イマージュ
ジャン・ド・ベルグ/行方未知(訳)
目 次
序 辞
[#地付き]ポリーヌ・レアージュ
第一章 X***家の夜会
第二章 バガテル庭園の薔薇
第三章 お茶とその結果
第四章 偽りの行動
第五章 写 真
第六章 贖罪の供犠
第七章 試 着
第八章 浴室にて
第九章 ゴシック様式の部屋
第十章 すべては秩序に復す
解 説
[#地付き]訳 者
[#改ページ]
序 辞  ポリーヌ・レアージュ
本書の作者であるジャン・ド・ベルグとはいったい誰なのだろうか? この謎解《なぞと》きに興じるのは、どうやら今度はわたしの番のようであるが(解説参照)、たしかにひとりの男性の名前で発表されていながら、はたして額面どおりこの小さな書物が男性によって書かれたかどうか、わたしにはいちばん信憑性《しんぴようせい》 がうすいように思われます。なぜなら、女性の立場に加担しすぎるきらいが作者にあるから。
しかしといって、この物語に見られるように、自分の恋人へ鎖や鞭《むち》による歓楽、あるいは屈辱や責苦……といったもろもろの秘儀を授けるのは、いつの場合もほかならぬ男性であることにまちがいはありません。男性というものはそうした所業の何たるかをいっこうに理解はしていないけれども。
つまり男性という、いってみれば愚直な精神は、自らの傲岸《ごうがん》さを満足させ、力への渇仰を癒《いや》し、なにがしか父祖伝来の優越性という権利を行使しようとついつい思い込みがちなのです。加えて、こうした誤った考えをさらに増長させるかのように、わたしも含めた知識人女性は男性へ向けて性急な異議を申し立て、女性は自由であり、男性と平等である、これ以上隷属されるままでありたくない……などと断言する。
問題の要件はまさしくここにあります!
たとえば恋する男というものは、その身にいかほどか精細さを纏《まと》うと、いちはやく自らの犯している誤りに気づくはずです。たしかに彼が主人であることにまちがいはない、しかしそれはあくまでも彼の同伴者たる女性がそう望む限りにおいてという条件つきの事実でしかありません! これまでに主人と奴隷の関係はけっして弁証法におけるそれぞれの立場の交換をあからさまにみせたことはないし、生贄《いけにえ》と拷問執行人との間に共犯関係が必要とされたためしなど一度もなかった。そう、鎖の縛につき、跪《ひざまず》き、哀願する当の女性がつまるところは命令を与えているのです。
それに女性たる者は、その辺の事情を十分に心得ている。女性の支配力というものは、表向きの力の失墜と函数《かんすう》関係をなして増大する。ただの一瞥《いちべつ》を投げかけさえすればよい、それによって一切を中断させることができるし、ただの一撃ですべてを粉みじんに粉砕させることもできるのです。
こうしたありようを男性と女性の両者が明確に納得《なつとく》し合うといういわば代価を支払い、相互理解が成立してはじめて、男と女のゲームは続行できる。けれど、そのゲームにはすでに意味の変化が生じる。つまり、犠牲を捧げる司祭の足下にはいつくばった全能の女奴隷が、神そのものに転身してしまうわけです。男性はもはや罪過を犯すことに震え戦《おのの》く脆弱《ぜいじやく》な司祭でしかない。その手は聖体の四囲をうろうろと経巡り、ただ儀式を遂行するのに役立つだけのもの、いったん恩寵《おんちよう》に見放されてしまえば、男性は完膚なきまでに崩壊してしまいます。
こうして、この物語に見出されることども、たとえば宗教の秘事を想わせながらじっと静止した女の姿態、その祭儀、その祭壇上の装飾、さまざまなオブジェに対するフェティシズムといったことの説明が成り立ちます。ながながと描出される写真の映像は、敬虔《けいけん》な似姿《イマージユ》、キリストが新たに十字架を背負って受難の道をたどるその時々の段階を表わす以外のなにものでもないでしょう。
ところですべての恋物語の例にもれず、この物語もふたりの人物の葛藤《かつとう》である。ただ初めは、ふたりのかたわれが身を献げる女性と刑を執行する女性とに二分されている。そこにわたしたち奇態な女性特有の、別の分身に身をまかせながらそうした当の自分はいっこう意識しないというふたつの相貌《そうぼう》がうかがえるのではないでしょうか?
そう、たしかに男性は愚直で、よしんば自分がなにものでもないとしても、そうした自分を崇《あが》めるように望む。いっぽう女性は男性と似かよってはいるが、ひたすら、四裂の刑に処せられた自らの肉体、愛撫《あいぶ》されるかと思えば打《ちよう》 擲《ちやく》され、ありとある恥辱に開かれながら、絶対的に自分のものでありつづける肉体だけを崇拝する。そして男性はこのような愛の所業において融通のきかない存在にとどまる。いわば、女性という自分の神と合体することをいたずらに希求する忠実な信者なのです。
逆にひとしなみ信者でありながら、また男性の不安な眼差《まなざ》しを集める(自らの上に)女性は、みつめられ、冒涜《ぼうとく》され、絶えず生贄に捧げられ、同時に限りなく蘇生する聖体であり、その一切の享楽は鏡の精緻な作用によって自身の 姿《イマージユ》 を熟視することにあるというわけです。
[#地付き]P・R
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第一章 X***家の夜会
その夏にしては初めて、わたしがクレールと再会したのは、モンパルナス通りのX***家で催された、気心の知れ合った者同士のさる夜会の席でのことだった。彼女の姿を一瞥《いちべつ》して何よりも驚いたのは、その容姿に時のうつろいがいささかの跡もとどめていなかったことである。事実はたしか二年か三年、あるいはそれ以上会っていないはずなのに、まるで昨夜別れでもしたように思えたほどである。
彼女はわたしを見かけてもいっこうに驚いた様子はなく、手をさしのべると、前夜別れの挨拶《あいさつ》を交わしたばかりのふたりといった素気ない調子で、ただ「今晩は」と口にしただけだった。わたしのほうもつられて同じ調子で、あるいはたぶんそれに近い素気ない調子で「今晩は、クレール」と答えていた。
ひきつづき他の連中にも顔を合わせ、握手を交わしたのであるが、ほとんど毎週といっていいくらいにあちらこちらで会うことになっている彼らのほとんどが、たいていは作家や芸術の愛好家連中であった。彼らの多勢とだから作家であるわたしは共通の関心を持ち、進行中の様々な企てを分かち合っていて、そんなことであちこちしながら小さくかたまったグループと往き当りばったり話しこみ、かなりの時間が過ぎ去っていった。
夜会にはおよそ三十人近い人が集まり、大通りに面した三つの続き部屋に分散して屯《たむろ》していた。六月かさもなくば五月も終りの頃《ころ》だったろうか、フランス窓のひとつが大きく開け放たれていたのをわたしは憶えている。
再度クレールを眼にした時、彼女はその開け放たれた窓の外のバルコニーに出ていて、欄干《らんかん》の手摺《てすり》に背をもたせ掛けながらひとり佇《たたず》んでいた。そうして部屋の内部へ視線を注《そそ》いでいたのだが、わたしのほうを見ているわけではなかった。あれほど注意深げに何をみつめているのか、それを確かめるためにわたしは彼女の視線を追って顔を巡らせてみた。窓の脇の壁の窪《くぼ》みからほど遠からぬ位置に、三人とも立ったままで話し込んでいる一組がいた。うちのふたりはまだ三十歳には手のとどかないわたしの見知らぬ青年で、あとのひとりは純白のローブを身に纏《まと》ったまだ歳《とし》若い人妻か、そうでなければ若い娘であったが、もちろんわたしには面識がない。再び視線をバルコニーに返してみると、計らずも今度は平然とわたしに注がれているクレールの眼差《まなざ》しに出合った。と、彼女はわたしに向けて微笑《ほほえ》みかけてきた、それは何か奇妙なと形容したがいいような微笑であったが、あるいはもしかして彼女の顔に落ちている半影のせいでそういった印象を与えられただけだったのかもしれない。
クレールは腕を身体の両側に開き、欄干の最上部の手摺を両手でいっぱいにつかみ、欄干に腰を押し当て支えるようにしてそこにいた。
きわめて美しい女だった。彼女が非常な美人であることは誰もが認めて口にしている。だが、その夜わたしは、それが嘘《うそ》でないと今さらのように思ったのである。
彼女のいるバルコニーに面した、窓の脇の壁の窪みまでわたしは足を運んだ、けれどバルコニーまでは踏み出さなかった。クレールもまた動こうとはしなかった。彼女の輪郭をくっきりと浮き上らせたその黒い影越しに、生暖かい夜、煌々《こうこう》と光り輝く飾窓の前を通って、ぶらぶら大通りを歩いて過ぎ行く人々に目をやった。その光景についてわたしは大して意味のない言葉を口にした。クレールも何か同意の返事をしたが、はっきりと聴きわけられたわけではない。
わたしは彼女の顔をもう一度うかがい見た、とその眼がさいぜんと同じ方向、今度はわたしの背後に改めてじっと凝《こ》らされていた。彼女の眼差しを注いでいるのがさきほどの三人組かどうか確かめるために、あえて顔を回して見るということはしなかった。しかし、たしかにそうにちがいない、クレールの相貌《そうぼう》にさっき見て取った時のと正確に同じ表情が浮んでいたからである。それはいわば何の感情をも示さない、表情などと言えたものではなかった。
わたしはバルコニーに数歩足を踏み入れた。バルコニーはその建物の周囲を取り巻いている。そうして、開けられた窓の隣の、閉ざされている窓のところまで来ると、チュールの窓掛の切れ込みから、ガラスを通して部屋の内部に無意識の一瞥を投げた。
そこにはちょうどこの家の女主人がいあわせた。何かわたしに話しかけたが、その声は聴き取れず、また唇《くちびる》の動きから何か判断して察することもできず、口にしている言葉の意味はわからなかった。X***夫人は開閉用の落錠を外すと、フランス窓の両開きの一方の扉を半ばほどあけ、今言った言葉を繰り返そうとした。わたしは扉を開き切るのを妨げているチュールの窓掛に邪魔されながら、ともあれ隙間《すきま》を抜けてちょっと言葉を交わすために内側へ滑《すべ》り込んだ。夫人は揶揄《やゆ》気味に、わたしがそんな場所に隠れひそんでいたのかどうかと問い糺《ただ》しただけであった。
その時他に話す話題とてないまま、さきほどの白いローブを身に纏《まと》った若い娘について、眼で指し示しながら話の接穂《つぎほ》にきいてみた。しかし、女主人は彼女について詳しくは知らず、そうでなければ何も語りたがらないふうだった。彼女がクレールの女友達で、その夜クレールに連れられてやって来たこと、女主人も彼女から二語三語《ふたことみこと》しか言葉を引き出せなかったこと、たったそれだけの返事であった。
なるほどくだんの若い娘は自分に話しかけるふたりの青年にもほとんど受け答えしている様子はない。その上、顔を面と向けることも避けていて、四六時中うつむいたまま、視線を床にはわせている。
それでもなお彼女は、見る限り美しい姿態に魅力を滲ませ、きれいな顔だちを見せていた。さらに実際のところを言えば、蠱惑《こわく》的でさえあった。みかけの上のきわだった若さにもかかわらず、彼女のどの部分からも、≪肉体≫の魅力が放散されていて、それは≪若い娘≫という曖昧《あいまい》な言い方よりも、ひとりの歳若い人妻というふうに言いかえたほうがよりふさわしいほどである。けれどまた、軽やかで飾りっけのない真っ白のローブに身体をくるんだ姿は、ひとりの幼い少女にも見えたのである。
X***夫人は夜会の女主人役としての心遣いにいそがしく、わたしの許から去って行った。遠くから眼瞼《まぶた》をずっと伏せたままの例の若い娘を観察し続けていると、ふとわたしはさきほどの、娘に凝らされたクレールの視線を再びまのあたりに感じたように思った。クレールの姿はわたしが今いる位置からだと見ることができない。できないけれど、まだバルコニーにいて、身体のそれぞれの側に両腕を伸ばし、両の手で金属の手摺棒をつかみ、背後で欄干にもたれ掛かっているにちがいない、そうすぐに確信が持てたのである。その表情は、まるで自分が完成させた、だからけっして驚きなど自分にもたらすことのない映画の筋の運びをずっと見守り続けてでもいるような、固執しながら同時にまた虚《うつ》ろでもある表情だったのだ。
前にも言ったように、クレールは非常に美しい女であった、たしかに純白のローブを身に着けた彼女の歳若い女友達よりもその点では数等上である。しかしその女友達とちがって、クレールの場合は官能的な興奮を掻き立てるということがない。このことは最初のうちはわたしを驚かせた、けれど彼女の余りにも偉大な美しさ、もっと正確に言えばその極度に完成されたみごとさが、彼女を征服して手に入れうる餌食《えじき》として考えることを妨げていると思うと、それで納得はできたのである。仮にたまさかの征服者になりたい熱っぽい欲望を自分に感じるためには、少なくとも破りうるだけの、たとえささいな点でも防禦不備な部分が必要であることは言うをまたない。
さてわたしは先刻と同じようにして、しかし今度はいささか含むところがあって、開け放たれたフランス窓のほうへ近づいて行った。そしてバルコニーの側に顔を巡らせてみた。だが、そこにはもうクレールの姿はなかった。
さらに数歩バルコニーのほうへ踏み出し、右左と見回した。バルコニーのずっと端まで人影は見当らなかった。そんな挙動がひょっとしてひとの不審を買うことを恐れたわたしは、新鮮な空気に接したいような振りをし、欄干に肱《ひじ》をついて、温かい夜の大通り、煌々《こうこう》と明るい飾窓の前をぶらぶらと往き来する人々にぼんやりと眼を投げやった。
それからしばらく後、一団の連中がごく最近の文学作品の欺瞞《ぎまん》について熱っぽい侃諤《かんがく》の論議を展開しているさ中、わたしは大きな長椅子《ながいす》の傍に腰を降ろしていたのだが、例の白いローブを纏った若い女をさきほどよりはもっとしげしげと観察できる好機に恵まれていた。
視線を彼女の姿に、その顔立や身体の線に注げば注ぐだけ、彼女はしとやかで、優美さと慎み深さに溢《あふ》れていることがわかり、その身のこなしは、たとえばちょっとしたぎごちなさのせいでさらにいっそう魅力を増す内気なバレーの踊り子といったふうに見える。さきほどから彼女は夜会の茶菓を盛った盆を手にして、自分の分を取るよりも彼女を細目にわたって品定めするのに気もそぞろな一群の男たちへ饗応《きようおう》していた。身につけたローブはたっぷりと裾《すそ》があり、胴回りをぴっちりと締めつけ、襞《ギヤザー》を取った襟許《えりもと》が、円味《まるみ》を帯びた、心なしか黄金に光り輝くその両肩を露《あら》わにしている。
「ところでジャン・ド・ベルグ、君は仲間に加わりたくはないのかな?」
わたしをその場の会話に惹《ひ》き戻したのは、ほかならぬ夜会の主人X***だった。そのほうへ顔を向けようとして上半身を回す時、唐突にクレールの姿が眼に飛び込んだ、静かに視線を凝らして、わたしをみつめていたのである。部屋の奥まった壁に背中を寄せ掛け、皆からぽつんと離れ、誰も坐っていない肱掛け椅子の脇で、ただひとり煙草《たばこ》を燻《くゆ》らせていた。一瞬わたしは、最初の時と同じ奇妙な微笑に似たものを彼女から受け取ったのだった。
その夜も遅く、夜会のもてなしを受けた主人と女主人の許を辞そうとしていた時のこと、何か心に決めた様子でクレールがわたしのほうへつかつかと歩み寄るのが眼に入った。
「わたしも行くわ」彼女はそう言った、「さしつかえなければ、こんな退屈な夜会の気晴らしに、カフェで何かご一緒するわ」
その言い方には、何やらずっと以前からわたしが懇願し続けてきた恩恵を許し与えるというふうがあった。それに対してわたしは、はたしてクレールの例の若い女友達が一緒に同行するのかどうか糺《ただ》す術《すべ》のないまま、すぐには答を返せずにいた。だが、クレールは自分のほうからすかさず言いたした。
「アンヌとお近づきになれてよ。いずれわかると思うけど、気立のいい娘《こ》なの」
その≪気立のいい≫という言葉を、ちょっと普通とは思えない言い方で彼女は強調したのである。わたしは穿鑿《せんさく》するように眉《まゆ》を釣り上げて、クレールの顔をまじまじとみつめた。
「アンヌだって?」
「そう、あすこにいるかわいい子よ」彼女は、わたしたちからほんの数歩の近くにいて、ぽつねんと椅子に腰を掛け、ぼんやりと太腿《ふともも》の上に拱《こまね》いた自分の手を眺《なが》めているくだんの若い娘を、不躾《ぶしつけ》に人差指で指し示した。
月並といえばもっとも月並なこういう際の会話の調子で、わたしはたずねてみた。
「それで、彼女は何者なの?」
「かわいいモデルさんよ」と、いささかへりくだりでもしたような答が返ってきた。(前にわたしは、クレールが一応は写真家であることを言わなかっただろうか?)
