【魔法博物館の謎】
ジョン・べレアーズ
登場人物
ルイス・バーナヴェルト
太めで内気だが、やさしい少年
ローズ・リタ・ポッティンガー
ルイスの親友。勇敢で利発な少女
ジョナサン・バーナルヴェルト
ルイスのおじ。魔法使いだが、少したよりない
ツィマーマン夫人
ジョナサンの隣人で、料理上手のよい魔女
ボブ・ハードウィック
魔法博物館の経営者
ベル・フリッソン
魔女
ルイス・バーナヴェルトは、これまでもいろいろなことを怖がってきたけれど、今回はすっかり怖気づいていた。
時は一九五〇年代、ある晴れた暖かい秋の一日だった。ルイスはミシガン州の小さな町、ニュー・ゼベダイにある中学校の校舎のすぐ外に立っていた。おなかのなかで、まるで百万匹のチョウが飛び回っているみたいな感じだった。「どうすればいいんだろう?」ルイスはつぶやいた。
ルイスは十三歳の太った金髪の少年だった。まんまるの顔はいつも不安そうで、世の中はこわいものでいっぱいだと思っていた。今は、友だちのローズ・リタ・ポッティンガーを待っているところだ。二人は同じ学年で、同じ境遇にあったから、ローズ・リタと話せば少しは気も楽になるかもしれないと思っていた。
ルイスが壁に寄りかかって待っていると、学校からデーヴ・シュレンバーガーとトム・ルッツが飛び出してきた。ルイスは壁の黒い石に体をおしつけて、このまま吸いこまれて消えてしまいたいと思った。デーヴとトムは小学校でもずっと幅を利かせてきたし、今、中学校でも、一番人気のある生徒だった。学校が得意で、格好よくて、いつもはやりの服を着ている。それに比べてルイスは、なにをしても下手で、さえなかった。ナイロンのシャツとジーンズではなくて、歩くとキュッキュッと音のするコーデュロイのズボンをはいていたし、人気だってちっともなかった。時々、自分のことを好きなのはジョナサン・バーナルヴェルトと、おとなりに住んでいるツィマーマン夫人と、イギリス人のペンフレンドのバーティ・グッドリングだけじゃないか、と思うこともある。それからもちろん、ローズ・リタと。
ようやくローズ・リタが出てきた。ローズ・リタはある意味でルイスと似ていた。やっぱりちょっとみんなとはちがったのだ。年の割に背が高くてやせていて、まっすぐな黒髪を長く伸ばし、大きな丸い黒ぶちのめがねをかけている。ローズ・リタが、自分のことを醜いアヒルの子だと思っているのを、ルイスは知っていた。それだけではなく、周りの人はローズ・リタのことをおてんばだと思っていた。実際、ローズ・リタは、母親に学校に着ていくように言われている武らウとプリーツスカートが大嫌いで、スエットシャツとジーンズとスニーカーでいる方がずっと落ち着いた。ローズ・リタは教科書を胸に抱えて校舎から出てくると、一瞬立ち止まり、ルイスを見つけると、なさけない笑みを浮かべた。そして階段を下りながら、「最低」とつぶやいた。
ルイスは暗い顔でうなずいた。「どうする?」
ローズ・リタは目をくるくるさせた。「自分がどうしたいかなら、わかるわ。ボートに乗って中国に逃げるの。じゃなきゃ、ぴったり四週間続く病気になって寝こむか」
「それはいいな」ルイスは皮肉たっぷりに言った。「それとも、家出してサーカスに入るか、透明人間になる薬でも発明する? 唯一の問題は、どれもできやしないってことだ」二人はのろのろとローズ・リタの家に向かって歩きはじめた。いつもだったら、ルイスはニュー・ゼベダイの街なかを歩くのは好きだった。ウッディ・ミンゴのようないじめっ子に出くわすのだけはごめんだけど。なかになにか物語を隠しているように見えた。古いレンガ作りの店は、塔やドームやだだっ広いベランダのついたヴィクトリア調の建物が多く、今は使われていない昔の建物の入口がそのまま残っていた。大通りの西のはずれにはすばらしい噴水があり、丸く並んだ大理石の柱の真ん中から、ヤナギの木のように水が噴出している。東の端には軍人会館があり、南北戦争の記念碑とイーストエンド公園があった。その間には、わくわくするような場所がたくさんあり、いくらでもすることがあった。
ただ今日は、どの場所にも興味がそそられなかった。なぜなら、あとぴったり四週間後には……
ルイスはごくりとつばを飲み込んだ。「あんなばかばかしいタレント・ショーなんかに出たくない」ルイスは訴えた。
「わたしだって、ちっとも楽しみにしちゃいないわよ!」ローズ・リタはつっかかるように言った。二人は黙ったまま、まだ新学期の用品をウィンドウに飾っている〈ヒームソス・レクサル・ドラッグストア〉の前を通りすぎた。それから大通りを曲がってマンション通りに入り、とぼとぼと歩いてマソニックテンプルをすぎた。ローズ・リタは、パパとママとマンション通りの三九番地に住んでいた。ローワンウエッブが学校の服を着替えているあいだ、ルイスは居間で待っていた。二、三分でローズ・リタがよれよれのノートルダム大学のトレーナーとジーンズと黒いP・F・フライヤーズのスニーカーをはいて出てくると、二人はみじめな気持ちで押し黙ったまま、ハイ・ストリートのほうへ歩きはじめた。
ルイスはおじさんのジョナサンとハイ・ストリート一〇〇番地に住んでいた。ルイスの両親は二人とも、ルイスが十歳にならないうちに交通事故で亡くなってしまった。事故のすぐあと、ルイスはニュー・ゼベダイに引っ越し、今はジョナサンおじさんが法的に正式な後見人だった。ジョナサン・バーナルヴェルトは赤毛の気のいい男手、もじゃもじゃのひげにはところどころ白いものが交じり、おなかはでっぷりと突き出していた。いつもにこにこしていて、しょっちゅう大声で笑ったし、おじいさんから巨額の遺産を受け継いだおかげでとてもお金持ちだった。
でもなによりもいいものは、ジョナサン・バーナルヴェルトが魔法使いだということだった。ジョナサンはすばらしい幻影を作り出すことができたけれど、それには種も仕掛けもなく、正真正銘本物の魔法だった。この間、六月に学校が終わったときには、お祝いにレパントの戦いの場面を再現してみせてくれた。一五七一年にキリスト教徒とトルコとの間で行なわれた大海戦で、ガレー船がぶつかり合い、何千もの大砲が火を吹くさまは、目を見張るようだった。ルイスとローズ・リタは、カロネード砲からロングナインまであらゆる種類の大砲の名前を知っていたから大喜びだったし、ローズ・リタは、カロネード砲は一八世紀に発明されたから、この時代にはまだないはずだと指摘した。
そのときの興奮を思い出して、ルイスはぶつぶつと言った。「ジョナサンおじさんに手伝ってもらえれば、よかったんだけどさ」
「手伝ってくれるかもよ」ローズ・リタは考えこんだように言った。
ルイスは首を振った。「学校で出される課題は、自分でやらなきゃだめだって言われてるんだ。魔法を使うのは、ずるいって。カンニングと同じだって言うんだ」
「緊急事態でも?」ローズ・リタは言った。「これは、生きるか死ぬかの問題なのよ」
二人は、坂のてっぺんにあるルイスの家へ向かってのろのろと登っていった。「こうなることがわかってなきゃいけなかったんだ」ルイスはうめいた。「小学校の時、毎年中学校のタレント・ショーを見にいっていたんだから。どうやって中学の生徒を全員舞台の上にあげて、ばかなまねをさせているかなんて、考えもしなかったよ」
「これでわかったじゃない」ローズ・リタは言った。「むりやりさせてたってね」
二人は、正面に塔の立った古い屋敷に着いた。黒い錬鉄の柵には、一〇〇番と書かれた赤い反射板が取りつけてある。ルイスとローズ・リタは門をくぐると、庭を突っきり、石段を登っていったが、まだどっぷりと暗い気分にひたっていた。
おじさんは客間にいて、最近買ったゼニス社のテレビをいじくっていた。箱型のクルミ材のキャビネットは、ずいぶんしゃれていて、正面の扉を開けると、テレビの画面とラジオとレコードプレーヤーが出てくる仕掛けになっていた。テレビの画面は、船の舷窓のようにまんまるで、ジョナサンおじさんが煙突に取りつけたクモのようなアンテナで、三つのチャンネルを拾うことができた。映像は白黒で、雑音やら白い点々のために、西部劇なのか、クイズ番組なのかすらわからないこともしょっちゅうだった。
ルイスとローズ・リタが入っていくと、ジョナサンおじさんはうれしそうに顔をあげた。「おかえり」おじさんは言って、テレビのてっぺんを叩いた。いつもどおり、カーキ色のズボンと青いシャツに真っ赤なベストといういでたちだった。ジョナサンおじさんはうしろに下がってテレビからはなれると、親指をベストのポケットに突っこんで、顔を傾けた。「どう思う?」
ローズ・リタは眼を細めて、ぼやけた画面を見つめた。「むずかしいわ。なにが映ってるはずなの?」
ふんと鼻を鳴らして、ジョナサンは答えた。「問題はそれさ。わからないんだ!」
「なら、どうでもいいことだわ」ローズ・リタはあっさりと言った。
ジョナサンおじさんは頭をのけぞらせて笑った。「おっしゃるとおりだよ、ローズ・リタ!」そしてテレビのスイッチを切ると、映像はみるみるうちに縮んで黒い画面の真ん中にぽつんと見える白い点になり、消えた。
ルイスが言った。「おやつを食べていい、ジョナサンおじさん?」
おじさんはポケットの時計をひっぱりだした。「うーん。いいだろう。だが、ミルク一杯とクッキーを二、三枚にしておくんだよ。今晩はフローレンスが夕飯を作ってくれることになってるんだ。フローレンスの料理をおいしくないと思っているなんて、思われたくないからね」
「やった!」ルイスは元気を取りもどして言った。フローレンス・ツィマーマン夫人はとなりに住んでいる老婦人で、料理がとても得意だった。おまけに、たまたま魔女だった。魔女といっても悪い魔女ではなくて、きらきらした目としわくちゃの顔をした、やさしい魔女だった。おまけに、魔法の力はジョナサンおじさんよりもはるかに強かった。「ローズ・リタも誘っていい?」
「もちろんさ」ジョナサンおじさんは言った。「家に電話して、おかあさんの許しをもらえばね、ローズ・リタ。縮れっ毛ばあさんとわしが、もう一人前作るから」
ローズ・リタが電話をすると、ローズ・リタのママは喜んで「いいわよ」と言った。そして夕方、ローズ・リタとルイスは客間にねっころがってテレビを見ながら、タレント・ショーの出し物でできそうなことがないか考えていた。ジョナサンおじさんとツィマーマン夫人は台所で忙しそうに働いていて、お鍋やフライパンがガチャガチャいっている音が聞こえる。おいしそうなにおいもしていた。ルイスはあまりテレビに集中していなかった。子どもの番組で、昔の白黒のマンガだった。ネコがネズミを追いかけ、ブタが歌い、カンガルーがボクシングをするたぐいのものだ。どの動物も丸をくっつけて描いたようで、ブタなのか、ヘラジカなのか、とげのあるハリモグラなのか、よくわからなかった。
「ダンスをすれば?」ルイスは言った。「踊るの好きだろ?」
「ハ!」ローズ・リタは鼻を鳴らした。「みんなで踊るのと、一人で舞台の上で踊るのとじゃ、大違いよ。ごめんだわ」
ルイスはため息をついて、黙りこんだ。マンガが終わり、今度はぶかぶかの白い衣装を着て、顔を真っ白に塗ったピエロが出てきた。鼻は丸くて赤いのだろうけれど、白黒の画面では真っ黒い泡みたいに見えた。眉は高いアーチ型に、口は大きくにやっと笑ったように描いている。ひだ飾りのえりをつけ、おかしな帽子をかぶっていたので、平らな紙のふたのついた牛乳ビンそっくりだった。「みなさん!」いつも心臓発作を起こす寸前のような声でしゃべるアナウンサーが言った。「みなさんのお友だち、ピエロの魔術師、クリーミーです!」
「どうも」クリーミーはがらがら声で言った。カメラがひいて、クリーミーが七歳か八歳くらいの女の子の横に立っていることがわかった。「今日は、お手伝いをしてくれるお友だちがいます!」
「あの子、死ぬほど怯えてるわ」と、ローズ・リタ。
クリーミーはマイクを小さな女の子に向けると、名前をきいた。
「エディス・アラベラ・エリザベス・ボニー・マクピータース」女の子はもじもじしながら答えた。
「なんと!」クリーミーは叫んだ。「パパとママは、どこでとめたらいいかわからなくなっちゃったのかい?」
エディスはうなずいて、にっこりした。前歯が二本、抜けていた。
「さてと、エディス・アラベラ・エリザベス・ボニー、きみ、花は好きかい?」
女の子はすうなずいた。
「よかった!」クリーミーは言った。だれかがクリーミーに新聞紙を渡した。クリーミーはそれを掲げると、くるりとひっくり返し、カメラに向かって新聞紙の表と裏を見せた。音楽が鳴りはじめた。店舗の速い〈剣の舞〉の曲だった。クリーミーは新聞紙をさっと振って広げると、くるくると巻いて筒の形にして、エディスに渡した。「持っていて」ピエロは言った。音楽が一瞬止まり、クリーミーはカメラのほうを向いた。「さあ、よいこのお友だち、魔法の呪文をとなえてください!」
スタジオにいる子どもたちがいっせいにどなった。「ツイン・オークス牛乳は、ぼくらの牛乳!」
「わあ!」エディスが叫んで、目をぱちくりさせた。新聞紙の筒からデイジーの花束が飛び出したのだ。楽団がジャジャジャーンと陽気な音楽を鳴らした。
「きれいな花束をどうぞ」クリーミーはがらがら声で言って、笑った。女の子はうなずいて、花束をしっかりと胸に抱えた。女の子の頭をなでると、クリーミーはカメラのほうを向いた。「さあ、では、よいこのお友だちに、ツイン・オークス乳業からのお知らせです!」
ルイスはさっと立ちあがって、テレビを消した。「これだよ!」ルイスは勝ち誇った笑みを浮かべて言った。「これで問題解決だ!」
「ツイン・オークス牛乳が?』ローズ・リタは眉をあげた。「どういう意味?」
「牛乳じゃないよ、マジックのほうさ」ルイスは大きく腕を広げて、見えない観客に向かっておじぎをした。「マジックをするのさ!」
ローズ・リタは首を振った。「おじさんが許してくれないわよ」
「本当の魔法じゃないよ」ルイスはもどかしそうに言った。「舞台の上でやるマジックさ。ピエロのクリーミーみたいな。ロープとか輪とかを使う芸だ。なんだっけ、手品だ! ぼくが手品師で、きみが美人のアシスタントをやればいい!」
「うーん」ローズ・リタは体を起こして、ずれためがねを直した。いやいやながらも考えはじめたようだった。「どうかな――いいかもしれない。なにか手品は知ってるの?」
ルイスは穴のあいた風船みたいにしぼんで、床に座りこんだ。「ううん」ルイスは認めた。「実は知らないんだ」
「おじさんにきいてみればいいわ」ローズ・リタは言った。「PTAの集会で、マジック・ショーをしていたじゃない。みんな、あれは魔法じゃなくてただの手品だって思ってたわ」
「実際に、なかには、魔法じゃない手品もあったかも」ルイスは思い出しながら言った。「おじさんにきいてみたことないんだ」
ちょうどそのとき、ジョナサン・バーナルヴェルトが食堂からよく響く声で言った。「子どもたち! 食事だぞ! さっさとこないと、ブタにやっちまうぞ!」
「そんなこと、許しませんよ、ひげもじゃじいさん!」ツィマーマン夫人のカンカンに怒った声が聞こえた。「熱いコンロのそばでがんばったっていうのに!」
「いこう」ルイスはにやりとして言った。そして二人はわれ先にと、食堂へ向かって走っていった。
ルイスはツィマーマン夫人の料理の才能についてはじゅうぶん知っていたけれど、それにしても今晩の料理は最高傑作だった。こんがりと焼けた肉汁たっぷりのローストは、まさに口のなかでほろほろととろけるようにやわらかかったし、つけあわせのバターたっぷりのマッシュポテトも、ぱさぱさでもなくべちゃべちゃでもなく、ちょうどよい加減だった。ジョナサンおじさんはおたまでマッシュポテトの山のてっぺにくぼみを作り、そのなかにこってりとした肉汁をたっぷり注ぎこんだ。ツィマーマン夫人はニンジンのグラッセと、グリーンピースと小タマネギのつけあわせ、それからデザートの大きなアップルパイまで作ってくれていた。「今夜のごちそうは、新学期のお祝いよ」ルイスとローズ・リタがおいしそうに食べているのを見て、ツィマーマン夫人はうれしそうに目を輝かせながら説明した。「今が人生でなかなかたいへんな時期だってこともわかってるけど、やっぱりお祝いするべきだと思ったの」
「最高においしいよ、紫ばあさん」ジョナサン・バーナルヴェルトは言って、くすくす笑いながらおなかを叩いた。「だが、これから一週間、気をつけないとならんな。タバコをやめてから、体重が増えてるんだよ」
「なら、今日はたっぷり、明日はさっぱりでどうぞ」ツィマーマン夫人はスパッと言った。ツィマーマン夫人はほっそりとした老婦人で、くしゃくしゃの白い髪に紫の小花模様のワンピースを着ていた。紫色が大好きで、家じゅう、じゅうたんから壁紙からトイレットペーパーにいたるまで、紫のものだらけだった。「ニンジンのおかわりはどう、ローズ・リタ?」
しばらくの間、ルイスはすばらしいごちそうに夢中だった。けれどようやく、おじさんがこんがりと黄金色に焼けたアップルパイを持って入ってくるのに見とれているとき、ローズ・リタがテーブルの下で足を蹴っているのに気づいた。ルイスは驚いてローズ・リタを見た。ローズ・リタは口だけ動かして「きいて」と言った。
ルイスはコホンと咳払いをした。「あの、ジョナサンおじさん、おじさんはなにかマジックを知ってる? 手品のことだよ」
ジョナサンおじさんは赤毛の眉をあげると、小さいお皿にパイを一切れとって、ローズ・リタにまわした。「ああ、少しはな」おじさんは言った。「ちょっと気の利いたトランプの手品ならできるよ。ほんものの魔法は使わんやつだ。どうしてだね?」
ルイスは、自分とローズ・リタの抱えている問題について説明した。ツィマーマン夫人は首を振って、ため息をついた。「それも、昔学校で教えていたとき、いやだったことなんですよ。生徒をむりやり舞台にあげて、みんなの見ているまえでなにかをさせるなんて」ツィマーマン夫人は言った。「そりゃね、度胸や自身をつけるにはいいんだと思いますよ。だけど、思いやりがなさすぎる気がするんです。みんながみんな、舞台の上で光るような才能を持っているわけじゃないもの。なかには、もっと静かでおとなしい子もいるんですから」
「フム」ジョナサンおじさんは言った。「わしも同じ意見だな。だが、そうだからといって、問題が解決するわけじゃない。タレント・ショーは昔からの伝統だし、先生ってもんは伝統をかえるのを嫌がるからな。それで、おまえさんたちはマジック・ショーをやろうと思いついたわけだな?」
「うん。だけど、ただの手品だよ。ほんものの魔法じゃなくて」ルイスはあわてて言った。
「それがいい」おじさんは言った。「本当の魔法っていうのは、おまえさんがよく知ってのとおり、面倒なことになるばっかりだからな。フローレンス、ルイスとローズ・リタはロバート・ハードウィック氏に相談するのがいいと思うが、どう思うかね?」
ツィマーマン夫人の明るい青い目が輝いた。「いい考えだわ、もじゃひげさん! 出し物を考えるのを手伝ってもらうとしたら、この町ではまさしくボブ・ハードウィックが適任だわ!」
「どういう人?」ローズ・リタはきいた。「聞いたことない名前だけど」
ジョナサンおじさんはね笑いながらルイスにパイを一切れまわした。「ボブ・ハードウィックは元新聞記者で、アマチュアの手品師なんだ。ロープや鉄の輪を使って、すばらしいトリックができるんだよ。よく学校に呼ばれて、やっていたんだ。大奇術師マーカスと称してね。だが、数カ月前に引退して、デトロイトからニュー・ゼベダイに引っ越してきた。ボブは、魔法に関する記念品の収集家でね。フーディーニのポスターの原画からあのブラックストーンがショーで使った小さな大砲まで、いろいろと持ってるんだ。そうした収集品を、中心街のユーグスター醸造所のあった建物に持ってきて、博物館を開くつもりなんだよ」
ツィマーマン夫人は片目をつぶった。「ハードウィックさんは、あなたのおじさんのことも手品師だと思ってるのよ」ツィマーマン夫人は打ち明けた。「だから、ハードウィックさんに会っても、〈カファーナウム郡魔法使い協会〉のことは秘密にしておいてね。ハードウィックさんは本物の魔法使いや魔女がうようよいるなんて夢にも思っていないんですから」
ルイスはうなずいた。ルイスはこれまでもずっと、おじさんの魔法の趣味のことはないしょにしてきた。何年か前に一度だけ、タービー・コリガンという友だちに感心されたくて、おじさんに魔法を見せてくれるように頼んだことがある。けれど、あいにくタービーは、おじさんが月を欠けさせるのを見て怖がり、ルイスは友だちをなくしてしまった。〈カファーナウム郡魔法使い協会〉の会員をのぞけば、今ジョナサンおじさんとツィマーマン夫人が本物の魔法を使えることを知っているのは、ローズ・リタだけだった。運よく、ローズ・リタは二人が大好きだったし、魔法のことは話さないほうがいいということも心得ていた。
「よし」ジョナサンおじさんはツィマーマン夫人にパイを取りながら言った。「ボブに電話しておこう。明日は土曜日だから、町にいるはずだ。博物館のようすを、見せてもらえると思うよ。もちろん、どんな手品をすればいいかも、考えてくれるはずだ」
こうして、すべてが決まった。次の朝早く、ルイスとローズ・リタは町の中心街へ向かった。昔の醸造所はレンガ造りの建物で、ルイスはとても気に入っていた。古びた赤いレンガの壁にはコケが生え、礎石に渦を巻いたような数字で1842と彫られている。片側の壁にはビール樽のふたのような丸い窓が並んでいて、ひとつひとつがケーキのように四等分されていた。ユーグスター醸造所は何年も前に廃業していて、ルイスの記憶にある限り、ずっと空き家だった。正面の窓には内側から紙がはられ、玄関の扉には鎖が巻いてあり、南京錠がついていた。
ところが、土曜日の朝いってみると、醸造所はすっかり変わっていた。窓は朝日を浴びてきらきらと輝き、栗色のカーテンが金色の組みひもで端に止めてあった。右側の窓の内側には、昔ふうの鋼版の版画のついた長方形の厚紙の看板が置いてある。シルクハットをかぶった手品師が女の人を空中に浮かべているところで、女の人は板みたいに固くなって、宙に横たわっていた。版画の上には、華やかな飾り文字で大きくこう描かれていた。
魔法博物館
版画の下にも、もっと小さい活字でなにか書いてある。それを読みながら、ルイスはくすくすと笑った。
前代未聞、空前絶後の貴重なコレクション! この世に知られるかぎりの、手品、奇術、 まじない、いんちき、目くらまし、いかさま、ペテン、悪気のない愚行、なんでもあります! スリルと興奮の連続! 難問、奇問、珍問にどぎもをぬかれることまちがいなし! 目を見張るような驚異の体験、保証します! 牧師さんも坊さんもマスコミも、ためになる家族向けエンターテイメントと絶賛! 展示品のすばらしさに圧倒されてしまった場合には、無料で気づけ薬をさしあげます。すぐに、意識を取りもどせますのでご安心を。どなたも、さあどうぞ!
ロバート・W・ハードウィック
「ヒューッ!」看板を読んだローズ・リタの感想は、これだった。「ハードウィックさんは、ずいぶんと大きく出たものね」
ルイスは期待でぞくぞくした。「ハードウィックさんがなにかいいことを教えてくれるといいんだけど」そして、ドアを押してみた。ドアは勢いよく開いて、上のほうでベルがチリンチリンと鳴った。「こんにちは」
そこは、細長い部屋で、ありとあらゆる風変わりなものがところせましと並べてあった。ミイラの棺や、剣がぶっすりと刺さった薄い幅広のトランク、ふたが南京錠で締めてある巨大な亜鉛メッキ鋼の牛乳缶。棚はシルクハットやらステッキやら杖やら手錠やらでいっぱいだったし、壁という壁には手品師やそのショーのポスターがびっしりとはってあった。〈ヒンドゥー行者、賢人ラピーリ〉のビラもあったし、〈中国の奇跡、ロン・リー〉や、〈謎の男マークウィスと千の不思議〉のポスターもあった。電気が消えていたので、入口から一メートルほど先までしか見えなかった。ローズ・リタが「だれもいないみたい」と言った。
ドアの横にはミイラの棺が縦に置いてあったが、高さが二メートル近くあった。ふたに彫られた顔は残忍で、眉間にしわがより、鼻はワシ鼻で、悪意に満ちた口もとに、奇妙な四角いヤギひげを生やしている。けれど、ルイスの目を引いたのは、目だった。すると、まさに木のまぶたがゆっくりと開き、生気のない目がまっすぐルイスをにらみつけたのだ! ルイスはようやくネズミの鳴くような悲鳴をあげると、ローズ・リタの腕を引っぱって、棺を指さした。
「なによ? わあ!」ローズ・リタも、ミイラの棺を見ると体をこわばらせた。すると、唇が動きはじめた。
きしるようなおぞましい声で、棺に彫られた顔はたずねた。「わが三千年の眠りを妨げるのはだれだ? 何者だ!」
ルイスは恐怖であえいだ。
一瞬間をおいて、棺の顔はため息をついた。「名前を言ってくれればいいんだ。そうしたら、二階へこい、と言えるだろ。これもトリックなんだよ。電気モーターとマイクとスピーカーがついているのさ。ルイスとローズ・リタだね?」
ローズ・リタが先に立ち直った。「ええ、そうです」
「じゃ、あがっておいで」棺の顔のまぶたがカチッと閉じた。が、またぱっと開いた。「電気のスイッチは、ドアの左側にある。二階にあがるまえに、ドアを締めいてくれ。まだ正式にはオープンしていないからね」そしてまた、カチッと閉じた。
ルイスが電気をつけ、ローズ・リタがドアを閉めると、鍵がガチャッと大きな音をたてて閉まった。右側に階段があるのが見えたので、あがっていくと、四人の男の人たちがテーブルを囲んで、トランプをしていた。二人が歩いていくと、男の人たちはにっこり笑った。一人、やせて灰色の縮れ毛をした、六十歳くらいのめがねの男の人が立ちあがった。「驚かせてすまなかったね」そう言って男の人は、ひしゃげた野球のボールみたいな銀色のマイクロフォンを見せた。「つい、誘惑に勝てなくて」そしてマイクロフォンを置くと、ルイスと握手した。「ルイス・バーナヴェルトくんだね?」
「そうです」ルイスは答えた。「こちらがローズ・リタ・ポッティンガー」
「よくきてくれたね」男の人は言った。「ロバート・ハードウィックだ。こちらがわが最愛の妻、エレン。わたしがこの博物館の持ち主だ。ボブと呼んでくれ。こっちにいるのが、土曜日のポーカー仲間だ。紹介させてもらうよ。クラレンス・ムッセンバーガー、トーマス・パーキンズ、ジョニー・ストーン」
一人一人が立ちあがって握手した。ムッセンバーガーさんはずんぐりした丸顔の男の人で、陽気そうな茶色い目をしていた。なんとなく、どこかで見たような顔だ。パーキンズさんはとても背が高くやせていて、黒い髪のあちこちにある白髪が目立っていた。ストーンさんはびっくりするほど背が低かった。ルイスよりも低い。目はいたずらっぽく光り、二重あごで、頭はほとんど禿げあがり、灰色の髪がかろうじて周りに残っていた。
「さてと」ハードウィックさんはルイスとローズ・リタに折りたたみいすを出しながら言った。
「おじさんのジョナサンから、きみたちが困っていると聞いたよ。おじさんに、ようやく三本のロウソクとスペードのエースの手品のトリックがわかってきた、と伝えておいてくれ。それはそれとして、問題っていうのはなんだい?」
ルイスはちょっと決まり悪く感じながら、ハードウィックさんにつかえつかえ事情を説明した。
「それで、ローズ・リタとぼくは、マジック・ショーをやったらどうだろうって考えたんです」ルイスは説明を終えると言った。
ムッセンバーガーさんがコホンと咳払いした。「短い時間でできるいいネタが五ついるな」
ローズ・リタは目をぱちくりさせた。「うそ! おじさんはテレビに出ていたピエロのクリーミーね!」
男の人たちはどっと笑ったが、ムッセンバーガーさんは真っ赤になった。「黙れ、とんまども」ムッセンバーガーさんは仲間たちに言った。「ふう、あんたの言うとおりだ。週に五日はピエロの魔術師クリーミーとして、〈ツイン・オークス乳業〉で働いとる。だが、週末はただのクレアさ」そして、仲間たちのほうにうなずいて見せた。「もちろん、ここにいる方々はクリーミーほど有名じゃないがな、紹介させてもらうと、パーキンズ氏はまたの名をパズル大王といって、トランプを使ってあっと驚く手品をするんだ。ストーン氏は、舞台の上ではボンディーニと名を変え、すばらしい縄抜けの名人と化す。鎖だろうと、鍵だろうと、牢屋だろうと、拘束衣だろうと、抜け出せないものはない!」
「もちろん、奥さんだけは別だけどな」パーキンズさんが言って、片目をつぶった。
「それを言うなら、次こそは、おまえさんが袖からエースのカードを出すところを見つけてやるからな」ストーンさんが言った。
みんなはまたどっと笑い、ルイスの緊張もほぐれてきた。
「さてと、ルイス、きみには専門家がたくさんついているわけだ」ハードウィックさんが言った。「ではみなさま、どうしようかね?」
「〈四角い丸《スクエア・サークル》〉がいい」ムッセンバーガーさんがさっそく言った。「あれならまちがえようがない」
パーキンズさんは考えこんだように長いあごひげをなでた。「フーム、〈中国の壷〉は? 〈空中浮遊〉? 両方とも美しいアシスタントがいるからね」
「〈恐怖のかご〉もある」ストーンさんは言った。「あれならみんなをうならせることができるぞ。ローズ・リタ嬢がかごに入り、ルイスが何本もの鋭い剣を突き刺す。そして剣を抜くと、ローズ・リタがまったくちがう衣装で登場するんだ!」
ハードウィックさんは両手をあげた。「ちょっと待った! みなさまはルイスとローズ・リタが四週間で準備しなくちゃいけないってことをお忘れのようだ。それに、凝った小道具を用意するのは無理だ」ハードウィックさんは立ち上がってドアを開けると、ルイスとローズ・リタに手招きした。「いいかい。この部屋にはわたしの集めたマジックに関する本のコレクションがある。七千冊以上あるんだよ!」そして、電気のスイッチをつけた。
ルイスとローズ・リタは図書館のように本棚がずらりと並んだ部屋に入った。脇にある二つの丸い窓から斜めに差しこむ光のなかに、細かいほこりが舞いあがるのが見えた。ハードウィックさんは背の高い本棚を指さした。「ここの棚には、舞台でやる簡単な手品についてのあらゆる本がある。二人で探して、よさそうな本を見つけたら、五、六冊お貸ししよう。大事にしてくれるならね!」
「もちろんです」ルイスはすぐにうなずいた。
「よし」ハードウィックさんは言った。「じゃあ、三人のカモからまた巻きあげようとするか。もう二十五セントも勝ってるんだ」そして、三人が「カモ」と呼ばれたことに抗議しているのもかまわず、バタンとドアを閉めた。
しばらくの間、ローズ・リタとルイスは、そこにある本をただぼうぜんと眺めていた。それから、興味をそそられる題名の本を探しはじめた。たとえば、『日常的な材料を使ってできる化学的魔法』とか、『読解:マッチとコインとひもを使ってできる手品』、『友だちをびっくりさせよう』などのたぐいだ。ルイスは何冊か取り出してページをめくり、数冊を手もとに残して、あとは元の場所に戻した。最終的に本を五冊抱えて顔をあげると、ローズ・リタがはなれたところにある別の棚の前にいるのが見えた。「そこの本はだめなんだよ」ルイスは言った。
「わかってるわよ」ローズ・リタは答えた。「見てるだけ。縄抜けの名人のフーディーニの本があるわ。こっちのはブラックストーンのよ。テレビで見たことがあるわ。ここにも、変な本がある」
ルイスは服についたほこりをはらいながら、ローズ・リタのほうへ見にいった。ローズ・リタが持っていたのは、羊皮紙をくるくると巻いた巻き物だった。色のあせた布の帯封がしてあって、文字が刺繍されている。ローズ・リタが声に出して読んだ。『マダム・フリッソン:死後の世界からの遺言』。
ルイスは首のあたりがチクチクするのを感じた。「いじらないほうがいいよ」ルイスは不安げに言った。
「まったく心配性なんだから。いじるんじゃないわ。読むだけよ。これなに?」ローズ・リタは帯封に小さなポケットがついいているのに気づいた。なかから、黄ばんだ紙の包みが出てきた。ローズ・リタは巻き物を腕にはさんで、包みを開きはじめた。ルイスはおそろしいような気持ちでじっと見つめていた。
「なんだい?」ルイスは、乾いてかすれた声できいた。
「灰色の粉みたい」ローズ・リタは言った。「小さじいっぱいぶんくらいしかないけど。痛い!」ローズ・リタはビクンとして手を引っこめ、包みを落とした。が、包みはそのままぺたんと床に落ちたので、中身はほとんどこぼれなかった。
「どうしたの?」ルイスはぎょっとして、危うく本を落としかけた。
「紙で切ったの」ローズ・リタは指を振りながら、顔をしかめた。それからしゃがんで包みを拾ったが、そのとき指から真っ赤な血が言って木、灰色の物質の上に落ちた。
ルイスははっと息をのんだ。粉がシュウシュウと音をたてながら泡立ちはじめたのだ。にごった茶色の蒸気がたちのぼり、クモの糸のような奇妙な筋になってただよっていった。あっというまに粉全体がジュージューと赤茶色の泡をたてながら煮えたぎって、液体となり、それからみるみるうちに縮んで、豆粒くらいの小さな黒い球になった。まるで黒檀で作ったボタンのように真っ黒で、つやつやしている。ローズ・リタは一瞬、ためらってから言った。「ななにこれ? 黒真珠の粒みたい」そして、手を伸ばして球をとろうとした――
けれど、次の瞬間キャッと叫んで、手を引っこめた。黒い球がひょろ長い足を生やし、本棚の下に逃げこんだのだ! ルイスは首をしめられたような悲鳴をあげた。ローズ・リタの血が粉を生きたクモに変えたのだ!
