武器よさらば
ヘミングウェー/高村勝治訳
目 次
第一部
第二部
第三部
第四部
第五部
解説
年譜
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G・A・プァイファーに
この本のなかの人物はいずれも実在の人ではなく、言及されている部隊や軍隊の機構も実際の部隊や機構ではありません。 E・H
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第一部
第一章
その年の夏の終わり、われわれは、河と平野の向こうに山々が見える、ある村の家に泊まっていた。河原には、小石や丸石が陽をうけて白く乾き、水がいくすじか、青く澄み、勢いよく流れていた。部隊が家のそばの道路を通り、そのまきあげた砂ぼこりが木々の葉にふりかかった。木々の幹にも砂ぼこりがかかり、その年は木の葉が早く落ち、部隊がその道路を進軍し、砂ぼこりがあがり、木の葉が微風にゆれて落ち、兵士たちが進軍してゆくのが見え、そのあとの道路は落ち葉のほかは何もなく、白っぽかった。
平野は作物が豊かだった。果樹園がたくさんあり、平野の向こうの山々は茶褐色で、はだかだった。その山々には戦闘があり、夜になると、砲火の閃きが見えた。暗闇《くらやみ》で、それは夏の稲妻のようだったが、夜は涼しく、嵐の来る気配はなかった。
ときどき、暗闇のなかで、部隊が窓の下を進軍し、大砲がトラクターにひかれて通りすぎるのがきこえた。夜は、往来がはげしく、道路には荷鞍《にぐら》の両がわに弾薬箱を積んだ騾馬《らば》や兵員を運ぶ灰色のトラックが通り、荷物を積みズックでおおったトラックがさらにゆっくりとその流れのなかで動いていた。昼まも、トラクターにひかれて大きな大砲が通った。その大砲の長い砲身は緑の枝でおおわれ、トラクターにも緑の枝と蔓草《つるくさ》がかぶせてあった。北のほうは、谷間の向こうに、栗林が見え、その先に、河のこちら側にべつの山が見えた。その山を取ろうと戦闘があったが、それは成功しなかった。そして、秋、雨季が来ると、栗林から葉がすっかり落ち、枝ははだかになり、幹は雨で黒くなった。ぶどう園も葉が落ち、枝ははだかで、秋とともに、あたり一面が、濡れ、茶褐色にくすみ、生気を失った。河の上に霧がかかり、山には雲がたれこめ、トラックが道路で泥をはねかえし、肩マントを着た部隊の兵士は、泥だらけで、濡れていた。彼らの小銃も濡れ、マントの下の、ベルトの前に、革の弾薬盒《だんやくごう》が二つついていて、細長い六・五ミリの小銃弾をはめた挿弾子《そうだんし》の束を重くつめこんである灰色の革のその箱が、マントの下でふくれあがっていたので、道路を通る兵士たちは妊娠六ヵ月といった恰好で進軍していた。
すごいスピードで通りすぎてゆく灰色の小型の自動車が何台かあった。たいていは、将校が一人、運転手の隣にすわり、後部の座席に幾人かの将校が乗っていた。こういう自動車は軍用トラックなどよりも泥をはねかえした。後部の座席の将校の一人がたいへん小さく、二人の将官のあいだにすわっていると、小さいので、顔が見えず、帽子のてっぺんと肩幅の狭い背中だけしか見えなくて、しかも、車が特に速く走るとき、それはたいてい国王だった。国王はウーディネ(イタリア東北部の都市)にいて、情況を見に、このようにほとんど毎日出かけてきたのだが、情況はひどく悪かった。
冬になると、長雨がやってき、雨とともに、コレラがやってきた。だが、それはくいとめられ、けっきょく、軍隊ではわずか七千人がコレラで死んだにすぎなかった。
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第二章
翌年は、多くの勝利をおさめた。栗林のある山腹と谷間の向こうの山を占領し、南のほう、平野の向こうの高台にも勝利があり、われわれは、八月、河を渡り、ゴリツィア(イタリア東北部の都市、イソンゾ河にのぞむ)の家に泊まった。塀をめぐらした庭には、噴水があり、木々がうっそうと茂り、家の近くで藤が紫だった。いまは、戦闘は向こうの隣の山々に移り、一マイルと離れていなかった。町はとてもすばらしく、われわれの家もすばらしかった。河がわれわれのうしろを流れていた。町はきわめて手ぎわよく占領されたのだが、その向こうの山々は占領できなかった。オーストリア軍が戦争が終わったらいつかはこの町に帰ってくるつもりらしいので、ぼくはうれしかった。というのは、彼らは軍事的にほんのわずか砲撃するほかは、それを破壊するような砲撃はしなかったからだ。人々がその町に住みつづけ、病院やカフェや砲兵隊が横丁をはいったところにあり、慰安所が二軒あった。一軒は兵隊用で、一軒は将校用だった。夏の終わりとともに、夜は涼しく、町の向こうの山々には戦闘があり、砲弾の痕のある鉄橋、戦闘のあった河岸のつぶれたトンネル、広場のまわりの木々、その広場に通じる木々の長い並み木路があった。さらに、町には女たちがいた。国王が自動車で通り、ときどき、その顔と、首の長い小がらな体躯と、山羊の顎《あご》の鬚《ひげ》のような灰色の顎ひげが見えた。さらにまた、砲弾で壁を失った家々の内部が突然、見えたり、庭や、ときには、街路にまで、|漆喰《しっくい》や瓦礫《がれき》が散らばっていたが、カルソー地方(アドリア海北岸のユーゴスラヴィアの一地方。第一次大戦当時はオーストリアの一部だった)ではすべてがうまくいっていたので、その秋はわれわれがその地方にいた昨年の秋とは非常に異なるものがあった。戦況もまた一変していた。
町の向こうの山の槲《かしわ》の森林はなくなっていた。森林は、われわれが町にやってきた夏のあいだは、青々としていたが、いまでは、切り株や折れた幹になり、地面がめちゃめちゃに裂けていた。その秋も終わりのある日、槲の森林のあったところに出てみると、雲が山の上におおいかぶさるのが見えた。それはきわめて早くあらわれ、太陽はにぶい黄色になり、それからすべてが灰色になり、空一面、暗くなり、雲が山をつたっており、とつぜん、われわれがその雲にかこまれると、それは雪になっていた。雪は風のため、ななめに吹きつけ、はだかの地面をおおい、切り株をつきだし、大砲にも積もり、雪のなかに、塹壕《ざんごう》のうしろの便所に通じる小路がいくつかできた。
そのあと、下の町で、ぼくは将校用の慰安所の窓から雪が降っているのを眺めながら、友人といっしょにすわって、二つのグラスで一本のアスティ(マスカット種ぶどうからつくる、イタリアのピエモンテ地方産のワイン)を飲んでいたが、雪がゆっくり重たく降っているのを見ていると、ことしは何もかも終わってしまったのだと知った。河かみの山々は占領されてはいなかった。河の向こうのどの山も占領されてはいなかった。それは、すべて、翌年まわしだった。ぼくの友人はわれわれがいつも会食を共にする司祭がそばの雪どけ路を気をつけながら歩いてくるのを見つけ、彼の注意をひこうと窓をたたいた。司祭は顔をあげ、ぼくたちを見て、ほほえんだ。友人ははいってくるように合い図した。司祭は首をふって、どんどんいってしまった。その夜、会食中、スパゲティのコースのあとで――スパゲティはみんなひどく急いでまじめくさって食べた。スパゲティをフォークで持ちあげ、切れた端を宙にうかせ、それから口のなかにおろしてきたり、あるいは、しょっちゅう持ちあげて、口のなかにすすりこんだりして、苞《こも》でつつんだ一ガロン入りの壜《びん》から酒を勝手に飲んだ。壜は金属製の架台のなかでゆれた。人さし指で壜の頸《くび》を引きおろすと、すんだ、赤い、ほろにがい、きれいな酒が、その同じ手にもったグラスのなかにあふれでた。――このコースのあとで、大尉は司祭をいじめはじめた。
司祭は若くて、すぐ顔を赤らめた。われわれと同じに軍服を着ていたが、灰色の上衣の左の胸ポケットの上のほうに暗赤色のビロードの十字架をつけていた。大尉は、ぼくが完全に理解できるように、聞きおとしのないようにと、ぼくのためを思ってだろうが、片言《かたこと》のイタリア語で話した。
「司祭さん、きょう、女の子といっしょ」と大尉は司祭とぼくを見ながら言った。司祭はほほえみ、顔を赤らめ、首をふった。この大尉は彼をたびたびいじめた。
「ほんとない?」と大尉がたずねた。「きょう、司祭さんが女の子といっしょ、見る」
「ちがう」と司祭が言った。ほかの将校たちは大尉がいじめているのをおもしろがった。
「司祭さん、女の子といっしょない」と大尉がつづけた。「司祭さん、いちども、女の子といっしょない」とぼくに説明した。彼はぼくのグラスを取り、それを満たし、そのあいだ、ずっとぼくの目を見ていたが、司祭からも目をはなさなかった。
「司祭さん、毎晩、一人で五人」食卓のものはみな笑った。「きみ、わかる? 司祭さん、毎晩、一人で五人」彼は身ぶりをしてみせて、大声で笑った。司祭はそれを冗談だとして、だまっていた。
「ローマ法王はオーストリア軍が戦争に勝つように望んでいるのだ」と少佐が言った。「法王はフランツ・ヨゼフ(一八三〇―一九一六。当時のオーストリア皇帝)びいきなんだ。そこが金の出どころだからな。おれは無神論者だ」
「『黒い豚』を読んだことあるかね?」と中尉がたずねた。「一冊もってきてあげよう。ぼくの信仰をゆさぶったのはその本だから」
「不潔で下劣な本ですよ」司祭が言った。「ほんとうは、好きではないのでしょう」
「すごく貴重な本さ」と中尉が言った。「ああいう司祭はどういうものか、わかるよ。きみも好きになるさ」と彼はぼくに言った。ぼくは司祭にほほえみかけた。彼は蝋燭《ろうそく》の向こうからほほえみかえした。「読んじゃいけませんよ」と彼が言った。
「きみに一冊もってきてあげよう」と中尉が言った。
「考えるやつはみんな無神論者さ」と少佐が言った。「だけど、ぼくはフリーメーソン(会員相互の友愛を目的とし、世界平和と人類愛を高唱する秘密結社)はいけないと思うね」
「ぼくはフリーメーソンには賛成だ」と中尉が言った。「りっぱな結社ですよ」だれかがはいって来た。ドアが開くと、雪が降っているのが見えた。
「雪の季節になったので、もう攻撃はないでしょうね」とぼくは言った。
「ああやらないとも」と少佐が言った。「きみは休暇をとるがいい。ローマやナポリやシチリアに行ってこい」
「アマルフィ(サレルノ湾にのぞむイタリアの港)にいけよ」と中尉が言った。「アマルフィのぼくの家族に紹介状を書いてあげよう。きみをむすこのようにたいせつにしてくれるよ」
「パレルモ(シチリア島の港)にいくといい」
「カプリ(ナポリ港にある島)がいい」
「アブルッツィ(イタリア中部にある山岳地方)を見物して、カプラコッタ(アブルッツィ東南部にある山中の町)のぼくの家族を訪ねていただきたいですね」と司祭が言った。
「謹聴。またアブルッツィのことを言ってるぜ。ここよりもあそこは雪が多いんだ。やつは百姓などに会いたかないんだよ。文化と文明の中心にいかせようじゃないか」
「いい女の子がいなくちゃね。ナポリのいろんなところの所番地を教えてあげよう。きれいな若い娘たちだぞ――母親同伴だがね。ハッ! ハッ! ハッ!」大尉は影絵でもつくるときのように、片手をひらいて、親指を立て、ほかの指をのばした。壁に手の影がうつった。彼はまた片言のイタリア語で話した。「きみはこんなかっこうで出かける」と、彼は親指を指さし、「そして、こんなかっこうで帰ってくる」と小指にさわった。みんな笑った。
「見ろ」と大尉が言った。彼はまた手をひらいた。また、蝋燭の光が壁に影をつくった。彼はまっすぐ立った親指からはじめ、順に親指とほかの四本の指の名を言った。「少尉《ソト・テネンテ》(親指)、中尉《テネンテ》(人さし指)、大尉《カピターノ》(中指)、少佐《マッジオーレ》(薬指)、中佐《テネンテ・コロネルロ》(小指)。きみは少尉《ソト・テネンテ》(親指)として出かける! そして、中佐《テネンテ・コロネルロ》(小指)になって帰ってくるんだ!」みんな、笑った。大尉は指のゲームに大成功をおさめた。彼は司祭を見て叫んだ。「司祭さん、毎晩、一人で五人!」彼らは、また、みんなで笑った。
「きみはすぐに休暇をとらなければいかん」と少佐が言った。
「いっしょにいって、案内してやりたいね」と中尉が言った。
「帰りに蓄音器をもってきてくれ」
「いいオペラのレコードをね」
「カルーソー(一八七三―一九二一、イタリア生まれの有名なテノール歌手)をね」
「カルーソーはよせ。あいつはどなるだけだ」
「あいつみたいに、どなれたらいいと思わないか?」
「あいつはどなるんだ。どなるだけだぜ!」
「アブルッツィにいっていただきたいですね」と司祭が言った。ほかの者たちはわめいていた。「いい狩猟もできます。そこの人たちが好きになるでしょうし、寒いけれど、晴れて、乾燥しています。ぼくの家に泊まっていただいてもいいんですよ。父は有名な狩猟家なんです」
「いこうぜ」と大尉が言った。「慰安所に行こう。閉まらないうちに」
「おやすみ」とぼくは司祭に言った。
「おやすみなさい」と司祭が言った。
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第三章
ぼくが前線にもどってきたとき、わが軍はまだその町にいた。その地方一帯、大砲の数がずっとふえ、春がきていた。田畑は緑で、ぶどうの木には小さな緑の新芽が吹きだし、道路にそった並み木は若葉をつけ、そよ風が海から吹いていた。丘の上に古城のある町が丘陵のあいだの盆地に見え、その向こうに、斜面のところどころに緑がちらばった禿山《はげやま》がつづいていた。町には大砲がふえ、新しい病院もいくつかでき、通りでは、イギリス人の男や、ときには、女に、出会った。砲弾にやられた家もいくらかふえていた。暖かで、春めいていた。日が塀にあたって暖かい並み木のあいだの小路を歩いていくと、われわれはまだ同じ家に泊まっていて、何もかもぼくが出かけていったときと同じだということがわかった。ドアが開いていて、外の日向《ひなた》のベンチに一人の兵士が腰かけ、傷病兵運搬車がわきのドアのそばで待っていた。ぼくがなかにはいっていくと、家のなかは、大理石の床と病院のにおいがした。春になったという違いがあるだけで、あとはぼくが出かけていったときとまるで同じだった。大きな部屋のドアからのぞくと、少佐が机に向かってすわっていて、窓が開き、日の光が部屋にさしこんでいた。彼はぼくに気づかなかった。ぼくはなかにはいって報告するほうがいいか、まず二階にあがって、からだをきれいに洗ったほうがいいか、迷った。ぼくは二階にあがることにした。
ぼくがリナルディ中尉と共有していた部屋は中庭に面していた。窓があいていて、ぼくのベッドには毛布がきちんとそろえてあり、ぼくの所持品は壁にかけてあった。細長いブリキ罐《かん》にいれてあるガス・マスクと鉄兜《てつかぶと》が同じ釘《くぎ》にかけてあった。ベッドの足もとにはぼくの平たいトランクがあり、油で革がぴかぴかしたぼくの防寒靴がそのトランクの上にあった。銃身は八角形で、青く塗ってあった。美しい黒ずんだ|くるみ《ヽヽヽ》材の狙撃用《シュッツェン》の銃床が頬《ほお》にぴったりあたるようにへこんでいるぼくのオーストリア式狙撃銃は、二つのベッドの上のほうにかかっていた。それにつける照準望遠鏡は、ぼくの記憶では、トランクのなかにしまってあった。中尉のリナルディは自分のベッドで眠っていた。部屋でぼくが物音をたてたので、目をさまし、からだを起こした。
「|やあ《チャオ》!」と彼が言った。「どうだった?」
「すばらしかったよ」
ぼくたちは握手し、彼はぼくの首のまわりに腕をまわし、キスした。
「ううう」とぼくが言った。
「きたねえなあ」と彼が言った。「洗ってこいよ。どこへいって、何をしてきたんだ? すぐにあらいざらい話せ」
「いろんなところへいってきた。ミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ヴィルラ・サン・ジョヴァンニ、メッシーナ、タオルミーナ――」
「汽車の時刻表みたいだな。何かべっぴんさんとの冒険でもなかったのか?」
「あったさ」
「どこで?」
「ミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ――」
「もうたくさん。ほんとは、どこがいちばんよかった?」
「ミラノだ」
「そこがいちばん最初だったからさ。どこで彼女に会ったんだ? コーヴァ(ミラノのスカラ座の近くにあるカフェの名)でか? で、どこへいったんだ? 気分はどうだった? すぐにあらいざらい話せ。一晩じゅう、いっしょだったのか?」
「うん」
「このごろでは、ここにも、きれいな女がいるぜ。前線にまだ来たこともない女だ」
「すごいね」
「ぼくを信用しないんだな? 午後、いっしょにいって見てこよう。それに、町には、きれいなイギリスの女がいるんだぜ。ぼくはいまミス・バークレイに恋してるんだ。きみといっしょに訪ねてみよう。たぶんぼくはミス・バークレイと結婚するよ」
「からだを洗って、報告しなければならない。だれもいま仕事がないのか?」
「きみが出かけてから、あるのはただ、霜やけ、凍瘡《とうそう》、黄疸《おうだん》、淋病《りんびょう》、故意の負傷、肺炎、硬性|下疳《げかん》と軟性下疳さ。毎週、だれかが岩石のかけらで負傷するのさ。ほんとうに負傷しているのは少数なんだ。来週は戦争がまたはじまる。おそらくまたおっぱじまるだろう。みんながそう言っているよ。どうだ、いいだろう、ぼくがミス・バークレイと結婚するのは――もちろん、戦争が終わってからだが」
「断然いい」とぼくは言って、洗面器に水をいっぱい入れた。
「今晩、きみはぼくにあらいざらい話すんだぜ」とリナルディが言った。「いまは、ミス・バークレイのために撥剌《はつらつ》として男まえになるよう、もうひと眠りしなけりゃならないんだ」
ぼくは上衣とシャツをぬぎ、洗面器の冷たい水でからだを洗った。タオルでからだをこすりながら、部屋をぐるりと見まわし、窓の外を見た。ベッドの上に目を閉じて横になっているリナルディを見た。彼はなかなかの男まえで、ぼくと同い年で、アマルフィ出身だった。軍医なのを喜んでいた。ぼくたちは大の親友だった。ぼくが見ていると、彼は目をあけた。
「金、あるかい?」
「ああ」
「五十リラ貸してくれ」
ぼくは手を拭き、壁にかかっているぼくの上衣の内ポケットから財布を取りだした。リナルディは札《さつ》をうけとり、ベッドにねたまま、それをたたみ、ズボンのポケットにすべりこませた。彼はにやにやしながら言った。「たんまり財産のある男だという印象をミス・バークレイにあたえておかなきゃならないのだ。きみはぼくの偉大な善い親友で、財政上の保護者《パトロン》なんだ」
「ちきしょう」とぼくは言った。
その晩、会食のとき、ぼくは司祭の隣にすわった。彼はぼくがアブルッツィに行かなかったことに失望し、急に機嫌をそこねた。ぼくがいくと父に手紙を出してあったので、家族の者たちが用意していたのだった。ぼくのほうも彼のように気分を害し、なぜいかなかったのかわからなかった。ぼくだっていきたいと思っていたのだ。ぼくはつぎからつぎといろんなことが起こった事情を説明した。けっきょく、彼もわかってくれ、ぼくがほんとうにいきたがっていたことを理解し、それで、なんとかまるくおさまった。ぼくは酒をたくさん飲み、さらに、コーヒーとストレーガ(オレンジのかおりのイタリア産リキュールの商標名)を飲んでいた。それで、ぼくは、酒の勢いにまかせて、ぼくたちはしたいと思っていることはしないものだ、そんなことはけっしてしないものだ、と説明した。
ほかの連中が議論しているあいだ、ぼくたち二人はしゃべっていた。ぼくはアブルッツィに行こうと望んでいたのだ。が、道が凍りついて、鉄のように固く、晴れて、寒く、乾燥していて、雪が乾いて、粉のようで、兎の足跡が雪のなかについていて、百姓が帽子をぬいで、「旦那《だんな》」と呼びかけ、狩猟にもいいといった所へは、いかなかった。ぼくはそのようなところへはいかなかった。いったのは、タバコの煙のたちこめるカフェ。夜ごと、部屋がぐるぐるまわって、それをとめるには壁を見なければならなかった。夜ごと、ベッドに、酔っぱらって、はいり、それがこの世のすべてだと思った。目をさまして、だれと寝ているのかもわからないときの異様な興奮、暗闇でまったく現実とは思われない世界、非常に興奮して、夜、だれとだかわからないまま、気にもかけず、またやりはじめなければならない。たしかに、これがすべてなのだ。すべてなのだ。すべてなのだ。気にかけることはない。とつぜん、すごく気になって、それから眠る。ときおり、朝、目をさまして、そうしたことに気づく。すると、そこにあったすべてのものがなくなっていて、なにもかも鋭く、固く、鮮明で、ときには勘定のことで言い争う。ときには、まだ、たのしく、甘く、暖かく、朝食をとり、昼食をとる。ときには、まったく興ざめして、外にとびだして、ほっとする。が、いつも、また同じような日がはじまり、それから、また同じ夜だ。ぼくは夜について、夜と昼の違いについて、昼が非常に清潔で寒ければべつだが、夜のほうがよいということについて話そうとした。が、できなかった。いまもできない。だが、経験があれば、わかることだ。彼はその経験がなかったが、ぼくがアブルッツィにほんとうにいきたがっていたことを了解してくれた。ぼくたちは、違ったところはあるが、やはり、多くの趣味を共通にもっている親友だった。彼はぼくが知らないことを、いつも知っていた。そして、ぼくが覚えても、いつも忘れてしまうようなことも、知っていた。しかし、ぼくはあとになってそれに気づいたのだが、そのときはそういうこととはわからなかった。そうこうしているうちに、ぼくたちはみんな会食に出ていて、食事がおわり、議論がつづいた。ぼくたち二人が話すのをやめると、大尉は叫んだ。
「司祭さん、たのしくない。司祭さん、女の子いないと、たのしくない」
「ぼくはたのしいですよ」と司祭が言った。
「司祭さん、たのしくない。司祭さん、オーストリア軍が勝つのを望んでる」と大尉が言った。ほかの者たちはきき耳をたてた。司祭は首をふった。
「そんなことありませんよ」と彼が言った。
「司祭さん、わが軍が攻撃しないよう願っている。わが軍が攻撃しないように願ってるんだろ?」
「いいえ。戦争である以上、攻撃しなければなりますまい」
「攻撃しなければならないさ。攻撃するぞ!」
司祭はうなずいた。
「ほっとけ」と少佐が言った。「司祭さんはあれでいいんだから」
「とにかく、司祭さんは攻撃については、どうするわけにもいかないんだ」と大尉が言った。ぼくたちはみんな立ちあがり、食卓をはなれた。
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第四章
朝、隣の庭の砲兵陣地のおかげで、目がさめた。太陽が窓ごしにさしこんでいるのが見え、ベッドから起き出した。窓ぎわにいき、外を見た。砂利の道がしめっていて、芝生が朝露で濡れていた。砲兵陣地は、二度、砲撃した。そのたびに、大気が烈風のように吹きつけ、窓をゆり動かし、ぼくのパジャマの前をはためかせた。大砲は見えなかったが、それは明らかにわれわれの真上を越して砲撃していた。そんなところに大砲があるのは迷惑だったが、たいして大きくなかったので、助かった。外の庭を見ていると、トラックが路上でエンジンをかける音がした。ぼくは服をきて、階下におり、台所でコーヒーをのみ、ガレージに出ていった。
自動車が十台、長い車庫のなかに一列に並んでいた。それらは屋根の重い、前部のずんぐりした、傷病兵運搬車で、灰色にぬられ、大型有蓋トラックのような造りだった。整備兵が作業場でその一台を修理していた。ほかの三台は山の繃帯《ほうたい》所へいっていた。
「敵はあの砲兵陣地を砲撃することがあるのか?」とぼくはその整備兵の一人にたずねた。
「いいえ、|中尉どの《シニョール・テネンテ》。あの陣地は小さな丘で遮蔽《しゃへい》されていますから」
「どうだね、ぐあいは?」
「なかなかいいです。この車はだめですが、ほかのは動きますよ」彼は仕事の手を休めて、にっこりした。「休暇をとられたのですか?」
「ああ」
彼はジャンパーで手をふき、にやにや笑った。「おたのしみでしたね?」ほかのものも、みな、にやにや笑った。
「よかったぜ」とぼくは言った。「この車はどうしたんだ?」
「だめなんです。つぎからつぎへと故障するんです」
「こんどはどこだ?」
「リングのとりかえです」
ぼくは彼らに仕事をさせたまま立ちさった。車はエンジンをだし、仕事台の上に部品をひろげてあるので、からっぽで、ぶざまに見えた。ぼくは車庫の中にはいり、車をひとつひとつ見た。それらは適度にきれいになっていて、二、三台が洗いたてで、ほかのはほこりまみれだった。ぼくはタイヤを注意深く見、切り傷や石のあたった傷がないか調べた。どこも異常がないように思われた。ぼくがそこへ来て世話をやこうとやくまいと、明らかになんの変わりもないことなのだった。車の状態や、部品が手にはいるかどうかということや、傷病兵を繃帯所から移し、山から仮収容所まで運搬し、それから書類に書かれた病院に分配するという仕事を円滑に行なうことが、かなりな程度、ぼくの肩にかかっているのだと、ぼくはいままでは思っていたのだった。が、ぼくがそこにいようがいまいが、そんなことは明らかにどうでもよいことだったのだ。
「部品を手にいれるのは困難だったかね?」とぼくは工兵軍曹にたずねた。
「いいえ、|中尉どの《シニョール・テネンテ》」
「ガソリン置き場の現在地は?」
「同じ所です」
「よろしい」とぼくは言い、宿舎に帰り、会食用のテーブルでコーヒーをもう一杯のんだ。コーヒーはコンデンスミルクがはいっていて、薄鼠色で、甘かった。窓の外は美しい春の朝だった。鼻のなかが乾いた感じがしてきて、日中《にっちゅう》は暑くなるだろうと思われた。その日、ぼくは山のなかの駐屯《ちゅうとん》所を見てまわり、午後おそく町に帰ってきた。
ぼくのいないあいだに、すべてがよくなったように思われた。攻撃がふたたび開始されようとしているという噂《うわさ》だった。われわれの属している師団は河かみのある地点を攻撃するはずであり、少佐はその攻撃のあいだの駐屯所を考えておくようにぼくに命じた。攻撃部隊は河かみの狭い峡谷の上流で河を渡り、丘の中腹に散開するはずだった。自動車の駐屯所は、できるだけ河の近くで、遮蔽された場所でなければならなかった。その場所は、もちろん、歩兵が選ぶのだろうが、われわれがそれをすっかりやるように期待されていた。こんなことも、軍務についているという錯覚をわれわれにおこさせる原因のひとつだった。
ぼくは全身ほこりにまみれ、きたなかった。それで、からだを洗いにぼくの部屋にあがっていった。リナルディがヒューゴーの英文法(ヒューゴーの語学独習書には、仏、伊など数多くあるが、これはイタリア人のための英語入門書)をもってベッドにすわっていた。彼は服装をととのえ、黒靴をはき、髪をてかてかに光らせていた。
「ちょうどいい」と彼はぼくを見て言った。「いっしょにミス・バークレイに会いにいってくれるだろ?」
「いやだ」
「来いよ。来て、ぼくが彼女にいい印象をあたえるようにしてくれよ」
「よし。からだを洗うまで待ってくれ」
「洗ったら、そのままのかっこうでいいから、いこう」
ぼくはからだを洗い、髪にブラシをかけ、二人で出かけた。
「ちょっと待ってくれ」とリナルディが言った。「一杯やったほうがいいようだ」彼はトランクをあけ、壜をとりだした。
「ストレーガはごめんだぜ」とぼくが言った。
「ちがう、グラッパ(イタリア産の強いブランデー)だ」
「それならいい」
彼は二つのグラスについだ。ぼくたちは人さし指をのばして、グラスを触れあった。グラッパは非常に強かった。
「もう一杯どうだ?」
「ああ」とぼくは言った。ぼくたちはグラッパをもう一杯のんだ。リナルディは壜をしまい、二人は階段をおりた。町を歩いていくと、暑かったが、太陽が沈みはじめていて、とても心地《ここち》よかった。イギリス軍の病院は戦前ドイツ人が建てた大きな別荘だった。ミス・バークレイは庭にいた。もう一人の看護婦といっしょだった。彼女らの白い制服が木《こ》の間《ま》ごしに見えた。ぼくたちは彼女らのほうへ歩いていった。リナルディが会釈した。ぼくも会釈したが、彼よりひかえめだった。
「はじめまして」とミス・バークレイが言った。「あなたはイタリア人じゃないのでしょう?」
「ええ、ちがいます」
リナルディはもうひとりの看護婦と話していた。彼らは笑っていた。
「すごく変わってますのね――イタリア軍に属していらっしゃるなんて」
「軍隊というほどのものじゃありませんよ。たかが衛生隊ですからね」
「でも、すごく変わってるわ。どうしてそんなことになったんですの?」
「さあね」とぼくは言った。「いつも、すべてを説明できるというわけにはいきませんよ」
「まあ、そうかしら。わたくしは説明できるものと考えるように育てられましたけど」
「それはとてもすてきですね」
「こんな調子でなければ、お話できませんの?」
「いや」とぼくが言った。
「それでほっとしましたわ。そうじゃありません?」
「そのステッキはどうしたんですか?」とぼくはたずねた。ミス・バークレイはとても背が高かった。彼女は看護婦の制服と思われるものを着ていた。金髪で、小麦色の肌に、灰色の目をしていた。すごくきれいだとぼくは思った。玩具の乗馬|鞭《むち》のような、革でまいた、細い籐《とう》のステッキを手にしていた。
「去年戦死した人のです」
「それはたいへんおきのどくに」
「とてもすてきな人でしたわ。わたくしと結婚しようとしていましたの。ソンム河(英仏海峡にそそぐ北フランスの河。第一次大戦中の激戦地)で戦死いたしました」
「凄惨《せいさん》な戦いでしたからね」
「あなたもいらっしゃったの?」
「いいや」
「噂はききましたわ」と彼女が言った。「こちらではあんな戦争など、とても、ありませんわ。わたくしにこの小さいステッキを送ってくれたんです。あの人のおかあさんがわたくしに送ってくれたんです。遺品といっしょに送りかえしてきたんだそうです」
「婚約は長かったのですか?」
「八年です。わたくしたちはいっしょに育ったのです」
「で、どうして結婚しなかったのです?」
「さあ」と彼女が言った。「わたくし、ばかでしたの。とにかく、あの人に許せば許せたのです。でも、そんなことはあの人にはよくないと思いましたの」
「なるほど」
「どなたか愛したこと、あります?」
「いや」とぼくが言った。
ぼくたちはベンチに腰をおろし、ぼくは彼女を見た。
「きれいな髪ですね」とぼくが言った。
「お気に召して?」
「おおいに」
「あの人がなくなったとき、わたくし、これをすっかり切ってしまおうとしましたの」
「とんでもない」
「あの人のために何かしたかったんです。ねえ、わたくしはほかのことは構わなかったんです。それに、あの人はそれをすべて、えようと思えば、えられたんです。わたくしのほうでわかっていさえしたら、望んだことはなんでもえられたんです。あの人と結婚するなり、なんなり、しましたのに。わたくし、いまになって、やっと、すっかりわかりましたわ。でも、そのときは、あの人は戦争にいきたがっていましたし、わたくしもわからなかったんです」
ぼくは何も言わなかった。
「わたくし、そのときは、何もわからなかったんです。そんなことあの人にはよくないと思ったんです。たぶん、そんなこと、あの人には耐えられないと、思ったんです。それから、ご想像のとおり、戦死したんです。それで、終わりになったんです」
「そんなことありませんよ」
「いいえ、そうですの」と彼女が言った。「それで終わりになったんです」
ぼくたちはリナルディがもう一人の看護婦と話しているのを見た。
「あの人はなんていうかたですか?」
「ファーガスン。ヘレン・ファーガスン。あなたのお友だちは軍医さんでしょう?」
「そうです。とてもいいやつです」
「すばらしいわ。こんな前線の近くで、いいかたにあえるなんて珍しいことよ。ここは前線に近いんでしょうね?」
「そうですよ」
「つまらない前線ですわね」と彼女が言った。「でも、すごくきれいですわ。攻撃がはじまるんですって?」
「そうです」
「じゃあ、忙しくなりますわね。いまは、ひまですけど」
「以前から、看護婦なんですか?」
「一九一五年の末からです。あの人が出征したときからです。わたくしのいる病院に来るかもしれないと、つまらない考えをもっていたことを、いまもおぼえていますわ。たぶん、軍刀の傷をうけて、頭にぐるぐる繃帯《ほうたい》をまいて、さもなければ、肩を射《い》ぬかれて。なにか絵のように美しいこと」
「ここは絵のように美しい前線ですよ」とぼくが言った。
「そうですわね」と彼女が言った。「みなさんはフランスがどんなだかほんとうにはわからないんですわ。もしわかれば、こんなことはつづきっこありませんわ。あの人は軍刀の傷はうけませんでした。こなごなにふきとばされましたの」
ぼくは何も言わなかった。
「こんなこと、いつまでもつづくとお思いになって?」
「いや、つづきませんね」
「どうしたら終わるんでしょう?」
「どこかが、まいりますよ」
「わたくしたちがまいりますわ。わたくしたちがフランスでまいりますわ。ソンム河でのようなことがつづいて、まいらないなんて、嘘だわ」
「ここではまいりませんね」とぼくが言った。
「そうお思いになって?」
「ええ。去年の夏はとてもよくやりましたよ」
「でも、まいりますわ」と彼女が言った。「だれだってまいりますわ」
「ドイツ軍もね」
「いいえ」と彼女が言った。「そうは思いませんわ」
ぼくたちはリナルディとミス・ファーガスンのほうに行った。
「あなた、イタリア、好き?」とリナルディが英語でミス・ファーガスンにたずねた。
「とっても」
「わからない」とリナルディが首を振った。
「バスタンテ・ベネ(「とっても」の意)」とぼくが通訳した。彼は首を振った。
「どうも、うまくないな。あなた、イングランド(英国)、好き?」
「それほど好きではありません。わたくし、スコットランド人ですもの」
リナルディはぽかんとした顔でぼくを見た。
「彼女はスコットランド人なんだよ。だから、イングランドよりスコットランドのほうが好きなんだ」とぼくがイタリア語で言った。
「でも、スコットランドはイングランドだぜ」
ぼくはこれをミス・ファーガスンに通訳した。
「|ちがいますわ《パ・ザンコール》」とミス・ファーガスンが言った。
「ほんとうにちがいますか?」
「ぜんぜんちがいます。わたくしたちはイギリス人が嫌いです」
「イギリス人が嫌い? ミス・バークレイが嫌い?」
「まあ、それはちがいますわ。すこしスコットランド系がまじってらっしゃるのよ。なにもかも文字どおりにおとりになってはいけませんわ」
しばらくして、ぼくたちはおやすみと言って、立ち去った。帰りがけに、リナルディが言った。「ミス・バークレイはぼくよりきみのほうが好きだ。それはとてもはっきりしている。でも、あのかわいいスコットランド人はなかなかいい」
「うん、なかなか」とぼくは言った。ぼくは彼女を注意して見てはいなかった。「きみ、好きかい?」
「いいや」とリナルディが言った。
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第五章
翌日の午後、ぼくはまたミス・バークレイを訪ねていった。彼女は庭にはいなかった。ぼくは傷病兵運搬車が横づけになる、別荘のわきの入り口にいってみた。なかに看護婦長がいて、ミス・バークレイは勤務中だと言った――「いいですか、戦争中なんですよ」
ぼくはわかってますと言った。
「あなたはイタリア軍に属しているアメリカ人ですね?」
と彼女がたずねた。
「そうです。婦長さん」
「どうしてそんなことになったのですか? なぜわたしたちのほうに加わらなかったんですか?」
「さあ、そいつがわからないんですよ」とぼくが言った。「いまからでも、加われますか?」
「もうだめだと思いますが。ねえ、どうしてイタリア軍に加わったんです?」
「イタリアにいたんです」とぼくが言った。「で、イタリア語が話せたんです」
「まあ」と彼女が言った。「わたしもいま習っていますの。きれいな言葉ですわね」
「二週間もあれば習えると言う人もいますがね」
「まあ、わたしなど二週間では習えませんわ。もう何ヵ月も勉強していますわ。なんでしたら、七時すぎにあのかたに会いにいらしてよろしいですよ。そのころでしたら仕事が終わっていますから。でも、イタリア人をあんまりお連れになってはいけませんよ」
「いくら言葉がきれいでも?」
「いけませんわ。いくら軍服がきれいでも」
「では、失礼します」とぼくは言った。
「|では、また、中尉さん《ア・リヴェデルチ・テネンテ》」
「|では、また《ア・リヴェデルチ》」ぼくは会釈して、外に出た。イタリア人のようなかっこうで外国人に会釈するときは、いつもとまどった。イタリア式の会釈は輸出用にはできていないように思われた。
その日は暑かった。ぼくは河かみのプラーヴァの橋頭堡《きょうとうほ》までいってきた。攻撃が開始されるのはその地点だった。前の年には向こう岸に前進できなかったのだ。というのは、峠から舟橋(小舟をならべて板をしき、橋にしたもの)に通じる路はひとつしかなく、しかも、それらがほとんど一マイルにわたって機関銃や砲火にさらされていたからである。それに、その道は攻撃のための輸送をすべておこなうほど広くはなく、オーストリア軍がそこを修羅《しゅら》場と化すことができたからである。だが、イタリア軍は河を渡り、向こう岸にいくらか散開し、オーストリア軍がわの河岸を約一マイル半にわたって確保していた。そこは厄介な場所で、オーストリア軍にしてみれば、敵にそこを確保させるべきではなかったのだ。だが、オーストリア軍がずっと河しもに橋頭堡をまだもっていたのだから、おたがいに許しあえたのだと思われる。オーストリア軍の塹壕《ざんごう》はイタリア軍の前線からはほんの二、三マイルしか離れていない丘の中腹にあった。小さな町があったところだが、まったく瓦礫《がれき》になっていた。鉄道の駅の残骸と、大破した鉄橋があったが、敵の視界にさらされているので、修理して使用するわけにもいかなかった。
ぼくは狭い道を河のほうにおり、丘の下の繃帯所に車をおき、山の肩で遮蔽されている舟橋を渡り、すっかり破壊された町と山裾の塹壕を通りぬけた。みんなが掩蔽壕《えんぺいごう》にいた。砲兵隊の援護を求めたり、電話線が切断されたとき合い図するために、発射する狼煙《のろし》の台が立っていた。静かで、暑く、きたなかった。ぼくは鉄条網ごしにオーストリア軍の陣地を見た。人影はなかった。ぼくは掩蔽壕のひとつで、知り合いの大尉と一杯やり、橋を渡って帰ってきた。
山を越えて橋のほうへジグザグにおりてゆく幅の広い新しい道路が完成しつつあった。この道路が完成すれば、攻撃がはじまるのだろう。それは急に何度も曲がって森林のなかをくだっていた。あらゆるものを新しい道路で運びおろし、からのトラックや荷車や、負傷兵をのせた運搬車や、すべての帰りの車や人は、狭い古い道路で運びあげるという予定だった。繃帯所は川向こうのオーストリアがわの丘の麓にあり、担架兵が舟橋を渡って負傷兵を送りかえすはずだ。攻撃がはじまっても、同じことだろう。ぼくに言えることは、新しい道路が平坦になりはじめる最後の一マイルかそこらはオーストリア軍にひどく砲撃される可能性があるだろうということだった。大混乱を来たすかもしれないように思われた。だが、その最後のひどそうなところを通りぬければ、車を遮蔽して、負傷兵が舟橋を渡って運んでこられるのを待てそうな場所を、ぼくは見つけた。ぼくは新しい道路をドライヴしたかったのだが、それはまだ完成していなかった。道幅が広く、勾配も適度で、よくできているようで、山腹の森林のまばらなところからすかして見ると、その曲がりくねっているのが非常に印象的だった。傷病兵運搬車はよくきく鉄製のブレーキ(当時のブレーキは鉄製だった)がついているので安全だろうし、とにかく、くだってくるときは、のせるものはないはずだ。ぼくは自動車で狭い道をのぼって、ひきかえした。
二人の憲兵《カラビニエーリ》がぼくの自動車を停車させた。砲弾が落ちたからだ。待っているあいだに、もう三発、砲弾が道の行くてに落ちた。七十七ミリ砲弾で、ひゅうっと風を切ってきてひどく明るい爆発と閃光があり、それから灰色の煙が道を横ぎって吹いた。憲兵は、いってもいいとぼくたちに手で合い図した。砲弾が落下したところを通るとき、ぼくは破壊された僅かな場所を避けたが、強い火薬のにおいと、吹きとばされた土や石やくだけたばかりの燧石《ひうちいし》のにおいがした。ゴリツィアに帰り、われわれの別荘にもどり、すでに述べたように、ミス・バークレイを訪ねていったのだが、彼女は勤務中だったのである。
夕食を、ぼくは大急ぎで食べ、イギリス軍が病院にしている別荘へ出かけた。それはじっさいすごく大きく、美しく、敷地内には、りっぱな木があった。ミス・バークレイは庭のベンチに腰かけていた。ミス・ファーガスンがいっしょだった。二人はぼくを見て喜んだようだった。しばらくして、ミス・ファーガスンは口実をつくって、立ち去った。
「二人にしておきましょう」と彼女が言った。「わたしがいなくなるから、よろしくおやりなさい」
「いかないで、ヘレン」とミス・バークレイが言った。
「ほんとうにいかなきゃならないのよ。手紙を何通か書かなきゃならないの」
「おやすみなさい」とぼくは言った。
「おやすみなさい、ヘンリーさん」
「検閲官を困らすようなことは書いちゃいけませんよ」
「ご心配なく。わたくしたちがすごく美しいところに住んでいるとか、イタリア軍がどんなに勇敢だとか、そんなことしか書きませんわ」
「その調子で、勲章をもらうんですね」
「だったらいいんですけど。おやすみ、キャサリン」
「もうすこししたら、いきますわ」とミス・バークレイが言った。ミス・ファーガスンは暗やみのなかに歩み去った。
「いいひとですね」とぼくは言った。
「ええ、とてもいいかたですわ。看護婦さんなのよ」
「あなたは看護婦じゃないんですか?」
「あら、ちがいますわ、わたくしは、まあ、ヴイ・エイ・ディー(篤志看護婦《ヴォランタリ・エイド・ディタッチメント》)とでもいうものですわ。わたくしたち、すごく熱心に働くんですが、だれも頼りにしてくれませんの」
「どうしてですか」
「平穏なときには、頼りにしてくれませんのよ。ほんとうに仕事のあるときには、頼りにしてくれますの」
「どうちがうんです?」
「看護婦は医者と同じなんです。なるには長い月日がかかりますの。篤志看護婦は近道ですの」
「なるほど」
「イタリア軍は女があまり前線の近くまでくるのを望んでいなかったんです。それで、わたしたちは特別につつしみ深くしているんです。外出もしませんわ」
「でも、ぼくはここに来ていいんですね」
「ええ、どうぞ。尼寺じゃありませんもの」
「戦争の話はよしましょう」
「むずかしいことね。なかなかやめられませんわ、その話」
「とにかく、よしましょう」
「いいわ」
ぼくたちは暗やみのなかでおたがいに見合っていた。ぼくは彼女がすごくきれいだと思い、彼女の手をとった。彼女は手をとられるままにした。ぼくはそれを握り、腕を彼女の腕の下にまわした。
「いけませんわ」と彼女が言った。ぼくは腕をそのままにしておいた。
「どうして?」
「いけませんわ」
「いいでしょう」とぼくは言った。「ね」ぼくはキスしようと、暗やみでからだをのりだした。すると、鋭い刺すような火花が散った。彼女がぼくの顔をはげしくなぐったのだった。彼女の手がぼくの鼻と眼を打ったのだった。反射的に、涙が目にしみた。
「ごめんなさいね」と彼女が言った。こいつはしめた、とぼくは思った。
「きみが悪かったんじゃない」
「ほんとにごめんなさいね」と彼女が言った。「ただ夕方非番になった看護婦のすることだなんて思われるのがいやだったんです。あなたを痛いめにあわせるつもりはなかったのよ。痛かったでしょう、ねえ?」
彼女は暗やみのなかでぼくを見ていた。ぼくはおこっていたが、将棋の駒の動きのように先の手が読めたので、自信があった。
「ほんとうに、きみが悪かったんじゃないですよ」とぼくは言った。「気になんかしてませんよ」
「悪かったわ」
「ねえ、ぼくはちょっとおかしな生活を送っているんです。それに、英語もまったく使わないんです。そんなときに、こんな美しいあなたがいらっしゃるものだから」ぼくは彼女を見た。
「つまらないこと、くどくどおっしゃらなくていいのよ。ごめんなさいって言ったでしょう。わたくしたち、なかなおりしたのよ」
「そうですね」とぼくは言った。「それに、ぼくたちは戦争から逃げだしたんですからね」
彼女は笑った。彼女が笑うのを見たのはそれがはじめてだった。ぼくは彼女の顔を見つめた。
「あなた、いいかたね」と彼女が言った。
「いや、とんでもない」
「そうよ、やさしいかたよ。よかったら、よろこんでキスするわ」
ぼくは彼女の目を見つめ、さっきのように腕を彼女のからだにまわし、キスした。ぼくは激しくキスし、しっかり抱きよせ、彼女の唇をあけようとした。唇はかたく閉ざされていた。ぼくはまだおこっていた。そして、彼女を抱いていると、急に彼女が身をふるわせた。ぼくは彼女をしっかり胸に抱きしめた。彼女の心臓の鼓動《こどう》が感じられた。唇が開き、頭が、うしろにまわしたぼくの手にもたれかかり、それから、彼女はぼくの肩によりかかって泣いた。
「ああ、あなた」と彼女が言った。「やさしくしてくださるのね?」
なんてことだ、とぼくは思った。ぼくは彼女の髪をなで、彼女の肩をたたいた。彼女は泣いていた。
「ねえ、そうでしょう?」彼女はぼくを見あげた。「わたくしたち、どんな生活にはいるかわからないんですもの」
しばらくして、ぼくは彼女と別荘の戸口まで歩いていき、彼女はなかにはいり、ぼくは帰った。宿舎に帰り、二階の部屋にはいった。リナルディがベッドに横になっていた。彼はぼくを見た。
「ははあん、ミス・バークレイと進行中だね」
「ぼくたちは友だちだよ」
「さかりのついた犬のようにたのしそうだよ」
ぼくはその言葉がわからなかった。
「なんのだって?」
彼は説明した。
「きみだって」とぼくが言った。「さかりのついた犬のようにたのしそうで――」
「やめろ」と彼が言った。「いまに侮辱しあうことを言いかねないからな」彼は笑った。
「おやすみ」とぼくが言った。
「おやすみ、かわいい子犬ちゃん」
ぼくは枕で彼の蝋燭をたたいて、ひっくりかえし、暗がりのなかでベッドにもぐりこんだ。
リナルディは蝋燭をひろいあげ、それに火をつけ、読みつづけた。
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第六章
ぼくは駐屯所にいっていて、二日間いなかった。宿舎に帰ってきたときは、あまり遅すぎたので、翌日の夕方まで、ミス・バークレイに会えなかった。彼女は庭にはいなかった。ぼくは彼女がおりてくるまで病院の事務室で待たなければならなかった。事務室として使われていた部屋の壁にそって、ペンキをぬった木の台にたくさん大理石の胸像がのっていた。事務室を出たところの廊下にもそれが並んでいた。どれも同じように見えるという大理石の特徴をじゅうぶんに示していた。彫刻はいつもつまらないものだ――それでも、ブロンズの彫刻はちょっとしたものに見える。だが、大理石の胸像はどれも墓地のように見えるものだ。もっとも墓地でもりっぱなのがひとつあった――ピサにだ。ジェノアは悪い大理石を見にいくだけのところだった。ここは非常な金持ちのドイツ人の別荘だったところで、胸像はひどく金がかかったに相違ない。誰がその胸像をつくり、どれだけの謝礼を受けたのだろう、とぼくは思った。ぼくはそれらがその家族の人たちの像なのか、なんなのか、知ろうとつとめた。しかし、それはみな一様に古典的な像だった。それらについては何もわかりっこないのだ。
ぼくは椅子に腰かけ、帽子を手にもっていた。われわれはゴリツィアでも鉄兜をかぶることになっていたが、鉄兜はかぶりごこちが悪く、非戦闘員の住民がまだ避難していない町では、あまりにも芝居じみていた。ぼくは駐屯所に行くとき、それをかぶり、イギリス製のガス・マスクを携行した。われわれはそのマスクをいくらか手にいれはじめていたのである。それらは本もののマスクだった。そのうえ、われわれは自動ピストルを持っているよう要請されていた。医者も衛生将校もである。ぼくは椅子の背にピストルがあたっているのを感じた。はっきり見えるところに携行していないと、逮捕されることがよくあった。リナルディはトイレット・ペーパーをつめこんだ革のピストル入れをさげていた。ぼくは本ものをさげていたが、射撃の練習をするまでは、ピストルをもったギャングのような気がした。それは銃身の短いアストラ式七・六五ミリ口径で、発射すると、ひどくはねあがるので、何かに命中させるなど、思いもよらないことだった。的の下をねらい、滑稽なほど短い銃身のはねあがるのをおさえようとつとめながら、練習し、二十歩離れたところから、狙ったものの一ヤード以内のところを射てるようになったのだが、そうなると、ピストルをかりにも携行していることが滑稽に思われてきて、まもなくピストルのことなど忘れ、なんの感情もいだかずに、腰のうしろにそれをばたばたさせて持ちあるいていた。ただ、英語を話す国の人たちに会ったときには、ぼんやりと、てれくさい思いがした。ぼくはいま椅子に腰をおろしていたが、当番兵らしい男が机のむこうからぼくをうさんくさそうに見ていた。ぼくは大理石の床や、大理石の胸像ののっている台や、壁にかかれたフレスコ画を見て、ミス・バークレイを待っていた。フレスコ画はなかなかよかった。どんなフレスコ壁画も剥げて落ちだすと、よくなるものだ。
キャサリン・バークレイが廊下を歩いてくるのが見えたので、ぼくは立ちあがった。ぼくのほうに向かって歩いてくる彼女は背が高いとは思われなかったが、すごくきれいだった。
「こんばんは、ヘンリーさん」と彼女が言った。
「お元気ですか?」とぼくが言った。当番兵が机のむこうで耳をそばだてていた。
「ここに腰かけますか、それとも、庭に出ますか?」
「外に出ましょう。ずっと涼しいですよ」
ぼくは彼女のあとから庭に出た。当番兵がぼくたちをうしろから見ていた。砂利をしいた車道に出ると、彼女が言った。「どこへ行ってらしたの?」
「駐屯所に行ってたんですよ」
「ちょっとメモでもくださるわけにはいかなかったの」
「それがね」とぼくが言った。「どうもうまくいかなかったんで。帰ってくるつもりだったんで」
「知らせてほしかったわ」
ぼくたちは車道から離れ、木陰を歩いていた。ぼくは彼女の手をとり、それから、立ちどまって、キスした。
「どこかいけるところない?」
「ないんですの」と彼女が言った。「ここを歩くより仕方ないんですの。長いあいだ、いらっしゃらなかったのね」
「きょうで三日めです。でも、もう帰ってきましたよ」
彼女はぼくを見た。「で、あなた、あたしを愛してらっしゃる?」
「そうです」
「あたしを愛してらっしゃると、おっしゃったわね?」
「ええ」ぼくは嘘をついた。「きみを愛してるよ」ぼくはまえにそんなことは言わなかった。
「じゃあ、あなた、あたしをキャサリンと呼んでくださる?」
「キャサリン」ぼくたちはすこし歩き、木陰で立ちどまった。
「おっしゃって、『ぼく、夜になったので、キャサリンのところへ帰ってきたんだ』って」
「ぼく、夜になったので、キャサリンのところへ帰ってきたんだ」
「まあ、あなた、帰ってらっしゃったのね?」
「そうだよ」
「あたし、あなたをすごく愛しててよ。たまらなかったわ。もうどこにも行かないわね?」
「行かない。いつだって帰ってくるよ」
「まあ、あたし、すごくあなたを愛しててよ。もいちど、そこにあなたの手をおいて」
「おいたままだよ」ぼくは彼女にキスするとき顔が見えるように、彼女の顔をこちらに向けた。彼女の目は閉じていた。ぼくは彼女の閉じた目の両方にキスした。ぼくはたぶん彼女がすこし夢中になりすぎているのだと思った。そうだったとしても、よかった。ぼくはどんなことになろうと、かまわなかった。女の子がからだじゅうにかじりつき、仲間の将校と二階にあがってゆく合《あ》い間《ま》合い間に、愛情のしるしに、帽子をうしろ向きにかぶせたりする、将校用の慰安所に毎晩いくよりは、このほうがましだった。ぼくはキャサリン・バークレイを愛していなかったし、愛する気もなかったのを、知っていた。これは、ブリッジみたいなもので、カードを使うかわりに、いろんなことを話すゲームだった。ブリッジのように、金を賭けて遊んでいるとか、何かを賭けて遊んでいるといったふりをしなければならなかった。だれもその賭がなんであるか口に出すものなどいなかった。ぼくはそれでかまわなかった。
「どこかぼくたちで行けるところがあればいいんだけど」とぼくは言った。ぼくは男として、立ったままで長いあいだ、ただ愛しているだけではいられない、あのいらだたしさを経験していたのだ。
「どこもないわ」と彼女が言った。彼女はうっとりとしていたが、われにかえった。
「ちょっとそこにすわろう」
ぼくたちは平らな石のベンチに腰をおろし、ぼくはキャサリン・バークレイの手をとった。彼女はぼくが腕をからだにまわそうとするのを許さなかった。
「お疲れになって、すごく?」と彼女がたずねた。
「いや」
彼女は芝生に目をおとした。
「あたしたちのしているゲーム、つまらないんじゃない?」
「なんのゲーム?」
「とぼけないで」
「とぼけちゃいないよ。本気だよ」
「あなたはいいかたよ」と彼女が言った。「やりかたを知ってて、遊ぶのね。おじょうずね。でも、ひどいゲームよ」
「きみはいつも人の気持がわかるのかい?」
「いつもとは限らないわ。でも、あなたの場合はわかるわ。あたしを愛しているふりなどしなくてもいいのよ。じゃあ、今晩はこれで。まだお話があって?」
「だが、ぼくはきみをほんとに愛してるんだよ」
「どうぞ、必要もないのに、嘘なんかよしましょうよ。ちょっとしたすてきなお芝居でしたわね。もう、あたし、なんでもないのよ。ねえ、あたし、のぼせてなんか、いないでしょう。いかれても、いないでしょう。たまに、ちょっとそうなるだけよ」
ぼくは彼女の手をぎゅっとにぎった。「かわいいキャサリン」
「キャサリンだなんて――すごく滑稽《こっけい》に聞こえるわ、いまとなっては。あなた、いままでと発音もちがってよ。でも、あなた、すごくすてきよ。すごくいいかただわ」
「司祭もそう言いましたよ」
「ええ、あなたはとてもいいかたよ。だから、会いに来てくださるわね?」
「もちろん」
「それに、あたしを愛しているとおっしゃる必要はないのよ。そんなこと、しばらく、おしまいにしましょう」彼女は立ちあがって、手をさしのべた。「おやすみなさい」
ぼくは彼女にキスしたかった。
「だめよ」と彼女が言った。「あたし、すごく疲れてるの」
「でも、キスして」とぼくは言った。
「あたし、すごく疲れてるのよ」
「キスして」
「どうしても?」
「うん」
ぼくたちはキスした。すると、彼女は急に離れた。
「だめよ。おやすみなさい。ねえ、あなた」ぼくたちは戸口のほうに歩いていった。そして、ぼくは彼女がなかにはいり、廊下を歩いていくのを見た。ぼくは彼女が歩いていくのを見るのが好きだった。彼女は廊下をどんどん歩いていった。ぼくは宿舎に帰っていった。暑い夜で、山々にはさかんな動きがあった。ぼくはサン・ガブリエーレに砲火の閃《ひら》めくのをながめた。
ぼくはヴィルラ・ロッサ(「赤い家」の意)の前で立ちどまった。シャッターがおりていたが、中ではまだやっていた。だれかが歌っていた。ぼくは宿舎に帰っていった。服をぬいでいると、リナルディがはいってきた。
「あっ、はっ!」と彼は言った。「あまりうまくいっていないんだな。ぼうやはまごついてるね」
「どこにいってたんだ?」
「ヴィルラ・ロッサさ。とてもためになったぜ、ぼうや。みんなで歌ったんだ。きみはどこにいってたんだ?」
「イギリス人をたずねてたんだ」
「ぼくはね、イギリス人なんかにかかわりあわなくって、よかったよ」
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第七章
ぼくは、翌日の午後、山の第一駐屯所から帰ると、仮収容所《スミスタメント》に車をとめた。そこでは、傷病兵が書類によってえりわけられ、その書類にそれぞれ異なった指定の病院が記入されるのだ。ぼくはずっと自動車に乗りづめだった。ぼくは車のなかにすわっていた。運転兵が書類をもってはいっていった。その日は暑く、空はすごく青く晴れわたり、道は白く、ほこりっぽかった。ぼくはフィアットの高い座席に腰かけ、なんにも考えなかった。連隊がほこりの道を通ってゆき、ぼくは彼らが通るのを見まもっていた。兵隊たちは暑そうに汗をかいていた。ある者は、鉄兜《てつかぶと》をかぶっていたが、たいていの者はそれを背嚢《はいのう》のうしろにひっかけていた。たいていの鉄兜は大きすぎて、かぶっている人々のほとんど耳の上までずりおちていた。将校たちはみんな鉄兜をかぶっていた。このほうはもっと頭に合う鉄兜だった。それはバジリカータ(イタリア南部の古い州の名。現在のルカーニア)旅団の半数だった。ぼくは彼らの赤と白の縞《しま》の襟章《えりしょう》でそれと知った。連隊が通ってしまってからかなりたって通ってゆく落伍者――自分の小隊についていけない人たち――がいた。彼らは汗みどろで、ほこりにまみれ、疲れていた。ある者はかなりひどい様子だった。兵士が一人、落伍者の一番あとからやってきた。彼はびっこをひいて歩いてきた。彼は立ちどまり道ばたにしゃがみこんだ。ぼくは車からおり、そっちにいった。
「どうしたんだ?」
彼はぼくを見、それから立ちあがった。
「これからいくんです」
「どこが悪いんだ?」
「――戦争が」
「足をどうしたんだ」
「足じゃありません。脱腸です」
「なぜ、輸送車に乗っていかないんだ?」とぼくはたずねた。「なぜ、病院にいかないんだ?」
「いかせてくれないんです。わざと脱腸帯をずらしてると、中尉どのが言われるんです」
「見せてみろ」
「出てしまってるんです」
「どっちがわだ?」
「こっちです」
ぼくはさわった。
「咳《せき》をしてみろ」とぼくが言った。
「咳をすると、もっと大きくなりそうなんです。けさの二倍も大きくなってるんです」
「すわってろ」とぼくは言った。「ここにいる負傷者たちの書類をもらったら、すぐおまえを車に乗せて、おまえの軍医将校たちのところに連れていってやろう」
「軍医はぼくがわざとやったと言うでしょうよ」
「彼らはどうにもできないよ」とぼくが言った。「傷じゃないんだから。まえからだったんだろう、なあ?」
「でも、ぼくは脱腸帯をなくしたんです」
「病院にいれてくれるだろう」
「ここにいるわけにはいきませんか、|中尉どの《テネンテ》?」
「だめだ、おまえの書類がないから」
運転兵が車のなかの負傷者の書類をもって戸口から出て来た。
「一〇五号に四名、一三二号に二名であります」と彼が言った。それらは河向こうの病院だった。
「きみ、運転してくれ」とぼくが言った。ぼくは脱腸の兵隊に手をかして、ぼくたちの座席にあがらせた。
「英語、話されますか?」と彼がたずねた。
「もちろん」
「このいまいましい戦争はどう思われますか?」
「くだらないよ」
「まったくくだらないです。じっさい、まったくくだらない」
「アメリカにいたのかね」
「いましたとも。ピッツバーグにいました。あなたがアメリカ人だということわかっていました」
「ぼくのイタリア語、へたかね?」
「あなたがアメリカ人だということ、ちゃんとわかってました」
「こいつもアメリカ人だ」と運転兵が脱腸の男を見ながら、イタリア語で言った。
「ねえ、|中尉どの《テネンテ》。ぼくをあの連隊に連れていかねばならないんですか?」
「そうだ」
「軍医大尉はぼくが脱腸だってこと知ってましたからね。ぼくはひどくなって、もう二度と戦線にいかなくてもいいようにと、あのいまいましい脱腸帯を捨てちゃったんです」
「うん」
「ほかのところへ連れていっていただけないんですか?」
「もっと前線に近ければ、いちばん手近な応急治療所に連れていけるんだが、こんな後方では、書類がなければだめだ」
「帰れば、ぼくは手術をうけ、それから、ずっと、戦線にひっぱりだされるんでしょうね」
ぼくはいろいろと考えてみた。
「あなただって、ずうっと戦線にいっていたくはないでしょう?」と彼がたずねた。
「そうさ」
「いやはや、いまいましい戦争じゃありませんか?」
「いいかね」とぼくが言った。「きみは車をおり、道ばたで倒れ、頭に瘤《こぶ》でもつくるのさ。ぼくは帰りにきみを拾いあげて、病院に連れていってやろう。このへんで車をとめてくれ、アルドー」車は道ばたでとまった。ぼくは手を貸して彼をおろした。
「ぼくはちゃんとここにいますよ、中尉どの」と彼が言った。
「さようなら」とぼくは言った。ぼくたちはどんどん進み、一マイルほど先で、例の連隊をおいぬき、それから、雪解けの水で濁り、橋のくいのあいだを勢いよく流れている河を渡り、その道を走って、平野を横ぎり、二つの病院に負傷者を届けた。帰りに、ぼくはピッツバーグ出の男を探そうと、空車をとばした。最初に例の連隊といきちがった。まえよりも暑苦しく、歩調もにぶっていた。それから、落伍者たちに会った。それから、傷病兵運搬馬車が路傍にとまっているのが見えた。二人の男が脱腸の男を車にのせようと、もちあげていた。彼らは彼を連れに帰ってきたのだ。彼はぼくに向かって首を振った。鉄兜がぬげ、額の生えぎわの下から血が出ていた。鼻がすりむけ、血の出ているところや、髪の毛は塵にまみれていた。
「この瘤《こぶ》をみてくださいよ、中尉どの!」彼が叫んだ。「処置なしです。ぼくを連れもどしにきたんですよ」
別荘に帰ってきたときは、五時だった。ぼくは洗車場に出ていき、シャワーを浴びた。それから、ぼくの部屋のあけ放った窓の前で、ズボンとアンダーシャツだけになって、腰かけ、報告書を書きあげた。二日のうちに、攻撃がはじまるはずで、ぼくは傷病兵運搬車にのってプラーヴァへいくことになっていた。長いあいだ、合衆国へたよりを出さなかった。たよりを出すべきだとはわかっていたのだが、ずいぶん長く、そのままになっていたので、いまたよりを出すのは、とてもできないことだった。書くこともなかった。ぼくは軍の野戦郵便《ゾーナ・ディ・ゲルラ》はがきを二、三枚、無事だというところ以外はみな消して、出した。それでなんとか義理がたつだろう。それらのはがきはアメリカではとてもすばらしいだろう。変わっていて、珍しいだろう。ここも変わっていて、めずらしい戦線だった。が、ほかのオーストリア軍との戦線にくらべると、凄惨なものに思われた。オーストリア軍はナポレオンに勝利をあたえるために創設されたのだ。どのナポレオンにもだ。わが軍にナポレオンのようなのがいればよいが、とぼくは願った。が、いたのは、肥って元気のいいカドルナ将軍(一九一四―一七、イタリア軍参謀長)や、細長い首をして、山羊鬚《やぎひげ》をはやした小男の、ヴィットリオ・エマヌエーレ(一九〇〇―四〇、イタリア国王)などだった。ずっと右翼には、アオスタ公(アメデオ・ウンベルト候。一八九八―一九四二)がいた。おそらく、彼は偉大な将軍にしてはあまりに好男子だった。だが、男らしかった。多くの人は彼を国王にしたかったのだろう。彼は国王のような風貌《ふうぼう》だった。国王の伯父で、第三軍を指揮していた。われわれは第二軍に属していた。第三軍にイギリスの砲兵中隊がいくつか所属していた。ぼくはその隊の二人の砲手にミラノで会ったことがあった。なかなかいいやつで、ぼくらはすてきな晩をすごした。二人とも大男で、内気で、どぎまぎしていて、どんなことがあっても、すごくありがたがった。ぼくもイギリス軍に属していればよかったと思った。そのほうがもっとめんどくさくなかったであろう。でも、きっと、戦死していたかもしれない。そう、この傷病兵運搬車勤務などでは戦死はしない。いや傷病兵運搬車勤務でも戦死するかもしれない。イギリスの傷病兵運搬車の運転兵はときどき戦死した。ところで、ぼくは戦死しないだろうということはわかっていた。この戦争では戦死しない。この戦争はぼくにはなんの関係もないのだ。映画のなかの戦争と同じく、ぼくには危険がないように思われた。だが、ぼくは戦争が終わるよう、神に祈った。おそらく、オーストリア軍がまいるだろう。いつも、いままでの戦争では、まいっていた。この戦争は、いったい、どうなんだろう? だれでもフランス軍がまいったと言っている。リナルディはフランス軍が反乱をおこし、軍隊がパリを行進していると、言っている。ぼくは彼にどうなったかとたずねると、彼は「ああ、しずまったよ」と言う。ぼくは戦争のないオーストリアにいきたい。ブラック・フォレスト(シュヴァルツヴァルト地方。ドイツ西南部の約一〇〇マイルにわたる山岳地帯)にいきたい。ハルツ山岳地方(ドイツの中部の山岳地帯)にいきたい。とにかく、ハルツ山脈ってどこにあるのだろう。カルパシア山脈(ポーランドとチェコ・スロヴァキアの間を走る八〇〇マイルに及ぶ山脈)でも戦闘が行なわれているのだ。とにかく、そこにはいきたくない。もっともよいところかもしれないのだが。戦争がなければ、スペインにいけるのだ。陽が沈みかかって、涼しくなってきた。夕食をすませてから、キャサリン・バークレイに会いにいこう。いまここにいてくれればいいのだが。彼女といっしょにミラノにいるのならいいのだが。いっしょに、コーヴァで食事をし、それから暑苦しい夕暮れをマンヅォーニ通りを散歩し、運河を渡り、それにそって曲がり、ホテルにいきたい。おそらく、彼女はそうするだろう。おそらく、彼女はぼくが戦死した彼女の恋人であるかのようなふりをするだろう。そして、ぼくたちは正面の入り口からはいるだろう。ホテルのボーイが帽子をぬぐ。ぼくは受付のデスクの前に立ちどまり、鍵をもらう。彼女はエレベーターのそばに立っている。それから、ぼくたちはエレベーターにのる。それは各階ごとにかちっかちっと音をたてて、とてもゆっくりのぼる。それから、ぼくたちの階だ。ボーイはドアをあけて、そこに立つ。彼女はエレベーターから出、ぼくも出る。ぼくたちは廊下を歩いていく。ぼくはドアに鍵をさしこみ、あけ、なかにはいり、それから受話器をとりあげ、氷のいっぱいはいった銀の桶《おけ》にカプリ・ビアンコを一本いれてもってくるように頼む。氷が桶にぶつかるのが廊下の向こうからきこえてくる。ボーイがノックする。ぼくは、どうぞドアの外においといてくれ、と言う。ひどく暑いので、ぼくたちはなにも着ていないからだ。窓はあけはなしてある。燕が家々の屋根の上に飛んでいる。それから、暗くなって、窓のところにいくと、とても小さなこうもりが家々の上や木々のすぐ上を飛びまわっている。ぼくたちはカプリを飲む。ドアには鍵がかかっている。暑い。シーツ一枚きりだ。夜どおし、ぼくたちはミラノで、暑い夜を、一晩じゅう、おたがいに愛しあう、ということになるだろう。こうこなくちゃいけないのだ。とにかく、大いそぎで食事をして、キャサリン・バークレイに会いにいこう。
会食のとき、みんなはしゃべりすぎた。ぼくはすこし飲まなければ今晩はみんなと兄弟のようになれなかったので、ワインを飲んだ。そして、司祭とアイルランド大司教(一八三八―一九一八、アイルランド生まれのアメリカの大司教)のことについて話しあった。大司教は高潔な人物だが、不当な扱いを受けたらしい。彼が受けた不当な扱いに、ぼくもアメリカ人としてかかわりがあるわけだが、そんなことはきいたこともなかった。でも、知っているふりをした。原因は、けっきょく、誤解のようだったが、その原因をそんなにすばらしく説明するのを傾聴しておいて、それらについて何も知りませんでは、失礼になるだろう。大司教の名前は立派だと、ぼくは思った。彼はミネソタの出で、それだから、いい名前になるのだと思った。ミネソタのアイルランド、ウィスコンシンのアイルランド、ミシガンのアイルランド。それが美しくなるのは、それが島《アイランド》のようにひびくからなのだ。いや、そうじゃない。それ以上のことがあるのだ。はい、神父さま、そのとおりです、神父さま。たぶんそうです、神父さま。いや、神父さま。ええ、まあそうです、神父さま。ぼくよりあなたのほうがそれをよくご存じです、神父さま。司祭は善良だが、鈍感だ。将校たちは善良でないうえ、鈍感だ。国王は善良だが、鈍感だ。ワインは悪いが、鈍くはない。ワインは歯の琺瑯《ほうろう》質をはがして、それを上顎にくっつける。
「そして、その司祭はぶたばこに入れられた」とロッカが言った。「というのは、三分利付債券を肌身はなさずもっていたのがわかったからなのだ。もちろん、フランスでの話さ。この国だったら、司祭を逮捕などしなかったがね。彼は五分利付債券のほうはまったく知らないと言うんだ。これはベジエ(南フランスの都市)であった話だがね。ぼくはそこにいて、新聞でそれを読み、牢獄にいって、司祭に会わせてくれと頼んだ。彼が債券を盗んだことは疑いなく明らかだった」
「まったく信じられないな」とリナルディが言った。
「どうぞ、お好きなように」とロッカが言った。「でも、ぼくはここにいるぼくたちの司祭さんのために話してるんだ。とてもためになる話だ。このかたは司祭さんだから、ありがたがるだろう」
司祭は微笑した。「お続けください」と彼が言った。「傾聴してます」
「もちろん、公債のいくつかは説明がつかなかったが、司祭は三分利付債券をみんな持っていたし、地方債券もいくらか持ってたよ。ぼくはそれがなんだか正確には思いだせないんだがね。そこで、ぼくは牢獄に行き、ここが話のたいせつな点だが、彼の独房の外に立って、懺悔《ざんげ》でもしようとしているように言ってやったんだ、『ぼくを祝福してください、神父さま、あなたが罪を犯されたのですから』とね」
みんなから大きな笑い声がわいた。
「で、彼はなんと言いましたか?」と司祭がたずねた。ロッカはそれを無視し、ぼくにそのしゃれを説明しようと、つづけた。「しゃれのポイントがわかるだろ、ね?」それは、ちゃんとわかれば、ずいぶん滑稽《こっけい》なしゃれのように思われた。彼らはぼくにもっとワインをついでくれた。ぼくはシャワーをあびせかけられたイギリスの一兵卒の話をした。すると、少佐が十一人のチェコ・スロヴァキア人とハンガリアの伍長の話をした。ワインをさらに飲んでから、ぼくは一ペニー銅貨を見つけた競馬騎手の話をした。少佐は、イタリアにも、夜、眠れない公爵夫人について、ほぼ同じような話がある、と言った。このとき、司祭が出ていった。ぼくは|冷たい北風《ミストラル》が吹きつける朝の五時にマルセイユについた旅まわりのセールスマンの話をした。少佐はぼくが飲めるという噂《うわさ》をきいたと言った。ぼくはそれを否定した。彼は、それはほんとうだ、酒神バッカスの死骸にかけて、それがほんとうかどうか試してみようと言った。バッカスではなく、とぼくは言った。バッカスではなく。いや、バッカスで、と彼が言った。バッシ・フィリッポ・ヴィンチェンツァと、コップにはコップで、グラスにはグラスで、飲みっこしたらどうだ。バッシは、いや、それじゃあ試すことにはならない、なぜって自分はもうこの男の二倍も飲んでいるのだから、と言った。ぼくは、それはひどい嘘だ、バッカスであろうと、バッカスでなかろうと、フィリッポ・ヴィンチェンツァ・バッシであろうと、バッシ・フィリッポ・ヴィンチェンツァであろうと、彼は今晩は一滴も触れていないんだし、とにかく彼の名はなんと言うのだ、と言った。彼は、ぼくの名がフェデリーコ・エンリーコというのか、エンリーコ・フェデリーコというのか、ときいた。ぼくは、バッカスはべつとして、いちばん強い者が勝ちとしようと言った。少佐はジョッキに赤ワインをいれて、ぼくたちに競争をはじめさせた。その赤ワインを半分ものまないうちに、ぼくはもういやになった。行くところを思いだしたのだ。
「バッシが勝ちだ」とぼくが言った。「ぼくより強いよ。ぼくは行くとこがあるんだ」
「ほんとなんだよ」とリナルディが言った。「デートなんだ。おれはなんでも知ってる」
「行かなければならないんだ」
「べつの晩にしよう」とバッシが言った。「きみがもっと強いと思う晩に、あらためて」彼はぼくの肩をぴしゃっとたたいた。テーブルの上に蝋燭《ろうそく》がともっていた。将校たちはみんなすごくたのしそうだった。
「おやすみなさい、みなさん」とぼくが言った。
リナルディがぼくといっしょに出てきた。ぼくたちはドアの外の道に立った。彼が言った。「あそこには酔っぱらって行かないほうがいいぞ」
「ぼくは酔っちゃいないよ、リニン。ほんとだ」
「コーヒーを噛《か》んでいったほうがいい」
「ばかな」
「持ってきてやるよ、ぼうや。このへんでぶらぶらしていろ」彼は煎《い》ったコーヒー豆をひとつかみ持って、もどってきた。
「こいつを噛め、ぼうや。神さまがお守りくださるように」
「バッカスの神がね」とぼくが言った。
「いっしょに、いってやろう」
「ぼくはぜんぜん平気だよ」
ぼくたちは町をいっしょに歩いていった。ぼくはコーヒーを噛んだ。イギリス軍の別荘に通じる車道の門のところで、リナルディがおやすみと言った。
「おやすみ」とぼくは言った。「きみも、はいれよ」
彼は首をふった。「いや」と彼が言った。「ぼくはもっと簡単なたのしみのほうが好きなんだ」
「コーヒー豆、ありがとう」
「いや、ぼうや、とんでもない」
ぼくは車道を進んでいった。車道の両側の糸杉の輪郭《りんかく》があざやかでくっきりしていた。ふりかえると、リナルディがぼくをじっと見て立っているのが見えた。ぼくは彼に手をふった。
ぼくは、別荘の応接室に腰かけて、キャサリン・バークレイがおりてくるのを待っていた。だれかが廊下を歩いてきた。ぼくは立ちあがった。が、それはキャサリンではなかった。ミス・ファーガスンだった。
「あのう」と彼女が言った。「キャサリンが、おきのどくですが今晩はお会いできない、とお伝えしてくれとのことです」
「それは残念。病気じゃないんでしょうね」
「あんまり元気じゃないのよ」
「ぼくががっかりしていたと伝えてくださいませんか?」
「ええ、お伝えしますわ」
「あす、会いに来てもいいですか?」
「ええ、よろしいわ」
「どうもありがとう」とぼくは言った。「おやすみなさい」
ぼくは戸外に出た。と、急に、さびしく、空虚に感じられた。ぼくはキャサリンに会うことをごく軽く考えていたのだ。いくぶん酔ってしまい、訪ねて来ることもすんでのところで忘れていたのだった。が、いざ来てみて会えないとなると、さびしく、うつろに感じるのだった。
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第八章
翌日の午後、その夜のうちに河かみで攻撃が行なわれることになっていて、われわれは自動車を四台そこへもっていくように、と言われた。みんなはきわめてもっともらしく、作戦上の知識をふりまわして話していたけれど、だれもそのことについてはなにもわかっていなかった。ぼくは先頭の車に乗っていた。そして、イギリス軍の病院の入り口の前を通るとき、ぼくは運転兵にとまるように命じた。ほかの車もとまった。ぼくは車からおり、運転兵たちにどんどん進むように命じ、もしコルモンス(ゴリーツィア西方七マイルの町)へ通じる道の交叉点で追いつかなければ、待っていてくれと言った。ぼくは邸内の車道を急いでいき、応接室にはいって、ミス・バークレイに面会を求めた。
「勤務中です」
「ほんのちょっとでいいから、面会できませんか?」
当番兵が彼女を探しにやられ、彼女がその兵といっしょにやってきた。
「よくなられたかどうかお尋ねしようと、たち寄ったんです。勤務中だと言うので、面会を申しこんだのです」
「もうすっかりいいのよ」と彼女が言った。「きのうは暑さにまいってしまったらしいわ」
「すぐ行かなきゃならないので」
「ちょっと外に出てみますわ」
「じゃあ、すっかりいいんですね?」とぼくは外でたずねた。
「ええ。今晩、おいでになる?」
「それがだめなんです。これから河かみのプラーヴァでの作戦《ショー》に出かけるところなので」
「作戦《ショー》?」
「たいしたことはないと思うんだけど」
「で、お帰りは?」
「あす」
彼女は首から何かをはずしていた。それをぼくの手のなかに入れた。「聖アントニオ(一一九五―一二三一。カトリックの修道士、聖人。ここではそのお守りのメダル)よ」と彼女は言った。「では、あすの晩、いらっしゃいね」
「きみはカトリック教徒じゃないんだろう?」
「ええ。でも、聖アントニオはすごくご利益《りやく》があるんですって」
「きみのためにだいじにしておこう。さようなら」
「いやよ」と彼女は言った。「さようならはいや」
「そうか」
「お行儀よくして、それから気をつけてね。だめよ、ここじゃキスできないわ。いけないわ」
「わかったよ」
ふりかえると、彼女は戸口の階段に立っていた。彼女は手を振った。ぼくはぼくの手にキスし、それをさしのべた。彼女はまた手を振った。やがて、ぼくは邸内の車道を出て、傷病兵運搬車の座席によじのぼり、車を走らせた。聖アントニオは小さな白い金属製のロケットにはいっていた。ぼくはそのロケットをあけ、手のなかにそれをすべりこませた。
「聖アントニーですね?」と運転兵がたずねた。
「ああ」
「ぼくも持ってます」彼は右手をハンドルからはなし、上衣のボタンをはずし、ワイシャツの下からそれを取りだした。
「ね?」
ぼくは聖アントニオをロケットのなかにしまい、細い金の鎖もいっしょに流しこみ、胸のポケットに入れた。
「首にかけないんですか?」
「うん」
「かけたほうがいいですよ。そのためのものですから」
「そうか」とぼくは言った。ぼくは金の鎖の留め金をはずし、首のまわりにまわし、留め金をかけた。聖像はぼくの制服の外がわにぶらさがった。ぼくは上衣の襟《えり》をあけ、ワイシャツのカラーのボタンをはずし、シャツの下にその像をおとした。金属のいれものにはいった像が、車を走らせているあいだ、ぼくの胸に感じられた。それから、ぼくはそれを忘れてしまった。ぼくはあとで負傷したが、そのとき以来、それを見失ってしまった。おそらく、だれかがどこかの繃帯所でそれをとってしまったのだろう。
橋を渡るとき、車をとばした。すると、まもなく道路の前方に他の車のあげる砂塵《さじん》が見えた。道路が曲がっていて、三台の車がじつに小さく見えた。砂塵が車輪からあがり、木々のあいだに消えていった。その車に追いつき、追いこして、丘をのぼってゆく道路に折れた。隊を組んで車を走らせるのは、先頭の車の場合、まんざら悪くもないものだ。ぼくは座席にどっかり腰をおろし、あたりをながめていた。河のこちらがわの山麓の丘を通っていたのだが、道路がのぼりになるにつれ、頂上にまだ雪をいただいている高い山々がはるか北のほうに見えてきた。ふりかえると、三台の車がみな砂塵の間隔をおいて丘をのぼってくるのが見えた。荷をつんだ騾馬《らば》の長い列を通りすぎた。騾馬を馭《ぎょ》す兵たちは赤いトルコ帽をかぶってそのそばを歩いていた。彼らはイタリア軍の狙撃兵《ベルサリエーリ》たちだった。
騾馬の列をすぎると、道路には物かげひとつなかった。いくつかの丘をのぼり、それから、長い丘の肩をくだって、河のある谷にでた。道路の両がわにそって木立があり、右がわの木立の列を通して、河が見えた。水は澄んで、流れは早く、浅かった。河は低く、砂と小石がひろがり、一条の水路が狭くつき、ときおり、流れが小石の河床の上にひろがって光っていた。河岸の近くに深い水溜りがあり、水が空のように青かった。河にはアーチ型の石橋がいくつもかかっていて、そこで小路が道路から分れていた。車は、梨の木々が南の壁や田畑の低い石の堀を背にして燭台《しょくだい》のように立っている石造りの農家の前を、通りすぎた。道路は長いあいだ谷間をのぼり、やがてその道をそれると、ふたたび丘をのぼりはじめた。道路は栗林のあいだを急坂になってジグザグにのぼり、最後に尾根づたいに平らになった。林を通して見おろすと、両軍をへだてている河の流れに陽があたっているのが、はるか下のほうに、見えた。尾根づたいに走っている、まだよくならしてない新軍用道路を行き、北のほうの二つの山脈を望むと、雪のあるところまでは暗緑色にかげり、その上は陽をうけて、まっ白で美しかった。それから、道路が尾根にそってのぼっていくと、またべつの山脈が望まれ、それはさらに高い雪の山々で、白堊《はくあ》のように白く、ひだがつき、珍しく平地があった。それから、これらの山々のはるかかなたにも山脈があったが、実際に見えるとはほとんど言いがたかった。それらはみなオーストリアの山々で、われわれのほうにはそのような山はまったくなかった。前方には道路が右にまるく曲がり、見おろすと、道路が木立のあいだを急なくだりになっていくのが見えた。この道路には、軍隊が進軍し、トラックや山砲をつんだ騾馬《らば》が往来していた。そのそばをよけながら、おりていくと、はるか下のほうに、河が見え、それにそって枕木やレールがつづき、鉄道が向こう岸へ渡るところに古い橋があり、河向こうの丘の麓には、これから占領するはずの小さな町の破壊された家々があった。