「それで?」
「それで、あの娘はわたしのものなの」クレールはさりげなく言ってのけた。
それからわたしたちが腰を落ちつけたバーの奥まった一隅には、わたしたち三人のほか誰も居合わせなかった。すぐとクレールは、わたしに何がいいか聞くでもなく、まして若いアンヌの希望をたずねるでもなく、皆にミネラル・ウォターを注文した。ボーイがおりかえし運んで来た。わたしがテーブルの上に出しておいたアメリカの巻煙草の箱から一本抜くと、じきにクレールは自分で火をつけた。そうしておいて、今度は自分の女友達に眼をやり、さらにその方へ身を傾けながら、髪の一房、金髪の、金色に映える繊細な髪の一房をきれいに整えてやった。
「この娘《こ》、きれいじゃないこと?」
何か挑発するような声でクレールはそうきいた。「そう、とっても」とわたしは答えたが、それには儀礼程度のニュアンスしかこめなかった。
「そうよ、すごくきれいだわ」クレールは繰り返して言った。「いずれおわかりだろうけれど、これ以上にもっときれいなの」
わたしはその歳若い娘をみつめた。ミネラル・ウォターの入ったグラスに視線を伏せて、彼女は身動きひとつしない、グラスには小さな泡が内側から表面へまだ規則正しく昇っていた。
「よろしかったら、この娘《こ》に触ってもかまわないのよ」クレールが言った。
わたしはその方へ視線を滑らせた。彼女がちょっとばかり酔っているのではないかと訝《いぶか》ったからである。だが、彼女は素面《しらふ》のいつもの状態で、わたしがずっと以前から承知していたように、単に世をすねただけのふだんの様子をしていた。
「いずれわかるわ、それがどんなにすばらしいかってことが」
この≪いずれわかる≫という未来時制の意味を改めてわたしは自分に問うてみた。その上でもう一度、少女の円味を帯び、身に着けた白い布地に比べれば滑《なめ》らかで褐色《かつしよく》いろをした肩に眼をやった。わたしの右手は長い腰掛けの背に置かれている。ほんの少しばかり身体を前にずらし、指の先で黄金色をした膚にちょっと触れさえすればそれでよかったのだ。
若い女は軽く身震いしたようだった、それに一瞬|眼瞼《まぶた》をこちらへもたげもした。
「とてもすてきだ」アンヌのほうを向いたまま、わたしはクレールに同意の言葉をつぶやいた。
と、すぐに彼女は言葉をついだ。「それにこの娘は、ほら、きれいな眼をしてるの。さあ、おまえの眼がよく見えるようにこちらの方《かた》をごらん」若い娘はと同時にその顎《あご》をゆっくりと上げたが、拳《こぶし》は固く握り締めていた。
このかわいいアンヌは少しの間わたしを見ていた、そしてまた再び、顔を赤らめながら眼瞼を伏せた。本当のところ、上にそるように曲った長い睫毛《まつげ》をした、緑色の、大きく見開いた美しい眼だった。
クレールは今度はアンヌの顔にそっと触れながら、その顔についてまるで自分自身に語りかけでもするように小声でつぶやいていた。
「それに美しい口……甘くって……その上技巧に闌《た》けたきれいな唇……きれいな歯……。美しくってかわいいまっ白な歯……。ちょっとみせてごらん」
指でアンヌの口をおし開いた。
「そのままでいるのよ」と、クレールは言う。
その声の調子が急に前より乾いて響いた。
かわいいアンヌは、されるがまま、口を開き、よく光って歯ならびのいい歯の端をのぞかせ、慎み深く控えている。といって、彼女がその姿を向けていたのは、クレールの側であった。
開かれた唇が微かに震えていた。今にも泣きだすのではないかと思えたので、わたしは顔をそむけ、ミネラル・ウォターを口につけ飲み乾した。
「いつか」とクレールが言う、「わたしの撮《と》ったこの娘《こ》の写真をお見せするわ」
その時、その若い娘が抗《あらが》って異議を唱えるのを、あるいはともかく弱々しい呻《うめ》き声をたてるのを耳にしたように思う。それまでの彼女は、初めて紹介された時、ちょっとしたしとやかなお辞儀と一緒に口にした最初の、それもほとんど聞きとりにくい≪ムッシュー≫という言葉以来、一言も口を開かなかったのである。だからわたしは、彼女が≪ああ、それは≫とつぶやき、何かそういった拒否の類《たぐい》の言葉をつぶやいてしまったことで、今話に出た問題の写真がはたしてまっとうな写真なのかどうか疑わしく思えてきたのだった。
けれど突然クレールはすぐにこの場を出たい様子を示した。
そこで三人は立ち上ったのだが、その時もクレールはわたしに向って、まるでこのわたしが振《ふり》の客ででもあるかのように、「どう、この娘《こ》お気に召して?」と言った。その言葉と同時に、襟首をつかんでわたしのほうにアンヌを突き出したのである。それからまただしぬけに言いたした。
「ほら、この娘《こ》はブラジャーを着けてないのよ。こんなふうにして外出させるのがとても面白いの」
今度の場合もその歳若い娘はひどく顔を赤らめた。さらにクレールは、その女友達がふだん身に着ける他の下着を穿《は》いていないなどとあばきたてながら、もっとちがったやっかいな告白に駆られるのではないかと、わたしはてっきりそう思い込んでしまった。
だがそんな予想とはうらはらに、彼女は何も言い添えず、ただ当り障《さわ》りのないことどもについてしゃべっただけであった、少なくともその時の夜は。
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第二章 バガテル庭園の薔薇
クレールは、その翌日に、バガテル庭園で午後の時間を一緒に過す約束をしてくれた。わたしがまだよく知らないその薔薇園《ばらえん》を自分から見せることに執着しているふうであった。
とはいえそれがクレールとふたりだけなのか、あるいはくだんの歳若いクレールの女友達が加わるのか、聞かずともすでにわたしにはよくわかっていたのである。
ところで、以前わたしたちふたりがたまさかに出会わした時のこと、クレールは少なくも庭園を観せてわたしの歓心を買いたいとか、まして自分の撮影した写真を見せて驚かせたいとかいった自分の望みをあからさまに示すことは一度もなかった。偶然のなせるわざで折々席を同じくして何時間かを過すことになった例の会合以外の場所で、このわたしと逢うなど、その時まではけっして彼女のほうから努めて求めたりしたことはない。もちろんわたしにしても、ふたりの関係に今以上の熱っぽさを得たい魂胆《こんたん》があって当初からずっと相応の試みをしてきたわけではない。すでに、クレールの完膚なきまでに完璧な、余りに整然として、変質することのない美しさに対してわたしが感じとった、ひとを惹き入れる魅力の少なさについては前に触れておいた。加えるに、初めて会った当座のおどおどしたわたしの心遣いに少しでも何か鼓舞して奮い立たせるものが受け留められたことなど思い出そうにも思い出せないし、実際のところはその逆なのである。
さて、とこうしてカフェ・ロワイヤルのテーブルを並べた歩道でクレールを待つ間、わたしはそういったことどもを思い返したのであるが、彼女が一度なりとも誰か他のひとと一緒の時ふだんとちがったふうに振舞っているのを目にした事実は、ついに想い起せなかった。それほどに彼女は立居振舞いに拘束されるところがなく、自分自身に確信があり、向う見ずで、わざと顰蹙《ひんしゆく》を買うふうだった。けれどもまたそのために彼女は、自分に向けられた溜息《ためいき》をつくほどの優しい憧《あこが》れの思いやりに対しても時をおかず落胆の気持を味わわせたし、なおのこと、きわめて率直な申し出に対しても、そのことで自分は尊敬を集めることになるのに、ひとをがっかりさせもしたのである。
少なくとも一度だけわたしは、彼女がひとりの崇拝者を断罪する場に居合わせたことがある。その時たしかにわたしは、男を茫然《ぼうぜん》とさせてしまったほどの冷やかな彼女の仕打ちの中に、ある種の嫌悪感を見分けたように思う。この場の光景は当時いたく皆を打った、彼女に想いを寄せる当の男が、感受性やまして知性を欠いているわけではなく、しかも世の噂《うわさ》によると往々彼女の情人ということになっていた美青年であったからである。
椅子に掛けて待っていたわたしの目路に誰か近づく姿が映ったが、それは例のかわいいアンヌのほうだった。前夜と同じ白いローブを身に着けていた。他の客たちの邪魔にならないようにその間を通り抜けようと、両腕をさし上げ、腰を振るように、半ば身を回したり、踊り子のように優雅に身体をくねらせたりしながら、椅子やテーブルの間を縫って進んできた。やっとわたしの前にたどり着くと、ちょうどカトリック系の学校の小さな寄宿舎などで躾《しつ》けられているのに似た、膝を曲げ上体を下げる控え目なお辞儀をした。声もまた賢い女生徒のそれだった。
「あちらでございます、ムッシュー。あの方はお車でお待ちしております」
その公式ばった挨拶の仕方にわたしは一驚した、それも言葉の中にクレールの名前が現われなかったからではない、≪ムッシュー≫と言った中に籠《こ》められた大げさな恭々しさのせいである。
わたしは席を立って、アンヌの後ろに従った。クレールの車は、ランヌ通りの、少しばかり離れた場所に駐車してあった。そこまでたどりつく間、二、三たいして意味もない質問を若い娘にむけてみた、しかし返ってくる答は、まるで幼い少女のような、「はい、ムッシュー」「いいえ、ムッシュー」「存じません、ムッシュー」といった言葉だけだった。
車は黒塗りのキャンズ・シュヴォー、おろしたての新車だった。アンヌがドアを開けてくれた。すでに運転席に坐っていたクレールに挨拶の言葉を口にする。彼女は頭をちょっと動かして、それに応じただけだった。若い娘を先に乗り込ませ、それから前部座席のその横にわたしが坐り込んだ、ちょうど三人が座を占めるだけの余裕があったのである。
クレールはすぐさま車をスタートさせた。運転は落着いて正確だった。往来の交通はかなり混雑していたけれど、速度を上げて走らせ、またたく間に障害物のない幹線道路に達した。
すごく上天気の一日だった。ふたりの女は前方をみつめたまま、おし黙っている。アンヌは上半身を堅く伸ばし、両脚をぴったり締めつけ、絡《から》ませた手を膝がしらの上に預けていた。
わたしは座席に余り余裕がないまま、僅《わず》かばかり斜めに構えて脇のほうに身を寄せていた。そのために左の腕を横の若い娘の背後に伸ばし、座席の背の上に置いた。たまさかそのせいで手が軽くクレールの肩に触れてしまったのだが、彼女は本能的に身体を退くような動きを見せたのである。わたしは周章してすぐ自分の手を後ろに戻した。
それから、隣のアンヌの側へ身を回した時のこと、彼女のつけた香水の芳香が鼻をうった。それは彼女に面と向わない限り、ひとの注意を惹かないほどに、地味で控え目なものだった。とはいえ、わたしにとってはかなりに強く、また魅惑的で、ひどく麝香《じやこう》の匂《におい》がするように感じられ、いわば官能を掻き立てると言ったほうがよいほどのものであった。まだ歳若い娘に必ずしもふさわしい香気でないことだけは明らかだった。
特別に誰ということなく、今日は実に上乗の天気であることをわたしは口に出して言ってみた。それには誰も返事をしなかった。わたしたち三人は黙り込んだままずっと車上のひとになっていたのである。
このわたしといえども、その上おしゃべりをしたい気持はなかった。
三人は公園の入口で車を降りた。クレールが先に立ってわたしたちを薔薇園の方へと案内した。
その場にたどり着くとクレールは、わたしたちを花から花へ思いのままにぶらつかせるわけではなく、自分があらかじめ場所を承知していて、もっともみごとに成功したと評価している三、四の変種をわたしたちに観賞させたのだった。それらはどれもが同じ型をした花であった。たいそう大づくりな花ではあるけれど、まだ十分には開花していず、花弁が先の縁の部分を巻き込んでいて、互いに離れたまま浮き上り、花芯《かしん》は半ば閉じたままだった。
なかでもとりわけ美しい花――すべてわたしたちの案内人が言う意見に従ってのことだが――は、中心へとたどるに従って濃さを増してゆく柔らかな肉色をしており、その中心部には、半ば右左に開きそめた花弁が陰影をはらんだひとつの深い井戸のような穴を形作っていた。穴の内部はさらに生身に似た薔薇色を呈していた。
しばらくの間じっとみつめていたクレールが、ふと、周辺に素速《すばや》い一瞥を投げていた。庭園の離れたこの一隅にはわたしたち三人しか居なかった。二十メートルほど遠ざかった所に居る一番身近な散策の人たちも、ひときわめだつ薔薇の木の繁《しげ》みに気をとられて、わたしたちの方を見るということはない。
わたしが改めてふたりの同伴者に顔を巡らせた時、クレールはもう肉色をした例の薔薇の方へは眼をやっていず、自分の女友達に視線を投げかけていた。みつめられた娘は、いつもの癖で眼を伏せたまま、くだんの花から一メートルほどの位置、公園の小路の端に佇んで身じろぎひとつしない。その時このわたし自身は、ちょっと身を退いたかたちで、クレールのすぐ傍らに居た。そして視線を例の白いローブに身を包んだ若い娘から花の方へ、さらにまた若い娘へとめぐらせたのであった。
すぐ脇でクレールの声が聞えた。
「もっとお近づき」
一種命令調を帯びたその声の調子には穏やかなところがあったが、いやおうなしの、服従されることに慣れた響きがあった。にもかかわらず、声には変化が現われているように思えた。公園の中を通ってわたしたちを案内する時、あるいはいろんな薔薇のそれぞれ長所を取沙汰《とりざた》する時彼女が口にした声よりも、一段と低く、いっそう激しいところがあったのである。
かわいいアンヌは、自分が強要されている命令の説明をことさらにたずねはしなかった。かすかなためらいを見せた後、わたしたちの方へ、この場所よりもっと人波のする庭園の一角から部分的に彼女を遮断しているわたしたちの方へ、そっと眼差しを滑らせたのだった。
クレールが再び繰り返した。「お行き! 急いで!」
と、アンヌの小さな足が、花壇の柔らかい土の上に一歩踏み出した、狭い靴底と高い踵《かかと》は土の中にめり込んだ。その時までわたしは、こんなにも彼女の踝《くるぶし》が繊細優美であることに気づきもしなかったのだ。下肢もちらと見たところ、同じようにほっそりしたみごとさを見せていた。
「さあ今度は、そっと触るのよ」と、クレールが命じた。
アンヌは例の花の半ば開きかかった花芯へ右手を伸ばす。それからきわめて優しく、花弁のまだ半分は閉じてめくれ込んだ一等端のへりに指の先端を滑らせる、薔薇色をした柔らかなその肉に触れなんばかりにして。指の先は何度も何度も花芯の空洞になった部分の周辺をゆるやかにへめぐった。さらに花弁の上部をそろえた五本の指の先端でそっと押しわけたり、またもとに戻したりもした。
こんなふうにして、二度三度繰り返しながら穴の入口を押し拡げ、また閉じるがままにしていたと思うと、今度は一挙に中指をそこに指し込んでしまい、空洞の中に完全に挿入《そうにゆう》してしまった。そうしておいて再び指を実にゆるやかに抜くのであるが……それもすぐさま改めて中指をもっと奥深くに浸すためであった。
「あの娘《こ》、きれいな手をしてると思わない?」そうクレールはきいた。
それにはわたしも同意した。事実、色が白く、小さくて、軽やかな手、しとやかなしかも的確な動きを見せるきわめて美しい手だった。この時のクレールの話し振りには、もう昨夜遅く立ち寄ったカフェでの調子と同じ、残酷味の加わった、挑発するようなところがあった。ちょっとばかり人をばかにしたように口をとがらせて、まだ例の薔薇の内部を一心に愛撫し続けている若い娘をわたしに指し示したのである。
「ほら、あんなふうにするのが好きなのよ。ああしてると自分で興奮してくるの。よかったら確かめてもいいことよ。ちょっとしたことで、すっかりぬれてくるわ。そうなのね、かわいこちゃん?」
それに返事はなかった。
「もういいわ」と、クレールが言った、「その花を摘み取って、持っていらっしゃい」
アンヌは手を引っ込めた。だが、両腕を身体の脇にすくめたまま、すぐには身動きもしないでいる。
わたしは、三人がさきほど公園の中央の通りからはずれて通って来た小路の入り口に身体を向けてみた。こちらの方へやって来る気配の人も、わたしたちを気にかけている人も見当らない。クレールは前よりもっときびしい声で言葉をついだ。
「さあ、何をぐずぐずしてるの?」
「できません」若い娘がつぶやく、「禁じられているのに」
その言葉は、顫《ふる》えていたせいかほとんど聞き取れなかった。それを見てクレールは、自分の生徒の愚かさをわたしに証《あか》しでもするように、皮肉を帯びた微笑を投げてよこした。
「もちろん禁止されているわ……。花壇を歩くことだって……それに花に手を触れることもよ! 公園の入口にちゃんと書いてあったわね」
すこし声を落し、以前より優しく勇気づけるように、それでも彼女は言い添えた。
「わたしの好きなことは何でも禁じられてることよ、おまえはよく知っているわね」
アンヌは堅い茎の方へ手をさし伸べたが、すぐまたその動作を中断させた。
「どうしてよいかわかりませんわ」彼女は一息置いて言った、「それに棘《とげ》がいくつもあるし……」
「いいのよ、棘に指を刺されなさい」クレールはそう応じた。
若い娘は再びさきほどの花の堅い茎に手をさし伸べると、親指と人差指の間でつかみ、容赦なく手折《たお》った。と思うと、一跳びに後ろへ退き、二本の指に戦利品をつかみながら、まるで避難所へ駆け込みでもするように、クレールの側へ急いだ。
枝から切り離されたその薔薇はなおのこと美しく見えた。とりわけその形姿はそのためにいっそう完璧になったように思える。花弁の肉も、手に取りあるいはかんで傷つけたくなるほどに肌理《きめ》の細かい繊細さを持っていた。それにはクレールも潔く称賛の身振りを惜しまなかった。
「結構だわ。ごらんなさい、そんなにむつかしいことじゃない……。でもおまえは懲《こら》しめを受けることよ、ちょっとばかり尻込《しりご》みしすぎたわ」
若い娘は別に抗いもしなかった。顔を赤らめながら、服従に魅されて喜ぶような様子で、眼瞼《まぶた》を伏せていただけだった。
わたしは気になってきいてみた。「この娘《こ》に何をしようっていうの?」
「まだわからないわ……。でも安心してちょうだい、この娘《こ》はあなたの居るところで懲しめてあげるから」
アンヌは拒むように頭を振り、両眼に恐怖を溢れさせながら、明らかに慈悲を後生と哀願したい様子で顔を上げたのだった。しかしその表現が唐突に変って別ものになると、小さくつぶやいた。
「誰か来ますわ」
「いいわ、あちらへ行きましょう!」小路のもう一方の側を指し示してクレールが言った。
この歳若い娘の姿は、わたしたちの身体が手前にあってこちらに近づいて来る人の視線からは隠れへだてていたのであるが、すばやい動きでくるりと向きを変えた、そしてわたしたちふたり、クレールとわたしはその両脇に並んだ。
それから三人は横に肩を並べて、そ知らぬ足どりで散策を続けたのだった。ふたりの間にはさまれたアンヌは、乳房に押しつけるようにしてさきほどの薔薇を持っていた。わたしたちの前には人影はなかった、だからその盗品をめざとく見つけられる者とてなかった。
ついさっき摘み取られた薔薇の木の前を通り過ぎる時、クレールは横の若い女友達に向って口を開いた。
「ほら、おまえの足跡が見えるわね?」
事実、踵の高い女性の短靴の跡がふたつ、きわめて明瞭《めいりよう》に柔らかい土の上に印されていた。
三人は少しばかり歩調を速くして、さらに歩をついだ。
ほどなくわたしたちは、人影が全くと絶えた、かなり密集した青葉の、とある木立の中にたどり着いた。そこには花など見当らなかったので、物見高い連中から隠れるのには絶好の場所と思えたのである。
葉叢《はむれ》の密生した繁みを背にして、二脚の庭園用ベンチが据えられていた。鉄製だが坐り心地のよい型をしている。そのうちのひとつに腰を降ろすと、クレールはもう一方のベンチをわたしに指し示した。
「おかけなさい、ジャン」と、彼女はわたしに言ったのだった。一瞬わたしが戸惑いを見せていると、「このかわいい娘は立ったままでいなきゃならないの。それに自分の盗んだものを隠さねばならないわ」そう言い添えた。
それでわたしはクレールのそばのもうひとつの椅子に座を占めたのであるが、アンヌは、例の摘み取った花を両手で心臓の辺りに捧げ持ち、両の眼を伏せたまま、木洩《こも》れ陽《び》が斑点《はんてん》を落した白色のきれいなローブに身を包んで、背を伸ばし、端麗な姿をしてわたしたちの眼前に佇んでいた。
一方クレールとわたしのふたりは、その姿をかなり長い間熟視し続けていたのである。
ローブの腰から下の裾の裁ち方が、彼女の腰部とほっそりした胴回りをひきたたせていた。上部の、肩や背を露わにした、通常≪バトー≫と呼ばれるコルサージュの下には、ブラジャーを着けてないのがありありと見抜けた。あるいはそれはもしかしてわたしの単なる想像に過ぎなかったのかもしれない。クレールが再び口を開いた。
「その薔薇をどこかに隠さねばならないわね」
その薔薇の花を仮に若い娘の胸に飾れば較ぶるものとてない効果を放ったにちがいない。それをローブにピンで留め、庭園の外からそうして身を飾って来たと粧《よそお》い言い張ることもできたろう。といって、花を身に着けたままこの庭園に入り込むことが掲示で禁止されていないのであればのことであるけれど。そこでわたしは、左方の【このてがしわ】の密生した藪《やぶ》を指し示した。
「あの中に抛《ほう》り込みさえすれば十分だよ。誰も見つけ出せやしない」
「そうね、たしかに」とクレールはしばらく考え込む様子をして言った。「でも、こんな美しい花をなくすのは残念なことだわ。そうじゃないこと、かわいこちゃん?」
「はい……。いいえ……。わたしにはわかりませんわ」若い娘はそれしか返事をしなかった。
一時《いつとき》の間沈黙があって、それまで注意深げに自分の女友達を見やっていたクレールが言い放った。
「簡単なことだわ。おまえが自分に隠しさえすればいいのよ」
若い娘は、自分がポケットの付いた着物を着ているわけでもなく、ハンドバッグを持っているわけでもないので、ことの次第がのみこめない様子だった。それを見てクレールが明らさまに言う。
「ローブの裾の下よ」そして時を置かずに言い添えた。「さあ、すぐわかるわ、こちらへおいで!」
かわいいアンヌは近寄った。
「ローブを上へ持ち上げて」とクレールが命じる。
と同時にアンヌの手にした薔薇を取り上げた。アンヌは身体を屈《こご》めるとローブの裾の端をつかみ、クレールに見せるために、膝頭の高さまでそのへりを捲り上げた。それを見るとクレールは急に笑い出した。
「そうじゃないわ、かわいいおばかさん、裾を全部持ち上げなさいって言ってるのよ!」
アンヌはさっと耳のつけ根まで顔を赤らめると、その大きな緑色をした眼で実にすばやくわたしを盗み見た。
それから頭を左右に巡らせた。彼女にしてみれば、誰かが不意に姿を現わしたとしても、三人が行なっていることがわからないようにと、わたしたち互いの位置の安全性を確かめてみておかねばならなかったのだろう。そうしておいて、両手にローブの裾の端をつかむと、すっかり身を起して立ち、膝の上までその下肢を露わに剥《む》き出した、ふたつの膝頭はほとんど透けて見えるストッキングを通して円味を帯び、滑々《すべすべ》としていた。
「ぐずぐずするんじゃないの」と、クレールが口をはさむ。
まるで鞭の一打ちに駆り立てられでもしたように、若い娘は一気にその太腿をわたしたちの前に曝《さら》け出した。襞《ひだ》のついたたいそう大きな裾がそういった所作には全く適していたのである。その気になれば大した苦労もなくその裾を顔のところまでも捲り上げられただろう。露わになった太腿は、魅力に溢れた肉づきをして盛り上り、円く滑らかで、ぴたりと合わさっていた。ストッキングの折返しの部分は人目につかないほどの刺繍《ししゆう》で飾られていたが、さらにその上には、絹のような光沢をした、輝かしくもまた亜麻色《ブロンド》に映えて白い肌が、黒の繻子《サテン》のきっちりした靴下留めで真横に縛られていた。
「もっと高く!」クレールは我慢しかねて命令を下した。
かわいいアンヌが悲痛な愁訴の一瞥をなげかけてきた、その視線はこの時ばかりいつまでもわたしの眼だけに注がれていたのだった……。いまだかつて一度もこんなに美しい眼、恐怖と諦《あきら》めにみちた、深く陰鬱《いんうつ》な眼を彼女はしたことがない。
アンヌの口は半ばうっすらと開いたままだった。胸は速い息使いに波打っていた。胴回りのちょうど下あたり、束にして捲り上げたローブの布地を支え持った両の手は、それぞれ十分に肱を張って拡げられ、眼前の光景をいっそうたやすく見せようとしていた。
たしかに昨夜わたしが思ったように、彼女はパンティだけでなく、スリップさえも身に着けてはいない。纏っている下着類といえば、黒い縁飾りをしたレースの簡単なガーター・ベルトだけだった。非常に小さな黒っぽい襞飾りに縁どられたそのガーター・ベルトは優美なアーチ状の曲線を形どり、その下方にセックスの黄金色をした短い恥毛が見てとれた。恥骨そのものは心持ち盛り上り、十分に柔らか味を帯び、ふっくらとして、そう大きくはなかったが人を心地よく誘う態《てい》だった。
