風よ。龍に届いているか(上)
ベニー松山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)爆炎《ティルトウェイト》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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CONTENTS
まえがき
風よ。龍にとどいているか(上)
序 章 流星
第一章 玻璃《はり》の天秤
第二章 ジェノサイド(Xeno-cide)
第三章 滅びに与《くみ》する力
転ノ壱
第四章 峻嶺の下に集う
第五章 死の予言
転ノ弐
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はじめに
この作品はすでに一度、世に出ている。一九九四年のことだ。
しかしその本は、諸事情によって初版のみの絶版となった。
私自身が選んだ道である。
その選択により、『風よ。龍に届いているか』と、未来の読み手たりえた人々との正式な交渉は途絶えた。表門は閉ざされた。裏口はあったが、書物の絶対数が増えることはなく、広がりを持つもの、伝播《でんぱ》するものという出版物としての特性を失った本作は死んだ=B
出版されて十日あまりで、そのようなことになった。欲してくれる人の許《もと》へ、届くことはなくなった。
書かれた作品は存在する。ゆえに絶対ではない仮の死。ただし、生半《なまなか》な呪文では甦りそうにない仮死だった。
再版を望む声は、私が心のどこかで期待していた以上に強く、多く寄せられた。書き手として冥利に尽きることだ。だが、掘り起こそうとしてくれる数多《あまた》の手はあっても、甦生の秘術を操る者なしでは復活はしない。現世とのリンクは繋がらない。
その役割を果たしてくれる者の登場、そして甦りのための複雑な条件が整うまでに八年を要した。
今、ここにようやく、本作の表門が開く。死の呪詛《じゅそ》は解ける――。
物語にかかった閂《かんぬき》が外れる前に、(良い意味で)墓を暴けと声を上げてくれた諸兄諸姉、並びに甦生の施術者となってくれた創土社の酒井武之氏に、篤《あつ》く感謝の意を表したい。
[#地付き]ベニー松山
※著者注
[#ここから3字下げ]
この物語はコンピュータロールプレイングゲーム『ウィザードリィ』の第三シナリオである『Legacy of Lylgamyn(邦題・リルガミンの遺産)』を基に、そこから想像によって無限に広がる枝葉の一筋を膨らませたものである。従って公式≠ネノぺライズでもなければ(無論正式な手続きは踏んでいるが)、読み手がゲームのシナリオ自体を知っている必要もない。ただし『ウィザードリィ』に忠実に書かれているため、それに詳しければより深く楽しめる要素が多数あることをここに記しておく。
なお、作中の固有名詞の表記は、株式会社アスキーより一九九〇年に発売されたファミリーコンピュータ版『ウィザードリィV・ダイヤモンドの騎士』のものに準じている。公式表記は二〇〇二年の現在まで幾度かの変遷を遂げているが、敢《あ》えて本作を発表した当時の表記に統一した。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
序章 流星
穏やかな夜だった。
丈高い草原の海を、静かに風が渡っていく。
月明かりに照らされ、草が銀色の波のようにうねっている
雲ひとつない夜空は、満天に星々が煌《きら》めいていた。
凄い数の星であった。澄みきった空から、今にも零《こぼ》れ落ちてきそうに見える。
リルガミン地方の、秋の始まりであった。
草原から、虫の音《ね》も聴こえてくる。
と、星がひとつ、夜空に流れた。
天頂近くから流れたその星は、次第に赤みを帯びながら草原の上空を落ちていく。
草原の向こうには、夜空に黒く岩山が聳《そび》えていた。
流れ星は、その裏側に消えたかに見えた。
一瞬の後、岩山の山頂付近が赤く光った。
虫の音《ね》は、止《や》んでいた。
一陣の風が、草の葉を空中に舞い上げる。
それが、異変の幕開けであった。
この夜、多くの者が|嘆きの精《バンシー》の泣き声を耳にした。
[#改ページ]
第一章 玻璃《はり》の天秤
空気が、わずかに揺れた。
はっきりとそう感じられるほどではない。微風、とも呼べぬ幽《かす》かな空気の流れだ。
辺りは漆黒の間に包まれている。
目の前に己の掌《てのひら》をかざしてもそれと判らぬ真の暗闇だ。光が全く存在しないため、闇に慣らした目も役には立たない。
その闇の中に、何かが潜んでいる。
空気の乱れは、そいつの身動きが生み出したものなのだ。
もっとも常人に気取《けど》られるような動きではない。たとえその姿が見えていても、動いたのかとうか判らぬほどだろう。
用心深い獲物に昔もなく刃しび寄る、肉食獣特有のしなやかで繊細な動作だ。
だが、俺の研ぎ澄まされた神経はそれを完全に捉えていた。
敵だ。
戦いの始まりだ。
首の後ろの毛がちりちりと逆立つような緊張が疾《はし》る。もう幾度となく繰り返してきたにもかかわらず、この張り詰めた感覚は消えることがない。
同時に、俺の躰《からだ》に流れる血が熱く滾《たぎ》り始めた。
肉の奥底に澱《おり》のように沈んでいたものが、闘いの予感に喜悦しているのだ。それは人の中に残された、遠い原初の野性の血なのかも知れない。
再び、空気が動いた。
前よりも動きが大きい。潜んでいたものが身を起こし、ゆっくりと近づきつつあるのだ。
足音はない。そいつは細心の任意を払い、歩を進めている。
それはつまり、相手もこちらの存在に気づいているということだ。そうでなければ、これほどまでに足を忍ばせたりはしない。
しかしそれも確信には至っておらぬ。俺の殺気を本能的に察知し、警戒しているに過ぎない。
俺は軽く両足を広げ、不動の姿勢をとった。そして大きく息を吸い込み、止める。
気息によって年じる気配を絶つ一種の隠身法だ。呼吸を止めている間は、俺の気配は一切消え去る。
簡単な隠身だが、このような闇の中では思いのほか効果がある。それまで感じていた殺気がいきなり消失するのだ。視覚を奪われているために、相手は十中八九恐慌に陥《おちい》る。
数秒と経たぬうちに、そいつは俺の術中に落ちた。
雷に似た音が聴こえてきた。
喉の奥から漏れる唸り声だ。
気配を見失い、そいつは威嚇《いかく》によって俺の所在を確かめようとしているのだ。
だが、それは逆に自身の正確な位置を俺に教えることになった。
俺の正面、約十メートルの距離にそいつはいた。足は止まっている。
俺は動かない。
息を止めて一分。唸り声がゆっくりと近づき始めた。
警戒心を解いてはいないが、むしろ何もいないことを確認するために進んで来ている。先刻の忍び足ではなく、弾力のある足の裏の肉が硬い石床を踏みしめる音が微《かす》かに響く、そんな歩き方だ。
四ッ足だった。
一歩進むことに、そいつの警戒心が薄れていくのが感じ取れる。
獣の嗅覚も、魔法の薬品によって体臭を消している俺には役に立たない。そいつは次第に無防備に、俺に近寄ってくる。
距離が半分以下に詰まった。
俺は懐に手を入れ、小さなガラス瓶を掴《つか》んだ。この親指ほどの大きさの瓶は細い鎖に繋《つな》がれ、ペンダントとして俺の首に掛けてある。
四メートル。
三メートル。
距離が縮まるにつれ、そいつの呼気の血腥《ちなまぐさ》さが強まってくる。
二メートル。
しゅうと音を立てて吐き出される息が、俺の顔に生暖かく吹きつけられているかに近く感じられる。
気配は消し続けている。五分間は息を止めることができる俺にとって、ここまで二分足らずの穏身は半分以上の余力を残しているのだ。
そいつは、あと一メートルというところに足を踏み入れようとしていた。それで、間合いは充分となる。
滑《なめ》らかに連続する動作で、そいつが最後の一歩を踏み出した。
その瞬間、俺は懐からガラス瓶を引きずり出した。
青日い光が闇を切り裂く。
瓶を満たしている液体が、その光の源だ。大した明るさではないが、闇に慣れた目には目映《まばゆ》いばかりの光を発している。
周囲の空間が照らし上げられた。
石造りの回廊が、俺の前後に伸びていた。
幅、高さともに六メートルを越える巨大な通路。それが俺の今いる場所だ。
そして――。
俺の眼前に、一匹の巨獣が浮かび上がっていた。
虎だ。
|人喰い虎《ベンガルタイガー》と呼ばれる、人の肉の味を覚えた凶獣がそいつの正体だった。
体長二・五メートル、体重は二百キロを優に越えるかという巨体が、俺とわずか一メートルの距離を挟んで対峙しているのだ。
だが、驚いているのは俺ではなく、人喰い虎のほうだった。
匂いも昔もなく、気配すら微塵《みじん》も感じられなかった空間から、突如として奇怪な光が現れたのだ。
俺のほうはこいつが最初の唸り声を発した時から、とうにその正体に気づいていた。
暗闇の中で開ききっていた虎の円《まる》い瞳孔が、青白い光の前で急速に収縮していく。目に入ってくる光量を調節し、光の正体を視認するためだ。
ここまで、俺が発光瓶を取り出してから十分の一秒にも満たない。
そして俺も、黙って虎の様子を観察していたわけではなかった。
軽く腰を落とし、上体を右に捻《ひね》る。
左腕は肘から先で顔をガードするように前方に構え、右腕は肘を後方に引いて脇腹につけている。
人喰い虎の目が俺を捉えるのと、俺が右脚を半歩踏み出したのはほぼ同時だった。
虎が見たのは、ひとりの男の姿だ。
細身で、背丈は二メートル近い。全身を限りなく黒に近い濃緑色の装束で包んでおり、光に照らされてなお、背後の間に溶け込むかに見える。
男は、素手だった。武器はおろか、革の防具ひとつ身に帯びてはいない。
その姿を断ち割るように、何かが視界を左右に二分した。
それが、この人喰い虎がこの世で見た最後の光景だった。
俺の右の貫手《ぬきて》が、虎の両眼の間に叩き込まれていた。
四本の指は頭骨を突き抜け、ほとんど根元までめり込んでいる。恐らく指先は脳幹に届いているだろう。
内圧で、眼球は半分飛び出しかかっている。
がくん、と顎が開いた。そこからだらりと長い舌が垂れ下がる。
俺は虎の頭からゆっくりと右|掌《て》を引き抜いた。血液と脳漿《のうしょう》の、ぬるりとした感触が指先に纏《まと》わりつく。
指先が抜けた瞬間、虎の躰《からだ》が揺らいだ。
俺の三倍近い重量を持つ巨躯《きょく》は、そのままどう、と横倒しになった。
即死だった。
いかに強靭《きょうじん》な肉体を誇る巨獣といえども、急所を突かれればひとたまりもない。
俺は片膝を突いて屈《かが》み、まだ生命の熱を保った屍《しかばね》の腹部の毛皮で右掌にべっとりとついた血を拭《ぬぐ》った。
拭いながら大きく息を吐く。先刻から今まで、呼吸を止め続けていたのだ。
緊張が徐々に和《やわ》らいでいく。
完璧な戦いだった。相手に防御する暇さえ与えず、一撃のもとに屠《ほふ》る。しかも、剣や斧といった武器を使わずにだ。
己の身ひとつの状態で、危険《リスク》をできる限り冒さずに敵を倒し、生き残る。
これこそが、長い歳月をかけて確立された、忍者《ニンジャ》≠フ戦闘スタイルなのだ。
俺は立ち上がり、改めて青白く浮かび上がった回廊を見回した。
一体それは、どのようにして造り出されたものなのか。
太古の昔から小規模な火山活動を繰り返してきた岩山の内部に存在する、自然の産物ではあり得ない洞窟群。それは厚い岩盤に覆われた山中で複雑につながり合い、実に一辺数百メートルにも及ぶフロアが六層も連なる巨大迷宮を形成しているのだ。
造山時に溶岩中に溜まった巨大な気泡がそのまま洞窟となっている部分もあったが、それ以外のほとんどは岩を掘り抜いて造られた人為の地下通路だ。中には下手な宮殿よりも見事な仕上がりの場所もあり、たとえドワーフの鉱夫や石工が千人働きづめになっても、千年かけて完成するかどうかというほどの代物だと聞かされている。
公式に発見されてから百年と経ってはいないが、迷路自体は相当古い時代から存在していたらしい。それはこれまでに迷宮内で発見された遺留品の数々から明らかになっている。
古めかしい型の鎧や、錆《さ》びかけた大剣。中には古代のドワーフ細工の逸品《いっぴん》として名高いミスリル製の防具や、もはや製造技術の失われた魔法の品々までもが迷宮の暗がりに転がっているのだ。少なく見積もっても、大災害によって千年以上昔に壊滅した超魔法文明以前に、この迷宮は遣り上げられていたということになる。
そしてまた、ここはただの廃墟と化していたわけではなかった。
この近辺には生息していない筈の大蛇や巨烏、おぞましい魔法実験の末に生み出された奇怪な化獣、今では遥かな秘境にしか残っていないとされる怪物たち――それらの魔物がこの迷宮の内部を徘徊しているのだ。
古代の遺品を目当てに入り込もうものなら、その持主と同じ運命を辿る羽目になる人外の魔境だった。
それゆえに発見後も、つい一年ほど前までは誰も足を踏み入れようとはしなかった。
しかし――。
今では数十人の冒険者が日夜、この危険な迷宮の探索に挑んでいる。
かく言う俺も、その冒険者のひとりだ。
名をシヴラシアという。
悪《イビル》の戒律に従う、混じりっけなしの人間族《ヒューマン》の忍者だ。その腕前を称して熟達者《マスター》≠ニ呼ばれる。戦いと探索を生業《なりわい》とする冒険者として、充分以上の経験を積んできた証となる称号だ。
事実、俺はもはや数え切れないほどの実戦を積み重ねてきた。
ただし、この一年の間にだ。
一年前、二十歳《はたち》の時にこの迷宮に初めてやって来た俺は、基礎修行は積んでいたものの実戦の経験がない駆け出しの冒険者だった。
戦闘には自信があった。基礎修行とは言え、餓鬼《ガキ》の頃から地獄の鬼も逃げ出すほどの厳しい訓練を続けてきたのだ。
しかし、訓練と実戦はまるで違っていた。
訓練は、肉体と精神の鍛練が目的だ。命にかかわる難行も、目的はそれまでの自己を超越すること。即ち戦う相手は目分自身だ。
確かに実戦も、それを乗り越えることによって鍛錬にはなる。が、それが目的ではない。
実戦の目的とは、生きることだ。
実戦とは、命のやりとりなのだ。
殺《や》るか、殺られるか。
相手の息の根を止めなければ、自分が息の根を止められることになる。
相手にとっても、それは同じだ。それこそ死力を尽くして、俺を倒そうとする。
修行における仮想敵――これまでの自分は、常に新しい自分によって打ち負かされるべき存在だ。
だが実戦では、俺より戦闘力の低い相手であっても必ず倒されるべき存在ではないのだ。いつでも、倒されるのが自分であるという可能性がある。
自分の命が危険に晒《さら》されることによる極度の緊張感。敵を倒して己の生命を克《か》ち取った時、このプレッシャーは修羅場をくぐった経験として自分の中に刻み込まれる。
それこそが、実戦での能力の成長を促す血肉となるのだ。
訓練では決して得ることのできない、生き残る力だ。
俺はそのことを、初めての実戦で身をもって知った。
幾度となく練習した筈の技術が何ひとつ出てこない。剣を振ることすらままならなかった。実戦の恐怖と緊張が、俺の躰《からだ》の自由を奪っていたのだ。
ようやく敵を倒した時には、俺もくたばる寸前だった。どうやって相手を殺したのか、何も覚えていない。
その時、俺は悟った。
実力の伴わぬ技術など、何の役にも立たないということをだ。
訓練の中で培《つちか》った技術を実戦の中で生かせるようになって初めて、それを修得したと言えるのだ。
以来一年間、俺は狂ったように迷宮での実戦に励《はげ》んだ。
パーティを組み、仲間たちとともに迷宮を探索する。行手を阻《はば》む魔物を、力を合わせて蹴散らした。
時には今日のように単身で迷宮に乗り込む。極めて危険な行為だが、そこから生まれる緊張感がより早く実戦の勘を養うのだ。
何故、そうまでするのか。
現在俺や、その他の冒険者たちは、ある任務を果たすために迷宮の探索を続けている。
迷宮で待ち受けている戦いを勝ち抜くには、実戦の経験は大いに役に立つだろう。
だが、その任務もいずれは終わる。迷宮に入る必要はなくなるのだ。
その時、冒険者の、忍者としての能力が一体何の役に立つのだろうか。
素手で人を殺せる技術を磨くことで、自分はどうするつもりなのか。
判らない。
判らないが、俺は戦い続けている。敢《あ》えて危険な道を選んでいるのだ。
冷たくなり始めた虎の屍《しかばね》を見下ろしながら、俺はいつしかそんな考えに耽《ふけ》っていた。
低い地響きが、俺を我に帰した。
地震だ。
迷宮全体が微かに震《かす》えている。
「またか……」
俺は口に出して呟《つぶや》いた。
この一週間というもの、迷宮近辺では同様の微震が相次いで起こっている。俺が今日迷宮に入って五時間ほど経つが、その間すでに十回以上の震動があった。
街の噂では、この山の火山活動が再び活発になってきているという話だった。この群発地震は、噴火の起こる前触れであるらしい。
どれほどの信憑《しんぴょう》性があるのか知らないが、いずれにせよ気分のいい話ではない。その物騒な山の中に、俺は潜っているのだ。
迷宮が崩れようものなら、いくら熟達者《マスター》と呼ばれる忍者でもひとたまりもない。
一分足らずで地鳴りは治まった。
そろそろ外は日没が近づいてきた頃だろう。
潮時だ。ここから迷宮の入口に戻るまで、運良く魔物に出会わなかったとしても小一時間はかかる。
俺は踵《きびす》を返した。
その時、背後に奇妙な気配を感じたような気がした。
腰をかがめ、素早く振り向く。
前と同じ、奥深い間が伸びていた。
俺は瓶の灯りをかざし、目を凝らした。
耳を澄まし、空気の流れを肌で読む。
しかし、何も感じられなかった。どうやら気のせいだったらしい。
俺は躰《からだ》を戻し、来た道を戻り始めた。
この時あと十秒待っていたなら、俺は光の届かぬ闇の中で再び動き出したものに気づいていたかも知れなかった。
俺が立ち去った後、暗闇に包まれた回廊に低く静かな詠唱が響き渡った。
それはこれから始まる死闘の、確かな予兆だった。
大地が朱《あか》く染まっていた。
荒野の乾いた泥土が、赤熱しているかの如くオレンジ色に輝いている。
遥か西方に見える海は、絶え間なく移り変わる無数の赤い光を放っていた。まるで紅玉《ルビー》に埋め尽くされているようだ。
水平線の雲の切れ目に、赤く巨大な日輪が姿を覗かせていた。
日没間際の太陽が、長期の力を振り搾《しぼ》ったような、そんな凄絶な美しさの夕日だった。
俺は岩山の南の斜面、麓《ふもと》の荒野へと続くなだらかなスロープに立ち、数週間ぶりの陽光を眺めていた。
常に太陽を遮り続けたぶ厚い黒雲は、今も俺の、そしてこのリルガミン地方の上空を覆い続けている。海上に吹き荒れる強風が、たまたま西の雲のごく一部を吹き散らしたに過ぎない。
それだけに、夕暮れの景観は恐ろしいまでに美しかった。
照らし上げられた雲の腹が、西の空から中天、そして東の遠方に霞《かす》む大山脈の稜線に至るまで、微妙にその色彩を変えながら広がっている。
黄。
橙。
朱。
赤。
紅。
紫。
藍。
紺。
それらの色も、雲の凹凸《おうとつ》によってまたそれぞれ異なる濃淡を帯びているのだ。
落日の赤光《しゃっこう》が生み出した、信じ難いまでの天空の美だった。
俺がこの世に生を受けて以来二十一年、これほど壮麗な美しきを持った夕景はお目にかかったことがない。暮れゆくこの情景を前にしては、純情な生娘ですら初めての接吻《キス》ぐらいは許してしまうだろう。
だが俺にはこの眺めが、終焉《しゅうえん》を前にして足掻《あが》き続ける人々の姿を暗示しているように思えてならなかった。
あと数分もすれば太陽は没し、今日一日の生命を終えるだろう。美しく染まった雲の色も、やがてはすべてを呑《の》み込む闇の色――漆黒へと変わっていく。
無の色へ。
破滅の色へ。
俺は振り返った。
俺の背後で、荒野からの上り斜面は終わっている。スロープと呼べるのはここまでだ。
そしてそこからが、この岩山の真の姿となる。
城壁をも思わせる、垂直に近い角度で切り立った巨大な岩壁。それが天へと続く柱のように上方へと伸びている。
到底|登攀《とうはん》不可能な断崖絶壁が、標高千メートルあまりのこの山の南面なのだ。
南面ばかりではない。
東西南北との方向も、ほぼ同様の断崖に囲まれている。
やや先細りになった円柱を思い浮かべれば、この岩山の形状を理解することができるだろう。山、というより塔と呼ぶにふさわしい外観だ。
その巨塔の南壁の底部、ちょうど俺の振り返った先に、底知れぬ闇がぽっかりと口を開けていた。
幅三メートル程度の、岩壁に縦に走った亀裂。これこそが、岩山の内部に掘り抜かれた巨大迷宮への侵入口なのだ。
つい今しがた、俺が出てきたばかりの暗黒の穴だ。
西から差す夕日は、南に面した亀裂の入口近くを横から照らしているに過ぎない。その奥に続く迷宮第一層への回廊を、ここから見て取ることはできない。
ただ、黒々とした暗闇が蟠《わだかま》っている。
その見慣れた闇が、俺の不安をいや増した。
破滅。
俺は視線を荒野に戻し、そしてその向こうへと移した。
十キロメートルほど広がる荒野を挟んで、巨大な町が見える。
周囲を堅固な城壁が守り、大小様々な建造物がその中に密集した大規模な城塞都市だ。
リルガミン王国の中心、リルガミン市。
それが、俺の生活するこの都市の名だ。
そして今、この街――いや、この世界は滅亡の危機に直面していた。
数千年の歴史を持つリルガミン王国が遭遇する、三度目にして最大の危急存亡の秋《とき》なのだ。
リルガミンは、特殊な都市だった。
都市成立以来、いかなる外敵の侵入も許さぬ絶対の防備。数百年前の戦乱期ですら、リルガミン王国の独立を守り続けた神秘の力がこの都市にはあった。
ニルダの杖――リルガミン王家に受け継がれ、現在も王国の繁栄の象徴とされるこの杖こそが、その力の源なのだ。
未だに鉱床すら発見されぬ稀金属《レアメタル》を完全に精製したものを材料とし、千年前に存在した超魔法文明の技術をもってしても鍛造《たんぞう》不可能な形状と強靭《きょうじん》さを合わせ持った秘宝中の秘宝。その杖は数万年の昔、神々が人とともにあった神話の時代に作られた数々の神器の中の、現存する数少ない神世《かみよ》の遺産だという。
今はすでに去った神々のひとり、精霊神ニルダの霊力が、ニルダの杖には宿っていた。
伝説では、リルガミンの初代の王に、ニルダ神は杖を通して問いかけたとされている。
そなたは王となった。その権力をもってすれば、人の世の望みはほどなく叶おう。されど王の力とて人の力、すべてを為すだけの力はあるまい。然《しか》らばそなたは我の力で何を望む?
精霊神ニルダの霊力を借りれば、恐らくは人の抱《いだ》くどのような欲望も満たすことができただろう。不老長寿、版図の拡大、莫大な富、そして絶世の美女……。
しかし、杖の問いに王は迷わずこう答えたという。
「たとえ長寿を授かろうと、私もいつかは魂へと還る身。ならば我が身の欲は望みませぬ。代わりに我が王都を子子孫孫、すべての外敵よりお守り下さい。害意を抱いた者の侵入を妨《さまた》げ、攻め入ろうとする武力と魔力を退《しりぞ》ける神のご加護。ただそれだけが私の望みでございます」
しかと聞き届けた
杖は王の手の中で激しく震え、やがて鎮《しず》まった。そして二度と神の言葉を発することはなかった。
だが、王の願いは叶えられた。
その日以来リルガミン市には、杖から生じた超魔法の結界が張り巡らされたのだ。
他国の間諜や暗殺者をはじめとする王国に害意を持つ者たちは、目に見えぬ壁によって城壁より内側には足を踏み入れることができなくなった。いかに心を偽ろうとも、杖の力はその隠された悪心を看破し、他の者には全く影響を争えない障壁で潜入を妨げるのだ。
水晶玉や鏡を使った幻視の魔法も、この結界によって完全に無効化された。リルガミンを狙う他国の軍師の中には、あまりの情報の少なさに精神の病を患《わずら》った者もいたという。
転移《マロール》などのテレポートの呪文による侵入も、敵意を抱くものは魔法障壁によって確実に弾き返された。リルガミンを敵とみなす者にとっては、王都の情勢を探ることはほぼ不可能となった。
また、発達した魔法文明の中で編み出された攻城用の超高度攻撃呪文の数々も、杖の魔法障壁の前には無力だった。莫大な時間と術者の労力、時にはその生命を代償にして引き起こされる落雷や寒波、地震などの物理現象が、リルガミン市には何の影響も与えられぬまま打ち消されてしまうのだ。
現在のものとは比べものにならない破壊力を持つ呪文ですら、打ち破ること適《かな》わぬ絶対防御の魔法障壁。それによって守られたリルガミン市はまさに不可侵の聖都となった。
そして今より約千年前、超魔法文明を根こそぎ壊滅させた大災厄に見舞われるまで、リルガミンの平穏はただの一度も乱されたことはなかった。
悪魔王マイルフィックの出現と、その妖力によって生み出された数百日にも及ぶ暴風雨。海から竜巻に吸い上げられた海水が尽きることのない雨となって大陸全土に降り注ぎ、それまでに人類の築き上げてきた都市はその防護魔法が洪水に耐えきれなくなったところから、多くの民とともに次々と地上から消え去っていった。
滅亡を前にして、当時の魔導王や魔術師たちは最後の手段を採《と》った。彼らの持てる限りの魔力を結集し、天空に浮かぶ魔王を攻撃したのだ。
計画は辛くも成功した。山をも消し飛ばす威力を秘めた呪文の直撃を受けたマイルフィックは、この世界での肉体を破壊されて魔界に撤退した。
だが、術者たちも限界を遥かに越えた魔力の行使により、そのほとんどの生命が失われた。
魔道の知識を持つ術者たちの死と、都市の壊滅による数多くの文献の消失。こうして数千年を費やして研究され、高められてきた魔法技術はふり出しに戻り、超魔法に支えられた文明は終わりを告げることとなる。
この災厄の中にあっても、ニルダの杖の力は暴風雨の被害を最小限に喰い止め続けた。長期に渡る降雨による食糧不足はどうにもならなかったが、都市自体の損害は皆無に等しかったという。おかげでリルガミン市は世界でも稀《まれ》な、災厄以前の面影を残す古都となったのだ。
これが最初の危機と呼ばれている。
二度目の危機は、今から百年ほど前の時代に遡る。
悪魔王の来襲以上に、リルガミン市を恐怖の底に叩き落とした闇の魔手。それは、杖の力の盲点を衝《つ》くかの如く、リルガミン王家に襲いかかった。
二ルダの杖の魔力は、害意を持つ外敵に対しては完璧なまでの防護を発揮する。悪魔王といえども、精霊神の力に守られたリルガミンには容易に手を出すことができなかった。
だが、第二の危機の種子はリルガミン自体が内包していたのだ。
魔人ダバルプス――生まれながらにして闇の心を持ち、人の世に破滅をもたらそうとした悪魔の化身。およそリルガミンとは無縁な筈のこの男が、王都の中にあって虎視眈々《こしたんたん》とその王位を狙っていた。
何故なら杖の力は外敵にのみ作用し、リルガミンに生まれた害悪には何ら効力を発揮しなかったのだ。
魔法障壁の内側で生まれ落ちた邪悪の芽は、杖に阻まれることなく育ち続けた。
そして遂に、ダバルプスは王位を転覆させる力を身につけた。
大災厄時にも失われることのなかった、王宮の書庫深くに眠っていた古代の文献を盗み出したダバルプスは、千年近く忘れ去られていた超魔法文明の秘法を次々と修得していったのだ。都市を守り、文献を守り続けた杖の力が、結果として魔人に強大な魔法の力を与えることになった。
異界より召喚された闇の軍勢と、凄まじい威力を秘めた古代呪法の数々によって、一夜にしてリルガミンの王位はただひとりの反逆者ダバルプスの手に奪われた。
王を手始めに、王家の血筋は容赦なく殺されていった。連綿と続いた王の血脈は、僭王《せんおう》の手で潰《つい》えたかに見えた。
しかし、王家は滅んではいなかった。王女マルグダと王子アラビクの幼き姉弟が、闇の軍勢の追跡を振り切り落ち延びていた。
ダバルプスの支配のもと、王国は急激に荒廃していった。人々は圧政に苦しみ、多くの者が意味もなく処刑された。美しかった白亜の王宮は、魔人王と側近の怪物たちが棲む暗黒の魔宮となった。
数千年の歴史を誇る聖都リルガミンは、わずか数年にして悪名高き魔都と化していた。
忌《い》まわしい反逆の夜から六年目、人々が心から一片の望みをも捨て去ろうとしたその時、ダバルプスに立ち向かう一組の歳若き男女が現れた。
光輝く甲宵に身を包んだ青年の振るう大剣は地獄より召喚された悪魔たちを紙のように切り裂き、美しき乙女の唱える呪文は巨竜の群れを一瞬にして爆炎の渦に包み込んだ。
このふたりこそ、正統な王位継承者マルグダとアラビクの成長した姿だった。ふたりは王位の奪還と魔人への復讐のため、六年の間その力と技を磨き続けてきたのだ。
二ルダの杖とともに王家に受け継がれたもうひとつの至宝、アラビク王子の身に着けているダイヤモンドの騎士の装備がその手助けをした。金剛石の如き装甲が魔物の爪牙《そうが》を弾き返し、|悪魔殺し《デーモンスレイヤー》≠フ異名をとる長剣ハースニールの鈍ることのない刃が次々と闇の生物を屠っていった。
強大な魔術師となったマルグダ王女の援護のもと、遂にアラビクは魔宮の最上層、かつては父王のものであった王座に座る魔人ダバルプスと相対した。
ダバルプスの超魔法と、戦士として成長したアラビクの剣の死闘。互いの生命を削り取る戦いは一昼夜の間繰り広げられたという。
マルグダ王女の唱えた禁呪・変異《ハマン》が奇跡的にダバルプスの超魔法を封じた瞬間、アラビクの渾身の一撃が魔人を捉えていた。ダバルプスの首が宙に舞い姉弟は勝利を確信した。
だが、ダバルプスの首は地に落ちる直前、最後の呪いの言葉を発していた。
轟音とともに崩れ落ちる魔宮。絶命した筈のダバルプスの哄笑が響き渡る中、力尽きたアラビク王子と魔人の屍《しかばね》は魔宮の地下に造り上げられた巨大な迷宮へと呑《の》み込まれていった。後には瓦礫《がれき》の山と、マルグダ王女だけが残された。
尊《とうと》い犠牲を払いながらも、リルガミンを蝕《むしば》む魔人は斃《たお》れた。女王となったマルグダの治世のもと、王都は再びかつての繁栄を取り戻したかに思われた。
しかし崩壊した王宮の廃墟から、ダバルプスに奪われたニルダの杖は発見されなかった。また、王子が落ちていった筈の迷宮の入口も、瓦礫をすべて取り除いてすら見つけることはできなかった。
ニルダ神の加護が消えたリルガミンに、もはや絶対の平和は失われていた。
人心は乱れ、街に犯罪がはびこった。ダバルプスによってもたらされた破滅の翳《かげ》は、消え去るどころかその濃さを増していくばかりだった。
或《あ》る夜女王は夢の中で、ニルダ神の言葉を聞いた。
我に護《まも》られる都市であることを示せ。その時、再び杖は汝の血筋に戻るだろう
翌朝、あれほど探しても見つからなかった迷宮の入口が開いていた。
それは、争い合う人間に失望したニルダ神が課した試練だったのか――。
迷宮内部には、ダバルプスの召喚した魔物たちがまだ生き残っていた。
いや、残っていたのではなかった。死してなおダバルプスの呪いは消えることなく、迷宮に間の生命を呼び寄せていたのだ。
夢の啓示と、突如発見された迷宮。それは杖を取り戻す術《すべ》が迷宮の探索であることを示していた。
しかし、それは並大抵のことではなかった。呪いによって強化された魔物が巣喰う地下迷宮を、くまなく調べ尽くそうというのだ。
マルグダ女王は広く冒険者を募《つの》ったが、死を賭した探索に出ようという者はあまりに少なかった。また、リルガミンのために勇気を習う者たちも、凶悪な魔物の牙の前に次々とその命を落としていった。
だが、遂に女王自らが決死の探索に向かおうとしたその時、屈強な冒険者の集団が続々とリルガミンに集ってきた。
彼らこそ、あの噂に高い大魔術師ワードナの大迷宮で己を鍛え上げた英雄たちだった。
いずれも熟達者《マスター》以上の実力を打つ彼らは、苦戦しながらもダバルプスの呪いの迷宮を探索していった。そして遂に、各所に分散していたダイヤモンドの騎士の装備をすべて身に着けたひとりの戦士が、その大いなる勇気をもって杖を取り戻した。
冒険者たちの示した知恵と力が、一度は神に見捨てられたリルガミンに再び平和をもたらしたのだ。
杖の力は蘇り、ダバルプスによる闇の支配の影響は残らず拭《ぬぐ》い払われた。こうして、リルガミン史上二度目の危機は多大な損害を都市に与えながらも、破滅を迎える前に終わりを告げたのだった。
聖都は復活した。
迷宮の探索に携《たずさわ》った冒険者の多くは王国騎士の称号を受け、リルガミンを復興に力を尽くした。そして彼らの活躍により、リルガミンは以前にも増して繁栄することとなった。
だが、それも一年前までのことだ。
より絶望的な第三の危機が、王国全土を襲ったのだ。
リルガミン王国は、大陸の西端に位置している。
実際に俺が歩いて確かめたわけではないが、ともかくそう聞いている。東にはまだまだ広大な陸地が広がっており、とても人の足で横断できる距離ではないそうだ。
もっとも魔法の発達していた古代には、各地に設けられた転移地帯によって数百キロメートルを瞬時に移動することができたという。
現在知られているテレポートの呪文・転移《マロール》での瞬間移動は、一回の行使で一キロメートルがせいぜいだ。しかも術者が実体化する地点までの正確な方位と距離をイメージできなければ、地中の岩盤の中や空中高くに実体化してしまう危険もある。旅の移動手段としては、とても使えたものではない。
おかげで今では、遥か東方の国々との交流は完全に絶たれている。侍と忍者の発祥の地といわれる大陸東端の島国などは、現存しているかどうかすら定かではないのだ。
だが、今は東の国々の状況を気にかけている余裕などはなかった。
リルガミン王国全土――そればかりではなく、情報を得られる限りのあらゆる西方世界が、原因不明の天変地異の脅威に晒《さら》されているのだ。
異変は、唐突に始まった。
リルガミン市の西には海が広がっている。
その西南の沖合二百キロメートルほどのところに、アルビシア諸島と呼ばれる大小十あまりの島々がある。穏やかな気候と良質の漁場に恵まれた豊かな島で、三百年ほど前からリルガミン王国が開拓し、ダバルプスの支配した暗黒時代も平和を保ち続けた植民島だ。
周囲の海では珍しい海産物が多数|獲《と》れ、復興時には王国の重要な財源ともなった。ここ数年は大規模な移民が行われ、リルガミン市に次ぐ王国第二の都となった海上都市も存在する。十日に一度は連絡船が往復する、海洋にあって陸地以上に便の良い島だった。
その植民島が、突如として消失した。
リルガミンの人々がそれを知ったのは、南の浜辺の小村から知らせが届いてからだった。
高波の翌朝、浜辺に多数の死体が砕けた木片とともに打ち上げられた。
村の誰もが近海で船が沈没したと考えた。が、そうではなかった。
木片は船の破片ではなく、建物の建材の一部だった。中には酒場や宿の看板も混ざっており、それらに刻まれた文字ははっきりと、その店がアルビシアの海上都市にあったことを告げていた。
アルビシアの植民島に何らかの異変ありとの報せを受け、直ちに数隻の軍船が島の調査に向かった。
アルビシア周辺にはコルセアと呼ばれる海賊が勢力を持っており、この連中による侵略の可能性が高かったためだ。
しかし、調査隊が目にしたのは海賊に占拠された都市ではなく、植民地が文字どおり消えている様《さま》だった。
島自体はいつもと変わらぬ位置にあった。
ただ、それがアルビシアの島々であることを確認するのに、船団は群島の周囲を一周しなくてはならなかった。
それほどまでに、島の景観は一変していた。
アルビシアの本島は中央に緑の木々に包まれた丘陵部を持つ美しい島だった。だが、そこにあったのは地肌が剥《む》き出しになった、見るも無惨な岩と土塊《つちくれ》の島だったのだ。
他の島も同様だった。小さい島の中には、ほとんど海中に没してしまいそうなほど陸地を削り取られているものもあったという。
都市をはじめ、人々が築き上げた文明の痕跡はどこにも残されていなかった。
津波だった。
それも、想像を絶する大津波がアルビシア諸島を襲ったのだ。
烏の人々は、恐らく津波に気づく間もなかったのだろう。水圧の壁は一瞬にして島々を呑《の》み込み、その表皮を洗い流したのだ。
アルビシアの壊滅が、リルガミン史上三度目の危機の幕開けとなった。
天空に垂れこめた黒雲が陽光を遮《さえぎ》り、日ごとに気温が下がり始めた。
雲より降り注ぐ雷の束は無差別に大地を灼《や》き、人々の生命を奪った。幾つもの町が廃虚と化し、その数倍の村の音信が途絶えた。
相次ぐ地震によって大地は罅《ひび》割れ、そこから吹き出した瘴気は緑の草原を不毛の荒野へと変えていった。
しかし――。
この期《ご》に及んでもまだ、リルガミン市の市民は平和な夢を見続けていた。
たとえどんな災害が起ころうとも、二ルダの杖の力は自分たちを守ってくれる。魔神マイルフィックの大災厄からも、リルガミン市だけは助かったではないか――と。
そしてその甘い夢想は、いとも簡単に、完全に打ち砕かれることとなった。
激しい地震がリルガミン市を襲った。幸いにも市街に大きな被害は出ず、人々はこれも杖の働きであろうと考えた。
だが、地震の際に都市の北の一画で起こった事件が市内に伝わるや否や、市民の多くは言葉を失い、残りは恐怖と不安で泣き叫んだ。
本来なら最も強く杖のカによって護《まも》られている筈の場所――王国の守護神ニルダとその杖自体を祀《まつ》っているニルダ寺院が、こともあろうに倒壊していたのだ。
それは、この天変地異に対してはニルダの杖の防護魔法も完全ではないという事実を、いやが上にも見せつける出来事だった。
史上類を見ない特異な天災の原因究明に、リルガミンの賢者たちはようやく真剣に取り組み始めた。
星々の位置から現在の状況を読み取る占星術や、地霊や風精を呼び出す精霊召喚。果ては不完全ながらも古代呪術の復活による高次空間への干渉や、ダバルプスの支配時に焼き捨てられずに残されたわずかな古文書の解読にまで、賢者たちの原因追究の手は伸びた。
しかしそのいずれも、満足な解答を導き出すには至らなかった。
その間にも、事態は悪化の一途を辿《たど》った。
リルガミンの食料庫ともいうべき南部地方の穀倉地帯は、落雷による火災と日照時間の大幅な減少によってすでに壊滅的な打撃を受けていた。元々豊かなリルガミンにはいくらかの蓄《たくわえ》えがあるものの、それも長くは持つものではない。
アルビシアの壊滅以降、豊富な海産物の収穫もばったりと途絶えた。連日のように荒れ狂う海には船も出せず、沿岸の漁民は逸《いち》早く都市へと避難してしまった。
牛や羊などの牧畜も、異常気象の影響で牧草が枯れ、その大部分が飢え死にした。食用となる家畜類は、もはやほとんどいないと言って良かった。
天変地異が治まらぬ限り、いずれ深刻な食料不足に襲われることは間違いなかった。家畜ばかりか、人も飢餓に苦しみながら死んでいくだろう。
また、そうなる前に大災害の直撃により、リルガミンは滅亡を迎えるかも知れなかった。
いずれにせよ、座して待つばかりでは遅かれ早かれ王国は滅ぶ。そこで賢者たちは最後の賭けに出た。
伝説の神秘の宝珠――ニルダの杖と同様、神々の手によって創り出されたとされるこの神器は、森羅万象《しんらばんしょう》の理《ことわり》すらも映し出す絶対的な情報収集の魔力が秘められているという。
この宝珠さえ手に入れることができれば、天災の原因も必ず判明すると賢者たちは考えたのだ。
しかしそれはあくまで伝説上の神器で、本当に存在したのかどうかはそれまで定かではなかった。口承で伝えられるのみで、実在を示す文献などが発見されていなかったためだ。
ところが偶然にも、異変の原因解明のために賢者のひとりが解読した古文書の中に、この宝珠の実在を裏付ける詳細な記述が残されていた。そればかりか、現在宝珠が収められているであろう場所も、古文書には記されていたのだ。
それは、あたかも運命のようだった。
宝珠の所在地は、リルガミン市のすぐ傍《かたわ》らだったのだ。
リルガミン市の北、元は草原だった荒野の中央に魔塔の如く聳《そび》え立つ岩山。霞《かす》んで見える山頂から、絶え間なく噴煙を吐き出し続けるこの奇妙な火山に、伝説の宝珠が隠されているのだ。
都市の城門から十キロメートルと離れてはいない。にもかかわらず、古来より魔の棲む、また聖なる地として近づく者のなかった山だ。
古文書によれば、山頂にほど近い高みにある洞窟に宝珠はあるという。
だが、この岩山の四方は切り立った断崖に囲まれとても登攀《とうはん》できたものではない。外側から宝珠に辿《たど》りつくのは不可能、と断言してもいいだろう。
山というよりは、まさしく塔なのだ。
塔の最上階に到達するのに外壁を攀《よじのぼ》りはしない。内部にある階段を使い、上の階へと昇っていく。
この岩山では、内部に掘り抜かれた六層の迷宮が登山道の役割を果たしていた。
つまり宝珠を手に入れるためには、凶暴な魔物の徘徊する迷宮を突破し、最上層へと昇りつめなくてはならないのだ。
しかも、この神秘の宝珠は巨大な力を持つ存在によって護《まも》られていた。
巨龍ル‘ケブレス。
こいつが迷宮の主であり、宝珠の守護者だ。
もちろん、ただの龍じゃあない。伝承では神話時代から生き続けている龍神で、この世界を支えている大蛇の五匹の子供のうちの一匹だということだ。
その魔力たるや、少々魔法を囓《かじ》った程度で大魔道士をきどっている火竜などの比ではない。何しろ山中の広大な迷宮全域を、ル‘ケブレスの張った特殊結界が包み込んでいるのだ。
この結界の性質は、ニルダの杖の魔法障壁に極めて近いものだ。杖の力が人の心の内側に潜むリルガミンへの悪意を看破したように、ル‘ケブレスの敷いた結界はその者が従う戒律――善《グッド》か悪《イビル》かに対して反応するのだ。
悪《イビル》の者が竜の結界、また善《グッド》の者が悪の結界に入り込もうとすると、その強力な魔法障壁はたちどころに効力を発揮する。その者の肉体を迷宮の外、つまり岩山の南面にある例の亀裂の外に転移させてしまうのだ。
俺は一度だけ、この龍神の姿を見ている。
それは、初めて結界に弾き飛ばされる寸前のことだった。
ル‘ケブレスは突如として現れた。どえらい手品のように、眼前の空間に何の前触れもなくその巨体を出現させたのだ。あれは恐らく――間違いなく幻影だったのだろうが、その姿はあまりにも鮮明で、質感に、現実感に溢《あふ》れていた。
迷宮の闇に浮かび上がったル‘ケブレスの姿形は、まさしく龍そのものだった。それはまた、邪悪な竜どもとは次元の違う、神と呼ばれる存在に相応《ふさわ》しい姿でもあった。
四肢を突いて蹲《うずくま》っていたにもかかわらず、四本の角を掲げた頭部は優に十メートルを越える高さにあった。全身は翠玉《エメラルド》の緑を湛《たた》えた鱗《うろこ》に包まれ、迷宮の闇にあって神々しいばかりの輝きを放っていた。
俺たち冒険者を見下ろす双眸は深い叡智《えいち》を宿し、それが驚愕や恐怖よりもむしろ畏敬に近い感情を抱かせた。そして、この龍こそが迷宮の支配者たるル‘ケブレスだと瞬時に悟らせたのだ。
龍神は低く吼え――それは決して威嚇《いかく》などではなく、たしなめるといった響きのものだった――次の瞬間俺たちの視界から忽然《こつぜん》と、出現した時と同じように消失した。違っていたのは、その場から消えていたのは俺たちのほうだったということだ。気がつくと迷宮の入口に立っていた。その後俺たち冒険者は何度も、この結界によって放り出されることになる。
しかし、奇妙な話だ。
これほどの力があるならは、何者をも宝珠に近づけぬようにするのもた易《やす》かろう。本気で宝珠を護《まも》るつもりなら、それがル‘ケブレスの取るべき最良の方法だ。
そこから推測するに、どうやらこの龍神は必ずしも宝珠の探索者に敵意を抱《いだ》いているというわけではないらしい。ただしそう簡単に宝珠を渡す気もないようだ。
ル‘ケブレスは世界の平衡《バランス》の守護者であるともいう。思うに奴は、神秘の宝珠の力が善《グッド》と悪《イビル》の均衡を破るのを恐れているのだ。もし宝珠の秘めたる魔力が噂通りなら、確かにそれだけの力はある代物だ。
それゆえに、善悪の結界がある。
この世界に生活する者は、大きく分けてこのふたつの戒律に縛られている。自己犠牲と博愛の精神に満ちたお人好しどもとでも言うべき善《グッド》≠ニ、己の欲望を第一と考え、敵対者には一切の容赦を許さない悪《イビル》≠セ。
善悪と呼んではいるが、これは決してその存在そのものを表す言葉じゃあない。悪しきもの、という意味では人類がどれだけ頑張ってみたところで、悪魔や亜人種《デミ・ヒューマン》どもの生来の邪悪さに太刀打ちできるものではないのだ。
とは言え善《グッド》と悪《イビル》が相反する指向性を持つことは事実で、その思考や行動規範の根本的な相違から、異なる戒律の両者が上手くいくことはまずあり得ない。
とりわけ俺たち冒険者にとっては、この戒律は重大な意味を持っている。
危険に満ちた魔境の探索において、冒険者はあらゆる局面に応じた迅速《じんそく》な判断を要求される。行くか、退《ひ》くか。殲滅《せんめつ》か、和睦《わぼく》か。これらを瞬時に決断できなければ、それだけ可能性の天秤は死に傾くことになる。
善悪の戒律は厳しい行動規範によってこれらの選択を縛り、それゆえに迷いのない即座の決断と、難局に対応する強い意志とをもたらす。
例えば俺のように悪《イビル》の戒律であるのなら、遭遇した敵対者との和睦は通常あり得ない。後難を排するという意味もあるが、選択は殲滅――あるいは形勢不利なら撤退――ということになる。逆に善《グッド》の戒律を奉じる者は、戦意を示さぬ相手に戦いを仕掛けることは許されない。俺たちにとって戒律とは言うなれば生き抜くために守らねばならぬ信条なのだ。
それだけに、相反する戒律を信ずる冒険者同士では、パーティを組むどころか酒場で同席しただけでも諍《いさか》いになってしまう。己の生き方に関わる属性であるがゆえに、どちらかが折れるということがないのだ。
酒場の争いはともかくも、ル‘ケブレスはこの善悪いずれかの方向に宝珠の力が暴走してしまう危険を憂《うれ》えている。伝説の時代から生き続ける龍神にしてみれば、種族自体が歳若い人間たちに宝珠を預けるなど、危なっかしくておいそれとはできないのだろう。
だが、人々が天変地異によって死に絶えていく様《さま》を傍観するのも奴の本意ではない。
そこで、山頂に至る唯一のルートである迷宮に、奴は善悪それぞれの属性を拒《こば》む魔法障壁を張り巡らせた。そして迷宮を突破するためには、善と悪の戒律を超えた協力を不可欠とした。
これはル‘ケブレスからの挑戦であり、かつてニルダ神がリルガミンの民に課したような試練だった。
ル‘ケブレスの召喚した多数の怪物に斃《たお》されることなく迷宮を突破し、善悪の協調がなされた証を示した時、宝珠を手にするだけの価値が人類にあると認められるのだ。
危急の際に何とも過酷なル‘ケブレスの試練だったが、もとよりリルガミンの人々はこれに従う他に道はなかった。
すくさま軍隊が迷宮へと送り込まれた。戦闘訓練を充分に受けてきた兵士の人海戦術に、人々は宝珠はすぐにでも手に入るだろうとの楽観的な予想を立てた。
だが、結果は無惨なものだった。彼らを兵士と呼ぶには、あまりにも平和の時代が長過ぎたのだ。
いくら数百人の大部隊で行動しようとも、狭い迷宮の中で一時《いっとき》に戦えるのは数人が限度だ。ろくに実戦経験のない兵士たちは怪物の奇襲による混乱の中で次々と分断され、その飢えた胃袋の中へと収まっていった。
ほうほうの体《てい》で外に脱出した時には、兵士の数は出発時の半数にも満たなかった。善悪の協力どころか、魔物の群れを突破することすらままならないのだ。このまま再度軍隊を派遣しても、探索の失敗は目に見えていた。
そこで賢者たちは過去に行われた名高い迷宮探索と同じ方法に切り換えた。
それはつまり、迷宮内で最も指揮に混乱を来たさずに機能するといわれる六人編成で、自らを鍛え上げながら少しずつ迷宮を踏破《とうは》していくやり方だった。かつてワードナの迷宮ではこうして数多の英雄が生まれ、ダバルプスの呪いの穴でも同様にして二ルダの杖が取り戻された。
時間を要する方法だが、こうなっては他に手段がない。急ぎ各地に冒険者を募《つの》る布令が出され、かつての英雄の子孫たちにも召集がかけられた。
俺の御先祖も冒険者だった。それもあのワードナの迷宮で心身を鍛えた強者だったらしい。
らしい、というのは、実のところそれを証明するものが俺の家系には何も残されていないからだ。幾度でも蘇ったというワードナを斃《たお》した冒険者は数多く、彼らは狂君主トレボーから近衛隊の袖章《シェブロン》を受けているのだが、それが我が家には伝わっていない。
もっともこの袖章は戦争好きのトレボーが有望な兵隊を掻《か》き集めるための手段として用いた品で、狂王の死後はさして価値のある代物ではない。ちなみに一時は無敗の軍勢を率いて西方世界に戦乱の渦を巻き起こしたトレボーだったが、ワードナの迷宮探索以後は一度も戦を起こさずにその生涯を終えたという。
まあ、俺にとっては御先祖がワードナと戦っていようといまいと、そんなことはどうでもいいことだ。
要はその御先祖から受け継いだ職業《クラス》が、通常なら他の職業《クラス》で心技体を磨き抜いてからでなければ転職できない特殊なエリートクラス忍者であり、その独特の戦闘技術が幾度となく俺の命を救ってくれたということなのだ。
俺の他にも、百年前の先祖のおかげで高い資質を持って生まれてきた者たちがリルガミンに集《つど》ってきた。英雄の子孫ではないものの、死の危険がつきまとう迷宮に敢《あ》えて挑もうという覇気のある者も集まり、冒険者は少なくない数となった。
こうして開始された冒険者による迷宮探索は、相当数の犠牲者を出しながらも着実に進んでいった。天変地異の脅威の前にパーティ間の協力が頻繁《ひんぱん》に行われ、迷宮内の正確な見取り図がかなり早いペースで作られたのがその要因だったのだろう。
そして一年。
天変地異が半年ほど断続的に小康状態を保っていたおかげで、リルガミンやその周辺の国々の被害はそれほど拡大してはいない。この小康が嵐の前の静けさだという不穏な流言もあるにはあるが、今のところさし追った危機感は薄れている。
食料も徹底した配給制を敷いたおかげで、少なくとも市内では飢える者は出ていない。まだしばらくは持つというのがもっぱらの噂だ。
そして、宝珠の探索はいよいよ詰めの段階を迎えていた。
最上層の除く五層の迷宮は、ほぼ完全な地図作成がなされている。要所要所に設けられた罠や歪められた空間、それに通行を妨《さまた》げる結界の謎もすべて解明された。
数多くの危地を乗り越え、現在も生き残って探索を続けている冒険者は、総数こそ著《いちじる》しく減少したもののいずれも熟達者《マスター》≠ゥ、それを目前にした熟練の猛者ばかりだ。今なら一部隊で、下手な軍隊以上の働きをするだろう。
あとは最上層に待つル‘ケブレスと対面し、宝珠を見つけ出すばかりとなったのだ。
回想が、少々長かったようだ。
夕陽はすでに水平線の向こうに沈みきっていた。残光に浮かび上がる風景は、忍び寄る闇に刻一刻とその色彩を失っていく。
俺は岩山と荒野を結ぶ長いスロープを下り始めた。下り終えるまでには、周囲は漆黒の闇に包まれていることだろう。
その時俺は初めて、荒野の中ほどの砂煙に気づいた。
岩山の麓《ふもと》からリルガミン市へと続く、荒野を突っ切る一本道。
それは、こちらに向けて疾走する一台の馬車が巻き上げる砂塵《さじん》だった。
闇に沈む荒野に、ふたつの小さな光があった。
ランプの灯りだ。
星明かりとてない闇夜の中で、その光の周囲だけが浮き出すように照らし上げられていた。
ランプは、四頭だての馬車の前部に、左右に分けて吊られている。整備された街道、とはお世辞にも言えぬ荒野の道を走っているため、ふたつのランプは盛大に揺れ動いていた。
馬車の後部には、大型の幌《ほろ》付き荷台が見てとれる。幌が重そうに揺れているのは、荷台に軽くはない何かを乗せているからだろう。
その何かが、迷宮に向かう冒険者以外のものであることは、まずあり得ない。
この幌馬車こそ、俺たち冒険者の間では乗り心地の悪さで名高い、リルガミン市と迷宮を結ぶ無料送迎馬車なのだ。
何しろリルガミン市から迷宮の入口までは、徒歩で三時間はかかる道程だ。重い甲冑を着込んだ戦士が行進するには少々距離があり過ぎるし、瀕死の状態で迷宮から脱出したパーティなどは途中で行き倒れかねない。
そこで王国が用意させたのが、頑丈さだけが取り柄のこの馬車だ。一部隊六人のパーティなら楽に運べるうえに、迷宮探索中は岩山の麓《ふもと》で待機していてくれ、冒険者にとっては欠かせぬ足代わりとなっている。
だが、殺風景な荷台に座っていると、荒野を駆ける半時間ほどで確実に尻が痛くなる。柔らかい羽毛のクッションでもつけてくれれば、というのが親切な王国に対する俺たちの正直な感想だ。
その幌馬車を、俺は迷宮側の終点である、岩山へのスロープと荒野の境界で待っていた。
馬車はもう百メートルほどに近づいている。
しかしどうやら、御者を務めるリルガミンの若い衛士は、正面に立つ俺の姿に気づいていないようだった。
それも無理はない。
ランプの光は二列に並んだ馬の十数メートル先の地面を辛《かろ》うじて照らしているに過ぎず、俺の周囲は暗闇に包まれたままなのだ。
このような野外では、俺の着ている濃緑色《ダーク・グリーン》の装束は黒く染めたものよりも闇に溶け込みやすい。ランプ代わりの発光瓶も懐に隠れているとあっては、この距離で俺を視認するなど不可能に近いだろう。
その時、微《かす》かな異音が聴こえた。
四頭の馬の蹄《ひずめ》の音と、車輪が軋《きし》む音とにかき消されながらも、その異音は確かに馬車の後方から生じていた。並の聴覚では聴き逃すところだが、精神を集中した際の俺の耳は百メートル先を飛ぶ蜂と虻《あぶ》の羽音を聴き分けることができる。
それは足音だった。
かなり軽量の、二本脚の生物が走る音だ。
そいつはすぐに馬車の後ろを離れ、右側から一気に追い抜いた。ランプの灯りが届く範囲を回り込むようにコースを取っているため、俺から見て馬車の左を走っている筈のそいつの姿を見てとることはできない。
昔は真っ直《す》ぐに、俺に向かってきた。
恐ろしく迅《はや》い。残る百メートルを、およそ七、八秒で駆け抜けた。
俺の数メートル手前で、そいつが跳ねた。
馬車の光を遮《さえぎ》り、走る速度そのままに宙を跳ぶシルエットが浮かび上がる。
人だ。だが、その身長は一メートルに満たない。
この世界に生活する人類の中では最も体格の小さな種族、ホビットに間違いなかった。
スピードもさることながら、跳躍も見事なものだった。
倍以上の身長がある俺の頭の高さに、このホビットの足がある。人間の子供並の体格に、充分に鍛えられた成人の筋肉が備わったこの種族ならではの、驚異的なバネと瞬発力だ。
俺の顔面に向かって、短いながらも発達した脚が蛇のように伸びてくる。
それは見かけよりも遥かに剣呑《けんのん》な跳び蹴りだった。
ホビット族は靴の類を履《は》くことがない。足の裏側に生まれつき固い巻き毛が密生しており、それが足を保護しているからだ。
しかしそれでも、素足で歩いていれば足の裏は鍛えられてくる。元々皮の厚いホビットの足は、生後数年もすればそれこそ木靴の底のように硬く丈夫になる。
その足の裏の、特に硬そうな親指の付根が、俺の顔の中心に繰り出されているのだ。
こうした宙からの攻撃は体重があるほど威力があり、一般に軽量のホビットが行っても大した効果は期待できないものだが、この蹴りはスピードとタイミングがそれを補《おぎな》ってあまりある。喰らえば良くて鼻骨が陥没、悪ければ即死の可能性もある必殺の威力を秘めた蹴り技だった。
あの距離から俺の正確な位置を把握した上で、馬車の陰に隠れでの加速から跳躍、蹴りへと移行する完璧なまでの奇襲。全く惚れぼれする絶妙な手際だ。
だが、相手が悪かった。
腕で顔面をガードするでもなく、俺は無防備に立ち尽くしている。他の者が見れば、自分の身に危険が追っていることすら気づいていない間抜けのように映るだろう。
宙にあるホビットにとってもそうだった。
すでに蹴りを躱《かわ》せるタイミングではない。殺気の中に、勝利を確信したホビットの気の緩《ゆる》みが感じられた。
この驕《おご》りこそが、格闘において最も危険なものなのだ。
わずかな感情の動きが、目前にした勝利を覆すことがある。忍者の基礎修行時代から、俺はそれを厭《いや》というほど思い知らされてきた。
蹴りが俺の鼻先にめり込んだと見えた瞬間、ホビットの視界から俺の姿が消失した。
俺の視界の中を下から上へ、ホビットの躰《からだ》が移動していく。
夜空が見えていた。
俺が上体を後方に反《そ》らせているためだ。
大地とほぼ平行になった上体をかすめて、ホビットは俺を飛び越した形になった。
跳躍しての攻撃の、最大の欠点がこれだった。己の質量を生かした打撃を与えられる反面、失敗すれば次の攻撃に移ることができない。急速に変化する状況には対応できないのだ。
好機が、一瞬にして危機に転ずる。
ホビットの姿を目で追い、俺はさらに反《そ》り返った。
両腕を地面につけ、足は大地を蹴る。
後方に倒立しつつ、勢いを倍加させて躰《からだ》を一回転させる。
再び両足が地面を捉えた瞬間に、この運動で生じた力を利用して俺は跳んだ。
俺が宙に舞ってすぐに、ホビットの着地音が聴こえた。
伸身したまま、俺の躰は空中で一回転する。
着地したホビットの頭上を、今度は俺が飛び越えたのだ。
だが、ホビットはそれに気づいていない。着地と同時に勢いを殺し、俺の姿を探して素早く後ろに向き直る。
それが結果として、宙返りを終えた俺に背後を取らせることになった。
ホビットの後方に一メートルと離れずに、俺は音もなく降り立った。
相手を見失い、ホビットは半ば恐慌をきたしていた。隙《すき》だらけの構えで左右を見回している。
ハッと躰を硬張らせて振り返った時には、俺の貫手《ぬきて》がホビットの額に伸びていた。
先刻迷宮で屠《ほふ》った|人喰い虎《ベンガルタイガー》と同様に、確実に致命となる一撃だ。
指先が届く瞬間に、俺は腕を止めた。そして多少の間を取り、両目を固く閉じて硬直しているホビットの額を人差指で軽く弾く。
「痛ッ!」
カン高い叫びをあげて、ホビットは尻もちをついた。
「またまた頂きだな。今日は惜しかったぜ、フレイ」
俺は片手を差し伸べながら言った。
「ちぇっ。気休めは止《や》めてよ」
ホビット――フレイは俺の手を支えにして立ち上がると、尻についている乾燥しきった泥土を盛大に払った。
馬車が近づき、俺とフレイはランプの光が届く範囲に入った。
灯りに照らされ、不満げに口を尖《とが》らせて尻をはたいているフレイは、全くもって人間族《ヒューマン》の子供そのものだ。
ふさふさとした茶色の巻き毛に、大きくて良く動く目。少し上を向いた小さな鼻に、ふっくらと丸く赤い頬。この容貌を見ていると、とても先ほど寒気のするような蹴りを放ってきた当人だとは信じられない。
しかし幼く見えるのは種族上の特徴であり、このホビットは立派に二十歳《はたち》を越えている。すばしっこく運気に恵まれたホビットの天職とも言うべき盗賊として腕を磨いている冒険者で、俺と同じく熟達者《マスター》≠ニ呼ばれる者のひとりだ。
とは言え盗賊と、戦闘能力の向上が第一目的の忍者では熟達者《マスター》≠フ意味合いも大きく違ってくる。優れた盗賊とは闘いに長《た》けた者ではなく、迷宮に仕掛けられた罠を見抜き、埋もれた財宝を嗅ぎ当てることができる者を指すのだ。
パーティを壊滅させ得《う》る致命的な罠を回避し、迷宮に眠る古代の武具を手に入れることで間接的にパーティの戦力を向上させる――それが盗賊の役割だった。戦闘では肉弾戦を行う前衛を務めることもあるが、指先の繊細な感覚を必要とする盗賊は重く威力のある武器が扱えず、大抵は魔術師や僧侶といった呪文所有者《スペルユーザー》とともに後衛に回ることになるのだ。
だが、負けん気の強いこのホビットはそれがどうにも気に入らないらしい。段平《だんびら》や戦斧が使えないならば、自分の肉体を武器として戦闘力の低さを補《おぎな》おうと考えているようだ。
そしてその考えは、肉体そのものを凶器と変える忍者の基本的な理念に極めて近い。もちろん忍者はどんな武器でも扱えるように訓練されているが、結局は武具を一切身につけぬ状態で最大限の力を発揮する職業《クラス》なのだ。
そこでフレイは俺に協力を求めた。忍者独特の格闘技術の伝授は無理としても、このように手合わせをしていれば次第に肉弾戦のコツが掴《つか》めてくるだろうと。
引き受ける際に、ルールは俺が決めた。
素手であれば、フレイはどんな攻撃をしてきても構わない。
止める必要もない。とにかく自分で納得のできる拳なり蹴りなりを、一撃でも俺に決めることができればフレイの勝ちだ。
俺はフレイに打撃を与えないことになっている。その代わり攻撃されれば生命にかかわる急所――額や心臓の真上、鼻と上唇の間にある人中《じんちゅう》などを指先で弾かれると、フレイは致命傷を受けたと見倣《みな》され、その回の挑戦は敗北ということになる。
この模擬戦はフレイのみならず、俺にとってもいい練習になった。身のこなしの速さでは俺に勝るとも劣らぬフレイの攻撃を避けながら、ごく狭い急所を正確に弾くのは想像以上に難しい行為だ。
ただ力で押すだけではなく、相手の意表を衝《つ》いて隙《すき》を作るという技術も必要になる。迷宮の実戦では危険すぎてそうそう身にはつかないが、フレイとの手合わせで俺のこの技術は格段に上昇した。
模擬戦を始めてもう一月ほどになる。この間のフレイの上達ぶりも目を瞠《みは》るものがあった。
しかしながら現在まで俺が全勝中だ。
つまり、フレイはまだ俺に一撃も与えられないのだ。不貞腐《ふてくさ》れるのも判る。
「世辞なんかじゃないぜ。俺もそろそろ余裕がなくなってきた」
「そう?」
腕を後ろ手に組んで足元の土を蹴っていたフレイが嬉々として顔を上げた。ホビットというのは元来子供っぽい種族だが、ここまですれていない奴も珍しい。
その目の前に、俺は掌《てのひら》を差し上げた。
「気を良くしたところで、本日の支払いの時間だ」
ホビットは頬を膨《ふく》らませると、腰につけた小物入れから渋々一枚の大きな金貨を取り出した。
普通の金貨十枚分の価値がある、超魔法文明時代のリルガミンで造幣されていた古代金貨だ。今では滅多にお目にかかれない代物だが、フレイは迷宮の中から少なくない数のこの金貨を見つけ出している。
俺は金貨を取り上げ、爪で弾いてその音を確かめてから懐に滑《すべ》り込ませた。
「ありがとよ。これで何枚目だったかな」
「二十枚目だよ。守銭奴《しゅせんど》!」
フレイは丸い顎《あご》を突き出して言った。
模擬戦のルールに、もうひとつ俺がつけ足したのが賭け金制だ。
俺が勝てば、フレイは貯め込んでいる大型金貨を俺に支払わなければならない。
逆に負けた時には、俺は秘蔵の密造酒を一瓶譲ることになっている。食料が完全に配給制になっている今のリルガミンでは、闇ルートから入手したこの酒は相当な価値がある代物だ。
負けた時のリスクは俺のほうが大きく、一見フレイに有利な賭けだ。このルールを持ちかけた当初、外見に似合わず酒好きなフレイは一も二もなく賭けに乗った。
しかし実際には、俺が一回も敗北を喫していないためフレイは大損をしている。まあ言ってみればこの金貨は、格闘術の教授料みたいなものだった。
「勝った、と思っただろう」
「えっ?」
突然の問いにホビットは目を丸くした。
「蹴りが俺に当たりそうになった時だ。勝利を確信して、おまえは少しだけ気を緩《ゆる》めた」
「そんなこと――」
「まあ聞きな。油断するだけのゆとりが出てきたのは、今日が初めてだろう? 腕は上がってるってことだ」
「――」
「いいか」
俺は続けた。「勝ったと思った瞬間に、おまえの心の中には喜≠フ感情が生まれている。やった、と思う心の動きだ。そして俺に躱《かわ》された時、その感情は驚=Aさらに恐≠ヨと変わった。その驚愕と恐怖に囚われている間は、人は正確な判断や行動ができなくなる。今のような戦闘においては、それは致命的な隙を生む」
「うん」
フレイは頷《うなず》いた。「簡単に後ろを取られたのは、多分そのせいだと思う」
「そうだ。あの瞬間おまえは混乱しきっていた。そうならねえためには――」
「感情を切り捨てて、純粋な戦闘機械になりきる。でもさ、それがすべてできれば僕だって忍者になれるさ」
「ああ。感情の抑制ってのは、難しい。忍者の基礎修行の段階からじっくりと修練していかないと、驚≠フように咄嗟《とっさ》に出てくる感情は抑えられるもんじゃねえ。だがな、喜≠ヘ何とかなる筈だ。油断さえしなけりゃ、おおよその状況の変化には冷静に対応できる」
「ふうむ」
「汝《なんじ》、驕《おご》ることなかれってことさ」
俺はコイン一枚分の講義を締め括《くく》った。
フレイとのやりとりの間に、馬車はとっくに俺たちの傍《かたわ》らに停車していた。
幌《ほろ》の中から、ガチャガチャと鋼の武具を装着する音が響く。馬車が止まってようやく探索の準備を始めたようだ。確かに、鎧を着けたままでこの馬車に揺られる気にはならない。
それに先んじて、ふたりの男が馬車から降りてきた。
ひとりはフレイとほぼ同じ身長の、五十歳ほどのノーム族だった。鼻が異様に大きいがノームとしては標準的で、膝まで届く白い髭《ひげ》をたくわえている。
これも熟達者《マスター》≠フ、善《グッド》の僧侶アルタリウスた。
彼は無言で頭を下げた。が、それ以上は俺に近づこうとも話しかけようともせず、俺の背後の岩山の山頂を見上げている。
まあ、善と悪の冒険者同士の、これが最も理性的な挨拶と言えるだろう。ここで無理に会話などをしても、一見|和《なご》やかな白けた雰囲気が広がるだけだ。
もうひとりの冒険者、アルタリウスとは対照的な長身の男はもっと露骨だった。まだ二十歳《はたち》にもなっていない若年のエルフの魔術師・エレインは、俺と視線を交わそうともしない。
中性的なエルフの横顔に一瞥《いちべつ》をくれてやり、俺はフレイと顔を見合わせて肩を竦《すく》めた。
宝珠の探索という同じ目的を持ちながらも、善悪の協力はかくも難しい。ル‘ケブレスの人類に対する懸念《けねん》も道理ではある。
と、ようやく鋼の触れ合う音が静まり始めた。
ややあって、三人の重装備の男たちが幌の中から姿を現した。
三人のうち、ふたりは人間族《ヒューマン》だった。
ともに長身だが、片方は特に大きい。優に二メートルを越える肉体を厚い筋肉の束が包み込み、その重量は俺の倍近く、百四十キロはあろうかという巨漢だ。
そのおかげで、並んでいるもうひとりが小柄に見える。
こちらは、やけに線の細い優《やさ》男だ。整った目鼻立ちと、肩まで垂らした長い金髪のせいで、ランプのか弱い光のもとでは女と見紛《みまが》うばかりだ。
しかしそれでも、身長は一・八メートル以上ある。
この長躯《ちょうく》の男が華奢《きゃしゃ》な女に見えるのは、やはり傍《かたわら》らの男があまりにも大き過ぎるからだろう。
残るひとりは、ドワーフ族だった。
人間のふたりに比べて、その背丈は極端に低い。一メートル半にも満たないだろう。
しかし、ノームやホビットのような小人族といった印象は皆無だ。
その理由は、この種族特有の太い骨格と、それに比例した肉のぶ厚さにある。腕や脚の太さが、人間のそれとは比較にならないほどなのだ。
肉の総量で、人間族としてもかなり体格の良い優男を軽く上回っている。今ここにいる者の中で、人間の巨漢に次ぐ体躯《たいく》を誇っているのはこのドワーフだった。
これで、馬車に運ばれてきた冒険者が全員出揃った。
「フレイ、早く支度しろ。すぐに出発するそ」
優男が親指で荷台を指した。そのゼスチャーで、肘から先を包むミスリル製の籠手《こて》がかちゃりと軽い音を立てる。
「あ、うん。ちょっと待った」
ホビットは慌てて駆けていき、荷台に飛び込んだ。どうやらフレイは俺との手合わせの際に少しでも身を軽くするためにか、革鎧や籠手を残したままで走行中の馬車から飛び降りたらしい。
それを目で追う俺と優男の視線がまともにぶつかった。
大理石の彫像のように端正な顔が、何の表情も浮かべずに俺を見ている。ただ、若干首を後ろに反らしているため、人を見下した態度に見えなくもない。
もっとも実際には俺のほうが十センチばかり背が高く、もしかしたら見上げているのかも知れないが。
俺はというと、微笑みを浮かべてその視線を受け止めていた。
しかし向こうに言わせるなら、それは悪意のある薄ら嗤《わら》いに見えたかも知れない。
俺にしても、友好的な笑みを送っているつもりはさらさらない。
何故なら、この男が俺を嫌悪していることがはっきりと判っているからだ。
奴の名はマイノスという。現在、限りなく熟達者《マスター》≠ノ近いロード――この職業《クラス》なら当然のことだが属性は善《グッド》だ。
善の戒律を持つ者と、属性が悪《イビル》である俺の仲が良いわけもないが、それでも諍《いさか》いを起こさずに折り合っていくのは不可能ではない。アルタリウスやエレインの態度はそうしたものであり、俺もなるべくならつまらない争いを避けるよう心|懸《が》けているつもりだ。
だが、同じ戒律でも反《そ》りの合わない者がいるように、善と悪の間には運命的に相性が悪いということがある。
言動、態度その他の一挙手一投足が悉《ことごと》く神経を逆撫でし、顔を合わせただけで思わず敵対心を駆り立てられるような相手。そこまで合わない奴は探したってそうそういるものじゃあないが、いざ見つかるとこれほど腹に据《す》えかねる存在もない。
マイノスは俺にとって、まさにそういう奴だった。
さらに悪いことには、マイノスにとっても俺がそういう存在なのだ。互いに認めあう犬猿の仲だけに、無視し合って衝突を避けることすらしない。
俺とこいつは、この世界の善悪の対立を代表するような間柄だった。
と、マイノスが細い眉を吊り上げた。
俺が唇の端に浮かべている嗤いに、あからさまな侮蔑《ぶべつ》の色を見てとったのだろう。
「へっ」
さらに俺は奴に聞こえるように短く呟《つぶや》き、挑発的に目を細めた。自分でもよせば良いのにと思うのだが、こいつの高慢ちきな顔を見ていると、どうしてもその鼻をへし折ってやりたい衝動に駆られるのだ。
マイノスの白面が、微《かす》かに紅潮した。そこに怒りの表情が浮かぶ。
俺と奴の間に、蝉い緊張が疾《はし》った。
交わす視線に、不可視の火花が弾ける。
その線上に、無造作に巨大な影が割り込んできた。
「やめとけよ」
どこかのんびりとした、太い声が響いた。マイノスとの間を遮《さえぎ》った影――巨漢の発したものだ。
こうして目の前に立たれると、改めてこの男の大きさを実感する。
腕。
胸。
腿。
肩。
首。
肉体を構成する要素のすべてが桁外れに巨《おお》きく、太く逞《たくま》しい。
その躰《からだ》を包んでいる鋼の鎧も、そして腰に吊した段平《だんびら》までもが恐ろしく大きい。この男のサイズに合わせて造り直された特注品なのだ。
ガッシュ。
それが巨漢の名前だった。
熟達者《マスター》$士。だが、この男は別格と言っていい。
膂力《りょりょく》や持久力といった、戦士の戦闘スタイルに要求される能力をガッシュはすべて満たしていた。無論熟達者《マスター》≠フ戦士ともなれば当然のことなのだが特注の段平を小枝のように振り回し、重装の甲胃を着けながら無尽蔵のスタミナで戦い続けるガッシュはそれらの地力が桁違いだった。
常人離れした巨体はまさしく天賦《てんぷ》。そしてそれに溺れることなく研鑽を重ねた者だけが辿《たど》り着ける場所にガッシュはいた。熟達者《マスター》≠フ壁すらもとうに越えた超戦士。それがガッシュだった。
ガッシュは初めにマイノスを見、それからゆっくりと俺に振り返った。
体格に相応《ふさわ》しい、がっしりとした好《い》い貌《かお》だ。
彫りが深く、顎《あご》が太い。濃い眉の下から覗くグレーの瞳はどこかしら幼さを残しており、それが不思議なほどこの男に似合っている。
「最後になるかも知れないんだ。仲良くできないのかい」
そう言って、ガッシュは悪戯《いたずら》小僧のような笑みを浮かべた。「最後ぐらい止めないで、とことんやらせてみたい気もするな」
「冗談ではないそ。これから出発って時に」
ドワーフが口を挟んだ。「仲間が欠けたら、それこそことだ。ここで気を抜いて返り討ちに遭《あ》っては目も当てられん」
「ボルフォフ。私が負けるとでも言いたいのか」
ガッシュの陰になったマイノスが気色《けしき》ばんだ声をあげた。なるほど、この場合仲間が欠けるということは、マイノスが俺に負けると言っているようなものだ。当然だが、良いことを言う。
「いや、そうは言わん。しかし本物のマスターニンジャ相手に過剰な自信は禁物だそ。良くて瀕死の重傷は覚悟しないとな」
ドワーフのボルフォフは、左右に分けて三つ編みにした長い髭《ひげ》を引っ張りながら答えた。肩に掛けた巨大な戦斧が鈍い光を放つ。
この男も熟達者《マスター》≠ノ達した一流の戦士だ。低い重心から繰り出される斧の一撃は、人間族《ヒューマン》には真似のできない凄まじい威力を持っている。
「ちょいと違うな、ボルフォフ。手加減してやって瀕死だ。本気でやったらあいつはカント寺院行きだぜ」
「ジヴ、おまえもだ」
マイノスが俺の挑発にのる前に、ボルフォフが俺をたしなめた。
「マイノスは強いぞ。自分の言葉を思い出せ。驕《おご》ることなかれ、とな」
それは、俺が先刻フレイに言った言葉だった。
「ちっ。聞いてたのか」
俺はばつが悪くなり、腕を頭の後ろに組んだ。「人が悪いな」
ほっほっと笑い、ボルフォフはマイノスに目を向けた。
「先に行こう。おまえとジヴが近くにいるとろくなことにならん」
「ふん」
マイノスは不快そうに鼻を鳴らしたが、そのまま岩山に向けて歩きだした。その後を、今のやりとりの間に携帯ランプに火を灯したアルタリウスとエレインが無言で追う。
それを見送り、ボルフォフも歩き始めた。
「迷宮の入り口で待っている。フレイと一緒にな」
そうガッシュに言い、そして一度立ち止まって俺を振り向く。
「帰ってくる時は、宝珠も一緒だと良いがな」
「そいつが肴《さかな》なら酒が旨《うま》いだろうな。その時は秘蔵のやつを奢《おご》るぜ」
ボルフォフは髭《ひげ》の下から丈夫そうな歯を見せて、にっと笑った。
「楽しみだ。ますます宝珠が恋しくなった」
「油断するな」
「うむ。フレイへの忠告、我々全員へのものとして受け取ろう」
最後に片手を大きく上げ、ボルフォフは再び迷宮に向けて長いスロープを上り始めた。
「いよいよ、だな」
闇に溶け込んでいくその姿を見つめながら、俺は巨漢の戦士に話しかけた。
「ああ」
ガッシュは腕組みをし、遠ざかるボルフォフたちの遥か上方を睨《にら》んでいる。
その先には、暗い夜空にぼんやりと浮かび上がる、シルエットとなった岩山の山頂があった。
こう見ると、それはあたかも巨大な天秤の支柱のようだ。
鱗《スケイル》ある龍の護《まも》る、善悪のバランスを量る天秤《スケイル》。ル‘ケブレスへの皮肉を込めて、俺たち冒険者はこの山を梯子山《スケイル》≠フ名で呼んでいる。
「俺たちはとうとう宝珠に手が届くところまで来たわけだ。この探索の噂を聞いてリルガミンにやって来て、初めてスケイルに入った一年前は、どうにも無理な話だと思ったもんだったがな」
「一年か――」
ガッシュが感慨深げに呟《つぶや》いた。
「長いようで短いな」
「短いさ。そして宝珠を手に入れちまえば、この探索もおしまいだ」
「厭《いや》か」
一瞬何を言われたのか判らず、俺は山を見上げたままのガッシュの横顔を見つめていた。
そしてためていた息を吐き、空を見た。
ガッシュの言葉は、探索が終局に近づいたこの数日、俺が抱き続けてきた思いを見事に表していた。
そうなのだ。
俺は天変地異で世界が滅亡すること以上に、命を賭けた冒険が終わってしまうのを恐れている。
「おまえにゃ隠せねえか。いや、そうじゃねえ。言われるまで俺自身、この思いが一体何なのかはっきりしなかった」
少し風が出てきた。顔をなぶる冷たい風が、真情を吐露《とろ》する高揚した気分に心地よい。俺は続けた。
「この先どうしたらいいかって、思っちまうのさ。ぎりぎりの、命のやりとりがなくなったら、何が残るのかってな」
「平穏な日々さ」
ガッシュが俺に向き直った。「みんなそれを求めてる。それが一番の幸せだよ」
「おまえは、そう思うか」
「さあなあ」
困ったようにガッシュは笑った。「俺はリルガミンや、この世界が好きだ。それが滅びちまうのは厭《いや》だな」
俺の問いへの答としてはおかしかったが、それでいてやけに相応《ふさわ》しかった。
「そうだな」
俺がそう応《こた》えた時、ようやくフレイが準備を終えて戻ってきた。堅い革鎧を重そうに着こみ、ミスリルの籠手《こて》を嵌《は》めた姿はいかにも窮屈そうだ。
「あれ、もう行っちゃったの」
今はもうかなり先を歩いているボルフォフたちのランプの灯りを見つけ、フレイは怒ったように俺とガッシュを見た。
「のろまは駆け足で来いってさ。さあ、追いつこうぜ」
言うなりガッシュは走り出した。
その巨体からは想像もつかない、しなやかで素早い動きだ。重い鋼の鎧を着けているとは、到底信じ難い。
「待ってよ! じゃあね、シヴ」
慌ててフレイも後を追う。
ランプもなしに走るふたりの姿は、あっという間に闇の中に消えた。
見送る俺に、暗闇の向こうからガッシュの声がした。
「……見つけりゃあいい」
走りながらそう叫んだようだったが、風にかき消されたのかすべて聞き取ることはできなかった。
にわかに風の強くなった荒野に立ち、しばらくの間俺は遠ざかっていく小さな灯を見つめていた。
ガッシュは何と言ったのか。
何かを探せと言うのか、それとも別の意味か。気にはなったが、もはや確かめる術《すべ》はない。
「……さん、ジヴラシアさん!」
背後から呼びかけられていると、俺は長いこと気づかなかったらしい。振り向くと、馬車の上から御者の衛士が叫んでいた。
俺がようやく気づいたので、若い衛士はほっとした表情を浮かべた。
「乗っていきませんか? 明日また迎えに来ることになってるんで、街まで戻るんですよ」
本来はパーティが戻るまで待機し、いざという時には冒険者の遭難を連絡する役割を持つ送迎馬車だが、日没後はこの荒野にも魔物が徘徊することがあるため、さすがに夜間はリルガミン市に帰るらしい。まあ、いずれにせよガッシュたちが明日の夜明けより早く迷宮から出てくることはないだろうから、待っていても無駄というものだ。
ひとりで迷宮に来る時は、俺は滅多に馬車を使わない。
馬車はあと何台か用意されているため、俺が一台出させたところで他の冒険者の出発を滞《とどこお》らせる心配はないのだが、どうにも乗り心地が悪過ぎるのだ。
街から梯子山《スケイル》までの十キロメートルを、自分の脚で走る。忍者の基礎修行で日々走っていた距離を考えれば、これは準備運動にもならないほどだ。
加えて、二十分ほどで走破できるから馬車よりも早い。手ぶらの俺がわざわざ尻の痛くなる馬車に乗ることもないわけだ。
だが、今は乗っていこうという気になった。風が出てきたせいだったのかも知れない。あるいは予感、だったのか。
「ああ、頼む。お手柔らかにな」
俺は荷台に乗り込んだ。連中が残していった毛布に、ごろりと横になる。
馬首を巡らせ、馬車はゆっくりと動きだした。
風はかなり激しくなっていた。荒野を渡る風がひょうひょうと不気味な音を立て始める。
時には高く、そして低く。
それは獣の吠え声にも、人の泣き声のようにも聴こえる。
「気味の悪い風ですね」
吹きつける突風に肩を竦《すく》めて青年衛士が言った。
「ちょっと前まであんなに穏やかだったのに」
「異変は続いてるんだ。これが地割れや雷じゃないだけましさ」
俺は寝転んだまま応《こた》えた。
「脅かさないで下さいよ。こう暗いのに、地割れなんかができてたら――」
言葉が途切れた。衛士が息を呑《の》むのが判る。
急に手綱を引かれ、四頭の馬が一斉にいなないた。そのまま竿立《さおだ》ちになり、馬車は大きく揺れる。
俺は跳ね起きた。
「どうした!」
衛士は正面を凝視していた。視線を追った俺も、それを見た。
緑の衣をまとい、青白い肌をした美しい女が、十メートルほど先に立っていた。
長い黒髪を振り乱しながら、女は泣き叫んでいる。風の音の中に、その声はひときわ高い旋律を刻んでいた。
見開かれた眼が、赤かった。だが、それは泣きはらしたのではない。瞳が、紅《あか》く妖しい光を放っているのだ。
|嘆きの精《バンシー》だった。
人の死を告げる精霊が、馬車の行く手を妨《さまた》げるように嘆き続けているのだ。
凍りついた俺に、嘆きの精は訴えるような視線を投げかけた。そして緩慢な動作で右手を上げ、指差した。
俺の後方を。
振り返った俺と衛士の目に、荷台の出口を通して岩山の黒い影が映った。
連中のランプの光は、もはやそこにはなかった。
再び視線を戻した時、|嘆きの精《バンシー》の姿は消えていた。
吹き荒ぶ風の叫びだけが、その名残《なごり》を残している。
俺は、心臓に氷の針を突き立てられているような気がした。
凶兆をあざ笑うかの如くに、風がびょうと駆け抜けた。
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第二章 ジェノサイド(Xeno-cide)
俺の目の前に、女が立っていた。
見覚えのない女だ。
いつから、そこにいたのか。
そんなことを心の片隅で考えながら、俺は何やら纏《まと》わりつくような柔らかさの椅子に座って女を見上げている。
女も、俺を見つめていた。
美しい貌《かお》立ちだった。
紅《あか》い唇に薄く笑みを浮かべ、形良く尖《とが》った顎を軽く持ち上げて、半ば閉じかけた眼で見おろしている。
蠱惑《こわく》的な表情だ。
美しいが、尋常ではない。精神の奥底に澱《よど》んだ暗い部分をくすぐるような、妖しく淫靡《いんび》な魔力を秘めた美だ。
見つめられていると、どす黒く暴力的な欲望がゆっくりと首をもたげてくる。
だが、俺は目を逸《そ》らすことができない。虜《とりこ》になったように、その切れ長の瞳を見つめ返している。
やがて女が瞼《まぶた》を閉じ、呪縛が弱まった。おかげで視界が少し自由になる。
その時初めて、俺は女の全身を見た。
一糸も纏わぬ裸体が、そこにあった。
異様なまでに白い肌が、俺の前に晒《さら》されている。一度として陽光を浴びたことのない、闇の中に蠢《うごめ》く魔性の白さだ。
恐ろしく官能的な、成熟した女の肉体だった。
男には抗《あらが》うことのできぬ強烈な吸引力を持ったその肢体が、惜しげもなく露《あらわ》になっているのだ。
心のどこかで警報が鳴っていた。
しかし俺は惚《ほう》けたように、この妖女に魅入られている。
頭の中に霞《かすふ》がかかっているようだ。一部の都市エルフが好んで使う、強力な阿片《あへん》を吸ったような気分だった。
気がつくと、女はその場に跪《ひざまず》いていた。
女の顔と俺の顔が、同じ高さになっている。
あの眼が、また俺を見ていた。
軟体動物のしなやかさで、豊満な肉体を煽情《せんじょう》的にくねらせながら、這うように女は近づいてきた。
互いの顔が、もはや三十センチと離れてはいない。
血の色をした唇が満足気に吊り上がった。その端からわずかに覗いた濡れた舌が、ちろりと上唇を舐める。
その唇が開き、蠢《うごめ》き始めた。
俺の耳に、微《かす》かな囁《ささやき》きが聴こえてきた。
貴方《あなた》の望みは何? どんな欲望も、ここでは思いのまま
長い睫毛《まつげ》の奥で、瞳が妖しく光った。
私が叶えてあげる
女の顔がさらに近づき、俺の視界はなまめかしく伸縮する真っ赤な唇で一杯になった。
何でも――
甘美で淫《みだ》らな囁きが、耳を聾《ろう》せんばかりに響いている。
貴方はただ一言、口に出せばいい。そうすれば、すべての思いは貴方のものよ。欲望のままに、さあ――
警報が高まった。痺《しび》れたような頭の中で、言いなりになってはならないと俺の理性が叫んでいる。
だが、女の言葉には強制力があった。操られるように、それを口にしたい欲求が込み上げてくる。
持ち堪《こた》え、俺は喘《あえ》いだ。
身を引いた女が、眉を吊り上げた。そして、気をとり直したように妖艶《ようえん》な流し目を送る。
何を耐えているの。欲望を隠す必要などないのよ。それに――
目の前から女の姿が消えた。
貴方《あなた》の望みは、判っているわ
姿がないにもかかわらず、声は一層近くから響いてくる。女の息|遣《づか》いまで、聴こえてくるようだ。
細く白い十本の指が、俺の後ろから視界に入ってきた。紅《あか》く煌《きら》めく長い爪で頬をからかうように掻《か》いた後、柔らかい指先が両側から俺の顔を包み込む。
その指にしたがって、俺は首を横に巡らせた。
女の顔が、そこにあった。
ようやく、俺は気づいた。
俺が先刻から座っていたものは、この女の躰《からだ》だったのだ。
女が背後から、締めつけるように四肢を絡《から》ませてきた。女の肉体のこの世のものならぬ感触が、急速に現実味を帯びてくる。
くく、と喉を鳴らして嗤《わら》い、女は俺の耳元に唇を寄せた。
さあ、言っておしまい。心の奥に秘めた、不道徳な望みを!
