風よ。龍に届いているか(下)
ベニー松山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)苦無《くない》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》
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(例)[#改ページ]
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CONTENTS
不死王
第一章 大災厄
第二章 森の彼方の国
第三章 不死者の都
第四章 不死王
第五章 魔道の終焉《しゅうえん》
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風よ。龍にとどいているか(下)
第六章 黝《あおぐろ》き記憶
第七章 煉獄《れんごく》編
転ノ参
第八章 剣を投じる者たち
第九章 生死《しょうじ》の輪転
終 章 薫風
作品解説
イマジネーション、地下へ 古川日出男
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不死王
第一章 大災厄
天は暗黒に染まっていた。煤煙のような雨雲が厚く層を成し、稲妻にその腹を鈍く光らせながら激しく渦を巻いている。
烈風を伴って、凄まじい雨が降り注いでいた。だが、それを豪雨などと呼んで良いものかどうか。
それはさながら滝だった。大藩布から零《こぼ》れ落ちる水流のように、膨大《ぼうだい》な質量を持つ水の塊《かたまり》が途切れることなく大地に落下してくる。
地上は泥の色をした濁流に覆われていた。泡立つ激流は森を呑《の》み込み、山を削り、大地を蝕《むしば》んでいく。嵐ではなく、津波に襲われているかのような有り様だった。
その泥の海から辛《かろ》うじて頭を覗かせている小高い丘の上に、ドワーフ族のものと思《おほ》しき巨大な城館があった。
城館、と言っても、通常の館に当てはまる大きさではない。堅牢な城壁に囲まれたそれは、小さな郡市と呼んでも過言ではない規模を誇っている。
しかも、その城館は文字通り氷山の一角にしか過ぎぬものだった。
城館の地下――岩盤質の丘をくり貫《ぬ》き、さらに地中深く網の目のように延びた広大な坑道こそが、この大陸のドワーフ族の大半が生活する地底王国の真の領土だった。城館は多重構造を持つ地下都市の最上層であり、ほんのわずかに地表に突出した部分でしかないのである。
良質のミスリル鉱を産出するこの土地に、最初のドワーフたちが王国の礎《いしずえ》を築いたのはもう気が遠くなるほど昔のことだった。黄金以上に貴重なミスリルの細工に特に秀でた技能を持つ彼らは、新たな鉱脈を求めて坑道を掘り進み、数百世代を重ねた今ではこの蟻《あり》の巣のような王国が果たしてどれほどの深みにまで広がっているのか正確に把握《はあく》している者はいないと言われている。その広大無辺な地底の領土には無数のドワーフが住み、大陸の他の種族を含めても一、二を争う巨大な都を形成していた。
しかし、それはもはや過去の話であった。
数百日に及ぶ異常な集中豪雨によって、王国はほとんど壊滅状態にあった。岩盤に支えられた丘陵部より下の都市中心部はすでに流入した雨水と泥土に水没し、現在も刻一刻と水位が上がりつつあるのだ。
もともと水は坑道の天敵である。だからこそそこを生活の場とするドワーフは排水に万全の備えを有していたのだが、莫大な雨量によって増大した地下水脈は次々と土壁を破り、その排水能力を遥かに越える水量をもって襲いかかった。民の多くは逃げ遅れたまま都市とともに没し、運良く上層に辿《たど》り着いた者は人口の百分の一にも満たぬ数であった。
基部の主要な支柱も水流によって破壊されていた。本来ならば支えを失った丘陵部も、とうに泥の海と化した都市の空洞へと崩れ落ちていておかしくない。
それを辛《かろ》うじて支えているのは、ドワーフの王ゴルソムをはじめとする一族の魔導師たちが張り巡らせた強靭《きょうじん》な魔法の力場だった。精霊神ニルダに愛されたかの都、聖都リルガミンの誇る絶対魔法障壁には及ばぬまでも、王の住まう城館を中心に丘陵部全域を包む結界は、さすがはドワーフを統《す》べる術者たちの魔力を結集しただけのことはあった。
だが、それも滅亡までの時間|稼《かせ》ぎでしかない。今もドワーフの民は無情に這い登ってくる水に、限られた空間を上へ上へと追いやられているのである。
ゴルソムも、そして他の魔導師たちもそんなことは百も承知だった。統治者の義務として、ひとりでも多くの民の生命を救わねばならない。
しかし、打つ手はなかった。
大量の人員に長距離を瞬間移動させる呪文はある。そもそもは古代の戦での攻城法として編み出された魔法で、この呪文に対抗するべく城塞都市全域をカバーする広範囲魔法障壁も格段に発展したほどの代物である。大半が死に絶えたとは言えまだ数千の単位で残るドワーフの民を、その呪文なら十数回の分割ですべて転送することが可能だった。
問題は、転送先が存在しないことである。
災厄に見舞われているのは、この地域だけではなかった。彼らが連絡を結んでいる各地のドワーフの自治都市はおろか、情報を集めた限りあらゆる種族の都市――即ち大陸の全土がこの暴風雨の勢力下にあったのだ。
比較的高地に位置するこの都市は、むしろ幸運な部類に入る。低地や大河周辺の都市はあっと言う間に水に呑《の》まれ、災厄が始まって百日と持たずに壊滅した。地下に住居を築くドワーフの性癖も災いしたのだろう。
さらに数日前までには、あらゆるドワーフ都市からの連絡が途絶えていた。いずれの都市もそれなりの力を備えた魔道君主に統治されてはいたが、洪水による圧倒的な水圧の継続に遂に防護魔法を維持できなくなったのだ。
他種族の居住地の中には、恐らくまだ健在であろう筈の強力な魔法に護《まも》られている都市も幾つかあった。エルフの王都エイセル・エルダスはその代表格であり、ノームの賢人の都サレムや人間族《ヒューマン》の城塞都市リルガミンも、このドワーフ最後の砦ゴレア・ドゥムより先に魔法障壁を失うとは考えられない。
だが、そのいずれも先の呪文で転送するには遠過ぎた。加えてこの三百年ばかりの間、ゴルソムから四代前の王の時代からドワーフは他種族と折り合いが悪く、このような状況で助けを求められるほどには互いを信頼していなかった。
そしてこの時、魔道王ゴルソムと側近の魔導師たちは市民を避難させる手立てを思案するどころではない窮地に直面していた。
城館の中庭。
そこは広大な庭園になっており、かつては王城に相応《ふさわ》しく美しい草花と果樹に覆われでいた。が、長期に渡る豪雨に陽光を遮《さえぎ》られたため、今では見る影もなく荒廃している。
その庭園のほぼ中央、枯れ草を敷き詰めたような花畑に、十人あまりのドワーフがひとかたまりになって立っていた。仝貝が咳《しわぶ》きひとつ漏らさず、息を詰めて一点を睨《にら》み据《す》えている。
彼らが片時も目を離さずに見つめているのは、同じ花畑のやや離れた一画だった。
何かがあるわけではない。あるのは薄暗い虚無の空間のみ。それだけに、ドワーフたちの沈黙は無気味な緊張を孕《はら》んでいた。
庭園の上空からは、不可視の天蓋《てんがい》となった魔法障壁が城館目がけて降り注ぐ雨を弾く音が絶え間なく響いてくる。それはあたかも、これから始まる凶事を囃《はや》し立てる悪鬼のドラムのように鳴り渡っていた。
突如、雷光が空間を白に染めた。同時に激しい雷鳴が轟く。
その一瞬、彼らの網膜に焼きついた虚無が歪《ゆが》んだように映った。光に照らされた空間に、無数の異形の影が蠢《うごめ》いたかに見えたのだ。
雷鳴の残響が消え去るよりも早く、一団の中心に位置するドワーフが口を開いた。
「|腐敗の大気《ザハン》≠呼び起こすぞ」
重々しいその言葉に、一同は明らかに動揺した。一斉にその空間から、命令を下したドワーフに視線を走らせる。
そのドワーフは、他の者とは異なる豪奢《ごうしゃ》な装束に身を包んでいた。
王冠を象《かたど》った兜に、黒地に銀糸の刺繍《ししゅう》の入った厚地のマント。ミスリルの細い鎖を幾重にも重ねて造られた鎖帷子《くさりかたびら》の上には深紅の衣を羽織り、その両手のすべての指にはそれぞれ曰《いわ》くありげな指輪が嵌《は》まっている。握り締めた錫杖《しゃくじょう》もミスリル製で、複雑な意匠が施《ほどこ》されたそれは薄暗闇の中で冴《さ》えた光を放っていた。
杖に劣らぬ光を放つ鋭い双眸と、その表情を覆い隠すように生えた燃え立つような赤の長い髭《ひげ》。この男こそ、歴代統治者の中でも最も強い魔力と最も激しい気性を持つと言われる|赤き顎《カルハロス》=A現ドワーフ王ゴルソムであった。
ゴルソムは猪首《いくび》を巡らせ、配下の魔導師たちに胴々たる眼光を向けた。
「大した軍勢だ。ここで我らが敗れれば、魔法を持たぬ民は彼奴《あやつ》らに手もなく屠《ほふ》られることになろう」
「しかし――」
魔導師のひとりが、元の虚無に戻った空間と王とに交互に視線を移しながら言った。「|腐敗の大気《ザハン》≠使用しては、この庭園の広範囲が腐毒に汚染されることになります。陛下の居城の一部で、そのような……」
「誰に講釈しておる?」
王の一瞥《いちべつ》を受け、魔導師は身を固くした。一族最強の魔導師であるゴルソムが、その呪文の特性を忘れている筈がなかった。
「彼奴らは呪文を退《しりぞ》けることがままある。確実に仕留めるつもりなら、魔力で無効化できぬ系統の呪文を使わねばならん。よいか、我らが敗北すればこのゴレア・ドゥムは滅びるのだ」
王の言葉は何の誇張もない、真実の重みを持っていた。魔導師のほとんどがこの危険極まりない呪文の行使に賛意を持っていなかったが、その言葉の響きだけで今や全員が覚悟を固めていた。
|腐敗の大気《ザハン》≠ヘ一種の禁呪であった。対象となる空間の大気中にあらゆる物質を腐敗させる猛毒を発生させ、その効果範囲に含まれるものは生物・非生物を問わず瞬時に汚染してしまう。この呪文を受けた生物は確実に全身が壊死《えし》し、それが金属製の剣や鎧であっても一瞬に腐蝕が進行する。殺戮《さつりく》呪文としては小規模だったが、大気を変質させる呪文の特性である、どんな強大な呪文抵抗力をもってしても無効化できない絶対性を有しているのが最大の利点だった。
しかし、問題は魔法で生成されたその腐敗毒が長期間残留することだった。一度この呪文効果を引き出してしまえば、中和の魔法を偉い続けても早くて数年、放置しておけば数十年の間その地域は汚染されたままとなるのである。数人の高位魔導師の補助を要するため敵地で使用するのは難しく、自国の領土で使えば不毛の大地が広がっていく。魔導師たちの躊躇《ためら》いも無理からぬ、両刃《もろは》の剣となる超難度の呪文であった。
それを王城の中庭で使用するというのだ。ゴルソムにそれだけの決意をさせる敵の襲来に、魔導師の中でも歳若き者たちは戦慄《せんりつ》を禁じ得なかった。
詠唱が始まった。
ゴルソムを中心に、低く不安定な韻律を持った呟《つぶや》きが沸き起こる。呪文を修得しておらぬ術者たち――それでも決して未熟などではない大魔導師だが――は意識だけを同調させ、魔力を直接引き出すドワーフ王の念を強化するべく努めている。
それに呼応するかの如くに、眼前の空間が今度ははっきりと歪《ゆが》みだした。その一帯だけが陽炎《かげろう》に包まれたように、通して見える庭園の風景が奇怪に拗《ねじ》くれている。
時折、その空間の中に淡い炎が渦巻き、淡い稲妻が疾《はし》る。しかしそれは非現実的な幻影で、どこか遠い世界の光景が二重に映し出されたかに見える。
そして唐突に、数十の真っ赤な火球が出現した。
虚無から生じたそれらは、針の穴のような一点から爆発的に膨《ふく》れ上がり、歪曲した空間全域を一瞬に埋め尽くした。その紅蓮の炎の中で蠢動《しゅんどう》する巨大な影たちは、紛《まが》うことなく先刻の、雷光の下に照らし出された異形の軍勢にほかならなかった。
ドワーフたちの詠唱が一際力強くなった。|腐敗の大気《ザハン》≠呼び起こす寸前の、呪文詠唱の最終段階に入ったのだ。
しかし次の瞬間、詠唱は掻《か》き消された。
ゴルソムと魔導師たちを、無音の空間が押し包んでいた。空気の音声伝達を封じ込める強力な結界が、いつの間にか彼らの周囲に張り巡らされている。
ドワーフたちは恐慌に陥《おちい》った。
魔導師にとって、呪文を封じられるということは両手両足をもぎ取られるに等しい。こと魔法戦においては、それは確実な敗北を意味する。それゆえに彼らはこの呪文封じに対抗する魔法障壁を常に身に纏《まと》っており、彼我《ひが》に圧倒的な魔力の差がない限りおいそれと沈黙させられる筈がなかった。
それがこれほど容易に、完璧に封じ込められてしまったのである。しかも火球の中の敵勢は、まだこの次元に実体化していないのだ。信じ難い事態であった。
「何奴か!」
ゴルソムが咆《ほ》えた。さすがは一族の術者を束ねる魔道王である。ただひとり無音の結界を打ち破り、術を施《ほどこ》したであろう何者かを探す。
その目に映ったのは、己のすぐ背後に立つふたつの人影だった。
ひとりは短身|頑躯《がんく》のドワーフよりさらに頭ひとつ小柄で、極端に大きな鼻の下に雪のような白髯《はくぜん》を長くたくわえていた。矮《わい》躯だが、叡智《えいち》を湛《たた》えた碧眼《へきがん》とその重々たる姿が、それが一介の老人ではないことを如実に表している。
もうひとりは、その老人の倍近い身長を持っていた。ドワーフ族とは対照的に、全身の肉を鋏《のみ》で削ぎ落としたような痩身である。髭のない端正な貌《かお》には深い皺《しわ》が刻まれていたが、まだ老人と呼ぶほどには老いておらぬ。秀でた額には深緑の宝石を嵌《は》め込んだミスリルのサークレットが輝き、撫《な》でつけた純銀の髪と見事な調和を醸《かも》し出している。高貴な血筋であることは疑いようもなかった。
しかし何よりも、彼らがそこに存在している事実が豪胆なドワーフ王を狼狽《ろうばい》させた。ゴレア・ドゥムを包む魔法障壁は極限にまで強化してある。眼前に実体化しようとするものたちですらこの空間への侵入に一昼夜を費やしているというのに、このふたりの異種族はゴルソムを含めた魔導師に気取《けど》られることなく、いとも簡単に結界内へと入り込んだのだ。
「御無礼|仕《つかまつ》る」
短躯《たんく》の老人――ノームが共通語《コモン》で会釈《えしゃく》した。「しかし、かような呪文の行使はそのものどもの思う壷《つぼ》。ここは我々にお任せ願う」
「貴様は――」
「充分な挨拶を交わす暇はなさそうだ。次元の壁が破れるぞ」
言い放ち、長身痩躯の男――エルフはまだ言葉を封じられたままぱくぱくと口を開閉しているドワーフの一団を回り込んだ。
ノームも同様に魔導師たちの前に進み出て、ふたりは呪文の詠唱を開始した。
火球の中の巨影は、すでにはっきりとした姿を取り始めていた。
酒樽《さかだる》を思わせる小山のような巨体と、それに不似合いなほど短い手足。しかしそれらは凄まじいまでの筋肉の束に包まれ、暗紅色の甲皮にぶ厚く覆われながらもその怪力を窺《うかが》い知ることができる。内側に弧を描いた太い鉤爪《かぎづめ》にかかれば、人の胴など簡単に引き千切られてしまうだろう。
巨躯に比して、盛り上がった両肩の間に挟まれた頭部は小振りであった。大きく裂けた唇からは鮫《さめ》のように幾重にも並んだ牙が覗き、その上に感情のない落ち窪《くぼ》んだ小さな眼が光っている。ひしゃげた頭部は深海の妖魚を想起させたが、両脇から生えた渦巻き状の角がその印象を打ち消し、より穢《けか》らわしい呼称を記憶の奥底から呼び覚ます。それは人という種が生まれた瞬間から、本能的に知っていた敵の記憶なのかも知れなかった。
悪魔、と。
その醜悪な異界の怪物が二十体あまりも、一時にこの世界へ実体化しようとしているのだ。
もはや|腐敗の大気《ザハン》≠呼び出すことはできなかった。先刻の詠唱は中断して集中しかけた魔力が霧散してしまったし、新たに唱え直すには遅きに失した。それ以前に配下の魔導師たちが沈黙させられたままでは、ゴルソムにこの呪文を扱うことはできぬ。
魔法障壁を破って王国に侵入し、あまつさえ悪魔への呪文攻撃を妨害したエルフとノームに、誇り高いドワーフの王は激しい怒りを感じていた。しかし同時にこの場をふたりの異種族に任せようと判断したのは、一時的にせよ己の呪文をも封じたその腕を信じたからであった。ゴルソムにとって屈辱的な出来事ではあったが、それは取りも直さずふたりの魔力が並大抵ではないことを示している。
また、彼らがドワーフに悪意を持っているなら、呪文を封じる前に――あるいは封じた直後に呪文攻撃を仕掛けてくる筈であった。折り合いの悪い他種族と言えど、少なくとも悪魔以上に敵対的であるわけはない。それがゴルソムに彼らを静観させた主たる理由だった。
だが、ふたりの詠唱する呪文が何であるのかを知り、彼の脳裏に驚愕と疑いの念が一瞬に沸き上がった。
それは、爆炎《ティルトウェイト》≠ニ呼ばれる攻撃呪文だった。異なる次元で引き起こした核爆発のエネルギーのごく一部をこちらの空間に転移させ、一千度程度の火炎と衝撃波を放射する破砕型焼殺呪文である。
そして、ゴルソムに言わせるなら、こんな呪文は子供騙しの花火のような代物であった。
魔力も何も持たない相手に使うなら、確かに爆炎《ティルトウェイト》£度でも致命的な殺傷呪文となるだろう。事実、ここに集う魔導師たちから見れば初歩的な魔法のひとつでしかないこの呪文を修得しただけの下級魔術師も、魔法の心得のない民にとっては絶対的な畏怖《いふ》の対象となっている。この時代、それほどまでに魔力を持つ者と持たぬ者の力の差は大きかった。
しかし、その眷属《けんぞく》の多くが魔法に対する無効化能力を生得しているという魔界の住人――それも特に強大なこの種の悪魔が相手では、爆炎《ティルトウェイト》≠フように単純な呪文はほとんど効果を発揮しない。十中九は完全に無効化されると考えて良かった。
実体化と同時に殲滅《せんめつ》できなければ、状況は一気に悪化する。魔力ではドワーフたちが優っているにせよ、一体ですら侮《あなど》れぬ悪魔をこれだけの数相手にする――しかも続々と新手が召喚される可能性も高い――となれば、今度は|腐敗の大気《ザハン》∴ネ上にリスクの大きな禁呪を使わぬ限り勝算は低い。
やはりこのふたりは、我々ドワーフ族を陥《おとしい》れようとしているのではないか――そうゴルソムが考えた時、呪文は彼の知る爆炎《ティルトウェイト》≠ニは異なった韻律でその詠唱を終えていた。
赤い光球が消えた。悪魔が一斉に実体化する。
次の瞬間、密集する悪魔の中心に閃光が疾《はし》った。針のように細い灼熱の光条が、その一点から四方へと無数に放出される。
そのあまりの目映《まばゆ》さにドワーフたちの視界は闇に染まった。最後の一瞬に捉えた残像は、迸《ほとばし》る光線に針ぶすまとなる悪魔たちの凍《い》てついた姿であった。
数秒後、彼らの視力が回復した時には、その姿は斑《まだら》に焼け焦《こ》げた地面に積み重なる屍《しかばね》の山と化していた。
全滅である。一体残らず全身を閃光に灼《や》き貫《つらぬ》かれ、一|咆《ほ》えも許されることなく絶命していた。
エルフとノームが唱えたのは爆炎《ティルトウェイト》≠フ応用呪文であった。この次元に現出する爆発のエネルギーを空間の一点に封じ込め、内圧が膨《ふく》れ上がったところで結界に極小の開放点を無数に設けてやる。高圧によって二次的エネルギーに変化した爆風と炎は、魔力では無効化できない熱線となって攻撃範囲内の対象物に襲いかかるのである。
原理は単純であったが、実際に行うには寸分の狂いもない高度な魔法制御が必要だった。まして他者と複合して呪文効果を高めるなど、両者に超絶的な技巧とセンスがなければできるものではない。それをこのふたりは、こともなげにやってのけたである。
エルフにせよノームにせよ、そんな術者がおいそれと存在する筈がなかった。
ゴルソムは鋭い眼光を向けると、ひとり進み出て彼らと向き合った。
「我が一族の領土へ断りなく侵入した非礼は問わぬこととしよう。それより貴公らの要件、いかなる類《たぐい》のものか」
口調が若干《じゃっかん》改まっていた。それを聞き、エルフが口元だけに軽い笑みを浮かべる。
「さすがは音に聞こえた魔道王|赤き顎《カルハロス》=A我々の素性に見当がついたと見える。されど、まずは名乗らせていただこう。我が名はアルフォーリ、エルフ王アルドゥエンが息子」
「ノーム一族を預かるシャイロンと申す。会するのは初めてのことでしたな」
ふたりの名に、ようやく口を利けるようになったドワーフの魔導師たちがどよめいた。口々に永遠の王子≠竍賢者シャイロン≠ネどと囁《ささや》く。ゴルソムがそれを制した。
「やはりな。貴公はもしやエルフ王その人ではあるまいかと思うたが、その嗣子《しし》もまた優れた術者だとは聞いている。ノーム王シャイロン殿ともども、噂に違《たが》わぬ達者よな」
「要件に入ろう」
嗣子《しし》――世継ぎという呼び名に何故か不快そうに眉を顰《ひそ》め、エルフの王子アルフォーリはその会話を打ち切るように言った。「ドワーフ王ゴルソム殿の力をお借りしたい。いや、正しく言えばゴルソム殿が率いる魔導師衆を含めた、その魔力のすべてを」
「何」
「邪悪なる破壊の風雨を止め、異界の魔物よりこの世界を救わんがために。それには貴殿と、麾下《きか》の魔導師諸侯の協力が必要なのです」
賢者シャイロンが後を受けた。「この大陸で生き残った術者のほとんどが、すでにエルフの王都エイセル・エルダスに集結しておりましてな。後は貴殿一行の到着を待つばかりとなり、御無礼とは知りつつも我々がこうして推参した次第」
「我らドワーフと友好的ではない二族の貴人、直々《じきじき》の招待とは痛み入る」
再びざわめく配下を圧して、ドワーフの魔道王は太く轟く声で応《こた》えた。
ゴルソムにとって、ふたりの話はさほど驚くべきことではなかった。むしろ手付かずになっていた問題の暗示が向こうからやってきたようなものであった。
自然の現象では決してあり得ない異常な暴風雨の継続や、これまでは初歩の魔法に属する召喚系呪文によって呼び出され、魔導師の走狗として操られる存在に過ぎなかった魔族が群れをなし、自力でこの次元への侵攻を開始した事実。これらの尋常ならざる事態が果たして無関係であるのかどうか、ゴルソムも一方《ひとかた》ならず疑い続けていた。だが、最初の決壊以来ゴレア・ドゥムを支える魔法障壁の維持に追われ、それを確かめるための有効な調査手段も見つからぬまま現在に至っていたのである。それだけに、彼はエルフたちが語る情報の断片の真実性を敏感に嗅ぎ取っていた。
ゴルソムは用心深く猜疑心の強い人物ではあったが、それによって身を滅ぼすほど愚かではなかった。彼はエルフたちの要請を飲むことによって、少なくとも一族の窮地を打破できるであろうと即座に判断した。
「その招待、受けようではないか。いずれにせよこのゴレア・ドゥムは長くは持たぬ。だが、その前に我が民をどこか水の危険のない場所に避難させなければならぬ」
「お任せ願おう」
アルフォーリが言うや否や、彼らの周囲に次々と丈高い人影が転移してきた。十人あまりのエルフである。侵入していたのは、アルフォーリとシャイロンだけではなかった。
「危険がないとまでは言えないが、ここから転送できる範囲に我らやノーム一族の小集落が幾つか残っている。しばらくの間ならそれらの村落で充分に収容できよう。すでに受け入れの手筈は整えてあるゆえ、あとはこの者たちに命じて送り出すが宜《よろ》しかろう」
エルフ魔導師団の鮮やかな侵入に半ば呆気に取られたドワーフたちを尻目に、アルフォーリは涼しげな表情をドワーフ王に向けた。これだけの術者を伴っての秘密裏の入城は、考えようによってはドワーフの本拠地などその気になれば赤子の手をひねるより容易に陥落できるとほのめかすような示威行動である。
この侮辱とも取れる行為に、ゴルソムが爆発しなかったのは奇跡と言えた。もっとも、怒りに任せてエルフたちに魔法戦を挑みかけたところで、ドワーフ勢の勝ち目は万にひとつもなかったであろう。先の呪文封じひとつを取ってみても、最古の人類とされるエルフ族が蓄積してきた魔法技術がドワーフのそれを遥かに上回っていることは明らかだった。
髭《ひげ》の赤が染み出したように紅潮した顔で、配下の魔導師たちが震え上がるほどの大音声で命を下すと、ゴルソムは憎々しげにアルフォーリを睨《ね》めつけた。その烈火の如き視線を、エルフは何ほどにも感じていないかのような鏡面の穏やかさで受け止めている。
エルフとドワーフの術者が短距離テレポート呪文の転移《マロール》≠ナ地底部に跳んだ。ノーム王シャイロンが民の転送先を正確に指示すべく姿を消した時、ようやくゴルソムは低く呟《つぶや》いた。
「御先祖が貴公を快く思わなかったのも道理よな」
齢《よわい》千年を重ねる永遠の王子≠ヘ、無言のまま薄く笑った。
数刻の後、かつて十数万のドワーフを擁《よう》した巨大地底都市ゴレア・ドゥムは無人の廃墟となった。
やがて魔法障壁の結界が消え、支えを失った丘陵部は城館ごと崩壊を開始した。それは泥の海に巨大な渦を生み出しながら水没し、遂に地上から完全に姿を消した。
荒れ狂う風雨が、ゴレア・ドゥムの断末魔のように激しく叩きつけていた。
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第二章 森の彼方の国
――愛しているわ、ヒューン。死が訪れるその時まで、私たちは一緒よ
薄れゆく意識の中で、ヒューンは夢にまで見た誓いの言葉を聴いた。
どこまでも深い、鬱蒼《うっそう》と茂る巨木に覆われた広大な樹海。霧雨《きりさめ》に濡れた獣道に倒れ、全身を毒に蝕《むしば》まれた彼の生命は今まさに尽き果てようとしていた。
五感はすでに正常な働きを失っている。湿った地面に体温を奪われる感覚ももはやなく、半目に開いた瞳は白く濁り、幽《かす》かな陰影をつけた薄闇の他は何も映ってはおらぬ。
その視界の一部に、光が灯ったようにヒューンには思えた。
銀色の光は揺らめきながら、少しずつ近づいてくる。次第に影を強める闇を背景に、それはやがて美しい女の貌《かお》となった。
――エレシア……。
紫色の唇が、その名をなぞるように微《かす》かに震えた。
彼には判っていた。それが死の直前に訪れた幻にしか過ぎないと。しかしそれでも構わないとも思った。最期の瞬間に、求め続けた愛する者の幻影を抱《いだ》いて死ねるのだから……。
――それとも迎えに来てくれたのか、エレシア。そうさ、俺たちはこの世を去ってからも、ずっと一緒だ……。
瞳が急速に光を失い始める。意識が深淵に沈み込む瞬間に、女の幻が何か奇妙な韻律の言葉を呟《つぶや》いているように思えたが、もうヒューンには興味のないことであった。
そして、すべてが漆黒に呑《の》まれた。
どれだけの刻が流れたのか――。
瞼《まぶた》の外側で橙色の光が躍っていた。顔に心地好い暖かさが感じられる。肉の焼ける香ばしい匂いが鼻腔《びこう》をくすぐった。
ヒューンは恐る恐る目を開けた。
眼前で、焚火《たきび》の炎が赤々と燃えていた。
生きている。そう気づいた時、炎の向こうに人の貌《かお》が浮かび上がった。
真っ直《す》ぐに流れ落ちる銀の髪と、白磁を思わせる滑《なめ》らかな肌。形の良い唇は淡い朱に彩られ、切れ長の瞳は森を映したような深緑。細い鼻|梁《りょう》と繊細な顎《あご》、そして上端の尖《とが》った耳までもが絶妙の線を描き、一点の非の打ちどころもない容貌を造りあげている。
それは妖しくも美しい、若きエルフの貌であった。
今にして思えば、あの幻はこのエルフだったのだとヒューンは思い至った。同時に、混濁《こんだく》した意識に垂れ篭《こ》めていた薄|靄《もや》が風に吹き散らされるように晴れていく。
記憶の混乱から立ち直った瞬間に、ヒューンはその岩のような筋肉に覆われた巨体に似合わぬ、稲妻の迅《はや》さで飛び起きていた。習慣的に伸びた右腕には、腰につけられたままの鞘《さや》から引き抜いた愛剣を握り締めている。
そこは彼が倒れていた場所からやや離れた、隠花植物に蔽《おお》われた小さな空き地であった。樹海は夜の帳《とばり》に包まれ、焚火《たきび》の光が届く輪の外は黒々とした闇が蟠《わだかま》っている。霧雨《きりさめ》は止《や》んでいたが、たっぷりと湿気を含んだ夜気は肌に冷たく纏《まと》わりつく。
電光石火の動作に驚いた風もなく、エルフは腰を下ろしたまま無表情にヒューンを見上げていた。
同じ人間族《ヒューマン》ならまだ十七、八といった外見であったが、当節でも二百年の寿命を持つエルフに当て嵌《は》めるなら、まず自分の倍は生きているだろうとヒューンは踏んでいた。線の細さに不釣り合いな落ち着きも、この長命種には歳相応のものなのだ。
「あんた、何者だ。何でこんなところにいる?」
ヒューンが訊《たず》ねた。が、エルフはまるで大理石の彫像のように、微動だにせずに見つめ返すばかりである。もしや共通語《コモン》が通じないのではないかと考えるほどの沈黙を挟んで、ようやくその唇が開いた。
「何故助けた、とは訊《き》かないのか」
流暢な共通語であった。しかしヒューンを驚かせたのは、高く澄んだ声音ではあるが、それが明らかに男のものだったことである。
ヒューンは改めてエルフを眺めた。娘のように美しいが、端正に整った貌《かお》は確かに中性的である。それでも、この無表情が微笑に変わったなら、その辺りの美女などでは太刀打ちできないほどに男たちを惹《ひ》きつけるだろうと彼は思った。
筋肉の中に張り詰めた緊張を夜気に溶かし、剣を収めるとヒューンはその場に腰を下ろした。エルフとの間を隔てる焚火《たきび》の上では獣の肉が焙《あぶ》られ、脂が滴《したた》り落ちては食欲を刺激する香りを立ち上らせている。そのせいか空っぽの腹が鳴り、彼は照れ笑いを見せた。
「助けてもらった礼が先だったな。ありがとうよ。俺はヒューン、見ての通りの人間族《ヒューマン》だ」
「君のために焼いたものだ。遠慮しなくていい」
エルフは肉を示し、続けた。「私の名はアルドゥエン」
「アル――ドゥエ、ドゥエンか。エルフの名前ってのは俺たちには発音が難しいもんだな。大体、エルフとこんなに近くで話したことなんざ初めてだよ」
早速肉に囓《かじ》りつき、大きな口一杯に頬張りながらヒューンが言った。その反応に、少年と呼んでも違和感のないほどに華奢《きゃしゃ》なエルフはわずかに目を細めたが、すぐに何の感情も読み取れぬ能面のような無表情に戻った。
「訊ねてもいいかい?」
兎らしき獣肉をあっと言う間に平らげ、指に付いた脂までも舐め取って人心地つけてから、ヒューンはその様子を無言で見守り続けていたアルドゥエンに向き直った。沈黙を保ったまま、エルフが頷《うなず》く。
「なあ……あんた、魔法使いなんだろ。それも、癒《いや》しの術が使えるほどの」
気を失う寸前にアルドゥエンが呪文を唱えていたのを、ヒューンは思い浮かべていた。
「――そうだ」
「エルフって連中は、俺たち人間なんぎ歯牙にもかけないって聞いてる。そのエルフの、それも魔法使いのあんたが、何だってくたばりかけてた俺を助けてくれたんだ?」
「これが街中の路地森などであったら、素通りしていたかも知れないな」
アルドゥエンは淡々と答えた。「何故私がこのような場所にいるのか、君も疑問に思ったのだろう? それと同じことだ。正気の者が近づく筈もないこの森で、魔導師とも見えぬ人間と出会った。君に興味を抱《いだ》いたとしても不思議はないだろう」
「こんな森か。どうやらお互い、迷い込んだってわけじゃなさそうだ――」
木々の奥の暗闇からけたたましい怪鳥の叫びが響き、ヒューンは言葉を切った。梢《こずえ》を抜ける羽音が夜空の高みに遠ざかると、辺りは再び夜の静寂に支配される。
「まあ、あんたがどんな目的であんな場所に行くのかなんて、俺にとっちゃどうでもいいことさ。根掘り葉掘り訊《き》き出そうなんざ思っちゃいないよ」
「――」
「俺のほうは、別に何を訊かれたって構やしない。助けてもらった礼ってつもりはないが――そうだな、今の食事のお返しにでも、俺が森の彼方の国≠目指す理由を話そうか。どうせ夜は長いんだ」
ヒューンの話にさほど興味があるようには見えなかったが、アルドゥエンは軽く、しかしはっきりと首を縦に振った。ヒューンはがっしりとした顎《あご》に笑みを浮かべると、茶色の瞳で揺らめく炎を見つめ、語り始めた。
ヒューンは闘奴《とうど》だった。いや、正しくは十八の歳に、不当にも闘奴に落とされた。
彼はこの樹海からさして遠くない、鍛冶《かじ》の盛んな辺境の国に生まれた。腕の良い職人の父を持ち、いずれはその跡継ぎとして平和な町職人の人生を歩んでいく筈であった。
事実、十八で婚礼を挙げたその時は、ヒューンは幸福の絶頂にあった。
幼馴染《おさななじ》みのエレシアは婚約を決めてからの数年で、蕾《つぼみ》が開き始めたかのように日毎に美しきを増していった。そして婚礼の直前には、彼女を知るすべての男がヒューンに羨望の眼差しを向けるほどに、その美貌は大輪の花を咲かせていた。
しかし、幼い頃から互いに理解し合ってきたエレシアの内面を深く愛していたヒューンにとって、知らずに男を魅了してしまう彼女の美貌は転落の引き金でしかなかった。
美しくなり過ぎたエレシアの噂は、不幸にもその地方を治める領主の耳にまで届いた。領主は婚礼の日に臣下を差し向けて噂の真偽を確かめさせ、その報告を受けて自らエレシアを検分するために遠路をやって来た。
好色な領主は、一目見ただけで彼女を手に入れたくなった。そしてすぐさま、それを実行に移した。愛し合うふたりは強引に引き裂かれた。
そこまでなら、どこの専制君主でもやりそうな話である。だが、悪いことにその領主は偏執的な狂人に属する人物だった。
無理矢理エレシアを側妾にすると、今度はたとえ短期間でも彼女と閏《ねや》をともにしたヒューンの存在が許せなくなった。完全に狂人の発想であったが、その国では領主の権威は絶対だった。ヒューンの家族は捕えられ、父母はおろか幼い弟や妹までもが謂《いわ》れのない罪で拷問を受け、惨殺された。
ヒューン自身は闘奴に落とされた。領主の退屈しのぎのためだけに、生き延びる権利を賭けて他者と殺し合う奴隷である。領主は、ヒューンが絶望に駆られたまま無惨に殺される姿が見たかったのだ。
だが、その期待を裏切って彼は勝ち残り続けた。
暗い石牢に閉じ込められ、太陽の下に出られるのは闘いの時のみ。生きていくのに必要な最低限の食事しか与えられず、時には牢に迷い込んだ鼠《ねずみ》さえも貪《むさぼ》る。そして、自分が生き残るために同じ境遇の闘奴たちを殺し続ける――。
ヒューンがその生き地獄に耐えることができたのは、自分から何もかもを奪い去った領主への復讐と、いつの日か再びエレシアを取り戻すという目的があったからだった。それは彼に、他の闘奴にはない凄まじいまでの活力を与えていた。
十年間、二百回あまりの死闘を勝ち抜きながら、ヒューンは不可能と言われる脱走の機会を窺《うかが》い続けた。そして遂に、待ち望んだチャンスが到来した。
彼は牢から抜け出すと、その足で領主の城に潜入した。
領主の護衛には、三人の魔術師が当たっていた。いずれも爆炎《ティルトウェイト》£度の呪文しか修得していなかったが、他国の術者に命を狙われるわけでもない辺境の小領主の警護には充分過ぎるほどだった。少なくとも、魔法という武器を持たない者にとっては鉄壁の守りである。
しかし、ヒューンはこの時のため、それに代わる牙を研ぎ澄ましていた。
魔法が圧倒的な力を誇るこの時代、魔力によって強化された剣などが戯《たわむ》れに造られることはあっても、それを扱う技能は全く発展しなかった。戦いの帰趨《きすう》を左右するのは常に魔法であり、一瞬に数千の兵士を吹き飛ばす禁呪文を操る魔道王の前では、剣の力など無きに等しいものだった。
だが、相手が領主の取り巻き魔術師程度ならばつけいる隙《すき》はある。そう信じ、闘奴として過ごした十年、ヒューンはただひたすらに剣技を磨き続けてきた。呪文の詠唱よりも早く間合いを詰める俊敏さと、術者が纏《まと》った魔法障壁を突き破る破壊力――それを身につけるために、彼は己の肉体を極限まで鍛え上げた。
三人の魔術師は、さしたる実力を持たぬにもかかわらず魔法の絶対優位を過信していた。目の前に剣を構えたヒューンが現れた時も、彼らは呪文の代わりに嘲笑を浴びせかけた。
ふたりまでが笑みをへばりつかせたまま絶命した。最後のひとりが悲鳴にも似た詠唱を始めた瞬間に、ヒューンの剣はその心臓を深々と抉《えぐ》っていた。
他に護衛はいなかった。彼は易々《やすやす》と寝室に侵入し、愛妾のひとりと戯《たわむ》れる領主をベッドから引きずり下ろした。
領主はもはやヒューンのことを忘れていた。思い出してもらうため、この狂人が彼の家族にしたように、ヒューンはその指の一本一本を順番に、関節ごとに切り落とした。足の指にかかった時点で、領主はようやく膨大《ぼうだい》な彼の犠牲者の中から哀《あわ》れな鍛冶職人の一家を挙げることができた。
そしてヒューンは、愛する妻がどんな運命を辿《たど》ったのかを聞き出した。悲嘆に暮れ、一向に心を開こうとしないエレシアを、この狂領主は半年も経たぬうちに奴隷商人に売り飛ばしたのだ。
それを開き終えた瞬間に、彼は怒りに我を忘れた。
正気に戻った時には、領主は原形を留めない血|塗《まみ》れの肉塊となっていた。
それから二年あまり、逃亡したヒューンはひたすらエレシアの消息を追い求めた。
頑《かたく》なに心を閉ざし続けた彼女は、買い手が現れてもすぐに売り払われ、複数の商人の手によって流《る》転を重ねていった。それでも足跡を辿ることができたのは、その美貌が多くの者の記憶に灼《や》き付いていたからであった。
そしてとうとう、ヒューンは妻の最後の消息を突き止めた。
樹海にほど近い集落の豪商に買い取られたエレシアは、村外れに建てられた塔に幽閉されて最後の数ヶ月を送ることになった。始めは足繁く通ってきた豪商もろくに口を利こうともしないエレシアにすぐ愛想を尽かし、彼女は日々を孤独のうちに過ごした。時折鉄格子の嵌《は》まった窓から遠い空を見上げる姿は、通りかかる村人が思わず息を呑《の》むほどに美しく、悲しげだったという。
やがて、何度目かの満月の夜がやってきた。
狼の遠吠えがやけに長く続く夜だった。この晩、巨大な蝙蝠《こうもり》が月下に舞い狂う姿を多くの村人が目撃した。
翌朝、エレシアは塔の密室から煙のように消えていた。迷信深い村人はそれが樹海の彼方から忍んできた魔物の仕業だと信じて疑わなかった。美しき囚われ人は、夜魔に誘われて森の彼方の国≠ノ連れ去られたのだと。
その話をヒューンが耳にした時、すでに三年が過ぎ去っていた。
よもやエレシアが生きているなどとは、彼も思っていなかった。ただ、それならば彼女がどのような最期を迎えたのか、せめてそれだけは確かめておきたかった。果たせなかった誓いの残滓《ざんし》のみが、生の目的を失ったヒューンを現世に縛りつけていた。
辺境の国々にも長い雨が降り始めた頃、彼は樹海へと旅立った。
伝説の、不死者の都を求めて――。
ヒューンが話し終えた後も、アルドゥエンは長く沈黙を守っていた。しかしその間も、深緑の瞳は真っ直ぐにヒューンの目を覗き続けていた。
ややあって、彼は低く呟《つぶや》いた。
「人間族《ヒューマン》にも様々な者がいるのだな」
「様々?」
「ああ」
怪訝《けげん》そうに聞くヒューンを指し、エルフは続けた。「君が殺した領主は、我々エルフが捉えている人間族《ヒューマン》の傾向の極端な一例だ。即ち短命であるがゆえに刹那《せつな》的な欲望に衝《つ》き動かされ、自己の行動の是非を省みることがない。本来平和な治世を約束すべき統治者が、むしろ民を苦しめるだけの支配者となる――」
「統治者の血筋に生まれた奴等なんて、そんなもんじゃないのかね。だから高い税を搾《しぼ》り取られて、好き勝手な圧政を敷かれてもみんな我慢してるんだろ? まあ、その領主を叩き殺した俺が言うのもおかしな話だがな。それとも、エルフは違うってのかい」
「まるで違う。特に、今から二千年以上の昔、エルフの民が望む限りの時を老いることなく生きることができた時代はな」
アルドゥエンの翠玉の瞳が、ふっと遠くを見つめた。距離ではなく、彼方に過ぎ去った時を遡《さかのぼ》る老人のような表情だとヒューンは思った。が、次の瞬間にはエルフは元の美しい少年の貌《かお》に戻っていた。「まあ、それはまた別の話だ。しかしエルフの寿命がせいぜい二百年となった今でも、己の人生を正しく、美しく送りたいと望む者は少なからず存在しているよ」
「正しく美しい人生だって?」
「我々の道徳観において、許されざる行為を決して犯さない――そんな人生だ。殊《こと》に為政者ともなれば、その領主が行ったような非道はすべて歴史に記され、後世にまで伝えられることになる。エルフの統治者にとって、それは最大の恥辱となる」
「自分の死んだ後の評判が気になるってのか。だったらその歴史を記した本なり何なりを書き換えちまえばいいだろう? 権力を持ってる奴等なら、そんな真似は造作もないだろうによ」
「他の種族の統治者は良くやるらしいな。だが、耗々は伝統的にそれを許さない」
「許さないも何も、王や領主のやることだろ?」
その言葉にアルドゥエンは小さく首を振った。揺れる銀髪がきらきらと炎を反射する。
「許さないのは自分自身なのだ。仮に誰にも気取《けど》られぬように邪《よこしま》な行いをしたとしても、その記憶は死ぬまで己の中にある。まして不老不死の時代のエルフとなれば、半永久的にその記憶に苛《さいな》まれることになるのだ。史書に偽りを記した過去など、到底永遠に背負ってはゆけぬ」
「へええ」
ヒューンは率直に感嘆の声を漏らした。「俺も餓鬼《ガキ》の頃、不死の時代のエルフが羨ましいと思ったもんだったがな。寿命が長いなりの苦労ってのもあるもんだ。それじゃあ、もしその耐えられない記憶とやらを背負っちまったとしたら、その不死エルフはどうするんだい」
「止《や》むに止まれず、道徳から大きく外れた行動を取ることになった不死エルフも存在した。そのほとんどが永劫《えいごう》の悔悟《かいご》に耐えられずに死を望んだが、あらゆる生命を重んじる我々の一族では自ら命を断つ行為も禁忌《きんき》に属している。待っていたのは、まさしく拷問のような日々だ。許されるのは運良く病魔に冒され、死を迎えた時――」
「……」
短命種たる人間族《ヒューマン》のヒューンには想像のつかぬ話であったが、その延々と続く苦悶の凄まじさは朧気《おぼろげ》ながら理解できた。死に焦《こ》がれる不死の罪人!
短い沈黙が流れた。
「……話を元に戻そう」
アルドゥエンが言った。
「その領主が人間族《ヒューマン》の一端だとするなら、対照的な一端は君だ」
「俺が?」
「そうだ。短い生に固執するからこそ、領主のように欲望のすべてを満たそうとする者が生まれる。だが、君は妻の――恐らくは現世にない死者との誓約を重んじ、敢《あ》えて死地に赴《おもむ》こうとしている。あの森の彼方の国=Aファールヴァルト公国がどのような場所であるのかを知りながらな」
「あんたは、俺が死にたがっていると言いたいのか」
「違う、と言うのか?」
間髪を入れぬエルフの問いにヒューンは押し黙った。
「不死者の都に生者はいないのだよ。そこには君の妻の最期を看取《みと》った者など存在しないのだ。そして君はむしろ、妻と同じ場所で人生を終えたいと考えている――それはもはや自殺と何ら変わりがない」
意識の底を切り裂き、その下に隠れた願望を引きずり出す刃物のようを言葉だった。動揺を隠し切れず、ようやくヒューンは応えた。
「……そうかも知れないな。だが、せめてエレシアの最期の様子を知りたいってのは本当だ。そいつを果たすまでは少なくとも死にたくはない」
「ともに行くか」
唐突にアルドゥエンが言った。「それを知る存在があるとすればただひとり、私が会おうと考えている者だけだ。ついて来るか?」
願ってもない申し出だった。腕前のほどは判らないが、治療の呪文を会得するエルフの魔術師と同行すれば、まだ先の長い樹海行の危険が激減するのは確実だった。それに、ヒューンが死闘の中で培《つちか》った直感が、アルドゥエンが並の術者ではないと告げていた。このエルフについていけば、あるいは――。
「ありがたい話だ。だが、何故だい?」
「まだ君に対する興味が尽きていないということもある。私が知る限りたとえ低級な魔術師相手でも、三人を剣で打ち負かした者などこれまでに存在しなかった。このまま放っておいて、見す見す死なせてしまうのは惜しい」
「……」
「しかし、それ以上に何かが私に告げるのだ。君とここで別れてはならないとね。これは私の――いや、我々の目的に関わる予知なのかも知れない……」
どこかで梟《ふくろう》が鳴いた。さっと流れた微風が焚火《たきび》を煽《あお》り、揺らめく炎がエルフの貌《かお》に複雑な陰影を躍らせた。
「ともに、来るか? 一夜にしてファールヴァルトを死都に変えた、不死王のもとへ――」
ヒューンは無言のまま、アルドゥエンから目を逸《そ》らすことなく、深く頷《うなず》いた。
翌朝早く、ヒューンとアルドゥエンは出発した。
夜明けとともに、灰色に曇った空に再び細かな雨が舞い始めていた。昼なお暗い緑の屋根の下、道なき道をふたりは樹海の奥に向かって歩き続けた。
ふたりは至って軽装だった。ヒューンは獣皮をなめした革鎧を着込み、腰に例の両刃剣を吊しているのみである。アルドゥエンは薄絹のローブを纏《まと》い、同様に薄く、しかし丈夫そうなマントを羽織っている。
しかし、アルドゥエンは目を惹《ひ》く品をふたつばかり身につけていた。
ひとつは剣――ヒューンのものに比べて遥かに細身で、刀身の付け根に青白い光を帯びた宝玉が嵌《は》め込まれた長剣だった。剣自体はさほど変わった代物ではなかったが、魔術師であるアルドゥエンが帯剣しているという点が奇妙である。
もうひとつは、首に細い鎖で下げられた薄紫の護符だった。ペンダントと呼ぶには大振りで、複雑な形状のそれは胸元で常に淡い微光を放っている。ヒューンが知る由《よし》もなかったが、そこには神話時代と呼ばれる上古に使われていた古代のエルフ文字が刻まれていた。
その護符の力なのか、彼らは何の障害にも遭わぬままに数日を旅した。この森に棲むと言われる獣人の類《たぐい》はおろか、ヒューンに毒を撃ち込んだ土蜘蛛ですら一匹たりとも姿を現さない。霧雨《きりさめ》が続く中を、ふたりはひたすら樹海の奥に歩みを進めた。
深部に進むにつれ、森は次第にその様相を変え始めた。同じ樹木でありながらも、より巨大に、邪悪にねじ曲がったものが増え、繁り狂う暗緑色の葉は天井のように頭上を覆い尽くしている。
兎や栗鼠《りす》などの小動物の姿も全く見当たらなくなっていた。まるであらゆる生物がこれ以上踏み込むのを避けているかのように、本来生命の気配に満ちている筈の森は不気味な静寂に支配されていた。
そして、ヒューンとアルドゥエンが出会って七日目の黄昏時《たそがれどき》――。
不意に森が開けた。ふたりの眼前に、切り開かれたらしい大きな空間が広がっていた。
雨は止《や》み、霧が漂っている。薄暮の中、広場には人間の倍ほどの高さの、無数の影が林立していた。しかし、動くものは何ひとつない。
広場の入口で踏み留まったアルドゥエンは、魔法の光を生み出す恒光《ロミルワ》≠フ呪文を唱えた。柔らかく清冽《せいれつ》な光がエルフから溢《あふ》れ、薄闇に沈みかけた空間を――群れなす影を照らし出す。
知らず、ヒューンは呻《うめ》いていた。
影の正体は大地に打ち込まれた丸太の杭であった。それがさながら林のように、広い空き地全体を埋め尽くしている。
そして、その無数の杭のすべてに、半ば白骨化しかけた串刺しの屍《しかばね》が掲げられていた。
露《あらわ》となったその光景は、酸鼻を極める凄まじさであった。
多くの骸《むくろ》は肛門から突き立てられた丸太の先端を口から突き出した形で串刺しにされ、ある者はその反対に頭を地面に向けて逆さまに掲げられ、またある者は臍《へそ》から背中までを突き通されて杭上に晒《さら》されていた。それはまるで考えつく限りのバリエーションを陳列した串刺し刑の品評会だった。
風化しかけてはいたが、犠牲者が老若男女を問われなかったことは明らかだった。中には母親らしき屍と同じ杭に突き立てられた赤児の姿もあり、一切の容赦もなく処刑が実行されたことを窺《うかが》わせた。
だが、その時点ではまだ、この地獄絵図の真におぞましい姿は隠されたままだった。
ヒューンとアルドゥエンがその敷地に足を踏み入れた瞬間、静寂の仮面は滑《すべ》るように剥《は》がれ落ちた。
地の底から這い上ってきたような呻《うめ》き声が、はじめにふたりの耳に届いた。
生命の気配はない。それなのに、ざわざわと蠢《うごめ》く気配が空間に満ち始める。声にならない苦悶の叫びが大気を震わせているのが肌で感じ取れる。
それは魔の跳梁《ちょうりょう》する夜が訪れたからなのか。それともふたりの生者の気配に目覚めさせられたのか。
串刺しの骸《むくろ》たちは今や一体残らず朽ちかけた手足を緩慢《かんまん》に波打たせ、杭の上で悪夢の如き舞踏を繰り広げていた。
彼らは屍《しかばね》ではなかった。かくも凄惨な姿になり果てながらも、未だ苦痛から解放されぬままに苛《さいな》まれ続ける、死から見放された亡者の群れであったのだ。
立ちすくむヒューンに、無数の落ち窪《くほ》んだ眼窩《がんか》に灯る燐光が注がれていた。彼らは口々に生命ある者への呪詛《じゅそ》を漏らし、死を渇望して剥《む》き出しの歯を噛《か》み鳴らした。
――この中にエレシアがいるのかも知れない。あの美しかったエレシアがこいつらと一緒に俺を威嚇《いかく》しているのかも知れない!
決して考えてはならぬ妄念に取り憑かれかけた時、アルドゥエンが肩を揺すった。感情を見せぬ貌《かお》からわずかに血の気が退《ひ》いているように見えたが、それは魔法の光が見せる錯覚とも思えた。現にエルフの声は微塵《みじん》の乱れもなく、落ち着き払っていた。
「この亡者たちが串刺しにされたのは同時期、千年以上も昔のことだ。君の妻――エレシアはここにはいない」
「千年だって? まさか……まだ肉が溶け落ちずに残ってるってのに……」
「不死の魔力だよ。この者たちに死を与えず、骨塵と化すことすら許さない邪悪な不死の波動――我々は遂に、不死王の領土に踏み込んだのだ」
亡者のざわめきが呼んだのか、艶めいた風が垂れ篭《こ》める霧を吹き散らした。途切れた緑の屋根の向こうで、数日ぶりに覗いた曇り空が夕陽の残照をまだ淡く残している。
「見ろ。あれが森の彼方の国≠フ尖塔群だ」
アルドゥエンが示した空に、幾つもの歪な影が伸びていた。それは天をも掴《つか》もうとする、畸形《きけい》の巨人の指のようにも見えた。
「行こう。ここで我々のできることは何もない」
言い放ち、エルフは大胆に広場を横切り始めた。
亡者たちの盛大な呪詛《じゅそ》の中、ヒューンもそれに続く。
彼らが去った後も、哀《あわ》れな骸《むくろ》の林はしばらく呻《うめ》き、蠢《うごめ》き続けていた。が、やがて潮が退《ひ》くようにざわめきは静まり、広場に再び沈黙が訪れた。
音のない雷光が天空に閃《ひらめ》き、尖塔を一瞬白く浮かび上がらせる。
伝説の不死者の都は、もはや限りなく近い。
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第三章 不死者の都
凄まじい速さで渦を巻く乱雲の中に、そいつはいた。
猛禽を思わせる巨大な二対の羽根。獲物の皮を突き破り、肉を引き裂くための鉤爪《かぎづめ》。しかしそれらを備えている肉体は、むしろ人間のそれに近い。
肉が盛り上がって角状となった突起を頂《いただき》に持つ頭も、やはり鳥類を想起させた。ただし嘴《くちばし》はなく、代わりに側頭部まで裂け上がった獅子の顎《あぎと》が備わっている。
だが、その容貌はどんな生物にも似ていなかった。
窪《くぼ》んだ貌《かお》の中央で、ふたつの大きな真円が橙色に暗く輝いている。無機質で、微塵《みじん》の感情も存在しない双眸――この世界の生物が、これほど禍々しい眼を持っている筈がなかった。
異世界の魔神――それはまさしく、魔界より降臨した悪魔王の姿であった。
羽ばたきひとつすることなく、魔神は天空に浮かんでいた。
発達した胸筋の前で腕を組み、無表情な眼球は雷雲に遮《さえぎ》られた下界を睥睨《へいげい》する。開きかけた大きな口が、刻一刻と滅亡に近づいていく地上世界を嘲《あざ》笑っているかに見えた。
緩慢《かんまん》な動きで、そいつが両腕を広げた。そこから巨大な旋風が生まれ、雲海の下へと恐ろしい迅《はや》さで伸びていく。
そこは荒れ狂う洋上だった。無数の竜巻が天空に続く螺旋を描き、大量の海水を雷雲の中へと吸い上げていく。新たな竜巻もそこに加わり、海と天を繋《つな》ぐ渦の柱のひとつとなった。
巻き上げられた水は凶風に導かれ、大陸の上空から無限の豪雨となって降り注ぐ。
これこそが、数百日にも及ぶ暴風雨の正体であった。天候すら自在に操る悪魔王が生み出した、破壊の意志と悪意に満ちた大嵐なのだ。
突如、魔神が虚空の一点を睨《にら》んだ。何かに気づいたという視線だった。
一瞬の後、魔神が咆《ほ》えた。砂漠に吹く熱風の響きに似た、非生物的な咆哮《ほうこう》が空間を震わせる。
映像が、割れ砕けるように消失した。
一同、声もなかった。音のない幻視であったにもかかわらず、魔神の咆哮がはっきりと彼らの鼓膜にこびりついていた。
エルフ諸侯を統括する王都にして、世界最古の都市と呼ばれるエイセル・エルダス。その中心に聳《そび》える巨城の天守閣に、大陸全土から招集された魔導師の主だった者が集められていた。エルフはもとより、ノーム、ドワーフ、人間そしてホビットまで、人と呼ばれる五族の術者が一堂に会している。
彼らが囲む円卓の上に、粉々に砕け散った宝珠《オーブ》があった。たった今まで、この場にいる全員に大災厄の原因を幻視させていた魔法の品である。
床には、ひとりのエルフが斃《たお》れていた。
彼には頭がなかった。宝珠《オーブ》が砕けると同時に、彼の頭蓋《ずがい》も爆発するように弾けたのである。
魔神の仕業だった。幻視に気づき、その思念の視線に圧倒的な念動を送り込んだのだ。宝珠は粉砕され、それを制御していたエルフの術者もまた破壊された。
屍《しかばね》が運び出された後で、現在エイセル・エルダスの最高位にあるアルフォーリが口を切った。
「彼奴《あやつ》が、我々が相手にしなければならない敵なのだ」
「しかし、あれは……まさか」
「魔界の眷属《けんぞく》を召喚する呪法を研究しておられた御仁は、彼奴のことは良く御存知のことだろう」
永遠の王子≠ヘ、呻《うめ》き声に似た呟《つぶや》きを漏らした魔導師をはじめとするその場の何人かに視線を巡らせた。「遥かな古代に神々との争いに破れ、異次元の深層に縛り付けられていた大悪魔――パズズーとも呼ばれるあの魔神マイルフィックだ」
「その忌《い》まわしい悪魔は、神々の封印を受けてこの次元から追放されていた筈だ」
ゴルソムが多くの魔導師の疑問を代表して言った。「それが何故、今になって次元の壁を越えて現れたのだ? 神々の封印の力は未だ衰《おとろ》えておるまい」
「彼奴《あやつ》を封じ込めていたのは、神々の封印だけではないのだ。かの次元と我々の次元の狭間《はざま》に存在する障壁が、彼奴を閉じ込める檻《おり》の役割を果たしていた」
「その障壁が弱まったのです。だからこそマイルフィックは、あのような現《うつ》し身をこの次元に送り出すことができた」
シャイロンが後を受けて答えた。ノーム王はアルフォーリの補佐として、この会議の中心的な役割を務めていた。
「そしてその配下たる異界の悪魔どもも次元の壁を越えるようになり、幾つかの都市は魔軍の襲撃を受けて滅亡しました。魔神を先頭に、彼奴《あやつ》らはこの世界を第二の魔界に変えるペく侵攻を開始したのです」
「しかしどうして、その次元間の障壁とやらが弱化してしまったのだ?」
動揺が広がる中、人間族《ヒューマン》の魔道君主が訊《たず》ねた。
「その責は貴殿にも、ここにいる我々すべてにもある。魔法を扱うあらゆる者に、その責があるのだ」
「どういう意味だ?」
アルフォノ−リの言葉にゴルソムがすぐさま反応した。それを一瞥《いちべつ》し、エルフは淡々と続けた。
「我々の操る魔道の多くは、他の次元に少なからず影響を及ぼしている。ここに揃った魔導師諸侯なら、それは百も承知のことだろう」
見回された幾人かが頷《うなず》いた。
「本来この空間には存在しない力を、我々魔導師は呪文の行使によって現出させる。これは魔力というエネルギーをこの世界での物理現象に変換する行為であり、それに伴って負の方向への力もわずかではあるが生じることになる。その負のエネルギーが逆流し、多層に重なる次元間の壁に歪みを与えるのだが、実質的にこれはすぐに緩衝され、吸収されてしまう程度のものだった。ところが――」
アルフォーリは敢《あ》えてゴルソムだけを見た。
「我々は限度を遥かに越えてしまっていた。高度な魔法を日常茶飯事に用いることによって、歪みのエネルギーは完全に消滅することなく、蓄積に蓄積を重ねて遂に魔界とこの次元の間に存在していた越次元抵抗を大幅に減少させた。言い換えれば、魔界を我々の世界に引き寄せてしまったのだ。そしてマイルフィックはその機会を逃さなかった。本体は魔界に封じられながらも複製体と言うべき現《うつ》し身をこちらの世界に出現させ、その肉体を通じて妖力を増幅し暴風雨を引き起こした――しかもその目的は、洪水で我々を滅亡させるためだけではなかった」
「それだけではない?」
「ゴルソム殿。あの時ゴレア・ドゥムに悪魔どもが実体化しようとした。それは何故だとお思いか?」
「我らの都市が水攻めに持ち堪《こた》え続けていたからだろう」
応《こた》えるゴルソムの口調に、若干の誇らしげな響きが混じった。「痺《しび》れを切らせて、直接攻め滅ぼそうなどと考えたのであろうよ」
「目的はそうかも知れん。では何故、彼奴《あやつ》らはゴレア・ドゥムに――そして、これまでに攻め滅ぼされた都市群に次元を越えて現れることができたか、お判りかな」
「それは……先の貴公らの説の通り、魔界との間の障壁が弱化したからではないのか」
「ならば、この世界はとうに無数の魔界の眷属《けんぞく》に蹂躙《じゅうりん》されている。障壁は魔神の強大な魔力には打ち破られたが、並の悪魔の侵入を阻《はば》む程度の越次元抵抗を残してはいるのだ」
無言のまま聞き入っている一同を見渡し、アルフォーリはドワーフ王に視線を戻した。「確かに、貴殿の都を包む結界は素晴らしいものだった。浸水で支柱を砕かれ、とうの昔に崩壊していた筈のゴレア・ドゥムを支え続けた魔法の力場も然《しか》り。しかし、だからこそ彼奴《あやつ》らはそこに現れることができたのだ」
「――何だと」
「あの巨大な都市を支え、水流から守り続けた結界を維持するために、どれほどの魔力が費やされたかは御存知だろう。さすれば、そのエネルギーが次元の壁に与え続けた歪《ゆが》みも想像がつくというものだ。その歪みはやがてこの次元全体に分散し、平均化されるものだが、力場を発生させている限りあの空間は常に、局地的に最も次元障壁が弱い地点となっていた。あのような悪魔どもですら他次元が可能なほどにな」
緊迫した雰囲気が流れた。集められた魔導師はいずれも、常人を遥かに越える叡智《えいち》を身につけた者たちである。アルフォーリの語る事実が何を意味しているのか、即座に全員が悟っていた。
「それは……つまりは……」
ゴルソムすらも絶句した。その様子に微かな冷笑を浮かべるアルフォーリの代わりに、シャイロンがその結論を述べる。
「左様。こうしている間にも、嵐から都市を守るための結界が刻一刻と魔界を引き寄せる役割を果たしておるのです。洪水に耐えるほどに、我々は自らの首を絞めることになる――暴風雨は、言わば魔界との通路を開く呼び水のようなもの」
「獣じみた外見に騙されぬことだ。彼奴《あやつ》はその気になればもっと簡単にこの世界を壊滅させる妖力を持っている。それをしないのは、生き延びようとする孜々の魔力を利用して、さらに加速的に魔界を接近させるためだ。雨量が人口の多い地域に異常に集中していた理由もお判りだろう。彼奴《あやつ》は――魔神マイルフィックは我々が考えているよりも遥かに狡猾《こうかつ》で、策謀に長《た》けた頭脳を有しているのだ」
アルフォーリの言葉の残響が、粛とした議場に長く尾を引いた。
「――それで、どのような手を講じるのだ」
重苦しい沈黙を、ゴルソムが破った。「天空の魔神を一刻も早く葬り去らねば、我ら――いや、この世界は洪水と悪魔どもに踏みにじられ、滅亡するのだろう。そのために我らの魔力を借りたいと、それだけは貴公から聞かされているが」
「あの悪魔王に対抗するには、やはり呪文による攻撃しかあるまい。しかも失敗は許されない。我々がまだ反撃する力を残していると知れば、彼奴《あやつ》はすぐさま直接的な破壊活動を開始するだろう。ただ一度の攻撃で、確実にあの肉体を消滅させなければならない」
「それは、可能なのか」
訊《たず》ねるゴルソムの脳裏を、宝珠《オーブ》から視覚に投影された先刻の光景が掠《かす》めた。嵐を巻き起こし、大海を吸い上げる魔力を持った異形の邪神。幻視を行った術者をただ一|咆《ほ》えで惨殺した混沌の化身を、果たして一撃に仕留めることなどできるのか――。
「並の攻撃呪文では無理だろう。無効化される系統のものはほぼ効かないであろうし、全身を包んだ対魔法の障壁もこのエイセル・エルダスの結界に匹敵する強度と思われる。それを突き破る破壊力と、この遠隔の地から攻撃できる射程距雄が要求されるのだ」
言葉を切り、一拍おいてアルフォーリは言った。
「その条件を満たす呪文がひとつだけ、我々一族に伝わっている。無効化されず、距離の影響を受けず、ひとつの城塞都市を瞬時に焦土《しょうど》と変える破壊力を秘めた攻城呪文がな。膨大《ぼうだい》な魔力を要するが、これだけの魔導師が総力を結集すれば必ずや効果を引き出すことができよう」
「そのような呪文が使われたという記録は、我らの間には伝わっておらぬが?」
「行使する機会がなかったのだろうさ」
そう答える刹那《せつな》、エルフの貌《かお》から表情が消えた。それは強靭《きょうじん》な意志で感情の起伏を抑えた時に見られる無表情であったが、瞬きほどの出来事ゆえに気づく者はなかった。
彼は言葉を継いだ。
「ただし、この呪文にはひとつだけ欠点がある」
「どのような欠点か?」
「目標点として特定の物質を必要とするのだ。つまり、呪文による攻撃を行うためにはその物質をマイルフィックに近づけ、あわよくば彼奴《あやつ》の躰《からだ》に撃ち込まねばならない。誰かが直接、な」
「馬鹿な!」
ゴルソムだけでなく、同様の叫びがあちこちからあがった。「あのような化物に近づくなど――」
「生身の者には不可能だ。それゆえに、エルフ王御自らが使者として発《た》たれているのだ。かの不死王にその役割を要請するために」
一瞬の静寂の後、凄まじい罵声と怒号が沸き起こった。
「不死王!? あの森の彼方の国≠フ不死王か!」
「ファールヴァルトの腐れた怪物と手を組むと言うのか!」
「悪魔と同等か、それ以上に残忍な魔人に要請だと?」
魔導師たちが口々に喚《わめ》き立てる言葉には、激しい嫌悪とともに隠しようのない恐怖がありありと窺《うかが》えた。
「不浄の怪物に頼るくらいなら、我ら誇り高きドワーフ族からその役を果たす者を選出するわ!」
一際高く赤き顎《カルハロス》≠ェ咆《ほ》えた。対するアルフォーリの口調は穏やかですらあったが、炎の如き迫力をもってその場を庄倒した。
「たとえその誇り高き勇者がゴルソム殿、貴殿であったとしても使命を果たすことはできぬ。無論私もシャイロン殿も、この城に集まった魔導師諸侯の誰であっても――そして我が父、一族最高の術者であるエルフ王アルドゥエンですらも、生命ある存在には決して成し得ぬ任務なのだ」
「何故そう言い切れる!」
「魔神を幻視した際に、周囲の空間が異常だったと気づかれなかったか。渦を巻く雲がある一点を越えて中心部に接近すると、急速に引き込まれながら霧散していく様《さま》を」
「……何?」
「彼奴《あやつ》は対魔法用の障壁だけではなく、その周囲に巨大な球形の真空域を造り出しているのだ。呼吸なしには生きられぬ我々生者が侵入不可能な無酸素の空間をな」
「ふん。たかが真空地帯など、己を充分な大気の結界で包めば何ら障害にならぬではないか」
「あの魔神がわざわざそのような真空を纏《まと》っていると本気でお考えか? あれはただの真空域ではない。その効果範囲に存在するあらゆる酸素を瞬時に消失させる、窒息《ラカニト》≠フ呪文と同質の働きを持った力場なのだ。体内の酸素すら消し去るこの真空域に侵入すれば、生物は数秒と待たずに死に至る。この種の効果は|腐敗の大気《ザハン》≠ニ同じ、魔法障壁では防ぎ切れぬものだ」
「そんな空間……そのような真空域の中にあれはいるのか? ならば、どうして彼奴《あやつ》は生きているのだ……」
足掻《あが》くように、詰まりながらドワーフ王は呟《つぶや》いた。
「あれはマイルフィックそのものではない。この世界で活動するための複製体――限りなく本体に近い連動体であり、厳密には生命体ではないのだ。そして、その空間で活動できる者は同じく生命を持たぬ存在――死者の都の不死王のみ」
今度こそゴルソムも沈黙した。その沈黙は、この議場の全員が渋々ながら不死王の件を承認したことを意味する。
だが、アルフォーリと、計画を事前に知っているシャイロンにも不安はあった。悪魔に劣らぬ人類の敵対者と呼ばれる不死王が、人の世界を守るための救いに助勢してくれるものなのか――。
それを口にした魔導師がいた。エルフの永遠の王子≠ヘ躊躇《ためら》わず応《こた》えた。
「不死王の心を理解できる者は父をおいて他におらぬ。相応《ふさわ》しき使者を得れば、必ずや交渉は成立する」
それはアルフォーリが自身に言い聞かせる言葉だった。声に出さぬ想いが後に続く。
――頼みます、父上。もうひとりの不死王よ……。
森の彼方の国≠フ街路に、二度目の夜が訪れようとしていた。
昼の間に睡眠を取ったヒューンとアルドゥエンは、夕刻の少し前から再び都の中心部に向かって距離を稼《かせ》ぎ始めている。
昨夜、亡者の広場より尖塔群を望んでからほどなく、ふたりは拗《ねじ》くれた蔦《つた》の絡《から》まる長大な壁に囲まれた都市の外郭に達した。巨人の力を借りなくては動きそうにない鋼の大門をアルドゥエンの呪文で開き、そこから尖塔群まで続いているらしき石畳の広い街路を、ふたりは夜通し歩き続けたのだった。
尖塔は巨大で、都市は広大だった。間近に見えたのはそのスケールによる錯覚で、実際に目と鼻の先と呼べる距離になったのは一晩を歩き通した後のことである。ヒューンはこれほど高い建造物にお目にかかったことがなかった。
現在では、塔の群れは夕闇の天を圧するが如くに聳《そび》えている。そしてそれらに囲まれた中央に、遠方からでは塔と区別のつかなかった、一際高い巨城があった。
ふたりが目指すのはその巨城――死都ファールヴァルトの支配者が住まう魔宮であった。
大道の両側には、歳月に朽ちかけてはいるものの、様々な意匠が施《ほどこ》された見事な建築物が整然と立ち並んでいた。しかし、やはり生けるものの姿は鼠《ねずみ》一匹見当たらない。それだからこそ、二千年以上も昔に滅びた都が往時の状態をこれだけ保っているのかも知れなかった。
その街並を眺めながら、ヒューンは忍び寄る夜闇にほとんど反射的な恐怖を感じていた。脳裏に蘇るのは、昨夜|目《ま》の当たりにした呪わしい光景であった。
彼は、ファールヴァルトがどのような場所であるのかを理解しているつもりだった。理解し、覚悟を固めたうえで、上級の魔導師ですら近寄らぬこの死都に足を踏み入れた――そう思っていた。
だが、あの串刺しにされた亡者の群れに妻の姿を探した瞬間から、ヒューンは己の認識の甘さを痛感していた。
彼の意識の中で、エレシアは領主によって引き離されたあの時のままの美しさを保っていた。生きてはいまいと覚悟していても、その死ですら美しくあったろうとヒューンは盲信していた。
それゆえに、真夜中の死都の光景はヒューンにとってあまりにも過酷であった。
昨夜、ふたりが門から侵入してほどなく――。
それまでは静寂に満ちていた街路に、ゆっくりと異変が生じた。
漂う霧の中に揺らめく影。風のない湿った大気を通じてさわさわと届く物音。廃屋の内部で軋《きし》む錆《さび》びた蝶番《ちょうつがい》。そして幽《かす》かに聴こえる、女のものとも赤児のものともつかぬ啜《すす》り泣き。
生者の気配はない。しかし、確かに何かが闇の向こうに蠢《うごめ》いでいる。
ヒューンがそれと気づいた時、すでにその者たちは夜の街路に溢《あふ》れ出していた。ある者は廃屋の扉をくぐり、ある者は路地から吐き出され――。
アルドゥエンの恒光《ロミルワ》≠ノ吸い寄せられる魚群のように、いつしか大道に無数のゾンビが徘徊していた。
青白く腐りかけた肌。どろりと濁った眼球。衣服は襤褸《らんる》と化し、言葉にならぬ呻《うめ》きが締まりを失った唇から漏れる。そのほとんどが人間であったが、中にはドワーフやノーム、稀《まれ》にホビットの姿も見られた。
まさに、伝説に聞く死者の都そのものであった。すべての住人が一夜にして死人となり、永遠に夜闇の底を彷徨《さまよ》う運命を背負わされた呪わしき国――。
ゾンビたちは変色した歯を剥《む》き、両腕で掴《つか》みかかるようにふたりに群がってきた。彼らの溶けかけた脳に生前の記憶はもはやなく、ただ生者の匂いを嗅ぎつけて襲いかかる衝動にのみ支配されているのだ。
しかし、死人たちは一定の距離以上に近寄ることはできなかった。アルドゥエンが首に掛けている護符が強力な不可視の魔法障壁を発生させ、エルフをあらゆる害毒から守っているのである。その結界内に身を置く限り、ヒューンの安全もまた保証されていた。
アルドゥエンが歩を進めれば、ひしめくゾンビの群れは障壁に弾かれて左右に緩慢《かんまん》に割れていく。あたかも無人の野を行くが如く、ふたりは夜の街路を突き進んだ。
その間、次々と視界に入ってくる醜悪な死人の中に、ヒューンは無意識にエレシアを探してしまうのだった。止《や》めようと思いながらも、気がつくと最愛の妻の変わり果てた姿を目を血走らせて探している。
それは自ら進んで受ける拷問のようなものであった。美しいままであると信じてきたエレシアが突如腐乱した屍《しかばね》となって現れるかも知れぬ恐怖に晒《さら》されながら、むしろ瞬きの回数すら減じてその姿を求め続けていたのだ。
夜明けを迎え、ゾンビの群れが自分の墓所へ戻った頃には、ヒューンの神経は限界まで衰弱していた。精神的な苦痛と緊張が夜通し継続していたのだから無理もなかった。
疲労は睡眠によってほぐすことができたが、苦痛の記憶は消えなかった。今宵もまた死者の群れにエレシアを探すのかと思うと、ヒューンは死者を誘《いざな》う夜の闇それ自体に恐怖してしまうのだった。
そろそろ恒光《ロミルワ》≠フ明かりが必要になってきた。闇に対する過度の反応なのか、ヒューンの目には前方の道が暗黒の中に吸い込まれているように映った。街路のある一点から急速に闇が濃度を増し、先に続く直線道が見えないのである。
しかし十歩ほど進むと、それが錯覚ではないと判った。
大路はその一点から下りのスロープを描き、緩《ゆる》やかに地底へと潜り始めていたのだ。
アルドゥエンは迷う風もなくそのスロープを下り始めた。ヒューンも戸惑いながら続く。
やがてふたりは高い天井を持つ地下道を歩いていた。恒光《ロミルワ》≠ヘすでに唱えられ、街路とほぼ同じ広さの通路の両壁を柔らかく照らしている。
地底世界の闇は深かったが、ヒューンの恐怖は和《やわ》らぎつつあった。死人がただのひとりも現れないところを見ると、彼らが徘徊するのは都市の地上部分に限られているらしい。ただの暗闇であれば、エレシアの妄念に苦しめられることはなかった。
かなりの時間を、ふたりは黙々と歩き続けた。途中幾つかの分岐があったが、アルドゥエンはひたすらに直進する通路を突き進んだ。ヒューンの感覚では、地上で言えばもう尖塔に囲まれた巨城に達してもおかしくないだけの距離を歩いたような気がする。
そう考えた時、唐突に視界が開けた。
そこは巨大な地底のドームだった。人間なら千人ばかりは楽に収容できる面積があり、ふたりが辿《たど》ってきたものと同じ地下通路が八方向に続いている。その構造から推測するに、ここはファールヴァルトの中心地である城の真下に位置しているらしかった。
その円形ドームの中央から、天蓋《てんがい》の頂《いただき》に向かって透明なチューブが伸び上がっていた。十人は詰め込める太さで、周囲に螺旋《らせん》を刻んだ円筒形のやはり透明な箱が基底部に鎮座している。
「ここが、不死王の居城への正しい入口であるらしい」
チューブに向かって歩き続けながら、死都に侵入して以来前にも増して口数の減ったアルドゥエンがようやく言葉を発した。事実夕刻に歩き始めてからここまで、エルフはろくに口を利いていない。何かについて深く考え込んでいるということだけは、無表情な中で眉だけが微《かす》かに寄せられていることから窺《うかが》い知れた。
チューブの傍《そば》に来るとアルドゥエンは軽くその円周を探り、一点に細い指先で触れた。と、チューブの一部が溶けてゆくように消失し、人が楽に通れるだけの入口が現れる。
「こいつは、何なんだ?」
「城内へと続く昇降機だ。この様子なら現在でも使用できそうだな」
エルフに促され、ヒューンは恐る恐る内側の箱に乗り込んだ。アルドゥエンも乗り込んでまた透明な一点に触れると、溶け落ちた筈の入口が瞬時に元通りに再生した。
「上へ――」
呪文ではない、ただの共通語《コモン》を呟《つぶや》いただけで箱は音もなく底を離れ、滑《すべ》るように上昇を開始した。周囲で螺旋の模様が回転し、それがこの箱を押し上げる力となっているように見える。
昇降機はあっと言う間にドームの天頂部を越え、長い地底の竪《たて》穴に突入した。
「これで、もうすぐ不死王に会えるってところまで来たのかい?」
「恐らくな」
熱のない魔法の光に包まれて、向かい合ったふたりはチューブの中を昇っていく。ヒューンは頭上を見上げたが、永劫に続くかと思われる闇が延びているばかりで、終点らしき明かりの類《たぐい》は見当たらなかった。
「後悔してはいないか」
不意に、アルドゥエンが言った。
「俺がか」
「ああ。私とともに来たばかりに、辛い思いをしたように思える」
短い沈黙が流れた。
「……後悔なんざしちゃいないさ。俺はエレシアがどうなったか知りたくてここまで来たんだ。生きるにせよくたばるにせよ、それだけは俺が確かめなきゃならない」
ヒューンはチューブの外の暗黒を見た。その暗黒の向こうに、彼はこの数奇な人生を歩ませた冷酷な運命を睨《にら》んでいた。
「そいつがどれだけ残酷な最期でも――たとえあの死人の群れのひとりとなっていたとしても、知らずにいたほうが幸せだったとは思わないさ」
「強いな。人間は皆、そんなに強いものなのか」
相変わらず無表情ではあったが、どこか感情を殺し切れない呟《つぶや》きをアルドゥエンが漏らした。それは密かな羨望であったのかも知れぬ。そうした感情の露出を否定するように、彼は語を継いだ。
「ヒューン。ここ二千年ばかりの間に、我々エルフをはじめとするすべての種族の寿命が縮まっていることは知っているな」
「ああ。エルフで二百歳、ノームやドワーフがせいぜい百五十歳程度までしか生きられなくなったっていうな。それにしても、俺たち人間に比べりゃ格段に長寿だと思うがね」
「人間から見ればな。しかし考えてもみたまえ。かつてエルフは壮年期まで千年近くをかけてゆっくりと成長し、その後は老化することなく、傷病を受けない限り永遠に生きることができた。古代には数万年を生きた者さえ存在したのだ。それが当然だった種族が、わずか二百年の寿命にまで縮まったのだよ」
実感が沸かないといった表情のヒューンに、エルフはつけ加えた。「七十年前後を生きる君たち人間族《ヒューマン》で言うなら、その寿命が一季節も持たないほどになったと考えればいい。厳密な意味合いとしては違ってくるが、我々にとっての危機感は理解できるだろう」
「そりゃあ……確かに大事《おおごと》だな」
「ノームで四百年、ドワーフで二百年。ホビットもかつては百年を越える寿命を有する種族だったが、彼らも着実に短命化している。ある値に向かってな」
「値?」
「寿命の均一化とでも言うべきか。人の五族で最も新しく、短命な種族――即ち人間族《ヒューマン》の寿命に、すべての種族のそれが近づきつつあるのだ」
「――本当なのかい」
「ああ。エルフやノームの術者の間では共通した見解となっている」
「だが、何故そんなことが起きてるんだ」
ヒューンは驚きを隠さなかった。「呪いでも受けているのか?」
「寿命が縮み始めた頃はそう考える者ばかりだった。しかし、それほど大きな呪法など到底成し得るものではない。だから私はこう考えるようになった。仮にこの現象が呪いであるとすれば、それはもはや自然界の摂理ではないのかとな。その考えに辿《たど》り着いた時、自《おのず》ずと原因が見えてきた」
上昇し続ける昇降機に、エルフの澄んだ声音が響く。「摂理が生存する時間を短縮する方向――死を早める方向に動いているのなら、原因は逆に死を遠ざけるものでなくではならない。そして実際に、この条件に当て敵まる事柄が二千年前から発達してきているのだ」
「そいつは――?」
「君もその身をもって知っている筈だ。死の淵にある者をこの世に引き戻す術をな」
ヒューンは困惑し、もう一度その言葉を反芻《はんすう》した。閃くものがあった。
「癒《いや》しの術……治療や回復の呪文か!」
アルドゥエンが頷《うなず》いた。
「その通りだ。あの時の君は魔法の治療を施《ほどこ》さなければ確実に死んでいたが、現在もこうして生きている。そして癒しの術が編み出されて以来、瀕死の状態から君同様に生き延びた者は無数に存在する。それは即ちそれまでの自然の摂理――生と死の均衡を狂わせることを意味する。百年と生きることのない人間族《ヒューマン》ならばその個体が自然界に及ぼす影響はわずかだが、これが不老不死の存在たるエルフとなれば本来死んでいた者が数千年以上を余計に生きる可能性もあり、均衡の狂いも絶大なものとなるのだ」
「均衡が狂うってのは?」
「例を挙げるなら生命を維持するために必要な食物だな。君自身この一週間あまりに数匹の獣を捕えて食べているが、君が死んでいたならばそれらはまだ生きている筈だろう? 些細だが、これも積み重なれば食物連鎖の均衡を崩す結果となる。長寿の種族であるほどその影響は長期に渡る――」
エルフの銀髪が揺れた。昇降機の速度が緩《ゆる》む。「ゆえにこの世界自体の平衡を求める力が短命化を促しているとしても、それほど驚くべき話ではあるまい。これは私の自説にしか過ぎないがね……どうやら終点に着いたらしい」
上昇が止まった。ヒューンが話に引き込まれている間にいつしか昇降機は竪《たて》穴を抜け、地上部分である城内に到達していた。乗り込む時と同様に透明な壁が溶け広がり、ふたりはチューブの外に出た。
そこは方形の広いフロアだった。地底ドームからの昇降機の他に、数本のチューブがさらに上層へと延びている。アルドゥエンはそのうちの、周囲に装飾が施された一本に歩み寄った。
「中継点だな。ここから天守閣へは特定の者以外が昇れぬようになっている」
「俺たちはどうなんだ」
応《こた》えの代わりに複雑な韻律を持つ呪文が唱えられた。開口したチューブに踏み込みながら魔導師は振り向いた。
「この呪文を扱えれば特定だ。意味は要約して偉大なる公に永遠の若さと生命を=Bかつての統治者の不老不死を祈願する呪《まじな》いが鍵となっているわけだ」
ふたりは再び上昇を開始した。チューブの周囲を、数え切れぬフロアの断層が次々と下方に流れていく。それをしばらく眺め、ヒューンは口を開いた。
「今の話だが、それじゃあ生き延びるための魔法を発展させたばかりにエルフやノームは寿命を縮める羽目になった――つまり、弱くなっちまったってことかい」
「皮肉なことだがな。しかし、ある意味では強くなったとも言える」
「どういうことだ?」
「生存期間が短縮したことにより、個体としては弱い存在となったと言えよう。だが、種族としては必ずしもそれが弱体化を示すものではないのだ」
当惑顔のヒューンに構わずにエルフは続けた。「人間族《ヒューマン》は最も遅くこの世に生まれ出た種族だと伝わっている。にもかかわらず、数千年前からはその勢力は五族の中で最大となった――これは種族間に戦を起こした際の強弱を言うのではなく、人口の増加や文化の発達の勢いに関してのことだ。人類の歴史から見れば瞬く間に、人間族《ヒューマン》は他の種族を凌《しの》ぐ大勢力に成長した。その理由の最たるものは種族的な気質、つまり短命であるがゆえの貪欲さ、性急さだった。短い生の間に欲望を可能な限り満たそうとする意識――それこそが人間族《ヒューマン》の爆発的な躍進を支える原動力だったのだ。種族全体の強さと言ってもいい」
「短命だから、強い?」
「逆にな、ヒューン。不老不死の時代の我々エルフはほとんど進歩を遂《と》げなかった。神話時代の魔法技術を受け継ぐばかりで、出生率は低く人口の増加もない。種族的に停滞していたのだ。いや、衰微しかけていたのかも知れない」
アルドゥエンは瞼《まぶた》を閉じた。ヒューンはそこに、いつか見た奇妙に老いた翳《かげ》を感じ取った。
「それが短命化につれ、少しずつ勢いを盛り返し姶めた。人口も増え、道徳を重んじるかつての気質を失わぬまでも、エルフもまた人間に近い欲望を有するようになった。種族として見れば自然の淘汰を免《まぬが》れるだけの強靭《きょうじん》な生物となったのだ」
深緑の虹彩が真っ直《す》ぐヒューンに注がれた。
「これもまた平衡を保つ作用なのだろうな。君の精神の強さを見てその思いが強まったよ。それは我々には――私には備わっておらぬ強さだ」
最後の一言を口にする時、わずかにアルドゥエンは躊躇《ためら》いの表情を見せた。だが、その言葉がどれだけの意味を持っていたのか、ヒューンには知る由《よし》もなかった。エルフはなおも語り続けた。
「ノーム族の間では近年、不完全ながらも蘇生を可能とする呪文の研究が実を結びかけている。病死や老衰には効かず、死後間もない者でなければならないらしいが、編み出されれば各種族の短命化は一層進むこととなるだろう。この世界があと千年も続いたなら、我が一族もそうした強さを持つ世代が主流となったかも知れないな」
「――?」
続いたなら、という仮定の口調がヒューンには喉に残った小骨のように感じられた。訊《たず》ねようとした瞬間、昇降機は緩《ゆる》やかな減速を始めていた。
最後の天井がゆっくりと視界を下がり、昇降機の底が床と同じ高さで停止する。周囲にもはやチューブはなく、ふたりの躰《からだ》だけがそこに押し上げられた形となった。
月が見えていた。青白く冴《さ》えた光を放つ満月が、その空間を中天から淡く照らしている。
そこは透明の丸天井――恐らくは魔法で結晶させた巨大な水晶――を頂いたフロアの中央だった。水晶の天蓋《てんがい》を通じて見えるのは、いつの間にか雲の吹き散らされた夜空のみ。円形のフロアの三方はバルコニーとなり、そこからはあの尖塔群の先端と下方に広がる死都の街並、その向こうに黒々と蟠《わだかま》る樹海の影までが一望に見て取れる。
疑いようもなく、そこが死都で最も高い地点――天守閣の最上層であった。
バルコニーが吹き抜きになっていながら、空気はまるで動かなかった。風がないわけではなく、外からは大気の流動する音がひょうひょうと伝わってくる。風やその他の物質を通さない魔法障壁が天守閣全体に張り巡らされているらしかった。
その澱《よど》んだ空気の中に、明らかに何かが潜んでいた。気配はなく、空気は髪一筋ほども動かない。だが、あからさまな敵意に満ちた波動がふたりの生者の肌に直接叩きつけられていた。
ヒューンの全身が総毛立っていた。毛穴のひとつひとつからべたつく冷たい汗が滲《にじ》み出してくるのが判る。圧倒的な妖気に彼は言葉にならぬ呻《うめ》きをあげた。
「私から離れるな、ヒューン。護符の障壁の範囲内にいるのだ」
アルドゥエンの冷静な声が恐怖を和《やわ》らげた。今呼びかけられなかったなら、心臓が凍りついていただろうと彼は思った。
妖気はただ一方に存在する暗がりから発散されていた。その一角は月を壁に遮《さえぎ》られ、恒光《ロミルワ》≠フ照射範囲からも外れて青黒い闇に包まれている。水晶を通して屈折し、拡散した月光だけが幽《かす》かに降り注いでいた。
その微光の下に、玉座に着いた人影がうっすらと浮かび上がった。
「ここまで辿《たど》り着くとあれば、相応の術を持つ者であろうな」
深みのある男の声が響き、その主はひとしきり低く笑った。
「だが、私の前から生きて逃げ延びた者はおらぬ。そして、安らかなる死を勝ち得た者もな」
玉座の両脇に青い火が灯る。揺らめく炎がその場を薄暗く照らす。
そこに、王侯が如き群青《ぐんじょう》の衣に身を包んだ金髪の男が座っていた。
それが人間族《ヒューマン》であるとしたら、まさしく完璧な美貌であった。アルドゥエンの美が中性的であるのに対し、その容貌は男として想像し得る最高の造型美である。
しかし、彼は人間ではなかった。その瞳は鮮やかな血の色に輝き、薄く笑んだ唇からは二本の尖《とが》った牙――犬歯などでは断じてない――が姿を覗かせている。そして何よりも、彼は生者ではないのだ。
「せめて一時私を愉《たの》しませるがいい。愚かなる者どもよ」
冷えた青白い貌《かお》に嘲笑を浮かべ、男――不死王は言い放った。
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第四章 不死王
森の彼方の国<tァールヴァルト公国――。
大陸の北方に広がる大森林地帯の中央に位置するこの人間族《ヒューマン》の都市国家には、かつて超絶的な魔法文明が栄えていた。
そこには世界中から高い知識と魔法技術を持つ賢人たちが集まり、彼らが互いの叡智《えいち》を結集して編み出した魔法の数々は生活に必要なあらゆるものを賄《まかな》うことができた。
制御された雷のエネルギーが街を夜でも昼の明るさに照らし、水流を自在に操る魔術は尖塔の上層にまで新鮮な飲料水を供給し、食用の動植物は通常の数十倍の速さで育成される。そこで用いられていた秘術は、神話時代の超魔法を受け継ぐ不死のエルフ族ですらも無視できぬほどに高度なものであった。ノームやドワーフ、ホビットの魔導師までが、その知識を求めてファールヴァルトにやって来た。
奴隷の労働力を必要としない、理想的に満たされた魔法文明。都市はかのリルガミンのものに匹敵する防護魔法をも備え、その繁栄は何者にも侵されることなく続くかと思われた。
しかし二千年ほど前、ファールヴァルトは一夜にして滅亡することとなった。
魔法文明の発展を促したのが人間の欲望であったとするなら、それを破滅へと導いたのもまた同じ欲望であった。エルフ族に対する劣等感、とも言えるかも知れない。
すべてが満たされた生活に飽き足らなくなった彼らは、こぞって生命の理《ことわり》を超越する研究に手を染め始めた。
いかなる秘術をもってしても、決して避けることの叶わぬ老いと死。それを克服する方法――即ち不老不死を求めて、彼らは冒してはならぬ領域に足を踏み入れていた。繰り返される実験と新たな魔術は、次第に道徳性を失った邪《よこしま》な暗黒の呪術へと暴走を始めたのである。短命種である人間族《ヒューマン》にとって、エルフの持つ不老不死への憧れはそれほどまでに強かった。
そして運命の夜、そうした邪悪な研究室のひとつで遂に不死の秘術が完成した。
ファールヴァルトでも一、二を争う高名なその魔導師は、他の研究者とは根底から異なる方法によって不老不死を実現しようとした。生命あるがゆえに死を迎えると考え、ならば死に等しい状態で生者同様に思考し、活動できる存在を生み出そうとしたのである。
人工的な不死者を造り出すという点においては魔導師の方法論は正しかった。大地の底から伝わる魔力の波動を糧《かて》に、血の流れと呼吸を必要とせずに活動する負の生命体――老いることなく、たとえ肉体が破壊されようとも即座に再生して蘇る不死の存在を、彼は見事この世に誕生させた。
しかし、そこには大きな誤算があった。誕生したのは人ではなく、また人の下僕でもなかった。そいつは生まれながらに人類を超越する能力を持ち、そして人類に敵意を抱《いだ》いた不死の怪物であったのだ。
解き放たれた魔人はまず産みの親である魔導師を殺し、その魔力によって己の眷属《けんぞく》のひとり目とした。配下となった魔導師が別の人間を殺せば、それもまた不死の魔物として蘇った。魔人の発する波動が倍々に増える犠牲者を生ける屍《しかばね》として復活させ、その夜のうちにファールヴァルトから生命ある者は消滅した。民のすべてが不死族《アンデッド》となったのである。
たったひとりの魔人によって、栄華を極めた超魔法の文明は滅び去った。それは驕《おご》り高ぶった人間に対する神々の怒りであったのかも知れなかった。
以来、不死者の都と化したファールヴァルトは禁忌《きんき》の地とされ、人々はそこに永遠に君臨するであろう魔人を畏《おそ》れ、嫌忌《けんき》してこう呼んだ。
不死王――と。
「ああ……」
ヒューンは喘《あえ》いでいた。眼前の光景は夢ではないのか。不死の魔人が見せる幻ではないのか。
そこに、エレシアがいた。
一糸も纏《まと》わぬ滑《すべ》らかな裸身が、月光に照らされて青白く浮かび上がっていた。領主によって引き離された十数年前と変わらぬ美しさで、最愛の妻は眠っているかのように目を閉じて立っている。
不死王の周囲の暗闇から、沸き上がる霧の如くに現れ出た数人の従者。いずれも美しい全裸の女たちの中に、紛《まが》うことなきエレシアの姿があった。
「エレシア……エレシア」
うわ言のように呟《つぶや》きながら、ヒューンは一歩、また一歩とエレシアに近づいていく。背後でアルドゥエンが何か叫んでいたが、彼の耳には全く入っていなかった。ただ意識のどこかで、あのエルフも叫ぶことがあるのだなと、そうぼんやりと考えていた。
ヒューンの意識を占めているのは目の前の妻だけであった。他の女たちや、そして今や不死王と対峙していることすら念頭にない。優しいエレシア。気丈なエレシア。泣き虫のエレシア。美しいエレシア。エレシア……目を開けて俺を見てくれ。そして春の野に咲く花のように微笑んでくれ。エレシアエレシアエレシア……。
アルドゥエンの護符の障壁範囲から踏み出し、彼は夢遊病者の足取りでエレシアの前に進み出た。もう三歩の歩幅に満たぬ距離に、夢に見続けた妻の姿がある。
「エレシア……俺だ、ヒューンだ……」
その囁《ささや》きで、エレシアの瞼《まぶた》が微《かす》かに動いた。目が合った瞬間に彼女が見せてくれるであろう微笑みを思い、ヒューンの精神はほとんど陶酔の域にあった。
エレシアの瞼《まぶた》が開いた。その瞳は不死王と同じ、鮮血の深紅だった……。
「うわああああああああああああああ」
そんな絶叫をヒューンは聴いたことがなかった。嬲《なぶ》り殺しにしたあの領主でさえこんな声は出さなかっただろう――そう考えた時、彼はその叫びが自分の喉から迸《ほとばし》っていることに気づいた。
肉体に染み込んだ剣士の本能が、無意識に身を躱《かわ》させた。鋭く紅い爪が鼻先を掠《かす》め、革鎧の胸の部分がぱっくりと切り裂かれていた。
急速に現実に引き戻されつつも、ヒューンはしばらく目の前の出来事を認識することができなかった。
エレシアは変貌していた。深紅の瞳を見開き、裂けんばかりに開いた口から牙を剥《む》き出しにして、美しい妻は獣のように唸り声をあげていた。
それはもはや人の姿ではなかった。不死王直々の手に掛かり、闇の生命を吹き込まれた不死の魔物――吸血鬼《バンパイア》。その怪物に、エレシアはなり果てていた。血の色をした瞳に映るのはかつて永遠の愛を誓った夫ではなく、その温かい鮮血で飢えを満たしてくれる、引き裂くべき獲物の姿だった。
そういった事実が、あさましく襲いかかろうとするエレシアの狂態を見つめるヒューンの心に少しずつ染み透ってきた。繰り出される不自然に長い爪を無意識に避けながら、彼は知らず涙を流していた。
これはエレシアではない。エレシアの姿を借りた化物だ。エレシアはもういない。しかしこいつはエレシアの魂を辱めている。これからもずっと辱め続けるのだろう。そんな真似は許せない。エレシアよ、おまえの尊厳は俺が守る!