わたしは新たに若い娘の眼をぬすみまさぐってみたが、もうその時は閉ざされていた。さてそのあられもない姿は、自らの供犠《くぎ》を従順に待ち望むひとりのおとなしい生贄《いけにえ》に似ていたのである。
「ところで」と、クレールがわたしにきいた。「あなたどうお思いになって?」
わたしは、こういったことの一切が非常に意にかなった旨返答をした。とりわけ、ストッキングの最上部に刺繍されている、微小な薔薇の混じる細かな花模様をあしらった黒色の意匠が気にいっていた。
クレールはまだ例の花を持っていた左手をアンヌの巻き毛になった恥毛の方へもたげ、それから花弁のへりでそれに軽く触れたのだった。さてその上で、十センチほどの長さの、赤味がかって緑色をした華奢《きやしや》な茎をわたしに示した。
「おわかりね、この柄《え》の部分をガーター・ベルトと肌の間に、ここだわ、ちょっとばかり斜めにして、股《もも》のつけね近くに差し込むのよ。棘がいくつもあるので花を留めておくのに十分だわ」
「いや」と、わたしは応じた。「棘は肌を引き裂くのに十分かもしれないけれど、花のほうはアンヌが歩こうとすればすぐに落ちてしまうだろう」
「まあ、見ててちょうだい」そうクレールは言い返した。
短めの花の茎を彼女はすばやく点検した、切り取られたごく端近くにひとつの大きな棘が見えた。他の残りのものは、細くて脆《もろ》い点状のものでしかなかったが、それをクレールは指摘するかたわら、爪先《つまさき》で取り除いていった。
「わたしがどれほど思いやりがあるかわかるわね。おまえの肌を傷つけないように棘をとっているのよ」
しかし、急にわたしの方へ身体を向けると言った。「そうだわ、わたしすっかり忘れてた、この娘《こ》は懲しめを受けねばならなかったのよ、そうだったわ……」
彼女の声は、自分の女友達に直に語りかける段になると、前よりいっそう命令調になり、またいっそう優しさを帯びた。
「脚をお開き、それにけっして動くんじゃないのよ。痛い目をみせてあげるわね。もっと近くへおいで」
かわいそうなアンヌは命じられるがままに動いたが、その間ずっと小声で愁訴の言葉をつぶやき続けた。「やめて……やめて下さい……そんなことはしないで……おねがい……」
それでもクレールは薔薇の茎の端を花の部分を下にしてつかむと、例のひどく尖《とが》った棘を、アンヌの太腿の上部、恥骨の脇の内側あたり、いちばん柔らかな肉の部分に向けて差し向けた。眼前の生贄は小声で言い続ける、「よして……おねがい……しないで……」そのさなか、クレールは鋭く尖った棘の先端をちょっとばかり突き刺した。アンヌがかすかな呻き声をもらす、そしてもっと強い叫び声をたてまいとして下唇をかんだ。
クレールはそのままの状態で、アンヌの表情と今から拷問の責苦を受けようとしている柔らかな肉とを交互にうかがい見ながら、しばらくの間待つ様子をしていた、そうしておいてたった一息、薔薇の木の茎を強く押しつけたと思うと、肉の上を腿の下に向けて裂くように引いたのだった。脆く弱い肌が三ミリほど破れた。アンヌは咽喉《のど》の奥から迸《ほとばし》り出る苦痛の叫びを押しとどめもしない、そして苦痛に堪《たま》りかねて一歩後ずさりした。しかし、わたしたちを前にしてその場に同じ姿のままでとどまっていた、たしかに全身をわななかせ、セックスを露わにし、眼は円く見開き、口を半ばあけたままの姿ではあったが。再び後ろに身を引いて椅子に身体を投げ出したクレールは、わたしには憎悪かさもなくばもっとも愛のこめられた激情としか思えない眼差しで、自分の生贄を凝視し続けていたのである。
そのふたりの女は、ちょっとした身動きもせず、一言も口を開かないまま、かなりの長い時間面と向い合った状態でいた。しばらく時があって、ずっと最前から自分のローブをたくし上げていたアンヌが女主人の方へ一歩を踏み出し、つい今しがたと同じ位置に立ち帰ると、わが身を再び差し出した。
小粒の真珠に似た血の雫《しずく》が、美しくいきいきした赤い色をして、太腿の上部、裸の肉の上に膨《ふく》れ上っていた。顔立に穏やかさが戻り始めたクレールは、腰掛けを立たずに身体を前へ傾け、アンヌの両手にそれぞれ口づけをしたのである。
とこうして今度は指一本でアンヌの左鼠蹊部《ひだりそけいぶ》近く、ガーター・ベルトの端を持ち上げると、もう一方のあいた手で、その黒地の織目の下にさきほどの摘み取った茎を挿《さ》し入れ、花がほかならぬ紗《しや》の襞飾りすれすれに見えるようにと茎の部分を腰の方へ高くしたのだった。その位置にしっかり固定するのに、といってクレールはただ茎の棘を手前に突き出すようにしただけで、棘の曲った細く鋭い先端がレースの縁飾りの中に刺さってひっ掛かっていた。
さてその上でクレールは、こころもち離れたところから自分の仕業を矯《た》めつ眇《すが》めつ眺めるために上半身を再び後ろに退いた。まるで一幅の絵を目ききする鑑定人ふうに、両《りよう》眼瞼《まぶた》に皺《しわ》を寄せ目を細めながら頭を左右に振っていた。
「きれいだわ、あなたそう思わない?」口をとがらせて彼女はわたしにそうきいた。
レースの縁飾りをした下《ガーター》 着《・ベルト》がアーチ状の曲線を形どり、その中央部の下方左側に、肉の肌にじかに押しつけられるようにして固定された薔薇が、頭部を下のストッキングの側に下げ、黒地の織目の上と、同時に三角形をなした亜麻色《ブロンド》の和毛《にこげ》の上に溢れるようにはみ出していた。三角形をしたその和毛の上部の一角は、薔薇が大きく隠している。一枚の花弁のへりは同じように太腿の付け根に達していた。さらに下方の右側、ふさふさした毛がごく繊細な羽飾りをなして終る三角帯の下部の尖《さき》と靴下留めの黒い飾りの間に、血の一滴が真珠色をした肌の上を滑ってまさに滴り落ちなんとしていた。
事実みごとな出来上りで、といっておそらく超現実主義や浪漫派の伝統に対する優れた嗜好《しこう》があって、ちょっと象徴めいたものがごてごてする嫌いはあったが、その旨をわたしは返答した。
クレールは微笑した。表情は今はもう和《やわ》らいでいる。さらに何ほどか細部の仕上げを施す振りを装って、再び眼前の自分の作品へ身を乗り出した。けれど彼女の始めたことといえば、前に若い娘に命じて薔薇の花弁の端に軽く指を触れさせ、引続き花芯のさ中へ指一本を挿入させたように、今度は自ら薔薇を愛撫することであった。
かと思うと時を置かずすぐにやめてしまう。些細《ささい》な戯れでしかなかったのだろう。同じようにしてちょっとの間人差指の甲で、アンヌの短くふさふさした巻き毛を愛撫したりもした。
「残念だわ」と、クレールが言う、「カメラを持って来なかったなんて。カラーの美しい写真が撮れたのに」
彼女は前よりもいっそう身をかがめると、今度は、アンヌの肌を今にも流れ落ち、その果てストッキングに汚点をつけそうな赤い血の滴りを優しくなめたのだった。
と、【このてがしわ】の茂みの間にある道をこちらに近づく気配の声があった。クレールは顔を起し、今までにない情愛のこもった眼で自分の女友達を見やった。そうして、このふたりの若い女は長い間微笑を交わし合っていたのである。
実にすばらしい好天の一日だった。かわいいアンヌの黄金色した髪が太陽に光り輝いていた。クレールは、今まで一度なりと耳にしたことのない、充たされて落ちついた声で言った。
「ローブを下げていいことよ」
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第三章 お茶とその結果
さてわたしたち三人はお茶を飲むために四阿《あずまや》の方へ足を向けた。クレールは陽気そのもの、ふだんとはうって変って饒舌《じようぜつ》になり、まるで子供のようだった。アンヌ自身も、安心しきった快活な話し振りで言葉を交わしていた。こうした場合の姿を眼にしていると、とてもばかげた行ないをする女には見えもしなかった。
とはいえ、わたしたちの話のおもむくところは、たとえば園芸とか美術とか文学といったそう重きを置くこととてない話題でしかなかった。クレールが、昨夜わたしたちの招待された夜会の席で、わたしが議論するのを耳にはさんだ、当今のさる文学の欺瞞に触れ、詳細な最近の事実を説明してくれたりした。そのことでこのふたりの歳若い女はたいそう打ち興じたのである。
しかしながら少しずつ時がたつにつれ、そういった軽妙な快活さが次第に影をひそめてゆく。沈黙がその場に蔓延《はびこ》り領していった。クレールも、散策を始めた当初見せていた例の硬張った顔付きにすばやく立ち返る。動じることのない整った美を表わすその相貌は、遠い昔日の顔立ちに似て、流謫《るたく》の身にある女神の姿をどことなく想わせていた。わたしは、彼女の全注意が再びその若い連れの女、彼女の生徒であり、生贄であり、鏡であるその女に注がれひとり占めされているのに気づいた。連れの女のほうも、同時に、貪欲《どんよく》な渇望の対象として自ら控え目な物腰を取り戻していた。
ほどなくお茶の時間は終った。そして、アンヌが椅子に掛けて、ローブの乱れた襞を整えていた時のこと、クレールが急にこうたずねた。
「さっきの薔薇はまだちゃんと同じ場所にあるでしょうね?」
頭を下げてうなずきながら、若い娘は肯定の表示をする。
「おまえが腰を降ろして坐ると」さらにクレールは語を継いだ、「薔薇の花弁がおまえの太腿の間にできる窪みに落ちて、それで押し潰《つぶ》されやしないだろうね?」
アンヌはまた、そうなる旨の合図を返す。
「じゃ、おまえの両脚をもっと左右に開かねば。花が邪魔されずにそのまま吊り下るようにし、いためつけないようにね。……。よくって?」
上半身は微動だにせず、伏せた眼差しをじっと空になった茶碗に注いだ歳若い娘は、一言も抗いの言葉を口の端《は》に上《のぼ》せぬまま、言われた命令を忠実に実行し、また改めて腹部から膝の上辺り、乱れた裾の襞を整え始めた。クレールがさらに言葉を続ける。
「そうしてても花弁がおまえの太腿の間に感じ取れるわね?」
アンヌは肯定の意を表わした。
「どう、いい気持?」クレールはそうきいた。
今度は若い娘は顔を赤く染め始める。
「どうなの? 返事もできないの?」
「ええ……。いい気持ですわ」と、歳若い娘はクレールと同じ言葉を繰り返した。
しかし繰り返す言葉は、辛うじて聞き取れるつぶやきにしかならなかった。するとクレールは、今後もっとはっきり口をきかなければ、ここで皆の見ている前にアンヌの乳房を剥き出しにしてみせると威《おど》したのである。そうしておいて、身体をわたしの方に向けながらこう言った。
「とっても造作の無いことなのよ、おわかりね、この娘のローブの襞を取った襟刳《えりぐり》はゴム紐《ひも》で留められているだけだし……それに下には何も着けてないし……」
今口にした威嚇《いかく》の言葉を動作に移すようにして、クレールは自分の女友達の襟肩に手をやると、布地の端を数センチ下の方に引いた。そして、アンヌの円やかな肩、腋下《わきした》の肉づきのいい付け根の部分、それに一方の乳房の半ばをすっかり露わに曝け出してしまった。
けれどその先をさらに続けて、乳首がローブの端からこぼれ出るまでにはあえて到らない。それでもなおかつ、他よりずっと色の白い、より繊細でより秘めやかな、優しく円味を帯びたその部分、何やら新たに責苦を招き寄せる風情《ふぜい》を漂わせた乳房の一部が垣間《かいま》見られた。その少し上方には、襟元の最初に付けられた跡が、ローブの襞を取った襟刳《えりぐり》に不規則に刻まれた薔薇色の線をなして肉にくい込むように痕跡を留めていた。
「皆がこちらを見ているよ」その時わたしは口をはさんだ、「その辺でよしたがいい。残念なことだけど」
「わかったわ、じゃあここを出ましょう!」クレールは苛立《いらだ》ちのこもった返事を投げ返した。
わたしたちは三人とも一緒に席を立った。すでにもう胸の辺りの剥がれたローブを元に戻し終えていた若い娘が、とこうしてクレールの方に身体を寄せると、何か一言二言その耳許にささやいた。とささやかれた方は、こんなにも早くさきほどの仕返しの機会が訪れたことを明らかに喜ぶふうに、邪《よこしま》な悪意の漲《みなぎ》る微笑を浮べてアンヌの顔を穴のあくほどみつめ、さてそれから声高に叫ぶように浴びせかけた。
「駄目よ、今行ってはいけないわ。おまえを待ってなんかいたくないもの。さっき皆と同じほどにお茶を飲むことはなかったのよ」
かわいいアンヌはそのために項垂《うなだ》れたままわたしたちの後ろに付き従うほかなかった。わたしには、彼女が手洗いに行きたがったこと、それにその許しが得られなかったことなどが大して苦もなく理解できた。
とはいえ、結局のところクレールがどういうつもりなのか、まだ十分にはわからなかった。公園を横切りながら、そこここと、たとえば何がしかの花壇のたたずまいや巧妙に剪定《せんてい》された小さな灌木《かんぼく》の風情や図案化された小路の構図をわたしたちに観賞させ、自分は無頓着に案内役を買って出ていたのである。
とどのつまりわたしたち三人は、円形の花壇もそれを覆う丸天井も見当らない、ことのほか荒れ果てた様相を呈する公園のとある場所にたどり着いた。そこにはとりわけ巨大な喬木《きようぼく》の群れが枝を伸ばし、その枯れ葉が散りしいて、余り眼にしたことのない珍しい草、伸びるにまかせて十分に手入れされないある種の草を埋め隠していた。
ほとんど見捨ておかれた庭園のこの場所は、特にこの時間、西に傾いた太陽がさらに喬木の下蔭を際立たせる頃になると、誰の注意も惹かなくなる。わたしは、案内役のクレールが通常の散策をする定められた道から最も隔たった静かな場所を探していることをとうから見抜いていた。
事実、ほどなくしてクレールは足を止めた。それから数多《あまた》の下枝が拡がって幹の近くでは自由に通り抜けられるけれど、先のほうはほとんど草地すれすれにまで傾き下がっている枝を張った一本のぶなの木の下、葉々や小枝が積み重なった残骸《ざんがい》の、褐色を帯びた絨毯《じゆうたん》をわたしたちに指し示した。
「うってつけの場所だわ」と彼女が口に出して言った、「そうではなくって?」
彼女はアンヌとわたしのふたりをその樹の下に引き入れた。下蔭のぶなの木の片側には、かなりに密生した枝の群れで四囲を完全に囲まれ、他に遮《さえぎ》るものとてない十二分に広々とした空間があった。
「それもことと次第によってだがね」わたしはそう答えた。
「もちろんこのかわいい娘にとってよ。だってこの娘は手洗いを探していたのよ!」
アンヌは微かに抗いの色を示した。「いいえ、いいの……本当ですわ……行きたくなんかありません……」そして盛んにわたしたちを小路の方に連れ戻そうとしていた。
「だとすれば」と、クレールが受けた、「おまえは今しがたどうして嘘をついたの?……え?……おまえがちょっとした見世物をわたしたちに目論んだとばかり思い込んでいたのよ」
「ちがいますわ……本当なんです……思いちがいしてたんです……」
そう言う若い娘をクレールは命令して自分の前に来させると、拳で項垂れたその顎を起し、無理強いに眼差しが見て取れるようにする。
「さあ」と彼女は言葉を継ぐ、「そんなにもったいぶらないの、かわいいおばかさん。そんなことしても何にもならないの知ってるでしょうに」そう言っておいて、今度はいっそう冷酷沈着な、かといって否応《いやおう》の余地を許さない声で唐突に命令を下した。
「さあ今すぐにあれをするのよ、でなきぁ平手打ちが飛ぶわよ!」
とみるや娘は白いローブを身体の周囲に注意深く拡げながら、両膝をかがめ、クレールの眼の前にしゃがんだのである。一方のクレールは、消え入るほどの羞恥《しゆうち》に耳許までまっ赤に染ったアンヌの美しい顔に右手を差し伸べ、それを優しく愛撫する。別のしっかと伸ばした手は、その女友達の顔を自分の方へ強引にもたげさせていた。右手が愛撫し触れる場所は、頬の辺り、眼瞼の上、口の方へと延びていった。再びクレールは前にもまして優しい声の調子を取り戻すとこうつけ加える。
「跪《ひざまず》いてごらん。そのほうが見た眼には好いことよ」
娘はすぐと膝を屈して跪き、前になるローブの裾の襞を、その白い布地に両の手をかけて、自分の大腿部にぴったり張りつかぬよう引き戻した。背後には、ふたつの短靴の先端がローブの端からはみ出して見えた。
「さて」クレールはいささか嫌気《いやけ》のさしたような微笑を浮べながら言った、「このかわいい娘におしっこさせたものかしら?」
そう言いながら彼女は、指の先で喰いしばったアンヌの歯を押し開き、さらに口唇の辺りにうるさく触り始めた。
「両脚をよくお開き、もっと!」
アンヌはさらにいっそう左右に両膝を開いた。彼女の足は裾を拡げたローブの陰に完全に姿を消した。
「さあ、それで結構だわ、ちょっとだけ前に身体をかがめてごらん」
娘は上半身を傾け、頭をさげる。顔の周囲に落ちかかったブロンドの巻き毛の下で、クレールの指はなおまだ半ば開いたアンヌの口と戯れ続けていた。
「こうしてるとおまえはかわいらしいのよ、ねえ」と再度彼女は言う。が、それから一瞬の時があって、唐突に、今まで押えに押えた辛抱の堰《せき》が切っておとされたように叫んだ。「さあもういいわ、おしっこするのよ! 小さな牝犬め!」
けれども事がいっこう捗《はかど》らぬのを見て取ると、すぐさまクレールは、片方の手にアンヌのひとかたまりの髪を合わせつかみ、そうしておいて顔面を露わに晒《さら》けると、もう一方の空いた手でその頬を力まかせ、一度……二度……と平手で張ったのだった。
まさにその時も時、液体の奔流が地面の乾いた葉々を激しい勢いで打ち、長い間迸り続ける音をわたしは耳にしたのである。
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第四章 偽りの行動
一週間もの上クレールとその連れの女友達に会わない日が続いた。そんな日が重なったちょうど八日目、偶然にもモンマルトルのとある書店で例のかわいいアンヌに遭遇した。彼女はひとりきりだった。わたしの姿に気づかない振りを装っていたが、だからといって、打ちあけて言えば、そのことでわたしが驚きあきれたわけでもない。
わたしは再びあの時のバガテル庭園で一緒に過した午後のこと、今でも忘れずにいる最後の光景に想いを馳《は》せてみた。巨大なぶなの樹の下、若い娘が命じられるままに跪いた時、くだんの薔薇の花は留められたガーター・ベルトから外れて落ちざるを得なかった。娘が身を起して立ち上った後に、肉色を帯びたあの花が、積み重なる枯れ葉の上に棄て遺されていたのをわたしは眼にしたのである。ちょうどその花は迸る奔流を真下で浴びたばかりだった。穢《けが》された花弁が窪んで谷になった部分に、幾粒かの真珠に似た光り輝く液体の数滴をとどめていた。その四囲には、褐色の葉叢《はむれ》が迸りを受けてぬれ、前にもまして黒っぽいつややかな光沢を放っていた。
なかでもとりわけ大きな水滴の一粒が、薔薇の捲《めく》れた花弁にそってゆるやかに滑り落ち、ほとんど無疵《むきず》の、しかもほぼ平らで水平になった一葉の葉の表面に砕け散る、そして水がその場に拡がりながら、小さな鏡面を形作る、それから数秒の時があってその鏡は消えてなくなった。
例の歳若い娘は、ちょうど店員に話しかけているところだった。その姿に接してとりもなおさずこのわたしが一驚したのは、彼女が男の店員に向って口をきく時の、身に持した決然としてしかも確信の溢れた声の調子である。彼女は一冊の稀覯本《きこうぼん》を望んでいた、その書籍は秘密裡に売買されるものであったが、それにおかまいなし、明らかにこの店に在庫していることを承知した上で、厚かましく堂々の要求をしていたのである。
はたして、時を置かず書店側は知らぬ存ぜぬの振りを諦めると、帳場の下の人目に隠した棚から一冊を抜き出し、彼女の前に差し出した。あれこれうるさいことを口に出しもせず、彼女は代金を支払った。
わたしは店の出入口を横切るようにして、彼女の帰る道筋に立った。当然のことながら、彼女はわたしに面と向わざるを得ない。そこでわたしはこう切り出した。
「わたしを憶えていませんか?」
冷やかな態度でわたしの顔をまじまじとみつめてから口を開いた。
「いいえ、はっきりと。でもあなたがお考えになる意味でではありませんわ」
すぐとわたしは、今この場のことどもが八日前のあの日とは全く違ったふうに運ばれようとしているのを感じ取った。そのため、自分がとりたてて何かを意味させているわけではない旨を強く断言すると、その上で連れそって外を一緒に歩いたのである。
「どうなさりたいの?」そう詰問してきた彼女の声には優しさのひとかけらもなかった。
「どうも……。ちょっとだけ話でもと思って……」
「お話なんかしたくありませんわ。それにわたし急いでますし。この本をすぐに持ち帰らねばなりませんの」
ついさっき店員がくるんだ褐色いろした包装紙の小さな包みをわたしに示した。
「誰のところへ?」ついわたしはきいていた、「クレールのところに?」
この言葉を耳にするや、緑色を帯びた眼の彼女の眼差しが、たったこの時まで一度たりとも見たことのないような一種の閃光《せんこう》を放ってきらめき、なおいっそうの敵意をむき出しにした。
「わたしがそうしたいと思う人のところへ持ち帰るだけですわ。あなたにご心配いただくことじゃありませんの!」
窮したこの場の成り行きを皮肉な微笑で紛《まぎら》わせて切り抜けたいとわたしは思い、また別れの言葉を口にした。
けれどもすでにその時彼女はわたしの傍らから立ち去ってしまっていた。
こういった邂逅《かいこう》のありさまは、かなりな不興の気持をわたしに残したのだった。
以前とてわたしは、自身あの歳若い娘を支配するいかな力も持っていないことは十分承知していた、しかしかといって、クレールが居合わせない場合でもそれ相応の特権を享有できることはごく当然のことに思えたのである。それも、わたしのほうからとりたてて懇願したわけでもないのに、その特権たるやあれほど鷹揚《おうよう》に許し与えられていたのだから。
さらにそうしたことどもに思いを馳せたあげく、はたして自分が先日そんなにいろんなことを認め許されていたのかどうか自らに問う始末だった。結果、否定的な答にたどりつくほかなかった。
今になってみれば、自分がまちがっていたことがよくわかった。と同時に、自分の愚かさかげんをわたしは嘲笑《あざわら》った。あのかわいいアンヌのまだ記憶に新しい挙動が、今仮に逆の振舞いをされたらその時はきっと不可解に思えただろうほどに、尋常明白なものに見えてきたからである。
状況は結局のところわたしが想い描いていたこととはちがっていた。
神経が苛立《いらだ》ち、欺かれた失望に襲われた。もうこれ以上あのふたりの女のことも、ふたりにまつわるばかげたお話の一切も、二度と気に懸けまいと心に決めたのだった。
そうしてさらに三日わたしは待った。しかしついに四日目クレールに電話をしてしまった。電話の向うに聞える彼女の声がけっしてそんなふうであるわけではないのに、このわたしは、彼女が今の電話を待っていたのだと確信してしまう。彼女はごくありきたりの社交辞令を交わす調子で、わたしの近況について、≪例の最後の時以来≫ご機嫌のほどは麗わしいかなどと問いかける。わたしもすごく上乗の旨を答える。そしてまたクレールの方の健康状態と、つけ加えるようにして彼女の女友達の具合を尋ねる。
「けれど……どのお友達のことをおっしゃってるのかしら?」
「アンヌだよ、もちろん! わたしをからかってるんじゃないだろうね?」
「アンヌ! ああ、なるほどね。おもってもみなかったわ! あなたのお目当がアンヌなら、それをおっしゃればよろしいのに。あの娘はお貸しいたしますわ、あなた、ちっとも面倒なことなんてありませんのよ。お気に召すなら、思う存分彼女をものにもできましてよ! いつあの娘をそちらへやればよろしいの?」
そう言う彼女の言葉にはなぜかわたしには怪しげな気配の感じられるある激しさがこめられていた。が終始わたしは全くの無関心を装いながら、クレールの話す言葉を悪い冗談と思い込んでいる振りをし、この胸が燃えるような話題から、あえて問われた日を決めることもせずに遠ざかった。
一度《ひとたび》受話器を元に掛け戻すと、今自分からした愚かな拒絶のことをあれこれと考え込んでしまう。わたしは何はさておきあのかわいいアンヌが欲しかった、それは明々白々の事実なのだ。だがしかし、書店での時と同様、隔てがましく冷淡な振舞いを持したあの若い娘と、わたしはたったふたりきりになるのをひどく恐れていた、彼女に取り付くしまがほとんど無い限り。彼女に打ち勝つことができないという強い懸念《けねん》に捉《とら》われていたのである。その気になれば冷酷な美しさを持ったクレールに誘惑を挑むことさえできたというのに!
あるいは、たった今、より安易なが故に採り入れたすべてを悪ふざけとして拒絶した問題の解決法は、にもかかわらずもっと常ならぬ快楽を手に入れるための危険な試みだったのだろうか? さらにこの際、自分では気付かぬままにあのような解決の選択が強いられたと思い込みたかったのだろうか?