「やめろ!」
絶叫とともに、俺は呪縛から解き放たれた。
堅いベッドの上で、俺は肩を弾ませて喘《あえ》いでいた。
光量を落としたランプの光にぼんやりと浮かび上がった、見慣れた部屋の風景があった。
|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》と呼ばれる、迷宮探索の冒険者のために造られた宿泊施設の中の一室だ。さして広くもない個室で、かなり前から俺が継続して使っている。
少し落ち着きを取り戻し、俺は乱暴に毛布をはねのけた。
べっとりと寝汗を掻いていた。空気に晒《さら》された汗のせいで、裸の上半身の熱が不快なほど急激に奪われていく。
激しい喉の渇きに気づき、ベッドの傍《かたわ》らの卓上に置かれた水差しから直接水を飲む。しかしそれでもおさまらず、俺はベッドの下から酒瓶を一本引きずり出した。
封を切るのももどかしく、らっばにあおる。強烈な芳香を放つ琥珀《こはく》色の液体を臓腑に流し込み、俺は大きく息をついた。
本来なら強いだけが取り柄の安酒だが、異変に伴う食糧難で酒の類も徹底した配給制が敷かれており、闇ルートではこれがお話にならないほどの高値で売られている。三百ゴールドと言えば、魔法の封じ込められた解毒薬一瓶と同じ値段だ。
今飲んだ分だけでも五十ゴールドは下らないだろう。だが、それだけの効果はあった。
腹の底から這い上ってくる灼《や》けるような熱さが、逆に精神を冷静にした。
やけに生々しい夢だった。
あの女の顔が、目覚めた今も目に焼きついている。そればかりか、押しつけられた肉の感触までもが、まだ背中に残っているようだ。
それに、あの囁《ささや》き。
俺は一体、何に怯《おび》えていたのか。何を言おうとし、耐えていたのだろうか。
いや、夢に意味などない。ただの悪夢だ。そう思いたかった。
夢の女の記憶を振り払おうと、俺は別のことを思い浮かべようとした。
また、女の顔が脳裏を過《よ》ぎった。が、あの女ではなかった。
同様に美しいが、より不吉な運命を予感させる顔。振り乱した長い黒髪の間から、紅《あか》い瞳がじっと俺を見つめている。
それは、ガッシュたちを見送った直後に現れた、あの|嘆きの精《バンシー》の顔だった。
ここに至り、俺はようやく現状を理解した。
昨日の記憶が、鮮明に蘇ってくる。
嘆きの精を見た後、俺は急ぎ迷宮へと走った。だが、入口からエレインの転移の呪文で一気に上層へテレポートしたのか、パーティの姿はすでになかった。
追ったところで凶兆あり、と伝える以上のことはできないが、それ以前に呪文を持たない俺が後を追えるわけもない。仕方なく馬車に戻り、怯《おび》えきった衛士をなだめながら街に帰ってきたのだった。
俺もあの時こそ驚いてはいたものの、車上の帰路の間に次第と冷静さを取り戻した。|嘆きの精《バンシー》も今では不浄な不死怪物《アンデッドモンスター》に成り下がっているものがほとんどで、かつての死を告げる力が残っているかどうかは疑わしい。異変で狂ったモンスターが、荒野に彷徨《さまよ》い出ただけかも知れないのだ。
それでもこの件に関しては、衛士にきつく口止めをしておいた。宝珠を探索中のパーティに死を示す予兆があったなどと噂が流れては、リルガミン市内にちょっとしたパニックが起こるだろう。何と言っても、宝珠は異変に苛《さいな》まれるこの世界の、最後の望みの綱なのだ。
不安は残っていたが、俺にできることはそのぐらいだった。第一あのガッシュやボルフォフが、そうそうどじを踏むとは思えない。
街に戻り、宿の部屋に入るや否や、強烈な睡魔に襲われたのが昨日の最後の記憶だった。
どうやら食事もせずに、宵《よい》の口から眠り込んでいたらしい。
そう思った途端、猛烈な空腹感が襲ってきた。昨日の朝以来、食べ物は何も口にしていない。空きっ腹に流し込んだ酒の刺激が引き金になったようだ。
俺はベッドから下り、服を着込んだ。そして東向きの窓にかかっている厚いカーテンをめくる。
外はまだ暗闇に包まれていた。払暁《ふつぎょう》と呼ぶにもまだ早い時刻だ。
配給の朝食まではあと何時間もあるだろう。忍者の心身は数日の絶食にも耐えられるよう鍛えられているが、それはあくまで非常時の話だ。意味もなく耐えてみせてもしょうがあるまい。
宿の者に話をつけ、昨夜の分の食事を出させるつもりで、俺は部屋を出た。誰かが喰っちまったというなら、そいつの朝食を回させる手もある。
両側に扉の並ぶ薄暗い廊下を抜け、階下へと下りる。一時期は二百名を数えた冒険者を収容するべく、もとは大貴族の館だった建物を増築して完成したこの宿は、市壁に囲まれた限られた土地しかない城塞都市の中にしてはむやみに大きい。特に冒険者の数が五分の一になった現在では、その広さを少々持てあまし気味だ。
一般の宿に比べて、この施設の料金は極めて安い。というのも、宝珠の探索者として登録した者しか利用できない王国直営の宿だからだ。
それでも、王国の協力者である俺たち冒険者の宿が有料というのはおかしな話だ。これは当初冷やかし半分のごろつきともが寝床を得るためだけに冒険者登録をしたためで、戒《いまし》めにそこそこの料金が定められたということらしい。
実際に迷宮を探索すれば、古代の貴重な魔法の品やフレイの金貨のような金目のものがかなり手に入り、ある程度の料金は苦にならない。困るのはやる気のないえせ冒険者だけということになる。
現にそういった連中が淘汰され、新たな冒険者も訪れなくなった今では、宿代はあってなきが如しとなっている。俺の部屋も本当なら週に五十ゴールドを払うべきなのだが、一日わずか一ゴールドでいいことになっていた。
亡き館主の寝室だったという広いスイートルームもあり、この部屋などは週に五百ゴールドの値がついていた。洗練された調度品に囲まれた恐ろしく蒙華なこの部屋での一週間は、食事以外はそれこそ王侯貴族の気分が味わえる。いつ命を落とすとも限らない危険な任務に就いている冒険者の中には、このくらいの贅沢《ぜいたく》は惜しくない者もいたようだ。
それも今では日に十ゴールドになり、それをいいことにここを独占している冒険者もいる。馬車の上でならともかく、柔らか過ぎる羽毛のベッドは躰《からだ》に毒だと俺は思っているのだが。
一階のロビーにさしかかった時だった。奇妙な感覚に襲われて、俺は足を止めた。
立ち止まったことで、それがはっきりと判った。
大気が震えている。
ちりちりと、空気が張りつめた気配を放っていた。
何かが起こる。そう思った瞬間、屋敷全体がぎしりと重く軋《きし》んだ。
足下から、低い振動が伝わってくる。
突然、突き上げるように大地が大きく揺れた。ガラスの割れる音があちこちから鳴り響く。壁に稲妻のような罅《ひび》が走り、天井から細かな建材の破片が降り始めた。
例の群発地震だ。それもこれまでで一番でかい。
俺が迷宮を出てからは鳴りを潜めていたが、それはこの時のための力を蓄《たくわ》えていたかのようだった。
揺れていたのは十秒にも満たなかっただろう。だが、それはやけに長く感じられた。
振動が鎮《しず》まると、ロビーに通じる両翼の通路から、叩き起こされたらしい何人かの声が聴こえてきた。
俺は不吉な思いに駆られ、小走りにロビーの先の玄関から外に出た。この出入口は北に面しており、そこには門に通じる中庭がある。
庭に出ると同時に冷えきった夜気が肌を刺したが、ほとんど気にはならなかった。門に向かおうとし、俺は動きを止めた。
中庭も、向かって左手にある厩舎《きゅうしゃ》から聴こえる、地震で驚いたらしい馬のいななきで騒がしくなっていた。
その闇の中に、誰かの気配があった。
ロビーにいた俺より早く外に出られた者はいない筈だった。外から入ってきた者――となると夜盗の類か。猛者《もさ》揃いの|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》に盗みに入るまぬけがいるとも思えないが、油断はできない。
人影は、厩舎の前に立っていた。
そいつが何やら身動きした。ややあって小さな携帯ランプの光が灯る。
薄い布に身を包んだ精悍《せいかん》な男の姿が、暗闇に浮かび上がった。
戦士のような体つきではないものの、布の上からも充分に鍛えられて引き締まった男の肉体を見てとることができる。
後ろに流した癖のない金髪が、ランプの光を反射して淡く光っている。その下に、笑みを湛《たた》えているように見える整った貌《かお》があった。
俺はすでに緊張を解いていた。
男の名はザザ。熟達者《マスター》≠フ僧侶で、悪《イビル》の戒律の人間族《ヒューマン》。俺の仲間のひとりだ。
「ザザ」
俺の呼びかけで、ザザがこちらに気づいた。目が細まり、無邪気にすら見える笑顔になる。
「さすが。最初に飛び出してくるとは驚きです」
「それよりおまえ、また馬小屋か」
地震の前にロビーにいたなどと説明するのが面倒で、近づきながら俺は訊《たず》ねた。
「ええ」
ザザは厩舎《きゅうしゃ》に目をやった。「ここは落ち着きますから。馬と寝起きをともにするのは良いものですよ」
宿の料金が厳然としてあった頃、金のない者はよくこの厩舎に潜り込んで泊まっていたものだった。雨露がしのげるのはいいが、匂いがきつく、蚤《のみ》がうるさいために、快適な寝床とはお世辞にも言えない場所だ。
宿がただ同然になった今ではこんなところで寝る必要もないのだが、この物好きな男は好んで厩舎に寝泊まりしている。
しかしながら、ザザに不潔な印象は皆無だった。厩舎独特の臭気も、どういうわけかこの男には全く移らないようだ。
不思議な男だった。
「それにしても随分揺れましたね。このところの地震は小さなものばかりだったのに」
「全くだ。だが、見たところ被害は思ったほどじゃあねえな」
中庭を通して見える周囲の建物で、地震の影響を酷く被《こうむ》っているものはないようだ。あの揺れでは塀のひとつやふたつ倒壊していてもおかしくはないと思われたのだが。
「ニルダの杖の力が、まだ少しはこの都市を保護しているのでしょう。もっともそれが当てにできるほどなら、我々が迷宮に入る必要もないのですが」
「この宿が崩れなかっただけでも、充分ありがたいね」
俺は老朽化しかけた館を見上げた。「こいつが真っ先に潰れても俺は不思議じゃないぜ」
「馬小屋で寝れば安心です」
ザザはにっこりと笑って言った。この屈託のない笑顔を見ていると、この男が俺よりふたつ年上だとはとても思えない。まだ十代と言っても通用するほどだ。
まして、ザザが戦いにあっては魔術師顔負けの強力な攻撃呪文を自在に操る冷酷な殺戮《さつりく》者であるなどと、誰が信じられるだろう。
他の冒険者も幾人か中庭に出てきた。やはり周りの様子が気になっているらしい。
その時だった。
誰かが短い叫びを上げた。
俺とザザはそちらを見、そしてそいつが見ている北の方角を見た。
荒野の向こうの岩山のシルエットが、この距離からでも威圧するかのように天に伸びている。
その山頂が、不気味に赤く光っていた。
光は数度ゆっくりと明滅を繰り返すと、やがて闇に溶けるように消えていった。
冒険者たちは騒然となった。梯子山《スケイル》に何らかの異変が起こっている。
俺はザザと緊張した視線を交わした。
「ガッシュたちがスケイルに入ってる。まさかとは思うがさっきの地震で――」
「リルガミンの外はもっと深刻でしょう。楽観はできません」
ザザは眉を寄せた。「それに、今の光も」
背中に震えが走った。|嘆きの精《バンシー》の予兆がじわじわと現実になりつつある。
「ジヴ。その掻《か》き傷は」
「何」
突然の問いに、俺は反射的にザザを見た。
「頬におかしな跡が浮き出ています。まるで、尖《とが》った爪先で掻いたような」
その言葉に、俺は呻《うめ》きを必死で噛《か》み殺した。
あの夢の中で、女の爪が俺の頬を掻いた。そして、その跡が現実についている。
やはりただの夢ではなかった。
あの女は夢魔《サッキュバス》――夢の中で人を快楽の虜《とりこ》にし、堕落させる魔物だ。
続けざまの怪異と、夢魔。何かが起こりつつあると、俺は自覚した。
だが、それがはっきりと輪郭を帯びてくるのは、この日の夜明け以降のことだった。
俺とザザは|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》の食堂で、早めに用意された朝食を胃袋に流し込んでいた。
メニューは少々固くなったパンに申し訳程度のバター、それに塩漬けの肉と塩辛いだけの湯のようなスープだ。これにわずかに甘味のある茶がつく。水っ腹になりそうな食事だが、少なくとも乏《とぼ》しい配給で空腹感を紛《まぎ》らわせる工夫はなされている。
ようやく空が白んできた時刻だが、ほとんどの冒険者が身支度を整えて食堂に集まっていた。
二十人ばかりが食事をしているにもかかわらず、昔は舞踏室として使われていただだっ広い食堂は、やけにしんとした雰囲気に満ちていた。恐らくその場にいた全員が、漠然とした不安を抱《いだ》いていたからだろう。
昨夜の地震による市内の被害は驚くほど軽微だった。先刻辺りを見回ってきた連中の話によると倒壊した家屋は一件もなく、広場に陣取っている避難民たちの仮設小屋が多少傾いた程度、怪我人も家具の下敷きになって骨折した者が数人、といったところらしい。
俺は黒っぽいパンの最後の一切れを飲み下し、アルビシア諸島の特産品だった紅《あか》い茶をすすって一息ついた。
「――考えたくはないんですがね」
細長い食卓の向い側に座ったザザが、頃合いを見計らったかのように口を開いた。夕食を食いっぱぐれて空腹の極《きわみ》にあった俺は相当な勢いで朝食を詰め込んでいたのだが、この男はそれより早くすべての食物を腹に入れてしまい、俺が食い終わるのを待っていたのだ。
「あの地震で、ガッシュたちが無事だと思いますか」
「判らねえ」
このところ薄くなった茶を飲み干して俺は応《こた》えた。「もともと火山の中にある迷宮だ。ちょっとやそっとの揺れでがたがくるとは思えねえんだがな」
「ル‘ケブレスにもかなりの力があるでしょうからね。しかし、あの結界は迷宮を保護する類《たぐい》のものではない筈です」
ザザが言っているのは迷宮全域に張り巡らされた魔法障壁のことだ。宝珠を探索する冒険者の戒律に反応するこの障壁は、六層ある階層のうち第二、第四層に俺たち悪《イビル》の者、第三、第五層に善《グッド》の者が侵入できないように特殊な結界を形成している。
それゆえ、すべての階層を探索するためには善悪の協力が必要となる。しかし、善と悪の者だけではそれがうまくいくわけもない。
そこで、この迷宮の探索者は変則的なパーティを組んでいる。ガッシュやフレイ、ボルフォフのように戒律に縛られない中立《ニュートラル》の冒険者を軸に、探索階に応じて善と悪のメンバーを入れ替えるのだ。
中立・無戒律の冒険者だけでパーティを組めば結界に影響を受けることはないが、これは不可能に近い。というのも、主に治療呪文を司る僧侶系の職業《クラス》に中立の者が就《つ》くことはできないからだ。僧侶呪文が神への絶対の信仰を力の源とするために、善悪の戒律を持つ者に比べて強い指向性に欠ける中立の者には扱いきれないのだ。
怪物と罠のひしめく迷宮内で、治療呪文が切れるということはかなり切迫した生命の危機を意味する。戦闘での手傷はもとより、魔物の爪牙《そうが》に秘められた猛毒や麻痺毒を治療できなくなれば、迷宮で最も機能する六人パーティのコンビネーションが崩れ、戦闘力は一瞬にして激減するのだ。まして最初から僧侶呪文の使い手抜きで迷宮に入るなど、熟達者《マスター》≠フ冒険者でも自殺行為とされている。
呪文を持たない俺がひとりで迷宮をうろつけるのは、むしろ独りだからできると言っていい。隠身術を体得した忍者でなければ分の悪い戦いを回避することはできないだろうし、また複数ではそれだけ敵に気取《けど》られやすく、奇襲を受ける可能性がぐんと増すのだ。その点俺ひとりなら、危険な有毒生物や多勢の敵パーティをやり過ごすことなどお手のものだ。
それをできぬ者が生きて迷宮から戻りたいならば、僧侶呪文を操る者がパーティにひとりは必要となる。特に高位の僧侶が修得することのできる快癒《マディ》の呪文は、瀕死の重傷を負った者を瞬時に全快させると同時に、あらゆる病毒――魔法による催眠状態や毒・麻痺、及び重度の麻痺である石化状態――を打ち消す治療回復効果を持っており、これが使えると使えないとではパーティの生還率は雲泥の差となるのだ。
また、通常俺の職業《クラス》である忍者は悪《イビル》、マイノスのロードは善《グッド》の戒律を持つ者しか就《つ》くことはできない。自分で言うのも何だが、俺たちの戦力を考えれば、中立《ニュートラル》の者だけで無理にパーティを構成するのはデメリットが大きい。マイノスは気に食わないが、俺にもロードというエリートクラスの力を認めるくらいの分別はある。
そうして成立したのが、ガッシュたち中立のメンバー三名に、俺たち悪《イビル》とマイノスたち善《グッド》のメンバー三名ずつという総勢九名の部隊だ。つまりガッシュ、フレイ、ボルフォフは善《グッド》のパーティであるとともに俺やザザの仲間でもあるわけだ。
「もし無事じゃなかったら、おまえはどうする」
「私ですか」
俺の問いに、ザザは卓上の空になった食器に視線を落として思案するようなポーズをとった。貌《かお》にはいつもと変わらぬ微笑を浮かべている。
「打つ手はなし、ですね。助けに行くにも我々は第二、第四層には入れない。まして最上層に入るにはル‘ケブレスの結界を無効にする水晶《クリスタル》が必要でしょう。そしてそれを持っているのは当のガッシュたちですから」
予想通りの答だった。打つ手なし。まさにその通りだ。
ル‘ケブレスの迷宮の最上層には、善悪の結界とは別の魔法障壁が張られている。転移《マロール》の呪文を弾き返し、すべての冒険者を拒《こば》む特殊結界――それを乗り越える術《すべ》こそが、善と悪の協調の証なのだ。
マイノスたちが第四層に潜んでいた伝説の悪魔像デルフを破壊した際に入手した悪の水晶と、俺たちが第五層の天使集団《エンジェルズ》を撃退して手に入れた善の水晶。どちらもル‘ケブレスが召喚した善と悪の象徴的存在を斃《たお》すことで人手できた代物だが、初めは単なる宝石の一種としか思われていなかった。ところが、こいつにとんでもない秘密が隠されていた。
ふたつの水晶に封じ込められた善の力と悪の力。それが打ち消し合うことによって全く別のひとつの宝石・中立《ニュートラル》の水晶《クリスタル》に変化すると俺たちが気づいたのはつい先日のことだ。そしてこれこそが最上層の特殊結界を無効化する、ル‘ケブレスの求める証だったのだ。
もしガッシュたちが最上層で遭難しているとすれば、水晶を持たぬ他の者が救助に向かうのは不可能だ。さらに言うなら、宝珠の探索自体が不可能ということになる。
「考えてみれば、かなりやばい状況だな」
「だから考えたくないって言ったんですけどね」
そこにひとりの男が近づいてきた。
「よう。どんな気分だい」
肉を奥歯で噛《か》み潰しながら、ユーモアのかけらもない挨拶を飛ばしてきたこの男は、俺たちとは別のパーティに参加している中立《ニュートラル》の侍ハイランスだ。エルフにしては珍しくグレイの口|髭《ひげ》をたくわえているが、情けないほど似合っていない。
「いいわけねえだろう」
「番《つが》いを失った比翼の鳥、といったところですかね」
ほとんど同時に応《こた》えた俺とザザを交互に見て、ハイランスはにたっと笑った。
「怒るなよ、ジヴ。うまいこと言うね、ザザ」
「こっちの気分を考えてから挨拶を選びな。で、何だよ」
「いやな、マイノスたちの捜索の件だ」
そう言ってザザの隣に腰を下ろすと、ハイランスは片手に持ったカップから茶をずずっと啜《すす》った。
「とりあえず組める限りの善《グッド》のパーティは迷宮に入ってみるつもりだ。限り、と言っても三部隊だがな。一、二階と四階を調べるには充分だろう」
「縁起でもねえな。まるで遭難が確定したみてえじゃねえか」
「実はな」
ハイランスは真顔になり、声をひそめた。「ブライスに探魂《カンディ》の呪文を使ってもらった。様子がおかしい」
俺はさっと緊張した。探魂《カンディ》は僧侶系第五レベルの呪文で、誰かの居場所を念視する時に使う。大まかな位置しか判らないためほとんど使用されないが、このような状況には極めて有効だ。少なくともその者がこの世に存在しているかどうかが判るからだ。
その呪文を使った結果に異状ありとなると、これはもはや予測の域を越える。現実にガッシュたちの遭難があったということになるのだ。
最悪の場合、もはや存在していない状態――消滅《ロスト》もあり得る。
「おかしい、とは?」
ザザの顔からも笑みが消えている。
「いや、念視できないとか――つまり消滅《ロスト》だな、そういうわけじゃないらしい。全員の反応はあるんだ」
「それじゃ何が――」
「どこにいるかが念視できない」
俺を遮《さえぎ》るようにハイランスが言った。「何層目の、東西南北どのエリアにいるのかさっぱり判らないそうだ。ブライスに言わせりゃこんなことはあり得ないとさ」
「呪文の唱え方が間違ってるんじゃねえのか」
言いながら、その可能性は薄いと俺は思っていた。
ブライスはハイランスのパーティの悪《イビル》の僧侶だ。ザザやアルタリウスと同じく熟達者《マスター》≠ナ、特に透視《カルフォ》や探魂《カンディ》などの魔法念視を得意としている。たとえ寝|惚《ぼ》けていても呪文をしくじりはしないだろう。
「妙ですね、確かに」
「だろ? それに地震の後のあの光だ。こいつはどう考えても連中の身に何かが起こっているんじゃないかってな」
ハイランスは残りの茶を含むと、口をゆすいで飲み込んだ。
「まあ、考え過ぎかも知れん。もしかすると今頃連中が宝珠を持ってスケイルから出てきてるってこともあるしな。おまえさんたちが水晶《クリスタル》をふたつ手に入れちまって以来、俺たちはちょいと気が抜けてたとこだ。どのみちちょうどいい運動になるさ」
そう言ってハイランスは席を立った。
「いつ出発する?」
俺が訊《たず》ねた時、中庭の方角から呼び子の音が響いた。
「こいつがお迎えさ」
エルフはにっと歯を見せた。そして向き直り、
「ぐずくずするなよ、野郎ども! 久しぶりの出番だ。迷子が泣き出さないうちに連れ帰ってやろうぜ」
おう! と応《こた》えがあった。食事を終えた者は立ち上がり、そうでない者は慌てて残りの朝食を詰め込み始める。
「出発は五分後! それまでに装備を掻《か》き集めて中庭に集合だ。乗り心地抜群の特等馬車が、俺たちの尻をどう痛めつけてやろうかと手ぐすね引いて待ってるぞ」
げらげらという笑い声で、食堂はにわかに活気づいた。先刻までの不安な雰囲気は、ハイランスの号令で吹き飛んでしまったようだった。
「ひねりの利いた話もできるんじゃねえか」
俺は多少皮肉を込めて言った。
「いつも利かせてるさ。それをおまえさんが解《かい》さないだけの話だ」
「ハイランス、用心してかかって下さい。呪文が効かないというのはよほどのことです」
少しの間考え込んでいたザザが言った。「想像以上に、悪い事態かも知れませんよ」
「判ってる」
ハイランスは表情を引き締めた。「こんな時に限って悪いことは重なるもんだ。留守を任せたぞ」
「はい」
ザザは頷《うなず》き、俺は無言で片手を上げた。
「おっと、俺が遅れちゃ恰好がつかん。じゃあな」
言って、ハイランスは足早に食堂の出口に向かった。
「あれで頼りになる人ですからね」
「まあな」
数人の冒険者をつれて出口から消えようとするハイランスを見送りながら俺は応《こた》えた。「手回しもいいしな」
一見とぼけた調子者との印象を与えるハイランスだが、それはあくまでうわべだけのことだ。侍という魔法剣士としての技量もさることながら、見かけとは裏腹に戦闘の指揮に関しては右に出る者がないとされる冒険者きっての戦術家なのだ。
奴は恐らく地震の後すぐに、この捜索の計画を練り始めたのだろう。居残り組になる悪《イビル》の僧侶ブライスに探魂《カンディ》の呪文を使わせ、善《グッド》の捜索隊の呪文を温存したのはさすがだし、送迎馬車を逸《いち》早く呼びに行かせ、三グループものパーティを取りまとめた手並みは大したものだ。
俺も軽口を叩いてはいるが、この品のないエルフに一目置いているのは確かだった。
俺は立ち上がった。
「どちらへ?」
「ディーを叩き起こしてくる」
「そろそろいい時刻ですからね」
「今ざっと見回したんだが、どうやらまだ起き出してないのはあいつだけらしい。あの地震で目が覚めねえってのもどうかしてるが、仲間の捜索隊が出るって時に俺たちが揃ってないんじゃ面目ねえだろう」
「つき合いましょうか」
「いらぬえよ」
俺はまだ騒がしい食堂を、出口に向けて歩き出した。
「ジヴ」
座ったままのザザが呼び止めた。「例の件は、夜までにもう少し調べをつけておきます。それまでは、迂闊《うかつ》な行動は避けて下さい」
「ああ、頼んだぜ」
俺は食堂を後にした。
廊下を少し行くと、すぐにロビーに出る。そこには気の早い数人の冒険者がすでに武器や防具、それに魔法のかかった護符などの品々を携《たずさ》えて出発を待ち構えていた。どうやらこの連中は号令がかかる前に部屋に戻り、探索の準備を整えていたらしい。
善《グッド》のパーティのため、俺は無言で通り過ぎようとした。こんな時にいざこざを起こすのはいただけない。
「待ちなって、ジヴラシア」
ひとりが俺を呼び止め、走り寄ってきた。
でっぷりと太った三十半ばのノーム、中立《ニュートラル》の盗賊アルフだった。今朝方市街を偵察してきた連中のひとりだ。
「あんたの仲間を探しに行くんだぜ。挨拶は、挨拶」
俺はおどけた調子のノームを睨《ね》めつけた。
「おはよう」
怒気を含んだ挨拶にアルフは鼻白《はなじろ》んだ。
「冗談だよ、冗談。忍者ってのはどうにも気難しくっていけねえ」
アルフは大|袈裟《げさ》に首を振った。首回りの肉がぶるぶると震える様《さま》は見ていて気分のいいものではな
俺はそのまま歩き出そうとした。
「待てって。本当に話があるんだよ」
「なら急ぎな。もう三十秒は無駄にしたぜ」
「あんた、|嘆きの精《バンシー》を見たんだってな」
アルフは秘密を囁《ささや》くように声を落とした。「あの地震とスケイルの光で衛士の坊やがすっかりぶるっちまってな、みんな喋《しゃべ》っちまったよ。もうちょっとした騒ぎになってる」
俺は思わず舌打ちした。俺の苦虫を噛《か》み潰したような様子にアルフがほくそ笑む。この肥満ノームは自分の垂れ流す情報で人が困惑するのを見るのが愉《たの》しみなのだ。
「そのうち王宮のほうからもお呼びがかかるぜ。あの小生意気なベイキ女王が詳しい話をお聞かせ!≠チてな」
肉のたっぷりついた頬を緩《ゆる》ませて、アルフは満足そうに立ち去った。
全く面倒なことになりやがった。ベイキの小娘が今日中にも王宮に召喚をかけてくるのは確実だろう。
ロビーに集まる冒険者の数が増えてきた。間もなくハイランスも戻ってくるだろう。
俺は重い気分のまま、二階へと歩き始めた。
宿の二階には、階下に比べて大きめの寝室が並んでいる。これは二階の個室やスイートルームを利用するのが、ほとんど人間やエルフに限られているためだ。
今でこそ人間以外の種族が都市に住むのは珍しくなくなったが、伝統的に地中に穴を掘って住居としているホビットやノームは、少しでも地面から離れた寝床を嫌う傾向がある。同じ穴居《けっきょ》種族でも、鉱業技術に秀《ひい》でたドワーフは多層構造のばかでかい坑道を造ることもあってか高所の寝泊まりには無頓着だが、やはり一階の簡易寝台や個室のほうが落ち着きやすいようだ。
逆に森林を住処《すみか》としてきたエルフは、樹上に生活する部族もあるほど高い場所を好む。宿で言うなら、二階がお好みといったところだ。
|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》はその点を考慮し、館を改装する際に階下の個室はすべて小柄な種族向きにしてしまった。ベッドなど、身長が一・九メートルある俺では躰《からだ》をふたつ折りにしても横になれないようなサイズなのだ。
したがって、人間族《ヒューマン》の俺たちは選択の余地なく二階を利用することになる。二階の寝室が大きいのではなく、一階の部屋が小さいというわけで、何でもこいつはリルガミンの愛すべき女王、我らがベイキ陛下の御立案だそうだ。全く余計なことにばかり気の回る小娘だ。
俺は自室の前を通り過ぎ、二階のさらに奥へと向かっていた。
一室だけある豪華客室――ロイヤルスイートがこの先の突き当たりにある。
そして俺が呼びに行こうとしているエルフのディーは、日に十ゴールドでこの部屋を独占している張本人だった。
廊下を進むにつれ、何やら騒がしい物音が聴こえ始めた。
何かが壁や床にぶつかる音と、人の争う声とが響いてくる。それも明らかに、五メートルほど先に迫っているロイヤルスイートの扉からだ。
突然、細密な彫刻の施された立派な両開きの扉が、喧《やかま》しい音を立てて開いた。
同時に、若い男が部屋から飛び出してきた。
半裸というより裸に近い、腰にシーツを巻きつけただけの恰好だ。片手に服を抱え、もう一方の手でシーツを押さえながら必死の形相で駆けてくる。正面に立っている俺の姿すら目に入っていない様子だ。
見ている者がいれば、ほとんど男が俺に衝突するタイミングだったろう。だが、この程度の突進が躱《かわ》せないようでは、迷宮の怪物の相手は務まらない。
俺は躰《からだ》を軽く捻《ひね》るに止どめた。
男が俺に触れるか触れないかのところを走り過ぎる。最小の動きで身を躱《かわ》す見切りというやつだ。
男を追って、室内から激しい罵声が飛んできた。
「この阿呆! 下手糞! ×××!」
罵倒語の豊富さでは他の言語の追随を許さない大陸南西部のエルフ語をも駆使した、聞くに耐えない悪態だ。一部は俺の耳も聞くのを拒否した。
続いて羽毛の枕やコップが男の後を追って飛んで行く。
そのうちのひとつが、俺の眼前に迫ってきた。こともあろうに刃渡り二十センチほどの短刀《ダガー》だ。
俺の額に刃先がめり込む直前で短刀は止まった。俺が右の人差し指と中指で、刃を挟んで受け止めたのだ。
そして素早く左手で柄を握り、続けて飛んできた金属製の小箱をその短刀で叩き落とした。
背後で誰かが階段を転げ落ちる音がした。男は無事に、とは行かなかったが何とか逃げおおせたようだ。
飛来物もそれで止《や》んでいた。
「とんだご挨拶だな」
俺は短刀を後ろに投げ捨てた。「これが俺じゃなくてルームサービスだったら、そいつは今頃この場で御陀仏《おだぶつ》だぜ」
「短刀まで投けてたとは思わなかったわ」
不機嫌そうな女の声が返ってきた。
扉を通して中にもうひとつ、開け放たれた扉が見える。
入ってすぐの居間を挟んで、寝室までが一直線に見渡せた。
男でも三人は楽に寝られそうな大きさのベッドがあり、その上にエルフの女が胡座《あぐら》をかいていた。片手にはまだ、次に投げようとしていたらしい杖を持っている。
細身の、人間なら十八ほどに見える若い女だ。長命のエルフならもう四、五歳は多く見積もらねばならない。
軽くウエーブのかかった淡い緑色の髪が、腰の辺りまで豊かに伸びている。白い肌とその髪との取り合わせが、どことなく高原の木々を思わせる。
人間好みの美形が多いエルフだが、それを考慮に入れてもとびっきりの美女だ。難を言うならもう少し肉付きが欲しいところだが、まあこいつは好みによりけりだろう。
それにしてもひどい恰好だった。ガウンを着てはいるものの、ほとんど前がはだけているに等しい。襟の合わせ目が臍《へそ》まで下がっているため、胸の谷間が丸見えになっている。
しかしこの女――ディーはそれを気にも留めていない様子だった。
「服を着けるぐらいの間は待ってるぜ」
そう言って俺は廊下に面した扉を閉めようとした。
「別にいいわよ。もういい加減慣れっこでしょ」
ディーは杖を放りだすと、吸いかけだったらしい煙管《きせる》を取り上げて一服した。「中に入って閉めてくれる? あの馬鹿が派手に出てったせいで、見物人が集まりそうだわ」
俺は言う通りにした。
「あの馬鹿ってのは、今逃げてった男爵家の次男坊のことか」
「あら、良く知ってるわね。でも、残念ながら三男坊よ」
ディーは紫煙を細く吐き出した。「次男のほうは昨日あんたが迷宮探険に出かけてる間に追い出したの」
俺は肩を竦《すく》めた。
全く、この女ほど男出入りの絶えない奴も珍しい。この一年あまりの間に関わりのあった男は、俺が知っている限りで五十人を下らない。過に一度は相手が代わっている計算だ。
その情熱的な気性が男を惹《ひ》きつける反面、やはり長続きもさせないのだろう。一度頭に血が上ると短刀まで投げつけてくるとあっては、生半可な根性の男に御《ぎょ》せるものではない。
激しい気性に相応《ふさわ》しく、火炎系の魔法を得意とする熟達者《マスター》≠フ魔術師だ。現在残っている冒険者の中では唯ひとりの女だった。
「相手は誰」
ディーが尋ねてきた。
「相手?」
「男に引っ掻《か》かれたわけじゃないでしょう。右の頬にまだ赤く残ってるわよ」
「こいつか」
ディーが言っているのは、昨夜|夢魔《サッキュバス》に爪でつけられた頬の掻き傷だった。消えかかってはいるが、まだ幾筋か跡が浮き出ている。
「ぞくりとくる女だよ。寒気がするほどな」
「へえ」
形のいい細い眉を持ち上げて、ディーは目を丸くして見せた。「朴念仁《ぼくねんじん》のあんたにそんなことを言わせる女なんて、あたしも一度会ってみたいもんだわ。機会はある?」
「運が悪けりゃな」
俺はそれ以上この話はしたくないという口調で答えた。
「早く身支度を整えて下りて来い。まだベッドの上にいるのはおまえだけだぜ」
「ハイランスの見送りに?」
「誰に聞いた」
俺は少々驚いた。寝ていたとばかり思っていたディーが、先刻決まったばかりの捜索の件を知っているとは。
「あんたに聞いたようなものよ」
ベッドの脇の卓上から灰皿を取り寄せ、ディーは煙管《きせる》を軽く叩きつけた。赤く燻《くすぶ》る火玉がころりと皿の上に転がり出る。
「夜中に地震があって、しかもガッシュたちは昨日の日暮れに出発。で、まだ朝も早いうちから皆起き出して、あんたがわざわざあたしを起こしに来る。これだけ判ってれば、迷宮の中のガッシュたちに何か不都合があったって想像はつくでしょう? でも、悪《イビル》のあたしたちは身動きが取れない。となると捜索隊を組織しそうなのはハイランスくらいのものじゃない」
「大したもんだ。たまげたよ」
俺はお世辞抜きに言った。エルフという種族は物事を整然と考え、結論を導く能力に長《た》けている。それも常日頃から知力を磨いている魔術師ともなれば、この程度の推理などお手のものなのだろう。
その時、食堂で聴いた呼び子の音が再び響いた。
今度は、出発の合図だった。
「お喋《しゃべ》りが長過ぎたかしら」
「どうやらそのようだな」
俺はディーに背を向け、扉を開けた。「詳しい話は下でしよう。それと、王宮に召喚がかかるかも知れねえ。支度をしとけよ」
「あたしも?」
いかにも迷惑そうな口調だった。
「ザザもだろう。女王様は形式ばったやり方がお好きときてるから、俺たち三人は一組で呼ばれると思うぜ」
「でしょうね」
ディーは嘆息した。「次に謁見《えっけん》するのは、宝珠を手に入れてからだと思ってたんだけど」
「その時でも気乗りはしねえがな」
言って俺は廊下に出た。
急ぎ、走るように階下に向かう。
俺が正面玄関から中庭に出た時には、三台の送迎馬車の最後の一台が門から出て行くところだった。
残っている冒険者は悪の戒律の者ばかりのためか、見送りに出ている者はいなかった。ザザもどこに行ったのか姿が見えない。
俺は馬車が門を曲がって視界から消えるまでの短い時間を見送り、空を見上げた。
明け方はわずかに薄日が差していたが、今はもう厚い雲が上空をすべて覆い尽くしている。遥か北西の空には、ひっきりなしに青白い稲光が疾《はし》っているのが見える。
相変わらずの異常気象だった。あの稲妻がこの都市の真上に移動して来ないよう願うばかりだ。
岩山はいつもと変わらぬ無表情な外見で、真北の空を圧して聳《そび》え立っていた。
昨夜の発光現象の形跡はどこにも残されてはいない。だが、俺の目には夜空に浮かび上がった山頂の輪郭と、血の色にも似た赤い光がはっきりと焼きついている。
あそこで一体何が起こっているのか。
ガッシュ、ボルフォフ、そしてフレイ。
連中は無事なのだろうか。
ふと、脳裏に思いもよらぬ男の顔が浮かんできて、俺は思わず苦笑した。
そいつは、マイノスの顔だったからだ。
自分で思っていたよりも、俺は他人思いの甘い人間なのかも知れない。よりにもよってあのマイノスの消息までが気にかかるとは。
馬車の車輪が石畳を踏む、重い軋《きし》み音が小さくなっていく。俺の聴力を考えれば、もうかなり遠ざかってしまったようだ。
その音を聴きながら、俺は奇妙な仮定を思い浮かへていた。
もしハイランスの率いる捜索隊がいなかったら――つまりガッシュたちの消息を確かめられる者が他にいない場合、俺は迷宮に向かっただろうか。第二、第四層に入れないということを抜きに。
結論を出す前に、俺はその仮定を打ち消した。
馬鹿な話だ。
自分の欲望のままに行動し、生き延びることを第一と考えるからこそ、俺の戒律は悪《イビル》なのだ。他人を救うために、自らの生命を危険に晒《さら》したりはしない。たとえ死にかけた者を目の前にしても、己を犠牲にした手助けはしないものなのだ。
こんなことを考えるたけでも、悪《イビル》にとっては馬鹿げている。思い悩む以前の問題だからだ。
俺は踵《きびす》を返した。と同時に、この不似合いな思いを綺麗さっぱり忘れてしまうつもりだった。
だが、昼過ぎに王宮の使いがやってくるまで、何故かその仮定が答の出ぬまま頭にこびりついていた。
リルガミン王宮は、東西約四キロメートル、南北三キロメートルに広がるこの都市の中央やや北寄りに位置している。
広い濠《ほり》に囲まれた、王城によく見られる雲つくような尖塔や天守閣などがないおとなしい造りの城だ。百年前に建てられた市内では最も新しい建造物のひとつで、当時の統治者マルグダ女王の好みが反映されているという。
かつて僭王《せんおう》ダバルプスによって奪われ、魔窟と造り変えられた旧王城はアラビク王子とダバルプスの決戦の際に崩壊し、魔物の巣喰う広大な呪いの穴と化した。が、ダイヤモンドの騎士たちの活躍によってニルダの杖が奪還された後は魔も去り、今では彼らの功績を称えるぺく無人の地下迷宮のみが残されている。
現在の王宮は、この敷地に規模を縮小して再建されたものなのだ。
千年余の歴史を誇った旧王城の面影を残す、美しい白亜の宮殿だった。
俺とザザ、そしてディーの三人は、迎えの小型|有蓋《ゆうがい》馬車に揺られながら、その王宮の南門に続く跳ね橋を渡ったところだった。
いつもの迷宮への送迎馬車とは比べものにならないほど乗り心地は良かったが、楽しそうな顔をしている者はいない。ザザの表情はにこやかに見えるがこれはいつものことで、決して王宮への召喚を喜んでいるわけではないのだ。
さすがにディーも身なりを整え、迷宮には決して着て行かない正装用の濃紺のローブを着用している。同性の羨望の的となる長い緑の髪は邪魔にならぬよう高く結い上げてあり、これで厭《いや》そうに寄せた眉を何とかすれば、王室に溢《あふ》れるほどの敬意を抱《いだ》く模範的な市民のように見えそうだった。
俺は着替えてはいるがいつもと変わらぬ濃緑色の装束で、ザザも特別のものではない白い法衣を身に着けている。ディーと並ぶと明らかに見劣りしそうだが、ベイキの小娘に会うために着飾ってやるつもりはないし、そもそも俺はこれまで一度たりとも礼服など着たことはないのだ。
門を抜け、王宮の入口になる広い階段の前に横づけして馬車は止まった。馬車から下りた俺たちを、青い制服とサーベルで形式的に武装した人間の衛士数名が出迎え、城の中へと案内する。
青紫の絨毯《じゅうたん》が敷かれた城内は、いつもながら不気味なまでの静けさが漂っていた。王宮とはそうしたものなのかも知れないが、俺はここを訪れる度《たび》にこの静寂に違和感を覚える。もう少し騒がしいほうが却《かえ》って落ち着きそうなものだ。
女王との謁見《えっけん》はホールで行われると聞いていた。
「お付きの衛士隊を従えた女王様の姿が目に浮かぶようね」
ディーは俺に囁《ささや》いたが、しんとした回廊にその言葉は予想外に響き、慌てて口を噤《つぐ》んだ。王宮内で女王を批判するのは少々危険な行為だ。
やがてホールの巨大を扉が近づいてきた。俺たちが進むにつれて、扉が少しずつ内側に開いていく。
正面に、玉座に腰掛けた女の姿があった。
弱冠十七歳のリルガミン王国統治者・ベイキ女王だった。
謁見重に選ばれたホールは、広さが三十メートル四方はあるであろう御大層なところだった。
高い天井の中央には数百ものクリスタルをちりばめた巨大なシャンデリアが吊り下げられ、床は鏡のように磨き抜かれた大理石が敷きつめられている。壁に吊されている絢爛《けんらん》豪華なタペストリーの数々とともに、それらは復興期のリルガミン王国がどれほどの財力を有していたかを如実に表していた。
俺たちの立っているホールの入口からは、廊下の青紫の絨毯《じゅうたん》とは打って変わって深紅の厚い絨毯が正面に向かって伸びていた。その両側に衛士が五人ずつ、造り物のように微動だにせず向かい合っている。
絨毯の先に玉座はあった。
そして、周囲のタペストリーから抜け出てきたような盛装のベイキ女王がそこにいた。
いつもながら、俺はリルガミン聖王家の血の遺産に驚嘆した。
真珠のような、きめ細かな肌。金色の王冠と薄紫のベールの下からこぼれる栗色の髪。それにこの地方では類を見ない、黒曜石の如き謎めいた漆黒の瞳。
数千年にわたって精霊神ニルダに愛された王家の末裔《まつえい》に相応《ふさわ》しく、そのすべてが気高く、美しい。貌《かお》立ちはまだまだ幼さを残していたが、もう数年もすれば――数年先にこの世界が存在すればの話だが――絶世の美女と呼ばれるようになるのは確実だった。
金糸で刺繍《ししゅう》された赤いドレスに鮮やかな緑とピンクのケープを羽織り、大ぶりの玉座に埋もれるように座っていた若き女王は、俺たち三人が入口で一礼をすると同時にゆっくりと立ち上がり、精一杯の威厳をもって口を開いた。
「ようこそ、宝珠の探索者たちよ。さあ、もっとこちらへ」
俺たちはもう一度礼をした。一番|慇懃《いんぎん》に頭を下げたのはディーだったが、顔を伏せた瞬間に小さく毒づいたのを俺は見逃さなかった。
俺も同様の気分だったが、顔には出さずに玉座の前へと歩き出した。ザザが続き、出遅れたディーは早足で進み出る。
左右に並ぶ衛士たちは、無表情に自分の正面の空間を睨《にら》んでいる。それを横目で見ながら、あの女王もこのようにおとなしくしていれば、これほど冒険者に疎《うと》まれることもなかろうにと俺は考えていた。
俺たち冒険者の間では、ベイキ女王はとんだ厄介者だった。
即位したのは確か二年前、わずか十五の時だったと聞いている。夭折《ようせつ》した前王アラビク二世の一粒種で、リルガミン王家の唯一の血筋だ。
王国の統治者としてはあまりにも幼かったため、現在も行政の執行は賢者会議に任されている。異変への対応が遅れたのは賢者たちがこの執務に追われていたせいもあったのだが、実際彼らはよくやっていた。食糧の配給制の徹底や、近隣の避難民の受け入れ、そしてそれに伴う治安の強化など、天変地異の最中《さなか》で王国の基盤が破綻《はたん》しなかったのは賢者連中の政策が的確だったおかげだろう。
惜しむらくは、冒険者の宝珠探索に関する全権をベイキ女王に認めたことだった。女王の強い希望があり、賢者会議も無下《むげ》に断ることはできなかったらしいが、それで俺たちは多大な迷惑を被《こうむ》ることになったのだ。
見ようによっては、彼女も賢者並に活躍したと言えるかも知れない。|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》の有料化に際しては百年前の文献から、ワードナ討伐時のトレボー城塞に存在した宿の料金表まで探し出し、俺たちが|中立の水晶《ニュートラル・クリスタル》を手に入れた時には、わざわざ数日間も預けさせて何やら懸命に調べていたほどだ。
ただ、その手のおせっかいが俺たちの役に立った試しがないのだ。
王国の危機を救おうというのに寝泊まりに金を取られては、喜ぶ者などいよう筈もない。腹を立てていないのは馬小屋での宿泊を厭《いと》わないザザぐらいのものだ。
また、水晶を取り上げられたおかけで迷宮最上階の探索は足止めを食っていた。考えて見ればその数日の遅れが、ガッシュたちの消息不明という事態を引き起こしたのかも知れないのだ。
それ以外にも、この少女はあれこれと余計な口を挟んできた。そして少しでも気に入らないことがあれば、今俺たちが受けている王宮への形式ばった召喚と謁見《えっけん》を行い、王の権威と十七の小娘の理不尽な言い分で当たり散らすのだ。これがたまったものじゃあない。
迷宮よりも王宮のほうが宝珠探索の邪魔になるという陰口が聞かれるほど、冒険者の間でのベイキ女王の評判は悪かった。
俺たち三人は玉座の手前で、俺を中にして横一線に並んだ。
「ジヴラシア、ディー、ザザの三名、女王陛下のお呼びにより参上|仕《つかまつり》りました」
右に立つザザが、打ち合わせ通りに口上を述べた。俺が王室に対するへりくだった口のきき方という奴が苦手だからだ。
「御苦労でした」
女王が再び腰を下ろした。これで形式的な挨拶はおしまいだった。
沈黙が流れた。
おや、と俺は思った。いつもなら開口一番文句のひとつもつけてくる女王にしては、妙におとなしい。
俺は改めてベイキ女王を見た。
女王は俺たちを見ていなかった。座った自分の膝頭の辺りに視線をやり、何かを思案している様子だった。
近くで見て初めて、俺は今日の女王がどこかしら大人びていると気づいた。そしてそれが女王の憔悴《しょうすい》しきった雰囲気からくるものだと理解するのに、さほどの時間はかからなかった。
女王は王冠を象《かたど》った錫《しゃく》を、両拳が白くなるほど強く握り締めていた。
「陛下?」
ザザの問いに、女王は驚いたように美しい顔を上げた。その拍子に弛《ゆる》んだ両手から、錫が滑《すべ》り落ちる。
錫が絨毯《じゅうたん》越しに床にぶつかる音が、くぐもってはいたがやけに大きくホール内に響き渡った。
まるで、地の底から聴こえてくる亡者の鎧の音のようだった。
「あ――」
ベイキ女王の顔にはっきりと怯《おび》えが疾《はし》り、やがてそれは取り乱した自分への当惑の表情に変わった。
「いえ、何でもありません。少し考え事をしていました」
取り繕《つくろ》うように彼女は言った。俺たちは無言で、様子のおかしな女王を見つめていた。
衛士から錫《しゃく》を受け取り、女王は気を取り直した。だが、滲《にじ》み出す疲労感は拭《ぬぐ》い去られてはいない。
「――今朝早く、気になる噂を耳に入れました。何でもジヴラシア、あなたは昨夜……」
女王はそこで一度言葉を切った。そしてその続きを口にすること自体が苦痛であるかのように顔を歪め、大きく息を吸い込んだ。彼女は気づいていないようだったが、またも血の気が失せるほどきつく錫を握った右手が、小刻みに震えているのが見てとれる。
「嘆きの……|嘆きの精《バンシー》を見たそうですね。それも、あなたがたのパーティが迷宮に向かうところを指し示したとか。これは、真実なのですか?」
弱々しい声で、彼女はようやく続けることができた。
正直俺は面食らっていた。
これまでに一度だって、この娘はこんな態度を見せたことはなかった。こちらが厭《いや》になるほど感情的になることはあっても、決して他人に自分の脆《もろ》さを晒《さら》しはしなかったのだ。
「本当だ。俺は|嘆きの精《バンシー》を見た」
俺の応《こた》えに右手奥の衛士がこちらに向き直り、目を剥《む》いた。王室|近衛《このえ》の隊長らしく、手入れの行き届いた口|髭《ひげ》をたくわえでいる。
「陛下の御前だぞ。口のききかたを弁《わきま》えぬか!」
「構いません」
女王が力なく制した。衛士長は短く敬礼し、元の不動の姿勢に戻る。
「それで……ハイランス以下の三部隊が捜索に出発したとの報告も受けました。それは、つまり……パーティが壊滅――いえ、遭難したということなのですか?」
「確定したわけではありません」
俺に代わってザザが応えた。「念視の僧侶呪文、探魂《カンディ》を用いましたところガッシュ、ボルフォフ、マイノス、フレイ、アルタリウス、エレインの六名全員の反応はありました。ですが、迷宮内の座標位置の念視ができないのです」
「どういうことです」
ベイキ女王がわずかに身を乗り出した。少なくともパーティが壊滅したのではないことを知り、力づけられたようだ。
「目下不明です。ハイランスたちが戻ればそれも明らかになりましょうが、恐らくは夜明け前の地震による魔法結界の力場の歪《ゆが》みが原因ではないかと」
「それでは、パーティに必ずしも不都合が起きたわけではないのですね?」
女王はほっと安堵《あんど》のため息をついた。
「そろそろ捜索隊が帰還する頃でしょう。陛下が御心配なさるほどのことではありますまい」
俺は横目でザザを見た。
柔和な笑みをたたえた端正な顔には、人に疑いを抱《いだ》かせるものは微塵《みじん》も感じられなかった。だが俺には、ザザが実際に予想しているよりも遥かに楽観的に物事を話していると判っていた。
よりにもよってベイキ女王の心痛を、少しでも和《やわ》らげてやろうという肚《はら》なのだ。この男は、女にはやけに甘い。
「嘆きの精の言い伝えとて、今では当てになりません。このジヴラシアも徒《いたずら》に陛下の御心を惑わせてはと、報告を差し控えた次第なのです」
口も巧《うま》い、と俺は心の中でつけ加えた。これでこの件に関して文句をつけられる心配もなくなったようだ。
まだ若干《じゃっかん》やつれた印象を纏《まと》わりつかせてはいたが、ベイキ女王は傍目《はため》にも判るほど生き生きとしてきた。よほどパーティの消息が気になっていたのだろう。いつもこの調子でいてくれたら、この貴婦人もさぞかし可愛《かわい》らしく見えるのだが。
「ありがとう。話を聞いて気が楽になりました。確かにその程度のことで私が気を揉《も》んでもしようがありませんね」
ザザは無言で深々と張を下げた。
「それでは陛下、我々はハイランスらの出迎えに向かわねばなりませぬゆえ、これにて失礼をば。心配はないとは言え、我々の仲間のこととあってはやはり落ち着いてもいられません。詳細な報告はいずれ――」
ザザが言葉|巧《たく》みに暇乞《いとまご》いを始めたその時だった。
背後の扉から慌てた様子の衛士がひとり、ホール内に飛び込んできた。
「何事だ」
さっきの衛士長が厳しく問いただした。
「も、申し上げます」
その衛士はよほど急いだらしく肩で息をしていたが、それでもホールの隅々まで響く大音声《だいおんじょう》を張り上げた。
「先ほどアルタリウス様、エレイン様のおふたりが御帰還なされました。そして、アルタリウス様が女王陛下に早急にお目通り願いたいと」
「何だと!」
俺は思わず声をあげていた。ディーとザザ、それにベイキ女王も同時に、同じように訊《き》き返していた。
「ふたり、とはどういうことです」
女王が俺たちを代表するかのように伝令の衛士に尋ねた。「ふたりが謁見《えっけん》を願い出て、残りの四人は宿にでも戻ったというのですか?」
「いえ、私の受けた報告では――」
衛士は息を切らせ、続けた。「迷宮からおふたりだけが出て来られたとのことです。また、エレイン様はお身体の具合が芳《かんば》しくなく、直接|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》にお戻りになりました」
女王を含めて、俺たちはしばらくの間言葉を失っていた。
迷宮内でパーティを組んでいる六人が離散するなど、通常考えられない事態だった。しかもそのうちのふたり――それもパーティ中で唯一|転移《マロール》の呪文を修得しているエレインと、治療呪文の要《かなめ》であるアルタリウスがすでにリルガミン市内に戻ってきてしまっているのだ。
残りのガッシュたちの中に、魔術師系呪文の使い手はいない。ロードのマイノスは僧侶系呪文をある程度修得しているが、これも第五レベルまでで効果・使用回数ともに僧侶のアルタリウスには到底及ばない。この状態で連中がまだ迷宮内を彷徨《さまよ》っているとしたら、無事に脱出できる確率は恐ろしく低くなる。
いくらガッシュたちが岩をも砕く剛剣を持っていても、強力な攻撃呪文の使い手がいない限りパーティ単位の集団戦では勝ち目はない。魔法なしには捌《さば》ききれぬ数の魔物にたかられて麻痺毒を受ければ、治療の手段がない限りそれで死んだも同然となるからだ。そして梯子山《スケイル》の迷宮には、その手の有毒生物がうようよしているのだ。
ホールの重苦しい雰囲気を辛《かろ》うじて破ったのはベイキ女王だった。自分の報告がもたらした空気に戸惑う衛士をきっと見|据《す》えると、彼女はできる限り声の震えを抑えて命令した。
「ここに、すぐにアルタリウスを通しなさい。直接話を聞きましょう」
「はっ、只今――」
言うなり飛び出して行った衛士が、アルタリウスを従えて再びホールに入ってきたのはそれから二分と経たぬうちだった。が、俺たちにはそれがやけに永く感じられた。
矮躯《わいく》の僧侶が女王の謁見《えっけん》室に現れた時、恐らくその場にいた全員が息を呑《の》んだか、呻《うめ》き声をあげた。
酷い姿だった。
自慢の長い顎髭《あごひげ》は、元が白であったことが判別できぬほど黒ずんでいた。ところどころに固まった血がこびりつき、髭を汚らしく縺《もつ》れさせている。
灰色の地味な法衣にも血の斑点が撒《ま》き散らされていた。それが迷宮の怪物の返り血なのか、それともパーティの仲間のものであるのかは判らなかったが、法衣のあちこちの破れ目を見る限り少なくとも半分以上はアルタリウス自身の血であろうと思われた。
頭部にも手酷い傷を受けたらしく、薄くなった頭髪がべったりと血に固められている。ただ、傷はすでに呪文で治療したのか、見てとることはできなかった。
天変地異で住処《すみか》を追われた避難民の、物乞いと見紛うばかりのみすぼらしさと痛ましさだった。
だが、物乞いとは決定的に違うところがアルタリウスにはあった。
それは、眼だった。何かに憑かれているような、異様な目線だ。
鋭く、精気に溢《あふ》れてはいるが、どこかが醒《さ》めている。
一瞬視線を交わした俺の背に、ぞくりと怖気《おぞけ》が這い上ってきた。頭部の傷の後遺症で、アルタリウスはすでに正気を失っているのではないかと思ったほどだ。
満身|創痍《そうい》のノームは、しかししっかりした足取りで赤|絨毯《じゅうたん》の上を歩き始めた。
近づいてくるアルタリウスを見つめながら、俺たちは一言も声を発せずにいた。
確かにこいつはアルタリウスだ。それは間違いない。
だが、どこかに違和感があった。あの眼は何かがおかしい。
「親愛なる女王陛下、大変な報告がございます。王国の存亡をかけた、大事なお知らせです。お人払いを、お人払いを――」
道化の口上を思わせる節で、アルタリウスはすたすたと歩いてくる。
「止まりなさい」
ノームの様子に尋常ならざるものを感じ取り、女王は命令調で言った。が、それを無視してアルタリウスはそのまま歩き続けている。
その不気味さに、女王はヒステリックに叫んだ。
「誰か、その男を止めなさい! それ以上近づけてはなりません!」
女王の命令を受けて、絨毯《じゅうたん》の両側に控える衛士の、入口からも玉座からも三人目になるふたりが数歩前に出た。そして引き抜いたサーベルを突き出して組み合わせ、アルタリウスの進路を塞《ふさ》ぐ。俺たちの後方十メートル辺りの、ちょうどホールの中央付近だ。
サーベルの刃はノームの進んでくる方向、つまり入口側に向けられている。そのまま進めばアルタリウスは躰《からだ》を刃に押し当てることになる。
しかし研ぎ澄まされた刃を見ても、アルタリウスは一向に臆《おく》した風《ふう》ではなかった。
「何のつもりでございましょうか、陛下。私の躰《からだ》に刃が吸い込まれる様をお望みですかな。ならばお見せしましょうぞ。その後でふたりでゆっくり話しましょうぞ」
「止まりなさい!」
恐怖に駆られた女王が絶叫したのと、不意にアルタリウスが走り出したのは同時だった。
それも、交差したサーベルに向かってだ。
ずんぐりしたノームとは思えぬ、凄まじい加速だった。
ふたりの衛士がそれと気づく前に、サーベルの刃はアルタリウスの髭《ひげ》を切り裂き、首の両脇を抉《えぐ》っていた。
首が切断されなかったのは、勢いに押されて交差が外れたためだ。だが、刃は確実に頚《けい》動脈に届いていた。
「ひっ」
「何を――」
驚愕した衛士ふたりがサーベルを引き抜く。
だが、血は一滴も噴き出さなかった。
そしてまた、致命傷を受けた筈のアルタリウスも倒れなかった。
爛々《らんらん》と光る目が、俺の背後で声もないベイキ女王を凝視していた。
「御満足頂けましたかな」
喉の傷口から空気が漏れ、しゅうしゅうと掠《かす》れた声でそいつは優しく囁《ささや》いた。「では、私めの用件をば。簡単なことです。陛下にも、我々の仲間になって頂きたいのですよ――」
にたりと嗤《わら》いながら、そいつは両手でみりみりと首の傷を引き裂き始めた。
遅まきながら、俺はあの眼に感じたものの正体を知った。
既知の生物ではないのだ。俺が未だ知らぬ魔性の眼だ。
俺とザザ、ディーが三方に散ると同時に、アルタリウスだったものは自らの頭部を引き千切った。
ホールは、怒号飛び交う叫喚《きょうかん》の坩堝《るつぼ》と化していた。
そいつ――アルタリウスどころか、もはやノームとすら呼べぬ怪生物――が自らの首を引き剥《は》がす凄惨な光景を目《ま》の当たりにして、女王の護衛兵は恐慌状態に陥《おちい》っていた。
王室直属の衛士隊は、リルガミン王国軍兵士として訓練を積んだ者の中から剣技や知性、そして忠誠心に秀《ひい》でた者を選《え》り抜いたエリート部隊だ。たとえ十倍の数の暗殺者に囲まれたとしても、臆《おく》することなくその身を呈して女王を護《まも》り抜くだろう。
だが、それは人間相手の話だ。
連中のほとんどは、これまで一度も怪物の類《たぐい》を見たことがなかったのだろう。まして化物相手の戦闘を経験した者など、この聖都リルガミンの兵士にいよう筈もない。
そんな者たちが、たった今までアルタリウスだと思っていたものが己の頭部をもぎ取る様《さま》を見たのだ。しかも、そいつはまだ生きているときてる。
優秀な兵士と言えど、恐怖とおぞましさで正気を失ってしまうのは無理からぬところだ。
この状況下で、冷静に行動に移ったのはザザとディー、それに俺の三人だけだった。
首から上を失ったそいつは、何事もなかったようにホールの中央に立っていた。
アルタリウスの生首は、その胸の前に両手で抱えられている。
信じられぬ怪力でむしり取られたため、ピンク色の筋肉が伸びきって千切れ、顎《あご》の下の断面からだらしなくぶら下がっている。が、サーベルに首筋を切り裂かれた時と同じく、出血は全く見られない。
ぎらついた眼を見開いたまま、ノームの生首は笑みをへばりつかせていた。まるで、胴と離れてしまったのが嬉しくてしょうがないというような、狂気に満ち満ちた表情だ。
生半可な悪夢では太刀打ちできない、生理的な嫌悪感を催《もよお》す眺めだった。ベイキ女王がまだ失神していないのが不思議なくらいだ。
「どきなっ! 燃やすよ!」
混乱しきったホール内に、玉座近くに後退したディーの怒声が響いた。その叫びに何人かの衛士が恐慌状態から立ち直り、慌ててホール中央付近から離れる。
玉座から見て右手に移動した俺はいつでも攻撃に移れるように構えを取っていたが、アルタリウスを挟んで反対側に回ったザザと素早く視線を交わし、その姿勢のままで動きを止めた。ザザも油断なく構えているが、呪文を唱える気配はない。
立ちつくしたまま動きを見せないアルタリウスは、強力な殺傷力を持つ魔術師の中規模範囲攻撃呪文の恰好の的になる。俺たちは、まずはこの正体不明の化物をディーの呪文に任せることにしたのだ。
ホールに、呪文の詠唱が短く反響した。
呪文の最後の一節が発されたその時、アルタリウスが動いたかに見えた。
次の瞬間、俺の視界が黄白色の閃光に染まった。
続いて熱風がホールの中央から吹きつけてくる。
地の底の業火が噴き上がったかの如くに、直径六メートルばかりの炎の渦がアルタリウスを包み込んでいた。
魔術師系第四レベルの攻撃呪文|猛炎《ラハリト》だった。魔力によって高熱の炎を生じさせる火炎系魔法の高位呪文で、人間程度の大きさの生物なら即座に回避行動を取らない限り、ものの数秒で皮膚を炭化させるだけの燃焼エネルギーを有している。ディーが最も得意とし、好んで用いる呪文だった。
淡い黄色の炎が、アルタリウスを中心に高速で回転していた。
文字通り、渦そのものだった。自ら周囲の空気を取り込み、加速的に燃焼力を高めていく生きた炎だ。
発火して約三秒、そいつはまだ炎の外に飛び出してこない。このまま火炎の有効範問に留まり続けていれば、恐らくはあと数秒で小柄なノームの肉体は半ば消し炭と化すだろう。そうなっては、奴の正体が何であれ生命を維持できるとは考えられない。
ディーはすでに勝ち誇った笑みを浮かべていた。
ベイキ女王の前で、自分の呪文の力を見せつけてやれたのが小気味良いのだろう。白い肌がわずかに上気し、このエルフの美しさを際立たせている。
しかしその刹那《せつな》、炎の中で黒い影が揺らめいた。
はっとたじろぐディーに向かって、炎の壁を突き破って何か小さなものが飛び出した。
煙の尾を引きながら宙を飛ぶそれは、皮膚が爛《ただ》れてめくれ上がり、眼球は熱で白く濁りながらもなお嗤《わら》い続けている生首だった。首なしのアルタリウスが投げつけたのだ。
ディーは短い悲鳴を上げてつっ伏した。その上を生首がかなりの勢いで通過し、気絶こそしていないものの自失状態にある女王が立ち竦《すく》んでいる玉座の前に落下する。
その間に、本体は炎の中から抜け出していた。
前後左右どの方向でもない。奴が逃れたのは、上だった。炎の舌先が届かぬシャンデリアの中心に、黒|焦《こ》げのそいつが四肢を絡《から》みつかせて張り付いていた。
凄い跳躍力だった。床からシャンデリアまで、垂直に五メートル以上もその肉体を跳ね上げたのだ。
炎の渦が、瞬時に消失した。魔法の炎は呪文効果の持続時間が切れると同時に跡形もなく消え去る。
衛士たちはこの炎が視覚に与えたショックによってパニックから脱していたが、半ば炭のようなそれがシャンデリアにぶら下がって蠢《うごめ》いているのを、未だに声もなく見上げている。
それが身動《みじろ》ぎする度《たび》に、炭化した表皮がぼろぼろと剥《は》がれ落ちる。まるで漆黒の翅《はね》を持つ巨大な蛾がそこで鱗粉を撒《ま》き散らしているかのようだ。
低い詠唱が、いつの間にか始まっていた。
僧侶呪文特有の韻律を踏んだ、太く唸るような詠唱だ。
ザザの印を結んだ両手が、胸の前で複雑な軌跡を滑《なめ》らかに描く。その右腕が奴に向かって突き上げられた瞬間に、唐突に詠唱が終わった。
同時に、もはや人型にも見えぬそれが雷に撃たれたかのように激しく痙攣《けいれん》した。
僧侶系第五レベルの攻撃呪文・大減《バディアルマ》を唱えたようだった。見かけは地味だが、相手の生命力の流れを逆転させて大幅に体力を奪う強力な呪文だ。ただし効果範囲が極めて小さく、単体にしか影響を及ぼさないという欠点を持つ。ザザが以前一度だけ使用した際に、そんな話を聞かされた覚えがある。
二、三度|微《かす》かに身震いすると、それは耐えきれずシャンデリアから離れ、背中から床に落下した。
濡れた雑巾《ぞうきん》を叩きつけたような音が響いた。炭化した細胞が黒煙のように舞い上がり、それの姿を包み隠す。
数秒後に粉塵が薄れた時には、それはもう動いてはいなかった。猛炎《ラハリト》と大減《バディアルマ》の洗礼を受け、さしもの化物もどうやら絶命したらしい。
静寂が訪れた。
俺は焼け焦《こ》げた屍《しかばね》にゆっくりと近づいた。
熱で縮んだのか、もともと小さなノームの肉体がさらに矮小《わいしょう》になっていた。衣服は完全に燃え尽き、ほとんど全身の皮膚を焼き焦がされたそれは、あちこちから生焼けの白く崩れた肉を覗かせている。指などは骨まで炭化したらしく、手足はただの棒のようだ。
この状態で、ザザの大減《バディアルマ》を受けるまで生命活動が停止しなかったこと自体驚きだった。邪悪な魔力により擬似生命を得た屍――不死怪物《アンデッドモンスター》たったとしても、これだけの火勢で焙《あぶ》られれば邪気を断ち切られるものだ。
それにアルタリウスの、あの異様な精気を孕《はら》んだ眼と、サーベルに向かって突進した際の瞬発力は、断じて操られた屍の持ち得るものではなかった。
死体の前まできた俺は、しゃがんでそれを調べようとした。アルタリウスを模したこの生物の正体を確かめたかったのだ。
だが、俺はその動作を途中で止めた。
こいつはアルタリウスに化けていたのではない。確かに、本物のアルタリウスだったのだ。それが操られていたとなると――
遅まきながら、屍から発散する強烈な殺気に俺は気づいた。すぐさま、あらん限りのバネを生かして後方に跳び退《すさ》る。
その瞬間、死体の腹がぱくりと割れた。そこから俺を追うように、滑《ぬめ》りを持った緑色の鞭《むち》のようなものが繰り出される。
鞭《むち》の先端には、長い四本の指があった。
「ちいっ」
俺は自分の迂闊《うかつ》さに舌打ちした。死んだように見えたとは言え、手の内の読めぬ魔物に無警戒に接近し過ぎた。
俺が後退する適度より速く、緑の触手が顔面目がけて伸びてくる。
体勢を立て直している暇はなかった。無理な姿勢から、俺は思い切り右脚を振り上げた。
ブーツの爪先が迫ってくる触手を捉え、蹴り上げる。化物の腕が上方に逸《そ》れ、俺はバランスを崩して後ろに倒れ込んだ。が、その勢いを殺さずに後転し、間髪を入れずに立ち上がる。
死体の腹に開いた穴から緑の触手に続いて、ぷくり、と鮮やかなピンク色をした肉腫《にくしゅ》が盛り上がり始めていた。へらへらと揺れる触手は、その肉腫から生え出ているのが見てとれる。
肉腫は見る間に膨《ふく》れ上がり、屍《しかばね》の内側から溢《あふ》れ出てくる。それはあたかも、焼け爛《ただ》れた肉体が再生していくかのような光景だった。
肉腫の内部からもう一本、粘液に塗《まみ》れた触手が飛び出してきた。
天に向かって突き出した一対の触手は、ぐねりと曲がるとアルタリウスのものだった胴体――つまり肉腫の覗く穴の周囲に掌《てのひら》に当たる部分を置いた。そして触手に力を込め、本体である肉腫を仮の姿であったアルタリウスの躰《からだ》から引きずり出そうとする。
緑の腕を生やしたピンクの肉腫が身をよじる度《たび》に、ずるり、ずるりとそいつが外に這い出してくるのだ。
その姿を、何と表現したらいいのだろう。
一番近いと思われるのは、生物を袋に見立てて裏返した状態だろうか。内臓の内側の粘膜や剥《む》き出しの肉壁を連想させる、思わず吐き気の込み上げてくるような外見の表皮に全身を包まれているのだ。
しかし俺が知っているどんな生物とも、そいつは似てはいなかった。生物と呼ぶにはあまりにも、そいつは歪《いびつ》で、禍々《まがまが》し過ぎた。
ディーは床に伏したまま、起き上がるのも忘れて惚《ほう》けたようにこの怪物を見つめていた。ザザですら、血の気の引いた顔から表情が消えている。
化物には慣れっこの筈の熟達者《マスター》≠ウえも平静を保てぬほど、そいつの異常さは人の理性を蝕《むしば》むのだ。
