【壁の中の時計】
ジョン・べレアーズ
登場人物
ルイス・バーナヴェルト
太めで内気だが、やさしい少年
ローズ・リタ・ポッティンガー
ルイスの親友。活発で頭の良い少女
ジョナサン・バーナルヴェルト
ルイスのおじ。魔法使いだが、少したよりない。
ツィマーマン夫人
ジョナサンの隣人で、料理上手のよい魔女。
いまは魔力を失っている
ヘルマン・ヴァイス
農夫
ヒルダ・ヴァイス
ヘルマンの娘
ウェザビー
ツィマーマン夫人の魔法の師
もう七晩つづけて、ツィマーマン夫人は自分の家の今で不可思議なものを見ていた。毎晩十二時ごろに目がさめて、下におりていくと、壁や天井に不思議な光が躍っている。食糧品室にいく廊下のなにもない壁に、薄気味悪い幻影が見えることもあった。悲しそうな顔をした少女が手招きしているのも見たし、大勢のにこにこ笑っている顔や、夜中の墓地が現われたこともあった。けれど、どれもしばらくじっと見つめていると、すうっと消えてしまうのだった。
ツィマーマン夫人には、こうした現象をどう考えればいいのかよくわからなかった。自分の魔法の名残なのかもしれない。なにしろ、ツィマーマン夫人は魔女なのだ。魔女といっても、ほうきを持ってしわがれ声で笑う邪悪な魔女ではなく、くしゃくしゃの灰色の髪にしわだらけの顔をした気さくな魔女だった。それに、魔女が好んで着ると言われている黒ではなく、紫が大好きだった。
ツィマーマン夫人の家には、紫のものがたくさんあった。陶器の時計、壁紙、じゅうたん、お風呂の石けん。洋服もほとんどが紫だった。ツィマーマン夫人の使う魔法は善い魔法で、かつ少々風変わりだった。だから、居間の光や壁に浮かぶ幻影が自分の魔法の名残だとはどうしても思えなかったのだ。幻影のなかには、どこか不吉で、陰気な感じのするものもあった。でもやはり、いまのツィマーマン夫人の気持ちを映し出しているのかもしれない。実のところ、あまり陽気な気分ではなかった。
年は一九五一年。ツィマーマン夫人は六十四歳だったけれど、最近では一〇二歳のように感じることがよくあった。ひとりでいても、そうした気分が変わることはなかった。となりのヴィクトリア朝の屋敷に住んでいる親友のジョナサン・バーナルヴェルトは、夏休みで留守にしていた。甥のルイスとヨーロッパへ観光旅行に出かけていたのだ。ジョナサンも実は魔法使いだったから、二人には共通点がたくさんあった。ジョナサンたちといっしょにいくこともできたのだけど、ツィマーマン夫人はあまり気乗りがしなかった。ルイスの親友のローズ・リタ・ポッティンガーが最初計画したとおり旅行にこられれば、ツィマーマン夫人もいっていただろう。けれど。、ローズ・リタは六月に足首を捻挫して、出かけられなくなってしまった。ツィマーマン夫人は、ローズ・リタが旅行にいけなくなってどんなにがっかりしているかわかっていたから、とてもミシガンのニュー・ゼベダイにひとり残していく気にはなれなかった。
けがをしていても、ローズ・リタはしょっちゅうツィマーマン夫人の家にやってきた。パパに車で送ってもらって足を引きずりながら家へあがり、チェスやぱっくぎゃもんをしたり、あれこれおしゃべりをした。話し開いてがいるのはありがたかったけれど、それでもツィマーマン夫人の気持ちは晴れなかった。気分は沈み、不安で、まるでおそろしいことが起こるのをいまかいまかと待ち受けているようだ。でもいったいなにを? それを知るためなら、ツィマーマン夫人はなんだって投げ出しただろう。
幻影を見るようになって八日目の晩、ツィマーマン夫人とローズ・リタは台所でこの奇妙な現象のことを話していた。ローズ・リタは十四歳になり、背ばかり伸びてぎこちない感じがした。メガネをかけ、よれよれの黒い髪をしている。今晩はここに泊まることになっていのたで、ローズピンクのパジャマとバスローブを着て、ときどき下に手を伸ばしては、足首にはめたギプスの下のむずむずするところをかこうとしていた。
ツィマーマン夫人は紫の花もようのバスローブにくるまって、いつものようにパチンと指を鳴らしてなにもないところからマッチを取り出し、葉巻に火をつけた。長い煙がゆらゆらとあいた窓のほうへ漂っていった。裏つきのカーテンが夜風にゆられ、ガや夜の虫たちがパタパタと音をたてて網戸に集まっていた。
「それで、ツィマーマン夫人はどういうことだと思っているの?」ローズ・リタは心配そうにまゆをひそめてたずねた。「この家におばけがいるとか?」
だいぶ間をおいてから、ツィマーマン夫人は答えた。「幽霊とはちがうと思うわ」ツィマーマン夫人はおもむろに言った。「でも、だれかがわたしと話そうとしているような気がするんですよ。実はそれがだれだか、心当たりもあるんです」
ローズ・リタはまた、ギプスの下のかゆいところへ手を伸ばした。今夜は特にかゆくてどうにかなりそうだった。「だれなの?」
「ウェザビーばあさまですよ。ばあさまの魔法と感じが似ているんです」
ローズ・リタはけげんそうな顔をした。「ウェザビーばあさま? だれそれ?」
ツィマーマン夫人はため息をついた。「たしかに、ばあさまのことはあまり話してなかったわね。わたしの魔法の知識はほとんど、ばあさまから教わったものなんです。もちろん、ドイツのゲッティンゲン大学で魔法学の博士号をとったのも本当よ。でも、それはケーキに仕上げの粉砂糖をかけたようなものね。本当の魔法は、ばあさまに習ったんですから。ばあさまが、どうやって自分の力を見いだして使うのか教えてくれた。ばあさまといっても本当の祖母ではないの。ばあさまに出会ったのは、ちょうどあなたくらいの年のときだった。もちろん、とっくに亡くなっているけど、なにかの理由でわたしと話したがっているようなの」
「どうして?」あまりにも単純な質問のようだったけれど、ローズ・リタは魔法が関わっている場合、わかりきった質問こそがいちばんおもしろい答えを引き出すことを知っていた。だから、とにかく聞いてみたのだ。
「どうしてですって?」ツィマーマン夫人はつぶやいた。「わたしに魔法の力をとりもどさせたいからでしょうね」
ローズ・リタは顔をしかめた。「ぜひそうしてほしいわ! そしたら、この腹のたつギプスをなんとかしてもらえるもの!」
ツィマーマン夫人は、気の毒そうにほほえんだ。「なんとかしてあげたいけど、あなたもよくわかっているとおり、あの十八カ月前の邪悪な霊との戦いでわたしの魔力はすっかりなくなってしまったのよ」
ローズ・リタはかすかに震えた。その戦いならよく覚えていた。いまでもときどき夢に見るほどだ。でも、たとえ魔法が使えなくても、ツィマーマン夫人はけっして絶望したり、悲しみにくれるひとではないとわかっていた。「もしもう一度、魔女になれたら、うれしい? 本物の魔女ってことよ。なにもないところから火のついたマッチを出すだけじゃなくて」
ツィマーマン夫人は考えこんだように言った。「たぶんね。たしかに、魔力を失ったときは、それも悪くないと思いましたよ。しばらくは、そっちのほうが幸せだと思おうとした。でも、ここ一年ほどは、とても幸せだったとは言えない。それは認めなくてはいけないでしょうね」
「でも、いままでと同じようにすごしているじゃない。ルイスやジョナサンおじさんやわたしとトランプをしたり、とびきりおいしいチョコレートチップ・クッキーを焼いたり。それにわたしの親友だし」
ツィマーマン夫人はにっこりして言った。「そうね。たしかに文句を言う権利はないかもしれないわ。でもね、なにかおかしいっていう気がしてしょうがないんですよ。むかしの力をとりもどしたほうが、よりよい人生が送れるのかもしれない。もっと明るく前向きになれるかもしれない。そんな気がするんです。わたしは五十年近くも魔法を使ってきた。人生のほとんどをね。いまそれを失ってみると、どうやって生きていけばいいのかわからなくなってしまったのよ。だからもしあの光や幻影がほんとうにばあさまから送られてきたのだったら、もっとくわしく知りたいんです」
ローズ・リタの顔に心配そうな表情が浮かんだ。二年前にツィマーマン夫人とジョナサン・バーナルヴェルトと出会ってからたくさんの魔法を見てきたけれど、なかには本当に邪悪で危険なものもあった。しばらくテーブルクロスのもようを指でなぞったあと、思いきってローズ・リタは口を開いた。「わたしそのままのツィマーマン夫人が好き」ローズ・リタは唐突に言った。「それに、自分がわかっていないことには手を出さない方がいいわ。もし話ししたがっているのが、そのなんとかばあさまじゃなかったらどうするの? 邪悪な者だったら? 前に、善い魔法と邪悪な魔法を見わけるのはむずかしいことがあるって言ったじゃない? 気をつけたほうがいいわ!」
ツィマーマン夫人は一瞬ぽかんとして、それから笑い出した。「まったくローズ・リタ、あなたってひとは!」ツィマーマン夫人は叫んだ。「いつも思ったことを口に出さずにいられないんだから。でも心配ありませんよ。わたしはあなたのおばあさんっていってもいいくらいの年で、あなたが知らないこともたくさん見てきた。だいじょうぶ。あの光や幻影は邪悪なものじゃないわ。たしかに暗いし、薄気味悪くて、おそろしいような気もするけど、このわたしになにか悪いことをしようとしているんじゃないと思いますよ。ともかく、ここのみぞおちのあたりで、ばあさまがわたしと話したがってるって感じがしてるんです」
「でもいま、おそろしい幻影もあるって言ったわ」ローズ・リタは言い張った。
「おそろしいっていうのは正確じゃないわね。べつにこわくはないから。たしかに、あの光や幻影に悲しいところがあるのはまちがいありませんよ。でも、それを言うならばあまはひどく気難しいひとだったんです。わたしのことは心配しなくていいわ、ローズ・リタ。いまは、ばあさまがもっとはっきりと姿を見せてくれるのを待つしかないんですから。そうしたらどうすればいいのか、わかるでしょうよ」
ローズ・リタはまだ信じきれないようすだったけれど、これ以上ツィマーマン夫人と言い争ってもむだだとわかっていた。ツィマーマン夫人はとても頑固で、自分が正しいと思っているときは、けっして考えを変えさせることはできない。それからツィマーマン夫人は、薬草や根や占い棒など、ウェザビーばあさまの大地の魔法のことをいろいろ話してくれた。そのあいだ、ローズ・リタはカップに入ったココアに反射している周囲の光をじっと見つめていた。その光は、真っ暗な宇宙をこうこうと光り輝く宇宙船がつきぬけていくさまを想像させた。いつのまにかローズ・リタはうとうとしながら、宇宙と宇宙船と緑の小男の夢を見ていた。
「まあまあ!」ツィマーマン夫人のおどろいた声で、ローズ・リタは、はっと目をさました。「時計を見てごらんなさい。とっくに寝てなければいけなかったわ。わたしがテーブルを片付けておくから、歯をみがいてらっしゃい」
まだ眠気がさめないまま、ローズ・リタは足を引きずりながら洗面所に向かった。ここも戸だなからトイレット・ペーパーにいたるまですべて紫だった。台所でツィマーマン夫人がお皿をがちゃがちゃ洗っているのが聞こえる。歯をみがきながら、ローズ・リタは紫色のわくの鏡に映った自分の姿をじっと見つめた。ガリガリでさえない女の子がそこにいた。相変わらずほとんどジーンズとトレーナーとスニーカーだったけれど、このごろではおしゃれをしてみたいと思うこともあった。もっときれいだったらよかったのにと思う日もあれば、ありのままの自分にまったく満足している日もあった。今夜はどちらか決めかねた。でも、鏡のなかの自分もやはり眠そうだというのはだけはよくわかった。
足首のギプスのせいで階段をのぼるのはたいへんだったから、今夜はいつもの二階にあるお客用の寝室でなくて、下の寝室で寝ることになっていた。食堂のとなりにある居心地のいい部屋で、清潔な小さいシングルベッドに、スミレの花束を刺繍したカバーがかけられている。ベッドのウェザビーばあさまには紫の睡蓮の絵がかかっていて、フランス人の画家、モネのサインがしてあった。ツィマーマン夫人が一九一三年にフランスにいったときに、モネからもらったものだった。ローズ・リタがちょうどベッドにもぐりこんだとき、ツィマーマン夫人がようすをのぞきにきた。ローズ・リタは小さな声で「おやすみなさい」とつぶやいた。ツィマーマン夫人が二階の自分の部屋にあがっていくのが聞こえた。その一秒後には、ローズ・リタはぐっすり眠っていた。
けれども二階の寝室では、ツィマーマン夫人がベッドのなかで眠らずにじっと天井を見つめていた。枕もとに置いたウェストクロックスの目ざまし時計の蛍光の針は、もう少しで十二時になることを告げていた。ツィマーマン夫人は時計をちららちと見ながら、考えをめぐらせた。そのまま十二時になるまで待っていたが、それからぱっと起きあがって、バスローブをはおり、スリッパをはくと、パタパタと下の居間へおりていった。
ひとめ見て、ツィマーマン夫人は息をのんだ。ちらちらと躍る光は、いままでにないほど明るかった。光は、本棚の上の壁にかかった古い鏡から出ているようだ。マホガニーのフレームの鏡で、魔法がかかったところはまるでなかった――今夜までは。鏡は四方八方に赤や緑や白い光を放っている。ツィマーマン夫人が近くによると、光っているガラスの奥に、なにかの影がぼんやりと浮かんでいるのが見えた。青白い月か巨大な卵かピンクがかかったお皿にも見えるけれど、そうではない。顔だった。
ツィマーマン夫人は目を大きく見開いて、じっと見つめた。最初は、夜に雨粒のついた窓から眺めたように、顔はぼんやりとかすんでいた。光がちかちかしたせいで、よく見えない。けれども、だんだんはっきりしてくると、ツィマーマン夫人にはそれがウェザビーばあさまの顔だとわかった。ウェザビーばあさまは、ツィマーマン夫人の子どものころの記憶そのままだった。しわだらけのしなびたりんごみたいな顔に、ピンク色の頬、への字に曲がった青白いくちびる。白くて薄いまゆの下で、落ちくぼんだ黒い目がきらりと光っている。口は動いていた。
頭のなかに、ばあさまの懐かしいしわがれ声が飛び込んできた。「ああ、フローリー、しばらくだねえ」ツィマーマン夫人をそう呼ぶのは、ウェザビーばあさまだけだった。家族にはフローレンスと呼ばれていたし、ローズ・リタやルイスにはツィマーマン夫人、そしてジョナサンにはくしゃくしゃ頭≠ニかしわくちゃばあさん≠ニかそんなふうに呼ばれている。けれど、ウェザビーばあさまは必ずフローリーと呼んだ。年老いた声はつづけた。「いいかい、よくお聞き、フローリー。聞きもらすんじゃないよ」
この世にいないはずの老女は、ツィマーマン夫人がむかしの魔力をとりもどすためになにをすればいいのか語りはじめた。ツィマーマン夫人はほほえんだりうなずいたりしながら聴いていた。ウェザビーばあさまの声はいつまでもつづき、ツィマーマン夫人は頭のなかに響いてくるその声に耳を傾けた。そうして数分がすぎ、それから鏡ふっと暗くなって、ちららちする光も消えた。
ツィマーマン夫人は小さく震えると、目をしばたたいた。真っ暗な居間にたっていた。夢から目覚めたような感じだ。ツィマーマン夫人はわざわざ電気をつけたりせずに、部屋を出て階段をのぼりはじめた。あくびが出て、眠くてしょうがなかったけれど、口もとには夢見るような笑みが浮かんでいた。とうとう祈りが聞きいれられた――もう一度人生をとりもどすのだ。
なにも起こらないまま、時はすぎた。あれから数週間がたち、ローズ・リタのもとにはジョナサンとルイスから次々と絵葉書が舞いこんだ。絵葉書には、ロンドンの国会議事堂やパリのエッフェル塔やローマの聖ペテロ大聖堂など、おきまりの景色がうつっていた。旅行している本人たちは喜んでもらおうと思っているのだろうけれど、絵葉書はかえってローズ・リタを落ちこませた。ローズ・リタは、友だちといっしょにいけなかったのが残念でしょうがなかった。しかもなお悪いことに、ツィマーマン夫人がヨーロッパ旅行をやめたのは自分の足首のせいなのではないかとひそかに疑っていた。
ツィマーマン夫人といえば、最近ではますますようすがおかしくなっていた。夜中に電話をかけてきて、支離滅裂でおかなしことを言うこともあった。ローズ・リタにはなにがなんだかわからなかった。けれど、夜に現われる幻影のことをたずねてみても、だまりこむか、話題を変えてしまうのだった。
ツィマーマン夫人はふだんとても冷静で落ちついているだけに、その変わりようはローズ・リタを不安にさせた。このごろではツィマーマン夫人の家にパックギャモンやチェスやおしゃべりをしにいっても、あまり楽しくなかった。ツィマーマン夫人の心はゲームやローズ・リタの理解できることにはなくて、どこか遠いはなれたところへいってしまっていた。
七月のなかばにギプスがとれた。ローズ・リタは、自分が足を引きずりながらもかなりうまく歩きまわれることがわかった。ある晩、ツィマーマン夫人の家にいくと、年季の入った革のスーツケースが玄関に置いてあった。ほこりはきれいにふきとられ、いつでも荷物が詰められるようになっていた。
「あの……どこかにいくの、ツィマーマン夫人?」ローズ・リタは口ごもりながら聞いた。
ツィマーマン夫人はぎくっとしてちらりとローズ・リタを見た。「ええ、まあ……そうなのよ」ツィマーマン夫人は歯切れの悪い口調で言った。「その、ちょっと仕事でペンシルヴァ二アまでね」
仕事? いったいなにを言いだすの? ツィマーマン夫人はむかし学校で教えていたけれど、いまでは引退して、少ないけれども、じゅうぶんな収入で暮らしていた。たまにペンシルヴァ二アに住んでいるお姉さんをたずねていたのは知っていたけれど、お姉さんは第二次世界大戦の前にとうに亡くなっていた。いまでは、ペンシルヴァニアに残っている親戚はいないはずだったるローズ・リタは、いよいよツィマーマン夫人の頭がどうかしてしまったのでないかと思いはじめた。
二人は台所へいって、パックギャモンのゲーム盤を用意した。ツィマーマン夫人は特製のチョコレートチップ・クッキーを出し、アイスティーを作った。すぐに二人はゲームに没頭した。ジョナサンはパックギャモンやチェッカーをするときね得点を数えるのに外国の銀貨や金貨を使う。けれどツィマーマン夫人は、ごくふつうの古い木製の赤と黒のこまで満足していた。ツィマーマン夫人とローズ・リタはしばらくこまを動かしていた。
ローズ・リタはじっとくちびるをかんでゲーム盤に集中していたけれど、とうとう声を振りしぼるようにしてたずねた。「ねえ……いつ出かけるの、ツィマーマン夫人?」ローズ・リタはゲーム盤から顔をあげずに聞いた。
「あさってよ」ツィマーマン夫人は落ちついた声で言った。「二、三やらなくちゃならない用事をすませてから出発するつもり」
「長いあいだ留守にするの?」ローズ・リタは聞いた。
ツィマーマン夫人は、自分の赤のこまをひとつ動かした。「ええ、たぶん十日か二週間くらい。ひげじいさんとルイスが八月に帰ってくるまでには戻るつもりですから」
「ひげじいさん」というのはツィマーマン夫人がジョナサン・バーナルヴェルトにつけたあだ名だった。こういうあだ名を使うときは、機嫌がいい証拠だ。ローズ・リタは、自分の筋肉がひくひくときつるのを感じた。ほしくてたまらないものが手に入らないかもしれないと思うと、出るくせだった。「あの……ツィマーマン夫人?」ローズ・リタはためらいながら言った。「わたしも……わたしもいっしょにいっていい?」
それを聞いて、ツィマーマン夫人はひどくびっくりした。とっさに答えが出てこなかったので、しばらく考えをまとめてからようやく顔をあげると、こちらを見つめているローズ・リタと目があった。自分がいっしょにきてくれる仲間がほしいと思っていることは、はっきりした。この先待ちうけている長く危険なたびについてきてくれる仲間がいれば? ツィマーマン夫人はゆっくりと言った。「ご両親が許してくださるなら、ぜひきてほしいわ。でも、危険な旅になるかもしれない。去年の夏、いとこのオレーの農場へいったときと同じくらい。あのとき、わたしはガト・ビガーにあやうく一生メンドリにされかかったし、あなたは死の呪文をかけられるところだった。きちんと筋を通すためにも、先に知っておいてもらわなくては」
さて、なんにでもすぐくよくよする人がいる。ルイスもそうだ。ルイスはこの世のすべてのものがこわいといっても言いすぎではない。なんの問題もないときにも、ありもしない危険をひねくりだして、くよくよ悩んでいる。ある意味でおかしなことだった。なにしろルイスは、前に一、二回、本物の危険に勇敢に立ち向かったことがある。なのに、一方で、ありふれたささいな問題に大騒ぎしたり、おびえたりしているのだから。
けれどもローズ・リタは、その正反対だった。ローズ・リタにとって、危険はこわいものではなくて、冒険ができるかもしれないということだった。だからいまも、ツィマーマン夫人が危険だと言っても、びくともしなかった。ローズ・リタはまっすぐツィマーマン夫人を見つめ、落ちついた口調で言った。「もし危ないことがあれば、いっしょに立ち向かうわ。だって友だちだもの。どんなときでもね」
ツィマーマン夫人はうれしそうにほほえんだ。「とことん最後までつきあうわ! いずれ悪いときが終わっていいときがくる! きまりね、ローズ・リタ」ツィマーマン夫人は言った。「じゃあ、あさっての八時ぴったりに迎えにいくわ。それまでに荷物をつくって用意しておいてね。いい?」
次の日、ローズ・リタはパパとママを説得にかかった。といっても、了解をとるのはそうたいへんではなかった。ポッティンガー夫人は、ツィマーマン夫人をまじめで信頼できるひとだと思っていた。たしかにちょっとばかり厳しいかもしれないけれど、もと教師にありがちなことだ。ツィマーマン夫人の実際的な雰囲気は、ローズ・リタのママを安心させた。あのひとが見ていてくれれば、娘もむちゃなことはしないだろう。ローズ・リタのパパは以前、ツィマーマン夫人のことを町いちばんの変わり者′トばわりした前科があったけれど、ローズ・リタが一生懸命たのんだらすぐに納得した。
それに、ペンシルヴァニアへの旅行は勉強にもなると、ローズ・リタはママに言った。けがのせいでとりやめになったヨーロッパ旅行の埋め合わせにもなる。痛めた足首に負担をかけることもない。ペンシルヴァニアへはいきも帰りも車でいくからだ。
パパとママはよく考えた。それからツィマーマン夫人に電話して、二、三相談したあと、ローズ・リタにいってもいいと言った。そして、ローズ・リタはあわただしく旅の準備をした。
こうして次の日、ローズ・リタは黒い旅行カバンを持って玄関のポーチで待っていた。すると、ベッシィがやってきて歩道につけてとまった。ツィマーマン夫人の愛車、緑色の1950年製プリマスだった。
「おはよう、ローズ・リタ!」ツィマーマン夫人は叫んで、車の窓から手を振った。「ペンシルヴァニアの大自然へいざ突入よ。準備はいい?」
ローズ・リタはにやりとした。それでこそ、さっそうとして陽気ないつものツィマーマン夫人だ。あのそわそわして不安げな態度は消えていた。これで万事うまくいくわ。ポーチでママがいってらっしゃいと手を振り、ローズ・リタはカバンを車のまるいトランクのなかに押しこんだ。そしてツィマーマン夫人の横に乗りこむと、うしろの座席に四角くて平べったい大きな包みが、落ちないようにしっかりくくられているのが目に入った。茶色い紙でくるみ、ガムテープがはってある。「なにあれ?」ローズ・リタはたずねた。
「そのうちわかるわ」ツィマーマン夫人は答えた。「いい? 出発!」排気ガスをもうもうと吐きだし、車は轟音をあげて発進した。
その日は一日中、二人はのんびりと南ミシガンからオハイオとの州境までドライブした。べつに急いでいるわけでないから、とツィマーマン夫人は説明した。だから旅を楽しみながらいきましょう。そこで二人はゆっくりと見てまわりながら進んだ。
食事は道路ぞいの食堂やハンバーガー店でとり、夜はツィマーマン夫人が選んだ観光客向けに見えない宿に泊まった。ツィマーマン夫人の魔力はほとんど失われていたけれど、魔女の第六感は健在で、いつもサービスが良くて食事のおいしいところを見つけだした。たまに夜更かしをして、デトロイト・タイガースの試合のラジオ中継を聞きながら、ツィマーマン夫人は|ひとりトランプ《ソリテア》を楽しむこともあった。
ローズ・リタは荷物をほどくときに、何度か謎の包みのことをたずねてみた。ツィマーマン夫人はいつもにっこり笑うと、片目をつぶってこう言った。「時がくればわかりますよ」そして、それ以外のことはなにも言わなかった。包みはいつも自分が持つと言ってゆずらなかったし、必ず部屋のいちばん高い棚の上に置いた。そして朝になると、また自分でプリマスまで運び、ローズ・リタには指一本さわらせないのだった。そんなふうにツィマーマン夫人にじらされてローズ・リタはいらいらしたけれど、それもなぜか楽しかった。目の前にクリスマスプレゼントの包みをさあどうぞといわんばかりに置かれて、ぜったい振ったりしてはだめよ、と言われるのにちょっと似ていた。
とうとう二人はペンシルヴァニアのカンバーランド山脈までやってきた。ここの山は低く、森でおおわれている。土木技師たちは山を爆破して長いトンネル通し、換気扇をずらりと取り付けて、轟音をあげて通り抜けていく車やトラックの排気ガスを外へ排出していた。もちろんトンネル内には電灯もあり、おかげでそれほど気味悪くはなかった。それでもローズ・リタは、反対側に半月形のかすかな光が見えるとほっとした。これでまたひとつ、山の洞窟をすぎたのだ。
まわりの景色も変わりはじめた。これまでたくさんの農場を通ってきたけれど、オハイオの農場はミシガンのとあまり変わらなかった。ほとんどがトウモロコシか小麦畑で、トラクターが低いうなり声をあげながら働いている。とんがり屋根の赤い納屋には、壁に〈メイルポーチ噛みタバコ〉といったたぐいの広告が描かれていた。ところがここペンシルヴァニアのカンバーランド山脈にきてからは、農場は小さく、赤い納屋は巨大になり、壁には派手な色が描かれた飾りが見られるようになった。たいていは円形で、なかに涙の形や星やハートや花やじっと見つめる目などが描かれている。ツィマーマン夫人は、あれはヘックスサインという魔よけの印だと言った。
ペンシルヴァニアの農民には迷信ぶかいひとたちがいる。納屋の壁にヘックスサインを七つ描くと、落雷や火事、それから魔女の呪いなどの災いを防ぐと考えられていた。ローズ・リタは興味をひかれた。その夜、ローズ・リタは農民たちと彼らの信仰について教えてと、ツィマーマン夫人にせがんだ。
旅に出て四日目の晩だった。ローズ・リタとツィマーマン夫人は、カンバーランド山脈のただなかに建つドイチェマッハーズ・モーテルに泊まっていた。空には星が輝き、四方を壮大な山の黒い影がとりかこんでいる。部屋の網戸のついたポーチに坐ると、ツィマーマン夫人はペンシルヴァニアダッチについて説明しはじめた。「名前にだまされてはだめよ。ダッチといってもオランダ人じゃないの」ツィマーマン夫人は言った。「ドイツ人なんです」
「じゃあどうしてダッチっていうの?」ローズ・リタは、ツィマーマン夫人がその質問を待っているのをわかっていて、聞いた。
「まちがいが起こったのは二世紀以上も前のことなんです」ツィマーマン夫人は話しはじめた。「ドイツからたくさんの移民がペンシルヴァニアにやってきた。ペンシルヴァニアは宗教に寛容だったからよ。ドイツ人たちはそのことは知っていたけれど、英語はまったく話せなかった。ほかの開拓者たちは、自分たちのおとなりさんが知らない言葉をしゃべるということしか知らなかった。ドイチェ≠ニいうのはドイツ語ではドイツのことだけど、わからなくてね。その聞いたこともない言葉にいちばん近い英語がダッチ≠セったものだから、ドイツ人たちのことをそう呼びはじめたのよ。そのまちがいが定着してしまって、いまでもドイツからの移民のひとたちをペンシルヴァニアダッチと呼んでいるわけ。ペンシルヴァニアダッチのひとたちは、独自の習俗や迷信や信仰を持ってる。結束の強い集団なの。この旅行が終わるまでには、何人か見かけると思いますよ」
それからツィマーマン夫人は、ヘックスと呼ばれる邪悪な魔法ヘクセレイ、つまりペンシルヴァニアダッチの魔女信仰について話し出した。ヘックスを操る魔女や魔術師たちはしばしば敵にのろいをかけるが、ときに相手を死にいたらしめることさえある。一六八三年にペンシルヴァニアで最初の魔女裁判が行なわれ、フィラデルフィアの裁判所は、マーガレット・マットソンという、魔女の容疑をかけられた女性に無罪の判決を下した。ツィマーマン夫人によれば、最後にこうした裁判が行なわれたのは、たった二年前の一九四九年だということだった。
ツィマーマン夫人は一時間近くもしゃべっていた。最近では、こんなに長く話すのはめずらしかったから、ローズ・リタは、友人がどうでもいい知識を得意になって披露するのを見てほっとした。けれどもその夜、また心配になるようなことが起こった。十時ごろ、ツィマーマン夫人はまたもやおかしなことをやりはじめた。宿にはいくつか鏡があったが、それにすっかりとりつかれたようすで、まるで隠された秘密を見つけ出そうとでもいうようにじっとのぞきこんでいる。しだいに目は遠くをさまよい、まるでツィマーマン夫人にしか見えない顔か景色かまぼろしを見ているようだった。
その晩はチェスをしたけれど、あまり楽しくなかった。ツィマーマン夫人がしょっちゅうくだらないまちがいをしたからだ。一度は理由もなくクイーンをとられ、一度はボーンをふたつとナイトを忘れて、負けを認めた。いつもは最後の最後まできらめないでプレイするのに、今夜はまるでやる気がなくて機械的にこまを動かしている。おまけにたまに外で物音がすると、ぎくっとして立ちあがり、外の会談まで飛び出していくのだ。そして血ばしった目でまわりを見まわすと、恥ずかしそうにコホコホと咳をしながら戻ってきて、またゲームをはじるのだった。
こうした奇妙な行動は、ローズ・リタをおびえさせた。なにか悪いことが起ころうとしているという予感がいよいよ強くなっていく。でもそれかどんなことなのか、わからないままだ。ツィマーマン夫人はなにを聞いても肩をすくめるだけだった。ローズ・リタはただ待つしかなかった。
