【闇にひそむ影】
ジョン・べレアーズ
登場人物
ルイス・バーナヴェルト
太めで内気だが、やさしい少年。
ジョナサン・バーナルヴェルト
ルイスのおじ。魔法使いだが、少したよりない。
ツィマーマン夫人
ジョナサンの隣人。
しっかり者で、料理が上手な魔女。
ウォルター・フィンザー
ジョナサンの祖父の知人。
ローズ・リタ・ポッティンガー
ルイスの親友。活発で頭の良い少女。
ルイス・バーナヴェルトは校庭のはしっこに立って、大きな男子生徒同士がけんかしているのを見ていた。
まさに決闘だった。トム・ルッツとデーヴ・シェレンバーガーは、ルイスの学校を牛耳っていた。いつも、二人でほかの子たちを片っぱしからたたきのめしている。だが今は、その二人がとことんやりあっていた。おかしなことに、ルイスは古典マンガ・シリーズで読んだ『イリアス』の神々と英雄たちの戦いを思いだしていた。
「これでも食らえ!」トムが砂利をつかみとって、デーヴの顔に投げつけた。デーヴはトムにつかみかかり、二人はけったりひっかいたり汚い言葉でののしりあいながら地面のうえをごろごろ転げまわった。そのままこっちへきたら大変と、ルイスは学校ととなりの監督教会のあいだを抜ける薄暗い路地のほうへあとずさりした。
いつもだったら、こんなけんかのそばには近よりもしなかっただろう。ルイスは太っていて、顔はお月さまみたいにまんまるだった。茶色のセーターとぶかぶかのコーデュロイのズボンを着ている姿は、風船そっくりだ。すくなくとも、マッティおばがむかしそう言って以来、風船という言葉はルイスの心に刻みこまれた。ルイスの手はやわらかく丸々としていて、紙でこすったってタコひとつできそうにない。腕に力を入れても、力こぶすらできない。ルイスはけんかがこわかったし、殴られるのもこわかった。
だったら、どうして学校でも一、二を争う乱暴物が殴りあっているのを、つったってながめているのだろう? それは、校庭に出る裏口がここにあるからだった。ローズ・リタに、裏口の横で待ちあわせね、と言われたのだ。ローズ・リタはなにか言ったら、そのとおりにしないと気がすまない。ローズ・リタ・ポッティンガーはルイスの親友だった。今日は六年生の担任のハガーティ先生に口答えしたせいで、居残りさせられている。ローズ・リタはルイスより一歳年上だったけれど、いいことにルイスと同じ学年だった。
ルイスは暗い路地をいったりきたりした。いったいローズ・リタはどうしちゃったんだろう? けんかはまだ続いている。ルイスの不安は募った。もしあいつらが殴りあうのにあきて、ぼくを殴ることにしたらどうしよう?
「あ、ルイス!」
ルイスはびくんとしてふりむいた。ローズ・リタだった。
ローズ・リタはルイスより頭ひとつぶん大きくて、メガネをかけていた。黒くて長い髪はよれよれで、黒いビロードに象牙色の飾りボタンがついたベレー帽をかぶっている。帽子には、ケロッグのシリアルのおまけでもらえるようなマンガのキャラクターのついたボタンがいっぱいついていた。ローズ・リタはいつもこのベレー帽をかぶっていた。
「やあ」ルイスは言った。「ひどいめにあったの?」
ローズ・リタは肩をすくめた。「そうでもないわ。さあ、帰ろう。早く家に帰って、このばかみたいな服を脱ぎたいの」
いかにもローズ・リタらしかった。学校には規則だったからスカートとブラウスでいっていたけれど、学校を出るが早いか一目散に家へ帰って、ジーンズとスエットに着がえる。ローズ・リタはおてんばだった。釣りとか木登りとか野球とか、男の子がやりたがるようなことばかりやりたがる。そのどれもルイスは得意ではなかったけれど、ローズ・リタといると楽しかったし、ローズ・リタもルイスといるのが好きだった。二人が仲よくなったのは四月で、今は九月だった。
帰り道の路地で、ローズ・リタはルイスが左手に紙袋を持っているのに気づいた。
「なにが入ってるの?」ローズ・リタは聞いた。
「シャーロック・ホームズの帽子だよ」
「そう」ローズ・リタも、シャーロック・ホームズの帽子のことは知っていた。ルイスのおじが独立記念日にプレゼントしたものだ。でも、まだよくわからなかった。「どうして袋に入れてんの?」
「中心街にいったらかぶるんだ。でも、ほかの子たちがいないことをたしかめてからかぶりたいんだ」
ローズ・リタはまじまじとルイスを見た。「つまり、帽子を急いで出してかぶって、またすぐに袋にしまいこむってこと?」
「うん」ルイスは恥ずかしくなった。
ローズ・リタはますますわけがわからなくなったようだった。「ふうん、そんなにこわいんなら、どうして中心街でかぶるわけ? あんないっぱい人がいそうなところで? みんなに見られるじゃない」
「わかってるよ」ルイスは頑固に言いはった。「でも、大人に帽子を見られるぶんにはかまわないんだ。どこかのいばりくさった子どもにとられるのがいやなんだよ」
ローズ・リタはルイスがかわいそうになってほほえんだ。ルイスがいつもいじめっ子にやられているのを知っていたからだ。「わかった、いいわよ」ローズ・リタは言った。「あんたの帽子なんだから。いこう」
二人は路地をくだって、一ブロック先の中心街へ向かった。ローズ・リタとルイスの住んでいる町は小さくて、中心街もたった三ブロックしかなかった。ドラッグ・ストアと安売り屋と洋服屋と飲食店とバーが何件かある。〈クレスギ雑貨店〉までくると、ルイスは足をとめて、急いであたりを見まわした。
「もうだいじょうぶだよね、ローズ・リタ? 子どもはいないよね」ルイスは袋の口をガサガサいわせはじめた。
ローズ・リタはかっとなった。「かんべんしてよ、ルイス! ばかばかしい! いい? わたしはこの店でエンピツとか紙を買わなきゃいけないの。それから帰って着がえるんだから。おじさんの家で会うことにしましょ。いいわね?」
ローズ・リタはルイスが返事するまもなく、いってしまった。ルイスはローズ・リタに少し腹をたてていたけれど、同時にばかなことをしたと思った。ルイスはもう一度まわりを見まわした。いじめっ子がくるけはいはない。よし、ルイスは帽子を出してかぶった。
帽子はほんとうにかっこよかった。緑の格子縞で前とうしろに固いつばがついて、耳あてがてっぺんで結べるようになっている。帽子をかぶると、ロンドンの霧のなかで悪者を尾行しているシャーロック・ホームズみたいに、勇敢で賢くなったような気がした。ルイスはもう一度ふりむいた。三ブロック先の北軍陸海軍軍事会館までかぶることにしよう。そんな短い距離なら、だれも手は出せないだろう。
ルイスはうつむいて、通りすぎていく歩道を見ながら歩いていった。大人が何人か、すれちがいざまにふりかえってじろじろ見たけれど、ルイスはちらりとそちらを見ただけで気づかないふりをした。おかしなことに、ルイスは帽子に対してまったくちがうふたつの思いを抱えていた。帽子をかぶると、ほこらしい一方で、なぜか恥ずかしかった。軍人会館についたら、ほっとしそうだった。
ちょうど〈ヒームソス・ドラッグ・ストア〉の前を過ぎたとき、皮肉たっぷりにこう言う声がした。「へえー! おれもあんな帽子がかぶってみたいよ!」
ルイスはぴたりと立ちどまった。ウッディ・ミンゴだ。
ルイスはウッディのことを死ぬほど恐れていた。あのデーヴ・シェレンバーガーやトム・ルッツでも、相手がウッディだったら二の足を踏むだろう。ウッディは大きいわけでも強いわけでもない。針金みたいに細い体をしている。けれども乱暴で、ジャックナイフをポケットに入れて持ちあるいていた。じっさいそれでほかの子をおどしたという話はいくつもあった。
ルイスはあとずさりした。体のなかを冷たい空気が吹きぬけた。「かんべんしてよ、ウッディ」ルイスは言った。「ぼくはなんにもしてないよ。ほっといてくれ」
ウッディはクスクス笑った。「帽子を見せろ」そう言って、ウッディは手を伸ばした。
「かならずかえしてくれる?」
「もちろん、約束するよ」
ルイスの心は沈んだ。こういう口調はおなじみだった。もう二度と帽子を目にすることはないだろう。ルイスはまわりを見まわして、助けてくれそうな大人を探した。だめだ。だれもいない。このあたりは中心街のはずれで、日曜日の朝みたいにがらんとしていた。
「ほら、帽子を見せろって言ってんだよ」ウッディの声がいらいらしてきた。ルイスの目に涙が浮かんだ。逃げようか? でも逃げたとしても、そんなに遠くまでいけないだろう。たいていの太った子どもとおなじで、ルイスも足が速くなかった。すぐに息ぎれがして、横っぱらが痛くなる。ウッディにつかまって帽子をとられ、みじめになるまでさんざん肩を叩かれるのが落ちだ。ルイスはがっくりして、帽子をぬいでウッディに渡した。
さっきとおなじいやらしい笑みを浮かべながら、ウッディは帽子をひっくりかえした。そして頭にかぶって、つばを直した。
「さあてと、映画に出てくるシャーロック・ホームズみたいだろ。じゃあな、でぶ。帽子はもらっとく」ウッディは背を向けて、ぶらぶらと歩きだした。
ルイスは立ったまま、ウッディのうしろ姿を見ていた。胃がむかむかする。涙がぼろぼろ流れ、ぎゅっと握ったこぶしは震えていた。
「ぼくの帽子を返せ!」ルイスは叫んだ。「おまわりさんに言ってやる。そうしたら、牢屋に入れられて百年間も出てこられないぞ!」
ウッディは返事をしなかった。ふんぞりかえってのうのうと歩いていく。ルイスになにもできないのがわかっているのだ。
ルイスは泣きじゃくりながら、通りをあてもなくふらふらと歩いた。涙をぬぐってあたりを見まわすと、いつのまにか中心街の東のはずれにあるイースト・エンド公園まできていた。公園はとても小さくて、ベンチが数脚と小さな鉄の柵のついた花だんがあるだけだった。ルイスはベンチにすわって、涙をふいた。それから、もうひと泣きした。どうしてほかの子みたいに強く生まれなかったんだろう? なんでみんなにいじめられなきゃならないんだ? こんなの不公平だ。
ルイスはずいぶん長いあいだそのベンチにすわっていたが、いきなり立ちあがって、ポケットに手をつっこむと、時計をひっぱりだした。遅刻だ! 今夜はローズ・リタを食事に呼んで、家で待ちあわせていたんだ。もちろん、ローズ・リタはまず自分の家に帰って着がえなくてはならない。でも、ローズ・リタはなにをやるにもすばやい。今ごろ、もう玄関先ですわって待っているにちがいない。ルイスはあわてて家に向かって歩きだした。
ハイ・ストリート一〇〇番地の自分の家に着いたころには、すっかり息が切れていた。案の定、ローズ・リタはもうきていて、緑の縞のブランコ椅子におじさんといっしょにこしかけていた。二人はシャボン玉を吹いていた。
ジョナサンおじは、手に持った海泡石《ミアシャム》のパイプにふうっと息を吹きこんだ。シャボン玉がふくらみはじめた。どんどん大きくなって、グレープフルーツぐらいになると、玉はすっとパイプからはなれ、ふわふわと庭をただよってルイスのほうへきた。そしてルイスの顔の三インチくらい手前でとまると、ゆっくりと回転しはじめた。まるい表面にローズ・リタと、前庭のクリの木と、自分と、自分のすんでいる石の屋敷と、赤いひげを生やしたジョナサンおじの笑顔が映っていた。
ルイスはジョナサンおじが大好きだった。ジョナサンおじと暮らしはじめてから、もう一年とちょっとになる。そのまえは、両親といっしょにミルウォーキーで暮らしていた。ところが、おとうさんとおかあさんはある晩、自動車事故で亡くなってしまったのだ。それで一九四八年の夏、ルイスはジョナサンおじと暮らすためにミシガン州の町ニュー・ゼベダイにやってきたのだった。
シャボン玉がポンとはじけ、ルイスの顔になにかがついた。ルイスが手でぬぐうと、ひげそり用石けんの泡だった。紫色の泡だ。
ローズ・リタとジョナサンは笑った。ジョナサンのちょっとした魔法の技のひとつだ。ジョナサンは魔法を使うことができた。ジョナサンは魔法使い――ふしぎな力を持った正真正銘の魔法使いだったのだ。ローズ・リタはルイスと友だちになったのとほとんど同時に、ジョナサンの魔法の力に気づいた。けれども、ほんのちょっとだっておろおろしたりしなかった。まるであたりまえだとでも言うように、受けいれたのだ。ルイスは一度か二度、ローズ・リタがジョナサンに面と向かって、もしおじさんが魔法使いじゃなくても好きだったと思うわ、と言っているのを聞いたことがあった。
ルイスがひげそり泡の魔法ににやにや笑っていると、聞きなれた声がした。「ルイス! きまってるじゃない!」
ルイスは顔をあげた。ツィマーマン夫人がラベンダー色のふきんでお皿をふながら、家の入口に出てきた。ツィマーマン夫人はとなりに住んでいたけど、じっさいはバーナヴェルト家の一員といってよかった。とてもふしぎなひとだった。ひとつには、以上に紫色が好きだったからだ。ともかく紫色なら、春先に咲くスミレからクリ色がかったポティァックまでなんでも好きなのだ。それから、ツィマーマン夫人は魔女だった。魔女といっても、黒い帽子とほうきを持って、おそろしい笑いを浮かべた魔女ではない。優しくて親しみやすいおとなりさんの魔女だった。ジョナサンみたいにしょっちゅう魔法を使って見せたりしなかったけれど、ほんとうはおじさんより力のある魔法使いだということをルイスは知っていた。
ルイスは残っていたひげそりの泡をぬぐった。「ちっともきまっちゃいないよ。ツィマーマン夫人!」ルイスは叫んだ。「そう思うのは、自分が紫ならなんでも好きだからじゃない!」
ツィマーマン夫人はクックッと笑った。「まあ、そうかもしれませんね。けど、どっちにしたって、なかなかのものですよ。さあ、なかに入って洗ってらっしゃい。夕ごはんができてますよ」
ルイスは食卓についたとたん、ほんとうはとても悲しい気持ちだったことを思いだした。
「ああ、帽子のことをすっかり忘れてた」ルイスは言った。
ローズ・リタがルイスのほうを見た。「そうだ、帽子はどうしたの? けっきょく街中でかぶったわけ? それともやめたの?」
ルイスはテーブルクロスをじっと見つめた。「ウッディ・ミンゴにとられた」
ローズ・リタの顔から笑みが消えた。「かわいそうに、ルイス」ローズ・リタは心の底から言った。
ジョナサンはふうっと大きなため息をついて、ナイフとフォークを置いた。「外でかぶっちゃだめだって言ったろう、ルイス。あの帽子はちょっと家のまわりでかぶって遊ぶようなものなんだ。子どもっていうのがどんなか知っとるだろう?」
「うん、知ってるよ」ルイスは悲しそうに言った。そしてマッシュポテトをほおばると、憂鬱そうに口をもぐもぐさせた。
「なんて卑怯なの」ローズ・リタは腹を立てて言った。「わたしがいっしょにいたら、そんなことにならなかったかもしれないのに」
ある意味で、ローズ・リタが言ったことはますますルイスの気分を悪くした。男の子っていうのは女の子を守るもので、逆ではないのだ。
「自分のことくらい自分で面倒みられるよ」ルイスは口のなかでもごもごと言った。
それからしばらくのあいだ、しーんとしたなかで食事は勧められた。みんなだまって自分のお皿を見つめ、だまって口を動かした。暗い雰囲気がまるで霧のようにテーブルをおおった。
ジョナサンもみんなとおなじようにテーブルクロスを見つめてすわっていた。ただちがうのは、頭を働かせていたことだ。脳みそをフル回転させて、みんなを元気づけるようななにかを、ひねりだそうとしていた。とつぜん、ジョナサンはこぶしでテーブルをどんと叩いた。お皿がガチャンと鳴って、砂糖入れのふたがすっ飛んだ。みんないっせいに顔をあげた。
「いったいどうしたっていうんです?」ツィマーマン夫人が言った。「アリでもいたんですか?」
「そんなことじゃないさ」ジョナサンはにやにやしながら言った。そしてみんなが自分に注目しているのをたしかめると、両手を広げて空を見つめた。「ルイス?」ジョナサンが言った。
「なに、ジョナサンおじさん?」
ジョナサンの目はまだ空を見つめていたけれど、笑みはさらに広がった。「バーナヴェルトのおじいさんのトランクになにが入ってるか、見てみるっていうのはどうだい?」
ルイスはあんぐりと口を開けた。バーナヴェルトのおじいさんのトランクというのは大きな重い衣装箱で、ジョナサンのベッドの足もとにかぎをかけて置いてあった。ジョナサンが言うには、もう二十年以上もそのままだそうで、ルイスはいつも、ちょっとでいいからなかをのぞかせてとせがんでいた。とうとうそのチャンスがめぐってきたのだ。ルイスはすわったまま飛びはねたい気分だった。ローズ・リタも興奮しているのがわかった。
「やったー、ジョナサンおじさん!」ルイスは歓声をあげた。「わーい、すごいぞ!」
「ほんと!」ローズ・リタも言った。
「ほんとですよ」ツィマーマン夫人がさらに言った。「わたしはなんにでも鼻をつっこみたがる、驚くのが大好きなおばあさんですからね」
「おっしゃるとおり、そこの縮れっ毛のばあさん!」とジョナサン。「なんでも鼻をつっこみたがるっていうのがね。さあてと、みなさま、先にアイスクリームとクッキーを食べるかね? それとも衣装箱を開けてからにするかい? 先に衣装箱を開けたい人は手をあげて」
ルイスとローズ・リタは手をあげようとして、はっとクッキーはツィマーマン夫人の手作りだということを思いだした。デザートをあとまわしにするほうに手をあげたら、ツィマーマン夫人が傷つくかもしれない。二人はさっと手を引っこめた。
ツィマーマン夫人はきらりと光る目で二人を見て、すっと手をあげた。「先生、よろしいですか?」ツィマーマン夫人はめそめそした小さな声で言った。
「ああ、言ってごらん」ジョナサンはにやっと笑って言った。
「今すぐいっしょにうえへいって、衣装箱を下ろすのを手つだってくれなかったら、おまえさんをエンピツの削りかすでいっぱいのゴミ箱にしちまいますよ。わかりましたか?」
「了解!」ジョナサンが敬礼して言った。そして二人は衣装箱を取りに二階へあがっていった。
ルイスとローズ・リタは書斎へいった。なかをぶらぶらしながら、本をパラパラとめくったり、図書室の机のうえにたまったほこりに絵を描いたりしているうちに、ドアがバタンと閉まる音ともののぶつかる音が聞こえはじめた。大きな叫び声(ジョナサンだ)がして、そのあとにくぐもったののしり声が続いた。その末にようやくトランクが到着した。ジョナサンは箱の片側を片手で持ち、もう片方の手をぎゅっと握って口で吸っていた。せまい角を曲がろうとしてすりむいたのだ。
「さあ、つきましたよ!」ツィマーマン夫人が言った。ツィマーマン夫人は持っていた箱を下ろすと、紫のハンカチで顔の汗をぬぐった。「あなたのおじいさんはなにをしまってるんです、ジョナサン? 大砲の弾かしら?」
「そんなところさ」ジョナサンは言った。「まあ、かぎがあればすぐに……フム、かぎはどこへやったかな?」ジョナサンはもしゃもしゃのひげをポリポリかいて、天井を見つめた。
「まさかなくしたんじゃないでしょうね?」ツィマーマン夫人がかっとなって言った。
「いやいや、なくしちゃいないよ。ただどこにあるか思いだせないだけだ。ちょっと待ってくれ」ジョナサンは部屋を出ていき、また二階にあがっていくのが聞こえた。
「なくなっていないといいけど」ものごとがうまくいかないとわかると、たちまちしょんぼりするルイスが言った。
「だいじょうぶですよ」ツィマーマン夫人がなぐさめた。「最悪の場合、バーナヴェルトのおじいさんが南北戦争で使った銃で錠を吹きとばしてもらえばいいんですから――まあ、もちろん銃がほかのものといっしょにトランクに入っていなければですけどね」
ジョナサンが二階でかぎを探しているあいだ、ルイスとローズ・リタは古いトランクの外側をじっくりと調べることができた。山形のふたのせいで海賊の宝箱みたいだったけれど、じっさいは蒸気船用トランクだった。むかし船旅に出るひとが持っていったスーツケースのようなものだ。トランクは木製で、ワニ革でおおわれていた。ふたに飾りの銅版が三本、釘で打ちつけられている。銅は長い年月を経てあざやかな緑色に変わっていた。かぎ板も銅製で、赤ん坊の顔のかたちをしている。赤ん坊の口がかぎ穴だった。
おそろしく長い時間がたったと思われたとき、ようやくジョナサンがもどってきた。ジョナサンの手にはボール紙の札のぶらさがったちいさな鉄のかぎが握られていた。
「どこにあったんです?」ツィマーマン夫人が聞いた。ツィマーマン夫人はいっしょうけんめい笑いをこらえていた。
「どこだって?」ジョナサンはかみつくように言った。「どこにあったかだって? おまえさんが思っている、まさにその場所だよ! インディアンの顔が刻まれたコインがぎっしり詰まった花びんの底さ」ジョナサンはひざまずくとかぎを穴に差しこんだ。ルイスとローズ・リタとツィマーマン夫人はそのうしろに集まった。錠は錆びてなかなか動かず、ジョナサンが何度か試したあとで、ようやくかぎが回った。ジョナサンはぐらぐらしているふたを慎重に持ちあげた。
トランクがあいて最初にルイスとローズ・リタの目がいったのは、ふたの裏側だった。ふたの裏は色あせたピンク色の壁紙でおおってあり、そのうえに大むかしのだれかが(たぶん子どもだろう)が写真を貼っていた。写真はどれも、まるでむかしのファッション雑誌から切りぬいたみたいに見えた。ルイスとローズ・リタはトランクのなかをのぞいた。厚く積もったほこりの下に、新聞紙とヒモにくるまれた包みがたくさん入っている。長くて曲がっていて薄いものもあれば、四角くて平べったいのもあったし、ともかく大きくてかさばるものもあった。新聞は古く黄ばんでいて、包みのなかにはヒモがくさってあいてしまっているものもあった。
ジョナサンは手を伸ばすと、包みをとってみんなに配りはじめた。
「さあてと。ほら、ルイス。そしてこれがきみだ、ローズ・リタ。おまえさんにもあるぞ、紫ばあさんや。そしてわしにも一個だ」
「ハン」ツィマーマン夫人はヒモをひっぱりながら言った。「自分に一番いいものをとったにちがいありませんよ」
ルイスのは、長くて曲がっている包みだった。紙のはしっこを破ると、変色した真ちゅうの剣のつかが見えた。「うわあ! 本物の剣だ!」ルイスは残りの紙をビリビリとはがすと、剣をふりまわしはじめた。剣がまださやに入っていたのは、幸運だった。
「覚悟しろ、卑劣な妖女め!」ルイスは叫んで、ローズ・リタのほうに剣を突きだした。
「おいおい、サー・エクトル、気をつけるんだぞ」ジョナサンが言った。ルイスはやめて、しょんぼりした。それから、ルイスもいっしょにみんなで大笑いした。
「十一歳の男の子に剣なんか渡したらどんなことになるかわかるはずですよ」ツィマーマン夫人が言った。「ちょっと見せてちょうだいな」
ルイスは剣をツィマーマン夫人に渡した。ツィマーマン夫人はそっと剣をひいて、さやから半分ほど出してみた。錆びた刃がランプの光を受けてきらりと鈍い光を放った。
「だれのものだったの?」ルイスが聞いた。
「バーナヴェルトのおじいさんさ」ジョナサンは言った。「騎兵隊の軍刀だ。曲がっているのと重さでわかる。つかにもどしてくれんかね、フローレンス。わしは刃物を見ると落ちつかないんだ」
ルイスは、バーナヴェルトのおじいさんのことはちょっとしか知らなかった。おじいさんの名前は南北戦争の記念碑に刻まれていたし、ジョナサンもいくつかおじいさんの話はしてくれたけれど、そのせいでますます知りたくなっただけだった。
「おじいさんは槍騎兵だったんだよね?」ルイスは聞いた。
「そのとおりだ」ジョナサンは言った。「ローズ・リタ、おまえさんのを開けてごらん」
ローズ・リタが持っているのは、やわらかくて小さな包みだった。ヒモを切って新聞紙をはがすと、きれいに重ねられた古い洋服が出てきた。一番うえには青いシャツがあったが、あまりにも長いあいだたたまれていたので、広げられなくなっていた。その下から、ぶかぶかの赤いズボンとぺしゃんこになった赤い帽子が出てきた。帽子には金色の糸で第五ミシガンファイヤーズアーブ槍騎兵連隊≠ニ刺繍してあった。
「なあに、この第五ミシガンなんとかって?」ローズ・リタが聞いた。
「ばかな人たちのことですよ」ツィマーマン夫人がぴゃしりと言った。「ばかな連中ですよ、あの人たちはみんなね」
「たしかにな」ジョナサンはひげをなでながら言った。「だが、それじゃあローズ・リタの質問の答えになっていない。第一にだな……待てよ、これはルイスに答えてもらうことにしよう。ルイスは、槍騎兵の本を読んだはずだから」
「槍騎兵っていうのは、馬に乗って長い槍を持った兵隊のことなんだ」ルイスは説明しはじめた。「槍で敵の兵隊をやっつけたんだ」