次の瞬間、電光の迅《はや》さで抜き放たれた剣が飛びかかる吸血鬼の胸を深々と貫《つらぬ》いていた。
苦悶の絶叫をあげて、魔物は溶け崩れるように塵《ちり》と化した。その最期の一|刹那《せつな》、吸血鬼の貌《かお》がエレシアのものに戻り、微笑んだようにヒューンには思えた。
――ああ、エレシア。すぐに逝《い》くよ。俺たちはいつまでも一緒だ……。
ヒューンは満足げな笑みを浮かべた。もう思い残すことは何ひとつない。
残る吸血鬼《バンパイア》が一斉に襲いかかってきた。その気になればヒューンは魔法障壁の内側に逃げ込めたかも知れない。しかし彼は微動だにせず、女たちの爪と牙を余さずその身に受けた。喉が切り裂かれ、心臓が抉《えぐ》られるのが判った。
一瞬遅く、アルドゥエンが高い歌声のような詠唱を終えた。それは、不死の怪物に対抗するために近年編み出された単体攻撃呪文壊呪《ジルワン》≠フ効果範囲を中規模に拡大した応用呪文だった。ヒューンに群がった吸血鬼たちの肉体は瞬時に分解され、跡形もなく消し飛んでいた。
「ヒューン……」
アルドゥエンは目を閉じ、悲しげに頭を振った。
ヒューンは仁王立ちのまま、絶命していた。
エルフと不死王のふたりだけとなった空間に、長い沈黙が流れた。不死王は玉座に座ったまま、無抵抗に死んでいった男の姿を見つめている。
やがて向き直ったアルドゥエンに不死王は言った。
「不死を求めてやってきた輩ではないらしいな」
「そういった者たちが稀《まれ》にこの都に侵入するという話は聞いている」
アルドゥエンは無表情に戻っていた。「帰り着いた者はひとりとしてないのにな。不死王の伝説を誤解する者が少なからずいるのだろう」
「ほう」
落ち着き払った若いエルフに、不死王はわずかに興味を惹《ひ》かれたようだった。
「では、貴様たちは何故ここに来たのだ。この二千年あまりの間、それ以外の目的で私に逢おうとした輩はおらぬ」
「その男は生き別れとなった妻の消息を求めていた」
彼はヒューンの屍《しかばね》に目を向けた。「死んでいるのならどのような最期を遂《と》げたのか――それを貴公に訊《たず》ねるつもりだった。その願いは最も残酷な形で叶えられたようだ」
不死王は無言だった。奇異なものでも見るように再びヒューンに視線を移している。その眼に微《かす》かな怒りに似た色が灯ったのを、アルドゥエンは見た。
「それで――」
深紅の瞳をヒューンに注いだまま、不死王は訊ねた。「貴様は?」
「――貴公の力を借りたい」
「何と言った?」
魔人は反射的に訊《き》き直していた。彼に向かってそんな言葉を吐いた者はかつてなかった。
「この世界を破滅から救うため、貴公の助力が必要なのだ」
アルドゥエンはもう一度きっぱりと言った。
不死王の哄笑が響いた。可笑《おか》しくてたまらぬといった様子で魔人は笑い続け、そして唐突に哄笑は止《や》んだ。
「どのような破滅が訪れるのかは知らぬが、この下らぬ世界が終焉《しゅうえん》を迎えるなら、私はそれを歓迎しよう。貴様のようなエルフの若造には判るまいが、私はもうこんな退屈な世界には飽き飽きしているのだ」
「判るさ。だから私が使者となった」
「――何を言っている?」
不死王の口調に苛《いら》立ちが混ざった。「貴様に何が解る。私を怒らせるつもりか」
「名乗る暇すら与えてもらえなかったからな」
エルフは静かに続けた。「私の名はアルドゥエン。すべてのエルフの民を統治するエイセル・エルダスの王。そして――」
夜空に風が激しく鳴った。しかし不死王の耳には、続くエルフ王の言葉がそれに掻《か》き消されることなくはっきりと届いた。
「そして世界にただひとり残る、最後に生まれた不死エルフだ」
エイセル・エルダスの王城では、大ホールに集められた魔導師たちがすでに呪文詠唱の準備を整えていた。
特に優れた魔導師には主となる詠唱を記した呪文書が与えられ、それ以外の力量の劣る術者たちは単純な補助韻律を唱えて思念の集中を図ることになっていた。彼らは初めて目にするエルフの秘呪に軽い興奮状態にあり、中にはあわよくばこの千載一遇の機会に魔法を修得してしまおうと懸命に呪文書を読み返す者の姿も見られた。
別室ではエルフの王子アルフォーリとノーム王シャイロンが、思念でアルドゥエンを追跡していた術者から彼が死都の中心部に到達したとの報告を受けていた。
「いよいよですな。して、市民の退避は?」
追跡者《トレーサー》が退出するのを見送って、シャイロンは抑えた声で訊《たず》ねた。
「私の腹心数人に、他の者には決して気取《けど》らせぬように厳命して行わせております」
遥かに歳下の老ノームに、アルフォーリは他の王侯には決して使わぬ言葉で答えた。彼にとってシャイロンは、父王以外に唯一尊敬に値する人物であり、この計画の全貌を知るただひとりの仲間であった。
「かの|赤き顎《カルハロス》≠燻文書の暗誦に熱心な様子。我々を残したすべての市民がエイセル・エルダスから姿を消したことなど、彼らは誰ひとりとして気づきますまい」
「さすれば、あとはアルドゥエン殿が不死王を動かすことができるかどうかにかかっておりますな」
ふたりは束《つか》の間不安に囚われたが、王子は自らを鼓舞するように言った。
「父上は不死王と同じだけの刻を生きてこられたのです。相手が人の心を持たぬ魔人であろうとも、必ず――必ずや協力を取りつけることができましょう」
シャイロンは無言で頷《うなず》いた。
禁断の呪文の詠唱開始が、刻一刻と近づきつつあった。
「私の力が必要な理由は判った。だが何故私が、貴様たち生ある者のために力を貸すと思うのだ?」
一通りアルドゥエンの話に耳を傾けた後で、不死王は物憂げに言い放った。
「その悪魔王とやらの引き起こす暴風雨で世界が滅びようと――たとえこの都が洪水に呑《の》まれるとしでも一向に構わぬ。私がこの腐りかけた領土に未練を抱《いだ》いているなどとは考えぬことだ」
「――」
アルドゥエンは黙っていた。不死王の紅い眼光を、その緑の瞳で静かに受け止めている。その傍《かたわ》らには、彼の手によって横たえられたヒューンの屍《しかばね》があった。
「貴様が不死のエルフであるというからこそ、こうして話を聞いてやる気にもなったのだ。以前侵入者のひとりからエルフの統治者が二千年近く代わらずに在位していると聞き出したことがあったのでな。以来興味を抱いてはいたが、所詮は有限生命体《モータル》と変わらぬ、望めば死を得られる者よ。実に不死身である私と取り引きできるなどと考えているところがな」
「不死王よ。これは貴公の義務なのだ」
「義務? 義務と言ったのか?」
少年のような貌《かお》が頷くのを見て、不死王は喉を鳴らして嗤《わら》った。
「――訂正しよう、エルフ王よ。貴様は少なくとも不死に妄執を抱いた訪問者よりは私を愉《たの》しませてくれる」
不死王の秀麗な貌《かお》から笑みが消えた。「この私に義務だと? そんなものはありはしない。私は何ものにも縛られぬ。束縛するものがあるとすれば、それは永久に続くであろう時間だけだ。その私が、何ゆえにそのような義務を背負わねばならぬ?」
「この次元に存在するものとしての義務だ。あらゆる存在は、自らの属する世界を破滅に導く力に抵抗する義務を背負っている。そして貴公は、あの異端者――悪魔王マイルフィックを撃退する義務を全うできる唯一の存在なのだ」
アルドゥエンの言葉に、不死王は瞬間意表を衝《つ》かれたような表情を見せた。だが、それはすぐに皮肉な笑みに変わり、魔人は鼻を鳴らしてせせら嗤《わら》った。
「己の属する世界と言ったな? 私がこの世界に属しているだと? 愚かしいことだ」
不死王の発する妖気が急速に強まった。玉座から湧き出した白い冷気が床を這うように広がっていく。
「私は誕生してこのかた、我が身がこの忌々《いまいま》しい世界の一部であるなどと考えたことはない。誰にも望まれずに生まれ、消滅することも適わず、永劫《えいごう》の檻の中に意識を封じ込まれた存在――それが私だ」
口調に激しい怒気が含まれていた。「永遠の若さを保つ不死エルフと言えど、望めばいつなりと死ぬことのできた貴様には判るまい。生まれ、死ぬものが変化を繰り返すこの世界において、その流《る》転の外に存在する私は異界の悪魔どもと同じ異端なのだ。その私がこの世界に果たすべき義務などありはしない」
冷気の靄《もや》がアルドゥエンの足元にも到達した。しかし、護符を中心にした球形の障壁は今も彼を包み込み、周囲の床に冷気が侵入するのを拒《こば》んでいる。
「その護符に守られている限りはエルフ王、貴様も不死者というわけか。そして先刻我が従者たちを消滅させた呪文が私に対する武器か。しかし私は何度でも永遠に蘇るぞ。私に敗北はないのだ」
「不死身の貴公を脅して従わせることができるなどとは考えていない。不死王よ、やはり助力は得られぬか?」
「くどい」
「では、取り引きということになるか」
「取り引きも成立しないと言った筈だ。貴様が私に与えられるものなど何もない――」
言いかけた不死王が訝《いぶか》しげな表情を浮かべた。アルドゥエンがその首から護符を外し、もはや冷たくなったヒューンの胸に置いたのだ。
「ひとつだけある」
エルフの肩からマントが滑《すべ》り落ちた。露《あらわ》となった首筋が月光に映え、磨き上げた珠のように白く輝く。知らず、不死王は身を乗り出していた。
「私の――この不死エルフの血を貴公に捧げよう。これが悪魔王撃退の助力に対する報酬だ」
何ほどもない些事を告げたように、アルドゥエンに表情はなかった。
「なるほどな。己を犠牲にする覚悟で臨んだか」
言いながら、不死王は玉座からゆっくりと立ち上がった。そしてその長身を滑《すべ》らせるように、自らも月光の届く範囲に進み出た。金色に燃える髪の下で、端正な貌《かお》が抑え難い欲望を映し出していた。その視線はアルドゥエンの、白く柔らかそうな首筋にのみ注がれている。
不死王もまた吸血鬼――より高等な吸血鬼の君主と呼ぶべき存在であった。不死王を生み出した邪《よこしま》な秘術は、彼に不死身の肉体とともに癒《いや》し難い嗜《し》血の性《さが》をも植え付けていた。
それはちょうど、人の水に対する欲求に似ていた。飲まねば死ぬという状態ではなくとも人が喉の渇きを癒すように、時に不死王は人の血を渇望する激しい衝動に駆られるのであった。
最後の不死エルフ・アルドゥエンの神秘めいた血液は、不死王にとって美酒の如き抗し粗い魅力を放っていた。そしてその血は戦いの末に奪うより、無抵抗に供されたものほど甘やかに渇きを癒《いや》してくれるのだ。
しかしその血を吸われた者は、不死王の魔力によって数日のうちに吸血鬼へと変貌する。従者の女吸血鬼も、元は樹海周辺の村々からさらわれてきた吸血の犠牲者たちであった。そしてアルドゥエンが血を供するということは、エルフの統治者たる彼が不死王の眷属《けんぞく》となることをも意味していた。
「私について色々と調べてきたようだな、エルフ王」
魔人は引き寄せられるようにまた一歩近づき、しかしそこで足を止めた。
「だが、私が生ある者どもを嫌悪していることを忘れているようだ。貴様の血を啜《すす》るためだけに人類の生命を救うなど御免だな」
「――私は貴公を理解しようと試みた」
不死王の拒絶に落胆することもなく、アルドゥエンは淡々と続けた。「転移《マロール》や飛行呪文を用いず、樹海から死都の街路まで徒歩で旅してきたのも、貴公の造り出した死者の国をこの目で確かめたかったからだ。それによって、貴公の意識の底に流れる感情が理解できるのではないかと考えたのだ」
「――」
「杭に串刺しにされながら千年以上を晒《さら》された亡者。そしてファールヴァルトの滅亡以来死都を彷徨《さまよ》い続ける生ける死者たち。それらの光景が漠然と何かを訴えかけてきたが、それが何であるのかは明確には判らなかった。しかし先刻、このヒューンが死んでいく様を見て、私はその答を得ることができた。貴公を理解したのだ」
「……答とは?」
不死王自身、それを知りたいかのようにアルドゥエンを見つめた。
「貴公は生ある者を嫌悪していると言った。己にはない生命の息吹を憎悪しているのだと。私もこれまではそう考えていた。だが、それは違った――」
銀の髪が微《かす》かに揺れ、冴えた月光に神々しく輝く。ふたりの不死者の間に短い沈黙が流れた。
「――貴公は生ではなく、死ぬことができる存在に対して羨望を抱いているのだ。憎悪ではなく、嫉妬しているのだ」
その言葉がアルドゥエンの口から吐き出されると同時に、不死王の躰《からだ》から凄まじい妖気が噴出し、ふたりの周囲で渦巻いた。それは精神の秘部を看破された不死王の怒気であるのかも知れなかった。瞬間的に天守閣全体が震えたほどの波動であった。
それが唐突に、吸い込まれるように消失した。
「ふふ……」
不死王が笑っていた。笑いながら護符の魔法障壁の外縁近くに歩み寄る。
「この私が、たかが人どもに嫉妬を抱くか……そうかも知れぬ。その人間族《ヒューマン》の男が何の抵抗も見せずに死んでいった時、私の心には確かに嫉妬があったように思う」
安らかな笑みを浮かべたヒューンの死に顔を見つめ、不死王は続けた。「悪魔どもの手によって人類がこのような死を迎えるなら、生き存《なが》らえさせて意識を持つ苦しみを味わわせたほうがましかも知れぬな」
「では、力を貸してもらえるのか」
「勘違いはするな。これは取り引きだ。その魔神を撃退した暁《あかつき》には、必ず貴様の血で我が喉を潤《うるお》わせてもらうぞ」
「……誓おう」
アルドゥエンの表情に変化はなかった。「我々不死エルフの誓約は絶対だ。貴公が約定を果たしたならば、私は決して誓いを破ることはできぬ」
「良かろう。楽しみにしている」
アルドゥエンは腰に下げた長剣を鞘《さや》から抜き、放り投げた。刀身の付け根に嵌《は》まった宝玉が宙に光の尾を曳《ひ》き、剣は回転しながら不死王の青白い掌《てのひら》の中に収まった。
「――それで、これからすぐで良いのか」
濡れたような刀身を月光にかざしながら不死王は言った。
「そうしてくれ。貴公が発《た》てば術者たちが即座に詠唱にかかる。それに、満月の今宵が最も都合がいい」
「私にとってもな」
不死王は吹き抜きのバルコニーへと歩いていった。「ここで待っておれよ。今宵のうちに、貴様は報酬を支払うことになろう」
最後の言葉は夜空から響いた。魔人はすでに虚空へ身を躍らせていた。
天空の魔神に向け、不死王は飛翔を開始した。
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第五章 魔道の終焉《しゅうえん》
エイセル・エルダスの王城――。
数百人の廃導師を収容した大ホールでは、すでに呪文の詠唱が開始されていた。
各種族の高位魔導師たちは声を揃えて特徴的な古代語の韻律を詠じ、その他の術者は補助となる韻律を唱えながら全員の思念をひとつに集中させている。
主韻律を唱える魔導師にはノーム王シャイロンとドワーフ王ゴルソムの姿も含まれていた。しかしエルフの永遠の王子≠ヘこの唱和には参加せず、ホールの中央で黙想するようにその時を待っていた。
「剣が高速で移動を開始しました。魔神の浮かぶ空域に向けて飛行しております」
傍《かたわ》らで念視を続けていた追跡者が待望の報告をもたらした。アルフォーリは目を開き、すべての魔導師に向けて叫んだ。
「エルフ王アルドゥエンが不死王を動かすことに成功された。詠唱の最終段階に移行せよ。我々も失敗は許されぬ」
韻律の調子が変わった。主韻律はより高く、補助韻律はより速いものになっていく。
アルフォーリも主韻律の詠唱に参加した。その脳裏に、遥か高みに輝く満月と剣に嵌《は》め込まれた宝玉を結ぶ線を思い描く。
禁呪月神降舞《ルナテック》≠フ詠唱は進行していく。運命の一瞬に向けて――。
マントをはためかせ、不死王は天空を飛翔していた。
厚く垂れ篭《こ》めた雲海の上空、澄みきった夜空を美しい魔人が高速で駆けていく。その頭上には真円の月が皓々《こうこう》と輝き、不死王の内に魔的な力を注ぎ込んでいた。こんな満月の晩こそ、彼の肉体が最も活力に満ち溢《あふ》れる夜であった。
魔力を増大する光を浴び、不死王はほとんど歓喜に似た精神の昂揚《こうよう》を感じていた。大陸を横断するほどの距離も、今の彼にとってはほんの一飛びでしかなかった。
目的の空域に迫った時、不死王はふと、その月光にわずかな変調を感じた。見上げた月は明度が増したように思えたが、却《かえ》って強い魔力に満たされ、彼は構わずに飛行速度を上げた。
やがて、眼下の雲海が前方の空域に向けて巨大な渦を巻き始めた。目標である異質な妖気が格段に強まった。
突然に、それが視界に飛び込んできた。
天空に描かれた大渦巻《メイルストローム》の中心に、月光に照らされて浮かび上がる異形の巨影。
魔神と魔人が、遂に対峙した瞬間であった。
ファールヴァルトの天守閣。
不死王が飛び立った時そのままに、アルドゥエンは佇《たたず》んでいた。
水晶の天蓋《てんがい》を通じて見上げる月は、明らかに尋常ではない妖しい輝きを放ち始めていた。彼は瞬きひとつせずにそれを見つめ、やがて懐から小さなガラス瓶を取り出した。
エルフの繊細な掌《てのひら》に隠れるほどの小瓶は、どろりとした銀色の液体に満たされていた。彼は厳重に施《ほどこ》された封を解くと、その液体を喉に流し込んで一息に飲み干した。
ややあって、彼は静かに腰を下ろした。
いよいよ明るさを増した月が、永遠の若さを持つ美しきエルフ王と、その前に横たわる屈強の剣士の骸《むくろ》を光の衣で包み込む。
「私はエルフの歴史において最も恥ずべき罪人となるかも知れない」
アルドゥエンはヒューンの胸に抱《いだ》かれた護符に手を置き、応《こた》える術《すべ》を持たぬ死者に語りかけた。彼がこの、初代エルフ王から伝わるとされる神器を外したのは最後の不死エルフとなって以来初めてのことだった。
「ヒューンよ。私が行ったことは間違いだろうか――」
自問するように、アルドゥエンは屍《しかばね》に問い続けた。
不死王はマイルフィックの周囲に形成された巨大な真空域に飛び込んでいた。
彼の肉体に纏《まと》わりついていた大気や、呼吸には用いられぬ肺の内部に溜まっていた気体が一瞬に消失する。そこは生ある者には数秒と耐えられぬ、血液中の酸素までも奪い去る死の空間であった。だが、活動に酸素を必要としない不死王には微塵《みじん》の影響もない。
同時に、彼の意識に強烈な思念が流れ込んできた。
破壊。物質の破壊。精神の破壊。秩序の破壊。世界の破壊。次元の破壊。
憎悪。神々に対する憎悪。生きたものへの憎悪。死せるものへの憎悪。有機物への憎悪。無機物への憎悪。
それはあらゆるものに向けられた、限りなく異質な破壊と憎悪の思念だった。この次元では受け入れることのできぬ、すべてを覆い尽くす混沌の意誠であった。それが魔神のものであると認識した瞬間に、悪魔に対するはっきりとした敵意が不死王の中に生まれていた。
もはやアルドゥエンとの契約において行う人類の代理としての戦いではなかった。不死王自身がこの世界に侵入した異端の存在を許せなくなっていた。エルフに託された剣を手に、不死王は一直線に巨大な悪魔のシルエットへと突進した。
真空域に到達した瞬間に、マイルフィックも不死王の存在に気づいていた。魔神の掌《てのひら》から人間ほどの大きさを持つ光球が生まれ、接近する飛行体を迎撃すべく次々と襲いかかる。
音を伝達しない真空域の中では、不死王も呪文を扱うことはできなかった。飛翔能力や魔法攻撃の無効化など、身に備わった妖力に頼るほかはない。
迎撃光球の第一波が到達した。最初の二弾は回避したものの、続く数発が連続して直撃し、うち一弾は無効化しきれずに不死王の右脚の膝から下を塵《ちり》に変えた。しかしその断面がすぐに泡立ち、不死身の肉体は驚くべき早さで再生していく。
第二波、第三波を避けるために不死王は迂回《うかい》を余儀なくされた。正面から接近してはほぼ全弾を受けることになり、不死の肉体は持っても剣を破壊されかねない。上空に逸《そ》れた不死王を、それでも幾つかの光球が追尾してくる。
追いすがる光弾に後方から直撃され、下半身を吹き飛ばされながらも彼は徐々に魔神への距離を詰めていった。マイルフィックが無機質な双眸を上方に向けた時、不死王はその頭部目がけて矢のように落下を開始していた。
魔神の両|掌《てのひら》から一弾ずつの光球が発射された。その時点で不死王の無効化の妖力は完全に尽きており、回避するには至近距離で相対速度が大き過ぎた。少なくとも直撃だけは避けなくてはならなかったが、二弾を躱《かわ》すのは事実上不可能であった。
先の一弾が頭を掠《かす》め、片耳を削いだ。最後の光球は正面に迫っていた。
剣を持った右腕を庇《かば》い、不死王は左腕を突き出しつつ上体を可能な限り右にずらした。恐らくはこれが最後のチャンスであった。完全に回避できぬ以上、中途半端な方向転換よりも接触軌道の維持が上策と不死王は判断した。
光球が直撃した。だが、左腕と引き換えにそのエネルギーは相殺され、肩口から左上半身を消滅させるに留まった。頭部と右胸部、そして右腕だけの姿となりながら、不死王は凄艶《せいえん》な笑みを浮かべていた。
次の瞬間、守り抜いた剣がマイルフィックの頭頂部の突起に深々と突き刺さった。
音のない絶叫が、獅子の顎《あぎと》から迸《ほとばし》った。
「不死王が魔神に接近中……接触! 照準点が固定されました!」
追跡者《トレーサー》の合図とともに、魔導師たちは詠唱の最後の一音を発音した。
禁断の呪文が遂に呼び起こされた。
天空の遥かな高みで、月面全域に異変が生じていた。
しばらく以前より、その表面を無数の雷が疾《はし》っていた。それが網の目のように月を包み込み、凄まじい規模の放電現象を続けていたのである。無論地上からはそれと知れず、月光の変調としか見て取れぬ。
地上で魔導師たちが詠唱を終えた瞬間、その雷は収縮するように月面の一点に集中した。そしてそれが巨大な光の束となり、地上に向けて奔流《ほんりゅう》の如くに放出される。
真空の宇宙空間を、月よりのエネルギーが光の速さで駆け抜けた。
不死王は自由落下を始めていた。視界では苦悶するマイルフィックの姿が急速に遠ざかっていく。
その刹那《せつな》、彼は見た。
月から降り注いだ光の束が、魔神の脳天に突き立ったままの剣に直撃する瞬間を。マイルフィックの巨体は一瞬に、まるで蒸発したように消滅した。
そして不死王もその光条に呑《の》まれ、完全に分解された。
線上のあらゆるものを破壊して、月光は海面に達した。そこで大爆発を起こし、光のエネルギーは海底へと吸収された。
アルフォーリが叫ぶ。
「この世界を愛する者たちよ、さらば」
魔導師たちのほとんどがその言葉を認識するよりも早く、エイセル・エルダスの地底から膨大《ぼうだい》なエネルギーが噴き上がった。すべてを分断する光の粒子に包まれながら、ドワーフ王ゴルソムは薄れゆく意識の中で罠に掛けられたことを悟っていた。
これこそが、月神降舞《ルナテック》≠ェこれまでに一度も使用されなかった真の理由であった。月より呼び寄せた超破壊のエネルギーが目標物を破壊した直後に、その揺り返しとも言うべきエネルギーが詠唱地点の直下より噴出して月に還元される――つまり使用者側も必ず命を落とす破滅の呪文であったのだ。
豪雨をもたらし続けた雷雲を突き抜け、エイセル・エルダスの残骸を遥か上空に舞い上げて、星の内包する力の一部が光となって月に昇っていく。
術者はひとりとして生き残らなかった。アルフォーリも、シャイロンも。世界中から集められた魔導師は、その圧倒的な魔法技術とともにここに滅び去った。
雨が止《や》んでいた。
最初に見えたのは月だった。
不死王は覚醒《かくせい》した。
魔神の消滅によって雲は消失し、夜空は晴れ渡っていた。月明かりに照らされた大海原を漂い、波間に揺られながら彼は再生していた。
状況を認識するにつれ、不死王は奇妙な感情に襲われている自分に気づいた。
ひとつはあの光に包まれた瞬間に予感した死が、やはり得られなかったことに対する落胆。それを期待した自分が腹立たしく、またそれを解消する術《すべ》を持たぬことが苛《いら》立たしかった。
もうひとつは、恐らく彼が自我を得て以来初めての、悪魔王を撃退するという目標を達成したことによる心地好い充足感であった。思い返せばこれほど必死に目的を遂《と》げようとしたことなどなかった。この世に生み出された憎しみに燃え、ファールヴァルトを一夜にして死都と変えたあの時も、こんな満足は得られなかったと不死王は思った。
肉体はもうほとんど再生を終えていた。覚醒《かくせい》が遅れたのは過度の再生による疲労が原因であるらしかった。その疲れさえも快く、彼は完全な再生が成された後も緩慢《かんまん》な波のうねりにしばらく身を任せた。
月の位置が、夜明けがそう遠くないことを告げていた。不死王は肌に鈍痛を与える太陽光線が嫌いだった。
美しい不死エルフのことを思い出した瞬間、彼は激しい飢餓感に苛《さいな》まれた。アルドゥエンの豊潤な血は、この疲労と渇きをすぐにでも癒《いや》してくれるだう。
不死王は海面から飛び立ち、ファールヴァルトへの帰路を急いだ。
不死王が衣服を整えて天守閣に戻ると、アルドゥエンはほとんど身動きもしなかったかのようにそこにいた。傍《かたわ》らのヒューンを邪気から守るかのように、俯《うつむ》き加減に佇《たたず》んでいる。
「逃げ出さなかったな」
その声|音《ね》から滲《にじ》み出す歓喜は、美しく慎み深い婦人を征服せんとする男の欲望とほとんど同質のものだった。
「約定は果たした。さあ、護符の守りの外へ出るのだ」
「護符の力はもはや消え去った。今や貴公を阻《はば》む障壁は存在しない」
蚊の鳴くような声で、エルフは俯いたまま呟《つぶや》いた。
事実、不死王が抑え切れずに発散した妖気の靄《もや》が、アルドゥエンの足元にまで絡《から》みついていた。ヒューンの胸元に置かれた護符の魔法障壁は消失していた。
エルフの態度に若干《じゃっかん》の不審を抱いたが、すでに冷静さを失いかけていた不死王はそれを処女が如き怯《おび》えと受け取った。そしてその様子はいよいよ彼を昂《たか》ぶらせた。
不死王は早足に歩み寄ると、荒々しくアルドゥエンを抱きかかえた。銀の髪を掴《つか》み、伏せたままの貌《かお》を強引に上げさせる。観念するように目を閉じ、唇を軽く開いたその中性的な美貌は、これまでに餌食《えじき》としたどんな美女よりも彼を淫《みだ》らな興奮に駆り立てた。
エルフの真っ白な喉に唇を押し当ててその柔らかさをたっぷりと愉《たの》しみ、不死王は半ば法悦に浸りながら二本の牙を深々と埋め、引き抜いた。途端に溢《あふ》れ出す温かな血をはしたない音を立てて啜《すす》り上げ、彼は恍惚《こうこつ》の中で渇きが癒《いや》されていく感覚を繰り返し味わっていた。
不死エルフの神秘の血が、不死王の全身に隈《くま》なく染み透っていく。広がる満足感と、そして違和感。
――この違和感は何だ?
体内を駆け巡る警報に不死王が冷静な判断力を取り戻した時には、それはすでに激しい喪失感へと変わっていた。身に備わった力を中和され、制限されていく忌《い》まわしい感覚。不死王はようやく、致命的な罠に掛かったことを知った。
アルドゥエンを抱える腕から力が抜け、エルフは頽《くずお》れるように床に滑《すべ》り落ちた。不死王も膝が折れ、仰向けに倒れたアルドゥエンの貌《かお》の両側に腕を突いて上体を支える。ふたりは床と平行に向き合う形となった。
「……許してはくれまいな」
うっすらと瞼《まぶた》を開け、アルドゥエンが覆い被《かぶ》さる不死王に囁《ささや》いた。
「何を……何をしたのだ」
活力が根こそぎ奪われていく感覚に不死王は喘《あえ》いだ。
「私の血を変質させる秘薬を飲んだ。私の不死性を支える血の効力が、強大過ぎる貴公の力を長期に渡って制限するように……」
「貴様――」
不死王の紅い爪が音を立てて伸びた。必死に片腕を持ち上げ、それをエルフの貌《かお》に突き立てようとする。
それを見て、アルドゥエンは静かに目を閉じた。
「気が済むのなら、どのように殺してくれても構わない……だが、その秘薬の毒で私は間もなく死ぬことになる。これは告げておかなくては、また騙してしまうことになるからな……」
不死王は震える爪先を瞼《まぶた》の寸前まで突き下ろしかけ、葛藤の末に元通り床に突いた。
「何故だ……私の眷属《けんぞく》として暮らすのが耐えられぬということか……」
「違う……それならばここから逃げ出している――」
苦しげに息を吸い込み、続けた。「貴公の魔力を減じなければならなかった。魔界を吸い寄せた次元間の歪《ゆが》みを正すために……」
「私ひとりを封じてどうなる? 全世界の魔導師を、いや発展し過ぎた魔道そのものを捨て去らぬ限り――」
言いかけて、不死王は気がついた。このエルフの王は大陸の高位魔導師のすべてを招集し、あの魔神を破壊した月光の呪文を使用させたのだ。
「……そう。あれは唱えた者をも破壊する滅びの禁呪だった。私は世界中の魔導師を騙し討ちにしたのだ。その罪深い計画に、息子とノームの友すら引き込んでな……」
「すると、もうこの世界には……」
「高度な魔道を知る者は貴公と私しか残っておらぬ。魔術書の類《たぐい》は息子が徹底的に始末して回った筈だ……あのリルガミンには侵入できまいが、それだけであれば問題はない。貴公の力を封じた今、私が死ねば世界を滅ぼしかねない高位魔道は終焉《しゅうえん》を迎えるのだ――」
アルドゥエンの呼吸が急速に弱まった。
「待て! 死ぬな!」
不死王は叫んでいた。「死ぬのは許さぬ! 頼む――」
彼は無意識に懇願していた。この不死者の王が命ずることはあっても、懇願したことなどは一度たりともなかった。誕生から二千年を経て、彼は初めて失いたくないものを見つけたのだ。
「判ったのだ。あの魔神と関った時、私もこの世界の一部であると。義務を果たし、私は生まれて初めて充足した気分を味わった」
その言葉に、力尽きかけたエルフはわずかに持ち直した。緑の瞳が不死王を見上げ、彼に微笑みかけた。
「おめでとう……」
「それだけではない。やっと求めるものが見つかった。私が欲しかったのは、貴様なのだ。私と同じ刻を生き、私を理解してくれる存在――友が欲しかったのだ。たった今それが判ったというのに、おまえは私をまた独りにしようというのか!」
死の翳《かげ》が忍び寄ったエルフは、しかし最後に残された力を振り絞って腕を持ち上げ、不死王の冷たい頬に触れた。すでに目が見えなくなっていた彼は、その指先に水滴を感じて驚きの声をあげた。それは冷たかったが、紛《まぎ》れもなく不死王の瞳から流れ落ちた涙であった。
「罪人である私を友と呼んでくれるのか。魔人と言われた貴公――君が涙を流してくれるのか」
「幾度でも呼ぶ! 幾らでも流す! 許すから、死ぬな――」
叫びながら不死王は、頬に触れる掌《てのひら》から体温がみるみる逃げ出していくのを感じていた。
「……不死王よ。我々は、表裏であったのかも知れんな」
五感すべてが麻痺していく中で、アルドゥエンは懸命に言葉を紡《つむ》いだ。「私が誕生したのは、奇《く》しくも君が生まれ落ち、ファールヴァルトが滅んだその夜だった。そしてそれ以降に生まれたエルフはもはや不老不死ではなくなっていた。人造の不死者が生まれたからこそ、世界の平衡を求める力が自然の不死者を駆逐《くちく》したと考えるなら……我々は表裏一体の分身であったのかも……同様に孤独で……皆が私を残して死ぬ……老いていく妻はいつまでも若い私を憎んだ……息子アルフォーリは私のせいで永遠の王子≠ネどと呼ばれ……ああ、不死王よ! 私を友と呼ぶ君まで、私は罠に嵌《は》めたのだ!」
「アルドゥエン!」
名前を呼ばれ、混濁しかけた精神が正気に引き戻された。もう意識があるのが不思議なほどであったが、それでもエルフは美しいままだった。
「私は、君を、何と、呼べば、いい?」
途切れ途切れに、色彩を失った唇が動いた。「不死王は、名前では、ない……」
「名付けてくれ! どんな名でもいい!」
不死王はアルドゥエンの死を覚悟した。その前に、彼の手で名を与えて欲しかった。不死王はこれまで名前を呼ばれることもなければ、名付けられたこともなかったのだ。
「……アド、リアン。老いて死んだ、双子の、弟の名、だ」
「アドリアン、だな? 私は今、最高の名を得た!」
アルドゥエンに聴こえるように、彼は耳元で叫んだ。
エルフは最後にもう一度微笑んだ。わずかに活力が蘇り、舌が滑《なめ》らかに動いた。それが最後の不死エルフ・アルドゥエンの最期だった。
「さらばだ、我が友アドリアンよ。もし私の魂が転生することがあれば、必ず君を永劫《えいごう》の業苦から救う方法を見つけ出そう――」
「ああ、待っている……いつまでも……」
アドリアンはすでに事切れたもうひとりの不死王を、いつまでも掻《か》き抱いていた――。
翌朝――。
ヒューンは樹海のほとりに位置する小村の外れに倒れているところを、数ヶ月ぶりの晴天にはしゃぎ回る幼子《おさなご》たちによって発見された。
彼は生きていた。アルドゥエンはエルフの護符の魔法障壁を失う代わりに、この古代の神器に一度だけ秘められた蘇生の魔力をヒューンのために解放していたのだった。
不思議なことに、ヒューンは死んでいた間の出来事をすべて覚えていた。それは、不死エルフであるアルドゥエンが自らの行為を公正に歴史に遺《のこ》すべく記憶を植え付けたのかも知れなかったが、ヒューンは色々と訊《たず》ねてくる村人たちに対しても何も語ろうとはしなかった。
あの天守閣からこの村までどうやって運ばれたのかは定かではなかった。恐らくは不死王その人の手によるであろうとヒューンは考えていたが、何故あの魔人がわざわざ安全な人里まで送り届けてくれたのかは見当がつかなかった。
エレシアが吸血鬼《バンパイア》と化していた件に関しても、彼はもはや不死王に特別な感情を抱いてはいなかった。吸血鬼を自らの手で始末し、ヒューン自身一度死んだことで、十数年間心の中にこびりついていたエレシアとの誓いへのこだわりは綺麗に拭《ぬぐ》い去られた。彼はこの時、十八の歳に狂い始めた忌《い》まわしい人生の呪縛からようやく解き放たれたのだった。
その後、永きに渡って不死王と森の彼方の国≠ヘ伝説の中にのみ語られ続けた。
高位魔道が失われて以降、あの広大な樹海の中から死都ファールヴァルトを探し出した者の記録はなく、また不死王が辺境の国々から美しい女性をかどわかすという話も聞かれなくなった。
しかし、それでも――。
人々は夜の闇の中に不死の魔人の影を見るのだった。
マイルフィックの大災厄より千年あまり後――分化した癒《いや》しの術がさらに発達し、人の五族の寿命がほぼ均一化した時代に、大魔導師ワードナと呼ばれる人物が出現した。
そのワードナの傍《かたわ》らには、常に影のように付き従う美しい吸血鬼《バンパイア》がいたという。
それが、不死王であったのかどうか。永遠に意識を持ち続ける孤独の苦しみから、彼は解放されたのか――。
記録には、遺《のこ》されていない。
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風よ。龍にとどいているか(下)
第六章 黝《あおぐろ》き記憶
小瓶を満たした液体の放つ青白い光が、辛《かろ》うじて闇を退《しりぞ》けている。
その冷たい光に包まれて、俺とディーは真っ直《す》ぐに伸びた長い通路に歩を進めていた。
周囲に生物の気配はない。ガラス質を多量に含んだ石壁が淡く煌《きら》めくばかりで、闇に慣れた小動物が明かりに逃げ去る気配すらもない。
それはあたかも、死の世界に足を踏み入れたかのようだった。生けるものが何ひとつ存在しない闇と静寂の墓所――。
迷宮第四層。
巨鳥ロックが突き崩した壁面の空洞は、やはりこの階層に通じていた。
以前ならル‘ケブレスの特殊結界に阻《はば》まれ、悪《イビル》の戒律を持つ冒険者は侵入不可能だった筈だが、第五層の善《グッド》を拒《こば》む結界が消えていたのと同様に、このフロアに張り巡らされていた結界もまた完全に消滅している。
無論、俺とディーが第四層に足を踏み入れるのは初めてだった。このフロアに関する知識も、中立《ニュートラル》・無戒律のガッシュたちから伝え聞いた程度のものしか持ち合わせていない。しかし、ここが常ならぬ状況にあることは明らかだった。
そもそもル‘ケブレスの迷宮は、第一層から最上階である第六層までが直列に重なっているわけではない。
第一層からは第二、第三層に通じる階段が個別に掘り抜かれており、第二層はこの第四層、第三層は第五層へと続いている。だが、それはそのまま第六層に収束し、第二層から第三層、第三層から第四層というようにフロア間を順番に繋《つな》いでいく階段は存在しない。
つまり第二層から第五層までは、善悪それぞれ二階層の迷宮が並列していることになる。第二、第三などという呼び名は、単に山中に築かれた高度からつけられたに過ぎないのだ。
それは即ち、善《グッド》のパーティにとってはこの第四層が最上層に通じる最後の関門となることを意味する。当然ながら、ル‘ケブレスが召喚した守護の魔物たちも第五層と同等にひしめいていなければならない。
だが、それがない。ひしめくどころか、このフロアに侵入して以来ただの一度も徘徊する怪物の類《たぐい》に出くわしていないのだ。
それだけではなかった。
迷宮内とは言え、この小世界にも例外なく生態系が存在している。魔物たちの餌となる小動物や、さらにその胃袋に収まる昆虫類――そういった生物までもが、もう相当な距離を歩いているというのに全く見当たらないのだ。
誇張ではなく、まさに死の支配する迷宮だった。
「……ねえ」
俺と同様に、先刻から異状に気づいていたディーだったが、遂に痺《しび》れを切らして沈黙を破った。
行進中は前方に潜む敵に察知されるのを警戒してできる限り沈黙を守るものだが、正直なところこれはありがたかった。俺たち以外には動くものとてない静寂の中で、押し殺したふたりの呼吸だけが響くこの状況に、さすがの俺もうんざりしていたところだったのだ。
それにこの様子なら、近くに会話を聞きつけるような敵はいそうにない。
「ああ、妙だな」
それでも声を潜め、俺はディーの言いたいことを先取りしたつもりで応《こた》えた。「ロックに集《たか》ってやがったあの羽虫一匹いやがらねえとはな」
「そうじゃないわよ」
「いたのか?」
どこに――そう続けようとした俺は、ディーが嘆息するのを見て口に出すのをやめた。論点がずれていたらしい。
「その話じゃないわよ……あーあ、もういいわ」
呆れ顔で、諦めたようにディーは言った。
そのくせ、十歩も進むとまた口を開く。
「あの、さあ……」
「何だ」
俺は足を止めた。慌ててディーも立ち止まったが、すぐに歩き始める。
「立ち止まるような話でもないのよ」
「どうしたってんだ?」
数歩先を行くディーに早足で並ぶ。
「……ザザたちも最上層に向かっているかしら」
「何だ、そんな話か」
そう言った時、ディーの形の良い唇が軽く尖《とが》ったように見えた。不満そうに見えたが、青い光の陰影のせいだと思い、俺は続けた。
「落ちてからかれこれ二時間は経ってる。まだあの場で俺たちを何とかしようと、愚にもつかねえことを思案してやがったらただじゃおかねえさ。もっともザザはそんな阿呆じゃねえし、ベイキの補助も頼んである。無理は無理、とすぐに見切りをつけただろうよ。今頃は……」
「ベイキ、ね」
遮《さえぎ》るように、ディーが被《かぶ》せた。渋い木の実に当たったような顔をしている。
「随分と気にかけてるじゃないの」
「ディー……」
俺は恐る恐る訊《たず》ねた。「そんなにベイキが嫌いか」
反応は迅速《じんそく》だった。きっ、と目を剥《む》くなり、憎々しげに言い放った。
「好きなわけがないでしょ! この一年、あの小娘のお陰であたしたちがどれだけ迷惑を受けてきたか、忘れた? ことあるごとに王宮に呼びつけては、宝珠の探索はどこまで進んでいるかだの、もっと急げだのと、余計なお世話もいいところ――」
知らずに声が大きくなり、俺は大慌てでディーの口を塞《ふさ》いだ。もう一方の手の人差し指を唇の前に立て、互いに頷《うなず》き合ったところで掌《てのひら》を外してやる。囁《ささや》き声でディーは続けた。
「――そりゃあね、やけに綺麗になったわよ、あの娘。確かにリルガミンの王位も投げ出して、今は女王じゃないわ。でも、だからって身分違いも甚《はなは》だしいじゃないの」
「身分?」
「そうよ」
「俺たちとパーティを組んだのが気に入らねえのか」
「違うってば」
俺たちはもう立ち止まってしまっている。
ディーのベイキへの悪感情は判らなくもないが、どうも話の要点を得ない。一瞬黙考して、閃くものがあった。
やはり女と言うべきなのか、ガッシュへの恋心を見抜いたのだろう。だから身分違いなどという、ディーらしくもない言葉を使ったのだと俺は思った。
「いいじゃねえか、身分なんざ。お互いが惹《ひ》かれりゃそれでいいと思うぜ」
「ジヴ! あんたまでそんな……」
ディーは子供がべそをかくような表情を見せ、次の瞬間俺を睨《にら》み据《す》えた。
「だったらどうしてあたしと一緒に落ちたりしたのさ。そりゃ嬉しかったけど、あんたがそういう腹づもりなら話は別よ」
「?」
俺がベイキの肩を待ったのが、これほどディーを怒らせるとは思ってもみなかった。また声を張り上げかけている。
「あんな小娘が好みなら――」
「待て、喚《わめ》くなって」
さらに言い募《つの》ろうとするのを制して、俺は続けた。「ガッシュさえその気があれば、冒険者と王族だろうと構わねえと思うんだがな。大破壊《カタストロフィ》が近いとなりゃ、したいようにすべきだって夕べおまえも言ってたじゃねえか。何がそんなに気に喰わねえんだ?」
「――」
言いかけた言葉を飲み込んでしまったのか、口を発音の形に開けたままディーは数秒間沈黙した。そして、ようやくこれだけ言った。
「……ガッシュですって?」
「あいつもまんざらじゃなさそうだろ? 俺たち冒険者の中でベイキを悪く言わねえのはあいつぐらいだったしよ。それにベイキは、少なくともこのスケイルを俺たちと一緒に攀《のぼ》ってのけたんだぜ。大目に見て……」
「見るわ」
にっこりと笑い、ディーはあっさりと意見を翻《ひるがえ》した。「ガッシュね。で、あんたはそれに同情して気にかけてた、と。なるほど」
独り言めいたことを呟《つぶや》き、拍子抜けした俺を促して再び歩き始める。周囲の雰囲気とは不釣り合いに上機嫌な様子で、俺としては首を傾げて続くほかはない。
次に俺が口を切ったのはしばらく進んでからのことだった。その間も通路はひとつの分岐もなく、曲がり角すらなく一直線に続いている。
鼻腔《びこう》をくすぐる刺激臭が、微《かす》かに漂い始めていた。
「気づいてるか」
「ええ。錆《さ》びた鋼のような匂いね」
ディーも表情を引き締めている。後衛の魔術師といえども、危険に関する知覚が鋭くなければこの迷宮では生き残れない。唯《ただ》ひとり女だてらに冒険者を務めてこれたのも、この鋭敏な感覚があってこそだった。
「この奥からか」
俺は殊更《ことさら》に声を落とした。生物の気配は依然感じられなかったが、変化があったからには警戒するに越したことはない。
沈黙を守れと身振りで合図し、俺たちは忍び足でさらに奥へと進んだ。臭気はわずかずつだが強くなっている。
俺は聴覚に神経を集中させていた。もしこの臭気の元が呼吸を必要としない不死怪物《アンデッドモンスター》なら気配は当てにできない。接近を察知するにはその緩慢《かんまん》な動作から生じる音を聴き取らねばならないからだ。
だが、死すらも見放した者たちの襲撃はなかった。もちろん生命ある魔物の姿もない。
淡い光が照らしたのは、行く手を遮《さえぎ》る巨大な岩壁だった。そこでこの長い直線通路は行き止まりとなっている。
刺激臭を発していると思われるものは何もなかった。
「懐は深いが、ただの袋小路だったってわけだ。無駄足だったな」
「待って」
踵《きびす》を返そうとするのをディーが止めた。「匂いは強まってるわよ。なのにここにはそれらしいものがない。それはつまり、この先に何かがあるってことじゃない?」
「だがよ、どう見たって行き止まりだぜ」
確かに臭気はこれまでより濃くなっているが、眼前には厚い岩盤が厳然と立ちはだかっている。これより先に通路があるとは考えられない。
「どこかに空気穴でもあるんじゃねえか」
言いながら、俺は壁に近づいた。そのごつごつとした表面の手触りを確かめるためだ。
掌《てのひら》で軽く叩く。と、その手が岩壁に吸い込まれるように消えた。
「!」
その奥に、つるりとした金属の冷たい感触があった。
「そうか」
俺は振り返って呟《つぶや》いた。「|隠された扉《シークレットドア》か」
「やっぱりね」
得意がるでもなく、ディーは口元に微笑を浮かべた。
岩盤は恐ろしくリアルな幻影だった。発光瓶を動かすと、それに合わせて陰影も正確に変化する。触れてみない限りはとても虚像とは思えない。
その背後に、新たなブロックへと続く巨大な鉄扉が巧妙に隠されていた。
臭気は扉の上下や、合わせ目の隙間から漏れ出している。この匂いがなかったなら、これが幻の岩盤だとはディーも見破れなかっただろう。
「どうやらその扉の向こうに、厭《いや》な匂いの元があるみたいよ。どうする?」
進退どちらを取るかという問いだった。このまま扉を開けて臭気を放つ何かに近づくか、それともそれを避けて引き返し、別の道を探すか。
俺は迷わなかった。
「行こう」
マイノス、ザザたちと合流するためには最上層に通じる階段を探し出さなければならない。そしてふたりともこのフロアの構造を知らぬのだから、どのみち虱《しらみ》潰しに歩き回る他に手はない。
このように擬装された扉などは、その先に重要な何かが隠されている証拠だった。たとえ魔物が待ち受けていようとも、ここは迂回《うかい》できるものじゃあない。
「荒事なしに突破できるとははなっから思っちゃいねえ。そろそろ肩慣らしがあってもいいしな」
「そう言うと思ってた。まあ、この層に出る魔物なら大概は塵化《マカニト》で片付けられるって話だし、あんたの出る幕はないかもよ」
塵化《マカニト》は魔術師系第五レベルに属し、耐性の低い生物なら瞬時に塵《ちり》に分解してしまう致死の空気を広範囲に発生させる攻撃呪文だ。不死怪物や一定以上の耐久力を持つ魔物には効果を及ぼさない欠点があるが、第六レベルの窒息《ラカニト》と同様に大気を変質するこの系統の魔法は無効化されることがなく、相手によっては爆炎《ティルトウェイト》以上に有効な必殺の呪文となる。
ディーはその塵化《マカニト》を五回は唱えることができる。爆炎《ティルトウェイト》の呪文も考慮に入れれば、たったふたりのパーティとは言え生半《なまなか》な敵に引けは取らない。
俺は用心深く扉を押し開いた。魔法で保全されているのか、耳障りな音もなく滑《なめ》らかに動く。
途端に、例の腐蝕臭がどっと入り込んできた。
人ひとりが通り抜ける程度の隙《すき》間を開けて、俺たちは繋《つな》がるように扉の向こう側へ忍び出た。
やはり、暗い。墨を流したような幽闇《ゆうあん》に、瓶の放つ微光だけが浮き上がる。
扉は左右に伸びる通路に続いていた。それがどれだけ伸びているのかは、闇に遮《さえぎ》られて見て取れない。
そこに、臭気の発生源が転がっていた。
俺は初め、それが何であるのか判らなかった。
ぐずぐずに溶けかけた等身大の白|蝋《ろう》の塊《かたまり》に、黒く酸化した簡素な胴鎧が巻き付いている。と言っても止め具である皮ベルトは焼け千切れ、鉄板もところどころ穴が開くほど腐蝕しており、もはや鎧と呼べる代物じゃあない。
それが迷宮に巣食う亜人種《デミ・ヒューマン》・ゴブリンの屍《しかばね》だと気づくまでに、たっぷり二秒はかかっていた。
白蝋の頭に相当する部分に、歯茎まで溶けた牙を剥《む》き出しにした骨面が覗いていた。かっ、と大|顎《あご》を開き、死の瞬間が決して楽なものではなかったと想像させる。
だが、何故こんな姿になったのか。俺たち以外の冒険者に襲撃されたとしても、これほどまでに肉体を溶解させる攻撃呪文など存在しない。
そこまで考えた時、俺はようやくその気配を察知した。
左の、闇の中。あまりにも近い。ディーの気配と混同し、気づくのが遅れた。
俺は瓶をかざした。この気配なら、光の届く範囲に主がいる。
が、何もいない。漆黒の闇があるだけだ。
その黒い空間から、しかし確かに空耳ではない音が響いた。汁気を多量に含んだ果実と、堅い焼き菓子を同時に咀嚼《そしゃく》するような異音――。
目を凝らした瞬間、闇それ自体が蠢動《しゅんどう》したように見えた。
闇ではない。空間ではない。
背中で通路を塞《ふさ》ぐように蹲《うずくま》っていたそれが、ゆっくりとこちらに首を巡らせた。
人の頭よりも遥かに高い位置に、横に並んだふたつの赤い光点が爛々《らんらん》と輝いていた。それがわずかに細くすぼまる。
生臭い臭気を放って、光点のすぐ下から何かが落ちた。
濡れた音を立てて床に広がったのは、大量の青黒い臓物《ぞうもつ》だった。肋骨らしさものも混ざっている。今の今まで、そいつが啖《くら》っていたものだ。
ばさり、と蝙蝠《こうもり》を思わせる赤い皮膜の翼が広がった。
咄嗟《とっさ》に、俺はディーを抱えて飛び退《すさ》った。
その後を追い、丸太ほどの径もある尾が足元を薙《な》ぐ。寸前で避けたが、直撃したゴブリンの屍《しかばね》は砕け、四散して壁に叩きつけられた。
「そんな……」
熱に浮かされたような声で、耳元でディーが呻《うめ》いた。「そんな――」
「あいつが何なのか知ってるのか」
その問いも耳に入らないかのように震えている。
歯の根が合わず、かちかちと小さく硬い音を立てた。
一体で通路を塞ぐほどの巨躯《きょく》をくねらせ、そいつは隙《すき》のないしなやかさで振り向いた。その間も、赤い光の位置は微動だにしない。
しゅうっ、と血臭を含んだ呼気が吐き出される。
血の色をした両眼が、もう一度細められた。
「竜……黒竜《ブラックドラゴン》!」
ディーが震える声で絶叫する。
それを嘲《あざ》笑うかのように、漆黒の躰《からだ》を持つ邪竜は低く咆《ほ》えた。
全身をびっしりと覆い尽くした細かな鱗《うろこ》は、まさに闇の色そのものだった。
炭の粉を塗《まぶ》したかの如くに、全く艶のない漆黒。どんな光も吸い込んでしまうその鱗は、黒竜の見上げるような巨躯《きょく》を闇に同化させながらも、むしろ闇以上に深い暗黒を湛《たた》えている。
両眼は深紅。燃え滾《たぎ》る炎を思わせる輝きは、目の前に現れた新たな獲物への歓喜か、それとも憎悪なのか。
巨大な顎《あぎと》に生え揃った牙が、数秒前まで貪《むさぼ》っていた餌食《えじき》の臓腑《ぞうふ》に薄汚く塗《まみ》れている。人間なら犬歯に当たる上顎《うわあご》の二本は他の牙に倍する長さで迫《せ》り出し、薄手の鎧の装甲なら容易に突き通してしまいそうに見えた。
しかし何よりも、その発達した前肢が異様だった。竜の眷属《けんぞく》に対する俺の知識はさほど深くないが、それでもその太さ逞《たくま》しさが竜族の尋常を遥かに超えるものだと確信できる。猫科の肉食獣のそれのように、鞭《むち》のしなやかさと凄まじい打撃力を秘めた凶器だ。
そして、そいつが身を翻《ひるがえ》す一動作で俺は直感していた。
手強い。これまでに第一、第三、第五層で闘ってきたどんな敵よりも、恐らくは段違いに強い。しかも、それは身のこなしを見ただけの印象なのだ。
竜の眷属はほぼ例外なく、ブレスと呼ばれる特殊攻撃を持っている。高熱火炎や凍傷を引き起こすほどの冷気、あるいは猛毒を含んだガスなどを凄まじい勢いで吐き出し、多数の相手を殺傷する能力だ。
あのゴブリンの屍《しかばね》は間違いなくこいつの仕業だろう。だとすれば、そのブレスは肉体を半ば溶解させる威力を秘めた、恐ろしく厄介な代物に相違なかった。
また、高等な竜の多くは魔術師系の攻撃呪文も使いこなすと聞く。俺たちに対するこいつの反応を見る限り、決して獣と同程度の知能とは思えない。
破壊的な巨体と、ブレス、魔法――これらすべてを兼ね備えているとなれば、それはまさしく殺戮《さつりく》のために生まれてきた存在だった。
だがこの俺もまた、殺戮機械と呼ばれる忍者の技を磨き抜いてきた。黒竜の威圧感に対する畏《おそ》れは微塵《みじん》もない。
今の俺の頭にあるのは、どうやってこいつを斃《たお》すかということだけだった。
あらゆる感情を殺し、これから始まる戦闘を冷徹に判断する。先手を打つか、それとも黒竜の出方を窺《うかが》い、隙《すき》が生じる瞬間を狙うか。
即座に決断した。黒篭が咆《ほ》えた刹那《せつな》、俺は撓《たわ》めた筋力を爆発させ、床を蹴っていた。
現在、俺たちには傷を癒《いや》す術《すべ》がない。ザザの操る快癒《マディ》のように強力な治療回復呪文はもとより、封傷《ディオス》程度の効果を持つ魔法の傷薬すら手持ちがなかった。手傷を受ければ、ザザたちと合流するまで金輪際回復することはできないのだ。
黒竜の攻撃を待っていれば、何らかのダメージを受けることは避けられない。ならば奴がブレスなり呪文なりを仕掛けてくる前に、こちらから接近戦に持ち込む――それが俺の下した結論だった。
手裏剣はすでに握っている。が、逆手に持って右腕の裏側に隠し、黒竜からは無手のように見せている。それほど期待はしていないが、これで奴が油断してくれれば闘いはずっと楽になる。
その手裏剣を叩き込むべき死点は、頭部。それ以外の急所はまだ判らない。図体のでかさを考えれば、胴を狙っても致命傷にはなりそうになかった。
だが、頭の位置が高過ぎる。長い首をもたげた凶悪な黒面は、俺の身長をほぼ二倍した高さから見下ろしていた。斬りつけるには跳躍が必要となる。
先手を取る場合、跳躍攻撃は窮《きわ》めて危険だった。
攻撃を躱《かわ》されれば、着地するまで今度は自分が無防備な的になってしまう。軽業《かるわざ》めいた空中戦は俺の得意とするところだったが、これも敵が攻撃の合間に見せる隙《すき》を衝《つ》き、回避の困難なタイミングで仕掛けなければならない。相手の意表を衝くことができなければ、跳躍の次に待っているのは確実な窮地なのだ。
黒竜《ブラックドラゴン》のしなやかさを考えると、頭部への攻撃はその長首をくねらせるだけで容易に躱してしまうだろう。迂闊《うかつ》な跳躍はできない。
ならば、相手に首を下げさせるまでだ。
側面に回りこむように、俺は通路の右壁際を駆けた。
俺の着ている装束の濃緑色は、黒竜の鱗《うろこ》と同様に闇に溶け込む。星明かりの野外などでは漆黒以上に視認しづらく、隠行《おんぎょう》には最適とされる染め色だ。これに忍者のスピードが加われば、闇を見通す特殊な視覚を持たない限り俺の姿を完全に捉えるのは難しい。
しかし、俺の左手では発光瓶が冷光を放っている。これでは忍者装束の効果はなきに等しい。
瓶を握り込んでしまえば光を遮《さえぎ》ることができたが、俺は敢《あ》えてそうしていない。つまり、わざと己の姿を黒竜の眼に映しているのだ。
無論、これは誘いだった。右手の無手を見せつける意味もあったが、その前肢で俺を正確に狙わせるところに意図がある。
予想通り、黒竜の首は瓶の光に浮かび上がった俺を追った。
鱗《うろこ》に覆われてすら筋肉のうねりが見える右前肢が持ち上げられ、次いで驚くべき迅《はや》さで横|薙《な》ぎに振り払われた。城門を打ち砕くのに用いられる、巨大な破城槌《はじょうづち》を思わせる一撃だ。
しかし、俺はこの動きを読んでいる。そして読み通りの正確な攻撃は、寸前で避けるには最も都合がいい。
直前で光を遮《さえぎ》り、俺は突進の勢いを殺した。
胸板の数センチ先を拳ほどの太さを持つ爪が掛り抜け、そのままの勢いで右の壁に叩きつけられる。
石片が飛び散り、風圧で装束がはためく。
その前肢が引き戻されるより早く、繰り出した手裏剣が深々と切り裂いていた。さらに返す刀で小指に当たる外側の指を切断する。
人のものよりどす黒い鮮血が溢《あふ》れ、その飛沫《しぶき》を撒《ま》き散らしながら黒竜《ブラックドラゴン》は咆哮《ほうこう》した。両眼にあからさまな怒りが浮かび、苦悶の叫びに開いた顎《あぎと》で俺に喰いつこうとする。舐めてかかっていた獲物に傷つけられた反動で我を失い、反射的に最も攻撃しやすい武器を使ったのだ。
牙を剥《む》き出した首が突き出される。下へ――。
その両眼の間に手裏剣を突き立てれば終わりだった。ここばかりはあらゆる生物に共通した死点となる。急所の集中する躰《からだ》の中心線上でも、特に死に直結した部位なのだ。
槍の穂先の如くに迫る長牙を躱《かわ》し、拳で叩きつけるように手裏剣の刃をねじ込む――それで黒竜はその実力を発揮する間もなく絶命する筈だった。
だが、俺はその絶好の機会を逃すことになった。
背後から、呪文の詠唱が聴こえてきたからだ。
ディーだった。憑かれたような早口で、魔力の喚起に必要な韻律が矢継《やつ》ぎ早《ばや》に発音されていく。
その詠唱は、俺の知る限り最強の破壊力を持つ攻撃呪文のものだった。
爆炎《ティルトウェイト》。しかしそれは、いかに強力な魔物が相手でも、単体に向けて使うような呪文ではない。
俺は、ディーが平静を失っていると気づいた。
攻撃呪文を使用する者は通常その詠唱の進行を調整して、対象となる敵と白兵を交えている前衛が退《しりぞ》くタイミングを見計らって浴びせかける。そうしなければ味方まで呪文の効果範囲に巻き込んでしまう恐れがあるからだ。もっともどんなに未熟な冒険者でもこの点だけは徹底して修練を積んでいるため、俺たち前衛は安心して敵中に斬り込むことができる。
だが、ディーはその大前提すらも忘れていた。今のディーは熟達者《マスター》≠フ魔術師ではなく、か弱い少女が毛虫を必要以上の力で叩き潰すように、恐怖に衝《つ》き動かされるまま必死に呪文を唱える見習い術者に等しかった。
恐らくその目には、俺が黒竜《ブラックドラゴン》と闘っている姿すら映っていないのだろう。ただひたすらに早く詠唱を終え、爆炎《ティルトウェイト》を呼び起こすことしか念頭にない。
この場に留まってとどめを刺そうとすれば、間違いなく黒竜とともに爆炎《ティルトウェイト》を浴びることになる。そう確信した瞬間、俺は躊躇《ためら》わず後方に跳んでいた。
いかに巨体の怪物でも、爆炎《ティルトウェイト》に直撃されればまず死は免《まぬが》れない。俺が無理に息の根を止め、一緒に灼《や》かれる必要はないのだ。
追いすがって伸びてくる牙の一本を手裏剣で叩き折り、その動作で躰《からだ》を捻《ひね》って後ろ向きに着地する。同時に前方――ディーの方向から魔法風が吹き抜けた。詠唱はすでに終わっている。
床を一蹴りした瞬間に、背後から熱波と爆風が叩きつけてきた。通路に閃光が溢《あふ》れ、俺の影が前方の床に黒々と伸びる。危ういところで効果範囲から退避することができた。
燃え盛る業火で、ディーの姿が視界に照らし出されていた。
まだ両手で印を績んだまま、俺の後方の炎を見つめている。その呆然とした表情の中に、はっきりと恐怖の色が見て取れた。
何故ディーが、これほどまでに黒竜《ブラックドラゴン》を畏《おそ》れたのかは判らない。
だが、もはやその邪竜はない。背後で渦を巻く高熱火炎の中で、焼け爛《ただ》れた醜い屍《しかばね》と化している筈だった。
俺は走る速度を落としながらディーに駆け寄った。
「ディー! どうしたってんだ」
呼びかけられて初めて、ディーは俺に気づいたようだった。ぼんやりと俺の顔を見つめ、熱に浮かされたように緩慢《かんまん》に口を開く。
「……あいつは……黒竜は、死んだ……?」
「大丈夫かよ? 相手はたった一匹だぜ。爆炎《ティルトウェイト》じゃやり過ぎってもんだ」
ディーは三度しか唱えられない第七レベルの呪文を使ってしまったのだ。結果として勝利を収めたにしろ、この先敵に遭遇する可能性を考えると損失が大き過ぎる。しかも俺まで焼き払いかけているのだ。
さらに言い募《つの》ろうとした時、俺は己の耳を疑った。
背後から、低い咆哮《ほうこう》が聴こえてきたのだ。指を落とし、牙を折った相手に対する憤怒の叫び――。
俺は振り返った。
異界の炎は、今もまだ通路の幅一杯に燃え盛っている。数メートルの高さに達する、あらゆるものを灼《や》き尽くす炎の壁だ。
その目映《まばゆ》いスクリーンの中で、ゆらりと黒い巨影が揺れる。
炎の原点よりもさらに上、通路の天井近くに、鎌首をもたげた邪竜の頭部があった。下から照らされた黒面は、真っ直《す》ぐ俺に憎悪の視線を注いでいる。
もう一度、凄まじい咆哮が轟いた。
「やっぱり……効かなかった……」
今にも消え入りそうに、弱々しくディーが呟《つぶや》く。絶望の響きがあった。
炎が消失した。
後肢で躰《からだ》を支え、ほぼ直立した姿の黒竜《ブラックドラゴン》がそこにいた。信じ難いことに、爆炎《ティルトウェイト》によるダメージは一切受けていない。
呪文の無効化能力だった。己にかけられた魔法を中和し、呪文効果を打ち破る強大な魔力だ。しかしまさか、こうも完全に爆炎《ティルトウェイト》の業火を退《しりぞ》けるとは……。
「駄目だった……父様、母様……」
「しっかりしろ!」
蒼白になり、焦点の合わぬ目を宙に漂わせて震えるディーの耳元で俺は叫んだ。恐るべき強敵と対峙していることすら忘れ、正気を失いかけている。
俺の本能が潮時だと告げていた。
もはや先刻の手は通用しない。手裏剣に痛撃された黒竜は、今度は全力で向かってくるだろう。
ディーの精神状態を含め、ここは退却する他に道はない。
|隠された扉《シークレットドア》に飛び込むか。少なくともそちらには、一本道だが長い逃走路が存在している。背後に伸びている暗闇は、十メートル先で終わる袋小路ではないという保証がなかった。
尾の初撃を躱《かわ》したために、俺たちの位置は左手の扉から散歩後退していた。飛び込むにはわずかながら黒竜に近づかなければならない。
ディーの腕を掴《つか》み、扉に踏み出そうとした瞬間――。
黒竜が首をこちらに向けて伸ばした。口を裂けんばかりに開き、ごうっと音を立てて空気を吸い込む。
ブレスを吐く前兆だった。今から扉に駆け込もうとすれば、確実にそれを浴びせかけられることになる。
後方に逃げるしかなかった。竦《すく》んだディーを抱え上げ、俺は背後に飛んだ。
同時に、黒竜の喉から大量の液体が迸《ほとばし》った。それが、一瞬前まで俺たちが立っていた空間を貫《つらぬ》いて床にぶちまけられる。
石の床から白煙が噴き上がった。そして、強烈に鼻を衝《つ》く刺激臭が充満する。
その液体は沸騰した強酸だった。こんな溶解液をまともに浴びたなら、人間程度の大きさの生物は一瞬に全身の皮膚を溶かされ、苦悶のうちに絶命する。
火炎や冷気より遥かにむごたらしい、最悪のブレスと言えるだろう。
幸いにも、そのブレスの煙が黒竜の視界を覆った。
ディーを抱き上げたまま、俺は未踏の通路へ一目散に走り出していた。
追跡の地響きが伝わってくるが、それほどの速さではない。右前肢の傷が効いているらしい。
懸念《けねん》した行き止まりはなく、横道や分岐がすぐに現れた。胸をなでおろしながらも、俺は全力で駆け続けた。
どれほどを走ったのだろうか。
小さな玄室に身を潜めた時には、黒竜の足音はすでに消えていた。
俺はようやく緊張を解き、そしてまだ抱きかかえたままだったディーを下ろそうとした。
ディーは固くしがみついて、離れようとしない。怯《おび》えた幼子《おさなご》のように震え続けていた。
「ディー……もう奴はいねえよ」
俺はできる限り優しく囁《ささや》いた。ディーが貌《かお》を上げ、俺の目を見る。
「いるわ。あいつはいつも、夢に出るの」
口調まで子供に戻ってしまったようだった。
「だから独りになるのが怖いの。誰かに抱かれないと、眠れないのよ」
言いながら、大粒の涙が零《こぼ》れていた。
「ジヴ……あんたが好きよ。ずっと、ずっと前から……でも、必ず誰かと一緒じゃなきゃ夜を過ごせなかったの。こんなだから、言えなかった。仲間のままで良かった……でも、もう駄目……来るわ、あいつが……怖い!」
ディーは精神に変調を来《きた》す寸前だった。このまま放っておけば、狂う。正気に引き戻せるのは俺だけだった。
ディーを愛しているのかどうかは判らない。ただ、黒竜《ブラックドラゴン》の恐怖に狂わせるのは厭《いや》だ。
俺はディーを抱き締め、そして静かに床に押し倒した。
青く照らされた玄室に、柔らかい吐息が漏れた。
細長い通路に、僧侶呪文特有の唸りに似た詠唱が響き渡った。
ひとりの声ではなかった。トーンの異なるふたりの男の声が、ほぼ同時に同じ韻律を持つ呪文を唱えたのだ。
その呪文が向けられた空間では、大剣を振りかざした五体の魔物が今にも突進を開始しようとしていた。
肉体のフォルムは人のそれに酷似している。二本の腕と、二本の脚。剣を握り締めた五本の指も人間同様、道具を扱うのに適した形状を有している。
しかし、それらは異相の頭部を持っていた。赤く濁った小さな目と潰れて上を向いた大きな鼻、そして汚らしい涎《よだれ》を溢《あふ》れさせた口の両端から上向きに突き出した巨大な牙。その獣面から受ける印象は人と呼ぶよりもむしろ直立した豚そのものである。
それは邪悪な進化の筋道を辿《たど》った闇の人類――亜人種《デミ・ヒューマン》の中でも最も下等な存在とされるオークであった。極めて低い知性しか持ち合わせていないが、性情の残忍さでは悪魔にも劣らぬ忌《い》まわしい種族である。
だが、それらは種族の常態からあまりにも外れた体格を有していた。
並のオークが大きくとも人間族《ヒューマン》の成人の肩までしか達しないのに対し、その五匹の身長はいずれも二メートルを優に越えている。さらにその全身が厚い脂肪の層に幾重にも取り巻かれて醜く膨《ふく》れ上がり、体重にして二百キロは下らぬ巨漢揃いであった。
常に闘争を好み、食糧を生産する観念を持たないオークは一般に痩《や》せ細っており、優先的に食物を得られる群れの長《おさ》の一族だけが過食によって肥え太ることが多い。身に着けた安っぽい装飾品から見てこの五匹もそうした貴族階級に違いないと思われたが、それにしても骨格の大きさから尋常ではない。並のオークから見れば巨人とも言える体躯《たいく》であり、その巨体を支える膂力《りょりょく》も通常を遙かに越えるだろうと予想できた。
奇声を張り上げ、贅肉《ぜいにく》を波打たせたオークたちが走り出した。その澱《よど》んだ頭脳に獲物を屠《むさぼ》る様《さま》を思い描いているのか、一様に豚ですら顔をそむけるようなあさましい喜悦の表情を浮かべている。
しかし次の瞬間、醜悪な笑みをへばりつかせたままに彼らは動きを止めていた。
正確には、止めたのではない。意志とは無関係に、全身が硬直してしまったように動かなくなったのだ。
彼らの自由を奪ったのは僧侶系第二レベルに属する彫像《マニフォ》の呪文だった。効果範囲に存在する生物の運動中枢に直接作用し、一時的な麻痺状経に陥らせる金縛りの魔法である。呪文自体に攻撃効果はないが、これにかかった者は身動きはおろか、瞬きひとつできぬまま無防備な姿を攻撃者の前に晒《さら》すことになる。