次の朝、二人はモーテルの食堂でペンシルヴァニアダッチ式のごうかな朝ごはんを食べた。パンケーキとシロップ、それにあぶらのたっぷりのったドイツソーセージだった。ツィマーマン夫人が支払いをすませ、それから二人はカバンを車にほうりこんで、ツィマーマン夫人は例の謎の包みをていねいにのせ、また走りだした。車は小さな町から町へとのんびりと走っていった。午後になると、ツィマーマン夫人がラジオで野球の中継をしているのを見つけた。ボストン・レッドソックス対クリーヴランド・インディアンズ戦だ。でも車がトンネルに入るたびに音が聞こえなくなる。そしてトンネルはたくさんあった。ローズ・リタはうんざりした。好ゲームなのに集中できない。試合は四対四の引き分けで終盤をむかえ、激しい延長戦がつづいていた。そしてとうとう十六回にボストンが満塁になり、ちょうどクライド・ボルマーがバッターボックスに向かったとき、また前方に次のトンネルがぼんやりと見えてきた。今度のは特に暗く、ぶきみに見える。入り口の石のアーチに標識があり、トンネルの長さが1/10マイルと記されていた。ローズ・リタはこの入り口になにか不吉なものを感じた。まるで墓穴が大きく口を開けて待ち受けているようだ。ツィマーマン夫人が奇妙な笑いを浮かべてトンネルにつっこんでいくと、ローズ・リタは胃のあたりがしめつけられるような気がした。電波が届かなくなり、ラジオの声は雑音に変わった。車は走りつづけ、天井で換気扇がぐるぐるとまわり、蛍光灯が点々と道を示していた。
ついに遠くにかすかな光が見えはじめ、ローズ・リタもいくらか楽に息ができるようになった。けれどもトンネルの出口に近づくにつれ、ローズ・リタは何かがおかしいことに――それもひどくおかしいことに気づいた。ごくふつうの七月のごくふつうの太陽にしては、光が妙に明るく妙に白すぎる。そして二人は、冬景色のただなかへ飛びだした。
木からつららがさがり、山はどれも厚い雪におおわれていた。プリマスは、まちがいなくひざくらいまである雪だまりのなかにつっこんだ。ガガガガガと激しく上下しながら進んだあと、車はぴたりととまった。恐怖のあまりに心臓が止まりそうになりながら、ローズ・リタはうしろをふりかえった。
きらきら光る雪におおわれたすべりやすそうな道が崖のふもとにそって現われ、二人の先へとのびていた。道はそのまま前方の丘陵をくねくねと下っている舗装されていないようだし、道路と呼ぶには狭すぎる。でもなによりもおそろしいのは、うしろにあるはずのトンネルがかげも形もないことだった。ぼこぼこと穴のあいた険しい岸壁があるだけだ。割れ目すらない一枚岩で、トンネルなどはじめから存在していなかったようだった。
二人は、見知らぬ魔法の世界に閉じ込められたのだ。ローズ・リタには理解できない世界。ここではなにがあってもおかしくないと、ローズ・リタの本能は告げていた。
プリマスのボンネットは雪に埋まり、エンジンはブゥーンとうなってぷつりととまった。それからしばらくは、物音ひとつしなかった。ローズ・リタは言葉を失って、まわりの風景を眺めた。美しいことはまちがいなかったけれど、そこにあるはずのないところだった。あたりはかすみがかっている。高くつめたい雲の層の上から太陽が力なく輝き、つららや吹きよせた雪に反射していた。するとツィマーマン夫人が元気よく言った。「まったく、これは予想外だったわ! そりすべりすることになるとはね! かわいそうなわたしの車はなんとか生きのびてくれたかしら」
ローズ・リタはあっけにとられて友人を見つめた。自分たちがどんなにたいへんなことになっているのかわかってないのかしら? すでに車のなかの空気は冷えきっていた。それまで走ってきた現代的なハイウェイは消え、かわりにあるのは狭くて舗装されていない凍った田舎道。なのに、ツィマーマン夫人ときたらまるで冗談みたいにしゃべっている。道をまちがえたか、タイヤがパンクしてしまったみたいにのんきな調子で! きっと本当にどうかしてしまったにちがいない。ローズ・リタはぞっとしたけれど、それであわてふためくようなタイプではなかった。むしろツィマーマン夫人のふざけた態度に、頭にきてしまった。ローズ・リタは大声で叫んだ。「ツィマーマン夫人。こんなの変よ。こわいことなのよ。おかしくなんかないわ! ここから出してよ!」
ツィマーマン夫人びっくりしてローズ・リタのほうを見てから、優しく肩をたたいて、安心させるようにほほえんだ。けれどその笑顔はどこかぎこちなく不自然だった。「だいじょうぶよ、ローズ・リタ。いままでわたしが魔法を使ったのを見てきたでしょう? ちょっとお天気が予定外だったからって、なんてことはないはずよ。たしかにトンネルを抜けたら真冬になっていたなんて、よくあるふつうの出来事とは言えないけれど、どちらにしろ今回の旅行は、よくあるふつうの旅行じゃないんですから。わたしたちは魔法を探しにきたのよ。まずベッシィのようすを見て、それからどういうことか、わたしの考えを説明するわ」
ツィマーマン夫人は慎重にエンジンをかけ、ギアをそっとバックに入れた。エンジンは空回りし、ウィーンとかんだかい音をたててタイヤが回転した。車は前後に大きくゆれたけれど、ボンネットは雪だまりにはまったままだった。「ふう!」ツィマーマン夫人はため息をついた。「すべらないようにしないとだめね。どうすればいいか考えてみましょう」二人は車からおりた。ツィマーマン夫人はかがんで、うしろのタイヤを調べた。それから道路わきのモミの木の下に山と落ちている、もつれた枯れ枝を指さした。「あれをとってきて、うしろのタイヤの下に入れてみましょう。前にジョナサンのおんぼろ車がこんなふうになったとき、そうやっていたわ」
すでにローズ・リタは寒さでがたがた震え、歯はカチカチ鳴っていた。けれどもせっせと働いているうちに、少し体が温まってきた。ローズ・リタは道路を忙しくいったりきたりして、ツィマーマン夫人を手伝って小さな枝を二十本ほど引きずって運んだ。それから二人で枝を後輪の下に押しこんだ。ツィマーマン夫人はうなずいた。「これでなんとかなるでしょう。さあ、もう一度やってみるわよ」
凍るように寒い外から戻ると、車のなかは暖かく感じられた。ツィマーマン夫人はエンジンをかけ、もう一度ギアをバックに入れたが、今回は気をつけて少しずつアクセルを踏んだ。ベッシィはゆっくりと動きはじめ、バリバリと大きな音をたてて枯れ枝をふんだ。枝を越えると、車は一瞬ぐずぐずするように止まった。ローズ・リタは息をのんだ。車がそのまま斜面をすべり落ちるのでないかと思ったのだ。しかし後輪ががっしりと氷の表面をとらえ、車を道までひきもどした。車のフェンダーやバンパーやグリルからドサドサッと雪のかたまりが落ちた。
「うまくいったわ」ツィマーマン夫人はほっとしたように言った。「さあ次はぶじに山をおりなくてちゃ。あと、ヒーターを入れましょう」道は下り坂だった。そんなに急ではないけれど、くねくねと曲がりながら山を下っていく。プリマスはじりじりと前に進んだ。ぺしゃんこになった黒い枯れ枝の横を抜け、ボンネットがつっこんだ吹きだまりをすぎた。エンジンはすでに暖まっていたので、ヒーターから暖かい空気がふきだして足にあたった。ツィマーマン夫人はハアッと満足そうなため息をついた。「これでよし! さあいざ文明社会へたどりつけるか、いってみましょう。安全なところまできたら、ここがどこで、いつなのか説明するわ」
「いつ、ですって?」ローズ・リタはききかえした。とはいえ、その言葉がまったく意外だったわけではない。H・G・ウェルズの『タイムマシン』で時間旅行《タイムトラベル》の話は読んだことがあった。だから、すぐにツィマーマン夫人が言わんとしていることはわかったけれど、とても信じられなかった。「いまわたしたちはちがう時代にいるってこと?」
「ここが一九五一年だと思う?」ツィマーマン夫人の声はせっぱつまっていた。凍った坂道を、なんとかうまく車を誘導しておりなければならない。まゆをひそめて一点を見つめ、ハンドルをぎゅっと握りしめている。プリマスはしだいにスピードをましていた。するといきなりいやな感じで曲がりだした。タイヤがスリップし、ツィマーマン夫人は大きくハンドルを切り、次に逆に切って、それから叫んだ。「たいへん――つかまって!」
車はいまや坂道をすべりおちていた。ベッシィは歯ががたがた鳴るほど大きくはずんで道の左側から飛びだし、さらにすべりつづけた。まるで毎秋カファーナウム郡の収穫祭の時期にニュー・ゼベダイの広場にくるジェットコースターのアルペン・アドベンチャーにのっているみたいだ。ローズ・リタは半分あけた目で、車が雪に埋もれたロードデンドロンの茂みにぶつかり、枝が車体をガリガリとこするのを見ていた。車はそのまま茂みの真ん中までつっこみ、ローズ・リタたちはいきなり冬の弱い日差しのなかから、ぶきみに静まりかえった暗やみにほうりこまれた。ふたたびエンジンは咳き込むような音をたてて、カタンと鳴り、止まった。
「さあてと」ツィマーマン夫人は言った。「これ以上どうしようもないわ。氷の上を運転するのはわたしの趣味じゃないし。トランクにチェーンも積んでいないんだから、あとは氷が溶けるまで待つほかないわね」
「待つ? ここで?」ローズ・リタは叫んだ。「凍え死んじゃうわ!」
ツィマーマン夫人は舌を鳴らした。「そう。車の中でだれかが助けてくれるまで待っているわけにはいかないでしょうね。道路から見えるかどうかさえあやしいものだわ。でも、ストーンブリッジの町はかなり近いはずよ。時間だけでなくて、場所も移動していたら別ですけどね。でもそういうことはないと思うわ。このあたりの景色には見おぼえがあるもの。まわりのようすから見て、おそらく一八九八年か一九〇〇年か、そのあたりでしょうね」
ローズ・リタはとても冷静ではいられなかった。「いったいなにを言っているの? どうしてタイムトラベルしたなんてわかるわけ? わたしには、夏じゃなくて冬になったってことと、車が動かなくなってどうしようもなくって、どんどん寒くなってるってことしかわからないわ!」
「まあまあ、ローズ・リタ!」ツィマーマン夫人はローズ・リタが文句を言うのも当然だということに気づいた。たしかに前もってこの旅は危険なものになるとは言ったけれど、具体的にどんな危険が待ち受けているのか説明したわけではなかった。だからいくら頭ではなにかおかしなことが起こるとわかっていたとはいえ、いきなり夏から冬になれば、説明してほいと思うのは当たり前だろう。「わかったわ。わたしの考えを説明するわね」ツィマーマン夫人は言った。「ウェザビーばあさまの幽霊は、わたしがはじめてばあさまとであった時と場所に、わたしたちを連れてきたんだと思うの。あのね、わたしの姉のアンナは一八九八年の六月にハロルド・クリッペンという人と結婚して、ペンシルヴァニアのストーンブリッジに越してきたるそこでハロルドは法律事務所をはじめた。その夏、はじめて姉を訪ねたときに、わたしはウェザビーばあさまと出会ったんですよ。ばあさまは八〇歳、わたしはもうすぐ十二歳だった。そのあともわたしはしょっちゅう姉と義兄のところへいって、ストーンブリッジにいるあいだ、ばあさまに魔法を教わったんです」
ローズ・リタはようやく理解した。「じゃあ、わたしたちがいるのはそこなのね。お姉さんの家の近く?」
ツィマーマン夫人はうなずいた。「そうですよ。わたしたちが走っていた道路は、一九五一年にはトンネルを抜けて南に曲がり、町の中心をつっきっている。でも、一八九八年には、このマウント・キデロン道路だったの。土の道で、ストーンブリッジにいく砂利道につづいていた。それがまちがっていなければ、ここはフラース・ヒルだと思いますよ。まちがえるはずないわ。だってむかしオットー・ペニーベイカーがしょっちゅうここにそりをしに連れてきてくれたんですもの。オットーは、はじめてのボーイフレンドのようなものよ。といっても、ほんとうにおつきあいをしていたのとはちがうけれど……いまのあなたとルイスの関係とよく似ていたと思うわ」
ローズ・リタは赤くなった。「ルイスはたまたま男の子だっただけで、ただの友だちよ。ボーイフレンドじゃないわ。だって、ダンスもしようとしないし――」
ツィマーマン夫人はその先を待ったけれど、ローズ・リタは口をつぐんでしまった。「ジョナサンがルイスをヨーロッパ旅行へ連れていってしまうまえ、あなたたち二人のあいだになにかあったようだけど」ツィマーマン夫人は言った。「話したい?」
「いいえ」ローズ・リタは言った。「いまは、どうして一九五一年じゃなくて一八九八年にいると思うのか教えてほしいわ」
「おやおや、今日はずいぶん機嫌が悪いのね。いいわ、さっきから言っているとおり、理由は単純、どうみてもここは一八九八年で、一九五一年には見えないってことですよ。わたしもずいぶん長いあいだストーンブリッジにはきていないわ。姉は一九三九年に亡くなったからね。でも、そのころから山にはもうトンネルは通っていたし、ここも馬車道でなくてちゃんと舗装された道路だったんですよ。でもこの景色は、十二歳のころの記憶そのままよ」ツィマーマン夫人はほほえんで、さらにつづけた。「ともかくもしここがほんとうにマウント・キデロン道路だったら、ストーンブリッジまで六キロほどのはずなんです。この天気じゃ、歩くのは楽ではないでしょうけど、なんとかなると思いますよ。それに、いくら真冬でも、ストーンブリッジ道路にでれば少しは往来もあると思うし」
ローズ・リタは頭がくらくらしてきた。「でも一八九八年なら、わたしはまだ生まれてもいないはずよ」ローズ・リタは頭のなかでさっと計算した。「あと二十九年たたなきゃ、わたしは生まれないわ。生まれてもいないのにどうして存在できるの?」
「わたしにだって答えられない質問もありますよ。でも時間を遡るってことについて言えば、肉体的にはなんの影響もないことはまちがいないようね。つまり、わたしも十二歳のときに戻ったようには見えないでしょう?」ツィマーマン夫人は言った。「ローズ・リタ、わたしにもどんな魔法が働いたのかはっきりとはわからないし、実際これからどうすればいいのか見当もつかないの。でもウェザビーばあさまの幽霊は、わたしの力をとりもどすためには、始まりの場所まで戻らなければならない、と言ったんです。ばあさまはこう言ったんですよ。フローリー、始まりの場所まで戻るんだよ。そして大いなる不正を正すんだ≠「まはまだ、ばあさまがなにを言いたかったのかわからない。はじめて会ったときも、大いなる不正≠ノついてはなにも言ってなかったしね。ばあさまの人生が幸せではなかったことはたしかだけど。さてともかく、車の中に座ってたってなにもわからないわ。上に着るものなんて持ってきてないわよね?」
ローズ・リタはうなずいた。「うん。ジーンズとシャツとトレーナーだけ」
ツィマーマン夫人は考え込んだ。「そう……それでじゅうぶんよ。わたしは、レインコートとバスローブとパジャマがある。何枚も重ね着すれば、なんとか寒さをしのげるでしょう」
車はロードデンドロンの茂みにトンネルを掘るようにつっこんでて、ローズ・リタの座席のドアは枝がつかえて開かなかったから、二人ともどうにかして運転席のほうから出た。じゃまをしていた大枝から氷のような雪がふり注ぎ、首尾よくえりのなかに入り込んだ。外は晴れていて、太陽がぼんやり輝いていたけれど、冷気がローズ・リタの鼻を刺した。ロードデンドロンの茂みの下は、陽光がわずかに漏れるだけだった。温度を測る手立てはなかったけれど、ローズ・リタは氷点下にちがいないと思った。さいわいにも、風は吹いていなかった。
ツィマーマン夫人がトランクを開け、二人は荷物を出しはじめた。あまりのささに、ローズ・リタは急いでジーンズを三本はいた。最後にはいたのは、ボタンがとめられなかった。それからシャツを二枚とトレーナーを二枚着て、はいていた茶色のペニーローファーもツィマーマン夫人の助言に従って脱ぎ、ピーエフ・フラヤーズのスニーカーにはきかえた。ほとんど新品だから、氷の上を歩くのにこちらの靴底のほうがひっかかりがいいだろう。靴下も二枚重ねたので、靴はきつくなった。最後に旅行カバンを閉めようとして、ローズ・リタはあるものを思いつきで入れてきたのを思いだした。カバンのなかをひっかきまわすと、それを取り出した。古い黒のビロードのベレー帽だった。ケロッグのシリアルのキャラクターがついたボタンがいっぱいつけてある。もう二年近くもかぶっていなかった。ローズ・リタは頭にぐっとひっぱってかぶせた。暖かさがましたのがありがたかった。
ツィマーマン夫人も同じように何枚も服を着こんだ。紫のワンピース三枚に紫の小花もようのバスローブをはおり、仕上げに紫のレインコートを着た。スニーカーは持っていなかったけれど、ふだんはいている靴は実用的で歩くのに適していた。足が冷えないように、ローズ・リタから靴下を二枚借り、途中お土産で買った、夕日に浮かびあがるトリードの町の風景をプリントしたタオルを頭にスカーフのように巻いた。支度が整ったツィマーマン夫人の姿はかなり妙だった。もともとはやせていて、細い体をぴんとのばし、灰色の縮れ毛をくしゃくしゃさせている。でも、幾重にも重ね着したいまでは、まるで十五キロは太ったように見えた。ローズ・リタは思わずくすりと笑った。
ツィマーマン夫人もにやりとして、舌をつきだした。「そっちだって、ベスト・ドレッサー賞はもらえそうにないわよ」ツィマーマン夫人は言った。「でも少なくとも、カチンコチンに凍らなくてすむわ。用意はいい? さあどれだけ進めるか、やってみましょう」ツィマーマン夫人がバンとトランクを閉めたので、ロードデンドロンの茂みから雪が小さななだれのように落ちてきた。
二人はすべりやすい場所では助けあいながら進んだ。でも、もともと二人とも歩くのは得意だったからローズ・リタが足を引きずっていたにもかかわらず、かなりの速さで進んだ。ベレー帽のおかげでローズ・リタの頭は暖かだったし、長い髪の毛が耳を覆い凍りつくような冷気からある程度守ってくれた。ツィマーマン夫人の鼻と頬はすぐに真っ赤になった。そのうち二人ともふうふうと白い蒸気をたちのぼらせ、胸は苦しそうに波打った。
五分ほどつるつるすべる道を歩いていくと、山のふもとに出た。二人が古い手きた小道は、それよりわずかに広い道に合流していた。ツィマーマン夫人は手を腰にあてて、立ちどまった。「さあてと、おかしいわね。ここはフラーズ・ヒルのはずなのに。忘れているわけないのだけど……まあ、いいわ」
ローズ・リタは、よくなかった。「なに?」ローズ・リタはまた不安になってきた。「今度はなにが変なの?」
ツィマーマン夫人は肩をすくめた。「たぶんただの記憶ちがいでしょう。ここはストーンブリッジ道路にちがいないのだけれど、もっと広くて砂利がしいてあった記憶があるの。それに道路が合流するところに小さな雑貨屋があったと思ったのだけど。わたしがそう思っているだけだけれどね。もちろんもう五十年以上もむかしのことだから、わたしがまちがっているんでしょう。どちらにしろ、すぐはっきりするわ。ストーンブリッジはこっちよ」
二人は南に折れ、新しい道に入った。フラーズ・ヒルの道より、交通量が多そうだ。少なくとも道路の表面には凍ったところまでわだちが刻まれ、つるつるすべりやすい氷の巻くはなかった。でも道はよくなったとはいえ、身を切るような寒さは相変わらずで、ローズ・リタはだんだん調子が悪くなってきた。痛めた足首がずきずきして、鼻がたれ、冷たい空気で胸が痛む。ローズ・リタはめったにかぜはひかなかったけれど、毎冬、たいてい最初の寒気がきたあとに必ず一回鼻かぜをひいた。そしていま、歩きながら、かぜをひきそうな情けない予感がしていた。
とつぜんまえを歩いていたツィマーマン夫人が立ちどまったので、ローズ・リタはもう少しでぶつかりそうになった。「どうしたの?」
「しっ」ツィマーマン夫人は片手をあげて静かにするように合図した。遠くのほうから、かすかなチリンチリンという音、キィキィきしむ音、そしてパカパカという足音が聞こえてきた。馬と馬車のようだ。ローズ・リタがそれとわかったのは、おじさんがニュー・ゼベダイ郊外の農場にラバのひく馬車を持っていて、しょっちゅうのせてもらっていたからだ。手綱を握らせてもらったこともあった。ツィマーマン夫人がふりむいて言った。「あっちからくるわ」
二人は立ちどまり、フラーズ・ヒルのふもとにそって大きくゆるやかな曲線を描いている道をふりかえった。はたして、じきに立派な栗毛の馬がだく足を踏みながら現われた。うしろの小さな緑色の馬車には、暖かく着こんだ男のひとと子どもがのっていた。
男のひとはツィマーマン夫人とローズ・リタをしげしげと眺めた。荷馬車が近づくと、男のひとは手綱をひいた。「どうどう、二クラス」男のひとは太い声で言った。「なにかお困りかね?」ニュー・ゼベダイのグレース・ルター派教会のブンゼン牧師に似た、陽気なドイツなまりだった。かぶっていたつばの広い黒帽子を持ち上げると、大きな赤い顔と、明るい青の瞳、そして白髪がわずかに混じったふさふさの金色の縮れ毛が表れた。親切で気さくな人らしかった。
「そのようなんです」ツィマーマン夫人は言った。「すみませんが、これはストーンブリッジへいく道でしょうか?」
男のひとは声を出さずに口のなかで言葉を繰りかえした。それからこう言った。「ストーンブリッジ。ストーンブリッジ。言ってなさるのがシュタインブリュッケのことなら、そう、村は三マイルほど先だ。でも、ストーンブリッジと呼んどるひとはいないがね」男のひとは帽子を頭に戻した。
そのあいだ、子どものほうは男のひとの横に体を丸めて座っていた。ボンネットと肩に巻いた厚ぼったい毛布で、顔は見えなかったけれど、やっと顔をあげた。ローズ・リタより一歳か二歳年下の金髪の女の子だった。ぽっちゃりした丸顔に、まん丸の目、瞳は限りなく黒に近い濃い青だ。ローズ・リタの横で、ツィマーマン夫人がはっと身を固くした。「なんてこと!」ツィマーマン夫人は小声で叫んだ。それから今度は大きな声で、かすかに震えながらもう一度男のひとに言った。「困ったことになってしまったんです。くる……馬車をなくして、迷ってしまったんです。ご迷惑でなければ、助けていただけませんか?」
「もちろん、いいとも。迷惑なんてことないさ。できることがあれば喜んでお助けしよう。だが、ここからだと、シュタインブリュッケよりうちの農場のほうが近いし、この寒さだ。馬車にのってくれ。うちへお連れしよう。今夜はうちで暖かいものでも食べて、泊まっていけばいい。朝になったら、なにかできることがあるか考えよう」
「ごめんどうをかけてすみません」と言いながら、ツィマーマン夫人はさっそく馬車に乗りこんだ。
「いやいや、めんどうなんかじゃないよ。ほら、手をお貸し、お若いの」男のひとはローズ・リタに向かって言った。ローズ・リタは男の子だと思われていることに気づいて、きまり悪く感じた。ジーンズをはいているのと着ぶくれしているせいだろう。ローズ・リタは男のひとの手袋をはめた手をつかんで小さな金属の段に足をかけると、馬車によじのぼり、女の子のうしろに座った。女の子はふりむいて、恥ずかしそうににっこりした。ツィマーマン夫人はローズ・リタと並んで硬いベンチに座り、食い入るように子どもを見つめた。二人の命の恩人は手綱を握って舌を鳴らし、馬の二クラスが凍った道路をカチカチと打ち鳴らしながら、またゆっくりと歩きはじめた。
ようやくツィマーマン夫人は我にかえった。「まだ自己紹介もしておりませんでしたわ。わたしはフローレンス・ツィマーマン夫人、こちらのお若いの≠ヘローズ・リタ・ポッティンガーです。わたしの、ええと姪の娘ですの」
男のひとはふりむいて、ローズ・リタをまじまじと見つめた。「え、なに、では女の子ってことか。そりゃすまなかったね、ローズ・リタ。わたしはヘルマン・ヴァイス、横に座っとるのが娘のヒルダだ。いすの下に予備の毛布がたたんでおいてあるから、寒かったら使ってくれ」
ローズ・リタはまたツィマーマン夫人がびくっとしたのを感じた。これで二回目だ。ローズ・リタは凍えそうに寒かったから、毛布を引っぱりだして、半分をツィマーマン夫人に渡した。ツィマーマン夫人はまるで催眠術にかかったようにうわのそらで毛布を受けとって、体に巻いた。ローズ・リタはもう半分を肩にかけて、しっかりとくるまった。かじかんだ指に毛布の暖かさがありがたかった。いったいツィマーマン夫人はどうしちゃったんだろう? ローズ・リタはふしぎに思った。なぜ前に座っている女の子をじっと見つめているんだろう? 本当のことを言って、ローズ・リタは質問したくてたまらなかったけれど、ヴァイスさんたちがいる前でたずねるのは得策ではなさそうだった。ローズ・リタはふうっとため息をついたる蒸気が一筋たちのぼった。待つしかないのだ。
実はツィマーマン夫人は、ふたつの強い衝撃を受けていた。一度目は、ヒルダ・ヴァイスを見たときだった。すぐにツィマーマン夫人は、この小さな女の子のカを知っていることに気づいた。前に見たのは、食糧品室へいく廊下の壁でちらちらと踊る不思議な幻影を見たときだった。悲しそうな顔をして手招きをしていた、あの女の子だったのだ。それに、確信はできなかったけれど、ヴァイスさんも、同じところで別のときに見た笑っている人たちのなかにいたように思えた。まだ夜中の人気のない墓地の光景が残っていたけれど、ツィマーマン夫人はいますぐ見たいとはちっとも思わなかった。
二度目の衝撃は、女の子の名前を聞いたときだった。ウェザビーばあさまの本当の名前は、ヒルダ・ヴァイス・ウェザビーだった。ツィマーマン夫人が知っているばあさまは八十二の老女だったけれど、目の前にいる十二歳の少女も、まちがいなくばあさまだった。だからフラーズ・ヒルのふもとに雑貨屋がなかったのだ。ツィマーマン夫人とローズ・リタがいるのは、一八九八年ではない。もっとずっとむかしなのだ。そしてそこから、二人は出られなくなっていた。
走りだして間もないときだった。ヘルマン・ヴァイスがぶつぶつとつぶやくように言った。「めんどうなこった。アドルフス・ストルツフスのやつがきた」ヴァイスさんの声には困ったような、うんざりしたような調子があった。そして、黒い手袋をした手でぎゅっと手綱をにぎりなおした。
馬にひかれた車がもう一台やってきた。あざやかな明るい黄色に塗られた荷馬車だ。荷台には、茶色い枕みたいにぱんぱんにふくらんだ大きな麻袋が、うずたかく積みあげられている。御している男は七十くらいで、背が高くやせていて、馬は胸の厚い白い雄馬で、あばら骨がすけて見える。ヴァイスさんは馬車をぎりぎりまで右に寄せた。相手の荷馬車は大きくゆれて横をすりぬけた。しかめつらの男はこちらをにらみつけると、長く骨ばったあごをさっと振った。そしてすれちがいざまにこぶしを振りあげてどなった。「さっさと魔法使いを追い出せ!」それからなにか「ドゥ・フェルダムト・ヘス!」というような言葉を叫んだ。
ヴァイスさんはまっすぐ前を見て答えなかったけれど、歯を食いしばり、手綱をにぎっている手は小刻みに震えていた。やがて馬車がぶじすれちがうと、さっと手綱をふって舌を鳴らした。
「さあ、ニクラス、夕飯に遅れちまうぞ」栗毛の馬は足を速め、馬車はがたがたと軽快に走りだした。
このやりとりを聞いていたローズ・リタは、ひどくびっくりした。いったいぜんたいどうしてあのやせた男はツィマーマン夫人が魔女だとわかったのだろう? 見ただけでわかるはずがない。ツィマーマン夫人は物語に出てくる魔女とはまるでちがう。黒いとんがった帽子もかぶらないし、黒いぼろぼろの杖も、ぼさぼさのほうきも持っていない。茶色い毛皮の下で縮こまっている姿は、だれともなにともつかないはずだ。なのにあの男はヴァイスさんに、魔法使いを追い出せと言った。ローズ・リタにしてみれば、魔法使いというのは友人以外ありえなかった。
まもなくヴァイスさんは、道の左手に見える巨大な岩のほうへ向きを変えた。小さな家くらいある大きな花崗岩で、雪が筋になって残っている。「あれはコテージ・ロックというんだ」ヴァイスさんは言った。「うちの土地にある。ここを曲がると家だ」岩を通りすぎると馬車は大きく左へそれ、カチカチに凍った数本のわだちしかついていない。あまり使われていない道に入った。
「もうすぐだ」ヴァイスさんは肩越しに言った。ローズ・リタは、ヴァイスさんの声がさっきのように陽気で楽しげでなく、暗く沈んでいることに気づいた。さっきの男がツィマーマン夫人のことをあんなふうに言ったから、動転しているのかもしれない。ローズ・リタは、魔法を友人の生き方の一部として受け入れていたけれど、どんな魔女だろうと、魔女というものに偏見を持っている人がたくさんいることを知っていた。ヴァイスさんの家族の気が変わって、食事をもらえなかったらどうしよう。これ以上この雪のなかを歩くなんて、考えるだけでぞっとした。
やがて前方に広がる雪でおおわれたし場符と、そこかしこにほえた葉を落とした栗の木のむこうに、農場の建物が見えはじめた。白いしっくい塗りの家は二階建てで、左右に張り出した翼がついている。そのうしろの納屋は、一階が右、二階は赤いペンキを塗った木で、このあたりの納屋とちがってヘックスサインはなかった。納屋の右手にも、いくつか離れ家や小屋が見える。馬車はそのひとつに向かった。ヴァイスさんは二クラスを馬屋の大きな扉の前でとめると、娘のほうを向いた。「ヒルダ、わたしが馬を戻してえさをやるから、おまえはお客さんをおかあさんのところへ案内して、今夜お泊めすると伝えてくれ」
はじめてヒルダが口を開いた。「わかったわ、おとうさん」はっきりしたきれいな声で、父親とはまたちがうドイツふうのなまりがあった。ヒルダは馬車からおりると、ローズ・リタとツィマーマン夫人がおりるのを待った。「こっちよ」ヒルダは恥ずかしそうにちらちらとローズ・リタを見ていた。「イギリス人なの?」ほとんどささやくような声で、ヒルダはきいた。
「え?」ローズ・リタはびっくりして聞きかえした。「イギリス人みたいなしゃべりかたをしてる?」
ツィマーマン夫人が笑った。「ヒルダは、あなたが自分たちの仲間かどうか知りたいのよ。ペンシルヴァニアダッチの人たちは、自分たち以外の人をみんなイギリス人≠ニ呼んでいるの。その意味で言えば、わたしたちは二人ともイギリス人ってことになるわ。ヒルダ、わたしたちはニュー・ゼベダイっていう、ここから遠く離れた小さな町からきたのよ」
「そこでは女の子もズボンをはくの?」ヒルダはまたちらっとローズ・リタの服に目を走らせた。
ローズ・リタは赤くなった。「はきたい人はね。どっちにしろ、寒いときはジーンズをはいていたほうがずっと楽だし」
家の裏口につくと、ヒルダは靴の底をこすって雪を落としてから、ローズ・リタたちを中へ案内した。最初、ローズ・リタはほとんどなにも見えなかった。外の弱い日差しも雪に反射するとまぶしくて、それに較べるとなかのものはすべて暗く感じた。おまけにメガネが曇ったものだから、ますますややっこしいことになった。薄暗いなかから、暖かい感じとざわめきが押し寄せた。話し超えから、いま、入ったのはたくさんの人がいる家だということがわかった。一瞬、間があいて、子どもの叫び声がした。「おかあさん! ヒルダが知らない人を連れてきた!」
ローズ・リタはメガネをはずして、トレーナーのはしで曇りをぬぐった。それからもう一度かけて、目をぱちぱちさせた。恰幅のいい女の人が、タオルで手をふきながらせかせかと部屋に入ってきた。「ヒルダ! いまにも凍えそうじゃない! お連れしたのはどたな? おとうさんはどうしたの? 弁護士のナッテンハウス先生のところはどうだった? ドレクセルじいさまのことはなんて言ってたかい? また雪はふりそう?」
