべては系統をたどって相伝されるがゆえに処女降誕の余地がないといえる。
だが問題はこれだけではない。第二の、性と生殖という問題がある。日本の聖書学者渡辺善太博士は、「旧約聖書は生殖を善と見、性を罪悪と見ている」とのべている。日本人の目からはおそらくそう見えるであろうから、必ずしも誤りとはいえないが実体は少しく違うのである。何度もいうようだが日本人は牧畜経験がないから、生殖と利殖とは結びつかない。だが牧畜民にとっては、生殖のみが利殖といえる。家畜に子を生ますことは立派な製造業であり、また唯一の製造業であり、生活の手段であり、ビジネスである。奴《ど》隷《れい》は前述のようにヒト家畜であるから、女奴隷を最も効率的に妊娠させつづけることは最大の利殖であり、生まれた子供は(象徴的な意味でなく具体的な意味で)財産である。この点、日本人と非常に違う。日本では時々「親子心中」がある。そういうときいわゆる識者や評論家は「子供を私物視している」「子供の人格を認めない」などという。これは誤りである。本当に私物視しているなら、親子心中など起るはずがない。例をあげてみよう。南北戦争前のアメリカの南部では、農場主が奴隷女に生ませた子供は奴隷であった。従って自分の子とはいえ、自分の財産であり私物である。もし農場が破産したら、彼はこの私物をさっさと競売に付することはあっても、この子を道連れにして自殺することはない(たとえ自殺する場合でも)。親子心中というのは、親子が一体不離の運命共同体だと考えない限り、ありえない。また「子供の人格を認めない」というのも誤りである。前述の農場主は、奴《ど》隷《れい》女に生ませた自分の子供の人格など始めから認めていないから、さっさと売り払うことはあっても、心中の対象などにはなりえないのである。
生殖が利殖であり製造業であり生活の手段である民族では、性も生殖もその生まれたものも情緒の対象だけではないし、またそうであってはならない(子はカスガイでもなく、まされる宝でもない)。従って、私が「少しく違う」といったこと、それは日本人には非常に理解しにくいと思うが、簡単に言えば利殖はよいが守銭奴になってはならない、といった感じの関係である。貯蓄は良いにしても、講談に出てくる御《ご》家《け》人《にん》の御隠居のように鹿《しか》皮《がわ》で小判を磨いてニタリニタリしてはならない――すなわち財そのものが一種の情緒的愛好の対象になってはならない、というのと似て、性そのものが情緒的愛好の対象となってはならないのである。これは『箴《しん》言《げん》』にある遊女を警戒せよという多くの教えの基本的な考え方の一つである。
従って、性を浄不浄という観点から見るのでなく(この観点自体が情緒的であるから)、そういう見方をしてはならないということなのである。性と生殖は、牧畜民にとって、農夫が畑をたがやす(この耕すは多くの農耕牧畜民では性行為と同じ言葉が使われる)のと同じく日常のことであり、少しも神秘性はないし、あってはならないのである。処女降誕は、このような、性と生殖が日常の仕事であるという背景から生まれるはずで、従って、ユーラシア大陸に処女から生まれたものが何万人いようと、少しも不思議ではないのである。
しかし日本人はそうでなかった。性行為を利殖と関連づけうる日本人はいまい。日本人にとっては、実に神話時代から、性はあくまでも情緒の対象である。牧畜民のそれといかにちがうかは、吉行淳之介氏の名言「性交あれど情交なし」に表われているし、また「うすぐらい洞《ほら》穴《あな》のようなものが口をあけているような」気がしていたというある老学者の述懐にも表われている。それを逆にすれば、日本人のスエーデン人への徹底的な誤解ともなる。さらに日本人は性を、『源氏物語』の昔に、神秘的で幽玄なものにしてしまった。牧畜民と絶縁していたこの民族は、性の面でもこれと断絶しており、従ってこれをどこまで情緒化し芸術化して行っても、少しもさしつかえなかった。明治のはじめに来た欧米人のすべてが驚きかつ溺《おぼ》れたのは、この日本独特の伝統的な性の世界であった。この社会に、処女降誕伝説ができるわけがない。日本では、いかに大昔でも、もし処女から生まれたなどと自称する者があれば、かたわあつかいにされても不思議ではない。
ルカは伝道の天才であった。確かに彼がいなかったらキリスト教は成り立たなかったであろう。彼が、処女降誕を強く打ち出したことは、その後のキリスト教の伝《でん》播《ぱ》にどれだけ役立ったかわからない。日本においてさえ、キリスト教のことを何も知らない人でも処女降誕だけは知っているから、古代に於《お》いてその伝道的効果が、いかに大きかったかは論をまたない。しかし、日本では、これが逆に作用して決定的な障害になった。たとえそれを伝説と説明しても、この伝説に共感する素地が日本にはないからである。日本が開国した当時は、経済援助や技術援助などはどこの国もしなかったが、キリスト教の宣教師だけはゴマンと送りこまれたことは、周知の事実である。それから百年、キリスト教は徐々に日本教へと吸収されつつ、いわば土着化しているわけだが、彼らが最初に聖書から(実質的に)削除するものは、(私は断言してよい)処女降誕であろう。たとえ伝説であっても、ゆるせない伝説だから――。そして次に削除するものは神であろう。
十二 しのびよる日本人への迫害
――ディプロストーンと東京と名誉白人――
「われわれは、迫害されたが故に人類に対して何らかの発言権があると思ってはならない」。私は絶えず同胞にこのように言う。だがこの言葉はちょうど日本人に「唯一の原爆被爆国なるが故に、世界に向って何らかの発言権があると思ってはならない」というのと同じであって、中々うけ入れられず、時には強い反発をうける。もちろん、ユダヤ人に対してこう言う権利があるのはユダヤ人だけであり、また同様に、日本人に対して前記の言葉を口にしうる権利があるのは日本人だけであるから、私は、その言葉は、口にしようとは思わない。
ただユダヤ人の場合は、確かに、唯一の被迫害民族ではない。遠い昔のことはさておき、近々四分の一世紀だけに限ってみても、インドネシアにおける華《か》僑《きよう》と、黒いアフリカにおけるアラブ人への迫害がある。インドネシアにおける華僑迫害は日本の新聞には報道されたが、欧米の新聞では余り報道されなかった。日本の新聞記事によると殺された者の数はあるいは二十万とも五十余万ともいう。一口に二十万とか五十万とかいうが、五十万といえばある種の少数民族のほぼ全員であって、これは実に大変なことである。だが黒いアフリカにおけるアラブ人への迫害・虐殺となると、日本では、真相は全くわからない。一体どれだけの数の人間が、どんな方法で殺されたのかも、一般人は、ある種の映画で垣《かい》間《ま》見《み》るほかには知るすべもない。私は、ユダヤ人であるから、いかなる事情があろうと、かかる迫害には断固として抗議する。だが日本では、そういった声は起らなかった。一面、無理もないとも思う。原水爆のことなら、たとえ人畜無害の実験でも大声で抗議するが、日本の目の前で、日本人がよく同文同種という国民が何の罪もなく(というのは少なくとも裁判で犯罪が明らかにされているのでないから)大量に虐殺されていると報じられても、眉《まゆ》一つ動かさない。不思議なようだが、これが現実であろう。一方ユダヤ人は、迫害の報道には実に敏感だが、どこかの国がどこかで原爆実験をやったなどということは、たとえ報道されても、日本人ほどには関心を払わない。
ヒロシマとアウシュヴィッツという差もあろうし、民族の長期にわたる体験の差もあろう。従って日本人にとっては、再び原爆が落ちるかも知れぬという懸《け》念《ねん》は、たとえ一億分の一の確率であっても、全国民を慄《りつ》然《ぜん》とさせ、即座に強い反応を示して一定の行動をとらせようが、「日本人が迫害される可能性だってあるのだ、あるもあるも、その確率は到底、原爆投下の比ではないほど大きいのだ」と私が言っても、おそらくだれも何の反応も示さないにきまっている。いわばピンと来ないのである。従って以下にのべることは、言ってもむだかも知れぬ。だが、私は自分が生まれかつ育った国の同胞のため、たとえ一笑に付されても、やはり、言うべきことは言っておきたい。
前述のように、迫害されたのは、何もユダヤ人だけではない。ある社会的位置におかれれば、その国民は常に迫害をうける可能性がある。私はユダヤ人だから、ユダヤ人のことを語ればやはり感情が高ぶる。従ってまず、インドネシアの華《か》僑《きよう》と黒いアフリカのアラブ人のことから話を進めようと思う。インドネシアでは言うまでもなく、政治・経済の機構を握っていたのはオランダ人であったが、その末端を掌握し、民衆と直接に接していたのは華僑であった。オランダ人の政権が壊滅し、スカルノ大統領とその一党が政権を掌握したとき、たとえ彼らのスローガンや外交政策や政治的姿勢がどうであれ、結局はオランダ人の握っていた権力がこの一党の手に移り、オランダ人の坐《すわ》っていた椅《い》子《す》に彼らが坐っただけで、民衆も華僑もそのままであった。だがその政権が壊滅した時に、決定的な、華僑の大迫害が起ったわけである。黒いアフリカでも事情は同じであった。支配者はイギリス人であったが、その経済機構の末端を掌握して原住民と接していたのはアラブ人であった。植民地時代が終り、イギリス人は去っても、新しい原地人の指導者がただ同じ椅子に同じ姿勢ですわっていられた間はそのままであったが、やがてそれが崩壊し、それと同時にアラブ人への迫害と虐殺が爆発した。ではこの次は? 不吉な予言だがカンボジャのヴェトナム人であろう。
こういったパターンは、ユダヤ人の歴史では文字通り枚挙にいとまがない。最も古い例をあげれば、エジプトのアレクサンドリアにおけるディプロストーンの破壊といわれる事件であろう。アレクサンドロス大王はユダヤ人を重く用い、彼が新設したアレクサンドリアの町では、ユダヤ人にマケドニア・ギリシア人と同じ特権を与えたといわれる。「同じ」といっても、実際上は政治の特権はギリシア人がもって支配階級となり、その一級下で経済機構を運営するのがユダヤ人の役目となった。ユダヤ人はいつしか全エジプトの経済を握り、今の言葉でいえば国立銀行総裁や輸出入公団総裁のような地位まで占めるようになった。そしてユダヤ人商工ギルド連合会事務所ともいうべきディプロストーンが設けられ、これには付属工場と倉庫群があり、その威容は全東方を圧するほどで、「ディプロストーンを見ずに、壮大なものを見たというな」という言葉さえあった。だがマケドニア植民地帝国とこれを受けついだプトレマイオス朝の衰退と共に、来るべきものが来た。ちょうどインドネシアにおける華《か》僑《きよう》への迫害と同じである。ディプロストーンは破壊され掠《りやく》奪《だつ》され、全市にユダヤ人の血が流れた。これが、キリスト教期以前のことだということも注意していただきたい。ユダヤ人迫害を単純にキリスト教徒の宗教的偏見と考えてはならないのである。
中世にも同じようなことがあった。サラセン人に征服されたスペインでは、スペイン人とサラセン人の間にユダヤ人がいた。やがてユダヤ人は経済を全面的に掌握し、その富はカリフをしのぐといわれた。だがやがて来るべきものが来た。そして同じことは近世でも、フランス資本が進出した帝政末期のロシアで、またカイゼルの遺産をついだヒンデンブルクとヴェルサイユ体制に支配されたドイツにおいても。――そして考えようによっては、こういった状態のある段階までは、日本にもあったといえる。中世の日本で、一《いつ》揆《き》や打ちこわしの対象となったのは、米屋、酒屋、質屋、大庄《しよう》屋《や》等であった。ただ日本の場合は、壊す方も壊される方も同じ日本人であり、同時に「同じ日本人ではないか」という哲学があり、また政府は(これは寺内内閣の米騒動のときも同じだが)、一方において「暴徒」を鎮圧すると同時に他方では何らかの救済の方法を講じ、同時に多くの場合、為政者も何らかの形で責任をとった。大名への懲罰や内閣総辞職、また御《ご》内《ない》帑《ど》金《きん》による済生会の設立などがそれであり、ここで日本は、独得の政治天才的方法で事態を収拾した。だが、これらの階層がみなユダヤ人で華《か》僑《きよう》である国ではこの収拾方法が全くちがって、政府は、これを機会に民衆の不満をユダヤ人や華僑に向けることによって危機を乗り切ろうとし、民衆を煽《せん》動《どう》しないまでも、少なくとも見て見ぬふりで放置しておいて、ユダヤ人や華僑の犠牲によって自然に鎮静していくのを待つ、という態度に出る。こうなれば、ユダヤ人や華僑にはもう方法がない。ユダヤ人は過去二千年の経験でこのことを知りすぎているから、最初にのべたように、安全には「高いコスト」がかかることを覚悟し、絶えず本能的にこれへの対策をたてる。ところがそれが、民衆には、これが自分たちへの不信乃至《ないし》は猜《さい》疑《ぎ》として映り(これは民衆の側から見れば確かにその通りなのだから致し方ない)、それが差別と悪感情を醸成し、同時に、何かの時にはこの狂的な迫害へと走る素地を作っていく、という悪循環がくりかえされていく。日本人は悪循環を知らないから、こういう態度に出ない。それが日本移民がアメリカにおいて、非常に苦しい状態に追いやられながら、今日、その社会において一つの位置を確立し得た要因の一つであるともいえる。ある面ではその地位はユダヤ人より確立し安定しているといえよう。私は予言者や先見者でないし、不吉な予言はもうしたくもないが、非常に不安を感ずるのは南アフリカ連邦のインド人である。無心に遊ぶその子供の写真などを見、いつか到来するであろう白人支配終焉の日のことを思うと、どうかこの子が何もなく無事にその生涯を終ってほしいと祈らずにはいられない。――思いすごしであろう。またそうあってほしい、だがこういった感情は、おそらく日本人には理解できないであろう。
以上のべたことが、迫害の類型的なパターンと共通的な原因であるが、もちろん、原因はこれだけではない。これ以外に、まさに動物的本能に由来するともいうべき、非常に原始的な(ということは、理論や理屈では解明できない根元的な)原因がある。異民族の体臭というものは、ちょうど動物が他の動物の体臭に本能的に牙をむき出すのに似た作用を、人間という動物にも与えることは事実である。バタ臭い、にんにく臭い、ぬかみそくさい(ユダヤ人の漬物でぬかみそとそっくりのものがある)、といった言葉で表現される一種のにおいというより雰囲気に対する嫌悪感は理屈ではない。不思議なことに(いや当然なのかもしれないが)、こういった嫌悪すべき雰囲気はいずれの民族に対しても「におい」という言葉が使われる。だが本当の意味のにおいかどうかは解らない。私の日本人の友人K氏の話だが、氏がシカゴ大学で学んでいた時、そのクラスにユダヤ人がひとりいた。ある時クラス一同で旅行に出て、さるホステルに宿ることになったが、そこの主人がこのユダヤ人に、お前はユダヤ人だからとめてやらないと言った。K氏は彼の外観が他の人びととほとんど区別がつかないので不思議に思い、その主人にたずねたところ、「いや、においでわかる」といったという。しかしK氏にはそのにおいはわからなかった。同じ経験を私は東京でしている。事実、私のように日本で生まれ育った者ですら、日本人・中国人・朝鮮人・ヴェトナム人の区別はなかなかつかない。また本当の、言葉通りの意味のにおいの差などは、中国料理や朝鮮料理がこれほど普及した現代では、ほとんどないのではあるまいか。事実、食後の状態に限れば、朝鮮人よりにんにくくさくなっている日本人は、いくらでもいる。