「それができるくらい、敵に近づけばな」ジョナサンは言った。「わかるだろう、ローズ・リタ。槍騎兵はある意味、中世の遺物なんだよ。騎士たちが槍で敵を馬からはたきおとしていたころのね。だが南北戦争では、槍でマスケット銃やライフルや大砲を持った兵隊たちに立ちむかわなきゃならなかったんだ」
「ばかみたいね」ローズ・リタは言った。「どうしてそんなことをやりたがったの?」
「さあな、わしにもわからん」ジョナサンは答えた。「だが、長い槍や風にはためく長い旗やあざやかな色の軍服が、敵の歩兵を恐怖におとしいれると思ったんじゃないか」
「で、どうだったの?」ルイスは聞いた。
ジョナサンは面食らった顔をした。「なにが?」
「敵を恐怖におとしいれたの?」
「ああ、そうだな、そういうこともあった。だがたいていは、マスケット銃やライフルを持った兵隊たちにやられちまったよ。それがスポットシルヴァニアの戦いの実態さ。第五ミシガンファイヤーズアーブ槍騎兵連隊は突撃したが、一人残らずやられちまった。生きてもどってきたのは、バーナヴェルトのおじいさんとウォルター・フィンザーという男だけだった。二人が生き残ったのは、戦いにはいかなかったからさ」
ルイスはがっかりした顔をした。槍をふりまわしながら敵陣へ乗りこみ、次々と敵をなぎたおすひいおじいさんの姿を想像していたからだ。「どうしてひいおじいさんは戦いにいかなかったの?」ルイスは聞いた。
「どうぞ、ジョナサン。話してあげて」ツィマーマン夫人がにやにやしながら言った。ツィマーマン夫人はもう数え切れないくらいこの話を聞いていたけれど、いまだに聞くたびに笑ってしまうのだった。
「いいだろう、それはこういうことだ」ジョナサンは話しだした。コホンと咳払いをすると、腕を組んで椅子によりかかり、いつもの話を聞かせるときのポーズをとった。「おまえのひいおじいさんはな、ルイス、世界一勇敢な男というわけじゃなかった。ミシガン槍騎兵隊に入ったのも、軍服がかっこよかったからじゃないかとわしはにらんどる。だから本物の戦いが近づいてくるにつれ、おじいさんはこわくなってきた。スポットシルヴァニアの戦いは、おじいさんのはじめての実戦になるはずだったんだ。さて、これからだ。戦闘の前の晩、おじいさんは隊の仲間たちとたき火の横でポーカーをやっとった。すると、すごくいい手がきた。たぶんフルハウスかフォー・カードかそんなもんだったと思う。ともかく、じきに残っているのはおじいさんとウォルターだけになった。ウォルターもニュー・ゼベダイ出身で、おじいさんとおなじ時期に入隊していた。さて、ウォルターはおじいさんの賭け金をせりあげ、おじいさんはウォルターの賭け金をせりあげた。すぐに二人とも全財産を一セント残らず投げだすことになったよ。剣と銃までな。おじいさんは金の認証つきの指輪を取って、ぽんと投げだした。だがウォルターにはもうなにも残っていなかった。ほかの仲間たちから金を借りようとしたが、みんなやつが借金を踏みたおすのを知っていたから、貸す者もいない。しょうがないからおりて、おじいさんに賭け金をとらせようとすると、おじいさんが言った。「おまえさんの幸運のお守りがあるじゃないか」
「幸運のお守り?」ルイスが聞きかえした。
「そうだ。おじいさんはだな、もしかしたらウォルターがいつも持ってる幸運のコインをせしめることができるかもしれないと思ってポーカーに参加したんだ。ばかばかしいように思えるかもしれんが、ウォルターの幸運のコインがあれば、明日の戦いを傷ひとつ負わずにくぐりぬけることができるって信じてたんだろうな。だからっておかしくはないだろう? パイロットだって、赤ん坊のくつやウサギの足を持っていれば飛行機は落ちないと信じてる。おじいさんは、ウォルターがコインのことを自慢しているのをきいて、それがあれば助かると思ったんだろう」ジョナサンは悲しそうにほほえんだ。「おじいさんは、明日の戦いを乗りきるためならなんでも信じちまうくらいこわかったんだろうな」
「魔法がかかってるの?」ローズ・リタが聞いた。「そのコインのことよ」
ジョナサンはクスクス笑った。「いいや、残念だがな。だが、おじいさんはそう信じてた。それが重要なんだ。話を先に進めよう。おじいさんはウォルターにそのコインを賭けるよう言ったが、ウォルターはいやだと言った。ウォルターってやつはばかがつくくらい頑固だったから、そのコインを手放すのがいやだったんだな。だがついに仲間たちに説得されて、コインを賭けることにした。それから二人で札を見せあい、おじいさんが勝った。ウォルターは火のように怒ったよ。足を踏みならしてわめきちらし、さんざんののしったあげく、おじいさんがお金を集めはじめると、だれかのホルスターから銃を取りだしておじいさんの足を撃ったんだ」
「ひどい! おじいさんは死んじゃったの?」ローズ・リタが言った。
「いいや、だがそのけがのせいで、長いあいだ任務から外されたんだ。もちろんウォルターはただちに逮捕されて、そのあと除隊された。もっと重い罰を受ける可能性もあったんだが、おじいさんが温情ある措置を願い出たんだ。わかるだろう? バーナヴェルトのおじいさんはほんとうに心が優しくて温和なひとだったんだ。戦争で戦うなんて、てんでむいてなかったんだよ」
ジョナサンは椅子によりかかると、パイプに火をつけた。ツィマーマン夫人とルイスは台所へいって、チョコレートチップ・クッキーとアイスクリームを持ってもどってきた。みんなが食べていると、とつぜんルイスが顔をあげて言った。「おじいさんはコインをとっておいたの? まだどこかにあるの?」
ジョナサンははっはっと笑った。「もちろんとっておいたとも! 時計の鎖につけて、会うひとごとにどうやって手に入れたかを話していたよ。わしも子どものころ何度も聞かされてうんざりしたもんさ」
「見せてくれる?」ルイスは聞いた。
ジョナサンはびっくりした顔をした。「見せる? べつにいいが……見つかればな。たしかこの古いトランクのどこかに転がっていたような気がするが。そうじゃなかったかな、フローレンス?」
「どうしてわたしが知ってるんです? これはあなたのトランクでしょ。見てみましょう」
ジョナサンとツィマーマン夫人とルイスとローズ・リタは古い衣装箱をとりかこみ、包みを出して開けはじめた。シルクハットがひとつ、ひじのところがすりきれた黒いフロックコートが一着、本が数冊、古い写真のいっぱい貼ってあるアルバムが三、四冊、それから本物の大砲の弾まであった。ついに衣装箱は空っぽになって、底にたまったほこりと死んだ虫だけになった。それからあともうひとつ、小さなぼろぼろの木の箱が残っていた。
「ぜったいこのなかだ」ルイスが言った。
「あてにはできんぞ」ジョナサンが言った。「まあひとつ、見てみよう」
ジョナサンは手を伸ばして、箱を取りだした。かぎはかかっていなかった。軽くひっぱると、蝶つがいごとふたがぽろっととれた。なかから、古いふちなしのメガネと黒ずんだパイプ、それから時計につけるずっしりと重い鎖が出てきた。そして鎖の先に、ごく小さい銀のコインがぶらさがっていた。
「わあ、ほんとうにあった!」ルイスは箱のなかに手を入れて、そっと時計の鎖を持ちあげた。そして、まるでダイヤモンドのネックレスかなにかのようにかかげた。ルイスとローズ・リタはしげしげとコインを眺めた。見たことのないコインだ。十セント硬貨よりも小さくて薄い。片側にローマ数字でVとあり、反対側には六角形の星が刻まれ、なかに縞模様の盾がある。星のまわりにアメリカ合衆国≠ニ刻まれ、星のとんがった先の下に一八五九年とあった。
「これなに?」ルイスは聞いた。こんなコインを見たのははじめてだった。
「合衆国の三セント硬貨ですよ」ツィマーマン夫人が言った。「見ればわかるでしょう」
ローズ・リタは笑った。「もう、ツィマーマン夫人ったら! 冗談ばっかり! つまり、そのころの価値で三セントくらいだったってことでしょ」
「いえ、ほんとうに三セント硬貨ですよ。今は、もう少し高いでしょうがね。古いお金だから。でも他の硬貨とおなじで、そんなに珍しいものじゃないんですよ」
「どうして三セント硬貨なんて作ったの?」ルイスが聞いた。「一セント硬貨を三枚使ったほうが簡単だったんじゃない?」
「それは合衆国造幣局に聞かないとな」ジョナサンが言った。「むかしは半セントとか二セント硬貨とか半ダイムとか、へんな単位の通貨がたくさんあったんだよ。だからツィマーマン夫人が言ったように、このコインはそんなにへんというわけじゃないんだ。今した話に出てくることをのぞけばね」
ルイスはそのコインをしげしげと眺めた。赤々と燃えるたき火の横に、剣と銃とお金が積まれている光景が浮かんできた。てっぺんにこのコインが置かれている。ウォルター・フィンザーが銃をぬいてバーナヴェルトのおじいさんを撃つ……このコインのせいで血が流れたのだ。ルイスは本をたくさん読んでいたから、王たちがほんのちっぽけなもののために戦い、殺しあってきたのを知っていた。王冠や宝石や黄金みたいなちっぽけなもののために。コインは、むかしの物語からそのまま抜けだしてきたように思えた。
ルイスはジョナサンおじのほうを見あげた。「ジョナサンおじさん、このコインには魔法がかかっていないっていうのはたしかなの?」
「ぜったいにまちがいないよ、ルイス。だがどうしても気になるのなら、ちょっとツィマーマン夫人に見てもらっちゃどうかね? ツィマーマン夫人は魔法のお守りやら魔よけそういうたぐいのものにくわしいんだよ。だからたぶんちょいとさわっただけでわかるんじゃないか。どうだい、フローレンス?」
「ええ、わかりますとも。魔術学で博士号を取ったとき、ゲッティンゲン大学の最終試験では、指でさわっただけで魔法がかかっているかどうかわからなくちゃいけなかっんたですから」
ルイスはコインをツィマーマン夫人に渡した。ツィマーマン夫人はコインを指でごしごしこすると、しばらくじっと見つめていた。それからルイスに返した。
「残念ですけどね、ルイス」ツィマーマン夫人は頭をふりながら言った。「この感じは、ただの金属の板ってとこでしょうね。もし魔法がかかっていたら……そうね、なんというかビリビリって感じが伝わってくるはずなんですよ。けど、これはなんにも感じられないわ。ただの古い硬貨ですよ」
ルイスはコインをかかげて、悲しそうに見つめた。それからジョナサンのほうを向くと「これ、もらってもいい?」と聞いた。
ジョナサンは上の空で目をしばたたいた。「ん?」
「これをもらってもいいか聞いたんだよ」
「もらう……? あ、ああ、いいよ。もちろんさ。おまえさんにやろう。南北戦争の記念にとっておけばいい」ジョナサンはルイスの肩を軽く叩いて、にっこりした。
その夜遅く、ローズ・リタとツィマーマン夫人が帰って、ジョナサンが寝たあと、ルイスはベッドのはしにこしかけてコインをじっと見つめた。これが魔法のコインじゃないなんてがっかりだ。もしそうなら、勇気と力を授けて敵から守ってくれるお守りになったかもしれないのに。古代アイルランドの王さまがいつも戦いにいくときつけていたブローチのような。そのブローチをつけているかぎり、王さまは決してけがを負うことはない。ルイスはその物語が大好きだった。もちろんルイスは剣と盾を持って戦いにいくようなことはないけれど、素手の殴りあいくらいは二、三度したことがあった。そしていつも負けた。もしお守りを持っていたら、けんかに勝ったかもしれない。お守りさえあれば、ウッディ・ミンゴに帽子をとられずにすんだかもしれない。
まあ、しかたがないさ、ルイスは思った。それが現実ってものなんだ。ルイスはコインを枕もとの机のひきだしにしまうと、電気を消して、ベッドに入った。
ベッドには入ったけれど、ルイスは眠れなかった。寝返りをうったり向きを変えたりしながら、ウッディ・ミンゴや、シャーロック・ホームズの帽子や、バーナヴェルトのおじいさんや、ウォルター・フィンザーや、三セント硬貨のことを考えた。それからじっと横たわって、家のたてる音に耳を傾けた。時計のカチカチいう音、おふろの蛇口から水がポタポタたれる音。なにかがきしむようなミシッという音。鋭いパンという音、パチッとはじけるような音、大きな古い屋敷が夜にそなえてたてる音だった。
カタンカタン、ルイスはベッドのうえで起きあがった。なんの音かはすぐわかった。よく知っている音だ。でも、夜に聞こえるはずはない。郵便受けの音なのだ。
家の玄関のドアには、郵便受けの差し入れ口があった。蝶つがい式の金属のふたがついていて、郵便やさんがふたを持ちあげて手紙を差しいれると、カタンカタンと鳴った。ルイスもおじさんも手紙をもらうのが大好きだったから、家のどこにいようと、このカタンカタンが聞こえると一目散に走ってきた。この地域担当の郵便やさんはおしゃべりで、ふだんも午後の二時半より前にくることはめったにない。とはいえ、ルイスの知っているかぎり、真夜中に手紙がきたことはなかった。
ルイスは起きあがったまま、しばらくどういうことだろうと考えていた。それからベッドを抜けだし、スリッパをはいてバスローブをはおると、バタバタとしたの玄関までおりていった。すると、差し入れ口のすぐ下の床にはがきが一枚落ちていた。
ルイスははがきを拾うと、玄関ホールの窓まで持っていった。満月の灰色の光がさしこんでいた。ここなら読めるだろう。けれど、読むものはなかった。はがきはまっしろだった。
ルイスは気味が悪くなってきた。これはどういうことだろう? ルイスははがきを裏返して、ちゃんと切手も宛名もあるのを見てほっとした。けれども、切手はずいぶんむかしふうだったし、消印もかすれてどこから送られてきたのかわからなかった。はがきの住所は、きれいな飾り文字で書いてあった。
ルイス・バーナヴェルト
ミシガン州、ニュー・ゼベダイ
ハイ・ストリート一〇〇番地
差出人の住所はなかった。
ルイスは、はがきを持ったまま月光のなかに立ちつくしていた。ローズ・リタが夜中に起きてやったたちの悪い冗談かもしれない。きっとそうだ――でも、そんなことあるだろうか。ルイスははがきを裏返して、もう一度なにも書いていない面を見た。目が大きく見開かれた。文字があったのだ。
Venio
手がぶるぶる震えだした。目に見えないインクのことならどこかで読んだことがあったけれど、特別な粉をかけたり火であぶりださなければ文字は出てこない。ところがこの文字はひとりでに現われたのだ。
おまけにルイスは、メッセージの意味がわかっていた。前にミサの持者をしていて、少しならラテン語が読めたから、Venioの意味もわかったのだ――わたしはいく=Bふいにルイスはこわくてたまらなくなった。暗い玄関にひとりでいるのがこわかった。あわててホールの向こうにある電気のスイッチのほうへいこうとすると、はがきが手からするりと抜けおちた。まるでだれかがひょいとつかんで、抜きとったような感じだった。ルイスは恐怖に駆られて、壁のスイッチに飛びついた。暖かい黄色の光が古い屋敷のホールにあふれた。だれもいなかった。けれどもはがきは消えていた。
次の朝、目が覚めるとすぐにルイスは下におりて謎のはがきを探した。敷物をめくり、床板の隙間をのぞき、ジョナサンが杖を入れている柳模様のつぼのなかも探した。ありとあらゆるところを探したけれど、はがきは影も形もなかった。はがきが下まで落ちてしまうほど広い隙間はなかったし、ふわふわ飛んでふたのついた郵便受けをぬけてもどっていくわけもない。いったいどこへいったんだ? なぜかはがきのことをジョナサンおじに話す気になれなかった。けれども、朝ごはんのシリアルのチェリオスを食べていると、ふっといい説明が浮かんできて気が楽になった。あのはがきはきっと、いつもみたいなジョナサンおじの魔法なんだ。
ルイスはもう現役の魔法使いの家に住みはじめてから一年以上たっていたから、奇妙な光景や音に驚かなくなっていた。コートかけの鏡をのぞくと、自分の顔が映っている――こともある。でもたいていは、砂漠のなかに建つローマ時代の遺跡やマヤ族のピラミッドやスコットランドのメルローズ修道院が映っていた。玄関わきの客間にあるオルガンはラジオのコマーシャル・ソングを演奏したし、古い広大な屋敷のあちこちにあるステンドグラスはひとりでに絵柄を変えた。だからあの不気味なはがきも、いつものちょっとしたジョークにちがいない。ジョナサンに聞けば、ほんとうにそうなのかたしかめることができるはずだった。屋敷の魔法はすべてジョナサンがとりしきっていたからだ。けれども、ルイスは聞くのがこわかった。もし自分がまちがっていたとしても、知りたくなかった。
十月の中ごろだった。お昼のあとルイスは早めに学校にもどることにした。いつもはだれかにやられるのがこわくて、お昼休みが終わるまで家にいた。今日早くもどることにしたのは、ローズ・リタにそうするよう説得されたからだった。
ルイスとローズ・リタは、ルイスの恐怖心についていろいろ話しあった。ローズ・リタは、恐怖心を克服するには、まっこうから立ち向かうしかないと言いはった。お昼が終わったらすぐに校庭にもどるようにするべきだ。一度やれば、次はもっと楽になる。その次はさらに楽になるはずだ。それがローズ・リタの言いぶんだった。最初ルイスはがんとして聞きいれなかったけれど、最後にはローズ・リタの言うとおりにやってみることにした。少しでもやりくりするために、ローズ・リタが学校わきの路地で待っていてくれることになった。べつにフットボールとかほかの試合に参加する必要はない。ただ立って話していればいいのだ。二人でバルサ材を使って作っているローマのガレー船の話をすれば、きっと楽しいだろう。
ルイスは学校につくと、細長い路地のようすをうかがった。ローズ・リタはいない。路地のむこうから、子どもたちが遊んでいる歓声が聞こえる。おそるおそるルイスは校庭のほうへ歩きだした。ルイスは、いついきなり飛びかかられてもおかしくないと思っていたし、じっさいそういうことがよくあった。
半分ほど路地をくだったところで、左のほうから音が聞こえてきた。うなったり取っくみあったりしているような音だ。ルイスがそちらのほうをのぞくと、監督教会の控え壁のあいだの暗がりで子どもが二人、けんかしているのが見えた。ローズ・リタとウッディ・ミンゴだ。
ルイスは恐怖のあまり凍りついたように立って見ていた。ウッディは片手でローズ・リタの腰を押さえつけ、もう片方の手で髪の毛を思いきりひっぱった。痛いにちがいない。けれどもローズ・リタはひと言も発せず、目を閉じ、歯をぐっと食いしばった。
「ほら!」ウッディはどなった。「取りけせ!」
「いや」
「取りけすんだ!」
「いやだって言ってんのよ――痛い!――お断りよ!」
ウッディは、これ以上ないというくらい、いやらしい笑みを浮かべた。「そうかい、じゃあ――」ウッディはローズ・リタの髪を勢いよくぐいとひっぱった。ローズ・リタの顔はさらにゆがみ、歯がぎりぎり鳴った。それでもローズ・リタは悲鳴ひとつあげようとしなかった。
ルイスはどうしたらいいのかわからなかった。走って校長先生を呼んでこようか? 警察がいいだろうか? それとも一人でウッディに飛びかかるか? ウッディのナイフのことを思いだして、ルイスはおじけづいた。
ウッディがルイスに気づいた。ウッディは、帽子をとったときとおなじようににやりと笑った。
「やあ、デブ! ガールフレンドを助けにきたのかい?」そう言ってまた髪をひっぱったので、ローズ・リタの顔が苦痛にゆがんだ。
ローズ・リタは目をあけて、ルイスをちらりと見た。「逃げて、ルイス!」ローズ・リタは鋭い声でささやいた。「逃げるのよ!」
ルイスは立ちつくしたまま、げんこつを握ったり開いたりした。通りをふりかえると、車がゆっくりと走りすぎていく。校庭のほうを見ると、子どもたちが歓声をあげながら遊んでいた。
「ほらどうした、脂肪のかたまりめ! おれを殴りたいんだろう? やってみろよ!」
ルイスはくるりと背を向けて走りだした。路地をくだり、歩道に出て、交叉点を渡り、グリーン通りを家に向かって走った。歩道を走る足音と、走りながら泣いている自分の声が聞こえる。グリーン通りのとちゅうで、ルイスはこれ以上走れなくなり立ちどまった。わき腹が痛み、頭ががんがんする。いっそのこと死んでしまいたかった。ようやく息がもどると、涙をぬぐって鼻をかみ、とぼとぼと家に向かって歩きだした。
ジョナサンおじが前庭の落ち葉をかきあつめていると、ルイスが重い足どりで歩道をあがってくるのが見えた。
「おかえり、ルイス!」ジョナサンは叫んで、楽しげにパイプをふった。「学校が早く終わったのかい……」
門がカチャンと鳴り、数秒後に玄関のドアがバタンと閉まった。ジョナサンはくまでを投げ捨てると、なにが起こったのかようすを見に行った。
食堂にいくと、ルイスがテーブルにうつぶして泣いていた。
「ちくしょう、最低だ、なんてばかなんだ、ちくしょう……」ルイスはそれだけをくりかえしていた。
ジョナサンはルイスのとなりに腰を下ろすと、腕を回した。「どうした、ルイス」ジョナサンは優しく言った。「もう平気だ。どうしたんだ? なにがあったかわしに話してみないかね?」
ルイスは涙をぬぐい、何度も鼻をかんだ。それからぽつりぽつりと、なにがあったかすべて話した。「……それでぼくは逃げてきたんだ。ローズ・リタは二度とぼくなんかとつきあってくれないよ」ルイスはしゃくりあげた。「もう死んだほうがましだ!」
「そうか、だが、ロジーが社交リストからおまえさんの名前を削っちまうなんてことはないと思うよ」ジョナサンはほほえんで、ルイスの肩を叩いた。「あの子はただ自分の面倒は自分で見たかっただけさ。正真正銘のおてんば娘だからな。あの子がウッディとけんかしたんだったら、ちゃんと考えてのことだと思うよ」
ルイスは顔をあげて、涙にぬれた目でジョナサンを見あげた。「ぼくが卑怯者の弱虫だからってきらいにならないと思う?」
「おまえさんはそんな子じゃないよ」ジョナサンは言った。「それにもしロジーが力ばっかり強いようなやつを親友にしたかったなら、そうしたはずさ。頑固な子だからな。自分がやりたいようにするさ。それに、あの子はおまえさんのことが大好きだと思うよ」
「ほんとに?」
「ああ。さあ、わしは落ち葉をぜんぶ集めちまうから、今晩は車寄せでたき火をしよう。月曜日に手紙を書いてやるから、ハガーティ先生のことも心配しなくていい。船の模型の続きでもしてきたらどうだい?」
ルイスは感謝をこめておじさんに向かってにっこりした。泣いたあとのくせで二、三度しゃっくりした。「わかったよ、ジョナサンおじさん。ありがとう」
ルイスは二階の自分の部屋へあがって、その日の午後はギリシャやローマの三段オールのガレー船やサラミスとアクティウムの戦いの世界にひたりきった。夕ごはんの少し前、電話が鳴った。ルイスは二段飛びで階段をかけおり、もう少しで顔から転びそうになった。
「もしもし」ルイスはハアハア息を切らしながら受話器を取った。「ローズ・リタ、きみかい?」
受話器の向こうでくすくす笑う声が聞こえた。「そうじゃなかったら、どうするつもりだったの?」
ルイスはほっとした。「ぼくのこと怒ってる?」ルイスは聞いた。
「べつに。どうしたかと思って電話しただけよ」
ルイスは顔が赤くなるのを感じた。「なんだか気分が悪くなっちゃって帰ったんだ。ウッディに殴られた?」
「ううん。ちょうど先生たちが通りかかって、とめたの。この髪さえなければ、あいつをやっつけてやれたのに。角刈りにしちゃおうかな」
「どうしてけんかになったの?」
「ああ、それはわたしが、帽子を盗むなんて汚いこそ泥のやることだ、ってあいつに言ったからよ。あいつは取りけせって言ったけど、わたしは取りけさなかったの」
ルイスはしんとした。このまえローズ・リタが、わたしがいればウッディに帽子をとられずにすんだのに、と言ったときとおなじ気持ちがしていた。複雑な気持ちだった。ローズ・リタが自分を守ってくれようとしたことには感謝していたけれど、自分のけんかを自分で戦えないというのは最低の気分だった。男の子っていうのは、そうするものなのだ。
「どうしたの?」ローズ・リタが聞いた。ルイスはまるまる一分間もだまっていた。
「え……ああ。うん。ちょっと……ちょっと、考えてたんだ」ルイスはつかえながら言った。「ウッディにけがをさせられなかった?」
ローズ・リタはばかにしたようにフンと鼻を鳴らした。「ええ、あいつは髪をひっぱる以外なにもしなかったわよ。わたしが女の子だからね。ねえ、ルイス?」
「なに?」
「あの船の続きをしよう。今夜船を持ってうちにこない?」
「わかった」
「じゃあ、夕ごはんのあとでね。バイバイ」
「あとでね」