ヒルダはそのなかからひとつだけ選んで答えた。「おかあさん、こちらはフローレンス・ツィマーマン夫人とローズ・リタ・ポッティンガーよ。道を歩いているところをおとうさんとわたしが見つけたの。道に迷ったんですって。おとうさんが、今夜は二人とも食事をして泊まっていくって」
ヴァイス夫人は両手で頭を抱えた。「ぺちゃくちゃぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。アハ、あんたたちのおしゃべりで頭が割れてしまいそうよ。お客さんとなれば、用意しなくちゃ。ヒルダ、シチューを見ておいで。それからサラに、もう二枚よけいにお皿を用意するよう言って。さあ、早く!」
ヒルダはツィマーマン夫人とローズ・リタに向かってにっこり笑うと、さっきヴァイス夫人が現われたドアの向こうに消えた。ヴァイス夫人はほつれた白髪交じりの金髪をもとのところに押しこむと、ほほえんだ。「いらっしゃい、ツィマーマン夫人。スザンナ・ヴァイスよ。ハノーヴァー・ツィマーマンの親戚かしら? いいえ、まさかね。あのひとたちはアーミッシュだもの。ねえ? 迷ったんだって? なんておそろしい! しかもこんな寒さで! 二月の遅い時機にこんな不安げな天気。いままであったかしらねえ? アハ! 今年はいやなことがたくさんある! ああ、気にしないでちょうだい。ようこそ! でも、こちらがお孫さんのローズ・リタね。うちにも同じくらいか、ちょっと大きい娘がいるんですよ。双子でね、レベッカとサラって言うんです」
「ローズ・リタはわたしの姪の娘ですの」ツィマーマン夫人は、ヒルダのやり方をまねて、ヴァイス夫人の質問にはひとつだけ選んで答えるのがいちばんよさそうだと判断した。「実のところ、義理の孫みたいなものなんです」
「すばらしいわ」ヴァイス夫人は言った。「ええ、わたしも義理の父親のドレクセルじいさまといっしょに暮らしてるんですよ。アハ、かわいそうなじいさま。この冬はずっと具合が悪くて。わたしの母の二番目の夫でね。でも、わたしにとっては、すばらしい父親なんですよ。ほんとうの父親はわたしがたった二歳のときに亡くなって、だから顔も覚えてなくて。ありがたいことに、ドレクセルじいさまはずっとわたしのパパでいてくれたんです。かわいそうに、こんなひどい目にあうようなひとじゃないのに。二人ともムミクスは好きかしら? 単純な料理だけど、それならたっぷりあるし、こんな寒い日には体を温めてくれますからね。あらおとうさん、お帰りなさい!」
ヴァイスさんが帰ってきて、ツィマーマン夫人とローズ・リタのうしろに立っていた。ヴァイスさんはつば広の帽子を縫いで壁にかけ、ヴァイス夫人を抱きしめて頬に軽くキスをした。「夕飯の用意はできているかね? ナッテンハウス先生のうちからここまで、ひどい寒さだったんでな」
「おとうさん?」ヴァイス夫人はたずねるように言った。
ヴァイスさんは悲しそうな顔をして、首をふった。ヴァイス夫人はため息をついた。ローズ・リタは意外に思った。ヴァイス夫人はあんなにおしゃべりだけれど、ヴァイスさんがたった一回首をふっただけで意味を察したふうだったからだ。
もう一度ため息をつくと、ヴァイス夫人は二人のお客のほうを向いて沈んだ声で言った。「ツィマーマン夫人、台所の横の洗面所でお湯がつかえますから。姪御さんと手と顔を洗ってちょうだい。案内しますね」
三人は台所を通り抜けたが、どこもかしこもまるで子どもが一ダースいるみたいに混みあっていた。蹄鉄のストーヴに薪をくべている子、おなべをかきまわしている子、両手にいっぱいお皿や食器を持っていったりきたりしている子もいる。ひとりの男の子が立ちどまって、ローズ・リタをじっと見つめた。「アハ!」男の子はおどおどしたようすで言った。「かっこいい帽子だな!」
ローズ・リタはベレー帽をかぶっていることを忘れていた。ローズ・リタはさっと帽子をとって、いちばん上のトレーナーの下に押しこんだ。それからツィマーマン夫人を追いかけて洗面所へいった。騒がしい台所と較べると、ストーヴのうしろの暗い小部屋はとても静かだった。ヴァイス夫人は洗面器にお湯を注いでね対に無地のタオルを渡すと、急いで台所へ戻っていった。ヴァイス夫人が声の届かないところまでいってしまうと、ローズ・リタはすぐさま聞いた。「ツィマーマン夫人、どうしてあのアドルフスなんとかって男のひとはツィマーマン夫人が魔女だってわかったんだろう?」
ツィマーマン夫人はまにあわせのスカーフをとった。「わたしのことを言ったんじゃないと思いますよ。ヴァイス一家は、魔法使いのことでもっと別の問題を抱えてるんじゃないかしら。さあ、トリードのタオルで手をおふきなさい。わたしはリネンのほうを使うから」
ローズ・リタはタオルを受けとって手をふいた。「どんな問題?」
「あとで話すわ」ツィマーマン夫人は答えた。「まず食事にいきましょう。おなかがすいて死にそうよ」
ローズ・リタはちっともおなかがすいていなかった。今日一日あれだけいろいろなことがあったあとで、すくわけがない。それに、ムミクスなんて聞きなれないエジプト料理みたいな食べ物には、まったく食欲がわかなかった。でもほかにどうしていいのかもわからないので、ローズ・リタは食卓の長い木のベンチのひとつに腰をおろした。食卓は食べ物でいっぱいだ。ヴァイス家の子どもたちはすでにここか、向こう側に置いてあるもうひとつのベンチに座っていた。
子どもたちの名前を覚えるのはたいへんだった。ローズ・リタはレベッカとヒルダのあいだに座っていた。レベッカは十六歳で、そのとなりにレベッカにそっくりの双子のサラがいた。正面に座っているのはハインリッヒ。青白くてガリガリにやせた十歳の男の子だけど、不安げな表情はまるまる太ったルイスとどこかにていた。ハインリッヒはさっき、ローズ・リタのベレー帽にすっかり感心していた子だった。ハインリッヒの横には、年上の男の子が二人座っている。名前はハンスとジャコブだったけれど、ローズ・リタはどっちがどっちだか覚えられなかった。ツィマーマン夫人はヒルダの反対どなりに座り、さらにそのとなりにヴァイス夫人が座った。ヴァイスさんは姿を消したが、しばらくするとかなり年配のおじいさんに腕を貸して戻ってきた。
おじいさんはずいぶん年をとっていたけれど、青い眼はきらきら光っていた。やせて、足もとはぐらぐらしていた。おじいさんがテーブルのはしに座ったのを確かめて、ヴァイスさんは言った。「ドレクセルじいさまだ。女房の義理の父親でね。ドレクセルじいさま、お客さんのツィマーマン夫人と姪の娘にあたるローズ・リタだ」ドレクセルじいさまは二人のほうを向いてほほえみ、丁重にうなずいた。が、もう一度ツィマーマン夫人を見て、ひどくおどろいた顔をした。そのあとも、ちらちらと疑わしそうな目でツィマーマン夫人を見ているのに、ローズ・リタは気づいた。
ヴァイスさんは主人席に戻ると、長い祈りを唱えた。お祈りが終わったころには、ローズ・リタはおなかがすいていないという考えを改めていた。ムミクスの正体は、あつあつで食欲をそそる香りのするビーフシチューに似たものに、ジャガイモを添えたものだった。ほかにも温かいキャベツのサラダと、バターでいためた豆、それから新鮮なクリームバターをつけた焼きたての黒パンに、りんごを入れてこんがりと焼いたりんごもある。ローズ・リタは、両脇に座っている女の子たちに負けず劣らずおなかいっぱい食べた。
食事のおわり近く似、年上の男の子の一人が言った。「とうさん、弁護士はどうだったの?」
ヴァイスさんは首を横に振った。「その話はあとだ、ハンス。お客さんの前で、うちの問題のことをあれこれ話したくない。さてツィマーマン夫人、喜んでお助けするが、いったいどうしてこんなことになっちまったのかね? 冬にマウント・キデロン街を使う者はそうはおらん」
ツィマーマン夫人はナプキンを口にあてて咳をした。「たしかにそうでしょうね。わたしたちはこのあたりは不慣れで、知らなかったんです。ここからかなり西へいったところからきたもので。ローズ・リタとわたしは、そのカンバーランド・バレーの親戚を探しにきたんですけど、ちょっとした事故にあってしまって」
「無理ないわ」ヴァイス夫人は言った。「アハ、あの道は凍るとあてにならないからね。むかしヘルムホルツ牧師が――ほら、ジョセフ・ヘルムホルツを覚えているでしょう、ヘルマン。あの冬、ブランニング牧師の代わりにきた人よ。ともかく、馬が足をすべらせて、落馬して足を折ったのよ。助けてくれる人を見つけるのに、二マイルもはって歩いたって言うんですから」
はじめてドレクセルじいさまが口を開いた。優しいけれど弱々しい声だった。「スザンナ、お客さんの話を最後まで聞こうじゃないか」
ヴァイス夫人のもともとピンク色の顔がますます赤くなった。「ごめんなさい、ドレクセルパパ。自分がおしゃべりだってことはわかっているんだけど」
「いいえ、とんでもない」ツィマーマン夫人は、話が横道にそれてほっとしていた。ガソリンで動くエンジンも見たことがない人たちに、どうやって自動車事故のことを説明すればいいのか、わからなかったのだ。
「ひどい事故だったの?」ハインリッヒがローズ・リタに聞いた。
「ええ、あの、馬車が道を外れちゃったの」ローズ・リタは言った。「坂道を下ってたとき、曲がり道が凍っていて、なんていうかすべっちゃったのよ」
レベッカが目をまるくしてローズ・リタを見た。「馬はどうしたの?」
ローズ・リタは突如として自分がみんなの注目を集めていることに気づいた。ローズ・リタはふだんから自分の想像力!自慢に思っていた。もはやそれを妨げるものはなかった。「そうなの、その馬にはおかしなところがあってね」ローズ・リタは話しはじめた。「前にも一度ひどい事故にあったことがあるの。それで何カ月も馬屋から出られなかった。だからほんの小さな事故でも、けがをしたと思いこんで、隠れて出てこないのよ」
「この雪のなかに馬を置いてきたってこと?」ヒルダがショックを受けたように言った。
「う、ううん」ローズ・リタは言った。「えっと、いつもうちの馬屋に戻って、そこに隠れるから。そうなると、毎朝おぼんにムギをのせてもってってやらなきゃならないのよ。また外に出ようって気になるまでね。あの馬ときたら……」
ローズ・リタは口をつぐんだ。みんながじっとこちらを見つめている。ツィマーマン夫人は、小さく首をふって「だめだめ」と合図を送っていた。ドレクセルじいさまだけがテーブルのはしで、なにもかもわかっているというようにこにこ笑っていた。じいさまがコホンと咳をすると、みんながそちらを向いた。「わしにはこのお嬢さんが言いたいことがわかる」じいさまはそう言って、骨ばった指を額にあてた。
ローズ・リタは下を向いた。顔がかあっとほてったのがわかった。ドレクセルじいさまはみんなに、ローズ・リタはちょっとばかしおかしいと言っているのだ! ありがたいことにヴァイス夫人がわって入って、今年の冬はいままでにない厳しさだということを長々としゃべりはじめたので、やがて会話はべつの話題へ移った。
食事がすむと、ローズ・リタとツィマーマン夫人はどうしても片付けを手伝うと言い張った。するとお返しに、ヴァイスさんとヴァイス夫人は、二人ともぜひ必要なだけ泊まっていってくれと申し出た。「ローズ・リタはヒルダの部屋をいっしょに使えばいいわ。増築するまえに双子たちが使っていた部屋だから、ベッドがよぶんにあるのよ」ヴァイス夫人は言った。「それでツィマーマン夫人は、トリンカが使っていた部屋を使えばいいわね。トリンカはいちばん上の娘で、結婚して越していったんですよ。ああ、そのだんなさんっていうのが本当にいい若者でね……」
ローズ・リタがお皿をふいているとき、信じられないことがあった。手動のポンプのついた君酔うな形の古い流しのうしろの壁に、カレンダーがかかっていた。そのカレンダーの年がなんと、一八二八年になっていたのだ! ローズ・リタは身を乗りだして、もう一度よく見た。二月二十三日までぜんぶ日付に×印がつけてあった。「これってあってる?」ローズ・リタはヒルダに聞いた。
「うん、二十三日よ」サラが長しにお湯を足しながら言った。
それからまもなく、みんな寝にいった。小さな暖炉に小さな火が楽しげに燃えている。部屋にはオークと絵とペパーミントの香りが漂い、ほかほかとして心地よかった。ヒルダは、けばのたったフランネルの寝間着を貸してくれた。寒い夜をぬくぬくと心地良くすごせるように、ヴァイス夫人が色あざやかなキルトを一山持ってきてくれた。
ヒルダがろうそくの火を吹き消すと、部屋のなかの明かりはちらちらと燃える赤い火だけになった。それもやがて燃えつき、残り火の赤い輝きだけが残った。暗いなかで、女の子たちはおしゃべりをしていた。ついにローズ・リタは勇気を出してたずねた。「どうしておとうさんは弁護士に会いにいったの?」
ヒルダは答えた。「みんなが取れのことをヘクサーだってうわさしているの」
「え、なに?」ローズ・リタは聞き返した。言葉の意味は知っていたけれど、もっとペンシルヴァニアダッチの魔法について知りたかったのだ。
ヒルダは眠そうな声で言った。「つまり悪い魔法つかいのことよ。この冬、あらゆる悪いことが起こったの。たくさんの牛や鶏が理由もなくどんどん病気になって死んだ。病気になった人まで出た。それから納屋や家で不審な火事が山ほどあって、おまけに学校も焼けたの。すっかり燃えちゃったわ、二週間前よ」
「ときどき学校が火事になっちゃえばいいと思うこともあるわ」ローズ・リタは白状した。
「まあね」ヒルダも認めた。「わたしもたいして気にしてないわ。でもみんな、この天気も魔法のせいだって言ってるの。春みたいに暖かいかと思えば、ものすごい吹雪になるのよ」
「よくわからないんだけど、どうしてそういう悪い出来事と弁護士が関係あるの?」
長いあいだ、ヒルダは答えなかった。それから涙声で言った。「言ったでしょう。みんな、じいさまがヘックスの魔術師だって言ってるの。じいさまが黒魔術を使って、おそろしい出来事を起こしてるんだって。わたしたちにここを出ていってほしがってるのよ」
ヒルダはしゃくりあげた。ローズ・リタはひどく後悔した。ヒルダを傷つける気はなかったのに。「ごめんなさい」ローズ・リタは言った。
ヒルダは鼻をすすった。「おとうさんは、弁護士のナッテンハウスさんにみんながじいさまのことを話すのをやめるよう訴えることはできないか聞きにいったの。でもナッテンハウスさんはうわさを禁じる法律はないって。ひとのうわさなんて無視すればいいって言ったの」
「そりゃそうよ。だって、ドレクセルじいさまは本当に魔法使いなわけじゃないんでしょ?」ローズ・リタは言った。
「もちろん、ヘクサーじゃないわ。それでも、こわいの。もしうちから追い出されたら? わたしたちはどうなるの?」
ローズ・リタはくちびるをかんだ。自分も同じだった。ローズ・リタとツィマーマン夫人はこの見知らぬ世界に迷いこんで、帰ることができないのだ。「だいじょうぶよ」ローズ・リタは勇敢そうに聞こえるように言った。「なんとか解決する方法が見つかるわよ」
「ありがとう」ヒルダはささやいた。
ローズ・リタは暗闇のなかで目をしばたたいた。さっきは自分に言い聞かせるように話していたけれど、いまなぜか、ヒルダが言ったとおりなのだと感じていた。ローズ・リタが自分の問題を解決するには、昼だの問題を解決するのを手伝わなければならない。ローズ・リタは暗闇のなかに横たわったまま、どうすればいいか考えようとした。長い時間がすぎ、ぬくぬくと暖かいキルトの下で、ローズ・リタはうとうとしはじめた。まだ問題を解決する糸口さえ見つかっていなかった。
次の朝、ヒルダはそっとローズ・リタをゆすり起こした。「起きる時間よ」ヒルダは言った。
ローズ・リタはあくびをして起きあがった。火は消え、部屋は凍るように寒かった。ろうそくの火がぼんやりと黄色く光っている。窓を見ても、黒々とした四角が見えるだけだった。「うそ!」ローズ・リタはぶつぶつと言った。「いったいいま何時?」
「もう五時になるわ」ヒルダは言った。「朝ごはんに遅れちゃう」
ローズ・リタは起きて着替えたけれど、まだふらふらして、不機嫌だった。こんな時間に起きたこともない。ローズ・リタに言わせれば、午前五時はまだ真夜中だった。でもこの家の人たちはすでに起きていて、ぱたぱたと動き回っていた。ツィマーマン夫人も起きていた。「今朝ヴァイスさんたちは教会に行くんですって」ツィマーマン夫人は言った。「いつもだったら、ドレクセルじいさまのために、一人が家に残るの。最近じいさまの具合が思わしくないから。だけど、今日は全員で出かけるように言ったわ。わたしたちが残ればいいからね」
ローズ・リタにもそちらのほうが都合がよかった。二人はまた、ヴァイス家のたっぷりとした食事をとった。ヴァイス夫人はドレクセルじいさまに食事を運び、女の子たちが協力して朝ごはんの片付けをした。そのあいだ、男の子たちは外に出て、ほかの曜日と同じように日曜日にもしなければならないエサやりや乳しぼりなどの雑用をすませた。ようやく太陽が顔を出し、冷たい青空にさんさんと輝きはじめた。ヴァイス家の人たちは何枚も服を着こみ、次々と大きな荷馬車に乗りこんだ。ヴァイス夫人はなかなか乗ろうとせずに、最後の最後まであれこれせわしなく説明しつづけていた。゜ドレクセルパパはだいじょうぶ。きっと今日は一日寝ていると思うわ。ときどきようすを見にいってあげてちょうだいな」それからどこに食べ物があるとか、いつじいさまのようすを見ればいいかなど細々としたことを百もあげたけれど、どうとうヴァイスさんが呼びにきて、あわてて出ていった。
「さてと」馬車ががたがたと去っていくと、ツィマーマン夫人が言った。「映画ふうに言えば、ようやく二人きりになれたわ、ってところね。さて、かなり困った状況よ、ローズ・リタ!」
二人はテーブルに座って、コーヒーを入れた。「どうやったら家に帰れるの?」ローズ・リタは聞いた。
「わたしが教えてほしいわ。でも、どうしてここにきたのかは、わかっていると思う。つまりね、どうすれば家に戻る可能性がひらけるかはわかっているの」
「なに?」
ツィマーマン夫人はため息をついた。「最初に、ちょっと言っておきたいとがあるの。魔法を教えてくれたウェザビーばあさまのことは、話したわよね? そう、若いころ、ウェザビーばあさまはヒルダ・ヴァイスといったの。つまり昨日の夜あなたが同じ部屋で寝た女の子のことよ」
ローズ・リタは首を振った。「うそ。信じられない」
「わたしだってすべてわかっているわけじゃないの」ツィマーマン夫人は言った。「だけどこれはわかってる。わたしたちはたまたまヴァイス家の危機の時にやってきた。このあたりの人はみんな、ヴァイス一家を憎んでる」
「知ってるわ」ローズ・リタは言った。「ヒルダが話してくれたの。みんなドレクセルじいさまのことを悪い魔法使いだと思っているって」
ツィマーマン夫人はうなずいてコーヒーをすすった。「そう。わたしもウェザビーばあさまが話していたのを思い出したわ。いまから思えば、そのせいでばあさまはあんなに気難しくなったんでしょうね。いまは一八二八年。四月一日にこの一家はここから追い出されてしまう。そしてそのすぐあとに、ドレクセルじいさまは旅の疲れで亡くなってしまうの」
ローズ・リタはごくんとつばを飲み込んだ。だれかが死ぬとわかっているだけでもなんとなく気味が悪いのに、あのドレクセルじいさまが死んでしまうと思うと、胸がちくちくと痛むのを感じた。もちろんまだそんなにじいさまのことは知らなかったけれど、食事のとき見たじいさまは優しいおじいさんのように見えたし、ヒルダがじいさまのことをとても慕っているのも感じていた。「ひどいわ!」ローズ・リタは思わず声を張りあげた。
「本当に」ツィマーマン夫人はうなずいた。「ほら、なにしろペンシルヴァニアダッチには奇妙な迷信がたくさんあるでしょ? そのひとつが四月一日のことなんですよ。あの人たちは四月一日を一年でいちばん縁起の悪い日だと思ってる。ハロウィーンとヴァルプルギスの夜祭と十三日の金曜日がいっぺんにやってくるようなものだってね。その日は邪悪な魔女や魔術師たちが悪行の限りをつくす日だから、村の人たちはドレクセルじいさまがその日におそろしい魔法をかけるまえに一家を追い出そうとしているんですよ。不幸なことにその日は時期はずれのひどい雪あらしになってね、ドレクセルじいさまは肺炎をおこして亡くなってしまったの」
「わたしたちになにかできないの?」ローズ・リタはたずねた。
「わたしもそう思いますよ。わたしたちがここにきたのにはり優雅あるはずなんです。少なくともわたしはそう思ってる。ウェザビーばあさまは一八九八年に大いなる不正≠ェあったとは言っていなかった――でもこれはまちがいなく不正なことよ。きっとわたしたちは一八二八年の時点で一家を助けることができるはずなのよ。もしどうにかしてドレクセルじいさまをおそろしい運命から救い出すことができれば、ウェザビーばあさまの幽霊は魔力を取り戻させてくれるはずだわ」
ローズ・リタはよく考えてみた。「わたしたちなにかできるのかな? だって、わたしたちにとってそれはもう過去の出来事なわけでしょ。もうすでに起こってしまったことだもの」
「わかってるわ」ツィマーマン夫人はがっかりしたように言った。「わたしもいったい自分たちがどんな状況にあるのかよくわからないんですよ。本当に過去にきていて、ドレクセルじいさまに別の運命を与えるのかもしれない。でももしかたらぜんぶウェザビーばあさまの魔法の一部で、壮大な幻覚なのかもしれない。もしなにかがちがっていたら、どうなっていたか、ばあさまの幽霊がただ確かめているだけということもある。でも、ひとつはっきりしていることがあるわ。ベッシィのところに戻って、鏡をとってこないと」
ローズ・リタは目をぱちくりさせた。「じゃあ、あの謎の鼓は――鏡だったのね!」
「それはどんな鏡なんだね?」強い外国なまりのおだやかな声が言った。ローズ・リタはびっくりして飛びあがった。ドアのところにドレクセルじいさまが立っていた。シャツとズボンとスリッパをはいて、毛布をショールのように肩からはおっている。「すまんな」じいさまは言った。「立ち聞きするつもりはなかったんじゃが。話を少し聴かせてもらったよ」ツィマーマン夫人のほうに向けられたじいさまの明るい青い目がきらりと光った。「やっぱり昨晩、わしはまちがっていなかったようだな。ご婦人、あんたは見たままのお人じゃないようだ。どうかな? 話しておったのはどんな鏡かね? もしかしてエルドシュピーゲル≠ニか?」
ツィマーマン夫人はローズ・リタに向かって、あきらめたようにほほえんだ。「万事休すってことね。ドレクセルじいさま、手をお貸ししますわ」ツィマーマン夫人は立ちあがってじいさまの手をとると、暖炉の前のいすまでひいていった。「さて、ご質問にお答えしますね。最初の質問の答えは、ええ、わたしはちょっとばかし魔法の心得があります。次の質問ですけど、たしかに鏡には魔法がかかっています。でもわたしの魔法ではないんです。本当のことを言って、わたしにもはっきりわかっていないんです。さっき鏡のことをなんておっしゃいました?」
「エルドシュピーゲル<hレクセルじいさまは答えた。「英語だとアース・ミラー、すなわち大地の鏡≠カゃ。宝や隠されたものを探すのに使う」
「宝のことはわかりませんが、たしかに隠されたものを見せてくれることがあります」ツィマーマン夫人は言った。「わたしとローズ・リタがもときたところへ帰る方法を、鏡が教えてくれることを期待しているんです。おわかりでしょうけど、わたしたちは一種の魔法でここにきたんです。残念なが、わたしの手におえるような魔法じゃなくて」
ドレクセルじいさまはうなずいた。「ああ、あんたになにか不思議なものが備わっとるのは感じていた。ツィマーマン夫人、あんたの魔法は大地の魔法じゃな。そうじゃなきゃわしの目は節穴だ。善き魔法、癒しの魔法だ。わしらはブラウヒェレイ≠ニ呼んどる。わしのと同じだ」
ローズ・リタはコホンと咳をして聞いた。「あの……どのくらいわたしたちの話をお聞きになったんですか?」
「ほんのちょっとじゃよ、鏡のところだけだ」じいさまは答えた。
ローズ・リタはほっとした顔でツィマーマン夫人のほうをみた。ドレクセルじいさまが肺炎で命を落とすというところを聞かれていたら、ひどいことになるところだった。ツィマーマン夫人はすかさず聞いた。「ドレクセルじいさま、どうしてこのあたりのひとはあなたをおそれているんです?」
じいさまは悲しそうに首を振った。「アハ、どうしてじゃろうな。たしかにわしはずっと人々の病をなおしてきたが、一度たりともだれかに呪いをかけたり、悪い魔法を使ったことはない。なのに、人々はわしがやったというおそろしい魔法のうわさを広めとる。どうやらストルツフス氏がそうしたうわさを広めている一人のようだ。彼はやっかいな男だ。世の中に怒っとる。そしてどうしてかわからんが、その怒りはわしにも向けられているようじゃ」
ローズ・リタは言った。「ツィマーマン夫人、鏡がドレクセルじいさまにも何か答えを出せるかもしれない。かがみよかがみ≠ンたいに」
ツィマーマン夫人は人差し指であごをさすった。「そうね」ツィマーマン夫人はおもむろに言った。「どちらにしろ、ドレクセルじいさまのほうがわたしより鏡の魔法にくわしいと思うわ。わたしは専門外だから」
「エルドシュピーゲル≠とっておいで」ドレクセルじいさまは言った。「わしはひとりでもだいじょうぶ。小さいほうの荷馬車とラバのネビーを使いなさい。そうすればいろいろわかってくるじゃろう」
幸いにもツィマーマン夫人は子どものころ農場ですごした経験があった。それでなんとか小さな緑の荷馬車にネビーをつなぐことができた。ネビーはこげ茶色のラバで、荷馬車をひくのがなによりもうれしいといった表情で見てとれた。ドレクセルじいさまが自分はだいじょうぶだと言い張ったので、ツィマーマン夫人はローズ・リタをいっしょにつれていくことにした。
凛と晴れた日だった。馬車がガタゴトと丘のふもとまでくると、ツィマーマン夫人は手綱をひいてネビーをとめた。「この大時代な乗物で上までいく自信はないわ」ツィマーマン夫人は言った。「ローズ・リタ、今日の足首の具合はどう? 丘をのぼって鏡をとってこられそうかしら? 本当だったらわたしがいくべきなんだけど、ちゃんとわかっている人が手綱を持っていないと、このラバは家へ帰ってしまうと思うの」
「だいじょうぶよ」ローズ・リタは言った。ローズ・リタは車の鍵を受けとると、丘をのぼりはじめた。すぐに息は切れ、凍るような冷気に肺がきりきりと痛んだ。足首も痛んだが、じんじんするというよりは、思うように動かない感じだった。それでもかなりの速さでローズ・リタは丘をのぼり、やぶのなかへもぐりこんでいくと、かわいそうなベッシィが待っていた。車の鍵をあけて、うしろの座席からそっと鏡の包みを取り出すと、今度は落としたり割ったりしないように丘を下る仕事が待っていた。のぼるよりはるかに長く感じられた。
「ヴァイスさんたちが帰ってくるまえに家につくといいけど」ツィマーマン夫人が荷馬車の向きを変えると、ローズ・リタは言った。
「それならだいじょうぶ」ツィマーマン夫人は言った。「一八〇二年ごろ、教会の集会はかなり長いものだったの。まだ何時間もあると思うわ」
ネビーは家に向かっていることに気づくと機嫌がよくなり、パカパカと軽快に進んだ。ギラギラと光る雪で目が痛むので、ローズ・リタは目を細めた。ヴァイスさんの農場につくと、ツィマーマン夫人はネビーを馬車からはずして、世話をしてやり、ごしごしとこすって麦をちょっとおまけでやった。ローズ・リタはそれを見ていた。それから台所へ戻ると、ドレクセルじいさまは、出かけたときと同じゆりいすに座って気持ちよさそうにうとうとしていた。二人が入っていくと、じいさまは目を覚ました。ローズ・リタは暖炉に薪を二、三本たし、しばらくツィマーマン夫人と体を温めた。それからようやくツィマーマン夫人がていねいに鏡の包みを開いた。ドレクセルじいさまは鏡を受けとると、鋭い目で鏡を調べた。「ああ」とうとうじいさまは言った。「まちがいなくこれはエルドシュピーゲル≠カゃ。わくはマホガニーで、銀で裏打ちしてある。ちゃんと持つと、裏の板に書かれている文字が見えるはずだ。どうかな?」
ツィマーマン夫人は身を乗りだして、ドレクセルじいさまが指さしているところをしげしげと眺めた。「本当に? 変だわ。今まで文字が書いてあるなんて気づきもしなかったんです。もちろん、これまで鏡の裏を調べる理由もなかったんですけどね。ああ、たしかに見えますわ。なんて書いてあるのか読めないけれど」
ローズ・リタは興味深げに眺めた。ドレクセルじいさまは鏡の表を下にして傾け、暖炉の明かりをいろいろな角度でとらえようとしていた。ローズ・リタにも、裏にひっかいた跡があるのがかろうじて見えた。円、十字、それから文字らしきいくつかの記号。「簡単には読めないようにしてある。銘について勉強しないとならんな。そうすればどんな種類の呪文かわかるじゃろう」ドレクセルじいさまは言った。「だが、それはまだ先でいい。どうやって使っているのか見せてくれないかね、ツィマーマン夫人」
ツィマーマン夫人は鏡を受けると、テーブルの上に置いて、どっしりとした大きな陶器のつぼにたてかけた。そしてバター皿と砂糖入れではしを押さえて、鏡が前にずれないようにした。それから、ツィマーマン夫人はためらった。そもそも自分で魔法を呼び出したことはない。偶然起こったと言うほうが正しいだろう。なにか発展性のある使い方ができる自信はなかったし、なにが起こるか少々不安でもあった。でも――ツィマーマン夫人は思った。ともかくやってみなければ、なにもわからないのだ。「わかりました」ツィマーマン夫人はとうとう言った。「鏡をのぞきこんで、そこに現われる霊に意識を集中するんです。その霊は……そのウェザビーばあさまという年とった女のひとの霊です。ばあさまが現われて、なにか助言をしてくれるよう、願うんです」
「なるほど」ドレクセルじいさまは言った。「わしとローズ・リタは、静かに見ているとしよう」
ローズ・リタはドレクセルじいさまのほうへいって横に立った。いまこそ本当にこの鏡を使って不思議なことをはじめのだと思うと、少しこわかった。ローズ・リタの立っているところから、ツィマーマン夫人の前にある鏡が見える。こちらからだとツィマーマン夫人の横顔しか見えなかったけれど、鏡には顔が映っていた。しばらくツィマーマン夫人はただそこに座って、じっと鏡をのぞきこんでいた。するとなにかが起こりはじめた。最初、鏡のはしがちらちらと光だした。かすかなばら色の光や、さかんにひらめく冷たい青味をおびた光が見える。光はじょじょに強くなり、最後には鏡の表面全体がさまざまに色を変えながらこうこうと輝きだした。ローズ・リタは首や腕の皮にチリチリと痛みが走るのを感じた。鏡のなかに顔が現われたのだ――ツィマーマン夫人のでない顔が!