そいつが、全身を震わせて哭《な》いた。ガラス板を鋭い刃先で擦《こす》る音に似た、背筋に悪寒を疾《はし》らせる哭き声だった。
妖獣、という呼び名が最も相応《ふさわ》しいと、俺はその時思った。
そうするうちにも、そいつは今にも弾けそうに巨大に膨《ふく》れ続けている。すでにそれが潜り込んでいたアルタリウスの躰《からだ》と同じか、それ以上の大きさにまで成長していた。明らかに、この妖獣は驚異的なスピードで肉体を増殖させ、呪文によるダメージから回復しつつあるのだ。
殺《や》るなら今だと、心の中で冷静な自分が叫んでいた。
たとえるなら、今の奴は無防備な脱皮の最中だった。アルタリウスの躰《からだ》が邪魔で、思うように身動きが取れない状態なのだ。猛炎《ラハリト》と大減《バディアルマ》によるダメージも、まだかなり残っている筈だった。
他に攻撃に移れそうな者はホール内にはいなかった。ディーやザザも呪文効果を呼び起こすための精神集中を即座に行えるほど、動揺から立ち直ってはいないだろう。
俺は床を蹴った。そして、妖獣を回りこむように走り出す。
それに呼応して妖獣の触手がふらりと持ち上がり、俺の動きを追い始める。その様子を見る限り、この化物の知覚能力は極めて高い。
妖獣の周囲を駆けながら、俺は策を考えていた。
見かけからは想像もできないほど、こいつの動きは速い。
鞭《むち》のようにしなる触手は、腕としての機能を持ちながらも伸縮自在だ。下手《へた》に間合いに入ると、先刻の二の舞になるのは見えている。
充分加速すれば触手の二本ぐらい躱《かわ》し切ることもできるが、生憎《あいにく》床は磨き抜かれた大理石で、その上には炭化したノームの皮膚が大量に飛び散っている。全力疾走すれば間違いなく足を取られるだろう。
しかも戦闘が長引けば長引くほど、凄まじい回復能力を持つこの妖獣相手には不利になる。一撃で斃《たお》すつもりで攻撃を仕掛けなければならなかった。
俺は賭けに出た。
スピードを落とし、妖獣に向かって向きを変える。
距離は十メートル強。そして奴の触手の長さは最大二メートル。
頭の中で自分の動きをもう一度組み立てる。その間も、実際の肉体の動きは止まってはいない。
俺は突進を開始した。
一歩ごとにスピードが増していく。その一歩一歩を、俺は祈るような気持ちで踏み出していた。もし滑《すべ》ろうものなら賭けは俺の負け、悪ければこのおぞましい肉腫《にくしゅ》の親玉の餌食《えじき》になってしまうのだ。
柔らかい革を重ね、足音を立てぬように工夫した特注ブーツの底は、今までのところしっかりと大理石の床を捉え続けてくれていた。
正面では、馬鹿正直に突っ込んでくる獲物を捕らえるべく、二本の触手が緑の指を開いて掴《つか》みかからんばかりに待ち構えている。俺の計算が少しでも狂えば、この優秀な触手は容赦なく俺の喉頭《のどくび》に巻きつくことだろう。
残り四メートルで、俺は足を滑らせた。
上体が泳ぎ、つんのめるように倒れ込む。
俺の頭部が、触手の二メートル圏内に入りかける。
妖獣は待ちかねたように触手を一杯に伸ばしてきた。あと十分の一秒と待たずに、この元気の良い獲物は腕の中に飛び込んでくる――。
奴がそう思っていたなら、さぞかし残念だっただろう。
ここまでが、すべて俺の計算通りなのだ。
倒れざま、俺は両手で床を弾き、宙に舞った。
触手が慌てて俺の動きを追う。だが、伸び切った触手は一度縮めなければ自在には動かせない。跳ね上がった俺の躰《からだ》に、触手は完全に遅れを取った。
俺は宙で前方回転しながら、思い切り反《そ》り返っていた。全身の筋肉を撓《たわ》め、来たるべき瞬間に一気に力を爆発させるためにだ。
妖獣は視界に入っていなかったが、俺には自分との相対位置が手に取るように判っている。
溜めた力を解放する時が、近づいてきた。
瞬間。
全身をバネにして、俺は右手の手刀を振り下ろした。
視界をピンク色の魔物が過《す》ぎる。
大気を切り裂く手応えがあった。
空中でさらにもう一回転し、俺は妖獣を飛び越えて着地した。
背後で、妖獣の殺気が途絶えた。
振り向くと、妖獣は今まさに頽《くずお》れようとしているところだった。
肉腫《にくしゅ》状の本体に縦に亀裂が疾《はし》っていた。そこから膿《うみ》色の体液が、ぐじぐじととめどなく溢《あふ》れ出している。
べしゃ、と湿った昔を立てて、そいつは大理石の上に転がった。
生物ならば必ずある生命力の流れ。その集点となる幾つかの部位を俺たち忍者は死点≠ニ呼んでいる。ここを的確に打てば、素手の子供ですら大人を殺せる必殺の急所だ。
妖獣のその一点を、俺は手刀の巻き起こす真空の波動で切り裂いたのだ。
賭けは、俺の勝ちだった。
気を抜いたその時、ベイキ女王の悲鳴が響き渡った。
俺の右手の指先から血が噴き出した。
痺《しび》れたような鈍い痛みが、右腕全体を包んでいる。痛覚神経が麻痺しかけているのだ。
無理もなかった。この腕でたった今、一種の真空状態を造り出したのだ。回転半径が最も大きい指先は、腕間的には音の伝わる速さを超えることになる。
空気を切り裂くだけのスピードと力を捻《ひね》り出す際に腕の筋肉にかかる負担は、常人の限界を遥かに超える。というより、真空波を生じさせるほどの瞬発力を必要とする動作は、忍者という職業《クラス》独特の、過酷な肉体改造の末に造り上げられた筋肉だからこそ可能な芸当だ。俺にしたところで熟達者《マスター》≠ニ認められて初めて、それも武器の重さのない素手のスピードでようやくこの技が成功するようになった。
しかし、確実性は低い。大気が安定した状態で、全身の筋力をすべて腕の振りに集中させることができなければ、真空は発生しない。
また、成功してもその代償は俺の肉体に跳ね返ってくる。鍛え抜いた腕の筋肉はともかく、通常は考えられぬ音速を超える動作の負担に、末端の毛細血管や神経|繊維《せんい》が耐えきれないのだ。微細な血管は遠心力による血庄の局部的な上昇によって破裂し、神経は筋肉の激しい収縮で瞬時に疲弊《ひへい》することになる。
真空波で妖獣の息の根を止めたものの、現在俺の右腕は死んだも同然の状態だった。僧侶の強力な治療呪文で回復させなければ、もはや一撃も繰り出せないほどの反動がきている。本来なら、すぐにでもザザに呪文をかけてもらう必要があった。
だが、俺にもザザにもそんな余裕はなかった。
ベイキ女王が玉座に追い詰められているのだ。
闇色の瞳は恐怖で見開かれ、左右に逃げ場を探す余裕もなく正面を凝視している。悲鳴を発した瞬間の形を保った唇は、真冬の外気に晒《さら》され続けたかのように蒼白い。
女王の前に、近衛《このえ》隊の隊長が立ちはだかっていた。女王に対する俺の口のききかたを咎《とが》めた、あの厳格そうな髭《ひげ》をたくわえた男だ。片手に抜身のサーベルが鈍い光を放っている。
だが、この男が何者かから女王を護《まも》っているのではなかった。
衛士長は女王と向き合っていた。そして、ゆっくりと玉座に近づいていく。
その頭部に、血の色をした肉腫《にくしゅ》が張り付いていた。
衛士長の頭をすっぽりと覆った肉腫が、不気味な蠢動《しゅんどう》を繰り返す度《たび》に少しずつ膨《ふく》れ、形を整えていく。
あの、妖獣の姿にだ。
衛士長の後頭部に当たる部分の肉腫が弾けた。そこからゼリー状になった血液らしいものがどろりと流れ出し、血|塗《まみ》れになった緑色の球体が姿を現す。
それは肉腫の中から盛り上がると、ぎろりと室内を見回した。
眼だった。
俺の知るどんな生物の眼とも似てはいなかったが、それが俺たちの姿を視覚で捉えていると判る。何故ならそれはアルタリウスの、あの異様な眼と同じ妖気を放っているのだ。
玉座から少し離れたところに、焼け焦《こ》げたアルタリウスの頭が転がっていた。が、それは真っ二つに割れ、内部はくり貫《ぬ》いたように空洞になっている。
そこから、ぬめぬめと光る粘液質の跡が大理石の床の上に続いていた。アルタリウスの頭の内部に潜んでいたものが這い出した跡だ。
あの妖獣は、自ら頭部を引き千切った際に分裂していたのだ。そして俺たちが胴体に潜んだ奴に気を取られている隙《すき》に、そいつは労せずして衛士長に取り憑《つ》いたのだ。
アルタリウスの躰《からだ》に一滴の血も残っていなかったわけも判った。この化物は生物の血液を取り込んで急速に変質させ、自分自身の細胞に造り変えてしまうのだ。衛士長に張り付いた肉腫《にくしゅ》が血の色をしているのは、この男の中にまだ大量に残っている血液を盛大に吸い出し、増殖している最中だからだった。
アルタリウスの場合は内部からこの妖獣にあらかた同化され尽くし、半ば抜け殻《がら》のような状態だったのだろう。ノームの皮を被《かぶ》った化物が、デスマスクの内側からあの緑の眼球で俺たちを覗いていたのだ。
衛士長の後頭部に生えた眼球は、俺の姿に目を留めたようだった。
「ジ……、ジヴラ、シア、だな」
背を向けたまま、衛士長がたどたどしく言った。肉腫はすでに脳内の神経系を冒しているらしく、この男はもはや妖獣の操り人形と化していた。
「よく、も仲間、を殺《や》った、な。ばば、罰だ……おまえの、私の、女王を、代わりの仲、間にして、くれる、ぞ……」
言いながら、なおも一歩、一歩と衛士長はベイキ女王に迫っていく。
止めようにも、ザザやディーの呪文を使うにはすでに女王に接近し過ぎている。猛炎《ラハリト》のような中規模攻撃呪文では確実に女王も効果範囲に巻き込んでしまうだろうし、単体攻撃呪文も女王に当たる危険が大きい。
俺も、咄嗟《とっさ》には動けなかった。今の一撃で右腕は使い物にならなくなり、全身の筋肉も軽い弛緩《しかん》状態にあるのだ。もう一匹いると考えずに真空波を使った俺のミスだ。
緑の眼球が、身動きできない俺たちを嘲《あざ》笑うように歪《ゆが》んだ。ふらりと、しかし確実な殺意を持って、サーベルが女王に向かって振り上げられた。
「逃げ――」
俺が叫ぼうとした時、鋭く光るものが空気を裂いて後方から視界に入ってきた。
次の瞬間、それは吸い込まれるように肉腫《にくしゅ》の眼球に深く突き立った。
柄に精緻《せいち》な象牙細工を施《ほどこ》された短刀が、衛士長の後頭部に刃の付け根まで埋まっていた。
「JUUAAAアアァァァ――」
言葉にならない絶叫とともに、衛士長はサーベルを取り落として仰《の》け反《ぞ》った。
短刀は死点に当たってはいなかった。妖獣はすぐに回復するだろう。
チャンスは、この一瞬。
俺は死力を振り絞って、緩《ゆる》む筋肉を奮い立たせた。そして、疾《はし》った。
通常の七割程度の力しかこもらない肉体がもどかしい。だが、スピードは乗っていた。のたうつ衛士長の横をすり抜け、俺は瞬時に玉座に達した。
怯《おび》えて竦《すく》むベイキ女王を左腕で抱え、俺は玉座の横方向に跳躍しながら叫んだ。
「ディー、爆炎《ティルトウェイト》だ! こいつは生焼けじゃくたばらねえ!」
そのまま俺は壁際まで疾走した。この呪文の効果範囲は猛炎《ラハリト》よりも遥かに広い。巻き込まれては華奢《きゃしゃ》な女王ばかりか俺の命も危《あや》うい。
壁にタペストリーごと蹴りを入れるようにして勢いを殺し、俺は女王を抱えたまま振り返った。
衛士長が起き上がろうとする姿が見えた。顔面は肉腫がべったりと張り付き、眼窩《がんか》や鼻孔《びこう》、耳《じ》孔から内部に潜り込んでいる。まだ子供に等しい女王が恐怖に呑《の》まれたのも無理からぬおぞましさだった。
視界の隅で、ディーが構えを取っていた。両腕を胸の前で交差させ、指で複雑な印を結んでいるのが見てとれる。
ディーの方向から突風が吹きつけ、ベイキ女王の長い髪をなぶった。呪文が呼び起こされる直前に放射される魔法風だ。
風を感じたのとほぼ同時に閃光が衛士長を包み込む。それが一瞬にして膨《ふく》れ上がり、爆発する。
衛士長を中心に、直径十数メートルの円形の超高熱火炎が発生した。炎の壁が噴き上がり、先刻の猛炎《ラハリト》が子供の焚火《たきび》に思えてくるほどの熱波が激しく肌を打つ。
何者をも灼《や》き尽くす異界の炎。魔術師系最高位の第七レベルに属する、現在知られている魔法の中では最大の破壊力を秘めた広範囲攻撃呪文・爆炎《ティルトウェイト》だった。
猛炎《ラハリト》などの火炎系の呪文が敵を外部から燃焼させて破壊していくのに対し、この爆炎《ティルトウェイト》は爆発の衝撃波で相手を粉砕し、一千度を超える超高熱火炎で一気に灼き尽くす。呪文の無効化能力か、熱に対する高い耐性でも持っていない限り、並の生物がまともにこの炎を浴びれば一瞬にして炭化してしまうだろう。
炎の壁が持続する数秒の間、俺はあの妖獣が脱出する事態を警戒して燃え盛る火炎の海を睨《にら》んでいた。女王は俺に横抱きにされたまま、惚《ほう》けたように炎が躍る様《さま》を見つめている。
炎の壁が次第に低くなり、加速的に火勢を失っていく。そして唐突に魔法の炎は消え失せた。
高熱に焙《あぶ》られて円形に変色した床の中央に、ほとんど灰と化した衛士長の屍《しかばね》が転がっていた。胴体はまだ形を保ってはいるが、風が吹いただけで崩れそうなほど徹底して炭化していた。恐ろしいまでの爆炎《ティルトウェイト》の威力だ。
周囲も酷い有り様だった。爆炎《ティルトウェイト》の効果範囲内に完全に入っていた玉座は無惨に割れ砕け、それが人の座する場所であったことすら判らない。玉座の後方の壁にも炎が達し、高価なタペストリーの数々が焼け焦《こ》げてしまっていた。だが、それでも、聖王家の最後の血筋を護《まも》るためには安い代償だろう。
炭化しきった屍には、もはや生命の痕跡は見られなかった。いや、少なくともその時は誰もがそう考えていた。
「ははっ。あまり人を舐めるんじゃ――」
自分を鼓舞するようにディーが口を開いたその時、小さな哭《な》き声が聴こえたような気がした。
ディーがそこで言葉を途切れさせたことで、その場にいた全員が、それが自分だけの空耳ではないと知った。
今度ははっきりと、あのガラスを掻《か》くような哭き声が静まり返ったホール内に響いた。それも、屍《しかばね》の胴体の中からだ。
「まさか、まだ――」
震える声で言いかけたディーが、再び絶句した。屍の腹部の表皮がぼろぼろと崩れ始めたのだ。
俺の腕の中で王女が失神した。むしろ今まで良く持ったと褒めてやりたいところだ。こんな怪物の相手は十七歳の小娘には荷がかち過ぎる。
ぎちっ、という歯を噛《か》み合わせるような音とともに、死体の腹が割れた。そして、人の握り拳大のピンク色の肉腫《にくしゅ》が、腹を突き破って宙に一メートルほど跳ね上がった。
信じ難い生命力だった。爆炎《ティルトウェイト》に包まれた瞬間に、肉体の一部を分裂させて口から衛士長の内臓に潜り込ませたのだ。
だが、跳躍が頂点に適した瞬間、肉腫は大きく弾かれた。そしてそのまま床の上に落下し、潰れて広がるとそれはもうぴくりとも動かなくなった。
見ると、ザザがいつもの笑みを取り戻していた。
ザザの大減《バディアルマ》が、今度こそ完全に妖獣を絶命させたのだった。
「……殺《や》っ、たか……?」
絞り出すようなか細い声が、息も絶《た》え絶《だ》えにホールの扉付近から聞こえてきた。
一斉に視線を向けた俺たちの目に、扉にもたれるようにして辛《かろ》うじて立っている血|塗《まみ》れの男の姿が映った。
全身を包む銀色の鎧は血がこびりつき、何か凄まじい圧力を受けたのか酷くひしゃげて中の肉体を圧迫しているようだった。その鎧を外すためには徹底的に分解しながら剥《は》ぎ取っていくしか方法がなさそうなほどで、場所によっては一体どのようにしたら装甲板にこんな穴が開くのかと目を疑いたくなるような損傷が見られる。そして今もその穴から血がどくどくと溢《あふ》れ出しているのだ。
女のように美しい貌《かお》はやつれ、頬には呪文で治癒《ちゆ》しかけてはいるものの、明らかに鋭利な爪で切り裂かれたらしい数本の傷が走っていた。肩まで伸ばした金髪は血と汗で見る影もなく縺《もつ》れている。
まるでホールに入ってきた時のアルタリウスを思わせる姿だったが、眼が違っていた。疲労と苦痛を滲《にじ》ませながらも、男の双眸には怒りと復讐の炎が暗く燃えている。
「マイノス!」
ディーが叫ぶ。名を呼ばれた安心感からか、マイノスは力尽きてその場に頽《くずお》れた。
俺は腰を抜かしていない衛士のひとりを呼びつけて気を失ったままのベイキ女王を託すと、ディーとザザに続いてマイノスのもとに駆け寄った。
仰向けに床に寝かされながら、マイノスは焦点の合わぬ瞳で俺たちを見回していた。倒れた際に一度軽く気を失ってから、すぐに目を覚ましたらしい。
近くで見ると、この男がどれほど深い傷を負っているのかがはっきりと判った。全身に打撲と裂傷が刻まれ、見る間にも床に血溜りが広がっていく。籠手《こて》の潰れかたから見て、右|掌《て》は骨までぐずぐずに砕かれているようだった。意識があるのが不思議なほどの激痛に苛《さいな》まれていることだろう。
女王の命を救ったあの短刀を投げたのは、マイノスだった。この状態でよくも、あれだけ威力のこもった短刀を正確に投げてのけたものだ。
俺に見つめられているのに気づいて、マイノスの目が急速に焦点を取り戻した。慌てて上体を起こそうとするが、激痛が疾《はし》ったらしく苦しげに呻《うめ》く。
「動かないで。生きているのが不思議なほどの重傷ですよ」
ザザが片膝をつき、細心の注意を払ってマイノスの躰《からだ》を調べていた。
「何故これだけの傷を放っておくんです。ロードのあなたが?」
「……治療、呪文は……すべて使い、切った……」
言ってマイノスは咳《せ》き込んだ。口元からわずかに鮮血が溢《あふ》れる。
「訊《き》きてえことだらけだが、傷の治療が先決だな」
俺はザザに言った。「さっきの借りがある。快癒《マディ》をかけてやってくれ」
快癒《マディ》とは僧侶系第六レベルの呪文で、体内の毒素を消し去るばかりか麻痺石化症状をも癒《いや》し、損傷した肉体をも瞬時に全快させる奇跡的な治療回復効果を持っている。この呪文さえかけておけばマイノスの生命の心配はないだろう。
「はい。ただし腕の良い鍛冶《かじ》屋も必要ですね。このまま呪文をかけても鎧が傷に食い込みそうです。鎧を壊さなければ――」
「俺のことはいい!」
突然マイノスが叫び、ごふっと大量に血を吐いた。が、無理にでも喋《しゃべ》り続けようとする。
「おい、喋るな。すぐに助けてやる」
「エ、レイ……」
掠《かす》れた呻《うめ》きが、しゃがみかけた俺の耳に飛び込んできた。
「何だと?」
「エレインだ……あいつは、どこだ――」
再び焦点を失いかけたマイノスの瞳に、烈火の如き怒りの色が浮かんだ。「あいつ、も……アルタリウスと同じ……化物だ。斃《たお》、せ! もうエレインじゃ、ない――」
すでに俺は立ち上がっていた。
もっと早く気づくべきだった。エレインとアルタリウスはふたりで戻ってきたのだ。
あの底なしの耐久力と運動性、そして分裂増殖能力まで兼ね備えた妖獣を相手に勝つことができたのは、ここが遮蔽《しゃへい》物のほとんど存在しない開けたホールだったからだ。だからこそ俺は真空彼を繰り出すことが可能だったし、強力な攻撃呪文も容易に狙いがつけられたのだ。
しかし、これがもっと妖獣が隠れやすい場所だったとしたら――例えば|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》のように、部屋が多く入り組んだ造りの建物の内部だとしたら――。
「ザザ、マイノスについてろ。ディーは馬で来い」
叫んでホールを飛び出そうとした俺の左腕をザザが掴《つか》んだ。
「この腕一本でどうしようと言うんです。あなたにも快癒《マディ》が必要でしょう」
「時間が惜しい」
「なら転移《マロール》で跳ぶわよ。ここからの正確な座標を割り出すのに一分、その間に癒《いや》しておいて」
そう言ってディーが瞑想を始めた。王宮から宿までの方角と距離を測っているのだ。
快癒《マディ》の効果が俺の肉体に活力を注ぎ込むのを感じながら、俺の気は急いていた。|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》に向かったエレイン――妖獣の狙いはひとつしか考えられない。
それは、残っている冒険者たちの一掃だった。
俺とディーは|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》の中庭に実体化した。
転移《マロール》の呪文によって、王宮のホールから直線距離にして約一キロメートルを瞬時に移動したのだ。この呪文の効力が及ぶほぼ最長距離を跳躍したことになる。
肉体の実体化に伴い、五感が急速に回復する。一度暗黒に染まった視覚はどんよりとした昼下がりの光を捉え、足下からはブーツの底を通じて短く刈られた下生えの感触が伝わってくる。
俺たちは、|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》から見て厩舎《きゅうしゃ》の影になる位置に立っていた。宿の中にいるものに気取《けど》られぬために、ここに実体化するようディーに指示したのだ。
五感の混乱から立ち直るや否や、俺たちは厩舎《きゅうしゃ》の壁に張り付くように身を潜めた。ディーを制し、俺は姿を見られぬように建物を窺《うかが》った。
|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》は、静寂に包まれていた。
中庭に植えられた木々から鳥のさえずりが聴こえてくる。厩舎の中からは馬のいななきが漏れてきた。先刻の妖獣との死闘が幻だったかに思える穏やかさだ。
宿の入口や窓に人影がないのを確認し、俺は厩舎の影に身を戻した。
「静かね。何か聴こえた?」
ディーが顔を寄せて囁《ささや》いた。俺の聴力はこのエルフも良く知っている。
「いや」
快癒《マディ》の呪文で回復した右腕の調子を確かめながら俺は応《こた》えた。「静か過ぎるぜ。まるで誰もいねえみたいだ」
「王宮に召喚された時には全員いたわよね。連絡待ちの間カードでもしてるって言ってたけど」
残留組の冒険者は、捜索に出た三パーティの悪の連中だ。僧侶が三人に戦士がふたり、魔術師とビショップがひとりずつの合計七人。それに宿の人間を加えると十人以上がこの建物の中にいた筈だ。
「みんな出払ってるってことは?」
「あり得ねえ。奴ら博打《ばくち》を始めたら五、六時間はぶっ通しだ。それに――」
俺は珍しく緊張した面持ちのディーを見やった。「気配はありやがる。なあ、連中が息を殺してカードをしてると思うか」
「それじゃあ――」
その後の言葉を、俺は頭の中で続けた。手遅れかも知れない、と。
あの化物は人の躰《からだ》に同化し、殖《ふ》える。いずれも熟達者《マスター》≠ニ呼ばれる連中と言えど、エレインになりすました妖獣に奇襲を受けたとすれば為《な》す術《すべ》はあるまい。
「どうするつもり」
「忍び込む。連中が無事なら連れ出す」
「宿の中に? あたしは御免よ」
言って、ディーは眉を寄せた。「独りで行く気なの?」
「そのつもりだ」
俺は懐から装束と同色の布を取り出し、顔の下半分を覆った。「宿の中で下手な呪文は使えねえだろ。自殺行為だ」
王宮のホールと異なり、この建物の内部には魔法を使うだけのスペースがない。食堂ならともかく、迷宮の回廊より遥かに狭い廊下で爆炎《ティルトウェイト》でも唱える羽目になったら、炎が溢《あふ》れて術者自身を灼《や》き尽くす恐れがあるのだ。館に侵入するつもりなら、ディーは戦力として度外視しなくてはならなかった。
「あんたこそ自殺行為よ! あの化物が相手なのよ」
高くなりかけた声を必死に抑えながらディーは続けた。「それにこの様子じゃあ、エレインはもうことを起こしてるってことでしょう。だったら衛士隊が駆けつけるまで待てば――」
「交戦中かも知れねえ。息を潜めてな。それにあんな化物が襲ってきたからこそ、訓練を積んだ冒険者がひとりでも多く生き残ちなきゃならねえんだ。怪物を見たこともねえような素人戦士が何人来ようと役には立たぬえよ」
「――」
ディーは言葉に詰まった。選《え》り抜きの衛士である筈の女王の近衛《このえ》兵たちの醜態を考えると、並の兵士があの怪物を前に期待通りの働きができるかは疑問だった。
「――判ったわ。それで、あたしは何をすればいいのさ」
渋りながらもディーは頭を切り替えた。この辺りの思考の明快さはさすが魔術師といったところだ。今は議論を交わす時ではないのだ。
「俺が中に入ったら建物を回りこんで裏庭に行け。あそこには燃料入りの樽が幾つかあった筈だ」
「あるわ」
「俺の合図があるか、三百秒数え終わったらあれをぶちまけて宿ごと燃やせ。あと一回は爆炎《ティルトウェイト》の呪文が使えるだろう」
「呪文で着火しろっていうの?」
驚きを隠さずにディーが言った。「油の相乗効果で凄い火勢になるわ。この程度の建物ならあっという間に火に包まれるわよ」
「好都合だ。奴は耐久力はあるが、炎に強いってわけじゃなさそうだからな。今日は風がねえから延焼の心配もねえ」
「……ジヴ」
「何だ」
この美しいエルフは、二十センチばかり高い位置にある俺の目を真っ直《す》ぐに見上げていた。
「三百数える前に、絶対に逃げなよ。でなきゃ死ぬよ」
感情を殺した声音だったが、俺を気|遣《づか》っているのが判る。戒律は悪《イビル》でも、仲間を危険に晒《さら》して喜ぶ者はいないものだ。
「へっ。俺が死ぬかよ」
「……」
不意に沈黙し、そしてディーは微笑んだ。
「余計なお世話だったわね。着火は任せて頂戴《ちょうだい》」
「頼んだぜ。数え間違うなよ」
言うなり、俺は厩舎《きゅうしゃ》の影から飛び出した。そのまま一息に開け放たれた玄関に駆け込む。背後で、ディーが裏手に回る気配がした。
俺は頭の中でカウントを刻み始めた。
ロビーには、何者の姿も認められなかった。左右に伸びる廊下を見渡し、妖獣が謁見《えっけん》の間のシャンデリアにぶら下がった光景を思い出して天井も見上げたが、異状はどこにも見られない。
だがこの建物のどこかから、圧《お》し殺しながらも強烈な気配が発散されているのが肌に感じ取れる。明らかに、それは殺気だった。
この殺気があの妖獣のものか、それとも居残りの誰かのものかは判らなかったが、すでに楽しくカードに興じていられる状況ではないということははっきりしている。
何人が残ってくれているか。
七人のうち、ドワーフのベインと人間のアーカムのふたりは戦士だ。呪文が当てにならない以上このふたりが食い止めているのを期待するしかない。しかし、確かにどちらも頼りになるタフな闘士だが、いきなり襲われたとしたら武装を固める暇などないだろう。武器の重さを攻撃に活《い》かす戦士が、素手でどこまで戦えるものか。
俺は殺気の元を探ろうとしたが、抑えた気配のせいか位置が掴《つか》めない。こんな時気配を自在に読む侍のハイランスがいてくれたらと、もどかしさがこみあげてくる。
連中が博打《ばくち》を打つのはいつも食堂だ。とりあえず俺は足音を立てぬようそちらへ走った。
広い食堂にも人影はなかった。ただ、テーブルの上にはカードが散らばり、まだ湯気の立つ茶のカップが置かれている。つい先ほどまで、連中はここにいたのだ。
食堂内を素早く一周するが、それ以上の痕跡は見られない。椅子も倒れてはおらず、慌ててこの場から移動したのではないようだ。
カウントは六十。約一分間がすでに経過した。
俺は食堂を後にした。
ロビーに駆け戻った瞬間、凄まじい気合いが館内の空気を震わせた。
それに続いて、何か重いものを水気を含んだ柔らかい物体に叩きつけたような鈍い音が響いた。
二階からだった。考えるより先に、俺の躰《からだ》は階段を跳ね上がっていた。
今のが何の音かは明白だった。気合いはベインのもの、そしてあの濡れた音を立てたのは、粘液質の体液を全身に滲《にじ》ませた肉腫《にくしゅ》の化物に違いなかった。
音はディーの使っているロイヤルスイートの方角からだ。もはや抑制せずに発散するに任せた激しい殺気も、そちらが戦場であることを示している。
一秒半で階段を昇りきり、その勢いを殺さずに廊下を疾《はし》り始めたその時、ベインのくぐもった絶叫が響き渡った。
同じ響きを持つ叫びを、俺は幾度となく耳にしたことがある。それは生物が断末魔にのみあげることができる、死の運命への呪詛《じゅそ》の咆哮《ほうこう》だった。
「ちいいっ」
知らず、俺は叫んでいた。
もはや足音も気にせずに、廊下を疾駆する。
この館は、中庭を囲むように建物の両翼が迫《せ》り出した造りになっている。廊下は中ほどで直角に曲がり、ロイヤルスイートのある突き当たりに向かう。
そこに辿り着き、減速して向きを変えた俺の視界には、王宮での戦いすら比べものにならぬおぞましい光景が展開していた。
七人全員が、そこにいた。だが、誰ひとりとして生きている者はなかった。
全員が、廊下のそこここに倒れていた。そしてその屍《しかばね》のどれにも、分裂した肉腫が張り付いているのだ。
ロイヤルスイートの扉にもたれるように絶命しているベインは、まだ分裂直後の小さな肉腫が口腔に潜り込もうとしているに過ぎない。しかし、他の六人はもはや躰《からだ》の半分近い大きさの妖獣に取り憑かれ、増殖のための苗床と化していた。僧侶のブライスは、すでに原形すら留めぬほど喰い尽くされている。
ベインの屍《しかばね》の少し手前に、一際大きな妖獣が直立していた。俺が斃《たお》した奴よりもさらにでかく、ひょろりと立った姿は人間かエルフを丸々呑《の》み込んだかのようだ。
そいつには緑の触手の他にもう一本、ピンクの肉がそのまま盛り上がったような太く長い管が生えている。そこがこの化物の頭部に当たるとするなら、この管は口なのかも知れない。恐らくはこの姿が、肉腫《にくしゅ》が完全に成長した状態なのだろう。
二本の触手はベインの両腕を捉え、伸びた口は防具を着けていない無防備なドワーフの腹部に潜り込んでいる。この戦士がどのように絶命したのかが、俺にも判った。
そいつの触手の付け根の少し下に、幅広の長剣がめり込んでいた。ベインが裂帛《れっぱく》の気合いとともに叩きつけたものだ。
それが見る間に押し返され、弾き出される。ごとり、と重い音を立てて段平《だんびら》は床に転がった。
ベインがいつも使っている武器ではなかった。奴は|邪悪の斧《アンホーリーアックス》と呼ばれる重戦斧を好んで使用していた。扱うには卓抜した腕力を必要とするが、使いこなせれば鉄を飴《あめ》のように切り裂く魔法の武器だ。
もしその戦斧だったら、ベインは少なくともこの妖獣だけは斃《たお》すことができたかも知れない。が、抜け目のないドワーフも宿でまで武装しているわけではなかった。
長さ十五メートルばかりの廊下に、大小八体もの妖獣が蠢《うごめ》いていた。そしてそれまで音もなく冒険者たちの血肉を啜《すす》っていたそれらは、俺に気づいたのか一斉に哭《な》き始めた。
手遅れだった。連中は巧妙におびき出され、一掃されたのだ。
じゅうう、と母体であろう巨大な妖獣が湿った哭き声をあげた。俺にはそれが、遅過ぎた警告者に対する嘲《あざけ》りのように聞こえた。
そいつはベインの屍《しかばね》を放すと、身をよじってこちらを向いた。
不覚にも、俺は呻《うめ》いてしまった。
管状の口のすぐ上に、身の毛のよだつものがあった。
顔だ。エレインのデスマスクが、あたかもそれがこの化物の顔であるかのように肉腫《にくしゅ》と融合していた。
何より不気味なのは、その双眸だった。かっと見開いた眼窩《がんか》に嵌《は》まっているのは、人の眼ではなくあの緑の球体なのだ。
緑の眼球がずるりと迫《せ》り出し、また引っ込んだ。俺の姿を視覚で認識したらしい。
年若いエルフの面が、皮膚の下で無数の蟲《むし》が蠢動《しゅんどう》しているかに波打った。それが、嗤《わら》う。
整ったエレインの貌《かお》が、わずかにバランスを失っただけでこんなにも醜悪に変わるのかという、異様な嗤いの表情だった。唇がめくれ上がり、血の気を失った歯茎とどす黒い舌がちらりと覗く。
そこから低い言葉が漏れた。獣の唸り声に似てはいたが、それは間違いなく共通語《コモン》だった。
「やはり、しくじったか――」
女王を襲ったアルタリウスの錯乱した語調とは異なり、高い知性を感じさせるしっかりした口調だった。それが、完全に妖獣と化したエレインの口から発されているのだ。
「驚いているのか、ジヴラシア? それともこの姿が気に入らないのかい。僕は、こんなに良いものだとは思わなかった」
ずるり、とそいつは下半身も向き直らせた。「快適だよ、この肉体は。受け入れればいいんだ。アルタリウスは意識で拒んだから、正気を失ったのさ。僕はこの生物を支配した」
言葉を紡《つむ》いでいるのは、エレインだった。この肉腫は、人の意識さえも喰っている!
「君も仲間になるべきだよ。この躰《からだ》なら、天変地異の中でも生きていける。いや、異変でもっと、僕たちに棲みやすくなる!」
俺は妖獣がじわじわと近づいてきているのに気づいた。語りかけながら間合いを詰め、俺も同化してやろうという肚《はら》だろう。
だが、俺もこいつの話の端々に興味を惹《ひ》かれた。
「おい、俺の言葉も聞こえるのか」
「判るさ。僕はエレインだもの」
「本当にその躰《からだ》を支配しているのか? えらく便利そうじゃねえか」
妖獣のにじり寄るスピードがわずかに落ちた。俺の対応に少し戸惑ったようだ。
「そう、優れているよ。見ただろう? 傷はすぐに塞《ふさ》がるし、分裂して仲間を増やすこともできる。彼らも――」
そいつは喰われている悪《イビル》の冒険者たちを触手で指し示した。「じきに僕と同じようになる。少し抵抗されたけど、目が覚めたらきっとありがたく思うだろう。まず最初に、女王陛下と冒険者の仲間たちにこの気持ちを味わってもらおうと思ったのさ」
「へえ。そいつは光栄だな」
距離は詰まっていた。俺と妖獣の間はすでに十メートルを切っている。
「それで、異変が進むと何で棲みやすくなるんだ?」
俺のこの問いに、エレインの瞼《まぶた》が真意を探るかのように見開かれた。が、妖獣はそのまま会話を続けた。
「ここは大気に必要な成分が少な過ぎる。地割れで地底から噴き出すガスは、その成分を補《おぎな》って僕たちの躰《からだ》を活性化してくれる。余計な働きをする植物は枯れつつあるし、良いこと尽くめだよ」
意味は良く判らなかったが、俺はこの話を心に留めた。
「なるほど。その躰になっちまえば、わざわざ天変地異の原因を探りにいくこともないってわけか」
「そうさ。怯《おび》えることなんかない」
「糞《くそ》喰らえだね」
「何だって」
「厭《いや》だね。てめえはもうエレインなんかじゃねえ。肉腫《にくしゅ》に記憶まで乗っ取られた薄汚ねえ化物だ」
ぎちっ、と妖獣が吼《ほ》えた。エレインのマスクが歪《ゆが》み、何か別の生物のような顔になる。
いきなり妖獣の速度が上がった。脚がないとは思えぬ凄まじい速さだ。恐らくは床との接地部分に、超高速で運動する無数の管足でもあるのだろう。
「ジヴラシア、仲間になれ」
五メートルの距離から唸りをあげて、あの口が刃の切っ先のように伸びてきた。緑の触手より遥かに伸縮する恐ろしい武器だ。
吸盤状の口腔部が、俺の顔面を襲う。
それより早く、俺はもと来た廊下を駆け戻り始めていた。
一瞬前まで俺の頭があった位置を妖獣の口管が貫《つらぬ》き、背後の壁に吸いついた。触手が鞭《むち》ならこいつは槍だ。
動きが早いとは言え、この軟体生物と俺では走る速度は比べものにならない。妖獣の本体が曲がり角に達した時には、俺はすでに階段の最上段から踊り場に向けて跳躍していた。
カウントは続けていた。途中に乱れはあったが、一階に着地した時点で三百まで残り三十秒。
階上から、妖獣の悔しげな咆哮《ほうこう》が響いた。
構わず俺はロビーに疾《はし》った。そして中庭に躍り出る。急がなければ、あの化物が外に飛び出す時間を与えることになる。
「ディー!」
俺はありったけの声を振り絞った。「脱出した! 着火しろ!」
一瞬の静寂があった。
声が届かなかったか、と思ったその時、館の裏側から閃光が疾《はし》った。鈍い轟《ごう》音とともに、屋根の向こうからオレンジ色の炎が噴き上がる。
次の瞬間、爆炎《ティルトウェイト》の業火が|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》を覆い尽くした。
|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》は、完全に炎に包まれていた。
並の炎ではない。
爆炎《ティルトウェイト》の呪文で呼び起こされた超高熱火炎が大量に貯蔵されていた燃料油に引火し、爆発的に館の両翼まで燃え広がったのだ。
ロイヤルスイートのある左翼の二階からも激しい炎が噴き上げている。この火勢ではあの妖獣と言えど、増殖中のものは残らず消し炭になったことだろう。
わずか数秒で、建物は原形を失いつつあった。とてつもない熱量が、容赦なくすべてを破壊していく。
だが、俺はまだ緊張を解いてはいなかった。
エレインと同化した奴が、まだ炎上する館の中で生きている――そう確信があった。
館の中央部が崩れた。盛大に火の粉が上り、薄曇りの空に朱の色を撒き散らす。
建材が砕け、爆《は》ぜる音が盛大に鳴り響く。その中に混ざった微《かす》かな異音を俺の耳は聴き逃さなかった。
床の上を、重く弾力を持った物体が高速で移動する摩擦音だ。
あいつが、焼ける館内を疾《はし》っていた。
突如、右翼の二階の壁が砕け散った。そして内側から、凄まじい勢いで影が虚空に飛び出す。
「逃がさない!」
絶叫とともに、妖獣の巨体が宙に舞っていた。
ピンク色だった表皮は炎に焙《あぶ》られ、ぐずぐずに白く焼け爛《ただ》れている。二本の触手と口管はほとんど炭化し、エレインのマスクは溶け崩れたように原形を失っていた。ただ緑の眼球だけが、その眼窩《がんか》から地上の俺を睨《にら》みつけている。
全身から蒸発する体液が煙となって空中に尾を引く。
大きな弧を描いて、妖獣は俺から約十メートルほど離れた地点に叩きつけられた。ずしり、と重い地響きが伝わってくる。
落下のダメージなどないかのように、妖獣は即座に身を起こした。そして間髪を入れずに、俺に突進を開始しようとする。
だが、その一瞬に俺は間合いに踏み込んでいた。
勢いのついた右の蹴りが、妖獣の腹にめり込んだ。
廻した蹴りではなく、突き出した蹴りだ。軸足が大地を踏み締める力が、そのまま蹴りのエネルギーとなって相手を打つ。
柔らかい肉腫《にくしゅ》の感触と、確かな手応えがあった。防具なしの人間なら肋骨《ろっこつ》がへし折れ、内臓が破裂している一撃だ。
大量に水分を失いながらもまだ百キロ以上の重量を持つ妖獣が、宙に浮いて五メートルほど吹っ飛んだ。
「誰を逃がさねえんだ」
俺は仰向けに倒れてもがいている妖獣に語りかけた。「てめえ、俺が尻尾巻いて逃げたと思ってたのか? 逃げられねえのはてめえのほうだぜ」
「おのれ――」
呪詛《じゅそ》の呟《つぶや》きを漏らして起き上がる妖獣を、俺はもう一度蹴り飛ばした。
「どうした、動きが鈍いぜ。躰《からだ》を再生する暇がねえか? 触手がそれじゃあ、俺を捕まえられやしねえよ」
転がった妖獣が、ぎちっ、と吼《ほ》える。が、その叫びはもはや弱々しかった。
「エレインのふりもやめたかい。そのほうがいいぜ」
俺は口元を覆っていた布を外し、右の拳に固く巻きつけた。「くたばる時ぐらいは、もとの化物として死ね」
きい、と哭《な》いて妖獣は、倒れたまま身をくねらせて俺から遠ざかろうとする。だが、二度の蹴りが怪物の運動機能を極端に低下させていた。
俺はゆっくりと妖獣の前に回り込んだ。
炎の放つ朱の光に照らされ、妖獣は緩慢《かんまん》な蠕動《ぜんとっ》運動を繰り返していた。七体もの幼生をベインらに植えつけたせいもあってか、もはやこの化物に分裂増殖するだけの力は残されていないようだった。
アルタリウスや衛士長の殺《や》られ様《ざま》を見た限りでは、妖獣の同化は他生物の口腔などから体内に侵入して行われるらしい。こいつの弱りきった巨体では、それは不可能だ。
危険はほとんどない。あとはとどめを刺すだけだ。
俺は腰をわずかに落とし、右拳を頭の高さに掲げて身構えた。
拳に巻いてある布は、目を細かく織りあげた特殊な代物だ。マスクにすれば煙をある程度吸い込まずに済むし、いざという時には水を濾過《ろか》して飲料水を造ることもできる。古来より伝わる忍者の携帯品で、万一この化物が皮膚から同化する能力があるとしても、打撃を与える瞬間は拳の接触を防いでくれる。
妖獣が俺の動きに気づき、躰《からだ》の向きを変えようとした。崩れたエレインの顔が、こちらに無防備に晒《さら》される。
その一瞬に、俺は全身の力を込めて拳を打ち下ろしていた。
突出した眼球の間の、人ならば烏兎《うと》と呼ばれる必殺の急所だ。王宮での闘いで、ここが妖獣の死点のひとつだと判っている。
拳が肉を叩き、衝撃が妖獣の内部を破壊する。
拳の下で、芋虫のような巨体がぴくりと痙攣《けいれん》した。
急激な体内の圧力上昇で、緑の水晶のような眼球がさらに飛び出す。同時に眼窩《がんか》から噴き出した滑《ぬめ》りのある体液が、俺の右腕に生温かく纏《まと》わりついた。
俺は拳を引いた。
館の両翼が倒壊し始めた。
わずかに強まる炎に溶けるかの如くに、妖獣の躰は潰れてだらりと地面に広がる。
今の一撃で、冒険者七人――エレインを含めれば八人を餌食にしたこの忌《い》まわしい化物は、完全に生命機能を停止していた。
俺は息をついた。
ベイン、ブライスらを救えなかったのは残念だが、下手をすればリルガミン中に増殖しかねない妖獣を全滅させたのだ。いかに善《グッド》の連中から無感情な戦闘機械のように言われる俺でも、さすがに気が緩《ゆる》む場面だった。
知らないうちに、俺はその場に片膝をついていた。
そんなに力を抜いたつもりはなかった。
おかしい。そう思い、すぐに立ち上がろうとしたが、四肢がつっぱったように身動きが取れない。
同じ感覚を味わった記憶が、その時ようやく蘇ってきた。
麻痺毒――迷宮をうろつく灰造人《アッシャー》や多脚甲虫《ドゥームビートル》の爪牙《そうが》、それに善の水晶を守護していた天使《エンジェル》どもの剣に仕込まれていた、人体に入れば全身の神経伝達を妨《さまた》げ、運動筋肉を痺《しび》れさせる神経毒だ。一度受けると、僧侶呪文第三レベルの治痺《ディアルコ》で体内の毒素を分解してもらわない限り、自力では指一本動かせない木偶《でく》人形と化してしまう。
今の症状は、天使の手にした煌《きら》めく剣が躰《からだ》を掠《かす》めた時に受けた、麻痺の感覚に極めて似ていた。
似ている、というのは、そっくり同じわけではなかったからだ。
全身が、硬直を始めていた。まるで岩塊の中に閉じ込められたような圧迫感がある。
内臓器官や呼吸器などの生命維持機能と、視覚、聴覚だけは辛《かろ》うじて生きている。が、それ以外は石か何かに変質してしまったかのようだ。
噂に聞く、さらに重度の麻痺症状・石化だ。
俺たち悪《イビル》のパーティはお目にかかったことはなかったが、善《グッド》の連中が探索した迷宮第四層には、この石化をもたらす鶏に似た化物コカトリスが徘徊している。また、水晶の片割れ・悪の水晶を護《まも》っていた悪魔像デルフも、石化能力を操ると聞いている。
身動きが取れぬという点では麻痺と大差はないが、迷宮の探索中には石化のほうが数段恐ろしい。何故なら治痺《ディアルコ》では治療できず、治療回復呪文の切り札とも言うべき快癒《マディ》を使わなければならなくなるからだ。
呪文所有者《スペルユーザー》が呪文効果を引き起こす際には、特定の精神領域に極端な負担をかける。七段階に分けられた呪文のレベルはこの精神領域を表しており、魔法を使用する度《たび》にそのレベルに応じた領域は激しく疲弊《ひへい》していくのだ。そして術者の能力の上限を超えると精神集中は不可能となり、そのレベルの呪文は使えなくなってしまう。この上限までの回数が一般にマジックポイントと呼ばれる呪文の残数だ。
長時間の熟睡が取れればマジックポイントは回復するが、迷宮内では充分な休息は取りようがない。
熟達者《マスター》≠フ僧侶でも快癒《マディ》の属する第六レベルの呪文使用上限は四回程度で、これを石化の治療に食われるのは生き残る確率をすり減らすに等しかった。
右腕が、酷く痺《しび》れていた。
どうして俺の肉体が石化し始めたのかが、その痺れで見当がついた。
妖獣の体液だ。最後の一撃を放った際に右腕にかかった粘液が、皮膚から浸透する石化成分を含んでいたのだ。
触感は麻痺していたが、俺の全身を冷や汗が伝い落ちたような気がした。
もし今の攻撃で死点を外していたなら、石化して無防備になった俺はこの化物の餌になっていただろう。それを思うと息が詰まりそうだった。
炎を噴き上げ続ける館の左翼の残骸を見つめながら、俺はしばらく平静を取り戻せずにいた。身動きが取れぬため、視界はそちらに固定されているのだ。
恐怖が鎮《しず》まると、今度は笑いが込み上げてきた。もっとも今の俺は、笑いたくとも顔の筋一本ひくつかせることはできないが。
何とも、間の抜けた話じゃないか。自分の攻撃で石化され、硬直して屈み込んでいるこの姿をディーが見たら何と言うか。考えただけでもお笑いだ。
この状況で生命の危機に晒《さら》されていないのも、わけもなく可笑《おか》しく感じられた。唯一の危険は、俺の足下で薄汚い肉塊となってくたばっているのだ。そいつがなおのこと可笑しい。
緊張が解けたおかげで、一時的な躁《そう》状態にあるらしい。辛《かろ》うじて閉じることのできる瞼《まぶた》を瞬《しばたた》かせ、俺は頭の中で意味もなく笑い続けていた。
細めた視界に、何かが動いた。
若干《じゃっかん》弱まってきた炎の手前、熱で干からびた下生えの上に影が躍っているのが見える。
俺は笑うのをやめた。一瞬心臓も止まったのかも知れない。
それは黒|焦《こ》げになりながらも、業火の中から這い出そうとする妖獣の幼生の影だった。
あの炎の中で、生き延びた奴がいたのだ。
体長は二十センチほどで、大きさから見てベインに取り憑いていた奴らしかった。すぐさま体内に潜り込む例の手で、炎のダメージを抑えていたのだろう。そいつは炎の熱が和《やわ》らぐ場所まで這い出すと、そこで十秒ほど身を震わせていた。
力尽きたか、と期待したのも束《つか》の間、妖猷はまだ形の整わない躰《からだ》を起こしてゆっくりと、しかし確実にこちらに向かって進み始めた。
俺を目指しているのが、はっきりと判る。が、石化した俺には反撃どころか逃げる術《すべ》さえない。
どうやら避けようのない死への秒読みが始まったようだ。
あと、二十メートル弱。
じわじわと近づく妖獣は、差し詰め死が具象化した姿といったところだろうか。これなら一息に心臓を刺し貫《つらぬ》かれるか、呪文で灼《や》き殺されたほうがずっといい。
気の弱い者なら、恐ろしさのあまり発狂している状況だ。
しかし、先刻冷や汗を流しきったせいか、俺は自分でも不思議なほど冷静だった。
残り十五メートルになった。
望みがあるとすれば、その十五メートルを肉腫《にくしゅ》が進みきるより早く、デイーがここに戻ってくることだった。着火後裏庭からすぐにこちらに向かっていれば、時間的には間に合う筈だ。
だが、その気配はない。
妖獣が俺に取り憑くまで、あと十メートル。
衛士隊が到着するにはまだ間があり過ぎた。
奇跡なんてものがそうそう起こらないのは、この一年の闘いで良く判っている。生き死にってのは思っているよりあっさりしたものだ。
醒《さ》めた諦《あきら》めと同時に、化物の増殖の苗床になったなら、せめて意識を喰われる前に呪文で焼き払って欲しいという思いが頭をもたげた。それにはディーも間に合うだろう。
ふと、奇妙な考えが浮かんできた。
あの妖獣が俺の記憶を喰ったなら、答が判るのだろうか。
肉体を鍛え抜いた意味が。
敢《あ》えて冒険者という危険な道を歩んだ意味が。
俺は、何を望んでいたのかが。
たとえはっきりしても今となっては意味がないことだと気づき、俺は頭の中で肩を竦《すく》めた。
残りは五メートル。もう肉腫によった皺《しわ》の一本一本までが見てとれる。
助かる見込みはない。
それでも俺は、目を閉じなかった。
さらに距離を詰め、爛《ただ》れた肉塊は躰《からだ》をぐっと縮めた。そこから俺の顔に飛びつこうという肚《はら》なのだ。
出てきたばかりの小さな眼球で、妖獣が俺を見上げた。その眼に、抵抗できぬ獲物を前にした喜悦の表情が浮かぶ。
せめてもの抵抗に、俺は妖獣を睨《にら》み返した。これが最後に見る光景かと思うと胸糞《むなくそ》悪かったが、考えて見れば誰でもくたばる時はこんなものなのだろう。
撓《たわ》めた筋力を解放し、妖獣が跳ねた。視界一杯に、肉腫《にくしゅ》の腹に生えた無数の管足が広がる。
それが俺の顔面に張り付く寸前、左方から緑色の光が視界を貫《つらぬ》いた。
眩《まぶ》しさで俺は一瞬|瞼《まぶた》を閉じた。
次に目を開けた時、そこには何もなかった。地面の上に妖獣の這ってきた粘液の跡があるだけだ。
空中で、妖獣は跡形もなく消し飛んでいた。
「リルガミンは聖都と聞いていたが、随分と面白い生き物が巣くっているものだな」
深みのあるバリトンが聴こえてきた。聞き覚えのない声だ。
妖獣を仕留め、俺を救ったあの緑色光は、この声の主が放ったものらしかった。が、もしあれが攻撃呪文なら、俺の知っているもののどれにも当て嵌《は》まらない。
足音が近づいてくる。左方――街路に続く門のある方向からだ。身動きできない俺には死角になっている。
足音は俺の傍《かたわ》らで止まった。俺は自由になる眼球だけを動かして相手の姿を探ろうとしたが、まだ視界には入らない位置だ。
「ふん。石化か」
男は軽い嘲《あざけ》りを込めて言った。「死ぬところだったな」
視界に、黒く染めた手袋に包んだ手が伸びてきた。
その手は俺の顎《あご》を掴《つか》むと、ぐいと左上方を向かせた。今は痛覚が麻痺しているからいいものの、かなり強引なやり方だ。
それでようやく、俺は男の姿を見ることができた。
長身だった。見上げる角度のため正確には目測できないが、恐らく俺と同等か、二メートル近くはあるだろう。
しかし、それ以上のことは判らなかった。
何故なら、男は濃い群青《ぐんじょう》のローブに全身を包んでいるばかりか、頭にはフードを深く被《かぶ》り、顔の前にも薄布のベールを垂らしているのだ。
「――ほう」
顎《あご》を掴《つか》んだまま俺の顔を見つめていた――ベールに遮《さえぎ》られて目は見えなかったが――男は、そう呟《つぶや》くとやっと手を放した。
「助けた甲斐はあったな。知らぬ者ではない」
どうやらこの男は俺を知っているようだった。だが、声同様この姿も、俺の記憶の中にはない。
館の炎は弱まっていた。すでに爆炎《ティルトウェイト》の呪文効果は消え、二次的に発火した普通の火が燃え続けているだけだ。
門の方向がざわざわと騒がしくなってきた。見物人が集まってきたらしい。
遠くで、衛士隊が人々を追い返す声と、高く響く呼び子の音が聴こえ始めた。
奇跡は起こった。今になってやっと、俺は神に祈る気になった。
目を閉じた時、ディーが俺の名を叫ぶのが耳に届いた。
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第三章 滅びに与《くみ》するカ
「宝珠が!?」
ザザのもたらしたニュースに、俺は上体を跳ね起こした。
王宮の中にしつらえられた居室の、不必要に柔らかなベッドに俺は寝転がっていた。|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》のロイヤルスイート並に豪華な、本来なら国賓《こくひん》クラスの宿泊に用いられる部屋だ。
|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》が炎上してから、すでに四時間以上が経過していた。
妖獣の体液によって石化された俺は、到着した衛士隊に硬直状態のまま王宮へと運び込まれた。宿に残っていた冒険者が全滅した今、快癒《マディ》を唱えられるのはマイノスに付き添っているザザしかいなかったからだ。
だが、そう簡単に治療してはもらえなかった。
アルタリウスに化けた怪物が女王を襲撃したとの報告を受けた賢者会議が、俺の躰《からだ》を徹底的に調べるよう命令を下したのだ。|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》での俺の行動を見ていた者がいないうえに、発見時に石化されて身動きも取れない状態にあったとなると、俺も妖獣に同化されている恐れが充分にある、というわけだ。
この処置にディーはひどく憤慨《ふんがい》したらしいのだが、確かに俺が賢者連中の立場なら同じことを考えただろう。あの化物を一匹でも野放しにしておけば、リルガミンの住民全員がいつの間にか妖獣に取って代わられているかも知れないのだ。
厳重な警戒のもとで俺は眼球や口腔、耳孔《じこう》などを調べられた。腕から血も採《と》られたが、これは痛覚神経が麻痺していたおかげで痛みもなく、治療呪文と同じ効果を持つ傷薬の使用で採血の跡さえ残らなかった。
これらのチェックを受け、先刻血液の分析結果が出て、ようやく石化の治療が許された。そして、詫《わ》びのつもりなのか俺の趣味に合わないこの部屋に通され、仕方なく横になったところに改めてザザがやってきたのだ。
「ええ。人心地ついてからと思って、教えるのを控えてたんですよ」
ザザはふんだんに装飾の施《ほどこ》された長椅子の中央に腕組みをして腰を下ろしていた。いつ着替えたのか、ベイキ女王との謁見《えっけん》時に着ていたローブではなく、ぴったりした薄手の平服姿だ。
ザザが持ってきたのは、とんでもない朗報だった。
マイノスが、あの神秘の宝珠を持ち帰っていたというのだ。
「ホールでぶっ倒れてた時には、何も持っちゃいなかったぜ。どこかに預けてきたってのか」
さすがに俺は半信半疑だった。何しろこの一年あまりの迷宮探索の目的である宝珠が、よりによって妖獣の襲撃で混乱している最中に転がり込んできたのだ。
「私もね、驚きましたよ」
ザザが細い顎《あご》に手をやり、謎をかけるように俺を見つめた。「マイノスは肌身離さずに宝珠を護《まも》っていたんです」
「判らねえな。遠回しな言いかたは止《や》めてくれ」
「宝珠はこのくらいの大きさでしてね」
そう言ってザザは両手を、掌《てのひら》を上に組み合わせた。直径十センチばかりの球が入る受け皿が出来上がる。
「宝珠を手に入れた帰途に、あの怪物に襲われたという話です。最初にエレインとアルタリウスが取り憑かれて、そこでパーティは散り散りになったとか。独りになったマイノスは最上層から脱出する間に怪物たちに襲われ、深手を負った――」
「あの傷か」
俺はマイノスのほとんど潰れているに等しい鎧と、腹部の装甲に開いたぞっとする穴を思い出した。
「右腕は潰れ、快癒《マディ》以外の呪文では治りそうにない。左腕は剣。宝珠を収める袋はなく、鎧が脱げないとあっては衣服でそれを作ることもできない。しかし、宝珠を置いていくことなど考えられない。そこでマイノスは、こうしたんです」
組んだ両手を、ザザは自分の腹に当てた。
「何だ、そりゃあ?」
「装甲板の穴を宝珠が入るだけの大きさにこじ開けて、自分の体内に埋め込んだんですよ」
ザザの顔から笑みが消えていた。「腹を裂いて、その中にね」
俺は唖然《あぜん》として、ザザを見つめ返した。
「残りの治療呪文は、すべてその傷を塞《ふさ》ぐのに使ったそうです」
続けるザザの目は、冗談を言っている目ではなかった。マイノスは本当にそうしたのだ。
あの女のような面をした優《やさ》男が自分の腹を切り裂き、握り拳より二回りは大きい宝珠を埋め込む――それはにわかには想像できない光景だった。
俺とて、多少の失血や痛みには慣れっこだ。以前パーティでの戦闘中に腕を食い千切られ、呪文で繋《つな》いでもらった際にも歯を食い縛って耐えたものだった。
だが、自分の臓物の中に異物をねじ込むなど、到底耐えられそうにない。それも薄い剣の切っ先ではなく、メイスの先についた鉄球ほどの大きさがある宝珠をだ。
呪文で傷を治療したとしても、気絶するほどの激痛があっただろう。その状態で迷宮から生還し、手当てを受けぬまま王宮でベイキ女王の命を放ったのだ。
あの男の外見からは思いもよらぬ、想像を絶する精神力だった。
「――治療は、済んでるんだろ」
しばらくの沈黙の後、俺の口から出たのはこの言葉だった。
「もちろん。鎧を剥《は》がして宝珠を摘出するのに手間取りましたがね。途中危険な状態でしたが、快癒《マディ》で肉体の損傷は完治しています」
「今は?」
「別室で寝ていますよ。薬で強制的にね。快癒《マディ》には恐慌《アフレイド》などの精神状態を鎮《しず》める効果もあるんですが、マイノスの場合は精神的なダメージが大き過ぎたのか、ひどく興奮したままでしてね。私が彼から聞き出せた話も、意味が判ったのはここまでです」
ザザは両肘を膵の上に突き、手を組み合わせたまま甲を上にして顎《あご》を乗せると、意味ありげに微笑んでみせた。「そろそろ目を覚ましてもいい頃ですが、見舞いにでも行きますか」
「――人が悪いぜ。行くなんて思っちゃいないんだろうが」
俺は多少の怒気を含んだ調子で応《こた》えた。マイノスとの相性の悪さはザザも充分に知っているからだ。
「いいえ、とんでもない」
歳に不相応な、屈託のない笑みを浮かべてザザは言った。「まあ、どのみち後で顔を合わせることになりますよ。今夜は女王陛下と賢者会議の御老体たちとの晩餐《ばんさん》に、あなたとディーと私、それにマイノスも招かれていますからね」
「晩餐? 何のだ」
「宝珠についての報告が賢者連から。例の化物の話もあるそうです」
「女王陛下と御会食か。俺には気乗りがしねえな。ところで、ザザよ――」
俺は先刻から気になっていることを口にした。「ガッシュとボルフォフ、それにフレイがどうなったのか、まだ判らねえのか」
この問いに、ザザの笑みが一瞬|強張《こわば》ったのを俺は見逃さなかった。この男が動揺を表情に出すことは滅多にないだけに、厭《いや》な予感が頭を掠《かす》める。
「いい話だけじゃあ、ねえってわけか。話してくれ」
「黙っていたところですぐに知れることですからね」
自分に言い聞かせるようにそう呟《つぶや》き、ザザは口を開いた。
「ガッシュたちの消息は、マイノスとはぐれた後は不明です。こちらは彼らがマイノスと同じように逃げきってくれたことを期待するしかないんですが……」
ザザはそこで言いあぐね、やがて意を決したように言葉を続けた。「実はあなたが王宮に運ばれてきてすぐに、スケイルの入口に残っていた送迎馬車から伝令が送られてきました。迷宮内に大規模な落盤が起こり、侵入口が完全に塞《ふさ》がれてしまった――と」
「落盤だと! それじゃあ――」
「ハイランスたちはまだ戻っていません」
俺の言葉に被《かぶ》せて、ザザはそれだけを言った。がこの言葉にどれだけの意味が込められているかは、俺にもよく判っていた。
明け方に出発した捜索隊は、もうとっくに戻ってきてもいい頃だ。それが、落盤が起きたにもかかわらずまだ一隊も帰還していない。
まだガッシュたちを探しているとは考えられない――となると、導き出される答は決まってくる。落盤に巻き込まれたか、それともあの妖獣に襲われて壊滅したか。
宿にいた悪《イビル》の冒険者はすべて殺されている。もしハイランスたちの善《グッド》のパーティが全滅したとすれば、宝珠の探索者で残っているのは俺たちとディーそれにマイノスを加えた四名だけということになるのだ。
「入口が崩れてるって言ったな」
俺の力ない呟《つぶや》きに、ザザは無言で頷《うなず》いた。
「俺たちにはどうにもしようがねえってことか……」
「一応衛士隊が復旧作業を行っていますが、二重の落盤を引き起こす恐れがあってほとんど進んでいないそうです」
「畜生が!」
俺は両手をベッドに叩きつけた。
あの亀裂は、梯子山《スケイル》の内部に通じる唯一の侵入口だった。
それが落盤で塞《ふさ》がれてしまったとなると、俺たちが迷宮に入り込む術《すべ》は正確な転移《マロール》の呪文で岩塊をくぐり抜けるしかない。だが、その実体化する地点も落盤で埋もれていたとしたら、待っているのは確実な死だ。
加えて魔術師系第七レベルの呪文に属する転移《マロール》を修得しているのは熟達者《マスター》の魔術師であるディーひとりで、現在はこのレベルの使用上限である三回を使い切ってしまっている。王宮から|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》までのテレポートと、同レベルの爆炎《ティルトウェイト》を二度使用したためだ。
深い睡眠による休養を取るまで、呪文に必要な精神領域の疲労は回復しない。危険を覚悟で転移《マロール》を使うにしろ、明日までは迷宮への侵入は不可能ということになる。
実際には他にも、迷宮の生物たちが利用している入口が多数ある筈だったが、現在までに人が通れるものは発見されていない。
俺が考えを巡らせている間に、ザザは長椅子から立ち上がっていた。
「それでは後ほど。晩餐《ばんさん》のお呼びがかかるまで、私は書庫にいますのでね」
そう言って背を向け、部屋から出て行こうとしたザザがふと、思い出したように扉の前で立ち止まった。
「ところで、ジヴ」
肩ごしに振り返ったザザと、俺の目が合った。
「もし落盤がなかったなら、どうしていました?」
「何がだ」
俺はザザが何を言おうとしているのかが判らなかった。「どうするってのは?」
「いえね」
ザザはふっと笑い、顔を戻して扉を開けた。「宝珠はもう、このリルガミンにあるんですよ。つまりもうスケイルを探索する必要はないんです」
廊下に踏み出しながら、ザザは言った。「それでもあなたは、連中を探しに行くつもりなんですか?」
扉の閉まる音が、広い室内に響いた。
しかしそれは、俺の耳には入らなかった。
しばらくの間、俺は石化したように身動きひとつできなかった。心臓に、鋭い氷の針を突き立てられたような気分だった。
耳には、ザザの最後の台詞《せりふ》がこびりついている。
ザザには判っていたのだ。俺がガッシュたちを助けに行きたがっていることが。
俺たち悪《イビル》の冒険者がガッシュたちの消息に気を揉《も》んでいたのは、あくまで連中が宝珠の探索に必要な水晶《クリスタル》を持っていたからの筈だ。宝珠なしには天変地異の原因が解明されず、ひいては自分たちの身に火の粉が降りかかってくることになる。
しかし、宝珠が手に入ったとなると事情は変わってくる。
悪《イビル》の戒律の者が危険を冒して梯子山《スケイル》に入るのは、この宝珠を探し求めてのことだ。そしてパーティの仲間が必要なのは、怪物だらけの迷宮で少しでも生き延びる確率を高めるためなのだ。
逆に考えると、宝珠が存在しない迷宮にはもはや足を踏み入れる必要はない。迷宮探索が目的で組んだパーティも、当然必要ではなくなるわけだ。
その不必要なパーティの仲間を、命|懸《が》けで救助に向かうなど愚の骨頂――それが、利己的で計算高い悪《イビル》の戒律の者の見解であって然るべきなのだ。
目的は果たした。後は賢者たちに任せて、この災害を食い止める手段を講じてもらえば良い。
迷宮に何人取り残されていようと、入口が崩れて入れなくなろうと、それはもう俺たちの知ったことじゃない。
もし俺の望みが闘いの中に身を置いた刺激的な生活だったとしても、別にその舞台が梯子山《スケイル》の迷宮である必然性はないのだ。
そうであるにもかかわらず、俺は怒り、苛《いら》立っている。
今の俺の感情は、戒律に反したものなのかも知れなかった。
召使が晩餐《ばんさん》用の礼服を届けにくるまで、俺は長い間思考の袋小路を彷徨《さまよ》っていた。
窮屈な礼服――サイズはあつらえたように申し分なかったが――に着替え終ったところで、扉がノックされた。
「誰だ」
「あたし。御機嫌いかがかしら」
答えながら、ディーが部屋に入ってきた。俺と同じく衣装が貸し出されたらしく、昼の濃紺のローブとは打って変わった鮮紅《せんこう》色のドレスに身を包んでいる。
俺が着ている礼服は、白地に銀糸の刺繍《ししゅう》が施《ほどこ》された、フォルムは一般的だが相当に金がかかっている代物だった。俺にしてみればこんな動きにくい服を着たくはなかったのだが、そのまま晩餐に出席するにはいつもの装束は|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》での戦闘を経て汚れ過ぎていた。宿の焼失で替えはすべてなくなったし、わざわざ規格外のサイズの俺の躰《からだ》にぴったりくる衣装を用意させた女王への、一応の敬意を払うという意味で着用を承諾《しょうだく》したのだ。
ディーは俺の爪先から頭の天辺まで吟味するように眺めると、ゆっくりと何度も頷《うなず》いた。
「意外と似合うじゃない。野暮ったい忍者装束より数段男前に見えるわよ。今までその手の恰好をしなかったのがもったいないくらい」
「よしてくれ」
俺は肩を竦《すく》めた。「こんなのが似合うはザザか、マイノスの野郎だろうよ。本当なら今すぐ脱いじまいたい気分だ」
「お世辞なんて言わないわ」
ディーは両肘を軽く上げて自分のドレスを覗き込んだ。「悪くはないんだけど、ちょっと色が合わないわね。あんたにその服を貸したんだったら、あたしは――そうね、もう少し淡い色のドレスだったら釣り合いが取れそうだわ。せめて衣装だけでも持ち出したかったわねえ」
天井を仰ぎ、ディーはため息をついた。相当な衣装持ちだっただけに、止《や》むを得ないとは言え自ら|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》を燃やしてしまったのが悔やまれるのだろう。
「ところで」
ディーが話を切り替えた。「あたしが御機嫌|伺《うかが》いだけにきたんじゃないことくらい判るわよね。会食の前にあんたと話しときたいことがあるのよ」「何だ」
「あの男よ」
ディーが言っているのは、奇妙な魔法で妖獣から俺を救った長身の男のことだった。石化した俺の傍《そば》に駆け寄って来た際に、ディーはこの男を目にしている。
しかし衛士隊が到着した時には、あの男は俺たちが気づかぬうちに煙のように姿を消してしまっていた。
「気になったんでね。ちょっと探してみたのよ」
「今まで姿を見せなかったのは、そのせいか」
「そう。聞き込みに忙しくてね。あれだけ目立つ風体の割りに、見たって奴が少な過ぎるのよ」
俺はあの男の姿を思い起こした。全身を群青《ぐんじょう》色のローブで包み、顔をベールで覆った二メートル近い身長の男だ。いやが上にも人目を引く恰好であることは間違いなかった。
「で、見つかったのか」
「まあね」
手を腰に当てて、ディーは胸を反らせた。
「ボルタックに賓客《ひんきゃく》としてもてなされてるわ。何でも、相当な品物を幾つか持ち込んだとかでね」
「ボルタック商店に?」
ボルタック商店とは、リルガミン王国をはじめ各地に数多くの分店を持つ武具商だ。武器売買に限らず、正体不明の品の鑑定や専門僧との契約による呪われた品物の解呪などを手広く扱っており、リルガミン市では最大の品揃えを誇っている。
売値が買値の二倍という強引な商法だが、破損時の保証や防具のサイズ調整などのアフターケアが万全のため利用者は多い。特に魔法のかかった品は高く売れるので、俺たちも含めた冒険者の多くは、迷宮で見つけた武具で不要なものはここに持ち込んで換金していた。
しかし、ボルタックが店をあげて歓待するほどの品となると少々想像がつきかねた。あの男は一体何を持ち込んだというのだろう?
