日はまた昇る
ヘミングウェイ/高村勝治訳
目 次
第一部
第二部
第三部
解説
年譜
[#改ページ]
[#地付き]「あなたがたは みんな 失われた世代ですね」
[#地付き]――ガートルード・スタインの話した言葉
「世は去り世は来《きた》る 地は永久《とこしなえ》に長存《たもつ》なり 日は出《い》で日は入り またその出《いで》し処《ところ》に喘《あえ》ぎゆくなり 風は南に行き又|転《まわ》りて北にむかひ 施転《めぐり》に施《めぐ》りて行き 風|復《また》その施転《めぐ》る処にかへる 河はみな海に流れ入る 海は盈《みつ》ること無し 河はその出《いで》きたれる処に復還《またかえ》りゆくなり」
[#地付き]――「伝道之書」
[#改ページ]
第一部
第一章
ロバート・コーンは、以前、プリンストン大学のミドル級のボクシングのチャンピオンだった。そんなボクシングのタイトルにぼくがひどく感心していると思われては困るのだが、それはコーンには非常に意味のあることだった。彼はボクシングなどまるで好きではなかった。むしろ、嫌いだったのだが、プリンストン大学でユダヤ人扱いされたために生まれた劣等感と内気な性格を追っぱらおうと、ボクシングを苦しみながら徹底的に習ったのだ。生意気なやつは誰でもノック・ダウンできるんだと思うと、少しは気がはれた。もっとも、すごく内気で、根っからいい青年だったから、体育館の外では一度もなぐり合いなどしたことはなかった。彼はスパイダー・ケリーのお気に入りだった。スパイダー・ケリーは若い弟子に、百五ポンドだろうが、二百五ポンドだろうが、かまわず、フェザー級のようなボクシングをするように教えた。だが、それがコーンにぴったりあったようだった。彼は、実際、とてもすばやかった。すごく上手だったので、すぐに自分より上のクラスの者と組まされてしまい、鼻を永久につぶしてしまった。そのためコーンはボクシングがますます嫌いになったのだが、ある種の妙な満足感を持つようになった。たしかに彼のユダヤ鼻はつぶれたおかげで、すこしはかっこうよくなった。プリンストンでの最後の年に、彼は本を読みすぎて眼鏡をかけるようになった。ぼくは、彼をおぼえている級友に一人もあったことがなかった。彼らは彼がミドル級のボクシングのチャンピオンだったことを思いだしさえしなかった。
ぼくはあけっぴろげで単純な人を信用しない。特に彼らの話のつじつまがあっているときはそうだ。それで、ぼくは、たぶんロバート・コーンがミドル級のボクシングのチャンピオンだったことは一度もなかったんだ、たぶん馬が顔をふみつけたか、たぶん母親がびっくりしたのか、なにかを見たのか、たぶん幼児のときなにかにぶつかったせいだと、いつも思っていたが、とうとう、ある男にスパイダー・ケリーに会ってその話を確かめてもらった。スパイダー・ケリーはコーンをおぼえているばかりではなかった。彼はしばしば、コーンがどうなったか、気にかけていたのだった。
ロバート・コーンは父がたの家系では、ニューヨークの指折りの金持のユダヤ人の家族の一員だったし、母がたの系統では、もっとも古い家柄の一員だった。軍隊式の私立の大学予備校で、プリンストンへはいる準備をし、フットボールのチームでエンドとして活躍したが、そこでは、だれも彼に人種意識をおこさせなかった。だれも彼にユダヤ人だと感じさせなかったので、プリンストンに行くまで、ほかの連中と少しも変わっているとは思わなかった。彼はいい青年で、人づきあいがよく、すごく内気だったため、ユダヤ人だったことで、にがい思いをした。彼はボクシングでそのうさばらしをし、いたいたしい自意識をいだき、つぶれた鼻のまま、プリンストンを出、やさしくしてくれた最初の女と結婚した。結婚して五年で、三人の子供ができ、父親の残した五万ドルの大部分を使いはたし、不動産の残りが母親のものになったので、金持の妻との暮らしの不幸な家庭生活のために、ひどく魅力のないタイプになっていた。そして、妻をすてようと決心したとたん、妻のほうが彼をすて、細密画の絵描きと駈落ちした。妻と離婚しようと何カ月も考え、やっかいばらいするのもあまりに残酷だろうとがまんしていたのだから、彼女の家出はショックだったが、気がせいせいした。
離婚が成立し、ロバート・コーンは太平洋岸へ出かけた。カリフォルニアで、文学仲間と付き合い、例の五万ドルのうちいくらかがまだ残っていたので、すぐに芸術雑誌のパトロンになった。その雑誌はカリフォルニア州のカーメルで創刊し、マサチューセッツ州のプロヴィンスタウンで廃刊になった。コーンははじめは純粋にパトロンだと思われ、顧問の一人として編集者名欄にその名がでていただけだったのだが、そのころには、ただ一人の編集者になっていた。これは金があったためにそうなったのだが、編集という権威が好きだということがわかってきた。雑誌があまり費用がかさみすぎ、やめなければならなくなったときは、残念がった。
もっとも、そのころには、ほかに心配ごとができていた。その雑誌で名を売ろうと思ったある貴婦人につかまっていたのだ。彼女はすごく強引で、コーンは彼女からのがれるわけにはいかなかった。それに、彼女をたしかに愛していた。雑誌が成功しそうもないと見てとると、このご婦人はコーンにちょっと嫌気がさして、なにか利用できるものがあるあいだに、とれるものはとったほうがいいと決め、ヨーロッパに行けば、書けると、コーンにすすめた。二人はその貴婦人が以前に教育をうけたというヨーロッパに出かけ、三年間過ごした。はじめの一年は旅行し、あとの二年はパリで暮らしたが、この三年のあいだに、ロバート・コーンは二人の友人、つまり、ブラドックスとぼくをえた。ブラドックスは文学の友だちだった。ぼくはテニスの友だちだった。
彼をつかんだご婦人は、フランセスという名だったが、二年目の終わりごろ、自分の容貌が衰えていくのに気がつき、ロバートにたいする態度を、無造作な所有と利用から、どうしても結婚してくれという決心に変えた。この間に、ロバートの母親は月約三百ドルを彼に支給することを決めた。二年半は、ロバート・コーンはほかの女には目もくれなかったようだ。ヨーロッパに住んでいる多くの人々のように、アメリカにいればよかったと思ったほかは、かなり幸福で、書くことを知ったのだった。彼は長編小説を書いた。すごくまずい小説だったが、批評家がのちに評したほど実際はひどい作品でもなかった。たくさん本をよみ、ブリッジをやり、テニスをし、近所のジムでボクシングをやった。
ある晩、ぼくたち三人がいっしょに夕食をしたあと、彼に対するこのご婦人の態度に、ぼくははじめて気がついた。ぼくたちはラヴェニューで食事をし、それからカフェ・ドゥ・ヴェルサイユへコーヒーをのみに行った。コーヒーのあとで、フィーンヌ〔甘口のリキュールブランデー〕を何杯か飲んだ。ぼくは帰らなければならないといった。コーンはぼくたち二人で週末の旅行にどこかへ行こうと話していた。彼は町を出て、気持よく歩きたかったのだ。ぼくはストラスブールへ飛行機で行って、サン・トディールか、アルザスのどこかへ歩いて行こうと提案した。「ストラスブールでは町を案内してくれる女の子を知ってるよ」とぼくはいった。
だれかがテーブルの下でぼくを蹴った。偶然に足があたったのだと思い、ぼくは話しつづけた。「二年もあそこにいるから、町で見るべきものはなんでも知っている。すてきな娘《こ》だぜ」
テーブルの下でまた蹴られたので、見ると、ロバートの恋人のフランセスが顎《あご》をあげて、顔をこわばらせていた。
「おいっ」とぼくは言った。「ストラスブールじゃなくてもいいぜ。ブリュージュ〔ベルギー北西部の都市〕か、アルデンヌ〔フランスとベルギーの間の山間地帯〕でもいいんだ」
コーンはほっとした顔をした。ぼくはもう蹴られなかった。おやすみ、と言って外へ出た。コーンは新聞を買いたいから角までいっしょに行こう、と言った。「ねえ君」と彼は話しかけてきた。「なぜストラスブールのあの女のことなんか言いだすんだい? フランセスの顔が見えなかったのか?」
「ううん、見えるわけないじゃあないか? ストラスブールに住んでいるアメリカの女の子を知ってたって、フランセスにどうだっていうんだい?」
「同じことだよ。どんな女だって。ぼくは行けないよ」
「ばかなこと言うな」
「君はフランセスを知らないんだよ。女ってものを知らないんだ。あいつの顔が見えなかったかい?」
「まあ、いいや」とぼくは言った、「サンリス〔パリから東北三十二マイルの町〕に行こう」
「怒るなよ」
「怒っちゃいないよ。サンリスはいいとこだし、グラン・セールに泊って、みんなでハイキングして、帰ってこれるよ」
「よし、そいつはいい」
「じゃあ、あした、テニス・コートで会おう」とぼくは言った。
「おやすみ、ジェイク」と彼は言って、カフェへもどりかけた。
「新聞を忘れてるぜ」とぼくは言った。
「そうか」彼は角の新聞売店にぼくと歩いていった。「怒っちゃいないだろうね、ジェイク!」彼は手に新聞をもってふりむいた。
「いや、怒るもんか」
「じゃあ、テニスで」と彼は言った。ぼくは彼が新聞をかかえてカフェにもどるのをじっと見ていた。ぼくはどちらかといえば彼が好きだったが、どうやら彼女は彼を尻にしいているようだった。
第二章
その冬、ロバート・コーンは自作の小説をもってアメリカへ渡ったが、かなりよい出版社が出版をひきうけてくれた。彼のアメリカ行きは、ひどい騒動を起こしたということだが、フランセスが彼を失ったのはそのときだったと思う。というのは、ニューヨークでは何人かの女が彼に親切にしてくれ、帰ってきたときは、彼はすっかり変わっていた。これまで以上に、アメリカに夢中になっていたし、それほど単純でもなく、いい男でもなくなった。出版社が彼の小説をかなり高くかったので、それにのぼせあがっていたのだ。それから、何人かの女が彼に親切にするようになったので、彼の視野はすっかり変わっていた。四年間というもの、彼の視野はまったく妻に限られていた。それからの三年間、いやほとんど三年間というもの、彼はフランセス以外は見なかった。生涯に一度も恋愛したことがなかったことは確かだ。
彼はみじめな大学でのひどかった時代への反動として結婚したのだし、フランセスは、彼が最初の妻にとってすべてではなかったことを自覚したための反動によって、彼をつかんだのだった。彼は恋愛したわけではなかったが、自分が女にとって魅力のある男であり、女が自分を好きになって、いっしょに暮らしたがっているという事実は、たんなる天与の奇蹟ではないということを悟っていた。そのため彼は変わり、つきあってもあまり楽しくなくなった。そのうえ、ニューヨークの親類の人達とひどくむちゃなブリッジをやり、払いきれない賭金をかけて、運よくいいカードを手にし、数百ドルも、もうけた。そのため、ブリッジをひどく得意にし、いよいよというときは、いつでもブリッジをやれば暮していけると、何度も言っていた。
それから、またこんなこともあった。彼は、W・H・ハドソン〔一八四一〜一九二二。南米生まれのイギリスの小説家〕を読んでいた。といえば、罪のないようにきこえるが、コーンは『紫の国〔一八八五年出版のハドソンのロマンチックな処女作〕』をくりかえし読んだ。『紫の国』は年をとりすぎてから読むと、ひどく悪い本だ。風景は非常によく描かれているが、きわめてロマンティックな国での、生粋《きっすい》のイギリス紳士のすばらしい空想の恋の冒険を物語っているものだ。三十四歳の男がこれを人生の案内書とするのは、同じ年の男がそれより実際的なアルジャー〔一八三四〜九九。アメリカの児童読み物の作者、百十九冊もの本を書き、児童読み物界を風靡《ふうび》した。ユニテリアン派の牧師〕の本が全部そろっているフランスの修道院をでてウォール街に行くのと同じくらい不安なものだ。コーンは、『紫の国』の言葉を、一つ一つ、R・G・ダン〔一八二六〜一九〇〇。アメリカの実業家。一八九三年以来、業界の週刊誌を出す〕の報告書のように、文字どおりにとったのだと思う。おわかりになっていただけると思うが、彼はいくぶんかは割引いていたのだが、全体として、その本は彼には信頼できるものと思われた。彼を変わり者にするにはそれで充分だった。ぼくは、ある日、彼がぼくの事務所にはいってくるまで、彼がどれほど他の人とちがっているか本当にはわからなかった。