その彫像《マニフォ》の呪文がオークたちを二重に包み込んでいた。唱えたのは対峙するふたりの男――マイノスとザザである。
そして詠唱を終えるや否や、マイノスは猛然と魔物との距離を詰め始めていた。すでに|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》を着込み、引き抜かれたエクスカリバーは冷たい光を湛《たた》えている。金色の髪が激しくなびき、端正な貌《かお》にわずかに朱が射す。滑《なめ》らかに、しかし矢の迅《はや》さで疾《はし》るその姿はまさに一匹の美獣を思わせた。
「おお」
駆けていたのは一瞬だった。短い雄叫びをあげ、彼は生きた彫像の群れに飛び込んでいた。
その刹那《せつな》、両手使いで握られたエクスカリバーが頭上で旋回し、その勢いをもって斜めに振り下ろされる。閃光に似た斬撃の線上に一匹のオークの姿があったが、長剣はまるで何もない空間を振り抜いたかのようにその巨体を通過した。刃が肉に吸い込まれ、血|飛沫《しぶき》ひとつ上げることなく通り過ぎたのだ。
だが、現実にマイノスの剣はオークの肉体を破壊していた。
最初の一振りから流れるように繰り出された斬撃が二匹目の彫像に襲いかかった時、オークの脂ぎった胴を斜めに横切る赤い線が生じた。そこから見る間に血が溢《あふ》れ出し、続いて上半身と下半身がずるりとずれ始める。ずれは加速的に広がっていき、やがて大量の血液と臓物《ぞうもつ》を床にぶちまけながら巨体は上下別々に倒れた。
エクスカリバーの、凄まじいまでの切れ味であった。それなりの厚さを持った刀身があたかも剃刀《かみそり》のようにオークの肉に、筋に、骨に潜り込み、その太い胴体を何の抵抗もなく両断したのである。
しかしそれ以上に驚嘆すべきは、長剣を自在に振るうマイノスの身のこなしであった。一時も留まることなく、流れる水の如くに剣の軌跡が描かれる様《さま》はさながら磨き抜かれた舞を思わせる優美さと精妙さを秘めていた。
そもそもエクスカリバーは古代の特殊な鍛造《たんぞう》技術により、その長さからは考えられぬほどに軽く、片手でも容易に扱えるよう絶妙のバランスが取られている。初めて剣を握った冒険者でさえ、熟練の戦士の太刀筋を再現できる腕前に引き上げてくれる魔法剣なのだ。それを熟達者《マスター》≠ノも達しようというロードのマイノスが手にするとなれば、枯れ枝を振るうように軽々と扱えるのも至極《しごく》当然な話である。
まして今は両手で剣を操っている。通常なら攻防両面を考えて片腕は必ず盾に充《あ》てるものだが、梯子山《スケイル》登攀の妨《さまた》げとなるために盾をはじめとする防具は持参していなかった。怪我の功名と言うべきか、お陰で両手を使った剣さばきは常人に視認できないほどの迅《はや》さにまで倍加されていた。
だが、マイノスの動作の流麗さはそういったものとは別の次元にあった。言うなれば肉体の発揮できる力だけではなく、それ以上の能力を何らかの方法で引き出されたかのような、人の限界を凌駕《りょうが》した動作なのである。
そしてこれこそが伝説の|君主の装束《ローズガーブ》=\―ロードにのみ着用を許された|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》の力の一部であった。身に纏《まと》った者の能力を増幅し、生身では関節を傷《いた》めてしまうような動きすらも可能とする肉体の保護機能――それがマイノスに人ならぬ精密な身のこなしを与えていたのだった。
三匹目の頭蓋《ずがい》を断ち割った時、残るオークの後方から無数の細かな振動音がマイノスの耳に伝わってきた。それと同時に背後から、やや上ずった若い女の声が届く。
「マイノス、退《ひ》いて下さい!」
ザザのすぐ後ろで、ベイキが目を閉じて念を凝らしながら叫んでいた。その眼前には両手で握られたハースニールが垂直に構えられている。
マイノスは振り返りもせず、前方の通路を睨《にら》みながら後ろ向きに退《しりぞ》いた。突進時とさほど変わらぬ迅《はや》さで、まるで背後が見えているかのように的確に自ら屠《ほふ》ったオークの屍《しかばね》を避けていく。
振動音は急速に強まり、硬直したオークの背後の暗がりから蠢《うごめ》く霧状の物体が沸き上がった。
それは凄まじい数の|羽虫の群れ《ノーシーアムスワーム》であった。数千の羽音が唸りをあげ、確かな攻撃の意志を持ってマイノスたちに迫ってくる。どれだけ腕の立つ剣士であっても、このような大群が相手では対処の仕様がない。
ベイキが目を開けた。闇色の瞳が充分に後退したマイノスと、オークを越えて接近する羽虫の群れを捉える。
ハースニールの柄に嵌《は》め込まれたダイヤモンドが冷たく光り、ブン、と短い音を立てて刀身が震えた。ベイキが震わせたのではなく、宝剣自体が身震いするように振動したのである。
その刀身から突風が生まれ、ザザとマイノスの傍《かたわ》らを一瞬に追い抜いていく。それが羽虫の群れに到達した瞬間、周囲の空間に異変が生じた。
大気が激しく渦を巻いていた。撹拌《かくはん》され、空気の中で無数の羽虫は為《な》す術《すぺ》もなく翻弄《ほんろう》され、ずたずたに引き裂かれていく。
僧侶系第六レベルの呪文・空刃《ロルト》であった。空気を超高速でかき回して真空の刃を造り出し、その空間に存在する対象物に無数の傷を刻みつけるかまいたちの呪文である。僧侶系には珍しい強力な中規模攻撃呪文だが、属するレベルが快癒《マディ》と重複するため滅多に使用されることはない。
しかしこの空刃《ロルト》はハースニールのダイヤモンドに封じ込められたものであった。永遠の硬度を持つ宝石は決して破損することなく、秘められた魔力をそれこそ無尽蔵に使うことができるのである。
ベイキが呼び起こした空刃《ロルト》の効果が治まった時には、|羽虫の群れ《ノーシーアムスワーム》は一匹残らず絶命していた。
その間に残る二匹のオークがようやく彫像《マニフォ》の呪縛から解き放たれた。足元に転がる仲間の屍《しかばね》に臆した風もなく、興奮した叫びをあげながらそれらを踏みつけて突進を再開する。同族の血に畏《おそ》れよりもむしろ邪悪な獣性を刺激されたようであった。
マイノスもまた、オークが動き始めるよりも早く間合いを詰めていた。通路一杯に広がって並走する二匹の一方を、肩口にエクスカリバーを背負うように構えて迎え撃つ。
涎《よだれ》を撒《ま》き散らし、体重の乗った段平《だんびら》がマイノスの脳天目がけて振り下ろされた。当たれば鋼のフル・ヘルメットの上からでも頭蓋《ずがい》を砕きそうな重い一撃であった。
しかし|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》と一体となったマイノスの動きは、寸前で避けたとは思えぬほどの滑《》なめらかさでこれを無造作に躱《かわ》していた。段平《だんびら》は勢い余って床に叩きつけられ、石の破片と激しい火花を飛び散らせる。そして、無様《ぶざま》に姿勢を崩したオークは無防備な頭部を晒《さら》すことになった。
火花が輝きを失うより先にエクスカリバーが一閃した。交錯したと見えた瞬間にもんどりうって倒れた巨体からは、すでに豚に似た頭が綺麗に消失していた。
薙《な》ぎ払った剣を止めることなく振り返ったマイノスの目に映ったのは、糸が切れた人形のように頽《くずお》れる最後のオークと、その向こうで詠唱を終えた唇に微《かす》かな笑みを浮かべるザザの姿だった。
僧侶系第五レベルの単数攻撃呪文・呪殺《バディ》――心臓に呪力を集中し、冠状動脈血栓を誘発するこの呪文によってオークは即死していた。
戦闘は終了していた
「手を煩《わずら》わせたな」
あれだけの動きを見せたにもかかわらず、マイノスは毛ほども呼吸を乱さずに言った。
「いえ、とんでもない」
ザザが大袈裟に手を振って見せた。「まさか一匹しか回ってこないとは思いませんでしたよ。あなたの腕前を軽んじていたつもりはなかったのですが、それにしても見事なものです」
「この剣と、鎧のお陰だな。|君主の装束《ローズガーブ》≠ェこれほどの力を与えてくれるとは、正直私も考えていなかった」
マイノスは己の肉体を包む不思議な布地を叩き、活力が注ぎ込まれてくるのを改めて実感した。筋肉の疲労が一足ごとに癒《いや》され、関節は隅々まで油を注《さ》したように負担なく機能する。
「ベイキも、ハースニールの扱いにかなり慣れてきたようですね」
「そうですか?」
宝剣を鞘《さや》に収め、背中に括《くく》りつけようとしていたベイキが嬉しそうに顔を上げた。迷宮第五層に侵入してからこれまでに二度ほどあの羽虫の群れと遭遇していたが、ザザたちの彫像《マニフォ》などのサポートを受けずに単独で片付けたのは今回が初めてだったのだ。
「マイノスを巻き込んでしまうのではないかと気が気ではなかったのですが」
「後退の合図から呪文を呼び起こすまでの間は、なかなかどうして今日初めて迷宮に入ったとは思えない絶妙なものでしたよ。この調子ならこれから先、空刃《ロルト》で片付けられる類《たぐい》の魔物は安心して任せられます。もともと冒険者としての素質があったのかも知れませんね」
ザザの手放しの賛辞に、ベイキは頬を染めて作業に戻った。正直なところ誉《ほ》め過ぎの感があったが、こうした場合少しでも自信をつけさせるのが肝要だということをザザは良く心得ていた。
それに事実、ベイキは冒険者の基礎修行を受けていないとは思えぬほどに優れた実戦の勘を持っていた。ほんの数回の使用で、常人では扱いかねるハースニールの魔力を解放する要領を飲み込み始めているのである。かの魔人ダバルプスからリルガミンを奪還すべく、自ら冒険者として魔術師の修行を積んだというマルグダ女王の血を引くだけのことはあると、ザザは内心舌を巻く思いだった。
その場にベイキを残し、ザザは屍《しかばね》を検分するマイノスの傍《かたわ》らに近づいた。
「どうも様子がおかしいようです」
「――先刻の、|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》の件以外にもか」
まだ湯気を、立ち上らせているオークの骸《むくろ》から視線を上げたマイノスの問いに、ザザは珍しく深刻な表情で頷《うなず》いた。
すでに彼らは迷宮の異変を漠然と察知していた。
通り抜けてきた|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》には、そこを根城《ねじろ》とする筈の狂信者――|牙の僧侶《プリースト・オブ・ファング》と呼ばれる者たちの姿がひとりもなかった。魔術師呪文の使い手を欠き、魔法戦力が絶対的に不足する三人にとっては好都合であったのだが、ザザの経験からすればこれは考えられぬ事態であった。
そこに加えて、別の異状があるとザザは言うのである。
「我々が探索した限りこの第五層に――いえ、ル‘ケブレスの迷宮にオークの類《たぐい》が現れたという話は耳にしたことがありません。あの羽虫にしても単なる大量発生ではなく、攻撃性の高い種が召喚されている節があります。この層の生物相は、明らかに私の知るものから一変しています」
「善悪の結界が消え、最上層の未知の魔物が降りて来たんじゃないのか」
マイノスが口を挟んだ。「第六層に関しては我々が挑んだきりで、どんな生物が棲みついていたのかはほとんど判っていない筈だろう」
「確かに、その可能性もあります」
肯定しながらも、ザザの口調は否定的だった。
「何故、そう思うんだ?」
「この、オークたちですよ」
言って、ザザは足元に転がる巨大な生首を軽く蹴った。「ただのオークではありません。オークロードと呼ばれる、巨大化した変異種です」
「良く知っているな」
「昨晩ちょっとした夢魔退治をしましてね。その下調べに王宮書庫の古い文献を幾つか閲覧したんですが、そこに偶然このオークに関する。記述があったんですよ。骨格その他の特徴はすべて文献と一致しています」
「――それで?」
「文献によれば、この変異種は記録に残る限りこれまでにただ一ヶ所でしか確認されていません。それも出現した期間は数年に限られており、以後一匹たりとも姿を現してはいないらしいのです」
一呼吸おき、ザザは続けた。「――それはつまり自然発生する類《たぐい》の種ではないことを意味しています。ある特殊な状況下――恐らくは桁《けた》外れに強い魔法の影響を受けて突然変異を起こした種であり、どこかの地域に生息していたものが召喚されたとは考え難いんですよ」
「では、こいつらはどこから来たと言うんだ? それに、あの妖獣《ゼノ》も未知の生物だった筈だ」
「そう。妖獣《ゼノ》とこのオークには共通したものがあります」
「同じものだって?」
マイノスは虚を衝《つ》かれた。思わず、問い詰めるようにザザを見る。
「どちらも異質なんです。ル‘ケブレスが召喚したとは思えないほどに、これまでに目にしてきた迷宮の怪物とは毛色が異なる――そう思いませんか」
「……うむ」
「それと、オークロードが現れた場所と時刻、どこだったと思います?」
これは答を期待した問いではなかった。無言で先を促すマイノスに、声のトーンを落としてザザは答えた。
「およそ百年前の、旧リルガミン王宮地下――即ちあのダバルプスの呪い穴にのみ、連中は棲息していたんですよ。かつてのダイヤモンドの騎士がニルダの杖を取り戻すまでの、邪気渦巻く地下迷宮にね」
「――!」
マイノスは眉を寄せた。「そんな魔物が、今になって何故――」
その時、ベイキの短い悲鳴があがった。背を向けていたふたりは、弾かれたように振り返る。
そこに、気を失ったベイキを抱きかかえる長身の男が立っていた。
――アドリアン?
――いや、違う!
ふたりは同時に、同一の思考を辿《たど》っていた。それほどまでに、男から受ける印象は姿を消した魔術師と似通っていた。
しかし、似ていると感じたのは一瞬のことであった。ほんの数歩先で冷笑を浮かべているその貌《かお》は、アドリアンのあの完璧な美貌とはかけ離れた、人以外のものを無理矢理人間の骨格に組み替えたような奇相だった。
血の通わぬ病的に青白い肌と、毒々しいまでの深紅を湛《たた》えた薄い唇。頭髪は一本も残さず禿《は》げ上がり、落ち窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》には作り物のように巨大な眼球が嵌《は》まっている。尖《とが》った耳に向けて大きく裂け上がった口は、その人間に似た造作に獣じみた印象を与える役割を果たしていた。
そして何よりも、男は人間では――生者ではなかった。
眼球に比べて極端に小さな瞳は、血の色が滲《にじ》み出したような赤い光を放っていた。唇から大きく迫《せ》り出した歯茎には、咀嚼《そしゃく》ではなく穿孔《せんこう》に適した細長い二本の牙が生えている。
喪服に似た黒衣とは対照的な、真っ白な呼気が漏れた。その身の内に宿した冷気が、男の忍び嗤《わら》いとともに吐き出されたのだ。
不死と呼ばれる存在の中でも、特に強大な呪いの力を糧《かて》に活動する負の生命体――吸血鬼《バンパイア》。男の赤い瞳と吸血の牙は紛《まぎ》れもなく、生者にとっては最も剣呑《けんのん》なこの邪悪な魔物の特徴を示していた。
それと気づいた瞬間に、ザザは信じ難い迅《はや》さで解呪《ディスペル》の動作に入っていた。微塵《みじん》の迷いもない、反射的とも言える雷速の行動である。人質を取った形の吸血鬼が脅しをかける隙《すき》を与えない、有無をまわさぬ素早さだった。
解呪《ディスペル》とは僧侶系呪文を操るクラスの者のみが身につける、神の力を借りて不死怪物を現世に縛り付ける呪いの波動を遮断《しゃだん》し、穢《けが》れた肉体を分解する能力である。初歩的な呪法ながらその効果は術者の熟練度に比例して増大し、不死《アンデッド》系の魔物にとっては下手《へた》な攻撃呪文以上に有効な撃退法となる。しかも解呪《ディスペル》は魔法攻撃と異なり、生者であるベイキに対しては何ら影響を与えないのだ。
一瞬に動作を完了したザザの足下から青白い電光が疾《はし》る。こと解呪《ディスペル》に関しては天才的な腕前を誇るザザが会心の笑みを漏らすほどに、凄まじいまでの浄化エネルギーが彼の躰《からだ》を媒体として迸《ほとばし》った。
いかに高度な呪力の鎧を纏《まと》った吸血鬼といえども、この解呪《ディスペル》を受ければひとたまりもあるまい――ロードとして同じく解呪《ディスペル》の能力を持つマイノスはそう確信した。その聖なる光が太地の底から伝わる邪悪な魔法を絶ち、生命力の源を失った吸血鬼は即座に塵《ちり》と化す――筈であった。
だが、光は吸血鬼のもとに到達しなかった。より強力な闇の魔力に吸い込まれるように、浄《きよ》めの雷《いかすち》はその手前で消失してしまったのだ。
「動くな」
ふたりが次の行動に移るその機先を制して、静かだが鞭《むち》の激しさを秘めた警告が響いた。「動かば娘を殺す」
異様な長さの鋭い爪が、失神しているベイキの無防備な喉に押し当てられたのを見て、ふたりはその場に凍りついた。マイノスはエクスカリバーを半分ほど鞘《さや》から引き抜いた姿勢で、柄に手をかけたまま動きを止めている。
男は満足そうに唇の端を吊り上げ、するすると数歩後退した。マイノスが隙《すき》を衝《つ》いて踏み込んだとしても、一動作では抜き打ちにできない距離を保っている。間合いを詰めるまでに爪がベイキの喉を切り裂く時間は充分にあった。
こうなってはもはや、ベイキの奪還は不可能であった。
ザザが結びかけた印をゆっくりと解き、両手を肩の上に挙げた。呪文詠唱をしないという意志表示である。
「それでいい」
嗄《か》れ声を発し、不死の魔物は薄く嗤《わら》った。そしてぎろりと、妖しく赤い眼光をマイノスに向ける。
「貴様も剣を捨てろ」
「捨ててはいけませんよ」
吸血鬼《バンパイア》の指示に被《かぶ》せて、ザザがぴしゃりと言った。「今、あの魔物に通用しそうな攻撃手段はあなたの剣だけです。それを捨てれば我々ばかりか、彼女も殺されることになる」
「ほう。頭の切れる僧侶だな」
吸血鬼は薄い瞼《まぶた》で目を細めながら呟《つぶや》いた。「まあ良い。この場で無理に貴様らを片付ける必要はない」
「貴様は――」
「ただの吸血鬼ではありませんね。今の解呪《ディスペル》を退《しりぞ》けるなど、並の不死怪物にできる芸当ではない」
ザザの言葉に、男は喉を詰まらせるような嗤い声を立てた。
「我が名を知りたいか。ならば教えてやろう――」
漆黒のマントが翻《ひるがえ》り、横抱きにしたベイキを巻き込むように包み隠した。「我こそは真の不死者にしてすべての不死族の王。貴様ら人間どもは畏《おど》れをもってこう呼ぶ――バンパイアロードとな」
不死王バンパイアロード――その呼称を耳にした瞬間、ふたりの背筋に言い様のない悪寒が這い昇ってきた。
それはもはや伝説と化した魔人の呼び名であった。最初にこの世界に産み落とされた吸血鬼と言われ、数千年の刻《とき》を存在し続けた邪悪なる闇の貴族――その肉体は完全に破壊されようとも決して滅びず、無限の再生を繰り返すと伝えられるまさしく不死身の魔人王である。
歴戦の冒険者であるマイノスとザザが無意識に恐怖を感じたとしても不思議のない、死と絶望の権化として遥かな古代から人々に畏怖《いふ》されきた存在だった。
己の名がもたらした効果にせせら笑い、バンパイアロードは油断なくマントの内側のベイキを覗き込んだ。
「噂に違《たが》わず美しいな。リルガミン女王ベイキ、預かるぞ」
「――何故それを」
叫び、飛び出そうとするマイノスをザザが制した。下手《へた》に動けばベイキは二度と目を覚まさなくなる。仮に屍《しかばね》を取り戻したとしても、冒険者としての鍛練を積んだわけではないベイキが魔法で蘇生する可能性は窮《きわ》めて低かった。
「どうやら随分前から我々を監視していたようですね」
ザザの推測を肯定する代わりに、魔人はあからさまな嘲笑を浮かべた。視線はふたりから外すことなく、その不浄の唇をそろりとベイキに近づける。
「王家の血を引く生娘の生き血はさぞかし旨《うま》かろうな」
「やめろ!」
ジヴラシアの不在にベイキを拉致《らち》されてしまったことに対する悔恨《かいこん》と狼狽《ろうばい》、そしてリルガミン王家に忠誠を誓った騎士の末裔《まつえい》としての、邪悪な魔人の手中で女王を弄《もてあそ》ばれることへの激しい怒りにマイノスは完全に冷静さを失っていた。ザザが強く押し止めていなければ、とうにバンパイアロードに向かって斬りかかっていたところであった。
魔人はその様子を愉《たの》しむためにわざわざ挑発しているようだった。だが、さらに牙を近づけようとして、嗜虐《しぎゃく》的な愉悦の表情が不審げな戸惑いに変わった。
「うぬ……小癪《こしゃく》な護符めが」
忌々《いまいま》しげに呟《つぶや》き、バンパイアロードはふたりに向き直った。
「これ以上貴様らを相手にするのは時の無駄だな。なかなかに腕は立つようだが、たかだかふたりでは我が手を下さずとも早晩この迷宮に放たれたものどもの餌食《えじき》となろう。今はこの娘を連れ戻るのが先決」
言って、魔人はさらに後退した。ふたりが広がった間合いを詰めようとしたが、凶器の如き爪をベイキの喉元で思わせぶりに動かされ、為《な》す術《すべ》もなく足を止める。
「ベイキをどうするつもりなのです」
「さて、どうするかな」
魔人の奇相に冷笑が疾《はし》った。くぐもった嗤《わら》いが通路に低く谺《こだま》する。
「今しばらくは生き永らえておろう。貴様らが運良く最上層を突破できたなら、再び相見《あいまみ》えることもあるかも知れんな。だが、この先に召喚された魔物はオークロードの比ではないぞ」
「最上層――ならばこれはル‘ケブレスの意志なのですか」
「ル‘ケブレス――ル‘ケブレスだと?」
嗤いが哄笑に変わった。「あれだけの力を持ちながら、身中を喰い破られるまで気づかずに平衡の守護者≠ネどを気取っていた哀《あわ》れな龍神よ! 力のほとんどを失った彼奴《あやつ》は、もはやこの迷宮の支配者ではないわ――」
「何と!」
予想もしなかった事実に、ふたりは衝撃のあまり言葉を失っていた。しかし同時に、それが真実であることも直感的に悟っていた。龍神ル‘ケブレスの力の失墜――迷宮内の結界の消失や生物相の変化などの、異変の理由はまさにそこにあったのだ。
だが、ならば現在魔物を召喚している新たな迷宮の主とは誰なのか。
ザザがそれを訊《たず》ねようとした瞬間に、バンパイアロードは呪文詠唱を開始していた。
転移《マロール》の呪文であった。
「待て!」
ベイキを連れ去られると気づき、我に帰ったマイノスが突進した。先刻の戦闘で見せた動きをも凌《しの》ぐ迅《はや》さである。ペイキを盾に取られているとは言え、このまま逃がせば救出はさらに困難になる――その思いが|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》に引き出されたマイノスの運動能力を倍加していた。
いかな魔人であろうと、精神集中を必要とする呪文詠唱の最中にベイキに爪を突き立てることはできない。それはマイノスに許された最初で最後の攻撃の機会だった。
駆けながら抜き放ったエクスカリバーが不思議な輝きを帯びていた。|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》のもうひとつの力――悪魔をはじめとする特定種の魔物に対して武器の攻撃力を倍加する魔力が、強大な不死族《アンデッド》を前にしてこの長剣に不死殺し≠フ特性を与えたのである。
奔流《ほんりゅう》を思わせる勢いで、マイノスは一息に距離を詰めた。すかさず繰り出した渾心の一撃が魔人の首崩を正確に、水平に薙《な》ぎ私う。不死身のバンパイアロードといえども、頭部を切断されれば一時的な活動の停止は免《まぬが》れない筈であった。
しかし――。
強化された刃が食い込む寸前に、詠唱を終えた魔人はベイキともどもその空間から掻《か》き消えていた。直前に間合いを広げたのは、転移《マロール》の呪文を唱え終わるだけの時間を稼《かせ》ぐためにほかならなかった。
虚《むな》しく空を斬ったエクスカリバーを、マイノスは振り抜く途中で強引に止めた。その柄を握る両拳は白くなるほどに力が篭《こ》められ、宙に静止した剣に激しい震えが伝わる。
言葉にならぬ絶叫が、ザザとふたり残された通路に激しく残響した。
エルフのガラス瓶は、本来そうした効果を生み出すために造られたのではないか――。
それほどまでに、青白い魔法の光に照らされたディーの裸身は美しかった。薄絹で磨き上げた珠《たま》のように滑《すぺ》らかな肌はそれ自体が光を内包しているかの如くに淡く輝き、一際浮かび上がる躰《からだ》の輪郭が闇の中に柔らかい絶妙の曲線を描き出している。
腕の中で無防備に眠るディーを見つめながら、俺はそんなことを考えていた。
柔肌から伝わる体温と、もたれた石壁の冷たく堅い触感のコントラストが、俺の五感を奇妙に研ぎ澄ませている。まるで全身の神経がこの小さな玄室の空間すべてに張り巡らされているようだった。
たったひとつの扉の外に、何者かが近づく気配はない。
黒竜《ブラックドラゴン》との遭遇からすでに三時間あまりが経過していた。
微《かす》かな寝息を立てるディーは、俺の胸に片頬を乗せて無垢《むく》な少女のように眠り続けている。その寝顔にもはや恐怖の翳《かげ》は見えなかった。
何故、ディーは黒竜をあれほどまでに畏《おそ》れたのか――。
眠りに落ちる前に、恐慌から立ち直ったディーはその理由を途切れ途切れに語ってくれた。
ディーが生まれ育ったのは、遠い辺境に位置する小さいが豊かな村だった。そこではエルフをはじめ各地から移住してきた五種族が平和に共存し、僻地《へきち》の小村には珍しく都市に似た活気を持っていたという。
村一番の弓の腕前を持つ狩人の父と、薬草の調合を得意とする母の手で、ディーは十二の歳まで何不自由なく育てられた。
そして、惨劇の夜が訪れた。
じっとりと湿った空気が漂う、風のない闇夜だった。
夜半、猟犬たちの吠え声に目を覚ましたディーは、すでに身仕度を整えた父が弓に弦《つる》を張っているのを見て尋常ではない気配を察した。幾ら腕の立つ父であっても、真夜中に狩りに出かけることなどあり得ない。
戸締まりをしっかりしておけと言い残して、矢筒一杯に矢を詰め込んだ父は犬たちを連れて外に出ていった。闇の中に遠ざかっていく夫の松明《たいまつ》を不安そうに見守りながら怯《おび》えるディーを抱き締める母も、何が起ころうとしているのかは判っていない様子だった。
やがて、周囲の家々にも明かりが灯り始めた。手に鋤《すき》や鍬《くわ》を持った男たちが、口々に何か叫びながら父の向かった方向に走っていく。
どこか遠くで悲鳴が上がった。ひとりの叫びではなく、複数の人間が一斉に絶叫したものだった。それに被《かぶ》せるように男たちの怒号が響く。
続いてディーの耳に届いたのは、全身が総毛立つ凄まじい咆哮《ほうこう》だった。再び人々の絶叫が聴こえ、足下からは巨大なものが足を踏み鳴らす地響きが伝わってくる。
それは、少しずつ近づきつつあった。人々の断末魔と、家屋が倒壊する破砕音を伴って。
抱き合いながら窓の外を覗く母娘の目に、逃げ惑う男たちの姿が映った。ある者は折れた腕を抱えてよろめき、ある者は頭から流れ出す血に視力と思考力を奪われて絶叫する。中には全身を炎に包まれ、眼前で力尽きる者もいた。
隣家に住むドワーフが手斧を投げ捨てて走ってきた。惨状に竦《すく》むディーたちを窓辺に認め、早く逃げろと叫んでいる。
もう一度あの咆哮が響いた。窓の外のドワーフがディーから見て死角になる方向に顔を向け、表情を引き攣《つ》らせた。
次の瞬間、凄まじい冷気の塊がドワーフを襲った。
見開かれた眼球は水分の凍結で一腕に砕け、豊かな髭《ひげ》に覆われた顔に罅《ひび》が生じる。文字通り恐怖を顔に凍り付かせたまま、バランスを失って転倒したドワーフは五体パラバラに折れ砕けた。
冷気の余波で窓ガラスが瞬時に割れ落ち、錆《さ》び臭い臭気が室内に流れ込んでくる。隣人の死に声も出せず、身|動《じろ》ぎもできない母娘《おやこ》の視界に、それがゆっくりと姿を現した。
窓の上端よりも高い位置から、真っ赤な双眸がディーを覗き込んでいた。闇夜に浮かぶ眼と牙だけの怪物――。
そいつが地響きを立てて窓の正面に回り込んだ。
その動きで、闇に溶け込む漆黒を宿した巨体の輪郭を辛《かろ》うじて見て取ることができた。
生まれて初めて目にした生物だったが、ディーは正確にその呼称を思い浮かべていた。その名以外に呼びようのない姿だったからだ。
黒竜《ブラックドラゴン》は長首を伸ばし、鋭い牙の並んだ顎《あぎと》をゆっくりと開いた。大量の吸気に胸部が膨脹《ぼうちょう》し、ごぼごぼと濁った音が喉元から漏れる。
その時、ディーは凄まじい力で窓辺から跳ね飛ばされた。我に帰った母が、その細腕のどこにそんな力があったのかと思うほどの勢いで突き飛ばしたのだ。
それは子供の危険を察知した母親だけが発揮できる力だったのかも知れなかった。
部屋の隅にまで転がったディーが見たのは、沸騰する強酸のブレスを頭から浴びせかけられた母の姿だった。壁に頭を打ちつけて遠|退《の》いた意識が急速に引き戻される。
沸き上がる白煙と刺激臭の中で、美しかった母の貌《かお》は一瞬に白|蝋《ろう》のように溶け崩れた。もし突き飛ばされていなかったら、ディーも同様の運命を辿《たど》っていただろう。
ディーは己の絶叫の向こうで、全身から煙を噴き上げてのたうつ母が「逃げて」と呟《つぶや》くのを聴いた。だが、その意味すら理解できないほどに意識が混濁《こんだく》していた。
ふらつく足取りで、もう動かなくなってしまった母のもとに近づく。床に残留した酸で裸足《はだし》が灼《や》けたが構わなかった。母に触れる。灼け爛《ただ》れた肌はずるりと滑《すべ》るように容易に剥《は》がれた。母は絶命していた。
呆然としたまま、窓の外に視線を向ける。涙に曇った瞳に、黒竜《ブラックドラゴン》に吠えかかる一匹の老犬と矢を射かける父の姿が見えた。他の猟犬たちの姿はなく、父も半身に酷い火傷を負っていたが、鬼気迫る勢いで次々と矢を放っている。すでに数本の矢が窓辺から離れた黒竜の肩口や胸に突き立っていた。邪竜の苦悶の咆哮《ほうこう》がディーの意識を覚醒《かくせい》させた。
大丈夫だ。父様があの魔物を退治してくれる。母様の仇《かたき》を討ってくれる。
そう考えた瞬間に、黒竜の逞《たくま》しい腕の一撃が飛びかかる老犬を空中で引き裂いた。怯《ひる》んだ父に向けて、両眼に憎悪の炎を滾《たぎ》らせる竜の口から奇妙な韻律を含んだ唸りが漏れる。
慌てて弓を引き絞る父を、ドワーフを襲ったものと同じ冷気が包んだ。黒竜が魔術師系第五レベルに属する冷気呪文・大凍《マダルト》を唱えたのだった。
矢を番《つが》えたままの姿勢で、父の肉体は瞬時に凍結した。そこに黒竜の尾の一撃が容赦なく加えられる。
父の躰《からだ》は粉々の氷片と砕け、跡形もなく消失した――。
ディーが覚えている光景はそこまでだった。
翌朝、霧に煙る瓦礫《がれき》の中でホビットの家族に助け起こされた時には、黒竜の姿はすでになかった。
たった一匹の邪竜の襲撃で、村は完全に壊滅していた。戦いに赴《おもむ》いた男たちのほとんどが命を落とし、家屋に隠れていた女子供も次々に追い立てられて餌食《えじき》となった。生き残ったのは逸《いち》早く避難したほんの一握りの村人だけで、ディーが生きていたのは奇跡に近かった。
どうしてあんな怪物が現れたのか、誰にも判らなかった。黒竜など、もう昔話にしか出てこない衰亡《すいぼう》した種だと誰もが考えていたのだ。恐らくはどこかの未開地に棲み着いていたものが新たな居住地を求めて移動する途中、餌となる人間を求めて気紛れに降り立ったのだろうが、そんな魔物に襲われたのはまさに不運としか言い様がなかった。元々その地方には亜人種《デミ・ヒューマン》の類《たぐい》でさえほとんど棲息しておらず、襲撃に対する備えが薄かったのも災いした。
もう彼らに村を再建する力は残っていなかった。
天災に見舞われたと諦《あきら》めて、残った人々はすべてを忘れて別の土地へと流れていった。
ディーもまた、独り近隣の地方都市へと移り住んだ。村人たちは村中から集めてきた、持ち主のいなくなった金品を歳若いディーにも平等に分配してくれたので、質素に暮らすぶんには生活の心配はなかった。エルフではまだまだ子供の歳だったが、下宿近くの安酒場で職を見つけることもできた。
しかし、ディーはこの悪夢の夜を忘れることができなかった。
床《とこ》に就《つ》き、瞼《まぶた》を閉じた途端にあの光景が蘇る。窓枠の向こうで残忍に細められる赤い眼。溶け崩れる母。砕け散る父。鋭い爪を備えた前肢が眼前で振り上げられ――。
絶叫し、深夜に跳ね起きるように目覚める。夜着は冷たい汗でぐっしょりと濡れ、肩で息をしながらディーは毎晩泣いた。そして、もうあの夜の出来事を忘れて生きていくことはできないと悟った。忘れられないのなら、悪夢に立ち向かう力を身につけなければならないと思った。
その都市が貿易の重要な中継点ということもあって、酒場には旅の冒険者と名乗る連中が訪れてきた。平和な時代だけにそのほとんどが出鱈目《でたらめ》の冒険譚で一杯の酒でもせしめてやろうというごろつきだったが、稀《まれ》に千刃をくぐり抜けてきた本物の冒険者パーティが立ち寄ることもあった。
そうした者たちを見つけるとディーは給仕の傍《かたわ》ら決まってこう質問した。竜を斃《たお》すにはどうなさるの、と。あの父が射かけた矢も、硬い鱗《うろこ》に覆われた黒竜《ブラックドラゴン》の巨体にはほとんど通用しなかったからだ。
どのような戦い方が最も有効であるのかを知っておく必要があった。
血気盛んな駆け出しの戦士は大方が自分の腕っぷしと剣があればどうとでもなると答えたが、少しでも竜の恐ろしさを知る思慮深い古強者《ウォリアー》は必ず同じ答を返してきた。即ち、優秀な魔術師の呪文の援護があれば何とかなるかも知れない――そうでなければ可能な限り逃走する、と。
いつしかディーは冒険者として魔術師の腕を磨く決心を固めていった。
「仇《かたき》を取ろうなんて、本気で考えてたわけじゃなかったわ。黒竜《ブラックドラゴン》なんてよっぽどの冒険者でも一生に一度出くわすかどうかの稀種だって聞かされたし、まして村を襲った奴を探し出すことなんてできやしないしね。あたしが闘いたかったのは心に棲みついていた黒竜だった……自分が強くなればあいつを追い払えると思ってた……」
うとうとと、半ば眠りに落ちかけたディーはそう続けた。「でも、結局悪夢は消えなかったわ。独りで眠ろうとすると、いつも……だからあの墜落の時も、あんたが一緒にいてくれて本当に良かった……」
そのまま寝入ってしまってから、見守る限り悪夢にうなされる様子はなかった。
ディーの身の上を聞いたのはこれが初めてだった。リルガミンで出会ってパーティを組んで以来一年の間顔を突き合わせてきたが、これだけの心の傷を負っていると他人に窺《うかが》わせるような素振りは全く見せなかった。
黒竜に対する過剰な反応も頷《うなず》ける、あまりにも凄惨な過去だった。そして、その恐怖を振り払うために身につけた呪文を――それも最大の威力を誇る爆炎《ティルトウェイト》をいとも容易《たやす》く退《しりぞ》けられてしまったことが、ディーを発狂寸前の錯乱状態にまで追い込んだのだろう。
それにしても、気になることがある。
奴ほど手強い怪物ならば、必ず宝珠の探索者たちの間で噂に上る。善《グッド》・中立《ニュートラル》・悪《イビル》を一部隊とした四組のパーティはそれぞれ使命達成を競ってはいたものの、基本的には少しでも安全かつ迅速《じんそく》に迷宮探索を推《お》し進められるよう魔物や罠の情報を提供し合っていた。もしこの第四層で黒竜《ブラックドラゴン》が一度でも目撃されていたなら、直接関わりのない俺たち悪《イビル》の戒律の冒険者にもすぐさま伝わってきて然《しか》るべきだった。
誰にもその存在を悟らせなかった巨竜。それが事実なら、可能性としては次のふたつが残されている。
ひとつは黒竜がその保護色を活かし、これまで誰の目にも止まらずに第四層の闇に潜み続けていた可能性。だが、手掛かりを求めて迷宮を虱《しらみ》潰しに探索する冒険者の目を逃れるとなると、奴の図体が小犬程度に縮まることを前提としなければなるまい。従ってこの線は限りなく薄い。
もうひとつは、今まではいなかったものが最近になって召喚された線だ。それなら俺たちが黒竜の最初の目撃者であったとしても納得がいく。ただし、何故|桁《けた》違いに強力な護衛が新たに召喚されたのかという疑問は残っている。
そして、どうにも頭から拭《ぬぐ》えない違和感があった。
これまでにも、少ないながらル‘ケブレスが召喚した竜の眷属《けんぞく》は存在していた。第五層には長虫のような胴を持った東方の飛竜・天竜《ティエンルン》が配されていたし、敢《あ》えて言うならもっと下層に大量に棲息している大蜥蜴《コモドドラゴン》も竜の範疇《はんちゅう》に含まれる。
だが、それらと比べて――いや、迷宮に放たれているどの魔物と比べても、黒竜には得体の知れぬ異質さ、邪悪さが漂っていた。果たして平衡の守護者と呼ばれる龍神ル‘ケブレスが、これほど極端に邪悪な存在を護衛として召喚するものだろうか? 加えて黒竜はゴブリンをブレスで灼《や》き殺し、啖《くら》らっていた。
ゴブリンどもは召喚された護衛ではなく勝手に迷宮に棲み着いている口のようだったが、冒険者の腕試し程度とル‘ケブレスが黙認していたのか、少なくとも他の護衛たちに攻撃されることなく共存していた。梯子山《スケイル》の内部はそういった点で極めて秩序が保たれていた筈なのだが、黒竜《ブラックドラゴン》は明らかにこれを破壊している。
不意に、あの巨鳥ロックに|羽虫の群れ《ノーシーアムスワーム》が襲いかかる光景が脳裏に蘇った。あれも、今にして思えば同様の出来事ではなかったのか。
龍神の定めた迷宮の秩序に、狂いが生じつつある――。
そんな言葉が頭を過《よぎ》った時、床と壁を通じて微《かす》かな震動が伝わってきた。
巨体の歩行が生み出す地響きを思い、俺の全身に緊張が疾《はし》る。が、すぐにもう馴染みになった微震だと気づき、軽く息を吐いて力を緩《ゆる》めた。
それは微震とも呼べぬほどに小さく、短い震えだった。俺も五感が鋭敏に働いていなければ察知できなかっただろう。
それでもディーが目覚めたのは、むしろ一瞬の俺の緊張を敏感に感じ取ったからだった。
「起こしちまったか」
「……寝ちゃってたのね」
俺の胸に頬を乗せたまま、焦点の定まらぬ目を半開きにしているディーが呟《つぶや》いた。覚醒《かくせい》につれ、その瞳の光が少しずつ強まってくる。
「嘘みたい……こんなに安らいだ気分で眠れたのは久しぶりだわ。迷宮の中だっていうのに……」
ディーはそっと顔を上げ、俺と目を合わせた。しかしすぐにその視線を逸らし、胸に顔を埋める。
「どうした?」
「どうって……馬鹿」
伏せたままディーは言った。「今更だけど、思い出したのよ」
「……怒ってるのか」
「怒らせるような真似をしたつもりなの?」
再びこちらを向いた貌《かお》に心なしか朱が注《さ》しているように見えた。この光の下では判然としなかったが。
「いや――そうじゃねえが……」
語調の鋭さに俺は少々しどろもどろになった。「けどよ……怒ったって不思議はねえ、んじゃねえかと思ってな」
「照れてるのよ、馬鹿。そんな風に見つめられてると、恥ずかしいの」
言って、ディーはまた貌《かお》を伏せた。「でも、少し怒ってる」
「やっぱりなあ」
「そういう意味じゃないわよ」
「へ……?」
「本当に朴念仁《ぼくねんじん》なんだから……」
ディーはちらと目を上げた。
「だから、あんな状態だったからはっきりとは覚えてないの。あんたと……ジヴと初めてだったのに、良く思い出せないってのが腹立たしいのよ」
そう呟《つぶや》いたエルフの貌は、今度は明らかに真っ赤になっていた。思えばディーが赤面して恥じ入っているところなど初めて見る。|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》ではほとんど半裸の姿を平然と俺に晒《さら》していたディーが、だ。
意外そうな表情を読み取ったらしく、ディーは赤く染まった頬を軽く膨《ふく》らませた。
「あたしだってね、こんな時ぐらいは照れるの」
「あ、いや――」
「ずっと惚《ほ》れてた相手に抱かれたんだもの」
ふと、ディーの目が真剣味を帯びた。「ほとんど諦《あきら》めでたのにね。これでもう、いつ大破壊《カタストロフィ》が来ても思い残すことなんてないわ……」
「――」
短い沈黙の後、思い切ったようにディーは躰《からだ》を起こした。衣服の上から見た印象よりも遥かに豊かな乳房が揺れ、軽くウェーブのかかった緑の髪がはらりと数条|被《かぶ》さる。そうした動きのひとつひとつが、発光瓶の照明の下では幻想的に演出された。
「随分時間を潰しちゃったわね。もっとこうして……最期の瞬間までこうしていたいけど、そのためにあんたの足を引っ張るのは御免。今度はあたしがあんたの目的を手助けしなくちゃね」
改めて向かい合ったディーは、これまでになく美しく見えた。魔法の明かりのせいばかりではなく、事実眠りから覚めてその美貌に格段と磨きがかかっているように思える。
「昨晩王宮の中庭で言ってたでしょ、最後まで戦いたいってさ。スケイルの登攀《とうはん》までしといて、これでガッシュたちを見つけられなかったら死んでも死に切れないでしょうよ」
「ディー……」
「行こう、最上層へ。あたしはもう大丈夫」
言って、ディーは上体を乗り出した。互いの息がかかるほどに顔が近づく。
軽く唇を重ね、ディーは潔《いさぎよ》く躰《からだ》を離した。「これが最後――あっ」
不意に込み上げてきた感情が、俺にディーを引き戻させ、固く抱擁《ほうよう》させた。
「ジヴ……」
「おまえを愛しているのかどうか、俺には判らねえ。けどよ、この世の誰よりも好いてるのは確かだ。それで良かったか?」
「……いいよ……愛していなくても……こんなあたしを好きだって言ってくれただけで、もう、充分――」
喘《あえ》ぐように呟《つぶや》きながら、ディーは強くしがみついてきた。
侍との闘いは用心しろ――
七年に渡る忍者の基礎修行も終わりの頃、俺の師匠だったホビットのニンジャマスターが言った言葉だ。
何故かと問う俺に、老忍者はこう答えた。
「戦士が相手なら、まず一目で力量を見抜くことができよう。その判断に従って勝てそうなら戦えば良し。ロードも同じだが、装束に注意しなければならん。万が一あの|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》を着ていたなら能力は格段に上昇している。万が一、だがな。しかし、侍だけは己の判断がさほど当てにならん」
ホビットは袖を大きくめくり、二の腕に刻まれた傷を露《あらわ》にした。古く、細い傷跡だったが、それがぐるりと腕を一周している。
「侍の剣技は魂――即ち生命の気≠刃に凝らして斬ることにある。この気≠ニいう奴が厄介でな。素質のある侍ならさほどの実戦経験がなくとも自在に操って見せたりもする。この傷は現役時代にそんな侍にやられたものでな、本来の間合いの数歩先から気≠フ刃を飛ばす居合《いあい》とやらでばっさりと切り落とされた痕《あと》よ――」
苦々しげに古傷をなぞり、ニンジャマスターは続けた。「この気≠フ刃にはどんな防具も通用せん。不可視の刃は装甲を透過して内部の肉体を破壊するのだ。確実に避けるほかになく、となると己の間合いに飛び込むのは難しい。もし相手が居合を操る侍であったなら、一対一では切り刻まれるのが関の山よ。そうなる前に逃げるのが最良の策だな」
それが、誇り高い|西風の称号《マスター・ウエストウィンド》を受けたニンジャマスターが俺に無条件の逃走を指示した唯一の例だった。
そして俺はまだ、この居合を使う侍に出会ったことがなかった。
俺とディーは玄室を後にしてほどなく、第六層へと続く階段が存在するらしきエリアへの入口を発見していた。
やはりあの巧妙に擬装された扉は、このエリアへの到達を困難にするべく設置されていたものだったのだ。黒竜《ブラックドラゴン》との遭遇は計算外だったものの、強酸ブレスの腐蝕臭に導かれたことを考えれば決して時間の浪費ばかりではなかった。
そのエリア一帯は第四層の他の場所に比べて温度が高く、壁や床はじっとりと湿った光沢を放っていた。微《かす》かに靄《もや》が漂っているところを見ると、どこからか火山性の蒸気が吹き出しているのかも知れない。
この先に階段があると確信を抱《いだ》かせたのは、濡れた壁や床のところどころに刻まれた|気をつけろ《ルックアウト》!≠ニのメッセージだった。中立の連中から聞き知っていた話では、第四層の階段に通じるルートには高温多湿のせいか|巨大蛭《ジャイアントリーチ》が大量に棲息する一帯があり、そこに初めて足を踏み入れたパーティが警告と目印代わりにそれらのメッセージを刻み込んだというのだ。それが真実なら、俺たちは正しい道筋を辿《たど》っていることになる。
しかし、第五層でも良く出現するあの厭《いや》らしい蛭《ひる》は他の生物同様全く姿を見せなかった。この迷宮に侵入して以来、俺たちが目にした生物は未だに黒竜《ブラックドラゴン》一匹のみだった。
俺たちはほとんど無言だった。玄室を出てからは必要なこと以外決して口に出さず、分岐点での選択も頷《うなず》く程度で済ましている。明かりは仕方ないとしても、少しでも黒竜に気取られる可能性を減らすためだった。
ディーはすっかり元の優秀な魔術師に戻っていた。黒竜の影に怯《おび》えることもなく、また俺に対する態度もこれまでと何ら変えていない。
好ましい姿勢だった。男と女の間柄から、忍者と魔術師の関係にすっぱりと頭を切り替えている。そうした甘えが命取りになる危険性を、ディーは充分に理解しているからだろう。
幾つかの警告を発見しつつ、俺たちは水蒸気に霞《かす》む広めの玄室を注意深く横断した。と、正面の壁に次の間へと続く扉が現れる。
俺は身振りでディーを制し、錆《さ》びの浮いた鉄扉に忍び寄って耳を澄ました。黒竜ほどの大きさの生物が向こうに潜んでいれば、俺の聴力なら少なくとも呼吸音程度は捉えることができる。それらしい音の変化はなかった。
「大丈夫そうだぜ」
俺は長く続いた沈黙を破って言った。「敵はいそうにねえ」
敢《あ》えて竜とは言わなかった。平静を保ってはいたものの、この点に関してはできる限りディーの精神的な傷を刺激したくなかったからだ。
それを悟ったのか、ディーは眉を上げておどけた笑みを浮かべた。
「気を遣《つか》わせるわね。でも、信用して。今度あいつが現れたら試してみたい手があるのよ」
「そりゃあ頼もしいな」
まんざらただの強がりでもなさそうだった。さすがはディーと言うべきだろう。
目と目で頷《うなず》き、俺は静かに扉を押し開いた。が、あまりの湿気に錆《さ》びついた蝶番《ちょうつがい》はそれこそ警報のように周囲に軋《きし》んだ悲鳴を上げる。
それでも、魔物の類《たぐい》が呼び寄せられる気配はなかった。この一帯はどうやら本当に何もいないらしい。
胸を撫で下ろし、俺とディーは扉をくぐり抜けた。
そこはもう少し濃密な蒸気が漂う、音の反響から判断して恐らく今通り抜けてきた玄室と同程度の空間だった。靄《もや》がかざしたガラス瓶の光を乱反射させ、明かりの届く範囲を大幅に狭《せば》めている。幽《かす》かに硫黄《いおう》の匂いがした。
「参ったな」
蝶番の軋みのせいもあって、俺は敵への警戒心を解いたまま呟《つぶや》いた。真に恐ろしいのはそうした一瞬を衝《つ》いてくる知恵を持つ相手だということを、この時俺は完全に失念していたのだ。
「こう湯気が強くちゃあ――」
足下も見えやしねえ、と続けようとして、俺は何か硬いものを踏みつけた。床に投げ出された段平《だんびら》だと感触で判断したが、それでも反射的に頭を下げて確認しようとする。
その瞬間、正面に白く蟠《わだか》っていた靄《もや》の中で何かが動いた。
ひゅん、と空気が裂ける音を耳にすると同時に、俺の頭上をぞっとする迅《はや》さで得体の知れぬものが擦過《さっか》する。頭髪の上端が切断されたのが判った。
「ディー! 敵だ!」
叫びながら真横に走った。ディーもそれに倣《なら》って背後を移動する。
一瞬に全身から冷たい汗が吹き出していた。
もし無意識に額を下げていなかったら、あの鋭い何かは俺の首筋を真っ直《す》ぐに通過していた筈だった。首が落ちていたかも知れぬと実感し、背筋に抑えようのない戦慄《せんりつ》が疾《はし》り抜ける。
ディーが電光の迅《はや》さで猛炎《ラハリト》を唱えていた。前方に凄まじい火炎の渦が生じ、立ちこめる水蒸気を巻き込んで消散させていく。
だが、敵はその炎に包まれてはいなかった。
渦の傍《かたわ》らに浮かび上がったのは、炎の照り返しに輝く銀色の鎧に身を包んだ長身の剣士だった。飛竜の飾りをつけた兜《かぶと》を被《かぶ》り、顔の下半分を恐ろしげに口を開いた奇怪な仮面で覆う異形の姿だ。
「不浄の化物どもめ」
仮面の下から、低い呪詛《じゅそ》の呻《うめ》きが漏れた。
「一匹残らず、切り刻んでくれるぞ――」
猛炎《ラハリト》の効果が切れた。しかし火炎の高熱で靄が消え、今はその剣士を発光瓶が淡く照らし出している。
「大凍《マダルト》でいくわよ」
「待て」
次の呪文詠唱に入ろうとするディーを、俺は即座に制止した。
「何故よ」
怪訝《けげん》そうにディーが早口で訊《き》き返す。
「あの鎧と、兜の飛竜――それにあの声。ありゃあ……」
俺は目を細めた。兜と仮面の隙《すき》間から覗く眼も、明らかに見覚えがある。
隙《すき》を作らぬように、先刻踏みつけた剣を横目で盗み見る。予想通り、一目でそれと判る特徴を持った段平《だんびら》だった。
そしてその持ち主だったエルフは、今は緩《ゆる》く湾曲した鞘《さや》に収めたままの剣を構えて眼前に立っている。
「――間違いねえ」
ディーへの返答としてではなく、己の心に浮かんだ言葉がそのまま口に出た。「あいつはハイランスだ」
俺の呟《つぶや》きとほとんど同時に剣士――捜索隊を率いていたエルフの侍・ハイランスが動いた。鞘を握る左手はほとんど動かさず、柄にかけていた右手が疾風の如くに刀身を引き出す。間合いの遥か先で、親身の片刃剣が閃いた。
何かが飛来したわけではない。だが、ぞっとする殺気の接近に、俺は反射的に頭部を左に逸《そ》らしていた。
ハイランスが再び刀身を収めた時、右頬が浅く切れ、右の耳が割れた。何も見えなかったにもかかわらずに、だ。
生暖かい血が伝う感覚が、恐慌に陥《おちい》りかけた俺の精神を無理矢理平静に引きずり戻した。
気≠フ斬撃を操る侍――それは初めて相対する、居合《いあい》の使い手だった。
気≠ニ気配は、一般にはほぼ同じものとして捉えられている。
生物が発散する存在感――即ち気配とは、呼吸によって生じる生命力の流出を指す。酸素循環の過程で生成される微《かす》かな生体エネルギーが、呼気・吸気の変化に伴い一種の波動となって周囲に伝わるのだ。
侍が呼ぶところの気≠ヘ、これに精神的な要素を加えたと思えばいい。侍以外には到底読み取ることのできない、行動に際して圧縮される気配の変化をも含めたものが気≠ネのだ。
常人でも感じ取れる範囲で言えば、殺気などが良い例だろう。殺意に伴って迸《ほとばし》る強烈な気配はまさしく典型的な気≠フ放出だと言える。
侍はこの気≠、信じ難いほどに鋭敏に察知することができる。基礎修行の段階で仕込まれる独特の精神修養は、連中にほんのわずかな気配の変化から相手の行動を予測する能力を身につけさせるのだ。特に天分に恵まれた侍であれば、あたかも相手の肉体が気≠フ描いた軌跡をなぞっているかに見えるほど正確な予測が可能だという。
そして連中は、この気≠用いた特異な剣術を操る。
通常なら発散するに任せている生体エネルギーを精神によって制御し、その流れを手にした剣に集中させる。刃身に高密度に凝縮された気≠ヘ物理的な破壊力を持つ鋭利な刃と化し、鋼以上の切れ味をもって対象物を斬るのだ。
この気≠フ制御こそが侍の剣技の基礎であり、侍は魂≠ナ敵を斬ると言われる所以《ゆえん》だった。
居合《いあい》とは、この異質な剣技の奥義とも呼べるものだった。刃身に集中させるだけでも相当な精神力を要するところを、さらに切っ先の一点に、瞬間に凝縮することによって気≠フ刃を実際の間合いの外にまで伸ばすのだ。恐ろしく高度な気≠フ制御なくしては不可能な芸当だった。
しかも、この幻の刃は受け流すことができない。並の武具で受ければそれごと相手を断ち割り、それが破壊できぬほど強靭《きょうじん》な鎧であっても不可視のエネルギーは装甲を通過して内部の肉体を切り裂く。実体がないために止めることができないのだ。
単独で闘うとするなら、この剣術を身につけた侍以上に厄介な相手はそうそういないだろう。呪文所有者《スペルユーザー》ならともかく、戦士や俺のように接近戦を挑むしか手のない者にとっては間合いの差が致命的となる。
そして――。
現在俺たちと対峙している剣士は、まさにその最悪の相手だった。
「ジヴ!」
突如として俺の頬と耳が裂けたのを目にし、ディーが驚きと恐怖の混ざった叫びをあげた。俺にしても偶然教わっていたに過ぎないのだから、ディーに居合《いあい》の知識がないのも無理はなかった。
「退《さ》がってろ。あいつの剣は三歩飛び込んだだけ余分に届く。それと――」
兜《かぶと》の下で爛々《らんらん》と光るハイランスの目を睨《にら》みながら俺は続けた。「攻撃呪文は使うな。できれば動きを止めてくれ」
「何ですって」
じりじりと間合いを広げる俺に合わせて後退しながら、ディーは素早く訊《き》き返した。「あれは正気じゃないわよ。ハイランスが相手でも、全力でかからないと――」
「伏せろ!」
叫んだ直後に三度目の居合が横|薙《な》ぎに襲ってきた。ハイランスの踏み込みを読んでいた俺は充分に躰《からだ》を沈めてこれを躱《かわ》したが、咄嗟《とっさ》に伏せることができずに上体を仰け反《ぞ》らせたディーはふわりと残った髪を首の高さで相当数切り落とされる結果となった。
蒼白な貌《かお》でその勢いのまま後退するディーを横目で確認し、俺は視線を正面に戻した。片膝を立て、床に左手を突いた姿勢で右手を懐に入れ、手裏剣を握る。が、思い直してその手を放し、無手のまま引き抜いた。どのみち手裏剣でも気≠フ斬撃を受けることはできない。
それに、俺はハイランスを殺すつもりなどなかった。それどころか、できる限り無傷で取り押さえようと考えていた。と、なれば手裏剣は殺傷力が高過ぎるのだ。
最初の瞬間に抱《いだ》いた、奴が妖獣《ゼノ》に同化されているのではないかという疑念はすでに消えていた。
まず、眼が違う。確かに尋常な目つきではないが、妖獣《ゼノ》に憑かれたアルタリウスに見られた、あの異様な精気を孕《はら》んだ眼でもなかった。
また、エレインとの戦闘を経て、妖獣《ゼノ》は同化した者の意識を我が物として吸収することはできても、呪文などの特殊技能は受け継いでいないという特性が明らかになっていた。知識を複製するに過ぎない妖獣《ゼノ》がこれだけ見事に気≠制御し、居合などという高度な剣術を操れるとは思えない。
ハイランスが何かに精神を支配されているのは明白だった。だが、それが妖獣《ゼノ》でなければ正気を取り戻す可能性もある。
俺は、それに賭けていた。
ハイランスが加われば俺たちの戦闘力は格段に上昇する。そして何よりも、この迷宮に何が起こっているのか、その正確な情報を掴《つか》みたかった。
「奴に効くとは思えねえが援護頼むぜ。俺が斬られたら遠慮はいらねえ、手加減なしで攻撃しろよ」
早口で指示を出し、俺はゆっくりと立ち上がった。
やや猫背の姿勢で脇を締め、両拳を胸の高さに構える。居合の間合いの外周を緩慢《かんまん》な足運びで横に移動しながら、俺はハイランスの懐に飛び込む算段をもう一度|反芻《はんすう》した。
矢継《やつ》ぎ早《ばや》に繰り出してこないところを見ると、居合という剣技はある程度間を置き、身中の気≠高めなければ使えないらしい。俺の計算では、突進中に一度|躱《かわ》すことができれば何とか自分の間合いに踏み込める筈だった。
しかし、問題は必殺の刃をどう避けるか、という点にある。
これまでの居合を躱せたのは、いずれもハイランスが先に仕掛けてきたからにほかならない。紙一重ではあるが、この距離で守勢に徹すれば神速の斬撃にもどうにか反応することができた。
だが、間合いを詰めるとなるとこちらから行動を起こさなければならず、それだけで回避の可能性は大きく減少する。
しかも相手が気≠ゥら肉体の動きを予測する侍だけに、虚を衝《つ》いた行動や幻惑は一切通用しない。
正確に俺の行動を読み、回避不可能な斬撃を繰り出してくるのは火を見るよりも明らかだった。
つまり、どうしても一撃はこの身に受けることになる。
あの切れ味の居合をまともに浴びれば悪くて即死、良くても肉体の一部を切断される羽目になるだろう。治療手段を持たない現状では、それだけで致命傷となりかねない。ハイランスを正気に戻すために呪文攻撃を控え、俺が深手を負ったのでは割りが合わなくなる。
躱《かわ》せないなら、受け止めるしか手はない。では、あらゆる防具を突き抜けるエネルギーの刃をいかにして受けるか。
かつてニンジャマスターから居合の恐ろしさを聞かされて以来、考えていた方法がひとつだけあった。しかし、こんな形で試すことになるとは思ってもみなかった。うまくこなせなければ――あるいはその理論が間違っていたなら、俺の躰《からだ》は骨まで綺麗に両断されることになるのだ。
背後でディーが詠唱を開始した。仮睡《カティノ》――魔術師が最初に修得する第一レベルの呪文のひとつで、生物の脳に強力な催眠作用を及ぼして行動不能とする眠りの魔法だ。原理は異なるが、効果は僧侶系呪文の彫像《マニフォ》に相当する。
こいつが効けば何の危険もなく俺の間合いまで接近できるのだが、正直期待は持てなかった。正気を失っているとは言え、熟達者《マスター》≠ノ達した侍が仮睡《カティノ》程度で易々《やすやす》と眠りに落ちるわけがない。効いてくれればめっけものといったところだ。
催眠波がハイランスの周囲を包んだ瞬間に、俺は外周の移動から一転して居合の間合いに踏み込んだ。並の相手なら完全に意表を衝《つ》く絶妙のタイミングだった。
だが、予想通り仮睡《カティノ》を退《しりぞ》けたハイランスは俺の突進に的確に反応した。
自刃が鞘《さや》から滑り出す刹那《せつな》、俺はその太刀筋を読み取った。ほぼ垂直に近い角度で引き抜かれた片刃剣は、俺の左肩口めがけて袈裟《けさ》がけに振り下ろされる。回避は不可能。
見えない気≠フ刃が、しかし全身を粟《あわ》立たせるほどの殺気となって迫る。狙われた肩口が高熱を帯びたように感じられる。斬られれば左肩から右膝までを切断され、即死。
装束が切り裂かれ、致命の斬撃が肉に食い込む、その瞬間――。
気合いとともに、俺はその一点に全神経を集中させた。
五分の閉息を止められる肺活量を最大に活かし、酸素の供給によって爆発的に膨《ふく》れ上がった俺の体内の気≠ェこの時左肩の一点に凝縮された。
肩を、鈍器で殴られたような衝撃が襲った。が、構わずに突進する。
気≠フ刃は霧散していた。
あらゆるものを斬り、または透過する気≠止めることができるのは同じ気≠オかない。俺は気≠フ鎧を纏《まと》うことでその刃を受け止めていた。
問題は線のレベルにまで制御された気≠フ刃を、せいぜい面程度にしか集中できぬ気≠ナ防げるかどうかだった。エネルギーの密度に差があり過ぎれば気≠フ鎧といえども容易に切り裂かれてしまう。
それを克服するために、俺は生成される気≠フ総量自体を呼吸法によって増大させたのだ。
床すれすれにまで剣が振り下ろされた時には、俺はすでに自分の間合いに入り込んでいた。刃を返し、今度は直接斬り上げようとするその片刃剣を横から蹴り弾く。
太刀を逸《そ》らされ慌てて身を引くその動きより迅《はや》く、俺はハイランスの懐に飛び込んだ。居合《いあい》を打ち破られた驚愕に、狂気に憑かれた眼が大きく見開かれる。
息がかかるほどの至近距離で、俺は躰《からだ》を思い切り沈み込ませた。一瞬、俺の姿はハイランスの視界から消失する。
下から撃ち抜くように、無防備な顎《あご》に右の掌底《しょうてい》を叩き込んだ。全身のバネを使った容赦のない打撃に仮面が跳ね飛び、ハイランスの躰《からだ》が宙に浮く。
背中から床に叩きつけられた時、エルフには不似合いな口|髭《ひげ》をたくわえた侍はすでに意識を失っていた。
ハイランスが白目を剥《む》いているのを確認し、俺はようやく溜め込んでいた息を吐き出した。緊張が解けるにつれ、居合を受け止めた左肩に鈍い痛みが蘇る。装束の切れ目から覗いたその部分は広く痣《あざ》になり、中央には縦にうっすらと血の線が滲《にじ》んでいた。
気≠フ斬撃のエネルギーを物語る凄まじい打撃痕だった。
「ジヴ! 怪我は?」
「まあ、こんなもんだ。だが、もう二度とやりたくねえな」
駆けつけてきたディーに打撲傷を見せ、俺は足下に転がっている片刃剣を軽く蹴り飛ばした。手元から剣を離しておけば、いかに居合を操る侍といえども無手同士では忍者の敵ではない。
剣は石床を転がり、先刻ハイランスの顔から外れた仮面にぶつかって動きを止めた。
「今ので正気に戻ってくれてりゃいいんだけどよ」
鎧の胸元を掴《つか》んでハイランスを引き起こす。唇の端に血の抱が滲んでいたが、あの一撃でも顎の骨や歯は折れずに済んだらしい。エルフにしては造りの頑丈な奴だ。
手早く鎧を脱がせ、俺は背後に回った。両肩に手をかけ、膝を当てて活《かつ》を入れる。
「ぐっ」
くぐもった呻《うめ》きを漏らし、ハイランスは息を吹き返した。
暴れだす危険を考えて、俺は両腕を後ろ手にねじ上げている。頭の中の靄《もや》を払うように首を振り、ハイランスは正面に立つディーを、そして首を巡らせて背後の俺を見上げた。
「……ディー? 痛て……ジヴ、何してるんだ……」
顎と腕の痛みに顔を顰《しか》めながら、まだぼんやりとした表情で呟《つぶや》く。だが、すでに双眸から狂気じみた色は消えていた。
「正気みたいね」
「ちょいと混乱してるようだがな」
俺とディーは警戒を解いた。
たっぷり一呼吸を置いて、座ったまま自由になった腕で顎をさすっていたハイランスが唐突に跳ね起きた。
「ジヴ? ディー? どういうことだ? どうしておまえたちがここに――?」
「何にも覚えちゃいねえってわけか」
掴《つか》みかからんばかりの勢いで迫るハイランスを押し止め、俺たちは手短に状況を説明した。妖獣《ゼノ》のリルガミン襲撃から梯子山《スケイル》登攀《とうはん》に至るまでを聞くうちに、その表情は冒険者きっての戦術家と謳《うた》われた男のそれに変わっていく。
「――迷惑をかけちまったようだな」
居合《いあい》による俺の打撲傷に目をやりながら、ほぼ現状を把握したハイランスは言った。
「あの化物――妖獣《ゼノ》って言ったか――あれに憑かれてる可能性を考えれば、呪文で灼《や》き殺されてでも文句の言えないところだったからな。ぶん殴られた程度で済んで……痛て」
顎をさすり、奥歯に指で触れる。「かあっ、軒並みぐらついてやがる。やっぱりやり過ぎだぜ。手加減しろよ、ジヴ」
「何言ってやがる」
涙を滲《にじ》ませて訴える髭《ひげ》のエルフに、俺とディーは思わず噴き出した。常に緊張に晒《さら》される迷宮で士気を持続させるには、時折こうして肩の力を抜いておくのが極めて重要となる。さりげなくパーティの緊張をほぐす手腕もハイランスの強みのひとつだった。
「それにしても、大破壊《カタストロフィ》か――宝珠の探索が無駄骨だったってのは何ともやりきれんな。最後の最後に仲間がこれだけくたばっちまうとなおさらだ」
「捜索隊の連中も、妖獣《ゼノ》に――?」
「ああ」
ディーの問いに、ハイランスは淡々と答えた。「奇襲を受けて、あっと言う間だった。サーベイたちのパーティは何人か逃げ延びたようだったが、後は全滅だな。俺もどうやって逃れたのか良く覚えちゃいない」
仕方がないという風に肩を竦《すく》めてみせたが、そのポーズとは裏腹にエルフの瞳にはマイノスと同種の光が宿っていることに俺は気づいていた。仲間を無惨に同化していく妖獣《ゼノ》への、激しい嫌悪と憎悪の念――マイノスとの違いはそれを露《あらわ》にしないことだけだった。
ハイランスは続けた。
「最後の記憶は……そうだ、転がってた妙な剣を拾って……そいつを鞘《さや》から抜いた途端に、刀身に吸い込まれるように意識が遠|退《の》いた。あの剣は――?」
「あそこだ」
俺は顎《あご》でさっき蹴り飛ばした片刃剣を指し示した。「手に取ったりするなよ。また憑かれたらたまったもんじゃ――」
続く言葉を俺は呑《の》み込んだ。視線の先に、存在しなかった筈のものを見たからだ。
剣と仮面が転がるその場所に、東方風の鎧装束に身を包んだ男がいた。
いる、という表現は適切ではないかも知れない。半ば透き通り、陽炎《かげろう》のように揺らめくその姿は明らかに実体ではなかった。
幻影の男は人間族《ヒューマン》らしく、相当に歳老いて見えた。顔には深い皺《しわ》が幾筋も刻み込まれ、後頭部でまとめて結い上げた髪ばかりか、ハイランスとは比較にならぬほど立派にたくわえた口|髭《ひげ》も雪のように白い。
庇《ひさし》のように迫り出した眉もまた白く、その下から凪の湖面のように穏やかだが鋭い光を放つ双眸が覗いていた。その眼光は真っ直ぐに俺に向けられている。
「亡霊《ゴースト》?」
「まだ呪文はいい」
すぐにでも詠唱を始められるよう身構えるディーを俺は制した。水平に構えた右腕にはすでに手裏剣を握っている。今度は手加減の必要はなかった。
「気をつけろ」
ハイランスが囁《ささや》いた。「意識が消える瞬間にあいつが見えた。俺に憑いてたのは間違いなくあれだ」
「侍の――老将の霊ってところか」
俺は無造作に、しかし並の人間には真似のできない雷速の足運びで一歩間合いを詰めた。これで次の動作と同時に攻撃できる距離になる。霊体ならば呼吸はなく、生者に憑かない限り間合いを越えた気≠フ斬撃は繰り出せないと踏んでいた。
その時、侍将の霊は深々と頭を下げた。呆気に取られる俺の耳に、外見よりも張りのある低い声が届く。
最前の御無礼、深くお詫《わ》び申し上げる
侍は頭を上げた。もはや害意はござらん
「あんたは――」
拙者《せっしゃ》ミフネと申す。龍神ル‘ケブレスの命により、迷宮最上層の警護を司る者
霊の言葉に呼応するように、剥《む》き出しの刀身が足下で白く光った。
「最上層の守護者が、どうしてこんなところにいる。それにどのみち俺たちは侵入者あんたにとっちゃ敵じゃねえのか」
迷宮内の秩序に狂いが生じているのではないかという疑念が確信に変わるのを感じながら、俺はそう訊《たず》ねた。
貴公が疑うのも無理はない
ミフネと名乗る侍将の霊体は頷《うなず》いた。拙者自身かような姿ではな。その疑念を晴らすためにもしばらく貴公らと話をしたいのだが、よろしいか?