ローズ・リタはぶるっと震えた。鏡のなかの顔は、ひどく年をとった女だった。眉間にしわが刻まれ、口は長年の苦しみがへの字に曲がっている。老女の顔は半分透けていた。そのうしろに、ツィマーマン夫人の顔が映っているのがかすかに見える。老女のくちびるが動き、鏡からぞっとするようなささやき声が聞こえた。「聞こえとるよ」
ローズ・リタは、思わずドレクセルじいさまの手を探した。じいさまはローズ・リタの手をつかんで、安心させるようにぎゅっとにぎった。ツィマーマン夫人がしゃべっていた。「どうすればいいか教えてください」
「もうわかっとるだろう」年老いた声はささやいた。「ヴァイス家の者たちを救うんじゃ。そうすれば帰れる。失われた魔力をとりもどせるはずだ。急ぐんだよ! わたしの時間はもうあまりない。ほかの力が鏡をのっとろうとやってきておる」
「でもどうやって?」ツィマーマン夫人は言った。「もっとはっきり――」
鏡のなかの顔はだんだんと薄くなり、一瞬ツィマーマン夫人の顔しか見えなくなった。と、とつぜん、ふたつの冷たい目が鏡いっぱいに映し出された。邪悪な憎しみをたたえた目がぎろりとこちらをにらみ、ローズ・リタは思わず悲鳴をあげた。そのとたん鏡はぴかっと強い光を放ち、ふっと暗くなった。ローズ・リタは、雪のぎらつく戸外からはじめてこの家の暗い部屋に入ったときのことを思いだした。
けれど、鏡の暗闇はそれとはちがった。闇は悪意を発散していた。「見てはいけない!」ドレクセルじいさまが叫んだ。ローズ・リタはさっと顔をそむけた。
ツィマーマン夫人がはっと息をのんだのが聞こえた。それから音の出ない爆発のようなものを感じた。「助けるんだ」ドレクセルじいさまが言った。「もうだいじょうぶだ。早く助けてやりなさい、ローズ・リタ!」
ローズ・リタはテーブルに駆けよった。ツィマーマン夫人は鏡の前の、赤いチェックのテーブルクロスのウェザビーばあさまにうつぶしていた。鏡はもとの、ごくふつうの鏡に戻っていた。それでも鏡をふせると、ローズ・リタは友人の肩をゆさぶった。「ツィマーマン夫人、ツィマーマン夫人、起きて。ああお願い、ツィマーマン夫人、お願いだから目をあけて!」
ドレクセルじいさまはゆっくりと痛みをこらえて立ちあがった。そしてツィマーマン夫人の上にかがみこんで頬にふれた。「息はちゃんとしとる。きっとなおる。最初に鏡に現われたのは善き者だったが、次に邪悪な力が鏡をのっとって、彼女を傷つけようとしたんじゃ」
ツィマーマン夫人の目がぴくぴくしてぱっと開いた。ツィマーマン夫人は起きあがったが、頭がぼんやりとしているようだった。「なんてこと。おどろいたわ!」
ローズ・リタは泣きそうになった。「よかった。だいじょうぶでほんとうによかった」
「さあてと」ツィマーマン夫人はふしぎそうにローズ・リタを見た。「あなたはだれ? わたしの知っているひと?」
ローズ・リタは心臓が口から飛び出そうになった。「わたしよ、ツィマーマン夫人! ローズ・リタよ。思い出せないの?」
「ええ、申し訳ないんだけど……」ツィマーマン夫人は両手をひたいにあてた。「悪いけど思い出せないの。それを言うなら、わたしはだれ? それも思い出せないわ」
ツィマーマン夫人は完全に記憶を失っていた。ローズ・リタのこともドレクセルじいさまのことも思いだせなかったし、自分の名前さえ忘れていた。友人のまごついた不安げな表情を見て、ローズ・リタの心は沈んだ。ドレクセルじいさまはローズ・リタの肩に手を置いて言った。「ベッドへ連れていってやりなさい。わしの薬草を使った治療法を試してみよう。助けてあげられると思う」
ローズ・リタは、ツィマーマン夫人を前の晩に泊まった部屋に連れていった。ツィマーマン夫人は、この見知らぬ少女は自分に親切にしてくれると思ったらしく、素直についてきた。ローズ・リタはツィマーマン夫人の洋服を脱がせ、借り物のガウンを着せてやった。ちょうどツィマーマン夫人が気持ちよくベッドに横たわったとき、取れがそっとドアをノックした。ローズ・リタはドアをあけた。じいさまは小さな黒い木の箱を抱えていた。じいさまは箱をそっと枕もとの小さな机の上に置いた。ツィマーマン夫人は、おびえたような大きな目でじいさまをじろじろ見ていた。じいさまは優しい声で言った。「カーテンをあけておくれ、ローズ・リタ。もう少し光がいるから」
ローズ・リタはカーテンをあけた。明るい朝の光が部屋にあふれた。じいさまはベッドの上にかがんで、ツィマーマン夫人の額にふれ、なにやら奇妙な言葉をつぶやいた。ツィマーマン夫人は目をぱちぱちさせた。しだいに目から不安げな光がひいていった。まぶたがぴくぴくと痙攣し、重たくなった。ドレクセルじいさまはローズ・リタにささやいた。「水をいっぱいお願いできんか? いそいで《ビット》!」
ローズ・リタは急いで台所へいき、コップを探した。そして手押しポンプを動かし、コップをいっぱいにした。部屋に戻ってコップを渡すと、ドレクセルじいさまは重々しくうなずいてつぶやいた。「ありがとう《ダンケ》」それからじいさまは箱から小さな茶色のガラス瓶を取り出して、どろっとした緑色の液体を小さなさじいっぱいほどコップの中に注いだ。ツーンと強いにおいが漂い、ローズ・リタは鼻にしわを寄せた。ペパーミントと消毒用のアルコールを混ぜたようなにおいだった。ドレクセルじいさまは水が薄い緑色になるまでコップをかきまぜ、ツィマーマン夫人の上半身を起こしてやった。最初ひとくちすすると、ツィマーマン夫人は顔をしかめたけれど、ドレクセルじいさまに励まされてぜんぶ飲みほした。「さあ、少しお休み」じいさまは言った。
ローズ・リタは不安な気持ちで、ベッドの足もとに立っていた。記憶喪失のことなら、いくらか知っていた。ローズ・リタのパパは、〈サスペンス〉とか〈ザ・シャドー〉とか〈内に秘めた聖所〉などというラジオ番組をしょっちゅう聴いていた。ここに出てくる人たちは必ず記憶喪失になる。たいてい記憶を失うのは頭を強く打ったせいで、自分がだれだか思い出すためにはもう一度強く頭を打たなければならなかった。そしてほとんどの場合、記憶を取り戻すと、自分が殺人者やスパイだったとわかるか、自分の親友や夫や妻が殺人者かスパイだということを思い出すというわけだった。
ローズ・リタが記憶喪失について知っていることを思い出しているあいだに、ツィマーマン夫人のまぶたは少しずつさがっていった。そしてふうっとため息をつき、やがておだやかな眠りに入っていった。ドレクセルじいさまはツィマーマン夫人の脈を測ってうなずくと、小さな箱に薬を戻した。「よしよし」じいさまはささやいた。「これで眠れるだろう。たぶん起きたときには、よくなっているよ。そうだろう《ニヒト》? ショックはじょじょに消える。もうカーテンを閉めてもいいじゃろう」
ローズ・リタはカーテンを閉めた。そのとき、遠くの雪の上に小さな黒い影が動いているのが見た。馬車だ! ヴァイスさんたちが教会から帰ってきたんだわ! ローズ・リタはドアのところに立っていたドレクセルじいさまにかけよると、みんなが帰ってきたことを告げた。「だから鏡を隠さなきゃ」最後にローズ・リタは言った。
「ああ」ドレクセルじいさまは答えた。「おまえさんの言うとおりだ。おまえさんは、前に双子たちが使っていた部屋にいるんだったな。鏡を部屋に持っていって、ベッドの頭板と壁のあいだに隠しなさい。鏡はもう一度包みなおして、ガラスの面を壁に向けるんだ。そうすれば、安全じゃろう」
ローズ・リタは台所へ走っていった。本当はもう鏡にさわるのもいやだった。さっき鏡からおそろしい悪意が流れだしているのを感じたからだ。けれども、鏡はもとのふつうの鏡に戻っているようだった。ローズ・リタは不器用に鏡を茶色い紙で包みなおすと、寝室へ急いだ。ベッドを壁からはなさなければならなかったが、そうすると、鏡はするりとうまい具合に収まった。これなら気づかれないだろう。
いつ玄関からみんなの足音が聞こえてくるかひやひやしたれど、気づいたとき馬車はまだかなり遠くにいたようだった。ヴァイスさんたちはまだコテージ・ロックを曲がってもいなかったから、ローズ・リタはゆっくりと台所へ戻った。ドレクセルじいさまはゆりいすに座っていた。ローズ・リタが肺っていくと、じいさまはうなずいた。「みんなには、叔母さんはちょっとした発作を起こしたと言っておこう。きっと昨日、長いあいだ寒い外にいたせいだと思うだろう。わしが看病して、なんとか記憶をとりもどさせてあげよう」
「できるんですか?」ローズ・リタはさみしくて、悲しくて、絶望していた。
ドレクセルじいさまは疲れたようにほほえんだ。「もちろん、やってみるしかできん。だが、そう心配しなさんな、ローズ・リタ。何者かが鏡を使って、ツィマーマン夫人に邪悪なことをしようとした。でも、うまくはいかなかったようだ。覚えておきなさい、ローズ・リタ。善は悪より強い。そう、ツィマーマン夫人は必ずよくなる――いずれな」
いずれ……ドレクセルじいさまは知らないけれど、じいさまに残された時間はあとわずかなのだ――ツィマーマン夫が四月一日と言ったのがまちがっていなければ、もしツィマーマン夫人を助けるまえに時間切れになってしまったら? もし一生記憶が戻らなかったら? こんな見知らぬ時代と場所で、事態はどんどん悪くなるとしか思えなかった。
そのとき馬車がガタゴトと音を立てながら入ってくる音がして、ほどなくヴァイス家の人たちが次々と家に入ってきた。ツィマーマン夫人の具合が悪いと聞いて、ヴァイス夫人はひどく心配した。舌打ちしたり、同情して首を振ったりしながら、ドレクセルじいさまの説明を聞いたあと、もちろんお二人とも必要なだけここにいてちょうだい、と言った。うしろから子どもたちも入ってきたが、みんないちようにだまりこくって、みじめなようすだった。ヒルダの目はまるで激しく泣いたあとのように真っ赤になっていた。双子のレベッカとサラも気が動転しているようだったし、上の男の子たちは固く口を結んで、なにもしゃべらなかった。ハインリッヒはふだんから、内気でおびえたような顔をしていたけれど、いつにもましてびくびくしていた。
ローズ・リタはすぐにヒルダのあとをおって、二人の部屋にいった。部屋は冷え切っていた。ヴァイスさんが教会にいくまえにおこした小さな火は、すでに消えかけていた。ローズ・リタが残り火に薪を何本か入れると、まもなく黄色い炎がぱっと燃えあがり、シュウシュウパチパチ陽気な音がしはじめた。ヒルダは晴れ着を脱いで、いつもの服に着替えると、ベッドの上に座ってじっと床を見つめた。
ローズ・リタは自分のベッドに座って、ヒルダに話しかけた。「どうしたの? どうしてみんな悲しそうなの?」
ヒルダは、ヒックヒックしゃくりあげはじめた。「集会はひどかったの」ヒルダは言った。「わたしたちが入っていっても、みんなだまってこっちをにらみつけるだけだった。おかあさんとおねえさんとわたしが信徒席に座ったら、ホッケンドルフさんたちは席を立って別のところに移ったわ。みんなわたしたちのことを、に、憎んでるのよ」ヒルダは両手で顔を隠して、泣きはじめた。
ローズ・リタはヒルダの横に立って、肩に手をまわした。「そんなにひどいはずないわ。ほんとうに憎んでるわけじゃないわよ」
「憎んでるのよ」ヒルダはむせび泣いた。「みんなじいさまのことを悪い魔術師だと思っている。そうじゃないのに。じいさまはいい魔法しか使わないのに……」ヒルダははっとしてだまった。それからみじめな声でささやいた。「だれにも言っちゃいけなかったの」
「あなたのおじいさんが魔法が使えるってこと?」ローズ・リタはくちびるをかんだ。ふつうのときは魔法とか呪文とかについては沈黙を守っている。そういうことを言うと、たいていはちょっと変だと思われるのがおちだ。でもいまはふつうのときじゃない。「あのね」ローズ・リタは口を開いた。「わたしも、だれにも言わないことになってるんだけど、ツィマ、ええと、わたしの叔母も魔法の心得があるの」
ヒルダは息をのんだ。「本当に?」ヒルダはたずねた。
「ええ、もちろん」ローズ・リタは言った。「なにもないところからマッチを出したり、あと……」
「なにを?」
「マッチよ」ローズ・リタは言った。「それで葉巻に火をつけるの。ただ葉巻を切らしてから、このごろやってなかったけど……」
「マッチってなに?」ヒルダは戸惑ったようすで言った。
ローズ・リタは目をぱちくりさせた。マッチが発明されたものだなんて、いままで考えたことすらなかった。でも、一八二八年にはまだ存在していなかったのかもしれない。「あ、なんでもないの」ローズ・リタは言った。「とにかく、前は柄に紫のクリスタル玉のついたすてきな傘を持っていたの。それが光ると、魔法の力が……」
ヒルダは涙でかすんだ目で、考えぶかげにじっとローズ・リタを見つめた。それからベッドからおりて、足もとにある小さなたんすのほうへいった。「だれにも言わないって約束できる?」ヒルダは言った。謎めいたいわくあげな口ぶりだった。
ローズ・リタはうなずいた。「約束するわ」ぞくぞくして鳥肌が立つのがわかった。
ヒルダは引出しをあけて、積み木ぐらいの四角い箱を出した。箱をあけると、なかからゴルフボールほどもある透明のクリスタルの球が出てきた。「見ていて」ヒルダは手をおわんのようにしてボールをのせ、上からのぞきこんだ。くちびるが動いていた。
ローズ・リタは息をのんだ。クリスタルがやわらかなばら色に輝きはじめたのだ。とても美しく、とても繊細な光だった。ヒルダは顔をあげて、はじめてほほえんだ。「ドレクセルじいさまがわたしの魔力を目覚めさせてくれたの」ヒルダはささやいた。「まだそんなに強くないけれど。クリスタルを光らせること以外、なにもできないわ。でも、いずれ力は強くなるってじいさまは言うの。いつか人々の病気をなおしたり、なくしたものを見つけたり、ヘックスの呪いをといたりできるようになるって。きっとツィマーマン夫人も同じような魔力を持っているのね」
「たぶん」ローズ・リタはヒルダがまた暗くなったクリスタルをそっともとの場所に戻すのを、じっと見ていた。どうやってあれを盗もう。少なくても借りることはできないだろうか。クリスタルは、ツィマーマン夫人がむかし持っていたものにそっくりだった。あの弾がれば、ツィマーマン夫人は魔力をとりもどせるかもしれない。けれども、ヒルダが引出しを閉めて、自分に向かって力なくほほえんだのを見ると、ローズ・リタは決心がくずれさっていくのを感じた。
「これでわたしたち親友ね」ヒルダは恥ずかしそうに言った。「だっていままで魔法のことは友だちにも言っていなかったんだもの」
ああ、ありがたいわ! もうこれであの玉を盗めなくなったじゃない! しばらくしてヒルダが家の手伝いをしにいってしまうと、ローズ・リタはひとりでみじめな気持ちになって、家の中をあてもなく歩きまわった。それからヒルダのコートを借りて、馬たちを見にいった。ローズ・リタは都会育ちだったけれど、この年ごろの女の子たちと同じように馬の出てくる物語を読むのが好きだった。馬屋に入っていくと、馬車をひいていた大きな栗毛の二クラスと、灰色のぶちの雌馬に、黒馬、それからラバのネビーがはしっこでふてくされていた。薄暗く寒い馬屋で馬たちはそっといななき、白い息が渦をまいてたちのぼった。ほかにも別の音がした。しくしく泣いているような声だ。ローズ・リタはどうやら上から聞こえてくるようだと見当をつけ、すぐに屋根裏の干草置き場にあがるはしごを見つけた。
ローズ・リタは、音をたてないようにはしごをのぼった。てっぺんまでいって屋根裏をのぞきこむと、末っ子のハインリッヒが干草の上に身を投げ出して、すすり泣いていた。「ねえ」ローズ・リタは声をかけた。「どうしたの?」
ハインリッヒはひっと叫んで、飛びあがった。それから背を向けた。「向こうへいけよ」その声は震えていた。
「いいわよ。わたしにできることはないかと思っただけよ」ローズ・リタは言った。
ハインリッヒは首を振った。「だれにもなにもできないよ。ストルツフスのじいさんはぼくたちを追い出したいんだ。みんな、やつの味方なんだ」
ローズ・リタは屋根裏へあがった。屋根裏は下の馬屋よりも暖かかった。ローズ・リタはかさこそと音をたてて香りのいい干草の上に座った。「ストルツフスのことを教えてよ」ローズ・リタは言った。
ハインリッヒの顔に怒りの色が浮かんだ。「あいつは悪魔だ」ハインリッヒは言った。「このひどい天気も病気もぼくのじいさまのせいだって言いふらしてる。ヴァイス一家を街から追い出せば、すべてよくなるって。うそばかり!」
「でも、みんなが信じてるわけじゃないと思うわ」
「いいや、信じてるんだ!」ハインリッヒは言った。「それでみんなぼくたちを農場から追い出そうとしてる。おとうさんはそう思ってる。もし……」ハインリッヒは口をつぐんで、顔をそむけた。
「なに?」ローズ・リタはたずねた。
「きっと笑うよ。兄さんたちみたいに」ハインリッヒはもごもごと言った。
ローズ・リタはため息をついた。どうやら今日はヴァイス家の秘密を知る日みたいだわ!
「笑わないわ。約束する」
ハインリッヒは決めかねるようにじっとローズ・リタを見つめた。それからようやくローズ・リタのほうへきて、干草の上に並んで座った。「話すよ」ハインリッヒは言った。「きみはイギリス人だよね――フラクター文字って知ってる?」
「フラツク?」ローズ・リタは聞き返した。「足がふらつくとかそういうこと?」
「ちがう、ちがう《ナイン、ナイン》」ハインリッヒは言った。「フラクターだよ。フラクター文字っていうのはね、なんて言っていいかわからないんだけど、きれいな文字のことなんだ。手で書かれて、きれいな色がついている。女の子たちがするレース編みみたいに」
「ああ、銘とかを描く文字のこと。? あなたのうちにもいくつか額がかけてあるわよね」
「うん。その銘を描く文字のことだよ。でも、ひとつ、ちがうのがあるんだ」ハインリッヒは身を乗りだしてささやいた。「ドニッカーの宝って聞いたことがある?」
ローズ・リタは首をふった。
「えっと、ワシントン将軍の時代のことなんだ。ドニッカーの町はアメリカ軍を支援するため集めた金貨や銀貨を、ひつに保管していた。イギリスはそのことをかぎつけ、宝を盗むためにドイツの傭兵を送りこんだ。ドニッカーから三人の男が選ばれ、イギリスの手に渡るまえに宝をワシントン将軍のところへ届けるか、隠すよう命じられたんだ。その中の一人が一代目ハインリッヒ・ヴァイス、つまり、ぼくのおじいさんだったんだ!」
ローズ・リタはびっくりした。考えてみれば、ヴァイス家の人たちにとって独立戦争はたった五十二年前の出来事なのだ。とはいえ、ワシントン将軍と共に戦ったおじいさんを持っている人と話すなんて、落ちつかない感じがした。「それでどうなったの?」ローズ・リタはたずねた。
「ドイツ兵たちはおじいさんと仲間を追いつめて攻撃してきた。おじいさんたちはお金の入った重い箱を抱えて、森の中を逃げまわらなきゃならなかった。追跡は何日も続いた。そしてこの谷にやってきたんだ。おじいさんたちは宝をとられないように埋めて、それぞれ別の方向に逃げた。ほかの二人はつかまって絞首刑にされた。おじいさんもつかまったけれど、なにも知らないふりをしたんだ。英語がしゃべれないと思わせたのさ。それでやつらはおじいさんを牢屋に閉じこめた。何年もたってようやく出られたとき、おじいさんは病気でもうの谷には戻ってこられなかった。でも牢屋にいるときに、宝のありかを記したんだ。フラクター文字でね。おじいさんはふだんとはちがって、英語を使った。そしてそれをお゛はあさんに渡したんだ。おばあさんは家族を連れてこの谷にきて、息子といっしょにこの農場を買った。この農場のどこかに宝は隠されているはずなんだ。もしそれさえ見つけることができれば……そうそれさえ見つけられれば、ストルツフスのやつがなにを言ったってかまいやしない。ぼくたちはどこだって好きなところに越せるんだから!」
「じゃあどうしておとうさんは宝を掘り出さないの?」ローズ・リタは聞いた。
ハインリッヒは首をふった。「なんて書いてあるかわからないんだ」ハインリッヒは告白した。「なぞなぞみたいなんだよ。みんな何度も何度も見たけれど、だれにも解けないんだ」
ローズ・リタは好奇心をそそられた。もともとなぞなぞとかパズルのたぐいはなんでも好きだったし、解くのも得意だった。「わたしが解いてあげるわ」ローズ・リタは言った。
ハインリッヒは疑わしそうな顔をした。「でも、うちのおとうさんだって何年も前にあきらめたんだ。長男だったベンジャミンおじさんは死ぬまでずっと探しつづけてた。それからジョージおじさんが探した。おじさんがハリスバーグに引っ越すと、今度はいちばん年下だったうちのおとうさんが探したけれど、何年も探してとうとうあきらめたんだ。きっとなぞなぞを書いたとき、おじいさんは少し変になってたんだろうって言ってる」
「やらせてみて」ローズ・リタは自信たっぷりに言った。「解いてみせるわ。どっちにしろやってみるだけなら、問題ないでしょ? それでもしうまくいったら、意地悪なストルツフスじいさんのことなんてきれいさっぱり忘れられるんだから」
そう言われて、ハインリッヒは少し明るくなった。「うん、そうだね。わかったよ。だれにも気づかれないように、こっそり聖書にはさんであるフラクターをとってくる。うまく手に入れたら言うから、そうしたら見てみてよ」
「いいわ」ローズ・リタは言った。「さあて、あなたはどうだかわからないけど、わたしは凍えそうよ。家に帰って暖まるわ」
夜になっても、ヴァイス家をとらえた暗い雰囲気が去る気配はなかった。食卓もしんと静まりかえっていた。ローズ・リタは食事をおぼんにのせてツィマーマン夫人に持っていった。ツィマーマン夫人はぼんやりとしたようすでお礼を言った。一度いきなり、「ベッシィはどうしたの?」と言ったけれど、ローズ・リタが答えようとすると、またうつろな表情に戻ってつぶやいた。「わたし、ベッシィって名前の車を持っていたのかしら?」
ローズ・リタは自分が大きな責任を抱えていることに気づいた。ツィマーマン夫人は、記憶はあいまいだけれど、車やテレビやラジオのことはぜんぶ覚えている。治るまで、友人につきっきりでいないとならない。万が一デトロイト・タイガースの試合を聴きたいからラジオをつけてくれとか、ビジューでジョン・ウェィンの新作の西部劇が見たいなどと言いだしたらどうなるか、目に浮かぶようだった。きっとヴァイスさんたちは、ツィマーマン夫人がおかしくなったと思うにちがいない!
その夜、ローズ・リタは早く眠った。が、しばらくして、物音が目がさめた。ローズ・リタはベッドに横たわったまま、しばらく息をひそめていた。すると、また音がした。イヌが激しくほえている声だ。とつぜん、ぷつりと鳴き声がやんだ。ふつうのイヌが鳴きやむときのように、怒ったようにキャンキャンほえることもなく、まるでレコードの針をさっともちあげたような感じだった。ローズ・リタはメガネをかけると、そっとベッドからすべりおりた。はだしの足に床がひんやりと感じられた。フランネルのガウンを着ていたにもかかわらず、ローズ・リタはぶるっと震えた。
部屋の窓からはなにも見えなかったので、足音をしのばせてそっと廊下へ出て、家の正面に面した窓のところへいった。月の光で雪が真珠のように輝いている。ローズ・リタは床にひざをつくと、おでこを冷たいガラスにくっつけて、外をのぞいた。やがて、イヌの姿が見え出した。大きな茶色の雑種犬だ。けれど、本物のイヌというより彫像のように見えた。イヌは身動きもせずに、家に背を向けて立っていた。
それからなにかが動いた。なにか黒いものが雪の上にいる。それから光がきらめいた。ローズ・リタは目をしばたたかせた。黒い影は男だった。何枚も服を着こみ、体をまるめている。手に何かを持っているようだ。そう、ふたつ持っている。ひとつは小さくてまるいもの、もうひとつは、大きくて四角いもの。大きくて四角いほうは鏡だった。そこに月が映って、光ったのだ。男は左手に大きな鏡を持って傾けた。しばらくのあいだ、男は大きな鏡に映ったものを、小さなものを使って見ていた。それも鏡だった。それから男はゆっくりと向きを変えた。イヌはまだ、ぴくりとも動かなかった。
いったいなにが起こっているのか、ローズ・リタにはわからなかった。そもそも窓がびっしりと霜におおわれていて、よく見えない。ローズ・リタはそっと窓をもちあげた。氷のように冷たい空気が入り込んできた。そのまま十五センチほど開けると、ローズ・リタはまたしゃがんで、すきまから外を眺めた。まちがいない。背の高い着ぶくれした男だ。それにやはり、鏡を二枚持っている。ゆっくりと円を描きながら、細くかんだかい声でなにか歌のような呪文を唱えている。そのとき、窓がずりおちてぴしゃりと音をたててしまった。
ローズ・リタは息をのんだ。男はくるりとふりむいて、家のほうをじっと見あげた。目がぎらりと光った。邪悪な憎しみにあふれた目。どこかで見たことがある。ツィマーマン夫人の鏡からのぞいていたあの目だ!
男は小さなまるい鏡を頭の上にかかげた。するとまた鏡が強い光を放った。ローズ・リタは一瞬目がくらみ、思わず立ちあがって、メガネをはずし目をこすった。とつぜんひどい寒気が襲ってきた。涙があふれだし、目をしばたたかせた。涙を払って目をあけると、おどろいたことにそこはもう廊下ではなかった。ローズ・リタは外にいた。はだしの足の下は、冷たい雪におおわれた地面だ。真っ暗な夜で、月がかすかにあたりを照らしている。メガネをかけると、わずかに視界が開けた。まわりで、長方形や楕円や四角の白い大理石がぼんやりと光っている。ローズ・リタは身の毛がよだった。墓場にいるのだ!