「やあ、ロバート」とぼくが言った。「ぼくをはげましに来たのかい?」
「南米に行きたくないか、ジェイク?」と彼がたずねた。
「いや」
「どうして?」
「わからないね。行きたいと思ったことなんかなかったからね、金がかかりすぎるよ。どうせ、パリにいても、あいたい南米人にはあえるんだぜ」
「やつらは本物の南米人じゃあないよ」
「ぼくにはいかにも本物らしく見えるぜ」
ぼくは一週間分の記事を臨港列車に間にあわせなければならなかったが、半分しか書いていなかった。
「なにか面白い噂はないか?」とぼくはきいた。
「ないね」
「君の親類で身分の高いやつでも離婚しないかな?」
「しないね。いいか、ジェイク、ぼくが二人分の費用をだせば、いっしょに南米に行くかい?」
「どうしてぼくと行きたいんだ?」
「君はスペイン語ができるからね。それに、二人だと、ずっと面白いだろう」
「だめだ」とぼくは言った。「ぼくはこの町が好きだし、夏にはスペインに行くから」
「以前からずっと、そうした旅行に行きたかったんだ」とコーンが言った。彼は腰をおろした。「それができないうちに、ぼくは年とっちゃうんだろうな」
「ばかなことをいうな」とぼくは言った。「君は好きなところに行けるよ。たくさん金があるじゃないか」
「ああ。でも、きっかけがないんだ」
「元気をだせよ」とぼくは言った。「どんな国でもみんな映画で見るみたいなもんだよ」
だが、ぼくは悪いことを言ってしまった。彼はぼくの返事で気を悪くした。
「ぼくの人生がすごく早く過ぎていって、本当の生き方をしていないんだと思うと、ぼくはたえられないよ」
「誰だって、闘牛士でなけりゃあ、自分の人生をとことんまで生きやしないさ」
「闘牛士には興味はないよ。あれは気違いじみた生き方さ。ぼくは南米の田舎《いなか》にひっこみたいんだ。すばらしい旅行ができるぜ」
「英領の東アフリカへ狩猟に行こうって考えなかったのかい?」
「いや、それは気が向かないんだ」
「あそこなら、いっしょに行くよ」
「いや、そいつには興味がないんだ」
「それは、君がまだ本で読んだことがないからだ。美しい黒びかりのするお姫さまとの恋愛物語がいっぱい書いてある本でも、行って読んでみろよ」
「ぼくは南アメリカへ行きたいんだ」
彼はユダヤ人の頑固で強情な気質をもっていた。
「下に行って、一杯やろう」
「仕事じゃないのかい?」
「いいや」とぼくは言った。ぼくたちは階段をおりて、一階のカフェに行った。これが友人を追っ払ういちばんいい方法だと、ぼくは知っていたからだった。一杯飲んで、「さてと、帰って海外電報をうたなきゃならない」と言いさえすれば、それでよかった。新聞の仕事ではそんなふうにうまい逃げ口上をみつけることが非常に大切だった。仕事なんかしてないようにみえることが職業倫理上大切な一面だ。とにかく、ぼくたちは階下の酒場に行き、ウィスキー・ソーダを飲んだ。コーンは壁の棚にある酒壜を見た。「いいとこだね」と彼はいった。
「酒がたくさんあるね」とぼくが相槌をうった。
「ねえ、ジェイク」と彼はカウンターの上にのりだした。「人生がどんどん過ぎさろうとしているのに、それを利用していないんだって考えたことないかい? もう自分の人生のほとんど半分も過ぎちゃったことに気がつくだろ?」
「うん、ときにはね」
「もう三十五年もしたら、死んじゃってるとは思わない?」
「何いってるんだ、ロバート」と、ぼくはいった。「何を」
「まじめなんだぜ」
「そんなこと、気にしないよ」とぼくがいった。
「すべきだよ」
「いつだって、気にすることがたくさんあるんだ。気にしなくなったよ」
「とにかく、南米へ行きたいよ」
「おい、ロバート、よその国へいったって同じだよ。そんなことはみんなやってみたんだ。ひとつのとこからよそへ移ってみたって、君自身からは逃げられないんだよ。どうにも処置なしさ」
「だけど、南米には行ったことないんだろ」
「南米なんてくそくらえだ! いまみたいな気持で行ったって、まったく同じさ。ここはいい町だよ。なぜパリで生活をはじめないんだ?」
「パリにいやけがさしてるんだ。カルチェ・ラタンにいやけがさしてるんだ」
「カルチェから離れてろよ。ひとりで歩きまわって、なにか起こるかみるんだな」
「なにも起こらないよ。ひと晩じゅうひとりで歩きまわったが、自転車に乗った巡査にとめられて、身分証明書をみせろっていわれただけさ」
「夜の町は面白くないのか?」
「パリが嫌いなんだ」
それでわかった。ぼくは気の毒になったが、南米がどうにかなるということと、パリが嫌いだということのこの二つの強情な壁にいきなり突きあたってしまうから、どうしようもなかった。はじめの考えは本から得た、そして、第二の考えも本からきたらしい。
「さて」とぼくは言った、「上へあがって、海外電報をうたなきゃ」
「ほんとに行かなきゃならないのかい?」
「うん、うたなきゃならない」
「上へ行って、事務所で腰かけてても、いいかい?」
「いいよ、こいよ」
彼は控室に腰かけ、新聞を読んだ。編集者兼発行人のぼくは二時間せっせと働き、それから、カーボンの通信をよりわけ、バイライン〔記事表題下の筆者名をしるす署名欄〕にスタンプをおし、大きなマニラ紙の封筒の二つに原稿をつめこみ、ベルを鳴らして、ボーイにサン・ラザール駅にもっていかせた。控室にでていくと、ロバート・コーンが大きな椅子で眠っていた。両腕に顔をよせ、眠っていた。おこしたくなかったが、事務所に鍵をかけて、でたかった。肩に手をおいた。彼は頭をふった。「できない」と言って、ますます深く腕のなかにもぐりこんで、「できないよ。どうしても、だめだ」
「ロバート」とぼくは言って、肩をゆすった。彼は顔をあげた。笑って、まばたきした。
「いまなにか大声で言ったかい?」
「なにか言った。でも、よくわからなかった」
「ちえっ、いやな夢だった!」
「タイプライターの音で眠ったのかい?」
「そうらしい。ゆうべはちっとも眠れなかったんだ」
「どうした?」
「しゃべってたんだ」と彼はいった。
ぼくは想像できた。ぼくは友人たちの寝室の光景を想像する悪い癖をもっている。カフェ・ナポリタンへいって、アペリティーフ〔食前にとる少量の酒〕をのみ、夕暮れの|大通り《ブルヴァール》をゆきかう人の群れをながめようと、表へ出た。
第三章
暖かい春の宵、ぼくはロバートが帰ったあと、ナポリタンのテラスのテーブルに向かって腰かけ、暗くなって、ネオン・サインがつき、赤と緑のゴー・ストップの信号や、通りすぎる人の群れや、混み合ったタクシーのそばをごとごと走る馬車や、夕食にありつこうと、一人か、二人づれで歩いている淫売婦たちをながめていた。器量のいい子がテーブルのそばを通りすぎるのをながめ、彼女が通りの向こうに行き、みえなくなるまでながめ、また、別の女をながめ、やがて、最初の女がまたもどってくるのを見ていた。彼女がふたたびそばを通りかかったとき、ぼくは彼女と眼があった。彼女がやってきて、テーブルにすわった、ボーイがきた。
「さて、なにを飲む?」とぼくはたずねた。
「ペルノー〔アルコール分の強い芳香のあるリキュール〕」
「若い娘さんにはよくないね」
「あなたこそ若いくせに。|ちょっと《ディット》、|給仕さん《ギャルソン》、ペルノーひとつ」
「ぼくにも、ペルノー」
「どうするの?」と彼女がたずねた、「パ―ティに行く?」
「その通り。君も行くかい?」
「さあ。この町じゃあね」
「パリが好きじゃないの?」
「そうよ」
「どうしてよそへ行かないんだ?」
「どこも、ありゃしない、行くところなんか」
「君は幸福なんだよ、まったく」
「幸福だなんて、とんでもないわ!」
ペルノーは緑がかったにせのアブサンである。水で割ると、乳白色になる。甘草《かんぞう》のような味がして、いい気持になるが、それだけ後口がわるい。ぼくたちは腰かけてそれをのんだ。女はむっつりしていた。
「さて」とぼくは言った。「夕食をおごってくれるかい?」
彼女は歯をみせて笑ったので、なぜ彼女が笑わないことにしているか、わかった。口をとじていると、なかなかいい女だった。ペルノーの代を払い、通りへでた。辻馬車をよぶと馭者が車を歩道に寄せてとめた。ゆっくりとなめらかに走る馬車《フィアクル》に深く腰をおろして、オペラ|大通り《ブルヴァール》を進み、店の鍵のかかったドアや、あかりのついた窓や、広い、光っている、ほとんど人気のない大通りをすぎた、馬車はウィンドーに時計がいっぱいある「ニューヨーク・ヘラルド」の支局の前を通りすぎた。
「こんなにたくさんの時計、なんのためなの?」と彼女がきいた。
「アメリカじゅうの時間を指してるんだ」
「からかわないでよ」
大通りをそれ、ピラミッド|通り《リュ》をいき、リヴォリ|通り《リュ》の車馬の間をぬけ、暗い門を通って、チュイルリ〔パリにあるフランスの旧王宮、今は博物館になっている〕にはいった。彼女はぼくによりかかり、ぼくは彼女に片腕をまわした。彼女はキスしてもらおうと顔をあげた。片手でぼくにさわった。ぼくはその手をはらいのけた。
「いいんだよ」
「どうしたの? 病気?」
「うん」
「みんな病気なのね。わたしもよ」
チュイルリから明るいところに出て、セーヌ河を渡り、それから、サン・ぺール|通り《リュ》にまがった。
「病気ならペルノーを飲んじゃだめよ」
「君もだよ」
「わたしにはどっちだって同じよ、女には同じよ」
「君、なんて名?」
「ジョルジェット。あんたは?」
「ジェイコブ」
「フランダースの名前ね」
「アメリカにもあるさ」
「フランダース人じゃあないのね?」
「うん、アメリカ人だ」
「よかったわ、フランダース人、嫌いよ」
このときレストランについた。ぼくは馭者に止まるように命じた。おりたが、ジョルジェットはそこの様子が気にいらなかった。「たいしたレストランじゃないのね」
「うん」とぼくはいった。「たぶん、ホワイヨに行きたいんだね。馬車にのったまま、行けばよかったんだ」
ぼくはだれかといっしょに食事をしたほうがいいだろうというぼんやりしたセンチな考えから、彼女をひろったのだった。淫売婦と夕食をしたのはずっと前だったので、どんなに退屈か忘れていたのだ。レストランに入り、勘定台にいるマダム・ラヴィーニュのそばを通り、小部屋にはいって行った。ジョルジェットは食事をすると、いくらか陽気になった。
「悪くないわ、ここ」と彼女がいった、「シックじゃないけど、食事はいいわ」
「リエージュ〔ベルギー東部の都市〕よりはましだろう」
「ブリュッセルのことでしょう」
ぼくたちはワインをもう一本とり、ジョルジェットは冗談を言った。彼女はほほえみ、ひどい歯並びをむきだしにした。ぼくたちはグラスをふれあった。「あんたは悪いタイプじゃないわ」と彼女はいった。「病気だなんて残念ね。気があってるのに。どうしたの、いったい?」
「戦争で怪我《けが》したんだ」とぼくが言った。
「まあ、あのいやらしい戦争」
たぶん、話をつづけて、戦争の議論をし、じっさい、戦争は文明の災害で、避けたほうがたぶんよかったんだと、意見が一致したことだろう。ぼくはすっかりいやになった。ちょうどそのとき、別の部屋から誰かが、「バーンズ! おい、バーンズ! ジェイコブ・バーンズ」とよんだ。
「友だちがよんでるんだ」とぼくは説明して、部屋を出た。
ブラドックスが、コーン、フランセス・クライン、ブラドックス夫人、それにぼくの知らない人たちといっしょに大きなテーブルについていた。
「ダンスに行くだろ?」ブラドックスがたずねた。
「ダンスって?」
「まあ、ダンスよ。またはじめたの、ごぞんじないの?」とブラドックス夫人が口をはさんだ。