ルイスとローズ・リタはドアのほうへ後ずさりしていった。ルイスは左手に本を抱えたまま、右手をうしろに伸ばして、ドアノブを手探りした。おそろしい考えが浮かんだ。万が一冷たいぶよっとしたクモの体をつかんでしまったらどうしよう? クモには毒がある。クロゴケグモに噛まれて苦しみながら死んだひとの話しを聞いたことがあった。ほこりっぽい本のにおいで、息苦しい。のどをふさがれたようだ。ルイスは歯をぐっと食いしばり、カチカチ鳴らないように必死でこらえた。クモがうしろにいるわけがないじゃないか、ルイスは自分に言い聞かせた。部屋の反対側にある本棚の下に入りこむのを見たんだから。それに、小さいクモだから、先回りするのも無理だ。
うしろにいるかもしれないものより、実際本棚の下に入ったのを見たもののほうがこわかった。ルイスはノブをつかむとドアを開けた。ルイスとローズ・リタが転がるように部屋に入ってきても、手品師たちはゲームに熱中していて顔もあげなかった。「見つかったかい?」ハードウィックさんは、カードをにらみながらうわのそらできいた。それから手を振って言った。「よかった! ドアの鍵は勝手に閉まるから、そのまま帰ってくれていいよ。読み終わったら、返しにきてくれ」
ローズ・リタは急いで階段に向かい、ルイスもすぐあとに続いた。二人はどたばたと階段を駆けおりると、ローズ・リタが鍵を開け、明るい日差しのなかに飛び出した。ドアはがしゃんと閉まって、自動ロックがかちりとかかった。しばらくの間、二人は怯えた目を見合わせて、ハアハアしながら立ちすくんでいた。
やがて、聞きなれたニュー・ゼベダイの土曜の午前中の音が、二人を現実に引きもどした。シボレーやフォードが行き交い、郵便局の前でだれかの大きな茶色いラブラドール犬が、ぴょんぴょん跳ね回るリスに向かってワンワンほえている。向こうから自転車に乗った子どもがやってきて、ベルをチリンチリンと鳴らした。うまく逃げおおせたのだ。ルイスはほっとして、振るえながら深呼吸した。そのとき、ローズ・リタが腕に抱えているものが目に入った。「まだ持ってるよ!」ルイスはあっと驚いて叫んだ。
ローズ・リタは両手で巻き物を持つと、ごくりとつばを飲みこんだ。太陽の光のもとで見ると、巻き物はぼろぼろで汚らしく見えた。羊皮紙かそれに似たようなもので、折り目がついてくすんだ茶色になり、端がだいぶほつれている。糸巻きのように木の棒に巻きつけられていて、紫のベルベットの帯は虫に食われ、あせたえび茶色になっていた。刺繍された文字も、今はくすんだ黄緑色だが、かつては金色だったのだろう。「あんまりこわくて、握りしめたまま出てきちゃったんだと思う」ローズ・リタは、蒼ざめた顔でルイスを見た。「どうしよう?」
「ハードウィックさんに返さなきゃ」ルイスは言った。
ローズ・リタは唇を噛んだ。そして、ルイスを見て、ドアを見て、それから首を横に振った。
「ドアの鍵は締まっちゃったから、またノックしなくちゃ。きっと、ハードウィックさんは怒るわ」
「どうして怒るのさ?」ルイスはきいた。
ローズ・リタは腹を立てた顔でルイスを見た。「わたしが無断で持ち出したものの、急にこわくなったんだと思うかもしれないじゃない。すごく古そうだもの。きっと高価なものにちがいないわ」
ルイスは深く息を吸いこんだ。「じゃあ、今度本を返すときに、いっしょにこっそり戻せば? 本棚には山のように本があったから、一週間かそこら、小さな巻き物がひとつくらいなくたってハードウィックさんは気づかないよ」
「もし気づいたら?」ローズ・リタはうめいた。「ルイス、これはあなたの持ってる本とはちがうのよ。この巻き物には本物の魔法がある。わたし、いやだわ」
ルイスは浮かない顔でうなずいた。本物の魔法がいやなのは、ルイスも同じだった。面白いのは、おじさんかツィマーマン夫人が、ちゃんと見ていてくれるときだけだ。本物の魔法は、何が起こるか予測がつかないし、命取りになることだってあるのだ。「だいじょうぶ?」ルイスは、ローズ・リタが右手の人差し指をじっと見つめているのに気づいてたずねた。
「さっき切ったところなんだけど」ローズ・リタは言って、ルイスに見えるように指を掲げた。指には、三日月が下を向いたような形の、小さな白い傷跡が残っていた。
ルイスは肌がぞわぞわっとするのを感じた。ルイスは、切り傷や刺し傷が大の苦手だった。傷から命にかかわる感染症の破傷風になることに、病的な今日糞《を持っていたのだ。「痛い?」
ローズ・リタは首を振った。「ひんやりしている感じ。まあ、血は出ていなしね」ローズ・リタは親指を傷でこすって、顔をしかめた。「巻き物の問題とは関係ないし」
ルイスは考えこんだ。こうして安全な外に出てみると、さっき見たと思ったことが果たして本当に起こったことなのか、疑わしくなってきたのだ。巻き物のなかに隠れていたクモが、落ちてきただけかもしれない。きっとあの粉も、プロモセルツァー(水に溶かして使う水溶性の薬)みたいに、濡れると泡が出るものなんだ。とはいえ、魔法が関係しているかもしれないときに、油断してはいけないのはわかっていた。「じゃあさ、ツィマーマン夫人にこの巻き物を見てもらおうよ。ツィマーマン夫人ならきっとどうすればいいかわかるさ」
「それで、またいらないところに鼻を突っこんでるって思われるわけ?」ローズ・リタはつっかかるように言った。「ツィマーマン夫人はわたしの親友で、大人なのよ。わたしがやったことを知ったら、最低だと思うわ」
ため息をついて、ルイスは言った。「わかったよ。なら、来週末までどこかにしまっとけばいいさ。それで、こっそり返せるかやてみよう。ね?」
「そうね」とうとうローズ・リタはうなずいた。「いやだけど、ほかになにも重いつかないし。ハードウィックさんは気づきそうもないしね。でもまだ、泥棒したみたいな気がするわ」
「盗んだわけじゃないさ」ルイスは指摘した。「ちょっと借りるだけだよ。読む気もないんだから」
「たしかにね」ローズ・リタは言った。
ローズ・リタの家に着くと、ローズ・リタはなかに駆けこんでいった。そして二、三分して戻ってくると、言った。「部屋に隠しておいたわ。博物館にこっそり返すまで、思い出すのもいやなの。さあ、いこう。あなたの家出、出し物をどうするか、真剣に考えなくちゃ」
ハイ・ストリート一〇〇番地の家で、ルイスとローズ・リタは書斎机に座って、本をぱらぱらとめくりながら、いい手品を探した。最終的に、二人はこれならうまくできそうだという手品を四つ、選びだした。ひとつめは、くしゃくしゃに丸めた新聞紙から生きたウサギかハトを出すというもの。ふたつめは、ルイスがローズ・リタを空中浮遊させるもの。シーツをかけられたローズ・リタが、すうっと持ちあがって空中に浮かんでいるように見えるのだけれど、実際はローズ・リタがにせの足を体の前に伸ばすように持つのだ。木の箱か段ボールが二個、手に入れば、片方の箱に入ったローズ・リタが消えてもうひとつの箱から出てくるという、三つめのすばらしい手品をやることができる。四つめの手品は、鏡とイスと剣を使って、ローズ・リタの頭が体から離れて空中に浮かんでいるように見せる、というものだった。
「この道具をぜんぶ、そろえられるかな?」ローズ・リタがきいた。
「たぶんね。ウサギとハトのことはわからないけれど、学校に何人か、農場に住んでいる子がいるだろ。ヒヨコかアヒルのヒナなら貸してもらえるよ。それで、うまくいくと思う。にせの足は、きみの古いジーンズと古い靴とほうきで作ればいい。大きな箱は、ジョナサンおじさんがくれると思う。剣も、おじさんのおじいさんが南北戦争に持っていった剣を化してくれるさ。鏡は、ツィマーマン夫人の家に山ほどいろんなのがある」おじさんに頼めば、衣装も貸してもらえるかもしれない、とルイスは思った。タキシードでもいいし、中国かインドの派手な民俗衣装でもいい。頭にターバンを巻いて、謎の長老《シャイフ》、アルマジャと名乗るのはどうだろう。そうしたら、ローズ・リタも衣装を着るほうがいい。二人はなにがいいか考えた。ルイスに合わせてタキシードか、インドの女性が着るハーレムパンツばどうだろう。「二着いるわ」ローズ・リタが指摘した。「わたしが着るぶんと、にせの足に着せるぶん」
こうして、ぜんぶ決まった。ローズ・リタが帰るころには、ルイスはだいぶ気も晴れていた。クモが現われたときの衝撃は薄れていたし、タレント・ショーの問題も解決して、すべてがいい方向に向かいはじめたような気がしていたのだ。少なくともルイスはそう思っていた。
帰り道、ローズ・リタはいろいろなことを考えながら、のろのろと歩いていた。その間もずっと、親指で白い傷の上をこすっていたけれど、傷のあるところはひんやりとして感覚がなかった。太陽がさんさんと照っているにもかかわらず、あたりの空気も傷と同じようにひんやりとしていた。まるでベールが降りてきて真っ青な空を曇らせ、九月の日差しをかげらせているような感じだ。ローズ・リタは、本当はここにいなくて、家に帰る夢を見ているだけのような、ふしぎな感覚に襲われた。気分も最低だった。ローズ・リタは中学がきらいだった。ほかの女の子たちの話すことといったら、ひとつだけだ。男の子、男の子、男の子! ローズ・リタが、ルイスみたいに背が低くて太っていて運動も下手な男の子と出かけていることをからかう子もいたし、ほかの女の子たちがいじわるなことを言っているのも知っていた。女の子たちは陰でローズ・リタのことを「でんしんばしら」とか「めがね」とか呼んでいた。
不公平だ。ただ骨が長くて、髪がまっすぐで、近眼に生まれただけなのに。まるでわたしが同じ人間じゃないみたいに言うなんて! このごろ、なにがなんだかわからなくなるときがある。今までずっと大事だと思ってきたもの――歴史や野球や友だちのことが、子どもじみたくだらないことに思えて、すてきな髪や格好いい服を着ていることのほうが大人っぽく感じるのだ。それでも、映画俳優や歌手やデーヴ・シュレンバーガーのような子に夢中になっている女の子たちは、ひどく退屈に思えた。
おまけに、今ではそれでも足りないというように、部屋の靴下のしまってある引出しの底にあの巻き物が入っているのだ。紙で指を切ったときの鋭い痛みと、クモが現われたぶきみな光景がよみがえってきた。ローズ・リタは不安になった。やっぱりルイスが言ったとおりだったかもしれない。ツィマーマン夫人に巻き物のことを話したほうがいいかもしれない。ツィマーマン夫人ならわかってくれる――
うわ! ローズ・リタはぴたりと足を止めた。目に見えないクモの巣に突っこんでしまったのだ。ローズ・リタは必死で顔をこすって、頬にくっついたねばねばしたクモの糸をとろうとした。でも、なにもないのだ。少なくとも手にはなにも触れなかった。
なのに、まるで口は糸が張られたように、むずむずする。パニックが襲ってきた。なにか魔法の糸みたいなものだったらどうしよう? 博物館で見たクモとなにか関係があったら? 「言いません!」とうとうローズ・リタは叫んだ。すると、少し落ち着いたが、恐怖は完全には去らなかった。
ローズ・リタは何度も手のひらで顔を払いながら、急いで家まで帰った。それでも、糸の感触をぬぐいさることはできなかった。その感覚は夜まで続いた。夕食のあとはいつも、ローズ・リタのパパのジョージ・ポッティンガーはひじ掛けいすに寝そべり、デトロイト・タイガースの野球中継を聴くのがお決まりだった。ふだんはローズ・リタもいっしょに聴くのだけれど、今夜はそのままのろのろと二階へあがっていった。
その晩、ローズ・リタは早くベッドに入った。ぐったりと疲れていたけれど、眠れなかった。ママとパパが寝る用意をしているのが聞こえ、それから家は静まり返った。ベッドに横になりながら、ローズ・リタは叫び出したい気持ちにかられた。だれもわかってくれない。ママもパパもやさしくいいいひとだけれど、若いということがどういうことか忘れてしまっている。ローズ・リタの質問に、満足のいくように答えてくれたことはないのだ。母親のポッティンガー夫人はああでもないこうでもないと大騒ぎするだけだし、父親のポッティンガーさんは必ず「わたしが若かったときには、そんな問題はなかった」とはじめるのだった。
ジョナサンおじさんもルイスもいい友だちだったけれど、二人には、ごく普通の、ことによるときれいじゃない女の子として大人になっていくということがどういうことなのか、わかるはずもなかった。ツィマーマン夫人はいつも親身になって話を聞いてくれたけれど、言ってくれるのは「そのままのあなたでいなさい」ということだけだった。でも、それが問題だったのだ。ローズ・リタにはそのままの自分というのがどんな自分なのかはっきりとわからなかったし、どんなふうになりたいのかも、よくわからなかった。ローズ・リタは自分がかわいそうになってきた。涙で目がチクチクした。
いつのまにか眠っていたにちがいない。いつものふしぎな夢を見ていた。夢の中で、ローズ・リタは自分が夢を見ていることがわかっている。飛べるような気がして、気がつくと、ローズ・リタはニュー・ゼベダイのはるか上空を飛んでいた。下には、ワイルダー公園から近所の静かな町並みを経て、北へ向かって町がまるで縮尺模型のように広がっている。赤や黄色やだいだいの木々が見え、とおりが這うように伸び、ごくふつうの秋の風景に見えた。中学校の上までくると、知っている女の子たちが外に立って、笑いながらしゃべっている。いたずら心を起こして、ローズ・リタは自分が飛べることを見せびらかしてやろうと、どんどん高度を下げていった。女の子たちがこわがったとしてもかまわない。どうせ、夢なんだから。なにをしたって、実際、彼女たちが傷つくわけじゃないのだ。
すべるように下へおりていくと、女の子たちがいつものようにばかみたいにくすくす、きゃあきゃあ笑っているのが聞こえた。茶色い髪のスー・ゴットショークという女の子が言った。「ともかく変よ。やせこけた背の高い骸骨みたい!」
「ちがうわ」ローレンス・ミュラーが言った。「骸骨じゃないわよ。犬よ!」
女の子たちはどっと笑った。スーが言った。「いいこと思いついた。うちのパパが誕生日に子犬をくれるって約束したの。もしメスだったら、ローズ・リタって名前にしようっと!」
ローズ・リタは顔がかっと熱くなるのを感じた。わたしのことを話してるんだ! 女の子たちのなかにも、スーみたいに何人か友だちだと思っていた子がいたのに。ローズ・リタは縮んで消えてしまいたかった。このまま月まで飛んでいって、二度と戻ってきたくない!
「だめだ」息の交じったような、奇妙な女の人の声だった。「逃げてはいけない。おまえには力がある。その力を仕え。あのくだらないやつらに、教えておやり」
声の主の姿は見えなかった。ゆっくりと空で円を描きながら、ローズ・リタはたずねた「だれ?」
「おまえの友だちだ」ローズ・リタは、声が外からではなく、頭の中から聞こえてくることに気づいた。「下におりるんだ。やつらの一人をさらえ。スーがいい。思い知らせておやり!」
ローズ・リタはにやりと笑った。そうよ、思い知らせてやるわ! スーをかっさらって、死ぬほど怖がらせてやる。ローズ・リタはゆっくりと地面に向かって下りはじめた。それから、長く、つややかな毛の生えた腕を伸ばした――
八本の腕を!
ローズ・リタは自分の体を見て、恐怖のあまり悲鳴をあげた。ローズ・リタは飛んでいるのではなかった。クモの糸にぶらさがっていたのだ。体は巨大に膨れあがってボールみたいにまるくなり、青黒い毛で覆われていた。大きく開けた口から、悲鳴の代わりに、シュウシュウという音が漏れ、どろっとした緑色の毒液が滴り落ちた。
ローズ・リタは巨だなクモになっていたのだ!