ルイスは、逃げたせいでローズ・リタに嫌われていないとわかってほっとした。けれども、ローズ・リタとウッディのけんかのことは頭から離れなかった。その晩、ルイスは夢を見た。夢のなかで、ウッディがローズ・リタを殴った。ローズ・リタは倒れ、頭から血が出た。ルイスはウッディをぐいとつかむと、パンチを食らわした。するとウッディはナイフを出して、ルイスの鼻先につきつけた。「てめえの舌を切り取ってやる!」そのとたん、目が覚めた。ルイスはガバッと起きあがった。パジャマが汗でぐしょりぬれていた。そのあとは、なかなか寝付けなかった。
次の朝、目を覚ますと、ルイスはウッディみたいにやせて強くなろうと決心した。床に手をついて、腕たてふせを十回やろうとしたけれど、たった三回でうつぶしてしまった。次に腹筋をしようと、仰向けになった。ところが、手足をバタバタさせてひじまで使わないと、体を起こせなかった。立ちあがったひざを曲げずにつま先にさわろうとしたが、これもできない。頭がズキズキ痛むだけだ。最後に、挙手跳躍運動《ジャンピングジャック》をやってみようとした。頭のうえでパンと手を叩くのが面白い。ところが足を閉じると、ももの脂肪もパンと鳴った。その音を聞くと、気持ちがなえてしまった。おまけに、下の部屋のしっくいが落ちるんじゃないかと気が気じゃなかった。けっきょくあきらめて、ルイスは朝ごはんを食べにおりていった。
その日は土曜日で、ツィマーマン夫人が朝ごはんを作りにきていた。ツィマーマン夫人はとなりに住んでいたけれど、バーナヴェルト家のためにしょっちゅう食事を作ってくれていた。土曜日の朝ごはんにはかならず特別メニューがついていた。それはドーナツだったり、パンケーキだったり、ソーセージだったり、いちごのショートケーキだったり、蜂の巣の入ったハチミツをかけたフレンチトーストだったり、桃の砂糖漬けだったりした。その朝、ツィマーマン夫人はワッフルを焼いていた。ルイスはツィマーマン夫人が黒い鉄のワッフルメーカーに黄色いバターをたっぷりと入れるのを見た。そして自分の決心を思いだした。
「あの……ツィマーマン夫人?」ルイスは言った。
「なに、ルイス?」
「ぼく、その、今朝はワッフルはいらないんだ。コーンフレークをくれる?」
ツィマーマン夫人はふりむいて、怪訝そうにルイスを見た。熱をはかろうとルイスのほうへきかけて、はっとジョナサンがウッディとローズ・リタのけんかのことを話していたのを思いだした。ツィマーマン夫人はとても賢い女性だったから、すぐにルイスがなにを考えているのかぴんときた。そこで、肩をすくめて言った。「わかりましたよ。わたしとおじさんのぶんが増えるわね」
ルイスは、なんとか朝ごはんのあいだじゅう決心を守りとおした。目と鼻の先をとろっとしたメープルシロップがたっぷりかかった金色のワッフルがいったりきたりするのを見るのは、まさに拷問だった。けれどもルイスはつばをごくりと飲みこんで、べしょべしょになった味のないコーンフレークを流しこんだ。
朝ごはんが終わると、ルイスはトレーニングをやりに中学のジムへいった。さっそく、げんこつが痛くなるまでサンドバッグをパンチし、それから腕まくりをして、右腕にぎゅっと力を入れてみた。なにか変化がおきているのかよくわからなかったので、バスケットボールのコートにハートウィグ先生を探しにいった。ハートウィグ先生は体育の先生だった。大きくて明るい先生で、いつもふざけて大きなボールを投げてきたり、「このラインまでこい、根性だ、根性。ほら、おいち、に、さん、しぃ!」なんて友だちみたいに話しかけてくる。先生を探すと、なにもせずにただその辺につったっていた子どもたちを集めて、ボクシング大会をやろうとしているところだった。
「こんにちは、ハートウィグ先生」ルイスは大声で言った。「ちょっといいですか?」
ハートウィグ先生はにっこりした。「ああ、もちろんだよ、ルイス。どうしたんだい?」
ルイスはもう一度腕まくりをして、腕を突きだした。そして筋肉――というか筋肉と思われるところに力を入れた。「なにか見えますか、先生?」ルイスは期待をこめて聞いた。
ハートウィグ先生はいっしょうけんめい笑わないようにした。先生はルイスのことを知っていたし、ルイスの悩みも少しはわかっていた。「ああ、きみの腕が見える」先生はゆっくりと言った。「今日はトレーニングしたのかい?」
「ええ、まあ。わかりませんか?」ルイスはもう一度腕に力を入れた。みんなが取り囲んで見ているので恥ずかしくなってきた。いつもだったら、みんなが見ているまえでこんなことは絶対しないだろう。でも、今日だけはどうしてもたしかめておきたかった。ハートウィグ先生はプロだ。先生なら、ルイスの筋肉が大きくなったかどうかわかるだろう。
ハートウィグ先生はルイスに腕を回すと、わきへ連れていった。「いいかい、ルイス」先生は静かな声で言った。「筋肉を鍛えるには、五分サンドバッグをパンチするだけじゃだめなんだ。何週間、何カ月、ときには何年もやらなくちゃならない。だから、すぐになにも変わらないからといってがっかりしちゃいけないよ、いいね? さあ、もう一度いって、パンチしてこい!」ハートウィグ先生は優しくほほえむと、ルイスのおなかにふざけて軽いジャブを入れた。先生は好きな子にいつもこれをやる。ルイスは顔をしかめた。先生にお礼を言うと、サンドバッグのところへもどった。
けれども、ルイスのやる気はうせていた。男らしい体格になるのに何年もかかるんだったら、さっさとやめて昼ごはんを食べにいったほうがましだ。もうすぐ一時だ。ルイスはおなかがすきはじめていた。
それからしばらくして、ルイスは〈ヒームソス・ドラッグストア〉のカウンターにすわっていた。ちょうどお昼ごはんにホットドッグを二本とチェリーコーク二杯をたいらげ、キャプテン・マーヴェルの漫画をパラパラとめくっているところだった。キャプテン・マーヴェルはおなじみの悪役たちを次々と倒していく。マーヴェルのアッパーカットは、バコッとかドスッとかいった音をたてて敵に命中した。ルイスも何度かこのアッパーカットを試したけれど、一度たりとも相手のあごに命中したことはなかった。パンチを浴びせようとした相手はひょいとよけて、けらけらと笑うだけだった。
ルイスはなかの漫画をぜんぶ読み終わると、雑誌のうしろをめくった。そこには、ハイパワー毛穴すいとり器≠ネどというたぐいの商品の広告がのっていた。皮下注射器そっくりのぞっとするような代物で、醜い黒いにきびをきれいさっぱりすいとります、ということらしい。どちらかというと、思春期の悩みだろう。ルイスが悩んでいるのはもっと別のことだった。
ルイスがさいごのページをめくると、チャールズ・アトラスの広告が出てきた。その広告はいつもそこにあって、内容もいつもおなじものだった。体重が四十四キロもある弱虫の男の子が主人公の短い漫画だった。男の子は強くなって、ビーチで顔に砂をかけた男に借りを返す。一番下に、チャールズ・アトラス本人が登場する。アトラス氏の白い水着を見ると、ルイスはいつも赤ん坊のオムツを思いだした。アトラス氏は全身が油を塗ったようにぎらぎらしていて、筋肉がはちきれんばかりに盛りあがっている。そして、このダイナミック屈伸体操≠試してみろ、と言わんばかりにルイスに向かってこぶしをふりあげていた。写真の下に、切りとれるようになったクーポン券がついていた。今までルイスは何度もこの券を切りとろうとしたけれど、いつもなにかの理由でやめてしまっていた。しかし今日は、このページを破ってきれいにたたみ、ポケットにしのばせた。そして家に帰ってから、このクーポンを封筒に入れ、二十五セントの切手を貼り、チャールズ・アトラスへ送った。
それから三、四日、ルイスは食事制限と腕たてふせを続けた。しかし、五日も過ぎると、だんだんとあきてきた。何度腕をさわっても、新しい筋肉がつきはじめているようすはない。それに、食事制限のせいでいつもいらいらしていた。やっぱりハートウィグ先生が言っていたことは正しかったんだ、とルイスは思いはじめた。ウッディみたいに細く、強くなるのは、大変なことなのだ。ほんとうにほしいものを我慢して、エクササイズみたいにおそろしくつまらないことをあくせくやらなければならない。おまけに、そうした辛いトレーニングをやったからって、望んだものが得られるという保証はどこにもないのだ。
ルイスの決心はだんだんとぐらつき、やがて完全に崩れさった。ちょっと休んで、気分転換をしてからまたはじめることにしよう。さっそくルイスは、リーセズのピーナツバター・カップをぱくぱく食べ、クリームがたっぷりのったショートケーキをおかわりしていた。腕たてふせもやめ、サンドバッグのそばによりつきもしなくなった。時々郵便物を見てチャールズ・アトラスのパンフレットがきていないか探したけれど、パンフレットはいつまでたっても届かなかった。
簡単に強くなれる方法があったらなあ! そうして、ルイスはバーナヴェルトのおじいさんのお守りのことを考えるのだった。あれがほんとうに魔法のコインだったらどんなにすてきだろう。魔法の力で片っぱしから敵をなぎたおし、ローズ・リタを守ってあげられたら。そしたら、すごいぞ! もう食事制限のことも腕たてふせのことも忘れられる。それに……
けれどもそんな空想にふけるたびに、ルイスはツィマーマン夫人がコインを見てくれたことを思いだした。あのとききっぱりと、これは魔法のコインではないと言われたのだ。ツィマーマン夫人は魔法の専門家だ。まちがえることはないだろう。でも、専門家だってまちがえることはある。人間はけっして空を飛べないと言いはったひとたちもいたじゃないか。こんなふうにルイスは一人で、そうだ、いやちがう、そうだ、いいややっぱりちがう、と堂々めぐりを続け、しまいにはうんざりしてしまうのだった。そして部屋にいってひきだしからコインを取りだすと、親指と人差し指でぎゅっとはさんでみた。ビリビリって感じが伝わってくるだろうか? いや、だめだ。そしてルイスは腹を立てて、コインをひきだしにつっこむと、バタンと閉めた。そんなことを何度もくりかえしたけれど、なにか起こったためしはなかった。ところが、しょっちゅうコインにさわったり、願いをかけたり、指ではさんだりしていたせいで、いつのまにかルイスはコインを魔法のコイン≠セと思うようになった。この魔法のコイン≠ニいう言葉は、壊れたレコードのように頭のなかを駆けめぐった。ほかのことを考えようとしても、すぐにこの言葉が浮かんできてしまう。魔法のコイン。魔法のコイン。ただの希望的観測だろうか? それともなにかほかの力が働いているのだろうか?
十月終わりの天気のいい土曜日の午後、ルイスとローズ・リタはジョナサンの図書室をあさっていた。部屋にただ本棚を置いて図書室と称しているひともいるけれど、ジョナサンのはそうではなかった。床から天井まで本がぎっしり詰まっているのだ。ルイスはしょっちゅうこの部屋へいっては、本をひろいよみしたり、ただすわって考えごとをしたりしていた。今日はローズ・リタと、二人で作っているローマ時代のガレー船の船につけるラテン語の銘を探していた。ガレー船作りは、今や一大プロジェクトになりつつあった。ルイスとローズ・リタは毎晩のように、バルサ材やゴムセメントやらプラモデル用の接着剤やらに囲まれて遅くまで作業した。船は半分ほどできていたけれど、ちょっとした細かいところでいきづまってしまうことがよくあった。ルイスは、帆にローマの将軍ドゥイリウスの絵を描き、絵につける銘を見つけてきた。この十字架により、なんじは勝利せん。ポール・モールのタバコの箱からとったものだった。ふさわしいとは言えなかったけれど、これしか見つけられなかったのだ。ローズ・リタは、そんな銘はばかばかしくって意味がないと思う、と言った。そこで二人は、ジョナサンの蔵書をひっくりかえしてラテン語の本を見つけだし、意味のある、適当な、ふさわしい貫禄のある銘を探すことにした。つまり、ローズ・リタの気にいる銘を探そうというわけだ。
「ねえルイス、おじさんがもうちょっときちんと本をしまっといてくれれば助かるのにね」ローズ・リタはブツブツと文句を言った。
「ふうん、そうかい! いったいおじさんのやりかたのどこが気に入らないんだ?」ルイスはローズ・リタが文句ばかり言っているのにあきあきしていたので、やりかえしたい気持ちになっていた。
「どこが気にいらない? ええ、たいしたことじゃありませんけどね。これを見てよ! ここの棚はラテン語の本の棚のはずだけど、冒険小説やら古い電話帳やらツィマーマン夫人の書いた本まで入ってるじゃない」
ルイスはびっくりした。ツィマーマン夫人が本を出していたなんて知らなかったのだ。「へえ、すごいな。どんな本だい?」
「知らないわ。見てみましょ」ローズ・リタは、本棚からほこりをかぶった石目模様の黒い革表紙の本を下ろした。背表紙に金色の文字で題名が刻印されていた。
お守りについて
F・H・ツィマーマン
魔術学博士
ローズ・リタとルイスは床のうえにしゃがんで、本を調べた。一ページ目は表題紙だった。
魔法のお守りの特製に関する研究
この学位論文は魔術博士号取得のため
ゲッティンゲン大学魔術学武に提出されたものの一部なり。
フローレンス・ヘレン・ツィマーマン
一九二二年 六月十三日
英語版
ルイスは目をまるくした。びっくりしたし、興味をそそられていた。ツィマーマン夫人が大学にいって魔女になるための勉強をしたことは知っていたけれど、この本のことは知らなかった。
「わたしたちがこの本を見たことを知ったら、おじさんはかんかんになるわよ」ローズ・リタがクスクス笑いながら言った。
ルイスは心配そうにドアのほうを見た。以前は、魔法に関する本もほかの蔵書といっしょに棚に並べてあった。けれど、ルイスが魔法に興味を持っていることを不安に思ったジョナサンは、ある日見つけられるかぎりの魔法の本をごっそり持ちだして、寝室のたんすに移してしまったのだ。今はすべて、かぎをかけてそこにしまいこんである。ジョナサンが忘れてしまったこの本以外は。
「どうだろう。おじさんはこの本がここにあるってことすら知らないと思うよ」ルイスは言った。
「図書室をちゃんと整理しておかなかった罰よ」ローズ・リタは言った。「さあ、読んじゃおう」
ルイスとローズ・リタは床にすわって、ツィマーマン夫人の本をパラパラとめくった。魔法のお守りについていろいろなことがわかってきた。ヴェルツブルグの聖アンセルムス大主教の遺体で見つかったふしぎな羊皮紙や、フランスのカトリーヌ・ド・メディシス王妃の失われたお守りのことも知った。そして本の最後の章まできた。
お守りの力を試す方法
ルイスは二階のひきだしにしまってあるコインのことを思いだし、がぜん興味がわいてきた。けれども読みはじめて、がっかりした。本に書いてあるのは、コインを見つけた夜にツィマーマン夫人が言っていたこととまったくおなじだった。本物の魔法使いだけがお守りの力を試すことができる。ツィマーマン夫人は自分の本で勧めている方法を使って、あの三セント硬貨の力を試していた。その結果、ただのコインだとわかったのだ。
ローズ・リタはもうあきてきた。「ねえ、ルイス」ローズ・リタは、いらいらして言った。「時間の無駄よ。船につけるのにいい銘があるかどうか探そう」ローズ・リタは本を閉じて、立ちあがろうとした。
「ちょっと待って」ルイスは言って、もう一度本を開いた。「あともう一ページある。なにが書いてあるか見ようよ」ローズ・リタはふうっと大きなため息をついて、またすわった。二人は最後のページをめくった。そこにはこう書いてあった。
数は少ないが、これまで説明したテストには反応しないきわめて強い力を持ったお守りもある。こうしたお守りは非常にまれだ。筆者もこのようなお守りにじっさいに触れたことはないし、見たことすらない。が、ソロモン王が持っていたお守りは、こうしたもののひとつだったと言われている。シモン・マゴスが盗むのに成功したお守りもやはりそのひつで、彼は一級の真に偉大なる魔法使いだと考えられた。
こうしたお守りは、その力が強いために、いっけん魔法がかかっているとはわからないし、普通のテストには反応しない。しかし、以下のテストでは反応が見られると言われている。
まずお守りを左手に置き、三回十字を切ってから、次の祈りを唱える。
「インモ ハウド ダエモノラム、ウンクアム エト ナンクアム ウルブ エト オルブ、クイクイ アザゼル マグノベレ ソス エト ウリム エト スムミム イン ノミネ テトラグラマトス フィアト、フィアト アメン」
そしてもしそのお守りがほんとうに右で説明したものなら、震えるようなビリビリという感覚があるはずである。この感覚は数秒しか続かない。その後はまたすぐに、普通の物体と同じごくありふれた生命のないものにしか見えなくなる。生命がないように見えるが、じっさいはそうではない。付けくわえておくが……
ルイスは顔をあげた。その目には奇妙な光が宿っていた。
「ねえ!」ルイスは言った。「二階へいってバーナヴェルトのおじいさんのコインを取ってきて、たしかめてみようよ!」
ローズ・リタは、うんざりした顔でルイスを見た。「かんべんしてよ、ルイス! あれを見つけた日にツィマーマン夫人がテストしたのを覚えてるでしょ?」
「ああ。でも、こっちのテストはしなかったよ。ほんとうに力の強いお守りは、あのときしたテストには反応しないって書いてあるじゃないか」
「なーるほど。それに、そういう強いお守りはめったにないって書いてあるわね」
「でも、おじいさんのコインがそのひとつかもしれないだろ。わからないじゃないか」
ローズ・リタはバンと本を閉じて、立ちあがった。「ああ、もうわかったわよ! 今すぐあのばかばかしいコインを取っておりてきなさいよ。それでこのおかしな呪文を唱えて、どうなるか見ましょ。もううんざりだわ。あんたのばかなコインをどぶにほうりこんでやりたい。じゃあ、もしこのくだらない呪文を唱えてもなにもおこらなかったら、もうその話はしないって約束できる?」
「うん」ルイスはにやっと笑った。
ルイスは二階へかけあがって、枕もとのテーブルのひきだしを勢いよくあけた。そしてなかをひっかきまわして、コインを見つけた。図書室にもどると、ローズ・リタは革のひじかけ椅子にすわって、帆船の写真がいっぱいのった大きな本をパラパラとめくっていた。
「それで?」ローズ・リタは顔もあげずに聞いた。「あった?」
ルイスは、むっとした顔でローズ・リタを見た。ローズ・リタにも興味を持ってほしかったのだ。「ああ、あったよ。こっちへきて手つだってよ」
「どうしてわたしが手つだわなきゃいけないわけ? 字くらい読めるでしょ?」
「ああ、読めるさ。でも、手は三本ないからね。一本の手で十字を切って、もう一本の手でコインを握ってるんだから、呪文を読めるようにきみが本を持っていてくれなきゃ」
「わかったわよ」
図書室の片側の壁に、両開きのガラス扉があった。そこから屋敷の測庭《そくてい》へ直接出られるようになっている。ルイスとローズ・リタはこの扉の前に陣取り、ルイスは扉背を向けて立った。そうすると、肩ごしに外の光が入って、ローズ・リタが広げて持っている本にあたった。ルイスは左手にコインを持ち、右手でゆっくりと十字を切った。それを三回くりかえすと、カラヤン牧師がミサをあげるときの口調をまねして呪文を唱えはじめた。
「インモ ハウド ダエモノラム、ウンクアム エト ナンクアム……」
ルイスが呪文を唱えると、にわかに部屋が暗くなった。外のカエデのあざやかなだいだい色の葉から光がすっと消え、強い風がガラスの扉をがたがたと鳴らした。そしてバタンと扉が開き、風が部屋に吹きこんできた。机のうえに置いてあった辞書がすさまじい勢いでパラパラとめくれ、紙が床に散らばり、電球のかさはひとつ残らずめちゃくちゃになった。ルイスはふりかえった。そしてだまって立ったまま、ふしぎな薄明かりに包まれた庭をじっと見つめた。その手にはまだコインが固く握られていた。
ローズ・リタは本を閉じて、不安げにルイスのほうをちらりと見た。ローズ・リタが立っているところから、ルイスの顔は見えなかった。「うへ、気味悪いわ」ローズ・リタが言った。「なんだかまるで……まるであんたが外を暗くしたみたい」
「うん」ルイスは言った。「たしかにへんだね」ルイスはピクリとも動かずに、ただじっと立って夜が訪れた庭を見ていた。
「それで……コインはどうだった?」ローズ・リタの声は緊張で震えていた。
「なにもない」
「ほんとに?」
「ああ、まちがいないよ。ただのにせものだ。船のつづきをしよう」
ルイスは急いでかけよってガラス扉を閉めた。それからローズ・リタといっしょに、小さなハリケーンが撒きちらしていったものを拾いあつめた。部屋をいったりきたりして、散らばったものをもとにもどしながら、ルイスはローズ・リタのほうを見ないように気をつけていた。ルイスの手のなかで、コインは跳ねていた。それをローズ・リタに知られたくなかったのだ。
ローズ・リタが帰るとすぐに、ルイスはばたばたと地下室の階段をおりて、おじさんの作業部屋にいった。そして道具箱をひっかきまわして針金用のはさみを見つけ、四苦八苦したあげくなんとかコイン時計の鎖にくっつけていた針金の輪を切った。それから二階へかけあがり、枕もとのテーブルのひきだしをひっくりかえして聖アントニウスのメダルを探した。はじめての聖体拝領のときにもらって、しばらくつけたあとあきてしまったものだ。針金用はさみとペンチでしばらく格闘して、ようやく聖アントニウスのメダルが下がっていたところにコインをつけるのに成功した。ルイスは鎖を首にさげると、鏡をのぞきにいった。
十月から十一月になり、日に日に寒さが増してきた。朝、玄関のドアをあけると、自分の息が白く見えた。ルイスは魔法のコインを肌身はなさずつけていた。教会へいくときも、学校へいくときも、夜寝るときすら外さなかった。ジョナサンとツィマーマン夫人とローズ・リタはみんな別々のときに、ルイスが首から鎖をぶらさげているのに気づいたけれど、またルイスが聖アントニウスのメダルをつけることにしたのだとしか思わなかった。部屋で服を着がえるときも、ルイスはかならずドアにカギがかかっいてることをたしかめた。
コインがもたらす気持ちを説明するのは難しかった。ルイスが思いつくなかでは、ビジュー映画館へいって海賊映画を見たときの気分が一番近かった。ルイスは短剣の決闘や、舷側砲のとどろき、煙や戦いが血が大好きだった。映画を見終わって外の通りに出るころには、わきに券をさげ、ベルトに長い海賊のピストルをさしているような気になっている。家に向かって歩きながら、厚いマントにすっぽりと身を包み、とあるスペインの港の船着場を獲物を求めてさまよい、砲撃の衝撃で震える後甲板のうえをむっつりと歩きまわる自分の姿を思いえがく。そのときのルイスは、残忍で、強く、勇敢で、冷酷で、無慈悲だった。そんなすばらしい気分が、家に帰るとちゅうまで続く。そしてまた、いつものつまらない平凡なルイスにもどるのだった。
魔法のコインがもたらす気分は、そんな海賊映画を見たときの気分にちょっと似ていたけれど、ひとつだけちがうのは、コインのほうが長く続くということだった。それに、コインの影響はほかにもあった。まず、ルイスは自分の頭が計画や策略ではちきれそうになっていることに気づいた。歩いているときも、ウッディ・ミンゴや自分をいじめた子たちに仕返しをする方法が次々と浮かんでくる。もちろん、魔法のコインが現われるまえから仕返ししてやりたいとは思っていたけれど、今みたいにすごい計画を思いついたことはなかった。たまにあまりのおそろしさに、頭からふりはらわなければならないほどだった。
それに、夜に夢を見ることも多くなったようだった。夢は色つきで、うしろに音楽が流れている。気分を高揚させるような軍歌だった。ルイスは自分が軍の先頭にたって馬を進めているところや、騎士たちをひきつれ城壁を乗りこえているところを夢見た。ほかにも、心底恐ろしい夢を見たが、どんな夢だったかは思いだせなかった。起きたとき、そういう夢を見たという感覚だけが残っているのだった。
こうしてルイスはコインを身につけ、コインがなにかしてくれるのを待った。そのころ、ルイスの毎日は、ウッディ・ミンゴのせいでほんとうにみじめなものになりつつあった。