金嬉老事件のあった直後、山本書店主と二人でタクシーに乗った。ところがその運転手が(やや粗暴でいわゆる雲助タイプだったが、根は人が良いように見えた)、「外人づれのダンナらしいから、こりゃと一瞬思いましたがね、だが朝鮮人じゃないから――」という。「朝鮮人なら乗せないのか」と山本氏。「そりゃあ、いきなりうしろからライフルをぶっぱなされちゃ、たまらへんものね。――おことわりですよ」と運転手。その時私が口をはさんだ「私には朝鮮人と日本人の区別はつかないが、運転手さんには区別がつくのですか」。運転手は言った「だんなは日本語がうまいねえ。おれよりうまいぐらいだな。わかりますよ、何ともいえぬにおいですよ」。私はさらにたずねた「においというけど、そりゃ確かに、乗せてドアをしめれば何らかのにおいを感ずるかも知れないけれど、道路に立って、手をあげているだけで何かのにおいがわかるのですか」「そう理屈をいわれるとこまるなあ。においって言うかな、何というかな、ま、感じですかねえ」。ということだった。いずこも同じである。かすかなにおい、といわねば表現できないようなある種の差、一種の動物的嗅《きゆう》覚《かく》とでも言うべきものが嗅《か》ぎわける差、迫害にはすべて、この要素が、程度の差はあっても必ずつきまとうことは否定できない。そしてこれを解明する上で、非常に強く関心をひかれるのが、関東大震災における朝鮮人虐殺である。
前にのべた迫害のパターンからすると、少なくとも当時は、朝鮮人が迫害されねばならぬ理由は全くないといって良い。当時の日本が実質的には欧米の資本家に支配され、その資本家と日本人大衆の間に朝鮮人が介在して暴利を独占していたわけではもちろんない。逆であり、その多くは、むしろ最下層にあって最低の労働条件で、最低とみなされる労働に従事していたのは事実である。またおそらくは、もし関東大震災という突発的大天災が起らなかったならば、あの悲しむべき虐殺事件も起らなかったであろうことも事実である。絶対に、うっせきした民衆の不満が天災を契機にして朝鮮人に向って爆発したわけではない。ということは、その後、現在に至るまでの約半世紀、こういった事件、もしくはそれと同じ性格をもつと思われる事件は、何ら発生していないからである。
従ってこの事件の原因となると、どんな解説書を読んでもはっきりとはわからない。いわゆる進歩的な人びとや知識人の解説は、むしろある種のイデオロギーの枠にこの事件をはめこもうとしているように見える。だがユダヤ人の目から見ると、どう再構成してもうまく枠にはめこめない事件なのである。一方、朝鮮人の側からの発言は、当然のことだが、それへの抗議・批難・憤激が先にたつから、やはり、何が真の原因かを明らかにしていないが、この明らかでないということ自体が、一つの事実を物語っている――すなわち、どこからどう見ても、迫害さるべき理由は全くない、という事実である。もちろん迫害さるべき「理由」などは、いかなる迫害にも建前としてはありうべきはずはない。だが今までのべて来たように、迫害されやすい社会的位置というものは確かにあったし、迫害された者は、その位置にあるか、その位置にあるものと連らなっているか、あるいはそのいずれかと誤認された者であるのが常であった。だが、関東大震災当時の朝鮮人は、どう考えてもその位置と関係はないし、その位置にあると誤認されたわけでもない。従ってゲットー掠《りやく》奪《だつ》のように、朝鮮人部落を襲撃して財物をかすめた、などという記録はあるはずもないし、私の調べた範囲内では全くない。
従ってこの迫害はまさに「動物学的迫害」ともいえるもので、迫害の重要な一面を最も純粋に表わしている。従って人類の将来のために、これは非常に貴重な資料である。もちろん私は日本人が動物的だなどという気はない。いずれの迫害にもこの動物的要素があるが、日本人の場合にはこの要素のみだともいいうるので、その他の場合には判別されにくい要素が、はっきり出ているからである。
ただ一つ確言できることがある。震災で動転した日本人が、朝鮮人が攻めよせて来ると本気で信じていたのは事実だということである。内村鑑三のような、キリスト教徒の非戦論者・平和主義者までが、木刀をもって家のまわりを警戒に当ったのは事実であり、おそらく彼は、もし朝鮮人が襲って来たらその木刀を振って本気で家族を守るつもりであったろうと思われる。彼のような、高度の教育をうけ、外国にも住み、海外の事情に明るく、英文で書物を出版できるほどの知識人ですらそうであったとすれば、一般人がことごとく朝鮮人の襲撃を信じたとしても不思議ではない。では、なぜそう信ずるに至ったのか、だれかが意識的にデマをとばしたのか――私にはどうしてもそう思えないのである。もう半世紀近くたってしまったこの事件の真相を語ってくれるのは、当時の経験者の、何らのイデオロギー的主張も折り込まない思い出話であろう。
私はYさんという日本人の友人の御母堂から、当時の模様をくわしく聞いた。それによると、彼女は、地震と同時に、子供三人とともに庭にとび出した。立って居られないような衝撃が少しおさまり、家が無事立っているのを確かめると、庭の広い隣りの従兄《いとこ》の家に避難し、子供をあずけ、また家に入って夫に電話をした。当時の電話はダイヤルでなかったから夢中で交換手を呼んだ。するとゆれかえしが来るのでまた慌てて家からとび出す、おさまるとまた家に入って電話をする――ということを二、三十分やって、はじめて、電話が通ずるはずはないことに気がついた。その時、表の道路を、髪をふりみだし、子供をかかえ、すそをからげた足袋《たび》はだしの若い女が、「大変だあ、殺される!」と叫びつつ、数丁先の野砲一連隊の正門へと走って行くのが見えた。この若い女の半狂乱の姿は余程印象が強かったとみえて、彼女は、半世紀後の今日でもその着物の柄までおぼえている。この女は、自らそれと知らずに、一種の呪《じゆ》術《じゆつ》師的役割を演じていたのであろう。何事か、とみなが道路へ出る。その時、だれいうとなく、玉川の河原から朝鮮人が大挙して押しよせて来たという。つづいてそれが、家々に押し入って手あたり次第に掠《りやく》奪《だつ》し、あたりかまわず火をつけ、井戸に毒を投げこみ、鎌《かま》で女子供を切り殺している――とエスカレートして行き、全員すぐさま兵営に避難せよということになった。「はじめは半信半疑でした。でも電話局がつぶれたということは、警察もつぶれたことだから、もうだれも保護してくれないのだと思いましたし、またあの女の人の印象が余り強かったので、子供のひとりを背に負い、二人の手をひき、戸口には『みな無事です。兵営に避難しています』と大きく書いて兵営に逃れました」と彼女はいう。日本人は戦前・戦後を問わず警察を百パーセント信頼し、安全は(コストをかけずに)すべてこれに依存しているから、これが壊滅したと気づいた時、彼女が突差に決心し、行動に移っても不思議ではない。おそらく今でも同じであろう。
私は端的にたずねた。「どうか御遠慮なく言っていただきたい――今でも、当時いわれたことはすべて事実だとお思いですか、それともデマだとお思いですか。どうか、何の考慮もなく、思った通りを言っていただきたい」と。この落着いたもの静かな老婦人は当然のことのように言った。「大部分は本当でしょう。というのは、大挙して朝鮮人が押し寄せたといいますが、日本人だって安全な場所へと大挙して押し寄せていったのですから、当然です。被服廠《しよう》の悲劇は余りにも有名ですが、あのように、どこかが安全といわれれば、みながその方へと押し寄せたのはあたりまえのことです。ただ服装も、言葉も、雰囲気もちがう一団が移動すれば、異様に目につくというちがいがあるだけです。当時は玉川の河原に朝鮮人のスラムがあり、彼らは砂利採掘と廃品回収をやっておりました。電気もガスもない、板張りの小屋で、廃品の古紙などが所きらわず雑然とつんでありました。あの時間にはきっと殆《ほとん》どの家で、コンロで木ぎれなどを燃やして炊事をしていたでしょうから、あの部落が一瞬にして灰になっても不思議ではありません。あの人たちはおそらく着のみ着のまま、やはり安全な場所へと押し寄せたでしょう。そしてすぐにこまったのが水だと思います。おそらく近郊の農家の井戸に群がり集まって、つるべで水をくんで飲んだでしょう。これは日本人でも同じです。だが、これを見たその農家の人はどうだったでしょう。服装もちがう、言葉もわからない。そして体臭のちがう人びとが大挙して自分の家の庭先に来て、今あったばかりの恐怖に上気して大声を出しながら井戸にむらがって水を飲んでいる。たとえこの人たちがお礼を言ったにしても、聞くものには何か恐ろしげな言葉に聞えたでしょう。事実、畑の中の小家族の農家では、地震の恐怖に加えて、大挙して押し寄せられたという恐怖があったとしても不思議ではありません。また当時のお百姓は井戸を非常に大切にして神聖視していましたから、『井戸をよごされた』と感じたのは事実と思いますし、事実、よごして使えなくした場合もあったでしょう。そして『井戸を使えなくされた』が『毒を投じた』になったのだと思います……。」
老婦人の話はまだつづく。しかし結局は、日本人も朝鮮人もほぼ同じことをやっていた、の一言につきる。事実この婦人も、子供たちの手をひいて「大挙して兵営に押し寄せた」ひとりだし、そこで馬に水をやるための井戸にみんなで群がって水を飲んだというから――では一体全体、朝鮮人はなぜ虐殺されたのか、この大天災に遭遇して、思わず日本人と同じことをしたゆえに殺されたのだといえる。そしてこれが、迫害において見逃すことのできない一要素なのである。アメリカでも、黒人が、白人と同じことをすれば迫害される。黒人はこれを皮膚の色(およびそれに象徴されるもの)の故だと思い込んでいる。しかし日本に来てみれば、それが誤りであり、問題はもっと深刻なことがわかるであろう。事実、日本人と朝鮮人には皮膚の色には差はないし、外観もわれわれには見分けがつかない。従ってこれは、異種族への動物的・本能的拒否とでも言う以外に説明がつかないであろう。
さて、以上二つの点から見て、日本人自身が一つの問題に直面していること、これが原爆以上に大きな問題になりうることを、日本人自身が少しも自覚していないので少々心配になるのは、ユダヤ人たる私の被害妄想であろうか。そうあってくれれば、それに越したことはない。以下のことは、「余計な心配」だと笑殺して下さってけっこうだから、読むだけは読んでいただきたい――。世界が非常に狭くなり、地球が一つの経済単位になりつつある。かつて狭い地域で、支配者・ユダヤ人(または華《か》僑《きよう》・アラブ人)・原住民となっていた形が、全地球的な規模になるようになってきた。この中にあって日本は確かに大国であり重工業国であるが、しかし、宇宙ロケットと原子力兵器を独占している超大国・超重工業国ではない。いわば、民需品の重工業国である。かつて私の父はカレリアの奥地のラップ人に日用品を売り込んでいたが、その中の針も綿布もマッチも日本製であった(これが日本に移住するもととなったわけだが)。これらの品々はミシンとなりトランジスタラジオとなり、あるいはさまざまの電気製品やオートバイ、小型車となっているであろうが、民需品を主力としている点では昔と変らない。ある国ではオートバイのことをホンダあるいはスズキといい、ある国ではトランジスタラジオのことをソニーというほど、日本人は商品によりそこの住民に接触している。ということは、強大な世界的支配力をもつ超重工業国と比較的貧しい一般的消費者原住民の中間にあって、円が世界一強い通貨といわれるほどの利益を蓄積しているということである。かつての植民地におけるユダヤ人やアラブ人あるいは華《か》僑《きよう》やインド人の地位は、世界的な規模で日本に移ったといってよい。好むと好まざるとにかかわらず、今世界を支配しているのは、まだ、キリスト教徒白人と共産主義者白人である。日本人は、かつてのアレクサンドリアのユダヤ人のように、名目的には同じ地位にある「名誉白人」だが、実質的には握っているのは経済力であって(これがなくなれば、だれも日本に見向きもしない)、世界を動かす政治力でも軍事力でもない。キリスト教徒・共産主義者白人カルテルの支配力は、かつてのアレクサンドリアのマケドニア・ギリシア人のように次第に弱体化しているが、一方、日本はその間にあって着々とディプロストーンを築きつつある。ディプロストーンを見ないで壮大なものを見たと言ってはならないように、東京を見ないで、壮大なものを見たといってはならない。だが、「前車の轍《てつ》」ということがある。ユダヤ人の歴史を、他山の石として、この点でも参照してほしい。
「朝鮮戦争は、日米の資本家が(もうけるため)たくらんだものである」と平気でいう進歩的文化人がいる。ああ何と無神経な人よ。そして世間知らずのお坊っちゃんよ。「日本人自身もそれを認めている」となったら一体どうなるのだ。その言葉が、あなたの子をアウシュヴィッツに送らないとだれが保証してくれよう。これに加えて絶対に忘れてはならないことがある。朝鮮人は口を開けば、日本人は朝鮮戦争で今日の繁栄をきずいたという。その言葉が事実であろうと、なかろうと、安易に聞き流してはいけない。もちろん私は、必ずしもそれだけが原因とは思わないが、朝鮮人にはそう見えるのである。「われわれが三十八度線で死闘して、日本をも守ってやったのに、日本人はそのわれわれの犠牲の上で、自分だけがぬくぬくともうけやがった」という考え方である。たとえこれが事実であっても、これは日本の責任ではないし、日本が何か不当なことをしたのでもない。だが全く同じことを、第一次世界大戦の後に、ドイツのユダヤ人もいわれたのだ。「われわれが西部戦線で死闘していた間、あいつらは銃後にあって、われわれに守られてぬくぬくともうけやがった」。ユダヤ人は確かにそういう位置にいた。そしてその多くは商人であって戦後のインフレにも強かった。しかし戦争を起したのはカイゼルとドイツの首脳であってユダヤ人はこれには責任はない。しかし、戦争に際して、ユダヤ人だけが何か不当なことをしたように言われ、それが次第に拡大され、ついには、もうけるためユダヤ人が戦争を起したように非難され、それがアウシュヴィッツにつづくのである――。前述の文化人さんよ。自分の子のためにも、このことを忘れないでほしい。
ユダヤ人にはないが、もう一つの特異な面を日本はもっている。かつての日本人は、全有色人種のプロテクターをもって自他ともに任じていた。全有色人種を労組にたとえ、白人を経営者にたとえるなら、日本は実に輝かしい闘争委員長であった。私の知っているあるパキスタン人は、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが日本海軍航空隊に撃沈されたと聞き、喜びの余り、徹夜で踊り狂ったという。この感情はあらゆる有色人種にあった。だが、あの大闘争に敗れてから二十五年、日本はいつのまにか、白人カルテルの重役になり、OECDに列し、南《なん》阿《あ》では公然と「名誉白人」になっている。ああ「名誉白人」。かつての労組員の彼にそそぐ目は複雑だ。一方、キリスト教徒・共産主義者白人カルテルも彼に気をゆるしているわけではない(その「におい」のゆえに)。
もちろん政治天才の日本人が政治低能のユダヤ人のようなへまはやるまい。またユダヤ人のもっていなかったもの、すなわち自らの政府と強大な武力をもっている。しかし一方、かつては民衆の暴動であったものが、今や、一国の政府の行動として起される時代にもなっている。すなわち政府が先頭に立って、ある人種の全財産を没収し、その人種の全員を国外に放逐しても、たいしてニュースにもならない時代にもなってきた。従って、全地球的な規模において、日本人が、今、どういう位置にあるのか、いろいろと考えさせられるのは、私だけではあるまい。こういった点でも、ユダヤ人の歴史が何らかの参考になれば幸いと思う。
十三 少々、苦情を!