「いらしてよ、ジェイク。みんな行きますのよ」とフランセスがテーブルのはじから言った。彼女は背が高く、ほほえみを浮かべていた。
「もちろん、いくさ」とブラドックスがいった。「こっちへきていっしょにコーヒーを飲めよ、バーンズ」
「よし」
「おともだちもつれてらっしゃいよ」とブラドックス夫人が笑いながらいった。彼女はカナダ人で、特有の気どらない社交的な優美さがあった。
「ありがとう、行きますよ」とぼくはいった。ぼくは小部屋にひきかえした。
「おともだちってどんなかた?」とジョルジェットがたずねた。
「作家や画かきたちさ」
「川のこちら側には、そんな人たくさんいらっしゃるわね」
「おおすぎるよ」
「そうね。でも、中にはお金をもうける人もいるわ」
「ああ、そうだよ」
ぼくたちは食事とワインをおわらせた。「さあ、行こう」とぼくはいった。「あいつらとコーヒーを飲もう」
ジョルジェットは、ハンドバッグをあけ、小さな鏡をのぞきこんで顔を二、三度たたき、口紅をぬりなおし、帽子をかぶりなおした。
「いいわ」と彼女はいった。
人々のいっぱいいる部屋に行くと、テーブルにいたブラドックスやほかの男たちが立ちあがった。
「いいなずけの、マドモアゼル・ジョルジェット・ルブランをご紹介します」とぼくはいった。ジョルジェットは例のすばらしいほほえみをうかべ、ぼくたちはみんなと握手した。
「歌手のジョルジェット・ルブランとご親戚なの?」とブラドックス夫人がたずねた。
「ぞんじませんわ」とジョルジェットがこたえた。
「でも、同じ名前ですわね」とブラドックス夫人がおおまじめに言いはった。
「いいえ」とジョルジェットが言った。「まるでちがいますわ。あたしの名前はオバンですの」
「でも、バーンズさんは、あなたをマドモアゼル・ジョルジェット・ルブランとご紹介なさったわ。たしかにそうご紹介なさったわ」とブラドックス夫人は言った。彼女はフランス語をはなすと、それだけで興奮して、なにを言っているのかちっともわからなくなるくせがあった。
「あの人が変なんです」とジョルジェットがいった。
「あら、じゃあ、冗談でしたのね」とブラドックス夫人が言った。
「そうですわ」とジョルジェットがいった。「ただわらわせるために」
「おききになって、ヘンリー?」とブラドックス夫人はテーブルの向こうのブラドックスによびかけた。「バーンズさんはいいなずけのかたをマドモアゼル・ルブランとご紹介になったのに、ほんとの名前はオバンなんですって」
「もちろんそうだよ、マドモアゼル・オバンさ。ずっと前から知っているよ」
「まあ、マドモアゼル・オバン」と、フランセス・クラインはよびかけた。彼女はフランス語を非常に早くしゃべりながら、ほんもののフランス語になってでてきても、ブラドックス夫人のようには得意にもならず、おどろきもしないようにみえた、「長いあいだパリにいらっしゃるの? ここはお好き? パリが大好きなんでしょう?」
「あのかたどなた?」とジョルジェットはぼくのほうをふりむいた。「お話しなければいけないかしら?」
彼女はフランセスのほうにむき、腰かけたまま、ほほえみ、手を組み、頭を長い首の上でかしげ、唇をつぼめて、また、いまにも話しだそうとした。
「いいえ、パリは好きではありませんわ。お金がかかるし、きたないんですもの」
「ほんと? わたしはとても清潔なとこだと思ってますわ。ヨーロッパじゅうでいちばん清潔な都会のひとつじゃないかしら」
「わたしはきたないと思いますわ」
「まあ、へんね! でもきっとここにたいして長くいらっしゃらないからなんでしょう」
「ずいぶんいますのよ」
「でもいい人がいますわよ。それは認めなければなりませんわ」
ジョルジェットはぼくのほうをふりむいた。「いいお友だちをおもちですわね」
フランセスはすこし酔っていて、話をつづけたいらしかったが、コーヒーがきて、ラヴィーニュがリキュールを持ってきて、それがすむと、ぼくたちはみんなで外へ出て、ブラドックスのダンスクラブヘむかった。
ダンスクラブはモンターニュ・サント・ジュネヴィエーヴ通りの|ダンスホール《バル・ミュゼット》だった。週に五晩、パンテオン区域の労働者がそこで踊った。週に一晩、ダンスクラブになった。月曜の晩は、閉めていた。ぼくたちが着いたときは、入口の近くにすわっていた巡査と、トタン張りのカウンターの向こうにいた経営者の妻と、経営者自身のほかは、だれもいなかった。はいって行くと、その家の娘が上からおりてきた。長いベンチがいくつかあり、テーブルがあちこちにあり、ずっと向こうにフロアーがあった。
「みんな早くくればいいのに」とブラドックスが言った。娘がやってきて、ぼくたちの飲み物をきいた。経営者がフロアーのかたわらの高い演奏台にあがり、アコーディオンをひきはじめた。片方のくるぶしに鈴のついたひもをつけ、演奏しながら足で拍子をとった。みんながダンスした。暑く、みんなは汗をかきながらフロアーからひきあげてきた。
「おや、まあ」とジョルジェットがいった。「まるでむし風呂ね」
「暑いね」
「暑いわ、すごく」
「帽子をとれよ」
「そうよね」
だれかがジョルジェットにダンスを申しこんだ。ぼくはバーのほうへいった。アコーディオンの音楽が暑い夜にたのしかった。ぼくは戸口に立って街路からの涼しい風をうけ、ビールを飲んだ。タクシーが二台急な街路をおりてきた。そしてダンスホールの前でとまった。セーターをきたり、ワイシャツだけだったりの若者の群れがでてきた。戸口からの光で彼らの手や洗ったばかりのウェイヴのかかった髪が見えた。戸口に立っていた警官がぼくを見てほほえんだ。彼らがはいってきた。はいってくるとき光の下に白い手やウェイヴのかかった髪や、しかめっつらをしたり、身振りをしたり、しゃべったりしている白い顔がみえた。彼らといっしょにブレットがいた。彼女は非常に美しく見えた。彼女はそんな彼らといっしょなのだ。
彼らの一人がジョルジェットを見て、いった。「断言するぞ。ほんものの淫売がいる。おれはそいつとダンスをするぞ、レット。みてろ」
レットとよばれた背の高い色の浅黒い男がいった。「強引なことはよせよ」
ウェイヴのかかったブロンドの男がこたえた。「心配するな」そして、こうした彼らといっしょにブレットがいたのだ。
ぼくはすごく腹がたった。とにかく彼らはいつもぼくをおこらせた。彼らはたのしんでいるつもりだろうから、寛大にしてやらなければならないが、ぼくはだれでも、どんなやつにも飛びかかって、そのいばってにやにや笑っている落ちついた態度をぶちこわしたかった。だが、そんなことはしないで、通りを歩いていき、次のダンスホールのバーでビールを飲んだ。ビールはうまくなかったので、口なおしにコニャックを飲んだが、なおひどかった。ホールにもどってくると、フロアーには人がいっぱいいて、ジョルジェットが背の高いブロンドの青年とダンスをしていた。彼は尻を大きく振り、頭を片方にかしげて踊り、踊りながら、上眼をつかっていた。音楽がやむとすぐ、またもう一人が彼女にダンスを申しこんだ。彼女は彼らに占領されてしまっていた。彼らはみんな彼女とダンスをしたがっているように見えた。彼らはそういうやつらなんだ。
ぼくはテーブルに向かって腰かけた。コーンがそこにすわっていた。フランセスは踊っていた。ブラドックス夫人は見知らぬ男をつれてきて、ロバート・プレンティスだといって紹介した。彼はシカゴにいたこともあるニューヨーク出身の新進の小説家だった。いくらかイギリスなまりがあった。ぼくは一杯飲まないかとすすめた。
「どうもありがとう」と彼がいった。「いま、ちょうど飲んだばかりだから」
「もういっぱいどう?」
「ありがとう。じゃあ、いただきましょう」
ぼくたちはその店の娘を呼び、水で割ったブランデーを一杯ずつ飲んだ。
「キャンザス・シティのご出身だそうですね」と彼がいった。
「そうです」
「パリはおもしろいですか?」
「ええ」
「ほんとうに?」
ぼくはすこし酔っていた。飲んだというほどではないが気を使わずにすむ程度にはなっていた。
「ちかって」とぼくはいった。「好きですよ。あなたは?」
「ああ。あなたはおこると魅力がありますね」と彼がいった。「ぼくもそんなふうになれればいいんだけど」
ぼくは立ちあがって、フロアーのほうへ歩いていった。ブラドックス夫人があとを追ってきた。「ロバートに腹を立てないでね」と彼女がいった。「まだほんの子供なのよ」
「おこったりしませんよ」とぼくがいった。「ただ吐きだしたくなっただけで」
「あなたのフィアンセはとってもうまくやっていらっしゃるわ」といって、ブラドックス夫人はレットとよばれる背の高い色の浅黒い男の腕にジョルジェットが抱かれて踊っているフロアーのほうをみた。
「そのとおりですね」とぼくはいった。
「たいしたものよ」とブラドックス夫人がいった。
コーンがやってきた。「こいよ、ジェイク」と彼がいった。「一杯やろう」ぼくたちはバーのほうへ歩いていった。「どうしたんだ? なにかに興奮しているようだな」
「なんでもないよ。何もかも、見てると、むかむかするだけなんだ」
ブレットがバーにやってきた。
「こんにちは、みなさん」
「こんちは、ブレット」とぼくがいった。「どうして酔わないの?」
「わたし、もう酔わないつもりよ。ねえ。このかたにブランデー・ソーダをさしあげて」
彼女はコップを手に持って立っていた。ロバート・コーンが彼女を見ているのがみえた。彼は彼の同国人〔つまりユダヤ人のこと〕が契約の地を見たときにこうもあったろうという顔つきで見ていた。コーンはもちろんずっと若かった。しかしあの熱心な、期待にみちたまなざしで見ていた。
ブレットはとてもきれいだった。頭からかぶって着るジャージーのセーターとツィードのスカートをはき、髪は男のようにうしろにかきあげていた。彼女がそういうスタイルをみんなはやらせたのだ。彼女のからだは競走用のヨットの船体のような曲線でつくられ、ウールのジャージーの下にその曲線すべてがあらわれていた。
「いい人たちといっしょだね、ブレット」とぼくがいった。
「すてきでしょ? それから、あなたもね。どこでひろったの?」
「ナポリタンで」
「で、すてきな宵をたのしんでらっしゃるの?」
「ああ、すてきさ」とぼくがいった。
ブレットは笑った。「あなた、いけないわ、ジェイク。わたしたちみんなを侮辱することになるのよ。あそこのフランセスをごらんなさい、それにジョーも」
これはコーン向けに言ったのだ。
「わたしは売買取引が制限されていてだめなのよ」とブレットが言った。彼女はまた笑った。
「ぜんぜん酔ってないんだね」とぼくがいった。
「ええ、そうでしょ? ああいう連中と飲んでいれば、こんなに安全なのよ」
音楽がはじまると、ロバート・コーンがいった。「いっしょに踊ってくれませんか、ブレットさん」
ブレットは彼にほほえんだ。「ジェイコブとこれを踊る先約があるの」と彼女は笑った。「あなたったら、ばかに聖書くさい名前なのね、ジェイク」
「次ならどうですか」とコーンがたずねた。
「出かけるのよ」とブレットがいった。「モンマルトルで約束があるの」
踊りながら、ブレットの肩ごしにみると、コーンがカウンターのところに立って、まだ彼女をみつめていた。
「また新しいのができたね」とぼくは彼女にいった。
「そんな話やめましょうよ。かわいそうに。ついさっきまで気づかなかったわ」
「ああそう」とぼくはいった。「君は恋人をふやすのが好きなんだろうが」
「ばかなこと言わないで」
「言ったのは、君だぜ」
「まあ。だからって、どうなの?」
「なんでもないさ」とぼくはいった。ぼくたちはアコーディオンにあわせて踊っていた。だれかがバンジョーをひいていた。むし暑く、たのしかった。ジョルジェットがまた別のやつと踊っていたが、そのすぐそばを通った。
「とうしてあの娘《こ》をつれてくる気になったの?」
「わからないね。ただつれてきただけなんだ」
「とてもロマンティックになってるのね」
「いや、たいくつなんだ」
「いまも?」
「いや、いまはちがう」
