終末をもたらす者
Beender
作/ベニー松山
1224年    覚醒/開放
奇怪な玄室だった。
床にも、壁にも、樹の根のような――あるいは血管を思わせる、ぬめりのある筋が縦横に網目を描いている。静寂に包まれていながら、地鳴りのごとき胎動を錯覚させる異様な空間。何か巨大な生物の巣窟を想起させる、感覚の鋭敏な者なら即座に逃げ出すであろう禍々しさをはらんだ場所であった。
しかし、不幸にもゼルゲン三兄弟は、ディガーとしてはあまりにも劣悪な才覚しか持ち合わせていなかった。他の有能なディガーに張り付いておこぼれを頂戴する、ハイエナのような半端者でしかなかったのだ。
その、あからさまに不吉な玄室の中央に、金属製の箱が安置されていた。部屋を覆う血管状の筋も、全てはこの箱に収束しているように見える。宝物を納める櫃と見えなくもなかったが、その印象はむしろ棺に近い。しかも、それはアニマを妨げるとして嫌われる金属の中でも、もっとも遮断性の高い鉛で造られている。
明らかに不自然だった。いまだかつてクヴェルが発見されたことのない南大陸の、それも大砂漠の中心部――地図の空白地帯にひっそりと存在していた謎のメガリス。こうした超古代文明の遺跡で、鉛に類する金属が使用されていた例もまたなかった。それだけでも、ここが他地域のメガリスとは全く異質な目的で建造されたということが推測できる。
この発掘が、歴史に残るものになる可能性は大いにある。だが、それ以上に、人が触れるべきではない禁忌を掘り当ててしまう危険の予兆が、このメガリスには満ちていた。
アレクセイ・ゼルゲンも、無論その危険について思いを巡らせなかったわけではない。
メガリスという遺跡については、基本的に何ひとつ解明されていないのだ。何者が、どういった目的で建造したのか――そして、その機能さえも。ディガーのクヴェル掘りなどは、超古代遺産の表層だけをなでるに過ぎぬ行為だった。まれに深入りしすぎた者が遺跡の中枢に接触し、原因すら判らぬ死を遂げる例をアレクセイは聞き知っていた。あるいはアニマを変質させられて、人ならぬ者へ化身したという噂も――。
技能や才覚で劣るがゆえに、アレクセイはそうした、メガリスの理解できぬ領域への畏怖を人一倍感じていた。少なくとも弟たちよりはまともな認識を持っていた。にもかかわらず、彼は止まれなかった。彼ら兄弟がダニのようにまとわりついてきた第一級ディガー、ヘンリー・ナイツの忠告を聞き入れることができなかったのだ。
アレクセイを突き動かしていたのは、この発掘で手に入れるであろう素晴らしいクヴェルと、それによってもたらされる誉れ高き称号への渇望だった。偉大な功績を残した者に賞賛をもって与えられるタイクーンの名。自分には生涯縁のないものとあきらめていた栄光が、目の前の鉛箱から転がり出てくるかも知れないのだ。ヘンリーが発掘を制止したのも、自ら危険を冒したくはないが、アレクセイたちだけで成果をあげられるのは面白くないからではなかったのか――そう考えると、もう歯止めは効かなかった。
だから、その呪わしい棺がついに抵抗をやめ、重々しい鉛の蓋が外れた瞬間も、アレクセイは浅ましい野望の成就を信じて疑わなかった。人間の歴史をはるかに越える長き封印を解かれ、澱のように濁った空気が噴出した刹那、箱の中の暗がりで何かが飢えた獣の目のように光ったのも、彼には人生を激変させる幸運の合図としか感じられなかった。
確かに、アレクセイ・ゼルゲンの人生はこの時を境に一変する。鉛の墓所に収められていた、卵を思わせるクヴェルとの出会いによって。
「ひひひ……あ、あったよ兄貴ィ。ヘンリーの奴、ビビっちまって、とんだ貧乏クジを引いたもんだよな。こ、これで俺たちもやっと、やっとだよな兄貴、へへ……」
末弟のピーターが興奮を抑えきれず、歯並びの悪い口から唾を撒き散らしながら、うわずった声でまくし立てる。そのくせ、本当のところはひどく怯えていて、次兄のニコラのでかいだけの図体を盾にするように、恐る恐る鉛箱の中をのぞいている。
「そうだ。これでやっと、ヘンリーを見返してやれる。いつも俺たち兄弟を見下しやがって……おい、ニコラ。早くそのクヴェルを取り出せよ」
うう、と唸り、アレクセイに命じられるままにニコラが左手を棺に突っ込む。この次男は体格こそ人並み以上だったが、アニマを操る術技能がきわめて低く、クヴェルを手にしても初歩的な術さえ満足にこなせないようなありさまだった。だからこそ、どのような効力を秘めているか判らないクヴェルを回収させるには最適だったのだが。
そのニコラの左手が卵型のクヴェルをつかんだ瞬間、閃光がアレクセイの視界を覆った。同時に、血液をたっぷり含んだ肉が焦げる嫌な匂いが玄室に満ちる。
視覚が麻痺していたのはごく短い時間だった。アレクセイが正常な視力を取り戻した時、そこには直前まで存在していなかったはずの、奇妙な物体が立ち現れていた。白煙を上げる人間大の、黒く炭化した丸太のようなもの。それはゆっくりと傾き、次第に勢いを増して床に倒れ込んでゆく。衝撃で黒い煤煙が湧き起こり、丸太の先端が球状に砕けてごろりと転がる。ひどく隙間の開いたちぐはぐな歯列が、そこだけ白くアレクセイの目に焼きついた。
それは、黒焦げになったピーターの頭蓋だった。この哀れな末弟は、あの一瞬に信じがたい高熱に灼かれ、無惨に炭化した屍となり果てていたのだった。
次にアレクセイが見たのは、仁王立ちのまま微動だにしないニコラの姿であった。その、最初にクヴェルに触れたであろう左手の、手首から先が綺麗に消失していた。肉がむき出しになった赤い断面は、しかし一滴の血も滲ませてはいない。
クヴェルによって、ニコラのアニマが暴走したのだった。それはニコラの左手に相当するアニマを吸収し、驚異的な威力の術効果を暴発させてピーターを消し炭に変えたのだ。
しかし、この時アレクセイが感じていた恐怖は、末弟の唐突な死によるものではなかった。
ニコラの右手に、卵型のクヴェルが握られていたからである。
それが原因で左手を失いながらも、ニコラはすぐにまた、残る右手でクヴェルをつかみ取っていた――この異常な事実が、アレクセイを心底怯えさせた。尋常の神経でできることではない。まして、ちょっとした傷でもひいひい泣きわめいてきたニコラに、そのような真似ができるわけがないのだ。その違和感が、アレクセイの恐怖の根元だった。
ニコラが、緩慢な動作で首を巡らせ、アレクセイを見た。その眼には何の感情も宿っていない。おのれの術によって引き起こされた弟の死を一顧だにすることもなく、ニコラは兄に向かって命令を発した。
「フォーゲラングへ戻る。この肉体に時間はあまり残されていない。必要な物資だけをまとめろ」
「ひい」
聞き慣れた愚鈍な弟の口調ではなかった。どろりと濁ったニコラの双眸に射すくめられて、アレクセイは混乱し、怯え、自分がただ従うしかないことを悟った。タイクーン・アレクセイなどと呼ばれる夢想は、もう跡形もなく消え去っていた。
しかし、ただならぬ事態に戦慄を覚えながらも、彼はニコラの手に握られたクヴェルにどうしようもなく惹きつけられている自分を否定できなかった。殺してでもあれを奪いたい――そんな妄念が、アレクセイの脳裏をよぎり始めていた。
以来八十年に及び、人類を影から脅かし続けた超存在エッグの、忌まわしき覚醒はこうして始まったのだった。
奇しくも、同じ日――。
南大陸奥地から遠く離れた東大陸の南方、寒冷地帯ヴァイスラントのとば口となるラウプホルツ郊外で、その怪異は起こった。
見渡す限りに広がる大森林が、沈みゆく夕陽に赤く染め上げられた時分。やがて日輪は山脈の向こう側へと姿を消し、長く伸びた影がいつしかすべてを包み込む黄昏時が訪れる。人と魔の、現と幻の支配が交錯する薄暮の世界――あたかもそれを体現するかのように、幻想の産物は現実のただなかへと姿を現した。
かつて、古代よりこの地にあったと伝えられる魔塔。それはある時を境に、樹海から忽然と消え去っていた。何の痕跡も残さず、幻影のごとくに。
数百年の空白を経て、その塔は消失した時と同じく、突如として夕景の一角に実体を得たのだった。朱の空に黒々と屹立するその姿は、静寂に満ちた墓標を思わせた。あるいは、大地に深々と突き立てられた神々の大剣を。
そして、もうひとつの怪異が、夜闇に溶けゆく影の塔から解き放たれようとしていた。
それは、冬の荒野を渡る疾風に似ていた。一瞬に近付き、身体の芯まで突き抜ける冷気を残して駆け去っていく姿なき一陣の風――塔より飛び出したのは、まさにそのような存在であった。
実体は確かにある。だが、それを認識する術を、この時代のほとんどの人間は持っていない。アニマで物体を捉えようとする常人の感覚では、それは色のない風を視るに等しい行為だった。なぜならその存在は、万物が有するはずのアニマを、一切持たぬ生命体であったからだ。
もしも、純然たる視覚のみでこの日、この場所を見守る者がいたなら、見えたであろう。きしみ、押し開かれる魔塔の大扉から、ひとりの青年が出現するのを。透ける肌と、長い銀の髪を持つ、美しくも幽鬼のごとき剣士の姿を。
幻想の世界に属するはずの美剣士は、現の世に一歩を踏み出したところで立ち止まり、夕暮れの外界を無表情に眺めた。これより己が跳梁する新たな舞台に満足したのか、その美貌にあるかなしかの微笑が浮かぶ――そう見えた刹那、彼の姿は視覚からもかき消えた。大気を裂く風音だけを残して。
“夜猟者”と呼ばれた者の物語もまた、ここに幕を開ける。
1228年    夜猟者
二十三歳のネーベルスタンは、死がその大顎を開き、冷たい吐息を浴びせかけてくる感覚を間近に味わっていた。
若さゆえに、自分が何でもできると信じていた。同時に、何ができるのか、その証を示す方法が判らなかった。そこで彼は、手っ取り早いやり方として、命を賭けた蛮勇をやり遂げようと決意したのだった。
南大陸ナ国の首都グリューゲルから、砂漠と荒野の果てに孤立する辺境の町フォーゲラングまでの困難な道のり――本来なら数人で隊を組み、地勢を熟知した案内人を雇って初めて踏破が可能となる旅に、ネーベルスタンはあらゆる忠告を無視して単独で挑んだ。ワイドを離れてから数年に及ぶ廻国修行で、術にも槍術にも磨きがかかっている。荒野を徘徊する肉食昆虫や獣などに遅れを取るなど、万が一にもあり得ないと彼は考えていた。
事実、ネーベルスタンは大した資質の持ち主だった。無謀のそしりを驚嘆と称賛に変えるだけの実力をも備えていた。襲いくる巨大アリたちを焼き払い、あるいは猛牛の突進を軽やかにかわして、彼は順調に道程をこなした。この程度の苦難では、自分の勇気の証明にはならぬのではないか――そんな思いさえ生じるほどに、旅は快調そのものであった。
誤算は、日没と同時にやってきた。
地表からの熱放射を妨げる樹木草類に乏しい砂漠地帯では、夜間の冷え込みは日中の猛暑からは想像もできない落差で旅人を襲う。この大自然の罠に、岩荒野について充分な知識を仕入れなかったネーベルスタンはあっさりとはまりこんだ。
氷点下近くまで落ちた気温に、軽装のネーベルスタンは急激に体力を奪われていく。吹きさらしの岩場では朝まで持ちそうにないと判断し、彼はタブーとされる夜間の移動を開始した。夜行性の凶暴な魔物に出くわす危険を冒しながら、できる限り昼の熱がこもった峡谷の下方へ――。
ふつうなら、その判断は間違ってはいなかった。ただ、ここ岩荒野ではそれもまた避けられぬ罠のひとつであった。峡谷の底に奇跡のように湧き出している泉――誰もが巡り会った幸運を疑わぬであろうオアシスに、死神は待ち構えていた。
そこは、グリフォンの餌場であったのだ。
岩荒野の生態系の頂点に立つのは、疑いなくこの生物であった。強靱な獅子の肉体に、猛禽類の特徴を併せ持つ獰猛な合成獣――しなやかな翼は巨体を大空に舞い上げ、騎士の大槍のごときクチバシは獲物の急所を確実についばむ。魔獣グリフォンとは、機動性、攻撃力、耐久力すべてにおいて、比類し得るもののない荒野の暴君であった。
泉の水をすくおうとしたネーベルスタンに、高みから餌場を監視していたグリフォンは音もなく滑空し、襲いかかった。天性の勘でこれを察知し、迫りくるクチバシを手にした槍でかろうじて逸らしたネーベルスタンだったが、槍術の達人であるがゆえにこの一瞬で自分の運命を理解した。
勝てる道理がなかった。これが寒さで体力を失う前の、万全の状態であったとしても――さらに彼と同じ技量の者があと数名いたとしても、この凶獣を仕留めることなどできはしない。圧倒的な戦闘力の違いを悟った瞬間に、ネーベルスタンはこれまで縁遠いものとして捉えてきた死を間近に感じたのだった。
流れる雲が月光をさえぎり、グリフォンを黒々とした影の塊のように見せる。その前肢が振り上げられると同時に、再び月が顔をのぞかせ、ひとつが大人の上腕ほどのサイズを持つ鋭利な三本爪を輝かせる。自分の今の腕では、この一撃をかわせぬ事をネーベルスタンは察した。
彼の心臓をえぐり出すべく、魔獣の爪が頭上から振り下ろされる。それはまるで、彼の命を貪ろうとする死の顎が、むき出しにした牙を噛み合わせるかのような眺めだった。逃れられぬ破滅――蛮勇の代償はあまりにも高くついた。
しかし、自嘲の笑みを浮かべながらもネーベルスタンは、ならばせめて釣りを払い戻させてやろうと覚悟を決めていた。防御は微塵も考えない。自分の心臓と引き替えに、グリフォンの指一本を斬り落とすことだけに狙いを定める。人間という獲物が、恐怖にすくみ上がって大人しく餌になる類の生き物ではないということを、慢心する荒野の王に教えてやるつもりだった。
極度に高まった集中力が、ネーベルスタンの目に映るすべてを緩慢に見せる、魔獣の太い指に槍の穂先が食い込む感触が伝わってきた、その刹那――。
グリフォンの指が消えた。彼が切断したわけではなく、その感触自体が唐突に消失していた。指だけではない。残る二本の爪も――いや、その前肢が丸ごと、ネーベルスタンの視界から消滅していたのだ。宙に舞う、無数の肉片と血飛沫だけを残して。
そして、研ぎ澄まされた感覚の中で彼は視た。
月光を浴び、ほのかに浮かび上がる髑髏――否、それは燐光を放つ肌に包まれた、幻影のごとき美青年だった。その男の骨格が、冴えた光の下で透き通って見えるのである。現実の存在とは思えぬ、妖しの美をまとった姿であった。
青年の手には、月が見えた。石でも樹でもない長大な刃が、鍛え抜かれた輝きをもって月光を映し取っているのだ。その刀身に彫り込まれた文字らしき紋様を、ネーベルスタンは読み解くことができない。
亡霊か、はたまた幽鬼と思しき青年は、その剣を凄まじい迅さで振るっていた。次々に繰り出される斬撃が、グリフォンの前肢に続いて、クチバシを、頭部を、そして胴体と羽根を、まるで石臼にすり潰される穀物の粒のように切り刻んでいく。そこにあるのはもはや荒野の暴君などではなく、羽毛と血と骨が混じり合った大量の肉塊に過ぎなかった。
暴風のような太刀を振るいながら、同時に魔性の剣士は何かを啖っていた。絶命した魔獣の巨体から噴出する、気配のような不可視のエネルギー――グリフォンの内包していた膨大なアニマを、剣士はその体内に吸い込んでいるのだった。
グリフォンよりもはるかに恐ろしいものに遭遇しているのだと、ネーベルスタンはしびれた頭で理解した。人の身では抗えぬ、天変地異に属する超越した存在――そう直観していながらも、彼は恐怖をねじ伏せて槍を構えた。それが眼前の怪異に対してわらくずにも等しい武器だと判っていても。それはネーベルスタンの意志の象徴だった。死をこばむ生命の証だった。
グリフォンのアニマを啖い尽くし、美しき幽鬼はゆっくりとネーベルスタンに向き直った。髑髏にはまった水晶の眼が、心の底まで見通すように彼に注がれる。死すべきものかどうかを見定める、審判を下されているのだとネーベルスタンは感じた。
剣士の、理想的な形をした透明の唇がわずかに動いた。笑った――そう思った瞬間、剣士はもうそこにはいなかった。風が駆け抜けたあとの、わずかな大気の揺らぎがネーベルスタンの頬をなでる。冷たい汗が滝のように流れ落ちた。
危機は彼方に去った。だが、魔獣の屍の前で、彼は夜明けまで槍の穂先を掲げ続けた。生命を守る霊験あらたかな護符のように。
この夜の体験を、ネーベルスタンは生涯誰にも語ることはなかった。しかし彼の胸に刻み込まれた畏怖の記憶は、もともと才能あふれる青年に、主観を交えず冷静に物事を見通す謙虚さと、誰よりもまず自分を律する厳しさを与えることとなった。
ワイド侯国にその人ありと言われ、のちにはギュスターヴ軍を支える稀代の名将と謳われたネーベルスタン将軍の、転機となる若き日の出来事であった。
1232年    鋼のギュスターヴ
その日の夕刻、十二歳のギュスターヴはナ国の都グリューゲルを抜け出し、街道を独りあてもなく歩き始めた。
フィニー王家の世継ぎとして生を受けながら、己のアニマを示す“ファイアブランドの儀式”に失敗し、母ソフィー以外のすべてを失って五年――遠い異国での亡命生活と、実の父に出来損ないと見なされたという思いは、幼かったギュスターヴの心に克服しがたい劣等感を植えつけていた。
この時代のほとんどの者が、草笛を吹くのと同じように気軽に操ることのできる術を、アニマがないばかりに全く使えぬという事実。術不能者の烙印は、すなわち役立たずの厄介者であることを意味していた。比較的に術能力を重視しないここ南大陸でも、完全な術不能は憐れみの対象であり、その同情の視線が余計にギュスターヴを苛立たせ、傷つけたのだった。彼の心は川のよどみのように濁り、消せぬ怒りはしばしば暴力という形で、自分よりも弱い者に向けて噴き出した。母の願いと献身も虚しく、まっすぐ伸びるための支えを己の内に持たぬギュスターヴは、人間として最悪の方向に進み始めていた。
この日、自らを人間のクズと卑下してソフィーに平手で打たれ、そして心の奥に隠してきた悲しみをレスリーという少女に看破されて、ギュスターヴは自暴自棄になっていた。
誰も自分のことなど知らぬ場所に行ってしまいたかった。今、母やレスリーと顔を合わせたなら、今度はもっと恥ずべき心の内側まで見透かされてしまうかも知れぬ――。
そう思い詰めて、彼は密かに、黄昏の薄闇に紛れて都の外へと飛び出したのだった。
首都グリューゲルの周辺地域は、いわゆる辺境とは比べものにならぬほど安全ではある。税収の安定を図るべく兵によるモンスター狩りが定期的に行なわれ、住民が安心して農業などの産業に従事できるよう配慮がなされていた。ゆえに魔物の類が活発に動き始める日暮れ以降も、宿場にたどり着けなかった旅人が即、生命の危険にされされるような土地柄ではない。
しかしながら、初歩的な術さえ使うことのできぬギュスターヴにとっては、たとえどのように低級な魔物や野犬の類との遭遇も、そのまま死に等しい意味を持っていた。
その物質が秘めた本質――アニマを引き出してやらなければ、石の剣はただ重いだけの板でしかない。石が属性として持つ“硬い”というイメージを術として現象化させることで、石剣ははじめて“斬る”力を帯びるのである。
それができないギュスターヴは戦うことさえ叶わぬ、爪も牙もない赤子も同様だった。いや、夜の荒野だけではない。彼にとって術中心のこの社会は、ただ生きていくことさえ息苦しい。深海のごとき環境であたのだ。
草深い平原を蛇行する一本道を、ただひたすらにギュスターヴは歩き続けた。恐くないと言えば嘘になる。ただ、長くくすぶり続けた捨て鉢な感情は、この日頂点に達して死への恐怖を上回ったのだった。半ば死者の世界――他界に身を置いた彼は、目に映るものすべてが現実味を喪失したような、奇妙にふわふわとした心持ちで深まる夜を彷徨っていた。
グリューゲルからどれだけ離れたのだろうか。距離も、そして時間の感覚もとうにない。子供の足ではさして遠くまでたどり着けるはずもなかったが、大地の起伏のせいか、振り向いてもすでに町の灯は見えない。透明に澄んだ夜空には無数の星がきらめき、いつの間にか中天に昇った月が彼に冷たい光を投げかける。
――今ここで命を落としても、僕には大地に還るべきアニマなどないのか。
王族として生まれた自分が、アニマなき特異な人間であることをギュスターヴは呪った。天地の理からも外れたこの身に、一体どんな意味があると言うのか。間違いで生を受けたというのなら、こんな命など今すぐなくなってしまえばいいのだ……そう心の内に叫び、彼はあふれ出る涙を乱暴にぬぐった。
その時だった。ぼやけた視界に、何か動くものが見えた。さすがにどきりとし、ギュスターヴは月明かりに目を凝らす。
それは街道ではなく、草原の中にいた。すぐそばではなかったが、ギュスターヴからはっきりと視認できる位置に、その剣士はいた。
美しい青年だった。異国風の装束を身につけ、長くたなびく髪は銀。女性と見紛うほどの美貌が、降り注ぐ月光に恐ろしいほどに映える。その妖しいまでの美が、ギュスターヴにはっきりと認識させた。それが死の世界に属する存在であると。
事実、このアニマなき魔剣士は常人には知覚できない。同じくアニマを持たないギュスターヴだからこそ、あるがままの視覚で彼を捉えることができたのである。
しかしこの時、すでにギュスターヴの目はこの世の者ならぬ剣士ではなく、別のものに釘付けとなっていた。