――傷つけたのが目なら目で、歯なら歯で、つぐなえ――
「愚者は言葉を多くする」と古きユダヤの賢者は言ったから、「くどい」といわれることはばかと言われることなのだが――もう一度だけ言わしていただこう。フランス人がソヴェト人を対象にして日本について書いた本は、日本人の本とはいえないし、本当に日本を書いているともいえない。こういった本をいくら読んでも、日本語も出来なければ日本の古典は言うに及ばず新聞すら読めない人間は、日本を知っているとはいえない。同じことで、英米人が書いたイスラエル文化やユダヤに関する本をいくら読んでも、それはイスラエル文化やユダヤ人を知ったことにはならない。
ユダヤ人は非常に日本人に親近感をもっており、またキブツ研修などでイスラエルをおとずれる日本の人びとがイスラエルに非常に強い親愛感を抱いてくれるのは、実に実にうれしいことである。事実ユダヤ人にとっては、故国イスラエルを別とすれば、日本ぐらい気持の良い国はない。にもかかわらず、日本の新聞や雑誌に非常に誤った記事や、西欧人やアラブ人の受け売りと思われるものが多いのは、残念である。もちろん見解の相違ということもある。それは一応別問題としても、明らかな誤りが余りに多いので、ここで訂正させていただきたいと思う。
『嘆きの壁』はソロモンの神殿の壁ではない  皇居の石垣は神武天皇の宮殿の壁だと言った者がいたら、その者はもう日本について語る資格はない。彼が何と言いわけしようと、その人は、日本の歴史と文化について何一つ知らないことを、この一事でばくろしているからである。同じように、嘆きの壁をソロモンの神殿の壁だと言った者には、イスラエルを語る資格はない。ましてや「嘆きの壁でソロモンの栄華をしのんで嘆くユダヤ人」などという注釈は、噴飯ものである。私が見た中で一番ひどい新聞記事は「なげきの壁とは、ソロモンの宮殿の壁で、エルサレムがイスラエル領とヨルダン領に分割されて以来、この壁が露を含んで、泣くように見えるので、そう名づけられた」という記事である。おそらくイスラエルに敵意を抱くものが故意に流したのであろう。そのニュースソースは問わないにしても、これは余りにひどい。嘆きの壁にユダヤ人が集っているという記事は、紀元三三三年に、ボルドーからこの地に来た巡礼の記録に出ている(これが私の知る範囲の最古の記録である)。きのうきょうのことではない。この壁でなげく歴史自体が、日本の歴史より長いのである。
第二に、これはソロモン神殿とは関係がない。ライフ誌が正確に記しているように「第二神殿(second temple)の壁」である。さらに正確にいえば、第二神殿に対してヘロデ王が行なった大増築の際の西側の土台の石垣である。この石の縁《ふち》どりはヘロデ時代の特徴を示している。第二神殿という言葉自体が、おそらく、多くの日本人に耳なれぬ言葉であろう。だが、この神殿こそユダヤ人の、いわば人民の神殿であった。ソロモン王の神殿は紀元前五八六年のネブカドネザル王によるエルサレム攻略の際、焼かれて破壊された(とはいえ聖書の記事を注意深く読むと、少なくとも土台だけは残っていたらしい)。ユダヤ人の上層部はバビロンにつれて行かれた。いわゆるバビロン捕囚である。これから約四十年後、ネブカドネザルの帝国は亡びてペルシア王クロスがバビロンを占領し、捕囚の民をすべて、それぞれの故国へ帰した。ユダヤ人もこのとき故国へ帰ってきたが、それは余りにもみじめな荒廃し切った故国であった。すべての人は打ちひしがれ、そのままでは民族としては消え去る運命にあった。民族として再生し、かつ生きのびるのには、その中心である神殿を再建せねばならない。指導者たちはかく考えて再建にとりかかった。しかし疲弊し切った当時のユダヤ人には、これは余りに大変な仕事であった。自分の家も建てたいし、自分の畑も耕したい。神殿再建は何度も挫《ざ》折《せつ》し中断した。しかしそういった時には、ハガイやゼカリヤのような預言者が出て民を激励し、二十二年かかって、ついにこれを再建したのである。その後に城壁も再建したが、それが落成したとき、民はみなうれしさの余り大声をあげて泣き出し、その声は遠く地平にこだました、と記されている。この第二神殿は、前述のようにヘロデ王により大拡張されたが、紀元七〇年のユダヤ戦争のときローマ軍により徹底的に破壊されて、今残るのはこの嘆きの壁だけである。そしてこの壁に来たときわれわれは、もっとひどい苦難の中にこの神殿を再建した祖先の不屈の精神を思い起すのである。そして、民が心を一つにして再建にかかった時、それが立派にできあがったことに思いを致し、いつの日にか、ここに再び祖国を築き上げることを、常に心に誓いつづけて来た壁なのである。従ってこれは、ソロモンの神殿の壁ではない。完全に打ちひしがれたどん底から再出発して、ひとりひとりの自覚に基づく血と汗の成果として再建された神殿を象徴する壁――すなわちユダヤ民族の不屈の再生を示す壁なのである。
ユダヤ人はパレスチナを去ったことは一度もない  「二千年前に去って行って、今になって帰って来て自分の国だと言っても、そんなことには承服できない」というアラブ側の主張は、ある程度、日本人の支持をうけているように思われる。いわゆる東側の代弁者は別としても、今のべた言葉がもし事実なら、あらゆる日本人が、ある程度この言葉を支持しても不思議ではない。事実ならば私だって支持するであろう。従って、要はこの言葉が事実か否かが問題である。事実でないことが証明されても、なおこの言葉を口にし、また支持するならば、それは一方的な政治的プロパガンダである。政治的プロパガンダでは、理否は問題外で、所《しよ》詮《せん》、大声で言いまくって相手の声を聞えなくすれば目的を達するのだから、反論しても意味はない。従って私はここで、ただ明確な歴史上の事実を列べるに止《とど》め、判断は読者におまかせしよう。
もっとも、二千年前にユダヤ人はパレスチナを去ったと主張される原因の一つは、ユダヤ人にある。パレスチナにたどりついたユダヤ人は、必ずこの故国の土に接《せつ》吻《ぷん》し、感きわまって涙を流し、「ああ、二千年ぶりに故国の土を踏んだ」という。ユダヤ人が海外に出た歴史は非常に古いから、文字通り二千年ぶりの人も、三千年ぶりの人も、あって少しも不思議ではない。だが、こういうユダヤ人がいるということは、何も、パレスチナの地に全然ユダヤ人がいなかったということではない。ただ彼らは政治的独立を失い、国籍上は、パレスチナを領有する国家の国民に編入されていたにすぎない。従って、二千年の間、パレスチナにユダヤ人がいなかったという主張は、三十余年にわたる日本の統治期間に朝鮮半島には朝鮮人はひとりもいなかった(なぜなら彼らも日本人であったから)、という主張と同様なのである。確かにこの期間、朝鮮にすむ人は全部日本の国籍をもつ日本人であったろう。だが、そうだからといって、朝鮮半島から朝鮮人がひとり残らず去った、ということにはならない。「二千年前に去って、……」の主張は、この二つを故意に混同しているのである。
ユダヤ人の王国の最後の王はヘロデ・アグリッパであった。彼は、ローマのかいらい政権であったとはいえ、カリギュラ帝の即位に大きな役割を演じた(とされる)ので、相当の独立性をもっていたと思われる。だが彼の死とともにパレスチナは最終的にローマ領に編入された。そして紀元六六年、有名な対ローマ第一次ユダヤ反乱が起った(この言い方は、以下の言い方もすべてそうだが、あくまでも西欧人の立場の見方で、これはユダヤ人にとってはあくまでも独立戦争である。しかし混乱を避けるため、従来の言い方にしておく)。抗戦四年、エルサレムは陥落し、神殿は破壊された。だがこれにも挫《くじ》けず一部のユダヤ人はかつてのヘロデ王の離宮兼要《よう》塞《さい》のマサダの砦《とりで》に立てこもり、三年にわたって抗戦した。だがここもついに陥り、全員文字通り玉砕した。私は硫黄島の戦記を読むと、いつもマサダを思い浮べる。ついで約六十年後、紀元一三六年に、第二次ユダヤ反乱が起った。第一次反乱にはフラウィウス・ヨセフスの有名な『ユダヤ戦記』が残されているので相当くわしく事態がわかるが、第二次の方は記録がなく、よくわからない。だが、その精神的指導者はラビ・アキバ、独立軍司令官はシモン・バル・コクバで、約三年にわたりパレスチナを支配し、自分の貨幣まで発行しているから、短時間とはいえ独立を回復したのであろう。最近(といってももう十年近くなると思うが)ワディ・ムラバァトという所で、このバル・コクバが、部将のイェシュア・ベン・ガルゴラに宛《あ》てた手紙が発掘された。発掘と研究がさらに進めば、この第二次反乱の全容はもっと明らかになると思う。だが結論をいえば、圧倒的なローマ軍により、徹底的に制圧されたのである。この結果パレスチナはアエリナ・カピトリナと改名され、海外居住のユダヤ人の帰国は禁じられた。祖国の土を踏むと同時に斬《き》り殺されたわけである。だがローマのキリスト教化とともに、この禁令はコンスタンティヌス帝により廃棄された。おそらく多くのユダヤ人が故国に帰るか、または巡礼として訪れたことであろう。前述の嘆きの壁の最古の記録がほぼ同時代なのも不思議ではない。
だがローマ帝国のキリスト教公認は、同時に、ユダヤ人の故国の「キリスト教聖地化」を意味する。伝説によればコンスタンティヌス帝の母后ヘレナは、到る所にキリストの記念碑や記念堂を建てまくった。これは、東欧諸国のスターリンの巨像同様、いたくユダヤ人を刺《し》戟《げき》し不快にしたであろう。そして紀元三五二年、最後の反乱といわれるガリラヤ蜂《ほう》起《き》が起った。これの詳細はよくわからないが、おそらくその弾圧は徹底的であったろう。また今やキリスト教帝国となったビザンティン・ローマ帝国にとって、パレスチナは、政治的・軍事的にはもとより宗教的にも絶対手放せない地になっていた。そして、いわゆるキリストの「聖《せい》蹟《せき》」守護のための軍隊の増強は、ユダヤ人にとって、もはや反乱は不可能と思わせたであろう。
この時、新しい動きが始まった。否、考えようによっては古くからある動きであり、また二十世紀までつづいた動きである。すなわち海外にいるユダヤ人が、軍団を編制して祖国を奪還しようという動きである。この動きは、紀元七〇年の第一次ユダヤ反乱のときにもあった。いわゆる「川向うのユダヤ人」(ユーフラテス東岸の意味)が、軽挙妄動しないようにローマ軍の実力を知らしめるというのがヨセフスが『ユダヤ戦記』を書いた(というより、皇帝ティトスがこれの公刊を許した)理由の一つであって、この両河地帯のユダヤ人移民には常に、祖国奪還の動きがあったのである。これはおそらく、捕囚帰還以来、この地のユダヤ人が(エズラやネヘミヤに見られるように)パレスチナのユダヤ人と最も密接で、絶えず往《ゆ》き来《き》があったからだと思われる。従って、何らかの後《うしろ》楯《だて》があれば、彼らはいつでも祖国奪還に乗り出す用意があった。
紀元六一四年、ついに機会は来た。東ローマ帝国の勢威が衰え、一方、新興のササン朝ペルシアは日に日に勢いを増していった。川向うのユダヤ人は、ペルシア王ホスローを後楯にパレスチナに進撃したのである。おそらく彼らは、アカイメネス朝時代のペルシアとの関係、すなわちペルシア連邦内の独立ユダヤ人共和国ともいうべきあの第二共和政期を夢見て出撃したのであろう。だが、時代はかわっていた。パレスチナの地は、キリスト教ビザンティン・ローマ帝国にとって、死すとも手放せない地であった。この両者のすさまじい死闘は、西欧の教科書には「ペルシア王ホスローの聖地劫《こう》掠《りやく》」と記されている。日本の西洋史の教科書では、もっと小事件として、記していないものさえある。だがこの死闘が思いもよらぬ結果を生んだ。まさに漁夫の利で、両軍疲れ切ったとき、この地は、アラブ人に占領された。この時代にこの地に居住していたのが、圧倒的にユダヤ人であったことは、発掘されたシナゴグ(会堂)が物語っている。
アラブ人というより「イスラム教徒アラブ人」がパレスチナに関《かかわ》りをもったのは、人類の歴史で、この時がはじめてである。そしてアラブ人の支配は、四三五年つづいた。アラブ人がこの地を支配したのは後にも先にもこの四三五年だけで、この時期以外に、アラブ人がこの地を支配したことは一度もない。政治的独立の消滅と同時にその民が去ったといいうるなら、アラブ人も「九〇〇年前に去っておいて……」ということになろう。
一〇七二年、アラブ人の支配はセルジューク・トルコ族の進攻とともに終り、これの支配も一〇九九年に十字軍とともに終った。パレスチナを占領した諸国民のうち、最も野蛮だったのはこのヨーロッパの蛮族である。彼らがエルサレムを占領したとき、この都市の全ユダヤ人を虐殺しようとした。というのは、もちろん当時のエルサレムはユダヤ人の町だったからである。また当時の記録に残るユダヤ人の数にはマラネンが含まれていないことも注意してほしい。十字軍はやがてセルジューク・トルコ族に追われた。このセルジューク・トルコ族の子孫が現在もパレスチナに住むサルカシア人だと思われる。その後マメルクの支配があり、ついでオットマン・トルコの支配、それが終ってイギリスの委任統治、その終了とともにユダヤ人国家イスラエル共和国の誕生となった。ユダヤ人の大規模な再入植は、オットマン・トルコの時代にはじまっている。
十三世紀にすでに、主としてスペインのユダヤ人がパレスチナに移住し、その中には有名な詩人エフタ・ハレヴィや中世ユダヤ人最大の思想家といわれるマイモニデスがいるが、最初の大がかりの入植は、スルタン・セリム三世の時、ナクソス公とよばれたユダヤ人ヨセフ・ナシが、ガリラヤのティベリアスに封《ほう》土《ど》を与えられ、ここに、迫害されていた西方のユダヤ人を入植させ、桑を植えて養蚕業を起そうとしたことに始まる。絹織物は当時イタリアの独占であった。そのためか、この移民はマルタ島付近で海賊らしきものに襲われ、すべてを奪われて奴《ど》隷《れい》に売られた。従って、入植の規模はきわめて小さくなり、そのため彼らはティベリアスの北方の小都サフェドに集り、ここに定住した。ヨセフ・カロが『シュルハン・アルフ』を著作したのはこのサフェドである。
その後のことをさらに詳述すれば、パレスチナの地にユダヤ人が住みつづけたことは議論の余地がない。しかしそれらは、史料を調べればだれにでもわかることなので、これ以上ははぶくことにしよう。