それにしても、ともかく、最初の日わたしに見せようと約した写真を口実に、ジャコブ通りの自宅で会う約束を取り交わしたのはクレールのほうとだった。
わたしは改めてあの白いローブに身を包みぶなの木の下で跪いていた娘の姿、乾いた葉々を打ちつけて液体の奔流がたてる物音、それから光り輝く真珠の粒がまだ転げ落ちているもみくちゃになった花弁の薔薇と次々に思い出していった。
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第五章 写 真
写真は最初の一瞥《いちべつ》でそれとすぐ見分けられた。すなわち、ちょうどわたしがアンヌに遭遇したあの書店で好き心の所有者たちに提供される、そういった類《たぐい》の写真だったのである。
とはいえ、あの若い娘が書店側に、あるいはいずれにしろ彼女と応対していた店員に知られていたとは、このわたしには思えない。
とまれその午後クレールと会った時に彼女が見せた焼増しの写真は、以前一度モンマルトルで大して注意も払わずに目を通したことのある写真に較べて、判型もずっと大きく、出来上りの質もひときわ優れていた。あの時は見せられた映像にそう心動かされるということはなかった、映像の姿態があちこち流布《るふ》したものとよく似ていたし、とりたてて興味も持てなかったからである。
しかし逆に今回は、そういった映像の姿態が全く別の光の下、ちがった見地でわたしの眼に映ったのだった。それは単に、きれいなモデルとして役割を務めているアンヌをそこに認めたせいばかりではない。その時とりわけわたしは写真の持つ尋常ならぬ鮮明な様に眼を瞠《みは》ったのである。それに較べると、先に熟視したことのある悪い出来の焼付けは、自然自体よりももっと真実に近い、より明白な、いわば臨場感に溢れた現実という性質を全くといってよいくらいに持ち合わせてはいなかった。おそらくこのような印象は、照明の工夫に由来していたか、さもなくばきっと線の細部をくっきりと際立たせる、黒と白を強調した現像過度による精巧な対照の妙に基いていたのだろう。
写真にはそんなちがいはあったけれど、にもかかわらず、皆同一の陰画に拠っていたことはたしかである。ともあれクレールとしては、自分の女友達の辱《はずか》しめられた姿を最初の来訪者に購《あがな》うことを許す奴隷商人特有のある種の歓《よろこ》びを経験することになっていたわけである。それにこの歓びは、明々白々、彼女がわたしと一緒になって当初から追い求めて来た種類のいわば満足感にも等しかった。
こうした匠《たく》まれたやり口に利用されると、写真はなおのこと、彼女の眼にもわたしの眼にも相応の値うちを増す。その上、写真技術の観点から言っても、自分に無理強いすることなく賞賛の言葉をクレールに述べられたほどであった。
さてわたしたちふたりは、小さめではあるが十分に詰めものを施された肱掛け椅子に坐り、低いテーブルを片脇にして、お互い手の届く位置に腰を降ろしていた。頭上には、モデルがポーズを取る時間投光器の役目を果たす、好みに応じて様々に傾きを変えられる脚立付きの電燈があった。
わたしは初めてジャコブ通りに在るクレールの家を訪《おとな》ったのである。この部屋のたいそう現代風な居心地のよさと心を引き立たせる明るさ(わたしの判断した限り、アパルトマン全体に言えそうだが)は、暗く住みにくそうな階段や老朽した建物全体のたたずまいと対照的に、入口に立ちつくすや否や快くわたしを驚嘆させたのだった。
外部の、非常に異なった世界との孤絶を完全なものにするために、白昼であるにもかかわらず、窓という窓は重く垂れた紗幕《しやまく》で閉ざされていた。こうした古色蒼然《こしよくそうぜん》の時代を重ねた建物によく見受けられる狭い中庭に面していなかったにしても、窓からは非常に陰鬱《いんうつ》な明るさ、人工の適切な照明に較べれば、ずっと暗くまた少しも打ちとけたところのない明るさしか射し込んではいなかった。
クレールは次々と写真をわたしの手許に渡した。だが、渡された一葉にわたしが見とれている間に、あらかじめ一枚一枚を注意深く点検したのだった。写真はどれも堅い厚紙の台紙に貼りつけてあった。寸法は商業書簡用紙の大きさをしていた。光沢のある表面は透明な薄葉紙で保護されていて、映像をじかに眼にするためにはそれをめくらねばならない。
まず最初の一枚には、かわいいアンヌが黒地のコンビネーションを纏い、その下にはいつかバガテル庭園で惜しみなく見とれたのに似た、靴下とガーター・ベルトで身繕いしただけの姿で映っている。もっとも、今眼にする靴下には、縁飾りの施された折返し部分がついてはいない。
娘は円柱の脇に立っていたが、その姿勢は以前ぬすんだ薔薇をローブの裾の内側に隠すために強いてクレールにとらされたのとまごうかたなく同じ姿勢であった。ただちがっていることと言えば、足に靴を履《は》いてないだけである。それにローブの替りにコンビネーションを着ていたのであるけれど、やはりアンヌは両の手でその軽い布地をもたげて、半ば開いたていの太腿部とセックスの三角帯をなした豊かな恥毛とを眼にも露わに晒《さら》していた。脚の一方をまっすぐに伸ばし、もう一方の脚を膝のところで軽く曲げ、足先を床の上に半ば休めるようにして置いていた。
レース飾りを施した当布が、コンビネーションの上部を美しく飾っていた。けれど、折れ曲って皺寄《しわよ》り、その上右のつり紐が掛っていず、左のも肩を滑り落ちているために、はっきりとは見分けられない。黒い下着のほうは同じように斜めに捩《よじ》れて、片方の乳房はせき止めるように中央で支えていたが、残りの乳房をほぼ完全に曝《さら》け出していた。実に完璧な、けっして豊満というのでもない、左右に張った乳房だった。それに褐色がかった乳暈《にゆううん》は、はっきりと目立つ乳頭を囲んで暈影を宿し、かといってむやみに大きく拡がっているわけではない。両の腕は完膚なき円やかな輪郭を形どり、優美な曲線を描いていた。
一方視線を滑らせると、軽やかな捲き毛の下にのぞいた顔立ちが、みごとに描き上げられている。すべてを受け入れるていの明眸《めいぼう》、あけ離した唇、そこには無邪気な魅力と屈従とが入り混る風情《ふぜい》があった。頭部はむき出しの乳房と少し脇へ寄せた下肢の側へ横に傾けられていた。
照明は翳影《いんえい》を際立たせるように強調されていたけれど、いたるところ、線に柔和さと、同時に簡潔さをもたらしている。明かりがゴシック様式の外観を呈した窓のひとつから射していた、その窓には簡素な鉛直の棒のいく本かがとりつけられていて、一部分だけが映像の端に背景をなして垣間見られた。前の方に立った円柱は、その窓の縁口と同様に石で造られたものだった。横幅の大きさは、どちらかといえば、ほぼ傍らにじっと立ち尽す娘の腰回りと同じ程度である。他方娘の横、映像のもう一方の端には、鉄製の寝台の前部がのぞいていた。床には、黒と白のきわめて大きな板石《タイル》が市松模様を形どっていた。
つづいて二番目に手にした写真は、前よりもずっと至近距離で撮られていて、全面に先の寝台が見えている。黒色に塗られ、|被い《カバー》を取りはずした鉄製のシングル・ベッドだった。シーツはといえば、これはあらん限りに乱れきっていた。頭部と足の部分の鉛直になった二ヵ所の金具は、はるかに時代ものの複雑さを呈している。つまり、金属製の柱身がたわんで曲り、さらに螺旋状《らせんじよう》 を描きながら巻き込んでいて、その上両者の間には、あきらかに金箔《きんぱく》を張ったと思える、他の部分に比較してよく光るおびただしい環《わ》が絡《から》みついていたのである。
娘は最初の写真と同じ衣装に身をくるんでいたが、この場合前とちがって靴下もガーター・ベルトも着けていなかった。寝台の端から端、めちゃめちゃになったシーツの上に腹ばいになって身体を伸ばし、といって腰の片側をもう一方より高くして身を少しばかり斜めに捩っていた。うつぶせた顔は枕の中に沈んでいる、その枕一面、乱れた捲き毛が打ち拡がっていた。上へ向けて折り曲げられた右腕が頭部を取り囲み、もっと脇へそらせた左腕は部屋の壁の方へと伸びている。下着のつり紐が掛けられていないこちらの側からは、腋下に乳房の付け根が見抜けた。
黒地のコンビネーションは、今度の場合は言うまでもなく背後で、やはり大きく捲《まく》り返されていた。その捲られた絹の布地が胴囲《どうまわ》りの窪みの辺りと腰部の周囲に等閑《おざなり》なやり方で配置され、ちょうど絹を張った宝石箱の内部に似せてその中に、円味を帯び、豊満な、しかも魂をかきたてるふうな裂け目の走った、うっとりとする臀部《でんぶ》を浮き上らせる意図が明らかに見て取れた。よくひきしまって盛り上った臀部の肉づきは、不均斉な姿勢のおかげで人目を引くかわいい靨《えくぼ》を際立たせている。両の太腿部は、暗い影を宿した窪みから浮き出すようにして開いている。左脚の膝頭は、折り曲げられ、先端を突き出してシーツの襞《ひだ》のさ中へ姿を消し、他方その足先は、伸ばした右脚の脛《すね》に触れるまで後ろにやられていた。
いわばこの写真は、臀部を最も好都合な位置から一望のもとに眺められるよう、かなり高い位置から撮影されていたのである。
次の写真では、娘は白と黒の市松模様の床に膝をつき、両手を背後で縛られた姿で、完全に裸身を晒していた。映像は彼女の横顔を同じように上からとらえている。その場には一糸纏わぬ娘のむきだしの床に跪《ひざまず》いた姿と、それに鞭《むち》以外は何も見当らない。
頭部は前へうつむけていた。その結果髪が顔の側にうち掛かるようにしてしなだれ顔面を蔽《おお》い隠し、逆に極度に折り曲げられた襟首を露わにしていた。乳房の先端部が肩の下にのぞいている。両の太腿はぴたりと合わされ、後ろの方へ傾き、上半身を前へかがめていたが、そのため臀部は何やら拷問を待ち望むていで快く突き出されていた。両手首は背後でちょうど胴囲りの高さに、光を放つ金属製の小鎖でひとつに縛られていた。
同じ鎖が足の踝《くるぶし》もそれぞれ縛り上げている。床の板石《タイル》の上、裏返されたために足底を見せているかわいい足からほど遠からぬ位置に、例の鞭が横たわっていた。
普通犬のために使用される鞭に似た、革を編み合わせて作った鞭である。ほっそりしてしなやかな先端から、次第に編み紐の密度が増し、堅さが加わって、手でつかむほとんどたわまない部分にいたると、短めな一種の柄《え》になっている。じっと動かないその革紐は床の上にSの字を描いていたが、中でも一等細い末端部は逆にねじれて曲っていた。
娘は次の写真でも裸だった、ただ今度は、跪いたまま寝台の脚に鎖でつながれて、背中をこちらに見せている。踝は、足を組み合わせて交錯させ、ぴたりひとつに結ばれていた、そのために両膝が大きく開いたままになっていた。
両腕もまた、亜麻色《ブロンド》の髪をした頭のそれぞれ両側に、手をほとんどその高さに位置させて同じように拡げられていた。両の肱《ひじ》は、右肱が左より心もち折れていたが、僅かに曲げられている。手首は、前と変らず同じ金属の小鎖を使って、寝台の最上部で黒い金具の柵《さく》を限り飾っている曲った棒の両端に縛りつけられていた。
上半身と太腿部はたしかまっすぐに立っている。しかし身体全体は、こういった無理な姿勢で疲労が生じるのか、そのせいで斜めによじれるようにして折れ曲っていた、またそのため片側の腰がいっそう突き出すようになっていた。頭は右斜め前に傾き、ほとんど肩に触れている。
臀部にはきわめて鮮明で眼にもはっきりした黒っぽい線が、幾条もあらゆる向きをなして跡をとどめ、いずれ鞭で激しく打たれてできたのであろう、中央の割れ目の線の両側に交錯していた。
こうしたきわめて不自然な姿態で寝台に鎖でつながれ、跪いているかわいいアンヌの映像は、今彼女が堪え忍んだばかりの拷問の残した、残酷きわまりないこの鞭の跡によって、なおのこといっそうの感動をもたらしていたのである。その後ろ側には、黒塗りの鉄の螺旋が優美なアラベスク模様を描いていた。
さてまた娘の裸体は、今度は太い索綱で石の円柱に縛られていた。脚を拡げ、両腕をもたげ、正面を向いて立ち尽していた。眼は黒い細紐で目隠しされている。口は、極度の苦痛にさいなまれるまま、そのままに歪《ゆが》んではいなかったけれど、ずっと叫び声を立て続けている。
両の踝は柱の足の右と左、正反対の位置に固定してある。従って両脚は左右に大きく開き、膝をかろうじてかがめていた。腕のほうは、上に向けて引き上げられ、後ろ側にやられて、肱のところまでしか眼に入らない。両手が円柱の後ろの部分につながれているのは明らかである。
身体を円柱に縛りつけた索綱は、肉に深くくい込んでいた。そのうちのひとつは右の腋下を通り、頸《くび》の反対側へ登り、肩全体を身動きできないようにしている。別の綱は腕や踝に巻きつき、また他の綱は、それぞれ両方の膝の上と下で脚をしめつけ、あたう限り左右に離した状態で膝頭を石の円柱に引き寄せるようにしてあった。
拷問に責められた身体は、その歪み具合から明らかに縛縄《ばくじよう》されたままもがき暴れようとしたことが看破できたが、深い二本の傷を負っていて、その部分から血がおびただしく流れ出していた。
傷のひとつは、索綱のかけられていない側の乳房の先から腋下にかけて伸びている。血は幾条もの細い筋をなし、不規則な勢いで横腹全体にわたって流れた、その様は、細い血の流れがひとつに合わさるかと思えばまた再び離れ、静脈の錯綜する網目のように、腰の辺りと腹部のまさに半分を覆って散らばり流れるのである。またそれは臍《へそ》の窪みやセックスのふさふさした恥毛にまで達し、とりわけ濃い一条の流れが後者の方へ鼠蹊部《そけいぶ》に添うようにして流れ落ちていた。
もうひとつの傷口は、最初のものよりずっと下の位置、しかも身体の逆側を飾っている。恥毛のすぐ上の鼠蹊部を突き抜け、下腹を少しだけ切り、さらに長く太腿部の内側にわたっていた。その太腿部には、ほぼ全面を蔽い尽すようにして血が幅広い小川のような流れを作り、膝の上で締めた索綱にぶつかっていた。液体の流れはいったんそこで塞止《せきと》められてとどまり、それから再びその場を通って今度は直接床の白い板石《タイル》の上に流れた、白の板石には小さな赤い血の溜りができていたのである。
この映像が、ロマンチスムのこうじたきらいはあるが、何か不思議と心を惹きつける凄《すご》さをはらむのは、一種のトリックの結果でしかなかった。ふたつの傷口や流れ散った血の跡は、疑うべくもなく赤い塗料を使ってかわいいアンヌの満足気な身体の上に描かれていたからである。しかしその描き方たるや、たやすく人が勘違いするように、またとりわけ苦痛のあまり身体をのたうちねじ曲げる生贄《いけにえ》の様によって巧妙極まりなく人を騙《だま》すように、特別の注意が払われていたのだった。
それにしても液体の細い流れの配分の仕方、そこに示された極度の流《りゆう》 暢《ちよう》さ、巧妙なトリックであることを裏切るに十分な描き方の巧緻さといったものを司《つかさど》るものは、多分大変な技術であったにちがいない。とまれ、こういった作りものの描写によって調和が破られるどころか、逆にそれによって調和のとれた身体の線が新たな輝かしさをもって引き立てられていたのである。
最後に手渡された写真は、これに類似した演出に由るものだった。娘の拷問に処せられた身体が、見たところ明らかに命を断たれて、黒と白の市松模様をなした床の上に横たわっていた。身に着けたものといえば、前と同じようにただ両眼を蔽った細紐の目隠しだけである。
娘は身体の右側を下にして倒れ、顔を天の方、カメラのレンズの側に向けるようにして、上半身の上部を半ば傾けていた。右腕は身体に添えて長く伸ばし、一方左腕は頭の上にやって片側の耳を隠していたが、同時に一面綿毛に蔽われた腋下とそれに乳房を露わに曝《さら》し出していた。
下肢は、右を僅かに左をそれ以上にもっと、膝頭を自由に前へやるようにして折り曲げていた。このフィルムを撮影した時の独特なやり方のせいか、煌々《こうこう》とした照明に照らされて、右太腿部の内側、臀部、恥骨に続く直ぐ下の秘所、そういったあれこれと繰り展げられた肉体のいたる領域がまざまざと見て取れたのである。
まん中の裂け目からは血が溢れ出し、太腿の上部やその両側の板石《タイル》を張った床にどくどくと流れていたが、その様を眼にすると、もしかしてこの歳若い娘を死に至らしめるために、串刺《くしざ》しの刑か、さもなくばそれに類した非道の所業が執り行なわれたのではないかと思えてくる。
加えて、一条の血の流れがうっすらと開いた口からも流れ出し、曲りくねった帯状をなして頬を蛇行《だこう》し、床に届いていた。こうした異様な細部にもかかわらず、顔付全体は静かに和《やわ》らいだ、ほとんど幸福そうな表情を保っていた。もうすこしで口許が微笑を湛えていると言いかねなかったほどである。
多分この写真は別のどの写真とも、あるいは少なくともそのうちの何枚かとも同じ日に撮ったのでないことはたしかだ。胸部を汚した塗料は、その前のポーズをとった後で洗い落すことができたろう。しかし、そんなに速く消えてしまうことのない、鞭の打《ちよう》 擲《ちやく》による尻の筋跡がその場には少しも認められなかったのである……。とすると、おそらく他のフィルムが全くちがった方法で撮られたのか? あるいは肌に刻まれたその魅惑的な線が、他のたとえば血を装った赤い塗料と同じく、単なるメーキャップだったのか?
そのことをわたしはクレールに問いただしてみようとした、が彼女の方へ顔を向けた時、まだ別の一枚の写真が彼女の手の中にあるのを見て取ったのである。一続きになった写真がもうあれで終ったと思っていた時、さらに紙挟みから取り出されていたのだった。
彼女はそれをわたしに差し出した。一瞥するやすぐさま、その映像が今見た他の写真とはちがっているのにわたしは気付いた。まず焼付けからして微妙にちがっていたが、他にもなおまだある。これまでの写真だとそこに映った娘の身体がどれも全体を収めていたのに反し、この場合の身体は画面構成の上で一部分が切り落されている。その上室内の装飾もさきほどの厳格なゴシック様式の部屋のものではなく、わたしたちふたりが今こうして居合わせている部屋のそれだった。とまれ、小さな肱掛け椅子のひとつに身を反るように投げ出し、寝間着を腹部の半ば辺りまで捲り上げたひとりの女が自らセックスの内襞をそっと愛撫していたのである。
寝間着の非常に曖昧模糊《あいまいもこ》とした襞のせいで、はっきりと見分けられるのは、腕や手や下腹部や太腿部の開いた辺り、裸の部分だけに限られていた。膝頭から下肢にかけては、頭部や肩と同様画面の外になっていた。
太腿の大きく開いた狭間《はざま》の中で、見たところ、左手の人差指と中指が肉の花を一方の側へ押し開き、他方別の側から今度は右手の親指と小指がそれと同じ役目を果たしている。この右手の薬指は曲げられていたが、人差指が明らかにかたくなっていると思える花芯の先端に触れ、その少し下、露わに曝け出された空洞のさ中に中指が趾骨《しこつ》のところまですっぽりと入り込んでいた。強烈な照明に映えて、セックスの表面は溢れる月の雫《しずく》に光沢を発していた。
写真はわたしの感覚を煽《あお》り、刺激をそそったのであるが、ふとそれをおしとどめたのは、ふたつの手のどぎついほどに色濃く染め上げられたマニキュアの爪である。たしか例のかわいいアンヌの爪は、美爪《びそう》されない自然なままの状態であったのを憶えている。それに、全体の姿態、腕の曲線、仕種《しぐさ》のそれぞれ細部といったものがアンヌに比較して放埒さに欠け、魅力に乏しかったし、恥毛もどちらかといえばより濃さのかった褐色を帯びていた。わたしは、この写真でモデルの役を果たしている人がわたしの見知りおきの人かどうかクレールに尋ねようと思い、その方へ眼をやった。
と、彼女の表情はさきほどとはうって変っていた。顔は血がのぼって紅潮し、冷淡なところが消え、見たところ明らかにとり乱したふうだった。彼女の身体の総体が、その時突然、ふだんに較べると限りないまでに情欲をそそるものに思えたのである。彼女は黒のセーターと身体にぴったり合ったスラックスを着ていた。そして、ちょうど写真のモデルと同じ姿勢で、肱掛け椅子にのけぞるようにして身を投げ出し、片手を太腿部の窪みに遊ばせている。その手の爪に施されたマニキュアがほかでもない濃い紅色だったのである。
時を置かずわたしは、つい今しがたクレールがこちらに手渡したのはほかならぬ彼女自身の写真であることが一目瞭然理解できた。おそらく自動シャッターの助けを借りて撮影したにちがいない。それに当然のことながら身体を包み隠す寝間着や顔を画面から削除することは計算のうちだった。だからこそこのフィルムを、写真のモデルがちがうことに思い到らせぬまま、他の人に見せられもしたのである。
さてわたしはその台紙に貼った写真を手近の低いテーブルの上に置き、はたして今クレールに接近戦を試みたものかどうか躊躇《ちゆうちよ》しながらも、彼女から眼を離さずにいた。
しかしクレールはたちまち自分を取り戻した。腰を降ろしていた肱掛け椅子から急激に立ち上ると、すばやく身体を一転回させ、いつものとおりの厳格で、厳しく、また無類に完璧な美しさを伴う態度を取り戻して再びわたしの前に姿を見せたのである。
彼女はひと言も口には出さなかった。ただいささか尊大に、わたしが何か問いかけるのを待つように、まっすぐわたしの眼をみつめたままでいた。
テーブルを指し示しながら、わたしは聞いた。「そこにある最後の写真も、例のかわいいアンヌなの?」
「じゃ、誰であればいいと思ってらっしゃるの?」そう答えた素気ない声の調子に、わたしはこれ以上追打ちをかける気も起らなかった。
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第六章 贖罪の供犠
クレールは写真を紙挟みの中に片づけた。そして心|和《なご》まぬ不満の様子を見せていた。そういった姿を眼にしても、このわたしには、ついさきほどクレールが見せた唖然《あぜん》とする短い間のとり乱した光景、それも最後の写真に写った彼女の肉体の映像(事実わたしは彼女自身にちがいないと確信していたのだが)と重なるようにして繰り広げられたあの束《つか》の間の光景に、今再びクレールを立ち帰らせる方法《すべ》を知らなかった。それにしてもひとりの男性によって、例の写真のようなあからさまに身体を開き、興奮し、しどけない姿態をさらした自分を眼のあたりにみつめられたという考えが一瞬彼女を突き動かし、そのためについとり乱してしまったあの時の状態は、ふだんの冷たい彼女の振舞いからすると疑ってかかる余地とてない別の可能性を新たに暴露しているようにわたしには思えたのだった。
けれどまた身を低くした礼儀正しさを持って、彼女の拷問執行人としての才能についてわたしがどう考えるかを彼女が問い糺《ただ》すのを耳にすると、このわたしは自分が彼女につきまとって歓心を求めることも、あるいは彼女を征服してものにしようと切望するさえも不可能なことを一再ならず身に沁《し》みて感じたのでもある。
ひきかえくだんのかわいいアンヌは、人を屈従させて辱しめたいクレールの欲求を十分に満足させていた。クレールが自分のかわりに他の者たちへ糧《かて》として献《ささ》げ供したいわば餌食だったのである。