ぼくたちが丘をくだって、河にそった本通りにはいったときには、夕闇がせまっていた。
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第九章
道路はごったがえしていた。両がわは、とうもろこしの茎《くき》や藁《わら》のむしろで遮蔽《しゃへい》してあり、上にもそういったむしろがかぶせてあるので、サーカスの入り口とか、土人部落の入り口のようだった。このむしろでおおわれたトンネルのなかを、ぼくたちはゆっくり自動車を走らせ、何もないさっぱりした場所に出た。そこは鉄道の駅があったところだった。ここでは道路は河の堤の高さよりも低く、その沈んだ道路の側面にそって堤に穴が掘られ、そのなかに歩兵がいた。陽が沈みかけていた。堤にそって車を走らせながら見上げると、向こうがわの丘の上のほうに、オーストリア軍の観測気球が夕日を背にして黒くあがっているのが見えた。ぼくたちは煉瓦《れんが》工場の向こうに車をとめた。かまどやいくつかの深い穴が繃帯所として設営されていた。知り合いの軍医が三人いた。ぼくは少佐と話し合い、戦争がはじまって、車に負傷兵を収容することになれば、ぼくたちは遮蔽した道路を引きかえし、尾根にそって本通りまでのぼっていくことになっていて、そこに駐屯所があるから、ほかの車に負傷兵を乗りかえさせるのだ、ということを知った。少佐は道路がごったがえさなければいいがと言った。なにしろ一本道での作戦なのだ。道路は河向こうのオーストリア軍に見えるので、遮蔽してあった。この煉瓦工場では、われわれは河の堤で小銃や機関銃の射撃から防御されていた。河にかかった橋が破壊されていた。砲撃がはじまれば、べつの橋をかけることになっていて、いくつかの部隊が上流の河の曲がっているところの浅瀬を渡るはずだった。少佐は口髭を上にはねあげた小がらな男だった。リビアで戦争に参加したことがあり、傷痍章《しょういしょう》を二つつけていた。事態が首尾よくいったら、きみが勲章をもらえるように取りはからおう、と言った。ぼくは、首尾よくいくのは望ましいが、そんなにご親切にしてくれなくてもいい、と言った。運転兵たちがはいっていられる大きな塹壕《ざんごう》がないかとたずねると、彼は案内のために兵隊を一人よこした。ぼくは彼といっしょに塹壕を見に行ったが、とても良いものだった。運転兵たちはそれに満足したので、ぼくは彼らをそこに置いてきた。少佐はほかの二人の将校たちといっしょに一杯やろうとぼくをさそった。ぼくたちはラム酒を飲んだが、とてもたのしかった。外は暗くなりかけていた。ぼくはいつ攻撃が行なわれることになっているのかとたずねた。彼らは暗くなればすぐだと言った。ぼくは運転兵のところへ帰っていった。彼らは塹壕に腰かけて話していた。ぼくがはいっていくと、話をやめた。ぼくはひとりひとりにマチェドニアというタバコを一箱ずつやった。ゆるく巻いたたばこで、たばこの粉がこぼれるので、吸うまえに両端をひねっておく必要があった。マネーラがライターをつけ、みんなにまわした。ライターはフィアットのラジエーターに似た形をしていた。ぼくは聞いてきたことをみんなに話した。
「おりてきたとき、どうして駐屯所が見えなかったんだろう?」とパッシーニがきいた。
「道を曲がったところのちょっと先にあった」
「道路がひどくごったがえすだろうな」とマネーラが言った。
「やつらはめくらめっぽうに砲撃するだろうな」
「たぶんね」
「食事はどうなってるんですか、中尉どの? おっぱじまったら、食うひまなんかありませんよ」
「見てくる」とぼくが言った。
「自分たちはここにいなければいけませんか? それとも、ぶらぶら見てまわってもいいですか?」
「ここにいたほうがいい」
ぼくは少佐の塹壕に引きかえした。彼は、野戦炊事車がくるだろうから、運転兵たちはシチューをとりに来ればいい、と言った。すずの食器がなければ貸してやろう、と言った。ぼくは、食器はあると思う、と言った。運転兵たちのところへもどって、食事が来たらすぐ取ってきてやろう、と言った。マネーラは、砲撃がはじまらないうちに来ればいいが、と言った。彼らはぼくが出ていくまで、黙っていた。みんな、整備兵で、戦争を憎んでいた。
ぼくは外に出て、自動車を見、様子をたしかめてから、引きかえし、四人の運転兵といっしょに塹壕のなかに腰をおろした。ぼくたちは壁に背をもたれて地面にすわり、タバコをふかした。外はほとんどまっくらだった。塹壕の土は暖かく、乾いていた。ぼくは背中を壁にもたせ、腰のうしろまで地面につけて、くつろいだ。
「だれが攻撃に行くのだろう?」とガヴッツィがきいた。
「狙撃兵《ベルサリエーリ》だ」
「狙撃兵だけかい?」
「そうだろう」
「本格的な攻撃には部隊が不足しているよ」
「おそらく本格的な攻撃をする地点から注意をそらすためなんだろう」
「攻撃する兵隊は知ってるんだろうか?」
「知らないだろう」
「もちろん知らないさ」とマネーラが言った。「知ってたら、攻撃なんかしないさ」
「いや、するとも」とパッシーニが言った。「狙撃兵はばかだからね」
「勇敢で、よく訓練されている」とぼくが言った。
「胸など、はかれば大きいし、がんじょうだ。だけど、やっぱり、ばかなんだよ」
「擲弾兵《グラナティエーリ》はのっぽだぞ」とマネーラが言った。これは冗談だった。みんなは笑った。
「|中尉どの《テネンテ》、やつらが攻撃しようとしないので、十人めごとに一人ずつ射殺されたことがありますが、あのとき、現場におられましたか?」
「いや」
「ほんとにあったんですよ。あとでやつらを並べて、十人めごとに一人ずつ引っぱりだしたんです。憲兵《カラビニエーリ》が射殺したんです」
「憲兵がね」そうパッシーニは言って、地面に唾《つば》をはいた。「でも、あの擲弾兵は、みんな六フィート以上でしたよ。攻撃しようとしなかったんです」
「みんなが攻撃しようとしなければ、戦争なんか終わるだろうにね」とマネーラが言った。
「擲弾兵はそうじゃなかったんだよ。おっかなびっくりだったんだよ。将校たちはみんな良家の出だからね」
「将校だってひとりで出ていったのもあったよ」
「軍曹は出ていこうとしない将校を二人も射殺したよ」
「出ていった部隊もあったよ」
「出ていった部隊は十人めごとに射殺されたときに、並ばされなかった」
「憲兵に射殺された連中に、ぼくの町のやつがいたよ」とパッシーニが言った。「擲弾兵むきの、大きな、スマートな、背の高い男だった。しょっちゅうローマにいて、しょっちゅう女の子といっしょで、そして、しょっちゅう憲兵といっしょにいた」彼は笑った。「ところが、いまじゃあ、やつの家の外には銃剣をもった衛兵がいて、やつのおふくろや、おやじさんや、姉妹《きょうだい》たちには、だれも会いに行けず、おやじさんは市民権を失って、投票さえできないんだ。やつらには守ってくれる法律もないんだ。だれだってやつらの財産は盗みほうだいなんだ」
「家族がそんなめにあわされでもしなけりゃ、だれも攻撃に行くものなんかいないだろうよ」
「いや、行くよ。山岳防衛兵《アルピーニ》なら行くだろう。近衛《このえ》兵も行くだろう。狙撃兵だって行くものはいるさ」
「狙撃兵だって逃げだしたぜ。いまじゃそんなこと忘れようとしているがね」
「自分たちにこんな話をさせといちゃだめですな、|中尉どの《テネンテ》。|軍隊万歳《エッヴィーヴァ・レセルチート》!」とパッシーニが皮肉たっぷりに言った。
「おまえたちがどんな気持での話してるかはわかってるよ」とぼくが言った。「だが、おまえたちが自動車を運転しているかぎり、そして、ふるまいが――」
「――そして、ほかの将校に聞こえないように話しているかぎり」とマネーラがぼくの言葉を結んだ。
「ぼくたちはこの戦争を終わらせなければならないと思う」とぼくが言った。「片方が戦闘をやめても、戦争は終わらないだろう。われわれが戦闘をやめれば、悪くなるばかりだろう」
「これ以上悪くなりっこありませんよ」とパッシーニがていねいな口調で言った。「戦争よりも悪いものはありませんから」
「敗北はもっと悪いよ」
「そうは思いませんね」とパッシーニがやはりていねいな口調で言った。「敗北がなんでしょう。家に帰れますよ」
「敵があとから追いかけてくるぜ。おまえの家を奪うぜ。おまえの姉妹を奪うぜ」
「ぼくはそうは思いません」とパッシーニが言った。「みんなにそんなことをするわけにはいきません。めいめいで、自分の家を守ろうじゃありませんか。家に姉や妹をいれておこうじゃありませんか」
「おまえを絞首刑にするぜ。やってきて、おまえをまた兵隊にするぜ。野戦衛生兵ではなく、歩兵にね」
「みんなをひとりのこらず絞首刑にするわけにはいきませんよ」
「よその国のものが自分らを兵隊にするわけにはいかない」とマネーラが言った。「最初の戦闘で、みんな逃げてしまうから」
「チェコ人みたいにね」
「どうやら、おまえたちは征服されることがどんなだか知らないんだな。だから、たいして悪くはないと思っているんだろう」
「|中尉どの《テネンテ》」とパッシーニが言った。「ぼくたちに話させといてくださいね。いいですか。戦争ほど悪いものはないんですよ。野戦衛生兵のわれわれには戦争がどんなに悪いか少しも実感がわかないんですよ。人びとが、どんなに悪いか悟ったとしても、そのときには、戦争をやめる手がなくなっているんですよ。みんな気が変になっていますからね。なかには、どうしても悟らない人もいますよ。将校を恐れている人もいますよ。戦争がおこるのも彼らのおかげなんですね」
「戦争が悪いことはわかっているが、われわれはそれを終わらせなければならないんだ」
「終わりゃしませんよ。戦争には終わりはないんです」
「いや、あるとも」
パッシーニは首をふった。
「戦争は勝利によって、勝ちときまるものじゃありません。われわれがサン・ガブリエーレを占領したって、どうなりますか? カルソーやモンファルコーネ(ゴリーツィアの南方にある海軍基地)やトリエステ(アドリア海北端にある港)を占領したって、どうなります? だからって、どうなるってんですか? きょう、向こうの山を全部ごらんになりましたか? あれをみんな占領できるとお思いですか? ただ、オーストリア軍が戦闘をやめるなら話は別ですが。どちらかが戦闘をやめなければならないんですよ。なぜ、われわれは戦闘をやめないんでしょう? 彼らがイタリアに攻めこんできたとしても、疲れて、帰っていくでしょう。自分たちの国があるんですからね。だが、やめないですね。それどころか、いまは、戦争をやっているんですからね」
「きみは雄弁だね」
「ぼくたちは考えます。本を読んでます。百姓じゃありません。機械工です。百姓でも戦争を信じないくらいの分別はありますよ。だれもがこの戦争を嫌悪しているんですから」
「愚かな階級が国を支配していて、何もわからないし、また、わかるはずもないんです。だから、こんな戦争をやってるんですよ」
「それにやつらは戦争で金をもうけてるんだ」
「やつらの大部分はもうけてない」とパッシーニが言った。「愚かだからね。戦争してもなんの利益にもならないんだ。愚かなために戦争しているんだ」
「こんな話はやめよう」とマネーラが言った。「いくら|中尉どの《テネンテ》のためだったって、話がすぎるよ」
「中尉どのは好きなんだよ」とパッシーニが言った。「|中尉どの《テネンテ》を転向させよう」
「でも、もうやめよう」とマネーラが言った。
「めしはまだですか、|中尉どの《テネンテ》!」とガヴッツィがたずねた。
「行って見てくる」とぼくが言った。ゴルディーニが立ちあがって、ぼくといっしょに外に出た。
「なにかご用はありませんか、|中尉どの《テネンテ》! おてつだいしましょうか、なにか?」彼は四人のうちでいちばんおとなしかった。
「よかったら、おれといっしょにこい」とぼくが言った。「見てこよう」
外は暗かった。サーチライトの長い光が山々の上空に動いていた。前線には軍用トラックにのせた大型のサーチライトがあって、ときどき、夜、前線のすぐ近くの道で見かけられたが、軍用トラックは道からちょっとはずれておいてあり、将校が照明の指図をし、兵隊たちはおびえていた。ぼくたちは煉瓦工場を横ぎって、繃帯所の本部に立ちよった。入り口は外がわの上部に緑の枝のちょっとした遮蔽《しゃへい》がしてあり、暗やみで、夜風が陽に乾いた木の葉を鳴らしていた。内がわには明かりがひとつあった。少佐が箱の上に腰かけ、電話をかけていた。軍医大尉の一人が攻撃は一時間延期されたと言った。彼はぼくにコニャックを一杯すすめた。ぼくはテーブルの代用になっている板や、燈火に光っている医療器具や、洗面器や、栓をした壜《びん》などを眺めた。ゴルディーニはぼくのうしろに立っていた。少佐が電話から立ちあがった。
「さあ、はじまるぞ」と彼が言った。「またもとどおりやることになったんだ」
ぼくは外を見た。外は暗く、オーストリア軍のサーチライトの光がわれわれの後方の山々に動いていた。まだ、しばらく、静かだった。それから、後方の大砲が一斉に砲撃を開始した。
「|ばんざい《サヴォイア》」と少佐が言った。
「スープのことですがね、少佐」とぼくが言った。彼には聞こえなかった。ぼくはくりかえした。
「まだきてないんだ」
大型の砲弾がとんできて、外の煉瓦工場で炸裂《さくれつ》した。また一発、炸裂した。その響きのなかで、煉瓦や土砂の雨と降る小さな音がきこえてきた。
「なにか食べるもの、ありませんか?」
「パスタ・アシュッタ(一種のマカロニ料理)ならすこしある」と少佐が言った。
「あるものをいただきましょう」
少佐が当番兵に言いつけると、当番兵は奥にはいっていき、金属の鉢に冷えたマカロニ料理をもってきた。ぼくはそれをゴルディーニに手渡した。
「チーズ、ありますか?」
少佐がいやいやながら当番兵に言いつけると、当番兵はまた穴にもぐりこんでいき、四半分にしたホワイト・チーズをもって出てきた。
「どうもありがとうございます」とぼくは言った。
「外へ出ないほうがいいぞ」
外の入り口のそばに何かがおろされた。それを運んできた二名の兵の一人が中をのぞきこんだ。
「なかにいれろ」と少佐が言った。「どうしたと言うんだ。おれたちに外へ出て、そいつをかつぎこめっていうのか?」
二人の担架《たんか》兵はその男の脇の下と足をかかえて、はこびこんだ。
「上衣を切り開くんだ」と少佐が言った。
彼はピンセットの先にガーゼをはさんで持っていた。二人の大尉が上衣をぬいだ。「外に出てろ」と少佐が二人の担架兵に言った。
「さあ、いこう」とぼくはゴルディーニに言った。
「砲撃が終わるまで待ったほうがいいぞ」と少佐が肩越しに言った。
「あいつらが食いたがってるんで」とぼくが言った。
「じゃあ、いけ」
外へ出ると、ぼくたちは煉瓦工場を駆け足で横ぎった。砲弾が河の堤のすぐそばで炸裂した。それから、また一発きたが、不意に飛んでくるまで音が聞こえなかった。二人とも伏せた。炸裂の閃光と爆風と硝煙のにおいと同時に、破片のひゅっひゅっと飛びちる音や、煉瓦ががらがらと落ちてくるのが聞こえた。ゴルディーニは立ちあがって、塹壕《ざんごう》のほうに駆けだした。ぼくもチーズを持ったままそのあとを追った。チーズの滑らかな表面は煉瓦の埃《ほこり》でおおわれていた。塹壕のなかには三人の運転兵が壁を背にして腰をおろし、タバコをふかしていた。
「さあ、愛国者諸君」とぼくが言った。
「車はどうですか?」とマネーラがたずねた。
「だいじょうぶだ」
「おどろいたでしょう、|中尉どの《テネンテ》?」
「まさに、そのとおりさ」とぼくが言った。
ぼくはナイフを取りだして、ひらき、刃をふいて、チーズのよごれた外がわをけずりとった。ガヴッツィがマカロニの鉢をぼくに手渡した。
「お先にどうぞ、|中尉どの《テネンテ》」
「いや」とぼくは言った。「床においてくれ、みんなでいっしょに食おう」
「フォークが一本もないんですよ」
「ちぇっ」とぼくは英語で言った。
ぼくはチーズを薄く切り、マカロニの上に並べた。
「この前にすわれ」とぼくが言った。彼らはすわって、待った。ぼくはマカロニのなかに指をつっこんで、つまみあげた。かたまりがもちあがった。
「高くもちあげるんです、|中尉どの《テネンテ》」
ぼくがそれを腕いっぱいもちあげると、ぶらんと浮いた。ぼくはそれを口のなかに落としこみ、その端をすすりこみ、噛みつき、もぐもぐ食べ、それから、チーズをかじり、もぐもぐ食べ、それから、ワインをひとくちのんだ。さびた金属の味がした。ぼくはその水筒をパッシーニに返した。
「腐ってますね」と彼が言った。「あんまり長いこと入れときましたからね。車のなかへおいといたんです」
みんなは鉢のまうえに顎をつきだし、頭をうしろに傾け、マカロニを端からすすりこみ、たべた。ぼくはもうひとくち食べ、チーズも食べ、ワインを流しこんだ。外で何かがおち、大地を揺り動かした。
「四十二サンチ砲か迫撃砲《ミンネンヴェルファー》だ」とガヴッツィが言った。
「あの山には四十二サンチ砲などない」とぼくが言った。
「大きなスコダ砲があります。ぼくはその穴を見ました」
「三〇・五サンチ砲だ」
ぼくたちは食べつづけていた。咳ばらいの音がきこえ、機関車が動き出すような音がし、それからふたたび大地をゆるがす爆発があった。
「この塹壕はたいして深くないな」とパッシーニが言った。
「今のは大きな迫撃砲だ」
「そうですね」
ぼくはチーズの残りを食べ、ワインを一口飲んだ。ほかの音にまじって、咳ばらいの音がきこえた。それから、チュ、チュ、チュ、チュ、という音がし――それから、溶鉱炉の戸がぱっとあいたときのような閃光《せんこう》があり、大音響があり、はじめ白くなったが、それから、赤くなり、ぐんぐん烈しい風につつまれた。ぼくは息をしようとしたが、息ができず、からだがぼくのところから、ぐん、ぐん、ぐん、ぐん、しょっちゅう、からだごと、その風のなかにとびだしていくように感じた。ぼくはすばやく外に出た。まったくひとりでに。そして、やられたなと思った。自分がやられたなどと思うなんて、てんでまちがいだったのだ、と思った。それから、ふわり、ふわり、浮かんだ。前に進まないで、からだごとうしろに滑ってゆくように感じた。息をつき、われにかえった。地面がずたずたに裂け、ぼくの頭の前に引き裂かれた梁《はり》があった。頭がぐらぐらして、だれかが叫んでいるのがきこえた。だれかが悲鳴をあげているのだと思った。動こうとしたが、動けなかった。河向こうの沿岸一帯から、機関銃や小銃の射ちだす音がきこえた。水が大きくはね返っていた。照明弾があがり、炸裂し、白くただよい、のろしがあがるのが見え、砲弾がきこえた。これらはまったく一瞬のことで、それから、すぐ近くでだれかが「|おかあさん《ママ・ミーア》! ああ、|おかあさん《ママ・ミーア》!」と言っているのがきこえた。ぼくは引っぱったり、ねじったりして、やっと足を自由にし、そちらを向いて、その男にさわった。パッシーニだった。ぼくがさわると、彼は悲鳴をあげた。両足がぼくのほうにむいていた。暗くなったり、明るくなったりするなかで、両足とも膝から上がつぶれているのが見えた。片足がなくなっていた。もう片方が腱《けん》とズボンの一部でつながっていた。切れ残りの部分がからだにくっついていないかのように、ぴくぴく動いていた。彼は自分の腕を噛み、うめいた。「ああ、|おかあさん《ママ・ミーア》、|おかあさん《ママ・ミーア》」それから、「|お助けください《ディオ・ティ・サルヴィ》、マリアさま。「|お助けください《ディオ・ティ・サルヴィ》、マリアさま。おお、イエスさま、わたくしを射ち殺してください、キリストさま、わたくしを射ち殺してください、おかあさま、おお、このうえなく清く、美しいマリアさま、わたくしを射ち殺してください。やめて、やめて、やめて。おお、イエスさま、美しいマリアさま、やめてください。おお、おお、おお」それから、むせびながら、「おかあさん、おかあさん」そうして、彼は腕を噛んだまま、静かになった。足の切れ残りの部分がぴくぴくしていた。「|負傷兵を運べ《ポルタ・フェリーティ》!」とぼくは両手をラッパにして叫んだ。「|負傷兵を運べ《ポルタ・フェリーティ》!」ぼくはパッシーニのほうにさらに近よって、その両足に止血帯をしてやろうとしたが、動けなかった。もういちどやろうとすると、ぼくの足がすこし動いた。腕と肘《ひじ》でからだをうしろへずらすことができた。パッシーニはもう静かになっていた。ぼくは彼のそばにすわり、上衣を脱ぎ、シャツの裾《すそ》をひき裂こうとした。なかなか裂けないので、布の端を噛み切って、裂こうとした。そのとき、彼のゲートルを思いついた。ぼくは毛の靴下をはいていたが、パッシーニはゲートルをつけていた。運転兵はみなゲートルをつけていた。だが、パッシーニは片足しかなかった。ぼくはゲートルをほどいたが、そうしているまに、そんなことをして止血帯をつくる必要がないことがわかった。彼はすでに死んでいた。ぼくは彼が死んでいることを確かめた。ほかの三人のいるところを探さなければならない。ぼくは上半身をまっすぐ起こしてすわった。そうしていると、頭のなかで何かが人形の目についているおもりのように動き、眼球の裏がわにぶつかった。足が暖かく濡れている感じがし、靴の内がわも濡れて暖かかった。やられたなと思い、かがみこみ、膝がしらに手をおいた。膝がしらがそこにない。手は虚空《こくう》をつかみ、膝がしらは向こう脛《ずね》のところにさがっていた。ワイシャツで手をふいた。ふたたび、ただようような光が非常にゆっくりおりてきた。ぼくはぼくの足を見て、ひどく恐ろしくなった。「おお、神さま」とぼくは言った。「ぼくをここからお出しください」が、しかし、ぼくは、まだほかに三人いることに気づいた。運転兵は四人いたのだ。パッシーニは死んでしまった。だから、三人なのだ。だれかがぼくの脇の下をかかえ、また、だれかがぼくの足を持ちあげた。
「まだ三人いる」とぼくが言った。「一人は死んだ」
「マネーラです。担架を見つけにいったのですが、ひとつもありませんでした。いかがですか、|中尉どの《テネンテ》?」
「ゴルディーニとガヴッツィはどこにいるんだ?」
「ゴルディーニは駐屯所で繃帯をしてもらってます。ガヴッツィはあなたの足をもっています。ぼくの首につかまってください、|中尉どの《テネンテ》。ひどくやられましたか?」
「足だ。ゴルディーニはどうだ?」
「やつはだいじょうぶです。大きな迫撃砲弾でした」
「パッシーニは死んだよ」
「そうです。死にました」
砲弾がまぢかに落ちた。彼らは二人ともいそいで地面に伏せ、ぼくを落とした。「失礼いたしました、|中尉どの《テネンテ》」とマネーラが言った。「自分の首におつかまりください」
「また落とすんだろう」
「びっくりしたからなんです」
「負傷してないのか?」
「二人ともすこし負傷しています」
「ゴルディーニは運転できるのか?」
「できないでしょう」
彼らは駐屯所につくまでに、もう一度、ぼくを落とした。
「このやろう」とぼくが言った。
「すいません、中尉どの」とマネーラが言った。「もう落としません」
駐屯所の外には、おおぜいの者が暗い地面の上に横たわっていた。負傷兵が運びこまれたり、運びだされたりしていた。暗幕があいてだれかが運びこまれたり運びだされたりするとき、繃帯所から光がもれるのが見えた。死人が片方に片づけてあった。軍医たちは袖を肩のところまでまくりあげ、屠殺人《とさつにん》のように赤く血に染まって、働いていた。負傷者のうちには、うるさい者もいたが、大部分は静かだった。繃帯所の入り口の上をおおっている木かげの葉に風が吹きつけ、夜がひえこんできた。担架兵がしょっちゅうはいってきて、担架をおき、負傷兵をおろして、出ていった。ぼくが繃帯所につくとすぐ、マネーラが衛生軍曹を連れだしてきた。彼はぼくの両足に繃帯をした。傷口にいっぱい土砂が吹きこまれているので、出血はたいしてなかった、と彼が言った。できるだけ早く処置しようと言った。彼は中にもどっていった。ゴルディーニは運転できない、とマネーラが言った。彼の肩は砕かれ、頭も負傷していた。気分は悪くなかったが、いまでは肩が硬ばってしまっていた。煉瓦壁のそばに半身を起こしてすわっていた。マネーラとガヴッツィはめいめい負傷兵をのせて行ってしまった。二人はちゃんと運転できた。イギリス軍が傷病兵運搬車を三台もっていた。一台に二名のっていた。その運転兵の一人が蒼白《そうはく》で血のけのないゴルディーニにつれられて、ぼくのところまでやってきた。イギリス兵がかがみこんだ。
「ひどくやられましたか?」と彼がきいた。背が高く、鉄ぶちの眼鏡をかけていた。
「足だ」
「ひどくなければいいですがね。タバコ、いかがですか?」
「ありがとう」
「運転兵を二人なくしたとのことですが」
「ああ。一人は死に、も一人はきみをつれてきた男だ」
「お気の毒に。車を運転していってあげましょうか?」
「そう頼もうと思っていたところだ」
「車はじゅうぶん気をつけて、宿舎に返しときましょう。二〇六号でしたね」
「そう」
「あそこは美しいところですね、あのへんでお見うけしましたよ。あなたはアメリカ人だそうですね」
「そう」
「ぼくはイギリス人です」
「まさか!」
「いや、イギリス人です。ぼくをイタリア人とお思いでしたか? ぼくたちの部隊のひとつにはイタリア人がいくらかいましたからね」
「車をもっていってくれれば、ありがたい」とぼくが言った。
「できるだけ注意して扱いますよ」と彼は背中をのばした。「あなたの部下のこの男が、あなたに会ってくれといってきかなかったんです」彼はゴルディーニの肩をたたいた。ゴルディーニは身をすくめて、ほほえんだ。イギリス人は流暢《りゅうちょう》で完全なイタリア語で話しだした。「さあ、万事|手筈《てはず》がととのったよ。きみの|中尉どの《テネンテ》に会った。二台の車を引き取ろう。もう心配しなくていい」彼は言葉を切った。
「あなたをここから連れだすようになんとかしなきゃならない。軍医連中に会ってきましょう。われわれの手で後送してあげますよ」
彼は負傷兵のあいだを注意してまたぎ、繃帯所のほうに歩いていった。毛布が開くのが見え、光がもれ、彼がはいっていった。
「あの人があなたの世話をしてくれますよ、中尉どの」とゴルディーニが言った。
「気分はどうだ、フランコ?」
「だいじょうぶです」彼はぼくのそばに腰をおろした。すぐ、繃帯所の前の毛布が開いて、二人の担架兵があの背の高いイギリス人のあとからついて出てきた。彼は担架兵をぼくのところに連れてきた。
「このかたがアメリカ人の|中尉どの《テネンテ》だ」と彼がイタリア語で言った。
「ぼく、待ってましょう」とぼくは言った。「ぼくよりひどく負傷した人がいますから。ぼくはだいじょうぶです」
「さあ、さあ」と彼が言った。「くだらない英雄気取りなどやめてください」それから、イタリア語で、「かつぎあげるとき足のあたりをよく気をつけてくれ。足がひどく痛むんだから、ウィルソン大統領(一八五六―一九二四、第一次大戦中のアメリカの第二十八代の大統領)の御曹子《おんぞうし》なんだよ」彼らはぼくをかつぎあげ、治療室に運びこんだ。なかでは、どの手術台の上でも手術が行なわれていた。小がらな少佐がぼくたちを殺気《さっき》だった顔で見た。彼はぼくだとわかると、ピンセットを振った。
「|だいじょうぶか《サ・ヴァ・ビアン》?」
「|だいじょうぶ《サ・ヴァ》」
「連れてまいりました」と背の高いイギリス人がイタリア語で言った。「アメリカ大使の一人息子です。見ていただける番がくるまで、ここにいてもらいます。すんだら、最初の車で後送いたします」彼はぼくの上にかがみこんだ。「副官を訪ねてあなたの書類をつくってもらいます。そのほうが万事ずっと早くいきますから」彼はかがんで戸口をくぐり、出ていった。少佐はピンセットをとめ金からはずしては、洗面器のなかに落としていた。ぼくは彼の手の動きを眼で追った。こんどは、彼は繃帯を巻いていた。それから、担架兵がその兵隊を手術台からおろした。
「おれがアメリカ人の中尉《テネンテ》をやろう」と軍医大尉の一人が言った。彼らはぼくを手術台の上にのせた。台はかたく、すべすべしていた。いろんな強いにおいがした。薬品のにおいや、血の甘ったるいにおいがした。彼らはぼくのズボンを脱がした。軍医大尉が手を動かしながら、助手の曹長に口述しはじめた。「左右大腿部、左右膝関節、および右足に多数の外傷、右膝および足に深傷。頭皮に裂傷」――彼はさぐり針でさぐりを入れた――(痛いかね?)(あっ、痛い!)「頭蓋骨に骨折の疑いあり、服務中に負傷す。こうしておけばわざと負傷したといって軍法会議にかけられることはない」と彼が言った。「ブランデーを一杯どう? とにかく、どうしてこんなことになったんだね? 何をしようとしてたんだね? 自殺しようとしたのかね? 破傷風どめを頼む。それから、両足に十字のしるしをしてくれ。ありがとう。ここをちょっときれいにして、すっかり洗い、繃帯しておこう。きみの血はきれいに凝結しているよ」
助手は書類から目をあげて、「なんで負傷されたんですか?」
軍医大尉、「なんでやられたんだね?」
ぼく、目を閉じて、「迫撃砲弾」
大尉はひどく痛むことをやり、組織を切りながら――「たしかかね?」
ぼく――静かに横たわっていようとし、筋肉が切られるとき、胃がぶるぶるするのを感じながら、「そうだと思います」
軍医大尉――(さがしあてたものに興味を感じて)「敵の迫撃砲弾の破片だ。なんなら、こんなやつをいくつかいま探しだしてあげるんだが、必要じゃないね。すっかり薬を塗っておくよ――こいつはひりひりするかね? よし、あとの痛みにくらべれば、こんなのなんでもないよ。痛みはまだはじまらないんだから。ブランデーを一杯もってきてやってくれ。刺激で痛みが鈍るんだ。だが、こいつはだいじょうぶだ。化膿《かのう》さえしなければ、心配はない。それに、このごろは、そんなことはめったにないからね。頭はどう?」
「とてもひどいんです」とぼくは言った。
「じゃあ、あんまりブランデーは飲まないほうがいい。骨折しているとすれば、炎症をおこすといけないから。ここはどう?」
汗が全身に流れた。
「ええ、ちくしょう!」ぼくが言った。
「たしかに骨折しているらしい。すっかり繃帯でまいてやろう。頭をあちこち跳ねあげないように」彼は繃帯を巻いた。彼の手がきわめて早く動き、繃帯はかたく、しっかり、巻かれた。「これでよし、幸福を祈る。|フランス万歳《ヴィーヴ・ラ・フランス》!」
「彼はアメリカ人ですよ」ほかの一人の大尉が言った。
「きみはフランス人だと言ったと思うんだがね。彼はフランス語をしゃべるぜ」とその大尉が言った。「ぼくは以前から知ってたんだが、フランス人だとばかり思っていた」彼はコップに半分、コニャックを飲んだ。「もっと重傷なのを連れてこい。あの破傷風どめをもっともってこい」大尉はぼくのほうに向かって手をふった。ぼくはかつぎあげられた。出て行くときに、毛布のたれがぼくの顔をかすめた。外に出ると、助手の軍曹が横になっているぼくのそばにひざをついて、「お名前は?」とおだやかにたずねた。「洗礼名は? 階級は? 出生地は? 入隊年度は? 所属部隊は?」など、など。「頭部に負傷されたのはおきのどくです、|中尉どの《テネンテ》。気分はよくなったでしょうね。イギリス軍の傷病兵運搬車で後送いたします」
「だいじょうぶだよ、ぼくは」とぼくは言った。「どうもありがとう」さっき少佐が話した痛みがはじまっていた。だから、あたりに起こっていることは何もかもまったくどうでもよく、他人ごとだった。しばらくたって、イギリス軍の運搬車がやってきた。彼らはぼくを担架にのせ、その担架を運搬車の高さまであげ、なかに押しこんだ。そばにもうひとつ担架があり、それに男が横たわっていたが、鼻が繃帯のなかから生気なく蝋《ろう》のように見えた。ひどく苦しそうな息づかいをしていた。持ちあげて、上のほうの掛け鎖にかけてある担架もあった。例の背の高いイギリス人の運転兵がやってきて、のぞきこんだ。「うんとゆっくり行きますよ」と言った。「気分が悪くならないようにね」ぼくはエンジンがかかるのを感じ、彼が前部の座席にのぼり、ブレーキがはずれ、クラッチがつながるのを感じた。それから、ぼくたちは出発した。ぼくはじっと横たわり、痛むがままにしていた。
傷病兵運搬車が道路をのぼるとき、車馬のあいだをのろのろいき、ときにはとまったり、ときには方面を変えるためにバックし、それから、やっと、かなり速くのぼっていった。ぼくは何かがぽたりぽたり落ちてくるのを感じた。はじめのうちは、ゆっくり、規則正しく、落ちていたが、やがて流れるようにぽたぽた落ちてきた。ぼくは運転兵にどなった。彼は車をとめ、座席のうしろの穴のようにあいた窓からのぞきこんだ。
「なんです?」
「上の担架の男が出血してるんだ」
「頂上まで、もうすぐです。ぼく一人じゃ担架は持ちだせませんから」彼は車を走らせた。流れはつづいた。暗いので、頭上の担架のどこから落ちてくるのかわからなかった。ぼくの上にかからないように、からだを脇にずらそうとした。それが流れ落ちたぼくのワイシャツの下のあたりは、なまぬるく、ねとねとしていた。寒く、足が痛んだので、気分が悪くなった。しばらくして、頭上の担架からの流れがすくなくなり、ふたたびぽたりぽたりと落ちはじめた。頭上の担架のズックが動く音がきこえ、その気配が感じられ、担架の男がずっとらくにおちついたようだった。
「あの男はどうです?」とイギリス兵がこちらに声をかけた。「ほとんど頂上に来ましたが」
「死んじゃったようだ」とぼくが言った。
滴《しずく》は、陽が沈んだあと、氷柱《つらら》からしたたり落ちるように、きわめてゆっくりと落ちた。道路をのぼっていくと、夜の車のなかは冷えた。頂上の駐屯所で、その担架が運びだされ、代わりが入れられ、車はどんどん進んでいった。
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第十章
野戦病院の病室で、ぼくは、午後、見舞客があると知らされた。暑い日で、部屋には蠅《はえ》がたくさんいた。ぼくの付添当番兵は紙を細長く切って、棒に結びつけ、はたきをつくって、蠅を追っぱらった。ぼくは蠅が天井にとまるのを見つめていた。彼が振りまわすのをやめて寝こむと、蠅はおりてきた。ぼくは蠅を追っぱらったが、しまいには両手で顔をおおって、ぼくも寝こんだ。すごく暑く、目がさめると、足がかゆかった。当番兵をおこすと、彼は繃帯の上から鉱水をかけてくれた。それで、ベッドがしめり、ひやりとした。目をさましている連中は病室のむこうとこっちで話していた。午後は静かな時だった。午前中は、三人の当番兵と一人の軍医が順々にそれぞれのベッドへやってきて、ベッドから患者をかつぎだし、治療室に連れて行き、傷口の手あてをしているあいだに、ベッドが整えられた。治療室に行くのは気持ちのよいものではなかった。ベッドは寝ているままでも整えられるものだということは、あとになるまで知らなかった。ぼくの当番兵は水をかけおえていた。ベッドがつめたく、すばらしかった。足の裏がかゆいので、かいてもらうところを教えていると、軍医の一人がリナルディを連れてきた。彼は大急ぎではいってきて、ベッドの上にかがみこみ、ぼくにキスした。みると手袋をはめていた。
「どうだね、おぼっちゃん? 気分はどう? こいつをもってきたんだが――」それはコニャックの壜だった。当番兵が椅子をもってきた。彼は腰かけた。「それに、いい知らせがあるんだ。君は勲章をもらえるよ。みんなは|銀の勲章《メダリア・ダルジェント》をもらえるようにしてやりたがっているんだが、たぶん、銅のやつにしかならないだろう」
「なぜもらえるんだ」
「ひどい負傷をしたからさ。君がなにか勇敢なことをしたと証明できれば、銀のをもらえるということだぜ。でなければ、銅のだろう。どんなことが起こったか正確に話してくれ。なにか勇敢なことをしたかい?」
「いや」とぼくが言った。「みんなでチーズを食べてたら、ふっとばされたんだ」
「まじめになれ。君はその前か後に、勇敢なことをやったはずだ。よく思い出してみろよ」
「やらなかった」
「だれかを背負っていなかったかい? ゴルディーニはきみがいく人か背負って運んだと言ってるんだが、第一駐屯所の軍医少佐はそんなことは不可能だと言うんだ。その少佐が感状の発案に署名することになっているんだ」
「ぼくはだれも運ばなかった。動けなかったんだ」
「そんなこと、どうでもいい」とリナルディが言った。
彼は手袋をぬいだ。
「きみに銀の勲章をもらってやれるだろう。きみは、ほかの人よりさきに手あてをうけるのを断わったんじゃないのか?」
「そんなにきっぱりとは断わらなかった」
「そいつはどうだっていい。ひどい負傷じゃないか。いつも最前線に行こうと志願していた勇敢な行為を考えてみろ。それに、作戦は成功したんだ」
「河をうまく渡ったかね?」
「すばらしかった。約一千人の捕虜《ほりょ》があった。公報にでてるぜ。見なかったのか?」
「うん」
「もってきてやろう。奇襲《ク・ド・メーン》に成功さ」
「どうだい、状況は?」
「すばらしい、おれたちはみんなすばらしい。だれもかれもきみのことを得意にしているよ。どんな様子だったのか正確に話してくれ。きみが銀の勲章をもらうことは確実さ。さあ、話してくれ。すっかり話してくれ」彼は言葉を切って、考えた。「きっと、イギリスの勲章ももらえるよ。あそこにはイギリス人が一人いたんだ。会いにいって、きみを推薦するかどうかきいてみよう。やつだって何かできるはずだからね。ひどく痛むかね? 一杯やれよ。当番兵、栓抜きをもってきてくれ。ああ、ぼくが小腸を三メートルも切りとる手術で、どうやったか教えてやろう。いまじゃあ、以前よりうまくなったんだ。そいつは『ランセット』(イギリスの週刊医学誌。「外科用メス」の意)向きの記事になるね。ぼくのために翻訳してくれよ。『ランセット』に送るから。日一日と、ぼくは上達するんだ。おきのどくな、かわいい、おぼっちゃん、気分はどうだい。あの栓抜きめ、どこにいったんだ? きみがあんまり平気でがまんしてるもんだから、きみが苦しんでることなんか忘れちゃうよ」彼は手袋でベッドの端をぴしゃりとたたいた。
「栓抜きをもってきました。|中尉どの《シニョール・テネンテ》」と当番兵が言った。
「その壜《びん》の栓を抜いてくれ。グラスをもってこい。おぼっちゃん、飲めよ。かわいそうに、頭をどうしたんだ? きみの書類を見たよ。骨折はないんだね。第一駐屯所のあの少佐はやぶだよ。ぼくがきみを引きうけてたら、痛いめには、あわせないんだが。ぼくはだれだって痛いめにはあわせないよ。やりかたをおぼえたから、日一日と、ぼくは手術を手際よくじょうずにやるようになっているんだ。こんなにしゃべって、ごめんよ、おぼっちゃん。きみがひどく負傷してるのを見て、気が転倒してるんだ。さあ、飲みな。いい酒だぜ。十五リラもしたんだ。いいはずだよ。五つ星だ。帰りに、あのイギリス人に会いに行ってくる。やつはきみにイギリスの勲章をもらえるようにしてくれるだろう」
「あんなことで、勲章なんかくれっこないよ」
「ずいぶん謙遜《けんそん》だね。連絡将校を向こうに行かせよう。あれならイギリス軍の扱いかたを知っているからね」
「ミス・バークレイに会った?」
「ここへ連れてきてやろう。いまいって、連れてきてやろう」
「よせよ」とぼくは言った。「ゴリツィアの町のことでも話してくれ。女の子たちはどうだ?」
「女の子なんていないよ。ここ二週間ていうもの、女の子を入れ替えないんだ。ぼくはもうあそこには行かない。恥だね。あいつら、女の子じゃない。昔なじみの戦友だね」
「ぜんぜん、行かないのか?」
「ただ新顔が来てるかどうか見に行くだけだ。立ち寄るだけさ。みんなきみのことをきいてるぜ。あいつらが、友だちになるくらい長くいるなんて感心しないね」
「たぶん、女の子たちはこれ以上前線に行きたがらないんだろう」
「もちろん、行きたがってるさ。女の子ならたくさんいる。ただ、運営のしかたがまずいんだ。後方の塹壕《ざんごう》にもぐっているやつらのおなぐさみにとっておくんだからね」
「おきのどくだね、リナルディ」とぼくが言った。「戦争にでて、新顔の女の子もいないで、まったくひとりだなんてね」
リナルディはもう一杯コニャックを自分でついだ。
「毒にもならないだろうよ、おぼっちゃん。飲みなってば」
ぼくはコニャックを飲んだ。胸まできゅうっと熱くなった。リナルディはもう一杯ついだ。彼はやっと落ちついてきた。グラスをあげた。「きみの勇敢な負傷のために。銀の勲章のために。おぼっちゃん、こんな暑いときに、しょっちゅう、ここに寝てちゃあ、いらいらするだろう?」
「ときにはね」
「そんなふうに寝てるなんて想像もできないよ。ぼくなら気が変になるよ」
「きみは気が変だよ」
「きみに帰ってきてもらいたいよ。夜、女漁《おんなあさ》りからもどってくるやつもいないんだ。からかってやるやつもいないんだ。金を貸してくれるやつもいないんだ。血をわけた兄弟もいなけりゃ、同室の友人もいないんだ。なぜきみは怪我なんかしたんだ?」
「きみは司祭をからかえるじゃないか」
「あの司祭かい。やつをからかうのはぼくじゃないよ。大尉だよ。ぼくは好きだよ。司祭が必要なら、あの司祭を呼べよ。やつ、きみに会いに来るらしいよ。どえらい準備をしているぜ」
「ぼくもやつが好きだ」
「ああ、わかってるとも。きみとやつとはすこし|あれ《ヽヽ》じゃないかと、ときどき思ってたんだ。なあ」
「いや、ちがうよ」
「いや、ときどきそう思うんだ。すこしあれなんだよ、アンコーナ(アドリア海にのぞむイタリアの港市)旅団の第一連隊の連中のようにね」
「ちぇっ、くたばりやがれ」
彼は立ちあがって、手袋をはめた。
「ああ、おもしろいな、きみをからかうのは、おぼっちゃん。きみにはあの司祭やあのイギリス娘がいるけど、ほんとは、心のなかはぼくとまったく同じなんだよ」
「いや、ちがうよ」
「いや、ぼくたちは同じだ。きみはほんとはイタリア人だね。まったく、火と煙ばかりで、なかはからっぽさ。きみはただアメリカ人のふりをしているにすぎないんだ。ぼくたちは兄弟で、おたがいに愛しあっているんだ」
「ぼくのいない間は、おとなしくしてろよ」とぼくが言った。
「ミス・バークレイをよこそう。ぼくでなくて、あの娘《こ》といるほうが、いいだろう。純潔で、甘くやれるだろう」
「ああ、くたばりやがれ」
「あの娘《こ》をよこすよ。きみの美しい冷静な女神を、イギリスの女神を。まったくね、ああいう女にたいしては、男たるもの、拝んでいるよりほか、手がないよ。ほかのことにはイギリスの女は役にたたないからな」
「きみは無知な口の悪い|イタリア人《デーゴ》さ」
「なんだって?」
「無知な|イタ公《ウォップ》さ」
「イタ公か。きみは冷酷な面《つら》をした……イタ公さ」
「きみは無知だ。まぬけだ」ぼくはその言葉が彼をちくりと刺すのをみて、つづけた。「無学だ。無経験だ。無経験のため、まぬけだ」
「本気か? じゃあ、きみのいいご婦人がたについて申しあげましょうかね。きみの女神たちについてさ。ずっと善良だった娘を手に入れるのと一人前のご婦人を手に入れるのと、ちがっている点はひとつしかないんだ。娘には痛々しいんだよ。ぼくの知ってるのはそれだけさ」彼は手袋でベッドをたたいた。「それに、女の子がほんとにそれが好きかどうかは、わからないもんだ」
「怒るなよ」
「怒っちゃいないよ。ただきみのためにと思って言ってるんだ、おぼっちゃん。めんどうをはぶいてやろうと思ってね」
「ちがいはそれだけか?」
「そうだ。だが、何百万というきみみたいなおばかさんがそれを知らないんだよ」
「教えてくれてありがとう」
「喧嘩はよそうや、おぼっちゃん。きみがとても好きなんだ。でも、ばかな真似はよせよ」
「ああ、きみのように賢くなろう」
「怒るなよ、おぼっちゃん。笑えよ。飲めよ。ぼくはもうほんとうに行かなけりゃならない」
「きみはいい親友だよ」
「ね、わかったろう。心のなかでは、ぼくたちは同じなんだ。ぼくたちは戦友だ。さようならのキスをしてくれ」
「めそめそしやがるなあ」
「いや。情愛がきみより深いだけさ」
ぼくは彼の息が近づいてくるのを感じた。「さようなら、またすぐ会いにくるよ」彼の息が離れた。
「きみがいやなら、キスしないよ。きみのイギリス娘をよこしてやるよ。さようなら、おぼっちゃん。コニャックはベッドの下においとくよ。早くよくなってくれ」
彼は行ってしまった。
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第十一章
司祭が来たときはうすぐらかった。スープが出され、やがて、皿がかたづけられ、ぼくは横になって、ベッドの列を眺め、夕方の微風にかすかにそよいでいる梢《こずえ》を窓ごしに眺めていた。微風が窓からはいり、日が暮れるにつれて涼しくなった。蠅が、天井や、電線にぶらさがっている電球などにとまっていた。夜に、だれかが運びこまれたり、何かが行なわれたりするときだけ、電燈がついた。日が暮れて暗くなり、暗いままにしておくと、子どものような気分になった。まるで、夕食を早く食べさせられて、ベッドに入れられるみたいだった。当番兵がベッドのあいだをやって来て、立ちどまった。だれかがいっしょだった。司祭だった。彼はそこに立っていた。小がらで、陽やけした顔で、もじもじしていた。
「いかがですか?」と彼がきいた。包みをいくつかベッドのそばの床の上においた。
「元気ですよ、神父さん」
彼はリナルディのためにもってきてあった椅子に腰かけ、もじもじしながら窓の外を見た。気がつくと、ひどく疲れた顔をしている。
「ほんのすこししかいられません」と彼が言った。「おそいですから」
「おそくはありませんよ。会食の連中はどうですか?」
彼は微笑した。「ぼくはあいかわらずひどく笑われています」彼は声まで疲れていた。「おかげで、みんな元気です」
「あなたがお元気でたいへんうれしいですよ」と彼は言った。「もう痛くはないんでしょう?」彼はすごく疲れているように思われた。彼が疲れているのを見かけるなんてめずらしいことだった。
「もうなんともないです」
「会食にあなたがいらっしゃらないんで寂しいですよ」
「出席できればと思うんですが。いつも話が楽しかったからね」
「ちょっとしたものをすこしもってきました」と彼は言った。彼は包みを取りあげた。「これは蚊帳《かや》です。これはベルモットです。ベルモット、お好きでしょう? これはイギリスの新聞です」
「どうぞあけてください」
彼は満足そうに包みを解いた。ぼくは蚊帳を手にとった。彼はベルモットをぼくが見えるようにさし上げ、それからベッドのそばの床においた。ぼくはイギリスの新聞の束をひとつとりあげた。窓からさしこむ薄明かりがあたるようにその向きを変えると、見出しが読めた。それは『ザ・ニューズ・オヴ・ザ・ワールド』(センセーショナルな記事で今世紀になって人気を得た日曜紙)だった。
「ほかのは絵入りです」
「たのしみに読みましょう。どこで手に入れたんです?」
「メストレ(ベネチアの西北六マイルの町)から取りよせました。これからもとりよせますよ」
「ほんとうによく来てくれましたね、神父さん。ベルモット一杯いかがですか」
「ありがとう。とっておいてください。あなたのためにもってきたのですから」
「いや、一杯おあがりなさい」
「じゃあ、いただきましょう。またもってきましょう」
当番兵がグラスをもってきて、壜をあけた。彼はコルクの栓を壊してしまったので、その端を壜のなかにつっこまなければならなかった。司祭が失望したのがわかったが、彼は「いいですよ。かまいませんよ」と言った。
「あなたのご健康のために、神父さん」
「早く回復されるように」
それから彼は手にグラスをもち、ぼくたちはたがいに顔を見合わせた。ときおり、ぼくたちは話しこんだりする親友だったのだが、今夜は、そうはいかなかった。
「どうしたんですか、神父さん。ひどく疲れてるようですよ」
「疲れているんです。そんなはずないんですが」
「暑さのせいですよ」
「いや。まだ春ですからね。どうにも元気がでないんです」
「戦争を嫌悪されてるんですよ」
「そうでもないんです。でも、戦争は大嫌いです」
「ぼくも好きじゃない」とぼくが言った。彼は首をふり、窓の外をながめた。
「あなたは戦争を気にかけない。戦争がわからない。おゆるしください。あなたは負傷なさってるのに」
「あれは偶然の事故ですよ」
「でも、負傷されても、戦争というものの本質はわからないんですよ。それはたしかなんです。ぼく自身もわからないんですよ。でも、ぼくはうすうす感じるんです」
「負傷したとき、みんなでそのことについて話してたんです。パッシーニが話してたんです」
司祭はグラスをおいた。彼はなにかほかのことを考えていた。
「ぼくはみんなと似ているから、みんながわかるんです」
「でも、あなたはみんなとはちがいますよ」
「しかし、じっさい、ぼくはみんなと似ていますよ」
「将校たちはなにもわからないんですよ」
「わかっている人もいます。とても敏感で、ぼくたちのだれよりも遺憾に思っているんです」
「たいていの者はそうじゃないですよ」
「教育とか金とかいうことじゃありません。なにかべつのことです。教育や金があったとしても、パッシーニのような男は将校になりたがらないでしょう。ぼくだって将校になりたくありません」
「あなたは将校待遇でしょう。ぼくも将校です」
「ぼくはほんとうの将校じゃありません。あなたはイタリア人でもありません。外国人です。でも、あなたは兵隊よりは将校に近いんです」
「どうちがうんですか?」
「簡単には言えません。戦争を起こしたがってる人というのがいるんです。この国ではそういう人がたくさんいます。戦争を起こしたがらない人というのもいるんです」
「だが、戦争をやりたがっている連中がほかの人たちに戦争をやらせるわけですね」
「そうです」
「すると、ぼくはそういう連中の手つだいをしているんですね」
「あなたは外国人です。愛国者です」
「じゃあ、戦争をしたがらない人たちは、そういう人は戦争を阻止できますか?」
「さあ」
彼はまた窓の外を見た。ぼくは彼の顔をみつめた。
「そういう人たちはいままでに、それを阻止できたことがありますか?」
「彼らは物事を阻止するように組織されていないんです。そして、組織されると、彼らの指導者が彼らを売り渡してしまうんです」
「じゃあ、絶望ですね」
「絶望じゃありません。でも、ときおり、望みがもてなくなります。いつも望みをもとうとしますが、ときおり、望めなくなります」
「きっと、戦争はおわるでしょう」
「そう望んでおります」
「そうしたら、どうしますか?」
「もしそういうことになったら、ぼくはアブルッツィに帰ります」
彼の日やけした顔が、急に、いかにもたのしげになった。
「あなたはアブルッツィが好きですね?」
「ええ、とても好きです」
「じゃあ、そこに行きなさい」
「そうしたら、幸福すぎるほどでしょう。そこに住んで、神を愛し、神に仕えることができるんでしたらね」
「それに、尊敬されたらね」とぼくが言った。
「そうです。それに、尊敬されたらです。もちろんですよ」
「もちろんのことです。あなたは尊敬されていいかたですよ」
「それはどうでもいいことです。でも、ぼくの故郷では人は神を愛するものと考えられているんです。下劣な冗談を言ってるわけじゃありませんよ」
「わかりますね」
彼はぼくを見てほほえんだ。
「あなたはおわかりになる。が、神を愛しておられない」
「うん」
「神をまったく愛しておられないんですか?」と彼がきいた。
「ときどき、神をおそれますよ、夜なんか」
「神は愛すべきです」
「あまり愛してませんね」
「いや」と彼が言った。「愛しておられます。あなたが、夜、お話しになること。あれは愛ではありません。あれは情熱と肉欲にすぎません。愛してるときは、そのために何かをしたいものです。犠牲をはらいたいものです。奉仕したいものです」
「ぼくは愛さない」
「愛されますとも。きっと愛されますとも。そうなれば、幸福になります」
「ぼくは幸福ですよ。いつも幸福でしたよ」
「それは別物ですB手に入れてみなければ、わからないものです」
「じゃあ」とぼくは言った。「手に入れたら、お知らせしましょう」
「長居して、おしゃべりしすぎまして」彼はじっさい、そうなったことを気にした。
「いや、帰らないでください。女を愛することはどうでしょうか? もしぼくがほんとうにだれか女の人を愛するようになったら、そんなふうになるでしょうか?」
「それはぼくにはわかりません。女の人を愛したことがありませんから」
「あなたのおかあさんにはどうしました?」
「ええ、母を愛したのはたしかです」
「あなたはいつも神を愛しましたか?」
「小さな子供のころからずっと」
「そう」とぼくは言った。なんと言っていいかわからなかった。「あなたはりっぱな若者ですね」とぼくが言った。
「ぼくは若者です」と彼が言った。「でも、あなたはぼくを神父とお呼びになる」
「それは礼儀ですからね」
彼はほほえんだ。
「ほんとに行かなくては」と彼が言った。「何かご用はありませんか?」と彼は期待しているようにたずねた。
「いや、ただ話したいだけです」
「会食の一同によろしく伝えておきますよ」
「いろいろ、すばらしい贈り物をありがとう」
「いや、どういたしまして」
「また、きてください」
「ええ、さようなら」と彼はぼくの手を軽くたたいた。
「さようなら」とぼくは方言で言った。
「|さよなら《チャオ》」と彼はくりかえした。
部屋のなかは暗かった。ベッドの足もとに腰かけていた当番兵が立ちあがって、彼といっしょに出ていった。ぼくは彼がとても好きだった。ぼくは彼がいつかアブルッツィに帰れるようにと願った。彼は会食でひどくやられたが、うまくやっていた。彼は故郷ではどんなふうにやって行くのだろう。彼の話では、カプラコッタでは、町の下を流れている川に鱒《ます》がいる。夜は、フルートを吹くことが禁じられている。若者がセレナーデを歌うときも、フルートを吹くのは禁じられている。なぜかと、ぼくがきいた。女の子が、夜、フルートをきくのはよくないからだという。百姓はみな『旦那《ドン》』とよびかける。会えば、帽子をぬぐ。彼の父は、毎日、狩りにでかけ、百姓の家に立ち寄って、食事をする。百姓はいつもそれを名誉だと思う。外国人が狩りをするときは、今までに一度もつかまったことがないという証明書を出さなければならない。グラン・サッソ・ディタリア(アブルッツィの山中にある高地)には熊がいる。が、そこは遠い。アクィラ(グラン・サッソ・ディタリアの南方の山中の町)はりっぱな町だ。夏の夜は涼しい。アブルッツィの春はイタリアじゅうでも一番美しい。しかし、きれいなのは、秋、栗林に狩りにでかけるときだ。小鳥はぶどうを食べているから、みんなうまい。弁当などは持っていかない。百姓たちの家でいっしょに食事をしてやれば、彼らはいつもありがたく思うからだ。しばらくして、ぼくは眠りこんだ。
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第十二章
病室は細長く、右手にいくつか窓があり、いちばん奥に、治療室に通じるドアがあった。ぼくのほうのベッドの列は窓に面していた。もうひとつの列は窓の下にあって、壁に面していた。左向きになって寝ていると、治療室のドアが見えた。いちばん奥にはもうひとつドアがあって、ときおり人々がそこからもはいってきた。だれかが死にそうになると、ベッドのまわりに衝立《ついた》てを立てて、死ぬのが見えないようにする。ただ、軍医や当番兵の靴とゲートルが衝立ての下から見え、ときには、最後に、ささやき声がきこえることがある。そうすると、司祭が衝立てのうしろから出てくる。それから、当番兵が衝立てのうしろにもどり、また出てきて、死体に毛布をかぶせ、ベッドのあいだの通路を運んでいき、だれかが衝立てをたたんで、持っていく。
その朝、病棟の受け持ちの少佐がぼくに、翌日、旅行ができそうかとたずねた。ぼくはできると言った。すると、彼は、翌朝早くぼくを送りだそう、と言った。あまり暑くならないうちに出かけたほうがいいだろう、と言った。
治療室に行くためベッドからかつぎあげられるとき、窓の外を見ると、庭に新しい墓地が見えた。一人の兵士がその庭に面したドアの外にすわって、十字架をつくり、そのうえに庭に埋められた者たちの名前と階級と連隊名をペンキで書きこんでいた。彼は病棟の走り使いもした。そして、ひまなとき、ぼくのためにオーストリア軍の小銃のからの薬莢《やっきょう》でライターをつくってくれた。軍医はとてもいい人たちで、腕もかなりよさそうだった。彼らはぼくをミラノに送りたがっていた。そこへ行けば、レントゲンの設備ももっといいし、手術がすめば、機械療法もうけられるのだった。ぼくもミラノに行きたかった。病院ではぼくたちをみんな、できるだけ遠くへ、送り出したがっていた。それは攻撃がはじまれば、そのためにベッドが全部必要になるからだった。
野戦病院を去る前の晩、リナルディがぼくたちの会食のなかまの少佐をつれて見舞いに来た。二人の話では、ぼくはミラノに設営されたばかりのアメリカ軍の病院に行くらしかった。アメリカ軍の衛生隊の部隊がいくつか派遣されるはずで、この病院はそれらの部隊とイタリアで軍務についているその他のアメリカ人のめんどうをみることになるようだった。赤十字にはおおぜいのアメリカ人がいた。合衆国はドイツに宣戦を布告していたが、オーストリアにはまだだった。
イタリア人はアメリカがオーストリアにも宣戦を布告するだろうと確信していた。それで赤十字でもいいから、アメリカ人が来ることにひどく興奮していた。ウィルソン大統領はオーストリアに宣戦を布告すると思うか、とぼくにきいた。ぼくはそれは時間の問題にすぎないと言った。われわれアメリカ人がオーストリアにどういう反感があるかはわからないが、ドイツに宣戦を布告したのなら、オーストリアにもそうするのが当り前だと思われるからだ。アメリカはトルコ《ターキー》に宣戦を布告するだろうか、ときいた。ぼくは、それは疑わしい、と言った。七面鳥《ターキー》はわれわれの国民的な鳥だからね、と言った。が、そのしゃれがひどくまずく翻訳され、彼らがひどくとまどって疑わしそうな顔付きなので、ぼくは、そうだ、われわれは、きっと、トルコに宣戦を布告するだろう、と言った。それから、ブルガリアには? ぼくたちはブランデーを数杯飲んでいた。ぼくは、そうだ神かけてブルガリアにも、それから、日本にも宣戦布告する、と言った。だが、日本はイギリスの同盟国だ、と彼らが言った。いまいましいイギリス人など信用できない。日本人はハワイをほしがってるのだ、とぼくが言った。ハワイってどこにあるのだ? 太平洋にあるのさ。なぜ日本人はそれがほしいのだ? ほんとうにほしがっているのじゃない、とぼくは言った。それはたんなる風説にすぎない。日本人はすばらしい小がらな国民なんだ。踊りと軽い酒が好きなんだ。フランス人のようだな、と少佐が言った。フランス人からニースとサボイアをとろう、コルシカとアドリア海沿岸全体をとろう、とリナルディが言った。イタリアはローマの栄華に帰るだろう、と少佐が言った。おれはローマが嫌いだ。暑くて。蚤《のみ》だらけだ、とぼくが言った。きみはローマが好きじゃないのかね? いや、おれはローマを愛している。ローマはすべての国家の母だ。テーベ河で育てられたロムルス(ローマの神話で弟といっしょにテーベ河に棄てられていたのを狼に育てられてローマを建設したという)をどうしても忘れない。なんだって? なんでもないよ。みんなでローマに行こう。今晩、ローマに行って、帰ってこないでおこう。ローマはきれいな都市だ、と少佐が言った。諸国家の母であり父であるのだ、とぼくが言った。ローマは女性だ、とリナルディが言った。父にはなれっこない。じゃあ、だれが父だ、聖霊か? 神を冒涜《ぼうとく》するな。おれは冒涜してやしない。知識を求めているのだ。きみは酔っているんだ、おぼっちゃん。だれがおれを酔わせたんだ。おれだよ、と少佐が言った。おれがきみを酔わせたんだ。きみが好きだからだ。アメリカが参戦したからだ。徹底的に飲むぞ、とぼくが言った。あすの朝、出かけるんだぜ、おぼっちゃん、とリナルディが言った。ローマへだ、とぼくが言った。いや、ミラノへだ。ミラノへだ、と少佐が言った、水晶宮へ、コーヴァへ、カンパーリの店へ、ビッフィの店へ、廻廊《ガルレリーア》(ミラノにあるガラスばりの丸天井のついた遊歩場)へ。運のいいやつだ。グラン・イタリアへ、とぼくが言った。あそこでジョルジョ(レストラン・グラン・イタリアのヘッド・ウェイター)から金を借りよう。スカラ座へ、とリナルディが言った。スカラ座に行こう。毎晩ね、とぼくが言った。毎晩じゃ金がつづかないだろう、と少佐が言った。
切符がばかに高いぜ。いや、おれは祖父あてに一覧払い為替《かわせ》手形を振り出すさ、とぼくが言った。なんだって? 一覧払い為替手形だ。祖父が払わなければならないのさ。さもなければ、おれが監獄行きさ。銀行のカニンガムさんが払ってくれるよ。おれは一覧払い為替手形で食っているんだ。イタリアを生かすために、死にかかっている孫の愛国者を祖父が監獄にぶちこめるだろうか? アメリカのガリバルディ(一八〇七―八二、イタリアの統一をはかった愛国者)ばんざい、とリナルディが言った。一覧払い為替手形万歳と、ぼくが言った。静かにしなけりゃいけない、と少佐が言った。もう何度も静かにしてくれと言われたんだから。ほんとにあす行くのかい、フェデリーコ? こいつはアメリカの病院に行くんだ、たしかに、とリナルディが言った。きれいな看護婦たちのところへだ。野戦病院の髭《ひげ》をはやした当番兵とはちがうんだぜ。そうだ、そうだ、と少佐が言った。アメリカ軍の病院に行くんだったな。おれは髭なんか気にしてやしないよ、とぼくが言った。髭をはやしたいのがいたら、はやさせておけよ。なぜ髭をはやさないんですか、少佐殿《シニョール・マッジョーレ》? 防毒マスクにはいらないからな。いや、はいりますよ、なんでも防毒マスクにはいりますよ。おれは防毒マスクにげろをはいたことがある。そんなに大きな声をだすな、おぼっちゃん、とリナルディが言った。きみが前線にいたことはみんなが知っているんだ。ああ、りっぱなおぼっちゃん、きみがいなくなったら、おれはどうすることだろう? もう帰らなきゃあ、と少佐が言った。センチになるからな。いいかい、きみの驚くことがあるんだ。きみのイギリス人。ねえ? 毎晩、きみが病院に会いに行くイギリス人ね? あの女もミラノに行くんだ。もう一人の女といっしょにアメリカ軍の病院に働きに行くんだ。まだアメリカから看護婦がきていないからだ。おれはきょうあそこの医長と話したんだ。この前線には女が多すぎるんだ。で、いくらか送りかえすのさ。どうだい嬉しいだろう、おぼっちゃん? いいね。そうだろう? きみは大きな都会にいって住み、好きなイギリス女がいてかわいがってくれるんだ。なぜおれは負傷しなかったんだろう? たぶん、負傷するだろうよ、とぼくが言った。帰らなきゃあ、と少佐が言った。飲んで、騒いで、フェデリーコの邪魔をしたよ。帰らないでくださいよ。いや、帰らなきゃあ。さようなら。ご幸運を。いろんなことを。|さよなら《チャオ》。|さよなら《チャオ》。|さよなら《チャオ》。早く帰ってくるんだぜ、おぼっちゃん。リナルディがぼくにキスした。リゾール液のにおいがするぜ。さようなら、おぼっちゃん。さようなら。いろんなことを。少佐がぼくの肩を軽くたたいた。二人は爪先《つまさき》立って出ていった。ぼくはすっかり酔っているのに気がついたが、寝こんでしまった。
翌日の朝、ぼくたちはミラノに向かって出発し、四十八時間後に到着した。ひどい旅だった。ぼくたちは、メストレのこちらがわで、長いあいだ、列車の待避線に入れられた。子供たちがやってきて、そっと覗《のぞ》きこんだ。ぼくは小さな男の子にコニャックを一本買いにやらせたが、彼は戻ってきて、グラッパしか売っていないと言った。ぼくはそれを買いにやらせ、買ってくると、その子に釣り銭をやった。隣の男とぼくは酔っぱらい、ヴィチェンツァ(イタリアの北部の都市)を過ぎるまで眠った。目が覚めると、床の上にひどく吐いた。だが、それはたいしたことではなかった。向こう側の男もそれまでに何度も床の上にひどく吐いたからである。その後、ぼくは喉がかわいてしかたがないので、ヴェロナ(イタリア北部の都市)の郊外の駅で、列車のそばを行ったり来たりしている兵士に呼びかけ、水を一杯もらった。ぼくは酔っぱらった仲間のジョルジェッティを起こし、水をすすめた。彼は肩にぶっかけてくれと言い、また眠ってしまった。兵士はぼくのさしだした小銭をどうしても受けとろうとしないで、ぼくに汁の多いオレンジをもってきてくれた。ぼくはそれにかぶりつき、すじをはきだし、その兵士が外の貨車の前を行ったり来たりしているのを眺めていた。しばらくすると、列車はがたんと揺れ、動きだした。
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第二部
第十三章
ぼくたちは朝早くミラノにはいり、貨物駅でおろされた。傷病兵運搬車がぼくをアメリカ軍の病院に運んだ。担架に寝たまま傷病兵運搬車に乗っていると、ぼくは町のどのへんを通っているのかわからなかったが、担架がおろされるとき、市場が見え、一軒の酒場が開いていて、女が掃除していた。人々が街路に水をまいているところで、早朝のにおいがした。彼らは担架をおろして、なかにはいっていった。門衛が彼らといっしょにでてきた。彼は灰色の口髭《くちひげ》をたくわえ、守衛の帽子をかぶり、ワイシャツ一枚になっていた。担架がどうしてもエレベーターにのらなかった。彼らは、ぼくを担架からだきおろして、エレベーターにのせたほうがいいか、担架をかついで階段をあがったほうがいいか、議論した。ぼくは彼らが議論しているのに耳を傾けた。彼らはエレベーターにきめた。彼らはぼくを担架からだきおろした。「静かにやってくれ」とぼくが言った。「そうっとやってくれ」
エレベーターにぼくたちはぎっしりつまった。ぼくは足が曲がったので、ひどく痛かった。「足をまっすぐにしてくれ」とぼくは言った。
「だめなんです、|中尉どの《シニョール・テネンテ》。余地がないんです」こう言った男はぼくをかかえ、ぼくは彼の首に腕をまいていた。彼の息がぼくの顔にかかり、にんにくと赤ワインで金属のようなにおいがした。
「そうっとやりな」とほかの男が言った。
「ちくしょう、そうっとやってるじゃねえか」
「そうっとやりなって言ってるんだぜ」とぼくの足をもっている男がくりかえした。
エレベーターのドアがしまり、格子戸がしまり、門衛が四階のボタンを押すのが見えた。門衛はめんどくさそうな顔をしていた。エレベーターはゆっくりあがった。
「重いかい?」とぼくはにんにくのにおいのする男にたずねた。
「なんでもありません」と彼は言った。彼は顔に汗をかいて、ぶつぶつ言っていた。エレベーターはゆっくりのぼり、とまった。足をもっていた男がドアをあけ、外に出た。ぼくたちはバルコニーに出た。真鍮《しんちゅう》のハンドルのついたドアがいくつかあった。足をもっていた男がベルのボタンを押した。ベルがドアのなかで鳴るのがきこえた。だれも出て来なかった。やがて門衛が階段をのぼってきた。
「みんなはどこにいるんだ?」と担架兵がたずねた。
「知りませんね」と門衛が言った。「階下で寝てるんですがね」
「だれか、つれてきてくれ」
門衛はベルを鳴らし、それからドアをノックし、それからドアをあけて、はいっていった。もどってくると、眼鏡をかけた、かなり年輩の婦人がついてきた。髪が乱れ、なかば落ちかかっていたが、看護婦の服を着ていた。
「わたし、わかりません」と彼女が言った。「イタリア語はわかりません」
「ぼく、英語を話せます」とぼくが言った。「この人たちはぼくをどこかに入れようっていうんですよ」
「どの部屋も準備できてません。患者さんが来る予定はなかったんですから」彼女は髪をかきあげ、近視のような眼付きでぼくを見た。
「どんな部屋でもいいから、ぼくを入れられるところにこの人たちを案内してください」
「どうしたらいいでしょうかねえ」と彼女が言った。「患者の予定がなかったのですから。どの部屋にだって、お入れできないんですよ」
「どんな部屋でもいいんです」とぼくは言った。それから門衛にイタリア語で、「あいてる部屋をさがしてくれ」
「みんなあいています」と門衛が言った。「あなたが最初の患者です」彼は帽子を手にもって、年輩の看護婦を見た。
「たのむから、どこか部屋に連れていってくれ」足を曲げていると、痛みがますますひどくなった。痛みが骨にしみこんでくるのが感じられた。門衛はドアのなかにはいり、白髪の婦人があとからついてはいったが、やがて彼がいそいでもどってきた。「ついてきなさい」と言う。彼らは長い廊下を歩いていき、ブラインドをおろした部屋にぼくを運んだ。それは新しい家具のにおいがした。ベッドと鏡付きの大きな衣装|箪笥《たんす》があった。彼らはぼくをベッドにおろした。
「シーツが敷けませんで」と婦人が言った。「シーツは鍵がかかっていまして」
ぼくは彼女には話しかけなかった。「ぼくのポケットに金がはいっている」とぼくは門衛に言った。「ボタンをかけたポケットに」門衛は金を取りだした。二人の担架兵が帽子をもったままベッドのそばに立っていた。「五リラずつあげてくれ。それから、きみに五リラあげるよ。ぼくの書類はべつのポケットにある。看護婦さんにわたしてくれ」
担架兵は敬礼し、ありがとうと言った。「さようなら」とぼくは言った。「どうもありがとう」彼らはもう一度、敬礼して、出ていった。
「その書類には」とぼくは看護婦に言った。「ぼくの症状とすでに受けた治療のことが書いてあります」
婦人はそれを取りあげ、眼鏡ごしにそれを眺めた。書類は三通で、たたんであった。「どうしたらいいかわかりません」と彼女は言った。「イタリア語は読めません。軍医の命令がなければ、何もできません」彼女は泣きだし、エプロンのポケットに書類をつっこんだ。「あなたはアメリカ人ですか?」と彼女は泣きながら、たずねた。
「そうです。どうぞ、その書類をベッドのそばのテーブルにおいてください」
部屋のなかは薄暗く、涼しかった。ベッドに横になっていると、部屋の向こうがわに大きな鏡が見えたが、それに何が映っているかはわからなかった。門衛がベッドのそばに立っていた。彼はいい顔立ちで、親切だった。「行っていいですよ」とぼくは彼に言った。「あなたも行っていいですよ」と看護婦に言った。「お名前は?」
「ミセズ・ウォーカーです」
「行ってよろしいですよ、ミセズ・ウォーカー。ひと眠りしたいから」
ぼくは部屋にひとりになった。涼しく、病院のようなにおいはしなかった。ベッドの敷き蒲団がしっかりしていて気持ちがよく、ぼくは身動きもせず、ほとんど息もしないで、横たわり、痛みがうすらいでいくのを感じて嬉しかった。しばらくたつと、水が飲みたくなり、ベッドのそばにベルのコードがあるのに気づき、鳴らしたが、だれも来なかった。ぼくは眠った。
目をさまして、あたりを見まわした。ブラインドのすきまから陽の光がさしこんでいた。大きな衣装箪笥と、はだかの壁と、椅子二脚が見えた。よごれた繃帯を巻いたぼくの両足がベッドからまっすぐつきだしていた。ぼくは足を動かさないように注意した。喉が乾き、ベルに手をのばし、ボタンを押した。ドアの開く音がした。見ると、看護婦だった。彼女は若く美しく見えた。
「おはよう」とぼくは言った。
「おはようございます」と彼女は言って、ベッドのほうにやって来た。「先生にいらっしていただけないんですよ。コモ湖(イタリア、ロンバルディア地方にある美しい湖)にいらっしゃってるものですから。患者さんがお見えになるなんて、だれも知らなかったんです。それはそうと、どこがお悪いのですか?」
「負傷してるんです。足と足首と、それに頭もやられてます」
「お名前は?」
「ヘンリー。フレデリック・ヘンリー」
「からだをすっかり洗ってさしあげましょう。でも、先生がいらっしゃるまでは、手当はできませんよ」
「ミス・バークレイっていうひと、ここにいますか?」
「いいえ、ここにはそんな名前のかた、いらっしゃいません」
「ぼくがはいってきたとき泣きだしたひと、なんていうんです?」
看護婦は笑った。「ミセズ・ウォーカーです。あのかたは夜勤でした。眠ってたんです。だれもいらっしゃらないだろうと思ってたので」
話しているまに、彼女はぼくの服を脱がせ、繃帯をそのままにして、脱ぎおわると、ぼくを、とても優しく、手ぎわよく、洗ってくれた。それはとても気持ちよかった。頭に繃帯がしてあったが、彼女はそのまわりをすっかり洗ってくれた。
「どこで負傷なさいましたの?」
「プラーヴァの北のイゾンツォ河でです」
「と申しますと?」
「ゴリツィアの北です」
どの土地も彼女にはなんの意味もないことがぼくにはわかった。
「ひどく痛みます?」
「いや。もうたいしたことはありません」
彼女はぼくの口に体温計を入れた。
「イタリア人は脇の下にはさみますよ」とぼくは言った。
「しゃべらないで」
彼女は体温計を取ると、それを読んでから、振った。
「熱、ありますか?」
「お知らせしないことになっています」
「教えてください、なん度か」
「ほとんど平熱です」
「ぼくは熱の出たことなんかないんです。ぼくの足には古鉄がいっぱいはいってるんです」
「とおっしゃいますと?」
「迫撃砲弾の破片や、古ねじや、ベッドのばねや、そんなものがいっぱいはいってるんです」
彼女は首を振って、微笑した。
「足に異物がはいっていれば、炎症を起こして、熱が出ますわ」
「よろしい」とぼくは言った。「何が出てくるか、いまにわかりますよ」
彼女は部屋から出て行き、けさ早く会った年輩の看護婦といっしょにもどってきた。二人はぼくを寝かせたまま、いっしょにベッドを整えた。それはぼくにははじめてのことで、すばらしい手ぎわだった。
「だれがここを管理してるんですか?」
「ミス・ヴァン・キャンペンです」
「看護婦さんは何人?」
「わたしたち二人だけです」
「ふえないんですか?」
「もう幾人か来ることになっています」
「いつ来るんです?」
「わかりませんわ。病気なのに、あれこれおたずねなさるのね」
「ぼくは病気じゃありません」とぼくは言った。「ぼくは負傷してるんです」
彼女たちはベッドを整えおわった。ぼくは清潔で肌ざわりのいいシーツを下に敷き、もう一枚のシーツを上にかけ、横になった。ミセズ・ウォーカーが出て行き、パジャマの上衣をもってもどってきた。二人はそれをぼくに着せてくれた。ぼくはとても清潔で身ぎれいになった。
「ずいぶん親切にしてくれるんですね」とぼくは言った。ミス・ゲージという名の看護婦はくすくす笑った。
「水を一杯いただけますか?」とぼくはきいた。
「よろしいですよ。それから、朝食をさしあげましょう」
「朝食はいりません。ブラインドをあけてくれませんか?」
部屋のなかは薄暗かった。ブラインドがあがると、陽の光がまぶしく、僕はバルコニーを眺めた。向こうには、家々の瓦屋根と煙突があった。瓦屋根の向こうを見ると、白い雲が見え、空がとても青かった。
「ほかの看護婦たち、いつ来るかわかりませんか?」
「どうしてですか? わたしたちのお世話ではいけませんの?」
「きみたちはとてもいいさ」
「便器をお使いになりますか」
「やってみよう」
彼女たちは僕に手をかして助けおこしてくれたが、だめだった。しばらくたって、ぼくは横になり、開けはなった戸口からバルコニーのほうを眺めた。
「先生はいつ来ますか?」
「帰ってらっしゃったら。お帰りになるようコモ湖にお電話したのですよ」
「ほかには先生はいないんですか?」
「そのかたがこの病院の先生なのです」
ミス・ゲージは水さしとコップを持ってきた。ぼくはコップに三杯飲んだ。それから、彼女たちが出て行った。ぼくは窓の外をしばらくながめ、また眠った。昼食をいくらか食べた。午後、婦長のミス・ヴァン・キャンペンがぼくに会いに来た。彼女はぼくを好きでなかったし、ぼくも彼女が好きでなかった。彼女は小がらで、ひどく疑い深く、婦長のがらではなかった。いろいろと質問したが、ぼくがイタリア軍に加わっていたことをいくぶん恥と考えているように思われた。
「食事のときワインを飲んでもいいですか?」とぼくは彼女にきいた。
「先生さえいいとおっしゃれば」
「先生がこられるまでは駄目ですか?」
「絶対に駄目です」
「そのうち来てもらうようにはしてあるんですね?」
「コモ湖にいらっしゃる先生に電話しました」
彼女は出て行き、ミス・ゲージがもどって来た。
「なぜ、ミス・ヴァン・キャンペンに失礼なことをなさったんですか?」と彼女はぼくに何やらとてもじょうずにやってくれてから、たずねた。
「そんなつもりじゃなかったんです。だが、彼女がお高かったんですよ」
「あなたが横柄で失礼だと言ってましたわ」
「そんなことありませんよ。だが、医者がいない病院なんて、いったい、どういうことなんですか?」
「もう来られますわ。コモ湖にいらっしゃる先生のところにお電話しましたから」
「何してるんですか、向こうで? 泳ぎ?」
「いいえ。あそこに診療所があるんですよ」
「なぜ、べつの先生を置かないんです」
「しいっ! しいっ! おとなしくしていらっしゃい。いまに、先生がいらっしゃいますよ」
ぼくは門衛を呼びにやって、彼がくると、酒屋でチンザーノ(イタリア産の有名なベルモット)一本とキャンティ(タスカニー地方産のから口の赤ワイン)一本と、夕刊を買ってきてくれるように、イタリア語で頼んだ。彼は出て行き、それらを新聞紙につつんでもってきて、その包みをといた。それから、ぼくは、彼にコルクの栓を抜き、ワインとベルモットをベッドの下に入れるよう頼んだ。彼らはぼく一人にして出ていった。ぼくはベッドに横になり、しばらく新聞を読んだ。前線からの知らせや、戦死して勲章をもらった将校の一覧表を読み、それから手を下にのばしてチンザーノの壜《びん》を取りあげ、胃の上にまっすぐそれをもち、冷たいグラスを胃の上にのせ、ちびりちびり飲んだ。飲んでいるあいだ、壜を胃の上にのせておくので、そこに輪がついた。ぼくは外の町の屋根の上の空が暗くなるのを眺めていた。燕《つばめ》が円をえがいて飛んでいた。ぼくは、燕や、屋根の上に飛んでいる夜鷹《よたか》を眺め、チンザーノを飲んだ。ミス・ゲージがコップにエッグノッグをいれて持ってきた。彼女がはいってくると、ぼくはベルモットの壜をベッドの反対がわにおろした。
「ミス・ヴァン・キャンペンがこのなかにシェリー酒をいくらかいれてくださったのよ」と彼女が言った。「あのかたに失礼なさってはいけませんよ。あのかたはもうお若くはないし、この病院があのかたの大きな責任になっていますのよ。ミセズ・ウォーカーは年をとりすぎて、なんの手助けにもならないのですから」
「すばらしいひとですね」とぼくは言った。「よくお礼を言ってください」
「お夕食をすぐお持ちしましょう」
「いや、いいですよ」とぼくは言った。「腹はへってませんから」
彼女が盆をもってき、ベッド・テーブルに置くと、ぼくは彼女に礼を言い、夕食をすこし食べた。しばらくたつと、外が暗くなり、サーチライトの光が空に動いているのが見えた。ぼくはしばらくそれをながめ、それから、眠りこんだ。ぐっすり眠った。ただ一度寝汗をかいて、何かにおびえて目をさました。それから、夢を見ないようにつとめながら、また、眠った。明るくなるかなり前に、目がさめ、雄鶏《おんどり》がときをつげるのをきき、明るくなりかけるまで、目をさましたままでいた。ぼくは疲れてしまい、いよいよ明るくなると、また眠った。
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第十四章
目がさめると、部屋のなかは陽の光でまぶしかった。ぼくは前線にもどっているのだと思い、ベッドのなかでからだをのばした。足が痛むので、見おろすと、まだよごれた繃帯を巻いたままだった。それを見て、どこにいるのかがわかった。ベルのコードに手をのばし、ボタンを押した。廊下の向こうでジーと鳴るのがきこえ、それからだれかがゴム底の靴で廊下を歩いてくるのがきこえた。それはミス・ゲージだった。彼女は明るい陽の光のなかではいくぶん年とってみえ、まえほどきれいではなかった。
「おはようございます」と彼女が言った。「よくおやすみになれまして?」
「ああ、ありがとう、とてもよく寝ました」とぼくは言った。「床屋にきてもらえますか?」
「様子を見にまいりましたら、こんなものをだいて寝てらっしゃいましたわ」
彼女は衣装箪笥のドアをあけ、ベルモットの壜をさしあげた。それはほとんどからだった。
「ベッドの下にあったもう一本もそこにしまっておきましたわ」と彼女が言った。「なぜ、わたしにグラスをお頼みにならなかったんですの?」
「たぶん、もらえないだろうと思ったんでね」
「ごいっしょにいただきましたのに、すこしぐらいは」
「どうもありがとう」
「ひとりでお飲みになるのはよくありませんわ」と彼女が言った。「そんなことしてはいけませんよ」
「わかりました」
「お友だちのミス・バークレイがいらっしゃいましたよ」と彼女が言った。