「店王には話をつけてきたわ。あたしがあの男に興味があるから、出かけるようなら使いを頂戴《ちょうだい》ってね」
色恋の手助けだと思わせたわけだ。それなら店主も訝《いぶか》ることなく、上得意のディーに協力してくれるだろう。
その時、廊下から召使らしき足音が聴こえてきた。
晩餐《ばんさん》の用意が整ったようだった。
俺とディーが案内された時には、礼服姿のザザはすでに食卓に着いていた。俺たちに視線を向け、軽く笑みを浮かべてみせる様子には、去り際の突き放した態度は微塵《みじん》も感じられない。
マイノスと、招待者のベイキ女王はまだ姿を現してはいなかった。
広い会食室の中央に置かれた食卓は、周囲に十五、六人が楽に座ることができる円形のものだった。
俺は軽い驚きを覚えていた。
この晩餐《ばんさん》会は、ベイキ女王自身が主催したものだ。恐らく、このテーブルを用意するように指示したのも女王自身だろう。
それは、ふたつの重要な意味を持っていた。
ひとつは、女王と俺たちが同席するということだ。
仮にも一国の君主であるベイキ女王と、今は宝珠の探索者として重要な地位にあるとは言え一介の流れ者に等しい俺たち冒険者が同席するとなれば、通常は厳然とした席次のある長方形のテーブルを用いて女王が上座に座ることになる。
だが、円卓には席次の上下が存在しない。そこに俺たちと女王がともに座るということは、この席では身分の差を取り払うという意味を含んでいるのだ。意識していなかったにしろ、これまで俺たち冒険者に対して地位と権威を振りかざして、傲慢《ごうまん》と言えるほどに振る舞ってきた女王らしからぬ行為だった。
もうひとつは、王族の円卓での会食がリルガミン王国の歴史上、極めて重大な局面に行われたということで知られていたからだった。
その会食は百年ほど前、ベイキ女王の曾《そう》祖母に当たる女性――ダイヤモンドの騎士となった実弟アラビク王子とともに魔人ダバルプスを打ち倒したマルグダ女王が、失われたニルダの杖を取り戻すため、自らダバルプスの呪いの迷宮に潜る決意を固めた際に催《もよお》されたのだ。
マルグダ女王は円卓に臣下を座らせると、絶望的な探索へ赴《おもむ》くとは思えぬもの静かな口調で語ったという。
「ダバルプスの支配を脱した今もなお、破滅の翳《かげ》はこのリルガミンから去ろうとはしません。いえ、あるいは以前にも増して。すでに少なくない数の者たちが、リルガミンの平和を願いながら呪いの穴で命を落としました。もはや、座して杖の帰還を待ち続けることはできません」
臣下たちの中で腕に覚えのある者は、それならば私たちがと名乗りを上げかけた。が、女王はそれを制した。
「勇気を示すべき者、それは私にほかなりません。弟アラビクと救いの術《すべ》を学び、高位魔導師となったこの私が」
ならばなおのこと、と今度は全員が同行の意を表した。それが許されぬなら、死を選ぶと聞かぬ者もいた。
女王は微笑むと、しかし断固として臣下たちを押し止めた。
「これは王としての命令ではありません。円卓にともに着いた時から、私はあなたたちの主君ではなく、あなたたちもまた家臣ではないのです。この国を愛する同志のひとりとして、私の気持ちを察して下さい。もし私が帰らぬばかりか、あなたたちまでも失い、舵を取る者すらいなくなったこの国の行く末を憂《うれ》える気持ちを――」
女王の言葉に、もはや異を唱える者はいなかった。ただ、誰もが死よりも辛《つら》い悲しみを味わっていた。そして、死を覚悟して輝きをいや増したマルグダ女王の、神々しいまでの美しさをその目に焼きつけながら、再びその姿を見ることができるよう祈っていたという。
その祈りを神が聞き届けたのか、会食が終わらぬうちに伝令たちが次々と駆けつけてきた。恐ろしく腕の立つ冒険者たちが、何かに導かれたかの如くに続々とリルガミンに集まってきた、と。
その後、彼らの超人的な活躍で二ルダの杖は取り戻され、ダバルプスが引き金となった王国の危機は回避された。
結局マルグダ女王は魔物の餌食になりはしなかったのだが、円卓での会食の逸話は万人の知るところとなった。女王がその地位を捨て、リルガミンの一市民としての決死の勇気を示した場が円卓なのだ。
それだけの意味を込めて、ベイキ女王が円卓を用意させたのかどうかは判らない。妖獣に襲われた恐怖で失神し、目を覚ましてみたら宝珠があったという夢のような話に浮かれて、祝いのつもりで身分差を排したのかも知れなかった。
晩餐《ばんさん》などと言い出したからには、現在迷宮内で行方不明になっている連中のことなどもう、浮かれた女王の念頭にはないのだろう。俺は、どのみちあの小娘が冒険者|風情《ふぜい》の生死を気にかけているわけはないと思っていた。
もしそうであるにしろ、この場に円卓が用意されていることは驚きに値する。俺の傍《かたわ》らのディーも低く呟《つぶや》きを漏らした。
「無礼講だったら言ってやりたいことは山ほどあるけど」
円卓にはザザの他に、四人の老人が座っていた。どの老人もかなりの高齢で、そしてひとりとして同じ種族の者はいなかった。
人間、ドワーフ、ノーム、ホビットの四種族だった。彼らの貌《かお》には長い人生の間に培《つちか》われた叡智《えいち》の皺《しわ》が刻まれ、その瞳には世界の深淵に隠された真理を探る光が宿っている。
五賢者――リルガミンの賢者会議の中核をなす、各種族から一名ずつ選出される最高の知性を秘めた者たちだ。現在のリルガミンの行政を担《にな》い、歳若い女王の摂政《せっしょう》を務めている。
宝珠はこの老人たちに託されている筈だった。卓上にないところを見ると、どうやらまだ到着していないエルフの賢者が持っているらしい。
彼らは俺たちを見ると、静かに深く一礼した。この日までの宝珠探索の労をねぎらう意味なのだろう。体格が全く異なる四人だったが、その礼をする様《さま》は不思議に整然と揃って見えた。
俺たちはザザの傍《そば》に案内され、腰を下ろした。
その時だった。
「……は、陛下はどちらにおられるのだ。お話がしたい。晩餐《ばんさん》どころではない!」
叫び立てる怒声が、廊下の向こうから急速に近づいてきた。
円卓の全員の視線が集まる中、バン、と騒々しく扉が開く。
追いすがる召使と扉の外の衛士を押し退《の》け、ひとりの男が躍り込んできた。
マイノスだった。礼服ではなく、甲冑の下に着こむ薄手の革鎧に身を包んでいる。今にも迷宮に乗り込んでいきそうな様子だった。
円卓を目にして一瞬|怯《ひる》んだようだったが、すぐに気を取り直し、マイノスは険しい目で礼服姿の俺たち三人を睨《ね》めつけた。
「仲間が迷宮で助けを待っているかも知れんという時に、着飾って会食とはいい御身分だな。悪《イビル》の戒律の者などに期待した私が愚かだったようだ」
吐き捨てるような口調でマイノスは続けた。「たとえ私ひとりでも助けに行く。女王陛下にはよろしく伝えておいてくれ。こちらの宴会は貴様らに任せる、とな」
この侮蔑《ぶべつ》のこもった皮肉に、ディーが椅子を蹴立てて立ち上がった。顔を上気させ、殺気に似た気配を放っている。傍目《はため》にもディーが激昂《げっこう》しているのがはっきりと判った。
「訂正は利かないわよ」
興奮しているにもかかわらず、呟《つぶや》くように言った。
悪い傾向だった。こんな時のディーは、頭に完全に血を昇らせている。こうなると何をしでかすか判ったものじゃあない。この場で呪文の詠唱を始めることもあり得る。
一方のマイノスは、若干《じゃっかん》の戸惑いを見せていた。奴としては噛《か》みついてくるのが俺だと予想していたのだろう。善《グッド》の戒律の者の御多分に漏れずフェミニストのマイノスは、ディーと一触即発の状況になるとは思いもしなかったのだ。
だが、もはやディーはその様子に気づかぬほど怒り狂っている。
ザザはお手上げという仕草で俺を見た。どうするかは、任せるという意思表示だ。
マイノスの皮肉が俺に向けられていると知りながらも、何故か俺はディーを止めてやる気になっていた。
「おい、ディー――」
ふと、俺は口|篭《ごも》った。マイノスの背後から近づく足音が耳に入ったからだ。
「お止《や》めなさい!」
凛《りん》とした声が室内に響き渡った。
弾かれたように振り向いたマイノスが、息を呑《の》んで立ちすくんだ。
そこには、五賢者のひとりである老エルフを従えたベイキ女王の姿があった。
俺もザザも、驚愕を隠すことはできなかった。
五賢者を除いた全員――衛士や召便たちを含めて――が女王の姿に目を奪われ、驚きを露《あらわ》にしていた。
女王は漆黒の礼服を身に纏《まと》っていた。派手な装飾は一切ない、葬礼の際に用いられる喪服だった。頭に王冠はなく、豊かな栗色の髪は後ろで無造作に束ねられている。
しかし、俺たちの目を釘付けにしたのはそんな装いなどではなかった。
最後にベイキ女王を目にしたのは、つい五、六時間前のことだった。あの時の女王は、いつもより大人びてはいたが、あくまでも美しい娘に見えた。
今俺の前にいるのは、隠しようのない憂《うれ》いを帯びながらも、高貴な美しさで光り輝かんばかりの女性だった。そしてそれが数時間前まで――いや、ここでその姿を目《ま》の当たりにするまで、俺が小娘扱いしていたベイキ女王なのだ。
激昂《げっこう》していたディーですら、女王を見ただけですっかり毒気を抜かれたようだった。
あと数年は相手にならぬとたかを括《くく》っていた少女が、いきなり強力な美のライバルとなって現れたのだ。その前でいつまでも鼻息荒くマイノスと睨《にら》み合いを続けているのは得策ではない。
その場が収まったのを確認して、女王はマイノスに語りかけた。
「仲間を救いたい気持ちは痛いほど判ります。ですが、今のあなたは状況を知らずに闇雲に走ろうとしています。まずはお座りなさい。決して時間の浪費にはなりません」
落ち着き払った、有無を言わさぬ口調だった。ともすれば感情的になりがちだった女王からは想像できない堂々とした態度だ。
マイノスは黙って一礼し、円卓の俺たちとは少し離れた席に腰を下ろした。
これまでのベイキ女王は冒険者にとっての厄介者であり、善《グッド》の戒律の者を含めたほとんどの冒険者は女王自身に忠誠心を持ってはいなかった。が、マイノスは違っていた。
奴は今では数少ない、マルグダ女王から王国騎士の称号を授かった英雄の子孫だった。俺が忍者という特殊な職業《クラス》を御先祖から受け継いだように、マイノスもまたロードの職業《クラス》と、そして騎士の称号をも受け継いでいるのだ。
それゆえに、先祖がリルガミンに誓った忠誠は今もこの男の中に息づいている。命令口調ではなかったにせよ、マイノスにとってベイキ女王の言葉は絶対に従うべき君命だった。
もっとも他の冒険者であったとしても、今の女王に逆らえる者はいなかっただろう。女王の言葉には以前にはなかった重みがあり、高貴な血筋に裏打ちされた美しさには威厳すら漂っていたからだ。
ベイキ女王はゆっくりと円卓を回り込み、ちょうど俺とは正反対の位置にある席に着いた。その隣席にエルフの賢者が歩み寄る。
老エルフは胸の前に、柔らかそうな厚いクッションを捧《ささ》げ持っていた。錦の布が被《かぶ》せられていたが、その下に何が置かれているのかは明らかだった。
賢者は、女王の前に恭《うやうや》しくそのクッションを置くと、自らも円卓の一席に着席した。
ディーも腰を下ろしていた。
これで出席者の全員が円卓に着いたことになる。俺たち三人にマイノス、五人の賢者、そしてベイキ女王の十人だ。
女王は一同を見回すと、目の前に置かれたクッションに手を伸ばし、被せてある布をゆっくりと取り除いた。
一瞬、眩《まばゆ》い光が室内に溢《あふ》れたかに見えた。
そこに、直径十センチあまりの球体があった。磨き抜かれた美しい水晶球だ。
だが、その色を何と表現したらいいのだろう。銀色の輝きを放ちながらも、その滑《なめ》らかな表面にはありとあらゆる色彩が陽炎《かげろう》のように揺らめいている。
しかも、水晶は透明なのだ。
予想通りだった。
これこそが、俺たちが探し求めてきた宝珠に違いなかった。森羅万象《しんらばんしょう》の理《ことわり》をそこに映し出すという、超古代より伝わる伝説の神器だ。
その神秘的な光輝を初めて目《ま》の当たりにした俺は、呟《つぶや》きひとつ漏らすことなく吸い込まれるように宝珠を見つめていた。
俺は宝石の類《たぐい》は嫌いじゃない。が、それは金の代わりになるだけの価値が認められているからで、宝石自体の美しさなどに興味はなかった。それを金に換えてくれる奴がいなければ、俺にとっては道端の石ころと変わりがないのだ。
その俺が、宝珠の輝きに見|惚《と》れている。純粋に、その美しさに魅了されているのだ。
これまでに目にしてきた宝物など、どれも足下にすら及ばない。一体どれほどの魔法技術をもってすればこれだけの宝珠が造り出せるのか、俺には想像もつかなかった。
ディーも同様に、宝珠から目が離せなくなっていた。俺と違って宝石に目がない女エルフにとっては、この段違いの美は衝撃的ですらあっただろう。
すでにそれを目にしているザザでさえ、宝珠の魔力めいた吸引力には抗《あらが》えないようだった。さすがにこれを腹に埋め込んで持ち帰ったマイノスだけは、その時の苦痛が蘇るせいか冷静な視線を注いでいるに過ぎなかったが。
俺たちが宝珠から受けた感銘を消化するだけの間を取ってから、ベイキ女王はおもむろに口を開いた。
「あなたたち冒険者の働きによって、遂に伝説の宝珠はリルガミンにもたらされました。何よりもまず、お礼を言わせて下さい」
そう言って、信じられぬことに女王は深々と頭を下げた。
何と、あのベイキ女王がだ。マイノスを含め、俺たちはただ唖然《あぜん》とするほかなかった。ディーなどは首を竦《すく》め、目を真ん丸に見開いて驚きと戸惑いを表現している。この場に足を踏み入れて以来驚きずくめだったが、この女王の態度ほど俺たちに衝撃を与えたものはなかった。
「お、お顔をお上げ下さい、陛下」
恐縮しきったマイノスが慌てて叫んだ。己の主君に頭を下げられるなど、王国騎士には畏《おそ》れ多過ぎて考えることさえ能《あた》わぬ事態なのだ。
女王は頭を上げると、深淵の闇の色をしたその瞳でマイノスを見た。
「あなたがどれだけの勇気と苦痛をもってこの宝珠を持ち帰ったのか、それを考えただけでも頭が下がります。今は亡き私の父上も、きっとこうしたことでしょう」
そう答える女王の姿には、父親に負けぬ国王であろうと背伸びを続けてきた十七歳の少女の幼さは微塵《みじん》も感じられなかった。
「――しかし、支払った代償は大き過ぎました。探索の終局でこれだけの犠牲者を出してしまうなど、誰が予想し得たでしょう?」
女王は宝珠に視線を落とした。「この円卓ですら、私たちだけでは広く感じてしまいます。私は本当は、もっと大きな円卓を用意して、もっと盛大にお祝いをしたかったのに……」
そのわずかな瞬間、女王は本来の十七歳の素顔を覗かせた。
黒い瞳に、涙が光っていた。
俺は自分の考えが誤りだったと知った。ベイキ女王は宝珠が手元にある今も、迷宮から戻らぬ者たちの安否を気|遣《づか》っているのだ。
そして、彼女が急激に少女から女性へと変身を遂《と》げた理由も判った。
化粧でうまく隠してはいるが、女王の目元には泣きはらした跡があった。恐らくはこの数時間、涙が涸《か》れるまで泣きとおしたったのだろう。
女王を変えたのは悲しみだった。不自由なく育ってきた王族の娘が、涙を流す以外に抑える方法のない感情を覚え、その心に人の世の苦渋《くじゅう》を刻みつけたのだ。
それは、愛する者を失った痛みに間違いなかった。
「陛下!」
マイノスの呼びかけに女王は顔を上げた。十七歳の表情は消え、再び女王の風格が戻ってくる。
「何ゆえに私が彼らの探索に赴《おもむ》いてはならないのです。救助が早ければそれだけ助かる可能性も高いというのに、ここで足止めされては――」
「スケイルに入れねえんだよ」
俺はマイノスの言葉を遮《さえぎ》った。
「何?」
「目が覚めたばかりで何も知らねえんだろうが、落盤で入口が塞《ふさ》がっちまってるんだとよ。おまえ、他に侵入口を知ってるのか?」
マイノスは沈黙した。迷宮内の落盤の情報に動揺の色が隠せない。
「我々は入れませんが、結界を利用しての脱出は可能でしょう。今は連中が自力で生還してくれることを祈るしかありませんね」
ザザがあとを引き取った。が、この希望的な観測にも、マイノスの表情は暗かった。
「ところで、とっても大事なことなんだけど――」
ディーが宝珠に視線を注ぎながら言った。「それが手に入ったんだから、異変の原因はもう判ったんでしょう?」
もっともな質問だった。マイノスの腹から摘出されてから今まで賢者連中がこねくりまわしていたのだから、もう宝珠から答を得ていてもおかしくはない。
「それは、私もこの場で報告を受けることになっています」
そう言って、ベイキ女王は五賢者に視線を送った。
五賢者はそれぞれ顔を見合わせた。無言の相談の末、やはりエルフの賢者が代表に選ばれたようだった。
老エルフは報告を始めた。
だが、それは俺たちが期待していた吉報ではなかった。
エルフの賢者は、五賢者の中で最も年老いていた。
エルフ――太古の神話時代には青年期のまま望む限りの生を送ることができたというこの種族も、いつの頃からかその不老不死の特性は失われ、他の種族と同じく老いて朽ち果てるようになった。少なくとも例の大災厄に見舞われた千年前には、エルフの寿命も長くて二百年前後となっていたという。
それゆえに、かつては自然と調和し、人でありながら超然と生活を営んできたエルフの気質にも変化が訪れた。物欲を拒《こば》み、その人生を芸術的なまでに高めようとする精神は廃《すた》れ、短い人生の間に刹那《せつな》の快楽を追い求める傾向が強まってきたのだ。
この時代ではある程度の差こそあれ、種族間の気質にほとんど違いはない。つまり、人類の黎明《れいめい》期には飛び抜けて短命種で、最も野蛮だったとされる俺たち人間族《ヒューマン》の気質に近くなったわけだ。
しかしエルフ族は伝統的に、あらゆる生命は――たとえ怪物の命であってさえ尊《とうと》いものであり、それが失われるのは悲嘆すべき事態だと考える者が多い。これは人間族《ヒューマン》にはない独特の考え方で、長命を誇った時代の名残《なごり》とも言えるのだろう。もっとも冒険者の中には、ディーを例にとるまでもなくこの手のエルフは見当たらないが。
この賢者はそんなエルフ族の中でも、特に生命を重んじる者のひとりだった。
それだけに、異変の原因についての報告を始める際に賢者が見せた悲しげな表情は、俺たちの不安をかきたてるには充分だった。
そして、予感は的中した。
「結論から申し上げます。我々は宝珠により天変地異の原因を探る試みには成功致しました。しかし――」
老エルフは感情を押し殺した声で言った。「しかしながら、解りませぬ」
「解らない?」
ベイキ女王が即座に問い返した。「どういう意味です。宝珠は答を導き出したのではないのですか」
「宝珠は答を映し出しました。我々が、その像が何を指し示し、何を意味するのかを導き出せぬのです」
数秒間、俺たちはその言葉を頭の中で反芻《はんすう》した。
最初に笑い出したのはディーだった。
「――失礼。でも、おかしな話だわ。宝珠が問いに対して像を結ぶのなら、そこから質問を拡大していくこともできるってことでしょう? この像が示す原因は何なのか? どこにあるのか? だからこそ、すべてを映し出す宝珠なんじゃない」
「残念ながらそうではありませぬ。確かに宝珠の情報収集の魔力は万能に近い。しかしひとつの物事に関しては連鎖的に答を示すことはなく、問いの本質に対してのみ像が映し出されるのです」
賢者はディーに対しての言葉を切り、女王を含めた俺たち全員への報告を再開した。
「いかに言葉を変えようとも、求める解答はこの異変の原因にほかならないのです。つまりそれが示すただひとつの映像だけが、我々の知り得る情報のすべて、ということになります」
「どうしたら異変の進行を止められるか、というような問いはできないのですか?」
ザザが尋ねた。
「宝珠は現存する事実のみを映すのです。方法は選択の余地が残された未来に属する。その問いには、答える力をもっておりませぬ」
円卓には重苦しい雰囲気が漂い始めていた。
実のところ、俺はこの事態をある程度予測していた。
いや、俺ばかりじゃない。ディーやザザはもちろん、宝珠探索に携《たずさわ》わったほとんどの冒険者が胸に抱えていた疑念だった。
神秘の宝珠に託した希望は、この天変地異があまりにも唐突過ぎ、不自然な現象であるという賢者会議の出した見解の上に成り立っている。
高度な占星や精霊召喚をもってすら原因を解明できないばかりか、絶対の守護を約束する筈のニルダの杖の魔法障壁をも打ち破った異変の数々――そこには必ずや何らかの意志が働いている、というのが賢者たちの見解だった。そしてその原因が究明できれば、自然現象ではない以上異変を止める方法もある、と。
だが、ただの自然現象だったらどうなる? 害意が存在しないからこそ、杖の防御能力も働かないとしたら?
また、仮に人為的な――人とは限らないが――原因があったとしても、それがどうにも手の出しようがない類《たぐい》のものだったなら、やはり異変による破滅は免れない。
つまり、宝珠を手に入れたところで絶対に助かる保証はなかったということだ。宝珠の探索は天変地異を止める手段ではなく、あくまでその前段階に過ぎないのだ。
その不安は俺たちの間に、常に漠然と存在した。が、それを口にするのは自然と禁忌《タブー》になっていた。もしそうだとしたら、俺たちが梯子山《スケイル》の迷宮に潜ることに何の意味もなくなるからだ。
そして結局、事態は最悪となった。宝珠が原因を映し出しても、最高の叡智《えいち》を持つ五賢者にすらそれが何であるか理解できないのでは、異変を止めることなど不可能だからだ。
「――宝の持ち腐れってわけかい」
俺の呟《つぶや》きが沈黙を破った。視線を向ける老エルフに、俺は続けた。
「あんたがたに解らねえものが俺に見当がつくとも思えねえんだが、もしこの場でできるんなら、そいつを宝珠に映してもらえねえか。駄目でもともとのつもりで、俺たちが見ておくのも悪くねえだろう?」
「そうね。この宝珠がどう働くのか見てみたいわ」
ディーが相槌《あいづち》を打つ。「いかがかしら、女王陛下?」
ベイキ女王は、賢者の絶望的な報告にも努めて平静を保っていた。そしてしばらく目を閉じると、静かに五賢者に問いかけた。「できますか?」
その声に、微《かす》かな震えがあった。だが、それはもはや少女の怯《おび》えた呟きではなく、破滅の運命にある王国の統治者が、その重庄に必死で耐えながら絞り出した君命だった。
五賢者は頷《うなず》くと、その場に立ち上がった。身長に劣るノームとホビットの賢者には、上半身が円卓から上に出るだけの踏み台がすぐさま用意される。
彼らは左の人差し指と中指を揃え、女王の前で輝きを放つ宝珠にそれを向けた。そして、俺には理解できない奇妙な韻律の呪文を詠唱し始めた。
不思議な響きが室内を満たしていた。どこかしら気分を高揚させるような、耳慣れない旋律を刻んで唱和は進んでいく。
「多分、超古代の高等呪術言語のひとつよ。発音に特徴があるの」
目は賢者たちに向けたまま、ディーが俺に囁いた。「催眠効果があってね、自分自身の精神集中を高めているみたいだわ」
そう言ううちに、宝珠に変化が現れた。
表面に渦巻いていた色彩が薄れ始めたのだ。銀色の光輝は次第に弱まり、宝珠は大気に溶け込むかのようにその透明度を増していく。
やがて全く光を発さず、反射もしない一瞬が訪れた。
その瞬間、宝珠は消失したかに見えた。完全に透明になったため、向こう側がそのまま目に映っているのだ。
詠唱が止《や》んでいるのに気づいた時には、宝珠はすでに映像を結んでいた。
「これは――」
マイノスが呻《うめ》いた。
それは、球形の闇が蟠《わだかま》っているように見えた。
宝珠が映し出しているのは、漆黒の闇だった。冥府の底の如き、あらゆる光を吸い込む暗黒の空間がそこにあった。
――いや。
違う。
俺は目を細めた。宝珠の中の暗闇で、何かが蠢《うごめ》いたような気がしたからだ。
それは不可思議な映像だった。宝珠自体は十センチ程度の直径しかなく、しかも俺から数メートル離れた円卓上に位置している。そこに映し出されているものなど、視界の中ではほんの一点を占めているに過ぎない筈だ。
だが、一度宝珠に視覚を集中させると、周りの光景はすべて視界の外に追いやられた。宝珠の中の小さな映像が視界一杯に広がっているのだ。
まるで俺が暗黒の中にいて、直接そこを覗き込んでいるかのような感覚だった。これも宝珠の秘めた魔法の力に違いなかった。
次第に目が暗闇に慣れてきた。そして、俺はそこが全くの闇ではないことに気づいた。
遥か下方から、微《かす》かな赤い光が届いていた。その光が、蠢《うごめ》く巨大な何かをぼんやりと照らし上げている。
唐突に、俺はその正体を認識した。
煙だった。
恐ろしく深い竪《たて》穴の中を、凄まじいまでの量の黒煙が立ち上っている。その煙の腹が光に照らされ、赤黒くうねっていたのだ。
だが、宝珠が映し出そうとしているのは煙などではなかった。
俺は見た。濃い黒煙が割れたわずかな間に、そこに奇怪な代物が存在しているのを。そしてそれこそが、賢者たちの叡智《えいち》をも退《しりぞ》けているものだと悟った。
十数メートルの大きさはあろうか。
それは鉱物のようにも、また生物のようにも見えた。
金属の上に、生物的な滑《ぬめ》りのある表皮を薄く被《かぶ》せていると表現すればいいのだろうか。溶けかけたガラスを思わせる外皮を、それは有していた。
全体のフォルムは、球を半分ほどの厚さに押し潰したような印象を受ける。が、球体と呼ぶには表面にあまりにも突起が多過ぎた。
無数の太い触手のようなものが、それの全身から突き出していた。そのうちの幾つかは長く伸び、恐らくはこの物体を竪穴の中空に支えている。特に太い数本が、真っ直《す》ぐに下方へ伸びているのも見てとれた。
判ったのは、それだけだった。
限りなく暗闇に近い空間に浮かぶ、生物とも人造物ともつかぬもの。それが、宝珠の指し示す天変地異の原因だという。
確かにこんな情報では、五賢者が音《ね》を上げたのも納得できる。
今目にしている光景はどこで、この物体は何であるのか。そして、何ゆえにこれが天変地異の原因として映し出されるのか。その、異変の回避に必要なことが何ひとつはっきりしないのだ。
太古の時代、宝珠を造り出した者たちは、この程度の情報を示されただけでもすべてを読み取ることができたのだろう。神秘の宝珠は問いに対する事実だけを映し、それを分析するにはまた別の神器なり魔法なりが存在したのだ。
今となっては、それらの方法を模索する術《すべ》はあるまい。あとは――あまりにも虫が良過ぎるが――異変がこのまま鎮静してくれることを祈るしかない。
映像は再び黒煙の暗闇に包まれ、急速に遠ざかっていく。
我に帰ると、視界はもとの室内に戻っていた。
ディーとザザ、マイノスとベイキ女王も、今の映像を同じように幻視していたようだった。全員の顔に困惑と驚き、それと恐怖が綯《な》い交《ま》ぜになった表情が見てとれた。
ベイキ女王は胸の前で細い腕を交差させ、両肩を抱いて呼吸を整えようとしている。宝珠の見せた光景がよほどショックだったらしい。
それは俺たち冒険者も例外ではなかった。
ディーは親指を立てて拳を握り、それを額に当てて思考を巡らしているポーズをとっていたが、その拳は白くなるほど握り締められて細かく震えている。マイノスは首を振って脳裏から今の映像を振り払おうとし、ザザまでが額に汗を浮かべて両|掌《て》を固く組み合わせていた。
宝珠は、初めて目にした時と同様に輝いていた。あの暗闇とは対照的な銀の光に、俺も我知らず安堵《あんど》の吐息を漏らしていた。
「訂正するわ。見なければ良かった」
ディーが力なく呟《つぶや》いた。「あれはどこ? 地獄の釜かしらね」
「だとしたら我々にはお手上げですね。その原因に近づくことさえできないんですから」
ザザは自嘲気味の嗤《わら》いを浮かへた。「どのみち今のものが何であるのかさえ見当がつかないのでは、地獄でもどこでも大差はないですが」
「少なくとも、何に見えた」
俺は尋ねてみた。聞いてどうなるとも思えなかったが、あの異質なものを仲間たちが何と見るのか知りたかったのだ。
「あたしは巣のように見えたわ。もしそうだとしたら、棲んでいるのはきっと胸の悪くなるような生き物でしょうけど」
「巣――ですか。私はむしろ繭《まゆ》に近い印象を受けましたが、そこから孵《かえ》るものを想像すると巣のほうが救いがありますね」
ザザとディーもあの物体に、どこかしら生命体の匂いを嗅ぎ取っているらしい。しかし俺の知る限りあんな形態の巣や繭は類がない。
「目の錯覚かも知れんが」
マイノスが俺を見た。今ばかりは、お互いにいつもの啀《いが》み合いをする気にはなれない。
「黒煙の揺らめきではなく、あの巨大なもの自体が蠢《うごめ》いたような気がする。まるで、あれが生きているかのように――」
その考えを打ち消すかのようにマイノスは沈黙した。
俺たちの意見は、それでおしまいだった。
賢者たちはすでに着席していた。そのうちのひとり、長い白髯《はくぜん》を生やしたノームの賢者が、まだ衝撃の醒《さ》めやらぬ様子の女王に気|遣わしけな視線を送りながら口を開いた。
「この映像の正体が掴《つか》めぬ限り、我らの手で異変を食い止める方策を打ち立てることは不可能です。残された希望は、ここ数週間小康状態にある異常気象が、異変の終局を示すものであってくれれば、ということだったのですが――」
そこでノームは躊躇《ためら》い、そして意を決して言葉を継いだ。「良くない兆候が現れております」
全員が老いたノームを注視した。今以上に、悪いニュースが用意されているらしい。
視線を受け、ノームは続けた。
「これまでの異変の強弱の波と気象記録を合わせて分析したところ、あるパターンを成していることが判明したのです。そこに明け方の地震を当て嵌《は》めた結果、極めて高い確率で今後の変化が予測できました。即ち――」
自ら語ろうとする言葉に、老ノームは息を詰まらせた。「大破壊《カタストロフィ》が間近に迫っております」
声をあげる者はなかった。訊《き》き直す者も、喚《わめ》きたてる者も。
大破壊――それは天変地異の中、いつ起こってもおかしくなかった。だが、起こらぬことを願うあまり、俺たちはその事態を除外して考え続けてきた。
かつて文明の多くを壊滅させた悪魔王マイルフィックの暴風雨に匹敵するか、それ以上の破壊をもたらすであろう大変動。それが遂にリルガミンに襲いかかろうとしているのだ。
老エルフの悲しげな表情は、単に異変の原因が理解できぬからではなかった。
大破壊による大多数の民の死――いや、津波に呑《の》まれたアルビシア諸島のように、生き残る者さえいないかも知れぬ。その生命の消滅に、エルフは深い悲しみを見ていたのだ。
逃げ場はないだろう。俺も死の顎《あぎと》に捕らえられる。
そう思いながら、俺はある決意を固めていた。
「――ジヴラシア」
王宮の濠《ほり》に面した小庭園で、俺はひとり石のベンチに腰掛けていた。
久しぶりに、月が見えていた。薄く雲のかかった夜空に、ぼやけた満月が浮かんでいる。
黄色く濁った月光が、北の空を渡る雲の腹を浮かび上がらせていた。上空には強い風が吹いているらしく、追い立てられる獣の群れさながらに雲は流れてゆく。
その下に、黒々と聳《そびえ》え立つ梯子山《スケイル》のシルエットがあった。
山頂から昇る噴煙が、まるでそれが雲にでもなるかの如く夜空へ溶け込んでいく。
鏡のように鎮《しず》まった濠の水面《みなも》には、それらが逆さまに映し出されている。
俺は、それを眺めていた。
不気味なほどに、穏やかな宵《よい》だった。まるで、大地が来たるべき大破壊《カタストロフィ》に備えて力を蓄《たくわ》えているかのような――。
さあっと吹いた一陣の風に小波《さざなみ》が疾《はし》り、水面の像は千々《ちぢ》に乱れた。
その時だった。しばらく前から背後で俺を窺《うかが》っていた男が声をかけてきたのは。
気配を感じた時から、俺にはそれが誰であるのか見当がついていた。だからこそ、敢《あ》えて向こうが声をかけるのを待っていた。
そいつもまた、俺に気づかれていると知っていた。それだけに俺を呼ぶのを躊躇《ちゅうちょ》したようだったが、結局根負けした形になったわけだ。
「何だ」
波立った濠を眺めたまま、振り返らずに俺は応《こた》えた。
「話がある」
言いながら、男が石畳を踏む足音が近ついてくる。
ベンチの横に、平服に着替えたマイノスが立った。
俺は横目でマイノスを睨《ね》め上げた。
しかしマイノスは俺を見ず、真っ直《す》ぐに梯子山《スケイル》を見|据《す》えている。
少しやつれたが、相変わらず端正な横顔だった。だが、この男をこのアングルから見た覚えはほとんどない。
何故なら俺とマイノスは、相手が視界にいる時はほとんど正面からの睨《にら》み合いになっていたからだ。
こいつにだけは、たとえ睨み合いでも自分が逃げたなどと思われたくないと、お互いに餓鬼《ガキ》のような意地を張っていた。それが、今ばかりはマイノスが目を合わせるのを避けている。
何しろ、視線が絡《から》めば常に一触即発の緊張状態となった俺たちだ。自ら折れて目を逸《そ》らすマイノスの態度は、ここで諍《いさか》いを起こしたくないという意図が読み取れた。
俺にしたところで、無意味な喧嘩《けんか》をふっかける気はなかった。いつもなら挑発的な態度のひとつもとってしまうところだが、実のところ俺もこのリルガミンで一番気に食わない筈の男と話がしたかったのだ。
俺もマイノスに倣《なら》い、乱れた水面に視線を戻した。
先刻よりもう少し強い風が、俺たちの間でひょうっと鳴った。周囲の木々がざわざわと葉を擦り合わせる。
風に、秋の匂いがした。
異変が始まって一年。温暖でありながらも四季の変化に富むリルガミンだったが、気象の異常はそれらを忘れさせるほどに激しかった。幸い市内には人々の手入れと、ニルダの杖の残留障壁のせいもあってわずかながらの緑が残っているものの、街の外に広がる平原は罅《ひび》割れた荒野と化し、季節を感じさせる眺めはもはや存在していない。むしろ季節が存在しないと言っても良かった。
しかし、それは確かに秋風だった。もの寂しげな、終焉《しゅうえん》の時を間近に控えたリルガミンに相応《ふさわ》しい風――。
五賢者の報告――神秘の宝珠を用いでも天変地異を止める手立ては見い出せず、さらには近く大破壊が訪れるであろうとの最悪の予測――のおかげで、結局|晩餐《ばんさん》は主催者を欠く恰好となった。衝撃的な知らせや事件にも気丈に耐え続けたベイキ女王だったが、もはや迫り来る破滅は避けられぬと告げられ、賢者の報告も半ばで会食の席を退出してしまったのだ。
女王の計らいで食事は饗《きょう》されたが、間もなく五賢者とディー、それにこのマイノスも席を外したため広い円卓でただ俺とザザだけが飲み食いする有り様だった。もっとも俺にとっては久しぶりに胃袋を満足させることができ、また気兼ねもいらぬ願ってもない晩餐になったのだったが。
そうして独りこの庭園に出、半時間ほど思いを巡らしていたところにマイノスが現れたのだ。
「――エレインを、仕留めてくれたそうだな」
長過ぎる間を置いて、ぎこちなくマイノスは言った。「礼を言う」
「礼?」
これには俺も少々驚いた。この男が、よりによって俺に礼とは。
「エレインは、私にとって弟のような存在だった――」
これまでに俺とは交わしたことのない柔らかい口調で、マイノスは続けた。「種族こそ違ったが、何故かやけに馬が合った。迷宮に出ない日などは、よく夜通し平穏を取り戻してからのことを語り合ったものだった」
「へえ」
ここまで聞いて、俺はマイノスが遠回しに恨み言を言いに来たんじゃないかと勘ぐった。よくも友の命を絶ってくれたな、と。
だが、マイノスは俺の疑いを込めた、いかにも退屈そうな合いの手を無視して言葉を継いだ。
「スケイルで命を救い、救われたのも一度や二度ではない。つき合いは一年あまりだったが、十年来の友にも勝るかけがえのない仲間だった――」
「……」
「宝珠の探索を志願した時から、覚悟はしていたつもりだ。いつ何時《なんどき》仲間が、そして私自身が命を落とすことになるかも知れぬとな。もしそのまま消滅《ロスト》したとしても、それは仕方がないと思っていた。だが――」
ふと、マイノスは黙りこくった。
数秒後に口を開いた時、その語調は抑えてはいるが、燃え盛る炎の如き激情を内に含んでいた。
「だが、あんな化物――妖獣《ゼノ》に生きながら食い尽くされ、記憶さえも奪われるなどという死にかたは別だ」
マイノスが俺を見た。
俺もマイノスを見上げた。
この場で初めて、ふたりの視線がぶつかった。
「もはやエレインではないものが、エレインになりすましていたのだ。迷宮の中であいつの眼を見た時、背筋が凍りつく思いだった」
握り締めた拳が、夜目にも白く震えていた。「それが、いつもと変わらぬ声で俺の名を呼んだ。恐ろしかったよ――」
俺は無言でマイノスの瞳を見つめていた。そこにはあの妖獣に対する激しい憎悪と畏《おそ》れとが浮かんでいる。
「そして、冒涜《ぼうとく》だと、許せないと思った。この化物だけは必ず息の根を止めてやると。そうしなくては、エレインもアルタリウスも浮かばれん――」
その気持ちは、俺にも解った。
死後も他者に――それもあんな化物に、自分の培《つちか》って来た記憶を覗かれているとしたらどんな気がするだろう。また、それを利用して自分になりすまされたとしたら。
現に俺はそうなりかけたが、あの|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》での闘いを思い返すと、いまさらながら全身の皮膚が粟《あわ》立ちそうだった。誰にだって、墓場にまで背負っていきたい記憶のひとつやふたつはある。
「正直なところ、私はあの時」
マイノスの瞳の中の物騒な光が、ふっと弱まった。「貴様たちが本当に|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》に向かい、妖獣《ゼノ》の始末をつけてくれるとは思っていなかった。悪《イビル》の戒律の者が、わきわざ危険を冒すわけがないと」
「へっ」
俺は唇を曲げ、薄雲のかかった月を見上げた。
「気を悪くしたのなら謝罪する。先刻の会食前の侮辱も含めて――」
「そのくらいで臍《へそ》を曲げたりはしねえ」
俺はマイノスを遮《さえぎ》った。これ以上下手に出られると調子が狂う。「普通なら行かねえところだ。俺たちの戒律では恥でも何でもないからな。ただの気まぐれで、褒《ほ》められる筋合いのことじゃねえ。それに、宿の連中は蘇生できなかったんだしよ」
俺は、大破壊《カタストロフィ》の予告の後につけ加えられた犠牲者の検死報告を思い起こした。
妖獣《ゼノ》――ゼノとは、ノームの言葉で誰も知らぬ者≠フ意味がある――と呼ばれることになったあの化物は、他生物の肉体を細胞単位で取り込み、支配し、完全に同化する。それが焼け残った屍《しかばね》や、全身妖獣と化したエレインの躰《からだ》を調べた末の結論だった。
通常異なる生物、というより同種であっても異なる個体間では、肉体の一部を繋《つな》ぎ合わせることは僧侶呪文の力を借りでもほとんど不可能に近いとされている。腕を切り落とされた男に別の男の腕はつかないのだ。
賢者が言うには、同じ人間同士でも血肉を造っている成分はそれぞれ少しずつ違うらしい。それを無理に繋げようとすると、互いに拒否反応を起こして勝手に離れるか、悪くすればどちらの細胞も死んでしまうのだそうだ。
親兄弟の間なら稀《まれ》に細胞が融合する場合もあるそうだが、好んでそんな真似をする奴もいないだろう。大治《ディアルマ》や快癒《マディ》などの治療呪文を用いれば、処置さえ遅過ぎなければ傷はおろか腕の一本や二本は丸々再生することも可能だからだ。
もっとも今よりも高度な魔法が駆使されていた超古代には、全く別種の生物の肉体を組み合わせる技術も存在していたという。高山地帯に棲息するキメラなどは獅子と山羊《やぎ》、それに竜の頭を持つ合成生物の典型であり、梯子山《スケイル》に巣くっている半人半馬のケンタウルスともどもその時代の悪趣味な魔法実験の落とし子であるらしい。
それにしたところで、異種族間の細胞融合は一朝一夕のうちにできはしなかっただろう。もしそうなら、この世界は今頃奇怪な合成生物に埋め尽くされていたに違いあるまい。
だが、あの妖獣《ゼノ》の奴は違っていた。
賢者達はエレインの死骸からまだ死にきっていない細胞の一部を取り出して活性化させ、馬や兎、鼠などの動物や昆虫数種に植えつけて実験を行った。その結果、妖獣《ゼノ》の細胞はあらゆるケースにおいて全く拒否反応を起こすことなく融合を開始し、同化を進行させつつ体内に妖獣本体となる指令体《コマンダー》≠造り出すことが判ったのだ。
実験動物たちは賢者の想像を遥かに越えるスピードで同化され、意識を支配された。対応が遅れれば妖獣が完全に復活するところだったが、実験場に選ばれたのは竪《たて》穴状に掘られた逃走不可能な石牢で、しかもあらかじめ油を撒《ま》いておいたためすんでのところで焼却できたそうだ。
他の生物の体内に寄生する怪物には幾つか例がある。ジガバチの巨大種であるジャイアントワスプは大型の哺乳類に卵を産みつけ、孵《かえ》った幼虫がその生物を食い尽くして成長することで知られているし、死霊《ワイト》系の不死怪物《アンデッドモンスター》なども本体が人の屍《しかばね》に潜り込んで操っているようなものだ。
しかし、それはあくまで他生物に潜っているに過ぎない。同化ではないのだ。
このように同化・融合を行う生命体は、聖都リルガミンの叡智《えいち》を束ねる賢者たちでさえ初めて知り及ぶ代物だった。
また、指令体《コマンダー》≠ェ抜け出した後の屍《しかばね》は、もはや妖獣《ゼノ》に取り憑かれる前の肉体とは別種のものになってしまっていることも確認された。ほとんど消し炭になってはいたが、アルタリウスや近衛《このえ》隊長の体細胞を調べたところ、ある程度の特徴を残しつつも妖獣《ゼノ》の細胞組織に近いものに変質していたのだ。
これには重大な意味がある。
俺たち冒険者は日々実戦で心身を鍛え上げているため、常人とは比べものにならない生命力や運気を持っている。それゆえに心臓が停止し、血の流れが止まった状態――即ち死も、多くの場合絶対ではない。
老衰や病死はともかく、刀傷や呪文などの外傷で斃《たお》れたのであれば、魔法の力で蘇生する可能性が充分にある。僧侶呪文第五レベルの復活《ディ》や第七レベルの還魂《カドルト》によって死亡状態にある肉体を活性化させ、失われた魂を再び呼び戻すことができるのだ。
無論、失敗もある。蘇生呪文のエネルギーを吹き込まれる肉体がそれに耐え切れず、燃え尽きてしまう場合も多々あるのだ。これは術者の腕と死者の生命力のキャパシティにもよるが、運の占める要素が大きい。
そしてこの、さらに高度な灰からの蘇生に失敗した時、それは完全な死――消滅《ロスト》を迎えることになる。埋葬に際して灰のかけらすら残らないというのも寂しい限りだが、まあ、二度は蘇る機会があると考えれば取るに足らないことだろう。
さすがに頭部が失われたり、ゾンビ並に腐敗した者に魂を呼び戻すことはできないが、それでも俺たちは並の人間に比べて遥かに消滅《ロスト》しにくい。さらにリルガミン市には呪法による蘇生術に重きを置くカント寺院があり、ここは寄付と銘打った料金が高額ながら蘇生成功率もかなり高い。
だから命を落としても安心、とまではいかないものの、多少は希望をもって戦いに臨《のぞ》むことができたわけだ。
だが、妖獣《ゼノ》に同化された場合、蘇生は全くの不可能となってしまう。腕や脚の一部なら切り離すこともできるが、脳細胞まで変質してしまったなら、もし蘇ったとしてもそれはもはや人間ではあり得ぬ別の生物であるからだ。
外見は同じでも中身は異質な、妖獣《ゼノ》の精神に支配された生命体――そこから再び、妖獣《ゼノ》本体が生み出されるかも知れないのだ。
取り憑かれたが最後、二度と生き返る希望はない。それどころか、自分の記憶を食われ、あの化物に俺のふりをされるくらいなら消滅《ロスト》したほうがまだましだ。
そう考えると、妖獣はまさに最悪の怪物と言って良かった。
そして俺は、その最悪の連中と一戦交えるつもりになっているのだ。
「そんな話をしに来たんじゃねえんだろ」
薄雲がにわかに吹き散らされ、月光が庭園に降り注いだ。
その光に勇気づけられたように、マイノスは言った。
「――私はスケイルに行く。力を、貸して欲しい」
「入口がねえんだぜ。落盤でよ」
俺はマイノスに向き直った。その彫像めいた白面に、仲間を救う固い決意が見て取れる。
「転移《マロール》で岩塊を越えるつもりなら、俺よりディーに頼んだほうがいいんじゃねえか。多分あいつは腹の底まで煮えくり返らせてるだろうがよ」
「彼女やザザにも改めて謝るつもりだ。しかし、転移《マロール》で入口を突破するのは不確実過ぎる」
「て、ことは――」
俺は勢いよく立ち上がった。それこそが聞きたかった話なのだ。「他に迷宮への侵入口があるんだな?」
「ある」
マイノスは梯子山《スケイル》を見上げた。「私はそこから脱出したのだ」
「どこだ」
完治した右の指で、マイノスは指し示した。
俺は目を疑った。
その指が向けられているのは、どう見てもスケイルの山頂付近か、少なくとも中腹より遥かに上方だったのだ。
「|牙の教会《テンプル・オブ・ファング》――貴様は良く知っているだろう」
いきなり何を言い出すのかと、俺は訝《いぶか》った。
牙の教会とは、迷宮第五層の一角を占める狂信者どものアジトだ。何でも得体の知れぬ邪神を崇《あが》める秘密結社で、生贄《いけにえ》を求めるその教義ゆえに各国で御禁制とされてきた邪教の一派であるらしい。それがいつしか迷宮に逃げ込み、そこを隠れ家としているのだ。
普通の人間なら生き残れないところだが、連中は狂信的ではあれ極めて組織だっていた。信仰の強さゆえか全員が中位以上の能力を持つ僧侶で、しかも常に集団で行動する。そして、立ちはだかる相手には――冒険者、怪物を問わず――決まれば一撃で心臓を停止させる僧侶系第五レベルの呪文・呪殺《バディ》を浴びせかけるのだ。まともに戦っては、命が幾つあっても足りるものではない。
おかげである程度知性を持つ魔物は連中に手出しをせず、逆にこの|牙の僧侶《プリースト・オブ・ファング》どもから冒険者の屍《しかばね》という餌をもらう、言わば飼われているような有り様だった。こんな剣呑《けんのん》な邪教僧ともを敵に回すのは得策ではないと、魔物なりの損得勘定が働いているのだろう。
だが何故、この教会のことをマイノスが口にするのか。
迷宮第五層には、善《グッド》の者を迷宮外にテレポートさせる例の特殊結界が張り巡らされている筈だ。その中にある牙の教会に、善《グッド》の戒律を持つマイノスが足を踏み入れられるわけがない。
が、まさか――。
「あの教会の奥に、スケイルの外壁へと通じる抜け穴がある。本来は出入り口ではなく、ごみを廃棄するためのものらしいが」
「待て。まさか結界が――」
「消えている。原因は判らん」
マイノスは俺の目を見つめ、静かに言った。「そして、知り得る限り確実な侵入口はここだけだ」
「正気か」
俺は無理矢理噴き出してみせようとした。「何で梯子山《スケイル》か知っているだろう。龍がいて、天秤《スケイル》のようだからだけじゃねえ。梯子《スケイル》でも架けなきゃ攀《のぼ》れねえからだろうが」
ル‘ケブレスの結界が消えていようと、マイノスの提案は常軌を逸《いっ》していた。
迷宮第五層の位置は、標高にして約九百メートル。そこに開いた廃棄口まで、ほぼ垂直に切り立った梯子山《スケイル》の断崖絶壁を攀ろうというのだ。狂気の沙汰としか思えなかった。
しかし、向かい合うマイノスの目は本気だった。
「不可能ではない」
自分に言い聞かせるようにマイノスは呟《つぶや》いた。
「――方法はある。それには貴様の協力が必要なのだ」
マイノスが立ち去った後も、俺は庭園に留まっていた。
理由はふたつある。
ひとつはマイノスの奴が持ちかけてきた迷宮への侵入方法が、あまりに突拍子もない話だったからだ。
梯子山《スケイル》を攀《のぼ》る――。
普通なら、笑い飛ばして然《しか》るべき提案だった。山というよりむしろ塔、大地に突き立った巨龍の牙とも見える梯子山《スケイル》の、限りなく垂直に近い壁面をほぼ千メートル攀《よ》じ登ろうというのだ。
有史以来そんな真似を試みた奴は、たとえそれが百メートルであってもいなかっただろう。翼でもない限り、途中で滑落すれば地面まで真っ逆さまだ。百メートルも加速しながら落下すれば、運気が驚異的に強いホビットであっても助かる見込みはない。
俺たち冒険者がよく使った冗談に、ベイキ女王を口説くのと梯子山《スケイル》を攀《のぼ》るのはどちらが楽か、というのがあった。もっぱらこれは女王の陰口に使われ、問われた者はそれでも山登りを選ぶという落ちがつくのだが、いざ実行するとすればプライドは高くでも初《うぶ》な小娘に夜這《よば》ったほうがまだ望みがありそうだった。
空中浮遊や飛行の呪文も存在していたという超古代なら、標高千メートルの高みにある火口にでも辿り着くことはできただろう。しかし、その類《たぐい》の魔法技術は失われて久しい。
考えるほどに、不可能に思えてくる話だった。
だが、俺はその話に乗りかけている。
どうやって攀るのかまでは、マイノスは語らずに去った。具体的な方法は、まだ何も判ってはいない。
それなのに、俺はこんな馬鹿げた救出計画に協力する気になっているのだ。
何故か?
あのマイノスが、俺の力が必要だと言ったからだ。
善《グッド》と悪《イビル》の戒律が相反するだけでなく、互いに気に食わぬ相手として俺たちは反目し合ってきた。
一応は宝珠探索の一チームを形成してはいたが、仲間と考えていたのは重複する中立のメンバー――ガッシュとボルフォフ、フレイだけで、善悪のパーティ間に友好関係などは存在しなかった。そして、中でも俺と奴は特筆すべき険悪な間柄だった。
そのマイノスが、俺に助力を求めている。人一倍誇り高い王国騎士の末裔《まつえい》が、自ら折れてこの俺に頼んでいるのだ。
そいつが、気に入った。
裏を返せば、マイノスが信念を曲げても構わないと思うほどに、俺にこの計画の成算がかかっているということになる。ならば、賭けてみるのも悪くない。
加えて、俺は以前ほどマイノスを嫌ってはいない自分に気づいていた。
命|懸《が》けで宝珠を持ち帰ったことを、ザザに聞かされた時から――いや、王宮での戦闘に血に塗《まみ》れたマイノスが現れた時から、俺はこの優《やさ》男の常人離れした闘志に一目置いているのだ。失血死寸前であれだけの気迫を保てる者は、そうざらにはいない。
認めたくはないが、俺はマイノスに関して冷静な判断を欠いていたらしい。反《そ》りは合わなくとも、頼りになる剣士であることに違いはないのだ。
そして何より、俺自身が迷宮への救出行を望んでいた。他に方策が見当たらない以上、不可能に思える案でも選択の余地はない。
それだけに、マイノスが明朝の出発準備に去った後も、俺はここで断崖の登攀《とうはん》について思案し続けていた。
「いい加減に出てこいよ」
俺は背後の小|径《みち》沿いに伸びる低木の生け垣に声をかけた。異常気象で枯れかけてはいるが、陰に人が隠れるには充分に葉が残っている。
「うまく隠れてたつもりだったけど」
ディーの声が返ってきた。
俺がこの場を立ち去らなかったもうひとつの理由がこれだった。こいつが先刻からずっと、息を殺して俺の様子を窺《うかが》っていたのだ。
「それだけ俺が優秀な前衛ってこった」
「全くね」
生け垣を回り込み、ディーは俺の座るベンチに並んで腰を下ろした。「幸せに思うわ。これであんたにもう少し分別があればね」
「そうかな」
俺はそらっとぼけた。マイノスとの話を盗み聞きしていたディーが何を言おうとしているのかは予想がつく。
「そうよ。独りで迷宮に入ったりとか、あたしがあんたならしないわ。勝ち目のない賭けもね」
「……」
「ねえ、本気なの」
身を乗り出し、ディーは俺の目を覗き込んだ。
「聞いてたんだろ」
俺は肯定した。
「何を考えてんのよ、あんたも、マイノスも!」
眉を寄せ、ディーは声を荒らけた。「五賢者の話を全然聞いてなかったんじゃないの?」
「大破壊《カタストロフィ》のことか」
「それ以外に何があるのよ! もしあの断崖を攀《のぼ》れたとして――蜥蜴《とかげ》だって無理でしょうけどね――しかもあの妖獣《ゼノ》がうようよいる迷宮を抜けて、運良くまだ無事だったガッシュたちと合流できたとしてもよ。助かりゃしないのよ、誰も。大破壊《カタストロフィ》が起きれば、どこにいたって死ぬわ。それが迷宮の中か外かの違いだけだってのに、それでもわざわざ連中を助けに行こうって言うの」
俺は無言だった。
ディーは続けた。「義理堅い善《グッド》の連中だって、多分そんな奇特な真似はできないでしょうよ。まして悪《イビル》のあんたが、何だってマイノスに従う気になるのよ?」
「……」
「普通なら、取る道はふたつよ。死ぬまでの短い間をせめて思うままに過ごす――あんたの好きな酒を浴びるほど飲んだっていいし、気に入った相手と快楽に耽《ふけ》ったっていいわ――そうじゃなければ、できる限り遠くに逃げるかのどちらか。東の内陸部は地盤が古くて安定してるって話だし、もしかしたら大破壊《カタストロフィ》から助かるかも知れないわ。でもね、だったら今すぐにこの都を出なきゃならない。スケイルに行ってる暇なんてないのよ」
最後は、子供に言い聞かせるような口調だった。
正論だった。
悪《イビル》の戒律を持つ冒険者なら、まずそのどちらかを取るだろう。ディーとザザがそうしたって、俺が責める筋合いではない。
仲間の命を第一に考える善《グッド》の連中にしろ、間もなく大破壊が訪れるとあっては救出になど向かわないだろう。マイノスが梯子山《スケイル》に行く最大の理由も、救出よりはむしろ妖獣《ゼノ》への復讐の念に駆られているからにほかならない。
そして俺は――。
「――なあ、ディー。おまえの生き甲斐ってのは何だった」
「え……何よ急に」
戸惑った様子で、ディーが訊き返す。
「思うままに生きるなら、俺はやはりスケイルに行きてえ」
俺は言った。「酒もいいし、女だって嫌いじゃねえ。死んだ気になりゃ大破壊《カタストロフィ》からも逃げられるかも知れねえ。だがな、賢者の話を聞いた時に思ったのはそんなことじゃなかった」
「――」
「戦いてえと、そう思った。それで決めたのさ。マイノスに頼まれたからじゃねえよ」
真意を確かめるように俺をしばらく見つめると、ディーは肩を竦《すく》めて大きなため息をついた。
「本気で言ってるところが始末に負えないわね。忍者ってみんなこうなのかしら」
「かもな」
そう言って、俺もディーも黙り込んだ。
奇妙な沈黙が流れた。
ディーはベンチに真っ直《す》ぐ座り、俺に横顔を向けている。呆れているようだったが、怒っているようにも見える表情だ。
それがどうにも落ち着かず、俺はとっておきの冗談を披露した。
「なあ、あの妖獣《ゼノ》の煤《すす》だらけのホールな、床を一時間で綺麗にするにゃ掃除人が何人|要《い》るか判るか?」
「……」
「答はひとり。裸足のホビットを走らせときゃいいってんだが――」
「つまらない」
ぼそりと呟《つぶや》かれ、俺は黙った。結構面白いと思ったのだが。
ややあって、ディーはまた呟いた。
「あたしは、つき合わないからね」
「へっ?」
「スケイルになんか行かないって言ってるのよ」
眉を吊り上げて、ディーは俺を睨《にら》みつけた。「期待はしてなかったでしょうけどね。あたしはこれからおもしろ可笑しく過ごすつもりだもの。男どもをはべらせて、せいぜい楽しんでやるわ」
ディーは不機嫌そのものだった。しかし何を怒っているのか、俺にはさっぱり理解できない。
戦闘時の相手の心理状態なら手に取るように判るのだが、平時の女の心理となるとこれは全くの別物なのだ。
「大体ね、あたしは盗み聞きをしに来たんじゃないのよ。もうどうでもいいかも知れないけど、例のボルタックの客分が出かけたって知らせが来たの。ニルダ寺院跡を見物するとか言ってたそうよ」
「寺院の廃墟に?」
話の矛先《ほこさき》が変わったのはありがたかったが、それ以上に俺はこの知らせに興味があった。
俺の命の恩人とも言うべきあの男が、今は廃墟でしかないニルダ寺院跡などに、一体何をしに向かったのか。
「熱心なニルダの信徒なんじゃないの? 用件はそれだけ。確かに伝えたわよ、朴念仁《ぼくねんじん》」
言いながら、ディーはベンチから腰を上げた。「せいぜい夕べのお相手の娘を泣かさないようにね」
一瞬、俺は何のことか判らなかった。
「あんたの頬を引っ掻《か》いた、ぞくっとくるほどいい女とやらよ」
「――ああ」
夢魔《サッキュバス》につけられた傷のことだった。ディーにはまだ夢魔の件は話していないため、生身の女だと誤解しているらしい。
「決着《けり》はつけねえとな」
「何の決着だか。じゃあね、あたし行くわ」
「いや、ちょっと待った」
立ち去ろうとするディーを、俺は立ち上がって呼び止めた。「寺院跡までつき合っちゃくれねえか。例の男の素姓が知りでえんだが、あの奇妙な呪文と言い、俺の知識じゃ手に余る」
「あたしも? まあ、いいけど」
考える素《そ》振りを見せたものの、ディーはすぐに承諾《しょうだく》した。「そのくらいはつき合ってあげてもね。それに、その男っていうのが凄い美男らしいのよ」
「へえ」
フードを被《かぶ》り、ベールまで垂らしていたため、俺は奴の顔を全く見ていない。美男と呼ぶからには、さほど歳は食っていないということか。
「だったら急ぎましょ。あんな場所にいつまでもいるとは思えないわ。瓦礫《がれき》の山しかないんだから」
そう言って、ディーは先に立って王宮へと続く小|径《みち》を戻り始めた。
俺も、後に続く。
夜のリルガミンにいつの間にか、霧が出始めていた。
王国の守護神ニルダを祀《まつ》る大寺院の跡地は、リルガミン市の北端に位置している。
かつては精霊神ニルダの主神殿として多くの参拝者を集めたこの寺院も、異変初期の地震で倒壊して以来一年が経過した今では全くその面影を残していない。
ニルダの杖が安置され、都市全域を覆う魔法障壁が最も強力に働いていた筈の寺院の崩壊は、ニルダ神に対する人々の絶対的な信頼を揺るがすに足る出来事だった。
天変地異の対応に追われた賢者会議が再建計画を先送りにしていることもあったが、以前はあれだけ隆盛を誇った寺院の広い敷地に、片づける者もなく瓦礫《がれき》の山が築かれている景観は見ていて気分の良いものではない。この都市に住む者の大半は人間族《ヒューマン》だが、総じて我が種族は信仰心が薄いと言われるのも頷《うなず》ける有り様だった。
「この霧は何よ。こんなランプの灯りなんて足|下《もと》だって照らせやしないわ」
俺の横で、ディーが忌々《いまいま》しげに毒づいた。小石につまずく度《たび》に反射的に呟《つぶや》くため、もう何度も同じ台詞《せりふ》を繰り返している。
現在は訪れる者も稀《まれ》なその廃墟に、俺とディーは足を踏み入れていた。
リルガミンには珍しい夜露が、いつの間にか視界を覆い尽くしている。ディーの言う通り、携行ランプの光など役に立たない濃密な霧だ。
石畳の広場には寺院の残骸が散らばり、そこかしこに折れた円柱や巨石が怪物じみたシルエットとなってぼんやりと浮かび上がっている。
だが、そこに俺たち以外の人影は見当たらなかった。
「ボルタックに戻ったんじゃない? こう視界が利かないんじゃあ、危なっかしくて歩いてもいられないわよ」
また石を踏みつけて転びかけ、ディーは泣き言を言った。
霧が深く、敷地が広いとは言え、もとが限られた空間しかない城塞都市の中だ。あの男がこの寺院跡にいるのなら、もうとっくに出会ってもいい頃だった。
白く煙る廃墟に、俺たちの足音だけが静かに響いている。俺は全身の神経を聴力に集中させていたが、他には何の音も聴こえてこなかった。
だが、俺は確信していた。
毛先ほどの気配も感じられない。が、霧のカーテンの向こうから、確かに誰かが俺たちを見つめている。
それがあの男であることに、疑う余地はなかった。
「帰りましょうよ、ねえ……」
「しっ」
俺は人差し指を唇に当てた。「いるぜ。賭けたっていい」
「どこに?」
ディーは周囲を見回した。
「判らねえ。だがよ、気配はねえってのに見られてる感じがする。こいつはただ者じゃねえぞ」
俺は用心深く囁《ささや》いた。熟達者《マスター》≠フ忍者に隠身してのけるとなると、これは並大抵の実力ではない。隠れんぼの天才か、さもなければ相当な修羅場をくぐってきた奴だ。
その時、空気が流れ始めた。
湿った微風が、ゆっくりと俺たちの周りの霧を押し流していく。
その霧の漂う先に、巨大な影が見えた。その影に当たり、霧はふたつに分かれて後方へと流れている。
俺は目を凝らした。
それは、傾き折れながらもまだ大地に突き立っている円柱だった。
だが、俺はそれを見ていたのではない。
「探している相手は、見つかったかな」
頭上から、炎上する|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》で聴いた、あの声が響いた。
「ああ、たった今な」
俺は応《こた》えた。
円柱の上に、影が蟠《わだかま》っていた。
「円柱に――」
びょう、と風が吹き抜け、言いかけたディーの髪を流した。
円柱の周囲の霧が吹き払われ、冴《さ》えた月光が降り注ぐ。
長身の男が、そこに立っていた。
ベールを取り払い、フードも被《かぶ》ってはいなかったが、間違いなくあの男だ。
信じ難いほどに美しい男だった。長い金色の髪は月の光に照り輝き、白く浮かび上がる肌は磨き抜いた宝玉を思い起こさせる。
マイノスも優《やさ》男だが、あいつは人間としての美男だ。だが、こっちは非人間的なまでに完璧な美貌だった。
ダークブラウンの瞳が、俺たちを見下ろしていた。
「私のことを、嗅ぎ回っているようだな」
「礼が言いたくてね。悪く思わねえでくれ」
俺は頭を掻《か》いた。「それによ、訊《き》きてえことも幾つかあってな」
ふっと、男が微笑んだ。
「まずは名乗れ。名は人を表す」
「ああ」
応えながら、俺は考えていた。名を尋ねるってことは、俺を知っているわけじゃないのか?