「ここ、出ましょうよ。あのかたはけっこうかわいがられてるわよ」
「出たい?」
「出たくなきゃ、さそわないわ」
ぼくたちはフロアをはなれ、壁のハンガーからコートをとって、着た。ブレットはカウンターのかたわらに立っていた。コーンが彼女にはなしかけていた。ぼくはカウンターで立ちどまり、封筒をくれといった。おかみさんが一枚みつけてくれた。ぼくはポケットから五十フラン札をとりだし、封筒に入れ、封をし、おかみさんにわたした。
「いっしょにきた女の子がぼくのことをきいたら、これをやってくれ」とぼくはいった。「あの連中のだれかと出ていくなら、渡さないでくれ」
「|わかりました、旦那《セタンタンディユ・ムシュ》」とおかみさんはいった。「もうおかえりですか、こんなにお早く?」
「ああ」とぼくはいった。
ぼくたちはドアから出た。コーンはまだブレットに話しかけていた。彼女はおやすみといい、ぼくの腕をとった。「おやすみ、コーン」とぼくはいった。外にでて、通りでタクシーをさがした。
「五十フラン損するわ」とブレットがいった。
「ああ、そうだ」
「タクシーこないわ」
「パンテオンまで歩けばひろえるよ」
「ねえ、隣の酒場で一杯やって、呼んでもらいましょうよ」
「通りを横ぎりたくないんだね」
「できたらね」
隣の酒場にはいり、ボーイにタクシーを呼びにやった。
「さて」とぼくはいった。「あいつらからやっと逃げられたよ」
ぼくたちは高いトタン張りのカウンターにむかってこしかけ、だまったまま、ただ互いに顔を見あっていた。ボーイがきて、タクシーがきたと言った。ブレットはぼくの手をつよく握った。ボーイに一フランやり、外に出た。「どこへいこうか?」とぼくはきいた。
「そうね、このへんをぐるぐるまわらせたら」
ぼくは運転手にモンスーリ公園に行くように言って、中にはいり、ドアをバタンとしめた。ブレットは隅っこによりかかり、眼をとじていた。ぼくは中にはいり、となりにこしかけた。車はガクンと動きだした。
「ああ、あなた、あたし、とてもみじめだったのよ」とブレットがいった。
第四章
タクシーは丘をのぼり、明るい広場を通り、それから暗やみにはいり、さらにのぼって、サン・テティエンヌ・デュ・モンのうらの平らな暗い通りにで、アスファルトの道を静かに進み、コントレスカルプ広場の並木やとまっているバスのそばを通りすぎ、ムフェタール通りの砂利道へ曲がった。通りの両側に明るいバーやおそくまでひらいている店があった。ぼくたちは離れてすわっていたが、古い通りを通っているうちに、車がゆれて、からだがくっついてしまった。ブレットは帽子をぬいでいた。頭をうしろにもたせかけていた。あいている店の光で顔がみえ、やがて暗くなり、それからゴブラン大通りにでると、また顔がはっきりみえた。街路が掘りかえされ、人々がアセチレンの明かりで、電車線路の工事をしていた。ブレットの顔は白く、長いくびすじが、その炎の明るい光にはっきりみえた。街路がまた暗くなり、ぼくは彼女にキスした。唇がぴったりあわされ、それから彼女はむこうを向いて、できるだけ遠ざかろうと、席のすみっこに、からだを押しつけた。首がうなだれていた。
「さわらないでね」と彼女はいった。「お願い、さわらないで」
「どうしたんだ?」
「たえられないの」
「おい、ブレット」
「いけないわ。わかってるくせに。たえられないだけなの。ああ、あなた、わかってね」
「ぼくを愛してないんだね?」
「愛してないですって? あなたにさわられると、それだけで溶けてしまいそうなのよ」
「なんとかできないものかな?」
彼女は身をおこしていた。ぼくは彼女に腕をまわし、彼女はぼくによりかかり、二人ともそのままじっとしていた。彼女は、ほんとうに彼女の眼で見ているのかと疑いたくなるような例のあの眼つきでぼくの眼をのぞきこんでいた。世界中のどんな眼も見るのをやめてしまってからも彼女の眼はみつめつづけるだろう。そんなふうにみつめないものはなにもないといったふうにみつめた。そして実際、彼女は、非常に多くのことをおそれていた。
「ぼくたちのできることなんて、なにひとつありゃしない」とぼくはいった。
「そうかしら」と彼女は言った。「あたし、二度とあんなひどいめにあいたくないわ」
「おたがい、はなれていたほうがいいんだ」
「でも、あなた、あわないではいられないわ。あなたにはわからないことがあるのよ」
「そうだ。だが、いつもこうなるんだ」
「わたしがいけないのよ。でも、わたしたち、自分のしたことの償いはつけているわね?」
彼女はずっとぼくの眼をのぞきこんでいた。その眼はいろいろちがった深さをもっていて、ときにはまったく深さのないこともあった。いまは、ずっと奥までみとおせた。
「男たちをひどいめにあわせたことを考えてるの。いま、わたし、その償いをしてるんだわ」
「ばかいうなよ」とぼくはいった。「それに、ぼくにおこったことはこっけいなことと思われてるからね。そんなこと考えないことにしてるんだ」
「そうよ。それがいいわ」
「まあ、そんな話はやめよう」
「わたしも、前にはその問題を笑ったことがあるわ」彼女はぼくを見ていなかった。「兄さんの友だちがモンス〔ベルギーの西南部の都市〕から、そんなふうになって帰ってきたの。まるで冗談みたいな気がしたわ。男の人ってなにもわかってないのよ、ねえ?」
「そうだ」とぼくが言った。「だれもわかっちゃいないさ」
ぼくはそんな話はもうたくさんだった。かつては、ある怪我や不具は本人にはとても重大なことだが、反面、冗談の材料にもなるのだといった見方はもちろん、その他いろいろな角度から、おそらくその問題を考えていたのだろう。
「こっけいだよ」とぼくはいった。「とてもこっけいなことだよ。それに、恋愛することだってすごくこっけいだよ」
「そう思う?」彼女の眼はまた深みを失った。
「そういうつもりでこっけいだというんじゃないんだよ。ある意味で恋愛は、たのしい気持さ」
「ちがうわ」と彼女はいった。「それはこの世の地獄だとおもうわ」
「おたがいに会えるのはいいことだよ」
「ちがう。そうは思わないわ」
「あいたくないのかい?」
「あわないでいられないわ」
ふたりはいま他人同士のようにすわっていた。右側には、モンスーリ公園があった。池に鱒《ます》が飼ってあり、腰かけて公園もながめられるレストランは閉まっていて、暗かった。運転手がふりむいた。
「どこに行く?」とぼくはきいた。ブレットは横をむいた。
「そうね、セレクト〔モンパルナスにある有名なカフェ〕がいいわ」
「カフェ・セレクト」とぼくは運転手にいった。「モンパルナス大通りの」モンルージュ行きの電車の通るのを見守っている「ベルフォールのライオン」の像をぐるっとまわり、まっすぐに車を走らせた。ブレットはまっすぐ前方を見ていた。ラスパイユ大通りで、モンパルナスの灯りがみえると、ブレットがいった。「おねがいがあるんだけど、いい?」
「ばかだなあ」
「あそこにつくまでにもういちどだけキスして」
タクシーがとまるとぼくはおりて料金を払った。ブレットは帽子をかぶりながらでてきた。おりるとき、ぼくに手をさしのべた。その手はふるえていた。「わたしの恰好《かっこう》みだれてない?」彼女は男物のフェルトの帽子を目深にかぶって、バーのほうへあるきだした。中では、ダンスのときにいた連中のほとんどが、カウンターによりかかったり、テーブルについていた。
「まあ、あなたたち」とブレットがいった。「わたし、これから飲むのよ」
「ああ、ブレット! ブレット!」公爵と自称していて、みんながジジとよんでいた、小柄なギリシャ人の肖像画家が、彼女のほうに人を押しわけてやってきた。「おもしろい話がありますよ」
「あら、ジジ」とブレットがいった。
「友人にあってもらいたいんです」とジジがいった。太った男がやってきた。
「ミピポポラス伯、こちらが友だちのアシュレイ夫人です」
「はじめまして」とブレットがいった。
「ところで、奥様はパリをおたのしみですか?」とミピポポラス伯爵がたずねた。彼は時計のくさりに大鹿の歯をつけていた。
「ええ、とても」とブレットがいった。
「パリはまったくいい町ですな」と伯爵がいった。「でも、ロンドンでたいへん楽しくやってらしたんでしょうね」
「ええ、そうよ」とブレットがいった。「すごかったわ」
ブラドックスがテーブルからぼくによびかけた。「バーンズ」と彼がいった。「飲めよ。お前のあの女はおっそろしいさわぎを起こしたぞ」
「どうしたんだい?」
「おかみさんの娘が何か言ったことでね。ものすごいさわぎだったよ。あの女はとてもすばらしかったね。黄色いカード〔娼婦の鑑札〕をみせて、おかみさんの娘にもそれをみせろって言ったんだぜ。実際、さわぎだったよ」
「けっきょく、どうなった?」
「ああ、だれかが、つれてかえったよ。器量のわるくはない娘だね。すごく口だっしゃな女だったぜ。ここに来て、一杯、やれよ」
「いや」とぼくはいった。「帰らなきゃならないんだ。コーンをみかけたかい?」
「あのかたはフランセスとおかえりになったわ」とブラドックス夫人が口をはさんだ。
「かわいそうなやつさ。ひどくしょげてるよ」とブラドックスがいった。
「ほんとにね」とブラドックス夫人がいった。
「帰らなきゃ」とぼくがいった。「おやすみ」
ぼくはカウンターでブレットにおやすみといった。伯爵はシャンペンを注文していた。「いっしょにワインいかがですか?」と彼がたずねた。
「いや、とてもありがたいんですが、帰らなきゃならないんで」
「ほんとにお帰りなの?」とブレットがたずねた。
「うん」とぼくがいった。「やけに頭痛がするんでね」
「あした、おめにかかれて?」
「事務所にきてくれ」
「とてもだめだわ」
「じゃ、どこであおうか?」
「五時ごろならどこでもいいわ」
「じゃあ、向こう岸にしよう」
「いいわ。五時にクリヨンにいるわ」
「そこにいてくれ」とぼくがいった。
「大丈夫よ」とブレットがいった。「すっぽかしたことなんかあって?」
「マイクから手紙がきたかい?」
「きょうきたわ」
「おやすみなさい」と伯爵がいった。
ぼくは歩道にでて、サン・ミッシェル|大通り《ブルヴァール》のほうに歩いて行き、まだ混んでいるロトンドのテーブルの前を通り、街路のむこうのドームを見たが、そこのテーブルは歩道のはじまではみだしていた。だれかがテーブルからぼくに手をふったが、ぼくはだれだかわからず、通りすぎた。帰りたかったのだ。モンパルナス|大通り《ブルヴアール》は人気《ひとけ》がなかった。ラヴィーニュの店はすっかりしまっていた。クロズリ・デ・リラではテーブルを外につみかさねていた。ぼくはアーク燈に照らされて新緑のマロニエの木の間に立っているネー〔一七六九〜一八一五。ナポレオン一世麾下のフランスの元帥、ルイ十八世の治下に反乱罪で死刑にされた〕の銅像の前を通った。台座に色あせた紫の花環がもたせかけてあった。ぼくはたちどまって碑文をよんだ。ナポレオン支持者からのもので、日付があったが、忘れた。彼はとても立派だった、長靴をはいたネー元帥は。みどりのマロニエの木の新緑にかこまれ、剣を持ってみがまえていた。ぼくのアパートはサン・ミッシェル大通りをすこしいって、通りをわたったところにあった。
管理人の部屋に明かりがついていて、ぼくがドアをノックすると、彼女はぼくに郵便物を渡してくれた、ぼくはおやすみといって、上にあがった。手紙が二通と新聞だった。食堂のガス燈の下でそれを見た。手紙は合衆国からだった。一つは銀行の通知だった。残高が二四三二ドル六〇セントだと書いてあった。通帳を取りだし、月の最初からだした四枚の小切手をさし引くと残高が一八三二ドル六〇セントだとわかった。通知のうしろにこれを書きこんだ。もう一通は結婚の案内状だった。アロイシアス・カービィ夫妻は娘のキャサリンの結婚を披露する――ぼくはその娘も相手の男も知らなかった。町のみんなに送ったにちがいない。こっけいな名前だった。アロイシアスというような名前の人なら誰でもおぼえていられるにちがいない。いいカトリックの名前だ。案内状には紋章がついていた。ギリシャの公爵ジジのように。それに、あの伯爵は。あの伯爵はこっけいなやつだ。ブレットも称号を持っている。アシュレイ貴族夫人《レイディ》。ブレットなんかくそくらえだ。アシュレイ夫人、きみなんかくそくらえだ。