剣士の手に輝く、長剣にである。
それは、鋼で造られた剣であった。遠目に見ても、その独特の光沢は疑いようがない。アニマの伝達を妨げるとして忌み嫌われ、武具はおろか純金以外は装身具としても用いられることのない金属で、その刃は作り上げられていたのだ。
妖しの剣士は、あたかも月に住まう神々に舞を捧げるかのように、虚空に向かって流麗な刃の軌跡を描いていた。相当な重量を持つであろう鋼鉄剣が、稲妻の迅さで月下に閃く。
術技能のないギュスターヴには感知できなかったが、剣が舞い踊る空間には、不可視の魔物が浮遊していた。自然に還ることができず、迷いアニマとなったものたちの集合体――その悪霊を鋼剣で切り裂き、噴き出すアニマを魔剣士は啖っていたのである。もしもこうして滅ぼされていなかったなら、彷徨う悪霊は朝までに間違いなくギュスターヴを見つけ、取り殺していたことだろう。
剣士もギュスターヴには気付いている。だが、啖うべきアニマのない少年は、彼の興味を引かなかった。剣士はただ鋼剣を振るい、見る者にさまざまな剣技の手掛かりを与えるであろう幻想的な舞いを披露し続けた。
そのさまを、ギュスターヴは放心して見つめていた。父ギュスターヴ12世に石ころと罵られ、王宮をあとにしたあの日から、彼が心の奥底で求め続けてきた答えが今、目の前に現れようとしていたのだ。
フィニー王家に代々伝わる炎のクヴェル・ファイアブランド。彼の絶望の引き金となったこの宝剣を、ギュスターヴは忘れることができないでいた。儀式のために手にした感触は、五年を経た今も生々しく彼の記憶に浮かび上がる。
――自分だけの牙が欲しい。あのファイアブランドにも劣らない、僕がこの世界と戦うための武器が……。
その願いを現実へと導く着想が、この時ギュスターヴの脳裏に舞い降りようとしていた。
瞬きすら忘れた目から、とめどなく流れ落ちる涙。ギュスターヴは幻視したのである。いつか近い未来、彼が手にするであろう強き爪牙を――。
彼が我に返った時、すべては幻であったかのように、草原に舞う美しき剣士の姿は跡形もなく消え去っていた。
しかし、それが幻覚であれ、ギュスターヴはもはや迷わなかった。欲してやまなかった内なる支えは、すでに彼の胸の中にあった。
翌朝、捜索隊のひとりとしていち早くこの草原に駆けつけた術不能の少年フリンは、昨日までとは見違えるように自信にあふれ、心なしか優しく穏やかな顔つきになったギュスターヴを発見して我が目を疑った。そのフリンのあからさまな態度に眉を吊り上げ、ギュスターヴはいつものように拳骨を、ただし軽く一発だけ見舞うと、颯爽と胸を張って帰路についた。朝日を全身に浴び、希望に頬を紅潮させ、彼はフリンに高らかに宣言した。
「俺はもう、自分が価値のない人間だなんて思わない。お前だってそうさ、フリン。だから俺は、俺やお前が無能だなんて言われないですむ国を創る。術が使えなくたって、ふつうに生きていける場所を創るんだ――」
それから十数年の後、ギュスターヴはこの少年時代の夢想を現実のものとする。鋼のギュスターヴと呼ばれ、術偏重の社会に変革をもたらした風雲児は、まさにこの瞬間に誕生したのであった。
1236年    術師の憂鬱/貴族の感傷
実のところナルセスは、十五も年下のウィル――ウィリアム・ナイツのことを高く評価していた。ついつい皮肉や嫌味を口にしてしまいながらも、内心はこの才能あふれる若きディガーに舌を巻く思いだった。
この前年、ナルセスはディガーのメッカとも言われるロードレスランド西部の町ヴェスティアで、初めてクヴェル掘りにおもむくという少年と出会った。その顔にまだ幼少のあどけなさを残す、素直で屈託のない新米ディガー――それがウィルだった。
ウィルの、他人を疑うことを知らぬ瞳を見た時、ナルセスは胸の奥に痛みに似たうずきを覚えた。あるかどうかも判らない宝探しに明け暮れ、互いに疑心暗鬼となって化かしあうゴロツキまがいのディガーたち。そんな中に放り込まれたなら、この無防備な少年は間違いなく命を落とすだろう。そう予感したのだ。
ここ数年のヴィジランツ暮らしで、他人への無関心がすっかり身に付いていたナルセスだったが、どういうわけかウィルを放っておく気にはなれなかった。この少年も一度発掘を経験してみれば、クヴェルなどそうそう見つかるものではなく、結局は実入りよりもリスクのほうが大きいことに気づくだろう。ディガーなどあきらめて故郷へ帰ってくれればそれでいい――そう考え、おそらくは何の成果も上がらぬであろう取り分をふっかけて、ナルセスはウィルの護衛に加わったのだった。
ところが、彼のもくろみは全くの裏目に出た。
これまでも多くのディガーが挑戦しては、命からがら敗走したり、あるいは空振りに終わったハンの廃墟の探索。もう何年も高価なクヴェルが発見されていないことから、もはや発掘され尽くしたとまで言われていたこの帝国時代の都市遺跡で、彼らは何と三種ものクヴェルを手に入れたのである。
そのすべてを発見したのがウィルだった。ナルセスの知る限り、こんなデビューをやってのけた新米ディガーなどいるはずもない。クヴェルに対する天性の嗅覚――そう考える以外、説明のつけようのない大収穫であった。
この初仕事以来、パーティーの中でも年長のナルセスは、ウィルに何かと頼られる間柄となった。生来ひねくれ者を自負する彼は、照れ隠しの意味もあってウィルをいつも未熟者扱いしてしまうのだが、本心ではこの天才ディガーが生涯にどれだけの偉業を打ち立てるのか、それをいつまでも見守っていきたいと願っていた。
そんな経緯もあってこの年、ナルセスはウィルの頼みを断りきれず、二度と足を踏み入れぬと誓った術不毛地帯の南大陸奥地へと同行することになる。ウィルの両親の死の真相と、砂漠のただなかにあるという謎のメガリスで発見された卵型の奇妙なクヴェルについて調べるべく、彼らは辺境の町フォーゲラングを訪れたのだった。
この件に、あのアレクセイ・ゼルゲンが密接に関わっていると知った時から、ナルセスの胸中には嫌な予感が黒い雷雲のように広がり始めていた。ヴェスティア近辺でもっとも有名であり、蛇蠍のごとく毛嫌いされ、恐れられているディガー――いや、アレクセイ一味のことをディガーだと考える者は今ではほとんどいない。彼らはただの略奪者だった。クヴェルを掘り当てるのではなく、それを持つ者から奪うことを生業とする、最低限の誇りさえ忘れ果てた冒険者くずれ。目的を果たすためなら殺人さえいとわず、現実に何人ものディガーが彼らの周囲で行方不明になっていると言われる。
できることなら、ウィルには生涯関わって欲しくない相手だった。アレクセイと接触することで、純粋なウィルの魂が汚れてしまうのではないか――そう危惧しながらも、ナルセスはまた、それは避けられぬことなのだと感じていた。なぜなら彼は耳にしたことがあった。極悪非道をもって鳴るアレクセイ・ゼルゲンの手には常に、エッグと呼ばれるクヴェルが握られているという噂を。
その、エッグの放つ暗い波動が、ウィルを呼び寄せているようにナルセスには思えた。この調査を始めて以来、素直すぎる少年が時折見せる思い詰めた表情に、ナルセスの懸念は募るのだった――。
「それにしてもだな、一体どこからそんな代物を考えついたんだ、ギュスターヴ?」
「……ん? 何を……だって?」
次々と舞い落ちる黄葉に、休みなく手製の鋼剣を繰り出しながらギュスターヴは訊き返した。彼の足下には、すでにふたつに切り裂かれた落ち葉が無数に散らばっている。
「だから、お前のその剣を……おい! 人の話を聞くときは目を見ろ! 貴族じゃなくとも守るべきマナーだぞ……いい加減フリンもやめないか、もう!」
話など上の空で剣技の訓練を続けるギュスターヴに腹を立て、ケルヴィンは樹上のフリンに怒りの矛先を向けた。
「だって、ギュス様が〜」
枝を揺すり、葉を落とす役割を任命されていたフリンがベソをかく。勝手に手を休めるとギュスターヴにどやされるし、かと言ってケルヴィンを無視するのも良くない。彼は温厚だし同年輩の友人でもあったが、何よりここヤーデに広大な所領を持つ伯爵トマス卿の子息なのだ。庶民の子に過ぎず、しかもその親のいるグリューゲルを離れてギュスターヴ母子についてきたフリンは、つまりはヤーデ伯の世話になって暮らしているも同じだった。そうした力関係をフリンはいつも、術不能者という引け目もあってつい難しく考えてしまう。
「もういいぞ、フリン。一休みしよう」
ギュスターヴが剣を収め、それからフリンの心を見透かしたように続けた。「今のはケルヴィンが八つ当たりをしたのであって、お前に非などない。余計な気を回さず、毅然としていればいいんだ」
顔を赤らめ、気色ばんだケルヴィンだったが、汗をにじませたギュスターヴに手ぬぐいを渡そうと近づいてきたレスリーがクスクスと笑っているのに気づき、咳払いをひとつして気を取り直す。貴族たる者には、人の規範となる振る舞いが求められる――それが幼い頃からの彼の行動哲学であった。婦女子の前でギュスターヴのちょっとした挑発に乗るなど、ヤーデ伯の嫡男としては少々思慮に欠ける行為だと彼は考えた。結局のところは異性の目を気にした格好つけなのだが、この時代の人間としては高い教養を持つケルヴィンは、それを見栄え良く装飾する概念をいろいろと知っていたのである。
「……とにかくだな、これでも私は感心しているんだ。初めてお前がその金属剣を振り回しているのを見た時は、さすがに乱心したんじゃないかと思ったからな」
「ずいぶんな言い草だな」
落ち葉の絨毯に腰を下ろし、渇いた喉をレスリーから受け取った井戸水で潤していたギュスターヴが唇をとがらせる。
「まあ聞け。それが今ではどうだ? 私から見ても、お前のその剣技は驚異的だ。術を用いて斬ろうとしたのでは、とてもこれほど立て続けに断ち割ることなどできん」
ケルヴィンは切断された落ち葉の山を指し、少し迷ってからそこに座った。子供のように地べたに腰を下ろすのは抵抗があったのだが、ギュスターヴといるとどうにもそんな虚勢が馬鹿らしく思えてくる。レスリーと、樹から滑り降りてきたフリンがもう座っているので、自分だけ立っているのも間が抜けていた。それで、四人は円座になる。
「そりゃあ、僕が毎日練習につき合わされてるんだもの」
「そのぶんお前もすばしっこくなったろ? 木登りしたり石を投げたり……」
「モンスターをおびき寄せたりとかねっ! このあいだなんか頭からスライムに溶かされそうになったんだから!」
「あ、それひどいわね」
身振りを交えてその様子を再現するフリンに、レスリーが笑いながら同情を示す。ケルヴィンもつられて噴き出した。ギュスターヴも首をのけぞらせて屈託なく笑う。
「あれは傑作だったなあ……で、この剣をどうやって思いついたかって質問だったな、ケルヴィン?」
「うむ。南大陸では伝統的に鍛冶技術が受け継がれてきたが、お前を除いては誰ひとり、鋼鉄で剣を打とうなどと考えた者はいなかった。独創的というか……あまりにも異質な思いつきだと言うべきだろうな。その着想を何から得たのか、私としてはそこに興味があるのだ」
「どうでもいいことに気を取られるものだ。なあフリン、レスリー?」
同意を求めたギュスターヴだったが、そのふたりも興味津々といった様子で身を乗り出しているのに気づき、彼は軽くため息をついた。
「みんな物好きなんだな……まあ、いいさ。信じるかどうかは勝手だが、俺が見たもののことを話してやるよ――」
そうして、ギュスターヴは十二歳の夜、グリューゲルの郊外で見た光景について初めて他人に語ったのだった。
話し終えた時、ある意味その家出騒動の関係者でもあるフリンとレスリーは、感心するやらどうして今まで話してくれなかったのかとヘソを曲げるやら、あの日のギュスターヴの興奮が四年を経て感染したかのようなありさまで彼を閉口させた。ただ、ケルヴィンだけは黙りこくり、しかしこの幻想めいた話に異論をはさむでもなく、何かに思いを巡らせているようだった。
この様子に気づいた三人が、ケルヴィンを見つめて言葉を待つ。視線を感じた彼はハッと顔を上げ、その意味するところを察して口を開く。
「実は先だって、グリューゲルのスイ王陛下のもとへ父上とともに参じた折、奇妙な噂話を耳にした――」
ナ国の王宮は、この頃すでに文化の発信地として世界中の王族貴族の子息令嬢が集まる、言わば知識階級のサロンのような役割を果たしていた。そういった社交場の常として、ここもまたゴシップをはじめとする最新の情報が集まる場所であった。
ケルヴィンが耳にしたのは、そこでもことさらに声をひそめて語られる類の話だった。すなわち怪異譚である。婦女子をおどかそうと軟派者がこしらえた馬鹿話と、本来なら耳も貸さぬケルヴィンだったが、その噂はあまりにも真に迫った現実味があり、さしもの彼もつい聞き入ってしまったという次第であった。
それは、“夜猟者”と呼ばれるものの噂であった。
その話を信じるなら、近年南大陸の各所で、その存在は目撃されているのだとケルヴィンは語り始めた。
“夜猟者”はその名の通り、夜に現われて狩りをする者である。陽が落ちた後の、月と闇が支配する世界を駆ける生命の狩人。その姿は風のごとくに目では捉えられず、ただ獲物を屠り、そのアニマを啖う時のみ、わずかに人の目に映る姿形を現すと言われる。ある物は金色の髑髏だと語り、またある者は妖しくも、この世のものならぬ美をたたえた青年だったとのたまった。しかしどの目撃例でも共通していることは、“夜猟者”は剣らしきものを手にしているということだった。
夜な夜な荒野を疾駆し、死すべき者の命を刈り取り啖う死神の剣士――それが、“夜猟者”と呼ばれ畏れられる怪異のあらましであった。
「案外、ギュスターヴ……お前が見た者はその“夜猟者”だったのかも知れないな――」
いつしか暖かな陽光は薄雲にさえぎられ、秋の冷たい風が四人の若者の間を走り抜けた。ざあっと枯葉が舞い、彼らを包む沈黙をいやでも強調する。フリンがかちかちと歯の根を震わせ始めたが、それが急に訪れた寒さのせいでないことは明らかだった。日頃は気丈なレスリーも身をすくめ、ギュスターヴさえもが黙って考え込んでいる。
少々脅かしすぎたことに後ろめたさを覚え、ケルヴィンは精一杯ほがらかに沈黙を破った。
「ハハハ、あくまでも噂話さ。大体、そんな死神に出くわした者が生きて目撃談を語るなんておかしな話だろう? もちろん私は頭から信じていないさ。ハハハハハハ……」
そう言いながらも、ケルヴィンもまた、この噂を耳にしてからというもの、“夜猟者”のイメージが頭から離れなくなっていたのだった。そこにきて、彼が一目置くギュスターヴの口からそれらしき存在との遭遇体験を聞いてしまい、この時“夜猟者”はより鮮明な、確たる姿となってケルヴィンの脳裏に生じた。そしてそれに続く、彼自身そう考えたことを認識できぬほど短い連想がよぎる――。
「あれ、ケルヴィン……泣いてるの?」
フリンに問われ、彼は自分の頬を伝い落ちる涙に気づいた。あわてて痕をぬぐい、何を想像したのか思い出そうとしたが、それは記憶に残らぬ思考の狭間へと消え去っていた。ただ、引き裂かれそうな悲しみの余韻だけが、彼の胸に立ち去りがたく留まっている。
それはギュスターヴの母、ソフィーへの想いだった。このところ身体の調子が思わしくなく、床に臥せりがちになった美しいソフィー――その彼女を、闇の中をひた走る“夜猟者”が冥府の旅へと連れ去ってしまうイメージが、一閃する雷火のように彼の脳裏をよぎったのである。
その感情が、母親ほどに年の離れた住人への憧れと言うより、むしろ恋に似たものであったことにケルヴィンは気づいていない。しかしこの三年後にソフィーが没した後も、それは彼の胸に静かに灯り続けた。そしてこの淡い想いが、後の彼の人生と、その子孫たちにある運命を決定づけるのだった。
再び、柔らかな日差しが四人を包む。まだ涙の止まらないケルヴィンをギュスターヴがからかい、レスリーとフリンが二人の間に割って入る。笑い声がさざめき、楽しげな歓声が、秋の深まりゆくヤーデの町にこだまする。
ギュスターヴたちがまだ、無邪気な子供時代を謳歌することのできた、青春の日の一幕であった。
1238年    コーデリア無情
十八歳のコーデリアは、ウィルと離れたくなかった。
優秀なディガーである彼に対する、ヴィジランツとして当たり前の判断などではない。彼女は純粋に、ウィルという異性に恋をしていた。
思えば十五の歳まで、女らしい自分の姿など、ろくに考えたこともなかった。幼い頃は男も女もなかったし、同世代の子供がそういったことを気にし始めた時分には、コーデリアは貧しい農村を出て、ヴィジランツとして生きていこうと心に決めていた。夜明けから日暮れまで家の手伝いをしながら、鋤を槍に見立てて修練を重ねてきた彼女に、異性に目を向ける暇などまったくなかったのだ。
それに、気がついてみると、彼女の周りには自分以上に頼りになりそうな男などいなかった。ふだんは威張り散らしていながら、少し本気になったコーデリアが鋤の柄でひっぱたくと、途端に泣きベソをかいて母親のもとに逃げ帰るような軟弱者ばかりだった。だから彼女は、恋など知らぬまま十五歳を迎え、決めていた通り故郷を出てヴィジランツとなったのである。
そして、コーデリアはウィリアム・ナイツに出会った。
最初は彼女も、同じく駆け出しで同い年のウィルを、とりたてて好ましいとは思っていなかった。彼は整った顔立ちで物腰も柔らかく、女だてらにヴィジランツを務めようとするコーデリアにも敬意を持って接してくれた、礼儀正しい少年であった。それが彼女には逆に、故郷の村にいた甘ったれの男子たちのような頼りなさを感じさせたのだ。
しかし、彼女はすぐにそれがつまらない偏見であったことを悟った。
ウィルは、コーデリアがこれまで見てきたどんな少年とも違っていた。危地にあっても決して取り乱さず、正確な知識をもって最善の対処をしてのける若きディガー。貴重なクヴェルやツールを探り当てる鋭敏な感覚を先天的に備え、なおかつヴィジランツも顔負けの杖さばきで襲いくる魔物の牙を退ける――そんな同年代を彼女は知らなかった。圧倒され、正直なところ焦りさえ感じた。同時に、日常生活では年相応の子供らしさを残した、このアンバランスな天才に強く惹かれる自分に気づいたのだった。
ウィルと出会ってからの三年間、コーデリアはそれまでの人生で感じたことのないときめきを胸に過ごした。その思いは彼女に知らず“女”を意識させ、山だしの少女を美しい娘へと成長させた。また、彼女のヴィジランツとしての実力も驚くほどに向上した。年期の差で、ともにパーティーを組むナルセスやタイラーにはまだかなわなかったが、十八歳の女性ヴィジランツとしてはどこに出してもひけを取らない槍さばきを、彼女は身につけていた。それもすべては、ウィルに置いて行かれたくないという想いゆえの努力である。
この感情を直接告げなかったのは、ディガーとヴィジランツとしての良好な信頼関係を壊したくなかったから――しかしそれも限界だった。彼女の、ウィルを求める気持ちは日ごとに高まっていた。このままでは頭がボーッとしておかしくなりそうだと思い、コーデリアは覚悟を決めた。
この一件が片づいたら、今の気持ちを正直にウィルに告白しよう。拒絶されても、それはそれで構わない……いや、全然構わなくはないのだが、それでも悶々とウィルのことばかり考えているよりはいいのではないか。好きだと伝えて、すっきりさせるだけでもずいぶん楽になるはずである。もしかしたら、ウィルも自分のことを見てくれているかも知れない。いやいや、あまり都合良く考えていると、ダメだった場合に落胆が大きくなる。でも、相思相愛だったならどうしたものか。ふたりはどうなってしまうのか。歯止めなんて効かなかったりするのでは? それはそれで望むところだったりして――。
尽きぬ妄想を膨らませ、戦う乙女はひとりヴェスティアを目指す。ウィルを手助けするべく、先行してアレクセイ・ゼルゲン一味に潜り込んでおくために。
悲劇は、姿を隠したまま着々と舞台を整えていく――。
彼には、人間たちによって名付けられた“夜猟者”のほかにもうひとつ、創造者に与えられた名前があった。
ベエンダー――それが、彼が誕生した“恒久の塔”で授けられた名である。ベエンダーはその地で、アニマなき人造の存在として生み出された。
緑深きヴァイスラントの北端・ラウプホルツの郊外にそそり立つ妖しの塔。その古代の建造物が、人の知覚できぬ強力な結界に包まれたままであった1220年、彼は現在と寸分変わらぬ成人の姿で目覚めた。
それは果たして、どのような秘術を用いて為し得たのか――ベエンダーは完全なる不死者であった。齢を重ねて老いることもなければ、熱気や冷気で死ぬこともない。また、その肉体に深い損傷が刻まれたとしても、たちどころに修復する驚異的な再生能力を備えていた。アンデッドと呼ばれる魔物の中でも、とりわけ高等な存在とされる吸血鬼――あるいは不死化魔導師に似た特性を、彼は有していたのである。
誕生から四年の間、ベエンダーは創造者から、その肉体を使いこなすうえで不可欠な情報や、森羅万象を司る自然法則の知識、そして剣を操るための技術だけを授けられた。それ以外は、すべて自分の目で確かめるよう、創造者は命じた。そうでなければ意味がないのだと――ゆえに彼は人間たちが支配するこの世界に何の先入観も持たず、善悪の観念もなく、感情を育む基準となるあらゆる価値観を与えられぬまま、開放の日を迎えたのだった。