ローズ・リタは転げまわって、ハアハアしながら目を覚ました。ぱっと毛布をはねのけると、ベッドから飛び出して、電気をつけた。部屋はいつもと同じだった。水槽を泳ぎまわってい金魚たちも、壁際の背の高い黒いたんすも、机の上に広げたままの数学の宿題も、同じだ。そしてローズ・リタ自身も、いつもと同じ、がりがりで背の高いローズ・リタのままだった。ローズ・リタは分別のある女の子だったから、夢のように本当でないことにいちいちくよくよするなんてばかばかしいと思っていた。けれども、今夜の夢のことは、思い出すだけでもぞっとして体が震えた。ローズ・リタは裸足のまま洗面所へいくと、水をいっぱい飲んだ。そして部屋に戻って、枕もとの時計を見ると、午前二時をすぎていた。
「本当だったら、眠いはずだけど」ローズ・リタはつぶやいた。「でも、すっかり目が覚めちゃった」そしてシーツと毛布のしわを伸ばした。ちょっと本でも読めば、眠くなるかもしれない。ちょうど、C・S・フォレスター作の、ナポレオン戦争時代の勇敢な海軍大佐の小説を読みはじめたところだった。ローズ・リタは本を取りにたんすまでいって、巻き物のことを思い出した。巻き物は、ローズ・リタの伸ばした手の数センチ先にある一番上の引き出しにしまってある。手がまるで意思を持っているようにそろそろと伸びて、引出しを開けた。ミニチュアのリトル・デュークのトランプと、デュリュークのチェス・セットと、ツィマーマン夫人がペンシルヴァニアにいったときに買ってくれた木彫りの農場と納屋のセットの横に、巻き物はあった。巻き物を出すつもりはなかった。ただ見て、そこにあるのを確かめたかったのだ。
ところがふと気づくと、ローズ・リタはベッドに戻って、枕をたてかけて寝そべっていた。ローズ・リタは、帯封から巻き物をそろそろと引き抜いた。ルイスと同じで、ローズ・リタも今では、あのクモは巻き物のなかに隠れていただけと考えるようになっていた。このあいだのように、またぎょっとさせられるのはごめんだ。羊皮紙はやわらかくほこりっぽく、ざらざらしていた。ローズ・リタは少しだけ広げてみた。端がすりきれてぼろぼろになっていたけれど、巻き物の状態はそんなに悪くはなかった。古い羊皮紙独特のかび臭いピリッとくる臭いがたちのぼった。いやな臭いではなかったけれど、なんとなく落ちつかない漢字がする。さらに繰り広げると、文字が現われた。
文字は手書きのように見えた。おそらく、黒のくっきりしたインクで書かれていたのだろうが、今ではあせてくすんだ茶色になっていた。乾いた血の色に似ている。ローズ・リタはそこに記された奇妙な文章を見て、目をぱちくりさせた。
当代一の偉大なる魔女
ベル・フリッソンの最後の遺言
それを読んで、ローズ・リタは変な気持ちがした。魔法博物館の窓にあったハードウィックさんの看板を思い出したのだ。看板の文句はだれが見たっておおげさで、冗談みたいなものだった。一種のほら話のようなユーモアがある。ところが、この巻き物の表題はちっともおかしくなかった。ベル・フリッソンなる人物がだれであれ、自分が当代一の魔女だと本気で信じていたにちがいない、とローズ・リタは思った。突如として、外の闇が濃さを増したように感じた。閉じた窓の向こうに、なにかがじっとひそんでいるような気がする。なかをのぞいて、ローズ・リタのようすをじっとうかがっているような感じがするのだ。
「落ちついて」ローズ・リタは自分に向かって言った。そして、巻き物を帯封に突っこむと、また靴下の下に隠した。ベッドにもぐりこんだあとも、ローズ・リタはなかなか寝つけなかった。しばらくして、ようやく落ちつかない眠りが訪れた。ローズ・リタは漠然とした夢にうなされて何度も寝返りをうったけれど、そのあとは朝まで目を覚ますことはなかった。
その週、ローズ・リタとルイスは学校が終わったあと、毎日練習した。最初の手品では、ルイスが主役になる。それから次はローズ・リタが主役になって、手品を見せることにした。まず二人はステージにあがり、ルイスが自己紹介をするそれからローズ・リタは、ステージの上の低い台から新聞紙を取って掲げ、観客に裏と表を見せる。それからもう一度たたんで、ルイスに渡す。
ルイスは新聞紙を受け取ると、高くかかげながら広げ、魔法の呪文をとなえる。それからくしゃくしゃにまるめて玉にする。そしてみかんの皮をむくように髪を破いていくと、なかから生きたハトが(この場合ヒヨコかヒナだけれど)現われる、という寸法だった。少なくとも、そうなるはずだ。ところが、練習で仕えるような、生きた動物はいなかった。
かわりにルイスは、ヒヨコの代役を使って、うまくできるようになるまで練習した。代役というのは、おじさんの白い靴下に別の靴下をたくさんつめて作ったものだった。手品じたいはそんなにむずかしくはなかった。マジックの本によれば、手品を成功させる秘訣は、観客の注意をそらすことだ。つまりルイスは、実際に種があるところとは別のところに仕掛けがあると観客に思わせなければならない。この場合、観客はローズ・リタがステージの上を歩き回って見せびらかしている新聞を熱心に眺めるはずだ。ローズ・リタは新聞を開いて表と裏を見せ、さらにひらひらと振ってみせる。けれど本当は、新聞じたいにはなんの仕掛けもないのだ。
実際には、ルイスがハンカチと丈夫な黒いひもで作ったブランコのような形をしたものが仕掛けだった。ローズ・リタが新聞を見せているあいだに、ルイスは黒いひもの輪をふたつ、右の親指にひっかけ、ハンカチに包んだヒヨコの代わりの靴下を、右ひじで押さえてわき腹にはさんでおく。たっぷりした洋服が、隠してくれるはずだ。そして、新聞紙を広げたとき、ひじをはなして、靴下をひっぱりだす。新聞紙が開いているので、観客には見えない。それから新聞紙をくしゃくしゃにまるめて、うまく靴下を包みこむ。そして新聞紙の玉を掲げて見せたときに、こっそり親指のひもをはずす。それから紙を破いて、にせのヒヨコを取り出すのだが、そのときハンカチと黒いひもは新聞紙の中に入れたままにしておけばいいのだ。観客は生きた鳥が出てきたことにすっかり驚いているはずだから、新聞紙のことなんてもう思い出しもない。少なくとも、そう本には書いてあった。
ルイスとローズ・リタは何度か練習してから、ジョナサンおじさんにやって見せた。おじさんは、自分の古靴下が魔法のように新聞紙のなかから出てくると、大笑いした。「下着じゃなくて助かったよ!」おじさんは言って、にっと笑った。
衣装の代わりにバスローブを着たルイスは、くすくすと笑った。「本当はヒヨコのはずなんだ」ルイスは説明した。
「なるほど、すっかりしてやられたよ」ジョナサンおじさんは言った。「ローズ・リタ、うまいこと、新聞紙を見せたな。そっちになにか仕掛けがあると思いこんでたよ」
「ありがとう」ローズ・リタは言った。
ルイスは落ちつかない気分でローズ・リタをちらりと見た。その週、ローズ・リタはずっとようすがおかしかった。夢のなかにいるみたいにぼんやりとして、心ははるか遠くにあるようだった。でも、学校ではいつもどおりちゃんとやっていたし、手品をまちがえるようなこともなかった。
木曜日に、二人はツィマーマン夫人の家に遊びにいった。ツィマーマン夫人が衣装を縫ってくれていたのだ。ルイスは、額のところに大きな孔雀の羽のついた銀色のターバンを巻き、表が黒で裏が紫の短いベルベットのケープをはおって、ゆったりとした紫のチュニックとやはりゆったりとした緋色のズボンをはくことになっていた。おまけにツィマーマン夫人は、ターバンとおそろいの布で靴の覆いまで作ってくれていたので、これをつければ、つま先がくるりとまいたペルシアの上靴をはいているように見えるはずだった。ローズ・リタは、そでなしの紫の衣装だった。ツィマーマン夫人は、金の糸でできた網におもちゃの真珠を通して頭飾りも作ってくれた。さらに、華やかな紫のベールまであった。
「きっと二人とも、東洋の物語に出てくる謎の人物みたいに見えますよ」ツィマーマン夫人はサイズを測って、下書きを終えるとにっこりして言った。ツィマーマン夫人は絵が上手だったので、二人が衣装をつけたところを描いて、見せてくれた。そして、じっとしていたごほうびに、いつものとびきりおいしいチョコレートチップ・クッキーとミルクをごちそうしてくれた。クッキーをもぐもぐやりながら、ルイスはケープをたっぷりめに作ってくれるよう頼んだ。そうすれば、最初の手品のときに、その下にヒヨコを隠しておけるからだ。ローズ・リタはただ絵を見て、うなずいただけだった。クッキーとミルクにも手をつけなかったので、ツィマーマン夫人はちょっと心配そうな顔をした。「ローズ・リタ、具合が悪いの?」
ローズ・リタの顔が真っ赤になった。「みんな、わたしのことを心配するのはやめてよ!」ローズ・リタはつっかかるように言った。「ママはなにかおかしいと思ってるし、ルイスはわたしが転がって死ぬんじゃないかと思ってるみたいな目で、しょっちゅう見るし、今度はツィマーマン夫人まで! わたしはなんともないわ!」
ツィマーマン夫人はびっくりしてローズ・リタを見つめた。「まあまあ、ローズ・リタ! そんな言い方しないでちょうだい」
ローズ・リタはうなだれて自分の足を見た。「ごめんなさい」ローズ・リタは蚊のなくような声で言った。「疲れてるの。それだけ」
そのあと、ローズ・リタが家に帰ってしまうと、ルイスはツィマーマン夫人にたずねた。「具合が悪いのかな?」
ツィマーマン夫人はテーブルの上に広げた布をたたみながら、考えこんだようにあごを指で叩いた。「どうかしらね」ツィマーマン夫人はゆっくりと口を開いた。「たしかにローズ・リタはいつもの元気なローズ・リタじゃないわ。だけど、女の子にとって今は微妙な時期なんですよ。今まで感じたことのないような気持ちを感じているんだと思うわ。それに、ローズ・リタは自分がどう思われているかってことに敏感ですからね。学校で女の子たちにからかわれてるのかもしれないわね」
ルイスは憤慨した。「どうしてそんなこと? ローズ・リタは最高なのに!」
ツィマーマン夫人は肩をすくめて悲しそうに微笑んだ。「あなたにはそれがわかっているし、わたしもわかってる。だけど、本人は自信がないのよ。ほかの人と少しちがう人は、からかわれやすい。クラスの子がわざとひどいことをしてるとは思わないわ。ただ、なかには、考えなしがいるんですよ。ローズ・リタは、あなたのような友だちがいて、ついてるわ。ローズ・リタなら、いろいろなストレスや試練を乗り越えると思うけど、たまには、悲しくなったりふさいだりすることも必要なんですよ。さあて、ペルシアの靴に銀の鈴をつける? それともそのままがいい?」
次の土曜日までに、ルイスは四つの手品のやり方をまちがいのないようにぜんぶ写した。そして朝ごはんのあと、本を返しに街へ向かった。あたりは涼しく、もう秋はすぐそこだった。赤い格子のフランネルのシャツの上にウィンドブレーカーを着ていたけれど、それでも風が顔に吹きつけてくると、肌寒く感じた。ルイスは早足で坂をくだると、ローズ・リタの家にいった。ローズ・リタは、おじさんからお下がりでもらっただぶだぶのノートルダム大学のジャケットを着ていた。
「持ってきた?」ルイスはきいた。
ローズ・リタはうなずいて、ジャケットのファスナーを開けた。なかに巻き物が隠してあった。「やっとやっかいばらいができる」ローズ・リタはぼそっと言った。
ルイスは、うんとしか言えなかった。ローズ・リタはひどい顔をしていた。目には黒いクマができていて、怯えたようなびくびくした表情が浮かんでいる。おまけにやせたようだった。二人は、どちらも黙ったまま、街へ向かった。
二人が着いたのは、ちょうどいい時間だった。魔法博物館の前で、まさに鍵を鍵穴に差しこもうとしているハードウィックさんに会ったのだ。ハードウィックさんは顔をあげると、にっこりした。「ルイスとローズ・リタじゃないか! よくきたな! 二階へ本を持っていこうか?」
「いいえ」ルイスはあわてて言った。「自分たちで戻します」
ハードウィックさんはドアを開けた。「さあどうぞ! ありがとう、ルイス。助かるよ。いい手品が見つかったかい?」
「ええ」ルイスは答えた。「すごくいい出し物になりそうです」
それまで一言もしゃべらなかったローズ・リタが突然、言い出した。「ハードウィックさん、ベル・フリッソンってだれですか?」
ハードウィックさんは電気をつけると、振り返って、ふしぎそうな顔でローズ・リタを見た。
「ほう、どこでその名前を聞いたんだい? 彼女のことを覚えている人なんていないと思っていたよ」
「その、古い本のなかで見つけたんです」ルイスが言った。
ハードウィックさんはうなずいて、ずり落ちためがねを直した。「ちょっと待ってくれ。なにか思い出せるかな?」ハードウィックさんは何度か舌を鳴らした。「うーん、そうだ、まず彼女の本当の名前はエリザベス・プロクターといったんだ。フォックス姉妹については、知っているかい?」
ルイスとローズ・リタが首を振ると、ハードウィックさんは言った。「二階へおいで。話してあげよう」二人はハードウィックさんについて二階へあがった。ハードウィックさんはそこの電気もつけると、ルイスたちに座るように言った。二人は、トランプ用テーブルの周りに置いてあるすわり心地のいイスに座った。ハードウィックさんが言った。「まずわかっておいてほしいのは、フォックス姉妹は、百年前にはかなりの評判だったってことだ。一八四八年、ニューヨークの町、ハイデスビルがはじまりだった。当時マギー・フォックスは十五歳、ケイティ・フォックスは十二歳だった。二人は、夜中におかしな音が聞こえると言い出したんだ。ポルターガイストは知っているかい?」
ルイスはまた首を振ったけれど、ローズ・リタは言った。「幽霊の一種でしょ?」
「そのとおり」ハードウィックさんは言った。「ドイツ語で、うるさい幽霊≠チていう意味なんだ。さて、マギーとケイティは、そのドシンドシン音を立てる幽霊に質問をすると答えてくれる、と言いはじめた。一回は「はい」で、二回が「いいえ」だと言う。やがて、二人はアルファベットの暗号も作った。そして長女のレアも入って、三人で霊媒として注目を集めはじめたんだ。つまり、死んだ人の幽霊が質問に答えるというふれこみで、交霊術の会を開いたんだな。姉妹たちは世界的に有名になった。こうしてエリザベス・プロクターも、姉妹の交霊術を見るにいたったわけだ。当時、エリザベスは売れない女優だった。エリザベスは、さっそくジョージア州のサヴァナにある故郷に戻って、本人いわく古代エジプトの魔術をもとにしたという、魔術のショーをやりはじめたんだ。いかさまのポルターガイスト現象でいっぱいのね。これはあたった。一八五五年から一八七八年に他界するまで、エリザベスはベル・フリッソンの名前で全国を興行した」
ローズ・リタは眉をひそめた。「本当に幽霊と交流したわけじゃないのね?」
ハードウィックさんは思い切り笑った。「それを言うなら、フォックス姉妹だって同じさ。結局は、ぜんぶペテンだったって白状したんだ。ベル・フリッソンには本当に魔力があったと思っている人間も多いが、わたしは演技の一部だったと思うね。彼女について一章をさいている本を持っているが、その本の作者は半分信じていたみたいだな。だから、そのぶん、割りびいて呼んだほうがいい」ハードウィックさんはいったんそこで黙って、考えこんだ。「そうだ、もしいってみたければ、ベル・フリッソンの墓がある。ここから三十キロほどいったところにあるんだ。クリストバルのすぐそばの墓地だよ」
「クリストバルって?」ルイスがきいた。
「ああ、ここから南西にある小さな農村だ」ハードウィックさんは言った。「あそこの墓地は小さいが、かなりめずらしい。なにしろ、手品師が五、六人も埋葬されてるんだから」ハードウィックさんは立ちあがった。「本を探してあげよう。そのあいだに借りていた本を戻しておいてくれるかい?」
となりの部屋に入ると、ルイスは本を棚に戻しはじめた。ハードウィックさんははしごにのぼって、頭より高いところにある棚か本をとろうとした。そのすきにローズ・リタは急いでジャケットの下から巻き物を取り出して、元のふたのない箱のなかに突っこんだ。が、すぐにぱっと手を引っこめた。巻き物を戻したのと同時に、なにかが箱から飛び出したのだ。大きな黒いクモだった。体がブドウの粒くらいある。前の日本の足を威嚇するようにかかげると、すばやく本のうしろに隠れてしまった。ローズ・リタは、怯えた目でルイスを見た。
「これだ」ハードウィックさんがうれしそうに言って、はしごを下りてきた。手に、深緑の革表紙のついたぼろぼろの本を持っている。ハードウィックさんは本をローズ・リタに手渡した。「気をつけて扱ってくれるね。一八八五年にシカゴで出版された本で、非常に貴重なんだ」
「気をつけて読みます」ローズ・リタは約束して、ハードウィックさんから本を受け取り、お礼を言った。それから、二人は表へ出た。歩道を歩きはじめると、ローズ・リタが言った。「ヒュウッ。終わってよかった」
「ぼくもほっとしたよ」ルイスは言った。そして不安そうにちらりとローズ・リタを見た。ローズ・リタはまだげっそりとやつれた感じだった。冷たい風を避けるようにうつむいて、胸にしっかりと、さっきの古い本を抱えている。本当に終わったのだろうか、とルイスは思った。ローズ・リタが悩んでいることが、ベル・フリッソンや巻き物やあの謎のクモと関係していたら? 二人がはじめてしまったことがなんであれ、もう終わっていますように、とルイスは祈った。きっと、巻き物を戻したことで、二人がはからずもはじめてしまったことも終わりになるだろう。
でも、ルイスは不安だった。
九月が過ぎ、たき火の香りただよう、身のひきしまるような寒さの十月がやってきた。ローズ・リタとルイスは、四つの手品を完ぺきにこなせるようになるまで練習を重ねた。けれど、ひとつだけ問題があった。ルイスはまだ、実際に生きた動物を使って、新聞紙の手品を練習したことがなかった。「ヒヨコのかわりに花束にしたらどうだい」タレント・ショーをあと二、三日後にひかえたころ、ジョナサンおじさんは言った。
ルイスはがまんできないというように首を振った。ある意味で、ルイスは完ぺき主義者だった。どうしても完ぺきにやらなければ気がすまないことがある。そうでなければ、やる意味がないのだ。手品も、ルイスにとってはそうしたもののひとつだった。「花じゃ、だめだよ。ティミー・リンドホルムがヒヨコを持ってきてくれることになってるんだ。だから、だいじょうぶ」ルイスは本当にそう思っていた。今では、詰め物をした靴下をだれにも気づかれずに新聞紙のなかに入れるのがすっかりうまくなっていて、ツィマーマン夫人の鋭い目ですら、ルイスがどうやって丸めた新聞紙から靴下を取り出すのか見破ることができなかった。
実際、ローズ・リタのことがなければ、ルイスはとても楽しく過ごしていただろう。ルイスはあいかわらず、ローズ・リタのことが心配だった。ローズ・リタがすっかり変わってしまったかといえば、そうではない。今もいっしょに練習したり、ツィマーマン夫人が作ってくれた衣装を試着したりしていたし、学校にも前と同じように、毎日通ってきていた。けれど、最近ではますます引っこみがちで、口数が少なく、ぼんやりしていないように見えたし、学校でもほとんどだれともしゃべらなかった。校庭や、外の階段近くでたむろしている女の子たちを見ると、そそくさとはなれていったし、教室でも先生に呼ばれると返事はするけれど、手をあげて質問に答えるのはやめてしまった。
ルイスにとって、それは特に意外だった。ローズ・リタはいつも、先生が自分の知っていることをきくと、はりきって、あげた手を振り回していたからだった。それから、得意のほら話が聞けなくなったのもさみしかった。前は大きくなったら有名な作家になりたいと言っていたし、実際、想像力がとても豊かだった。しょっちゅう、先生や同級生たちのとんでもないおかしな話を考え出しては、真顔でルイスに話していたのだ。いつもうるさいビル・マッケイは、背がひょろっとして足が大きかったが、ローズ・リタに言わせると、赤ん坊のころ火星人にさらわれて、火星でそだてられたせいだった。火星の重力は弱いから、あんなにひょろひょろなわけ。だけど、人間だってことがわかって、地球に戻したのよ。火星人は、本当はサルがほしかったの。まあ、まちがえるのも無理ないわよね。と、こんな具合だった。
ローズ・リタはそんなとほうもない話ばかりしていたのに、今ではルイスが話してよ、とたのんでも、話そうとしなかった。ローズ・リタとちがって、ルイスは大きくなったらなにになりたいか決められなかった。〈ナショナル・ジオグラフィック〉のカメラマンになって世界中をまわり、土ぼこりを巻きあげて進むゾウの群れや、雲を抱いてそびえ立つ山や、タイやタヒチのエキゾチックな踊り手たちの写真を撮れたら面白いだろうと思うこともあったし、飛行機のパイロットになりたいと思うときもあれば、化学者か天文学者がいいと思うともあった。いつもだったら、ローズ・リタにせがんで、ナイル川でワニの写真を撮っているととか、パロマー山で望遠鏡をのぞきこんで、彗星を探して夜空を眺めている自分の将来の姿を、話してもらうこともできた。けれども、このごろでは、ローズ・リタはルイスの話もろくに聞いていないように見えた。
タレント・ショーのある週はまさにてんてこ舞いで、ローズ・リタの心配をすることすら忘れるほどだった。もう何年もの間、ショーは中学校の食堂で行なわれていた。けれども今年は、市の公会堂として改装されたニュー・ゼベダイ・オペラ座で開かれることになった。ルイスはこのオペラ座でかつておそろしい思いをしたことがあったので、舞台に立つだけで落ちつかない気分になったけれど、生徒たちは全員、そこでやるのが決まりだった。生徒たちは、タレント・ショーを十月九日金曜日の夜に開くことにした。そして木曜日の午後に、公会堂で本番どおりのリハーサルが行なわれることになった。
ニュー・ゼベダイ・オペラ座は、〈ファーマーズ飼料・種子販売店〉の入っている建物の二階にある古い劇場だった。蹄鉄型のバルコニーがあって、赤いベルベットの座席が並び、舞台には華やかな装飾がほどこされている。壁はピンク色で、舞台の両脇にある金の枠のなかに凝った絵が描かれていた。ひとつは悲しみにくれる悲劇の仮面、もうひとつは笑い顔の喜劇の仮面だ。ジョナサンおじさんは、ルイスが手品に使う道具をぜんぶ二階に運んで、舞台裏のじゃまにならないところに置くのを手伝ってくれた。あれからルイスとおじさんは大きなダンボール箱を二つ見つけて、ルイスはローズ・リタといっしょに、ポスターカラーでひとつは赤と黄色に、もうひとつは青と紫に塗った。ローズ・リタは赤と黄色のほうに入り、ルイスが一とおり怪しげな呪文をとなえたところで、赤と紫のほうからぱっと姿を現わすというわけだ。それから、ジョナサンおじさんが板切れとわたと布を寄せ集めて作った低いソファのようなものも、二階へひっぱりあげた。キャスターがついていて、舞台の上を転がして動かすことができるようになっている。ローズ・リタはここに横になり、空中浮遊の手品をするのだ。最後は、ローズ・リタの頭が空中に浮かんでいるように見える手品に使う、イスと鏡だった。
リハーサルがはじまると、ルイスは衣装に着替えて、舞台裏をいったりきたり歩き回った。舞台ではデーヴ・シュレンバーガーとトム・ルッツがまんざいをやっていた。アボット・バッドとルー・コステロのファーストはだれだい?≠ニいう野球ネタをまねしていて、舞台の袖で見ている子たちは大笑いしていた。でもルイスは、緊張のあまり見るよゆうもなかった。すると、ジェームズ・ゲンスターブラムがギターのチューンアップをしているのが目にとまった。グレーと黒の縞のシャツにグレーのズボンをはいて、青い目を細めて集中している。「やあ、ジェームズ」ルイスは小さい声で言った。「ティミーを見かけなかった?」
ジェームズは首を振った。「学校を出たあとは見ていないよ。だけど、この辺にいるはずだろ。曲芸をやるんだってさ」
しばらくの間、ルイスはジェームズがうつむいて、ギターの音を慎重に合わせているのを見ていた。
「おい、ルイス」ジェームズが突然言った。「ティミーがきたぜ」
ルイスはジェームズが指さしているほうを見た。黒い縮れ毛にそばかすだらけの鼻をした、太めでのんきなティミーが、舞台裏に入ってきた。そして引きずるようにして持ってきたズックの袋をすみに置いた。ルイスは急いでティミーのそばへいった。「持ってきた?」
ティミーはため息をついた。「ああ、しまった。忘れちゃった。ごめんよ、ルイス」
「どうしてもヒヨコがいるんだ」ティミーのどじに腹を立てながら、ルイスは言った。
「今度は持ってくるよ。忘れただけだって」ティミーは袋からボーリングのピンのような形をした棍棒を取り出して、青いシャツの袖をまくった。「練習しなくちゃ」
ルイスは、ティミーが三本の棒をぽんぼんと投げはじめたのを、眉をしかめて眺めた。確かに曲芸はうまかったけれど、記憶力にかけてはからきしだめだった。
ローズ・リタが女子の更衣室から出てきた。衣装に着替えているローズ・リタを見て、ジェームズとティミーはにっと笑ったけれど、ローズ・リタは気づいていないようだった。「用意はできた?」ルイスはきいた。
ローズ・リタは、ただうなずいただけだった。
二人の手品は、トムとデーヴのファーストはだれだい?≠フあとだった。観客席には、英語のフォガーティ先生と、ジョナサンおじさんと数人の父兄が座っている。トムのおとうさんのルッツ氏は、舞台裏を手伝っていた。ルッツ氏はルイスが渡しておいた〈剣の舞〉のレコードをかけた。音楽がはじまるとすぐに、ルイスはカーテンのうしろから舞台に出た。
フットライトとスポットライトがぱっと顔を照らし、目がくらんだ。観客席はほとんどなにも見えなかった。フォガーティ先生のめがねに、きらりと光が反射したのが見えたくらいだ。「レディース・アンド・ジェントルメン」ルイスは、緊張で妙にかんだかくなった声で言った。「わたしは偉大なる魔術師、ミスティファイ・ミストである! そしてこちらが、わが美しい助手、ファンタスティック・ファティーマ!」
ローズ・リタが新聞紙を持って舞台の袖から現われた。ローズ・リタはここ何週間も練習したとおりにやり、ルイスは「さあ、生きたヒヨコが出てまいりました!」と叫んで靴下を出した。だれかが拍手をした。たぶんジョナサンおじさんだろうけど、それを聞いてルイスは少し気が楽になったそのあとの手品もとどこおりなく終わり、最後に二人はおじぎをした。カーテンが閉まり、ルイスとローズ・リタはジェームズに手伝ってもらって、手品の道具を舞台から下ろした。
「うまかったよ」ジェームズは、ティミーの曲芸の音楽がはじまると、ささやいた。
「ありがとう」ルイスはぐったりしていた。自分の番が終わると、急にひざががくがく震えはじめ、頭がくらくらした。ルイスはローズ・リタに向かって言った。「とうとうやったね」
ローズ・リタはどうでもいいというように、肩をすくめただけだった。
金曜日は最低だった。ルイスは一日中、タレント・ショーのことでやきもきしつづけた。みんなの前で舞台の上に立つと思うだけでも、いやなのだ。なにもかもうまくいくと自分に言い聞かせようとしても、本当にいまくいくだろうかという不安がむくむくと頭をもたげてくる。やっぱりローズ・リタの言うとおりだ、とルイスは思った。ローズ・リタはよくルイスのことを、心配性だとか、ものごとを暗いほうにしか考えないと言って責める。ルイスだって、自分のそういうところはきらいだったけれど、どうしようもないのだ。そして今も、おおよそ起こりつつあるあらゆる惨事を想像していた。せりふを忘れたり、ばかなまちがいをやらかしたりするところを思い浮かべるたびに、手が冷たくなって、胃がひっくり返るような気がする。授業に集中できるどころではなかったので、数学の先生に「ルイス、ちゃんと聞きなさい!」と叱られるしまつだった。
放課後、ルイスは練習しておきたかったけれど、ローズ・リタは首を振って、ふらふらとそのまま家に向かって歩きはじめた。ルイスはうしろから、ポケットに手をいれてだらだらとついていった。タレント・ショーがあるので、どの先生も宿題は出さなかったから、持ってかえる教科書もなかったけれど、ルイスの気分は重かった。ルイスはわざとゆっくり歩きながら、前を歩いているローズ・リタをじっと見つめた。ローズ・リタなんて親友じゃない、という気持ちがわきあがってきた。最後の練習もしないなんて、手品のことなんてどうでもいいみたいじゃないか。
そんなふうにルイスが一五〇メートルも遅れて歩きながらマンション通りにさしかかったときだった。ルイスは、全身に寒気が走るのを感じた。ローズ・リタは、マーサ・ウェスレイの家の生垣の横を歩いていた。庭はウェスレイ夫人の自慢であり、喜びだったから、生垣もきれいに刈られていた。ルイスは目を細めた。生垣の根元あたりを、なにか黒っぽいものが、ローズ・リタに並ぶようにこそこそと歩いている。青みがかった灰色の子猫か子犬のようにも見えるけれどそれにしては動きが変だ。いきなりさっと前に出ては止まり、またさっと前に出る。どちらかというと、とてもありえない大きさだということをのぞけば、虫のようだった。