ローズ・リタはおろおろして右や左を見たけれど、どちらを向いても墓石の列がつづいている。逃げたくても、どこもかしこも墓標がびっしりと立って、ローズ・リタをつまずかせてやろうと待ちかまえている。ローズ・リタは雪をかぶった低い塚に足をのせた。すると、おそろしいことに足の下からくぐもった声が響いてきた。「上にいるのはだれだい? こっちへおいで!」
ローズ・リタは足もとの土が盛りあがってくるのを感じてぞっとした。なにか巨大なモグラのようなものが、ローズ・リタめがけて掘り進んでくる。ローズ・リタは走りだした。痛めた足首に鋭い痛みが走った。まわりじゅうであざ笑うような声がこだました。ローズ・リタはふりかえった。お墓から土が噴きあがってくる! そこいらじゅうから次々と骨になった腕がつきだし、あたりをまさぐり、のたくった。大きく口を開けた墓からは、朽ち果てた服をまとった骸骨がずるずるとはいあがってきて、泥のこびりついた口でローズ・リタに向かって、にたっと笑った。いちばん近くにいた骸骨がローズ・リタの足をとろうと手をのばしてきた。
うしろから黒い雑種剣がうなり声をあげて追いかけてきた。目は真っ赤に燃え、黒いくちびるからどろどろとした炎が流れ出ている。ローズ・リタは石につまずいて転んだ。大の字になって頭から雪につっこみ、鼻がひりひりと痛んだ。たちまち氷のように冷たい骨の指が、腕や足をつかみ、腐臭が鼻を満たした。骸骨たちは泥と砂にまみれた口でいっせいにゲラゲラと笑った。イヌの物悲しいうなり声がすぐそばで聞こえた。骸骨たちはローズ・リタを持ちあげた。メガネがハズレ、ローズ・リタは空中に放り出された。見ると、掘られたばかりの墓が口をあけて待ち受けている。月光が頭の位置にある墓標を照らしていた。ここにスパイが眠る≠サこにはそう彫られていた。それを見たのを最後に、ローズ・リタは気を失った。
しばらくしてローズ・リタはガタガタ震えながら目を覚ました。ローズ・リタはあおむけになっていた。腕を上に伸ばして、ぴたりと閉じられた棺のふたにさわろうとした。が、なにもなかった。わたしはだれ? どこにいるのだろう? が、次の瞬間あふれるように記憶がよみがえってきた。上に窓があり、ローズ・リタはヴァイス家の二階の廊下に倒れていた。メガネは鼻の上にある。あの墓地は悪夢か幻覚だったのだ。ローズ・リタはのろのろと起きあがると、窓の外を見た。イヌも、男も、そして鏡も消えていた。なにより気味が悪いのは、なめらかな雪のうえに、なんのあともついていないことだった。ぞっとするような不思議な出来事が起こっていたことを示す足跡ひとつ、残されてはいなかった。
まるまる一週間がすぎ、そのあいだにツィマーマン夫人の具合は少しずつよくなっていった。ローズ・リタはほっとした。水曜日には自分がだれかを思いだしたし、たいていはローズ・リタのこともわかった。けれどもなかなかもとに戻らないこともあった。ツィマーマン夫人はまだ自分とローズ・リタがいまどこにいて、なにがあったのか、忘れてしまうことがあるようだった。たまに自分の家にいると思いこんで、ローズ・リタにラジオをつけてとたのんだり、ジョナサンとルイスを夕食に呼ぼうと言い出すこともあった。また、若いころの自分を追体験しているときもあった。一九一二年から一三年までいっていたフランス旅行のことを、いま帰ってきたばかりのように話したり、ゲッティンゲン大学にいっていたころに戻って授業の心配をすることもあった。けれども一方で、なにもかもはっきりと思いだす瞬間もあった。そしてついに三月最初の月曜日に、完全に混乱から抜け出した。
「わたし、正気を失っていたのね? すっかりおかしくなってた?」その朝、ツィマーマン夫人はそう言った。枕で体を支えて、朝ごはんのおぼんをひざにのせ、ローズ・リタは足もとに座っていた。ツィマーマン夫人は不安そうに首を振った。「鏡を見たあとのことはよく思い出せないの。なにがあったの?」
ツィマーマン夫人がすっかりよくなったのを見て、ローズ・リタは天にも昇る気持ちだった。そして急いで見たことをぜんぶ話した。ツィマーマン夫人は眉間に深いしわをよせて聴いていた。話が終わると、ツィマーマン夫人は言った。「あの鏡が攻撃してくるなんて思ってもみなかったわ。でも、わたしが魔女でよかった。たしかに魔力は完全ではないけど、それでもじゅうぶんわたしを守ってくれたんですから。少しとはいえね」
ローズ・リタはあっけにとられた。「守ってくれたですって? 鏡のせいで記憶喪失になったっていうのに! わたしがだれかもわからなかったし、自分のことだって、なにもかも忘れていたんだから!」
ツィマーマン夫人は笑った。「ええ、そしてもとに戻った。あなたの言う、記憶喪失の状態からね。いい? ああした妖術の攻撃にあえば、魔女でなかったら一生、正気をとりもどさなくたっておかしくないんですよ。あれは妖術のなかでも、邪悪で悪意に満ちたものだった。裏で強い力が働いている。さいわい、白魔術には、黒魔術に攻撃を受けても、一種、反射的に身を守る力があるんです。あのとき呪文を唱える暇さえなかったけれど、わたしの魔力はせいいっぱいわたしを守ってくれたのよ」ツィマーマン夫人は、はあっと息をはいた。よくなったとはいえ、ツィマーマン夫人はまだひどくやつれていた。顔はおどろくほどやせおとろえ、手も衰弱して振るえていたし、目もまだいつもの輝きをとりもどしてはいなかった。「ともかく」やっとツィマーマン夫人は口を開いた。「ほかに道はないわ。もう一度あの鏡を持ってきてちょうだい。なんとかウェザビーばあさまの幽霊と話して……」
ローズ・リタは飛びあがった。「ええ!? だめよ、ツィマーマン夫人! だって、もしまた同じことが起こったらどうするの? 今度はツィマーマン夫人の魔力も助けてくれないかもしれないわ」
「さあ、ばかなことを言うのはやめて」ツィマーマン夫人はきつい口調で言った。「いまわたしたちはたいへんな状況にいるのよ。あなたは明日からあさってには帰らなければならないのに、わたしたちはこんなところで過去から出られ名鳴っている。なんとかこの事態を変えなきゃならないわ」
ローズ・リタはその気になればおそろしく強情になれた。一歩もゆずれない覚悟で、ローズ・リタは言った。「あんな鏡持ってきてやらないわ。そしたら、使うこともできないでしょうよ! ウェザビーばあさまの幽霊が言ったことを覚えてる? わたしたちはドレクセルじいさまを助けなきゃならないのよ。そうすれば家へ帰れる。 いい? ハインリッヒとわたしは取れを助けようとしているの。どう!?」
「まあまあ、そんなにかっかしないでちょうだい!」ツィマーマン夫人は言った。「たしかにわたし、あまりに長いあいだなにもできなかったわ。わかりましたよ、ローズ・リタ・ポッティンガー! なにをしようとしているか話してちょうだい。でも、もしそれが危険なことなら、そう言わせてもらいますからね。そんなことには賛成するわけにはいかないわ。あなたは、わたしが危険を覚悟であの鏡を使うのをとめたかもしれないけど、こっちだってあなたがばかなまねをするのをやめさせますからね。命を落とす可能性だってあるんですから!」
「ばかなことじゃないわ!」ローズ・リタはふてくされて言った。「ハインリッヒが――どの子だか覚えてる?」
ツィマーマン夫人はうなずいた。「いちばん末の男の子でしょう。皮をはがれたウサギみたいな」
「ちがうわ! そんなひどいことを言うなら、話さない」
ツィマーマン夫人は笑った。「いままでずっといっしょにやってきたんだから、いまさらけんかはやめましょう。さあ仲直り! わかったわ、それでハインリッヒとあなたはなにをするつもりなの?」
ローズ・リタはくぢひるをなめた。ツィマーマン夫人がどれだけヴァイス家の問題のことを覚えているのか、わからなかった。「ほら、だれかが取れのひどいうわさを広めているせいで、ヴァイスさんたちは引っ越さなきゃならないでしょ。ハインリッヒとわたしはなにがこの裏にあるのか、探ろうとしているの。ヴァイスさんたちには、わたしたちは親戚を探しにきたことになってるじゃない? だからハインリッヒに馬車に乗せてもらって、このあたりの農場の人にツィマーマンっていう人を知らないかってきてまわるつもり。それでいろいろ探って、だれがなんのためにじいさまがヘックスの魔術師だなんてうわさを広めたがっているのか調べるつもりよ」
「ハインリッヒはそんなことをする暇があるの?」ツィマーマン夫人は、開拓地の農場での仕事がどんなに厳しいものか知っていた。
「それならへいき」ローズ・リタは答えた。「先月、学校が火事で燃えてね。それで、まあなんて言うか、春になるまで学校は再開しないってことに決まったんだって。だからハインリッヒはいま、学校がないのよ。それに、ヴァイスさんたちも馬車を御するのにハインリッヒならいかせてくれるの。ハインリッヒはいちばん年下だから、仕事もまだそんなにないし、上の男の子たちだったらむりだけど、ハインリッヒは……ええとなんていうんだっけ?」
「みそっかす」ツィマーマン夫人はそっけなく言った。「それでぜんぶ?」
「まあね」ローズ・リタはためらった。フラクター文字のなぞのことも言うべきだろうか? あれからハインリッヒは何度か紙をとってこようとしたけれど、家庭用聖書はおとうさんとおかあさんの寝室にあって、うまく持ち出せたためしはなかった。「もうひとつあるの」とうとうローズ・リタは言った。「でも、何の役にも立たないかもしれない。それはまた今度話すわ」
話はそこで終わった。その日の午後、ハインリッヒはラバのネビーを小さな緑色の荷馬車につなぎ、二人は近所の農場を訪ねに出かけた。その日はいつもよりは暖かかったけれど、風が強かった。頭の上を低い白雲が次々と流れていき、影が地面を横切った。雪は少しとけていたけれど、丘の日のあたらない斜面にはまだたくさん残っていた。
最初に訪れた農場は、道を下ったおとなりのピルチャーさんのところだった。ローズ・リタは、丸々太って陽気そうなピルチャーのおくさんと話した。ピルチャー夫人は、とうぜんのことながら、この谷でツィマーマンという人は知らないと言った。けれど、ドレクセルじいさまの話は耳にしていた。ピルチャー夫人は明らかにヴァイスさんたちのことを気の毒に思っているようだった。「まったくやなことだねえ」おくさんは首を振りふり言った。「みんなひどいことを言ってるけど、わたしゃ、はんぶんも信じちゃいませんよ」けれど、ローズ・リタがみんな≠ニはだれで、じっさいはどんなことを言っているのか聞き出そうとしても、たいして役には立たなかった。農家のおかみさんはただ首を振るだけだった。「みんな、このひどい天気はヘックスのせいだって。この冬、家畜が死んだのも、病人が出たのもね。おそろしいことだねえ!」
それからハインリッヒとローズ・リタは五つの農場をまわった。まもなくローズ・リタはある傾向があるのに気づいた。ヴァイスさんの農場から遠くなればなるほど、ヴァイスさんたちへの反感も強くなるのだ。とうとう次の農場が見えたとき、ハインリッヒはローズ・リタを馬車からおろし、ローズ・リタはひとりで歩いていった。ヴァイス家のラバと荷馬車を目にしただけで、農場の主人も家族も出てこようとしないからだ。最後から二軒目の農場でローズ・リタは、うわさ好きのおばあさんに出くわした。このクラインヴァルトおばあさんは、魔術師ドレクセル≠フことをぶつぶつと暗い声で話したあと、ストルツフスさんが息子にドレクセルじいさまの悪行をぜんぶ教えてくれたんだよ、と言った。
そのあと二人は十字路に出た。ローズ・リタはハインリッヒに聞いた。「ストルツフスさんの家はどっち? 次はそこよ」
ハインリッヒは、まるでローズ・リタが、さあおたがいに火をつけましょう、とでも言ったかのように、まじまじと見つめた。「どうかしちゃったのかい?」ハインリッヒはうわずった声で言った。「いやなやつなんだよ。自分はたいして教会にもこないくせに、だれかが邪悪なことをしているって言いだすのはいつもやつなんだ」
「なるほど」ローズ・リタは冷静に言った。「なら、やはり会っておいたほうがいいわね。どこに住んでるの?」
ハインリッヒは首を振った。「やつの農場はあっちだ」そう言って、ハインリッヒは右のほうへいく道をあごで示した。「でも、やつのところへいくのはまずいよ」
「ここからどのくらい?」
哀れなハインリッヒは肩をすぼめた。「そんなにない。でも、本当にいやなやつなんだよ、ストルツフスは」
ローズ・リタはうるさく言いつづけ、ついにハインリッヒはラバをストルツフスの農場へいく道に向けた。農場に向かっているあいだ、ハインリッヒは、ストルツフスは奥さんが死んでいまは一人で暮らしていると説明した。むかしは農場ももっと広かったのだけれど、だんだんと切り売りして、いまではわずかな土地しか残っていないということだった。馬車がぎしぎしきしみながら丘をのぼると、ハインリッヒはネビーの歩調をゆるめた。「あそこだ」ハインリッヒは小さな腰折れ屋根の家と荒れ果てた大きな納屋を指さした。「あれが、ストルツフスの農場だよ。ぼくはこれ以上近づきたくない」
「なら、ここで待ってて」ローズ・リタはそう言って、馬車からひょいと飛び降りた。そのころには午後の日差しで外はかなり暖かくなっていた。道は水たまりができてぬかるみ、わきに寄せた雪の土手からとけた水がちょろちょろと流れ出ている。ローズ・リタは慎重に歩いていったが、すぐにスニーカーにはびしょびしょになった。ストルツフスの家が見えてきたけれど、ローズ・リタはあまり好きになれそうになかった。ヴァイスさんの家よりずっと小さい。二階建てだけれど、主屋と張り出した翼がふたつあるヴァイスさんの家とはちがって、ひと棟しかない。それに窓の半分が割れ、板が打ちつけてあった。割れていない窓も暗く、薄汚れている。家全体が雨風にさらされてねずみ色になり、長いあいだペンキもぬられていないようだった。
ローズ・リタはまっすぐ玄関まであがってドアをたたいた。二回目のノックにも三回目のノックにも、答えはなかった。ストルツフスは納屋にいるのだろうと考え、ローズ・リタは家の裏にまわろうとした。ところが、窓の下を10ローズ・リタとしたとき、どうしてもちょっとのぞいてみたくなった。ちらっとみたとたん、ローズ・リタの目は釘付けになった。そしてつま先だって両手を目の上にかざし、窓のなかをのぞきこんだ。
おそろしく奇妙な部屋だった。壁には何十ものヘックスサインが描かれ、家具らしきものは、部屋の真ん中に置かれた黒い長テーブルと黒い大きなトランクしか見あたらない。テーブルの上に剣がのっている。その横に香炉と、小型の煙突つき暖炉のように見える真ちゅうの奇妙な仕掛けがあった。そうしたものは、窓わくにむぞうさに積まれた本の向こうに見えた。ローズ・リタが汚れたガラス越しに目を細めて本を見ると、一冊は表紙と、もう一冊は背表紙が見える。最初のは『モーゼスの書:第六巻・七巻』、もう一冊は『行方知らずの友を探す』とあった。
ちょうどそのとき物音がしたので、ローズ・リタは危ないところでさっと窓からはなれた。納屋から、黒のつば広の帽子と長いコートを着た背の高いやせた男が出てきた。男はローズ・リタを見て、はっと足をとめた。ローズ・リタはすぐに、ヴァイスさんの馬車に乗せてもらった日にヴァイスさんをののしった老人だとわかった。男はつかつかと歩みよってくると、いきなりどなりつけた。「どうして勝手に入ってきたんだ?」黒板をキーキーひっかいたような、甲高い声だった。
「う、あの……わたし、親戚を探してるんです」ローズ・リタはつかえながら言った。「叔母とわたしは……」
「うそだ!」ストルツフスはわめいた。「わしにはうそつきがわかるんだ!」
ローズ・リタはこわかったけれど、同時に腹がたった。「うそつきなんてよく言うわ! わたしはかわいそうなドレクセルじいさまのことでうそを言いふらしたりしないわ!」
いやらしい目がずるそうに細まった。「アハ! あの悪魔を知っているのか? ならおまえもやつの仲間なんだろう! でていけ!」ストルツフスはぎらぎら光る目でにらみつけたが、その目つきにあるなにかがローズ・リタを震えあがらせた。ローズ・リタはなにも言わずにくるりとうしろを向くと、一目散に家の正面へ向かって走りだした。馬車がガラガラと走ってくる音がした。ハインリッヒが家の前に馬車を止め、ローズ・リタは必死でよじのぼった。ハインリッヒはぴしりとムチを入れ、ラバは走りだした。
ローズ・リタはうしろをふりかえった。家の横に、背の高いやせたストルツフスが脇でこぶしをにぎりしめて立っていた。「そうか!」ストルツフスはうしろから叫んだ。「もうひとりスパイがいたんだな! 覚えとけ!」
あとの脅しは、ラバと荷馬車の騒音にかき消された。かわいそうなネビーはローズ・リタと同じくらいおびえていて、その日はじめて本当に速く走った。ハインリッヒはネビーをおさえるのにてこずっていた。ローズ・リタはうしろを見た。ストルツフスは道路の真ん中に立って、おかしなかっこうで腕を動かしている。とつぜんローズ・リタは眠気に襲われ、頭がぼうっとなった。ハインリッヒがなにか言ったけれど、その声はまるで遠くで話しているようにひどく小さく聞こえた。「このまま次の十字路にいって、大通りに出ればすぐうちの農場だ」
「ええ、お願い」ローズ・リタは言った。どんなにこわかったか、認めたくなかった。
二人が農場を戻ると、まもなく日が沈んだ。ドレクセルじいさまはツィマーマン夫人の枕もとに座って、例のツーンと匂いのする緑色の薬を飲ませていた。「叔母さんの具合はよくなっとる」ローズ・リタが入っていくと、じいさまは言った。
たしかにそうだったけれど、本当によくなるにはまだ時間がかかりそうだった。その日の朝も一度、もとの混乱した状態に戻ってしまった、とドレクセルじいさまは言った。いまはよくなっていたけれど、まだやつれてげっそりしたようすだったので、ローズ・リタは心配だった。ドレクセルじいさまの作った飲み物は効き目をあらわし、まもなくツィマーマン夫人は眠りに落ちた。ローズ・リタはじいさまに今日出かけたことを話し、どんなことがあったか説明をはじめた。ところが、ストルツフスの家の窓から見た本のところまでくると、ローズ・リタはだまりこんだ。なぜかそのことを話すことができなかった。急にそんなことはどうでもいいように思え、けっきょくヘックスサインのことも、黒いテーブルのことも、あやしげな本のこともなにも言わなかった。
ドレクセルじいさまは首を振った。「アハ、わしもどうしてアドルフス・ストルツフスがあんなに気難しくなったのかわからん。むかし彼の父親はイギリス軍について戦った。いまでも革命戦争のことで悔しく思っとるのかもしれん、どうかな《ニヒト》?」ドレクセルじいさまはよろろと立ちあがった。薬草と薬の入っている箱をとろうと手をのばしたけれど、疲れで振るえていた。
「手伝います」ローズ・リタは箱を持って、じいさまの部屋までいった。じいさまは箱を枕もとの棚に置くようたのんだ。箱を置こうとして、ローズ・リタは手をとめた。そして、棚の上においてある本をじっと見つめ、手をのばして背表紙にふれた。題名は、『モーゼスの書:第六巻・七巻』と『行方知れずの友を探す』だった。ストルツフスの家の窓からのぞいて見た本と同じだ! ローズ・リタはドレクセルじいさまのほうを向いて、ストルツフスの本の話をしようとした。舌が動かない! ローズ・リタは必死でしゃべろうとした。でも言葉が出てこないのだ! ローズ・リタは、ハインリッヒと馬車で逃げたとき、ストルツフスがおかしな動作をしていたことを思いだした。しゃべれないように呪文をかけたのだろうか? アドルフス・ストルツフスはヘクサーなのかも?
そう思ったとたん、ローワンウエッブは眠気に襲われ、頭がぼんやりした。そして、自分がなにを考えていたのかよく思いだせなくなった。でも指はまだ『行方知らずの友を探す』の背表紙に置かれていた。ようやくローズ・リタはひとつだけ質問をした。「ドレクセルじいさま、これってどんな本なの?」
ドレクセルじいさまはひじかけいすに身を沈めた。そして、その深みからしんけんな面持ちでローズ・リタを見あげた。「魔法の本だ。邪悪な呪文が記されているものもあるじゃが、わしがこうした本を持っとるのは、そうした悪い呪文をふせぐ方法を知るためだ。わしは善い目的で使われる魔法だけを信じとる。魔法は邪悪な目的で使ってはならんのだ」じいさまはいすから身を乗り出し、差し迫った声で言った。「言っておくが、こうした本には注意せねばならん。ローズ・リタ。なかには強力なヘックスの魔力を持っているものがある。邪悪な霊を呼び出す呪文がたくさん記された本にまつわる話は山とあるんじゃ。こうした呪文は声に出して読む必要はない。ただ黙読するだけでも働いてしまうのだ。もっとおそろしいのは、なにも知らない者が読みはじめると、途中でやめられなくなってしまうことだ。言葉その罪のない犠牲者をとらえ、最後まで呪文を読ませてしまう。そして呪文が唱えられたら最後、おそろしい悪魔が現われるのだ。そうなればもう、悪魔をおさえることはできん。不運にも呪文を読んだ者は、ずたずたに引き裂かれてしまうだろう!」
ローズ・リタは震えて、つばをごくりと飲み込んだ。「じゃあ、いったいだれがとうやって読むの?」
ドレクセルじいさまは疲れた笑みを浮かべた。「アハ、方法は色々ある。防御の呪文を唱えるこもできる。また、賢い者は、こうした呪文にとらえられたと知ったら、一歩一歩逆に進むことでわなから逃れることができる。だがそのようなことにならないようにするんだぞ、ローズ・リタ! そうした本はわしのような老いぼれに任せておけばよい。食おうにも硬くて、悪魔も歯がたたんからの」
ローズ・リタはそもそもどうしてこの本に興味をひかれたのか、一生懸命思いだそうとした。どこか別の場所で同じ本を見たような気がする。でももう、いまとなっては思いだすことはできなかった。ローズ・リタはため息をついた。「ここにある本はみんな、そういうおそろしい魔法ばかりのっているの?」
ドレクセルじいさまは首をかしげた。「『行方知らずの友を探す』やモーゼスの本に? いいや《ナイン》。どちらもただ病を治す方法や、善いまじないがのとるだけじゃよ。バウワウ(北米インディアンのまじない師)の本と呼ぶ者もいる。もちろん邪悪な者がなにかよこしまな行ないをする手法を探すのにも使うこともできると思うが、わしにとっては人を助ける方法を教えてくれる本だ」
ローズ・リタは、ドレクセルじいさまがどんなに一生懸命ツィマーマン夫人の看病をしてくれているか、思いだした。ツィマーマン夫人はよくなってはいるものの、まだかなりやつれたようすだった。ローズ・リタは、さっきのツィマーマン夫人の寝顔を思い浮かべた。もともとくしゃくしゃだった灰色の髪がほつれて枕の上にひろがり、顔はやつれはてていた。ローズ・リタは口を開いた。「ドレクセルじいさま、とてもたいへんなことをお願いしてもいい?」
「なんだね、ローズ・リタ?」
「ツィマーマン夫人が魔力をとりもどすのを、手伝ってあげてほしいの。ツィマーマン夫人も善い魔女よ。でもわたしの友だちを救うために、魔力を失ってしまったの」そしてローズ・リタは、ルイスが復讐に燃えた邪悪な霊にもう少しで死の世界に誘いこまれそうになったこと、ツィマーマン夫人がルイスを救うためにすべての力を使い果たしたことを話した。
ドレクセルじいさまは目を閉じた。そしてしばらくしてから、ささやくように言った。「ふむ、そのような勇気と愛のために魔力を失ったとは、残念なことだな。なにか方法があるはずだ。おいで」
じいさまは二階の小さな部屋へローズ・リタを連れていった。屋根裏のような部屋で、古い家具や壊れたランプなどのがらくたが、所せましと置かれている。ドレクセルじいさまはそのなかを探して、本のひつを見つけた。そしてふたをあけると、なかから小さなクリスタルの玉を取り出した。ヒルダが見せてくれたものにそっくりだったけれど、じいさまのは光っていなかった。
「これが最後の玉だ」ドレクセルじいさまは言った。「若いころ、これと同じ玉を七個作った。そのうち六個は、わしが魔力を持っていると感じ、それを目覚めさせてやった者たちに授けた。だが、これだけはとっておいた。おまえさんの友だちのためにとっておいたのかもしれないな」じいさまが差し出した玉をローズ・リタは受けとった。冷たくすべすべしていて、手にずっしりと重たかった。
「これをどうすればいいの?」ローズ・リタは聞いた。
ドレクセルじいさまはほほえんだ。「いままでは幼い少女の内に魔力のきらめきを感じると、玉を用意してきた。そして何年かのちに、その子に玉を授けたのだ」
「何年かのち?」ローズ・リタはがくぜんとした。これから何年ものあいだ、ツィマーマン夫人は魔力を失ったままもちこたえられるだろうか。
ドレクセルじいさまはうなずいた。「そうだ。これは大地の魔法なんじゃ。クリスタルの玉が完全に力を蓄えるには、少なくとも七年は土に埋めておく必要がある。長く埋めておけばおくほど、力は増すんじゃ。そしてふたたび掘り返したとき、それを使うことになる者が最初に玉にふれなければならない。玉を埋めるときにも、ある儀式を行なわねばならぬ」そしてドレクセルじいさまは、クリスタルは仕える者の名をとって命名されなければならないこと、それからじいさまが玉に呪文をかけ、三日月のもとで土に埋めなければならないことを、説明した。「そのときはもう少しでくるはずだ」最後にじいさまは言った。「今月の十七日だと思う」
ローズ・リタははっとした。三月七日から四月一日までたった二週間前しかない。ウェザビーばあさまが言ったのが本当なら、ドレクセルじいさま自身が四月一日に死の病に倒れる運命にある。時間がないのは、ツィマーマン夫人だけではなかった。
ハインリッヒがようやく機会を見つけて家庭用聖書に隠してあるフラクター文字の紙をとってきたのは、ずいぶんたってからだった。ヴァイス家のように家族が多い家では、ほかの家族の部屋にしのびこもうとしても、いつもだれかしらそばにいることになる。ローズ・リタは早くするようにハインリッヒをせかしつづけたけれど、かわいそうなハインリッヒはなかなか機会を見つけられずに、戦利品を得られないままいたずらに日はすぎていった。
そうしてすぎていった日のうち四日を使って、ローズ・リタは谷にある農場をあちこちまわってみた。そしてやはり、偏屈なストルツフスじいさんに近いところに住んでいる人ほどドレクセルじいさまを憎んでいることはまちがいないと核心した。けれどもその事実をのぞけば、ほかはたいした収穫をえられそうになかった。結局あまり成果もあげられずに、それからあとはローズ・リタはずっとヴァイス農場ですごした。ツィマーマン夫人はいまだにはっきりしているときや混乱気味のときと、いったりきたりしていたから、おそろしい失敗をしでかさないよう見ている必要があった。さもないと、ヴァイス夫人にトルーマン大統領のことをどう思うかきいたりしかねなかった。そうして三月もなかばになり、ようやくハインリッヒが例の謎の紙をこっそり馬屋に持ちこんだのだ。二人はさっそく、紙を念入りに調べはじめた。
すばらしい文字で記された暗号は、ローズ・リタの期待していたものとはちがった。古びた厚手の紙は、うす茶けてほこりっぽいにおいがした。赤や黒や緑のインクを遣い、曲線や渦巻きもようのついた装飾的な書体で書かれているため、読みにくい。文字のまわりの凝った花柄の枠にも、同じインクが使われていた。ローズ・リタは、そうした飾り図案に地図などがたくみに隠されているのかもしれないと思って、調べるのにかなり時間を費やしてしまった。
さんざん調べたあげく、図案は花や草のつるにすぎなくて、謎をとくかぎは花の飾り図案でなく詩じたいにあるとローズ・リタは結論した。紙に書かれているのは、『宝島』のような地図ではなく、エドガー・アラン・ポーの『黄金虫』に出てくるような暗号なのだ。ハインリッヒに手伝ってもらって、ローズ・リタはあまり出来がいいとは言えない詩を読みあげた。
自由の民よ、独立の富を見い出せ
歩め、自由の子らよ
北には仲間たちが息絶え、横たわっている。
生きるのだ、自由を胸に抱き
進む敵の足は重い
はじまりはボストン、コンコード、そしてレキシントンからも
田舎《コテージ》というこー手時から息子たちが送られ、
岩のようなイギリス兵士の心を揺さぶり
そしてなおわれらは強く、勇敢に
結べ、反抗の心と勇気を
大いなる心は、われらのはためく旗のもとに
木と川が武器を隠し
そして戦いの警鐘が打ち鳴らされ、
山や丘や谷に深く
掘るのだ、キツネのごとく隠れ家を
わが信仰を守り
宝なる自由を手に入れよ
ハインリッヒ・ヴァイス記す――MIDCCLXXVV
最初のものが財宝を手に入れるであろう
まったく、どんなに字がきれいだって、つづりがひどすぎるわ、とローズ・リタは思った。富≠フwealthはwelthになってるし、生きるのだ≠フliveはlivですって! それから、ローズ・リタはこのハインリッヒがドイツからの移民だったことを思いだした。きっと、やっとのことで英語を覚えたのだろう。「暗号らしくないわね」ローズ・リタはこちらのハインリッヒに向かって言った。
「でも宝のありかを示してることはまちがいないよ」ハインリッヒは言った。「最初に富を見いだすために、ってあるし、詩の最後に、最初のものが財宝を手に入れるって書いてるだろ」
「MIDCCLXXVV」ローズ・リタは読んだ。「ローマ数字ってことは知ってるけど、こんなに数が大きくなるとわからないわ。これって、お金の額のこと?」
「ううん、日付だ」ハインリッヒはおどろいたように言った。「一七七八年ってことだよ。おじいさんが死んだ年なんだ。おとうさんはまだ二歳だった」
ローズ・リタは、ヘルマン・ヴァイスは一八二八年の時点では五十二歳だということをもう一度思い出さなければならなかった。一九五一年の基準で考える癖をなかなか抜け出せなかったのだ。「ええと」ローズ・リタは言った。「これを写しておかなくちゃ。そうすれば、ゆっくり謎解きに取り組めるし、あんたの親に紙がなくなったことを気づかれる心配もしなくてすむわ」ハインリッヒは家に戻って、紙とインクと羽ペンをとってきた。ローズ・リタは羽ペンを使うのに苦労したけれど――すぐに先がつぶれて、大きなインクのしみがついてしまうのだ――ハインリッヒが持っていたペンナイフで辛抱強く先を削ってくれたおかげで、ようやく、つづりのまちがえもなにもかもぜんぶそのまま写しおえた。ただ文字はふつうの文字で書き、凝った飾り文字を原文どおりに写すことはしなかった。それからハインリッヒはだれにも気づかれずに、こっそり紙を聖書のあいだに戻した。
でも紙をうまく戻せた理由は、うまりうれしいものではなかった。ドレクセルじいさまは薬草や薬でツィマーマン夫人の看病をつづけていたけれど、本当はじいさま自身の具合もあまりよくなかった。看病の疲れで病状は悪化した。いつも(のべつまくなしにしゃべりながら)家じゅう飛び回っているヴァイス夫人は、義理の父親に食事を運ぶことになった。だからヴァイス夫人がじいさまに食事を食べさせているあいだに、ハインリッヒはこっそり両親の部屋に紙をもどしてきたのだった。
ローズ・リタはドレクセルじいさまのことが心配でたまらなかった。もちろん、ツィマーマン夫人の力をとりもどす魔法のお守りを作ると約束したからでもあった。けれど、それ以上に、ローズ・リタはじいさまのことが好きになりはじめていた。じいさまはいつも優しくてよき理解者だったし、最近ではめっきり少なくなってしまったけれど、具合がそんなに悪くないときはすばらしいユーモアの持ち主だった。中身は、老人というより、騒々しいヴァイス家の子どもたちのほうに近かったのだ。だからじいさまがやつれた青白い顔で、苦しそうに横たわっている姿を見ると、ローズ・リタの胸は痛んだ。ヒルダもひどく心配しているようだった。
ある夜、二人は昼だの部屋で寝ていた。光が赤い燃えさしだけになったころ、ヒルダがささやくような声で、じいさまは悪い呪いをかけられてるいのかもしれないと言った。
ローズ・リタは長いあいだだまっていた。何年か前だったら、呪いだの悪い魔女だのくだらない、そんなの存在するわけないでしょ、と言っただろう。けれど、ツィマーマン夫人やジョナサン・バーナルヴェルトと友達になって、ローズ・リタは数々のふしぎな出来事を目にしてきたるいまではほんとうに魔法が使える人がいることを知っていたし、なかには邪悪な目的で魔法を使う悪人がいることもわかっていた。ローズ・リタは言った。「じいさまもそう思っているの?」