「ジヴラシアだ。こっちは――」
「ディーよ」
男を見つめながら、ディーは短く答えた。
「ふむ。ならば名乗ろう」
不安定な円柱上で微動だにせず、良く通る声で男は言った。「我が名はアドリアン。ファールヴァルト公国より、長き旅の果てにこの地に辿り着いた」
「ファールヴァルトですって!」
ディーが叫んだ。「まさか。だってそれは古代に滅亡した森の彼方の国≠フ名よ」
「ほう、博識な女だな」
アドリアンと名乗る男は言った。「だが事実だ。そして私はその秘術を伝えし者」
次の瞬間、俺たちは息を呑《の》んだ。
アドリアンの躰《からだ》が、ふわりと宙に浮かび上がっていた。
それは、この世のものとは思えぬ幻想的な光景だった。
周囲には、静かに夜霧が垂れ篭《こ》めている。
そこだけが、綺麗に露を吹き払われていた。
長身の男の姿が、冷たい月の光を浴びて浮かび上がっている。
寒気がするほどに、美しい男だった。闇がその白い肌を際立たせ、月光が金の髪を燃えるように輝かせている。
夜の化身――そう呼ぶに相応《ふさわ》しい、夜闇によって引き立つ美貌だ。それは陽光の下では決して見ることのできぬ、妖しい艶《あで》やかさだった。
そして――。
男の躰《からだ》は宙にあった。
足の下には、空気以外何も存在してはいない。
半ばで折れた円柱の上から、男は数歩足を踏み出しているのだ。
一瞬の出来事ではない。
もうすでに十秒あまりも、男の躰は五メートルほどの高さの空中で静止している。
俺とディーは声もなく、惚《ほう》けたようにその姿を見上げていた。
「……浮遊《リトフェイト》の呪文」
ようやく、ディーが声を絞り出した。「この数百年、復活に成功した者はいないっていうのに……」
頭上で、男が薄く笑みを浮かべた。
――ファールヴァルトのアドリアン。男は、そう名乗った。
森の彼方の国≠フ話は、俺も幼い頃の寝物語に聞かされた記憶があった。
大陸の遥か北方に広がる大森林地帯の深部に、神世の時代から栄え続けた国があったという。
そこには世界中から高い知識と魔法技術を持つ賢人たちが集まり、生活に必要なあらゆるものは魔法の力で賄《まかな》うことができた。
雷《いかずち》の力が夜闇を切り裂いて国中を昼のように照らし、水は低所から高所へと流れ、食用となる動植物は通常の数十倍の早さで成長する。古代の超魔法が衰えていなかったその時代においてさえ、そこで用いられた秘術は群を抜いて高度なものだった。二ルダの杖に匹敵する防護魔法をも備え、その繁栄は何者にも侵されることなく続くかと思われた。
だが、今から数千年前、一夜にしてその国は滅亡した。
それは魔法の恵みを享受《きょうじゅ》することに慣れ、驕《おご》り高ぶった人類に対する神々の怒りだったのか――。
すべてが満たされた生活に飽き足らなくなった賢人たちは、こぞって生命の理《ことわり》を超越する研究に手を染めたという。
いかなる秘術をもってしても、決して避けることのできぬ老いと死。それを克服する方法――即ち不老不死を求めて、禁忌《きんき》とされる神の領域を彼らは冒していた。
繰り返される実験と新たな魔術。それらは次第に道徳性を失った、邪《よこしま》な暗黒の呪術へと暴走を始めた。そして運命の夜、実験室のひとつで遂に生まれてはならないものが誕生したのだ。
不死族《アンデッド》――邪悪な魔力の波動を糧《かて》に、血の流れと呼吸なしに活動する負の生命体。命あるがゆえに死を迎えると考え、死に等しい状態で不老不死を実現しようと造り出されたのが、今や命あるものの天敵とも言うべきこの化物だった。
ゾンビや灰造人《アッシャー》などの低級な傀儡《くぐつ》から、屍《しかばね》に霊魂の類《たぐい》が取り憑いた死霊《ワイト》系、さらにほとんど実体を持たない幽霊《ゴースト》系など現在では多種の不死怪物《アンデッドモンスター》が知られているが、それらの頂点に君臨する強力な存在がこの時産み落とされたという。そしてそれは、生まれながらに人間を超越した能力を身につけていた。
解き放たれた不死の魔王は、まず生みの親である魔導師を殺し、その魔力によって己の眷属《けんぞく》のひとり目とした。配下となった魔導師は別の人間を殺し、それもまた不死の魔物として蘇る。不死王から発される波動が倍々に増える犠牲者を闇の生命として復活させ、その夜のうちに国から生きた人間は消滅した。不死族の国となったのだ。
その国の名が確かファールヴァルトだった。
寝つきの悪い子供をたしなめる寓話の類だと思っていたが、そこを故国だと名乗る男が失われて久しい呪文を行使している様《さま》を目《ま》の当たりにしては、さすがに頭から笑い飛ばすことのできない話だ。
だが、ならば滅亡から気の遠くなるような歳月を経た今、どうしてその住人がここに姿を現せるというのか。それとも森の彼方の国≠ヘ滅びてはおらず、現在も超魔法の数々が受け継がれているのだろうか。
「信じろとは言わぬ」
空中から、楽しげな声が響いた。「さりとて、これ以上|詮索《せんさく》に付き合う義務があるとも思えんが」
「詮索のつもりはねえよ。あんたが答えたくねえなら、無理に、とは言わねえ」
俺は数歩下がって言った。「その高さじゃ首が痛くてね。そいつ――浮遊《リトフェイト》の呪文を使うと、高度の調節は効かないのかい?」
アドリアンは片手で簡単な印を切った。見る間に高度が下がり、地上すれすれに留まる。
「本来なら地表から十数センチ程度反|發《ぱつ》するだけの呪文だ。円柱の高さを維持してはいたが、二分とは持たぬ」
「飛行や上昇が目的の呪文ではないようね」
「ほう」
ディーの指摘に、アドリアンは軽く眉を動かした。
「頭の回転も早い。その通り、むしろ移動時の物音を消し、罠への落下を避けるための戦闘補助呪文の一種だ」
「他にも、失われた筈の呪文を知っているの?」
熱っぽい口調だった。どうやらディーは、自分の知らぬ呪文に激しく興味を惹《ひ》かれたらしい。
「私にとっては失われてなどいないがな」
「俺を助けてくれた時の、あの光もその呪文のひとつなのか」
俺は、分裂直後とは言えあのしぶとい妖獣《ゼノ》を一撃で粉砕した緑の閃光を思い起こした。「それとよ、あんたは俺を知ってるような口振りだったぜ。何故だ?」
「やはり質問攻めではないか」
アドリアンが苦笑した。ふと、その表情が人間味を帯びたものになる。
「すまねえ」
「いいだろう。あの呪文は神拳《ツザリク》――単体用の破壊光波だ」
知っているか、というようにディーに一瞥《いちべつ》をくれ、アドリアンは言葉を継いだ。「そこそこの威力はあるが効果範囲が狭過ぎてな。あのような状況以外では滅多に使えぬ攻撃呪文だ」
「――何かの文献にあったわ。でも、それもとっくに廃《すた》れたと……」
「同レベルに属する猛炎《ラハリト》や小凍《ダルト》のほうが使い出があるからな。それも自然なことだ」
言って、俺に向き直った。
「そして、ジヴラシア。もうひとつの答だが、私が貴様の名を知ったのはたった今だ」
「だがよ――」
炎上する宿で、俺を助けた甲斐があったと言った筈だ――そう続けようとした俺をアドリアンが遮《さえぎ》る。
「しかし、貴様という存在は知っていたと言える。名は知らずともな」
「――どういう意味だ?」
「魂は受け継がれる、ということだ」
アドリアンは謎めいた微笑を浮かべた。
「――?」
俺とディーは顔を見合わせた。
それに構わず、アドリアンは俺たちにゆっくりと背を向け、例の円柱の後方を眺めた。
「質問は打ち切りだ。時が、近づいている」
静かなバリトンが、露に煙る廃墟に谺《こだま》する。
アドリアンが、何を見ているのか。俺も同様の方向に目を向けた。
天空高くに輝く月と、か細く光る初秋の星々。その下に、白く蟠《わだかま》る霧の帳《とばり》。
それ以外には、何も見えぬ。
「ちょっと、時って――」
言いかけたディーが、急に黙り込む。
その理由は、俺にも判った。
からん、とどこかで、瓦礫《がれき》の小片が転がり落ちた。
それが合図だったかのように、ニルダ寺院の広大な廃墟のあちこちで、無数の瓦礫の山が小波《さざなみ》のように細かな音を立て始める。
地震だった。
夜明けの地震以来、初めてのものだ。が、迷宮入口の落盤まで引き起こしたあの揺れに比べれば、小妖精《ピクシー》の欠伸《あくび》にも等しい微震に過ぎない。
数秒で、震動は治まった。
今朝の地震で不安定なものはあらかたなくなったのか、円柱や大振りの瓦礫が崩れた形跡はない。からからと幾重にも響く物音も、わずかに遅れて鳴り止んだ。
ディーが、深く吸いこんでいた息を吐きだした。
「さすがに緊張したわね」
今のが大破壊《カタストロフィ》だったら――そんな意味を言外に含んだ呟《つぶや》きだった。はっきりと口に出さないのは、大破壊の件に関しては五賢者から箝口令《かんこうれい》が敷かれているからだ。
現時点でも、リルガミン市の平穏は辛《かろ》うじて保たれているに過ぎない。市内には異変に追われた避難民が溢《あふ》れており、長期に渡る食料管制からも日々危機感は高まりつつあったのだ。
その均衡を維持していたのが、俺たちの宝珠探索だった。宝珠を用いて原因が究明できれば、必ずや異変を食い止めることができる――賢者会議がリークしたこの希望的観測だけが、人々の唯一の心の支えとなっていた。
だが、明け方の大規模な地震以降、人々の不安を掻《か》き立てる情報が市内に少なからず流れている。
梯子山《スケイル》山頂の奇怪な発光現象と、俺が目にした|嘆きの精《バンシー》の噂。昼過ぎには|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》が炎上し、数名の冒険者が死亡。さらにはどこの馬鹿衛士が漏らしたのか、迷宮の落盤の件もすっかり街中に知れ渡っていたのだ。
これは俺が石化している間の話だったのだが、あまりの不安材料に一時市内はパニックに近い状態になったらしい。盛大に尾ひれのついた流言が飛び交い、市街の何ヶ所かで小規模な暴動も起きたと聞いている。
賢者会議が迅速《じんそく》に宝珠発見の布令を出したおかげで事態は収拾したものの、この対応がなければ今頃リルガミンはどうなっていたか判ったものではなかった。傷を負いながらも生還したマイノスの姿を市民が目撃していたのも、発表に信憑《しんぴょう》性を与える好材料になった。
現在のところは、市民は努めて平静を装っている。が、それはいつ王宮から異変の鎮静化が告げられるかと、その期待で静まっているだけのことだ。
そこに、大破壊《カタストロフィ》の件が漏れたとしたら……。
もはや天変地異を止める手立てはなく、その最終的な大災害が間近に迫っていると――そう知らされた時、果たしてどれだけの者が理性を失わずにいられるだろうか。
それゆえに賢者から口を噤《つぐ》んでくれと頼まれたのだが、いくら身勝手な悪《イビル》の戒律の俺たちといえども、こればかりは言われなくても弁《わきま》えているつもりだ。同じ破滅でも自滅などは御免だった。
だからこそ、次のアドリアンの言葉に俺たちは愕然《がくぜん》とする羽目になった。
「どうやらこの街にも、明らかな大破壊《カタストロフィ》の兆《きざし》を読み取った者がいるらしいな」
背を向けたまま、アドリアンは興味深そうな口調で呟《つぶや》いた。「貴様たちは半ば覚悟を決めている様子だ。死を突きつけられているにしては面白い」
「あんたは――知ってるのか」
言葉を失いながらも、俺は何とかその背中に問いかけた。
「聴こえただろう」
首を巡らせ、端正な横顔を見せてアドリアンは言った。伏せかけた長い睫毛《まつげ》の奥で、切れ長の瞳が妖しい光を湛《たた》えている。
「大地の底より轟く苦悶の響きを。大破壊《カタストロフィ》とは、即ちこの天地が滅ぶ際の断末魔――その時が至るのも遠いことではあるまい」
神託を告げるかの如く、その言葉は冷えた夜気の中に反響する。
「星の力を司《つかさど》る神龍ル‘ケブレスすらも、今やこの大地を守る術《すべ》を失いつつある。この都市の守護神ニルダの力も、死にゆく大地を支えることは叶わぬ――」
言いながら、アドリアンは再び円柱の方向に向き直った。白い指が、その後方の一点を指し示す。
「見るがいい」
促され、俺たちは指の示す先を凝視する。
先刻、これといったものは何も見当たらなかった方向だ。
だが――
満月の下方、霧の上方の夜空に、見覚えのある光が見えた。
禍々《まがまが》しさを孕《はら》んだ赤い怪光――それは、明け方の地震の後に見たものと全く同じ現象だった。
「あれこそル‘ケブレスが流す血の光だ。それが尽きた時、この大地からあらゆる恩恵が消え、すべての民が滅びを迎えるだろう」
アドリアンの声が響き渡る中、梯子山《スケイル》の山頂が遠く光を放っていた。
風が、狂ったように吹いていた。
俺は、垂直な岩壁のわずかな足掛かりにしがみついている。
見上げれば、無限とも思える絶壁が暗い鈍《にび》色の空へと続いている。
足下には数百メートルの断崖を隔てて、堅い大地が俺が叩きつけられる時を今か今かと待ち続けている筈だ。
梯子山《スケイル》の壁面を、俺は攀《よ》じ登っているのだ。
だが、もはやこれ以上|攀《のぼ》ることはできなかった。
全身が、激しい虚脱感に包まれていた。鍛え抜いてきた肉体から、力という力が抜け落ちていく気分だ。
岩壁を掴《つか》む指先も、すでに感覚が麻痺している。
どこにも、身を休めるだけの足場などありはしなかった。
突風から身を守る術《すべ》もない。力尽き、吹き剥《は》がされて落下するのは時間の問題だった。
――俺は死ぬのか。
唸りをあけて吹きつける風に目を見開き、俺は漠然と考えていた。
大破壊が訪れれば、どのみち死ぬだろう。今死んだところで、少し早い程度の遠いしかない。
だが、これが俺の望んでいたことなのか?
不可能だと判っていたマイノスの提案に乗り、挙げ句に断崖から墜落して死ぬことが。悪《イビル》の戒律の分際で仲間を救うという美挙に酔い、結局全身の骨が砕け、内臓が潰れ、地面の罅《ひび》に血を吸わせてくたばることが。
違う。俺の望みは――
望みは、何?
吹き荒ぶ風音に混じり、ばさりと大気を打つ羽音と、甘い囁《ささや》きが耳に届いた。
言っておしまいよ。それで、助かるばかりか望みまでが叶うんだよ
目の前に、あの夢魔《サッキュバス》がいた。
荒れ狂う風をものともせず、その背に生えた巨大な皮の翼を羽ばたかせて、夢魔はあの時と同じ裸身を虚空に留めている。
まだ、躊躇《ためら》うのかい?
応《こた》えぬ俺に、夢魔はふわりと近づいた。
それとも、恐怖で頭が回らなくなったのかね。それじゃああたいが教えてやったっていいんだよ……
下卑《げび》た含み笑いをしながら、淫《みだ》らに紅《あか》い唇を俺の耳元に寄せる。
あんたの望みはね、悪《イビル》の戒律の誰だって思いもよらないほどにどす黒い欲望なのさ。仲間を救いたいんじゃない。仲間を――
「黙れ! 下衆《げす》な淫売魔女がー」
そう叫んだ瞬間、俺の躰《からだ》は岩壁から離れていた。
落下している。全身の血が逆流し、背骨が抜かれるような感覚が俺を襲う。
地面が、急速に迫ってくる。
くくく、と嗤《わら》う声がする。
見ると、俺の横を落下と同じ速度で、夢魔が降下していた。
それならね、地面に着くまでに、潰れるよりもっと無惨に、あんたを殺してあげるよ
にいっと歪めた唇の間に、白く長い犬歯が覗く。真っ赤な鋭い爪が、俺の首筋目がけて蛇のように伸びてきた。
その夢魔の躰が、突如雷に撃たれたかのように痙攣《けいれん》した。
かかっ
声にならない悲鳴をあげ、夢魔《サッキュバス》は激しく身|悶《もだ》えた。
な、何だ、この痛みは? ここは夢の世界、あたいの自由になる世界なのに!
落下は、すでに止まっていた。
天が裂け、大地が割れる。梯子山《スケイル》は崩壊し、すべてがひとつに混じり合う。
罠に陥《お》ちたのは、あなたなんですよ
混沌の中心から、男の声が殷々《いんいん》と轟いた。
もう目を覚ましても構いません。捕えました
「ありがてえ」
俺は応《こた》え、夢の世界から抜け出した。
柔らかなヘッドから、俺は身を起こした。
王宮内の、俺にあてがわれた居室の中だ。豪華な装飾の施《ほどこ》されただだっ広い室内が、微《かす》かに灯されたランプの光に淡く照らされている。
「手傷は受けましたか?」
薄闇の中から、耳慣れた声が聴こえできた。
「いや。危ねえところだったけどな」
応えながら、俺はランプの光量を上げる。たっぷりと金をかけてあるらしい調度品の数々が、強まった朱色の光に浮かび上がった。
部屋の中央、厚い絨毯《じゅうたん》の他は何も置かれていない広い空間に、白い法衣に身を包んだザザが座っていた。
胡座《あぐら》とは少し違う形で足を組み、指先で印を結んだ両腕を緩《ゆる》く左右に広げている。結跏趺坐《けっかふざ》とか呼ばれる、異教の座法のひとつだ。
穏やかな笑みを浮かべて、ザザは足を崩した。
「精神集中にはいいんですが、続け過きると痺《しび》れますのでね」
そう言うザザの背後に、奇妙なものがあった。
直径二メートルばかりの、円形の複雑な紋様だ。絨毯の上に赤い顔料らしきもので描かれている。
そして、その円の内側に、牙を剥《む》き出した夢魔《サッキュバス》が憤怒《ふんぬ》の形相を浮かべて蹲《うずくま》っていた。それが、今にもザザに飛びかかろうと身構える。
畜生! 小賢《こざか》しい! おまえから先に精を吸い尽くしてやる! おまえ僧侶だね。堕落させてやる! 何倍にも、何倍にもして返してやるからね! 畜生!
聞くに耐えない金切り声をあげ、髪を振り乱して、夢魔はザザに掴《つか》みかかろうとした。
だが、その爪が紋様の外輪《がいりん》から飛び出そうとした瞬間、夢魔の白い裸身に青白い稲妻が疾《はし》った。
かっ
短く叫び、夢魔は円の内側に弾かれた。
紋様が、赤く光を放っていた。その外輪から、光の壁が垂直に天井へと伸びている。
細長い円筒形の檻《おり》が、夢の世界から抜け出した夢魔を封じ込めているのだ。
結界――それも、強大な魔力を有する悪魔系の魔物を閉じ込めるだけの力を持つ魔法結界。並の術者がおいそれと造り出せる代物ではなかった。
赤い光はじきに弱まり、やがて見えなくなった。が、不可視の障壁が今も夢魔の周囲に張り巡らされているのは明らかだった。
立ち上がり、ザザは背後に軽く首を巡らせた。「こうしてしまえば、あとは私が眠っていても逃げようがありません」
出せ! 出せ! おのれ――
懲《こ》りずに呪詛《じゅそ》の言葉を吐き続ける夢魔を無視し、ザザはいつもの涼しげな笑顔を俺に向けた。
僧侶として冒険者になる以前、ザザは各地を旅して様々な呪法を学んでいた。
東方の異教や土着の精霊信仰、悪魔や人外の魔物を崇《あが》める邪教――リルガミンのような大都市から遠く維れた閉鎖的な地域では、今もってこのような宗数の呪術が伝えられているという。それらを研究し、現在確立されている魔法体系とは外れた呪法を編み出すという行為を、ザザの数代前の御先祖が始めていたらしい。
それを受け継ぎ、なおかつ自らが新たに会得《えとく》した数々の呪術を組み合わせて、ザザは独特の呪法を身につけるに至った。
そのひとつが、この魔法陣を用いた結界だった。
俺は、篭《かご》の鳥となって足掻《あが》く夢魔《サッキュバス》に目をやった。
夢魔は、人の心の隙《すき》を衝《つ》く。
本人すら知らぬ、心の奥底の暗黒面を嗅ぎ当て、無防備な眠りの中へと入り込んでくる。そして、甘美な誘惑と、あるいはおぞましい悪夢によって深層心理を引きずり出し、その精神を堕落させるのだ。
夢の魔、と呼ばれるだけあって、この悪魔は滅多なことでは覚醒時の人間の前に姿を晒《さら》すことはない。目を覚まし、精神が夢から抜け出た瞬間に、本体は魔界へと逃げ帰ってしまう。
だが、夢魔が心に吹き込んだ毒は、楔《くさび》となって精神に食い込む。そして狙いをすました相手が眠りに落ちる度《たび》、夢魔は執拗《しつよう》に誘惑を繰り返し、楔を深くより深く打ち込んでいく。
誰かが傍《そば》についていたところで、夢魔は巧妙に夢の中へと潜り込む。生命ある者が睡眠を摂《と》らぬばならぬ以上、取り憑かれた者はいずれ、夢魔の手妻《てづま》の前に屈服することになる。
そうして堕落した者は、もはや夢魔の誘惑に抗《あらが》えはしない。夜な夜な訪れる夢魔のもたらす肉欲の虜《とりこ》となり、最後にはその精をすべて搾《しぼ》り取られて無惨な死を遂《と》げることになるのだ。
放っておけば、俺もそうなるところだった。精神力に自信がないわけではないが、特に僧侶のように神に仕える聖職者を好んで堕落させるような奴等だ。その夢魔の独壇場となる夢の世界で、いつまでも持ち堪《こた》えることができるかどうかは疑問だった。
もっとも大破壊《カタストロフィ》間近いこの状況下では、夢魔の手によって快楽の限りを味わいながら死を迎えるのも悪くないと、そう考える奴もいるかも知れない。夢魔《サッキュバス》が夢の中で与える悦楽は、現実のそれを遥かに凌《しの》ぐものであると伝えられているからだ。
だが、俺は御免だった。
男としての欲望がないのではない。が、その快楽は敗北を意味する。
夢魔如きに屈服するくらいなら、自ら命を断つ覚悟があった。一時の快楽で魂まで腐らせるつもりは俺にはない。
それに、まだやるべきことが残っていた。
そこで、俺とザザは罠を張った。
俺は無防備に眠ってみせ、夢の中に夢魔を誘う。
その間ザザは精神集中によって、夢魔に気取《けど》られぬよう思念を空白に保っていた。
無の境地――種々の呪術を修得するために、幼くして特殊な精神修行を積んできたザザだからこそ可能な芸当だった。同じ室内に無造作に座っていたザザが、夢魔にはただの置物のように感じられただろう。
俺に悪夢を送り込みながら、夢魔は外部に対して完全に無防備となっていた。
思念を無の薄皮で包みながら、ザザは夢魔の造る夢の外側に徐々に精神の檻《おり》を張り巡らした。俺を支配するための精神世界が包囲されることにより、夢魔の意識は逆にザザの支配下に置かれることになった。
無意識のうちに、夢魔の肉体は魔法陣の内側に誘導されていった。しかし、悪夢を紡《つむ》ぐのに文字通り夢中になっている夢魔は、自分自身が主導権を握っていることを毛の先ほども疑ってはいない。
完全に魔法陣に取り込んで、ザザは結界を完成させた。その瞬間に俺の精神は夢から解き放たれ、夢魔は初めて自分が罠に嵌《は》まったと気づいたのだ。
危険なやり方ではあった。
夢の中でさえ、夢魔は俺を傷つけることができる。精神に極度の刺激を与えることによって、ある程度の肉体的損傷を生じさせられるのだ。今朝俺の頬に掻《か》き傷が浮いていたのもこれで、夢の中の傷が現実の肉体に跳ね返る。相手の精神力を利用した、より直接的な呪殺というわけだ。
結界を閉じる前に気取《けど》られていたなら、夢魔《サッキュバス》は俺を弄《もてあそ》ぶのを止《や》めて全力で精神攻撃をかけてきただろう。心臓に圧迫をかけるイメージを送り込まれれば、運が悪いと自分で鼓動を止めてしまいかねない。
だが、ザザはうまくやってくれた。魔法陣の中では、夢魔はもはや針を失った毒虫以上に無力だった。
俺は軽く弾みをつけてペットから下りた。それを見た夢魔がまたひとしきり喚《わめ》き始める。
もう一息、もう一息だったのに、畜生! おまえもあたいに罠をかけたね! このずる賢い破戒坊主と一緒に! 糞《くそ》! このお返しは、きっとしてやるからね! この薄汚い――
「何とかならねえのか、こいつ?」
俺は渋面《じゅうめん》を造ってザザに訴えた。「声を聞かされるだけで厭《いや》になっちまったよ」
ザザがくっくっと笑った。
「同感ですが、これくらいは我慢して下さい。それに、声が聴こえないのではこの先不都合になりますからね」
そう言って両手で複雑な印を結び、ほとんど抑揚のない呪文を低く唱える。
途端に、赤い紋様から一筋の雷が噴き出し、魔法陣内の空間を青く切り裂いた。
ひいっ
天井に駆け昇る稲妻に皮膚を灼《や》かれ、夢魔の呪詛《じゅそ》は悲鳴に変わった。
「この魔法陣は、紅玉の粉に私の血を混ぜた顔料で描いたものでしてね。術者の血を含むと、障壁の強度が飛躍的に高まるんですよ」
何事もなかったように、無邪気にすら見える表情でザザは言った。「今の雷は結界内の力をやりとりするだけですが、障壁の力が強ければ相当な破壊力をもたらすことになります。触れただけでも、痛みはかなりのものでしょうね。威力の調節が効きますから、色々と尋問するには最適でしょう」
「今のは?」
「最弱です」
背を向けてはいたが、むしろ夢魔《サッキュバス》に聞かせるための説明だった。
掠《かす》めただけで激痛を生じさせる電撃に驚愕を隠し切れぬ夢魔は、この脅しで明らかに怯《おび》え始めた。夢の中よりも美しさの衰えた感は否めないその貌《かお》が、より一層白く引き攣《つ》っている。
な、何をするつもりだい?
「聞こえたでしょう? 少々|訊《き》きたいことがありましてね」
ゆっくりと振り返りながら、ザザは慇懃《いんぎん》な態度で言った。「大して難しい質問ではありませんよ。それに、絶対に答えられる筈です。とうしてジヴを誘惑し、堕落させようとしたのか――それだけですから」
そんなこと、当たり前じゃないか! あたいは夢魔だよ! おまえみたいな聖職者や、あっちの男のような連中を骨抜きにするのが生き甲斐なんだ。それがたまたまそいつだっただけ――
ばちっ、と結界内に放電が起こった。夢魔には触れなかったが、青白い閃光に短く叫び、躰《からだ》を硬直させる。
ザザは、両|掌《て》の印を解いた。
「残念ながらそんな話は通用しません。ここが旅先の野営地や辺境の寒村だったなら、それでも充分信じてもらえたでしょうがね」
優しく、恋人に囁《ささや》きかけるような声音だった。
夢魔はザザを凝視し、人間の女そっくりの貌を歪《ゆが》ませて身を振った。
人の心を持たぬこの魔物が、恐怖に取り憑かれている。
俺の位置からは、魔法陣の前に立つザザの表情は見えない。だが、この男がどんな顔を夢魔《サッキュバス》に向けているのか、俺は知っていた。
穢《けが》れのない子供が浮かべるような、邪気のない笑顔だ。戦闘において圧倒的な優位に立った時、ザザは決まってそんな表情を見せる。
幼い子供が粘土細工を叩き潰し、虫の手足をもぎ取りながら浮かべる罪のない笑み。他者の生命をその手に握りながら、それを全く意に介してはおらぬ無邪気な笑みが、悪魔すらも震え上がらせているのだ。
それが相手に与える恐怖を計算したものか、それとも無意識のうちに滲《にじ》み出たものなのか、俺には判らない。ただひとつ言えるのは、相手が女の姿を取っていようと、ザザは敵対者に対して容赦をしないということだった。
俺ですら鼻白《はなじろ》むほど、ザザは敵に対して非情になれるのだ。
敵であれ、女子供には手出ししない――そんな安っぽい博愛精神を、ザザはひとかけらも持ち合わせていなかった。
いつだったか、迷宮内の隠し扉を突き止めるため小妖精《ピクシー》を捕えたことがあった。その際、ザザは口を噤《つぐ》む小妖精《ピクシー》の指を一本ずつ折り、嘘を教えた時は腕を折ってその場所を吐かせた。
その後で小妖精《ピクシー》をどうしたのか、パーティの誰も見ていなかった。が、恐らくザザは殺しただろう。そいつが無抵抗であってもだ。
逃がしたところで、その小妖精《ピクシー》は恩義など感じない。それに深手を負ったそいつを見つければ、仲間は怒り狂って俺たちを探し始めるだろう。敵への情けが味方を窮地に追い込む可能性があるわけだ。
ザザは、道徳観念が根底から異なる宗教呪術を幾つも学んできた。その過程でどんなことがあったのか、これまでに語ったことはない。
だが、ほとんどの宗教は異端の信仰を拒《こば》む。正義――言い換えれば善――の名のもとに、異端者は老若男女を問わず狩り立てられ、無慈悲に殺されるのが常だ。
狩る者と、狩られる者。時には入れ替わる両者の立場から呪術を吸収してきたザザにとっては、自己満足に過ぎぬ博愛主義など、邪魔になりこそすれ役には立たぬものだったのだろう。
それを冷酷と、俺は言わない。
敵ではない者には、ザザは悪《イビル》の戒律とは思えぬほど甘い。善《グッド》の連中に対してさえ、決して礼を失する態度は取らない。まるで、敵に対する厳しさを、それで償《つぐな》うかのように。
仲間を思うがゆえの、敵への烈《はげ》しさ。それが掴《つか》みどころのないザザの内面だと、俺は思っている。
竦《すく》み上がる夢魔《サッキュバス》に、ザザは続けた。
「ここは歴史ある聖都リルガミン。いくら杖の加護が消えようと、魔を畏《おそ》れ、厭《いと》う多くの人々の思念が長年に渡って蓄積し、街自体をひとつの結界としています。あなたのような低級な悪魔はとても近づけぬ聖地である筈なのに、よりによってその中心であるここ、王宮にまで姿を現した――それはつまり、狙いはあくまでこのジヴだということ。そのためにあなた以上の力を持つ存在が力を貸し、何としてもジヴを堕落させようとしている――違いますか?」
問われた夢魔は、蒼白な貌《かお》を激しく横に振った。が、見開かれた瞳がザザの推論の正しさを裏付けていた。
「答えなさい。あなたがた悪魔が何を企んでいるのかを」
ザザは再び印を結び、先刻とは異なる呪文を、唱えた。
があああああ――
今度はもっと太い稲妻が幾条も噴き上がり、夢魔の躰《からだ》を次々と突き抜けていく。部屋全体が断続的に白く照らされる。
い、言う、あがっ、ガッ、ミ、みんな話すから、や、かかっ、止《や》めて――
電撃に裸身を痙攣《けいれん》させ、白目を剥《む》きながら夢魔《サッキュバス》は絶叫した。
たっぷり一呼吸おいて、ザザは雷を止めた。
無言で、魔法陣の上に這い蹲《つくば》う夢魔を見下ろしている。
肩で息をする夢魔は俺とザザを見上げ、苦痛に表情を歪《ゆが》ませて身を起こした。
……は、話すから、もう止めておくれ
「どうぞ」
あたいは、命令されただけなんだ。あたいらの力だけじゃこの街に入れないけど、あいつの魔力は思念の壁を破って――
「狙いがジヴでなければならない理由と、それを命じたのは誰なのか。訊《き》きたいのはそこです」
それは……言う、言うよ!
一瞬|躊躇《ためら》いを見せた夢魔だったが、ザザの腕が動くのを見て慌てて言葉を継いだ。この短時間に夢魔を恐怖で支配したザザの手並みは、やはり大したものだと言わねばなるまい。
夢魔は、俺を指差した。
その男は邪魔なんだよ。放っておくと、まずい。だからあたいが骨抜きにしちまおうってことになったんだ
「誰にとって邪魔なんです?」
あたいら悪魔にとってさ。だから上の連中もあいつに力を貸しているん――
夢魔の言葉が途切れた。
「どうしたんです。話はまだ終わっていませんよ」
ザザが印を結ぶ仕草を見せた。夢魔の顔に怯《おび》えの色が疾《はし》る。
だが、夢魔はザザを見てはいなかった。
俺のさらに後方、部屋の隅を白痴のように見つめているのだ。
お、お許しを――喋《しゃべ》ってない、喋っていません! ああ、それだけは……
夢魔の視線を追おうとした瞬間、室内の温度が上昇した気がした。
「避《よ》けろ!」
そう叫ぶのが精一杯だった。振り向きざまに飛び退《すさ》る俺の目の前を、何かが空気を焦《こ》がしながら通り過ぎていく。
俺の叫びが届くと同時に、ザザは横っ飛びに身を躱《かわ》していた。もし一瞬でも躊躇《ちゅうちょ》していたら、避けられなかったタイミングだ。
それは、炎だった。
何もない筈の暗がりから、凄まじい迅《はや》さで噴き出した高熱の炎。それは蛇のようにくねりながらザザを掠《かす》め、魔法陣へと伸びていく。
次の瞬間、夢魔《サッキュバス》は灼熱の鞭《むち》に貫《つらぬ》かれた。
あっ……カッ……KAッ……
途切れ途切れに、苦悶の呻《うめ》きが漏れた。
ぶすぶすと肉が焦げ、吐き気を催《もよおす》す異臭が漂う。
夢魔の躰《からだ》が弓なりに反り返り、ぴくり、ぴくりと痙攣《けいれん》を繰り返していた。
その腹部から背中へ抜けた炎が、ぐねぐねと獰猛《どうもう》に蠢《うごめ》く。それはまるで、飢えた獣が獲物の臓腑を貪《むさぼ》り喰っているかのようだった。
――炎の、鞭。
それが、夢魔を内部から灼《や》き焦がしている。
同時に、おぞましい変化が夢魔に訪れていた。
美しい女を模した貌《かお》に皺《しわ》が刻まれ、急速に老いていくのだ。
いや、老化ではない。
干からびる、というのが妥当だろうか。皮膚の内側の肉が削り取られ、しぼんでいくように見える。
その顔に見る間に骨が浮き、人のそれとは全く異なる骨格が見てとれるようになった。角のない山羊《やぎ》に似た頭蓋《ずがい》骨に、犬歯の発達した人間の歯を無理につけたような、あの美貌からは想像もつかぬ魔物の骨格だ。
頭部ばかりではなかった。
夢魔《サッキュバス》の全身が、骨と皮だけになっているのだ。
だが、それでもまだ夢魔は生きていた。
くぼんだ眼窩《がんか》の奥で、濁《にご》った眼球が焦点の合わぬ視線を宙に漂わせているので、それと判る。
その目に喜悦の色を見、俺はぞっとした。
エナジードレイン。
魔物ともの数ある特殊攻撃の中でも、生命ある者の精気を吸い取る最悪の代物だ。もっぱら不死怪物《アンデッドモンスター》が持っている能力で、負のエネルギーによってそれに相当する生命力を瞬時に吸引する。
これを受けると肉体の運動機能と精神力が恒久的に低下し、呪文や睡眠では回復不可能な打撃を被ることになる。生命力の減少が、実質的な能力の低下を引き起こすのだ。
そしてもし、負のエネルギーがその生命力を上回っていたなら――精気を根こそぎ奪われた肉体は枯れ、一息に消滅する。
今、夢魔はその状態にあった。
炎の鞭《むち》が引き抜かれた、その瞬間――。
絶叫の形に開き切った口から、もはやその外見に似つかわしくない甘い吐息が漏れた。水分が一滴も残っていないであろう躰《からだ》が、瞬時に青白い炎に包まれる。
一瞬の後、夢魔は弾けて煙となり、跡形もなく消失した。
炎が夢魔を貫《つらぬ》いてから、ほんの数秒の出来事だった。
そして俺はその間、突っ立って一部始終を眺めていたわけではなかった。
床に這い、ベッドの下に手を伸ばす。硬い手触りがあり、それを引きずり出した。
刃渡り一メートルばかりの段平《だんびら》だ。鞘《さや》から引き抜くと、刀身に刻み込まれた古代文字が鈍い光を放つ。
鍛造《たんぞう》時に鋼を強化する呪文を封じ込める、現在では失われて久しい技術をもって造られた魔法剣だ。
梯子山《スケイル》の迷宮での拾得物で、並の段平《だんびら》に比べて切れ味が格段に高い。
|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》で焼け残っていたものを回収し、就寝前に放り込んでおいたのだ。どうやら宿で妖獣《ゼノ》に殺された冒険者のひとり、悪の戦士アーカムの愛剣だったらしい。刀身の輝きがアーカムの無念を代弁しているかに見えた。
部屋の隅に、凄まじい速さで炎の鞭《むち》が引き戻されていく。
それと同じ速度で、俺は走っていた。
炎の向こうに、揺らめく影が見える。そいつが、尋問途中の夢魔の口を封じた鞭の使い手だ。
鞭を戻す瞬間が、好機だった。炎とは言え鞭であれば、繰り出した直後は一度手元に引かぬ限り次の攻撃に移れない。
「ふひゅっ」
呼気を吐き、俺は渾身の力を込めた斬撃を叩き込んだ。
鈍い手応えがあった。が、しかし――。
影は裂け、煙のように空間に溶けた。炎も網膜に残像を焼きつけ、消失していた。
俺は素早く段平に目を走らせた。
切っ先から数センチに渡り、赤くこびりつくものがあった。血だ。間違いなく剣は実体を捉えている。
突如、哄笑が室内に響き渡った。
――人間にしては見事な腕だ。我が障壁を切り裂くなど、なるほど夢魔如きでは歯が立つまい。下手な手出しはせぬが得策
「てめえ、何者だ」
俺は天井を見回して叫んだ。
我は神、この天地を創りし創造主なり――
姿なき声が、嘲笑混じりに聴こえてくる。
「神だと?」
「戯言《ざれごと》を」
背後でザザが言い放った。「神を騙《かた》るなど、畏《おそ》れを知らぬ不埒《ふらち》な所業」
はははははは――
哄笑が激しく空間を揺るがす。神々など、もはや恐るるに足らぬ。我らの干渉力に、善の眷属《けんぞく》どもは手をこまねいているばかり。いずれそなたら人類は地上から一掃され、世界は我ら悪魔の手に落ちるのだ
「野郎――」
くくく……ジヴラシアといったな。また会うことになろう。その時までに傷は癒《いや》しておく。さらばだ――
声が急速に遠|退《の》いていく。哄笑とともに、禍々《まがまが》しい気配がふっと消え去った。
「逃げましたか」
ザザが髪を掻《か》きあげながら言った。「正体は判りませんが、夢魔よりも遥かに大物の悪魔が出てきたようですね」
俺は無言で段平《だんびら》を眺めた。血がどす黒く乾きかけている。
「あなたが得物を使うなんて、久しぶりじゃないですか」
「石化されたんでな」
俺は段平を放り出した。「情けねえ。逃がしちまうとはな」
半年近く前から、俺は戦闘を素手で通してきた。
凶器となる爪や牙を持たない人間にとって、武器はその代わりとなって使用者の殺傷能力を飛躍的に高める。厚い外皮や高い耐久力を持つ魔物相手の戦いでは、通常武器及び魔法の使用が前提となる。敵の防御性が高いなら、それを上回る攻撃力でねじ伏せるという考え方だ。
しかし忍者の戦闘の極意は、相手の急所を読み、そこに打撃を加えることによる一撃必殺を宗《むね》としている。それには破壊力よりむしろ正確さ、相手が回避できぬほどの速さが要求されることになる。
無論他の前衛|職業《クラス》と同様、ほとんどの武器を問題なく使いこなせることが忍者の条件ではある。現に俺も、剣の振りの速さだけなら誰にも負けない自信がある。武器の扱いが苦手だ、というわけではない。
だが忍者として実戦経験を積むにつれ、この肉体は無手の時に最も機能することが判ってきた。
武器を持たず、いかなる防具も身につけない――全身が武具の重さから解放され、あらゆる動作に制約がない状態こそ、忍者はその戦闘能力を最大限に発揮できる。鍛え上げられた四肢は鋼に匹敵する強靭《きょうじん》さを持ち、防具に妨《さまた》げられぬ肉体は肌で敵の動きを読み、攻撃し、回避する。武具に身を固めた時とは比較にならぬほど、全身が正確無比の戦闘機械として完全に機能するのだ。
熟達者《マスター》≠ニなった現在では、俺は無手の格闘に慣れきっていた。手刀は重い段平《だんびら》の一撃にひけを取らぬ打撃力を秘め、忍者装束のみを纏《まと》った身軽な躰《からだ》は鉄鎧が弾く以上に敵の攻撃を躱《かわ》せる。今さら武器を持つ必要はないと、そう思っていた。
しかし、|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》での妖獣《ゼノ》との戦いで、俺はその甘さを痛感することになった。素手で直接打撃を与えたために浸透性の石化成分を含んだ妖獣《ゼノ》の体液を浴び、危うく命を落としかけたのだ。
真空波を使えば接触はない。が、一度繰り出せば腕はずたずたになり、大治《ディアルマ》か快癒《マディ》による徹底的な治療が必要となる。分裂・増殖がお得意の妖獣《ゼノ》相手には当てにならない技だろう。
そこで段平を使ったところが、このざまだ。
攻撃を仕掛けたタイミングはこれ以上ないほど絶妙だった。久しぶりに手にした剣も予想外にうまく振り出せた。にもかかわらず、あの影に浅手を与えただけで逃げられてしまったのだ。
「完全に実体化してはいなかったでしょう。それに、悪魔の中には我々が使うものより数段強力な魔法障壁に身を包んだ者も存在すると聞きます。手傷を負わせただけでも上出来じゃないですか」
段平についた血を調べながら、ザザは慰《なぐさ》めめいたことを言った。懐から白い布を取りだし、乾きかけた血糊《ちのり》を丹念に拭《ふ》き取る。
「へ。おまえが判らねえ筈がねえだろうに」
俺は自嘲気味に嗤《わら》い、続けた。「しばらく剣を扱ってねえからしくじった、てえことならそれでも上出来さ。だがよ、その段平を使って今の俺にできる最高の一撃だったんだぜ。いくら素振りを繰り返したって、それ以上の振りなんざできやしねえ。奴に逃げられた時点で、俺の負けだ。それによ――」
ひとりの巨漢の姿が、俺の脳裏を掠《かす》めた。
同じ段平を使ったとしでも、俺を軽く凌駕《りょうが》する剣撃を生み出す男。その一撃は岩を砕き、鋼すら断ち割る。
少年の笑みを浮かべて、あいつは梯子山《スケイル》の闇に消えた。迷宮にはあの妖獣《ゼノ》が徘徊し、落盤がその出口を封じている。
だが、俺はあいつが生きていると確信していた。その程度で、あの男がくたばるわけがない――そう信じていた。
石に囓《かじ》りついてでも、俺は迷宮内に辿り着いてやる。大破壊《カタストロフィ》が訪れるその前に、もう一度あいつに会いたかった。
そう、奴なら――。
「ガッシュなら、今ので殺《や》れただろうぜ」
「――」
謎めいた微笑を湛《たた》え、ザザは何も言わなかった。
遠くで、足早に歩く音が聴こえる。帯剣が金具とぶつかる音から、それが歩哨の衛兵のものであろうと知れる。
「さて」
布を慎重に包み、懐に戻してザザは言った。「それでは私は休ませてもらうことにします。もう夜も更《ふ》けたことですしね」
「ああ。世話になったな」
今日のザザは獅子|奮迅《ふんじん》の活躍ぶりだった。俺やマイノスを治療するかたわら、賢者たちが行った妖獣《ゼノ》の検死と実験にも参加し、さらにその合間に夢魔《サッキュバス》についての文献を事細かに調べあげ、捕獲の対策を練ってくれたのだ。
「いいえ。連中の誘惑で、これまでに一体どれだけの聖職者が堕落させられたことか。夢魔《サッキュバス》がいなければ、優れた先人たちはとっくに失われた呪法の数々を蘇らせていたでしょう。言わば我々僧侶にとって仇のようなものですから」
ザザは人差し指を左右に振った。「それと、今夜はあなたも良く眠っておいたほうがいいですよ」
「――?」
「明日は早いんでしょう?」
「あ、ああ」
俺はようやく、梯子山《スケイル》への救出行のことだと気がついた。
ふと、晩餐《ばんさん》前のザザの態度が思い出された。悪《イビル》の戒律の身でありながら、落盤で入口が塞《ふさ》がれていなければ、すぐにでも迷宮に向かいかねなかった俺に対する突き放した態度。
まして、俺は相反する戒律を持つマイノスと組むつもりなのだ。ザザにどのように非難されても仕方のない立場に俺はいた。
「知ってたのか。ディーのお喋《しゃべ》りめ」
「おや、ディーには話したんですか。私だけ蚊帳《かや》の外とはねえ」
「いや、そういうわけじゃねえんだが……」
ザザが悪戯《いたずら》っぽい笑みを浮かべた。
「あなたの態度を見れば判りますよ。戦っている時はあれほど感情を抑制できるというのに、普段は考えていることがそのまま顔に出ますからね」
「む……」
「マイノスも、一緒なんでしょう?」
「ああ」
俺は覚悟を決めた。
「奴とスケイルを攀《のぼ》る。言い訳するつもりはねえよ。戒律に背いた行為だろうし、おまえにゃ何を言われてもしょうがねえ。気の済むように――」
「いつ出発なんですか」
ザザが遮《さえぎ》った。
「?……夜明けに街を出るつもりだけとよ」
俺は訝《いぶか》った。見送りでもあるまいに、何故そんなことを訊《き》くのか?
「あと六時間ってところですか。これはすぐにでも眠らないと呪文が回復しませんね。今日は快癒《マディ》を三回使ってますし」
「――何だって?」
問い返す俺に、ザザは真顔で言い放った。
「自分の能力を過信しないことです。せいぜい大治《ディアルマ》までしか使えないマイノスだけに治療を頼って、妖獣《ゼノ》が待ち構える迷宮を突破できるとでも思ってるんですか」
「おい、ザザ」
「気の済むように、と言いましたね。そんな認識の甘い仲間を放っておいては気が済みませんのでね。私も同行します」
驚きのあまり、俺は言葉を失っていた。
ザザは目を細め、微笑んだ。「その顔を見て、員数外にされた分の溜飲《りゅういん》が下がりましたよ」
「……いや、ザザよ――そりゃ願ってもねえ話だが、本気かよ? 俺が言うのも何だが、連中を助けたところで大破壊《カタストロフィ》がくりゃあそれまでだ。何の得にもならねえんだぜ」
「だから、ですよ。どのみち大破壊《カタストロフィ》で滅ぶなら、我が身|可愛《かわい》やの悪《イビル》の戒律に縛られることはないんです。むしろ、やりたいことをするのが悪《イビル》の者らしいとは思いませんか?」
なるほど、言われてみればその通りだ。無謀な救出行がこれほど簡単に正当化できるとは思いもよらなかった。
「それに、理由はもうひとつあります」
言葉を切り、ザザはもうただの模様でしかない魔法陣に視線を移した。
「尋問の途中で邪魔が入りましたが、夢魔《サッキュバス》の言いかけたことは覚えているでしょう?」
「悪魔どもが、俺を邪魔に思ってるとか言ってたな。それに、誰かに力を貸しているとも」
「おかしいとは思いませんか。滅亡を目前にした人間に、わざわざ悪魔が干渉してくるなんて。それもご丁寧《ていねい》に、夢魔《サッキュバス》の口封じに別の悪魔までがこの聖都に現れた――私にはジヴ、まるであなたが何かの鍵を握っているかのように思えてならないんですよ」
「――」
俺が鍵を? そんな心当たりはなかったが、悪魔どもの不可解な行動を考え合わせれば、ザザの指摘もあながち誇大とは思えなくなってくる。
「それなら、あなたにとことんまでつき合ってみるのも面白い。悪魔が何を恐れているのか見届けてやろう――そう思ったんです」
その時、廊下を慌ただしく走る音が聴こえできた。どうやら先刻の歩哨らしく、この部屋にどんどん近づいてくる。
俺は扉を開き、廊下を走り抜けようとする衛兵を呼び止めた。
「どうした? 何かあったのか」
「はっ、それが――」
俺とザザの姿を見て、その若い衛士は言い淀《よど》んだ。恐らく、王宮警護の責任者に何らかの異状を報告しに行く途中なのだろう。俺たちに話して良いものか迷っているらしい。
「話しなさい。一刻を争う事態なら、我々も力になります」
ザザの言葉と、俺たち宝珠の探索者に対する畏敬で、衛士は意を決して報告を始めた。
「た、たった今女王陛下の御寝所を見回ったのですが、その、二階の窓から縄が垂れておりまして、陛下の姿はなく、もぬけの殻でして――」
「何と」
「馬鹿野郎! すぐ報告に行け!」
「はいっ」
俺の叱咤《しった》で、衛士は弾かれたように走り出した。
「畜生。夢魔《サッキュバス》の次はあのわがまま娘か」
「いました」
ザザが顔を上げた。「王宮の敷地内です。西の――これはダバルプスの呪い穴の廃墟の辺りですね。地表に間違いありません」
「早えな」
ザザは探魂《カンディ》の呪文を用いていた。念視により、ベイキ女王の位置を即座に割り出す。
「先刻の悪魔|絡《がら》みかと思いましたが、どうやら違うようですね」
「俺が見てくる。衛士が戻ってきたら教えてやってくれ」
言いながら、俺は駆け出していた。
王宮の敷地の南西部は、小さな森が広がっている。
百年前、アラビク王子とダバルプスの戦いで崩壊した旧王城の中心部に当たる区域で、ニルダの杖が取り戻された後に瓦礫《がれき》が取り除かれ、近隣の森から運ばれてきた木々が植樹されたものだ。
その森の中央には、人間の背の二倍ほどの高さの苔《こけ》むした塚が存在している。一面には扉状のぶ厚い石版が嵌《は》め込まれ、そこに多くの人名が刻まれているのが見て取れる。
これこそが、その死後もリルガミン市に滅びの毒を撒《ま》き散らし続けた魔人タハルブスの呪い穴の入口だった。
数多《あまた》の冒険者の命を喰らったこの迷宮も、杖が再びニルダ神の恩寵《おんちょう》をもたらすと同時に呪いを失い、暗がりに潜むものとてない無人の廃墟と化した。それをあえて埋め立てなかったのは、闇の深淵から杖を奪還したダイヤモンドの騎士たちの勇気を後世に伝えるためと、ダバルプスという魔人を生み出してしまったことに対する自戒の意味が込められている。
そして、すべての冒険者の名を記した石版は英雄の記念碑であると同時に、この迷宮が二度と魔物に憑かれぬよう入口を封印する役割を果たしていた。ダバルプスが滅びた以上呪いの復活は考えられなかったが、彼らの名そのものを退魔の呪文とすることで、救国の勇者たちを神聖視する意図があったのだ。当時の統治者であるマルグダ女王が、それを強く望んだと伝えられている。
ザザがベイキ女王の居場所を突き止めてから一分足らずで、俺はこの森の外周に到達していた。全力疾走なら一分で一キロメートルを走る俺にとって、さして広くはない王宮の敷地内を移動するなど造作もないことだ。
塚へと続く石畳に踏み込んだ時点で、足音を消せる程度に速度を落とし気配を断った。それでも並の人間の走る速さとほとんど差はない。
月光の届かぬ樹下の闇を進みながら、俺は次第に警戒を解き始めた。
森とは言え、深いところで二百メートルもない人造のものだ。森の入口から塚まではせいぜいが百メートル、女王が何らかの窮地にあれば察知できる。そして現在その気配はない。
女王が何者かに攫《さら》われた、という可能性も今は捨てていた。
歩哨は二階にある寝室から縄が垂れていたと報告している。それは恐らく、廊下の見張りに気取《けど》られずに抜け出すため女王自身が用意した代物だろう。
何故なら、もし人外の魔物――昼間の妖獣《ゼノ》や、先刻仕留め損なった悪魔の類《たぐい》――が女王を狙った場合、そんな縄を使わずとも階上に侵入が可能だからだ。また、害意を持つ者が運良く王宮内に忍び込めたとしても、逃走経路にはなり得ないこの森の中に女王を連れ込む必要がどこにある?
そう推測しながらも、俺は忍び足で隠身を続けた。女王が自分の意思で出歩いているなら、こんな場所でこんな夜半に何をしているのか見届けてやろうと思ったのだ。
相手が犬のように嗅覚の発達した生物では、臭気を消す魔法薬を塗りつけていない限りどんなに微《かす》かな体臭でも嗅ぎつけられ、実質的に隠身は不可能となる。匂いに鈍感な人間でも、熟練の侍などは呼吸から生じる気≠読み取るため接近は難しい。が、互いの所在を捉えられるかどうかで勝敗が八割方決する、魂をすり減らすような闘いをただの一度も経験していないベイキ女王が相手なら、逆立ちしながらでも容易に忍び寄れる。
木々を縫って湾曲する小|径《みち》の奥に、鬼火のように揺らめく炎が見えた。
近づくにつれ、それが木の枝に吊された小型ランプの灯りだと見て取れるようになる。
ランプの周囲を淡い光が照らしている。そこが石畳の終点であり、ダバルプスの呪い穴の入口たる塚が盛り上がる小さな広場だった。
そこに、白く浮かび上がるベイキ女王の後ろ姿があった。
俺は広場を見渡せる位置で木の幹に姿を隠した。
薄手の絹の夜着に、藤色のケープを羽織っただけの恰好で、女王は石版の前に跪《ひざまず》いていた。両手を胸の前で組み、頭を垂れて一心に祈りを捧げている。
吹き抜ける風が、周囲の木立をざわざわと不気味に揺らす。それはまるで、木々に憑いた妖《あやかし》どもが懐に飛び込んできた無防備な少女に舌なめずりしているようで、俺ですら少々身の毛のよだつ思いがした。
だが、女王はそのざわめきに気づきもしないのか、身動きひとつせずに祈り続けている。
王宮の敷地内といえども、黒々とした梢《こずえ》に覆われた夜の森はどこか人の心に恐怖を呼び起こす。そんな場所によくも女王がひとりで来れたものだと訝《いぶか》っていたが、その一心不乱な姿は魔すらも退ける迫力に満ち、不思議と違和感を感じさせない光景に思えた。
ランプの炎が揺れ、女王の小さな背に複雑な影を描く。
そのせいで、俺はしばらくの間女王の躰《からだ》が小刻みに震えているのに気づかなかった。
抑えた鳴咽《おえつ》が聴こえてきて初めて、俺はようやく女王が泣いていることを知った。
「もう、駄目です どうして私は王家などに生まれついたのでしょう」
途切れ途切れに、か細い女王の呟《つぶやき》きが聴こえてくる。
「王国騎士の英霊よ……あなたたちが守ったリルガミンの王がこの有り様では、さぞかし無念な思いに駆られるでしょうね。静かに眠っていた魂を騒がせることになったとしたら、どうか許して下さい。でも……今となってはもう、あなたたちにすがる以外に私には頼れるものがないのです――」
女王が顔を上げた。「私には、あなたたちが仕えた女王――私のひいおばあ様のマルグダ女王のように弟君アラビク王子とともに魔物と撃つ力もなければ、ニルダの杖を取り戻すため自ら呪い穴に入る決心ができるほどの勇気も持ち合わせてはいません。ただ彼女の血を引くという理由だけで王位に就《つ》いた、無知で無力な娘に過ぎないのです」
聞きながら、俺は驚きを禁じ得なかった。
この一日で、女王は目を瞠《みは》るほどの変身を遂《と》げた。それまでのヒステリックで攻撃的な少女から、昼の謁見《えっけん》時には不安げな様子にも女らしさを覗かせる娘に、そして晩餐《ばんさん》でははっとするほど美しく、憂《うれ》いを帯びたひとりの女へと次々に脱皮していったのだ。
とは言え、内面までもがこれほど変化しているとは考えてもみなかった。誰もおらぬ場所で――隠れている俺を除いてだが――騎士たちの記念碑に語りかけているに過ぎないにしても、あのベイキ女王の口からこんな言葉が聞けるなど誰も予想だにしないことだろう。
女王は続けた。
「昨日までの私は、周りからそう見られるのが厭《いや》でたまらなかった。リルガミンの王と認めて欲しくて、宝珠の探索にもいらぬ口出しを幾度もしました。でもあの夢を見て、そしてあの人が還《かえ》らぬことを知って初めて、それがただあの人に関わっていたいだけの、子供じみた行為だと気づいたのです。愚かなことでした……」
感情が昂《たか》ぶったのか、啜《すす》り泣く声が激しく震える。
「もし……もしも私の口出しで探索が遅れ、それがあの人を窮地に追い込んだとしたら――あの忌《い》まわしい化物の手にかけられてしまったのだとしたら、私はもう生きていたくない。王の義務など放棄して、ガッシュの後を追ってしまいたい!」
小さく叫び、女王はその場につっ伏した。
俺はと言えは思わぬところで女王の秘められた感情を盗み聞きする羽目になり、驚きよりも狼狽《ろうばい》してしまっていた。
あの泣きはらした様子からもしやとは思っていたものの、まさか本当に女王がガッシュに恋心を抱いていたとは。俺の目から見ても確かにガッシュは頼り甲斐のある好漢だが、それにしてもあのつんとすましたベイキ女王が冒険者に惚《ほ》れていたなど信じ難い。
まして、それを女王の口から聞かされたのだ。驚愕もするが、それ以上に知ってしまって良かったものかどうか迷ってしまう話たった。俺に独白を聞かれていたと知ったなら、プライドの高い女王がどんなショックを受けるか判ったものではない。
ふと嗚咽《おえつ》が低くなり、女王は再び石碑に語りかけた。
「私の願いはただひとつ 今一度ガッシュに逢いたい。それが叶わぬならせめて一目だけでも、その姿をこの瞼《まぶた》に焼きつけたいのです。仕えし王家の末裔《まつえい》が哀れと思うなら、英霊たちよ、どうか力をお貸し下さい――」
そうして、女王はまた祈り始めた。
とりあえず保護する必要もなさそうなので、俺は気づかれぬうちにこの場を去ることにした。いずれザザから知らせを受けた衛士たちが迎えに来るだろうし、その頃までには女王も平静を取り戻せる筈だ。
幹から身を離し、広場に背を向ける。
その時――。
寄妙な気配が周囲に満ち始めた。
だがそれは、張りつめた殺気や、悪魔の放つ邪悪な気配ではない。
背後で、女王が短く声を漏らす。
振り向いた俺は、その理由を知った。
広場が光に包まれている。が、それはランプの頼りなげな灯りではない。
白く透明な光――陽光よりも暖かく、月光よりも清浄な輝きが塚の周りに広がっていた。そしてそれは、塚穴に嵌《は》め込まれた石碑が発する光だったのだ。
石碑全体が光っているのではなかった。そこに刻まれた文字――即ち冒険者たちの名が、まるで石版の裏側の迷宮から光が漏れているかの如くに輝いている。
その光景を、俺と女王は言葉もなく見つめ続けていた。
女王を石碑の前から離さなければ。心のどこかでそう考えながらも、足は根が生えたかのように動かない。それに奇妙にも、危険はないという確信が生じていた。
一分ほどが過ぎただろうか。数秒だったかも知れないし、もっと長い時間が流れたような気もする。
ある文字だけが定期的に強く光っていることに俺は気がついた。
空白を挿《はさ》んで、幾つかの文字が順番に輝きを増す。
石版の上部に刻まれているGADDY≠フG=B
次に、やや下がった位置のMINOS≠フN=B
さらに大きく下がったFLIGADE≠フI=B
最上段に刻みつけられたALAVIK≠フL=B
石版の中ほどに浮かび上がるWEED≠フD=B
再び上方に戻った位置のARHEIM≠フA=B
GNILDA=B
「ニルダ……」
女王が呟《つぶや》いた。まさに、石碑の文字は神の名を表しているのだ。
同時に、新たな文字が輝き出す。そのルールが判った今、メッセージを読み上げるのは容易なことだった。
「ニルダは、死なず。しかし、その力は及ばず。我らは、王国を見守り続けし、マルグダ陛下の、騎士……魂となれど、忠誠は失わず。現国王・ベイキ女王に御注進、申し、上げる――王国の騎士たち! 私の呼びかけに応《こた》えて下さったのですね!」
Y・E・S――石碑が応えた。続いて、再びメッセージが浮かび上がる。
「星が、病みつつ、ある……神々に抑えられぬ異形の力と、闇の勢力が手を結んで、いる」
光が示す言葉を確認するように、女王は恐る恐る読み上げていく。「異変は王国のみならず、世界全体を破滅させるであろう。ニルダは我らに、そう語られた……ああ、何てことでしょう」
大破壊《カタストロフィ》を告げる決定的なメッセージに、女王は言葉を詰まらせた。
騎士たちの霊の言葉は続く。
我ら霊魂は、ただ見守り、語るのみ。しかし麗《うるわ》しきマルグダ女王は、一介の冒険者に騎士の位までも与えて下された。英霊として祀《まつ》られ、死した後も心安らかに眠ることのできた我らに、どうして敬愛する陛下の曾孫《そうそん》の悲恋を見過ごせようか
「では、私に力を?」
ニルダ神は我らの懇願《こんがん》に、杖の盟約が果たされぬ代わりに封印を解くことを許された
じりっ、と石碑が身震いしたように見えた。
人の手にあまり、二ルダの杖と引き替えにこの世から去った伝説の武具。そのひとつを女王陛下にお預け申す
気のせいではなかった。石碑は確かに振動している。それも、次第に強く。
塚山が震え、大気が震える。石碑の確かな振動が周囲に微小な波を送り出していた。
固唾《かたず》を飲んで見守る女王の前で、がぽん、という音とともに石版が外れた。生じた隙間から、大量の空気が迷宮内に吸い込まれる。
「危ねえ!」
咄嗟《とっさ》に俺は走り出て、ベイキ女王を抱えて引きずり戻した。
「シヴラシア! あなたいつからそこに!」
驚きと戸惑い、そして恥ずかしさと怒りが入り混じった表情で、女王は俺を見上げていた。
涙の跡が頬にくっきりと残ったその顔は、記憶の底からひとりの少女を思い起こさせた。悲しみの淵にありながらも気高く、そして美しかった娘を。
俺は目を逸《そ》らし、その記憶を振り払った。
「倒れるぜ」
同時に、厚さ五十センチはあろうかという石版が地響きとともに倒れる。女王がいた位置なら下敷きにはならないが、放っておくには近過きた。
石碑の輝きが消え、辺りはもとの、薄暗いランプに照らされるのみとなっていた。
「質問に答えなさい! まさかずっとそこに――」
「たった今お迎えに参上した次第でね。見りゃああんたが石碑に潰されちまいそうな有り様だ。慌ててたもんでちょいと手荒だったかも知れねえが、そこは御容赦願いてえな」
俺は嘘を吐《つ》いた。
「そう。それなら結構です」
疑わしげな視線を向けながらも、女王は一応納得したようだった。それよりも今は倒れた石碑と、騎士の霊が最後に残した言葉とが気にかかっているらしい。
百年の間封印されてきたダバルプスの呪い穴が、今や黒々とした口を開け放っていた。
入口の闇の色は深く、ランプの光程度ではその先に続く筈の下り階段は見て取ることができない。が俺の脳裏にはさらにその奥に広がる迷宮と、そこで繰り広げられた凄惨な死闘の数々までがまざまざと浮かび上がっていた。
――ここには梯子山《スケイル》の魔物が可愛《かわい》らしく思えるような怪物ともが徘徊していたという。もし、俺が百年早く生まれていたなら、この迷宮に挑んだのだろうか。そして、生き残ることは?
その黙考を破ったのは、地の底から聴こえてくる奇怪な風切り音だった。
ひゅんひゅんと、何かが凄まじい勢いで回転し、空気を切り裂いているような音がする。それが、ぽっかりと開いた迷宮の入口から漏れてくるのだ。
女王もその音に気づいた。それほどまでに、音源は地表に近づいている。
ごおっ、と地下へのトンネルが鳴った。女王が無意識に俺の装束を握り締める。俺は女王を背後に庇《かば》った。
迷宮の闇から煌《きら》めく物体が目にも留まらぬ速さで飛び出し、空中高くに舞い上がる。回転するそれは上空で円形の残光を曳《ひ》き、次の瞬間流星の如く一直線に落下した。
「!」
石碑と俺たちの間に、一本の長剣が深々と突き立っていた。
刃渡りは一メートルあまり、幅が先端に近づくにつれて細くなる両刃剣だ。刀身は薄く、片手で扱うのに適した造りになっている。
何よりも目を引いたのは、刀身と柄の間に埋め込まれている緑がかった大きなダイヤモンドだった。複雑なカットを施《ほどこ》されたこの宝石だけでも、金貨数千枚は下らないだろうと思われる品物だ。
そしてそのダイヤモンドは、この剣がどのようなものであるのかを俺たちに思い出させた。
「こいつはもしや、ダイヤモンドの――」
「ダイヤモンドの騎士の聖剣、|悪魔殺し《デーモンスレイヤー》<nースニール……」
まさしくそれは、かつて魔人ダバルプスを斃《たお》し、ニルダの杖の榎活とともに神に返還された伝説の武具のひとつ、噂に名高い魔法剣ハースニールだった。騎士たちの霊はニルダの神に働きかけ、この聖剣を女王に貸し与えたのだ。
俺はハースニールを引き抜こうとした。が、柄を握った途端に痺《しび》れが疾《はし》り、腕に力が入らなくなる。
その時、時間が逆に流れたかのように石碑が起き上がった。そして呪い穴を元通りに塞《ふさ》ぐと、またもや特定の文字が輝き出す。
ハースニールは忍者が持つに能《あた》わず。また、神は最後のダイヤモンドの騎士の血を受け継ぐ者にのみ、その使用を許された。今は女王自身が用い、戦いにおいてはダイヤモンドに封じられし呪文の力を使われよ――
メッセージに勇気づけられ、女王がハースニールを握る。細腕が幾らも力を込めたとは見えないのに、長剣はあっけなく地面から引き抜かれた。
「軽い……こんなに大きな剣なのに」
女王は片手で、ハースニールを頭上にかざした。石碑が放つ光が、伝説の聖剣を穏やかに輝かせる。
その剣を、愛する者に渡されよ。その者こそ、ダイヤモンドの血を引く剣の所有者なり――
その言葉を最後に、石碑の光は徐々に弱まり始めた。
「ガッシュが、ダイヤモンドの騎士の末裔《まつえい》……?」
俺は言って、心の中で舌打ちした。それはつまり、女王の告白を盗み聞きしたと白状するようなものだからだ。
だが、女王は気づきもしなかった。濡れたように光るハースニールを見つめながら、決然と女王は呟《つぶや》いた。
「私は、あの人を探します」
その意味を理解するより早く、どこかで女王を呼ぶ衛士たちの声が届いた。
[#改ページ]
転ノ壱
闇の中に、幾つかの光が動いていた。
上下に揺れながら移動するそれは、暗闇をひた走る数人の男の手に握り縛められたランプだった。
荒々しい足音と、激しい息|遣《づか》い。鋼の装甲板を重ね合わせた鎧が騒々しく鳴り響き、湿気を多量に含んだ洞内に幾重にも谺《こだま》する。
息も絶《た》え絶《だ》えに出口を目指す彼らにとって、その音は脅威を呼び寄せる警報に感じられた。
いけない。
もっとゆっくりと、足音を忍ばせて、息も殺して。
鎧を鳴らしちゃまずい。この音は迷宮の隅々にまで届きそうだ。脱ぎ捨てるか? 駄目だ! もしこの先にも奴等がいたら、鎧なしじゃ生き残れない。
それなら足を緩《ゆる》めないと。もっとゆっくり走れば、板金鎧《プレートメイル》だってこんなに鳴るものか。
いや、これも駄目だ! 追いつかれたらどうする? 奴等が俺たちを追撃しているのは間違いない。
急がなければ、殺《や》られる――。
だが、急げば位置を知られる。
このジレンマに苛《さいな》まれながらも、走るほどに深まる背後の闇に圧迫され、男たちはひたすら疾走するほかなかった。
いずれも、数多《あまた》の修羅場をくぐり抜けてきた男たちであった。いつもなら数十キロにも及ぶ武具の重さなど気にもかけぬ、底なしのスタミナを持つ屈強の冒険者である。
しかし、今、彼らは恐怖に支配されていた。
心の奥底にへばりつき、払おうとしでも決して拭《ぬぐ》えぬ恐≠フ感情。
己の力を信じようとしても、それを圧して沸き起こる怯≠フ感情。
それらは彼らの冷静さを奪い、判断力を低下させその肉体の働きまでも蝕《むしば》んでいた。
全身は鉛を詰められたかに重く、呼吸は乱れ、筋肉に力が入らぬ。より速く躰《からだ》を運ぼうと気ばかりが先行し、制御されぬ全力疾走に肉体は急速に疲労の度合いを高めていく。
その結果、彼らは体力のほとんどを搾《しぼ》り尽くしていた。もはや気力で走っていると言って良かった。
もし、最後尾の男――戦士ドードゥが床の滑《ぬめ》りに足を取られなければ、彼らは心臓が停止するまで走り続けていたかも知れなかった。
鎧が一際《ひときわ》大きく鳴り、石床に金属を擦《こす》りつける音とともに、ドワーフの戦士は派手に転倒した。手から飛び出したランプは光の弧を描き、数メートル先で砕けて燃え広がる。
「ま、待ってくれ!」
鎧から火花が散るほど激しく床に叩きつけられ、息を詰まらせながらドードゥは絶叫した。灯りを失い、闇の中に取り残されたら――そう思うと叫ばずにはいられなかった。
他の三人の男のうち、すぐ前を行くふたりは即座に足を止めた。が、先頭を走る足音だけはそのまま遠ざかっていく。
「おい、アルフ! 待て、離れるな!」
「止まれ!」
立ち止まった男たちの叫びも虚《むな》しく盗賊アルフの気配は前方の曲がりくねった通路の奥に消えていった。
ふたりのエルフ――侍バルザックスと僧侶サーベイは肩で息をし、か細い光に照らされた互いの顔を見合わせた。どちらの表情も焦燥と疲労の翳《かげ》が濃い。
サーベイが首を横に振った。「行ってしまったな」
「仲間を見捨ててか。けちな太っちょノームめ」
ペッ、と唾を吐き、弾も息で切れ切れにバルザックスは呟《つぶや》いた。「俺は昔から奴が気に入らなかったんだ。悪《イビル》の連中よりなお性悪なちびころめ! あんな臆病者がパーティにいなけりゃ、ガッシュやマイノスたちの部隊に先を越されることだって――」
「今はそんなことを言っている場合ではあるまい」
若き侍を、年長のサーベイが諫《いさ》めた。
「あの臆病さがなければ、我々とてここまでも辿り着けなかったであろうよ」
「……」
バルザックスは唇を噛《か》み、沈黙した。二名の仲間を失ったとは言え、他の捜索隊のように壊滅することなく逃げ延びられたのは、確かにアルフの主張に従ったからだった。あのまま戦場に留まっていたとしたら、恐らくは全員が命を落としていただろう。
しかし、だからといって仲間を置き去りにして良いものか――その思いに、バルザックスはぎりッと奥歯を噛み締めた。
仲間を残して走り去ったアルフの耳に、ドードゥの転倒時の音が届かなかったとは思えなかった。仮にも盗賊であれば、針先が擦《こす》れる程度の音さえも手掛かりに罠を解除する技能が要求される。まして、ドードゥの叫びとエルフたちの呼びかけが聴こえなかった筈はない。
不可抗力ではなく、自分自身の意志によって、アルフがドードゥを見捨てたのは明白であった。
だが、この異常な心理状態にあっては、アルフの行為も非人道的と厳しく責めたてられるほどのものではない。立ち止まれば殺されるかも知れぬという強迫観念が、仲間を思う義務感を上回ったのだ。
バルザックスとサーベイが立ち止まったのも、このふたりが善《グッド》の戒律を持つ冒険者であることに因《よ》るところが大きかった。彼らが拠《よ》り所とする善の掟は、たとえ自分の身に危険が迫ろうと、救助が絶対に不可能ではない限り仲間を見捨てることを許してはいない。
彼らと無戒律のアルフの差は、無意識下の義務感の有無、つまりは善《グッド》と中立《ニュートラル》の思想の違いであった。
「怪我はあるか」
這いつくばったまま喘《あえ》ぐドードゥを助け起こし、サーベイは治療呪丈の必要があるかどうかを尋ねた。「とは言え快癒《マディ》はとうに使い果たしているがな」
「い、いや、すまねえ、足を滑《すべ》らせただけだ」
中立のドワーフは、顔の半分を覆う髭《ひげ》に唾液の泡を絡《から》ませて立ち上がった。もともと頑丈な骨太の体躯《たいく》を誇る種族だけに転倒程度で身動きが取れなくなるようなやわな肉体は待ち合わせていない。
「ならば急ごう。こうしている間にも、あの化物どもが我々に追いつきかねん。それに、アルフが独り先に進んでしまったことだしな」
サーベイは敢《あ》えて、逃げた、という言葉を使わなかった。
ドードゥは猪首《いくび》を巡らせ、それ自体が襲いかかってきそうな深い暗黒を見つめた。剛胆なドワーフ戦士の躰《からだ》に不似合いな震えが疾《はし》る。それほどまでに、彼らを迫っているものはおぞましい存在だった。
「糞《くそ》ったれ。何だってあんなものがこの世にいやがるんだ」
十字を切り、ドードゥは呻《うめ》いた。
「もう一息で第一層への階段だ。とにかく進もう」
「待て。何か聴こえないか」
バルザックスの言葉に、走り出しかけたふたりもその場で耳を澄ます。ズズ、ズ、と、微《かす》かだが重い地響きが足下から伝わってきた。
「なん――」
ドードゥが言いかけたその時、突き上げるような衝撃が彼らを襲った。
凄まじい轟音と、立つことすらままならぬ激しい揺れ。周囲が、いや、迷宮全体が鳴動しているようだった。
すぐ足下で、致命的な破砕音が響いた。次の瞬間、床となっている岩盤が裂け、彼らは空中に投げだされていた。
「く……そった、れ……」
意識を取り戻すなり、ドードゥは頭を振って毒づいた。
視界は、暗黒に包まれている。目が潰れたのではないかとおののいたが、それは全く光がないからだと気づく。しかし、盲目の恐ろしさに変わりはなかった。
「バルザックス! サーベイ! いねえのか」
たまらずにドードゥは叫んだ。恐怖に取り憑かれた今、それがふたりのエルフ以外の耳にも届く可能性など考えている余裕はない。
水音に混じって、ふたりのものと思《おぼ》しき呻《うめ》き声が返ってきた。
ややあってサーベイの詠唱が響き、ドードゥの視界は柔らかい光に満たされた。僧侶が始めに身につける呪文のひとつ、魔法の光を生み出す幻光《ミルワ》の呪又を唱えたのである。
三人はさほど離れていない位置に、大量の土砂に塗《まみ》れて倒れていた。周囲にはまだ朦々《もうもう》と砂埃《すなぼこり》が舞いそれほど長い時間が経過していないことが判る。
そこは梯子山《スケイル》の出入口にほど近い、迷宮第一層の一角に存在する地底湖のほとりであった。暗い水面がゆったりと波打ち、数メートル先にある渚《なぎさ》の砂を洗っている。
「こりゃあ、どうなってやがんだ?」
見覚えのある眺めではあるものの迷宮第二層にいた自分たちが何故ここにいるのか見当がつかず、ドードゥは助けを求めるようにサーベイを仰《あお》ぎ見た。
そのサーベイは、これまで彼が見せたことのない呆然とした表情で天井を見上げていた。ドードゥもその視線を追う。
地底湖付近は、迷宮よりもドームと呼ぶべき形状をなしていた。迷宮の他の場所よりも遥かに天蓋《てんがい》が高く、そこが人工的に造られたのではないことを示している。迷宮が掘られる以前から梯子山《スケイル》内部に存在した自然の産物だった。
そのドーム状の天井の一部――つまり彼らの真上から出入口の方面にかけての部分が、ぽっかりと黒く欠けていた。
「落盤だ……」
ドードゥに答えたというより、己に言い聞かせるようにサーベイは呟《つぶや》いた。
彼らは落盤に巻き込まれ、第二層の床となっていた岩盤と一緒にここまで落下してきたのであったら幸いにも、彼らは落盤を起こした岩盤の端の部分にいた。そのため岩盤が崩れ落ちた後から落下し、巨岩に潰されずに済んだのである。最初に崩壊した落盤中央部にいたとしたら、まず助からなかったであろう。
いや、不幸にも死ねなかったと、そう言ったほうが適切かも知れない。
彼らはまだ、迫りつつある脅威に気づいていなかった。他のことに気を取られていた。
何故なら、落盤が築いた巨岩の山が、外界に通じる退路を完全に塞《ふさ》いでいたのである。その時彼らの頭を占めていたのは、数トンから数十トンにも及ぶ岩塊をいかにしてどかすか、という絶望に似た思考のみであった。
「無理だ、な。ここからは、出られん」
苦痛に喘《あえ》ぎながらバルザックスが呟《つぶや》いた。ドードゥとサーベイは奇跡的にかすり傷と打撲程度で済んでいたが、バルザックスは落下時に岩の角に叩きつけられ、肋骨《ろっこつ》を数本と右の大腿骨《だいたいこつ》を骨折していた。
その呻《うめ》きにサーベイは我に帰り、慌てて身動きの取れない侍のもとに駆け寄った。「酷くやられているな。脚のほうは砕けている。骨を接合するには快癒《マディ》でなくては無理だ」
「応急処置でいい。痛みが多少でも和《やわ》らいで、自力で動ければ――」
骨折部を触診され、バルザックスは激痛に息を詰まらせた。
「辛抱しろ。すぐに大治《ディアルマ》をかける」
サーベイが治療を施《ほどこ》している間、ドードゥはぼんやりと落盤で塞《ふさ》がれていない壁面を眺め回していた。
どのみち他に出口はない。
それでも、脱出の方法を考えずにはおれぬ。だが思考力の鈍った頭脳はただ、どこかに偶然にも脱出口が開いていることを期待するのみだった。
――俺は落盤に巻き込まれても怪我らしい怪我はしちゃいねえ。そうだ、俺は運がいいんだ。だったら出口があってもいい筈だ。違うか? ……いやそもそもあんな、人と同化しちまうような怪物と出くわしただけでも運がねえ。落盤だって巻き込まれねえのが一番いいに決まってる。それじゃあ、俺はここで死ぬのか? ポーリンやシャイロンのように、あの化物に生きながら喰われて? 厭《いや》だ! 冗談じゃあねえ! 出口はあるんだ。ないなら今すぐポンと開くに決まってる!