ある意味で、彼は万能の存在であった。死とは縁遠い永続性を持ち、人間の完璧なる美を象って創られた肉体は、疲れを知らず一夜に千里を駆ける。人の限界をはるかに超える筋力と瞬発力から繰り出される剣技は、この世界において無敵に等しい戦闘能力をベエンダーに与えていた。
唯一ままならぬものは、飢餓感であった。
彼はその肉体を動かすために、外部から摂取したアニマの消費を必要とした。アニマの循環は、人にとっての血液に相当するものだった。人間が食事を摂るように、ベエンダーは他の生物のアニマを啖わなければその活動を維持できなかったのである。
しかし、これは実際には極めて少量のアニマでこと足りた。周囲に漂う、その瞬間にも死んで大地へと還ろうとする草木や虫、小動物のアニマを摂取するだけでも、彼は相当に長い期間を過ごすことができた。
ベエンダーを、“夜猟者”と呼ばれる所以ともなった夜の狩りへとかき立てるのは、むしろ純粋な欲望であった。それが何であるのかは彼自身判然としない。そのアニマなき空虚な身を補いたいという無意識が、猛烈な飢餓感となって他者の生命を奪わせるのかも知れなかった。この衝動に身を任せ、彼は夜ごと荒野を駆け、己が手で殺した生物のアニマで空腹を満たすのだった。
それに後ろめたさはない。人が抱くような殺傷への否定的論理など、そもそも彼には備わっていないのである。野生の獣と同じく、餓えているから殺して喰らう――それだけのことだった。それに自分と異なり、大多数の生物はいずれ死を迎えるという節理を彼は知っている。ならばその個体の死が最大で何十年か早まろうとも、世界全体から見ればさしたる変化ではない――そう認識していた。ゆえに獲物が人間であっても、ベエンダーには特に抵抗はなかった。
ただ、彼はよほどのことがない限り、人を襲いはしなかった。なぜなら他の獲物とは違い、人のアニマには強い感情が含まれていたのである。現世への執着や、突然訪れた死への怨み、それに遺した者への哀惜といった思念は、そのアニマを取り込んだベエンダーにもある種の感情の揺れを引き起こした。言うなればそれは人の味覚におけるえぐみのようなもので、彼にとっては飢餓感を満たすどころか、ひどく不快な気分にさせられる獲物であったのだ。
だから、彼が人里でアニマを狩ることなどはなかった。人の寿命が尽き、良質なアニマが天に召されようとしている際に、それを吸収するべく訪れる場合がほとんどであった。こうした人のアニマは得てして美味であり、それだけで彼の渇きは数週間も満たされた。
また、夜の荒野で遭遇する人間の類は、時に死を覚悟し、あるいは望んでいることがあった。そうした者からは、ベエンダーは遠慮なく命を奪った。その代わり、生への確かな意志を示す人間には決して手を出さず、それが結果として“夜猟者”の噂を広く流布させる結果となったのだった。
この夜、彼がグラン・タイユの西沿岸に位置する通称“夜の町”を訪れていたのは、まったくの偶然に過ぎなかった。ここ十年の活動地域であった南大陸から、東のロードレスランドへと根城を移していたベエンダーは、樹海の放つ濃密なアニマの気配に誘われて南下し、グラン・ヴァレへ向かう途中にたまたまこの町を通りかかったのである。
高台から。淡く浮かび上がる町の夜景を眺め、彼はいつものように死にゆく人間のアニマを探った。それ以外、このごみごみとした集落に興味はなかった。人間とてそうである。彼の創造者はかつて人間であり、ベエンダーもそれを模して創られてはいたが、野に放たれて十数年を過ごした今も、彼が興味を引かれるような人間は外の世界には存在しなかった。かつてひとりだけ、彼と同じようにアニマを持たぬ少年を見かけたことはあったが、所詮は飢えを癒す対象としかなり得ない有限生命体の、しかも糧となるアニマがない者とあっては、珍しいと思いこそすれ関心を持つには至らなかった。
今宵、この町で自然死を迎えそうなアニマの気配は感じられなかった。ならば去ろうと、彼が夜空へ跳躍しようとしたその時であった。
激しくぶつかり合うアニマを、ベエンダーは感じ取った。それは、命の危険にさらされた生物だけが放つ強烈な波動である。何者かが、この町の一角で死闘を開始したことを彼は察知した。
ふだんなら、ベエンダーは見向きもせずに立ち去る状況である。この手の戦いで死んだ者のアニマは、かつて戦争が行なわれた地にわだかまる人の迷いアニマと同じく、飢餓感を満たすにはまったく適さない、憎悪と絶望に凝り固まったものとなる。死に過剰な反応を示す人間同士の殺し合いなど、彼にとっては何ら面白味のない、獣の縄張り争いにも劣る行為でしかなかった。
しかし、この時ベエンダーは、死にゆく側の人間が放つアニマに惹かれている自分を感じていた。
それはこれまで触れたことのない、夜明けの空のようにどこまでも高く澄んだ透明なアニマだった。純粋に、ただひとつの祈りに昇華された美しき魂――彼女は死を目前に、ひとりの男のことのみに思いを馳せていた。そこにはアニマを汚す憎悪はなく、彼女亡きあとも愛する者の無事を願う無私の祈りだけがあった。
あまりにも清浄な、哀切の想いがベエンダーを揺り動かした。不快ではなかった。その理由を知りたくて、彼は跳んだ。そのアニマが伝わってくる、死闘の舞台へと。
町を横断するほどの大跳躍から音もなく現場に着地し、ベエンダーは見た。美しきアニマの主と、その周囲に群がる醜悪なアニマの色を。
倒れた少女の身体は血に染まっていた。必要以上になぶられたのだと明らかに判るほど、多くの傷が彼女には刻まれている。その幾つかは完全に致命傷であった。それでも――。
それでも少女は――コーデリアは頭を上げる。美しい顔は血の気を失って蒼白となり、唇からは鮮血が伝う。放してしまった槍をつかもうと、己の血溜まりの上で彼女は手を伸ばす。大好きなウィルの敵になる者たちを少しでも減らすために――。
槍に届こうとしたその指を、薄汚い木靴が踏みつけた。
「おっと。アブないアブない。オレたち、やれれチャうとこだったゼ!」
彼女を踏んだ男のおどけた口調に、ふたりの仲間が下卑た笑い声を上げる。
「まったくバカな女だぜ。三対一で勝てるわきゃネーだろ?」
「ちょっと、ヒヤッとしチまったけどなァ」
アレクセイにクヴェルを狙われた子供を助けようとして、コーデリアはその手下たちに囲まれたのだった。一対一なら彼女に勝る使い手はいなかった。だが、多勢に無勢をいいことに次々と繰り出される刃や術をさばききれず、彼女は無惨にも切り刻まれた。途中からは戦いではなく、ただのなぶり殺しであった。
無謀だとは、彼女も判っていた。子供など放っておけば良かったのだ。だが、それをしてしまったら、自分はもう、ウィルに気持ちを伝える資格がなくなるんじゃないか――そう思ってコーデリアは意地を張った。命を賭けてしまった。
「もうアレクセイさんも行っちまったしよ、オレたちはゆっくり楽しませてもらうかぁ?」
にやにやと残虐な笑みを浮かべて、ひとりが抜いた剣の切っ先をコーデリアの背に突き立てようとする。もはや死にゆく運命の少女に、さらなる苦痛を与えて弄ぼうというのである。仲間が興奮気味にはやし立てた。
彼らに、すぐそばに立つベエンダーの姿は見えていない。見えていたなら、到底そんな真似をしようなどとは思わなかっただろう。いや、彼ら三人の命運はすでに尽きていた。その行為は自分たちの死を、より酷たらしいものにしたに過ぎなかった。
ベエンダーは、自分の中に体験したことのない不可解な感情が湧き起こるのを感じていた。胸の奥に灯った炎が、ぶすぶすと全身を焦がしていくような感覚――それは彼が初めて感じる怒りだった。激昂であった。むき出しにした歯がガチガチと音を立てる。長い銀髪は逆立ち、双眸は赤い不可視の光を放つ。
男たちを目の前から消したかった。アニマを啖いたいのではない。この不愉快な、醜いアニマを宿した者たちを消滅させたかった。もう一瞬たりとも、少女の美しいアニマのそばに存在させたくなかった。
彼はこの、新しい感情に身を任せてみた。
不死の肉体ゆえに可能な、神速の斬撃が男のひとりを挽肉に変える。電光の閃きほどの時間に、ベエンダーの手にした鋼鉄の刃が男の身体を何十回となく通り抜けたのである。
この手下はまだ、幸せだったと言えなくもない。何が起こったのかも判らぬまま、自分が死んだことさえ認識せずに逝けたのだから。
残るふたりは、恐怖を骨の髄まで味わって死んだ。彼らは見たのだ。霧のように広がる仲間の血飛沫と、その中に浮かび上がる、半透明の悪鬼のごときベエンダーの姿を。彼らは聞いたのだ。神罰の具現化を告げる、怒れる不死者の咆吼を――。
死の奈落へと緩慢に滑り落ちていく途中の、朦朧とした意識の中でコーデリアも見た。
暴風のごとき斬撃でアレクセイの手下たちを次々と粉砕し、肉片から噴出するそのアニマを、さらに噛み砕くように啖い吠える髑髏――あるいは美しき剣士のようにも感じられる神秘の存在を。彼女はそれを死神と捉えた。死にゆく自分を迎えにきた冥府への案内人だと。
彼女は祈った。畏れからではない。この瞬間でさえ、コーデリアの願いはただひとつ、愛するウィルの幸福な人生であったのだ。
自分の魂はいかように扱われても構わない。その代わり、ウィルを見守って欲しいとコーデリアは死神に祈った。ウィルから死を遠ざけて欲しい。そのためなら、己のアニマが大地に還ることなく、未来永劫の業苦に責められ続けてもいいのだと彼女は訴えた。燃えるような激痛の中で、ひたすらにそれだけを願っていた。
手下たちを惨殺してもなお黒い衝動は収まらず、この町の人間すべてを殲滅しかねないほどに怒り狂っていたベエンダーは、死を目前にした少女から伝わる想いに、その怒りが浄化されていくことを知った。この娘が放つ感情は一体何であるのか――それは“夜猟者”が初めて抱く人間への興味であった。彼はもう少し、この奇妙な感覚を与えてくれる娘のアニマとつき合ってみたくなっていた。
コーデリアを静かに抱き上げ、“夜猟者”は跳んだ。彼女が想ってやまぬ相手のアニマを感じる方向へ。そして間もなくその男が現れるであろう町の中央広場に彼女を横たえ、不死者は少女の耳元でささやいた。
「お前の望みを叶えよう。最後の別れを告げた後、そのアニマを私に差し出すがいい」
コーデリアは死神の声の意外な優しさに驚き、そして微笑んだ。神にそうするように、彼女はベエンダーに感謝の祈りを捧げたのだった。
しばらく後、彼女は広場に駆けつけたウィルの腕の中で静かに息を引き取った。そのアニマは肉体を離れ、すぐそばで見守っていたベエンダーのもとへとやってくる。
彼はそれをゆっくりと吸い込んだ。糧としてではなく、自分のアニマなき空虚な器の中に、コーデリアとして宿らせるために。
以後、“夜猟者”はある責務をその身に課すこととなった。ウィリアム・ナイツをあらゆる悪意や不慮の事故から守護し、天寿を全うさせること――それが。自らの一部となったコーデリアと交わした誓いであった。そしてそれは、最後まで破られることはなかった。
1239年    邪との邂逅/塔の賢者の物語
ニーナ・コクランはひどく後悔していた。
やはりウィルをアレクセイなどに――あの呪わしいエッグに関わらせるのではなかった。あれは彼女の兄ヘンリー・ナイツを別人のように冷酷に変貌させ、妻であるキャサリンともども命を失う原因となったばかりか、今またその息子ウィリアムを激しく暗い衝動に駆り立てている。
コーデリアの死から、優しく明るかったウィルは目に見えて変わった。彼女を巻き込んだことで自分を責め、焦燥したウィルはアレクセイ・ゼルゲンへの憎悪をむき出しにして、年をまたいでのこの追跡行に臨んでいた。
その様子に、ニーナは総毛立つような不安を感じる。子供のない彼女たち夫婦が、本当の息子だと考えて育ててきた可愛いウィルに、兄と同じ悲劇が降りかかるのではないかと。アレクセイは明らかに、昔の口先だけの小悪党ではなくなっている。それは、死の直前の変わり果てたヘンリーと同じだった。非人間的なまでに冷たく、無限の暗闇を想わせる黒々としたアニマ――それがあの、エッグによるものだとしたら、これ以上の深入りはすなわち死を意味すると彼女は直感していた。
だが、ニーナの中に流れるナイツの血が、あれを放っておいてはならないとも告げていた。放置しておけば、エッグはやがて今とは比べものにならぬほどの力を蓄え、人の世界に大いなる厄災をもたらすだろう。その危険なクヴェルの墓所を発見してしまったのがヘンリーであるなら、決着はナイツの手でつけねばならない。それが代々、常人よりはるかに優れた資質を持って生まれ、ディガーを営んできたナイツ家の宿命であった。
アレクセイが手下も連れずに向かった場所は、獰猛な魔獣が繁殖してとうの昔に廃棄された、ロードレスランド西部にある御影石の石切場であった。それもまた、ニーナの悪い予感を増大させていた。夜の町で、アレクセイは魔物の類を寄せつけない魔除けのクヴェルを強奪している。しかし、そもそもあの男が魔除けを入手したのは、もっと別の狙いがあったからではないのか――考えるほどに、彼女の悪寒は強まっていく。そして、この予感はめったに外れたことはなかった。
ならば、とニーナは覚悟を決める。自分の命を引き替えにしてでも、アレクセイを倒し最愛の息子を守ろうと。そのぐらいしなければ、先に死んでいったコーデリアに恥ずかしくて顔向けができない。そう彼女は心に期した。
「くそおっ! 何て化物なんだ!」
タイラーがハンマーヘッドと呼ばれる、岩から削りだした重戦斧を投げつけながら叫んだ。術で十分に“斬る”という石の性質を引き出されたそれは、しかしウロコに護られた厚い表皮であっけなく弾かれ、彼の足下に跳ね返ってくる。
「術もロクに効かん――くるぞ! 低く構えろ――」
ナルセスの悲鳴にも似た警告と同時に、二匹の飛竜が凄まじい勢いで滑空し、パーティーに襲いかかる。タイラーの肩から鮮血が噴き、かろうじてかわしたウィルの頬にも、爪でかすめられた痕がミミズ腫れとなって赤く浮かび上がった。
絶望的な状況であった。アレクセイが呼び出した飛竜――正確には魔除けのクヴェルを用いて操っているドラゴンの眷属は、まだ幼生でありながらも人に比べれば圧倒的な戦闘力を有していた。高い知能を持つ彼らはふつうなら、さして食いでもなく群れになると厄介な人間などには手を出さないものだったが、エッグの増幅作用で強められた魔除けの力によってその本性を狂わされ、アレクセイの意のままに使役される殺戮の権化となり果てていたのだった。
このままでは、ウィルたちはただ屠られるのを待つのみだった。飛竜の羽音とともに、あざけるようなアレクセイの哄笑が耳に届く。両親を謀殺し、そしてコーデリアまでも死に至らしめた敵を目の前にしながら、一矢も報いることができぬ口惜しさにウィルはきつく唇を噛み締めた。
飛竜が激しく羽ばたき始め、その翼から烈風が引き起こされる。皮膚が削り取られそうな大気の奔流の中で、ウィルは背後からささやくニーナの声を聞いた。
「ウィル、憎むんじゃないよ。憎悪に取っ憑かれたら、結局は自分が悪いアニマに喰われちまうからね」
「……叔母さん?」
「あいつを救ってやりな。あれはもう、アレクセイじゃないんだよ――」
振り返ったウィルに、ニーナは慈母の微笑みを見せた。そして、やにわに身を起こすと、ウィルをかばうように前に走り出る。
「借り物の力で調子に乗んじゃないよ!」
アレクセイをにらみ据え、次の瞬間彼女は奥の手を使った。若かりし時代に会得していながら、初めて用いる秘技――なぜならそれは、自らの死を前提としたものであったからだ。
身体の中心線に沿って存在する七つのチャクラを同時に回し、内包するアニマを故意に暴走させることによって爆発的なエネルギーを解放する。それはそばにいたウィルたちの肉体にあふれんばかりの活力を注ぎ込むとともに、魔除けのクヴェルから発される催眠波動を乱し、アレクセイによる飛竜の制御を一時的に抑え込む役割を果たした。しかし、生命の本質であるアニマの大半を放出したニーナは、もはや決して癒せぬ深いダメージをその心身に刻み込んでいた。
「ナルセス……タイラー……あとは任せたよ。ウィルを――」
つぶやき、ニーナはその場にくずおれた。コントロールを弱められた二匹の飛竜は、自分の本能とアレクセイの意志が拮抗し、意識を混濁させたまま暗い洞内のどこかへと飛び去っていく。
コーデリアに続き、ウィルはまたも自分が守られたことを知った。悲しみと怒りを力に変え、彼は盾を失ったアレクセイへと突進する。エッグに囚われたその哀れな人生に終止符を打ってやるために――。
ベエンダーもまた、この石切場へとやってきていた。無論、ウィルを守るためにである。
しかし、彼は飛竜との戦いに、手を出すことができずにいた。アレクセイが操る魔除けの発する波動が、彼の肉体の活力源であるアニマの循環にも干渉し、その効果範囲に接近できなかったのである。ウィルの絶体絶命の窮地に、自分の中のコーデリアが悲鳴を上げるのが判る。すべてを望むままにこなしてきたベエンダーにとって、もどかしいという感覚を味わったのはこれが最初だった。
そしてそれは、ニーナの犠牲によって解消される。“夜猟者”は人間に救われた形となったのだった。複雑な、奇妙な感情が彼を襲う。それは、ニーナ・コクランに対する哀悼の想いだったのかも知れなかった。
確かめる間ももどかしく、彼は二匹の飛竜を追う。ニーナのアニマの影響が消えれば、ドラゴンは再びウィルたちに襲いかかるだろう。アレクセイはウィルに任せておいても問題ないと判断し、ベエンダーは広い採掘洞の壁を次々と蹴って宙を舞った。
「あああ……どこだ? エッグ……俺のエッグは……」
ウィルたちとの戦いに敗れ、採掘洞の最深部に落下したアレクセイは、それでもまだ生きていた。墜落の衝撃で手足の骨は砕け、折れた肋骨は何本も内蔵に突き刺さっている。岩に打ちつけた頭蓋骨は陥没さえ起こしていた。ふつうなら生きているはずのない状態である。
エッグへの妄執だけが、アレクセイをこの世に留めていた。落下の際に手から離れたそれを求めて、血を含んだ雑巾のようになりながら彼は御影石の岩盤を這い回った。
その背後に、青白い燐光をまとったエッグが浮かんでいた。それはもはや目も見えなくなり、闇雲に手探りを繰り返すアレクセイを静かに観察しているようであった。否、事実、意志あるクヴェル・エッグは彼を見定めていたのだ。これから先、自分にとって役立つ持ち主であるかどうかを。
アレクセイの肉体はもう長くは持たない――そう判断したエッグは、そのアニマが新鮮なうちに取り込んでしまおうと決定した。そのうえでまた、次なる寄生者を探せば良いと。
エッグから、亡霊のように透けた無数の腕が飛び出した。それはアレクセイの背から体内に潜り込み、彼のアニマをつかみ出そうとする。何が起ころうとしているのかを察し、アレクセイは追いつめられた獣のような絶叫を上げた。
「イヤだ! それだけはイヤだ! ああ――」
抵抗も虚しく、アレクセイの魂はイソギンチャクの触手のように密集した腕――それはエッグに囚われた人々のアニマだった――に捕まり、彼ら亡霊の新たな仲間としてエッグの中に引きずり込まれた。残ったのはもはや、かつてアレクセイだった者の命なき肉のみであった。
この光景を、飛竜を葬ったのちに最下層へと降りてきたベエンダーは目撃していた。
同じくアニマを啖う存在でありながらも、彼の中に抑えようのない憎悪の感情がこみ上げる。邂逅の瞬間に、“夜猟者”はエッグを決して交わることのない敵なのだと直観した。
一瞬の躊躇もなく、ベエンダーはこの禍々しいクヴェルに斬撃を放った。地底のよどんだ空気が焦げ、ふたつに裂ける凄まじいまでの抜き打ちである。
エッグもまた、人ならぬ存在の接近を感じてはいた。だが、攻撃の気配を察知しながらも、エッグはあわてはしなかった。それがどんな武器であれ、自分を破壊することなど不可能なのだとエッグは知っていた。接触の瞬間に、刃に秘めた石や木のアニマは吸収能力によって無効化され、“斬る”あるいは“砕く”力を充分に発揮できなくなるのである。それが鋼であったとしても、金剛石をはるかに越える硬度を持つエッグの外殻を破壊することなどできるはずはなかった。この世界に、自分を傷つける物質など存在しないのだと、エッグは高をくくっていた。
しかし、ベエンダーがその創造者より授けられた鋼鉄剣もまた、別の時空で生み出されたこの世のものならぬ聖剣であった。
神域に達した鍛冶工が、生涯を百度繰り返してなお、一度巡り会えるかどうかの奇跡の鋼。幾重にも折り返して鍛えられたその地肌には、板目と柾目が混じり合ったきめ細かな美が現れている。天空の雲間より差し込む光のごとき、まっすぐに伸びた輝く刃に、それが創り出された地の文字でその名が象嵌されていた丙子椒林剣と――。
外殻が飴のように、神鉄の刃を迎え入れた瞬間、エッグは克服したはずの死の恐怖に戦慄した。破壊される――そのおののきが、神速の斬撃が自分の直径の三分の一ほどに食い込んでくる刹那の時間に、エッグに必要な処置を取らせた。覚醒して十五年の間に貯め込んだアニマを消費し、空間を跳躍する瞬間移動能力を使用したのである。