「ええ」ヒルダは涙声で言った。「何者かがじいさまのヘックス人形を作っているんじゃないかって」
こうした人形のことは聞いたことがあった。だれかに呪いをかけられたとき、その傷つけたい相手の人形を作るという手段がある。前にツィマーマン夫人が、悪い魔女は敵の写真を使って儀式を行ない、写真を傷つけることで相手を傷つけるのだ、と話してくれたことがあった。ヴードゥ教でもちいる人形も同じだ。ヴードゥのまじない師は、蝋を使ってある人間に生き写しの小さな人形を作る。人形にピンを刺すと、その人間は病気になったり、ピンが刺さっているのと同じところに鋭い痛みを感じるのだ。ヘックス人形というのも、それに似たものだろう。「だれがやったわかってるわ」ローズ・リタは言った。「ストルツフスよ」とたんに、不思議なことが起こった。舌が口にはりついたようになり、それ以上ストルツフスのことをなにも話せなくなった。けんめいに話そうとしたが、頭がくらくらしはじめ、次の瞬間、ローズ・リタはだれのことを話そうとしていのたか思い出せなくなっていた。
「わたしにはわからないわ」ヒルダは長いあいだ、静かにすすり泣いていた。
ローズ・リタは一生懸命、なにかヒルダを元気づけるようなこはないか考えた。一カ月近くも同じ部屋で寝ているうちに、二人の少女は姉妹のようになっていた。いまではヴァイス夫人も、なんやかんや彼女なりの口うるさいやり方で、もう一人家族が増えたようにローズ・リタを扱っていた。そんなだったから、ローズ・リタは言った。「今年の春もフロリックスはあるの?」ペンシルヴァニアダッチの人たちは、ダンスパーティーのことをフロリックスと呼んでいた。ヒルダがフロリックスにいくことのできる年齢になるのを心待ちにしているのを、ローズ・リタは知っていた。
「今年の冬は悪いことばかりだったから、わからないわ」ヒルダは一瞬だまってつけくわえた。「あるといいんだけど。一番上のトリンカねえさんがいろいろ話してくれたの」
「ふうん」その話なら、細かいところまでくわしく聞いていた。ヴァイス夫人が好きで、何度も話していからだ。ローズ・リタはあくびをした。とても眠かったけれど、ヒルダがヘックスや魔術師やヴードゥー人形のことを忘れられるまでは、がんばって起きていようと決めた。「トリンカはフロリックスでいまのだんなさんと出会ったんでしょう?」
「ええ」ヒルダは夢見るような声で言った。ヒルダが、エドガー・ディーンスという姉の夫をいかに慕っているかよくわかった。「そのときねえさんは十七だった。エドガーはおじさんををたずねて、この谷にきていたの。それでいとこたちとフロリックスにきた。エドガーは二十歳だったの。エドガーを見たとき、トリンカは世界一ハンサムな人だと思った。そしてエドガーは、トリンカこそ自分が結婚したいと思っていた女性だっていとこに言ったのよ。そしてもちろん、一年後に二人は結婚した。わたしもはいちばんいいドレスを着たのよ」ヒルダは満足そうにほうっとため息をついた。ヒルダにとって、姉の結婚はまさにおとぎばなしだった。そしてローズ・リタにたずねた。「フロリックスにいったことある?」
「うーん、まあね。一年前に一回だけ」
「すてきだった?」
ローズ・リタは部屋が暗かったことに感謝した。顔が焼けるように熱くて、赤面しているのがわかった。なんてばかなの! ダンスのことを持ち出すなんて! ヒルダにとってはすてきなことかもしれないけれど、ローズ・リタは一生ダンスパーティーにいかなくたって、それどころかこれから先ダンスのダの字も出なかったとしたってかまわなかった。けれどもローズ・リタは言った。「うん、まあね。ただ……」そこでローズ・リタは口をつぐんだ。この話をはじめたのはヒルダを元気づけるためで、ぐちを言うためでない。「よかったわ」
「どんなだった?」ヒルダは聞いた。「ぜんぶ話して。みんなどんな服を着ていたの? フロリックスはどこでやったの?」
「ああ、学校の体育館。楽隊がきて、みんなドレスを着ていたわ」
「体育館って?」
「えっと、学校の建物で、試合とかに使うの。その、外は寒いから。わたしが住んでるのは、すごく寒いところなのよ」冬のニュー・ゼベダイの町にホッキョクグマを登場させてみようか、ローズ・リタは迷った。おもしろいかどうか決めかねているうちに、ヒルダがまた質問した。
「あなたはなにを着ていったの?」
ローズ・リタはため息をついた。もう、この話題からはなれられそうになかった。そこでおかあさんが買ってくれたピンクのドレスことを、フリルやレースにいたるまでくわしく説明した。ローズ・リタには、そのドレスがすてきなのかどうかよくわからなかった。フリルだとかレースだとかは女の子っぽすぎて、着ているとなんだか落ちつかなかった。でも、実際着ていったわけだし、それを説明するとヒルダは興奮した。
「すてき! きっときていた男の子全員と踊ったのね!」
「え、ううん」ローズ・リタはまたため息をついた。「本当のこと言って、一度も踊らなかったの。壁の花だったってわけ」そこでローズ・リタはまた、言葉の意味を説明しなければならなかった。つまり、壁のところに立って男の子にダンスを申し込まれるのを間っていても、だれにも申し込まれなかった女の子のことで、ローズ・リタもそうだったのだ。パーティーにはルイスもきていて、ほかの男の子たちと体育館の反対側にたむろしていた。ローズ・リタは一生懸命、合図を送った。せめて一回は踊りたいの、お願い! だけどルイスはそっぽを向いたままで、結局二人とも最後まで踊らずじまいだった。ローズ・リタはかんかんになって一週間以上ルイスと口をきかなかったし、そのあとも、屈辱的なダンスのことはにはいっさいふれなかった。
「そのルイスっていうお友だちにあまりひどいことを言っちゃだめよ。きっとダンスを踊れなかったのよ」ローズ・リタがその悲惨な出来事を話しおえると、ヒルダは言った。
そのころには、ローズ・リタはすっかり目がさえていた。その話をするだけで、また怒りがわきあがってきたのだ。「そんなこと、思いもしなかったわ」ローズ・リタは思いつかなかった自分におどろきながらも、認めた。
「教えてあげるって言うのよ」ヒルダはつぶやくように言った。「そしたら次は恥ずかしがったりしないわ」ヒルダの声はしだいに小さくなり、やがて眠ってしまった。
今度はローズ・リタが眠れなくなる番だった。すっかりさえた頭で、ダンスのことや帰ってからおかあさんにどなりちらしたことなど、思い巡らした。「ダンスなんて大きらい!」そのときローズ・リタはわめいた。「ダンスなんてばかみたい。ドレスもばかみたい。二度とダンスなんていかないわ!」そう言って、きれいなドレスを洗濯かごの一番下につっこんだ。おかあさんはドレスを洗ってアイロンをかけてくれたけれど、ローズ・リタは二度と腕を通そうとしなかった。ピンクのドレスはいまでも洋服ダンスのトレーナーやシャツやジーンズのとなりにさがっていた。
というより、これから百二十三年後にさがる予定なんだわ。そう気づいて、こんな状況にもかかわらず、ローズ・リタは思わずにやりとしてしまった。くだらないダンスのことで頭がいっぱいになっていたせいで、自分とツィマーマン夫人が抱えている問題のことを忘れかけていた。ローズ・リタはベッドにもぐりこむと、暖かいキルトにくるまれ、ヒルダの規則正しい寝息に誘われて眠りに落ちていった。
三月十七日は新月だった。そのころにはツィマーマン夫人もだいぶよくなり、火事も手伝えるようになっていた。ヴァイスさんたちは、ローズ・リタにはおなじみだったこと――ツィマーマン夫人がすばらしい料理の作り手であることを知っておおいに喜んだ。》歳はヴァイス夫人に絶品のシュトルーデルの作り方を伝授し、びっくりするくらいおいしい豚のローストとチキンパイを焼いた。なかでもスパイスケーキは最高だった。ヴァイスさんたちは口をそろえてツィマーマン夫人の料理をほめちぎり、ヴァイス夫人はいつもより台所に立つ時間が減り、おしゃべりの時間が増えて喜んでいた。おまけにツィマーマン夫人は聞き上手で、ヴァイス夫人の次から次へあふれ出すおしゃべりに愛想をつかすこともなかった。それにいくらか魔力も残っていたので、ドレクセルじいさまがか細い声でささやく指示に従って、薬草で薬を調合することもできた。じいさまの具合はよくなりはしなかったけれど、少なくとももちこたえていた。
十七日月曜日の夜、ローズ・リタは取れと少し話すことができた。その日じいさまはいくらか調子がよく、台所のストーヴの前にあるゆりいすに腰かけていた。ローズ・リタはみじめな気持ちで、じいさまがヘックスの魔術師だといううわさの裏になにか隠された目的はないのかさぐろうとしたけれど、うまくいかなかったことを認めた。それから、魔法の玉の準備をすすめてもらえるかたずねた。「ないしょにしておきたいの」ローズ・リタは言った。「だからわたしがたのんだってことは、ツィマーマン夫人には言わないで」
じいさまは、やせて骨ばった肩に毛布をかけて座っていた。顔は前よりもいっそう細くなり、手はたえず震えていた。じいさまはかすれた声で言った。「おまえさんにとって、とても大切なことなんだね。友人の魔力をとりもどすのは」
ローズ・リタはうなずいた。それから大きく深呼吸して、つけくわえた。「でもじいさまの体に負担をかけるようなことはしてほしくないの。だからもし具合が悪くてクリスタルの玉が作れないんだったら、そうだったら……」ローズ・リタは懸命に涙をこらえた。「しないほうがいいと思うの」
じいさまはやつれた笑みをローズ・リタに向けた。「いまはまだわからん」じいさまはつぶやくように言った。「木曜の夜に、月はもっとも適した状態になるはず。その月光を浴びて作られた玉は、三日月が満月になるように、力をましていく。だからもしその夜、空が晴れていれば、やってみよう。雲が出ていたら――そうだな、また来月がある」
ローズ・リタは悲しい気持ちでうなずいた。今回を逃してしまえば、ヴァイスさんたちが農場から追い出されないようにするという使命も果たせないだろう。ローズ・リタにはそれがわかっていた。そうなれば、じいさまも今の運命を逃れることはできないのだ。
火曜日は風が吹き荒れ、氷のようなみぞれがふった。ローズ・リタの心は沈んだ。木曜日になると灰色の雲が低くたれこめ、ちぎれた雲が次から次へと流れていった。ローズ・リタはひどくみじめだった。ところが木曜日の昼ごろ、雲の裂け目から太陽がのぞいた。雲はじょじょに吹き飛ばされ、夕方には空は真っ青に晴れわたった。ローズ・リタのなかに希望がめばえはじめた。結局はすべてうまくいくかもしれない。
その夜、取れはローズ・リタに、二階にいくのに手を貸してくれとたのんだ。ローズ・リタはじいさまを手伝って二階へいき、それから言われたとおり、前にクリスタルを見せてもらった部屋へいって玉をとってきた。じいさまは、廊下の西のはずれにある大きな窓のところに立っていた。紫に染まった西の空に、ほっそりとした三日月がとんがった先を光に向けて浮かんでいた。「ここで呪文を唱える」じいさまは言った。「準備するのを手伝ってくれ」
じいさまは平たいチョークを渡すと、木の床に円を描くように言った。ローズ・リタは言うとおりにした。それからじいさまはヘックスの印に似た図の描いてある紙を見せた。大きな円のなかに小さな円が三つ描かれ、ひとつひとつに奇妙な言語が記してある。ローズ・リタは正確にこれを写した。「よし」ドレクセルじいさまは言った。「これから十五分わしをひとりにしてくれ。それから戻っておいで。あとはなるようになるだろう」
長い十五分だった。ローズ・リタは下におりて、せっせと台所を片付けていたヴァイス夫人の手伝いをした。「ローズ・リタ、今夜はネコみたいにそわそわしてるわ。アハ、若い男性に誘われたらどうしようって思っているのね!? まだ早いって! 台の上のパンくずをそうじしてちょうだい。ああ、たいへんなことばかり! 今日ピルチャーのおくさんはたまごを撃ってくれなかったの。みんなが、わたしたちを追い出そうって話しているそうよ。考えてみてもちょうだい! アハ、幸運は茶さじでくるが、災いは枡でくるってむかしおかあさんが言っていたわ。ちがうわ、スプーンはこっちの引出しよ。つい昨日へルマンに言ったの……」
ローズ・リタはどうにか叫びださずに十五分をすごした。それから急いで二階へあがっていくと、ドレクセルじいさまが窓わくにもたれかかっていた。じいさまは力なくうなずき、ローズ・リタはじいさまを部屋まで連れていった。老いるランプの黄色い光で、机の上に本が重ねてあるのが見えた。それを見て、ローズ・リタはまたストルツフスの家で見た本のことを思いだした。けれど、今度も思いだしたとたんに、頭が混乱して眠くなり、しゃべれなくなった。けれどもじいさまはローズ・リタが本をじっと見つめているのに気づいた。「エルドシュピーゲルのことを調べていたんだよ」じいさまはいちばん上の本を軽くたたきながら言った。「アルベルトゥスマグヌス(ドイツの哲学者・神学者、トーマス・アクィナスの師)だ。鏡についてかかれたところにしおりをはさんである。もしもっと力があれば……」
じいさまはよろめいた。ローズ・リタはじいさまをベッドまで連れていった。じいさまは寝台のはしに座ると、ローズ・リタに小さなクリスタルの玉を渡した。「これだ。呪文はもうはじまっとる。だが、少々疲れた。少し休まなければならん。いいかい、最大限の力をひきだすには七年間は土に埋めなければならん。長ければ長いほど、力もます。明日の夜、月がのぼったらこれを埋めなさい。わ、わしは少し休まんと」
ローズ・リタは、クリスタルに魔法をかけるのは、年老いたじいさまには負担が重すぎたことに気づいた。ローズ・リタは廊下に駆け出していって、ひざをついてチョークで描いた円を消した。それから立ちあがって、手のひらにクリスタルをのせ、しげしげとのぞきこんだ。中心に、月とそっくりの小さな三日月の形をしたものが輝いている。あわい紫の光。ツィマーマン夫人のいちばん好きな色だった。
ヴァイスさんの農場を抜け出すのはむずかしいけれど、うまくやればできる。次の日の夕方、ローズ・リタはそれを知った。あれからクリスタルをどうやって埋めようか一生懸命考えて、ローズ・リタはあることを思いついた。これならうまくいきそうだった。ローズ・リタは寒くならないようにたくさん着こむと、だれも見ていないときにランタンを持って足早に農場を出た。
寒くて長い道のりだった。けれどもローズ・リタは、足首が完全に治っていることがわかってうれしかった。ようやく目的地についたときには、とっくに日は沈んでいた。月はすでに顔を出し、地平線の低いところで赤くなりはじめていた。今夜も三日月だったけれど、昨日よりほんの少しふくらんでいる。ローズ・リタはあたりを見まわして、適当な場所を探した。そしてヴァイスさんの家の台所からこっそり持ちだしてきた大きなスプーンを使って、表面をうっすらおおっているとけかかった雪をどけ、土を掘りはじめた。寒かったけれど氷点下ではなく、土はぬかるんでやわらかかった。それからクリスタルをこれから長いあいだ眠る場所に置き、その上に掘った土をかぶせた。魔法のかかった玉が見えなくなるまでまわりをしっかりと土で固め、ローズ・リタはあたりの景色を注意深く眺めて目印になるものを覚えこんだ。そして、あとで役に立つだろうと考えて、スプーンでいくつも印をつけておいた。スプーンはだめになってしまったけれど、計画がうまくいくならこのくらいの犠牲はやむをえないと、自分に言い聞かせた。
ローズ・リタは急いでヴァイス農場への道を戻りはじめた。空には星が輝き、ローズ・リタのまわりをランタンの黄色い光がまるく照らしている。生まれてはじめて田舎の夜がどれだけ暗いか、ローズ・リタは知った。モーテルのネオンサインも信号も道を照らす街灯もない場合、なおさらだ。星はいくらか助けにはなったけれど、その光は冷たく弱かった。木々が風にゆれてざわめき、ときおり遠くで犬がほえている声がする。ローズ・リタは足を速めた。とうとうはるか前方に、ヴァイスさんの家の窓の暖かい黄色の光が見えはじめた。ローズ・リタはさらに足を速めた。
コテージ・ロックの巨大な黒い影のちょうど横まできたとき、ローズ・リタは奇妙なものを見つけた。岩のふもとが青白く光っている。懐中電灯のようなまぶしい光ではなく、ろうそくよりもさらにやわらかな輝きだった。少しこわかったけれど、こわさより好奇心が勝った。ローズ・リタは道をそれ、古い雪をパリパリと踏んで、コテージ・ロックのところまでいった。足もとの雪の上に、本が開いたまま落ちていた。ローズ・リタはどうしてこんなところに本があるのかふしぎに思いながら、かがんで拾いあげた。ヴァイスさんの家には、じいさまの部屋にあるものをのぞけば本は数冊しかないし、とても大切にされている。農場で暮らす人たちにとって、本は貴重で高価なものだった。
本は平たくて大きく、ひどく持ちにくかったので、よく見ようにもランタンを高くかかげることができなかった。けれども、ふと視線を落とすと左ページの最初の数語が目に入った。
インカタス プレヴォート ダイアポリカス マリフィカム ゼーストレン ミケール ゲヘント
ローズ・リタはまゆをしかめた。フランス語なら少しは知っていたし、ジョナサンにラテン語を習ったこともあったので、ラテン語らしき言葉が混じっているのはわかったけれど、正確にはそのどちらでもなかった。ヴァイスさんの家の壁に、額に入れて飾ってあるフラクター文字の銘を見るかぎり、ドイツ語でもなさそうだ。実際に使われているどの言語ともちがうように思えた。だいたいどうしてこんな暗いのに文字が読めるんだろう? それからローズ・リタは文字自体がほんのり光っているのに気づいた。本が薄青の光を発しているのはそのためだった。
ローズ・リタは少し読んでみたが、さっぱり意味がわからなかった。ドレクセルじいさまのところに持っていって、なにかわかるかきいてみたほうがいい。でも、もう少し読んでみれば、わかるかもしれない。奇妙な言葉の意味がもう》腰でわかりそうな気がするときがあるのだ。そうして、ローズ・リタはまるまる一ページ読んでしまった。「プリンシピウム イスタム」という最後の二語を読み終わったとたん、まわりの空気がふっと変わったのを感じた。
ローズ・リタはページから目をはなそうとした。が、できなかった。つかまってしまった! 魔法の本には気をつけるように言っていたじいさまの言葉が浮かんできた――でも遅かった。読みはじめてしまったのだ。もうとめられない!
あたりの闇がどんどん深く、濃くなりはじめた。ランタンががしゃんと落ち、火が消えた。目の前にコテージ・ロックの黒々とした影が浮かびあがった。ローズ・リタは、三メートルはあろうかという岩の上に、なにか邪悪なものがじっとひそんでいるのを感じた。目で見ることはできないが、虚空からなにか悪魔的なものがじょじょに形をなしてくるのがわかる。そのものが発散している怒りと憎しみが伝わってくる。ローズ・リタの読んでいるその言葉が、おそろしい存在をこの世に連れてこようとしている。そしてそれは、ローズ・リタをひきさいてやろうとうずうずしているのだ。
だが、読むのをやめられない。ローズ・リタは次のページを読みはじめていた。あらん限りの力をふりしぼって、ページから目をひきはがそうとした。が、わずかに読むページを遅めただけだった。そのページの半分までいったころには、頭上からフウフウと低く鼻を鳴らす音が聞こえはじめた。そして、ぞっとするようなヒッヒッという笑い声がした。飢えた、あざけるような声だった。首のうしろに熱い息がかかった。腐ったたまごのような腐臭と硫黄の臭い。身の毛がよだった。頭上からかぎづめのある手が伸びてくる。闇のなかを飛びまわり、ローズ・リタが呪文を読み終わるやいなやつかみかかろうと、待ちかまえている。叫びたかった。逃げたかった。本をほうりだしたかった。けれど死の呪文にとらえられ、どうすることもできなかった。
ローズ・リタは死に物ぐるいで頭を働かせた。ドレクセルじいさまが、こうした魔法から逃れる方法についてなにか言っていたはずだ。なんだった? 賢い者はわなから逃れることができる……一歩一歩逆に進むことで! そうよ! でもどういう意味? わたしは歩きながら読んでいるわけではない。石のように立ちつくしているのだ。
ずるずると液をすする音がした。なにか大きなものが、そのおそろしい唇をなめている。液が滴り、雪に落ちてシュウシュウと音を立てた。岩の上に姿をあらわしつつあるものが、よだれをたらしているのだ。煮えたぎるほど熱い唾液を。もう三ページもおわる! 目のはしでちらりと見ると、活字は次のページの上までしかない! またもや熱い吐き気をもよおす悪臭がローズ・リタをつつんだ……
そのときローズ・リタははっと思いついた。そして、逆向きに読みはじめた。すると、ゆっくりとだが、確実に一語一語戻っていける。戻るにつれ、読むのも楽になっていく。岩の上の生き物からおそろしい敵意と失意を感じたが、それもすぐに弱まっていった。二ページ目も上までたどり着き、最初のページに入った。そしてとうとういちばんはじめに見た言葉に戻ってきた。今回は一語一語ページの上に向かって読んだ。
ゲヘント ミケール ゼーストレン マリフィカム ダイアポリカス プレヴォート インカタス
すると本が蛇のようにのたくりはじめた。ローズ・リタは思わず本を放り出した。すると、本から炎がふきだしたではないか! ローズ・リタはうしろに飛びのいた。地面に落ちるまもなく、白く熱い炎が本をのみつくした。解放されたのだ!
ローズ・リタは震える手をのばして、落としたランタンを拾った。火をつけるすべがなかったので、あたりは闇に閉ざされたままだった。けれど、コテージ・ロックがただの岩に戻り、ローズ・リタを飲みこもうと岩にうずくまっていた邪悪な魔物ももういないことが、なぜかはっきりと感じられた。ローズ・リタは恐怖におののいていたけれど、まっすぐヴァイス家に向かって歩きはじめた。今回のことは、ストルツフスの家で本を見たときとはちがうとわかっていた。呪いのせいで、いま起こったことを話せなくなることはないだろう。けれど、自分がいまはまだその話をしたくないと思っているのも感じた。ドレクセルじいさまが気をつけるようにと言った。まさにそのとおりのことをしでかしてしまったのだ。ローズ・リタは怒っていた。自分に、そしてあんなところに本を置いていった人物に怒っていた。そいつはハインリッヒや子どもたちがしょっちゅう遊んでいるこー手時・ロックの下にわざと本を置いて、ローズ・リタやヴァイス家の人間を殺そうとたくらんだのだ。ローズ・リタはこれまで以上に強く、このそこしれぬ悪の源を暴いてやろうと決意した。この手でヴァイス家の人たちを、ドレクセルじいさまを、そしてツィマーマン夫人を救うのだ!
ぶじ農場についたときには、ローズ・リタは息を切らしていた。ヴァイス夫人は、みんなほんとうにぞっとしたのよ、と言ってローズ・リタをしかり、ローズ・リタは謝って、頭を整理するためにゆっくり歩きたかったのだと言った。ヒルダは半信半疑のようすでローズ・リタを見たし、ハインリッヒは機嫌の悪そうな顔をした。ローズ・リタとしゃべったり、いっしょにいろいろ企んでいるうちに、ハインリッヒは前よりも度胸がついたらしく、ローズ・リタがしてきた冒険を逃したことで明らかに怒っていた。
でもいちばんつらかったのは、ツィマーマン夫人に悲しそうな目でじっと見つめられたことだった。胸が張り裂けそうにつらかったけれど、どうしてもなにをしようとしているか、友人に話すことはできなかった。その夜、ローズ・リタは心をかき乱されたまま、ベッドに入った。
ツィマーマン夫人のほうは、ほとんど回復していた。いまだにこの見知らぬ時代と場所にたどりついた経緯ははっきりしていなかったし、鏡のことでも思い出せないことがいくつかあって、そのことでは悩まされていた。けれど、ドレクセルじいさまに看病してもらっているときや、そのあと逆にじいさまの世話をするようになってから、ツィマーマン夫人はいくつかのことを学んだ。ローズ・リタがだれにも言っていない秘密を持っているとすれば、ツィマーマン夫人にもいくつか秘密があった。ドレクセルじいさまがアルベルトゥスマグヌスの魔法の本を読んでいたのは、実はツィマーマン夫人と二人で魔法の鏡について調べているからだった。
ツィマーマン夫人がうかつにも偶然知ることになったように、魔法の鏡は非情に危険なものだ。ドレクセルじいさまが調べたところによれば、魔法の鏡は、善なるものであれ邪悪なものであれ、まさしく霊を招きよせるのに使われる。ある夜、夕食を食べ終わると、じいさまはツィマーマン夫人にどこで鏡を手にいれたのかたずね、この鏡がどんな魔力を持っているか詳しくわかっているのかね、と聞いた。「いいえ」ツィマーマン夫人はおもむろに口を開いた。「わたしは長いあいだ、あの鏡が魔法の鏡だってことすら知らなかったんですから。たしか、二十年ほど前に古道具屋で見つけたんです。わたしは古道具屋をまわって、がらくたを集めるのが趣味で、あの鏡もわたしに向かって叫んでいるような気がしたんです。古くて傷だらけで曇っていたのを、五十セントで買って、家に持って帰ってみがいて――それから何年もかけっぱなしでしたけど、二、三ヶ月前までそれでなんの問題もなかったんです」
ドレクセルじいさまはベッドにもたれて座り、ツィマーマン夫人は枕もとのいすに座って、魔法の本を読んできかせていた。じいさはま目をつぶってじっときいていた。「それで、鏡が光りだして魔法が始まったと言ったね。そして幽霊が現われた」
「ええ」ツィマーマン夫人は言った。「ある夫人の幽霊だったんです。わたしに魔力があることに最初に気づいて、力を目覚めさせる方法を教えてくれた人です」
それをきいてドレクセルじいさまは目をあけた。「奇妙じゃな」じいさまはつぶやいた。「わしはずっと、女性の魔力は男性の、男性の魔力は女性の手によって目覚めなければならないと教えられてきたがの。だが、長いあいだ生きてきて、魔法の働きというのはひとつでないのはわかっておる。さて、かの邪悪な力のことはどれだけ覚えとるのかな?」
ツィマーマン夫人は首をふった。「ほとんどなにも。あのいまわしいじっと見つめる目だけ。赤々と燃える石炭のような……うぅ!」ツィマーマン夫人は身震いした。「それから、頭のなかで、声のようなものが聞こえたんです。 忘れろ! 忘れろ!≠チて」
ドレクセルじいさまはうなずいた。じいさまは本のなかから一冊をとると、ゆっくりとめくった。そして探していたページを見つけると、そこにある図を指さした。それれはなにかの文字を組み合わせたように見えた。
モヨウ
ドレクセルじいさまはこの奇妙な模様をトントンと二回叩いた。「これは霊の鏡のうしろに彫ってあった模様のひとつじゃ。これがなにか知っているかね?」
ツィマーマン夫人は首をふった。「なにか魔法の象徴のように見えますけど、わかりません。わたしの専門はお守りや魔よけで、ヘブライ神秘哲学の印ではないんです」
ドレクセルじいさまは暗い表情でうなずいた。「この印はエノクの悪魔アジールを表わすものなんじゃ。アジールは無垢なる大地の魔法を妨げ、堕落させる邪悪な霊だ」
ツィマーマン夫人は青ざめた。「そういう霊がいるのを聞いたことがあります。でも、今までそういったものをじっさい目にしたことはありません。ニュー・ゼベダイでの生活はおだやかなものだったということでしょうね」
「ふむ、そのニュー・ゼベダイのことだが」ドレクセルじいさまは本を閉じて、ツィマーマン夫人を悲しげなまなざしでじっと見つめた。「おまえさんはまだすべて真実を話してくれていないな、フローレンス・ツィマーマン。おまえさんは、はるか西にあるニュー・ゼベダイという場所からきたと言った。わしも少しは地理を知っとる。ニュー・ゼベダイなどという場所が存在するとは思えんのだが」
ツィマーマン夫人はきまり悪くてもじもじした。この優しい老人に、鏡のなかの幽霊は年とって気むずかしくなったあなたの孫です、なんてどうやって言えるだろう? いや、まだもうう少し隠しておけるだろう。ツィマーマン夫人は言った。「どうやって説明すればいいのか。ローズ・リタとわたしはほんとうにニュー・ゼベダイからきたんです。できたのは一八三五年ですけれど」
ドレクセルじいさまはまゆをそめた。「ではまだ存在していないのだな。ツィマーマン夫人、おまえさんは、自分たちは未来からきたと言っとるのかね?」
「ええ」ツィマーマン夫人は認めた。「それもかなり先の未来から」
「アハ」ドレクセルじいさまは考えこんだような顔をした。「それ以上聞くのはやめておこう。魔法使いが未来のことを知りすぎるのは危険だからの」
ツィマーマン夫人は、じいさまがこの話をあったり信じたことに驚いた。けれど、じいさまは魔法使いで、魔法使いというのは、郵便配達や弁護士なら面食らってしまうような途方もないことも、やすやす受け入れられるものなのだ。
ずいぶんたってから、ドレクセルじいさまは言った。「わしはこう思う。おまえさんが買った鏡はむかし、邪悪な魔術師、つまり本物のヘクサーによって魔法がかけられたものだった。おそらくその魔術師はずいぶん前に死んでいるんだろう――おまえさんの時代にはな。ところが、この時代、わしらの時代には生きておって、それで鏡に対する力も非情に強いのではなかろうか。つまりいまはやつの時代でもあるわけだからの」じいさまは、骨ばった長い指をもちあげた。「じゃが、アルベルトゥスはアジールの悪魔の力によって作られたエルドシュピーゲルについてこうも言っとる。確かにアジールは自分の信奉者に宝のありかを示すこともあるが、その見返りとして人間のいけにえを求める。おそろしく危険な霊なのじゃ。そしてあらゆる邪悪な霊と同じで、アジールも狡猾で執念深く悪意に満ちている。この邪悪な霊が、鏡の主の正体を明かす可能性は非情にわずかだがあると思う。そうすることで、やつはおそろしい裏切りを行なうのだ――それこそ、悪魔どもがやることだからの」
「ええ」ツィマーマン夫人は悲しそうに言った。「おっしゃ。可能性の意味はわかります。ただ、わたしたちには、いま、鏡を使いこなすだけの力はない。そう、もし鏡を支配している魔術師に気づかれたら、記憶を永遠に奪われるか、完全におかしくされてしまうわ」
ドレクセルじいさまは疲れたようにうなずいた。「おまえさんの言うとおりだ。もしわしが元気だったら、運を天にまかせてやってみただろう。だが今は、ごく小さな魔法を使うだけで力を使い果たしてしまう。しかし孫のヒルダがいる。あの子に力があるのは気づいておるだろう。もちろんまだ発現されてはおらんが、あの子はいまに偉大なブラウヒェレイになるじゃろう。あの子の力を呼びさまして、手伝わせることはできるかもしれん」
ツィマーマン夫人は首をふった。「だめです。ヒルダをそんな危険な目にあわせることはできません。なにかほかの方法を考えなければ」
ドレクセルじいさまは深く息をすいこんで、言った。「ほんとうのことを言って、ほっとした。ヒルダはわしにとって大切な孫だ。血のつながった実の孫のようにな。それはそうと、アルベルトゥスマグヌスの本から必要な呪文を訳して、書き出しておいた。この本のあいだにはさんである。なんとか力をとりもどせるようにやってみよう。満月になるまえに、試みることができるかもしれん。それがむりなら、おまえさんの言うとおり、なにかべつの手を考えなければな」
ツィマーマン夫人は夕食のお皿を重ねてお盆にのせた。二人とも、廊下でだれかがミシッとかすかな音を立てたのに気づかなかった。ハインリッヒだった。じいさまの部屋のすぐ外に座っていたのだ。ハインリッヒは、ツィマーマン夫人とドレクセルじいさまの話をはじめからおわりまでぜんぶきいていた。そて一刻も早くローズ・リタを見つけてその話をしようと、うずうずしていた。
10
ハインリッヒはまっすぐローズ・リタのところへいって、聞いたことを話した。話し終わると、ローズ・リタのことを畏れと尊敬の入りまじった目で見た。「ほんとうに未来からきたの?」ハインリッヒはたずねた。
ローズ・リタは渋い顔で肩をすくめた。「たいしたことじゃないわ。ペルシャとかティンプクトからきた人と会うようなものよ」