「ほんとですか?」
「ほんとうよ。あたし、あのかた、きらいだわ」
「好きになりますよ。すごくいいひとだから」
彼女は首をふった。「きっと、いいかたね。もうちょっとこちらのほうにおよりになれません? それでいいわ。朝食がとれるように、きれいにしてあげましょう」彼女は手拭いと石鹸と湯でぼくを洗った。「肩をあげて」と彼女が言った。
「それでいいわ」
「朝食のまえに床屋にきてもらえますか?」
「門衛に呼びにやらせましょう」彼女は出ていき、もどってきた。「呼びに行きましたよ」と彼女は言って、もっていた手拭いを洗面器につけた。
床屋が門衛といっしょにやってきた。彼は五十がらみの男で、口髭をはねあげていた。ミス・ゲージはぼくを洗いおえて、出て行き、床屋がぼくの顔に石鹸の泡をぬり、剃《そ》った。彼はきわめて謹厳《きんげん》で、話をさしひかえていた。
「どうしたんだ? 何かニュースはないかね?」とぼくがたずねた。
「どんなニュースですかい?」
「どんなのでも。町ではどんなことがあったかね?」
「戦時中でしてね」と彼が言った。「壁に耳ありでね」
ぼくは彼を見あげた。「どうぞ、顔を動かさないでください」と彼は言って、剃《そ》りつづけた。「あっしは何も申しあげませんよ」
「きみ、どうしたんだ?」とぼくはたずねた。
「あっしはイタリア人です。敵とは通じません」
ぼくはそのまま、なるにまかせた。彼が気違いなら、早く剃刀《かみそり》の下からのがれたほうがいい。一度彼をよく見てやろうとした。「あぶないですよ」と彼が言った。「この剃刀はよく切れるからね」
終わったとき、ぼくは彼に金を払い、半リラ、チップをやった。彼はその銅貨を返した。
「いただきませんよ。あっしは前線にいるわけじゃない。が、あっしもイタリア人だからね」
「さっさとここから出ていけ」
「失礼しました」と彼は言って、剃刀を新聞紙につつんだ。ベッドのそばのテーブルの上に銅貨を五枚おいたまま出ていった。ぼくはベルを鳴らした。ミス・ゲージがはいってきた。
「門衛に来るように言ってくれませんか?」
「承知しました」
門衛がはいってきた。彼は笑いをこらえようとしていた。
「あの床屋は気違いかね?」
「いいえ、旦那《シニョリーノ》。あいつは間違えたんです。あいつは様子がよくわからないんで、ぼくがあなたをオーストリアの将校だと言ったと思ってたんです」
「へえ」とぼくは言った。
「は、は、は!」と門衛は笑った。「あいつ、おかしかったですよ。あなたが動こうものなら、こうするところだったと、言いましたよ」彼は人さし指でのどを切る真似をした。
「は、は、は!」彼は笑いをこらえようとした。「あなたがオーストリア人でないと言いますとね、は、は、は!」
「は、は、は!」とぼくは苦々《にがにが》しげに言った。「あいつがぼくののどを切ったら、さぞおかしかったろう。は、は、は!」
「いや、旦那《シニョリーノ》。いや、いや。あいつはオーストリア人をひどく恐れているんです。は、は、は」
「は、は、は!」とぼくは言った。「ここから出て行ってくれ!」
彼は出て行った。彼が廊下で笑うのがきこえた。だれかが廊下を歩いてくるのがきこえた。ぼくはドアのほうを見た。それはキャサリン・バークレイだった。
彼女は部屋にはいり、ベッドのところまでやって来た。
「まあ、あなた」と彼女は言った。彼女は生き生きと、若く、すごくきれいに見えた。こんなに美しいひとは見たことがないと思った。
「やあ」とぼくは言った。彼女を見たとたん、ぼくは好きになった。ぼくの心のなかで、あらゆるものがひっくりかえった。彼女はドアのほうに目をやったが、だれもいなかった。すると、彼女はベッドのそばに腰をおろし、かがみこんで、ぼくにキスした。ぼくは彼女をひきたおし、キスした。彼女の心臓が動悸《どうき》をうっているのが感じられた。
「ねえ、きみ」とぼくが言った。「すばらしいじゃないか、ここへ来るなんて?」
「ここに来るのはそうむずかしくはなかったのよ。ここにこうしていることのほうが、むずかしいかもしれないわ」
「ここにいなけりゃいけない」とぼくは言った。「ああ、きみはすばらしい」ぼくは彼女に夢中だった。彼女がほんとうにそこにいるのだとは信じられないまま、彼女をしっかり抱きしめた。
「だめよ」と彼女が言った。「まだよくなっていらっしゃらないのに」
「いや。よくなっている。さあ」
「いいえ。まだほんとじゃないわ」
「いや。だいじょうぶだ。だいじょうぶだとも、さあ」
「あたしを愛してて?」
「ほんとに愛してるよ。きみに夢中なんだ。さあ、ねえ」
「あたしたちの心臓が動悸をうってるの、わかるわ」
「心臓なんてどうでもいいんだ。ぼくはきみがほしいんだ。きみにまったく夢中なんだ」
「ほんとにあたしを愛してて?」
「そんなこと、いつまでも言っていないで。さあ、ねえ、ねえ、キャサリン」
「いいわ、でも、ほんのちょっとよ」
「いいよ」とぼくは言った。「ドアをしめて」
「だめだわ。いけないわ――」
「さあ。しゃべるのはやめて。ねえ、さあ」
キャサリンはベッドのそばの椅子に腰かけた。ドアは廊下のほうに開いていた。もの狂おしさが静まり、いつもになくさっぱりした気持ちになった。
彼女がたずねた。「これで、あなたを愛していること、信じてくださるわね?」
「ああ、きみはきれいだ」とぼくが言った。「きみはここにいなければいけない。きみをよそへなんかまわさせないよ。きみが好きだ。夢中だ」
「あたしたちはよっぽど気をつけなければ。あれは夢中でしたことよ、あんなことをしてはいけないわ」
「夜、できるよ」
「あたしたち、よっぽど気をつけなければいけないわ。あなた、ほかの人の前では気をつけなければいけなくってよ」
「わかった」
「気をつけてね。あなたはいいかたよ。あたしを愛してくださるわね?」
「そんなこと、もう、二度ときかないでくれ。そう言われてぼくがどんな気持ちになるか、きみにはわからないんだ」
「じゃあ、気をつけるわ。もうお気にさわることなんかしたくないわ。ほんとに、もう行かなきゃならないのよ」
「すぐ帰ってきてくれ」
「こられたらすぐくるわ」
「さよなら」
「さよなら、あなた」
彼女は出て行った。神かけて誓うが、ぼくは彼女を愛そうなどとは思っていなかったのだ。ぼくはだれだって愛そうなどとは思っていなかったのだ。だが、神かけて誓うが、ぼくは愛してしまったのだ。そして、ミラノの病院の病室のベッドに横たわっていると、あらゆることがぼくの頭のなかを通りすぎた。やがて、ミス・ゲージがはいってきた。
「先生がお見えになりますわ」と彼女が言った。「コモ湖からお電話がありました」
「いつここに着かれますか?」
「きょうの午後にはお着きになります」
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第十五章
午後まで何事も起こらなかった。軍医は痩せた、もの静かな、小がらな人で、戦争を迷惑がっているように思われた。彼は嫌悪感をかすかに品よく示しながら、ぼくの大腿部から小さな鋼鉄の破片をいくつも取りだした。彼はなんとか「雪」という局部麻酔を用いた。それは局部の組織を凍らせ、さぐり針やメスやピンセットが、凍った部分の下に達しないかぎりは痛みを感じさせなかった。麻酔のかかっている範囲は患者にもはっきりとわかった。しばらくたって、軍医の弱々しいほどきゃしゃな神経が、疲れ切ってしまい、彼はレントゲンをかけたほうがいいだろう、と言った。探るだけではじゅうぶんではない、と言った。
レントゲンはオスペダーレ・マッジォーレ(イタリア語で「大病院」という意味)でとられた。それをとってくれた軍医は興奮しやすく、腕のいい、陽気な人だった。肩をあげてとれば、患者が機械を通して比較的大きい異物のいくつかをみずから見られるようになっていた。乾板はとどけてくれるとのことだった。軍医は彼の手帳にぼくの名と連隊名と感想を書いてくれと言った。彼は、異物は醜く、汚く、残忍だ、と断言した。オーストリア人はいやなやつらだ。幾人やっつけたかね? ぼくは一人も殺さなかったけれど、彼を喜ばせてやりたかった。――そこで、ぼくは、おおぜいやっつけた、と言った。ミス・ゲージがぼくといっしょにいた。軍医は彼女に腕をまわし、クレオパトラより美しい、と言った。彼女にそれがわかっただろうか? 昔のエジプトの女王クレオパトラよりもだ。そうだ、彼女はまったくそのとおりだ。ぼくたちは傷病兵運搬車に乗って、小さな病院にひきかえし、しばらく、いろんなふうにかつぎまわされて、ふたたび階上にあがり、ベッドにはいった。乾板はその午後とどけられた。軍医はその午後にはなんとしてでもとどけると言っていたが、そのとおりとどけてくれたのだ。キャサリン・バークレイがぼくにそれを見せてくれた。赤い封筒にはいっていて、彼女がそれを封筒から取りだし、明るいほうにかざして、二人で見た。
「あれがあなたの右足よ」と言って、彼女は乾板を封筒にしまった。「これがあなたの左足」
「しまっておいてくれ、そんなもの」とぼくは言った。「そして、ベッドのほうにおいで」
「だめよ」と彼女が言った。「ほんのちょっとだけ、お見せしようと、もってきただけよ」
彼女は出ていき、ぼくはそこに横になった。暑い午後で、ベッドに横になるのがいやだった。門衛に新聞を買いにやらせた。買えるだけの新聞を買いにやらせた。
彼がもどってこないうちに、三人の軍医が部屋にはいってきた。ぼくの気づいたことだが、治療の経験の浅い医者は診察のときいっしょにいて、たがいに援助を求める傾向があるものだ。虫様突起をじょうずに切りとれない医者は扁桃腺《へんとうせん》をうまく切りとれない医者を推薦することだろう。この三人はそのような医者だった。
「この青年なんだがね」ときゃしゃな手をした病院づきの軍医が言った。
「こんにちは」と、顎鬚《あごひげ》をはやした、背の高い、痩せた軍医が言った。も一人の軍医は赤い袋にはいったレントゲンの乾板をもっていたが、何も言わなかった。
「繃帯をときますかな?」と、鬚をはやした軍医がきいた。
「そうですな。看護婦さん、繃帯をといてくれ」と病院づきの軍医がミス・ゲージに言った。ミス・ゲージは繃帯をといた。ぼくは足を見おろした。野戦病院で見たときは、それは挽《ひ》きたてとはいえそうもないハンバーグ・ステーキのようだった。それが、いま見ると、かさぶたができ、膝がふくれあがって、変色し、ふくらはぎがくぼんでいた。膿《うみ》はまったく出ていなかった。
「とてもきれいだ」と病院づきの軍医が言った。「とてもきれいで、いい」
「ふん」と、鬚をはやした軍医が言った。も一人の軍医が病院づきの軍医の肩ごしに見ていた。
「膝を動かして」と、鬚の軍医が言った。
「動かないんです」
「関節を調べてみますか?」と鬚の軍医がきいた。彼の袖には三つの星とその脇に一本筋がついていた。これは彼が一等大尉だということを意味していた。
「そうですな」と、病院づきの軍医が言った。二人はきわめて慎重にぼくの右足をつかんで、曲げた。
「痛い」とぼくが言った。
「よし、よし。もすこし深く曲げてみてください、軍医」
「もうたくさんです。これ以上、曲がりません」とぼくが言った。
「局部的な関節結合だ」と一等大尉が言った。彼はからだを起こした。「もいちど乾板を見せてくれませんか、軍医?」も一人の軍医が乾板のひとつを彼に手渡した。「いや、左足のを」
「それが左足です、軍医」
「ああそうだ。ちがった角度から見ていた」彼は乾板を返した。ほかの乾板をしばらく調べた。
「ほら、ね、軍医」と彼は明るいほうにむかってまるくはっきり見える異物のひとつを指さした。三人はその乾板をしばらく調べた。
「ぼくの言えることはただ」と、鬚をはやした一等大尉が言った。「こいつは時間の問題だということですね。三ヵ月、おそらく六ヵ月かかりますな」
「たしかに関節滑液が新しくできないことにはね」
「たしかに。それは時間の問題です。弾丸が包嚢《ほうのう》に包まれないうちは、そのような膝を良心的に切開するわけにはいかないから」
「同感ですな」
「何に六ヵ月ですか?」とぼくがきいた。
「膝が安全に切開できるよう弾丸が包嚢で包まれるのに六ヵ月かかる」
「そんなことはないでしょう」とぼくが言った。
「きみは膝を残しておきたいだろう?」
「いいえ」とぼくが言った。
「え?」
「切りとってもらいたいんです」とぼくが言った。「それに鉤《かぎ》をつけられますからね」
「どういう意味だね? 鉤って?」
「ふざけてるんですよ」と病院づきの軍医が言った。彼はぼくの肩をとてもやさしくたたいた。
「膝を残したいんですよ。すごく勇敢な青年なんですよ。銀の武功章を受けることになったんです」
「それはどうもおめでとう」と一等大尉が言った。彼はぼくに握手した。「ぼくの言えることは、大事をとるなら、そのような膝を切開するにはすくなくとも六ヵ月は待つべきだということだ。むろん、きみはほかの意見に従ってもいい」
「どうもありがとうございます」とぼくが言った。「あなたのご意見を尊重します」
一等大尉は腕時計を見た。
「帰らなきゃならない」と彼が言った。「どうぞお大切に」
「どうぞお元気で。いろいろありがとうございました」とぼくが言った。ぼくは三人めの軍医と握手した。ヴァリーニ大尉《カピターノ》です――エンリー中尉《テネンテ》です。こうして、三人は部屋から出ていった。
「ミス・ゲージ」とぼくは呼んだ。彼女がはいってきた。「病院づきの軍医さんにちょっともどってくるように頼んでくれませんか」
彼は帽子を手にしてはいってきて、ベッドのそばに立った。「何かご用でしたか?」
「ええ。六ヵ月も手術、待てません。ねえ、先生、先生は六ヵ月もベッドで寝たことがありますか?」
「しょっちゅうベッドにいなくてもいいんだよ。まず第一に、傷口を太陽にあてなければいけない。そのあとは、松葉杖で歩いていいんだ」
「六ヵ月たって、それから手術をうけるんですか?」
「そのほうが安全なんだ。異物が包嚢で包まれるようにしておかなければならない。関節滑液も新しくできるだろう。そうなれば、膝を切開するのも安全なんだ」
「ぼくがそんなに長く待たなければならないと、ほんとにそうお考えですか?」
「そのほうが安全なんだ」
「あの一等大尉はどういう人なんです?」
「ミラノのとてもすばらしい外科医さ」
「一等大尉なんでしょう」
「うん、でも、すばらしい外科医だ」
「ぼくは一等大尉なんかに足をいじくりまわされたくないんです。すこしでもうまけりゃ、少佐になりますからね。一等大尉がどんなものか、ぼくは知ってますよ、先生」
「あの人はすばらしい外科医だ。ぼくは知り合いのどんな外科医よりもあの人の診断に従いたいね」
「ほかの外科医にみてもらえませんか?」
「うん、いいとも、お望みなら。でも、ぼくとしてはバレルラ博士の意見に従いたいね」
「ほかの外科医に来診をお願いしていただけますか?」
「ヴァレンチーニに来てもらおう」
「どんなかたですか?」
「オスペダーレ・マッジォーレ病院の外科医だが」
「結構です。おおいに感謝します。おわかりでしょう、先生、ぼくは六ヵ月もベッドに寝てなんかいられないんです」
「ベッドにいなくていいんだよ。まず第一に、日光療法をやるんだ。それから、軽い運動をやってもいい。それから、それが包嚢で包まれれば、手術をするんだ」
「でも、ぼくは六ヵ月も待てないんです」
軍医は手にしていた帽子の上に華奢《きゃしゃ》な指をひろげて、ほほえんだ。「前線に戻ろうと、ひどくせいているんだね」
「そうですとも」
「そいつはまことにうるわしい」と彼が言った。「きみは高潔な青年だね」彼はかがみこみ、そっとぼくの額にキスした。「ヴァレンチーニを呼びにやりましょう。心配して、興奮しないように。おとなしくしてなさい」
「お飲みになりませんか?」とぼくがきいた。
「いや、ありがとう。ぼくはアルコールは飲まないんでね」
「一杯だけ」ぼくは門衛にグラスをもってこさせようとベルを鳴らした。
「いや。いや、ありがとう。みんながぼくを待ってるから」
「さようなら」とぼくが言った。
「さようなら」
二時間後、ヴァレンチーニ博士が部屋にはいってきた。非常にせっかちで、口髭の先がぴんとはね上がっていた。少佐で、日焼けした顔で、しょっちゅう笑った。
「どうしたんだね、このひどい傷は?」と彼がたずねた。「乾板を見せてごらん。うん。うん。そうなんだ。きみは山羊《やぎ》のように丈夫にみえる。この美人はだれだね? きみの恋人かね? そうだと思ったよ。ひどい戦争じゃないかね? この傷はどうだ? 君はすてきな青年だ。すっかり、よくしてあげるよ。そこ、痛むかね? 痛むにきまってるよ。あの軍医たちは、きみを痛がらせるのが好きなんだなあ。今までにきみにどんな手当をしたかね? あの娘《こ》はイタリア語が話せないのかな? イタリア語を覚えたほうがいいね。なんてかわいい女の子だろう。ぼくが教えてもいいがね。ぼくもここの患者になりたいね。いや、やめた。だが、あんたの出産のことはいっさい無料でやってあげよう。この言葉、あの娘にわかったかな? きみにりっぱな男の子を生んでくれるよ。彼女のようなりっぱな金髪を。いいぜ。結構だぜ。なんてかわいい女の子なんだろう。ぼくといっしょに夕食をとるかどうかたずねてくれよ。いや、きみから盗みゃあしないよ。ありがとう。お嬢さん、どうもありがとう。これでおしまい」
「これだけわかれば、もういい」彼はぼくの肩をたたいた。「繃帯はとったままにしときなさい」
「一杯いかがです、ヴァレンチーニ博士」
「一杯? そりゃいい。十杯でもやりますよ。どこにあるのかね?」
「衣装箪笥のなかです。ミス・バークレイが壜をとってくれます」
「乾杯、お嬢さん、あんたのために乾杯。なんてかわいい娘さんだろう。これよりいいコニャックを持ってきてあげよう」彼は口髭をふいた。
「手術はいつになるんですか?」
「明朝。それより早いわけにはいかない。きみは胃をからにしとかなけりゃならない。すっかり洗滌《せんじょう》しといてもらわなけりゃあ。階下《した》の年とった婦人に会って、指示しておこう。さようなら。では、あした。あれよりもいいコニャックを持ってくるよ。きみはここではとても居心地がいいんだろ。さようなら。では、あした、また。よく眠りたまえ。早く来るから」彼は戸口で手を振った。口髭がぴんとはね上がり、日焼けした顔がほほえんでいた。袖に星がひとつ枠にかこまれていた。少佐だからだ。
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第十六章
その夜、蝙蝠《こうもり》があけっぱなしのドアから部屋に飛びこんできた。そのドアはバルコニーに通じていて、ぼくとキャサリンは町の屋根の上の夜空をながめていたのだ。部屋のなかは暗く、ただ町の上の夜空がほんのり明るいだけで、蝙蝠は怖れげもなく、戸外にでもいるかのように、部屋のなかを飛びまわっていた。ぼくたちは横になって、蝙蝠を眺めていたが、蝙蝠はぼくたちに気づかなかったようだ。ぼくたちがじっと動かずに横になっていたからだ。蝙蝠が出ていくと、一条のサーチライトが光りだすのが見え、その光線が空を横切って動くのをながめていると、やがて消え、また暗くなった。夜のなかで微風が吹き、隣の屋上の高射砲の砲兵たちの話し声が聞こえた。涼しく、彼らは肩マントを着ているところだった。ぼくは夜の暗いなかでだれかがあがってきはしないかと心配したが、キャサリンはみんな眠っていると言った。夜なかに一度、ぼくたちは眠った。そして、ぼくが目をさますと、彼女はそばにいなかったが、彼女が廊下を歩いてくるのがきこえ、ドアが開き、彼女がベッドにもどってきて、だいじょうぶよ、階下にいってきたけど、みな眠ってるわ、と言った。彼女はミス・ヴァン・キャンペンの部屋の前までいってみたが、彼女の寝息がきこえた、と言った。彼女はクラッカーをもってきたので、二人でそれを食べ、ベルモットをいくらか飲んだ。二人ともすごく空腹だったが、彼女は朝になったらあなたはすっかり出してしまわなければならないのよ、と言った。ぼくは、朝、明るくなってから、また眠った。目をさますと、彼女がまたいなかった。彼女は生き生きと美しい顔付きではいってきて、ベッドの上にすわった。ぼくが口に体温計をくわえているうちに、太陽があがった。屋根の上に朝露のにおいがし、それから、隣の屋上にいる砲兵たちのコーヒーの香りがしてきた。
「散歩にいけるといいのにね」とキャサリンが言った。「車椅子があれば、押してってあげるのに」
「車椅子にどうやって乗ればいいんだ」
「あたしが助けて乗せてあげるわ」
「公園に出かけていって、外で朝食がとれるんだね」ぼくはあけ放ったドアから外をながめた。
「あたしたち、ほんとは」と彼女が言った。「お友だちのヴァレンチーニ博士がお見えになってもいいように、あなたの準備をしておかなければならないのよ」
「あの人はえらいと思ったよ」
「あのかた、あなたほど好きじゃないわ。でも、すごくいいかただわ」
「ベッドのほうにもどっておいで、キャサリン。さあ」とぼくは言った。
「だめよ。あたしたちすばらしい夜をすごしたじゃない?」
「で、今夜も夜勤になれるかい?」
「きっと、なれるわ。でも、あなたはもうあたしをほしがらないわよ」
「いや、ほしい」
「いいえ、ほしがらないわよ。あなたは手術を受けたことがないのよ。どんなになるかわかんないのよ」
「だいじょうぶだよ」
「気分が悪くなって、あたしなんかどうでもよくなるわよ」
「じゃあ、いま、こっちにおいで」
「だめよ」と彼女が言った。「体温表をつくっておかなければならないの。それに、あなたの用意をしておかなくちゃ」
「ほんとぼくを愛していないんだね。でなけりゃ、もういちど、ここに来るはずだ」
「あきれたおばかさんね」彼女はぼくにキスした。「体温表のほうはだいじょうぶなのよ。あなたの体温はいつも平常よ。あなたの体温はすばらしいわ」
「きみにかかったら、なんでも、すばらしくなっちゃうんだな」
「いいえ、ちがうわ。あなたの体温がすばらしいのよ。あたし、あなたの体温をとても自慢してるのよ」
「きっと、ぼくたちの子供はみんなすばらしい体温だろうよ」
「あたしたちの子供は、たぶん、動物のような体温でしょうね」
「ヴァレンチーニが来るまでにぼくの用意をするって、何をしなけりゃあならないんだい?」
「たいしたことじゃないのよ。でも、とても不愉快なこと」
「そんなことしなくてよければいいんだが」
「しなくてもいいのよ。ただ、だれにもあなたにさわらせたくないの。あたしおばかさんね。だれかがあなたにさわると、あたし、かっとなるのよ」
「ファーガスンでもかい?」
「ことにファーガスンと、ゲージと、もひとりの人、なんていう名でしたっけ」
「ウォーカー?」
「そうよ。いま、ここには看護婦が多すぎるわ。もすこし患者さんが多くなければ。じゃないと、あたしたち、よそへやられるわ。いま、看護婦が四人もいるのよ」
「きっと、患者がふえるよ。そのくらいの看護婦は必要だよ。とても大きな病院だもの」
「ふえるといいわ。あたし、よそにやられたらどうしましょう? 患者さんがふえなければ、そうなるわ」
「ぼくもいくよ」
「おばかさんね。あなたはまだいかれないわ。でも、あなた、すぐよくなってちょうだいね。そしたらどこかへいきましょう」
「それからどうするんだ」
「きっと、戦争が終わるわ。いつまでも続くはずないわ」
「ぼくはよくなるさ」とぼくが言った。「ヴァレンチーニが治してくれるよ」
「治すはずよ、あんな口髭を生やしてるんですもの。それから、あなた、エーテルをかがされているときは、何かほかのことを考えてちょうだい――あたしたちのことでなく。麻酔をかけられると、すごくおしゃべりになるものよ」
「何を考えればいいんだい?」
「なんでもいいのよ。あたしたちのことでなければ、なんでも。あなたの家の人たちのことを考えてらっしゃい。それとも、だれかほかの女のひとでもいいわ」
「いやだね」
「じゃあ、お祈りでもしてらっしゃい。そうしたらすばらしい効果があるにちがいないわ」
「きっと、しゃべらないよ」
「そうかもしれないわ。しゃべらない人もずいぶんいるわよ」
「しゃべらないとも」
「自慢しないでよ。おねがい、自慢しないで。あなたはとてもいいかたなんですもの、自慢しなくってもいいのよ」
「ひと言もしゃべらないよ」
「ほら、自慢してるじゃない。自慢しなくってもいいのよ。深呼吸してと言われたら、ただお祈りをはじめるとか、詩か何かをはじめてね。そうすれば、あなたはすばらしいかたよ。あたしあなたをとても誇りに思うわ。とにかく、あなたを、あたし、誇りに思ってるのよ。あなたの体温はすごくすばらしいし、あなたは小さな子供のように枕を抱いて寝て、枕をあたしと思っているんですもの。それとも、だれかほかの女のひとかしら? だれかいいイタリアの女のひと?」
「きみだよ」
「もちろん、あたしだわ。まあ、あなた、ほんとに好きよ。ヴァレンチーニ先生があなたの足をよくしてくださるわ。あたし、手術を見ていなくていいから、ありがたいわ」
「じゃあ、今夜は、夜勤なんだね」
「ええ。でも、あなたはどうでもいいと思うわよ」
「まあ見ててごらん」
「さあ、あなた。これでからだの内も外もすっかりきれいになったわ。ねえ、おっしゃって。あなた、これまでになん人、好きなひとがあって?」
「一人もいないよ」
「あたしも?」
「ああ、きみは好きだよ」
「ほんとは、ほかになん人?」
「いないよ」
「なん人――なんて言うのかしら――いっしょに泊まったひと?」
「いないよ」
「嘘ばっかり」
「ふん」
「そんなことかまわないのよ。いつまでも嘘いってなさい。あたし、そうしてほしいわ。そのひとたち、きれいでしたの?」
「ぼくはだれともいっしょに泊まったことなんかないよ」
「そうだわね。そのひとたち、とても魅力があって?」
「そんなこと何も知らないよ」
「あなたはあたしだけのものよ。それはほんとよ。ほかのだれのものでもないわ。でも、あなたがだれかのものだったとしても、かまわないわ。そんなひとたち、こわくはないわ。でも、そんなひとたちのこと言わないでね。女のひとと泊まるとき、女のひとは、いつ、いくらだと言いだすの?」
「知らないね」
「もちろん、知らないわね。そのひと、男のひとを愛してるって言うのかしら? 教えてちょうだい。知りたいのよ」
「言うよ。男が女にそう言ってもらいたければね」
「男のひとは女のひとを愛してると言うの? 教えてよ、ねえ、大切なことよ」
「言いたければ、言うさ」
「でも、あなたは言わなかったのね? ほんと?」
「言わなかったよ」
「ほんとに言わなかったのね。ほんとなのね?」
「言わなかったよ」とぼくは嘘をついた。
「言わなかったわね」と彼女が言った。「言わないわよ、ね。まあ、あたし、あなたが好きよ、あなた」
外では太陽が屋根の上にあがり、寺院の尖塔《せんとう》に朝日がさしているのが見えた。ぼくはからだの内も外もきれいになり、軍医を待っていた。
「で、そうなの?」とキャサリンが言った。「男のひとが言ってもらいたいことを、女のひとは言うものなの?」
「そうとは限らないよ」
「でも、あたし、そうするわ。あなたのお望みのことを言い、お望みのことをするわ。そうすれば、あなたはほかの女のひとなんかけっしてほしがらないでしょう?」彼女はとてもたのしそうにぼくを見た。「あたしはあなたのしてほしいことをして、言ってほしいことを言うわ。そうすれば、あたしは大成功よ、ねえ?」
「そうだよ」
「あなたの用意はすっかりできたわ。あたしに何をしてほしい?」
「もう一度ベッドに来てくれ」
「いいわ。いくわ」
「ああ、きみはかわいい、きみはかわいい、きみはかわいい」とぼくは言った。
「ねえ」と彼女が言った。「あなたのしてほしいことならなんでもしてよ」
「きみはとてもすばらしいな」
「あたし、まだ、これ、あんまりじょうずじゃないかしら」
「きみはすばらしいよ」
「あたし、あなたのほしいものがほしいの。もうあたしというものがないのよ。ただあなたのほしいものだけなのよ」
「きみはすてきだ」
「あたし、いいでしょ。よくなくって? ほかの女のひとなんかほしくはないでしょう、ねえ?」
「ああ」
「ねえ? あたし、いいでしょ。あなたのしてほしいことをしてあげるのよ」
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第十七章
手術のあとで目がさめると、ぼくはあの世へいってはいなかった。あの世なんかにいくものではない。ただ、息がつまるだけだ。死ぬのとはちがう。まさに、薬品のための窒息で、感覚がなくなり、そのあとは、酒に酔ったのと同じになる。ただちがうのは、吐いても出てくるのは胆汁だけで、あとになっても気分はよくならない。ベッドの端に砂袋が見えた。それはギプスから出ている管にぶらさげてあった。しばらくすると、ミス・ゲージがあらわれ、「ご気分はいかが?」と言った。
「ずっとよくなりました」とぼくは言った。
「あなたの膝にすてきな手術をしたんですよ」
「どのくらい時間がかかりました?」
「二時間半です」
「ぼく、何かつまらないこと、しゃべりましたか?」
「なんにも。口をきいてはいけません。ただ静かにしてなさい」
ぼくは気分が悪かった。キャサリンの言ったとおりだった。だれが夜勤であろうと、同じことだった。
いまでは、病院に、患者がほかに三人いた。マラリアにかかった、赤十字勤務の痩《や》せたジョージア出身の青年、マラリアと黄疸《おうだん》にかかった、これも痩せた、ニューヨーク出身のすてきな青年、榴霰弾《りゅうさんだん》と高性能爆弾の混合弾から信管のキャップを抜きとって記念品にしようとしたすばらしい青年。これはオーストリア軍が山岳部で使用した榴霰弾で、その先端のキャップは炸裂《さくれつ》したあとも飛びつづけ、なにかに接触すると破裂するものだった。
キャサリン・バークレイは看護婦たちに非常に好かれた。彼女がいつまでも夜勤をするからだった。彼女はマラリアの患者たちの仕事がすごくたくさんあった。信管のキャップを抜きとった青年はぼくたちの味方で、夜は必要でなければベルを鳴らさなかった。だが、ぼくたちは勤務時間のあいまあいまにいっしょになった。ぼくは彼女を非常に愛し、彼女もぼくを愛した。ぼくはひるまは眠った。ひるま、目をさましているときは、ぼくたちはたがいに短い手紙を書き、ファーガスンに頼んでやりとりした。ファーガスンはいい女だった。第五十二師団に兄がいて、メソポタミアにべつの兄がいるということしか、ぼくは彼女については知らなかったが、彼女はキャサリン・バークレイにはとても親切だった。
「ぼくたちの結婚式に来てくれますか、ファーギー?」とあるときぼくは彼女に言った。
「あなたがたは結婚しませんよ」
「するとも」
「いいえ、しませんよ」
「なぜ?」
「結婚するまえに喧嘩するわ」
「喧嘩なんかしない」
「まだこれからよ」
「喧嘩しない」
「じゃあ、死ぬわ。喧嘩するか、死ぬかよ。人間ってそんなものよ。結婚なんかしないわ」
ぼくは彼女の手をとろうと手をのばした。「手をとったりしないで」と彼女が言った。「わたし、泣いてなんかいないわ。たぶん、あなたがたはだいじょうぶかもしれないわ。でも、気をつけてね、あのかたを困らせないでね。困らせたりしたら、あなたを殺すわよ」
「困らせやしないよ」
「じゃあ、気をつけてね。あなたがたはだいじょうぶだろうと思うわ。たのしんでらっしゃるわね」
「たのしんでるよ」
「じゃあ、喧嘩しないでね。あのかたを困らせないでね」
「困らせやしないよ」
「せいぜい、気をつけてね。あのかたに近ごろよくある戦争私生児をうませたくないわ」
「あんたはいいひとだ、ファーギー」
「とんでもないわ。お世辞など、言わないでよ。足はどうなの」
「いいよ」
「頭はどう?」彼女は指で頭のてっぺんに触った。それはしびれのきれた足のように敏感だった。
「もうなんともないよ」
「あんなに打たれたら気ちがいになるものだけど、ちっともなんともないの?」
「うん」
「あなたは幸運よ。お手紙お書きになった? わたし、階下《した》にいきますから」
「ここにある」とぼくは言った。
「あのかたにしばらく夜勤をしないように言ったほうがいいわ。疲れてるわ、すごく」
「よし、そうしよう」
「わたし、夜勤をしたいけど、あのかたがさせないのよ。ほかの人たちは、あのかたにさせといて喜んでるのよ。あなたなら、あのかたを、すこし休ませられるかもしれないわ」
「よし、わかった」
「ミス・ヴァン・キャンペンはあなたが午前中ずうっと眠ってらっしゃるって言ってましたわ」
「そうだろう」
「しばらくあのかたに夜勤を休んでもらえたら、いいんだけど」
「ぼくもそうしてもらいたい」
「嘘でしょう。でも、あのかたを休ませられたら、わたし、あなたを尊敬するわ」
「休ませるよ」
「ほんとかしら」彼女は短い手紙を受け取って、出ていった。ぼくはベルを鳴らした。まもなく、ミス・ゲージがはいってきた。
「どうなさったの?」
「きみにちょっとお話したかったんです。ミス・バークレイはしばらく夜勤を休んだほうがいいと思いませんかね? おそろしく疲れているように見えるんだけど。なぜあんなに長くつづけているんです?」
ミス・ゲージはぼくを見た。
「あたしはあなたの味方よ」と彼女が言った。「あたしにはそんなふうに話さなくてもいいのよ」
「どういう意味?」
「しっかりしてよ。ご用ってそれだけ?」
「ベルモット、どう?」
「ええ、いただくわ。でも、すぐいかなければならないのよ」彼女は衣装箪笥から壜を取りだし、グラスをもってきた。
「きみ、グラスをもちたまえ」とぼくが言った。「ぼくは壜から飲むよ」
「あなたのために乾杯」とミス・ゲージが言った。
「ぼくが朝おそくまで眠っているのを、ヴァン・キャンペンはなんて言ってる?」
「ぶつぶつ言ってるだけよ。あなたのことをここの特別の患者だと言ってるわ」
「くそくらえだ」
「意地悪なんじゃないのよ」とミス・ゲージが言った。「ただ、年とって、偏屈なのよ。はじめっからあなたが嫌いなのよ」
「そうだろう」
「でも、あたしは、あなた、好きよ。あなたの味方よ。それは忘れないでね」
「きみはとてもいいひとだ」
「いいえ、あなたがいいと思ってらっしゃるのはだれだかわかってるわ。でも、あたし、あなたの味方よ。足はどうなの?」
「いいよ」
「冷たい鉱水をもってきて、かけましょう。ギプスの下が、きっと、かゆいわ。外まで熱くなってるもの」
「すごく親切だね」
「とてもかゆい?」
「いや、だいじょうぶ」
「その砂袋をもっとよく直してあげましょう」彼女はかがみこんだ。「あたし、あなたの味方よ」
「わかってるよ」
「いいえ、わかってないわ。でも、いつか、わかるわ」
キャサリン・バークレイは夜勤を三晩やすんだ。それから、また夜勤をはじめた。それは、ぼくたちがおのおの長い旅に出て離れていたあとで、再会したようなぐあいだった。
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第十八章
ぼくたちは、その夏、すばらしい時を過ごした。ぼくが外出できるようになると、ぼくたちは馬車に乗って公園へいった。ぼくは、馬車や、ゆっくり進む馬や、光沢のある山高帽をかぶった前方の馭者《ぎょしゃ》の背中や、そばにすわっていたキャサリン・バークレイを忘れない。ぼくたちは手が触れあうと、ただぼくの手の端が彼女の手に触れただけで、興奮した。その後、松葉杖で歩きまわれるようになると、ぼくたちはビフィの店かグラン・イタリアに正餐《せいさん》を食べにいき、外の廻廊《ガルレリーア》にあるテーブルにすわった。ボーイが出入し、おおぜいの人がそばを通り、テーブル・クロスの上にはシェードをつけた蝋燭《ろうそく》があり、ぼくたちがグラン・イタリアが一番いいと決めてからは、へッド・ウェイターのジョルジョがぼくたちにテーブルをとっておいてくれた。彼はいいボーイで、ぼくたちは彼に食事の注文をまかせて、そのあいだに、人々や夕暮れの廻廊《ガルレリーア》を見やり、また、おたがいを見つめあったりした。ぼくたちは桶に氷でつけてある辛口の白カプリ酒を飲んだ。もっとも、フレーザ(リキュールの一種)とか、バルベーラ(赤ワインの一種)とか、甘口の白ワインなどといった、ほかのワインもあれこれ試みてはみた。戦争のためにワイン専門のボーイはいなかった。ぼくがフレーザのようなワインのことをたずねると、ジョルジョはいつも恥ずかしそうに微笑した。
「ワインがいちごのような味がするからというわけで、そいつをつくっている国があるなどと思われてはね」と彼が言った。
「なぜいけないの?」とキャサリンがたずねた。「すばらしいじゃない」
「おためしなさいまし、奥さま」とジョルジョが言った。「よろしかったら。でも、|中尉さん《テネンテ》にはマルゴー(フランスのマルゴー地方に産する赤ワイン)の小壜をもってまいりましょう」
「ぼくもそいつをやってみよう、ジョルジョ」
「旦那、あなたにはおすすめできません、いちごの味さえしないんですから」
「するかもしれないわ」とキャサリンが言った。「そしたら、すばらしいわ」
「お持ちしましょう」とジョルジョが言った。「そして、奥さまがご満足なさったら、おさげいたしましょう」
それはワインというほどのものではなかった。彼の言うように、いちごの味さえしなかった。ぼくたちはまたもとのカプリ酒にした。ある夕方、ぼくが金が足りなくなると、ジョルジョが百リラ貸してくれた。「かまわないんですよ、|中尉さん《テネンテ》」と彼が言った。「わかっています。どんなことでお金が足りなくなるかわかっています。あなたでも、奥さまでも、お金が必要のときは、わたしがいつでもご用立てしますよ」
正餐の後、ぼくたちは廻廊《ガルレリーア》を通りぬけ、ほかのレストランや鉄のシャッターをおろした店の前を通って、サンドイッチを売っている小さな店に立ちよった。ハムとレタスのサンドイッチや、ほんの指の長さぐらいしかない小さな、狐色のつやのあるロールパンのアンチョヴィ・サンドイッチ(アンチョヴィは地中海産の小さいいわし)があった。これらは夜なか、ぼくたちが空腹になったとき食べるためのものだった。それから、寺院の前の廻廊《ガルレリーア》の外でオープンの馬車に乗り、病院まで走らせた。病院の玄関では、門衛が出てきて、松葉杖に手を貸してくれた。ぼくは馭者に料金を払い、それから、ぼくたちはエレベーターで上にあがった。キャサリンは看護婦たちのいる下のほうの階でおり、ぼくはさらにのぼって、松葉杖をついて、ぼくの部屋へ廊下をわたっていった。ときにはぼくは服をぬいで、ベッドにはいったが、ときにはバルコニーに出て腰かけ、ほかの椅子に足をのせて、屋根の上のほうを飛んでいる燕をながめ、キャサリンを待った。彼女があがってくると、彼女が長い旅に出ていたような気持ちになり、ぼくは松葉杖をついて彼女といっしょに廊下を歩き、洗面器を運んで、よその病室のドアの外で待ったり、または、いっしょに中にはいった。中にはいるかはいらないかは、その部屋の人がぼくたちの味方か否かによってきまった。そして、彼女がやらなければならないことをすっかり終えると、ぼくたちはぼくの部屋の外のバルコ二ーに出て腰をおろした。それから、ぼくはベッドにはいった。みんなが寝しずまって、もう呼ばれないと確信がつくと、彼女がはいってきた。ぼくは彼女の髪を解くのが好きで、彼女はベッドにすわったまま、じっと静かにしていた。ただ、ぼくがそうしていると、急にぼくにキスしようと、かがみこむのだった。ぼくはピンを抜いて、シーツの上に並べた。髪がほどけた。ぼくは、彼女がじっと静かにしているあいだ、彼女をながめた。それから、最後のピンを二つ抜くと、髪はすっかりたれさがるのだった。彼女は首をうなだれ、ぼくたち二人はその内がわにはいるのだった。それはテントの内がわか、滝の裏がわにいる感じだった。
彼女はすばらしく美しい髪をしていた。ぼくは、ときおり、寝たまま、開いたドアからさしこむ光のなかで彼女が髪を結いあげるのをながめるのだった。いよいよ夜が明けようとするまぎわに、ときおり、水が輝くように、彼女の髪は夜の暗さのなかで輝いた。彼女は顔やからだが美しく、肌も美しく、なめらかだった。ぼくたちはいっしょに横になって、ぼくは指先で彼女の頬や目の下や喉に触って、「ピアノのキイのようになめらかだね」と言い、彼女はぼくの顎を指でなでて、「紙やすりのようになめらかで、ピアノのキイのうえでは、とてもかたいのね」と言うのだった。
「ざらざらしてるのかい?」
「ううん。からかってみただけよ」
夜はすばらしく、ぼくたちはからだがちょっと触れあえるだけで、仕合わせだった。はげしく愛し合う時もあったが、また、ちょっとしたことで愛しあうこともたびたびで、べつべつの部屋にいるときなどにも、おたがいの思いを相手に通じさせようとつとめた。ときにはうまくいったこともあったようだが、たぶんそれは、ぼくたちがとにかく同じことを考えていたためだった。
ぼくたちは彼女がはじめて病院に来た日に結婚したのだとおたがいに言い合い、その結婚の日から幾ヵ月たったか数えた。ぼくは正式に結婚したかったが、キャサリンはもしそうすれば彼女は送りかえされるし、ただ結婚の手続きをはじめるだけでも、みんなから監視されて仲をさかれるだろう、と言った。ぼくたちはイタリアの法律で結婚しなければならないだろうし、正式の手続きはおそろしくめんどうだった。ぼくは子供ができることを考えると気になって、正式に結婚したいと思った。だが、ぼくたちはおたがいに結婚したようなふりをしてあまり気にしなかったし、正直のところ、ぼくは結婚していないことをたのしんでいたようだった。ある晩、そのことについて話しだしたのだが、キャサリンは「でも、あなた、あたしがどこかへやられてしまうわよ」と言った。
「たぶん、そんなことはないよ」
「いいえ、あたし、本国に送りかえされるわ。そうなったら、あたしたち、戦争が終わるまで別れているのよ」
「ぼくは休暇をとって訪ねていくよ」
「休暇ぐらいでは、スコットランドにいったら、もどってこれないわ。それに、あたし、あなたと別れたくないの。いま結婚して、なんになるの? あたしたちはほんとうは結婚しているのよ。これ以上、結婚するわけにはいかないわ」
「ぼくはただきみのためにそうしたいと思ったんだ」
「もうあたしなんてないわ。あたしはあなたよ。別れているあたしなんてものをでっちあげないでね」
「ぼくはまた、女はいつも結婚したがるものだと思ってたんだ」
「女ってそうよ。でも、あなた、あたしは結婚してるのよ。あなたと結婚してるのよ。あたしあなたのいい奥さんじゃない?」
「すばらしい妻だ」
「ねえ、あなた、あたしは結婚を待っていた経験が一度あるの」
「それは聞きたくないね」
「あたしはあなた以外のだれも愛していないわ。だれかほかのひとがあたしを愛したって、気になさってはいけないわ」
「気になるね」
「なにもかもあなたのものなのに、死んだひとなんて嫉《や》くもんじゃないわ」
「嫉いちゃいないんだが、そのことは聞きたくないんだ」
「困ったかたね。あなたはいろんな女のひとといっしょだったんでしょう。でも、そんなことあたしにはなんでもないのよ」
「なんとかしてこっそり結婚できないかね? そうすれば、ぼくにどんなことが起こっても、また、きみに子供ができても」
「結婚するには教会か国の法律によるほかないわ。あたしたちはこっそり結婚しているのよ。ねえ、あなた、あたしに宗教があるなら、結婚はあたしにとってはすべてよ。でも、あたしには宗教はないのよ」
「きみは聖アントニオのお守りをくれたじゃないか」
「あれはおまじないよ。だれかがあたしにあれをくれたのよ」
「じゃあ、なんにも心配はないんだね?」
「あなたのそばから送りかえされることだけ。あなたはあたしの宗教よ。あなたはあたしのすべてよ」
「よし。でも、ぼくきみの言う日に結婚しよう」
「あなた、あたしを正式の妻にしなけりゃならないというようなことは言わないで。あたしは正式な妻よ。あなたが幸福で、それを誇りにしてらっしゃるかぎり、どんなことも恥じることはないわ。あなた、幸福じゃなくって?」
「でも、ぼくをすててだれかほかの男のところへなんかいきはしないだろうね?」
「いやねえ、あなた。あなたをすててほかのひとのところへなんかいきっこないわ。これからさき、あたしたちにはいろんな恐ろしいことが起こることよ。でも、そんなこと、気にすることはないわ」
「気にはしないよ。でも、ぼくはきみをこんなに愛しているんだ。それに、きみはまえにだれかを愛したんだ」
「で、そのひとはどうなったの?」
「死んだんだ」
「そうよ。そのひとが死ななかったら、あたし、あなたにお会いしなかったのよ。あたしは不実じゃないわよ。いろいろ欠点はあるけれど、あたしは、とても貞節よ。あなたがいやになるくらい、あたし、貞節よ」
「ぼくはすぐに前線にもどっていかなけりゃならないだろう」
「あなたが行かれるまで、そんなこと、考えるのはよしましょう。ねえ、あなた、あたしは幸福よ。あたしたちはすばらしい時をすごしているのよ。あたしは、長いあいだ、幸福じゃなかったのよ。で、あなたにお会いしたとき、おそらく、あたしは気が狂いそうだったわ。きっと、気が狂っていたのよ。でも、いまは、あたし、幸福よ。おたがいに愛しあってるんですもの。どうぞ、おねがい、幸福でいましょうよ。あなた、幸福でしょう、ねえ? あたし、あなたのお気にさわること何かして? 何かあなたをたのしませること、あたしにできて? あたしにこの髪をほどかせたい? お遊びしたい?」
「ああ、ベッドにおいで」
「いいわ。そのまえに患者さんを見てくるわ」
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第十九章
その夏はそのようにして過ぎた。暑く、新聞が多くの勝利を報じていたほかは、その日々についてはあまり憶《おぼ》えていない。ぼくはすごく健康で、足もすぐに回復したので、はじめ松葉杖をついていたのだが、まもなく、それもいらなくなり、ステッキで歩くようになった。それから、ぼくはオスぺダーレ・マッジォーレで膝を曲げる治療をはじめ、機械療法をやり、反射鏡のついた箱のなかで紫外線にあたり、マッサージを受け、温浴した。ぼくは午後そこに行った。治療がすむと、カフェによって、一杯やり、新聞を読んだ。町をぶらつきはしなかった。カフェからまっすぐ病院に帰りたかった。ぼくのしたいことは、ただキャサリンに会うことだけだった。そのほかの時は、すすんで時間をむだにしていた。たいていは、午前中は眠り、午後は、ときたま、競馬に行き、おそくなってから、機械療法を受けにいった。ときには、アングロ・アメリカン・クラブにより、窓べの、クッションのきいたふかぶかとしたレザーの椅子に腰をおろし、雑誌を読んだ。松葉杖がいらなくなってからは、ぼくたちはいっしょに外出させてもらえなくなった。付き添いを必要としないように見える患者と看護婦が年上の人の同伴もなくいっしょにいるのは見苦しいからというのだった。それで、ぼくたちは午後はあまりいっしょにいなかった。もっとも、ファーガスンがつきあってくれれば、ときおり、正餐に出かけることができた。ミス・ヴァン・キャンペンは、キャサリンがたくさん仕事をするので、ぼくたちが大の親友だという状態を認めていた。彼女はキャサリンが非常にいい家の出だと思い、そのため、しまいには、偏見と思われるほど彼女の肩をもった。ミス・ヴァン・キャンペンは家がらを非常に重んじたが、彼女自身もりっぱな家の出だった。病院もひどく忙しかった。そのため、彼女は仕事におわれていた。暑い夏で、ぼくはミラノに知り合いが多かったが、いつも、日が暮れるとすぐ病院に帰りたかった。前線ではカルソー地方で進撃中で、プラーヴァからさらに進んでクックを占領し、バインスィッツァ高地を占拠しようとしていた。西部戦線はあまりかんばしくないようだった。戦争は長期にわたって続きそうに思われた。わがアメリカもいまは参戦していたが、大部隊をこちらにまわして戦闘の訓練をするには、一年はかかるだろう、とぼくには思われた。来年は悪い年になるだろう。それとも、いい年になるかもしれない。イタリア軍はおそろしく大量の人員を使いつくしていた。どうやってつづけていけるのか、ぼくにはわからなかった。イタリア軍がバインスィッツァ全部とモンテ・サン・ガブリエーレを占領したところで、オーストリア軍にはまだその背後に多くの山々が残っていた。ぼくはそれらを見たことがあった。最高峰はみな向こう側にあった。カルソー地方ではイタリア軍は前進していたが、海岸の近くには沼沢や湿地があった。ナポレオンならオーストリア軍を平地で撃破しただろう。彼なら山岳地帯で彼らと戦うようなことはけっしてしなかっただろう。彼なら彼らを低地におびきよせてヴェロナ周辺で撃破しただろう。西部戦線ではまだだれも相手を打ち負かしてはいなかった。おそらく、戦争はこれ以上勝利になることはないだろう。たぶん、戦争は永久につづくだろう。たぶん、第二の百年戦争になるのだろう。ぼくは新聞を新聞掛けにもどし、クラブを出た。ぼくは注意して階段をおり、マンゾーニ街を歩いた。グラン・オテルの外で、マイヤーズ老夫婦が馬車からおりるのに出会った。彼らは競馬から帰ってきたところだった。夫人は黒じゅすの服を着た胸の大きな人だった。夫のほうは背が低く、としよりで、白い口髭を生やし、ステッキをついて、扁平足《へんぺいそく》みたいなかっこうで歩いた。
「まあ、こんにちは。いかが?」彼女は握手した。「やあ」とマイヤーズが言った。
「競馬はどうでした?」
「すてきでしたわ。とってもすばらしかったわ。勝ち馬を三度当てましてよ」
「あなたはどうでした?」とぼくはマイヤーズにたずねた。
「よかったよ。勝ち馬を一度当てた」
「このひとがどんなふうに賭けるか、わたしはまるでわかりませんよ」とミセズ・マイヤーズが言った。「わたしに一度も教えてくれませんもの」
「わしはうまくいってるんだ」とマイヤーズは言った。彼は真心のこもった顔付きになった。「あんたもお出かけにならなきゃ」彼が話しているときは、彼は相手を見ていないのか、だれかほかの人と思いちがいしている、という印象をあたえた。
「まいりますよ」とぼくは言った。
「あたし、病院におうかがいしますわ」とミセズ・マイヤーズが言った。「むすこたちにあげるものがございますので。あなたがたはみんなわたしのむすこですよ。たしかに、わたしのかわいいむすこですよ」
「みんなもお会いしたら、喜ぶことでしょう」
「あのかわいいむすこたち。あなたもですよ。あなたはわたしのむすこの一人ですよ」
「もう帰らなきゃなりません」とぼくは言った。
「あのかわいいむすこのみなさんによろしくおっしゃってくださいな。たくさんもっていくものがございますのよ。すてきなマルサーラ(シチリア島のマルサーラの近くでできるワイン)とケーキがありますわ」
「さようなら」とぼくは言った。「みんな、あなたにお会いしたら、すごく喜ぶでしょう」
「さようなら」とマイヤーズは言った。「廻廊《ガルレリーア》においでなさいよ。わしのテーブルのあるところをご存じでしょう。午後はいつもそこにおるんです」ぼくは街路をずっと歩いていった。キャサリンにもっていくものをなにかコーヴァで買おうと思った。コーヴァのなかでチョコレートを一箱買い、女店員がそれを包んでいるあいだに、酒場《バー》のところまで歩いていった。そこには二、三人のイギリス兵と数人の航空兵がいた。ぼくはマーティーニ(ベルモット、ジンでつくる代表的なカクテル)をひとりで飲み、その代金を払い、外のカウンターでチョコレートの箱を受けとり、病院のほうに歩いていった。スカラ座からの街路に面した小さな酒場の外に、知り合いの男が数人いた。副領事と、声楽を勉強している二人の男と、イタリア軍に加わっているサンフランシスコからやってきたイタリア人のエットーレ・モレッティだった。ぼくは彼らと一杯やった。歌手の一人はラルフ・シモンズという名だったが、エンリーコ・デル・クレードという芸名で歌っていた。どのくらいうまく歌えるかわからなかったが、彼は、いつも、どえらいことをやらかしそうな様子だった。肥っていて、乾草熱(初夏に花粉で目・鼻・のどなどに、おこるアレルギー症状)にでもかかっているように鼻と口のあたりがひからびていた。ピアチェンツァ(北イタリアのロンバルディア平原にある町)で歌っての帰りだった。トスカを歌い、すばらしい評判だった。
「もちろん、ぼくの歌ってるのを聞いたことはないだろ?」と彼がいった。
「いつ、ここで歌うんだ?」
「秋にスカラ座に出るんだ」
「きっと、ベンチを投げつけられるよ」とエットーレが言った。「モデーナ(北イタリアの都市)でベンチを投げつけられたって話、聞いたかい?」
「とんだ嘘っぱちだよ」
「ベンチを投げつけられたんだよ」とエットーレが言った。「ぼくはそこにいたんだぜ。ぼくもべンチを六つほど投げつけてやったんだ」
「きみはフリスコ(サンフランシスコの口語的呼び名)からきたイタ公じゃないか」
「この男はイタリア語が発音できないんだ」とエットーレが言った。「行くさきざきで、ベンチを投げつけられるんだ」
「ピアチェンツァは北部イタリアでいちばん歌いにくい劇場だからね」とほかのテナー歌手が言った。
「じっさい、あそこは歌いにくい小屋だ」このテナー歌手の名はエドガー・ソーンダーズといったが、彼はエドゥアルド・ジョヴァンニという芸名で歌っていた。
「行ってみたいな、そこに。きみがベンチを投げつけられるのを見にね」とエットーレが言った。「きみはイタリア語の歌は歌えないんだから」
「こいつはばかなんだ」とエドガー・ソーンダーズが言った。「ばかのひとつおぼえで、ベンチを投げつけるってことしか言えないんだ」
「きみたち二人が歌うときには、みんなは、そんなことしかできないんだよ」とエットーレが言った。
「そのくせ、アメリカに帰れば、スカラ座で大成功だったって言うんだろう。スカラ座じゃ、きみは最初の一節だって歌えないよ」
「ぼくはスカラ座で歌うよ」とシモンズが言った。「十月、トスカを歌うことになってるんだ」
「行ってみようじゃありませんか、ねえ、マック?」とエットーレが副領事に言った。「保護してやる人が必要でしょうからね」
「たぶん、アメリカ軍がいて保護してくれるだろうよ」と副領事が言った。「もう一杯どうだね、シモンズ? きみはどう、ソーンダーズ?」
「いただきましょう」とソーンダーズが言った。
「きみは銀功章をもらうという話じゃないか」とエットーレがぼくに言った。「どんな感状をもらうんだい?」
「知らないよ。そんなものもらうことさえ知らないよ」
「もらうんだろ。ああ、いいなあ。そうすりゃあ、コーヴァの女の子たちはきみをすばらしいと思うよ。みんなきみがオーストリア人を二百人殺したとか、一人で塹壕をまるごと占拠したと思うよ。いいかい、ぼくも勲章をもらうために、活躍しなくちゃ」
「勲章、いくつもってるんだね、エットーレ?」と副領事がきいた。
「勲章ならなんでももってるんですよ」とシモンズが言った。「彼のためにみんなが戦争しているようなもんさ」
「ぼくは青銅功章を二度と銀功章を三度もらった」とエットーレが言った。「でも、感状は一度しかもらわなかった」
「ほかのはどうしたんだね」とシモンズがたずねた。
「作戦が成功しなかったんでね」とエットーレが言った。「作戦が成功しないと、勲章はみんな保留になるんだ」
「なん回、きみは負傷したんだね、エットーレ?」
「三回、ひどいのをね。傷痍|徽章《きしょう》を三本もらった。ほら、ね?」彼は袖をひっぱってまわした。徽章は肩下八インチほどのところの袖の布地に縫いつけられた黒地に平行してついている銀色の線であった。
「きみも一つ付いているだろう」とエットーレがぼくに言った。「いいかい、こいつはりっぱなものだよ。勲章よりこいつのほうがいいくらいだ。いいかい、きみ、三本あれば、たいしたもんだ。きみは病院に三ヵ月も入れられるような負傷をして、一本しかもらえないんだな」
「どこを負傷したんだ、エットーレ?」と副領事がきいた。
エットーレは袖をまくりあげた。「ここだ」と彼はすべすべした赤い深い傷の痕を見せた。「足のここ。ゲートルを巻いているんで見せられないが。それに、足首。足首には死んだ骨がはいっていて、いまだに悪臭がするんだ。毎朝、新しい小さな骨を抜きとるんだが、しょっちゅう悪臭がするんだ」
「なんでやられたんだ?」シモンズがたずねた。
「手榴弾だ。あのじゃがいも潰《つぶ》し(木のにぎりのついている手榴弾)だ。ぼくの足首の片がわをすっかり吹きとばしやがったんだ。あのじゃがいも潰し、知ってるだろう?」と彼はぼくのほうをふり向いた。
「知ってるとも」
「ぼくはあん畜生がそいつを投げるのを見たんだ」とエットーレが言った。「ぼくはそいつにぶっ倒されて、てっきり死んじまったと思ったんだが、あのじゃがいも潰しのやつ、てんで威力がないんだ。ぼくはあん畜生を小銃で射ち殺してやった。ぼくはいつも小銃をもっているんで、やつらには将校だってことがわからないんだ」
「そいつ、どんな顔をしていた?」とシモンズがたずねた。
「それだけしか、やつはもってなかったんだよ」とエットーレが言った。「なぜ投げたのかわからんよ。いつも投げたがっていたんだろうよ。たぶん、ほんものの戦闘なんか見たことなかったんだろう。ぼくはあん畜生をうまく射とめたよ」
「きみが射ったとき、やっこさん、どんな顔してた?」とシモンズがだずねた。
「ちくしょう、知っちゃあいないよ」とエットーレが言った。「やつのどてっ腹にぶちこんでやった。頭をねらって射ちそこなっちゃいけないと思ったんでね」
「将校になってどのくらいだね、エットーレ?」とぼくがたずねた。
「二年だ。もうすぐ大尉さ。きみは中尉になってどのくらいだ?」
「三年になるよ」
「イタリア語をよく知らなけりゃ、大尉にはなれないぞ」とエットーレが言った。「きみは話せるが、読んだり、書いたりがじゅうぶんじゃない。大尉になるには勉強しなくちゃ。なぜ、アメリカ軍にはいらないんだ?」
「そのうち、はいるよ」
「ぼくもはいりたいんだがね。おい、きみ、大尉はいくらもらえるんだね、マック?」
「よくは知らないがね、二百五十ドルぐらいだろうね」
「おや、おや、二百五十ドルありゃあ、何だってできるぞ。早くアメリカ軍にはいったほうがいいよ、フレッド《フレデリック》。きみ、ぼくも入れてもらえるかどうかきいてくれよ」
「わかった」
「ぼくはイタリア語で中隊の指揮がとれるんだぜ。英語でだってすぐにできるようになるよ」
「大将になれるぜ」とシモンズが言った。
「いや、大将になれるほどの知識はないよ。大将はすごくたくさん知ってなきゃいけないからな。きさまたちは戦争には何もいらないと思ってるんだな。二等伍長になる頭もないね」
「そんなものになんなくてよかったよ」とシモンズが言った。
「きみたちのような兵役|忌避《きひ》者どもをかりたてるようになったら、たぶん、きみもそれくらいにはなれるだろうよ。ねえ、きみ、きみたち二人にぼくの小隊にはいってもらいたいよ。マックもね。ぼくの従卒にしてやろう、マック」
「きみはえらいんだなあ、エットーレ」とマックが言った。「でも、きみはどうも軍国主義者らしいな」
「ぼくは戦争が終わるまでには大佐になるよ」とエットーレが言った。
「戦死しなければね」
「戦死するもんか」彼は親指と人さし指で襟の星章にさわった。「ぼくのやってること、わかるかい? 戦死だなんて言うやつがあると、ぼくたちはいつも星章にさわるんだ」
「行こう、シム《シモンズ》」とソーンダーズが立ちあがりながら言った。
「よし」
「さよなら」とぼくは言った。「ぼくも帰らなきゃならないんだ」酒場のなかの時計は六時十五分前だった。
「|さよなら《チャオ》、エットーレ」
「|さよなら《チャオ》、フレッド」とエットーレが言った。「きみが銀功章をもらうなんて、まったくすばらしい」
「もらえるかどうか、まだわからないんだ」
「きっともらえるよ、フレッド。きっともらえるさ」
「じゃあ、さようなら」とぼくは言った。「悶着《もんちゃく》には関《かか》わりあうなよ、エットーレ」
「心配するなよ。飲みもしなけりゃあ、うろつきもしないよ。飲んべえでもなけりゃあ、淫売漁《いんばいあさ》りでもないんだぜ。どんなふうにすりゃいいか、心得てるよ」
「さよなら」とぼくは言った。「大尉に昇進するそうで、よかったね」
「昇進するのを待っちゃいられないんだ。戦功で大尉になるんだよ。ねえ、きみ。三つ星で、その上に交叉した剣と王冠だ。そいつがぼくさ」
「ごきげんよう」
「ごきげんよう。いつ前線に帰るんだ?」
「もうすぐさ」
「じゃあ、また」
「さよなら」
「さよなら。あばよ」
ぼくは病院の近道に通じる裏通りを歩いていった。エットーレは二十三だった。サンフランシスコで伯父に育てられたのだが、トリーノ(イタリア西北部の都市)の父母を訪ねていたとき、宣戦が布告されたのだった。妹があって、その妹は伯父のところで暮らすため彼といっしょにアメリカへ送られていたが、ことしは師範学校を卒業することになっていた。彼は正真正銘の英雄で、会う人はだれもうんざりした。キャサリンも彼には我慢できなかった。
「あたしたちの国にも英雄はいますわ」と彼女が言った。「でも、たいていは、あなた、もっと静かよ」
「ぼくは気にしないがね」
「あんなにうぬぼれなければ、そして、あたしをうんざりさせなければ、気にしないけど。ほんとにうんざりだわ」
「ぼくだって、うんざりだ」
「そういってくださって、うれしいわ。でも、その必要ないわ。あなたは前線でのあのひとの様子を心にえがけるし、それに役に立つひとだってこと、ご存じでしょう。でも、あのひと、あたしのすごく嫌いなタイプだわ」
「うん」
「わかっていただいて、すごくうれしいわ。あのひとを好きになろうとしてるのよ。でも、ほんとに、いやらしい、いやらしいひとね」
「きょうの午後、あいつ、大尉になるんだって言っていたよ」
「結構なことね」とキャサリンが言った。「あのひと、きっと喜んでるわよ」
「ぼくがもっと高い階級につけばいいと思わないかい?」
「いいえ、あなた。上等のほうのレストランに行けるだけの階級でたくさんよ」
「それならぼくのいまの階級でいいんだ」
「あなたはすばらしい階級だわ。それ以上の階級になってほしくないわ。そうなったら、のぼせあがっちゃいますもの。まあ、あなた、あなたがうぬぼれやさんでなくて、あたし、とっても嬉しいのよ。うぬぼれやさんでも、結婚したわ。でも、うぬぼれない夫をもっているなんて、すごく気がらくだわ」
ぼくたちはバルコニーに出て、静かに話していた。月がのぼるはずだったが、町の上に靄《もや》がかかり、月は出なかった。やがて、きり雨になり、ぼくたちは中にはいった。外では靄が雨にかわり、しばらくすると、雨がはげしく降り、屋根をぱたぱた打つ音がきこえた。ぼくは起きて、雨がふきこんでいないかと、ドアのところに行ってみたが、ふきこんではいなかった。それで、ドアをあけたままにしておいた。
「ほかにどなたにお会いになって?」とキャサリンがたずねた。
「マイヤーズ夫妻に会った」
「あの人たちは変わってるわね」
「マイヤーズは国で刑務所にはいっているべきはずなんだ。老い先が短いというので出されたんだ」
「で、その後、ずうっとミラノで幸福にお暮らしなのね」
「どのくらい幸福なのかわからないがね」
「監獄にいることを思えば幸福だと思うわ」
「奥さんがここに何かもってくるそうだよ」
「すてきなものをもってきてくれるわよ。あなた、あのかたのかわいいむすこにされたの?」
「その一人にね」
「あなたがたはみんなあのかたのかわいいむすこよ」とキャサリンが言った。「かわいいむすこのほうがいいのよ。あら、雨ね、あの音」
「ひどく降ってる」
「で、あなた、あたしをいつまでも愛してくださるんでしょう、ねえ?」
「もちろん」
「で、雨が降っても、変わらない?」
「もちろん」
「よかったわ。あたし雨がこわいんですもの」
「どうして?」ぼくは眠かった。外では雨がこやみなく降っていた。
「わからないわ。まえから雨がこわいのよ」
「ぼくは好きだな」
「雨のなかを歩くのは好きよ。でも、雨は恋にはずいぶん残酷よ」
「ぼくはいつまでもきみを愛するよ」
「あたしだってあなたを愛するわ、雨のなかでも、雪のなかでも、あられのなかでも、――ほかに何があるかしら?」
「さあね。どうも眠いな」
「おやすみなさい、あなた。どんなお天気でも、あたし、あなたを愛しててよ」
「きみはほんとに雨がこわいんじゃないんだろう?」
「あなたといるときは、こわくないわ」
「なぜ雨がこわいんだ?」
「わからないわ」
「言えよ」
「言わせないで」
「言えよ」
「いやよ」
「言えよ」
「いいわ。あたし雨がこわいのは、ときどきそのなかであたしが死んでるのが見えるからよ」
「そんなことないよ」
「それに、ときどきあなたが死んでいるのも見えるのよ」
「それはありうるな」
「いいえ、あなた、そんなことないわ。だって、あたしが守ってあげられるんですもの。ほんとよ。でも、だれだって自分は助けられないものよ」
「おねがいだからやめてくれ。今夜はスコットランド人みたいに気違いじみないでくれよ。もうあんまり長くはいっしょにいられないんだから」
「そうね。でも、あたしはスコットランド人で、気違いよ。でも、やめましょう。みんなくだらないことよ」
「ああ、みんなくだらない」
「みんなくだらないことよ。ほんとに、くだらないわ。ああ、ああ、神さま、あたし、生まれなければよかったわ」
彼女は泣いていた。ぼくは彼女を慰めた。彼女は泣きやんだ。だが、外では、雨が降りつづいていた。
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第二十章
ある日の午後、ぼくたちは競馬に行った。ファーガスンも行った。それに、砲弾の信管蓋が破裂して目をやられた青年のクローウェル・ロジャーズも行った。女たちが昼食をすませて出かけようと着換えているあいだに、クローウェルとぼくは彼の部屋のベッドに腰かけて、競馬新聞で過去の出馬成績と予想を読んだ。クローウェルは頭に繃帯をまいていた。競馬にはあまり興味がなかったが、競馬新聞をいつも読んでいて、暇つぶしに、あらゆる馬の情報をたえず集めていた。ここの馬ときたらひどい代物だが、ここにはこれしかいないんだ、と言った。老マイヤーズは彼が好きで、彼に予想を教えてやった。マイヤーズはほとんど、どのレースにも勝ったが、配当金が少なくなるというので、予想を教えるのをきらった。競馬はひどいインチキだった。ほかのどこででも出場を禁じられている騎手がイタリアではレースに出ていた。マイヤーズの情報はよかったが、ぼくは彼に聞くのがいやだった。ときどき、彼は答えなかったし、教えるのは損だと思っている様子がいつも見えたからだ。しかし、彼のほうではどういうわけかぼくたちに教える義務があると感じていたし、また、クローウェルに教えるのはそれほどいやがらなかった。クローウェルは両眼を負傷していて、片方はひどかった。マイヤーズも目をわずらっていた。それで、クローウェルが好きだったのだ。マイヤーズはどの馬に賭けているか奥さんにはけっして言わなかった。奥さんのほうは勝ったり負けたりで、たいていは負けた。そして、しょっちゅう、しゃべっていた。
ぼくたち四人はオープンの馬車でサン・シロヘ出かけた。すばらしい日よりで、公園をとおりぬけ、電車道にそっていき、町を出ると、道がほこりっぽかった。鉄柵をめぐらし、樹木の茂った広い庭のある別荘や、水の流れている掘り割りや、葉にほこりのたまった野菜畑があった。平野を見わたすと、北のほうに、農家や、灌漑の溝のある豊かな緑の農場や、山々が見えた。たくさんの馬車が競馬場にはいっていった。門のところにいた男たちはぼくたちが軍服を着ていたので、入場券なしで入れてくれた。ぼくたちは馬車をおり、出馬表を買い、内野を横ぎって、競走路のなめらかな厚い芝生を越え、下見所へ行った。正面スタンドは古く、木造で、馬券売り場はスタンドの下の、厩舎《うまや》の近くに一列に並んでいた。内野の柵にそってたくさんの兵隊がいた。下見所は人でかなりぎっしりつまっていた。正面スタンドの裏の木陰の馬場で、馬がひきまわされていた。知り合いの人々にも会った。ぼくたちはファーガスンとキャサリンの坐れる椅子を見つけ、馬をじっと見ていた。
馬は首をたれ、馬丁にひかれて、つぎつぎに、あるきまわった。一頭の馬は紫がかった黒で、クローウェルはあれは染めた色だと断言した。よく見ると、どうもそうらしかった。その馬は鞍《くら》をおく合い図のベルが鳴る直前になってやっと出てきたのだった。馬丁の腕の番号によって出馬表を見ると、ジャパラックという名の黒毛の去勢馬と出ていた。それは千リラかそれ以上の賞金のレースに勝ったことのない馬ばかりのレースだった。キャサリンはその馬の毛はたしかに染めたものだと言った。ファーガスンはわからないと言った。ぼくは怪しいと思った。ぼくたちはその馬に賭けようと意見が一致して、金を出しあって百リラ賭けた。歩表《ぶひょう》には、その馬は三十五倍の払い戻しとなっていた。クローウェルが行って馬券を買ったが、そのあいだ、ぼくたちは、騎手たちがもう一度のりまわし、木陰を出てトラックに行き、発走点になっているコーナーまでゆっくりギャロップで駆けさせるのをじっと見ていた。
ぼくたちはレースを見るために、正面スタンドにあがっていった。そのころ、サン・シロには自動発馬装置がなく、スタート係が出場馬をぜんぶ一列に並べた。馬は向こうのトラックにいかにも小さく見えた。それから、スタート係は長い鞭《むち》を一打ち鳴らして、スタートさせた。馬がぼくたちの前を通過したときは、例の黒毛の馬はかなり前に出ていた。そして、コーナーにかかると、ほかの馬を引き離して走っていた。ぼくは双眼鏡で向こうがわを走っている馬を見まもったが、騎手が黒毛の馬をおさえようと躍起になっているのが見え、おさえきれず、コーナーをまわって、ストレッチにはいると、黒毛の馬はほかの馬を十五馬身も抜いていた。決勝点をすぎても、駆けつづけ、次のコーナーまで走った。
「すてきじゃない」とキャサリンが言った。「三千リラ以上もらえるわよ。あれはすてきな馬にちがいないわ」
「払い戻しのすむまで、あいつの色が落ちなきゃいいんだが」とクローウェルが言った。
「ほんとうにすてきな馬だったわ」とキャサリンが言った。「マイヤーズさんも賭けたかしら」
「あの勝ち馬に賭けましたか?」とぼくはマイヤーズに声をかけた。彼はうなずいた。
「わたし、賭けませんでした」とミセズ・マイヤーズが言った。「あなたがたはどれに賭けて?」
「ジャパラックです」
「ほんと? あれは三十五倍よ!」
「毛の色が気にいったんですよ」
「わたしは気にいらなかったわ。みすぼらしく思われたのよ。みんながあれに賭けるなと言うんですもの」
「たいした払い戻しにはならんよ」とマイヤーズが言った。
「配当表には三十五倍と出ていますよ」とぼくが言った。
「たいした払い戻しにはならんよ。まぎわになって」マイヤーズが言った。「やつらがうんとあれに賭けたからね」
「だれが?」
「ケンプトンたちさ。すぐわかるよ。二倍にもならんから」
「じゃあ、あたしたち、三千リラもらえないのね」とキャサリンが言った。「こんなインチキ競馬、嫌いだわ!」
「二百リラにはなるさ」
「そんなのつまんないわ。それじゃあ、なんの役にも立たないわ。三千リラもらえるものと思ってたのに」
「インチキで、うんざりするわ」とファーガスンが言った。
「もちろん」とキャサリンが言った。「インチキでなけりゃ、あたしたち、あの馬に賭けはしなかったのよ。でも、あたし、三千リラはほしかったわ」
「下に行って、一杯やって、払い戻しを見ようじゃないか」とクローウェルが言った。ぼくたちは番号を掲示するところにいってみた。払い戻しのベルが鳴って、ジャパラックという名のあとに単勝一八・五○と掲示された。十リラの賭金に、同額の金にもみたない払い戻しというわけだ。
ぼくたちは正面スタンドの下の酒場《バー》に行き、ウィスキーソーダを一杯ずつ飲んだ。知り合いのイタリア人二人と副領事のマックアダムズにばったり出会った。ぼくたちが女たちのところにもどると、彼らもいっしょにやってきた。イタリア人は礼儀正しかった。マックアダムズがキャサリンに話しかけているあいだに、ぼくたちはまた馬券を買いにおりていった。マイヤーズ氏は賭金表示器の近くに立っていた。
「どれに賭けたかきいてごらん」とぼくはクローウェルに言った。
「どれにしましたか、マイヤーズさん?」とクローウェルがたずねた。マイヤーズは出馬表をとりだし、鉛筆で五番をさした。
「ぼくもそれにしていいですか?」とクローウェルがきいた。
「やんなさい、やんなさい。でも、妻にはわしが教えたとは言わんでくれ」
「一杯やりませんか?」とぼくがたずねた。
「いや、けっこうだ。わしはいけないんでね」
ぼくたちは五番の単勝に百リラ、複勝に百リラ賭け、それから、ウィスキーソーダをもう一杯ずつ飲んだ。ぼくは非常に気分がよかった。あと二人、イタリア人と知り合いになった。二人とも、ぼくたちと一杯やった。そして、女たちのところへもどってきた。このイタリア人たちも、とても礼儀正しく、まえに会った二人と好一対だった。しばらくは、だれもじっとすわっていられなかった。ぼくはキャサリンに馬券を渡した。
「これはどんな馬なの?」
「わかんないんだ。マイヤーズさんが選んだんだ」
「名前もわからないの?」
「うん、出馬表に出ているだろう。五番だと思うが」
「すごく信用してらっしゃるのね」と彼女が言った。五番は勝ったが、払い戻しはなかった。マイヤーズ氏は怒った。
「二十リラもうけるのに二百リラも賭けなきゃならん」と彼が言った。「十リラで十二リラか。つまらん。妻は二十リラすった」
「いっしょに下にいくわ」とキャサリンがぼくに言った。イタリア人たちはみんな立ちあがった。ぼくたちは下へおりて、下見所へ行った。
「あなた、こんなことお好き?」とキャサリンが言った。
「ああ、どうもそうらしい」
「そんならそれでいいけど」と彼女が言った。「でも、あなた、あたし、あんなにおおぜいの人に会うの、やりきれないわ」
「おおぜいになんか会わないぜ」
「ええ、でも、あのマイヤーズ夫妻や、奥さんや娘さんを連れた銀行のかた――」
「あいつはぼくの一覧払い手形を現金にしてくれるんだよ」とぼくが言った。
「ええ、でも、あのかたがしてくれなくても、どなたかほかのかたがするでしょう。あのいちばんあとから来た四人はひどいわ」
「ここにいて、柵のところからレースを見られるね」
「すてきね。で、あなた、きいたこともない馬で、マイヤーズさんも賭けないような馬に賭けましょうよ」
「よし、そうしよう」
ぼくたちは「わが光」という名の馬に賭けたが、それは五頭でたレースで四等になった。ぼくたちは柵によりかかり、蹄《ひずめ》の音を高くたてて前を駆けていく馬をじっと見ていた。遠方に山々が見え、木立ちや田畑の向こうにミラノが見えた。
「こっちのほうがずっとせいせいするわ」とキャサリンが言った。馬は汗にぬれて、門からもどってきた。騎手たちは馬をなだめながら、木陰まで乗っていって、おりた。
「一杯めしあがらない? ここで飲みながら馬を見物できてよ」
「持ってこよう」とぼくが言った。
「ボーイが持ってくるわよ」とキャサリンが言った。彼女が手をあげると、ボーイが厩舎《うまや》のそばのパゴダ風のバー(パゴダとは東洋風の塔で、そのような形の新聞の売店がよくあるが、ここではそのような形のバー)から出てきた。ぼくたちは丸い鉄のテーブルに向かって腰かけた。
「二人だけのほうがいいんじゃないこと?」
「そうだとも」とぼくが言った。
「みんながあそこにいると、あたしすごく寂しくなるの」
「ここはすばらしい」とぼくが言った。
「ええ。ほんとうにきれいなコースだわ」
「すてきだ」
「あたし、あなたの愉しみをそこないたくはないのよ。向こうへもどりたかったら、いつでも行くわ」
「いいんだ」とぼくは言った。「ここにいて飲もう。それから、おりていって、水濠のところで障害レースを見よう」
「あなたって、ほんとにやさしいかたね」と彼女が言った。
しばらく二人だけでいてから、ほかの連中とまたいっしょになるのは、うれしかった。ぼくたちは愉しい時をすごした。
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第二十一章
九月になって、はじめて涼しい夜がつづき、やがて、日中も涼しくなり、公園の木立ちの葉が色づきはじめ、ぼくたちは夏が過ぎたのを知った。前線での戦闘はひどく悪く、サン・ガブリエーレを占領できなかった。バインスィッツァ高地の戦闘は終わり、その月の中ごろには、サン・ガブリエーレの戦闘も終わろうとしていた。イタリア軍はそこを占領できなかった。エットーレは前線に帰っていた。馬もローマにいってしまって、競馬はもうなかった。クローウェルもローマにいってしまい、そこからアメリカに送還されることになっていた。町には反戦の暴動が二度あり、トリーノでもひどい暴動があった。クラブでイギリスの少佐が話してくれたところによると、イタリア軍はバインスィッツァ高地とサン・ガブリエーレで十五万の兵力を失ったとのことだった。それに、カルソー地方で、四万の兵力を失ったという。ぼくたちは一杯やり、彼がしゃべった。ことしは、このへんでの戦闘も終わりで、イタリア軍はとても歯のたたないことをはじめたのだ、と言った。フランダース戦線の攻撃は悪化している、と言った。この秋のような調子で兵員を失えば、連合軍はもう一年もすれば、まいってしまうだろう。ぼくたちはみんなまいっているのだが、それに気づかないかぎりだいじょうぶだ、と彼が言った。ぼくたちはみんなまいっているのだ。大切なのはそのことをみとめないでいることだ。まいっていると最後までみとめない国が戦争に勝つんだ。ぼくたちはもう一杯やった。きみはだれかの幕僚かね? いや。おれは幕僚だ。クラブでは、ぼくたち二人だけで、大きなレザーのソファにもたれかかって、腰かけていた。彼のブーツはきれいに磨いてあるが、つやのない革だった。きれいな靴だった。まったくつまらんことばかりだ、と彼が言った。彼らは師団とか兵力とかいうことだけで考えているんだ。彼らはみんな師団のことであれこれ口論して、師団を手にいれると、師団を殺してしまうだけなんだ。彼らはみんなだめになっているんだ。ドイツ軍は勝利を博した。なんといったって、やつらは根っからの軍人なんだな。昔からドイツ兵のやつらは軍人だ。だが、やつらもまいっているのだ。われわれはみんなまいっているのだ。ぼくはロシアのことをきいた。やつらももうだめになっている、と彼は言った。やつらがだめになっていることはすぐにわかる。それから、オーストリア軍もだめになっている。やつらにドイツ軍の何箇師団かが加わればもちこたえるだろう。この秋、攻撃してくると思いますか? もちろん、攻撃してくるだろう。イタリア軍はだめになっている。イタリア軍がだめになっていることは、だれでも知っている。ドイツ軍のやつらはトレンチーノ地方(北イタリアの一地域、以前はオーストリア領だった)を突破して、ヴィチェンツァで鉄道を遮断するだろう。そうなると、イタリア軍はどこにいくだろう? やつらは一九一六年にもそれをやろうとしましたね、とぼくが言った。ドイツ軍はいっしょじゃなかった。そうでしたね、とぼくが言った。だが、やつらはそんなことはやらんだろう、と彼が言った。それではあんまり単純だからな。やつらはなにか複雑なことをやろうとして、まいっちゃうだろう。敵ながらあっぱれだよ。ぼくは帰らなきゃならない、とぼくは言った。病院に帰らなきゃならない。「さようなら」と彼が言った。それから、陽気に、「あらゆる幸運を祈るよ!」彼の悲劇的な世界観と陽気な人がらとは大きな対照をなしていた。
ぼくは理髪店に立ちよって、顔を剃り、病院へ帰った。ぼくの脚は長い時間かけただけあって、よくなっていた。三日前に、診察してもらったのだ。オスペダーレ・マッジォーレでひととおりの治療がすむまでには、まだいくらか治療が残っていた。ぼくはびっこをひかないように練習しながら、裏通りを歩いた。一人の老人がアーケードの下で影絵を切り抜いていた。ぼくは立ちどまって、老人をじっと見ていた。二人の女がポーズをとっていた。老人が首をかしげて女を見ながら、非常な速さではさみをつかい、二人いっしょの影絵を切っていた。女たちはくすくす笑っていた。老人はその影絵を白い台紙に貼りつけ、女たちに手渡すまえに、ぼくに見せた。
「きれいな娘さんですな」と彼が言った。「ひとついかがです、|中尉さん《テネンテ》?」
女たちは自分の影絵を見て笑いながら、立ち去った。器量のいい娘たちだった。一人は病院の向かいの酒屋で働いていた。
「やってくれ」とぼくが言った。
「帽子をおぬぎなさい」
「いやかぶったままで」
「それでは、あんまりきれいにはいきませんよ」とその老人が言った。「でも」と彼は顔を明るくした。「そのほうがずっと軍人さんらしい」
彼は黒い紙を切り抜き、切り抜いたのを二枚にはがし、台紙にその二つの横顔《プロフィル》を貼りつけ、ぼくに渡してくれた。
「いくら?」
「いいんですよ」彼は手をふった。「ただ、あんたのために、つくってあげたんだから」