途中で手応えを失ったベエンダーは、エッグを取り逃がしたことを知った。
あとわずかでも遅れていたなら、エッグは核まで切り裂かれ、完全に破壊されていただろう。ベエンダーに気取られぬ場所まで跳躍し、エッグは恐怖を鎮めながら再生の眠りへと就いた。
この逃走でアニマの大半を失い、また深い損傷を刻まれたエッグは、以後長い雌伏の時を余儀なくされる。この呪わしいクヴェルが自己修復を終え、アニマを蓄えて再び人の噂に上るまでに、実に二十年近い歳月が流れることとなるのだった。
この年、身を寄せていたヤーデの地で、フィニー国王ギュスターヴ12世の前妻であり、ギュスターヴ13世の母であるノール侯女ソフィーは三十九年の短い生涯を終えようとしていた。
病に臥せっていた彼女の容態の急変を知らされ、急ぎその館へと駆けつけようとしたシルマールは、その途中で奇妙な現象を感知した。
青年時代から不世出の術士と謳われ、天才の名をほしいままにしてきたシルマールも今や四十三歳。肉体はさすがに衰えを見せ始めていたが、その術力はより一層の磨きがかけられ、まさに円熟の極みに達しようとしていた。その彼にしか感じ取れぬアニマの微妙な乱れ――余すところなく自然の精気に満たされている空間に、突如生じた真空のごとき無アニマの塊が、シルマールに不可知であるはずの“夜猟者”の存在を看破させたのだった。
飛ぶように走っていたシルマールは、唐突に立ち止まって、見えない存在に語りかけた。
「いかなる方かは存じ上げぬが、間もなく自然に召されようとする貴きアニマを御所望であれば、何とぞそのままにお控え願いたい――」
驚いたのはベエンダーであった。彼はいまだかつて、このような形で人間に察知されたことなどなかった。彼がアニマを大量に啖い、その身に帯びた時のみ、人間は幽鬼のごとき“夜猟者”を知覚することができる。あるいは、術力のまるでない者の純然たる視覚によって――しかし、この術士はまったく逆の方法で、彼の存在を見破ったのである。清水に沈むガラスを探し当てるような、アニマへの尋常ならざる感覚の持ち主であった。
ベエンダーは、死にゆくソフィーのアニマに惹かれてここへとやってきていた。寿命を終えようとしている人間のアニマは、彼にとっては永劫の渇きを癒す極上の美酒であったからだ。とりわけ、ソフィーのような人間はアニマまでが上質で美しく、その死の兆しは甘い芳香となって彼を誘った。まだ日は高く、陽光は不死の肉体に鈍い痛みを引き起こしたが、それでも渇望を抑えきれずに彼は現れたのだった。
めったにないそんな食事を妨げられるなど、本来なら激しく憤るところであったのだが、それ以前にベエンダーは眼前の術士に面食らい、かつ興味を抱いてしまっていた。身の内で姿を留めているコーデリアのアニマの影響なのか、驚きや好奇心など、それまでの彼にはほとんどなかった人間めいた感情が、このところ急激に芽生えつつあった。否――それはもともとベエンダーの中に備わっていたものであり、コーデリアはきっかけに過ぎなかったのかも知れない。いずれにせよ、彼はシルマールと接触を持ってみるつもりになったのだった。
不可視の者が立ち去るでもなく自分を観察している気配を察し、シルマールは懇願が受け容れられたことと、やはりそれが対話が可能なほどに高度な知能を持つ存在であることを悟った。ひょっとしたら、もう何年も前から噂される“夜猟者”その人ではあるまいか――実のところ彼はそこまで予想していた。是が非でも、この人智を越えた存在と話がしたいとシルマールは願った。
「御配慮、痛み入る。願わくばのちほど、改めてお会いしたいのだが如何か?」
この申し出は、ベエンダーにとっても望むところであった。
「ならば夜、汝のもとへ参じよう」
風が奏でたような、不思議な響きを持つ声がシルマールの耳に届く。その瞬間には、アニマなき存在は彼の前から消え去っていた。
それからほどなく、ソフィーは最愛の息子に看取られながら息を引き取った。“夜猟者”に喰われずにすんだ彼女のアニマは、それから九年後、フィニー王国に凱旋し、弟フィリップと妹マリーに再会する日まで、ギュスターヴの身に寄り添うこととなる――。
ソフィーの亡骸を弔ったその晩遅く、使用人をすべて下がらせたひとりきりの館で、シルマールは約束通り“夜猟者”の訪問を受けた。
彼の前に現れたのは、銀の髪を夜風になびかせた、この世のものとは思えぬほどに美しい青年であった。ベエンダーはシルマールが話しやすいよう、自然界に放出された動植物の精気を大量に蓄積し、人間が知覚できるほどのアニマ濃度を得たうえで再訪したのだった。
シルマールに乞われるまま、ベエンダーは初めて、自分に関することを人間に語った。その“語る”という行為自体、彼にとっては体験したことのないものである。そしてその相手として、シルマール以上に相応しい人間はこのサンダイルには存在しなかった。
“夜猟者”がその夜、断片的にシルマールへと伝えた話を要約すると次のようになる。
ベエンダーを創造した者は、もう三百年以上も前に、世俗を離れて人のアニマと意識の在りようを探求すべく、不死の存在となった大賢者であった。
賢者が唱えたのは、輪廻転生にも似たアニマの法則からの解脱である。すなわち、アニマを得て生を受け、アニマを失うと同時に死を迎えるという生命の大前提から逃れ、永遠の平穏の中で思索を積み重ねて、より高い意識体へと自らを昇華させようというものであった。
すでに術者として名声を得ていた賢者は、ラウプホルツ近郊の樹海にそびえ立つ、古代の塔に秘められた力を用いて不死化の呪法を行なった。ふたりの高弟の他、近隣の集落から老若男女十数名の賛同者が集い、それが一時にアニマを捨てて不死者へと転生する大術であったが、賢者はその類まれな術力と才能によってこれを見事に成就させる。同時に塔を不可視の結界によって包み、出ることも入ることもかなわぬ孤絶の地となした。
“恒久の塔”と名付けられたその地は、飢えからも病からも、そして死からも解放された者たちが永遠の思索と自己探求を続けるための理想郷となるはずだった。最初の何十年かは確かにそうであった。彼らはアニマを切り離した肉体で穏やかに過ごし、どれだけ長命の学者であれ生きているうちにはたどり着けぬであろう、高度な哲学的命題について日々議論を交わした。すべては、賢者の思い描いた通りであった。
しかし、ユートピアは次第に、呪われた狂気の地へと変貌を遂げていく。賢者とふたりの高弟を除く者たちは、結局は分離したアニマへの未練を、永久に捨て去ることなどできなかった。彼らは塔の最下層に結晶化された自分たちのアニマを奪い返し、結果自らの“迷いアニマ”に取り憑かれた食屍鬼となり果てたのである。彼らは理性を保ってはいたが、本質は内に獣のごとき衝動を抑え込んだ“魔”なるものだった。その波動が結界を越えて新たなる魔性を呼び寄せ、輝かしい“恒久の塔”をおぞましき魔窟へと変えていく。
そして、賢者とその高弟も、時の流れから隔絶した自分たちの在りように疑問を抱き始めていた。どれだけ思索を重ねてもその思いは消せず、救いも見出すことはできなかった。彼らもまた、緩やかな絶望に捕らえられていたのだった。人が手を出すべきではない禁断の領域に、深く足を踏み入れていたのだという悔恨に――。
その失意の中で、賢者は全く新しい着眼点で不死の生命を創造しようと試みる。最初から囚われるべきアニマを持たない、完全なる人造の不死者――それはきっと導いてくれるだろう。彼らが抱え込んでしまった矛盾を解消する、はるかな高みにある悟りへと。
二百年あまりの研究と技術の蓄積、さらには塔の機能の転用によって、賢者と高弟はついにそれを実現する。無から生み出した神秘の命に、彼らは希望を託してこう名付けた。終止符を打つ者、終わりをもたらす者――ベエンダーと。
そして賢者は塔の結界を解き、ベエンダーを外界へと送り出した。無垢なる心のままに人の世を見つめ、彼らの欲する答えを得たその時に、再び不死者たちの塔に戻ってくるように命じて――。
この途方もない物語を聞き終えた時、シルマールの心にはいささかの猜疑も生じなかった。現実にベエンダーの口から語られたということも、無論その真実性を裏打ちする役割を果たしている。だが、何よりも。彼は目の前の美しき不死者を創造した賢者が実在することを知っていた。
その賢者には三人の高弟がいた。師が不死化の儀式を断行すると決意した時、高弟のひとりは袂を分かち、俗世へと残ったのである。三百年あまり前に生きたその人物こそ、シルマールの師ルナストルからさらに十数世代を遡る彼らの術流派の祖であった。彼ら術士は培った知識の一子相伝を頑なに守り、この時代まで、永遠の思索を求めて魔塔に消えた大賢者と兄弟弟子たちの記録を、正確な形で残し受け継いできたのだ。ベエンダーの話は、まさにそれを裏付けるものであった。
「師が求めた答え――それを貴殿は、見つけられたのですか?」
夜明け近く、シルマールが発した問いに、すでに限りなく朧な姿となった不死者は小さく首を横に振った。
「未だ光明も見えぬ。ただ、こうして人と対話を持つこと自体、私にとっては未知の行為であった。さすれば些少なれど、前には進んでいるのやも知れぬ」
「私もまた、貴殿の師より生まれ出た流れに連なる者。正しき答えがその手の中に現れる日が訪れんことを――」
開け放した窓より差し込む曙光とともに、不可視の存在に戻ったベエンダーは夜霧のようにシルマールの前から姿を消した。
こうして、“夜猟者”の存在は時代の裏面史に刻まれることとなった。しかし、シルマールは代々受け継がれた“塔の賢者”の伝承を補完しつつも、それをいたずらに語ることはせず、のちに弟子となるヴァンアーブルへと密かに伝えるのみであったと言う。
1247年    氷獄からの逃走
二十七歳の青年となったウィリアム・ナイツは、天賦の才能に見劣りしない実力と経験を身につけた、誰もが一目置く一流のディガーへと成長していた。
そのウィルが求めたのは、自分の能力を限界まで試すような大仕事だった。それは、そう遠くない未来に待ち受けているであろう、エッグとの対決を予感していたからなのかも知れない。石切場の地底に消えたあのクヴェルが、何者かの手に渡ったことは判っている。それが再び、闇の中から彼の前に姿を現す日に向けて、能力をより高く磨くことのできる場をウィルは無意識のうちに欲していたのだった。
そうして彼は、東大陸の南北を分ける大渓谷グラン・ヴァレを越え、術発祥の地とされる寒冷地帯ヴァイスラントへと足を踏み入れる。そこは貴重なクヴェルがふんだんに遺された場所であり、ウィルが求めるような大いなる発見も必ずあるはずだった。
果たせるかな、この地に広がる氷河の奥深く、不凍湖の中央にメガリスはあった。
すべてを氷に閉ざされ、時の流れさえも凍てつかせて、それは訪れる者を待ち続けていた。タイクーンの称号を受けるに相応しい冒険者を。あるいは、そのアニマを捧げるべく氷の牢獄に誘われる心弱き者を――。
メガリスとは、言うなれば巨大なクヴェルであった。誰が建造したのかさえ定かではない、何らかの作用を半永久的に維持し続ける超古代の強力な装置――氷のメガリスの中枢にも、その力場は存在した。
そこに足を踏み入れた瞬間、ウィル一行は頭蓋をきしませるような、激しい精神干渉に襲われた。意識の底までのぞき込まれるがごとき痛みに、彼らは昏倒寸前であった。
頭が割れんばかりの激痛の中で、ウィルは耐え続けていた。
メガリスの精神干渉とは別の痛みが、彼に正気を保たせていた。もう、誰も失いたくないという痛切な想い。コーデリアとニーナの死は、今も癒えることのない傷をウィルの心に刻み込んでいたのだ。
自分が倒れれば、仲間たちは間違いなくこの場で破滅を迎えるだろう。それだけはさせない――思考さえ困難な状況下で、ウィルはただひたすらに、仲間を助けるという意志を持ち続けた。
その強固な精神が、メガリスの秘めた本来の機能に作用した。
この遺跡は、心に思い描いたものを実体化するための装置であった。しかし、それは精神において人類よりもはるかに進化した者たちの使用を想定して造られたものであり、願望を把握するためにメガリスが行なう意識走査は、人には耐えることのできないレベルの強烈な催眠波を発して思考障害を引き起こしていた。常人であれば、この走査自体に意識を引きずられ、望む通りには何ひとつ思考することができないのである。
しかし、ウィルの人間離れした精神力はそれをやり遂げた。仲間たちを守ろうとする意志はメガリスの力によって具象化し、彼の手の中に全く新しい、驚くべき効果をもたらすクヴェルを産み出したのである。
それはのちに『夢魔のメダリオン』と呼ばれることになる、催眠波を遮断する働きを秘めたクヴェルであった。メダリオンは即座に効力を発揮し、気絶してなお精神を苛まれ続ける仲間たちを死の激痛から解放する。同時に、精神力を使い果たしたウィルは抗いようもなく失神した。
この危険な中枢の玄室で、そのまま全員が昏倒し続けていたなら、いずれは規模の違うメガリスのエネルギーにメダリオンが押し切られ、彼らは再び破滅の危機にさらされていたかも知れない。しかし、不可解なことに、彼らが目覚めた時、そこは部屋の外であった。誰ひとりとして、仲間を運び出した記憶がなかったにもかかわらず。
ウィルは知らなかった。ヴァイスラントへと旅立って以来、自分を密かに見守り続けている夜風のごとき存在を――。
「今のうちに、退却を! ウィル、早く――」
ラベールの言葉にかぶせるように、凄まじい咆吼がメガリス全体を揺るがした。壁面に付着した氷が鳴動ではがれ落ち、きらめく氷片の塵となって振り返るウィルたちの視界に降り注ぐ。
立ちこめる霧氷も向こうに、巨大な影がゆらりと蠢く。続く叫びが衝撃波となって、氷の塵を貫く轟音のトンネルを形成する。
その空洞を通して、身を起こす巨獣の姿がはっきりと見えた。双眸から憤怒の炎をたぎらせ、長い鼻先から蒸気のような息が白く噴出する。
まだ少年と言ってもいい、若きヴィジランツ・パトリックが悲鳴を上げる。「あれだけ深い傷を与えたってのに、もう回復しちまってますよ!」
「弱音を吐くな、パトリック。簡単にあきらめてるようじゃ、ヴィジランツって商売は務まらんぞ」
初めての発掘以来、常にウィルとともにあった百戦錬磨のタイラーがたしなめる。「とにかく退路を確保しろ! ウィリアムを……いや、あの怪物をできる限り引き離せるルートを選ぶんだ!」
ウィリアム、とタイラーが口にした瞬間、ラベールの表情がわずかに曇る。そこにどれだけの感情が秘められているのか、ウィルには痛いほど判っていた。
憎悪の雄叫びをあげ、尽きぬ破壊衝動に駆られて彼らを追いたてる魔獣メガリスビースト――その正体は、ラベールの実の兄ウィリアムであった。
家を出て十年、ウィリアムは一山当てて、故郷に錦を飾る夢ばかり見て過ごしてきた。ディガーとしては平凡な才覚しか持っていなかったが、地道な努力は彼のもっとも嫌うところだった。多少危険であろうと、大半のディガーが探索を避けるメガリスなら、手つかずのクヴェルが眠っているはずだ――そう考えた彼は、このヴァイスラントの地で前人未踏のメガリスに侵入する機会を辛抱強く待ち続けた。
そして、その時は訪れる。妹との再会とともに、ウィル・ナイツという優秀なディガーがパーティーを率いて彼の前に現れたのだ。成功への期待が、凍てついた極寒の地にあって、ウィリアムの心身を燃え立たせた。
しかし、現実には、クヴェルを手に入れたのはウィルだった。そのままなら、このメガリス探索の功績もウィルのものになってしまう。ディガーの名声は譲り合いなどでは生まれない。厳然たる事実の裏打ちがあってこそ、世間は称賛と羨望をもってタイクーンと呼んでくれるのだ。
ウィル以上の功績を残さなければならない――その焦燥が、ウィリアムに常ならぬ閃きを与えた。彼は気づいたのである。このメガリスが、思念を実体化させる力を秘めていることを。そしてそれが、彼を破滅に追いやる最後の一歩となった。
制止を振り切り、再びメガリス中枢部に足を踏み入れたウィリアムは、あの強烈な精神波を浴びながら願望を心に思い描いた。タイクーンと呼ばれるほどの、偉大な存在になりたいのだと。漠然としたイメージは、さして強くもない彼の精神が走査を受ける過程でねじ曲げられ、暴走を開始する。大いなる獣の姿へと、ウィリアムはアニマごと変質させられていく。二度と、還ることなき変貌へ――。
ウィリアムにはもう、妹の言葉は届かない。理性は失われ、獣の衝動に支配されて荒れ狂う哀れな怪物であった。待ち望んでいた兄弟再開が引き起こした悲劇に、ラベールの心痛はどれほどのものであるのか――それを思うと、ウィルはやるせない気持ちになる。
人はメガリスなどに手を出すべきではないのではないか。あのエッグも、もとはこうした遺跡に眠っていた代物である。それを発見さえしなければ、彼の両親も死を迎えることなく、今頃は息子に孫の顔が見たいとせがむ安穏とした生活を営んでいたかも知れない。ニーナも、それにコーデリアも……。支払ってきた代償はあまりにも高い。
しかし、それでも、彼は超古代の遺跡に挑み続けるだろう。ディガーとして抜きん出た能力を持つナイツの血統の、それは義務であり宿命でもあった。人類に害をなす遺跡をいち早く探索し、その危険を警告できれば、無謀な発掘者による惨事を未然に防ぐことも可能となる。先を行く誰かがやらねばならない――この氷のメガリスで、ウィルはその思いを強くしていた。
ラベールの手を取り、ウィルは氷原への出口に向かって走る。平気、と言う代わりに一度強く握り返し、その手を離して弓に矢をつがえるラベールの気丈さを彼は好ましく思う。それに、ひとつ年上になる彼女を、十八歳で時を止めたコーデリアに重ねてもいた。性格こそ違え、コーデリアも生きていればラベールのように成長していただろうか――ふと、たどり着けなかった未来に思いを馳せ、ウィルの心に悲しみが忍び込む。
「おかしいわ、ウィル」
ラベールが足を止めずに発した言葉が、ウィルを感傷から引き戻した。
「兄さんが……怪物が、追いついてこない。すぐ後ろに迫る勢いだったのに――」
確かに、相変わらず鼓膜を震わせる咆吼は続いていたが、背後にメガリスビーストの姿はない。先刻までは、あらゆる壁を破壊し、最短距離で一行を追撃していたはずであった。
「うまくすれば、もう戦わずに逃げ切れるかも知れないな。あの巨体では、湖の氷の橋を渡るのは難しいだろうし。でも、どうして……?」
「ねえウィル。少し前から感じてたんだけど、わたしたちを――いいえ、あなたを守っている誰かがいるんじゃないかしら? あの部屋から運び出してくれたのも、それより前に魔物だらけのグラン・ヴァレを越える時も……わたし、そんな気がしてならないのよ」
「僕を? それに、誰かって?」
当惑したウィルの問いに、ラベールは首を横に振った。
「わたしには判らないわ。錯覚かも知れないし……ただ、本当にいるのなら、それは人間じゃないのかも――」
「ウィルさん、出口が見えましたよ! さあ早く!」
先行するパトリックの叫びが、ふたりの会話をさえぎった。
「考えるのはあとにしよう。今はとにかく、少しでも早く湖岸にたどり着かなくては!」
「ええ!」
ふたりは再び手を取り合い、タイラーとパトリックが確保したメガリスの侵入口へと疾駆する――。
ラベールの直感は正しかった。
ウィルたちが逃げおおせた気配を察し、ベエンダーはメガリスビーストへの際限のない攻撃を停止した。さしもの“夜猟者”も、メガリスから無尽蔵にパワーを吸い上げて再生を繰り返す魔獣を完全に倒すことはできないでいた。こうした不死生命を産み出すメガリスの機能に驚嘆を感じつつ、彼はウィリアムだったものの前から唐突に姿を消す。もはや、足止めの目的は果たしていたからだ。
コーデリアが死んで九年が経過したこの時も、彼女のアニマは変わらずにベエンダーの中にあった。その彼女の思いがうずきとなって、彼をウィル守護の責務へと駆り立てる。
ただ、ウィルは基本的には守り甲斐のない男だった。大抵の危機は自分の力でやすやすと乗り越えてしまうし、持って生まれた強運は突発的な事故など寄せつけない。人から慕われこそすれ、怨みを買うようなこともなかった。日常の生活において、ウィルに死が近づく可能性は皆無と言って良かった。ゆえに彼は定期的にウィルの暮らしぶりを見守り、危険の伴う発掘作業に従事する場合のみ、同行して影から助力を行なっていたのだった。
このヴァイスラント遠征もこれに当たる。ただし、今回はまれに見る長丁場となった。
氷のメガリスを脱出したベエンダーは、跳躍中に湖上の氷橋を走る一行を視認する。その精密かつ焦点範囲の広い目は、ウィルとラベールが手を握り合っているところまでを克明に捉えていた。同時に、彼の胸に複雑な感情が去来する。それもまた、コーデリアのアニマから生じた思いであった。軽い嫉妬と、そして安堵のようなもの――。
ウィルとラベールは恋に落ちるだろうと、ふたりの出会いからコーデリアは見抜いていた。女の勘ということもあったが、彼女から見てもラベールは美しく聡明で、魅力的だった。他の女に取られるのが口惜しいのは確かだが、この女性にならウィルを任せてもいい――愛する人の将来を考慮し、コーデリアはそうあきらめをつけたのだった。