パレスチナの争いは民族の争いでも土地の争いでもない  パレスチナの争いは土地争いでも民族の争いでもない。それはあらゆる争いと同じく体制の争いである。非常に不思議なことは、日本の進歩的人士が、あらゆる地の争いを体制の争いとしながら、ことパレスチナとなると、これを民族の争いとか土地争いとか言い出すことである。パレスチナは今もなお過疎である。ことにヨルダンの東岸にはまだまだ多くの可耕地が放置されて、山は徒らに赤裸のままにされている。民族の争いなどというが、英委任統治時代には、ナチス党員(だったといわれる)エルサレムの首長ハジ・アミン・アルフッセイニとその私兵団のテロに対して、また英委任統治当局の弾圧に対してユダヤ人とアラブ人とが共同して戦ったのは事実である。そして今でも、イスラエル共和国に残るアラブ人、たとえばドルーズ教徒などは、自らの政府・議会・裁判所をもつ独立の自治共和国とも言うべき自治体で(イスラエル国会にも議員を送っている)、独立戦争以来のイスラエルの最もたのもしき味方であり、多くのドルーズ教徒がイスラエル政府から勲章を受けている。
では一体、何を争っているのか、いろいろ説明するより簡単な例をあげるから、それから各々が結論を出していただきたい。「帝政ロシアの大地主制のどまんなかに、ある日、一団のユダヤ人が来てコルホーズを作ったら、どんな騒ぎになるか。いやコルホーズよりさらに徹底したキブツを作ったら、一体どんなことになるか」。答えは簡単である。大地主たちは、このコルホーズまたはキブツを何とかして早急にぶちこわしてしまわねば大変なことになると本能的に感じとり、一大恐慌を起して、おそらく自分の農奴から警察や軍部まで動員して、徹底的撃滅を計るであろう。この場合、もしユダヤ人が土地を買って自分も地主になったのなら、境界問題から土地争いが起ったり、「ユダヤ人のくせに地主になって生意気だ」といった人種的な差別で問題が起ったりする程度ですむだろう。それが大がかりになれば土地争いとも民族の争いともいえるであろうが、前述のコルホーズまたはキブツの場合は、絶対にそんなことはいえない。イラクの全農地を何家族が独占しているか、またその農民が今でも農奴以下であるかないか、そしてこの大家族が軍閥や政府、石油利権屋や買弁資本家とどういう関係にあるか、お調べになればわかることだから、ここに書く必要はない。パレスチナをめぐる争いは、大地主・農奴・軍閥・利権・買弁体制と、キブツ・モシャブ・共同組合体制との争いなのである。そしてこの争いがどのような結末をつげるかは、歴史が示しているから、これも書く必要はあるまい。あらゆる争いは煎《せん》じつめれば体制の争いで、これが最も明白に出ているのがパレスチナである。どうか、この実情に目をつぶらないでいただきたい。イスラエル共和国は、ユダヤ人とアラブ人の連合国家であり、公用語はヘブル語とアラビア語、判決も国会の討論もすべて両国語でなされる。またヒスタドルート(イスラエル労働総同盟)の加盟組合員の一割余はアラブ人、国会議員はもちろん、公務員から警察官まで一割余はアラブ人である。もし、イスラエル在住のアラブ人が本気でナセル大統領を支持したら、イスラエル共和国は明日にも崩壊する。しかし、再び農奴に転落して、今の二倍働いても収入は四分の一、一切の人権は実際には何ら認められない社会にもどろうと本気で考える人間はいない。これは、日本の農民が、たとえいかに不満はあっても、再び小作人にもどり、「出《で》羽《わ》の本間か本間の出羽か」という体制を築こうなどとだれひとり本気で考えないのと同じである。従って、多数のアラブ人をイスラエル共和国の中に包みこみ、周囲は億というアラブ人に囲まれながら、イスラエルは存立して行けるのであって、軍事力にのみたよっているのではない。事実シナイの前線の扇《おうぎ》の要《かなめ》はヘブロンとベイトレヘムであるが、ここはほぼ完全にアラブ人の居住地である。ここのアラブ人がナセル大統領の指示に従うだけで、シナイの前線は崩壊するであろう。だが、そんな心配はだれひとりしていないのは、前述の理由による。どうかパレスチナ問題を、土地争いだとか民族の争いだとか考えないでいただきたい。
侵略でも領土拡張でもない  Aジャーナル誌の進歩的人士の主張によると、ユダヤ人などというものは存在せず、たとえ彼らの祖先がパレスチナの出身であろうと、彼らが、ある国に住んでその国籍をとればそこの国民であり、従って彼らはアメリカ人、ドイツ人、フランス人等々であって、これらのアメリカ人、ドイツ人、フランス人等々が西欧植民地主義者の手先となって、アラブの土地を侵略し植民地化し、これを根拠地にして、全中東を帝国主義的植民地支配のもとにおこうとしている、ということになる。ユダヤ人というものは存在しない、という言葉の誤りは前にのべたから再論しないが、もしこの人の――どの民族であれ、ある国に生まれてそこに定住すれば、そこの国民であるという――主張が正しいなら、パレスチナはまさにユダヤ人の土地である。というのは現在ではユダヤ人の四十二パーセントはサブラすなわちパレスチナ生まれであるから、彼らは、ユダヤ系パレスチナ人とでも称すべきであろう。日本でも知られているモシェ・ダヤンもサブラ(二世)、その息子・娘は三世、その子供となるともう四世である。これらのサブラが実に全国民の約半数なのである。次に多いのがアジア・アフリカからの移民で約二十八パーセントである。アジア・アフリカということはそのほとんどがアラブ圏の出身だということで、もし前述のAジャーナル誌の主張に従うなら、彼らはアラブ人すなわちユダヤ系アラブ人だということになる。ということは国民の実に七十六パーセントがパレスチナおよびアラブ圏の出身であって(中東人とでも言おうか)彼らは西欧には全く関係がない。何の根拠があって彼らを、英米人や独仏人だというのか、うかがいたいものである。国民の七十六パーセントといえば、アメリカ合衆国国民の西ヨーロッパ系移民の子孫とほぼ同じ比率である。一九四八年五月十四日、すなわち独立以降の移民は一二五万だが、このうち約五十万はアラブ諸国からの移民である。さらによく統計をお調べになれば、西欧と北米が非常に少ないのに、おそらく一驚されることと思う。これが実情である。ユダヤ人は西欧人ではないのである。先祖伝来、一度も西欧に足をふみ入れたことのないユダヤ人はいくらでもいる。イスラエル共和国を西欧の国のように考えるのはやめていただきたい。これは、日本を西欧の国と考えるのと同じように誤りである。従って、いかなる面から見ても、彼らは侵略者ではない。
A新聞に「旧約聖書には、チグリス川からナイル川までユダヤ人の領土だと記されているので、彼らはここまで自国の領土だと主張している」と記されていた。もちろん旧約聖書にこんなことは記されていない。おそらくこれは「ソロモン王が支配したのは、次の通りであった。すなわちハマテの入口よりエジプトの川まで……」という記述を誤って引用したのであろう。エジプトの川というとすぐナイル川と考えるのは(日本では)致し方のないことであろうが、これはナイル川のことではなく、シナイ半島の中央部を南から北へ流れる(といっても実際は乾《ワ》谷《ジ》で一時的に水が流れるにすぎないが)、ワジ・エル・アリシュのことで、これが太古からパレスチナ地区とエジプト地区の天然の国境となっていた。もちろん、だからといって、これが現在の国境であるべきだと私は主張しているのではない。ただ言いたいことは、エジプトの川といえばすぐナイル川と思い込むといった誤りが報道関係に余りに多いということである。前の嘆きの壁もその一例であろう。こういう誤りは、どこの国にもあるから、いちいち目くじらを立てるつもりもないし、また一つ一つ指摘して行けば大きな一冊の本になってしまうほど多いからこれでやめる。日本の方々が、こういう誤りが非常に多いという事実を、常に心にとめて、新聞その他を読んで下されば私はそれで十分である。
古きユダヤの賢者の言う通り「愚者の唇はその身を滅ぼす」のだし、一匹のハエの死体が貴重な香油のすべてを無価値にするように「わずかの愚痴が知恵と栄誉」を無にするのが常である。愚痴や苦情は、つつしみたい。だが「強者の宥《ゆう》恕《じよ》」を信じて少しくちがう例をもう二つだけ言わしていただこう。
日本人は全般的には非常に柔軟な精神をもっており、誤りを指摘され、納《なつ》得《とく》すれば率直に訂正してくれる。だが、文化人とか知識人とか評論家とかいわれる人びとの一部には、妙に頑固な人びともいて異論の余地のないあやまりを絶対に訂正してくれないのである。例をあげよう。私が子供のころの日本では、高名な「ウルの発掘者」の名は、サー・レナード・ウーレイと記されていた。それが近ごろではすべての新聞・雑誌はもちろんのこと、わが敬愛する山本書店主まで、ウーリーまたはウーリイと記している。英語の綴《つづ》りよりすれば、ウーリーが正しいとも言えるであろう。しかしだからといって、前イギリス首相ヒューム氏を、ホーム氏と発音し、綴りから言えばこの方が正しいと主張したらこっけいであろう。同じことである。サー・レナード氏の妹さんは、日本のミッション・スクールで教《きよう》鞭《べん》をとっておられたから、女史を御存知の方には異論はあるまい。御本人がはっきり自分の姓を「ウーレイ」と発音され、「私の兄のサー・レナードは……」と話されていたのだから。こういうことは、異論の余地がないのだから、訂正されてよいと思うのだが、「ウーレイなどと書けば大正時代の本とまちがわれる」などと、人も知る良心的な出版者・山本書店主まで言うのだからこまったことである。「一犬虚ニ吠《ほ》ユレバ何トカヤラ」で、開口犬氏には全くまいる。そこでこういう例のうち、顕著なものを二つだけのべさせていただこう。
テル・アヴィヴ  「これはユダヤ人の捕囚の地の地名で、自分の首都にこの名をつけたのは、今にきっとエルサレムをとってやるぞ、という侵略の決意の表明である」という意味の言葉を座談会でのべた方がある。ちょっとまっていただきたい、それは少々おかしい、というのは捕囚の民がテル・アヴィヴにいた時は、エルサレムはまだユダヤ人の首都だったのである。バビロン捕囚は二度にわかれており、第一回と第二回の間には約十年という期間があり、旧約聖書にテル・アヴィヴが登場するのは主としてこの期間である。第一回の捕囚は、王エホヤキンをはじめとするごく少数の上層部で、彼らはむしろ人質ともいうべきものであったろう。彼らは、バビロンとエルサレムの間にはいずれ講和が成立し、自分たちもいずれは故国へ帰されるであろうと、それを一日千秋の思いで待っていた。だが預言者エゼキエルはそう思わなかった。エルサレムの王(執政)ゼデキヤはいずれ兵をあげる。そして今度こそはエルサレムは滅びると信じていた。そして残念ながらその通りになった。実にテル・アヴィヴとは、エルサレムの滅亡すなわち祖国の滅亡を聞かされた町なのである。評論家氏のいうように本当にエルサレムを取ってやるという決意の表明なら、ダビデの初期の根拠地アドラムかチクラグの名をつけるのが普通であろう(少なくともユダヤ人なら)。テル・アヴィヴには、そういったニュアンスは全くない。では一体何なのか。少なくとも旧約聖書を読んだ人なら「ケバル川のほとりテル・アヴィヴの町にて……」という言葉ですぐ思い出すのが前述の預言者エゼキエルである。彼は多くの預言者と同じように民を叱《しつ》責《せき》したが、また別の一面、いわゆる「慰めと励しの預言者」といわれる一面をもつ最初の預言者であり、最初の牧者であった。彼は人びとを慰め力づけ、「骨の谷の幻想」などで知られる有名な黙示文学の中に、すべてが失《う》せてもなお希望の残ることを表明し、同時に、未来の理想的なイスラエル――すべてが平等で、搾取する者もされる者も居らず、神殿を中心にすべての人が平和に生きる国――を描いたのである。迫害に打ちひしがれてテル・アヴィヴについた同胞を、イスラエル共和国は、この精神で迎えようとしているのである。お願いしたい。どうか、いいかげんな発言はしないで下さい。
目には目を、歯には歯を  この言葉はほとんどすべての日本人に知られ、そして知っている人はすべて「撲《なぐ》られたら撲り返せ」の意味にとる。ひどい人は、復《ふく》讐《しゆう》の公認もしくは奨励とさえする。この点では、かの高名な「天声人語」氏も、造反闘士も、町のオニイチャンも差はない。しかしこの言葉は、そういう意味ではないのである。旧約聖書は日本語に訳されているのだから、ちょっとそこを開いてくれればだれにだってわかるのにと思うし、高名な知識人が、まさか原典にあたらず孫引をやったとは思えないが、まことに不思議である――だがたとえ本人が「私の名はウーレイ」ですと言っても「いやウーリーが正しい」という主張が通るのなら、「原典はこの通りです」と私が言っても、無駄なのかもしれない。しかし名乗るときは正確に名乗らねばならないから、次に原典に名乗りをあげさせよう。この言葉が記されているのは次の三か所である。
もし人が互いに争って身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。しかし、ほかの害がある時は、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。
もし人が自分の男奴《ど》隷《れい》の片目、または女奴隷の片目を撃ち、これをつぶすならば、その目のためにこれを自由の身として去らせなければならない。また、もしその男奴隷の一本の歯、またはその女奴隷の一本の歯を撃ち落すならば、その歯のためにこれを自由の身として去らせなければならない。(出エジプト記二一章22‐27節)
だれでも、人を撃ち殺した者は、必ず殺されなければならない。獣を撃ち殺した者は、獣をもってその獣を償わなければならない。もし人が隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたように自分にされなければならない。すなわち、骨折には骨折、目には目、歯には歯をもって、人に傷を負わせたように、自分にもされなければならない。獣を撃ち殺した者はそれを償い、人を撃ち殺した者は殺されなければならない。他国の者にも、この国に生まれた者にも、おまえたちは同一のおきてを用いなければならない。わたしはおまえたちの神、ヤハウェだからである。(レビ記二四章17‐22節)
どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば他人の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。(申命記一九章15‐21節)