まるでウッディはろくに寝もしないで、どんな意地悪をしてやろうか考えているみたいだった。たとえば学校では、どうにかしてルイスの近くの席をとり、ハガーティ先生がうしろを向いたとたん、通路ごしにぱっと手を出してルイスの首をつねった。それも思いきり、おかげでずっとあとまで、首がずきずきした。トイレでいっしょになれば、ルイスのおしりを突つき、ルイスが死んだ動物をこわがっていると知れば、カバンに死んだネズミを入れた。なかでも一番頭にきたのは、火災避難訓練のとき階段を行進さられたことだった。ルイスの学校は古いレンガの高い建物で、今にも崩れそうな木の階段があった。六年生の教室は二階だったから、火災報知機のベルが鳴ると、全員階段のうえに並んだ。ウッディはすばやくルイスのうしろに入りこんだ。そしてルイスのお尻のポケットに片方ずつ手を入れると、「右尻、左尻、おいちにさんし、進め!」とやったのだ。下までおりたとき、ルイスはくやしくて震えながら目に涙を浮かべていた。
ルイスはどうしてウッディが自分を選んだのかわからなかった。道を歩いているとき、いきなり飛びかかってきて名前を言わせ、腕を二、三発殴るまではなしてくれないような連中だってそうだ。やつらはいじめっ子で、ウッディもおなじだ。そういう子はなぜか、ルイスに関心を持つのだ。ルイスは魔法のコインの助けでウッディに立ち向かえる日を心待ちにしたけれど、そういうことは起こらなかった。コインを首にさげ、海賊の黒ひげや宇宙飛行士のトム・コーベットにでもなったような気持ちで歩いていても、ウッディに出くわすと、たちまち勇気は消えうせ、ウッディのポケットにある赤い柄のジャックナイフのことしか考えられなくなってしまう。けれど、今にコインが助けてくれるだろう。ルイスは祈った。
ある晩、ルイスはベッドのなかで、どうやってウッディ・ミンゴに仕返しをしてやろうか考えていた。野球のボールに爆弾をしかけてやろうか、ピーナツバター・サンドに毒を盛ろうか、落とし穴を作って油の煮えたぎった大釜に落としてやろうか。そんな空想にふけりながら眠ったのだから、血わき肉おどるような夢を見たとしても何のふしぎもなかったかもしれない。
夢のなかで、ルイスは背が高くたくましいバイキングの首領になっていた。仲間たちと、インディアンたちの攻撃を退けようと戦っている。どこかで見たことのある場所だった。ワイルダー・クリーク公園だ。町の境界線のすぐ外にあって、ルイスは何度もピクニックにいったことがあった。でも、夢のなかの公園には木のテーブルやレンガのかまどはなく、草が長く生い茂っていた。ルイスと家来たちは、公園のまんなかに追いつめられ、輪になって四方から攻めてくるインディアンたちと戦った。
次の朝、目が覚めたとき、ルイスはへとへとに疲れていた。疲れていたけれど、満足感と勝利の感動に酔いしれてもいた。まるでフットボールの競技場で八十ヤードのタッチダウンを決めたばかりのようだ。ルイスはしばらくベッドのはしにこしかけて、夢のことを思いだしていた。そしてパジャマのシャツの下に手を入れ、コインにさわった。ちぇっ! コインはあいかわらずどこにでもあるありふれたコインのままだった。ツィマーマン夫人の本にのっていた呪文を唱えたときは、たしかに手のなかで跳ねてビリビリという感覚がきたのに、ルイスはがっかりした。ほんとうに力のあるお守りは生命がないように見えることは知っていたけれど、それでもやっぱりがっかりした。こんな夢を見たあとは、まっかに焼けているはずだ。すくなくとも、それがルイスの抱いているイメージだった。
ルイスはコインを持ちあげて、疑わしそうにじろじろと見た。結局今まで、コインはなにもしてくれていない。現実にはなにもだ。ただおかしな気持ちにさせたり、へんな夢を見せたりするだけ。それだって、このコインがやったとはかぎらない。ぜんぶ、自分の心のなかから出てきただけかもしれないのだ。
ルイスはわけがわからなくなってきた。そして着がえながらもう少し考えてみた。あのときコインが動いたことはたしかだ……でも、ほんとうにそうだろうか? なにもないのに、つねられたり刺されたりしたようなへんな感じがすることがあるじゃないか。前に一度、夏の暑いときに、背中を虫がはっているような感じがして、シャツを脱いで見たことがある。でも、なにもいなかったんだ。もし……なにを考えてんだ! ばかばかしい! ルイスは頭をぶるぶるとふって、頭蓋骨を震動させるような勢いでぶつかりあっているふたつの考えを追いはらおうとした。だが、着がえおわったころには、いくらか気分がよくなっていた。じっさい、だんだんと例の海賊映画を見たあとの気分がよみがえってきていた。ルイスは鏡に映った自分の姿を見た。そして、コインを軽く叩いた。コインは聞いていたはずだ。ぼくがコインの力を疑いだしたのがわかっただろう。自分の力を証明する機会がほしいと思っているにちがいない。よし、チャンスをやろう。今日こそ、コインの助けを借りて、ウッディ・ミンゴをやっつけてやる。
朝ごはんのとき、ルイスはツィマーマン夫人にお弁当を作ってくれるよう頼んだ。これからは昼休みも学校で過ごすことにしたんだ、とルイスは言った。それを聞いて、ジョナサンとツィマーマン夫人はうれしそうににっこりした。ルイスが逃亡者かなにかみたいにこそこそと帰ってくるかわりに、ほかの男の子たちと遊ぶことにしたのがうれしかったのだ。それに出かけていくとき、ルイスは満面の笑みを浮かべていた。
「ローズ・リタの影響だな」ジョナサンは二杯目のコーヒーを注ぎながら言った。「このまま仲よくしてくれるといいんだが」
ツィマーマン夫人は立ったまま、じっと玄関を見つめていた。そして考えこんだようにポリポリとあごをかいた。「たしかにいいことなんでしょうね」ツィマーマン夫人はゆっくりと言った。「だけど、最近のルイスはどこかおかしいような気がしてしょうがないんですよ。はっきりこれだ、って言えるわけじゃないんですけどね。なにかよくないことが起こってる感じがするんです。あの子がひどく疲れたようすなのに気づいたかしら? 目のまわりなんかね。なのに学校へ行きたくてうずうずしてたんですから。へんですよ」
ジョナサンは肩をすくめた。「ルイスみたいな男の子がなにかちがうことをやるときは、いつだっておかしく見えるもんさ。わしは心配しとらんよ。あの子は自分がやっていることくらいわかっているさ」
ルイスは学校へいくあいだじゅう、鼻歌で行進曲を歌っていた。気分は最高だった。ところが昼休みがきて、お弁当を食べおわったころには、そんな気分はすっかり失せていた。不安がふくらんでくる。校庭のすみまでくるにはきたが、勇気が潮のようにひいていくのがわかった。ひきかえして、家へ帰ろうか? ルイスはためらった。でも、勇気をふるいおこしてお守りをポンと叩き、緊張したようすで足早に歩いていった。
校庭は、十一月のどんよりとした空におおわれていた。フットボールのグラウンドと野球のグラウンドは一面に足跡と自転車のタイヤの跡がつき、カチカチに凍っていた。あちこちにある水たまりも凍っている。男の子たちはフットボールをしようとしていた。みんなチームを分けるために並び、キャプテンの子が二人、どちらから先にメンバーを選ぶかコインを投げて決めていた。近づいていくと、なかにウッディがいるのが見えた。さらにルイスの勇気はしぼんだ。家に逃げかえりたかった。しかし、こわいという気持ちを抑え、なんとか踏みとどまった。
ルイスは、選ばれるのを待っている男の子たちのなかにまぎれこんだ。そしてポケット手を入れ、どうかだれもぼくに気づきませんように、と祈りながら立っていた。横でぴょんびょん飛びはねながらわき腹を叩いていた男の子は、跳ねるのをやめて、まるで宇宙からきた訪問者を見るような目つきでルイスを見た。いったいこのデブはここでなにをやってんだ?
一人、また一人と選ばれ、最後に二人残った。ウッディとルイスだった。ウッディはルイスのほうを見ると、にやっと笑った。
「おでぶちゃんじゃないか。おじさんがカゴから出してくれたのかい?」
ルイスはひたすら地面を見つめた。
キャプテンは、トム・ルッツとデーヴ・シェレンバーガーだった。次はトムが選ぶ番だった。トムはウッディとルイスをかわるがわる見つめた。ウッディはスポーツが得意だったけれど、しょっちゅうもめごとを起こすのでみんななるべく選ばないようにしていた。
「まあいいか、こい、ウッディ」トムはぶつぶつと言った。ウッディはトムのチームのほうへ歩いていった。
一瞬、デーヴ・シェレンバーガーは、ルイスに帰れと言おうとしたように見えた。ルイスがごくたまにゲームにはいろうとグラウンドにいくと、しょっちゅうそういうことになるのだった。けれども、今回はなぜかデーヴはルイスを入れる気になり、自分のほうにくるよう合図した。
「こい、デヴ」デーヴは言った。「センターにしてやる。ラインに、デブがいるのもいいだろう」
試合に出ることになったのだ。ルイスは信じられない気持ちだった。
キックオフのあと、ルイスのチームはボールをとりかえした。ルイスは前かがみになり、足を大きく開いて、凍ったグラウンドにボールをこすりつけた。クォーターバックが数えはじめた。
「四十二……二十四……三……〇……十四……」
突然ものすごい衝撃がきた。さっきまで地面を見ていたのに、仰向けになってどんよりとした灰色の空を見あげていた。
「おっと、わるいな。フライングをしちまったみたいだ」もちろん、ウッディだった。
「おい、ウッディ、やめろよ!」デーヴが叫んだ。「そういうくだらないことはよせ、わかったな?」
「おでぶちゃんがサイドを割ったと思ったのさ」ウッディは、転がっているルイスを指さして言った。
「割ってないぞ。おでぶちゃんって言うのをやめろ!」ルイスは怒りで顔をまっかにして立ちあがった。
「だってそれがおまえの名前だろ、おでぶちゃん」ウッディは気にもとめずに言った。「それとも、ほかにあるのか?」
ルイスは腕をふりあげ、ウッディの腹にパンチを食らわした。ウッディは腹をぎゅっとつかんだ。その目には、痛みと驚きの色が浮かんでいた。ほんとうに痛かったのだ。
まわりに立っていた子たちは驚いて息を飲んだ。だれかが叫んだ。「けんかだ、けんかだ」たちまち、二人のまわりに輪ができた。ウッディは怒りくるっていた。地面にぺっとつばをはくと、ののしった。「いいか、脂肪のかたまりめ」ウッディはほえて、げんこつをふりかざした。「覚悟しろ」
ルイスはあとずさりした。うしろを向いて逃げようとした瞬間、ウッディが飛びかかり、パンチを浴びせた。げんこつが雨のように肩にふりそそいだ。ルイスはウッディに突進し、しがみついた。二人はどっと倒れ、地面を転げまわった。ウッディはうえになり、ルイスの頭を凍った水たまりに押しつけた。薄い氷が割れ、冷たい水が頭皮にしみこんだ。
空を見あげると、興味津々の顔がぐるりと取りかこんでいた。ウッディはルイスに馬のりになって、勝ちほこったように笑った。
「さあどうぞ、おでぶちゃん。みんなに自分の名前を言ってみな」ウッディはルイスの顔に手をあて、ぐいと押した。氷のように冷たい水が耳に入りこんだ。
「いやだ」
「言えと言ったんだ! 自分の名前を言え!」ウッディはルイスのわき腹にひざを食いこませた。クルミ割りにはまれたみたいだった。
いきなりルイスが起きあがったので、ウッディは仰向けに倒された。またもや二人はゴロゴロと地面を転げまわり、今度はルイスがうえになった。ルイスはウッディの胸に全体重をかけた。しかし、ウッディはあいているほうの腕でルイスの耳にピンチを食らわした。耳がずきずきしたが、ルイスは動かなかった。そしてウッディの髪をつかむと、地面に叩きつけた。
「おい、ウッディ、降参しろ!」
ウッディは、挑戦的なまなざしでルイスをにらみつけた。「いやだ」
ルイスはこぶしをふりあげて、ためらった。倒れている者を殴るなんて最低だと、むかしから言われていたからだ。このままウッディが参ったというまで、うえにのっかっていればいいんじゃないか? ところがそんなことを考えているうちに、なにかほかの力がルイスの手をつかみ、ウッディの鼻めがけてふりおろした。ウッディの鼻から血が噴きだし、口やあごまで流れた。
ルイスはさっと手を引っこめて、ぎゅっと胸のところをつかんだ。はなしたらなにをしでかすかわからないと思ったのだ。見おろすと、ウッディが恐怖に見開いた目でルイスを見ていた。
「こ、降参する」ウッディはつかえながら言った。
ルイスは起きあがって、うしろに下がった。けんかを見ていた男の子たちは信じられないというように、たがいに顔を見あわせた。だれも、なんて言ったらいいのかわからなかった。みんな、ウッディがルイスをこてんぱんにやっつけると思っていたのだ。
ウッディはゆっくりと起きあがった。ウッディは泣きながら、袖で鼻血をふいた。一人の子が校舎にかけこんで冷たい布を持ってくると、ウッディの鼻を押さえた。待っているあいだ、ほかの男の子がウッディにうえを向いて鼻のうえを指で押さえているよう教えてやった。しばらくは、ルイスはヒーローだった。デーヴ・シェレンバーガーはルイスの背中をぽんと叩くと言った。「やったじゃないか、え?」トレーニングでもしたのかい、と聞いてくる子もいた。ようやくウッディの鼻がひと段落つくと、みんなはルイスに、もうちょっとフットボールをやろうと言った。デーヴは、もしやりたければフルバックをやってもいいぞ、と言った。けれどもルイスは言った。「やあ、ありがとう。でもいいや。ちょっと用事があったのを思いだしたんだ。またね」ルイスは手をふって、歩きはじめた。
ほんとうは用事なんてなかった。ただ一人になって考えたかったのだ。そこでルイスはみんなから離れ、校庭の静かな場所までいって歩きまわった。歩きながら、ルイスは考えた。
かねがねルイスは勝ったあとはすばらしい気持ちがするにちがいないと思っていた。でも、そうではなかった。おかしなことに、みんなが見ているまえで恥をかかされたウッディが気の毒でしょうがなかった。今までウッディは強いやつで通っていた。これでみんな、ウッディのことをいじめだすだろう。それにもうひとつ、ひっかかっていることがあった。ルイスはウッディの鼻を殴るつもりはなかった。なのに、まるでだれかが腕をつかんで、ふりおろしたみたいだ。お守りがやったにちがいない。でも、ルイスは気にいらなかった。まるで操り人形みたいに動かされるなんてごめんだ。たしかに魔法の助けはほしかったけれど、自分の手に負えなくなるのを望んではいなかった。
さらにもう少し歩きまわってから、ルイスは時計をひっぱりだして時間を見た。そろそろ昼休みも終わりだ。きっとローズ・リタになにがあったか話せば、もっとすっきりするだろう。もちろん、お守りのことは抜かして。よし、そうしよう。ローズ・リタにウッディとの大勝負のことを話すんだ。きっとほこらしく思ってくれるにちがいない。そうしたら、もっと気分もよくなるだろう。
ローズ・リタならどこにいるのかわかっていた。女子のソフトボールの試合でピッチャーをしているはずだ。今はソフトボールのシーズンではなかったけれど、女の子はスクラムを組んでスカートを泥だらけにするのは禁止されていたから、秋から雪がふりはじめるまでずっとソフトボールをやっていた。
女の子たちのソフトボールのグラウンドにつくと、ちょうどローズ・リタがボールを投げたところだった。黄色いお下げの女の子が、まるで薪を割るみたいにバットをふった。からぶりだった。
それでその回は終わりだった。どちらにしろ、ベルが鳴って、教室にもどらなければならなかった。ローズ・リタもグラウンドからひきあげてきたけれど、不機嫌そうな顔をしていた。けれどもルイスを見たとたん、顔がぱっと明るくなった。
「ルイス!」ローズ・リタは大声で呼んで、手をふった。そしてルイスの前でとまると、おそろしい顔をしておでこに指をつきたて、銃をぷっぱなすまねをした。「バン!」
「なにかあったの?」ルイスは聞いた。
「べつに。ロイス・カーヴァーがへたくそなのよ。打席に立つたびに三振だから、今度は目をつぶって投げたらどうなるかみてやろうと思ったの。結局三振だったわ」
「へえ?」ルイスは半分上の空だった。けんかの話をしたくてしょうがなかったのだ。
「ウッディ・ミンゴとけんかしたんだ」ルイスは言った。
ローズ・リタはびっくりした顔をした。「ほんとに? それで耳がはれてるわけ?」
「ああ、でも、やつはもとひどい目にあったはずさ。顔に、一発おみまいしてやったからね!」ルイスはさっきのパンチのまねをしてみせた。
ローズ・リタは、うたがわしげにルイスを見た。「ちょっと、ルイス! 作り話はやめて! わたしにうそつくことないじゃないの。あんたがやられたからって、ばかにしたりしないわ」
ルイスはかあっと頭に血がのぼった。そして食ってかかるようにわめきたてた。「よくわかったよ、それがきみの考えなら、ぼくはほかで親友を探すことにする」ルイスはくるりときびすを返すと、「じゃあな!」と捨てぜりふを残して歩きさった。
ルイスは校舎のほうへどんどん歩いていった。足をゆるめず、ふりかえりもしなかった。入口まできたとき、ルイスは自分が泣いているのに気づいた。
その日、ルイスは学校から帰ってくると、すぐにローズ・リタに電話をかけた。でもおかあさんが出て、あの子はまだ帰っていないのよ、と言った。その夜、ルイスがもう一度電話をかけると、今度は本人が出た。二人は同時に謝ろうとした。あれからローズ・リタは、いろいろな子からウッディとルイスのけんかのことを聞いて、疑ったことを後悔していた。ルイスはルイスで、癇癪をおこしたことを謝った。そしてその話は終わりになり、すべてが元どおりになったように思えた。すくなくとも、しばらくのあいだは。
ウッディ・ミンゴとけんかしてから二、三日が過ぎた。そのころからルイスはだれかが訪ねてくるような感じに襲われるようになった。なぜかはわからないけれど、はっきりとそう感じるのだ。はじまりは、食卓の用意をしているときだった。ルイスはナイフを落としてしまった。すると、ふと古くからのことわざが浮かんできた。ナイフを落とすと、客がくる=Bルイスはことわざとか迷信はあまり信じないほうだった。けれど、今度はその感じがあまりに強いので、古くからのことわざにはやはりなにかあるものなのかな、と思いはじめた。
その夜、窓の下のクッションを置いた椅子にこしかけていると、雪がふってきた。その冬、はじめての雪だった。ルイスはいつも初雪を待ちこがれていて、積もらないと腹をたてたけれど、今度の雪は積もりそうだった。雪は窓の外で渦をまき、高いクリの木の下に吹きよせられて幻想的な形を作っていた。家の向かいに立っている街灯の冷たい光を浴びてキラキラ輝いている。窓の横桟や玄関の階段にも雪が積もっていた。
ルイスは、雪がたくさん積もったらやることを、ひとつひとつ思い浮かべた。ローズ・リタとマレー・ヒルへそりをしにいく。夜にジョナサンとツィマーマン夫人と教会から歩いて帰る。月明かりに照らされた雪道を一人で散歩する。歩道と車道のあいだの雪の壁を城壁に見たてて、敵の攻撃を食いとめる方法を考えながら歩いているつもりになる。
ルイスは目を閉じた。とても幸せだった。すると、閉じた目の前に、ある風景画浮かんできた。ひどく奇妙な風景だった。
ルイスは寝るまえに、暗やみのなかでそういった風景を見ることがあった。なかでもコンスタンティーノブルやロンドンの街はよく現われた。それも、かなりはっきりと見える。コンスタンティノーブルもロンドンもいったことはなかったから、街のようすなんて知らないはずなのに、ルイスはそうにちがいないと思っていた。ドームやミナレット(イスラム教寺院の尖塔)や尖塔、それに大通りや並木道などが、まぶたの裏にくっきりと浮かびあがるのだ。
今回浮かんできた風景のなかには、男がいた。ホーマー街道をニュー・ゼベダイへ向かって歩いている。ホーマー街道はうねうねとしたいなか道で、ニュー・ゼベダイからホーマーという小さな町まで続いていた。この夏、ルイスはツィマーマン夫人のライアン湖の別荘にいくのに、何度もこの街道を通っていた。ルイスはじっと見つめた。風景は動いていた。男は街道のまんなかをまっすぐ歩いてくる。うしろの雪に、点々と足あとがついている。明かりといえば月光だけなので、男の姿ははっきりとは見えない。ほんとうのところ、男か女かさえよくわからない。けれど、なぜかルイスは男だと確信していた。男は長いコートを足もとにまとわりつかせながら、早足で歩いていた。
男は、エルドリッジ・コーナーのガソリンスタンドの横を通りすぎた。そこで立ちどまり、古い錆びた標識を見やると、ふたまたを折れて、こうこうと明かりをつけてブンブンうなっている発電所の前を過ぎた。さらに町の境界線のすぐ外を走っている鉄道線路を越えた。
ルイスは目をあけて、雪のふっている中庭を眺めた。そして頭をふった。目の前に現われた風景が好きなのかどうか自分でもわからなかった。どうしてあのくらい人影がこわいのかわからない。でもルイスはこわかった。どうかあの男が例のお客じゃありませんように、とルイスは祈った。
その奇妙な幻を見た夜から数日後、またべつのことが起こった。ローズ・リタの家からの帰り道だった。ルイスが自分の影を見ながらのんびり歩いていると、目の前の歩道に紙が一枚落ちているのに気づいた。なぜかルイスは立ちどまり、紙を拾いあげた。
青い線のついたノートの切れ端だった。どこかの子どもが字の練習をしたらしく、一番うえの行に書きかたの授業のときに書かされる波線がある。その下に、小文字のvがきれいに並び、次の列には大文字のVが並んでいた。大文字のVはどれも、例のはがきに書いてあったVenioのVの字と筆跡がそっくりだった。
ルイスは心臓がどきどきしはじめた。ぱっと紙の下を見ると、そこにおそれていた言葉があった。一番下の行だった。
Venio
ルイスはぞくっとした。文字が紙のうえをのたくった。震えながら立ちつくしていると、とつぜん突風が吹いてきて、ルイスの手から紙をもぎとって道路の反対側へ吹き飛ばした。ルイスは追いかけようとしたが、風が強くて、道を渡ったときにはもう紙はどこかへ飛んでしまっていた。あのはがきとおなじだった。
ルイスはまた寒気に襲われた。冬のコートの下で心臓が早鐘のように打った。「Venioっていうのは、わたしはいく≠チてことだ」ルイスはつぶやくようにくりかえした。「Venioはわたしはいく=vだけど、いったいだれが来るんだ? 幻で見たあの男だろうか? ホーマー街道を歩いていた黒い影? 影の主がだれであれ、会いたくなかった。
ルイスは家へ向かって歩きだした。歩きながら、ルイスは自分で自分を納得させようと、あれこれ考えはじめた。恐怖心を抑えようとするとき、ルイスはよくこれをやった。自分がこわいものを論理的に説明≠キるのだ。説明することで、恐怖心がなくなることがある。すくなくともしばらくのあいだは。家についたころには、あの真夜中に届いたはがきはただの夢だったんだ、と信じはじめていた。だって、自分が寝ているか起きているかなんて、よくわからないじゃないか。ぼくは下におりていって、Venioって書いてあるはがきを見つけたっていう夢を見ただけなんだ。でも、道で見つけたあの紙は? そうさ、(とルイスは自分に向かって言った)あれは、どこかの小学生がラテン語を習ったのをひけらかしたんだ。それだけのことさ。そいつが例のはがきにあったのとおなじ言葉を使ったのは、ただの偶然だ。もしかしたら、ぼくがVenioって書いてあったと思いこんでいるだけかもしれない。ほんとうはVeronicaとかそんなふうな名前が書いてあったのかもしれない……
コートをかけて家に入り、夕飯を食べているあいだもずっと、ルイスは考えつづけていた。いくらうまい説明を考えても心から納得できるわけではなかったけれど、いくらか気持ちが楽になるのはたしかだった。いわれのない黒い恐怖がじわじわとふくらんでくるのを抑えられた。
その夜、ルイスは宿題をやりに公立図書館へいくことにした。図書館には傷だらけの古い机や緑のかさのランプがあって、心地よく勉強できた。だからルイスはしょっちゅう図書館へいって、いろいろな本をひろいよみしたり、調べものをしたりしていた。ルイスは教科書をカバンに入れると、楽しげに口笛を吹きながら雪を踏みしめて図書館へ向かった。
ルイスは九時の閉館時間まで勉強していた。そして教科書をしまい、帰るしたくをはじめた。ニュー・ゼベダイの街を一人で歩くにはちょっと遅いけれど、心配はしていなかった。ニュー・ゼベダイは犯罪には縁がない。それに、ルイスにはお守りがあるのだ。
図書館から三ブロックほどいくと、角の街灯の下にだれかが立っているのが見えた。最初、ルイスはぎくっとした。ホーマー街道の黒い影が目のまえをちらついた。それから、笑いだした。なんてぼくはばかなんだ! あれはジョー・ディマジオじゃないか!