事実、ラベールは優秀な資質を持っていた。ウィルと彼女の血を受け継ぐことで、ナイツの家系はより良質なアニマを備えた、才能ある子孫を生み出していくことになる。タイクーンと呼ばれたウィルに決して劣らぬ、正義感にあふれる息子と、そして世界の命運を背負うことになる孫娘を――。
1251年    鉱山にて
この年、スヴェルドルフ鉱山で大規模な落盤事故が起きた。
採掘事業の監督者であったオート侯による過剰なノルマから、巨大な地下水脈が流れる危険区域まで掘り進めてしまったことがその原因であった。
一歩間違えば、史上最悪の鉱山事故となっていてもおかしくない突発的なものである。噴出した激流の生み出す震動が共鳴して鉱山全体を鳴動させ、最終的には坑道が落盤で復旧不可能なまでに埋没する事態に発展した。
しかし、幸いにも、この事故に伴う死者はひとりもない。採掘アドバイザーとして鉱山を訪れていたウィルが、坑内に取り残された鉱夫全員を救出したうえで、自らも無事に脱出を果たしたからである。
この事件は、すでにタイクーンと呼ばれるようになっていたウィルの名声を、否が応にも高める結果となった。齢三十一にして、彼は世界でもっとも有名で尊敬されるディガーとなったのだった。
しかし、ウィルだけはこの落盤からの生還を、自分の運や実力だけでは片づけられないことを察していた。彼の経験からすれば、最後の鉱夫を逃がした時点で坑道は崩壊していておかしくなかった。にもかかわらず岩盤は持ちこたえ、彼が外へと走り抜けた直後に、計ったような崩落を迎えたのである。
ウィルもまた。かすかに信じ始めていた。氷のメガリスでラベールに指摘された、己を守護する謎めいた存在のことを。
だが、それは、決して彼の前に姿を現すことはなかった。実在を示す証拠は、どこにも残されてはいなかった。
ウィルが人生を終えるまで、重荷にはなりたくない――それが、コーデリアの遺志であったから。
1257年    タイクーンは死なず
「ああっ、僕のエッグが! 待ってくれ――」
ウィルの杖に叩かれ、弾き飛ばされた卵型のクヴェルは、木の葉のように翻弄される海賊船の甲板でバウンドし、手すりを越えて荒れ狂う波間に呑まれた。すでに魅了され、エッグに完全に魂を奪われていた持ち主の海賊は、絶叫とともにそれを追って嵐の海に飛び込み、海底へと消えていった。
「これで終わりだ。もう、誰の手もエッグに触れることはない……」
潮混じりの雨に濡れ、漆黒にうねる夜の海を見つめながら、ウィルは長い戦いに終わりが到来したことへの感慨を噛み締めていた。
アレクセイ・ゼルゲンの手を離れたエッグが、再び噂にのぼるようになって一年あまり――ウィルはあらゆる仕事を棚上げして、ひたすらにその真偽を確かめるべく奔走した。二十年近くに及ぶ空白の期間も、彼はエッグの追跡と破壊を決してあきらめてはいなかったのだ。
そして、彼はようやくその所在をつかんだ。ロードレスランドからグラン・タイユにかけての西沿岸に勢力を誇る海賊団のひとつに、歪な卵型のクヴェルを持つ者がいるという情報が信頼できる筋からもたらされたのである。
この海賊船に潜り込むために、ウィルは彼らを罠にかけた。“夜の町”に良質なクヴェルが隠されているとの偽情報を流し、海賊たちをおびき出したのだ。
これに先だって、彼はハン・ノヴァの覇王、鋼のギュスターヴとの面会を許され、軍による海賊掃討の協力を取り付けていた。民間人が避難した町で、タイラーを中心とした彼の仲間とギュスターヴの軍隊がのこのこと現れた海賊を要撃し、その隙にウィルは、沖合に停泊してあった母船にまんまと忍び込んだのである。
海賊たちが戻ってくるのを待ち、船が外海へと出航するのを見計らって行動を開始した彼は、ついにエッグに取り憑かれた男と相対する。そして、急変した悪天候のもと、沈み始めた船の甲板上で繰り広げられた激闘は、エッグ所持者の自滅というあっけない幕切れでウィルの勝利に終わったのだった。
いや、勝者はいないのかも知れない――そう、ウィルは思った。この大嵐の中、陸の方角も判らぬ状況では、緊急用のボートで夜の海に漕ぎ出したところで生きて帰れるはずもなかったのだ。
「この嵐じゃ、僕も海の底かな……父さん……母さん……」
エッグを滅ぼすという、若き日からの宿願は果たした。思えばこの時のために、タイクーンと呼ばれ名声をほしいままにしてからも、怠ることなく自分を鍛え上げてきたのである。ディガーとしてもっとも脂の乗った三十七歳のこの時期に、エッグとの決着をつける機会を迎えたのは幸いであった。仲間を巻き込まずにすんだことを思えば、ひとりきりの死という結末にも不満はなかった。
思い残しがあるとすれば、それはやはり妻子のことだった。ワイドに残してきたラベールと、まだ二歳になったばかりの息子リチャード――彼らを思うと、生きて帰りたいという気持ちは捨てきれない。しかしその想いも、荒れ狂う大自然を前にしては為す術もない。
どちらにせよ、沈没する船に残っていても死を待つばかりである。限りなく低い生還の可能性に賭けて、ボートに乗り移ろうとしたその時、ウィルは見た。
暗い海の、ほんの少し向こうに灯る数十の松明を。
「タイクーン!」
吹き荒ぶ風の嘆きを切り裂くように、自分を呼ぶ声が届く。「ご無事ですか!? 今すぐお助けします!」
「レイモン!」
ウィルの目に映っていたのは、ギュスターヴ海軍麾下の大型戦闘艦と、炎を掲げた甲板から手を振るタイラー、パトリック、レイモンの仲間たちの姿だった。ギュスターヴはこの計画を機に、彼の統治地域を荒らす輩を根こそぎ掃討するべく、這々の体で夜の町から逃走した海賊団に追っ手をかけていたのである。ただ、これには単独潜入したウィルを救出する意図も含まれていたらしく、仲間たちが同行を願い出ると、拍子抜けするほどあっさりと乗船を許可された。「存分に暴れられた。礼を言うぞ」との、ギュスターヴからの言づてを託されて。
レイモンの放った矢が、風雨をものともせずに帆柱へと深く突き立つ。そこに結ばれたロープを身体にくくりつけながら、ウィルは命を拾ったことを実感した。同時に、この幸運が天の加護とは別の、何者かの助力のよるものだとも。またも助けられたのだと、彼は確信していた。
その戦闘艦が、視界も利かぬ夜の大嵐の中、いかにしてこれほど正確に海賊船を捕捉できたのか、正式な記録には残されていない。だが、操舵手はのちに、身近な者にだけこう語っている。この航行中に何度も、舵輪が意志あるもののように動いたのだ、と。まるでタイクーン・ウィルのもとへ導くかに――。
すべては終わったかに見えた。だが、ウィルは知らない。エッグには大量のアニマの消費を代償に、空間を跳躍する能力が備わっていることを。海底深くに封じられたはずの悪魔じみたクヴェルは、ウィルの願いも虚しく、再び人の手の届く場所へと姿を現すことになるのだった。
1260年    擬態する者
“夜猟者”は、ヴァイスラント近辺を目的もなく徘徊していた。
ウィルとエッグの、海賊船での戦いを最後に、彼はウィルのそばからなるべく離れるようにして過ごした。なぜなら、もはやウィリアム・ナイツの近くに大きな危険は存在しなかったからだ。
風の海から生還したウィルは、これまでのように自ら危地に飛び込むような、過酷な発掘や冒険を避けるようになっていた。四十を目前にして、体力に衰えを感じてきたということもある。しかしそれ以上に、彼が宿命として背負ってきたエッグとの戦いから解放され、本来の死闘に向けて力を蓄える必要がなくなったからである。
相変わらずメガリスの類には挑み続けていたが、この頃にはもう未調査の古代遺跡などは北大陸の、開拓民ですら近づかない奥地でしか見つからなくなっていた。そうしたこともあり、ウィルはエッグ追跡に忙殺された過去を取り戻すかのように、居を構えるワイドの町で一年のほとんどを家族と過ごした。彼の才能を持ってすれば、年に一、二度クヴェル掘りに行くだけで親子三人が豊かに暮らしていけたのだ。
ベエンダーが取り除くべき危険など、あるはずもない。しかし何よりも、彼の中のコーデリアが、ウィル一家の幸せな生活を見守り続けることに居たたまれなくなっていた。
ラベールのことは確かに認めている。自分がそうであったとしても、果たしてこれほど幸福な家庭が築けるのかと思うほどにウィルの妻として如才なく、かつ美しく、母としても理想的だった。ただ、ウィルの幸せを願うのと、それを目の当たりにして過ごすことは違う。自分にもあったのかも知れぬ仲むつまじい四十歳の夫婦生活を思い、肉なき身の、十八歳のままのコーデリアは涙した。
ベエンダーにとってはたまったものではない。こうした感情も新鮮ではあるのだが、ウィルを見守る間ずっとでは、さしもの不死者も耐えられなくなってきた。彼にはそれを的確に表現する言葉はなかったが、言うなれば“日陰の女”のような気持ちにさせられているのである。性別的には男を模して造られているベエンダーとしては、半ば錯乱状態にあるような気分だった。
こうして、彼はウィルから離れるようになった。時折ワイドを訪れてその動向を探りはするが、この町自体にはなるべく滞在しないように心がけた。
そして今、生まれ故郷ラウプホルツにほど近いヴァイスラントへと足を伸ばし、彼はとめどもない思索に身を委ねていた。
コーデリアとの共生や、ウィルを通じての人間社会の観察によって、彼はすでに生まれ落ちた直後とはずいぶん変わってきている。それは、成長と呼んでもいいのかも知れない。昔はまるで理解できなかった人間の心の機微も、とりわけコーデリアのアニマから伝わってくる具体例である程度は読み解けるようになった。
しかし、それでも彼の求める――求めなくてはならぬ答えは見つからない。恒久の塔でベエンダーの帰りを待つ、創造者の抱えた矛盾を解決する糸口は、彼の前には未だ示されなかったのだ。
この日、ヴァイスラントの町にほど近い氷原で物思いにふけっていたベエンダーは、町に向かって移動する奇妙な一団を発見する。
雪に閉ざされたこの地方の住民にしては、いずれも派手すぎる衣服を身にまとっている。そして何より、この男たちからはアニマが感じ取れなかった。アニマを持っていないのではない。十人あまりのその一団は全員、自分のアニマを意図的に周囲と同化させて気配を消していたのである。
それは、ベエンダーが通常は人の目に捉えられぬのと同じ原理であった。彼らはアニマの色を変える“擬態”であり、最初から不可視の存在であるベエンダーとは厳密には異なるものの、アニマに頼った常人の視覚では認識できないという点では一致していた。
そのような技を操る人間を見たのは初めてだった。いや、ことによれば今までも遭遇し、単にアニマのない人間として見過ごしてきたのかも知れない。ただ、彼らが集団で行動している以上、そうした技能を持つ者たちを組織する何者かがこの世界に存在することをベエンダーは察した。
降りしきる雪の中、己のアニマを消して黙々と薄暮の氷原を行く男たちに興味を引かれ、彼は答えの出ない思索を中断してそのあとを追った。
町に足を踏み入れたところで、ベエンダーの鋭敏な感覚は捉えた。別の方角からも、同様の集団が二隊、ヴァイスラントに接近していたことを。それは明らかに、この町を包囲しようという動きであった。
ベエンダーが同行した隊の男たちは他にやや先行する形で、広げた網を少しずつ縮めるようにして町の中心に近づいていく。咳ひとつ立てず、気配を消した彼らに、まだ出歩いている数人の住民は全く気づいていなかった。
町の中央に、ひとりの青年がたたずんでいた。年の頃は十七、八としか見えなかったが、その端正な顔に浮かぶ表情は醒めきっていて、ひどく老成した印象を彼に与えている。首に巻いた赤いマフラーの鮮やかさが、異様なまでの違和感と、そして擬態集団の服装との共通性をベエンダーに感じさせた。事実、青年もまたアニマを同化させて気配を完全に消し去っていたのだ。
この男が追われているのだと、ベエンダーは即座に悟った。総勢三十名にも及ぶ謎の男たちが、赤いマフラーの青年を捕らえるため――あるいは殺すためだけに、この町に集結しているのだと。
青年ももう、自分が包囲されてしまったことを察知しているようだった。薄く笑い、そこから逃げようとする気配もない。彼はすでに、覚悟を固めていたのであった。
この時点まで、ベエンダーはどちらかに肩入れしようというつもりは毛頭なかった。多勢に無勢ではあったが、コーデリアの時とはいささか状況が違う。加えて、彼はもうできる限り、人の生き死にに関わらぬように自らを律していた。
しかし、ここで予期せぬ事態が起こった。追っ手の集団のうち何人かが、標的を前に殺気を抑えきれなくなったのである。その結果、擬態したアニマが乱れて彼らの姿が常人にも知覚できるようになる。そして折り悪しく、そこにこの町の住人が通りかかった。
おそらくは、近所の家でちょっとした用事を済ませて帰ろうとした主婦と、暖を取ろうと酒場にでも向かう途中の老人だったのだろう。彼らは認識上は忽然と現れたことになる男たちに仰天し、声を上げようとした。
それより早く、男たちの手にした刃がふたりの急所に潜り込んでいた。声もなく息絶え、主婦と老人は雪上に伏した冷たい骸となり果てる。
「獲物以外を殺るとは、サソリも質が落ちた……」
青年が見下げ果てたといった口調でつぶやいた。が、追っ手たちは眉ひとつ動かすことなく、じわり、じわりと包囲の輪と狭めていく。青年の命もまた、風前の灯火であった。どれだけ腕が立とうとも、訓練を受けた暗殺者十名の襲撃を受けてはまず生き残れない。退路は別働隊に完全に断たれている。
しかし、次の瞬間――。
いきなり三人の暗殺者が消滅した。姿を消したのではない。文字通り、消し飛んだのである。代わりに夥しい量の血と肉片が、彼らがいたはずの雪の上に大輪の赤い花を咲かせていた。
暗殺者たちの能面のような顔に、初めて動揺が疾った。標的である青年が何かをした気配はない。ならば、何が自分たちの身に起こっているのか――そう考えた刹那の時間に、さらに四人が血の花と化していた。
ベエンダーであった。燃えるような怒りに任せて振るう丙子椒林剣が、暗殺者たちを微塵の肉片へと変えていく。その行為は彼にとって虐殺でさえない。彼の心に流れ込んできたふたりの犠牲者の無念を鎮めるための、それは血と肉を供物とした儀式であった。
なぜ、自分がこんなにも猛っているのか、ベエンダーにも明確には判っていない。コーデリアのアニマをその身に迎え入れてから、もはや彼が人を殺めることはなくなっていたのだ。ただ、この抗いようのない激情が、コーデリアの時と同じく、彼の中から自然に湧き上がってくるものだということだけは確かだった。だから彼は従った。ゆえなく奪われた命への未練、終わるはずではなかった人生のあまりにも唐突な幕切れへの怨み――その、かつて人のアニマを啖っていた彼がえぐみと感じていた思念を弔うべく、彼は憤怒とともに剣を操り、非道の暗殺者たちの魂を刈り取ったのだった。
忘我の怒りの中で、ベエンダーはわずかに、何か大切な答えをつかんだような感覚に襲われた。それはただの錯覚だったのかも知れない。あとでいくら思い返してみても、この時の彼の脳裏にそれは蘇ってはこなかった。
狙われていた青年――暗殺組織“紅いサソリ”からの脱走者ヨハネは、追っ手が不可視の猛獣のごときものに殲滅されていくさまを呆然と見ていた。気がつけば、十人の暗殺者はすべて、純白の雪上に撒き散らされた肉塊と化していた。その凄惨な現場を覆い隠すかのように、雪はしんしんと降り続ける。禍々しいものの気配はすでになかった。
組織でも一、二を争う戦闘能力を有していたヨハネは、その人間離れした動体視力によって一瞬だけ、鋼の剣を振るう美しい幽鬼のごとき剣士の姿を捉えている。だが、彼はそれを忘れようとした。暗殺組織に追われるヨハネにとって、信じられるのは確かに存在し、理解できるものだけであった。人智を越えたものに思いを巡らせる余裕は、次々と襲い来る追っ手たちと死闘を繰り広げねばならぬ彼には全くなかったのだ。生き延びること――それだけが、今のヨハネのすべてであった。
そしてこの九年後、ヨハンと名を改めた彼は再びベエンダーと邂逅する。揺らめく焔の、その向こう側で――。
1269年    鋼の王は炎に消える
全身を包む薄青の剛毛を震わせ、人の倍はあろうかという大グモが、毒液にまみれた牙をいっぱいに広げて突進を開始した。八本の脚を絶え間なく前に繰り出すその動きは滑らかで、なおかつ巨体からは想像もつかぬ、節足動物特有の稲妻のごとき迅さで這い進んでくる。
しかし、その牙が獲物を捉える寸前の絶妙の間合いで、裂帛の気合いをこめた斬撃が巨大グモの複眼を横薙ぎに裂く。わずかに怯んだところに袈裟斬りが襲い、間髪を容れず三閃目がのけぞった巨虫の柔らかな下腹を深々と薙いだ。
剣の軌跡が“Z”を描く。アルファベット最後の一文字を刻まれ、複数の急所を同時に切り裂かれて、大グモは短い断末魔の絶叫を残して絶命した。
ヨハンの剣技であった。すでに周りには、彼の手によって倒された魔物が数体、無様な屍を燃え盛る炎の照り返しの下にさらしている。
紅蓮の光と熱気の中で、その身に無数の傷を受けながら、護衛者ヨハンは不退転の意志も露わに不動の構えを取っていた。その赤いマフラーがたなびく限り、鋼のギュスターヴの暗殺は不可能とまで言わしめた男の殺気が、彼の前に二重三重に連なる魔物たちを射すくめ、足止めさせる。
「どうした、ここまでか。私はまだ、暗殺術の半分も見せてはいないぞ」
烈火のごとき眼光に圧され、人語を解さぬはずの魔物の群れがじりじりと後退する。たったひとりの男に阻まれ、数十を数える先遣隊は一匹たりとも、背後に控える本陣の大扉に取りつけないでいた。
しかし、ヨハンの肉体はすでに、生きているのが不思議なほどに衰弱していた。
毒によって、である。それはこの場で魔物から浴びたものでもなければ、昨日今日受けたものでもない。彼が暗殺組織“紅いサソリ”によって一員と認められ、ヨハネの名とともに授かったサソリの刻印――その焼き印に仕込まれていた遅効性の毒素が、年月をかけて少しずつ、そして着実にヨハンの身体を蝕んでいたのだ。
この毒に侵された肉体は、いかなる治療法を用いても回復することはない。定期的な解毒剤の投与だけが、その進行を妨げる唯一の方法であった。そしてその薬は、“紅いサソリ”の本拠地でのみ栽培される変異種の植物から、特殊な製法で抽出しない限り手に入れることはできない。こうして、組織は暗殺者たちの生命を盾とし、強固にその意志を掌握してきたのである。
“紅いサソリ”を脱走して十年もの間、解毒を受けないヨハンの命の砂時計は容赦なく滑り落ちていった。主であるギュスターヴの師に当たる高名な術士シルマールの手による薬湯が、その進行を遅らせてくれてはいたが、それもとうに限界を迎えていた。この時、彼には最後にこびりついた砂粒ほどの命しか、残されてはいなかったのだ。
「さすがですね、273号――いや、今はヨハンでしたか?」
人の声が、群れの背後から響いた。魔物が左右に分かれ、そこにできた道をひとりの男が進み出る。「その身体で、私のしもべたちを怖じ気づかせるとは。毒が回っていなかったなら、あなたにはかなわなかったでしょうね。その暗殺者としての才、うらやましい限りですよ」
「ユーダ……お前が、この襲撃を仕組んだのか」
かつて274号と呼ばれた同期の暗殺者は、ヨハンの額ににじみ出す脂汗に満足げに微笑み、ほがらかな口調で答えた。
「仕事ですよ。どうせあなたは放っておいても死ぬ。わざわざ魔物たちを連れて私や兄弟たちが駆り出されてきたのは、ギュスターヴ公のお命を頂戴するため――」
ヨハンの視界で、ユーダの整った顔がぐにゃりと歪む。毒による高熱で意識は朦朧とし、心臓に締めつけられるような激痛が疾る。片膝を突き、それでもヨハンはユーダをにらみ据えた。
「――カンタールか?」
「さあ。誰の依頼なのか、我々暗殺者には伝えられることなどないと、あなたも良く知っているでしょう? 確かにカンタール卿は私の予想する依頼者の有力な候補ですが、ギュスターヴ公が生きておられては困る人間など、他にも両手にあまるほどいますからね。ただ、私にとってそんなことはどうだっていい」
ユーダの顔が今度は本当に歪んだ。美しい仮面の下に隠した本当の素顔――この、組織に忠実で優秀な暗殺者は、心の底から殺しを愛していた。ユーダは人の命、それも要人のアニマが自分の手の中で消えていく時、筆舌に尽くしがたい愉悦を感じる殺人狂だった。
「ギュスターヴ公にはアニマがないと聞きますが、それはそれでめったに味わえぬ獲物ですからね。この任を与えてくれた依頼者と組織に感謝しますよ、フフフ……」
「……お前、などに、ギュス、ターヴ様、を……」
読破、ユーダの言葉の間にも、急激にヨハンの最後の命を削り取っていった。もはや視界は暗く、身体は言うことを聞かずに前のめりに倒れ伏す。浴びせかけられたユーダの嘲笑が、まるで海の底で聞いているかに遠く響く。
その目が捉えているのは、砦のあちこちに放たれ、彼のそばでも夜空に赤い舌をひらめかせている炎の輝きのみだった。それさえも急速に、暗黒へと近づいていく。自分のアニマが、身体を抜け出ていくのが判る。
そこを越えれば死となる、喫水線のような地点にさしかかったその刹那――。