「憑かなきゃ、いいぜ」
ミフネの目が細くなった。どうやら笑っているらしい。
憑きたくとも、もうこの刀を握ってはくれまい? それに、あのように居合《いあい》を破られたのは初めてのことだ。もう一度やっても勝てまいよ
少なくとも手に取らぬ限り、あの片刃剣――刀と呼ぶらしい――とミフネに害はないようだった。用心のため手裏剣を二、三度右手の上で弄《もてあそ》び、隙《すき》を造ってみせたが何かを仕掛けてくる様子もない。
俺は手裏剣を懐に戻した。
「それで、害意がないってのはどういうこった?」
すでに貴公らリルガミンの冒険者はル‘ケブレスの課したすべての試練を突破し、善《グッド》と悪《イビル》の戒律を越えた協力の証をもって神秘の宝珠を手に入れた。さすればもはや我ら迷宮の守護者に貴公らの力を試す謂《いわ》れはなく、徒《いたずら》に戦いを挑む必要もあるまい
「なるほどね。理屈は通ってるわ」
ディーが口を挟んだ。「でも、それじゃどうしてあんたは、ハイランスに取り憑いてあたしたちを襲ったのかしら。もう宝珠が奪われたことは知っていたんでしょ?」
それについては詫《わ》びるほかない。そこの若武者――ハイランス殿の精神力が強過ぎて拙者の意識に干渉し、冷静な判断力を失っておったのだ。貴公らふたりがあの不浄の化物どもに同化されているとばかり思い込んでおった
「待て。化物だと?」
俺は叫んでいた。「同化って言ったな?」
「妖獣《ゼノ》――あたしたちがそう呼んでる、あの肉腫《にくしゅ》のような生物のこと?」
左様。ゼノとはまた、うまい呼び名もあったものよ
後を継いだディーに、ミフネは感嘆した口調で肯定した。
「その妖獣《ゼノ》に俺たちが憑かれていると勘違いしたとして、何故あんたが斬らなきゃならねえんだ? あれもこの迷宮に召喚された魔物のひとつなんだろ。あんたにとっちゃ共存しなきゃならねえ仲間じゃねえのか」
嘆《なけ》かわしきことよ
老将は天を振り仰いだ。我ら誇り高さ守護者が、あのように呪わしく穢《けが》らわしい化物と同列に語られようとは――
「違うってのか」
あれはル‘ケブレスが召喚したものではない。さりとて、この大地に涌いたものでもない
ミフネの片腕が頭上を指した。
「――?」
あれはな、天から来たものよ
「天?」
もうかれこれ一年あまりも前のことになろうか。その夜、小さな流星がひとつこの山の頂《いただき》に降ってきた
「――聞いたことがあるな」
ハイランスが髭《ひげ》をしごきながら言った。「俺たち冒険者がリルガミンに呼ばれるよりも前の話だ。星が落ちた夜にスケイルの頂上が赤く光るのを見た奴が何人かいたらしい。その直後にアルビシアの植民島が津波で潰れたってこともあって、不善な兆しだって一時は大変な騒ぎになったそうだ」
「その、流れ星が――?」
あの化物――拙者も妖獣《ゼノ》と呼ばせてもらうが、彼奴《あやつ》らはその流星とともに堕《お》ちてきたのだ
「本当かしら?」
ディーは懐疑的な口調だった。「流れ星は大地に落ちてくる際に松明《たいまつ》のように燃えるっていうわ。それに、最後は凄い勢いで地面に衝突することになるのよ。いくら爆炎《ティルトウェイト》を受けても生き延びる化物だって、そんなものに張りついていられるとは思えないわ」
張りついていたのではなく、乗っていたと言うべきだろう
ミフネは続けた。火口に落ちながらも、運良く途中で止まった隕石の内側から妖獣《ゼノ》どもは這い出してきた。中に潜り込んでいたがために、熱からも衝撃からも護《まも》られたのであろうよ
「天より堕ちた化物か――」
俺は呟《つぶや》いた。しかし天とは何なのだ? 太陽と月、そして星々の浮かぶ天空に、あのようなものが棲む世界が存在しているのだろうか? おぞましい天上世界の想像から、俺は思考を引き戻した。
「そいつは信じよう。で、奴らはあんたがた迷宮の護衛と敵対してるのか」
いかにも
苦々しげに答え、ミフネは白い眉を寄せた。拙者直属の侍衆は皆、妖獣《ゼノ》どもの餌食《えじき》とされた。拙者の肉体も同化されかけ、意識を喰われる前にこうして刀と面に精神だけを逃したのだ
「けどよ、それならル‘ケブレスが妖獣《ゼノ》を放っちゃおかねえんじゃねえのか」
この問いに、老将の霊は目を閉じ、かぶりを振った。
――ル‘ケブレスは力を失ってしまわれた。健在であればあのような不浄の化物の勝手など決して許されぬものを
「何だと?」
もはや龍神ル‘ケブレスにこの迷宮を支配する力はないのだ。そもそも貴公ら悪《イビル》の戒律の冒険者がこの第四層に入り込めたのも、すべてはル‘ケブレスの力の喪失に伴い結界が消失したからであろうよ
俺たちは揃って言葉を失っていた。
混乱した頭の中で、しかしだからこそ説明のつけられる異状の数々が渦を巻いた。羽虫に襲われる巨鳥ロックや、ゴブリンを啖《くら》う黒竜《ブラックドラゴン》、生物の姿が極端に減った迷宮……。
「待ってくれ」
半ば納得しながらも、あまりの衝撃に俺は懸命に否定しようとした。が、ようやく吐き出した言葉もル‘ケブレスの失墜を否定できる類《たぐい》のものではなく、苦し紛《まぎ》れの粗《あら》探しに過ぎなかった。
「あんたの話じゃ妖獣《ゼノ》が現れたのは一年も前だ。その間に何とでもできた等じゃないのか」
つい先頃まで彼奴《あやつ》らは極めておとなしい、臆病とすら見える生物を装っておった。常に物陰に隠れ、小動物を捕食する以外は決して争いを起こさぬ。だからこそル‘ケブレスも最上層での棲息を許されたのだが、その力が失われると同時に彼奴らは本性を剥《む》き出しにした。それが今より二日ほど前、ちょうど貴公らの仲間が宝珠を手にしたとの報《しら》せを受けた直後のことよ
「――」
ル‘ケブレスは残された神通力を用い、召喚した魔物や護衛を可能な限り元の土地へ送還なされた。しかしそこで力尽き、今では拙者の呼びかけにも応《こた》える気配はない――
短い沈黙を挟んで、ディーが口を開いた。
「――それじゃ、あの黒竜は帰し損《そこ》なったってわけね」
黒竜?
ミフネの目が見開かれた。そのように剣呑《けんのん》な邪竜は一匹たりとも召喚されてはおらぬ
「おいおい、あんなのが勝手に入り込んだって言うのかよ。それもこの第四層にだぜ――」
言いながら、俺の脳裏に明確な、不吉な解答が浮かび上がった。
ミフネが嘘を吐《つ》く理由はない。そして黒竜の巨体が強力な召喚魔法なしにこの閉鎖された迷宮に入り込める筈もない。
ならば答はひとつ。
何者かが勝手に魔物を召喚しておるというのか――馬鹿な
しかし、そうとしか考えられなかった。
不意にハイランスたち捜索隊が出発前、ガッシュたちの位置を探魂《カンディ》の呪文で念視できなかった一件が思い出された。ル‘ケブレスの結界は消えていたにもかかわらず、だ。
新たに魔物が召喚され、別の魔法結界が張り巡らされている――即ち、ル‘ケブレスの後に梯子山《スケイル》の支配者に収まっている者が存在するということになる。それも、黒竜のように邪悪な生物を呼び寄せる何者かが。
ディーもハイランスも、この事態に気づいたようだった。底知れぬ悪寒に俺たちは慄然《りつぜん》とした。
と、ミフネの姿が急速に薄れ始めた。
「どうした」
そろそろ限界らしい。強力な魔導師の転生術とは異なり、精神力だけで魂を武具に縛り付けておるのでな。成仏せねばならぬようだわ
「消えちまうってことか」
うむ。元々この通り老いさらばえ、死期が近づいておったがゆえに現世に未練はないが、せめて妖獣《ゼノ》どもを一匹でも斃《たお》しでやろうと年甲斐もなく足掻《あが》いてしもうたわ。ハイランス殿、重ねて済まぬ
再び下げるその頭も、今にも消え入りそうにゆらゆらと揺れた。
「いや、仲間を妖獣《ゼノ》に殺された口惜しさは私にも判り申す」
源流を同じくする侍の最期に、改まった口調でハイランスは言った。「代わりに一太刀なりとも彼奴《あやつ》らに馳走してやりましょう。成仏なされよ」
ありがたい
微笑むミフネは、もはや限りなく透明に近かった。霧散するガスのように、霊体が拡散していく。
この刀、形見として受け取って下さらぬか。|達人の刀《マスターカタナ》と呼ばれるもので、拙者が消えれば憑かれるような害はござらん。貴公なら、いずれ拙者以上に使いこなすこともできましょうぞ
「頂戴《ちょうだい》いたす。必ずやその太刀で、妖獣《ゼノ》を屠《ほふ》ってご覧にいれる」
あの世で楽しみに待つとしましょう。さらば――
刀の傍《かたわ》らに転がる武者の面が音を立てて割れた。それを最後に、侍将ミフネの霊はこの世界から解き放たれた。
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第七章 煉獄《れんごく》編
緩《ゆる》やか螺旋《らせん》を描いた長い階段を、俺たちは細心の注意を払いながら昇り続けていた。
迷宮最上層への道――つまり第四層と第六層とを結ぶこの階段は、平行距離と上昇高度がほぼ等しくなる急角度を均一に保っている。上を目指す俺たちにとっては効率が良いわけだが、昇り始めてからかなりの時間が経過したにもかかわらず最上層の出口に到達する気配はない。
それも無理からぬところだった。
階段が繋《つな》いでいるふたつの層の高低差は、推定でおよそ三百メートルを越える計算になる。段を斜面として考えても直線距離で五百メートルを下らない、並の階段とは比べものにならぬ規模なのだ。
無論、俺だけなら駆け上がっても苦になる距離じゃあない。急な昇りだろうと、垂壁|登攀《とうはん》を考えれば楽なものだ。
しかし、その魔力を得るために体力面を犠牲にする魔術師にとって、この階段の長さと角度は少々荷が勝ち過ぎる。ディーの体力を消耗させぬよう、俺とハイランスがペースを合わせる必要があった。
それに、焦《あせ》りは禁物《きんもつ》だった。
第六層に関して、俺たちは何ら知識を持っていない。落とし穴などの罠の有無さえ判らぬまま駆け回っては、自ら窮地に飛び込む羽目になるのは目に見えている。
しかもこの迷宮はもはやル‘ケブレスの統制下になく、何らかの存在が支配者になり代わって新たな護衛――それもとびきり邪悪な魔物を召喚している節がある。黒竜《ブラックドラゴン》一匹を見ただけでそれと決めつけるのは早計だが、真実なら迷宮内は以前より敵対的になっていると考えられた。
この階段に何かが潜んでいても不思議はなかった。これまでにリルガミンの冒険者が階段の昇降中に護衛の類《たぐい》と遭遇した例はなかったが、それはあくまでル‘ケブレスの定めた秩序によるものらしい。特に妖獣《ゼノ》の奇襲には用心しなければならなかった。
何とか三人が並んで歩ける幅の石段を、俺とディーが前列、数段遅れたハイランスが後方を守る配置で進んでいく。速度に余裕があるだけ、俺とハイランスは周囲の気配に神経を集中させることができた。
助力を頼むまでもなく、ハイランスは俺たちと組んで最上層へ向かう提案を承諾《しょうだく》した。
もしこの男がリルガミン市への帰還を望んだなら、あるいは俺たちとの間で諍《いさか》いが生じていたかも知れない。梯子山《スケイル》の外部に脱出するにはディーの転移《マロール》を使うしかなく、ハイランスが強硬に主張した場合その場ですんなり別れられる筈もないからだ。
だが、俺がガッシュたちを探索するのと同様に、ハイランスもまた最上層へ赴《おもむ》く理由があった。
ひとつはマイノスと同じく、仲間を惨殺した妖獣《ゼノ》どもへの報復だった。殊《こと》に自らの指揮で出発した捜索隊三パーティの壊滅は、この戦術家にとって耐え難い屈辱だったのだろう。
そしてまた、譲り渡された形見の刀で妖獣《ゼノ》を斬るとの、ミフネと交わした誓いがある。自分に憑依した亡霊との誓約とは何とも奇妙だが、ハイランスを含めて侍という奴らは俺にはどうにも理解し難い世界観――美意識とでも言うのか――を持っているらしく、奴|曰《いわ》く仇討《あだう》ちの誓いを果たせぬ輩《やから》は侍の風上にもおけぬと言われるのだそうだ。いずれにしても、ハイランスの同行にミフネの働きがあるなら、肩の打撲傷も受けた甲斐があったというものだ。
あの|達人の刀《マスターカタナ》とやらをハイランスが拾い上げた時には再び憑依されるのではないかと警戒したが、どうやらミフネは本当に成仏したようだった。
「ジヴ」
その刀を腰に下げたハイランスが、呟《つぶや》きのように微《かす》かな声で呼びかけてきた。俺の聴覚でやっと聴き取れるほどの囁《ささや》きだ。事実、傍《かたわら》らのディーは全く気づいていない。
次の瞬間、俺もその呼びかけの理由を悟った。
後方から、何かが階段を駆け上がる音が届いたのだ。まだかなり下にいるようだが、そいつの二本足はその距離をあっという間に縮めてしまいそうなピッチで規則的に石段を叩いている。
音が伝わるよりも、気≠察知するのがわずかに早かったようだ。階段を昇るという指向性を持った気≠セけに進行方向に届き易《やす》いらしいが、それにしても気配に対するハイランスの鋭敏さには驚嘆すべきものがある。
いや、熟達者《マスター》≠フ侍とは言え、以前のハイランスはこれだけ離れた相手の気配を読むほど気≠フ制御に長《た》けてはいなかった筈だ。これは根拠のない推論だが、居合いあいを使いこなすほどの気≠フ達人ミフネに憑依されたことが呼び水となって、こいつの中に眠っていた才能が一気に開花したのかも知れなかった。
俺は足を止めた。ディーにとっては唐突だったが、ここでわざわざ口に出して問いかけるような素人ではない。黙って立ち止まり、目で問いながら自分も周囲の気配を探る。
その手を取り、俺がかざしていた発光瓶を握らせた。光を隠せ――即ち敵が近いとの無言の合図だ。
頷《うなず》くディーを照らしたのを最後に、青白い光源は掌《てのひら》に没した。漆黒が視界を瞬時に塗り込める。
同時に俺は数段降り、ハイランスの耳元で囁いた。
「ここじゃ刀は使い難いだろ。俺が殺《や》る」
「任せよう」
肩の打撲を気|遣《づか》うように軽く触れ、ハイランスは言った。「やけに迅《はや》いぞ。気配からして小柄な図体だ」
「へ」
心配性め、と言葉にせずに続け、俺はさらに数歩階段を下った。何も見えなかったが足下に不安はない。
壁面にもたれるように躰《からだ》を横に構える。左足を軸に、右は一段高い位置に軽く乗せた。奴が軸足の段に到達した瞬間に右の回し蹴りをぶち込む寸法だ。
呼吸を止め、気配を殺す。ハイランス並に気≠ノ敏感な侍ならともかく、それ以外の相手にこの隠行《おんぎょう》は看破できない。暗闇から襲う蹴撃を躱《かわ》す術《すペ》もまた存在しないのだ。
足音が急速に近づいてきた。確かに軽く、体格も小柄そうな音がリズミカルに響く。二本足でこの速度なら小型の亜人種《デミ・ヒューマン》だろうか。
下方に、ぼんやりとした光が見えた。階段が曲がっているせいでまだ直接は見えないが、そいつの手にした明かりが周囲の壁を淡く照らしているらしい。
その光が、俺の奇襲を妨《さまた》げることになるか――答は否だ。
ただでさえ暗闇で視認しづらい忍者装束を着込んでいるうえに、気配を絶《た》った今の俺は石壁と一体になっていると言ってもいい。せいぜい松明《たいまつ》か携帯ランプ程度の灯火では、俺を正面から見|据《す》えたとしても人間と気づかないだろう。
逆にその明かりが、自らの位置を正確に示すことになる。
己の足で死に近づきつつあるとも知らず、そいつは遂にランプの黄色い光を直視できる位置まで昇ってきた。俺の潜む場所まであと十数段しかない。
正面にのみ投光するよう遮光板で覆われた携帯ランプは、それを手にするものの姿を浮かび上がらせてはくれない。だが、かざした高さからそいつはやはりかなり小柄な体格だと知れた。せいぜいノームかホビットほどの体格しかなさそうだ。
その瞬間に備え、俺はそいつの首の高さに合わせた蹴りの軌跡を思い描いた。決まれば頚骨《けいこつ》は微塵《みじん》に砕け、脳と全身を繋《つな》ぐ中枢神経が瞬時に断裂する。人型の生物なら確実に即死する致命打撃だ。
残り十段を切った。そいつに残された生命はあと数秒――。
そこで、階段が揺れた。
「ひゃっ」
叫び、そいつは立ち止まった。
地震だった。駆けていでも判るほどの揺れで、壁のあちこちで剥《は》がれ落ちた石片が階段を転がる音がばらばらと響く。が、震動は一瞬だった。
俺はすでに攻撃姿勢を解いていた。
「やだなあ。こんな場所で地震なんて……」
そいつは独り言を続けた。一年の間聞き慣れた、陽気なホビットの声。
「フレイ!」
「わあっ!」
壁から突然呼びかけられ、そいつは階段を転げ落ちそうになった。バランスを取ろうと腕を振り回し、ランプが仰天した顔を照らす。
揺らめく光に浮かび上がったのは、間違いようがないほど見慣れた仲間の顔――ホビットの冒険者フレイの童顔だった。
「フレイだって?」
背後からハイランスが駆け降りてきた。
「おう、確かにフレイだ」
「見たところ妖獣《ゼノ》に憑かれちゃいねえようだが、どうだ?」
気配は、という意味で俺は訊《たず》ねた。妖獣《ゼノ》がいかに完全に同化しようとも、滲《にじ》み出る気≠セけは誤魔化しようがない。
ハイランスは首を縦に振った。
「おかしな気配はないな。混じりっ気なしのフレイだ」
「フレイだったの?」
ディーも降りてきて、隠していた発光瓶をかざした。青白い光が広がり、俺たち三人の姿を包み込む。
それでようやく、フレイは何が起こったのかを認識したようだった。仰天して真ん丸になった目をさらに見開き、ホビットはほとんど悲鳴に近い声で叫んだ。
「ジヴ? ディー? ハイランス? ええっ?」
猛然と階段を駆け上がり、俺の腹や腿《もも》をばんばんと叩く。
「幻じゃないや。じゃあ、助けに来てくれたの? でも、どこから中に入ったのさ? いや、それよりもどうして悪《イビル》のふたりがこの階段に――」
「まあ、落ち着け」
俺は腰を下ろし、フレイと目の高さを合わせた。
「状況を説明するとちょいと長くなる。その前に答えろ。おまえひとりか?」
「うん」
「ガッシュとボルフォフはどうした?」
「最上層の玄室に隠れてるよ。ボルフォフが怪我してる。動けそうにないから、助けを呼びに僕が独りで戻ることになったんだ」
「そうか」俺は心の中で安堵《あんど》の溜め息を漏らしていた。
「まだ無事なんだな」
「でも、最上層を抜けるのに随分迷っちゃったから――お腹の空き具合から考えて別れてからもう丸一日は過ぎちゃってるよ」
「生きてるさ」
不安そうなフレイに俺は断言した。
ガッシュが生き延びていると信じてはいたが、正直なところ妖獣《ゼノ》の最初の襲撃を躱《かわ》せたかどうかに不安があった。何の知識も持たぬままにあの化物の奇襲を受けては、さしもの超戦士もエレインやアルタリウス同様対処の間もなく餌食《えじき》となっていて不思議はない。
だが、一度その存在を認識すれば、再び襲撃されてもあいつならどうとでも切り抜けられる筈だ。
深手を負っているらしいボルフォフにしても、いざとなればそれを克服するだけの精神力とタフさを備えている。どんな苦境に立っても、他人の足|枷《かせ》になるような男ではなかった。
俺たちとフレイは素早くお互いの情報を交換した。
フレイは救援の要請に単独で第一層まで降り、しかし出口が塞《ふさ》がっていたため途方に暮れて戻ってきたところだった。話によると地底湖の天蓋《てんがい》に当たる第二層の床が崩壊し、大規模な落盤となっているらしい。
そこで、フレイはふたりのエルフの屍《しかばね》を目撃していた。
ひとつは僧侶サーベイのものだった。全身の皮膚が白く溶け崩れ、半ば白骨化していたという。無論、黒竜《ブラックドラゴン》の仕業に遠いなかった。
そしてもう一体――侍バルザックスの屍は、さらに惨《むご》たらしい有り様だったとフレイは眉を顰《ひそ》めて語った。
どれほどの圧力を加えれば、人の肉体がそれだけ変形するのか。思わずそんな興味を招いてしまうほどに、その骸《むくろ》は紙のように薄く潰されていた。着込んでいた鎧でが綺麗にひしゃげ、頭蓋《ずがい》は巨大な金槌《かなづち》を振り下ろしたかの如くに砕けていたそうだ。
黒竜の巨体なら、そのように踏み殺すこともできるだろう。すぐ傍《そば》でサーベイがブレスで灼《や》かれているのだから、バルザックスもあの邪竜に潰されたと考えるのが自然だった。
だが、直感が違うと告げていた。
黒竜とは別種の、打撃による破壊力に秀でた怪物――あくまでも勘に過ぎなかったが、俺はそんな魔物の存在をほぼ確信していた。
一方のフレイは、俺たちの情報――特に大破壊の件を聞かされても、さほど取り乱した様子はなかった。外見は人間族《ヒューマン》の子供のようでも立派なホビットの青年であり、冒険者として宝珠探索に加わるだけの胆力の持ち主なのだ。
「やっぱり死ぬのは怖いけどね」
四人に増えたパーティで再び階段を昇り始めてから、先頭を切るフレイは言葉とは裏腹に陽気な調子で言った。「魂が躰《からだ》から離れている間のことは良く覚えてないんだけど、生き返ってみるともう二度とあっちには行きたくないって思うんだ。これ、前にも話したっけ?」
フレイはかつて、梯子山《スケイル》探索の初期に二度の死を経験していた。いずれもカント寺院の還魂呪法と持ち前の強運によって蘇生に成功したが、それでも死に対して慣れるということはないらしい。
幸いにも今日まで死を免《まぬが》れてきた俺には漠然としか理解できないが、戦闘に不向きな盗賊のフレイが格闘技術にこだわったのも、できる限り死から遠ざかろうという思いがあったからなのだろう。生遠の可能性があるにせよ、死は充分に恐ろしいものだった。
「でもさ、この世界が滅びちゃうんじゃ、じたばたしたってしょうがないよねえ。まあ、最後に一杯くらい欲しいけどさ」
無類の酒好きのホビットは恨めしそうに呟《つぶや》いた。「こんなことならもっと飲んどきゃ良かった。ジヴから一本取るまでは我慢って、願掛けてたんだけど」
生き死によりも一杯の酒に想いを馳《は》せるフレイの開き直りっぷりに、俺たちは半ば呆れて笑った。
リルガミン市民がこんな奴ばかりなら、五賢者も大破壊《カタストロフィ》の件に箝口令《かんこうれい》を敷く必要などないのだが。
「ところで、最上層の案内は任せて大丈夫なんだろうな」
「信用ないなあ」
いかにも心外だ、という風にフレイは口を尖《とが》らせた。
「えらく迷ったって言ってたじゃねえか」
「そりゃそうだけどさ、初めて通った道なんだから迷うも何もないじゃない。そのぶん正しい道筋はばっちり頭の中に入ってるよ。転移《マロール》が使えるんなら、直接玄室に飛べるくらい正確に指示できるさ」
第六層に突入する際に、留意しなければならないのがその点だった。
マイノスからも聞いていたことだが、どうやら最上層には転移《マロール》によるテレポートを封じる魔法障壁が張り巡らされているらしかった。しかも最上層への実体化のみならず、そこから他層もしくは迷宮外への脱出も効かない強力な結界だ。
本来ならガッシュ、マイノスたちのパーティは、神秘の宝珠を入手した時点でエレインの転移《マロール》で迷宮入口まで脱出して然《しか》るべきだった。だが、この結界のお陰でそれが適《かな》わず、結果として妖獣《ゼノ》の奇襲を受ける羽目になった。
恐らくはこれも、ル‘ケブレスが支配力を失った後に施《ほどこ》された結界のひとつだと俺は睨《にら》んでいた。
ミフネの言葉によれば、ル‘ケブレスは宝珠を手にした者に対してそれ以上の試練を課すつもりはなかったらしい。と、するなら、最上層だけに脱出すら阻《はば》む転移《マロール》封じの結界を敷くとは考え難い。
これは即ち、戦闘時の緊急離脱に転移《マロール》が使えないことを意味する。
通常|転移《マロール》は術者が現在位置と実体化する先の空間の相対座標を正確にイメージして行うものだが、乱戦中に座標指定なしで用いて迷宮内のどこかにランダムテレポートする使用法も存在する。よほどの事態でなければこんな危なっかしい真似はしないものの、例えば全滅の危機に見舞われた場合などには極めて有効な逃走手段となるのだ。
しかしこれから足を踏み入れる最上層では、この確実な戦闘離脱が全く使用できなくなる。もっともディーが転移《マロール》を覚えてこのかた俺たちがこんな事を使うほどの窮地に追い込まれたことなどなかったのだが、ハイランス、フレイが加わったとは言え戦力的にまだ不安の残る現状では肝に命じておく必要があった。
「もうすぐ、着く筈だよ」
これまでより幾分声を落としてフレイが呟《つぶや》いた。
前方では、階段の螺旋《らせん》が急速にきつくなっていく。
それから三十段と昇らぬうちに、俺たちは終点へと到着した。
階段の出口――そこは小さな玄室状になっていた。俺とフレイが先行し、敵の有無を確かめる。静寂に満ちた小部屋に、四人は音もなく滑り込んだ。
ただひとつの扉を俺が指差す。ハイランスが向こう側の気配を探るためそろりと近づいた。
一分近く扉に張りついた末、ハイランスは首を傾げながら戻ってきた。
「どうだ」
「判らん」
眉根を寄せ、困惑した表情でハイランスは応《こた》えた。「はっきりとした気配は感じられないんだがな。こいつは例の転移《マロール》封じの結界のせいかも知れんが、どうも重苦しい気≠ェ漂っているように思える。どうする?」
扉を開けるか、それとも退《しりぞ》くか――選択を迫るというより、むしろ確認に近い問いだった。
「戻るつもりはねえ。ボルフォフの具合も気にかかるし、様子見ってわけにもいかねえだろう」
「選択の余地なしって奴か。こういう状況ってのは好みじゃないんだがね」
髭《ひげ》を引っ張りながら、ハイランスは肩を竦《すく》めた。
俺たちは隊列を整えた。俺とハイランス、そしてフレイまでが前衛となり、肉弾戦に弱いディーを護《まも》る形になる。
「いよいよジヴとの訓練の成果が試せそうだね」
これまでは後衛としてほとんど使う機会のなかった|+《プラス》2クラスの短剣を引き抜き、頭上に突き上げるポーズをとってフレイが言った。虚勢ではなく嬉々《きき》としているあたり、盗賊にしておくには惜しいくそ度胸がある。
「無茶はするんじゃねえぞ。ザザたちと合流するまでは治療回復ができねえんだ。くたばりでもすりゃ、出会うまでに腐っちまうかも知れねえ」
腐敗の進行した肉体には、もはや再び魂を呼び戻すことはできなくなる。ザザとマイノスのいない現状では、心臓の停止はそのまま消滅《ロスト》に繋《つな》がる可能性が大きかった。
「脅かさないでよ」
掲げた短剣を心なしか引っ込め、ホビットは身震いして見せた。「みんなと合流できたら、できればリルガミンに戻って一杯やりたいんだからさ」
「まだ言ってやがる」
俺は腰の高さにあるフレイの頭に手を置いた。「だがよ、そのつもりでかかったほうがいいぜ。やばそうな相手は俺とハイランスに任せとけ」
と、その手をしばらく沈黙を保っていたディーが後ろから握った。
「ジヴ」
「どうした」
振り向くと、隠し切れぬ不安を湛《たた》えた貌《かお》があった。懸命に堪《こら》えてはいるが、表情に深い怯《おび》えが見て取れる。
「怖いのか」
ディーは黙って頷《うなず》いた。
「大丈夫だ。黒竜《ブラックドラゴン》が出やがったら、今度こそ俺が仕留めてやる」
その怯えを黒竜に対するものだと取った俺に、蒼白な貌が左右に揺れた。
「違うの。そうじゃなくて――」
言い淀《よど》み、ディーは続けた。「厭《いや》な感じがするの。昔、村が襲われた夜と同じ、独り取り残されるような予感が……」
「独りになんかしねえよ」
俺はディーを抱き寄せた。細い肩をびくっと震わせ、ディーが薄く濡れた瞳を閉じる。重ねた唇からも、小刻みに震えが伝わってきた。
その震えが止まるのを待ち、俺は躰《からだ》を離した。
「嘘だと思うか?」
ディーは首を横に振った。
「呪文の援護、当てにしてるぜ」
「うん」
不安を断ち切るように、ディーは力強く頷《うなず》いた。
「ひゃあ」
向き直った俺の脇腹を、フレイが突っついた。
「何だよ」
「僕の留守に何があったのさ? ディーも可愛くなっちゃってまあ……」
「フレイ」
ハイランスが言葉を被《かぶ》せた。「野暮助《やぼすけ》は竜の尾ではたかれるっていうぜ」
「はあい」
「ようし。それじゃ行くとしますか」
いいな、という風にハイランスは俺と、そしてディーを見る。目で合図し、俺たちパーティは扉へと近づいた。
ハイランスがもう一度|気息《きそく》を探り、俺が耳を澄ます。が、先刻からこれと言った変化はない。
俺は扉を蹴り開けた。
間髪を入れず、全員が扉の内側に飛び込む。前衛の三人で三方を見|据《す》えるが、動くものの姿はなかった。
「取り越し苦労だったか」
ハイランスが短く息を吐いた。
さして広くもない玄室だった。遮蔽《しゃへい》物もなく、発光瓶の光が隅々にまで届くじ何かが身を潜める余地はなかった。
「先を急ごう」
俺は正面の壁についた扉に向かって歩きだした。
ガッシュたちの生存を知り、逸《はや》る心があったのかも知れない。前衛の中で、俺だけが突出する形になった。
玄室の中央に達した瞬間、俺は空気が動いていることに気づいた。
俺の周囲で、大気が渦を巻き始めている。
俺は身構え、首を巡らせて素早く四方を確認した。
しかし、目に入るのは魔法の光に青く染まった空間だけで、魔物らしき姿は影も見えない。
風が耳元で唸りをあげる。渦の回転速度が一瞬に倍加していく。
青い大気が、床の塵埃《じんあい》を舞い上げた。
頭の中で警報が鳴った。
違う。これは発光瓶の光じゃあない。
空気自体が、淡く青みがかっていた。半透明の気体が、俺を押し包んでいるのだ。
「ジヴ!」
誰かが叫んだ。風音はそれを掻《か》き消すほどに高まっていた。
俺は頭上を見上げた。
そいつが、いた。
真っ青な肌。凶悪に光る双眸。額から突き出た二本の角と、束《たば》ねられた燃えるように赤い髪――。
宙に浮かんだ巨人の上半身が、真上から俺を見下ろしていた。胸から下は大気に溶けるように消えていたが、それも見る間に濃度を増して実体化していく。
|大気の精霊《エアーエレメンタル》とでも言うべき、気体で構成された巨人だった。しかし一度実体化した肉体は隆々《りゅうりゅう》たる筋肉に包まれ、その尋常ならざる破壊力を容易に想起させる。
バルザックスを圧死させたのはこの魔物だと、俺は確信した。と同時に、次に何が起ころうとしているのかも理解した。
俺は飛び退《すさ》ろうとした。だが、巨人の存在の察知があまりにも遅過ぎた。
床を蹴った瞬間に、人間の上半身ほどの大きさの拳が横|薙《な》ぎに襲いかかってきた。その勢いに大気が裂け、悲鳴ににた風音が鳴り響く。
俺の躰《からだ》は宙にあった。もはや避けようがなかった。
ガードに上げた左腕が、厭《いや》な破砕音を伴ってへし折れた。拳は止まらず、圧倒的な破壊力をもって俺の側頭部を捉える。
首を逸《そ》らし、芯を外すのが精一杯だった。まともに受けていれば頭部が綺麗に消失していただろう。
だが、|大気の巨人《エアーエレメンタル》の剛腕はそれでも充分な打撃力を秘めていた。
筋肉の耐久度を遥かに上回る衝撃に、俺の首は限界を越える角度にねじ曲げられた。己の頚骨《けいこつ》が折れ砕ける音が、はっきりと聴こえた。
この時、俺は思い出していた。
登攀《とうはん》の途中で現れた|嘆きの精《バンシー》を。
俺に向けられた死を告げる指を。
死に憑かれた者を憐《あわ》れむ微笑を。
あの死兆は、転落を意味していたのではなかった。
あれは、この瞬間を予告したものだったのだ。
――嘘になっちまったな。
意識の消える寸前に、俺はディーに詫《わ》びていた。独りにしちまった。せめておまえは逃げ延びてくれ――。
視界がぷつりと途切れた。漆黒の中で、ふっと意識が遠くなる。
俺の躰《からだ》がぼろくずのように石床に叩きつけられた時には、俺の魂はすでに肉体を離れていた。
即死だった。
そしてそれは絶対的な死――消滅《ロスト》に限りなく近い意味を持っていた。
その絶叫がディーのものであると気づいた瞬間に、フレイは目の前で起きた出来事が幻ではないのだと認識した。
数年も使ってくたびれきった磨き布のように、力の抜けた肉体がそこに転がっていた。常に張り詰めた力が充満していた肉体――寝ている時でさえ鋼の緊張感を秘めていた肉体から、一切の生命力が消失していた。
その躰《からだ》に付いた首が、あらぬ方向にねじ曲がっている。
頚骨《けいこつ》が正常ならあのような角度には決して曲がらぬことは、まだろくに言葉を知らぬ子供でさえ理解できるだろう。同時に、そんな風に骨の折れた者がどうなるのかも判る筈だとフレイは思った。
しかし、それでも――。
フレイはその男が死んでいるとは信じられなかった。
幾度となく手合わせしながら、一度としてその躰に触れることのできなかった男。すばしっこさなら誰にも負けぬ自信があったフレイはその度《たび》に打ちのめされ、つくづくこの男が敵でなくて良かったと思ったものだった。この男と真剣に闘う羽目になるくらいなら、竜の群れの中に放り込まれたほうがまだましだとも思った。フレイから見て男は超人に等しかった。
その男――ジヴラシアが今、眼前で絶命したのだ。それもたった一匹の魔物の手によって。
ジヴラシアの屍《しかばね》の傍《かたわ》らで、今やその鋼のような巨体を完全に実体化させた青い巨人が咆《ほ》えた。洞穴を吹き抜ける風音に放たそれは、超人の死を嘲《あざ》笑っているようにフレイの耳に響いた。その姿に比して、自分の手にした短剣など小さな縫い針のように頼りなく感じられた。
自分も殺されるだろう。ジヴラシアよりもさらに無惨に――そう思うと躰が動かなくなっていた。背骨に氷の棒を突き入れられ、全身が凍りついてしまったかに思える。ただ吸い込まれるように、フレイは遥かに高い位置にある巨人の頭部を見つめた。
その真っ赤な双眸が、ぎろりとフレイを見た。新たな破壊対象を発見した歓喜にか、そこに狂暴な光が宿る。
そして、立ち竦《すく》む小人に向かって巨体を踏み出す、その瞬間――。
巨人の上半身の周囲に凄まじい炎が巻き起こった。
ジヴラシアの死体を巻き込まぬよう細心の注意を払った、ハイランスの猛炎《ラハリト》であった。この侍が現時点で修得している攻撃呪文としては最高の威力を持つ魔法である。
だが、炎が大気の巨人を包んだのは一瞬だった魔力によって生み出された高熱火炎は出現と同様に唐突に掻《か》き消え、巨人の肉体は毛ほどの損傷も負ってはいない。
――何てこった。退呪《レジスト》しやがった。
ハイランスは舌打ちした。咄嗟《とっさ》に猛炎《ラハリト》を唱えてはみたものの、こうも完全に無効化されては他の攻撃呪文も通用するとは思えない。
ジヴラシアの死に衝撃を受けたのはハイランスも同じだったが、同時に彼は持ち前の卓抜した判断力で対応策を模索していた。
外見から判断する限り、|大気の巨人《エアーエレメンタル》の耐久力は極めて高いと考えられた。実体化後の体長は鱗《うろこ》や毛皮に覆われていないだけ刃を突き立て易《やす》そうだったが、それでも生命力を尽き果てさせるまでに数度間合いに飛び込み、足を止めて斬りつけなければならないだろう。超絶的な反射神経を誇るジヴラシアをただの一撃に葬った剛腕を相手に、自分の剣技で数合《すうごう》の打ち合いを凌《しの》げるか。
答は否だった。ミフネほどに居合《いあい》を使いこなせればあるいは、とも思えたが、受け継いだ刀を実戦に使うのはこれが初めてとあっては到底期待できない。
ハイランスが優れた戦術家たる所以《ゆえん》は、その徹底して現実的な彼我《ひが》の戦力評価にあった。もしかしたら、という甘い読みはそこには存在しない。状況を迅速《じんそく》かつ正確に判断し、勝てぬ戦いなら躊躇《ちゅうちょ》せず逃走する――それが彼の培《つちか》ってきた戦闘指揮の基本原則であった。
呪文が役に立たず、剣でも渡り合えぬ現状では撤退以外に生き延びる道はない。巨人の図体を考えれば、仮に気体化して迫ってきたとしても階段での実体化は不可能な筈であった。逃げ切れる可能性は充分にある。
だが――まだ尾を引き続けるディーの悲鳴を耳にしながら、撤退はできまい、とハイランスは思った。巨人の攻撃範囲に迂闊《うかつ》に入り込めない以上、その足下に転がるジヴラシアの屍《しかばね》を回収するのは不可能に近い。単に斬りつけるだけでも困難を極めるのだから、死体を引きずるなどあの拳の的にしてくれというようなものだった。撤退するなら、放置していくしかない。
そうなると、ディーは決して逃走しようとはしないだろう。蘇生できるできないは別にして、この様子では一時でもジヴラシアの傍《そば》を離れるとは思えなかった。
善《グッド》の戒律に縛られているわけではないハイランスには、ディーごと置いていく手も残されている。が、彼はこの、方策を第一に捨てていた。
逃げて、生き延びてどうなるという思いもある。大破壊《カタストロフィ》が間近に迫るこの時、ハイランスの目的は仲間たちの仇《かたき》であるあの忌《い》まわしい妖獣《ゼノ》を一匹でも多く斬り殺すことにのみあった。そのためには、この玄室はどうしても突破せねばならぬ。
それに、ジヴラシアには借りがあった。
ミフネに憑かれでの戦闘では、正気を失っていたとは言え殺されていても文句の言えぬ状況だった。
しかも自分の放った斬撃でジヴラシアは肩に重度の打撲を負っていた。巨人の奇襲を避けられなかったのは、この傷のせいであったのかも知れないのだ。
そのジヴラシアを慕《した》うディーを置き去りに逃走するなど、彼にとって考えられる行為ではなかった。善悪の問題ではない。せめてディーの命を救わなければ、恩ある死者に対して義が立たぬ。
ハイランスは腹を決めた。
相討ち覚悟なら巨人を斃《たお》せるかも知れぬ。よしんば自分が先に息絶えたとしても、巨人もただでは済まないだろう。そうして死ぬのであれば、逃げて一時《いっとき》生き延びるより悔いは残るまい。
ならば、押すまで。
――運が良けりゃ、ジヴの仇《かたき》はとれるかも知れんな。
梯子山《スケイル》での探索を開始して以来、ハイランスは初めて運を当てにした。|達人の刀《マスターカタナ》を引き抜き、振りかぶらず懐深く突きの構えを取る。己の防御を考えぬ捨て身の刺殺剣であった。
「フレイ」
猛炎《ラハリト》の閃光で我に帰ったフレイに、必殺の視線は|大気の巨人《エアーエレメンタル》から片時も逸《そ》らすことなくハイランスが言った。「こいつは俺が引き受ける。おまえは隙《すき》を見てジヴを引っ張ってこい。うまくいったらディーを連れて逃げろ」
漲《みなぎ》る殺気に、フレイの目はハイランスの横顔に釘付けになった。即座に直感した。ハイランスは玉砕するつもりだと。
「ハイランス!」
制止の叫びを振り払うように、エルフの侍は走り出していた。
咄嗟《とっさ》のことに、フレイはほとんど混乱しかけた。ハイランスが死んでしまう。ディーを連れて逃げる? その前にジヴの屍《しかばね》を引きずってこなくては。でもあの巨人に近づくなんて! ジヴを殺した怪物に! でもこのままじゃハイランスが。でも怖い。恐い。恐い、恐い恐い恐恐恐怯……。
感情を切り捨てろ
唐突に、フレイの意識の底から頼もしい声が響いてきた。
感情を抑制しろ。冷静に対応しろ。訓練を思い出せ
――ジヴ!
恐らくは幻聴だったのだろう。だが、それはフレイにジヴラシアとの模擬戦を瞬時に思い起こさせた。
――恐≠フ感情を殺すんだ。今できなけりゃ、何のためにやってきたのか判らないじゃないか!
ホビット持ち前の勇気を奮《ふる》い起こし、フレイは巨人を見|据《す》えた。視線が交錯し、赤い目が残忍な光を投げかけてくる。沸き起こる凄まじい恐怖――。
――恐くなんか、ないっ!
両足を踏み締め、フレイはなおも巨人を睨《にら》み続けた。と、巨人の視線がハイランスに逸《そ》れる。
先刻までの恐怖が、嘘のように消えていた。巨人の動作が冷静に捉えられる。思ったほどに迅《はや》くない。自分の身のこなしなら、攻撃は無理でも気を引いて攻撃を躱《かわ》す程度はできそうだった。
――僕が注意を引き付ければ、きっとハイランスが斃《たお》してくれる。
平静を取り戻すのに一秒とはかからなかった。フレイの肉体はまさに機械の精密さをもって動き始め、突進するハイランスを援護するぺく脱兎《だっと》の如く駆け出した。
ディーには、そのふたりの動きさえ目に入っていなかった。見開かれた瞳に映るのはただ、屍《しかばね》と化した愛する男の姿だけであった。
黒竜に肉親を惨殺された夜から。ディーの心は長く恐怖に病んでいた。
漆黒の怪物が潜み続ける夜毎《よごと》の睡眠が恐ろしかった。独りで眠る恐怖から逃れるために恋人を持ったが、どの男も真に安らかな眠りを与えてはくれなかった。皆、夢の中で黒竜に喰われてしまうのだ。
しかし、十年以上も得られなかった安らぎは遂にもたらされた。この迷宮の中で。ジヴラシアの腕の中で。
思えば、ずっとこの男を愛していた。それを認識したのはいつのことだったのだろう。
一年前、リルガミンで初めて出合った時には、飢えた狼のような眼をした男だと思った。それでもパーティを組んだのは、確かに惹《ひ》かれるものを感じていたからなのだろう。しかし、エルフである自分が人間族《ヒューマン》を本気で愛するようになるなどこの時はまだ思いもよらぬことだった。
エルフと人間族は他の三種族に比べて体格、美的感覚などにおいて共通点が極めて多い。特に人間族《ヒューマン》から見てエルフの美しさは同族の異性よりも遥かに魅惑的であり、それゆえこの異種族間に限っては恋愛関係の成立がさほど珍しいことではなかった。古い因習に囚《とら》われぬ都市部ではそうしたケースは頻繁に見られたし、寿命が均一化したこの時代では老化の差による悲劇も生まれなくなっていた。
だが、正式な婚姻《こんいん》を阻《はば》む問題がひとつだけあった。混血の存在が非常に稀《まれ》であること――即ち受胎の可能性がほとんどないに等しいのである。
ただ、これはそれまでのディーにとっては都合の良いことだった。病的な恐怖から魔術師の道を歩む自分が子を産み育てることなどできるわけがない――そう考えていた彼女は、むしろ人間族《ヒューマン》の男を好んで恋人に選んできた。しかしそれはやはり真実の恋ではなかったし、ディー自身そんなつもりもなかった。それなりに真剣ではあったけれども、結局は一時の安らぎを提供するだけの男たちでしかなかったのだ。
だが、ジヴラシアへの想いは違っていた。
この感情に気づいてからは、逆に臆病になった。毎週のように恋人の入れ代わる自分を、ジヴラシアは何と思っているのだろう。仲間としては付き合えても、恋人としては興味の外にあるのかも知れない。
それを確かめるのが怖かった。厭《きら》われるよりは今のままで満足しようとしてきた。
梯子山《スケイル》登攀《とうはん》の参加を決意した時も、それで構わないと思っていた。ただの仲間でいい。その代わり、大破壊《カタストロフィ》の訪れるその時まで傍《そば》にいたい……。
それは半ば諦《あきら》めにも似た想いだった。が、ジヴラシアはディーの真の望みに応《こた》えてくれた。転落したディーを自らも墜死する危険を冒して救い、現実に現れた黒竜《ブラックドラゴン》と渡り合い――そして夢の中の黒竜をも追い払ってくれたのだ。
心に棲んだ魔物から解放された時、ディーはようやく自分が欲しかったものを知った。魔術師としての力などではない。愛する男と結ばれたかった。欲しいのはジヴラシアだけだった。
気づいた時、願いは叶えられていた。たとえジヴラシアの心の奥底にあるものが自分への愛ではなく、闘いへの欲求であったとしても。
そして今、手に入れた望みは非情にも打ち砕かれた。ジヴラシアの死という最も惨《むご》たらしい形で――。
血を吐くようなディーの絶叫はまだ続いていた。まるでそう叫び続ければ、すべてが夢に変わるとでも信じているかのように。
だが、ディーには判っていた。これは新しい悪夢などではない。どれだけ叫んでもジヴラシアは生き返らないのだ。
――本当にそうだろうか?
足下が瓦解《がかい》するような喪失感に襲われるディーに、心にわずかに残った冷静な部分が問いかけてきた。本当に自分は愛する男を救うことはできないのか? 為す術《すべ》もなくここで泣き叫ぶだけなのか?
――違う!
否定した瞬間、ディーは何をすべきかを悟った。
できることがひとつある。高位魔術師である自分なら可能な手段が。
だが、それは危険な賭けであった。熟達者《マスター》≠ェ唱えなければ効果はなく、また術者はエナジードレインに相当する能力の喪失と一時的な衰弱を被《こうむ》ることになるという、そのリスクの大きさゆえに禁呪とされてきた魔術師系最高位呪文の使用。しかも生じる魔法効果は非常に不安定で、期待した効果が必ず現れる保証はない。現在の能力では一度しか効果を引き出せぬディーの成算は極めて低い。
しかしディーに迷いはなかった。たとえそれが我が身を滅ぼすことになろうとも、ジヴラシアを救う可能性が少しでもあるのなら躊躇《ちゅちょ》なく賭けられる。
絶叫で底を尽いた空気をゆっくりと吸い、精神を滑《すべ》らかな鏡面の如くに整える。唱えるのは初めてだったが、発音すべき韻律は完璧に記憶の底から浮かび上がってきた。
ディーは瞼《まぶた》を閉じた。全神経を集中し、ただひとつの願いを心に思い描く。
その唇が動き、静かな韻律を紡《つむ》ぎ始めた。それは呪文というより、むしろ祈りと呼ぶに相応《ふさわ》しい荘厳さを秘めていた。
生命の理《ことわり》すらねじ曲げる禁断の呪文・大変異《マハマン》の詠唱が始まった。
かつての記憶の中を、俺は彷徨《さまよ》っていた。
昔出会った少女の記憶だ。
あれは親父とお袋が死ぬ少し前のことだった。森の外れの街道沿いに夜営していた俺たちの前に、その美しい少女は現れた。
当時の俺より二、三歳上だったように思う。十五前後の少女はあちこちに傷を負い、救いを求めて焚火《たきび》の輪に飛び込んできた。
少女は口が利《き》けなかった。だが、その切迫した身振りに親父たちはすぐに事態を察した。少女の仲間がコボルドの一団に襲われているのだ。
男たちはすぐさま武器を握り、少女に導かれて森へ駆け込んだ。俺もお袋の制止を聞かずに後を追った。
俺たちがその場に到着した時には、すでにコボルドどもの姿はなかった。
少女の家族らしき旅芸人の一座はひとり残らず殺されていた。両親と姉、幼い弟たちの骸《むくろ》にすがりつき、そして少女は気を失った。
夜営地で傷の手当を受けたところで少女は目を覚ました。もう涙は見せなかった。家族の仇《かたき》を討ちたい、力を貸してくれと長《おさ》である親父に懇願《こんがん》した。
だが、親父は首を縦に振らなかった。仲間たちの中には子供の命まで容赦なく奪ったコボルドに怒りを露《あらわ》にする者も多かったが、夜の森の追撃はあまりにも危険だった。奴らが逃げてしまうとしても、行動は朝まで待つことになった。
少女は親父を恨むでもなく、諦《あきら》めたように静かに床に就《つ》いた。が、その瞳の奥に灯った激しい光に俺は気づくべきだった。
独りになってから、少女は密かに床を抜け出した。しかしそれを俺たちが知ったのは夜が白々と明け始めた頃だった。
慌てて森の奥に踏み込んだ俺たちが見たのは、片目に短刀を突き立てられた巨大なコボルドの屍《しかばね》と、その傍《かたわ》らで息絶えている少女の姿だった。残りのコボルドどもは指導者を失って畏《おそ》れをなしたのか、とうに逃げ去ってしまった後だった。
胸を蛮刀で刺し貫《つらぬ》かれながらも、群れのリーダーを討ち果たした少女の死に顔は安らかだった。
この時俺はやっと気づいたのだ。少女の瞳に宿った光の意味を。
もっと早くこの決意を察していれば、少女は死なずに済んだのかも知れない。そう思うと、俺は少女の美しい屍から目を逸《そ》らすことができなかった。
親父に抱きかかえられ、俺の目からようやく涙が溢《あふ》れてきた。少女の姿は滲《にじ》んで消え、再び目にすることなく埋葬された。
だが、名も知らぬその少女の死は俺の記憶に深く刻み込まれた。それから数え切れぬほどの人の死に立ち会ってきたが、この記憶は決して薄れることなく脳裏に蘇った。
少女は、ベイキに似ていた。あいつをガッシュに逢わせてやろうと考えたのも、思えばこの少女への罪滅ぼしのつもりだったのかも知れない。
しかしその誓いも守れず、俺は死んだ――。
そう思い至った瞬間、過去の記憶から覚醒《かくせい》した。
目覚めた時、俺は闇の中にいた。
だが、それを闇と呼んでいいのかどうか。この空間を満たしているのは迷宮のそこかしこに蟠《わだかま》っていた漆黒ではなく、ぼんやりと光を内包しているような乳白色なのだ。
それでも、確かに闇には違いなかった。目に映るのはあくまで濃密な白だけであり、暗闇同様あらゆるものを覆い隠しているからだ。
眼前に手をかざしても、見えるのは白い闇ばかりだった。目を閉じてもそれは変わらない。瞼《まぶた》の内側にまで純白の膜が入り込んでくるかのようだ。
そもそもここはどこなのだろう。
ふと気づいた。俺は立っていない。座っているわけでも、寝ているわけでもない。俺の肉体を支えるべき地面が存在しないのだ。
いや、肉体などあるわけがない。俺は確かに死んだのだ。と、すればこの白い闇も見えているように思い込んでいるだけの錯覚だろうか?
お目覚めかい
その時、何かが呼びかけてきた。耳|障《ざわ》りな掠《かす》れ声が意識に直接響いてくる。
久しぶりじゃねえかよ。ひひ……
誰だ?
前世の記憶なんざ残っちゃいねえか。寂しいねえ
喉の詰まったような嗤《わら》い声が響く中で、眼前の空間の白に変化が生じた。染みが広がるように淡い影が浮かび、急速に濃度を増していく。それは一瞬のうちに人の姿になった。
細く吊り上がった目をした、やけに黄色い肌のホビットがそこにいた。
だらりと下げた両腕が、その体格とは不釣り合いに長く、逞《たくま》しかった。腕だけを比べれば俺よりも筋肉が発達しているように見える。そのせいで男のフォルムはホビットよりも猿人《エイプ》に近い印象を与えるものになっていた。
そして、俺は直感していた。このホビットもまた冒険者――それも忍者であることを。
口元を覆う頭巾《ずきん》を被《かぶ》り、東方風の衣服を身に着けたその男はまた、ひひ、とひとしきり嗤《わら》った。
ここはどこだ? それと、あんたも死んでるのか?
ほお
俺の問いに、男は目をさらに細めた。自分が死んだってこたぁなかなか認めたがらねえもんだがな。その通り、おまえも俺もくたばっちまった幽体よ。ここはそんな霊魂が留まるあの世とこの世の狭間《はざま》
狭間?
成仏してねえってことよ。それよりよ、おまえもそろそろ姿を取るってのが礼儀じゃねえかい? 俺様もこうして生前の姿ってのを見せてやってるんだからよ。話しづらくてしょうがねえや。ひひひ……
言われて、俺はようやく理解した。手をかざしても見えないのではなく、霊体である今の俺は目に見える姿を取っていないのだ。
どうすりゃいいんだ?
自分の姿を思い浮かべてみな。意識すりゃあいいのよ
言われた通りにした。途端に目の前に広げた掌《てのひら》が実体化する。いつもの格好をイメージしたせいで、濃緑色の忍者装束もところどころ破れたままだ。
なるほどな
面影が残ってるねえ。懐かしいや
俺の姿を見て、ホビットは少しだけ嬉しそうな笑みを浮かべた。
あんた、俺を知ってるのか?
ああ、知ってる。ただし今はもうおまえの魂と融合しちまった先祖のほうだがよ。ひひっ、ありゃあもう百年以上も前の話だなあ
百年?
思わず俺は叫んでいた。それじゃあんたは百年もここで成仏できずにいるってのか?
仲間はきちっと弔《とむら》ってくれたんだがなあ。俺に未練が強すぎたのよ
男は首まで垂れ下がった頭巾《ずきん》を軽く持ち上げた。太い首筋が露《あらわ》になり、そこに生々しい傷跡が見て取れる。
酷い死に様だったぜえ。落とされた首は馬鹿でかい悪魔に踏み潰されてよ。躰《からだ》のほうは妖魔に操られてゾンビになっちまった。最期にゃ爆炎《ティルトウェイト》を浴びてから真っ二つにぶったぎられたってえ有り様だ
そいつが無念だったのか?
それもあるがよ。ま、そんなこたあ今はどうでもいい
ホビットは顎《あご》をしゃくった。ついてきな。あまり時間はねえんでな
どこへ行こうってんだ?
導かれるまま、俺は乳白色の空間を漂い始めた。
過去の世界って奴さ
過去だと?
驚きの声をあげた俺に、先を進むホビットは振り向きながら、ひひ、と喉を鳴らした。
素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を出すんじゃねえよ。来たばかりじゃ無理もねえがな、ここは現世とは時間の進み具合が違うのさ。今だって、おまえがくたばってから向こうじゃ数秒と経っちゃいねえ
半信半疑の表情の俺に構わずホビットは続けた。それとな、幽体の俺が歳を喰わねえように、ここじゃあ過去に起こった出来事も消えずに留まってやがるのよ。これからそれを案内してやろうってわけさ。もっとも、覗けるのはおまえと関わりの探いものに限られてるがな
だが、どうして俺にそれを――?
頼まれてるのさ
誰に?
この世界、そのものに――
ホビットが呟《つぶや》くと同時に、周囲が急速に流れ出した。俺たちは凄まじい速さで空間――いや、時空と呼ぶべきだろうか――を駆け始めたのだ。
もはやホビットがどこにいるのかも判らない。俺の視界は目まぐるしく変化する情景と色彩の氾濫《はんらん》に埋め尽くされていた。
視界の中央の彼方に一点、真っ白な光が残っていた。出鱈目《でたらめ》に切り張りしたような光景群が後方に飛び去る中で、その白光は長いトンネルの出口の如くに少しずつ大きさを増していく。
最後は爆発的な加速度で広がり、目映《まばゆ》い光は俺を呑《の》み込んだ――。
次の瞬間、俺はトレポー城塞のギルガメッシュの酒場にいた。
だが、そこは俺が酒|浸《びた》りの日々を送った、腑抜《ふぬ》けたえせ冒険者の溜り場と化していたあの酒場ではなかった。
フロアには活気が溢《あふ》れ、屈強の冒険者たちがあちこちで酒杯をぶつけ合う音が響く。ある者たちは生きて戻ってこれた喜びを分かつために、またある者たちは仲間の死を悼《いた》んで。紫煙に煙る酒場に、陽気だが哀感漂う吟遊詩人の歌声が流れている。
ひどく懐かしい光景だった。現実の体験ではなく、幼い頃にふと蘇ってきたあの不思議な記憶――。
見覚えのある五人の仲間たちがいた。唐突に、そして初めて彼らの名前が脳裏に閃く。スカルダ、サラ、ガディ、ベリアル、シルバー……。
一瞬に場面は移り変わった。
地下迷宮の一室。俺の眼前にスカルダの背中がある。
その向こうに、薄紫のロープを纏《まと》い、長い髭《ひげ》を生やした老魔導師が立っていた。
叩きつけるような妖気が、その老人から発散されている。魔導師の名は、ワードナ――。
呪縛を断ち切るように、スカルダの剣が振り下ろされた。気≠フ斬撃がワードナを切り裂き、激しい絶叫が玄室に谺《こだま》する。
絶叫が止《や》むと同時に、光景も変わっていた。
赤毛の少女が横たわっている。名はラシャ。絶命していた。
ふたりの僧侶が、同時に呪文を唱えていた。絶望的な状況にあるラシャを救うために。
ひとりは仲間のベリアル。そしてもうひとり、普段は皮肉な笑みを絶やさぬその貌《かお》に真剣な表情を浮かべた青年僧――アルハイムという名だった。似てはいない筈なのに、何故か俺はザザを思い出していた。
深く考える間もなく、俺はその情景から引き剥《は》がされた。
ここまではおまえの前世――ジャバの記憶だぜ
再び色彩が氾濫《はんらん》するトンネルを疾走する俺の頭に、どこからかホビットの言葉が響いてきた。これから先はおまえ自身の運命に関わるものが見えるだろうよ。関わりのねえ俺にゃあ見えねえから、後で訊《たず》ねたって無駄だぜ。見逃しのねえよう目ン玉ひん剥《む》いとくんだな。ひひひ……
待ってくれ!
俺は叫んだ判らねえ! くたばった俺に何の運命があるってんだ?