ローズ・リタが生垣をすぎると、ぼんやりとした黒い影も、生垣の下を出てきた。とたんにルイスののどはからからになった。木陰から日なたに出たとたん、黒い影はせっけんの泡のようにすけて、ぱっと消えてしまったのだ。ローズ・リタは一人で歩き続けていた。それでもルイスはなかなか呼吸を取りもどすことができなかった。黒い影が消える一瞬前に、せわしく動く黒い足と、つやつやした丸い胴体が確かに見えたのだ。まるで子猫ほどあるクモのようだった。
ローズ・リタは自分の家までくると、階段をあがってなかへ入ってしまった。家の前をゆっくりと歩きながら、ルイスはきょろきょろして、縁石に沿うようにたまっている落ち葉や、生垣の根元や、茂みのなかをのぞいてみた。たき火のにおいがただよい、頭の上で乾いた葉がカサカサ鳴っている。ルイスはその音にはっとして、上を見た。もしただの風じゃなかったら? あのおそろしい怪物が木の上にひそんでいるのかもしれない。首のうしろに、冷たいものが落ちてきて、がっしりつかまれたらどうしよう? ルイスは死に物狂いになって逃げはじめた。自分の家に飛びこんで、ドアをバタンと閉めるまで、一度も止まらなかった。
その日の夕方、ジョナサンおじさんとルイスは、ジョナサンの大きな旧式の黒い一九三五年型マギンズ・サイムーンに乗りこんだ。車は排気ガスをもうもうと吐きだすと、通りへ出て、ローズ・リタを拾いにマンション通りに向かった。ローズ・リタはむっつりとして、ふさぎこんだようすだった。街に着くと、ジョナサンはファーマーズの店のそばに駐車メーターを見つけた。ルイスは車から下りたが、すでに緊張で胃がむかむかしていた。ツィマーマン夫人は軽食の用意を手伝うために先にきていて、すぐそこに車が止まっているのが見えた。
三人は急いで二階へあがった。そして舞台に向かったが、ルイスには、壁の悲劇の仮面が自分と同じくらいどきまぎしているように見えた。男子の更衣室で衣装に着替え、手品に使う道具をひとつひとつ点検した。すべてオーケーだ。あとはティミーがヒヨコを持ってくるのを覚えてさえいれば、準備は完ぺきだった。
例のごとく、ティミーは遅刻していた。ルイスはいらいらしながら舞台裏を歩き回って、何度もカーテンのすきまからどんどん増える観客を見下ろした。小学校の全生徒と父兄、それから出演者の親たちもきている。まるでのどに、大きなかたい塊がつかえているようだ。五百人近くの人の前で出し物をすると思うだけで、体がすくんで、足がゴムみたいにぐにゃぐにゃになり、頭がくらくらして、息苦しかった。
ようやくティミーが袋をふたつ抱えて、あわてて通路を走ってくるのが見えた。ひとつは、このあいだの曲芸に使う棍棒の入ったズックの袋で、もうひとつは麻袋だった。ルイスは急いで駆け寄った。舞台裏に入ると、ティミーはすぐににっこり笑って「やあ」とあいさつした。「ニワトリを持ってきたよ」そしてルイスに麻袋を渡した。袋はびっくりするくらい重かった。
ルイスは袋を開いて、なかをのぞいた。白いメンドリが頭を傾けて、きらきら光る小さな目でルイスを見返した。「ティミー!」ルイスは思わずどなった。「大人のニワトリじゃないか!」
ティミーはわけがわからないといった顔をした。「え? だって、ニワトリがほしかったんだろ? ずっとそう言ってたじゃないか」
「ぼくがほしがったのは、ヒヨコだ」ルイスは泣きそうになって言った。「メンドリじゃない!」
肩をすくめて、ティミーは言った。「ヘンリエッタならだいじょうぶさ。こいつはいいやつなんだ。ペットみたいなんだよ。抱きあげたってなにしたって平気さ。どっちにしろ、こいつを使うしかないよ。戻って、もう一羽連れてくる時間はないからね。ぼくも曲芸の練習をしなくちゃ」
ティミーは棍棒を取り出して、投げる練習をはじめた。ルイスは暗いすみにいくと、麻袋のなかを不安げにのぞいた。ヘンリエッタはじっと見返した。うまくいくか、自信はなかった。こういうことがあったときのために、花束を持ってくるんだった。だけど、持ってきていないのだから、なんとかヘンリエッタで練習するしかない。ルイスはテーブルの上から新聞紙を一枚取ると、ひもとハンカチで作ったブランコを親指にひっかけ、袋のなかに手を入れた。ヘンリエッタは羽がふわふわしていて、熱かった。ヘンリエッタは外に出されても、とてもおとなしかった。ルイスはハンカチをヘンリエッタに巻きつけ、なかに包むようにすると、ローブの下に入れた。ヘンリエッタは大きくて重いので、ひじで押さえているのはなかりたいへんだった。
それから新聞紙を持って広げた。ハンカチはすごい勢いですべりおちてきた。ルイスは新聞紙をくしゃくしゃにしてなんとかヘンリエッタを隠せるくらいの玉にすると、びりびりと破いた。ヘンリエッタは外に出てくると、頭を左右に動かして、一回コッと鳴いた。ルイスはそれまでとめていた息を、一気に吐きだした。まあなんか、うまくいくだろう。
そしてタレント・ショーがはじまった。音楽のホワイト先生がピアノを弾いて、当校の生徒たちはこのすばらしい新公会堂で伝統の行事が行なえることを喜んでおります、とあいさつした。幕があがり、最初の出し物がはじまった。ルイスはヘンリエッタをローブの下に抱えたまま、舞台の袖から見ていた。そのうちヘンリエッタの体から発散される熱のせいで、ひどく熱くなり、汗が出はじめた。ヘンリエッタも熱かったにちがいない。まもなく、もぞもぞと体を動かして、苦しそうな声を出しはじめた。ローズ・リタがルイスの横にきた。舞台では、トムとデーヴがこのあいだのまんざいをやっている。トムたちは昔ふうのまぬけなユニフォームを着て、鼻の下におもちゃの口ひげをはっていた。お客さんたちは大笑いして、拍手した。そしてホワイト先生が言った。「さあ、次は正真正銘、世にもふしぎな、すばらしい手品をごらんにいれましょう!」ルッツ氏が〈剣の舞〉のレコードをかけ、ルイスは転びそうになりながら舞台に出て、まばゆいばかりの熱い照明の下に立った。
「レディース・アンド・ジェントルメン!」ルイスはかすれ気味の声で言った。そしてごくりとつばを飲みこむと、声をふりしぼるようにして叫んだ。「レディース・アンド・ジェントルメン!」それから大きく息を吸いこんで、「わたしは、偉大なる魔術師、ミスティファイ・ミストである!」と一気に言った。
右腕の下から、ヘンリエッタがつけくわえた。「クワワッ!」
ルイスはさらに強くメンドリを押さえつけた。「そしてこちらが、わが美しい助手、ファンタスティック・ファティーマ!」
ローズ・リタがまるで心ここにあらずといったようすで、舞台の袖から新聞紙を持って現われた。ルイスは言った。「ファンタスティック・ファティーマが、今からこの、うっ、種も仕掛けもない、ううっ、しん――」ルイスは体をのたくらせた。ヘンリエッタが逃げようと身もだえして、足をバタバタさせはじめたのだ。ルイスは必死になって、ヘンリエッタを押さえこんだ。「この、うっ、種も仕掛けもない新聞紙をお目にかけます。それから、わたしに渡します。今すぐに!」ルイスは大急ぎで最後まで言った。
ローズ・リタは練習でやったとおり、たっぷりと時間をかけて新聞紙を見せた。その間も、ヘンリエッタは蒸し暑いローブの下からなんとかして抜け出そうとしていた。ルイスはメンドリを押さえようとして、体をもぞもぞさせ、身をくねらせた。顔がどんどんほてってくるのがわかる。ようやくローズ・リタが新聞紙を渡した。ルイスはほっとして、新聞紙に手を伸ばした。
すると、いきなりみんなが笑いはじめた。ロープの下から、ヘンリエッタが羽をまきしらながら飛び出したのだ。ヘンリエッタは羽をバタバタさせて、コッと鳴いた。まだ手品ははじまってもいなかった。ルイスはどうしたらいいのかわからずに、ぼうぜんとローズ・リタを見つめた。ローズ・リタはただぼんやりと見返しただけだった。客席から、だれかが叫んだ。「いんちきだ!」ほかの客たちももじを飛ばしはじめた。
ルイスはパニックになった。ニワトリはスポットライトを浴びて、右を見たり左を見たりしている。観客は大笑いして、「コケコッコー?」とか「ニワトリが先か、卵が先か」などとさかんに叫びたてた。
ローズ・リタが、ルイスを思い切りひじでつついた。「あ、魔法で生きたニワトリをお出ししました」ルイスはみじめに言った。「さて次は、この魔法のソファに、わが助手が横になります。太古の昔から伝わる伝統の技、空中浮遊をお見せいたしましょう」そしてローズ・リタの手を取って、ソファまで連れていった。みんなはまだ笑っている。ヘンリエッタは舞台の前のほうをいったりきたりしながら、満足げにココーッと長い鳴き声をあげていた。
ローズ・リタは横になり、ルイスは上にかけるシーツを取って、さっと広げた。そのあいだにローズ・リタは足を低いソファの両側に下ろして、すばやく作り物の足を取った。舞台の真ん中にでんと座っているニワトリをけんめいに無視しながら、ルイスはローズ・リタにシーツをかぶせ、観客のほうを向いた。「さて、これから魔法の呪文をとなえます――」
ヘンリエッタはルイスのすぐ横にいた。ヘンリエッタはいきなり立ちあがると、「クワッ クワッ クワッ!」と鳴いた。真っ白いぴかぴかの卵が舞台の上にのっていた。こうなると、もうみんな、ヒューヒューやじを飛ばしたり、はやしたりの大騒ぎだった。子どもたちは口々に「ルイスのインチキ! やーい!」と叫んだ。
ルイスははずかしさのあまり死んでしまいそうだった。ルイスは両手を挙げ、言うはずだった呪文も忘れて叫んだ。「浮かべ! 浮かべ!」
ローズ・リタは背中をぐっと曲げて、にせの足を持つと、ソファから起きあがった。いつもだったら、これは本当にうまくいった。シーツをかぶったローズ・リタが、ソファから数十センチ上に浮かんでいるように見えるのだ。ところが今日は、ルイスは気が散っていたせいで、シーツのはしを踏みつけていることに気づかなかった。ローズ・リタが立ちあがると、シーツがずり落ちて、ローズ・リタがばかみたいににせの足を持っているのが丸見えになった。
「ずるだ!」観客席からやじが飛んだ。「引っこめ! やーい!」ほかの子どもたちもこれに加わった。「にせ魔術師だ!」「もとの農場に帰れ!」「ニワトリを持ってかえって、丸焼きにしろ!」
ローズ・リタは足をほうり投げて立ちあがった。その顔は火のように真っ赤だった。そして、おそろしい顔で観客席をにらみつけた。いまや、小学生までが叫んでいた。「やーい、引っこめー!」
ヘンリエッタは羽をパタパタさせて、またクワッと鳴いた。白い羽が一枚、くるくるとまわりながら宙に舞った。
ルイスは小さくなって、穴にでも入りたい気持ちだった。
すると、驚いたことにやじに負けない声でローズ・リタがどなるのが聞こえた。「うるさい! あんたたちなんて大きらい! ぜったい仕返ししてやるから!」
おなさけで、幕が下がった。ローズ・リタはルイスのほうに向き直ってきっとにらみつけると、すたすたと去っていった。ルイスは心臓が止まったかと思った。
その瞬間、ローズ・リタはいつものローズ・リタではなかった。ぎらぎらと輝く目は、真っ黒で、いくつもの目が集まってできたクモの複眼のようだった。そう、まるで人間の姿をしたクモだったのだ。
ローズ・リタはふつふつとわきあがる怒りを抱えたまま、いやな臭いのする暗いすみっこに縮こまっていた。自分を笑いものにしたルイスが憎かった。そもそもこんなばかげたタレント・ショーをやらせた学校も憎かったし、それに輪をかけて、自分をばかにした観客の子どもたちが、いや、大人たちでさえもが憎かった。「必ず仕返ししてやるわ」ローズ・リタはうなるようにつぶやいた。ローズ・リタはひざを抱えてうずくまるようにしゃがんでいた。ここは、狭苦しくて暑かったけれど、それも気にならなかった。カビと消毒液とほこりの臭いがぜんぶ混ざったような、ひどい臭いですら、どうでもよかった。ローズ・リタはひたすら自分を笑いものにした全員に仕返しする方法を考えた。
するとドアをノックする音がしたので、ローズ・リタは飛びあがった。そのひょうしに頭をぶつけたけれど、ぐっとくちびるを噛んで、声を押し殺した。すると、ツィマーマン夫人のやさしい声がした。「ここにいるの、ローズ・リタ?」
「いないわ!」ばかみたいにきこえるのを承知で、ローズ・リタはどなった。「あっちへいって」
「いいえ、いませんよ。入ってもいいかしら?」
ローズ・リタはなにも言わなかった。そして、暗闇のなかで肩をすくめた。ツィマーマン夫人から隠れるなんて、できるはずがないのだ。なくなったり、隠してあるものを見つけるあらゆる呪文を知っているのだから。ドアのノブがガチャガチャいう音が聞こえ、ツィマーマン夫人が用務員室のドアをさっと開けた。ローズ・リタは、オールドダッチの洗剤や、電球の箱や、たわしや、丸めた雑巾が置いてある暑い合板の棚の下にしゃがみこんでいた。ツィマーマン夫人は暗闇のなかをすかして見ながら、鼻にしわを寄せた。「まさかこんなところにいるとは思いませんでしたよ。まあまあ、よりにもよってこんなくさいところに隠れてるなんて!」
「どうでもいいの」ローズ・リタはむすっとして言った。タレント・ショーはもう三十分も前に終わっていたけれど、まだ衣装も着たままだった。ローズ・リタは足をさらに引き寄せると、できるだけすみっこに縮こまった。
「まあ、あなたが気にならないんだったら、わたしも気にしないようにしましょ」ツィマーマン夫人は明るく言った。そしてゆっくりとしゃがむと、足を横に折ってドアの前に座った。「舞台で失敗したからって、世界の終わりってわけじゃないのよ」
「わたしにとっては、終わったようなものだわ」ローズ・リタはボソッとつぶやいた。そして乱暴にめがねを鼻の上に押しあげると、鼻をグスッとすすった。ちょっと間をおいてから、ローズ・リタは静かな声できいた。「みんな帰ったの?」
「ほとんどね」ツィマーマン夫人は答えた。用務員室は短い廊下のつきあたりにあって、明かりは薄暗い電球ひとつきりだった。ツィマーマン夫人の白髪がぼうっと光り、メガネのレンズに光が反射して、小さな白い丸が二つ並んでいるように見えた。ツィマーマン夫人はもぞもぞと体を動かして、姿勢を楽にしようとした。「ご両親には、わたしがあなたを連れて帰るって、言ったのよ。少し落ちつく時間がいるだろうと思って」
深く息を吸いこむと、のどにつかえるような気がした。ローズ・リタはけんめいに涙をこらえた。「どうしてみんな、あんなにいじわるなんだろう?」ローズ・リタはみじめな気持ちできいた。
ツィマーマン夫人はうつむいて、紫のドレスの生地をつまむと、無意識のうちにひだをつけて折りはじめた。「いじわるをしたとは思っていないと思うわ」ツィマーマン夫人はゆっくりと口を開いた。「どちらかというと、自分じゃなくてよかったって気持ちじゃないかしら。だれだって、はずかしい思いをしたことはあるわ、ローズ・リタ。ひどくばつの悪いへまをやらかしたときって、ほかの人がどう感じるかなんて、わからなくなってしまうのよ。だけどほかの人にとっては、一生の恥なんておおげさなものじゃなくて、おもしろおかしい見せ物にすぎないわ。そして、あそこで注目を浴びているのが自分でなくてよかったと思って、笑うの。個人的にあなたをどうこう思ってるわけじゃないと思うわ」
「ううん、思ってるのよ」ローズ・リタは、自分の下唇が震えているのがわかった。涙で目がかすんだ。「わ、わたしのことを、ば、ばかにしてるんだわ!」
ツィマーマン夫人がさしのべた腕のなかに、ローズ・リタはそっと近づいていって抱きついた。ドレスからうっすらとペパーミントの香りが漂った。「ほらほら」ツィマーマン夫人はやさしくローズ・リタの肩をなでた。「たしかに笑ったかもしれないけれど、傷つけようとしたわけじゃないわ」
ローズ・リタはぱっと体を起こした。涙でメガネが曇っていた。「いいえ、傷つけたわ!」
ツィマーマン夫人はちょっと悲しそうに微笑んだ。「そうね、あなたの気持ちは傷ついたかもしれない。みんながヒューヒュー叫んで、やじをとばしていたとき、まるで背の高さが十五センチくらいに縮んだような気がしたでしょ? 月曜日に学校へいってみんなと顔を合わせることなんてできないと思っているのもわかる。だけど、それでも人は忘れるのよ、ローズ・リタ。今回のことで、むかし、ダンスにいったときのことを思い出したわ。わたしは十六歳だった。ベン・クォッケンブッシュってハンサムな子が誘ってくれたの。だけど、気が利かなくて不器用でね、わたしのスカートのすそを黒くてごつい革靴で踏んづけたのよ。スカートは足首まですとんと落ちて、わたしはダンス会場の真ん中でペチコートが丸見えになって、注目の的になったってわけ。その当時としちゃ、とんでもなく世間体の悪いことだったのよ!」
ローズ・リタは弱々しく微笑んだ。「今だって、そうとうまずいわ!」
「さあ、どうかしら」ツィマーマン夫人は考えこんだように言ったけれど、目がきらりと光った。「今だったら、あそこまで注目は浴びなかったでしょうね。わたしの足は、あのころほど格好よくないからね!」
ローズ・リタは思わずくすっと笑った。「それからどうなったの?」
ツィマーマン夫人は肩をすくめた。「みんな、わたしを見て大笑いしたわ。学校の女の子たちは、わたしのことをリトル・エジプトって呼びはじめた。なんのことか知ってる?」ローズ・リタが首を振ると、ツィマーマン夫人は笑った。「ベリーダンサーの名前よ。その踊り子は、舞台の上でほとんど服をつけないで踊るってことで有名だったの。わたしがどんな気持ちだったかわかるでしょ。だけど、だんだんと忘れたし、今から考えると、あのベン・クォッケンブッシュとのデートもけっこうおかしかったとさえ思うわ。あなたもいずれ今夜のことはどうでもよくなるはずよ」
ローズ・リタは汚い床を見下ろした。心の奥底では、さんざん笑われて、やじれたことを忘れるなんて、ありえないと思っていた。けれど、いっしょうけんめい親切にしてくれているツィマーマン夫人にそうは言いたくなかった。「ルイスは?」ローズ・リタは小さな声できいた。
ツィマーマン夫人はにっこりした。「あなたたちが舞台から下りたあと、ジョナサンがつれて帰ったわ。ルイスも、今夜のことが忘れられるまでは、いやな思いをたくさんするでしょうね」
ローズ・リタはうなずいたけれど、心のなかでは今回のことはルイスが悪いと思っていた。
「さあ」ツィマーマン夫人は言って、ゆっくりと立ちあがった。「着替えなくちゃ。わたしたちが出ないと、鍵を締められないしね」そして手を差し出したので、ローズ・リタはすなおに手をとって、立たせてもらった。長い間、用務員室に隠れていたので、足がこわばってしびれていた。ローズ・リタはむっつりとしたまま女子の更衣室にいくと、ジーンズとトレーナーに着替え、ツィマーマン夫人と紫の一九五〇年型プリマス・クランブルックがとめてある場所まで歩いていった。そして丸めて持っていた衣装を、うしろの座席に放りこんだ。
ツィマーマン夫人は、帰り道の車のなかではなにも言わなかった。マンション通りに着くと、ツィマーマン夫人はローズ・リタの家の前で車を止めた。テラスの電気がついて、黄色い光が芝生に濃い影を落としていた。「ルイスに怒りをぶつけてはだめよ」ツィマーマン夫人はやさしい口調で言った。「ルイスだって笑われたことを忘れてはだめ。ルイスも、あなたと同じようにいやな思いをしているの。あなたたちは友だちでしょ。友だちは、悪いことがあったときこそ、助け合わなきゃ」
ローズ・リタはうなっただけだった。そして、助手席のドアを開けると、車を下りた。一瞬、衣装もいっしょにおろさなきゃ、と思ったけれど、もう二度と見たくないと思い直した。そして、ツィマーマン夫人にお礼も言わずにばたんとドアを閉めると、庭の芝生の上を走っていった。玄関の鍵は開いていたので、そのまなかへ飛びこむと、居間のほうから、母親の呼ぶ声がした。
「ローズ・リタ? 帰ったの?」
「ただいま」ローズ・リタは叫びかえすと、二階の自分の部屋へ駆けあがった。そして鍵を締め、ドアを背にして目をつぶった。すると、薄暗い劇場で、白いメンドリと白いたまごがぼうっと光っている様子が浮かんできた。くすくす笑う声や、ばかにしたような声さえ聞こえるような気がする。ふたたび、じわじわと熱い怒りがわきあがってくるのを感じた。「必ず仕返してやる」ローズ・リタはささやくように言った。そして、どうしたら自分を笑った者たち全員に恥をかかせてやれるか考えはじめた。
ローズ・リタのママが部屋の前まできて、気分はどうかたずねた。「だいじょうぶよ」ローズ・リタは叫び返した。「もう寝るわ」
ローズ・リタはパジャマに着替えると、電気を消した。暗闇のなかで横になりながら、ローズ・リタは去年の夏、キッチィ・イッチィ・キッピィのキャンプにいったときのことを思い出した。キャンプなんてばかにしていたけれど、ルイスがボーイスカウトのキャンプにいってしまったので、参加することにしたのだ。でも、キャンプのあいだ、大半は、家に帰りたくてしょうがなかった。ローズ・リタに言わせれば、キャンプにきている女の子たちはみんな、ばかみたいで、いらいらさせられた。だけど、活動のなかには面白いものもあった。夜になると、みんなでキャンプファイヤーを囲んで、キャンプのおかしな歌をたくさん歌った。うまく歌えようが、懐中電灯で楽譜が見えなくて音程が外れようが、かまいやしないのだ。今でも気分が落ちこむと、そのときの歌を思い出すことがあった。そうすると、たいていは明るくなれた。真っ暗ななかで横になっていると、歌がひとつ浮かんできた。〈リパブリック賛歌〉の替え歌だった。
夏の暑いときは、ピンクのパジャマ
冬は寒くて、フランネルの寝間き
だけど、暖かい春と、涼しい秋は
なにも着ないでふとんに飛びこむの!
グローリ、グローリ、ハレルーヤ
グローリ、グローリ、どうする?
グローリ、グローリ、ハレルーヤ
なにも着ないでふとんに飛びこむの!
いつもはこの替え歌を思い出すと、つい笑ってしまうのだけれど、今日のようにいろいろあったあとでは、その威力さえなくなってしまったようだった。ローズ・リタは怒りのあまり、眠れなかった。
今夜は、家の外の街灯が妙に明るく感じられた。ローズ・リタはじっと窓を見た。時間がたつにつれ、街灯のおぼろげな銀色の光で窓がうっすらと光りはじめた。部屋のなかのものは、ほとんどなにも見えなかった。イスと机とたんすがあるとわかっている場所に、黒い影が見えるだけだった。だんだんとまぶたが重くなってきて、開けているのがむずかしくなってきた。呼吸がゆっくりになった。
うとうとしながら、ローズ・リタはぼんやりとした頭で、もうひとつ見える黒い影がなにか考えようとした。影が近づいてきたような気がしたので、疲れた目をむりやりうっすらと開いた。たしかに、影はすぐそばにあった。背が高く、ベッドのすぐ脇に立っている。コートが一枚、二枚かけてあるコートかけのような感じだったけれど、ローズ・リタの部屋にコートかけはなかった。なんにしろ、見慣れないものだったし、この家のものではないようだったけれど、一方でそこにあるのをかいま見ても、ローズ・リタは、違和感を持たなかった。つんと鼻を突くにおいがして、鼻が乾いてむずむずした。セージか、ちょっとクローブの香りにも似ている。手を伸ばせば触れそうだった。そのくらい、近くにあったのだ。けれども、ローズ・リタはひどく疲れていた。
ローズ・リタはまた目を閉じた。すると、おでこになにかが触れるのを感じた。乾いたやわらかい手だった。ツィマーマン夫人だわ、とローズ・リタは眠くてぼうっとした頭で考えた。手は、ローズ・リタの額をなぐさめるようにそっとなではじめた。「みんな大きらい」ローズ・リタはつぶやいた。
「わかっている」息の交じったようなささやき声がした。ひどく低くて、頭のなかから聞こえてくるのかもしれなかった。「憎しみはいいもの。人を強くする」
「うーん」自分の深く規則正しい寝息がはっきりと聞こえた。まるで、ふわふわのやわらかな雲に乗って、漂っているような感じがする。
「憎しみは育てることができる」ささやき声は言った。「おまえの望みをかなえ、おまえの目となり、耳となる。憎しみを解き放て。わたしなら憎しみを放ち、意のままに操る方法を教えることができる」乾いた手は、やさしくおでこをなでていた。ほとんど触れていないようだ。「そのことを教えるために、墓から出てきたのだ」
ふいに、冷たい指がローズ・リタの胸をぎゅっとつかんだ。息ができない。必死で息を吸いこもうとしたけれど、体がしびれていった。
「墓のなかには空気がない。なにもなく、静まり返っている。動くことも叫ぶこともできない。できるのは考えることだけ。かつて持っていた力のことを、そしてふたたび手に入れる力のことを。そう、必ず手に入れてみせる!」
肺が破裂しそうだった。息が苦しい。ローズ・リタは空気を吸おうとあがいた。しかし、手はローズ・リタの額をおさえつけ、ぐいぐいと下に押した。
声は容赦なくつづけた。「贈り物を受け取るがよい。おまえは選ばれたのだ。憎しみを育てろ! 強くするのだ! そしてわたしを呼びもどすのだ!」
額を押さえる手にさらに力が入った。ローズ・リタは意識を失い、おそろしい悪夢のなかへ転がり落ちていった。かさこそと歩きまわるクモ、ねばねばとまといつくクモの巣、半人半獣の醜い怪物たち。半分から先がかぎづめになった手が、ローズ・リタを引き裂こうとした。虫の目が黒々と輝き、ライオンの口が歯をむいてうなり声をあげた。あざけるような憎しみのこもった笑い声が聞こえたが、次の瞬間、すべてが静まり返った。
夢のなかで、ローズ・リタは奇妙な彫刻の前に立っていた。いくつもの面の刻まれた柱で、ローズ・リタよりも高かった。てっぺんに、ぼろぼろになってあちこち穴のあいた石の球が乗っている。球はローズ・リタが両腕でも抱えきれないほど大きかった。柱の台座になにか文字が彫ってある。けれども、台座の形のせいで読めなかった。ローズ・リタは柱のまわりを一周して、横に描かれた文字をたどって読もうとしたが、文字は意味を成していなかった。
「わたしを探せ」寝室で聞いた、息漏れのするようなささやき声が言った。「わたしを自由にしておくれ」
ローズ・リタは周りを見回したけれど、人の姿は見えなかった。草一本生えていない黒々とした地面が果てしなく広がっている。世界は平らで、この彫刻が中心なのかもしれない。「どこにいるの?」ローズ・リタは叫んだけれど、その声は広漠とした世界ではあまりに小さく、すぐにまれて聞こえなくなってしまった。
「わたしを探すのだ」声はくりかえした。
ローズ・リタは彫刻のほうを振り返った。そしてじっと石の球を見つめた。ゆっくりと回転している? はっきりとはわからなかった。長いあいだ、ローズ・リタはじっと球を見ていた。けれど、時計の短い針が動いているのを確かめようとして、見つめているようなものだった。ローズ・リタは背伸びして、濃い灰色の奇妙な球に触れてみた。石はざらざらして、手のひらがひんやりとした。
すると、あることが起こった。
ふたつの目が、ぱっと開いたのだ。かたい石の表面についた目が。
目は憎しみに燃え、ローズ・リタを突き刺すようににらみつけた。あまりの邪悪さに、ローズ・リタは息をのんだ。
すると、目のわきから石の手がぬっと突き出てローズ・リタの手をつかみ、そのまま凍りついた。石の手はかたくて、冷たく、ざらざらしていて、びくともしなかった。ローズ・リタが手をひっこめようとしても、一ミリたりとも動かすことはできなかった。
ローズ・リタは恐怖に目を見張った。腕が灰色に変わりはじめたのだ。波が押し寄せるように、みるみるうちにひじから肩へと広がり、やがて体全体が灰色に変わりはじめた。
ローズ・リタは石になっていた。
次の週になっても、ローズ・リタはまるでまだあのおそろしい夢のなかにいるようだった。本当に石になってしまったような気がする。少なくとも、感情は石のように冷えきっていた。毎日学校にいったけれど、ほかの女の子たちがうわさしてくすくす笑っても、無視した。ルイスも同じように、いじわるな陰口にいやな思いをしていた。ローズ・リタに謝ろうとしたけれども、ローズ・リタはまるで何キロも先を見るような目でルイスを見るだけで、なにも言わなかった。先生が宿題を出すと、まるで機械みたいにただこなし、心の奥底でくすぶっている熱い怒りの炎のことは、母親にも父親にもツィマーマン夫人にもだれにも話さなかった。今や、怒りだけがローズ・リタを人間にとどめているようだった。ローズ・リタはどんよくに怒りを燃やしつづけた。
ルイスは何回か夕食を食べにこないか誘ってみたけれど、ローズ・リタは首を横に振るだけだった。ローズ・リタはなにかを待っていた。自分でもそれがなにかはわからなかったけれど、友だちとしゃべったり笑ったりしたら、大切な憎しみの炎が消えてしまうと、心のどこかで感じていた。だからいつにもまして人を避けて、時がくるのを待っていた。
タレント・ショーから十日たった月曜の午後、ローズ・リタが学校から帰ってくると、部屋に洗濯の終わった洋服を入れたかごが置いてあった。ローズ・リタは洋服をしまいはじめた。クローゼットにブラウスとスカートをかけ、ジーンズをたたんで棚に入れた。それから靴下を一組にして、しまおうとたんすの引き出しを開けると、なかの靴下の下からなにかが突き出しているのが見えた。あせた紫色のベルベットのように見える。ローズ・リタは眉をひそめて、靴下をかきわけた。出てきたのは、あの巻き物だった。