踊り狂う焔の中にヨハンは見た。九年前のあの日、記憶の底に封じ込めた幻の剣士を。あの時と変わらぬ姿で、美しき銀髪の幽鬼は彼を見つめていた。
自分はとうに死すべき運命だった――鏡面のように静かな心でヨハンは思う。それが今日まで生き延びることができたのだ。ならばあと少しだけ、現世に命をつなぎとめたところでそれがいかほどの奇跡であろうか。人智を越えたものの存在を受け容れる代わりに、死にかけた肉体に一瞬だけ活を入れるエネルギーを、ヨハンは魂の底からしぼり出した。
ユーダはヨハンの死を確信しながらも、用心深く背中から心臓に短剣を突き立てようと近づいてきたところだった。バネ仕掛けのように跳ね起きたヨハンに組み付かれ、ユーダの顔が驚愕と恐怖に引きつる。
「死に損ないめ! 放せ!」
抱き合う形になったヨハンの背に、短剣が幾度も突き刺さる。だが、もう苦痛さえ感じないほどに死に始めている肉体はいささかも怯まない。どこにそれほどの力が残っていたのか、万力のようにユーダの胴を締め上げ、ヨハンは小さくつぶやいた。
「お前だけは、一緒に連れていくよ、サソリの兄弟……」
ヨハンの身体から、激しい炎が噴き上がり始めた。残されたアニマを暴走させ、自分の肉体を火と見立てたのである。術においても天才的な素質を見せたヨハンの、生涯最後の大火術であった。
ユーダの悲鳴が長く響く中、ふたりは抱き合ったまま巨大な松明と化した。火柱は数匹の魔物を巻き込んで、ヨハンのアニマを天高く昇らせていく。
それを見送り、“夜猟者”は本陣へと跳躍した。
ギュスターヴは、研ぎ澄ました鋼の懐剣を取り出し、曇りひとつない刃を自らの首筋に当てた。
彼の覚悟にもまた、一点の曇りもない。このように死を迎えるなら、それは天命なのだとギュスターヴは思っていた。ならばその幕は自らの手で降ろすべきだと、さしたる気負いもなく彼は頸動脈に添えた白刃を手前に引こうとする。
「ギュス様! まだご無事で!」
聞き慣れた声が、動き始めた手をぴたりと止めさせた。その主を振り返り、ギュスターヴは一喝する。
「フリン、この馬鹿者! ここで何をしている!」
「ご、ご安心を――」
ギュスターヴの剣幕にすくみ上がりながらも、フリンは四十七才の年齢を感じさせぬ身軽さで走り寄ってきた。「ヴァンは無事、包囲の外へ連れ出しました。ちょうど出くわしたダイクに託しましたので心配はありません。ただ、本隊の到着は間に合いそうにないのですが……」
「たわけ!」
自分の弁解がギュスターヴの怒りに火を注いだのを知り、フリンは目を閉じて縮こまった。その眉の間に指をぐいと突きつけ、ギュスターヴは獅子のごとく吼えた。
「お前は安全な場所まで抜け出しておいて、わざわざここまで戻ってきたというのか? 私のためにか! どのみち私が一緒では逃げられんのだぞ、この大馬鹿者め! お前も含めて逃げろと命令したというのに――」
「お言葉ですが、ギュス様」
指を突きつけられたまま、目はしっかりとギュスターヴを見据えてフリンは前に乗り出した。
「そんな命令は聞けませんね。ええ聞けませんとも! こればっかりは、好きにやらせていただきますよ」
「何だと! こ、この……」
一度として彼に刃向かったことのなかったフリンの奇妙な迫力に気圧されて、ギュスターヴは思わず指を引っ込め、口ごもった。すかさずフリンが続ける。
「今、ギュス様は何をなさろうとしていましたか? ご自害なされるおつもりだったのですよね? まさかそんな短剣で、ヒゲを当たるところだったとは言いませんよね?」
「それは、そうは言わんが……」
「確かにこのフリンの命は、とっくにギュス様にお預け申し上げておりますよ、ええ。ラウプホルツ公の下着の色を調べてこいと言われれば行きますし、ギュス様が死ねとおっしゃるなら死にます。ですが、命令を給わるべきギュス様に死なれたなら、やっぱりこの命は私のものになりますよね?」
「……う、うむ」
話がどこに向かっているのか読めず、そしてこれほど雄弁なフリンを初めて目の当たりにした驚きに、ギュスターヴはしどろもどろに相槌を打った。
「でしょう? それだったら、私だけでも生き延びろと言う命令はまるっきり意味がないじゃないですか。ギュス様がお亡くなりになったら、どのみち私だって死ぬつもりなんですから。その私の一番の望みが、最後までこうしてギュス様にお仕えすることなんです。ギュス様がお覚悟を固められている以上、私だって好きにやらせてもらってもバチは当たらないでしょう?」
「しかしだな……お前だってもう責任のない立場ではあるま――ふっ、はっはっは」
弱り果て、つまらない一般論に逃げようとしたところで、馬鹿らしくなったギュスターヴはついに破顔してしまった。外を取り囲む刺客は、まさかこの期に及んで自分とフリンが、こんな押し問答を続けているとは思わないだろう。それがあまりにも馬鹿馬鹿しく、そしてフリンがあまりにも真剣であったため、さしものギュスターヴもこみ上げる笑いを抑えきれなかったのだ。
それに、フリンの気持ちも判っていた。鉄の時代を築き上げた今も、術不能者である彼らが異端者であることに変わりはない。その口惜しさ、苦悩を最初から分かち合えたのはふたりだけであったのだ。ギュスターヴにとってもフリンは、レスリーともケルヴィンとも違う無二の仲間であり、親友だった。
「……判ったよ、フリン。好きにしろ。それともう、かしこまった言葉遣いはやめてくれ」
「うん。そうするよ、ギュス様」
子供時代の気安い口調に戻り、フリンはついと立ち上がってこの本陣に備蓄してある酒を探し出してきた。
「末期の水代わり、か?」
「それもあるけど、さっきのギュス様のやり方じゃ、きっと死ぬの苦しいと思うんだ。それで、とっておきの毒を混ぜたよ。無味無臭で、ゆっくりと眠るように効くやつ」
「恐いもの持ってるなあ、お前。使ったことはないだろうな?」
「いつかカンタールにでも飲ませてやろうと思ってたんだけど、ギュス様ってそういうの嫌いだものね」
「当たり前だ。たとえあいつがそれをためらわない人間でも、同じようにはなりたくない」
言いながら、手にした杯になみなみと毒酒を受ける。フリンに注ぎ返し、ギュスターヴは訊いた。
「そのせいで、出し抜かれたと思うか?」
「充分だよ、ギュス様。ボクは存分に生きることができた。ギュス様に出会えなかったら、きっと術が使えないってことでいじけて、もっと早くに死んじゃってたと思うよ」
「そうだな。俺だってそうだ。アニマがなくても、やりたいようにやれるってことはもう充分に判ったからな――」
ふたりは満ち足りた表情を浮かべると、猛毒入りの酒をまるで水のようにつるりと飲み干した。ギュスターヴは鼻から息をつき、フリンは最後にむせて涙ぐむ。
「ははは。相変わらず酒は苦手だな」
「うう……でもね。旨いよギュス様」
「毒酒がか? ……いや、確かに旨いな。ふふ、思い残すこともなし、か」
思えば、術不能者がどこまで行けるのか、それを確かめるために始めた戦いだった。気がつくと彼の築いた領土は、メルシュマン地方からロードレスランド全域、そしてワイドやヤーデまでを含む広大な勢力範囲を持つに至っていた。それはすなわち、かつてのハン帝国に匹敵する規模であったのだ。
この南征は、ギュスターヴにとってはついでのようなものだった。彼からすれば、術発祥の地であるヴァイスラントなどに特別なこだわりはない。現実にラウプホルツ公国を狙うとすれば、天険の地グラン・ヴァレを攻略するだけで彼の寿命は尽きてしまうだろう。現時点で、ギュスターヴはもはや帝国拡大の野望を抱いてはいなかった。
死を前にして、彼には何の不足もなかった。レスリーももう怒りはしないだろう。ケルヴィンに対しては悪いと感じはするが、自分の跡は彼が継いでくれればいいとも思っている。シルマールから預かったヴァンアーブルが無事逃げおおせたとあれば、もう何も思い残すことなどない。後顧の憂いもなく、栄華の頂点を極めた今、死ぬにはまたとない日であった。
「ギュス様、何だかうれしそうだね」
柔らかなまどろみに包まれながら、穏やかに微笑むギュスターヴにフリンが尋ねる。
「ああ。なぜか心が晴れ晴れとしてるんだ。こんなのは久し振りだ」
「そういうの、前にもあったよねギュス様。あの時はず〜っと続けばいいって思ったけど、最後がこうならそれでいいよね……」
「ああ……そうだな……」
深まりゆく睡魔に、いよいよ最期の時が近づいてきたことをふたりは悟る。お互い、最後に交わす言葉は決まっていた。
「ギュス様、ありがとう……ボク、とてもいい夢を見られた」
「私もだ、フリン……お前に出会えて、良かっ……た……」
ほどなく、沈黙がふたりを支配する。吐息すらも聞こえぬ、永遠の静寂が――。
ギュスターヴたちが事切れるのを、ベエンダーは物陰から静かに見守っていた。
このアニマのない男が、鋼の武具を造ることで巨大な帝国を築くまでになったのをベエンダーは知っている。そしてそれが、おそらくは自分の丙子椒林剣から得た着想だったということも。
関わった人間がたったひとりで歴史を変えてしまった事実を、彼は驚きとともに受け止めていた。わずか一代でギュスターヴは忌み嫌われていた鉄を時代の中心に押し上げ、人の世に大きな変革をもたらしたのだ。
それは、鋼を用いたということだけではない。アニマなき男の飛躍は、多くの人間の精神に可能性の翼を与えた。ギュスターヴ亡きあとも、世界はまだまだ変わっていくだろう。ベエンダーとギュスターヴの邂逅が生み出した影響が、水面に落ちた雨滴の波紋のように、この瞬間も広がり続けているのだった。
そして、ギュスターヴはわずかな未練もなく笑って死んでいった。有限生命体に過ぎぬ男のこの死にざまは、かつてない衝撃と閃きをベエンダーに与えていた。今なら、思索を重ねることで長年抱き続けた答えを見つけることができるかも知れない――そう、彼は強く感じていた。
少なくとも、この男たちの亡骸を、間もなくここへ殺到するであろう魔物どもの餌にすべきではないと思い、ベエンダーはふたりの身体を軽々と背負った。そのまま業火に包まれつつある砦をあとにしようとして、ふとその足を止める。
ギュスターヴの亡骸から鋼の剣を抜き取り、ベエンダーはそれを大地に深く突き立ててから、火の粉の舞う夜空へ高く跳躍した。
翌朝、焼け落ちた砦を捜索したヴァンアーブルは、残された鋼の大剣だけを発見する。ギュスターヴを敬愛してやまなかった彼はそれを秘匿し、受け継ぐに相応しい人間が現れる日を待ち続けた。その時まで、実に三十六年の歳月を要することとなる。
また、当然の事ながらギュスターヴとフリンの遺骸は、その痕跡さえも見つかりはしなかった。ゆえにギュスターヴの死には様々な憶測が飛び交い、謎めいたものとして後世に残る。のちに子孫を語る者が数え上げられぬほど現れたのも、彼が多くの女性と浮き名を流したことに加えて、生死不明に終わった史実によるところが大きい。
そして、これよりしばらく、ベエンダーは黙想の時代に入る。“夜猟者”の目撃は途絶え、それが再び人の口にのぼるのは、時代が次の百年を迎えてからのこととなるのだった。
1270年    リッチの旅立ち
十五歳のディガー・リッチは、ここワイドに暮らしている限り、自分が父親の呪縛から逃れられないことを痛感していた。
父の名はウィリアム・ナイツ。この町でその名前を知らぬ者などいない。そして、タイクーン・ウィルの通称ならおそらく、ワイドの位置する南大陸だけでなく東大陸全域――つまりはギュスターヴ公の築いた大帝国の大部分で通用してしまうだろう。
“タイクーンの息子”と呼ばれるたびに、リッチはナイツの家に生まれついた自分の運命を呪った。町で女の子に声をかけても、あのタイクーンの、と頬を赤らめられてしまうのだ。冗談ではなかった。彼はリチャード・ナイツであってそれ以上でも以下でもない。誰かの付属物のように扱われるのは彼の誇りが許さなかった。
父を尊敬していないわけではない。いや、むしろウィル以上に尊敬できる人間などそうはいなかった。頼りになるし、知識も技量も駆け出しディガーのリッチでは何をとってもかなわない。エッグと呼ばれる呪いのクヴェルについて語る時だけは偏執狂じみた態度をとるが、人格者で大物で、嫌になるほど理想的な父親であったのだ。だからリッチも心の底では、ウィルを敬愛していることを認めざるを得ない。
偉大すぎる父を憎むこともできないとなれば、リッチに残された手段はひとつしかない。逃げ出すのだ。ワイドを離れ、ナイツの家名も伏せて、ディガーとして自分なりに生きていくしかないのである。自身が腕を上げ、人からタイクーンの息子ではなく、リチャード・ナイツ個人と認めてもらえる日まで。
世の中はまさに、ギュスターヴ公の死が引き起こした後継者争いのただなかにあったが、もともと政治に関わりを持たないディガーにとってはさしたる問題ではなかった。
こうして、リッチは生まれ育った故郷ワイドをあとにしたのだった。人生の、はるか先にわだかまる小さな暗がりを察知することもなく――。
1285年    虹の記憶
数百年もの間、その機能を失って沈黙していたグラン・タイユの散水塔が今、再生の歓喜に身悶えするように震動し始めていた。地下深くの基底部から、塔の内部を凄まじい圧力の塊が駆け昇っていく。
地響きが途絶える――そう感じてから、一瞬ののち、クヴェルによって地底の水脈より誘導された膨大な水が、蒼天に高くそびえる塔の頂から勢い良く放出される。瀑布のごとき水流は大気の抵抗で砕け、上空で四散して不毛の大地に慈雨を降り注いだ。
容赦なく照りつける乾燥地帯の陽光が、飛び散る煙雨のフィルターを通して和らげられ、濡れた身体に適度な熱を与えてくれる。その、味わったこともない爽快感の中で、十五歳のサルゴンは口を閉じるのも忘れて真っ青な空を見上げていた。
虹が架かっている。舞い上がる水飛沫がプリズムの役割を果たし、砂漠の空に七色に輝くアーチを浮かび上がらせたのだ。
リッチが歓声を上げ、かたわらで虹に見とれるユリアを抱き寄せた。雨を浴びてびしょ濡れになりながら、彼らは心の底から嬉しそうに笑い転げる。
「面白い奴でしょ、リッチって?」
同じく濡れねずみになって呆れたように肩をすくめつつも、口元の笑みを隠せないエレノアがサルゴンに言う。「大して得にも名声にもならない厄介な仕事を、あいつは女の子の笑顔が見たいっていう理由だけでやるのよ。調子が良くって女ったらしで、もういい年なのにふらふらしてて、そのくせ腕はいいのよね。その気になれば、タイクーンって呼ばれるような大仕事だってやれるのに……いい、サルゴン? あんな奴、見習っちゃダメよ」
けなしながらも、リッチのことを語る時のエレノアの顔はどこか少女のようで、ほのかに染まった頬が美しいとサルゴンは思った。濡れた衣服が成熟した肢体に張りついているのに気づき、彼は顔を真っ赤にして目を伏せる。そのサルゴンの髪を、エレノアがくしゃくしゃとかき乱す。
「おー。まだまだ純情ねえ。男の子はそういうほうがいいわ」
「でも……僕、リッチさんって大好きですよ。こんなに楽しいのも初めてだ」
「そうね……あ! リィーッチ! そこ、キスなんかしてんじゃなーいッ!!」
抱き合うふたりに向かって砂丘を駆け下りていくエレノアに呆気に取られ、一拍おいてサルゴンは笑いながらあとを追った。
鮮やかな、少年時代の虹の記憶――駆け出しのヴィジランツだったサルゴンは、この日の底抜けにはしゃぎ、楽しんだ宝石のような想い出を忘れることはなかった。時が流れ、彼が“高貴なる騎士”と呼ばれる存在となったあとも、ずっと……。
1291年    魔卵の誘い
これより十四年前、リッチはエッグと運命の邂逅を迎えていた。
彼の父ウィルによって海底に沈められながらも、亡霊のようにまたも人の世に立ち現れた魔性のクヴェル――その次なる宿主は、まだ年端もゆかぬ少女であった。
その娘がヴェスティアの町から姿をくらまし、何事もなく歳月が積み重ねられてゆく中で、リッチも薄気味の悪い卵のことなど忘れてしまっていた。父からエッグについてある程度のことは聞かされていたものの、彼にしてみればもうひとつピンとこなかったのである。
エッグが人に害を及ぼすクヴェルであることは正しく理解していた。所有者は魂を魅了され、エッグの虜になってしまうということも。しかし、それがどうしたと言うのか、ともリッチは思っている。
放っておいても人は死ぬし、他にも人間を襲って命を奪う猛獣や魔物はいくらでもいる。何より、一度戦争が始まれば、人喰いの卵の犠牲者などとは比べものにならぬ規模のアニマが大地に消えていくのだ。死を招くエッグが危険だというのなら、ギュスターヴ公の跡目を争って戦に明け暮れる各国の指導者たちのほうがよっぽど質が悪いのではないか――それがリッチの考えだった。所有者を殺すことになってもエッグを葬ろうとするウィルの頑なさが、彼には理解できなかったのである。
そしてこの前年、リッチは妖艶な女性に成長した宿主・ミスティとノースゲートの村で再会する。エッグから感じる悪寒に、彼は妊娠を告げる恋人ディアナをワイドの父のもとへと避難させ、単身立ち向かうことを決意する。しかしこの時はまだ、隣人たちの集う場に人喰い虎が紛れ込んだような、目の前に迫る危機を排除しようとする程度の認識でしかなかった。
不可思議な魅力で村に溶け込んだミスティは、女性であるばかりに手を出しあぐねているリッチを嘲笑うかのごとく、唐突にその本性を現した。村人たちを襲う謎の奇病――それは彼女が制作したクヴェルが、住民のアニマを無差別に抽出したことが原因であった。この企みを阻止しながらも、リッチの心には黒雲のような不安が沸き起こる。父が唱えていたエッグの危険を、彼もようやく認識したのだ。同時に、ひとつの村を壊滅させかねない術を用いるエッグが、果たして自分ひとりの手に負える相手なのかどうかという疑念が彼を襲った。
逃げてしまっても、それは恥ではないのではないか? まだきちんと祝言も挙げていないディアナと、もうすぐ生まれるであろう我が子の待つワイドに帰って、幸福に暮らしたとして誰が自分を責められようか? 卵に憑かれた女のことなど、見なかったことにしてしまえばいいのだ。ここからならまだ、引き返せる――。
迷いながらも、結局、リッチは北大陸奥地へとミスティを追った。逃げ出さなかった理由は、タイクーンと呼ばれた父への意地でも、北大陸の開拓民を慮ってのことでもない。彼を突き動かしたのは、エッグに感じる根元的な恐怖と嫌悪だった。次代を担う者たちにこの世界を譲り渡すうえで、あれは残してはならないものなのだと、リッチは父をも凌ぐその才覚で本能的に悟っていた。
罠と知りながら、あえて誘いに乗って、リッチは巨虫の巣喰うメガリスへと向かう。
それは狡猾な罠だった。
リッチの構えた短剣に、ミスティは自ら飛び込んで急所にその刃を埋めた。頬を寄せ、自分を殺した男にエッグを手渡して、ミスティは甘く幽かな吐息を漏らす。リッチの耳に触れるほどに近づく唇からささやかれた最後の言葉は――。
「これを待っていたのよ……さあ、これでエッグはあなたのもの。そしてあなたのアニマは、エッグの……」
そこでこと切れ、リッチに身体を預けたまま、ミスティはずるりと足元にくずれ落ちた。
リッチもまた、エッグに触れた瞬間にすべてを察していた。ここまでが、魔性の卵によって計算し尽くされた罠だったのだ。
それは、ヤドカリが手狭になった殻を捨て、より大きな貝殻に移る行為に似ていた。エッグはミスティに見切りをつけ、ナイツ一族の優秀なアニマを持つリッチを新たな宿主に選んだのだ。何もかもが、彼にエッグを継承させるべく仕組まれた計略であった。
手にしたクヴェルから、リッチの意識に無数の、亡霊のごときアニマが流れ込んでくる。それまでの自分が矮小で、取るに足らぬ存在だと感じてしまうような、圧倒的なエネルギーとともに。
そして、その力の中心にわだかまるどす黒いアニマこそが、人のものとは全く異質な、接触しただけで凍りついてしまいそうな冷気を帯びたエッグの本体――意識体であった。
おそらくは歴代の所有者も皆、この感覚を味わっていたのだろうとリッチは思った。人間がどれだけ努力してもたどり着けない高みまで、一瞬に連れていかれる高揚感。それを受け容れれば、自分がエッグの一部に過ぎぬ存在となり果ててしまうのは明らかなのだ。しかし、その一部分でさえ、もうただの人間には戻りたくなくなるだけの力を宿主に与えてくれるの判る。
これほどの力を目の前にして、人であること、個であることにこだわる必要などないのではないか。アニマなどエッグにくれてやり、代わりに人間では味わえぬ超越者の悦楽にこの身を浸そう――。
それは常人であれば、自我を保っているつもりのうちにアニマを喰われてしまう、強烈な精神支配であった。このように誘導され、所有者たちは自ら望んだという錯覚の中で、エッグにアニマを貪られてきたのである。
だが、リッチは信じがたいまでの精神力でこれを一時的に跳ね返した。
誰かの一部として、従属物として生きるなどご免だった。彼は一個人リチャードとして生きたいと願い、それだからこそウィルのもとを離れて、ナイツの名に頼らずに腕を磨いてきたのだ。卵などに自分をくれてやるなど死んでも嫌だった。
そしてこの時、エッグが自分を使って、最初に何をするつもりなのかもリッチは悟った。何食わぬ顔でワイドに戻り、この禍々しいクヴェルのことを知りすぎたウィルを始末しようというのだ。そのついでに、ディアナと子供の命も奪われるだろう。リッチ自身の手によって……。