仲間ふたりの死に様を思い起こし、ドードゥは次第に狂的に周囲を見回し始める。が、求める出口は見つからず、それ以外は何も目に入らない。機械的に首を左方に振り続けているに過ぎなかった。
エルフふたりにとって死角になる方向から小太りのノームが近づいてくるのも、その姿が見え始めてから十秒以上の間認識できなかった。
アルフだった。一体今までどこに隠れていたのか、肥満した顔を嬉しそうに弛《ゆる》ませてドードゥにするすると近寄ってくる。
こいつは何だって嗤《わら》ってやがるんだ、とドードゥは思った。
――そうか、俺を見捨てて逃げたんで、気まずくて出てこれなかったんだな。それで、にやにや嗤って誤魔化そうって肚《はら》か。いつもながら小|狡《ずる》い野郎だ。ようし、ひとつガツンとぶん殴ってやる。
ドワーフの昂《たか》ぶった精神は、今や熟練の戦士が培《つちか》ってきた判断力と獣にも似た直感力をほとんど失っていた。警戒心を麻痺させたまま、ゆっくりと立ち上がってアルフを待つ。
数歩の距離に近づいても、アルフは一言も発しなかった。ただ、にたにたと笑みを浮かべて進んでくる。たっぷり肉のついた頬が押し上げられ、果たして目が見えているのかどうかという面相である。
その頬を張り倒そうとして、ようやくドードゥの頭に警報が鳴った。
いつものアルフではない。アルフはこんな嗤い方はしない。
一見笑い顔だが、何の感情も込められていない貌《かお》。むしろそれは無機質な仮面の如き表情だった。
ドードゥが身構えた瞬間、ぎろり、とアルフが目を剥《む》いた。瞳のない、緑色の眼球であった。
「うわああッ」
ドードゥは絶叫し、飛び退《すさ》ろうとした。しかし、もはや間合いは充分だった。
かっ、とアルフの口が開いた。口の端がみりみりと裂けるが、血は一滴も噴き出さない。そこから、分裂した妖獣《ゼノ》が勢いよくドードゥの顔面に向かって飛び出した。
悲鳴に振り向いたふたりの目に飛び込んできたのは、口腔から妖獣《ゼノ》に侵入されてもがく哀れなドワーフの姿であった。
「ドードゥ!」
サーベイの叫びと同時に、半身を起こしたバルザックスは呪文の詠唱を開始した。
魔法剣士である侍は、精神の修養を積むことによってある程度の魔術師系呪文の使用が可能となる。現在熟達者《マスター》≠ノ近い域にまで達しているバルザックスは、第三レベルまでの呪文を操ることができた。
こうなっては、もうドードゥは助からない。アルフごと焼き払おうと、バルザックスは思った。
だが、詠唱できなかった。声がかき消される。そればかりではない。全身に強い圧迫感があった。躰《からだ》を起こしていられないほどの圧力がバルザックスの肉体にかかっている。まるで、巨大な生物に踏みつけられているように。
馬鹿な。バルザックスは思った。俺の上には空気しかない。
肺の中の空気がすべて押し出される。仰向けのまま地面に押しつけられた躰が軋《きし》む。錯覚ではなく現実に凄まじい質量が侍を押し潰そうとしている。
治療したばかりの肋骨《ろっこつ》が祈れる。腕が、脚が次々と厭《いや》な音を立てて祈れる。
酸素を求めてぱくぱくと口を開閉し、バルザックスはまだ、現状を理解できずにいた。見開いた目に心なしか空気が青く映る。
バルザックスにのしかかる半透明の青い影を見つめ、サーベイは必死に恐怖心と戦っていた。自分に助けられるか? いや、アルフも迫っている。ひとまず逃げて、街に残る連中に助けを求めねば。しかし逃げ道は? 背後で大きな水音がし、サーベイは反射的に振り向くく。
何もいないように見えた。湖上に闇があるだけだ。
闇? どうして闇から水が滴《したた》る? それは闇ではなく、もっと別の――。
サーベイの心に湧き上がる恐怖が具現化したかのように、暗闇の巨体を持つそれは湖の中で身震いした。そして竦《すく》み上がる僧侶に容赦なく、高熱の液体を大量に吐きかける。
それは沸騰《ふっとう》した強酸であった。サーベイは生きながら溶かされ、断末魔の叫びをあげる間もなく絶命した。
卵が割れるように、バルザックスの頭蓋《ずがい》があっけなく潰れた。全身の骨を砕かれた肉体は半ば地面にめり込んでいる。
巨体が水中に没する水音と、嘲笑に似た大気の唸りを耳にしながら、ドードゥは鼻孔から這い上った妖獣《ゼノ》に自分の脳を食われていく感覚を味わっていた。
意識を奪われる寸前に脳裏に浮かんだのは、落盤で死ねなかった自分はやはり運がなかった、ということだった。
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第四章 峻嶺の下に集う
荒野は朝|靄《もや》に包まれていた。
空の高みはまだ暗い。昨夜から雲はなく、星々が白みゆく天空に最後の光を投げかけている。
地平線近くには青白く、仄《ほの》かに薄黄色に染まった夜明けの空が広がっていた。どんよりとした陰鬱《いんうつ》な異常気象が続く中で、珍しく空気が澄んだ薄明《はくみょう》の眺めだった。
罅《ひび》割れ、乾ききったこの荒地も、霞《かすみ》を立ち上らせるだけの水分を含んでいる。大地の命脈は、未だ尽きてはいない。
ならばあの岩壁を――眼前に聳《そぴ》える梯子山《スケイル》を攀《のぼ》り、ガッシュたちに巡り逢うまでは、すべてを呑《の》み込み破砕する大破壊《カタストロフィ》を抑えていてくれ。
そう思いながら、俺は荒野を五分の力で走っていた。
リルガミンの街から梯子山《スケイル》まで約十キロメートル、疲れが残る距離ではない。昂《たか》ぶる心を鎮《しず》め、無意識に張りつめた筋肉をほぐすには頃合いの運動だった。
吐く息が白い。厚い雲に覆われていないせいか、今朝の冷え込みはこの年で一番のものだった。
たが、俺は寒さを感じなかった。肉体の奥底が、熔鉄のように熱く滾《たぎ》っていた。
梯子山《スケイル》を攀る。
その絶望的な挑戦に、全身が高熱を帯びたようになっている。
常識で考えれば、全く無謀な行為と言える。垂直に等しい断崖絶壁を攀り、標高九百メートル付近に口を開けた穴から迷宮内に侵入しようというのだ。
限りなく不可能に近かった。それだけの距離を攀《よ》じ登る間に手掛かり足掛かりが途切れることなく、疲れた時にはちょうど良い岩棚が用意されているというのであれば――そして幾度でも挑戦を重ねられるなら、いつかは可能となるかも知れない。
だが、現実にはそんなことはあり得ない。指先を掛けることすらできない垂壁に阻《はば》まれ、後戻りも困難な状況に必ず陥《おちい》るだろう。そこで力尽きれば、真っ逆さまに地表まで落下する。全身がぐずぐずに砕かれ、恐らくは呪文を用いても蘇生できない絶対の死を迎える。挑戦し、失敗できるのはただの一度きりなのだ。
つまり、不可能そのものということになる。
マイノスはそれをやると言った。落盤に入口を塞《ふさ》がれた今、梯子山《スケイル》の迷宮に侵入する方法は他にないからだ。
そして、そのためには俺の力が必要だと言う。善《グッド》の奴とは相容れない悪《イビル》の戒律を持ち、日頃から反目していた俺に協力を求めたのだ。
だからこそ、乗り気になった。
マイノスが自分から頼んできたことに対して、ぎまあ見ろだの、気味がいいだのという思いは毛頭ない。むしろ、やられたと思った。この手の子供じみた対立は先に折れたほうが勝ちなのだ。奴にその打算がないからなおさらだった。
それに、凄まじいまでの執念で宝珠を死守したマイノスに、多少なりとも敬意を抱《いだ》いたことを俺は自覚していた。こうなっては、相性が悪いなどという片意地は吹っ飛んでしまう。
そのマイノスが、どんな策を用意しているのか。途方もない計画だけに想像もつかない。考えるのを止《や》めたお陰で、それを知る瞬間が待ち遠しく、楽しみだった。
いずれにせよ、死を覚悟した登攀に変わりはないだろう。にもかかわらず、躰《からだ》の芯が燃え立つように火照《ほて》っている。大破壊で死ぬも同じ、と居直った昂《たか》ぶりとは違った。
闘いの前に感じる、血のざわめきに似ていた。近づくほどに天を圧して迫る梯子山《スケイル》の姿に、その感覚は一層高まってくる。
そう、まさにそれは闘いだった。巨大な壁面と繰り広げるであろう死闘の予感に、俺の肉体に潜んだ野性が敏感に反応しているのだ。
流して走りながら、不意に全力で疾走したい衝動に駆られる。こんな筋肉の動きでは満足できないと、躰《からだ》が不満の声をあげているようだった。
その欲求に屈する代わりに、俺は息を止めて走った。
隠身時は、五分は呼吸をせずにいられる。だが、それは肉体の動作を極端に抑えた場合だ。走っていれば、それだけ筋肉は血液中の酸素を欲することになる。
空気に含まれているこいつが、俺たち人間はもとより鳥獣、虫、魔物に至るまでのあらゆる生物の命をつないでいる。細胞のひとつひとつが、この酸素なしでは生きてゆけない。だから無意識に呼吸し、血の流れが勝手に酸素を全身に送り届ける。
その仕組みを、俺は折りにつけディーやザザから教わっていた。
脳を砕けばその生物は死ぬ。それは感覚として理解できた。俺がものを思うのもすべてはこの脳が詰まった頭だからだ。
では、心臓を抉《えぐ》ると死ぬのは何故か。血を失い過きると、また首を絞められて呼吸が止まると死ぬのは何故か。その疑問を口にした時、ふたりは信じ難いという表情を見せた。そんなことを考えるのは治療者たる僧侶か、高度な呪文を操る魔術師ぐらいのものだ、と。
呪文を知らぬ戦士や忍者、それに侍も相当なレベルに達していない限り、肉体の破損と死の関係はあくまで漠然とした、経験に基《もと》づいたイメージしか抱《いだ》いていない。心臓を潰せば早々に死ぬ、息ができなければ死ぬ、と記号のように結びつけるだけだ。
だが、呪文所有者《スペルユーザー》はそうではない。どのような流れによって生が死へと変化するのか――それを識《し》り、理解しなくては魔法を操ることはできないのだ。
特に酸素の存在と働きは、遥かな古代から魔術師たちの間に伝えられてきた。魔術師系第六レベルに属する窒息《ラカニト》の呪文は、中規模範囲に存在する酸素を変質消滅させ、一瞬のうちに敵を酸欠状態にする。血液中の酸素まで奪い去るため、速効で脳を冒して死に至らしめるのだ。このような殺戮《さつりく》呪文が存在する以上、使用者たる高位魔術師たちは酸素が生命維持に不可欠であることを熟知していなければならなかった。
僧侶呪文を操る者にしても、傷の治癒は即ち生命力の活性化であるからには、酸素を必要とする生命の流れを理解せずに治療者を名乗ることはできない。
それだけに、ディーとザザは酸素についてこと細かに教えてくれた。完全に理解しているかどうかは自信がなかったが、この知識が俺の死に対する認識をより深めたことは確かだった。
酸素の供給が止まれば生物は死ぬ。それは、呼吸もしくは血液循環を妨《さまた》げれば相手を殺せるということになる。しかし体内に酸素が残っていれば、それを使い切るまで生命活動は完全には停止しない。心臓を貫《つらぬ》いた場合でも、最後の力を振り絞って反撃してくる恐れがあるというわけだ。
だから俺は、打撃を加えた瞬間に絶命する部位を狙う。頭蓋《ずがい》や顔面、そして背骨に沿った躰《からだ》の中心線が、どんな生物にとっても神経が集中する確実な急所だった。
息を止めて二分強。限界ではなかったが、俺は呼吸を始めた。冷たく新鮮な空気が肺に流れ込み、そこから血液中に溶けた酸素が全身の細胞にゆき渡っていくのが判る。蘇る気分だった。
朝|靄《もや》よりも数段白い呼気が、再び定期的に吐き出される。呼吸に一筋の乱れもない。体調は万全だった。
一昨日の夕暮れにガッシュたちを見送ってから、俺の周囲では目まぐるしいほど様々な出来事が起こっている。夢魔《サッキュバス》の誘惑と地震、謁見《えっけん》の場に現れた妖獣《ゼノ》との闘い、|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》の炎上。石化したまま妖獣《ゼノ》に同化されかけ、大破壊の到来を予告され、ニルダ寺院の廃墟で失われた魔法を目撃した。夢魔を捕らえ、炎の鞭《むち》を操る悪魔に襲撃され、そしてベイキ女王が騎士の英霊たちより聖剣ハースニールを借り受ける現場に居合わせた――自分でも呆れるほどの多忙な一日だった。
しかし、疲労は露《つゆ》ほども残っていない。心身ともに充実した状態で、思い定めた時刻に自然と目が覚めた。
躰《からだ》が軽い。いつもの忍者装束の内側に保温用の衣を着込み、背には段平《だんびら》を括《くく》りつけていたが、普段よりも肉体の重さが感じられない。大気と一体になった気分で俺は走り続けた。
いつの間にか、梯子山《スケイル》の周りを囲む緩《ゆる》やかなスロープに辿り着いていた。
靄《もや》はまだ薄く視界を覆っている。空の色彩の変化が、間もなく日の出だと告げていた。
俺は足を止め、聳《そび》え立つ岩山の麓《ふもと》を眺め渡した。が、誰の姿も見えない。どうやら俺が一番乗りだったようだ。
マイノスとは昨夜、夜明けにこの場所に集まろうと決めている。ザザと連れだって来ても良かったが、敢《あ》えて部屋に寄らずにひとりで王宮を出た。俺が早めに出発するつもりだったこともあるが、下手に起こして呪文の回復を妨《さまた》げたくなかったからだ。放っておいてもザザが時間に遅れることはあり得なかった。
不意に、風が出てきた。靄が流れ、少しずつ吹き散らされてゆく。
東の彼方に霞《かす》む山脈の稜線が急速に明るさを増した。そして太陽が顔を出した瞬間に、山々は黒いシルエットとなる。
さっと朝日が差した。薄青かった大気が一瞬に暖色を帯び、不毛の荒野を黄金《こがね》色に輝かせる。
梯子山《スケイル》も東の半面に光を浴び、その威容を青空に浮かび上がらせた。影となった西側との境がちょうど、南に立つ俺から見て真正面に位置する。右半分を金色に、左を黒に染め上げた巨塔の如き姿だった。
その、光に包まれた東側から、馬に跨《また》がったひとりの男が現れた。
遠目だったが、それが誰であるかはすぐに判った。ザザだ。
ザザもほとんど同時に俺を認め、軽く手を振ってみせる。
俺はザザの傍《そば》まで全力で疾走した。スロープを駆け上がり、数十秒で辿り着く。
「走ってくることはないでしょうに」
馬から降りて手綱《たづな》を引き、ザザは呆れ顔で言った。
いつものゆったりした法衣姿ではなく、躰《からだ》をぴったりと包む衣服を着用している。壁面を攀《のぼ》る際の身のこなしを考えての選択だろう。
「調子が良くってな。体を動かさずにゃいられねえ」
「頼もしいですね」
ザザがにこっと笑った。「特に今日のような日には」
「てっきりまだ寝てるもんだと思いってたぜ。おまえの調子はどうなんだ」
呪文の回復が心配で俺は尋ねた。熟睡時の精神の安息が持続しなければ、マジックポイントは完全には取り戻せない。
「上々ですよ。王宮のベッドは寝心地が良過ぎて、三時間も寝れば回復してしまいました」
「普段は馬小屋で藁《わら》に塗《まみ》れて寝る男がか。それにしても早過ぎるぜ。何をしてたんだ?」
ザザは梯子山《スケイル》の向こう側から姿を現したのだ。周囲数キロにも及ぶ山の断崖をぐるりと一周してきたのだとしたら、夜明けのかなり前にここに来ていたことになる。
岩壁を見上げ、ザザは謎めいた微笑を浮かべた。
「ちょっとしたまじないですよ。役立つかとうかはともかく、気休め程度にはなります」
「この壁を攀《のぼ》れるように、か」
「いいえ。登攀《とうはん》は成功すると信じていますよ。この呪法は迷宮に入った後のためのものです」
どんなまじないだ、と訊《き》こうとした時、ザザが目の上に手をかざして街の方角を見やった。掘り向くと、朝|靄《もや》の晴れた荒野に長く影を落として走る馬車の姿が遠くに見える。
初めは一台しか判別できなかったものの、しばらく見守るうちに馬車は三台だと判った。まだ数キロメートル離れているが、耳を澄ませば三種類の異なる車輪の軋《きし》み音が風に乗って聴こえてくる。
三台は全く別々に走っていた。この位置から見ただけでは判らないが、車輪の音にはそれがはっきりと出ている。一台は馬を全力で疾駆させ、残る二台も異なるペースで進んでくるのだ。個々に出発し、現在走行中の辺りで後発の馬車が追いついてしまったのだろう。
やがて一台が大きく抜きんでた。いつも冒険者運搬に使われている幌《ほろ》馬車だった。
見る見るうちに近づくと、幌馬車は定位置であるスロープの手前で停止した。そして、荷台からふたりの男が降り立つ。
ひとりはマイノスだった。登攀の妨《さまた》げになる甲冑は着ておらず、ザザのものとあまり変わらぬだぶつきの少ない服に身を包んでいる。ただ、躰《からだ》の要所要所に革製らしい薄手のプロテクターを着けていた。ないよりはまし、といった程度の防具だ。
もうひとりは初めて見る、かなり小柄だが恐らく人間族《ヒューマン》であろう初老の男だった。薄汚れた革の衣服に身を包み、剥《む》き出しの腕や脚は良く日に灼《や》けている。痩《や》せてはいるが充分な筋肉に包まれた躰《からだ》をしていた。
俺とザザは馬を連れてスロープを下りていった。
近づくにつれて、その男が思っていたよりもずっと高齢だと判った。背が真っ直《す》ぐで筋肉に張りがあったために見誤ったが、染みが浮いた肌はすでに老人と呼ばれるようになって久しい齢《とし》であることを示している。
気難しそうな貌《かお》に刻み込まれた皺《しわ》は深く、男が送ってきた人生が平坦ではなかったことを窺《うかが》わせる。が、何を生業《なりわい》に生きてきたのかは皆目見当がつかない。引退した冒険者にしては雰囲気が異質過ぎた。
老人は荷台から編み篭《かご》を降ろしてしゃがみ込み、何やら得体の知れぬ道具を取り出しては丹念に調べていたが、俺たちを認めたマイノスが肩を叩くと、立ち上がってこちらを凝視し始めた。そこで俺は初めて、老人の右目が白く濁っているのに気がついた。
もはや右の視力は失われているのだろう。
老人は左目を細めた。どうやら視線は俺に注がれているらしい。値踏みしているようだった。
「向いてそうだ」
十メートルほどの距離になった時に、そう呟《つぶや》いた。俺の知らない地方の訛《なま》りがあった。
マイノスはザザの服装でただの見送りではないと悟り、心底嬉しそうな表情を見せた。僧侶系呪文を操るロードだけに、自分がまだ使えない第六レベル以上の高等呪文がどれだけ助けになるかを重々承知しているからだ。
それに、人当たりが良くとも悪《イビル》の戒律には変わりのないザザが同行するなど、マイノスとしては全く予期していなかったのだろう。助力に対する純粋な感謝の念がありありと見て取れた。
善《グッド》の連中のこの単純さが時として俺を苛《いら》立たせるのだが、今は取り立てて気にならなかった。それよりも、老人は俺が何に向いていると言ったのか、そちらのほうに興味をそそられこいた。
その時ちょうど、二台目の馬車が到着しようとしていた。
それは異様な馬車だった。二頭の馬に牽《ひ》かせた有蓋《ゆうがい》車なのだが、中に乗った者が外を覗くための窓が全く存在していない。造りは贅沢《ぜいたく》で気品を感じさせるものの、窓がないのと黒一色に塗られているせいでどこか禍々《まがまが》しく、罪人の護送車や死者の棺を連想させる。
牽引《けんいん》する馬もまた、二頭揃って漆黒の毛並みを持つ巨大な奴だった。野生馬のように精悍《せいかん》で、よくもおとなしく馬車を牽いているものだと感心するほどに獰猛《どうもう》そうだ。現に近くに並ばれた幌《ほろ》馬車の馬たちは、一様に怯《おび》えた様子で双子のような黒馬の動向を窺《うかが》っている。
背骨が瘤《こぶ》のように隆起した大柄な御者が馬車を止め、有蓋車の扉に回って到着の旨を囁《ささや》く。応《こた》えがあり、御者は恭《うやうや》しく扉を引き開けた。
現れたのは顔をベールで覆い、全身を濃い群青《ぐんじょう》のローブで包んだ長身の男。炎上する|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》で見た時と寸分変わらぬ、自称森の彼方の国<tァールヴァルトからの旅人アドリアンの姿だった。
薄布の向こうから俺たちを透かし見て、アドリアンは滑《すべ》るように近づいて来る。その後ろから、大きく頑丈そうな木箱を担《かつ》いだ御者が続く。
アドリアンを知らぬマイノスは、怪訝《けげん》そうな顔でそれを眺めていた。馬車を追い抜いた時から不審でしょうがなかったという表情だ。
その間に最後の馬車も、はっきりと視認できるほどに近づいていた。
アドリアンの馬車とは対照的な、白馬に牽かれた豪奢《ごうしゃ》な白い馬車。それに誰が乗っているのか、俺は知っていた。
アドリアンはともかく、その人物の同行をどう説明したものか。マイノスの反応を想像しただけでげんなりする。
ザザは相変わらず無邪気に見える笑みを浮かべていたが、そこにこの状況を真実楽しんでいる表情が掠《かす》めたのを俺は見逃さなかった。
人の気も知らず、聖剣ハースニールを携《たずさ》えたベイキ女王の馬車は着実にこちらに接近を続けていた。
「馬鹿な! 無謀過ぎます」
馬車から降り立ったベイキ女王の姿に受けた衝撃からようやく立ち直ったマイノスは、予想通り悲鳴に近い声で叫んだ。そして、俺のほうにその顔を向ける。「どういうことなんだ、これは!」
「どうって、何がだ?」
俺は何故抗議されるのかさっぱり判らない、という風を装った。
「とぼけるな。陛下を連れてこんな危険を冒せるわけがなかろう」
「気にしないで下さい、マイノス。自分の面倒は自分で見ます」
女王は断固として言った。「決してあなたたちに迷惑はかけません」
「しかし――」
再び女王に目を向け、マイノスは口|篭《ごも》った。
言いたいことは俺にも判る。俺たち冒険者でさえ困難な梯子山《スケイル》の登攀《とうはん》を、生まれてこのかた温室育ちのベイキ女王が挑むと言うのだ。
迷宮で怪物相手の戦闘を繰り返してきた俺たちは、心身ともに常人を遥かに越える能力を身につけている。無意識下の回避行動は肉体のダメージを最小限に抑え、修羅場を耐え抜いてきた精神は催眠呪文をはねのける。こと人外の魔物との戦闘においては、俺とディー、ザザの三人だけでも兵士二十人以上の戦力になるだろう。さらにガッシュ、フレイ、ボルフォフを加えたフルメンバーのパーティなら五十人――いや、並の兵士百人の部隊を壊滅させる怪物どもと渡り合うことも可能だ。
そんな、一種化物じみた熟達者《マスター》≠フ冒険者に比べ、女王は基礎体力から大きく劣っている。百歩譲っても、千メートル近い高度差の垂壁|登攀《とうはん》に耐えられるとは思えない。
自分たちだけでさえ失敗する可能性の高い登攀計画に、明らかにお荷物となるベイキ女王を同行させるなど狂気の沙汰だ――そう、マイノスは言いたいところだろう。
だが、誇り高い王国騎士の末裔《まつえい》としては、それは口が裂けても言えない台詞《せいふ》だった。まして女王が迷惑をかけないと宣言したのだ。王室への礼節を重んずるマイノスにとっては、当然と言えるその意見が女王の侮辱にまで及んでしまうのだろう。
俺は女王に目をやった。
男装と見紛《みまが》うような、飾り気のない出で立ちの女王がそこにいた。俺たちと同様、動作の邪魔にならぬ衣服を着用し、足元は膝下まで包む革製のブーツで固めている。実用一点張りの、俺の注意を忠実に守った恰好だ。
しかし、マイノスばかりか俺やザザまでが息をするのも忘れるほど驚愕したのは、女王にそんな旅装が予想外に似合っていたからではなかった。
ベイキ女王の美貌を語るうえで、欠かすことのできぬ栗色の長い髪。豊かに零《こぼ》れ落ちるあの美しい髪が、肩の高さで惜しげもなく断ち切られていたのだ。
だが、マイノスよりもなお短い髪になっても、女王は決して少年には見えなかった。まだ未熟ながら女らしい躰《からだ》の曲線を衣服に隠されていでも、その姿は絶世の美姫《びき》以外の何者でもなかった。
そしてそこには、昨夜遅くダバルプスの呪い穴の前でガッシュを想い、悔悟の念に嘆いていた少女の面影は微塵《みじん》も感じられなかった。微風に髪をなびかせる凛《りん》とした姿は、愛する者に逢うためにあらゆる苦雉に立ち向かう覚悟を決めた女の姿そのものだった。
女王が俺と視線を合わせ、軽く微笑んだ。これなら文句はないでしょうと、漆黒の瞳がそう語りかけている。
「しかし何故、陛下がスケイルに攀《のぼ》るのです? せめて大破壊《カタストロフィ》のその時まで、王宮で静かにお過ごしになれば……」
「あなたならそうしますか、マイノス?」
食い下がるマイノスに、女王は毅然《きぜん》として言った。「どうせ滅びるならば一緒と、そうは考えないのでしょう? だからこそ誇りを賭けて、あの妖獣《ゼノ》を斃《たお》すためにこの壁を攀るのではありませんか」
「ですが……」
マイノスは明らかに気圧《けお》されていた。女王はガッシュに追いたいという目的を強引にはぐらかしているのだが、それに気づかぬほどに形勢が悪い。
「それに――」
女王は細い首を巡らせ、肩口から姿を覗かせている剣の柄を見た。「先刻もお話しした通り、王国騎士の英霊たちがニルダ神よりこの剣を借り受けてくれたのです」
女王の背に、不釣合いに大きな剣が括《くく》りつけられていた。その大剣――聖剣ハースニールの柄に嵌《は》め込まれた巨大なダイヤモンドが、朝日を浴びて目映《まばゆ》いばかりに輝いている。
「英霊たちはこのハースニールを、ニルダの称号を受けたダイヤモンドの騎士の子孫ガッシュに届けよと告げました。これは私自身がスケイルに攀らなければならないとの神託にほかなりません。つまりマイノス、私の同行はあなたの御先祖の意志でもあるのです」
騎士の称号を遺《のこ》してくれた先祖を神にも等しく尊《とうと》んでいるマイノスには、この一言はかなり効いたようだった。しかも伝説の聖剣がその証となる。
言葉を見つけられぬまま、マイノスは再び俺に矛先《ほこさき》を向けた。
「ジヴラシア、何の意図があって陛下に同行を提案したんだ? 可能かどうか、判らぬわけではないだろう」
「じゃあひとりで行かせるか? 放っときゃ自分だけでも攀《のぼ》り始めるぜ」
口を開きかけた女王を制して俺は言った。「ま、何メートルか這い登って落ちるうちはいい。この細腕じゃあ、まかり間違っても百メートルなんて攀れやしねえしな。だがよ、十メートルの高さから落ちたって下手すりゃ死ぬぜ。どうせなら俺たちが連れて行ってやったほうがいいだろう」
「……しかし、もしこの登攀《とうはん》で陛下が命を落とすことになったら、私は――」
「あなたの負けですよ、マイノス」
それまで楽しげに成行きを静観していたザザが言った。「大破壊《カタストロフィ》が迫っているとなれば、誰しも――陛下ですら死の運命から逃れることはできません。だからこそ、悪《イビル》の戒律を持つ私やジヴが何の得にもならないあなたの計画に参加する気になれたのです」
「……」
「陛下も我々も、死に様《ざま》を選んでいるのですよ。それを陛下だけ拒《こば》むというのでは筋が通りません。善《グッド》のあなたが最も忌《い》み嫌う筈の、利己的な感情に過ぎなくなりますからね」
「……判った。もう、言うまい」
マイノスは、肚《はら》を据《す》えたようだった。「ならば力の及ぶ限り、騎士として陛下をお守りしよう」
そしてわずかな間を置き、俺を見た。
「だが、これだけは訊《き》いておきたい。どうした風の吹き回しだ?」
何故|悪《イビル》の戒律の俺が、わざわざ足手|纏《まと》いになりそうなベイキ女王を親切にも連れて行こうとするのか。その理由をマイノスは尋ねていた。
確かに、女王を同行させでも俺には何の得もない。サポートに労力を割《さ》くことになれば、むしろ自分の首を締める結果となる。
俺としても、何も好き好《この》んで女王を連れて行きたいわけじゃあない。
だが、放っておけなかった。昨夜の女王の姿に、古い記憶を呼び覚まされた瞬間から、俺の中に悪《イビル》の戒律に相応《ふさわ》しからぬ感情が生じていた。
「この世の終わりが近づくと、色々おかしなことも起こるってもんさ。悪《イビル》と善《グッド》の戒律が手を組んだり、たった一日で子供が女っぽくなったりとかな」
俺は女王をちらりと見た。自分が子供よばわりされたと判っていないらしく、真剣な様子で話を聞いている。やはり、根はまだねんねの餓鬼《ガキ》だ。しっかり見ていてやらなきゃ、何をしでかすか判らない。
どうやら俺は、心底ベイキ女王を心配しているらしかった。天涯《てんがい》孤独の身になって以来、こんな感情を抱《いだ》いたことはなかったというのにだ。
他人を心配したことがない、というわけではない。俺だって、人の生き死にを気にかける程度の感情は持ち合わせている。そうでなければ、妖獣《ゼノ》が待ち受ける|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》に飛び込むような真似はしない。あの時は居残りの連中をどうにか助けたいと思っていたし、悪の者が利己的とは言え、危機に晒《さら》された知り合いを放置するほど非人道的ではないのだ。
しかし、この感情は違っていた。
ベイキ女王は、自ら危地に飛び込もうとしている。単なる心配からなら止めこそすれ、つき合ってやる気にはならない。
この娘の願いを叶えてやりたい。そんな欲求が、心の底から湧き起こってくるのだ。
マイノスが訝《いぶか》るのはもっともだった。こんな思いに駆られるなど、俺自身不思議で仕方がない。
しかし、己の欲求に従うのだから、これも悪《イビル》の戒律に反するものではない。
「理由は俺にもはっきりしねえ。しねえが気まぐれじゃねえよ。本気で連れてってやろうと思ってる」
マイノスは俺の真意を探るように目を細め、そして肩を竦《すく》めた。
「いいだろう。やるからには、何としても陛下を|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》までお連れするぞ」
「感謝します。ジヴラシア、マイノス、それにザザ」
「はっ」
女王の言葉に、マイノスは表情を引き締めた。ザザは静かに頭を下げる。
「弱|音《ね》は吐くんじゃねえぜ。伸《の》るか反《そ》るかはあんたの覚悟次第だ」
俺は厳しい口調で言った。「一緒に来るからには、王族扱いする気はねえ」
「シヴラシア! 陛下に対して何を――」
「マイノス。黙っていて下さい」
俺の物言いに目を剥《む》いたマイノスを、ベイキ女王がぴしゃりと抑えた。「覚悟などとうにできています。もしあなたたちについて行けなくなったなら、私は身を投げてでも命を絶ちましょう。私のせいでこの登攀を妨《さまた》げるようなことは断じて――」
「そんな客分扱いはしねえって言ってるんだ。いいか。たった今からあんたは女王でも何でもねえ。俺たちパーティの一員だ」
俺は怯《ひる》む女王を睨《にら》んだ。「仲間である以上、脱落は許さねえ。たとえあんたがくたばっても、俺たちはその屍《しかばね》を担《かつ》いで攀《のぼ》る。それが善《グッド》も悪《イビル》も関係のねえ冒険者の不文律だ。死ねば俺たちに迷惑がかからねえなんて思ったら大間違いだせ。それだけの覚悟ができてねえなら、今のうちに諦《あきら》めるんだな」
ベイキ女王の貌《かお》から血の気が引き、真珠のような肌がさらに白くなった。死人となっても落伍者にはなれぬ、さながら地獄の責め苦にも似た登攀のイメージが脳裏に浮かんだのだ。
若い女にとって、己の屍を人前に晒《さら》すなど想像することさえも苦痛だろう。だからこそ女王も、死の覚悟を俺たちの目に触れぬ身投げに例えたのだ。
だが、俺の要求する覚悟はそんなものじゃあない。
魂のない骨と肉の塊《かたまり》になり果てても、仲間たちは自分の負担から逃れることができない。女王が死ねば、その負担は一層重くなるのだ。その結果として、登攀《とうはん》自体の失敗につながるかも知れない。
参加するからには、死ねない。命を落としたならば、それがパーティ全員の命を奪うことになる――。
それだけの重責を背負い込む覚悟を、俺は要求しているのだ。
十七歳の娘に対して、それはあまりにも酷な要求だ。そんなことは俺だって百も承知している。
だが、覚悟させねばならなかった。
死んで済むと思う程度の覚悟なら、ベイキ女王は登攀の途中で必ず命を落とすだろう。ガッシュを想いはしても、その想いを抱《いだ》いたまま満足して死ぬ。それだけでは生への執着には結びつかないのだ。
俺やマイノスがサポートしても、最後にものを言うのは女王自身の意志だ。石に囓《かじ》りついてでも、生きて梯子山《スケイル》を攀《のぼ》り切る強固な意志。それがなければ、女王が登攀に成功する可能性は万が一にもありはしない。
だからこそ、登攀の成否までも背負わせなければならないのだ。自分の死が全員の命運を左右すると自覚させれば、ブライトの高いベイキ女王は弱|音《ね》が吐けなくなる。その意地こそが、女王が過酷な冒険行を生き抜く望みだった。
ベイキは唇を噛《か》みしめ、やがて絞り出すように答えた。
「……判りました。私はまだ甘えていたようです」
「覚悟さえしてくれりゃそれでいい。俺もやれる限りの補助はする」
俺は背を向けた。
マイノスは何も言わなかった。ベイキ女王に止められていたからではない。恐らくは、俺の真意を薄々読み取ったようだった。
少し離れたところで、アドリアンが佇《たたず》んでいた。
まるで、そこだけ時が永遠に凍りついてしまったかのように、身動きひとつせずに立ち続けている。
寒気を覚えるほどのその美貌は、今はベールに覆い隠されてた。が、その薄布の向こうで、ダークブラウンの瞳が確かにこちらを見ていると感じられる。
その場を離れ、俺はアドリアンに近づいた。
「待たせちまったな」
「いや、面白いやり取りだった。退屈はしていない」
声に、楽しげな響きがあった。「リルガミンの女王まで同行するとは、なかなかどうして愉快な道中になりそうだ」
「皮肉か」
「貴様は辛かろう。だが、自ら選んだ道だ」
ベールの裏側でアドリアンが薄く笑ったのが判った。心をすべて見透かされたような気がして、俺は落ち着かない気分に駆られた。
「ふん。まあ、いいさ。ところでよ、あの男が運んできたのは何だ」
気を取り直した俺は、アドリアンの背後に置かれた大きな木箱と、その向こうで跪《ひざまず》く御者を見た。
御者はかなりの体格を有していた。地面にへばりつくように身を屈《かが》めていながらも、その発達した骨格は目を引く。背骨の隆起のせいで極端な猫背だったが、それでもマイノスと同程度の身長はありそうだった。
「貴様たちの役に立ちそうなものをくれてやろうと思ってな。幾つか私の手持ちの品から選んできた。リフラフ」
名を呼ばれ、御者が弾かれたように顔を上げた。高い頬骨まで毛が密生した、どこかしら獣じみた雰囲気を発散する容貌だ。
黄色く濁った眼球で主人を見上げ、次に俺に検分するような視線を注ぐ。
「箱を開けろ」
アドリアンは短く命じた。リフラフはすぐさま箱に飛びつき、懐から取り出した鍵で開錠にかかる。
「ジヴラシア。あのマイノスとかいう男も呼ぶがいい」
振り返ると、ベイキは同じ馬車に乗ってきた五賢者とひとりひとり別れを告げている最中だった。ザザはその様子を見守り、マイノスは例の老人と何やら熱心に話し合っている。
「マイノス!」
俺の呼びかけに、マイノスは駆け寄ってきた。そして、奇妙な風体のアドリアンとリフラフに不審そうに目を走らせる。
「おい、このふたりは一体――」
そう言いかけた瞬間、木箱の蓋《ふた》が開いた。
俺たちは、息を呑《の》んだ。
箱の底に敷き詰められた布の上に、四種の品が置かれている。
飾りのついた鞘《さや》に収められた長剣。
刃渡りが二十センチほどの、両刃の短刀らしき武器。
陽光を反射し、虹色に煌《きら》めく奇妙な衣服。
そして古めかしい意匠が施《ほどこ》された、掌《てのひら》ほどの大きさの薄紫色をした金属の円盤。これはペンダントになるらしく、円周部の二点から細い鎖が輪になって繋《つな》がっている。
いずれも、俺がこれまでに目にしたことのない品ばかりだった。梯子山《スケイル》の迷宮から発見された古代の武具の中にも、ここに並んだ四品と同種のものは存在しない。
そうであるにもかかわらず、俺とマイノスはこれらを目にした瞬間に息をするのも忘れていた。
直感で、この品々がどれだけの力を秘めているのかを、お互いに感じ取っていたのだ。
俺はとりわけ、短刀状の武器に目を奪われていた。
外見は、さして美しくもない武骨な武具でしかない。両刃の部分は細長い二等辺三角形で、一番幅広になったところから徐々にすぼまって握りとなる。
多くの人手を渡ってきた代物らしく、握りに巻きつけられた革紐《かわひも》にはどす黒い血が染み着き、直線的な刃には高熱の炎に焙《あぶ》られたらしい青黒い変色が見受けられた。
が、それは断じてただの短刀などではない。
無機的な鋼の塊《かたまり》でしかない筈のその武器から、禍々《まがまが》しさに近い強烈な気配が発散されていた。
生命を持たぬ武具であるからには、それは気配ではあるまい。恐らくは強力な呪いの力――他者の命を奪うために鍛造《たんぞう》されたその武器を、悪《イビル》の戒律以外の者が手にした際に放たれるであろう災いの魔力――が、殺気に似た圧迫感の源なのだ。
そしてその呪力は同時に、刀身に凄まじいまでの切れ味と、決して折れず、曲がらないという相反する柔と剛の特性を与える。悪《イビル》の者が使用した時、切断武器としての威力は強化魔法を封じ込められた段平《だんびら》を遥かに上回る――そんな短刀型の武器が存在することを、俺は伝え聞いていた。
忍者にしか扱えぬ東方の武具・手裏剣――。
俺の目の前にある短刀は、その伝説の武器に相違なかった。
「さすがにこれが何であるか判ったようだな」
アドリアンは手袋に包まれた手で手裏剣を取り出し、俺に放って寄こした。鈍く光るそれは、宙でくるくると回転しながら弧を描き、ごく自然に俺の右手に収まる。
初めて手にした武器でありながら、それは違和感なく俺の手に馴染《なじ》んだ。思っていたよりもずっと軽い。
「本物の手裏剣か、こりゃあ……今時残っていたとは信じられねえ」
「強靭《きょうじん》な魔法の武具は、望んで破壊されぬ限り存在し続ける。造り手は死に絶え、技術は途絶えようともな」
アドリアンは続けて長剣を拾い上げた。
「これなどはその最たるものだ。ダイヤモンドの騎士の装具のひとつ――あの女王が背負う聖剣ハースニールに匹敵する剣を鍛造《たんぞう》しようと夢みた刀匠の執念が生み出した魔法剣。ハースニールには及ばなかったが、手裏剣以上の威力を持つに至ったこの剣が多量に造り出されるのを畏《おそ》れた時の王は、製法が流布《るふ》される前に刀匠を捕らえて惨殺したと伝えられている」
言いながら、それをマイノスに差し出す。
「これは貴様が使うがいい。ロードの使う剣としては、ハースニールを除いてはこれ以上のものはそうそうありはすまい」
「あ、ああ――しかし、あなたは何者なのだ。このような稀少な品々を持ち、それを借しげもなく我々にくれるという……」
マイノスの狼狽《ろうばい》はもっともだったし、アドリアンがボルタック商店に賓客《ひんきゃく》としてもてなされていたのも頷《うなず》けた。これほどの品をひとつでも渡されたなら、目端《めはし》の利く商人は決してこの新たな仕入れ先を手放そうとはしないだろう。
剣から手を放し、アドリアンは低く笑い声を漏らした。
「私自身も大破壊《カタストロフィ》が近いと踏んでいた。それならば、己の使えぬ品を抱え込んで何になるというのだ?」
「……」
「まずはその剣、抜いてみるがいい」
促され、マイノスは長剣の鞘《さや》を払った。擦《こす》れる音ひとつ立てずに、刀身が滑《すべ》るように姿を現す。
鎧のように磨かれた刃が、地の底深い洞窟の冷気を思わせるひんやりとした光を放っていた。全体のフォルムはハースニールに良く似ていたが、刃渡りはこの剣のほうが十数センチ長い。長さを増すことで、伝説の剣の破壊力に少しでも近づけようとしたのだろう。
マイノスの視線は、毛一筋ほどの刃こぼれもない刀身に注がれていた。横一文字に抜き放った剣をゆっくりと青眼に構え、さらに上段にかざしていく。
その口元から、深いため息が漏れた。剣に命を預けてきた者なら誰でも、生涯最高の剣に出くわした瞬間とはこういうものなのだろう。今のマイノスにとっては、全身を群青《ぐんじょう》の衣にくまなく包んだ怪人物が何者であろうと構わなかったに違いない。
上空から風に吹かれ、一枚の羽毛が舞い落ちてきた。たった今遥かな高みを飛び去った鳥から剥《は》がれ落ちたものか、それとも梯子山《スケイル》の垂壁に張り付いていた禿鷹《ヴァルチャー》の古い羽が吹き散らされたのかのかは判らない。ふわふわと少しずつ降下してきたその羽毛は、吸い寄せられるようにマイノスの掲げた大剣の刃先に落下した。
この場合、落ちたというより撫《な》でたと表現したほぅが適切だろう。羽毛は刃先の描く稜線に沿って滑り降り、二片に裂けて大地に落ちた。
驚異的な鋭さだった。ほとんど自重がないに等しい羽毛を、触れただけで真っ二つにするほどに薄い刃。その切れ味がこれだけの長剣に備わっているのだ。
「この剣に……この剣にもっと早く出会えていたなら」
マイノスは指が白くなるほど剣の柄を振り締め、震える声で呟《つぶや》いた。「あの妖獣《ゼノ》どもを一刀のもとに斃《たお》すことができただろう。これに比べれば、今まで手にした最高の魔法剣ですら練習用の木剣のようだ……」
「エクスカリバー――その剣の呼称だ。貪《むさぼ》るもの≠ニいうような意味だな。刀匠を殺して剣を我がものにした王が、そのように命名したらしい」
アドリアンが何の感情も込めずに言った。それが余計に、卓越した力を秘めた武具にまつわる悲劇を感じさせる。
「酷《ひで》え話もあったもんだな。この手裏剣にも、そんな裏話はあるのか?」
俺は尋ねた。あの美しい剣ですらそんなエピソードを持っているなら、より魔性の武器に近い手裏剣などはどんなに凄惨な歴史を辿《たど》ってきたか判ったものじゃあない。
「それは東方で造られた武器だ。いかにして生まれたのかは、私も知らぬ。しかし、それを巡って流された血については、わずかだが語ることもできよう」
アドリアンは続けた。「その手裏剣――−苦無《くない》≠ニ呼ばれる型の手裏剣は、かつて大魔導師ワードナの迷宮にまで持ち込まれた品のひとつだ」
「ワードナの!?」
「そうだ。その迷宮に入り込み、ワードナの首を獲ろうとした冒険者のひとりに、凶悪|窮《きわ》まりないホビットの忍者がいた。その男は手始めに、迷宮に呼び集められていたワードナ配下の忍者たちを狙って殺していった。目的はひとつ、その手裏剣を持っていた忍者から奪い取るためだけだ――」
「……」
「結局このホビットは手裏剣を手に入れた。その時までに想像もつかぬ数の者がこの忍者に殺されたという」
「やっぱり厭《いや》な話がありやがる。それで、そのホビットはどうしたんだ。ワードナと戦うことはできたのか?」
「いいや――」
アドリアンは効果的に言葉を切った。「忍者に首を落とされて死んだ。パーティも壊滅し、ホビットは蘇生されぬままゾンビとなって、他の冒険者たちに襲いかかり、魔物として最期を迎えたそうだ。その手裏剣にも、爆炎《ティルトウェイト》の呪文を浴びた痕跡が残っていただろう」
「この灼《や》き痕か……」
俺は刀身に残った青黒い変色部を指でなぞった。「それにしても、おぞましい死に様だな。ゾンビになったうえに、爆炎《ティルトウェイト》で灼かれるなんざ目も当てられねえ」
言って、俺は昨日のアルタリウスの最期を思い出した。奴は妖獣《ゼノ》に同化され、ディーの爆炎《ティルトウェイト》やザザの大減《バディアルマ》を受けて死んだのだ。それを思えば過去の時代のホビット忍者はまだ、幸せに死んだと言えるかも知れなかった。
そして今この瞬間も、梯子山《スケイル》の中ではガッシュやボルフォフにフレイ、それにハイランス以下の三部隊が妖獣《ゼノ》の同化の恐怖に晒《さら》されている――。
「もうひとつ、ロード向けの品がある」
アドリアンの声に、俺は知らず手裏剣の灼《や》け跡に見入っていたことに気がついた。
見ると、今度はリフラフが箱の中から残り二品のうちのひとつ、不思議な布地で仕立てられた衣裳を取り出した。そして無言で、歯を剥《む》き出して嗤《わら》う。
それは布で作られてはいたが、鎧を摸した型に仕立てられていた。一度広げると胸部から胴回り、腕や脚を覆う部分までが膨《ふく》らみ、それまで普通の衣服のように折り畳まれていたのが嘘のように思える。
柔らかく、かつ弾力性に富んだ生地――白一色でありながら、陽光を浴びると玉虫の前翅のように複雑な色彩を放つその布地が、この衣裳に鎧の形状を保たせる働きを持っているらしかった。肩から吊り下げられたマントまでが同様の生地で、ただその内側だけが深紅に染め抜かれている。
だが、この布製の鎧の最大の特徴は、その外観から受ける印象がロードそのものということだった。
アドリアンがロード向けだと言わなかったとしても、それを着用できるのはロード以外にないと感じただろう。
「まさか……それは――」
エクスカリバーを鞘《さや》に収めたマイノスは、広げられた衣裳を目にした瞬間に絶句していた。その瞳は、エクスカリバーを抜き放った時以上の驚愕に満ちている。
「|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》――別名|君主の装束《ローズガーブ》≠ニも呼ばれる特殊な鎧だ。仮にもロードの称号を受け継く者なら、この呼称を耳にしたことぐらいはあろう」
その鎧については、俺も聞いたことがある。
そもそも、この鎧の存在こそがロードという職業《クラス》が生まれたきっかけであるとさえ言われる、忍者にとっての手裏剣以上に伝説的な代物だ。布で作られていながらミスリル製の板金鎧《プレートメイル》と同程度の装甲度を有し、虹を織り込んだとされる魔法の繊維《せんい》はどんなに鋭い刃をもってしても決して破ることはできない。加えてゆっくりだが着実に傷を癒す回復魔法も秘めており、防具としてこれを上回るのはダイヤモンドの騎士の鎧しかないという話だ。
だが、聖なる鎧の有効性はむしろ、それを装着したロードの能力を大幅に増幅する点にある。鎧から発散される魔力は手にした武器に凝縮され、冴《さ》え渡った切れ味は忍者同様に死点を抉《えぐ》る致命の一撃を、そして不死《アンデッド》系や悪魔《デーモン》系などの特定種の魔物に対しては通常の倍近い破壊力を生み出すのだ。つまりこの鎧を身に着けたロードが手にすれば、あらゆる剣が|悪魔殺し《デーモンスレイヤー》≠フ性能を持つことになる。
忍者のスピード、侍の気=Aそして武具の力を自らのものとするロードの能力――これこそが、純粋に膂力《りょりょく》で武器を振るう戦士に対する前衛エリートクラスの特性だった。
そして、マイノスが聖なる鎧を装備するということは、エクスカリバーの切れ味に|悪魔殺し《デーモンスレイヤー》≠ニ致命打撃《クリティカルヒット》≠ェ加わることになる。その威力はもはやハースニールに並ぶと言っても過言ではないだろう。
ボルタック商店ではこの鎧に百万ゴールドの値をつけるとの噂もある。限りなく伝説に近い、最高級の鎧だった。
「登攀《とうはん》時の装着は邪魔になるだろうが、金属製の鎧と違って持ち運びには便利だ。背負い袋にでも入れて持っていくが良かろう」
「素晴らしい……触れているだけで、力が注ぎ込まれてくるようだ……」
リフラフから|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》を受取り、マイノスは夢見心地にあるような表情を浮かべている。
呑気《のんき》なものだ。手裏剣にせよエクスカリバーにせよ、そして聖なる鎧にしたところで、役に立つのはこの垂壁を攀《のぼ》り切ってからだと言うのに。
しかし、マイノスの気持ちは判らないでもない。俺の心にもどこか、手裏剣を手にして浮き立つものがあった。
この武器なら素手と同じように自在に、最速の攻撃を繰り出すことができそうだった。ならばあの妖獣《ゼノ》とも充分に渡り合える。
俺は背負っていた段平《だんびら》を鞘《さや》ごと外した。マイノスも愛用の段平を腰から取り外し、新たにエクスカリバーを吊している。
その間に、ベイキが五賢者から離れて傍《そば》にやってきた。
「ジヴラシア、マイノス。さっきから何をしているのです? 私たちはもう別れを交わしてしまいましたのに」
焦《じ》れた調子でベイキが言った。そして、興味深そうにアドリアンとリフラフ、それに地面に置かれた木箱に順番に視線を移す。
ベイキに対し、アドリアンはベールを被《かぶ》ったまま軽く一礼した。それを見たリフラフは慌てて大地にひれ伏す。
「リルガミン王国統治者、ベイキ女王とお見受けする。我が名はアドリアン。今回の登攀《とうはん》に同行させて戴《いただ》く」
「もう統治者ではありません。たった今、五賢者たちに留守中の全権を委ねたばかり。もっとも私がこれまで、政《まつりごと》をこなしていたわけではありませんけど」
言いながらも、王族の重責から解放された晴れやかさでベイキは微笑んだ。先刻の俺とのやり取りで落ち込んでいるとばかり思っていたが、十七歳の娘にとって王国統治者の立場から離れられるということは、大破壊《カタストロフィ》が迫るこの時でさえそんな気分を吹き飛ばす吉事だったらしい。
「はじめまして。私はアラビク二世の娘ベイキ。ところで……訊《き》いてもいいことなのでしょうか? あなたはどうして、そのように不便そうな恰好をしているのです?」
首を傾《かし》げてベイキは長身のアドリアンを見上げた。朝方の風景の中で、肌をわずかも露出させないその姿はいかにも不自然なものに見える。
「私の肌は強い日光に弱い。もう少し曇ってくれれば、このようなベールを取り払って話せるのだが」
応え、アドリアンは木箱に残った最後の品を拾い上げた。古めかしい彫刻が施《ほどこ》された金属板のペンダントだ。
「あなたにはこれを差し上げよう。この道中、必ずやあなたを窮地から救う護符だ。受け取ってもらえるかな」
「喜んで」
ベイキは素直にペンダントを受け取り、薄紫の金属円盤が胸の上にくるように首に掛けた。
その一瞬、金属板の表面から細い鎖にまで、無数の青い雷光が疾《はし》り抜けたように見えた。このペンダントも間違いなく、何らかの魔法がかけられている。
「不思議ですね。こんなに大きな飾りなのに、全然邪魔な感じがしないなんて」
改めて円盤に触れ、ベイキは驚いたように言った。
「でも、素敵なペンダントですわ。感謝します、アドリアン」
老人の名は、パルパといった。
リルガミンの遥か北東に位置する山岳地帯に生まれ、七十に手が届くこの歳までそこで暮らしてきたという。天変地異による落雷で村を灼《や》かれ、リルガミン市に逃げのびてきた避難民のひとりだ。
そしてこの老人こそが、俺たち一行の梯子山《スケイル》登攀《とうはん》の成否の鍵を握る人物だった。
パルパ老人の故郷の村は、海抜三千メートルはあろうかという高原にあった。
そのような高地では、土地は痩《や》せて耕作には向いていない。食糧の自給自足もままならぬ土地で老人の部族が暮らしていけたのは、その地域にしか生えない貴重な薬草類が存在していたからだった。
呪文では治療できない病にも効果の高いこれらの薬草は、その数十倍の重さの黄金と同じだけの価値がある。彼ら高地民族は古くから、それらを交易することで生計を立ててきたのだ。
しかし、その薬草とて、村の周囲で無造作に採《と》れるわけではない。秘薬の調合に欠かせぬ植物であることもさることながら、限られた期間に少量しか採取できないことと、さらに険《けわ》しく隆起した高峰の山頂付近にしか自生しないという点が高値で取り引きされる最大の理由だった。
なまじの宝物以上の価値を持つ薬草だけに、危険を冒してでも自ら採取しようとする密売人もいたらしい。だが、多くの場合それは死につながった。峻険《しゅんけん》な断崖に挑んだ者のほとんどは、高所から滑落して命を失ったのだ。
稀《まれ》に比較的低所に生えたわずかの薬草を手に入れて生還した者もいたそうだが、それでも二度と採りにいこうとはしなかったという。つまりは、いくばくかの金が得られても割りが合わないほど危険だと、そいつは身をもって知ったわけだ。
そんな仕事を、パルパの部族の男は十に満たぬ子供までが総出で行うという。雪が解けきった初夏の二週間のうちに、姿を覗かせたばかりの薬草を摘み採ってしまわなければならないからだ。この期間を過ぎると薬草は強い芳香を放ち始め、嗅《か》ぎつけた鳥や獣にすっかり喰い荒されてしまう。
高額で取り引きされるとは言え、他に産出品を持たない彼らは、この短期間の収穫で一年の食いぶちを稼ぎ出さなければならない。生える場所が一定ではなく、一度に見つかるのは微々たる量に過ぎない薬草をできる限り多く掻《か》き集めるためには、幼子《おさなご》ひとりの働き手も馬鹿にはできないのだ。
欲に駆られた密売人ですら震え上がる高所に、躰《からだ》もろくにできてはおらぬ子供を攀《のぼ》らせる――過酷な環境での生活を選んだ彼らの部族は、そうしなければ生きてゆけぬほど貧しい暮らしを営《いとな》んでいた。それでもそこを離れないのは、見知らぬ土地で生活を根付かせるほうが余程困難であると知っているからにほかならなかった。
言うなれば、俺たち冒険者とは対極にある生き方だった。
冒険者は基本的に、かつてのワードナ討伐《とうばつ》や昨日までの俺たちの宝珠の探索などの目的を持っているか、引退でもしない限り一定の土地に長期間住み着くことはない。定住するつもりならば、商《あきな》いや職工、人足でも始めたほうが生計を立て易いからだ。
生きる糧《かて》を得るために、冒険者は放浪する。放浪の中で生きていかなければならないからこそ、冒険者は戦士や魔術師などの、格闘能力なり魔法なりを身につける八種類の職業《クラス》に限定されるのだ。
パルパの部族には、そんな放浪生活を続けることはできない。それどころか、他の土地で生活する術《すべ》さえ知らなかった。
その代わり、彼らはその貧しい土地で生き抜くための知恵を持っていた。代々の経験を元にして、足を滑《すべ》らせれば死を免《まぬが》れない高所作業を安全にやり遂げるための技術を編み出していたのだ。
特殊な器具を用い、ふたり以上で岩壁に躰《からだ》を半ば固定しながら登攀《とうはん》する――それが彼らの部族の秘伝とされる技術だった。
登攀者に結び付けたロープを岩盤に打ち込んだ環状金具に通し、下方では仲間が自らの足場を充分に確保したうえでもう一端を持つ。この方法なら、登攀者が足を滑らせても中間に幾つか存在する金具が支点となり、引っ張り上げられるロープを仲間が支えることで墜落を食い止めることができる。こう言ってしまうと単純な安全確保の工夫のように聞こえるが、実際には金具の形状からロープの結び方ひとつにまで、仲間の滑落死を少しでも防ごうと長年に渡って改良されてきた彼ら高地民族の登攀《とうはん》技術が窺《うかが》い知れた。
マイノスが連れてきたこの老人は、数年前に右目の光を失うまでは部族一の登攀の腕前を誇っていたという。五十年以上も毎年薬草を求めて高山に攀《のぼ》り、それ以外の季節は日々、器具の改良と技術の考案に明け暮れる人生を送ってきた。俺たち冒険者が戦いの術を磨くのと同様に、パルパにとってはそれが生き残るために必要な手段だったのだ。
そして今、梯子《はしご》を掛けなければ攀れぬと言われる垂壁に挑もうとする俺たちにとって、その登攀技術は嵐の中に射し込む一筋の光にも似た、たったひとつの希望だった。
「これよりも高い山が、儂《わし》の村の回りにはごろごろ突っ立っとったわい」
パルパは俺の手の指を一本一本握りながら、顎《あご》をしゃくって梯子山《スケイル》を示した。「そんな山の上のほうでしか、あの草は見つからんでな。そんな山々の頂《いただき》まで、儂は残らず攀ったもんだ――おい、ちょっと手を握ってみろ」
俺は差し出された老人の手を握った。罅《ひび》割れた石のような、堅い感触が伝わってくる。
「握り比べだ。いいか」
空いた手で俺の手の甲を叩き、パルパはその頑丈な掌《てのひら》に力を込めた。老人とは思えない握力で、万力のように締めつけてくる。
俺も、それに合わせて力を入れた。老人の表情に軽い驚きが疾《はし》る。
「もう少し力を入れるそ。痛みを感じたらすぐに言え」
「ああ」
まだこれほどの余力があったのかと感心するほど、握る手の力が強まった。どうやら一線を退《しりぞ》いてからも、パルパは筋力の鍛錬を欠かしたことがないらしい。呆れた年寄りもいたものだ。
俺も同様に握り返した。パルパはさらに強め、俺もそれに応《こた》える。日焼けした老人の手が、次第に白く血の気を失っていく。
「……もっと強く握れるのか?」
パルパは驚愕を露《あらわ》にして尋ねた。
「できる。ここではやりたくねえがよ」
「む……もういいわい」
俺たちは握手を止《や》めた。パルパは顔をしかめて手を振ると、足元に転がる小石を拾い上げ、自分で何度か握り締めてから俺に寄こした。
「十九の歳から人に握り負けたのは初めてだ。その石なら思い切り力を込められるだろう。やってみ――」
老人が言い終わる前に、俺の掌の中で石が割れた。
「こうかい」
手を開いてみせた俺に老人は目を丸くし、ややあって口を開いた。
「意地を張らんで正解だったわい。儂《わし》も歳かと思ったが、お主の握力は人間離れしとる」
「ここの迷宮に一年いた冒険者の前衛なら誰だってこんなもんさ。武器を握る力がそのまま生き残れるかどうかに関わるからな」
言って、俺はガッシュが重い段平《だんびら》を自在に振り回す様《さま》を思い浮かべた。あの振りの迅《はや》さと正確さは、武器の重量に負けない驚異的な握力があるからだ。奴なら、この程度の石は粉々になるまで握り潰せるだろう。
「ふむ。今度は親指と人差指、中指の指先だけでやってみろ。こいつは握るのとかなり違うからな」
注文通り、俺は割れた石の片方を指先で挟んだ。確かに、力の掛かりが異なる。武器を扱うために鍛えた握力では、あまり足しにはならないだろう。だが、俺はこの腕そのものを武器とする忍者だ。特に指先は、魔物の強靭《きょうじん》な外皮と筋肉の帯を突き破るぺく徹底的に鍛えてある。
限界近くまで力を込めた時点で、石は硬い音を発してさらに二片に割れた。
今度ばかりは登山の達人も肝《きも》を潰したらしい。ため息をつき、皺《しわ》深い貌《かお》を左右に振って言った。
「村の若い衆にこれだけの素質があれば、年端《としは》もゆかぬ子供にまで仕事をさせることもなかったろうに……」
「それでは、私の見立てた通り――」
俺が検分される様子を傍《かたわ》らで見守っていたマイノスが言った。「この男――ジヴラシアなら、スケイルを攀《のぼ》ることも可能でしょうか?」
「うむ……」
パルパは十メートルと離れていない場所から壁のように盛り上がり、そのまま千メートルの上空まで突き立った梯子山《スケイル》に目を向けた。そしてほぼ真上に位置する、噴煙を吐き続ける山頂まで続く垂壁を見上げる。
首を一杯に反《そ》らしたまま、老人は呟《つぶや》くように言った。
「これより高い山は幾らもあると、さっき儂《わし》は言ったな。一族の者は子供ですらその高い峰を攀り、ほとんど無事に帰ってくる。儂らの山を攀る技術は、そのために磨き抜かれてきたものだ――」
首を戻し、パルパは俺とマイノスを見た。「この程度の高さでは、薄い空気や山の冷気に悩まされることもない。村に来れば一番の稼ぎ手になるだろうこのシヴラシアなら、とるに足らない高度だろうな」
「おお!」
マイノスは会心の笑みを浮かべた。「あなたに太鼓判を押していただけるなど、これほど心強いことはありますまい」
だが、パルパの表情は曇っていた。
「ただし――それは儂らの攀ってきた山を考えての話だ」
「は?」
「このスケイルとやら、間近に見ると思っていた以上に厄介だわい。これだけの難壁は故郷の山々にもありゃあせん。この山頂に背負い篭《かご》一杯の薬草が生えていたとしても、儂にはお手上げだな。たとえ全盛期でも、攀れまい」
「では、不可能だと!」
マイノスの声は悲痛な響きを帯びていた。奴の切札とも言うべきこの老人に、梯子山《スケイル》登攀《とうはん》を否定されたのだ。妖獣《ゼノ》への復讐の念を焦《こ》がすマイノスの心情は想像に難《かた》くない。
「いや、困難だが、可能性はある。一生を山登りに費やしてきたこの身にしてみれば口惜しい限りだがな、ジヴラシア――お主が初歩の技術さえ身につければ、儂など及びもつかない腕前になるだろう。儂に攀れぬ壁でも、お主になら攀れるかも知れん」
パルパのこの言葉に、マイノスは安堵《あんど》の表情を見せ、俺は戸惑った。もっぱら殺しの技のみを磨き、鍛えてきたこの躰《からだ》に、果たしてパルパの人生を凌駕《りょうが》するだけの登攀能力があるのか?
俺の心中を見抜いたのか、老人はからからと笑った。
「そう不安そうな顔をするな。この儂が保証しとるんだ。お主なら初歩的な技術を伝えるのに十五分、後は失敗しながら儂が教える以上のことを学んでいく筈だ」
言うなり、パルパは七十の高齢には不釣合いな敏捷さで垂壁に駆け寄った。そして一瞬のうちに、十メートルばかりの高さまで攀ってみせる。俺が見る限りでは、手がかりなどどこにもない垂直の岩壁だ。それをこの老人は、ちょっとした坂を登るようにするすると這い上がってしまった。
まるで猿《ましら》だった。いや、野生の猿だって、これほど見事に壁を攀れはしないだろう。手足に吸盤でもついているかのような、流れるような登攀だ。
老人は岩壁に縦に走る狭い亀裂に掌《てのひら》を差し込み、それだけを支えにぶら下がって俺たちを見下ろした。
「これだけの動作を行うには、技術以外に基礎的な筋力が必要だ。それがお主にはすでに備わっておるし、方法さえ覚えればその指一本でも自重を支えられるだろう。今儂がやってみせた程度のことはすぐにできるようになる」
「だといいけどな」
俺は半信半疑だった。が、パルパの言葉に世辞や誇張は感じられない。「どうあっても上まで辿《たど》り着きてえ。それからが俺たちにとっては本番なんだ。たとえあんたが悪魔だって、今の俺は信じるぜ」
「そう、その執念だ。こんな難壁を攀《のぼ》りきるには技術と体力の他にもうひとつ、精神力が欠かせんのだよ」
攀るのと同様にあっさりと、飛び降りることなくパルパは地上に戻った。
「早速始めよう。攀り始めたら日が暮れる前にその|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》とやらに到達せねばならん。日の光が落ちたらもう攀り続けることは不可能だ。見たところ一行が休める程度の足場になりそうな岩棚はありそうだが、一晩過ごせるだけの余裕はあるまい」
その通りだった。マイノスにベイキやアドリアンの同行を釈明するために時間を食い、夜明けからもうすでに一時間あまりが経過している。
晴れ渡っていた空にも、次第に薄雲がかかりつつあった。
小康状態を保っていたとは言え、天変地異の最中《さなか》にあるこの地では、いつ天候が激変してもおかしくはない。少しでも早く攀りきらなければ、日没を待たずに登攀《とうはん》不可能な状況に陥《おちい》る可能性も充分にあった。
「それではパルパ老、よろしくお頗い致します」
そう言って、マイノスはザザやベイキたちが登山用具の扱いを練習しているところへ離れていった。
先刻俺やマイノスがアドリアンから手裏剣や|聖なる鎧《アーマー・オブ・ロード》を受け取っている間に、ザザはこの老人からそれらの器具の使用法を教わっていたらしい。
「マイノスもだが、あのザザという男も覚えがいいわい。ちょいと数えてやっただけで、村の若い衆が数年かけてやっと判るようなところまで理解しよる。お主らのような冒険者が薬草を盗みに来とったら、儂らはおまんまの食い上げだったろうよ」
老人は何故か、懐かしそうな目でザザたちがロープを躰《からだ》に固定するためのベルトを装着する姿を眺めた。
その様子に、俺は抱えていた疑問を口にした。
「……なあ、爺さん。あんたどうして俺たちに力を貸そうって気になったんだ。どうやらマイノスから大破壊《カタストロフィ》のことも聞いてるようだが、それならなおさらこんな――この山を攀ろうっていう俺が言うのも何だがよ――何の得にもならねえ役を引き受けてくれた? マイノスと知り合ったのだって、つい二、三日前のことだっていうじゃねえか」
老人は黒い左目で俺を見つめた。そして柔和《にゅうわ》に微笑んでみせる。
「忍者というからには、もっと他人に無頓着な男だと思っとったが、お主は違うのう。意志は強そうだが、非情の忍者にしては優し過ぎる」
「おい、何言ってやがる――」
「儂の末娘の息子にそっくりだ。内面に秘めてはいるが、いざとなると自分が生きるのに邪魔になるほど優しい」
「……孫か」
「ああ。長男の息子はザザのように覚えが良かったし、その弟はマイノスに似た正義感に溢《あふ》れた子供だった。みんなお主たちぐらいの歳になっとっただろう」
「なっていた?」
俺の問いに、パルパの目に光るものが溢《あふ》れたような気がした。それを隠すように梯子山《スケイル》の頂《いただき》を見上げたが、瞳が白濁した右目から一筋の涙が皺《しわ》を伝う。
「みんな十五までも生きられなかった。雪解けの遅い年でな、薬草も思うように見つからず、無理に危険な場所まで攀った長男の息子兄弟は、互いをロープで結び合ったままずっと下の岩場で潰れとった。帰ってこないふたりを捜しに出た末娘の子も、解け残っていた雪に足を滑《すぺ》らせた。儂《わし》の目の前で、幼子《おさなご》の姿は谷底に吸い込まれてしまった……」
「……」
「あの時儂は初めて山を憎いと思った。だがな、元をただせば孫たちを駆り出さねば暮らしの立てられぬ儂らの不甲斐《ふがい》無さよ。そう思って諦《あきら》めた。諦めたが心の底では孫たちに詫《わ》び続けたよ。お主たちへの手助けが詫び代わりとは言わんが、この世の終わりが近づいとるなら恐らくこれが最後の機会になるだろう。死んだ後の世界で、儂が孫に迎えてもらえるかどうかのな」
パルパは手の甲で涙を拭《ぬぐ》い、正面から俺を見た。
「頼みがある」
「……何だ」
「儂はお主らが上に辿《たど》り着くまでここを動くつもりはない。だから頼む。儂に大地に潰れた姿など見せんでくれ。攀れるかも知れん、と儂は言ったが、何としても登攀《とうはん》を成功させて欲しいのだ」
小柄な老人の躰《からだ》が震えていた。「もう二度と、あんな思いは御免だ」
俺はパルパの両肩を叩いた。
「任せろよ、爺さん。あんたが保証したんだ」
俺は腰を曲げ、老人と目の高さを合わせた。「それによ、これで失敗できねえ理由が増えちまった。可能性が少しでもありゃ、俺は必ず攀ってみせるぜ」
「この真上が、|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》の廃棄口になる筈だ」
頭上の壁面、標高九百メートル付近に口を開けているという侵入口の位置を、しかしマイノスは地面を見下ろしながら示した。
落盤で塞《ふさ》がれた迷宮入口から、円筒状の梯子山《スケイル》を左手に百メートルほど回り込んだ場所に俺たちはいた。俺たちとは、俺とマイノス、ザザ、ベイキにアドリアンの五名で構成される登攀《とうはん》パーティとパルパ老人、五賢者そしてアドリアンの従者リフラフのことだ。
俺以外の連中が乗ってきた三台の馬車と一頭の馬は、入口正面のスロープ下に待機している。ベイキの出立《しゅったつ》に同行している御者や衛士たちは大破壊《カタストロフィ》についても知らされているようだったが、|嘆きの精《バンシー》の件を市井《しせい》に触れ回るような間抜けとは違い、その情報を漏らせばどんな混乱が引き起こされるかを熟知した忠臣たちだった。
俺は霞《かす》む山頂付近から、マイノスが見ている足下に視線を移した。
そこには、直径三メートルほどの穴があった。
いや、穴よりはむしろ凹《くぼ》みと呼んだほうが適切だろう。深さは一メートルにも満たず、多少深目の皿のような形状だ。
それにしても、不自然な凹みだった。固く乾いた平坦な地面が、掘り返したのではなく、そこだけ陥没してしまったかのように見える。
穴の円周が盛り上がっているのも妙だった。中央に圧力が加えられ、へこんだ分だけ周囲の土が隆起したような印象を受ける。
つまり、それは何かが上空から落下し、凄まじい勢いで大地に衝突した際に穿《うが》たれるような、そんな穴なのだ。
だが、その原因となったであろう物体――恐らくは梯子山《スケイル》の壁面から剥《は》がれ落ちた岩――が見当たらない。これだけの凹みができるとすれば、落下物はおいそれと運べるような大きさではない筈だし、ましてそれが自力でこの場から移動するわけがない。
どのようにしてできた穴なのか、皆目見当がつかなかった。ただ、それが古いものではないことは地表の様子から見て取れる。強風が吹き荒れるこの付近で円周部の形状が保たれているということは、少なくとも昨日以降に生じた穴であるらしい。
「これが目印ってわけか。都合のいい穴があったもんだな」
俺はマイノスに言った。登攀《とうはん》位置を確かめるには、この奇妙な凹《くぼ》みは恰好の目標になる。
「たとえこの穴がなくても、私はこの場所を忘れない。いや、忘れようがないのだ――」
マイノスは静かに呟《つぶや》き、俺を見た。「それで、どうだ。ここから攀《のぼ》れるか?」
それは、この地点から攀るのに充分な手がかり、足がかりが存在するかという問いだった。万一ここからの登攀が困難であれば、もっとルートを見つけやすい位置から攀り始め、壁面で左右に移動するという手もある。
「ふん」
俺は壁面に目を走らせた。「他に比べて楽ってこたあねえな」
「登攀地点をずらしたほうが良さそうなら――」
「いや」
マイノスを制して、続ける。「どのみち同じこった。地上からじゃ百メートル上までも見極めきれねえ。そうだろ、爺さん」
「その通りだ」
パルパが受けた。「連続した垂壁を千メートル近くも攀るとなると、ここで一見手がかりの多い場所を捜したところで、それが攀り進むうちに手がかりなしのルートに変わってしまうこともままあるからのう。結局、臨機応変に横移動《トラバース》して登攀ルートを探るしかないわい。それに儂《わし》の見る限り、この左右にそれほど楽な壁面はなさそうだ」
「要は俺が攀れるかどうかだろう。まあ、この壁にも何とか躰《からだ》を支えるだけの凹凸はありそうだぜ」
俺は頭の中で最初の十メートルの登攀ルートを思い描いていた。
こうして見ると、全く手がかりがないように思えた梯子山《スケイル》の壁面にも、無数の突起や亀裂が散在しているのが判る。先刻パルパが見せた流麗な垂壁|登攀《とうはん》もあながち無理とは思えなくなってきた。
あれからきっかり十五分間、俺はパルパが言うところの基礎中の基礎を教え込まれた。
様々な岩の形状を利用した手がかりの取り方だけでも、指を引っかけることに始まり、突起を指で挟み込む、掌《てのひら》全体の摩擦を利用するなど、よくもこれだけ考えついたものだと感心するほどの方法がある。
中でも岩の割れ目に指や掌を入れ、それを捻《ひね》ることで体重を支える技術は、さすがに数世代に渡って工夫されてきただけのことはあった。この方法ならば、指を滑り込ませる程度の幅しかない縦に伸びる割れ目を手がかりに高度を稼《かせ》ぐこともできるのだ。
それらに加えて、わずかな足場を確実に捉える技術も重要だった。四肢を存分に駆使することにより、重心の移動をスムーズに行う――このバランスの取り方こそが、垂直に限りなく近い壁面を攀り続けるために不可欠なものなのだ。
さらに、特殊な金具を岩盤に打ち込み、それに体重を預けることによって通常なら到底登攀できない障害を突破する技術。これを用いれば極端に迫り出したオーバーハングを越えることすら可能だったが、金具に限りがあり、また設置にある程度の時間を費やすことになるため、他に方法がない場合でなければ使用は避けるべき手段だった。
パルパはわずか十五分間で、これらを一通り俺に実践させた。それぞれ一度限りで、時間を要する特殊金具の打ち込みは理論のみだったが、それでも伝授される前と後では天地ほどの差があった。壁面を見ただけでその印象がまるで異なってくるのに気がつくのだ。
困難ではあるが、不可能ではない――。
忍者として鍛えてきた俺の肉体が、登攀に必要な下地を兼ね備えていたこともあるだろう。また、パルパが言う通り素質があったのかも知れない。マイノスがわざわざ俺を推《お》したことからも、そう思いたかった。
だが、この短時間の訓練がこれだけの効果を上げた最大の要因は、やはりパルパ老人の気迫だった。
ただ一度の実践で、俺が不安を抱いている点を的確に見抜き、指導する。その巧みさもさることながら、そこには一切の妥協を許さない殺気めいた雰囲気が漂っていた。数十年に渡って部族の者たちに登攀技術を伝授してきた師範としての手腕もあるだろうが、それ以上に俺たちの登攀を絶対に失敗させないという熱意が伝わってくる。
そんな指導者がついて、技を吸収しない生徒はいない。十五分が十五日にも相当する、密度の高い訓練だった。
「ジヴラシア殿。何卒《なにとぞ》、陛下をよろしくお願い申し上げますぞ」
五賢者のひとり、人間族《ヒューマン》の賢者が禿げ上がった頭を下げた。他の四人もそれに倣《なら》う。
「止《や》めて下さい!」
ベイキが慌てて叫んだ。
「私もジヴラシアも、特別な扱いは望んでいません。まだ女王気分が抜けていないのかと叱られてしまいます!」
「しかし姫様――今ばかりは昔のように、そう呼ばせてくだされ」
今度は、白|髭《ひげ》を長く伸ばしたドワーフの賢者が言った。「これが今生《こんじょう》の別れになるやも知れぬと思うと、我ら一同平静を保つことなどできませぬのじゃ。賢者などと呼ばれてはいても、こうなってはただの、姫様の身を案ずるだけの老いぼれ五人に過ぎませぬ」
「本当は行かせたくはないのです」
小柄なホビットの賢者は、梯子山《スケイル》の頂《いただき》を見上げるかのように顎《あご》を反《そ》らせて俺を見た。
「赤子の頃から見守り続けた姫様と、大破壊《カタストロフィ》のその時までともに過ごしたい――それがこの年寄りともの最後の願い。しかしそれが叶わぬなら、せめて貴殿たちに儂《わし》らの思いを託したいのです」
「――爺」
「何卒《なにとぞ》、姫様を……」
五賢者はもう一度、俺たちに深く頭を下げた。
「五賢者の方々、もう頭を上げてください。陛下のお命――」
「ベイキ」
マイノスの言葉に被《かぶ》せて俺は言った。マイノスが弾かれたようにこちらを見る。
「俺はそう呼ぶつもりだ。構わねえな?」
「はい」
ベイキが応《こた》えた。それでもう、マイノスは何も口を挟まなかった。
俺は五賢者に向き直った。
「ベイキはパーティの一員だ。王族なんて特別待遇はなしで公平に扱うぜ」
賢者たちを見回し、続けた。「その代わり、仲間である以上どれだけ足手|纏《まと》いになっても途中で置き去りなんかにゃしねえ。あんたらがベイキにどんな扱いを期待しているのかは知らねえが、俺に言えるのはこんなところだ」
「充分です」
エルフの賢者が深く頷《うなず》いた。「姫様の選んだ道――それも我々が知る限り最も強い意志を持って。その同伴者として、貴殿たちほど頼り甲斐のある仲間はありますまい」
そして賢者たちは一人ひとり俺たちの手を握り、やや距離をおいて佇《たたず》むアドリアンには軽く会釈《えしゃく》をして、最後にベイキの周りに集まった。
「姫様、我らはここでお別れ致します」
「これ以上姫様を見ていると、引き留めてしまいましょう」
「王都の行く末は、我々がしかと見届けまする」
「滅びの時を待ちながら、姫様のご武運を祈りましょうぞ」
「信ずる道を、お進みなされよ――」
「……みんな、ありがとう。私は最期の時が訪れるまで、爺たちのことを決して忘れません――」
ベイキは涙ぐみ、声を詰まらせた。親同然に育ててくれた老人たちとの離別に、この時ばかりは恋する女も十七歳の娘らしい表情を見せる。
「そろそろだな。そうゆっくりもしていられねえ」
五賢者がスロープを下っていくのを眺めながら、俺はザザに呟《つぶや》いた。
「俺は先行して攀《のぼ》らなきゃならねえ。マイノスの野郎は俺の命綱を支える役回りだ。ベイキの補助は頼むぜ」
ザザは端正な貌《かお》にいつもの微笑を浮かべた。
「もちろん、それは任せてもらって結構です。彼にその役を期待するのも難しいでしょうしね」
そう言って、アドリアンを見る。ちょうどリフラフに何事かを囁《ささや》き、あの漆黒の馬車へと向かわせたところだった。
「太古に滅亡したとされるファールヴァルト公国からの旅人にして、失われて久しい古代呪文を操る――この冒険の連れとしては、これ以上ないほど怪しげな人物ですね」
ザザの指摘はもっともだった。このアドリアンという男については、奴が自ら称すること以外何ひとつとして判らない。というよりも、全く正体が掴《つか》めないのだ。言伝えにのみその名を残す森の彼方の国<tァールヴァルトから来たなどと、誰が信じることができよう? もしそれが真実なら、アドリアンは数千年の時を旅してきたとでも言うのか?