「たのむから、とってくれよ」ぼくは銅貨をいくらか取りだした。「気がすまないから」
「いいや、わしがたのしみにやったんだから。あんたのいい人にやんなさい」
「ありがとう。じゃあ、いずれまた」
「じゃあ、また」
ぼくは病院へ帰った。手紙が幾通か、公用のが一通と、ほかのが数通、あった。ぼくは三週間の病後休暇をもらい、それがすむと前線に帰ることになっていた。ぼくはその公用の手紙をくりかえし注意深く読んだ。ああ、とにかく、そうなんだ。病後休暇はぼくの治療の終わる十月四日からはじまるのだった。三週間というと二十一日だ。すると、十月二十五日ということになる。ぼくは出かけてくるからと病院の人に断わって、夕食をとりに病院からすこし先のレストランにいき、テーブルについて、手紙と『コリエーレ・デルラ・セーラ』(「夕刊」の意。有名な新聞の名)を読んだ。祖父からの手紙が一通あって、家族の消息や愛国的な激励が書いてあり、二百ドルの為替手形と新聞の切り抜きが二、三、はいっていた。ぼくたちの会食なかまの司祭からの退屈な手紙。フランス軍の飛行士になって、荒くれた仲間に加わってしまった、知り合いの男から、そうしたことについて書いた手紙。それに、リナルディから、いつまでミラノでずるけるのか、消息をすっかり知らせろ、との短いたよりがあった。レコードを持って帰るようにと、そのリストがはいっていた。ぼくは食事といっしょにキアンティ酒の小壜を一本飲み、食後、コーヒーとコニャックを一杯飲み、新聞を読みおえ、手紙をポケットにつっこみ、テーブルに新聞とチップをおき、外に出た。病院のぼくの部屋で、服を脱ぎ、パジャマとガウンに着かえ、バルコニーに通じるドアにカーテンをおろし、ベッドにすわりこんで、ミセズ・マイヤーズが病院のいわゆる彼女のむすこたちに残していった新聞の束からボストンの新聞を出して読んだ。シカゴ・ホワイト・ソックスがアメリカン・リーグのペナントレースで優勝しそうで、ニューヨーク・ジャイアンツがナショナル・リーグの首位を占めていた。ベーブ・ルースが、当時、ボストン《レッド・ソックス》の投手だった。新聞はつまらなく、ニュースは地方的で活気がなく、戦争の記事はどれも古くさかった。アメリカのニュースは訓練所のことばかりだった。ぼくは訓練所にはいっていないでよかった。読みうるものは野球の記事だけだったが、ぼくはそれにもほとんど興味がなかった。あんまりたくさん新聞があるので、興味をもって読めたものではなかった。やや時期はずれの記事だったが、しばらくそれに目をとおした。アメリカはほんとに参戦するだろうか、大リーグを閉鎖するだろうか、と思った。たぶん、そんなことはないだろう。ミラノではまだ競馬が行なわれていたし、戦争はこれ以上悪くなるはずがなかった。フランスでは競馬を中止していた。ぼくたちの賭けたジャパラックという馬はフランスから来たのだった。キャサリンは九時まで勤務がなかった。勤務につくと、彼女が床を歩く足音がきこえ、廊下をとおりすぎるのが、一度見えた。彼女はいくどかほかの部屋にいき、最後に、ぼくの部屋にはいってきた。
「おそくなったわ」と彼女が言った。「たくさん仕事があったの。気分、いかが?」
ぼくはぼくの書類と休暇のことを話した。
「すてきだわ」と彼女が言った。「どこへいらっしゃりたい?」
「どこにもいきたくない。ここにいたい」
「そんなのばかよ、あなた。いきたいところをえらんで。あたしもいくから」
「そんなことできるかい?」
「わからないわ。でも、そうするつもり」
「きみはとてもすばらしい」
「いいえ、そんなことないわ。でも、人生なんて、失うものがあるからこそ、厄介《やっかい》なんだわ」
「どういう意味だい?」
「なんでもないの。ただ、これまですごく大きかった障害が、いまではすごく小さく思われるってこと、考えてただけよ」
「人生なんて、厄介なんじゃないかと思うんだがなあ」
「いいえ、そんなことないわ、あなた。いざとなれば、あたし逃げだすだけよ。でも、そんなことにはならないわ」
「どこへいこうか?」
「どこでもいいわ、あなたの好きなところならどこでも。知ってる人のいないところならどこでも」
「どこへいってもかまわないのかい?」
「かまわないわ。どこだって好きになるわ」
彼女は心が乱れ、緊張しているようだった。
「どうしたんだ、キャサリン?」
「なんでもないの。なんでもないのよ」
「いや、何かある」
「いいえ、なんでもないの、ほんとに、なんでもないのよ」
「たしかに、ある。言いな、きみ、言えるはずだ」
「なんでもないのよ」
「言えよ」
「言いたくないの。あなたを不幸にするか、心配させるか、だから」
「いや、そんなことはない」
「きっと? あたしは心配じゃないんだけど、あなたは心配なさるかと思って」
「きみが心配じゃなければ、ぼくだって心配じゃないよ」
「言いたくないわ」
「言えよ」
「言わなくちゃいけない?」
「うん」
「赤ちゃんができたらしいのよ。三ヵ月ぐらいなの。ねえ、心配しないで。おねがい、心配しないで。心配しちゃだめよ」
「だいじょうぶだとも」
「だいじょうぶね?」
「もちろん」
「あたしいろんなことをしてみたのよ。いろんなものを飲んでみたのよ。でも、だめだったわ」
「ぼくは心配じゃない」
「仕方がなかったのよ、あなた。でも、あたしは心配しなかったわ。あなたも心配したり、いやな気持ちになったりしちゃだめよ」
「きみのことだけが心配なんだ」
「それよ。それがいけないのよ。人間って、しょっちゅう赤ちゃんを生むものよ。だれでも赤ちゃんを生むわ。自然のことよ」
「きみはとてもすばらしい」
「いいえ、そんなことないわ。でも、あなた、気になさっちゃいやよ。あたし、あなたに迷惑をかけないようにするわ。まえには迷惑をかけてしまったわ。でも、これまで、あたし、いい子じゃなくって? あなた、気がつかなかったでしょう、ねえ?」
「うん」
「これからも、そうするわ。ほんとに心配なさっちゃいやよ、あなた。やっぱり心配なさってるんだわ。やめてちょうだい。すぐ、やめてね。一杯いかが、あなた? お飲みになると、いつも元気になるから」
「いや、いい。ぼくは元気だ。それに、きみはとてもすばらしい」
「いいえ、そんなことないわ。でも、あなたがあたしたちのいくところをえらんでくだされば、あたし、いっしょにいられるよう、いろいろと、うまくやるわ。十月だからきっと美しいことよ。すばらしい時を過ごせるわ。前線にいらっしゃるあいだは、毎日、お手紙だすわ」
「きみはどこにいく?」
「まだわからないわ。でも、どこかすてきなところよ。そんなところ探してみるわ」
ぼくたちはしばらくだまったまま、話さなかった。キャサリンはベッドに腰かけ、ぼくは彼女を見ていたが、おたがいに、からだを触れあわなかった。だれかが部屋にはいってきたため気はずかしくなったときのように、ぼくたちは離れていた。彼女は手をさしのべ、ぼくの手をとった。
「怒ってるんじゃないんでしょう、あなた?」
「いや」
「それに、罠《わな》にかけられたと感じてらっしゃるんじゃない?」
「たぶん、すこしはね。でも、きみにかけられたんじゃない」
「あたしにかけられたというんじゃないのよ。ばか言わないで。とにかく罠にかけられたという意味でよ」
「生理的に罠にかけられたと、いつも感じるんだ」
彼女は身動きもせず、手も離さなかったが、心は遠くへ離れていた。
「いつもって、ひどいわ」
「ごめん」
「いいのよ。でも、ねえ、あたしまだ赤ちゃんを生んだこともないし、だれかを愛したこともないでしょう。それに、あたし、あなたの好きなようになろうと努めたのよ。それなのに、『いつも』っておっしゃるんですもの」
「舌をかみきってもいいよ」とぼくはいいだした。
「まあ、あなた!」彼女はわれにかえったように言った。「あたしの言うこと気にしないで」ぼくたち二人はまた気分がとけあい、気まずさがなくなった。「あたしたち、一心同体よ。わざと誤解しちゃいけないわ」
「誤解なんかしないよ」
「でも、よくあることよ。おたがいに愛しあっていて、わざと誤解し、喧嘩し、そのうちふいに、一心同体じゃなくなるの」
「喧嘩なんかしないよ」
「しちゃいけないわ。だって、あたしたちは二人だけでしょう。それに、世間の人はみな他人よ。あたしたちのあいだに何かがはいりこめば、おしまいよ。世間の人にあたしたちが負けてしまうのよ」
「負けっこないさ」とぼくが言った。「きみはとても勇敢だ。勇敢なものにはなにも起こりっこないさ」
「だって、死ぬわ」
「でも、一度かぎりさ」
「そうかしら。だれだったかしら、そんなこと言ったの?」
「卑怯《ひきょう》者は千たび死す。勇者は一度のみ(シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」二幕二場にあるシーザーのせりふ)――だったね?」
「そのとおりよ、だれだったかしら?」
「だれだっけ?」
「その人、たぶん、卑怯だったのよ」と彼女が言った。「卑怯者についていろいろ知ってるけど、勇敢な人についてはなにも知らないんだわ。勇敢な人は、利口なら、たぶん、二千度も死ぬわ。ただ口に出して言わないだけよ」
「そうかなあ。勇敢な人の頭の中はなかなかわからない」
「そうよ。それが勇敢な人よ」
「きみは権威だね」
「そのとおりよ、あなた。それだけの値打ちはあるわ」
「きみは勇敢だ」
「いいえ」と彼女が言った。「でも、そうなりたいわ」
「ぼくはそうじゃないんだ」とぼくは言った。「ぼくはぼくがどんなだかわかっている。長いあいだ、戦線に出ているから、わかっているんだ。ぼくは、二割三分の打率だが、それ以上は打てないってことを知っている野球選手みたいなものさ」
「二割三分の打率の野球選手ってどうなの? すばらしいじゃない、すごく」
「そうじゃない。野球じゃあ、平凡な打者さ」
「でも、打者は打者よ」彼女はぼくをつついた。
「ぼくたちは二人ともうぬぼれてるんだ」とぼくは言った。「でも、きみは勇敢だ」
「いいえ。でも、そうなりたいわ」
「ぼくたちは二人とも勇敢だ」とぼくが言った。「それに、ぼくは飲むと、とても勇敢になるんだ」
「あたしたちはすばらしいわ」とキャサリンが言った。彼女は衣装箪笥のところまでいって、ぼくにコニャックとグラスをもってきた。「あなた、一杯いかが」と彼女が言った。「あなた、とてもいいかたね」
「あまりほしくないんだ」
「一杯だけ」
「じゃあ、もらおう」ぼくはグラスに三分の一、コニャックを入れて、飲みほした。
「みごとな飲みっぷりね」と彼女が言った。「ブランデーって英雄の飲むものだけど、無理しないほうがいいわ」
「戦争が終わったら、どこで暮らす?」
「きっと、老人ホームよね」と彼女が言った。「この三年というもの、あたし、戦争がクリスマスに終わればいいと、まるで子供のように、待ってたわ。でも、いまは、あたしたちのむすこが海軍少佐になるときまで待つわ」
「きっと、陸軍大将になるだろう」
「百年戦争にでもなれば、むすこは陸海両軍で働ける時間があるわよ」
「一杯、どうだい?」
「いらないわ。お酒は、あなたには、いつも、たのしみでも、あたしには、ただ目まいがするだけよ」
「きみ、ブランデー飲んだことないのか?」
「ないわ。あたしはすごく古風な妻ですもの」
ぼくは床に手をのばして、壜をとり、もう一杯ついだ。
「あなたの国の人たちを見まわりに行ってくるわ」とキャサリンが言った。「もどってくるまで、新聞でも読んでいてね」
「行かなきゃならないのか?」
「ええ。いまか、でなければ、あとで」
「いいよ、いまで」
「あとで、またくるわ」
「新聞を読んどくよ」とぼくは言った。
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第二十二章
その夜は冷えこみ、翌日は雨になった。オスペダーレ・マッジォーレからの帰りみち、すごくひどい降りで、帰ってきたときは、びしょ濡れだった。部屋にあがっていくと、雨はバルコニーの外ではげしく降っていて、風がガラス戸に雨を吹きつけた。ぼくは服を着がえ、ブランデーを飲んだが、ブランデーはまずかった。夜中に、気持ちが悪くなり、朝、食事をすますと、嘔きけがした。
「たしかですよ」と病院づきの軍医が言った。「この人の白眼《しろめ》を見てごらんなさい、看護婦さん」
ミス・ゲージがのぞきこんだ。彼らはぼくに鏡を見せてくれた。白眼が黄色かった。黄疸《おうだん》なのだ。ぼくは二週間それにかかっていた。そのため、ぼくたちは病後休暇をいっしょにすごさなかった。ぼくたちはマッジォーレ湖(スイスとイタリアの国境にある細長い湖)畔のパルランツァ(マッジォーレ湖畔の町)へ行く計画だった。秋、紅葉するころは、そこはすばらしかった。散策によい散歩道があり、湖で姫鱒を流し釣りしてもよかった。パルランツァはストレーザ(マッジォーレ湖畔の町)より人が少ないからよかった。ストレーザはミラノからすぐ行けるので、いつも知り合いの人がいるのだ。パルランツァにはすばらしい村があり、漁夫たちの住んでいる島々まで舟を漕ぎ出せ、いちばん大きな島にはレストランがあるのだ。だが、ぼくたちは行かなかった。
ある日、ぼくが黄疸で寝ていたとき、ミス・ヴァン・キャンペンが部屋にはいってきて、衣装箪笥の戸をあけ、からの壜を見つけた。ぼくは門衛にあき壜をひとかたまり下にもって行かせたので、きっと、彼女がそれを持ちだすのを見つけて、もっとあるかと探しに上がってきたにちがいない。それらはたいていベルモットの壜とか、マルサーラの壜とか、カプリの壜とか、キアンティのからになった携帯用の壜とか、わずかばかりのコニャックの壜であった。門衛はベルモットのはいっていた大型の壜と藁づとで包んであったキァンティの壜を運びだしてあったが、ブランデーの壜はあとまわしにしたのだ。ミス・ヴァン・キャンペンが見つけたのは、ブランデーの壜とキュンメル(カラウェイの実やカミンなどで香味をつけたリキュール)のはいっていた熊の形をした一本の壜だった。熊の形をした壜がことに彼女をおこらせた。彼女はそれを取りあげた。熊が尻をつき前肢をあげてすわっていて、ガラスの頭にはコルクの栓がしてあり、底にはねばねばした結晶体がすこしついていた。ぼくは笑った。
「キュンメルがはいってたんです」とぼくが言った。「最上のキュンメルはそんな熊の形の壜にはいってくるんです。ロシアでできるんです」
「あれはみんなブランデーの壜なんですね?」とミス・ヴァン・キャンペンがたずねた。
「ぼくにはみんなは見えませんが」とぼくは言った。「でも、たぶん、そうでしょう」
「いつからこんなことしてたんですか?」
「自分で買って、自分で持ちこんだんです」とぼくは言った。「イタリアの将校がたびたび訪ねてくるんで、その連中に飲ませようと思って、おいといたんです」
「ご自分ではお飲みにならなかったのですね?」と彼女がきいた。
「ぼくも飲みました」
「ブランデーをね」と彼女が言った。「ブランデーの壜を十一本からにして、それから、あの熊のお酒」
「キュンメルです」
「だれかに持っていってもらいましょう。あき壜はあれだけですね?」
「いまのところは」
「あたしはあなたが黄疸にかかったので、同情してたんですがね。同情してもむだでしたね」
「ありがとう」
「前線に帰りたがらないといって非難されることはないと思いますわ。でも、アルコール中毒で黄疸になるよりは、もっと気のきいたことをなさったらと、思いますがね」
「なんで黄疸になったって?」
「アルコール中毒でですよ。いま、そう言ったでしょう」ぼくはなにも言わなかった。「なにかほかの病気にならないかぎり、黄疸がなおったら前線へもどらなければならないでしょう。わざと黄疸になったのでは、病後休暇をもらう資格がないと思いますわ」
「そうですか」
「そうですとも」
「黄疸になったことありますか、ミス・ヴァン・キャンペン?」
「いいえ、でも、その患者さんはたくさん見てますわ」
「患者がそれをたのしんでいるとでも思ってるんですかね?」
「前線よりはいいと思いますわ」
「ミス・ヴァン・キャンペン」とぼくは言った。「自分の急所を蹴とばして不具になろうとした男を見たことありますか?」
ミス・ヴァン・キャンペンはその当面の質問を無視した。彼女は無視するか、部屋を出て行くか、しなければならなかった。彼女は出て行く気はなかった。長いあいだ、ぼくを嫌っていて、いまや、事のけりをつけようとしていたからだ。
「あたし、わざと負傷して前線からのがれようとした人たちをたくさん見ています」
「そんなこときいているんじゃありませんよ。ぼくだって故意に負傷したやつは見ていますよ。ぼくのききたいのは、自分の急所を蹴とばして不具になろうとした男を知ってるかってことです。というのは、それが黄疸に最も近い気持ちだし、あんまり女の人が経験したことのない感覚だと思うからですよ。だから、あなたが黄疸にかかったことがあるかってきいたんです、ミス・ヴァン・キャンペン、というのは――」ミス・ヴァン・キャンペンは部屋を出ていった。しばらくたって、ミス・ゲージがはいってきた。
「ミス・ヴァン・キャンペンになにをおっしゃったの? ひどくおこってるわ」
「気持ちを比較していたんだよ。あのひとにお産の経験がないことをそれとなく言おうとしていたんだ――」
「おばかさんね」とゲージが言った。「あのかた、あなたにしかえししようとしてるわよ」
「もうしかえしされちゃったよ」とぼくは言った。「ぼくの休暇をふいにしてしまったし、ぼくを軍法会議にかけようとしているかもしれないんだ。じつにけちな女だ」
「あのかた、あなたをはじめから好かなかったのよ」とゲージが言った。「いったい、どうしたのよ?」
「ぼくが、前線にもどりたくないので、酒を飲み黄疸にかかった、と言うんだ」
「へええ」とゲージが言った。「あなたが一杯も飲まなかったって、あたし、証言してあげるわ。だれだって、あなたが一杯も飲まなかったって証言するわよ」
「壜を見つけちゃったんだ」
「壜を片づけときなさいって何度も言っておいたのに。壜、いま、どこにあるの?」
「衣装箪笥のなかだ」
「スーツケースある?」
「ない。あのリュックサックに入れといてくれないか」
ミス・ゲージはリュックサックのなかに壜をつめこんだ。「門衛に渡すわ」と言って、ドアのほうにいきかけた。
「ちょっと」とミス・ヴァン・キャンペンが言った。「あたし、その壜を持っていくわ」彼女は門衛をつれてきていた。「これを運んでね」と彼女が言った。「報告書をつくるとき、これを先生にお見せしますから」
彼女は廊下を歩いていった。門衛がリュックサックを運んでいった。彼はなかに何がはいっているか知っていた。
ぼくは休暇をふいにした。ただそれだけで、何事も起こらなかった。
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第二十三章
前線にもどることになっていた夜、ぼくは門衛にトリーノからの列車に席を取らせにやった。列車は真夜中の十二時に出るはずだった。それはトリーノで編成され、夜中の十時半ごろミラノに着き、発車の時刻まで駅にとまっているのだ。席を取るには、列車がはいってくるとき、そこにいっていなければならないのだった。門衛は洋服屋で働いている休暇中の機関銃手の友人を連れて行った。彼は、二人で席が取れると確信していた。ぼくは彼らに入場券の金をやり、荷物を持っていってもらった。大きなリュックサックが一つと雑嚢《ざつのう》が二つだった。
ぼくは五時ごろ、病院で別れのあいさつをして、外に出た。門衛が詰め所にぼくの荷物をもってきていた。ぼくは十二時すこし前に駅に行くと彼に告げた。彼の細君はぼくを「|旦那さま《シニョリーノ》」と呼んで、泣きだした。彼女は眼をふいて握手し、それから、また泣いた。ぼくがその背中をたたくと、また泣いた。ぼくの繕いものをやっていてくれたのだが、ひどく背の低い、ずんぐりした、幸福そうな顔付きの、白髪の女だった。泣くと、顔じゅう、くしゃくしゃになった。ぼくは酒場のある町角まで行き、なかにはいって窓の外をながめ、待った。外は暗く、寒く、霧がかかっていた。ぼくはコーヒーとグラッパの代金を払い、窓からあかりのなかを通りすぎる人びとを見つめた。キャサリンの姿が見えたので、ぼくは窓ガラスをノックした。彼女はふりむき、ぼくを見つけて、ほほえんだ。ぼくは外に出て、彼女を迎えた。彼女はダーク・ブルーのケープをかけ、やわらかなフェルトの帽子をかぶっていた。ぼくたちはいっしょに並んで歩いた。歩道にそって、いくつかの酒場の前を通り、市《いち》のたつ広場を横ぎり、街路を進み、アーチをくぐりぬけ、寺院の広場に行った。市内電車の線路があり、その向こうに寺院があった。寺院は霧で白く、濡れていた。ぼくたちは電車の線路を渡った。左手に商店があり、窓にはあかりがともっていて、廻廊《ガルレリーア》への入り口が見えた。広場は霧が立ちこめ、ぼくたちが寺院の正面に近づくと、寺院は非常に大きく、石が濡れていた。
「なかにはいろうか?」
「いいえ」とキャサリンが言った。ぼくたちは歩いていった。前方の石の控え壁のかげに一人の兵隊が恋人といっしょに立っていた。ぼくたちはその前を通りすぎた。彼らは石にぴったりと身を寄せて立っていた。男が自分の肩マントを女にかけてやっていた。
「ぼくたちみたいだね」とぼくは言った。
「あたしたちみたいな人なんていないわ」とキャサリンが言った。彼女は幸福だという意味で言ったのではなかった。
「あの二人、どこか行くところがあればいいんだがね」
「あっても、仕方がないかもしれないわ」
「そうかなあ。だれでもどこか行く場所があるべきだよ」
「あのひとたちには寺院があるわ」とキャサリンが言った。ぼくたちはもうそこを過ぎていた。広場の向こう側の端を横ぎり、寺院をふりかえって見た。霧がたちこめ、すばらしかった。ぼくたちは革製品店の前に立っていた。ウィンドーのなかに、乗馬靴や、リュックサックや、スキー靴があった。どの品もそれぞれべつに陳列してあった。リュックサックが真ん中で、乗馬靴が左側に、スキー靴が反対側にあった。革は中古の鞍のように黒ずんで、油をひいて、なめらかにしてあった。電燈の光が油をぬってくすんだ色のその革に強い光をあてていた。
「いつかスキーをしよう」
「二ヵ月もすると、ミュルレン(イタリア国境に近いスイスの渓谷)でできるわ」とキャサリンが言った。
「そこへ行こう」
「ええ」と彼女が言った。ぼくたちはウィンドーをいくつか通りすぎ、横町へはいった。
「ここ、はじめてよ」
「ぼくが病院に行くとき通る道だよ」とぼくが言った。狭い道で、ぼくたちは右側だけを歩いた。霧のなかをおおぜいの人が通っていた。店がならび、ウィンドーはみな明るかった。ぼくたちはウィンドーのなかのチーズの山を見た。ぼくは武具店の前で立ちどまった。
「ちょっとはいろう。銃を買わなきゃならないんだ」
「銃って?」
「ピストルさ」ぼくたちはなかにはいった。ぼくはベルトをはずし、からのピストル・ケースごと、カウンターの上においた。二人の女がカウンターのうしろにいた。二人はピストルをいくつか取り出した。
「これに合わなきゃだめなんだ」とぼくはピストル・ケースをあけながら、言った。それは灰色の革のケースで、町に出るとき携帯するために、中古で買ったものだった。
「いいピストルあって?」とキャサリンがたずねた。
「どれも似たりよったりだね。これ、ためしてみていいかね?」とぼくは女店員にきいた。
「ただいま、射撃なさる場所がございませんが」と彼女が言った。「でも、とてもいいものでございますよ。間違いございません」
ぼくはかちっとならして、引き金をひいた。ばねがちょっと強かったが、調子はよかった。ぼくは狙いをつけて、もう一度、かちっとやった。
「中古ですが」と女店員が言った。「射撃がすばらしくじょうずな将校さんのでした」
「その人にこれを売ったのかね?」
「さようでございます」
「どうしてこれが、ここにもどってきたんだね?」
「そのかたの従卒からです」
「たぶん、ぼくのもここにあるんだろうな」とぼくは言った。「いくら、これ?」
「五十リラです。とてもお安くなっております」
「じゃあ、もらおう。予備の挿弾子《そうだんし》を二箇と弾丸を一箱ほしいんだが」
彼女はカウンターの下からそれらを出した。
「軍刀はおいりようではございませんか?」と彼女がきいた。「とてもお安い中古の軍刀がございますが」
「前線に行くんでね」とぼくが言った。
「まあ、さようですか。では、軍刀はおいりようではございませんね」と彼女が言った。
ぼくは弾丸とピストルの代金を払い、弾倉に弾丸をこめ、安全装置をして、からのピストル・ケースにピストルを入れ、予備の挿弾子に弾丸をつめ、それをピストル・ケースの革のポケットにはめこみ、それから、ベルトに留め金で留めた。ピストルはベルトにさげると重く感じられた。それでもやっぱり、正規のピストルを手にいれたほうがいいのではないか、と思った。いつでも弾丸が手にはいるからだ。
「さあ、すっかり武装できた」とぼくが言った。「こいつだけは忘れずにしとかなきゃあならなかったんだ。病院にくるとき、だれかがぼくのピストルをもってってしまったんだ」
「いいピストルだといいんですけど」とキャサリンが言った。
「ほかに何かご用はございませんか?」と女店員がたずねた。
「ないようだ」
「そのピストルには紐《ひも》がついています」と女店員が言った。
「わかってるよ」女店員はほかに何か売りたがった。
「笛はおいりようじゃございません?」
「いらないね」
女店員はさよならと言った。ぼくたちは歩道へ出た。キャサリンがウィンドーをのぞきこんだ。女店員は外を見て、ぼくたちにお辞儀した。
「あの木にとりつけてある小さい鏡はなんに使うの?」
「小鳥をおびきよせるのさ。野原であれをぐるぐるまわすと、雲雀《ひばり》が見つけて、出てくる。それをイタリア人は射つんだ」
「器用な国民ね」とキャサリンが言った。「アメリカでは雲雀なんか射たないでしょ?」
「あんまりやらないね」
ぼくたちは街路を横ぎり、反対側を歩きはじめた。
「気分がよくなったわ」とキャサリンが言った。「出がけは、すごく気分が悪かったの」
「ぼくたちはいっしょにいればいつも気分がいいんだ」
「いつもいっしょにいましょうね」
「うん。ただ、今晩、ま夜中には出かけるんだ」
「そんなこと考えないで、あなた」
ぼくたちはその街路を歩きつづけた。霧が燈火を黄色くしていた。
「疲れた?」とキャサリンがたずねた。
「きみはどうだい?」
「あたしは大丈夫よ。歩くの、たのしいわ」
「でも、あまり長く歩くのはよそう」
「そうね」
ぼくたちはまったくあかりのない横町に曲がり、歩いていった。ぼくは立ちどまり、キャサリンにキスした。ぼくはキスしているあいだ、彼女の手がぼくの肩にあるのを感じた。彼女はぼくの肩マントを自分のまわりに引っぱり、ぼくたち二人がマントに包まれるようにした。ぼくたちは高い塀にもたれて、通りに立っていた。
「どこかへ行こう」とぼくが言った。
「いいわ」とキャサリンが言った。ぼくたちがその通りを歩いていくと、運河に沿ったもっと広い通りに出た。向こう側に、煉瓦の塀と建物があった。通りの先のほうに、市内電車が橋を渡るのが見えた。
「あの橋のところで辻馬車がひろえるよ」とぼくが言った。ぼくたちは橋の上で、霧につつまれ、辻馬車を待っていた。市内電車がなん台か通った。家に帰る人たちで満員だった。やがて辻馬車がやってきたが、だれかが乗っていた。霧は雨に変わってきた。
「歩くか、電車に乗るかすればいいわ」とキャサリンが言った。
「やってくるよ」とぼくが言った。「みんなここを通るんだから」
「ああ、来たわ」と彼女が言った。
馭者が馬をとめて、メーターの上についている金属の標識をおろした。馬車は幌《ほろ》がかけてあり、馭者《ぎょしゃ》の上衣には水滴がおちていた。つやだしを塗った帽子が濡れて光っていた。ぼくたちは席にならんでゆったりと腰かけた。幌のために席は暗かった。
「どこへ行くようにおっしゃったの?」
「駅へと言ったんだ。駅の前にぼくたちの行けるホテルがある」
「あたしたちこのままで行けて? 荷物も持たないで?」
「大丈夫さ」とぼくが言った。
雨のなかを横町をいくつも通って駅まで行くには、乗りでがあった。
「夕食をいただかない?」とキャサリンがたずねた。「おなかがすくかもしれないわ」
「部屋で食べよう」
「あたし、着るものがないのよ。ナイトガウンもないのよ」
「買おう」とぼくは言って、馭者に声をかけた。
「マンツォーニ街に出て、その通りを行ってくれ」彼はうなずいて、つぎの曲り角を左に曲がった。その大通りで、キャサリンは注意して店を探した。
「ここよ」と彼女が言った。ぼくは、馭者に車をとめさせた。キャサリンは出て、歩道を横ぎり、店のなかへはいった。ぼくは馬車のなかでゆったり腰かけ、彼女を待った。雨が降っていた。濡れた街路や雨のなかで湯気をたてている馬のにおいがした。彼女は包みをかかえて帰ってきて、馬車に乗りこみ、ぼくたちはまた馬車をはしらせた。
「すごく散財しちゃったわ」と彼女が言った。「でも、すてきなナイトガウンよ」
ホテルに着くと、ぼくは、中にはいって支配人と話をするあいだ、馬車のなかで待ってるようにキャサリンに言った。部屋はたくさんあった。そこで、ぼくは馬車まで引きかえし、馭者に料金を払い、キャサリンといっしょにホテルにはいった。金ボタンの小がらなボーイが包みを運んでくれた。支配人がぼくたちにお辞儀をして、エレベーターに案内した。いたるところに、赤いフラシ天や真鍮の飾りがあった。支配人がいっしょにエレベーターであがってきた。
「|ご主人様《ムッシュ》と奥様《マダム》はお部屋でお食事をなさいますので?」
「ああ。メニューをもってこさせてくれないか」とぼくが言った。
「お食事になにか特別なものをご希望でしょうね。なにか、山鳥とか、スフレ(卵の白身に牛乳かクリームを加え、泡立てて焼いた料理)とか?」
エレベーターは一階ごとにかちりと音をたてて三階をすぎ、それから、かちりといって、とまった。
「山鳥は何がある?」
「キジとかヤマシギならございます」
「ヤマシギがいい」とぼくが言った。ぼくたちは廊下を歩いていった。絨毯《じゅうたん》がすりきれていた。ドアがたくさんあった。支配人が立ちどまって、ドアの鍵をはずして、あけた。
「こちらでございます。すばらしいお部屋ですよ」
金ボタンの小がらなボーイが部屋の真ん中のテーブルの上に包みをおいた。支配人がカーテンをあけた。
「外は霧がひどくかかっております」と彼が言った。部屋は赤いフラシ天で飾ってあった。鏡がいくつもあり、椅子が二脚、サテンのベッドカバーをかけた大きなベッドが一つあった。浴室に通じるドアがあった。
「メニューをとどけさせます」と支配人が言った。彼はお辞儀をして、出ていった。
ぼくは窓ぎわに行き、外をながめ、それから、紐を引いて、厚いフラシ天のカーテンをしめた。キャサリンはベッドに腰をおろして、カットグラスのシャンデリアを見ていた。彼女は帽子を脱いでいた。髪が電燈の下で輝いていた。彼女は鏡のひとつに姿をうつし、髪に手をやった。彼女はほかの三つの鏡にも、うつって見えた。たのしい顔つきではなかった。ケープがベッドに落ちるままにしていた。
「どうしたんだ、きみ?」
「あたし売春婦みたいな気持ちになったことなんかないのよ」と彼女が言った。ぼくは窓ぎわまで行き、カーテンをあけ、外をながめた。こんなふうになろうとは思わなかったのだ。
「きみは売春婦じゃないよ」
「わかってるわ、あなた。でも、そんな気持ちになるなんて、よくないわ」その声にはうるおいがなく、味けなかった。
「ここがぼくたちのこれる最上のホテルだったんだ」とぼくが言った。ぼくは窓の外をながめた。広場の向こうに駅のあかりがあった。街路には馬車が通り、公園には木々が見えた。ホテルからのあかりが濡れた舗道を照らしていた。ああ、いまいましい、おれたちはこんなときにも言い争いをしなければならないのか、とぼくは思った。
「こちらへいらっしゃい、ねえ」とキャサリンが言った。味けなさがその声からすっかり消えていた。「いらして、ねえ。あたし、また、いい子になったのよ」ぼくはベッドのほうを見た。彼女がほほえんでいた。
ぼくはそちらに行き、ベッドにならんで腰かけ、彼女にキスした。
「きみはいい娘《こ》だ」
「あたし、あなたのものよ、ちかうわ」と彼女が言った。
食事がすむと、ぼくたちは気分がよくなり、それから、しばらくすると、とても幸福に感じ、まもなく、部屋はぼくたちの家のように思われた。病院のぼくの病室がぼくたちの家だったのだが、この部屋も同じようにぼくたちの家になった。
食事をしているあいだ、キャサリンはぼくの軍服の上衣を肩にかけていた。ぼくたちはひどく空腹だった。食事はよかった。カプリを一本とサン・エステフェ(フランスのサン・エステフェ産のワイン)を一本飲んだ。ほとんどぼくが飲んだのだが、キャサリンもいくらか飲んで、上機嫌になった。夕食には、スフレ・ポテトをそえたヤマシギ、|栗の裏ごしのスープ《ピュレ・ド・マロン》、サラダ、それに、デザートにザバイヨーネ(ワインのまざったカスタード)を食べた。
「すてきな部屋だわ」とキャサリンが言った。「すてきな部屋だわ。ミラノにいるあいだずっと、ここにいればよかったわね」
「おかしな部屋だよ。でも、すばらしい」
「悪いことってすてきね」とキャサリンが言った。「悪いことをしようとする人たちは、悪いことがすごく好きみたいね。赤いフラシ天はほんとうにすてきだわ。まさにこれよ。それに、鏡が魅惑的だわ、すごく」
「きみはすばらしい」
「こんな部屋で、朝、目がさめたときはどんなかしら? でも、ほんとうにすてきな部屋ね」ぼくはサン・エステフェをもう一杯ついだ。
「なにかほんとうに罪深いことをしたいものだわ」とキャサリンが言った。「あたしたちのすることはなんでもすごく罪がなく単純に見えるんですもの。あたしたちなんか、悪いことできないと思うわ」
「きみはたいした娘《こ》だね」
「ただ、おなかがすいてるだけよ、すごくおなかがすいたわ」
「きみはすばらしい。単純な娘《こ》だね」とぼくが言った。
「あたし、単純よ。それがわかってくれたのは、あなただけよ」
「いつか、きみにはじめて会ったとき、いっしょにホテル・カヴールにどうやって行こうか、行ったらどんなだろう、と考えて、午後を過ごしたことがあるよ」
「ずいぶん心臓ねえ。ここはカヴールじゃないでしょう?」
「いや。ぼくたちなんか、あそこへは、いけないよ」
「いつか、いけてよ。でも、そこがあたしあなたのちがってるところよ。あたしはそんなこと、考えたことなかったわ」
「ちっとも考えなかった?」
「すこしは考えたわ」と彼女が言った。
「ああ、きみはすてきな娘《こ》だ」
ぼくは酒をもう一杯ついだ。
「あたしはとても単純よ」とキャサリンが言った。
「はじめはそうは思わなかったね。気ちがいじみた女だと思ったよ」
「ちょっと気ちがいじみていたのよ。でも、ひどく気ちがいじみてはいなかったわ。あなたを困らせはしなかったでしょう、ねえ、あなた?」
「酒はたいしたもんだね」とぼくは言った。「悪いことをみんな忘れさせるよ」
「すてきだわ」とキャサリンが言った。「でも、それで父が痛風になって、ひどくなったのよ」
「おとうさんがいるの?」
「ええ」とキャサリンが言った。「痛風なの。おとうさんに会わなくってもいいのよ。あなた、おとうさん、いないの?」
「うん」とぼくは言った。「義父がいるんだ」
「あたし好きになれるかしら?」
「きみは会わなくていいよ」
「あたしたち、すごくたのしいわ」とキャサリンが言った。「あたし、もうほかのことにはなんにも興味ないわ。あなたと結婚して、幸福よ、すごく」
ボーイが来て、食事のあとかたづけをしていった。しばらくして、ぼくたちはすっかりだまりこんでしまった。雨の音がきこえた。下の街路で、自動車が警笛を鳴らした。
『しかして、背後に、たえまなく、われはきく
時の翼ある戦車の近くに迫るを』
とぼくが言った。
「その詩、知ってるわ」とキャサリンが言った。「マーヴェル(一六二一―七八、イギリスの形而上詩人)のね。でも、それ、男のひとといっしょに暮らしたがらなかった女のひとを歌った詩よ」
ぼくは頭がひどく冴《さ》えて冷静になり、現実の問題を話そうと思った。
「どこで赤んぼを生む?」
「わからないわ。できるだけいいところをさがすわ」
「どうやって手筈をととのえる?」
「できるだけうまくやるわ、心配しないでね。あたしたち、戦争が終わるまでに、なん人も赤ちゃんができるかもしれないわ」
「そろそろ出かける時間だ」
「そうね。出かけたいんなら、出かけることにしてもいいわ」
「まだ、いいんだ」
「じゃあ、心配しないで、あなた。いままでは、気分よくしてらしたのに、もう心配するんですもの」
「心配しないよ。どのくらい手紙くれる?」
「毎日。あなたの手紙、検閲されるの?」
「手紙を台なしにするほど英語が読めやしないよ」
「うんとまぎらわしく書くわ」とキャサリンが言った。
「でも、あんまりまぎらわしくならないようにね」
「ほんのちょっとまぎらわしく書くわ」
「出かけなくちゃならないようだ」
「そうね」
「すてきなわが家《や》を去るのはいやだな」
「あたしもよ」
「だけど、行かなきゃならない」
「いいわ。でも、あたしたち長く自分たちの家に落ちついたことないわね」
「いずれ落ちつこう」
「お帰りになるまでには、すてきな家をつくっておくわ」
「きっと、すぐ帰れるだろう」
「ひょっとすると、足をほんのちょっと怪我するかもしれないわ」
「それとも、耳たぶをね」
「いや、あなたの耳はそのままにしときたいわ」
「じゃあ、足はかまわないんだね?」
「足はもうやられちゃったんですもの」
「出かけなきゃならないよ。どうしても」
「いいわ。あなた、先にいらして」
[#改ページ]
第二十四章
ぼくたちはエレベーターに乗らないで、階段をおりた。階段の絨毯《じゅうたん》はすりきれていた。ぼくは夕食が運ばれたときに、その代金を払っておいた。それを運んできたボーイが玄関の近くの椅子にすわっていた。彼は飛びあがって、お辞儀をし、ぼくは彼といっしょに控え室にはいって、部屋代を払った。支配人はぼくが親友なのを憶《おぼ》えていて、前払いを辞退したのだが、ひきさがると、ぼくが払わないで出て行かないように、ボーイを玄関においておくことを忘れなかったのだ。そんなことがまえにあったのだろう。親友の場合でもだ。戦争になると、やたらに親友ができるものだ。
ぼくはボーイに馬車を拾ってくれと頼んだ。彼はぼくのもっていたキャサリンの包みを受け取り、傘をさして出ていった。窓から外を見ると、彼が雨のなかを街路を横ぎって行くのが見えた。ぼくたちは控え室に立ったまま、窓からながめていた。
「気分はどうだね、キャット《キャサリン》?」
「眠いわ」
「ぼくは腹ぺこだ」
「何か食べるものあって?」
「ああ。雑嚢《ざつのう》のなかにある」
馬車がやってくるのが見えた。馬車がとまった。馬が雨のなかで頭をたれていた。ボーイが馬車からおり、傘を開いてホテルのほうへやってきた。ぼくたちは玄関まで行き、傘にいれてもらって、濡れた歩道を縁石のそばの馬車まで歩いていった。雨水が溝の中を勢いよく流れていた。
「包みは座席にございます」とボーイが言った。彼はぼくたちがはいるまで、傘をさしていてくれた。チップは前にやってあった。
「ありがとうございます。気をつけて」と彼が言った。馭者は手綱《たづな》をあげた。馬が動きだした。ボーイは傘をさしたまま、向きを変え、ホテルのほうへ行った。ぼくたちは街路を走り、左に曲がり、それから駅の正面までぐるっと右に曲がった。雨をほんのわずかよけたあかりの下に、二人の憲兵が立っていた。あかりが彼らの帽子を照らしていた。降っている雨は、駅からの光を背にして見ると、澄んで、透きとおっていた。ポーターが陰から出てきた。雨に肩をいからせていた。
「いいよ」とぼくは言った。「ありがとう、いいんだ」
彼はアーチの陰にもどっていった。ぼくはキャサリンのほうを見た。彼女の顔は馬車の幌《ほろ》の陰になっていた。
「もうお別れしましょう」
「乗ってっちゃだめかい?」
「だめよ」
「さようなら、キャット」
「病院に行くように言ってくださる?」
「ああ」
ぼくは馭者に行き先を告げた。彼はうなずいた。
「さようなら」とぼくが言った。「からだに気をつけるんだよ、赤ちゃんもね」
「さようなら」
「さよなら」とぼくは言った。ぼくは雨のなかにおりた。馬車は動きだした。キャサリンはからだをのりだした。あかりのなかで彼女の顔が見えた。彼女はほほえんで手をふった。馬車は街路を進んでいった。キャサリンがアーチのほうを指さした。見ると、憲兵が二人いて、アーチがあるだけだった。雨の降らないところにはいれという意味だとわかった。ぼくはなかにはいり、そこに立ったまま、馬車が角を曲がるのをじっと見ていた。それから、ぼくは構内を通り抜け、通路を通って、列車のところへ行った。
門衛がプラットフォームでぼくを探していた。ぼくは彼のあとから列車にはいり、人々をかきわけ、通路を通って、機関銃手がすわっている満員のコンパートメント(車室)の隅に、ドアをあけてはいっていった。ぼくのリュックサックと雑嚢が彼の頭の上の網棚の上にあった。通路にはいっぱい人が立っていた。ぼくたちがはいって行くと、車室の人がみんなぼくたちを見た。列車にはじゅうぶんな座席がなく、だれも敵意を示していた。機関銃手はぼくにすわるようにと立ちあがった。だれかがぼくの肩をたたいた。ぼくはあたりを見まわした。顎に赤い傷痕《きずあと》のある、とても背の高い、やせた砲兵大尉だった。彼は通路のガラス越しに見ていたのだが、それから、はいってきたのだ。
「なんです?」とぼくはきいた。ぼくは彼のほうに向いて、面と向きあった。彼はぼくよりも背が高く、顔は帽子の庇《ひさし》の陰になっていた。やせこけ、傷痕はま新しく、きらきら光っていた。車室のなかの人はみんなぼくを見ていた。
「そんなことをしちゃいけない」と彼が言った。「兵隊に座席をとらせておいちゃいけない」
「もうやっちゃったことですからね」
彼はなまつばをごくりとのみこんだ。のどぼとけが上がり、それから、下がるのが見えた。機関銃手が座席の前に立っていた。ほかの人たちがガラス越しにのぞいていた。車室のなかの者はだれもなんとも言わなかった。
「きみにはそんな権利はない。ぼくはきみの来る二時間前からここにいたんだから」
「何がほしいんですか」
「その席だ」
「ぼくだってほしいですよ」
ぼくは彼の顔をじっと見つめた。車室の者がみんなぼくに反対しているのが感じられた。ぼくは彼らが悪いとは思わなかった。彼が正しいのだ。だが、ぼくも席はほしかった。ずっと、だれもなんとも言わなかった。
ええ、ちくしょう、とぼくは思った。
「おかけなさい、|大尉どの《シニョール・カピターノ》」とぼくは言った。機関銃手が道をあけると、背の高い大尉がすわった。彼はぼくを見た。おこっているような顔だった。だが、座席は確保したのだ。「荷物をとってくれ」とぼくは機関銃手に言った。ぼくたちは外の通路に出た。列車は満員で、座席の取れる機会などないことはわかっていた。ぼくは門衛と機関銃手に十リラずつやった。二人は通路を通って、外のプラットフォームに出、窓をのぞいてまわったが、席はなかった。
「きっと、ブレシア(イタリア北部ロンバルディア平原にある都市)でだれかおりますよ」と門衛が言った。
「ブレシアでは乗る人のほうが多いですよ」と機関銃手が言った。ぼくは彼らにさようならと言い、握手した。彼らは別れていった。二人ともすまなそうな顔だった。列車が出たとき、車内ではぼくたちはみんな通路に立っていた。列車が駅から出て行くとき、ぼくは駅の明かりと構内をじっと見つめた。まだ雨が降っていた。まもなく窓が濡れ、外が見えなくなった。しばらくたって、ぼくは通路の床の上で眠った。まず、金や書類のはいった財布をワイシャツとズボンの下におしこみ、ズボンの足の内がわにあるようにしておいた。ぼくはひと晩じゅう眠った。ブレシアとヴェロナでは、さらに多くの人が列車に乗りこんできたので、目がさめたが、またすぐに眠りこんでしまった。ぼくは雑嚢のひとつの上に頭をのせ、両腕をもうひとつの雑嚢にまわしていた。リュックサックは手に触れるところにあった。ぼくを踏みつけたくなければ、またいでいけるようにしていた。人々が通路の床一面に眠っていた。ほかの人たちは窓の棒につかまるか、ドアによりかかって、立っていた。列車はいつまでもこんでいた。
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第三部
第二十五章
いまや、秋、木々はみな、はだかになり、道路はぬかっていた。ぼくは軍用トラックにのり、ウーディネからゴリツィアまで行った。ぼくたちは途中でほかの軍用トラックを幾台か追いこした。ぼくは田野をながめていた。桑の木ははだかで、田畑は褐色だった。道路には、はだかの並み木からおちた枯れ葉が濡れていた。人びとが道路工事をしていて、並木のあいだの道路わきに積んである砕石の山から、石を運んでは、わだちのあとをうめていた。町には霧が立ちこめ、霧は山々を断ち切っていた。ぼくたちは、河を渡ったが、河の水かさが増しているのが見えた。山のほうで雨が降りつづいていたのだ。いくつか工場を通りすぎ、それから、人家や別荘をすぎ、ぼくたちは町にはいった。砲弾にやられた家の数が以前より多くなっているのが目についた。狭い道路で、イギリスの赤十字の傷病兵運搬車を追い越した。運転兵は帽子をかぶり、顔はやせ、ひどく日焼けしていた。ぼくは彼を知らなかった。ぼくは町長の家の前の大きな広場で軍用トラックをおりた。運転兵はぼくのリュックサックをおろしてくれた。ぼくはそれをかつぎ、雑嚢を二つ肩にひっかけ、宿舎の別荘に歩いていった。わが家に帰ってきたような気はしなかった。
ぼくは木立ちを通して別荘を見ながら、しめった砂利の車道を歩いていった。窓はみなしまっていたが、ドアはあいていた。ぼくがはいっていくと、壁に地図とタイプした紙片が貼ってある、がらんとした部屋に、少佐がテーブルに向かってすわっていた。
「やあ」と彼が言った。「元気かね?」彼は以前よりふけて、そっけない様子だった。
「よくなりました」とぼくは言った。「いかがですか、こちらは?」
「すっかりかたづいたよ」と彼が言った。「装具をおろして、腰かけたまえ」ぼくはリュックサックと雑嚢を二箇、床の上におろし、リュックサックの上に、帽子をおいた。壁ぎわから椅子をもってきて、机のそばに腰かけた。
「ひどい夏だった」と少佐が言った。「もう大丈夫かね?」
「ええ」
「勲章をもらったかね?」
「ええ、ちゃんともらいました。どうもありがとうございました」
「見せてくれ」
ぼくは肩マントを開いて、二本の綬章《じゅしょう》が見えるようにした。
「勲章のはいった箱をもらったかね?」
「いいえ、感状だけです」
「箱はあとから来るんだろう。あれはもっと時間がかかる」
「ぼくは何をしたらいいんですか?」
「車はすっかり出はらっている。北方のカポレット(イタリアとユーゴスラヴィアの国境に近いユーゴスラヴィア領の小さな町。第一次大戦でイタリア軍が大敗した所。イソンゾ河にのぞむ)に六台出ている。カポレット、知ってるかね?」
「ええ」とぼくは言った。ぼくはそれを鐘楼のある小さな白い谷間の町だと記憶していた。清楚《せいそ》な町で、広場にすばらしい噴水があった。
「車はあそこを本拠に活動しているのだ。いま患者が多いんでね。戦闘は終わったのだ」
「ほかの車はどこにいるんですか?」
「山間部に二台、バインスィッツァ地方にまだ四台いる。ほかの傷病兵運搬車の二箇小隊は、第三軍についてカルソー地方にいっている」
「ぼくは何をしたらいいんですか?」
「よかったら、バインスィッツァ地方にいって、四台の車を引き継いでくれたまえ。ジーノが長いことあそこにいっているから。あっちは見たことないんだろう、なあ?」
「まだです」
「まるでひどかった。車を三台やられた」
「そうだったそうですね」
「そう、リナルディが手紙をだしたんだね」
「リナルディはどこにいますか?」
「ここの病院にいる。夏も秋もここなんだ」
「そうですか」
「ひどかったんだ」と少佐が言った。「どんなにひどかったか、きみには信じられないほどだ。きみはあのとき弾丸《たま》にあたって仕合わせだったな、とぼくはしょっちゅう思ったよ」
「そうでしょうね」
「来年はもっとひどくなるだろう」と少佐が言った。「いますぐ攻撃してくるかもしれない。攻撃してくるだろうという噂だが、ぼくには信じられない。遅すぎるからな。河を見たかね?」
「ええ。もう水かさが増してきましたね」
「雨季になったから攻撃してこないと思うんだ。もうじき雪も降るしね。きみの国の人たちはどうだった? きみのほかに、まだアメリカ人が来るかね?」
「アメリカでは一千万の軍隊を訓練中です」
「いくらかよこしてもらえるといいんだが。だが、フランス軍がみんなもらってしまうだろう。こんなところにはまわってこないよ。まあ、いいさ。きみは今晩ここに泊まって、あす、小型の車で出かけていって、ジーノを送りかえしてくれ。だれか道を知っているものを同行させよう。ジーノがきみにいっさい話してくれるだろう。敵はまだずいぶん撃ってくるが、もうすっかり終わったんだ。バインスィッツァ地方を見たいだろうね」
「見たいですね。あなたのところにまたもどってこられて嬉しいです、|少佐どの《シニョール・マッジョーレ》」
彼は微笑した。「感心なことを言ってくれるね。ぼくはこの戦争にはまったくうんざりしたよ。前線から離れたら、ぼくなら帰ってこないがな」
「そんなにひどいんですか?」
「ああ、とてもひどい。ひどいのなんのって。向こうでからだを洗って、友だちのリナルディを探したまえ」
ぼくは外に出、荷物を二階へ運んだ。リナルディは部屋にいなかったが、持ち物があった。ぼくはベッドに腰をおろし、ゲートルをほどき、右足の靴をぬいだ。それから、ベッドにあおむけになった。疲れたので、右足が痛んだ。靴を片足だけぬいでベッドに横になるなんて愚かに思われた。そこで、起きあがり、もう片方の靴の紐をとき、床の上に落として、それから、毛布の上にまたあおむけになった。部屋は窓がしめてあるので、息苦しかったが、疲れていたので、起きて窓をあける気にもならなかった。ぼくの持ち物がみんな部屋の片隅にあるのが見えた。外は暗くなりかけていた。ぼくはベッドに横になり、キャサリンのことを考え、リナルディを待った。夜、寝るまえ以外には、キャサリンのことは考えないようにしようとしたのだった。だが、いまは疲れて、することもなく、横になって、彼女のことを考えた。彼女のことを考えていると、リナルディがはいってきた。彼はすこしも変わらない様子だった。たぶん、すこし痩せたかもしれなかった。
「おい、おぼっちゃん」と彼が言った。ぼくはベッドの上に起きあがった。彼はこちらまでやってきて、腰をおろし、片方の腕でぼくをだいた。「なつかしいなあ」彼はぼくの背中をどすんと打った。ぼくは彼の両腕をつかんだ。
「なつかしい」と彼が言った。「膝を見せてごらん」
「ズボンをぬがなきゃならないぜ」
「ぬげよ、おぼっちゃん。ここにいるのはみんな親友だ。どんなぐあいに治療したか見たいんだ」ぼくは立ちあがり、ズボンをぬぎ、膝の副木《そえぎ》をとった。リナルディは床にすわって、ぼくの膝を静かに前後に曲げた。彼は傷痕《きずあと》にそって指を走らせた。膝がしらに両手の親指をそろえて押し、指で静かに膝をゆり動かした。
「関節接合はこれで終ったのか?」
「ああ」
「きみを送りもどすなんて、ひどい。完全に関節接合させなくっちゃ」
「まえよりはずっといいんだ。板みたいにこわばってたんだから」
リナルディはぼくの膝をさらに曲げた。ぼくは彼の手をじっと見ていた。りっぱな外科医の手をしていた。ぼくは彼の頭のてっぺんを見た。髪がぴかぴかに光って、きれいに分けてあった。彼は膝を曲げすぎた。
「いたい!」とぼくが言った。
「もっと機械にかかって治療しなけりゃいけない」とリナルディが言った。
「まえよりはいいんだ」
「そりゃあわかる、おぼっちゃん。こういうことには、ぼくはきみより知識があるからね」彼は立ちあがり、ベッドに腰かけた。「膝自体はよくなっている」彼は膝を調べ終わった。「なんでも、みんな話してくれ」
「話すことなんか何もないんだ」とぼくが言った。「静かに暮らしてたんだ」
「きみは結婚したやつみたいにふるまうじゃないか」とリナルディが言った。「どうしたんだ?」
「どうもしないよ」とぼくは言った。「きみはどうしたんだ?」
「この戦争でぼくは殺されそうだ」とリナルディが言った。「すっかりまいっちゃった」彼は膝の上で両手を組み合わせた。
「ふん」とぼくが言った。
「どうしたんだ? ぼくが人間的な衝動をもっちゃいけないとでもいうのか?」
「そうじゃない。きみはすばらしいことをしていたと思うんだ。話してくれ」
「夏じゅう、それから、秋もずうっと、手術をやってきたんだ。しょっちゅう働いているんだ。みんなの仕事をやってやってるんだ。むずかしい仕事は、みんなぼくに、押しつけてくるんだ。まったく、おぼっちゃん、ぼくはすばらしい外科医になるってわけさ」
「そいつはいい」
「ぼくは決してものを考えないことにしてるんだ。いや、たしかに、考えないんだ。ぼくは手術をするだけさ」
「それでいいんだ」
「だが、いまは、すっかり終わったんだ、おぼっちゃん。いまは手術がないんだ。ぼくはたまらないんだ。これは恐ろしい戦争だよ、おぼっちゃん。わかってくれるだろう。さあ、ぼくを元気づけてくれ。レコード、もってきてくれたかい?」
「ああ」
レコードはリュックサックのなかのボール箱に紙で包んであった。ぼくはひどく疲れていて、それを取り出す気になれなかった。
「気分がよくないのか、おぼっちゃん?」
「たまらなくひどいんだ」
「この戦争は恐ろしい」とリナルディが言った。「さあ、二人で酔っぱらって、陽気になろう。それから、慰安所へ行って、楽しもうぜ。そうすりゃ、すばらしい気分になるから」
「ぼくは黄疸《おうだん》をやったんだ」とぼくは言った。「だから、酔っぱらえないんだ」
「ああ、おぼっちゃん、よくもぼくのところへ帰ってきたもんだ。まじめくさって、肝臓をこわして、帰ってきたんだね。なあ、この戦争はひどいもんだぜ。いったい、どうしてこんなことおっぱじめたんだろう?」
「一杯のもう。酔っぱらいたくはないんだが、二人で一杯やろう」
リナルディは部屋を横切って洗面台のところへいき、グラスを二つとコニャックを一本もってきた。
「オーストリアのコニャックだ」と彼が言った。「七つ星さ。サン・ガブリエーレでぶんどったのはこれだけだ」
「きみもいったのか?」
「いや。ぼくはどこへもいかなかった。ずっとここで手術をしてたんだ。みろ、おぼっちゃん、あれがきみの歯磨き用のコップだよ。きみを思いだすために、ずっと置いといたんだ」
「きみが歯磨きを忘れないためだろ」
「いや。ぼくは自分のがある。これを置いといたのは、きみが毎朝、誓いをたてたり、アスピリンをのんだり、淫売婦を呪ったりして、ヴィルラ・ロッサを歯から磨きおとそうとしているのを思いだすためなんだよ。あのコップを見るたびに、ぼくはきみが歯ブラシで良心をきれいにしようとしているのを思いうかべるんだ」彼はベッドのところまでやってきた。「一度でいいからぼくにキスして、まじめくさってなんかいないって言ってくれ」
「きみなんかにキスするものか。きみは猿だよ」
「そうだよ、きみはりっぱなアングロ・サクソンの青年さ、そうだとも。きみは悔《くや》み屋さんさ、そうだとも。アングロ・サクソンっ子が歯ブラシで淫売遊びを磨きおとすのを見るまで、待っていよう」
「グラスにコニャックを入れてくれ」
ぼくたちはグラスをふれあって、飲んだ。リナルディはぼくを笑った。
「きみを酔っぱらわせて、肝臓をぬきとり、りっぱなイタリアの肝臓をいれて、もういちど男にしてやろう」
ぼくはグラスを手にして、コニャックをもっとついでもらった。外はもう暗かった。コニャックのグラスを手にしたまま、ぼくは窓にいき、窓をあけた。雨はやんでいた。外はずっと寒く、木々に霧がかかっていた。
「窓からコニャックをすてるなよ」とリナルディが言った。「飲めなきゃあ、ぼくにくれ」
「好きなように飲んで、酔っぱらえ」とぼくが言った。ぼくはふたたびリナルディに会えて嬉しかった。彼は二年間、ぼくをからかいどおしだったが、ぼくはいつもそれが気にいった。ぼくたちはたがいにとてもよく理解しあっていた。
「きみ、結婚したのか?」と彼はベッドからきいた。ぼくは窓ぎわの壁を背にして立っていた。
「まだだ」
「愛してるのか?」
「ああ」
「あのイギリスの娘《こ》?」
「ああ」
「かわいそうに。いい娘《こ》かね?」
「もちろん」
「実際的なことで、いいかい、って言ってるんだよ」
「だまれ」
「だまるよ。ぼくがすごく思いやりのある男だってこと、いまにわかるだろうよ。その女の子は――?」
「リニン」とぼくが言った。「たのむから、やめてくれ。ぼくの友だちになりたけりゃ、やめてくれ」
「きみの友だちなかになりたくはないよ、おぼっちゃん。ぼくは現にきみの友だちなんだからな」
「じゃあ、だまれ」
「いいとも」
ぼくはベッドのところまでいって、リナルディのそばに腰をおろした。彼はグラスを手にして、床を見ていた。
「わかってくれるだろう、どんなだか、リニン?」
「ああ、わかるよ。ぼくはこれまでに神聖な問題にぶつかりどおしだ。だが、きみとは、ほとんどそんなことがなかった。どうやらきみも神聖な問題をかかえこんでるにちがいないと思うんだが」彼は床を見た。
「きみにはないのか?」
「ああ」
「すこしも?」
「うん」
「きみのおかあさんや妹さんについて、あれこれ言ってもいいか?」
「それから、きみの妹さんについてもね」とリナルディが口ばやに言った。ぼくたちはいっしょになって笑った。
「きみにはかなわんよ」とぼくは言った。
「きっと、ぼくは嫉いているのかもしれない」とリナルディが言った。
「いや、そうじゃない」
「そんな意味じゃないんだ。もっとほかの意味なんだ。きみには結婚した友だちがあるかい?」
「ああ」とぼくが言った。
「ぼくにはない」とリナルディが言った。「夫婦で愛しあっているやつとは友だちになれないんだ」
「どうして?」
「ぼくを好いてくれないんだ」
「どうして?」
「ぼくが蛇だからさ。理性の蛇なんだ」
「きみは混同しているよ。林檎《りんご》が理性なんだ」
「いや、蛇だよ」彼はいっそう陽気になった。
「きみはあんまり深く考えこまないときのほうがいいぜ」とぼくが言った。
「ぼくはきみが好きだ、おぼっちゃん」と彼が言った。「ぼくがイタリアの偉大な思想家になったとたん、きみはぼくをへこましてくれるからな。でも、ぼくは、口には言えないが、いろんなことを知ってるんだ。きみより知ってるぜ」
「そりゃそうだ」
「でも、きみのほうがいいことがあるだろうな。後悔することがあっても、いいことがあるだろうな」
「そんなことないよ」
「いや、そうだ。ほんとうだとも。いまだって、ぼくは働いているときだけしか、たのしくはないんだ」彼はふたたび床を見た。
「そんなことは今になくなるよ」
「いや。ぼくは仕事のほかに二つしか好きなものがないんだ。ひとつはぼくの仕事に悪いし、もうひとつは三十分か十五分もすれば終わっちゃうんだ。ときには、もっと早くてすむこともあるんだ」
「ときには、ずっと早いこともある」
「きっと、ぼくは上達したんだろう、おぼっちゃん。きみは知らないんだよ。でも、二つのことと仕事しかないんだ」
「ほかのこともできるようになるよ」
「いや。ぼくたちはけっして何もできるようにはならないよ。生まれたときから、いま持っているものは持っていたんで、あとから覚えることなどないんだ。けっして新しいものなどできるようにはならないんだ。ぼくたちはみんな完成したままで出発するんだ。きみはラテン人でないことを喜ばなきゃいかん」
「ラテン人なんてものはいないよ。それこそ『ラテン的な』考え方だ。きみは自分の欠点をえらく誇りにしてるね」リナルディは顔をあげて、笑った。
「やめようや、おぼっちゃん。あんまり考えて、疲れた」彼は部屋にはいってきたときから、疲れた様子だった。「もうそろそろ飯の時間だ。きみが帰ってきて、嬉しいよ、きみはぼくのいちばんの親友で、戦友だからな」
「その戦友たちの食事はいつなんだ?」とぼくがたずねた。
「いますぐだ。きみの肝臓のために、もう一杯やろう」
「聖パウロにあやかって」(聖パウロの書簡に「なんじの胃のため……少しくワインを用うべし」とあるによる。新約、テモテ前書)
「そいつは不正確だぞ。あれはワインと胃袋だったぞ。きみの胃袋のために、すこしワインをのめよ」
「壜《びん》に何がはいってたって」とぼくが言った。「きみがなんのためにと言おうとも、飲もう」
「きみのガール・フレンドのために」とリナルディが言った。彼はグラスをさしだした。
「いいとも」
「その娘《こ》については、ぼくはけっして淫《みだ》らなことは言わないぞ」
「無理するなよ」
彼はコニャックを飲みほした。「ぼくは純潔だよ」と彼が言った。「ぼくはきみとおんなじだぜ、おぼっちゃん。ぼくもイギリスの女の子を手に入れるよ。じっさいのところ、ぼくのほうがさきに、君のあの子を知ってたんだが、ぼくにはすこし背が高すぎたんだ。妹にするには、背が高すぎる、だったな」と彼が言葉を引用して言った。
「きみの心はすばらしく純真だな」とぼくが言った。
「そうだとも。だから、|純潔なリナルディ《リナルドー・プリッシーモ》と呼ばれてるんだ」
「|極道者のリナルディ《リナルドー・スボルキッシーモ》」
「さあ、おぼっちゃん、ぼくの心が純真なあいだに、食べにおりていこう」
ぼくは手を洗い、髪をとかし、二人で階段をおりた。リナルディはすこし酔っていた。ぼくたちの食事をする部屋はまだじゅうぶん用意ができていなかった。
「壜をとってくるよ」とリナルディが言った。彼は階段をあがっていった。ぼくはテーブルにすわっていた。彼は壜をもって帰ってき、めいめいのコップにコニャックを半分ついだ。
「多すぎる」とぼくは言って、グラスをもちあげ、テーブルの上のランプにかざした。
「すき腹だからだいじょうぶだ。すばらしいぜ。胃を完全に焼きつくすよ。これほどきみに悪いものはないよ」
「いいとも」
「日ごとに自滅さ」とリナルディが言った。「胃がだめになって、手に震えがくるんだ。外科医にはもってこいさ」
「きみはこれをすすめるんだね?」
「心からね。ぼくはほかのものはやらないよ。飲んじゃえよ、おぼっちゃん。そして病気になるのを待ってろよ」
ぼくはグラスに半分飲んだ。廊下で当番兵が「スープ! スープの用意ができました!」と叫んでいるのがきこえた。
少佐がはいってきて、ぼくたちにうなずき、腰をおろした。彼はテーブルにつくと、すごく小さく見えた。
「これで全員かね?」と彼がたずねた。当番兵がスープの鉢を下におろし、ひしゃくで皿にいっぱいすくった。
「全員です」とリナルディが言った。「司祭は休みです。フェデリーコが帰ってきたことを知れば、来るでしょうが」
「どこにいるんですか?」とぼくがきいた。
「三〇七にいってるんだ」と少佐が言った。彼はスープに忙しかった。彼は口を拭き、上向きの灰色の口髭《くちひげ》を注意深くぬぐった。「くると思うがね。ぼくはあそこに電話して、きみが帰ってきたと告げてくれるように伝言しといたんだ」
「会食が賑やかでないのがさびしいですね」とぼくが言った。
「うん、静かだね」と少佐が言った。
「賑やかにやろう」とリナルディが言った。
「ワインを飲みたまえ、エンリーコ」と少佐が言った。彼はぼくのグラスを満たした。スパゲッティが出て、ぼくたちはみな忙しかった。スパゲッティを終えようとしているとき、司祭がはいってきた。彼はまえと同じで、小がらで、日焼けして、引きしまった、からだつきだった。ぼくは立ちあがり、彼と握手した。彼はぼくの肩に手をのせた。
「おききして、すぐ来たんです」と彼が言った。
「かけたまえ」と少佐が言った。「おそかったね」
「今晩は、神父さん」とリナルディが英語で言った。みんなは、英語がすこし話せる、司祭いじめの大尉から、そうした英語を覚えたのだった。
「今晩は、リナルディ」と司祭が言った。当番兵は彼にスープをもってきたが、司祭はスパゲッティからはじめると言った。
「いかがですか?」と彼はぼくにきいた。
「元気です」とぼくが言った。「こっちはどうでした?」
「ワインをすこし飲みなさい、神父さん」とリナルディが言った。「あなたの胃のために、ワインをすこしやりなさい。これは聖パウロですよ、ねえ」
「ええ、そうですね」と司祭がていねいに言った。リナルディは彼のグラスを満たした。
「その聖パウロが」とリナルディが言った。「いろんな悶着《もんちゃく》をおこすんだ」司祭はぼくを見て、笑った。いじめても、もう彼にはなんでもないことが、わかった。
「あの聖パウロは」とリナルディが言った。「あいつは飲んべえの常習犯で、女を追っかけまわしたんだ。それでいて、熱がさめてしまったら、そいつはよくないって言うんだぜ。自分がやってしまってから、まだ熱のあるぼくたちに規則をつくったんだぜ。そのとおりだろう。フェデリーコ?」
少佐は微笑した。ぼくたちはミート・シチューを食べていた。
「ぼくは暗くなってからは聖者のことを議論しないことにしてるんだ」とぼくが言った。司祭はシチューから目をあげて、ぼくにほほえんだ。
「そうらね。神父さんとぐるになってるぞ」とリナルディが言った。「例の神父さんいじめの連中はどこにいったんだ? カヴァルカンティはどこだ? ブルンディはどこだ? チェザレはどこだ? ぼくは一人の味方もなく、ひとりで、この神父さんをいじめなきゃあならないのかね?」
「この人はいい神父さんなんだよ」と少佐が言った。
「いい神父さんさ」とリナルディが言った。「だけど、やっぱり、神父さんは神父さんだ。ぼくは以前のように会食をしようと思うんだ。フェデリーコをたのしませてやりたいんだよ。おまえなんか地獄へおちちゃえ、神父さん!」
少佐が彼を見、彼が酔っているのに気がついたのが、ぼくにわかった。彼の痩せた顔は蒼白《そうはく》だった。彼の髪の生えぎわが額の白さにくらべて真っ黒だった。
「いいですとも、リナルドー」と司祭が言った。「いいですとも」
「地獄へおちちゃえ」とリナルディが言った。「そんないまいましい仕事など、みんな地獄へおちちまえ」彼は椅子にふんぞりかえった。
「やつは仕事に無理をしていたんで、疲れてるんだよ」と少佐が言った。彼は肉を食べおえ、肉汁をパンきれできれいにぬぐいとった。
「知っちゃあいないよ」とリナルディがテーブルについている人たちに向かって言った。「仕事なんか、みんな地獄へおちちゃえ」彼はいどみかかるようにテーブルを見まわした。目はどんよりして、顔は青白かった。
「いいとも」とぼくが言った。「いまいましい仕事など地獄へおちちゃえ」
「いや、いや」とリナルディが言った。「きみにはできないよ、そんなこと。きみにはできないよ。いいかい、きみにはできないよ。きみは冷静で、頭がからっぽだ。ほかに何もない。いいかい、ほかに何もないんだってば。まったくないんだ。ねえ、ぼくだって仕事をやめればそうだ」
司祭は首をふった。当番兵はシチューの皿をかたづけた。
「きみはなんのために肉を食ってるんだ?」とリナルディが司祭のほうにふりむいた。「きょうが金曜日だってこと知らないのか?」
「木曜日ですよ」と司祭が言った。
「嘘つくな。金曜日だ。きみは主《しゅ》のからだを食っているんだ。それは神の肉だよ。なあ、それは死んだオーストリア人のだよ。そいつをきみは食ってるんだぜ」
「白い肉は将校のだよ」とぼくはその古くさい冗談にけりをつけた。
リナルディが笑った。彼は自分のグラスをみたした。
「ぼくの言ったこと、気にするなよ」と彼が言った。「ぼくはちょっと気が変なんだ」
「あなたは休暇をとられなきゃいけませんね」と司祭が言った。
少佐は彼に向かって首をふった。リナルディは司祭を見た。
「おれが休暇をとらなきゃならんと言うんか?」
少佐は司祭に向かって首をふった。リナルディは司祭を見ていた。
「お好きなように」と司祭が言った。「おいやなら、およしなさい」
「きみなんか、地獄へおちちゃえ」とリナルディが言った。「みんながぼくを追っぱらおうとしてるんだ。毎晩、ぼくを追っぱらおうとしてるんだ。ぼくのほうでみんなを撃退してやるよ。ぼくがあれにかかっていたって、どうだっていうんだ? だれだってあれにかかっているんだ。世界じゅうのやつがかかっているんだ。まず」と彼は講演者のような口調になって、つづけた。「小さな丘疹《きゅうしん》ができる。それから、肩のあいだに発疹《はっしん》がみとめられる。それから、なんの異状もみとめられなくなる。ぼくたちは水銀を信頼してるんだ」
「それとも、サルヴァルサン(梅毒の特効薬)をね」と少佐がおだやかに口をはさんだ。
「水銀製剤だ」とリナルディが言った。彼はおおいに得意そうにふるまっていた。「ぼくはその両者に値するものを知ってるんだ。親愛な神父さん」と彼が言った。「きみはけっしてそんなものにはかからないよ、おぼっちゃんはかかるだろうがね。それは職業上の事故なんだ。単なる職業上の事故にすぎないんだ」
当番兵が菓子とコーヒーを持ってきた。菓子はどろっとしたソースをかけた黒パンのプディングとでも言うものだった。ランプが煙を出していた。黒い煙がほやのなかにたちこめていた。
「蝋燭《ろうそく》を二本もってきて、このランプをかたづけてくれ」と少佐が言った。当番兵が火のついた蝋燭を二本、それぞれ一本ずつ受け皿にたてて、もってきて、ランプをふき消しながら、持っていった。リナルディはいまでは、おとなしくなっていた。もうだいじょうぶらしかった。ぼくたちはだべり、コーヒーをすませてから、みんなで廊下に出ていった。
「きみは神父さんと話したいんだろ。ぼくは町に行かなきゃならないんだ」とリナルディが言った。
「おやすみ、神父さん」
「おやすみなさい、リナルドー」と司祭が言った。
「またあとで、フレディ」とリナルディが言った。
「ああ」とぼくが言った。「早く帰ってこいよ」彼はしかめっつらをして、ドアの外に出ていった。少佐はぼくたちのそばに立っていた。「あいつはひどく疲れている。過労なんだ」と彼が言った。「それに、梅毒にかかっていると思いこんでるんだ。ぼくにはそうとは思われないんだが、あいつはかかってるのかもしれない。自分でその治療をしてるからね。おやすみ。夜明けまえに出発するんだろ、エンリーコ?」
「ええ」
「じゃあ、さようなら」と彼が言った。「ごきげんよう。ペドゥッツィがきみを起こして、同行してくれるよ」
「さようなら、|少佐どの《シニョール・マッジョーレ》」
「さようなら。オーストリア軍の攻撃の噂《うわさ》があるんだが、おれには信じられない。なけりゃあいいが。でも、ともかく、こっちの方面じゃあないだろう。ジーノがきみにいっさいはなしてくれるだろう。電話もちゃんと通じているよ」
「規則的に電話で連絡します」
「そうしてくれ。おやすみ。リナルディにあんまりブランデーを飲ませないでくれ」
「わかりました」
「おやすみ、神父さん」
「おやすみなさい。|少佐どの《シニョール・マッジョーレ》」
彼は自分の事務室に消えていった。
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第二十六章
ぼくは戸口へ行き、外を見た。雨はやんでいたが、霧がかかっていた。
「二階へあがりましょうか?」とぼくは司祭にきいた。
「ほんのちょっとしかいられないんですが」
「あがってきてください」
ぼくたちは階段をあがり、ぼくの部屋にはいった。ぼくはリナルディのベッドの上に横になった。司祭は当番兵がつくってくれた簡易ベッドに腰かけた。部屋の中は暗かった。
「で」と彼が言った。「ほんとのところ、ぐあいはどうなんですか?」
「もうすっかりいいんです。今晩は、疲れてるんで」
「わたしも疲れています。べつにこれという理由もないのですが」
「戦争はどうなんです?」
「すぐに終わると思います。なぜだかわかりませんが、そんな気がします」
「そんな気がするって、どんなふうに?」
「少佐がどんなだかおわかりでしょう? やさしいでしょう? みんなが、いまでは、あんなふうなんです」
「ぼくもそういう気がしますよ」とぼくは言った。
「ひどい夏でしたよ」と司祭が言った。彼はぼくが出ていったころよりは、いまでは、ずっと自信をもっていた。「どんなふうだったか、あなたには信じられませんよ。あの場にいて、どんなふうになりうるものかご自分で知られる以外にはね。この夏こそ多くの人が戦争というものを身にしみて感じましたよ。とてもわかるまいと思っていた将校も、いまではそれがわかったんです」
「どういうことになるんでしょうね?」ぼくは手で毛布をなでた。
「わかりませんが、長くつづくはずはないと思いますね」
「どういうことになりますかね」
「戦闘をやめるでしょう」
「だれが?」
「両方とも」
「そうあってくれればいいが」とぼくが言った。
「そう思いませんか?」
「両方とも同時に戦闘をやめるとは思いませんね」
「そうは思いません。それは期待が大きすぎます。でも、人々の変化を見ていると、つづくとは思えませんね」
「この夏はどちらが勝ちましたか?」
「どちらも勝ちません」
「オーストリア軍の勝ちですね」とぼくが言った。「わが軍にサン・ガブリエーレを占領させなかったんだから。彼らが勝ったんですね。彼らは戦闘をやめないでしょうね」
「彼らがぼくらと同じような気になれば、やめるでしょう。彼らも同じことをやってきているんですから」
「だれも勝っているとき、やめたやつなんかいませんよ」
「がっかりすることをおっしゃる」
「ぼくは思ってることしかいえないんでね」
「では、こんなことがはてしなくつづくとお考えですか? 何も起こらないと?」
「わかりませんね。ただ、オーストリア軍は勝利をえているときは、やめないだろうと、思うんです。ぼくたちがキリスト教徒になるのは敗北したときなんですよ」
「オーストリア人だってキリスト教徒です――ボスニア人はべつですが」
「厳密にキリスト教徒という意味ではありません。わが主のような人という意味で、です」
彼は何も言わなかった。
「ぼくたちは敗北したから、いまはみんなやさしいんです。わが主だってペテロに園で救われていたら、どんなだったかわかりませんよ」(ユダのためにキリストがゲッセマネで捕えられたとき、ペテロはそれを見ながら彼を救わず、三たび、われ彼を知らずと言った。マタイ伝、二十六章)
「主は変らなかったでしょう」
「そうとは思えませんね」とぼくが言った。
「がっかりすることをおっしゃる」と彼が言った。「何かが起こると、わたしは信じ、そう祈っています。それが非常に近いという気がします」
「何かは起こるかもしれません」とぼくが言った。「でも、それはぼくたちのほうだけに起こるんでしょう。彼らがぼくたちのような気になれば、とてもいいんですが。でも、彼らはぼくたちを打ちまかしたんです。彼らの気持ちはちがいますよ」
「多くの兵隊たちはこんな気持ちでずっといるわけなんですよ。敗北したからなのではありません」
「兵隊ははじめから敗北してたんです、彼らは農場から連れてこられ、軍隊にいれられたとき、敗北したんです。だから、百姓が聡明《そうめい》なんです。なぜなら、はじめから敗北しているからです。百姓に権力をあたえれば、どんなに聡明かすぐわかりますよ」
彼は何も言わなかった。彼は考えていた。
「ぼくはいま気がめいっているんです」とぼくが言った。「だから、ぼくはこんなことはけっして考えないんです。ぼくはけっして考えないんですが、話しはじめると、考えもせず、頭にうかんだままを言っちゃうんです」
「わたしは何かを望んでいました」
「敗北を?」
「いいや。それ以上のこと」
「それ以上のことはありませんよ。勝利以外は。勝利はもっと悪いかもしれません」
「わたしは長いあいだ、勝利を望んでいました」
「ぼくもです」
「でも、いまとなっては、わからなくなりました」
「敗北か勝利かのどちらかということですね」
「わたしはもう勝利を信じません」
「ぼくもそうです。でも、ぼくは敗北も信じません。敗北のほうがいいかもしれませんが」
「あなたは何を信じますか?」
「眠ることですね」とぼくは言った。彼は立ちあがった。
「どうも長居して失礼しました。でも、わたしはあなたとお話するのがとてもたのしみです」
「またお話できて、とても愉快でした。ぼくは眠ることについてああ言いましたが、なにも信じないという意味だったのですよ」
ぼくたちは立ちあがって、暗いなかで握手した。
「わたしはいま三〇七に泊まっています」と彼が言った。
「ぼくは明朝早く駐屯所に出かけます」
「お帰りになったら、お会いしましょう」
「また散歩でもしながら、お話しましょう」ぼくは彼と戸口まで歩いていった。
「下までおおりにならないでください」と彼が言った。「帰ってこられて、とてもうれしいんです。あなたにはあんまりうれしいことではないでしょうがね」彼は手をぼくの肩にのせた。
「ぼくには、これでよかったのですよ」とぼくが言った。「おやすみなさい」
「おやすみなさい。|では、また《チャオ》!」
「|では、また《チャオ》!」とぼくは言った。ぼくはすごく眠かった。
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第二十七章
リナルディがはいってきたとき、ぼくは目をさましたが、彼はだまっていた。それで、また眠ってしまった。朝、明るくならないうちに、服を着て、出かけた。出るとき、リナルディは目をさまさなかった。
ぼくはまだバインスィッツァ地方を見たことがなかった。ぼくが負傷した河の地点を越えて、以前オーストリア軍がいた坂道をのぼっていくのは妙なものだった。できたての急こうばいの坂道があり、たくさんのトラックがあった。向こうには、道路が平坦に開け、森やけわしい丘陵が霧のなかに見えた。急速に占領されたため破壊をまぬかれた森があった。さらに、向こうの、道路が丘で守られていないところでは、道路の両側と上部がむしろで遮蔽《しゃへい》してあった。道路は破壊された村で行きどまりになっていた。前線はさらにそのさきだった。あたりには、たくさん大砲があった。家々はひどく破壊されていたが、秩序は非常によく保たれていて、あらゆるところに標識板があった。ぼくたちはジーノを探しだした。彼はぼくたちにコーヒーをおごった。それから、ぼくは彼といっしょにいって、いろいろな人に会い、駐屯所を見てまわった。ジーノはイギリスの車がバインスィッツァのずっと下のラヴネで活動していると言った。彼はイギリス軍を非常に賞賛していた。まだいくらかは砲撃があるが、負傷者はあまりいない、と言った。雨季になったので、病人がたくさんでるだろう。オーストリア軍が攻撃するものと思われていたが、彼はそれを信じていなかった。わが軍も攻撃すると思われていたが、新しい部隊が到着していないので、それもやめになったのだと彼は思っていた。ここは食糧が乏しいが、ゴリツィアに帰れば食事がたっぷりできてうれしい。きみはどんな夕食を食べたかね? ときいた。ぼくは彼に話してやった。彼はそいつはすばらしいだろうなと言った。彼は特にドルチェ(デザート用の甘い菓子)に心を動かされた。ぼくはそれを詳細に説明しないで、ただドルチェとだけ言った。それで、彼はそれがパンのプディングよりもっと手のこんだものだと信じたらしい。
彼がどこにいくことになっているか知っているかと、ぼくにたずねた。ぼくは知らないが、ほかの車がいく台かカポレットにある、と言った。彼はその方面にいきたいと言った。それはこぢんまりとしたいいところで、彼はその向こうにそびえている高い山が好きだった。感じのいい青年で、だれからも好かれているようだった。ほんとうに地獄だったのは、サン・ガブリエーレと、失敗だったロムの前方の攻撃だった、と言った。オーストリア軍がわれわれの前方の頭上のテルノーヴァ山の尾根の森林に大砲をたくさんそなえていて、夜になると猛烈に道路を砲撃するのだ、と言った。海軍砲の陣地があって、彼の神経はこれにまいってしまっていた。海軍砲は弾道が水平だからぼくにも見分けがつくだろう。ぶうんという音が聞こえると、ほとんどすぐ、しゅっという音がはじまる。敵はたいてい同時に二門の砲をつづけざまに射ち、砲弾の炸裂する破片がおびただしい、とのことだった。彼は破片をひとつ見せてくれたが、一フィート以上もある、滑《なめ》らかなぎざぎざのある金属片だった。バビット合金のように思われた。
「たいした威力もないと思うんだが」とジーノが言った。「でもびっくりするよ。どいつも、まっすぐ、こっちに目がけてくるような音がするんだ。ぶうんという音がして、それからすぐさま、しゅっといって、炸裂《さくれつ》する。負傷しなくたって、死ぬほどびっくりするんだから、おんなじことなんだ」
彼は、いま、われわれの正面の戦線にはクロアチアの兵とマジャール族(ハンガリー人の大半を占める一種族)がいる、と言った。わが軍はまだ攻撃態勢のままだ。オーストリア軍の攻撃があれば、こちらにはこれというほどの鉄条網も、退いて守る地点もない。高原からのびる低い山脈にそってすぐれた防御地点があるが、そこに防御の設備はなんらほどこしてない。それはともかく、バインスィッツァをどう思うか、ときいた。