彼女の問に対してわたしは、拷問執行人としての彼女の才能が写真に関する才能に比肩して勝るとも劣らないものであり、むろんこの場合大変な賛辞としてそう言っている旨を返答した。
「ありがとう」半ば皮肉な微笑を浮べ、軽く頭を下げて彼女は応じた。
しかしそうした態度には一切軽妙なところも、無頓着の装いも欠けていた。いってみれば、はからずも見せてしまった一種奇妙な弱みからすばやく自分を取り戻したばかりのクレールは防禦の立場に立っていたのだし、改めてかみつく用意をととのえていたのである。わたしにはだから、彼女が自分の力かあるいは不感無覚の強さを誇示できる好機を今探し求めているという印象が強かった。とこうして彼女が口を開いた。
「ところで、わたしのモデルのことでおほめいただけないの?」
わたしは最後の写真のモデルは除外し、かわいいアンヌについてだけ触れながら答えることにした、そしてクレールが写真の中でわがものとして自由に操っているのは、たしかにほかでもない生贄の中でもとりわけ無上の快楽を与えてくれるモデルである事実を断言してみせた。
「あなたいつかあの娘《こ》にお会いになったのじゃない?」次に彼女がきいてきた言葉はこうだった。
「そう、モンマルトルで。ただし、写真のモデルほどに心楽しませるところはなかったけれどもね!」
「え?……どういうことなの?」
次の数瞬間わたしは考えこみ、クレールがはたしてわたしとアンヌの出会いのことで何を知っているのか推し測った。
「彼女にはみたところおしゃべりする気など毛頭なかったわけだよ」そう言ってわたしは逃げをうった。
「あの娘《こ》礼を欠いたんじゃないでしょうね、あなたに?」
「わたしに礼を尽す義務があるとも思わなかったがね」
こう口に出して言った自分の考えがおかしくて、わたしは微かに笑った。
「あの娘は、わたしがそう望めば、あなたに敬意を表し、礼を尽す義務があるのよ」クレールは言い添えた。
さらにつけ加えれば、まさにこの言葉があって初めて、わたしは事の成り行きがいかなるものか爾後《じご》理解できたのである。そしてわたしたちが置かれている状況にはたったひとつの問題しか残らなかった。つまり、正真正銘クレールが望んでいたものは何かその謎《なぞ》を解くことである。彼女が望んだものは、もしそれらがクレールの居る前で行なわれるものとすれば、多分実に多くの事柄であったろう。
そのことで自分自身に関して言えば、時ここに到るまでずっとわたしを駆り立て、押しやってきたものはほかならぬ好奇心なのである。
しかし、一度《ひとたび》例のかわいいアンヌがその女友達の、わたしには威嚇かさもなくば期待に溢れたと思える声に呼ばれ、部屋に入って来るのを見ると、また全く別の感情が頭をもたげるのを感じもしたのである。
わたしたちふたり、クレールとわたしは、二脚の十分詰めものでふっくらとした小さな肱掛け椅子に再度腰を降ろし、絨毯《じゆうたん》の中央部に身体を向けていた。今はもう用済みになったさきほどの低いテーブルは、すでに部屋の片隅にしまいこまれていた。
アンヌはそのためにわたしたちの待ち望む正面に姿を現わさねばならなかった、両腕を身体の脇に添わせ、眼瞼《まぶた》を伏せて佇立《ちよりつ》するいつもの姿をして。彼女は襞のついたスカートにシャツブラウスと身繕いしていたが、靴は履いていず、靴下のままの足で歩いていた。彼女がこうして呼び寄せられた目的は、いつかの書店での出来事をはっきりさせ、そのことでもし彼女に罰を受ける必要があれば、即刻この場で刑罰を課することであったのだ。
もちろんこれまでの経緯からわかるように、この歳若い娘が何かの罰を受けるべきか否かを知ることは問題ではない、むしろ彼女を懲《こら》しめるのを装って、わたしたちの思いのままに彼女を責めさいなむ口実を探すことのほうが枢要な問題であった。それにクレールの口にする言葉も、眼前の生贄にとって明るい前兆を期待できないような激しさを帯びていた。
ともあれこの生贄が重大な不服従の罪を犯したことを証明するのに数秒間の時を要さなかった。そしてすぐさま、彼女に対する即刻の懲罰が執行されるよう決定が下された、その間アンヌには抗《あらが》って身を守る言葉をつぶやくために口を開く余地さえなかった。
「洋服をお脱ぎ!」こうクレールは命令を言い渡したのである。
命令を受けたかわいいアンヌは自分の役割を心得顔にのみ込んでいた。誰も命令の詳細を彼女に教えたわけではなかったのである。彼女はまず女主人の前に面と向い、毛脚の長く伸びた絨毯の上に跪《ひざまず》いた、そうしておいて次々に身に着けた衣類を脱いでいった。見たところ明らかに彼女はひとつの儀式を遵守して執行《とりおこ》なっていたのである。
気候が大変暑い時節柄のせいで、身に着けていたのは大したものではなかった。最初はスカートから始めたのであるが、まず胴囲りの部分の留金《ホツク》をはずすと、腰のところを開き、頭の上へと取り除いたのだった。
この日もやはり彼女はパンティを着けてはいなかった。身に纏っていた下着は、レースの細かな襞飾りを施された薄い青色の繻子《サテン》のガーター・ベルトだった。ついで彼女はかなり短めのブラウスのボタンをはずし、胸許が半ば左右に開いたままの状態でそれを身に着けていた。薄いその織物の半開きになった隙間《すきま》には、そのままですでに両の乳房がのぞいていた。
引き続いて今度は靴下留めをはずすと、跪いた膝がしらを交互に持ち上げながら、靴下をそれぞれの脚に滑らせて剥ぎとっていった。さらにガーター・ベルトの留金を背中のところで解き、さきほどのスカートや靴下と一緒に傍らの絨毯の上に置いた。
まだ身に着けている残りひとつのシャツブラウスを最後に脱ぎ捨てたと思うと、顔の上部を蔽い隠すように両腕を宙に持ち上げた。
こうして彼女は、跪いて太腿部を左右に開いた姿のまま、すっくと身体を伸ばし、あからさまにわたしたちの視線に晒されていたのだった。
その身体は柔らかで肉づきがよく、まだほっそりと華奢《きやしや》な姿をとどめていたが、同時にこれまで一度も眼にしたことがないほどの心を掻き立てる丸味とその丸味の影に刻まれるくぼみをいたるところに帯びていた。とりわけすべすべした肉の肌は一様に亜麻色をしていたが、腹部と両の乳房の部分は他にくらべると心持ち白味を漂わせ、乳房の先端がかすかに薔薇色《ばらいろ》に染っていた。この若い娘の正面を向いた姿態をわたしは今眼にしているにもかかわらず、彼女を背後から写した、例の鉄製の寝台に同じような姿態で縛りつけられ、臀部に鞭で幾度となく打擲された条痕を示す映像を想い起したのである。写真やその場に繰り展げられていた拷問の光景を思い出すと、まさに今眼の前で生贄が持している待機の姿に特別な意味があるのがわかってきた。
クレールはすでに残虐な乱行に及ぶ決意ができているふうだった。けれど、とりあえず生贄の従順な身体の魅力やその線の完璧さ、物腰の優美さについて註釈を施し、肉のひきしまった胸やむっちりしたセックスを称賛するのに時間をかけ、自分の気紛《きまぐ》れな行ないに供されたきわめて快い肉体やすでに幾度も興じて刑罰の傷を負わせたその脆《もろ》い皮膚を誉《ほ》め称《たた》えるだけにとどめていた。
だがその声は、こうした生贄の姿を前にして魂を呼び覚まし、記憶を掘り起すに従って弱まっていくどころか、いずれ眼に見えてくる責苦の前ぶれを追い求めるにつれ、次第に激しさと怒りを含んできたものだった。一方わたしのほうは、なかでもとりわけロマネスクなそうした責苦が、今しがた感服したばかりのたいそう説得力のある複製写真の記憶のせいか、ごく当然のことのように思えたのである。
クレールのおしゃべりには、淫《みだ》らで露骨な言葉や侮辱や内輪の卑しい描写が混っていた。そして突然のこと、熱情の激発に捉われてか、彼女はおしゃべりを止めてしまった……。
かなり長い沈黙があった後、クレールは前よりずっと静かな口調で言葉を口にした。
「お立ち、かわいい娼婦《しようふ》! 鞭をさがしていらっしゃい!」
娘は腕の片方を眼の前にかざしながら立ち上った、身体の向きを変え、入口の方へ絨毯を横切って行った。一糸纏わぬ自分の裸に多少戸惑いながら、一種子供めいた優美さを持して彼女は進んで行った。後ろから見る腰の辺りのまだ無疵《むきず》なふたつの盛り上りは、歩を運ぶたびごとにうねり、見る者には最高に残酷な堪能《たんのう》の仕方をクレールとわたしに許したのだった。
アンヌは時を置かずに帰ってきた、前腕の一方であいかわらず顔の上部を覆い隠していた。もう一方のあいた手には皮でできた物体があった。クレールの前に、身をごく近づけて跪き、それをさし出した。例の写真にあった編み上げられた鞭だった。クレールはその道具の堅い端をつかむと、それからこのわたし自身がアンヌの顔を面と向って眺められるように、肱掛け椅子の前で少しばかり生贄に横顔を向けさせた。誰も一言も命令をしたわけではないのに、再び彼女は両膝を開き、腕を宙に持ち上げた。しかし今度は、拷問の間恐怖に戦《おのの》いたその魅力的な相貌《そうぼう》や半ば開いた美しい口許がよく見えるように、腕を頭の上高くさし上げたのだった……。
とはいえ、クレールのほうは鞭を振るおうともせず、むしろ今になって穏やかに気の鎮まった様子をしていた。以前にまして低い声で語りかけていた。その口にする言葉はそれでも非道な恐ろしい虐待を微細にわたって述べたてていたにもかかわらず、聞く人によっては愛の睦言《むつごと》にも思えたのだった。
歳若い娘はクレールの手の届く位置にいた。彼女は前へ身をこごめると、幾度となく娘の乳房に指をやるために左腕をさし伸べたのである。薔薇色を帯びた小さな乳頭が際立っていた。その乳首がこわばって勃起してくるように、クレールはそれをもてあそび始めた。それから、自分の側に向けられている娘の腋の下へ手を滑らせた。
再び彼女の手は娘の胸に向けられたが、今度は腰に添って滑り降りると、太腿部の内側を愛撫し始めた。話し続けるその声は奇妙に甘ったるい。まるで幼い子供のような話し方だった。
「こんなにも可愛らしいのよ、この娘は。鞭打たれるために、こうして跪かされるのがたまらなく好きなの……。こうしてると心をたかぶらせてくるわ……。この娘、すっかりぬれてることよ、誓ってもいいわ……」
無遠慮にはいまわる手がセックスの部分にまで届いた。指の先端がその裂け目に添うようにして、前へ後ろへと二度三度往き来した。その間も、鞭をつかんでいたもういっぽうの手は、背後から娘の臀部を愛撫していた。
と、突然左手の人差指が、ちぢれた陰毛の下の唇の狭間へ分け入った。その指は燃え立つように熱い深みにまで一気に入り込んだのだった。かわいいアンヌは両眼をきつく閉ざし、口をさらに心持ち開いた。
クレールはそれから勝ち誇った視線をわたしに投げかける。事実、こうした乱暴な行為がたやすく実行できたのは、娘がしたたかにぬれ、欲情に煽られ、愛の行為に身を捧げる準備がすっかり整ったことの証《あか》しであった。
「ごらんなさい」クレールがわたしに向って口を開いた。「この娘《こ》、すっかり馴《な》らされていてよ。鞭で打たれようとすると、それを享受する支度を自分から整えるの。いわば、訓練の問題ね、犬と同じように! こうした姿勢にしておいてひとしきり愛撫してやればそれで十分なの。そうすれば、この娘は歓楽を期待せずにはおれなくなる……そうじゃなくって、かわいいあばずれさん?」
太腿の間に差し入れた左手を前に持ち上げることもせず、今度は右手ですぐさま娘の臀部にクレールは激しい鞭の一打をみまった。皮でできたその細紐を扱う巧妙な手際は、長い間の熟練を表わしていた。
思わず娘は飛び上った。すると両腕がわが身を防ぐように本能的に少しばかり下へ下がった。けれどまた完全に上へ差し戻された。クレールは二度目の打擲を加えた。
「ジャンを見るのよ」彼女は若い娘にそう命令する、「おまえが罰を受けるのは、この人の注文なのよ」
アンヌは眼瞼をもたげた、そして加えられる拷問の苦痛をなおも堪え忍ぼうとその眼瞼を大きく見ひらいていた。それにまた今はすっかり開いた口をそのままにしておこうと心を砕いてもいた。
意のままに委ねられた柔らかな肌をクレールはよりいっそう強く、なお都合よく打ちつけるために、自分の左手をアンヌのセックスから引き離した。そのためさらに的を得やすくなった鞭の打擲は、腰の辺りに規則正しく打ちおろされた。今や娘はかすかな呻《うめ》き声をもらしている、鞭がたかなる度に愛のあえぎにも似た、「ああ」という苦痛の呻きを口からもらしていた。
クレールは打ち続けた、次第次第に速度をあげながら。生贄のもらす叫び声もそのリズムを駆り立てられ、「ああ……ああ……ああ……ああ……」と速さを増す。と、ほどなく、これ以上堪え切れなくなってか、一方の腕をアンヌは床に着くまでに降ろしてしまうと、半ば自分の脚の上に崩れるようにして坐り込んでしまった……。
クレールは打つのを止めた。再び恐怖に捉われた娘は膝の位置をただしながら、身を立て直し、改めてその腕をまた頭上に差し上げたのだった。
「縛りつけたがいいだろう」そうわたしは口をはさんだ。
「いいわ、あなたのお望みなら」クレールが答えた。
その時、実に静かに眼の前のかわいいアンヌが泣きだしたのである。いくつもの水滴が両の眼の隅にふくれ上ると、赤味を帯びた頬の上を流れ落ちた。戦慄《せんりつ》が次々と彼女の身内を駆け抜けた。そして、できるだけ控え目な仕種で洟《はな》をすすろうとしていた。
だが、毛脚の長い絨毯の上に身をまっすぐにし、膝頭を立て、太腿部を両側に開き、手を上に上げた姿の彼女は、自分の頭をゆるやかに流れる涙をあえて拭おうとはしなかった。
そうした彼女をその場で長い時間わたしたちはうち眺めていたのだった。
さてそれからきらきらと輝く金属製の鎖を探しに行かねばならなかったのは、またしてもかわいいアンヌだった。背後から見送る彼女の臀部は殉教の苦しめを受けて新たな淡紅色に染まり、さきほど以上に心の平静を乱すふぜいがあった。
彼女が再び部屋に立ち帰るとすぐさま、すでに肱掛け椅子から身を起していたクレールは、アンヌが命令をすばやく実行しなかったと言い張りながら、荒々しく彼女をもとのように跪かせた。一方の手を使いながら生贄の手首を背中で結び合わせ、もう一方の手で二の腕の囲りを四、五回繰り返して平手打ちにしたのだった。
若い娘の涙は前にもまして増し募った。それにはいささかの注意を払う様子もみせずに、クレールはつづいて無理強いに娘をわたしのところまでこさせた。鞭の下をかいくぐるようにして、絨毯の端から端まで彼女は跪いたままはいずらねばならなかった。そうしておいて小さな鎖を踵《かかと》と手首にはめたのである。
鎖はクロームめっきを施した鋼鉄の頑強な輪を組み合わせたもので、一方の側がひときわ大きめの環で終り、もう一方の端は自動的に閉まるようになった鉤《かぎ》で飾られている。まず一方の端の環にもうひとつの端の鉤を通し、四肢を縛って身動きできなくするような輪を作り、それから一、二回転して支柱に固定すれば、それで充分こと足りる。その上で鉤がとどいた輪にかけてその鉤を閉じればよかった。
このやり方は、すばやくしかも安易に行なえた。数秒もたたないうちに、娘の両手はわたしが腰を降ろした肱掛け椅子の腕の部分に鎖で縛りつけられていたのである。椅子の坐る部分と別になった肱掛けは、あらかじめそうした目的のために備えられた外観を呈している。ついで踵も、片方の足がもう片方の足と上下で交錯するように一緒に縛り上げられたが、それは前に写真で見た、太腿をぴったり合わせられないようにした例の姿勢にならったものだった。加えて囚《とら》われの娘はわたしの方に身をかがめるように強制されていたために、胸がわたしの膝の間になり、亜麻色の髪の頭部がわたしの両手に触れるまでに突き出す恰好《かつこう》になった。
涙でぬれてぐっしょりになったその顔をわたしはありったけの優しさをこめて愛撫した。さらに頸から胸へ、肩や腕の下へとわたしの指をはわせた。そうしておいて今度はクレールに懲罰の鞭を振るうよう要求したのだった。けれど、すでに打傷を負った尻に今新たに打ちおろされた鞭の打擲は、若い娘の身体をかすかにくねらせただけだった。
こうして身動きもかなわぬ姿を余儀なくされた自分の女友達を眺めるだけで、しばらくの間はクレールも満足そうだった。前よりはずっと投げやりな様子で、いっそう控え目に、むしろ優しさをこめたふうに、彼女は鞭を振るっていた。
わたしは再びかわいいアンヌの繊細な顔に両手をまわし、その顔をわたしのほうへ突き出すようにしむけた。そしてその口の上に身をこごめて、口づけをした。彼女の唇はわたしの唇の下で溶けた。それから一瞬身を起し、一段と彼女の咽喉《のど》もとを締めつけながら言った。
「もっと上手にやるんだ、かわいい娼婦」
また改めてわたしは唇を重ねた。従順な柔らかい唇と細やかな舌が口づけしたわたしの唇の下でやさしく動き始めた。その間も革の細紐は前よりいっそう容赦ない乾いた音を素裸の肌の上にたてつづけていた。
さて娘のすなおに動く項《うなじ》をわたしの太腿の辺りに下げさせた時、わたしとアンヌのすぐ傍らにクッション椅子を持ち出したクレールがその椅子の端と折り曲げた脚のひとつを支えにして半坐りになった姿が眼に入った。彼女はすでに鞭を放り出していた。そして空いた右手でなまなましい薔薇色の痕跡を留めたふたなりの丸い塊を慎重に愛撫していたが、その様をわたし自身ちょうど俯瞰《ふかん》するように眺め降ろしていたわけである。
熟練したその手は後ろからセックスの辺りへ近づき、再び割れ目のさなかへ押し入ったのだった。クレールがつぶやくのが聞えた。「すっかりぬれそぼってるわ、このかわいい娘《こ》ったら……」しばらくしてまた、「ちょっとした湖ね」事もなく口の部分を見つけたのだろう、親指がそのつけ根まで差し込まれた、再び引き出されると、更にもう一度|挿入《そうにゆう》された。アンヌは呻き声をもらし始めた。
その呻き声は、愛撫が繰り返されるにつれ、クレールの手が太腿部の狭間を往き来するにつれて、次第に長く尾を引き、吼《ほ》え立てるような声に変っていった。
わたしの坐った位置からだと指の動きを正確に追うことはできなかったが、時と共に強さを増してくる若い娘の叫び声で、ともあれことのなりゆきの上首尾が理解できた。
初めのうちはわたしとしても、娘のぬれた口に戯れ乳房の端をまさぐり、今はもう一定の調子を保ってうねるように律動する美しい臀部を打ち眺めることで満足していた。
しかし時を置かず、クレールといえども、こうした奇態な姿勢をさせて自分の女友達をわたしに差し向けている以上、その女友達をいかに尋常一様でない乱れた所業の危険に晒しているか十分承知しているにちがいないと思うに到ったのである。そこでわたしは自分のセックスを引き出すと、それを囚われの身の女のかしいだ顔に向けて突き出した。一時《ひととき》顔をそむけるなりをしたが、娘はあきらめたようにして身をまかせ、気に入るように実に巧妙にその唇を円く開いたのだった。明らかに以前そうした所業を強いられたふうがあった。それからわたしは一方の手を彼女の項に当て、軽い情動のおもむくままに、手引きして彼女のすなおに動く頭を上下に動かしたのだった。
そしてひとたびこの淫らな娘が堪え難い刑罰の成果たる果実を刈り取り、すぐにでも極みに達そうとするのを感じとるや、わたしはクレールに叫んだ。
「鞭打つんだ、もう一度、今!」
クッション椅子に片膝つくようにして身を引いていたクレールは、なかでもとりわけ感じやすい部分、太腿部の内側や会陰の秘所めがけて猛然と鎖縛の娘に鞭を振るい始めた、そのためにこの不幸な娘は、思わず歓喜に溢れ、痙攣《けいれん》するように身をはね上げたのだった。
わたしは妨げなく自由にできるように両手で固く亜麻色の髪した娘の頭をつかんだ、そしてわたしの快楽の必要に応じてじっと留めたり、あるいは後ろから前へ、前から後ろへと動かしたのである。
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第七章 試 着
例の一場の催しが終った後、クレールがわたしに言明したことがあった。それは爾後このわたしにあのかわいいアンヌを欲しいと思う時があれば、いつでもわたしに委ねるし、想うがままに楽しんでもよいということであった。仮にその若い娘が十分気に入らないと思い、あるいは彼女の側にまちがった身のこなしがあって、それが少しでもわたしの趣味に逆らうようなことでもあれば、最高に残酷なてだてを用いて厳格に懲罰を加えてもよいというのである。
サン=シュルピス街のバーで当事者を前にして承認されたこの取り決めは、すごくわたしの気にいった。
もっともそうした特権をいち早く享受したい必要を感じたわけではない。その後の数日間、わたしたち三人は街のレストランでうちそろって夕食を共にすることで満足していたし、水入らずの奥まった一隅が互いの孤絶を容易にしたその席で、わたしは折々、なかでもいちばん当り障りのない自分の権利をゆっくり味わったりしたのである。クレールも完全な女奴隷がみせる巧みに、自分の生徒がどれだけ上達したかためすような監視の眼を配っていた。
時として、給仕人や場所をまちがえた客の不躾《ぶしつ》けな視線が、三人ともおしだまったその場の光景やあるいは奇妙な言葉を交わしている一場を不意に襲うことがある……。そういった時の、かわいいアンヌがさらに困惑を増すちょっとしたスキャンダルは、わたしたちの熱情を駆り立てるのにすばらしく役立ったのだった。
万が一そのような前戯めいた所業が極端にわたしの欲情を煽った時などは、人影のない通りに駐車した自動車の助けを借りればよかった、車の中でわたしは若い娘に接吻させ、愛撫させたのである。
その週のある午後のこと、娘の女主人がひとりっきりの彼女をわたしに委ねたことがある。繁華な街の中心部に娘を連れてゆき、そこでこまごました下着類の買い物をしなければならないのであるが、わたしは娘のためにそれを選ぶ役目をおおせつかったのだった。
クレールはきっちりしたレースの腰帯や折り返した縁飾りを施した靴《ストツ》 下《キング》が好みだった。ブラジャーはといえば、乳房を完全に包み隠さぬ状態で下方を支え、できる限り先端部をむき出しのままにする極度に切り込んだ型しか認めなかった。アンヌがシュミーズもスリップも、そうした肌着の類を身に着けてはいけないこともあって、わたしたちの買い物は上の三つの品物に限られた。
その時ふとわたしはそれらの下着類を試しに当ててみる様を想像して、ちょっとした楽しみが待ちかまえているのにおもいいたった。けれど、フォブール・サン=トレノ街の飾窓の向うに、そのお店を管理する若い女性の愛想のよい顔を垣間《かいま》見た時、眼の楽しみを期待した試着の儀式になおいっそうの面白味の味をきかせてくれるいわば塩の存在を思いついたのだった。わたしはその日の朝もかわいいアンヌが荒々しい鞭の打擲を受けたばかり(罪滅ぼしのために、それも大して意味のない過失から)であることをクレールの口からじかに聞き知っていた。下着類を見たて相談をするのにわざわざ呼ばれた女たちが見せるにちがいない驚きを前にして、アンヌが身をよじらせながら示す羞恥の様はだから十分に想像できたわけである。