ぼくはベッドのわきのランプをつけ、ガス燈をけし、広い窓をあけた。ベッドは窓からずっと奥のほうにあった。ぼくは窓をあけてすわり、ベッドのそばで服をぬいだ。外では、夜の貨車が市街電車の線路をとおって、市場へ野菜をはこんでいた。夜、ねむれないときはうるさかった。服をぬぎながら、ぼくはベッドのそばの大きな洋ダンスの鏡にうつる自分の姿を見た。典型的なフランス風に部屋の調度をととのえてあった。思うに実用的でもあった。こともあろうに、負傷するなんて。こっけいだったと思う。パジャマをきてベッドにもぐりこんだ。闘牛の新聞が二つあった。ぼくはその帯封をとった。一つはオレンジ色だった。も一つは黄色だった。二つともおなじニュースなんだろう。だからどっちをさきによんでも他のほうがつまらなくなってしまう。「闘牛《ル・トリル》」のほうがいい新聞だったので、そっちから読みはじめた。短信《プチット・コレスポンダンス》や短評《コルニグラム》まで、すっかり読んだ。ランプを吹きけした。たぶん、ねむれるだろう。
頭が働きはじめた。いつもの愚痴だ。ああ、イタリア戦線のようなばかげたところで負傷して、そこでぶらぶらしているなんてひどいことだ。イタリアの病院では、ぼくたちはひとつの会をつくろうとしていたのだ。イタリア語でこっけいな名前の会だった。ほかのやつらはどうなったろう、イタリア人たちは。あれは、ミラノのオスペダーレ・マジォーレ病院のポンテ病棟にいたときだった。次の建物は、ゾンダ病棟だった。ポンテの像があった。あるいはゾンダのだったかもしれない。連絡係の大佐がぼくをたずねてきたのはそこだった。それはこっけいだった。最初のこっけいなことだった。ぼくは全身包帯をまかれていた。だが、彼はあのことについて、きいていたのだ。そこで彼はあのすばらしい演説をしたのだ。「外国人の、イギリス人のきみは、(外国人はだれでもイギリス人だった)命より大事なものを捧げられたのだ」なんたる演説だ! 事務所にそれをかかげて、明かりで照らし出しておきたいものだ。彼は、ちっとも笑わなかった。彼はぼくの立場にたって考えていたのだ、と思う。「お気の毒で〔シエ・マラ・フォルチュナ〕! お気の毒で〔シエ・マラ・フォルチュナ〕!」
ぼくにはそれが実感にならなかったのだ、と思う。ぼくはそれをちゃかし、ただ他人に迷惑にならないようにしていたのだ。おそらく、イギリスに送りかえされて、ブレットに会っていなかったら、悩むこともなかっただろう。思うに、彼女はないものねだりをしているだけなんだ。うん、人間なんてそんなもんなんだ。人間なんて、くそくらえだ、カトリック教会はそういう問題をみんなすごくじょうずに扱っている。とにかく、いい忠告さ。そんなことは考えるな。ああ、すばらしい忠告さ。ときには、その忠告をきくようにしたまえ。きくようにしたまえ。
ぼくは横になって、眼を覚まし、考えていた。心がはねまわっていた。すると、それから遠ざかっていられなくなり、ブレットのことを考えはじめると、ほかのことはみんな消えてしまった。ブレットのことを考えていると、心がはねまわるのをやめ、いくらかおだやかな波で動きはじめた。それから、とつぜん、ぼくは声にだして泣きだした。それから、しばらくすると、落ちつき、ベッドに横になり、電車が重そうにそばを通り、通りの向こうに行くのに耳をすまし、それから、ねむりこんだ。
眼が覚めた。騒ぎが外で起こっていた。耳をすますと、だれの声かわかった気がした。ガウンをきて、ドアのところにいった。管理人が階下で話していた。彼女はすごく怒っていた。ぼくの名前がきこえたので、階下に声をかけた。
「バーンズさんですか?」と管理人が叫んだ。
「ああ、ぼくだ」
「変な女のかたが来て、町じゅうを起こしちまったよ。こんな夜ふけに、なんてだらしないんだろう! どうしてもあんたに会うっていうんですよ。おやすみになっているって、いったんですがね」
すると、ブレットの声がきこえてきた。寝ぼけていたときは、たしかに、ジョルジェットだと思っていた。どうしてだか、わからない。ぼくの住所を知っているはずがなかったんだから。
「こっちにあげてくれませんか?」
ブレットが階段をあがってきた。すっかり酔っているのが、わかった。「ばかなことしたわ」と彼女がいった。「ひどい騒ぎをしちゃって。眠ってなかったんでしょう、ねえ?」
「なにをしてると思ったんだい?」
「わかんないわ。何時なの?」
ぼくは柱時計を見た。四時半だった。「何時だか、全然わかんなかったわ」とブレットがいった。「ねえ、すわってもいい? あなた、怒らないでよ。そこで伯爵と別れたのよ。ここまでつれてきてくれたの」
「あいつ、どんなやつだい?」ぼくはブランデーとソーダとグラスをもってくるところだった。
「ほんのちょっとよ」とブレットがいった。「酔わせないでね。伯爵? まあ、とてもいいかたよ。ほんとに、わたしたちの仲間だわ」
「伯爵なのかい?」
「そのことだけど。わたしは伯爵だと思うわ。とにかく、それくらいの資格はあるわ。人の噂はすごくたくさん知ってるのよ。どこであんなになにもかも知るのか、わからないわ。アメリカにお菓子のチェーン・ストアをもってるんですって」
彼女はグラスをすすった。
「チェーン・ストアだといったと思うわ。なにかそんなようなことよ。みんなすっかりつないであるの。その話をすこししてくれたわ。すごく、おもしろいの。でも、わたしたちの仲間だわ。まあ、ほんとよ。まちがいないわ。たしかよ」
彼女はまた飲んだ。
「こんなこと、嘘つきようないわよ。あなた、気にしないでしょう、ね? あのかた、ジジのために金を払ってるのよ」
「ジジもほんとに公爵なのかい?」
「どうでもいいことよ。ギリシャ人だわ。つまんない画家よ。伯爵のほうが好きだわ」
「どこへ、いっしょにいったんだい?」
「まあ、いろんなとこよ。いま、ここへつれてきてもらったとこよ。いっしょにビアリッツ〔フランス西南部の海岸町、有名な避暑避寒地〕に行けば、一万ドルくれるっていったわ。ポンドにすると、いくらになるの?」
「二千ポンドぐらいだ」
「大金ね。行けないって、いったわ。それでも、とても親切にしてくれたわ。ビアリッツには知り合いが多すぎるっていったの」
ブレットは笑った。
「ねえ、あなた、ピッチがあがらないのね」と彼女がいった。ぼくはブランデー・ソーダをすすっただけだった。ぼくはぐいと飲んだ。
「そうこなくっちゃ。すごくおかしかったわ」とブレットがいった。「すると、カンヌ〔フランス西南部の地中海岸の保養地〕へいっしょに行こうというの。カンヌにも知り合いが多すぎるといったわ。モンテ・カルロ〔モナコ公国の都市。避寒地、とばくで有名〕へというの。モンテ・カルロにも知り合いが多すぎるといったわ。どこへいっても、知り合いが多すぎるって、いってやったわ。ほんとにそうなのよ。それで、ここへつれてきてくれって、いったのよ」
彼女はテーブルに手をおき、グラスをあげて、ぼくを見た。「そんな顔しないでよ」と彼女がいった。「あなたに恋してるって、いってやったわ。ほんとよ。そんな顔しないでよ。あのかた、とても親切にしてくれたわ。あしたの晩、自動車で夕食につれてってくれるっていうの。行きたくない?」
「行きたいとも」
「もう帰るわ」
「どうして?」
「会いたかっただけなの。おばかさんでしょう。服をきて、おりてこない? あのかた、すぐそこの車にいるわ」
「伯爵かい?」
「そうよ。それに、制服をきた運転手よ。あちこちドライヴして、森《ボウ》〔パリの西部の大きなブーローニュの森。公園〕で朝食をとろうっていうのよ。手さげバスケットがあるのよ。ぜんぶゼリの店で買ったの。マム〔強くて甘いビール〕も一ダースあるわ。どう?」
「朝、仕事があるんだ」とぼくはいった。「君にはとてもついていけないし、お相手もできないよ」
「ばかいわないでよ」
「そんなこと、できないんだ」
「そうね、あのかたに、やさしい言伝でもなくって?」
「なにかいってくれ。なんでもいいよ」
「おやすみ、あなた」
「センチになるなよ」
「あなたがいけないのよ」
おやすみのキスをすると、ブレットがふるえた。「あたし、帰るわ」と彼女がいった。「おやすみ、あなた」
「まだ行かなくてもいいだろう」
「だめよ」
階段の上で、もいちどキスし、開けてくれと呼ぶと、管理人は部屋のなかでぶつぶついった。ぼくは階上にもどり、開いた窓から、ブレットがアーク燈の下の歩道のわきにとめてある大型のリムジーンのほうへ通りを歩いて行くのをながめた。彼女が乗ると、車は動きだした。ぼくはぐるりと背を向けた。テーブルの上に空のグラスとブランデー・ソーダが半分はいったグラスがあった。二つとも台所にもっていって、半分はいったグラスを流しにあけた。食堂のガス燈を消し、ベッドに腰かけて、スリッパを蹴ってぬぎ、ベッドにもぐりこんだ。さっきぼくは泣きたくなったのだが、ブレットとはああいう女なのだ。それから、さっき彼女が通りを歩いて行き、車にのりこむのを見たが、それを思いだすと、もちろん、しばらくは、また、たまらなくなった。昼間なら、どんなことにでも感情をおさえることは、すごくやさしいのだが、夜は別だ。
第五章
朝、コーヒーとブリオシュ〔卵とイーストでふくらませた菓子パンの一種〕をたべにスフロ通りのほうへ|大通り《ブルヴァール》を歩いていった。晴れた朝だった。リュクサンブール公園ではマロニエの花が咲いていた。暑い日で、快い早朝の感じがした。ぼくはコーヒーを飲みながら新聞をよみ、それからタバコをふかした。花売りの女が市場からやってきて、その日に仕入れた花をならべていた。法科大学やソルボンヌに行く学生たちが通りすぎた。大通りは電車や通勤の人で雑踏していた。ぼくはバスに乗り、うしろの乗降口に立って、マドレーヌまでいった。マドレーヌから、キャピュシーヌ大通りをオペラ座まで歩き、事務所へ行った。跳ね蛙を売っている男や、ボクサーのおもちゃを売っている男の前を通った。手伝いの女がボクサーをあやつっている糸にぶつからないように、わきによって歩いた。女は組み合わせた手に糸をもち、よそ見をしていた。男は二人の観光客に買えとすすめていた。ほかに三人の観光客がたちどまって、ながめていた。ぼくは、ローラーをおして、歩道に濡れた文字で「チンザーノ〔イタリア産のベルモット〕」と印してゆく男のうしろから歩いていった。どこも通勤者だった。仕事に行くのは、たのしかった。ぼくは通りを横ぎって、事務所へまがった。
階上の事務所で、フランスの朝刊をよみ、タバコをふかし、それから、タイプに向かって、気持よく朝の仕事をおえた。十一時にタクシーで外務省に行き、「ヌーヴェル・ルヴュー・フランセーズ〔フランスの高級な文芸雑誌〕」を読むような、つのぶち眼鏡の若い外交官の外務省のスポークスマンが半時間ほど話したり質問に答えたりしているあいだ、十二人ぐらいの特派員といっしょにすわっていた。総理大臣はリヨンに行って演説していた。というより、帰途についていた。数人が自分のしゃべるのをきくために質問し、答えをききたくて質問した記者は二、三人だった。ニュースはなかった。外務省からの帰り、ウールジーとクラムといっしょにタクシーにのった。
「夜はなにしてるんだい、ジェイク」とクラムがきいた。「ちっとも会わないぜ」
「ああ、カルチェにいってるんだ」
「いつか、夜、いってみよう。ディンゴか。あそこはすばらしいとこじゃないか」
「ああ、あそこや、こんど新しくできたセレクトというスナックもね」
「行こうと思ってたんだがね」とクラムがいった。「でも、女房や子供があれば、わかるだろう」
「テニスやってるかい?」とウールジーがたずねた。
「いや、やらない」とクラムがいった。「ことしになってからは、やらない。出かけようと思うんだが、日曜はいつも雨だったし、コートがすごく混んでるから」