すでに彼はエッグを手放せなくなっている。精神支配に抵抗できるのもあとわずかであった。限界は近づいていた。
リッチは覚悟をたちどころに決めた。人にとっての絶対の邪悪を葬り、愛する者たちを守るため、己の生への執着を一瞬に捨て去った。
――ディアナ、ごめんよ。親父はまだまだ長生きしやがるだろうから、生まれてくる子供と一緒に養ってもらってくれよ。それからおやじ、エッグのことはちゃんと説明して、間違っても俺が浮気して逃げたなんて思われないようにしてくれよな。それと、最後はやっぱりおやじのおかげで意地が張れたみたいだ。ありがとよ……さよなら。
エッグが彼の肉体の自由を奪うよりもわずかに早く、リッチは巨虫のメガリス深部の断崖から身を投げていた。数秒後、彼のアニマはエッグに喰われることなく、自然へと還っていく――。
奇しくもリッチの最後と同時刻、遠く南方のワイドで、ディアナは珠のような女児を無事に出産していた、赤子は、齢七十を過ぎてようやく初孫を得た喜びに頬を弛ませたタイクーン・ウィルによって名付けられる。
ヴァージニア・ナイツと。
1305年    結成/対決/敗走
「後ろだ! ジニーちゃん!」
この叫びで、ヴァージニアが反射的に前に飛び出した。射線上に障害がなくなった瞬間、強烈な蟻酸を今まさに浴びせかけようとする巨大兵隊アリに向け、ロベルトは死の呪詛をたっぷりと帯びさせた矢を射出する。
一瞬だけロベルトを振り向いて投げキッスを飛ばし、ジニーは即座に攻勢に転じた。矢が刺さるか刺さらないかというタイミングで、彼女の手にした杖が旋回して大アリの巨体を打ち据え、動きの止まったその背にさらにもう一撃が打ち込まれる。
この間に、グスタフとプルミエールも攻撃の態勢を整えていた。後退するジニーと入れ替わりに前進したグスタフが、彼の操る鋼の刃を寝かせるように構えて、昆虫の硬い外骨格をなでるように切り裂く。そして続けざまに、プルミエールが猛烈な勢いで突進し、折りたたんだ膝を息も絶え絶えの大アリの下腹に叩き込んだ。
「死ね海老なでキッチン!」
一分の隙もない、凄まじいまでの連携攻撃であった。防御を固める暇もなく、この大ミミズの穴に巣喰う巨大アリは一瞬に大打撃を受け、土がむき出しになった壁面まで弾き飛ばされてその動きを止めた。
「ふーっ」
握り拳を身体の両脇でゆるく広げ、プルミエールは静かに息を吐いた。「決まったわね。我ながら命名もばっちりで、何だか体が熱いわ」
「そうかなあ。それはないよなあ、って名前だと思うよ、プルミエール」
ジニーが不満そうに言う。「っていうか、最後に連携名とか言って叫ぶの、絶対に流行んないって思うんだよね」
「……何を言い出すかと思えば。いい、ジニー? これは東大陸はメルシュマン地方に伝わる正式な作法なのよ。名付けることで再び、ともに戦う仲間たちの心がひとつになる――そんな願いをこめての……聞いてる? ジニー?」
小指で耳をほじくり始めたジニーにプルミエールが眉を吊り上げる。しかしジニーはどこ吹く風で、指の先を見つめて顔をしかめ、ふっと汚れを吹き飛ばす。
「そんなことしなくても平気だもーん。ねーロベルト?」
「お、俺に振らないでくれよジニーちゃん。ま……まあまあ、プルミエールもそんなに熱くなるなって。名前をつけるってのは確かにいいって俺も思うぜ。でも、“死ね海老なでキッチン”ってのはどうかと……」
「特に海老がね」
顔を紅潮させているプルミエールを何とかなだめようとするロベルトだったが、ジニーの余計な一言がついに彼女の逆鱗に触れた。
「あなたが“海老殺し”を使ったんでしょうが! 大体、アリは海老やカニの仲間じゃないのよ! どうしてあんなワケの判らない技を使うのっ!」
「でも、ちゃんとつながったじゃん。プルミエールてきっと口うるさいオバサンになるよ」
「キイィィッ! あなたは何もかもが適当すぎるの! そんな風だから、テルムに行こうとしてノースゲート行きの船に密航したりするのよ!」
「あ、それを言うのはずっこいよ?」
「おい、グスタフ! 黙って見てないで何とかしてくれよ」
ぎゃんぎゃんと口喧嘩を始めた女ふたりに弱り果て、ロベルトは先刻からずっと沈黙したままのグスタフに泣きつく。
「俺の仲裁ってうまくいったためしがないんだからさ……って、おい? お前、何をブツブツつぶやいてんの?」
薄笑いを浮かべて何やら上の空のグスタフを不審に思い、彼は耳をそばだてた。
「私なら……でたらめかめごうらなでボコボコ……フフフ、これはいいな……」
「……俺、もう帰りてえ」
テルムに向かった祖父ウィルを追って旅立ったはずが、どうしたわけか北大陸の玄関口ノースゲートへと流れ着いてしまった十四歳のヴァージニア・ナイツ。しかしその偶然が、のちに待ち受ける宿命の戦いにおいて、大きな役割を果たす三人の仲間とジニーとを巡り合わせていた。
未開の北大陸で、ジニーはディガーとしての第一歩を踏み出した。それは、ナイツ一族四代にわたるエッグとの死闘に終止符を打つ、確かな一歩でもあった。
エッグは、ついに理想的な肉体を手に入れていた。
アニマの質はナイツ一族ほどではなかったものの、そのぶん男は扱いやすく、またエッグを満足させるに充分な資質に恵まれていた。この宿主と、そして長年にわたって吸収し蓄えてきた犠牲者たちのアニマを利用すれば、エッグはもっと効率良くこの世界を侵食することができるだろう。もともと彼らのものであったはずのこの星に、いつの間にか涌いて大量にはびこった人間ども――その中途半端な下等生物に、誰がこの世界の支配者であるのか、そして自身はその餌に過ぎぬのだということを教えてやらなければならないとエッグは考えていた。ナイツ一族のような跳ねっ返りを生み出さぬ、間違っても彼が滅ぶことのない安定した世界を構築しよう、とも。
さらに、エッグはすでに気づいていた。人間の社会における力とは、優秀な個人と同義ではないことに。砂漠のメガリスでの覚醒から八十年近くを経て、エッグは初めて軍団を組織するという概念を身につけたのだった。
その手始めとして、腹心の部下と呼べる有能な者たちが造り出された。“高貴なる騎士”と呼ばれる六人の超人――それは複数の人間のアニマを抽出し、もっとも優れた者に収束させるという狂気の選別過程を経て産み落とされた呪わしい強化人間たちだった。
そしてエッグは名乗る。愚かな人間たちが、ただそう宣言するだけで尻馬に乗ろうと集まってくる特別な名――ギュスターヴを。それは想像以上の効果をもたらした。
鋼のギュスターヴの血を引くという、不確かながらも挙兵の正当性を示す大義名分と、親衛隊エーデルリッターたちの圧倒的な戦闘力、そしてエッグを手にした偽ギュスターヴのカリスマ性が、ロードレスランドにはびこる反乱貴族や盗賊などの、現体制への不満分子たちを彼の旗の下へと集わせた。その勢力は短期間のうちに、諸侯といえども無視できぬ規模にまで膨れ上がったのである。
さらに、自治都市ハン・ノヴァをも取り込んだ偽ギュスターヴは、この地に伝統的に受け継がれた鋼鉄武具の製造技術を貪欲に取り入れ、ついには当世最大の権力者のひとり、ヤーデ伯チャールズを戦死させるほどの軍事力を持つに至った。ヤーデ軍を殲滅したこのハン・ノヴァの戦いは、ギュスターヴの死から三十年以上が経過し、軽んじられつつあった鋼鉄兵団の恐ろしさを改めて世に知らしめると同時に、今度のギュスターヴを名乗る者は、たとえ偽物であれ世界の覇権を握る可能性を持つということを諸侯に認識させたのだった。
人類を恒久的に支配・統制し、その種としての弱体化を図ろうとするエッグのおぞましい野望は、刻一刻と実現に近づきつつあった。愚かしい人間立自身の協力によって――。
しかし、それを阻止しようとする力もまた、この世界には存在した。
初夏の夜風とともに、それは現れた。
諸侯連合との決戦に向けての出陣を明朝に控え、偽ギュスターヴ=エッグが六人のエーデルリッターのみを集めて軍議を行なっていた。ハン・ノヴァ城天守閣に位置する覇王の玉座――そこに、開け放した窓の向こうに歪な月を背負って、“夜猟者”は現れたのだった。
その場にいた七人は、いずれも常人には備わっていない超感覚を操っていた。アニマの気配の有無に惑わされず、彼らは正確に、月光を浴び恐ろしいほどの美を体現するベエンダーの姿を視た。
「ようやく、現れたか――」
六十六年を経ての再開に露ほども驚いた様子を見せず、偽ギュスターヴはゆっくりと立ち上がった。「もっと早くくると思っていたのだがな、我と同じく不死なる者よ」
答えず、ベエンダーはずいと前に出る。微風のごとく穏やかに、しかし一瞬も滞ることなく、彼はまっすぐにエッグに近づいてゆく。左右に立ち並ぶエーデルリッターなど、気にも留めずに。
「控えていろ。お前たちでも、こやつはいささか荷が勝ちすぎる」
正体を露わに襲いかかろうと変形し始めた腹心たちを制止し、偽ギュスターヴは不敵に嗤った。そして自分も玉座を降り、ベエンダーに語りかけながら間合いを詰めに行く。
「人に非ざる貴様が、人間に肩入れしているのか? 滑稽なものだ。本性は違うのだろう? 喰いたいはずだ。人のアニマを貪りたいと、そう思っているのではないか――」
その刹那、ベエンダーの姿が消えた。いや、消失したのではない。一瞬に静から動へ、緩から急へと転じたのである。エーデルリッターたちの超知覚でさえ捉えることのできぬ、音の速さに匹敵する瞬発力であった。
ベエンダーにはエッグと話をするつもりなど毛頭なかった。やり残した仕事の決着をつけるため――すなわち、かつて取り逃がした忌まわしいクヴェルを破壊してしまうためだけに、彼はここへと乗り込んだのである。エッグのくだらぬ挑発など、耳にするだけでも不快であった。
それに、ギュスターヴの名は彼にとっても特別なものであった。長きにわたる思索の鍵となる、迷いなき人生の終焉を彼に示した男――その名を騙り、汚したエッグへの怒りがベエンダーの中に膨れ上がっていた。
一撃で決めるべく、足を止めずに刃を繰り出す。達人級の剣士が操るところの“無拍子”と呼ばれる技に似ていたが、人間のそれとは桁違いの威力と速度を秘めている。回避はおろか、防ぐことすら不可能な斬撃が偽ギュスターヴを一刀両断にする――はずであった。
「むっ!?」
しかし、鈍い金属音とともに、必殺の刃は止まっていた。
この世に斬れぬものなどない最強の鋼剣・丙子椒林剣を、偽ギュスターヴが構えた長剣が受け止めていたのである。さしものベエンダーの顔にも、戸惑いと驚きの表情が浮かぶ。
「前の傷は修復までずいぶん時間がかかった。あのような目には遭いたくなかったのでな、造ったのだよ。鍛冶技術と、私の知識を駆使して、貴様の剣を受け止めることのできるクヴェル――魔剣ガラティーンをな」
交差した剣をはさんで、不死者と魔人は至近距離でにらみ合う。不可視のエネルギーのぶつかり合いに大気は震え、エーデルリッターの何人かは知らず後ずさりする。以前とは比べものにならぬほど増大したエッグのパワーに、ベエンダーはどれほどの人間がその手にかけられ、アニマを啜られたのかを察した。
「貴様について考え、調べる時間もたっぷりとあったぞ、“夜猟者”よ」
偽ギュスターヴは低くささやいた。「ようやく思い出したのだ。我らの同胞が作り上げた装置のひとつのことをな」
「――?」
何を言い出したのかと訝るベエンダーに、偽ギュスターヴは続ける。
「人間どもの言うラウプホルツ近郊にある塔で、貴様は生み出された……違うまい? アニマの回帰原則から解放された人造不死者など、あの地のアニマ分離結晶化装置を用いぬ限りそうは創れぬのだからな」
素性を看破され、動揺するベエンダーの気配を読んで、魔人はもくろみが成功したことを知る。薄笑いを浮かべながら、彼はたたみかけた。
「あの塔はな、人類誕生以前に我が同胞が建造したメガリスのひとつなのだ。いつの日か復活するこの私のために――判るか、“夜猟者”よ? その装置によって誕生した貴様がどんな特性を持っているのか、私には容易に推察できる。つまり、この精神体を保存するエッグというクヴェルに転生した私と同じだ。貴様がいかに人間の側に立とうとしても、所詮は癒せぬ飢えに狂い、人類をその糧にする私の同胞に過ぎぬのだ――」
この言葉によってもたらされた衝撃が、ベエンダーの発する圧力をわずかに減衰させる。この隙を、偽ギュスターヴは見逃さなかった。
「サルゴン!」
エッグによって引き出された怪力でベエンダーを押し戻すと同時に、偽ギュスターヴは配下のひとり、炎の力を体現するエーデルリッターの名を呼ぶ。間髪を容れず、最強の騎士サルゴンがその口から超高熱の火球を射出した。
火球が弾け、凄まじい炎の渦がベエンダーを包み込む。それは不死者の肉体にはさしたるダメージとはならなかったが、何より偽ギュスターヴ=エッグに告げられた事実が彼を混乱させていた。戦意を喪失し、ベエンダーは燃え盛る炎の衣をまとったまま夜空へと跳躍する。“夜猟者”の、初めての敗走であった。
長く尾を引く炎が彼方へと消えたのを見届け、偽ギュスターヴは月に向かってガラティーンを突き上げた。“夜猟者”を退けた今、もはや彼が恐れるべきものは何もない。明日以降の戦いで、世界はエッグの前にひれ伏すことになるだろう。勝利を確信し、彼はハン・ノヴァの夜空に激しい哄笑をこだまさせた。
だが、人類の同盟はエッグが予想していたものよりもはるかに強固であった。
勝てるはずの戦は、鋼鉄兵に対する徹底的な防備でしぶとく戦線を維持する新ヤーデ伯デーヴィドに時間を稼がれ、ラウプホルツ公を中心とした南部諸侯軍の到着でまさかの敗北を喫する。
敗因は、北方軍を圧倒しつつも、これを深追いしたエーデルリッター・ボルスとミカの軍のハン・ノヴァ帰還が遅れたことにあった。なぜ、ボルスたちが禁止されていた追撃を敢行したのかは史実には残されていないが、一説には出陣前夜の軍議が中断し、方針の指示が不徹底であったため、とも言われる。
かくして、もともと寄せ集めに過ぎなかった偽ギュスターヴ軍は、この一度の敗北であっさりと瓦解する。しかし、戦場に偽ギュスターヴと腹心たちの死体は発見されず、のちに彼はエーデルリッターたちとともに未開の北大陸へと落ち延びたとの風説が、まことしやかに流れることとなった。それを最後に、サンダイル世界を震撼させた偽ギュスターヴの名は正史から完全に姿を消す。
エッグと人類との死闘は、歴史の裏面へと引き継がれたのであった――。
1306年    それぞれの戦い
グラン・タイユの樹海深くに存在する紀元前の石窟寺院で、ベエンダーは深い瞑想の時を過ごしてきた。ギュスターヴ13世が没した年から三十数年に及ぶ時間を、彼は石窟から一歩も外に踏み出すことなく、ひたすら思索のためだけに費やしたのだった。
求めた答えは九割方、見つけられたように思えた。残る一割を手に入れるために、この前年にベエンダーは石窟をあとにした。
そして、彼は偽ギュスターヴの存在を知る。それがあの、エッグの傀儡であるということも。かつて一度、ロードレスランドの石切場跡で対峙した際の激しい憎悪と、逃走を許してしまったことへの悔恨が胸に蘇る。
このやりかけの仕事を終えることで、答えの最後の一片が得られるかも知れない――そう予感し、ベエンダーは偽ギュスターヴを襲撃した。だが、それは予想外の苦悩を、彼にもたらす結果となった。
彼の生誕の地である“恒久の塔”とは、すでに滅びた先行文明の担い手たち――すなわちエッグに宿る意識体と同じ種族の者が遺したメガリスのひとつであった。その塔の機能を利用して創造されたベエンダーは、先行文明の技術の延長線上にある、言うなればエッグの兄弟にも等しい存在となってしまうのだ。
対決の夜、エッグに人のアニマに対する飢餓感を指摘され、彼は愕然とした。
すでに人間のアニマを啖わなくなって久しい。コーデリアのためにウィルを見守り続ける間に、彼はあまりにも多くの人間の生活を垣間見すぎた。それぞれが有限の人生を背負って懸命に生きていることを知りすぎ、そのアニマを糧とすることにためらいを感じるようになっていたのだ。
しかし、それでも時折、どうしようもなく激しい渇きに襲われることがあった。樹海に籠もり続けた期間、彼は自然界にあふれるアニマを啖うことで充分にその生命活動を維持することができた。だが、そうであったにもかかわらず、ベエンダーは石窟を飛び出して思うさまアニマを貪りたいという衝動に幾度となく駆られた。これを抑制することはできたが、ついに克服することはできなかったのである。
それがこの、呪わしい出生によるものだとするなら、果たして己という存在は何であるのか。人喰いのエッグに抱いた嫌忌の念がすべて我が身に返ってくるのを感じ、ベエンダーは誕生して以来知り得なかった深い懊悩へと突き落とされた。
あの夜から、何もかもが振り出しに戻ったような、ひどい喪失感が彼を苛んでいた。創造主たる塔の賢者が待ち望む答えなど、自分には決して手が届かないのではないか。否、そもそもエッグに類する汚れた生まれの自分に、それを模索する資格などないのだ――そう思い詰め、ベエンダーは半年以上も、ただ茫然として日々を送っていた。
そしてこの年、身のうちのコーデリアに懇願されたこともあったが、むしろ自身が救いを求めるかのごとく、ベエンダーはウィルの消息を追ってテルムを訪れる。それはウィルと孫娘ジニー、そしてその仲間たちが、逃亡した偽ギュスターヴ=エッグを追って北大陸へと旅立つ前夜のことであった――。
「ミーティアさん、だいじょうぶ?」
テルムの中央通りの酒場から少し入り込んだ路地裏で、ジニーはミーティアの背中をさすりながら心配そうに尋ねる。
「だっ」
大丈夫、と言おうとしたのか、それともダメ、だったのかジニーには判らぬまま、ミーティアはそのまま“だ”を発音する口の形で盛大に嘔吐き始めた。前かがみになった背中をびくんびくんと震わせ、ひとしきり側溝に胃の中身をぶちまけて、彼女はようやく真っ青な顔を上げる。
「すっ、すみませんっ、お、お恥ずかしい、ところ、う……グロエップ」
「無理して喋らないほうがいいと思うよ。はい、これでお口ふいてねー」
ハンカチを手渡して、ジニーは鼻から「むふー」と白く息を吐く。年が明けて間もないこの時期、一年を通じて比較的温暖なテルムも夜は厳しく冷え込む。だが、初めての飲酒で火照った身体には、この寒さが心地よかった。
ようやくこみ上げる吐き気が治まって、口元をぬぐいながらミーティアは涙目でジニーを見た。
「あ、ありがとうございますジニーさん。でも、どうしてそんな平気な顔してるんですか? 私と同じぐらいは飲んでたのに……まだ十五歳なのに……」
「平気じゃないよー。酔っ払ってるよー。何かぽわぽわして、いい感じー。へへー」
「さ、さすがタイクーン・ウィルのお孫さんですね……それに比べてこの私の情けないことと言ったら、今頃お店でヴァン先生も嘆いてらっしゃるに違いない……」
「あ、ヴァンアーブルさんだったらグスタフをつかまえて、ギュスターヴって人のこと繰り返し喋ってたよ。かなり酔っ払ってるみたいだから、ミーティアさんのことは忘れてるんじゃないかなあ。ちなみに私が様子見にきたのはおじいちゃんに言われたからー」
「……ヴァン先生、ヒドイです。ううう……飲まないと私、やってられません」
「これからまたお酒飲もうなんて、ミーティアさんのほうがスゴイと思うよー」
ふらふらと店に戻っていくミーティアを見送り、ジニーは夜空に向かって息を吐いた。瞬く星々が白く曇り、そしてまたすぐに澄みきった透明な星空に戻る。
ジニーにも判っていた。明朝の出発が、もう二度と帰れない旅路の始まりになるのかも知れないということを。
だからこそ、いつもは堅い祖父までが浴びるほどに酒杯を重ね、挙げ句にジニーにまで勧めてくれたのだ。本当なら彼女を置いていきたいところなのだろうが、それだけは何と言われようとジニーが認めなかった。
ジニーにしても、彼女の仲間たちがこの危険極まりないエッグ追跡に同行の意を示してくれたことについては、頼もしくも嬉しくもあると同時に、巻き込んでしまったという思いが強い。プルミエールもロベルトもグスタフも、本当ならエッグなんかに関わらずに生きていくことができた人たちなのだ。
それなのに、彼らは迷った風もなく、ついていくと言ってくれた。
「手助けではなくて、この私がエッグを許してはおけないの」とプルミエールは憤る。
「ジニーちゃんがやるんだろ? じゃ、俺も放っとけないさ」とロベルトは胸を張る。
「祖父も父も、そしてギュスターヴ公だってそうするだろう」とグスタフは目を瞑る。
この仲間たちに対して、自分は何ができるだろう。今は何も返すことはできない。子供すぎるから。でも、もっと大人になれば、きっと彼らの役に立つことができるとジニーは思う。
だから、絶対に負けられない。エッグをやっつけて、みんなで未来に進むんだ――路地に冴えた光を降らせる月に、そうジニーは誓った。堅く、強く。
「――誰かいるの?」
その時ふと、誰かに見られているような気配を感じて、彼女は問いを発した。
驚いたのはベエンダーであった。ジニーの近くにはいたものの、気取られるようなことをした覚えは全くない。純粋に、人並み外れた勘の良さで、彼女はベエンダーの存在を看破したことになる。このウィルの孫娘にも、ナイツ一族の血が色濃く受け継がれていることを彼は認識した。