クレールはそれ以上のことを語らなかった、あの時以降わたしを腹心の友にみたてているからだろう。彼女がわたしたちと一緒に来たがらなかったのも、事態を面倒にしないためであったにちがいない。一組の男女ならけっしてうさん臭い眼でみられることもないし、むしろ当然のことながら信頼以上のものを受けることになる。ともあれわたしたちに必要なのは、ただ意にかなったひとりの売り子だけだった。しゃれた街の店でよくみかけるような若く、美しく、しかもけっしておびえて逃げだすことのない女の売り子である。けれど、役目として余り積極的な共犯者になる必要はない、単に理解力に富み、控え目な証人でありさえすればよいのである。
いま飾窓越しに見る若い女性は、その点でふさわしそうに思えた。店は十二分に豪華をきわめ、静かで、つい買いたくなりそうな商品の雛形でところ狭しと飾られている。その娘は、薔薇色のコンビネーションを浮び上るように飾った飾窓の向う側にいてお客を待っていたが、歳の頃は多分二十五歳と三十歳の間だろうか。褐色の髪をし、端正な容姿をしていた。わたしが自分をじっとみつめているのに気づいたのだろう、誘うようなかすかな微笑を送り返してきた。女性の下着を購《あがな》おうとする男はいつも勇気づけるように誘うほうがいいにちがいない。わたしとアンヌは中へ入った。
まずその美しい売り子が身体を向けてお買求めの品は何かと尋ねたのは、わたしの連れに対してだった。しかしそれに応《こた》えて、飾窓の中央に陳列された、白いナイロンのガーター・ベルトを指し示したのはわたしのほうだった。かわいいアンヌは例のごとくおしだまり、眼を伏せたままだった。
言われた品物とそれに同じような型をした他のいろんな見本をつけて差し出されたのも従ってわたしである。そこでわたしは自分が一等似合うと思う形を詳しく説明したり、前の部分と同じように後ろの側にも大きな切れ込みが必要だと固執したりしながら、持ち出されたそれぞれの品物の形の細部にわたって自分の意見を述べたてた。売り子はのみ込み顔に微笑を浮べると、今度は他のちがった品の品質について話し始めた。
ふたりの会話は愛想よく、しかも自然だった。誰もわたしの連れの控え目な態度にそう驚くふうもなかった。
「この品が」とわたしは言った、「なかでもいちばんいい線いってるね。けど少しばかり下がり気味じゃないかしら。これだとお腹の下の三角帯が十分にむきだしにならないように思うけど」
婦人はわたしをまじまじとみつめた。それから今度はアンヌのほうに一瞥を投げかけると、改めてまたわたしをみつめた。
わたしはその婦人に微笑してみせた。彼女のいささか困惑した様子がわたしの微笑をさそったのである。
「それだとあまり手頃というわけではないんだ、ちがう?」そうわたしは言い添えた。
「身に着けるのには手頃ですわ、絶対に窮屈なことなどありませんの」
「いや、身に着けるのにじゃないんだよ、君! これだと見る眼に邪魔だし……それに手のほうの邪魔にもね……」
わたしの言葉を聞くと、彼女の笑顔からお追従笑いが消えた。やはり微笑はしていたが、かすかに顔を赤らめたのだった。わたしはアンヌの側へ顔を向けて言った。
「試しに着てみたがいいだろう」
アンヌは「ええ、そのほうがあなたにいいのなら」と答えたが、その声が少し低すぎたために、はたして有効に利用されたこのきまり文句にある言外の意味を婦人が理解したかどうかわたしにはおぼつかなかった。
さらにわたしはガーター・ベルトに似合ったブラジャーもこの機会に一緒に試し着したいことを口にした。自分が望んでいる型がどういったものか大ざっぱに説明してみせた。売り子はためらうこともなく、店にあるなかでいちばんしどけない型をしたものをわたしに見せた。
選択が終ると、ついでわたしは、アンヌが身に着けている襞飾りのついたガーター・ベルトを売り子にみせるのを口実に、アンヌのローブを静かに内腿の高さまで持ち上げたのだった。
「こうしたものなんだ、ごらんのように……」
美しい売り子はともかくも意外な驚きに不意うちされてわたしの顔を穴のあくほどみつめていたが、そのうち見せつけられたアンヌのすべすべして露わな肉に眼差《まなざ》しを向けたのだった。
「ええ、わかりましたわ」そっけなくそう返答しただけだった。
わたしはゴム帯を包み込むようにして襞を取った飾りの出来具合を両手で引き延ばしたりしながら詳《つぶ》さに説明する間、かわいいアンヌに命令して自分でローブを持ち上げさせていた。
「もっと上へ上げるんだ」再度わたしは彼女に言った、「そして明かりのほうに近づくように」
彼女は即座に従った。こうして、よく調べるために身をこごめた婦人は、自分の客であるこの若い娘がパンティを着けていないのを確かめる余裕をたっぷり与えられた。そのうえ、クレールが娘の亜麻色の陰毛に含ませた強烈な香水の香もかぎとったにちがいない。
かわいいアンヌが試着室に入って身につけたものを脱ぎ、新しいガーター・ベルトとブラジャーに着換える間、わたしと売り子は、雨のこととか好い天気のことなどをしゃべりながら、外に居残っていた。とりわけあたりさわりのないこうした言葉のやりとりに、彼女はそつなく率直に応じてきた。しかしその顔にはあきらかに何か面白がるような、好奇心を駆られるような表情をたたえていた。わたしは事態をさらに極端に先へ進めてもよいことを読みとったのである。
試着室のほうにむきなおって、わたしはアンヌにきいた。
「さあ、用意はできたかい?」
なかから返事はなかった。
さらに父親のような慈愛と親しさを声の調子にこめて、わたしは言葉をついだ。
「ちょっと拝見させてもらうよ……」そう言っておいて、小部屋の閉じた紗幕《カーテン》のほうに向うと、かわいいアンヌと一緒になるためにそれを持ち上げた。
全身まっ白な姿を晒して、彼女は魅入られるように美しかった。身体には新しいブラジャーとガーター・ベルトしか着けていない。そのどちらもがひとしなみ優美なまでにしどけなかった。わたしはその若い娘を自分にぴったり引きつけると、口づけをしたのだった。
ほどなくして、店の婦人に声をかけることにした。わたしは紗幕の隙間から顔をのぞかせた。
「ちょっとこちらへいらっしゃい、どうぞ」
近寄りながら、彼女は大胆な微笑を湛えて、わたしの眼をまっすぐみつめていた。
小部屋は三人の人間が入っても十分すぎる広さがあった。アンヌは奥まったところに正面を向いて立っていた。売り子はわたしの傍らにとどまった。それにアンヌは、よく自分が見えるように両腕を身体から離していた。本能的に半ば口を開け、両膝を離して拡げてもいた。わたしは手首のいっぽうをさらに上に上げてやり、彼女の上半身を右へ左へと軽く回転させたのだった。
「ごらんのように」とわたしは言った、「どちらも実によく似合っている。けれど腰帯をつづめる必要がありそうですね」
褐色の髪をした若い女性はアンヌの方へ身をのりだし、ナイロンの下着と腰の窪みに指を差し込んだ。わたしは、こうした常ならぬ一場の見世物に彼女が実際に心を掻きたてられ始めているのが感じとれた。
「むこうをおむき!」つかんでいた手首を放しながら、それからわたしはかわいいアンヌに命令した。
両の手で自分の顔を隠して、彼女は身体をまわした。弓状にくびれ込んだ腰の下に露わに晒された臀部のふたつの盛り上りには、十ばかりの長く赤い条痕が交錯して跡をとどめ、繊細な肌の上にありありと浮き出していた。拷問がすでにかなりの時間前にさかのぼったことなので、全体の紅潮した色は跡を退《ひ》いていたが、ただ鞭の痕だけが亜麻色をした肉の上に眼もあざやかに残っていたのである。
わたしは美しい売り子に視線をやってみた。だが彼女は突然に暴露された眼の前の光景に心を奪われ、まるでその優美さに心動かされでもしたように、わたしのほうへ眼を上げようともしなかった。ゆるんだ腰帯の留金を調整しようとして胴囲りのところへ差し伸べられた彼女の腕は、自分自身と今はもう手を触れるさえ恐ろしい聖なる対象物との間にはさまれて、途中で凝固し、その恰好のままじっととどまっていたのである。
赤味を帯びた条痕は、なおよく注意して見ると、けっして尋常一様ではなかった。革の鞭がきわめて間隔の短いひと続きの斑点を描き出していたのであるが、それは編み紐のふくらんだ部分に呼応したものであり、ふくらみによって肉が他よりいっそう深く疵つけられたのである。クレールは非常に強い力をこめて打擲したにちがいない。いくつかの条痕は著しい肉の盛り上りを見せてさえいた……。わたしはそれに指の先でそっと触れてみずにはおれなかった、さらによく自分で確かめてみたかったし、かわいいアンヌに彼女の置かれた状況の恥辱をより感じさせてやりたかったし、あるいはこれほどまでに苦痛を堪え忍んだ彼女を慰めてやるためだったのかもしれない……。
「何でもないんだ」そうわたしは売り子に声をかけた。「気にしないで。この娘《こ》が余りいい子にしてないんで、ちょっとばかり鞭打たれた、ただそれだけなんだ」
わたしとアンヌはそれから五時に一軒のきわめていかめしい茶廊で女友達とおちあった、そこには幾人かの老婦人たちが小声で話を交わしていた。
先にきてわたしたちを待っていたクレールはすでにその店でいちばん好ましい一角を占めていた。その場所にクレールの姿を見つけた時のわたしの歓びは、自分でも不思議なくらいだった。もしクレールがいなければその日の一日は不完全なまま終ったであろう、あるいはいささかの値打ちさえもなかったであろうと、わたしはすぐさま諒解《りようかい》したのである。
そしてわたしは単に今日は彼女が美しいと口にしただけだった、それでさえすでに並大抵のことではなかった。
彼女は黙ったまま穴のあくほどわたしの顔をみつめていた。何事か、それもかなり遠い先の事を理解するふうだったが、それから思いもかけない共謀者の優しさをこめてわたしに微笑《ほほえ》んだのである。しかしまた急にわたしたちの買い物を見せてくれるようにも言った。
すでにかわいいアンヌがテーブルの上に置いてあった紙袋を、わたしは彼女に差し出した。中身を取り出して並べると、わたしが選んだ下着類のいろんな利点をわけしり顔にかれこれ賞味した。
例によって、そのために彼女が使った言葉は、きまって彼女の生徒アンヌの清浄な顔を耳のつけねまで赤く染めずにはおかない、いっとう淫らでいっとう屈辱的な言葉だった。彼女がこうして生徒に課す責苦の大した巧緻さには、わたしとしてはただ驚くばかりである。おそらく女性だけがあれほどの巧妙な残酷さで自分の同性の感じやすいところを見定めうるのだ。彼女のそういった言葉がほかならぬわたし自身に及ぼした効果は、なおまだわたしがクレールに期待することのできる一切を予見するてだてになったわけである。
ついで彼女は買い物の成り行きを尋ねた。わたしは簡単に例の試し着の場景のうちで最も刺激的な細部と立ち会った若い売り子に与えた強い印象のことを語った。
「それでこのかわいい娘《こ》はいい子だったの?」クレールがきいた。
わたしはいささか仏頂面をして曖昧に返答した、それは急に新たな拷問を要求したくなったからである。
今度はクレールは自分の女友達に話しかけた。
「さぞかしおまえは満足だったろうね? 自分がかわいい淫売婦だって皆に知られたんだものね?」そしていっそう激しく叫んだ。「さあ、お答え!」
「はい……。満足でした……」
「どうして満足なの?」
「鞭で打たれたことを……見せたので……満足なのです……」
ほとんど聞きとれないつぶやくような声だった。言われた言葉をわけもわからず繰り返しているのだろうか、それとも本当にそう思っているのだろうか?
「おまえは鞭が好きなんだね?」拷問執行人は言葉を続けた。
従順な唇が「はい」と言うように動いた。
「お立ち!」クレールが命令を下した。
クレールはわたしの正面に坐っていた。わたしの左手にいて、クレールとわたしの間に腰を降ろしていたかわいいアンヌは、テーブルに向って立ち上った。背中は奥の壁に向けられている。クレールは続けた。
「両手をテーブルにもたせかけ、前に身をかがめるの……。脚を左右にお開き……。膝をまげるのよ……」
娘はその通りに実行した。
誰も見えないのに乗じたクレールは、後ろからローブの下に手を差し入れた。そして即座にその結果をわたしに知らせた。
「もうぬれてるわ、このかわいいあばずれ娘は! 鞭を予告するだけでいいのよ……。ご自分で確かめてみたい?」
今度はわたしもローブの中に手を差し入れた。そして達者な二本の指が湿った唇の狭間を動いているのに触れたのだった……。
と、改めてわたしはさらにひどい乱行に及ぼうとするクレールの熱っぽい共犯者の眼差しにぶつかった。
その時茶廊のボーイが、まだすごく若い青年であったが、注文を受けにやってきた。わたしはそのため手を引き戻さねばならなかった。
クレールは逆に、坐った肱掛け椅子を壁の側に押しやり、少しは前より不自然でない位置を占めたが、続行中の破廉恥な取調べは中断しなかった。かわいいアンヌのほうは突然の恐慌状態に襲われ、さかんにまっすぐ立ち直ろうとあがいていた。といって、今女友達が続けている愛撫から完全に逃げ出そうとしたわけではない。両手で必死になってテーブルにしがみつき、腑抜けた様子で、狼狽《ろうばい》した青年を眺めやりながら突っ立っていたのである。
わたしはできるだけ時間をかけて、注文の品をこまごまと並べたてた。けれども、そのボーイは少しもそれに耳をかしているふうはなかった、というのも美しい娘が、眼瞼を大きく見ひらき、唇をあえぐように開けて、取り乱した表情をし、眼には見えない微風のままに身体をよじらせている姿を前にして、金縛りにあったように眼を離すことができなかったからである。
ほどなくして結局わたしは言葉をはさんだ。
「さし当ってそれだけだ」ボーイは恐怖におびえて逃げ去った。クレールが今度は静かな声できいた。
「さあ、おまえ、いい気持だろう?」
「かんにんして、どうかお願い」アンヌが一息に哀願した。
しかしクレールはなお執拗《しつよう》に苦しめながら言った。
「一体おまえはどうして欲しいというの、優しく愛撫されるのとひどく扱われるのとどちらがいいの?」それからわたしに向うと、「ねえ、ジャン、あなたこの娘《こ》が今日のお昼いい子にしていなかったっておっしゃったわね?」
わたしは、この若い娘が当然罰を受けるべきであることを肯定した。それに対しクレールは別に釈明を要求もしなかった。明らかに、それがまちがっているのを承知していたのである。
「いいわ」と彼女は言った。「この娘《こ》を泣かせてやりましょう」
かわいいアンヌが身体をよじらせ、顔を歪める姿は次第に苦しそうな様相を増していった。彼女の女主人がいままたローブの下で苦しめさいなみ続けていたのである。
それから数分、ひとりの給仕人が盆を手にしてやって来るのが眼に入ると、彼女は手を抜き取ってよした。
「こんなことで放免されたなんて思わないでね」と、彼女は言った。「で、あなたいつうちへいらっしゃる、ジャン?」
「明日の夜」と、わたしは答えた。「夕食をすませて」
「結構だわ。あとは明日のことにしましょう。おまえ、腰を降ろしてもいいのよ」
アンヌは椅子にどっと崩れた。
ボーイはさきほどの青年とちがっていたが、テーブルにテーブル・クロスを拡げ、コーヒー茶碗と皿を置き、わたしたちの動作には一切無関心だった。
クレールは自分の指の匂いを嗅いでみて、その上でアンヌの鼻先につきつけた。
「嗅いでごらん」そう彼女は言った。「何ていい匂いだろう、おまえは」
若い娘が再び顔を赤らめた。
「今度はおなめ!」
娘は口を開け、唇を突き出して、ほかならぬ自分の匂いの滲み込んだ指の先を優しくなめたのだった。
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第八章 浴室にて
次の日の夜、例のジャコブ通りでわたしはクレールに会った。身体にぴったり合った半ズボンと薄い黒地の毛編シャツといったお気に入りの部屋着姿をしていた。
その時のもてなしぶりはやはり冷淡そのものだったが、いずれにしろそれはいつもの調子である。彼女から遠く離れている時は、少しも寄りつき難くない存在なのだと自分では想像するのだが、こうして面と向き合うとやはり人を寄せつけないところがある。わたしたちはそれぞれ肱掛け椅子に腰をおちつけた。わたしはかわいいアンヌがどこかきこうともしなかった。
何か大して意味もない話題をいくつか交わした後で、わたしはつけ加えた。「だんだん暑さがひどくなってきたね。八月ももう真盛りだと言っていいよ」
クレールは、わたしがいつも見知りおきのどこか尊大ぶった無関心な態度でこちらを見た。そして、突然ある考えが心によぎったのであろう、皮肉というよりは親密さのこもった微笑を浮べて答えた。
「ねえあなた、わたしたち無理に洋服を着けてなきゃあならないなんて残念ね。でもわたしたちの役目柄……おわかりだろうけど……欠かせないわね……」
この≪わたしたちの≫という言葉には、よい前兆を告げる響きがあった。
「まったくだ」と、わたしは言った。「欠かせないね……。とくにあなたにとっては、絶対にだろう?」
彼女は同意してくれた。
「そうね、たぶんわたしにとってはとくに……」
そういう彼女の言葉つきには、どうやら少しばかり残念に思うふうなところがあった。同時に彼女の眼差しが前より虚《うつ》ろになり、すっかり無防備になった。何か他の誘惑がそっと触れてゆくのを自分に感じていたにちがいない。
彼女はいつものように美しかった、いやいつも以上に美しかった……。わたしはだからあえて婉曲《えんきよく》に接近を試みてみた。
「そんなふうにすっかり着込んで、暑いとは思わないの?」
クレールは微動だにひるむこともなく、わたしの顔をまじまじとみつめた。しかしその表情はとつおいつ堅くなっていった。ついには眼のまわりに皺《しわ》を寄せ、唇の角を突き出し、嘲笑するような軽蔑《けいべつ》の身振りをした。
「いいえ、一度も」彼女は答えたのだった。
そう言っておいて、肱掛け椅子から身を起した。
「かわいいアンヌの準備がととのったころだわ、いらっしゃい!」
すっかりいつもの自信を取り戻していたのだった。
彼女がノックもせずに押し開けた扉は、わたしのまだ一度も足を踏み入れたことのない部屋へ通じていた。そこは浴室だった。
このような時代を経て古びた建物にはきわめて異例の広々とした間取りやその贅沢《ぜいたく》さは、いずれも、真新しい設備がまちがいなくクレール自身によって施されたことを如実に物語っていた。彼女は浴室のためにアパルトマンのまるまる一室を当てたにちがいない。
淡い青色をした磁器の衛生器具に加えて、ともあれわたしが驚かされたのは、部屋の一隅を占める普通の大きさをしたクッションつき長椅子の存在である。そのすぐ傍らに、長椅子に対して垂直に位置し、奥の壁に面して浴槽があった。それは他の器具と同じように青色を帯び、壁と同じように白い陶器のタイルで飾られた巨大な嵌込《はめこ》みの浴槽だった。
かわいいアンヌはその浴槽の中にいた、扉の側を向いて立ったまま、両手で身体に石鹸《せつけん》を泡立てているところだった。
指をひろげた掌を本能的にセックスと乳房の辺りへ滑らせ、できるだけ覆い隠そうとした、だが、彼女の女主人がじっと視線を注ぐだけで十分だった。そうした羞恥心の動きを即座に諦めて中断したのである。ぎごちない、おずおずした様子をみせながら、小さな手をとつおいつ離し、はては両腕を身体の両側に垂らし、掌を開き、顔をうなだれたのだった。
亜麻色がさらに薔薇色を加えた彼女の肉体は、所々に盛り上りまっ白の泡をなして点在した石鹸の光沢を帯びてきらきらと輝いていた。身体と四肢の繊細優美な円やかさを眼にすると、それだけで余りに烈しく触れてみたい欲望をそそられ、結果ゴムのようにたわむ肌が手の間を動きに応じて滑るような、ぬれてねばねばし、生温かいからみ合いの印象を触れる前にすでに身に感じてしまうほどである。
クレールが長椅子を指し示したので、わたしはその上に半ば身を伸ばした。彼女自身も浴槽の反対側になった一角に斜めに腰を降ろし、まださきほどからじっと動かない女友達に一瞥を投げた。
「続けるのよ、さあ!」
若い娘は言われて再び石鹸を使い始めた。だが、ひとりの時とはちがってそうした動きにおずおずしたところがあるのを見て取ったのか、クレールはアンヌの細々した動作に指図を与え始め、石鹸でこするべき場所やとらねばならないポーズ(仕事をいっそう容易にはかどらせる実際の目的があってか)あるいはごく軽やかに触れる場合の動きのゆるやかさとかすばやさをいろいろ指示したのである。
身体のあらゆる部分にそれはくまなくゆきわたった。正面や背後から、上半身をまっすぐしたり、かがめたり、片脚を持ちあげたり、また太腿を大きく開いたり、両手を項《うなじ》の後ろにまわし、頸筋をそっと触れ、乳房をマッサージしたり、あるいは臀部の狭間に手間どったり、とまれ浴室で考えられるあらゆる姿態がわたしたちを前にして履行されねばならなかった。クレールはもちろんのこと悦にいってなかでもいちばん秘められた、いちばん慎みのない姿態にまたしてもこだわったのである。
二、三度繰り返して、もっとよくわからせるのを口実に、彼女は熟練した指を使って協力しさえした。そうした役目をはたすのに彼女は、執念深いほどの真面目《まじめ》さと仮借ない正確さを持していたが、そのせいか彼女の次第に募りゆく興奮は一部分覆い隠されていた。それでも自分の生徒に語りかけ、あれこれ手で指図するその様子に一段と凶暴な獣性がこめられてくるのを、わたしはなんとなく見抜いたのだった。
一方かわいそうな娘のほうは、楽でない姿勢を長時間強いられ、度を過した探鑿《たんさく》を受け、見世物めかした四裂の刑に処せられても、模範的なまでに従順な態度を保ち続けていた。
そしていよいよ最後ついにお湯に身を沈めてもよい段階が来ると、袖を捲り上げたクレールは浴槽に再び身を乗り出し、自分からアンヌのごく秘められた身体の隅にまだ残っている石鹸の、最後の跡を取り去ろうとした。彼女はほしいままに時間をかけてゆっくりとそれを行なった。お湯の中につかった女友達の身体は、彼女のちょっとした刺激にも反応したし、これ以上考えられないほどの放逸さ、満足さを見せながら、表を向け後ろを見せ、伸ばしたり折り曲げたり、拡げたり閉ざしたり、されるがままに身を打ちまかせていたのだった。
わたしも長椅子に身を添わせたまま浴槽に近寄った。アンヌの頭がすぐそばにあった。彼女の女主人は、両手を頸の周囲にまわし、頭ごとお湯の底に突き沈めてしまいたそうな顔つきをしながら、徐々に締めつけてゆき、最後の仕上げを終えた……。
クレールは微笑を浮べていた。けれどかわいい娘のほうの緑色した眼には、けっして見せかけでない恐怖の光が募っていった。
それでもまた命令が下されると、眼瞼を閉ざし、自分の両手を背中の後ろに隠したりして言われるままに服従する、その様は彼女の置かれた身が無防備な餌食であるのをいっそうあからさまに見せつけていた……。さてクレールは、実にゆっくりとアンヌの顔をお湯に沈め続けていたのだった……。
かわいいアンヌは諦めきってされるがままになっていた。