ニュー・ゼベダイに、自分のことをジョー・ディマジオと呼んでいる浮浪者がいた。ニューヨーク・ヤンキースの野球帽をかぶって、バットの形をしたペンを配っている。ペンにはひとつ残らず、ジョー・ディマジオ≠ニ彫ってあった。ジョーはおまわりさんといっしょに商店街の巡回をすることもあれば、街灯の下から「ワッ」と飛びだして、子どもたちをおどかしたりした。あそこに立っているのは、ジョーにちがいない。気のいいジョーじいさんだ。
「やあ、ジョー!」ルイスは叫んで、じっと立っている人影に向かって手をふった。
すると影が光の輪からすっと外に出た。そしてルイスの前に立った。なにかのにおいがする。冷たい灰のにおいだ。冷たく湿った灰。
背が高く、すっぽりとマントに包まれた影は、だまって、ルイスにのしかかるように立ちはだかった。ルイスは胃がきゅっと締めつけられるような気がした。ジョーは背が低い。ここにいるのはジョーじゃない。ルイスは必死になって上着のジッパーを下げ、シャツのお守りが下がっているあたりをぎゅっとつかんだ。そしてしわくちゃになった布の下にある小さな固いものを握った。そのとたん影がじりっと前に出て、両手を大きく広げた。
ルイスは悲鳴をあげて、お守りをはなした。そしてうしろを向いて走りだした。夢中だった。吹きだまりにつまずき、ぬかるみに足をつっこみ、凍った水たまりですべって、ようやく図書館の石段までたどりつくと、あわててかけあがり両手でガラス戸をバンバンと叩いた。手のひらが痛くなるまで叩きつづけたが、だれも出てこなかった。
だが、とうとう図書館の入口に明かりがついた。ギアさんがまだいたのだ。助かった!
ルイスはガラスに顔と手を押しつけた。こわくてどうかなりそうだった。今にも背中をがしりとつかまれ、むりやりうしろをふりむかされて……どんな顔と向きあうことになるのか、考えたくもなかった。
ようやくギアさんがやってきた。ギアさんはおばあさんで関節炎を患っていたから、歩くのが遅かった。かぎをガチャガチャやっている。そしてドアが内側に開いた。
「おやまあ、ルイスじゃないの。あんなふうに乱暴に扉を叩いたりして、おじさんが知ったら……」ギアさんはそれ以上叱らなかった。ルイスが抱きついて、ギアさんのかぼそい体が震えるほど泣きじゃくったからだ。
「よしよし、ルイス。だいじょうぶ、だいじょうぶですよ。いったいぜんたいどうした……」ギアさんは意地の悪いおばあさんではなかった。子どもが好きで、特にルイスのことをかわいがっていたのだ。
「ねえ、ルイス、いったいどうしてそんなに……」
「お願い、ギアさん、おじさんに電話して」ルイスはしゃくりあげた。「電話して、ぼくを迎えにくるようにいって。外にだれかがいるんだ。こわいよ!」
ギアさんはルイスを見て、優しくほほえんだ。子どものことならわかっている。子どもたちのとほうもない想像力も。「はいはい、ルイス。だいじょうぶよ。ここにすわってらっしゃい。おじさんに電話してきてあげますから。すぐもどりますよ」
「だめ、行かないで、ギアさん。お願い。ぼく……いっしょにいっていい?」
ルイスはギアさんについて事務室へいった。ギアさんが交換手にバーナヴェルト家の番号を告げているあいだ、落ちつかなげに右足に重心をかけたり、左足にかけたりしながら待っていた。永遠に電話が鳴りつづけるような気がしはじめたとき、ようやくジョナサンが電話に出た。ジョナサンとギアさんはしばらくなにやら話していた。ギアさんのしゃべる声だけでよくわからなかったが、ジョナサンがへんに思っているのはたしかだった。無理もないだろう。
数分後、ジョナサンの大きな黒い車が図書館の前にとまった。ルイスはギアさんと、入口の石段のところで待っていた。車に乗るとすぐに、ジョナサンはルイスのほうを向いて聞いた。
「どうしたんだい?」
「その……なにかものすごくこわいものがいたんだ。ジョナサンおじさん。幽霊かおばけかなにかが……それがぼくをつかまえようとしたんだ」ルイスは両手に顔を埋めると、泣きだした。
ジョナサンはルイスに腕をかけると、なぐさめようとした。「よしよし、ルイス……泣くんじゃない。だいじょうぶだよ。きっとだれかがおまえさんをおどかそうとしただけさ。ハロウィーンは終わったが、そんなのおかまいなしの連中がかならずいるんだ。心配することない。安心だ」
その夜、ルイスはベッドのなかでまんじりともせずに、心臓の鼓動に耳を傾けていた。あけっぱなしの洋服ダンスの扉から、ずらりとかかった洋服の黒い影が見える。あれ、動いてる? うしろになにかいる!
ルイスはがばっと起きあがって、夢中で枕もとのスタンドのスイッチを探した。スタンドをうえから下までさわってやっとスイッチを見つけ、明かりをつけた。なにもいなかった。ルイスに飛びかかろうとしている黒い影などいない。すくなくとも、見えるところには。しばらくしてからようやくルイスは重い腰をあげ、ベッドを出てたんすのなかをのぞいた。洋服のうしろは空っぽだった。あるのは、しっくいのかけらと木、それからほこりと古い靴だけ。ルイスはベッドにもどった。今夜は電気をつけて寝ることにしよう。
ルイスは何度も寝返りをうった。右を向いたり左を向いたりした。だめだ。眠れない。いいさ、眠れないなら、考えることにしよう。しかし、考えるまでもなかった。ここのところ起こった気味の悪い出来事の裏になにがあるのか、ルイスにはよくわかっていた。お守りだ。論理的な説明はすべて消えうせ、残されたのはたったひとつの事実だけだった――あのお守りには霊がとりついているんだ。そうなら、すぐに手放さなければならない。でも、おかげでウッディ・ミンゴをやっつけられたじゃないか! 海賊映画を観たあとのすばらしい気持ちを味わわせてくれたのに? でも、お守りを握りしめたとたん、黒い影が襲いかかってきたときのおそろしさがよみがえってきた。ルイスはぶるっと震えた。やはり捨てるしかない。
ルイスは手を首に持っていった。ところが、鎖のすぐ手前までくるとぴたりととまってしまった。うんうんうなって動かそうとしたけれど、それ以上持ちあがらないのだ。手がぶるぶる震えだした。まるで中風のおじいさんみたいだ。お守りを外そうにも、手が鎖をつかめないのだ。
ルイスは体を起こしてハアハアと息をついた。パジャマのシャツが汗でぐっしょりぬれている。ルイスは自分の手を見た。もうぼくの手じゃないのか? ルイスはこわかった。こわくてたまらなかった。そして無力だった。もしお守りがとれなかったら、どうしよう? 年をとるにつれ、お守りと鎖が体に食いこみ、最後には鎖のあったところにまるい鎖の跡と小さなでっぱりがあるだけになったら? 恐怖はどんどんふくらんだ。ルイスはベッドから飛びおりると、部屋をいったりきたりしはじめた。どうするか決めるまえに、まず落ちつかなくては。
ルイスは暖炉のほうを見て、ほほえんだ。この大きな古い館には、どの部屋にも暖炉があった。ルイス専用の暖炉は黒い大理石製で、火はついていなかったけれど、燃やす準備は整っていた。薪のせ台のうえに乾いた小枝があり、そのうえに太い枝が重ねてある。マッチ箱は戸棚のうえだった。ルイスは箱を取ると、ひざをついて火をつけた。
二、三分で、心地よい炎が燃えはじめた。ルイスはついたてを立てると、敷物のうえにすわって、炎を見つめた。ジョナサンおじさんにお守りのことを言うべきだろうか? ジョナサンは魔法使いだ。どうすればいいかきっと知っているだろう。それともツィマーマン夫人に言おうか? ツィマーマン夫人は魔女で、ジョナサンよりもっと強い魔力を持っている。でも、ルイスがまた魔法に手を出したと知ったら、おじさんたちはどう思うだろう? ほんとうだったら、ツィマーマン夫人の本を見つけた時点ですぐ本を返さなければならなかったのだ。ルイスがなにをやったか知ったら、ツィマーマン夫人はかんかんに怒るだろう。ジョナサンだってそうだ。ルイスの後見人をやるのは一年でたくさんだと思うかもしれない。ジミーおじさんやヘレンおばさんのところへ送られたら? ヘレンおばさんは、空気の漏れる浮き輪みたいな性格だった。一日じゅう安楽椅子にすわって、喘息のことをぐちっている。ルイスはヘレンおばさんとの暮らしを想像した。だめだ。ジョナサンとツィマーマン夫人にお守りのことを言うわけにはいかない。
だったらだれに言えばいい? ローズ・リタだ。ルイスはにやっと笑った。そうだ。朝になったらローズ・リタに電話して、二人でどうするか決めよう。自分でお守りをとれないなら、ローズ・リタにやってもらえばいい。
火はパチパチと心地よく燃えていた。ルイスは気が楽になった。すると、眠気が襲ってきた。暖炉のついたてがきちんと置かれていることをたしかめると、ルイスはふらふらとベッドへいって、身を投げだした。その夜は、夢を見たとしても覚えていなかった。
次の朝目が覚めると、明るい冬の光が部屋を満たしていた。街灯の下で待ち伏せていた黒い影は、なにかで読んだか夢で見たもののような気がした。着がえていると、いつもの海賊映画の気分がみなぎってきた。最高の気分だ。ほんとうにローズ・リタにお守りのことを言う必要があるだろうか? ルイスは一瞬悩んだ。言ったほうがいいだろう。ともかくこれを外さないと。朝ごはんを食べるまえに電話して、ローズ・リタが家を出てしまうまえにつかまえたほうがいい。ところが、電話の前までいくと、また決心は揺らいだ。手に持った受話器の向こうで交換手が「番号をお願いします。番号は?」と言っているあいだ、ルイスは立ちつくしていた。そして受話器を置いた。いいや。学校で言おう。
その日学校で、ルイスは何度もローズ・リタを見かけた。けれどもお守りのことを言おうとすると、そのたびに体のなかでなにかがギュウッと締まるような気がして、ノートルダム大学のフットボールチームのことや、二人で作っているガレー船や、ハガーティ先生や、ともかくお守り以外のことを話してしまうのだった。結局ローズ・リタになにも言えないまま、ルイスは学校を出て家へ向かった。冬の夕ぐれの通りは、街灯がついていた。ルイスは立ちどまった。額から玉のような汗が噴きだした。街灯の下で見た影の恐怖が、氷の波のように押し寄せてくる。ルイスは気持ちを落ちつけようとした。歯を食いしばり、両手をぎゅっと握った。ローズ・リタにお守りのことを言わなければ。今夜言うんだ。
その夜、食事の最中にルイスはフォークを置いて、何度もつばを飲みこむと、乾いたかすれた声で言った。「ジョナサンおじさん、今晩ローズ・リタに泊まりにきてもらってもいい?」
ジョナサンは事態を飲みこむのにちょっと時間がかかった。「なんだって? そうか。ずいぶんと突然だが、なんとかしてみよう。まず、ローズ・リタのおかあさんに聞かないとな」
食事が終わると、ジョナサンはポッティンガー夫人に電話をかけ、ローズ・リタが今晩泊まりにきてもいいという許しをもらった。話しているうちに、ルイスがまだ本人を直接誘っていないのを知って、ジョナサンはルイスを電話口までひっぱっていき、きちんと誘うように言った。これでなにもかもが整った。ルイスとジョナサンはたくさんある二階の空き部屋のひとつにベッドを用意し、お客用のタオルを置いた。ルイスはわくわくしていた。夜遅くまでトランプをしたり、おしゃべりをするのが楽しみだった。お守りのことだってうまく持ちだせるかもしれない。
ローズ・リタがルイスの家にいくと、食堂のテーブルにポーカーの用意が整えられていた。裏にカファーナウム郡魔法使い協会≠ニいうスタンプの押された青と金色のトランプに、ジョナサンがいつもチップに使っている外国のコイン。あざやかな紫色のふちのお皿には、チョコレートチップ・クッキーが山盛りになっていたし、ピッチャーには牛乳が入っていた。ツィマーマン夫人もきて、カードに何の小細工もしないと約束した。準備万端だ。
四人は夜遅くまでポーカーをしていた。ジョナサンがそろそろ寝る時間だと言おうとすると、ルイスは図書室でローズ・リタと二人でちょっと話がしたいんだけど、と言った。そう言ったとたん、また胸のあたりがキュウッと締めつけられた。お守りの下がっているあたりがきりきりと痛んだ。
ジョナサンはクックッと笑うと、椅子のうしろに置いてあった鉢植えにパイプの中身をあけた。「いいとも」ジョナサンは言った。「もちろんだ、いっといで。国家機密なんだろ?」
「うん、まあね」ルイスは顔を赤くした。
ルイスとローズ・リタは図書室へ入ると、重い羽目板の扉を閉めた。ルイスは水中で息をしようとしている人みたいな気持ちだった。でも、ぽつりぽつりと言葉をひきだすようにしゃべり出した。
「ローズ・リタ?」
「なに? いったいどうしたの、ルイス? まっさおよ」
「ローズ・リタ、覚えてる? あの……コインに魔法の呪文を唱えたときのこと?」ルイスはそこでやめて、顔をしかめた。胸に鋭い痛みが走ったのだ。
ローズ・リタはふしぎそうな顔をした。「ええ、覚えてるわ。それがどうしたの?」
まるで、まっかに焼けた針で胸を刺されているようだった。「あのさ、ぼく……ぼく、うそをついたんだ」顔を汗がだらだらと流れた。けれど、ルイスは勝ったという気持ちでいっぱいだった。ほんとうのことを言うのをやめさせようとしているなにかに、勝ったのだ。
ローズ・リタの目が大きく見ひらかれた。「うそをついた? ってことは、あのコインはほんとうに……」
「うん」ルイスはシャツのなかに手を入れて、コインを出してローズ・リタに見せた。まっかに焼けていると思っていたのに、さわるとひんやりして、いつもとなにも変わらないように見えた。
肝心なことを言ってしまうと、あとは楽にしゃべれるようになった。ルイスは、そのつもりがなかったのにウッディを殴ってしまったこと、はがきと道で見つけたノートの切れ端のこと、そして街灯の下にいた影のことを話した。坂道を転がりおちるようにルイスはどんどん早口になり、すべて話してしまうまでしゃべりつづけた。
ローズ・リタはルイスが話しているあいだ、すわってうなずきながら聞いていた。ルイスが話し終わると、ローズ・リタは言った。「驚いた! ルイス、おじさんとツィマーマン夫人に言ったほうがいいんじゃない? こういうたぐいのことにはくわしいんだし」
ルイスの顔が恐怖でひきつった。「言わないで、ローズ・リタ! おねがいだよ、言わないで! おじさんは怒りくるって、ぼくをどなりつけるよ……おじさんとツィマーマン夫人がどう思うか! もう二度と魔法に手を出すなって言われてたのに。お願いだから二人にはなにも言わないで!」
ローズ・リタはルイスを知ってそんなに長くなかったけれど、しじゅう怒られやしないかとびくびくしているのは知っていた。なにも悪いことをしていないときでさえそうなのだ。それに、じっさいジョナサンがどんな反応をするかもわからなかった。もしかしたらほんとうに癇癪を起こすかもしれない。そこでローズ・リタは肩をすくめて言った。「ああ、わかったわよ! じゃあ、二人に言うのはやめよう。その面倒なものをわたしにちょうだい。そしたら、どぶに捨ててきてあげる」
ルイスはためらっているようだった。くちびるをぎゅっと噛んで、言った。「あのさ……ちょっとだけどこかにしまっとくじゃだめかな? だってわからないだろ。大人になったら、使えるようになるかもしれないしさ」
ローズ・リタはメガネごしにじっとルイスを見た。「月に飛んでくとか? しっかりしなさいよ、ルイス! ふざけないで。あんたはそれを手放したくないだけなのよ! さあこっちに渡して」ローズ・リタは手を差しだした。
ルイスの顔がみるみるうちにけわしくなった。そして、コインをシャツの下に押しこんだ。
「いやだ」
ローズ・リタはルイスをじっと見つめた。それからメガネを外してたたむと、ケースに入れてシャツのポケットにしまった。そしていきなりルイスに飛びかかった。とびかかった瞬間、ローズ・リタはコインのついた鎖を両手でつかんだ。
ルイスも鎖をつかんで、首から外すまいとした。ルイスは必死で抵抗した。ローズ・リタはルイスの力に驚いた。ルイスと一度腕相撲をしたことがあったけれど、そのときは楽に勝てたのだ。今は、そうはいかなかった。二人は図書室の床のうえを前へうしろへと押しあった。ローズ・リタの顔はまっかだった。ルイスの顔も上気している。二人ともひと言も口を聞かなかった。
とうとうローズ・リタが勢いよくひっぱって、ルイスの指から鎖をもぎとった。ルイスはおそろしい叫び声をあげて、ローズ・リタに飛びかかった。ルイスの手がローズ・リタの頬をひっかき、血が噴きだした。
ローズ・リタは、はあはあしながら部屋のまんかに立っていた。手にコインのついた鎖が握られている。もう片方の手で、ローズ・リタはそっと頬のぬれているところに触れた。コインがなくなってみると、ルイスはまるで夢から揺さぶり起こされたような気がした。目をぱちぱちさせて、ローズ・リタを見た。恥ずかしくて、涙がこみあげた。
「ああ、ごめんね! そんなつもりじゃなかったんだ。ほんとうだよ」ルイスは言葉に詰まってしまった。
書斎のドアがガラッと開いた。ジョナサンだった。「おいおい、いったいどうしたんだ? すごい悲鳴が聞こえたから、だれか殺されたかと思ったよ!」
ローズ・リタはさっとコインを鎖ごとジーンズのポケットにつっこんだ。「なんでもないんです、バーナヴェルトおじさん。〈キャプテンミッドナイト(冒険ラジオドラマ。同名の主人公が秘密飛行隊をひきいて悪と戦う)〉の暗号解読リングをルイスがずっと借りてたから、もう返してよ、って言ってけんかになったんです」
ローズ・リタがジョナサンのほうに顔を向けたので、頬に血がついているのが見えた。「なんでもない? なんでもないです、だって? ルイスがやったのか?」ジョナサンはルイスのほうに向きなおり、叱ろうとしたが、ローズ・リタがわって入った。
おじさんが思ってるようなことじゃないんです。その……自分のメガネの先っぽでひっかいちゃったんです。耳にひっかけるところで、とがってたんだわ。だって、すごいひっかき傷ができちゃったもの!」ローズ・リタはその場でうまい説明を作りあげる天才だった。ルイスは感謝した。
ジョナサンはルイスとローズ・リタの顔を見くらべた。なにかうさん臭いが、かといって確信できるわけでもない。自分も小学校のとき親友と何度もけんかしたことを思いだし、ジョナサンはにっこりした。「そうか、わかった。だいじょうぶならそれでいい」
その夜遅く、みんなが寝しずまると、ローズ・リタはそっと下へおりていって、玄関のドアをあけた。スリッパとパジャマにバスローブというかっこうのまま、外へでて、雪かきをした道をおりて正面の門を出た。そして角まで歩いていくと、排水溝の鉄格子のところで立ちどまった。雪解け水がちょろちょろ流れこむ音がうつろに響いている。ローズ・リタはバスローブのポケットからお守りを出した。そして格子のうえにかかげて、ぶらぶらと揺らした。あとは手を離すだけだ。それでこのお守りとさようなら、だ。
ところが、ローズ・リタは手を離すことができなかった。外から、捨てるな、という声が響いてきたような気がした。ローズ・リタは立ったまま、ルイスを苦しめた奇妙でちっぽけな物体をつくづくと眺めた。そしてぱっとコインを手にすくいあげると、バスローブのポケットにしまった。家のほうにひきかえしながら、ローズ・リタは考えた。「きっともうルイスはだいじょうぶ。これはしばらくしまっておいて、ようすを見てみりゃいいわ。ルイスには捨てたって言おう。そうすれば、しじゅうそのことでうるさく言われないですむし。大人になれば、使えるようになるかもしれないもの。もしかたら、ルイスは大魔法使いになるかもしれない。それまでわたしが持っていてあげよう」ローズ・リタはポケットに手をいれて、コインが入っているかたしかめた。よし、ちゃんとある。家にもどるとちゅう、ローズ・リタはまた立ちどまってたしかめた。それからそんなことで大騒ぎしている自分がおかしくなって笑った。そして階段をギシギシきしませてあがると、部屋にもどって眠った。
十二月になり、ニュー・ゼベダイの住人はクリスマスの準備をはじめた。中心街のあちこちにピカピカ光る大きな鐘がつりさげられ、ロータリーの噴水はクリスマスの場面をかたどったものに変わった。ジョナサンは屋根裏からシーグラム(カナダの酒造会社のウィスキー)とオキシドール(P&G社の選択用粉石けん)の箱を下ろしてきて、クリスマスツリーにつけるライトのもつれをほどきはじめた。しまうときはきちんと小さな束にしておいたはずなのに、箱のなかでじっとしているあいだになぜかこんがらがってしまう。毎年のことだった。ジョナサンとツィマーマン夫人は、いつものように、背が高くて細い木と低くてずんぐりした木とどっちがいいかで言い争いをはじめた。ルイスは汚れたコットンの袋をあけて、まるい鏡のまわりに飾り、氷のはった池に見たてた。それからボール紙で小さな村を作った。セロハンで窓を作り、氷のうえにセルロイドのシカを置く。ツリーの飾りつけが終わり、ライトにスイッチを入れると、ルイスはソファに腰をおろして目を細めた。そうすると、ツリーのライトが星のように見えるのだった。赤と青と緑と白とオレンジの星からそれぞれの四本の光の筋が出ている。ルイスはその感じが好きで、いつも長いあいだ目を細めてすわっているのだった。
毎晩パジャマに着がえるとき、ルイスは首についた緑色の筋をじっと見つめた。魔法の三セントコインの下がっていた、錆びた鎖がつけた跡だった。魔法のお守りは永遠に失われてしまった。もうコインがないことはわかっていた。ローズ・リタがそう言ったからだ。コインはどぶに捨てたと言ったのを、ルイスは疑わなかった。ルイスはいっしょうけんめい、お守りがなくなってよかったんだ、と思おうとした。思おうとしたけれど、うまくいかなかった。
なにか好きなことをあきらめたときに感じる気持ちと似ていた。なにか体に悪いこと、たとえばマウンズのチョコバーとか間食をやめたときの気分だ。人生にぽっかりと大きな穴があいてしまったような、体の一部をえぐりとられてしまったような、そんな気持ちだった。夜中にお守りをつかもうと必死で胸をかきむしって眼を覚ますこともあった。そしてお守りがないことがわかると、泣きじゃくった。けれども、ルイスはいつもどおりに暮らそうと努めた。クリスマスの準備をしたりローズ・リタと遊んでいると、いやなことも忘れられた。楽しい時間は増えていった。もしこのまま悪いことが起こらなかったら、お守りのことは忘れられただろう。
天気の悪い十二月の午後だった。ルイスたち六年生の生徒は、早く解放されたい一心で、いっしょうけんめい算数の問題を終わらせようとしていた。ハガーティ先生は机のあいだをいったりきたりしながら答案を見て、いろいろ意見を言っていた。先生が教室の向こうはしへいくと、ウッディ・ミンゴはさっそくルイスをつねりはじめた。
「あう!」ルイスは小さい声で叫んだ。「やめろよ、ウッディ!」
「なにを?」
「わかってるだろ、つねるのをやめてよ」
「おれはつねってないぜ。コハナバチだろ。風呂にはいれよ、そうすりゃ、刺されないからさ。くーさいからハチがきた、くーさいからハチがきた」ギュッ、ギュッ。
ルイスは心底暗くなった。まるでウッディはお守りがなくなったことを知っているようだった。あのけんか以来、ずっとルイスに手を出さなかったのに、ここニ、三日、またちょっかいを出しはじめたのだ。前よりも悪いくらいだった。
ルイスはウッディを殴りたかったけれど、なにかすれば先生に見つかることはわかっていた。第一、お守りなしでウッディをやっつける自信はなかった。どうしてお守りを手放すのを承知してしまったんだろう? 人生最大の大失敗だ。
ハガーティ先生は教室の前へいって、時計を持ちあげた。
「みなさん」先生は言った。
みんなは手をとめて、顔をあげた。
「みなさんとてもよくやったようですから、約束どおり、今日は早く終わらせましょう。ぜんぶおわっていないひともいますが、残りは家でおやりなさい。では、机をぜんぶ片づけて、静かにできたら、終わりにします」
生徒たちはいっせいにエンピツや紙や教科書を机のなかにしまいはじめ、教室じゅうに机のふたがバタンバタンと閉まる音が響きわたった。ルイスは教科書をぜんぶしまうと、ペンやエンピツを、インクびんをいれる穴から押しこんだ。
ルイスの学校の生徒は、ボールペンを使わなかった。すくなくとも学校では使わないことになっていた。ボールペンを使うと、字がうまくならないと言われていたからだ。万年筆か金属のペン先のついた木のペンで書くきまりだった。生徒たちが使うインクはガラスびんに入れて、机の右うえにあいたまるい穴にさしてあった。穴は机のなかまでつながっていたので、びんをどければその穴から物を机のなかにしまうことができる。もちろん、机のふたは蝶つがいで開くようになっているから、ふたを持ちあげるほうが簡単だったけれど、いまさらそれをルイスに言ってもしょうがないだろう。
ルイスはエンピツを四本とペン一本を穴から押しこんだ。机のなかに入っている教科書にひっかかって、なかまで入らないので、左手で教科書をずらして、エンピツを入れようとした。インクびんを持った右の手が通路にはみだした。とつぜん、なにかが腕にあたった。ひじの尺骨《しゃつこつ》の真上だ。腕がぴりっとして力が抜け、インクびんが床に落ちて粉々に割れた。黒いインクがそこいらじゅうに飛び散った。
ルイスはかっとなってうしろをふりむいた。ウッディは持ちあげた机のふたの裏にすばやく隠れた。そしてルイスの机の横にハガーティ先生がきた。
「いったいなんの騒ぎです?」
「ウッディがぼくの手を押してインクをこぼしたんです」ルイスは指をさして言った。
ハガーティ先生はウッディには関心がないようだった。ルイスをじっと見たまま、言った。「では、お聞きしますけど、どうしてインクびんを手に持っていたんですか、バーナヴェルト?」
ルイスは赤くなった。「エンピツを穴から入れようとしたんです」ルイスは口のなかでもごもごと言った。
教室はしんとなった。死んだように静かだった。みんな、ローズ・リタまで、じっとルイスを見つめていた。
ハガーティ先生はみんなのほうを向いて、大きな声ではっきりと聞いた。「みなさん、インクのびんを机から出していいのですか?」
みんな声をそろえて、間延びした調子で答えた。「いーえ、ハガーティせんせー!」
ルイスの顔がかあっとほてった。怒りとやるせなさでいっぱいだった。ハガーティ先生が、放課後も残って床のインクがこぼれたところをサンドペーハーでこすりなさい、と言っているのが聞こえた。いつまでやればいいかは言っていなかった。
みんなが帰ってから一時間後、ようやくハガーティ先生は帰ってよろしいと言った。ルイスの指先は、サンドペーパーのせいでヒリヒリしていた。あまりに怒っていたので、みんなに対する、そしてすべてに対する怒りがわきあがってきた。でも、一番頭にくるのはローズ・リタだ。授業が終わってから机のところまできて、居残りなんてかわいそう、わたしはみんなといっしょになって「いーえ、ハガーティせんせー!」って言わなかったからね、って言ったからってなんだっていうんだ! そんなこと関係ない。ルイスはローズ・リタに怒っていたし、自分には怒る理由があると思っていた。
もし今日学校でお守りを持っていたら、守ってもらえたはずだ、とルイスは考えた。ウッディはこわくて手をだせなかっただろうし、インクのびんは割れなかったし、居残りにもならなかったにちがいない。お守りを捨てろって言ったのはだれだ? ローズ・リタだ。ルイスによれば、今日起こったことはすべてローズ・リタのせいなのだった。
歩けば歩くほど、ルイスの怒りはふくらんだ。どうしてローズ・リタはなんにでも首をつっこむんだ? お守りさえとりもどすことができれば! でももうどうやって? お守りはもうない。排水溝のなかなんだ。今ごろワイルダー・クリークか、もうミシガン湖まで流されているだろう。どうしようもないんだ……
ルイスははたと道のまんなかで立ちどまった。ちょうど車通りの多い交差点を渡っていたので、クラクションがあちこちで鳴り、運転手は急ブレーキをかけてあやうく事故をまぬがれた。ブレーキのかんだかい音とクラクションの鳴る音でルイスははっと我に返り、なんとか無事道をわたりきった。ところが道路の反対側についたとたん、さっき思いついたことがまた頭を駆けめぐりはじめた。
もしローズ・リタがまだお守りを持っていたら? 排水溝に捨てたって言ったのがうそだったとしたら?