応《こた》えのないまま、ホビットの掠《かす》れた嗤《わら》い声は遠ざかっていく。彼方から迫る白光が、先刻と同じく俺の視界を覆い尽くした――。
どこかの城の中を、俺は見ていた。
玉座を擁《よう》したその大広間は、戦乱の最中であるかのような有り様だった。床や壁はほぼまんべんなく焼け焦《こ》げ、ところどころでまだ燻《くすぶ》った煙を吐き出している。黒曜石を用いた漆黒の玉座は巨大な槌《つち》で叩かれたように砕け、天井から落下したシャンデリアは高熱に焙《あぶ》られたのか原型を失うほどに溶解していた。
そこに、三人の男女が対峙していた。
全身を重装の鎧に包んだ青年戦士と、その背後で呪文を詠唱する美しい女魔術師。ふたりは疲労を色濃く滲《にじ》ませながらも、烈火の如き視線を一点に注いで勝機の訪れを待ち続けている。戦士の手には、見紛《みまが》うことなくあの聖剣ハースニールが握り締められていた。
ふたりの視線の先に、明らかに敵対しているもうひとりの男がいた。
凶相――そう呼ぶに相応しい容姿の男だった。鋼を思わせる彫りの深い貌《かお》に、すべてを射通すように残忍な眼光を湛《たた》えた双眸。めくれた唇の内側では、牙に似た歯が忌々《いまいま》しげに噛《か》み合わされる。
しゅう、と漏れた呼気は蒸気のように白く濁っていた。禍々《まがまが》しい形状の鎧を着込み、暗黒の刀身を持つ魔剣を手にしたその姿は、ダイヤモンドの輝きを放つ戦士とはどこまでも対照的だった。
いずれも初めて見る者たちだった。が、俺は彼らが誰なのかを知っていた。何故なら、それは百年前から語り継がれてきたリルガミンの英雄譚そのままの光景だったからだ。
ハースニールを持つ戦士は、ダイヤモンドの騎士となったリルガミンの王子アラビク。女魔術師はその姉であり、ベイキの曾《そう》祖母である王女マルグダ。
そして、対峙するのはリルガミン王位を簒奪《さんだつ》し、ニルダの杖に護《まも》られた聖都を魔都と変じた邪悪の化身。それはまさしく、伝説に語られる風貌に寸分|違《たが》わぬ魔人ダバルプスの姿だった。
静寂は一瞬だった。聖剣をかざし、アラビクが突進する。
ダバルプスの口元に悪魔の笑みが浮かんだ。その唇が開き、破滅的な超呪文が驚異的な迅《はや》さで詠じられる。
しかし、その詠唱が終わるよりもわずかに早く、マルグダの唱えた呪文がダバルプスを沈黙させていた。完璧に等しい退呪障壁《レジストシールド》をも破る捨て身の禁呪。
魔人の貌《かお》が驚きと怒りで引き歪《ゆが》む。
アラビクはこの好機を逃さなかった。ハースニールが必殺の勢いをもって旋回し、受け止めようとした魔剣を切断、そのままダバルプスの首を横一文字に切り飛ばした。遂に王家の姉弟は仇敵を斃《たお》したのだ。
だが、やはり伝承は正しかった。
宙に跳んだ魔人の首が、破滅の言葉を発していた。
次の瞬間、アラビクの足下が崩れ落ちた。力尽きた王子は、為す術《すべ》もなく魔宮の地底へと続く呪いの穴に呑《の》み込まれていく。
高音が響き、崩壊する旧リルガミン王城。噴塵の如くに土煙が舞い立ち、天を夜の暗さに染め上げる。
その時、俺は確かに見た。
立ちこめる煙の中で、何かが風を切って飛来した。
それは闇色の羽根を持つ大きな鴉《からす》だった。
鴉は穴に飛び込み、再び飛び立っていった。その脚に人の頭らしき物体を掴《つか》んで――。
鴉の飛び去る彼方に、梯子山《スケイル》がその特異なシルエットを浮かび上がらせているのが見えた。
次に現れた光景は、冴《さ》えた月光の降り注ぐ雲海だった。
皓々《こうこう》と、妖しくさえ感じられる明るさを放つ満月のもと、俺の視界は高速で垂れ篭《こ》めた雲の上空を移動していく。
気がつくと、前方を何かが飛翔していた。
翼はない。はためいているのは群青《ぐんじょう》に染まったマントだ。
それは人だった。古風な礼服姿の男が、恐らくは魔法の力をもって天空を駆けている。
視点が男に追いついた。
切り裂く風に金色の髪がなびき、完全な造型美と言うべき横顔が月光に青白く照り映《は》える。遥か前方を見|据《す》える瞳は深紅に輝き、薄い笑みを浮かべた唇からは二本の尖《とが》った牙が覗いている。人間の持つべき特徴ではなかった。
そして――男はアドリアンにあまりにも似ていた。
と、俺の視点が再び男の後方に回った。
細身の長剣を片手に、男は一点を目指して飛んでいく。
彼方で雲が巨大な渦を巻いていた。
天空に描かれた大渦巻《メイルストローム》――その中心に、月下に浮かぶ異形の影があった。二対の翼を持ち、鉤爪《かぎづめ》を備えた両腕を広げた禍々《まがまが》しき巨影。爛々《らんらん》と輝く真円の双眸がこちらを無表情に眺めている。
それは、伝説に語られる魔神の姿ではなかったか。
千年の昔に魔法文明を滅ぼした大災厄をもたらした悪魔王マイルフィックではないのか。
男は真っ直《す》ぐに、その魔神に向けて飛翔していた。
月が、明度を増したように思えた。
再び、ダイヤモンドの騎士が見えた。
しかしそこはさっきの、崩壊を間近に控えたリルガミン旧王城ではなかった。
地の底を思わせる漆黒の空間――その深い闇を、騎士が携えた杖の放つ霊光が切り裂いている。兜《かぷと》、鎧、盾、籠手《こて》そしてハースニールの五つの武具に嵌《は》まった大粒のダイヤモンドがそれを反射増幅し、騎士の周囲に妖魅《ようみ》を打ち払う光の結界を造り出しているように見えた。
騎士はひとりだった。
頭部全体を包む兜のせいで顔は見えないが、この騎士はアラビク王子とは違うようだった。ダバルプスと対峙していた姿に比べ、こちらは体格が二回りほど大きい。
鎧の下の、その躰《からだ》つきに見覚えがあった。
だが、こいつは俺の記憶じゃあない。俺が生まれた時から共存し続けた、先祖の魂が見せる古《いにしえ》の記憶――。
騎士の名はガディ。そうだ、ともにワードナの迷宮で戦ったあの巨漢の戦士、先刻もギルガメッシュの酒場で杯を交わしていた仲間のひとりだ。
そのガディが、兜《かぶと》の奥に光る目で何かを見ていた。光の届かぬ暗闇の奥に潜む何者かを。
不気味な緊張を孕《はら》んだ静寂の中で、ガディの落ち着いた呼吸音がやけに大きく響く。ハースニールがそろりと、まるでその動きを気取《けど》られたくないかのようにゆっくりと持ち上げられた。
やがて聖剣が頭上に達し、動きを止めるその刹那《せつな》――ガディの喉から咆哮《ほうこう》に似た雄叫びが漏れた。同時にハースニールが雷光の迅《はや》さで振り下ろされる。
斬撃が闇を割った。
払われた闇の先に、巨大な影が聳《そび》えでいた。そう、それはまさしく聳えると呼ぶに相応《ふさわ》しかった。
三本の角を持つ頭部は巨漢のガディのさらに数メートル上方に位置している。二対の腕には武器や盾らしき影が握られ、闇よりなお黒々としたマントが大きく裾を広げていた。
巨人――いや、違う。そのシルエットから発散される妖気は質こそ違え、出発の前夜王宮で俺とザザを襲った炎の鞭《むち》の使い手と同種のものだ。
即ち、悪魔。だが、その妖気は桁《けた》外れにでかい。まるで念の噴き出す様《さま》が目に見えるかに思える。普通の人間ならただそれだけで心臓を締め上げられてしまいそうなプレッシャーだ。
しかしガディに怯《ひる》む様子はなかった。悪魔の影法師に突進し、ハースニールが唸りを上げて振り出される。
悪魔の手にする槌矛《メイス》とハースニールが激しくぶつかり合った。一合、二合と打ち合わされ、凄まじい火花が飛び散る。
恐るべきはガディの腕力だった。自分の胴ほどもある槌矛と打ち合いながらも、全く圧《お》される気配がない。
そしてその太刀筋に、俺はガッシュを重ねていた。疑いなく、この男こそ最後のダイヤモンドの騎士として血を残したガッシュの先祖なのだ。
数合の応酬の末、裂帛《れっぱく》の気合いとともに振り抜かれた斬撃が受けに回った悪魔の槌矛《メイス》を微塵《みじん》に砕いた。退魔の剣はそのまま腕一本を切り落とし、巨大な影は怒りとも憎しみともつかぬ怒号を轟かせる。
爆炎《ティルトウェイト》の閃光が、視界を白く染めた――。
天蓋《てんがい》の窓より差し込む夕陽が、ホールを一面朱に染め上げている。
そこに、向かい合う男女の姿があった。
ふたりの間に言葉はなかった。一歩前に出れば抱き締め合える距離で、ふたりはただ、見つめ合っている。
彼らが愛し合う仲であることは、誰が見ても容易に察することができるだろう。そしてまた、このわずかな距離が、ふたりにとっては果てしなく遠いということも。
女は背負う国のために一歩を踏み出せなかった。
男は女を想い、抱き寄せることができなかった。
心を引き裂かれる痛みが、涙となって女の頬を伝った。悲しみの涙滴《るいてき》は一瞬、夕陽の輝きを包んで零《こほ》れ落ちていく。
遂に触れ合うことのなかった唇が互いの名を呼んだ。
ガディと。
マルグダ、と。
やがてガディは背を向けた。歯を食い縛り、愛する女から一歩一歩遠ざかっていく。
愛する男がホールを退出してからも、マルグダは立ち尽くすばかりだった。涙が止めどなく溢《あふ》れ、それが枯れるまで、マルグダは声もなく嘆き続けた。
そこは岩壁に直接|彫《ほ》られた祭壇だった。
竜の牙を摸した数十の燭台が並べられ、血の色をした蝋燭《ろうそく》がゆらゆらとか細い炎を灯している。それぞれの光が干渉して周囲に複雑な陰影を作り出し、ごつごつとした祭壇それ自体を妖しく蠢《うごめ》く軟体生物のように見せる。
祭壇の前には僧形の男たちが跪《ひざまず》き、熱心な祈りを捧げ続けていた。
|牙の僧侶《プリースト・オブ・ファング》――梯子山《スケイル》に棲み着いていた邪神崇拝の狂信者どもだ。と、するとここは迷宮第五層の|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》内部なのだろう。見たところ礼拝堂としてこの玄室を用いているらしい。
石の祭壇の中央に、連中が崇《あが》めている神体らしきものがあった。が、そいつは俺の想像とはかけ離れた意外な代物だった。
それは人の頭蓋《ずがい》骨だった。
新しくはないが、極端に古い時代のものでもない。
せいぜい百年が経過した程度だろうか。全体に茶色く変色しているのは、皮膚や肉を張りつかせたまま干からびたせいなのだろう。
何故、こんな代物が|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》の神体なのか――そう訝《いぶか》った時、俺はその綺麗に残って噛み合わされている歯に気がついた。
人の歯にしては、やけに牙に似た獣じみたものだった。それがびっしりと上|顎《あご》、下顎に並んでいるのだ。
髑髏《どくろ》は牙を剥き出しに嗤《わら》っているように見えた。その邪悪な笑みを、俺はほんの今しがた見てきたような気がした。
と、眼窩《がんか》の奥で何かが動いた。眼球のように思えたが、この干し首にそんなものがある筈もない。多分、揺らめく火影《ほかげ》が見せた錯覚だろう。
しかし、この胸騒ぎの不吉さは何だ。この光景は一体何を意味しているのか?
僧侶たちの邪《よこしま》な祈りの声が、次第に遠ざかっていった――。
そして俺は、再びあの光景を見た。
四方八方に突起を伸ばし、巨大な竪《たて》穴に張りついた生物とも鉱物ともつかぬ奇怪な物体――この世界を破滅に導きつつある天変地異の元凶が、神秘の宝珠が見せた幻視の映像そのままに俺の眼前にあった。
いや、あの時の映像とは少し異なっていた。ひっきりなしに噴き上がり、それを覆い隠す役割を果たしていた黒煙が今は完全に消えてしまっているのだ。
薄闇の中、下方からの赤い光に照らされたこの怪物体は、その形状が明瞭《めいりょう》に見てとれるだけ禍々《まがまが》しさを増したように感じられた。滑《ぬめ》りを持った外皮が微《かす》かに光り、まるで暗がりで煽動《ぜんどう》する不浄な生物の内臓器官のように思えてくる。
この光景を目にしたのはほんの一瞬だった。
これまで見てきたものとは異なり、その胸の悪くなる眺めはぶつりと唐突に途切れた。あたかも俺の視線を遮《さえぎ》る何らかの力が働いたかのように。
だが、俺ははっきりとそいつを見た。
物体と竪《たて》穴の壁面とを繋《つな》ぐ触手に似た突起のひとつに、驚くべきものがへばりついていた。黒煙が払われていなければとても視認できなかっただろう。歪《いびつ》な肉腫《にくしゅ》を思わせる鮮やかなピンク色の肉塊――。
そいつは、妖獣《ゼノ》の幼生だった。
その様子じゃあ、随分と厭《いや》なものが見えちまったようだなあ。ひひっ
目の前であのホビットがにたついている。
気がつくと、俺は幽界の白い闇の中に戻っていた。
――運命って、あんた言ったな
精神の動揺を抑えながら俺は訊《たず》ねた。教えてくれ。こうして幽体になった俺にこれ以上何の運命が残されてるんだ?
どんな運命かは、俺にゃあ判らねえよ
首を横に振り、男は意地悪く嗤《わら》った。だがよ、ひとつだけ教えてやれることがあるぜ
――?
運命があるってこたあ、おまえはまだ完全に死んじゃいねえってことさ。現世に関わりあえる、為すべきことが残ってる――そんな奴にしか運命に関わる光景は見れねえのよ
……俺は、生き返るのか?
やっと飲み込めたかい。時間がねえってちゃんと言っといただろ? 間もなくお迎えがくるだろうぜ
しかしそのホビットの言葉を、俺はろくに聞いちゃいなかった。
俺は生き返る! どうやってかは知らないが、まだ諦《あきら》めるのは早かったのだ。もう一度、あいつに会える!
しかし、俺の脳裏に浮かんだのはディーではなかった。
ガッシュだった。
何故だろう――ふと、疑念が湧いた。
確かに俺は迷宮に取り残された仲間に会うために梯子山《スケイル》を攀《のぼ》った。が、それは突き詰めれば大破壊《カタストロフィ》を前にガッシュに会っておきたいという欲求が根底にあったように思う。
それが死んでさえなお、ディーへの想いを凌《しの》ぐほど強烈に頭に立ち上ってくるのはどうしてなのか。
明らかに単なる再会という目的ではない筈なのだが、いくら考えを巡らせてもガッシュに対して何を求めているのかはっきりとは判らなかった。
――よう、忠告しとくぜ
ホビットに強く呼びかけられ、俺はようやく我に帰った。つい思考に没入してしまっていたのだ。
どうやらおまえは、根っこの部分は先阻よりも俺に似通ってるようだ。つまらねえことにこだわる質《たち》って奴だがよ、こいつぁ気をつけたほうがいいぜ。でねえと
その口調に若干《じゃっかん》の後悔が混じった。――俺のように成仏できなくなっちまう。いい加減で見切りつけて、折れるってことを忘れずにな
俺がよほど深刻な表情をしていたと、ホビットの真剣な目で判った。自分のイメージで姿を取るこの世界では、ことによると思考がより明確に顔に出てしまうのかも知れない。
……あんたはまだ、成仏できねえのか?
ああ。多分、これから先もずうっとな
自嘲《じちょう》気味に、ホビット忍者は喉を鳴らして嗤《わら》った。
あんたをここに縛りつける理由が、何か他にあるような言い方だったな
気にしてくれてたたあ嬉しいじゃねえか。ひひ、その通り、酷《ひで》え死に方をしたところでそれだけじゃあ百年も未練は持たねえもんよ
そいつは、何なんだ?
俺の問いに、ホビットは目を閉じた。細めただけだったのかも知れないが、少なくとも俺には自らの過去を黙想しているように見えた。
――俺はな、誰にも負けたくなかったのよ
ややあって、ぽつりとホビットは口を開いた。本気でやりゃあ、いつだって他の野郎の喉笛を掻《か》っ切れるような、そんな畏《おそ》れられる立場にいたかった。トレポー城塞で戦士から忍者に転職したのもそのためよ。力任せの戦士じゃあ、所詮はドワーフや人間族《ヒューマン》にゃ敵わねえからな
それは正しかった。確かにこの男の膂力《りょりょく》は並外れていたようだったが、結局はホビットの平均から見てのことに過ぎない。種族的な体格差は、いざという時に確実にハンディとしてのしかかってくるものなのだ。
転職してからも、忍者として一番でいたくてな。そのために俺はあるものが欲しくて堪《たま》らなかった。あのワードナの迷宮に潜ったのも、半分はワードナの首に懸《か》かった褒賞目当てで、あとの半分はそいつを手に入れるためだったのさ――
恐らくそれがこの男の霊魂を強力に呪縛し続けたものなのだろう。
短い沈黙が流れ、言葉は続いた。
迷宮で、そいつを持っていそうな奴等を狙って俺は殺し続けた。それだけのために何十、いや何百殺したかも判らねえ。殺して、殺して、殺して――そうやって俺はようやく望みの品を奪い取ったのよ
ホビットが目を開いた。忍者の技を最大限に発揮できる伝説的な武器をな
もう俺も気づいていた。
手裏剣――俺の持っている苦無《くない》がそうか。あれがあんたの未練なのか
ホビットは小さく頷《うなず》いた。
あれを思うと今でも身が震えやがる。こんな姿になっても執着が尽きねえってのは因果なもんだぜ
ひひ、とつまらなそうに嗤《わら》い、ホビットは天――ここに天地があるとしての話だが――を振り仰いだ。
そろそろ時間切れだな。久々に良く喋ったぜ
見ると、俺の遥か頭上に一際白い光が輝いている。と、不意に俺はそこに向かって吸い寄せられ始めた。
あばよ。また会えるといいなあ、ひひっ
どこかしら寂しげに見えるホビットに、俺はまだ聞いておくべきことがあった。
教えてくれ。あんたの名は?
ああ、そいつを訊《たず》ねられたのも随分昔のこった。ハ・キムってのよ
もうひとつ。あんたは成仏してえんだな?
この問いに、ハ・キムという名の霊は幾分面食らった表情を見せた。そして戸惑うように首を――縦に振った。
ああ。もうここは厭《いや》だ。楽になりてえ
覚えとくぜ。世話になった
言う間にも、俺の躰《からだ》――霊体は加速的に上昇していく。
こちらを見上げるハ・キムの姿は急速に霞《かす》んでいった。最後の言葉だけが、微《かす》かに俺の意識に届いた。
俺の忠告も、忘れるんじゃねえよ――
やがて俺は、暖かい光の奔流《ほんりゅう》に包まれた。
それはまさに、誰ひとり欠くことのできぬ連携であった。
フレイが奇声や派手な動作で気を引く隙《すき》に、ハイランスの剣が巨人の片脚を深く抉《えぐ》っていた。
|大気の巨人《エアーエレメンタル》は咆《ほ》え猛《たけ》り、凄まじい勢いで拳を振り回したが、すでにハイランスはその範囲外に身を引いている。破滅的な破壊力を持つ剛腕といえども狙って繰り出さなければ歴戦の侍の足|捌《さば》きを捉えられるものではない。
注意が逸《そ》れた瞬間に、今度はフレイが踏み込んでいた。気取《けど》られぬように静かに、そしてそのスピードにすべてを賭けて。
巨人の足下に転がっているジヴラシアの屍《しかばね》を掴《つか》んだ。気づかれたなら確実に餌食《えじき》となる距離だったが、傷つけられた怒りに我を忘れた巨人はハイランスしか目に入っていない。
非力なフレイに長身のジヴラシアの重量は堪《こた》えた。が、彼は歯を食い縛って渾心の力を振り絞り、信じ難い迅《はや》さでその屍を安全圏まで引きずり出した。
直後に、一瞬前までジヴラシアの頭部があった床に巨大な足が踏み下ろされていた。
気体化する魔物と言えど、実体の質量は見かけ通りのものだった。強烈な圧力に石床はみしりとへこみ、周囲に細かな罅《ひび》まで生じさせる。もしフレイがこのタイミングで回収しなかったなら、ジヴラシアの頭蓋《ずがい》は跡形もなく潰れ、もはやどのような手段を用いても蘇生不可能となっていただろう。
この間に、ディーは大変異《マハマン》の詠唱を終えようとしていた。
様々な奇跡を呼び覚ます驚異の禁呪――その効果には敵対者への確実な呪文封じや、魔物の退呪《レジスト》能力をも打ち破る魔法効果の増大、パーティ全員を保護する超絶的な魔法障壁の発生などが存在したが、ディーが自らの能力を犠牲にして欲《ほっ》する奇跡はただひとつであった。
――死者を生き返らせて! ジヴを蘇らせて!
最後の一音を発しながら、ディーはそれだけを念じた。しかし願い通りの効果が現れる確率は半分にも満たぬ。
それでもディーは念じ続けた。失敗したなら、この場で愛する男の後を追うつもりだった。
禁断の呪文の代償に、全身の力が根こそぎ抜けていくのが判る。エナジードレインを受けるとはこういうことなのかと思う。気が遠くなる。
薄れゆく意識の片隅で、ディーは見た。
忍者装束の男が跳ね起き、|大気の巨人《エアーエレメンタル》へ跳躍する姿を――。
俺を包んだ光は、一瞬に網膜を灼《や》くほどの目映《まばゆ》さに膨《ふく》れ上がった。
瞼《まぶた》を閉じるという行為は、霊体である俺には意味を成さなかった。魂の底まで照らし尽くすような光に感覚は麻痺し、いつしか自分が上昇しているのか、それとも落下しているのかさえ判断できなくなってしまっていた。
気づくと周りは一転して闇に包まれていた。
人に本能的な恐怖を感じさせる暗黒ではない。それまでの光よりも暖かく、優しく包み込むような安らぎを与えてくれる不可思議な闇。胎児が母の胎内で見る闇はこのようなものなのかも知れない。
ぼんやりと痺《しび》れた意識の中で、俺は微《かす》かな声を聴いた。
死者を生き返らせて
誰の声だろう。知っている筈なのに、闇にまどろんだ頭は応《こた》えてくれない。
それよりも酷く眠かった。このまますべてを忘れて眠ってしまいたかった。そうしても構わないような気がする。
そう言えば俺は誰なのだろう。思い出せなくてもいい。いっそこのまま、居心地の良い闇の底に沈んでしまえば……。
ジヴを蘇らせて!
その声がはっきりと漆黒の空間に響いた。
俺の意識は一瞬に冴《さ》えた。ディーが呼んでいる。
同時に、俺は蘇生できるか否かの瀬戸際にいたことを悟った。
周囲の空間から、蜘蛛《くも》の子を散らすように何かが離れていった。
それは無数の揺らめく髑髏《どくろ》――死神の群れだった。連中は舌打ちし、九分通り手に陥《お》ちかけた俺の魂をもの欲しそうに振り返りながら、しかしディーの声に抗《あらが》えず怯《おぴ》えたように去っていく。
危ないところだった。俺はもう少しで死の平穏を受け入れてしまうところだったのだ。
生き返って、ジヴ!
その叫びが、向かうべき場所を教えてくれる。
無明の闇の中、ディーの声を目指して俺は飛んだ。
光が見えた。俺の肉体を象《かたど》った淡い光の塊――それが出口だった。
ふたつの姿を重ね合わせるように、俺は光の躰《からだ》に飛び込んでいった。
意識が現世に戻った瞬間、俺の肉体はまだ屍《しかばね》のままだった。
首が折れているのが判る。痛みはないが、その代わり躰《からだ》を動かすこともできない。霊体が肉体に潜り込んだだけで、まだ一体となって蘇生したわけではないのだ。視覚や聴覚も戻ってはおらず、把握できるのは己の屍の状態だけだった。
と、何かの力場が俺の躰を包んだ。
全身に凄まじいまでの活力が流れ込んでくるのが判る。僧侶呪文の快癒《マディ》をかけられた際の感覚に似ていた。
頸骨《けいこつ》が急速に癒着《ゆちゃく》し、断裂した神経繊維がそれぞれ正確に紡《つむ》ぎ合わされていく。ハイランスとの戦いで受けた左肩の打撲や頬の傷、そして転落時などこれまでに負った細かな擦過傷《さっかしょう》も悉《ことごと》くが瞬時に癒《いや》されていた。
心臓が再び活動を開始し、全身の血管に熱い血液が循環し始めた。活性化した細胞に酸素が供給され、筋肉組織の疲弊《ひへい》が嘘のように消えていく。
首が完全に繋《つな》がった瞬間に、俺の肉体と意識はひとつに同調した。
俺は目を見開いた。|大気の巨人《エアーエレメンタル》に抗戦するハイランスとフレイの姿が見える。耳には巨人の怒号とフレイの罵声、ハイランスの鎧が鳴る音などが一斉に飛び込んできた。
指を屈伸する。動く。
息を深く吸う。吸える。
すべての筋肉に力を篭《こ》める。一点の不安もなく、全身にこれまで感じたこともないほどの力が漲《みなぎ》った。
俺は、蘇ったのだ。
|大気の巨人《エアーエレメンタル》が地響きを立ててこちらに踏み出したところだった。すでに絶命させた筈の俺には一片の注意も向けてはいない。
その刹那《せつな》。俺は一動作で跳ね起き、床を蹴っていた。
自分でも信じられぬほどに躰《からだ》が動いた。技量の壁を越える際の、突き抜けた歓喜の感覚が肉の底にある。
予想よりも遥かに迅《はや》く、自分の間合いに達していた。巨人はもちろん、ハイランスもフレイもまだ俺に気づいちゃいない。
人間の三倍の高さはある巨人の頭部に向けて俺は跳躍した。
ハイランスに片脚を殺されているようだったが、それでも巨人の怪力は失われていなかった。振り回されるその拳を一撃でもまともに食らえば、再び誰かが命を落とす羽目になる。
脚以外にも手傷を負ってはいたが、巨人の生命力はまだまだ尽き果てそうになかった。戦いが長引けば、それだけ死の剛腕に捉えられる危険が増す。
俺はここで決めるつもりだった。
すでに手裏剣は手の中にある。逆手《さかて》ではなく、順手《じゅんて》。
空中で、俺は限界まで反《そ》り返った。
跳躍が頂点に達した。巨人の頭が眼前にある。
ここに至って、巨人はようやく俺の存在に気づいた。確かに息の根を止めた人間が目の前――それもこの高さの空中にいる事実に、その双眸は驚愕で大きく見開かれる。
俺を叩き落とそうと腕を振り上げるのが見えた。が、もう手遅れだ。
俺は全身のバネを解放し、右手の苦無《くない》を振り下ろした。一杯まで撓《たわ》められた筋力がこの一瞬に爆発する。
手裏剣の刃が大気を裂いた。
真空波――たとえ片腕を殺すことになっても、この機会を逃すわけにはいかなかった。この技に武器を使ったのも初めてだったが、今の体調と手裏剣であれば成功すると俺は踏んだ。
一回転しての着地と同時に、鼓膜をつんざく絶叫が轟いた。
巨人の青い肉体に、縦に真っ赤な線が生じていた。
頭部から腹部まで――その巨体をほとんど両断するように、真空の波動は想像を越える半径で巨人を切り裂いたのだ。素手の時とは比べものにならぬ斬風の鋭さだった。
鮮血の霧を噴き上げながら、大気の巨人はゆっくりと頽《くずお》れていった。気体に変ずることができる魔物といえども、実体化した状態で頭部を両断されてはひとたまりもない。
倒れながら、その肉体は実体としての凝集力《ぎょうしゅうりょく》を失っていった。輪郭《りんかく》がぼやけて濃いガス状になり、さらに元の青みがかった気体となってそれは大気中に霧散した。あとには血液すらも残らなかった。
「ジヴ!」
何が起きたのかをようやく理解したフレイが叫んだ時には、すでに俺は昏倒しているディーを抱き起こしていた。
ぐったりと力が抜け、額に汗を滲《にじ》ませていたが、呼吸は緩《ゆる》やかに安定している。一時的に体力を消耗しただけで、命に別状はなさそうだった。
抱えられ、ディーは薄く瞼《まぶた》を開けた。
「ディー……」
「……ジヴ? 良かった……夢じゃなかったのね……」
呟《つぶや》きながら、胸を苦しそうに上下させる。
「喋《しゃべ》るな。落ち着くまで目を閉じてろ」
「うん……」
微《かす》かに頷《うなず》いて、ディーは長い睫毛《まつげ》を伏せた。数秒もしないうちに、安らかな寝息が漏れ始める。
「大変異《マハマン》を、唱えたな」
傍《かたわ》らに寄ってきたハイランスが言った。巨人との紙一重の攻防で、その息遣いはさすがに乱れている。
「大変異《マハマン》だと?」
「うむ。変異《ハマン》の上位呪文でな、幾つかの魔法効果に、蘇生までも含まれると聞いたが、まさか、ただの一度でそいつを呼び起こすとは……」
俺も変異《ハマン》が術者の能力を犠牲にする禁呪だということぐらいは知っていた。まして上位の大変異《マハマン》を使ったとなれば、これだけ激しく消耗しても不思議はない。
そしてもし俺が蘇生しなかったとしたら、半ば昏睡するディーは巨人の攻撃の絶好の的となっただろう。大変異《マハマン》は自殺行為に等しい賭けと言えた。
「無茶な真似しやがって――」
起こしてしまわない程度に、俺はディーを抱く腕に力を込めた。静かに眠るその寝顔が、前よりもさらに愛しく思えてくる。
「ジヴ……」
俺の装束の裾を握り締めるフレイは震えていた。「今になって怖くなってきちゃったよ。あの、あの巨人に睨《にら》まれてさ――」
「見てたぜ。いい戦いっぷりだった」
丸い頬を紅潮させたホビットの頭に俺は右手を置いた。「あれができりゃあもう訓練はいらねえよ」
「えへへ……」
笑いながら、フレイは鼻を啜《すす》った。瞬《しばたた》いた目に涙が滲《にじ》んでいる。
「でもさ、本当に生き返ったんだねえ……へへ、やっぱり駄目だよ、感情を殺すなんて全然できないや」
裾を掴《つか》んだまま泣き出すフレイの巻き毛を、俺は無言で撫でてやった。
この時、俺はやっと異状に気づいた。
右腕に痛みがない。本来なら音速を越える真空波を繰り出したことで毛細血管が破裂し、神経繊維の末端までが断裂してしまっている筈の右腕が、多少の痺《しび》れを残すだけで自由に動かせるのだ。これならば治療呪文をかけなくとも問題はない。
どうやら俺は本当に熟達者《マスター》≠フ壁を凌駕《りょうが》したらしい。そうでなければ、この肉体の耐久力の向上は説明がつかない。恐らくは大変異《マハマン》によって生命エネルギーを注ぎ込まれたのがきっかけとなり、この急激な変化が生じたのだろう。
しばらくは筋《きん》疲労が尾を引きそうだったが、このぶんなら数時間もすれば再び真空波を使えるほどに回復するだろう。現在の痺れも、普通に手裏剣を扱う妨げにはならなかった。
ふと思った。この|技量の成長《レベルアップ》すらも、俺の為すべき運命に関わるのだろうか。
その運命は、未だ知れぬ。
今は静かに、しばしの休息に身を委《ゆだ》ねよう。やがて訪れる、闘いに向けて。
滾《たぎ》る血を抑えるように、俺は目を閉じた。
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転ノ参
ボルフォフの容態が急変したのは、ふたりが最上層の迷走を開始して以来三度目の戦闘の最中であった。
外見は人間だが、内側は妖獣によって同化し尽くされた|牙の僧侶《プリースト・オブ・ファング》――二匹で襲いかかってきたその片割れを斬殺した時点で、ガッシュはボルフォフの異状を察知した。
それまでは傷の痛みに耐えて援護に回っていたボルフォフが、棒立ちのまま動こうとしない。撹乱《かくらん》を当てにしていたガッシュの首筋すれすれを、半裸の僧侶の胸を突き破って生えている腐液に塗《まみ》れた緑の触手が鞭《むち》の迅《はや》さで通過した。わずかでも触れていたなら石化毒に冒され、身動きできぬまま同化される運命を辿《たど》る危険な一撃であった。
「ボルフォフ! どうした!」
叫びながらも、ガッシュは視線を向ける余裕がなかった。剣を振り上げながら触手を切断し、返す刀で僧侶の頭部を横|薙《な》ぎに断ち割る。無表情なデスマスクの上半分が弾けるように消し飛んだが、それは寄生生物にとっての致命傷にはならない。
後退する僧侶の、もはやその部分しかない口元が嗤《わら》うように歪《ゆが》んだ。そしてそれは大きく開かれ、唇の両端が限界を越えて裂け始める。上|顎《あご》は一瞬に後方までめくれ上がり、喉は垂直に天を向いた。
次の瞬間、僧侶の体内に巣食っていた指令体《コマンダー》≠ヘ粘液の糸を引きながら天井に向けて飛び出した。制御し難《にく》くなった肉体を捨て、妖獣《ゼノ》本来の姿で態勢を立て直そうとしたのだ。
しかし、ガッシュはそれを許すほど甘くはなかった。
その巨躯《きょく》からは想像のつかぬ鋭踏み込みと跳躍。指令体《コマンダー》≠ヘ射出されると同時に、上段から振り下ろされる大剣に撃墜される形となった。軟体質の肉に鋼がめり込み、叩き潰される音が戦場となった狭窄路《きょうさくろ》に響き渡る。
抜け殻となった|牙の僧侶《プリースト・オブ・ファング》の肉体が転倒したのは、粉砕された妖獣の肉片が床一面に飛び散った後のことであった。
戦闘は終わった。だが、着地したガッシュの緊張は持続していた。
ガッシュは跳躍の直後、奇妙な音を聴いた。
己の背後で、空気が鈍く鳴る音――それは斧を振り回す際の重い風切り音のように思われた。ならばボルフォフに違いないのだが、何故敵がいない筈の自分の背後で斧が振られたのか、それが判らない。
それゆえに、ガッシュは着地ざま一瞬に振り返った。あたかも危険を察知した猫科の大型獣の如き動きであった。
愛用の戦斧を振り下ろした姿勢で動きを止めたボルフォフがいた。やはり敵対者の姿はない。
「ボルフォ……」
小さく身震いするだけでその姿勢を崩そうとしないドワーフに近づこうとして、ガッシュはあることに気づいた。
鎧の装甲板すら撃ち抜く破壊力を秘めたその斧が通過した空間は、跳躍直前まで己が無防備な背を晒《さら》していた位置ではないだろうか?
そんな筈はない――ガッシュは疑念を即座に否定した。だとすればボルフォフは自分を狙ったことになってしまうからだ。
しかし――。
背筋に生じた悪寒は消えなかった。まるでその部分にぶ厚い刃が潜り込んでいたとでも告げるように。
不吉な予感を懸命に打ち消し、ガッシュはボルフォフに駆け寄った。
「ボルフォフ、痛むのか?」
まだ動けないのは刻々と増し続けてきた傷の痛みに耐えているのであろうと思い、ガッシュは片膝を落とした。ただでさえ二メートルを越す体躯《たいく》では、こうでもしないと俯《うつむ》き加減のドワーフの表情を見て取ることができない。
この時、ボルフォフががちがちと歯を噛《か》み鳴らしていることにガッシュは気づいた。これが体力の消耗からくる寒気であるのなら窮《きわ》めて危険であった。有効な治療の術《すべ》がなく、しかも現在位置すら皆目判らない現状では、安全な場所で休憩を取らせることすらできないのだ。
最前の方策を求めて頭を巡らせつつ、ガッシュは斜め前方からドワーフの顔を覗き込んだ。
ボルフォフが頭を上げたのはほぼ同時だった。
瞬間、ガッシュの呼吸が止まった。
脂《あぶら》汗に濡れたその表情は、例えるなら泣き笑いをしているように見えた。ふたつの感情が綯《な》い交ぜになった、そんな表情であった。
ただし、激しい戦闘を経てすら乱れぬガッシュの息を詰まらせたのは、それが泣く、笑うという表情の組み合わせではなかったことだった。
何かを必死に抑制しようと堪《こら》える苦悶の表情と、それとは対照的に何の感情も表さぬ無表情――小刻みに震えるボルフォフの顔に浮かんでいたのはこのふたつだった。
そしで、その無表情な部分はたった今ガッシュが葬《ほうむ》った、|牙の僧侶《プリースト・オブ・ファング》だったもののデスマスクとあまりにも似ていた。
「……退《さ》、がれ」
歯を鳴らしながら、ボルフォフは必死に呟《つぶや》いていた。「俺に、近づくな、ガッシュ」
切迫した口調を察し、ガッシュは言われた通りに数歩|退《しりぞ》いた。何故そう言うのかは判らなかったが、理由を訊《たず》ねるのは指示に従ってからでも遅くはない。
離れるや否や、ボルフォフは凄まじい勢いで重戦斧を振りかぶった。まるで邪魔が入ることを怯《おび》えるような素早さで短く持ち変え、そしてガッシュが制止する間もなく、一瞬に振り下ろす。
「!」
火花が散り、鎖帷子《くさりかたびら》が裂ける。鈍い音を立てて、刃が肉を抉《えぐ》った。
ボルフォフの肉を。
あろうことか、ドワーフは自らの右大腿部に斧を叩きつけたのだ。
「ぐうっ」
くぐもった喘《あえ》ぎ声を漏らし、ボルフォフはその場に倒れ込んだ。肉にめり込んだ斧が外れ、床でごとんと重い音を響かせる。
「ボルフォフ!」
驚愕から立ち直るよりも先に、ガッシュはボルフォフを抱き起こしていた。「どうしてこんな真似を!」
天井を向いたボルフォフが薄く目を開けた。そこには先刻の死者の無表情はなく、歯を食い縛ってひたすら苦痛に耐える歴戦の勇士の貌《かお》があった。
荒い呼吸の合間に、呻《うめ》くような、咳《つぶや》きが聴こえた。
「ぐっ、くく……取り戻したぞ……」
笑みすら浮かべるその様子に、ガッシュはボルフォフが錯乱したのではないかと疑った。だが、己を傷つけながらも、その目には確かに正気の光が宿っている。
「ガッシュ」
判断しかねているガッシュに、ボルフォフははっきりとした口調で呼びかけた。
「どうやら、俺はここまでらしい」
「何を――」
「正気で話せる時間は、あまりないようだ。まず、俺の鎧を外してくれんか。その間に、話す……」
「しかし、止血を先に」
「頼む」
強く懇願《こんがん》され、ガッシュは乞《こ》われるままにボルフォフの鎧を脱がせ始めた。
安心したようにひと息つき、ボルフォフは言葉を継いだ。
「――どうやらな、俺は種を植えられていたらしい」
「種?」
「うむ。あの傷にな」
ガッシュの手が一瞬止まった。が、目で促され、再び鎧の止め金を外す作業を続ける。
「化物めが……奴はあの口管から、己の一部を傷口に埋めこみおった。その種≠ヘ時間をかけて俺の中に育ち、遂に――」
激痛が疾《はし》ったのか短く喘《あえ》ぎ、奥歯を軋《きし》らせる。それが死の宣告に相応《ふさわ》しい間を生み出した。
「遂に同化が始まった。エレインやアルタリウス――そして今しがたおまえが斃《たお》した|牙の僧侶《プリースト・オブ・ファング》のようにな……」
「……馬鹿な」
「今も躰《からだ》を乗っ取られかけた。もう少しでおまえの背に斬りつけるところだったのだ。こうして脚に傷をつけなければ、あのまま俺は俺でなくなっていただろうよ――」
言われて、ガッシュは後回しになっていた大腿部の止血を思い出した。あの傷では出血も酷かろうと思い、もうほとんど脱がせ終えた鎧の、鎖で編まれた裾を慌ててめくり上げる。
目を疑う光景が、そこにあった。
「止血はいらんと言った意味が、判っただろう」
傷に食い込んだ鎖布が剥《は》がされる激痛に呻《うめ》き、ボルフォフが呟《つぶや》く。
傷口はガッシュが思っていた以上に深いものだった。肉の間から白い大腿骨が覗き、厚い刃で広範囲に肉が削ぎ落とされている。帷子《かたびら》に護《まも》られていなければ一息に切断されていでもおかしくないほど、全く手加減のない一撃をボルフォフは加えていたのだ。
だが、驚くべきことは他にあった。
血が、ほとんど出ていなかった。これほどの傷でありながら、滲《にじ》む程度にしか出血が見られないのである。
まるで‥ボルフォフの体内の血液が枯渇したかのような有り様だった。
「これは――」
「化物が増殖して這い上ってきた痕《あと》だ。その、脹《ふく》ら脛《はぎ》の傷からな」
言葉を失ったガッシュに、ボルフォフは続ける。「もっと早くこの脚を切断してしまえば、あるいは助かったのかも知れん……しかしもう手遅れだ。あとわずかで、俺の全身がこの右脚のように――そこの僧侶の屍《しかばね》のようになる」
ドワーフの視線が泳いだ先に、妖獣の抜け殻となった|牙の僧侶《プリースト・オブ・ファング》の骸《むくろ》が転がっていた。頭部がほぼ破壊され、胸部に触手に突き破られた穴が開いていたが、血液は一滴も噴き出してはおらぬ。傍《そば》に横たわる、先に斬り斃《たお》された僧侶の屍も同様だった。
「ガッシュ」
呼ばれ、それらを茫然と見つめていたガッシュは力なく視線を戻した。
妖獣の同化の恐ろしさは、最初に襲撃された時点で充分に理解していた。初めに犠牲となったエレインが、それまでの。記憶を持ちながら別の存在と化したのをガッシュは確かに見た。
体内に妖獣の細胞体が増殖してしまっては、もはやボルフォフを救う手立てはない――動かし難いその事実に、ガッシュは言い様《よう》のない無力感を味わっていた。
無言のまま、ふたりの目が合った。
ボルフォフの瞳に灯る光が、ガッシュを脱力から引き戻す。恐ろしく重要なことを告げようとしている、そんな目だった。
「鎧を外してもらったのは、わけがある」
「……」
「――俺を、殺してくれ」
「!」
「もうすぐ俺は別のものに……化物になる。そうなる前に、俺はドワーフのボルフォフとして死にたいのだ」
ガッシュの目に浮かんだ拒否の色を見て取り、ボルフォフは被《かぶ》せるように言った。「さっき判ったのだ……奴らは魂の奥底まで触手を伸ばしてくると。あんな忌《い》まわしい肉袋に、意識まで呑《の》み込まれたくはないのだ。ガッシュ!」
「――」
応《こた》えられぬまま、ガッシュはボルフォフから視線を逸《そ》らした。
豪胆な戦士と言えど、躊躇《ちゅうちょ》するのは当然であった。絶望的とは言え、まだ意識の残っている仲間を手にかけるという行為は、完全に妖獣《ゼノ》に同化された冒険者ポーリンを斬り殺したこととは次元が違う。
それがボルフォフ自身望んでいることであっても、即断でさる類《たぐい》のものではなかった。
「ガッシュ! ガ……ぐっ!」
突如、ボルフォフの頑躯《がんく》が腕の中で跳ねた。
「ボルフォフ! しっかりしろ!」
耳元で叫ぶガッシュの声すら届かぬのか、ボルフォフは白目を剥《む》いて激しく四肢を振り回す。深手を負った右脚の痛みも今は感じられぬようだった。
開いた口の中で紫がかった舌が痙攣《けいれん》し、逆流した胃液が密生した髭《ひげ》を濡らす。ガッシュの腕から飛び出してのたうち回るその様《さま》は、生さながら灼《や》けた鉄板の上に載せられた拷問の犠牲者を髣髴《ほうふつ》とさせた。
むしろその拷問のほうが幸せだっただろう。ボルフォフはその肉体を、内側から悪魔に喰い破られつつあるのだ。
ガッシュに為《な》す術《すぺ》はなかった。奥歯を祈れるほどに噛《か》み締め、見守るしかなかった。
唐突に痙攣《けいれん》が止まった。
抱き起こそうとして、ガッシュは凍りついた。
ボルフォフの顔が、あの無表情なデスマスクになっていた。どろりとした死者の眼がガッシュを見つめている。
思わず、ガッシュは剣の柄を握り締めた。
と、そこに苦悶の表情が戻った。しかし苦痛はそれまでの比ではないらしく、食い縛った奥歯が音を立てて砕ける。
「ボルフォフ!」
「後生だ……殺してくれ……俺の意識が、残っているうちに!」
凄まじい精神力だった。すでに運動中枢のほとんどを冒され、恐らくは妖獣の同化が脳にまで達する状態にありながら、ボルフォフは強靱《きょうじん》な意志の力だけで自我を辛《かろ》うじて留めているのだ。
さらにはこの限界の状況において、融合しつつある妖獣の記憶を逆に読み取り始めていた。
ボルフォフの意識に、人のものとはあまりにも異質な意識の断片が流入しつつあった。並の神経ならこの時点で自我が崩壊し、妖獣の精神世界に取り込まれてしまうか、あるいは強度の拒絶によってアルタリウスのように発狂するところを、一時的ではあれこのドワーフの精神は待ち堪《こた》えているのだ。
しかし言葉にしてガッシュに伝えるには、それらの情報は膨大《ぼうだい》かつ異質に過ぎた。叫ぶことができたのはたったひとつの情報だけであった。
「ガッシュ、火口だ! この山の火口を目指せ!」
それをガッシュはしっかりと聞いた。だが、その目はボルフォフを見てはおらぬ。
灰色の瞳は反対側の、通路の奥の闇を見|据《す》えていた。
暗がりの向こうから、石床を金属で擦《こす》る連続音が聴こえてくる。
「仲間を殺しちゃあ、いけねえよ」
鎧の鳴る音とともに、間延びした抑揚のない声が 響いた。
「あんたはそんなことしないよなあ、ガッシュ」
「――ドードゥ」
ガッシュは闇の中から現れたドワーフ戦士の名を呟《つぶや》いた。正確には、その昔の名を。
手にした段平《だんびら》を引き擦《ず》るように進んでくる武装戦士は、眠っているかのように目を閉じていた。
「駄目だぜ、仲間を殺すなんざあ。そいつあ、まずい。だってなあ」
瞼《まぶた》が開いた。「もうすぐ、俺の仲間になるんだぜ」
そこには人の眼球の代わりに、妖獣《ゼノ》の緑の目が嵌《は》まっていた。
「ガッシュ! 俺から殺せ!」
ドードゥの声が聴こえたのか、ボルフォフが上半身を起こして絶叫した。「躊躇《ためら》うな! 俺の意識はもう持たん! このままでは、おまえを背後から襲うことになる!」
「――」
ガッシュは無言で段平を鞘《さや》から引き抜いた。その耳にボルフォフの叫びは届いておらぬのか、その目はドードゥだけを睨《にら》み据《す》える。
「ガァッシュ!」
精神力の限界を感じさせるその絶叫が轟いた刹那《せつな》、ガッシュは一瞬にボルフォフを振り向いていた。
同時に、段平は横|薙《な》ぎに払われる――そう見えた瞬間には、翻《ひるがえ》った剣が上段から神速で斬り下ろされていた。ドードゥに背中を晒《さら》す形になったが、この動作につけいる隙《すき》は微塵《みじん》もなかった。
最初の斬撃は、ボルフォフの首を真横に切断していた。しかしその首は飛ばず、次の斬撃で胴体ごと縦に断ち割られた。刀身の厚い段平の一撃でありながら、とてつもなく正確で迅《はや》い振りが剃刀《かみそり》のような切れ味を生んだのである。
防具を外した肉体は、ボルフォフが望んだ通りに破壊された。十文字に通り抜けた刃は同化されかけた彼の脳の記憶を消滅させ、そして体内で成長を遂《と》げていた妖獣をも完全に絶命させた。
妖獣に屈する直前に、ボルフォフの魂は人の尊厳を抱《いだ》いたまま永遠の眠りに就《つ》いたのであった。
「本当に殺しちまいやがった」
ドードゥだったものが、相変わらず抑揚《よくよう》のない調子でなじった。「まだ人の意識が残ってたのになあ。あんた、仲間を殺したんだぜ」
極めて巧妙にドードゥの記憶を乗っ取ったその妖獣は、人の心理に対してもある程度の理解が可能となっていた。そしてガッシュの罪の意識を掻《か》き立てれば、その動揺がこれから始まる戦闘を有利にすると判断した。
妖獣は非難を続けた。
「そう、罪を犯したんだよ。ボルフォフは古い仲間だったんだろう? それをあんたは殺しちまった。そんなにまでして、生き延びたいのかい」
「やめとけよ」
背を向けたままのガッシュが、圧《お》し殺した声で囁《ささや》くように言った。「人じゃないものが罪を語るのはさ」
落ち着き払った反応に、妖獣は期待を裏切られた気分になった。ならばこちらに背を晒《さら》しているうちに斬りかかったほうが得策かも知れない――そう思い、ドードゥの肉体に剣を待ち上げさせる。
突進しようとした瞬間、ガッシュが向き直った。
その妖獣の不幸は、あまりに正確にドードゥの意強を取り込んでしまったために、人の感情に近い恐怖心さえ理解できる――つまり味わうことができるようになったことであった。
ガッシュの顔を見た瞬間に、妖獣は本来なら持っていない恐怖の感情に取り憑かれた。
その表情を何と表現すれば良いのか。
鬼――それは人の心の奥に潜んでいる修羅の貌《かお》であった。
その鬼が、哭《な》いている。
ただ鬼の表情であれば、妖獣もさほどの恐怖に襲われはしなかっただろう。だが、涙を溢《あふ》れさせてなお、鬼の貌《かお》をしているガッシュは恐ろしかった。自分は触れてはならないものに触れてしまったのではないか――この思いに、人の精神に近づき過ぎた妖獣は震え上がる感覚を知った。
ドードゥの喉から、言葉にならない畏怖《いふ》の叫びが漏れる。
鬼が咆《ほ》えた。
躰《からだ》を揺する小刻みな震動に、ベイキは目覚めた。
微震だった。もう慣れたつもりであっても、眠りは妨《さまた》げられるものなのだなと、彼女は痺《しび》れた頭で考えていた。
周囲は薄闇に包まれている。
まだ起きるには早い。そのうち侍従が朝を告げにやってくるだろう。
それにしてもおかしな夢を見た。あの梯子山《スケイル》を冒険者として攀《のぼ》った夢。
そう。ジヴラシアやマイノスと一緒に、ガッシュに逢いたい一心で標高千メートルの垂壁を登攀《とうはん》した夢。
――夢?
自問した瞬間に、ベイキの頭の靄《もや》は急速に晴れた。
そこは王宮の寝台などではなかった。そもそも彼女は横たわっておらず、覚醒《かくせい》した瞬間から立っていたのだ。
身動きしようとして、ベイキは動けないことに気づいた。周囲の空間には何も存在していないにもかかわらず。
わずかに手足が自由になる程度で、前にも後ろにも進むことができない。強く押すと、同じだけの弾力が緩《ゆる》やかに彼女を押し戻す。
見えない壁――恐らくは魔法の障壁が、円筒形にベイキの周りを囲んでいたのだった。それにもたれる格好で、彼女は今まで気を失っていたのだ。
気絶する直前の記憶が蘇ってきた。マイノス、ザザとオークロードの一群を下し、聖剣ハースニールを背負った直後、背後から伸びてきた冷たい手に抱き竦《すく》められ……。
「ようやく目覚めたな」
気を失う寸前に耳にした嗄《か》れ声が、ぞっとするほど近くから聴こえてきた。
弾かれたように躰《からだ》の向きを回すベイキの前に、長身の人影が佇《たたず》んでいた。暗くて良く見えなかったが、あの時背後に忍び寄ってきた人物に相違なかった。
「ここはどこなのです? 私をここから出しなさい」
断固とした口調でベイキは言った。女王として命令することに慣れた、有無を言わせぬ貫禄がそこにあった。
「さすがはリルガミンの女王ベイキ、凛々《りり》しいものよ」
言って、男は低く呪文を呟《つぶや》いた。小さな炎がその掌《てのひら》に灯り、男を含む狭い範囲を照らしだす。
揺らめく光に浮かび上がった男の奇相は、ベイキの意気を挫《くじ》くには充分な効果を持っていた。短く悲鳴をあげ、彼女は退《しりぞ》くように背後の障壁に身を押しつけた。
その様子に、バンパイアロードと称する魔人は毒々しく紅《あか》い唇を歪《ゆが》めて満足そうに嗤《わら》った。唾液に濡れた二本の牙が、炎を反射して淫《みだ》らに光る。
「そうやって怯《おぴ》えてみせれば、少しは楽に死ねるやも知れんぞ。何しろおまえは我が主《あるじ》が八つ裂きにしても飽き足らぬと仰せられる女の末裔《すえ》なのだからな」
落ち窪《くぼ》んだ巨大な眼球が、品定めをするように覗き込んだ。吐き出す冷気の生臭さに、ベイキは嘔吐《おうと》感でほとんど失神しそうになる。
思わず胸に下がったペンダントに手を置き、祈っていた。
――お助け下さい、ニルダの神よ。
「やはり惜しいな。せめて一口、おまえの血で我が喉を潤《うるお》したいものだ」
長い爪を備えたバンパイアロードの腕が、そろそろとベイキに向かって伸びてくる。障壁は外から侵入してくる魔人には何ら抵抗を示さぬようだった。
――ガッシュ、助けて!
目を閉じて強く念じたその時、彼女に触れようとした指先に向けて、ペンダントから無数の細かな雷《いかずち》が放電された。
「くあっ」
短く叫び、魔人は腕を結界から引き抜いた。見ると人差し指が焼け焦《こ》げ、半ばほどで消し飛んでいる。
「小癪《こしゃく》な……我が牙にかかって果てたがましだったと、必ずや後梅することになろうぞ」
炎を振り消し、バンパイアロードは忌々《いまいま》しげに闇の中へ消えていった。
何が起きたのか良く判らぬまま、ベイキはほっと息をついた。少なくともこの、アドリアンに贈られたペンダントに護《まも》られたことは確かだった。
その時彼女はようやく、ハースニールも背に括《くく》りつけられたままであることに気づいた。
何故あの吸血鬼は、これらの聖剣や護符を取り去ってしまわなかったのか?
理由はひとつだった。ベイキが自ら外さない限り、魔人にはこれらを奪うことができないのだ。
彼女は安堵《あんど》し、両手でペンダントを強く握り締めた。そしてもう一度、愛する男の名を念じた。
――助けに来て下さい、ガッシュ!
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第八章 剣を投じる者たち
「ふたりが立ち去ったのは、随分と前になるようだな」
通路に屈《かが》み込んでいたハイランスが、開け放った扉越しに呟《つぶや》いた。「かなり腐敗が進んでやがる。ふん、こんな化物でもくたばれば俺たちと同じように腐りやがるんだな」
俺はもう一度周囲を見回し、何らかの手掛かりが残されていないか確認した。だが、見落としを期待するにはその空間はあまりにも狭く、殺風景だった。
「遅過ぎたんだ」
傍《かたわ》らでフレイが力なく言葉を漏らした。
そこはガッシュとボルフォフが身を潜めている筈の玄室だった。
フレイの案内でここに辿《たど》り着いた時には、すでに室内は藻抜《もぬ》けの殻《から》となっていた。
理由は明白だった。ハイランスの前に転がっているものたちに、この玄室を発見されたからだ。
そこには縦に臍《へそ》まで真っ二つにされた屍《しかばね》があった。かつてポーリンと呼ばれた、第二層で惨殺されたサーベイやバルザックスとパーティを組んでいたホビットの冒険者の骸《むくろ》――しかしその内側は妖獣《ゼノ》に同化され尽くしている。
ガッシュたちは十中八九、この妖獣《ゼノ》を斃《たお》すと同時に玄室を後にしたのだろう。その屍の腐敗が進行しているとなると、ふたりがまだこの近辺を逃走しているとは考え難《にく》かった。
「辿る糸は途切れちまったってわけか」
俺とフレイは遺留物の探索を諦《あきら》め、通路側に戻った。「この層の造りじゃあ、闇雲に探し歩いても埒《らち》があかねえしな」
「この様子ならふたりはうまく逃げ延びたんだろう。それだけでも僥倖《ぎょうこう》とせにゃあなるまいよ」
「まあな」
ハイランスの言うことはもっともだった。もしガッシュとボルフォフがこの袋小路に等しい玄室に立て篭《こも》り続けていたなら、とっくの昔に押し包まれて妖獣《ゼノ》どもの餌食《えじき》となっていたところだ。
しかしそれでも、俺は落胆を隠せなかった。もう少しでガッシュたちに遭《あ》える――その期待が寸前で裏切られる形になっては、そう易々《やすやす》と気分を切り替えられるものじゃあない。殊《こと》にこの最上層の構造を目《ま》の当たりにした後ではなおさらだった。
|大気の巨人《エアーエレメンタル》と遭遇した玄室を出発して以来すでに二時間あまりが経過しようとしていた。
フレイの案内は完璧と言って良かった。全く迷うことなく、最短の道筋で俺たちをこの地点まで導いてくれている。
感覚的に判断して、ふたつの地点を直線で結べばさしたる距離にならない筈だった。にもかかわらずこれだけの時間を要したのは、迷宮の構造が異常なまでに複雑だったためにほかならない。宝珠の探索者を惑わす目的で構築された、まさに最後の砦《とりで》なのだ。
その迷路を手掛かりもなく探し回ったところで、同様に迷走するふたりに遭遇する可能性は極めて低い。それを思うと、ここで合流できなかったことを悔やまずにはいられなかった。
「この際ガッシュ、ボルフォフの捜索は優先するべきじゃないな」
ハイランスはおもむろに立ち上がった。「むしろマイノスやザザ――それにベイキ女王と、アドリアンとかいうのがいるんだったな――この連中と先に出会えれば都合が良いんだがな。どのみち俺たちだけじゃボルフォフの治療はできんだろうし、ディーの体力回復も考えにゃならん」
「あたしのことは気にしないで頂戴《ちょうだい》」
それまで通路の壁に背をもたれさせ、眠っているように瞼《まぶた》を閉じていたディーが言った。
「大変異《マハマン》の後遺症は一時的なものよ。それにもうほとんど回復しているわ」
そうは言いながらも、ディーの体調がまだ優れないのは明らかだった。
大変異《マハマン》を唱えて俺を蘇生させたことにより、ディーは激しい消耗と同時に魔術師として一|段階《レベル》に相当する能力を喪失していた。一度身につけた呪文こそ忘れはしないものの、今現在のディーは熟達者《マスター》≠ノわずかに満たぬ頃の状態まで技量を戻している筈だ。
それに伴う体力の減退に加え、充分とは言えぬ休息を取っただけで緊張を強いられる迷宮行を二時間も続けては、復調が遅れるのも無理からぬところだった。
「ディー」
「大丈夫よ。それよりね――」
歩み寄ろうとした俺を刺し、ディーは身を起こした。「さっきの話だけど。あの、宝珠の幻視で見たもののこと」
「ああ」
衰弱したディーと、巨人との戦闘で疲弊《ひへい》したハイランス、フレイの回復を待つ間に、俺は幽界で見た光景の幾つかを話して聞かせていた。中でもディーが興味を持ったのは、天変地異の原因として宝珠が示したあの物体の映像に関してだった。
「あれに妖獣《ゼノ》が張り付いてたって言ってたわよね。そのことについて考えてたんだけど、今|閃《ひらめ》いたの。いいかしら?」
「聞こう」
ちらと視線で問われたハイランスが頷《うなず》いた。
「ジヴが幽界で見たものがすべて真実なら、もしかしてあたしたちは重大な情報を握ったことになるんじゃないかってこと」
「――?」
「ねえジヴ、それにハイランスも思い出してみて。ミフネの霊が言っていたことを。あの妖獣《ゼノ》は流星に乗って天からこのスケイルに降ってきた……他のどこでもなく、ここにね」
ディーは俺たちの顔を見回し、続けた。「逆に考えれば、奴等はここにしかいない可能性が高いってことよ。その妖獣《ゼノ》があの物体にへばりついていたってことは、つまり……」
「そうか!」
叫び、ハイランスが顔色を変えた。
俺ももうディーの推論を理解していた。
「つまり天変地異の原因は地の果てにあるんでも地獄の釜でもねえ、このスケイルのどこかにあるってことか!」
「あたしの考えが間違ってないなら、その通りよ」
疲労した様子とは裏腹に、ディーの瞳には強い光が宿っていた。術の技力は減《げん》じたといえども、これまで魔術師として磨き抜いてきた知性は健在なのだ。
「ガッシュたちにせよザザたちにせよ、居場所を捜す当てがない以上どこに向かっても同じことだわ。だったら、こちらを目指してみても悪くないんじゃないかしら」
「俺たちに何ができるかは判らねえが、な」
俺は考えただけで胸が悪くなるあの物体のグロテスクなフォルムを思い浮かべた。仮にあれに辿《たど》り着いたとしても、どのように関わっているのかも判らぬ異変を止めることなどできるのかどうか。
しかし万にひとつでも大破壊《カタストロフィ》を食い止める可能性があるのなら――それだけでも目指す価値は充分にあった。
「だが、そいつを探すにしてもどこにあるのか皆目見当がつかん」
「見当はついてるわ」
ハイランスが首を捻《ひね》る間も与えずにディーは即答した。
「もう一度ミフネの言葉を思い出して。妖獣《ゼノ》を乗せた流星はこの山の火口に落ちて、その途中で止まったのよ。今思えば宝珠で幻視した竪《たて》穴は噴火口で、あの黒煙は噴煙に違いないわ」
まるで嵌《は》め絵のかけらが次々に組み上がっていくような気分だった。言われてみれば、何故今まで考えつかなかったのかと思うほどに情報の断片がぴったりと当て嵌まっていく。
「それと、恐らく――」
少し思考を整理する間を置き、ディーは続けた。「火口に通じる侵入口はこの最上層のどこかにある筈よ」
「他の層に隠されている可能性は? 確かに第一層から五層までは一通りの探索が済んではいるが、万全とは言えんぞ」
「それは妖獣《ゼノ》の出入口でもあるのよ。もし他の層にあったなら、あたしたちはもっと以前に奴等に出くわしていたでしょうよ」
「なるほど」
ハイランスは肩を竦《すく》め、俺を見た。「俺のパーティが宝珠の探索でおまえさんたちに常に遅れを取ってたわけが判ったよ。あのメンバーに加えて、これだけ冴《さ》えた魔術師がいちゃあな」
「もっと早く引き抜いておくべきだったわね」
「何言ってやがる。ジヴ以外と組む気はさらさらなかっただろうに」
にたっとからかうように笑った後、髭《ひげ》のエルフは表情を引き締めた。
「俺にとっちゃあ火口行きは好都合だ。妖獣《ゼノ》どもがたっぷり待っててくれそうだからな。行くか、ジヴ?」
「訊《き》かれるまでもねえ。フレイ――」
「うん?」
「迷った時に見たものでも何でもいい、火口に近いんじゃねえかと思う方角でそれらしい場所に心当たりはねえか?」
「ええっ? そんなこと言われてもなあ……」
フレイは自信なさげに巻き毛を掻《か》きむしって考え込んだが、すぐに大きな目をくりくりと動かして頷《うなず》いた。
「そう言えば変な場所があった! やけに暗くって、ランプの光りもほとんど役に立たないようなところだよ。すぐに引き返したから断言はできないけど、この山と迷宮の位置を考えると多分あっちが噴火口だと思う」
「案内できるか」
「もちろん!」
「ようし、上等だ」
フレイの背中を強めにどやし、俺はディーに視線を送った。「もう少し休んだほうがいいな」
「駄目よ。すぐに出発しましょ」
その貌《かお》はまだ疲労の翳《かげ》が濃かったが、ディーの口調には有無を言わせぬ気迫が感じられた。「こうしている間にも大破壊《カタストロフィ》は近づいているんだから。歩いてるうちに調子も戻るわ」
「だがよ」
「その前に――」
俺たちだけに聴こえるように、ハイランスが静かに呟《つぶや》いた。「どうやらお客さんのようだ」
すでに刀の柄に手をかけている。ハイランスは接近する何者かの気≠逸《いち》早く察知していた。
ディーとフレイを背後に回し、俺は横に並んだ。
通路の闇の、奥――。
俺の鼓膜も、足早に近づきつつあるふたつの靴音を捉えていた。こちらのかざす発光瓶に気づいたのか、それらはにわかに歩く速度を上げ始めた。
やがて、ふたりの冒険者が光の届く範囲に姿を現した。
「お、おお……ハイランスではないか! それにジヴラシア……おお、フレイにディーまでいるのか!」
転げるように闇から飛び出してきたのは、妖獣《ゼノ》と化したポーリンと同じパーティのメンバー――魔術師シャイロンと傷を負ったのか両目をあり合わせの布で目隠し状に覆った盗賊アルフのふたりのノームだった。
「助かった、助かったぞ、アルフ……」
憔悴《しょうすい》した様子のシャイロンはその場で力尽きたようにしゃがみ込み、背後で手を引くアルフに囁《ささや》いた。口元にも酷い裂傷を負ったアルフは喋《しゃべ》ることもできないのか、無言で緩慢《かんまん》に頷《うなず》いている。
俺はハイランスを横目で見た。唇の片端を吊り上げた奇妙な笑みを浮かべ、ハイランスも俺を見ている。
小さく頷きあい、俺たちは視線をノームたちに戻した。
「シャイロン、良く無事だったなあ」
無事を喜ぶというよりは、半ば愉快そうな声でハイランスが言った。「そこにポーリンが殺《や》られててなあ、てっきりおまえさんたちはみんな同じ目に遭《あ》っちまったんじゃないかと心配してたところさ」
「私は大丈夫だ。しかしアルフが手酷い傷を受けていてな、まだ応急処置しかしとらんのだ」
「そのようだな。目と、口ね」
へたり込んだまま、シャイロンは気が気ではないといった風に身をよじった。
「早く手当てをしてやってくれ。フレイ……ディーでもいい。早くここへ――」
「じゃあ、僕が……」
「いや、俺がやろう」
ディーを気|遣《づか》って出ていこうとするフレイを制し、俺はゆっくりと前に歩み出た。それに合わせ、ハイランスが滑《なめ》らかな足|捌《さば》きで少しずつ前進し始める。
「ディー」
振り向かずに、俺は背後に声をかけた。「もうしばらく休んでられそうだぜ。ちょっとばかり時間がかかるかも知れねえ」
シャイロンの横をすり抜け、アルフの前に立つ。
その間シャイロンはやけにぎらついた目をこちらに注いでいた。
「それにしても、随分変わった傷を受けたもんだな。アルフよ」
俺は目の覆いを取るようにアルフの顔面に手を伸ばした。「まるで――」
「まるで?」
シャイロンが訊《たず》ねてきた。訊ねながら、そっと俺の背後に回っていく。
アルフの口の周囲がぴくぴくと痙攣《けいれん》した。
「そう、まるで――まるで口の中から何か飛び出したような裂け方だな」
言った瞬間、その口がぱくりと音を立てて開いた。そして中から妖獣《ゼノ》の幼生が、避けようのない至近距離にある俺の顔面に射出される。
しかしそれより早く、手裏剣がアルフの喉を下から突き上げていた。あらかじめ伸ばした手の裏側に隠しておいたものだ。
口から半ば飛び出しかかった状態で、幼生は刃に顎《あご》から縫《ぬ》い止められる形になった。そこで激しく身をくねらせ、あの厭《いや》らしい哭《な》き声をあげる。
「はっ」
気合いもろとも、俺は腕を思い切り振り上げた。
アルフの顎から額にかけての骨を断ち割り、手裏剣が頭上に翻《ひるかえ》る。妖獣《ゼノ》の幼生はふたつに裂けて絶命した。そこで逆手《さかて》に持ち変え、今度はアルフの胸に突き立てる。そのまま膝を祈って手裏剣に体重を預け、一息に引き下ろした。
アルフの胸から下腹までが切り裂かれ、内側から大量の液体がこぼれ落ちる。が、それは赤い血ではなく、石化成分を含んだぬめりの強い妖獣《ゼノ》の体液だった。
アルフの内側に潜んだまま、妖獣《ゼノ》の指令体《コマンダー》≠烽ワたその忌《い》まわしい生命活動を停止させた。
「おのれ」
呪詛《じゅそ》の叫びを漏らし、俺に背後から襲いかかろうとするシャイロンにハイランスの声が飛んだ。
「相手が違うぜ、化物」
その言葉よりも先に、充分に間合いを詰めての斬撃がシャイロンの躰《からだ》に届いていた。恐ろしく鋭利な気≠フ刃は、背中から前面まで突き抜けて袈裟《けさ》がけに疾《はし》り抜ける。
「うまく化けたほうだったぜ」
俺は言い、振り向きざまに回し蹴りを放った。それは動きの止まったシャイロンの額を捉え――そして上半身だけを壁に叩きつけていた。
「アルタリウスを啖《くら》った奴に比べりゃあな」
左肩を残した斜めの切り口を揺らめかせ、やや遅れて下半身が倒れ込んだ。ハイランスの斬撃を受けた時点で、シャイロンだったものはすでに息の根を止められていたのだ。
「油断させるつもりだったんだろうが、逆に油断しちゃ話にならんな」
ハイランスが|達人の刀《マスターカタナ》を鞘《さや》に収めた。「どんなにうまく化けようとも気配は妖獣《ゼノ》そのものだ。騙されようがないぜ」
「大した休憩にはならなかったな」
俺はディーに言った。「火口へ、出発しよう」
長く尾を引く悲鳴が、暗い玄室に谺《こだま》した。
その残響が消え去る前に、重い音を響かせて声の主《ぬし》が、風に叩きつけられる。
そいつは犬に似ていた。
しかし、犬ではない。
灰色の剛毛に覆われた子牛ほどもある巨体と、笑みを浮かべたように裂け上がった顎《あぎと》から突き出す太い牙。そして瞳のない、血の色だけを映した鮮紅色《せんこうしょく》の双眸――。
ヘルハウンドと呼ばれる、魔界に生まれた獰猛《どうもう》窮《きわ》まりない生物であった。その魔犬が、太い胴から青黒い内蔵をはみ出させて絶命していた。断末魔の悲鳴を迸《ほとばし》らせた喉からは、だらりと伸びた長い舌とともに黒ずんだ血が流れ出している。
ガッシュの仕業であった。
魔界より召喚された凶獣といえども、熟達者《マスター》≠フ技量を遥かに凌駕《りょうが》する超戦士が繰り出す斬撃を浴びてはひとたまりもない。一撃のもとにその厚い毛皮ごと腹部を粉砕され、即死している。
しかし――。
追い詰められているのは、ガッシュであった。
別のヘルハウンドの咆哮《ほうこう》が轟いた。
それも一匹ではない。輪唱するように、呼応した無数の唸り声が、玄室の空気を低く震わせる。
突如、闇を切り裂くように炎が迸《ほとばし》った。それは火炎の帯となって玄室の中央に伸び、周囲の光景を一瞬ながら赤く照らし上げる。
十五・六匹あまりのヘルハウンドの群れが、ぐるりと円陣を描いて唸りを上げていた。いずれも牙を剥《む》き出しにし、もうすぐありつけるであろう新鮮な肉に涎《よだれ》を滴《したた》らせている。
その円の中央に、直撃は躱《かわ》したものの火炎の高熱に焙《あぶ》られるガッシュの姿があった。
炎はヘルハウンドが吐き出したものだった。竜の眷属《けんぞく》の多くが身につけているブレスと同質の、体内で生成した火炎の息を放射する能力である。
だが、この地獄の魔犬どもの恐ろしさは他にあった。即ち、犬の類《たぐい》では決して待ち得ないほどの知性の高さ、狡猾《こうかつ》さである。
足下には数匹の魔犬の屍《しかばね》が転がっている。円陣を崩して突進してきたものを攻撃した跡である。
そしてこれらは囮《おとり》であった。
ガッシュほどの力量があればこれらを迎え撃つことなど容易《たやす》い。息も乱さず、接近してきたヘルハウンドを確実に段平《だんびら》で捉えることができる。
だが、その際にどうしても体勢を崩す羽目になる。いや、むしろ突出してくるヘルハウンドはガッシュに手傷を負わせるのではなく、体勢を崩すことだけを目的とした攻撃を仕掛けてくるのである。
それに合わせ、円陣から充分に狙いを定めたブレスが浴びせかけられる。通常なら避けることのできるこの炎も、死を前提とした囮《おとり》とのコンビネーションによって着実に相手の体力を奪う攻撃と化す。
事実、ガッシュはすでにこの数回のブレスで鎧の下に広範囲に渡る火傷《やけど》を負っていた。初めはさほど感じられなかった痛みが、今では躰《からだ》の切れに重くのしかかってきている。
ガッシュにとってヘルハウンドは初めて遭遇する魔物であった。彼は知る由《よし》もなかったが、この凶獣たちもまたル‘ケブレスの支配下では存在しなかった新手である。
それだけに敵の能力を把握《はあく》できない部分もあったのだが、この窮地を招いたのはそれ以上に怒りに身を任せた無謀な行動にあった。
ボルフォフの命を自らの手で絶った瞬間から、ガッシュの精神の底に消しようのない激情の炎が燃え盛っていた。それはドードゥと同化した妖獣を徹底的に、狂ったように破壊し尽くしても鎮《しず》まるものではなかった。
そして、ガッシュはボルフォフが最後に残した言葉に従った。
梯子山《スケイル》の火口を目指す――そうする他に、無限に湧き出しでくる怒りを消化する術《すぺ》はなかった。
現在位置すら判らぬまま、ガッシュはただがむしゃらに迷宮を駆けた。行く手を阻《はば》む魔物はその正体すら見極める前に斬り捨てて駆けた。彼の駆け抜けた跡には酸鼻を極める挽肉《ひきにく》状の屍《しかばね》しか残らなかった。
だが、それは遭遇した敵の数が少なかったからこそ通用した。
どれほどの力を持つ戦士であっても、圧倒的な数の不利を覆《くつがえ》すのは難しい。特に呪文やブレスによる攻撃は体術での回避が困難であり、そうした能力を持つ敵の群れに囲まれた場合、一体一体斬り斃《たお》していく間に相応のダメージを被《こうむ》るのは避けられない。彼がそれまで無傷で進めたのは運に恵まれたからに過ぎなかった。
そして遂に、ガッシュは致命的な闘いが待ち受けるこの玄室に飛び込んでしまったのだった。
肌を灼《や》く火炎が消え去る前に、彼は素早く周囲を見回した。
円陣の突破は不可能であった。ガッシュの側から無理な動きを取れば、魔犬の群れはここぞとばかりに一斉に襲いかかってくるだろう。
しかし、このままでもじわじわと体力を奪われた末に、動けなくなったところをあの牙に食られることになる。一対一では負ける謂《いわ》れのない相手であったが、剣で片付けるにはあまりにもヘルハウンドの数が多過ぎた。
――これまでかな。
絶体絶命の状況下で、ガッシュは冷静に死を覚悟した。どのように攻防を組み立てても、自分独りでこの場を切り抜けることはできそうにない。
ならば、一匹でも多く道連れにしてやろうじゃないか――もしヘルハウンドに人の表情が理解できるなら、恐らく震え上がったであろう凄惨な笑みがその口元に浮かんだ。
じりっ、と靴底で石床を擦《こす》りながら、ガッシュはふと、この一年の間迷宮での戦いをともにした仲間たちを思った。
――連中と一緒なら、こんな犬どもはどうってことはないんだがな。
仲間たちの姿が次々と脳裏に浮かぶ。
ディーが緑の髪をなびかせて灼熱の呪文を唱える姿。
ザザが眉ひとつ動かさずに不死の怪物を解呪《ディスペル》する姿。
マイノスが雄叫びをあげて必殺の突きを繰り出す姿。
フレイが敵の死角に回り込んで短剣を突き立てる姿。
すでに死んでいったエレインやアルタリウス、ボルフォフの姿も浮かび、消える。
そして、素手で魔獣を一撃に葬《ほおむ》る忍者――ジヴラシアが脳裏を過《よぎ》った。
――あるいは、あいつなら……暇さえあれば憑かれたように単独で迷宮に替り、実戦を重ねていたジヴならこの場もうまく凌《しの》げるだろうか?