ちょうどそうした時のこと、クレールのこの腕がわたしの注意を惹《ひ》きつけた。もちろんそれはきわめてすぐれた恰好をしていて、これまでに思っていたとおりである。にもかかわらず、これほどまでのしとやかな魅力を秘めていたとは予想もしなかったのだ。
生贄《いけにえ》の代りに自分自身がみつめられている気配に彼女はすぐに気づいた。そして今度は、自分に注がれた視線をそらせるつもりで、執拗《しつよう》にわたしへ眼を凝《こ》らした。
わたしは彼女に微笑んでみせた……。さらに、彼女が大変すばらしい腕をしていると口に出して言った……。
と、わたしをみつめ、視線をそらせようとした企てを放棄して、彼女は昂然《こうぜん》と立ち上った。その時すぐ予測できたのは、何がしか彼女の心の動揺をかわいいアンヌに対した仕打ちにいっそうの激しさを加えることで紛らわすほかないということだった。
「お立ち!」彼女は命令した。
言われて即座に立ち上った娘の脚を、彼女は乱暴に開かせ、両手を背中にまわさせた。
「動かないで!」
しとやかな身体に水がしたたった、顔と頸筋の片側全面へまがりくねった束になって垂れ懸かった髪にも水が流れていた。
クレールは挑《いど》むように一瞥を投げてよこした。
「かわいい泉が湧き出るのをごらんになりたい?」
「もちろん見たいね」わたしは答えた。
「いいわ、ごらんなさい!」
恥骨の辺りの一杯に水を含んだ毛を片手にすっかりつかむと、彼女はその下の唇を開いて、奥深く指を差し入れた。かくべつに用心をしなかったため、若い娘に痛い思いをさせたにちがいない、身体が苦痛でゆがんだ。さらに痛めつけられる苦痛にあえぐ娘に、じっと静かにしているようクレールは厳しく命じ、それから言い添えた。
「この方《かた》に美しい泉をお見せ」
しかし、威嚇する声の調子が、この言葉のやさしい子供めいた言いまわしには全然合っていなかった。
娘はすぐに従った。膝をごく軽くかがめ、上半身を前に突き出し、そして眼を閉じた。両腕は腰のくびれた辺りにしっかり固定していた。無色の液体がクレールの指の間に迸《ほとばし》り、湧き出る泉の音を立てながら、下の浴槽の表面を打った。
クレールはしばらくの間セックスの葩華《はか》をもてあそび、また迸る流れにたわむれ、ひろげた手に受けたり、一方の内腿にそって流れさせたりしていた。
そしてこのわたしは、告白するが、こうした光景が与える楽しい思いに身もそぞろになり、その明快で驚嘆すべき甘美さを眼《ま》のあたりにして満足感で一杯に満たされていたのである。
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第九章 ゴシック様式の部屋
ながい間クレールは生温かいシャワーを浴びせて汚れた女友達の身体を洗った後、今は優しさと細やかな心やりをこめて、浴槽から彼女を助け出してやった。自分から水気を拭きとり、さすり、磨き上げ、やさしくなでてやったのである。
ついで小さな狭い三角形をなした毛に刷毛《はけ》をかけて梳《くしけず》ると、霧吹きで香水をかけ、同じように乳房や腋の下や頸筋、臀部の内側やその中央を分けた溝《みぞ》に香水をふった。
髪の毛が小型の電気ドライヤーですばやく乾いていく間、娘の口と両の乳首へ鮮やかな薔薇色を念入りにぬりつけもした。
これ以上この若い娘を粧《よそお》わせ、飾り、大切にするにはどうすればよいかわからぬほど、彼女は優しさに溢れた様子を見せていた。娘を前にして弾性気泡ゴムでできた淡青色の敷物に跪《ひざまず》くことも、娘の肉体の気にいった場所へところかまわず口づけすることも、彼女はけっして厭《いと》わなかった。
こうしたしぐさの仕事をまるで母親か侍女のように、あるいは人形をもてあそぶ子供のようにいちいち片づけながら、彼女はわたしのためにそうした自分の仕上げについて声高に註釈を施し、どの香水を選ぶがいいか、口紅の色合いはと意見をただしさえした。
さて、一切が完了すると、今度はわたしが昨日購った例の折返しに刺繍《ししゆう》のある靴《ストツ》 下《キング》とガーター・ベルト、それに白いブラジャーを着せてやった。眼の前で自分の作り上げた傑作を回転させてみて、もういちどつぶさに閲すると、長椅子のほうへ押しやった。
「さあ、おまえをお気にいりの御主人に口づけなさい」
娘はわたしの傍らにやってきて、身体をほとんど横に伸ばすと、今まで思ってもみなかった辛抱強さと優しさのありったけをこめ、長い間わたしの口を愛撫したのである。わたしは腕を胴囲りのくびれに押し当て、娘の身体をさらに自分に密着させた。
ついでわたしは一方の手を彼女の背骨に添ってはわせ、項まで持ち上げ、自分の頭部を動かさなくても、ふたりの唇の触れあい、こめる力の度合、時間の長さを調整できるようにその場にとどめた。娘はいつとはなしに腰をゆすり始めた、それは、わたしの身体に添い、彼女の身体の端から端へ波打ってゆくうねるような動きだった。
その瞬間、わたしはクレールの表情が見たいと思った。亜麻色の髪をした頭を脇へ押しやり、娘の顔を肩にやった。
クレールの視線は娘のくねる尻から項に当てたわたしの手へと往き来し、わたしの眼差しにうちあたった。かわいいアンヌは今はわたしの首のつけ根に唇を押しあてていた。
その女主人が、突然もう自分が関与するなにものもないのを感じた眼の前の抱擁にやっとのことで耐え忍んでいるのがわたしにはわかった。さらにわたしは時間をかけてこの試煉を引き伸ばしてやった……。
ずっとクレールを眺めやりながら、耐え忍ぶ苦痛が激怒の極点に達するまで、時をかけ試煉を味わわせてやったのである。彼女は長椅子の近く、ほぼわたしたちから二メートルも離れない位置に立ちつくし、抱擁したふたりを引き離そうか、そのままにさせておこうか、思い惑っていた。
ほどなく、娘を後ろに投げ出すようにしてわたしは身を振りほどいたのであるが、クレールは娘を起して、自分からわたしの横に腰をかけた。
「さあ! かわいい娼婦さん、おまえ誰をたかぶらせてると思ってるの? ジャンがここにいるのは、おまえの拷問を見物するためなのよ。苦しみを十分に耐えた後で、もし望まれるなら、この人にまた口づけをしておやり」
「もちろん結構」わたしは静かに言った。「で、何を始めようというの?」
儀式となったならわしに従い、生贄はタイルの上に跪き、拷問執行人の前へ平伏し、まず自分がこれから服す責苦の委細へ耳を傾けねばならなかった。
彼女は処刑の部屋で石の円柱に縛りつけられる。太腿の前側と腹部の三角帯に鞭をしたたか受ける。さらに火で赤く焼けた細い針を使い、身体のいちばん感じやすい部分を焼かれる。そして最後に乳房を血のにじむまで鞭打たれるのである。
努めて平然を装った声で、クレールは、わたしが針の類を用いて女を責めた経験があるかどうかきいた。「おわかりだろうけど」と彼女は言った。「すごく面白いの。それにほとんど痕が残らないしね。刺し傷には少しも危険がないのよ、針の先を炎で殺菌するんですもの。それにとりわけこのやり方は恐ろしいまでに痛めつけるの――そうじゃなくって、おまえ?――おまけにその効果が鈍らないまま、同じ場所に何度も続けることができるのよ、際限なく……」
ゴシック様式の部屋はいつか写真にあったのにそっくりだった。鉄の寝台、黒と白の大きな市松模様を描いた床、窪みになった狭い窓と、その横できわめて高い天井の穹窿になった部分を支えている二本の石柱。窓は赤いビロードの紗幕が蔽い隠していた。壁に取りつけた突き出し燭台《しよくだい》と投射光を天井に向けた勾配を自在にできる三基の大燭台からは、間接の散光が漂っていた。峻厳で同時に打ちとけた感じのこうした総体は、心なし祭壇場《シヤペル》の印象をかもしていた。たしかに好奇心をそそるこの奇妙な部屋は、古色蒼然の珍しいアパルトマンにしては少しも意外でなかった。
部屋にはそう間隔をとらずにふたつの革でできた肱掛け椅子が置かれていたが、わたしたちふたり、クレールとわたしはその上に腰を降ろした。
咽喉の乾きをクレールが訴えた。もちろんのこと冷たい飲み物を取りに行かせられたのは、さきほどと同じ身繕いのかわいいアンヌである。刺繍《ししゆう》のある靴《ストツ》 下《キング》(靴は履かずに)、白いナイロンのガーター・ベルト、それに同じブラジャーといった彼女の艶っぽい姿は、眼の楽しみにしたいと思う部分のいたるところを裸のまま露わに晒していた。
飲み物を運ぶとかわいい娘は跪いてコップをささげ持たねばならなかったが、わたしたちが咽喉をうるおしている間も、そのままの姿勢で終るのを待ちながらとどまっていた。
事の成り行きで強いられたこの姿勢は、すでにわたしが賞味する機会に恵まれたものと変らない。太腿部を開き、身体をまっすぐに立て、両腕は持ち上げ、唇を離していた。緑色の大きな瞳が深い、ほとんどこの世のものとも思えぬ光を湛えて輝き、わたしたちを数世紀も昔に遡《さかのぼ》るキリスト教殉教者の法悦の場へ連れ戻したのである。
わたしたちは三人ともが、この夜に告知された拷問がけっして想像だけのものでないのを承知していた。これからすぐにこの眼の前にいる若い従順で優しい娘から、最高に情欲をそそる苦悶《くもん》の痙攣をもぎ取るのだと思うと、今でさえすばらしい彼女の肉体が譬《たと》えようのない魅力に溢れてくる。わたしは彼女の方に身を寄せ、間もなくわたしたちを歓ばせる限りに容赦なく打擲して傷つけることになる身体の、丸味を帯びた部分やくぼんだところに指の先でそっと触れてみた。
彼女のセックスはまだ湿っていた、がおそらくさきほど浴室で行なった口づけ来のことであろう。彼女の屈辱的な姿勢や強要された破廉恥の様が、あるいはこれから課される責苦へのわななく期待が、クレールの欲したように、十二分に彼女を興奮させたのでないとすればである。
さらにわたしは局部にねらいを定めて触れ、彼女の情欲をなおいっそう煽りたい欲求を感じた。が、すぐに、こうした残酷な瞬間、彼女が自分自らを愛撫するのが見られればこの上なくすばらしいにちがいないと思うにいたった。
「初めこの娘《こ》に自分で愛撫させたらどうだろう?」と、わたしはクレールにきいた。
当然ながら彼女は同意した。けれどその前に、あらかじめ娘の眼へ眼隠しを当てたがった。娘は命令に従って立ち上り、部屋の一角の低い調度の上に並べ置かれていた眼隠しと、それに言われた鞭を取りに去った。手にしたものを女主人に差し出すと、再びかわいいアンヌはもとの姿勢に戻った。
クレールはその物をわたしに見せた。鞭はいつかのものとちがっている。編み紐状の鞭ではなく、もっとしなやかでもっと切れ味の鋭そうな一本の単純な革の紐だった。時を移さずクレールはそれを娘の内腿に試みてみたが、娘は顔をのけぞらせながら眼瞼をひきつらせたのだった。一条のうっすらとした赤い線が滑《なめ》らかなその肉を横切って浮び上ってきた。
「このかわいい淫らな娘が選んだのよ」とクレールが言った。「これを今朝買ってきたのはほかならぬこの娘《こ》なの」
ついで引きの強いゴム状繊維で締めつけるようになった黒いビロードの細帯を使って、クレールは娘に目隠しを当てがった、それは彼女の扮装を魅力的に補って十分だった。
ずっと跪いたままの姿勢に投射光のひとつを向けると、今度はいよいよ自分で自分を愛撫させられる仕儀にいたった。乳房のふくらみから始めて、ブラジャーからむき出しの薔薇色にぬられた乳首へ、さらに白いナイロンの襞飾りがアーチ状の曲線を形どったその下に見えるセックスの内襞へと。できるだけわたしたちの視線を指でさえぎらないように、両手を十分に拡げて使わなければならなかった。
その間、わたしたちは静かにオレンジエードのコップを飲み乾しおえた。
まるで申し合わせたように、クレールとわたしのふたりは全く同じ動作をして互いに顔を向けあった。わたしは例の最後の写真、かわいいアンヌがモデルになっているのではない、何か眼前の光景と類似する場面を写していた例の写真のことを想いやっていた。
クレールも同じようにあの写真のことを考え……わたしがやはり想いやってるにちがいない……そう考えている様子がわたしにはよくわかった。彼女の表情は半影を宿してはっきり見えなかった。けれど、そこにはいつかと同じ心の動揺の影が再びはっきりと見分けられたのだった。
アンヌはもちろん分厚い目隠しを通して何も見ることはできない。そこで物音をたてないようにしてわたしは身体を起すと、横に坐ったクレールの肱掛け椅子へ身をこごめた、不意をつかれてびっくりした顔がわたしのほうに向けられていた、初めは辛うじてその唇へ軽く触れるていどだったが、ついですっかり口を合わせると、次第にその口は解けほぐれ始めた……。
「わたしにかまわないで」突然そう大声で叫ぶと、今度は彼女のほうが立ち上った。
自分で考えていた予定にないこうした感情の動揺に排口《はけぐち》を求めるように、彼女は跪いた眼の前の娘に立ち向った。生贄には打擲をさまたげる余地もないまま、正面から太腿部を打ちつけようと、鞭を手につかんだのである。
クレールは口走りながら鞭をふるった。「自分で愛撫するのよ、娼婦!」が、逆に娘は焼けるような痛さに動きを止める。と再びクレールが鞭を振りおろす。「愛撫なさい!」恐怖に気も狂わんばかりになって、性急に娘は手を動かした。「もっと上手に!」クレールが口走る、そのあげく容赦ない一撃が太腿部を激しく見舞う。
我慢できなくなったのか、ついにクレールは娘を押し倒すと、猛烈な勢いで自分から愛撫し始めたのである。
娘は押し倒されて仰向けに伸び、両膝を立て、腕は頭の両側へ床の上に平らに横たえていた。クレールは片膝つくと、上半身を餌食の上へ傾けた。
ほどもなく、その餌食の口から長く尾を引く呻き声がもれた。そして時を置かずすっかり自制心を失くし、咽喉の奥から間断なく叫び声をたて続け、口はあえいで大きく開いたまま、顔をのけぞらせていたのだった。
「ごらんなさい」と、クレールがつぶやいた。
「この娘《こ》は歓びに身をひたしていると、何てきれいなんでしょう、このかわいい売女《ばいた》は……」
さて、わたしは、その娘が湧き上る欲情の律動に合わせて身体をくねらせ、さらに指を引きつるように握りしめながら、頭を右へ左へ打ち振るのを眼にしたのである。時到ると彼女は立てた両脚を一気に伸ばして横向きになり、身体をふたつに折り曲げ、例の黒と白の市松模様の床の上に動かなくなってしまった……。
娘を見降ろして立ったクレールは、死体を扱うように靴の先で娘を動かしてみた。
しかしこれだけではまだクレールの意に満たなかった。若い娘が身に纏ったブラジャー、ガーター・ベルト、それに靴下の一切をはぎ取ってしまい、ただ眼に当てた黒い目隠しだけといった姿にする必要があったのだ。
鞭を打ち振り、娘をわたしの肱掛け椅子の前に再び跪かせた。そしてもう一度始めるように命令を言い渡したのであるが、さらにその上羞恥と同時に快楽のきわみである別の行為を言い添えた。
「おまえのかわいいお尻にも手淫なさい、いちどきに!」
言われるがまま、従順な娘の残りの手が後ろから差し込まれた。おそらくその部分がきわめて感じやすかったのだろう、前よりもずっと激しく娘は昂ぶったのだった。
けれど今度はそうした所業を最後のきわみまで運ばずに、クレールは娘をいきなりつかむと円柱のひとかたへ引き立て、その石の柱に背を向けて立たせた。瞬《またた》く間に、腕と下肢を横に開き、両の手足は後ろへまわし、立ったままの姿で娘は縛りつけられたのである。
わたしは投射口をそちらの側へ向けて照らし、近寄って行った。手首と踝《くるぶし》が、ちょうどパリの流行《はや》りの装身具を扱う多くの店で見かける、それに良人に愛された大部分の若い女性がよく身につけている平たい革の腕環のように、二対の正反対の側に位置した環に固定されていた。上のほうの環は身体をいためないていど、最大限に伸びきらせるため、かなりの高い位置(二メートル足らず)にとりつけてあった。
クレールは再び荒々しい愛撫を始めた。が、その生贄を突き貫く様が余りに夢中の度を過していたせいで、生贄からしぼり出させる叫び声がはたして苦痛によるのか、快楽のためなのか皆目わからないほどであった。
とはいえ再度クレールが大きく開いた太腿部と腹部の下方めざして笞刑《ちけい》を課し始めるや、そうした疑いの余地はもはや一切残らない。計算された打擲の次第に増してゆく激しさ、その巧妙さ、とめどない反復が、紐で娘をきつく縛っているにもかかわらず、娘の肉体をあらゆる方向にのたうちまわらせたのである。その嬌態《きようたい》はまたきわめて美しさに溢れていた、そのために眼前の供犠《くぎ》が遂行されてゆくに従って、わたしの驚嘆はいやましに募っていった。
鞭を振るのに疲労を覚えたクレールはいったん一息入れることにしたが、その機《おり》に、囚われの娘があげる咆吼《ほうこう》するような叫び声が街中を驚かせないよう娘に猿ぐつわをかませたのである。
ついで、金具の支えに使いやすいように載せられた、小さなアルコール・ランプを手の届く位置に引き据えた。いったん燈心に点火すると、そうした目的のために工夫された台を使って、炎の中へ器具を並べた。
わたしはその長い金属の先端が極度に細い針を驚きいって打ち眺めた、もう一方の端には細い木の柄が鞘《さや》のように蔽い、指を火傷《やけど》せずに持てるようになっていた。鉄の針がまっ赤に焼けてくると、クレールはそれを使っていっぽうの乳房からもういっぽうの乳房へと心得た手つきで責めにかかった。さらにまた内腿の奥深いつけ根のまだ鞭がとどかなかった部分へと及んだのである。
彼女はゆっくり時間をかけて責め、情をこめて拷問にいろいろの手加減を加えた。まず初めは肌の表面に軽く針を触れさせ、ついで徐々に力を込めてゆき、最後には鋭くとがった先端を一ミリも肉の中にくいこませる。
娘の絶望的にのたうつ身体の動きが、クレールの仕事を少しばかり妨げていた。けれど、猿ぐつわをはめていてさえ聞えてくる、苦痛にあえぐ呻き声は、そうした彼女の労苦を報《むく》いて余りあったのである。
今やもうおびただしい涙が、黒い目隠しの下から生贄の鼻翼を伝って溢れ落ちていた。吐く息も次第次第に荒くはずんできた。
再びクレールの責めは胸元に立ち帰り、腋下の横の丸みや薔薇色をした乳頭の周囲を激しく攻撃し始めたが、その時、身体を四方にいっぱい拡げ離している環を強く引くので娘は四肢を引き裂いてしまうのではないかと思えたほどである。
つづいてわたしは鞭を手に取ると、約束どおり娘の乳房へとどめの一撃を見舞うためにクレールを押しのけた。そしてもはや抗いもがくことも虚しく慈悲を願うこともできない、わたしの意のままに供された若い娘をつくづくと眺めたのだった。
その上でわたしは腕を交互に無上の歓喜を覚えつつ彼女を打ち据えたのである……。
もろい肌が一条の血を含んだ切傷の縷《いとすじ》をなして裂け、そこで初めてわたしは腕をとどめた。
「この娘を離しておやり」そうわたしはクレールに要求した。「腕環も……猿ぐつわも……目隠しも取るんだ……そして寝台にねかせておやり」
クレールはわたしをみつめた。それから、一言も口にせぬまま、優しさをせい一杯こめて縛った紐を解きにかかった。
自分の女友達をわたしへ引き渡す前に、彼女は胸許へ強く抱き寄せると、長い間その口や眼瞼に口づけをしたのだった。そして結局娘は祭壇の上に身体を横たえられたのである。
かわいいアンヌはもう身動きもしなかった。身体の右側を下にし、壁に向って、半ば脚を折り曲げた姿で横臥していた。両肩と臀部には拷問のさなか石柱に押し当てた傷が跡をとどめていた。わたしは娘の脇に身を横たえた。そして自分の身体を彼女の身体の線にぴったり押し当てながら、背後から抱きしめたのである……。
あげく、彼女の苦痛などおかまいなし、半ば死んだも同じ娘の中へ深く入りながら、きわめて狭い竅穴《きようけつ》を犯したのだった。
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第十章 すべては秩序に復す
その夜、わたしは夢をみた。夢の中で再びわたしはゴシック様式の部屋へ入るのであるが、そこはずっと広々としており、天井の穹《きゆう》 窿《りゆう》も高く、何か子供時代に見た教会に似ていた。
裸体を晒《さら》した娘が、二本の円柱のそれぞれに、ひとりは正面を見せ、他のひとりは背中を向けて縛りつけられている。わたしは近づく。そしてふたりともすでに死んでいるにもかかわらず、まだ温《ぬく》もりを残しているのがわかる。どちらの身体も、三角形をしたおびただしい細身の短剣で思いのままの場所を突き抜かれていた。
どの傷口にもかすかに血が滴っている。指をやって確かめると、凝血し始める寸前だった。
わたしは血に触れた指の先を嘗《な》める。血は舌に快い、砂糖の甘さを含んだ味がする。果実のシロップにまがうほどである。
ちょうどこの時、もうひとり別の女がやはりゴシック様式の迫持《せりもち》窓の前、色鮮やかな焼絵ガラスを背後に配して姿を見せているのが眼に入った。他とちがってこの女は、ちょうどルネッサンス期の聖母像のように、豪華な襞取《ひだど》りをした大きな布で着飾っている。玉座の上に坐り、威厳を湛えて歓び迎える様で片腕を差し伸べている。彼女はクレールの顔立ちをしていた。わたしに向って静かに微笑を送ったが、それは遠くをみつめるような不可解な微笑である。
わたしが彼女のほうへ進んで行くと、次第にその姿は遠のいて行くように思える。
この大して意味もない、寓意的《ぐういてき》な様相を帯びた夢にわたしはひとりで北叟笑《ほくそえ》みながら眼を覚ました。前夜クレールが一言もそんなふうにもらしはしなかったけれど、自分は彼女の訪《おとな》いを待ち望んでいるのだと、いずれわたしは思ったのである。
それからほどなく、入口のベルが鳴るのが聞え、咄嗟《とつさ》にわたしは彼女にちがいないと確信した。洗面をすませた後もまだ身に着けていた寝間着《パジヤマ》の上に部屋着をはおると、わたしはドアを開けに立った。
クレールは青白い顔色で、心持ちやつれていた。何か罠《わな》に落ちた禽獣とでもいった美しさを湛えている。
「おはよう」とわたしは口を切った、「お友達の様子はどう?」
今度に限って、彼女はどの女友達のことかきこうともしない。
アンヌは元気だった。昨夜の饗宴《きようえん》に疲れ果ててこの時間まだ眠っている。あの後クレールは彼女を母親のように介抱した、そのせいで数日もすれば跡かたさえ残らないだろう。たぶん、それにしろ、肌が鞭で切り裂かれた部分の乳房に一条の光彩を放つ小さな傷痕をとどめるだけだろう。
「そいつは困ったことだ……」
「いえ」と彼女が答えた。「そのほうがすごく美しいの」
彼女は途方に暮れた様子で、わたしを面と見ることもせず、優しく話していた。まだふたりとも入口近くに居たのだが、わたしには彼女が何を望んでいるのか皆目見当もつかない。
「それであなたは」とわたしがいう、「ご機嫌よろしいの?」
彼女はわたしに投げやった眼を大きく見ひらいて、まじまじとみつめた。あげく、眼瞼を伏せると、低い声で答えたのだった。
「わたしやって来てしまったわ」
「結構」わたしは言う、「こちらへいらっしゃい」
部屋に入り、いったん肱掛け椅子に腰をおろし、その上でわたしは、襞のついたスカートと白いシャツブラウスを着て寝台の傍らに佇立《ちよりつ》した彼女を打ち眺めた。
それからわたしは命令を下す。