以上の通りである。説明はいるまい。要は、損害を与えたら、自国民であろうと他国民であろうと、相手がユダヤ人でも朝鮮人でも、奴《ど》隷《れい》でも、男でも、女でも、正しく損害賠償せよ、ということなのである。特に最後の申命記の規定、偽証によって、罪なき人の命を奪い、あるいは目を奪い、歯を奪い、手足を奪おうとした場合、裁判官は寸《すん》毫《ごう》の情状もしてはならないという規定、また奴隷なら、目には目で賠償しなくともよいからすぐ釈放しなければならないという規定は、私は、あくまでも立派なものだと信じている。これを一体どう読めば、撲《なぐ》られたら撲り返せの意味になるというのだろう。全く不思議である。もっともこれには、キリスト教徒の悪意ある解釈もあろう。彼らは言う「ユダヤ人は復《ふく》讐《しゆう》を公認した、しかしキリストは右の頬《ほお》を打たれたら左の頬を出せといった。キリスト教はユダヤ教の復讐公認を否定した愛の宗教である」と。御立派である。二千年間、そのようにユダヤ人に実行してくれたら、私は何もいわずに頭を下げよう。だが忘れないでいただきたい。「右の頬を……」という言葉も、旧約聖書からの(広い意味での)引用であることを。「おのれを打つ者に頬《ほお》を向け、満ち足りるまでに、辱《はずかし》めを受けよ。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう」というエレミヤ哀歌の一節であることを。キリスト教徒よ、これを実行してきたのは、あなた方ではない。私たち、ユダヤ人なのだ。ユダヤ人イエスの言葉を語るとき、それを忘れないでほしい。だが、話が横道にそれたようである。ここの問題は一つには訳文にもあるのだろう。原文の意味は「傷つけたのが目なら目でつぐなえ、歯なら歯でつぐなえ」の意味だから、これを短く言うなら「目なら目で、歯なら歯で」となるのではないか。だがこれは日本語の問題だから、私に発言権はない。
だがこういったことは書いていても楽しくないし、「くちびるを大きく開く者には滅びが来る」「愚かな者はすぐ怒りをあらわす」といった古きユダヤの賢者の言葉に反しよう。この章は、書けば書くほど遺訓にそむきそうだから、ここできっぱりと打ち切ろう。
十四 プールサイダー
――ソロバンの民と数式の民――
前章では、評論家に大分苦情をのべる結果になってしまったが、実をいうと、私が少々恋いこがれているものの一つが、日本における「評論家」といわれる人びとなのである。評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで(失礼! 落語家から大学教授までかも知れない)、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真《ま》砂《さご》」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸《はし》を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。
ヴァン・ルーンがユダヤ人のことを「一民族がその全歴史を通じて、一冊の本(聖書)と一棟の建物(神殿)」に全エネルギーを集中した、と言っているのは、必ずしも正しいとは言えないが、日本における驚嘆すべく多彩な評論家の出版活動とこれを支えている読者層のことを思うとき、まさに両民族は両極端だという気がしてくる。何かが、まさに逆なのである。では、この「何か」とは何なのであろうか。
わが敬愛する山本書店主の唯一の道楽は水泳である。春夏秋冬を問わず、仕事に疲れるとザンブとプールにとびこむ。彼によると、どこのプールにも必ずプールサイダーがいるそうである。もちろんプールサイダーというのは氏の造語であって、オクスフォードの大辞典には載っていまい。これは、プールサイドにいて、人の泳ぎ方を実に巧みに批評する人びとのことで、その批評が余りに巧みかつ的確なので、だれでもその人のことを水泳の達人と思わざるを得なくなってくるような人物のことである。ところがこういう人物に限って、プールに突き落してみるとたいていカナヅチであるという。だから、プールサイドにいても、絶対に自分からプールに入ることはない。氏に言わせると昨今の大学問題などは、まさにここに問題があるという。いわば、宇宙の真理・人類の平和から人間のあり方まで、また国際問題から横丁のドブ板の形態まで、森《しん》羅《ら》万《ばん》象《しよう》ことごとく的確に批判し、常に正しいことをのみ主張して来て、まことに真理の体現者の如《ごと》く振舞って来た人びとが、ひとたびゲバ棒でプールに突き落されると、アップアップして「溺《おぼ》れるよう、助けてくれえー、機動隊さーん」と悲鳴をあげたのが、その姿であるという。といっても、氏は絶対にこういった人びとを軽《けい》蔑《べつ》していないのである。「たとえその人がカナヅチでも、やはり、聞くべき言は聞くべきである」と氏はいう。ここがユダヤ人とちがう。そこで私は反論していう。「だがしかし、力泳中の瞬時の判断の適否と、プールサイドの批評とは、根本的にちがうものではないのか」と。氏はいう「もちろん、ちがう」「では、真の批評とは、この力泳中の瞬時の判断の適否に対する批評であって、これはカナヅチにはわからないのだから、彼らの言など、はじめから聞く価値がないのではないか」「もちろん、そういう意味では、はじめから聞いていないさ。しかし中々おもしろいことも言うから、聞いたって別にかまわないだろうと思うよ。それとこれとは別さ。有名な経営コンサルタントで、自分の会社をつぶしてしまった人がいたが、この人なども典型的なプールサイダーだろう。プールサイドでの批評はすばらしいが、力泳中の瞬時の判断という点では、それができるどころか、水に浮くことさえできなかったわけだ……」「それならきくが、プールサイダーの意見通りにして溺《でき》死《し》したら、その場合プールサイダーの責任はどうなるのだ」「うん。それに似た例もあるだろうなあ。ある種の教授に煽《せん》動《どう》されて、ゲバ棒を振って命を落したり、留置場にとびこんで一生を棒にふったり……だが、結局は、プールサイダーの言葉に盲従するのがわるいんだ、ということになるだろうな。確かに聞く義務はないのだからね」「ということは、プールサイダーには何の責任もないということか」「そりゃそうさ。プールサイダーなどが、はじめっから何の責任もとれるわけがない」「では言うが、それでは言論には責任がないということだ。責任がないということは、自由がないということだ……」「やれやれ、彼らの言論の責任など追究したら、それこそ逆に、言論の自由への圧迫だと言われるのが落ちさ、下らんゴタクを並べて『エエカッコ』してるなと思えば、聞かなければいいことさ。言いたい奴《やつ》には言わしておけばいい。それが彼らの商売なんだからね。私は、営業妨害やおせっかいは大《だい》嫌《きら》いさ」。
何度、同じ言葉を聞いたことであろう。もう半世紀も前から、耳にたこが出来るほど聞いた言葉である。「言わしておけばいい」――何という冷たい言葉。だが平然とこういう言葉が、殆《ほとん》どすべての日本人の口から出るということ(口に出さなくとも心で思っているということ)は、その人びとが、何か別の言葉を聞いているからにちがいない。この場合の「聞く」というのは「聴従」しているの意味である。旧約聖書には「シェマー」といわれる有名な句があり、これは「聞け《シエマー》、イスラエル……」で始まる。この「聞け」は「聴従せよ(聞き従え)」の意味で、「聞け」とは「従え」のことである。日本人にも、無意識でも「聞き従っている」何らかの基準があるはずで、その基準にはずれた言説はすべて「聞き流して」「言わしておく」はずである。そして、この寛容さが、あのように数多く多彩な評論家の存在を許しているのであろう。とすれば、前章で私がやったような反論は、日本では、まことに「オトナゲナイ」「そう、むきになるなよ」であろう。
だが、それならばなぜ、評論家といった人びとが無視されないで、大きな「社会的活動」ができるのであろう。私はこれらの人びとにもう一つの面があると思う。それは「知的容姿」が端麗で(さらに外面的容姿も端麗ならさらに良い)、「知的挙止」が繊細優美だということであろう。いわば一種のファッション・モデルなのである。さる高名なファッション・モデル嬢は、ハイヒールをはいて生まれてきたように見えたと言う。これはこの人びとの特技で、すべての衣《い》裳《しよう》を、まるで自分が生まれながら身につけていたかのように優美に着こなす。だがしかし、率直にいえば、彼女らは着せられているのであって、その衣裳を考案し作成したのは別人であり、彼女らにそれを生み出す力はない。日本における知識人とか文化人とか言われる人びとも、多くはまさにそれで、主として西欧で流行している思想を、実に巧みに自分の脳細胞にまとうから、それがまるで、生まれるときからそういう思想をもっていたかのように見えるのである。ということは、あたかもその人が、その思想を生み、育て、かつ発表しているような錯覚を人びとに抱かすのである。ある人びとの流行の思想の「着こなし方」のうまさは、まさに神技ともいえる。そして流行の変転とともに、いつも実に巧みに着かえつつ、その間を、演技でつないで行くから、常にステージに立って居られるわけである。だがパンタロンをパタントロンとひきずってころび、腰の骨を打った女性がいても、それはその女性が悪いのであって、ファッション・モデルには何の責任もないと言えるなら、脳細胞に巧みにまとっていた思想を頭からすっぽりかぶって目が見えなくなり、穴に落ちて一生を棒にふっても、それはふる方が悪いということになるであろう。いわゆる識者や文化人、ある種の大学教授や評論家の卓説を、ファッション・ショーのように見ているなら、「取るべきものは取り」「取りたくないものは着せておけ(言わしておけ)」という言い方は正しいであろう。その人には自らの衣《い》裳《しよう》があるのだから。
この問題について、もう一つ思い出すことがある。さるイスラエル共和国の要人と日本の政財界人とが、会合したことがあった。席上、簡単なサンドウィッチが出た。ところが、日本側の出席者の皿の上には、言い合わせたようにパセリが残っていた。白い皿の上の青いパセリの列は、この要人とその一行には非常に印象的であったらしく、この理由を相当にしつこくきかれたことがある。「日本人は何らかの律法でパセリを食べることを禁じられているのだろうか」(いやはや、いつもながらのユダヤ人の発想である)「しかし、それはおかしい、それならはじめから、パセリは出ないはずである」「では、出席者が偶然パセリを食べることを禁じられている宗派だったのか、それともみなパセリが嫌《きら》いだったのだろうか」「それもおかしい」「では?」「……」彼らには何としても理解しかねたのであろう。
私は簡単に答えた「日本では、サシミにはツマがあり、ハナにはソエがある。従って、あのパセリはツマと見られたがゆえに残されたのだ」と。ではツマとは何なのか。サシミのツマは、栄養学的に意味があるという人もいるが、栄養学上の必要からツマがついているわけではない。これは、日本人と西欧人(またはユダヤ人)との根本的なちがいの一つなのだ。マグロのトロがおいしいなら、これを切って最も純粋な形で(ということは、切り身をデンと銀の皿にでものせて)供すれば良い、他のものがあっては、かえってその真味が味わえない、とするのがユダヤ人の考え方(というより行き方)である。ヘブル文学が日本で読まれない理由の一つは、ここにあると私は考えている。まさに、「土の器《うつわ》に黄金を盛る」行き方なのだ。中が純金なら、器がどうであれ、純金は純金であり、中の金にまじりものがあるなら、容器がいかに立派でもそれは金としては価値がないことは事実だが、「かく申すも、それは理屈なり」であろう。美術品でも、同じである。マイヨールの裸婦などは、もし中世の日本人に見せたら、「醜悪の極」だというであろう。正直な日本人は、今でもそういう。あれはまさに、マグロの大きな切り身を、銀の皿にでんと乗せたような感じだからである。文学でも思想でも同じであって、日本に紹介されるときには、紹介者によって必ずツマがつけられている。ツマは食べられずに「護《ご》美《み》箱《ばこ》」とやらに直行したって、絶対に不必要なものではないのである。とすれば、脳細胞に外来の思想を巧みにまとうということは、思想の方を主体に見れば、その人間が自ら思想のツマになっているわけであり、こうしない限り日本人には摂取できないとすれば、本質的には無視され(言わしておかれ)ても、これまた必要な存在である。従って、プールサイダーはプールサイダーなりに必要だという山本書店主の議論も成り立つわけである。
こう考えてくると、日本の社会にはすべてツマがある。お嬢さんが大学の英文科に通って教養を身につける、というのは、お嫁入りのためのツマであろうから、教えられたことが役に立つとか立たないとかは、はじめから論外のはずである。従ってツマを自慢すれば、鼻をつままれるのも、また当然である。だが、だからといってツマが不必要だとは言えない。また、大学自体が、人にツマをつけることによって、自らが社会のツマになって行くのも不思議ではない。とすれば駅弁のツマに大学があってもよいわけである。しかし、だからといって大学が軽視されてよいとは、少なくとも日本ではいえない。ツマは不可欠である。ではツマとは何なのか。この定義はむずかしいが「食欲の触発物」といえるであろう。
しかし、言うまでもなく、問題の本筋はツマよりサシミなのだ。このツマが引き立てているサシミとは、「評論家の言は、とるべきものはとり、とるべきでないものは(反論もせずに)聞き流しておく」という、一つの基準性を打ちたてているその精神なのだ。戦前よく「日本精神」ということが言われたが、こういった意識的な日本精神でなく、無意識的な日本精神があり、これがサシミのはずである。
精神を形成するのは教育である。狼《おおかみ》とともに育った狼少年は狼でしかない。しかし、どの民族でも、教育には二種類ある。一つは意識的教育であり、もう一つは無意識的教育とでも言うべきものであろう。子がたとえいかに親に反発・抵抗しようと、その反発・抵抗も、一種の、(意図せざる)親の教育をうけていることになり、また親が日常生活で無意識のうちに重点をおいていることが子に伝わっていく、日本におけるこういった無意識的教育の原理・原則は何なのだ――という問いは、発する方に無理があろう。というのは、教育する方があくまでも無意識なのだから――。だが私のような人間、すなわち両親は頑固一徹の正統派ユダヤ教徒だが、周囲のすべては日本人、家庭内で日本語ができるのは私だけで、日本の小学校に通ったという環境で育てば、幼児から、無意識的教育において両者がいかにちがうかを、否《いや》応《おう》なく知らされることになってしまう。
すぐに頭に浮ぶのが「数」と「言葉」の比重の差である。日本人は、すぐに数の教育をはじめるから、数を扱わせれば(それがさらにソロバンで訓練されると)まさに世界一である。特に暗算の確かさと迅《じん》速《そく》さには、デパートで買物をした外国人なら、だれでも驚嘆しているといって過言ではない。これは、幼児からの伝統的な徹底的訓練と、ソロバンという五進法計算器の習熟と、万という単位の採用にあるのであろう。