そんなことを考えながらも、ガッシュはじりじりと摺《す》り足で移動し、攻撃に移る機を窺《うかが》っていた。
恐らくその瞬間から数秒で自分は息絶えることになるだろう。その間に何匹斬れるかにすべてを賭けるつもりだった。せめて五匹、できれば六、七匹まで斃《たお》したい――つまらぬ意地ではあったが、それが戦士としてこの数年を過ごしてきた己への手向《たむ》けであった。
元々ガッシュは冒険者になるつもりなどなかった。人並外れて恵まれた体格を持ってはいたが、彼は闘争ようも平和な営《いとな》みを好み、愛していた。
それだからこそ、生まれ育った故郷が野盗の集団に襲われた十八の歳、自ら剣を取る決意を固めたのだった。
村の若者の多くが斃れ、彼を育てた農夫の父も凶刃に命を落とした壮絶な戦いの中で、ガッシュは自分が考えていた以上に己の肉体が戦士に向いていることを知った。戦いの素人であった筈の彼の振るう剣は野盗どもを易々《やすやす》と薙《な》ぎ倒し、その体当たりは数人の骨をまとめてへし祈った。何より遙かな昔、そうした血煙《ちけむり》漂う戦場の空気を当たり前に吸って生きていたような奇妙な感覚が蘇ってきていた。
甚大な被害を受けながらも、村人たちは野盗を撃退した。天涯《てんがい》孤独の身となったガッシュは、しかし村には残らずに冒険者となった。戦いの中で得た感触を確かめたかったこともあったが、心の奥底にそうしなければならないという半ば予言めいた義務感が生じていたのである。
それが後の宝珠探索の予感であったのかどうかは判らない。ただ、ガッシュはそれから数年を冒険の中に身を置き、戦士として目覚ましい成長を遂《と》げていったのだった。
そしてそれは梯子山《スケイル》探索の初期、仲間たちの命を救う力となってくれた。
すでに己の役目を果たしたと思えば、悔いることはあるまい。
不敵に笑い、いよいよ突進しようと身を低くしたその時、ガッシュは不意にある少女を想い浮かべた。
ベイキ女王だった。
――こいつが俺の未練かな。
初めて謁見《えっけん》した時から、奇妙に気にかかる存在であった。まだまだ少女らしさが抜けず、またあまりに身分が違うにもかかわらず、ふとした弾みでガッシュはその闇色の瞳を思い浮かべてしまうのである。
まるで、誕生する以前から焦《こ》がれていたような想い。それは戦士として歩み始めるきっかけとなったあの感覚――前世の記憶が蘇ったかのような懐かしさにも似ていた。
しかしもう逢うことはあるまい。自分に残された生命の刻《とき》はわずかしかない。
未練を振り払うように、ガッシュは咆《ほ》えた。
そして円陣の一角に向け、巨体に似合わぬ迅《はや》さで突進する。
ヘルハウンドは傷ついた獲物が早晩そうした行動に出ると予測していた。ただし、玄室の出口に向かうだろう、と。
ガッシュはその逆を衝《つ》いた。脱出に対して一切の望みを捨て、厚い壁を背負った一匹を最初の目標に定めた。
そのヘルハウンドは完全に虚を衝かれる形となった。ガッシュの動きに対して反応を示す前に、頭蓋《ずがい》骨にぶ厚い刀がめり込む。脳を粉砕され、魔犬は声ひとつあげることなく即死した。
段平《だんびら》を引き抜いたガッシュはそのまま動きを止めることなく、壁際を伝って次の目標に疾走する。
そのヘルハウンドは辛《かろ》うじて飛びかかるだけの間を与えられた。反射的に宙に舞ったが、それは身を低くしたガッシュに無防備な腹部を晒《さら》す格好になる。腹から背に刀が潜り抜け、ヘルハウンドは空中でふたつに切断された。
しかし、ヘルハウンド側も態勢を立て直しつつあった。円陣を急速に狭《せば》め、ガッシュを壁を背にした半円形の中に捉え直す。
同時に再び囮《おとり》が二頭、包囲の輪から矢のように飛び出した。
ガッシュも突進する。そこへ複数の炎が浴びせかけられるが、構わず盾で振り払い前に出る。
巨漢と二頭の凶獣が交錯した。
一匹は正面から、喉から後頭部にかけてを刃に貫《つらぬ》かれていた。だが、それを引き抜く際のわずかな遅滞《ちたい》が隙《すき》を生み、もう一頭の牙がガッシュの腿《もも》に深く埋め込まれた。
「ぐうっ」
短く呻《うめ》きながらも、ガッシュは食らいついたままのヘルハウンドの首に段平を打ち下ろした。頭部だけとなった魔犬はそれでも牙を突き立てたままで、彼は歯を食い縛ってそれを弾き飛ばす。牙が外れ、鮮血が迸《ほとばし》った。
ヘルハウンドはもう囮を用いる必要はなかった。足に深傷を負ったガッシュなら、後は炎の息を吐きかけるだけで容易に息の根を止められよう。ガッシュもこれが致命傷と悟っていた。心残りは四匹しか葬《ほうむ》れなかったことだった。
十匹を超える魔犬どもが一斉に空気を吸い込むのを見ながら、ガッシュは渾心の力を込めて一匹に段平を投げつけた。重い剣は凄まじい勢いで回転し、そのヘルハウンドの胸部に深々と突き刺さる。
炎を吐き出す寸前だった魔犬は、喉から炎と血を一緒くたに吐き散らして頽《くずお》れた。これで、五匹。
――こんなところだろう。
ガッシュは穏やかに肩を竦《すく》め、地獄の炎が伸びてくるのを待った。
だが――。
それより早く、彼は玄室内に響く詠唱の韻律を耳にしていた。そして、強烈な魔力が喚起される気配が五感を襲う。
呪文詠唱の完了と同時に、周囲の空気が変質した。
大気に魔法的に生成された有毒成分が混じる。ガッシュの舌に厭《いや》な味が広がり、微《かす》かな刺激臭が鼻腔《びこう》をくすぐった。
一瞬の後、十匹あまりのヘルハウンドは残らず塵《ちり》と化し、一切の痕跡を残さずにその肉体を四散させた。
塵化《マカニト》の呪文であった。
魔術師系第五レベルに属する攻撃呪文であるが、その存在は極めて特殊な部類に属している。
第一に、大気を操る呪文の特性として無効化されることがない。どれだけ強靱《きょうじん》な退呪《レジスト》障壁を纏《まと》った魔物であっても、この系統の呪文は空気自体を変質させるためにその効果を退《しりぞ》けることができないのである。
次に、特定の魔物に対しては全く効力がない。即ち、呼吸を必要としない不死怪物《アンデッドモンスター》の類《たぐい》と、そして冒険者で言えば中位レベルを超える生命力を有する相手には、生成される物質は何ら有毒性を発揮しないのだ。
しかしそれ以外の生物にとっては、この呪文で生み出される大気はまさに致死の空気≠ニなる。有毒成分は肉体の結合性を瞬時に、確実に失わせ、爆炎《ティルトウェイト》に匹敵する広範囲の敵を完全に塵《ちり》と分解してしまうのである。
ヘルハウンドを殲滅《せんめつ》しながらも、その中心にいたガッシュが無事であったのはこうした塵化《マカニト》の特性による。相手によっては爆炎《ティルトウェイト》以上に攻撃性の高い大量|殺戮《さつりく》の呪文であった。
ガッシュは、詠唱者が潜んでいるらしき闇を見|据《す》えていた。
まだ、警戒は解いていない。
助けられたのは間違いのないところであった。あと数秒|塵化《マカニト》が遅かったなら、ガッシュは生焼けの屍《しかばね》としてこの場に転がっていただろう。
だが、彼の心の中には消し難い疑念が渦を巻いていた。
戦闘が始まった時点で、この玄室にいたのはへルハウンドの群れとガッシュ本人だけであった。それ以外の人物など、絶対に存在しなかった筈なのだ。
と、すれば戦闘の最中《さなか》に入り込んできたのだろう。それは良しとしよう。
ならば何故、自分はその気配に気づかなかったのか?
八方を囲まれた絶体絶命の状況であれ――いや、それだからこそガッシュの神経は極限まで研ぎ澄まされていた――新たな敵となり得る闖入者《ちんにゅうしゃ》の存在を察知できなかったという事実が、ガッシュに緊張の持続を要求していた。
ガッシュは自らの能力を過信しないが、軽んじもしない。正確に評価したうえで、自分に悟られずにそこにいる術者を常人ではないと判断した。
「貴様がガッシュか?」
闇の向こうで聞き覚えのない声がした。ややあって、そこに淡い光が灯る。
魔法の光に浮かび上がったのは、信じられぬほど端麗な男の貌《かお》であった。ガッシュは、この男を知らない。
「ああ、そうだよ――」
急激に増してきた腿《もも》の痛みに耐え、喘《あえ》ぎを噛《か》み殺してガッシュは答えた。敵か味方か知れぬ相手に、深傷《ふかで》を負っていることを気取《けど》らせるのは賢明ではない。
「それで、あんたは? どうして俺の名を知り、どうしてここにいる?」
「それを話すのは後だ」
言いながら、男はガッシュに向かって近づき始めた。
「そういうわけにもいかんだろう」
気力を振り絞り、ガッシュは身構えた。段平《だんびら》の転がる位置は遠く、今は無手のままだ。
「何が取り憑いてるか判らんしな」
「安心しろ。あれに――ジヴラシアたちは妖獣《ゼノ》と呼んでいたが――同化された者が呪文を操ることはあるまい?」
歩みを止めぬまま男は言った。が、ガッシュはその言葉を最後まで聞いていなかった。
「ジヴラシアだって? あんた今そう言ったな?」
「そうだ。私は彼らとともにこの山の外壁を登攀《とうはん》してやってきた」
「何者なんだ! あんたは?」
遂に片膝を着き、ガッシュは男を見上げる。もう目の前まで近づいた男の金色の髪が、光に照らされ燃え立つように見えた。
薄く笑み、男は言った。
「アドリアンと呼べ。それが我が名だ」
深い闇がその一帯を支配していた。
魔法の瓶の光すら、その漆黒の懐に呑《の》み込んでしまうような空間――フレイの先導で辿《たど》り着いたのはそんな場所だった。光を減退させる一種の結界がこのエリア全域に施《ほどこ》されているのだろう。
硫黄《いおう》の匂いが強まっていた。俺たちは確実に梯子山《スケイル》の火口に近づいている。
そして――。
暗い大気の中に溶けている巨大な気配を、今や全員が察知していた。
しばらく前から漂っている腐蝕臭も、硫黄の臭気に増して強烈になりつつあった。気配の主《ぬし》はもう目と鼻の先に潜んでいるのだ。
正面に扉が浮かび上がった時点で俺たちは足を止めた。十中八九、あの扉の向こうにそいつがいる。
火口に向かうなら、ここを突破するしかない。が、その前に確かめておかなければならないことがあった。この場をどうするか決めるのは俺の役目じゃあなかった。
俺は振り返り、ディーを見た。
その貌《かお》は幾分血の気が引いているように見えた。
しかし瞳は真っ直《す》ぐに、強い意志をもって俺を見つめ返している。
「やれるか」
声を落とし、俺は訊《たず》ねた。
ディーはきっぱりと頷《うなず》いた。
「他に道はないわ」
「俺とハイランスで何とかできる。おまえは退《さ》がっててもよ――」
「そうじゃないのよ」
言いかけた俺を、ディーは強い語調で制した。「あたしはずっと夢に怯《おび》えてきた。独りになったあの夜からずっと、ずっとね……ジヴ、あんたはそこから救ってくれたわ。でもね――」
淡い光を反射して、ディーの瞳は青く燃えて見えた。
「あんたが死んだあの時、はっきりと判ったの。今のままじゃ、あたしはあんたに負《お》ぶさらなくちゃ生きていけないって。守ってもらわなけりゃ生きていけないって、あんたに突きつけ続けなくちゃならないのよ。そんなのは、あたしが望んできた関係じゃないわ」
俺は黙っていた。抑えてはいても、ディーの思いは激しいまでに伝わってくる。事情の判らぬフレイとハイランスさえも無言で聞き入っていた。
「だから、こればっかりはあたしの手で決着をつけなきゃならないの。夢の中に巣食ったあいつを自分自身で葬《ほうむ》るまで、あたしは真に悪夢から解放されることにはならないのよ」
「判った」
俺は短く了解した。
奴と決着《けり》をつける権利はディーにある。そしてディーはここから逃げ出す生き方を拒絶した。恐怖という名の呪縛から自由になるために、ディーは戦わなくてはならないと決心したのだ。
ディーの心に棲みついた悪夢――扉の向こうに潜む気配はあの黒竜《ブラックドラゴン》と同じものだった。この決意は誰にも覆すことはできないだろう。
「それと――頼みがあるの」
ディーは俺に、そして残るふたりに息を詰めて視線を巡らせた。「攻撃を一呼吸だけ遅らせて。最初にあたしの呪文を唱えさせて欲しいの」
「そいつは――!」
危険過ぎる――俺はそう言いかけた。
あの黒竜は爆炎《ティルトウェイト》すらも無効化する退呪《レジスト》能力を持っているのだ。もしディーの先行呪文が何の効力も発揮しなかったなら、一拍の遅れは致命的な強酸ブレスの放射を許すことになり得る。
だが、その言葉を飲み込ませたのはディーの目だった。そこには怯《おび》えに憑かれて爆炎《ティルトウェイト》を唱えたあの時の狂的なものではない、勝算に裏打ちされた意志の光が輝いていた。
「自信が、あるんだな?」
ディーは目を逸《そ》らさず、顎《あご》を縦に引いた。
「成否はあたしの精神力次第。任せてもらえるなら、必ずあいつを呪文だけで仕留めてみせるわ」
「ハイランス。フレイ」
俺はふたりに向き直った。「任せてやっちゃもらえねえか。詳しい事情を説明する暇はねえが、こいつと奴には避けられねえ因縁がある。何ならここに残ってても構わねえ――」
「馬鹿言ってんじゃないよ、全く」
フレイが目を剥《む》いた。両手を腰に当て、唇を突き出して俺を見上げ、目を吊り上げんばかりにして睨《にら》んでいる。
「そんなこと言われて、はいそうですかと残ると思う? そんな了見ならとっくの昔にこんな迷宮の探索から降りてるよ! もしかしてジヴは僕のことを員数外に見てるんじゃないの?」
「声がでかい」
憤慨《ふんがい》して興奮気味のフレイをハイランスが慌てて遮《さえぎ》った。ごつい籠手《こて》で口を塞《ふさ》がれながらも、ホビットは鼻息荒く目で抗議している。
「なあ、ジヴよ」
扉の向こうの気配をしばらく探った後、ほっと息を吐いてハイランスは言った。「こんな時ゃあ一言、死んでくれ≠チて言やあいいのよ。その辺りがおまえさん、人が良いというか悪いというか。フレイが怒るのも無理ないぜ」
「しかしこいつは俺とディーのわがままだしよ」
「悪《イビル》の戒律はそれでいいのさ。俺たちはそれで納得してつき合ってる。そうじゃなきゃパーティなんて組まん。そうだろ、フレイ?」
口を塞がれたまま、フレイは何度も頷《うなず》いた。
「それにな、万一呪文が効かなくても俺たちが始末すりゃ済むこった。一呼吸程度のハンディはくれてやっでもどうってこたぁない」
「それじゃあ――」
「ああ、俺はとっくに地獄巡りのつもりだ。とことんつき合うぜ」
言って、ハイランスはディーに片目をつぶってみせた。「命は預けた。気合いの篭《こも》った呪文を頼むぞ」
「僕のもね。それでやっつけてくれれば楽でいいし」
ようやくハイランスの手から逃れたフレイが続けた。
「まさに背水の陣ね。気の抜きようがないわ」
最高に嬉しそうに微笑み、ディーは一瞬に表情を引き締めた。そして俺と視線を交わす。
「大丈夫、やれるわ」
「よし」
俺は片手を挙げた。「行くぜ」
そろりと扉に忍び寄り、耳を澄ます。厚い鋼板を通じて、低く太い呼吸音が大気を震わせていた。まだこちらの気配を察した様子はない。
ディーが呼吸を整え、精神集中を始めたのを確かめて、俺とハイランスは扉に足をかける。フレイが肩を当てたところで、俺たちは同時に蹴り込んだ。
滑《すべ》りの良い扉は予想以上の勢いで内側に開いた。漆黒の中に、俺たち四人は一斉に躍り込む。
そこは思っていたよりも広い空間だった。薄闇の結界は続いていたが、かざした瓶の光が辛《かろ》うじてそれを切り裂いていく。
青い光に暗黒が浮かび上がった。闇よりもなお暗い、墨を塗《まぶ》したように艶《つや》のない鱗《うろこ》に覆われた漆黒の巨体がそこにあった。
扉の衝突音に黒竜《ブラックドラゴン》が振り返った時には、すでにディーは呪文を唱え終えようとしていた。超絶的な集中力が生み出したものか、それはこれまで耳にした中で最も迅速《じんそく》な呪文詠唱だった。
何も起こらない。
視覚的にはそう見えた。が、不可視の魔力は黒竜の巨体を確実に包み込んでいた。
一瞬の後、黒竜は無音の叫びをあげた。大きく開いた顎《あぎと》から紫に変色した舌が硬直して伸び、無表情だった双眸は血を噴き出すほどに見開かれる。
翼を数回打ち振り、やがてその全身が痙攣《けいれん》を始めた。しなやかさを失った前肢が石床を掻《か》き、喉からは濁った血液が逆流する。
最後に巨体が跳ねるほど激しく震え、邪竜は動きを完全に止めた。絶息《ぜっそく》していた。
ディーが唱えたのは、魔術師系第六レベルに属する呪文・窒息《ラカニト》だった。効果範囲に存在する酸素を掻《か》き消す強力な酸欠呪文だが、猛炎《ラハリト》や爆炎《ティルトウェイト》のような物理的破壊力はなく、しくじれば敵は無傷で残るという博打じみた特徴を持つ。
それだけに普段は滅多に使う代物じゃあなかったが、この呪文にはもうひとつの特性があった。
即ち、無効化が不可能なのだ。ほぼ完璧な退呪《レジスト》能力を持つ魔物でさえも、空間から酸素を消失させる魔法効果を阻《はば》むことはできない。術者がそれに成功すれば、酸素に依存性の高い生物は確実に窒息死することになる。
そしてディーは見事にやってのけた。黒竜《ブラックドラゴン》の巨体から、生命維持に必要なすべての酸素を奪い尽くしたのだ。
しかし、俺はその黒竜が悶死する様《さま》を悠長に眺めているわけにはいかなかった。
黒竜の気配はあまりにも大き過ぎた。それゆえにハイランスですら気≠読み違えていた。
絶息した竜には前肢の指と牙がすべて揃っていた。以前遭遇し、俺が手傷を負わせた奴とは明らかに違う。
そいつはこの場にいた。しかも、中規模攻撃呪文である窒息《ラカニト》の有効半径から外れた位置に。黒竜は二頭潜んでいたのだ。
それに気づくと同時に、俺は奴に向かって突進を開始していた。
奴も、俺を見ていた。低い唸りの秘めた意味が不気味なほど正確に伝わってくる。指と牙を奪った奴をやっと見つけたぞ――黒竜はそう呟《つぶや》き、復讐の歓喜に打ち震えているのだ。
醜く愚鈍《ぐどん》そうな姿は一種の擬装、罠と言っても良かった。竜の眷属《けんぞく》、それも呪文を操る種族の常として黒竜の知能は人類に劣らず高い。その証拠に、奴は俺との闘いを――俺がどんな手を使おうとしたのかを正確に把握《はあく》していた。
あの時俺は奴を誘い、脳天への一撃で勝負を決めようとした。ディーの暴走でその機会を逸《いっ》したが、致命傷を与えるにはそれが一番確実な手段だった。
黒竜はそれを覚えていた。奴は後肢二本で立ち上がり、頭部を簡単には攻撃できない高さに構えたのだ。そして、ブレスを吐き出す前兆の大量吸気を開始する。前回の油断が微塵《みじん》もない万全の攻撃態勢だった。
しかし、それでも俺は一撃で決めなければならなかった。仕留めそこなえば全員が強酸を頭から浴びることになり、大変異《マハマン》の行使で体調が万全とは言えぬディーはそれだけで絶命しかねない。
とは言え、脳を守られてはそう易々《やすやす》と致命傷を加えることはできない。心臓を狙うにしても、あの巨体では手裏剣の一突きで届きそうにはなかった。また、俺の右腕は再び真空波を繰り出せるほどには回復していない。
背後にハイランスが続いているのが判った。
瞬間、先刻|妖獣《ゼノ》と化したシャイロンを葬《ほうむ》った剣技が頭を過《よぎ》る。
ミフネが言い残した通り、ハイランスの気≠フ斬撃は闘いを重ねるごとにその鋭さを増していた。
この場を賭けるに値すると俺が思うほどにだ。黒竜《ブラックドラゴン》の心臓の位置は、前の一戦でほぼ見当がついていた。俺は破壊力に劣る素手で致命打撃《クリティカルヒット》を生み出すために、どんな生物もある程度の動作を見れば死点の部位が読めるよう、積極的にこの技能を鍛えてきたのだ。
「ハイランス、こいつを狙え!」
叫び、俺は駆けながら手裏剣を放った。
狙い通り、撃ち出した苦無《くない》は黒竜の右胸部下方、心臓があると思われる位置に突き立った。しかし投擲《とうてき》のため手裏剣本来の切れ味は半減し、鱗《うろこ》一枚を断ち割って刃の半分ほどを埋めているに過ぎない。黒竜にしても棘《とげ》が刺さった程度にしか感じておらぬのか、微塵も動じた様子はなかった。
だが、俺もこの攻撃で致命傷を与えようとは思っていなかった。否、攻撃ですらなく、苦無は単なる目印だった。
手裏剣を投げた後も、俺は速度を緩《ゆる》めなかった。
その横を、ぞっとするほどの殺気を秘めた斬気が追い抜く。
と、目の前に迫った黒竜《ブラックドラゴン》の胸が縦にぱっくりと割れた。苦無《くない》は支えを失って落下する。驚くほど正確に、ハイランスの居合《いあい》は手裏剣のマーキングをなぞってのけたのだ。
それでもまだ、気≠フ刃は心臓に届いてはおらぬ。
構わなかった。この傷の役割は道≠セった。
「破っ」
全身の気≠集中させた左の貫手《ぬきて》を、傷に差し込むように体内深くに突き入れる。肘までが潜り込んだ時点で、俺はそれを探り当てた。
「せいっ」
左腕を力任せに引き抜く。耳をつんざく黒竜の絶叫とともに、ぷちぷちと血管の千切れる音が指先から伝わってきた。
拳が抜けた。その先には、掴《つか》み出された血|塗《まみ》れの肉塊がまだ脈打ち続けている。
それは黒竜の心臓だった。引きずり出されてなお、その巨大な血液ポンプはしぶとく鼓動を送り続けているのだ。
俺はそいつを握り潰した。まだ血管の一部が繋《つな》がっている胸の穴から大量の血が噴き出し、断末魔の絶叫はごぼごぼと血の泡立つ音に取って代わられた。
俺が手裏剣を拾い上げて身を退《ひ》くと同時に、黒竜の屍《しかばね》は前のめりに倒れた。鈍い地響きが戦いの終わりを告げた。
「ひゃあ、凄いねえ」
走り寄ってきたフレイが血に染まった俺の左腕をまじまじと見た。「ジヴのとんでもないところは何度も見たけど、こんなのは初めてだよ。やっぱり忍者ってのは凄いねえ」
「おまえが忍者になったって、こいつは真似できないぜ」
「何でさ」
「腕が届かねえ」
言われて、俺の半分ほどの長さの腕を不満気に振り回すホビットに、俺は笑ってつけ加えた。「俺だってもうこんな血|腥《なまぐさ》い手は使いたくないさ。それにできねえならできねえで、それなりのやり方が身につくってもんだ」
フレイの頭を軽く叩き、ハイランスと軽く前腕をぶつけ合って、俺は立ち尽くしたままのディーに駆け寄った。
「ディー?」
「ジヴ、御免《ごめん》。綱渡りさせちゃったわね」
緊張の糸が切れたのか、ディーはふらりと俺の胸にもたれかかった。あの電光石火の詠唱はやはり、全霊を振り絞るほどの精神集中を必要としたものだったのだ。
「おまえはちゃんと言っただけの仕事をしたぜ。二匹いたのが計算外だったんだし、一匹をおまえに任せなかったら俺たち全員無傷ってわけにゃいかなかっただろうよ」
ディーをいたわる意味ではなく、俺は本心からそう思っていた。もしあれ以外の作戦で挑んでいたなら、少なくともどちらか一方に反撃を許す結果となっていただろう。偶然とは言え、運気は俺たちに与《くみ》していた。
「それよりもよ、夢の中の竜は片付きそうか?」
「うん」
顔を埋めたままディーは頷《うなず》いた。「眠らなくても判るの……もうあいつはいないって。もしまた出てきても、今度は自分で追い払えるわ」
「へへ。肩の荷が降りたぜ」
「随分な言い草ね」
言いながらも、ディーの表情は晴れやかな解放感に満ち満ちていた。たとえここが地獄のとば口であろうとも、十年以上も苦しめられ続けた悪夢の鎖を自ら断ち切った歓喜はわずかも減じはしないだろう。その解放感が伝染したのか、俺はそいつが目の前の扉――俺たちが蹴り開けた入口からこちらに侵入してくるまで全く察知できなかった。
それは完全に成長しきった、あのエレインを同化したものよりも一回り大きな妖獣《ゼノ》だった。
接近を悟った時には、そいつはすでに俺とディーを触手と口管の射程内に捉えていた。
ほんのわずかな距離を隔《へだ》てて、俺はあの緑眼と対峙した。俺たちの跡をつけてきたのか、それとも火口に戻るところだったのか。いずれにせよ不運な遭遇者を、その眼が嗤《わら》ったように思えた。
背を向けたディーはまだ気づいていない。ハイランスとフレイは察知しても間に合わない位置にいた。
二本の触手が鞭《むち》のように持ち上げられた。次の瞬間まで俺にできることは、何とかディーを触手の攻撃線上から突き飛ばすことだけだ。そして俺は妖獣《ゼノ》の触手に身を晒《さら》すことになる――。
だが、他に手はない。俺は観念した。
触手がしなり、口管が伸びる――その刹那《せつな》、雷光に似た煌《きら》めきが疾《はし》った。
妖獣《ゼノ》は閃光に沿って裂けていった。巨大な肉腫《にくしゅ》の化物は縦に両断され、腐汁を染み出させながら左右に斃《たお》れていった。
たった今まで妖獣《ゼノ》が塞《ふさ》いでいた視界に、ふたつの影が佇《たたず》んでいた。
閃光と見えたのは、影の一体が手にした白刃だった。
美しい、流れるが如き太刀さばきだった。
妖獣《ゼノ》を切り裂いた白刃に俺は見|惚《と》れた。それほどまでに、その斬撃は完璧な太刀筋を描いたのだ。
同時に、俺はディーを背後に回して身構えていた。
救われたのは間違いない。あのままなら俺の内臓は妖獣《ゼノ》の口管に貫《つらぬ》かれ、ずたずたになるまで掻《か》き回されていただろう。
だが、警戒を解くわけにはいかなかった。
これほどに流麗な剣技をかつて俺は知らない。俺の知る誰のものでもない太刀筋――それは即ち眼前の影が仲間ではないことを意味する。
敵の敵は味方、とは限らない。妖獣《ゼノ》と敵対しているとしても、ミフネの霊のように誰彼《だれかれ》構わず襲いかかってくる例もある。ル‘ケブレスに召喚されたまま迷宮に残っている旧守護者であればその可能性は高かった。
しかし白刃を持った人影は動かなかった。と、長剣はその手から滑り落ち、床の上で澄んだ金属音を奏《かな》でた。
「おお……」
呟《つぶや》き、瞬間影は妖獣《ゼノ》の屍《しかばね》を飛び越えていた。
そして、叫んだ。
「ジヴ!」
俺の両肩を掴《つか》み、その男は絶叫した。「幻では、ないのだな」
金髪が揺れ、端正な貌《かお》に涙が伝う。マイノスがそこにいた。
「……言った通りだったでしょう」
もうひとりの人影も進み出てきた。この再会がさほどの驚きではないといった態度で、しかしわずかに言葉を詰まらせてザザは微笑んだ。
「このふたりがそう易々《やすやす》と死んだりするものですか」
「ザザ! マイノス!」
ディーの歓声に、ザザは大きく頷《うなず》いた。
「お帰りなさい、ディー、ジヴ。追いついた者がそう言うのも何ですがね」
ザザがハイランス、フレイと再会を祝福する間も、マイノスは溢《あふ》れ出る涙を拭《ぬぐ》いもせずに俺の肩を抱き続けていた。
「良く、無事でいてくれた……エレインを失い、貴様まで失ったとしたなら、大破壊《カタストロフィ》のその時私の魂は悔悟《かいご》に迷っていたかも知れん。よくも、無事で……」
「よせよ、らしくねえぜ」
マイノスの開けっ広げの喜びように、俺はどうにも照れるはかなかった。「それによ、諦《あきら》めるなって言ったのはおまえだぜ。最後まで闘えってな」
「ああ、そうだった。そうだが……」
感極まった様子で、込み上げる鳴咽《おえつ》にマイノスの言葉は途切れた。
「――いけ好かない奴だと思ってたけど、割りといい男だったのね」
背後でディーがぼそりと呟《つぶや》くのが聴こえた。俺たちはようやく、善悪の戒律に囚《とら》われない関係を築くことができるようになったのだろう。
「さて」
微笑みを湛《たた》えていたザザの貌《かお》から表情が消えた。「残念ながらそう喜んでばかりもいられません」
マイノスも即座に表情を引き締めた。感涙に咽《むせ》ぶマイノスを瞬時に緊迫させるだけの事態が起きていると察し、俺は少し前から気になっていた不吉な言葉を口にした。
「ベイキと、アドリアンはどうした?」
「私に話させてくれ」
ザザにそう言い、マイノスは続けた。「アドリアンは消えた。そして――」
わずかな沈黙を挟み、俺とマイノスの視線が交錯する。その瞬間に俺は九分通り事態を悟っていたが、マイノスは敢《あ》えてそれを告げた。まるで罪人が懺悔《ざんげ》を行うかの如くに――。
「そして陛下は……ベイキ女王は拉致《らち》された。おぞましい不死の魔人に虜《とりこ》とされたのだ!」
不吉な予感は的中していた。
「我々の情報を総合すると、このまま火口を目指すのが選択し得る最良の案のようですね」
「うむ」
ザザの意見にハイランスが賛同の意を示した。「バンパイアロードとやらの言葉が本当なら、奴はル‘ケブレスの敵対者――つまり妖獣《ゼノ》どもと与《くみ》していると思っていいだろう。ならば妖獣《ゼノ》の巣穴のある火口近くに根城《ねじろ》を構えている可能性が高いな」
「しかも、ぐずぐずしている暇はねえ。吸血鬼の親玉がいつベイキの喉にむしゃぶりつくか知れたものじゃねえってわけか」
バンパイアロードは今しばらくはベイキを生かしておくと言い残して消え去ったということだった。だが、その際の状況を聞く限りでは魔人がベイキの命を絶たぬ理由は不明だ。そして今もその理由が継続しているという保証はどこにもない。
急がなければならなかった。
「済まない。私がついていながらむざむざ……」
ともに眼前でベイキの拉致《らち》を許す形となったザザの手前、抑え続けていた謝罪をマイノスが口にしかける。俺はそれを遮《さえぎ》り、マイノスを睨《にら》んだ。
「勘違いするんじゃねえ。ベイキを連れていくと誓ったのは俺だ。その俺はベイキが拉致された時にその場にいることすらできなかったんだぜ。おまえに謝られちゃなおさら肩身が狭くなるじゃねえか」
「ジヴ――」
「俺たちが考えなきやならねえのは、どうやって薄汚ねえ吸血鬼野郎からベイキを奪い返すかってことだ。つまらねえことをいつまでも気に病《や》んでる場合じゃねえ」
マイノスに気を使ったわけではなく、これは正直なところだった。
先刻俺が見誤った通り、|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》を身に着けエクスカリバーを手にしたマイノスの剣技は心胆寒からしめる域に達していた。
戒律の対立から迷宮での戦いぶりを見たことはなかったが、日頃の鍛練の様子や身のこなしなどで腕前のおおよその見当はつくものだ。そうして判断したうえであの太刀|捌《さば》きはマイノスのものではないと確信したのだったが、|君主の装束《カーズローブ》≠ニ一体となって肉体の潜在能力を完全に引き出している現在の奴は俺の予測を遥かに上回る戦闘能力を有していた。
そのマイノスが加わることにより、パーティ前衛の白兵戦力は飛躍的に上昇する筈だった。奴が持てる剣技のすべてを発揮できるなら、この先再び黒竜《ブラックドラゴン》や|大気の巨人《エアーエレメンタル》級の護衛と出くわしてもさっきまでのような苦戦を強いられることはないだろう。
それだけにマイノスには剣を鈍らせるような精神的重圧を背負って欲しくなかった。殊《こと》にベイキの件となると、この王国騎士の末裔《まつえい》はどこまで自分を責め抜くか判ったものではない。そんな状態では助けられるものも助けられなくなってしまう。
「ともかくも先を急ごう。こうなってはもはや一刻の猶予《ゆうよ》もないからな」
ハイランスの言葉を合図に、俺たちは移動の準備を整え始めた。
「躰《からだ》がひと回りほど逞《たくま》しくなったように見えますね」
こびりついた黒竜の血を拭う俺を検分するようにザザが言った。
「ああ。筋肉がもうひと束増えた感じがするぜ」
「限界を越えた筋肉組織の疲弊《ひへい》は新たに強力な筋肉を生み出します。死と、そして大変異《マハマン》による蘇生が、あなたの超回復の引き金となったのかも知れませんね」
言いながら、ザザは俺の右腕を取った。「まだ痺《しび》れが残っていますか?」
俺は面食らった。垂壁転落からここまでの経過をかいつまんで話してはいるが、|大気の巨人《エアーエレメンタル》相手に真空波を使ったことまでは触れていないのだ。
「見れば判りますよ、それくらいのことは」
俺の表情を読み、ザザは笑った。「軽い内出血が幾つか見て取れますからね。それにしてもあの技を使ってこの程度で済むとなると、筋力の強化は思ったよりも著《いちじる》しい」
「痺《しび》れはもうほとんどねえ。回復する時間さえあれば治療呪文なしでもまた使えるようになるぜ」
「あまり過信しないこと、と出発前にも言った筈ですがね。筋組織は確実に疲弊《ひへい》しているんですから。差し当たり封傷《ディオス》を唱えておきますが、真空波はしばらく控えておくのが賢明でしょう」
低い詠唱が流れ、俺の右腕を柔らかな微光が包んだ。わずかに残る痺れが溶けるように消え、皮下に澄んだ内出血もみるみるうちに薄らいでいく。
「助かるぜ。やはりパーティにゃ僧侶は欠かせねえな」
「僧侶なら誰でもいいような言い草ですね」
棘《とげ》を含んだ口調でそう言い、回復した腕を平手で叩いてザザは治療完了を告げた。
「いや、そんなつもりじゃなくよ――そうだな、他の奴じゃこう気は利かせられねえし、ザザは欠かせねえ、とか」
「その割りには私を残して飛び降りましたよねえ。まあ、お世辞程度に受け取っておきましょうかね」
「だっておまえ、あの時はよ――」
「それに、まだ私に隠してることがあるんじゃないですか」
遮《さえぎ》るようにザザが言う。
「――?」
「さっきね、フレイが耳打ちしてくれたんですが」
少年のような貌《かお》に意地の悪い笑みを浮かべ、続ける。「すっかりディーと仲良しになっているそうじゃないですか」
その時俺はよほど狼狽《うろた》えた顔をしたのだろう。
次の瞬間、耐え切れなくなったザザはげらげらと笑い転げた。こいつがこんな風に笑う姿を見たのは初めてのことだったが、それに驚く余裕すら俺には残っていなかった。
「フレイ! てめえっ」
叫び、俺は猛然と首を巡らせてお喋《しゃべ》りホビットを探した。が、視界にフレイの姿はない。
「ここだよ」
背後から声がした。慌てて振り返る俺の腹を、ホビットの拳が軽く叩いた。
「うっ」
「一本取った!」
フレイが飛び跳ねたところで、俺はやっと詰めた息を吐くことができた。
「汚ねえぞ」
「勝ちは勝ちだもん」
兎のように跳ねながら、フレイはマイノスやハイランスの背後に逃げていく。「無事にリルガミンに帰ったら、約束は守ってよね。極上の奴じゃないとやだよ」
その浮かれた背中を毒づきながらも、俺は傍目《はため》から見た自分の狼狽《ろうばい》ぶりを想像して噴き出してしまっていた。そもそもフレイを責める筋合いではない。こともあろうに迷宮の中でディーとそうなったのは事実なのだ。
「どうしたのよ」
動きやすいように髪を束ねていたディーが、まだ笑っているザザを見て目を丸くしながら近寄ってきた。
「いやいや、何でもありませんよ。それにしても、こんなに笑ったのはリルガミンにやって来て以来初めてですかね」
滲《にじ》んだ涙を親指で拭い、ザザはようやく馬鹿笑いを引っ込めた。「あなたたちと再び巡り逢えただけでも、こうして笑う価値はありますよ。この先に待ち受けるものを思えば、これが笑い納めになるかも知れませんしね」
そこでひと息つき、やがてザザはいつもの静かな、無垢《むく》にすら見える微笑みに戻った。
「ねえザザ、ところで――」
それを待ちかねたようにディーが口を開いた。
「そのバンパイアロードなんだけど、口承なり書物なりに伝えられている話は何か知ってる?」
「幾つかは」
「ジヴは?」
「ワードナの迷宮にいたってことぐらいだな」
俺はかつてトレポー城塞の酒場で聞いた百年前の噂話を口にした。
「ダバルプスの呪い穴にも出没したと記録にありますね。ただ、ディーが確認したいのはそれより以前、この魔人の誕生に遡《さかのぼ》った伝説でしょう?」
「さすがに察しがいいわね」
「完全な不死者《イモータル》として数千年を生きる不死族《アンデッド》の祖――バンパイアロードはそうした存在だと伝えられています。そして同様に、不死者の頂点に君臨する存在が、誕生の夜ひとつの都を滅ぼしたという伝説を我々は知っている」
「そう」
ザザの言葉を、ディーが受け継いだ。「ファールヴァルトの、不死王――」
俺もディーの抱いている疑念を悟った。
「そうか――もしそれが同じ奴なら……」
「ファールヴァルトからやって来たと名乗るアドリアンの失踪《しっそう》と、それを滅ぼした不死王かも知れぬバンパイアロードの出現――これを無関係と考えるのは難しいでしょうね」
「アドリアンが、その魔人とでも?」
「そこまでは判りません」
ザザは慎重に否定した。「私とマイノスが、一瞬ながらバンパイアロードをアドリアンと錯覚したのは事実です。ですが、それならばスケイルの登攀《とうはん》に力を貸す理由の説明がつかなくなる」
確かにその通りだ。ベイキを――リルガミンの女王を迷宮に誘い込むためではないか――そんな考えが瞬間脳裏を過《よぎ》ったが、思い返せばアドリアンが同行を承諾したのはベイキの参加表明よりも先だった。浮遊《リトフェイト》の呪文の補助がなければ到底成功しなかった登攀に、敵に回るつもりの男がわざわざ手を貸すような真似をするだろうか?
「それとね、もうひとつ」
答の見つからぬまま流れた沈黙を破り、ディーが言った。
「ル‘ケブレスに代わって魔物を召喚しているのは――大破壊《カタストロフィ》の謎の鍵を握っているのはバンパイアロードなのかしら」
俺にもザザにも、答えることはできなかった。
「準備はいいか」
ハイランスが俺たち三人に声をかけてきた。
「ああ。行こう」
俺たちは顔を見合わせ、頷《うなず》いた。閃きを求めて悠長に構えている時ではない。
この時俺は初めて、ザザの腰に下がったメイスに気づいた。
先端の鉄球に刺状の突起がびっしりと植え込まれた、見るからに武骨な代物だった。聖職者としての戒律から刃の扱いを許されぬ僧侶はこうした打撃系の武器を使うしかないのだが、この手のメイスは時として段平《だんびら》以上の破壊力を示すことがある。特に鎧を着込んだ相手を装甲ごと叩き潰すには最適な武器のひとつだ。
見たところある程度の魔法強化が施《ほどこ》されているらしく、スパイクはどれも硬質な光を放っていた。|+《プラス》1、いや+2クラスの武具に分類される一級品かも知れなかった。
「どうしたんだ、そのメイス?」
登攀《とうはん》時に負担にならぬよう、ザザは鎧はおろか武器ひとつ持ち込んでいない筈だった。
「ここに来る途中で拾ったものですよ。恐らく旧守護者が残していったのでしょうが、呪いが篭《こ》められているとは見えなかったのでね」
「威力はありそうだな」
ザザは俺の知る限りあまり武器の使用を好まなかったが、いざ扱うとなると並の僧侶では及びもつかぬほどの非凡な才能を示した。その男がこんな代物を本気で振るえば、兜《かぶと》の上からでも人間の頭蓋《ずがい》を粉砕する程度はやってのけるだろう。
「これで結構軽いんですよ」
剣呑《けんのん》極まりないメイスを持ち上げ、ザザは微笑んだ。と、その眉が微《かす》かに顰《ひそ》められ、笑みが消える。
「どうした。まさか呪いでもかかってたってんじゃねえだろうな」
「いえ――何でもないんですが」
気配を探るような表情で中空を睨《にら》み、ザザはそのまま続けた。「ジヴ、ディー。ハイランスたちと先に行ってもらえませんか」
「何でだ」
「野暮《やぼ》用ですよ。すぐに追いつきます」
迷宮で野暮用と言えば排泄などを意味する。俺たちに玄室の外に出て欲しいとザザは言っていた。
「珍しいな、おまえがそんなことを言い出すなんて」
「少々腹具合が悪いのでね、お願いしますよ。それと一刻を争うんですから、すぐに火口を目指してください。あなたたちが通った後なら、護衛に出会うこともなく走ってでも追いつけますから」
「判ったよ。そんなに気にする質《たち》とは知らなかったぜ」
追い払いたい、といった口調が気になったが、切迫した表情に気庄《けお》されて俺は承諾《しょうだく》した。ザザをひとり残し、俺たち五人は入口とは反対側の扉から外に出る。
扉を閉める瞬間、ふっと気温の上昇を肌に感じた。
だが、硫黄《いおう》の臭気も同時に強まっている。火口に近づいているせいなのだろう。
そう思い、俺たちは前方に続く一本道を進み始めた。
振り返ると、もう扉は背後の闇に呑《の》み込まれていた。
「そろそろ出てきたらどうです?」
ジヴラシアの聴覚が及ばぬ頃合いを見計らって、静かにザザは口を開いた。
玄室の中には、彼以外の姿は見えない。ただ、まだ微《かす》かな温もりを残した黒竜《ブラックドラゴン》の屍《しかばね》がふたつ転がっているだけだった。
その骸《むくろ》のひとつをザザは見ていた。ジヴラシアにより、心臓を掴《つか》み出されたほうである。
と、屍に微《かす》かな変化が現れた。
漆黒の巨体から、淡く湯気が立ち昇っていた。断末魔そのままの形を保った顎《あぎと》や見開かれた眼窩《がんか》、そして心臓を抉《えぐ》られた穴から、水分が急速に蒸発していく。
屍の体液が沸騰していた。ぐつぐつと煮え滾《たぎ》る音が体内から聴こえ、噴き出す蒸気はその勢いを増し続ける。
この怪異を見つめながら、ザザは顔色ひとつ変えなかった。
しばらく前から玄室内の気温も汗が噴き出すほどに跳ね上がっている。まるですぐ傍《そば》を赤熱した溶岩流が横切ったような暑さだった。
しかしザザの貌《かお》には一粒の汗さえ滲《にじ》んではいない。涼しげにさえ見える表情で彼は続けた。
「せっかく私ひとりになってあげたんですよ。退屈な真似はそのぐらいで結構」
そう言った途端、屍はすべての水分を失ったかのように燃え上がり始めた。炎は見る間に黒竜を包み、あたかも巨大な松明《たいまつ》の如くに空間を照らす。
紅蓮《ぐれん》に燃え盛る炎の中で、黒い影が揺らめいた。
直前までそこにいなかった筈の影――それは人の姿をしていた。高熱を発する火炎の中で、それは居心地良さそうにゆっくりと両腕を広げた。
その仕草が合図であったのか、炎は見る間に勢いを鎮《しず》めていく。
やがて炎は完全に消失した。跡に残ったのはほとんど炭と化した黒竜の残骸であった。
その残骸の上に、そいつはいた。踏みつけているのではない。そいつは宙に浮いていた。
外見は、人間そのものであった。
二メートル近い身長があろうか。その長躯《ちょうく》を包む暗緑色のロープが、無風の空中で生き物のように裾を揺らめかせる。
冠《かんむり》にターバン状に巻かれた布も、また緑だった。
そこから生え出ているのは水牛のような、しかし遥かに拗《ねじ》くれた巨大な角――果たしてそれは冠に飾りとしてつけられたものであるのかどうか。
その角の、急速に内側にすぼまった先端部の間から、禍々《まがまが》しく尖《とが》ったそれとはあまりにも不釣り合いな美貌がザザを見下ろしていた。
性を超越した美、とでもいうべきだろうか。男のものでも女のものでもなく、それでいてどちらにでも見える中性的な美貌、そのどちらも誘惑し得《う》る蠱惑《こわく》的な媚態《びたい》の造形美がそこにあった。
堕落へと誘《いざな》う妖艶な微笑を湛《たた》え、その姿はローブをなびかせてふわりと黒竜《ブラックドラゴン》の残骸の手前に着地した。同時に片手を背後に向けて軽く振る。と、炭化した骨と肉の塊は爆風を受けたように壁まで吹き飛ばされ、そこで四散した。
色のない唇が微《かす》かに蠢《うごめ》いた。
そなたも、すぐにこうなる――
嘲《あざけ》りを秒めた声が谺《こだま》する。それは出発前夜、リルガミン王宮でジヴラシアとザザを襲撃した影の哄笑と同じ響きであった。
「あの時の傷がようやく癒《い》えた、という割りには大きな口を叩くものですね」
微塵《みじん》も臆《おく》した様子もなく、ザザはその怪人物――悪魔を見|据《す》えて言った。「もう少し早く出てくると思っていたのですがね、ジヴに斬られた痕《あと》が予想以上に治らなかったと見える」
悪魔の目がすっと細くなった。唇に笑みを残しではいるが、不快な事柄に触れられたという怒りが薄いグレーの瞳に浮かぶ。
あの男もすぐにそなたの後を追わせてやろう。我に傷を刻んだ罪におののき、自ら死を望むほどの苦痛を与えた後にな
「ほう」
ザザの口元に笑みが浮かんだ。悪魔であろうともそれが最大級の侮蔑《ぶべつ》を篭《こ》めたものであることは容易に見て取れる――そんな嘲笑であった。
「ならば私を斃《たお》してご覧なさい。ただの屍《しかばね》には通用しても、こうして気を張った生者に先刻の術は効かないでしょうがね」
人間|風情《ふぜい》が、つけあがるなよ――
悪魔の双眸が真円にまで見開かれ、唇の端が大きく左右に吊り上がった。右腕を大きく振り出すと、いつの間にか握られていた棒状の柄から目映《まばゆ》い炎の帯が凄まじい勢いで噴出する。
夢魔《サッキュバス》を一瞬に葬《ほうむ》り去った、あの炎の鞭《むち》であった。悪魔が腕を振るう度《たぴ》に、紅蓮《ぐれん》の鞭《むち》は大蛇のように身をくねらせ、大気に高熱を撒《ま》き散らす。
その言葉、冥府の底で悔いるがよいわ
ザザは無言でメイスを肩の後ろに構えた。
それが、闘いの合図となった。
悪魔が滑《すべ》るように右へ動いた。ザザも右へ走り出す。時計回りに円を描きながら、ふたつの影は少しずつ距離を詰めていく。
刹那《せつな》、悪魔が稲妻の迅《はや》さで、方向を転じた。慣性運動に囚《とら》われぬ鋭い角度で、真っ直《す》ぐにザザの方向へ。距離が一息に詰まり、鞭の間合いになる。
これより一瞬早く、ザザは大減《バディアルマ》の呪文を唱えていた。不可視の負エネルギーが空間を駆け、鞭を繰り出そうとする悪魔を直撃する。
だが、そのエネルギーは生命力を逆転させることなく、悪魔の周囲で消失した。強力な魔法障壁が魔力の接近を阻《はば》み、霧散させたのである。
笑みを消したザザに、炎の鞭が容赦のない迅《はや》さで襲いかかる。革で編まれた鞭と同じく、弾性を与えられた魔法の火炎はその先端を音速に近い域まで加速させた。
ザザは辛《かろ》うじて反応した。鞭《むち》は掠《かす》めた脇腹に熱を残し、背後に位置していたもう一体の黒竜《ブラックドラゴン》の屍《しかばね》に吸い込まれる。
屍《し》肉の焦げる臭気が広がった。炎が黒竜を鱗《うろこ》ごと貫《つらぬ》いたのだ。
次の瞬間には、炎の鞭はすでに悪魔の手元に戻っていた。鞭が引き抜かれた跡は人の頭大にぼっかりと抉《えぐ》れ、穴の周囲も広範囲に渡って炭化している。
竜の鱗の熱に対する耐性をものともしない、凄まじいまでの熱量であった。登攀《とうはん》のために防具らしい防具を何も着けていないザザでは、触れただけでも重度の火傷《やけど》は免《まぬが》れないであろう。
しかもこの鞭は、あのエナジードレインを引き起こす能力も秘めている。一撃でもその身に受ければ致命傷となる可能性が極めて高い。
最初の攻防は終わった。
ザザも悪魔も足を止め、互いを睨《にら》み据《す》えている。
能面のように表情のないザザに対し、悪魔は再び相手を見下した笑みを取り戻していた。
状況はザザが圧倒的に不利に見えた。
ジヴラシアの斬撃をも緩衝《かんしょう》する魔法障壁を前に、ザザの得物は貫通性では遥かに劣るメイスしかない。たとえこのメイスが|+《プラス》2クラスの魔法強化が施《ほどこ》された逸品《いっぴん》であったとしても、そしてそれを振るうのがジヴラシアであったとしても障壁を突き破って悪魔にダメージを与えることはできないであろう。
頼みの綱となる呪文も、この魔法障壁によっていとも簡単に無効化されている。単独の相手に対して致命的な効果を及ぼすものが多い僧侶系呪文ではあるが、魔力自体が霧散してしまっては傷ひとつつけることができない。
即ちザザには、有効な攻撃の術《すべ》が見当たらないのである。
対する悪魔は、ただ炎の鞭を振るうだけで良かった。
呪文など使う必要もない。見かけによらず反応の速い僧侶に初撃は避けられたものの、連続して繰り出せば到底|躱《かわ》せるものではなくなる。軽く捉えただけでも、華奢《きゃしゃ》な人間の肉体は高熱のショックで動けなくなるだろう。
そうしてから、ゆっくりと嬲《なぶ》り殺しにすれば良い――そうした余裕が、悪魔にはあった。
もう増上慢《ぞうじょうまん》は終わりか、下らぬ神を信奉する愚かな僧侶よ
炎の鞭で床を打ち、悪魔は哄笑を轟かせた。あの忍者が一緒であればもう少しは手応えがあったかも知れぬがな。それとも我を足留めしようとでも思ったか、甲斐なく死すべき者よ
それに応《こた》えず、ザザは唇だけを動かして何かを唱えていた。しかし己の魔法障壁に絶対の自信を持つ悪魔は慌てる風もなく、その詠唱が終わるのを嘲笑を浮かべて待っている。
そなたら人間の下等さに免じて、それを唱え終えるまでは生かしておいてやろう
言って、悪魔は鞭を振り上げた状態で止めた。
一縷《いちる》の望みを賭けた呪文が退《しりぞ》けられ、その魂が絶望と悔恨《かいこん》に支配された瞬間に、炎の鞭はこの愚かな僧侶の心臓を消し炭に変えるのだ。
ザザが最後の一音を発した。
そして、何らかの呪文効果が引き起こされる――だが、悪魔には何の変化も見られなかった。
では、死ね
甘美な囁《ささや》きとともに、右腕が正確に振り出された。ザザの心臓めがけ、音速を越える炎が空気を裂いて伸びていく――。
――ぬっ!
驚きの声をあげたのは悪魔のほうであった。その手の中には、炎の消えた鞭の柄だけが握られていた。先端がザザに届く寸前、炎の鞭は弾けるように空中で四散したのである。
自らに障壁を張ったか――
忌々《いまいま》しげに呟《つぶや》き、悪魔は両腕を胸の前に構えた。人のそれとは違う発音で、しかし同様の韻律を持った詠唱が響き渡る。
それは爆炎《ティルトウェイト》の韻律だった。
炎の鞭は特殊ではあるが直接攻撃の部類に入る。
つまりは空壁《バマツ》などの抵抗障壁によって弾くことも可能である。
だが、空壁《バマツ》の呪文では魔法効果を遮《さえぎ》ることはできない。このままこの広範囲破壊呪文を唱えられては、ザザに回避する術《すべ》はなかった。爆風で刃と化した超高熱火炎を浴びて即死、良くても瀕死の手傷を負うことになる。
しかしザザは平然としていた。死を受け容れた表情ではなく、笑みさえ浮かべている。
今度は悪魔が、愕然《がくぜん》とした表情を見せていた。
呪文はすでに詠唱を終えている。それなのに、何も起こらない。
ザザが無効化したわけではなかった。
効果の見えぬ大減《バディアルマ》とは異なり、爆炎《ティルトウェイト》は無効化されようとされまいとあの凄まじい火炎が呼び出される。しかし、それがない。あたかも呪文それ自体が封じ込められてしまったかのように。
やがて悪魔は身動きすらままならぬ事実に気づいた。ザザとの距離を置くぺく一時後退しようとしたが、浮遊したままの躰《からだ》は意志に反してぴくりとも移動しない。
これは――どうしたことだ!
予想だにしなかった事態に、宙に釘付けとなった悪魔は喚《わめ》いた。虫けら同然の相手に、何故この大悪魔が取り乱さねばならぬのか。
「確かに悪魔は人類にとって最も恐ろしい存在だ。殊《こと》にあなたがた――アークデーモンと呼ばれる種族はね」
無垢《むく》なる微笑の仮面を被《かぶ》り、ザザはゆっくりと近づいていった。「私だって無策では勝ち目がなかったでしょう。その時はきっとジヴたちに任せましたね」
――おのれ! 何をした
美貌を歪めてもがくアークデーモンを見上げ、ザザはさらに短い詠唱を付け加えた。と、悪魔は全身の自由すら奪われ、麻痺した状態で床に着地させられる。
「あなたがたはね、その能力の高さゆえに我々を見くびる。そこに私のつけいる隙《すき》ができ、あなたの命取りとなったわけです」
何をしたのだ
もはや悪魔の自由となる行為は発声だけであった。躰《からだ》は指一本動かすこともできず、目は見開いたまま瞬《まばた》きすら許されない。
「結界を張ったのですよ」
こともなげにザザは言った。「あの夢魔《サッキュバス》を封じたものよりも少しばかり強力なものをね」
馬鹿な――そんな筈はない
悪魔は呻《うめ》いた。自分は結界に必要な魔法陣の中に足を踏み入れたわけではない。そのようなものをザザがこの玄室に描いた様子はなかったし、そもそも自分ほどの悪魔をここまで封じ込める結界など並の人間に作り出せる筈がない。
しかし現実に、アークデーモンは結界に取り込まれていた。
「あなたの失憩はね、あの夜夢魔の口封じに姿を現したことですよ」
メイスの柄を軽く掌《てのひら》に打ちつけ、ザザは続けた。「ジヴの一撃で、半ば実体化していたあなたは浅からぬ傷を負う羽目になった。抽出するのに充分なほどの血液を私に残してね」
血……だと
「段平《だんびら》にこびりついたもので充分でしたよ。夜のうちにあれを精製し、顔料と混ぜて出発前にこのスケイルの外周に撒《ま》いておく――私の呪法は血を用いると効果の高まるものでしてね、特に封じ込める対象の血液が少しでも手に入れば結界の強度はほぼ無限大に増幅できる。今この迷宮全域が、あなただけを封じるための結界に包まれているのですよ」
それは、通常では考えられぬ巨大な結界であった。
どれほどの呪法者であれ、不特定の敵を封じる結界を梯子山《スケイル》全域に張り巡らせることなど不可能である。効果範囲を広く取れば取るほどに呪力が拡散し、結界の強度は著《いちじる》しく減退していく。
王宮で夢魔《サッキュバス》を捕えた魔法陣が、そうした結界を有効に働かせる限界の大きさであった。夢魔という種族に限定しても、個体差を考慮すればせいぜい直径二メートルの円内に呪力を集中させなければならない。
それをアークデーモン自身の血を使い、効力を種族ではなく個体に限定したことで、ザザはこれだけの範囲を包む結界を可能としたのであった。とは言え、これも並の術者には到底成せる業《わざ》ではない。
「さて、と」
ザザはメイスを突き出し、悪魔の尖《とが》った顎《あご》にそのスパイクを添《そ》えた。悪魔自身の待つ魔法障壁も、強力な専用結界の中では完全に中和されている。
「私もジヴたちの後を追わなければなりませんのでね、そろそろこちらの質問にも答えてもらいますよ」
質問だと?