「返したはずなのに」ローズ・リタはつぶやいて、すりきれた紫の帯封を裏にしたり表にしたりして眺めた。「まちがいなく、博物館に返したわ」
ローズ・リタはブルッと震えた。両腕に鳥肌が立つのを感じた。心の奥底から、また邪悪なささやき声が響いてきた――贈り物を受け取るがいい。おまえは選ばれたのだ。ローズ・リタは、自分の手が帯封からぼろぼろの古い巻き物をひき抜くのをじっと見ていた。手が勝手に動いているようだ。まるでだれかに操られているように、手は巻き物を広げた。黄ばんでしわくちゃになった巻き物にさっと目を通すと、何年もの時を経て黒からさびた鉄のような色になったインクで、文字や数字らしきものが書かれていた。このまえは、一番上の、これはベル・フリッソンの遺言書である、というところしか読まなかったが、今度は残りを読みはじめた。
ちっとも意味がわからなかった。
巻き物に書かれた記号は、文字でも数字でも絵でもなくて、まるで適当にそれらしい線を描いていっただけのように見えた。巻き物の上端からはみ出てしまったものもあれば、下から出てしまったものもあり、真ん中も、判読不能の意味のない線で埋めつくされていた。ローズ・リタは学校で少しは外国語も習っていた。ラテン語とフランス語ならちょっとは読めたし、教科書で古代エジプトの象形文字や中国の絵文字やほかのいろいろな文字も見たことがあった。けれど、巻き物の印はそのどれとも似ていなかった。どちらかといえば、ヘブライ語やアラビア語に近かったけれど、ローズ・リタはそのどちらでもないような気がした。そしてどんどん巻き物を広げていったが、最後まで開いてみて、あっと驚いた。
そこに描かれていたものに、ローズ・リタは見おぼえがあった。そう、前は夢で見たのだ。てっぺんに巨大な石の球をのせた。いくつもの面でできた柱だった。石になったときのぞっとするような感覚を思い出して、ローズ・リタの手は震えはじめた。ローズ・リタはあわてて巻き物をもとのようにくるくると巻くと、帯封に突っこんだ。すると、視界のすみでなにかが動いた。ローズ・リタはぱっと振り向いた。小さな犬くらいの黒い影がクローゼットに走りこんでいった? はっきりとはわからなかった。ローズ・リタは巻き物をベッドの上にぽんと投げると、机のイスをつかんだ。
危険な猛獣をかわそうとするライオン使いのように、ローズ・リタはイスを楯にして、クローゼットの扉をぱっと開けた。洋服がかかっているだけで、なにひとつ動くものはなかった。黒い影は見当たらない。けれど、クローゼットの床に、ハードウィックさんから借りてきた古い緑の本が置いてあるのが目にとまったあれからいろいろなことがあったせいで、ローズ・リタはまだ本を開いてもいなかった。ローズ・リタはイスを置くと、古い本をとりあげた。石目のついた革表紙が、妙につるつるしているように感じる。ローズ・リタはベッドの端に腰かけると、本を開いて、扉の文字を読んだ。
世界の魔術師 四十人
――すばらしきペテン師、詐欺師、いかさま師たちの物語
ショー演出家、兼監督、兼プロデューサー ジョセフ・W・ウィンストン著
イリノイ州シカゴ レヴィット出版 一八八五年刊
ローズ・リタは何ページかめくって、ウィンストン氏が魔術師について述べているところを読みはじめた。
なかでも舞台で手品を披露する魔術師たちは、実に巧妙だ。わざと観客の混乱を誘い、別のところに注意を向けるように仕向け、見事な手さばきによってわれわれをあざむき、楽しませてくれる。わたしは何度も奇跡としか思えないものを目にして、すっかり驚き感心してしまったものだ。が、あとで知ってみると、この芸術家たちが錯覚を誘うのに用いた仕掛けはいつも、ばかばかしいほど単純なのだ。そんなとき、妙に複雑な気持ちがすることは認めねばなるまい。手品師たちの賢さに感心すると同時に、自分のばかさかげんと観察力のなさにうんざりするのだ。
けれども、四十年間、こうした驚異を操る者たちと劇場から劇場へ旅を続けているあいだには、何度か忘れられないようなできごとにも出会った。ひょっとしたら本物かもしれないと思うようなマジックに出くわしたこともあったのだ。魔法は本当に存在するのだろうか? その判断を下すのは、寛大なる読者の皆さまにお任せしよう。ただ、数多くの魔術師たちのなかに、六、七人、その手口がどうしても見抜けず、その技をけっして見破れなかった者たちがいたことを、ここで証言しておこう。彼らは単なる手品師なのか、それとも、われわれ凡人には想像もできない力を操る者たちなのか? それを判断するのは、皆さまである
ローズ・リタはさらにページをめくった。すると、「ベル・フリッソン:霊たちと言葉を交わす者」という題のついた長い章が現れた。ローズ・リタは読もうとしたが、昔ふうの斜めに線を入れて陰影をつけた。銅版彫刻のところで手を止めた。ほっそりした卵形の顔をした女の人の絵だった。大きな黒い貫くような目と漆黒の髪をしている。エジプト風の頭飾りをつけていたが、正面についた丸いメダリオンには、クモの姿が刻まれていた。暗い目はまっすぐローズ・リタをのぞきこんでいるようだ。ローズ・リタはあわてて次のページをめくった。
すると、そこにもまた別の挿し絵があった。今度のは、やや粒子の粗い写真だった。墓石の立ち並んだ平らな墓地で、真ん中にひときわ高い石碑が立っている。その墓石を、ローズ・リタは知っていた。てっぺんに石の球を抱いた、いくつもの面でできたあの柱だったのだ。写真の下の説明文には、「ベル・フリッソン、旧称エリザベス・プロクターは、この奇妙な墓石の下に眠っている。石の球は、目には見えない力でゆっくりと回転していると言われている。今もなお、彼女の霊はけんめいにわれわれに話しかけようとしているのだろうか? それはだれにもわからない」とあった。
ローズ・リタはその質問に答えられるのは自分だけだと、なぜかはっきりと感じた。そして、ベル・フリッソンについて記した章を読みはじめた。
一方ルイスは、日に日に落ちこんでいった。でもそれは、予想とはちがい、いじめのせいではなかった。ルイスが思っていたほど、学校の子たちはルイスのことをからかわなかった。ほかの高校フットボールとか、もうすぐやってくるハロウィーンなどの話題が出てくると、みんなすぐにタレント・ショーのことは忘れてしまった。もちろん、ルイスが歩いていると、たまにだれかがメンドリの鳴きまねをすることもあったけれど、デーヴとトムのやつたファーストはだれだい?≠フまんざいのほうが、みんなの記憶に残っていた。デーヴたちは三位に入ったけれど、二人が優勝するべきだったと思っている人は多かった。
ルイスが気になってしょうがなかったのは、親友の態度のことだった。ローズ・リタの冷たさは、ルイスを傷つけた。ルイスはもともと友だちが多いほうではなかったし、なかでもいちばんルイスのことを理解して、好きでいてくれるのは、ローズ・リタだった。ある日、庭の落ち葉を集めているときに、ルイスはおじさんにローズ・リタのことを相談してみた。ジョナサンはなぐさめてくれた。「大人になるっていうのは、楽なことじゃない」ジョナサンはくまでに寄りかかりながら言った。「おまえさんたちは、今回のことで傷ついたし、その傷はもう一生消えることはないと思っているだろうが、そうじゃない。たいていの人は立ち直るんだ。少し、ローズ・リタに時間をやらんとな。いつかローズ・リタも忘れて、なにもかもよくなるさ」
「ぼくがぜんぶめちゃくちゃにしちゃったんだ」ルイスはみじめな気持ちで言って、濡れたかえでの落ち葉を集めて深紅と黄色のかび臭い山にした。
ジョナサンはやさしくルイスの肩を叩いた。「人生に災難はつきものさ。なにもかも悪いほうに転がりはじめたとき、わしはどう思ったと思う? こう思ったのさ。手品をお笑いにしちまえば、まだチャンスはあるんだが≠チてね。だけど、それをおまえさんたちに伝える方法がなかったんだ」
ルイスは集めた落ち葉を、ジョナサンと二人で庭のすみに作った大きな落ち葉の山にのせながら、おじさんの言ったことを考えてみた。どうしてあのとき、思いつかなかったんだろう。おじさんの言うとおりだ。あのとき、みんなはルイスとローズ・リタのことを見てゲラゲラ笑っていた。お客を笑わせようとしていたトムとデーヴのことを笑うよりもよっぽど笑っていたのだ。あのとき、へまをしたのも演技の一部だと思わせる方法を思いつけば、ぜんぜんちがう結果になっていたかもしれない。でも、実際は思いつかなかったわけで、タレント・ショーは人生最悪の夜になってしまった。
その週の金曜日、ツィマーマン夫人はみんなをリヨン湖の別荘に招待した。もう泳げる季節ではなかったけれど、ツィマーマン夫人の別荘はとても静かで、景色がすばらしかったし、居心地も最高だった。ツィマーマン夫人はローズ・リタにもぜひいらっしゃいと言ったけれど、ローズ・リタは断った。だから、いったのは、ツィマーマン夫人とジョナサンおじさんとすっかり落ちこんでいるルイスの三人だった。ツィマーマン夫人はいつにも増して、おいしい夕食を作ってくれた。ポークチョップのグリルと、ふかふかのスタッフド・ベークドポテトに、ツンと酸っぱいザワークラウト、焼きたてのパンに甘いなめらかなバター、それからデザートは巨大なアップルパイのアイスクリーム添えだった。三人はツィマーマン夫人の紫のお皿をぜんぶ空にすると、紫のナプキンで口を拭いて、ホウッと満足のため息をついた。
「すばらしいごちそうだったよ、フローレンス」ジョナサンは赤いひげの奥から満面の笑みをのぞかせた。「今まででいちばんおいしかったんじゃないか?」
「それはどうもありがとう、ひげもじゃさん」ツィマーマン夫人は言った。それから顔を曇らせて、ため息をついた。「ローズ・リタがこられなくて残念だったわ。ちょっと心配なの」
ルイスは、お腹がいっぱいで幸せだった気分がいっぺんに吹き飛んだ。「ぼくもだよ」ルイスは認めた。「最近じゃ、ろくに話してもくれないんだ」
「そうね」ツィマーマン夫人はコーヒーをすすった。「ローズ・リタの年頃は、恥をかくのがなによりもいやなのよ。忘れるには、かなり時間がかかるでしょうね」
ジョナサンはルイスの肩に手を置いた。「ルイスもつらい思いをしているよ。なにしろ、卵のことで、これから気が遠くなるほどながい間、ありとあらゆるつまらない冗談に耐えなきゃいけないんだから」
ルイスは思わずにやっとした。おじさんとツィマーマン夫人がけっして、事件のことを避けて通ったり、たいしたことがなかったようなふりをしなかったおかげで、ルイスはずいぶん助けられていた。二人とも、ルイスを子ども扱いしないで、あけっぴろげに事件のことを話した。ルイスはおじさんのそういうところが好きだった。タレント・ショーであんなおそろしい失敗をしでかしたあとですら、ジョナサン・バーナルヴェルトはルイスの心を軽くするコツを心得ていた。
「それでルイス」ツィマーマン夫人はふざけるようにきいた。「もう二度と、舞台にはあがらないつもり?」
ルイスは肩をすくめて、フォークでお皿に残っていたパイのかけらをいじくった。「どうかな、ぼくがあのメンドリを無理に使わなかったら、ぜんぶうまくいったと思うんだ。手品を練習するのはすごく面白かった」
「なるほど」ジョナサンが言った。「毎年、コロンで大きな手品師の大会が開かれてるんだ。コロンには、マジック・ショーの行なわれるアボッツという劇場があるんだよ。来年、いってみようか。いくつか手品を習えるかもしれん。もちろん、おまえさんがいきたければな」
ルイスはフォークを置いた。「考えてみる。今は天文学者なるのもいいかなって思ってるんだ。そうすれば、みんなが寝ているあいだに、観測所で働けるでしょ。天体望遠鏡で惑星や星を見るんだ。ぼくが見られる側じゃなくってね」
「それについちゃ、いろいろ言いたいところだがな」ジョナサンはくすくす笑いながら言った。「だが今は、このすばらしい食事への感謝の気持ちを表して、皿洗いをするのが先決だな」そして、ポケットから25セント玉を取り出した。「どっちが洗ってどっちが拭くか、コインを投げて決めよう」
「ジョナサンおじさん」ルイスは言った。「それって両方表になってる手品用のコインじゃないの?」
一瞬、ジョナサンはあぜんとした。それから、のけぞって大笑いしはじめた。「やられたよ! 見破られた! おまえさんが先だ、ルイス。洗うかい? それとも拭くほうかい?」
リヨン湖には、ツィマーマン夫人の愛車のベッシィ――紫のプリマスできていた。ツィマーマン夫人が、ジョナサン・バーナルヴェルトの運転もおんぼろの車も信用できないと言ったからだ。三人が湖を出たのは、夜遅くだった。オークやカエデの木がホーマー道路の路肩まで枝を伸ばし、暗いトンネルのようになった道を車は猛スピードでとばしていった。もうすぐ満月だったけれど、黒い雲が垂れこめ、月はまったく見えなかった。ときたま、風がさあっと吹いてきて、ヘッドライトの光のなかを乾いた落ち葉が舞うのが見えた。ルイスはうしろの座席に座って、ツィマーマン夫人とジョナサンの間から前の道路を見つめていた。
車ががたんがたんとゆれて線路を渡り、ニュー・ゼベダイに入った。店はぜんぶ電気が消えて、閉まっていた。マンション通りに入ると、まもなくローズ・リタの家が見えてきた。ルイスは一瞬、凍りついた。それきらギャッと悲鳴をあげた。
ツィマーマン夫人が勢いよくブレーキを踏んだので、ベッシィはキキィーッと音をたてて急停止した。「いったいどうしたの?」
「見て! ローズ・リタの家!」
ジョナサンは助手席の窓をさげた。そして震える声で言った。「ありゃ、犬か?」
「ちがう」ルイスは言った。ローズ・リタの家のポーチをささっと跳ねるように這っている黒い影は、コリーかラブラドール犬くらいの大きさだったけれど、犬ではなかった。足が細長いし、そもそも犬にしては数が多すぎる。
「影よ」ツィマーマン夫人はあやふやな調子で言った。「ただの木の影だわ」
黒い影は、不気味なほど静かに家の壁を登っていった。
「いいや」ジョナサンは張り詰めた声で言った。「影じゃない。クモだ。旅行トランクくらいあるクモだ!」
ルイスは息を飲んだ。心臓がとぎどきいっている。その怪物は屋根まで這いのぼると、まるで見えないクモの糸を伝うように空に登っていった。「なにしてたんだろう?」ルイスは怯えた声で聞いた。
「想像もつかん」ジョナサンは首を伸ばして空を見あげた。「なんだろうと、いっちまった。フローレンス、すぐに作戦会議を開かねばなるまい。あれは、ほんもののクモじゃない。魔法で作られた化け物だ。それも邪悪な魔法でな。ローズ・リタがおそろしい危険にさらされている予感がする」
次の日の土曜日は、風があって涼しかった。ルイスは毎週末、魔法博物館にいって三十分ほどハードウィックさんやポーカー仲間の友人たちとおしゃべりするのが週間になっていたけれど、今日はいかずに、家の周りをぶらぶらしていた。水平線でしだいに大きくなる嵐のように、なにかおそろしいことが起こる予感がするのを、必死で押さえていた。
ジョナサンおじさんとツィマーマン夫人は、書斎で話しこんでいた。ルイスは自分が見たことをぜんぶ二人に話した。おじさんたちはひどく心配していた。二人があまりに忙しそうだったので、ルイスは自分がしゃまになっているような気がした。ついにジョナサンが、いつもどおり博物館にいってきたらどうだい、と言ってくれた。「フローレンスもわしも、今は相手ができんしな」ジョナサンは説明した。「それに、ハードウィックさんは、おまえさんが博物館に興味を持っているのを喜んでいるようだよ。おまえさんも少しはいやなことが忘れられるだろうし」
今はなによりも、いやなことを忘れたかった。そこで、ルイスはウィンドブレーカーを着ると、身がひきしまるような寒さのなかに出ていった。いろいろ考えながら街へ向かって歩いていくと、ローズ・リタの家の前にさしかかった。ルイスは通りの反対側に渡ったけれど、歩きながら何度も、不安な気持ちで木々のほうを眺めた。おそろしい灰色の影が自分に襲いかかろうと潜んでいるのが見えるような気がしてしょうがなかった。
けれども、そんなものはいなかった。枯れ葉と、黒い太ったリスが二、三匹、それからぼろぼろの古い鳥の巣が一つ、パーキンズさんがまだきていなくて、残りの三人はパーキンズさんがくるのを待ちながら、カードの手品で互いに相手をだまそうとしていた。「手品がうまくいったかどうか、話してくれんのかね?」ハードウィックさんはカードを切って、いちばん上からジャックをぽんぽんと出しながら、言った。ルイスはため息をついて、悲惨な事件の一部始終を話した。
三人の手品師たちは、同情した顔できいていた。ムッセンバーガーさんは、そんなアクシデントはしょっちゅうだと言ってくれた。「ぴらぴらしたピエロの衣装を着て、生放送で手品をやってみりゃわかるよ」ムッセンバーガーさんは、ガラガラ声でなぐさめるように言った。「放送中にウサギにフンをされて、子どもたちに種がばれちまったこともある。一度なんて、ツイン・オークスのでっかい牛乳ビンを出して見せて、グイッと飲んだとたん、カメラのレンズに向かってぜんぶ吐きだしちまったんだ。腐ってたんだよ!」
「フーディーニだって、失敗したことがあるんだ」小男のジョニー・ストーンさんが、トランプに手を伸ばしながら言った。「一度か二度、脱出がうまくいかなくて、助けられたことがあるはずだ。冬に水中脱出をしたとき、鍵のかかった箱から出たら、川に氷が張っていて岸にあがれなかったって話をよくしていたよ。背泳ぎで氷と水のすきまにあるわずかな空気を吸いながら、八百メートルも泳がなきゃなんなかったんだ。岸にあがったときは、凍える寸前だったってさ」
氷に閉じこめられた暗い水のなかのようすがありありと浮かんできた。川の冷たい死の腕の感触が感じられるような気さえした。「本当にあった話なんですか?」ルイスは恐れと尊敬の入り混じった気持ちでたずねた。
ストーンさんは片目をつぶってみせた。「どっちにしろ、面白い話だろ?」それから言った。「一階に、フーディーニが使っていた牛乳の缶があるのを見たかい?」
ルイスが首を振ると、ハードウィックさんは立ちあがった。「思い立ったが吉日だ」一同はどやどやと下におりて、ハードウィックさんがルイスに亜鉛メッキ鋼の牛乳缶を見せた。缶はルイスの背くらいあって、巨大な南京錠が八つもついてふたをしっかりと閉じていた。「このなかに入って、だれかが錠をかけるところを想像してごらん」ハードウィックさんが言った。「どんなに暗くて狭いか想像できるかい? 光も空気もないんだ」
ルイスは思い浮かべてブルッと震えた。すると、ふっと頭に浮かんできたことがあった。ツィマーマン夫人は、タレント・ショーのあとローズ・リタを用務員室で見つけたと言っていた。ローズ・リタは閉所恐怖症だ。狭い場所に閉じこめられると、ヒステリーを起こしてしまう。物置に隠れるなんて、ローズ・リタがしそうにもないことだった。「え?」ルイスは聞き返した。ハードウィックさんはしゃべるのをやめて、ルイスをじっと見た。
「こいつのなかに入ったところを想像してたんだな」博物館の館長は言った。「こんなふうに錠のかかった缶から、いったいぜんたいどうやってフーディーニが脱出したか、わかるかいってきいたんだ」
ルイスは首を振った。「できるなんて信じられない」
「ところができるんだ」ストーンさんが自慢げに言った。
ハードウィックさんもうなずいた。「ああ、もちろんできる。だが、フーディーニはそれを芸術的にやったんだ。フーディーニは魔術師というより、縄抜けの名人といったほうが正しいかもしれん。だが、彼のやり方は実に芸術的だったということは認めなけりゃならん」
ドアをノックする音がした。ハードウィックさんはにやりとした。「トーマス・パーキンズ氏が遅れてご登場だ」そして、入り口のドアを開けにいった。
ところが、きたのパーキンズさんではなかった。ハードウィックさんがドアを開けると、ルイスはあっと驚いた。入ってきたのはローズ・リタだった。何日もろくに寝ていないような顔をしている。クマができているせいで、目がひどく疲れて落ちくぼんで見えたし、髪もいつにも増してもつれている。胸にはしっかりと緑の本を抱えていた。「こんにちは」ローズ・リタは小さな声で言うと、ハードウィックさんに本を渡した。「どうもありがとうございました」
「お安いごようだよ」ハードウィックさんは答えた。
ローズ・リタは、ルイスがいるのに気づいていなかった。ローズ・リタは唇をなめると言った。
「もしよければ、もう少し借りていたいんです。あと、あの、前に話してくださった墓地に今でもいきますか? ベル・フリッソンが葬られている墓地のことです」
「ときどきいくよ」ハードウィックさんは言った。「古い友人の墓がいくつかあるんだ。うちの奥さんと墓参りにいくんだよ。コロンのあの墓地には、魔術師たちの墓がびっくりするほどたくさんあるんだ」そして、ローズ・リタに本を返した。「好きなだけ、借りていていいよ」
「近いうちにいきますか?」ローズ・リタはいてもたっていられないようなようすだった。
ハードウィックさんは一瞬、考えこんだ。「うーん。そう言われてみれば、最近いってないな。明日、エレンといってもいいな」
「連れていってもらえますか?」ローズ・リタはきいた。
ハードウィックさんは言った。「もちろんいいさ。おとうさんとおかあさんがいいと言ったらね」それから振り返って、言った。「ルイス、きみもくるかい?」
ルイスはすぐに答えられなかった。ハードウィックさんが話しかけたとたん、ローズ・リタがじろりとこちらをにらみつけたのだ。すさまじい怒りの表情が、浮かんだが、一瞬にして消え、すぐにルイスが気がかりな最近よく見るぼんやりとした顔に変わった。ルイスはつかえながら答えた。「う、うん。たぶん。おじさんにきいてみます」
「ぜひおいで」ハードウィックさんは言って、ドアの外をのぞいた。「よし。トム・パーキンズがおんぼろ車を止めてるぞ。ようやくポーカーがはじめられるな」
ルイスはハードウィックさんたちにさようならを言うと、ローズ・リタと表へ出た。ルイスはもごもごと二、三言話しかけてみたけれど、ローズ・リタはフンとうなったり、肩をすくめたりするだけで、家の前までくると、なにも言わずに入ってしまった。ルイスはふいに、今、博物館からいっしょに歩いてきたのはローズ・リタではないような、ぶきみな感覚に襲われた。まるで死体と歩いてきたみたいだ、とルイスは思った。そう思ったとたん、吐き気がして気分が悪くなった。ローズ・リタの体のなかにいるのがローズ・リタでないとしたら、いったいだれなんだ?
いや、人間ならまだましだ。いったいなんなんだろう?
家に帰ると、ツィマーマン夫人とジョナサンおじさんはまだ書斎にいた。ジョナサンは緑のかさのランプを置いた大机に座っていた。横に本が乱雑に積み重ねてある。ツィマーマン夫人は大きなひじ掛けいすに腰かけて、紫の長いスカーフのようなものをせっせと編んでいた。ツィマーマン夫人はめったに編み物はしなかったけれど、たまに考え事がたくさんあるときに、毛糸と針をひっぱりだして、なにやら編みはじめることがあった。ぶかぶかのセーターやら掛けぶとんやらショールやらが編みあがるのだけれど、ツィマーマン夫人いわく、編みあがったものを見ていちばん驚くのは、だれよりも編んでいた本人だった。なにか編みたいものがあるわけでもなく、いきなり編みはじめるからだ。
ツィマーマン夫人とジョナサンおじさんは、ルイスが入ってきてもうひとつのひじ掛けいすに座ると、顔をあげた。「魔法をかけられて、悩んで、とほうにくれているといった感じだわね、ルイス」ツィマーマン夫人はそう言うと、針をカチッと鳴らして、置いた。
ルイスはうなずいた。「ちょっと気になることがあったんだ」それからツィマーマン夫人に、ローズ・リタが用務員室に隠れることにしたのはおかしいと思う、と言った。
「わたしもそう思ったんですよ」ツィマーマン夫人は答えた。「実際、ジョナサンとわたしは、最近のローズ・リタの行動はひどく奇妙だって言っていたんです。まるでローズ・リタじゃないみたい。そのことについて、ちょっと調べてみたの。あとローズ・リタの家で見たクモについてもね」ルイスは、それを聞いたとたんブルッと震えた。ツィマーマン夫人は明るく見せようとして、無理に笑いかけた。「心配しないの! このもじゃもじゃさんの持っている神秘の伝説に関する本をよく調べてみたのだけれど、あの気味の悪い灰色の化け物がなんであれ、おそらくローズ・リタを傷つけることはできないわ」
「でも、そうはいかないんだ」ルイスはため息をついた。そして、博物館でローズ・リタにあったことを話してきかせた。「ローズ・リタは明日、ハードウィックさんとその墓にいくつもりなんだ」ルイスは最後まで話すと、そう言った。「でも、ぼくはいきたくない」ルイスは下唇を噛んだ。クリストバルへいくと思うだけで死ぬほどこわいんだ、と告白する勇気はなかった。気味の悪い墓場なんて大きらいだったし、ローズ・リタのようすがおかしいときに、二人で後部座席に乗って三十キロも走るなんて、絶対にいやだった。
ジョナサン・バーナルヴェルトとツィマーマン夫人は視線を交わした。「鬼ばあさん、それこそ、わしらの問題を解決してくれる絶好の機会だと思うんだが? どうだろう?」
ツィマーマン夫人はしゃんとなって言った。「わたしもそう思うわ。これ以上、ただ座って、次はどんなおそろしいことが起こるだろうなんて考えて暗くなっていてもむだですよ! もう行動を起こすときよ。ルイスなら役に立ってくれる」
ジョナサンは赤いひげを引っぱりながら言った。「フローレンスの言うとおりだと思う」ジョナサンはゆっくりと口を開いた。「わしらは、ローズ・リタがなにかの魔法の攻撃にあっていると考えておる。戦うためには、まずその背後になにがあるのか知る必要がある。つまり、もっと言えば、裏で糸を引いているものの正体を知らないと戦えんということだ。だから、おまえさんにはわしの目となり耳となってほしい。いっしょに墓地へいって、ローズ・リタからなにか探り出せないか、やってみてくれ」
ルイスはどうすることもできずに、ため息をついた。「ぼくに話しかけようともしないんだよ」ルイスは言った。
ツィマーマン夫人は編み目を落として、いらいらしたように舌を鳴らした。そして、そこまで戻ってやり直すと、言った。「だからこそ、あなたに諜報部員のようなことをしてほしいのよ、ルイス。もちろん、友だちのことをスパイするなんて、よくないことだわ。ふだんだったら、そんなことを頼んだりしないでしょうね。だけど、今回はジョナサンの言うとおりよ。わたしはね、本当に親指がうずくんですよ。〈マクベス〉に出てくる魔女の親指みたいにね。なにか邪悪なことが起ころうとしている。戦う相手がわからなければ、やられてしまうわ。よく観察力を働かせて、どんな小さなことでも覚えてきてほしいの。そうすれば、ローズ・リタを救えるかもしれない」
ルイスはツィマーマン夫人の針がどんどんセーターに新しい列をつけくわえていくのを見ながら、じっくりと考えた。そしてとうとう深呼吸して言った。「わかった。いやだけど、いってくる」
こうして、ことは決まった。ジョナサンとツィマーマン夫人はそのあと夕方まで打ち合わせをして、夕食はコールドチキンのサンドイッチとポテトチップスで急いで済ませた。ルイスはじっとしていられなかった。家中をうろうろしながら、名前もわからないものや、見たことがあっても忘れてしまったものを見てまわった。
古い屋敷に住むのは最高だったし、ルイスはこの家を愛していた。どの部屋にも暖炉があって、ひとつひとつがぜんぶ、ちがう色の大理石で作られている。二階の部屋はほとんど使われていなくて、ありとあらゆるたぐいのがらくたが詰めこまれていた。なかには、南北戦争より前にさかのぼるバーナヴェルト家の品々を入れたトランクとか、空気の抜けたような音を出す古いハルモニウムや、立体幻灯機まであり、エジプトのびらみっどからナイアガラの滝の上に張ったワイヤーの上でポーズをとる綱渡り師まで、セピア色の立体写真が五百枚近くもあった。いつもだったら、雨の日でも、屋敷を探検して見つけた面白いものを試してみるだけで、じゅうぶん、楽しく過ごすことができた。
けれども、その日の夕方は、なにも手につかなかった。心配でじっと座っていることはできなかったし、なにかに集中するのもむりだった。だからルイスは、家のなかをあてもなく歩き回り、裏の階段にいって、ステンドグラスの窓を眺めながらしばらく座っていた。ジョナサンが魔法をかけたので、窓の模様は見るたびにちがった。ほかの惑星らしい、煙を吐き出す高い山や、気味の悪いねじけた木や、球や円錐や円筒形をした不可解な建物の立ち並ぶ、ふしぎな風景が見えることもあった。たいていはもっと現実的な題材が多く、龍退治をする騎士とか、リラ(古代ギリシアの竪琴)やタンブーラ(インドのリュート。ギターによく似た楽器)やシューリンクス(横笛)を吹きながら羊たちを見張る羊飼いとか、単語を踊る四人の天使の姿が見られた。