「アハ、なるほど」
「でもだれにも言わないって約束して、秘密よ」
ハインリッヒは約束し、ローズ・リタも信用した。けれども、これから二人でしようと思っていることについて話すと、ハインリッヒは目をまんまるにしていやだと言った。ローズ・リタたちが未来からやってきたということはすぐ受け入れても、魔法の鏡やらヘックスの魔術師やらには関わるのはごめんだった。ローズ・リタはいっしょうけんめい説得したけれど、ハインリッヒは頑として首を縦にふらなかった。そして三月二十七日、ヴァイスさんが暗い顔つきで帰ってきた。「とうとう牧師さんまでもうわたしたちを受け入れられない、わたしたちが邪悪な妖術に関係していると考えている者たちがたくさんいるのだ、と言いだした。もう引っ越すしかない」ヴァイスさんは低い声で言った。「こんなにも周りの人々に憎まれているところで、暮らすことはできん。ハリスバーグのにいさんのところへいこう。この農場を売って、ほかのところで新しく出直すんだ」そして引越しの日を四月一日と決めた。ドレクセルじいさまが病に倒れる運命の日だった。
それから数日は荷づくりで目のまわる忙しさだった。ヴァイス夫人は家から追い出されることへの怒りと、ひとつひとつの家具にまつわる思い出話を交互にしゃべりつづけた。ハインリッヒは涙もろくなり、自分の砦=Aつまり、コテージ・ロックを離れるのが寂しくてしょうがないよ、と言った。ローズ・リタはれにつけこんで、二人で例の計画を実行すれば、ここを出なくてすむかもしれないと説得しつづけた。じょじょにハインリッヒの心は動かされ、とうとう農場で過ごす最後の日の夕方になって、もう一度ローズ・リタの計画に耳を傾けた。
「ほんとうに引っ越さないですむと思う?」ハインリッヒの声には期待がこもっていた。
「もちろん」ローズ・リタは答えた。「それにもしあのいかれた鏡を使って宝を見つけられれば、あんたの家族は二度と引越しのことで悩まなくてすむわ。自分たちの土地からお金持ちを追い出す人はいないもの。たとえどんなに変人でもね」
「うん、そうだね」ハインリッヒはゆっくりと言った。「ぼくがあのフラクター文字の暗号を解こうとしてがんばってきたのも、そのためだもんな」
「そうよ」ローズ・リタは言った。「わたしも解こうとしたけど、もっと簡単な方法があるはずよ。だからおじいさんの本からその紙をとってきて。わたしは鏡をとってくる。それでやってみましょ」
「でも、きみはブラウヒェレイの魔女じゃないだろ」ハインリッヒは抗議した。
ローズ・リタはふんと鼻をならした。「いい? あの鏡じたいに魔法がかかってるのよ。そうでしょ? 魔法の道具を使うのに、こっちが魔法を持ってる必要はないわ」ローズ・リタは大きく深呼吸した。こっちには最後の切り札がある。これを使えば必ずうまくいくはずだ。ハインリッヒがベレー帽をひと目見てすっかり気に入ってしまったのを、ローズ・リタは忘れてはいなかった。農場についてから、帽子はずっと引き出しにしまってあった。一八二八年に暮らしている人たちに、色つきのボタンの意味を説明するのは難しかったからだ。ボタンは挿しボタンになっていて、エナメルがけした漫画のキャラクターがついていた。何年か前にケロッグのシリアルのおまけでもらったものだけれど、どのキャラクターも一八二八年にはまだ存在してなかった。「いい?」ローズ・リタはハインリッヒに言った。「もし紙を持ってきてくれたら、あんたの気に入ってる、あの帽子をあげるわ」
ハインリッヒの目に考えぶかげな表情が浮かんだ。取引成立だ。それから二十分ほどして、ちょうど日が沈むころ、ハインリッヒは紙を、ローズ・リタは鏡を納屋に持ちこんだ。鏡を取ってくるのは思ったよりも簡単だった。家じゅうが引越しの荷づくりやら準備やらでおおわらわだったからだ。ローズ・リタは鏡をクギにかけ、ハインリッヒが紙を渡した。その代わりにローズ・リタはベレー帽を渡した。ハインリッヒは満足げに帽子をぐいと頭にかぶせた。それを見て、胸がチクリと痛んだのを感じた。帽子はむかしからの友だちのようなものだったのだ。でも約束は約束だし、いまこの時点では、紙のほうが計画を実行するのにはるかに重要だった。
ローズ・リタは紙を調べた。「ます円を描かなきゃ。それからここにある呪文をわたしが唱えるわ。円のなかだけが安全だって書いてあるから、大きなのを描いたほうがいいわね」
納屋の床は石で、使われていない仕切りにわらはなかった。ローズ・リタはチョークで円を描いた。ドレクセルじいさまを手伝って描いたのとよく似ていたけれど、ちがう点もあった。今度のは、円は二重で真ん中に五角形の星があった。「とんがっているところは一箇所、必ず東に向けないと」ローズ・リタは紙を読みながら言った。「東の方向は善の象徴で、邪悪ではないの」
「東はあっちだ」ハインリッヒは指をさした。「お日さまは、あっちがわの木のうしろからあがるもの」
それから、奇妙な言葉を写す作業があった。ローズ・リタはひとつひとつていねいに写し、さらにまちがいがないか二度見直した。完成すると、二人はローズ・リタの描いた星の真ん中に立った。一瞬ローズ・リタはためらった。このあいだ魔法の本の呪文を読んで、もう少しで飢えた悪魔を呼び出すところだったのだ。けれども、それを思い出すと、また怒りがわきあがってきて恐怖に打ち勝ち、ぜったいにこの計画をやりとげてみせるという気持ちがさらに強まった。
しっかりとした声で、ローズ・リタはハインリッヒが持ってきた紙に書かれた呪文を読みはじめた。鏡を見たくなかったので、ひたすら紙だけを見つめた。
「アハ!」ハインリッヒがかすれた声でささやいた。「鏡が光だした!」
ローズ・リタは顔をあげた。鏡がちらちらと青白い光を放っていた。はじめは二人の姿しか映っていなかった。左の肩のうしろからハインリッヒの顔がのぞいている。それからふしぎなことが起こった。鏡がふっと暗くなったのだ。まるでテレビを消したみたいだった。さっきまで映っていた画像が消えて、なにも映らなくなったように。けれど、真っ暗な画面の縁で不気味な光はちらちら瞬きつづけている。それからゆっくりと、別のものが映りはじめた。背の高いやせた男が、なにか低くてまるく、白いものうしろに立っている。その姿は最初ぼんやりしていたが、やがてじょじょにはっきりしてきた。横でハインリッヒが円からで用途するように動いた。ローズ・リタはすぐに気づき、ぎゅっと腕をつねった。男はなにか長くて細い物を持っていた。そしてかがんで、仕事をはじめた。
ローズ・リタは息をのんだ。男はシャベルを持って、穴を掘っていた。そして前に見える白いものは墓石だった。ディエドリッチ・ホフマンという名前と1767〜1828という数字が彫ってある。男のうしろには教会が建ち、その尖塔が刻一刻と暗さをましていく夕空にぼんやりと浮かびあがっていた。ローズ・リタはその光景や人物に、見覚えがあるような気がした。でも、男がだれかはわからない。男は硬く凍った地面を掘っていて、顔はむこうを向いている。いきなり、男が体をこわばらせた。そしてぱっとふりむき、ぎらぎら光る目でまわりを見まわした。
「ストルツフスだ!」ハインリッヒがうわずった声で叫んだ。
燃えるよな目がひたと二人に注がれた。ローズ・リタは悲鳴をあげた。寒い夜、月の照らす庭で同じやせこけた姿を見たときの、あの目だった。ローズ・リタは心の奥まで切り開かれたような気がした。すると鏡は最後にぱっと燃えあがるように光り、暗くなった。
頭がくらくらした。まるで脳をひっかきまわされたようだった。
「グッド・シェパード・ルター派教会だ」ハインリッヒはささやいた。「ここからほんの数キロだよ!」
鏡には自分の恐怖におびえた顔と、こちらをじっと見つめかえすハインリッヒの顔しか映っていなかった。ローズ・リタは大きく息を吸いこんだ。「そこへいかなきゃ」ローズ・リタは言った。「うん」ハインリッヒは、妙にぼうっとした声で言った。「いまいけば、あいつが死んだ人を掘り返すのをとめられる」
ローズ・リタはうなずいた。「馬をつれてきて」
ハインリッヒが二クラスに馬具をつけ、二人は馬の背にまたがった。ローズ・リタはかなり上手に乗れたけれど、ハインリッヒのほうがうまかったので、ローズ・リタはうしろに乗った。夕闇が迫るなか、馬はカツカツと歩き出した。ハインリッヒは音が聞こえないところにくるまで二クラスをゆっくりと歩かせ、それから速度を速めた。
頭のなかでブーンとおかしな音が響いている。いま、頭にあるのは、あの墓場へいって、ストルツフスと対決することだけだった。そして……? なにかほかにもあるはずだけれど、それがなんだかまったく思い出せなかった。まあ、いいわ。墓場へつけばわかることよ。ローズ・リタは邪悪な呪文が二人を呼び寄せているとは、夢にも思わなかった。
身の締まるような寒い夜だった。風が勢いよくふきつけ雪が舞っている。やがて二人は、まるで光を放つかのようにきらきらと輝いている雪をかぶった畑の横を過ぎた。二股に分かれた道にくると、ハインリッヒは馬を右へ進めた。しばらくすると、さっき鏡で見た教会がおぼろげに姿をあらわした。雪におおわれた庭に、醜い巨大な穴が黒々と口をあけているのがぼんやりと見える。ストルツフスが掘っていた場所だった。
二クラスは立ちどまって、不安そうにいなないた。ローズ・リタは馬の背からすべりおり、ハインリッヒも続いた。二人はぽっかりと口をあけた墓のほうへ歩いていった。ローズ・リタはごくんとつばを飲み込んだ。墓から骸骨たちがはい出てきた。あのおそろしい悪夢のことを思い出したのだ。あの穴のなかで、死体が落ちくぼんだ目にカビをはやし、にやりと笑っていたら? 肉のそげおちた腕が飛び出してきて、つかまれたらどうしよう? ばかばかしい。ローズ・リタは自分に言い聞かせた。お墓はもっと深いところにあるはずだ。あの穴はまだ掘りはじめたばかりじゃないの。だって横にどけてある土の山はまだ小さいもの。そうよ……
力強い手ががっしりとローズ・リタの肩をつかんだ。「やはりな」キィキィ声が言った。「思ったとおりだったわけだ。どこかのちっこい小鳥がわしのことを見はってるってな。案の定おまえらがやってきた! さあ、こっちを向くんだ!」
のどがふさがり、あごが凍ったように開かなくなった。叫ぶこともできない。心臓だけが激しく鼓動している。その声にははっきりと、逆らえない響きがあった。ローズ・リタはふりむいた。ハインリッヒもうしろを向いた。
ストルツフスは二人の前に立ちはだかり、勝ちほこったように邪悪な笑みを浮かべた。「おまえたちのおかげで、面倒な仕事をせずにすんだ。凍った地面から死体を掘り出すのは、冗談ごとじゃないからな。材料は新鮮なほうがいいときまってる。さあいっしょにくるんだ!」
ローズ・リタは逃げようとしたけれど、足がなまりのように重かった。馬がガッと駆け出したのが聞こえた。ストルツフスは大声でののしった。「なんてまぬけなんだ。おまえらといっしょに馬にも呪文をかけておくんだった。まあいい。だれにもおまえらの居場所はわからん。見つけることは不可能だ」そしてローズ・リタがぴくぴくひきつっているのに気がつくと、いやらしい笑い声をたてた。「むだだ。おまえらスパイには強い魔法をかけてやった。今回は口がきけなくなるだけじゃないぞ! わしが命令したときしか動けないんだ。わしがほかの魔法に意識を集中していないかぎりはな。いいか、二人ともわしの荷馬車に乗って、静かに寝ているんだ。もっと目的にふさわしい場所につれていってやるからな」
二人はそのとおりにした。まるで冷たい見えない手に、腕と足を動かされているようだった。ローズ・リタとハインリッヒは荷馬車のうしろに並んで横たわった。目の前にストルツフスの背中がそびえ、額や頬に雪が落ちてじんじんした。荷馬車は永遠にも思えるあいだ、ガタゴトと走り続けた。ローズ・リタは、何度も同じような悪夢にうなされたことがあった。死に物ぐるいになってもがいても、身動きひとつできない。なにかおそろしいことが起ころうとしている。なんとか馬が家までたどりついてくれますように。そして、ツィマーマン夫人がどうにかして二人が連れていかれた場所を見つけてくれますように。
とうとう馬車がぎぃーっと音をたてて止まった。そしてまた見えない手に筋肉を動かされるようにして、ローズ・リタとハインリッヒはストルツフスの家へ入っていった。そのまま長くて暗い廊下を抜け、あのヘックスの印で埋めつくされた部屋に入った。部屋の真ん中の大きなテーブルで、黒いろうそくが一本、ぽつんと燃えている。その横には、前にも見た黒い剣と真ちゅうの香炉、それから二枚の鏡があった。そのうち一枚は、ヴァイスさんの納屋にかけたまま置いてきた鏡とうりふたつだった。
ストルツフスは、彫像のように立ちつくしたハインリッヒとローズ・リタを置いて、どこかへいってしまった。しばらくすると、いすと縄をひと巻き持って戻ってきた。「こぞう、おまえは座れ」ストルツフスは命じた。
ハインリッヒが硬直したままいすに座ると、ストルツフスは身動きがとれないように手足を縄で縛った。「一度呪文をとかねばならんのでな。これからもっと強い呪文の準備をする」ストルツフスは言った。「偉大なる魔法の業をじゃまされたくないのだ」
ストルツフスはポケットから大型の懐中時計をひっぱりだして、見た。「まだ時間はある。こうした魔法は正確に行なわなければならない。でないと、うまくいかんのだ。これから行なう魔法は、真夜中の最後の鐘が鳴ると同時に完了したときにだけ働く」ストルツフスはにやにやしながら満足げに二人を見つめた。それからこう言った。「もう少し呪文をかけたままにしておこうかな。おまえらには貸しがある。まずこぞう、おまえはわしがこの世でいちばん憎んでいる家族の一員だ。そして娘、おまえが小ざかしいまねをしおったばかりに、わしは非情に貴重な魔法の本を失った。ほんとうだったらおまえをとらえ息の根をとめてやるはずだったのに。なぜかおまえは逆に読む芸当を知っていて、逆に本を滅ぼしてしまったのだ。さてスパイども、おまえたちはわしがなにをしているか知りたいんだろう? 教えてやろうじゃないか。知ったところでどうせ生きてはおれんのだからな!」
「ヴァイスの農場に宝が埋められているのは知っているだろう。いいか、その宝の正当な持ち主はこのわしなんじゃ! わしの父親は独立戦争でイギリスに仕えていたドイツ兵だった。おやじの隊は、ドニッカーの金を裏切り者どもから取り返す任務を負っていた。宝を盗んだ三人の泥棒のうち、一人がハインリッヒ・ヴァイスだったんだ。ここにいる悪たれこぞうのじいさんさ。ヴァイスはまんまと宝を隠したが、親父はやつをつかまえた」
「そう、おやじはイギリス国王から宝を盗んだ泥棒をつかまえた。それでしかるべき褒美を受けたか? いいや! 戦争が終わると、牢屋に入れられたんだ! 牢屋の中でおやじはハインリッヒ・ヴァイスが隠した金のことばかり考えつづけた。ほんとうだったら自分のものだったはずの金のことをな。ようやく牢屋から出ると、ハインリッヒ・ヴァイスは死んでいた。おやじはヴァイスの家族を追って、この谷へやってきた。ここがヴァイスをつかまえた場所のすぐ近くだったことから、おやじは、金はこのあたりに隠されているはずだとにらんだ。それで母親とわしをドイツから呼び寄せ、この農場を買ったんだ。そしてヴァイスのやつらが宝のありかをあかすのをじっと待っていたわけさ」
ローズ・リタは身をくねらせた――わずかだが、つま先と指先を動かすことができた。いまや、ストルツフスは宝と復讐の妄想にすっかりとらわれていた。どこかねじが一本緩んでるんだわ、とローズ・リタは思った。行方不明のお金はドニッカーの町か、さもなければアメリカ軍のもので、どこをどう見たってストルツフスの父親のものではない。だけど、ストルツフスは明らかにそう思いこんでいて、怒りと欲のせいで、ローズ・リタたちをとらえている呪文から意識がそれつつあった。ローズ・リタは、このまま呪文の力が弱まることを祈った。そうすれば……ともかくなにかはできるはずよ。あそこの窓ガラスにつっこんで逃げるとか、そうじゃなきゃ鏡を割るか、テーブルにおいてある黒い剣をうばってやる。
ストルツフスは怒りに燃え、クモのような足で床を歩きまわった。かんだかい耳ざわりな声はどんどん大きくなった。「こんなへんぴな土地、むかしから大きらいだった。わしはとうぜん金持ちになってしかるべきなんだ! なのに呪わしいヴァイス家のやつらは宝を隠しつづけている。おやじはけっきょくどこに宝があるのか見つけられなかった。だがおやじが死んだとき、わしは宝を探す別の方法を見つけたのさ」
ストルツフスはテーブルを指さした。「わしはヘックスの魔術を学んだ。最初はあるばあさんを見つけて、手ほどきをさせた。そのあとは、そのばあさんが聞いたこともないような本も読んださ! そこにある二枚の鏡を作るためにこのうんざりするような土地のほとんどを売らなければならなかった。それからさらに数年を費やして、とうとう大地の悪魔アジールを呼び出して、思いどおりに操る方法を発見したのだ。わしは賢い男なのだ、スパイども。アジールを扱うには抜け目なくふるまわねばならんからな」
ローズ・リタは、やれば歩けると思った。だがまだその危険を冒すときではない。ストルツフスが近くにいるときはだめだ。もう一度ストルツフスが部屋を歩き回りだしたら、そのとき……
ストルツフスは黒表紙の本をとって、いとしそうになぜた。「そしていま、わしにはアジールと魔法とすばらしい鏡がある」
ハインリッヒは思わず叫んだ。「なら勝手に鏡を使って、ぼくたちのことをほうっておけばいいじゃないか」
ストルツフスはびくっとした。「ほう、どうやらわしは不注意だったようだな。もう一度呪文の力を強めようか」ストルツフスは本を置いて、骨ばった指をふりながらなにやら唱えた。
ローズ・リタはまたひざが硬直したのを感じた。ハインリッヒったら! なんてばかなのよ! まさに逃げようとしたときに、しゃべるとはね!
またすぐに、ストルツフスはしゃべりはじめた。「さあ、静かになったようだな、ん? そんな目でにらみおって! これからすることで、わしのことを憎むだろうが、かまいやせん。おまえのじいさんも父親もわしの一族が富と名誉を得るのをじゃましたんだからな。だからおまえを見るだけでむしずが走るんだ」
「ばかなこぞうだ。どうして鏡を使わないかって? 使ったさ! だがおまえの農場は広い。もう三年通っているが、しかるべき月が出る日は一カ月に一度だ。だが一晩で探すことができる広さは、ほんのわずかでしかない。まだ宝は見つかっていない。それにイヌがほえたり、ランタンを持って出て来るやつがいれば、こそ泥みたいに逃げなければならん。だがおまえの家族が出ていけば、好きなだけ時間をかけられる」ストルツフスは笑った。「邪悪な魔術師が学校を燃やしたり、天気を操ったりしていると信じこませるのは簡単だったよ。じっさい、魔術師がやっているのだからな! わしにだまされてドレクセルじいさまのじじいを嫌っているばかどもは、わしが魔術師だとは夢には思わんのだ。やまえのところのおいぼれでなく、このわしがな!」
ストルツフスはもう一度時計を見た。「わしのじゃまをしないでいればよかったんだ。だがおまえはこそこそかぎまわった。もう何カ月も前に越したってよかったのに、おまえらはしつこく居座った。運が悪かったな! いいか、わしは家と土地をひきかえに金を借りた。四月一日に残った土地にかけられた抵当のぶんを払わなければ、それもなくしちまうんだ。わしにはもう時間がない。そしておまえたちもな!」
魔術師は声を低くした。まるでローズ・リタと同じくらいおびているような声だった。「アジールに宝のありかを示させるのは、危険な魔法だということは知っておる。アジールのいる世界への門を開くためには、大きいほうの鏡を使わねばならん。そして伺いをたてるのだ」
ストルツフスが残忍な顔をゆがめると、汚れてねじけた歯がむきだしになった。「アジールはそうしたことを教える見かえりにみつぎ物を要求する。人間の血と心臓をな。だから死体を掘っていたんだ。だがおまえたちがきた! 最初の心臓はおまえのだ、娘。そして次のはこぞう。アジールもちょっとしたおまけがあれば喜ぶだろう。さあ、そろそろ用意せねばならん。呪文は真夜中になる直線にはじめなければならないからな」このおそろしい老人は、ハインリッヒとローズ・リタにも見えるように時計を持ちあげた。「おまえら二人の命はあと三時間もないのだ!」
11
その夜の十時ごろ、ツィマーマン夫人はローズ・リタがいないのに気づいた。ヒルダにローズ・リタを見かけたかきいたけれど、ヒルダは首をふった。それからしばらくのあいだ、ヴァイスさんたちの家のシーツをたたんで荷物につめるのを手伝ったけれど、なにかがおかしいという気持ちはしつこくつきまとった。説明するのはむずかしいが、ツィマーマン夫人は危険に対する第六感のようなものを持っており、それは魔法の力を失ったあとでもなくなっていなかった。そしていま、その第六感が頭の片隅で、ローズ・リタが危ない目にあっている、一刻も早く行動しなければならない、と叫んでいた。
そこでツィマーマン夫人はランタンを持って、表へ出た。それから納屋をのぞくのに、そう時間はかからなかった。ひとめ見てツィマーマン夫人は息をのんだ。床の上に魔法の円が未熟だけれど正確に描かれ、扉の横のクギに自分の鏡がかかっている。開いたドアから風が入り、石の床の上をなにかがカサカサと舞った。ツィマーマン夫人がなかに入って拾い上げると、ドレクセルじいさまがアルベルトゥスマグヌスの本から訳した魔法の呪文だった。これからのものからツィマーマン夫人が答えを導き出すのに、そうはかからなかった。ローズ・リタがどこにいったのかはまだわからないけれど、どこからはじめればいいかはわかったのだ。ツィマーマン夫人は家に戻ると、ヒルダにいっしょにきてくれるように頼み、二階のドレクセルじいさまの部屋へいった。
じいさまは衰弱し、息もひどく苦しそうだった。ツィマーマン夫人は、見つけたことをかいつまんで話した。「手伝おう」じいさまはつぶやいたけれど、体を起こすこともできなかった。
「だめです」ツィマーマン夫人は言った。「ヒルダに力があることはわかっています。こんなことはほんとうはたのみたくないけれど、ヒルダの力を借りるしかありません。わたしといっしょに鏡を使って、ローズ・リタになにがおこったのか、見つけ出してほしいんです」
おそろしい沈黙のあと、じいさまはうなずいた。「わかった」そして言った。「すまん、ヒルダや。だが、それしかない。わしでは力がたりん。魔法の円の加護があっても、魔法の力を持たぬ者は、悪魔の鏡の作り手に正体を見ぬかれ、とらえられてしまう危険があるんじゃ。もしおまえに勇気があれば、やってみてほしい」
「やるわ」ヒルダは答えた。ヒルダは自分の部屋へいってローズ・リタに見せたクリスタルをとってくると、ツィマーマン夫人と二人で納屋へいった。そして用心深く魔法の円に足をふみいれ、ツィマーマン夫人はヒルダの肩にしっかりと手を置き、ヒルダは魔法の呪文を唱えはじめた。両手に包むように持ったクリスタルの玉が、美しいばら色の光を放ちはじめた。まもなく鏡もその色を映すように、ピンク色に輝きだした。それを見て、ツィマーマン夫人は心強く感じた。カ鏡に宿った邪悪な力の発する冷気は冷たい青で、生き生きとした暖かなピンクではなかった。
すると、あの夜と同じように、鏡がとつぜん暗くなり、何も映らなくなった。「あっ!」ツィマーマン夫人は叫んだ。
鏡にはおそろしい光景が映し出されていた。ヘックスサインの描かれた部屋で、ハインリッヒ・ヴァイスがいすに縛りつけられている。背の高いやせた男が、納屋の壁にかかっているこの鏡とそっくりの四角い鏡の前に立ち、その前のテーブルに、ローズ・リタが横たわって怯えた目を大きく見開いていた。男は呪文を唱えているようだったけれど、声は聞こえなかった。
「ストルツフスさんだわ!」ヒルダが言った。
鏡は暗くなり、ばら色の光は消えた。一瞬待ってからツィマーマン夫人は魔法の円を出て、鏡をつかんだ。「いきましょう」ツィマーマン夫人は言った。「あそこへいかなきゃ。おとうさんはどこ?」
ヒルダは首をふった。「いまのより大きい荷馬車を買うのに、おにいさんたちととなりの町へいったわ。シュタインブリュッケの人たちは売ってくれなかったの。いつ帰ってくるか知らない。明日の朝までは帰らないと思う」
「なら、わたしたち二人だけってことね」ツィマーマン夫人は鏡をわきに抱えた。「わたしたちに使える一頭だての馬車か荷馬車はある?」
「ええ」ヒルダは言った。「一頭だての馬車ならまだ引越しの荷物を積んでいないわ。でも、おとうさんが馬たちをつれていっちゃった。ラバは強情で暗くなってからじゃ、馬車をひかないのよ!」
二人は歩いて納屋を出たが、庭にニクラスがいた。大きな栗毛の馬は、寒い墓地を出てまっすぐ帰ってきたのだ。ツィマーマン夫人は若いころ馬と馬車のことを覚えておいてほんとうによかったと思いながら、二クラスをすばやく馬車につないだ。そして鏡をのせ、自分ものりこんだ。そのあとからヒルダものった。「危険かもしれない」ツィマーマン夫人は言った。「あれはまちがいなく黒魔術よ!」
「だいじょうぶ」ヒルダは答えた。「ハインリッヒは弟だし、ローズ・リタは友だちだもの。二人を助けなくちゃ」
ヒルダの道案内にしたがって、ツィマーマン夫人は馬をせきたて暗い夜道を急がせた。だが、二クラスはひどく疲れていた。おまけに寒く、馬車をひくのにあまり熱心とは言えなかったから、二人はゆっくりとしか進めなかった。ストルツフスの農場を見下ろす丘の頂上まできたときには、十一時をすぎ、風と雪も激しさをましていた。どうやら本格的な雪あらしになりそうだった。
「あそこよ」ヒルダは言った。「光が見える?」
たしかに、暗闇にぼんやりとした赤い四角の光が見えた。ストルツフスの家の窓から、ランプかろうそくの光が漏れているのだろう。ツィマーマン夫人は馬を道のわきに進め、小さな木につないだ。「気をつけて音を立てないようにするのよ」そう言って、ツィマーマン夫人とヒルダは丘をくだりはじめた。
あたりは真っ暗で足取りは遅々として進まなかった。フクロウがホーホーとぶきみな声で繰り返し鳴き、どこか遠くでイヌが悲しげにほえていた。はだかの木々のあいだを詰めたい風が物悲しい音をたてながら吹き抜け、畑をおおっている氷の上にまた新たに雪がふりつもった。ツィマーマン夫人はぶるっと震えた。でもそれは、寒さのせいだけではなかった。冷たい青い光を放っている氷の膜は、あの真っ赤な目が記憶を奪おうと襲いかかってくる直前に見た鏡の光を思いださせた。今も鏡はかたわらにあったが、かすかに青いきらめきを放っていることにツィマーマン夫人は気づいた。ツィマーマン夫人は万一にそなえて顔をそむけ、ヒルダにも見ないように言った。
二人はそっと家に近づき、ぐるりとまわってみた。日よけはおりているけれど、幅が足りなくてはしから少し先がもれている。窓がひとつあった。ツィマーマン夫人はそろそろとその窓に近づき、なかをのぞきこんだ。
見たとたん、心臓が凍りつきそうになった。鏡に映ったのとまさに同じ光景だった。ローズ・リタが硬直したようにテーブルに横たわり、その向こうで、イスに縛られさるぐつわをはめたハインリッヒが、縄を解こうと身もだえしている。ストルツフスは両腕を上げ、なにか呪文を唱えている。唱えている相手は見えなかったけれど、ちょうど目の高さでやや左側にあるようだ。おそらくストルツフスは鏡を壁にかけ、呪文を唱えているのだろう。ツィマーマン夫人はそう思ってぞっとした。この世と悪魔の支配するおそろしい世界とのあいだに、道をひらこうとしているのだ。ツィマーマン夫人は魔法を学んでいたから、こうした邪悪な魔法は真夜中に行なうのがいちばんいいことはよく知っていた。そして真夜中はもうすぐではないか!
「いらっしゃい」ツィマーマン夫人はヒルダにささやいた。二人はそっと家の裏へ回った。ツィマーマン夫人はドアのノブをまわしてみたけれど、しっかりかぎがかかっていた。「例のクリスタルを出して」ツィマーマン夫人はヒルダに言った。「わたしが呪文を教えるわ」
ヒルダはツィマーマン夫人の横で震えながらクリスタルを出した。玉は優しい暖かな光を放っていた。色はやはり美しいばら色だった。「どうすればいいの?」
ツィマーマン夫人は一瞬だまった。それから、複雑な表情でヒルダを見つめた。「これはわたしが習ったはじめての呪文と言っていいわ。ウェザビーばあさまという人に教わったのよ。善い魔女が邪悪な魔術師のかけた封鎖の魔法を解くのに使うの。このドアを開かないようにしているような魔法をね。わたしの言うとおりくりかえして」ツィマーマン夫人はもう自分ではかけることのできない魔法の言葉をヒルダにささやいた。
ヒルダは震える声で呪文をくりかえした。最後の言葉を唱えると、クリスタルがかあっと燃えるように輝き、一筋の細い光がドアのノブをまっすぐ射た。ツィマーマン夫人がもう一度試すと、ノブは回り、ドアが音もなく開いた。
ツィマーマン夫人はかがんでヒルダの耳にささやいた。「わたしがあの男の気をひくから、ハインリッヒの縄を解いてあげて、わたしになにがあっても、あなたたちは馬車へ戻って、できるだけ早く家へ戻るのよ。待ってはだめ!」
二人はそっと廊下を進み、ドアの隙間からちらちらともれる青い光のほうへ歩いていった。ドアは開いていた。ストルツフスは、自分のやっていることに気づく者などいないとたかをくくっていたのだ。二人がドアまでたどりついたそのとき、家のどこかで時計が鳴りはじめた。おそろしく不吉な音《ね》だった。十二時、魔法がもっとも強力に働く時間がきたのだ!
ツィマーマン夫人は一歩部屋に入って、思わず息をのんだ。横でヒルダが押し殺した悲鳴をあげた。ストルツフスが背中を向け、その前のテーブルにローズ・リタが仰向けに横たわっていた。右足のすぐ横に、巨大なナイフが突き刺さっているその向こうの壁に、ツィマーマン夫人の鏡とうりふたつの鏡がかかっていた。そして鏡のなかに、おそろしい霊の姿があった。
ツィマーマン夫人はその姿を直接見なかったが、どん欲な飢えと、そこしれぬ悪意、そして執念深い憎しみを感じた。目の前にいるのが悪魔的な存在であることは、言われるまでもなかった。鏡に映ったその暗い姿は、破滅をもたらす力を発していた――ちらちらと輝く青い光は、寝苦しい夏の夜にひらめく稲光を思わせた。
時計は十二時を打ちつづけていた。ストルツフスは二人が部屋に忍びこんできたことにさえ気づいていなかった。そして、ぞっとするような金切り声をあげた。「アジール! 偉大なるアジールよ! ここに飲み物と食べ物を捧げよう! かわりにわがつつましき質問に答えたまえ! いますぐ答えを。されば、渇きをいやすワインと力を与える肉を得られよう。わが捜し求める宝はいずこに?」
するとなにかが起こった。ツィマーマン夫人はよろめいた。ヒルダはさっき右によけ、ハインリッヒを縛っていた縄を切った。しかし、ツィマーマン夫人はストルツフスのうしろ、つまりアジールの答え≠フ通り道にいた。それは声ではなかった。人間の耳に聞きとることのできる言語ではなく、巨大な黒い波のように押し寄せる感覚だったるツィマーマン夫人にとってはなんの意味も持たなかったけれど、ストルツフスが勝ちほこって歓声をあげたのがぼんやりと聞こえた。そのとき十二時の最後の鐘がなった。燃えさしのように赤々と燃える悪意に満ちた目が、鏡のなかからのぞいた。逆らうことのできない飢えた心底邪悪な目だった。
なにも考えずにツィマーマン夫人は手に持っていた鏡をかかげ、いまわしい視線から身を守ろうとした。次の瞬間、悪魔の力がふっと弱まったのを感じた。ツィマーマン夫人はおそるおそる鏡の縁からのぞいた。
ぐうぜんツィマーマン夫人は鏡をちょうど壁にかかったストルツフスの鏡の真正面にかかげていた。ツィマーマン夫人の鏡にストルツフスの鏡が、そしてストルツフスの鏡にはツィマーマン夫人の鏡が映っている。ぎらぎら光る赤い目が、何度も何度も映し出され、果てしなく続いていた。壁の鏡から流れ出している闇の力は、ツィマーマン夫人の鏡に受けとめられ、送り返されていた。
そしてふたつの鏡のあいだに、ストルツフスがいた。ストルツフスは大きなナイフを高くふりあげていた。かんだかい声でなにか叫んでいる。ナイフがおろされた!