ぼくは、もっと平らで、もっと高原らしいところかと思っていたのだ。こんなに起伏のあるところだとは思ってもいなかった。
「高原《アルト・ピアーノ》なんだが」とジーノが言った。「原《ピアーノ》じゃないんだ」
ぼくたちは彼の泊まっていた家の地下室に帰った。ぼくは、頂上が平らで、いくらか奥行きのある尾根のほうが、小さな山の連なっているのより、守りやすく効果があると思う、と言った。山を攻めのぼるのは平地を攻めるより困難だということはない、とぼくは主張した。「それは山次第さ」と彼が言った。「サン・ガブリエーレを見たまえ」
「その通り」とぼくは言った。「でも、めんどうだったのは平らな頂上のところだったんだぜ。頂上まではとてもらくにのぼったんだ」
「それほどらくでもなかった」
「いやらくだった」とぼくは言った。「でも、それは特殊な場合さ。とにかく、山というより、要塞《ようさい》だったんだからな。オーストリア軍はなん年もかかってあそこを要塞化していたんだ」戦略的に言って、機動性のある戦争では、連山は迂回されやすいので、戦線として支えるにはなんにもならない、という意味だった。できるだけ、機動性をもつべきだが、山はたいして機動性がない。それに、山からはいつでも遠くに射ちすぎてしまうものだ。側面を迂回されたら、精鋭部隊がいちばん高い山に残されてしまうだろう。ぼくは山岳戦を信頼していなかった。ぼくはそのことについてはずいぶん考えてみたのだ、と言った。こっちが一つの山を奪取すると、向こうもべつの山を奪取する。だが、本格的な戦争となると、みんな山からおりてこなければならないのだ。
「山が国境だったら、どうするつもりなんだ?」と彼がたずねた。
「そこまではまだ考えていなかった」とぼくは言い、二人で笑った。「だが」とぼくは言った。
「昔は、オーストリア軍はいつもヴェロナ付近の方形地帯でやられている。平野におびきよせられ、そこでやっつけられたのだ」
「そうだ」とジーノが言った。「だが、やったのはフランス軍だ。他人の国で戦っているときは、軍事上の問題ははっきりと計画できるものさ」
「ああ」とぼくは同意した。「自分の国だと、そうう思ったように利用できないものだね」
「ロシア軍はやったね、ナポレオンを罠《わな》にかけるために」
「ああ、でも、ロシアは国が広いからね。イタリアでナポレオンを罠にかけようとして退却しようものなら、気がついたときはもうブリンディシ(イタリア東南部の都市、アドリア海にのぞむ軍港)ってわけさ」
「ひどいところだ」とジーノが言った。「あそこにいったことあるかね?」
「住んだことはない」
「ぼくは愛国者だが」とジーノが言った。「ブリンディシとか、タラント(イタリア東南部の都市)は好きになれないよ」
「バインスィッツァは好きかい?」とぼくがきいた。
「ここの土地は神聖だ」と彼は言った。「ただ馬鈴薯がもっとできるといいんだが。ぼくたちがここに来たとき、オーストリア軍が植えた馬鈴薯畑があったんだよ」
「食糧はほんとうに不足しているのかい?」
「ぼく自身、じゅうぶん食ったことはなかったよ。だが、ぼくは大食でも、餓え死にはしなかった。食事の量は普通だ。前線の連隊はかなりいい食事をもらっているが、救援隊のほうはそんなにはもらえないんだ。どこかで何かがいけないんだ。食糧はたくさんあるはずだ」
「扱ってるやつらがサメみたいで、どこかへ売り渡してるんだよ」
「そうだ。前線の部隊にはできるだけたくさんやっているが、後方の部隊はひどく欠乏しているんだ。オーストリア軍の馬鈴薯や森の栗をすっかり食っちゃったぜ。もっと食い物を多くすべきだ。ぼくたちは大食だからな。きっと、食糧はたくさんあるはずだ。兵隊には食糧の不足はすごく悪いことさ。食糧が足りないと、ものの考え方まで変ってしまうことに、きみは気づいたことがあるかね」
「あるよ」とぼくが言った。「そんなことでは戦争に勝てないね。負けるぜ」
「負ける話はよそう。負ける話はもうたくさんだ。この夏やったことが無駄だったはずがないんだから」
ぼくは何も言わなかった。ぼくはいつも、神聖なとか、光栄あるとか、犠牲とかの言葉や、むなしくといった表現に、当惑した。ぼくたちは、ときおり、呼んでも聞こえないような雨のなかに立って、そのため、叫び声だけしか聞こえないときに、そうした言葉を聞いたことがあったし、いまではもうずっとまえのことだが、ビラ貼り人が他の布告の上にはっていった布告に、そうした言葉を読んだこともあったが、ぼくは神聖なものは何も見たことがなく、光栄あるものもなんら光栄ではなく、犠牲は、シカゴの屠殺《とさつ》場のようなもので、ただ肉を埋めてしまうほか手がないという点だけがちがっていた。聞くにたえない言葉がたくさんあり、けっきょくは場所の名前だけが威厳をもつことになるものだ。ある種の番号などもそうで、またある日付も同じで、場所の名前といっしょにこれらのものだけが、口に出せるものであり、なんらかの意味をもっているものだった。光栄とか、名誉とか、勇気とか、神聖とかの抽象的な言葉は、具体的な村の名前とか、道路の番号とか、川の名前とか、連隊の番号とか日付とかのそばにおくと、卑猥《ひわい》だった。ジーノは愛国者だった。で、彼はときどきぼくたちを仲たがいさせるようなことを言った。が、彼はまたいいやつで、彼の愛国者であることを、ぼくは理解した。彼は生まれながらの愛国者だったのだ。彼はゴリツィアに帰るために、ペドゥッツィといっしょに車に乗って立ち去った。
その日は終日、暴風雨だった。風が雨をたたきつけ、いたるところ、水溜りや泥濘《ぬかるみ》だった。こわれた家々の漆喰《しっくい》は灰色になり、濡れていた。午後おそく、雨はやみ、第二駐屯所から、はだかの濡れた秋の田舎が見えた。丘の頂上の上のほうに雲がたなびき、道路を遮蔽《しゃへい》してあるむしろが濡れて水がしたたっていた。太陽は沈むまえに一度顔を出し、尾根の向こうのはだかの森に輝いた。その尾根の森にはオーストリア軍の多くの大砲があったが、火を吹いたのはわずかだった。前線の近くのこわれた農家の上空に、急に榴散弾の煙が丸いかたまりになっていくつかあがるのが見えた。それは中心に黄色味がかった白い閃光《せんこう》のあるやわらかなかたまりだった。閃光が見え、それから、砲声がきこえ、それから、煙の玉が風でゆがんで薄れるのが見えた。家々の瓦礫のなかや、駐屯所になっているこわれた家のそばの道路に、鉄の榴散弾がたくさんころがっていたが、その午後は駐屯所の近くを砲撃してこなかった。ぼくたちが二台の自動車に傷病兵をのせ、濡れたむしろで遮蔽してある道路を走らせていくと、最後の夕日がむしろのすきまからさしこんだ。丘の背後の遮蔽してない道路に出る前に、太陽は沈んでしまった。遮蔽のない道路をいき、角を曲がって広々とした所に出、むしろの四角いアーチ型のトンネルにはいると、雨がまた降り出した。
夜になると、風が出て、午前三時、どしゃぶりの雨とともに砲撃があり、クロアチアの部隊が山間の草原を横ぎり、森林を抜け、前線に来襲した。まっくらな雨のなかで、戦闘が行なわれ、第二線の怯《おび》えた兵隊たちの反撃が彼らを撃退した。雨をおかして、さかんに砲撃が行なわれ、狼火《のろし》があがり、前線一帯にわたって、機関銃と小銃が火を吹いた。彼らはそれっきり来襲せず、静かになっていったが、にわかに激しくなる風と雨の合い間に、はるか北のほうにあたって、大きな砲撃の響きが聞こえた。
負傷兵は担架でかつがれたり、自分で歩いたり、その戦場を通りかかった兵士の背に負われて、駐屯所にやって来つつあった。彼らはずぶ濡れで、みんな怯《おび》えていた。ぼくたちは駐屯所の地下室から上がってくる担架にのった負傷兵を二台の車に詰めた。そして、ぼくが二台めの車のドアをしめ、掛け金をかけると、顔にあたる雨が雪になるのが感じられた。雪片が雨にまじって、重たく、勢いよく、降っていた。
夜が明けても、暴風はまだ吹きまくっていたが、雪はやんでいた。雪は濡れた大地に落ちると、とけてしまっていた。そして、いまは、また、雨になっていた。夜が明けるとすぐ、また攻撃があったが、それは不成功だった。ぼくたちは終日攻撃を覚悟していたが、太陽が沈みかけるまで、攻撃はなかった。砲撃はオーストリア軍の大砲の集中している南のほうの森になっている長い尾根の下のあたりではじまった。ぼくたちは砲撃を覚悟していたが、砲撃されなかった。暗くなりかけていた。大砲が村のうしろの畑から火を吹いて、飛んでゆく砲弾がここちよい響きをたてた。
南方への攻撃は不成功だったとのことだった。敵はその夜、攻撃してこなかったが、北方ではわが戦線を突破したとのことだった。夜になって、わが軍は退却の準備をすることになったという知らせをうけた。駐屯所の大尉がぼくにそう告げてくれた。彼は旅団司令部からその知らせをうけたのだった。しばらくたって、彼は電話口から帰ってきて、それは誤りだったと言った。旅団司令部はどんなことがあってもバインスィッツァの戦線を確保するようにとの命令をうけたのだった。ぼくはわが戦線の突破されたことについてたずねた。彼は、オーストリア軍が第二十七軍団を突破しカポレットのほうに向かっていると、旅団司令部できいた、と言った。終日、北方では、大きな戦闘が行なわれていた。
「あいつらが敵に突破を許せば、ぼくらはだめだ」と彼が言った。
「攻撃しているのはドイツ軍だよ」と軍医の一人が言った。ドイツ軍という言葉には何かしらぎょっとさせるものがあった。ぼくたちはドイツ軍とはなんのかかわりももちたくなかった。
「ドイツ軍が十五師団いるんだ」と軍医が言った。「やつらが突破したんだ。ぼくらは分断されるぜ」
「旅団司令部ではこの戦線は確保することになっている、と言っている。突破されたとしても、たいしたものではなく、わが軍はモンテ・マジォーレから山脈を横ぎった戦線を確保するはずだと、言っている」
「司令部ではどこからそういうことをきいてくるんだ?」
「師団司令部からだ」
「わが軍が退却することになっているという情報は師団から来たんだぜ」
「ぼくたちは軍団の指揮下にあるんです」とぼくは言った。「だが、ここでは、ぼくはあなたの指揮下におります。だから、あなたが退却せよというなら、もちろん退却します。でも、命令は正確にうけてください」
「命令はここにとどまれと言うんだ。きみは負傷者をここから仮収容所まで運んでくれ」
「ときには、仮収容所から野戦病院に運ぶこともあります」とぼくが言った。「いいですか、ぼくは退却というものを見たことがないんですよ――退却となると、どういうふうにしてあの負傷者を全部撤退させますか?」
「全部はだめだ。できるだけ収容して、あとはそのままにしておくんだ」
「車に何を載せるんです?」
「病院の施設だ」
「わかりました」とぼくは言った。
つぎの夜、退却がはじまった。ドイツ軍とオーストリア軍が北方で戦線を突破し、チヴィダーレ(イタリア北東部の町)とウーディネに向かって山峡をくだって進撃しているとのことだった。退却は秩序正しく、雨に濡れて、陰鬱《いんうつ》だった。夜、ごったがえした道路をゆっくり進みながら、ぼくたちは雨のなかを行進する部隊や、大砲や、車を曳く馬や、騾馬《らば》や、トラックを追いこした。どれも前線から引きあげているのだった。進軍のときと同じように、混乱はなかった。
その夜、ぼくたちは高原のもっとも破壊の少ない村に設営されてあった野戦病院の撤収の手つだいをし、河床をとおって負傷者をプラーヴァに運んだ。翌日はプラーヴァの病院や仮収容所を撤収するために雨のなかで終日すごした。雨がたえまなく降り、バインスィッツァの軍隊は十月の雨のなかを高原から撤退し、その年の春、大勝利の端緒となった河を渡って、移動した。昼ごろ、ぼくたちはゴリツィアにやってきた。雨はやみ、町はほとんどからっぽだった。町を歩いていくと、兵隊用の慰安所から女をトラックにつんでいるところだった。七人の女が帽子と上衣をつけて、ちっちゃなスーツケースをもっていた。そのうちの二人はわあわあ泣いていた。泣いていない女の一人はぼくたちを見てほほえみ、舌を出し、上下にべろべろっと動かした。厚くふっくらした唇で、黒い瞳《ひとみ》だった。
ぼくは車をとめて、そこにいき、女将《おかみ》に話しかけた。将校用の慰安所の女たちは、けさ早くいってしまったわ、と彼女は言った。どこへいくんですか? コネリアーノ(ウーディネの西南、ベネチアの北にある町)へよ、と彼女は言った。トラックが動きだした。厚い唇の女はまたぼくたちに向かって舌を出した。女将は手を振った。二人の女はまだ泣きつづけていた。ほかのものは、興味深げに町をながめていた。ぼくは車にもどった。
「あいつらといっしょにいくべきですね」とボネルロが言った。「いい旅でしょうな」
「ぼくたちだっていい旅だろう」とぼくが言った。
「ぼくたちのはひどい旅になりますよ」
「ぼくもそういうつもりで言ったのさ」とぼくは言った。ぼくたちは別荘の車道にはいっていった。
「あの乱暴な連中が乗込んでくるときは、そこにいあわせたいもんですな」
「そんなことになると思うかね?」
「もちろんですよ。第二軍のやつらは、みんな、あの女将を知っていますよ」
ぼくたちは別荘の外に来た。
「みんなは女将を尼僧院長と呼んでるんですよ」とボネルロが言った。「女たちは新顔なんだが、だれでも、彼女のことは知っています。退却の直前にあの女たちをつれてきたにちがいない」
「やつらはひどいめにあうだろう」
「きっと、ひどいめにあうでしょう。ただで、あいつらに一発くらわせたいですよ。なにしろ、あの家はぼりすぎますからね。政府がぼくたちから巻きあげるんだから」
「車を出して、整備兵に検《しら》べさせろ」とぼくが言った。「オイルを交換して、差動装置を点検しろ。ガソリンを満タンにし、それから、すこし眠れ」
「はい、|中尉どの《シニョール・テネンテ》」
別荘はからだった。リナルディは病院といっしょにいってしまったのだ。少佐は幹部用の車に病院の要員をのせて、いってしまったのだ。窓の上にぼくにあてた簡単な手紙があり、廊下につんである資材を車にのせて、ポルデノーネにいくようにとあった。整備兵たちはもういなかった。ぼくは外のガレージにもどった。ぼくがそこにいるあいだに、ほかの二台の車もはいってきて、運転兵がおりてきた。また、雨が降ってきた。
「ぼくはとても――眠くて、プラーヴァからここへ来るのに三回も眠っちゃいました」とピアーニが言った。
「これから何をするんですか、|中尉どの《テネンテ》?」
「オイルを交換し、グリースをぬり、ガソリンを満タンにし、車を玄関にまわし、残っているがらくたを積みこめ」
「それから、出発ですか?」
「いや、三時間眠る」
「おや、眠るとはありがたい」ボネルロが言った。「運転していても目があかなかったんでね」
「おまえの車はどうだね、アイモ?」とぼくがたずねた。
「だいじょうぶです」
「作業服をかしてくれ、オイルの交換を手つだってやろう」
「よろしいですよ、|中尉どの《テネンテ》」とアイモが言った。「たいしたことありませんから、あちらへ行って、荷物を荷造りしてください」
「ぼくのものはみんな荷造りしてある」とぼくは言った。
「連中が残していったものを運んでこよう。整備できしだい、車をまわしてくれ」
彼らは別荘の正面に車をまわした。ぼくたちは廊下につんである病院の施設を車につみこんだ。全部つみこむと、三台の車は雨のなかで木陰の車道に一列に並んだ。ぼくたちはなかにはいった。
「台所で火を起こして、着ているものを乾かせ」とぼくが言った。
「服なんか乾いてなくてもいいですよ」とピアーニが言った。「眠りたいです」
「少佐のベッドで寝ようっと」とボネルロが言った。
「ぼくはどこで寝ようとかまわない」とピアーニが言った。
「このなかにベッドが二つある」ぼくはドアをあけた。
「その部屋に何があるかちっとも知らなかった」とボネルロが言った。
「そいつはとんまづらのじいさんの部屋だったよ」とピアーニが言った。
「おまえたち二人、ここで寝ろ」とぼくが言った。「起こしてやるから」
「あなたが眠りすぎても、オーストリア軍がぼくたちを起こしてくれますよ、|中尉どの《テネンテ》」とボネルロが言った。
「寝すぎやしないよ」とぼくが言った。「アイモはどこだ?」
「台所に行きましたよ」
「眠れよ」とぼくが言った。
「眠ります」とピアーニが言った。「一日じゅう、すわりながら眠ってたんです。頭のてっぺんがそっくり目の上においかぶさってるんです」
「編上靴をぬげ」とボネルロが言った。「そいつがとんまづらのじいさんのベッドだ」
「とんまづらなんて知っちゃいない」ピアーニは泥だらけの編上靴をまっすぐ突きだし、腕を枕にして、ベッドの上に横になった。ぼくは台所に出ていった。アイモはストーブに火をつけ、薬罐《やかん》に水をいっぱいにして、かけていた。「パスタ・アシュッタでもつくろうと思ってね」と彼が言った。「目がさめると、腹がすくでしょうから」
「眠くないのか、バルトロメオ?」
「そんなに眠くはないんです。湯がわいたら、そのままにしておきましょう。火は消えますからね」
「すこし寝たほうがいいよ」とぼくが言った。「チーズと罐詰めの牛肉でも食べればいいから」
「このほうがいいです」と彼が言った。「なにか熱いもののほうが、この二人の無政府主義者にはいいんです。|中尉どの《テネンテ》、おやすみなさい」
「少佐の部屋にベッドがあるよ」
「おやすみなさい」
「いや、ぼくはいつもの部屋へ行く。飲みたいか、バルトロメオ?」
「出かけるときに飲みます、|中尉どの《テネンテ》。いまはなんの役にもたちませんから」
「三時間たっておまえが目をさまして、ぼくが呼ばなかったら、ぼくを起こしてくれ、な?」
「時計がないんですが、|中尉どの《テネンテ》」
「少佐の部屋の壁にかかってるよ」
「承知しました」
ぼくはそれから食堂と廊下を通って出ていき、リナルディと住んでいた部屋へ大理石の階段をあがっていった。外では雨が降っていた。ぼくは窓のところに行き、外を見た。暗くなりかけていたが、三台の車が木の下に並んでいるのが見えた。木は雨に濡れて、雫《しずく》をたらしていた。寒く、雫は枝にくっついていた。ぼくはリナルディのベッドにもどり、横になって、眠りに身をまかせた。
ぼくたちは出発のまえに、台所で食事をとった。アイモが玉葱《たまねぎ》と罐詰めの肉を刻み込んだスパゲッティの鉢をもってきた。ぼくたちはテーブルのまわりに腰をおろして、別荘の地下室に残っていたワインを二本飲んだ。外は暗く、まだ雨は降りつづいていた。ピアーニはテーブルに向かってひどく眠そうに腰かけていた。
「進撃より退却のほうがいいな」とボネルロが言った。
「退却のときにはバルベーラ(イタリアのピードモント産の赤ワイン)が飲めるからな」
「いまは飲んでるがね。あすは雨水でも飲むだろうよ」とアイモが言った。
「あすはウーディネだよ。シャンペンが飲めるだろう。あそこはなまけものの住むところだ。起きろ、ピアーニ! あすは、ウーディネでシャンペンを飲むぞ」
「起きてるよ」とピアーニが言った。彼は自分の皿にスパゲッティと肉を盛った。「トマト・ソース、見つからなかったのか、バルト?」
「なかったんだ」とアイモが言った。
「ウーディネでシャンペンを飲もうぜ」とボネルロが言った。彼は自分のグラスにすきとおった赤いバルベーラを満たした。
「飲めるよ――ウーディネに行かなくとも」とピアーニが言った。
「じゅうぶん召しあがりましたか、|中尉どの《テネンテ》?」とアイモがたずねた。
「じゅうぶんたべた。その壜まわしてをくれ、バルトロメオ」
「車に一人一本ずつもっていくだけあります」とアイモが言った。
「すこしは寝たか?」
「そんなに寝なくてもいいんです。すこし寝ました」
「あすは王さまのベッドで寝よう」とボネルロが言った。彼はいい気分になっていた。
「あすはきっと、寝るのは――」とピアーニが言った。
「ぼくは女王さまと寝るよ」とボネルロが言った。彼はぼくがその冗談をどうとるか見ようと気をつけていた。
「きみが寝るのは――」とピアーニがねむそうに言った。
「こいつは反逆罪ですね、|中尉どの《テネンテ》」とボネルロが言った。「反逆罪じゃないですか?」
「だまれ」とぼくが言った。「すこしの酒でふざけすぎるぞ」外では雨がはげしく降っていた。ぼくは腕時計を見た。九時半だった。
「行く時間だ」とぼくは言って、立ちあがった。
「だれと乗りますか、|中尉どの《テネンテ》?」とボネルロが言った。
「アイモとだ。そのつぎにお前がこい。そのつぎがピアーニだ。コルモンスのほうに道をとろうか」
「眠っちゃうかもしれませんよ」とピアーニが言った。
「よし、お前と乗ろう。つぎが、ボネルロ。そのつぎが、アイモだ」
「それがいちばんいいですね」とピアーニが言った。「眠くてたまらないんですから」
「ぼくが運転するから、しばらく眠れ」
「いいえ。眠ったときに、だれかが起こしてくれるとわかっていれば、運転できますよ」
「起こしてやろう。あかりを消せ、バルト」
「つけといても同じですよ」とボネルロが言った。「ここにもうなんの用もなくなったんですから」
「部屋に小さな鍵のかかるトランクをおいてきたんだ」とぼくは言った。「いっしょにとりに行ってくれないか、ピアーニ?」
「ぼくたちでとってきます」とピアーニが言った。「こいよ、アルド」彼はボネルロと廊下に出ていった。二人が二階へあがっていくのがきこえた。
「ここはいいところでしたね」とバルトロメオ・アイモが言った。彼は二本のワインと半分のチーズを雑嚢のなかにつっこんだ。「もうこんなところはないですね。どこまで退却するんでしょうね、|中尉どの《テネンテ》?」
「タリアメント河(ウーディネの西、ゴリツィアの東を流れアドリア海にそそぐイタリア東北部の河)の先、ということだ。病院と防御地区はポルデノーネにおかれるはずだ」
「ここのほうがポルデノーネよりもいい町ですよ」
「ポルデノーネは知らない」とぼくは言った。「ただ、通りぬけたことがあるだけだ」
「たいしたところじゃありませんよ」とアイモが言った。
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第二十八章
町を通りぬけていくと、雨と暗闇の町は本通りを通っていく部隊や大砲の縦列のほかは、からっぽだった。トラックがたくさんあり、荷馬車もいくつかあって、ほかの街路を通って、本通りに集まってきた。ぼくたちが皮革工場の前を通って本通りへ出ると、部隊と、トラックと、馬に曳かれた荷車と、大砲が、ひとつの幅のひろい縦列になって、ゆっくり動いていた。ぼくたちは雨のなかを、ゆっくり、しかし、たゆみなく、動いていった。ぼくたちの自動車のラジエーター・キャップが、高く荷を積んだトラックの尾板にほとんどぶつかりそうになっていた。その荷は濡れたズックでおおわれていた。やがて、そのトラックがとまった。縦列全体がとまった。また動きだした。すこし先に進むと、またとまった。ぼくは車をおりて、トラックや荷車のあいだや馬の濡れた首の下を通って先のほうへ歩いていった。立ち往生しているのはずっと先のほうだった。ぼくは道路をはなれ、溝の踏み板をわたり、溝の向こう側の畑を歩いていった。畑のなかを横切って前方に行くと、雨のなかの木々のあいだに立ち往生している縦列が見えた。ぼくは一マイルばかり進んだ。立ち往生した車の向こう側に部隊が動いているのが見えたが、縦列は動かなかった。ぼくは車にひきかえした。この立ち往生はウーディネまで続いているかもしれなかった。ピアーニはハンドルにもたれかかって、眠っていた。ぼくもそのそばにはいあがって、眠りこんだ。数時間たって、ぼくたちの前方のトラックがギアを入れる音がきこえた。ぼくはピアーニを起こし、動きだし、数ヤード進んだが、またとまり、それから、また進んだ。雨はまだ降っていた。
縦列は夜になってまた立ち往生して、動かなくなった。ぼくは車をおり、アイモとボネルロを見にうしろにもどった。ボネルロは座席に工兵軍曹を二人のせていた。ぼくが近づくと、彼らは固くなった。
「ここの人は橋になにか工作するために残されたんです」とボネルロが言った。「自分の部隊が見つからないので、乗せてやったんです」
「中尉どのの許可があれば」
「許可しよう」とぼくが言った。
「中尉どのはアメリカ人なんだ」とボネルロが言った。「だれでも乗せてくださるよ」
軍曹の一人がほほえんだ。ほかの一人は、ぼくが北アメリカか南アメリカ出身のイタリア人なのかと、ボネルロにきいた。
「イタリア人じゃないんだよ。北アメリカのイギリス人だよ」
軍曹たちはていねいな物腰だったが、それを信じなかった。ぼくは彼らからはなれ、アイモのところへいってみた。彼は座席に二人の女の子をのせ、自分は隅っこに深く腰かけ、タバコをふかしていた。
「バルト、バルト」とぼくが言った。彼は笑った。
「この娘《こ》たちに話しかけてください、|中尉どの《テネンテ》」と彼が言った。「この娘たちの言うことがわからないんです。おい!」彼は手を女の子の腿《もも》にあて、なれなれしくぎゅっとおさえた。その女の子はショールをしっかりからだにまきつけ、彼の手を押しやった。「おい!」と彼が言った。
「|中尉どの《テネンテ》におまえの名前とここで何をしてるか言え」
その女の子はぼくをにらみつけた。もうひとりの娘《こ》は顔をふせたままだった。ぼくを見た女の子はひと言もわからない方言でなにか言った。ふくよかで、浅黒く、十六ぐらいに見えた。
「|妹さん《ソレルラ》かい?」とぼくはたずねて、もうひとりの女の子を指さした。
彼女はうなずいて、ほほえんだ。
「そうかい」とぼくは言って、彼女の膝を軽くたたいた。彼女に触れたとき、彼女がこわばっているのが感じられた。妹は一度も顔をあげなかった。一つぐらい年下に見えた。アイモが姉の腿に手をおくと、彼女はそれを押しのけた。彼は彼女に笑ってみせた。
「いい男だよ」と彼は自分を指さした。「いい男だぜ」と彼はぼくを指さした。「心配することないよ」女の子は彼をにらみつけた。二人の女の子は二羽の野鳥のようだった。
「ぼくが嫌いなら、なんでぼくといっしょに乗っているんでしょうね?」とアイモがきいた。「ぼくが合い図をしたらたちまち車に乗ってきたんですよ」彼は女の子のほうにふりむいた。「心配するなよ」と彼が言った。下卑た言葉を使って「――の危険はないよ」「――の場所なんかないよ」ぼくには彼女がその言葉を理解したことはわかったが、ただそれだけのことだった。彼女が彼を見ている目はひどく怯《おび》えていた。彼女はショールをしっかりおさえた。「車はいっぱいだ」とアイモが言った。「――の心配はないよ。――の場所はないよ」その言葉を彼が言うたびに、彼女はすこしこわばった。それから、こわばってすわりながら彼を見ているうちに、泣きだした。唇の動いているのが見え、それから、涙がふっくらした頬をつたって落ちた。妹は目もあげず、姉の手をとり、二人はいっしょにそこに腰かけていた。姉はすごくきつい表情だったが、すすり泣きだした。
「ぼくに怯えたんだね」とアイモが言った。「怯えさすつもりじゃなかったんだが」
バルトロメオは背嚢《はいのう》を取りだし、チーズを二きれ切りとった。「さあ」と彼は言った。「泣くのはおやめ」
姉は頭を振ったが、まだ泣いていた。妹のほうはチーズを受けとり食べはじめた。しばらくたって、妹は姉にもチーズをひときれ渡し、二人で食べた。姉のほうはまだすこしすすり泣いていた。
「しばらくすれば、よくなりますよ」とアイモが言った。
ある考えが彼に浮かんだ。「処女《ヴァージン》かい?」と彼は隣の女の子にきいた。彼女は強くうなずいた。
「こっちも?」と彼は妹のほうを指さした。女の子は二人ともうなずいて、姉のほうが方言で何か言った。
「だいじょうぶだよ」とバルトロメオが言った。「だいじょうぶだよ」
女の子は二人とも元気づいたようだった。
ぼくは隅っこに深く腰かけているアイモと並んで腰かけている二人を残して、ピアーニの車にもどった。車の縦列は動かなかったが、部隊はそばを通りつづけていた。雨はまだはげしく降っていた。縦列の動きのなかでいく度かとまることがあるのは自動車の配線が濡れたためと思われた。いや、それよりも、馬や人が眠ってしまったためだった。だが、みんなが起きているときでも、市中で交通が渋滞することもありうるのだ。原因は馬と自動車の組み合わせにある。両者はちっともたがいに助けあおうとしないのだ。百姓の荷車もたいして助けにならないのだ。バルトといっしょにいる二人はいい女の子だ。退却は二人の処女の出る幕じゃない。ほんとの処女だな。きっと、とても信心深いんだ。戦争がなければ、ぼくたちはみんなベッドにはいっていることだろう。ベッドで、頭を横たえる。ベッドと食事《ボード》か(「寝食をともにする夫婦関係」の意)。ベッドのなかで板《ボード》のように固くなっているんだ。キャサリンはいまごろベッドにはいって、上下二枚のシーツのあいだにいるんだ。どっちがわを向いて寝ているだろう? きっと寝てないだろう。きっとぼくのことを考えて横になっているだろう。吹け、吹け、なんじ西風よ。(シェイクスピア「お気に召すまま」第二幕七場)ああ、吹いてきた。そして、降ったのは、小雨じゃあなくて、大雨だった。一晩じゅう、降った。降りに降ったんだ。見てみたまえ。ああ、恋人をこの腕にだいて、またベッドに眠れますように。いとしいキャサリンをだいて。いとしい恋人のキャサリンが雨になって降ってきますように。もう一度、彼女をぼくのところへ吹きよせてください。ああ、ぼくたちはその風のなかにいるんだ。みんながその風に吹かれていて、小雨なんかじゃその風は静まらないんだ。「おやすみ、キャサリン」とぼくは大声で言った。「よく眠れるように、あんまり寝心地がよくなかったら、向きを変えておやすみ」とぼくは言った。「冷たい水をもってきてあげよう。すぐ朝になるよ。そうすれば、そんなに寝心地も悪くはないだろう。あの男がきみをそんなに不愉快にして、悪いね。なんとか眠ってごらん、ねえ、きみ」
あたしはずっと眠ってたのよ、と彼女が言った。あなたは寝ごとを言ってたわ。なんともなくて?
きみはほんとにそこにいるのかい?
もちろん、あたし、ここよ。どこへも行かないわ。こんなこと、あたしたちのあいだでは、なんでもないことよ。
きみはとてもきれいでかわいいよ。夜になっても行ってしまわないだろう、ねえ?
もちろん、行かないわ。あたしはいつもここにいるわ。あなたがお望みのときにはいつでも来るわ。
「――」とピアーニが言った。「また動きはじめましたよ」
「ぼんやりしていたよ」とぼくが言った。ぼくは時計を見た。午前三時だった。ぼくはバルベラ(イタリア産の辛口の赤ワイン)の壜をとろうと座席のうしろに手をのばした。
「大声でお話しになりましたね」とピアーニが言った。
「英語で夢をみてたんだ」とぼくは言った。
雨は弱まり、ぼくたちは動いていった。夜明けまえに、また立ち往生し、明るくなると、地面のすこし高くなったところにきていた。退却していく道路がはるか前方に延びているのが見え、歩兵がそのあいだをぬうように通りぬけていくほかは、すべてが停止していた。ぼくたちはまた動きだしたが、日中の進行のぐあいを見ると、ウーディネに着くつもりなら、その本通りをすこしそれて、田野を横ぎらなければならないと思われた。
夜になって、多くの百姓が田舎道から縦列に加わってきた。縦列には家財道具を積んだ荷車があった。蒲団のあいだから鏡がつき出し、ニワトリとアヒルが荷車にくくりつけてあった。雨のなかを行くぼくたちの前方の荷車にミシンがのっていた。彼らはこうしていちばん貴重なものを運びだしたのだ。いく台かの荷車の上に女たちが雨をよけてごちゃごちゃにかたまってすわっていたし、荷車のそばにできるだけくっついて歩いている女もいた。いまでは犬までも縦列に加わり、動いて行く四輪馬車の下を離れなかった。道路はぬかり、道ばたの溝は水量がまし、道路の両がわに立ち並んだ木々の向こうには、田野が濡れて水びたしになり、横切ってみることもできなかった。ぼくは車からおり、道路をやっとのことですこし進み、田野を横ぎれる横道を見つけようと、前方の見通しのきく場所を探した。横道はたくさんあることはわかっていたが、どこにも出られない道ではだめなのだ。いつもは本通りを車で走り、横道は通りすごしていたし、それにみんな同じように見えたから、ぼくはそれらを憶《おぼ》えてはいなかった。だが、ここから抜けだしたければ、その道を見つけなければならないことはわかっていた。だれもオーストリア軍がどこにいるのか、どうなっているのかわからなかったが、たしかなことは、もし雨がやんだりして、飛行機がやって来て、縦列の上を攻撃しだしたら、それでおしまいだということだった。二、三人がトラックを捨てたり、二、三頭の馬が殺されさえすれば、道路上の動きは完全にとまってしまうのだ。
もう、雨はそんなにひどく降ってはいなかった。ぼくは晴れるかもしれないと思った。ぼくは道路のふちにそって進んでいき、両がわに木の生け垣のある二つの畑のあいだを北に通っている小さな道があったので、そこをいったほうがいいと思い、急いで車に帰った。ぼくはピアーニにそっちにそれるように命じて、ボネルロやアイモにも命じるようにもどっていった。
「どこにも出られなかったら、引きかえして、もとのところへ割り込むだけのことさ」とぼくが言った。
「こいつらをどうします?」とボネルロがたずねた。二人の軍曹が彼のそばの座席にいた。髭《ひげ》を剃っていなかったが、それでも、朝早く見ると、軍人らしかった。
「車の後押しに役だつだろう」とぼくが言った。ぼくはアイモのところへいって、田野を横ぎる道をためしてみるんだと話した。
「ぼくの処女家族はどうしますか?」とアイモがたずねた。二人の女の子は寝ていた。
「たいして役に立たないだろう」とぼくが言った。「だれか押せる人をのせなくちゃ」
「車の後部に乗れますよ」とアイモが言った。「車には余地がありますから」
「そうしたいなら、それでもいいよ」とぼくは言った。「押すのにだれか肩幅の広いやつを拾え」
「狙撃《そげき》兵ですな」とアイモがほほえんだ。「やつらの背幅がいちばん広いんですよ。背幅を測られるんですからね。|中尉どの《テネンテ》、気分はいかがですか?」
「いいよ、お前はどうだ?」
「いい気分です。でも、とても腹がへりました」
「あの道路を行くと何かあるはずだ。そこで停まって食おう」
「足はどうですか、|中尉どの《テネンテ》?」
「いいよ」とぼくが言った。ステップの上に立って、前方を見ると、ピアーニの車が小さな横道のほうに出て、その道をとりはじめるのが見え、彼の車がはだかの枝の生け垣をすかして見えた。ボネルロが向きをかえて彼につづき、それから、ピアーニも彼の道をとり、ぼくたちは垣のあいだの狭い道にそって前方の二台の傷病兵運搬車についていった。それは農家に通じていた。ピアーニとボネルロがその庭先で止まったのが見えた。家は低く、長く、戸口の上にぶどうの棚があった。庭には井戸があり、ピアーニがラジエーターに入れるために水をくんでいた。ロウ・ギアでこんなに走ったので、ラジエーターの水がすっかり沸騰してなくなってしまったのだ。農家は人けがなかった。もと来た道をふりかえってみると、この農家は平野のすこし高い所にあり、あたりを見まわすことができ、道路や、生け垣や、田畑や、軍が退却している本通りにそって並み木が見えた。二人の軍曹が家のなかをのぞいていた。女の子たちは目をさまして、中庭や、井戸や、農家の前の二台の大きな傷病兵運搬車や、井戸のところにいる三人の運転兵をながめていた。軍曹の一人が手に時計をもって出てきた。
「かえしておけ」とぼくは言った。彼はぼくを見て、家にはいり、時計をもたずに出てきた。
「相棒はどこにいる?」とぼくはたずねた。
「便所に行きました」彼は傷病兵運搬車の座席にのぼった。ぼくたちが彼を置きざりにしないかと恐れていたのだ。
「朝めしはどうしますか、|中尉どの《テネンテ》?」とボネルロがたずねた。「なにか食べるひまはありますよ。たいして長くはかかりませんから」
「この道は向こう側におりていけば、どこかへ出られるかね?」
「出られますとも」
「よし。食べよう」ピアーニとボネルロは家のなかにはいっていった。
「こいよ」とアイモが女の子たちに言った。彼は二人をおろそうと手をさしのべた。妹が首をふった。二人は人けのない家には、はいろうとはしなかった。ぼくたちをうしろから見ていた。
「扱いにくい奴だ」とアイモが言った。ぼくたちはいっしょに農家にはいっていった。大きく、暗く、見すてられたという感じがした。ボネルロとピアーニが台所にいた。「食うものはあまりない」とピアーニが言った。「きれいにもっていっちゃったんだな」
ボネルロが重い台所のテーブルの上で大きなホワイト・チーズを薄く切った。
「どこにあったんだ、そのチーズ?」
「地下室です。ピアーニがワインも林檎《りんご》も見つけました」
「すばらしい朝めしだ」
ピアーニは枝編み細工でつつんだ大きな酒瓶の木の栓《せん》を抜いていた。彼は瓶を傾け、銅の鍋にいっぱい酒をついだ。「いい匂いだ」と彼が言った。「ビーカー(広口の台付き大コップ)を探してこいよ、バルト」
二人の軍曹がはいってきた。
「チーズを食べたまえ、軍曹さん」とボネルロが言った。
「出かけなけりゃ」と軍曹の一人がチーズを食べ、ワインを一杯のみながら、言った。
「出かけるから心配しなさんな」とボネルロが言った。
「軍隊は胃袋で行進する」とぼくが言った。
「え?」とその軍曹がたずねた。
「食ったほうがいいってことさ」
「そうです。しかし、時間がたいせつです」
「こいつらはもう食ったんだろうな」とピアーニが言った。軍曹たちは彼を見た。彼らはぼくたちをみんな嫌っていた。
「道をごぞんじですか?」と彼らの一人がぼくにきいた。
「いや」とぼくが言った。彼らは顔を見あわせた。
「出かけたほうがいいでしょう」と最初の軍曹が言った。
「出かけるところだよ」とぼくが言った。ぼくは赤ワインをもう一杯のんだ。チーズと林檎《りんご》のあとなので、とてもいい味だった。
「チーズをもってこい」とぼくは言い、外に出た。ボネルロはワインの大きなつぼをもって出てきた。
「そいつは大きすぎる」とぼくが言った。彼は惜しそうにそれをながめた。
「そうですね」と彼が言った。「みんな、水筒をくれ、いれるから」彼は水筒をいっぱいにした。ワインがすこし庭の石だたみにこぼれた。それから、彼はワインのつぼをとりあげ、ドアのすぐ内がわに置いた。
「オーストリア軍のやつらは、ドアをぶっこわさないでも、これなら見つけられるからね」と彼が言った。
「出発しよう」とぼくが言った。「ピアーニとぼくが先頭を行く」二人の整備兵はボネルロのわきの座席にとっくについていた。女の子たちはチーズと林檎を食べていた。アイモはタバコをふかしていた。ぼくたちは狭い道路を動きだした。ぼくはあとからくる二台の車と農家をふりかえって見た。りっぱな、低い、がっしりした石造りの家で、井戸の鉄細工もなかなかよかった。前方の道路は狭く、ぬかっていて、両側に高い生け垣があった。車が二台ぴったりあとからついてきた。
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第二十九章
正午、ぼくたちは、ウーディネから、できるだけ正確に計算して、ほぼ十キロのところで、どろんこの道にはまりこんだ。雨は午前中にあがっていた。三度も飛行機が来る音がきこえ、頭上を通過して、ずっと左のほうに飛んで行くのを見送り、本街道を爆撃する音をきいた。ぼくたちは網の目のような裏道を通り抜け、袋小路に何度もはいったが、いつも、引き返して、べつの道を見つけ、ウーディネに近づいたのだ。ところが、いま、アイモの車が袋小路を出ようとバックして、道ばたのやわらかい土にめりこみ、車輪がからまわりして、ますます深くはまりこみ、とうとう差動装置を地面につけ、車が浮いてしまった。こうなると、車輪の前を掘りおこし、チェーンがひっかかるように、切り取った小枝をさしこみ、車が道にあがるまで押すよりほかに手はなかった。ぼくたちはみんな道路におり、車のまわりに集まった。二人の軍曹は車を見て、車輪を調べた。それから、二人はひと言もいわずに向こうへ行きかけた。ぼくはそのあとを追った。
「おい、こいよ」とぼくが言った。「小枝を切ってくれ」
「行かなきゃあならないんです」と一人が言った。
「仕事にかかれ」とぼくが言った。「小枝を切るんだ」
「ぼくたちは行かなきゃあならないんです」と一人が言った。もう一人のほうはなにも言わなかった。彼らは急いで行こうとしていた。ぼくを見ようともしなかった。
「命令だ。車にもどって、小枝を切れ」とぼくは言った。一人の軍曹がふり向いた。「ぼくたち、行かなきゃあなりません。ぐずぐずしていると遮断《しゃだん》されますよ。あなたはぼくたちに命令できませんよ。ぼくたちの将校じゃないんですから」
「命令だ。小枝を切れ」とぼくは言った。彼らは向きを変え、道を歩きはじめた。
「とまれ」とぼくは言った。彼らはぬかるみの道を歩きつづけた。両側が生け垣だった。「命令だ。とまれ」とぼくは叫んだ。彼らはすこし足を早めた。ぼくはケースをあけ、ピストルを取りだし、多くしゃべったほうのやつをねらい、射った。弾丸ははずれ、二人ともかけだした。ぼくは三回発射し、一人を射ち倒した。もう一人のほうは生け垣をくぐって見えなくなった。彼が畑を横切って走って行くのを、ぼくは生け垣ごしに射った。ピストルは弾丸がないので、カチッといった。ぼくはべつの挿弾子《そうだんし》をつめた。二人めの軍曹を射つには遠すぎると思った。彼は畑を横ぎってずっと向こうを、頭を低くさげて走っていた。ぼくはからの挿弾子に弾丸をつめはじめた。ボネルロがやってきた。
「やつのとどめを射たせてください」と彼が言った。ぼくが彼にピストルを渡すと、彼は工兵軍曹が道路の真ん中にうつぶせになって倒れているところまで歩いていった。ボネルロはかがみこみ、その男の頭にピストルをあてがい、引き金をひいた。ピストルは不発だった。
「打ち金をおこさなけりゃだめだ」とぼくが言った。彼は打ち金をおこし、二度、射った。軍曹の足をつかんで、道路の端に引きずってゆき、生け垣のそばに横たえた。そして、戻ってきて、ぼくにピストルを渡した。
「ちくしょうめ」と彼が言った。彼はその軍曹のほうをながめた。「ごらんになりましたね、あいつを射ったのを、|中尉どの《テネンテ》?」
「急いで小枝を切ってこなきゃあならない」とぼくは言った。「もう一人のやつに当たったか?」
「当たらなかったようです」とアイモが言った。「ピストルで射つにはあまりに遠すぎましたからね」
「あのひょうろくだまめ」とピアーニが言った。ぼくたちはみんな小枝や大枝を切っていた。荷物はみな車から出してあった。ボネルロは車輪の前を掘りおこしていた。準備がととのうと、アイモは車のエンジンをかけ、ギアを入れた。車輪は小枝や泥をはねかえしながら、からまわりした。ボネルロとぼくは、関節がみしみしいうまで押した。車はびくともしなかった。
「車を前後にゆさぶれ。バルト」とぼくは言った。
彼はギヤをバックにし、それからローにした。車輪がますますめりこむだけだった。それから、車はまた差動装置の上にのっかって浮きあがり、車輪が掘った穴のなかでやたらにからまわりした。ぼくはからだをまっすぐのばした。
「ロープで引っぱってみよう」とぼくが言った。
「むだですよ、|中尉どの《テネンテ》。まっすぐに引っぱれませんよ」
「やってみなきゃあ」とぼくは言った。「ほかの方法じゃ動きっこないから」
ピアーニの車とボネルロの車はその狭い道をまっすぐ前方に動けるだけだった。ぼくたちは二台の車をロープでつないで、引っぱった。車輪が引っぱられて、轍《わだち》の横にぶつかるだけだった。
「だめだ」とぼくが叫んだ。「やめろ」
ピアーニとボネルロは車からおり、戻ってきた。アイモがおりた。女の子たちは四十ヤードほど先の道ばたの石垣に腰かけていた。
「どうしましょうか、|中尉どの《テネンテ》?」とボネルロがたずねた。
「掘りかえして、もう一度、小枝でやってみよう」とぼくは言った。もと来た道を見やった。ぼくの間違いだったのだ。ぼくが彼らをここまで連れてきたのだ。太陽は雲のうしろからほとんど姿をあらわし、軍曹の死体が生け垣のそばに横たわっていた。
「あいつの上衣とマントを下に敷こう」とぼくは言った。ボネルロがそれを取りにいった。ぼくは小枝を切り、アイモとピアーニが車輪の前とそのあいだを掘った。ぼくはマントを切り、それから、それを二つに裂き、泥にうまった車輪の下に敷き、それから、車輪がひっかかるように小枝をつんだ。動かす準備ができ、アイモが座席につき、エンジンをかけた。車輪がからまわりし、ぼくたちは押しに押した。しかし、なんの役にもたたなかった。
「だめだ」とぼくが言った。「車のなかに何か入用なものがあるか、バルト?」
アイモはチーズと二本のワインとマントをもって、ボネルロの車に乗りこんだ。ボネルロは運転席にすわって、軍曹の上衣のポケットをさぐっていた。
「その上衣は捨てたほうがいいぞ」とぼくは言った。「バルトの処女たちはどうする?」
「後部なら乗れますよ」とピアーニが言った。「そんなに遠くまで行くんじゃないと思いますから」
ぼくは傷病兵運搬車の後部のドアをあけた。
「さあ、おいで」とぼくは言った。「乗んなさい」二人の女の子はよじのぼって、片隅に腰かけた。彼らは例の射殺を気にとめていなかったようだった。ぼくはふりかえって道路を見た。軍曹がきたない長袖の下着のままで横たわっていた。だが、ぼくはピアーニの車にのって、出発した。ぼくたちは畑を横ぎってみるつもりだった。道路が畑にはいると、ぼくは車をおり、先に立った。ここを横ぎれれば、向こう側に道路があるのだ。ぼくたちは横ぎれなかった。車が通るにはあまりにやわらかく、ぬかっていた。車がとうとう完全に立ち往生し、車輪が軸までめりこんでしまうと、ぼくたちは畑のなかに車をすてて、ウーディネに向かって歩きはじめた。
本街道に戻れる道路にくると、ぼくは二人の女の子に本街道を指さした。
「あそこにいきな」とぼくは言った。「みんなに会えるよ」二人はぼくを見た。ぼくは財布をとりだし、めいめいに十リラ紙幣を一枚ずつやった。「あそこに行きな」とぼくは指さしながら言った。「友だちもいる! 家族もいる!」
彼らは言葉がわからなかったが、その金をしっかりつかんで、道を歩いていった。彼女らはぼくが金をとりかえすのではないかと恐れているように、ふりかえった。ぼくは彼女らがショールをしっかり巻き、心配そうにぼくたちのほうをふりかえりながら、道を歩いていくのをじっと見ていた。三人の運転兵たちは笑っていた。
「ぼくがあっちへ行けばいくらくれますか、中尉どの?」とボネルロがたずねた。
「あの子たちは、追いつけるものなら、二人だけでいるより、おおぜいのなかにいるほうがいいんだ」とぼくは言った。
「二百リラくださいよ。そうすりゃあ、まっすぐオーストリアまで戻っていきますよ」とボネルロが言った。
「やつらにその金を取られちゃうぜ」とピアーニが言った。
「きっと、戦争が終わるだろうよ」とアイモが言った。ぼくたちはできるだけ速くその道を歩いていった。太陽は雲間から出ようとしていた。道ばたには桑の木があった。その木々を通して、畑にはまりこんだぼくたちの二台の大型の輸送車が見えた。ピアーニもふりかえった。
「やつら、あいつを引っぱりだすには道路をつくらなけりゃならない」と彼が言った。
「自転車でもあればいいんだが」とボネルロが言った。
「アメリカでは自転車にのりますか?」とアイモがきいた。
「昔はね」
「ここじゃ、たいしたものなんですよ」とアイモが言った。「自転車はすばらしいものなんです」
「自転車でもあればいいんだが」とボネルロが言った。「歩くのは苦手だからね」
「あれは砲撃かな?」とぼくはきいた。はるか遠くで砲声がきこえるような気がした。
「どうでしょうか」とアイモが言った。彼は耳をそばだてた。
「そうらしい」とぼくは言った。
「ぼくたちが最初に会うのは騎兵でしょうね」とピアーニが言った。
「騎兵なんかいないだろう」
「そうあってほしいですよ」とボネルロが言った。「騎兵の槍に突き刺されたくありませんからね」
「あの軍曹を射殺したのは、たしか|中尉どの《テネンテ》でしたね」とピアーニが言った。ぼくたちは足ばやに歩いていた。
「ぼくが殺したんだよ」とボネルロが言った。「ぼくはこの戦争でだれも殺さなかったんだ。ぼくは、ずっとまえから、軍曹を殺したかったんだ」
「たしかに殺したね、動けないやつを」とピアーニが言った。「やつを殺したとき、やつはあんまり速く走ってはいなかったぜ」
「かまうもんか。あれは一生の思い出さ。ぼくはあの――軍曹を殺したんだ」
「懺悔《ざんげ》のときなんて言う?」とアイモがたずねた。
「祝福してください、神父さま、わたしは軍曹を殺しました、と言うよ」みんなは笑った。
「あいつは無政府主義者なんだ」とピアーニが言った。
「教会なんかへ行かないんだからな」
「ピアーニも無政府主義者なんだ」とボネルロが言った。
「きみたちはほんとうに無政府主義者なのかい?」とぼくがたずねた。
「いいえ、|中尉どの《テネンテ》、ぼくたちは社会主義者なんですよ。イモラ(北イタリア東部の町)の出身です」
「行かれたことありませんか?」
「いや、ない」
「ほんとに、いいところですよ、|中尉どの《テネンテ》。戦争がすんだらおいでください。どこかいいところにご案内しますよ」
「みんな社会主義者か?」
「みんな、そうです」
「いい町か?」
「すばらしいですよ。あんな町はごらんになったことないでしょう」
「どういう風の吹きまわしで社会主義者になったんだ?」
「ぼくたちはみんな社会主義者です。だれでも社会主義者です。ずっと社会主義者だったんです」
「来てくださいよ、|中尉どの《テネンテ》。あなたも社会主義者にしてあげますから」
前方で道路は左に折れ、そこに小さな丘があり、石の塀の向こうに、林檎園があった。道路がのぼり坂になると、彼らはしゃべるのをやめた。ぼくたちはみんな大急ぎで足ばやにいっしょに歩いていた。
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第三十章
やがて、河に通じる道路に出た。道路には乗り捨てたトラックや荷馬車が長い列をなして橋までつづいていた。人っ子ひとり見あたらなかった。河は水かさが増し、橋は真ん中で吹きとばされていた。石のアーチが河のなかに落ちこみ、褐色の水がその上を流れていた。ぼくたちは上流に向かって川岸を歩いて行き、渡る場所を探した。上流のほうに鉄橋があるのをぼくは知っていた。そこで渡れるかもしれないと思った。小路は濡れてぬかっていた。部隊はまったく見あたらなかった。ただ、捨てさったトラックと軍需品があるだけだった。土手にそったあたりには、なにもなく、人っ子ひとりいなかった。ただ、濡れた雑木林とぬかるみばかりだった。ぼくたちは土手にのぼった。やっと鉄橋が見えた。
「なんてきれいな橋だろう」とアイモが言った。それはふだんは水の流れていない河床にかかった長い飾りのない鉄橋だった。
「爆破されないうちに急いで渡ったほうがいい」とぼくが言った。
「爆破するやつなんていやしませんよ」とピアーニが言った。「みんな行っちゃいましたよ」
「きっと地雷がしかけてあるんだろう」とボネルロが言った。「最初に渡ってください、|中尉どの《テネンテ》」
「無政府主義者があんなことを言ってる」とアイモが言った。「あいつにまず渡らせてください」
「ぼくが行くよ」とぼくは言った。「一人が渡るくらいで爆破するようには仕掛けてないだろう」
「ほらみろ」とピアーニが言った。「あれが頭のあるわけさ。どうしてきさまは頭がないんだ、無政府主義者さん?」
「頭があれば、こんなところに来やしないよ」とボネルロが言った。
「こいつはうまいですねえ、|中尉どの《テネンテ》」とアイモが言った。
「こいつはうまい」とぼくは言った。ぼくたちはもう橋の近くにきていた。空はまた一面に曇っていた。そして、すこし雨が降っていた。橋は長く堅牢《けんろう》にみえた。ぼくたちは堤防によじのぼった。
「一人ずつ順にこい」とぼくは言って、橋を渡りはじめた。足にひっかかる針金か、爆薬をつめた形跡でもあるかと、枕木やレールを気をつけて見たが、何も見あたらなかった。枕木の隙《すき》まの下のほうに、どろどろの河が勢いよく流れていた。前方、濡れた田野の向こうに、雨のウーディネが見えた。橋を渡ってふりかえった。すぐ河かみにもう一つ橋があった。ぼくが見守っていると、黄色い泥の色の自動車がそれを渡った。橋の両側が高いので、車は、橋にさしかかると、見えなくなった。だが、運転兵とそのそばの座席にいる男と、後部の座席にいる二人の男の頭が見えた。みなドイツ軍の鉄兜をかぶっていた。それから、車は橋を渡りきり、道路に乗り捨ててあった車や木立ちの陰になって、見えなくなった。ぼくは橋を渡っているアイモとほかの者に来るように手招きした。ぼくは鉄道の堤防を這いおりて、うずくまった。アイモはぼくといっしょにおりてきた。
「あの車、見たか?」とぼくがたずねた。
「いいえ。ぼくたちはあなたを見守っていましたので」
「ドイツ軍の幕僚《ばくりょう》の車が上流の橋を渡ったんだ」
「幕僚の車?」
「そうだ」
「うへえ!」
ほかの二人もやってきた。ぼくたちはみんな堤防のうしろの泥のなかにうずくまり、レール越しに、橋や、並み木や、溝や、道路を見た。
「じゃあ、ぼくたちは遮断されたとお考えなんですか、|中尉どの《テネンテ》?」
「そりゃわからんさ。わかってることはドイツ軍の幕僚の車があの道路を走って行ったということだけだ」
「滑稽な気がしませんか、|中尉どの《テネンテ》? 頭のなかに変な感じがしませんか?」
「滑稽なことを言うなよ、ボネルロ」
「一杯いかがです?」とピアーニがたずねた。「遮断されているなら、一杯やったほうがいいでしょう」彼は水筒のホックをはずし、栓をぬいた。
「見ろ! 見ろ!」とアイモが言って、道路のほうを指さした。石橋の手すりにそって、ドイツ軍の鉄兜が動いているのが見えた。前かがみになって、するすると、まるで化け物のように、動いていった。橋を渡りきると、よく見えた。自転車隊だった。最初の二人の顔が見えた。血色がよく、健康そうだった。鉄兜が額と顔の側面にかぶさるほど深く下がっていた。カービン銃が自転車の車体にくくりつけてあった。手榴弾がハンドルを下にむけてベルトにつるしてあった。鉄兜と灰色の軍服が濡れ、前方と両がわに目をやりながら、気楽に自転車を走らせていた。二人――それから一列に四人、それから二人、それから十二人ぐらい、それからまた十二人――それから一人だけ。彼らはしゃべらなかったが、しゃべっても、河の音で、きこえなかったろう。彼らは道路の向こうに見えなくなった。
「うへえ」とアイモが言った。
「ドイツ軍だ」とピアーニが言った。「オーストリア軍じゃないよ」
「なぜ、あいつらを阻止する者がここにいないんだろう?」とぼくは言った。「なぜ、橋を爆破しなかったんだろう? なぜ、この堤防にそって機関銃がないんだろう?」
「なぜだか教えてください、|中尉どの《テネンテ》」とボネルロが言った。
ぼくは非常に腹が立った。
「なにもかも気ちがい沙汰だ。下流のほうでは、ちっぽけな橋を爆破する。この本街道じゃ、橋をそのままにしておく。みんなどこにいるんだ? やつらをちっともくいとめようとしないのか?」
「なぜだか教えてください、|中尉どの《テネンテ》」とボネルロが言った。ぼくはだまってしまった。ぼくの知ったことじゃなかったのだ。ぼくの任務は傷病兵運搬車を三台、ポルデノーネに運ぶことだった。ぼくはそれに失敗してしまった。いまぼくのすべきことは、ただポルデノーネに到達することだけだった。おそらくウーディネに着くこともできないかもしれない。ちくしょう、それさえできないのだ。こうなっては、落ちつくことだ。射たれたり、捕虜になったりしないことだ。
「水筒をあけたんじゃなかったか?」とぼくはピアーニにきいた。彼はそれをぼくに手渡した。ぼくはぐうっと飲んだ。「出かけたほうがよさそうだ」とぼくは言った。「もっとも、急ぐことはない。なにか食いたいか?」
「こんなところに止まってちゃだめです」とボネルロが言った。
「わかった。出かけよう」
「こちら側を歩いていきますか――見えないように?」
「上にあがったほうがいいだろう。やつらはこの橋からも来るだろう。こっちで見つけないさきに、頭の上にこられちゃたまらない」
ぼくたちは鉄道線路にそって歩いた。両側に濡れた平野がひろがっていた。前方、その平野の向こうに、ウーディネの丘があった。その丘の城の屋根は落ちてなくなっていた。鐘楼と時計台が見えた。畑には桑の木がたくさんあった。前方にレールがはずされている所が目についた。枕木も堀りかえされ、堤防の下に投げだされていた。
「おりろ! おりろ!」とアイモが言った。ぼくたちは堤防の下におりた。道路をまた別の自転車隊が通った。堤防の縁《ふち》から見ると、彼らが通っていくのが見えた。
「ぼくたちを見たけど、行っちゃいましたね」とアイモが言った。
「そんなところにあがっていると殺《や》られますぜ、|中尉どの《テネンテ》」とボネルロが言った。
「やつらはぼくたちに用はないんだ」とぼくが言った。「なにかほかのものを追いかけてるんだ。不意にやつらに出くわしたら、もっと危険だ」
「ぼくはこの見えないところを歩きたいです」とボネルロが言った。
「いいよ、ぼくたちは線路づたいに歩くから」
「通り抜けられると思いますか?」とアイモがきいた。
「もちろん。まだ、やつらはたいしていないからな。闇《やみ》に乗じて通り抜けよう」
「あの幕僚の車は何をしてたんです?」
「さあね」とぼくは言った。ぼくたちは線路の上を歩いていった。ボネルロは堤防の泥のなかを歩くのがいやになって、ぼくたちのところへあがってきた。ここで、鉄道は本街道からはなれて南のほうに向かっていた。それで、ぼくたちは道路に何が通るのか見えなくなった。運河にかかっている短い橋が爆破されていたが、ぼくたちは径間《わたりま》(橋の支柱と支柱のあいだの部分)の残骸《ざんがい》をよじのぼって、そこを渡った。前方に、砲声がきこえた。
運河の向こうの鉄道に出た。それは低い畑を横ぎって町のほうにまっすぐのびていた。前方に、別の鉄道線路が見えた。北方には、自転車隊を見かけた本街道があった。南方には、両側に木の茂った小さな枝道が畑を横ぎっていた。ぼくは南へ突っきり、そんなふうにしてその町を迂回し、カンポフォルミオ(イタリア東北部の村)のほうへ田野を横ぎり、タリアメント河に通じる本通りに出たほうがいいと思った。ウーディネからさきは、裏道を通っていけば、退却の主要な道路をさけることができる。ぼくはその平野を横ぎってたくさん横道のあることを知っていた。ぼくは堤防をおりはじめた。
「こい」とぼくが言った。ぼくたちは横道をとり、町の南のほうに行くつもりだった。みんな堤防をおりはじめた。横道から、ぼくたちに一発、射ってきた。弾丸が堤防の泥のなかにめりこんだ。
「ひきかえせ」とぼくは叫んだ。ぼくは泥にすべりながら、堤防をのぼりはじめた。運転兵たちはぼくの前にいた。ぼくはできるだけ早く堤防にのぼった。さらに二発、茂った雑木林から射ってきた。そして、アイモは線路を横ぎろうとするとき、よろめき、つまずき、うつ伏せに倒れた。ぼくたちは反対側に彼をひきずりおろし、あおむけにしてやった。「頭を高いほうにおくんだ」とぼくは言った。ピアーニは彼の向きを変えてやった。彼は堤防の斜面の泥のなかに横たわり、足を斜面の下のほうに向け、不規則に血を噴いていた。ぼくたち三人は雨のなかで彼の上にうずくまった。彼は首すじを下のほうから射ちこまれ、弾丸は上へ貫通し、右眼の下からぬけていた。ぼくが二つの傷口の血をとめているまに、彼は死んでしまった。ピアーニはその頭を下におろし、応急用の繃帯でその顔を拭こうとしたが、やがて、そのままにした。
「ちくしょう」と彼が言った。
「あいつらはドイツ兵じゃなかった」とぼくは言った。
「あんなところまでドイツ兵がきてるはずがないからな」
「イタリア兵だ」とピアーニは「イタリアーニ!」という言葉を形容詞として使って、言った。ボネルロは何も言わなかった。彼はアイモのそばにすわっていたが、彼は見てはいなかった。ピアーニはアイモの帽子が堤防の下にころがっているのを拾いあげ、それを彼の顔の上にのせた。そして、自分の水筒をとりだした。
「一杯どうだ?」と言って、ピアーニはボネルロにその水筒を手渡した。
「いらない」とボネルロは言った。彼はぼくのほうを向いた。「鉄道線路を歩いていたら、いつなんどき、ぼくたちも、あんな目にあったかもしれないですよ」
「いや」とぼくは言った。「ぼくたちが畑を横ぎろうとしたからだよ」
ボネルロは首をふった。「アイモは死んじゃいました」と彼は言った。「つぎはだれが死ぬんですか、|中尉どの《テネンテ》? これからどこへ行くんですか?」
「射ったのはイタリア兵だ」とぼくは言った。「ドイツ兵じゃなかった」
「ドイツ兵だったら、ぼくたちは、みな殺しになったと思います」とボネルロが言った。
「ぼくたちはドイツ兵よりイタリア兵のために危険にさらされているんだ」とぼくは言った。
「後衛隊はなんでもこわがっているんだ。ドイツ兵なら追いかけているものを知っているさ」
「理屈はそうですが、|中尉どの《テネンテ》」とボネルロが言った。
「これからどこへ行くんですか?」とピアーニがたずねた。
「暗くなるまで、どこかに隠れていたほうがいい。南へ行ければ、だいじょうぶなんだ」
「やつらは最初やったことを正しいと証明するためには、ぼくたちをみんな射ち殺さなけりゃならないでしょう」とボネルロが言った。「ぼくはやつらの気持ちを試したくないですね」
「できるだけウーディネの近くで隠れる場所を探し、暗くなってから、通り抜けよう」
「じゃあ、行きましょう」とボネルロが言った。ぼくたちは堤防の北側をおりた。ぼくは振りかえって見た。アイモが堤防の斜面の泥のなかに横たわっていた。ひどく小さく、腕を両脇におき、ゲートルを巻いた足と泥まみれの編上靴をそろえ、帽子を顔の上にのせていた。いかにも死人らしくみえた。雨が降っていた。ぼくは知り合いのだれにも劣らず彼が好きだった。ぼくはポケットに彼の書類をもっていた。彼の家族に手紙を書こうと思った。
前方、畑の向こうに農家があった。そのまわりに木々があり、家に向きあって農作用の建物がいくつか建っていた。円柱で支えられた二階にはバルコニーがあった。
「すこし離れていったほうがいい」とぼくは言った。「ぼくが先に行く」ぼくは農家のほうへ歩きだした。畑を横ぎる小道があった。
畑を横ぎりながら、ぼくは農家の近くの木立ちかその農家から、だれかがぼくたちに向かって射ってくるかもしれないと思った。その農家はきわめてはっきり見え、ぼくはそっちに歩いていった。二階のバルコニーは納屋につながっていて、円柱のあいだから乾し草がはみだしていた。中庭には切り石が敷いてあり、木々はみな雨の雫《しずく》をしたたらせていた。大きな、からの二輪荷車があり、かじ棒が雨のなかで高くつきでていた。ぼくは中庭に行き、そこを横ぎり、バルコニーの軒下に立った。家のドアがあいていた。ぼくはなかにはいった。ボネルロとピアーニがぼくのあとからはいってきた。なかは暗かった。ぼくは台所に引き返した。大きな、おおいのない炉に、火を燃やしたあとの灰があった。鍋が灰の上にかかっていたが、なかはからだった。ぼくはあたりを見まわしたが、食べものは何も見あたらなかった。
「納屋にかくれていなけりゃならない」とぼくが言った。
「なにか食べるものを見つけて、あそこにもっていけるだろうか、ピアーニ?」
「さがしてみます」とピアーニが言った。
「ぼくもさがしてみます」とボネルロが言った。
「よろしい」とぼくが言った。「ぼくは納屋に上がって、見ておく」ぼくは下の厩《うまや》からのぼる石段を見つけた。雨のなかの厩は乾いて気持ちのいい匂いがした。家畜は一頭もいなかった。おそらく、家の者が逃げるときに、放したのだろう。納屋の半分は乾し草でいっぱいだった。屋根には窓が二つあり、一つは板が打ちつけてあり、もう一つは北向きの狭い天窓だった。乾し草を家畜のところに投げおろせるように、滑降台があった。梁《はり》がすいたところを通って一階に渡してあり、そこに乾し草を運んできた車がはいってきて、乾し草を投げあげるのだった。屋根にあたる雨の音がきこえ、乾し草の匂いがし、下におりていくと、厩のなかに牛馬の乾いた糞《ふん》のさっぱりした匂いがした。板を一枚こじあけると、南の窓から下の中庭が見おろせた。もう一つの窓は北のほうの畑に面していた。階段が使えなくなったら、窓から屋根に出ておりてもよく、乾し草滑降台をおりてもよかった。だれかの気配をききつけてから、乾し草のなかに隠れてもよかった。いい場所のように思われた。やつらに射たれなければ、南のほうへ突き抜けられたに相違ない。ドイツ軍があんなところにいるはずはない。彼らは北方からやって来て、チヴィダーレから道路をくだってきたのだ。南のほうから突破してくるはずがなかった。イタリア軍のほうがもっと危険だった。彼らは怯えていて、なんでも目につくものを射った。昨夜、退却のとき聞いたのだが、ドイツ兵がたくさんイタリア軍の制服を着て北方の退却にまぎれこんでいるとのことだった。ぼくはそれを信じなかった。戦争ではいつもそうした噂をきくものだ。敵はいつもそうしたことを言いふらすものだ。こっちでドイツ軍の制服を着てやつらを混乱させにいったなんて、聞いたこともないことだ。たぶん、そんなこともあったかもしれないが、それは困難なことのように思われた。ぼくにはドイツ軍がそんなことをするとは思えなかった。彼らがそうしなければならないとは思えなかった。わが軍の退却を混乱させる必要などなかったのだ。軍隊の規模の大きさと道路の数の少なさが混乱をおこしていたのだ。ドイツ軍はもちろんのこと、だれも命令をくだすものなどいないのだ。それでも、彼らはぼくたちをドイツ兵だと思って射つのだろう。彼らはアイモを射ったのだ。乾し草はいい匂いがして、納屋の乾し草のなかに寝ころがっていると、ここ何年もの歳月がすべて忘れさられた。ぼくたちは乾し草のなかに寝ころがり、話しあい、納屋の壁の上のほうの三角形の切り込みに雀がとまると、空気銃で射ったことがあった。その納屋はもうなくなっていた。ある年、ツガの木の林を伐採したので、その林のあったところには、切り株や、ひからびた梢や、枝や、ヤナギランの類があるばかりだった。昔に戻ることはできないのだ。前に進まなければ、どうなるんだろう? ミラノにはどうあっても戻れない。ミラノに戻ったら、どうなるんだろう? ぼくは北方のウーディネのほうの砲火に耳をかたむけた。機関銃の音がきこえた。砲弾の音はなかった。それはいくらか慰めになった。道路にそって、いくらか部隊を配置したに相違ない。乾し草納屋を薄明かりで見おろすと、ピアーニが乾し草を運びこむ床の上に立っているのが見えた。彼は長いソーセージと、なにかの壺と、ワインを二本かかえていた。
「あがってこい」とぼくは言った。「そこにはしごがある」それから、彼のかかえている物に手をかしてやらなければならないと気づいて、おりていった。乾し草の上に寝ころがっていたので、頭がぼんやりしていた。うとうとしていたのだ。
「ボネルロはどこにいるんだ?」とぼくはたずねた。
「いまお話しします」とピアーニが言った。ぼくたちははしごをあがっていった。乾し草の上に品物をおいた。ピアーニがコルク抜きのついたナイフをとりだし、ワインの壜のコルクを抜いた。
「封蝋《ふうろう》がしてある」と彼が言った。「きっといいやつですよ」彼はほほえんだ。
「ボネルロはどこにいるんだ?」とぼくがたずねた。
ピアーニはぼくを見た。
「逃げちゃいました、|中尉どの《テネンテ》」と彼が言った。「捕虜になりたがってました」
ぼくはなにも言わなかった。
「ぼくたちが殺されるだろうと懸念したんです」
ぼくはワインの壜を手にしたまま、なにも言わなかった。
「とにかく、ぼくたちは戦争をいいとは信じていないんですからねえ、|中尉どの《テネンテ》」
「おまえはどうして行かなかったんだ?」とぼくがきいた。
「あなたをおきざりにしたくなかったんです」
「あいつはどこへ行ったんだ?」
「存じません。|中尉どの《テネンテ》、逃げちゃったんです」
「わかった」とぼくは言った。「ソーセージを切ってくれるかい?」
ピアーニは薄明かりのなかでぼくを見た。
「話してるあいだに、切りましたよ」と彼が言った。ぼくたちは乾し草のなかにすわり、ソーセージを食べ、ワインを飲んだ。それは結婚式のために貯蔵しておいたワインに相違なかった。とても古いもので、色が変わりかけていた。
「この窓から見ていてくれ、ルイジ」とぼくは言った。「ぼくはあの窓にいって見ているから」
ぼくたちはめいめい別の一本の壜から飲んでいた。ぼくはぼくの壜をもって窓ぎわに行き、乾し草の上に寝そべり、狭い窓から濡れた田野をながめた。ぼくは何を見ようと思っていたのかわからないが、畑とはだかの桑の木と降っている雨のほかは何も見えなかった。ワインを飲んだが、いい気分にはなれなかった。あまり長く貯蔵しておいたので、分解して、味も色も変わっていた。ぼくは外が暗くなるのを見つめていた。たちまち暗闇になった。雨の降る闇夜になることだろう。暗くなって、もう見張っていても意味がなくなった。そこで、ぼくはピアーニのところへ行った。彼は横になったまま寝こんでいたが、ぼくは彼を起こさず、しばらく彼のそばにすわっていた。彼は大男で、ぐっすり寝こんでいた。しばらくして、ぼくは彼を起こし、二人で出発した。
それは非常に奇妙な晩だった。ぼくは何を期待していたのか、わからない。おそらく、死だったろう。それに暗闇のなかでの射撃と、遁走だったろう。が、なにも起こらなかった。ぼくたちはドイツ軍の一箇大隊が通りすぎるあいだ、本道にそった溝の向こうにぴたりと伏せて、待ち、それから、彼らが行ってしまうと、その道路を横ぎって、北のほうに進んでいった。ぼくたちは雨のなかで二度ドイツ軍にかなり接近したが、彼らはぼくたちに気づかなかった。ぼくたちはイタリア兵には一人も会わず、町を北方へ通りぬけ、それから、しばらくして、退却の本流にぶつかり、タリアメント河に向かって夜どおし歩いた。ぼくは退却がどんなに巨大なのか、そのときまで実感がわかなかった。軍隊はもちろんのこと、その地方全体が動いていた。ぼくたちは車輛より早い速度で夜どおし歩いた。ぼくは足がいたみ、疲れたが、ぼくたちは速く歩いた。ボネルロが捕虜になろうと決心したのはひどく愚かなことに思われた。危険などなかった。ぼくたちは何事もなく両軍のあいだを歩き抜けたのだ。アイモが殺されなければ、危険があるなどとはまったく思われなかったろう。ぼくたちが鉄道にそってはっきりと見えていたときも、だれもぼくたちを苦しめなかった。アイモは不意に理由もなく殺されたのだ。ボネルロはどこにいるのだろう、とぼくは思った。
「気分はいかがですか、|中尉どの《テネンテ》」とピアーニがきいた。ぼくたちは車輛や部隊でごったがえしている道路のわきを歩いていた。
「いいよ」
「ぼくはこんなふうに歩いているのがいやになりました」
「うん、ぼくたちはいま歩くよりほか仕方ないんだ。くよくよしちゃいけない」
「ボネルロはばかでしたよ」
「ばかでもいいさ」
「あいつをどうなさいますか、|中尉どの《テネンテ》?」
「わからんね」
「捕虜になったとしておくわけにはまいりませんか?」
「わからんね」
「ご承知でしょうが、戦争がつづくと、あいつの家族がひどいめにあうかもしれませんので」
「戦争はつづきっこないよ」とある兵隊が言った。「おれたちは家に帰るんだ。戦争は終わったんだ」
「みんな家に帰るんだ」
「みんな家に帰るんさ」
「行きましょう、|中尉どの《テネンテ》」とピアーニが言った。彼は彼らを通りすごしたかったのだ。
「|中尉《テネンテ》だって? どいつがそれなんだ? |将校なんてやっつけろ《ア・バッソ・リ・ウフィッチアリ》! 将校なんてやっつけろ!」
ピアーニはぼくの腕をとった。「名前でお呼びしたほうがいいですね」と彼が言った。「あいつらは悶着《もんちゃく》をおこそうとするかもしれませんよ。将校たちを射ち殺したんですよ」ぼくたちは彼らをなんとか追いこしていった。
「あれの家族に難儀のかかるような報告はしない」ぼくはぼくたちの会話をつづけた。
「戦争が終わったのなら、どっちでもいいんです」とピアーニが言った。「でも、終わったなんて思えませんね。終わったなんて、話がよすぎますよ」
「もうすぐわかるだろう」とぼくは言った。
「終わったなんて思えませんね。みんなは終わったと考えてますが、そうは思いませんね」
「平和万歳《ヴィーヴァ・ラ・パーチェ》!」とある兵隊がわめいた。「おれたちは家へ帰るんだぞ」
「みんなが家に帰るんなら、すばらしいんだが」とピアーニが言った。「家に帰りたくはありませんか?」
「帰りたいよ」
「帰れっこありませんよ。戦争は終わったとは思えませんよ」
「|家へ帰るんだ《アンディアーモ・カーサ》!」と、ある兵隊がわめいた。
「あいつらは銃を捨ててしまうんです」とピアーニが言った。「行軍中に、銃をおろして、ほうりだすんです。それから、わめくんです」
「銃はもっていなけりゃいかん」
「銃を投げすててしまえば、戦いをやらされないですむ、と思ってるんです」
暗闇の雨のなかで、道のわきを歩いていくと、部隊の多くのものがまだ銃をもっているのが見えた。銃が肩マントの上に突きでていた。
「おまえはどの旅団だ?」と一人の将校が叫んだ。
「平和旅団《ブリガータ・ディ・パーチェ》」とだれかがわめいた。「平和旅団!」将校はなにも言わなかった。
「なんて言ったんだ? なんて将校が言ったんだ?」
「将校をやっつけろ。平和万歳《ヴィーヴァ・ラ・パーチェ》!」
「行きましょう」とピアーニが言った。ぼくたちは一団の車輛の群れのなかにすててある二台のイギリス軍の傷病兵運搬車のそばを通った。
「あれはゴリツィアから来た車です」とピアーニが言った。「あの車を知ってます」
「ぼくたちより遠くまで来たわけだ」
「先に出発しましたからね」
「運転兵はどこへ行ったんだろう?」
「たぶん先のほうでしょう」
「ドイツ軍はウーディネの郊外でとまっている」とぼくが言った。「この連中はみんな河を渡るんだろう」
「そうです」とピアーニが言った。「だから、戦争はつづくだろうと思うんです」
「ドイツ軍は進撃できるはずだ」とぼくが言った。「なぜ進撃しないんだろう」
「どうしてでしょう。こうした戦争はまったくわかりませんね」
「輸送を待たなければならないんだろう」
「そうですかね」とピアーニが言った。一人だと、彼はずっとおとなしかった。ほかの連中といっしょだと、とても荒っぽい口をきくやつだった。
「お前は結婚してるのか、ルイジ?」
「そりゃあ、してますよ」
「だから、捕虜になりたくなかったのか?」
「それも理由の一つです。あなたは結婚なさってますか、|中尉どの《テネンテ》?」
「いや」
「ボネルロもまだです」
「男は結婚しているからといって、どうってことはないよ。でも、結婚している男はワイフのところへ帰りたいだろうな」とぼくは言った。ぼくは妻というものについて話したかったのだ。
「そうですとも」
「足はどうだね?」
「ひどく痛みます」
夜明けまえに、ぼくたちはタリアメント河の岸に着き、氾濫した河にそって、あらゆる人馬が渡っている下流の橋までくだった。
「この河のところで食いとめられるはずですがね」とピアーニが言った。暗闇のなかで、水かさが増しているようだった。水が渦を巻き、河幅が広くなっていた。木造の橋は四分の三マイル近くもあり、いつもは橋のずっと下のほうの幅の広い石の河原に狭い水路をつくって流れている河が、橋の床板の近くまできていた。ぼくたちは岸にそって行き、それから、橋を渡っている雑踏のなかを押しわけていった。雨のなかで、水の数フィート上を、雑踏でもみくちゃにされ、すぐ鼻先に大砲の弾薬箱を見ながら、のろのろ橋を渡り、橋のらんかん越しにのぞきこみ、河をじっとみつめた。自分の歩調で歩けないので、すごく疲れを感じた。橋を渡っていても、すこしも陽気にはなれなかった。飛行機が昼間それを爆撃したら、どうなるか、と思った。
「ピアーニ」とぼくは言った。
「ここです、|中尉どの《テネンテ》」彼は雑踏のすこし先にいた。だれも口をきく者はなかった。みんなできるだけ早く渡ろうとしていた。ただ渡ることばかり考えていた。ぼくたちはほとんど渡りきった。橋の向こうの袂《たもと》に、将校や憲兵《カラピニエーリ》が懐中電燈を照らして両がわに立っていた。地平線を背に彼らの黒い輪郭が見えた。近づくと、一人の将校が縦列のなかの一人の男を指さすのが見えた。憲兵がその男のあとから列にはいって、彼の腕をつかんで出てきた。憲兵は彼を道路の外へ連れ去った。ぼくたちは彼らのほとんど真向かいのところに来た。将校たちはときどきたがいに話しかけながら、だれかの顔に懐中電燈を照らそうと前に進み出て、縦列の一人一人を吟味していた。真向かいに来るすこし前に、だれかをつかみ出した。その男が見えた。中佐だった。彼らが懐中電燈でその男を照らしたとき、彼の袖に、星が枠にはいっているのが見えた。髪は白く、背が低く、肥っていた。憲兵が彼を将校の列のうしろにつっこんだ。真向かいに来ると、彼らの一人二人がぼくを見ているのに気がついた。すると、一人がぼくを指さし、憲兵に話しかけた。憲兵がぼくに向かって歩きだし、縦列の端からぼくのほうにはいってくるのが見え、それから、ぼくの襟首をつかむのが感じられた。
「なにをするんだ?」とぼくは言って、彼の顔をなぐった。帽子の下に彼の顔が見え、口髭がはねあがり、血が頬に流れ落ちていた。もう一人がぼくたちのほうに列を押し分けてきた。
「なにをするんだ?」とぼくは言った。彼は答えなかった。彼はぼくをひっつかむ機会をうかがっていた。ぼくはピストルをはずそうと、うしろへ手をまわした。
「将校に手を触れられないってことぐらい知らんのか?」
ほかのやつがぼくを背後からひっつかみ、腕を付け根からねじあげた。そいつのほうに体を向けると、もう一人のやつがぼくの首をひっつかんだ。ぼくはそいつの向こう脛《ずね》をけり、左の膝がしらでそいつの股の付け根をけあげた。
「抵抗したら、射て」とだれかが言うのがきこえた。
「これはどういうわけなんだ?」とぼくは叫ぼうとしたが、ぼくの声はあまり高くはなかった。彼らはぼくをもう道路のわきに引っぱってきていた。
「抵抗したら、射て」と将校が言った。「うしろへ連れて行け」
「きさまはだれだ?」
「いまにわかる」
「きさまはだれだ?」
「野戦憲兵だ」とほかの将校が言った。
「こんな『飛行機やろう』にぼくをつかまえさせないで、なぜぼくに脇に出てきてくれと言わないのだ?」
彼らは答えなかった。返事をする必要がなかったのだ。彼らは野戦憲兵だった。
「こいつを向こうの、ほかのやつらのところに連れていけ」と最初の将校が言った。「いいか、イタリア語に訛《なま》りがあるぞ」
「きさまだって、こんちくしょう」とぼくが言った。
「こいつを、向こうのほかのやつらのところへ連れていけ」と最初の将校が言った。彼らはぼくを、並んでいる将校のうしろの道路の下へひきずりおろし、河岸のそばの畑のなかの一群の人びとのほうへ連れていった。そっちに歩いていくと、銃が火をふいた。小銃の閃火《せんか》が見え、銃声がきこえた。ぼくたちはその群れのところへ行った。四人の将校がかたまって立っていた、その前に一人の男がいて、両がわに憲兵が一人ずついた。一群の人びとが憲兵に監視されて立っていた。ほかに、四人の憲兵が、訊問《じんもん》している将校の近くにカービン銃によりかかって、立っていた。彼らは幅広の帽子をかぶった憲兵だった。ぼくをつかまえた二人は訊問されるのを待っている群れにぼくを押しこんだ。ぼくは将校が訊問している男を見た。彼は縦列から引っぱりだされた、肥った、白髪の、小がらな中佐だった。訊問者たちは、射ってばかりいて射たれることのないときのイタリア人特有の、能率と、冷静と、自制をすっかり身につけていた。
「きみの旅団は?」
中佐は答えた。
「連隊は?」
彼は答えた。
「なぜ連隊といっしょじゃないんだ?」
彼は答えた。
「将校は部隊といっしょにいなければならないということを知らないのか?」
彼は知っていると答えた。
それだけだった。もう一人の将校が口を出した。
「神聖な祖国の土地に野蛮人どもを侵入させたのは、お前や、お前のようなやつらなんだ」
「というと?」中佐が言った。
「わが軍が勝利の成果を失ったのは、お前たちの裏切り行為のためなんだ」
「きみは退却に加わったことがあるのか」と中佐がたずねた。
「イタリアは断じて退却しない」
ぼくたちは雨のなかに立って、これに耳を傾けていた。ぼくたちは将校たちと向きあい、その捕えられた男はぼくたちの前のすこし横に立っていた。