「イギリス人はみんな土曜を休みにしているよ」とウールジーがいった。
「うまくやってやがる」とクラムがいった。「ねえ、いいかい。そのうち通信社の仕事なんかやめるぜ。そうすれば、田舎に出かけるひまもたくさんできるから」
「そいつはいい。田舎に住んで、小さな車をもつんだね」
「来年は車を買おうと思ってるんだ」
ぼくはガラス〔客席と運転台の間にある仕切りのガラス〕をたたいた。運転手が車をとめた。「ぼくんとこはここだ」とぼくはいった。「はいって、一杯やれよ」
「ありがとう」とクラムがいった。ウールジーは頭をふった。「けさの発表をとじこみにしておかなきゃあ」
ぼくは二フラン銀貨をクラムの手に握らせた。
「ばかな、ジェイク」と彼がいった。「おれが払うよ」
「どうせ、社の金だ」
「いいや。おれの社からもらうよ」
ぼくはさよならと手をふった。クラムは首をつきだした。「水曜日に昼めしをいっしょに食おう」
「ああ」
ぼくはエレベーターで事務所にいった。ロバート・コーンが待っていた。「おい、ジェイク」彼がいった。「昼めしに行かないか?」
「うん、なにか変わったことでもあるかみてくるから」
「どこで食おう?」
「どこでもいい」
ぼくは自分の机の上を見ていた。「どこで食いたい?」
「ウェッツェルはどうだい? オードヴルがうまいぜ」
そのレストランで、ぼくはオードヴルとビールを注文した。給仕がビールをもってきた。冷たくて長い陶器製のジョッキの外側が汗をかいていた。オードブルには十二種類もの品があった。
「ゆうべは、おもしろいことあったかい?」とぼくがたずねた。
「いや。なかったね」
「書くほうはどうだい?」
「ひどいんだ。いまやってる二番目の本は進まないんだ」
「そんなことはだれにでもあることさ」
「うん、そうだとは思うけど、くさっちゃってね」
「まだ南米に行こうと思ってるのかい?」
「それなんだよ」
「じゃあ、なぜ出かけないんだ?」
「フランセスなんだ」
「じゃあ」とぼくはいった。「つれていけよ」
「行きたがらないんだ。そんなことは好きじゃあないんだ。まわりにいろんな人がいるのが好きなんだ」
「勝手にしろっていってやれよ」
「そうはいかんよ。あれには責任があるから」
彼は薄く切った胡瓜《きゅうり》を片方に寄せて、塩漬けのニシンをたべた。
「ブレット・アシュレイ夫人て、どういう人なんだい、ジェイク?」
「アシュレイというのが姓で、ブレットが名前さ。いい女だよ」とぼくはいった。「もうすぐ離婚できるんだ。そしたら、マイク・キャムベルと結婚しようとしているんだ。マイクはいまスコットランドにいるんだ。どうして?」
「すごく魅力のある女だね」
「そうだとも」
「いいところがある、立派なところが。まったく立派で、曲がったことがきらいみたいだ」
「とてもいい女だよ」
「その美点をどういっていいかわからないが」とコーンがいった。「育ちなんだと思うな」
「かなりお気にいりのようだね」
「そうなんだ。恋したっていいと思うな」
「酒飲みだぜ」とぼくはいった。「マイク・キャムベルを恋していて、結婚するところなんだ。マイクは、いつか、大金持になるんだ」
「そいつと結婚するとは信じられないな」
「どうして?」
「どうしてだかわからない。ただ、そう思うんだ。前から知ってるのかい?」
「ああ」とぼくはいった。「戦争中ぼくのいた病院で篤志看護婦だったんだ」
「そのときはまだ子供だったんだろ」
「いま、三十四だぜ」
「いつアシュレイと結婚したんだ?」
「戦争中さ。ほんとうの恋人が赤痢で死んじまったばかりのときにね」
「ちょっとひどい言いかただね」
「失礼。そんなつもりじゃあなかったんだ。ただ事実を話そうとしただけなんだ」
「愛してない男と結婚するとは思わないね」
「ふん」とぼくはいった。「二度それをやったんだぜ」
「そうかなあ」
「ふん」とぼくはいった。「答えが気にくわないのなら、つまらない質問など、やたらにきくなよ」
「そんなこと、ききゃあしなかった」
「ブレット・アシュレイがどんな女か知ってるかってきいたんだぜ」
「侮辱してくれとは、たのまなかったよ」
「ええ、くたばっちまえ」
彼はまっさおになって、テーブルから立ちあがり、オードヴルの小さな皿の前で、青ざめて、怒って立っていた。
「すわれよ」とぼくがいった。「ばかはよせ」
「そいつは取り消すべきだ」
「おい、おい、小学生みたいなことを言うな」
「取り消せ」
「いいとも、なんでも取り消す。ブレット・アシュレイのことはなにも知らない。それでいいだろう?」
「いや。そうじゃあないんだ。ぼくにくたばれっていったことだ」
「ああ、くたばるなよ」とぼくはいった。「ここにいろ。昼めしをはじめたばかりじゃあないか」
コーンは微笑を回復し、腰かけた。腰かけて、うれしそうだった。腰かけなかったら、いったいなにをしただろう? 「君はすごく侮辱したことをいうんだね、ジェイク」
「失敬。口が悪いんでね。ひどいことをいっても、心はそうじゃあないんだ」
「わかってるよ」とコーンがいった。「君はほんとにぼくのいちばんの親友なんだ、ジェイク」
かわいそうに、とぼくは思った。「ぼくの言ったこと、忘れてくれ」とぼくは声にだしていった。「失敬した」
「なんでもないよ。いいんだ。ちょっとのあいだ、しゃくにさわったがね」
「よし。なにかほかに食うものをもらおう」
昼食をすませて、カフェ・ド・ラ・ペまで歩き、コーヒーを飲んだ。コーンがまたブレットのことを言いだしたがっていることはわかっていたが、ぼくはそれをおさえた。あれこれと話をして、彼と別れ、事務所に帰った。
第六章
五時に、ホテル・クリヨンでブレットを待った。彼女が来ていないので、ぼくは腰をおろし、手紙を何通か書いた。出来はあまりよくなかったが、クリヨンの用箋に書くのだから、すこしはましだろうと思った。ブレットがあらわれなかったので、六時十五分前ごろにバーに行き、バーテンのジョルジュとジャック・ローズ〔レモンジュース、カルヴァドス、グレナディンをまぜたカクテル〕を一杯のんだ。ブレットはバーにも来ていなかった。そこで、出がけに階上をさがし、カフェ・セレクトまでタクシーをひろった。セーヌ河を渡るとき、からの荷船が幾艘かつながれ、流れを下って引っぱられてゆくのが見えた。水かさが増して、橋にさしかかると、船頭が櫂《かい》をこいだ。河はすばらしい眺めだった。パリで橋を渡るのは、いつもたのしかった。
タクシーは、腕木信号機の発明者がその発明にたずさわっている像の前をまわり、ラスパイユ大通りにまがり、ぼくは座席によりかかって、そのあたりを通りすごした。ラスパイユ大通りはいつドライヴしても、つまらない。通りすぎるまでは、いつも、ぼくを退屈で死んだように、つまらなくする、フォンテンブロとモントロのあいだの、P・L・M鉄道のある部分のようだった。旅でそのような死んだ場所ができるのは、なにかの連想のためだろう。パリにはラスパイユ大通りのように、みにくい街路がほかにもある。そういう街路は歩きたくない。だが、車にのって通るのも、たえられない。たぶん、それについて前になにかでよんだからだろう。ロバート・コーンがパリ全体について感じているのもこんなことなのだ。コーンがパリをたのしめなくなったのは、なにを読んだからなんだろう。たぶん、メンケン〔一八八〇〜一九五六。アメリカの批評家〕だろう。メンケンはパリが大嫌いなのだ。ずいぶん多くの青年がメンケンから好き嫌いを教わったのだ。
タクシーはロトンドの前でとまった。右岸からタクシーの運転手にモンパルナスのどのカフェにいってくれといっても、いつもロトンドにつれてこられる。いまから十年したら、たぶん、ドームになるだろう。ともかく、近いからかまわない。ぼくはロトンドの黒ずんだテーブルの前を通りすぎて、セレクトにいった。なかのバーに二、三人客がいたが、外には、ひとりで、ハーヴェイ・ストーンが腰かけていた。目の前に受け皿をつみかさね、無精髭をはやしていた。
「かけろよ」とハーヴェイがいった。「さがしてたんだ」
「どうしたんだ?」
「どうってこともないんだ。ただ、さがしてたんだ」
「競馬にいったかい?」
「いや。日曜にいったきりだ」
「アメリカからどんな便りがある?」
「なにもない。まったく、なにもない」
「どうしたんだ?」
「わからないね。あいつらとは手を切ったんだ。きっぱり手を切ったんだ」
彼は前かがみになって、ぼくの眼をのぞきこんだ。
「いいこと教えてやろうか、ジェイク?」
「ああ」
「五日間もなにも食ってないんだ」
ぼくは急いで心のなかの記憶をたどった。ハーヴェイがニューヨーク・バーでポーカー・ダイスをふって、ぼくから二百フランせしめたのは三日前のことだった。
「どうしたんだい?」
「一文もないんだ。金がこないんだ」と彼は言葉をきった。「じっさい、ふしぎなんだよ、ジェイク。こんなときは、ただ、ひとりでいたいんだ。自分の部屋にとじこもっていたいんだ。猫みたいにね」
ぼくはポケットをさぐった。
「百フランありゃなんとかなるかい、ハーヴェイ?」
「ああ」
「さあ、たべにいこう」
「急ぐことはないよ、一杯やろう」
「食ったほうがいい」
「いや。こんなときは、食うことなんかどうでもいいんだ」
ぼくたちは飲んだ。ハーヴェイはぼくの皿を自分の皿のつんである上につんだ。
「メンケン、知ってるかい、ハーヴェイ?」
「ああ。なぜ?」
「どんなやつだい?」
「まあいいやつさ。かなり滑稽なことをいうよ。最後にいっしょに夕食をくったとき、ホッフェンハイマーのことを話したんだ。『困ったことはね』とやつがいうんだ。『あいつはがみがみいうんでね』だってさ。悪くはないね」
「悪くはない」
「やつはもう書きつくしちゃったよ」とハーヴェイがつづけた。「知ってることはみんな書いちゃったよ。で、こんどは、知らないことを書いてるんだ」
「まあいいやつだろうな」とぼくはいった。「ただ、やつのは読めないんだ」
「ああ、だれだってもう読まないさ」とハーヴェイがいった。「アレグザンダー・ハミルトン協会のものを読みつけていた人のほかはね」
「うん」とぼくはいった。「あれもいいものだったね」
「そうだ」とハーヴェイがいった。こうして、ぼくたちはすわったまま、しばらく、じっと深く考えこんだ。
「もう一杯、ワイン、飲もうか?」
「飲もう」とハーヴェイがいった。
「ああ、コーンが来た」とぼくがいった。ロバート・コーンが街路を横ぎっていた。
「あのあほうか」とハーヴェイがいった。コーンはぼくたちのテーブルにやってきた。
「やあ、のんべえさん」と彼がいった。
「やあ、ロバート」とハーヴェイがいった。「君があほうだと、いまジェイクにいってたところだよ」
「どういう意味だ?」
「すぐ答えろよ。考えちゃあ、だめだよ。好きなことがなんでもできるとしたら、なにがしたい?」
コーンは考えはじめた。
「考えちゃあ、いけない。すぐ返事しろ」
「わかんないなあ」とコーンがいった。「とにかく、なんなんだい?」
「なにをしたいかっていうんだよ。最初に心にうかぶことさ。どんなつまらないことでもいいよ」
「わかんないなあ」とコーンがいった。「まあ、できるだけうまくからだをつかって、もういちど、フットボールをやってみたいな」
「君を誤解してたよ」とハーヴェイがいった。「君はあほうじゃない。ただ、発育がおくれているんだ」
「君はひどくこっけいだね、ハーヴェイ」とコーンがいった。「いつか、だれかに顔をぶっつぶされるぞ」
ハーヴェイ・ストーンは笑った。「そう思ってるんだね。でも、そう思わなくなるよ。ぼくにはそんなことどっちでも同じなんだからね、ボクサーじゃあないんだから」
「だれかにそうされたら、同じじゃあないさ」
「いや、同じさ。それが君の大間違いさ。君はインテリじゃないから」
「ぼくのことは言うな」
「いいとも」とハーヴェイがいった。「ぼくには同じことなんだ。君はぼくにはなんの意味もないからね」
「おい、ハーヴェイ」とぼくがいった。「もう一杯、ポートワインを飲もう」