またアラビア数字と長らく接触せず、従って筆算ができなかったということが、逆にソロバンという五進法計算器を極限まで活用する道を開き、同時にこれが徹底的に普及して(一種の計算器がかくも長期間、一国民に徹底的に利用されている例は他にない)、玉で(ということは数字という文字なしで)数を自由自在に扱うに至ったというのは、全く特異な現象である。こういうことは数学史の専門家にまかせても、日本人が、少しもおっくうがらずに数を扱うことは、一つの事実である。だが、一方、言葉の訓練となると、これの比重は非常に軽い。というより「ない」と言った方が良い。大体、数の訓練といえば、日本人にはすぐピンと来るが、言葉の訓練などといっても、さっぱりピンと来ないのである。特に会話の訓練を、ソロバンのように的確に徹底的に習熟さす伝統は日本には全くない。従って、正面切った会話を主体とした文学作品は日本にはない。このことは三島由紀夫氏も指摘しているが、プラトンの対話篇のような作品は日本にはなかったし、今後も出ないであろう。むずかしい問題はしばらく措《お》くとして、教育という面からだけみても、まず無意識的教育における会話教育などは、あれば不思議である。といえば反論も出ようが、その反論を仔《し》細《さい》に検討してみれば、それは会話における言葉の問題でなく、むしろ態度、語調、礼儀の問題であることがわかる。母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明《めい》晰《せき》かつ透明(英語ならクリヤー)に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリヤーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中で組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵《じゆん》守《しゆ》を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉《ロゴス》だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉《ロゴス》そのものは言い方や態度に関係がない、従って厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。
ラテン語を学んでいたあるお嬢さんが、「ラテン語ってまるで数式のような言葉ですね」と私に言ったことがある。ヨーロッパ人にとって、言葉とは本来そういったものであり、文章とはある意味では言葉の数式だから、これは当然のことだといえるが、このお嬢さんにとっては、驚異だったのであろう。ヨーロッパ人であれ、ユダヤ人であれ、言葉を学ぶには、ちょうど日本人が 1+1=2 を習うような習い方で習うし、これ以外に方法がない。しかし日本人は、こういった意味の言葉の訓練を全然うけておらず、また後述のように受けずにすむから、ひとたび演説となると、ゲバ学生の演説であれ、保守党代議士の演説であれ、みな、一種の乱数表になってしまう。ロゴスに計算という意味あることを知っている日本人はいるのだろうか。
どうしてこんなことになったのか。逆説的な言い方をすれば、まず、日本語が(日本語として)余りに完《かん》璧《ぺき》だからである。実に完璧なので、数式的・意識的訓練もうけずに、別の訓練で自由自在に駆使できるからである。一体どうして日本語は、こんなに軽々と(ある意味では無責任に)駆使できるのか。ヘブル語でもギリシア語でもフランス語でもロシア語でも、到底こんなに気易く使うことはできない。言葉を使うということは、「重い戦《せん》棍《こん》を持ちあげて振りまわすほど」大変なことのはずなのに、日本人は、まるで箸《はし》を使うように、何の苦もなく自由自在に使い、かつ使いすててしまう。使いすての時代などといわれるが、日本人ほど安直に言葉を使いすててしまう民族は、おそらくは他にないであろう(数字ならそうは扱わないのに)――そしてこれが、プールサイダーや脳細胞ファッション・モデルの活躍の素地であろうが、――同時に日本には、使いすての結果生ずる別の言葉が厳として存在するからであろう。問題はおそらくここだ。
言語学者にはさまざまな意見もあろう。だが私のような凡俗が「日本語は完《かん》璧《ぺき》」だとつくづく言いたくなる理由は、単語が実に豊富多彩であり、かつその単語の示す意味の範囲が非常に狭いということである。簡単な一例をあげよう。l speak the truth to you. 著名な英和大辞典の例文だが、これは「われ汝《なんじ》にその真理を告ぐ」とも「ホントのことをお話しします」とも訳せる。とすると「真理」と「ホント」が同一の単語なのだが、これは日本語ではありえない。これがロシア語になるともっとひどい。さる社会党の代議士氏が私に、「ソヴェトに行きますと、やはり共産主義が徹底していると思います。すべての人が、いや本当に何の教育もない人が、二言目には『プラウダ』『プラウダ』といって、プラウダを引用して語り合っていますから」と。私は、笑いをこらえるのに相当苦労した。プラウダは共産党の機関紙の名で「真理」を意味することをこの代議士氏も知っている。だが同時に「プラウダ」が「ホント」であり、もし語調を変えて言えば「ホント?」であることが想像もつかない。これがギリシア語になると、たとえば「ディカイオス」は「義」であるが、もしこれを複数にして冠詞をつければ「その、もろもろの義」ではなくて、「あたりまえのことだ」という意味である。確かに、義という言葉が、当然あるべき状態を示すのなら、「義=あたりまえ」であるけれども、「あたりまえでしょう」というかわりに「もろもろの義なり」といっては日本語では通用しない。真理を示すアレーティアでも、使い方では「実をいうと……」とか「実は……」の意味である。「実は……」というかわりに「真理は……」などといえば、日本では狂人である。
こういったように、一つの単語の意味に両端があるのが、あたりまえの国から日本語を見ると、日本語の単語は「重い戦《せん》棍《こん》」でなく「軽い羽根」といえるし、また一方が、重い底と鋭い先端のある円《えん》錐《すい》とするなら、一方はボールであるともいえる。仮りに、単語という円錐の上と下を、「抽象端」と「具体底」とでも名づけておこうか。この抽象端を口にすれば、どうしても具体底がくっついて来るから、内容のない抽象的な議論はできないし(具体底に目をつぶるなどということはできない)、もしそんなことをすれば、相手の言葉を(故意にでなくても)具体底で受けとって、それをそのまま口にする(いわば鸚《おう》鵡《む》返しにする)だけで、立派な反論になる場合もでてくる。こういった反論をされれば、された方は一言の再反論もできない。こんなことになれば、言葉を語る資格なしとされても致し方がない。これが「言葉は重い戦《せん》棍《こん》」である理由である。しかし日本語の抽象的な言葉にはこの「具体底」がない。いや、ないだけでなく、日本人は、(特に対話の際には)この具体底を切り離してしまうか、無理にでも軽くする。
前述の三島氏は、日本では会話体の小説は風刺になってしまう(典型的なものが『吾《わが》輩《はい》は猫《ねこ》である』であろう。主人公は猫であっても人であってはならない)とのべて居られる。また「能」を脚本だけ(英訳で)読めば、外国人はもちろんのこと日本人でも驚くほど内容が貧弱であるといえる。だからといって能が貧弱な芸術だなどと言ったら、言う方の貧弱さを証明しているにすぎないが、これを『ヨブ記』の対話と比較すれば、両者の決定的な差は、異論の余地がない。従って重くしようとすれば、「抽象語」に次々に比重をかけて行くから、外国語では絶対にできない珍論も展開できるのである。たとえば処女降誕とか死者の復活などという思想は日本にはないから、イエス・キリストのこの点の解説となると、日本の聖書解説書には、実にみごとな珍文が並んでいる。たとえば「処女降誕や復活は本当のこととは言えないが、一つの真理であることも事実である」とか、「復活は事実ではないが、真実である」とか。こういった議論は、重い「具体底」のついた言葉を数式のように並べては到底できない。
では、こんな議論や対話など何百年やっても意味がないか、というと、少なくとも実際問題を処理する場合には、実に明確で具体的な結論が出せるから、不思議といえば不思議である。事実、もし日本語が、一部の人びとが言うように本当に不完全なら、現在のように複雑な日本の社会が成り立って行くはずがない。ということは、日本語は、何かに適用しようとした場合には不完全だが、少なくとも日本の社会を存立させ運営して行く面では完《かん》璧《ぺき》のはずである。一体、これはどうなっているのだろう。
言うまでもなく「数」も言葉であり、これなしで今日の社会は成立しえない。従って、この数の扱い方における日本人の特性を見て行けば、この謎《なぞ》はある程度は解ける。ヨーロッパ人なら、複雑な加減乗除も、アラビア数字を使って筆算しなければならない。筆算は言うまでもなく、強度の意識的思考と精神的集中と注意力・持続力がいる。一方、ソロバンは全く逆なのだ。「考え」たらソロバンはとまってしまう。これは経験者なら説明の必要はあるまい。いわば数字を見つつ(あるいは聞きつつ――こんなことは西欧人には想像もできない)、意識的思考を極力排除して、無心で半ば放心状態で指を動かす、すると「答えが出る」。答えはあくまでも「出る」のであって「出す」のではない。この不思議さはオイゲン・ヘリゲルが『弓と禅』でも取りあげている。「矢が的に当る」のであるから、「矢を的に当てようとする意識を極力排除して(すなわち無心で)的に向う」ことが当然であって、どんな無教育なものでも、これを当然のこととしている。彼は、師匠の射方を舞うと表現しているが、この言葉は実に正しい。ソロバンでも、名人の指は全く無心に舞っている。ちょうどバレリーナが音楽に乗って舞っているように数に乗って舞っているのである。私はこのドイツ人哲学者が、弓のかわりにソロバンに目をつけたら、もっと驚いたと思う。数を扱うという、最も意識的思考と集中力の必要なことを、全く無心で、数に乗って舞いながら、一銭一厘のまちがいもない答えを、明確に出しているのだから。
私はあるソロバンの名手を知っている。彼は実物のソロバンを手にもたず、頭の中にソロバンを浮べて、目をつぶって数字を聞きつつ、想像もつかぬような複雑な計算をやってのける。彼のソロバンは文字通り、「存在」しないが「実存」している。彼は強い緊張感をもって意識してソロバンを頭に浮べているが、この頭に浮べたソロバンは、もちろん、意識を極力排除して動かしている。意識しているものを無意識で動かすのは確かに至難のわざで、さすがにこういう名手は、どこにでもいるというわけではないが、こういう人、もしくはこれに類する人のことを西欧人に話しても、絶対に本当と思ってくれない――第一、そんなことができるわけがないではないか、計算をするにあたって、意識的思考と集中力を排除して放心状態になれなんて、ほ《ヽ》ら《ヽ》もいい加減にして下さいよ、と――だが、ソロバンには正確に答えが出る。具体的な数字が結果として出てくる。ソロバンには検算が必要だが、これも、数式の一つ一つを念入りに検査するわけではない、第一、そんなことは出来ない。自分でもう一度やるか、他人にやってもらうかで、この二つの答えが合えばそれで良いのであって、その過程は問題にしたくもできない。これが日本人なのだ、そしてこれが、他の国民には理解できない日本人の秘密なのだ。
さて、頭の中にソロバンを浮べて、意識的思考を極力排除している人を見ていると、それが文字通りに「日本的思考」の姿になってくる。言うまでもなく、言葉をもつことは、しゃべることではない。一言も口を利《き》かなくても、頭脳の中で、あらゆる言葉を縦横無尽に駆使して思考している人は、洋の東西をとわず、いくらでもいる。だが、聖書とアリストテレスの論理学で一千数百年訓練された西欧人の思考の型が数式的なら、日本人の思考の型はまさにソロバン型である。私はよく冗談に、日本人の頭の中には「語《ゴ》呂《ロ》盤《バン》」というものがあると人に説明する(いやこれは冗談とはいえない)。あらゆる単語の「具体底」は切り落され、円《えん》錐《すい》は珠に削りなおされて、頭に浮べたゴロバンにはめこまれ(ここまでは意識的にやって)、あとは、これらの抽象概念に乗って「舞い」つつ全く無意識のようにこの玉を動かして思考をまとめていき、最後に明確な具体的結論を出す(いや、結論が「出る」)のである。これに完全に習熟した人の、目にもとまらぬ早さで出したものが、いわゆる「カン」であろう。従ってこういう場合、この「カン」の出てきた過程を説明してくれと言っても、それは無理である。従って日本語の単語は、このゴロバンの珠として完《かん》璧《ぺき》であるように成型されている点では完璧とはいえるが、珠を並べて記号でつないでも数式にはならないと同じで、うっかり西欧的思考を加味したりすると(大体、加味するなどということができるはずがない)、全く意味の通らない珍語・珍文・ゲバ語・学者語などになってしまうのである。
さてここで再びプールサイダーに登場していただかねばならない。プールサイダーは、ソロバン的思考の過程を、数式になおしてくれる人だと言えば良いであろう。たとえ本人が、思想という水に浮くことすら出来ぬほどその思考力は貧弱でも、ソロバンの珠の上げ下げを数式になおして解説できれば、それでつとまるのである。ソロバンの名手は、計算の過程では、意識的思考を排除しているから、自分のやったことの解説はできない。しかしいわゆる西欧的教養を身につけた人なら、「二・一天作の五」を数式になおすことぐらいはできよう。といっても、これらの人びとにも西欧の数式的思考ができるわけがない。これは、日本に二、三年留学したからといって、ソロバン的思考はおろか、ソロバンそのものだって、日本の小学生だけの腕に達することは、まず不可能なのと同じである。ソロバンは単にユビのわざではなく、意識的思考を排除して数字に乗って舞う、ということへの基本的態度が、無意識的教育のうちに教えられていなければ、すぐに意識がもどって指がとまってしまい、何としてもうまくいかない。西欧的思考への基本的態度だって、それへの無意識的教育をうけていないものにとっては同じことである。もし西欧的思考を本当に身につけようとすれば、森有正氏のごとく、中学校からやり直したくなるのが本当であろう。だがたとえ「二・一天作の五」を数式になおすことしかできなくても、それは、ソロバンの名手にとっては大きな示《し》唆《さ》である。それによって彼は、新しいソロバンの活用法を触発されることもありうるから。そしてここにプールサイダーというサシミのツマの存在意義があるのであろう、たとえ自身は「護《ご》美《み》箱《ばこ》」とやらへ直行しても。