「ぼくを銃殺するなら」と中佐が言った。「もう訊問はやめて、どうか、すぐ銃殺してくれ。訊問は愚劣だ」彼は十字を切った。将校たちは話し合った。一人が剥《は》ぎ取り式用箋に何か書いた。
「部隊を放棄す。銃殺に処す」とその将校が言った。
二人の憲兵が中佐を河岸に連れていった。その老人は帽子をぬいで、雨のなかを歩いていった。憲兵が両脇についていた。ぼくは彼らが彼を銃殺するのを見なかったが、銃声はきこえた。彼らはだれか他の者を訊問していた。この将校も部隊から離れたのだった。彼は弁明を許されなかった。彼は彼らが剥ぎ取り式用箋から宣告をよむとき、泣き叫び、向こうへ連れていかれるときも、泣き叫んだ。そして、彼が銃殺されているとき、彼らはつぎの男を訊問していた。彼らは前に訊問した男が銃殺されているあいだに、つぎの男の訊問に没頭することにしていた。こうしていれば、彼らが銃殺にどうにも手出しできないことは明らかだった。ぼくは訊問を待つべきか、いま脱走すべきか、わからなかった。ぼくは見るからにイタリア軍の軍服を着たドイツ人だった。ぼくは彼らの心がどのように動くかわかっていた。それも、彼らに心があり、それが動けばの話だが。彼らはみな青年で、祖国を救っているのだった。第二軍がタリアメント河の向こうで再編成されていた。彼らは部隊から離れた少佐以上の高級の将校を処刑しているのだった。それに、イタリア軍の軍服を着たドイツ軍のゲリラを即決で処理していた。彼らは鉄兜をかぶっていた。ぼくたちのうちで鉄兜をかぶっているのは二人だけだった。憲兵のうち何人かはそれをかぶっていた。ほかの憲兵は幅広の帽子をかぶっていた。われわれはその連中を『飛行機やろう』と呼んでいた。ぼくたちは雨のなかに立っていて、一人ずつ訊問に呼び出され、銃殺された。いままでのところ、訊問した者をみな銃殺した。訊問者たちは、自分のほうはなんら死の危険にさらされないで死を扱う男の、きびしい裁判にたいするあの美しい超絶と献身をもっていた。彼らは戦闘部隊の連隊の大佐を訊問していた。さらに三人の将校が、いま、ぼくたちのところに押しこまれたところだった。
「きみの連隊はどこにいるのだ?」
ぼくは憲兵を見た。彼らはいま来た者たちを見ていた。ほかの者は大佐を見ていた。ぼくはひょいとかがんで、二人の男のあいだを押し分け、頭を低くして、河のほうに走った。河っぷちでつまずき、ざぶんと河におちこんだ、水は非常に冷たく、ぼくはできるだけ長くもぐっていた。流れがぼくをぐるぐるまわしているのが感じられ、もう浮かびあがれないかと思われるまでもぐっていた。浮かびあがると、すぐ一息つき、また、もぐった。いっぱい服を着こみ、編上靴をはいていたから、もぐっているのはたやすかった。二度めに浮かびあがったとき、前方に材木が一本見えた。それに泳ぎつき、片手でつかまった。頭をそのうしろにかくしたまま、向こうを見ようともしなかった。岸は見たくなかった。駆けだしたとき射たれたし、最初浮かびあがったときも射たれた。ほとんど水面に出かかったとき、射つ音がきこえた。いまはもう、射ってこなかった。材木が流れに揺れ、片手でつかまっていた。岸を見た。すごく早く流れていくように思われた。河にはたくさん材木が流れていた。水は非常に冷たかった。水面に出ている一つの島の灌木の茂みを通りすぎた。両手で材木につかまり、流れるままに身をまかせた。岸はもう見えなかった。
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第三十一章
流れが早いと、河にはいっている時間の長さはわからないものだ。長く思われるし、また、非常に短いかもしれない。水は冷たく、水かさが増し、増水のとき岸から流れ出したたくさんのものが流れていた。ぼくは運よく重い材木につかまることができた。両手で、できるだけらくにつかまり、材木の上に顎《あご》をのせ、氷のような水のなかに横たわっていた。こむらがえりが心配で、岸のほうに流されたいと思った。彎曲《わんきょく》した長い河をくだった。明るくなりだし、岸べに沿って灌木《かんぼく》の茂みが見えた。前方に灌木の島があり、流れが岸のほうに向かっていた。編上靴と服をぬいで、岸に泳いでみたものかどうか考えたが、やめることにした。なんとかして岸にたどりつこうという以外には、何も考えていなかった。はだしで陸に上がれば、めんどうなことになりそうだ。なんとかして、メストレまで行かなければならないのだ。
岸が近づき、それから揺れて遠ざかり、また近づくのを見つめていた。ずっとゆっくり漂うようになった。こんどは岸はすぐ近くになった。柳の茂みの小枝が見えた。材木がゆっくりと揺れ、岸が背後になり、渦のなかにはいっていることがわかった。ゆっくりとまわった。岸がふたたび見えると、こんどは、すぐ近くで、材木を片腕でつかみ、足で蹴りながら、もう一方の腕で泳いで、材木を岸のほうへ押しやろうとしたが、すこしも近づかなかった。渦の外に出るといけないと思い、片手で材木につかまりながら、両足を材木の横腹にあたるように引きよせ、岸のほうに強く押した。灌木の茂みが見えたが、力のかぎりはずみをつけて泳いでも、流れに流された。そのとき、編上靴のために溺れるかもしれないと思ったが、水を掻き分けて戦った。ふと見ると、岸が近づいてきた。重い足で、あわてて、水を掻き、泳ぎつづけていると、やっと、岸についた。柳の枝にすがりついたものの、からだを引きよせる力がなかったが、もう溺れないだろうと思った。材木につかまっているときは、溺れるかもしれないなどとは思いもしなかったのだ。この努力のために、胃や胸がからっぽになり、嘔《は》きけをもよおし、枝につかまったまま、待った。嘔きけがおさまると、柳の茂みにぐっとからだをひきよせ、両腕で茂みをかかえ、両手で枝にしっかりつかまり、また休んだ。それから、這いだし、柳のあいだを押し分け、岸についた。夜が明けかけていて、人影はなかった。岸にぴったり横たわると、河と雨の音がきこえた。
しばらくして、立ちあがり、岸にそって歩きだした。ラチサーナまでは河に橋がかかっていないことはわかっていた。サン・ヴィートの対岸あたりかもしれないと思った。どうすればいいか考えはじめた。前方に、河にそそいでいる掘り割りがあった。ぼくはそっちのほうに歩いていった。いままではだれにもあわなかった。掘り割りの岸にそった茂みのそばに腰をおろし、靴をぬいで、水を出した。上衣をぬぎ、内ポケットから、書類も金もすっかり濡れている財布をとりだし、上衣をよくしぼった。ズボンをぬぎ、それもしぼり、それから、ワイシャツと下着をしぼった。からだをたたいたり、こすったりしてから、服を着なおした。帽子がなくなっていた。
上衣を着るまえに、袖から布の星章をちぎって、金といっしょに内ポケットにしまった。金は濡れていたが、だいじょうぶだった。勘定してみた。三千リラとちょっとあった。服が濡れて、べたついた。血の循環をよくしておくために腕をたたいた。毛の下着だったので、動きつづけていれば、かぜはひかないだろうと思った。ピストルはあの道路で取りあげられたので、革のピストル・ケースを上衣の下に入れた。肩マントもなく、雨のなかで、寒かった。運河の岸を歩きはじめた。夜が明け、田野は濡れ、低く、陰鬱《いんうつ》に見えた。畑ははだかで濡れていた。はるか向こうに、鐘楼が平野にそびえているのが見えた。道路に出た。前方に、部隊が道路をやってくるのが見えた。道路の端を跛《びっこ》をひいていき、彼らとすれちがったが、なんの注意も受けなかった。河のほうへ行く機関銃分遣隊だった。ぼくは道路を歩きつづけた。
その日、ぼくはベネチア平野を横ぎった。そこは低い平地だが、雨のために、いっそう平坦だった。海のほうには、海水の沼地があり、道路はほとんどなかった。道路はみな河口にそって海に通じていて、この地方を横ぎるには運河のそばの小道を行かなければならなかった。ぼくは北から南へ向かって、この地方を横ぎっていた。鉄道線路を二本と、道路をいくつも、横ぎり、とうとう、ある小道の終わりで鉄道線路に出たが、線路は沼地のそばを走っていた。それはベネチアからトリエステに通じる幹線で、高い堅固な堤防と、しっかりした路盤と、複線の軌道があった。線路のしも手をすこしいったところに信号停車場があり、兵隊が警備しているのが見えた。かみ手には、沼地にそそぐ小川に橋がかかっていた。橋にも警備兵が見えた。畑を北に横ぎっていたとき、平坦な平野をはるか向こうまで横ぎっているのが見えるこの鉄道線路を、列車がやって来るのを見て、列車はポルトグルアーロ(ベネチア・トリエステ鉄道沿線の町、ややベネチアより)から来るのかもしれないと思った。ぼくは警備兵に充分注意して、線路のかみ手もしも手も見えるように堤防にふせた。橋の警備兵はぼくのふせているほうへ、線路をちょっと歩いてきて、それから、向きを変え、橋のほうへもどっていった。ぼくは伏せ、すき腹をかかえて列車を待った。ぼくがさっき見た列車は非常に長かったので、機関車がゆっくり引っぱっていた。それで、あれならきっと乗れると思った。列車のくるのをほとんどあきらめたころ、列車がくるのが見えた。機関車がまっすぐ進んできて、次第に大きくなった。ぼくは橋の警備兵を見た。彼は橋の手前がわを歩いていたが、線路の向こう側だった。だから、列車が通るときは、彼が見えなくなるだろう、ぼくは機関車が近づいてくるのを見守っていた。機関車はあえぎあえぎやって来た。車輛がたくさんつながっているのが見えた。列車にも警備兵が乗っているだろうということはわかっていた。ぼくは彼らがどこにいるか見ようとしたが、視野がきかないので、できなかった。機関車はぼくの伏せているすぐそばまで来た。平地なのにあえぎながら、機関車が真正面にやってきた。機関手が通りすぎるのを見ると、ぼくは立ちあがって、通過する車輛にあゆみよった。警備兵が見ているとしても、線路のそばに立っていれば疑いをうけることも少ないだろう。有蓋貨車がいく台か通りすぎた。それから、ゴンドラと呼ばれる低い無蓋貨車がズックの覆いをかけて来るのが見えた。ぼくはそれがほとんど通りきるまで待ち、それから、とびあがって、後部の手すりにつかまり、からだをひきあげた。ゴンドラとそのうしろの高い貨車の廂《ひさし》とのあいだに這いこんだ。だれにも見られなかったと思った。手すりをつかみ、連結器に足をのせ、うずくまった。列車は橋にさしかかろうとしていた。ぼくは警備兵を思いだした。そこを通るとき、彼はぼくを見た。少年で、鉄兜が彼には大きすぎた。ぼくは彼をさげすむように凝視した。彼は目をそむけた。ぼくが汽車となにか関係があるのだと思ったのだ。
ぼくは通りすぎた。彼はほかの車輛が通りすぎるのを見ながら、まだそわそわしている様子だった。ぼくはズックの覆《おお》いの取りつけぐあいを見ようと、かがんだ。はとめ金がしてあり、端を綱でしばってあった。ぼくはナイフを取りだし、その綱を切り、腕をつっこんだ。雨でごわごわしたズックの下に固いふくらんだものがあった。ぼくは目をあげ、前方を見た。前方の貨車には警備兵がいたが、彼は前のほうを見ていた。ぼくはとってを離して、ズックの下にもぐりこんだ。額が何かにぶつかって、ひどくふくれあがり、顔に血が流れるのを感じたが、なかにもぐりこんで、ぴったり伏せた。それから向きを変え、ズックを結びなおした。
ぼくはズックの下の大砲のあいだにいた。大砲は油とグリースの小ぎれいな匂いがした。ぼくは横になって、ズックにあたる雨と、レールの上をごとんごとんと走る車輛の音に耳をかたむけた。わずかな光がもれてきて、ぼくは横になって、大砲を見ていた。大砲はズックのカバーがかけてあった。第三軍から前線に送られてきたものにちがいなかった。額の瘤《こぶ》が腫《は》れあがり、ぼくはじっと横になったまま、血をとめ、凝血させ、切り傷の上だけ残し、乾いた血をむしりとった。それはなんでもなかった。ぼくはハンカチをもっていなかったが、指さきでさわって、乾いた血のあるところを、ズックからしたたりおちる雨水で洗いとり、上衣の袖できれいに拭きとった。人目につく様子はしていたくなかった。メストレに着く前におりなければならないだろうと思っていた。そこへ着けば、大砲の手入れをするだろうからだ。失ったり、忘れたりしていいような砲は、ないのだ。ぼくはおそろしく空腹だった。
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第三十二章
ズックに覆われ、大砲のあいだにはさまれて、平台貨車の床に横になっていると、からだが濡れ、寒く、ひどく空腹だった。とうとう寝がえりをうって、両腕の上に頭をのせ、腹ばいになった。膝はこわばっていたが、とても調子がよかった。ヴァレンチーニはすてきな手術をしてくれたものだ。ぼくは退却のなかばを歩き、タリアメント河の一部を彼の膝で泳いだのだ。それはたしかに彼の膝だった。片方の膝はぼくのだ。医者が処置してくれると、もうそれは自分の肉体じゃなくなるのだ。頭はぼくのものだし、腹の中もそうだ。そこがひどく空腹だった。胃がひっくりかえるのが感じられた。頭はぼくのものだったが、使ったり、考えたりするためではなかった。ただ、思い出すためで、それもあまり多くを思い出すためではなかった。
キャサリンのことは思い出せるが、逢えるかどうかまだ確かでもないのに、彼女のことを考えると、気が変になってしまうだろうと思われるから、彼女のことを考えるのはよそう。ただ、ほんのすこし考えよう。ゆっくり、ごとんごとん音をたてて走る車輛や、ズックからもれてくるわずかな光や、車輛の床にキャサリンといっしょに横になっている自分のことなどを考えよう。あまりにも長く離れていて、服は濡れ、車輛の床はすこしずつしか動かず、心のなかは淋しく、濡れた服と、妻の代わりに固い床があるばかりで、ただひとりで、考えることもなく、ただ感じるだけで、横になっているのでは、車輛の|固い《ハード》床のように、|つらい《ハード》ことだ。
ズックの覆いの下にいるのはすばらしいことだし、大砲といっしょにいるのもたのしいことだが、平台貨車の床や、ズックのカバーをかけた大砲や、ワセリンを塗った金属とか、雨のもるズックの覆いは恋するものではない。恋するものとは、かりにもここにいるというふりさえできないとわかっているだれかほかの人なのだ。いまとなって、はっきり、ひややかに――ひややかと言うよりは、はっきり、うつろに、そのことがわかるのだ。ひとつの軍隊が後退し、他の軍隊が前進するところに、いあわせたのだから、腹ばいになっていると、それがうつろにわかるのだ。売場監督が火事で自分の売場の手持ち品を失うように、自動車と部下を失ったのだ。ただし保険などついていなかったのだ。もう、すっかりすんでしまったことなのだ。義務など、もうないのだ。売場監督がいつも使っていた訛《なま》りで話したからといって、百貨店の火事のあとで、その監督を射ち殺すというのなら、そのときは、店がふたたび開業しても、その監督が戻ってくることは期待できないだろう。彼らはほかの職業を探すだろう。もっとも、ほかに職業があり、警察が彼らをつかまえなければのことだが。
怒りは義務とともに河のなかで洗い流された。もっとも、義務は憲兵に襟首をつかまれたときに、なくなったのだ。外面的な形式はあまり気にかけなかったが、軍服はぬいでおきたかった。星章は取り去ってあったが、それはそのほうが都合がよかったからだった。面目の点からではなかった。星章に反対のわけでもなかった。もうどうでもいいことだった。ぼくはみんなの幸福を願った。善良な人も、勇敢な人も、冷静な人も、賢明な人もいたが、彼らは幸福に値した。だが、もうぼくの出る幕ではなかった。ぼくはこの糞列車がメストレに着くことを望んでいた。食べよう、考えるのはよそう。よさなければならないだろう。
ピアーニはあいつらがぼくを銃殺したと報告するだろう。あいつらは銃殺した者たちのポケットをさぐり、書類をぬきとった。あいつらはぼくの書類を手に入れはしないだろう。ぼくを溺死したと言うんだろう。合衆国にはなんて伝わるだろう。負傷とか、その他の原因で死んだということになるだろう。ちくしょう、腹がすいた。会食なかまの司祭はどうなったろう。それに、リナルディは? 彼はおそらくポルデノーネにいるんだろう。あれ以上遠くまで退却しなければだ。そうだ。彼にはもう会うこともないだろう。あの生活も終わったのだ。彼は梅毒にかかってはいないだろう。いずれにしろ、あの病気は早く手当すればたいしてめんどうなものでもないとのことだ。でも、彼は悩むだろう。ぼくだって梅毒になれば悩むだろう。だれだって悩むだろう。
ぼくは考えるようにできていないんだ。食べるようにできているんだ。ちくしょう、そうなんだ。食べて、飲んで、キャサリンと寝るんだ。今晩、きっと。いや、それは不可能だ。でも、あすの晩こそ。いい食事と、シーツ。二人いっしょでなければ、二度とどこへも行くまい。きっと、おそろしく急いで行かなければならないだろう。彼女は行ってくれるだろう。行ってくれることはわかっている。二人でいつ出かけようか? そいつは考えておかなければならないことだ。暗くなってきた。ぼくは横になったまま、どこへ行こうかと考えた。行く所はたくさんあった。
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第四部
第三十三章
朝早く、まだ明けきらないうちに、列車がミラノの駅にゆっくりはいっていくと、ぼくは列車からとびおりた。ぼくは線路を横ぎり、いくつかの建物のあいだを通り、街路に出た。酒場が開いていた。ぼくは、コーヒーを飲みにはいった。早朝のにおいがし、掃いたばかりのほこりや、コーヒーのグラス(安い店ではコーヒーをグラスに入れる)に入れたスプーンや、ワインのグラスのまるく濡《ぬ》れたあとなどのにおいがした。主人はカウンターの向こうにいた。兵隊が二人テーブルにすわっていた。ぼくはカウンターの前に立って、コーヒーを一杯のみ、パンをひと切れ食べた。コーヒーはミルクがはいっていて白茶けていた。ぼくはパン切れで表面のミルクの薄皮をすくいとった。主人はぼくを見た。
「グラッパ、一杯いかがです?」
「いや、いらない」
「おごりますよ」と彼は言い、小さなグラスについで、それをぼくのほうに押しだした。「前線はどうなんです?」
「知らないねえ」
「あの連中は酔っぱらってますよ」と彼は二人の兵隊のほうに手を向けながら、言った。その言葉は信用できた。二人は酔っている様子だった。
「ところで」と彼は言った。「前線はどうなんです?」
「前線のことなんか、知らないよ」
「旦那があの塀のところを歩いてこられるのが見えたんですよ。列車からおりてこられたんでしょう?」
「大規模な退却なんだ」
「新聞で読みました。何が起こってるんです? 終わったわけですか?」
「まだだろう」
彼は短い壜からグラッパをグラスにみたした。
「お困りなら」と彼が言った。「かくまってあげますよ」
「困っちゃいないよ」
「困っていらっしゃるなら、手前のところにお泊まりなさい」
「泊まるって、どこに?」
「この建物です。おおぜい泊まってますよ。困ってるかたは、どなたもここにお泊まりです」
「困っている人がおおぜいいるのかい?」
「困りかたによりますがね。あなたは南アメリカのかたですね?」
「いいや」
「スペイン語、話せますか?」
「すこしはね」
彼はカウンターを拭いた。
「このごろは、出国はむずかしいんですが、まったく不可能というわけでもありませんよ」
「出国したいんじゃない」
「おすきなだけここに泊まってよろしいんですよ。てまえがどんな人間か、いまにおわかりになりますよ」
「けさは行かなきゃならないんだ。でも、戻ってくるために住所を憶えておこう」
彼は首を振った。「そんな口ぶりじゃあ、お戻りにはなりませんな。ほんとうにお困りなんだとお見受けしたんですがね」
「ぼくは困ってはいない。だが、味方になってくれる人の住所は大切だ」
ぼくはコーヒー代を払おうとカウンターに十リラ紙幣を置いた。
「グラッパをいっしょにつきあってくれ」とぼくは言った。
「それには及びません」
「一杯やりたまえ」
彼は二つのグラスについだ。
「忘れないでくださいよ」彼が言った。「ここにいらっしゃい。ほかの人にかくまってもらわないようにね。ここならまったく安全なんですから」
「わかった」
「よろしいですか」
「ああ」
彼はまじめだった。「じゃあ、ひと言いわせてください。そんな上衣で動きまわっちゃあいけませんよ」
「なぜ?」
「袖に星章をもぎとったあとがはっきり見えますよ。布地の色が違ってますからね」
ぼくは何も言わなかった。
「証明書がなければ、さしあげますよ」
「なんの証明書だね?」
「休暇の証明書」
「証明書はいらない。持ってるから」
「そうですか」と彼は言った。「でも、証明書がいるときは、お望みのものを手にいれてあげますよ」
「そういう証明書はいくらなんだ?」
「ものによりますがね。お値段は無理のないところです」
「いまはいらないんだ」
彼は肩をすぼめた。
「ぼくはだいじょうぶなんだ」とぼくは言った。
外に出るとき彼は言った。「てまえが旦那の味方だということ、お忘れにならんでくださいよ」
「忘れないよ」
「いずれまた」と彼が言った。
「うん」とぼくが言った。
外へ出ると、憲兵のいる駅には近よらないようにし、小さな公園の隅で辻馬車を拾った。馭者に病院の所在地を告げた。病院に着くと、門衛の小屋にはいった。彼の細君がぼくを抱擁した。彼はぼくの手を握った。
「お帰りなさい。ご無事で」
「うん」
「朝食はおすみですか?」
「ああ」
「ご機嫌はいかがですか、|中尉さん《テネンテ》? いかがですか?」と細君がたずねた。
「元気だよ」
「いっしょに朝食いかがです?」
「いや、ありがとう。あのね、ミス・バークレイはいまこの病院にいる?」
「ミス・バークレイ?」
「イギリス人で看護婦をやっている」
「中尉さんのお好きなかたよ」と細君は言った。彼女はぼくの腕を軽くたたき、微笑した。
「いいや」と門衛が言った。「あの方はいらっしゃいません」
ぼくはがっかりした。「たしかなんだね? 背の高いブロンドの、若いイギリスの婦人なんだが」
「たしかです。ストレーザに行かれましたよ」
「いつ行ったんだい?」
「もう一人のイギリスのご婦人といっしょに、二日まえに行かれました」
「そうか」とぼくは言った。「ひとつ頼みがあるんだが、ぼくに会ったとだれにも言わないでくれ。とても重要なことなんだ」
「だれにも言いません」と門衛が言った。ぼくは彼に十リラ紙幣をやった。彼はそれを押しかえした。
「だれにも言わないとお約束しますよ」と彼が言った。「お金なんかほしくありません」
「なにかお役にたつことありませんか、|中尉さん《シニョール・テネンテ》?」と彼の細君がたずねた。
「ただそのことだけだ」とぼくが言った。
「わたしどもはだまっていますよ」と門衛が言った。「なにかわたしにできることがあったら、おっしゃってください」
「ああ」とぼくは言った。「さようなら、いずれ、また」
彼らはドアのところに立って、ぼくを見送った。
ぼくは辻馬車にのり、知り合いの一人で、声楽を勉強している、シモンズという男の住所を馭者に告げた。
シモンズはポルタ・マジェンタ(ミラノ西方の町マジェンタへの出口の門)のほうの、ずっと町はずれに住んでいた。ぼくが訪ねていくと、彼はまだベッドにいて、眠そうだった。
「おそろしく早起きなんだね、ヘンリー」と彼が言った。
「朝早くつく列車で来たんだ」
「この退却はどういうことなんだ? きみは前線にいたのか? タバコのまないか? テーブルの上のあの箱のなかにあるよ」大きな部屋で、壁ぎわにベッドがあり、ずっと向こうがわにピアノがあり、衣装箪笥とテーブルがあった。ぼくはベッドのそばの椅子に腰をおろした。シモンズは起き上がり、枕によりかかって、タバコをふかした。
「ぼくは窮地に追いこまれてるんだ、シム」とぼくが言った。
「ぼくもだよ」と彼が言った。「ぼくはいつも窮地に追いこまれてるんだ。タバコすわないか?」
「いや」とぼくは言った。「スイスに行くにはどういう手続きがいるんだ?」
「きみがかい? イタリア軍はきみを国外には行かせないだろう」
「ああ、それはわかってる。だが、スイスのほうなんだ。向こうじゃ、どうするだろう?」
「きみを抑留するよ」
「それはわかっている。だが、どんな手順なんだ?」
「なんでもないよ。とても簡単さ。きみはどこへでも行けるさ。ただ、報告かなんかしなければならないだけだと思うよ。どうしてだい? 警察から逃げてるのかい?」
「まだはっきりしたことは決まってないんだ」
「話したくなければ、話すなよ。だが、きかせてもらえばおもしろいだろうな。ここじゃ何も事件がないんだ。ぼくはピアチェンツァ(イタリアのポー河に面した町)で大失敗さ」
「そいつはひどくきのどくだな」
「ああ、そうなんだ――とてもひどいめにあったよ。うまく歌ったんだがね。ここのリリコ座でもう一度やってみようと思うんだ」
「ききに行きたいな」
「ばかにお世辞がいいね。きみはひどく困っているわけじゃないんだろう、ね?」
「さあ、どうかな」
「言いたくなければ、言わなくてもいいよ。あのいまわしい前線から、どうやって、離れるようになったんだ?」
「ぼくはもうそんなこととは関係を絶ったと思ってるんだ」
「そいつは感心だ。きみは分別があると、いつも思っていたよ。なにか手伝おうか?」
「きみはすごく忙しいんだろう?」
「ちっとも忙しいことないよ、ヘンリー。ちっとも。よろこんでお役にたとう」
「きみはぼくぐらいの大きさだ。平服を一着、ぼくに買ってきてくれないか? 服はあるんだが、みんなローマにおいてあるんだ」
「きみはそんなところに住んでいたんだっけ。きたならしい所だな。あんなところに、どうやって住んでいたんだい?」
「建築家になるつもりだったんでね」
「あそこはそれには向かないよ。服なんか買うなよ。きみのすきな服をどれでもみんなあげるよ。身じたくをととのえて、すばらしい男になりたまえ。あの化粧室にはいれ。戸棚がある。どれでもすきなのを着たまえ。なあ、服なんか買わなくていいから」
「いや、買ったほうがいい、シム」
「ねえ、きみ、買いに出かけるより、きみに服をやったほうが、ぼくには、らくなんだ。旅券、あるかい? 旅券がないと遠くへは行けないぜ」
「ああ。旅券はまだもってる」
「じゃあ、きみ、服を着て、あのヘルヴェーチア(ローマ時代のアルプス地方、いまはスイスをさす雅語)に行きたまえ」
「そんなに簡単にはいかないんだ。まず、ストレーザに行かなきゃならない」
「理想的だよ、きみ。ボートで渡りさえすればいいんだ。歌う予定さえなければ、いっしょに行くんだが。でも、そのうち、ぼくも行くよ」
「ヨーデルをやったらどうだい」
「うん。そのうちやるよ。だが、これでも歌はうまいんだ。不思議なことにね」
「そりゃ、そうだとも」
彼はタバコをふかしながら、ベッドにあおむけになっていた。
「そうおだてるなよ。だが、歌えるんだ。すごくおかしいことだが。歌えるんだ。歌うのは好きなんだ。きいてごらん」彼はのどをふくらませ、青筋をたてて、『アフリカーナ』を大声で歌いはじめた。「けっこう歌えるだろ」と彼が言った。「みんなが気にいるかどうかは、わからないが」ぼくは窓の外を見た。「下へおりていって、馬車をかえしてこよう」
「おい、きみ、戻ってこいよ。朝めしをいっしょに食おう」彼はベッドからおりて、まっすぐからだをのばし、深呼吸して、屈伸《くっしん》運動をはじめた。ぼくは階下へおり、料金を払って、辻馬車を帰した。
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第三十四章
平服を着ると、仮面舞踏会に行く人のような気がした。長いあいだ軍服を着ていたので、背広を着たときの気分を忘れていたのだ。ズボンがひどくだらだらした感じだった。ぼくはミラノでストレーザ行きの切符を買ってあった。新しい帽子も買ってあった。シムの帽子はかぶれなかったが、彼の服はすてきだった。それはタバコのにおいがし、車室に腰をおろし、室の外を見ていると、新しい帽子がとても新しく、服がすごく古く、感じられた。ぼく自身が窓外の濡れたロンバルディアの地方のようにものがなしく感じられた。車室には航空兵が数人いて、ぼくのことはあまり気にかけていなかった。彼らはぼくを見るのをさけ、ぼくの年で兵隊に行かない者をひどく軽蔑していた。ぼくは侮辱を感じなかった。昔だったら、ぼくは彼らを侮辱して、喧嘩をしかけたことだろう。彼らはガルララーテ(ミラノの西北二四マイルの小さな町)で下車した。ぼくはひとりになれて、うれしかった。新聞をもっていたが、戦争のことは読みたくなかったので、読まなかった。ぼくは戦争を忘れようとしていた。ぼくは単独講和を結んだのだ。ひどくさびしくなり、列車がストレーザに着いたときは、うれしかった。
駅でホテルの案内人に会えるだろうと予期していたのだが、案内人は一人もいなかった。シーズンがとっくに終わっていて、案内人は一人も列車を迎えに来ていなかった。ぼくは鞄をもって列車からおりた。それはシムの鞄だった。ワイシャツが二枚はいっているだけで、携帯にきわめて軽かった。列車が出ていくあいだ、ぼくは雨のなかを駅の屋根の下に立っていた。駅で一人の男を見つけ、どのホテルが開いているかたずねた。グラン・オテル・エ・デ・イール・ボロメが開いていて、いくつかの小さなホテルも一年じゅう開いている、とのことだった。ぼくは雨のなかを鞄をもって、イール・ボロメに向かった。街をやってくる馬車が見えたので、馭者に合い図した。馬車で乗りいれたほうがいいのだ。大きなホテルの車寄せに乗りつけると、門衛が雨傘をさして出てきた。とても鄭重《ていちょう》だった。
ぼくはいい部屋をとった。部屋はとても大きく、明るく、湖に面していた。雲が湖にたれこめていたが、陽がでれば美しいだろう。妻があとから来ることになっている、とぼくは言った。しゅすのベッドカバーのかかった、レット・マトリモニアーレ(「結婚の大きなベッド」の意味)という、大きなダブル・ベッドがあった。ホテルはすごく豪華だった。ぼくは長い廊下を通り、幅の広い階段をおり、部屋をいくつか通って、酒場へ行った。ぼくはそこのバーテンを知っていた。高いスツールに腰かけ、塩づけのアーモンドとポテト・チップスを食べた。マーティーニは冷たく、爽やかだった。
「平服《ボルゲーゼ》なんかお召しになって、こんなところでなにをなさってるんです?」とバーテンは二杯めのマーティーニをつくってから、たずねた。
「休暇でね。病後の休暇で」
「お客さんは一人もいないんですよ。なぜホテルをあけておくのか訳がわかりませんよ」
「釣りはやってるかい?」
「みごとなのをなん匹か釣りましたよ。いまごろは、流し釣りで、みごとなのが釣れますよ」
「ぼくの送ったタバコ、受けとった?」
「いただきました。わたしの葉書、つきませんでしたか?」
ぼくは笑った。ぼくはタバコを手に入れることができなかったのだ。彼のほしがっていたのはアメリカのパイプタバコだったが、ぼくの親戚の者が送るのをやめてしまったか、または、どこかで押えられていたのだ。とにかく、いっこうに届かなかった。
「どこかで手に入れてあげるよ」ぼくが言った。「あのね、町に、イギリスの女の子を二人見かけなかったかね。おととい、ここへ来たんだが」
「ホテルにはいませんよ」
「看護婦なんだが」
「看護婦さんなら、二人、見かけました。ちょっと待ってください。どこにいるか調べてみますから」
「その一人はぼくの妻なんだ」とぼくは言った。「会いに来たんだ」
「もう一人のほうはわたしの妻です」
「冗談を言ってるんじゃないぜ」
「つまらない冗談を言ってすみませんでした」と彼が言った。「ぞんじませんものですから」彼は出ていき、かなり長いあいだ、こなかった。ぼくはオリーブの実と、塩づけのアーモンドと、ポテト・チップスを食べ、カウンターのうしろの鏡にうつっている平服のぼくの姿をながめていた。バーテンが戻ってきた。「駅の近くの小さなホテルにいらっしゃいます」と彼が言った。
「なにかサンドイッチでもある?」
「電話をかけて取り寄せましょう。ごらんのように、ここには何もございません。お客さんがないもんで」
「ほんとに一人もいないの?」
「いえ、二、三人はいらっしゃいます」
サンドイッチが来て、ぼくはそれを三きれ食べ、マーティーニをもう二杯飲んだ。ぼくはそんなに冷たく爽やかなのを味わったことはなかった。ぼくは文明人になったように思った。ぼくは赤ワインや、パンや、チーズや、グラッパ入りのまずいコーヒーなどをやりすぎていたのだ。ぼくは気持ちのよいマホガニーや、真鍮《しんちゅう》や、鏡の前で、高いスツールに腰かけ、何も考えなかった。バーテンがなにかぼくに質問した。
「戦争のことは言わないでくれ」とぼくは言った。戦争ははるかかなただった。たぶん、戦争はないだろう。ここには戦争はない。そう思うと、ぼくには戦争は終わったのだとはっきりわかった。しかし、それがほんとうに終わったのだという気はしなかった。学校をさぼっていて、いまごろ何をやっているだろうと考えている少年のような気がした。
キャサリンとヘレン・ファーガスンは、ぼくがそのホテルに行ったとき、夕食をたべていた。廊下に立っていると、二人がテーブルについているのが見えた。キャサリンの顔は向こうむきになっていて、彼女の髪と、頬と、美しい首と、肩が見えた。ファーガスンが話していた。ぼくがはいっていくと、彼女は話をやめた。
「あら、まあ」と彼女が言った。
「やあ」とぼくが言った。
「まあ、あなた!」とキャサリンが言った。彼女の顔が輝いた。あまり嬉しくて、信じられない様子だった。ぼくは彼女にキスした。キャサリンは顔を赤らめ、ぼくはテーブルに向かって腰かけた。
「あなたったら、でたらめな人ねえ」とファーガスンが言った。「何してらっしゃるの、こんなところで? お食事すんで?」
「まだだよ」食事の給仕をしている女の子がはいってきた。ぼくは彼女にもう一皿もってくるように頼んだ。キャサリンはずっとぼくを見ていた。幸福そうな目だった。
「平服なんか着て何してらっしゃるの?」とファーガスンがたずねた。
「閣僚になりましてね」
「なにか困ってらっしゃるのね」
「元気になりたまえ、ファーギー。ほんのすこしでも元気になりたまえ」
「あなたにお会いしたからって、元気になりませんわ。あなたがこの人を困らせたこと、知ってますもの。あなたにお目にかかっても、あたしは、ちっとも元気にはなりませんわ」
キャサリンはぼくにほほえみかけ、テーブルの下から足でぼくにさわった。
「だれもあたしを困らせやしないわよ、ファーギー。あたしが自分で自分を困らせてるのよ」
「わたし、このかたに我慢できないわ」とファーガスンが言った。「卑劣なイタリア式の策略であなたを破壊させてばかりいるんですもの。アメリカ人はイタリア人より悪いわ」
「スコットランド人はすごく道徳的な国民なのね」とキャサリンが言った。
「そういう意味じゃないのよ。彼のイタリア人式の卑劣さのことよ」
「ぼくが卑劣なんですか、ファーギー?」
「そうよ。卑劣どころか、もっと悪いわ。蛇みたいだわ。イタリア軍の軍服を着た蛇だわ。首のまわりに肩マントをかけて」
「もう、イタリア軍の軍服など着てませんよ」
「それがあなたの卑劣なもうひとつの例よ。あなたは夏じゅう恋愛して、このひとを妊娠させ、こんどはここをこっそり逃げだそうっていうんでしょう」
ぼくはキャサリンにほほえみかけると、彼女もぼくにほほえんだ。
「あたしたち二人でこっそり逃げだすのよ」と彼女が言った。
「あなたたちは一つ穴のむじなだわ」とファーガスンが言った。「あたし、あなたが恥ずかしいわ、キャサリン・バークレイ。あなたは恥も外聞もないんだわ。彼のように卑劣だわ」
「よして、ファーギー」とキャサリンは言って、相手の手を軽くたたいた。「あたしを責めないで。あたしたち二人とも仲よしですもの」
「手をどけてちょうだい」とファーガスンが言った。彼女の顔は真っ赤だった。「恥を知ってるなら、こんなことにはならなかったのよ。あなたったら、妊娠して何ヵ月もたつのに、冗談みたいに考えて、だました男が戻ってきたからって、顔じゅう笑ってるのね。恥もなければ、感情もないのね」彼女は泣きだした。キャサリンはそばへ寄って、彼女に腕をまわした。ファーガスンをなだめている彼女の姿には、なんの変化も見られなかった。
「あたしはかまわないわ」とファーガスンがすすり泣いた。「でも、恐ろしいことだわ」
「さあ、さあ、ファーギー」とキャサリンがなだめた。「あたし、恥ずかしくなっちゃうわ。泣かないでね、ファーギー。泣かないでね、ねえ、ファーギー」
「泣いちゃいないわよ」とファーガスンがすすり泣いた。「泣いちゃいないわよ。ただ、あなたがあんなひどいめにあったんですもの」彼女はぼくを見た。「あなた大嫌い」と彼女が言った。
「このひとがなんていっても、あなた、大嫌いよ。けがらわしい卑劣なアメリカ生まれのイタリア人だわ」彼女の目と鼻は泣いて赤くなっていた。
キャサリンはぼくにほほえみかけた。
「あたしに腕をまわしながら、こんな人にほほえんだりしないでよ」
「あなたはわからずやね、ファーギー」
「わかってるわよ」とファーガスンがすすり泣いた。「あなたがた、二人とも、あたしのことなんか気にしないで。あたしはうろたえてるのよ。わからずやよ。そんなことわかってるわ。あなたがた二人で、しあわせになってほしいの」
「あたしたちはしあわせよ」とキャサリンが言った。「あなたはいいひとよ、ファーギー」
ファーガスンはまた泣いた。「あなたがたに、いまのような形のしあわせを望んでいるんじゃないのよ。なぜ、あなたがた、結婚しないの? ねえ、あなた、ほかに奥さんがあるんじゃないんでしょう?」
「ありませんよ」とぼくが言った。キャサリンは笑った。
「笑いごとじゃないわ」ファーガスンが言った。「ほかに奥さんのある人、たくさんいるのよ」
「あたしたち、結婚するわ、ファーギー」とキャサリンが言った。「あなたが喜ぶのなら」
「あたしを喜ばすためなら、よしてちょうだい。あなたのほうで結婚したくなるはずのものよ」
「あたしたち、すごく忙しかったのよ」
「ええ、わかるわ。赤ちゃんをこしらえるのに忙しかったんだわ」彼女はまた泣きだすのかと思われたが、辛辣《しんらつ》になった。「今夜、すぐにでも、彼と逃げてしまうんでしょう?」
「そうよ」とキャサリンが言った。「彼があたしにそうしてほしいというなら」
「あたしはどうなるの?」
「あなた、ここに一人でいるの、こわい?」
「ええ、こわいわ」
「じゃあ、あなたといっしょにいるわ」
「いいえ、彼と行きなさいよ。いますぐ行きなさい。あなたがた二人を見てるの、いやになったわ」
「食事をすませたほうがいいわ」
「いいえ、すぐに行ってよ」
「ファーギー、わからずやはやめてよ」
「いますぐ出て行ってちょうだいって、言ってるのよ。二人とも、出て行ってよ」
「じゃあ、行こう」とぼくは言った。ぼくはファーギーにうんざりした。
「あなたはやっぱり行きたいんだわ。ねえ、あなたはあたしを捨てて、ひとりぽっちで食事させようとまで思ってるんだわ。あたしは前からイタリアの湖に来てみようと思っていたのよ。それがこんな始末なのね。ああ、ああ」と彼女はすすり泣き、それから、キャサリンを見て、涙にむせんだ。
「食事がすむまで、あたしたち、いるわ」とキャサリンが言った。「それに、あたしにいてほしいのなら、あなたをひとりぽっちにしていきゃしないわ、ファーギー」
「ちがうのよ、ちがうわ。あなたにいってほしいの」彼女は目をふいた。「あたし、すごくわからずやね。どうか、あたしのことなど気にしないで」
食事の給仕をしていた女の子はこの泣きわめく騒ぎに狼狽《ろうばい》していた。いま、つぎの料理を運んでくると、様子がよくなっているのに、ほっとしたようだった。
その夜、ホテルのぼくたちの部屋で、外の長い廊下はがらんとして、ドアの外に靴を出し、部屋の床の絨毯《じゅうたん》は厚く、窓の外には雨が降り、部屋のなかは明るく、たのしく、陽気で、やがて燈火がきえ、肌ざわりのいいシーツと心地よいベッドに心がときめき、家庭に帰ったような気になり、もうひとりぽっちではないのだと感じ、夜、目をさまして、そのひとがそこにいて、どこへもいっていないのを知った。そのほかのことはどれも現実ではなかった。ぼくたちは疲れると眠り、一人が目をさますと、相手の一人も目をさましたから、どちらもひとりぽっちではなかった。たびたび、男はひとりになろうと望み、女もひとりになろうと望み、彼らがたがいに愛しあっていれば、たがいにそうした気持ちを嫉妬するものだが、ぼくたちはそうした気持ちを感じなかったと断言できる。ぼくたちは二人いっしょにいるときでも孤独を感ずることができた。ほかの人にたいしての孤独である。ただぼくに一度そんな気持ちが起こったことがあった。ぼくはいろんな女の子といっしょにいたとき、孤独だったことがある。そうしたとき、ひとはもっとも孤独になりうるものなのだ。だが、ぼくたちはけっして孤独ではなく、いっしょにいるのをけっして恐れなかった。ぼくは、夜が昼と同じではないということを知っている。すべてのものが違っていて、夜のものは昼まは存在しないから、昼までは説明できないし、夜は、孤独な人々には、その孤独がひとたびはじまると、恐ろしい時になる、ということを知っている。だが、キャサリンといると、夜でもほとんど変りがなかった。むしろ、夜のほうがよい時さえあった。人々がこの世に多くの勇気をもってくるなら、この世は彼らを打ちのめすために彼らを殺さなければならない。それで、もちろん、この世は彼らを殺してしまう。この世はすべての人を打ちのめす。そうなると多くの者は打ちのめされた箇所で強くなる。だが、打ちのめされようとしないものは、この世が殺す。それは、善いもの、やさしいもの、勇敢なものを、わけへだてなく、殺す。そのどちらの人間でないにしても、それに殺されることはたしかだ。ただ特に急ぐことがないだけだ。
翌朝、目をさましたときのことは忘れられない。キャサリンが眠っていて、日光が窓からさしこんでいた。雨はやんでいた。ぼくはベッドから出て、部屋を横ぎり、窓ぎわに行った。下に庭園があり、いまははだかだが、美しく整然としていた。砂利の小道があり、木立ちがあり、湖のそばに石の塀があり、湖は日の光をあび、その向こうに山々があった。ぼくは窓ぎわに立って外を見ていた。ふりむくと、キャサリンが目をさまして、ぼくを見つめているのが、見えた。
「あなた、ご気分いかが?」と彼女が言った。「すばらしい日じゃない?」
「きみはどう?」
「あたしはとても気分がいいわ。すてきな夜だったわ」
「朝食、欲しい?」
彼女は朝食を欲しがった。ぼくも欲しかった。ぼくたちはベッドのなかで食べた。十一月の日ざしが窓からさしこんだ。ぼくは朝食の盆を膝の上にのせていた。
「新聞いらない? 病院ではいつも新聞を欲しがっていらっしゃったわ」
「いらない」とぼくが言った。「いまは、いらない」
「新聞も読みたくないくらい、ひどかったの?」
「読みたくないんだ」
「あなたといっしょだったらと思うわ。そしたら、あたしにも事情がわかるから」
「頭のなかで整理がついたら、話してあげるよ」
「でも、軍服を脱いでいるところ見つかると、逮捕されないかしら?」
「きっと、ぼくを射ち殺すだろう」
「じゃあ、あたしたちここにいられないわ。この国から逃げだしましょう」
「ぼくもそのことはかなり考えたんだ」
「逃げましょうよ。つまらない偶然をあてにしてはだめよ。ねえ、メストレからミラノまで、どんなふうにしていらしたの?」
「列車に乗ったんだ。そのときは軍服を着ていたんだ」
「そのときは、危険じゃなかった?」
「たいして危険じゃなかった。ぼくは古い移動命令書をもっていたんだ。メストレでその日付を書きこんだのさ」
「あなた、ここではいつ逮捕されるかわからないわ。あたし、いやだわ。そんなことになるの、ばからしいわ。あなたが連れていかれたら、あたしたちどうなるの?」
「そんなこと考えるの、よそう。そんなこと考えるの、いやになっちゃった」
「あなたを逮捕に来たら、あなた、どうなさる?」
「そいつらを射つさ」
「ほらね、そんなばかげたことを。あたしたちがここを抜けだすまで、あたし、あなたをホテルから外に出さないわ」
「ぼくたち、どこへいけるというんだね?」
「あなた、どうか、そんなふうに考えないで。あなたのおっしゃるところならどこへでもいきましょう。でも、おねがい、いくところをどこか、すぐ、さがして」
「スイスは湖の向こうだ。あそこならいける」
「すてきだわ」
外は雲がたれこめ、湖は暗くなっていた。
「ぼくたちは、いつも罪人みたいに暮らさないですむと、いいんだが」とぼくは言った。
「あなた、そんなふうに考えないで。そんなに長いあいだ、罪人のように暮らしてらしたわけじゃないんですもの。それに、あたしたちはけっして罪人みたいに暮らしはしないわ。あたしたち、これからたのしい時をすごせるのよ」
「ぼくは罪人みたいな気がするんだ。軍隊を脱走したんだから」
「あなた、ね、おねがい、変なこと言わないで。軍隊を脱走したんじゃあないのよ。イタリアの軍隊じゃありませんか」
ぼくは笑った。「いい子だね。ベッドにもどろう。ベッドにはいっていると気分がいい」
しばらくたって、キャサリンが言った。「あなた罪人みたいな気がしない?」
「いや」とぼくが言った。「きみといっしょだと、そんな気はしない」
「あなたって、ほんとにおばかさんね」と彼女が言った。「でも、あたしがお世話してあげるわ。あなた、すてきじゃなくって、あたし、朝の吐きけ(妊娠初期の徴候)がないのよ」
「それはすばらしい」
「あなたはどんなすてきな奥さんをもっているか、わからないんだわ。でも、かまわないわ。あたし、どこかあなたが捕まらないところへ連れてってあげるわ。そして、すてきに暮らしましょう」
「いますぐ、そこへ行こう」
「そうしましょう、あなた。あなたの好きなように、いつでも、どこへでも、行くわ」
「もう何にも考えないことにしよう」
「いいわ」
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第三十五章
キャサリンはファーガスンに会いに、湖ぞいに小さなホテルへ行った。ぼくは酒場に腰かけ、新聞を読んだ。酒場にはすわり心地のいい革の椅子があり、ぼくはそのひとつに腰かけ、バーテンがはいってくるまで、新聞を読んだ。イタリア軍はタリアメント河で踏みとどまらなかった。ピアーヴェ河(タリアメント河の西方を流れる河。一九一八年七月イタリア軍が勝利をおさめた)まで退却しつつあった。ぼくは、ピアーヴェ河をおぼえていた。鉄道がサン・ドーナ(ベネチア・トリエステ鉄道沿線の町)の近くでそれを横ぎり、前線に通じていた。そこでは河は深く、ゆるやかで、すっかり狭くなっていた。その下のほうには蚊の多い沼地と運河があった。いくつかのきれいな別荘があった。戦争まえに一度、コルチーナ・ダムペッツォ(オーストリア国境に近いイタリアの保養地)にいくとき、丘陵のなかを数時間その河にそっていったことがあった。上流は、鱒《ます》のいる流れのようで、早く流れていた。岩陰には浅瀬の広がりやよどみがあった。道路はカドーレ(北イタリアの山間の町)でその河からそれていた。ぼくはその上流までいった軍隊がどうやって下ってくるのだろうかと思った。バーテンがはいってきた。
「グレッフィ伯爵がおよびですよ」と彼が言った。
「だれ?」
「グレッフィ伯爵です。まえにいらしたとき、ここにおられたおとしよりを覚えてらっしゃるでしょう?」
「ここにいるのかね?」
「はい、姪《めい》のかたとごいっしょにおられます。あなたがここにおいでだと申しましたところ、ごいっしょに玉突きをなさりたいとのことです」
「どこにいるのかね?」
「散歩しておられます」
「元気かい?」
「まえよりもお若いくらいです。ゆうべなんか、夕食前にシャンペン・カクテルを三杯もお召しあがりになりました」
「玉突きのほうはどう?」
「おじょうずです。わたしを負かしますよ。あなたがここにいらっしゃると申しましたら、とても喜ばれました。ここには玉突きのお相手をなさるかたがいませんからね」
グレッフィ伯爵は九十四歳だった。メッテルニヒ(一七七三―一八五九、オーストリアの政治家・外相・ウィーン会議議長)と同時代で、髪も口髭も白く、礼儀正しい老人だった。彼はオーストリアとイタリアの外交に従事していて、その誕生日のパーティはミラノの社交界の大きなイベントだった。百歳に手がとどこうという、九十四歳の老躯《ろうく》にも似ず、手ぎわよく、なめらかに、球を突いた。ぼくはまえに一度、シーズンオフにストレーザにいたとき、彼に会って、二人で玉を突きながら、シャンペンを飲んだ。ぼくはそれをすばらしい習慣だと思った。彼はぼくに百に十五のハンデをつけて、ぼくを負かした。
「あの人がここにいることをなぜ知らせなかったんだね?」
「忘れてました」
「ほかにだれかいるかね?」
「ごぞんじのかたはおられません。みんなでたった六人です」
「きみはいま何をしてるんだね?」
「何もしていません」
「釣りにいかないか?」
「一時間ばかりなら出られます」
「いこう。流し釣りの糸をもってきてくれ」
バーテンは上衣を着、ぼくたちは出かけた。ぼくたちはおりていって、ボートにのり、ぼくが漕ぎ、バーテンが船尾《とも》にすわって、湖の鱒を流し釣りするために、先にスピンナー(釣り糸につけて水中でひらひら回転させ魚をおびき寄せる小さな擬餌針)と重い錘《おもり》のついた釣り糸をくりだした。ぼくたちは岸にそって漕ぎ、バーテンが片手に釣り糸をもって、ときどき前のほうにそれをぐいと動かした。ストレーザは湖から見るとひどくさびれて見えた。長いはだかの並木と、大きなホテルと、戸をとざした別荘がいくつかあった。ぼくはイソーラ・ベルラ(「美しい島」の意味)まで湖を漕いで渡り、岸壁の近くへいったが、そこは水が急に深くなり、岸壁がすんだ水の中に傾斜して落ちこみ、それから頭をだして、漁師の島のほうにつづいているのが見えた。太陽は雲にかくれ、水は黒ずみ、おだやかで、とても冷たかった。魚がとびあがって、水面にいくつか輪をえがくのが見えたが、一匹も食いつかなかった。
漁師の島の反対がわに漕いでいくと、そこにはボートが引きあげられ、人々が網を修理していた。
「一杯やろうか?」
「いいですね」
ぼくはボートを石の突堤につけ、バーテンは釣り糸をたぐりよせ、ボートの底に巻き、舟べりの端にスピンナーをひっかけた。ぼくは外に出て、ボートを繋《つな》いだ。二人で小さなカフェにいき、テーブル・クロスのかけてない木のテーブルに向かい、ベルモットを注文した。
「漕いでお疲れになったでしょう?」
「いや」
「帰りはわたしが漕ぎましょう」と彼が言った。
「漕ぐのは好きなんだ」
「あなたが釣り糸をもっていらっしゃれば、運が変わるかもしれません」
「そうか」
「戦争はどんな様子ですか?」
「話にならないんだ」
「わたしはいかなくてもいいんです。年とってますからね、グレッフィ伯爵のように」
「だが、たぶん、いかなければならないだろうな」
「来年になれば、わたしたちのようなものまで呼びだされるでしょう。でも、いきませんよ」
「どうするんだね」
「国外にいきますよ。戦争にはいきたくありませんからね。以前、アビシニアの戦争に出たことがあります。いやですね。あなたは、なぜ、戦争にいかれるのですか?」
「わからない。ばかだったんだな」
「ベルモットをもう一杯いかがです?」
「いいね」
帰りはバーテンが漕いだ。ぼくたちは湖をストレーザのさきまで流し釣りし、それから、岸からあまり遠くないところまで戻ってきた。ぼくはぴんと張った糸をもって、黒ずんだ十一月の湖の水と、さびれた岸をながめていると、スピンナーがくるくる廻っているかすかな振動を感じた。バーテンが大きく漕ぎ、ボートが前に進むと、釣り糸がふるえた。一度、手ごたえがあった。急に釣り糸が張り、ぐいと来て、ぼくが引っぱると、鱒《ます》の生きた重みが感じられ、それから、糸がまたふるえた。逃がしてしまったのだ。
「大きそうでしたか、手ごたえは?」
「かなりね」
「いつか、一人で流し釣りに出ましてね、歯で釣り糸をもっていたら、くいついてきて、あやうく口がもぎとられるところでした」
「いちばんいいのは足でやるんだ」とぼくが言った。「あたりは感じられるし、歯もなくさなくてすむさ」
ぼくは手を水に入れた。とても冷たかった。もうホテルのすぐ前まできていた。
「かえらなければなりません」とバーテンが言った。
「十一時までに。|カクテルの時間《ルール・デュ・コクテル》ですから」
「そうか」
ぼくは釣り糸をたぐりよせ、両端に刻みのついた棒にまきつけた。バーテンはボートを石の岸壁にある小さな斜面の船置き場に引きいれ、鎖と南京錠でとめた。
「おいりようのときはいつでも」と彼が言った。「鍵をさしあげますから」
「ありがとう」
ぼくたちはホテルへいき、酒場にはいった。ぼくは、朝そんな早くから、もう一杯やろうとは思わなかった。それで、ぼくの部屋にあがっていった。女中が部屋の片付けをちょうど終えたところで、キャサリンはまだ帰っていなかった。ぼくはベッドに横になり、何も考えまいとした。
キャサリンが帰ってくると、機嫌がすっかりなおった。ファーガスンが階下にいる、と彼女が言った。昼食に来たのだった。
「ごめんなさいね、おそくなって」とキャサリンが言った。
「かまわないよ」とぼくが言った。
「どうなさったの、あなた?」
「さあね」
「わかったわ。あなたは何もすることがないんでしょう。あなたには、あたしだけしかないのに、そのあたしが出かけてしまったからよ」
「その通りなんだ」
「ごめんなさいね。急に何もすることがなくなるなんて、すごくいやな気持ちにちがいないわ」
「ぼくの人生はあらゆるものにみちていたんだ」とぼくは言った。「いまじゃ、きみがいっしょにいなけりゃ、この世には何もなくなってしまうんだ」
「でも、あたし、いっしょにいるわ。二時間いなかっただけよ。なにかなさることないの?」
「バーテンと釣りにいってきたよ」
「おもしろくなかったの?」
「いや、おもしろかった」
「あたしのいないときは、あたしのことは考えないで」
「前線ではそうやってきたんだ。だが、あのときは何かすることがあった」
「仕事のなくなったオセロね」(シェイクスピアの『オセロ』に「オセロの仕事がなくなった」という妻デスデモーナを不貞と疑ってなやむオセロの科白がある)と彼女がからかった。
「オセロは黒ん坊だったよ」とぼくは言った。「それに、ぼくはやきもちやきじゃない。ただきみをとても愛しているから、ほかにすることがないだけなんだ」
「いい子だから、ファーガスンに親切にしてくださる?」
「ぼくをのろいさえしなければ、いつだってファーガスンには親切さ」
「親切にしてね。あたしたちはこんなに持ってるのに、あのかたは何も持ってないのよ」
「ぼくたちの持っているものをほしがらないと思うけど」
「あなたったら、お利口なくせに、よくおわかりにならないのね」
「あの人にもっと親切にするよ」
「そうしてね。いいかたね、あなたって」
「いつまでもいるわけじゃないんだろう?」
「ええ、追っぱらうわ」
「そうしたら、二人でここへあがってこよう」
「もちろん。あたしが何をしたいと思って?」
ぼくたちはファーガスンと食事をとるために階下へ行った。彼女はホテルとすばらしい食堂にすっかり感心した。ぼくたちは白カプリを二、三本飲んで、いい昼食をとった。グレッフィ伯爵が食堂にはいってきて、ぼくたちに会釈した。ぼくの祖母にちょっと似た彼の姪がいっしょだった。ぼくはキャサリンとファーガスンに彼のことを話した。すると、ファーガスンがとても感心した。ホテルはとても大きく、壮大で、がらあきだったが、食事は上等でワインはとてもうまく、しまいには、酒のおかげでぼくたちはみなすごくいい気分になった。キャサリンはこれ以上いい気分になる必要がないほどだった。彼女はとても幸福だった。ファーガスンはとても陽気になった。ぼく自身もとてもいい気分だった。昼食後、ファーガスンは自分のホテルへもどった。彼女は食後しばらく横になるのだ、と言った。
午後おそく、だれかがぼくたちのドアをノックした。
「どなた」
「グレッフィ伯爵が玉突きのお相手をお願いできるかどうか、うかがってきてくれとおっしゃるんで」
ぼくは腕時計を見た。時計ははずして、枕の下に入れてあった。
「いかなければいけないの」とキャサリンがささやいた。
「いったほうがいいらしい」時計は四時十五分すぎだった。ぼくは大声で外に向かって言った。
「五時に玉突き室にいっていると、グレッフィ伯爵にお伝えしてくれ」
五時十五分前、ぼくはキャサリンに別れのキスをして、着換えのために浴室にはいっていった。ネクタイを結び、鏡を見ると、平服を着たぼくは自分にも奇妙に思われた。ワイシャツと靴下を忘れずにもっと買っておかなければならない。
「長くかかる?」とキャサリンがたずねた。彼女はベッドの中できれいに見えた。「ブラシをとってくださる?」
ぼくは、彼女が髪の重みがすっかり片方にかかるように頭をかしげて、髪にブラシをあてているのを見つめていた。外は暗く、ベッドの枕元のあかりが彼女の髪と首と肩を照らしていた。ぼくはそばへいって、彼女にキスし、ブラシを持ったその手をとると、彼女の頭は枕の上に沈んだ。ぼくは彼女の首と肩にキスした。たまらなくかわいくて気も遠くなりそうだった。
「いきたくないんだ」
「いかないでちょうだい」
「じゃあ、いかない」
「いいのよ、いって。ほんのすこしで、すぐ帰ってらっしゃるわね」
「夕食はここでとろう」
「いそいでいって、帰ってきてね」
玉突き室にはグレッフィ伯爵がいた。彼は玉を突く練習をしていたが、玉突き台の上からさす電燈の下でひどく弱々しく見えた。電燈のすこし向こうのトランプ用のテーブルの上に銀の冷やし桶がおいてあり、シャンペンの壜が二本、首とコルクの栓を氷の上に見せていた。玉突き台のほうに行くと、グレッフィ伯爵はからだをしゃんとのばし、ぼくのほうに歩いてきた。彼は手をさしのべた。
「あなたがここにおいでくださって、とてもうれしいです。玉突きのお相手をしてくだされるとは、はなはだありがたいことです」
「おさそいいただいて、まことにありがとうございます」
「すっかりよくなられましたか? イゾンツォ河で負傷なさったとききましたが。もうよくなられたでしょうな」
「すっかりよくなりました。ずっとお達者で?」
「ああ、わたしはいつも達者でね。でも、年とりましたよ。年はあらそえませんな」
「まさか」
「ほんとですとも。その証拠をひとつ話してみましょうか? イタリア語を話したほうがらくになりましてね。自分では使わないようにしているんですが、疲れたときなど、イタリア語を話したほうがずっとらくなのに、気づきましたよ。それで、年とったのに相違ないと思いますな」
「イタリア語で話しましょう。ぼくもすこしばかり疲れています」
「ああ、でも、お疲れのときは、あなたは英語で話したほうがらくでしょう」
「アメリカ語ですよ」
「ええ、アメリカ語でしたね。どうぞ、アメリカ語でお話しください。あれはたのしい言葉ですよ」
「てんで、アメリカ人に会いませんでね」
「さぞ、おさびしいでしょうな。自分の国の人が、特に女のかたがいないと、さびしいものですな。わたしもそんな経験がありますよ。玉突きなさいますか、それとも、お疲れで?」
「ほんとうは疲れてはいませんよ、冗談でそう申しただけです。ハンデはどのくらいつけていただけますか?」
「ずいぶんおやりになってらっしゃるんでしょうな?」
「ぜんぜんやってません」
「あなたはとてもおじょうずですよ。百に十点では?」
「おせじをおっしゃって」
「十五点では?」
「結構ですが、ぼくの負けでしょうね」
「賭けましょうかな? あなたはいつも賭けて突くのがお好きでしたが」
「そのほうがいいでしょう」
「よろしい。十八点つけましょう。そして、一点一フランでやりましょう」
彼は玉突きがすごくじょうずで、そのハンデで、ぼくは五十点でわずか四点しか勝ち越していなかった。グレッフィ伯爵は壁についている呼び鈴を押し、バーテンを呼んだ。
「一本あけてください」と彼が言った。それから、ぼくに、「ちょっと興奮剤をやりましょう」ワインは氷のように冷たく、すごくからくちで、うまかった。
「イタリア語で話しましょうか? ひどくご迷惑でしょうかな? このごろは、これがわたしの大きな弱点でしてね」
ぼくたちは玉突きをつづけ、突く合い間にワインをちびりちびりやり、イタリア語で話したが、ゲームに気をとられて、あまり話さなかった。グレッフィ伯爵は百を突ききったが、ぼくはハンデがありながら、たった九十四だった。彼はほほえんで、ぼくの肩を軽くたたいた。
「じゃあ、もう一本飲んで、あなたから戦争の話をうかがいましょう」彼はぼくが腰かけるのを待った。
「何かほかのことを」とぼくが言った。
「戦争の話はおいやですか? よろしいですとも。このごろ、何をお読みですか?」
「なんにも読んでません」とぼくが言った。「どうもひどく鈍くなりましてね」
「そんなことありませんよ。でも、お読みなさいよ」
「戦時中にどんなものが書かれましたか?」
「フランス人のバルビュス(一八七三―一九三五、フランスの小説家)という人の『砲火《ル・フウ》』(一九一六年出版、ゴンクール賞作品)というのがあります。『ブリトリング氏は見抜く』(H・G・ウェルズの小説、一九一六年出版)というのもあります」
「いや、あの男はそうしませんよ」
「え?」
「あの男は見抜きませんよ。そのような本が病院にありました」
「じゃあ、お読みになっておられたんですな?」
「ええ、でも、いいものは読んでいません」
「『ブリトリング氏』はイギリスの中産階級魂のとてもよい研究だと思いましたが」
「ぼくは魂のことはわかりません」
「おきのどくに。わたしどもはだれも魂のことはわかりませんよ。あなたは神《クロワヤン》を信じますか?」
「夜はね」
グレッフィ伯爵はほほえんで、指でグラスをまわした。
「年をとれば、もっと信心深くなると思ってましたが、どういうものか、そうならなくて」と彼が言った。「非常に残念です」
「死んでからまで生きたいとお思いですか?」とぼくはたずね、死を口にしたなんて愚かだとすぐに感じた。だが、彼はその言葉を気にしなかった。
「それは人生しだいでしょうな。この人生は非常にたのしいですよ。わたしは永久に生きていたいですな」と彼は微笑した。「ほとんど人生の終わりに来ましたがね」
ぼくたちは深いレザーの椅子に腰をおろし、氷の桶にシャンペンをつけ、二人のあいだのテーブルにグラスをおいていた。
「わたしぐらいまで生きていらっしゃれば、いろいろと珍しいことに会えるでしょうな」
「あなたはちっとも年とって見えませんよ」
「年とってるのは肉体でしてね。ときどき、わたしは一本のチョークを折るように、指を折るんじゃないかと思うんです。精神はそう年とってもいなければ、そう賢くもないんでしてね」
「賢いですとも」
「いや、それは大間違いですよ、老人の知恵なんて。人間なんて賢くはならないんです。注意深くなるだけです」
「たぶん、それが知恵ですよ」
「きわめて魅力のない知恵でしてね。あなたは何をいちばん大切にしてますかな」
「ぼくの愛している人です」
「わたしもそうなんです。それは知恵ではありません。あなたは生命を大切にされますかな」
「ええ」
「わたしもです。というのは、それがわたしの持っているすべてですから。そして、誕生日のパーティをすることです」と彼は笑った。「あなたのほうが、たぶんわたしより賢いですよ。誕生日のパーティなんかなさらないでしょうから」
ぼくたちは二人でワインを飲んだ。
「実際のところ、戦争をどうお考えですか?」とぼくがたずねた。
「愚かなことだと思いますな」
「どちらが勝つでしょうか?」
「イタリア」
「なぜです?」
「イタリアのほうが若い国ですから」
「いつも若い国のほうが戦争に勝つんですか?」
「はじめのうちは、そんなもんですな」
「それから、どうなるんですか?」
「それがだんだん年とった国になるんです」
「あなたはご自分が賢くないとおっしゃいましたね」
「おやおや、知恵からそう言ってるんじゃありませんよ、皮肉ですよ」
「ぼくにはとても賢くきこえますよ」
「特別にそういうわけでもないんですよ。反対の例を引くこともできますね。だが、悪いことでもありますまい。シャンペンはもうおしまいになりましたかな?」
「ほとんど」
「もっと飲みましょうか? 飲んだら、着換えなければなりませんが」
「もうこれでじゅうぶんでしょう」
「ほんとうにもうよろしいですかな」
「ええ」
彼は立ちあがった。
「あなたが、とても幸運で、とても幸福で、とても、とても健康でありますように」
「ありがとうございます。そして、あなたもいつまでも長生きなさいますように」
「ありがとう。長生きしましたよ。あなたが信心深くなられたら、わたしが死んだらお祈りしてください。わたしは数人の友人にそうするように頼んでるんですよ。自分自身が信心深くなろうと望んでいましたが、まだその時期が来ませんでしてね」彼は悲しげにほほえんだようだったが、はっきりとはわからなかった。彼はすごく年をとっていて、顔じゅう皺《しわ》くちゃだったので、微笑すると、たくさん皺がより、ちっとも表情の変化があらわれなかった。
「ぼくはすごく信心深くなるかもしれませんよ」とぼくが言った。「とにかく、あなたのために祈りましょう」
「わたしはいつも信心深くなろうと思ってたんですよ。わたしの家族は、みんな死んだときは信心深かったんですよ。だが、どういうものか、わたしにはまだその時期が来ませんでしてね」
「まだ早すぎるんですよ」
「おそすぎるんかも知れませんね。たぶん、わたしの宗教心がさきに死んじまったんですよ」
「ぼくのは夜だけくるんです」
「じゃあ、あなたも恋してらっしゃるんですな。お忘れになってはいけませんよ、それも宗教心だということを」
「そうお考えですか?」
「もちろんですとも」彼はテーブルのほうへ一歩すすんだ。「玉突きのお相手していただいて、ほんとうにありがとう」
「どういたしまして」
「ごいっしょに階上《うえ》へまいりましょう」
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第三十六章
その夜は暴風雨で、目をさますと、雨が窓ガラスに吹きつける音がしていた。雨が開いた窓から降りこんでいた。だれかがドアをノックしていた。ぼくはキャサリンをおこさないように、そっとドアのほうにいって、あけた。バーテンが立っていた。オーバーをきて、濡れた帽子をもっていた。
「お話があるんですが、|中尉どの《テネンテ》」
「どうしたんだ?」
「非常に重大なことなんです」
ぼくはあたりを見まわした。部屋は暗かった。床に窓から吹きこんだ雨水が見えた。「おはいり」とぼくは言った。ぼくは彼の腕をとって、浴室につれこんだ。ドアに鍵をかけ、あかりをつけた。ぼくは浴槽のふちに腰かけた。
「どうしたんだ、エミリオ? 困ったことでもおこったのか?」
「いいえ、あなたのことですよ、|中尉どの《テネンテ》」
「え?」
「朝になると、あなたをつかまえに来ますよ」
「え?」
「お知らせに来たんです。町に出ていますと、あいつらがカフェで話してるのがきこえたんです」
「そうか」
彼はそこに立っていた。上衣は濡れ、濡れた帽子をつかんで、何も言わなかった。
「なぜぼくをつかまえるんだろう?」
「何か戦争のことでらしいですよ」
「なんだかわかってるか?」
「いいえ。ですが、やつらが、あなたが将校のときここに来て、いま軍服をぬいでここにおられるってことを知ってるってことは、わかっています。今度の退却のあとで、やつらはだれかれかまわず、つかまえてるんです」
ぼくはちょっと考えた。
「いつ、つかまえに来る?」
「朝です。時間はわかりません」
「どうしたらいいだろう?」
彼は帽子を洗面器のなかに入れた。ひどく濡れていて、床に雫《しずく》がたれていたからだ。
「何も怖れることがなかったら、逮捕なんてなんでもありませんよ。ですが、つかまるなんて、いつでも、いやなもんです――特にこんなときは」
「つかまりたくないんだ」
「じゃあ、スイスにいらっしゃい」
「どうやって?」
「わたしのボートで」
「暴風雨《あらし》じゃないか」とぼくが言った。
「やみました。荒れてますが、だいじょうぶでしょう」
「いつでかける?」
「いますぐ。朝早く、つかまえにやってくるかもしれませんから」
「鞄はどうする?」
「荷物をおつめください。奥さんに着換えてもらってください。わたしが鞄を引きうけます」
「どこにいてくれる?」
「ここで待っています。廊下でだれかに見られたくありませんから」
ぼくはドアをあけ、それをしめ、寝室にはいっていった。キャサリンはおきていた。
「どうしたの、あなた?」
「なんでもないよ、キャット」とぼくは言った。「いますぐ着換えて、ボートでスイスへ行くかい?」
「あなたは?」
「いやだ」とぼくは言った。「ベッドにもどりたいよ」
「何かあったの?」
「バーテンが朝になるとやつらがつかまえにくるって言うんだ」
「バーテンさん、気が変なの?」
「いや」
「じゃあ、おねがい、急ぎましょう。でかけられるように、着換えましょう」彼女はベッドの片がわに起きあがった。まだねむそうだった。「浴室にいるのはそのバーテンさん?」
「そうだ」
「じゃあ、あたし顔を洗わないわ。お願い、向こうをむいててね。一分で着換えるから」
彼女がナイト・ガウンをぬぐとき、白い背中が見えた。それから、ぼくはそっぽを向いた。彼女がそうしてくれと望んだのだ。おなかに子供がいて、ちょっと目立ちはじめていたので、ぼくに見られたくないのだ。ぼくは窓をうつ雨の音をききながら着換えた。鞄に入れるものはそうなかった。
「ぼくの鞄にはまだたくさんはいるよ、キャット、必要なら」
「もうだいたい詰めたわ」と彼女が言った。「あなた、ひどくばかげた質問だけど、なぜバーテンさんが浴室にいるの?」
「しいっ――ぼくたちの鞄をおろすために待ってるんだよ」
「すごくいいかたね」
「旧友だからな」とぼくが言った。「いつか、パイプタバコを彼に送ろうとしたくらいだ」
ぼくは開いている窓から暗い夜をながめた。湖は見えず、ただ、闇と雨だけだったが、風は静まっていた。
「用意できたわ、あなた」とキャサリンが言った。
「よし」ぼくは浴室のドアのところへ行った。「ここに鞄をおくよ、エミリオ」とぼくは言った。バーテンは鞄を二つうけとった。
「お手伝い、ほんとにありがとう」とキャサリンが言った。
「どういたしまして、奥さん」とバーテンが言った。「ぼく自身がさわぎにまきこまれないように、よろこんでお手伝いしているだけなんですよ。いいですか」と彼はぼくに向かって言った。
「鞄は従業員専用の階段からボートにもって行きます。お二人は散歩にでも行かれるように、出ていらっしゃい」
「散歩には、すてきな夜だわ」とキャサリンが言った。
「まったくひどい夜だ」
「傘をもってきて、よかったわ」とキャサリンが言った。
ぼくたちは廊下を通って、厚い絨毯を敷いた広い階段をおりた。階段の下の、ドアのそばに、ボーイが机のうしろに腰かけていた。
彼はぼくたちを見て驚いた様子だった。
「おでかけではないんでしょう、まさか?」と彼が言った。
「でかけてくる」とぼくが言った。「湖の岸であらしを見ようと思ってね」
「傘をお持ちじゃないんでしょうね?」
「ああ」とぼくは言った。「この上衣は水をはじくんだ」
彼は信じられないといったふうに上衣を見た。「傘をお持ちいたしましょう」と彼は言った。彼は向こうへ行って、大きな傘をもって帰ってきた。「すこし大きいんですが」と彼は言った。ぼくは十リラ紙幣をやった。「これはすみません。ほんとにありがとうございます」と彼は言った。彼はドアをあけておさえ、ぼくたちは雨のなかに出た。彼がキャサリンにほほえむと、彼女も彼にほほえんだ。「暴風雨《あらし》のなかに長くいらっしてはいけませんよ」と彼が言った。「お濡れになりますから、旦那さまも、奥さまも」彼はただの二等ボーイで、その英語はまだ文字どおりの直訳口調だった。
「すぐかえってくる」とぼくは言った。ぼくたちはひどく大きな傘をさして、小径をゆき、暗い濡れた庭園を抜けて道路に出、その道路を渡り、湖にそって四つ目垣でしきった小路に出た。風はいまは岸から湖に向かって吹いていた。冷たい、湿った、十一月の風で、山々では雪がふっているとわかった。ぼくたちは突堤にそって斜面の船置き場に鎖でつないであるいくつかのボートのそばをとおり、バーテンのボートのあるはずのところへ行った。水は岩にぶつかって黒ずんでいた。バーテンが立ちならんだ木立ちの陰から出てきた。
「鞄はボートのなかにあります」と彼が言った。
「ボートの代金を払いたいが」とぼくが言った。
「いくらおもちですか?」
「たいしてないんだ」
「お金はあとから送ってください。それでいいんです」
「いくらだね」
「いくらでもいいんです」
「いくらだか言ってくれ」
「うまくいったら、五百フラン送ってください。うまくいったら、そのくらい、いいでしょう?」
「いいよ」
「サンドイッチです」彼はぼくに包みを渡した。「酒場《バー》にあったものはみんなもってきました。みんなここにあります。これはブランデーの壜、それからワインの壜です」ぼくはそれを鞄に入れた。「こいつは払わせてくれ」
「そうですか。五十リラいただきましょう」
ぼくは彼にそれだけあたえた。「ブランデーは上等のです」と彼が言った。「奥さんにさしあげてもご心配ありません。奥さんはボートにお乗りになったほうがよろしいですよ」彼はボートをおさえた。ボートは石の岸壁にぶつかって上下にゆれていた。ぼくはキャサリンに手をかして、のりこませた。彼女は船尾《とも》にすわり、ケープに身をくるんだ。
「行き先はわかってますね?」
「湖の向こうだろう」
「どのくらい遠いか、ごぞんじですね?」
「ルイーノ(ミラノの西北四三マイル、マッジョーレ湖にのぞむ小さな町)の向こうだろう」
「ルイーノ、カンネーロ、カンノービオ、トランツアーノの向こうです。ブリッサーゴまで行かなけりゃ、スイスじゃありませんよ。タマーラ山《モンテ》を越えなけりゃ」
「いま何時?」とキャサリンがたずねた。
「まだ十一時だよ」とぼくは言った。
「ずっと漕ぎつづければ、朝七時にはあそこに着くはずです」
「そんなに遠いのかい?」
「三十五キロはあります」
「どうやって行きゃいいだろう? こんな雨じゃあ羅針盤《らしんばん》がいるな」
「いいえ。イソーラ・ベルラに向かって漕いでおいでなさい。それから、イソーラ・マドレ(「母の島」の意味)の向こう側で、風にのりなさい。風でパルランツァ(ミラノの西北四五マイル、マッジョーレ湖にのぞむ町)に着きます。あかりが見えます。そしたら。岸にそっておいでなさい」
「風が変わるかもしれないが」
「いいえ」と彼は言った。「この風は三日間はこんなふうに吹きます。モッテローネ山からまっすぐ吹きおろしてるんです。水を汲みだす罐《かん》がいれてありますよ」
「ボートの代金をすこし払わせてくれ」
「いや、こちらもいちかばちかやってみますよ。うまくいけば、できるだけ払ってください」
「いいよ」
「溺れるようなことはないと思います」
「そいつはありがたい」
「風にのって湖をおいでなさい」
「いいとも」ぼくはボートにのりこんだ。
「ホテルの代金をおいてきましたか?」
「ああ、封筒に入れて部屋においてきた」
「結構です。ご機嫌よう、|中尉どの《テネンテ》」
「ご機嫌よう。いろいろとありがとう」
「溺れたんじゃあ、ありがたくないですよ」
「あの人、なんて言って?」とキャサリンがたずねた。
「ご機嫌よう、と言ってるよ」
「ご機嫌よう」とキャサリンが言った。「ほんとにありがとう」
「いいですか?」
「ああ」
彼はかがみこんで、ボートを押しだした。ぼくはオールを水に突っこみ、それから、片手をふった。バーテンはそんなことをしてはいけないというふうに、手をふりかえした。ホテルのあかりを見ながら漕ぎ出し、あかりが見えなくなるまで、まっすぐ漕いで出た。波がひどく高かったが、ぼくたちは風にのって進んだ。
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第三十七章
ぼくは風を顔にうけたまま、暗やみのなかを漕いだ。雨はやんでいて、ただ、ときどき、にわか雨がさあっときた。ひどく暗く、風は冷たかった。船尾《とも》にキャサリンが見えたが、オールの水かきがつかっている水面は見えなかった。オールは長く、滑りどめの革がついていなかった。オールを引きよせ、もちあげ、前かがみになり、水を見、オールをつっこみ、引きよせ、できるだけらくに漕いだ。追い風なので、オールを抜いたとき、水かきを水平にしなかった。手にまめのできることはわかっていたが、できるだけそれは遅らせたかった。ボートは軽く、らくに漕げた。暗い湖面を漕いでいった。何も見えなかった。まもなく、パルランツァの沖にくるだろうと思った。
パルランツァはついに見えなかった。風が湖の向こうに吹きつけていて、暗やみでパルランツァをかくしている岬を通過したが、燈火は見えなかった。湖のずうっとさきの、岸の近くで、やっと燈火が見えたが、それはイントラ(マッジョーレ湖西岸の町)だった。だが、長いあいだ、ぼくたちはなんの光も見ずに、岸も見ないで、波にのって暗やみのなかを休みなく漕いだ。ときどき、波がボートをもちあげると、暗やみのなかで、オールは水を切りそこなった。波はすごく荒れていた。が、ぼくは漕ぎつづけた。と、急に岸に近づいて、すぐそばにそそりたっている岩の突端にぶつかりそうになった。波が岩にぶつかって、高くおどりあがっては、すうっとひいていた。ぼくは右のオールを力まかせに引き、反対のオールで逆に漕ぎ、また湖のなかに出た。突端は見えなくなり、ぼくたちは湖を進んでいった。
「湖を横ぎってるんだ」とぼくはキャサリンに言った。
「パルランツァが見えるはずじゃなかったかしら?」
「見そこなったんだ」
「あなた、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶだよ」
「しばらく、あたしがオールを漕ぎましょうか?」
「いや、だいじょうぶだ」
「おきのどくだわ、ファーガスン」とキャサリンが言った。「朝になって、ホテルに来て、あたしたちがいないのがわかるんですもの」
「そんなことよりも」とぼくは言った。「夜明けまえに、税関の監視員にみつからないうちに、スイス領の湖にはいれるかどうかということのほうが、心配だ」
「遠いの?」
「ここから三十キロちょっとだ」
ぼくは夜どおし漕いだ。とうとう、手の皮がひどくむけ、オールもつかめないくらいになった。なんどか岸に打ちあげられそうになった。湖で迷って、時間を無駄にするのを恐れ、岸のかなり近くを漕いでいったのだ。ときには、すごく岸に近づき、背後に山をひかえた岸にそって、道路や、立ちならんだ木立ちが見えた。雨はやみ、風は雲を追いやり、そのため、雲間から月がさし、ふりかえると、カスタニョーラの長い黒い岬と、白波をたてた湖と、その向こうに、高い雪の山々の上に月が見えた。それから雲がふたたび月にかかり、山々や湖が見えなくなったが、前よりはずっと明るく、岸が見えた。岸があんまりはっきり見えたので、パルランツァ街道ぞいに税関監視員がいても見つからないように、ボートを沖に漕ぎ出した。月がまた出ると、湖岸にそって山の斜面にある白い別荘が見え、木立ちをとおして白い街道が見えた。ぼくはずっと漕ぎつづけた。
湖の幅が広まり、湖をこえた向こう岸の山の麓に、あかりがちらほら見え、ルイーノだろうと思われた。向こう岸の山々のあいだに楔《くさび》のような裂けめが見え、ルイーノにちがいないと思われた。もしそうなら、調子よくいっているのだ。ぼくはオールを引きあげ、座席にあおむけになった。漕いで、くたくたに疲れたのだ。腕と肩と背中が痛み、手の皮がむけていた。
「傘をひろげてもってましょうか」とキャサリンが言った。「それに風をうけて進めるわ」
「きみは舵《かじ》がとれるかい?」
「とれると思うわ」
「このオールをもって、船腹につけ、腕の下にかかえて、舵をとってくれ、ぼくは傘をもつから」ぼくは船尾《とも》にいき、オールのもちかたを彼女に教えた。ぼくはボーイがくれた大きな傘をとりあげ、舳先《へさき》に向かってすわり、それをひろげた。それはぱらっと音をたてて開いた。ぼくはその両端をつかみ、座席に柄を引っかけ、それに跨《また》がってすわった。風は傘にいっぱいあたり、両端をできるだけしっかりつかんでいると、ボートが前方に吸いこまれていくように感じられた。傘は強く引っ張った。ボートはずんずん進んでいった。
「すてきに走るわ」とキャサリンが言った。ぼくの見えるものといえば傘の骨ばかりだった。傘は張りつめ、引っぱられ、それといっしょにぼくたちもずんずん進んでいくのが感じられた。ぼくは足をふんばり、傘をおさえていた。すると、きゅうに、それが曲がった。ぼくは傘の骨が一本、額の上でぽきんと折れるのを感じ、風に曲げられている傘の先をつかもうとした。と、全体が曲がり、裏返しになってしまったので、風をいっぱいはらんで引っぱっていた帆をつかんでいたはずなのに、ずたずたになって、裏返しになった傘に跨がるかっこうになった。ぼくは柄を座席からはずし、傘を舳先《へさき》におき、オールをとりにキャサリンのところへ行った。彼女は笑っていた。ぼくの手をとって、笑いつづけた。