しかし、奴の使った魔法は疑いようもなく本物だった。
「俺は奴に命を救われている。それに、浮遊《リトフェイト》の呪文は登攀の役に立つ筈だ」
「あなたの見立ては信用していますよ。ただ、アドリアンがどうして我々と同行する気になったのか、その動機が判らないんですよ」
「おまえがマイノスに言った、死に様《ざま》を選んでるってことじゃあねえのか」
「それを選ぶために、動機が必要なんです」
ザザは続けた。「このパーティに参加する者は誰しも、スケイルに挑む目的を持っています。マイノスに例を取れば、仲間の放出と妖獣《ゼノ》への復讐がその目的でしょう。ベイキにしても、あの聖剣をガッシュに届けるという建前がある。酔狂や慈善で、この計画に乗ってくるとは思えませんね」
「うむ」
アドリアンの協力に関して、俺も疑念を抱《いだ》かなかったわけではない。何しろ、昨夜二ルダ寺院で登攀計画を打ち明けた際に、アドリアンはふたつ返事で参加を承諾したのだ。
「と、すれば、奴には奴なりの目的があってスケイルに潜り込もうとしているわけか」
「恐らくは」
ザザは慎重に応《こた》えた。「しかし、それをここで問い詰めるのは得策ではないでしょう。確かに彼の参加は我々の益になりますし、登攀を成功させようとする意志は同じですからね」
「ああ。それに奴が目的を隠しているにしても、俺たちへの害意があるからとは思えねえ。まあ、こいつは単なる勘だがよ」
「いえ、それは私も同意見です。それとね、妙な話なんですが、私は以前彼に逢ったことがあるような気がするんですよ」
「顔はまだ見てねえんだろ?」
「ええ。ですが……」
珍しく、ザザは困惑した表情を見せた。「雰囲気のようなものが、記憶にある感覚と似ているんです。遠い昔に出会った誰かに――でも、それが誰なのか思い出せないんですよ」
「だったら気のせいだろうよ。おまえの記憶力は並じゃねえんだ」
ザザの記憶力はずば抜けていた。迷宮地図の作成も、俺たちはもっぱらザザの記憶に頼っていたほどだ。
「そうかも知れませんね」
遠い目で記憶の糸をたぐるのを諦《あきら》め、ザザは意味ありげに俺を見た。「それより、パーティは六人になりそうですよ。強い動機を持ったのがひとり、こっちに来ます」
「何?」
言われて、俺は慌てて周囲を見回した。
街の方角から、一騎の馬が駆けてくるのが見えた。
遠目にも、騎上の人物の長い髪がなびくのがはっきりと判る。
淡く美しい、緑色の髪。見紛《みまが》うことなく、それはディーだった。
「あなたの好きな賭けでもしませんか? 私は見送りじゃないほうに賭けますけど」
ザザはくすくすと笑い、続けた。「これでパーティの体裁《ていさい》が整いましたね」
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第五章 死の予言
右足を預けていた突起が、唐突に崩れた。
左手を次の手がかりへと移す、その瞬間だった。
足場を外した衝撃が、がくん、と全身を駆ける。不充分なホールドしか取っていなかった左足も、急激なバランスの変化を支えきれずに外れた。
不快な落下感が俺を貫《つらぬ》いた。
次の瞬間、俺の全体量が右手の指先だけに集中した。今、壁面と俺を繋《つな》いでいるのはこの一点しかない。
だが、わずか数十センチの落下とは言え、その勢いは指先の摩擦のみで殺せるものではなかった。
右腕の筋肉が限界まで伸び、腱《けん》に凄まじい負荷がかかる。それを筋力で跳ね返そうとしたその時、指が突起からあっさりと離れた。
――落ちる。
指先の腹がざらついた壁面を擦《こす》る。落下時特有のあの血の凍る感覚が全身を包んだ。
地面まで、百メートル。叩きつけられれば確実に死ぬ。
垂壁が視界を上に流れていく。加速が始まった。
俺自身の肉体が大気を裂く風切音が耳元に響く。それに混じり、誰かの悲鳴も聴こえたような気がした。
俺は歯を食い縛り、腹筋に力を込めた。
一瞬の後、棍棒で殴りつけられたような、容赦のない衝撃が胴回りを襲った。体内の空気がすべて吐き出され、肋骨《ろっこつ》が激しく軋《きし》む。
躰《からだ》が一度、重力に逆らって跳ね上がった。そして振子のように大きく振られ、梯子山《スケイル》の垂壁に打ちつけられる。足で壁を蹴り、かろうじてその勢いを殺した。
それで落下は止まっていた。俺は鉛色の空を見上げながら、大きく息を吸い込んだ。
生きている。
無論、大地に衝突したわけじゃあない。
俺の腹部には幅広の革製ベルトが巻かれ、その中央には頑強なロープがきつく結び付けられていた。
ぴんと張ったロープは上方に伸び、十数メートル上の壁面に打ち込んだ環状金具を支点に折り返している。現在俺を地上九十メートル地点に留まらせているのはこの命綱だった。
「ジヴ!」
ディーの叫びが聴こえた。背後――つまり下の方向からだ。
俺は左手でロープを掴《つか》み、右手を振ってみせた。
「大丈夫だ。大した怪我はねえ」
「右腕はどうです」
同じ位置からザザの声がした。「無茶は禁物ですよ。今なら何とか呪文効果の範囲に入ってますから痛めているなら治療できます」
「いや、指先をちょいと擦りむいた程度だ。攀《のぼ》れるぜ」
言って、右手をロープにかけ、ベルトで吊られた状態から身を起こした。両腕に俺の躰《からだ》の重さを実感する。
奇妙な感覚だった。
この百メートルを登攀する間に、これで三度目の落下になる。その度に感じる、複雑な思いだ。
命綱がなければ、俺は悉《ことごと》く死んでいた筈だった。
魔物を素手で殺し、闘いに生き残る術《すべ》を培《つちか》ってきたこの俺が、たった一本のロープに命を救われている。殺戮《さつりく》機械とも呼ばれる忍者が無防備にぶら下がっている様《さま》は、事情を知らぬ者が見れば滑稽《こっけい》だろう。
だが、そいつは気にならない。今俺が闘っている相手は斃《たお》すことができる魔物ではなく、あらゆる挑戦者を拒《こば》み続けてきた垂壁――熟練の登山者であるパルパにすら登攀《とうはん》不可能と言わしめた梯子山《スケイル》の難壁なのだ。戦闘で敵の打撃を躱《かわ》すのが鎧や体術なら、垂壁登攀でそれに相当するのはこのロープだと言える。墜落という名の致命打撃《クリティカルヒット》から身を守る防具だ。
この心境の原因は、そのロープのもう一端にあった。
「あなたのほうは」
ザザが続けた。が、俺への問いかけではない。
「手の皮が少し剥《は》がれただけだ。怪技のうちにも入らん」
応《こた》える声が聴こえる。「手が空いたら自分で治療するさ」
「すぐに空ける。待ってろ」
叫んで、俺はロープを伝い上り始めた。握力と腕力を要する動作だが、この岩壁に手がかりを探しながら攀るよりは遥かに楽だ。
躰《からだ》を引き上げながら、俺はその声の主のことを考えていた。
ロープで結び合い、俺の落下を食い止める役割を持った男。俺の生命を握り、あるいは俺の滑落に巻き込まれる危険を背負い込んでいる男。
マイノス。
そうなのだ。奴こそが、俺に奇妙な感覚を抱かせる原因だった。
俺は壁面に辿《たど》り着き、新たな金具を打ち込んで別のロープを固定し、そちらに体重を移した。
「いいぜ、マイノス。世話をかけたな」
命綱がふっと緩《ゆる》んだ。マイノスがロープを握る手を離したのだ。ロープそれ自体は俺と同様に奴のベルトに結ばれているが、俺の体重がかかっている間は腕で支えていなければならない。
俺は躰を捻《ひね》り、滑落後初めて仲間たちを見下ろした。
ザザとディー、ベイキそしてアドリアンは二十メートルほど下の、四人が何とか立ち込める程度の小さな岩棚に身を預けている。ザザは俺にほとんどダメージがないのを確認して微笑んでみせ、ディーは見ちゃいられない、心臓に悪いなどと眉を顰《ひそ》めてぶつぶつこぼしているのが聴こえる。
ベイキは両手を胸の前で祈るように組み、一言も発さずに見上げていた。俺が壁面に確保を取ったのを見て、さすがにほっとした表情を浮かべる。落下の瞬間に耳にした悲鳴は、恐らくディーとベイキのふたりのものだったのだろう。
アドリアンも俺に視線を注いでいた。登攀《とうはん》開始時に邪魔になりそうなロープやあのベールは取り払い、今はその非人間的なまでの美貌を露《あらわ》にしていたが、昨夜月光の下で目にした際の妖艶な雰囲気は影を潜めている。あの時受けた印象通り、その美しさは陽光に映《は》える健全なものではなく、夜の闇に引き立つ魔性の美なのだ。
そのアドリアンは、しかし他の三人とは異なり、ほとんど無関心な様子で俺を見ていた。ダークブラウンの瞳は何の感情も示さず、ただそこに映るものを冷徹に眺めている。
しかし、それは俺が墜落しようと知ったことではない、というような種類のものではなかった。むしろ、こんなところで俺が死ぬ筈はないと、そう確信しているような冷静さだった。
その四人より少し上の足場にマイノスは立っていた。背にした岩壁に躰《からだ》を固定し、支点となっている中間確保の環状金具が外れた場合に備えている。
奴はロープから解放された両手を治療している最中だった。僧侶系第一レベルの治療呪文・封傷《ディオス》を唱え、ロープとの摩擦によって生じた掌《てのひら》の傷を塞《ふさ》いでいる。大した傷ではないという口調だったが、実際には手の皮がずたずたに剥《は》がれていたのが判る。皮手袋は原型を留めぬほどに裂け、予備のものに交換しなければならない。
見守るうちに、マイノスの掌《てのひら》に微《かす》かな光が灯った。
封傷《ディオス》は低レベルの呪文だけに、劇的な治療効果は期待できないが、軽度の火傷や打撲、擦過傷《さっかしょう》などは瞬時に癒《いや》すことができる。軽傷でも呪文なしでは数日から数週間の回復期間を要するのだから、戦闘時には不充分でもこのような状況では極めて役に立つ呪文と言えた。
ロードを相手にする際の恐ろしさはこれだった。
戦士と並ぶ戦闘能力を持つ剣士でありながら、自ら僧侶呪文を操って手傷を即座に癒す。瀕死まで追い込んだ敵が見る間に活力を取り戻す様《さま》は、対峙する者にとって著《いちじる》しく戦意を減退させる。
――実際に俺とマイノスが闘ったとしたら、どちらが勝者となるだろうか。
ふと、そんなことを思い、そしてそれを真剣に考えてみたのはこれが初めてだったと気がついた。
不思議なものだ。今まで幾度もマイノスとはやり合いそうになったというのに、その結果を考えたことがなかったとは。挑発と侮辱の意味を込めて、俺は奴を軽く捻《ひね》ってやるなどと宣言してきたが、それは周囲が止めに入ると判っていたうえでのことだ。
勝てないことはないだろう。だが、勝敗は恐らく紙一重で決する。必ず勝てる自信はないし、斃《たお》せたとしても腕の一本は切り落とされる覚悟がいる。
何故今になって、俺はこんなことを考えたのだろう。
訝《いぶか》ってみて、理解した。
これまで俺はマイノスに対して、虫の好かない野郎だという程度の評価しか持っていなかった。無論ほぼ熟達者《マスター》<激xルにあるロードの腕前を認めていないわけではなかったが、それはロードというエリートクラスの戦闘力への漠然とした推量でしかない。たとえ同じ熟達者《マスター》≠フ戦士がふたりいたとしても、個人の技量によっては著しい実力差が生じるものだ。職業《クラス》、熟練度はあくまで目安でしかない。
つまり俺は、マイノスという存在に対してその実力を認識しようとはしていなかったわけだ。戒律の違いゆえに、お互い迷宮での戦いぶりを見たことはなかったが、これはそういう次元の問題じゃあない。
気に食わない――ただそれだけの理由で、俺はマイノスを同列に並べて評価するのを避けていた。思えば愚かな話だが、無意識にそういう感情が働くほどに奴を嫌っていたのだ。比べることで自分と近い存在にしたくなかった。
そして今、俺はマイノスを手強い相手だと認識した。それは言い換えれば、マイノスを頼りにできる仲間だと認めたということだ。
三度の墜落から俺の命を救ったから、ではない。
それ以前に相手を認め、信頼できない限りこの登攀のパートナーにはとてもなれない。
複雑な感情は、確かにある。つい一昨日まで、まるでこの世の善《グッド》と悪《イビル》の戒律を代表するかのように啀《いが》み合ってきた男に、俺の生死を完全に委ねているのだ。
かつてのワードナ討伐では、善悪混成のパーティもまんざらなかったことではないらしい。腕の立つ仲間を失った連中が、戒律は反すれど同程度の実力を持ち、同様の状況下にある者を加えてパーティを結成した例は意外に多かったという。反《そ》りは合わなくとも、戦力に不安を残したまま迷宮に入るよりはましだからだ。
だが、俺とマイノスの関係はそれらの協力を遥かに越える。俺が生殺与奪を握られているだけではない。ひとつ間違えればマイノスも俺と一緒に大地に墜落する羽目になるのだ。
だからこそ、判っていた。落下の度《たび》に感じるこの奇妙な思いは、戒律の反する者に助けられているからではなく、どうしてもっと以前にマイノスを正当に評価できなかったのか、という俺自身への気恥ずかしさから生じていることを。
マイノスは両|掌《て》を何度か握り、呪文の治療効果を確認した。そして俺を見上げ、叫ぶ。
「万全だ。何度だって支えてみせる。ジヴラシア、すぐに始められるか」
「おまえが手袋さえはめりゃあ再開するぜ。できればもう新しい手袋は使わねえで済むようにしてえんだがよ」
「馬鹿なことを気にするな。この垂壁を失敗なしに攀《のぼ》れるほうがどうかしている。それに、これが私の役割だ。たまには仕事もないとな」
新たな皮手袋をはめ、俺が攀れるようロープの長さを調節しながらマイノスは白い歯を見せて笑った。
「へっ。言いやがる。それならこの先は役立たずにしてやるぜ」
言い返し、俺は再び登攀《とうはん》を始めようとした。が、その前にマイノスたちよりさらに下方に目をやる。
眼下に広がる、乾ききった大地。その荒野に、ひとりの男が座り込んでいる。
パルパだった。
五賢者を乗せた馬車が去り、アドリアンの黒い馬車が姿を消した後も、老人はひとりそこに留まっていた。俺たちが登攀に成功するのを見届けるために。
しかし、俺たちを見上げてはいなかった。ただ正面に聳《そび》え立つ梯子山《スケイル》の壁面を見据えている。
俺たちの高度はまだ百メートルを越していない。右目の光を失っているパルパといえども、俺の一挙一動を見て取れる距離だ。
それに、俺が落下しかけたのも判った筈だった。
女たちの悲鳴が聴こえないわけがない。
逆に声をかけることもできるだろう。が、それもしない。ただひたすら、そこに胡座《あぐら》をかいて彫像のように座っている。瞑想しているようにも見えた。
それでもその姿から、張り詰めた気配が伝わってくる。視線を向けていなくとも、俺の登攀に全身の神経を集中しているのが判った。
パルパの心中は痛いほど感じ取れる。見ているのが怖いのだ。
この年老いた登山の達人は恐らく、一心に俺たちの登攀成功を祈り続けているのだろう。パルパは攀《のぼ》り始める間際に俺なら必ず攀れると念を押したが、それはパルパが自分自身に言い聞かせていた言葉でもあった。
俺も登攀を開始するまでは多少の自信を持っていた。短時間ながら、パルパが伝授してくれた技術はすべてものにしたつもりだった。大きな失敗がない限り攀れそうだとまで思った。
だが、攣るほどにこの壁の恐ろしさが身に染みて判ってきた。岩質は想像以上に脆《もろ》く、そして躰《からだ》を休める足場が極端に少ない。正直なところ、最初に抱《いだ》いていた自信は吹き飛んでいた。
それでも、やらねばならなかった。
仲間のために。
パルパのために。
そして俺自身のために。
「攀るぞ」
パルパまで届くようにあらん限りの声で怒鳴り、俺は補助のロープを外した。
「よし、掴《つか》まれ」
俺が伸ばした手を、ディーの細い指が握り締める。
そのまま力を込め、俺はディーをオーバーハングの上に引っ張り上げた。俺の胸に飛び込むように、ディーはその場に膝をつく。
それで、登攀パーティの六人全員が、このあつらえたように広い岩棚に到着していた。マイノスは支えていたロープを緩《ゆる》め、深く安堵《あんど》のため息を漏らした。
ディーは肩で息をしていた。支える俺の肩に額を頂け、懸命に呼吸を竪えでいる。
すぐ横には、先に引き上げたベイキが腰を下ろしていた。すでに息を切らしてはいなかったが、立てた膝に顔を伏せた姿からは疲労が色濃く滲《にじ》む。
俺やマイノスとともにロープを支えていたザザは、ディーがこの足場に到着するなり環状金具などこれまでに使用し、回収した登攀器具から傷んだものを選り分け始めている。疲れを微塵《みじん》も感じていないような、俺ですら舌を巻くタフさだった。
アドリアンは俺たちに手を貸すでもなく、何事にも興味がなさそうな態度で傍《かたわ》らに立っていた。視線は真南の、城塞都市リルガミンの位置する方角に向けられている。
高度四百メートル地点。
地上近くには霧が漂い始め、すでに座り込んでいるパルパを見て取ることはできない。リルガミン市もほぼ全域が白く霞《かす》み、幾つかの尖塔の影がわずかに認められるに過ぎない。
「――鐘だ」
ディーの肩がようやく落ち着き始めた時、アドリアンが静かに呟《つぶや》いた。その言葉を追いかけるように、時を告げる鐘の音が風に乗ってこの岩棚に届く。
それは昼の終わりを示す鐘だった。登攀を始めて五時間あまり、稼《かせ》いだ高度から見て決して悪いペースじゃあない。いや、通常の登山から考えれば驚異的な速さで攀り続けていると言える。それも、これだけ難しい垂壁をだ。
俺の調子は明らかに上がっていた。三度目の滑落以来、失敗らしい失敗はほとんどない。パルパが言った通り、失敗するほどに登攀のコツが飲み込めていくのだ。
ここまでの登攀ルートに大きく横移動《トラボース》して迂回《うかい》しなければならないような障害がなかったこともあるが、今のペースを維持すれば日没までに高度九百メートルに達することができるだろう。
筋肉の疲弊《ひへい》をザザの呪文で癒《いや》しているのも、好調を維持できる要因だった。普段はほとんど使わない筋肉に負担をかけるため、予想以上に疲労するのも早かったのだが、それを瞬時に解消することができるのだ。加えて、回復の度《たび》にわずかずつながら筋力も鍛えられている。攀《のぼ》るほどに、俺の肉体はそれに適したものに強化されつつあった。
また、アドリアンの浮遊《リトフェイト》の呪文が、俺とマイノス以外のメンバーを引き上げるのに大いに役立っていた。呪文の効果自体は高度を維持するのみで、垂壁に沿って上昇するような真似はできなかったが、先行する俺たちが残る四人をロープで引き上ける際にはその重量を大幅に軽減する働きを持つ。この古代の特殊呪文なしでは、ザザはともかく女ふたりを引っ張り上げるのは相当に困難だっただろう。
しかし浮遊《リトフェイト》の呪文は魔術師系第四レベルに属しており、アドリアンが唱えられる回数にもやはり限りがある。通常はかなりの時間効果が持続する呪文らしかったが、本来の目的とは異なる使用法のためある程度高度が上がると魔力は消失してしまう。
アドリアンの話ではあと四、五回しか使えないということで、この足場へは呪文を節約して引っ張り上げていた。ディーやベイキが参るのも道理だったが、それでも比較的に楽な場所だったのだ。
ディーは何とか人心地ついたらしく、やっと俺の肩から顔を上げた。緑の髪が幾筋かその貌《かお》にかかっているのが、妙に艶《なまめ》かしさを感じさせる。
「全く、何だってこんなところまでついて来ちゃったのかしらね」
口を尖らせてディーが愚痴《ぐち》る。が、真剣に後悔している口調ではない。
「大体ね、ジヴ。あんたがあの魔法の発光瓶を置いてったりするから、あたしがわざわざ見送りがてら届けなきゃならなくなったのよ」
「借り倒すわけにもいかねえだろ」
俺は首に掛けたネックレス状の小さなカラス瓶に、装束の上から触れてみた。夜明けに出発する前に、ディーの寝室の扉に引っかけてきたものだ。
単独で迷宮に入っていた俺にとって、この発光瓶はランプに代わる光源として非常に重宝していた。ランプはかさばるうえに光を完全に隠すのが難しく、また燃焼時に匂いが出るために魔物に気取《けど》られる危険があるが、このエルフに伝わる魔法の小瓶なら熱も匂いもなく、懐にしまうだけで容易に光を遮《さえぎ》ることができるのだ。隠身で危険を回避する単独行では、これほど適した光源は他にない。
いつも身に着けっ放しだったのが幸いして、|冒険者の宿《アドベンチャラーズ・イン》の炎上時にも焼失しないで済んだものの、本来はディーから俺が借り受けたものだった。最後ぐらいは元の所有者に返そうと思ったのだが、ディーは水臭いと怒ってわざわざ届けてくれた。
そればかりか、有難いことにこの土壇場でパーティへの参加を申し出てくれたのだった。登攀時はともかく迷宮内部に辿《たど》り着いた時には、すべての魔術師呪文を修得したディーがいるといないとでは戦力的に天地ほどの差が生じる。昨夜の態度からは予想だにしなかった、願ってもない六番目の仲間だ。
「……ディー、昨日の晩餐《ばんさん》での失礼を許して欲しい」
マイノスがディーにしおらしく頭を下げた。「このような冒険行に加わってくれた勇気ある女性に対して、あんな言葉を投げかけた自分が恥ずかしい。いや、許しを乞うことすらおこがましい気持ちだ。ただ、どうか私が本心から謝罪していると判って欲しい――」
「あ……いえ、ちょっと、そんな風に謝られると調子狂うわね……」
善《グッド》の戒律を持つマイノスにいきなり謝罪され、ディーはすっかりうろたえてしまっていた。
そもそもあの会食の際の侮蔑《ぶべつ》の言葉は、迷宮入口が落盤で塞《ふさ》がれたことさえ知らなかったマイノスがほとんど俺ひとりに向けて浴びせたものなのだ。
それをこのように低姿勢で謝られては、あの時は激昂《げっこう》したディーとしても拳を収めるほかあるまい。
それに、元来ディーは気性が激しい分カラッとしたもので、実はもう晩餐の時の怒りなど忘れていたようだった。
「もういいわよ、あんなこと。それに、あたしだって少し大人げなかったしね……そうよ、王宮の会食なんかに呼びつけられたら、気が立たないほうがどうかしてるわ」
「おい、ディー」
俺は慌てて遮《さえぎ》った。この言葉はどう取ってもベイキに対する厭味《いやみ》だ。そしてそのベイキは俺たちのすぐ真横にいる。
ディーが黙ったおかげで、不自然な沈黙がその場を支配した。
普段なら女王たるベイキを庇《かば》う立場のマイノスも、自分が発端になった話だけに咄嗟《とっさ》に言葉を見つけ出せないでいる。加えて、たった今謝罪した相手であるディーに噛《か》みつくわけにもいかない。
視界の端で、我関せずと涼しげな表情で道具を点検していたザザが、変型しかけた環状金具を傍《かたわ》らに投げ捨てた。ガチャリ、と金属が触れ合う音だけが響く。
俺は恐る恐るベイキを見た。毒を含んだディーの物言いに、自分に対するあからさまな敵意を感じていない筈がなかった。
ベイキは座ったまま、顔を上げてディーを見ていた。悪いことに、ディーがその視線をしっかりと受け止めて睨《にら》み返している。穏やかに収まりそうにはなかった。
「ディー」
しばらくの間をおいて、ベイキが口を開いた。
「何か御用? あたしにお気に召さないところでも?」
細い顎《あご》を突き出して、見下ろすようにディーが応《こた》える。
マイノスに対する怒りとは違い、ディーがベイキに抱いている悪感情はそう易々と消えるものではなかった。リルガミン王国統治者の肩書を捨てた今のベイキは、これまでの鬱憤《うっぷん》を晴らす恰好の的になる。ディーに一歩も引く気がないのは明白だった。
これは無理にでも間に割って入るほかないだろう。パーティの仲間として対等の立場に立った現在、ベイキが幾ら急激に大人びたと言っても百戦錬磨の魔術師であるディーの相手にはなり得ない。ベイキが一方的にいたぶられるのは火を見るよりも明らかだった。
「ディー、止《や》め……」
「ごめんなさい」
予想だにしなかったベイキの謝罪に、止めに入った俺は言葉を詰まらせた。
昨夜の晩餐《ばんさん》でも、ベイキは宝珠の探索成功に封する謝意とともに頭を下げ、俺たちを驚かせている。が、それは王国の破滅を救うために危険を冒してきた冒険者に、統治者として感謝を示したものだった。
そして今、あの傲慢《ごうまん》だったベイキ女王が、対等な仲間としてのディーに詫《わ》びている。驚愕に値する光景だった。
当然ベイキが突っかかってくるものとばかり思っていたディーも、肩透かしを食って唖然《あぜん》としていた。その間にもベイキの言葉は続く。
「あなたが私を快く思っていないのは知っています。そして、それが当然だということも――思い起こせば、私が女王として冒険者の皆さんに押しつけてきたのは、何も判っていない子供が背伸びをした結果の愚かなことばかりだったのですから……」
ベイキは一度言葉を切り、寒々しい鉛色の空に視線を泳がせた。「今となってこんな話をするのは無意味ですが、もしもう一度リルガミンの女王を務めることができるなら、もう少しは優秀な統治者になれるよう努力するでしょう。あなたに喜んで晩餐会の招待に応じてもらえるような、そんな女王に――」
「難しいと思うけど」
「ディー!」
小声で憎まれ口を叩くディーを俺はたしなめた。
「判った、判ったわよ。悪かったわね、変な絡《から》み方をしてさ」
肩を竦《すく》め、ディーはその場に腰を下ろした。「すっかり意地悪姉さんって役回りになっちゃったわ」
何事もなく場が収拾し、俺はほっと息を吐いた。まだ登攀行の半ばだというのに、こんな岩棚で喧嘩《けんか》を始められてはたまったものじゃあない。
「では、そろそろ昼食を摂《と》っておきましょうか。この先にこれはと大きな足場がそうそうあるとは思えませんからね」
登攀器具の選別を終えたザザが言った。今のやりとりが全く耳に入っていなかったかのような口ぶりで、緊張のし通しだった俺にしてみれば小憎らしいばかりの態度だが、これは今に始まったことではない。
俺たちはそれぞれ、ザザが背負い袋の中から取り出した食糧を受け取って食べ始めた。お馴染《なじ》みの硬いパンに塩漬け肉といった配給メニューだが、これだけの運動をこなしているとやけに美味《うま》く感じられる。
こんな貧しい食事は滅多に経験していないベイキも、パンを千切っては次々と口に運んでいた。大剣を背負い、埃《ほこり》に塗《めみ》れたその姿は女王陛下より、もはやいっぱしの冒険者のように見える。
それにしても温室育ちの筈のベイキが、俺たち冒険者と肩を並べてよくもこれだけ気力を維持できるものだ。多少の疲れを見せるだけで、息を切らせても回復がやけに早い。脆弱《ぜいじゃく》だとばかり思っていたが、意外に基礎体力があるのかも知れなかった。
ふとベイキの首に掛けられた、薄紫色の金属円盤のペンダントが目に止まり、俺はその贈り主であるアドリアンに視線を向けた。
アドリアンはひとり食事を摂ろうともせず、先刻と同様に立ったままリルガミン市の方角を眺めていた。腕組みをし、今度は地上ではなく空に視線を漂わせている。風があるらしく、比較的に低空の雲は相当な速さで流されているのが見える。
俺は水筒に入った水を飲みながら、アドリアンの傍《そば》に移動した。
「食っといたほうがいいぜ。ここから先は風がありそうだ。体温を奪われたらあっと言う間に体力が落ちちまう」
パンと水筒を差し出す俺に目を向け、アドリアンは首を横に振った。
「因果な体質でな、特殊な食物以外は受けつけんのだ。だが大丈夫だ。一度その食事を摂《と》れば何も食べなくても数日は持つ」
「そいつは便利だな。俺のほうは夕べなまじ豪勢な食事にありついただけに、今日は余計腹が減ってしょうがねえ」
俺が忙しくパンを飲み下すのを見て、無表情だったアドリアンの貌《かお》に微かな笑みが浮かぶ。
「面白いな、貴様は」
「面白い?」
「ああ。あのディーとザザのふたりが、この登攀につき合う気になるのも頷《うなず》ける」
「あんたや、あのふたりには感謝してるぜ」
俺は空を見上げ、続けた。「浮遊《リトフェイト》の呪文なしじゃあここまでも辿《たど》り着けやしなかっただろうし、ザザの治療呪文のお陰でまだ疲れてもいねえ。この調子なら、どうやらスケイル登攀《とうはん》も上手く行き――」
俺の言葉はそこで途切れた。
視界に広がる灰色の虚空に、忽然《こつぜん》と姿を現したものがあった。
鳥の類《たぐい》ではない。それは、人の姿をしていた。
まるで風に巻き上げられた木の葉のように、ふわり、ふわりと宙を舞う緑衣の女。良い黒髪が激しく吹き乱され、その一本一本が細い蛇のように妖しく蠢《うごめ》いている。
悲しけな瞳が俺たちを見つめていた。忘れようのない、不吉な紅《あか》い瞳だ。
いつの間にか、岩棚にも風が吹きつけていた。岩肌を伝う風が、さながら妖女の絶叫の如くに響き渡る。
|嘆きの精《バンシー》――見紛《みまが》うことなく、それは一昨日の夜、迷宮へと向かうガッシュ、マイノスたちに死を告げたあの精霊だった。
「|嘆きの精《バンシー》……」
マイノスが呻《うめ》いた。すでに全員が、舞い続ける|嘆きの精《バンシー》に目を奪われていた。
風の音が一際高く鳴り響いた。
唐突に、精霊の舞が止んだ。そして、あの時と同じ緩慢《かんまん》な動作で、|嘆きの精《バンシー》は俺が最も恐れていた真似をした。
指差したのだ。俺たちパーティを。
あの夜、この禍々《まがまが》しい指で示されたガッシュたちのパーティのうち、アルタリウスとエレインの二名はすでにおぞましい死を遂《と》げ、マイノスを除いた三人も生死不明の状態だ。|嘆きの精《バンシー》の予告は現実となっている。
俺たちの中の、誰かが死ぬ。大破壊《カタストロフィ》を迎えることなく、この冒険行の途中で――。
「惑わす者よ。立ち去るがいい」
ザザが言った。そして邪悪な存在を退《しりぞ》ける破邪の印を結ぶ。
その時、強風が正面から吹きつけた。思わず目を閉じる刹那《せつな》、|嘆きの精《バンシー》が憐《あわ》れみの微笑を浮かべるのが見えた。
次に目を開けた時、精霊は大気に溶け込んだように消失していた。
だが、俺の脳裏にはあの、死を告げる精霊の姿が生々しく焼き付いている。美しい女の姿を借りた、冷酷なまでの死の予兆が。
胸の奥にしこりのような、不気味な確信が生まれつつあった。
あの指は、俺たち全員を示していたのではなかった。
俺を指していたのだ。
全身に悪寒が疾《はし》った。
それが死の予感によるものか、それとも吹き荒ぶ湿った冷風のせいなのか、俺には判らなかった。
物心ついた頃から、俺は放浪の旅を続けていた。
親父は各地を渡り歩く隊商の長《おさ》だった。
その土地土地の特産品を買い付け、それらを遠く離れた地域へ運んで売りさばく。移動することが利潤を生む商売であるだけに、ひとつの土地に長く留まることはまずなかった。約一年を周期に商売相手の町や村を一巡する、旅に明け暮れる生活だった。
隊商の仲間は、ほとんどが出稼《でかせ》ぎの男たちだった。
故郷を離れて親父の隊商に加わり、年の半分ほど働くとその稼ぎを持って故郷の家族の元へ帰っていく。そしてまた次の年、隊商が必ず立ち寄る幾つかの大きな町で合流するのだ。
だが、長は常に隊商を率いて旅を続けなければならない。仲間が去っても、すぐにまた別の仲間たちが合流するからだ。
だから、俺は故郷を持たなかった。いや、親父とお袋、そして気のいい仲間たちと一緒に旅するところすべてが故郷のようなものだった。馬車の荷台に転がって見上げる青い空に浮かんだ白い雲、新緑の季節に田園を抜ける風、森の木漏れ日と小川のせせらぎ。砂漠の彼方に揺らめく蜃気楼《しんきろう》の都に、波濤《はとう》が砕け散る灰色の冬の海。俺の故郷には、何でもあった。
親父は人の好《よ》い、およそ商人には向かない男だった。他の隊商がやるような、その土地に不足している品物の値を釣り上げるような真似は決してせず、その村が不作に喘《あえ》いでいる年には商売抜きに安値で取り引きすることもあった。
それでも仲間たちには相応の分け前を払う。出稼ぎまでして家族を養わねばならない彼らに負担をかけたくないからだ。
そのために、親父は自分の取り分を減らすことになる。おかげで長《おさ》という割りには、俺の一家はあまり裕福じゃあなかった。
お袋はやりくりに苦労しただろう。が、こちらも楽天的な性格で、親父の商売のやり方にはほとんど口を挟まなかった。調子に乗り過ぎた時にたまに釘を刺す程度で、どちらも情に脆《もろ》い似た者同士だった。
ただ、そんな商人だからこそ、どの土地でも俺たちの隊商は歓迎された。特産の品を売りに来る連中も、取って置きの上質品は他の商人に卸《おろ》さずに親父のために残しておいてくれる。夜になれば酒や食い物を持った馴染みの客が集まってきて、その一年の旅の話を肴《さかな》にちょっとした宴《うたげ》が催《もよお》された。
仲間たちも皆親父を慕《した》っていた。もっと商売が上手い長につけは分け前も増えただろうが、それ以上にどこに行っても愛されるこの隊商が彼らの誇りだった。それに取り分の件もちゃんと判っていて、皆が親父には内緒で分け前の一部をお袋に預けて帰っていった。
そんな親父やお袋が、俺は大好きだった。幸い隊商の旅も苦にならなかった。月光の下で車座になって焚火《たきび》を囲み、脂を滴《したた》らせて焼ける肉を囓《かじ》りながら酒を酌《く》み交わす。そうして終わる一日が幸せだった。
しかし親父は、俺に跡を継がせる気はなかった。
餓鬼《ガキ》の頃から、俺は普通の子供とはちょっと違っていたらしい。
まず、体力がずば抜けていた。大の大人でも音をあげる強行軍の日も、へばることなく隊商とともに歩を進めることができた。まだ十にも満たぬ頃にだ。
また、身に危険が迫ると勘が異様に鋭くなった。熟睡していても、背筋にぞくりときて飛び起きる。交易品を狙った夜盗や、オーク、コボルドなどの亜人種《デミ・ヒューマン》の襲撃を察知し、隊商を危機から救ったことも一度や二度ではなかった。赤子の頃には、俺がひどくむずがるので隊を止めたところ、少し先で突然山崩れが起こっている。そのまま進んでいれば巻き込まれていたらしかった。
そして何より、見覚えのない情景が脳裏に浮かぶことがあった。
旱魃《かんばつ》に襲われ、窮乏《きゅうぼう》する山間の貧しい村。
巨大な城塞都市の中心部に聳《そび》え立つ天守閣。
見も知らぬ、しかし懐かしい思いに駆られる仲間たち。紫煙と喧騒《けんそう》に満たされた酒場で友と傾ける酒杯の質感までもが、はっきりと蘇ってくる。
そして大規模な地下迷宮と、そこにひしめく魔物たちとの戦い――。
これらの、己のものではあり得ない体験が、記憶の底からふと浮かび上がってくるのだ。これは次第に鳴りを潜め、十二になる頃には完全に治まったが幼児期にはしょっちゅうだった。
この不思議な記憶が蘇る度《たび》に、俺は欠かさず両親や隊商の仲間たちに話した。現実的な商人たちは、俺の年齢でこれだけ詳細な作り話ができるなら、将来はどこぞの王室付きの学者になれるとはやし立てた。が、親父とお袋は何か思い当たる節があったのか、真剣に俺の話に耳を傾けていた。
やがて俺が十になった祝いの夜、親父とお袋は俺が生まれた時のことを初めて話してくれた。
鬱蒼《うっそう》と繁った広大な森の奥深くにあるエルフの里で俺は生まれた。
隊商はたまたま道に迷い、他の種族とはほとんど交流のないこの里に辿《たど》り着いたのだった。余所者《よそもの》を嫌うエルフたちは当初隊商の滞在を好ましく思わなかったようだが、お袋が産気《さんけ》づいているのを知り親切に世話をしてくれた。
産婆を務めたのは里で唯一の治療師《ヒーラー》であり、精霊信仰の残るこの一族の祈祷師《シャーマン》も兼ねる初老の女エルフだった。
エルフは俺を取り上げるなり、感嘆のため息を漏らしたという。そして産湯《うぶゆ》もそこそこに俺を祈祷《きとう》所に連れて行き、森の精に祝福の祈りを捧げた。
心配してついてきた親父に生まれたでの俺を抱かせ、エルフは静かに語って聞かせた。
「この子はふたつの魂を所有しています。自分自身のものと、そしてもうひとつは恐らく貴方の一族の祖先が転生したもの。幼いうちは時に古い魂が表面に出て来ることもあるでしょうが、新しい魂が覚醒《かくせい》するにつれてひとつに融合し、より強い意志を持った魂となるでしょう」
何故自分の息子に御先祖が、と動揺する親父に、諭《さと》すようにエルフは続けた。
「これは偶然に起きたのでも、無意味なことでもありません。それがどのような運命を紡《つむ》ぐのか、私たちに知る術《すべ》はありませんが、少なくとも古い魂がこの子に何らかの力を与えるであろうことは明確に示されています。その力がいずれ、この子の行く末に大きく関わってくるでしょう」
そうしてエルフは、ジヴラシアという一風変わった名前をつけてくれた。俺を抱き上げた瞬間に、そのような名が閃《ひらめ》いたらしい。受け継いだもうひとつの魂が、かつて近い名を持っていたのかも知れない。
不吉なものではないにせよ、息子が背負った奇妙な運命に、親父もお袋も最初は不安を抱かずにはいられなかった。が、赤子の俺にこれといって変わったところはなく、どちらも呑気《のんき》な質《たち》だったことも手伝って、歯が生えてくるころにはふたりとも御先祖の魂の話などすっかり気にならなくなっていた。
加えて、たとえ尻尾が生えてきても息子は息子だ。これがどこかに定住しているのなら気味悪がられて追い出される恐れもあるが、常に旅路にある自分たちは別に困ることなどない。角が生えたら帽子を被《かぶ》せりゃいい。それがばれたら逃げ出せばいいのだ、などと開き直ってもいた。
そしてしまいには、エルフが見当外れな予言をしたのだと決めつけて、この話を綺麗さっぱり忘れ去ってしまった。
しかし、俺が言葉を覚え、例の不思議な記憶の情景を話すのを聞き、親父はエルフの祈祷師《シャーマン》の言葉が真実だったことを悟った。
俺の家系が旅商人となったのは、親父の先代、つまり俺の祖父の代からだった。それ以前は一定の土地に住み、猟師や放牧を営《いとな》んでいた。
親父はその村を、爺さんに連れられて一度だけ訪れたことがあった。
すでに様々な国を旅し、華《はな》やかな都や、美しい自然に囲まれた村々を目にしてきた青年時代の親父にとって、痩《や》せた山肌にへばりついたその寒村はいかにもつまらなそうな場所に思えた。自分の父がこの土地を捨てた気持ちも判るような気がした。
ただ、初めて見る筈のその村の風景が、何故か無性に懐かしく感じられた。そこに生きてきた先祖の記憶が、自分の血の中にも受け継がれていると思った。
それゆえに、村の風景は親父の脳裏に焼き付いていた。
そして、俺の語る記憶の中の村は、親父の記憶と寸分|違《たが》わず合致していたのだ。
以来、親父は長らく忘れていた、エルフの予言について真剣に考え始めた。
確かに、息子は普通の子供にはない力を持っている。エルフはそれが御先祖の魂に与えられたものだと言い、またそれは偶然ではなく、何らかの意味が込められているとも言った。
だとすれば、自分の跡を継いで旅商人になるための力ではないだろう。もし無理に隊商の長《おさ》を継がせたなら、息子の運命を悪い方向にねじ曲げることになるかも知れない。
考えた末、親父は俺の中に転生した御先祖が誰であるのかを探ることにした。断片的に蘇る過去の時代の記憶に任意深く耳を傾け、祖父から伝え聞いた御先祖たちの逸話と照らし合わせる。やがて、ひとりの人物が浮かび上がってきた。
御先祖の中には冒険者として、あのワードナの迷宮に挑んだ者もあったと親父は爺さんから聞かされたことがあった。それも当時ですら滅多にいなかった忍者で、最後にはワードナを討ち果たした強者《つわもの》だった――とも。
爺さんには大袈裟にものを言う癖があったらしく、親父も真に受けてはいなかったのだが、俺が思い出す情景の中には明らかにその話を裏付けるものがあった。天守閣を持つ城塞都市など狂王が健在だった時代のトレボー城塞以外は考え難《にく》かったし、迷宮と魔物の記憶は少なくともその御先祖が冒険者でなければ得ることはできない。
冒険者の魂を受け継いでいる以上、息子もまた冒険者となるべきなのか。
そこまでは親父にも判断がつかなかった。だが、それが天の意志によるものなら、息子は自然にその運命へと導かれるだろう――そう考え、そして商人の跡継ぎとして育てることだけはしなかった。自分が息子の運命に関われるのはそこまでだと、親父は心に決めていた。
だからおまえは好きなように生きろ、と親父は俺に言った。それでも旅商人を選ぶならそれも運命だろうし、もし他の人生を歩みたければ自分たち両親に気兼ねするな、と。
十の子供がそんな話をされたところで正確に理解できるわけもなく、その時の俺はただ、自分は親父のような商人になると言い張っていた。その後、俺に御先祖の記憶が蘇ることは稀《まれ》になり、親父とお袋もこの夜の話をそれきり持ち出そうとはしなかった。
だが、俺はその日以来、ふと気がつくと商人じゃなければ何をして生きていくだろうかと考えるようになっていた。
そして俺が十二になった年、その決断を下さねばならぬ時が訪れた。
それが運命の一環として意味付けられた出来事だったとしたら、何と呪わしい運命を俺は背負っていたのだろう! その危険に限って、俺の勘は全く働かなかったのだ。
隊商が立ち寄った村には、恐ろしい疫病が蔓延《まんえん》していた。薬が効かず、僧侶の治療呪文も気休めにしかならぬ致死の病魔は、到着したばかりの隊商にも容赦なく襲いかかった。仲間は次々と倒れ、その看護に追われた親父とお袋もすぐに発病した。
発病すると高い熱が続き、胃は食べ物を一切受け付けなくなる。病人はあっという間に体力を奪われ、例外なく数日で息を引き取った。ふたりがともに一週間も持ち堪《こた》えたのは、奇跡としか言い様《よう》がなかった。
死の間際、親父は息も絶え絶えに、トレボーの城塞都市に行けと言った。
そこではトレボーの死後も軍の練兵場が冒険者の訓練場として開放されており、戦士、盗賊、僧侶、魔術師に加えてビショップ、侍、そしてロードに忍者と、冒険者の八クラスすべての基礎訓練が受けられるという。特に忍者の修行を指導してくれる場所は極めて稀《まれ》だった。
もし俺が冒険者になるつもりなら、そこで本当に忍者の素養を受け継いでいるのかどうか見定めてもらえと、そう言い残して親父は目を閉じた。その時、俺の手を握り締めていたお袋の手からも力が抜けた。俺の両親は示し合わせたように、ともに永遠の眠りについたのだった。
生き残った何人かの仲間は、一緒に自分たちの家族の村に来ないかと誘ってくれた。将来親父の跡を継ぐつもりなら、これから商売を覚える手助けをしてくれるとも。
だが俺は親父の遺言通り、トレボー城塞に行ってみる決意を固めていた。
結局親父は、最期の瞬間まで俺の運命とやらを気にかけていたのだろう。俺自身がそれを見定めなくては、両親の魂に申し訳が立たない。
それにいつしか、冒険者としての人生に強く魅《ひ》かれる自分に気づいてもいた。
非人間的な戦闘能力を持つと言われる忍者。常人では基礎修行もやりおおせぬその職業《クラス》に就《つ》ける素質が俺にあるのか、試してみようと艮った。
力が欲しかった。何者にも負けぬ――そして運命をもねじ伏せるだけの力が。
仲間に別れを告げ、親父の馬車を売り払って得たいくばくかの路銀を持って、十二の俺はひとり狂王の城塞都市へと旅立った。
長旅の果てに初めて訪れたトレボー城塞は、狂君主の象徴だった天守閣《キングズタワー》が取り払われていたこと以外、やはりあの記憶の通りだった。
トレボーの死後、地下迷宮が封印されてすでに七十年以上が経っていたが、ワードナ討伐《とうばつ》以来この都は伝統的に冒険者が集まる場所になっており、あの見知らぬ友と憩いの時を過ごした酒場――ギルガメッシュの酒場は当時も営業を続けていた。俺は最初にそこを訪ね、そして近頃ではこの都でも忍者はめっきり見かけなくなったと聞いた。大した戦乱も起こらぬ太平の時代に、わざわざ過酷な訓練を受けてまで忍者に転職しようとする冒険者がいないというのだ。
それでも、俺の決意は変わらなかった。
ほとんど訪れる者がなくなった転職の館で、年老いたホビットの二ンジャマスターは半ば隠遁《いんとん》生活を送っていた。現役をとうに退《しりぞ》き、残りの人生を後進の育成に捧げてきたマスターにとって、その暮らしは苦渋《くじゅう》に満ちたものだった。自分はもう十年と生きられまい。その前に培《つちか》ってきた技術を誰かに伝えたいが、それなりの心技体を備えた者でなければ鍛錬すらおぼつかない。それ以前に希望者がないのだ。
――自分はもう、この世では用のない存在なのか。こうしてここでひっそりと、忍者の技を埋もれさせたまま朽《く》ち果てることになるのか。
そう諦めかけていたところに、忍者になりたいという者が十数年ぶりに訪ねてきたのだ。知らせを受けて、道場に通された俺の前に現れたこンジャマスターは隠しようがないほど嬉々としていた。
それだけに目の前に座った、多少背が高くて筋肉もついているが、どう見てもまだ十二、三の子供がその希望者だと知った時の落胆はひどいものだった。その場にへたりこんでしまったホビットは、一息に二十も老《ふ》け込んだように見えた。からかうなど俺を罵《ののし》り、気概を持たぬ昨今の冒険者を謗《そし》り、そして生き甲斐を失った己の人生を呪った。
だが、俺が辛抱強く親父から聞いた話を聞かせるうちに、マスターの目に鋭い光が蘇った。直接筋肉に触れて発達の度合いを調べ、一分間に一度しか息を吸わぬ奇妙な呼吸法を行わせ、その他にも俺の様々な能力をテストしながら、次第にマスターの顔色は変わり始めた。
その時点では、確かに俺は忍者の鍛錬に耐えるだけの能力を持っていなかった。
転職の道場では、クラスチェンジに必要な能力さえ満たしていればわずか一日でその職業《クラス》への鍛錬を終えることができる。しかし訓練を受ける者にとっては、その一日は一日ではない。
道場には特殊な魔法の力場があり、そのフィールド内は現実の時の流れとは異なる時間に支配されている。そこでは時間の進み方が極端に遅くなり、一日が数カ月にも匹敵する影響を精神と肉体に及ぼすのだ。
力場の中での鍛錬は、通常の数十倍から百倍近い効果が上がる。ただ一度の突きは正拳百本を繰り出したに等しい刺激を筋肉に与え、それが魔法の学習であれば百倍の時間をかけて理解を深めることになる。
だが、現実には一日であっても、訓練を受ける者の時間感覚は力場の干渉を受け、その一日が無限に続くかの如くに感じられる。ゆえに、心技体ともに転職の資格を満たす者でなければ、力場内での過酷な修練と長時間の緊張には到底耐えられない。転職への厳しい審査が行われるのはこのためだった。
また、力場での高密度の鍛錬は、それまでに身に染み着いた他の職業《クラス》の癖を根本から叩き直す効果もあった。結果として転職を遂《と》げた者は例外なく、それまでに鍛え上げてきた魔力や知力、敏捷性や運気に至るまでが著しく低下してしまう。加えて急激な肉体の変化は五年前後の老化をもたらすのだが、それでも力場の外で長期に渡る訓練を行うよりはましだった。十年、あるいは癖が抜けない限り一生かけても転職が叶わぬこともあるからだ。
そして忍者は転職のために、八の職業《クラス》の中で最も高い能力を要求されるクラスだった。冒険者として心身を鍛えたわけではなく、しかもまだ十二の俺にある程度の素質があったところで、力場での訓練に耐えられる道理もない。
しかし、ニンジャマスターが見立てた限り、俺には将来的に常人を遥かに越えるであろう能力の萌芽《ほうが》が窺《うかが》えた。力場での鍛錬は無理でも、時間をかけた修行なら精神力次第で可能かも知れなかった。
しかも、他の職業《クラス》のスタイルには染まっていない。
もし基礎修行をやり遂げることができれば、その時は転職したてで力を失った忍者とは比較にならぬ、高い能力を秘めた忍者が誕生する。
普通なら、あり得ないことだった。俺の魂と融合した御先祖の魂は、本当に忍者の資質を与えてくれていたのだ。
この時、ニンジャマスターは心に決めた。俺を忍者として育て上げることに残りの人生をすべて費やそうと。それが己の技を後継者に伝える最後の機会だと老いた肉体が告げていた。
マスターはその日のうちに城塞の領主に暇乞《いとまご》いをし、終生の暮らしが保証された訓練場での仕官生活と訣別した。冒険者はおろか、軍属すら転職を望まなくなった忍者の指導者を引き留める理由は領主にもなかった。
そして俺たちは城塞都市を後にし、人里離れた深い山に篭《こも》った。俺とマスターの、基礎修行に明け暮れる日々が始まった。
修行は想像を絶する凄まじさだった。日が昇る前に起き、食事を摂《と》る以外は日没まで休憩なしに訓練が続く。
山中を駆け、川に潜る。体術を養い、様々な武器の扱いを学ぶ。一日はあっと言う間に暮れた。疲れで泥のように眠り、目が覚めれば再び訓練が始まった。
躰《からだ》がついていけるようになると、さらに過酷な目標が用意される。二ンジャマスターは容赦なく厳しく、楽にこなせる日など一日たりともなかった。荒行に命を落としかけたことも何度もあった。それでも逃げ出さなかったのは、何故だったのか。
カへの渇望だったのか。御先祖の魂がそうさせたのか。
あえて親父と同じ道を選ばなかった自分に対する意地だったのかも知れない。
それとも、修行に耐えたことすら運命の一部だったのか――。
七年の間、修行は続いた。俺は十九になり、ホビットの命の炎は尽きかけていた。寿命だった。
俺が最後の訓練を終え、格闘の型を一通り演じると、マスターは山に篭《こも》って以来初めての笑顔をみせた。出会った時より一回り小柄になった躰は、晩秋の夕暮れの中に溶け込んでいきそうだった。
「よく耐えてくれたな。これでおまえは立派な忍者よ」
夕闇は急速に濃度を増し、老人を包み隠してゆく。
「俺が持っていた技は余さずその躰に受け継がれた」
濃紺の世界に、嬉しそうな声だけが響く。風が木立の影を吹き抜け、さあっと枯葉を舞い上がらせた。「俺は昔、|西風の称号《マスター・ウエストウィンド》を受けた忍者だった。この夕暮れに吹く風のように、冷たく迅《はや》い疾風を思わせる、とな。殺しの技を称する呼び名よ」
マスターの姿はもう全く見えなかった。その声すら、四方から聴こえてくるように思えてくる。
「昔はこの呼称が自慢だったものよ。だが、いつしか急に虚《むな》しくなってな。身を引き、ニンジャマスターとして領主に仕えた――」
声は一度途切れ、続いた。「おまえには礼を言わにゃならん。最後の最後に、その虚無を満たすだけのものを遺《のこ》せたのだからなあ。おまえがおらなんだら、この充実した七年もなく、寿命も今日まで持たなかっただろうよ」
俺は不安に駆られ、マスターを呼んだ。気配を探った。どこにもなかった。
「ジヴよ。自由な風になれ。俺は殺すだけの風にしかなれなかった。おまえは己次第で活《い》かす風にもなれる。決して縛られぬ、運命を切り開ける風になれ――」
声は次第に遠ざかり、やがて消えた。
それきり、マスターは姿を現さなかった。恐らく、老いさらばえた屍《しかばね》を俺に見せたくなかったのだろう。
俺は山を下りた。トレボー城塞に戻り、冒険のパーティを組む仲間を探した。
だが、七年の間に冒険者はますます減少していた。さらに、冒険者を名乗っていても冒険の旅に出ようという気はさらさらない、ごろつきのような連中が大半を占めていた。
平穏な時代に、冒険者は不要だった。戦士の剣は錆《さ》び、その躰《からだ》は鎧の重さを支えられぬほど鈍《なま》っていた。魔術師は恋占いで生計を立て、呪文を忘れる有り様だった。
ギルガメッシュの酒場には、ひとりとして冒険に参加しようとする者はなかった。俺は酒浸りの日々を送り、皮肉な運命を呪った。
気がつくと、天変地異が始まっていた。
やがて遠くリルガミン王国から、宝珠の探索に参加する冒険者を募《つの》る使者がやってきた。それこそ、俺が待ち望んでいたものだった。
そして俺は、聖都リルガミンに旅立った。
己の運命を見定めるために。
忍者となった意味を探るために。
平穏の中に感じた空虚を、満たすために――。
「……シア、聞こえないのか! シヴラシア!」
マイノスの切迫した叫びで、俺はようやく我に帰った。
視界には薄く霧がかかっていた。雲が降りてきている。
そこは相変わらず、梯子山《スケイル》の壁面だった。千メートル近い登攀《とうはん》行程の、ほぼ三分の一を残す辺りだろうか。
俺が動きを止めたのを見て、マイノスは安堵《あんど》した声で続けた。「このルートは無理だ! 一度戻ろう」
無理? 何を言ってやがる。俺はまだ攀《のぼ》れる。そう思いマイノスを見下ろして、俺はその意味を理解した。
マイノスは、思っていたよりもずっと下にいた。
俺と奴とを結ぶ命綱が、わずかな弛《ゆる》みを残しただけで伸びきっている。マイノスが肩に巻いていたロープも尽きていた。
これ以上攀ろうとすれば、逆に命綱に引かれてバランスを失うところだった。しかも最後に中間確保の金具を打ちつけた場所はかなり下方になっている。落下していれば、支点となる金具はその衝撃を支えきれずに壁面から外れ、マイノスごと地上まで墜落していたかも知れなかった。
攀り過ぎていたのだ。もっと低い地点で足場を見つけ、マイノスや他の仲間を引き上げなければならなかった。
そしてこのルートに、パーティを支えられるだけの足場は存在しなかった。
俺はそれにもっと早く気づくべきだった。いや、気づかないほうがおかしいのだ。
どうやら俺は追憶に浸り込んだまま、ひたすら機械的に攀《のぼ》り続けていたらしい。無意識にこの壁を攀れるほどに登攀《とうはん》技術が向上したとも言えるが、極めて危険な状態だったことに変わりはない。精神集中がうまくいっていない証拠だった。
風に舞う|嘆きの精《バンシー》の、緑の姿が脳裏にちらつく。
そして、はっきりと俺に向けられた青白い指。生命の終焉《しゅうえん》を憐《あわ》れむ、風の嘆き――。
迫り乗る死の兆《きざ》しが、俺に半生を思い起こさせたのか。
その追想自体がもたらす死の危険をたった今認識し、俺は壁面に全神経を集中してゆっくりと降り始めた。マイノスの待機する位置まで戻り、右なり左なり、ルートに足場がある方向に横移動《トラバース》しなければならない。
「あの、|嘆きの精《バンシー》の予告が気になるのか」
俺が降りてくるなり、マイノスは他の連中には聴こえないような抑えた声で言った。
「いや」
俺は嘘を吐《つ》いた。「単調な岩壁ばっかりでよ、調子に乗って攀っちまった。|嘆きの精《バンシー》のことなんざ、おまえに言われる今の今まで忘れちまってたぜ」
だが、俺の声|音《ね》は不自然に強張《こわば》っていた。誰が聞いてもそれが虚勢だと判るほどに。
あの|嘆きの精《バンシー》が指差したのは俺だという確信は、まだパーティの誰にも打ち明けていなかった。
梯子山《スケイル》を攀れるのは俺だけしかいない。その俺が登攀行の半ばで死ぬことになれば、他の連中は高度六百メートルを越える壁面にしがみついたまま、進むことも引き返すこともできなくなる。
|嘆きの精《バンシー》の予告が絶対のものとは思わない。俺がくたばるにしても登攀途中ではなく、|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》から迷宮に侵入した後ということもある。
しかし、この確信を告げれば仲間たちは少なからず動揺するだろう。漠然とした死の予告が、一層現実味を帯びてのしかかる筈だ。その心の乱れが不測の事故を生む可能性もある。この確信を打ち明けることはできなかった。
「――ジヴラシア」
俺の目を覗き込むように見つめ、ロープを肩に巻き直しながらマイノスは言葉を継いだ。「あの|嘆きの精《バンシー》が貴様に、最上層に向かう我々の死を告げたことは知っている。そしてエレインと――」
そこで奥歯を噛《か》みしめ、弟にも等しかったエルフを無惨に同化した妖獣《ゼノ》への殺意を懸命に押し殺す。「アルタリウスがあんな死に方をした。生還できたのは私だけで、ガッシュやフレイ、ボルフォフの三人の生死も不明だ。だが、だからといって今度もあの不吉な予兆が的中するとは限らん」
「判ってるって。気にしちゃいねえよ」
「今にして思えば、貴様はよくよく心を隠せない男なのだな」
俺に構わずマイノスは続けた。「一昨日まではお互い睨《にら》み合うばかりで、そんなことすら判らなかったがな。それとも、多少は私に心を許すようになったのか」
「馬鹿言うんじゃねえ。誰がてめえに許すかってんだ」
俺は否定しつつも、確かにそうなのかも知れないと、今さらながら己の感情の変化に驚いていた。そしてその思いは案の定、俺の表情に露《あらわ》になっていたらしい。
マイノスは微笑み、再び真顔になった。
「絶対と思われる死すら、時に生に転ずる。仲間に救われることもあるだろうし、天の配剤と言うべき奇跡もある。しかし何よりも自分自身が決して諦《あきら》めず、己を信じなくては死中に活《かつ》は見い出せん」
「――」
「私はそう信じている。あんな|嘆きの精《バンシー》などに惑わされては、それこそ何の力も持たぬ死の予告を自ら現実とするようなものだ」
断言するマイノスの態度には、それが虚勢ではないと明らかに判るだけの力強さがあった。
確かにマイノスの言う通りだった。予告に幻惑され、己自身が死を招き寄せる羽目になっては目も当てられない。
だが、そう判ってはいても、一度生じた不吉な確信を拭《ぬぐ》い去ることはできなかった。
「――あの凹《くぼ》みを覚えているか。登攀《とうはん》地点の目印にした、この真下の大地に穿《うが》たれた穴を」
右方向への横移動《トラバース》の準備を進めながら、唐突にマイノスは言った。
言われて、俺はその凹みのことを思い出した。掘り返したものではなく、強い圧力を受けて地面がへこんだような形状の、直径三メートル、深さ一メートルばかりの穴だ。
「ああ、良く覚えてるぜ。おかしな穴だったしな」
何故そんなことを言い出したのかと訝《いぷか》りながら俺は応《こた》えた。「おまえが目印に掘ったってわけじゃねえよな。あの怪我で、腹にゃ宝珠を呑《の》んだまま迷宮から出てきて、とてもそんな真似は――」
そこまで言って、ふと俺はある疑問に思い当たった。
マイノスは迷宮から脱出した。だが、どこから? すでに出口は落盤で塞《ふさ》がれていた筈だし、反する戒律の者を梯子山《スケイル》の外に転移《マロール》させる善悪の特殊結界も消えていた。だからこそ、善《グッド》のマイノスが悪《イビル》の冒険者しか立ち入れない第五層に入り、その一角を占める|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》から迷宮への侵入が可能だと知ることができたのだ。
考えて、答はたったひとつしか存在しないと気づいた。
侵入口がそこしかないのなら、脱出口もその場所――今俺たちが目指している、地上から九百メートルの高さにある垂壁面でしかあり得ないのだ。
「掘ったのではないが、あの穴を造ったのは私ということになるだろうな」
そのマイノスの言葉が、俺の推論を裏付ける。が、まさか――。
「登攀《とうはん》の装備どころか、ロープすら持たぬ私がこの垂壁を降りられるわけもあるまい。貴様の考えている通り、墜落したのだ。あの高みからな」
言って、マイノスは雲に白く隠された山頂付近を見上げた。その雲が霧となって、次第に俺たちの高度までも包み込もうとしている。
「待てよ。それじゃあ何でおまえは生きて王宮まで辿《たど》り着いたんだ? 地面があれだけへこむ衝撃を受けたら、蘇生なんざできないほど全身がぐずぐずに砕ける筈だぜ」
他に出口はないと判っていながらも、俺はその話を否定せずにはいられなかった。本当にその高さから墜落したとしたら、とう足掻《あが》いても助かりっこないのだ。助かったとしたらそれはまさしく奇跡だった。
「奇跡は、起こったのだ」
その瞬間を思い起こすようにマイノスは目を閉じた。
「私の体内には神世《かみよ》から受け継がれ、龍神ル‘ケブレスに護《まも》られた神秘の宝珠があった。恐らくはその神器を保護する魔力が働いたのだろう。大地に激突する瞬間、私の躰《からだ》は球形の魔法障壁に包まれていた」
「――」
「しかしその障壁だけでは、宝珠は護られても私の肉体までは持たなかったかも知れん。足を滑《すべ》らせて落下する間、私はひたすら空壁《バマツ》の呪文を唱え続けたのだ」
空壁《バマツ》とは僧侶系第三レベルに属し、パーティの周囲に短時間ながら強力な大気の壁を生成する呪文だ。これを三回も重ねて唱えれば、無防備の者が完全武装の戦士と同等の装甲度を有するだけの強圧空壁に包まれることになる。このレベルには傷を癒《いや》す呪文はないため、重傷を負ったマイノスもマジックポイントを使い果たしてはいなかったらしい。
「落下の間、奇妙な高揚感が私を襲ってきた。その甘美な感覚に身を委《ゆだ》ね、空壁《バマツ》を唱えていなかったら――私は間違いなく死んでいただろう。だが、私は耐えた。死神の誘いをはねのけ、生の可能性を信じたのだ」
マイノスは目を開いた。そして、これまでになく強い口調で言った。「いいな、ジヴラ……ジヴ。諦《あきら》めるんじゃない。闘うんだ」
初めて俺をジヴと呼び、マイノスは照れたように下の足場に待つ他の仲間たちに準備が整ったことを伝えた。
この男は気づいていたのだ。|嘆きの精《バンシー》が死を宣告したのは俺だったと。
――諦めるな、か。
「諦めねえよ」
最期の瞬間まで、マイノスの励ましを忘れるまい。
そう誓い、俺はそう呟《つぶや》いた。
最初の横移動《トラバース》で、それがどれだけ厄介なものであるのかを俺たちは思い知った。
通常、壁面での横移動は足場となる岩棚が帯状に伸びている地点で行うべきだと、パルパは俺に語っている。上への登攀《とうはん》に比べてバランスを崩しやすく足のホールドだけでも確保できないと墜落する可能性が大きいからだ。
加えて、命綱は横方向に伸びる。落下すればロープが伸びている長さだけ墜ちることになるうえに、確保者は横方向、悪くすれば下に引かれる力をそのまま支えなければならない。当然、ふたりとも墜落する危険が高くなる。
確保者が支えきったとしても、横方向からの落下は左右への大きな振子運動を伴う。幾ら強靭《きょうじん》なロープでも、突出した岩に擦《こす》りつけられれば一瞬に切断されるだろう。命綱が切れれば、あとは地上まで墜落を妨《さまた》げる術《すぺ》はない。
だが、この梯子山《スケイル》の垂壁におあつらえ向きの岩棚帯が都合良く存在しているわけもなかった。それにあらかじめ登攀《とうはん》ルートが研究されていれば計画的な横移動《トラバース》も可能だが、そもそもこの山を攀《のぼ》った者などいなかったのだから計画の立てようがないのだ。
そのルートが登攣不可能になって初めて、横方向への移動を検討する――つまり俺たちは、あらゆる状況下で横移動《トラバース》を行える必要があった。
それでも、俺の登攀技術はここまで攀る間に数段進歩していた。もっと下の地点で横移動する羽目になっていたら判らなかったが、その時点ではこまめに確保の金具を打ち込んでいけば、俺自身は問題なく壁面を横断できる域にまで達していたのだ。
問題は、俺以外の連中だった。
これまではほぼ垂直に攀り続けていたので、後続はまずある程度自力でロープを登れるマイノスが俺に補助されながら先行し、残る四人はふたりがかりで引っ張り上げていけば良かった。大変な労力を必要とする作業だが、パーティの前衛を務める俺とマイノスの体力ならばそう困難ではない。
しかし横移動《トラバース》となると、メンバーそれぞれが垂壁を自分で伝わねばならない。俺が水平に張ったロープで躰《からだ》を支えられるだけ負担は軽減するものの、バランスを保つ技術が身についていなければ移動は遅々として進むまい。特にディーとベイキには酷な話だった。
雲に遮《さえぎ》られて見えはしないが、太陽は刻一刻と西の空に落ち始めている。日が暮れてしまえば、俺といえどももはや攀り続けることはできない。
天候も悪化しつつあった。彼方の雷雲が少しずつ近づいてきているらしい。もし日没までに迷宮に侵入できず、夜の壁面で嵐に晒《さら》されたとしたら、とても生きて夜明けを迎えることはできまい。時間に猶予《ゆうよ》はなかった。
確かに、アドリアンの浮遊《リトフェイト》の呪文を使えば簡単に横移動《トラバース》できる。本来の用途はパーティを地表から十数センチ反|發《ばつ》させるだけのもので、高度の維持に用いた場合効果は二分ほどしか持続しないが、それでも数十メートルの水平移動ならば充分に役割を果たすのだ。
ただし、アドリアンの呪文が残り少なかった。節約しながら攀《のぼ》ってはきたものの、すでに六回はこの魔法を唱えている。魔術師系第四レベルの呪文残数はわずかに三。先を考えると、ここで使用すべきではない。
それでも結局、浮遊《リトフェイト》は使わざるを得なくなった。
俺の後に続いたマイノスとザザですら、二十メートル前後の横移動《トラバース》にてこずってしまったのだ。初めてにしては上出来だったが、それでも予想以上に時間を要した。
これが腕力の乏《とぼ》しいディー、さらに荒事の経験すらないベイキではどれだけの時を費やすことになるか――その判断から、ふたりをアドリアンとともに浮遊《リトフェイト》で移動させたのだった。
しかし次に横移動《トラバース》の必要に迫られた時、浮遊《リトフェイト》を使うことはできない。侵入口までのルートが確定するまでは、何があってもこの呪文を温存しておかなければならなかった。
叶うなら、その必要なしに登攀《とうはん》を終えたいものだった。が、地上六百メートルの高度まで横移動《トラバース》をせずに済んだだけでも幸運に過ぎた。
標高七百メートルを越した付近で、ルートは再び途切れた――。
俺たちは、雲の中にいた。
気温が急激に下がりつつあった。強くはないものの、水気を含んだ冷たい風が容赦なく体温を奪っていく。
それでも、この風はむしろありがたかった。壁面近くの霧が吹き散らされ、登攀時の視界を確保してくれている。
左上方の壁面を見上げ、パーティを支えられるだけの岩棚の連続を確かめる俺の傍《かたわ》らにマイノスが立った。
「本気でやるつもりか」
「他に手はねえだろうよ」
俺は視線を、ザザの快癒《マディ》で活力を注ぎ込まれている最中のディーに向けた。口を利く元気もなく、血の気が引いて蒼白だった貌《かお》に生気が戻ってくる。
「ディーは相当参ってる。元々エルフの魔術師ってのは体力のあるほうじゃねえし、吹き曝《さら》しの壁面でこれだけ冷えてくるとな。この快癒《マディ》でしばらくは回復するだろうが、横移動《トラバース》なんざやらせたらまたへたばっちまうだろうよ」
「それは判るが……」
「あのふたりは女でも軽い部類だろ。何とかなる」
俺はマイノスを見た。「それよりも時間が惜しい。おまえから早いところ移動しちまってくれ」
「――よし、任せよう。貴様以外にはできん仕事だ。頼んだぞ」
言って、マイノスは左への横移動《トラバース》を始めた。
ロープはすでに張ってある。俺は一度隣の足場まで横断し、再びこの岩棚まで戻ってきていた。
何故なら、ディーとベイキの横移動《トラバース》に俺が必要となるからだ。
浮遊《リトフェイト》の呪文を使わぬ代わりに、俺がふたりを背負って垂壁を横断するのだ。他人の体重を支えるとなると大事だが、このふたりに自分で行わせるより確かだったし、大幅な時間短縮にもなる。ロープがあれば墜《お》ちる心配もほとんどなかった。
前回で慣れたのか、マイノスは思ったより滞《とどこお》りなく移動先の岩棚に辿《たど》り着いた。腕の立つ前衛の例に漏れず、この男の運動神経も並ではない。
「ベイキ、次は俺たちだ。準備はいいな」
「はい!」
小気味の良い返事とともに、固定用のロープを持ってベイキが飛んできた。
「俺の首に両手を回して負ぶされ」
腰を落とした俺の背にベイキの躰《からだ》が乗る。すでにベイキに結び付けられているロープを、俺は厳重にベルトの金具に固定した。
「あまり良い格好じゃねえが、我慢しな。向こうまで、ちょっとの辛抱だ」
「ええ、平気です」
肩越しに振り向いた俺の顔のすぐ後ろでベイキが応《こた》える。面持ちに緊張は隠せないが、怯《おび》えの色はない。
「じゃあ、行くぜ」
俺は立ち上がった。ベイキの体重が肩とベルトにかかるが、それほど苦にはなりそうにない。
ベルトの金具にはさらに二本の短いロープが結び付けられ、その先端にはそれぞれ環状のフックが固定してある。これは輪の一部がバネ仕掛けで開閉し、片手で他のロープに着脱できるようになっている。パルパの部族が工夫に工夫を重ねて完成させた代物だ。
そのひとつを横に張ったロープに引っ掛け、命綱として使う。二本ついているのは、横断ロープの途中に幾つも打ち込んである確保金具をまたぐためで、一瞬たりとも命綱を外した状態になることを避ける知恵だった。パルパから伝授された技術には、単純ながら危険を大幅に軽減する工夫が無数に盛り込まれていた。
ロープの張りを確かめ、フックをかけて、俺はマイノスに移動開始の合図を送った。今はマイノスが命綱を支えているわけではないのだが、これはもう一連の流れとして躰《からだ》に馴染んでしまっている。
マイノスは頷《うなず》き、祈るようにこちらを見つめていた。
マイノスは俺が死の予告を受けたことに気づいている。奴は|嘆きの精《バンシー》の宣告など無力だと断言したが、それはあくまで俺を激するためで、マイノス自身も俺への死兆がもたらした不安と闘っている筈だった。
その俺が、己の主君たるベイキを背負って危険な横移動《トラバース》に挑んでいる。もしここで予告が現実として振りかかってくれば、ベイキも死の運命に巻き込まれることになる。本当なら、是《ぜ》が非でも止めなければならない立場にマイノスはいた。それがこの登攀《とうはん》行の妨《さまた》げになろうともだ。
しかし、マイノスは一言も口を挟まなかった。すべてを心の中に隠し、葛藤《かっとう》に立ち向かう道を選んだ。
そこにマイノスの登攀に賭ける執念と、俺への信頼を見た。
応《こた》えねばなるまい。
一度両手を握り締め、俺は横移動《トラバース》にかかった。
一往復して、ホールドの位置はほぼ掴《つか》んでいる。支えるべき重量が増えてもバランスを崩さない自信はあった。
ただし、ベイキを背負ったことで重心が後ろに移動している。慎重に、ゆっくりと歩を進めなければならなかった。
「あれだけ見得《みえ》を切っておきながら、結局足手|縫《まと》いになってしまいましたね」
背後でベイキが恥ずかしげに囁《ささや》いた。「リルガミンの王族として生まれて以来、この数日ほど自分の無力さを痛感し、無知を省みた日々はありませんでした」
「随分としおらしくなっちまったな」
ベイキの素直な物言いに驚きながら、俺は次の手懸かりに腕を伸ばした。「だがよ、ここまでにあんたがお荷物になったことはないぜ」
「でも――」
「今だってそうだ。岩壁を蜘蛛みたいに伝う真似のできる人間がこの世にそうそういてたまるかよ? それにあんたは冒険者でもなかったんだぜ。連れて行くつもりになった時から、この程度は俺の責任だと思ってる」
「――ありがとう、ジヴラシア」
「おいおい、あんたがそんな調子だと落ち着かねえよ。ディーなんざ張り合いがなくなっちまったのか、この寒さにすっかり参っちまってるぜ」
「……」
ペイキが不意に黙り込んだので、俺は動きを止めた。
「どうした?」
「……私が英霊たちの石碑に祈りを捧げていたのを、あなたは隠れて聴いていましたよね」
その問いに俺はどきりとした。あの時英霊たちが起こした奇跡――今もベイキが背負っている聖剣ハースニールの出現――への驚きで忘れてくれたと思っていたのだが、どうやら甘かったらしい。
「いや、思い違いじゃないか?」
ぎこちなく答え、移動を続けようとする俺の顔を、左側から漆黒の瞳が覗き込んだ。
「嘘でしょう。本当は石碑が倒れる随分前から呪い穴の傍《そば》にいましたね」
どんな偽りをも看破してしまいそうな、磨き抜いた水晶を思わせる瞳だった。
ベイキ自身は意識していないのであろう、傲慢《ごうまん》に構えてきた以前の彼女には見られなかった力が、その瞳にはあった。数千年の間受け継がれた王位を守ってきた血脈の威厳が、女王たらんとする幼い気負いが抜けた今、ベイキの中に花開きつつあったのだ。