考えれば考えるほど、自分のとんでもない思いつきが正しいのだという気がしてきた。だいたい、ローズ・リタがお守りをどぶに捨てるのをこの目で見たわけじゃないんだ。ローズ・リタからうまく聞きだせないかやってみたほうがいいだろう。
その週の金曜日、学校の地下のボイラーが破裂した。学校が早く終わったので、ルイスとローズ・リタは、午後はローマのガレー船作りをすることにした。ガレー船はほとんど完成していたけれど、まだ最後の仕上げがいくつか残っていた。
ガレー船は、ローズ・リタの机のまんなかにのせてあった。バルサ材の削りクズやボール紙が散らばり、乾いたプラモデル用のノリがあちこちにこびりついている。ルイスは机の前にすわり、ボーイスカウトのナイフでバルサ材の板切れに切りこみを入れようとしていた。船のへさきにつける装飾用の破城槌を作るつもりだった。
「えい、くそ!」ルイスはジャックナイフを放りなげて、にくにくしげににらみつけた。
ローズ・リタは本をめくるのをやめて、顔をあげた。「どうしたの?」
「ああ、このおんぼろナイフさ。こんなのじゃ、バターも切れない」
ローズ・リタは考えこんだ。「そうだ! わたしのエグザクトのナイフセットを使えば? すっかり忘れてた。たんすのひきだしに入ってるわ」
「それがいい! どのひきだしに入ってるの? 取ってくるよ」ルイスは椅子をひいて立ちあがった。そしてたんすのところまでいくと、ひきだしを開けてなかをのぞきはじめた。
ローズ・リタは飛びあがって、あわててルイスをとめようとした。「ちょっと、ルイス! さわらないで! わたしのたんすなんだから。ひとには見せたくないものも入ってるのよ。それに」ローズ・リタはにやっと笑って付けくわえた。「どうせそのひきだしは開けられないわ。かぎがかかってるんだもの。わたししかそのかぎは持ってないの。どこにあるかは内緒よ。さあ、部屋から出て廊下に立ってちょうだい。ドアは閉めてね。すぐだから」
「ああ、わかったよ!」ルイスはぶつぶつと言った。そしてどたどたと廊下へ出ると、ドアを勢いよく閉めた。壁紙をじっと見つめながらルイスは考えた。「ひとには見せたくないものだって? ヘン! そこにいっしょに、ぼくのお守りもしまってるにちがいない。ご心配なく! とりもどしてやるからな!」
数分後、ローズ・リタはルイスをまた部屋に入れた。たんすのひきだしは元どおりぜんぶ閉まっていたが、エグザクトのナイフは机のうえに並べてあった。ルイスは黒い背の高いたんすをうえから下までじろじろ眺めた。どのひきだしだ? うえのふたつのとぢらかにちがいない。かぎ穴があるのはそのふたつだけだからだ。でも、かぎがないのにどうやってなかのものを手に入れる?
ローズ・リタはルイスがたんすをじろじろ眺めているのを見て、心配になった。「ちょっと、ルイス」そう言って、ローズ・リタはルイスの腕をとった。「ちょっとしたものが入ってるだけよ。おかあさんにも見せないものもあるの。だから自分だけ仲間はずれだなんて思わなくてもいいのよ。さあ、ガレー船の続きをしよう。ほら、こうやって刃を柄につけるのよ……」
その晩、ルイスは目がさえて、ベッドのなかで何度も寝返りをうった。下の書斎の置時計が鈍い音で一時を打つのが聞こえた。二時……三時……。なんとかしてかぎのかかったひきだしのなかを見る方法はないだろうか。ルイスは計画を練ろうとしたが、無駄だった。どれもかぎを持っていることが前提だったからだ。なのにいったいどこを探せばいいのか、見当もつかない。ローズ・リタの留守をねらって部屋のなかを片っぱしから探すことも考えた。でもどうすればローズ・リタのおかあさんにへんに思われずにやれるだろうか? 面倒なことになるのはいやだった。すべてが、慎重かつひそかに行なわなければならない。ローズ・リタに気づかれないように。ルイスは、お守りがどちらかのひきだしの暗いすみにしまいこんであることを祈った。ローズ・リタがしょっちゅう見ないような場所だといいんだけど。ルイスの顔が曇った。もしかしたら、ローズ・リタは毎日たんすを見て、お守りがあるかたしかめているかもしれない。だったら偽もののコインを作って……だめだ、そんなの無理に決まってる。もしお守りをとったことがローズ・リタにばれたら、ひどく面倒なことになるだろう。
でも、どうやってお守りを手に入れればいいんだろう? ルイスは、合いかぎを作ることや、真夜中に覆面に道具袋に縄ばしごを持ってしのびこむことまで考えた。それから思った。「でも、もし最初からたんすのなかになかったら? もしほんとうにローズ・リタが捨てていたら?」どちらにしろ、ひきだしのかぎがなくてはなにもわからない。なのにどこを探せばかぎがあるのかさえ、わからないのだ。
望みはないように思えた。時計が四時を打ったころには、ルイスはいつのまにか眠っていた。その夜見たのは、かぎの夢だった。ルイスは古道具屋の部屋のなかをさまよっている。どの部屋も天井までかぎでいっぱいだ。ありとあらゆる大きさや形のかぎ、輪に通したかぎ束もあったけれど、ほとんどはばらのまま床に積まれていた。ルイスはひたすら探しつづけた。けれども目当てのかぎは見つからなかった。
10
次の朝目を覚ましても、ルイスはまだかぎのことを考えていた。でも、たんすのひきだしのかぎを見つける方法は、見つからないままだった。その日は土曜日で、ローズ・リタは眼医者の予約をとっていた。ローズ・リタは近眼で、視力がどんどん落ちるので、しょっちゅうメガネを変えなければならなかったのだ。今日はルイスもいっしょにいって、目の検査をすることになっていた。ルイスはメガネをかけていなかったけれど、本を開いたままよく寝てしまうので、それに気づいたジョナサンが、読書用メガネを使ったほうがいいのでないかと言いはじめたのだ。ルイスはいらないといったけれど、最後には眼医者にいくことを承知した。
その日の午後、ルイスとローズ・リタはヴェッセル先生の病院の待合室で漫画を読んでいた。ルイスはちょうど検査を終え、ローズ・リタの番を待っているところだった。
ヴェッセル先生は診察室のドアを開けると、待合室をのぞいた。「はい、次のかた」
ローズ・リタは漫画をぽんと置くと、立ちあがった。「わたしです」ローズ・リタはうんざりしたように言った。「あとでね、ルイス」
ローズ・リタは診察室へ入っていった。ルイスは、ローズ・リタがベレー帽をかぶったままなのに気づいた。おかしな帽子! ローズ・リタはどこへいくにもあの帽子をかぶっている。教会にも、学校にも、食事にも。きっとベッドのなかでもかぶっているにちがいない。へんなやつ。
ルイスはまた漫画を読みはじめたが、突然大きな声が聞こえてきたのでびくっとした。ドアの向こうでローズ・リタとヴェッセル先生が言いあらそっている。いきなりヴェッセル先生がドアを開けて、鏡の前の帽子かけを指さした。
「あそこだ!」先生はきっぱりと言った。「あそこにかけなさい!」
「いやです! いったいなにさまのつもり? 神様とか?」
ヴェッセル先生はこわい顔をしてローズ・リタをにらみつけた。「いいや、神じゃない。ただの意地の悪い眼医者さ。わたしは、目の検査をしている最中に、そのベレー帽をかぶってほしくないんだ。機械にあたるし、気が散る。それに……そう、わたしはその帽子がきらいなんだ。さあ、あそこにかけてきなさい。じゃなかったら、帰るんだ」
「わかったわよ!」ローズ・リタはつかつかと待合室に入ってくると、ベレー帽を帽子かけに乱暴にひっかけた。それから大またでヴェッセル先生の診察室にもどった。先生は静かにドアを閉めた。
ルイスは帽子を見あげて、にやっと笑った。やっぱりへんなやつ。ルイスは漫画を取りあげたが、またすぐに下に置いた。
あのベレー帽のなかにかぎが入っていたら?
ルイスは立ちあがって、そろそろと帽子かけのほうへ歩いていった。そしてそっと帽子を下ろした。なかを見ると、果たして小さな黒いかぎが安全ピンで帽子の布に留めてあった。
ルイスは歓声をあげそうになった。これこそ探していたかぎにちがいない。まちがいない。そして、不安げにヴェッセル先生の診察室のドアをちらりと見た。時間はどのくらいあるだろう? ローズ・リタは前に、自分の目には悪いところがいっぱいあるからヴェッセル先生の診察は長くかかると言っていた。一時間くらいかかるんだろうか? ルイスは時計を見た。一か八かやってみるしかない。ルイスは安全ピンを外してかぎをポケットにいれると、ピンをまた帽子のなかに留め、帽子かけに注意深くもどした。帽子についているボタンがジャラジャラ鳴った。どうにかローズ・リタに聞こえませんように。そしてすべて終えると、診察室のドアまでいって、トントンと叩いた。
「ローズ・リタ?」
「なに?」
「ぼ……ぼく町へいってジョナサンおじさんにタバコを買わなきゃいけなかったのを思いだしたんだ。そんなにかからないと思う」
「ああ、お好きなだけどうぞ! こっちはまだ何日もかかりそうだから」
「うん……わかった。すぐもどるね」
ルイスはあわててコートと帽子とオーバーシューズをはくと、すべりそうになりながらヴェッセル先生の玄関の階段をおりた。それから、なるべく急いでローズ・リタの家へ向かって歩きだした。ポケットのなかのかぎを握りしめ、歩きながら計画を練った。ポッティンガー夫人になんて言うか考えなくちゃ。
ポッティンガーさんの家の玄関につくと、ルイスは深呼吸した。それから階段をあがってベルを鳴らした。おそろしく長く思える時間がたったあと、ポッティンガーがドアを開けた。ルイスを見て驚いたようだった。
「あら、ルイス! どうしたの? ローズ・リタとヴェッセル先生のところにいってると思ってたわ」
ルイスはポケットのなかに手をつっこんで、ドアマットを見つめた。「ええ、まあ、そうなんです。でも、こういうことなんです。つまり、そのあとでローズ・リタとぼくは〈ヒームソス〉にコーラを買いにいこうと思ったんですけど、お金が足りなかったんです。ローズ・リタは鏡台のうえにお財布を忘れてきたって。だから取ってきてもいいですか?」
そう言い終わってからポッティンガーが答えるまで、何千年もたったような気がした。ルイスは、子どもが他の子どものたんすからものを盗んでつかまったら、少年拘置所に送られるんだろうか、と考えはじめた。
ポッティンガー夫人は答えるまでちょっと時間がかかった。ひどくのんびりしたひとだったのだ。「ええ、もちろんよ。どうぞ」ようやくポッティンガーは言った。「もしたんすのなかにあるって言ったんなら、残念でしたって言ったでしょうね。なにしろあの子はわたしにでさえさわらせないんだから。さあ、どうぞ。もし財布が見つからなかったら、おばさんがお金をあげるわ」
「ええ、ありがとうございます、おばさん。すぐきます」
「ごゆっくり」ポッティンガー夫人はうしろを向いて、台所のほうへもどっていった。ルイスは夫人のうしろ姿を見送った。おばさんはぼくのことを信用してるんだ。あたりまえだ。ぼくはローズ・リタの親友なんだから。いやな気持ちだった。地下室かどこかへ隠れてしまいたい。けれどもそうはせずに、ルイスは階段をのぼりはじめた。
ルイスはかぎを持ってたんすの前に立った。今にもポッティンガーが階段をのぼってくるような気がして、耳をすませた。そのかわりに、お皿を洗っているカチャカチャという音が聞こえた。ルイスはうしろを向いて、寝室のドアを開けっ放しにしていたことに気づいた。ルイスはさっとかけより、ドアを閉めた。それからまたたんすにもどった。うえのふたつのひきだしにかぎがついている。どちらかのはずだ。きっとふたつともおなじかぎなんだろう。ルイスはそう願った。先に右側のひきだしを試すことにした。ルイスはかぎをさしこむと、くるりと回した。でも、ひきだしをひっぱっても、びくともしない。ということは初めからかぎがかかっていなかったのだ。ルイスはかぎを反対に回すと、ひきだしをひっぱった。なかはローズ・リタの下着でいっぱいだった。ルイスは自分の顔が赤くなるのを感じた。そしてあわててひきだしをもどした。あのなかにお守りがあるかもしれないけれど、もう片方のを先に調べることにしよう。
ルイスは左側のかぎを開けると、ひきだした。小さな箱やガラクタがいっぱい入っている。こっちだ。ルイスはひきだしをぜんぶひっぱりだすと、ローズ・リタの机のうえに置いてなかを調べはじめた。ところが、最初の箱を開けたとたん、ドアをノックする音が聞こえた。
ルイスは凍りついた。ローズ・リタのパパだ! すっかり忘れてた! いつもだったらポッティンガーさんは、昼間は家にいない。でも、今日は土曜日だ。ドアを一枚へだてたそこの廊下で、ルイスが答えるのを待っているのだ。ルイスの頭はぐるぐる回った。どうしよう? 答えようか? それとも窓から逃げようか?