「どうしたんだ?」ぼくはオールをとった。
「あんなものをもっていたから、あなた、すごくおかしかったわ」
「そうだろうよ」
「おこっちゃいやよ、あなた。すごくおかしかったんですもの。あなたが傘の端をつかんでると、二十フィートも幅があって、すごくやさしく見えたんですもの――」彼女は息がつまった。
「漕ごう」
「ひと休みして、一杯お飲みになって。すてきな夜だわ。それに、ずいぶん遠くへ来たわ」
「ボートを波のくぼみにはいらないようにしておかなきゃならないんだ」
「あたしが飲ませてあげるわ。それから、しばらくお休みなさいね」
ぼくはオールを立て、それに風をうけて進んだ。キャサリンは鞄をあけていた。彼女はブランデーの壜をぼくに渡した。ぼくはポケット・ナイフでその栓を抜き、ぐうっと一息、飲んだ。口あたりがよく、強くて、熱さがからだじゅうにまわり、暖かく、気持ちよくなった。「すばらしいブランデーだ」とぼくが言った。月はまた隠れたが、岸は見えた。前方の湖のなかにまた岬がずっと突き出しているように思われた。
「寒くないかい、キャット?」
「あたし、すてきだわ。すこしからだがこわばってるけど」
「水をかいだしてごらん、足を下にのばせるから」
それから、ぼくは漕ぎ、オール受けのきしむ音や、船尾《とも》の座席の下で罐を水につっこみ、かき集めては、かいだしている音に耳を傾けた。
「その罐をかしてくれないか」とぼくは言った。「水が飲みたいんだ」
「汚いわよ、すごく」
「かまわないよ。ゆすぐから」
キャサリンが船ばたでそれをゆすいでいるのがきこえた。それから、彼女がそれにいっぱい水をくんで、ぼくに渡した。ぼくはブランデーを飲んだあとなので、のどが渇いていた。水は氷のように冷たく、あまりに冷たいので、歯にしみた。ぼくは岸のほうを眺めた。長い岬に近づいていた。前方の入り江に燈火があった。
「ありがとう」とぼくが言って、ブリキ罐を返した。
「いいのよ」とキャサリンは言った。「もっとあってよ、よければ」
「なにか食べたくないかい?」
「いいえ、もすこししたら、おなかがすくわ。そのときまで、とっておくわ」
「うん」
前方の岬のように見えたのは、長くて高い出鼻だった。ぼくはそれを通過するために、湖のもっとなかのほうへ出た。湖は、こんどは、ずっと狭くなっていた。月がまた出て、税関監視員《ガルディア・ディ・フィナンツァ》が見はっていたら、湖上に黒いぼくたちのボートが見えたことだろう。
「気分はどう、キャット?」とぼくがたずねた。
「だいじょうぶよ。ここ、どこ?」
「あと八マイルはないと思うんだが」
「ずいぶん漕ぎでがあるわねえ、おきのどくだわ、あなた。疲れたでしょう、すごく?」
「いや、だいじょうぶ。手の皮がむけただけさ」
ぼくたちは湖を進んでいった。右岸に山の切れめがあり、低い水ぎわまでたいらにのびていた。カンノービオにちがいないと思った。ぼくは岸からずっと離れて漕いだ。それは、監視員《ガルディア》に会う危険がいちばん多いのはここからだったからだ。ずっと前方の反対の岸には円屋根をかぶったような高い山があった。ぼくは疲れた。漕ぐのに遠い距離ではなかったが、からだの調子が悪いと、遠いものだ。スイス領の湖面にはいるには、あの山を通過して、すくなくとも五マイルはさらに湖を行かなければならないことをぼくは知っていた。いま、月はほとんど沈んでいたが、沈みきる前に、空がふたたび曇り、とても暗くなった。ぼくは湖のなかへかなり出て、しばらく漕ぎ、それから休んで、オールを立て、風がその水かきに当たるようにした。
「あたしにしばらく漕がせて」とキャサリンが言った。
「きみはいけない」
「そんなばかなこと。からだにいいのよ。からだがあまりこわばらないですむのよ」
「やっちゃいけないんじゃないかな、キャット」
「そんなばかなこと。適度に漕ぐのは妊婦にはとてもいいのよ」
「よし。すこしだけ適度に漕いでごらん。ぼくがうしろにいくから。そしたら、きみこっちにおいで。こっちにくるときは、両方の舷によくつかまるんだぜ」
ぼくは上衣を着、襟を立てて、船尾《とも》にすわり、キャサリンの漕ぐのを見つめていた。彼女はとてもじょうずに漕いだが、オールが長すぎ、扱いかねていた。ぼくは鞄をあけ、サンドイッチを二つ三つ食べ、ブランデーをひと口飲んだ。気分がずっとよくなった。もうひと口飲んだ。
「疲れたら、そう言ってくれ」とぼくは言った。それから、すこしたって、「オールがおなかにぶつからないよう気をつけな」
「ぶつかったら」――とキャサリンは漕ぐ合い間に言った――「人生はずっと簡単でしょうけど」
ぼくはブランデーをもうひと口飲んだ。
「どうだい?」
「だいじょうぶよ」
「やめたくなったら、言ってくれ」
「わかったわ」
ぼくはブランデーをもうひと口飲み、それから、両側の舟べりをつかんで、前のほうに移っていった。
「いいのよ。あたし、うまくやってるから」
「船尾《とも》に帰りたまえ。ぼくはじゅうぶん休んだから」
しばらくは、ブランデーの勢いでぼくは、らくに、しっかり漕いだ。それから、漕ぎそこねて水をばしゃっとはねかえすようになり、まもなく、やたらにはげしく漕いだが、ブランデーのあとなので、あまり懸命に漕いだため、うすい、褐色の胆汁の味がした。
「水を一杯くれ」とぼくが言った。
「はい」
夜明けまえに、霧雨が降りだした。風が静まった。ことによると、湖の彎曲部に接している山々のために風がさえぎられたのかもしれない。夜が明けてくるのがわかると、ぼくは身をいれて、懸命に漕いだ。どこにいるのかわからなかったが、スイス領の湖面にはいりたいと思った。夜が明けはじめたとき、ぼくたちは岸のすぐ近くにいた。岩の多い岸と木立ちが見えた。
「あれ、なに?」とキャサリンが言った。ぼくはオールにもたれて、耳を傾けた。それは湖をぽっぽっとやってくるモーター・ボートだった。ぼくは岸の近くに漕ぎより、じっとしていた。ぽっぽっという音が近づいて来た。すると、すこし後方の雨のなかにモーター・ボートが見えた。四人の税関監視員《ガルディア・ディ・フィナンツァ》が船尾《とも》にいて、アルプス帽をまぶかにかぶり、肩マントの襟を立て、カービン銃を背中にしょっていた。朝、非常に早いので、みんな眠そうだった。帽子に黄色い線と、肩マントの襟に黄色いしるしが見えた。モーター・ボートはぽっぽっと進んで行き、雨のなかに消えた。
ぼくは湖の奥へ漕ぎ出した。そんなに国境に近づいているのなら、道路にいる歩哨《ほしょう》に呼びとめられたくなかった。岸がやっと見えるところまで出て、雨のなかを四十五分間、漕ぎつづけた。ふったび、モーター・ボートの音がきこえたが、エンジンの音が湖を渡って遠ざかるまで、じっとしていた。
「スイスに来たらしいな、キャット」とぼくが言った。
「ほんと?」
「スイスの軍隊を見るまでは、わかりようがないが」
「それとも、スイスの海軍ね」
「スイスの海軍だなんて、笑いごとじゃないよ。さっき聞こえた、あのモーター・ボートはたぶんスイスの海軍のだよ」
「スイスについたら、すてきな朝食をとりましょうよ。スイスには、すてきなロール・パンやバタやジャムがあるのよ」
もう、すっかり夜があけ、小ぬか雨が降っていた。風がまだ湖の向こうのほうに吹きつけ、白い波頭がぼくたちのところから湖の向こうに走っていくのが見えた。スイス領にはいっていることはたしかだった。岸から奥の木立ちのなかにたくさん家があり、岸をすこしあがったところに村落があり、石の家や、丘の上の別荘や、教会があった。ぼくは岸にそって走る道路を眺め、監視員をさがしたが、一人も見つからなかった。道路はいまでは岸のすぐ近くを通っていて、一人の兵隊がその道路に面したカフェから出てくるのが見えた。彼は、ドイツ兵のような灰色がかった緑色の軍服を着、鉄兜《てつかぶと》をかぶっていた。健康そうな顔つきで、歯ブラシのようなちょび髭をはやしていた。彼はぼくたちを見た。
「あいつに手を振ってみな」とぼくはキャサリンに言った。彼女が手を振ると、兵隊はまごついて微笑し、手を振った。ぼくは漕ぐ手をゆるめた。ぼくたちは村の湖岸通りにそって進んだ。
「国境のかなり内がわにはいっているにちがいない」とぼくが言った。
「たしかめたいわね。国境で追いかえされたくないから」
「国境はもうずっとうしろだ。これは税関のある町だろう。きっとブリッサーゴだ」
「イタリア人はいないかしら? 税関の町にはいつも両方の国の人がいるから」
「戦時にはいないよ。イタリア人に国境を越えさせないだろう」
それは眺めのいい小さな町だった。波止場には漁船がたくさんあり、網が網棚にひろげてあった。十一月の小ぬか雨が降っていたが、町は雨でも陽気で清潔にみえた。
「じゃあ、陸に上がって、朝食にしようか?」
「そうしましょう」
ぼくは左のオールを強く漕ぎよせ、岸が近づき、波止場に近くなるとオールを流して、ボートを横づけにした。オールをひっこめ、鉄の環をつかみ、濡れた石を足で踏みしめ、スイスにはいった。ボートを繋《つな》ぎ、キャサリンに手をさしだした。
「あがっておいで、キャット。すばらしい気分だ」
「鞄はどうしましょう?」
「ボートに残しておきな」
キャサリンは岸にあがった。ぼくたち二人はいっしょにスイスにきたのだ。
「きれいな国ね」と彼女が言った。
「すばらしいじゃないか?」
「朝食をとりにいきましょう!」
「すばらしい国じゃないか? 靴の下の感覚がいいよ」
「あたし、からだがこわばって、あまりいい気持ちじゃないわ。でも、すてきな国のような気がするわ。あなた、あたしたちがあのいやなところからぬけ出して、ここにきたって、身にしみて感じて?」
「そうだ。ほんとうに、そう感ずるよ。いままでに何も身にしみたことなんてなかったけど」
「あの家並みをごらんなさいよ。すてきな広場じゃない? 朝食のとれる場所があるわ」
「雨もすてきじゃないか? イタリアにはこんな雨はなかったよ。陽気な雨だ」
「それに、あたしたち、とうとう来たのね! あなた、あたしたちがここに来たこと、身にしみて感じて?」
ぼくたちはカフェのなかにはいり、清潔な木のテーブルについた。ばかげたくらい興奮していた。エプロンをかけた清潔な身なりの、すばらしい女がやってきて、ぼくたちに注文をきいた。
「ロール・パンと、ジャムと、コーヒー」とキャサリンが言った。
「すみませんが、戦時中で、ロール・パン、ございませんが」
「じゃあ、ふつうのパン」
「トーストにできますよ」
「そうしてちょうだい」
「ぼくはフライ・エッグもほしいな」
「旦那さまはフライ・エッグはいくつですか?」
「三つ」
「四つになさいよ、あなた」
「四つにしてくれ」
女は向こうへいった。ぼくはキャサリンにキスして、その手をぎゅっと握りしめた。たがいに顔を見あわせ、カフェのなかを見まわした。
「あなた、あなた、きれいじゃない?」
「すばらしいね」とぼくは言った。
「ロール・パンがなくたって、かまわないわ」とキャサリンが言った。「ひと晩じゅう、ロール・パンのこと考えていたのよ。でも、かまわないわ。ちっともかまわないわ」
「すぐに捕まるだろうな」
「気にしないでよ。まず、朝食をいただきましょうよ。朝食がすめば、捕まったってかまわないでしょう。捕まえたって、どうすることもできないわ。あたしたち、ちゃんとしたイギリス人とアメリカ人ですもの」
「きみは旅券をもっているだろう?」
「もちろんよ。さあ、そんなこと話すのよしましょう。たのしくしましょう」
「これ以上 たのしくなれないよ」とぼくは言った。羽毛のように尻尾を立てた、肥った灰色の猫が、床を横ぎってぼくたちのテーブルのところにきて、ぼくの脚にからだをこすりつけ、そのたびにのどをごろごろならした。ぼくは手を下にのばし、猫をなでた。キャサリンはとてもたのしそうにぼくにほほえんだ。
「コーヒーが来たわ」と彼女が言った。
朝食のあとで、ぼくたちは逮捕された。ぼくたちはその村をすこし散歩し、それから鞄をとりに波止場におりていったのだ。一人の兵隊がボートを監視して立っていた。
「これはあなたのボートかね」
「そうです」
「どこからきましたか?」
「湖の向こうから」
「では、ご同行を願わねばなりません」
「鞄はどうしますか?」
「お持ちになってよろしい」
ぼくは鞄をもち、キャサリンはぼくと並んで歩き、兵隊はぼくたちのあとについて歩き、古ぼけた税関にはいった。税関のなかで、ひどくやせた、いかにも軍人らしい中尉がぼくたちを訊問した。
「あなたがたの国籍は?」
「アメリカ人とイギリス人です」
「旅券を見せてください」
ぼくはぼくの旅券を彼に渡し、キャサリンはハンドバッグから彼女のを出した。
彼は、長いあいだ、それを調べた。
「なぜ、こんなふうにボートでスイスに入国したんだね?」
「ぼくはスポーツマンです」とぼくは言った。「ボートはぼくの大好きなスポーツです。機会あるたびに漕いでいるんです」
「なぜ、ここに来たのかね?」
「ウィンター・スポーツをやりにです。ぼくたちは旅行者で、ウィンター・スポーツをしようと思ってます」
「ここはウィンター・スポーツをやるところじゃないよ」
「知っております。ウィンター・スポーツのやれるところにいこうと思ってます」
「イタリアでは何をしてたのかね?」
「ぼくは建築を研究していました。従妹《いとこ》は美術を研究していました」
「なぜそこから来たのかね?」
「ウィンター・スポーツをしようと思ってるんです。戦争があるんじゃ、建築も研究できませんから」
「そのまま、待っていなさい」と中尉が言った。彼はぼくたちの旅券をもって建物のなかにはいっていった。
「あなた、すばらしいわ。その調子でやってね。あなたはウィンター・スポーツをやりたいのよ」
「きみは美術のことすこしは知ってるかい?」
「ルーベンス」とキャサリンが言った。
「大きな、肥った」とぼくが言った。
「ティティアーノ」とキャサリンが言った。
「ティティアーノふうの髪(ティティアーノは好んで金褐色の髪の婦人をえがいた)」とぼくが言った。「マンテーニャはどう?」
「むずかしいのはきかないで」とキャサリンが言った。「知ってることは知ってるわよ――ひどいわ」
「ひどいさ」とぼくは言った。「釘穴だらけだ」
(彼の描いたキリストの絵に言及したもの)
「ねえ、あたし、あなたのすてきな奥さんになるわ」とキャサリンが言った。「あなたのお客さまと美術の話ができるようになるわ」
「ああ、そのお客がやってきた」とぼくは言った。やせた中尉がぼくたちの旅券をもって、税関の向こうのほうからやってきた。
「あなたがたをロカルノ(スイスの東南部、マッジョーレ湖畔の小都市)まで送らなければならない」と彼が言った。「馬車でいってよろしいが、兵隊を一人ついていかせる」
「承知しました」とぼくが言った。「ボートはどうなりますか?」
「ボートは没収する。その鞄に何がはいっているかね?」
彼は二つの鞄をすっかり調べ、四分の一リットル入りのブランデーの壜をつまみあげた。「いっしょに飲みませんか?」とぼくはきいた。
「いや、ありがとう」彼はからだをまっすぐにした。「お金はいくらもってる?」
「二千五百リラ」
彼はいい印象をうけた。「あなたの従妹《いとこ》さんはいくらもってる?」
キャサリンは二千リラちょっともっていた。中尉は喜んだ。彼のぼくたちに対する態度がいくらか高慢でなくなった。
「ウィンター・スポーツにいかれるのなら」と彼が言った。「ヴェンゲン(ユングフラウ峰の山腹にある保養地、ウィンター・スポーツの中心地)だね。ぼくの父がヴェンゲンにとてもいいホテルをもっている。いつでも開いている」
「そいつはすばらしい」とぼくは言った。「名前を教えていただけますか?」
「名刺に書いてあげよう」彼はいとも鄭重にその名刺をぼくに渡した。
「この兵隊があなたがたをロカルノまでお連れする。この兵隊があなたがたの旅券をお預かりしている。遺憾だが、やむをえない。ロカルノで査証か警察の許可証がおりればよいと、思っておる」
彼はその兵隊に二通の旅券を渡し、ぼくたちは鞄をもって、馬車をやといに、村のほうへ行きかけた。「おい」と中尉が兵隊を呼びとめた。彼はドイツ語の方言でなにか兵隊に言った。兵隊はライフル銃を背にしょい、鞄をもちあげた。
「偉大な国だね」とぼくはキャサリンに言った。
「とても実際的ね」
「いろいろありがとうございました」とぼくは中尉に言った。彼は手を振った。
「任務なんだよ」と彼が言った。僕たちは護衛兵のあとについて村にいった。
ぼくたちは馬車でロカルノにいった。兵隊は馭者といっしょに前の席にすわっていた。ロカルノでは、ひどいめには会わなかった。訊問はされたが、ぼくたちが旅券と金を持っていたので、鄭重だった。こちらの話の一言でも信じてくれたとは思われなかったし、ぼく自身もばかげた話だと思ったが、それは法廷のようなものだった。筋の通ったことが必要なのではなく、実際的なことが必要で、それがあれば釈明などしないで、それにしがみつけばいいのだ。だが、ぼくたちは旅券があったし、金も使うだろう。それで、ぼくたちは仮査証をもらった。ただ、この査証はいつ取りあげられるかもしれなかった。いく先々の警察に届けることになっていた。
好きなところはどこへでもいけるんですか? いけます。さて、どこへいこうか。
「どこへいきたい、キャット?」
「モントルー(ジュネーヴ湖東端の保養地)よ」
「あそこはとてもいいところですよ」と役人が言った。
「あそこなら、きっとお気に召すと思いますね」
「このロカルノもとてもいいところですよ」ともう一人の役人が言った。「きっと、ロカルノがとてもお気に召すと思いますね。ロカルノはとても魅力的なところですから」
「ウィンター・スポーツのできるところがいいんです」
「モントルーにはウィンター・スポーツはありませんよ」
「失礼だが」ともう一人の役人が言った。「わたしはモントルーの出身です。モントルー・オーベルランド・ベルノワ鉄道の沿線では、たしかにウィンター・スポーツができる。きみがそれを否定するなんて間違いだ」
「ぼくは否定はしない。ただ、モントルーにはウィンター・スポーツがないと言ったんだ」
「それに異議がある」ともう一人の役人が言った。「その言明に異議がある」
「ぼくはその言明をまげないよ」
「ぼくはその言明に異議がある。このぼくがモントルーの街路へ、リュージュで滑っていったことがあるんだ。一度だけじゃなく、何度もやったんだ。リュージュはたしかにウィンター・スポーツだよ」
その役人はぼくのほうを向いた。
「リュージュをあなたはウィンター・スポーツとお考えですか? よろしいですか、このロカルノにいらっしゃれば、とても居心地がよろしいんですよ。気候が健康によく、環境が魅力のあることが、わかりますよ。とてもお気に召すでしょう」
「このおかたはモントルーにいかれたいとおっしゃってるんだよ」
「リュージュって、なんですか?」とぼくはたずねた。
「ほらね、このおかたはリュージュなんてお聞きになったこともないんだから!」
ぼくの質問は二番めの役人におおいに意味があったのだ。彼はそれで得意になった。
「リュージュというのは」と最初の役人が言った。「トボガン(板のまえをまげて手すりをつけた長いそり)すべりのことです」
「失礼だが、そうじゃない」ともう一人の役人が首をふった。「また異議を申し立てなければならない。トボガンはリュージュとはまるでちがう。トボガンはカナダで平らな薄い板でつくられる。リュージュは滑走部のついた普通の橇《そり》だ。正確なことがかんじんだ」
「トボガンすべりはできませんか?」
「もちろん、トボガンはできますよ」と最初の役人が言った。「トボガンならおおいにできますよ。すばらしいカナダ製のトボガンをモントルーで売ってますよ。オクス兄弟商会でトボガンを売っています。あそこは独特のトボガンを輸入しています」
二番めの役人はそっぽを向いた。「トボガンすべりは」と彼が言った。「特別の滑走路《ピスト》が必要です。まだモントルーの街路ではトボガンはできませんよ。ここでは、どこにお泊まりですか?」
「わかりません」とぼくが言った。「ブリッサーゴから馬車でやってきたばかりですから。馬車が外で待っているんです」
「モントルーにいかれて間違いありませんよ」と最初の役人が言った。「気候は気持ちよくて、すばらしいですから。ウィンター・スポーツに行かれるにも、遠くありませんよ」
「ほんとうにウィンター・スポーツをなさりたければ」と二番めの役人が言った。「エンガディーヌ峡谷(東部スイス、イン河の峡谷)かミュルレンにいかれるんですな。ウィンター・スポーツにモントルーにいくようになどとすすめるなら、抗議しなければなりませんよ」
「モントルーの上のレ・ザヴァンには、あらゆる種類のすばらしいウィンター・スポーツがあるよ」モントルーの擁護者は彼の同僚をにらみつけた。
「みなさん」とぼくは言った。「いかなければなりませんので、従妹がとても疲れておりまして。ためしに、モントルーにいってみます」
「それはおめでとう」と最初の役人がぼくの手を握った。
「ロカルノをお立ちになると、後悔なさると思いますがね」と二番めの役人が言った。「とにかく、モントルーの警察に届けてください」
「警察では不愉快なことはありませんよ」と最初の役人がぼくに保証した。「あそこの人はみんなきわめて丁寧《ていねい》で親切なことが、おわかりになりますよ」
「お二人とも、どうもありがとう」とぼくは言った。「あなたがたのご忠告、非常に感謝します」
「さようなら」とキャサリンが言った。「お二人ともどうもありがとうございました」
彼らは出口のところまでついてきて、ぼくたちにおじぎした。ロカルノの擁護者はいくらかよそよそしかった。ぼくたちは階段をおりて、馬車にのった。
「ひどいわね、あなた」とキャサリンが言った。「もっと早く逃げだせなかったかしら?」ぼくは役人の一人が推薦したホテルの名前を馭者に言った。彼は手綱をとりあげた。
「あなた、兵隊さんを忘れてるわ」キャサリンが言った。兵隊は馬車のそばに立っていた。ぼくは十リラ紙幣を彼にやった。「まだスイスの金をもっていないんで」とぼくが言った。彼は礼を言い、敬礼して、立ち去った。馬車が動き出し、ぼくたちはホテルへ向かった。
「どうしてモントルーをえらんだのかい?」とぼくはキャサリンにたずねた。「ほんとにそこへいきたいのかい?」
「まっさきに思いついたところなのよ」と彼女が言った。「悪いところじゃないわ。山の上に、どこかいいところが見つかるわよ」
「ねむい?」
「もうねむってるわ」
「ぐっすりねむれるからね。かわいそうなキャット、ひどい長い夜だったよ」
「あたし、すてきだったわ」とキャサリンが言った。「ことに、あなたが傘を帆にして走らせたときは」
「スイスにいるってこと、身にしみて感じるかね?」
「いいえ、目がさめて、ほんとじゃなくなるのかもしれないわ」
「ぼくもそうなんだ」
「ほんとうなのね、これ? あなたを見送りにミラノの駅《スタツィオーネ》に馬車を走らせてるんじゃないわね」
「そうじゃないと願うね」
「そんなことおっしゃらないで。ぎくっとするわ。ことによると、そこがわたしたちの行き先なのかもしれないわ」
「ぼくはすっかりグロッキーになって、わからなくなったよ」とぼくが言った。
「あなたの手を見せてちょうだい」
ぼくは手を出した。両方の手は豆がつぶれ、赤くむけていた。
「わきっ腹に穴なんかあいてないよ(キリストが十字架の上で、死後わき腹を突かれたことに言及している。ヨハネ伝、十九章)」とぼくが言った。
「罰当たりなこと、おっしゃらないで」
ぼくはひどく疲れ、頭のなかがぼんやりしていた。陽気な気分はすっかりなくなっていた。馬車は街路を走っていった。
「かわいそうな手」とキャサリンが言った。
「触らないでくれ」とぼくが言った。「まったく、いまどこにいるのか、わからないんだ。どこに行くんだね、馭者さん?」馭者は馬をとめた。
「ホテル・メトロポールでさあ。そこへおいでになるんじゃないんですか?」
「そこだ」とぼくは言った。「それでいいんだね、キャット?」
「それでいいのよ、あなた。あわてちゃ、だめよ。ぐっすりやすめば、あしたは、もう、グロッキーじゃなくなるわよ」
「かなりグロッキーなんだ」とぼくは言った。「きょうは、喜歌劇なんだ。きっと、腹がすいているんだろう」
「ただ、疲れてらっしゃるだけよ。すぐよくなるわ」馬車はホテルの前でとまった。だれかがぼくたちの鞄をとりに出てきた。
「気分はすっかりよくなった」とぼくが言った。ぼくたちは舗道におりたち、ホテルに向かった。
「すっかりよくなるわ、きっと。ただ疲れただけよ。長いこと、眠らなかったから」
「ともかく着いたね」
「ええ、ほんと」
ぼくたちは鞄をもったボーイのあとについて、ホテルにはいっていった。
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第五部
第三十八章
その秋、雪の降るのがひどくおそかった。ぼくたちは山腹の松林にある褐色の木造の家に住んでいた。夜になると、霜がおり、朝は、化粧台の上の二つの水さしの水に薄い氷がはっていた。ミセス・グッティンゲンが朝早く部屋にやってきて、窓をしめ、たけの高い磁器製のストーヴに火をたいた。松の薪《まき》がぱちぱち音をたてて燃えあがり、やがて、火がストーヴのなかでごうごう鳴る。ミセス・グッティンゲンが、部屋にふたたびはいってくるときは、大きな太い薪と湯のはいった水さしをもってくる。部屋が暖まると、彼女は朝食をもってくる。ベッドに起きあがり、朝食をたべていると、湖や、湖の向こうのフランスがわの山々が見えた。山頂には雪があり、湖は灰色がかった青い鋼《はがね》色をしていた。
外では、このシャレー(軒の突き出た建て方のスイスの田舎家)の前で、一本の道路が山へのぼっていた。車の跡のでこぼこが霜で鉄のように固くなり、道路は森を抜け、牧場のあるところまでしだいに山をぐるぐるのぼっていき、森のはずれの牧場の納屋や小舎からは、谷間が見わたせた。谷間は深く、谷底に渓流が流れ、湖にそそぎ、風が谷間を吹きわたると、岩のあいだに渓流の音がきこえた。
ときには、ぼくたちは道路をそれ、松林を抜ける小径を行った。森林の地面は歩くと柔らかく、霜がおりていても、道路のように、固くはなかった。だが、ぼくたちは道路の固さも気にならなかった。ぼくたちはブーツの底と踵《かかと》に鋲を打っていて、踵の鋲は凍った轍《わだち》にくいこみ、鋲を打ったブーツだと、道路を歩くのは気持ちよく、爽快《そうかい》だった。しかし、林のなかを歩くのはすばらしかった。
ぼくたちの住んでいた家の前で、山が湖ぞいの小さな平地に急勾配でくだっていた。家のポーチの日向《ひなた》にすわっていると、山腹をうねうねとくだってゆく道路や、低い山の斜面に段々になったぶどう畑が見え、ぶどうは冬のため、すべて枯れ、畑は石垣で区切られ、ぶどう畑の下には、湖岸ぞいの狭い平地に町の家々が見えた。湖には木の二本生えた島があり、その木は漁船の二枚の帆のように見えた。湖の向こうがわの山々は鋭く、けわしく、湖の向こうのはずれには、二つの山脈のあいだに、平らなローヌ渓谷の平地があった。そして、渓谷が上のほうで山脈に断ち切られるところに、|南の牙《ダン・デュ・ミディ》(スイスの山の名)があった。それは雪の高い山で、渓谷を見下ろしていたが、遠いので、影はささなかった。
太陽が輝くときには、ぼくたちはポーチで昼食をとったが、そのほかのときは、片隅に大きなストーヴのある、装飾のない板の壁の、二階の小さな部屋で食事をした。ぼくたちは町で本や雑誌を買ったり、『ホイル』(エドマンド・ホイルというイギリス人の書いた有名なトランプ遊びに関する本)を一部買って、二人で遊ぶいろいろなトランプのゲームを覚えた。ストーヴのある小さな部屋がぼくたちの居間だった。坐わり心地のよい椅子が二脚と、本や雑誌用のテーブルが一つあり、ぼくたちは食事のあとかたづけがすむと、食卓でトランプをした。グッティンゲン夫妻が階下に住み、夕方ときどき、二人の話し声がきこえたが、彼らも二人でとても幸福だった。主人は給仕頭をして、細君も同じホテルで女中として働いていたのだが、金をためて、ここを買ったのだった。むすこが一人いて、給仕頭になる勉強をして、チューリッヒのホテルにいた。階下にはパーラーがあり、ワインやビールを売っていて、ときどき、夕方など、外の道路に荷車がとまり、人々が戸口の上がり段をのぼってワインを飲みにパーラーにはいる足音がきこえた。
居間の外の廊下に薪の箱があり、ぼくはそこから薪をもってきて、火をたきつづけた。だが、ぼくたちはあまりおそくまで起きてはいなかった。ぼくは大きな寝室の暗闇のなかをベッドに行き、着物をぬぐと、窓をあけ、夜の闇と、冷たい星と、窓の下の松の木々を見、それから、できるだけ早く、ベッドにもぐりこんだ。空気がとても冷たく澄んでいて、窓の下には夜の闇があり、ベッドにはいっているのはすばらしかった。ぼくたちはぐっすり眠ったが、ぼくが夜なかに目をさませば、それはただひとつの原因からだということが、わかっていた。ぼくはキャサリンが目をさまさないように、そうっと羽根蒲団をかけなおし、それから、薄い掛け蒲団の軽さをいまさらのように感じ、ぬくぬくと、また眠りこんだのだった。戦争はどこかよその大学のフットボールの試合のようなはるか遠いものに思われた。だが、山岳地帯では雪がまだ降りそうにもないので、戦闘がまだ行なわれていることをぼくは新聞で知っていた。
ときどき、ぼくたちは山をおり、モントルーに歩いて行った。山をおりる小径があったが、けわしいので、ふつうは道路を歩いた。畑のあいだの幅の広い固い道路をおり、やがて、ぶどう畑の石垣のあいだに出、さらに、沿道の村々の家のあいだにおりていった。村は三つあって、シェルネとフォンタニヴァンと、それにもひとつあったが、名は忘れた。それから、道路を進んで、山腹の岩壁に突き出ている岩棚の上にある角ばった石造りの古い|やかた《シャトゥ》の前を通った。そこには、段々になったぶどう畑があり、どのぶどうの木も杭《くい》にむすびつけて支えてあって、褐色にひからび、大地は雪の仕度ができ、下のほうの湖は平らで、鋼鉄のような灰色だった。道路は|やかた《シャトゥ》の下の長い坂をおり、それから、右に曲がって、非常に急な砂利道になり、モントルーにはいっていた。
モントルーにはだれも知り合いがなかった。ぼくたちは湖畔を散歩し、白鳥や、近づくと飛びたって水面を見おろしながらかんだかい声で鳴く多くのカモメやアジサシを見た。湖の向こうのほうに小さな黒いカイツブリの群れがいて、水面にあとを残して泳いでいた。町では、本通りを歩き、店のショーウィンドーをのぞいた。大きなホテルがいくつもあったが、しまっていた。が、店はたいてい開いていて、ぼくたちを見るとおおいに歓迎した。いい美容院が一軒あり、キャサリンはそこへ髪を整えに行った。それを経営している婦人はとても快活で、モントルーでぼくたちの知っている唯一の人だった。キャサリンがそこにいるあいだ、ぼくはビヤホールに行き、ミュンヘンの黒ビールを飲み、新聞を読んだ。『コリエーレ・デルラ・セーラ』紙とパリから来るイギリスとアメリカの新聞を読んだ。広告はみんな黒く塗りつぶしてあった。おそらくそんなふうにして敵との連絡を防ぐためらしかった。新聞はつまらなかった。あらゆることが、あらゆるところで、とてもひどくなっていた。ぼくは黒ビールの重いジョッキを手にし、プレッツェル(棒状または、ねじ巻き状の一種のビスケットで、外がわに塩がついていてピールのつまみにする)をいれたつや出し紙の袋をあけて、片隅に深々と腰かけ、塩けがあってビールの味をよくするプレッツェルをたべ、悲惨な記事を読んだ。キャサリンがやって来るだろうと思っていたのだが、来ないので、ぼくは新聞をもとの新聞掛けに掛け、ビールの代金を払い、彼女をさがしに街路をいった。寒く、暗く、冬らしい日で、家々の石が冷たく見えた。キャサリンは、まだ美容院にいた。美容師が彼女の髪にウェーブをかけていた。ぼくは狭い待合室に腰かけ、ながめていた。ながめていると、興奮した。キャサリンがほほえみ、ぼくに話しかけたが、ぼくの声は興奮していたので、すこししゃがれていた。焼きごてが心地よくカチカチと音をたてた。キャサリンが三面鏡にうつって見えた。待合室のなかは心地よく、暖かだった。やがて、美容師がキャサリンの髪を仕上げると、キャサリンは鏡をのぞき、ピンを抜いたりさしたりして、髪をちょっとなおした。それから、立ちあがった。
「こんなに時間がかかって、ごめんなさい」
「|ご主人《ムッシュ》はすごく興味がおありでしたわ。そうじゃございません、|ご主人《ムッシュ》?」と美容師がほほえんだ。
「おもしろかった」とぼくは言った。
ぼくたちは外に出て、街路を歩いた。寒く、冬めいていて、風が吹いていた。「ねえ、きみ、ぼくはきみが大好きだ」とぼくは言った。
「あたしたち、たのしいじゃない?」とキャサリンが言った。「ねえ、どこかへ行って、お茶でなく、ビールを飲みましょうよ。キャサリン赤ちゃんに、ビールがとてもいいのよ。からだを小さくしておくから」
「幼いキャサリン赤ちゃんか」とぼくは言った。「あの怠け者か」
「とてもいい子よ」とキャサリンが言った。「ちっともめんどうなことないわ。お医者さんの話だと、ビールはあたしのからだにいいし、赤ちゃんを小さくしておくんですって」
「小さくしておいて、男の子だったら、たぶんその子は競馬の騎手になるんだろうね」
「この子がほんとうに生まれたら、あたしたち結婚しなくちゃいけないと思うわ」とキャサリンが言った。ぼくたちはビヤホールの片隅のテーブルについていた。外は暗くなりかけていた。まだ早かったが、暗い日で、夕暮れが早くやってきたのだ。
「いま結婚しよう」とぼくが言った。
「だめよ」とキャサリンが言った。「いまじゃあ、あまり恥ずかしいわ。目立ちすぎるんですもの。こんなかっこうで、人前に出て結婚するなんて、いやだわ」
「結婚しておけばよかったね」
「そのほうがよかったかもしれないわ。でも、いつ結婚できて、あなた?」
「わからない」
「あたし、ひとつだけわかるわ。こんな、けっこうな、お腹《なか》がおおきくて結婚してることが一目でわかるかっこうでは、結婚しないわ」
「きみはお腹のおおきな女には見えないよ」
「いいえ、そう見えるのよ、あなた。あの美容師が、はじめてのお子さまですか、ってきいたわ。あたし、嘘ついて、いいえ、男の子が二人と女の子が二人いますの、と言ったのよ」
「いつ結婚しようか?」
「からだがもとのように細くなったら、いつでもいいわ。なんてすてきな若夫婦だろうとみんなが思うような、すばらしい結婚式をしたいわ」
「心配じゃないかい?」
「あなた、あたし、心配することあって? あたしがいやな気持ちになったのはミラノで淫売婦みたいな気がしたときだけよ。それも、七分間ぐらいのものだったわ。それに、部屋の家具のせいだったのよ。いまはあなたのいい奥さんじゃなくって?」
「すばらしい奥さんだよ」
「じゃあ、あなた、あんまり形式にこだわらないで。もとのように細くなったらすぐ、結婚するわ」
「うん、いいよ」
「あたし、ビールもう一杯飲んでいいかしら? あたしの腰がいくらか狭いから、キャサリン赤ちゃんを小さくしておけたら、いちばんいいと、お医者さんに言われたの」
「ほかに何か言われた?」ぼくは心配だった。
「それだけよ。あたしの血圧はすばらしいのよ、あなた。あたしの血圧をとてもほめてらっしゃったわ」
「腰が狭すぎることについては何か言われた?」
「べつに。ぜんぜん、なんにも。スキーをしちゃいけないって」
「もちろん、そうさ」
「いままでにやったことがないなら、これから始めるには遅すぎるんですって。ころばなければ、スキーをしてもいいと、おっしゃったわ」
「親切でおもしろいことを言う人だね」
「ほんとうにいいかたよ。赤ん坊が生まれたら、およびしましょうよ」
「結婚したほうがいいかどうか、おききしたかい?」
「いいえ、あたしたち結婚してから四年になると言ったのよ。ねえ、あなた、あたし、結婚したら、アメリカ人になるのね。そして、アメリカの法律で結婚すれば、すぐにでも子供は嫡出《ちゃくしゅつ》の子とみとめられるのよ」
「どこでそんなこと調べたんだい?」
「図書館にあったニューヨーク『世界年鑑』でよ」
「きみはすばらしい」
「あたし、アメリカ人になれたら、うれしいわ。あたしたちアメリカに行くのね。そうでしょう、あなた? ナイアガラ瀑布が見たいわ」
「きみはすてきだ」
「ほかにも見たいものがあるけど、思い出せないの」
「家畜置き場かい?」
「いいえ。思い出せないの」
「ウールワース・ビルディング(ニューヨークに一九一一年に完成した、七九二フィート、五七階の建物。当時、パリのエッフェル塔をのぞけば、世界一の高い建造物だった)かい?」
「いいえ」
「グランド・キャニオン」
「いいえ。でも、あたし、それ見たいわ」
「なんだい?」
「ゴールデン・ゲイトよ! あれが、見たいの。ゴールデン・ゲイト、どこにあるの?」
「サンフランシスコだ」
「じゃあ、そこへ行きましょう。とにかく、サンフランシスコ、見たいわ」
「いいよ。そこへ行こう」
「さあ、山に帰りましょう。ねえ? エム・オー・ビー(モントルー・オーベルランド・ベルノア鉄道)に乗れるかしら?」
「五時ちょっとすぎに電車があるよ」
「それに乗りましょう」
「そうしよう。ぼくはもう一杯ビールを飲む」
街路を歩いて、駅に行く階段をあがっていこうと、外に出ると、ひどく寒かった。冷たい風がローヌ渓谷から吹きおろしていた。店のショーウィンドーに、あかりがつき、ぼくたちは急な石の階段をあがって上の街路に出、それから、もうひとつ階段をあがって駅にいった。電車が電燈を全部つけて、待っていた。発車時刻を示すダイヤルがあった。その時計の針は五時十分を指していた。ぼくは駅の時計を見た。五分すぎだった。ぼくたちが乗りこむと、運転手と車掌が駅の酒場から出てくるのが見えた。ぼくたちは腰をおろし、窓をあけた。電車はヒーターがついていて、むしあつかったが、新鮮な冷たい空気が窓からはいってきた。
「疲れたかい、キャット?」とぼくがきいた。
「いいえ。とてもいい気分よ」
「すぐおりるんだからね」
「乗りものは好き」と彼女が言った。「あたしのこと心配しないでね、あなた。気分はいいわ」
雪はクリスマスの三日前まで降らなかった。ある朝、目をさますと、雪が降っていた。ぼくたちはストーヴに火をごうごうたいて、ベッドにはいったまま、雪の降るのを見つめていた。ミセス・グッティンゲンが朝食の皿を片づけ、ストーヴに薪をつぎたした。はげしい吹雪《ふぶき》だった。真夜中ごろ降りだしたのだと彼女が言った。ぼくは窓べに行き、外を見たが、道路の向こうは見えなかった。はげしい吹雪だった。ぼくはベッドにもどり、二人で横になり、話した。
「スキーができるといいんだけど」とキャサリンが言った。「スキーができないなんて、つまらないわ」
「二連橇《ボップスレッド》を手に入れて、道路を滑りおりよう。あれなら車に乗るとおんなじで、きみのからだに悪くはないから」
「動揺がはげしくないかしら?」
「やってみればわかるさ」
「あんまり動揺がはげしくなければ、いいんだけど」
「しばらくしたら、雪のなかを散歩しよう」
「昼食の前にね」とキャサリンが言った。「食欲がつくように」
「ぼくはいつも腹がすいてるぜ」
「あたしもよ」
ぼくたちは雪のなかに出ていったが、吹雪いていたので、遠くへは行けなかった。ぼくが先に立って、駅まで足跡をつけながらおりたが、そこに着いてみると、そこへ着くのもせいいっぱいだった。吹雪いていて、ほとんど先が見えなかった。駅のそばの小さな居酒屋にはいり、たがいに箒《ほうき》で雪を払いおとし、ベンチに腰かけて、ベルモットを飲んだ。
「ひどい吹雪ですね」と酒場《バー》の女が言った。
「うん」
「ことしは雪がとてもおそかったんですよ」
「うん」
「チョコレート・バー、いただいていい?」とキャサリンがたずねた。「それとも、お昼に近すぎるかしら? あたし、しょっちゅうお腹がすいてるの」
「いいよ、たべて」とぼくが言った。
「ハシバミのはいったのをいただくわ」とキャサリンが言った。
「とてもおいしいですよ」と女が言った。「わたしはそれがいちばん好きですよ」
「もう一杯ベルモットをもらおう」とぼくは言った。
外に出て、道路を戻って行こうとすると、ぼくたちのつくった足跡は雪に埋まっていた。穴のあいていたところが、かすかにわかるだけだった。雪が顔に吹きつけ、目をあけていられないほどだった。雪を払いおとして、家にはいり、昼食をとった。グッティンゲン氏が昼食の給仕をしてくれた。
「あしたは、スキーができますよ」と彼が言った。「スキー、なさいますか、ヘンリーさん?」
「いや。でも、習いたいですね」
「すぐおぼえられますよ。子供がクリスマスに来ますから、お教えしますよ」
「そいつはすばらしい。いつおいでですか?」
「あすの晩です」
昼食ののち、小さな部屋のストーヴのそばにすわって、窓から雪の降るのをながめていると、キャサリンが言った。「あなた、ひとりでどこかへ旅行にいって、ほかのひとたちと、スキーしたくない?」
「いや。どうして?」
「あたし以外の人に会いたいだろうと、ときどき思うのよ」
「きみはほかの人に会いたい?」
「いいえ」
「ぼくだってそうだ」
「そうね。でも、あなたはちがうわ。あたしは子供を生むんだから、何もしなくても満足しててよ。あたし、このごろ、すごくおばかさんで、おしゃべりだってこと、わかってるわ。それで、あたしにあきないように、どこかへいらっしゃったほうがいいと思うのよ」
「ぼくにどこかへ行かせたいのかい?」
「いいえ、あたしはあなたにいてほしいわ」
「ぼくはいるつもりなんだ」
「こっちへいらっしゃって」と彼女が言った。「あなたの頭の瘤《こぶ》にさわりたいの。大きな瘤だこと」彼女は指でそれをなでた。「あなた、髭《ひげ》をはやしたい?」
「はやしてほしいのかい?」
「おもしろいかもしれないわ。あなたが髭をはやしてるのを見たいわ」
「いいよ。はやすよ。いま、たったいまから、はじめるよ。いい考えだよ。ぼくにも、なにかすることができたわけだから」
「なんにもすることがなくて、困ってらっしゃる?」
「いや、なんにもしないの、いいよ。たのしんでるんだよ。きみは?」
「あたしはすばらしい生活をしてるわ。でも、あたし、こんなに大きなお腹《なか》をしているから、うんざりなさってるんじゃないかと思うの」
「ああ、キャット。ぼくがどんなにきみに夢中なのか、きみにはわからないんだね」
「こんなかっこうなのに?」
「いまのままのきみにだ。ぼくは生活をたのしんでるんだ。すばらしい生活じゃないか?」
「そうよ。でも、あなたが落ちつかないんじゃないかと思ったの」
「ちがうよ。ときには、前線のことや、知ってる人たちのことを考えるが、気にしちゃいないよ。ぼくはどんなことも、あんまり考えないんだ」
「どんな人のことをお考えになるの?」
「リナルディや、司祭や、知り合いのおおぜいの人のことさ。でも、あいつたちのことはあんまり考えないんだ。戦争のことは考えたくないんだ。戦争とは手を切ったんだ」
「いま、何を考えてるの?」
「なんにも」
「いいえ、考えてるわ。おっしゃって」
「リナルディが梅毒にかかってるかどうか考えていたんだ」
「それだけ?」
「そうだよ」
「あのかた、梅毒?」
「わからない」
「あなたが梅毒でなくってよかったわ。あなた、そんな病気になったことあって?」
「淋病をやったよ」
「そんなこと聞きたくないわ。すごく痛かった?」
「すごくね」
「あたしもそれにかかったらよかったと思うわ」
「いや、いけないよ」
「ほんとうにそう思うのよ。あなたのようになるために、それにかかったらよかったと思うわ。あなたの女友だちの全部のかたといっしょにいればよかったと思うわ。そうすれば、あなたにその女の人たちのことをからかってあげられるんですもの」
「そいつはきれいな絵だね」
「あなたが淋病にかかっているなんて、きれいな絵じゃないわ」
「わかってるよ。ほら、雪を見てごらん」
「あなたを見てるほうがいいわ。あなた、なぜ、髪をのばさないの?」
「どんなふうにだい?」
「もすこし長くのばすのよ」
「これでじゅうぶん長いぜ」
「いいえ、もすこし長くのばしてよ。あたしはあたしの髪を切るの。そうすると、あたしたちすっかり同じになるわ、ただ一人が金髪で一人が黒髪だけど」
「きみの髪は切らせないよ」
「おもしろいじゃない。あたし、この髪にあきちゃったの。夜、ベッドのなかで、すごく邪魔なんですもの」
「ぼくは好きだな」
「短くしたら、いや?」
「いやじゃないかもしれない。そのままが好きだな」
「短いと、いいかもしれなくてよ。そうすると、あたしたち同じようになれるんですもの。ねえ、あなた、あたし、あなたをほしくて、ほしくて、自分があなたになってしまいたいくらいよ」
「そうなっているよ。ぼくたちは一心同体さ」
「わかってるわ。夜はそうよ」
「夜はすばらしいね」
「あたしたちすっかりとけあってしまいたいわ。あなたに行ってもらいたくないの。さっきそう言ったばかりでしょう。行きたければ、行っていいわ。でも、いそいで帰ってきてね。まあ、あなた、あなたがいらっしゃらないと、あたし、ちっとも生きてる気がしなくてよ」
「行きゃしないよ」とぼくが言った。「きみがそこにいないと、ぼくはだめなんだ。もう、ぼくは生活なんていうものは、まったく、持っていないんだ」
「あなたに生活を持っていただきたいわ。いい生活を持っていただきたいわ。でも、あたしたち、いっしょにそれを持つわね」
「で、ぼくに髭をはやすのをやめてほしいのかい、それとも、はやすのかい?」
「そのままにしといて。はやしてね。すてきよ。きっと、お正月までには揃うわ」
「さて、チェスをしようか?」
「それより、あなたとお遊びしたいわ」
「いや。チェスをしよう」
「おわったら、お遊びする?」
「うん」
「じゃあ、いいわ」
ぼくはチェスの盤をもちだし、駒を並べた。外ではまだ雪がはげしく降っていた。
ふと、夜なかに目がさめて、キャサリンも目をさましているのに気がついた。月光が窓からさしこみ、ベッドの上に窓ガラスの枠の影がおちていた。
「おきてらっしゃる、あなた?」
「うん。眠れないのかい?」
「あたし、いま目がさめて、はじめてお会いしたとき、あたし、気が変だったことを思いだしていたのよ。おぼえてて?」
「きみはすこしばかり変だったよ」
「もうあんなふうにはならないわ。いまはもう、あたし、すばらしいわ。すばらしいって、やさしくおっしゃってよ。すばらしいって、おっしゃって」
「すばらしいよ」
「まあ、あなた、やさしいわ。それに、あたし、もう気が変じゃないのよ。ただ、すごく、幸福なのよ、すごく」
「おやすみ」とぼくが言った。
「いいわ。ぴったり同じ時に、いっしょに眠りましょうよ」
「いいよ」
だが、そうはいかなかった。ぼくはかなり長いあいだ目をさまし、いろいろなことを考え、顔に月の光をうけて眠っているキャサリンをじっと見ていた。それからぼくも眠りについた。
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第三十九章
一月の中ごろには、ぼくの髭は生えそろい、冬の天候も定まって、日中は晴れて寒く、夜はきびしく寒かった。ぼくたちはまた道路を歩くことができた。乾し草をつんだ橇《そり》や、薪の橇や、山から運び出された丸太のために、雪は固くなめらかになっていた。雪はあたり一面を、ほとんどモントルーまで、おおっていた。湖の向こう岸の山々はすっかり白く、ローヌ渓谷の平地も雪でおおわれていた。ぼくたちは山の向こうがわを、バン・ド・ラリアスまで、ずうっと歩いていった。キャサリンは鋲をうったブーツをはき、ケープをかけ、先にとがった鋼鉄をつけたステッキをもっていた。彼女はケープを着ていると、お腹《なか》も目立たなかった。ぼくたちはたいして急がなかった。彼女が疲れると、立ちどまって道ばたの丸太に腰をおろした。
バン・ド・ラリアスの林のなかに、樵夫《きこり》が一杯飲みに立ちよる居酒屋があって、ぼくたちはそこにはいって腰かけ、ストーヴにあたたまって、香料とレモンのはいった熱い赤ワインを飲んだ。グリューヴァイン(熱くかんをしたワイン)と呼ばれている酒で、からだを暖めたり、祝盃をあげるのによかった。居酒屋のなかは暗く、すすけていた。外に出て息を吸うと、冷たい空気が鋭く肺にしみこみ、鼻の先の感覚がなくなった。ふりかえると、居酒屋の窓から光がもれ、外では樵夫の馬が暖をとろうと足を踏みならし、首をさかんにふっているのが見えた。馬の鼻面の毛に霜がかかっていて、息を吐くと、空中に霜が羽毛のように飛びちった。家のほうに向かって帰りかけると、道路はしばらくのあいだ、なだらかに滑りやすくなっていて、薪を運ぶ小径がわかれるところまでは、凍った雪が馬の小便でオレンジ色になっていた。それから、道路はきれいに雪がつもり、森を抜けていて、夕がた、家に帰ってくるとき、二度、狐を見かけた。
気持ちのいい地方で、出かけるたびに、おもしろかった。
「もうすてきな髭になったわね」とキャサリンが言った。「樵夫みたいだわ。あなた、小さな金のイヤリングをつけた人に気がついて?」
「あれはカモシカ狩りの猟師だよ」とぼくが言った。「あれをつけているのは、ああしてるとよくきこえると思ってなんだ」
「ほんと? 信じられないわ。自分たちがカモシカ狩りの猟師だということを示すためにつけてるんだと思うわ。このへんにカモシカいるの?」
「ああ、ダン・デュ・ジャマンの向こうにね」
「狐、おもしろかったわね」
「狐は眠るとき、寒さを防ぐため、あのしっぽをからだに巻きつけるんだよ」
「すてきな感じでしょうね」
「ぼくは、いつも、あんなしっぽがあるといいと思ってたよ。ぼくたち狐のようにしっぽがあったらおもしろいだろうね?」
「服を着るのがめんどうくさくなるわ」
「それに合うような服をつくらせるか、それとも、服なんかどうでもいい国に住むんだね」
「そのどうでもいい国にあたしたち住んでいるのよ。だれにも会わないなんて、すばらしいじゃない? あなた、だれにも会いたくないでしょう?」
「うん」
「ちょっとここに腰かけないこと? すこし疲れちゃったわ」
ぼくたちはよりそって丸太に腰をおろした。前方で、道路は森を通ってくだりになっていた。
「この子、あたしたちのあいだを裂きゃしないわ、ねえ? この腕白さん」
「いや、そんなことはさせないよ」
「お金はだいじょうぶ?」
「たくさんあるよ。このあいだの一覧払いの手形、支払ってくれたよ」
「あなたのおうちのかた、あなたがスイスにいることがわかったから、あなたをつれもどそうとしないかしら?」
「そうかもしれない。なんとかうまく手紙に書いてやろう」
「手紙、出さなかったの?」
「いや。一覧払いの手形のことだけだ」
「あたし、あなたのおうちのかたでなくってよかったわ」
「電報を打っておくよ」
「おうちのかたのこと、どうでもいいの?」
「そんなことないさ。だけど、ひどく大喧嘩をしちゃって、それどころじゃなくなったんだ」
「おうちのかた、あたし、好きになると思うわ。きっととても好きになってよ」
「家の者の話はよそう。また気になってくるから」しばらくたって、ぼくは言った。「疲れがなおったら出かけよう」
「なおったわ」
ぼくたちは道路をおりていった。もう暗く、雪がブーツの下できしんだ。夜は乾いて、寒く、とても澄んでいた。
「あなたの髭、大好き」とキャサリンが言った。「大成功だわ。いかにもこわばっていて、すごそうに見えて、じつは、とても柔らかくて、とても気持ちいいわ」
「このほうが好きかい、髭がないより?」
「そうよ。ねえ、あなた、あたし、赤ちゃんのキャサリンが生まれるまで、髪を切らないわ。いまは、目立ちすぎて、いかにも結婚しているといわんばかりよ。でも、赤ちゃんが生まれて、また細くなれば、あたし髪を切るわ。そうすれば、すてきな、ちがった女になってあげられてよ。いっしょに行って髪を切ってもらいましょうよ。それとも、一人で行って来て、あなたを驚かそうかしら」
ぼくは何も言わなかった。
「いけないって、おっしゃるんじゃないでしょう、ねえ?」
「言わないさ。すてきだろうと思うな」
「まあ、あなた、とてもいいかたね。きっと、あたし、きれいに見えてよ、あなた。それに、すごくすらっとして、あなたの心をわくわくさせ、あなたはまたはじめっからあたしと恋愛するわよ」
「ちぇっ」とぼくは言った。「いまでも、こんなに愛してるんだぜ。どうしようってんだい? ぼくを破滅させるのかい?」
「そうよ。あなたを破滅させたいのよ」
「いいよ」とぼくは言った。「ぼくもそれを望んでるんだ」
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第四十章
ぼくたちはすばらしい生活を送った。一月と二月の月もすぎ、その冬はまことにすばらしく、ぼくたちは幸福だった。暖かい風が吹くと、わずかだが雪どけになり、雪が柔らかくなり、大気が春らしい感じになったが、いつも澄んだきびしい寒さがぶりかえして、冬に逆もどりした。三月になって、はじめて冬がとぎれた。夜になって雨が降りだした。つぎの朝も、ずうっと降りつづいて、雪をとかし、山腹を目もあてられなくした。湖や渓谷には雲がたれこめていた。山の上のほうにも雨がふっていた。キャサリンは重いオーヴァーシューズをはき、ぼくはグッティンゲン氏のゴム長靴をはき、雪どけのぬかるみや、道路の氷を洗い流している水の流れをうまくかわし、相合い傘で、駅まで歩いて行き、居酒屋で昼食前のベルモットを飲んだ。外には雨の音がきこえた。
「町に引っ越さなきゃいけないかね?」
「あなた、どうお思いになって?」とキャサリンがたずねた。
「冬が終わって、雨が降りつづくんじゃ、こんな山にいてもおもしろくないだろう。赤ん坊のキャサリンが生まれるまで、どのくらいあるんだい?」
「一ヵ月ほどよ。ひょっとすると、もすこしあるわ」
「山をおりて、モントルーに行ってもいいね」
「ローザンヌ(モントルーから一六マイル東方、ジュネーヴ湖の北がわの中ほどにある都市)に行ったらどうかしら? あそこに病院があるわ」
「そうだね。あの町は大きすぎるかもしれないと思ったんだが」
「大きな町でも、やはり二人きりでいられるし、ローザンヌはすてきかもしれないわ」
「いつ行こうか?」
「いつでもいいわ。あなたのお好きなとき、いつでもいいわ。あなたがいやなら、あたしもここを離れたくないけど」
「天候がどうなるか様子を見てみよう」
三日間、雨が降った。駅の下の山腹では、雪はもうすっかりなくなっていた。道路はどろどろの雪どけ水の奔流だった。雨と雪どけがひどいので、外に出られなかった。雨の三日めの朝、ぼくたちは町へおりていく決心をした。
「かまいませんよ、ヘンリーさん」とグッティンゲンが言った。「まえもってお知らせくださる必要はないんです。天候の悪い時期になりましたから、ご滞在なさるとは思ってませんでしたよ」
「妻の都合で、とにかく、病院の近くにいなければなりませんので」とぼくは言った。
「わかりますとも」と彼は言った。「そのうち、おもどりになってご滞在くださいますね、お子さまとごいっしょに?」
「ああ、部屋があいてたら」
「春になって、いい気候になりましたら、おいでになって、おたのしみください。お子さまとばあやさんは、いましまっている大きな部屋にして、あなたと奥さまは湖水を見おろすいまのお部屋をお使いになれます」
「来るときは手紙でお知らせしますよ」とぼくは言った。ぼくたちは荷造りして、昼食後、山をくだる電車で出発した。グッティンゲン夫妻が駅までいっしょにおりてきてくれたが、主人はぼくたちの荷物を橇にのせ、ぬかるみのなかを運んでくれた。夫妻は雨のなかを駅のそばに立って別れの挨拶に手をふった。
「すごくいい人たちね」とキャサリンが言った。
「とてもよくしてくれたね」
ぼくたちはモントルーからローザンヌ行きの列車にのった。窓からぼくたちの住んでいたほうを見たが、山は雲のために見えなかった。列車はヴェヴェイ(ジュネーヴ湖畔の保養地)で停車し、それから、どんどん走って、片がわに湖を、片がわに濡れた褐色の田野とはだかの林と濡れた家々を通り過ごした。ぼくたちはローザンヌに着き、中ぐらいの大きさのホテルに滞在しようと、はいっていった。街路を馬車で走り、ホテルの車寄せを行くあいだ、雨はまだ降っていた。真鍮《しんちゅう》の鍵束を上衣の襟の折り返しにつけた門衛、エレベーター、床の絨毯《じゅうたん》と光った取りつけ具のついている真っ白な洗面器、真鍮のベッドと広々とした気持ちのいい寝室、すべて、グッティンゲンの家のあとでは、とてもすばらしい贅沢に思われた。部屋の窓は、鉄柵が上についている塀のある濡れた庭園に面していた。急坂の街路の向こうにも、同じような庭園と塀のあるホテルがあった。ぼくは外の庭園の泉水に降りそそいでいる雨をながめた。
キャサリンは電燈を全部つけて、荷をときはじめた。ぼくはウィスキー・ソーダを注文して、ベッドに横になり、駅で買った新聞を読んだ。一九一八年の三月で、ドイツ軍の攻撃がフランスではじまっていた。ぼくはウィスキー・ソーダを飲みながら、読んだ。キャサリンは荷をとき、部屋を動きまわった。
「ご存じでしょう、あたしのそろえなければならないもの」と彼女が言った。
「なんだい?」
「赤ちゃんの着物よ。こんなにまでなって赤ちゃんのものをそろえてない人なんて、めったにいないわ」
「買えばいいじゃないか?」
「そうね、あした、買うわ。必要なものを調べておくわ」
「きみは知ってるはずだがな、看護婦だったんだもの」
「でも、病院で赤ちゃんをこしらえる兵隊さんなんて、めったになかったわ」
「ぼくはこしらえたぜ」
彼女はぼくを枕でぶって、ウィスキー・ソーダをこぼした。
「もう一杯もってこさせるわ」と彼女が言った。「ごめんなさいね。こぼしちゃって」
「あまり残ってなかったんだよ。ベッドへおいで」
「いや。あたし、この部屋をなんとかお部屋らしくしてみなくちゃあ」
「部屋らしくって?」
「あたしたちのお部屋らしくよ」
「連合国の旗でもかけるんだね」
「まあ、やめて」
「もう一度いってごらん」
「やめて」
「ずいぶんおずおずと言うんだな」とぼくが言った。「だれかの機嫌をそこねたくないみたいだな」
「そりゃあ、そうよ」
「じゃあ、ベッドにおいで」
「いいわ」彼女はベッドに来て、腰をおろした。「あたしなんか、あなたにはちっともおもしろくないでしょう。大きな小麦粉の樽《たる》みたいなんですもの」
「いや、ちがう。きみはきれいで、かわいい」
「あたし、あなたと結婚したと思ったら、すぐ、こんなにひどくぶかっこうになっちゃったのよ」
「いや、そんなことない。きみはいつも、ますますきれいになる」
「でも、あたし、また細くなるわ」
「いまでも、細いよ」
「あなた酔ってるんだわ」
「ウィスキー・ソーダだけだ」
「もう一杯、来るわ」と彼女が言った。「あとで、夕食をここへもってこさせる?」
「それがいい」
「じゃあ、外出しないでいましょう、ね? 今晩はここにいましょうよ」
「そして、遊ぼう」とぼくは言った。
「あたしワインを飲むわ」とキャサリンが言った。「からだに悪くはないわ。たぶん、いつもの白カプリがあるわよ」
「あるとも」とぼくが言った。「このくらいのホテルなら、イタリアのワインはあるだろう」
ボーイがドアをノックした。氷のはいったグラスにウィスキーを入れて、盆にのせ、その傍にソーダの小壜《こびん》をのせていた。
「ありがとう」とぼくが言った。「そこにおいてくれ。ディナーを二人前と、氷に入れた辛《から》口の白カプリを二本、もってきてくれ」
「ディナーはスープからおはじめになりますか?」
「スープほしいかい、キャット?」
「ええ」
「スープは一人まえ」
「かしこまりました」彼は外に出て、ドアをしめた。ぼくは新聞に、そして、新聞のなかの戦争にもどっていき、ソーダをゆっくり氷の上からウィスキーにそそいだ。ウィスキーに氷を入れないように言うべきだろう。氷を別にしてもってこさせよう。そうすれば、ウィスキーがどれだけあるかもわかり、ソーダのために急に薄くなりすぎることもないだろう。ウィスキーを一本とりよせ、そして、氷とソーダをもってこさせよう。それが分別のある方法だ。よいウィスキーはとてもたのしいものだ。人生のたのしみのひとつだ。
「何を考えてるの、あなた?」
「ウィスキーのことさ」
「ウィスキーのどんなこと?」
「とてもすてきだってことさ」
キャサリンは顔をしかめた。「いいわ」と彼女が言った。
ぼくたちはそのホテルに三週間滞在した。そこは悪くはなかった。食堂はたいてい、すいていたが、夜は、しばしば、自分たちの部屋で食事をした。町を散歩してウシー(ジュネーヴ湖に面するローザンヌの港)まで歯車《アブト》式鉄道で行き、湖畔を散歩した。気候はまったく暖かく、春のようだった。山にもどりたいと思ったが、春の気候は二、三日つづいただけで、すぐ冬の名残りの身を切るような寒さがまたやってきた。
キャサリンは赤ん坊に必要な品物を町で買った。ぼくはアーケードーのジムに行って、運動のためにボクシングをした。朝、キャサリンがおそくまでベッドに寝ているあいだ、いつもジムに行った。春めいた日には、ボクシングをして、シャワーを浴びてから、あたりに春の香りのする街路を歩いて、カフェに立ち寄り、腰をおろして、人々をながめ、新聞を読み、ベルモットを飲み、それから、ホテルに行き、キャサリンと昼食を食べたが、それはじつにすてきだった。ボクシングのジムの教師は口髭をはやし、ひどく動きが正確で、身体をひょこひょこ動かし、攻められると、すっかりくたくたになってしまった。だが、ジムはたのしかった。空気もよく、明るく、ぼくは繩とびをやったり、シャドー・ボクシングをやったり、開いた窓からさす日の光を浴びて床にねころんで腹筋運動をしたり、ときには、ボクシングで教師をおびやかしたりして、とても熱心にやった。最初は狭い長い鏡の前ではシャドー・ボクシングができなかった。髭をはやした男がボクシングをしているのを見るのはとても奇妙に思われたからだ。だが、しまいには、それもおもしろいと思うようになった。ぼくはボクシングをはじめると、まもなく、髭をそりおとしたくなったが、キャサリンが許さなかった。
ときどきキャサリンとぼくは馬車に乗って、田舎に出ていった。天気のいい日には、馬車に乗るのはすばらしく、ぼくたちは馬車に乗って食事に行けるいい場所を二つ見つけた。キャサリンはいまではあまり遠くまで歩けなかった。ぼくは彼女をつれて田舎道を馬車で乗りまわすのが好きだった。いい日よりだと、すばらしくたのしく、つまらない時などけっしてなかった。もう赤ん坊の生まれるのもさし迫っていることがわかっていたので、二人とも何かにせきたてられているような感じがし、いっしょの時間はすこしも無駄にできなかった。
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第四十一章
ある朝、三時ごろ、ぼくはキャサリンがベッドで動いているのをききつけ、目をさました。
「だいじょうぶかい、キャット?」
「さっきからすこし痛んでるのよ」
「規則的にかい?」
「いいえ、それほどでもないんだけど」
「すこしでも規則的に痛むようなら、病院へ行こう」
ぼくはすごく眠く、ふたたび寝こんだ。しばらくたって、また目をさました。
「お医者さんを呼んでくださらない」とキャサリンが言った。「どうも、そうらしいわ」
ぼくは電話口にいって、医者を呼びだした。「どのくらい間をおいて痛みますか?」と医者がきいた。
「どのくらい間をおいて痛むんだい、キャット?」
「十五分おきぐらいだと思うんだけど」
「じゃあ、病院においでください」と医者が言った。「わたしも身仕度して、すぐにまいります」
ぼくは電話を切り、それから、タクシーをよこしてもらおうと、駅の近くのガレージに電話をかけた。長いあいだだれも電話に出なかった。それから、やっと、男が出て、すぐにタクシーをまわすと約束してくれた。キャサリンは身仕度をととのえていた。彼女の鞄は病院で必要なものや、赤ん坊のもので、ぎっしりつまっていた。廊下に出て、ぼくはベルを押して、エレベーターを呼んだ。まったく答えがなかった。ぼくは階段をおりていった。階下には夜警のほかにはだれもいなかった。ぼくは自分でエレベーターを動かし、上に着くと、キャサリンの鞄をいれ、彼女をのせて、おりた。夜警はぼくたちのためにドアをあけ、ぼくたちは外の車寄せにおりる階段のそばの石の厚い板にすわり、タクシーを待った。夜空は澄みわたり、星が出ていた。キャサリンはすごく興奮していた。
「はじまって、すごくうれしいわ」と彼女が言った。「これでしばらくすれば、すっかりすんでしまうのよ」
「きみはなかなかしっかりしているね」
「あたし、こわくないわ。でも、早くタクシーがくればいいのにね」
街路をやってくる音がきこえ、ヘッドライトが見えた。車寄せに折れてはいってきた。ぼくはキャサリンに手をかして乗せ、運転手は鞄を助手席に入れた。
「病院までやってくれ」とぼくが言った。
車は車寄せを出て、丘をのぼりはじめた。
病院につくと、二人でなかにはいった。ぼくは鞄を運んだ。受付のデスクに女がいて、キャサリンの名前、年齢、住所、親戚、宗教を帳簿に書き込んだ。キャサリンは宗教はないと言った。その女は宗教の欄の余白に一本、線を引いた。彼女はキャサリン・ヘンリーという名前だと言った。
「お部屋にご案内いたしましょう」とその女が言った。ぼくたちはエレベーターであがった。女がエレベーターをとめ、ぼくたちはおり、女のあとから廊下を歩いていった。キャサリンはぼくの腕にしっかりつかまっていた。
「このお部屋です」と女が言った。「着がえをして、ベッドにおはいりになってください。ねまきはこちらです」
「ねまき、もってきましたわ」とキャサリンが言った。
「このねまきをお召しになったほうがよろしゅうございますよ」と女が言った。
ぼくは外に出て、廊下の椅子に腰かけた。
「もうおはいりになってけっこうです」と女がドアのところから声をかけた。キャサリンはきめのあらいシーツ地でつくったと思われる、胸を四角くあけた無地のねまきを着て、せまいベッドに横になっていた。彼女はぼくを見て微笑した。
「いま、すごくさしこんでるの」と彼女が言った。女は彼女の手首をつかみ、腕時計で痛みの間隔をはかっていた。
「いまのは大きかったわ」とキャサリンが言った。彼女の顔にそれがうかがえた。
「先生はどこですか?」とぼくはその女にたずねた。
「おやすみになってます。必要なときには、ここにいらっしゃいます」
「あの、奥さまに手当をしてあげなければなりません」と看護婦が言った。「また外に出ていただけませんか?」
ぼくは廊下に出た。がらんとした廊下で、窓が二つあり、ずっと向こうまで、閉まったドアが並んでいた。病院のにおいがした。ぼくは椅子に腰かけ、床をながめ、キャサリンのために祈った。
「おはいりになってけっこうです」と看護婦が言った。ぼくははいった。
「ああ、あなた」とキャサリンが言った。
「どうだね?」
「すごく早くくるようになったわ」彼女の顔がひきつった。それから、ほほえんだ。
「いまのはほんとうのだったわ。看護婦さん、も一度、背中に手をあててくださらない?」
「それでおらくでしたら」と看護婦が言った。
「出てちょうだい、あなた」とキャサリンが言った。「外へ行って、なにか召しあがってらっしゃい。ずっとこんなふうだと看護婦さんがおっしゃいますから」
「はじめての陣痛はたいてい長びくものです」と看護婦が言った。
「どうぞ、外へ行って、なにか召しあがってらして」とキャサリンが言った。「あたしは、ほんとに、だいじょうぶよ」
「しばらくここにいるよ」とぼくが言った。
痛みはまったく規則的にきた。それから、遠のいた。キャサリンはとても興奮していた。痛みがひどいと、彼女はありがたい痛みだと言った。痛みが遠のくと、彼女は失望して、恥ずかしがった。
「外へいらして、あなた」と彼女が言った。「あなたがいらっしゃると、あたし、きまりが悪いわ」彼女の顔がひきつった。「ああ、いまのはまえよりよかったわ。あたし、いい奥さんになって、みっともないことをしないで、この子を生みたいのよ。どうか、外へ行って、朝食を召しあがってよ。それから、帰ってきてね。あなたがいらっしゃらなくても、さびしがらないわ。看護婦さんがとてもよくしてくださるから」
「ごゆっくり朝食を召しあがる時間がありますよ」と看護婦が言った。
「じゃあ、行ってくるよ。じゃあね」
「いってらっしゃい」とキャサリンが言った。「あたしの分まで、おいしい朝食を召しあがってらっしゃい」
「どこへ行けば食べられるだろう?」とぼくは看護婦にきいた。
「通りをすこし行ったところの広場にカフェがあります」と彼女が言った。「もうあいているでしょう」
外はだんだん明るくなっていた。ぼくは人通りのない通りをカフェまで歩いていった。窓にあかりがあった。なかにはいり、トタン張りのカウンターの前に立つと、老人が白ワイン一杯とブリオーシ(卵と酵母でふくらした一種の小型の菓子パン)を出した。ブリオーシはきのうのだった。ぼくはそれをワインにつけ、それから、コーヒーを一杯飲んだ。
「こんな時刻に何してらっしゃるんですか?」と老人がたずねた。
「妻が病院でお産をするのでね」
「そうですか。ご安産を祈ります」
「ワインを、もう一杯」
彼は壜から注いだが、すこしあふれさせたので、トタンの上にこぼれた。ぼくはその一杯をのみ、金を払って、外に出た。外の街路には家々からごみ入れが出してあって、ごみ屋を待っていた。犬が一匹、その一つを鼻でかいでいた。
「何がほしいんだ?」とぼくはたずね、犬のために取りだしてやるものがないか見ようと、そのなかをのぞきこんだ。上のほうに、コーヒーかすと、塵芥と、枯れた花がいくつかあるだけだった。
「なにもないよ、ワンちゃん」とぼくが言った。犬は街路を渡っていった。ぼくは病院の階段を、キャサリンのいる階まであがり、廊下を通って彼女の部屋へ行った。ドアをノックした。答えはなかった。ドアをあけた。部屋はからっぽで、椅子の上にキャサリンの鞄があり、壁の掛け鉤《かぎ》に彼女の化粧着がかかっているだけだった。ぼくは外に出て、廊下を歩いて、だれかをさがそうとした。一人の看護婦が見つかった。
「ヘンリー夫人はどこですか?」
「どなたか、いま、分娩室へおはいりになりましたわ」
「どこですか?」
「ご案内しましょう」
彼女はぼくを廊下のはずれまで連れていった。部屋のドアがいくらかあいていた。キャサリンが台の上に横たわって、シーツがかかっているのが見えた。看護婦が台の片がわにいて、医者が反対がわのいくつかのシリンダーのそばに立っていた。医者は管のついたゴムのマスクを片手にもっていた。
「ガウンをさしあげますから、おはいりになってよろしゅうございます」と看護婦が言った。
「どうぞ、こちらへおはいりください」
彼女はぼくに白いガウンを着せ、首のうしろを安全ピンでとめた。
「さあ、おはいりになってよろしいですよ」と彼女が言った。ぼくは部屋にはいっていった。
「まあ、あなた」とキャサリンは、張りつめた声で言った。「あまりうまくいかないのよ」
「ご主人ですか?」と医者がたずねた。
「そうです。どんなぐあいですか、先生?」
「とても順調です」と医者は言った。「痛むときガスをかけやすいので、この部屋にきました」
「かけてください」とキャサリンが言った。医者はゴムのマスクを彼女の顔の上にかぶせ、ダイヤルをまわした。ぼくはキャサリンが深く速く呼吸するのを見まもっていた。それから、彼女はマスクを押しのけた。医者は豆コックをしめた。
「いまのはそんなに大きくなかったわ。しばらくまえに、とても大きなのがあったの。先生がすっかりらくにしてくださったの。ねえ、先生?」彼女の声は奇妙だった。先生という言葉のところで高い声になった。
医者は微笑した。
「もいちど、かけてください」とキャサリンが言った。彼女はゴムのマスクを顔にしっかりあてて、はげしく呼吸した。彼女がすこしうめいているのがきこえた。それから、彼女はマスクを押しやり、ほほえんだ。
「いまのは大きかったわ」と彼女が言った。「いまのはすごく大きかったわ。あなた、心配なさらないでね。あっちへいってらしてよ。もう一度、朝食を召しあがってらっしゃい」
「ここにいるよ」とぼくは言った。
ぼくたちは午前三時ごろ病院に来たのだった。正午になっても、キャサリンはまだ分娩室にいた。陣痛はまた弱まっていた。彼女はいまではすっかり疲れて弱っている様子だったが、まだ快活だった。
「どうも、うまくいかないのよ、あなた」と彼女が言った。「ごめんなさいね。簡単にやれると思ってたのに。ああ、また――」彼女はマスクに手をのばし、顔の上にあてた。医者はダイヤルをまわし、彼女を見まもっていた。しばらくすると、おさまった。
「たいしたことなかったわ」とキャサリンが言った。彼女はほほえんだ。「あたし、ガスに夢中になってんのよ。でも、すばらしいわ」
「家庭用にすこしもらっておこうよ」とぼくが言った。
「ああ、またよ」とキャサリンが口ばやに言った。医者はダイヤルをまわし、腕時計を見た。
「いまの間隔はどのくらいですか?」とぼくはたずねた。
「一分ぐらいです」
「昼食は召しあがらないんですか?」
「もうじき何か食べます」と彼が言った。
「何か召しあがらなけりゃいけませんわ、先生」とキャサリンが言った。「あたし、こんなに長くかかって、すみませんね。主人にガスをかけてもらうわけにはまいりませんか?」
「よろしかったら」と医者が言った。「数字の二のところにまわしてください」
「承知しました」とぼくは言った。ダイヤルには、ハンドルでまわす目盛りがついていた。
「さあ、かけて」とキャサリンが言った。彼女はマスクを顔にしっかりあてた。ぼくはダイヤルを二の数字のところまでまわし、キャサリンがマスクを下におろすと、ダイヤルをもとにもどした。医者がぼくに何かをさせてくれたのは、とてもありがたかった。
「あなたがなさったの?」と彼女がたずねた。彼女はぼくの手首をなでた。
「そうだとも」
「あなた、すごくすてきだわ」彼女はガスにすこし酔っていた。
「お盆でもってこさせて、つぎの部屋で食べています」と医者が言った。「いつでも呼んでください」時間は刻々とたち、ぼくは彼の食べているのをじっと見ていた。それから、しばらくして、彼が横になってタバコをふかしているのが見えた。キャサリンはひどく疲れてきた。
「あたし、この赤ちゃん生めるかしら?」
「もちろん、生めるさ」
「できるだけやってるのよ。りきむんだけど、だめなのね。ほら、きたわ。かけて」
二時に、ぼくは外に出て、昼食をとった。カフェには数人の男がいて、テーブルの上にコーヒーと桜桃酒《キルシュ》かマール(ぶどうのしぼりかすから蒸溜してつくった火酒)のグラスをおいて、腰かけていた。ぼくはテーブルに向かって腰かけた。
「食事できるかね?」とぼくはボーイにきいた。
「昼食の時間はすぎましたが」
「いつでも食えるもの、なんかないかい?」
「|酢づけキャベツ《シュークルート》ならあります」
「酢づけキャベツとビールをくれ」
「半リットル入りのジョッキ(デミ)ですか、四分の一リットル(ボック)のですか?」
「半リットル入りの薄い色のをくれ」
ボーイは、ワインにつけた温かいキャベツのなかにソーセージをつめ、上にハムを一切れのせた、酢づけキャベツを一皿もってきた。ぼくはそれを食べ、ビールを飲んだ。すごく腹がすいていた。カフェのテーブルにすわっている人たちをじっと見ていた。一つのテーブルではトランプをやっていた。隣のテーブルの二人の男は話しながらタバコをふかしていた。カフェは煙でもうもうとしていた。朝食を食べたトタン張りのカウンターのうしろには、いま、三人の人がいた。さっきの老人と、カウンターのうしろにすわって、テーブルに出されるものにいちいち目を配っている黒い服を着た肥った女と、エプロンをかけた少年である。ぼくはその女がなん人子供を生み、お産はどんなだったろう、と思った。
酢づけキャベツを食べると、ぼくは病院に帰った。街路はもうすっかりきれいになっていた。ごみ入れはひとつも出ていなかった。曇っていたが、太陽は雲間からもれてきそうだった。ぼくはエレベーターで上にあがり、それをおりて、廊下をキャサリンの部屋まで歩いていった。そこにぼくは白いガウンをおいてきたのだ。それを着て、首のうしろをピンでとめた。鏡をのぞくと、髭を生やしたにせの医者のようだった。廊下を分娩室までいった。ドアはしまっていた。ノックした。答えがなかった。それで、ハンドルをまわし、なかにはいった。医者がキャサリンのそばにすわっていた。看護婦が部屋の向こうの端で何かしていた。
「ご主人がお見えになりましたよ」と医者が言った。
「まあ、あなた、とってもすてきなお医者さんよ」とキャサリンがひどく奇妙な声で言った。「先生はすごくすばらしいお話をなさってくださるのよ。痛みがあまりひどくなると、すっかりらくにしてくださるのよ。すばらしいわ。先生、すばらしいわ」
「きみは酔ってるんだね」とぼくが言った。
「そうよ」とキャサリンが言った。「でもそれをおっしゃってはいけませんわ」それから、「それをかけてちょうだい。かけてちょうだい」彼女はマスクをぎゅっとにぎりしめて、短く、深く、あえぎながら呼吸し吸入器をかちゃかちゃ言わせた。それから、長いため息をついた。医者は左手をのばして、マスクを取りのけた。
「いまのはすごく大きかったわ」とキャサリンが言った。彼女の声はすごく奇妙だった。「もう、あたし、死なないわ、あなた。死ぬところは通りこしちゃったのよ。うれしいでしょう?」
「もうそんなところへは行くんじゃないよ」
「行かないわ。でも、こわくはないわ。あたし、死なないわよ、あなた」
「そんなばかなことにはなりませんよ」と医者が言った。「死んで、ご主人だけにしてしまうなんてこと、ありえませんよ」
「ええ、そうよ。あたし、死なないわ。死にっこないわ。死ぬなんてばかよ。ああ、来たわ。かけて」
しばらくたって、医者が言った。「ヘンリーさん、ちょっと出てください、診察しますから」
「どんなだかごらんになるのよ」とキャサリンが言った。「あとでまたいらしていいのよ、あなた。そうでしょう、先生?」
「そうです」と医者が言った。「いらしていいときには、お伝えします」
ぼくはドアの外へ出、廊下を、赤ん坊が生まれたらキャサリンの来るはずの部屋まで歩いて行った。ぼくはそこの椅子に腰かけ、部屋を見た。昼食をとりに出かけたとき買った新聞が上衣にはいっていた。それを読んだ。外は暗くなりかけていた。ぼくは明かりをつけて、読んだ。しばらくして、読むのをやめ、明かりを消し、外が暗くなるのを見まもった。なぜ医者はぼくを呼びによこさないのだろう、と思った。ぼくはいないほうが、いいのかもしれない。たぶん、しばらくぼくを遠ざけておきたいのだろう。腕時計を見た。十分して呼びにこなかったら、とにかく行ってみよう。
かわいそうな、かわいそうな、かわいいキャット。で、これがいっしょに寝たためにきみが払う代価なのだ。これが罠《わな》の終わりなのだ。これが人々がたがいに愛し合って得るものなのだ。とにかく、ガスはありがたい。麻酔剤のできるまでは、どんなだったろう? 一度はじまれば、水車用の流水のなかにいるようなものだ。キャサリンは妊娠中は、らくだった。ひどくはなかった。悪阻《つわり》もほとんどなかった。いよいよというときまで、ひどく気分が悪いということもなかったのだ。だから、いま、とうとう、つかまってしまったのだ。どんなことをしたって、逃げられるものではないのだ。逃げるなんて、とんでもない! たとえ五十回、結婚したって、同じことだろう。彼女が死んだら、どうなる? 死なないさ。このごろは、お産では死なない。それは夫ならだれでも考えることなのだ。そうだ、でも、彼女が死んだら、どうなる? 死なないさ。ただ苦しんでいるだけなんだ。はじめてのお産はたいてい長びくものだ。ただ、苦しんでいるだけなんだ。あとになれば、苦しかったね、とぼくたちは言い、キャサリンはほんとはそんなに苦しくなかったわ、と言うだろう。でも、死んだら、どうなる? 死ぬはずはない。そうだ。だが、死んだら、どうなる? 死ぬはずはないんだ。ばかなことを言うな。ただ、苦しんでるだけなんだ。ひどく苦しむのは自然なのだ。ただ、はじめてのお産は、ほとんど、いつも長びくものなのだ。そうだ。だが、死んだら、どうなる? 死ぬはずはない。なぜ死ぬんだろう? 死ぬ理由があるだろうか? ミラノで毎晩たのしんだ副産物として、子供が生まれるだけなのだ。子供がめんどうをかけ、生まれ、それから、その世話をし、きっと、子供が好きになるのだ。だが、彼女が死んだら、どうなる? 死なないさ。だが、死んだら、どうなる? 死なないさ。だいじょうぶさ。だが、死んだら、どうなる? 死ぬはずはない。だが、死んだら、どうなる? おい、そうなったら、どうなんだ? 死んだら、どうなるんだ?