しかしながら、そこには問い質《ただ》すような強圧的な態度も、俺に対する非難の色もなかった。俺があの場でベイキの告白を――ガッシュへの想いを耳にしたことを確認する、ただそれだけのものだった。
「責めるつもりはありません」
その威厳に気圧《けお》され、取り繕《つくろ》う気が失せた俺にベイキは続けた。「あの後で見張りの兵に聞きました。私が勝手に部屋を抜け出したことを知り、あなたが心配して駆けつけてくれたのだと。感謝しこそすれ、それを責める権利は私にはありません。それに――」
言葉を切り、ベイキは少し顔を赤らめた。
「今ではほっとしているのです。あの告白を聞かれていたお陰で、大破壊《カタストロフィ》までに残された時を正直に生きる決心がついたのですから」
その心情は理解できた。もしあの場に俺が現れなかったとしたら、ベイキはガッシュへの恋心を誰にも知られていないものとして心に秘め続け、この登攀《とうはん》行に参加することなく残りの日々を過こしたかも知れないのだ。俺にその想いを知られたと自覚することで、開き直りにも似た思い切った行動が取れたのだろう。
恋心はそれを隠し続けるほどにベイキの中でさらに強く、熱く緊張を高めていった筈だ。だが、女王としての誇りは常にその内圧を上回る強靭《きょうじん》な障壁を心に張り巡らせてきた。
だからこそ、その障壁に破れが生じた瞬間、抑えつけられてきた恋慕《れんぼ》の情は奔流《ほんりゅう》の如くに激しく迸《ほとばし》る。それがほころび程度の小さな亀裂であったとしてもだ。
恐らくはその激情が、ベイキの庇護《ひご》者たる五賢者の心をも動かしたのだろう。そうでなければあれほどの叡智《えいち》を有する賢者たちが、滅びの時を待つばかりとは言え死出の旅にも等しい梯子山《スケイル》登攀など認めるわけがない。逆に言えば、ベイキを愛してやまぬ彼らを説き伏せるだけの強固な意志を十七の少女に持たせるほど、ガッシュへの想いは心の囲いの中で撓《たわ》めに撓められてきたのだ。
そう思い至ったこの時、俺はベイキの中に秘められた、練達の冒険者と同種の強さを認識した。
常人には持ち得ぬ、その血筋ゆえに極限まで凝縮された感情の激烈な噴出。それは正しく、俺たち冒険者が積み重ねてきた死闘に匹敵する凄まじさであったに違いないのだ。
命のやりとりをも一瞬に凌駕《りょうが》する、苛烈《かれつ》なまでの恋慕の情。王家の血族の因果を感じながらも、俺にはそれが羨《うらや》ましかった。
俺は何を望み、こうして断崖に張りついてまで迷宮に入ろうとしているのか。戦いたい、とは思っている。が、戦って死にたいとは思っていない。
そもそも狂的に実戦を重ね、忍者としての技を鍛練してきた意味――敢《あ》えて危険を選んだ意味は何だったのか。
死の予告を突きつけられてなお、魂の深奥から浮かび上がってこようとしない漠然としたままの願望――それを知ることもなく死ぬのはたまらなかった。どれだけ身悶えすることになろうと、ベイキのように一心に想いを深めることができれば遥かに幸せに死の瞬間を受け容《い》れられる。
そして判っていた。それが叶わぬと知っているからこそ、俺は羨望《せんぼう》の念を感じているのだとも――。
急に、俺の首に回された腕に力が篭《こも》った。別に首を絞めようというのではなく、不安な心の動きが無意識に躰《からだ》に現れたといった、微妙な筋肉の緊張だった。
ベイキが何かを言い淀《よど》んでいるのだと、その動きから推察できた。
「何だ」
俺は助け船を出した。それに勇気づけられ、躊躇《ちゅうちょ》しながらもベイキは口を開いた。
「あの……私を仲間だと見|倣《な》すと、言ってくれましたよね」
「ああ」
何故そんなことを? そう訊《たず》ねる意味で向けた視線を、ベイキは貌《かお》を俺の頭の真後ろに戻すことで逸《そ》らしてしまった。
「だから正直に、遠慮なく答えてください」
か細い、消え入りそうな声でベイキは続けた。「その……あなたの目から見て、私はやはり可愛《かわい》げのない女でしょうか? 今さら反省しても遅いというか、態度を改めようとするとディーの調子を狂わせてしまうほど、小生意気で傲慢《ごうまん》な印象が染み付いているような……」
「?」
「だから――」
焦《じ》れたように言った。「ガッシュもそんな風に思っているのでしょうか?」
俺は噴き出していた。それも危うく足を滑《すぺ》らせかけるほどにだ。さすがにその瞬間はふたりとも息を呑《の》んだが、一拍置いてベイキが猛然と噛《か》みついてきた。
「笑うなんて! 私は真剣に訊《たず》ねているのですよ!」
「いや、悪かった」
バランスを失いかけて一気に高まった緊張が緩《ゆる》み、前にも増して込み上げてくる可笑《おか》しさを必死に堪《こら》えて俺は詫《わ》びた。
「ガッシュに嫌われてねえかってんだろ。安心しな、あいつが陰でもあんたを悪く言ったこたあねえよ。それに、今のあんたなら前に悪く思ってた奴だって目を瞠《みは》るぜ」
可愛《かわい》げがないどころか、そんな質問をするだけでも可愛らしい――これは皮肉めいて聞こえるので口には出さなかったが、俺は心底そう思った。
大破壊《カタストロフィ》が迫るこの時でさえ、そんなことを本気で悩んでいるベイキが可憐《いじま》しかった。
しかしそこで口を噤《つぐ》んだ代わりに、俺はもう一度吹き出す羽目になった。
「もう、いいです!」
拗《す》ねたように言って、ベイキはぐいと両腕に力を入れた。今度は少々首を絞める意図があったようだ。
極論、ベイキはこんな危険な状況で本気で首を絞めるような馬鹿ではない。それに、もし本気になっても俺は息ひとつ詰まらせることはないだろう。呼吸を長時間止められるというのではなく、ベイキの力では俺の首回りの筋肉を押さえつけて圧迫することなどできないからだ。
だがその瞬間、俺の頭に引っ掛かっていた違和感が急速に、鮮明な形をとって脳裏に現れた。
他の職業《クラス》に比べて体力に劣る魔術師とは言え、ディーとて数多くの修羅場を潜り抜けてきた熟達者《マスター》≠フ冒険者だ。それなりの耐久力は持ち合わせている筈だったし、少なくとも並の人間より体力を温存する術《すへ》に長《た》けている。
そのディーが倒れる寸前まで消耗する過酷な環境で、何故ベイキはこれほど活力に満ち溢《あふ》れていられるのか? 考えてみれば、登攀《とうはん》が始まって以来一度たりとも呪文による体力の補給を受けていない。同じ後続隊のザザ、アドリアンがさほど疲れを見せないので気づかなかったが、これは異常とも言える持久力だった。
全く消耗しないわけじゃあない。事実ロープで引き上げた直後はいつも、息をするのも辛そうなほど疲れ果てている。
だが、そこからの立ち直りが恐ろしく早い。ここまでの俺自身の疲労と、ザザに施《ほどこ》された治療呪文を重ねて考えると、ベイキの回復力は尋常の域を遥かに越えている。
都合の悪いことではない。ベイキの肉体が登攀に耐えられるかどうか懸念《けねん》していただけに、むしろ好都合と言って良かった。しかしながら、原因が判らないことにはとうにも釈然としない。
考え込みながら、俺は足場を移すために躰《からだ》を捻《ひね》った。と、背骨に硬い感触が当たる。
俺はすぐに、それがベイキの胸に下がった、アドリアンが贈ったあのペンダントだと悟った。
そのペンダントが登攀開始から時折、そして今現在も目に止まらぬほど微細な雷光を発していることに、俺はおろかベイキ本人も全く気づいていなかった。
雷鳴が轟いている。
霧の向こうで稲妻が天空を駆けた。薄暗い壁面が一瞬白く、そして俺の影を一層濃く映し出す。
そろそろ日没に近い刻限だった。低く響く大気の震動に掻《か》き消されながら、この高みにもリルガミンの鐘の音が微《かす》かに届いてくる。
俺は巨大なオーバーハングに取りついていた。
屋根のように迫り出した岩盤が、俺の頭上に覆い被《かぶ》さっている。それはまるで纏《まと》わりついた小虫を払い落とす巨人の指を思わせる、無情なまでに困難なハングだった。
現在の標高、ほぼ九百メートル――。
遂に、俺たちは梯子山《スケイル》征服にあと一歩というところまでこぎつけていた。この大屋根さえ越えることができれば、ほんの数メートル上に|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》の廃棄口が――迷宮へのたったひとつの侵入口が開いている筈だった。
だが、さすがは龍神の住まう禁断の山だった。
最後の最後に控えたこのオーバーハングが、これまでの垂壁など比べものにならぬ凄まじい難関だったのだ。
それは壁面に巻き付くように、左右に数百メートルも伸びた岩屋根の帯だった。
横移動《トラバース》で迂回《うかい》しようにも、これほど長大ではどうにもならない。時間がかかり過ぎたし、第一予備のロープが持たなかった。横断補助のロープは両端を固定するため回収できず、ここまでに数回繰り返した横移動《トラバース》に使用したロープはすべて壁面に放置してきたのだ。
浮遊《リトフェイト》の呪文も、残数はすでに一となっていた。仮にこの一回で迂回したとしても、このハングの上に回った時点でほぼ等距離の横移動《トラバース》が必要となる。メインロープを補助に使えても、日没までに侵入口まで辿《たど》り着ける道理がなかった。
どうあっても、この大屋根は真っ向から挑まねはならなかった。俺さえ攀《のぼ》りきれれば、あとはとっておきの浮遊《リトフェイト》の呪文で仲間を引き上げることができる。
俺の登攀《とうはん》技術はなおも磨きをかけ続けていた。攀り始めて最初の百メートルで吹き飛んだ自信も、今ではそれ以上に深めている。垂壁上の移動に自在を得たと言っても良かった。怪我の功名とでも言うべきか、ベイキやディーを背負っての横移動《トラバース》が、単身時には得られなかった微妙なバランス感覚を植え付けてくれたのだ。
|嘆きの精《バンシー》の死兆を思い出さなかったわけではない。だが、仲間たちの信頼――特にマイノスの信頼がその迷いを振り払う力となった。どんな死をも跳ね返してやろうとする気迫が躰《からだ》中に満ちていた。
そして俺はこの最後の難関に挑んだ。
ほとんど水平とも思える角度で迫り出した大屋根の先端近くに俺はいた。
躰《からだ》を支えるのは真上に打ち込んだ特殊金具に繋《つな》いだ、横移動《トラバース》の際にも命綱として使ったフック付きのロープのみだ。それに足をかけてバランスを取るための小さな縄梯子《なわばしこ》が二本、別の金具にぶら下げてある。
これほどのオーバーハングになると、到底自分の手足だけで攀ることはできない。少しずつ先へ金具を打ち込み、そこに命綱と縄梯子を移して新たな支点とする。これを繰り返して進んでいくほかないのだ。
悪いことに、このハングは岩質が違うのか異様に割れ目が少なかった。それはつまり、金具を打ち込むポイントが限られることを意味している。罅《ひび》ひとつない場所に打ちつけたところで金具は岩に食い込みはしないのだ。
適正な間隔で打ち込めないとなると、当然それ以下の距離範囲に打たなければならない。それは結果として、より多くの金具を消費することになる。
そして今、俺は追い詰められていた。
手持ちの金具が尽きようとしていた。あと二回は打ち込まなければハングの縁に届かない位置で、わずかに一回分しか残されていない。節約してきたつもりだったが、計算よりずっと短い間隔で使用する羽目になったからだ。
そもそもパルパには、危険の高いオーバーハングは可能な限り迂回《うかい》するように忠告されていた。最悪の事態を考えてハング用の特殊金具も充分な数を用意していたが、このハンクはその予想を大きく上回る代物だったのだ。
風が強まりつつあった。
岩屋根の下は気流が乱れるらしく、ぶら下がった俺の躰《からだ》を絶え間なく揺らし続けている。その不規則な揺れが次第に大きくなっていた。
雷雲は確実に近づいている。ここでもたついている暇はなかった。
俺は全身を最大限に伸ばし、最後の金具をできるだけ遠くに、ハングの縁に近づけて打ち込んだ。そして横移動のためにもうひとつ結んでいたフック付きロープをベルトから外し、その金具にかける。
最後の金具からハングの縁まで、およそ二メートル。
俺は覚悟を決めていた。
特殊金具が尽きた以上、これまでの方法で縁に移動することはできない。かと言って上に被《かぶ》さった壁面では、素手でホールドを取ることも不可能だ。
ならば、跳ぶしか手はない。
水平面の終わる縁の先まで跳躍し、その一瞬に垂壁に手|懸《が》かりを得る。跳躍の勢いを殺し、躰《からだ》を支えられるだけのホールドを取るのだ。無謀とも思える手段だったが、一か八か賭けてみるしかなかった。
最後の金具に吊したロープに、予備のロープを結んで二メートルを越す長さにする。そして命綱と縄梯子を逆方向に後戻りする形で移した。
これで俺は縁から四メートルほどの地点に戻ったことになる。そのちょうど中間に最後の金具が位置し、それに繋《つな》がれたロープは俺の左手に握られていた。
「マイノス!」
風に掻《か》き消されぬよう、俺はあらん限りの声で叫んだ。「ロープを緩《ゆる》めといてくれ。それと、落ちるかも知れねえ。備えとけよ」
メインロープの中間確保はオーバーハングのかなり手前で打ち込んだきりだった。そうしないとハング部で大きな角度がつき、仲間たちの吊り上げが困難になるからだ。それだけにここで落下すると、その勢いで中間確保の金具が悉《ことごと》く外れる恐れがある。
「何をする気だ」
マイノスが叫び返した。しかしその疑問を挟む前に、俺の指示通りメインの命綱を繰り出して余裕を持たせている。マイノスもこの登攀《とうはん》を経て、優秀な確保者に成長していた。
「金具がねえんだよ。跳ぶぜ」
「ジヴ!」
「ジヴラシア!」
この答えに思わず声をあげたのはディーとベイキだけだった。マイノスはただ一言、
「承知」
と答えたのみ。この短い承諾が、俺の心にわずかに残っていた迷いをも吹き飛ばした。
ザザに戒《いまし》められ、ディーとベイキも押し黙る。
俺は躰《からだ》を入れ替え、縁に背を向けて梯子山《スケイル》の垂壁方向を見た。左手には例のロープを握ったまま、俺を吊り支える命綱を右手一本で|手繰《たぐ》る。やがて俺の躰はハングの下面に張り付くような位置まで吊り上がった。
俺の考えた跳躍の方法は、振子の運動を応用したものだった。
不安定な縄梯子を足場代わりにしたこの状態では、いかに忍者の体術を持つ俺でも水平方向にあるハングの先端まで跳ぶことはできない。躰は放物線を描いて落下を始め、手がかりを探るどころか指が届きすらしないだろう。
だが、今の位置で命綱のフックを外し、縄梯子から足を離せばどうなるか。支えを失った俺の躰は即座に落下を始めるが、左手には先刻用意したロープがある。俺の落下エネルギーは最後の金具を支点にロープの長さ約二メートルを半径とした振子運動となり、下から浮き上がるようにしてハングの縁に達する筈だった。その時点での落下の勢いは相殺され、躰《からだ》を支えられるだけのホールドを取る可能性も大きくなる。
とは言え、この跳躍が困難であることには変わりなかった。この乱気流の中、果たして思惑通りの振子運動となるのかどうか。
失敗した時には、たとえマイノスが俺を支えきってくれたとしても、再挑戦するだけの時間は残されていないだろう。必ず成功させなければならなかった。
手繰《たぐ》り寄せたフックに右手をかけ、俺は風が弱まる瞬間を計っていた。そのタイミングひとつに、この跳躍の成否がすべてかかっている。
不意に風の音が低くなり始めた。俺は縄梯子にかけた足に力を込め、二呼吸の後と定めた跳躍に備えた。
「待て」
静かな、しかし鞭《むち》で打つような烈《はげ》しさの篭《こも》った声が、今まさにフックを外そうとした俺の動きを止めた。アドリアンだった。
「無風となってから呼吸五つ待って、跳べ」
聞き返そうとしたその時、風が止んだ。俺の計算では、跳躍の瞬間はまさしく今だった。二度と訪れぬかも知れぬ絶好の機会。
だが、何かがアドリアンの正しさを告げていた。
俺は耐えた。一呼吸。二呼吸。三呼吸で、下方から凄まじい風が迫る音が響いてきた。
無風状態が終わろうとしている。即座に跳べば間に合う。しかし耐えた。四呼吸。颶風《ぐふう》は急速に近づいている。大気が鳴動する。
五つ目の息を吸い込んで、止め、俺はフックを外した。縄梯子《なわばしご》を蹴る。
ごう、と耳が鳴った。それは振子運動で大気を裂く音なのか、それとも颶風《ぐふう》の到来を告げる叫びなのか。
俺の躰《からだ》は下に振られ、そして急速に上昇する。計算通りの完璧な振子運動だった。
もう少しでハングの縁が視界に入る寸前、それは起こった。
支点となっていた特殊金具が岩壁から抜けたのだ。適正位置より遠くに打ったため打ち込みが甘かったのと、荷重方向が極端に変化する振子運動を支えきれなかったためだ。
支点を失い、遠心力によって俺は虚空に投げ出された。どこかで仲間たちの悲鳴が聞こえる。
そして、颶風が来た。
一秒間に五十メートル近くを駆け抜ける強烈な突風が、真下から俺に襲いかかった。それはあたかも、見えない手が俺の背を押し上げたかに思えた。
俺の躰《からだ》は重力に逆らって舞い上げられ、ハングの縁から伸びる壁面に押しつけられた。その瞬間に、両手両足はそれぞれホールドを取る。
「ジヴ! 返事をしろ!」
マイノスの声が耳に届くまで、俺はしばらく岩肌にしがみついたまま呆然となっていた。
信じ難い奇跡だった。あの無風になった瞬間に跳んでいたなら、俺は間違いなく落下してだろう。
俺を放った風の一団はすでに壁面を駆け上り、山頂まで続く霧のトンネルを作って天空に消えていた。それを通して久しぶりに梯子山《スケイル》の頂《いただき》が見える。あの颶風が吹き散らしていったのか、常に立ち昇っていた噴煙も綺麗に消えていた。
やがて霧がトンネルを塞《ふさ》ぎ、先刻と変わらぬ風が吹き始める。
「ジヴ!」
仲間たちが躍起《やっき》になって呼びかけてきた。オーバーハングの上に出た俺の姿は連中には見えないのだから無理もない。
「ああ、大丈夫だ」
俺はようやく返事ができた。そして、震える声で付け加える。
「着いたぜ」
壁面は上に向かって少しずつなだらかになり、俺の頭上五メートルほどで再び垂直に変わっている。
その垂直になった地点俺の真正面に黒い空洞がある。
それは|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》への侵入口だった。
「急……げ! 手間……り過ぎ……ぞ!」
切迫した調子でマイノスが叫ぶ。すぐ後ろにいる筈なのだが、吹き荒ぶ強風のせいで途切れ途切れにしか聴き取れない。
「吹き流されてんだよ!」
ロープを引く手を緩《ゆる》めず、俺は負けじと怒鳴り返した。
「風の呼吸に合わせねえと、ハングの縁でロープが擦《す》り切れちまう」
「……何……って?」
俺の言葉とてマイノスに半分も届いてはいないのだろうが、構いはしない。どうせ奴にも判りきっていることだ。
雷雲は今や、完全に梯子山《スケイル》を覆っていた。ぶ厚い黒雲が頭上に渦を巻き、血管のような稲妻がひっきりなしにその腹を疾《はし》り続けている。
荒れ狂う嵐の真っ只中で、俺とマイノスは懸命に残る仲間を吊り上げようとしていた。
周囲はすでに夜闇に包まれている。だが、マイノスが唱えた幻光《ミルワ》の柔らかい光がこのオーバーハング上に溢《あふ》れ、張り詰めたロープが風に震える様《さま》を照らしていた。
そのロープの先には数メートルずつの間隔を置いて、四人全員がその躰《からだ》を結び付けている。ディーとベイキが軽量ではあるが、ザザとアドリアンそして装備品を合わせた総重量は三百キロ近くにも及ぶ。俺とマイノスが常人を遥かに超える膂力《りょりょく》を有しているとは言え、普通ならとても引き上げられる重さではない。
しかし、今は最後の浮遊《リトフェイト》の呪文が効いていた。
この呪文を用いれば、吊り上げの負担はひとり分の荷重にも満たなくなる。持続時間は二分程度だが、俺たちならそれだけあれば優に四人をハング上まで引っ張り上げられる。そのためにこそ、アドリアンにしか扱えぬ浮遊《リトフェイト》をここまで温存してきたのだ。
ところが、誤算がひとつだけあった。マイノスを引き上げた時点で、嵐に追いつかれてしまったことだ。それに伴う暴風が四人分の肉体という標的をぶら下げたメインロープに容赦なく吹きつけ、重力とは別の抵抗を生じさせている。想像以上に負荷が増大し、思うようにロープを牽引《けんいん》することができないのだ。
加えて連中は横風に大きく吹き流されている。無造作に引き続けるとロープがぶれて岩肌に擦《こす》りつけられる危険があった。風の勢いの波を読み、弱まっている間に引かなければならない。
アドリアンが呪文を唱えて、すでに一分が経過しようとしていた。
もし途中で効果が切れれば、このロープには三百キロの荷重が一気にかかることになる。特殊な繊維《せんい》で綯《な》われたロープ自体は持つかも知れなかったが、そうなってはもう四人を引き上げるのは不可能になる。
あと一分以内に三人、少なくともふたりをハング上に辿《たど》り着かせなければならなかった。俺は祈るような気持ちで、横風が弱まるその時を待ち続けていた。
カッ、と突然、視界が真っ白に染まった。
同時に、凄まじい雷鳴が風の絶叫を蹴散らして耳をつんさく。近くに落雷が始まったらしい。
そして、それはこの場に降ってきても少しもおかしくはなかった。
――ここまできて、雷などに撃たれて死んでたまるか。
背後に黒々と開いた|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》の廃棄口を脳裏に浮かべ、俺は強烈にそう思った。
その時、まだ痺《しび》れている鼓膜が風の音の微《かす》かな変化を捉えた。
「来たぜ! 一気に引くぞ」
叫び、力の限りロープを手繰《たぐ》る。俺の読み通り、風は急激に弱まっていった。
マイノスもロープを引くと同時に、自分のベルトに取り付けた特殊な器具に噛《か》ませて余分な弛《ゆる》みを取っている。それまでに引き上げたロープが戻ってしまわないように歯止めをかける仕組みになっていた。
風の抵抗は低く、吊り上げは順調に進んだ。俺とマイノスの呼吸は完全に合い、機械仕掛けのように速く、正確にロープを巻き取っていく。
だが、俺の心には焦《あせ》りがあった。
恐らくこれが最後の機会になるだろう。再び風が強まれば、間違いなく浮遊《リトフェイト》の呪文の効果は消失してしまう。
一瞬、手繰り続ける腕の動きに乱れが生じた。ロープがわずかにぶれ、岩屋根の縁を擦《こす》る。
「!」
俺は息を呑《の》む。が、ロープは無事だった。
気を取り直し、努めて冷静に吊り上げを再開する。呪文の持続時間は、残り約三十秒。
ふっと手応えが変わった。誰かがハングの縁に到達したのだ。
ベイキだった。
「急げベイキ! 安全なところまで這い上がって、それからベルトの金具を外せ」
「はい!」
緊迫した俺の声に、ベイキはできる限りの速さでハング上面のスロープを攀《のぼ》り、命綱を繋《つな》いだ金具を外した。まず、ひとり。その間も俺たちはロープを手繰《たぐ》る手を休めてはいない。
残り十五秒。あとふたりはきわどい時間だ。
次に出てきたのはアドリアンだった。恐ろしく軽い身のこなしで縁を乗り越え、その瞬間にはすでに命綱も外している。九百メートルという高度に全く恐怖を感じていないような素早さだった。
そのお陰でロープを引く速さが加速された。アドリアンがベイキに手を貸して俺たちの傍《かたわ》らに辿り着くうちに、三人目のザザもハングの上に姿を現していた。浮遊《リトフェイト》の効果はまだ継続している。
俺はほっと息を継いだ。これで残りはディーひとり。浮遊《リトフェイト》が切れても引き上げに支障のない重さだ。
ザザが命綱を外したその時、再び雷光が閃《ひらめ》いた。
今度は遥かに上空だが、続く轟音と地響きが確かに落雷だと告げている。
「ジヴ!」
ザザの絶叫が俺たちの動きを止めた。ディーはまだハングの縁に到達していない。
「落石が!」
俺たちは全員、弾かれたように上を見た。
雷光で白く瞬いた空に、無数の岩のシルエットが見えた。山頂付近に落ちた雷の衝撃で脆《もろ》くなっていた岩壁が崩れたのだ。その一部は確実に、流星の勢いでここに迫っている。
それが拳大の石でも、百メートルあまりも落下して加速されれば人の頭蓋《ずがい》を砕くだけの破壊力を持つ。天空に躍る石片の影は、まるで血に飢えた死神の群れのようだった。
驚愕したのは一瞬だった。
「廃棄口に逃げ込め!」
俺がベイキに指示を出すと同時に、マイノスとザザが同じ呪文の詠唱を開始する。空壁《バマツ》だった。周囲に大気の壁を生成し、落石の直撃を防ぐつもりなのだろう。完全に弾くことはできないだろうが、ある程度の気安めにはなる筈だ。
俺はロープから手を放した。もはやディーの体重しかかかっておらず、まだ浮遊《リトフェイト》の効果も続いているためマイノスひとりに任せても容易に支えられる。
ハングの下にぶら下がるディーはむしろ落石からは安全と言えた。それよりも今は、自身を岩壁に固定して身動きできないマイノスが最も直撃の危険に晒《さら》されていた。
懐に呑《の》んでいた手裏剣を引き出して逆手《さかて》に握り、瞬時にマイノスの傍《かたわ》らに跳躍して構える。上空から落石が空気を裂く昔と、岩壁に当たって砕ける音が迫ってくる。
最初の一群が二十メートルほど横の岩屋根に降り注いだ。
小さな石片に混ざり、ふた抱えもある岩がハングの縁を削り取って砕けた。その衝撃が足元から無気味に這い登る。
あんな岩に直撃されたら――その恐怖を実感する間もなく、俺たちの足場にも幾つかの石が降ってきた。
細かい石片はくぐもった音を立てて二重の強圧空壁に弾かれる。が、ある程度の質量と勢いを持った石はその障壁を突き抜けてくる。
俺のすく横で、唸りをあげて落ちてきた拳大の石が砕けた。その破砕音が消えぬうちに、続けざまに新たな風切り音が迫る。三つ、四つ――そのうちのひとつがマイノスの真上に来た。
俺は目を閉じていた。聴覚だけが研ぎ澄まされ、その石の接近を完全に把握している。大きさは拳ふたつ分。このままではマイノスの頭部は粉々に砕け散る。
大気の障壁は造作もなく破られた。
「せあっ」
一閃。気合いとともに振り抜いた手裏剣の腹が石の中心を捉え、数メートル向こうに弾き飛ばした。
――迅《はや》い。
緊張の中、俺は笑みを浮かべていた。
手裏剣は想像以上に素晴らしい武器だった。確かに重さがありながら、それが全く負担にならぬほど手にしっくりと馴染《なじ》む。素手と変わらぬ速さで振り抜けるのだ。これならば手裏剣を持ったまま真空波を繰り出すこともできそうだった。
マイノスに直撃するコースに降ってきた石はそれだけだった。
落石そのものが治まりかけていた。少なくとも俺たちの近くにはもうほとんど降ってこない。俺は手裏剣を懐に戻した。
仲間たちは皆無事に済んだようだった。ベイキはアドリアンに導かれて逸《いち》早く廃棄口の中に待避していたし、それには間に合わなかったザザもそつなく躱《かわ》している。ディーはハングの傘の下で守られた形になっていた。
マイノスが安堵《あんど》のため息を漏らした。この男は俺が直撃弾を逸《そ》らしたことに気づいている。俺を見上げ、何か言いかける――。
その時、俺は異音を耳にしていた。
最後に岩がひとつだけ、垂壁を転がるように落ちてくる音。遅れて岩壁から剥《は》がれ落ちたものなのだろう。
見上げた瞬間、それは壁面の岩棚のひとつに触れ砕けずに大きく跳ねた。人間の頭より二回りほど大きな岩だ。
放物線を描く岩は、俺たちの位置を飛び越してオーバーハングの縁近くに落下しそうだった。が、あの程度の大きさならディーにも被害は及ぶまい。
予想よりもやや俺たち寄りに――ちょうどこの位置から縁までの中点付近に岩は落ちた。そこで四散し、破片は斜面を転がって縁の向こうに消える。
それで、登攀《とうはん》者を拒《こば》む梯子山《スケイル》の最後の抵抗は不発に終わったかに思えた。その落下点がディーとマイノスを結ぶロープの線上でなければ。
ロープが切断されかけていた。鋭角な部分が触れたのか、太さの半分近くまでがすっぱりと切り裂かれている。
そして遂に浮遊《リトフェイト》の効果が失せた。
突如としてロープにかかる質量が数倍になる。
ディーの重さなど大したことはなかったが、それでも切断面の繊維《せんい》をじりじりと引き裂いていくには充分だった。
「いけねえ!」
俺は脱兎《だっと》の如く走り出した。確保もなしに縁への下り斜面を駆け下りるのだが、止まることを考えて勢いを加減する余裕はなかった。あのロープが切れればディーは九百メートルを落下して死ぬ。
滑《すべ》り込むようにそこに達した刹那《せつな》、糸のように細く残った繊維がぷつりと切れた。支えを失ったディーの落下に引かれ、ロープの切れ端は命あるもののようにくねりながら瞬時に遠ざかる。ディーの悲鳴が聞こえる。
限界まで伸ばした右手が、わずかに早くそれを掴《つか》んだ。素早く手首を回して巻きつける。左腕は逆方向に伸ばし、マイノスが支えるもう一端を掘る。
俺の両腕が切れたロープを繋《つな》ぎ止め、落下は止まった。
しかし、それは一瞬のことでしかなかった。
巻きつける暇のなかった左手のロープが滑《すべ》り、外れた。俺自身の勢いを殺しきれなかったのだ。
俺は無理な体勢から足を突っ張った。が、縁に向かって傾斜を増す斜面では、それは余計にバランスを崩しただけだった。もうディーを支えきれない。
右手を開けば俺は助かる。ディーは死ぬが、このままなら俺も落ちて死ぬ。
――どちらにせよディーは助からない。それならばロープを放して自分だけでも生き残るべきだ。
頭の中で分別臭い声がそう囁《ささや》く。言われてみれば迷う必要はない気がする。聞くまでもない。右手の力を弛《ゆる》めるだけで良いのだ。
そうだ。答は決まっている。
「あばよ」
俺は別れを告げた。
四人の仲間たちに。そして、俺の躰《からだ》は宙に舞った。
命綱なしの、地上への落下が始まった――。
――結局、|嘆きの精《バンシー》が正しかったってわけか。
支えを失った瞬間に、そんな考えが脳裏を過《よぎ》っていった。
俺はロープを引き、ディーを素早く抱き寄せる。
重力の喪失感に恐慌を来していたディーだったが、抱きかかえられてすぐに俺が一緒に落下していることに気づいた。
間近に寄った貌《かお》に信じ難いといった表情が浮かぶ。しかしそれはすぐに、今にも泣き出しそうな微笑みに変わった。そして両腕を俺の首に回し、強く抱きついてきた。
すでに本格的な加速が始まっている。
もはや助かる術《すぺ》はなかった。俺たちはこのまま九百メートルを落下し、その頃にはとてつもない勢いを得て大地に激突する。恐らくこの躰《からだ》は、元がふたりであったことすら判らぬほど粉々に砕け散るだろう。
ロープを放してさえいれば、俺は落ちずに済んだかも知れない。そしてそれを見極めるだけの時間は確かにあった。
だが、判断を誤ったとは思っていない。
そもそもディーにはこの登攀《とうはん》に参加する理由はない。ただ仲間として俺たちに付き合い、そのためにこんな死を迎える羽目になったのだ。
そんな女に、独りぼっちで落下する恐怖を味わわせて良いわけはなかった。
ベイキは無事に送り届けることができた。あとはマイノスとザザが守ってくれるだろう。
所詮《しょせん》大破壊《カタストロフィ》までの命なら、せめてディーの道連れになってやろうとあの時俺は心に決めたのだった。そしてディーの微笑みを見た今、それが間違いではなかったと確信している。
百メートルを攀《のぼ》るには一時間以上を要したが、落下には数秒しかかからなかった。
真っ逆さまに落ちていく俺の視界で、雷光に照らされた垂壁が凄まじい速さで流れていく。時折追っては後方に消えていくのは、つい先刻まで足場に利用していた岩棚だった。
それらに比べて、行く手に立ち塞《ふさ》がる壁の如き大地は、その巨大さゆえに緩慢《かんまん》に近づいてくるように感じられる。
そのせいなのか、不思議と恐怖を感じていない自分に気がついた。心のどこかに浮き立つような高揚感があるのだ。
それを自覚した途端、マイノスが同じようなことを言っていたのを思い出した。そして、続く言葉が鮮明に蘇ってくる。
ジヴ。諦《あきらめ》めるんじゃない。闘うんだ
――判ってるよ。だがよ、もう駄目だ。
俺の応《こた》えに、想いの中のマイノスは責めるように続けた。
貴様は誓ったではないか。それとも、誓いを軽々しく破る腑抜《ふぬ》けた輩《やから》だったか
――俺はおまえのように呪文が使えねえ。それに宝珠の保護障壁だってねえんだぜ。
それが諦めだと言うのだ! 生命ある限り、生きるために最大限の努力をしろ
怒声が、死に魅入られかけていた精神に喝《かつ》を入れた。
死神の誘いに乗るな。ディーの命もかかっているのだ。道連れになるのではなく、死から救って見せろ!
声が遠|退《の》いていく。
ごう、と鼓膜に響く大気の咆哮《ほうこう》が俺を覚醒《かくせい》させた。
マイノスとの会話の夢想は一瞬のことだった。俺とディーはまだ百メートルあまりしか落下していない。高度八百メートル。
覚醒《かくせい》と同時に、俺の知覚は極限まで研ぎ澄まされていた。
眼前を流れる垂壁の、手がかり程度の小さな突起までが認識できる。まるで俺以外の時間の進行が緩《ゆる》やかになってしまったかのようだった。
そして、それが目に映った。
墜落軌道からやや外れた壁面に、何度目かの横移動《トラバース》に使用したロープが固定されたまま残っていた。それを視認した瞬間に、俺は落下を止めるための微《かす》かな光明を見たような気がした。
壁面に両端を打ちつけたまま放置したロープはこの軌道上にもある。高度約七百メートル地点の、ベイキとディーを背負っての最初の横移動《トラバース》に使ったものだ。
俺のベルトにはまだ、フック付きの命綱が繋がったままになっていた。
――やってやろうじゃねえか。
思い描いた手段は極めて成算の低いものだったが、今のやりとりが俺を奮い立たせてくれた。ここで諦《あきら》めては、マイノスとあの世で顔を突き合わせた時にどれだけ手酷く罵倒《ばとう》されるか判ったものではない。
「掴《つか》まってろよ」
ディーの耳元にそう叫んだ。これだけで真意が伝わるわけもなかったが、しがみつく細い腕に力が篭《こも》る。俺も右手のロープを握り締め、ディーの腕が離れてもその躰《からだ》を支えられるように備えた。
左手はすでに、腰に束ねていたフック付きのロープを外している。環状のフック部分は手の中にあった。
俺は躰《からだ》を捻《ひね》り、風圧の抵抗でわずかに落下の軌道を変えた。もっと垂壁すれすれに――七百メートル地点で、腕を伸ばせば届くほどの位置になるように。
さらに加速度を増した百メートルの落下は、実際にはほんの数瞬のことでしかなかった。ロープは視界に入った途端、鼻先を掠《かす》めるように一瞬に後方へ消失しようとする。
だが、俺はその一瞬を確実に捉えた。
左手に持ったフックの、ほんの数センチしか開かないバネ仕掛けの部分をロープの位置に合わせ、引っ掛ける。ロープの太さを考えれば誤差はほとんど許されないこの動作を、自由落下の中で俺は正確にやってのけた。
フックが掛かると同時に、俺は左手を放して身構える。
次の瞬間、激烈な衝撃が全身を襲った。
俺とディーが二百メートルを落下して生じたエネルギーが、命綱に繋《つな》がった俺のベルトに集中した。
並の腹筋なら簡単に内臓破裂を引き起こすだけの衝撃だった。壁面にも叩きつけられたが、こちらに比べれば撫《な》でられたようなものだ。
ディーの腕が巻きついている首にも凄まじい衝撃がかかる。が、こちらは案の定《じょう》ディーの筋力が耐えきれず、首が折れる前に腕が外れてしまった。
ディーの躰《からだ》が離れる。
圧迫される腹部に息を詰まらせながら、俺は決して放してはならぬ右腕のロープに意識を集中した。
ディーの命綱が伸びきる。右腕に荷重がかかるが、今ほどの衝撃ではなく、何とか支え抜いた。
落下エネルギーのほとんどが、この時点で相殺されていた。
フックの掛かった場所を頂点に、横移動のロープは浅いX字状に大きく撓《たわ》んでいた。きつく張っておいたものなのだが、想像を絶する落下の勢いに、強靭《きょうじん》な繊維《せんい》がさらに限界まで伸びたのだ。このロープの弾性がなかったら、とてもこれだけの勢いを殺すことはできなかっただろう。
そこで、ロープの両端を固定する環状金具のひとつが折れた。
最後にわずかに残った落下エネルギーが、衝撃で疲弊《ひへい》した金具の強度を上回ったのだった。
再び落下の始まる、その瞬間。
「つあっ」
俺は自由になっている左手で懐の手裏剣を抜き、全身全霊の力を篭《こ》めて壁面に突き立てた。
まるで柔らかい泥土に打ちつけたかのように、手裏剣は深々と罅《ひび》ひとつない岩盤に吸い込まれた。
がくん、と軽い衝撃が両腕を疾《はし》り抜ける。
それで、落下は完全に止まっていた。手裏剣の柄を支点に、俺たちは標高七百メートルの垂壁にぶら下がったのだ。
――どうだよ。最後まで諦《あきらめ》めなかったぜ。
俺は心の中で呟《つぶや》いた。マイノスが頷《うなず》き、微笑んだ気がした。
ディーは、右手のロープの先で失神していた。
横移動《トラバース》の待機に利用した岩棚まで引き上げたところで、ディーはようやく意識を取り戻した。
あの落石の直前から鎮《しず》まっていた風は、今や前にも増した勢いで吹き荒れていた。雷鳴も途切れることなく轟き、もし仲間たちが二百メートル上から呼びかけていたとしても、俺の聴力をもってすらとても聴き取れぬほど喧《やかま》しく周囲を満たしている。
「……ジヴ……ここは?」
岩棚に並んで腰を下ろし、垂壁を背にする形で俺にもたれかからせておいたディーは、まだ半ば意識を混濁させたまま訊《たず》ねた。夢を見ているように不確かな口調だった。
「あたしたちは、死んだの……? どうして死んだ後まで、こんな忌々《いまいま》しい山に縛りつけられていなきゃならないの?」
「まだ死んじゃいねえよ」
「……嘘よ……あたしたちは落ちて……あれで助かる、わけが……ちょっと、待って」
呟《つぶや》き続けながら、次第にディーの意識は鮮明になってきたようだった。ぼんやりと焦点の定まらぬ瞳を細め、やがてそこにはっきりとした光が宿る。
「ジヴ……ジヴ!」
弾かれたように身を起こすと、ディーは俺の二の腕を掴《つか》んで顔を正面からまじまじと見た。
「――本当に生きてる。でもどうして……それよりも、ここはどこ?」
「最初に浮遊《リトフェイト》なしで横移動《トラバース》した地点だ。二百メートルばかり落ちた」
俺はディーが思ったよりも元気なのでほっとしていた。見たところ落下による骨折などの重傷はないようだったが、あの衝撃では打撲は免《まぬが》れない。痛みで動けないのではないかと気になっていたのだ。
とは言え、ディーが動けたところで状況は好転しそうになかった。いずれにしても迷宮への侵入口は遥か頭上、あの巨大なオーバーハングの上にしか存在しない。登攀《とうはん》装備を失った現在、再び攣《のぼ》ることなど不可能だった。
つまりは、この岩棚にへばりついているほかないのだ。そうして大破壊《カタストロフィ》が訪れる時を待ち続けるか――いや、そもそもこの強風下で岩棚から吹き落とされずに済むかどうか。仮に落ちなかったとしても、この吹き曝《さら》しの場所では夜明けまでも体力が持ちそうになかった。
仲間たちの助けも、望みは皆無だった。探魂《カンディ》の呪文を使えば俺たちが生きていることだけは判るだろうが、連中にしてももはやあのハングから降りる方法はないのだ。それ以上はどうにもなるまい。
「ジヴ――」
呼びかけられて、俺は絶望的な思考から我に帰った。
気づくと、さっきの姿勢でディーが泣いている。
俺を見つめる瞳から大粒の涙が溢《あふ》れ、それが風に吹き飛ばされながら稲妻の閃光を反射する。
俺は慌てて、両の二の腕を掴《つか》まれたままディーの肩を振った。
「どうした! どこか痛むのか?」
「違うわよ……馬鹿」
泣きながらディーは微笑んだ。それが落下の最中に見せた表情と一緒だと、ようやく俺は気がついた。
「今頃、あの落ちた瞬間を思い出しちゃってさ」
ディーは片手を放して涙を拭《ぬぐ》った。「怖かった……落ちたこともだけど、独りになるのがもっと怖かったわ。だからあんたが抱きかかえてくれた時、心底ほっとした……もしあんたが一緒じゃなかったら、墜落して死ぬより先に発狂してたかも知れない」
「大袈裟《おおげさ》だな」
喜怒哀楽の激しいディーだったが、こんな風に泣いたところを見たのは初めてだった。こうなるといつもに比べて数段か弱く、はかなげに見えてくる。俺は肩に置いた手に軽く力を入れてやった。
「しかしよ、ここからはどうにも動けねえ。この風に一晩中吹かれるとなると、済まねえがやっぱり助かりそうにないぜ」
「それでも構わないわ」
そう言って、ディーは躰《からだ》を柔らかく寄せた。顔が触れあうほどに近づき、俺は濡れた瞳に吸い込まれそうになる。
「ただ、命が尽きるまでこうしていて。独りには、しないで……」
瞳が閉じられ、唇が触れた。その瞬間には、雷鳴も烈風も一切が消えたように思えた。
静寂を裂いたのは、岩棚を突き上げるような激しい震動だった。
「!?」
俺たちは躰を離した。すでにお互いが危険に対処できるよう身構えている。
「地震?」
「いや、こいつは違うぜ」
それは地震を思わせるほどの揺れだったが、そうではないとすぐに判った。震動が連続せず、数秒の不定期な間をおいて襲ってくるのだ。
揺れとともに、何か巨大な物体がぶつかるようなくぐもった音が響く。
この足場から十メートルほど横の壁面から聞こえてくるようだった。が、そこには岩壁以外何も見てとれない。
と、その時――。
何度目かの震動と同時に、壁面に小さな亀裂が疾《はし》った。それは見る間に、衝撃音が響く度《たび》に稲妻の光跡のように広がっていく。
天空から、数条の雷が大地に降り注いだ。
その雷鳴に重なるように、一際激しい震動が伝わってきた。岩が砕ける硬い音が聞こえる。
そして――。
落雷の閃光が焼きついた網膜には、それはあたかも爆発したように見えた。
突如、轟音をあげて岩壁が崩れたのだ。
巨岩が音を立てて落下していく。朦々《もうもう》たる粉塵が風に舞い、この岩場に吹きつけられる。
埃《ほこり》から目を覆った瞬間、砕けた岩よりも巨大なものが空中に飛び出した。
同時に、鼓膜を震わせる凄まじい叫びが迸《ほとばし》る。
ばさりと、強風に逆らって翼が開く。それがただでさえ馬鹿でかい躰《からだ》を一層巨大に見せた。
岩壁を割って現れたその生物を、俺は知っていた。
猛禽特有の、肉を喰い千切るための曲がった嘴《くちばし》。
|人喰い虎《ベンガルタイガー》すら握り潰せるだけの大きさを持った鋭い鉤爪《かぎつめ》。そして鳥類としては常軌を逸《いっ》した、体長で十メートルを越える巨体――。
そいつはロックと呼ばれる、迷宮に棲みついた巨鳥だった。ただ一羽しか存在せず、ル‘ケブレスによって蘇生能力を授けられた鳥の王だ。
その巨鳥が眼前で旋回を始めたのを見て、俺の全身が粟《あわ》立っていた。戦慄《せんりつ》しているのだ。
本来は迷宮第五層を守護している筈のロックと、俺は一度ならず闘っていた。パーティ全員で、あるいはただひとりで――そして悉《ことごと》く、その息の根を止めている。
狭い迷宮ではさして手強い相手ではなかった。
巨躯《きょく》が禍《わざわい》して飛翔能力を奪われ、岩をも砕く嘴《くちばし》の一撃にさえ注意すれば馬鹿でかいだけのひよこに等しいからだ。
だが、それが大空に放たれるとなると話は別だった。
強靭《きょうじん》な翼は鈍重だった巨体にとてつもない機動力を与え、自由になった両脚の鉤爪《かぎつめ》は嘴以上の脅威となる。開けた場所で闘うなら、ロックほどに恐ろしい相手はそうざらにはいないだろう。
まして今は、こちらが壁面に釘付けになっているのだ。
俺の攻撃は言うに及ばず、ディーの呪文も高速で飛行する相手には効果が薄い。このままでは万にひとつの勝ち目もなかった。
ロックはもう一度、喉から血を吐くような怪鳥《けちょう》音を絞り出した。
俺は目を細めた。すぐにでも襲いかかってくるのではないかと身構えていたが、どうも様子がおかしい。
ロックの全身を靄《もや》のような、ガス状のものが包んでいた。
いや、ガスじゃあない。
そいつは生きていた。巨鳥の躰《からだ》に纏《まと》わりつき、羽根の隙間や眼球に潜り込んで細かな攻撃を加えていた。
それは無数の、ひとつの意志をもっているかのように統率された|羽虫の群れ《ノーシーアムスワーム》だった。
そのおぞましさに慄然《りつぜん》としながらも、俺はたった今ロックが突き破った壁面に注意を奪われていた。
ぽっかりと大穴が開いている。
この高度から考えて、恐らくは迷宮第四層に続くであろう侵入口が。
ロックがまた叫んだ。そちらを向いた俺と、苦悶に身をよじりながら羽ばたき続ける巨鳥の視線が交錯する。
――そうか。
その目は明らかに、俺たちに助けを求めていた。
「ディー。あの羽虫、焼き払ってやれるか」
「えっ」
ディーは真意を図りかねるといった表情で俺を見た。が、すぐにロックがこの周囲を離れずに旋回していることに気づく。
「助けるの?」
「ああ。あいつのお陰で俺たちも助かりそうだからな。借りを返してやろうじゃねえか」
「判ったわ。猛炎《ラハリト》でいいわね」
ディーは即座に詠唱を開始した。
ロックが旋回し、呪文の効果範囲に迫る。
その瞬間、空中に淡い黄色の炎が巻き起こり、ロックの巨体を包んだ。
飛行しているロックは、その高熱火炎の渦をすぐに通り抜けた。羽根が多少焦げた程度で、肉体にダメージはほとんどない。
だが、羽虫の群れは瞬時に燃え尽きていた。数匹は残ったようだったが、それはロック自身が嘴《くちばし》で荒々しく噛《か》み潰した。
そこでもう一度旋回し、巨鳥は一声鳴いて嵐の空へ飛び去っていった。
「いいところだったのに、無粋《ぶすい》な鳥ね」
独り言のようにディーが呟《つぶや》いた。
[#改ページ]
転ノ弐
ロープの先の重さが消失した瞬間、マイノスの全身から血の気が引いた。
余勢で仰向《あおむ》けに倒れそうになったが、何とか持ち堪《こた》える。しかしその不安定な姿勢が、ふっと暗くなった視界と相まって一瞬に夢を見ているような――現実を否定したくなるような感覚を生じさせた。
ザザが何か叫んでいるのが見える。それなのにその声が聞こえてこない。まるで聴覚を失ってしまったかのようだった。
だが、ジヴラシアの言葉ははっきりと耳に届いた。
「あばよ」
この呟《つぶや》きを残して、その姿がハングの縁を越える。
足の先が最後に縁の向こうに消えるまで、その光景は奇妙に緩慢《かんまん》に流れた。すぐに駆け寄れば手が届くと思えるほどに。が、マイノスの躰《からだ》もまた、己のものではないかのように反応が鈍い。意識だけが空回りしていた。
ジウラシアが視界から完全に消えると同時に、時の乱れが本来の速さを取り戻した。雷光の軌跡が脳を灼《や》き、悪夢の中にいるように痺《しび》れた五感を現実に引き展す。
縁に走り出そうとして、マイノスは腰を引かれて倒れた。岩壁に固定した命綱に繋《つな》がれていたことを忘れていたのだ。
ロープを外すのももどかしく、ベルトに手挟《たばさ》んだナイフで擦《こす》るように切断する。刃すら容易には受けつけない強靭《きょうじん》な特殊|繊維《せんい》が今ばかりは苛《いら》立たしかった。ならば何故落石程度で切れるのだ、とも思った。
その間に、マイノスの視界の隅をベイキが走り抜けた。ザザはすでに縁に達し、落ちそうな勢いのベイキを押し留めている。
マイノスが縁に辿《たど》り着いた時、優にベイキから数秒は遅れていた。もはや落下するジヴラシアとディーの姿は視認できない筈であったが、それでも覗き込まずにはいられなかった。
眼下には強風に吹き流されて渦を巻く低層雲と、闇の中で時折稲妻に照らされる暗い垂壁が見える。
視界はほんの百メートルほどしか利かず、そこにもしやと期待したふたりの姿はなかった。
「ジヴ! ディー!」
マイノスは喉も嗄《か》れよと、あらん限りの声で叫んだ。が、再び強まった烈風がその呼びかけを無情にも掻《か》き消してしまう。
それでも、マイノスは繰り返し叫び続けた。
絶叫だった。自らの声帯を痛めつけようとするような、そんな叫びだ。
それはもはや、ジヴラシアたちへの呼びかけではなかった。ここから落ちて生きているわけがないのだ。
それは鎮魂と、己の中から迸《ほとばし》る激情を和《やわ》らげるための咆哮《ほうこう》であった。もし叫ばなければ、行き場を失った感情が肉体を内側から破壊してしまいそうに彼には思えた。
無意識に涙が零《こぼ》れていた。それを拭《ぬぐ》いもせずにマイノスは吼《ほ》え続ける。
喉が傷つくより先に、ザザがマイノスを止めた。
「探魂《カンディ》を使いました。ふたりとも下まで落ちてはいません」
「本当か!」
マイノスの顔にすぐさま喜色が浮かんだ。嗚咽《おえつ》を押えていたベイキも弾かれたようにザザを見る。しかしザザの表情は暗かった。
「ここから二百メートルほど下です。どうやったのかは知りませんが生きています」
「すぐに助け……」
言いかけたマイノスの表情が凍りついた。
「そうです」
ザザが冷静な声で続ける。「我々には助ける術《すべ》がないのです。ふたりが生きていると判っていながらね」
「そんな……」
ベイキは言葉を失った。それでも、ザザが何を言っているのかははっきりと判る。
それはあまりにも残酷な、そして動かしようのない事実だった。
この強風下に、暗闇に包まれた垂壁を二百メートルも下ることなどできはしない。また、仮にそこまで降りられたにせよ、アドリアンの浮遊《リトフェイト》が尽きた今、再びこの地点に戻るのは不可能なのだ。それではふたりの道連れにはなれても助けることにはならない。
「何か……何か方法がある筈だ」
力なく、呟《つぶや》くマイノスに、視線を下方に向けたままザザは首を横に振った。
「無理です。ここにいては我々も危ない。迷宮に入りましょう」
「……見捨てると言うのか……仲間を?」
空《うつ》ろな目で、マイノスはザザを見た。掠《かす》れてしまった声に抑揚がなくなっている。
「放っておけばふたりは確実に死ぬんだぞ。それを――」
「仕方ないでしょう。方法がないんですから」
常と変わらぬ口調でザザが応える。
その瞬間、マイノスの腕がザザの胸元を掴《つか》んだ。張り詰めた空気にベイキが息を呑《の》む。
「ザザ! 貴様は!」
罵声《ばせい》を浴びせようとして、マイノスは口を噤《つぐ》んだ。
引き寄せられるまま抵抗しないザザの唇の端から、一崩の血がつうっと伝い落ちていた。
顔を伏せたザザの躰《からだ》が小刻みに震えているのが、掴《つか》みかかった拳から伝わってくる。溢《あふ》れた血は、食い縛った歯が唇を噛《か》み破ったものだった。
マイノスはザザが自分ようもずっと長くジヴラシアとディーの仲間として悪《イビル》のパーティを組んでいたことを思い出していた。そして、この一見冷徹な男がどれだけの激情を抑え込んでいたのかを悟った。
「……すまん」
手を離し、マイノスは詫《わ》びた。「ジヴとディーを失った痛手は、むしろあなたに大きいというのに……」
「失ってなどいませんよ」
血の滴《したた》る口元に凄艶な笑みを作って、ザザはきっぱりと言った。
「生きている限り、必ずジヴは迷宮に潜り込みます。私が最も信頼している仲間がこの程度のことで死ぬ筈がない――そう、必ず」
祈るよう目を閉じ、開いた時にはもういつものザザに戻っていた。
「行きましょう。ふたりとの再会は迷宮の中で」
言って、|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》の廃棄口へと歩き始めた。
ベイキは涙を拭《ぬぐ》い、今一度足下に広がる虚空に目をやった。
――私はどうあろうとガッシュに会う。このの世界に未来がなくても……だからこそ大破壊《カタストロフィ》の時まで悔いなく生きたいから。拒《こば》まれても構わない。今の私は生まれて初めて目的を持ち、生きている実感を得たのだから。
「だから私も――」
知らず、言葉になっていた。「私も行きます、ジヴラシア……そして信じます。あなたたちと再び出会えることを。どうか、御無事で――」
祈り、そして背に負った聖剣の柄にそっと触れる。
その時ベイキの眼前に、ある光景が鮮明に蘇った。
それは夢の中の記憶だった。二日前、ガッシュたちが迷宮の最上層に向かった晩に見た恐ろしい悪夢――。
どことも知れぬ闇の中、逞《たくま》しい戦士が立っている。
巨体をまんべんなく包むぶ厚い筋肉の束。がっしりとした彫りの深い貌《かお》の中で、優しい光を準えたグレーの瞳が否応なく目を惹《ひ》きつける。
ガッシュだった。微笑みながら、少しずつこちらに歩いてくる。
と、その歩みが止まる。笑みが消え、全身の筋肉に緊張が疾《はし》る。
周囲の漆黒から、凄まじいまでの殺気が発散されていた。叩きつけるような圧力が、夢を見ているに過ぎないベイキにもはっきりと感じ取れる。
それが一瞬に消失した。が、気配を発していたものが消えたのではない。
殺気があったほうが遥かにましだった。気配を断たれた途端に、それまでとは比べものにならぬ恐怖が沸き起こってくる。
ガッシュが腰に下げた段平《だんびら》を目にも止まらぬ迅《はや》さで抜き放つ。斜めに構えられた大剣には、あらゆるものを打ち砕きそうな頼もしさがあった。
しかし次の瞬間、ガッシュの額に赤い線が浮かんだ。そこから鮮血が溢《あふ》れると見えた刹那《せつな》、二の腕に新たな傷が刻まれる。
ガッシュは身動きひとつしない。いや、できない。
暗闇から暗闇に、疾風の迅《はや》さで影が飛び交う。その度《たび》にガッシュの皮膚が切り裂かれていく。
額、腹、頬、腿、胸、肩、顎《あご》、脛《すね》、腕……次々と傷が生じ、そして新しいものほど大きく深くなっていく。無数の傷口から噴き出した血液が、ガッシュの全身を赤く染め上げる。
唐突にガッシュが動いた。
視覚に捉えられぬ敵に向けて、致命の破壊力を秘めた剣が稲妻の速さで振り抜かれる。
その一瞬――。
ガードの開いた首筋が、冗談のように大きく裂けた。
そこから血が噴き上がると同時に、周囲の漆黒の闇もまた血の色に変わる。
真っ赤に染まった闇の中で、光を失った目を見開いたまま、ガッシュの巨躯《きょく》がゆっくりと倒れていった――。
「ああ……」
思わず漏らした声で、愛する者が惨殺される忌《い》まわしい夢の記憶からようやくベイキは解放された。知らぬ間に、両|掌《て》で顔を覆っていたことに気づく。
あの夜、この夢から目覚めた瞬間に、ベイキはガッシュへの想いの深さを自覚したのだった。
だが何故、今この時に生々しく脳裏に浮かび上がったのか。単に思い出したのではなく、寸分違わぬ夢をもう一度見た感覚であった。
――これは、正夢なのだろうか。ガッシュに何か恐ろしい敵が迫っている……それとももう、今の光景は現実になってしまったのだろうか。
自ら抱いた肩が、両手の下で細かく震えていた。細腕に力を篭《こ》め、ベイキは次々と浮かんでくるおぞましい想像に必死に耐えた。
――私にできるのは騎士の英霊たちの言葉通り、この聖剣をガッシュに届けることだけだ。ダイヤモンドの騎士の末裔《まつえい》たる、あの人に……。
不安定なハング上の斜面に立っているのが危険なほどに、風は前にも増して荒れ狂い始めていた
「参りましょう」
見守るマイノスが声をかけた。「今はジヴの分まであなたをお守りするのが私の務めです」
断腸の思いが篭められた言葉だった。ベイキは黙って頷《うなず》き、マイノスとともに斜面を登り始めた。
廃棄口の開口部で当惑した面持ちのザザが待っていた。その時ふたりは初めて、この場にいるべきもうひとりの仲間のことを思い出した。
「アドリアンは? 中か?」
「恐らくは。ですが……」
ザザは小さく首を振った。「いないんですよ」
「いない?」
マイノスは眉根を寄せた。
「何度も呼んだんですが、返事もありません。どうやら我々を置いて、たったひとりで先に行ってしまったようです」
「馬鹿な」
三人は洞内に足を踏み入れると、アドリアンの名を口々に呼ばわった。しかし|牙の寺院《テンプル・オブ・ファング》の一部である通路は静まり返ったまま、懸念《けねん》した襲撃者――|牙の僧侶《プリースト・オブ・ファング》たちの気配すら感じられない。
ただ吹き込んでくる風だけが、狭い洞内に反響する彼らの声を奇怪に歪《ゆが》めていた。
闇の中、低い呻《うめ》きが響いた。
限界まで止めていた息を吐き出したかのように荒い呼吸が後に続く。
奥歯を軋《きし》らせる微《かす》かな音が、激しい苦痛に耐えていることを示していた。
と、暗闇に赤い光点が灯った。それがすっと移動し、数瞬後ランプの芯に燃え移る。
弱い光の輪が広がり、周囲をぼんやりと浮かび上がらせる。
四方をぬめりのある湿った石壁に囲まれた、小さな玄室であった。壁の一面に苔《こけ》むした扉が嵌《は》め込まれているが、よほど注意して見なければそれとは判らない。
出入り口となるのは、どうやらその扉だけのようだった。一種の袋小路となった玄室である。
ランプが置かれているのは玄室のほぼ中央だった。
そのすぐ傍《かたわ》らに、三つ編みにした長い髭《ひげ》を左右に垂らして仰向けに横たわるドワーフの姿があった。
苦しげに目を閉じた顔に大量の脂《あぶら》汗が浮き、携帯ランプの淡い光を反射している。
苦悶の声を漏らしたのはこのドワーフだった。
「痛むか」
もうひとりの男が、火口《ほくち》箱を腰につけた袋にしまいながら訊《たず》ねる。
玄室の中にいるのは、そのふたりだけだった。
「……む、すまん……起こしてしまったか」
ドワーフは焦点、の定まらぬ目で眩《まぶ》しそうにランプを見た。無理に半身を起こそうとして、込み上げてくる痛みに奥歯を食い縛って耐える。
衣服を切り裂いて剥《む》き出しにされた右の脛《すね》に、応急処置として布切れが巻きつけてあった。その下の傷口から、どす黒く固まりかけた血が染み透っているのが見える。
「ボルフォフ、無理はするな」
巨体に似合わぬしなやかさで近づき、男は素早く手を貸した。
「まだ血が止まっていないようだな。そろそろ包帯を替えたほうが良さそうだ」
ドワーフ――ボルフォフは短いが太い腕で額の脂《あぶら》汗を拭《ぬぐ》い、忌々《いまいま》しげに己の頬を張った。
「……全く、情けない。こんな傷で音《ね》をあげ、あまつさえろくに身動きもできんとは……」
「治療呪文がなけりゃ、誰だってそうさ」
人間族《ヒューマン》の巨漢は血の染みた布を解きながら言った。固まった血で張りついた布が傷口から引き剥がされ、ボルフォフは堪《たま》らずに呻《うめ》いた。
露《あらわ》になった傷口は、奇妙な形状をしていた。
脹《ふく》ら脛《はぎ》の比較的柔らかい部分が、直径五センチほどの円形にぽっかりと抉《えぐ》れている。円周の肉がわずかに盛り上がり、その中に半ば固まりかけた血液がとろりと溜まっていた。しかし中央は鮮やかな血の色を保っており、そこからじわじわと新しい血が染み出してくる。
巨漢の戦士――ガッシュは化膿している様子がないのにほっとしながらも、その不気味な傷口に顔を顰《しか》めた。
それは妖獣《ゼノ》との闘いで受けた傷だった。
神秘の宝珠を手に入れ、意気|揚々《ようよう》と帰途についたパーティを突如として襲撃した正体不明の怪物。肉腫《にくしゅ》のようなその生物は狡猾《こうかつ》に後方から忍び寄り、ガッシュが気づいた時にはすでにエレイン、アルタリウスの肉体を乗っ取っていた。
そのおぞましい光景は、歴戦の戦士であるガッシュとボルフォフすら恐慌を来しかけたほどだった。
初めに犠牲者となったエレインがあの魔性の目で微笑みながらマイノスの名を呼ぶすぐ横で、口から肉腫に侵入されたアルタリウスが狂ったようにのたうっている。そしてその背後に、本体らしい数体の妖獣《ゼノ》が緑色の触手をくねらせて蹲《うずくま》っていたのだ。
込み上げる嫌悪と恐怖を何とか抑制した時には、エレインを同化されて冷静な判断力を失ったマイノスがすでに単独で妖獣《ゼノ》に飛びかかっていた。怒号と混乱の中、マイノスの援護に回ったボルフォフは矢のように伸びる妖獣《ゼノ》の口管で負傷し、フレイの手引きで辛《かろ》うじて撤退したものの、そこにマイノスの姿はなかった。
ボルフォフの傷は大したものとは見えなかったが、初めて足を踏み入れた迷宮最上層を闇雲に迷走するうち、原因不明の激痛が襲い始めた。治療呪文の要である僧侶アルタリウスが斃《たお》れ、そしてロードのマイノスともはぐれた三人にはもはや傷を癒《いや》す術《すぺ》はなく、それ以上の移動は無理だと判断した一行は折り良く発見したこの玄室に身を潜めたのだった。
「……あれから、どれぐらい経ったものかな」
傷の痛みに苛《さい》まれながら半睡状態を繰り返していたボルフォフは、とうに時間の経過が判らなくなっていた。
「俺たちが迷宮に入って丸二日ってところだろう。外はちょうど陽が落ちた頃じゃないかな」
新たに衣服を裂いて作った包帯を巻きながらガッシュが応《こた》える。この巨漢の戦士は生来、睡眠を挟んでも正確に時の経過を把握できた。
「フレイはまだ戻らないのか」
「ああ、なに、あいつなら大丈夫さ」
言いながら、かれこれ丸一日は戻らないホビットの盗賊を思い、ガッシュの表情は曇った。
ボルフォフの負傷に加え、呪文を使える者がいなくなった現状では、三人が揃って迷宮を脱出するのは困難だった。彼らの卓抜した戦闘力をもってしても、数に任せて負いかかってくる怪物の群れと乱戦になれば、多数の敵を一時に殺戮《さつりく》できる攻撃呪文なしでは次第に押し包まれて嬲《なぶ》り殺されるのが目に見えているからだ。さらに、魔物の爪牙《そうが》から残留性の毒や麻痺毒に冒されでもすれば、治療の方法を持たぬ三人は確実に息絶えることになる。
そこで、フレイは少しでも可能性の高い手段を選んだ。
彼だけが単独で脱出し、リルガミン市に残る冒険者の救援を頼むのである。怪我人を含めた三人連れでは徘徊する魔物に気取《けど》られぬ隠密行動は難しいが、すばしっこさが身上であるホビットの盗賊なら敵の接近を逸《いち》早く察知し、戦闘を回避しながら出口を目指すこともできる。
しかしながら、この手段も成算は窮《きわ》めて低かった。歴戦の熟達者《マスター》≠ニは言え、盗賊のフレイの戦闘力はガッシュのそれとは所詮比べものにならない。途中遭遇するであろう数多《あまた》の敵集団にもし一度でも所在を気づかれたなら、それは即ち死を意味するのである。危険な賭けと言えた。
だが、フレイは自ら言い出したこの計画をこともなげに実行に移している。人間族《ヒューマン》なら子供にしか見えぬこの矮躯《わいく》のホビットは、その外見に似合わぬ胆力と負けん気を有していた。
そしてそのフレイが上首尾に迷宮を突破できたのなら、そろそろ救助隊を引き連れて戻ってきてもいい頃合いだった。
むろん初めて侵入したこの第六層から降りるだけでも時間を要したであろうし、敵をやり過ごす際にはしばらくの間身動きが取れなくなる。六人パーティの行動時より歩みが遅くなるのは当然だった。が、それを考慮に入れてもふたりの予想より遅れ過ぎている。
ガッシュとボルフォフは、ハイランス率いる三隊の捜索パーティがすでに迷宮に入り、妖獣《ゼノ》の襲撃によってほぼ壊滅させられていたことなど知る由《よし》もなかった。そしてまた、第一層の入口が落盤で完全に封鎖されていることも。
「何しろフレイはあいつに仕込まれてたんだからな」
己の中に生じた不安をわち消すようにガッシュが言った。その言葉にボルフォフの険しい表情がわずかに弛《ゆる》む。
「ジヴか……今さらながら、おかしな男よな」
戦闘機械とすら呼ばれる忍者の達者でありながら、不似合いに陽性の雰囲気を持った仲間のことを思い出して、ふたりはふっと安らいだ気分になった。
「あいつは来るかな」
救援として、という意味でボルフォフが言った。普通なら、悪《イビル》の戒律の者はわざわざ遭難者を助けに来たりはしない。それを言外に含んでいる。
「賭けるかい?」
パーティの潰走以来久しぷりに、ガッシュが悪戯《いたずら》を企《たくら》んだ子供のような笑みを浮かべた。「あんたは兜《かぶと》、俺は盾でどうだい」
近くの床にはふたりの装備が転がっていた。ボルフォフの兜はアーメットと呼ばれる鋼鉄製のフル・ヘルメット、ガッシュの盾は|+《プラス》2クラスの防護魔力を有する強靭《きょうじん》なものである。いずれも迷宮の探索で入手した古代の逸品《いっぴん》だった。
「良かろう。俺は来るほうに賭ける」
にやり、とボルフォフも笑う。この時ばかりは傷の痛みも苦にならない。
「乗った。取り消しは効かないよ」
「ほう。意外だな」
ボルフォフはてっきりガッシュの意見も同様だと思っていた。虚を衝《つ》かれたところに次の言葉が続く。
「俺はザザとディーも来るほうに賭ける」
目を丸くし、次いでボルフォフは得心いった表情になった。
「なるほどな。ザザとディーか」
「賭けは成立だよ」
「分が悪いな。ザザはあれでジヴに惚《ほ》れ込んでいるし、ディーはどう見ても気がある。判ってないのはジヴぐらいのもんだ」
難しい顔をして髭《ひげ》を引っ張る。が、突然破顔して続けた。「だが、あのふたりまで救援に来るところを見られるなら、賭けに負けても損はあるまい」
その時、ガッシュの笑顔が一瞬に引き締まった。
口元に指を当て、武装を整えるよう身振りでボルフォフに示す。
ボルフォフもまた、即座にこれを理解した。
何者かがこの玄室に迫っている。それも明らかにフレイではない。
ボルフォフが寝ている間に、フレイとガッシュは玄室近くの洞内の要所要所に仕掛けを施《ほどこ》していた。通路の床面すれすれに糸を張り、何者かが不用意に通過すれば微《かす》かに警報が鳴るようになっている。引っ掛かった当人が気づかぬ程度のものだが、あらかじめ気構えがあり、また研ぎ澄まされた聴力を持つガッシュなら寝ていても敵の接近を察知できる。
フレイなら避ける筈のその警報が、確かにガッシュの耳に届いた。
敵が近づいているとなると、この玄室に潜み続けるのは危険である。出入口がひとつしかない袋小路は隠れるには都合が良いが、発見された場合逃げ場が皆無となる。立て篭《こも》ることもできるが、多勢《たぜい》を相手にそうなってはもはや時間|稼《かせ》ぎにしかならない。戦闘を避けるなら一刻も早く移動しなければならなかった。
ガッシュの準備は迅速《じんそく》だった。異常を察して数秒の内に必要な荷物をまとめ、簡略な面頬《めんぼお》のついた自分の鉄|兜《かぶと》を引き被《かぶ》り、ミスリル製の籠手《こて》を嵌《は》めて盾を引っ掴《つか》む。その間にボルフォフにも手を貸し、なおかつ着込んだ鎧の板金《プレート》がうるさくぶつかることがない。
ボルフォフもまた、さすがは熟達者《マスター》≠フ戦士だった。敵の素性を知った瞬間に傍《かたわ》らに置いてあった愛用の重戦斧を引き寄せて杖代わりに立ち上がっている。一度立ち上がってしまえば、傷の激痛はその凄まじいまでの精神力でしばらくは抑えることができる。まさしく一級の戦士の条件を備えた男であった。
ガッシュが音もなく扉についた時点で、最初の警報から十秒あまりしか要していない。盾の陰には遮光板で覆ったランプをしっかり手にしている。
第二の警報が鳴った。その何者かはそれほど急いだ様子もなく、しかし着実に玄室に近づきつつあった。
逃げ出すなら早いほうが良かった。相手がこちらの存在を察知できる距離に入る前に、素早く通路を逆方向に逃げなければならない。
ふたりは頷《うなず》き、静かに扉を引き開けた。暗闇に包まれた通路にそろりと足を踏み出す。
ガッシュとボルフォフは、同時にその気配に気づいた。
驚くほど近くの闇の中に、何かが佇《たたず》んでいた。
それは断じて、警報にかかりながら迫っていたものと同じではあり得ない。現に今も、ガッシュは継続して接近する存在が第三の警報にかかった音を耳にしている。
つまりそこにいる者は、巧妙に張り巡らせておいた警報を悉《ことごと》く看破し、引っ掛かることなく玄室まで辿《たど》り着いたということになる。
――フレイか?
そう呼びかけようとして、ガッシュは危うく思いとどまった。
直感である。それ以外に、判断の要素となるものはなかった。
そしてその直感こそが、これまでに何度もガッシュを助けてきたのだ。
躊躇《ちゅうちょ》するな。正体を確かめる暇はない。一撃に斃《たお》せと、戦士の本能が告げていた。また、この勘働《かんばたら》きが閃《ひらめ》く時は例外なく生死の境にあることをガッシュは存分に知っている。
わずかな逡巡《しゅんじゅん》が死を呼ぶ。今がその時だった。
気配を察知した一瞬に、ガッシュの判断は下されていた。
鞘《さや》を鳴らしながら、腰につけた段平《だんびら》が斜め上に一息に引き抜かれる。
頭上で翻《ひるがえ》ったと見えた時には、大剣はすでに落雷の如くに打ち下ろされていた。動作に一点の遅滞《ちたい》もない、まるで鞘《さや》の中から疾風が吹き出したような抜き打ちだった。それを長く重い段平《だんびら》でやってのけるところが、ガッシュの剣技の恐ろしさである。
手応えは充分だった。呪文で刃を強化された古代の魔法剣は、凄まじい迅《はや》さの斬撃に呼応して切れ味を増し、鋼すら断つ威力を生み出していた。
悲鳴をあげる暇もなく、それは真っ二つに切り裂かれていた。
ガッシュは素早くランプの遮光板を開き、たった今斬ったものが何であったのかを確認した。急がなければ接近中の敵に気取《けど》られることになる。
小さな隙間から漏れた細い光が、湿った音を立てて頽《くずお》れたそれを黄色く照らす。
見つめるふたりの戦士は、そこに浮かび上がった屍《しかばね》に愕然《がくぜん》とした。
見知ったホビットの姿がそこにあった。頭から唐竹《からたけ》割りに両断され、臍《へそ》の辺りまでが見事に裂けている。
フレイではないくその冒険者の名はポーリンと言った。ホビットには珍しいビショップで、エルフの僧侶サーベイに指揮されるパーティの一員である。
しかし――。
ガッシュの直感が外れ、誤って救援者を殺してしまった――というわけではなかった。
綺麗に断ち割られたポーリンの皮の内側で、あの妖獣《ゼノ》もまた真っ二つに斬られ、絶命していた。それはもうすでにポーリンではなかったのだ。
そればかりではない。その口からは次の瞬間にも飛び出していたであろう、これも一刀両断された分裂済みの幼生が覗いていた。
ガッシュの獣じみた勘はあくまで正しかった。もしあそこで呼びかけていたなら――そして斬撃を躊躇《ちゅうちょ》したなら、ガッシュは確実に妖獣《ゼノ》に取り憑かれていただろう。今回もまた、その直感は彼を救ったのだ。
だが、ガッシュとボルフォフが愕然《がくぜん》としたのは、死の顎《あぎと》が寸前まで迫っていたからではない。
ポーリンが迷宮にいて、しかも妖獣《ゼノ》の餌食《えじき》となっていた事実が彼らに衝撃を与えていた。
ふたりは悟った。
消息を絶った自分たちを救うため、すでに多くの冒険者が梯子山《スケイル》に入っていることを。そして彼らは自分たちと同じ轍《てつ》を踏み、次々と妖獣《ゼノ》の奇襲に斃《たお》れているのだ。
それはまた、フレイの伝令の失敗をも意味していた。情報がもたらされていれば当然の、妖獣《ゼノ》に対する備えがなかったことからそれと知れる。
もはや救援は望めぬことを、ふたりはここではっきりと知ったのだった。
ガッシュはランプの光を遮《さえぎ》った。危機はまだ去っていないのだ。
近づきつつある何かは、もうその移動音が直《じか》に聴き取れる距離にまで迫っていた。ずるずると湿った肉を引きずるような音。味方である筈がなかった。
「行こう」
ボルフォフに囁《ささや》さ、迫る物音とは反対の方向にそろりと歩きだす。
押し殺したふたりの気配は、鍾乳洞の迷宮の暗闇に溶け込み、やがて消えていった。
[#改ページ]
底本
創土社
風よ。龍に届いているか(上)
2002年11月11日 第1刷
著者――ベニー松山