戦後日本では「意識的思考を排除する」教育がすたれ、「考える教育」が行われている。この結果、二種類の日本人が出来てきた。これは、ある意味ではどこの国でも同じことだが、成功例と失敗例がある。成功例は、従来のソロバン的思考が完《かん》璧《ぺき》にできて、しかもその思考過程を数式的思考で検証しうる人間である。戦前にもこういう日本人は確かにいた。私の知っている範囲では、倉田主税氏であった。氏のような戦前の理科系の人には、実にみごとな両刀使いがいた。だが、こういった例は特に傑出した人間に限られていた。もう一つは失敗例で、ソロバン的思考も数式的思考もできなくなった人間である。もちろん戦前にもこういった人間はいたが、ほぼ、ある種の留学生に限られていた。私の知人にもそういった男がいる。彼はある私大の講師で、政治家や実業家の通訳もやっているが「通訳をしていますと、日本の政治家や実業家の頭脳の貧弱なことに、つくづく情けなくなります」などという。そのとき私は、つくづく中学生の時に漢文で習った「別の国へ行って、その国の歩き方をまねしたため、自分の歩き方もその国の歩き方もできなくなり、ついに歩けなくなって、這《は》って故国へ帰った男」の話を思い出し、私の方が、つくづく情けなくなるのである。だかこの程度なら実害はない。しかしこういった人物が要職につくと大変である。その典型的な例は乃木軍の参謀長伊地知幸介であろう。留学を鼻にかけ、同時代のすべての日本人を内心では軽《けい》侮《ぶ》し、数万の同胞を犬死させ、司令官を自殺に追いこんだだけでなく、祖国を敗滅の危地に陥れながら、平然と貴族に列せられた彼に。
だが無意識的教育は、簡単に、意識的に排除できるものではない。これは、日本であれ、西欧であれ、ユダヤ人であれ、同じである。従って大部分の日本人は、いずれにもならないで、おそらく、ゴロバンを新しく活用する道を、数式的検証から発展して行くであろう。そして、すでにその成果は社会に現われている。が、一方、溺《おぼ》れたり這《は》いまわったりしている犠牲者もあれば、すでに死《し》屍《し》となり、二〇三高地の斜面のごとく、るいるいと横たわっている情景も多い。だがこれが、おそらく、常に変らぬ日本の姿なのであろう。
さてここでもう一度、三度の食事を二度にしても十分の一税を収めているユダヤ人のことを思い出していただきたい。前述のソロバンの名手は、手にソロバンを持たないでも頭にソロバンを浮べただけで複雑な計算ができる。この人に向って、その際にはソロバンが「物理的」に存在していないと証明したところで、それは無意味である。ソロバンが物理的に存在しようとしまいと、彼にはソロバンが実存しており、それを駆使して得た答えは、一つの正確な成果として、実際の生活に影響を及ぼし、時には、最終的な決定を下している。前述のユダヤ人にとって神とその律法は、このソロバンのごとくに厳然と実存しているのである。従って彼に向って、無神論者が、いかに、神が物理的には存在しないことを証明したところで、それはソロバンの場合以上に無意味である。ユダヤ人にとって、神とはそのように実存し、その律法は、ソロバンの答えのごとくに、動かすことの出来ぬ現実的成果として、その生活と思考とを規定しているのである。ソロバンの名手が、私は「目に見えぬソロバンの実在を信じます」などという必要がないように、ユダヤ人も、キリスト教徒のようないわゆる「信仰告白」などは、する必要もなければ必然性もない。キリスト教徒のユダヤ教徒への反発は、偽物の本物に対する一種の反発であり、偽物ほど自分こそ本物だと声高に主張し、本物らしく一心不乱に振舞わねばならないのと似ている。ソロバンが全然できないのに、「私はソロバンの実在を信じます」などという人間がいたら、現物のソロバンをつきつけてみればよろしい。おそらく彼はそのソロバンを奪いとり、振りあげて、「おれの言うことを疑うのか」と威《い》丈《たけ》高《だか》に撲《なぐ》りかかるであろう。「同じ神」の名により、「信仰深く」ユダヤ人を迫害しつづけたということは、宗教的に見れば、まさにそういった行為なのである。
では、日本人に実在しているのは何か。ソロバンだけか? もちろんちがう。「人間」である。人間の存在を信じていない日本人は一人もいない。従って「人間」という概念なしに生きている人間がいるなどということは信じられない。日本人に向って、日本人のもっている人間という概念は、「物理的」に存在する人間ではない(その証拠に「非人間的人間」という言葉がある)、などといっても通用しない。だがヨーロッパ人には、ちょうど日本人に西欧的・ユダヤ的な意味の「神」や「言葉」が存在しないように、そういった「人間」は存在しないし、またソロバン的思考などは到底想像もできないのと同じように(否それ以上に)、この「人間」の実存をもとにした一つの世界は理解できない。これは、断絶などという生やさしいものではない。
十五 終りに――三つの詩
前章で記したように、ユダヤ人と日本人とは思考の方法が全くちがうことは事実であるが、両者がともに地上に住むことには変りはない。従って両民族の相互理解を深めるためには、つまらぬ注釈を抜きにして、互いにその国の古詩を紹介すれば、それが何よりのはずである――少なくとも相手が詩を解する民族であるならば。万葉を生み、平家物語を編んだ日本民族には、古きイスラエルの詩を捧《ささ》げるのが、おそらく最上のフィナーレであろう。
西欧の文学に決定的な影響を与え、それを通じて世界の文学にも大きな影響を与えたヘブル文学も、日本では旧約聖書として、すなわちキリスト教の聖典として翻訳されているため、かえって一般の人びとに読まれていないのが残念である。そこで、代表的な詩三編を抜き出して、紹介したいと思う。一つは武人の哀悼歌、一つは預言者の哲学的・宗教的な詩、もう一つは恋の歌である。
旧約聖書は、今のように編《へん》纂《さん》されたのは後代のことだから、はじめの方が古いというわけではない。最も古いのは詩であって、『出エジプト記』の「ミリアムの連句」だといわれている。これはモーセの姉ミリアムがタンバリンをもって踊りつつ歌ったと記されているが、「ヤハウェに向って歌え/彼は輝かしくも勝利された/彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた」だけであって、詩というには余りに短い。これを除けば、最も古いのはデボラの歌で、イスラエルのジャンヌ・ダルク、女預言者デボラを歌った戦いの歌である。現在のイスラエル共和国でも愛唱され、振付されて舞踊になっているが、この詩は、当時の情況や部族的背景が明らかでないと理解しにくい。こうみてくると、最古の詩のうちで、この書で紹介すべきものは「弓の歌」であろう。これは『ヤシャルの書』といわれる書に収録されていたが、この書は現存しておらず、この書から『サムエル記』に転載されたものが残っており、サウル王とその子ヨナタンの死を慟《どう》哭《こく》するダビデの歌である。
ダビデは、一応、イスラエル十二部族の中のユダ族の出身、ベイトレヘムの郷紳エッサイの末子とされているが、その出生には不明な点も多い。いずれにせよ名もなき少年ながら、その才知と武勇と音楽の才をかわれてサウル王に召し出され、その側近に侍して寵《ちよう》を得、王女ミカルと結婚するまでになった。サウル王の長子、野戦の指揮官としては父より才があったと思われる王子ヨナタンと彼は無二の親友であった。古来、いかなる情勢の変化にも影響をうけない絶対的な友情、いわゆる刎《ふん》頸《けい》の交りの象徴として、このダビデとヨナタンの関係があげられる。ダビデは余りに人気があった。彼は、武将として有能であっただけでなく、すべての人を引きつける不思議な魅力があった。やがて彼の人気はサウル王に危険を感じさせ、王は彼を殺そうとする。妻ミカルの機知、ヨナタンの不動の信義がダビデを助け、彼は逃れてユダヤの荒野アドラムの洞《ほら》穴《あな》に逃れる。だが彼の存在はそれとなく人びとの間につたわり、彼の一族はもとより、志を得ない者や心に不満を抱くものが次々にその下に集ってくる。サウルは討伐の兵を起す。彼はついに自らの一党をつれて、宿敵ペリシテ人の、アペク王アキシのもとへと走るのである。
祖国、妻、親友と敵対関係になったダビデの下に、彼が最も恐れている命令が来た。ペリシテ連合軍(彼らは五つの都市をもち、各々の王がいたが、固く同盟を結び、いつも共同で行動していた)とイスラエルとは、ギルボア山のふもとで決戦を交えることになった。ダビデも兵を率いて出陣せよという命令である。ダビデは出陣した。しかし幸運にも、ペリシテの他の王はダビデを信頼せず、彼が、決定的瞬間にサウルに寝返り、ペリシテの王の首をみやげに帰参を願うこともありうると思ったのであろう、戦場より去らせよとアキシに要求した。アキシはこれに従い、ダビデは、一党を率いて自らの野営地であるネゲブのチクラグへと帰ったのである。そこへある日、使者が来た。イスラエルはギルボア山で大敗し、サウル王は自殺し、ヨナタンは戦死したと。ダビデは万感胸に迫って声もなかった。彼は「自分の着物をつかんで裂き、悲しみ泣いて夕刻まで食を断った」。そして慟《どう》哭《こく》とともに爆発するように歌いあげたのがこの歌である。
イスラエルよ、御《おん》身《み》の栄光は
御身の高き所で殺された。
ああ、勇士たちは、ついに倒れた。
ガテにこのことを告げてはならない。
アシケロンのちまたに伝えてはならない。
おそらくはペリシテびとの娘たちが喜び
割礼なき者の娘たちが勝ちほこるであろう。
ギルボアの山よ
露がおまえの上におりてくれるな。
死の野よ
雨がおまえの上に降ってくれるな。
その所に勇士たちの楯《たて》が捨てられ
サウルの楯が油を塗らずに捨てられているのだから。
殺した者の血を飲まずには
ヨナタンの弓は退かず
勇士の脂を食らわずには
サウルのつるぎは、むなしくは帰らなかったのに。
サウルとヨナタンとは、愛され、かつ喜ばれた。
彼らは生きるも、死ぬるも離れず
鷲《わし》よりも早く、獅《し》子《し》よりも強かった。
イスラエルの娘たちよ、サウルのために泣け。
彼は緋《ひ》色《いろ》の着物をもって
はなやかにおまえたちを装い
おまえたちの着物に金の飾りをつけた。
ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンは、あなたの高き所で殺されたのだ。
兄弟ヨナタン、あなたのためわたしは悲しむ。
あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。
あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく
女の愛にもまさっていた。
ああ、勇士たちは倒れた。
戦いの器《うつわ》はうせた。
この素朴な詩は万葉の歌と同じように、何の注釈もなく、人の心を打つ。
次にのべるのは余りにも有名な詩「苦難のしもべ」である。この詩こそ、ヘブル文学の精華、ヘブル思想の頂点を示すものであるが、キリスト教徒にはイエス・キリストの出現を予言したと解され、それで広く知られるに至った。もちろんこの詩はイエス・キリストの出現を予言したものではない(キリスト教徒の旧約学者も、学問的にはこれを認める)。しかし、ナザレのイエスがこの詩を知り、これから深い影響をうけたのは事実であろう。「イエスはダニエル書で生き、しもべの歌で死んだ」のはおそらく事実であって、彼が自らをこのしもべに擬したことはほぼ疑問の余地がない。すなわちイエスは、この詩のしもべを身をもって体現しようとしたのである。その意味では、この一編は、人類に最大の影響を与えたといえる。
作者の名前は明らかでない。いわば「読みびと知らず」である、だがこの詩は、後代の編集者の手によって『イザヤ書』に編入されたため、学者はこの作者を仮りに「第二イザヤ」と呼んでいる。記されたのはあのバビロン捕囚の末期、屈辱と悲惨のうちに救いを待望しながら、半ばそれを諦《あきら》めかけていた時期であった。ただ、かすかな希望もなくはなかった。アンシャンの子クロスはすでに兵をあげ、その勢力は次第にバビロンへと迫っており、バビロニア大帝国からの解放もありえないわけではないのである。しかし事態がどうなるかはだれにも解らない。戦争が、今以上の悲惨を招来しないとだれが保証できよう。この暗黒と不安の中で生まれたこの詩に、実にさまざまの宗教的・哲学的・思想的解釈がなされるのも、また致し方ないが、あらゆる注釈を抜きに読まれても、何か訴えるものがあるであろう。おそらくは一種の劇詩乃至《ないし》は交《こう》誦《しよう》歌《か》であったと思われる。
(ヤハウェが語られる)
見よわがしもべは栄える。
高められ、あげられ、非常に高くなる。
多くの人が彼に驚いたように――
彼の顔だちは損《そこな》われて人と異なり
姿は人の子と異なっていたから――
彼は多くの国民を驚かす。
王たちは彼のゆえに口をつぐむ。
それは彼らが未だ伝えられなかったことを見
まだ聞かなかったことを語るからだ。
(異邦人――おそらくはユダヤ人も異邦人もともに――言う)
だれがわれらの聞いたことを信じえたか。
ヤハウェの腕はだれに現われたか。
彼は主の前に若木のように
乾いた土から出る根のように育った。
彼には見るべき姿なく威厳なく
われらの慕うべき美しさもない。
彼はあなどられ、人に捨てられ
悲しみの人、病いを知っていた。
また顔をおおって忌避される者のように
彼はあなどられ、われらも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれらの病いを負い
われらの悲しみをになった。
しかるにわれらは思った
彼らは打たれ、神にたたかれ、苦しめられるのだと。
しかし彼はわれらのとがのため傷つけられ
われらの不義のため砕かれたのだ。
彼は自らこらしめを受け
われらに平和を与え
打たれたその傷によって
われらはいやされたのだ。
われらはみな羊のように迷い
各々自分の道に向って行った。
ヤハウェはわれらのすべての者の不義を
彼の上におかれた。彼はしいたげられ、苦しめられたが
口を開かなかった。
屠《と》所《しよ》にひかれて行く小羊のように
毛を切る者の前に黙す羊のように
口を開かなかった。
彼は暴虐な審《さば》きによって取り去られた。