「あなたに殺された夢魔の代わりにね。あの時夢魔が言いかけた、ジヴを狙わせたあいつ≠ニは何者です?」
貴様の内蔵を引きずり出して貴様の目の前で嗤《わら》ってやる。この結界が解けた時こそ貴様の最期だ。貴様の仲間も皆殺しだ。全員のはらわたを啖《くら》ってく――がッ
悪魔の悪態が途切れた。ザザがメイスでその顔を殴りつけたのだ。スパイクが頬に穴を穿《うが》ち、肉をずたずたに引き裂く。
「私がひとりで残った理由を先に教えてあげましょうか。そのほうが話し易《やす》くなるかも知れませんしね」
言いながらも、ザザの腕は止まらない。メイスが二度、三度と往復し、容赦のない打撃を悪魔の頭蓋《ずがい》に加えていく。
「ジヴたちに一刻も早く目的地に辿《たど》り着いてもらうという意味もある。でもね、それが本当の理由じゃないんですよ」
邪気のない笑顔を保ったまま、ザザは指揮棒を揮《ふる》うような気軽さでメイスを叩きつけ続ける。すでにアークデーモンの貌《かお》は原型を留めず、二本の角も親元近くからへし折れている。
「私はあなたがた悪魔が大嫌いでしてね。とりわけ人の心の弱さにつけ込み、常に争いの火種を撒《ま》いて悦に入る人型の悪魔がね――そう、あなたのような種族だ」
メイスの勢いが増した。
「こればかりは自分でも歯止めが効かないんですよ。ただ殺すんじゃなく、苦しめるだけ苦しめてやりたい衝動を抑え切れない――悪魔に対するこんな姿を仲間には見せたくなくてね」
ようやくメイスの動きが止まった。
かれこれ二十往復はしたであろうか。もはや哀れな悪魔は呻《うめ》き声を発することすらままならぬ有り様となっていた。
「さて、今度は答えてくれますかね」
アークデーモンは潰れていない側の瞼《まぶた》を辛《かろ》うじて開いた。
正面にザザの貌があった。それが楽しげに微笑む。
「それとも、もうしばらく楽しませてくれますか」
あああ……
この時悪魔ははっきりと、自分がこの僧侶に恐怖していることを認識した。もう厭《いや》だった。太悪魔たるプライドは消えた。早く楽になりたかった。
秘すべき者の名が、自然に口を衝《つ》いて出た。遠い昔、自分よりも強大を悪魔と盟約を交わした男の名が――。
ザザの身を戦慄《せんりつ》が貫《つらぬ》いた。
――すぐに皆の後を追わなければ。
ザザは身を翻《ひるがえ》した。無論、その前に悪魔の脳天を叩き潰すことは忘れなかった。
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第九章 生死《しょうじ》の輪転
ザザが追いついてこないと、気になりだした頃だった。
未踏のエリアを進むには不適当とも言えるほどの早足で、俺たちはかなりの距離を稼《かせ》いでしまっていた。敵が潜んでいたとしても察知できるかどうかの移動速度――つまり奇襲を受ける危険を冒しながらの行軍となったのは、やはりベイキの安否が頭の中を占めていたからなのだろう。
道筋は、迷いようもなかった。洞窟状の通路は不規則にうねってはいるものの一方向を示し、幾つかあった横道も明らかに支道で、分岐ではなく進行方向への合流だった。
ザザを待とう――そう言いかけた時、前方の空気がふと変わった。大気の閉塞《へいそく》感が、すっと消失するような変化だ。
巨大な空洞が、そこにあった。
通路が急速に広がり、ドーム状の広間を形成していた。手を加えられたものではなく、迷宮が掘り抜かれる以前からここ存在していたと思われる天工の空間――。
そして、そのホールの中央に、影が凝《こ》り固まっていた。
始めは微細な塵《ちり》が舞っているように見えた。それが薄闇の中で、次第に形を取り始めたのだ。一際濃い闇に支配された、人型のシルエットへと。
気配はなかった。そこにいると判っていながら、毛一筋ほどの気≠煌エじることができない。
眼に当たる位置に深紅の輝きが灯った瞬間、マイノスが咆《ほ》えた。
「貴様――陛下はどこだ!」
影はにたりと嗤《わら》った。白く長い牙が覗き、濡れた光を放つ。
「ここまで辿《たど》り着くとはな。しかも仲間との合流まで果たすとは、少々見くびり過ぎていたのやも知れん」
陰鬱《いんうつ》な嗄《か》れ声が高い天井に谺《こだま》する。
俺も、こいつが何者なのかを認識した。
バンパイアロード――ベイキを攫《さら》った穢《けが》らわしき魔人。遥かな古代、伝説の都ファールヴァルトを一夜にして滅ぼした不死者の王。
「女王はまだ生きておるぞ。まだ、な」
くぐもった嘲笑が響いた。「だが貴様らは決して間に合わぬ。この世が破壊の震えに呑《の》み込まれるまで、ここで最後の宴《うたげ》を楽しむがよいわ」
「おのれ」
鬼気迫る表情を浮かべたマイノスが、一歩踏み出しかける。
「待て!」
俺はそれを遮《さえぎ》った。何故だ、と問うマイノスの目も、俺の視線を追ってその存在に気づく。
この魔人がわざわざ姿を現してみせたのは何故か。気配を生じさせずに忍び寄れるのなら、ベイキを拉致《らち》した時のように奇襲をかけてくればいいのだ。それをせずに、敢《あ》えて俺たちを挑発する意図は何か。
理由はひとつしかない。
不意を衝《つ》いたとしても、手にかけられるのはひとりだ。それよりも手っ取り早く俺たちを片付ける手段を、奴は持っているのだ。
そう悟った瞬間に、俺は注意をバンパイアロードからホールに移した。奴は明らかに、ここに俺たちを誘い込もうとしている。
そのままなら、気づかずに踏み込んでいたかも知れない。眼を凝らして、ようやくそれと判る。
ホールの床が不自然にぼやけていた。陽炎《かげろう》が立ち上るように、淡い光の下でゆらゆらと揺れて見える。
それは幻影だった。魔人の妖力が生み出した虚像が、広間の床面を不安定に覆い尽くしている。
幻が薄らぐ一瞬、それが隠しているものが覗いた。
穴だ。
恐らくは底に刃や突起が仕掛けられた、剣呑《けんのん》極まりない落とし穴の罠――それがこの広間のそこかしこに掘られ、幻影の床によって隠蔽《いんぺい》されていたのだ。
吸血鬼の誘いに乗って突進でもしようものなら、俺たちは間違いなくどこかの罠に飛び込んでいた。なるほど、奇襲よりも遥かに効率の良いやり口だった。
マイノスが踏み留まったのを見て、魔人の唇から舌打ちが漏れた。
「気取《けど》りおったか……しかしどうする? そこで女王が贄《にえ》となるのを待つか」
「てめえ――」
俺は薄|嗤《わら》いを浮かべる魔人を睨《にら》み据《す》えた。マイノスが奥歯を軋《きし》らせるのが聴こえる。
罠を看破したとは言え、打つ手のない状況だった。
落とし穴の存在は見抜けでも、そのすべての位置を正確に把握《はあく》することは到底できない。そろそろと足元を探りながら進むのならともかく、バンパイアロードが待ち構える中、この広間を強行突破するなど不可能に等しかった。
魔人は先に仕掛けるつもりはまるでないようだった。攻撃呪文の圏外で、こちらが足を踏み入れるのを待つ気でいる。
一種の膠着《こうちゃく》状態だった。が、俺たちには時間がなかった。
「まずいな」
ハイランスが呟《つぶや》いた。「良い手が何も浮かばん」
「あの浮遊《リトフェイト》の呪文が使えれば、ね」
ディーの言葉に、俺はアドリアンを思った。
目の前に立ちはだかる不死王の奇相は、美貌の魔術師とは似ても似つかない。だが、肌に感じる印象がどことなく重なるのは、俺にも否定できなかった。咄嗟《とっさ》のことなら、マイノスとザザが錯覚したのも頷《うなず》ける。
果たしてふたりの間に何らかの関わりがあるのか。そして失踪《しっそう》したアドリアンは今、どこにいるのか――。
半ば逃避にも似た思索に没入したその刹那《せつな》、背後の通路から誰かが近づいてくる気配がした。
「ザザか」
俺は振り向くでもなく、神経をバンパイアロードに集中した。ザザといえども、現状を打破する方策を編み出せるかどうか。
と、ハイランスが緊張を孕《はら》んだ、圧《お》し殺した声で短く囁《ささや》いた。
「ひとりじゃないぞ」
「何だと」
複数の気配があるということは、ザザではあり得ない。そしてそれは十中八九、敵の接近を意味する。
俺は振り返った。後列のディーとフレイの向こうに飛び出す態勢はすでに取っている。
淡い光を携《たずさ》えた、三体の人影が迫ってくる。そう見えた瞬間、影のひとつから閃光が迸《ほとばし》り、俺の傍《かたわ》らから背後――バンパイアロードの方向に抜けた。
何かが弾ける音とともに、魔人の絶叫が響く。
だが、俺は振り向かなかった。いや、目を逸《そ》らすことができなかった。
目の前に、あいつがいた。
「フレイか?」
あいつの声がした。「ディー? それに……ジヴか?」
「ガッシュ!」
フレイが叫んだ。
紛《まが》うことなく、それはガッシュだった。リルガミン女王ベイキの愛する男が――そして俺を梯子山《スケイル》へと呼び寄せた男が、そこにいた。
「再会を祝うのは後にするがいい」
閃光を発した人影が言った。「刻《とき》が満ち始めている。あの下郎を抑えている間に、先へ行け」
幽界で見た貌《かお》がそこにあった。牙を持ち、真円の月の下、天空を駆けていた男――アドリアンの姿が。
しかし俺を驚愕させたのは、アドリアンに付き従うもう一体の影が、発光瓶の光の下に晒《さら》された瞬間だった。
俺は目を、そして自分の正気を疑った。あろうことか、そこに浮かび上がったのは外に残った筈の従者リフラフだったのだ。
登攀《とうはん》抜きには侵入不可能な迷宮に、この男はどうやって入り込んだのか。
それを問い質《ただ》そうとする気配を察してか、アドリアンはもう一度、有無を言わせぬ口調で命じた。
「今は無理にでも私を信じろ。さもなくば女王は愚か、大破壊《カタストロフィ》の阻止すら手遅れになる」
「――ひとつだけ聞かせてくれ」
俺は魔術師の、ダークブラウンの瞳を見つめた。「あんたは、味方なんだな」
アドリアンは無言で頷《うなず》いた。瞳の光には、この問いに対する些《いささ》かの曇りもない。これで騙されたのなら諦《あきら》めもつくというものだ。
「信じるぜ。他に選択肢もねえ」
「ガッシュ、ともに行け」
「あんたは?」
ガッシュの問いに、アドリアンは薄く笑《ほほえ》んだ。しかし、その底には恐ろしく酷烈《こくれつ》な怒りが隠されているような、そんな笑みだ。
そしてその微笑は、背後のバンパイアロードに向けられていた。
「あのような輩《やから》はこのリフラフだけでも充分だ。片をつければ、私も後を追おう」
「世話になった」
ガッシュが一歩踏み出し、俺を見た。
俺も、ガッシュを見た。
この時、俺はどうして迷宮にやってきたのか――大破壊《カタストロフィ》の迫る中、梯子山《スケイル》を登攀《とうはん》してまでこいつを探しにきたのか、その理由を悟ってしまっていた。
そうだったのか。
滅亡を突きつけられ、すべての虚飾を削ぎ落として最後に残った俺の望みは、これだったのか。
軽い驚きとともに、激しい欲求が沸き起こる。明らかになった己の望みを、すぐにでも叶えたいという衝動。それを抑えたのは、何よりもここまで俺が巻き込んできたディーやザザへの想いだった。
冷静さを取り戻した心が告げる。今はまだ、その欲求を満たす時ではない。
だが、この一瞬の衝動は、視線を通じてガッシュに伝わっていたのかも知れない。優しき巨漢は微《かす》かに寂しそうな光を瞳に宿し、笑った。
「来ると思ってたよ」
知っていたよ。俺にはそう聴こえた。
俺は踵《きびす》を返した。
「行くぜ」
広間の様相は一変していた。まやかしの床は消え去り、落とし穴がほぼホールの全域に渡って口を開けている様《さま》が見て取れる。幻影に惑わされては、とてもじゃないが歩けたものではない密度だ。
先刻アドリアンが放った閃光はどうやら俺たちの知らぬ、妖力魔力の類《たぐい》を打ち消す効果を持つ呪文であるらしかった。
バンパイアロードの姿は見えない。
奴が立っていた位置にもまた、他のものよりも広い落とし穴が顎《あぎと》を開いていた。奴は浮遊《リトフェイト》の類の呪文を使ってその上に浮き、入念な罠を仕組んでいたのだ。俺たちが運良くあそこまで辿《たど》り着いたとしても、切りかかった途端に穴に落ち込むという寸法だ。
だが、その罠が魔人にとっての仇《あだ》となった。
消呪効果によって、幻影ばかりか浮遊の魔力まで打ち消されたバンパイアロードは、自らその穴に落下する羽目になったようだった。
穴の底から呪詛《じゅそ》の呻《うめ》きが聴こえてくる。どんな仕掛けが用意されていたのかは知らないが、不死の魔人が相当なダメージを被《こうむ》っていることから推察して、よほど致命的な罠が待ち構えていたらしい。
俺たちは迅速《じんそく》に、広間を横切って反対側の出口に辿《たど》り着いた。
「まだ上がってこれないや。いい気味だよね」
フレイが小馬鹿にした調子でせせら笑った。穴の底でもがく魔人の耳にも恐らく届いていることだろう。
見ると、アドリアンとリフラフがゆっくりと中央の穴に近づいていく。が、それを見物している暇はなかった。
俺たち六人は、再び狭《せば》まった通路に飛び込んだ。そして、走る。
自分たちがぎりぎりの境界線上にいるという確信があった。ここで急がなければ時は永遠に失われる。ザザを待つ余裕はなかった。
ほとんど無言のまま、俺たちはもはや支道すらない洞窟をひた走った。ディーの足に合わせてはいたが、撤退ではない限り通常考えられない速さで進んでいる。
何かに出くわしたとしても蹴散らすまで。そんな勢いが、ガッシュとの再会を果たした俺たちにはあった。
どれほどの距離を駆けたのだろうか。
前方に、微かな灯が見える。そう思った刹那、唐突に視界が開けた。
俺たちが躍り込んだのは、通り抜けてきたホールよりもさらに巨大な空間だった。
周囲の岩壁が、奇怪な発光現象に包まれている。
あたかも大気そのものが、赤く明滅しているかのようだ。
その光の中、広間の奥にベイキがいた。
俺が気づくと同時に、ベイキも俺たちに気づいた。
一瞬喜びの表情を見せ、そして必死に何かを叫び始める。しかし、聴こえない。
しばらく前から、耳鳴りがしていた。長大な空洞を、轟々と気流が通り抜けるような大気の鳴動――。
「ベイキ!」
ガッシュの怒号が、空間に満ちた圧《あつ》を割った。
「来ては駄目! 逃げて――ガッシュ!」
ベイキの絶叫が微《かす》かに届く。同時に、空間が一際明るく輝いた。
見えなかったものが、目に入った。
結界に閉じ込められたベイキの背後は、壁ではなかった。
そこは火口の竪《たて》穴へと繋《つな》がる、あまりにも巨大な洞門だった。スケールの違いに、薄明かりの下では認識できなかったのだ。
このホールの三分の一は、半ばテラスのように噴火口に迫り出す形となっていた。耳を蝕《むしば》む鳴動は、火口をパイプ代わりにここから奏《かな》でられていたのだ。
そして、そのテラスの上空――噴火口の大円筒の中央に、あれが見えた。
神秘の宝珠の力で幻視した、異変をもたらす元凶となったもの。
俺が生と死の狭間で見た、妖獣《ゼノ》をへばりつかせた禍々《まがまが》しきもの。
あの繭《まゆ》とも巣ともつかぬ球形の物体が、幻ではなくそこにあった。触手状の突起を四方の壁に絡《から》み付かせ、ベイキの頭上後方で奇怪な巨体を晒《さら》しているのだ。
知らず、俺は呻《うめ》いていた。
現実に目にしたそれは、過去二回の幻視とは比べものにならぬほどにグロテスクだった。明滅する赤光に照らされた姿は、胎動する巨獣をくるんだ剥《む》き出しの子宮のようにも見える。
今にもそれが弾け、あらゆる害毒が世界中に撒《ま》き散らされる――そんな恐怖感に取り憑かれる、理性の許容の埒《らち》外にある光景だった。
しかし、畏怖《いふ》の感情に身を委《ゆだ》ねるわけにはいかなかった。
この物体をどうにかすれば、迫り来る大破壊《カタストロフィ》を止められる。そう信じたからこそここまでやってきたのだ。今さら怯《おび》えてなどいられるものか。
まずはベイキを救い出す。そして、この胸の悪くなる糞《くそ》袋を火口の底へ叩き落としてやる――。
ベイキに向かって真っ先に走り出したのはガッシュだった。寸毫《すんごう》も遅れず俺、マイノス、ハイランスと続く。
広間の中央に達する直前だった。
激しい震動が、俺たちの足を止めた。
地震ではない。ただ一度だけ、空間がぶれたのだ。ベイキが狂ったように魔法障壁を叩き、叫んでいる。にわかに膨《ふく》れ上がる圧力の中、変調する鼓膜が途切れ途切れの声を捉えた。
「……喚され……ろしい……魔が、召……構わず……げて!」
何かが来る。そう気づいた時、前方の宙に細かな放電が疾《はし》った。
ジジッ、と耳障りな音が空間を満たす。
二度、三度と繰り返し、稲妻の糸は形を取り始めた。瞬時に閃《ひらめ》いては消える雷の筋が、まるでそこに存在する見えない何かの表面をなぞるかのように疾り抜けていく。
雷光が描いているのは、人に似た姿だった。ただし、大気の巨人を優に上回る体格のものを人と呼べるなら、だ。
四本の腕があった。三本の角があった。
急激な気圧変化の正体を、俺は知った。凄まじいまでの妖気が、その何もない空間から放出されているのだ。
すでに、そいつが何であるのかも判っていた。
放電の内部空間が変化した。炎が逆《さか》巻き、凍てつく大気が吹き荒れる異界の光景が、切り取って嵌《は》めたようにそこに映し出される。
「これは――」
「魔界よ」
マイノスに、俺は言った。「王国騎士に相応《ふさわ》しい相手がくるぜ」
その言葉が合図であったように、放電空間が白く染まった。魔界の門が、開く――。
奴が実体化した。
かつてダイヤモンドの騎士ガディと死闘を繰り広げた、あの巨大な悪魔が。
武具を打ち鳴らす音が響いた。
落とし穴の底で、魔人が咆《ほ》えた。
妖気が急速に満ち、穴の縁から白く濁った冷気が溢《あふ》れ出す。
その白い靄《もや》が、まるで爆発したかに噴き上がった。浮遊の魔力を回復したバンパイアロードが、凄まじい勢いで穴から飛び出したのだ。
人の頭ほどの高さで静止した魔人は、顎《あご》を仰《の》け反《ぞ》らせた姿勢で大きく息をした。一際《ひときわ》濁《にご》った冷たい呼気が、ゆらゆらと空中に薄い広がる。
惨澹《さんたん》たる姿であった。
落とし穴に仕掛けられた無数の刃が、魔人の全身を槍ぶすまに貫《つらぬ》いていた。後頭部からその奇相にかけても数本が貫通し、出血のない不気味な傷跡を残している。
その傷が、瞬く間に再生していた。赤黒く滑《ぬめ》った傷口が微《かす》かに泡立ち、元通りの青白い肌を張って塞《ふさ》がっていく。
立ちこめる白い冷気は、この無数の傷口から漏れ出したものであった。
しかし、傷は再生しても、纏《まと》った衣はずたずたに切り裂かれたままである。原型を留めぬほどに裂け、穴を穿《うが》たれてぼろと化した黒衣が、その罠がどれだけ致命的なものであったのかを示していた。
天を仰いだ双眸が、紅く妖しく輝いた。
その瞳がゆっくりと下方に向けられ、浮遊した躰《からだ》が錐《きり》を回すように向き直る。裂けたマントが黒い触手の如くにゆらりと広がった。
「貴様か」
憎悪を滾《たぎ》らせた邪眼が、一点を捉えて止まった。
「邪魔立てしおったのは、貴様か――」
寒気を催《もよお》す赤い眼光を、アドリアンは平然と受け止めていた。その美貌に何の表情も見せぬまリフラフを背後に従えて佇《たたず》んでいる
「吸い尽くしてくれるわ」
嗄《か》れ声で呟《つぶや》き、吸血鬼《バンパイア》はだらりと下げていた両腕を胸の前で交差させた。骨ばった指先から、血の赤に染まった爪が一斉に伸びる。
と、魔人は瞬時に動に転じた。
黒衣をはためかせ、矢の勢いで宙を滑《すべ》り降りる。
牙を剥《む》き出した凶相がアドリアンへと肉薄した。
しかし、アドリアンは微動だにしなかった。
動けなかったのではない。
防御の姿勢すら取らず、呪文詠唱もせぬままである。まるで、そうする必要がないかのように身動きひとつしなかったのだ。
凶器と化した爪がアドリアンの胸に深々と突き立った。指を鉤《かぎ》状に曲げた右手の爪が、五本とも根元まで突き刺さっている。
「死ねい」
歪《ゆが》んだ喜悦の笑みを浮かべ、魔人は肉に埋まった爪に妖気を集中した。負の波動を注ぎ込み、それに相当する精気を吸引するエナジードレイン――この状況下で、妨《さまた》げる術《すべ》はもはやない。
爆発的な負のエネルギーが放出された。
人間ひとりの生体エネルギーなど一瞬に枯渇《こかつ》し、肉体を消失させるほどの絶対量である。それがアドリアンの体内に残らず注ぎ込まれたのだ。
しかし、アドリアンは消し飛ばなかった。
そして、魔人が味わう筈の温かい精気も、一滴たりとも流れ込んでは来なかった。
代わりに爪先から伝わってきたのは、送り込んだものよりも遥かに強い、不死の魔人すら凍えさせるような強烈な負の波動であった。
「ぬ!?」
反射的に引き抜こうとした爪は、アドリアンの胸と融合したかに動かなかった。奇相に狼狽《ろうばい》の色が浮かぶ。
致命傷に等しい傷を負っているにもかかわらず、わずかにアドリアンの口元が笑みの形に吊り上がった。
それが合図であったのか、従者リフラフに奇怪な変化が顕《あらわ》れた。
貌《かお》全体に、ざわざわと剛毛が生え始めたのだ。それは瞬く間に彼の肌を覆い、もとより獣じみた容貌を本物のそれに近づけていく。
頭蓋《ずがい》骨さえも形を変え始めていた。骨を軋《きし》らせる音をあげてバランスが歪《ゆが》み、大きく開いた口の内部では、歯それ自体が鋭い牙へと変容しでいく。
「貴様らは――」
巨大な眼球をせわしなくリフラフとアドリアンに往復させ、バンパイアロードはもう一度爪を引き抜こうとした。と、リフラフの姿が視界から消える。
「がっ」
魔人が叫び、もんどりうって後退した。
爪が外れたのではなかった。
右腕の、肘から先がなくなっていた。電光石火に回り込んだリフラフの牙で、その部分を食い千切ぎられたのである。
切断された前腕は、まだ胸に刺さったままであった。
今度ははっきりと、アドリアンはその美貌に冷酷な微笑を湛《たた》えた。
残された腕の、囓《かじ》り取られた痕《あと》までが霜に白く覆われていた。恐ろしいまでの冷気で瞬時に凍結したのだ。
それが、微塵《みじん》に砕け散った。アドリアンの胸元から、元は魔人の腕であった氷片が煌《きら》めきながら宙に舞う。
「貴様ら……人ではないな」
傷口を押さえ、魔人は数歩後退した。すでに浮いてはいなかった。爪から流入した負の波動に、浮遊の魔力はまたも消失させられていた。
その波動の影響か、右腕も一向に再生を開始しなかった。不死ゆえに痛覚を消し去ることはできたが、痺《しび》れるような寒さが傷口にへばりついたまま持続している。
「くく……」
不意に魔人がくぐもった嗤《わら》いを漏らした。そして、落ち窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》からふたりの人ならぬ者を睨《にら》みつける。
「だとしても、何を畏《おそ》れる必要がある? 我こそは不死の王。このバンパイアロードを滅ぼすことなど何者にもできぬわ」
半ば獣化したリフラフが唸った。が、無言を保つアドリアンに倣《なら》ってそれを牙の奥に噛《か》み殺す。
「それにな」
にわかに冷静さを取り戻した魔人は、存在しない右腕を振り上げた。「彼奴《あやつ》らを先に行かせたところで、待っているのは死そのものよ。どれほど腕が立とうとも、あれは人間が太刀打ちできるものではない――」
その言葉を待っていたかのように、火口へと続く通路からとてつもない妖気が噴出した。アドリアンの眉が、微《かす》かに動いた。
「かかか――」
魔人の狂気じみた哄笑が響いた。「越次元に手間取ったが、ようやくこちら側にやってきおった。これで彼奴らが破滅を阻止する可能性など万にひとつもなくなったわ」
「下衆《げす》め」
初めて、アドリアンが魔人に言葉を投げかけた。「悪魔と手を結んだばかりか、あの魔王を召喚するとは」
「ほう。あれが何であるか知っておるか」
裂け上がった唇の内側で、どす黒い舌がひらひらと躍った。「ならば諦《あきら》めもつくであろうな。魔人公《デーモンロード》が降臨した以上、我ひとりをここに足留めしたとて無駄なことよ」
「リフラフ」
魔人を見|据《す》えたまま、アドリアンは命じた。「女王を救え。ハースニールをガッシュの手に渡すのだ」
「そうはさせぬ」
左腕をかざし、魔人が行く手を阻《はば》もうとする。注意がリフラフに逸《そ》れた。
この一瞬に、アドリアンは一息に距離を詰めた。
相手としてはこの男のほうが、獣人より遥かに剣呑《けんのん》だと魔人は本能的に悟っていた。腕を食い千切った獣人を見逃すのは癪《しゃく》であったが、アドリアンが迫ってきた以上こちらを迎え撃たなければならぬ。
「ゆけ」
その命令と同時に、リフラフは脱兎《だっと》の如くに駆け出した。最短で突き進まねばならぬとでもいうように、幾つかの落とし穴を飛び越えて一直線にホールを駆け、異形の獣人は通路に消えた。
「たかが獣人一匹加勢したところでどうにもならぬわ」
アドリアンとの距離を稼《かせ》ぎながら、吸血鬼《バンパイア》は魔性の速さで呪文を詠唱した。それを耳にする者に恐怖と絶望を与える灼熱と破壊の韻律――爆炎《ティルトウェイト》の詠唱。
アドリアンの姿が目映《まばゆ》い閃光に呑《の》み込まれた。
次の瞬間、超高熱の火炎地獄が衝撃波とともに撒《ま》き散らされる。爆心から円形に炎の壁が噴き上がり、ドーム状の天蓋《てんがい》を赤々と照らし上げた。
閃光は一時的に目を眩《くら》ませるほど烈《はげ》しいものだった。小型の太陽が創造されたかのように、すべて白と黒に染める圧倒的な光量――。
しかし、魔人の邪眼はその光景を捉えていた。
閃光が極限まで収治し、一千度超の熱量が迸《ほとばし》った刹那《せつな》、呪文を退呪《レジスト》することなく炎に包まれたアドリアンの姿を。
獣人を引き連れた人外の者であろうとも、爆炎《ティルトウェイト》を無効化できずに受けたとなればただではすまぬ。皮と肉は焼け爛《ただ》れ、血液は沸騰してその役目を果たさなくなる。高熱に眼球は弾け、鼻腔は焦《こ》げ、衝撃に鼓膜は破れる。生物であるのなら、五感すべてを破壊されてなお戦えるとは考えられない。
そう。生命あるものならば――。
「かかっ、光栄に思え。虫けらに等しい貴様の命と引き換えに、この不死王の片腕を奪うことができたのだからな」
燃え上がるアドリアンを確かに見た吸血鬼《バンパイア》は、己の勝利を信じて疑わなかった。仮にまだ息があったにせよ、全身を焙《あぶ》られてまともに動ける状態にない相手にとどめを刺すなどあまりにも容易《たやす》い。
火炎地歌が掻《か》き消え、ホールを静寂が支配した。
魔人は目を細めた。さすがの邪眼も、急激な明度の低下に対応するには数秒を要する。
薄闇の中を、白い靄《もや》が漂っていた。
絶命したアドリアンから立ち上る煙だろう――魔人はそう思った。あの哀れな男は、類稀《たぐいまれ》なる美貌を見る影もなく焼き尽くされた屍《しかばね》と化したのだ、と。
その靄が煙ではなく、冷気だと気づいた瞬間に、魔人の右方に紅《あか》い光点が打った。
佇《たたず》む影の中で、射貫《いぬ》くような光を放つふたつの瞳。その影を中心に、冷気の靄が白く渦を巻いている
「その名を口にするな」
影が声を発した。アドリアンのようでもあり、微妙に違うようにも聴こえる深みある響き――。
「畏《おそ》れの価値を知らぬ者にその名は相応《ふさわ》しからぬ。かつて私がそうであったようにな」
「何奴《なにやつ》――」
叫び、魔人は左の掌《てのひら》に光を灯した。魔法の光輝が靄《もや》を裂き、蟠《わだかま》る闇をホールの隅に追い払う。
そこに、アドリアンがいた。
いや、アドリアンではない。先刻までとは違う人物がそこにいた。
燃え立つような金髪と、磨き抜いた宝玉の如き肌。理想の美を体現した、一点の非も打ちようのない完璧なるを容貌。それはまさしくアドリアンその人のものである。
しかし違うのだ。炎に包まれるまでの彼も確かに美しかった。だが、今ここにいるアドリアンと比べれば薄皮を張り付けた固茹《かたゆ》で卵のようなものだった。
その薄皮とは、生者の仮装だったのかも知れぬ。
ダークブラウンの瞳は、今や鮮やかな紅色に変じていた。血の色を写した唇からは、犬歯と呼ぶにはあまりにも突出した牙が覗いていた。
不死者《イモータル》にしか備わらぬ不変の美。炎の中で再生する不死鳥さながらに、アドリアンは劫火《ごうか》に焼かれて生命の衣を脱ぎ捨てたのだった。
「貴様――吸血鬼《バンパイア》だったか」
魔人は驚愕と、やがて得心の入った表情を浮かべた。「ならば驚くには値せぬわ。不死の者なら精気が吸えぬのも道理」
吸血鬼たち――そう呼ぶには、ふたりの不死者はあまりにも極端な対照をなしていた。
片や醜悪な奇相に裂けた黒衣を纏《まと》う魔人。対するは玲瓏《れいろう》たる容姿に、炎に焙《あぶ》られてさえ些《いささ》かの損傷もない藍《あい》色の衣を身に着けたアドリアン。それはあたかも乞食と王侯を模したかの如き姿であった。
魔人が、にたりと嗤《わら》った。
「ならば王たる我が力は知っていよう。いかな理由で彼奴《あやつ》らに手を貸すのかは知らぬが、おとなしく降伏するが身のためぞ」
「力か――」
アドリアンの瞳が細められた。露出が絞られただけ、紅い眼光は強まったように見える。
「それは、この力のことを言っているのか?」
最後の発音の形に開かれた唇から、真っ青な気体が一瞬に噴き出した。それはまるでガス状の蛇のように宙を這い、見る間に魔人の左腕を包み込んだ。
「ぐがっ」
その刹那《せつな》、魔人は爪を自らの喉に突き立て、上顎《じょうがく》部までを刺し貫《つらぬ》いていた。無論、己の意志ではない。左腕が勝手に動いたのだ。
信じられねという目で、魔人はアドリアンを見た。
「貴様が言うのは、不死身を自在に操るこの力のことか?」
その言葉に合わせて、引き抜かれた爪は魔人の胸を裂いた。この左腕は今や魔人のものではなく、アドリアンの意のままに操られる道具と化していた。
「まさか貴様、本物の――?」
「降伏するか? 生憎《あいにく》だが私は容赦するつもりはない」
すべてを凍り付かせるような、厳烈《げんれつ》なる眼光が煌《きら》めいた。「我が名を――不死王を騙《かた》る者は、たとえ地の果てに逃れようと必ず滅殺する。貴様に死を与えるために私は来たのだ」
魔人――贋《にせ》不死王の全身に恐怖が疾《はし》った。不死族《アンデッド》に絶対の統治者として君臨する死都ファールヴァルトの不死王――この男が本当にその吸血鬼《バンパイア》であるのなら、確かに強大な古代魔法で創り出されたその怪物に同じ不死身の身では敵《かな》う筈がないのだ。真の不死身性を授《さず》かった自分に、死に縛られた者が決して勝てはしないように。
だが、魔人は一転して下衆《げす》な嗤《わら》いを浮かべた。
「それでどうするのだ、古代の遺物よ。真に不死王と畏《おそ》れられてきたのが貴様であったとて、我が不死性には何の変わりもないわ。どのように滅殺するというのだ? この身は貴様と同じく、幾度消滅しようと必ず復活するのだぞ」
「その力、どこで身につけたのかは知らぬ」
醜い開き直りに、アドリアンは微《かす》かな嫌悪を見せた。「だが、貴様の知らぬこともまたある」
不死王は両腕をゆっくりと持ち上げた。それに呼応して、彼を始点とし、終点とする床面の円が淡く光った。
それは、贋者を中心に捕らえた呪法結界であった。爆炎《ティルトウェイト》の光で目を眩《くら》ませたあの数秒に、アドリアンは魔人の周囲にこれを描いていたのである。
円は息づくように不定期に明滅し、紫の複雑な紋様を立体的に浮かび上がらせた。それは超古代の文字で一続きに綴《つづ》られた呪文の言葉であった。
「私はな、死ぬことができるのだ」
低い詠唱の合間に、いつしか身動きの自由さえ奪われてもがく魔人にアドリアンは言った。
「ある偉大な魔導師が見つけ出した、不死の術を解き崩していくこの呪法によってな。これは永劫《えいごう》に存在し続けなければならぬ業苦から、私を解放するために編み出された秘術なのだ」
魔人の皮膚が細かく波打っているように見えた。
そこから少しずつ、しかし加速的に細胞が分解され、霧散していく。不死の術で繋《つな》ぎ止められた物体が、その魔力の消失に伴って崩壊を始めているのだ。
すでに皮膚のほとんどを失い、筋を剥《む》き出しにした奇相に畏《おそ》れの表情が浮かび上がった。何か叫ぼうとするが、高速で振動する結界内の大気はそれを掻《か》き消してしまう。
死にたくない――魔人の喉はそう動いたように見えた。
「貴様は幸せだぞ。最期に畏れを知ったのだからな」
言って、アドリアンは掌《てのひら》を胸の前に組んだ。
それで、呪法は終局を迎えた。
骨までも分解された魔人の躰《からだ》は、もはや背骨と内蔵、脳の一部が残るのみであった。それらが一息に蒸発するように薄れて消滅した。
魔界の明滅が遅くなり、やがて紫の光は地底に沈み込んでいった。
「見ていたか」
振り返らず、アドリアンは背後に声を投げた。
「ええ」
ホールの入口にザザがいた。「やはりあなただったのですね」
しかし、ザザに驚きはなかった。
アドリアンがバンパイアロードであったこと――それは至極《しごく》当然であったようにザザには思えた。遠い記憶、自分のものではあり得ない記憶の中で、ザザは確かにこの姿を見ていたのだ。
「急がねばならん。ジヴラシアたちはとてつもない悪魔と戦っている。不死身である私が信用できるか?」
「信じましたよ。御先祖の時代、ワードナの迷宮でね」
振り返る不死王の貌《かお》に、わずかの間懐かしげな表情が浮かんだ。
「覚えていたか。永く生きるのも悪くないな」
「行きましょう」
ザザは走り出した。「その悪魔を撃退できたとしても、恐らくは――」
続く言葉に、アドリアンの瞳が微《かす》かに見開かれた。
がちがちと小刻みな音が響いていた。
鳴っているのは俺の歯だった。奥歯を噛《か》み締め、俺は過度の放熱からくる筋肉の震えを堪《こら》えた。
大凍《マダルト》が引き起こした凄まじい冷気が、大気中の水分を凍結させて透明な輝きを放っている。悪魔の紡《つむ》いだ呪文が俺たちに降り注いだのだ。
いずれも熟達者《マスター》≠フ仲間たちは直撃を回避し、死に至る凍傷を負った者はいない。しかし、並の人間ならたちどころに絶命する攻撃呪文だけにダメージは決して軽くなかった。
これより前、俺たちはすでに悪魔との攻防をひとあたり終えていた。
正確には、俺とガッシュ――魔王が実体化する瞬間、即座に動けたのは俺たちだけだった。初めて体験する圧倒的な妖気に、マイノスですらも無意識に竦《すく》みあがっていたのだ。
俺がプレッシャーを受けなかったのは、その妖気を幻視の中で経験していたからだった。ガッシュは恐らく、かつてダイヤモンドの騎士としてこの魔王に立ち向かった先祖ガディから受け継いだ魂が恐怖を退《しりぞ》けたのだろう。
だが、この機先を制した初撃がさらなる恐怖の引き金となった。
最初に仕掛けたのは俺だった。
実体化にタイミングを合わせ、跳躍する。悪魔がこちらを知覚する前に、肉体の越次元と同時に回避不可能な一撃を叩き込むつもりだった。
そして、手裏剣は無防備な魔王に突き立った。大悪魔であろうと必殺の急所となる筈の眉間《みけん》を刺し貫《つらぬ》いたのだ。
死点を抉《えぐ》った手応えを確かに残し、呆気ないとすら感じながら俺は着地した。
しかし――。
魔王は斃《たお》れなかった。
死点を外したわけではない。人間とは肉体の構造が違っても、俺はその生命の流れを正確に見抜いている筈だった。手裏剣がそれを断ち切った瞬間、間違いなく悪魔の生気は止まったのだ。
だが、魔王の生命活動は停止しなかった。そればかりか死点の傷も急速に癒《いや》され、見る間に塞《ふさ》がっていく。
この間にガッシュが段平《だんびら》を繰り出していた。筋肉の塊《かたまり》とも言うべき巨躯《きょく》から生まれる膂力《りょりょく》に乗った、岩をも砕く魔法剣の斬撃――。
俺の奇襲からわずかに遅れただけのこの攻撃を、しかし悪魔は完全に認識し、防御した。
巨体に似つかわしくない異常な迅《はや》さで、巨大な盾が太刀筋を塞《ふさ》いだ。隙《すき》を衝《つ》いた電光石火の斬撃を、魔王は驚くべき反応速度で受け止めたのだ。
刃を叩きつけられた盾は銅鑼《どら》に似た音を響かせた。そしてあろうことか、ガッシュの愛用してきた大剣は刀身の中ほどから折れ飛んでいた。悪魔王のために地獄の底で鍛造《たんぞう》された盾――この禍々《まがまが》しい防具の前では、|+《プラス》2クラスの魔法強化など何ほどの役にも立たなかったのだ。
次の瞬間、この光景の衝撃から立ち直る暇もなく、俺たちは大凍《マダルト》の洗礼を浴びたのだった。
致命打撃《クリティカルヒット》をものともせず、ガッシュの剛剣すら受け付けぬ異界の覇王。勝機の見えぬ怪物を前に、この躰《からだ》の震えは果たして冷気によるものなのか。
俺は握り拳を胸の前で交差させ、左右に肘を引きながら素早くひと呼吸した。縮み上がった血管に血液を送り込み、筋肉に纏《まと》わりつく寒気を強引に振り払う。
畏《おそ》れに身を委《ゆだ》ねている時ではなかった。
俺はここまで諦《あきら》めるためにやってきたんじゃあない筈だ。運命というものが本当にあるとするならば、俺はこいつを斃《たお》して大破壊《カタストロフィ》を止めるべく辿《たど》り着いたのだと信じる。
ゆらり、と魔王が動いた。
小山のような巨体を包む金色の鎧を鳴らし、四本のうち上の二本に当たる腕で両手持ちにされた剣が――これと比べればマイノスの手にするエクスカリバーすら短刀のように見える巨大剣が半円を描いて頭上に振り上げられる。その切っ先はほとんどこのホールの天蓋《てんがい》を擦《こす》りそうな高さにまで達していた。
それが、落雷の如き迅《はや》さで瞬時に振り下ろされた。
受け止めることすらできぬ凄まじい質量が、とてつもない切れ味を伴って降ってくる。狙われたのは、まだ半ば呆然と立ち竦《すく》んだままのマイノスだった。
「マイノス!」
俺の叫びよりも魔剣のほうが早かった。マイノスの脳天に刃が食い込み、躰《からだ》を縦に両断したかに見えた。
だが、マイノスは一息早く正気を取り戻していた。
流水のように滑《なめ》らかな動きで、マイノスは寸前にこれを躱《かわ》していた。剣の切っ先を見切り、振り下ろされる弧の外側まで後退したのだ。
いつ動き始めたとも判らぬその流麗な体《たい》運びが、俺の目にすら残像を見せたのだった。
|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》の力に相違なかった。着用したロードを保護し、その肉体の働きを驚異的に引き上げるとされる伝説の装束《ガーブ》。生身の人間なら必ず筋組織や関節を傷めるであろう動作を、この装束に身を包んだマイノスは何の不安もなくこなすことができるのだ。
目標を逃した魔剣は、その勢いを微塵《みじん》も失わぬままに床面に叩きつけられた。
いや、吸い込まれたと表現するほうが正しいのだろう。固くぶ厚い岩盤を、魔王の大剣はまるで飴のように切り裂いたのだ。しかも衝撃音すら立てずに、だ。これに人間が触れたなら、どのような防具も関係なく一瞬に切断されることは明らかだった。
対するマイノスの頬に赤い筋が浮かび上がった。斬撃は避けきったものの、常識を越える巨大剣の生み出した斬気が大気を裂き、衝撃波となってマイノスを撃ったのだ。
「色男が台無しだな」
「勝てるか? この怪物に?」
俺の軽口に、マイノスは魔王から視線を外さずに早口で訊《たず》ねてきた。「何か方策があるなら従う。教えてくれ、ジヴ」
「今のところねえな」
魔剣が引き抜かれるのを目の端に捉えながら俺は応えた。「だが諦《あきら》めるつもりもねえ。こいつは確かに一度ダバルプスの呪い穴から退散させられてるんだ。それもたったひとりの騎士にな」
「これから手を見つけるってことか」
ハイランスが|達人の刀《マスターカタナ》を青眼に構えた。「その間にもう一度|大凍《マダルト》がこないよう祈ってるぜ」
「僕はそれほど酷くない。マイノス、先にディーを治療して」
フレイも凍り付いた革鎧を軋《きし》ませて前に出てきた。その様子から見てかなりの凍傷を被《こうむ》っているようだったが、火のような視線を魔王に注いで一歩も退《ひ》く構えを見せない。
ホビットの肝《きも》の座った態度に、必殺と思われた攻撃を防がれて低下した全員の士気がにわかに回復した。あれが通用しなくても、他に有効な手段を見つければいい。何としてもこの魔王を斃《たお》すという意志が、パーティを圧《お》し包みかけた絶望のプレッシャーを撥《は》ね除ける力となった。
「ガッシュ! ベイキのところに行け!」
マイノスの呪文詠唱が響く中、俺は無手となったガッシュに叫んだ。同時に俺とハイランス、フレイが魔王の撹乱《かくらん》に走り出す。
結界に囚《とら》われたベイキの背に、未だハースニールが括《くく》られているのを俺は見ていた。あの魔法障壁を破ることができれば、ダイヤモンドの騎士の聖剣がガッシュの腕で蘇ることになる。
エクスカリバーに|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》の力を宿したマイノスと、ハースニールを手にしたガッシュ。俺ひとりでは効果を上げられなかった死点突きも、悪魔殺し《デーモンスレイヤー》≠ニ致命打撃《クリティカルヒット》≠フ力を秘めた剣士ふたりが加われば、あるいは――。
魔王が再び剣を構えた。その魔剣の動きに合わせ、第二の右腕に握られた槌矛《メイス》も不気味に鎌首をもたげる。
隊列を崩して散ったとは言え、もしここで爆炎《ティルトウェイト》を唱えられていたなら俺たちの半数以上は絶命していただろう。だが、幸いにも魔王は攻撃呪文を用いるつもりはないようだった。
マイノスの回避が効いたのかも知れなかった。魔王にとっては取るに足らぬ存在に過ぎぬ人間に、振り下ろす瞬間まで仕留めたと確信していたであろう斬撃を躱《かわ》されたのだ。人と同じ感情は持ち合わせていなくとも、己の力を確認するためにもう一度剣を用いる意地はありそうだった。
それは、俺たちに敗北する筈がないという傲慢《ごうまん》さが生んだ意地だった。殺そうと思えばいつなりとできる――魔王のこの傲《おご》りを、俺たちは勝機に結びつけなくてはならない。
人の身長ほどもある巨大な槌矛《メイス》が唸りをあげて空間を抉《えぐ》る。接触すれば骨まで微塵《みじん》に砕かれるであろう防御不可能の打撃だが、こちらは雷速の魔剣に比べて充分に回避できる程度の速さだった。
もとより魔王の気を引くことだけを目的としたフレイはこれを難なく躱した。斜め下方に振り下ろされた槌矛《メイス》は目標を失い、床を直撃して派手に粉砕する。
この奇妙とも言える剣撃との差に、俺の脳裏に閃《ひらめ》くものがあった。
幻視の記憶の中、ダイヤモンドの騎士ガディの斬撃によって切断される悪魔王の腕――そこにはこの槌矛が握られていた。
もしも、百年前の死闘で受けたその傷が完全には癒《いや》されておらず、そのせいで右第二腕の動きが鈍っているのだとすれば――。
視界の隅で、ガッシュが結界に到達したのが見えた。
ベイキに歓喜と、そして苦悶の表情が浮かぶ。もはや触れ合うほどに近づいたふたりを、不可視の力場が厳然と阻《はば》んでいるのだ。
ガッシュの両拳が何度も打ちつけられる。しかし、結界が打ち破られる気配はなかった。ベイキも、そして聖剣ハースニールもガッシュの手には届かない。
わずかに覗きかけた光明も、この結界によって閉ざされてしまうのか。
その時だった。
黒い影が凄まじい勢いで、俺たちが辿《たど》ってきた通路から飛び込んできた。
ホールに入るや否や、そいつは大きく跳躍した。重い翼が空気を打つ音が響き、その姿は魔王の頭を掠《かす》める高さにまで舞い上がる。
それは人間大の巨大な蝙蝠《こうもり》だった。
いや、むしろ蝙蝠に似たもの、と呼ぶべきかも知れない。人間のフォルムをそのままに蝙蝠の表皮を張り付け、両腕から厚い革の翼を生やした――そんな姿を、そいつは持っていた。
|蝙蝠の獣人《ワーバット》は魔王の頭上を旋回すると、狙いを定めた猛禽のように急速に降下した。その先には封じ込められたベイキと、武器を失った素手のガッシュがいる。
「ガッシュ!」
俺は叫んでいた。いかな超戦士と言えど、無手で爪牙《そうが》を備えた魔物と渡り合うのは難しい。
舞い降りた獣人とガッシュが交錯する――そう見えた刹那《せつな》、激しい閃光が迸《ほとばし》った。
その光の中で、獣人はガッシュにではなく魔法障壁そのものにしがみついていた。微細な稲妻が獣人の全身を疾《はし》り、そして蝙蝠の特徴を失わせていく。
痙攣《けいれん》して吠える獣人は、もはや人間とほとんど変わらぬ姿に戻っていた。獣へと変ずる魔力と、結界を維持する魔力とが打ち消し合っているのだ。
その正体がアドリアンの従者リフラフだと気づいた時には、すでにベイキは中和された魔法障壁から解き放たれていた。閃光が止《や》み、膝をついて頽《くずお》れるリフラフと、ガッシュに抱きかかえられるベイキが見える。
次の瞬間、伝説の聖剣ハースニールは百年の時を経て、それを操るに相応《ふさわ》しい男の手に蘇った。
ベイキの背から直接引き抜かれた白刃がガッシュの手の中で震えていた。大気を振動させるその音は、まるでハースニールが歓喜の雄叫びをあげているかに聴こえる。
そして、俺は勝機を見た。
「ガッシュ、マイノス! やるぜ!」
叫ぶとともに、俺は即座に走り寄ってきたフレイとハイランスに小声で指示を出す。無論、誰も足を止めてはいない。
「フレイ、メイスを誘え。ハイランスはそこを狙って腕を落とせ」
ホビットは小さく頷《うなず》いた。そこには一片の怯《おび》えも見て取れない。ただ冷静に状況を把握《はあく》し、役割を成し遂《と》げる小さな勇士がそこにいた。
「信じるぞ」
軽く歯を見せて笑い、エルフの侍は方向を転じた。フレイも続き、さらにその前に出る。
「ディー!」
背後を振り向いた時には、ディーはすでに俺が指示を出そうとしていた呪文――魔術師系第四レベルに属する暗霧《モーリス》の詠唱を開始していた。マイノスの呪文による応急治療を受けたせいか、凍傷の痛みを感じさせぬ滑《なめ》らかな詠唱が紡《つむ》がれていく。
その間にガッシュとマイノスが集まった。ガッシュに抱えられてきたベイキは、そのままディーのいる位置まで後退する。リフラフはまだ結界のあった場所に蹲《うずくま》っていたが、フレイたちに気を取られた魔王の標的になる危険はなさそうだった。
「いいか。俺たちは一斉に死点を狙う」
俺、ガッシュ、マイノスとも魔王を見ていた。フレイとハイランスがいよいよ仕掛けようとしている。
「奴の右腕が開く。おまえは脇腹から狙っていけ」
「判った」
アーメットの面頬を下ろしたままガッシュは答えた。
「マイノスは胸を」
「了解だ」
視線は動かさず、マイノスは続けた。「貴様はもう一度、頭だな」
「判ってるじゃねえか。いくぜ」
俺たち三人は同時に走り出した。前へ――。
ディーの暗霧《モーリス》の効果が現れていた。
魔王の頭部付近に闇が発生していた。魔法によって生み出された霧状の暗黒空間が悪魔に纏《まと》わりつき、その視界を著《いちじる》しく妨《さまた》げている。
視力を奪うことによる回避率の低下――それが暗霧《モーリス》という呪文の働きだった。
呪文それ自体にダメージを与える効果はないが、これで先刻ガッシュの斬撃を受け止めた的確な防御は難しくなる。それは即ち、こちらの攻撃が狙い通りに決まる可能性が高まったということだ。
闇に視界を遮《さえぎ》られ、魔王の怒気が膨《ふく》れ上がった。巨体から発散される妖気が肌を刺すほどに高まる。
怒号とともに繰り出された槌矛《メイス》は、しかしフレイが巧みに誘ったものだった。冷静さを欠いた力任せの強振はホビットの反射神経に易々《やすやす》と躱《かわ》され、空振りした勢いで巨体が泳ぐ。
ハイランスはこの機会を逃さなかった。
峻烈《しゅんれつ》なる気合いとともに、光すら切り裂く迅《はや》さで刀が閃《ひらめ》く。剣の間合いの遥か遠くから、造る気≠フ刃が魔王の右腕を透過したのを俺ははっきりと見た。
槌矛《メイス》を握ったまま、肘から切断された右第二腕はゆっくりと落ちていった。
怒号がホール全体を震わせた。魔王はようやく思い出したのだ。かつて同じように、虫けらに等しい人間によって屈辱的な傷を負わされたことを。
その腕が床に転がる前に、ガッシュは魔王の右側面に踏み込んでいた。本来なら攻防一体の槌矛によって護《まも》られている部分が、ハースニールの前に無防備に晒《さら》け出されている。
鎧のわずかな継ぎ目に向け、ガッシュは聖剣を突き出した。|悪魔殺し《デーモンスレイヤー》≠ヘまるで意志あるもののように滑《すべ》り込み、根元まで脇腹に吸い込まれる。
マイノスも間合いを詰めていた。突進を阻《はば》もうとする盾をその精妙な動きでくぐり抜け、懐に入り込んでエクスカリバーを上段に構える。
「おおお――」
雄叫びがあがり、両手で握られた魔法剣が渾心の力で叩きつけられた。
刃は魔王の胸を覆う鎧に絶妙の角度で接触し、恐らくは盾と同程度の防護魔法が施《ほどこ》された装甲を斬り破っていた。そして刃が止まると同時に、マイノスは逆手に持ち替えてエクスカリバーをそのまま押し込む。
どちらも致命傷となり得る必殺の刺撃だった。それをほぼ同時に受け、怒号はにわかに小さくなっていく。しかし、驚くべきことにこの二本の|悪魔殺し《デーモンスレイヤー》≠ノ貫《つらぬ》かれながらも、魔王はまだ剣を繰り出す力を残していた。
苦し紛《まぎ》れの、それでも全く迅《はや》さの衰えぬ神速の斬撃が横|薙《な》ぎに俺を襲う。
だが、俺はそのタイミングを計っていた。
跳躍し、軽く足を縮める。その下を長大な魔剣が通過する一瞬、俺は剣の腹を蹴ってさらに高く舞い上がった。
見下ろす位置に、魔王の頭頂部があった。
三本の角の、中心に当たるものの付け根に、もはや絶え絶えになった生気の最後の流れが感じ取れた。即ち、死点。
逆手に苦無《くない》を振る右拳に左手を添《そ》え、全体量をかけて振り下ろす瞬間、俺は願った。
――ハ・キムよ、力を貸してくれ。手裏剣に封じられた呪いを解放し、この魔王をもとの世界へ送り還《かえ》してくれ。
「破っ」
切っ先が魔王の頭蓋《ずがい》に食い込んだ刹那《せつな》、手裏剣から凄まじいエネルギーが放出された。永きに渡って忍者たちの羨望《せんぼう》を集め、死者の魂すらも捕え続けた武器に蓄積された呪力が今、所有者である俺の願いによって解き放たれたのだ。
苦無《くない》は砂のように崩れ、塵《ちり》と消えた。
魔王の妖気もまた、完全に消失していた。
頭を蹴り、俺は着地した。ガッシュとマイノスも剣を引き抜き、俺の傍《かたわ》らまで後退する。
魔王は直立したまま、動かなかった。
「死んだの?」
誰に訊《たず》ねるでもないディーの言葉が、静まり返った空間に谺《こだま》した。その死≠ニいう響きが最後の一押しをしたかの如くに、巨体はバランスを失って背中から倒れていく。
倒れながら、魔王の骸《むくろ》は急速に薄らいでいった。
床に衝突する気配すらなく、それは幻のように俺たちの次元から消滅した。
魔剣だけが、尾を引く金属音を響かせて転がっていた。
「やった、か?」
マイノスが緊張を残した声音で呟《つぶや》く。
「やったぜ」
俺は深く息を吐いた。安堵《あんど》のあまり、抑えてきた凍傷の痛みが蘇る。
「油断するな!」
背後から、唐突に声が響いた。
「ザザ!」
振り逼ろうとした俺は、ぞくりとする気配の出現にそれを阻《はば》まれた。弾かれたように、その気配の方向――火口に迫《せ》り出したテラスに視線を向ける。
そこに、ひとりの男が立っていた。
気づかなかった筈はなかった。男は明らかに、たった今そこに現れたのだ。
男は彫《ほ》りの深い貌《かお》に残忍な嗤《わら》いを浮かべていた。めくり上げた唇から牙に似た、獣じみた歯が覗く。
その凶相に見覚えがあった。この男は、まさか――。
思い出すより先に、ザザが叫んでいた。
ダバルプス、と。
百年前、聖都リルガミンを内側から喰い破った魔人がいた。
すべての外敵を退《しりぞ》けるニルダの杖も、都市の中に誕生した破滅の因子に対してはその効力を発揮しなかった。成長した魔人は闇と結び、一夜にしてリルガミンの王位を簒奪《さんだつ》した。
やがて、魔人は斃《たお》されることになる。王家の生き残りである王子アラビク、王女マルグダの手によって――。
その光景を、俺は見ている。幽界に魂を置いたわずかな刻《とき》に。
あの幻視の中で、魔人の首はハースニールに切断されて宙に舞った。断末魔の代わりに、ダイヤモンドの騎士アラビクをも道連れとする破滅の呪文を紡《つむ》ぎながら。
魔人の名は、ダバルプスと言った。
たった今、ザザが叫んだ名もダバルプスだった。
そして、テラスに現れた男の貌《かお》は、紛《まぎ》れもなく俺が見た魔人の凶相と同じものだった。
「ダバルプス、か――」
すぐ後ろから声がした。誰もいない筈の、俺の背中から。
魔人に吸い付けられる視線を無理矢理外し、俺は振り返った。
そこにもまた、幻視の世界の住人がいた。
月光を浴び、天空を飛翔していた男――アドリアンに瓜ふたつの、しかし魔性の証たる紅《あか》い瞳と純白の牙を持つあの男が、俺の記憶から抜け出てきたかの如き姿でそこにいたのだ。
「――アドリアン?」
「これが私の真の姿だ」
滑《すべ》るように歩き、擦《す》れ違う瞬間、不死者の特徴を備えた男は俺に目を向けた。「しかし貴様の味方であることに偽りはない」
言って、アドリアンは前に視線を戻した。その姿を追い、俺もダバルプスに向き直る。
忽然《こつぜん》と出現した魔人は、未だ何の動きも見せていなかった。噴火口を背にしたまま、百年前と同じ酷薄な笑みをへばりつかせて佇《たたず》んでいる。
「貴様だな」
俺を追い抜いてなお、アドリアンは歩を緩《ゆる》めず無造作に近づいていく。「我が名を騙《かた》った薄汚い吸血鬼を造ったのは」
肯定するように、ダバルプスは無言で唇を吊り上げた。
「百年の昔に打ち倒されたと聞きこれまで捨て置いた。どのような手段を用いて甦ったかは知らぬが、再び死によって償《つぐな》ってもらうぞ」
アドリアンの宣告が冷徹に響く。
この時初めて、ダバルプスが動いた。
身に纏《まと》った漆黒の薄衣が揺れ、逞《たくま》しい両腕が左右に広がる。それが持ち上げられるにつれ、空間に変化が生じ始めた。
ちょうどテラスの部分に足を踏み入れたアドリアンの周囲に、淡い紫色に明滅する紋様が円形に浮かび上がっていた。その紋様は俺の知らぬ、何らかの文字で綴《つづ》られた言葉のようだった。
アドリアンの歩が、止まっていた。
「あれは――!」
背後に近寄ってきていたザザが、緊迫した口調で呟《つぶや》いた。「何故、ダバルプスがあの呪法を!?」
低い詠唱が魔人の喉から漏れた。汚泥《おでい》を煮立てるような、人の口から発するものとは思えぬ響きだった。
「――貴様!」
アドリアンが叫んだ。続く言葉は、もはや聞き取れなかった。
呪法円に囲まれた空間が凄まじい速さで振動していた。同時にその結界に囚《とら》われたアドリアンの後ろ姿が、蒸発するように分解されていく。
「アドリアン!」
俺が走り出そうとした、その刹那《せつな》――。
ベイキの結界を破ってから、ぼろ布の上うに蹲《うずくま》っていたリフラフがダバルプスに向かって跳躍していた。
そこに現れた時点では、ダバルプスはすぐ傍《かたわ》らのリフラフに注意を払っていたのかも知れない。だが、アドリアンに呪法を施《ほどこ》すこの瞬間、リフラフの位置からの襲撃は魔人にとって完全に死角となっている筈だった。
宙で急速に獣化し、吸血|蝙蝠《こうもり》のそれとなった顎《あぎと》が、主人を窮地に追い込む男の頭を噛《か》み砕いた――そう見えた時、信じ難い光景が俺の眼前に展開した。
空中にあるリフラフの躰《からだ》を、黒衣を突き破ってダバルプスの背から生じた槍が刺し貫《つらぬ》いたのだ。
いや、槍じゃあない。それは妖獣《ゼノ》どもが厭《いや》らしく伸ばしてくる、あの口管と全く同じものだった。
さらに、それは一本ではなかった。続いて数本の管が伸び、次々と獣人の肉にめり込んでゆく。
リフラフを宙に縫《ぬ》い止めながらも、ダバルプスは眉ひとつ動かすことなく呪法を続けていた。そして、掌《てのひら》を胸の前に組む。
その動作で、アドリアンの衣が床に落ちた。
それ以外、結界の中には何もなかった。不死者《イモータル》の肉体は分解され、細胞に至るまで跡形もなく消失したのだ。
ぐっ、ぐっ、と耳|障《ざわ》りな音が聴こえた。ダバルプスの唇から漏れる、それは嗤《わら》い声だった。
自ら披露《ひろう》した術で死ねたのだ。不死王もさぞかし本望だろうて
その言葉に瀕死のリフラフが咆《ほ》えた。届かぬ手足を振り回し、獣化した巨体が宙でもがく。
目障りだな
躰《からだ》を揺らされ、魔人は囁《ささや》いた。喰ってやろう
瞬間、ダバルプスの背が爆発したように見えた。
そこから飛び出したのは、驚くほど大量の肉の襞《ひだ》だった。放射状に噴出したピンク色のそれは、咲ききった花が蕾《つぼみ》に戻るかのように収束し、リフラフの巨体を丸々包み込む。
喰う、という形容が最も相応《ふさわ》しい光景だった。肉の花弁は蟻地獄よろしく、リフラフをその顎《あぎと》に捕え、引きずり込んだのだ。
叫びはもはやなかった。ただ、ダバルプスの背に生じた巨大な肉袋が収縮するにつれ、無数の骨がへし祈られる胸の悪くなる音が響き渡った。
「てめえ――」
ここに至って、俺はようやくダバルプスの正体を――斃《たお》された筈の男が百年の時を経て復活した理由を悟った。
あの死闘の直後、崩壊する旧リルガミン王城から大鴉《おおがらす》が持ち去ったものこそ、一度はアラビクとともに呪い穴へと呑《の》み込まれたダバルプスの首だったのではなかったか。そしてそれは、当時は禁断の地とされていた梯子山《スケイル》に運び込まれた。
恐らく、ダバルプスは不完全な不死の呪法を自らに施《ほどこ》していたのだろう。頭部だけの存在となり果てながらも、脳を腐敗から守り、魂をそこに縛り付け続けたのだ。
その首を、後の時代に梯子山《スケイル》に棲みついた邪神崇拝者どもが見つけだした。禍々《まがまが》しい妖気を滲《にじ》ませるミイラ化した頭を、愚かな|牙の僧侶《プリースト・オブ・ファング》どもは神体として崇《あが》め奉《たてまつ》ったのだ。連中の狂気と紙一重の信仰は強い呪力となって蓄積し、尽きかけていたダバルプスの魔力を蘇らせた。
そして一年前、妖獣《ゼノ》を乗せた隕石が梯子山《スケイル》に堕《お》ちた。
偶然か、それともダバルプスが呼び寄せたのか、妖獣《ゼノ》はこともあろうにその首を啖《くら》ったのだ。細胞を生かしたまま保ち続けていた稀代の凶人の脳を同化し、この時代に甦らせてしまったのだ。
「ダバルプス……ああ!」
よろめく躰《からだ》をディーに支えられ、ベイキが消え入りそうな声で呻《うめ》いた。過去、この魔人によってそのほとんどを抹殺されたリルガミン王家の血を引くただひとりの娘なのだ。受けた衝撃の大きさも無理からぬところだった。
しかし気丈にも、十七歳のリルガミン女王はダバルプスの凶相を見|据《す》えた。
「誰ひとり知る者のないこの時代に甦り、一体何をしようというのです。数年もの間リルガミンを魔都と変え、その最期には曾《そう》祖母の弟君アラビクを道連れにした……これ以上何が望みだと言うのです?」
売女《ばいた》マルグダの末裔《すえ》が、俺の望みを訊《き》こうというのか
背中ではまだ咀嚼《そしゃく》音を奏《かな》でながら、ダバルプスは牙を剥《む》き出して嘲《あざ》笑った。俺は何も満足しておらぬ。あの糞《くそ》溜めの街リルガミンは悪魔の湧き出る次元の穴にしてやるつもりだった。アラビクの命など俺の味わった百年の屈辱に比ぶれば塵芥《ちりあくた》に等しいものよ
「そんな……」
望むのは世界の破壊――ここを人の棲めぬ次元に造り変えることよ。この素晴らしい躰《からだ》がさらに馴染《なじ》む、一族にとって快適な星に改造するのだ
言って、ダバルプスは哄笑した。大きく開いた喉の奥から、妖獣《ゼノ》のあの緑の眼球がふたつ迫り出し、ぐねぐねと絡《から》み合いながら糸を引く粘液を撒《ま》き散らす。
俺はこの時まで、ダバルプスの意識が妖獣《ゼノ》を支配したのだと考えていた。百年に渡って蓄積された狂念が、本来なら人の記憶を映って我がものとする妖獣《ゼノ》の意識を逆に乗っ取っているのだと。
妖獣《ゼノ》に同化されたアルタリウスやエレインが呪文を用いることができなかったのは、そもそも魔法を呼び起こすための精神領域を持たない妖獣《ゼノ》が知識を複製したに過ぎなかったからだ。しかし精神を支配するのがあくまで術者の側であれば、その妖獣《ゼノ》の細胞を持つ人間は呪文を操ることができるだろう。
ダバルプスが数々の魔物を召喚し、アドリアンすら消滅させる呪法を使いこなした以上、支配しているのは魔人の意識だと考えなければならない。
また、リフラフに対して行った肉体の変形も、俺がこれまでに見た妖獣《ゼノ》とはまるで形態が異なっていた。妖獣《ゼノ》の細胞が意識に支配されているのだとすれば、ダバルプスの並外れた精神力と魔力が、半ば不定形生物に近い奔放《ほんぽう》な変形をコントロールしているのではないか。
だが、ダバルプスの思考にはわずかに、妖獣《ゼノ》それ自体の抱《いだ》いていた本能的な欲望が入り込んでいた。
つまり支配したのではなく、精神レベルで妖獣《ゼノ》という種族と融合してしまっているのだ。
それが魔人の狂気を和《やわ》らげる方向に働いているとは思えなかった。
ダバルプスはすでに人≠ナはない存在と化している。それは悪魔と契約して人の持つべき善性を失うといった段階ではなく、もっと根底の思考で人≠フそれとは完全に異なってしまっているということだ。
妖獣《ゼノ》という生物が持つ、種族を存続させようする強烈な本能。それが精神の基底となっているとすれば、ダバルプスにとって人類とは、死に絶えようと一顧《いっこ》だにしない異種族に過ぎなくなるだろう。
魔人の狂念と異質な思考の合成から、どのような目的が生まれたのか。
それこそ俺たちが止めようとしてきたもの――大破壊《カタストロフィ》ではないのか。
俺はダバルプスの頭上、噴火口の壁に張りついた繭《まゆ》のような物体を見上げた。
そうだったのだ。
これこそが、妖獣《ゼノ》どもをもたらした流星の正体なのだ。天から堕ちた怪生物の巣であり、何らかの手段で世界に天変地異を起こしてきた原因だったのだ。
ダバルプスは嗤《わら》い続けていた。
不死王も愚かよ。俺の幻視する空間で、自らを滅する呪法を使ってみせるとは。奴が片付いた今、畏《おそ》れるべきは何もない
「すぐに訂正させてやるぜ」
俺の言葉に、魔人の哄笑が止《や》んだ。
「アドリアンのぷんまで、てめえにゃ百年の利息をくれてやる。嗤いたきゃあとは地獄でやりな」
これが合図になった。
死闘が、始まった。
最初に仕掛けたのはマイノスだった。
いつ動き始めたとも知れぬ、滑《なめ》らかな、しかし稲妻の迅《はや》さで間合いに踏み込む。
そう見えた瞬間に、ダバルプスの躰《からだ》に二本の筋が刻み込まれる。
左の肩口から右脇腹までと、右の肩口から左脇腹まで、鳩尾《みぞおち》の位置で交差するX≠フ文字を描いたように黒衣の下の肉がぱっくりと裂けていた。
この一瞬に、エクスカリバーは二度、魔人の眼前で閃《ひらめ》いていたのだ。
マイノスの殺気がそのまま傷を刻んだかのような、凄まじいまでの斬撃だった。|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》に与えられた力ではない、俺すらも寒気を禁じ得ない必殺の気迫が生み出した太刀だ。
「エレインの仇《かたき》!」
間合いから退《しりぞ》くマイノスの唇から、妖獣《ゼノ》によって無惨に同化された魔術師の名が漏れた。友エレインを失う元凶となったダバルプスへの憎悪が、肌を打つような激しい殺気となって発散されているのだ。
と、その殺気がふっと弛《ゆる》んだ。
マイノスを支配していた怒りに、別の感情が忍び込んだせいだった。恐らくは驚愕――驚≠フ感情に。
ダバルプスの受けた傷は、人間なら、いや通常知られる生物であれば確実に致命傷となるものだった。
傷の深さは躰《からだ》の前面から背骨まで達し、人の肉体ならば生命維持に不可欠な器官――肺から消化器、中枢神経に至るまでが切断されている。たとえ妖獣《ゼノ》の肉体であろうとも、これだけの深傷《ふかで》を負えば瀕死は疑いようがない。
だからこそ、その光景は憎悪に燃えるマイノスさえ怯《ひる》ませた。
傷が刻まれていたのは寸秒にも満たぬ間だった。
裂けた傷口から膿色の体液が潜み、噴き出すと見えたその時――。
刃が通り抜ける以前にまで時が逆流したかの如くに、傷は完全に塞《ふさ》がっていた。まるで何かの冗談のように、肉と肉がぴたりと閉じ合って癒着《ゆちゃく》したのだ。
それはもはや妖獣《ゼノ》の回復力とは呼べぬ代物だった。ダバルプスの魔力で制御された細胞組織が効率良く変形して傷を塞《ふさ》ぎ、その再生能力を飛躍的に向上させているのだ。
これよりわずかに前、マイノスに間髪を入れずハイランスが気≠フ斬撃を放っていた。悪魔王の腕を切り落としたあの硬烈《こうれつ》なる斬気が、再生したばかりの躰《からだ》の中心線に向けて正確に伸びる。
両断する――迸《ほとばし》る刃の鋭さに、俺はそう判断した。
驚異的な細胞増殖を見せたダバルプスとても、その肉体を縦に二分されてはどうか。自在の変形によって急所の位置はずらしているかも知れないが、それでも即座に回復できる損傷では済まない筈だ。恐らく反撃もままならない状態に陥《おちい》るだろう。
その間に徹底的な破壊を加え、止《とど》めを刺す。ハイランスの斬撃を無防備に受けたこの瞬間が、ダバルプスにとっての命取りとなったのだ。
だが、この短時間にまたしても予測は裏切られた。
ぽん、と何かの弾ける音が聴こえた。直後に音ではなく、直接鼓膜を震わせる衝撃波だったと判る。
それは気≠フ刃が、ダバルプスの頭部に達した瞬間|微塵《みじん》に砕けた衝撃だった。
俺がハイランスの斬気を弾き返したのと同じ原理だった。体内に呼吸による気≠増大させ、本来ならあらゆる物体を透過、切断する不可視の刃を唯一|阻《はば》む同質の鎧を生み出す。酸素を大量に取り込んで再生細胞を賦活《ふかつ》させているダバルプスの肉体に充填《じゅうてん》された気≠フ総量は、刃状に集中したハイランスの気≠容易に跳ね返すほどの膨大《ぼうだい》なものだった。
マイノス、ハイランスの連撃を凌《しの》いだこの刹那《せつな》、傷の修復を完了した魔人の肉体が変形した。
衣を裂かれて剥《む》き出しとなった胸部から、あの妖獣《ゼノ》の口管二本が皮膚を突き破って射出される。放たれた弩《いしゆみ》の矢の迅《はや》さで、それらはダバルプスの再生能力に呑《の》まれて隙《すき》の生じたマイノスの胴に吸い込まれた。
厭《いや》な破砕昔を発し、マイノスの躰《からだ》が俺のほうに吹っ飛んできた。後方に跳び、勢いを殺しながら受け止める。
「ごはッ」
マイノスが苦しげに息を吐き出した。|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》の特殊装甲が致命傷ともなり得る口管の貫通を防いだものの、決して軽量ではないこいつを浮かせるだけの衝撃をまともに受け、肋骨《ろっこつ》の数本は持っていかれている。
「妖獣《ゼノ》だよっ!」
背後でフレイが切迫した声をあげた。見ると、このホールの唯一の入口から成長し切った妖獣《ゼノ》が数体、こちらを警戒した速さで侵入し始めている。
ダバルプスはすでに俺たちには聞き取れない波長の声で、周囲に散らばった妖獣《ゼノ》どもを呼び寄せていたのだ。後続もまだやってきそうだった。
「ハイランス!」
俺は叫んだ。「ディー、フレイと妖獣《ゼノ》どもを食い止めろ! ダバルプスにゃ居合《いあい》は通じねえ」
「おう」
この間にガッシュがハースニールを構えていた。
刀身が低く唸り、ダバルプスに向けて空刃《ロルト》の呪文を呼び起こす。
しかし、真空の刃が発生する間もなく、大気を高速で掻《か》き回す呪文効果は瞬時に打ち消された。かつて暗黒の魔道を極めたとされる魔人は、妖獣《ゼノ》と融合した今も、百年前の王宮での戦いと同じように強力な退呪障壁《レジストシールド》をその身に纏《まと》っていた。
「お、のれ――」
俺に抱えられたままマイノスが呻《うめ》いた。そのまま身を起こして再び突進しようとするのを俺は抑えた。
「先に傷を癒《いや》せ。エレインの仇《かたき》を討ちてえんならな」
エレインの名がマイノスを正気に戻した。片膝をついて打撲箇所に大治《ディアルマ》を唱え始めるのを見て、俺はその前に出る。
前方で対峙するのはガッシュ。俺の横にはザザが並んだ。
正面に、出現から未だ一歩も位置を変えていないダバルプスが爛々《らんらん》と狂気に輝く双眸を俺たちに注いでいた。
もはやそこに一片の笑みも浮べてはいない。先刻までの、妖獣《ゼノ》の意識に頭脳を蝕《むしば》まれているかの如き哄笑との落差が、却《かえ》って言い様のない不気味さを醸《かも》し出している。
そうか――貴様だったな
ダパルパスは、俺を見ていた。俺の首がこの山に運ばれるところを盗み見ていたのは。あれから幾度か視線を感じた。知っていたぞ――
幽界での幻視のことを言っているのだと俺は気づいた。あの時俺の魂は時空を翔《か》け、過去の事象を観た。その時代には存在しない俺の視線を、しかしこの魔性の凶人は察知していたというのだ。
背後では妖獣《ゼノ》の一群との戦闘が始まっていた。
ディーの爆炎《ティルトウェイト》の詠唱が流れ、フレイとハイランスが応戦する気配が伝わってくる。
しかし俺は目を逸《そ》らせなかった。爆炎《ティルトウェイト》の閃光が疾《はし》り抜け、魔人の凶相を強調するような陰影を投げかける。
業火に灼《や》かれる同胞も、じわじわと間合いを狭《せば》めるガッシュも意に介さぬ様子で、俺だけを睨《にら》みダバルプスは続けた。
迷宮をひとりうろつく貴様を見て、すぐにあの視線の主と気づいた。しかしあの時は魔物どもを召喚せねばならなかったのでな。その夜のうちに夢魔《サッキュバス》を放っておいたが、魔大公《デーモンロード》すら先の始末では役に立たぬのも無理はないわ――
その言葉に、俺の記憶がまざまざと蘇った。
ガッシュたちが宝珠を手に入れるべく最上層へ向かう、その直前――|人喰い虎《ベンガルタイガー》を斃《たお》した俺の背後に感じられた奇怪な気配は、この魔人のものだったのだ。あの時からダバルプスがそれまでの迷宮支配者ル‘ケブレスに取って代わり、黒竜《ブラックドラゴン》をはじめとする邪悪な魔物たちを召喚し始めていたのだ。
不死王亡き今、強《し》いての懸念《けねん》だった貴様がこれだけの人数をまとめて挑んできた。俺に敗北はあり得ぬが、片付けておかなかったのは確かに失策だったのかも知れんな――
ダバルプスは憑かれたようにひとり喋《しゃべ》り続けた。
俺たちの攻撃に対して何ら注意を払っていない風を装《よそお》っている。
それはガッシュへの誘いだった。踏み込むには不充分な距離までわざと隙《すき》を見せ、先に仕掛けさせて防御が甘くなったところを衝《つ》こうとしているのだ。
だが、重装の板金鎧《プレートメイル》や盾に身を固めた巨躯《きょく》を鈍重と評価したのだろう。ダバルプスはガッシュの運動能力を見くびり過ぎていた。
足の指で這うように距離を稼《かせ》いでいたガッシュが、その一瞬に動に転じた。
驚愕の表情こそ見せなかったが、ダバルプスは初めてその場から動いた。重戦士の予想外の踏み込みに、反射的に後ろへ飛び退《すさ》ったのだ。
しかし、遅い。横|薙《な》ぎに一閃したハースニールは、身を浮かせた瞬間のダバルプスの胴を真一文字に切り裂いていた。
刃は背面まで突き抜け、上半身と下半身が完全に切断された。空中でそれが分離するのを見て、ガッシュは再生の暇を与えず追撃を加えようと踏み込みかける。
その足が止まった。
深追いしていたなら、危なかったのはガッシュだった。
まるで吸収したリフラフの体積を吐き出したかのように、両方の断面から肉腫《にくしゅ》状の細胞が爆発的に増殖した。そこから粘液に塗《まみ》れた緑の触手が十本あまりも生え、上下から絡《から》み合って分断した肉体を繋《つな》ぎ留めたのだ。
腹部に巨大な肉腫を挟み込んだ形で、ダバルプスの躰《からだ》は瞬時に接合した。
と、同時に触手が八方に伸び、狂ったように周囲の空間を薙ぎ払う。もう少し近づいていたなら、ガッシュはこの触手の嵐に巻き込まれていた。
勢いあまって自らの躰に纏《まと》わりつく触手を振り払い、魔人は微《かす》かに険しくなった貌《かお》を歪めた。肉腫は急速に吸収、凝縮され、役目を終えた触手は切り離されて床に落ちる。
ハースニールももはや俺を殺せない。俺は不死身となったのだ。完全に、完全に!
急激な昂《たか》ぶりを見せ、そしてダバルプスは跳躍した。真上に――。
そこに、あの怪物体があった。
実に十メートル近い高さを跳び、再び背中から生やした触手で球体の表面にへばりつく。妖獣《ゼノ》の瞬発性筋力ならではの芸当だった。
だが敢《あ》えて敬意を払ってやろう。貴様たちは抵抗すらできぬまま、そこで死ぬのだ
言い放ち、ダバルプスは目を閉じてゆっくりとした詠唱を紡《つむ》ぎ始めた。
かつて王子アラビクに向けて唱えられ、王女マルグダの禁呪・変異《ハマン》によって封じられた古代の破壊呪文――しかし唯一の使い手だったディーが俺の蘇生でその力を失ってしまった現在、ダバルプスの詠唱を阻《はば》む手立てはない。
通常の呪文が通用しないのはすでに判っている。
奴の周囲の空間は魔力を霧散させてしまう強大な力場を形成していた。炎なり冷気なりの魔法効果が現れる前にそれを喚起する魔力を打ち消されてしまっては、あらゆる攻撃呪文はダバルプスに傷ひとつ負わせることができないのだ。
また、十メートルの頭上に逃げられてはガッシュ、マイノスも攻撃のしようがなかった。仮にハースニールやエクスカリバーを投げつけたとしても、あれだけの傷を短時間に再生する肉体にさほどの効果があげられるとは思えない。
一時退却するにも、背後では妖獣《ゼノ》との戦闘が続いている。退路を断たれていた。
ダバルプスの宣告通りだった。俺たちは抵抗する術《すべ》もなく、この場で死をもたらす呪文が降り注ぐのを待つしかないのだ。
それを知ってか、詠唱はやけにゆっくりと進められていた。目を閉じての精神集中もダバルプスの余裕の表れだった。
だが、それでも――。
俺は諦《あきら》めてはいなかった。脳は音を立てるほどの勢いで考えを巡らせ、わずかの光明すらも逃すまいと知識と記憶の限りを手繰《たぐ》っていた。
「――畜生!」
応急治療を行って活力を取り戻したマイノスが叫んだ。普段なら決して使わぬであろうその言葉に、エレインの仇《かたき》を目の前にして打つ手のない無念が滲《にじ》んでいる。
それにつられ、俺の思考は妖獣《ゼノ》と化したエレインとの、|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》での死闘に飛んでいた。
そして唐突に、エレインの漏らした言葉が記憶の中から蘇った。それがたった今目にしたダバルプスの様子と奇妙に結び付く。
導き出される答があった。
「ザザ」
「はい」
「俺に賭けてくれ」
続く俺の囁《ささや》きに、ザザは驚きの表情を見せた。が、それは一瞬で消え、一切の疑問を挟まずに深く頷《うなず》く。
「ガッシュ」
前方のガッシュが無言で首を曲げた。もう詠唱が終わるまでさほどの時間もない。
「奴の手前の空間に空刃《ロルト》を放て。肩も借りるぜ」
アーメットの奥の目で了解を告げ、ガッシュは即座に行動に移った。俺はその背に向かって走り出す。
可能な限りの短距離でトップスピードに乗った。
勢いを殺さず、床を蹴って跳躍する。
ハースニールに嵌《は》め込まれたダイヤモンドが輝いたのと、俺の左足がガッシュの左肩を蹴ったのはほぼ同時だった。
二メートル近い踏み台を利用し、俺はダバルプスに向けて第二の跳躍をしたのだ。
宙を翔《か》ける俺のわずかに先を、突風に似た空刃《ロルト》の魔力が疾《はし》り抜ける。そしてそれは魔人の退呪障壁《レジストシールド》が及ばぬ距離をおいて、無数の真空の刃を発生させた。
無論、このかまいたち現象はダバルプスには届いていない。
俺は、その高度に達した。
――風に、なれ。死を呼ぶ風に。
念じ、撓《たわ》めた力を解放する。
全身の筋力を乗せて右腕が振り抜かれ、真空波が放たれた。空刃《ロルト》の効果が吹き荒れる空間に――。
同じ現象である無数の刃がそれに呼応した。すでに物理現象となって無効化されることのない真空の渦が、俺の真空波に巻き込まれてダバルプスを押し包む。
QUUAAアァァァ――
詠唱は中断していた。真空波を吸収して勢いを増したかまいたちは、広範囲に渡ってダバルプスをずたずたに切り刻んだのだ。
しかし致命傷ではない。そのままでは魔人は再び肉体を修復する。
そこに、ザザが呪文を唱えた。俺が着地する間さえおかない絶妙のタイミングだった。
ダバルプスの肉体に変化が生じた。
全身に刻まれた無数の傷口から、先刻と同様に肉腫《にくしゅ》が溢《あふ》れ出す。だが、今度はそれが止まらなかった。
アァ!?
膨《ふく》れ上がる再生細胞は完全に制御を失っていた。傷口から成長するそれらは大小無数の妖獣《ゼノ》成体の姿を取り、ダバルプスの肉体を急速に埋め尽くしていく。
俺の予想は的中した。
ザザが唱えたのは攻撃呪文ではない。俺の指示通り快癒《マディ》を、ダバルプスに対して唱えたのだ。生体エネルギーを増大させるこの呪文は、退呪障壁《レジストシールド》に妨《さまた》げられることなく魔人を直撃した。
あの時エレインは言った。異変で地中から噴き出すガスの成分が妖獣《ゼノ》の肉体を活性化していると。そしてまた、邪魔な働きをする草木が枯れる、とも。
ガスとは火口から立ち上る硫黄《いおう》のことなのだろう。では、植物の邪魔な働きとは何であるのか。
俺はそれを酸素と睨《にら》んだ。
不必要なわけではない。事実、ハイランスの気≠弾き適すほど活発な酸素循環をダバルプスの肉体は行っていた。
だが、活性化した細胞にとって、この世界の大気中に含まれる酸素量は多過ぎたのだ。細胞増殖が高速度で行われる反面、再生の意識制御は極めて難しくなる――ガッシュの斬撃で両断された際のダバルプスの緊張は、ハースニールの威力にではなく、暴走しかけた自らの再生能力に対してのものだったのだ。
そして今、広範囲に渡って激しく損傷した妖獣《ゼノ》細胞は、快癒《マディ》による強力な回復効果を受け、ダバルプスの制御を離れて超速度の細胞増殖を開始していた。
原型を失い、肉腫《にくしゅ》の塊《かたまり》となった肉体はなおも暴走し、自らを吸収しながら止めどなく分裂増殖を続けていく。もはやそれがダバルプスであったことすらも判別できなかった。それは一種のアメーバと化し、怪球体の表面を包み込むように広がっていく。
絶叫が響いた。振り向くと、マイノスが巨大な剣を持ち上げ、自分を中心に旋回させている。端正なその貌《かお》が凄まじい苦悶に歪《ゆが》んでいた。
それは魔大公《デーモンロード》の遺《のこ》した魔剣だった。魔王のみ扱い得る魔性の大剣が、それを手にした生身のマイノスを想像を越える地獄の苦痛で蝕《むしば》んでいるのだ。
「おおああっ」
独楽《こま》のように回転したマイノスの手から魔剣が放たれた。投げることすら適《かな》わぬ巨大剣が、その質量を利用した遠心力に乗って宙を裂く。
湿った音を響かせて、それはダバルプスごと、怪球の中央部を根元まで貫《つらぬ》いた。瞬間魔剣に宿る力が解放されたのか、赤い稲妻が剣を中心に球体表面を疾《はし》り抜ける。
AAAOOOU――
剣のわずかに上に浮き出た肉腫の貌が、腹に響く断末魔の咆哮《ほうこう》を轟かせた。
同時に、怪球体と火口壁面を繋《つな》ぐ触手状の支柱に亀裂が生じる。それらが次々と砕け始め、バランスを崩した球体は大きく傾き、テラスの向こう側を落下していった。
底なしの竪《たて》穴へ。溶岩渦巻く噴火口へ。
視界から消えながらも魔人の絶叫は長く尾を引き、やがて大気の鳴動に呑《の》み込まれていった。
「ジヴ!」
ディーが駆け寄ってきた。刀を収めたハイランスと、まだ短剣を振り回して飛び跳ねているフレイが後に続く。
ダバルプスの最期とともに、呼び寄せられた妖獣《ゼノ》どもも全滅していた。
「終わったなあ」
ハイランスがにっと口|髭《ひげ》を吊り上げた。
「これでミフネも落ち着いて成仏できるかな」
「ああ。きっとな」
ディーに腕を取られ、俺は着地したまま片膝をついた姿勢からようやく立ち上がった。
「大破壊《カタストロフィ》は、防げたのかしら」
「あの球体が原因なら、やれる限りのことはした。後は運を天に任すしかねえだろうな」
ディーは深く溜めた息を吐いた。
「帰れるのね。これで……」
しかしそれは偽《いつわ》りの安堵《あんど》だった。緊張を解いたように装《よそお》いながらも、その底に千切れそうに張り詰めた気配がある。
やはりディーは気づいていたのだ。それはこれから起きるであろう事態を、どうにか回避させようとする必死の働きかけだった。
それが判っているからこそ、俺の心は痛んだ。
俺はディーに愛情を抱《いだ》いている。ならば、その願いを聞き届けてやることはできないのか。
思いを巡らせてみる。大破壊を免《まぬが》れた世界で、ディーと新しい生活を築いていく。幸福に暮らしていけるだろう。しかし――。
いつの日か、それを破綻《はたん》させる芽が俺の裡《うち》にあった。
俺をこの梯子山《スケイル》登攀《とうはん》に挑ませた強烈な想い。大破壊《カタストロフィ》を前にして渇望した、俺の中で育てられてきた秘められた願い。それを叶えない限り、俺が積み重ねてきた過去に区切りをつけることはできないのだ。
それが、女たち[#「女たち」に傍点]を絶望の淵に追いやることになるのだとしても。
「いや」
俺の否定に、腕を起るディーの手が反射的に強ばった。同時に、それまでさりげなく俺を注視していたザザが諦《あきら》めたように目を閉じる。この男もまた、俺の想いを察し、乗じていたのだ。
「まだ、残ってるんだ」
自分の口から漏れた言葉がふたりへの言い訳に聞こえた。
俺はガッシュを見ていた。
ガッシュもすでに俺を見ている。その傍《かたわ》らの、愛する男との再会に十七の娘らしく歓喜を露《あらわ》にしたベイキが、ようやく俺たちの間に流れる奇妙な空気を悟った。
「――どうか、したのですか?」
微《かす》かに不安の色を浮かべた瞳で、ベイキはガッシュと俺を交互に見た。
「すまねえな」
誰に対して言った言葉なのか、自分でも良く判らなかった。ベイキなのか、ガッシュなのか、ディー、ザザに対してなのか。この場にいる全員に詫《わ》びていたのかも知れない。
「ガッシュ――闘ってもらえるか。真剣で、な」
ベイキの表情が凍り付いた。
「断れないな」
ガッシュに驚きはなかった。「こんな時が来るとは思っていた。おかしな意味じゃなくてね」
「どうして……ねえどうして!?」
瞬《まばた》きすらできぬまま、ベイキは俺を見た。そして、ベイキにとっては狂ったとしか思えないであろう申し出を拒否しないガッシュを見た。
「あんたが来てくれて嬉しかったよ、ベイキ」
面頬《めんぼう》を下ろしながらガッシュが言った。「今のあんたは前よりずっと魅力的だ。俺が思ってた通りの女性だよ。でも、初めて謁見《えっけん》した時から俺はあんたが好きだった」
「それなら――」
続く言葉を、ガッシュは言わせなかった。
「スケイルを攀《のぼ》ってきたんだろう? あんたがどんな思いでこの山を攀ったのか、それを考えるだけで俺は天にも昇る気持ちになる。でもね、ジヴも同じなのさ。俺と闘うために、あいつはここまで辿《たど》り着いたんだ」
ベイキは幼子《おさなご》がいやいやをするように首を振った。漆黒の瞳から大粒の涙が溢れてくるが、もはや声すら出すことはできなかった。
「だから断れない」
ガッシュはベイキから視線を外した。グレーの瞳が、アーメットの奥から静かな光を俺に放っていた。
「断ったら、あんたの想いを受け止めることもできなくなっちまう」
「やめろ!」
その視線にマイノスが割り込んできた。が、そのまま頽《くずお》れるように片膝をつき、喘《あえ》ぐ。
マイノスの貌《かお》は蒼白だった。金色の髪はほつれて汗の浮いた額に張り付き、紫に変色した唇からは苦しげな呼吸が漏れる。本来なら触れただけで致命の害毒を撒《ま》き散らすであろう地獄の魔剣を用いたつけが、|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》に護《まも》られていたとは言え決して軽度ではなくマイノスの肉体を苛《さいな》んでいた。
「何故なんだ! ジヴ! 私たちはやっと――!」
ごふっ、と血を吐いた。ダバルプスに折られた肋《あばら》も完全に癒《い》えぬまま、この男は魔大公《デーモンロード》の大剣を持ち上げ、放っていたのだ。
ザザが素早く支えた。すぐさま呪文を唱えるが、それは快癒《マディ》ではなく大治《ディアルマ》だった。先刻ダバルプスに浴びせたもので、遂に快癒《マディ》を使い切ってしまったのだ。
その詠唱に被《かぶ》せて、マイノスが再び叫ぶ。
「やめてくれ! 私は……俺はもう、誰ひとりとして友を失いたくない!」
臓腑《ぞうふ》から搾《しぼ》り出すような懇願《こんがん》だった。それが数日前までは反目し続けていたマイノスが吐露《とろ》したものだけに堪《こた》えた。堪えたが、今となっては俺にさらなる苦悩を刻むものでしかない。
「闘わせてあげましょう。どのみち止めたって無駄です」
詠唱を終え、マイノスの腹部に淡く輝く掌《てのひら》をかざしながらザザが言った。
「ザザ!?」
「まだ苦しいでしょうが、あの剣を手にした後遺症です。|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》の回復効果でそのうち楽になるでしょうよ」
肩を貸して立たせ、引きずるように後退しながらザザは続けた。「どんな結果になろうと、私が必ず助けます。絶対にね」
これまで見せたこともない、殺気に似た気迫がザザから膨《ふく》れ上がった。あの人の良い笑みの裏側にどれほどのものを隠しているのか――そう思わずにはいられぬ、語調とは正反対の烈《はげ》しさだった。
真剣にやり合う――それも俺とガッシュが闘うとなれば、その決着はどちらかの死による可能性が高い。そこにザザの言う絶対はあり得ない。
だが、敢《あ》えてザザはそう言った。そこには自らの命に代えても、という意味が込められている。
ゆえにそれ以上、誰も何も言わなかった。マイノスは天を仰ぎ、ベイキは祈るように目を閉じた。フレイも、ハイランスも押し黙ったまま俺たちを見ている。
不意に、ディーが俺の腕を放した。そして、一言だけ囁《ささや》いた。
「きっと帰ってきて」
これほど辛く、相応《ふさわ》しい言葉はなかった。同じ場所にいながら、俺はこれからディーの手が届かぬ修羅に入る。
「マイノス。その剣を貸してくれ」
ガッシュがハースニールをベイキに手渡しながら言った。「使ってみて判った。これは人を相手に振るって良い剣じゃない」
マイノスは無言で腰から外し、鞘《さや》ごとエクスカリバーを放った。これでマイノスも、消極的ながら俺たちの私闘を認めたことになる。
「まさかハースニールを使わなきゃ本気じゃない、とは言わないだろ?」
「ああ」
ガッシュが使えばどんな剣でも同じだった。特に防具を着けていない俺の肉体では、捉えられれば確実にその部位を切断される。ただし退魔の聖剣ハースニールとなると触れただけでも致命傷となる衝撃を受けかねない。俺は殺されたいわけじゃあないのだ。
俺とガッシュを直径として、他の全員が円周の外まで退《しりぞ》いた。ガッシュの言葉が効いたのか、ベイキも躊躇《ためら》いながら皆に倣《なら》う。
その瞬間から、闘いは始まっていた。
ガッシュが鞘《さや》を払い、エクスカリバーの長い刀身が冷光を放つ。愛用の盾を引き寄せて構えた様《さま》は一分の隙《すき》もなく、さながら難攻不落の城砦が出現したかの如くだった。
対する俺は一切の武器防具を持っていない。身に着けているのはあちこちが切り裂かれ、敵と、少なからず俺の血を吸った濃緑色の忍び装束だけだ。
知らぬ者が見れば、明らかに俺が不利となる。それどころか、一方的な惨殺が始まるとすら見えるだろう。
だが、実際には違う。ガッシュと全く同等の武装に身を固めていたなら、俺には万にひとつの勝ち目もなくなる。
無論、俺は大概の武器を使いこなせるよう訓練を受けてきた。それもまた、忍者として最低限身につけておかなければならぬ技能であるからだ。段平《だんびら》にしろ斧にしろ、その辺りの戦士にはひけを取らずに扱う自信がある。
しかし、それでは絶対にガッシュには勝てない。
技術と努力では補《おぎな》えぬもののひとつに、天然自然に授かった剛力というものがある。体格や筋肉の質、骨の太さといった身体的な優劣から生まれる力の差は、同等に鍛え抜いた者同士では圧倒的な力量差となって現れるのだ。
俺がどれだけ会心の斬撃を繰り出そうとも、同じ武器を使っていれば必ずガッシュが破壊力で上回る。それを悟ったからこそ、俺は忍者特有の無手の殺傷術にこだわってきたのだと今にして思う。
戦士として最高の資質に恵まれたガッシュと一対一で闘い、勝利する可能性があるのは徒手空拳《としゅくうけん》となった俺だった。スピードで上回り、凶器の如くに鍛えた指先の精妙な刺突《しとつ》が装甲の砦《とりで》を突き崩す。武装した俺には成し得ない戦闘技術のすべてを吐き出してこそ、初めて勝てる見込みが生じるのだ。
それでも、完全武装したガッシュには凄まじい威圧感があった。
このプレッシャーに耐え切れずに不用意に仕掛ければ、勝敗は一瞬に決する。間合いに踏み込んだ途端、俺の体術を駆使したとしても躱《かわ》しようのない斬撃に躰《からだ》を刻まれるだけだった。
じりじりと、構えをほとんど崩さずにガッシュが間合いを詰め始めた。巨大な壁が迫ってくるような、途方もない圧迫感が俺を襲う。
無意識に恐怖が鎌首をもたげた。戦いにおいて感情を殺すことに慣れた俺にそれを感じさせるほど、ガッシュの放射するプレッシャーは未だかつて体験したことのない強烈なものだった。
――これほどのものだったのか。
恐≠フ感情を押さえつけながら、俺は心の中で感嘆の溜め息を吐いた。
魔大公《デーモンロード》のものとも、ダバルプスのものとも別種のプレッシャー。あくまでも俺と同じ人間が放つ極大の威圧感。だからこそ恐ろしいのだ。
それは、この男には決して追いつけぬのではないかという怖れだった。その恐怖はむしろガッシュにではなく、俺自身の中に向けられている。
同時に俺は何故、こんな闘いを求めてここまで来たのかを自問していた。
ガッシュが憎い、などということでは断じてなかった。男としても、仲間としてもガッシュは好ましい存在だった。
ただ、宝珠の探索を始めて以来、ガッシュは常に俺の前にいた。
リルガミンにやってくる以前、堕落《だらく》しきったトレポー城塞の冒険者たちに絶望していた俺は、すでに各地で実戦を積んでいた精悍《せいかん》な戦士に瞠目《どうもく》した。こんな男もいたのかと思った。そしてともに迷宮を探索するうち、知らず俺は自分とガッシュを比べ始めていた。
この先腕を磨いていけば、いつかはこの男に勝てる日がくるのだろうか。
別段劣等感に苛《さいな》まれていたわけでもなかった。ガッシュはひたすらに強く、俺はその強さに尊敬の念すら抱《いだ》いていたのだから。
ニンジャマスターとの修行時代、目標は常に仮想敵――その時点での己の殻《から》を破ることだった。それが初めて、自分以外の明確な目標を得たのだ。
だが、目標としてしまった以上、いつかはその殻を破らなくてはならない。
そんな想いは漠然とあった。そうでなかったなら、俺はどうして十二の歳から最も困難と言われる忍者になるための修行を続けたのか。誰にも負けぬ力を身につけたかったのではないのか。
それがガッシュたちの遭難を知らされ、大破壊《カタストロフィ》を予告された時に俺の中で形になったのだろう。
ガッシュと闘いたいと。俺の辿《たど》ってきた過去に決着をつけたいと。
この欲求をはっきりと認識したのは、アドリアンに伴ったガッシュと再会した瞬間だった。それまでは後ろめたさからか、自分すらも悟れぬように薄膜をかけた想いでしかなかった。
しかし形になってしまった。
欲望を悟ってしまった。
こうなっては、大破壊《カタストロフィ》が回避されたとしても思い直すことはできなかった。明らかな形となった欲求が、いつの日かすべてをぶち壊しにして噴き出してくる。
その時、蓄積した想いがどのように撓《たわ》められ、歪《ゆが》んでしまっているかは想像もつかなかった。そしてその膨脹《ぼうちょう》しきった渇望を、どのようにして癒《いや》そうとするのかも。
残忍非道の殺人鬼と変ずるかも知れない。
世を呪い破滅を望む魔人と化すかも知れない。
それを可能にする下地が、忍者の修練の中には潜んでいた。深い絶望のエネルギーを精神の暗黒面に向ければ、俺はダバルプスになることもできるだろう。
そうならぬためには闘うしかなかった。そうする以外、俺の中の闇を成長させずに決着をつける方策は思い浮かばなかった。
唐突に、白く玲瓏《れいろう》と輝くエクスカリバーが消えた。
消失したのではない。文字通り目にも止まらぬ太刀行《たちい》きの迅《はや》さで繰り出されたのだ。
刀身がほとんど光の帯となる雷速の斬撃だった。
俺は髪一筋ほどの差でこれを躱《かわ》している。避けられたのは先にガッシュが動き、回避に専心できたからだ。
もし何らかの動きを――それがフェイントであったとしても、俺が行っていたなら間違いなく斬られている。それほどまでに尋常ならざる剣だった。
続く二撃、三撃をこれも防御に徹して切り抜けながら、俺は微《かす》かに生じた違和感を認めていた。
ガッシュは本気で戦っている。これは疑いようがなかった。ここまでの斬撃はいずれも、回避が寸毫《すんごう》でも遅れればあっさりと俺を即死させるだけのものだった。
だが、どこかしら捨て鉢《ばち》な印象があった。攻≠ヘあっても防≠ェないのだ。総身《そうみ》の要塞の如き堅固さは変わらなかったが、ひたすら攻撃から攻撃へと移行する剣には明らかに自分自身の生命を守るという意志が欠落している。
それだけに斬撃は鋭い。が、死中に活路を見出す、といった類《たぐい》のものでもなかった。
本来なら最も危険である筈の剣――絶間《たえま》なく必殺の斬撃を繰り出してくるその箇所に、わずかな隙《すき》が存在していた。鉄壁と化したガッシュに唯一開いた穴と言ってもいい。
常人では衝《つ》くことのできない、開閉する極小の穴だ。仕掛ける機を損なえば一切の隙は消え、鉄壁に阻《はば》まれたうえでこちらが切り捨てられることになる。
狙えるのは、この一点。
さらに二度の斬撃が襲ってきた。胸の皮一枚を裂かれつつ辛《かろ》うじて躱《かわ》し、頭の中に正確なタイミングを刻み込む。
頭上から躰《からだ》を開くように振り下ろされたエクスカリバーが再び跳ね上がってくる、その刹那《せつな》――ガッシュの手首が返る瞬間に、刃のスピードは相殺され限りなく静止した状態に近くなる。
斬撃の弧ぎりぎりで留まっていた俺は、この一瞬に飛び込んでいた。
逆|袈裟《けさ》の太刀が瞬く間に加速した。鬼神の如き剣だった。
この刃と接触する前に懐まで飛び込まねばならなかった。そのためには疾風の迅《はや》さが要《い》る。
いや、風にならなければならなかった。
轟、と耳が鳴った。それでは駄目だ。まだ足りない。
俺は無意識に伸ばした指先をガッシュの盾に絡《から》ませていた。
それを支点に腕を思い切り引く。加速した。耳鳴りが悲鳴のように高くなる。
目の前にガッシュの喉があった。懐に入って初めて狙うことのできる、装甲に護《まも》られていない数少ない部位が。
俺はすでに刃の内側に入り込んでいた。後は貫手《ぬきて》を喉に叩き込めば勝負は決する。俺は自由になれるのだ。
黒竜《ブラックドラゴン》の心臓を掴《つか》み出した手刀を繰り出した。いかに鍛えられたガッシュの首でも、これを弾き返すことはできるわけがなかった。
繰り出しながら考えた。
ガッシュが最初から負けるつもりで闘っていた、ということはなかった。それならばこの申し出を受ける必要すらないと――俺の欲する闘いではないとガッシュは理解している。
ならば何故なのか。自らの命に対して一切の執着を断ったかの如き戦いぶりは何故だったのか。俺に放射した殺気が、そのままガッシュ自身を灼《や》き尽くそうとしていたように思えた。
理解しなくてはならない。俺の想いを理解し闘ってくれた男を、理解せぬままに殺してしまってはならない。
刹那《せつな》とも呼べぬ短い時の中で、俺はガッシュの瞳を深く覗いた。グレーの瞳が湛《たた》えているのは闘いの炎。そしてその裏側に、決して溶けぬ氷に閉ざされた怒りと哀しみがあった。
俺への怒りでも、哀《あわ》れみでもなかった。それは己の心に向けられたものだ。
瞬間、俺は正しく理解した。
ガッシュは勝敗に拘《かか》わりなく自らの命を絶つつもりだったのだ。
ガッシュがボルフォフの愛用するアーメットを被《かぶ》っていることに対して、俺たちは何も問いを発していなかった。一緒ではない以上、ボルフォフはすでにこの世にはないのだろうと感じ取っていたのだ。フレイから、妖獣《ゼノ》との戦闘で深傷《ふかで》を負ったという話も聞いている。
だが、ガッシュは何らかの理由で直接ボルフォフに手を下さなければならなかったのだ。恐らくはその傷から侵入した妖獣《ゼノ》に手遅れにまで同化され、ボルフォフ自身がガッシュによる死を願ったのだろう。意識のあるうちに殺してくれ、と。俺だってそう願うだろう。
妖獣《ゼノ》に意識を喰い尽くされる前に死ねたのだから、ボルフォフは喜んで死んでいったに違いない。
しかしこの優し過ぎる巨漢は、たとえ感謝されたとしでもボルフォフを殺したという罪の意識から逃れることができなかった。
ダバルプスを葬《ほうむ》った今、ガッシュは生きる義務から解放された。生きようとする意志は、罪という名の氷に凍てつき閉ざされている。それはベイキの愛では溶かせぬ種類の氷なのだ。
この時、俺はガッシュを透通して背後のベイキを観《み》た。
視覚で捉えたものじゃあない。幽界での知覚に似た、強烈な思念の映像化だった。
ベイキは泣きじゃくっていた。やめてと叫んでいた。
同時に、その像にもうひとりの姿が重なって見えた。
百年を経てようやく巡り逢えた愛しい人の魂! ガッシュを――ガディの魂を救って!