医者が部屋にはいってきた。
「どんなぐあいですか、先生?」
「うまくいかないんでね」
「といいますと?」
「あのままなんです。診察したんですが――」彼は診察の結果をこまかに話した。「あれから、ずっと様子を見てたんです。が、うまくいかないんです」
「どうすればいいんですか?」
「二つ方法があります。鉗子《かんし》分娩か、これはお子さんに悪い場合もあるし、裂傷をつくり、きわめて危険なんですが、それとも、帝王切開です」
「帝王切開の危険は?」彼女が死んだら、どうなることか!
「普通の出産より危険だということはありません」
「先生がご自身でしてくださいますか?」
「そうしますよ。準備をしたり、必要な人を揃えるのに一時間ぐらいかかるでしょう。たぶん、それよりはすこし早いでしょうが」
「どうお考えです?」
「帝王切開をおすすめします。わたしの妻だったら、帝王切開をします」
「あとの結果はどうですか?」
「なんでもありませんよ。ただ、傷痕が残りますが」
「病毒に感染しませんか?」
「鉗子分娩の場合ほど危険じゃありません」
「このままで、何もしなければ、どうなりますか?」
「結局はなんとかしなければなりませんよ。奥さんはもうだいぶ体力をなくしていますから、いまのうちに手術を早くやれば、それだけ安全です」
「できるだけ早く手術してください」とぼくは言った。
「指図をしてきましょう」
ぼくは分娩室にはいっていった。看護婦につきそわれて、キャサリンは台の上に横たわり、大きなお腹《なか》で、シーツにくるまり、まっさおな顔で、疲れきった様子だった。
「やってもいいと言ってくださった?」と彼女がたずねた。
「うん」
「すてきじゃないの。ねえ、あと一時間もすれば、すっかりすむんだわ。もう力がなくなってしまったわ、あなた。からだがばらばらになりそうだわ。|それ《ヽヽ》、|わたしてちょうだい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。きかないわ。ああ、きかないわ!」
「深く息を吸って」
「吸ってるのよ。ああ、もうきかないわ、きかないわ!」
「シリンダーをとりかえてください」とぼくは看護婦に言った。
「それ、新しいんですよ」
「わたし、ほんとにばかね、あなた」とキャサリンが言った。「でも、もうきかないんですもの」彼女は泣きはじめた。「ああ、こんな騒ぎをしないで赤ちゃんを産みたかったのよ。それなのに、もう力がつきて、くたくたになっちゃったわ。それに、これはきかないわ。ああ、あなた、ちっともきかないのよ。ただこれが止まってくれさえすれば、死んだって、かまわないわ。ああ、どうぞ、あなた、どうぞ、止めて。また来たわ。ああ、ああ、ああ!」彼女はマスクのなかですすり泣きながら呼吸した。「きかないわ。きかないわ。きかないわ。気になさらないでね。もう、ほんとうに、くたくただわ。かわいそうなあなた、あたしあなたをとても愛してるのよ。あたし、またよくなるわ。こんどこそよくなるわ。あのひとたち、なんとかならないのかしら! なんとかしてもらえないかしら」
「ぼくがなんとかしてみせるよ。こいつをいっぱいまわしてみよう」
「さあ、それ、かけて」
ぼくはダイヤルをいっぱいにまわした。そして、彼女がはげしく深く息をすると、マスクをもっている彼女の手がゆるんだ。ぼくはガスをとめ、マスクをとりはずした。彼女は意識をとりもどした。
「とてもよかったわ、あなた。ああ、あなたはとてもやさしいかたね」
「しっかりしてくれ、しょっちゅうこんなことはできないんだから。きみを殺しちゃうかもしれないから」
「もう、しっかりできないのよ、あなた。すっかりだめになったわ。だめにされたのよ。もうわかったわ」
「だれだってそうなるんだよ」
「でも、おそろしいわ。こんなことをつづけて、だめにされちゃうのよ」
「一時間ですむよ」
「すばらしいじゃない? あなた、あたし死なないわよ、ねえ?」
「死ぬものか。約束するよ」
「あたし、あなたを残して死にたくないの。でも、もう疲れちゃって、死にそうだわ」
「ばかな。だれだってそんな気がするもんだよ」
「ときどき、あたし死にそうよ」
「死ぬものか。死ぬはずはないよ」
「でも、死んだら!」
「死なせるもんか」
「早くそれをかけて。かけて!」
それから、そのあとで、「死なないわ。殺されないわ」
「もちろんだよ」
「あたしといっしょにいてくださる?」
「死ぬのを見るためじゃ見ないよ」
「ううん、ただここにいて」
「いいとも。ずっといるよ」
「やさしいかたね。さあ、かけて、もっと出して。きいてないわ!」
ぼくはダイヤルを三にし、それから四にまわした。医者がもどってくればいいと思った。二以上の数字がこわかったのだ。
やっと、新しい医者が看護婦を二人つれてはいってきて、キャサリンを車輪のついた担架《たんか》にのせ、ぼくたちは廊下に出た。担架は廊下を急いでとおり、エレベーターにはいった。そこでは、みんなが壁にはりついて余地をつくらなければならなかった。それから、上にあがって、それから、ドアが開いて、エレベーターから出て、ゴムの車輪で廊下を手術室へ行った。さっきの医者が手術帽とマスクをつけていたので、ぼくはその医者だとは気づかなかった。ほかに医者がもう一人いた。看護婦の数もふえていた。
「あたしを何とかしなけりゃならないのね」とキャサリンが言った。「あたしを何とかしなけりゃならないのね。ああ、どうぞ、先生、よくなるようにじゅうぶんにしてくださいね!」
医者の一人が彼女の顔にマスクをかけた。ぼくがドアからのぞきこむと、明るく輝いた小さな半円形劇場のような手術室が見えた。
「あっちのドアからおはいりになって、腰かけてらしてもいいんですよ」と一人の看護婦がぼくに言った。手摺《てす》りのうしろにベンチが並んでいて、白い手術台と明かりを見下ろすことができた。ぼくはキャサリンを見た。マスクが顔にかけられ、もう彼女はものを言わなかった。彼らは担架を前へ押した。ぼくはうしろを向いて、廊下へ歩いていった。二人の看護婦が見学席の入り口に急いでいた。
「帝王切開ですって」と一人が言った。「帝王切開をするのよ」
もう一人が笑った。「間に合ったわ。あたしたち運がよかったわね」彼女らは見学席に通じるドアからはいっていった。
看護婦がもう一人やってきた。彼女も急いでいた。
「あなたもそこからおはいりなさい。おはいりになってください」と彼女が言った。
「ぼくは外にいます」
彼女は急いではいった。ぼくは廊下をいったり来たりした。はいるのがこわかったのだ。窓の外を見た。暗かったが、窓の光で、雨の降っているのが見えた。ぼくは廊下のいちばん端の部屋にはいり、ガラスのケースのなかの壜にはってあるレッテルを見た。それから、出てきて、人けのない廊下に立って、手術室のドアをみつめた。
一人の医者が看護婦をつれて出てきた。彼は皮をはいだばかりの兎のようなものを両手にかかえ、いそいで廊下を横ぎり、べつのドアのなかにはいっていった。ぼくは彼のはいったドアのほうにいって、彼らがその部屋で生まれたばかりの赤ん坊に何かしているのを見た。医者はぼくに見えるように、赤ん坊をもちあげた。踵《かかと》をもって、ぶらさげ、ぴしゃぴしゃたたいた。
「赤ちゃん、だいじょうぶですか?」
「すばらしいですよ、五キロぐらいでしょうね」
ぼくは赤ん坊にたいしてなんの感情もわかなかった。ぼくとなんらかの関係があるようには思われなかった。父親らしい感情もおこらなかった。
「男のお子さんで、ご自慢じゃないですか?」と看護婦がたずねた。彼らは赤ん坊を洗って、何かで包んでいた。小さな黒い顔と黒い手が見えたが、動きもせず、泣き声もしなかった。医者がまた彼になにかしていた。医者はあわてているようだった。
「いや」とぼくは言った。「あいつが母親を殺すところだったんだ」
「それはこの小さな赤ちゃんの罪じゃありませんよ。男のお子さんをほしかったんでしょう?」
「いや」とぼくは言った。医者は赤ん坊に忙しかった。医者は赤ん坊の足をもって、たたいた。ぼくはそれがどうなるか見ようと待ってはいなかった。ぼくは廊下に出た。もういまは、なかにはいって、見る気になれた。ドアからはいって、見学席をすこしおりていった。手摺りのところにすわっていた看護婦たちが彼らのいるところに来るようにと手招きした。ぼくは首をふった。ぼくのいることろからでもじゅうぶん見えた。
ぼくはキャサリンが死んだのだと思った。彼女は死んだように見えた。顔は、ぼくに見える部分が、灰色だった。下では、燈火のもとで、医者が鉗子でひろげて、ぱっくりあいた、大きな、長い、傷口を縫い合わせていた。マスクをしたもう一人の医者が麻酔剤をあたえた。マスクをかけた二人の看護婦が器具を渡した。それは宗教裁判の絵のようだった。ぼくはそれを見まもりながら、これならはじめから全部見ていられただろうと思ったが、見なくてよかったと思った。彼らが切開するところなど見ていられなかったと思う。が、靴屋のように手早くじょうずに縫って、傷口をとじ、みみずばれのような高いうねにするのを見つめていると、ぼくはうれしくなった。傷口がしまると、廊下に出て、またあっちこっち歩いた。しばらくたって、医者がでてきた。
「妻はどうですか?」
「だいじょうぶです。ごらんになりましたか?」
彼は疲れているようだった。
「縫い合わせるのを見ました。切り口がとても長く見えました」
「そう思われましたか?」
「ええ。あの傷痕はたいらになりますか?」
「ええ。なりますよ」
しばらくすると、彼らは車輪のついた担架を運び出し、大急ぎで廊下からエレベーターのほうにはこんだ。ぼくはそのそばについて行った。キャサリンはうめいていた。階下で、彼らは彼女を病室のベッドにねかせた。ぼくはベッドの足もとの椅子に腰をおろした。部屋には看護婦が一人いた。ぼくは立ちあがり、ベッドのそばに立った。部屋のなかは暗かった。キャサリンは手をさしだした。「まあ、あなた」と彼女が言った。彼女の声はとても弱々しく、疲れていた。
「やあ、どうだい」
「赤ちゃん、どんなでした?」
「しっ――お話しになってはいけません」と看護婦が言った。
「男の子だ。大きく、胸も広く、色が黒いよ」
「だいじょうぶでした?」
「ああ」とぼくは言った。「元気だよ」
看護婦が妙な顔でぼくを見ているのが見えた。
「あたし、すごく疲れたわ」とキャサリンが言った。「それに、ひどく痛むわ。あなた、だいじょうぶ?」
「元気だよ、しゃべっちゃいけないよ」
「あなた、やさしくしてくださったわね。ああ、あなた、すごく痛むの。赤ちゃん、どんなでした?」
「としよりのようなしわのよった顔をして、皮をはいだ兎みたいだよ」
「お出になってください」と看護婦が言った。「奥さんはお話しになってはいけません」
「外にいるよ」とぼくが言った。
「なにか食べてらっしゃい」
「いや。外にいるよ」ぼくはキャサリンにキスをした。彼女はとても青白く、弱々しく、疲れていた。
「ちょっと話があるんですが?」とぼくは看護婦に言った。彼女はぼくについて廊下に出てきた。ぼくは廊下をちょっと歩いた。
「赤ん坊はどうしたんです?」とぼくはたずねた。
「ご存じなかったんですか?」
「ええ」
「生きてなかったんですわ」
「死んでたんですか?」
「息をさせることができなかったんです。へその緒が首かどこかにまきついていたんです」
「で、死んでたんですね」
「ええ、残念ですが。あんなりっぱな大きな赤ちゃんでしたのに。ご存じだと思ってました」
「いや」とぼくは言った。「妻のところにもどっていてください」
ぼくは看護婦の報告がクリップで横にかけてあるテーブルの前の椅子に腰をおろし、窓の外をながめた。暗闇と、窓からの明かりを横ぎって降る雨のほかは、何も見えなかった。そうなのだ。赤ん坊は死んでいたのだ。だから、医者がとても疲れているように見えたのだ。だが、なぜ、部屋のなかで赤ん坊にあんなふうなことをしたのだろう? おそらく、生きかえって、呼吸をはじめると思ったのだろう。ぼくは宗教をもたないが、赤ん坊が洗礼を受けるべきだとは思っている。だが、ぜんぜん呼吸をしなかったとすれば、どうなるだろう。呼吸をしなかったのだ。すこしも生きていたことはないのだ。キャサリンのお腹のなかのほかは。赤ん坊がそこで蹴っているのを、たびたびぼくは感じたのだ。だが、この一週間は感じなかった。きっと、ずうっと窒息《ちっそく》していたんだろう。かわいそうな、小さな坊やよ。ちぇっ、ぼくもそんなふうに窒息していればよかったんだ。いや、そいつはいやだ。だが、こんな死ぬ騒ぎを、ごたごたやりたくないものだ。こんどは、キャサリンが死ぬんだろう。人間とはそんなものなのだ。人間は死ぬ。それがどんなことか、人間にはわからないのだ。わかるひまもないのだ。人間は投げこまれて、ルールを教えられ、はじめてベースを離れたとたんにタッチ・アウトになるんだ。でなければ、アイモのように、理由もなく殺されるのだ。でなければ、リナルディのように、梅毒をもらってしまうのだ。が、けっきょくは、殺されるのだ。それはたしかなことだ。うろうろしているうちに、殺されるのだ。
あるとき、キャンプで、ぼくは焚火の上に丸太をのせた。それには蟻《あり》がいっぱいたかっていた。それが燃えはじめると、蟻はぞろぞろ出てきて、まず、火のある真ん中のほうへ行った。それから、引きかえして、端のほうへ逃げていった。端にいっぱい集まると、蟻は火のなかに落ちた。幾匹かはぬけだしたが、からだが焼けて、ぺちゃんこになり、行き先かまわず、逃げていった。だが、たいていは、火のほうに行き、それから端のほうにもどってきて、熱くない端に群がり、ついには火のなかに落ちていった。ぼくはそのとき、これこそ世の終わりだ、救世主になって、火から丸太をつまみあげ、放り出して、蟻が地面に逃げて行けるようにしてやるすばらしい機会だ、と考えたことを憶えている。だが、ぼくは何もしないで、ブリキのコップの水を丸太にかけただけだった。それも、コップをからにし、ウィスキーを入れてから、水で割りたかったからだ。燃えている丸太にコップの水を一杯かけたのでは、ただ蟻を蒸し焼きにしたにすぎなかった、と思う。
こうして、いま、ぼくは外の廊下に腰をおろして、キャサリンの容体をきこうと待っていた。看護婦は出てこなかった。そこで、しばらくたって、ぼくはドアのところに行き、できるだけ静かに開け、なかをのぞいた。廊下にきらきらした明かりがあるのに、部屋のなかは暗かったので、はじめは、何も見えなかった。そのうち、ベッドのそばに腰かけている看護婦と枕の上のキャサリンの顔が見えた。彼女はシーツの下に平らになっていた。看護婦は唇に指をあて、立ちあがって、ドアのところにやってきた。
「どんなぐあいですか?」とぼくはたずねた。
「だいじょうぶです」と看護婦が言った。「夕食を食べにいらしてください。それから、よろしかったら、またおもどりください」
ぼくは廊下を行き、それから、階段をおり、病院の玄関を出て、雨のなかを、暗い街路を通ってカフェへいった。なかはきらきらと明るく、おおぜいの人がテーブルに向かっていた。すわる場所が見つからなかった。と、ボーイがぼくのところへやってきて、ぼくの濡れたコートと帽子をとって、夕刊をよみながらビールを飲んでいる初老の男に向きあったテーブルの席に案内した。ぼくは腰かけて、ボーイに|今日の特別料理《プラ・ドゥ・ジュール》は何かとたずねた。
「犢《こうし》のシチューです――ですが、もうおしまいになりました」
「なにか食べるもの、あるかね?」
「ハム・エッグか、チーズ入りオムレツか、酢づけキャベツです」
「酢づけキャベツはお昼に食べたよ」とぼくは言った。
「そうでしたね」と彼は言った。「そうでしたね、お昼にキャベツを召しあがりましたね」彼は中年の男で、頭のてっぺんがはげ、その上に毛がきれいになでつけてあった。親切そうな顔だった。
「なんにしましょう? ハム・エッグですか、チーズ入りオムレツですか?」
「ハム・エッグ」とぼくは言った。「それとビール」
「半リットル入りの薄い色のですか?」
「そう」とぼくは言った。
「思いだしました」と彼は言った。「お昼にそれをおのみになりましたね」
ぼくはハム・エッグを食べ、ビールを飲んだ。ハム・エッグはまるい皿のなかにはいっていた――ハムが下で、卵が上にのっていた。すごく熱く、はじめのひと口で、口をさますためにビールをひと口飲まなければならなかった。ぼくは空腹だったので、ボーイにもう一皿たのんだ。ビールをグラスに何杯も飲んだ。なんにも考えずに、向こうがわにいる男の新聞を読んだ。それはイギリス軍の前線が突破された記事だった。彼はぼくが新聞の裏を読んでいるのに気がつくと、それをおりかえした。ぼくはボーイに新聞をもってくるように頼もうと思ったが、そうまでしたくなかった。カフェのなかは暑く、空気がにごっていた。テーブルについたおおぜいの人はたがいに知り合いだった。トランプをやっているものが幾組かいた。ボーイはカウンターからテーブルに酒をもっていくのに忙しかった。二人の男がはいってきたが、すわる席が見つからなかった。彼らはぼくのテーブルの向こうがわに立っていた。ぼくはビールをまた注文した。まだ出ていく気にはならなかった。病院に帰るには早すぎた。ぼくは考えないようにし、心から冷静になろうとつとめた。二人はまわりに立っていたが、だれも出ていかないので、出ていった。ぼくはもう一杯ビールを飲んだ。ぼくの前のテーブルにはもう受け皿が何枚もつみ重なった。ぼくの前の男は眼鏡をはずし、ケースにしまい、新聞をたたみ、ポケットにつっこんで、いま、リキュールのグラスを手に、坐ったまま、部屋を見まわしていた。ふいにぼくはもどらなければならないと思った。ボーイをよび、勘定を払い、コートを着て、帽子をかぶり、ドアの外に出た。ぼくは雨のなかを病院へ歩いていった。
階上で、看護婦が廊下をやってくるのに会った。
「ホテルにお電話したところです」と彼女が言った。なにかがぼくのなかでがくんと落ちた。
「なにか悪いことでも?」
「奥さんが出血なさってるんです」
「はいってもいいですか?」
「いいえ、まだです。先生がついていらっしゃいます」
「あぶないんですか?」
「すごくあぶないんです」看護婦は部屋のなかにはいり、ドアをしめた。ぼくは外の廊下に腰かけた。ぼくのからだのなかからすべてがぬけていった。ぼくは考えなかった。考えられなかった。彼女が死にそうだということがわかり、死なないように祈った。死なせないでください、ああ、神さま、どうぞ死なせないでください。死なせないでくださったら、なんでもいたします。愛する神さま、死なせないでください。どうぞ、どうぞ、どうぞ、死なせないでください。神さま、どうぞ、死なせないでください。死なせなかったら、おっしゃることはなんでもいたします。赤ん坊はおとりあげになったが、彼女は死なせないでください。赤ん坊はかまいませんが、彼女は死なせないでください。どうぞ、どうぞ、愛する神さま、死なせないでください。
看護婦がドアをあけ、指でぼくにはいってくるよう合い図した。ぼくは彼女について部屋にはいっていった。はいっていったとき、キャサリンは目をあげなかった。ぼくはベッドのそばまでいった。医者がベッドの反対がわに立っていた。キャサリンがぼくを見つめて、ほほえんだ。ぼくはベッドの上にひれふして、泣きはじめた。
「かわいそうなあなた」とキャサリンがとても静かに言った。顔は真っ青だった。
「だいじょうぶだよ、キャット」とぼくは言った。「すぐよくなるよ」
「もう死ぬのよ」と彼女が言った。それから、ちょっと間をおいて、言った。「いやだわ」
ぼくは彼女の手をとった。
「さわらないで」と彼女が言った。ぼくは彼女の手をはなした。彼女は微笑した。「かわいそうなあなた。思いっきり、さわっていいのよ」
「よくなるよ、キャット。よくなるとも」
「もしものときにと、手紙を書くつもりだったのに、書けなかったわ」
「神父さんかだれか、呼んでこようか?」
「あなただけでいいの」と彼女が言った。それから、しばらくたって、「あたし、こわくないの。ただ、いやなの」
「そんなに話をしてはいけません」と医者が言った。
「はい」とキャサリンが言った。
「なにかぼくにしてほしいことでもあるかい、キャット? なにかもってきてあげようか?」
キャサリンは微笑した。「いいえ」それから、しばらくたって、「ほかの女のひとと、わたしたちのしたこと、したり、同じこと、言ったり、しないで、ねえ?」
「しやしないよ」
「でも、あなたに好きなひとができてほしいわ」
「ほしくはないよ」
「あまり話をなさらないように」と医者が言った。「話をしてはいけません。ご主人は外に出ていただきましょう。あとでまたもどってきてもいいですから。あなたは死にはしませんよ。ばかなことを考えてはいけません」
「いいわ」とキャサリンが言った。「あたし、帰って、晩はあなたといっしょにいるわ」と彼女が言った。彼女は口をきくのもひどくたいぎそうだった。
「どうぞ、部屋から出てください」と医者が言った。キャサリンはぼくにウィンクした。その顔は青ざめていた。
「すぐ外にいるよ」とぼくは言った。
「心配なさらないでね、あなた」とキャサリンが言った。「あたし、ちっとも、こわくないのよ。ただ、こんなの、いやらしい策略だわ」
「きみがしっかりしてるんで、うれしいよ」
ぼくは外の廊下で待った。長いあいだ待った。看護婦がドアのところに来て、ぼくのほうへやってきた。
「奥さまがすごくお悪いようです」と彼女が言った。「心配です」
「死んだんですか?」
「いいえ、意識がないのです」
出血がつぎつぎにあったようだ。それをとめられなかったのだ。ぼくは部屋にはいり、キャサリンが死ぬまでそばにいた。彼女は、ずうっと意識がなく、死ぬまでそう時間はかからなかった。
部屋の外の廊下でぼくは医者に話しかけた。「なにか、今晩、ぼくのすることありますか?」
「いや、なにもありません。ホテルまでお送りしましょうか?」
「いや、けっこうです。しばらくここにいますから」
「なんとも申しようもありませんが。なんとも申しようも――」
「いや」とぼくが言った。「なにも言うことはありません」
「おやすみなさい」と彼は言った。「ホテルまで送らせていただけませんか?」
「いや、けっこうです」
「ああするよりほか、手のつくしようがなかったもので」と彼は言った。「手術をしてわかったのですが――」
「そのことは話したくないんです」とぼくは言った。
「ホテルへお送りしたいのですが」
「いや、けっこうです」
彼は廊下を歩いて行った。ぼくは部屋のドアのところまで行った。
「まだおはいりになってはいけません」と看護婦の一人が言った。
「いや、はいる」とぼくが言った。
「まだだめです」
「きみ、出てくれ」とぼくは言った。「それから、きみも」
だが、彼女たちを出して、ドアをしめ、明かりを消したが、なんの役にもたたなかった。まるで彫像に別れを告げるようなものだった。しばらくして、ぼくは病室を出、病院をあとに、雨のなかをホテルへ歩いて帰った。(完)
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解説
ヘミングウェイの生涯
ノーベル賞作家アーネスト・ヘミングウェイの生涯は波乱にみちたものだった。一九六一年、愛用の猟銃で謎の自殺をとげたのだが、その翌年に出版された弟のレスター・ヘミングウェイの書いた伝記『わが兄、アーネスト・ヘミングウェイ』のなかにある「アーネストは暴力的な死に方をしたが、彼の生き方も暴力的だった」という言葉は、ヘミングウェイの生涯を的確にとらえている。彼は人生を暴力と見た。そして、その暴力を生きぬくために、なによりも勇気というものを尊んだ。どんなときにも、勇気をもっていた。そして、死ぬまで勇気をもちつづけ、勇気をもって死んでいったのだ。まことに男性的な作家だった。
ヘミングウェイは、だから、われわれ日本人がふつう作家というものにたいして抱いているイメージとは、およそかけはなれた、きわめてタフで、男性的で、行動的な作家だった。それがヘミングウェイのアメリカ的なところだったといえよう。彼はたんに作家だというばかりでなく、強烈なパンチ力のあるボクサーであり、大西洋で大魚を釣りあげる釣りの名手であり、また、アフリカまで猛獣狩りに行く狩猟家だし、スペインにまで闘牛見物に出かける闘牛ファンでもあった。さらに、二度の世界大戦にも、みずから進んで参戦し、前線に出て大活躍した。とにかく、ヘミングウェイの生涯は冒険にみちみちていたのだ。そして、彼はそうしたスリルにあふれた人生体験のすべてを、彼の作品のなかにみごとに定着させたのだ。
アーネスト・ミラー・ヘミングウェイは、一八九九年七月二十一日、アメリカの中西部、イリノイ州、シカゴの郊外にあるオーク・パークという町に生まれた。六人きょうだいのうち、二番目で、長男だった。父のクラレンス・エドモンズ・ヘミングウェイは、オーク・パーク病院の産婦人科長で、髭《ひげ》をゆたかにたくわえた逞《たくま》しい医者で、釣りや狩猟などをたのしんでいた。母のグレース・ホールは、信仰心があつく、音楽好きで、家にステージつきの音楽室を設け、ときどき人々を招待して、みずから歌ったりした。そして、父はアーネストがまだ三歳にもならないうちに釣り竿をあたえ、十歳になると猟銃をあたえた。母のほうは、彼にチェロをあたえ、一日に一時間は練習させた。しかし、ヘミングウェイは短篇『医者と医者の妻』に述べられているように、戸外の生活を好み、しばしば、チェロの練習をやめ、こっそり家をぬけだして、釣りや狩りに出かけた。こうして、彼はしだいに父に似た逞しい男性的な男に育っていった。
ヘミングウェイ家は夏になると、ミシガン州の北部のワルーン湖畔にあった別荘に避暑にいった。ここで幼いヘミングウェイは釣りや狩猟をたのしんだ。裸足で原野を駆けまわり、戸外生活を満喫した。釣りや狩りのほかに、恋愛をし、失恋し、そして、酒の味もおぼえた。それは初期のいくつかの短篇に描かれているとおりだ。
ヘミングウェイは十四歳のとき、シカゴのジムに入所し、最初の練習で、ミドルウェイト級の選手に鼻をなぐられ、床に倒れてしまった。たいていのものは、その次の日から来なくなるものだが、ヘミングウェイはすこしもひるまず、翌日もジムに現われ、みんなを驚ろかしたという。
オーク・パーク・ハイスクールでは、ヘミングウェイはおおいに活躍した。まず、文学の方面では、学校の週刊誌「空中ぶらんこ」の編集者の一人になったり、季刊誌「タビュラ」に寄稿した。このころ、彼の創作力はじつに盛んで、一九一六年から一九一七年にかけて、右の二誌に、短篇二十四篇、記事三十篇以上を載せている。
ハイスクール時代のヘミングウェイは、こうした文学的な活動のほかに、狩猟クラブに加わったり、フットボールのチームをつくったり、水泳チームに属したり、陸上のチームを統率したり、ありとあらゆるスポーツに関係していた。男性的な、活動的な、少年だったのだ。
だが、ヘミングウェイは、このころ、なぜか数回にわたって家出している。幸福ではなかったようだ。クラスメートの話によると、孤独で、ダンスパーティーにも行かなかったようだ。そして、ついに、ミズーリ州の新聞社「キャンザス・シティ・スター」への就職という形で、決定的に、家を出ることになった。
すなわち、ハイスクールを卒業する年の一九一七年の四月、アメリカが第一次大戦に参戦したので、ヘミングウェイは卒業直前に兵役に志願しようとしたのだが、父は息子が戦死するかもしれないと思い、これに強く反対した。それで、ヘミングウェイは、けっきょく、兵役志願を断念するのだが、戦争に行かせてくれない父を恨みに思い、大学への進学をやめ、父のもとを永遠に去ろうと決心する。そして、ハイスクールを卒業すると、伯父の知人の紹介で、「キャンザス・シティ・スター」紙の記者になったのだ。
ここでの記者生活はわずか七ヵ月という短いものだったが、ヘミングウェイはこの間に文章修業上多くのことを学んだ。当時、この新聞はアメリカの一流紙のひとつで、若い新米の記者に厳格な訓練をあたえていた。たとえば、入社早々手渡された『文体心得帳』には次のような注意が記されていた。「短い文章を用いよ。最初のパラグラフは短く。力強い英語を用いよ。肯定形を用い、否定形を用いるな」「古い俗語を用いるな。俗語はたのしくあるためには新鮮でなければならない」「形容詞を用いるな。とくに〈すばらしい〉〈華麗な〉〈雄大な〉といった極端な形容詞をさけよ」――こうした細かな文体上の注意がのちの有名なヘミングウェイの簡潔な文体をつくるのにおおいに役だっているのは明らかである。しかも、文体のみでなく、記者として冷静に客観的に事物を観察する力をこの期間に学びとっているのだ。のちのヘミングウェイ文学の感情を拒否して冷静に非情に外面を描写する態度はこの頃から生まれたと考えられよう。
ヨーロッパの戦争は、しかし、ヘミングウェイをじっとさせてはおかなかった。彼はイタリア戦線の赤十字で志願兵を求めていることを知ると、さっそくそれに応募し、一九一八年五月、中尉として入隊し、イタリア戦線に加わった。ヨーロッパはヘミングウェイたち若いアメリカ人にとっては、夢とロマンスの舞台に思われていたし、戦争は冒険と正義に充ちあふれた美しい楽しいものに思われたのだった。だが、戦線に出てまる二ヵ月とたたない七月八日の真夜中、満十九歳になる二週間前、イタリアのフォッサルタという小さい村で、兵隊たちにチョコレートを配っていたとき――そうした夢のない退屈な平凡なことをやっていたとき――敵の迫撃砲弾が近くに落下し、ヘミングウェイはその場に倒れ、気を失ってしまった。そばにいた部下の一人は即死した。それは『武器よさらば』にほとんどそのまま描かれているとみてよかろう。
担架で後方に運ばれ、野戦病院に五日間いて、やがてミラノの病院に後送されるのだが、検査の結果、迫撃砲弾による負傷は二百二十七ヵ所に達し、ほかに、機関銃で脚をやられていた。そして、手術を十数回も受けることになるのだが、右脚は大戦終了の翌年帰国したときにもなお回復せず、しばらくは故郷の町を杖をついて歩いていた。参戦したときのロマンティックなヒロイズムの夢はまったく消え去り、戦争のみにくい現実を知って、深い虚無思想を持つようになった。
帰国したヘミングウェイは、シカゴで、当時アメリカでもっとも有名な作家だったシャーウッド・アンダスンに会ったりして、文学者になろうと思う。そして、ハドレー・リチャードソンと恋愛し、結婚して、カナダのトロントの「スター」という新聞の海外特派員となって、パリに行った。
パリでは、アンダスンの紹介状を持って、パリにいたアメリカの女流作家ガートルード・スタインを訪ね、彼女のサロンに出入りしている多くの作家たち――アメリカの詩人エズラ・パウンド、『ユリシーズ』の作者ジェイムズ・ジョイス――に会い、親しく交際した。ことにスタイン女史とパウンドは、ヘミングウェイの文学上の直接の指導者となり、彼の書いてきた短篇を読み、スタイン女史は一般的な鋭い批評をしてくれ、パウンドは青鉛筆を手にして、彼の短篇から大部分の形容詞を削りとって、フローベールの書き方を学ぶようにとすすめた。ヘミングウェイは貧しかったが、文学にすべてをうちこんで充ちたりた日々を送っていた。のちに『キリマンジャロの雪』や、死後出版になった『移動祝祭日』で生き生きと愛着をもって回想されているのが、このパリ時代なのである。
やがて、短いスケッチ風の文章を集めた『ワレラノ時代ニ』(一九二四)、さらにすぐれた短篇集『われらの時代に』(一九二五)が出、つづいて最初の長篇小説『日はまた昇る』(一九二六)が出、ヘミングウェイは一躍有名な作家になった。このとき、ヘミングウェイは二十六歳、この長篇は当時パリに集っていた各国からの亡命者の放埓《ほうらつ》な生活を描いていて、若い人びとの愛読書になった。ヘミングウェイはこの成功につづき、翌年には第二の短篇集『女のいない男たち』――有名な『殺し屋』などを収めてある――を出版したが、その年のはじめ、すでに別居していたハドレーと正式に離婚し、夏、雑誌「ヴォーグ」のパリ駐在の婦人記者ポーリン・プァイファーと結婚し、翌一九二八年、アメリカに帰った。
名作『武器よさらば』はその年の三月、パリで書きだしていたのだが、アメリカに帰国後も、書きつづけ、いちおう脱稿しても、さらに手を加え、翌一九二九年一月に完成したが、「スクリブナーズ・マガジン」誌に連載がきまると、またそのゲラに手を入れた。さらにこれを単行本にするときにも、手を加えた。非常な熱のいれようで、最後の章など十七回も書き改めたと言われているが、じじつ、今日残っている初稿の散文的な結びと、現行の、主人公が雨の中をひとり病院をあとにする詩的な結びとでは、比較にならぬほど後者がすぐれている。ともかく、苦心の作だったのだ。のみならず、初稿を書いているとき、ポーリンから次男が帝王切開の末やっと生まれたし、書き改めているときに、父のクラレンスが、手形の期限がきても金がなかったためとか、糖尿病になやんでいたために、オーク・パークの自宅でピストル自殺をした。だから、ヘミングウェイは「人生は悲劇だと信じた」と述べているが、じじつ、そうしたペシミスティックな人生観がこの作品に暗い影を投げている。『武器よさらば』は一九二九年九月に発表になり、たちまち異常なベストセラーになり、劇化され、映画化され、フランスをはじめ多くの外国で翻訳され、この一作でヘミングウェイは、ヨーロッパや日本でもアメリカ一の作家とみなされるようになった。
ところで、『武器よさらば』が出てすぐ、一九二九年十月、ニューヨークの株式取引所で株価が急に暴落し、以来、一九三〇年代いっぱい、アメリカは言うに及ばず、世界じゅうが不景気になった。そのため、世間の人びとはみな経済問題や社会問題に眼を向けた。しかし、ヘミングウェイは、そうした世間には背を向けて、フロリダ州のキー・ウェストに住み、魚釣りの楽しみにふけった。そして、ときどき海外旅行をこころみ、一九三二年にはスペインの闘牛のことを書いたノン・フィクション『午後の死』を、一九三五年にはアフリカの狩猟旅行を扱ったノン・フィクション『アフリカの緑の丘』を発表した。これは当時流行の政治的な左翼文学にたいするヘミングウェイの芸術至上主義的立場からのひとつの反抗の方法だったのだろう。
しかし、一九三六年、彼の愛する闘牛の国スペインに内乱が起こると、彼はそれまでのように社会に背を向けているわけにはいかなくなった。彼はファシズムに反対し、民主主義を守ろうと、活溌な活動にはいる。政府軍に傷病兵運搬車や医療品を提供しようと、四万ドルの金を集め、翌年二月にはアメリカ新聞連合の特派員となってスペインに渡り、政府軍の宣伝映画の製作に協力し、五月にはアメリカに帰って、ニューヨークの作家会議で反ファシズムの演説をぶち、八月、ふたたびスペインに渡り、革命軍に包囲されているマドリッドのホテルで彼の唯一の本格的な劇で、スペイン内乱を扱った『第五列』(一九三八年出版)を書いた。そして、一九三九年三月、内乱はファシストの革命軍の勝利に終わったが、ヘミングウェイはアメリカに帰り、一年以上もの歳月を費して、一九四〇年、ついに長篇の大作『誰がために鐘は鳴る』を書きあげ、民主主義への強い信念を表明した。
この長篇は爆発的な人気をよび、ベストセラーになったが、これが出てまもなく、ヘミングウェイはポーリンと離婚し、スペインで知りあっていた「コリヤーズ」の婦人記者マーサ・ゲルホーンと結婚して、二人で新聞記者として、日本と戦っていた中国へでかけた。
第二次大戦では、一九四一年、日本海軍が真珠湾を攻撃して、アメリカも参戦したが、その翌年にはドイツの潜水艦がしばしばカリブ海までやって来たので、ヘミングウェイは自家用の漁船「ピラー」号を改装し、これにラジオ・機関銃・バズーカ砲などを積みこみ、一九四四年の春までの二年間、九人の乗組員をひきいて、キューバ沿岸の警戒にあたった。一九四三年、妻のマーサが「コリヤーズ」の特派員として、ヨーロッパに出発したので、翌一九四四年の春、ヘミングウェイは同じ「コリヤーズ」のヨーロッパ関係の総主任という資格で、まずロンドンに行った。そのとき、報道写真家のロバート・キャパの家のパーティーに呼ばれての帰り、灯火管制中、自動車をぶつけて、「ヘミングウェイ死す」と新聞に報じられたが、じっさいは頭をけがしただけだった。そして、妻マーサが二度しか見舞いに来なかったのを「なんたる妻だ」と言っていきどおった。それは、この頃既に二人の間に冷たいすき間風が吹いていたからだろう。
六週間後、ノルマンディー上陸作戦が行なわれた。ヘミングウェイは第三軍所属の特派員としてこれに参加した。上陸後、もっとも活動的な部隊をと希望し、第一軍の第四歩兵師団に属し、将兵と行動を共にし、つねに部隊の先頭に立ち、みんなから「パパ・ヘミングウェイ」との愛称を受け、ときには報道員としてのわくを越え、みずから銃を手にしたこともあった。パリ解放の日には、彼は連合軍部隊の先頭に立っていた。冒険とスリルをこのうえなく好んでいたのだ。
一九四五年、大戦が終わり、帰国してキューバに居を定め、釣りをたのしみながら執筆にはげんだ。そして、この年の終わりにマーサと離婚し、翌年四月、メリー・ウェルシュと結婚した。メリーは「タイム」の記者で、一九四四年、ロンドンでヘミングウェイに会っていたし、パリ解放のときもいち早くやってきた記者の一人だった。これはヘミングウェイの四度目の結婚だったが、ヘミングウェイは結婚をまじめに考え、愛のないまま結婚生活をつづけることほどひどい罪悪はないという意見だった。
一九五〇年、『誰がために鐘は鳴る』以来十年ぶりで、長篇『河を渡って木立の中へ』を発表したが、評判は悪く、ヘミングウェイ衰えたりとの感を世人にいだかせた。翌一九五一年、母グレースがなくなったが、ヘミングウェイは手紙と金を送ったにとどまり、葬式には参列しなかった。
そして、翌一九五二年、『老人と海』が発表になった。すばらしく好評で、ピュリッツァ賞を受けた。この中篇小説は、魚を捕ることに生涯をかけた孤独な老漁夫の忍耐と勇気とをテーマにした象徴的な物語で、それはとりもなおさず、芸術の追求に生涯をかけた作者自身の内面的な物語と見ることができるものだった。
一九五三年夏、ヘミングウェイは十七年ぶりにスペインに旅行し、闘牛をたのしんだが、それから一九五四年のはじめにかけて、英領アフリカに廻り、狩猟旅行をした。ところが、途中、キリマンジャロの近くのジャングルの中に、チャーターしたセスナ機が墜落し、ヘミングウェイ絶望かとの新聞記事が出たが、こんども奇蹟的に助かり、世間に話題を投げた。かなりの重傷で、頭蓋骨の裂傷と火傷、それに腎臓《じんぞう》に切れ目ができ、脊椎《せきつい》にひびがはいった。そして、その年一九五四年十月、『老人と海』の成功を直接の契機として、ノーベル文学賞が授与されたが、スウェーデンでの受賞式には出席をとりやめた。右の飛行機事故による負傷がまだ充分治っていなかったからである。
ノーベル賞を受けて以来、ヘミングウェイはずっと、キューバのハバナにいたが、一九五九年、カストロのキューバ革命の成功にあい、カストロ嫌いの彼は、アイダホ州のケチャムに居を移した。創作力はかなり衰えを見せ、『老人と海』以来、ほとんどなにも発表せず、ただ、一九五七年、短篇『二つの闇の物語』、一九六〇年、闘牛士のことを語ったノン・フィクション『危険な夏』をそれぞれ雑誌に発表したにすぎなかった。そして、その年、一九六〇年の秋、高血圧の治療のため、ミネソタ州のメイヨ・クリニックに入院し、クリスマスにはいったん退院したのだが、翌一九六一年四月、再び入院した。ヘモクロマトスィスという、肝臓硬変をきたし、各種の器官の動きを停止させる、きわめて稀な病気のおそれもあった。六月の末には、いちおう退院が許され、七月一日、妻メリーのゆっくり運転する車でケチャムの山荘に帰ってきたのだが、以前は二二五ポンドあった体重が一五五ポンドとすっかりやせおとろえていた。そして、翌二日の日曜日の朝、七時半ごろ、銃声に驚いてメリー夫人が階下にかけつけたときには、ヘミングウェイは銃架の前に倒れ、顔全体が銃弾でふっとんでいた。ヘミングウェイは愛用の猟銃の銃口を口にくわえ、足で引き金を引いて自殺したのだった。それはこの勇気を愛する男性的な作家のまことに暴力的な死だった。
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『武器よさらば』について
『武器よさらば』は、ヘミングウェイの作家としての地位を確立した名作として、評判が高い。それは彼のほかのいくつかの作品と同じように、作者の自伝的色彩の濃いもので、第一次大戦のときの体験がそのまま利用されている。主人公のフレデリック・ヘンリーは、ヘミングウェイを思わせるアメリカの青年で、ヘミングウェイのようにイタリア戦線に志願し、傷病兵運搬車を指揮し、負傷し、勲章をもらい、ミラノの病院で看護婦と恋愛する。ただし、カポレットの退却は彼がイタリア戦線に参加する以前の事件だったし、恋人とのロマンティックなスイスへの逃避行などは作者のまったくの虚構である。実際は恋人の看護婦にプロポーズしたが、年上だからという理由で断わられている。
つまり、作者はおおくの傑作の場合のように、作者のリアルな体験をもとに、これに豊かな想像を加えて、傑作を生みだしているのだ。戦争と恋愛の物語として、または、戦争を背景とした恋愛小説として、あるいはまた、戦争という運命にもてあそばれる若い男女の恋愛物語として、多くの読者の共鳴をよんでいる。
われわれは、まず、『武器よさらば』のきわめて緊密な劇的な構成ということから見てみよう。つまり、この小説は五部からなっているが、この五という数字でわかるように、この五部は古典劇の五幕と比較されるものだ。古典劇では、第一幕に発端があり、第二幕でその事件が発展し、第三幕でクライマックスに達し、第四幕でその結果をうけて事態が解決に向かい、第五幕で結末に達する。ヘミングウェイはこの構成法を『武器よさらば』でちゃんと利用している。作者はこの作品を運命にもてあそばれる純愛物語という意味でシェイクスピアの『ロメオとジュリエット』にたとえているが、ここでは『武器よさらば』の五部を古典劇ではないが、『ロメオとジュリエット』の五幕と対比してみよう。この小説の劇的構成のたしかさがわかる。
『ロメオとジュリエット』では――
第一幕――ロメオとジュリエットが舞踏会でめぐりあう。
第二幕――二人は愛を告白し、ひそかに結婚する。
第三幕――ロメオ、争いにまきこまれ、ジュリエットの従兄《いとこ》を殺し、町から追放される。
第四幕――ジュリエット、父母から結婚を強制され、それをのがれるため、しばらく仮死の状態になる薬を飲む。
第五幕――ジュリエットがほんとうに死んだものと思い、ロメオそのかたわらで自殺。これを知り、ジュリエットもあとを追い自殺。
これにたいし、『武器よさらば』では――
第一部――冬。この物語の導入部。人びとは来るべき戦争の準備をしている。そして、主役のフレデリック・ヘンリーと相手役の看護婦のキャサリンがめぐりあう。しかし、戦場でのかりそめの恋愛で、まだほんとうの恋愛には高まっていない。やがて戦闘が開始され、フレデリックはひどい戦傷を受ける。これが事件の発端であり、この部分を支配しているものは、イタリア戦線の暗い死の世界である。
第二部――夏。事件の発展である。負傷したフレデリックはミラノの病院でキャサリンと真剣な恋愛をする。『ロメオとジュリエット』の場合のように、愛を告白し、ひそかに「結婚」する。この部分には明るい生の歓喜がみられる。
第三部――秋。クライマックスである。カポレットでのイタリア軍の総退却。フレデリックは戦線の混乱にまきこまれ、味方の憲兵に射殺されそうになったが、川に飛びこみ、軍隊を脱走する。ロメオが町から逃れたように、軍隊から逃れる。支配的な世界は暗い死の世界。それから生への脱走。
第四部――やはり秋。第三部をうけて、フレデリックはキャサリンをつれて、スイスへ逃避する。死をのがれて生を求める逃避行だ。
第五部――冬。結末の部分だ。スイスでの平和な生活と、それにつづくキャサリンのお産のための死。この部分は生の高揚から死の絶望へと唐突の転落があり、物語が終わる。
『武器よさらば』は、このように、古典劇の五幕という形式をかりて、緊張感のあふれた構成をもっている。しかも、右に指摘したように、はじめ冬にはじまり、やがて夏、秋、冬と一巡して、終わる。かつ、全体の調子は、死(暗)→生(明)→死(暗)→生(明)→死(暗)と、起伏あるものとなっている。こうしたことを考えてみると、この作品はまことに巧みに計算され構成されているというほかない。
では、こうした構成により、ヘミングウェイは『武器よさらば』で何を言おうとしたのだろうか。
『武器よさらば』は題名から推察されるように、反戦小説なのであろうか。あるいは、厭戦《えんせん》小説なのであろうか。なるほど、戦場の人びとは戦争を嫌悪している。戦争は愚かなものだと語っている。それに、カポレットの退却のシーンとか、憲兵たちの将校をやたらに射殺するシーンなど、反戦小説にふさわしい道具立てだ。しかし、この小説をよく読めば、それがたんに反戦小説とか厭戦小説といったものではないことは容易にわかる。
では、これは戦争を背景にしたロマンティックな恋愛小説だろうか。じじつ、二人の恋愛はまことに純な恋愛であり、ロマンティックな恋愛描写や会話が読者を強く引きつけている。しかし、ヘミングウェイの関心はロマンティックな恋愛そのものにあったのではない。もしそうなら、彼はこの小説を恋愛が達成された第四部、あるいは第五部のはじめの部分、つまりスイスで平和な生活を送るところで終えているはずである。ところが、作者は第五部において、キャサリンを殺し、この恋愛を破滅させている。つまり、二人の恋愛を悲劇に終わらせている。それは何故か。ヘミングウェイは『午後の死』という闘牛のことを書いたノン・フィクションのなかで「二人が愛しあえば、それには幸福な結末などはないのだ」と述べているし、この作品を執筆していたころ、父の自殺にあい、「人生は悲劇だ」と信じていたのだ。つまり、彼にはロマンティックな恋愛など、とうてい、信じられなかったのだ。
こう考えてくると、『武器よさらば』はロマンティックな道具立てがそろってはいるが、ロマンティックな物語どころか、逆に、ニヒリスティックな絶望の書なのだ。ロマンティシズムはニヒリズムの対比として利用されているにすぎないのだ。誠実な愛に生きようとするロマンティックな二人は、戦争という非人間的な宿命に、もろくも破れ去るのだ。そして、フレデリックはけっきょく「ぼくはいつも、神聖なとか、光栄あるとか、犠牲とかの言葉や、むなしくといった表現に、当惑した……ぼくは神聖なものは何も見たことがなく、光栄あるものも何の光栄でもなく……光栄とか名誉とか、勇気とか、神聖とかの抽象的な言葉は……卑猥《ひわい》だった」(第二十七章)とまで言い、すべてを否定する。そして、最後の唯一のよりどころと考えたキャサリンとの恋愛も、つまりは生理的な罠《わな》にすぎないことを知るのだ。彼女はその罠にかかって死んでしまうのだ。人間とは、フレデリックが病院で考えたように、焚火《たきび》の丸太にいっぱいむらがって右往左往している蟻のようなはかない存在にすぎなく、けっきょくは火のなかに落ちこんで、丸焼けになって死んでしまわなければならないものなのだ。フレデリックは「武器よさらば」と言って、軍隊を脱走してみたものの、つまり人為的な死から逃げだしてみたものの、恋人の死という、生理的な自然の暴力をまぬがれることはできなかったのだ。人間の力ではどうすることもできない冷酷な運命から逃れることはできなかったのだ。こう考えると、これはまさに人間そのものの悲劇なのである。
ヘミングウェイは、こうした彼の虚無感を描きだすのに、いわゆる「ハード・ボイルド・スタイル」といわれる有名な文体を用いて成功した。きわめてドライな文体なのである。感情を直接描くようないっさいの形容詞を排し、ぽきぽき折れるような乾いた短い文章をつぎつぎにつみ重ね、あくまでも客観的に、非情に、外面的な行動と具体的な事物のみをぐんぐんスピーディに写していく。それは、たとえば、第九章の最後で、主人公が負傷して車で運ばれるとき、上の担架からぽたりぽたり血がしたたってくるところの描写によく出ている。ことにその結びの文章、
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頂上の駐屯所で、その担架が運びだされ、代わりが入れられ、ぼくたちはどんどん進んでいった。
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といった、死んだ男の担架が事もなげに車から出され、つぎの担架が入れられるという、すさまじい暴力にたいしてなんらの感情をもまじえず、ただたんたんと行動と事物をのみ描いていく非情な書き方とか、第三十章で、退却の途中、部下が味方の流れ弾丸にあたって死ぬところ、
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アイモは線路を横ぎろうとするとき、よろめき、つまずき、うつ伏せに倒れた。ぼくたちは土堤の反対側に彼をひきずりおろし、あおむけにしてやった。……彼は……不規則に血を噴いていた。……弾丸は……貫通し、右眼の下からぬけていた。
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といった描写とか、最後の第四十一章で、キャサリンが死ぬところ、
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出血がつぎつぎにあったようだ。……ぼくは部屋にはいり、キャサリンが死ぬまでそばにいた。彼女は、ずうっと意識がなく、死ぬまでたいして時間はかからなかった。
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という感情をまったく排除した文章、そして、最後のあまりにも有名なところ、
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まるで彫像に別れを告げるようなものだった。しばらくして、ぼくは病室を出、病院をあとに、雨のなかをホテルへ歩いて帰った。
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という文章に、その「ハード・ボイルド・スタイル」の特色がよくでている。感情が当然高まっているはずのところで、逆に、感情をあらわす修飾語をまったく用いず、しかも、感情を抑制しているために、かえって、その感情が読者の胸にじかにはげしく迫ってくるわけだ。そして、こうしたドライな、読者をつっぱなしたような文体そのものが、主人公たちの絶望し虚無になったドライな気持ちときわめてよく調和して、この作品を傑作にしているのだ。
ヘミングウェイは、また、『武器よさらば』において、右に引用した「雨のなかをホテルへ歩いて帰った」という文章にもあるように、「雨」という背景描写のイメージを象徴的に用いて効果をあげている。
その「雨」は既に多くの文学作品で使い古されたイメージなのだが、この作品では、まず第一章から雨が降る。そして、長雨とともにコレラが流行し、七千人の兵士が死ぬ。それから、第二部の終わりで、フレデリックが再び前線に行くためキャサリンと別れるとき、雨。ここでは日が暮れて暗く、雨は執拗に降りつづく。それからカポレットの退却のときも、雨。くりかえし雨の描写がある。こうして、しだいに雨は不幸の象徴のように思われてくる。そして、あるとき、キャサリンはフレデリックに雨をおそれていると告げる。「あたし雨がこわいのは、ときどきそのなかであたしが死んでいるのが見えるからよ」と言う。この言葉は、雨のなかになにか不吉なもののあることを感じさせる。――そして、じじつ、キャサリンは最後のシーンで雨のなかで死んでいく。――やがて、軍隊を脱走したフレデリックをとらえようと追手がくる。追手をのがれて、スイス領へボートで逃げるときも、雨。暴風雨の夜だ。そして、いよいよ悲劇の大団円の最後の章では、キャサリンが病院でお産で苦しみだすと、雨。そして、赤ん坊が死んで生まれたときにも「ぼくは……暗闇と、窓からの明かりを横ぎって降る雨のほかは、何も見えなかった」とあるが、ここでは「雨」はすでにひとつの象徴としてフレデリックの心に焼きついているのである。そして、キャサリンも死ぬ。そして――
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しばらくして、ぼくは病室を出、病院をあとに、雨のなかをホテルに歩いて帰った。
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これが『武器よさらば』の最後の文章になっている。しかも、この「雨」という言葉がきわめて効果的に用いられているのだ。(原文では「雨」という語がこの文章の最後、つまり、この小説の最後におかれているのだ)作者は絶望したフレデリックの心理を説明したり、分析したりはしない。ただ、最後に「雨のなかを」と客観描写するだけである。しかし、「雨」の象徴がここにくるまでに凝結しているから、フレデリックの気持がじゅうぶんに読者に伝わるのだ。作者は人生にたいする絶望と虚無を最後の「雨のなかを」の一句で端的に表現しているのだ。こうして、ヘミングウェイは「雨」によって『武器よさらば』全体を貫く絶望感を象徴的に描き、物語に深みをあたえることに成功しているのだ。
「雨」のほかに、それと正反対の「太陽」のイメージもある。それは幸福の象徴として使われ、キャサリンが現われると、太陽がかがやき、あたり一面が明るくなる。また、「雨」と対比的に「雪」のイメージがある。これはすべてを平和に暖かくつつむものの象徴となっている。第二章でフレデリックはあたりの雪景色を眺め、「雪の季節になったので、もう攻撃はやらないでしょうね」と言うし、第五部のはじめでは、二人は雪の山なかで静かに出産を待っている。そして、雪がとけ、それと対照的な雨になったとき、山をおりて病院に向かうのだ。
ヘミングウェイはこのほか、さまざまな巧みなテクニークを用いた。たとえば、登場人物の多くは盛んに飲み、食う。それは考えることを拒否した人の行為として細かく描かれているわけだ。見方によれば、あまりにも計算しすぎるといわれるかもしれないが、しかし、その計算はたいして表面には現われてこない。技巧として読者に意識させない技巧、それをヘミングウェイはこの作品のなかにふんだんに用いて、この作品を傑作にしているのだ。
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年譜
一八九九年(明治三十二年) 七月二十一日、イリノイ州のシカゴの郊外オーク・パークに生まれた。長男。父クラレンス・エドモンズは医師で、魚釣り、狩猟を好み、母グレース・ホールは音楽を好んだ。
一九〇一年(明治三十四年 二歳) 父から釣り道具をあたえられた。このころから一家はミシガン州北部のワルーン湖畔の別荘で夏を過ごすようになった。
一九〇九年(明治四十二年 十歳) 誕生日に父から猟銃をあたえられた。
一九一三年(大正二年 十四歳) 秋、オーク・パーク・ハイ・スクール入学。在学中は学校の週刊誌を編集し、文芸誌に寄稿した。また、水泳やフットボールの選手もした。
一九一七年(大正六年 十八歳) 六月、ハイ・スクール卒業、兵役を志願したが、父の反対にあい断念。秋、「キャンザス・シティ・スター」紙の記者となる。
一九一八年(大正七年 十九歳) 四月、「スター」社を退き、イタリア軍付き赤十字要員の募集に応じ、五月、ニューヨークを出発、六月、パリを経てミラノに着く。七月九日早朝、北イタリアのフォッサルタ・ディ・ピアーヴェで脚部に重傷を負い、ミラノの陸軍病院に三ヵ月入院。このとき、アメリカ人の看護婦アグネス・フォン・クロスキーと恋愛。退院後、ふたたびイタリア軍に所属する。十一月、休戦。
一九一九年(大正八年 二十歳) 一月、故郷オーク・パークに復員。
一九二〇年(大正九年 二十一歳) 一月から五月まで、カナダのトロントで、「トロント・スター・ウィークリー」「トロント・デイリー・スター」に関係。秋、シカゴに行き、「アメリカ生活協同組合」の月報を編集。冬、シャーウッド・アンダソンと知り合う。
一九二一年(大正十年 二十二歳) 春、ふたたび「トロント・スター・ウィークリー」に関係、「署名入り」執筆者となる。九月、セント・ルイス生まれで八歳年上のハドレー・リチャードソンと結婚。十二月、前記トロントの二つの新聞の特派員としてパリに渡る。
一九二二年(大正十一年 二十三歳) 三月、アンダソンの紹介状をもって、パリにいたアメリカの女流作家ガートルード・スタインを訪れ、詩人のエズラ・パウンドとも知り合う。秋、ギリシア・トルコ戦争とローザンヌの講和会議を報道。妻ハドレーがローザンヌに行く途中、それまで彼が書きためてあった、長編一、短編十八、詩三十の原稿のはいったスーツケースを盗まれる。
一九二三年(大正十二年 二十四歳) ルール地方の報道を終えパリに帰る。七月、『三つの短編と十の詩』をパリで処女出版。九月、トロントに帰る。十月、長男ジョン誕生。十二月、「トロント・デイリー・スター」をやめる。
一九二四年(大正十三年 二十五歳) 一月、パリに戻り、小品集『ワレラノ時代ニ』を出版。夏、スペインを旅行し、パンプローナで闘牛を見物し、闘牛に興味をいだく。
一九二五年(大正十四年 二十六歳) 五月、パリでアメリカの流行作家だったスコット・フィッツジェラルドと知り合う。七月、『日はまた昇る』に着手。十月、アメリカで短篇集『われらの時代に』を出版。
一九二六年(昭和元年 二十七歳) 五月、『春の奔流』を、十月、『日はまた昇る』を出版。いわゆる「失われた時代」を代表する作家として名声をあげた。
一九二七年(昭和二年 二十八歳) 一月、すでに別居していたハドレーと正式に離婚。夏、「ヴォーグ」誌のパリ駐在の記者でセント・ルイス出身のポーリン・プァイファーと再婚。ポーリンは熱心なカトリック教徒で、彼はこのときカトリックに改宗する。第二短編集『女のいない男たち』を出版。
一九二八年(昭和三年 二十九歳) 『武器よさらば』の執筆にとりかかり、パリからアメリカに帰って、フロリダ州キー・ウェストに居をさだめる。一九三八年までここに居住。六月、次男パトリック誕生。十二月六日、父、オーク・パークでピストル自殺。このころ『武器よさらば』は一応脱稿され、手を加えられていた。
一九二九年(昭和四年 三十歳) 『武器よさらば』を「スクリブナーズ・マガジン」に連載。さらに手をいれ、九月、単行本として出版。四ヵ月に八万部という、すばらしい売れ行きで、作家としての地位を確立する。
一九三〇年(昭和五年 三十一歳) 十一月、ドス・パソスと同行中、自動車事故で負傷し、モンタナ州の病院に入院。
一九三一年(昭和六年 三十二歳) 夏、スペインに旅行し、闘牛案内書といえる『午後の死』を執筆。
一九三二年(昭和七年 三十三歳) 九月、『午後の死』を出版。三男グレゴリー誕生。
一九三三年(昭和八年 三十四歳) 十月、第三短編集『勝者には何もやるな』を出版。十一月、夫人同伴で東アフリカに狩猟旅行に出かける。
一九三四年(昭和九年 三十五歳) アフリカ旅行中、アメーバ赤痢にかかる。全快後ふたたび狩猟旅行をつづけ、四月、帰国。「コズモポリタン」に『持つこと持たざること』の第一部になる「ある渡航」を発表。ハバナ付近で素人釣り最大のマグロを釣り、ネオマリンテ・ヘミングウェイの学名を付与される。
一九三五年(昭和十年 三十六歳) 海釣りや、ボクシングに凝る。十月、アフリカ旅行記『アフリカの緑の丘』を出版。
一九三六年(昭和十一年 三十七歳) 七月、スペイン内乱にあたり、政府軍援助のため四万ドルを個人で調達、医療援助のため献金。『持つこと持たざること』の第二部になる「商人の帰還」を「エスクワイア」二月号に発表。アフリカ旅行の経験をもとにした短編「キリマンジャロの雪」を「エスクワイア」八月号に、「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」を「コズモポリタン」九月号に、それぞれ発表。
一九三七年(昭和十二年 三十八歳) 一月、「アメリカ、スペイン民主主義友好協会」などを主宰。NANA(北米新聞連合)の特派員となり、三月、フランスを経て、スペインに渡る。帰国後、六月、全米作家会議で、「作家と戦争」と題する反ファシズムの演説をする。八月、ふたたびスペインにNANA特派員として戻る。このとき、マドリードで、劇「第五列」を書き、女流作家で「コリヤーズ」の特派員としてここに来ていたマーサ・ゲルホーンと恋愛。十月、『持つこと持たざること』出版。
一九三八年(昭和十三年 三十九歳) 一月、帰国。三月、スペインへ。五月、帰国。九月、スペインへ。六月、『スペインの土地』(映画の台本に従軍記を加えたもの)を出版。十月、『第五列と最初の四十九の短編』を出版する。
一九三九年(昭和十四年 四十歳) 『誰がために鐘が鳴る』の執筆にとりかかる。
一九四〇年(昭和十五年 四十一歳) 十月、『誰がために鐘は鳴る』を出版。初版七万五千部。ベストセラーとなる。「第五列」ニューヨーク・シアター・ギルドで上演。十月、ポーリンと離婚し、マーサ・ゲルホーンと三度めの結婚。
一九四一年(昭和十六年 四十二歳) 日中戦争の特派員として中国方面をマーサと旅行し、のち、ハバナの近郊サン・フランシスコ・デ・ポーラの丘の上に眺望農園という意味のフィンカ・ヴィギアという名の屋敷に居を定める。
一九四二年(昭和十七年 四十三歳) 夏、自家用の漁船「ピラー号」を改装、一九四四年春まで二年間、キューバ近海でドイツ軍潜水艦探索に従事する。『戦う人びと』という戦争小説集を編み、出版する。
一九四四年(昭和十九年 四十五歳) 「コリヤーズ」誌特派員として第三軍に所属。五月、ロンドンで自動車事故にあい、頭部を負傷。六月、ノルマンディ上陸作戦で第一軍第四歩兵師団に転じ、フランスのゲリラ隊とともにパリに進駐。兵士たちからパパの愛称を受ける。
一九四五年(昭和二十年 四十六歳) 三月、帰国。十二月、マーサと離婚。
一九四六年(昭和二十一年 四十七歳) 四月、ミネソタ州生まれの、「タイム」誌の特派員メリー・ウェルシュと四度めの結婚。(一九四四年、滞英中に知り合った)
一九四七年(昭和二十二年 四十八歳) 戦時報道員としての勲功にたいし、ブロンズ・スター勲章を授与される。
一九四八年(昭和二十三年 四十九歳) キューバで執筆に専念する。
一九四九年(昭和二十四年 五十歳) イタリアに滞在。猟銃によるけがで眼をわずらい、一時は生命を危ぶまれる。
一九五〇年(昭和二十五年 五十一歳) イタリアを舞台にした『河を渡って木立のなかへ』を「コズモポリタン」の二月号から六月号まで連載。九月、単行本として出版。評判は良くない。
一九五一年(昭和二十六年 五十二歳) 『老人と海』を執筆。母を失う。
一九五二年(昭和二十七年 五十三歳) 『老人と海』を「ライフ」の九月一日号に全編一挙に掲載し、同月八日、単行本として出版。たちまち評判となり、五十二年度のピュリッツァ賞を受ける。
一九五三年(昭和二十八年 五十四歳) 夏、スペインへ。秋、夫人同伴でアフリカ旅行に出発。十二月、ケニヤに至る。
一九五四年(昭和二十九年 五十五歳) 一月、英領ウガンダのマーチソン滝付近で飛行機事故にあい、あやうく一命をとりとめた。四月、アメリカ・アカデミー賞を授与される。一九五四年度のノーベル文学賞を受賞。
一九五五年(昭和三十年 五十六歳) ほとんどハバナの自宅で執筆をつづける。
一九五九年(昭和三十四年 六十歳) 夏、夫人同伴でスペインに旅行し、闘牛見物をたのしむ。秋、狩猟のため、アイダホ州サン・バレーに行く。
一九六〇年(昭和三十五年 六十一歳) 春、アイダホ州ケチャムに居を移す。九月、「ライフ」に闘牛を題材にした「危険な夏」を三回にわたって連載。高血庄と糖尿病のために、十一月三十日、ミネソタ州ロチェスターのメイヨー・クリニックに入院。クリスマスに、いちおう、退院。
一九六一年(昭和三十六年 六十二歳) 健康すぐれず、四月末、ふたたび入院。六月末、退院。七月二日朝、ケチャムの自宅で、愛用の猟銃で頭を打ちぬいて死ぬ。
一九六四年(昭和三十九年) 遺稿『移動祝祭日』出版される。
一九六七年(昭和四十二年) 報道記事集『バイライン・アーネスト・ヘミングウェイ』出版される。
一九七〇年(昭和四十五年) 遺稿長編『海流のなかの島々』出版される。
一九七九年(昭和五十四年)『全詩集』出版される。
一九八一年(昭和五十六年)『手紙抄』出版される。
一九八六年(昭和六十一年)遺稿長篇『エデンの園』出版される。
一九八七年(昭和六十二年)『全短編集』出版される。
〔訳者紹介〕
高村勝治《たかむらかつじ》一九一六年石川県生まれ。東京文理大、ブラウン大卒。筑波大名誉教授。文学博士。共立女子大特任教授。著書、「現代アメリカ小説序論」「ヘミングウェイ」「英米現代詩の鑑賞」ほか。