「いや、けっこう」と彼がいった。「外へでて、食うんだ。またあとで、ジェイク」
彼は外へでて、歩いていった。ぼくは彼がタクシーの間をぬって街路を横切っていくのをみつめていた。小柄で、どっしりしていて、車の往来にゆっくり気をつけていた。
「いつもあいつはぼくをおこらせるんだよ」とコーンがいった。「がまんならない」
「ぼくは好きだな」とぼくはいった。「あいつがとても好きだ。あいつには、おこりたくならないだろう」
「それはわかる」とコーンがいった。「ただぼくの癇《かん》にさわるんだ」
「きょうは、午後、書いたかい?」
「いや。先が書けないんだ、最初の本より書きにくい。てこずってるんだよ」
春のはじめにアメリカから帰ってきたとき抱いていたような健康なうぬぼれは彼からなくなっていた。そのころは、自分の作品に自信をもっていて、ただ冒険にたいして、例の個人的なあこがれを抱いているにすぎなかった。が、今ではその確信がなくなっていた。とにかく、ぼくはロバート・コーンをはっきり描いていないような気がする。なぜなら、彼がブレットを恋するまでは、彼がともかくも他の人から自分をきわだたせるようなことをいうのを一度もきかなかったからだ。テニスコートで見ていると、いい男で、からだもよく、体調に気をつけていた。ブリッジではじょうずにカードをあやつったし、なにか大学生のような滑稽なところがあった。大勢のなかにいると、いうことはなにもめだたなかった。学校でポロシャツとよばれ、今もそうよばれているらしいものをきていたが、わざわざ若いまねをしているのではなかった。服装にあまり頓着しているとは思われない。外面はプリンストンでできたものだ。内面は彼を訓練した二人の婦人によってつくられたのだ。いい、子供っぽい、快活さがあったが、それは彼から訓練によって生まれたものではなかった。だから、ぼくはたぶんそれを話さなかったのだろう。彼はテニスで勝つのが好きだった。たとえば、ラングラン〔一八九九〜一九三八。フランスの女流テニス選手〕のように勝ってばかりいるのが、たぶん好きだったのだろう。ところが、負けても怒らなかった。ブレットに恋してしまうと、テニスはすっかりだめになった。いままで勝つ見込みもなかった連中まで彼を負かした。だが、負けてもけろっとしていた。
それはとにかく、ぼくたちはカフェ・セレクトのテラスに腰をおろしていた。ハーヴェイが街路をちょうど横ぎったところだった。
「リラに行こう」とぼくがいった。
「約束があるんだ」
「何時?」
「フランセスが七時十五分にここにくるんだ」
「ああ、きたぜ」
フランセス・クラインが街路を横ぎって、ぼくたちのほうにやってきた。とても丈の高い女で、からだを大きく動かして歩いてきた。手をふって、微笑した。ぼくたちは彼女が街路を渡るのをじっと見ていた。
「あら」と彼女がいった。「うれしいわ、ここにいてくれて、ジェイク。話したいことがあるの」
「おい、フランセス」とコーンがいった。彼は微笑した。
「あら、まあ、ロバート。ここにいたの?」彼女はつづけて、早口にしゃべった。「わたし、すごくひどい目にあったわ。このひと」――コーンのほうに首をふって――「|お昼《ランチ》に帰ってこないのよ」
「帰るなんていわなかったぜ」
「ええ、そうよ。でも、あなた、女中になんともおっしゃらなかったわ。それに、わたしもデートがあったのよ。それに、ポーラったら事務所にいないんじゃあないの。わたし、リッツに行って、待ってたけど、とうとうこないし、もちろん、わたしはリッツで昼食をとるほどお金もなかったし――」
「どうした?」
「あら、出ちゃったわよ、もちろん」彼女はだれかをまねたような快活な様子で話した。「わたしはいつも約束を守るわ。このごろときたら、だれも守らないのよ。わたし、もっと賢くならなきゃあだめね。ところで、ご機嫌いかが、ジェイク?」
「元気だよ」
「ダンスのとき連れてらした女のひと、いい人だったわ。そしたら、ブレットというひとと、いなくなっちゃったのね」
「あのひと嫌いかい?」とコーンがたずねた。
「すごく魅力的だわ。そうでしょ?」
コーンはなにもいわなかった。
「ねえ、ジェイク。お話があるの。わたしとドームまで来てくれない? あなたはここにいてよ、ね、ロバート? いらっしゃい、ジェイク」
ぼくたちはモンパルナス大通りを渡り、テーブルに向かって腰をおろした。新聞売りの少年が「パリ・タイムズ」をかかえてやってきたので、ぼくは一部かって、開いた。
「どうしたんだい、フランセス?」
「あら、なんでもないのよ」と彼女がいった。「ただ、あのひとがわたしと別れたがってるのよ」
「というと?」
「あら、あのひと、わたしたち結婚するってみんなにいうし、わたしもお母さんやみんなにそういったのに、いまになって、結婚したがらないのよ」
「どうしてだい?」
「人生を充分たのしまなかったと、きめてるのよ。ニューヨークにいったとき、こんなことになるだろうって、わかってたわ」
彼女は眼をあげた。とても輝いた眼で、さりげなく話そうとしていた。
「あのひとが結婚したくないなら、わたしだってしないわ。もちろん、しないわ。いまとなっては、どんなことがあっても結婚しないわ。でも、もう、すこし、おそすぎるように、わたし、思うわ。三年も待ったんだし、わたし、それに、やっと離婚できたのよ」
ぼくはなにもいわなかった。
「わたしたちお祝いするところだったのよ。ところが、それどころか、喧嘩しちゃったの、とても、子供っぽいことね。ものすごい喧嘩しちゃったの。あのひとったら泣いて、わたしに理性をもつようにって頼むのよ、でも、結婚はできないっていうの」
「運がわるいなあ」
「ほんとに運がわるいのよ。あのひとのために、もう、二年半もむだにしちゃったの。それに、いまとなっては、わたしと結婚したがる男なんて、いそうもないし。二年前ならカンヌで、好きな男と結婚できたのよ。シックなひとと結婚して落ちつきたがっていた昔なじみの連中は、みんな、わたしに首ったけだったわ。いまじゃあ、だれもつかまえられそうもないわ」
「いや、だれとだって結婚できるさ」
「いいえ、だめよ。それに、わたし、あのひと好きなのよ。それに、子供がほしいの、いつも子供をほしいと思ってたのよ」
彼女は眼をひどく輝かせてぼくを見た。「子供はあんまり好きじゃあなかったのよ。でも、子供ができないと思いたくなかった。子供ができれば好きになるだろうと、いつも思ってたの」
「あいつは子供があるんじゃないか」
「ええ、そうよ。あのひとは子供があるし、お金もあるし、お金持のお母さんもあるし、本も書いたけど、だれもわたしのものは出版してくれないのよ、だれ一人として。それも悪くはないわ。それに、わたし一文もお金ないのよ。慰藉料も、もらえばもらえたんだけど、一番手っとり早い方法で離婚しちゃったから」
彼女は眼を輝かせて、またぼくを見た。
「ひどいったらないわ。わたしがわるいともいえるし、また、わるくもないのよ。もっと賢くなるべきだったのよ。で、あのひとにいうと、あのひとったら泣いて、結婚できないっていうの。なぜ結婚できないのかしら? わたし、いい奥さんになるわ。わたし、いっしょに暮らすには、らくなほうよ。あのひとを自由ににさせとくわ。そういっても、だめなのよ」
「ひどいね」
「ええ、ひどいことよ。でも、話したってむだよ、ねえ? さあ、カフェにもどりましょう」
「で、もちろん、ぼくはなにもできないし」
「できないわ。ただ、あなたにお話したっていわないでね。あのひとのしたいことはわかってるの」このとき、はじめて、彼女は例の晴れやかでおそろしく快活な様子を失った。「あのひと、ニューヨークにひとりで帰って、本がでるとき、そこにいたいのよ。おおぜい若い娘がさわぎたてるからよ。それが望みなのよ」
「たぶん、さわがないだろう。あいつはそんなことは考えないと思うがね、ほんとに」
「あなたはわたしほどはあのひとを知らないわ、ジェイク。あのひとがしたいのはそれなのよ。わかってるわ。わかってるわ。だから結婚したくないのよ、この秋、大きな勝利をひとりじめしたいのよ」
「カフェにもどろうか?」
「ええ、もどりましょう」
ぼくたちは立ちあがった――飲みものはまだもってきてなかった――そして、セレクトのほうへ街路を横ぎりはじめた。セレクトではコーンがそこの大理石張りのテーブルの向こうに腰かけ、ぼくたちにほほえみかけていた。
「まあ、なにをほほえんでらっしゃるの?」とフランセスが彼にたずねた、「すごくたのしそうね」
「君と君の秘密を知ってるジェイクにほほえんでるんだよ」
「まあ、ジェイクにお話したことは秘密なんかじゃないわ。みんなにすぐわかることよ。ただ、ジェイクに間違いのないとこを話したかったのよ」
「なんだったんだい? 君のイギリス行きのことかい?」
「ええ、わたしのイギリス行きのことよ。まあ、ジェイク! あなたにいうの忘れてたわ、わたし、イギリスへ行くのよ」
「そいつはすてきだ!」
「ええ、とびきり上流の家族のすることなのよ。ロバートがわたしを行かせるのよ。二百ポンドくれるの。で、わたし、お友だちをたずねるのよ。すてきじゃあない? お友だちは知らないのよ、まだ」
彼女はコーンのほうをむいて、ほほえんだ。彼はもうほほえんではいなかった。
「あなた、わたしに百ポンドだけくださるはずだったの、ねえ、ロバート? でも、わたし、二百ポンドもらえるようにしちゃったわ。このひと、ほんとに、とても気前がいいわ。そうでしょう、ロバート?」
ロバート・コーンにどうしたらそんなおそろしいことがいえるのか、わからない。侮辱になることをいえない相手というものがあるものだ。そういう人は、あることをいったら、世界が破滅してしまいそうな、眼の前で実際に破滅してしまいそうな感じをあたえるものだ。だが、このときのコーンはすっかりこらえていた。いまここで、ぼくの眼の前で、すべてが行なわれ、ぼくはそれをとめようとする衝動さえおきなかった。そして、これはのちにおこったことにくらべれば、親しみのある冗談ごとだった。
「よくそんなことがいえるね、フランセス?」とコーンが口をはさんだ。
「あんなこといってるわ。わたし、イギリスに行くのよ。友だちをたずねるの。会いたがってもいない友だちをたずねたことある? まあ、わたし歓迎されるわよ、かならず。『いかが、あなた? ずいぶん、おひさしぶりね。お母さまはいかが?』そう、お母さんはどうしてるかしら? もっていたお金を全部フランスの戦時公債にしちゃったの。ええ、そうよ。たぶん、そんなことしたのは世界中でお母さんだけよ。『で、ロバートはいかが?』ときいたり、ロバートのことは避けて、ひどく周到に話すわ。『お前、あのひとのことなどできるだけいわないように注意しなけりゃだめだよ。かわいそうに、フランセスはとても不幸な経験をしたんだからね』おかしくない、ロバート? おかしいと思わない、ジェイク」
彼女は例のおそろしく晴れやかな微笑をうかべてぼくのほうをむいた。こういうことをきいてもらえるので、彼女はとても満足だったのだ。
「で、あなたどうするつもり、ロバート? わたしが悪かったのよ、たしかに。ほんとに、わたしが悪かったのよ。雑誌のあなたのかわいい秘書をあなたから追っぱらったとき、わたしも同じように追っぱらわれると気づくべきだったわ。ジェイクはそのことは知らないわ。話しましょうか?」
「やめろ、フランセス、お願いだ」
「いいえ、わたし言っちゃうわ。ロバートは雑誌にかわいい秘書をおいてたのよ。すごくすてきなかわいい娘《こ》で、ロバートはすばらしいと思ってたのよ。そこへわたしがやってきたんで、わたしのこともすごくすばらしいと思ったの。で、わたしがその娘を追っぱらわせたの。雑誌を移転したとき、カーメルからプロヴィンスタウンにその娘をつれてきたんだけど、太平洋岸までの帰りの旅費もはらわなかったのよ。これもみんなわたしをよろこばせるためだったの。そのころはわたしをとてもいいと思ってたんだわ。そうじゃなくって、ロバート?