コンコン。さっきよりもせっぱつまった鋭い音だった。そしてもう一度、ポッティンガーさんのよく通る大きな音が聞こえた。「だいじょうぶかい、と聞いているんだぞ」
ルイスは半狂乱になってまわりを見まわした。ドアノブを見たとたん、ルイスの目は吸いつけられたように止まった。今にも、ドアノブがまわりはじめるのが見えるような気がした。そしたら……
すると、階段の下からポッティンガー夫人が叫ぶ声が聞こえた。「ちょっと、そんなに騒がないでよ、ジョージ。ルイス・バーナヴェルトがローズ・リタの財布を取りにきてるのよ」
「ならどうして返事をしないんだ? ローズ・リタの部屋から音が聞こえて、あの子が出かけてるのは知ってたからおかしいと思ったんだ……」
「なら、もうわかったでしょ。そっとしといてあげなさいよ。恥ずかしくて返事ができないのよ。あなたがそんなにわめきたててこわがらせるから。あなたも子どものころはそうだったでしょ。忘れたとは言わせませんよ!」
ポッティンガーさんはくすくす笑った。「ああ、そうだったかもしれんな」そしてふざけ半分にコンコンと軽くドアを叩くと、言った。「しっかりな、ルイス!」ポッティンガーさんは鼻歌を歌いながら廊下を歩いていった。ドアがバタンと閉まり、お風呂場の蛇口をひねったのが聞こえた。
ルイスは、エグザクト・ナイフの刃の入った箱のふたを持ったまま、机の横に立ちつくしていた。全身が震えていた。ようやく気持ちを落ちつかせると、ルイスはまたひきだしの中身を調べはじめた。エグザクト・ナイフの刃の箱。カボチャちょうちんの形に彫ったクリの実。リトル・デューク・ミニカード≠ニ書いた厚紙の箱に入ったミニチュアのトランプセット。ルイスはひとつひとつひきだしから出して、緑の吸い取り紙のうえに並べていった。お守りはなかなか出てこない。
ふたにデュルーク≠フラベルのついた、小さなプラスティックのチェスの駒が入った箱。共和党のシンボルのゾウと民主党のロバの形をした磁石のおもちゃ。マーシャルフィールズ=Aシカゴ(シカゴのデパート)というスタンプの押されたぼろぼろの小さな青いケース。マーシャルフィールズのラベルの下に住所を書いた白いラベルが貼ってある。ローズ・リタ・ポッティンガー様 ミシガン州 ニュー・ゼベダイ マンション通り三九番地=B箱を開けると、お守りがあった。
信じられない気持ちだった。涙があふれてきた。ほんとうにあった! 震える指でルイスは箱を持ちあげると、すっと首にかけた。それからシャツの一番うえのボタンを留めた。ルイスはきつい襟の服と、このボタンが大嫌いで、今まで一度も留めたことがなかった。息が詰まるような気がするのだ。でも、そんなことはどうでもいい。今からもどって、ローズ・リタと顔を合わせなくてはならない。ローズ・リタに鎖をかけているのを見られたくなかった。
ルイスはじっとして耳をすませた。ドアが閉まっているのではっきりとはわからないけれど、ポッティンガー夫人は下で歌を歌っているようだ。夫人はお皿を洗ったり掃除をしながら、よく歌っていた。水が流れる音は続いていた。ポッティンガーさんはお風呂に入っているのだろう。よし、なるべく急いでここを出よう。
ルイスは、すばやくローズ・リタのひきだしに入っていた品々をもどしはじめた。だれかがいじくりまわしたらわかるように決まった順番でしまってなければいいんだけど。まあ、もしそうだったとしても、運が悪かったと思うしかない。いつかは、ローズ・リタはお守りがなくなっているのに気づくだろう。でもそのころには、どうしてぼくがお守りを取ったかはわかるはずだ。ぼくは、勇気と力を得てローズ・リタを守ってやるんだから。ルイスは、最後にはなにもかも思ったとおりになるよう祈った。
ルイスはひきだしを元の場所にもどすと、かぎを回した。よし。これであとは帰るだけだ。ヴェッセル先生の診療所へもどって、ベレー帽にかぎを返して、なにごともなかったかのようにただすわってローズ・リタを待っていればいいんだ。
静かに鼻歌を歌いながら、ルイスは廊下を歩いて、階段を小走りでおりた。玄関のドアノブに手をかけたとたん、ポッティンガー夫人が台所から叫んだ。「必要な物はあったの、ルイス?」
「え……ええ。あの、ありがとうございました。さようなら」声がうわずって、ネズミの鳴き声みたいだった。心臓がどきどきしている。ルイスは玄関のドアを閉めた。これで外だ。うまくやりおおせたのだ。もうチャールズ・アトラスもサンドバッグもなにもなくたって、強くなれるんだ。
しかし、ポッティンガー家の玄関の階段を降りようとして、ルイスははたと足をとめた。あの黒い影のことを思いだしたのだ。お守りを持つようになったら、もどってくるかもしれない。魔法のコインをとりもどす計画を立てはじめたときから、その恐怖は常に頭の片すみにあった。でも、いつもの論理的説明≠ナ抑えこんできたのだ。でも、完全にはなくならなかった。
「だからなんだっていうんだ!」ルイスは声に出して言った。「これじゃただのおくびょうものだ。もう、だれもぼくに手だしはできないんだぞ」
ルイスは空を見あげた。だんだん暗くなってきていた。ローズ・リタがなにかおかしいと疑いだすまえにもどったほうがいいだろう。ルイスは上着のボタンを閉めると、歩きだした。
マンション通りをもどるとちゅうで、雪が降りはじめた。小さな白い雪片が渦をまいて、顔にぴしぴしとあたった。ルイスは自分がどこへいくのかわからないような、ふしぎな感覚にとらわれた。初冬の夕ぐれのなかを次々に通りすぎていく見なれているはずの車が、昆虫の目をした有史以前の怪物のように見える。雪嵐がくるのかもしれない。それはそれでいい。湯気の出ているココアを片手に、ジョナサンの図書室にある暖炉のそばで過ごしたら楽しいだろう。窓の外で雪がふっているのを眺めながら、ゆっくりとくつろごう。
ルイスは歩道に積もりはじめた雪をけりながら歩いていった。目の前に小さな雪煙がきらきらと舞いあがる。マソニックテンプルの前にさしかかった。四階建てのレンガの建物で、断崖のように黒々とそびえている。正面に、暗いアーチ道がぽっかりと口をあけていた。なぜかルイスはそのまえで足をとめた。理由はわからない。けれど、ルイスは立ちどまってじっと待った。
すると音がした。カサカサと紙のすれるような音。アーチ道から古い新聞紙が風に飛ばされてきた。まるで生きているみたいにずるずるとルイスに近づいてくる。ルイスはこわくなったが、笑いとばそうとした。古新聞のどこがこわいんだ? 新聞は足もとまできた。ルイスはかがんで、拾いあげた。街角の街灯が風にゆれている。その明かりでなんとか新聞の名前だけは見えた。ニュー・ゼベダイ新聞。一八五九年四月三〇日。あの三セント硬貨の発行年も一八五九年だった。
ルイスは恐怖のあまり小さな悲鳴をあげて新聞をなげ捨てた。ところが、新聞のほうは離れようとしなかった。人なつこい猫みたいに、足にからみついてくる。ルイスはくるったように新聞をけった。あっちへいけ! 次の瞬間、ルイスはけるのをやめて、ぱっと暗いアーチ道のほうをふりむいた。なかから影がすうっと進みでてきた。
ルイスは口をパクパクさせたけれど、声は出なかった。「やあ、ジョーじゃないか!」と言って自分を安心させようとしたが、できなかった。ルイスは根が生えたように立ちつくして、影がやってくるのに見入った。冷たい灰のような息がかかった。
影はルイスの目の前まできて、雪の積もった歩道のうえに立った。そして暗くぼんやりと見える手を持ちあげ、手まねきをした。ルイスはいきなりぐっと前へひっぱられたような気がした。まるで首輪をつけられて、革ヒモをひっぱられたみたいだ。逆らうことはできない。いくしかなかった。ルイスはよろめきながら前へ出て、手まねきしている影についていった。雪が二人を包み、視界から消しさった。
11
ローズ・リタは、ヴェッセル先生の病院の待合室にかかっている時計を見あげた。ローズ・リタが時計を見たのは、この五分間で三回目だった。
時計は五時一五分をさしていた。ルイスがここを出ていったのは、三時半かそのくらいだ。タバコを買って、家に帰って、またここにもどってくるのに、二時間近くもかかるなんて信じられない。でも、じっさいもどってきていないのだ。電話もないし、何の連絡もない。ヴェッセル先生の診察はそんなにかからなかった。もうこの待合室にいらいらしながら一時間以上もすわっているのだ。これ以上我慢できない。
ローズ・リタは玄関ホールに飛びだすと、さっさと帰るしたくをはじめた。コート、スカーフ、ながぐつ、てぶくろ。ローズ・リタはかんかんだった! 今度ルイスに会ったらなんて言ってやろうか、言いたいことが頭のなかを駆けめぐった。ローズ・リタは手を伸ばして、ベレー帽をひっつかんだ。そしていつものくせで、手をつっこんでかぎがあるかたしかめた。かぎは消えていた。
ローズ・リタは立ったまま、かぎを留めていた安全ピンを茫然と見つめた。そういうことだったわけね! なんて汚くて、ずるくて、卑怯で、ひどい……怒りがこみあげてきた。さっきにもまして、むしゃくしゃしてしょうがなかった。それから、ふと手をとめた。ルイスは、お守りのことはローズ・リタにぜんぶ話していた。街灯の下で待ち伏せていた影のことも。どこからともなくただよってきたおそろしいメッセージのことも。そしてルイスはお守りをとりにいって、もどってきていないのだ。
ローズ・リタはヴェッセル先生の病院の玄関を開けた。外は暗く、雪がふっている。ローズ・リタはわきあがってくる恐怖を必死で抑え、歯を食いしばって自分に言い聞かせた。「助けを呼ぶのよ。助けを呼ぶのよ」そうくりかえしながら、ローズ・リタは階段をかけおり、雪のなかを走りだした。
ジョナサンおじが食堂で戸棚の時計を巻いていると、玄関からドンドンドンドンとものすごい音がした。ドアを開けると、ローズ・リタがまっかな顔をして息を切らしながら、雪まみれになって立っていた。
「おじさん……バーナヴェルトおじさん……もう……手遅れに……ルイスを……ルイスを探さないと……」ぬれた冷たいものがふつふつとのどからあふれでて、口のなかではじけた。ローズ・リタはそれ以上しゃべれなかった。
ジョナサンはローズ・リタの肩に腕をかけ、落ちつかせようとした。そしてコートがぬれて重そうだから脱いだほうがいい、と言った。ところがコートのボタンを外そうとすると、ローズ・リタは怒ったようにジョナサンを押しのけた。そして立ったまま、呼吸を整えようとした。しばらくしてようやく声が出るようになると、ローズ・リタはジョナサンをまっすぐ見すえ、できるだけ落ちついた調子で言った。
「おじさん……あの……ルイスになにかおそろしいことが起こったにちがいありません。おじさんがルイスにあげたあの古いコイン……おじいさんのトランクから出てきた……」
ジョナサンはふしぎそうにローズ・リタを見た。「ああ、覚えとるよ。あれがどうかしたかい?」
「ええ、あれには魔法がかかっていたんです。わたしからルイスがとって、ルイスがのっとられて……なんとかしなくっちゃ……」もうだめだった。ローズ・リタは両手を顔に押しあて、泣きくずれた。全身を震わせて。
それからしばらくして、ローズ・リタとジョナサンとツィマーマン夫人はツィマーマン夫人の台所のテーブルにすわっていた。ツィマーマン夫人はローズ・リタの手を握って、なぐさめている。ローズ・リタは知っていることをすべて話しおえたところだった。
「だいじょうぶですよ、ローズ・リタ」ツィマーマン夫人は優しく言った。「なにもかもうまくいきますよ。ルイスは見つかるわ」
ローズ・リタは泣くのをやめて、ツィマーマン夫人の目をまっすぐ見た。「ほんとうに? どうやって見つけるの?」
ツィマーマン夫人はじっとテーブルを見つめた。「まだわからないわ」ツィマーマン夫人は低い声でつぶやいた。
ローズ・リタは必死で絶望と戦った。ほんとうだったら、今すぐにでも三人で車に乗りこんで、ルイスを探しに飛んでいきたい。なのに、どこを探せばいいのかさえわかっていないのだ。台所の時計がジィーと鳴り、ツィマーマン夫人は指輪についた巨大な紫の石を、白いエナメルのテーブルにコツコツとぶつけた。考えているのだ。
とつぜんツィマーマン夫人が椅子を押しのけて飛びあがった。「そうよ! さあ、いきますよ。上着を着て。どこへいけばいいかわかりましたよ!」
ローズ・リタとジョナサンはなにがなんだかわからなかったけれど、ツィマーマン夫人について玄関ホールへ出て外へいくしたくをはじめた。ジョナサンは大きな毛皮のコートを着て、小さな黒い干草の山みたいに見える帽子をかぶった。ツィマーマン夫人は厚ぼったい紫のケープをはおり、玄関のクローゼットをひっかきまわしてかさを探した。小さな黒いかさで、錆び色の縞が幾筋もつき、クリスタルの握り玉がついている。ローズ・リタはどうしてかさなんて持っていくんだろう、とふしぎに思った。
用意ができるとすぐに、三人はとなりへいき、車庫からジョナサンが車を出してきた。ローズ・リタは前の座席のジョナサンとツィマーマン夫人のあいだに体を押しこんだ。マンション通りとハイ・ストリートの角にくると、ジョナサンはブレーキを踏んで、ローズ・リタのほうを見た。
「よし、ローズ・リタ。おまえさんは家に帰ったほうがいいだろう。もう遅いし、おまえさんがどこへいったのか家の人が心配するだろうから。おまえさんをこんな危険な旅に連れていくわけにはいかんよ」
ローズ・リタは一歩もひかない覚悟で、ジョナサンをきっと見かえした。「おじさん、もしわたしを厄介ばらいしたいなら、しばってうちの玄関ポーチに捨てていくしかないわ」
ジョナサンはローズ・リタをまじまじと見つめた。そして肩をすくめ、運転を続けた。
大きな黒い車はのろのろと中心街を走り、ロータリーを回った。雪は激しくなっていた。噴水の柱に囲まれたマリア様とヨセフ様の像にも、雪が積もっている。車は町の外へ向かっていた。町の境界線の標識を越え、競技場とボールモル・ボーリングセンターも過ぎた。ジョナサンは家を出るまえにツィマーマン夫人と大急ぎで相談していたから、どこへいくのかわかっているようだった。ふだんなら、ローズ・リタはそんなちょっとした秘密を教えてもらえないだけで腹をたてていた。けれども今はルイスのことが心配で、ルイスを助けるためなら、どこへ向かっていようとかまいやしなかった。
三人は郊外を走っていた。タイヤのチェーンがジャリジャリと鳴る音が規則正しく響き、暗やみのなかから白い点が噴きだしてくる。ローズ・リタは催眠術にかかったようにその光景に見入った。小惑星帯を進む宇宙船にのっている気分だ。白い点は流星。ジャリジャリとチェーンが鳴り、シューウシューウとワイパーがゆっくり雪を払いおとす。白い点は絶え間なく飛んでくる。足にはヒーターの暖かい風があたっている。まだ夕方になったばかりなのに、ローズ・リタはひどく疲れていた。診療所からルイスの家まで雪のなかを走ってきたせいで、くたくただった。頭ががくんと前に垂れた……
「だめだ。これ以上進めん」
ローズ・リタはぶるぶると頭をふって、目をこすった。「え?」
そう言ったのはジョナサンだった。ジョナサンはギアをバックにいれると、少しうしろに下がった。それからローに入れ、ゆっくりとアクセルを踏みこんだ。車はほんの少し前へ出たが、すぐに止まった。タイヤがキュキュキュときしった。ジョナサンは車をさげ、もう一度やってみた。もう一度。さらにもう一度。とうとうジョナサンはエンジンを止めた。そしてふうっと大きなため息をついて歯ぎしりすると、役立たずのハンドルをげんこつで叩いた。三人の前には、波打つ雪の砂漠のような道路が伸びていた。この雪の深さでは車で走るのは無理だった。
車はポタポタと水をしたたらせ、カチッと鳴って静かになった。白い雪片がワイパーのうえに積もりはじめた。三人はそのようすをじっと眺めた。長いあいだそうしていたように思えたけれど、じっさいは一分もたっていなかった。それからツィマーマン夫人がコホンと咳払いをした。いきなり音がしたので、ジョナサンとローズ・リタは飛びあがった。そしていったいなにを言いだすのかと、ツィマーマン夫人のほうを見た。ツィマーマン夫人はケープの袖に腕を通すと、車の床からかさを拾いあげた。「さあ、みんな出ましょう。オーバーシューズのバックルを留めて、ボタンをうえまで閉めるのよ。歩かなくちゃならないんですから」
ジョナサンは目をまるくしてツィマーマン夫人を見た。「歩く? フローレンス、気でもちがったのか? まだ……つまり、あと何マイルあると思ってるんだね?」
「騒ぐほどじゃありませんよ、ひげじいさん」ツィマーマン夫人はそう言って、無理に笑った。「でも、どちらにしろ、これじゃあ時間の無駄でしょう。歩かないと。ほかに方法はないんですから」ツィマーマン夫人は車のドアを開けると、外にすべりでた。ローズ・リタもあとに続いた。ジョナサンはヘッドライトを消すと、グローブボックスから懐中電灯を取りだした。そしてすぐに、二人を追いかけて外に飛びだした。
深い雪のなかを歩くのはきつかった。足を高くあげてはさげ、あげてはさげしながら穴から穴へ進まなければならない。足がもげそうだ。すぐに、ジョナサンとツィマーマン夫人とローズ・リタはへとへとになった。
「ああ、こんなの無駄だ!」ジョナサンはゼイゼイとあえいだ。そして帽子をひっつかむと、雪のなかへ投げ捨てた。「こんな調子じゃ、いつまでたってもつきやしない!」
「やるしかありませんよ」ツィマーマン夫人は息を切らしながら言った。「一分休んで、出発しましょう。すくなくとも雪はやみましたよ」
ほんとうだった。ローズ・リタが空を見あげると、星が輝いていた。月も出ている。大きな満月だった。月の光で、ちょっと離れたところに車があるのが見えた。ちょうど道路がカーヴしたところだ。車が見えないところまでもきていないのだ。
「カファーナウム郡の道路公団の連中みたいに怠慢なやつらは見たことがない」ジョナサンはぼやいた。「今すぐ雪かきトラックを出してくるべきなのに!」
「無駄口をたたいている余裕はありませんよ」ツィマーマン夫人が言った。
三人はまた歩きだした。きらきらと光る白銀のなかをのぼってはおり、のぼってはおりしながら進んでいく。ローズ・リタは泣きだした。頬を流れる涙は冷たかった。「もう二度とルイスには会えないんだわ。そうでしょ? そうなんだわ」ローズ・リタはしゃくりあげた。「二度と会えないのよ!」
ツィマーマン夫人は答えなかった。ジョナサンもなにも言おうとしない。ひたすら重い足を引きずって歩きつづけるだけだった。
何時間も歩いたように思えたとき、ジョナサンが立ちどまって、左のわきばらを押さえた。
「もうだめだ……歩けん……これ以上……痛い……」ジョナサンはあえいだ。「だめだな……あんなに食ってちゃ……」
ローズ・リタはツィマーマン夫人を見た。今にも倒れそうだった。ツィマーマン夫人は両手で顔をおおって、そむけた。ローズ・リタにはツィマーマン夫人が泣いているのがわかった。
「これで終わりよ」ローズ・リタは思った。「これですべて終わり」ところがそのとき、遠くのほうから音が聞こえた。エンジンのうなるような音、ガリガリと削って押しつぶす音。ローズ・リタはふりむいて、今きた道路のほうを眺めた。遠くのほうで黄色い光がちらちらしている。除雪車だった。
ローズ・リタは自分の目が信じられなかった。へとへとに疲れていたけれど、ぴょんぴょん飛びはねて歓声をあげた。ツィマーマン夫人は顔から手を下ろすと、立ったままじっと車を見つめた。ジョナサンは帽子を拾いあげ、雪をはたくと、クシャクシャのまま頭のうえにのせた。そして鼻をかむと、何度も目をこすった。「そうさ、もうきてもいいころさ!」ジョナサンはしゃがれ声で言った。
除雪車はどんどん近づいてきた。ローズ・リタはこんなに美しいものを見たのは生まれてはじめてだと思った。ピカピカ光るライトとすばらしい音の共演だ。大きな半円形のプレートから火花が飛び散り、モーターがウィーンと鳴る音が低く響いた。大きな黄色い車体のドアには、カファーナウム郡公共事業団≠ニ書いてあった。
ジョナサンは懐中電灯をつけて、大声で叫んで手をふった。ギギィーと耳障りな音をたてて、トラックは三人の放浪者のすぐ手前で止まった。ブレードについた雪がはねかかったけれど、三人は気にもとめなかった。
運転席の窓がするすると開いた。「おい、道路のまんなかに車を置きっぱなしにしたのはあんたたちかい?」
「ああ、そうだ。おい、おまえさんか? ジュート・フィーセルじゃないか!」ジョナサンは大声でどなった。「こんなに会えてうれしかったことはないよ! のせてくれるかい?」
「どこへ?」
「ホーマー道路をあがったモス農場のところまでだ」
「あんなクソ遠いところへなにをしにいくんだい?」
「言葉に気をつけなさい、ジュート」ツィマーマン夫人が呼びかけた。「若いお嬢さんがいっしょなんですから」ローズ・リタはクスクス笑った。ジュート・フィーセルといえば、ニュー・ゼベダイ一の口の悪さで有名だったからだ。
ジュートは三人を望みのところまでのせていくことを承知した。ジュートはわけがわからねえ、と言ったけれど、ジョナサンがべつにわかる必要はないと言い、それで落ちついた。トラックの運転席は四人乗るにはちょっときつかったけれど、なんとかぎゅうぎゅうづめになって全員乗りこんだ。ツィマーマン夫人がまんなかにすわり、ローズ・リタはジョナサンのひざのうえにすわった。運転席はひどく暑くて、おまけにジュートがすっているキング・エドワードのタバコのにおいがこもっていたけれど、ともかく四人は出発した。
トラックは両わきに雪を吹き飛ばしながら、丘をいくつも越え、くねくねとカーヴを曲がって進んだ。ジョナサンは景気づけに〈ドリルで穴をあけろ〉を歌った。ジュートはちっちゃな池にいる三匹の魚の歌を歌った。これしか子どもに聞かせても問題のない歌を知らなかったのだ。道路の両わきの暗やみから、雪をかぶった木がじっと四人を見つめていた。
とうとうトラックが止まった。どこともわからない。なにもない場所だった。鉄条網と木が何本か、それから雪と月明かりが見えるだけだ。それでぜんぶだった。
「さあてついたぞ!」ジュートが言った。「こんなクソ……こんなへんなところでなにをするつもりか知らないが、古い友だちだ。役に立ててうれしいよ。だれかを迎えによこしてほしいかい?」
「たのむよ」ジョナサンは言った。「これは動くかい?」そう言ってジョナサンはダッシュボードに置いてあるラジオを指さした。送話器がついていた。
「もちろんさ」
「そうか、ならオークローン病院を呼びだして至急、救急車をよこしてくれるように言ってくれ。いいや、だめだ。説明はできん。ありがとう、ジュート。またな」ジョナサンはドアを開けて、トラックから飛び降りた。ツィマーマン夫人とローズ・リタもあとに続いた。トラックの前を通ったとき、ローズ・リタはジュートの顔を見あげた。ダッシュボードの光で緑色になって、キツネにつままれたような顔をしていた。ジュートは送話器をとり、場所の説明をはじめた。
「おい!」ジョナサンが叫んだ。「これを見ろ」ジョナサンは興奮して懐中電灯をふりまわした。
ツィマーマン夫人とローズ・リタはジョナサンを追いかけて、道路のはしっこへいった。雪のうえにくぼみがある。足あとだ。
「やった! ルイスのだと思う?」ローズ・リタは聞いた。この数時間ではじめて、希望がわいてきた。
「わからん」ジョナサンは懐中電灯で暗い穴を照らしながら言った。「半分ほど雪で埋もれちまってるが、ルイスの足くらいの大きさに見える。いくぞ。どこへ続いているか見てみよう」
ジョナサンを先頭に、三人は道路のわきを歩いていった。すると足あとは柵のほうへ向きを変えた。男の人の胸くらいの高さの鉄条網だ。デカルブ社のトウモロコシの広告がのった黄色いブリキの看板がてっぺんにぶらさがっている。凍るように冷たい風が看板をカランカランと鳴らしていた。突然ジョナサンが大声をあげて、よろめくように前へ出た。そして看板を照らした。「見ろ!」
看板のはしになにかがくっついていた。風にはためいている。茶色いコーデュロイの切れ端だった。乾いた血がこびりつき、看板にも血が点々と飛び散っている。
「ルイスよ、まちがいありませんよ!」ツィマーマン夫人が言った。「はじめて会ったときからコーデュロイのズボン以外はいていたことはありませんからね。血だわ! 柵を乗り越えるときに切ったのね」
「いこう」ジョナサンが言った。
三人は順番に柵を乗り越えた。ツィマーマン夫人は最後だったが、ケープをひっかけてしまった。が、ケープをびりっと引きさくとすぐに歩きだした。雪の積もった畑のうえに足あとが点々と続いた。
12
ジョナサンとローズ・リタとツィマーマン夫人はよろめきながら雪でおおわれた畑を歩いていった。行く手に松林が見えた。ジョナサンは先頭に立って、懐中電灯で照らしていたが、足あとは月の明かりだけでもはっきりと見えた。なめらかな雪の層の下の地面はでこぼこしていて、しょっちゅう三人のうちのだれかがつまずいたり転んだりした。けれどもそんなことをものともせず、三人はもくもくと進んだ。
薄暗い木立ちに近づくにつれ、だれひとり口にしなかったが三人ともおなじことを考えはじめた。あの林はカーテンのようになにかを隠している。三人はうっそうと茂った芳しい香りの大枝のなかへ分けいった。そして木立ちの反対側に出たところで、立ちどまった。
ジョナサンとローズ・リタとツィマーマン夫人は、自分たちが低い丘のてっぺんに立っていることに気づいた。丘のふもとに、かなり広く雪をかきのけた場所が見える。むきだしの地面のまんなかに大きな井戸があった。井戸の口は地面とおなじ高さのところにあり、わきに重そうな石のおおいがどけてある。井戸のへりから数フィート離れたところにルイスが立っていた。井戸の横に暗い影が立って、ルイスに手まねきしていた。
ジョナサンとローズ・リタとツィマーマン夫人は恐怖におののいてその光景を見つめた。どうすることもできなかった。影はまた手まねきした。ルイスは体をこわばらせ、動くまいとした。すると影は手をうえにあげ、空中に奇妙な印を描いた。ルイスは足を引きずりながら少しずつ進み、井戸のすぐ手前まできた。
「止まって!」ツィマーマン夫人が叫んだ。その声は丸天井の下で発せられたように朗々と響きわたった。
ローズ・リタはふりかえってツィマーマン夫人を見た。ツィマーマン夫人の姿はすっかり変わっていた。みすぼらしい紫のケープのひだにオレンジ色の光があふれ、優しいしわだらけの顔に青白い光がチラチラ躍っている。手に握られているのは、かさではなく、クリスタルの球のついた長い魔法の杖だった。球のなかで紫の星が燃えるように輝き、まっかに焼ける剣のように雪をえぐり、長い薄紫色のあとをつけた。
「止まれと言ってるんです!」ツィマーマン夫人はもう一度叫んだ。
暗い影は一瞬ためらい、ルイスは穴の手前でぴたりと止まった。そして戦いが始まった。
あちこちで巨大なカメラのフラッシュが同時にたかれたようだった。まるで空だけでなく、まわりや地面の下にいたるところで雷が鳴ったみたいだ。ローズ・リタは雪にひざをついて顔をおおった。次に顔をあげたときは、世界は灰色の月光に包まれていた。ルイスは、雪がかきのけられた大きな円のふちまでもどっていた。しかし、影はまだ井戸の横にいる。ツィマーマン夫人が雪のなかに崩れおちるように倒れた。その横にゆがんだ古いかさの残骸が転がった。クリスタルの持ち手がまるでかなづちで叩かれたように粉々にくだけている。ツィマーマン夫人は負けたのだ。