その世代のだれが思ったであろう
彼がわが民のとがのため打たれ
生ける者の地から断たれたのだと。
彼は暴虐を行わず
その口に偽りはなかったのに
その墓は悪《あ》しき者と共に設けられ
その塚は悪《あく》なす者と共にあった。
だが彼を砕くことはヤハウェのみむね
主が彼を悩まされた。
彼が自らを、とがの供え物とするとき
その子孫を見ることができ
その命を長くすることができる。
また主のみむねが彼の手で栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満ち足りる。
(ヤハウェが言われる)
義なるわがしもべはその知識によって
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
それゆえ私は彼に大いなる者と共に
物を分《わか》ち取らせる。
彼は強い者と共に獲《え》物《もの》を分けとる。
これは彼が死に至るまで自らの魂をそそぎ出し
とがある者と共に数えられたから。
しかも彼は多くの人の罪を負い
とがある者のためとりなしをした(イザヤ書五二章13節‐五三章12節)
一体この「しもべ」とはだれなのか。もちろん一個人ではあるまい。私はやはり、しもべの中に神の殉教の民イスラエルを見、全世界の目の前で苦難をうけるがそのことにより贖《あがな》われるとする、伝統的なユダヤ人の解釈が正しいと思う。また、この詩は、常にユダヤ人とともにある、その心である。
第三は余りに有名な恋の歌『雅歌』である。雅歌というのは中国語訳で、日本語訳がその訳名をそのまままねているので、どういう詩なのか表題からはわからないであろう。この詩もキリスト教徒によって、教会とキリストの熱烈な愛の関係を示した詩だとされているが、この解釈は全くこっけいと言わねばならない。第一、この詩が書かれたころには、キリスト教徒のいうキリストだの教会だのといった概念は存在していない。長いので全部は収録しないが、何の注釈もなくても、読者は喜んで読んでくれるだろう。世の中がいかに移り変わろうと、若き男女の愛には、何の変化もないのだから。
(女)わたしはシャロンのばら
谷のゆり。
(男)おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは
いばらの中にゆりの花があるようだ。
(女)わが愛する者の若人たちの中にあるのは
林の中にりんごの木があるようです。
わたしは大きな喜びをもって、彼の陰にすわった。
彼の与える実は口に甘かった。彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。
わたしの上にひるがえる彼の旗は愛。
干《ほし》ぶどうをもって、わたしに力をつけ
りんごをもって、わたしを元気づけてください。
わたしは愛のために病みわずらっているのですから。
どうか、彼の左の手がわたしの頭の下にあり
右の手がわたしを抱いてくれるように。
エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして
あなたがたに誓い、お願いする
愛がおのずと起きるときまでは
ことさら呼び起すことも
さますこともしないように。
…………………
(女)わが愛する者の声が聞える。
見よ、彼は山をとび、丘をおどり越えて来る。
わが愛する者はかもしかのごとく
若い雄じかのようです。
見よ、彼はわたしたちの壁のうしろに立ち
窓からのぞき、格《こう》子《し》からうかがっている。
わが愛する者はわたしに語って言う。
(男)わが愛する者よ
わが麗《うるわ》しき者よ
立って、出で来れ
見よ、冬は過ぎ
雨もやんで、すでに去り
もろもろの花は地にあらわれ
鳥のさえずる時がきた。
山《やま》鳩《ばと》の声がわれわれの地に聞える。
いちじくの木はその実を結び
ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。
わが愛する者よ、わが麗しき者よ
立って、出で来れ。
岩の裂け目、がけの隠れ場にいるわが鳩よ
あなたの顔を見せ、あなたの声を聞かせよ。
あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。
…………………
(女)わが愛する者はわたしのもの
わたしは彼のもの。
彼はゆりの花の中で、その群れを養っている。
わが愛する者よ、日の涼しくなるまで、影の消えるまで
身をかえして出ていって
険しい山々の上で、かもしかのように
若い雄じかのようになってください。
…………………
(女)わたしは眠っていたが、心はさめていた。
聞きなさい、愛する者が戸をたたいている。
(男)わが妹、わが愛する者
わが鳩《はと》、わが全き者よ、あけてください。
わたしの頭は露でぬれ、わたしの髪は夜露でぬれている。
(女)わたしはすでに着物を脱いだ
どうしてまた着られようか。
すでに足を洗った
どうしてまた、よごせようか。
愛する者が掛けがねに手をかけたので
わたしの心は内におどった。
わたしが起きて
愛する者のためにあけようとしたとき
わたしの手から没《もつ》薬《やく》がしたたり
指から没薬の液が流れて
貫《ぬき》の木の取手の上に落ちた。
わたしは愛する者のために開いたが
愛する者はすでに帰り去った。
彼が帰り去ったとき、わたしの心は力を失った。
尋ねたけれど見つからず
呼んだけれど答えがなかった。
エルサレムの娘たちよ
わたしはあなたがたに誓って、お願いする。
わたしの愛する者を見かけたら、わたしが愛のために病みわずらっていると
告げてください。
…………………
(男)愛する者よ、快活なおとめよ
あなたはなんと美しく愛すべき者であろう。
あなたはなつめやしの木のように威厳があり
あなたの乳ぶさはそのふさのようだ。
わたしは言う、「このなつめやしの木にのぼり
その枝に取りつこう。
どうか、あなたの乳ぶさが、ぶどうのふさのごとく
あなたの息のにおいがりんごのごとく
あなたの口づけが
なめらかに流れ下る良きぶどう酒のごとく
くちびると歯の上をすべるように」と。
…………………
(女)どうか、あなたは
わが母の乳ぶさを吸った
わが兄弟のようになってください。
わたしがそとであなたに会うとき
あなたに口づけしても
だれもわたしをいやしめないでしょう。
わたしはあなたを導いて、わが母の家に行き
わたしを産んだ者のへやにはいり
香料のはいったぶどう酒、ざくろの液を
あなたに飲ませましょう。
どうか、彼の左の手がわたしの頭の下にあり
右の手がわたしを抱いてくれるように。
…………………
わたしをあなたの心に置いて印のようにし
あなたの腕に置いて印のようにしてください。
愛は死のように強く
ねたみは墓のように残酷ですから。
そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎。
愛は大水も消すことができない
洪水もおぼれさせることができない。
もし人がその家の財産をことごとく与えて
愛に換えようとするならば
いたくいやしめられるでしょう。
…………………
わが愛する者よ、急いでください。
かんばしい山々の上で、かもしかのように
また若い雄じかのようになってください。
以上で三つの詩の紹介を終り、同時に本書ももう終りとしよう。もっともっと紹介したいものが確かにある。イスラエルの十八史略ともいうべき『列王紀』や、方丈記と対比してみたい『コーヘレスの書』や、また「美《うる》わしき女の慎みなきは金の環の豚の鼻にあるが如《ごと》し」など、時には兼好法師の皮肉な目を連想させるような『箴《しん》言《げん》』など、語り出せばきりがないが、これはまたの機会にゆずることにしよう。
では読者の平安を祈りつつ、さらば。
あとがき――末期の一票
昨秋また来日して、例によって本屋の棚をのぞくと、ヨーロッパ見聞録といった本がずらりと並んでいるのに驚いた。マルコ・ポーロの『東方見聞録』以来、「見聞録に誤りなし」であろう。「私はかく見、かく聞いた」という事実には誤りはあるまい。しかしいかに「如《によ》是《ぜ》我《が》聞《もん》」ととなえても、耳鳴りがしていては致し方ないし、「百聞一見にしかず」が事実であっても、色盲では世界はまた別に見えるであろう。どこの国の人間でも、多少の色盲と耳鳴りはもっており、従ってこういう本は、その国民の「色盲検査用紙」のような役割を果たすという点では、まことに貴重な本といえる。
これらすべての『西方見聞録』に共通した点は、現実はこうであった。私はそれを自分の目で確かに見たのだから、まちがいない、「異論の余地はない」という主張もしくは言い方である。
どこの国でも現実の背後に「たてまえ」があり、その「たてまえ」と「現実」とには誤差がある。従って現実が同じでも「たてまえ」の方向は全く逆で、「現実」を「たてまえ」に近づけていけば、日本と全く正反対になる場合もあって不思議ではない。ハムレットの最後のせりふは「余もまた末《まつ》期《ご》の一票を投じよう」である。王制では父が死ねば子が位をつぐ、これが当時の現実である。しかし「たてまえ」としては、あくまでも王は選挙で選出されたのであるから、あのせりふが出てくる。一方、日本では逆で、秀《ひで》吉《よし》はあくまでも実力で関白になったのであって、家柄のゆえに関白の位をうけついだのではない。しかし彼は、たてまえとしては、関白の位をうけついでいる。それでも「関白は/位によると/聞きつるに/金にてなるは/これぞ金《きん》箔《ぱく》」という落《らく》首《しゆ》が記されたことは、「たてまえ」の主張であって、家系によらず実力でなったものは、関白とは認められない、金箔だということであろう。
一方は、実際には家系でありながらあくまでも選挙というたてまえをとる。一方は、実際には実力(ある意味では投票なき選挙ともいえよう)でありながらあくまでも家系というたてまえをとる。こういう例はいくらでもあって、現われ出た目前の現実が日本と酷似していても、たてまえの方向は全く正反対という場合は決して少なくない(というより、むしろほとんどがそうだと言って良いであろう)のであるから、「私はかく見た」という現実から、日本では当然とされる筋をたどって一つのたてまえを想定し、そのたてまえと現実との相関関係を勝手に想定して、対象を理解しえたと思ってはならない。「インド人は徳川時代の日本同様に牛肉を食べない」といえば誤りであることは、本書を読まれた方はすぐ理解してくれるであろう。(一方は神聖なるが故、一方は、けがれているが故)。従って「いや確かに食べない。私はその事実をこの目で見た」といっても、その主張は無意味である。
同じことはすべてについて言える――西郷の殉教と西欧の殉教者にも、アメリカ的合理主義と日本的合理主義にも――目前の現象は酷似しているが、それがよって来る方向は全くちがうのである。合理化のための一つの機械の採用ですらそうなのだ。例えばナショナル金銭登録機という機械がある。いわゆる「レジ」である。アメリカのセールスマンに「これは一体どういう機械なのだ、一言で説明してみたまえ」といったら彼らは何と答えるか。異口同音に、「これは、人間を正直にする機械です」というであろう(彼らはそういう教育をうけているらしい)。この考え方は日本と逆である。彼らキリスト教徒は、人は罪深いものであり、誘惑に陥りやすいものであるという前提のもとに「われらを誘惑に会わせず、悪より救いたまえ」と日夜祈ってきた民族である。これを人間関係にあてはめれば、「人が誘惑にかられやすい環境を作ることは悪」なのである。従って金銭の出し入れにはベルが鳴り、出し入れした金額が表示され、かつ自動的に記録が残る機械を備え、それによって誘惑を断ち切り、人間を正直にし、罪をおかさせないため、というのが最も共感をよびやすい考え方で、従ってセールスのポイントとなるのであろう。宣教師のところをたずねたら、冷蔵庫に鍵《かぎ》がかかっていたので、キリスト教に幻滅を感じた日本人を私は知っている。だがこれは、幻滅を感ずる方に誤解がある。
では日本人は、どういう「たてまえ」でレジを備えるのか。もしデパートの支配人が「おまえたちを正直にするためにこの機械を備える」などと言ったら、ストにならないまでも、全従業員の顰《ひん》蹙《しゆく》を買い、管理能力はゼロを査定されて、自分がクビになるのが落ちであろう。現実はどうであれ、「人間教徒」なら、たてまえとしては、口が裂けてもそんなことを言ってはならない。私の知っているある商店主は実にうまいことを言った。「人間ですからまちがいがあります(このまちがいとは錯誤の意味であろう)。そのたびに自分の店のものを疑ったり、相手も疑われているのではないかと思ったりするのは、人間としてまことにいやですし、職場の雰囲気の面でも面白くありませんし、モラールも低下させますから……」。そこでレジを備えるという。一言でいえば「自分が、人にあらぬ嫌《けん》疑《ぎ》をかけ、相手をきずつけ、人間としてまことにいやな状態にならぬためだ」という。
レジを備え、売上げの窃《せつ》取《しゆ》を防いでいる(もちろんそれだけではないが)のは、日本もアメリカも同じである。だがそこへ至るたてまえの方向は逆である。従ってレジを目にしたからといって、日本もアメリカと同じようなものだと考えてはならない。
また自然保護といっても、ドイツ人なら「自然に整形美容の手術」を加える行き方であり、日本人なら「静かな山ふところに抱かれる」という、人間が自然に保護される行き方であって、自然保護の「現実」の外観が同じだからといって、同じ考え方だと思ってはならないのである。
こんなことを書いたのは、互いに交われば相互に理解できると単純に考えている日本人が余りに多いからである。ジャンボ時代が来れば、世界はもっともっと狭くなり、お互いに肩をふれあい、話し合う機会はますます多くなり、日常のこととなるかも知れない。だが、それが相互理解に通ずるなどと、絶対に安直に考えてはならない。もしそうなら、ユダヤ人はもう二千年も、西欧人と肩をふれあって生きてきているのである。
長すぎる「あとがき」になったが、これが、最近の感想である。
日本人とユダヤ人
イザヤ・ベンダサン
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平成13年3月9日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
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Isaiah BenDasan 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『日本人とユダヤ人』昭和46年9月30日初版刊行