「服を脱ぐんだ!」
一瞬戸惑いがよぎっただけだった。わたしの前で、羊の皮の敷物の上に跪《ひざまず》き、ならわしとなった儀式にのっとって身に着けたものをひとつひとつ脱ぎにかかった。身体の輪郭は、彼女の写真のモデルとそっくりだった。モデルはパンティを着けていなかったが、クレールもまた裸のままである。
すっかり脱ぎ終り、裸身を晒すと、彼女は両膝を左右に開き、手を頭の上にもたげた。
数分間はそのままの姿勢でいさせた。
「わたしのほうをごらん!」
彼女は改めて眼を上げる。
「おまえは跪くのが好きかい?」
頭を首肯《うなず》かせて肯定の合図をし、小声でつぶやいた。「わたしはあなたのものなの……。好きなようにわたしをなさってちょうだい……」
「結構」そうわたしは言った、「寝台に横になるんだ」
彼女は寝乱れたシーツの上に背を下にして横臥した。
「脚をお開き!……両手を背中にやって!……口もあけるんだ!……」
一言も口をはさまず、彼女はそのとおり実行した。
さてわたしはやおら立ち上り、部屋着を脱ぎ捨てると、彼女の身体の上に半ば身を横たえた。一方の手は下から支えるために項《うなじ》の下へ差し込む。
「これまで一度もおまえは打たれたことがないね?」
彼女は首肯いた、が一方その両眼は不安で一杯になっていた。
「それでは、わたしが初めてというわけになる」
わたしは彼女の頬に右、左と一度、二度平手打ちを見舞った。そしてかなり長い間彼女の顔を眺めやり、彼女が美しい旨を言ってやる。
わたしの手がそのうち彼女の腹部へ伸びた。このまだ若い女の昂ぶりはそこに触れただけで眼にも明らかだった。
ずっと愛撫しながら、わたしは口づけをする。
今度は片肱立てて身をもたげると、前にも増した力をこめ、五、六回繰り返して再び平手打ちを見舞う。
「言うんだ、あなたが好きですって」そうわたしは命じた。
彼女はその言葉を繰り返した、「あなたが好きです」その上自分はわたしの奴隷であり、もしそれが楽しいのなら自分を死ぬまで打ちつけてもかまわないと言い添えた。
わたしは両の乳房からセックスへとさらに長い時間をかけ、前よりさらに的確に愛撫を与えた。あげくその指を彼女になめさせたりした。
再び口を彼女のそれに寄せ、わたしに口づけするように言い渡す。彼女は即座に応じ、熱心に、実に巧妙に、望みうる最高の心使いをこめて口づけをしてくれた。わたしのほうからはもちろん何もせず、ただひたすら彼女に口づけさせるがままにしていたのである。
唇はぬれて甘く、生ぬるい感触で、わたしの歓びに供されていた……。と、わたしは一気に唇を血の出るまで咬《か》んだ。苦痛と不意打ちの驚きに見舞われ、本能的な動きをおさえることができぬまま、クレールは頭をそらせた。けれどほどもなく自分の過ちに気づくと、再び顔をわたしのほうへさし戻したのだった。
そうした動作を罰するために、またわたしは平手打ちをくわせ、許しを乞うように要求する。
彼女は言った、「お許し下さい」その上で改めて唇をわたしの歯の間に入れさせ、わたしの咬撫《こうぶ》と彼女の口づけを、ふたつの涙の雫《しずく》が両眼の片隅に満ち溢れるまで交互に繰り返させたのだった。
それから再度わたしの手が彼女の内腿の狭間へ立ち帰る。この若い女は自分からさきほどよりもいっそう身体を開いていた。
わたしはとどめの一撃で彼女の身体を突き通した、その時彼女は時を置かず呻き声をもらし始め、わたしをジャンという名で呼び、わたしを愛していると幾度も幾度も繰り返しつづけた……。
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解 説
本書は、Jean de Berg: L' Image, 1956, Les Editions de minuitの全訳です。ごらんの通り、戦後フランスの実験的な文学作品が数多く輩出した出版社≪深夜出版≫で一九五六年に刊行されたわけですが、往時その新しい試みの成果であった≪ヌーボー・ロマン≫とはいささかことなった話題をこの本は提供したのでした。いってみれば、この小さな書物にはいくつかのスキャンダルがまといついていたのです。
そのひとつは刊行当時本書が≪発禁≫処分を科されたことです。具体的にいうと、初版の一千部と再版の五千部がともに≪店頭展示禁止≫および≪未成年者への販売禁止≫という処分を受けたのでした。いささか奇異な印象を抱かれるかもしれませんが、こうした処分問題はフランスではどちらかといえば日常茶飯事に属するようです。エマニュエル・アルサンの作品(最近映画化されたものまで上映禁止された)やベルナール・ノエルの『聖餐城』など裁判沙汰になったので、ごぞんじの方も多いと思います。俗称≪地獄≫といって国会図書館にこの種の発禁本を保存する部屋を用意し、すでにそこにはサドやボードレールを含めた問題の書が累積している国柄ですから、たてまえの背後で許されている自由は大きく、本書のスキャンダルもそう深刻な事態を惹き起こしたわけではありませんでした。いずれこの本の一場面と同じように、書店のカウンターの下辺りからそっと読者に手渡され、広く読みつがれているようです。
ただいずれにしても、本書が相応の発禁処分を受けた事実にまちがいはないし、この本の描写や思想性にそうした一面があるとすれば、このことは本書を読む上で十分考慮してみなければなりません。たしかに、≪恋物語≫といわれるこの作品は単鈍明晰な日常用語が一個の象徴性を帯びて新しい世界を再現させ、アルゴラグニアの宗教的秘事、いってみれば≪苦痛と歓喜の美学≫を秘めた心理小説であってみれば、社会的醜聞が語られること自体いわれなきことですけれど、やはりそこには社会という一定の秩序へ向けて放たれるこの作品自身が秘めた意義がうかがえるからです。本書のスキャンダルは逆に本書の存在理由のひとつでありうるかもしれません。
もうひとつの話題は、この本の作者ジャン・ド・ベルグなる人物が実在しないことから惹き起こされました。『エロチシズム文学傑作集』の巻末に付された作家辞典にも、ジャン・ド・ベルグについては何も知られていないと書かれています。いわば彼は謎の人物というわけです。当然正体をつきとめる推理が語られました。しかしひるがえって考えてみると、実在しない作家を推理し、話題の種にするのはこの作品に類したエロチシズム文学に特有な謎解き遊びでしかないということも事実のようです。いってみれば伝統的な一場の余興に過ぎないのです。『眼球譚』のアンジェリック、『O嬢の物語』のポリーヌ・レアージュ、『イレーヌの女陰』のアルベール・ド・ルーティジー、『エロスフェール』『エマニュエル夫人』のエマニュエル・アルサン、『幾何学の痙攣』のベーレン、『ガミアニ』のアルシド・M男爵など枚挙にいとまがありません。いずれも高名な作家や相応の人物が推定されております。
推測される実作者もその根拠も多様で、噂はかまびすしいこと限りありませんが、こうして客観視してみると、匿名で作品が発表されることとその実名を当てる余興には別様な意味が隠されているように思えます。ひとつは、エロチシズム文学と呼ばれるこの種の作品が特定の個人名など必要としない特殊な性質をそれ自身に持っているのかもしれないこと、ひとつは、作者を推定してみても作品の本質がそれで全面的に理解できることはないだろうということです。前者のエロチシズム文学が作家個人の名前など必要としないというのは、たとえば近代文学が作家個人の立場からその個性的な文学営為を始め、作品世界を作り出すとする前提に立てば、この種の作品は他ならぬ≪反近代性≫を帯びた文学ということになり、後でこのことには触れるけれど、それとあいまって実作者を推定してみても、一切がそれで判然とすることは何もなかろうと思われるのです。いわば反近代的エロチシズム文学と作家個人の存在は相反する二律背反をなし、作品を正当に味読するためには実作者探しなど切って捨てねばなりません。これが匿名で発表されたスキャンダルの実は本質をなす意味です。
余計なことですが、こうした作品群のひとつである本書の作者ジャン・ド・ベルグの仮面をはがすことはそうむつかしくありません。文章に使用された用語の頻出度や文体の類似性を統計的に計算してみれば、たちどころに現代フランス文学の有名な作家の名前を掲げることができます。しかし、それにはたまさかの一興以外に大した意味は見出せませんし、仮に実作者が判明して『イマージュ』が理解できたとしても、すでにその時はこの種の文学が持つ反近代性という特質の一面を見失なってしまったことになります。あますところなく作品の総体を味わうためには、虚構を虚構のままに賞味せねばなりません。少なくともそれが偽名で作品を発表せざるをえなかった作家、あるいは作品のありように対するおもいいれというものではないでしょうか。まして反社会性を考えるとなおさらのことです。
その点、さすがに本書へ序文を寄せたポリーヌ・レアージュはその辺の事情をよく心得ていたようです。彼女が『O嬢の物語』を発表してさんざんその正体を噂されたことから、今度はやはり正体不明の作家によって刊行された『イマージュ』の筆者名を推理することを、自分にまわってきた謎解き遊びであると書き出して、お読みの通りの奇矯な短文を展開しております。はたしてここにある推定や論理を一面的に信頼してよいものでしょうか? まず彼女はド・ベルグの作者名は男性であるが、女性洞察にすぐれた理由から、本書を女性の作と推定し、自分も同じ女性として、男女は決して平等でなく、むしろ隷属しているかに見える女性が主人であり、神そのものであり、逆に男性こそ下僕に過ぎないと女性の立場を強調しています。これが一面の論理です。たしかに真実のひとつをいい当てています。れいのマゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』をお読みの方は、男女の関係を一方がハンマー、他方が鉄敷になる他ないとする図式を思い出されるかもしれません。しかしこの論理はド・ベルグを女性とした仮定の上に構築されたもので、まして自分を知識人女性と呼ぶレアージュ自身女性であるかどうかも判らない仮のものにすぎません。いわば仮構の上に築かれた仮構であり、見方によれば嘘に上塗りした嘘にも見えてきます。第一マゾッホのように常に男性が鉄敷になりたい欲求を持つわけではありませんし、男は独自に自らの王国を宰領することさえできるのです。もう一面のそれが論理ですし、マゾヒズムやサディズムの言葉が使われるいわれであります。とすればレアージュの嘘、仮構の仮構という不確かさは何でしょうか。他ならぬ、逆もまた真といわれるしたたかな逆説のありようなのです。おそらくこうしたことを承知の上で女性という仮面をつけたレアージュは本書の作者にも同じ女性の仮面をつけさせて、奇矯な短文を綴ったものと思われます。虚構を虚構のまま賞味し、常に総体を把握する好例がすでにこの序文にあり、むろん『イマージュ』という鏡像=虚像をも意味させた作品もそのように理解し、味読すべきであるのはいうをまちません。
さて、アメリカの若い批評家(兼作家)として日本にも紹介されているスーザン・ソンターグによれば、ジャン・ド・ベルグの『イマージュ』は、前出の『眼球譚』『O嬢の物語』などと並び、とりあえず高度の内容を持ったポルノグラフィということになっております。白日の下で語られ、正当な文学史に位置される文学に較べれば、いつも暗い意識の闇に姿を紛らわせ、異様な光彩を放つマイノリティ文学の一群がすぐれたポルノグラフィであり、その暗流のさなかで第二次世界大戦後に発表された数少ない作品として『イマージュ』をみなすことができるわけです。むろんポルノグラフィとは任意の呼称であって、これら異端の文学は暗く閉ざされた世界、常識や社会の秩序や歴史の光がとどかぬ識閾の奥に据え置かれた祭壇上の赤く小さな鬼火でしかありません。そして、この暗さと異彩の炎のゆらめき、闇と光のたわむれる祭壇の世界は、今世紀になって初めて人々の意識にのぼった新たな光景であり、『イマージュ』もその一例であるように思われます。と同時に、近代が虚喝《きよかつ》な営為のまわり道をした果てに見出した太古の似姿であったかもしれません。
こうした予兆はすでにサドの作品に垣間見られました。彼の作品に語られる言説や描写、自然と悪に関連したコスモロジィを説く論理とかあらゆる様態のエロチックな所業を描いた絵巻が後世に脈々と続くエロチシズム文学の規範になったということをここでいおうとしているのではありません。おそらく読者の方は、サドがサン・フォンに代言させる宇宙の法則、永遠不滅の存在である悪に関する論理をご記憶でしょう。自然は悪であり、悪はすべての世界以前に存在し、永久に創造を繰り返しながら存在しつづけるという≪永久運動≫であります。あるいは、あらゆる偏見と束縛が消え去って、最大の罪悪にふける時、眼下に深淵をうかがいながら、そのまっただ中へ落ちて行くと語るオランプの≪深淵≫でもいい。またサドの作品全般を読んで、様々に説明される論理の世界とその微細にして宏大な論理の構築に較べれば、何やらそれほどの深みと拡がりを持たぬ具象的な情景描写とに感じる苛立たしい乖離を想い起こしてもらってもよいのです。これは後になってフランスの批評家ジル・ドゥルーズによって、「どこまで行こうと孤独な推論の円環を限りなくめぐらせるあの数量的反復過程」として正しくサド文学の特質に掲げられました。これらの一切は、ところでサドの作品に前兆しながら、決して踏み込まれることのなかった欠落領域として逆に見ることができるようです。永遠に反復する悪の永久運動の果て、落下する深淵の奥深い部分、限りなく巡られる推論の円環のたどり着くべき場所といったものが予言はされながら、ついにその暗闇にかすかな像を結ぶことがありませんでした。これが十八世紀の近代初頭に生きた教育者サドのとどまるべき限界であったようですが、それにしても落ちるべき深淵の予兆は垣間見ることができました。
十九世紀の末になっても、まだこうした二元論の世界はふたつの世界の狭間に割れた断層の果てを予言するだけにとどまったようです。『昼顔』でケッセルが描いたセヴリーヌというひとりの人妻は、偽りのない深い愛情、母性的な感情、健康、常規、昼の光、理性と、執拗な肉情の欲求、得体の知れぬ愛情、病気から生まれ出る幻影、錯乱、日陰に育つかずらのような本能、狂気といった相対するふたつの世界を往来します。だがある時、悪夢と恐怖にさいなまれながら、これら二様の世界の亀裂を落下して行きます。屈従の媚薬、悲惨な情念、拷問の苦しみの果てのどん底へ落ちるのです。そして、「彼女は今、誰も知ることのできない宝物を手に入れたのだ。彼女はついに恐ろしい自分の駆け足の到着点に達していた」と書かれ、ここにいう宝物と到着点は肉体的な歓びを超えたある種の精神的な喜びとして語られております。ケッセルの本をお読みの方はきっとお気づきと思いますが、ある種の精神的喜びというどちらかといえば瞹眛な言葉で語られる背後に、セヴリーヌの姿が一輪の≪不思議な花≫として浮び上っていたのでした。ただそれはあくまで一輪の花という言葉でしかありません。一瞬の幻視は再び日常に回帰し、この人妻は現し世の心垢に舞い戻ります。読者が瞬く間のぞき見たものは、たしかに暗い洞窟の奥深くに咲く向日葵の花に似た奇怪の花の姿でありましたが、また一片の象徴的言葉でしかなかったのです。いわば永久運動や深淵の果てるところに、たかだか不思議な花がうっすらと仄見えただけだともいえましょうか。
幻視はいつも現実におおいつくされ、一時の白日夢でしかないようです。幻影の占めるべき場所はいつも意識の暗い内奥へ消え去ってしまいます。ケッセルが一瞬あやかしの花の姿を闇の奥に結びかけても、まだ十九世紀の意識はそれをくまなく見つめることはなかったようです。だがたとえば二十世紀になって、『イレーヌ』のかくれた作者は次のように書いたのでした。それは壁の向うの一場の奇態な行為(男と女の)を見る主人公の言葉です。≪かれらふたりが自らの肉体を使って一個のピラミッドを築き上げた時、かれらは自らの想像力の極点へ到達したのである≫と。その営為は何か芸術家の様式を想わせ、優美な手つきの極めるところは大伽藍を建立することに等しい、物語の街のあやしげな一角、人々の口の端にのぼる暗い部屋に立ち現われるかれらは、一夜その街の家でシャルトルの大伽藍をゴシック様式の拱門ひとつといえど手抜きなく再現したのであると語られています。これは壁の亀裂の奥にある闇を見つめる上での実に重要な認識といえましょう。悪として語られ、常規と錯乱の地滑りといわれる奇異な男女の行為が、閉ざされたみすぼらしい空間で想像力の極北へ向って駆け登る作為であり、どんな微細な部分も欠かさずに、宏大な大伽藍を自らの想像力の世界に構築する芸術家の手練に同じであるというわけです。当然のことながら、深淵のさなかに垣間見た一輪の花は微細にわたるだけでない、様々な姿態、翳影と光のたわむれる動をともなった宏大な伽藍や祭壇の光景へ転化しなければなりません。おそらく『イレーヌ』の設定から、アンリ・バルビュスの『地獄』を連想された方もいるでしょう。むろん人口に膾炙した『地獄』を単に好奇の眼で見ていけない以上に、単純なペシミズムで割り切ってもいけない、むしろ作者バルビュスがフランス象徴主義の祖師マラルメの教え子であったことと同様に、常に二元性にとらわれながらも、また常に錯乱やみじめさや人間を想像以上の混成物とみなす方向へ新しい道を見出そうとしていたことに眼を向けねばなりません。それらはすべて闇であって、天国や光明に対置されたものでない、二元性のさけ目であり、≪死の観念≫と≪天国≫の観念の間にある≪地下の闇≫なのです。壁の向うにバルビュスが見出したものも、そうした地下の闇の中に次々とくりひろげられる新たな祭儀、想像力の極みというべきでしょう。これも二十世紀のごく初頭のことでした。いずれにしろ、深淵のさなかへ落下する意識、推論の円環と悪の永久運動を反復するサドからケッセルへと続く精神は、のぞき込まれた闇の奥に眼にもあやな新しく築かれた想像の世界を見出さねばなりませんでした。想像力の極みへ、仄暗い祭壇の光景を見出す作業は、能う限りのイマージュをくりひろげる二十世紀のマイノリティ文学の孤独な作為であったのです。
むろん文字通りの『イマージュ』もその例外であったわけではありません。すでに本書を卒読の方に宗教的な秘事を想わせるといわれる本書の細密画的描写やそこに織り込まれた女たちの崇高な美しさ、あるいは逆に男の醜さや前出のスーザン・ソンターグが最終的に指摘した喜劇性については逐一申しますまい。ただたまさか登場する薔薇の花についてだけいっておきましょう。たとえば、古代ローマのまだ屈折を含まない表現に、美しい少女の唇が薔薇の花に似たものとしてたとえられる例がありますが、これは今でも大方の読者の皆さんはご承知でしょう。こうした譬喩がその昔から際限なくくりかえされているからです。また≪薔薇の寝台≫として今でも辞書の慣用句に登場する言葉は、≪ここに快楽が棲んでいるのよ。薔薇の寝台の上で眠っているのよ≫(サド)と書かれたり、≪薔薇の花をまいた寝台の上に髪ふり乱したまま全裸で横たわっている美しい娼婦たち≫(テオフィル・ゴーチェ)と表現されたりしますが、ここには薔薇と快楽、薔薇と全裸の女性が結びつくだけの修辞しかないようです。≪ニンフの太腿≫というフランス語の綴りが、淡紅色の薔薇を意味するだけの譬喩の限界にとどまっているわけです。あるいはD・H・ロレンスの『薔薇園に立つ影』と題された短篇に出てくる薔薇園は、ひとつの修辞としてやはり同じように不倫な人妻のゆれ動く心の綾に背景をなしただけでした。この『イマージュ』に登場するバガテルの薔薇園は、その昔さる金満家がひとりの女性のために薔薇の花で埋めつくし、今日でもそのまま残っているのですけれど、それとて現し世の修辞しかないようです。あらゆる日常的な現実から隔絶されて、一個の薔薇の花だけが闇のさなかに想像された象徴として屹立するまでにはなかなかいたらないようです。バルビュスでさえ≪その口が露を含んだ薔薇の蕾かと見えた≫と書いています。しかし禁断の木の実を養う闇は≪口のように開き、心臓のように血をにじませ、竪琴のようにふるえ、香気を発散させる≫一輪の花=薔薇を時折再現させます。同じように、バガテル庭園にこの作品で現われる薔薇は、修辞や現実の虚飾から隔てられた、薔薇の花にして薔薇の花でないひとつの虚像として浮び上ってこないでしょうか? おそらく読者はこの薔薇に修辞や譬喩でない、幾重にもイマージュが透けて見えてゆく奇妙な経験を持たれるはずであります。それをしも虚構の虚構といってよいし、本書の他の部分に現われる奇矯な肉の姿態、この世のものならぬ数々の所業、ふたりの女性のそれとは知らず相向う鏡像のありよう、祭壇上の夢などについても同じことがいえるかもしれません。いわば一切がタイトル通りの虚像=イマージュと化して、日常から闇に隔てられた想像力の世界へたどる過程に孜々として展開されているように思えるのです。一輪の薔薇と共に、それは一夜築き上げられたピラミッドのひとつに数えてもよいでしょう。
さて、原始の人類について語る民族学などの本を読むと、≪イマージュ、それは再現されたオブジェである≫≪イマージュはオブジェそのものを作り出す≫と書かれています。ここでいうオブジェは自ら進んで血を流す雨乞いの生贄の、苦痛にゆがんだ肢体でもよい、祭壇に祭られ、燭火にうっすらと浮び出る聖体でもよい、いずれ太古の人類が作り上げた似姿は現実と相対したもうひとつのオブジェたる世界として顕現します。そして人はあくことなくそのオブジェの四囲を巡るのです。かつて自らを中産階級人とことわって「夜の言葉」を書いた高名な批評家ジョージ・スタイナーは、ポルノグラフィに対して、不毛の廃墟の上にまたひとつの小石を積み上げると非難の言葉を投げかけました。だが人類はいつの時もこうした反復、想像力の極点へ向けて大伽藍を建立することからまぬかれるわけではありません。いずれこの世界は不毛の廃墟でしかないとすれば、闇の奥に炎にゆらめく祭壇と生贄を配し、夜のさなかにオブジェとしてのイマージュ、虚像としてのイマージュを花咲かせてもよいではないでしょうか。とまれ近代という歴史をかいくぐって、無名の、小石に等しい、反近代的な『イマージュ』の世界を如上のコンテキストの中において、改めて味読してみるのも面白いかもしれません。
最後にこの訳書は一年前別の挿画入りの少部数限定版として牧神社で上梓されたことをおことわりしておきます。本文庫版に入れるに際して諒解をいただいた牧神社及びいろいろお世話いただいた角川書店編集都市田富喜子さんに深甚の謝意を表します。訳出に当って実にとるに足りないフランス語の疑問に答えていただいたマダム・エ・ムッシュー・ユゲにも謝意を記させていただきます。翻訳は底本に初版本を使用、一、二の単語を除き忠実にそのままを再現してあります。英訳本及びその英訳本から以前訳出されたものを念のため参照しましたが、欠落部分と誤訳がはなはだしく、それらすべては仏語版にもとづいて本書では正確に訳しました。
[#地付き]訳 者
角川文庫『イマージュ』昭和49年11月20日初版発行
昭和51年2月20日6版発行