その夜、ステンドグラスの窓には、なだらかな起伏を描く丘のあいだを縫うように走る道が映っていた。丘は森に覆われ、上には、ヴィックスヴェポラップのビンのような、暗い紫がかった青色の空が広がっている。陰気な深緑色の丘の間をくねくねと走る道は、平たい灰色のヘビのようだった。ルイスは絵にひきこまれそうな気がした。荒れ模様の異様な空をあおぎながら、謎の道路を歩いている自分の姿が浮かんできた。先にはなにがあるのだろう? ルイスはため息をついて立ちあがり、テレビで面白いものがやっていないか、見にいった。
その夜遅く、ルイスはベッドのなかでこれから待ちうけている運命のことを考えながらくよくよ悩んでいた。ルイスはなにに怯えているのかもわからないまま、怯えていた。追い詰められたような感じだ。なにか邪悪な知性を持ったものが、自分を見張っているような気がする。ルイスがなにをしようとしているのかを知っていて、ルイスを滅ぼそうと狙っているのだ。ふたたび道路がくねくねと伸びる不吉な風景が、よみがえってきた。あの先にはなにがあるんだろうという疑問が、頭から離れない。臆病者になるなと自分に言い聞かせたけれど、うまくいかなかった。
ルイスは、困難や危険を無視してかかれるような人間ではなかった。胸が苦しくなり、ひとりぼっちだという気がした。すると、ふっとお祈りの文句が浮かんできた。ルイスは暗闇の中で横になったまま、「この普遍なる信仰によって、われわれがあらゆる逆境から永遠に守られることを、心よりお願いいたします」と、となえた。
お祈りを唱えると、ルイスは少し気分がよくなった。ルイスの直面している逆境は、まだそれがどんなもののかもわからない。ルイスは祈りが聞き届けられることを願った。やがて、何度も寝返りをうちながら、ルイスは浅い不安な眠りへと落ちていった。
日曜日は、典型的な秋の一日だった。真っ青な空の高いところを、馬尾雲《ばびうん》と呼ばれる細い筋になった巻雲が流れていく。ハードウィックさんと奥さんのエレンが、青と白のシボレーでルイスを迎えにきた。ハードウィックさんの奥さんは茶色い目のほっそりした女の人で、ゆったりしたズボンと麦わら帽子をかぶっていた。ローズ・リタは先にうしろの座席に座っていたので、ルイスはそのとなりに座った。クリストバルに着くまで、二人はほとんどしゃべらなかった。ローズ・リタはあいかわらずよそよそしくて、無口だった。しようがないので、ルイスは窓から、通りすがりの農場の赤い古納屋や、屋根に大きく〈チュウ メイル・ポーチ〉と描かれた噛みタバコの広告などを眺めた。ハードウィックさんの運転は慎重だったので、のんびりとしたドライブだった。
クリストバルは、町とは呼べなかった。ニュー・ゼベダイもかなり小さい町だったけれど、クリストバルは十字路に飼料倉庫と雑貨屋とガソリンスタンドがあるきりだった。ニュー・ゼベダイはかつてミシガン州の州都に名乗りをあげたこともあるせいか、立ち並ぶ家々も、塔やけばけばしい飾りや切妻屋根などのヴィクトリアふうの装飾のある古くて立派なものが多かった。クリストバルの建物はもっと質素で、白い板張りの家に小さな庭がついたものだった。
ハードウィックさんは、村のなかを走っていった。墓地のある大きなレンガ造りの教会の前もすぎたけれど、そこではとまらずに、また村の外に出て、くねくねと曲がるわき道を降りていった。一キロ半ほど走ると、いきなり道路が終わり、さっきの教会墓地より小さい、四角い形の墓地に着いた。ペンキを塗りなおしたばかりの白い木の柵が、ぐるりと巡らされている。ハードウィックさんが車を止め、みんなは外に出た。ルイスは周りを見回した。木が一本も生えていない。墓石のほとんどは古いみかげ石で、意匠を凝らしたものはなかった。天使や壷の図を彫ったものや石碑はなく、上に丸みのついた飾りのない石版が並んでいる。ところどころに緑のコケが生えね風雨にさらされて灰色になっていた。そのなかで、一つだけ、目をひく石碑があった。
ハードウィックさんはシボレーのトランクからかごを取り出した。中には、軍手が二組と、草バサミなどの道具類が入っていた。「エレンとわたしは、草の手入れをしてくるから、きみたちは好きなように歩きまわっておいで。ローズ・リタ、真ん中にある大きな墓石がベル・フリッソンのだ。変わってるだろう。見てくるといい」
墓地の芝生は、少し伸びていた。きっとたまに人が訪れて、掃除しているのだろう。ほとんどの墓には花が供えてあって、新しくて元気なものもあれば、しおれて茶色くなっているものもあった。ルイスとローズ・リタは足もとの砂利をザクッザクッと踏みながら、墓地の真ん中へ向かってゆっくりと歩いていった。ルイスが信じている迷信のなかに、墓石を踏むと悪いことが起こるというものがあったから、ルイスは一歩一歩慎重に歩いていった。
「たしかに大きいな」ふしぎな墓石の前までくると、ルイスは言った。墓石は、約三メートル四方の真四角の台座の上に立っていた。台座の上におおよそ一・五メートル四方の石の立方体があり、さらにその上にいくつもの面でできた三メートルほどの柱がそびえたっている。仕上げはてっぺんにのっている、少なくとも直径が一メートルはありそうな灰色の球だった。球には、なぜかチョークのあとがいくつかうっすらと残っている。台座から球までぜんぶ、暗い感じのネズミ色のみかげ石で作られていた。柱と球を支えている立方体に、文字が刻まれていた。
ベル・フリッソン
(旧名 エリザベス・プロクター)
一八二二年〜一八七八年
もう一度生きることを願いつつ、ここに眠る
うしろから、チョキンチョキンという草バサミの音がする。ルイスは碑文から顔をあげて、立方体の上の柱を見た。直径六十センチかそこらだろう。そんなに太くはない。くねくねと曲がった線や直線が深く刻まれていたけれど、文字ではなかった。ルイスはもう一度球を見あげた。なぜかひどく胸騒ぎがした。
ローズ・リタは墓石の周りをぐるぐると歩き回りながら、熱心に柱を調べていた。ルイスはもうたくさんだった。くるりとうしろを向くと、砂利道を急いでハードウィックさんのところへもどった。ハードウィックさんは世紀の大魔術師キャンデリーニ またの名をフレデリック・ジェレミー・マクキャンドルス≠ニ刻まれた墓石の周りの草を刈っていた。
「ぶきみな墓石だろ?」ハードウィックさんはルイスに言った。そして博物館の館長は、ハンカチで額をぬぐった。「ベル・フリッソンの墓のことだよ。彼女はここで死んだんだ。知ってるかい?」
ルイスは首を振った。
「話してあげなさいよ」ハードウィックさんの奥さんが勧めた。「もうすぐハロウィーンよ! もってこいの時じゃない」
「そうだな」ハードウィックさんは、草を刈りながら言った。「一八七八年当時、ベル・フリッソンは、例の交霊術をやりながらこの地方を巡業していた。デトロイトでショーを開いて、列車で西に向かった。ところがちょうどクリストバルの町のすぐ外で、列車が脱線したんだ。かなりのけが人が出た」
「大事故だったのよ」ハードウィックさんの奥さんがつけくわえた。「事故が起こったのは、十月中旬で、雲ひとつない晴れた日だったの。結局、原因はわからなかった」
ハードウィックさんもうなずいた。「謎だったんだ。今言ったとおり、たくさんの人がけがをしたけど、重傷だったのはベル・フリッソンだけだった。そのころ、ここには農場があって、お医者さんが住んでいた。そのお医者さんと奥さんがフリッソンをひきとって、手当てをしたんだ。フリッソンは意識を取り戻したけれど、もう自分の先の長くないことがわかったんだな。死ぬ間際に、ひどく風変わりなことをしたんだ。そのお医者さんから、農場を買い取ったんだよ」
「お金持ちだったんですか?」ルイスは聞いた。
「ああ、そりゃあね」ハードウィックさんは答えた。「そして、一週間近くかけて、自分の墓石の絵を描いて、その絵とまったく同じものを作るよう注文したんだ。やがて、見慣れない男たちが農場にやってきた。お医者さんは電報なんて打たなかったし、フリッソンは普通の方法じゃあ、連絡できなかったはずなのにだ。フリッソンは、一人一人に会って、それぞれに指示を出した。そして、お医者さんには、農場の前庭にお墓を作るつもりだと言って、そう記した遺言書を書いたんだ。それから、一風変わった巻き物を作った。それは博物館に置いてあるよ。ベル・フリッソンが死んだのは、一八七八年のハロウィーンの夜だった。次の日、お医者さん夫婦はすぐに引っ越した。そして例の、石工だか大工だか葬儀屋だかわからんが、よそ者たちがやってきたんだ。彼らは一か月かけてフリッソンを埋葬し、あの墓石を建てた。それからお医者さんの家を解体して、またいっちまったというわけだ」
「そのときは、お墓はそのひとつだけだった」ハードウィックさんの奥さんが言った。「けれど、何年かたつうちに、そうではなくなった。ベル・フリッソンは遺言で、ほかのところでお墓が買えない人に無料でこの場所を提供することを、約束したのよ。それから、魔術師なら無条件で提供するって」
ハードウィックさんが引き継いで言った。「六人か七人の魔術師たちが、彼女の申し出に応じたわけだ」そして、草を刈っていたお墓を叩いた。「このフレディは、世紀の大魔術師キャンデリーニっていったほうが知られているな。彼もその一人だ。やつのことは、戦争の前から知っている。八十七まで生きて、一九四三年に亡くなったんだが、そのとき、ここに埋めてくれって言い残したんだ。火のついたロウソクを使った手品が得意でな。もし生きていたら、きみも大好きになっていたと思うよ、ルイス」
ルイスはうなずいた。「ベル・フリッソンの墓石のてっぺんにのっている球に、チョークの印がついているのはなんですか?」
ハードウィックさんははさみをかごに戻すと、立ちあがった。「それがまたふしぎなところなんだ。あの球は回転してる。ゆっくりと動いているんだ。だいたい六週間で、一周する。仕組みはだれにもわからんが、ある科学の先生にきいたところによると、おそらくみかげ石が暖かいと膨張して、寒くとなると収縮することに関係してるんじゃないかと言っていた」
「動いていることをたしかめようとして、みんながチョークで印をつけるのよ」ハードウィックさんの奥さんが言った。「そうするとね、たしかに動いているの」
ハードウィックさんたちはもうひとつのお墓を掃除しにいったので、ルイスはまたベル・フリッソンのお墓のほうに戻っていった。妙な予感を振り払うことができない。なにかがひどくおかしい。ローズ・リタのことが心配だった。次の瞬間、ルイスは凍りついたように足を止めた。ローズ・リタが墓石の反対側に立って、手のひらを上に向けて両腕を広げ、柱を見あげていた。めがねに日の光が反射している。墓石の上の球を見ているようだった。
「やあ」ルイスはローズ・リタのほうに歩いていって、言った。ローズ・リタは答えなかった。
「変な墓石だよな」
ローズ・リタはルイスをにらみつけた。「なにも知らないくせに」ローズ・リタは噛みつくように言った。
ルイスは眉をあげた。「え? どうしたんだよ? ぼくはただ――」
「なんでもないわ」
ルイスは言った。「ハードウィックさんが、あの上の球は回転してるんだって教えてくれたよ。ひとりでに動いているんだって。だから、みんながチョークで印をつけてるんだ。気味悪いよね?」
「動きあれば、命がある」ローズ・リタは奇妙なしゃがれ声で言った。「血は命なり。失う者あれば、得る者あり」
「なに言ってるんだ?」
ローズ・リタは首を振った。「別に」
雲の間からまだ日は差していたけれど、ルイスは急に寒くなったように感じた。草バサミのチョキンチョキンという音と、草が風にそよぐ音のほかは、なにも聞こえない。「この記号はなんだと思う?」ルイスは沈黙を埋めようとして言った。そして、みかげ石に刻みこまれた曲がった線やくるりと巻いた印を指さした。
「謎だ」ローズ・リタはさっきと同じ、どこかぼんやりとしたかすれ声で言った。「やがて解けるかもしれぬ。だが解けないかもしれない。その答えは、はるかかなたからもたらされるであろう」
ルイスは首のうしろがむずむずするのを感じた。虫だと思ってピシャリと叩くと、なにかねばねばしたものがくっついたので、手を見た。指に、細いクモの糸がくっついている。ルイスはぞっとして顔をゆがめ、かがんで手を草になすりつけた。すると、今度は顔に糸が触れた。そしてまた。ルイスは恐怖で悲鳴をあげると、手をやみくもに振り回した。そこいらじゅうに、ごく細いクモの糸が漂っていた。そして、その一本一本にほとんど見えないほど小さい灰色のクモがぶらさがっているのだ。クモは大きらいだ。ルイスはローズ・リタの腕をつかんだ。「逃げよう!」そして、ローズ・リタを引きずって走り出した。
フリッソンの墓から数歩離れるとすぐに、ふわふわと漂う子グモは消えた。ハードウィックさんたちにそのことを話すと、ちょうど集団移動をしていたんだろう、と言われた。「子グモにはそういう習性があると聞いたことがある」ハードウィックさんは言った。「ただ、移動するのはたしか春だったと思ったがな」
ローズ・リタはなにも言わなかった。帰り道もほとんど口をきかなかった。ルイスはじっとローズ・リタのようすを観察し、ローズ・リタの言ったことを一言も漏らさず記憶しようとした。頭のなかをいろいろな考えが駆け巡っていた。
その日の夕方、ルイスはジョナサンおじさんとツィマーマン夫人に覚えていることはすべて話した。二人は深刻な表情で聞いていた。ルイスが話し終わると、二人は長い間、黙って目を合わせていた。「回転する球のついたお墓について、なにかきいたことはある、ジョナサン?」ツィマーマン夫人はたずねた。
「エジプトの死者の書で見た覚えがあるな」ジョナサンは答えた。「クモについちゃ、どうだい? エジプトの神話にはクモについての記述があるのかね?」
ツィマーマン夫人はあごに指をあてた。「そうねえ。特にクモについての奇術に覚えはないわね。もちろん、古代エジプト人はスカラベを神聖視していたけれど、どちらかというとカブトムシに似ているし。クモは昆虫じゃありませんからね。当てはまるとは思えないわ。なにも思いつきませんよ。ギリシア神話に、アテネに織物の術で破れてクモに変えられたアラクネーの物語があるのと、アフリカの民話にアナンシっていうクモのトリックスターが出てくることくらいだわ」
「謎だな」ジョナサンは言った。
「その答えは、はるかかなたからもたらされるであろう」ルイスはおごそかに言った。ジョナサンおじさんとツィマーマン夫人は、まるでルイスがもうひとつ頭を生やしたとでもいうように、じっとルイスを見つめた。「なに?」ルイスは少し驚いて言った。
「ずいぶんとおかしなことを言うな」ジョナサンは言った。「その答えは、はるかかなたからもたらされるであろう? どういう意味だね?」
「わからない」ルイスは告白した。「ローズ・リタが言っていたんだ」
「そのままの言葉で?」ジョナサンの声はひどく不安そうだった。
「うん。まちがいないよ」ルイスは言った。「ちょっとはちがうかもしれないけど、ほとんど同じはずだ」
ジョナサンはチョッキからパイプを出すと(もう吸わないのに、まだ持ち歩いていたのだ)、くるくるとばねのようにねじった。それから端と端を近づけていくと、パイプクリーナーはぴょんと手から飛び出した。ジョナサンは差し迫った声で言った。「フローレンス、つまらないことに騒ぎだてると言われようが、悲観論者と言われようが、どうしてもいやな予感がする。生霊については、もちろん知ってるだろう」
「う、え、ええ」ツィマーマン夫人は答えた。「でも、ただの偶然だということもあるわ」
「生霊って?」ルイスがきいた。
ジョナサンは暗い顔でツィマーマン夫人を見た。「鬼婆どの、おまえさんが説明してくれ。このなかじゃあ、おまさんがいちばんくわしいから」
「あのね、ルイス」ツィマーマン夫人はルイスに向かって話しはじめた。「生霊っていうのは、一種の幽霊か亡霊のようなものなの。イギリスとアイルランドでは人間の姿をしている。というより、そのもとの人物にそっくりなのよ。ドイツではドッペルゲンガーって呼ばれていて、言ってみれ本人の分身≠チていうような意味なの。ともかく、友だちや家族の間に、犠牲者の生霊が――」
「ぎ、犠牲者?」ルイスはつかえながら繰り返した。今はもう、生霊とかいうものについて知りたくなくなっていた。
ジョナサンはうなずいた。「ときには、犠牲者本人が自分の生霊を見ることもある。たいていの場合、みんな生霊を見て、本人だと思っちまうんだ」
「それは、人間の生霊の場合よ」ツィマーマン夫人が言った。「ほかの国や、別の時代では、人間以外の生霊もいると信じられていた。動物や、鳥や、虫のね」
「ク、クモとか?」ルイスは言った。
「ええ、クモとかね」ツィマーマン夫人は答えた。「すべての生霊は、動物だろうが鳥だろうが気味の悪い虫だろうが、ある役目を担っている。運のつきた人物の魂を呼びにいくというね」
「死ぬ運命の人ってこと?」ルイスは小さな声できいた。
ジョナサンおじさんが静かに答えた。「そうだ、ルイスの死ぬ運命の人ってことだ」
ルイスは言葉を失った。ローズ・リタのことと、ローズ・リタの家の外で見たおそろしいクモのことで頭がいっぱいだった。あれは本当に生霊なんだろうか? ローズ・リタは死んでしまうのだろうか?
10
その日の午後、ローズ・リタは出かける用意をしていた。母親の大きな声がきこえた。「どこへいくの?」
ローズ・リタはジーンズをはいて、ぶかぶかのジャケットをはおり、ツィマーマン夫人がむかし編んでくれた紫の毛糸の帽子をかぶった。「ルイスと今度のテストの勉強をしてくる。遅くなると思うわ」ローズ・リタは叫び返した。
「あんまり遅くなりすぎないのよ」ポッティンガー夫人は言った。
ローズ・リタは表へ飛び出した。ジャケットのなかには、巻き物と本と懐中電灯とパラフィン紙に包んだサンドイッチが詰めこんである。これからやろうとしていることにいくぶんかは罪の意識を感じていた。とっぴな作り話をするのは大好きだったけれど、親にうそをついたことはほとんどなかったのだ。ローズ・リタは自転車にまたがると、ミシンみたいにぽんぽん上下しながら街のほうへ端っていった。それから西へ向かって噴水を通りすぎ、ナショナル・ハウス・ホテルの前を抜けて、街の外に出た。
五、六キロも走り続けてから、ローズ・リタはようやく自転車を下りて、周りを見回した。高速道路の北側はトウモロコシ畑で、まだ枯れて茶色くなった茎が立っている。横木を三本渡した柵で囲ってあったけれど、問題はなかった。ローズ・リタは柵を乗り越え、苦労して自転車を間から通した。トウモロコシ畑のなかに自転車を隠すのは、わけなかった。それから高速道路のほうへ引き返し、ヒチハイクをはじめた。
六台が、スピードも緩めずにビュンッと通りすぎた。けれども次にきたおんぼろの赤いフォードのピックアップはスピードを緩めると、道の片側に寄った。丸々と太った女の人が、助手席のドアを開けた。「乗っていく?」女の人は明るい声で言った。「どうぞ!」
ローズ・リタは助手席に乗った。「ありがとうございます」
女の人はブルン! と車のギアを入れた。「どういたしまして。スザンナ・サイドラーよ。名前は?」
「ロワーナ・ポッター」偽名は前もって用意していた。
「よろしく、ロワーナ・ポッター。どこへいきたいの?」
「クリストバルに戻りたいんです」ローズ・リタは言った。
サイドらー夫人はいかにも農夫らしい大きな赤い顔に、赤と黒の格子縞のフランネル・シャツとオーバーオールを着て、首に赤い大きなバンダナを巻いていた。髪はまっすぐで短く、赤みがかかった茶色だった。そして矢車草のような青い目で、驚いてローズ・リタを見た。「まあ、ロワーナ。ずいぶん遠くからきたのね。いったいどうやって、ニュー・ゼベダイまできたの?」
ローズ・リタは、まっすぐ前の高速道路を見つめた。「ええ、お話しすると長いんです」ローズ・リタはゆっくりと答えながら、すさまじい勢いで頭を働かせた。「わたしのおじが、昨日、お医者さまに診てもらうためにニュー・ゼベダイにきたんです。いっしょにいこうって言われたから、わたしもついてきたんですけれど、おじは盲腸をとることになってしまって、そのまま入院しちゃったんです。あんまり急だったので、みんな、わたしのことまで考えられなくなって。それで今日、おじに帰るように言われたんです。ニワトリとブタにエサをやって、わたしの両親にだいじょうぶだって伝えてくれって」
「電話すればよかったのに」サイドラー夫人は言った。
「うちには電話がないんです」ローズ・リタは答えた。「両親は二人とも、耳が聞こえないので」
「まあ!」サイドラー夫人は叫んだ「苦労してきたのね! そのお医者さんに頼めばよかったのに」
「もうニュー・ゼベダイにいないんです。おじの手術が終わるとすぐに、アッパー半島に一週間の釣り旅行にいってしまったから」
「そんなひどい話、聞いたこともないわ!」サイドラー夫人は憤慨して言った。「ともかく、ロワーナ、安心してちょうだい。わたしがあなたのうちの玄関のまん前まで送り届けてあげるから。ちょうどクリストバルを通るの。夫とわたしは、クリストバルの十五キロほど先の農場に住んでいるのよ。だから、なんでもないわ」
ローズ・リタはしまったと思って唇を噛んだ。わたしって、たまに話ができすぎちゃうんだわ。ローズ・リタはなるべく自分の家族の話はせずに、サイドラー夫人に家族の話をさせるようにした。サイドラー夫人は喜んで子どもたちの話をした。おかげで、長い道のりのあいだに、ローズ・リタはヒラムとアーネストとクララと、みんなが「かわいこちゃん」と呼んでいる赤ん坊のヴェルマについて、すべて知ることになった。クリストバルについたのは、日が沈む直前だった。ローズ・リタはそわそわしはじめた。すると、左側にある農家が目に止まった。「あれがうちです」ローズ・リタは、かわいこちゃんが台所の壁にケチャップを塗りたくった話を途中でさえぎって、言った。
「おうちまでいって、ごあいさつするわ」サイドラー夫人は車のスピードを落としはじめた。
「いいえ、けっこうです」ローズ・リタは言った。「どちらにしろ、今ごろは教会にいってるし、乗せてくださって、ありがとうございました」ローズ・リタが強く言うので、サイドラー夫人は車を寄せて、ローズ・リタを下ろした。ローズ・リタはぼろぼろのフォードが見えなくなるまでそこに立って手を振り続け、歩き出した。墓地にいく道は、農家をすぎるとすぐ見つかった。
けれど、わき道に入ってからは、長かった。そのうちローズ・リタは暑くなってきた。太陽が沈むにつれ、ローズ・リタの黒い影が長くなっていく。ようやくあの奇妙な墓石の前まできた。目を細めて見あげると、チョークの印が少し動いたように思える。柱のてっぺんのふしぎな球は、数時間前にきたときよりも、二、三センチほど回転していた。でこぼこした灰色の球は、半分は夕日を受けて真っ赤に染まり、残りの半分は深い影に沈んでいる。ローズ・リタはジャケットのなかから巻き物を取り出した。そして、刺繍のついた帯封から抜くと、広げはじめた。「これからどうすればいいの?」ローズ・リタは声に出してつぶやいた。
それに答えるように、ぎょっとするようなことが起こった。ローズ・リタは強く引っぱられたのを感じて、ヒッと悲鳴をあげた。巻き物が生命を得たかのように、ローズ・リタの手からのがれようとあばれはじめたのだ。まるで強力な磁石のそばにある鉄を押さえているようなものだった。巻き物はローズ・リタの手から飛び出して、墓石のほうへ飛んでいきたがっているのだ。ローズ・リタは手をはなした。
シュルルルル! 巻き物が広がりはじめた! 巻き物はどんどん伸びて三メートル以上の長さになると、ヘビのように身をくねらせながら飛んで、端を墓の柱の根元に巻きつけた。と、もう一方の端が柱の周りをぐるぐると回りはじめた。周りながら巻き物はどんどんくり広がって、柱にらせん状に巻きついた。巻き物のあいだから、下の石が三センチほどのぞいている。最後にピタッと音がして、巻き物の先が球のちょうど真下にはりついた。その瞬間、太陽が沈み、ローズ・リタは突如として冷え冷えとする薄闇のなかにとり残された。
まだ見えるだけの明るさはあったから、ローズ・リタは柱の周りを一周して、上を見た。そして、はっと息をのんだ。巻き物の端に書かれていた記号が、石に刻まれた印とぴったり沿うように並んでいたのだ。記号と印は合わさって、文字になっていた。ローズ・リタは、恐怖で心臓が破裂しそうになりながら、その文字を読みはじめた。魔法が働いている。ローズ・リタは読むのをやめることはできなかった。
ネイスの名において、(IN THE NAME OF NEITH[#IN THE NAME OF NEITHに取り消し線])
アヌビスの名において(IN THE NAME OF ANUBIS[#IN THE NAME OF ANUBISに取り消し線])
オシリスの名において、開け!(IN THE NAME OF OSIRIS,IIEAR![#IN THE NAME OF OSIRIS,IIEAR!に取り消し線])
視界はぼやけてきたが、呪文の文字はまるで赤々と燃えているかのようにくっきりと見えた。ローズ・リタはゆっくりと時計と反対の方向に石の柱の周りを回って、古代エジプト語を思わせる言葉を、悲しみと恐怖で震える声で読みあげていった。
あたりの空気が揺らめいたように思えた。ジャケットからサンドイッチと懐中電灯が落ちたが、ローズ・リタは気づかなかった。歩くのをやめようとしても、見えない力に引きずられていく。奇妙な感覚だった。腕と足に何百本もの細い糸をつけられ、生きた操り人形みたいに引っぱられていくようだ。ローズ・リタは悲鳴に近い声で、最後の呪文の言葉を叫んだ。「ウル ニピュシティム ホーラ! サト イム ショラ!」そしてようやく、疲れ果てて、ふらふらしながらたちどまった。
あたりが静まり返った。時間がたったような感覚はなかったけれど、見あげると、暗い空に星が輝き、東から満月より少し欠けた月があがってきた。月明かりで見ると、なにもかもがちがって見えた。墓石は、老いた歯茎《しけい》から突き出た乱杭歯のようだったし、目の前の墓石は背の高い男が立って、自分を見下ろしているように見えた。柱のてっぺんの球が、ぐるぐると速いスピードで回転しはじめた。火花が散り、音がどんどん鋭くなって、とうとうローズ・リタはがっくりとひざをついて、耳をふさいだ。
すると、地を揺るがせるようなごろごろという音がして、墓石全体が、台座も柱も球もぐるりと回転して左にずれた。台座の下から、真っ暗な四角い穴が姿を現わした。またひもで引っぱられているような感覚に襲われ、ローズ・リタはビクンとして立ちあがり、石に刻まれた階段のほうへよろよろと歩いていった。階段は地面の下まで続いていた。
「いや!」ローズ・リタは叫んだけれど、むだだった。狭い場所は大きらいだ。こんなにおそろしい場所は見たことがない。ローズ・リタは叫ぼうとしたけれど、なにかふわっとしてねばねばするものが、そう、おそろしく長いクモの糸のようなものが、ローズ・リタの口を封じ、声は恐怖でかすれた悲鳴にしかならなかった。
そしてローズ・リタは闇のなかへとおりていった。見上げると、墓石がガタンとゆれてものと場所にもどっていくのが見えた。そして、最後の光が消えた。
ローズ・リタは墓のなかに囚われた。
11
ルイスがベッドのなかで本を読んでいると、電話の鳴る音が聞こえた。枕もとのウェストクロックスの目覚まし時計は九時四十五分をさしている。ふしぎに思って、ルイスはベッドから出ると、こんな時間にだれが電話をかけてきたのだろうと、裸足のままそっと下におりていった。
玄関のホールにおじさんが立って、受話器を持って話していた。「いいえ、きてません……ええ、そのとおりです……だから心配してなかったんです。ポッティンガーさん、今からツィマーマン夫人に電話してみます。ツィマーマン夫人なら、ひとつ、ふたつ心当たりがあるかもしれない……わかります。本当に……ええ、お願いします。ではあとで」ジョナサンは電話を切ると、ひどくあわてたようすでルイスのほうを振り返った。「ルイーズ・ポッティンガーだったんだ。ローズ・リタが四時ごろ、テストの勉強をするって言ってうちに向かったと言うんだ。きていないな?」
ルイスは体が冷たくなるのを感じた。「ううん」ルイスは言った。「ローズ・リタと最後に分かれたのは、二時半ごろ、ハードウィックさんが家まで送ってくれたときだよ。なにがあったの?」
「いなくなったんだ」ジョナサンは深刻な声で言った。「着替えておいで。わしはフローレンスに電話してくるから。いやな予感がする」
ルイスは急いで二階へ戻ると、洗濯したコーデュロイのズボンとシャツとソックスとスニーカーをはいた。下の書斎におりていくと、ツィマーマン夫人はもうきていた。「こんなことになるかもしれないって心配していたんですよ」ツィマーマン夫人はそう言っているところだった。ルイスが入っていくと、ツィマーマン夫人は顔をあげて、悲しそうな顔で微笑んだ。「こんばんは、ルイス! ローズ・リタはとてもまずいことになっているんじゃないかって言っていたところなの」