カン! 剣がくるくると回転しながら飛んできてストルツフスの腕にあたり、ナイフが宙に舞った。縄がとけたハインリッヒがとびついて剣をとり投げたのだ。ハインリッヒは叫んだ。「逃げるんだ、ローズ・リタ!」
「だめだ!」ストルツフスはローズ・リタの腕をつかんだが、ローズ・リタは動けるようになっていた! 転がるようにテーブルからおりると、すばやく身をかわした。
暗く、声のない笑いが部屋じゅうの光を飲みつくした。ツィマーマン夫人は、鏡を持っている手が強く引っ張られるのを感じた。まるで強力な磁石が、同じように強力な磁石にひきよせられるのをおさえているようだ。鏡をつかまえていなければならないのか、放していいのか、ツィマーマン夫人はよくわからなかった。
そのときはじめてストルツフスは部屋に侵入者がいるのに気づいた。ストルツフスはぱっと鏡から顔をそむけ、目をおおった――が、今度はツィマーマン夫人の鏡からにらむ憎しみ満ちた赤い目につかまった。ストルツフスは逃げようとしたが、さっきまでローズ・リタとハインリッヒを捕えるのに使っていた同じ力に、今度は自分が捕えられた。ストルツフスは悲鳴をあげた。「ちがう、ちがう! わしじゃない! あいつらをつれていってくれ、命令だ!」
ふたたび暗く声のない笑いが響きわたった。ツィマーマン夫人は目をしばたたいた。ストルツフスの姿が薄れていく。体が同時にふたつの方向に引っ張られ、みるみるうちに黒い煙のようになった。ストルツフスはおそろしい悲鳴をあげ、目をおおおうとした。
だが遅かった。ストルツフスの体は、もはやふたつのかがみをつなぐ一筋の黒い煙でしかなくなった。魔法の力が弱まり、ツィマーマン夫人はあらがえなくなった。鏡はツィマーマン夫人の手をはなれ、ものすごい勢いで空中に飛び出し、反対側の壁に激突した。音のない爆発が起こり、強烈な青い光がひらめいて……
そして鏡は二枚とも跡形もなく消え去った。
ストルツフスの姿はどこにもなかった。
しかし――ツィマーマン夫人はそう考えて身震いした――悪魔アジールか゛すばらしい晩餐を楽しんだことだけはたしかだった。
12
「いまごろは家に帰ってると思ってたのに」ローズ・リタは文句を言った。
あれからまるまる一週間がすぎていた。ストルツフスが最期をむかえた夜、ローズ・リタとツィマーマン夫人とヒルダとハインリッヒは荒れ狂う雪あらしのなかを必死になって進み、なんとかヴァイス農場まで戻った。そして家族のみんなに、邪悪な魔術師のたくらみをすべて話した。次の日、四月一日は、一家は雪にとじこめられてしまったが、午後にはあらしもやんだ。そして翌朝、ヴァイスさんと近所の人たちは馬車に乗って、ストルツフスの農場へいった。そこで見つけたものを見て、谷に災いをもたらした邪悪な魔術師はドレクセルじいさまでなく、ストルツフスだとだれもが納得した。黒魔術の本や、黒いろうそくや人間の骨やろう人形など、魔術に使う道具の数々が発見されたのだ。人形のひとつはドレクセルじいさまに似ていた。人形たちはじいさまのもとに持ちこまれ、じいさまはそれを受け取って清めの儀式を行なった。次の朝、じいさまはベッドから起きあがり、ツィマーマン夫人とローズ・リタがこれまで見たこともないほど元気になった。同じ日に、ほかにも谷で三人の人たちが、長いあいだ苦しんでいた病から奇跡的に回復したと聞いた。
ストルツフスに関しては、どこへいったのかまったく手がかりは見つからなかった。自分の悪行が発覚して逃げたのだと考える人もいるし、真実を言いあてた人たちもいた――闇の力につれさられたのだと。ほんとうのことを知っている四人、つまりローズ・リタとツィマーマン夫人とヒルダとハインリッヒは、この現実とは思えない話については口を閉ざしていようと決めた。こうした話を信じる人もたくさんいるけれど、一方で四人がどうかしてしまったと考える人たちも必ずいるからだ。けれど、谷の人たちがストルツフスの運命をどう考えたかは別として、ストルツフスがいなくなって谷の生活がよくなったとだれもが感じているようだった。
その四月の最初の週に、天気もよくなった。太陽は日に日に暖かになり、雪も本格的にとけはじめた。とうとう春の雪解けがやってきたのだ。その週の終わりに、谷を代表して農場主やおくさんたちがヴァイス農場へやってきて、食べ物をくれたり、涙を流して謝ったりした。ヴァイス夫人は長いあいだいろいろあったけれど、なによりもそれがうれしくてしょうがないようすだった。ヴァイスさんたちは引っ越す必要はなくなった。ドレクセルじいさまの命は救われたのだ。けれど、ツィマーマン夫人とローズ・リタが自分たちの時代に戻れるというきざしはいっこうに現われなかった。「なにかまだやりのこしていることがあるのよ」ツィマーマン夫人は言った。「ほかにまだ、ウェザビーばあさまがしてほしいと思っていることがあるんだわ。でもいったいなにかわからない」
二人は台所のテーブルに座って、あつあつの紅茶を飲んでいた。ローズ・リタはげっそりと疲れた顔をしていた。「家に帰ったらママに殺されるわ。もう何カ月も帰ってないんだもの! もう二度とツィマーマン夫人のところにいかせてもらえないわ」ローズ・リタはジーンズのポケットに手を入れて、しわくちゃになった紙を取り出した。「やりのこしたことって、このばかばかしい宝のことだと思う?」
ツィマーマン夫人は紙を手にとって、しわを伸ばした。フラクター文字のことはすでにローズ・リタからぜんぶ聞いていた。もとの紙も見たけれど、ツィマーマン夫人にも意味はわからなかった。「そうかもね」ツィマーマン夫人は鼻にしわを寄せた。「あんまりできのいい詩じゃないわね」
「ひどいもんだわ」ローズ・リタは言った。「だって、この生きる(live)ってスペルを見てよ。まるでローマ数字のIIV(54)みたい。ハインリッヒのおじいさんは……」ローズ・リタはとつぜん口をつぐんで、紙をひったくった。「そうよ! それよ! 生きる≠カゃなくて54なのよ!」
ローズ・リタはさっと立ちあがると、ハインリッヒとヒルダの名前を叫びながら家じゅう走りまわった。
二人といっしょに、ヴァイスさんとヴァイス夫人、それからドレクセルじいさまもきた。「どうしたの?」ヴァイス夫人は言った。「あんなふうに叫んだりわめいたり笑ったり。どこかの若者があなたのおとうさんにけっこん……」
ローズ・リタは詩の写しをバンとテーブルに置いた。「謎を解いたの!」ローズ・リタは叫んだ。「見て。これは暗号なんかじゃないのよ。詩を読む方法なの。それぞれの行のいちばん最初の言葉だけ読んでみて。右から左まで。つまり、最初のものが財宝を手に入れる≠チてわけ!」ローズ・リタはジーンズのポケットに入っていた短いエンピツを出して、それぞれの行のいちばん始めの言葉に線をひいた。
自由の民よ、独立の富を見い出すために
歩め《――》、自由の子らよ
北には《―――》仲間たちが息絶え、横たわっている。
|生きる(liv)《――――――》のだ、自由を胸に抱き
進む《――》敵の足は重い
はじまりは《―――――》ボストン、コンコード、そしてレキシントンからも
|コテージ《―――――》というコテージから息子たちが送られ、
岩《―》のようなイギリス兵士の心を揺さぶり
そして《―――》なおわれらは強く、勇敢に
結べ《――》、反抗の心と勇気を
大いなる《――――》心は、われらのはためく旗のもとに
木と《――》川が武器を隠し
そして《―――》戦いの警鐘が打ち鳴らされ、
山《―》や丘や谷に深く
掘るのだ《――――》、キツネのごとく隠れ家を
わが《――》信仰を守り
宝《―》なる自由を手に入れよ
ハインリッヒ・ヴァイス記す――MIDCCLXXVV
最初のものが財宝を手に入れるであろう
ヘルマン・ヴァイスは目をパチパチさせて、ゆっくりと声に出して読んだ「歩め、北に、五十四、進む。はじまりは、コテージ、岩、そして、結べ、大いなる、木と、そして、山、掘るのだ、わが、宝。なんてこったい!」
「おとうさん」ヴァイス夫人は言った。「大いなる木っていうのは、おかあさんがおにいさんやおとうさんにぜったい切らせなかったあのオークの古木よ!」
「シャベルをとってくる」ヴァイスさんは言った。
詩の説明はよくわからないところもあったけれど、一日掘りつづけたあとで、ヘルマン・ヴァイスは歓声をあげた。ヴァイスさんと息子たちは、掘った穴から木のひつをひっぱりあげた。真ちゅうの帯は長い年月を経て緑色に変わっていた。てこを使ってさびたかぎをこじ開け、ふたをもちあげると、何百枚もの金貨がきらきらときらめいた。
「これで」ハインリッヒは息を切らしながら、うれしそうに言った。「ぼくたちは大金持ちだ! もう引っ越さなくてすむんだ、ずっと!」
ローズ・リタとツィマーマン夫人は立って、そのようすを眺めていた。宝捜したちが発見した宝のとほうもない重さによろめきながら家へ戻っていくうしろから、二人もついていった。台所のテーブルのまわりに家族全員が集まり、ヴァイス夫人が興奮したようすで金貨を数えて積みあげた。
けれどもツィマーマン夫人とローズ・リタはつせない悲しみを感じながら、戸口にたたずんでいた。「おいで」優しいささやき声がした。「見せたいものがある」
ドレクセルじいさまだった。すっかり元気をとりもどしている。じいさまは二人を二階の自分の部屋へつれていった。そしてドアを閉めると、二人を座らせた。「知っとると思うが、谷の人たちはストルツフスの家で見つけた魔法の品をすべて壊した。壊さなかったのはろう人形と、これだけだ」ドレクセルじいさまは引き出しのなかから小さなまるい鏡を取り出した。そしてツィマーマン夫人に渡した。「鏡にかけられた邪悪な呪文は取りのぞいておいた。いまは善き鏡だ。やおまえさんの友だちから、話があるんじゃないかな。わしは外で待っていよう」そしてじいさまは立ちあがると、足をひきずって出ていった。
ローズ・リタは立ちあがって、ツィマーマン夫人の肩越しに眺めた。まるい鏡は四角い鏡よりずっと小さかった。奥のほうにぽつんとばら色の光が見える。ゆっくりと光が明るさを増したかと思うと、ぱっと美しい老婦人の顔が現われた。髪は雪のように真っ白で、顔に深いしわが刻まれている。けれど、黒い目は生き生きと輝いていた。ローズ・リタは鏡のなかの婦人が話すのを、聞くのでなく感じた。「ありがとう、フローリーや。おまえは大いなる不正を正してくれた。これで、おまえさんの時代に戻れる。そして望みのものを見出すだろう。これで最後だよ、フローリー、さようなら」
「待って!」ツィマーマン夫人は叫んだ。けれど鏡は暗くなり、一瞬のちにパリッと音がした。ジグザグのひびが入っていた。ツィマーマン夫人はため息をついた。「鏡は横にひび割れて」それからさっと立ちあがった。「ベッシィが待ってる」ツィマーマン夫人はローズ・リタに言った。「時間がないわ」
二人はわざわざとどまって、興奮しているヴァイス家の人たちにさよならを言うことはしなかった。ドレクセルじいさまだけが二人を見送った。ローズ・リタは涙がわきあがってくるのを感じた。「ヒルダのことをどんなに好きだったか、言いたかった」ローズ・リタは言った。「それに、ハインリッヒにちゃんとお礼も言ってなかった。もしハインリッヒが剣を投げてくれなかったら、わたしはいまここにいないんだもの!」
「二人ともおまえさんの気持ちはわかっておるよ」ドレクセルじいさまは優しく言った。「さあ急ぎなさい。こうしたことは毎日起こるわけじゃない。さあうちへお帰り。忘れてはならんよ。しっかり信じるんだ。心の底からな。そうすれば帰れる!」じいさまはお別れに手をふった。
すっかり春めいて、フラーズ・ヒルへの長い道のりも暖かだった。てくてくと丘の道をのぼっていくとやがてロードデンドロンの茂みが現われ、ようやく二人はベッシィに乗りこんだ。「こんなに長いあいだ置きっぱなしでちゃんとエンジンがかかるかしら」ツィマーマン夫人はぶつぶつと言った。車の外側は、泥と木の葉と鳥のふんがそこらいじゅうについていて、ひどいありさまだった。あつく茂ったやぶが暖かな太陽の光をさえぎっていたため、なかも冷え冷えとしてさびしいにおいがした。「さあて」ツィマーマン夫人は言った。「やるしかないわね!」
エンジンは一発でかかった。ツィマーマン夫人がエンジンをふかすと、ラジオにバリバリと雑音が入った。ツィマーマン夫人はにっこり笑った。「いっちょう上がり。さあ次はここから脱出よ」
ツィマーマン夫人は慎重にプリマスをバックさせて茂みから出すと、うまく操作して、数分後にはUターンさせた。それからゆっくりと道をあがっていくと、間もなく例の山道が花崗岩の崖から大きく左へカーブしているところまできた。「ドレクセルじいさまはなんて言ってた?」ツィマーマン夫人はたずねた。「心の底から信じなさい、よね? さあ、あそこがトンネルのあるはずのところよ。もしあるとすればね。そう信じていれば、まっすぐあの崖に向かっていくことになる。覚悟はいい?」
ローズ・リタはごくりとつばを飲みこんだ。「うん」
「さあいきますよ!」ツィマーマン夫人は冗談を言っているのではなかった。ツィマーマン夫人がアクセルをぐっとふみこむと、ベッシィは勢いよく発進した。崖が二人に向かってほえているようだ。早く、どんどん早く。ローズ・リタはひじかけをつかんで、ぐっとにぎった。信じろ、信じろ、ローズ・リタは自分に言い聞かせた。目を閉じたい。でもそんなことをしたら……
岸壁が目の前に迫った!
ブーン! おかしな音がした。車がトンネルに入ったときのような音だ。そしてすべてが真っ暗になった。次の瞬間、頭上で蛍光灯がぱっと輝き、前方に夏の暑いぎらぎらとした陽光が半円形に浮かびあがった。あっというまに、車は外気のなかに飛び出した。ラジオから興奮したアナウンサーののどなり声が聞こえた。「クライド・ボルマーの打球はフェンスを越えた! すごい試合だ! ぼるまーの満塁ホームラン、レッド・ソックスは十六イニング目にして八対四で勝ちました!」
「戻ってきたわ!」ローズ・リタは声を張り上げた。「ほんとうに、まちがいなく戻ってきたのよ!」
ツィマーマン夫人はベッシィを道路わきにつけた。手はぶるぶる震えていた。「ええ」ツィマーマン夫人は言った。「それに、これは何週間も前に聴いていたのと同じ試合よ。一九五一年では一日もたっていないわ ああ、ありがとう、ウェザビーばあさま!」
二人はこのあとの計画をたてた。ローズ・リタはまっすぐニュー・ゼベダイへ帰りたいと言った。まるで何週間も帰っていないような気がしていた。けれど、ツィマーマン夫人は、世の中の知るかぎりでは、二人は一日も失ってはいないということをローズ・リタに思い出させた。最後にはローズ・リタもしぶしぶと承知し、まるでなにごともなかったように旅行を続けることにした。
そこで二人はUターンし、一瞬ためらってからまたトンネルに入った。今度は、反対側へ出たときもまだ同じ現代的なハイウェイだった。二人はヴァイス農場があったところを見つけた。道路の左側にコテージ・ロックがいまもまだ、そびえるように立っていたからだ。けれど農場は、ヴァイスバーグという小さな村になっていた。二人はそのまま、村に入っていった。村はとてもすてきなところだった。ローズ・リタとツィマーマン夫人は、〈ハリーとベティ・ヴァイスの店〉という食堂に入り、ツィマーマン夫人は店の主人と話をした。ハリー・ヴァイスはまちがいなくヘルマンの子孫だった。同じまんまるの赤い顔と青い目の持ち主で、自分の家族はむかしからここに住んでいるのだ、と言った。そして一族のお墓が、町を出てすぐのところにあると教えてくれた。ツィマーマン夫人とローズ・リタはしばらくうろうろしたあと古い墓地を見つけ、ゆっくりと散策したが、上品な大理石の墓石の前で足を止めた。墓石には、最愛なる義父ウィルヘルム・ペーター・ドレクセルここに眠る 1751〜1844≠ニあった。
ローズ・リタは悲しくなったけれど、ツィマーマン夫人は言った。「じいさまは寿命をまっとうしたのよ。一八二八年で亡くなりはしなかった。わたしたちはほんとうに歴史を変えた。そしてそれは夢でも幻覚でもない」
けれどツィマーマン夫人も悲しかったにちがいなかった。なぜなら二人とも、これ以上お墓を探すのはやめにしたからだ。それから二人は引き続き、ペンシルヴァニアダッチの村を見てまわった。ストーンブリッジにも何日か泊まったが、村の古道具屋でツィマーマン夫人は、壊れた古いランプを見つけた。台座は三本の青銅のかぎづめで支えられていた。「グリフィンの爪よ」ツィマーマンは言った。「これがグリフィンの爪じゃなかったら、わたしは魔よけ学を知らないことになるわ。電気はつかないかもしれないけれど、グリフィンは身近に置いておくと幸運を運んでくるんですよ。二十五セントで買うわ」
二人は休暇を楽しんだ。恐怖と絶望の暗雲は晴れた。が、ローズ・リタの心には、後悔の念がいまも消えずにくすぶっていた。ペンシルヴァニアですごす最後の晩、二人はまた民宿に泊まっていた。ツィマーマン夫人がチェスをしようと誘うと、ローズ・リタは首をふってため息をついた。
「まったく、このおじょうさんときたら! これなんだから!」ツィマーマン夫人は言った。「まるで歯痛でもおこしているみたいな陰気な顔して。さあローズ・リタ、いったいぜんたいなんだっていうの?」
ローズ・リタは情けない表情を浮かべて言った。「わたしはなにもかもやりそこなったんだわ! それで自分じゃ賢いつもりだった。よけいなことに鼻をつっこんで、ストルツフスに呪いをかけられた。それから魔法に手を出して、もう少しで悪魔に食われそうになった。なのにまた同じことをして、今度は自分だけじゃなくハインリッヒまで殺されかけたのよ。わたしにはひとりでなにかする資格なんてないんだわ。見張りがいるのよ」
ツィマーマン夫人はいらいらしたように鼻を鳴らした。「くだらない。いい、よく聞きなさい。一度しか言いませんからね。あなたがやったことはぜんぶ、取れやヴァイスさんたちやわたしを助けようと思ってやったことでしょ。計画したとおりにうまくいかなかったからってそれがなに? あなたはやろうとしたのよ――それが大切なんじゃない! それにすべてが悪い方向へいったときも、あなたは立ち向かったわ」
ローズ・リタは目をしばたたかせた。「でも、ほんとうだったらツィマーマン夫人にどうすればいいかきいて、助けてもらわなくちゃいけなかったんだわ……」
ツィマーマン夫人は片手をあげて、ローズ・リタを制した。「ローズ・リタ、わたしはいつもあなたのそばにいて助けてあげられるわけじゃないのよ。ぜんぶひとりでやらなければならないときがいずれくる。今度の旅行でも、そうだった。そしてあなたは周りの人のために、強い意志と勇気を持ってふるまった」
ローズ・リタはまばたきをした。「これからはひとりでやれってこと?」
ツィマーマン夫人はのけぞって笑った。「もちろんちがいますよ、おばかさんね。あなたは前にわたしになんて言った? だって友だちだもの。どんなときでもね!=v
ローズ・リタは鼻をすすってにっこり笑い、二人の合言葉をひきついで言った。「とことん最後までつきあうわ! いずれ悪いときが終わっていいときがくる!」
「そのとおり」ツィマーマン夫人は笑いながら言った。「わたしも同じ!」そう言ってツィマーマン夫人は手を差し出した。「さあ、握手!」
ローズ・リタは友人の手をにぎった。そうしてなにもかもまた元通りになった。次の日、二人はストーンブリッジへひきかえし、フラーズ・ヒルをのぼった。そして、二人の前から消えた例のトンネルの前までくると、ローズ・リタはついに車をわきに寄せるようたのんだ。
「どうしてこんなところでとまりたいのかわからないわ」ツィマーマン夫人は文句を言った。「こっちから入って向こう側から出たところで、二〇五一年にいけるわけじゃないのよ」
ローズ・リタは車からおりた。暑い八月にこんなところを通る車は少なかった。その崖はもう見なれていたけれど、最後にここにきたのは、晩冬の月明かりに照らされた夜だったから、まったく同じではなかった。それでもとうとう、ローズ・リタは探していたものを見つけた。岩肌に古い傷がかすかに残っていた。長いまっすぐの横線と縦線で描かれた大きな+印の真ん中には、ふかふかした緑のこけが生えていた。
「なにか掘るものをかして」ローズ・リタが言った。
二人はねじまわしを使った。ローズ・リタが隠したものはまだそこにあった。長い年月が過ぎていくあいだ、岩に自然に開いた穴の底に、土に抱かれて眠っていたのだ。ローズ・リタはうしろへ下がった。「ドレクセルじいさまは、ツィマーマン夫人が最初にさわらなければならないって言ってた。さあ、とって」
ふしぎそうな顔をして、ツィマーマン夫人はおそるおそる手を穴に入れた。そしてなにかゴルフボールくらいの大きさのものを取り出した。テッシュで泥を通すと、手の中にクリスタルの玉があった。「ローズ・リタ、これは?」ツィマーマン夫人は震え声できいた。
「ドレクセルじいさまがツィマーマン夫人のために作ってくれたの」
ツィマーマン夫人はクリスタルの玉を手にのせたまま、言葉を失って立ちつくした。玉は夏の太陽にも負けずに、美しい深紫の光を燦然と放っていた。「ああ、ローズ・リタ」ツィマーマン夫人はつぶやくように言った。「なんてお礼を言ったらいいのか……」
そしてツィマーマン夫人とローズ・リタはかたく抱き合い、われを忘れて笑いつづけた。一、二台車が通ったけれど、一台も止まらなかった。ちょうどよかったのだ。これは二人の親友だけで分かつべき、最高に幸せな瞬間だったのだから。
13
ペンシルヴァニアから戻って二週間たった月曜の朝、ツィマーマン夫人とローズ・リタはヒームソスの〈レクサル・ドラッグストア〉の前のバス停でジョナサンとルイス・バーナヴェルトを待っていた。ジョナサンたちはロンドンからニューヨークに飛び、それからトリードまで列車に乗ってグレイハウンドのバスに乗り換え、旅客列車の、通っていないニュー・ゼベダイへ帰ってくる予定だった。
ルイスが歩道におりたつと、ローズ・リタはにやりとした。ルイスは不機嫌で汗だくでげっそりしていた――まさにこれこそ長旅から帰ってきた人、といった風情だ。けれどローズ・リタを見たとたん、にやっと笑いかえした。うしろからくたびれきったようすでジョナサン・バーナルヴェルトがおりてきた。青い作業シャツとカーキのウォッシュパンツはしわくちゃで、ぼさぼさの赤いひげは、バスの座席に寄りかかって寝たとき、下になっていたほうがぺしゃんこになっていた。「やあ、紫ばあさん!」ジョナサンはあたりに響きわたるような声で叫ぶと、バスから巨大なスーツケースをふたつ、重たそうにおろした。「やあ、ローズ・リタも元気だったかい? けがをした足はどうした?」
「すっかりよくなったわ」ローズ・リタは答えた。「もう、かけっこならじゅうぶんルイスを負かせるわよ!」
ルイスはふざけたように、じろりとローズ・リタをにらみつけた。「さあどうかな」
四人はベッシィに乗り込み、ツィマーマン夫人がエンジンをかけた。「おいおい!」ジョナサンは、ツィマーマン夫人が大通りの信号を左に折れると文句を言った。「うちはこっちじゃないぞ!」
「ええそうね」ツィマーマン夫人は冷たく言った。ベッシィはがたがたと踏み切りを越え、ホーマー道路へ出た。「これはリヨン湖の別荘へいく道ですもの。あなたたち二人はバーナヴェルト城に戻るまえに、おふろに入って、泳いで、手作りのおいしいごちそうをいただけるってこと。だいじょうぶ、ローズ・リタとわたしで土曜日にすみからすみまで調べて、なにもかもきれいに準備できてますから。戸棚にはチェリオスがあるし、冷蔵庫にはミルクもある。つまり朝ごはんを料理≠キる準備は万端というわけ!」
「なるほど」ジョナサンは言った。「ふろに泳ぎとは悪くないね。わしらにもみやげ話がやまほどあるんだ」
けれども、車に乗っているあいだジョナサンは旅行のことを一言も話さなかったし、ルイスも同じだった。ローズ・リタはちらちらと、いっしょにうしろの座席に座っているルイスを盗み見た。ルイスは、走っていく車の窓から静かに外を眺めていた。ルイスはどこか変わった――ローズ・リタはいっしょうけんめい考えた。そして、ベルトの先っぽがバックルからつきだしているのに気づいた。「やせたんだ!」ローズ・リタは言った。
ルイスはびくっとして、恥ずかしそうな笑みを浮かべた。「たくさん歩いたからね」ルイスは言った。「いろんなところをさ。それにほとんどの食べ物は……」ルイスは鼻にしわを寄せた。「フランス人ってカタツムリを食べるの知ってた?」そしてため息をついて言った。「またふつうの食事ができるってことはいいことだよ」
六週間のヨーロッパ旅行で、ルイスはかなり体重を減らしていた。まだやせているとは言えなかったけれど、もう太っているというよりはがっちりと肉づきがいいという感じだった。それにちょっと背も伸びたみたいだとローズ・リタは思った。
ツィマーマン夫人の別荘の前に車を止めておりると、ジョナサンは言った。「フローレンス、ひとつ言わなくちゃならんことがある。ドイツにいったとき、寄り道をしてゲッティンゲン大学までいったんだ。おまえさんが博士号をとったところさ。アタナシウス教授を覚えているかい?」
ツィマーマン夫人は笑った。「もちろん! よグできました、みなザん。それでは今日は錬金術の魔法にヅいてガんがえましょう≠ワあまあ、まだ大学にいらっしゃるの? もう百歳にはなってるはずよ!」
「ああ、まだ大学にいたよ。だがちがう、まだ百歳じゃあない。八十二歳だ」ジョナサンはツィマーマン夫人がトランクから重いピクニックかごを出すのを手伝いながら言った。それからため息をついた。「彼ならきっとおまえさんの魔法の力をとりもどす方法を知っとると思ったんだ――いいや、文句はけっこう。よけいなお世話だとおまえさんが言うのはわかってる。でも、やっこさんは、完了するのに七年も八年もかかるようなことしか思いつかなかったよ」
ツィマーマン夫人の目がきらりと光った。「まあ、それでやっていかなきゃいけないってことよ、ひげじいさん。心配しないでちょうだいな」
ルイスとジョナサンは順番におふろに入り、それからみんなで湖に泳ぎにいった。ルイスのいぬかきはたいして上達していなかったけれど、首をぴんとたてて楽しそうに泳いでいた。二人で競走もしたけれど、ルイスは負けても気にしていないようすだった。そのあとツィマーマン夫人が直火でハンバーガーを作り、みんなで芝生に座って食べた。ルイスはハンバーガーを三つ平らげ、四つ目をほしそうに眺めたけれど、あきらめた。
「旅行のことを話してよ」ローズ・リタは言った。「楽しかった?」
ジョナサンはハンバーガーをおなかいっぱい食べて、うしろに寄りかかった。「ああ、なかには楽しいこともあったさ。だが、いい考えがある。見てきた景色について話すんじゃなくて、見せてあげよう」ちょっとした準備が必要だったけれど、まもなく四人は大笑いしながら自家製映画を楽しんでいた。自家製映画といっても、これはジョナサンの魔法による幻影だった。立体的で本物そっくりなので、手を伸ばせばふれられそうだ。バッキンガム宮殿の衛兵の交代(ジョナサンおじさんはふざけて衛兵のひとりをルイスの顔にしていた)、パリのカンカンダンス(ローズ・リタは足をあげて踊るダンサーのはしの二人が自分とツィマーマン夫人なのを見て、きゃあきゃあ悲鳴をあげた)、オーストリアのこの上なく美しいお城の数々、ヴェニスの運河。ほかにもたくさんあった。
「なかなかだったわ。くしゃくしゃ頭さん」ショーが終わると、ツィマーマン夫人は言った。そして指をぱちんと鳴らしてマッチを出すと、細い葉巻に火をつけた。「少なくとも腕は落ちてないわね」
「そりゃどうも、おにばばあ殿」ジョナサンおじさんは切りかえした。
ローズ・リタはひとつ興味をひかれたことがあった。「さっき、なかには楽しいこともあったって言ったけれど、どうして? そうじゃなかったこともあったの?」
ジョナサンは顔をしかめた。「いまはまだ話したくないんだ。また別のときに話すよ。長い大旅行のすえ、家が恋しくなって、こうして帰ってきた。そして世界でいちばん好きな二人といっしょにいる。いまはそれでじゅうぶんだ。そうだろ、ルイス?」
ルイスは赤くなった。「うん」ぶっきらぼうな口調だったけれど、うれしそうだった。
そのあと、ルイスとローズ・リタは湖のほとりを散歩した。ローズ・リタは石を拾って、水面を切るように投げた。石は四回はねた。ルイスもやってみたが、一回目でポトンと沈んでしまった。
「腕を水平にして投げるのよ」ローズ・リタは言った。「横手投げよ、こんなふうに」
ルイスはもう一度やって見た。そしてようやく二、三回はねさせることができた。「ありがとう」ルイスは言った。
「いいわよ」ちょっとしたから、ローズ・リタはつけくわえた。「ねえ、ほかのことも教えられるわよ。たとえば、そう、ダンスとか」
ルイスは顔をそむけた。それから恥ずかしそうにローズ・リタを見た。「うん、いいんじゃないかな」
二人が別荘まで戻ると、ジョナサンおじさんとツィマーマン夫人がちょうどベッシィに荷物を積みおえたところだった。緑の車は午後の日差しを受けてきらめいた。「そうそう」ツィマーマン夫人が言った。「ひとつ忘れ物をしたわ。ローズ・リタ、とってきてくれる?」
「うん」ローズ・リタはにやにやして言った。二人は前もってルイスたちを驚かせようと、ちょっとした計画を立てた。ローズ・リタはかぎを受け取ると、玄関をあけてなかへ駆けこんでいった。それからたたんだ黒いかさを持って戻ってくると、「はい」と言ってツィマーマン夫人に手渡した。
ジョナサンおじさんはふしぎそうな顔をした。「いったいなんだい、おにばあさん? 何年か前のクリスマスにわしがプレゼントしたかさだろ? 役に立たなかったんだと思ってたが?」
「ちょっとした改良を加えたの。見ていて」ツィマーマン夫人がかさをくるりと回して逆さにすると、柄の部分が青銅のかぎづめに変わっているのが見えた。つめは小さなクリスタルの玉をつかんでいる。その真ん中には、鮮やかな紫紅色の火花がひそんでいた。ツィマーマン夫人はかさをまっすぐ前へ突き出した。
みんな息をのんだ。かはいきなりぐっとのび、その先端で紫色の星が燦然と輝いた。ツィマーマン夫人は紫のローブに身を包んで立っていた。ローブは大きくひるがえり、深紅の炎が揺らめいている。ツィマーマン夫人は杖をふりあげ、先についたクリスタルでベッシィの屋根に触れた。するとあでやかな紫の水たまりが現われ、さざなみのように広がって、紫が緑を飲みつくした。一瞬にして車の色は変わった。そして次の瞬間、ツィマーマン夫人は満面に笑みを浮かべて立っていた。服はいつも着ている紫の小花もようのワンピースに戻っていて、手にはなんの変哲もない黒いかさがにぎられていた。
ジョナサンは疑い深げな目でツィマーマン夫人を眺め、それから車のほうへ身を乗り出した。
「幻覚じゃない」ジョナサンはつぶやいた。「変質ってやつだ! ほんとうに色を変えたんだ! だがわしらが出かけたときは、クリームをバターにする力だってなかったじゃないか!」
ローズ・リタは笑った。「おじさんとルイスがヨーロッパへいっているあいだ、わたしたちはわたしたちで冒険をしたってことかもね」
ルイスはどうかしたみたいに目をパチパチさせていた。「すごい」そのとき言えたのはそれだけだった。
ジョナサンおじさんは車の新しい塗装に手をすべらせた。「すっかりかわいているし、おまけに五層コーティングして、ワックスを重ねぬりしたみたいだ!」それから体を起こして言った。「おまえさんたちに話があるのはよくわかったよ。さあ、紫ばあさま、話していただこうか!」
「いずれね」ツィマーマン夫人はうれしそうに言った。「まず車に乗って、帰り道に話すわ」
そして四人の友人はすっかり生まれ変わった車にどやどやと乗りこんだ。ツィマーマン夫人はエンジンをかけ、ニュー・ゼベダイに向けて出発した。そして、鏡のなかの幽霊の話をはじめたのだった。