それはマルグダの思念だった。俺に先祖ジャバの魂が宿っていたように、ベイキの魂にはその曾《そう》祖母マルグダ女王が転生していたのだ。
時が止まったように思えた。少なくとも俺にとっては止まっていた。
この無限に相当する一瞬に、俺の意識は翔《と》んだ。
何故俺は冒険者と――忍者となったのか? 何故俺は力を欲したのか?
自問を繰り返す俺の前を幾つもの光景が流れ去っていく。
疫《えき》病に倒れた親父とお袋の姿があった。夕闇の中に消えていった二ンジャマスターの姿があった。死に別れていった人々の記憶が、氾濫《はんらん》する大河のように現れては消えていく。
そして、あの少女がいた。
コボルドの一群に家族を殺され、ひとり仇《かたき》を討って果てた口の利《き》けぬ少女。その安らかな死に顔の前で少年が泣き叫んでいた。
カがあれば守れたんだ
少年は己の非力を呪っていた。何者にも負けない力で、死を自分の周囲から遠ざけようと誓っていた。
それは俺自身だった。
両親や隊商の仲間たちに守られ、幸福に過ごしてきた少年時代。恐さや悲しみを感じることはあっても、そこに恐怖や悲傷は存在しなかった。
その少女の死は俺にとって初めての、心の奥底にまで届く深い悲しみの傷だった。人を守れぬ無力感に、初めて自分を責めた記憶だった。
もう二度とそんな思いはしたくない。そのためにはどんな恐怖も退《しりぞ》ける力を身につけなくてはならない――餓鬼《ガキ》の俺はそう決意した。
ガッシュに勝ちたい、追い抜きたいという欲望の芯にあるのはこの思いだった。悲しみに打ちひしがれた餓鬼の心のままに凝固した過去の思い出だった。
そしてそれは矛盾だった。
人の死を認める苦しさから逃れるために、俺は友ガッシュを殺そうとしている。過去の少女がそれで救われるとでもいうように、俺は今、代わりにベイキを心が引き裂かれんばかりの悲しみと絶望に突き落とそうとしているのだ。
それだけじゃあない。ディー、ザザ、マイノス、フレイ、ハイランス……それにガッシュ、そして登攀《とうはん》技術を数えてくれたパルパや、ベイキを送り出した五賢者たち――俺を知り、俺に関わり、俺に期待してくれたすべての人々を裏切ってまで、俺は過去の俺に囚《とら》われた道を進もうとしている。
だが、どうすれば良いのか――。
自由な風になれ
懐かしい声が、意識の底から浮かび上がってきた。
決して縛られぬ、運命を切り開ける風になれ――
老いたニンジャマスターが、最後に俺に託した言葉だった。
続けて、覚えのある意識が俺の中に割り込んできた。
過去を断ち切りな。つまらねえ執着を捨てて、これから生きていくことを考えるんだよ。俺のようになりたくなきゃ、な
――ハ・キム!?
それはハ・キムの念だった。手裏剣に妄執で縛られ続けた忍者が、手裏剣が消滅した今も俺の傍《かたわ》らに留まっていたのだ。
ひひ、世話をかけやがる。だがよ、最後におまえを救えるなら、百年も幽界で迷い続けた甲斐があったってもんさ
ハ・キムは笑い、そして真摯《しんし》な響きを持つ言葉で言った。
活《い》かす風になりな。死んでいった者のために殺すんじゃねえ、死んだ者のために活かし、生きている者のために生きるんだ――
その言葉が、ゆっくりと意識の隅々に染み渡っていく。
ハ・キムの思念が消えていくのが判った。それとともに、俺の矛盾の中心にある餓鬼《ガキ》の俺も消失していく。
凍りついた刻《とき》が流れ出した。
「おおお――!」
繰り出した貫手《ぬきて》が顎《あご》の留め革を切り裂いた。そのまま腕を振り上げ、支えを失ったアーメットを跳ね飛ばす。
ガッシュの貌《かお》が露《あらわ》になった。その目は死に取り憑かれていた。
「おまえは今、死んだ」
触れ合うほどの近さで、俺はガッシュの瞳を見|据《す》えた。
重い金属音を響かせてアーメットが床に転がった。
「後悔はねえ筈だ。自分のために生きてみせろ」
それはまた、俺自身への宣言でもあった。過去に後悔はない。そして未来は過去に縛られるものではないのだ。
グレーの瞳の奥で戸惑いの炎が揺れた。やがてそれは頑《かたく》なな心の氷を活かし、自らを死に導こうとする怒りと哀しみを解き放ち始める。
「……そうだな」
ガッシュの貌から死相が消えた。「悔いることはない。すべてを認めたうえで、これからを生きればいい――」
「ああ。俺も、おまえもな」
風になれた――そう思った。死を呼ぶ風ではなく、死神をも退《しりぞ》ける自由な風に。その時、何かが聴こえた。
それは呪詛《じゅそ》だった。地の底から響く苦悶の絶叫だった。それが次第にはっきりと、大きく近づいてくる。
俺は火口への断崖を見た。
ばさり、と空気を打つ音がした。肉の焦《こ》げる臭気が鼻を衝《つ》く。
テラスの向こうの虚空に、それはゆっくりと姿を現した。全身が焼け爛《ただ》れ、漆黒の翼を羽ばたかせて浮上する醜悪な肉の塊《かたまり》――。
UUUAAAAA――
ダバルプスが咆えた。
その姿はさながら、悪夢の産物を思わせる形状を呈していた。
下半身と思《おぼ》しき部位は完全に炭化していた。真っ黒な表皮の内側で、ちろちろと暗い燠火《おきび》が燃え続けている。
上体もほとんどが焙《あぶ》り焼きにした生肉のように焦げ、あるいは白く爛《ただ》れていた。止めどもなく滲《にじ》み出す腐汁が炭化した部分に伝い落ち、吐き気を催《もよお》す臭気を放って白煙をあげる。
両腕は存在しなかった。代わりに両肩が瘤《こぶ》状に盛り上がり、そこから漆黒の、羽根とも皮ともつかぬ翼が生えてその身を空中に支えている。
それは鴉《からす》と、蝙蝠《こうもり》の特徴を備えた翼だった。恐らくは以前に同化した使い魔の大鴉と、獣人リフラフの細胞情報をもとに再生したのだ。
だが、まともに機能しているのはその翼だけに見えた。
ダバルプスの再生能力と落下から経過した時間を考えれば、肉体がどれだけ破損していようと相当に回復していていい頃だった。
それがほとんど再生していないのは、あの魔剣の一撃に原因があると思われた。柄を手にしただけでマイノスを蝕《むしば》んだ魔王の大剣が、その刃を受けたダバルプスの細胞増殖を狂わせているのだ。
わずかに残った再生能力を、瀕死の魔人は翼の生成にすべて費やしていた。火口の底のマグマに全身を灼《や》かれながらも、再びこの場所に戻ってくるためだけに翼を生み出したのだ。
凄まじいまでの執念だった。俺たちへの――いや、この世界に対する憎悪の凄まじさだった。
俺は死なぬ……忌《い》まわしい人類どもを滅亡させるまで死ねるものか!
焼け爛れた頭部の中央で、白く濁った眼球が見開かれた。
瞬間、その妄執に半ば圧倒された俺は、放射された思念の奔流《ほんりゅう》に呑《の》み込まれていた。それは憎悪と怨嗟《えんさ》に塗り潰された記憶だった。
ダバルプスは、リルガミン王家の傍《ぼう》系貴族の兄妹が淫蕩《いんとう》な交わりの末に産み落とした不義の子供だった。
事の露見《ろけん》を恐れた祖父によって、嬰児《みどりこ》は半ば捨てられるように地下室に放り込まれた。両親もこの呪わしい息子を疎《うと》み、食事は必要最低限のものを下男に世話させるだけだった。
乳すらもろくに与えられず、しかし赤子とは思えぬ強靭《きょうじん》な生命力でダバルプスは生き延びた。
物心のついたダバルプスが最初に考えたのは、何故自分は鼠《ねずみ》ではないのかということだった。一度たりともこの狭く不潔な地下牢から出たことのない自分に比べ、壁の穴から自在に出入りする鼠はどれだけ羨ましい存在だったか! 少年のダバルプスにとってどぶ鼠たちは自由の象徴であり、ただひとつの憧《あこが》れでもあった。
ダバルプスが最初に人を殺したのは十歳にも満たない頃だった。
乏《とぼ》しい食事を残して手|懐《なず》けた鼠を下男が皆叩き殺した。下男は泣き喚《わめ》いて止めようとしたダバルプスを容赦なく殴り飛ばし、牢の隅で育てていた鼠の仔《こ》たちも踏み殺してしまった。
ひとつだけ許されていた希望が消えた。言葉すら満足に知らぬ少年は、烈《はげ》しい憎悪とともに初めて殺意というものを知った。
ダバルプスは正確に下男の喉笛に噛《か》みついた。頚《けい》動脈を喰い千切られ、下男はのたうち回って絶命した。
恐怖の象徴だった下男が死んだ瞬間、ダバルプスの全身に初めて味わう快感が疾《はし》った。そうか。殺してしまえばよかったんだ。そう思った。
すぐに少年は牢から引きずり出された。
初めて目にするきらびやかな広間で、ダバルプスは自分を捨てた者たちとようやく再会した。言葉は判らなかったが、縛り上げられた自分を蔑《さげす》んだ目で見下ろす彼らが何を言っているのかは不思議なほど理解できた。
「まだ生きていたのか」
「何て汚《けが》らわしいのかしら」
「下男を殺したんだろう。もう早く殺してしまえよ」
「そうもいかん。事が公《おおやけ》になっては家門に傷がつく。勝手に死んでもらわねばならん」
覚えたての殺意が膨《ふく》らんでいくのが判った。こいつらを殺すことができたらどれほど気分がいいだろう。考えるだけでダバルプスはほとんど恍惚《こうこつ》となった。
屋敷から連れ出されたダバルプスは、王宮の濠《ほり》に面する水路の下水口に放り込まれた。それはこの貴族の家系にのみ伝えられた秘密の処理場だった。
決して這い上がることのできぬその暗渠《あんきょ》には、獰猛《どうもう》な狂犬が定期的に与えられるわずかな餌で飢えながら棲みついていた。万が一落とされた者がこの悪環境に耐えたとしても、いずれはその餌食《えじき》となって綺麗に片付く。死んで流されれば哀れな溺死体としてリルガミンの外に発見されるという寸法になっていた。
それでもダバルプスは生き続けた。少年の卓抜した頭脳は狂犬どもの襲撃を巧みに避け、生への執着は汚水と病原菌に満たされた闇の世界での生存を可能にした。腐りかけた犬の餌を啖《くら》い、不潔な水を啜《すす》って十年近くをここで過ごした。
獣のように成長した青年はやがて、祖父も知らなかった抜け道を発見した。汚水の底の排水孔――常人では決して発見できぬか細い脱出口を経《へ》て、ダバルプスは乾いた地下空間へと辿《たど》り着いた。
そこは後にダバルプスの呪い穴の原型となる、旧リルガミン王城の真下に広がる忘れられた地下階層だった。
数百年もの間誰にも立ち入られることのなかったその空間に、失われた古代の文献を蔵する書庫があった。文字どころか言葉もろくに知らぬ青年はそれを根気強く調べ、一から言語を学び、記録されたあらゆる事象を学んだ。
そこにはダバルプスが夢見続けた力を手にする方法も記されていた。
望むのは破滅をもたらす力。自分をこのような境遇に追いやった親たちを、救いの手を差し伸べることのなかったリルガミンの民を、そして苦痛に満ちた呪わしい生命を与えたこの世界すべてを破滅させる力――。
魔術師としての訓練を受けたことのない青年が独学で力を蓄えるには、それからまた数年を必要とした。
遅々《ちち》としたものではなかった。そもそもが並の魔導師では生涯かけても理解できない高等呪法を、才能を憎悪で加速したダバルプスは凄まじい早さで修得していったのだ。
この頃には地上での生活も送ることができた。
少年期から狂犬の群れと渡り合ってきたダバルプスにとって、ニルダの杖の加護に馴《な》れきった衛士たちの形骸《けいがい》化した警護などあってなきが如しだった。地上側からは巧妙に隠された階段を通じ、城内を経《へ》て市中に出る。誰にも気づかれることなく、時には王宮を隅々まで闊歩《かっぽ》した。太陽の下での暮らしはこれほどまでに素晴らしいのかと実感する日々だった。
しかし、それは暗く閉ざされた心に暖かな光をもたらすどころか、より一層影の濃さを増す結果となった。己の辿《たど》ってきた人生がどれほどの地獄であったのかを、地上の生活は明確に認識させてしまったのだ。
とりわけ憎悪の対象となったのが、将来の王位を約束されて何不自由なく育っていたマルグダ、アラビクの幼い姉弟だった。物陰からふたりを見る度に、ダバルプスはその細い首をへし折ってやりたい衝動に駆られた。
それも可能だっただろう。が、ダバルプスは焦らなかった。徒《いたずら》に事を起こして警戒させるような真似は避けるだけの狡猾《こうかつ》さを、稀代の魔導師としての素質とともにその裡《うち》に育てていた。破滅させるからには、誰も逃《のが》すことなく一息に叩き潰せる力を身につけなければならぬ――。
そして、充分な魔力を会得《えとく》した凶人は悪魔と契約した。
ダバルプスはすでに己の出生を認識していた。即ち、傍《ぼう》系であろうとリルガミン王家の血を引いていることを。その事実を用いて、ダバルプスはかつて人間が契約し得なかった力ある魔王――魔大公《デーモンロード》を味方につけた。
悪魔の軍勢の助力に対し、代価としてダバルプスが約束したのはリルガミンの魔界化だった。
王家の血筋を根絶《ねだ》やしにできれば、永きに渡って血族にのみ継がれてきたリルガミンの王位は正式にダバルプスのものとなる。精霊神ニルダですら認めざるを得ない血の継承が行われたうえでなら、聖都そのものをこの次元における悪魔の拠点として開放することができる――。
それが両者の間に交わされた契約だった。人類の破滅を願うダバルプスにとっては、古来から人間界への版図拡大を目論《もくろ》む悪魔たちは恰好の助力者だったのだ。
決行の夜、ダバルプスは闇の軍勢の召喚に際して三人の生贄《いけにえ》を捧げた。
この日のために殺さずにおいた三人。自らの手を下すまでは死なぬよう願い続けた三人。両親と、不幸にも存命していた高齢の祖父がその生贄だった。
彼らは滑稽《こっけい》なほど震えながら許しを乞《こ》うた。
何より家門の体面を気にかけていた筈の祖父はダバルプスに家督《かとく》を継がせると約束した。父親は殺してしまおうと提案したことも忘れたのか、よく生きていてくれたなどと引き攣《つ》った笑顔で言った。その妹である母親は汚《けが》らわしいと嫌った息子に愛を告げ、すべては祖父と兄が悪く、女の身では庇《かば》いようがなかったのだと涙ながらに訴えた。
肉親たちの責任のなすり合いを存分に楽しんだ後で、ダバルプスは自由を奪った三人を魔法陣の中に放り込んだ。そしてあの暗渠《あんきょ》から連れ出し、ぎりぎりまで餌を与えずにおいた狂犬たちをけしかけた。
三人は生きながら喰われでいった。頬肉を囓《かじ》られ、眼球を啖《くら》われ、手足を引き千切られながら彼らは最後には笑い始めた。発狂したのだった。
それを眺めながら、ダバルプスは涙を流していた。
悲しみでも、目的のひとつを果たして自らの半生を思い返したのでもなかった。これまで自制を重ね、抑え続けた殺意の解放が純粋に快感を生じさせていたのだ。それは快楽に身を委《ゆだ》ねての歓喜の涙だった。
獣たちが内臓を貪《むさぼ》り始め、三人が絶命する寸前に、ダバルプスは魔界とリルガミンを繋《つな》ぐ通路を開放した。魔法陣の内側が異次元に同化し、三人は狂犬ごと魔界の住人たちに捧げられた。
狂気と絶望、獣欲と飢餓感が混沌となって悪魔への贄となった。強大な悪魔たちが魔法陣を通じて続々と姿を現し、肉親の血によって召喚を果たした術者に忠誠を誓った。
闇の軍勢は漆黒の炎の如くに不可侵の聖都を舐め尽くした。
逃げ出すことができたのはほんの一握りの住民だけで、あらゆる脱出口は瞬く間に封鎖された。その上でダバルプスは王を殺し、連《つら》なる血族を虐殺していった。計画は一夜にして完遂されたかに見えた。
しかし、契約は果たされなかった。こともあろうに王位の第一継承者であるアラビク王子とマルグダ王女を悪魔たちが取り逃がしたのだ。
ふたりが生きている限り、いかに王族の血を引いていようとダバルプスは僭王《せんおう》に過ぎなかった。杖の加護が生きているリルガミンの魔界化は叶わず、魔王を地上に降臨させることも不可能だった。掘り広げた地下迷宮の底に特殊な結界を敷き、そこに魔大公《デーモンロード》を召喚するのが精々《せいぜい》だった。
やがてダバルプスはダイヤモンドの騎士となったアラビクに斃《たお》された。リルガミンの破滅を託した魔大公も、後に呪い穴に散らばったアラビクの装備を受け継いだ戦士ガディによって魔界に撃退されてしまった。
仮死の法を用い、首だけとなって梯子山《スケイル》に潜伏したダバルプスは、しかし決して諦《あきら》めることはなかった。復活の望みはほとんどなかったが、|牙の僧侶《プリースト・オブ・ファング》たちの信仰を糧《かて》に生き永らえ、微弱ながらその呪力を回復していった。
執着の底にあったのは、快楽だった。世話役の下男を殺した時に知り、両親と祖父を生贄《いけにえ》とした際に湧き上がってきたあの快感をもっと味わいたかった。
両親たちの時の快感は、以前のものとは比べものにならぬほど強烈だった。脳の幹までが痺《しび》れ、全身の肉という肉が溶け落ちていくような甘美極まりない感覚――ならばリルガミンを壊滅させ、世界中の人間どもを破滅の底に導くその時にはどれほどの快楽を味わえるのか。それを考えれば、頭部のみで生きる苦痛と屈辱にも耐え続けることができた。
そして百年が過ぎ、千載一遇《せんざいいちぐう》の機会がやってきた。
妖獣《ゼノ》の一匹が|牙の教会《テンプル・オブ・ファング》に潜り込み、ダバルプスの首を同化したのだ。
脳を喰われながら、ダバルプスは強靭《きょうじん》な精神力と魔力の保護で逆に妖獣《ゼノ》の意識を支配した。記憶を読み取り、この奇怪な生命体がどのような存在であるのかを知った。
古代の文献の研究で、ダバルプスはこの世界が夜空に浮かぶ星々と同じものだと認識していた。宇宙と呼ばれる広大無辺の虚無空間に、それこそ星の数だけ様々な世界が存在していることを知っていた。
妖獣《ゼノ》は、そうした星のひとつから飛来した生物だった。
かつては高い知能を有する種族だったのか、それともそうしたまた別の種族を同化して宇宙を渡る術《すべ》を手に入れたのかは判らなかったが、梯子山《スケイル》火口に引っ掛かった流星は妖獣《ゼノ》が星と星の間を旅するのに用いる一種の船だとダバルプスは知った。そしてその船の機能には、この世界には存在しない超絶的な科学技術が組み込まれていた。
それは地脈からエネルギーを吸い上げ、気象を制御して星そのものを妖獣《ゼノ》に都合の良い環境に改造する装置だった。自然界の均衡を狂わせることによって津波や地震などの天変地異を引き起こし、その最終段階には蓄積《ちくせき》した膨大《ぼうだい》なエネルギーを地核に撃ち込んで大破壊《カタストロフィ》をもたらす――それは古代に築かれた超魔法文明すら遥かに凌《しの》ぐ、神の力を人為的に生じさせるとでも言うべき科学文明の所産だったのだ。
ダバルプスは気づいた。この力を利用できれば、望み続けた人類の終焉《しゅうえん》を容易に実現できることに。
妖獣《ゼノ》の種族本能のひとつには、この気象制御装置を使用してあらゆる星で繁殖《はんしょく》を行っていくという意志があった。
その本能を巧みに己の意識に融合させ、ダバルプスは真の意味で妖獣《ゼノ》と化した。妖獣《ゼノ》の肉体を持つ凶人ではなく、凶人の意識を持つ妖獣《ゼノ》そのものと化したのだ。
突出した環境改造技術を除いては、捕食生物の記憶に頼らぬ限りさほどの知性を持たない妖獣《ゼノ》を、本能的に感応し合える同族でありながら明晰《めいせき》な人間の頭脳を兼ね備えたダバルプスは完全に掌握《しょうあく》した。
人類の破滅と一族の繁栄を期し、妖獣《ゼノ》の王は慎重に事を運んだ。
侍将ミフネをはじめとする迷宮の守護者に気づかれぬよう、妖獣《ゼノ》どもには小動物以外の捕食を禁じて無害な生物を装《よそお》わせた。また、火口から地底深くに隕石船の触手を伸ばし、星の内包するエネルギーをじわじわと吸い上げて力を蓄《たくわ》えていった。
そして一年の後、迷宮支配者たる龍神ル‘ケブレスの力が弱まりきったところで、ダバルプスは新たな支配者として強力な配下を召喚した。妖獣《ゼノ》も本来の能力を解放し、敵となり得る宝珠の守護者や|牙の僧侶《プリースト・オブ・ファング》たちを次々に餌食《えじき》としていった。
果たされなかった魔界との契約も生きていた。大破壊《カタストロフィ》による環境の変化は悪魔にとっても好都合であり、魔大公《デーモンロード》とは龍神が反攻した際の切り札として召喚できるよう再び約定《やくじょう》を取りつけた。
計画は万全だった。
迷宮に侵入した冒険者たちは出入口を塞《ふさ》いだうえでほぼ掃討し、あわよくばリルガミンを妖獣《ゼノ》の巣にするべく、その意識を乗っ取った二匹に増殖幼体を大量に仕込んで派遣した。これにしくじったとしても、船にはもう数日で大破壊《カタストロフィ》を発生させるだけのエネルギーが蓄積《ちくせき》される。どのみちリルガミンと、そしてこの星の人類は滅びるしかない筈だった。
間もなく夢は実硯する。人類を滅亡させる快感を思うさま貪《むさぼ》り、一族をこの星に繁殖《はんしょく》させる時が訪れる――。
しかしそれは、取るに足らぬほどの力しか持たぬ冒険者たちによって阻《はば》まれた。
召喚した魔物たちは悉《ことごと》く破られ、それを統《す》べるために生み出したバンパイアロードのレプリカもまた消滅した。魔大公《デーモンロード》さえも撃退され、あろうことかその魔剣の一撃が致命的なものとなった。船は気象制御装置を完全に破壊されてマグマに呑《の》まれ、そしてダバルプス自身も重大なダメージを負ったのだ。
剣から迸《ほとばし》った魔界のエネルギーが、無限に等しい再生を繰り返す妖獣《ゼノ》細胞の活力を根源から消滅させていた。残存する力を翼の生成に注いだ今、もはやダバルプスの肉体に妖獣《ゼノ》の回復力は微塵《みじん》も残されてはいなかった。
それでも、死ぬわけにはいかなかった。
また百年、いや、人類すべてを地獄に突き落とすまでは何千年でも復活の機会を待つ――それがダバルプスの意志だった。何があろうと人類の敵たらんとする、決して覆《くつがえ》ることのない宿怨《しゅくえん》と復讐の意志だった。
もう、お止《や》めなさい
濁流のようなダバルプスの思念に、何者かの呼びかけが割り込んできた。
それはベイキー――マルグダ女王の思念だった。
すでに多くの血が流れました。それでもまだ貴方は、幸福に生きるより人々の不幸を望むというのですか
黙れ! 人の、幸福だと!?
怒涛《どとう》の如き思念が咆《ほ》え猛《たけ》った。人間が俺に何をした? 何をしてくれた!? 俺に手を差し伸べたのは人ではない。悪魔だ! 妖獣《ゼノ》だ! その俺が人間のはびこる世界で幸福になどなれるものか!
その叫びの中に、俺は明らかな殺意の放射を感じ取った。ダバルプスの精神世界に取り込まれたままではあったが、思念の矛先《ほこさき》がマルグダに集中したことで辛《かろ》うじて自分の思考を取り戻したのだ。
ダバルプスは少なくとも、俺たちだけは殺して逃走するつもりだった。大破壊《カタストロフィ》を阻止された恨みもあるが、何よりその存在を知る者に脱出されては追撃される恐れが残るからだ。
全員が虚を衝《つ》かれて妄念の渦に五感を奪われた現状では、ダバルプスは目の前で呪文を唱えるだけで俺たちを殺すことができた。思考力が戻ったとは言え、俺もこのままでは指一本動かせはしない。
急げ、ジヴラシア
切迫した思念が伝わってきた。それはダバルプスのものともマルグダのものとも異なる、精神力で高度に制御された指向性を持つ念話だった。
再生がはかどらぬ。貴様の力で私を、ダバルプスのもとへ――
呼びかけてくるその声が、魔人の記憶の中に取り込まれた五感を現実に戻す道標となった。
ダバルプスの精神世界には存在しない、しかし現実に思念を発しているその一点にすべての神経を集中する。感情への強烈な干渉《かんしょう》を絶ち、憎悪によって生み出された瞞《まやか》しの五感を切り離したその瞬間、俺は現実の空間を認識していた。
凝視する一点に、アドリアンがいた。
まるで床から生え出してくるように、アドリアンの肉体が再生していた。それは地面と接する細胞を泡立たせ、凄まじい速さで修復されつつあったが、胸から下はまだ存在していなかった。
「来い!」
首を巡らせたアドリアンが叫んだ。
その先に、ダバルプスが浮かんでいた。ベイキの思念に注意を奪われ、自らの精神世界に投入していたためか、アドリアンの復活にはまだ気づいてはいない。
俺が縛《いまし》めを破ったことを悟り、その目をこちらに向けた時には、俺はすでにアドリアンの上体を抱え上げていた。
距離を取るべく翼が打ち振られるより早く、俺はアドリアンを掲げて突進した。浮上し始めたダバルプスを追うように、全霊をかけてアドリアンの半身を宙に押し出す。
驚くほどに伸びた深紅の爪が、空中でダバルプスを捉えていた。
「この世界では貴様の魂は救われぬ。永遠に消滅し、我が記憶の中にのみその名を留《とど》めよ」
不死の肉体が秘めるエネルギーが、食い込んだ爪を通じてダバルプスに流れ込んだ。それはダバルプスという存在のエネルギーを相殺《そうさい》し、霊魂までも消滅させるに足る膨大《ぼうだい》な負の精気だった。
しかし、その寸前――。
ダバルプスは叫んでいた。かつて旧リルガミン王宮を崩壊させ、アラビク王子の命を地底の穴に呑《の》み込ませた滅びの言葉を。
遥か下方で、何かが砕ける音がした。それは火口の底から響き渡り、やがて連続した破砕音となって足下から這い上ってきた。
「いけねえ!」
地底深くから伝わる震動に俺は総毛立った。ダバルプスは最期に、どうあっても俺たちを道連れにするつもりなのだ。
「ジヴ!」
「何事だ? これは!」
ダバルプスの消滅と同時に、全員が意識を取り戻していた。
「スケイルの基底部が砕け散った。ダバルプスの置き土産《みやげ》だぜ」
俺はディーを見た。「転移《マロール》は?」
迷宮に入って以来、ディーはすでに第七レベルに属する呪文を三度使っている。本来ならもう唱えられる筈はなかったが、途中に挟んだ睡眠が充分に深かったならば回復している可能性があった。
「もう一度唱えられるかも知れないわ。でも――」
ディーの貌《かお》が曇った。「ここから地上まで正確に跳べるかどうか。それに、この呪文で運べるのはどうしても六人までなのよ」
標高約千メートルからの不正確なテレポートとなると、数パーセントの誤差が生じたとしても数十メートルの落下、あるいは地底への実体化という危険が伴う。加えてこの場にはアドリアンを含めて九名がいた。到底|転移《マロール》の呪文で脱出できる状況ではなかった。
「くそっ。無理か――」
臓腑《ぞうふ》まで届く地の底からの響きに、俺はテラスの上空を振り仰いだ。
先刻まで妖獣《ゼノ》の隕石に塞《ふさ》がれていた空間が開放され、梯子山《スケイル》山頂に開いた噴火口から空を窺《うかが》うことができた。払暁《ふつぎょう》の中天には仄《ほの》かに光を孕《はら》んだ薄雲が流れ、そこに舞う一羽の鳥の影とコントラストを成している。
その影が不意にバランスを崩したように見えた。
地鳴りとは異なる、鼓膜を震わせる叫びが天空から降ってくる。
「龍神が力を取り戻したな」
再生を続けるアドリアンが言った。「呼び声が聴こえた。貴様の恩に報《むく》おうと、この地を離れようとしなかった強き翼に呼びかける声がな」
もう、俺も気づいていた。
「あれは……ロック?」
ディーが呟《つぶや》いた。
墜落するかに見えた影は、噴火口に向けて降下を開始した巨鳥ロックだった。|羽虫の群れ《ノーシーアムスワーム》に襲われていたところをディーの呪文で救われたあのロックが、俺たちを目がけ一直線に竪《たて》穴に飛び込んでくる。
凄まじい翼風を巻き起こし、巨鳥は見る間にテラスへと着地した。そして低く一声鳴き、脚を折って巨体を床に伏す。
俺を見つめ、ロックはもう一度短く鳴いた。早くしろ、と叱るように。
「乗れ! 時間がねえ!」
破砕音は耳を聾《ろう》する轟音へと変わりつつあった。震動もにわかに激しくなり、内壁の脆《もろ》い部分が崩れてパラバラとテラスに降り始めた。
事情を知らぬ連中も戸惑う余裕はなかった。俺をはじめとして六人が背に昇り、脚を伸ばしたところでハイランスとフレイがそこに掴《つか》まる。ガッシュとハイランスは手早く鎧や盾を捨てて重畳の軽減を図《はか》っていた。
「アドリアン!」
「行け」
ほぼ再生を終え、消滅時も無傷で残っていた衣服を身に着けたアドリアンが言った。「かの呪法を用いようとも、自ら望まぬ限り私は決して滅びぬ。縁があればまたいずれ会えるだろう」
「――必ずですよ」
俺たちを代表してザザが言った。その正体が古代より畏《おそ》れられてきた不死王だったとしても、ともに梯子山《スケイル》を登攀《とうはん》した俺たちにとってアドリアンは紛《まが》うことなき仲間であり、友だった。
ロックが羽ばたき始めた。さしもの翼も八人の重量は堪《こた》えたようだったが、数回のうちに浮力を得られるだけにピッチを上げ、地面を蹴って笛へと飛び上がる。
翼風で舞い上がった塵埃《じんあい》が、見送るアドリアンの姿を包み隠した。
ロックは急速に上昇を開始した。
本格的な崩壊が始まっていた。竪《たて》穴の内壁に、俺たちの脱出を阻《はば》む触手のように下方から巨大な亀裂が疾《はし》る。落石が降り注ぐ中、巨鳥は巧みにそれらをすり抜けて高度を上げていく。
と、新たに生じた亀裂が俺たちを追い抜いた。それは出口付近で厭《いや》な形に罅《ひび》を造り、山頂の岩盤群を削り取るようにして内側に落下させる。
避けるには巨大で、多過ぎる落石だった。ロックの巨体では回避しようのない、致命的な岩塊群が降り注ぐ。
直撃する――そう思った刹那《せつな》、それらの中央に閃光が疾った。
続く炎と爆風が、迫り来る落石群に風穴を空けた。弾き飛ばされた岩塊はロックを避けるようにすれ違い、火口の底へと落下していく。
「やっぱり、あの時ジヴの胸で眠ったのが効いたのね」
爆炎《ティルトウェイト》を唱え終えたディーが傍《かたわ》らで呟《つぶや》いた。
直後、俺たちは火口から飛び出していた。
ロックはさらに上昇を続けた。眼下に遠ざかる梯子山《スケイル》は、やがて根元から溶けるように崩壊し始め、ゆっくりとその威容を失っていく。
外縁部から土煙がとてつもない規模で噴出し、見る間に山頂までを呑《の》み込んでいった。この時には梯子山《スケイル》はすでに、それまでの半分程度にまでその標高を減《げん》じていた。
爆発的に膨《ふく》らんだ土煙は、やがて頂点から八方に分散して流れ落ちるように広がっていった。その一部は荒野を駆け、リルガミンの街をも呑み込もうとする。
「あれを――」
顔色に生気の戻ってきたマイノスが叫んだ。
津波の如き土煙がリルガミンに達したと見えたその時、それは都市を避けるように分かれ、疾《はし》り抜けていった。不可視の障壁がリルガミン全体を包み、その都市機能を害する砂塵《さじん》の侵入を阻《はば》んだのだ。
ニルダの杖が力を取り戻したのだ。ベイキが歓声をあげてガッシュにしがみつき、翼の下からはフレイとハイランスの興奮した声が響く。
昇り始めた朝日に照らされ、リルガミンは――そして見渡す限りの大地は鮮やかに輝いて見えた。もはやどこにも、天変地異に蝕《むしば》まれた滅びの気配は存在しなかった。
俺はディーを見た。長い髪を天空の風になびかせ、微笑を浮かべて地平線を見つめるその貌《かお》はどこまでも美しく、愛らしかった。
ディーも俺を見た。
「帰ってきたな」
「ええ」
頷《うなず》き、ディーは俺の胸に躰《からだ》を預けた。微《かす》かに伝わる温もりが、冷たい風に晒《さら》された肌に心地好《ここちよ》かった。
「帰ってきてくれた。あたしのいる世界に……」
「ディー……」
ロックが金切り声をあげた。そして旋回しながら高度を下げ始める。リルガミンに向かって――。
「本当に、無粋《ぶすい》な鳥だわ……」
瞼《まぶた》を閉じ、寝息を立てるようにディーが呟《つぶや》いた。
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終 章 薫風
曲がりくねった緩《ゆる》やかな山道を、俺とディーは馬で登っていた。
周りは若葉の生《お》い茂った木々が立ち並び、ようやく強くなった日差しを柔らかく遮《さえぎ》っている。風が吹く度《たび》に、木漏れ日が地面に複雑な光の模様を投げかけた。
林の切れ間を縫《ぬ》って、どこまでも青い空が覗いている。
二頭の馬は軽快に歩を進めていた。規則的な蹄《ひづめ》の音に、鳥のさえずりが時折アクセントを添《そ》えるように響き渡る。
新緑の香りが鼻をくすぐった。生命の息吹が満ち溢《あふ》れる、爽《さわ》やかな初夏の空気だった。
「ディー」
「ん?」
鞍《くら》に横座りしたディーが、木々の梢《こずえ》から俺に貌《かお》を向けた。
「疲れてないか? そろそろ小休止してもいい頃合いだ」
「大丈夫よ。もう、心配症ねえ」
言って、編んだ髪を振ってくすくすと笑う様子はまるで|森の精《ドリアード》のようだった。ディーの美しさは今や輝かんばかりにまで磨きがかかっている。
あれから八ヶ月ばかりが過ぎようとしていた。
梯子山《スケイル》はあの崩壊の後、地上から完全に姿を消した。あれだけの質量の岩山が跡形もなく地中に沈下し、平地となったその場所には火口の痕跡《こんせき》すら残されてはいなかった。
今ではもう、どこに山があったのかも判らぬほどに、あの荒野は一面の草の海になったと聞いている。肥沃《ひよく》だった土が力を取り戻し、リルガミンに刻まれた天変地異の傷跡を瞬く間に癒《いや》していったのだ。
そして、それは梯子山《スケイル》周辺だけではなかった。妖獣《ゼノ》の隕石船が蓄積《ちくせき》していた星の力が還元されたのか、それまでの惨禍《さんか》を補《おぎな》うように、あらゆる地方で大地は奇跡的な回復を見せていた。
俺たちが旅するこの地も、そうした反動とも言うべき自然の恵みを存分に授《さず》かっていた。ダバルプスの引き起こした異変以前には、木々の青葉もまばらな痩《や》せた土地だったという。
「長いこと続けて馬に揺られていると躰《からだ》に障《さわ》るかも知れん」
「まだ二時間も乗ってないわよ。そんなに度々《たびたび》休んでたらいつ村に着くか判ったものじゃないわ」
「だがな、鞍《くら》だって柔らかくはないし万一ということが……」
「じゃあ、さ」
悪戯《いたずら》を考えついた子供のようにディーの瞳が輝いた。「鞍に乗らないで済むようにしてよ、旦那《だんな》様」
「判ったよ」
俺は肩を竦《すく》め、馬を並べて寄せた。そしてディーの馬に飛び移り、素早くディーを抱え上げて鞍に収まる。
「これで安心?」
俺の首に両腕を回し、下から覗き込むようにディーは小首を傾《かし》げた。
「ああ。安心だ」
「えへへぇ。見ちゃったぞ」
その時、道端の茂みから懐かしい声が響いた。
「フレイ!」
俺たちは同時にそのホビットの名を呼んでいた。
「安心? だってさ。言う通り隠れてて本当に良かったよ」
「だろ? しかしまあ、昼|日中《ひなか》から見せつけてくれるよなあ」
「ハイランスもか!」
茂みの向こうから、フレイを伴った髭《ひげ》のエルフが馬を曳《ひ》いて姿を現した。
「よう。久しぶりだなあ」
俺とディーがリルガミンを出て半年が経っていた。再会するのはそれ以来、ということになる。
「こっちの馬は余っちゃってるから、僕が乗っちゃうね」
駆け寄ってきたフレイは、あっと言う間に俺の乗っていた馬に攀《のぼ》って手綱《たづな》を握っていた。「ハイランスと一緒に来たのはいいんだけどさ、ずっと後ろに乗せられっ放しでうんざりだったんだ」
「鐙《あぶみ》に脚が届かない奴に手綱を任せられるかい」
ハイランスの口元から白い歯が零《こぼ》れた。そして軽やかに自分の馬に跨《またが》り、フレイとは反対側の傍《かたわ》らにつける。
「侍ってのは厭《いや》なもんだな。気≠察知して隠れてやがったな」
「お陰で面白いものが見られる。ディー、お熱いことで何より」
ディーが貌を赧《あか》らめ、ハイランスはからからと笑った。
「あれからどうしていた?」
「もっぱら準備に明け暮れてたよ」
俺の問いにエルフは貌を引き締めた。「近く東方に旅立つ。大陸を横断して、できるならその果てにある海を越えて、侍が発祥したという国をこの目で見てみたい」
「ミフネがいた国、か」
俺はハイランスの腰に下げられた|達人の刀《マスターカタナ》の、元の持ち主だった侍将を思い起こしていた。恐らくハイランスを駆り立てているのは、あの老守護者を生んだ国を見聞したいという渇望なのだろう。
「僕も一緒に行くんだよ。っとと」
短い脚でやっと鞍《くら》を挟んだ危なっかしい乗りっぷりでフレイが言った。
「ハイランスひとりじゃ心細いだろうからね。わわわ……」
あの、|大気の巨人《エアーエレメンタル》との死闘をきっかけに、フレイとハイランスは極めて息の合ったコンビを組むようになっていた。その判断力の高さから慎重になり過ぎる嫌いのあるハイランスにとって、困難な状況ほどそれを上回る勇気を見せるフレイは互いを補《おぎな》い合う恰好のパートナーとなったようだ。
「間違っても暴れさせたりするなよ」
バランスを崩しかけたフレイの後ろ襟《えり》を掴《つか》み、鞍上《あんじょう》に戻してやりながら俺は忠告した。「何せそっちの荷にはおまえへの土産《みやげ》も入ってるんだからな」
「えっ。本当?」
慌ててフレイは飛び降り、手綱を曳《ひ》いて歩きだした。
「現金な奴だな」
「見ていい?」
「ああ。そこの袋に入ってる」
相変わらず、こういう時のフレイは子供そのものだった。俺は苦笑しながら、そうなるとこの土産は不似合いだったかと考えた。
「わあ、酒だあ! それも飛びっきりの極上!」
「おまえにゃ一発入れられたからな」
それはフレイとの模擬格闘に賭けた品だった。あの時はかなり卑怯な手を使われたように思うが、負けは負けなので渡さないことには寝覚めが悪い。それまでに相当な額の金貨を巻き上げていたこともあったが、もっともこれは当時の酒のストックとともに|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》の炎上で灰塵《かいじん》に帰していた。
「で、おまえたちはこの半年どうしてたんだ」
ハイランスが訊《たず》ねてきた。「真っ先にリルガミンを出て行っちまって、マイノスはしばらく不機嫌だったぜ」
「そうか――」
不服そうにむくれた端正な貌《かお》が目に浮かぶようだった。
「俺たちの記憶に残っている場所をあちこち回るつもりだったんだがな、事情が変わってしばらくトレポー城塞に落ち着いていたよ。そのせいでリルガミンの噂は良く耳に入ってきた」
「杖のことも?」
「ああ」
それはしばらく前、リルガミンの街が二ルダの杖の加護を返上したという話だった。
他の者なら驚倒するだろうこの噂を耳にした時も、俺はさして驚きはしなかった。
確かに杖の力は永きに渡ってリルガミンを外敵から護《まも》ってきた。しかしそうして保たれてきた太平の治世は、必ずしも聖都の名に相応《ふさわ》しいものではなかったことを俺たちは知っている。
あのダバルプスでさえも、生まれながらに邪悪な心を持っていたわけではなかった。それは約束された繁栄《はんえい》の中、平和を貪《むさぼ》るばかりで省《かえり》みることを忘れたリルガミンそのものを背景に育《はぐく》まれていったのだ。
世界に危機が訪れれば、いかに超常の力に守られていようとリルガミンも同じ運命を辿《たど》る。この明白な事実を、しかし無条件に与えられる平和に馴《な》れた人々は捉えることができなかった。それは即ち、リルガミンをこの世界に属さぬ異界と認識するに等しい。
リルガミンにとってニルダの杖の恩恵とは、すでに与えられ過ぎて毒に変じた劇薬のようなものだった。真に聖都と呼ばれるためには、そこに住む者たちが自らの手で平和を勝ち取らねばならないのだ。
そうして、二ルダの杖は史上初めてリルガミンの外に持ち出され、精霊神への感謝を込めて梯子山《スケイル》の跡地に埋められたと聞いた。
「杖を埋めた場所には、鎮護として|蝙蝠人《ワーバット》の像が建てられたってのは?」
「いや……しかし、そいつは良かった」
それはダバルプスとの死闘で犠牲となったリフラフの像だった。アドリアンの忠実な僕《しもべ》だったこの獣人がいなかったなら、俺たちは魔大公《デーモンロード》に打ち勝つことなど出来なかっただろう。
俺は暫《しば》し、リフラフの魂の安息を祈った。そして、今もどこかで人の世を見守っているであろう不死王アドリアンにもいつの日か安らぎが訪れんことを――。
「それと、ダバルプスの慰霊碑が建てられたんだってな」
「うむ。広場の真ん中に、その生まれと僭上《せんじょう》に至る経緯が刻まれた墓碑が据《す》えられたよ。俺たちがあの時見た、ダバルプスの記憶をそのままにな」
「良く決断したな、ベイキは」
その記録は王家の歴史における最大の汚点だった。それを敢《あ》えて公開したところに、新生リルガミンへのベイキの意気込みが感じられた。
「あいつがいるからな。前のように王家の最後のひとりとして、孤独に女王を務めなくちゃならなかったベイキじゃないさ」
「婚礼はいつだったの?」
ディーが訊《たす》ねた。「最近行われる筈だったと思ったんだけど」
「それがさあ」
嬉しくて堪《たま》らないといった様子で酒瓶を抱えて歩くフレイがこちらを見上げる。「僕たちはそれを見届けてから、祝宴にも出ないですぐにリルガミンを出発したんだよ。そうしないと約束の今日にここまで辿《たど》り着けないからね」
「それじゃ、今頃はまだリルガミンなのかしら?」
「身動きが取れる状況じゃないだろう」
ハイランスが後を継いだ。「何せ婚礼の後も伝統に則《のっと》った儀式が山積みだったからな。ようやく今日あたり正式に戴冠《たいかん》式が行われてるんじゃないかね」
「新たな王の誕生か。あいつらに逢えないのは残念だが――」
と、その時後方から、駆け足で道を登る蹄《ひづめ》の音が聞こえてきた。
俺たちは足を止め、振り返った。
林に遮《さえぎ》られた道の向こうから、やがて三騎が姿を現した。
先頭の馬を駆るのは金色の髪をなびかせた騎士――マイノス。
続く二騎の一方は若い女が手綱《たづな》を握っていた。最後に見た時よりも一層美しさを増し、かつては肩口で切り揃えた栗色の髪も再び豊かに伸びつつある。
ベイキは俺たちに向かって千切れんばかりに手を振った。
そして、一際《ひときわ》大きな馬に跨《またが》っているのは、それに負けぬだけの体格を持つ大男だった。数千年に渡る王家の血の継承に終止符を打ち、リルガミンの新しい統治者となった男――ガッシュ。
「こいつは一体、どういうことだ?」
三人が追いつくなり、ハイランスが叫んだ。「いつリルガミンを出発したんだ?」
「ふたりがそっと姿を消してから、丸一日経った頃かな。途中かなり馬を急がせたよ」
冒険者そのままのなりをした新王が笑いながら答えた。
「祝宴は三日続けるんじゃなかったのか? それに、譲位式やら戴冠式やらはどうしたんだよ」
「省《はぶ》いてしまいました。必ずしも古式に従う必要はないと思って」
「そりゃ、そうかも知れませんがね……」
にっこりと笑うベイキにあっさり言われて、ハイランスは返す言葉もないようだった。
「省いたも何も、準備はすべて整っていたではありませんか」
憮然《ぶぜん》としたマイノスが口を挟んだ。「今頃リルガミンは大騒ぎですよ。新王と王妃が揃って姿を消したのですから」
「手紙を残してきたし、後は五賢者がうまくやってくれていますわ」
「それに、元はと言えば俺たちを置いて出発しようとしたおまえが良くない」
ガッシュがマイノスに言った。「それとも俺たちにだけ、仲間との約束を破らせようって言うのかい?」
「いや、だが、それは……」
口|篭《ごも》り、マイノスはちらりと俺を見た。「どうしても文句を言ってやりたい奴がいるから――」
「じゃあ、そうするといい。おまえの話が終わるまで、俺たちは遠慮しとくよ」
言うや否やガッシュは身を乗り出し、俺とマイノスの馬の尻を軽く叩いた。二頭はゆっくりと歩きだし、俺たちだけが道を先行する形になる。
「よう」
「ご無沙汰、マイノス」
「……私に一言もなくリルガミンを出るとは、あんまりじゃないか」
先刻想像した通りの不機嫌さでマイノスは呟《つぶや》いた。「せめて伝えてくれれば、見送るなり餞別《せんべつ》を用意するなりできたものを」
「善《グッド》の戒律ってのは、そうやって気を回すからいけねえ。だから知らせなかったんだよ」
「しかしだな――」
「それに、どうせ今日逢えると思っていた。実際こうして、約束の場所に集まってきただろう?」
そう言う俺を、マイノスは不審そうに見つめた。
「半年見ないうちに随分と口調が変わったな。丁寧《ていねい》になったぞ」
「そうか?」
「そうだ。それにいつまでもディーを抱えているのはおかしい。貴様らしくない」
「おかしいなんて失礼ね」
言いながら、ディーはくすくすと笑い続けている。
「いたわらなくちゃいけませんからね」
突然、前方から声がした。見ると、少し先に一頭の白馬が木の幹に繋《つな》がれている。
「馬!?」
「馬は喋《しゃべ》りませんよ、マイノス」
見上げると、地上から五メートルばかりの枝に男が腰掛けていた。少年のような笑みを浮かべた、今日集まるべき仲間の最後のひとり――。
「ザザ!」
「三人とも元気そうで何より。と、もう四人と言ってもいいかも知れませんね――」
そのままの姿勢で後ろに倒れ込み、膝の裏で一度逆さにぶら下がってから、ザザは綺麗に半回転して軽やかに着地した。
「四人?」
マイノスは振り返り、誰も追いついていないのを確認した。「自分を含めてという意味か、ザザ?」
「本当にそう考えているんですか」
ザザが苦笑した。「良くもまあ、あなたとふたりきりで迷宮を突破できたものだと改めて思いますよ。私が私の健康を気|遣《づか》ってどうするんです」
「ザザ、やっぱり一目で判る? もう少し服を考えてくれば良かったかしら」
ディーが恥じらいの表情を見せて言った。
「他には誰も気がつかなかったんでしょう? 目立たない体質なんでしょうね」
「何だ? 何の話をしている?」
ふたりの会話に困惑した様子で、マイノスは助けを求めるように俺を見た。
「悪《イビル》の戒律の冒険者にしか通じない符丁《ふちょう》さ」
「そんなものがあったのか」
「ねえよ」
貌《かお》を紅潮させて怒るマイノスに、俺は笑うのを懸命に堪《こら》えて謝った。
「実はな、身篭《みごも》ってるんだよ」
「誰が――ディーがか!?」
「ああ。あと三月もすれば生まれるそうだ」
「ええっ、ディーが!」
いつの間にかフレイが忍び寄って聞き耳をたてていた。「うわあ、じゃあ子供はハーフエルフなんだ! わああ!」
その声を聞きつけて、ガッシュたちも駆け足に追いついてきた。
「なるほど、トレポー城塞で引っ掛かってた理由はそれか」
「おめでとう。ジヴラシア、ディー」
「言葉遣いまで改めて、上品な子供に育てようって魂胆《こんたん》だな」
ひとしきり祝福の嵐が過ぎ去った後も、まだマイノスは目を丸くしたままだった。俺とディーを交互に見比べて、そのままの表情でザザに呟《つぶや》く。
「……確かに四人だな」
転げるほどのザザの笑い声が、木々の梢《こずえ》に谺《こだま》した。
しばらく後、俺はガッシュとふたりで馬を並べていた。
ディーは久しぶりに再会したベイキに妊婦としての話をせがまれ、他の連中と一緒に先を進んでいた。
梯子山《スケイル》から戻ってからというもの、あのふたりは女同士すっかり打ち解け、姉妹のように仲良くなったようだ。ディーに言わせればベイキが変わった、成長したということになるが、ディーもそれと同じくらいには変化しているように俺は思っている。
いずれにせよ、ディーとベイキが親しくなってくれたのは喜ばしかった。友の妻同士が険悪な仲というのはどうにも宜《よろ》しくない。
「ほっとするな」
ガッシュがのんびりとした口調で言った。どうやらこの友も、俺と同じことを考えていたようだった。
「ああ。しかしな、本当に式典をすっぽかしてきて良かったのか?」
「構わないさ。どうせこれからが大変なんだ」
短く、それでいて実感の篭《こも》った言葉だった。
王位を譲《ゆず》られ、リルガミン王国の新しい統治者となったガッシュの前には、アルビシアの植民島を失うなど大きな打撃を被《こうむ》った経済力の建て直しや混乱した治安の向上、己の土地に戻り始めた避難民たちの支援、そして永い歳月のうちにリルガミン中心に偏《かたよ》っていた道徳や法の見直しなど、最高執政者としての責務が山積みとなっていた。
五賢者の助力を得たうえでも、それらを満足に解決するまで数年を要するだろう。これから先は、放浪時代には想像もつかなかった激務がガッシュを待ち受けているのだ。
しかしそれを覚悟のうえで、ガッシュは敢《あ》えて王位を引き受けた。ベイキの精神的な負担を軽減してやるつもりもあったのだろうが、それ以上に強く願う目的がガッシュにはあった。
もう、ダバルプスが辿《たど》ったような悲劇を繰り返させぬ――すべての民が笑顔で暮らしていける国を築きたいとガッシュは語った。その理想を実現するためであれば、どのような労苦も厭《いと》わぬと。
それがベイキの愛とともに得た、ガッシュが生きていくための夢なのだと俺は知った。新たな為政《いせい》者に期待を寄せるリルガミンの民は、その望みを上回る資質を備えた英雄王を得ることとなったのだ。
「ニルダの杖も放棄したんだろ? 王になったからには暗殺者にも気をつけないとな」
「俺をかい?」
顔を見合わせ、俺たちは笑った。確かに、こんな男を暗殺しろと命じられた者は気の毒としか言い様がない。それにその傍《かたわ》らには、常に|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》とエクスカリバーを携《たずさ》えた王国騎士マイノスが護衛についている。リルガミンと戦を起こすつもりでかからなければガッシュの首は獲《と》れそうになかった。
「暗殺者がおまえだったら危ないけどね」
「馬鹿言え。それに今度はもう勝てないだろうよ」
俺は本心から言った。「生きる目的を見つけたおまえにはな」
「そうだなあ。まだまだ死ぬわけにはいかない」
ガッシュは空を見上げた。「いや、せっかくおまえに祓《はら》ってもらった死神だ。近づけるようなことは二度とないさ――」
「ああ」
ガッシュが王として理想の姿を追い求める限り。そしてそれはガッシュの生涯をかけた目標となるだろう。
「おまえも、見つけたじゃないか」
ガッシュの視線が遠く前方に移った。ちょうど皆が峠《とうげ》の頂《いただき》に到達しようとするところだった。ディーとベイキが笑いさざめく声が微《かす》かに届いてくる。
「正直、ディーが子を宿すとは思っていなかったよ。人間とエルフの混血は極めて稀《まれ》だっていうからな」
俺は頷《うなず》いた。俺がこれまで生きてきた間にも、出会ったハーフエルフは片手で数えるにも満たぬほどだった。
だが、これが偶然の受胎だと、俺は思っていなかった。
「恐らく、受胎したのはスケイルの中だろう」
俺の言葉に、ガッシュは目を見開いた。
「――そうか」
微笑み、瞼《まぶた》を閉じて呟《つぶや》く。「ル‘ケブレスからの授《さず》かりもの、だな」
俺はもう一度|頷《うなず》いた。そして、二度と出会うことのなかった龍神に想いを馳《は》せた。
ル‘ケブレスとはこの世界――この星の意識が象《かたど》るひとつの姿だったのだろう。この世界を維持していくために星が自ら守らねばならぬ幾つかの均衡――そのうちのひとつ、善《グッド》と悪《イビル》の平衡を司《つかさど》る象徴がル‘ケブレスだったのだ。
梯子山《スケイル》が消滅し、ル‘ケブレスもまた地上から姿を消した。
しかし、大地の力は蘇った。人の世を見守り続けた龍神は、この星のどこかに今も必ず存在している。
だが、平衡の守護者の役目は俺たち人類に委《ゆだ》ねられたのかも知れなかった。
人間とエルフのハーフとなる俺の子も、そうしたル‘ケブレスの期待を受けているのかも知れない。将来、種族の枠に囚《とら》われぬ視野で世界の平衡を捉えられる者のひとりとして。
ならば俺はその時まで、ディーとともに我が子の成長を見守っていこう。幼い魂が行く先を誤らぬよう、助けが必要な時には支えながら育てていこう。
山の上から、俺たちを呼ぶ声がした。頂の向こうに村が見渡せるらしい。
「行くか」
「そうだな」
軽く馬の横腹を蹴り、俺とガッシュは残り少なくなった山道を駆け登り始めた。
峠《とうげ》の向こうの村には、パルパが高原の民とともに、収穫した薬草を売りに故郷の山から下りてきている。そこでパルパが七十の祝いを迎えると聞き、俺たちは今日この地での再会を誓ったのだ。
頂《いただき》でフレイが飛び跳ねている。ハイランスが叫んでいる。ザザが、マイノスが笑い、ベイキが大きく手を振っている。そしてディーが待っている。
馬上で、俺は風を感じた。
爽快《そうかい》な初夏の風が、緑の薫《かお》りを大空へ運んでいく。
その風に想いを乗せ、俺は願った。
風よ。龍に届かんことを――。
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作品解説 イマジネーション、地下へ 古川日出男
僕は携帯電話を持たない。つい先日、ベニー松山は「なあヒデオ君、俺のためにだけでいいからケータイを買ってくれ。連絡つかないから」といった。全然知ったことではない。二十四時間オフラインというか、スタンドアローンに生きようとするのは僕の信条である。結婚後は家訓ですらある。だが、ベニーー松山(以下、煩雑なので文脈が要請しないかぎりは日頃の呼称であるベニー≠ニ略す)から携帯電話を――と囁かれた時、不思議に自分の指が携帯メールでも打つように運動する感触があった。幻の感触だ。
何かの残像の気がした。
数日してから、ああ、そうか、と気付いた。それはゲームボーイを没入して操作した僕のかつての手や指の、記憶の疼《うず》きだった。ベニーがシナリオを手掛けて、というか実質すべての数値設定を行なって世界そのものを創造したのが彼だったのだが、日本オリジナルの名作ソフトウェアとして奇蹟のように産み落とされた『ウィザードリィ外伝U・古代皇帝の呪い』を、夢中になってプレイしつづけた十年前の、あの運動の記憶だった。
携帯電話なんて持たなくとも、僕の指はすでに、街なかで、電車内で、ひたすら携帯メールを打つようにゲームボーイのボディ周りを動きつづけて、その小さなディスプレイに叩き出されるメッセージ類を確認しつづけた。時代はいつか? 一九九二年だ。本当に、かっきり十年前。僕はすでに未来の経験をさきどって指を動かして、動かして、動かして、たっぷりコミュニケートした。
その世界と。
ウィザードリィにおいては想像力が深みに降りる鍵となる。深み、とは言葉そのままに、迷宮の深層でもある。ロールプレイングゲームの始祖≠ニしてのウィザードリイにおいで、余分な彩りは排除されている。それは何もグラフィックが貧弱という一点ではない(無論、黎明期のゲームソフトだけに、それらは貧弱に決まっている)。彩りとはクリエイターがそのゲームの世界にいわば先天的に附与した、縛り、だ。 ウィザードリィは、登場人物たちの生い立ちについては何も語らないに等しいし、主人公はプレイヤーが勝手に用意しろという。描かれる――与えられる――迷宮は無機的で、表層だけのハリボテの豊かさを拒否する。
豊かさは勝手に、プレイヤーが頭の中で創出しろ、と告げている。
つまり、我々は何も縛られていないのだ。
日本におけるベニー松山の位置は――つまりウィザードリィの本家本元であるアメリカに対して忍者や侍といったイマジネーションを与えて、このゲーム史に残るソフトウェアをある程度骨≠フ部分で支えて誕生させて、のちに逆輸入した日本における、ベニー松山の一九八〇年代終わりからの位置、あるいは価値は――その創出した「豊かさ」だった。僕の知る範囲でと断わる必要もないだろうが、彼はほとんど単独でウィザードリイの世界に(唖然とするだけのボリューム&クオリティの)肉付けを行ない、彩りのない迷宮を極彩色に――そう、まるっきり豊饒《ほうじょう》の、生命のジャングル化を達成した。それは本書の前日譚となるノヴェライズ『隣り合わせの灰と青春』(集英社)と複数のガイドブックに主に結実する。後者に関していえば、それはゲームをプレイするためのガイドであると同時に、まさに旅行ガイドそのままの、ウィザードリィの世界を旅する[#「ウィザードリィの世界を旅する」に傍点]ための案内書だった。
そして旅のプロフェッショナルとして、スーパーバイザーとして、著者の/監修者のベニー松山はいた。
この時に日本のプレイヤーたちは、エンディングを見るためだけにウィザードリィを遊ぶのではない、その世界を堪能するために――ウィザードリィの世界に滞在したり、憩ったり、未知の体験に緊張したり、未知の生物に恐怖したり、まるで知らない戒律の人間たちに翻弄《ほんろう》されたり、そうして一切を愉しむために旅行者として(特異なマニアックは定住者として)プレイする、という新たな視点を呈示された。それは――譬《たと》えるならばモノトーンの日常にローラーをかけられるみたいに――圧倒的に豊饒《ほうじょう》なイマジネーションだった。
地下に向けられた視線の強度、を、感嘆符なしに受け止められたWIZプレイヤーは多分いない。
一九九四年夏。ゲームボーイ用の、外伝U、という傑作をシナリオ担当者として完成させた約二年後に、ベニーは脱稿までに五年を要した本書『風よ。龍に届いているか』を上梓《じょうし》する。そう、夏だった。なにしろその八月、僕は「あのさあヒデオ君、青焼《あおや》きを見るの、手伝ってくれない?」と乞われて、ベニーと二人で高田馬場のジョナサンで徹夜している。こちらの記憶は鮮明だ。青焼きというのは校正用の青写真で、ゲラ作業等のあれやこれやを終了して、工程としては印刷直前に出る。本書を手に取ってもらっただけでもわかるだろうが、『風よ。龍に〜』という大長編をひと晩で(しかもファミレスの円卓を占拠して)チェックするというのは、至難の業である。我々はただ二人の円卓の騎士だった。その八月、ひと知れずジョナサンで極東WIZの円卓会議は行なわれたのだ。
この時のことを思い出すと、自分はある種の産婆だったな、と感じる。
内容には関与せずに、産み落とされる赤ん坊の雫を引き出す手助けをした。張り付いている羊膜を引き剥がしたりするのが文字チェック係の役目だが、そうして出てきた頭の健康状態や、肌の色合いを確かめたりしていると、単なる傍観者以上に『風よ。龍に〜』の魂が、塩基配列が、アバウトにだが直観された。
僕がその時に思ったことを、現在の言語使用能力で最大限にハイ・フィデリティに表現するならば、それは以下だ。
ベニーー松山にとって、ノヴェライズとは結界化に近い。
そこでは呪文名がゲームに忠実に描出される。そこでは魑魅魍魎《ちみもうりょう》どもがモンスターとして意識的に表現されるし名付けられる。そのようにウィザードリィの世界はこの物語に召喚されて、かつ、孕《はら》まれる以上にむしろ建材として物語の枠を築き上げている。それも極めて強固に構築される。そうしてウィザードリィ≠ニいう結界は張られるのだ。魔術をただの「呪文付き必殺技」として書き流さず、ベニーはあらゆる(そして見事な)ロジックを導入する。それは結界をより強める。それは物語を崩落から守る、魔法障壁となる。
障壁創造を可能にしているのは、いうまでもないが地下に向けられたイマジネーション、そして、弱冠二十歳からすでに完成されていた言葉の硬度だ。
結界を張り、そしてベニーは愛の物語を描いた。そしてベニーは戦闘の物語を描いた。
*
冬にはゲームボーイを手放さなかったその年の、数カ月さかのぼる初夏に、僕はエジプトに旅行した。
有名なクフ王のピラミッドの内側に入って、その「侵入する」感覚は全身にビリビリ来る衝撃的なものだったのだが、閉所恐怖度の高すぎる内部通路の階段――というかスロープ――を登りながら想起されたのは、しごく当然だがベニーのことでありベニーの言葉が紡いでいる世界、だった。一緒にここが見られたらな、と思った。しかし、まあ同性と相部屋で旅行がしたいとは思わない。バイザウェイ、構造としてはピラミッドは地上から大空をめざしていて、その内部を迷宮とみなせば、それは登る。
この『風よ。龍に届いているか』は、そんな登る迷宮が舞台となっている。
そこには発想の逆転があり、そしてゲームからの発想の飛躍も、完璧な形で存在する。
梯子山《スケイル》。だが、それも大地のあらゆる表層から見れば、地下だ。我々は今度は地下に登る。ナビゲーターがそこに意外な手段で案内する。
復刊にあたっては別途アンソロジーに書き下ろしで発表されていたノヴェラ『不死王』も収載《しゅうさい》された。このノヴェラと、本編との世界の交錯は――そして前述した『隣り合わせの灰と青春』という前日譚が無論、さらに視野に入るが――大いなるサーガ(歴史物語)を生み出そうという意志がここにあることを読者に理解させるだろう。偶然の産婆として僕はそれ以前に了解していた。ウィザードリィの結界化は不死なる者≠設定として/登場人物として内部に抱かせて、つまり不老不死=静止した時間という尺度を孕《はら》ませてしまう。これは、つまり永遠だ。永遠は神話を産む。神話はサーガを誕生させる。そしてサーガは常に、老い、病死する人間を射程に入れる。永遠の光のもとに経過する時間[#「経過する時間」に傍点]を照らし、だから人間を撃つ。
死ななければならない存在としての、人間を。
サーガであることの一つの証左だが、読者はこの上下巻を三種類の方法で読むことができる。第一に、収録された順番通りに、著者の意図に従って上巻の頭から下巻の終わりにむかって繙く。第二に、下巻の頭のノヴェラ『不死王』を読んでから、上巻の冒頭に戻って、今度は通常の感覚で読み進める。第三に、上巻から読みはじめるが下巻に移ったところで『不死王』を読まずに飛ばし、『風よ。龍に〜』の物語が終わってから、初めて下巻の冒頭のページに手をやる。
この三種類は、あなたにまるで異なるサーガの諸相を、開陳《かいちん》するだろう。そして基本的に、あなたは一種類しか選べない。あなたの時間は一つしかない。また、いうまでもないが、著者は一番めに記した読みしかあなたに期待していない。指定もしていない。これは解説者が仕掛けたテロルだ。
なにより解説を先に読むあなたは、第四の歴史物語のアスペクトを、すでに知らず披瀝《ひれき》されている可能性がある。
それが書物だ。
*
一九九〇年。初冬に僕はベニーと出会う。僕は舞台演出家として。彼は(その頃にはまだ年若い、美少年の面影を残していた。今はもう少年ではない。美については、言及を避ける)無論ほかの誰でもない、ベニー松山として。そして我々は全力でウィザードリィの生誕十周年記念イベントに取り組んだ。ベニーの脚本を、僕はカラフルにゴージャスに汗まみれに空間化させた。それは僕なりのジャングル化だった。
それは僕なりのイマジネーションの、無節操な解放だった。
そして我々は十二年を歩む。いつだって、我々の記憶は地下に沈み、そこで沸騰する。そこで浄化される。そこでしょう瘴気《しょうき》にやられる。そうして、そこで、あらゆる神話を生む。
そうだろう、ベニー?
オーケイ、証拠は届けられる。風は龍に届いている。
[#改ページ]
底本
創土社
風よ。龍に届いているか(下)
2002年11月11日 第1刷
著者――ベニー松山