「ああ、いる」
驚愕が思わず声になった。この娘と話してみたいという欲求が、彼にそこから立ち去ることをためらわせていた。
「へえー。もしかして姿が見えない人なんだ!」
姿なき応えに、特にびっくりした様子も見せずにジニーは目を輝かせた。「便利だねー。でも……どうして泣いてたの?」
ベエンダーは正直舌を巻く思いだった。ジニーの感覚の鋭さは尋常ではない。自分の気持ちまでも読みとられていたことに、彼は畏れにも似た感情を抱いていた。しかしそれ以上に、ジニーに強く惹かれている自分を感じてもいた。
だからこそ、ベエンダーは話してみる気になったのかも知れない。
「私には、何が正しく何が邪であるのかさえ判らなくなってしまったのだ」
「ふむふむ。もっと具体的に言うと?」
ジニーは相手が不可視であることも気にならないようであった。酔いが彼女をより大胆にさせているのかも知れなかったが、ともかくも肝の据わり具合は百戦錬磨のヴィジランツに匹敵する。ベエンダーは苦笑し、彼の抱えるジレンマを少女に語り始めた。
「私にはなさねばならぬ使命がふたつある。ひとつは、決して相容れぬ邪悪な存在をこの世界から抹殺すること。そしてもうひとつは、私を誕生させた父とも言うべき存在を、その永劫の苦しみから解き放つことだった――」
「んー、何やらむずかしいね。うん、だいじょうぶ、続けて」
「私は邪悪と相まみえた。だが、その出自は私のそれと同じだった。つまり、その邪な存在もまた、私の兄弟のようなものだったのだ。それを知った今、私はどちらの使命も果たせずにいる。明確なる邪悪さえ討ち果たせぬ、なおかつ忌まわしき出自の私が、どうして創造主を救うことなどできよう?」
「んんん……ちょっと待ってね……」
ベエンダーの言葉を頭の中で判りやすく翻訳し、ジニーは彼女なりの答えを出そうと悪戦苦闘していた。
「ええっと……つまりその、悪いヤツをやっつけようとしたら、それは実はお兄ちゃんだったとか、そういうことだよね?」
「……うむ。そう思ってもらっていい」
「で、お兄ちゃんを懲らしめられなかったから、パパを助けることもできなくなっちゃうのね?」
「どうだろう……そういうものなのか?」
ジニーに言い換えられてしまうと、精神が千々に引き裂かれるほどに苦悩した問題が、ひどく日常的で些末なことのように思えてくる。自分の中でコーデリアが笑っているのを感じ、ベエンダーはそれに腹を立てるよりむしろ懊悩する自分が馬鹿馬鹿しく、可笑しくなってきた。
その、気分が和らいだところに、ジニーは深く切り込んできた。
「私のパパね、私が生まれる前に、悪いヤツを追っかけていったきり帰ってこなかったんだ。だから私、会ったことがないんだけど、それはともかくね」
話す相手の姿が見えないため、まぶたを閉じて少女は淡々と続ける。「その悪いヤツって、人を操ることもできるんだって。だからパパも、もしかしたらそいつの言いなりになる人形みたいにされちゃったのかも知れないって、おじいちゃんは心配してたんだ。結局、それはなかったんだけど……でも、もしそうやって、悪いヤツに操られたパパに会うことがあったなら、私はどうするんだろうって、考えてみたことあるんだよ――」
ジニーは目を開けた。少しだけ泣いているように、ベエンダーには見えた。
「きっとね、私はパパをやっつけちゃう。だって、そんなパパが幸せだなんて思えないもの……死んじゃうより生きてたほうが断然いいと思うけど、それが自分じゃなくなっちゃうなら私はイヤ。パパだってきっと同じだよ」
もう一度目を閉じ、ジニーは照れたように笑った。「あれれ? 何か関係ない話になっちゃったかなー。私が言いたかったのはね……」
「いや、もう充分に伝わった。ありがとう……ジニー・ナイツよ」
この瞬間に、すべての正しき答えを得たように彼には思えた。深い霧が、穢れなき陽光にたちまち払われるかのようだった。たったひとりの、十五歳になったばかりの少女との会話が、彼が誕生以来抱え続けてきた命題の探求に終止符を打ったのだ。
「私のこと、知ってるの?」
「ああ。それに、これから君たちが戦う相手――エッグのことも。正邪の決着がついた今、私もその戦いに同行しようと思う」
ジニーは何かを悟ったように目を見開いた。そして、首を横に振る。
「これはナイツの――ううん、人間の手で終わらせなくちゃいけない戦いだから。だから、あなたはパパを助けに行ってあげて。きっと待ってると思うよ。私は、全然間に合わなかったから……悪いお兄ちゃんのお仕置きは私たちに任せといて!」
「! お見通しか……凄い子供だな、君は」
「もう子供じゃないもん!」
その時、舞い降りる月光の悪戯か、それとも酔いが醒めていく過程での感覚のずれからなのか、ジニーは確かに見た。彼女の目の前に立つ、はっとするほどに美しい銀髪の青年剣士を。視線を交わした刹那の時間に、彼らはお互いの武運を無言で祈る。
「ジニー! そこにいるのか?」
「あ、おじいちゃん!」
孫娘の帰りが遅いのを心配してやってきたウィルを、ジニーは反射的に振り返る。「あのね、今――」
しかし視線を戻すと、もうその路地裏の月光の下に、ベエンダーの姿はなかった。
「どうした? やはりまだ、お前に酒は早かったかな?」
黒曜石で造られた小手のように分厚い手で、八十六歳のウィリアム・ナイツは孫の頭を愛おしそうになでた。「店のほうは大変だぞ。ミーティアがヴァンさんにからみだしてな。それはもう見ものだったんだが……ジニー、本当に大丈夫か?」
「ね、おじいちゃん。私ね……」
夜空に昇る白い息を見送りながらジニーは言う。
「会ったかも知れないよ。昔、話してくれた、おじいちゃんを影から守ってくれてるって人に――」
「……ジニー?」
「その人は自分のための戦いに行っちゃった。だから私たちも頑張ろ? エッグをやっつけて、絶対に帰ってこよう。ね?」
ジニーは頭の上にあるウィルの手に、自分の両手を重ねる。今日まで彼女を育ててくれたその手は頼もしかったが、また充分すぎるほどに老いてもいた。祖父を守ってくれる不思議な剣士はもういない。ならば自分が守ろうと、少女は小さな胸に勇気の火を灯す。
激闘を前に、彼らを包むテルムの夜は静かに更けてゆく――。
ベエンダーは疾る。夜の荒野を、“夜猟者”の名に相応しく。
目指す地は約束の地。帰還の時はきた。彼は迷いなく目指す。生まれ落ちた塔を。
ベエンダーと名付けられた、その責務を果たすために。
ラウプホルツの恒久の塔――通称“グールの塔”には、死せる賢者が待ち受けている。彼は悟っていた。アニマを分離して不死者となり、永遠の思索の権利を手にした日から、自分がただただ終末の日を待ち望んでいたことを。それゆえに彼はベエンダーを創り出し、世に放った。その息子が戻ってくる。この塔で永劫の苦悶に灼かれる、彼ら呪われた者たちを滅ぼすために。滅ぼしてくれるために。賢者は全力で戦うつもりでいる。その、身を焼き尽くすような戦いの熱の中でしか、不死者には永遠の眠りはもたらされぬのだ――。
北大陸奥地にそびえる星のメガリスでは、エッグが待ち受けている。彼は生き延びたかった。進化に行き詰まった彼の種族が滅びゆく中で、エッグは自らの精神をクヴェルに封じ込めた。いつの日か、彼を蘇らせる知的生命体がこの星に誕生することを信じて。そして、彼は賭けに勝った。ならば手にした力を用い、下等な人類を蹂躙するのは自分に与えられた当然の権利だと、超古代の亡霊は頑なに信じていた。共存するつもりなどなかった。邪魔する者はすべて消去する。もはや不要となった腹心たちのアニマを吸収し、エッグはナイツとの戦いに備える――。
サルゴンは、遠き日のリチャード・ナイツとの冒険を思い起こしていた。エーデルリッターとなってそれ以前の記憶が色あせてしまった今も、散水塔の想い出だけは輝きを失わずに彼の胸に残っている。力を得た代償としてアニマを喰われてしまうのは仕方がないと心得ている。だが、この想い出までがエッグのものになってしまうのは、サルゴンにはどうしても承伏できなかった。
エッグに同化されつつある中、彼はエッグの記憶の表層を可逆的に覗くことができた。そこでサルゴンは、エッグに支配されそうになったリッチが自ら命を絶ち、抵抗を貫いた事実を知る。エッグの記憶に複製として残されていた、決して己を売り渡さないというリッチの最後の思念が、彼の精神に流れ込んでくる。
自分はすでに魂を売り渡してしまっている。それはもう、どうあがいても後戻りはできない。ならば、まだ炎の将魔サルゴンであるうちに、リッチの娘たちに倒されてしまうのも悪くない。エッグの一部となり果てる前に。彼はそう、心に期した。
それが最後に、ジニー対エッグの明暗を分けることになる――。
「焼滝痛ウェイ!」
「うへー。グスタフもそれやるのー?」
グスタフが叫びとともに放った多段斬撃が、連携攻撃の締めくくりとして戦闘形態のエッグに容赦なく叩き込まれる。それが、この戦いの終結を告げる最後の一撃となった。
サルゴンをはじめ数名の将魔を取り込み損なったエッグは予定よりも耐久力を著しく減退させ、星のメガリスのパワーを得ながらも、ジニーたちの変幻自在なコンビネーションに耐え抜くことができなかったのである。
意識の中で舌打ちし、エッグは崩壊しつつある増殖部分からその本体を切り離して、メガリスの外へと空間跳躍する。
完全な敗北である。だが、本来の目的は果たしていた。メガリスの力により、エッグは人間大のサイズにまで成長を遂げていたのである。
今後はもう宿主などに頼る必要はない。しばらく休眠して力が回復すれば、彼は自ら移動して人間どもを襲うことができる。今回の敗北など、いかほどの痛手でもない。結局のところ、人類ごときにこの究極のクヴェルを破壊することなど、高位存在である彼を滅ぼすことなどできはしないのだ――そう、エッグは高をくくっていた。
こうして、最後の一手が積み上がる。
帰還途中のジニーたちに発見された時も、エッグは全く恐れてはいなかった。
破壊はもとより、エッグが巨大化した今では、運んで封印することさえ彼らにはできない。触れてしまえば、もはや虜となる以外に道はないのだ。ナイツの者たちが漏らす口惜しそうな声が、空間跳躍の疲労を癒すエッグには甘美な調べのごとくに心地よく感じられた。
ゆえに、エッグは逃げようともしなかった。グスタフが鋼の剣を振り上げた時、動こうと思えばその一撃の芯を外すくらいはできただろう。しかしエッグはそれをしなかった。油断しきっていた。
かつて、ベエンダーの丙子椒林剣によって刻まれた傷は、とうに再生を遂げている。だからこそエッグも、その事実を忘れかけていた。だが、人の傷跡と同じように、一度破壊された外殻は、以前と変わらぬ状態を完全に取り戻したわけではなかった。殻の内側に残っていたわずかな歪み――それはエッグの膨張により、ちょうど反響室のような、微妙な形状の傷を生じさせていたのだった。
そこに、グスタフの手にするギュスターヴの剣が撃ち込まれた刹那、人間世界最強の鋼剣は根本から折れ飛んだ。時代の風雲児ギュスターヴ13世が手ずから鍛え上げた刃をもってしても、先行文明が生み出した超硬質材の殻に損傷を与えることはできなかったのだ。
だが、鋼が砕けた瞬間に発生した微細な震えは、エッグの持つ固有振動数と一致し、内部空間に激しい共鳴を引き起こした。そしてそれは、殻の内側のほんの小さな傷一点に振動エネルギーを集中させる結果を生む。亀裂が、疾る――。
次の瞬間、人には決して破壊できぬはずのクヴェルは粉々に砕け散った。
エッグという依り代を失った超古代の亡霊は声もなく意識を霧散させ、はるか時の彼方に消え去ったその仲間たちと同様に、滅びの運命に飲み込まれて消滅していく。
同時に、エッグに囚われていた人々の無数のアニマが解放され、草木へ、石へ、水へ、大地へと――この星の本質へと回帰していく。いつの日かまた、そこから新たな生命となって現れいずる時のために。
悪夢は、終わったのだ。
1321年    ふたりの再開
百一歳の祝いを目前にし、ウィリアム・ナイツは死の床にあった。病や怪我に倒れたわけではない。老衰である。
術による傷病治療が発達した反面、医学的分野の発展がほとんどなかったこの時代においては、人間はちょっとした病気で簡単に命を落とす。そんな中で、百歳を迎えてなお、杖もろくに使わずワイドの町を散歩して回っていたウィルの頑健さは驚異的ですらあった。民間の記録が充分に残されていない時代でもあったが、この近隣に彼の長寿世界一を疑う者など誰ひとりいない。さすがはタイクーン・ウィルその人だと、近年では人間離れした達者ぶりを崇めて彼を詣でる巡礼者までが現れる始末であった。
そのウィルもこの数日間、いよいよ自分のアニマが自然に還る日が近づいてきたことを、生来の鋭敏すぎる感覚で悟っていた。妻のラベールはとうに亡く、彼の世話を甲斐がいしく焼いてくれた息子の嫁のディアナも、もう六十の齢を数えている。遺産の分与や葬儀の方法など、必要と思われる事柄を文書にして残し、各地の知己に最後の手紙をしたためて、この日の朝、ウィルは静かに死を迎えるための準備をすべて終えた。夜には寿命が尽きるであろうことを、彼は正確に察していたのである。
思い残すことはない。最後に、今年三十路を迎えたジニーの顔をもう一度見ておきたかったが、彼女は今も北大陸の奥地でクヴェルの発掘に精を出している。頼りになる仲間たちに恵まれたジニーについて、ウィルが心配すべきことは何もなかった。先年の、未開拓地のメガリス探索と封印の功績で、世間では彼女をもタイクーンと呼び称えるようになった。ナイツの血は、彼女の中に脈々と受け継がれている。ウィルは安心してこの世を去ることができた。
屋根裏の寝室で、用意した死に装束に着替え、ベッドに横たわる。あとは二度と目覚めぬ眠りへと落ちていく瞬間を待つのみであった。階下で休んでいるディアナには何も告げてはいない。明日の朝、眠るように逝った己の亡骸と、感謝の気持ちを書き綴った彼女宛ての手紙を見つけてもらえればいいとウィルは思っていた。
最後は独りが良かった。彼には胸に秘めた誓いがあった。死を迎えるその時には、若くして彼のために命を落とした、愛しい女性のことを想いながら逝こうと、ウィルは心に決めていたのである。
傾斜のある屋根に迫り出すように造られた窓から、月の光がしんしんと差し込んでいる。まばらに流れる雲が月をさえぎるのか、時折その淡い光が途切れ、部屋の中をぼんやりとした闇が支配する。天井を見つめ、その幽かな光量の増減を感じ取りながら、ウィルはゆるやかに最後の眠りへと引き込まれていく。
ぎい、と窓枠が鳴ったのを感じ、彼はまどろみかけた意識を覚醒させた。今夜は風がない――そう思い出したからだ。
施錠していたはずの窓が、開いている。爽やかな夜気が静かに流れ込み、ガラスを通さずに直接降り注ぐ月光は、部屋を先刻までよりも少しだけ明るく感じさせる。
ウィルの枕元に、その青年はたたずんでいた。
この世のものならぬ、微光にさえ透けるような美貌。長い銀の髪が薄闇の中で炎のごとく輝き、切れ長の瞳は水晶のきらめきをたたえている。
もし、何も知らなければ、ウィルは彼を死神だと思っただろう。しかしウィルは知っている。ベエンダーという名は知らずとも、彼がいつもそばにいてくれたことを――。
彼がベエンダーの姿を目にすることができたのは、死の秒読みが近づきつつあったからだった。死を目前にして、次第に鋭さを失いつつあるウィルの五感は、逆にアニマに惑わされない、あるがままの世界を彼に感じ取らせていた。
「やっと……やっと私の前に、姿を見せてくれましたな」
驚いた様子も見せずにウィルは言った。「ジニーがお会いしたと聞いた時は、いい年をして孫に妬きました。それほどまでに長い間、あなたは私を守ってくれていた――」
身を起こそうとするウィルを片手で制し、ベエンダーは静かに首を振った。
「私は器に過ぎない。感謝を受けるべき者は、私の中にある」
そう告げられた瞬間、ウィルはひどく懐かしいアニマを感知した。懐かしいが、つい今しがたまで、彼が心に思い起こしていた遠き日の女性のアニマ――。
「……コーデリア……そうか、彼女が」
ウィルの目尻に刻まれた皺を伝い、涙がとめどなくあふれてくる。八十年以上の前のあの日、彼の腕の中で息絶えた愛しい女性は、そのアニマを大地に還らせることなく、安息に背を向けてウィルを守り続ける道を選んでいたのだ。
「泣くことはないのだ。すべてはコーデリアの望みだったのだから」
ベエンダーの口調はいつになく優しい。それは、長年見守ってきたウィルに対する愛着とも、同居するコーデリアが愛した者への敬意とも見えた。否、もう彼はとうの昔に、ナイツとそれに関わる者たちに深い畏敬の念を抱いていたのだ。限りある命を燃やし、あのエッグを自分たちの手で葬った素晴らしき人間たちに――。
いよいよ、最期の時が迫ってきた。それはウィルとの別れと同時に、長年共生してきたコーデリアのアニマを失うことをも意味する。彼女のアニマはベエンダーに捧げられたものであったが、彼にそれを糧とするつもりは最初からなかった。
ありがとう、と目を閉じたウィルが小さくつぶやく。その呼吸は寝息のように変わり、それがひと息ごとに弱まっていく。ほどなく彼の呼吸は止まり、少し遅れて心臓の鼓動も完全に停止する。
ウィルは、もはや目を開けることのない自分の老いた姿を眺めていた。身体から離れたアニマとして、彼は己の肉体を見ているのである。
“ウィル! ”
十八歳のままのコーデリアのアニマが、彼に寄り添っている。気づけば自分も十八の若さを取り戻して、彼女を抱き寄せていた。
“コーディ……君にはずっと寂しい思いをさせた。僕は――”
“しいっ。今こうしてるんだから、それでいいの。さあ、聞かせて……私のこと、どう思ってるのか”
“愛していた――いや、愛しているよ、コーディ。もっと早く、そう言えば良かった”
“嬉しい……それだけで、私には何もかもが間違っていなかったように思えるわ”
コーデリアはウィルを抱き締め、言った。“さあ、行きましょうウィル。みんなも待ってるわよ”
“みんな? ”
そう訊き返すウィルは、いつしか世界すべてがアニマに満たされていることに気づいた。
そこはもう、彼の肉体が安置されている屋根裏の寝室ではない。物質世界の構成要素は視界から消え失せ、豊穣なまでのアニマがあふれる大地が広がっている。月の光までが太陽のように明るい。
そこに、皆が待っていた。
ニーナが微笑んでいる。出会った頃の姿のナルセスがいる。タイラーが手を上げてウィルの名を呼ぶ。ラベールは笑いながら、コーデリアと抱き合うウィルに下に向けた親指を突き出す。パトリック、レイモンも手を振っている。
そこにはリッチの姿もあった。そして、アレクセイと肩を組んだ父ヘンリーも。母のキャサリンがその横で笑っている。他にも、彼と関わり、先に死んでいった者たちが無数に、ウィルを出迎えてくれていた。
“人は死んでも、消えてなくなってしまうわけではないの。この星のアニマに還っていくだけ――だから本当は、寂しく思う必要なんてない。でも、私はウィルに、限られた命の中でやり残しのないように、私のぶんまで精一杯生きて欲しかったの”
“こうして君にも会えた今、思い残しは本当になくなったよ、コーディ。それにいつの日かまた、ジニーの奴にも会えるんだな”
“そう。ここからは永遠。私たちはみんな、ただひとつのものに回帰する――”
“さあ、一緒に行こう――”
ふたりのアニマは溶けあうようにして、大地へと還っていく。出迎えてくれた者たちのアニマが大きなうねりとなって、彼らをその中へと迎え入れた。
星の、生命に――。
そして今宵も、“夜猟者”は暗き世界を駆ける。
その使命たる創造主の解放を死闘の果てに成し遂げ、コーデリアとの別離を迎えた今、ベエンダーは真に自由であり、かつ孤独であった。
彼は考える。コーデリアが最後に伝えてくれた、星への回帰のイメージを。いつか自分も、その命の海に迎えられる日がくるのだろうか――と。
答えは、その時がこなければ判らない。ならばその日まで、永遠にも等しい時間を有限に見立て、後悔のないよう生きてみようとベエンダーは心に期す。そうすれば、自分の最後が虚無への消滅であったとしても、きっとウィルやギュスターヴのように笑って旅立っていけるだろうと思えた。
彼にはもはや迷いはない。アニマへの飢餓も、それが持って生まれた性質なら、抑制しながらつき合っていくほかはないのだ。それに、彼に糧とされても、結局のところアニマは大いなる星の生命へと還っていく。それを捕らえて生命の循環を滞らせるエッグとは、似て非なるものであったことをベンダーは悟っていた。
滅びに抗い、永遠を求めたがゆえにエッグは邪悪となった。ベエンダーはそうはならないだろう。彼は待っているのだ。万物に訪れる運命の時を。
丙子椒林剣を手に、不死の剣士は荒野を往く。神々しいまでに美しい姿で、ただひとり彼は駆ける。
人間たちはいつしか、“夜猟者”を神々のひとりと数え始める。それも悪くはなかった。これからの時を、人間たちの望む“神”として生きてみるのも面白いとベエンダーは思った。
流転するこの世界で、彼自身に終末がもたらされる、その日まで――。