ローズ・リタはさっと跳ねおきた。ツィマーマン夫人を助けたかった。ルイスを助けたかった。なにもかもいっぺんにやって、みんなを救いたかった。でもじっさいは、なにひとつできなかった。ジョナサンがツィマーマン夫人のうえにかがみこんでいる。助けおこそうとしているようだ。ローズ・リタはぱっとうしろを向いて、丘のふもとを見おろした。ルイスはまた足を引きずるように井戸のほうへ歩きだしていた。暗い影はふしぎなリズムで腕をゆらゆらとゆらし、ルイスに手まねきしている。そのとき、ツィマーマン夫人の声がした。長いあいだ病気にでふせっていた人のような弱々しいかすれた声だった。
「ローズ・リタ! こっちへきて! 早くきてちょうだい!」
ローズ・リタは雪のなかをもがくように進んで、ツィマーマン夫人のそばへいった。
「手を出して!」ツィマーマン夫人は命令した。
ローズ・リタは手を差しだした。ツィマーマン夫人はポケットのなかに手を入れると、燐光を発しているチョークのように見える物をひっぱりだした。ローズ・リタが受けとると、それはつららのように手を焼いた。
「これを持ってルイスのところへ行きなさい! これが残された唯一のチャンスよ。さあ、早く。手遅れになるまえに!」
ローズ・リタはツィマーマン夫人がくれた物を握りしめると、丘をくだりはじめた。大変だろうと思っていたけれど、ふしぎなことに、まるで雪が道をあけてくれるようだった。気がつくと、ローズ・リタは雪のないふしぎな円のなかに立っていた。影はまだルイスに手まねきをしている。ローズ・リタには気づいていなかった。
ローズ・リタは、ルイスを殺そうとしているおそろしいものに対する怒りでいっぱいになった。今すぐ飛びかかって、ずたずたに引きさいてやりたい。それがローズ・リタの役目なのだろうか? ツィマーマン夫人がくれたもので、あの影の息の根を止めることが? それともまずルイスのところへいくべきだろうか? ゆっくり考えている余裕はなかった。ルイスの足が井戸のふちにかかった。ちょっと押すだけで、まっさかさまに暗やみのなかへ落ちてしまうだろう。鋭い叫び声をあげてローズ・リタは走りだした。「ルイスからはなれて! はなれてよ! ルイスに手を出すんじゃないわ 汚らわしい怪物!」
影はローズ・リタのほうを向いた。すると影の姿が変わった。頭からすっぽりと全身をおおっていたフードがとれ、ぼろぼろのひょろ長い影が浮きあがった。縮んで黒ずんだ死体に目だけが光っている。影は飢えた両腕をすっと伸ばし、じりじりとローズ・リタに近づいてきた。影はしゃべっていた。声は聞こえないのに、言葉が脳に飛びこんできたのだ。おまえをつかまえて、もろとも暗く冷たい井戸の底へ飛びこんでやる……永遠にそこにいるのだ、二人きりで……
ローズ・リタは、考えたら最後、気を失うか死んでしまうのがわかっていた。歯を食いしばり、このあいだラジオで聞いた意味のないコマーシャルの宣伝文句をくりかえしながら、影に突進した。「やっぱりワイルドルート印のヘアクリームだぜ、チャーリー。やっぱりワイルドルート印のヘアクリームだぜ、チャーリー。やっぱり……」おそろしい影がローズ・リタに襲いかかった。一瞬、闇とぬれた灰の息苦しいにおいがローズ・リタを包んだ。闇をつきぬけると、ルイスがいた。
ルイスはまさに井戸のへりにいた。まるで水に入るまえに温度をたしかめようとするように、なにもないところへすっと片足を出した。ローズ・リタは思いきりルイスを突きとばした。そしてルイスの首に手を回し、鎖をつかもうとまさぐった。ルイスは抵抗しなかった。まるで麻酔をかけられた人のようだ。それでも、鎖をとるのは難しかった。ツィマーマン夫人がくれた冷たい光を発している物をしっかり持っていなければならなかったからだ。これを離したらどんなことになるか、ローズ・リタにはわかりすぎるほどわかっていた。
ローズ・リタは思いきりひっぱって、鎖をルイスの首からひきぬいた。そして小さくまるめて握りしめた。井戸のほうをふりかえると、影がまた闇に包まれて立っているのが見えた。影はじっとこちらを見つめていた。
ローズ・リタは急に冷静になった。冷静になり、そして勝ちほこった。
「ほうら、見える?」ローズ・リタはお守りをふってみせた。「よく見てなさいよ!」そして、鎖ごとお守りを井戸のなかへほうりこんだ。
お守りは落ちていった。長い一秒だった。そしてはるか奥底から小さな音が響いてきた。チャポン。そのとたん、フードをかぶった暗い影がすっと消えた。影はひと筋の黒い煙になり、その煙も風に吹き飛ばされた。そのあとにはなにひとつ、地面のうえのかすかなしみすら残っていなかった。
ローズ・リタは井戸の底をじっと見おろした。魂を奪われたようだった。その瞬間、井戸は世界で唯一の物に思えた。ローズ・リタを飲みこもうとする巨大な黒い渦。無から無をのぞきこむぽっかりとあいた眼窩。ローズ・リタはぞっとして、痙攣したように震えた。頭の先からつま先までぶるぶる震えていた。が、震えが止まると、頭がはっきりした。ローズ・リタは井戸のへりからうしろへ下がると、ルイスを助けようとふりむいた。
ルイスは地面のうえにすわったまま泣いていた。風と雪と寒さで顔がまっかになっている。てぶくろも帽子もなく、ズボンの足のところが大きく裂けていた。ルイスの口から最初に出た言葉は、「ローズ・リタ、ハンカチ持ってる? ぼく鼻をかまなきゃ」だった。うれしさのあまりぽろぽろと涙をながしながら、ローズ・リタはルイスに抱きついて、ぎゅっと抱きしめた。
ジョナサンとツィマーマン夫人もやってきた。二人ともやはり泣いていた。ようやくツィマーマン夫人は気をとりなおし、ルイスの横にひざをついて、医者のようにルイスの体を調べはじめた。目をじっと見て、耳のなかを調べ、のどの奥をのぞきこんだ。それから、舌を出して「あー」と言わせた。ジョナサンとローズ・リタはツィマーマン夫人の診断がくだるのを緊張しながら不安げに見守った。とうとうツィマーマン夫人は立ちあがった。ケープから雪を払い落とし、スカートのしわを伸ばした。「悪いところは……」ツィマーマン夫人は鼻を鳴らした。「寒いなかずっと外に出ていたことだけです。疲れきっているし、風邪もひいているようね。ローズ・リタ、さっきわたした物を返してくれる?」
ローズ・リタは、はっと自分を救ってくれた物のことを思いだした。それはまだ手のなかにあったが、もう光ってもいないし冷たくもなかった。手を開くと、二インチくらいのガラス管があった。管のなかには穴の開いた金属の筒があり、さらにそのなかに薄紫のクリスタルが数個入っていた。管には、きらきら光る金色のふたがしてある。ふたのうえには、こう刻んであった。
ピアレス・吸入器・アメリカ合衆国特許庁
ローズ・リタはツィマーマン夫人のほうを見た。笑ったらいいのか泣いたらいいのかわからなかった。「これだけだったの? これって、頭が重いときに鼻にさしこむ、あれ?」
「ええ、そのとおり」ツィマーマン夫人はじれったそうに答えた。「さあ、渡してちょうだい。ありがとう」そして吸入器を持ってルイスの体をあちこち調べながら付けくわえた。「これも魔法の道具なんですよ。わたしがはじめて作ったね。ほんの一分前まで、完全な失敗作だと思ってましたけどね。これは子どもの手に渡ってはじめて威力を発揮するように作られているんです。これを持った子どもを、邪悪なものから守るために。それに、ある種の癒しの力を持っているはずなんです。そう、これを作ったあと、わたしはマスキーゴンに住んでいる姪に貸してやったのよ。ずっと彼女のところにあったんです。でももう大人になって、数カ月ほど前に送りかえしてきたんですよ。なかに入ってた手紙には、頭痛にとてもよく効いたって書いてありましたけどね。姪は魔法がかかってるとは思わなかったみたいね。それで、わたしはばかばかしい道具をケープのポケットにしまってすっかり忘れちまってたんですよ。ついさっきまで」ツィマーマン夫人はまじめな顔でふっと笑った。「きっとうちの姪はつまらない毎日を送ってたんでしようね。井戸の暗い影なんてものにお目にかかることはなかったんでしょうよ」
ツィマーマン夫人は立ちあがって、ケープの雪を払った。ローズ・リタはルイスを見おろして、ばんざい! と叫びそうになった。ルイスはぼうっとしていたけれど、健康そのものだった。するとツィマーマン夫人がローズ・リタのほうを向いて、ガラス管を手渡した。「さあ。とっときなさい。これはあなたのものですよ。ずっとね」
ローズ・リタの目に涙がわきあがってきた。「ありがとう。二度と、今夜みたいなことで使わずにすみますように」
「ほんとうに」ツィマーマン夫人が言った。
「そのとおりだ」ジョナサンもそう言って、ルイスを立たせてやった。
そのあとジョナサンは井戸のふたをもどそうとしたけれど、できなかった。四人は道路のほうへ歩きはじめた。道路に出ると、救急車がエンジンをかけたまま止まっていた。そしてジュート・フィーセルがジョナサンの車の横に立っていた。
「やあ、おそろいで!」ジュートは大声で叫んだ。「きっとこいつがいるだろうと思ったんだ。この車があったところにおれのトラックを置いてきたから。そこで下ろしてくれればありがたいんだがね」
「そうしよう」ジョナサンは肩ごしに叫んだ。ジョナサンは救急車の運転手と話していた。長いあいだ寒さにさらされて参ってるから、ルイスを一晩病院にとめてやってくれと頼んだのだ。それが終わると、今度はツィマーマン夫人とさんざん話しあって、ツィマーマン夫人はルイスといっしょに救急車に乗り、あとの三人はジョナサンの車で帰ることに決めた。
ニュー・ゼベダイへ向かう車のなかでは、だれも口をきかなかった。ジョナサンが運転し、となりにジュートがすわって、ローズ・リタは一人うしろの座席にすわった。町の境界線の標識をすぎると、ジュートが口を開いた。「せんさくするつもりはねえんだが、いったいあの子はクソ……チクショウ、おれがきたねえ言葉を使ったって平気だな、ローズ・リタ?……あのクソ牧場でこんな真夜中になにやってたんだ?」
ジョナサンは説明しはじめたが、アーとかウーとかばかり言っているので、ローズ・リタがわって入った。「つまりひと言で言えばこうなんです、フィーセルさん。なにがあったかっていうと、ルイスが境界線のそばを歩いていたら、車にのった見たこともない男のひとがきて、ホーマーまで雪を見にのってけいってやろうか、って言ったんです。ほら、ルイスって時々ばかなことをやるから、ありがとうって言って車に乗っちゃったんです。そしたら半分くらいいったところで、その男が新聞に出てくるような悪いひとだってことがわかったものだから、車から飛びおりて森に隠れたんです。そこで見つけたってわけ」
ジュートはふうっとタバコをふかして、うなずいた。「ルイスはその男の顔をよく見たのかい?」
「いいえ。暗かったし、車のナンバーも見なかったって。最悪だわ。きっとつかまらないでしょうね」
「ああ」ジュートはまただまりこんだ。ジュートは、どうしてジョナサンたちがルイスの居場所がわかったのかふしぎに思った。松林のなかには電話なんてない。でもジュートは、ジョナサンが魔法使いだと聞いたことがあった。きっと魔法使いには家族の人間と連絡をとる方法があるんだろう。脳波とか、そんなもので。とにかくジュートはそれ以上質問しなかった。家につくまで、ローズ・リタはずっと満足げにほほえんでいた。
13
次の朝ルイスは、光が満ちたまっしろい部屋で目を覚ました。ニュー・ゼベダイ病院は、むかしお金持ちの老婦人が住んでいた大邸宅のなかにあった。ルイスの病室は屋根裏だった。天井がななめになっていて、ベッドの足もとあたりは床につきそうだ。ひじのあたりに白いしっくいのトンネルがあって、カーテンのかかった屋根窓に続いている。外につららが下がっていたが、部屋のなかは温かかった。
細長い部屋にはほかにも患者さんがいて、午前中ずっと看護婦さんたちがいったりきたりしていた。昼近くに、ハンフリーズ先生がルイスの診察にきた。ハンフリーズ先生はバーナヴェルト家のかかりつのけのお医者さまで、ルイスは先生のことが大好きだった。コントラバスのような声をしていて、ジョークを飛ばして患者さんを安心させた。いつも黒い革のカバンを持ち歩いていて、なかに詰まった四角い薬びんをガチャガチャいわせている。ハンフリーズ先生はルイスの口に木の棒を入れると、光をあててのどの奥を見た。それから耳と目をのぞきこんだ。それから先生はぽんとルイスの肩をたたくと、パチンとカバンを閉め、何日か家でゆっくりすればだいじょうぶだろう、といった。そしてルイスと握手すると、先生は病室を出ていった。
それからすぐにジョナサンが迎えにきて、二人は家へもどった。ツィマーマン夫人はルイスにベッドから出ないようにと言った。そしてその日の夕方、ルイスに夕食を持ってきたツィマーマン夫人は、びっくりすることがあるんですよ、と言った。ツィマーマン夫人とジョナサンとローズ・リタは、ルイスのために一足早いクリスマスパーティを開くことにしたのだ。スリッパとバスローブで好きなときに書斎までおりてらっしゃい、とツィマーマン夫人は言った。
最初、ルイスはおそろしくなった。ルイスは新聞で不治の病にかかった子どもの写真を見たことがあった。そういう子どもはいつも、一足早くクリスマスパーティをしてもらっていた。けれども、ツィマーマン夫人が何度も、ルイスは死にかけているわけではないと説明したので、ルイスはようやく気をとりなおした。それどころか、パーティが始まるのが待ちどおしくてしょうがなくなった。
ルイスはクリスマスツリーの横にすわっていた。ウッディにとられた帽子のかわりにジョナサンが買ってくれた赤い格子縞のシャーロック・ホームズの帽子をつくづくと眺めながら。片手にジョナサン特製のクリスマスパンチのグラス、もう片方の手にはチョコレートチップ・クッキー。今回は、目を細めてクリスマスツリーのライトを星にする必要はなかった。うしれ涙で目が曇っていたのだ。
ローズ・リタはルイスのすわっているひじかけ椅子の下にあぐらをかいてすわっていた。やはりルイスがプレゼントにもらった電子ピンボールマシンで遊んでいる。「ツィマーマン夫人?」ローズ・リタは呼んだ。
「なに、ローズ・リタ? なんですか?」ツィマーマン夫人は図書室の机で、自分のパンチにペネディクティーヌ(甘口の薬草リキュール)を足していた。毎年、ツィマーマン夫人はジョナサンにペネディクティーヌが足りないと文句を言い、毎年、自分の好みに作りなおしていた。「なんです? 言ってごらんなさいな」
「いつになったら、あのときどうしてどこへいけばいいかわかったのか教えてくれるの? どうしてルイスの居場所がわかったの?」
ツィマーマン夫人はふりむいてにこりと笑った。そして人差し指をパンチにいてれてかきまぜると、口に入れた。「うーん、おいしい! どうしてわかったかですって? なるほど、いい質問ですよ。ルイスと魔法のコインのことで、あなたが話してくれたことをよく考えてみたんですよ。なかにひとつ、ピンとくることがあったんです。ほんのささいなことで、あなたはきっと大切だと思ってなかったでしょうね」
「どんなこと?」ルイスが聞いた。
「霊のにおいですよ。ローズ・リタは、ルイスが霊はぬれた灰のにおいがしたって教えてくれたって言ったんです。まるで消したばかりのたき火のようなにおいがするって。それで、わたしはそれをいくつかわたしが知っている事実と結びつけたんです」ツィマーマン夫人は指をつきたてた。「まずひとつ。一八五九年四月三十日、エリパズ・モスという農夫がホーマー道路近くの農家で焼死したんです。わたしのおじいさんは近くに農場を持っていて、火事を消すためのバケツリレーに参加したんですよ。子どものころ、おじいさんが、農家からエリパズが飛びだしてきたのを見てどんなにこわい思いをしたか話してくれたのを覚えてるわ。全身炎に包まれて、身の毛もよだつような悲鳴をあげて(っておじいさんは言ってたんですよ)エリパズは飛びこんだんです……」
「井戸に?」ルイスは言った。顔がまっさおだった。
「井戸に」ツィマーマン夫人はまじめな顔でうなずきながら言った。「井戸で火は消えたけれど、かわいそうなエリパズは溺れしんでしまった。深い井戸だったから、死体はあがらなかったんですよ。火事のあと、だれかがみかげ石の巨大なふたを作って、それがエリパズの墓石になったんです。ちなみに、おじさんは今それをしにいってるんですよ。ジュートを手つだって、ふたを井戸にもどしにいったんですよ」
玄関のドアがバタンとしまった。ジョナサンだった。図書室に入ってきたときは、寒さでまっかな顔をして、表情も暗かった。けれどもパンチをつぐとたちまち元気をとりもどし、ツィマーマン夫人は話を続けた。
「もちろん、これは話のほんの一部ですよ」ツィマーマン夫人はそう言って、自分にももう一杯パンチをついだ。「これからは、ウォルター・フィンザーが関係してくるんです。バーナヴェルトのおじいさんが三セント硬貨を勝ちとった相手ですよ。彼は、エリパズ・モスの雇い人だったんです。みんな、彼こそ火をつけてエリパズじいさんを殺した張本人だと固く信じていたんですよ」
「どうして?」ローズ・リタが聞いた。
「ウォルターってやつは、汚くて、腹黒くって、残酷で、怠け者だったからさ!」ジョナサンがうなった。「おじいさんが幸運のお守りを勝ちとったとき、やつがなにをやったか見ればわかるだろ」
「ツィマーマン夫人もウォルター・フィンザーが火をつけたんだと思う?」今度聞いたのはルイスだった。
「ええ」ツィマーマン夫人はうなずいた。「前はちがうと思ってましたけどね。今ではそうだと思いますよ。こんな小さな証拠をつなぎあわせるのは難しいけれど、ウォルターはエリパズの気を失わせて家に火をつけたんでしょうね。エリパズが気がついたときには、家は炎に包まれていた。自分自身も」
「どうしてウォルターはエリ……なんとかを、殺したかったの?」ローズ・リタは聞いた。
「エリパズが仕返ししないように。きっとウォルターはエリパズが魔法の儀式を行なっているところを偶然見てしまったんでしょうね。火事の日はなんの日だか覚えてる? 一八五九年四月三十日。四月三十日がどんな日だか覚えているひとはいる? あなたはだまってて、ジョナサン。あなたが知っていることはわかっているから」
ルイスはちょっと考えて言った。「そうだ! 霊がくるちょっと前に見た新聞の日付だ。それに一八五九年っていうのは、コインの発行年だ」
「それで、わたしは自分の仮説が正しいってますます確信したんですよ」ツィマーマン夫人はにやりと笑った。「ほら、四月三十日っていうのはヴァルプルギスの夜祭の日でしょう? ハロウィーンみたいなもので、その夜は道楽半分に黒魔術に手を出している者にとって貴重な夜なんですよ。エリパズは妖術に手を出していたんです。すくなくとも、あのあたりの農夫たちはみんなそう思っていたんですよ。わたしのおじいさんもそう思っていた一人だし」そこまで言うとツィマーマン夫人はだまって、グラスのなかを見つめた。「わかる?」ツィマーマン夫人はゆっくりと言った。「そのころ農場で暮らすっていうのは、おそろしくて寂しいことだったにちがいないんですよ。テレビもない、ラジオもない、町へ映画を見にいくための車もない。そもそも映画自体がなかったんですから。農夫たちは冬ごもりしていたようなもんですよ。聖書を読んでいた者もいれば、べつの本を読んでいた者もいた……」
「ツィマーマン夫人も、おなじようなべつの本を読んでるじゃない?」ローズ・リタはおびえたようにささやいた。
ツィマーマン夫人はローズ・リタに怒った顔を向けた。「ええ、そのとおりですよ。でもわたしがそういう本を読んでいるのは、なにかおそろしいことがおこったときどうすればいいか知っておくためです。あなたもその目で見たように、そうしたおそろしい本のことを知っているだけじゃだめなときもありますけどね。特に、相手が強いときは」
「話がずれてきてるよ、フローレンス」ジョナサンが口をはさんだ。「つまり、エリパズじいさんは魔法使いだったわけだ。ウォルターが突然入ってきたとき、じいさんは例の魔法のお守りを作っていたというわけかい?」
「ええ。ウォルターはきっと一日の重労働のあとで、かみタバコをかむかウィスキーを一杯ひっかけて入ってきたんでしょうね。そうしたらそこで、エリパズが小さな銀貨に怪しげな魔術をかけていたってわけですよ。例の三セントコインにね。そう、だれもが自分の問題をすべて解決してくれるような魔法の道具がほしいって夢を見てますよ。その場にいたのは二人だけ、そしておそらくウォルターのほうがはるかに強かった。ウォルターはエリパズの頭を殴って、家に火をつけて逃げた。お守りを持ってね。それから、きっとニュー・ゼベダイをうろうろしているのはまずいと思ったんでしょう。ウォルターは軍に入ったんですよ。そして南北戦争が起こり、バーナヴェルトのおじいさんと出会った。あとは知っているでしょう」
ルイスは合点がいかないようだった。「どうしてエリなんとかじいさんの霊はぼくをねらったの? ぼくがお守りを盗んだと思ったのかな?」
「そうじゃないわ」ツィマーマン夫人は言った。「お守りには、深いところから霊を呼びだす力があるはずなのよ。エリパズ・モスの命令に従う霊をね。邪悪な霊に手を出すときは、注意しなくちゃいけないんですよ。わたしが思うに、エリパズはコインに魔法をかけおわるまえにじゃまされた。そのせいで、なにかがねじれてしまった。ケーキを作っているときに間違った材料をいれてしまったようにね。そしてエリパズの霊が――幽霊でも魂でもなんでもいいけれど――ルイスがわたしの本の呪文を唱えたとき呼びだされた」
ルイスは身震いした。「ぼくがやつを呼びだしたってこと? 灰のにおいがする幽霊を?」
ツィマーマン夫人はうなずいた。「まさにね。あなたが唱えた呪文はわたしたち本職の魔法使いが目覚めと所有の呪文と呼んでいるものなの。第一に、あなたは眠っていた霊を、お守りにとりついていた霊を呼びさました。つまりエリパズの霊ね。お守りは呪文が唱えられるまではなにもできなかった。ウォルターがお守りをどうにも使えなかったのは、そのせいよ。だからこそ、たとえいやいやでも、ポーカーの賭けに出す気になったんでしょう。バーナヴェルトのおじいさんが四十年間もコインを銅まきに入れていてもなんの影響も受けなかったのも、おなじよ」
「でも、ちょっと待って」ローズ・リタが言った。「わたしはルイスが霊を起こしたあとコインを持ってたわ。なのになんでわたしにはなにも起こらなかったの?」
「最後まで話させてくれれば、教えてあげますよ」ツィマーマン夫人は辛抱強く言った。「わたしは、呪文は目覚めと所有の呪文だって言ったんですよ。ルイスはお守りの霊を呼びさましただけじゃなくて、自分のものにしたんです。自分だけのね。ほかの人はだれもお守りを使うことはできなくなった。もちろん力づくでルイスからお守りをとることはできる。じっさいそうだったようにね。でも、使うことはできない。永遠にルイスのものだから。お守りが滅ぼされるまではね。あなたが意識してたかどうかは知りませんけどね、ローズ・リタ、あなたはお守りを井戸に落としたときに、お守りにかけられていた魔法の力をすべて失わせたんですよ。水には浄化の作用がある。再生の力がね。水は呪いをすべて洗いながした。流れている水が一番力が強いけれど、古くから溜まっていたよい井戸水も効き目はあるんですよ。だから暗い影は消えたんです。そして魔法は終わった」
「でもぼくはまだ、どうしてなんとかじいさんの霊がぼくをねらったのかわからない」ルイスは言った。
ツィマーマン夫人はため息をついた。「そう、それも想像するしかないわ。エリパズは魔力のあるお守りを作ろうとしていた。霊を――たいていは邪悪なものだけど――呼びだすのに使うお守りをね。霊はお守りの持ち主にすばらしい力を授けることができる。サイモン・マグヌスも魔法のお守りを持っていた。マグナスは空を飛んだり、姿を消すことができたと言われているわ」
「けんかに勝つことも?」ルイスはかぼそい声で聞いた。
ツィマーマン夫人はくすくす笑った。「ええ、できますよ。エリパズの霊がウッディとのけんかであなたを勝たせてくれたんです。エリパズは自分の作ったお守りの霊としてずっと閉じ込められていた。びんに入った魔神のようにね。わかるでしょう? そう、だからエリパズは決まりに従った。あなたが彼を呼びだし、エリパズはあなたに力を授けた。けれども徐々に、エリパズの霊はこの世で形を持てるようになってきた。最初は自分がくることを知らせることしかできなかった。はがきやらなんやらでね。でもとうとう、形を得た。あなたが街灯の下や、マソニックテンプルのアーチの陰で見たものよ。そう、ルイス。もしあなたが魔法使いだったら、なんの問題もなかった。霊を手なづけることができたでしょうからね。エリパズを命令に従わせることができた。でもあなたはただの男の子で、自分がやっていることもわかっていなかった。だからエリパズは立場を逆転させようと考えた。あなたを自分の、自分の住みかにつれていこうとしたのよ」ツィマーマン夫人はぶるっと震えて、しゃべるのをやめた。そしてじっと炎を見つめた。井戸とその底にあるもののことを考えていたのだ。
みんな静まりかえってすわっていた。一瞬、クリスマスパーティはひどく陰気なものになってしまいそうに思えた。そのとき、ジョナサンが大きく咳払いをして、今日がルイスにとってのクリスマスなら、みんなにとっても今日がクリスマスた、と宣言した。
「ってことは、みんなプレゼントを開けられるってこと?」ローズ・リタが興奮して聞いた。
ジョナサンはうなずいた。「まさにそういうことさ。さあ、はじめよう!」
まもなく書斎の床は色とりどりの包みの海と化した。ツィマーマン夫人は、エリパズ・モスとの戦いで折れてしまったかさのかわりに新しいかさを手に入れた。新しいかさには魔法はかかっていなかったけれど、さっそく呪文をかけることにしますよ、とツィマーマン夫人は言った。ジョナサンはいつものタバコを七、八ポンドと、龍の形に彫られたミアシャムのパイプをもらった。龍の鼻と口から煙が出るようになっていた。ローズ・リタはソフトボールのミットとデトロイト・タイガースのホームゲームのシーズンチケットだった。ジョナサンとツィマーマン夫人は二人とも野球が大好きで、タイガースファンのジョナサンとホワイトソックスファンのツィマーマン夫人はいつもけんかしていた。来年のシーズンに、今この部屋にいる四人で何度観にいけるだろうと思うだけで、ジョナサンはうれしさのあまり顔がほころんだ。ローズ・リタがみんなを連れていくのだ。チケットの持ち主なんだから。
パーティは何時間も続いたが、しまいにはみんな疲れて目を開けているのもやっとになった。ローズ・リタとツィマーマン夫人は自分の家に帰り、あとの二人は体を引きずるようにして寝にいった。
それから何日かたったある日、ルイスは玄関ホールできつくなったながぐつをむりやりひっぱってはこうとしていた。すると突然郵便受けがカタンと鳴って、つるつるした白い封筒が玄関マットのうえに落ちた。最初、ルイスはぎょっとした。それから少し落ちつくと、そろそろとドアのほうへいって、封筒を拾いあげた。ルイスは笑いだした。それはチャールズ・アトラスのパンフレットだった。