「ベル・フリッソンのことに関係しているにちがいないよ。墓地でのローズ・リタの様子は、ひどく変だったもの。まるで墓石に魅入られたみたいだった」
「ジョナサンとわたしは、魔法に関する本をぜんぶ調べてみたんですよ」ツィマーマン夫人は言った。「ベル・フリッソンの正体がなんであれ、どの本にも載っていないの。もし本物の魔女だったとしても、ほかの魔法使いとは付き合いがなかったようね」
ジョナサンは白状した。「本当のことを言って、フローレンスもわしも、フリッソンは単に舞台の上でマジックをやってみせるだけの魔術師だと思っていたんだ。魔法博物館の人たちと同じ、手品師だとな。交霊術や心霊主義に関する本で、二、三、彼女に関する記述は見つけたが、それだけだった。フリッソンは、いわゆる神がかり状態になって死んだ人の言葉を語る霊媒だと思ったんだよ。フーディーニが生前よく、いかさまだと言っていたたぐいのね。フーディーニは探偵みたいに、本当の魔力を持っていると主張するやからの化けの皮をはがすのが得意だったんだ」
「知らなかった」ルイスは答えた。
「それはとにかく」ツィマーマン夫人がきっぱりした口調で言った。「今となっては、そんなことを知ったって何の役にも立ちませんよ。ルイーズ・ポッティンガーは警察に届けると言っていましたけど、もし、魔法が関係しているんなら、そんなことをしてもむだでしょう。今回の魔法は、特別のものだわ。古代エジプトの魔術ですからね。ああ、ウォルシュ博士が町にいれば、相談できたんだけど」
デビット・ウォルシュ博士は、地元の名士だった。古代エジプトの歴史と伝説を専門とする考古学者で、しょっちゅう遠征に出かけていた。実際、今もエジプトのナイル川岸のどこかへ墓の発掘に出かけていて留守だった。
ルイスは言った。「息子のクリスは小学生なんだ。知ってるよ」
「それは役に立つかもしれんぞ」ジョナサンが言った。「ルイス、明日クリスにおとうさんの本を見せてもらえるよう、たのんでくれないか。ウォルシュ博士は、エジプトに関する膨大な蔵書を待っているんだ。きっと、なかに役に立つものがあるはずだ」
「明日? 今夜はなにもできないの?」ルイスは必死になってきいた。
「なにをするの?」ツィマーマン夫人が言った。「ルイス、わたしたちはみんな、ローズ・リタが大好きだし、ローズ・リタを助けるためならなんでもするわ。だけど、未知のものに立ち向かうときは、ただ突撃していったってだめ。いざってときに戦えるようにきちんと武装しておかなければ。それに、ローズ・リタはだいじょうぶよ。少なくともしばらくのあいだはね。ジョナサンとわたしは生霊について調べたんです。霊はローズ・リタをまんまと呼び出したかもしれないけれど、今できるのはそこまでよ。月が次の段階に入るまで、ローズ・リタの身にはなにも起こらないわ」
「それはいつ?」そうきいたものの、ルイスは返事をきくのがこわかった。
「金曜の夜だ」ジョナサンが答えた。「下弦の月になる」
「ハロウィーンの前の晩だ」ルイスはささやくように言った。
「そうだ」ジョナサンは重々しい声で言った。「ハロウィーンの前の晩だ」
ジョナサンとツィマーマン夫人の推測が正しければ、あと五日のうちにローズ・リタを助けなければならないことになる。ああ、どうか間に合いますように、とルイスは祈った。
次の日の学校は、永遠に続くように思えた。ローズ・リタはお休みで、みんな、ローズ・リタが行方不明になったことを知っていた。たいていの人は、ローズ・リタは家出したと思っていたし、誘拐されたと思っている子もいた。ルイスは同じクラスの子たちにきかれたけれど、なにも話したくなかった。
学校が終わると、ルイスはウォルシュ家に向かった。ウォルシュ博士の家は、ハイ・ストリートから西に数ブロックいったミシガン通りにあった。歩いていくうちに、ルイスはだれかに見られているような、なんとも言えないいやな気持ちがしはじめた。振り返ってうしろを見ても、だれもいない。ルイスは上着のポケットに入れた手をぐっと奥につっこむと、肩をまるめて、また落ち葉をざくざくと踏みながら歩き出した。そしていきなりすっと角を曲がると、急いで木のうしろに隠れ、息を潜めて待った。
三十秒後に、角からあわてて飛び出してきた人物を見て、ルイスは、はあっと息を吐いて、力を抜いた。そして、木のかげから出た。「おい、チャド」ルイスは言った。「ぼくをつけてたな?」
ブロンドで茶色い目のチャド・ブリットンは、ボタンを首まできっちりとしめた茶色のトレンチコートといういでたちだった。チャドははっと足を止めて、にやりとした。「そのとおり」チャドは残念そうに言った。「練習してたんだ」
ルイスはため息をついた。チャドは大きくなったら探偵になりたがっていて、練習だといってはみんなのことをつけまわしていた。このごろではだいぶうまくなってきて、一時間以上こっそり観察されていたことに気づいた大人たちが、腹を立てることもあった。「じゃあ、やめろよ。別になにしてるわけじゃないんだから」
「だけど、きみはローズ・リタ・ポッティンガーの親友だろ?」チャドはもっともなことを言った。「みんな、ローズ・リタは誘拐されて、身代金を要求されてるってうわさしているよ。だからきみをつけてたんだ」
「ぼくは誘拐なんかしてない」ルイスはかっとして言った。
「きみがやったとは思ってないよ。だけど、きみのおじさんは金持ちだろ。だから、やつはきみのことも誘拐して、莫大な身代金を要求するかもしれない。そうしたら、ぼくは犯人の車のナンバーを見て、警察に通報するんだ」チャドはまるでこれ以上理にかなったことはないというように、にっと歯を見せた。
「そう簡単にいくとは思わないけど」ルイスは言った。「ともかく、ぼくは今、忙しいんだ。明日、事件について知ってることはぜんぶ話してあげるから、いいね?」
「やった!」チャドはようやく了解した。「情報を流してくれよ!」
ルイスは頭を振りながら、またウォルシュ博士の家へ向かって歩きはじめた。クリス・ウォルシュは十歳で、茶色い神をした背の低い男の子だった。大きな石造りの家の前で、サッカーボールを投げて遊んでいたが、ルイスを見ると、にっこりして、ボールを投げてきた。ルイスはたじろいで、ボールを受けそこねた。ルイスがボールを拾いあげると、クリスは笑いながら「やあ、ルイス」と言った。
「やあ」ルイスは答えて、ボールを投げ返した。クリスは完ぺきに受けとめた。
「遊ぶ?」クリスはきいた。
「今日はだめなんだ」ルイスは答えた。「おかあさんはいる?」
「うん」
そこでルイスはなんの用できたか説明した。「おじさんがエジプトに興味を持っていてね」最後にルイスは言った。「本を一、二冊お借りできないかって、エジプトの魔術に関するのがあれば助かるんだけど」
「もちろんいいよ」クリスはすぐに答えた。「パパはたくさん持ってるから。入って」
ウォルシュ博士の家は大きくて、天井が高く、壁は羽目板張りで、エジプトの工芸品がたくさん飾ってあった。壷や小さな像があちこちに置かれ、壁には古代の青銅の鎧や、弔い用の仮面、象形文字でぎっしり書かれたパピルスの額などがかかっている。クリスのおかあさんが、本は好きなだけ借りていってくださってけっこうよ、と言ってくれたので、ルイスとクリスは書斎に入った。クリスは本棚のほうにいくと言った。「ここにあるのは、本物なんだ。これが『昼間に出歩く者』っていって、死者の本って呼ばれている本なんだ。こっちのは、動物の魔術に関する本だよ。あとこれは……」
見終わったときには、ルイスは、大きくて重い二冊を入れて六冊の本を抱えていた。ルイスはクリスとおかあさんにお礼を言うと、町の真ん中を通って家に向かった。ところが半分もいかないうちに、チャドがまたひそかに尾行をはじめた。ルイスはチャドを無視して、ハイ・ストリートに向かって急いだ。
ツィマーマン夫人が戻ってきて、ジョナサンといっしょに熱心に本を調べた。休んだのは、急いで夕食のサンドイッチを食べたときだけだった。しかし、とうとうツィマーマン夫人は顔をあげた。「ここに書いてあるわ。聞いていて」そして、コホンと咳払いすると、読みはじめた。
エジプトの第一王朝期前、古代都市サイスで非常にめずらしいネイス崇拝がはじまった。女神ネイスの信者たちは、生と死の神秘の学問に夢中になった。ネイスは大いなるつむぎ手であり、生の世界と死の世界をつなげる道を開く者である。また彼女を象徴する生き物はクモであった。クモは、生と死をつなぐという象徴な意味を担う生き物であり、すなわち、その糸は現在と未来の間を渡す橋を現わす。信者たちのなかには、大いなるクモの糸は、アリアドーネの糸だまのように、この世と暗い死の世界のあいだにある迷路を抜ける道を教えると信じる者もいた。糸を反対にたどることによって、死んだ魂がこの世に戻ってこられると考えていたのだ。
しかし、その道をたどるには、高い代償が必要だ。まず、血を流し、死のクモの霊を作り出さなければならない。そして最終的には、人間のいけにえが必要だ。血を作るには血が、命を作るには命が必要なのだ。そのいけにえを死の世界に送るのとひきかえに、この世にもどることを望んでいる魂は、生への道をたどることができる
ジョナサン・バーナルヴェルトヒューッと口笛を吹いた。「またずいぶんとぶきみだな。続きもあるのかい?」
ツィマーマン夫人はしばらくの間、声を出さずに読んでいた。それから、顔を上げた。「ええ。死のクモは、半分霊で、半分は生身の、一種の亡霊らしいの。わたしたちが推測していたように、生霊のような習性を持っていて、その力は月の相と深く結びついている。次の月まで、ローズ・リタは安全よ。少なくともそれまでは、いけにえにされることはないはず。時間はあまりないけれどね。でもまだほかに心配なことがある」
かすれた声で、ジョナサンは言った。「言ってくれ」
「クモには魔法の力がある」ツィマーマン夫人はゆっくりと言った。「肉体的にはとても弱いけれど、幻想を作り出して、わたしたちの心を惑わせることができるの。それに、もし噛まれれば、命はない。気をつけなければならないわ」
「いつ出発するの?」ルイスはきいた。
ジョナサンは首を振った。「ルイス、今回のことは、おまえさんに手伝ってくれとは言えんよ。あまりに危険だ」そしてやさしい声で、つけくわえた。「それに、ひどくおそろしい思いをすることになるかもしれん」
ルイスは静かに言った。「わかってる。実際、もうこわくてしょうがないんだ。だけど、ローズ・リタはぼくの友だちだ。昔、邪悪な霊にもう》腰で井戸に引きこまれそうになったとき、ローズ・リタは助けにきてくれた。今度は、ぼくがお返しする番だ」
ツィマーマン夫人は力強くうなずいた。「ルイスの言うとおりだと思いますよ、ジョナサン。邪悪な力は、おそろしい策略を用意しているだろうけれど、単純なことで、それがすべて崩れ去る可能性までは計算に入れていない。友情はまさに単純で、けれど大きな力を持っているものよ。みんなは一人のために、一人はみんなのためにっていうでしょ?」
ジョナサン・バーナルヴェルトは赤いひげを引っぱった。「みんなは一人のために、一人はみんなのために、か。よし」そして言った。「ルイス、全員のぶんの懐中電灯を持ってきてくれ。フローレンス、おまえさんは家に帰って、お守りや護符のなかでも特に力のあるものをとってきてほしい。死のクモと戦うんだから、あるものはどんなものでも使わなければ!」
12
暗い墓穴のなかに入ったとき、ローズ・リタは一瞬、パニックを起こした。四方の壁がじりじりと迫ってきて、押しつぶされるような気がした。空気はよどんでかび臭く、息苦しい。肺がずきずきして、心臓がしめつけられ、今にも破裂しそうだった。世界がぐるぐるとまわりはじめ、ローズ・リタは頭がくらくらしてよろめいた。
すると、なにかの力にひっぱられるのを感じた。通路はわずかにくだっていて、その先はトンネルになっていた。ローズ・リタは、あたりのようすが見えることに気づいて驚いた。地上の光は土や石の厚い層に阻まれて墓のなかまで届かなかったが、ふしぎなことにあたりはぼんやりと緑色に光っていて、壁の崩れかけた灰色のタイルが、根や土であちこち盛りあがっているのが見えた。地面は、気味が悪いほどやわらかくふわふわしていて、踏むとベシャッとなにかがつぶれて、液体のようなものが出た。立ちのぼるじめじめとした土のにおいは、カビや、腐敗や、死を連想させた。さらに先では通路が曲がっていたが、うっすらと光るもやを思わせる弱い緑色の光では、はっきりとは見ることはできなかった。ローズ・リタはいやいやながら、一歩一歩進んでいった。通路は左へ曲がったり、右へ曲がったりしていたが、常に下へ、下へと向かっていた。
何時間も歩きつづけたように思えたころ、ようやく光が強くなりはじめた。ローズ・リタは頭上に何トンもの土の存在を感じ、地上から、生ける者の世界から、切り離されたような気がした。明るくなるにつれ、タイルをはった壁から水が染み出し、ぬるぬるとした黒い筋になって流れていることや、自分が床一面に生えたキノコの上を歩いていることがわかった。巨大化した毒ダケは、皮膚を思わせる青白い色をしていて、踏むとはじめて吐き気をもよおすような悪臭を放った。
通路は三メートルほどに広がり、先に門が見えた。薄いカーテンが、ゆらゆらとかすかにゆれている。近くまでいって、ローズ・リタは息をのんだ。門にかかった絹のようなものは、カーテンではなかった。巨大なクモの巣だったのだ。いたるところに、小さな骨がくっついている。おそらくここまで下りてきたコウモリやネズミやヘビのたぐいだろう。門はローズ・リタの頭よりはるかに高かったけれども、ローズ・リタは首を縮めるようにしてその下をくぐった。
門をくぐると、なかは奇妙な丸い部屋だった。半球形の天井は見上げるほど高く、一番高くなっている中央の部分は闇にのまれて、見えなかった。部屋の真ん中に丸い大理石でできた壇がある。周囲がぐるりと階段になっていて、どこからでもあがれるようになっていた。中心に白い柱が立ち、てっぺんに白い大理石の釜が乗っていた。なかで、なにかが緑色の炎を出して燃えている。煙もうっすらと緑色に輝き、ゆるやかに広がりながら流れていく。ぶきみな光の正体は、この炎と煙だった。
「おいで!」
ローズ・リタははっと息をのんだ。声が頭のなかでしたのか、実際にきこえたのか、わからなかった。ローズ・リタはおそろしい力にひきずられるように、壇に沿って歩きはじめた。部屋の奥の壁に、玉座がふたつ見えた。鈍い輝きを放っている。金でできているようだ。両方とも背もたれが高く、てっぺんに奇妙な胸像を抱いていた。首から下は人間だが、顔はキツネのようで巨大な耳をしている。ローズ・リタはこれと同じものを前に本で見たことがあった。古代エジプトの女神、アヌビスだ。ローズ・リタはのろのろと前に進みながら、考えた。たしか生から死への道を守る神だったような気がする。
「よくきた」ざらざらした声がささやいたので、ローズ・リタははっとして、また玉座のほうへ目をやった。右側の玉座は空っぽだった。が、もう一方には、幽霊のようなものが女王のように誇らしげに背を伸ばして座っていた。
「止まれ」
ローズ・リタは足を止めた。そして、玉座に座っている人物をまじまじと見つめた。この距離からわかると、それがほっそりした堂々たるようすの女の人だとわかった。流れような白いロープをまとい、ひじ掛けに腕をのせ、イスについた金色の球をつかんでいる。その手や指の肌は病的な灰色で、妙にざらざらしているように見えた。顔は陰になっていて、さっきからぴくりとも動かなかった。
「よくきた」
ローズ・リタはがくんとうめいて、手とひざをついた。まるで体を支えていた糸が、突然切られたようだった。手がずぶずぶとキノコのなかに沈み、ローワンウエッブはぞっとして震えた。ぬるぬるした冷たいものが手首まであがってきた。ローズ・リタは悲鳴をあげると、這うようにうしろに下がり、階段をのぼって壇にあがった。「あなたは――あなたはだれ?」ローズ・リタは金切り声で叫んだ。
女は笑った。空気の漏れるような、冷たい笑い声だった。「だれだかわかっているだろう」
ローズ・リタの歯がカチカチと鳴った。手が冷たい。ローズ・リタは必死で手をジーンズにこすりつけ、気味の悪いキノコの汁をとろうとした。洞窟のような部屋のなかは凍るように寒く、震えがとまらなかった。「ベル・フリッソン」ローズ・リタは低い声で言った。「わたしになにをするつもり?」
「おまえが望んだことではないのかい?」ベル・フリッソンは冷たく言い放った。「復讐したいと思ったのだろう? おまえをばかにした者たちを憎んだはずだ。死のクモを解き放ちたいと思ったはずだよ」
「い、いいえ」ローズ・リタは口ごもりながら言った。「あれはただの夢――」
「おまえはこれから永遠に夢を見ることができる」かすれた声がささやいた。「でも、これは約束してやろう。ふたたびわたしが生ける者の世界に出たあかつきには、いちばん初めにおまえにひどい行ないをした者たちを滅ぼしてやる。その光景を思い浮かべながら、ここで永遠の眠りにつくがよいわ!」
ローズ・リタはめまいがした。様々な光景が次々と浮かんでは消えた。クラスの女の子たちが恐怖で悲鳴をあげているところ。石でできているはずの校舎が、炎をあげて燃えているところ。ニュー・ゼベダイの町全体が破壊しつくされ、がれきの上をクモが這いまわっている光景も見た。が、次の瞬間、すべてがぱっと消えた。「そんなこと、させないわ!」ローズ・リタは怒りと同時に恐怖を感じて、叫んだ。
「わたしはあまりにも長く待ちすぎた」ベル・フリッソンはじっと座ったまま言った。「ふたたび、生きるんだ。ああ、また生きるんだよ! だが、まず破壊してやる!」
「ど、どうして?」ローズ・リタは泣いていた。
声は冷酷で、慈悲のかけらもなかった。「かつて生きた肉体を持っていたとき、わたしは霊たちと話すことができた! 研究をさらに進める時間さえあったなら、世界最強の支配者となっていたにちがいないんだよ。だが実際は、日々の糧を得るために、愚か者の相手にショーをしなければならなかった。古代の霊はわたしを教え導き、死を遠ざける方法を授けた。そう、わたしは死にそなえて、ある準備をしておいたのさ。わたしの死は見せかけにすぎない。器が割れても、霊魂は生き続けるのだ」
「よくわからない」ローズ・リタは訴えた。おそろしい寒さのために、手足の感覚がなくなっていた。
「あたりまえだよ!」ムチのように鋭い声に、ローズ・リタはびくりとした。「ばかな娘め。おまえなどに、クモの糸の秘密がわかってたまるか! クモの糸には、霊魂が死者の国へ最後の旅に出てしまわぬよう、つなぎとめる力があるのだ。わたしはわかっていた! 準備をしてきたんだ! そして今、こうしておまえがわたしと交代するためにやってきたのさ。ようやく、わたしは肉体を得て、生ける者の世界へもどることができる。クモがどうやって生きているか知っているかい? どうやって獲物を捕え、その血を飲むのかを? 小さなハエの命はせいぜい、二、三週間にすぎない。だが、クモにとらわれ、その糸に包まれていれば、その数倍も生きるのだ! それがおまえの運命だよ。このアヌビスの玉座に座り、長い長いときを、わたしのために生き続けるのだ。わたしは、クモのようにおまえの力と命を吸いとるのだ!」
ローズ・リタのうしろでカチッという音がした。ローズ・リタは見るのがこわかった。が、振り返った。
馬ほどもある巨大なクモが、うしろから壇にのぼってくるところだった。大きなねずみ色の体がぞっとするように脈打ち、五つのでっぱった目は、この世のものとは思えないぶきみな光をたたえている。かたく閉じたあごは小刻みに震え、先が真っ赤になった鋭い毒牙がのぞいていた。体じゅう毛に覆われた化け物は、じりじりとローズ・リタに近づいてきた。
ローズ・リタは後ずさりした。心臓が激しく動悸している。クモはじりっと詰め寄った。肺の機能が麻痺したように、悲鳴をあげたくても、声が出ない。ローズ・リタはもう一歩さがって階段をおりた。もう一段下りようとしたとき――
骨のようにやせこけた手に、腕をつかまれたのだ!
ローズ・リタは息が止まりそうになったが、振り向いて戦おうとした。
ローズ・リタの腕をつかんだ手は、びくともしなかった。ローズ・リタはその化け物の顔を見て、おそろしさのあまり気を失いかけた。
白いリネンのローブの下は、骸骨だった。ぽっかりとあいた眼窩、ぞっとするような笑み。そしてその骨についた肉を見て、ローズ・リタは身の毛がよだった――それは肉ではなく、骨の表面を、うじゃうじゃと這い回る何百、何千というクモだったのだ。クモたちは目をチラチラと光らせ、足をせっせと動かして、糸を出していた。 骸骨はにやりと笑って、口を開き、かすれた声で言った。「この子たちは、わたしの新しい肉をつむいでいるんだよ。これでいい。これでいいんだ」
すると、二本の巨大なクモの足が、ローズ・リタの両肩をがっしりとつかんだ。なにもかもが真っ暗になり、ローズ・リタは気を失った。
13
「ここを曲がって」ルイスが言った。ツィマーマン夫人はハンドルを回し、別紙ーは高速道路から下りて、墓地へ向かう横道に入った。
ジョナサン・バーナルヴェルトがうしろの座席から言った。「このあたりは、ひどくさびれているな」
ツィマーマン夫人は鼻を鳴らした。「これからなにか悪いことをしようってやつらは、堂々と町の真ん中に入ってくるようなまねはしません。人里はなれた暗いところで、こそこそよこしまなことをやろうとするもんです」
ルイスはまっすぐ前を見つめていた。車のヘッドライトが、ゆらめきながら闇を突き抜けるように照らしている。とうとう道が広くなり、ずらりと並んだ丸い墓石が見えてきた。「真ん中の大きいのが、ベル・フリッソンの墓石だよ」ルイスはささやくように言った。ローズ・リタを助けるためならなんでもするつもりだったけれど、不安のあまり気持ちが悪くなりそうなのは事実だった。
車ががたんとゆれて止まった。ツィマーマン夫人はキーを回した。「さてと」ツィマーマン夫人は言った。「着きましたよ。ぐずぐすしていたって、なんの得にもなりませんからね。ジョナサン、懐中電灯は持ってきた?」
「ここさ」ジョナサンはクロムめっきの長い懐中電灯を二本、前の二人に回し、自分も一本持った。電池が七本も入る強力なもので、かなり先まで照らすことができる。ニュー・ゼベダイを出発するまえに、三本ともディーセルの新しい電池に替えてきた。ルイスがスイッチを入れると、車内にまばゆい白い光があふれた。
「いきましょう」ツィマーマン夫人は言ってドアを開けた。三人は車を下りた。
外はとても静かだった。そよ風が吹いて、木にしがみつくように残っている枯れ葉がさらさらと鳴っている。コオロギが一匹、ゆっくりと悲しくやさしい歌を奏でている。雲が四つか五つ、星明りを受けてかすかに銀色に光りながら空を渡っていた。月は空の低いところで輝いていた。ルイスはしばらく立って、きんと冷たい十月の空気を肺いっぱいに吸いこんだ。と、おじさんが肩に手を置いたので、飛びあがった。
「すまん、ルイス」ジョナサンは言った。
「いいよ」ルイスはかすれた声で言った。のどがからからだった。
三人は墓地の中央を通る小道を歩いていった。半分ほどきたとき、ジョナサンおじさんが左のほうに懐中電灯を向けた。「いったいあれはなんだ?」ジョナサンは言って、なにか長くて茶色いヘビのようなものに向かって墓石のあいだを歩いていった。そして、拾いあげたが、カサカサと乾いた音がするのが聞こえた。それから、なにかカラカラというような音がして、ジョナサンがもどってきた。
「なんです?」ツィマーマン夫人はたずねながら、懐中電灯をジョナサンのほうに向けた。
「生き物だ」ジョナサンは答えた。「長い茶色の巻き物だ。カサカサにかわいとる。羊皮紙のようだな」
「博物館で見たやつだ!」ルイスが叫んだ。「ベル・フリッソンの遺言書だよ。話したでしょ! 信じられない! ローズ・リタのやつ、またこっそり持ってきたんだ!」
「すぐに決めつけるのはよくないわ」ツィマーマン夫人は言った。「ほら、わたしの懐中電灯を持っていてちょうだい」
ルイスは懐中電灯を受け取って、ツィマーマン夫人が少しずつ開いていくあいだ、羊皮紙を照らしていた。「なるほど」ツィマーマン夫人はつぶやいた。「まあ、へえ!」
「いったいなんなんだ、鬼ばあさん」ジョナサンおじさんは文句を言った。「このしわくちゃの紙きれには、大切な意味があるんだろ? このすばらしいお宝がなんなのか、説明してくれ!」
「これは封印を解く呪文なんです」ツィマーマン夫人はゆっくりと口を開いた。「魔法で封を去れた秘密の場所を開くためのものなんですよ。だけど、呪文がぜんぶそろっていないうえに、羊皮紙が妙に――そうね、伸びているように見える。まるで悪魔同士で綱引きでもしたみたい。ここにあった魔力はもうすべて使われてしまったようね」
「いこう」ジョナサンがせっぱつまった声で言って、ツィマーマン夫人の手から巻き終えた巻き物をとった。「ほかになにか見つかるかもしれん」
三人は墓石の周りを回ってみた。ルイスは真ん中の柱を懐中電灯で照らした。なにかが、このあいだとちがうような気がする。石が削れて、表面がでこぼこになっている。それからルイスははっと気づいた。刻まれていた文字がなくなっているのだ。まるでだれかがハンマーとのみで柱の表面をくだいて、文字を削り取ってしまったようだ。ルイスが懐中電灯のまるい光を下に向けると、柱の台座を覆うように落ちた石のかけらが散らばっていた。
ツィマーマン夫人がルイスの肩を叩いた。「ルイス」ツィマーマン夫人はおかしな声で言った。「懐中電灯を消して。あなたもよ、ジョナサン」
ルイスが言うとおりにすると、ベルベットのカーテンのような闇が訪れた。遠くのほうで、フクロウが物悲しい低い声でホウ、ホオオウウウウと鳴いている。はるか遠くを走る列車の哀調をおびた警笛の笛がかすかに聞こえた。「見て」ツィマーマン夫人はほとんどささやくような声で言った。「柱の上の球を見てごらんなさい」
ルイスは闇をすかすように見て、首の毛が逆立ち、腕に鳥肌が立つのを感じた。柱のてっぺんにある黒い石の球から煙が出ていた。かすかに緑色に光る蒸気が次から次へとあがって、細い筋になって流れていく。煙はやがて薄くなり、空気のなかに蒸散していった。
ジョナサンは咳払いをした。「なにかが起こってる。なにか邪悪なことが、あの煙はオシリス(エジプト神話に出てくる幽界の王。弟に殺されるが、妻に救われて復活する)のランプから出る煙と同じかい?」
「優をあげるわ、ジョナサン」ツィマーマン夫人は答えた。「その意味するところもわかるわね?」
「ぼくはわからない」ルイスは押し殺した声で言った。
ツィマーマン夫人はもう一度懐中電灯をつけた。ジョナサンは墓の周りを歩きはじめた。「いけにえが捧げられたことを意味するの」ツィマーマン夫人は言った。「だれかがここで殺された。ああ、最近とはかぎらないわ。今年でもない。今世紀ですらないかもしれない。でも、ともかく、けがれた儀式がここで行なわれた。あれは、昔ひとだま≠ニか鬼火≠ニか呼ばれていたたぐいの光よ。突然の死の結果、生じるものなの。一カ所にとどまる種類の霊ではないわ」
墓石の反対側からジョナサン・バーナルヴェルトが叫んだ。「これを見てくれ」
ツィマーマン夫人とルイスは、反対側にまわった。ジョナサンは、懐中電灯で地面を照らしていた。草の上に、懐中電灯と、パラフィン紙で包んだサンドイッチがふたつと、緑の表紙の本が落ちていた。ジョナサンは本を拾って、開いてみた。「『偉大なる魔術師 四十人』」ジョナサンは声に出して読んだ。そしてぱらぱらと本をめくった。「ベル・フリッソンについての章がある」ジョナサンは言った。
「ローズ・リタが博物館でハードウィックさんに借りた本だ」ルイスは思い出した。「やっぱりローズ・リタはここに戻ってきたんだ」
ツィマーマン夫人は、もう一度懐中電灯で墓石を照らした。「ローズ・リタが巻き物を持ってきて、呪文をとなえたのはまちがいないわ。というより、呪文が勝手に働いたんでしょうね。ルイス、柱は削られている?」
「うん」ルイスは答えた。「まちがいないよ。前は印が刻まれてたんだ。意味の通じない記号みたいのが。でも今はひとつもない」
「呪文が自動的に働き出すようになっていたわけね」ツィマーマン夫人は考えこみながら言った。「ローズ・リタかどこにいるにしろ、どこか魔法の入り口をくぐったにちがいないわ。どうやってそこにいくか、考えなければ」
「どうすりゃいいんだ?」ジョナサンは、いらいらしたように怒った声で言った。「巻き物の魔力はもう失われたって言ったじゃないか」
「どうにかするんですよ」ツィマーマン夫人は言った。「よく調べるんです。ジョナサン、ルイス、もうこれ以上ここでできることはないわ。少なくとも今晩はね。もう一度呪文を働かせる方法に、一つ、二つ心当たりがあるんですよ。魔法使いっていうのは、呪文を働かせることができるから、魔法使いなんです。なにも、呪文が自動式である必要はないんですよ。でも、どういう呪文だったか、一語一句正確に知る必要がある。時間がかかると思うわ。帰りましょう。金曜の夜までは、まだあるんですから」
四日だ、ルイスは思った。たった四日しかないんだ!
火曜日、学校が終わるやいなや、ルイスは急いで家に帰った。家に入ると、ツィマーマン夫人が食堂のテーブルに座っていた。周りには紙が積みあげられ、すべてになにか書きこんである。テーブルの上には巻き物もあったが、あらためて見ると、ひどくもろくて今にも破れそうだった。ジョナサン・バーナルヴェルトはテーブルの反対側に黙って座って、墓地から持ってかえってきた本を熱心に調べていた。ジョナサンは顔を上げてルイスを見ると、力なく微笑んだ。「おかえり」ジョナサンは言った。
「終わった?」ルイスはたずねた。
「だいたいはね」ツィマーマン夫人が答えた。疲れきったようすで、しわのよった顔がひきつって、ひどくやつれて見えた。「あの本にのっている墓石の写真と、巻き物に描かれた文字から、呪文のだいたい八十五パーセントはわかったと思うわ」ツィマーマン夫人はルイスに、巻き物と、墓石に刻まれた記号は並べるように作られていることを教えた。墓石の記号と巻き物の端に書かれた線を合わせると文字になり、それで呪文が完成するのだ。問題は、巻き物の端にある文字の一部が、単なる垂直の線の場合だった。いったいTなのかIなのか、それとも小文字のlなのか、まったくわからない。Fの上半分なのかEなのか、またBの上なのかRの上なのか、わからないものもあった。かなりの文字を推測で埋めることができたけれど、なかにはどう見ても変に思える箇所もあった。
ツィマーマン夫人は目をこすった。「墓石に刻まれていた記号さえわかれば、簡単なのに!」
「わかったものだけでなんとかならない?」ルイスは言った。「うまくいくかもしれないよ!」
ジョナサンは首を振った。「残念だがな、ルイス。呪文は完ぺきじゃなきゃならない。そうでなければ、ないのと同じなんだ。呪文が魔法を支配し、左右する。文句がすべてわからないまま呪文をとなえれば、まったく効かないか、手に負えないようなことを引き起こすことにもなりかねない。そのつもりもないのにカエルに変身しちまうとか、悪魔を世に解き放つとか、ロープの下から生きたニワトリが出てくるとかな」
ルイスはうめいた。
ジョナサンは無理に笑みを浮かべて言った。「ニワトリは冗談だ。疲れてるんだな、たぶん。なにか食べるものを作るから、食べ終わったらまたこのいまいましい巻き物を調べようじゃないか」
ツィマーマン夫人は紙の山を押しやった。「わたしが作りますよ」ツィマーマン夫人は言った。「ひげもじゃさんのグルメ・ハムサンドイッチにはあきましたからね! わたしが料理しているあいだに、ベル・フリッソンについてあの本になんて書いてあったか、話してちょうだいな、ジョナサン」
ジョナサンは二人にざっと内容を話して聞かせた。たいした内容ではなく、助けにはなりそうもなかった。「本の著者は、ベル・フリッソンのことを、よくいるペテン師のたぐいだと思っていたようだな」ジョナサンは説明し終わると言った。「たしかに、なかには説明しようのない不可解な現象もあったとは認めているがね。そりゃそうだろう。エリザベス・プロクター、つまり、自称ベル・フリッソンが、この世のものではない力と接触していたことはまちがいないからな。ひとつ、妙なことがある。フリッソンは何年もかけてかなりの財産を築いたようだが、ぜんぶ葬式で使っちまったらしいんだ。例の事故が起こる数年前に、彼女は妙なやつらを集めて、自分がいつどこで死のうと、自分の墓を作って埋めるよう手配したらしい。なにかをたくらんでいたとしか思えん」
「わたしもそう思いますよ」ツィマーマン夫人は鍋やフライパンをガチャガチャやりながら言った。「フリッソンはもう一度、よみがえろうとしていたにちがいないわ」
「それだ、それにちがいない、フローレンス」ジョナサンは断言した。そして、振り返ると、台所のカレンダーを見つめた。「フリッソンは一八七八年のハロウィーンの日に死んだ。だから、今度のハロウィーンの日に生きかえるつもりだと思う。つまり、今度の金曜日の真夜中、日付が三十日から三十一日に変わるときに――」
ジョナサンはその先を言わなかった。言う必要もなかった。それは言葉にするには、あまりにもおそろしすぎた。
14
ダイバーが暗く深い海からゆっくりと海面に浮かんでいくように、ローズ・リタはじょじょに意識を取りもどした。最初は、夢を見ていたのだと思った。初めて巻き物を見つけた日から起こったことはすべて霧に包まれたように漠然としていて、ぼんやりとしか思い出せない悪夢のようだった。ローズ・リタは、暖かくて居心地のいい、ほっとした気持ちに包まれていたが、それはほんの数秒にすぎなかった。
ぱっと目を開けると、気味の悪い緑色の光が見えた。そして、すべて本当に起きたことなのだと、さとった。ローズ・リタはふたつの玉座のうちひとつに座っていた。立ちあがろうとしたが、身動きができない。頭を動かすことすらできないのだ。下を見たローズ・リタはの目恐怖で見開かれた。
体全体が、きらきらと光るクモの糸でくるまれていた。頭意外すべて、まゆですっぽり覆われている。何メートルもある包帯をきつく巻かれたミイラのようだった。巨大なクモの足が肩に触れたときのチクチクする感触がよみがえり、胃がきゅっとねじれるような気がした。ふつうのコガネグモがまた捕まえた虫を糸でぐるぐる巻きにするように、あのクモはローズ・リタに糸を巻きつけたのだ。髪まで、玉座の背に貼りつけられているようだった。糸はきつく、息をするのがやっとだ。腕は玉座のひじ掛けいすに、手はつるつるした金属のようなものでできた球に、縛りつけられていた。顔を横に向けることすらできなかった。
横の玉座にだれか座っているのが、わずかに見えた。あのおそろしい、クモの這いまわる骸骨だった。すると、息の混じったような声がきこえた。「あがいてもむだだ。痛みは一瞬で終わる。そのあとは、気にもならなくなる。頭ははっきりしているが、体の方は百年かけてゆっくり、ゆっくりと、衰えていく。その生命がわたしに活力を与える。言ってみれば、おまえはわたしの一部になるのだ。光栄に思うがよい」
「はなして」ローズ・リタは言った。もう怯えてもいなかったし、体がすくでもいなかった。ただ心の底から怒っていた。「はなして。さもなければ後悔するわよ!」
骸骨はそれを無視し、ネコなで声で言った。「わたしは何十年もの間、この闇のなかにいたんだよ。さあ、おまえはどう思うだろうね? すぐに頭がどうかなるだろうねえ。墓のなかに一人、仲間はクモだけ。ああ、何週間もたたぬうちに、おまえは正気を失うにちがいない」
ローズ・リタは答えなかった。必死になってのがれようともがいたけれど、べとべとしたクモの糸はがんじょうで、体をろくに動かすことすらできなかった。「はなしてよ!」ローズ・リタはまた叫んだ。
「ばかな娘め」声はあざ笑った。「肉体が失われたとき、わたしは目的を遂げるために死のカーテンをくぐったのだ。わたしの命令どおり、墓は作られ、わたしの命令どおりに、奴隷どもはかつてわたしの親友だった女を世界のつむぎ手であるネイスに捧げた。ためらうことなくそれを命じたこのわたしが、よりにもよっておまえを逃がすとでも思うの? いいえ、おまえはわたしの生命線、この世とわたしをつなぐ唯一の糸なのだ。東洋の宝をすべて与えられようとも、おまえをはなすものか!」どこか痛ましい笑い声が響きわたった。「その時はすぐそこまできている。そう、時がくれば、わたしのかわいいペットがおまえを押さえつけ、体を前にかがませる。あとは、おまえの首のうしろをひと噛みするだけ。おそろしい痛みだろうねえ。そして、わたしはここを去るのだ。見よ、すでに力が増してきた!」
ローズ・リタは悲鳴をあげまいと歯を食いしばった。横の骸骨が動いたのだ! きしるような音をたてて、骸骨はゆっくりと体を起こすと、立ちあがった。そしてよろよろしながら前へ一歩踏み出した。ローズ・リタは目をつぶった。
小さなクモたちは、骨を覆うように白い糸の肌をつむぎ出していた。クモたちがうごめいているせいで、骸骨の肉は小さく波打っているように見える。ぽっかりとあいた眼窩の奥は赤く光り、一直線に裂けた口から、ひからびた黄色い歯がのぞいていた。リネンのローブの下で、胸がまるで呼吸しているように大きく上下していた。
「どうだい? わたしはきれいかい、え?」声はあざけように言った。「もう少しだよ。準備ができて、おまえの力と養分を吸い取れば、この肉は今のおまえの肉と同じように本物になる。わたしは美しくなる! そしてふたたび地上を歩くのだ! 今度こそか弱い人間どもを支配してやる。そうすれば、おまえの力が涸れても、いくらでも次のいけにえを手に入れられる。いくらでもね。わたしは永遠に生き続けるのだ!」
ローズ・リタは目を開けた。目の前に、骸骨がふらふらしながら立っていた。まだしっかりと立つ力はないようだ。骸骨は一歩横に歩くと、崩れるように玉座に倒れこんだ。骨がカタカタとこもった音をたてた。「ほうら、わたしのペットがきた」骸骨はささやいた。
ローズ・リタはぎくっとして、血走った目で部屋を見回した。丸い壇の向こうから、巨大なクモが這ってくるのが見えた。「いや!」ローズ・リタは叫んだ。
「その時は近い」声は言った。「すぐそこまできている」
とうとうはローズ・リタの前日の金曜日がやってきた。ルイスはどうかなりそうだった。警察はあらゆるところを探し回ったけれど、なんの手でかりも見つけられなかった。ポッティンガー夫妻は見つけた人に謝礼金を払うと申し出たけれど、もちろん、それも役には立たなかった。ジョナサンとツィマーマン夫人は、行きづまっていた。暗号や暗号解読法に関する本に載っていたやり方から、ツィマーマン夫人が考えつくかぎり最も強い呪文まで、ありとあらゆる方法を試してみたけれど、どれも効き目はなかった。
その日、ルイスは心配のあまり、学校を休んでいた。午後遅くに、電話が鳴った。ジョナサンが出た。ツィマーマン夫人とルイスが待っていると、ジョナサンはけわしい顔をして台所に戻ってきた。「ジョージ・ポッティンガーからだった」ジョナサンは言った。「結局のところ、警察にも少しは収穫があったようだ。サイドラーという女性が、町の西のはずれでロワーナ・ポッターと名乗る女の子を車に乗せたらしい。墓地の近くで下ろしたそうだ。州警察は付近を捜索して、トウモロコシ畑でローズ・リタの自転車を発見した。警察はローズ・リタが家出したと考えている」
ツィマーマン夫人はため息をついた。「ああ、このいまいましい呪文の残りさえわかれば! あと七語だけなんですよ。でも、その言葉に力がある。ジョナサン、万が一最悪の事態になれば、このままで呪文を唱えるしかないわ。ああ、どうなるかわからないけれど、やってみるしかない」
ルイスが言った。「ハードウィックさんに写真を持ってるか、きいてみたらどう?」
ジョナサンとツィマーマン夫人はじっとルイスを見た。「写真?」ジョナサンおじさんが繰り返した。「墓石の写真ってことか?」
ツィマーマン夫人が言った。「どうしてハードウィックさんが写真を撮ったって思うの?」
肩をすくめてルイスは言った。「たしかに可能性は薄いかもしれないけど。でも、ハードウィックさんと奥さんは何度もあの墓地にいってる。友だちのお墓があるんだ。それに、ハードウィックさんは魔法に関するものならなんでも集めてるでしょ。魔法の杖から本からポスターからフーディーニの古い牛乳缶まで」
ジョナサンが立ちあがった。「やってみる価値はあるな。電話してくる」そして書斎へ電話をしにいった。すぐにジョナサンは帰ってきて、言った。「いくぞ!」ジョナサンは二人をせきたてた。「ルイスのおかげで救われるかもしれん」
ツィマーマン夫人は、ジョナサンが車庫の扉を開けたときも、一言の文句すら言わなかった。三人はジョナサンの箱型のおんぼろ車で魔法博物館までいくと、大急ぎで中へ入った。ハードウィックさんは三人を待っていて、ドアを開けて中へ通してくれた。「ようこそ、いらっしゃい」ハードウィックさんは言って、一人一人と握手した。「ジョナサン、ひさしぶりだな。きみが去年の夏、商工会議所でやった手品は実にすばらしかったよ。あの、ハンカチが浮くやつだ。もう少しで、種が明かせそうだよ。だが、あれはすばらしかった。わたしは――」
ジョナサンはこわばった笑みを浮かべて言った。「ありがとう、ボブ。だが、今すぐにでも見せてほしいんだ。さっき電話で話したものをね。もちろん、迷惑じゃなければだが」
「おやすいごようだ」ハードウィックさんは言って、三人をドアまで連れていった。「地下室に置いてあるんだ。きみの友だちは見つかったかい、ルイス?」
「いいえ」ルイスは暗い声で言った。
「気の毒に」ハードウィックさんはドアを開けて、なかに手を入れてぱちんと電気をつけた。「ここだ。足もとに気をつけて。階段がひどく急なんだ。ローズ・リタは必ず見つかるよ。きっと、ちょいと家出してみただけさ。若い人には多いことだ。たいてい何事もなく、無事に戻ってくる」ハードウィックさんしゃべりながら、三人を連れて地下室に降りていった。レンガの壁には十以上のファイルキャビネットがずらりと並べられ、ひとつひとつの引き出しにラベルがついていた。ハードウィックさんは大きく手を振ってキャビネットを指し示した。「これが手紙と原稿のコレクションだ」ハードウィックさんは説明した。「マジック・ショーのビラや広告もある。有名な手品師の写真はほとんどサイン入りなんだよ。スクラップブックに、手品のやり方を記した手書きの説明書もだ。それと、もちろんこれだ。このキャビネットはぜんぶ石ずり、つまり言ってみれば碑銘のレプリカなんだ」
ハードウィックさんは引き出しのひとつを開けて、なかをごそごそと探ると、ようやく厚い緑のファイルホルダーを取り出した。「これかい?」ジョナサンはせっぱつまった声できいた。
「ああ」ハードウィックさんは答えた。「フォルダーにラベルが貼ってあるだろう。ベル・フリッソンの墓石の石ずり:一九三八年六月一日=vそして、ファイルを開いて、大きな薄紙を一枚取り出した。ルイスは、おじさんが紙の端を持って、広げるをのじっと見ていた。紙は何枚もの紙をつなげてテープではりあわせたもので、デッサン用の木炭で一面塗ってあった。
それを見て、ルイスは碑銘をすり写したものだと気づいた。ハードウィックさんはベル・フリッソンの墓石の柱に紙をあてて、上から木炭でこすったのだ。その結果、できたレプリカには墓石に刻まれた記号がすべて写し取られていた。ツィマーマン夫人はすでにずらりと並んだ記号を指でたどりはじめていた。「これよ!」ツィマーマン夫人は言った。
ファイルホルダーのなかには、ほかにも折りたたまれた紙が入っていて、それぞれに柱の側面が写しとられていた。ツィマーマン夫人は次の単語の足りない部分を見つけ、さらに次のものも見つけた。五分で、ツィマーマン夫人は残りの壇子をすべて探しあてた。「ありがとう!」ツィマーマン夫人は、キツネにつつまれたような顔をしているハードウィックさんに向かって言った。
「もうおいとましなくては!」
ハードウィックさんは、ツィマーマン夫人に好奇心いっぱいの笑顔を向けた。「どうしてそんなに急いでいるのかも教えてもらえないのかね?」
ジョナサン・バーナルヴェルトはぴしゃりとハードウィックさんの肩を叩いた。「あとでな、ボブ。今は、おまえさんが熱狂的な収集家だってことを――おまけに熱狂的にまめだってことを感謝するだけだ! ルイス、いくぞ!」
ルイスはおじさんについて階段をあがった。そして、ふたつのことに気がついた。ひとつは、もうかなり遅いということだった。太陽は沈みはじめていた。
もうひとつは、ツィマーマン夫人がとうとう呪文を完成させたということだった。つまり、あのさびれた墓地にいかなければならないということだ。ローズ・リタを助けるために、あの呪文をとなえるのだ。
呪文をとなえたら、なにが起こるのだろう? あのおそろしい墓地でいったいどんなものと戦うことになるのだろう? 死のクモだろうか? それとも墓からよみがえった魔女?
いや、もっと恐ろしいものかもしれない。ルイスが想像すらできない、いまわしいものが待ち受けているかもしれないのだ。
15
ジョナサン・バーナルヴェルトは、無我夢中で車を走らせた。おんぼろ車がタイヤをキィキィ鳴らしながら大きく傾いてカーブを曲がるたびに、ルイスは座席にしがみついた。農家や畑が飛ぶようにすぎていく。車が墓地に続く長い横道に入ったとき、太陽は沈みかけていた。そして太陽がすっかり沈んだとき、ジョナサンは急ブレーキをかけて車を止めた。
「時間がないわ」ツィマーマン夫人は車からおりながら言った。「はい、ジョナサン。これを首に下げておいて。これがあなたのよ、ルイス。これはわたしの」ツィマーマン夫人はお守りのコレクションのなかから三つを選んで持ってきていた。一つはスカラベで、古代エジプトの生の象徴だった。ふたつめは小さな金の十字架で、十五世紀に、あるとても高貴な修道士の聖別を受けたものだった。三番めの、ルイスが渡されたお守りは、紫の石で、ツィマーマン夫人の魔力できらきらと光っていた。
ツィマーマン夫人は、ごく普通の黒いかさを持って、墓石のほうに大またで歩いていった。かさは閉じていて、柄についた水晶の玉をブロンズのグリュプスがかきづめでつかんでいた。ジョナサンとルイスもそのあとに続いた。ツィマーマン夫人はていねいにかさを地面に置いた。「手をつないで」ツィマーマン夫人は低い声で言った。「なにがあっても、はなれてはだめ」
「みんなは一人のために」ルイスはびくびくしながら言った。勇敢な声を出そうとしたけれど、タレント・ショーと同じくらいうまくいかなかった。
「一人はみんなのために」ジョナサン・バーナルヴェルトがあたりに響きわたるような声で言った。「フローレンス、がんばってくれ。そしてあのうろうろと這い回るぶきみなクモの化け物に、目にものを見せてやれ!」そしてルイスの手をぎゅっと握ると、ツィマーマン夫人の右手をつかんだ。ルイスはツィマーマン夫人の左手を握った。
すんだ高い声でツィマーマン夫人は呪文の言葉をとなえはじめた。英語あり、ラテン語あり、ギリシャ語もあったし、古代エジプトで使われていたコプト語もあった。呪文が朗々と響き渡ると、ルイスの足の下で地面がゆれはじめた。そして、あたかも石が生命を得て動き出そうとしているような、奇妙なギィーという音がした。ツィマーマン夫人が最後の一語をとなえたとたん、ベル・フリッソンの墓石のてっぺんにある球が揺れはじめた。そしてパリッと大きな音がしたかと思うと、球は粉々にくだけ、粉塵が飛び散った。ルイスが、危ない! と叫んだ。柱がぐらりと揺れて、ドウッと倒れ、みかげ石の台座がゆっくりと片側にずれた。
その下から、地下に下りる暗い穴が現われた。
ツィマーマン夫人はコホンと咳払いをした。「ここまではうまくいったってことね。さあ、いくわよ。なにが起こるか、まったくわかりませんからね。エリザベス・プロクターは秘密の場所を守るのに、なにかやっかいな番犬を飼ってるにちがいないわ! ルイス、もしあの巨大なクモがいても、本物じゃないってことを忘れないで。一つまみの灰と一滴の生き血でできた霊にすぎないんですからね」
「な、なら、ぼくたちを傷つけたりできないってこと?」ルイスはきいた。
ツィマーマン夫人はにこりともせずに言った。「いいえ、傷つけることはできる。たしかにね。あの霊は、人間の負の感情、つまり憎しみや恐怖や怒りをエサにしている。だけど、存在するためには、相手がその存在を信じることが必要なの。あなたが信じなければ、化け物の力は失われる。そのことは忘れないで……みんな、用意はいい? いきましょう」ツィマーマン夫人はかさを拾いあげると、戦いにそなえた。
ジョナサン・バーナルヴェルトが先頭に立ち、懐中電灯の強い光でトンネルの奥を照らした。壁のタイルは割れてぼろぼろにくずれ、そこから緑色のぬるぬるしたものが出ていた。床は弾力のある毒ダケで覆われ、小さな動物の白い骨が散らばっているのが見えた。
ジョナサンの次にルイスが続き、ツィマーマン夫人がしんがりをつとめた。悪臭がひどく、ルイスは吐き気を覚えた。なので、口で空気を飲みこむようにして、呼吸をした。三人は長い間くねくねと曲がるトンネルを歩き続けた。すると、ジョナサンがぴたりと足を止めた。「なるほど、やつの番犬がいたよ」ジョナサンはささやいた。「フローレンス、あれを見ろ!」
ルイスはおじさんのうしろから前を見た。そして、血が凍りついた。トンネルの奥は、真っ白いクモの糸で完全にふさがれ、大きく膨らんだ巣の真ん中に巨大なクモがとまっていた。ローズ・リタの家でちらりと見たクモではない。あのクモは、毛で覆われ、灰色だった。でも今ここにいるクモは、つやつやした黒で、腹に赤い砂時計のような形の模様がある。アメリカ一の猛毒を持つクロゴケグモだった。
おまけに、このクモはお皿くらい大きかった。と、長い足が動きだし、クモはじりじりと下へ下りはじめた。
ツィマーマン夫人は前に出て、かさを前に掲げた。突然、かさは黒く長い杖に変わり、てっぺんで紫の球がまばゆい光を放った。ツィマーマン夫人の姿も変わっていた。紫の流れるようなローブをまとい、ひだというひだで炎がかっと燃えあがった。背がすっと伸び、ツィマーマン夫人は堂々たる姿で立ちはだかった。クモは、なにかが起こったのを感じ取ったようだった。そして足を大きく開くと、ぱっと前へ飛び出した――
パチパチと音がして、ツィマーマン夫人の手から紫のエネルギーが稲妻のように飛び出し、化け物を空中でとらえた。クモは炎に包まれて、まっすぐ巣の上に落ちた。シュウウウウ! という音がして、たちまち巣に火がつき、燃え広がった。黒こげになったクモの体がぼとっと地面に落ちて、灰になった。
ツィマーマン夫人は杖をおろした。杖はまたかさに戻っていた。「これで、向こうにもわたしたちがきたことはわかったはずよ」ツィマーマン夫人は言った。「ご期待を裏切らないようにしましょ」
三人は大きなまるい部屋に入っていった。真ん中に大理石の壇があるせいで、反対側は見えない。三人はじりじりと壇の周りを回っていった。すると、ツィマーマン夫人が絶望したような叫び声をあげて立ちどまった。ルイスの目はくぎづけになった。
ローズ・リタが金の玉座に座っていた。まるでミイラのように体がぐるぐる巻きにされている。黒ぶちのめがねの奥の目は、恐怖で見開かれていた。
灰色のクモは、以前よりはるかに大きくなっていた。ローズ・リタの上にかがみこみ、前足を肩にかけている。液を滴らせた牙が、首からわずか数センチにせまっていた。腹部をゆっくりと脈打たせながら、壁にへばりついている。
すると、壇の向こうから、人影が現われた。「愚か者め」息の交じった声がさげすんだように言った。ルイスは目を疑った。それは、ひからびた死体のような女だった。真っ白い肉が顔の骨にへばりつき、目はうつろで、口はただの黒い裂け目のようだ。その裂け目が動いて、化け物がしゃべりだした。「遅かったな」
「いいや」ジョナサンが高らかに言った。「そうは思わん。ローズ・リタ、助けにきたぞ! ここから連れ帰ってやるからな!」
「なにね知らぬでぶめ!」死体は叫んだ。「おまえたち三人とも、娘といっしょに永遠にここにとどまるがいい!」
「ローズ・リタをはなしなさい」ツィマーマン夫人は言って、一歩前に出た。「ローズ・リタではだめよ。代わりにわたしを捕まえなさい」
「わたしがわざわざそんなことをすると思うかい?」死体は言った。
「おまえはずっと、わたしのようになりたいと思っているはず」ツィマーマン夫人は言った。「わたしは魔女よ」
かつてベル・フリッソンだったものの眼窩の奥で、一瞬光がひらめいたように見えた。「ならば、おまえと娘をもらう。取引などしない!」
ルイスはローズ・リタがもだえはじめたのに気づいた。ローズ・リタは、クモの牙のすぐ下で体をひねると、激しく叫んだ。「ツィマーマン夫人に手を出さないで! あんなおそろしい願いごとは、すべて取り下げるわ! あの一滴の血も取り返す! わたしの友だちを傷つけたら許さない!」
死体はぱっと振り向いて、シュウウとうなった。ツィマーマン夫人は言った。「さあ、ローズ・リタは血の返還を要求したわ! これで、戦うことができるわ」ツィマーマン夫人がかさを掲げると、紫の炎がほとばしり出た。炎はパチパチと音を立てながら、稲妻のように一直線に飛んでいって、ローズ・リタの上にいたクモの背中を直撃した。
ルイスは悲鳴をあげた。クモは壁からはじかれたように落ちると、足を激しくばたつかせた。そして、もうれつな勢いでこちらへ突進してきた。
ツィマーマン夫人は呪文の言葉を叫んだ。ジョナサンはクモのうしろにまわると、ローズ・リタを助けに駆けよった。クモはツィマーマン夫人の上に覆いかぶさるように建ちがったが、ツィマーマン夫人は手をさっと伸ばして、クモの体のなかにずぶっと突っこんだ。そしてぐいと引き抜いたその手の指先が、一本、赤く染まっていた。「ローズ・リタの名において、ローズ・リタの血の返還を要求する!」ツィマーマン夫人は叫んだ。「おまえには、もう力はない!」
闇のどここから、ベル・フリッソンのミイラのあげる悲鳴が響いてきた。クモは一瞬よろめき、皮膚に何千ものひび割れが走った。そして、くずれるように倒れると、黒い煙が立ちのぼった。そして、あっというまにクモの姿は消えた。
ジョナサンはローズ・リタを抱きあげた。ローズ・リタを縛っていたクモの糸も、ぼろぼろになって粉と化し、すうっと消えた。と、ジョナサンが叫んだ。「気をつけろ、フローレンス!」
だが、遅かった! ミイラ化したベル・フリッソンがいつのまにか、すぐそばに迫っていた。骨のような手がかさをひっつかみ、よろめきながらも人間離れした力でツィマーマン夫人からもぎとった。ツィマーマン夫人は悲鳴をあげて、地面に両手をついた。
激しく笑いながら、死者でも生者でもないベル・フリッソンは高々とかさを掲げた。「魔女が死ぬと、杖は折れる!」ベル・フリッソンはかんだかい声で叫んだ。「だが、時にそれは逆にも働く! この球を割れば、おまえは死ぬのだ!」
「待って!」ルイスは叫んで、前に出た。ひざががくがくして、今にも気を失いそうだった。それでも、ベル・フリッソンが球をくだくのを止めなければならない。ルイスはなにも持っていない両手を挙げた。「待って!」ルイスはもう一度言った。「あなたにあげたいものがあるんだ!」
「なんだと?」赤い眼窩が貫くような視線を向けた。「なにがあるんだい?」
「お守りだ!」ルイスは声を裏返らせて叫んだ。「ほら、ここだ! 手に持ってる!」
「なにも持っていないじゃないか!」
「これは、目には見えないお守りなんだ!」ルイスの声は悲鳴に近かった。「わたしはミスティファイ・ミスト! 今は見えないけど」ルイスは、マジック・ショーのためにさんざん練習したように、さっと手を動かした。「さあ、出てきたわ ほら、どうぞ!」上着のなかから、強い力を持ったお守りが飛び出してきた。ルイスはさっとそれをつかむと、すかさず前へ出て、よろよろと近よってきた化け物の顔に突きつけた!
紫の星がぱっとひらめいて、さん然と輝きだした。焼けるように熱くなった石が眼窩の真ん中を直撃し、ジュウジュウと焼いて穴をあけた。死体はわめき声をあげ、かさをほうり投げた。ルイスはかろうじてそれを受けとめた。
「さがって!」ツィマーマン夫人は叫んで、ルイスを引っぱった。
化け物はよろめいた。目と口の奥が、かっと紫に光った。肌が大きくうねってあっというまに縮れ、焼け落ちた。死体は骨となってバラバラと崩れ、音もなく爆発した。紫の煙があがり、残された灰がくるくると舞った。
地面がぐらぐらとゆれはじめた。ツィマーマン夫人がルイスからかさを受け取ると、球は強い紫色の光を放った。「ローズ・リタ、だいじょうぶ?」
「もう平気よ!」ローズ・リタは言った。
「逃げるぞ」ジョナサンおじさんがどなった。「ここは崩れ落ちる!」
四人はトンネルに向かって走った。ルイスは振り向かなかった。うしろでは、すべてが崩れ落ちるおそろしい音が鳴り響いていた。その音だけでじゅうぶんだった。
16
「本当に死んだの?」墓の下でベル・フリッソンの生ける屍と戦ってから二週間がすぎていた。ローズ・リタはいまだに悪夢にうなされていた。
「ええ!」ツィマーマン夫人はきっぱりと言った。「わたしたちは、ベル・フリッソンの糸を文字どおり断ち切ったんです。ベル・フリッソンの魔法の呪文は、クモの糸のように魂を生の世界につなぎとめていた。その魔法の糸を、ルイスがあの手品で焼きつくしたんです。ベル・フリッソンの魂は死者の王国へ追放された。だから、なにもかもが崩れ去ったのよ」
「だけど、そんなこと、まわりの人たちには言うなよ」ジョナサン・バーナルヴェルトは笑いながら言った。「みんな、えらくでかい地震のせいで、墓石が崩れたと思ってるんだから」
「もう少しでつぶされるところだった」ルイスが言った。
十一月とは思えないような、暖かい土曜日だった。四人の友人たちは、灰の裏庭に座って、うららかな小春日和の一日を楽しんでいた。大皿に盛られたツィマーマン夫人特製のクルミ入りダブルファッジ・ブラウニーをもぐもぐやりながら、背の高いコップに並々と注がれたミルクを飲んで、すっかり幸せな気分だった。ローズ・リタが突然帰ってきたときは、ニュー・ゼベダイの人たちもずいぶん驚いたけれど、ローズ・リタはなかなかうまく建ちまわった。自転車で転んで、記憶喪失になったという話をでっちあげたのだ。自分がだれだかわからないまま、何日も歩きまわっていたんです、とローズ・リタはみんなに話した。夜は農家の納屋で眠ったことにした。
警察には、ジョナサンがツィマーマン夫人とルイスと、サイドラー夫人の話していた道路を走っていてローズ・リタを見つけた、ということにした。ローズ・リタは何日もの間、食べ物も飲み物も口にしていなかったので、金曜の夜は入院しなければならなかったけれど、またすぐに元気になった。指先にあった三日月型の小さな傷痕も薄くなって、すっかり消えてしまった。今ではほとんどふだんどおりの生活に戻っていたけれど、ポッティンガー夫人は、その秋と冬はローズ・リタが自転車に乗るのを許さなかった。そのくらいしょうがないわ、とローズ・リタは言った。
「巻き物は返したの?」ツィマーマン夫人がきいた。
「ハードウィックさんに本を返しにいったとき、こっそりもとの箱に入れておいたの」ローズ・リタは言った。「もう本当に危険はないと思う?」
「ええ。巻き物にあった魔力はすっかり消えたわ」ツィマーマン夫人は答えた。「魔力さえ失われれば、ただのめずらしい骨董品にすぎませんよ。それに、あの墓も落盤でなくなったんだから、もう悪いことは起こりようがないわ」
ジョナサンはルイスのほうを見た。「ずいぶん静かだな。なにを考えているんだね?」
ルイスはにやりと笑った。「しろうとのマジシャンにしては、うまくやったなってさ」ルイスは言った。「ベル・フリッソンをまんまとおびき寄せて、あのニワトリの手品でお守りをぶつけてやったんだから」
「よくあの場で思いついたわね」ローズ・リタが言った。「どうしてフリッソンを倒せるってわかったの?」
ルイスは肩をすくめた。「わからなかったさ――本当はね」ルイスは告白した。「ただ、ツィマーマン夫人の魔法は強いから、邪悪なものをやっつけてくれるにちがいないって思ったんだよ。だから思い切ってやってみたんだ。ほかになにも思いつかなかったし」
「あなたの直感は正しかったわ、ルイス」ツィマーマン夫人が言った。「おかげでかさを壊されずにすんで、本当によかった。ふう! そんな打撃を受けたら、死ぬことはなくても、今と同じってわけにはいかなかったでしょうからね」
ローズ・リタ、さっきから何度も落ちつかなげに庭を見回していた。ジョナサンが首をかしげてきいた。「どうした、ローズ・リタ?」
ローズ・リタは顔をしかめた。「わからない。なにかに見られてるような、いやな感じがするの。だけど、そんなことありえないわよね。ベル・フリッソンはとっくに死んだんだし、クモだっていっしょに消えたはずだもの!」
「まちがいないわ」ツィマーマン夫人は言って、考えこんだような顔をした。「たしかに、そう言われてみると、なんだかわたしまで見られているような気がしてきたわ。ひげじいさん、謎解きに挑戦してみる?」
にやっと笑ってジョナサン・バーナルヴェルトは魔法の呪文をとなえた。すると、目の前に金色の矢が現われた。支えるものもないのに、空中に浮かんでいるる昔ふうの風見に似ていた。矢はくるくるとまわってから、家の角をぴたりとさして止まった。ジョナサンは立ちあがって、片目をつぶって矢を消し、足音を忍ばせて、家のほうへ歩いていった。そして、ぱっと飛びかかった。ヒイッという悲鳴が聞こえた。
ジョナサンがくすくす笑いながら、また姿を現わした。「おいで」ジョナサンは言った。すると家の角から、トレンチコートを着たチャド・ブリットンがはずかしそうな顔で出てきた。「ご安心を」ジョナサンは三人に向かって言った。「わがご近所の探偵どのだよ」
「チャド、ぼくたちをスパイしてたのかい?」ルイスがたずねた。
「いや、そういうわけじゃないんだ」チャドは言った。「ただ――その――ぼくは――」
ツィマーマン夫人はブラウニーのお皿を手にとった。「ファッジのにおいをかぎつけた《・・・・・》んでしょう?」ツィマーマン夫人はやさしい声で言った。
「そうなんです!」チャドはぱっと顔を明るくして叫んだ。
「どうぞ、おとりなさい」ツィマーマン夫人はチャドに言った。「次からは、ただここにきて、くださいと言えばいいのよ」
チャドはブラウニーにかぶりつくと、目をくるくるさせた。「すごくおいしいや。ありがとう、ツィマーマン夫人」
「どういたしまして」ツィマーマン夫人は答えた。
ルイスもブラウニーに手を伸ばした。「つまりさ」ルイスは口を開いた。「チャドもぼくも、将来の進路をまちがっちゃいないってことだね。チャドはブラウニーを探し当てたから、きっといい探偵になる。そしてぼくは大魔術師だ。さあ、今からこのブラウニーを消してごらんにいれます!」
チャドがふきだし、みんなもいっしょになって笑った。心地よい笑い声が、晴れた空に響きわたった。