誤解しないでね、ジェイク。秘書とはまったくプラトニックだったのよ。プラトニックほどでもなかったのよ。ほんとうになんでもなかったのよ。ただ、あの娘がとてもいい娘だったっていうだけよ。で、ロバートが私をよろこばせようというんでそうしただけなの。剣で生きる者は剣で亡ぶと思うわ。でも、それ、文学的じゃない? あなた、次の本のためにそれをおぼえておきなさいね、ロバート。
ロバートは新しい本の材料をさがしているのよ。そうでしょ、ロバート? だからわたしを捨てようっていうのよ。わたしがいいたねにならないときめちゃったのよ。ねえ、ロバートは、いっしょにいるときはいつも本をかくのに忙しくって、わたしたちのことはなにも覚えていないのよ。それで、今、わたしからのがれて、なにか新しい材料を手にいれようとしているの。おそろしくおもしろいものがあればいいんですが。
あなた、きいてちょうだい、ロバート。ちょっといわせて。かまわないでしょ、ねえ? あなた、若い娘さんたちとさわぎをおこさないでね。おこさないようにしてね。だって、あなたは泣かずにはさわぎをおこせないんですもの。そうすると、自分がとても哀れになって、他の人のいったことなんか忘れちゃうんですもの。あなた、そんなふうだから会話をおぼえていられないのよ。おちつくようにしてちょうだいね。とてもむずかしいってことは知ってるわ。でもおぼえてて、文学のためなんですもの。文学のためには、だれでも犠牲をはらうべきだわ。わたしをみてごらんなさい。わたしは文句もいわないでイギリスにいくのよ。みんな文学のためよ。わたしたちはみんな若い作家たちを助けてやらなきゃならないのよ。そう思わなくって、ジェイク? でもあなたは若い作家じゃないわ。そうでしょ、ロバート? 三十四ですもの。でも偉大な作家になるには若いと思うわ。ハーディーをごらんなさい。アナトール・フランスをごらんなさい。彼はちょっと前に死んだばかりね。でもロバートは彼がいい作家だとは思ってないのよ。フランス人の友だちに教わったのよ。ロバートは自分じゃあまりフランス語を読まないのよ。彼はあなたのようにいい作家じゃなかったのよ、ねえ、ロバート? 彼が材料をさがしに行かなければならなかったと思って? 彼が結婚したがらないとき、女に何といったと思って? 彼も泣いたかしら? まあ、いま、気がついたわ」彼女は手袋をはめた手をくちびるにあてがった。「ロバートがわたしと結婚しない本当の理由がわかったわ、ジェイク、いまわかったの。このカフェ・セレクトで幻になってわたしにうかんできたの。神秘的じゃない? いつかみんながそのことを書いた額をあげるわよ。ルルド〔フランス南西部のピレネー山脈の麓にある町。ほら穴に有名なマリアの聖堂がある〕みたいにね。ききたい、ロバート? 話すわ、すごく簡単よ。どうしてそんなこと考えなかったのかしら。まあ、ねえ、ロバートはいつも恋人を欲しがってるのよ。で、わたしと結婚しなければ、わたしという恋人をもっていられたのよ。その人は、二年以上も彼の恋人だったのよ。おわかりになる? で、かねて約束していたとおりにわたしと結婚すれば、ロマンスがすっかり終わっちゃうんですからね。そんなことを想像したなんて、わたし賢明だと思わない? それほんとなのよ。ロバートを見て、ほんとかどうかたしかめてごらんなさい。どこへいくの、ジェイク?」
「中にはいってちょっとハーヴェイ・ストーンに会わなきゃならないんだ」
中にはいっていくとき、コーンが見上げた。彼の顔はまっさおだった。なぜあそこにすわっているんだろう。なぜ、あんなふうに辛抱しつづけているんだろう。
カウンターに向かって立ち、外をみると、彼らが窓ごしにみえた。フランセスは彼に話しつづけ、明るくほほえみ、「そうでしょう、ロバート?」とたずねるたびに彼の顔をのぞき込んでいた。いや、多分もうそうはたずねなかったのだろう。おそらく、なにか他のことをいっていたんだろう。ぼくは何も飲みたくないとバーテンにいって、横のドアから外にでた。そのドアからでるとき、二枚の厚いガラスを通してふりかえると、彼らがそこにすわっているのがみえた。彼女はまだ彼に話しかけていた。ぼくは横町をラスパイユ大通りのほうに歩いていった。タクシーがやってきたのでそれにのり、ぼくのアパートの番地を運転手に告げた。
第七章
階段をのぼりかけると、管理人のおばさんが管理人室のドアのガラスをたたいた。立ちどまると、出てきた。手紙をいくつか、それに電報を一通もっていた。
「はい郵便。それから、女の人がたずねて来ましたよ」
「名刺をおいていった?」
「いいえ。男の人といっしょでした。昨夜来た人です。とてもいいかただと、どうやらわかりましたよ」
「ぼくの友人といっしょだったの?」
「さあ、男の人はここに来たことのない人でしたよ。とても大きな人でした。とても、とても、大きな。女の人はとてもいい人でした。とても、とても、いい。昨夜は、たぶん、すこし――」彼女は片手の上に顔をのせ、上下に動かした。「ざっくばらんに言いますがね、|バーンズさん《ムッシュ・バーンズ》。昨夜はあまり上品《ジャンティーユ》な人だとは思いませんでした。昨夜は違ったように考えていました。でも、わたしのいうことをよく聞いてください。あの人は、とても、とても、上品《トレ・トレ・ジャンティーユ》ですよ。とても家柄のいい人ですよ。すぐにわかりますとも」
「なんか言伝てはなかったかい?」
「いいえ、一時間もしたらまた来ると言ってました」
「きたら、あげてくれ」
「承知しました|バーンズさん《ムッシュ・バーンズ》。それから、あのご婦人、あのご婦人はえらい人ですね。たぶん、ふう変わりかもしれませんが、|えらいかたです《ケルカン》、|えらいかたです《ケルカン》!」
管理人は管理人になる前、パリの競馬場で酒場の営業権をもっていた。彼女の生涯の仕事は三等観覧席《プルーズ》にあったが、一等観覧席《ベザージ》の人々から眼をはなさなかったので、ぼくの客のだれが育ちがよいとか、だれが家柄がいいとか、だれが|スポーツマン《スポルツマン》――マンというところにアクセントをつけたフランス語だったが――とか、ぼくに話して非常に得意になっていた。ただ困ったことは、これらの三つの部類に属さない人たちは、バーンズさんはお留守ですとよくいわれたことだ。友人のひとりの、ひどく栄養のわるそうにみえる画家は、マダム・デュジネには明らかに育ちもよくなく、家柄もよくなく、スポーツマンでもなかったので、ぼくに手紙をよこし、夕方ときどきぼくに会いにいけるように、管理人が通してくれるパスをくれないかといってきた。
ぼくはブレットが管理人にどんなことをしたのだろうと思いながら、部屋へあがっていった。電報はビル・ゴートンからので、『フランス』号で着くとあった。テーブルの上に郵便物をおき、寝室にはいり、服をぬぎ、シャワーをあびた。からだをこすっていると、ドアのベルが鳴るのがきこえた。バスローブをかけ、スリッパをつっかけて、ドアまでいった。ブレットだった。うしろに伯爵がいた。彼はバラの大きな花束をかかえていた。
「ねえ、あなた」とブレットがいった。「はいっていい?」
「どうぞ、風呂にはいってたんだ」
「いいご身分ね、お風呂だなんて」
「シャワーだけさ。おかけください、ミピポポラス伯爵。なにをお飲みになりなすか?」
「花がお好きかどうか存じませんが」と伯爵がいった。「失礼ですが、こんなバラをもってまいりました」
「ちょっと、わたしにちょうだい」とブレットがバラをうけとった。「このなかに水をいれてきて、ジェイク」ぼくは台所で大きな陶器の水差しに水をいれてきた。ブレットはそれにバラをさし、食堂のテーブルのまんなかにおいた。
「ねえ、きょうはすてきな一日だったわ」
「クリヨンでぼくとデートしたの、忘れたのかい?」
「忘れたわ。デートなんかした? わたし、きっと酔ってたのね」
「あなたはすっかり酔ってましたよ」と伯爵がいった。
「やっぱり、酔ってたのね。ところで、伯爵はいいかたでしたわ、絶対に」
「きょうは管理人にひどく顔がきいたんだね」
「そのはずよ、二百フランあげたんですもの」
「ばかなことするなよ」
「このひとのお金よ」と彼女がいって、伯爵のほうへうなずいてみせた。
「昨夜のことで、なにかすこしやらなきゃあならないと思いましたんでね、ひどくおそかったですから」
「このひと、すてきよ」とブレットがいった。「あったことはなんでも憶えてるの」
「あなたもそうですよ」
「まあ」とブレットがいった。「だれも憶えていたくないものよ。ねえジェイク、お酒のむ?」
「向こうで服を着てるあいだに、やっていてくれ。あるところ知ってるね」
「もちろんよ」
服を着ているあいだ、ブレットがグラスをおき、それから、炭酸水の壜をおく音がきこえ、それから、二人が話しているのがきこえた。ベッドに腰をおろして、ゆっくり服を着た。疲れて、ひどく気分がわるかった。ブレットが手にグラスをもち、部屋にはいってきて、ベッドに腰かけた。
「どうしたの、あなた? めまいがするの?」
彼女はぼくのひたいに冷たくキスした。
「ああ、ブレット、君がとても好きなんだ」
「あなた」と彼女がいった。それから、「あのひとを追っぱらいましょうか?」
「いや。いいやつだよ」
「わたし、追っぱらうわ」
「いや、よせよ」
「いいえ、追っぱらうわよ」
「そんなことできるもんか」
「できるわよ。ここにいてちょうだい。あのひとわたしに首ったけなの、ね」
彼女は部屋から出ていった。ぼくはベッドに顔を伏せ、横になった。ぼくはたまらない気持だった。彼らが話してるのがきこえたが、きこうとしなかった。ブレットがはいってきて、ベッドに腰かけた。
「あなた、お気の毒に」彼女はぼくの頭をなでた。
「あいつになんていったんだい?」ぼくは彼女から顔をそむけて、横になっていた。彼女を見たくなかったのだ。
「シャンペンを買いにやらせたわ。シャンペン買いに行くの好きなのよ」
それから、すこしたって、「気分、よくなって、あなた? 頭がいくらかよくなった?」
「よくなった」
「静かにねてらっしゃい。あのひと、町の向こう側までいったのよ」
「二人でいっしょに住めないかね、ブレット?ただいっしょに住むだけなんだ?」
「だめだわ。わたし、だれとでも遊んで、あなたを裏切ってしまうわ。あなたは我慢できないわ」
「いまは、我慢してるよ」
「それは話がちがうわ。わたしが悪いのよ、ジェイク。生まれつきこうなんですもの」
「しばらく二人で、田舎へ行っていられないかな?」
「行ってもむだよ。あなたが行きたければ、行くわ。でも、わたし、田舎でおとなしく暮らしていられないのよ。ほんとに愛している人といっしょでもよ」
「うん」
「ひどくなくって? あなたが好きだといったところで、しょうがないんですもの」
「ぼくが君を好きなことは知ってるんだね」
「話すのよしましょうよ。話すなんて、まったく、くだらないことよ。わたし、あなたとお別れするわ。それに、マイケルも帰ってくるし」
「なぜ別れるんだい?」
「あなたのためによ。わたしのためにもよ」
「いつ別れる?」
「できるだけ早く」
「どこへ行くんだい?」
「サン・セバスチアン〔スペイン北部にある避暑地〕」
「いっしょに行けないのかい?」
「だめよ。こんなことまで話しといて、そんなこと考えるなんてひどいわ」
「話がまとまったわけじゃあないんだぜ」
「まあ、あなただって、わたしくらいにはわかってるでしょう。意地をはらないでよね、あなた」
「ああ、もちろん」とぼくはいった。「君のいうとおりだということはわかっている、ぼくはただ、気分がめいってるんだ。で、気分がめいってるときは、ばかなことをいうんだ」
ぼくは身を起こし、かがんで、ベッドのわきの靴をさがし、それをはいた。ぼくは立ちあがった。
「そんな顔しないで、あなた」
「どんな顔をすればいいんだ?」
「まあ、ばかなこといわないで。あした、わたし行くのよ」
「あした?」
「ええ、そういわなかった? あしたよ」
「じゃあ、一杯やろう。伯爵が帰ってくるだろう」
「ええ。帰ってくるころだわ。あのひと、シャンペンを買うには異常なのよ、ね。いくらでもお金だすのよ」
ぼくたちは食堂にはいっていった。ぼくはブランデーの壜をとりあげ、ブレットに一杯、ぼくに一杯、ついだ。ベルが鳴った。ドアに行くと、伯爵がいた。そのうしろに、運転手がシャンペンの籠をもっていた。
「どこにおかせましょうか?」と伯爵がきいた。
「台所に」とブレットがいった。
「そこにいれてくれ、ヘンリー」と伯爵が手で指図した。「さあ、下へ行って、氷をもってきてくれ」彼は台所にはいって、籠の番をしていた。「とてもいいワインだとおわかりになるでしょう」と彼がいった。「このごろ、アメリカではいいワインを味わう機会があまりないですね、これはその商売をやっている友だちから手にいれたんですよ」
「まあ、あなたはいつもいろんな商売のひとを知ってらっしゃるのね」
「この男はぶどうを栽培しているんですよ。何千エーカーものぶどう畑があるんです」
「なんていう名前?」とブレットがきいた。「ヴーヴ・クリクォ?」
「いいや」と伯爵がいった。「マムズというんです。男爵でして」
「すばらしいわね」とブレットがいった。「わたしたち、みんな爵位があるのね。あなたどうして爵位がないの、ジェイク?」
「誓いますよ、あなた」と伯爵はぼくの腕に手をかけた。「爵位なんてちっともいいことありませんよ。たいてい、金がかかることばかりでしてね」
「まあ、そうかしら。ときには、とても役に立つわ」とブレットがいった。
「いいことがあったためしがないですよ」
「使いかたがへたなのよ。わたしにはとても信用をつけてくれたわ」
「どうぞおかけください、伯爵」とぼくがいった。「そのステッキをこちらにどうぞ」
伯爵はガス燈の下で、テーブルごしにブレットを見ていた。彼翌ヘタバコをふかし、絨毯の上に灰をおとしていた。ぼくがそれをじっと見ているのに気がついた。「ねえ、ジェイク、絨毯をよごしたくないわ。灰皿かしてくれない?」
ぼくは灰皿をいくつかさがし、あちこちにおいた。運転手が塩をかけた氷のいっぱいはいっているバケツをもって、あがってきた。「それに壜を二本いれてくれ、ヘンリー」と伯爵がよびかけた。
「ほかにご用は?」
「ない。下の車で待っていてくれ」彼はブレットのほうに、また、ぼくのほうに、むいた。「夕食に森《ボウ》へ車で行きましょうか?」
「お望みなら」とブレットがいった。「わたしは、なにもいただけませんわ」
「私はよい食事ならいつも好きですよ」と伯爵がいった。
「ワインをもってきましょうか?」と運転手がきいた。
「ああ、もってきてくれ、ヘンリー」と伯爵がいった。彼は重そうな豚革の葉巻入れをとりだし、ぼくにすすめた。「本物のアメリカの葉巻をやってみませんか?」
「ありがとう」とぼくはいった。「この巻きタバコを吸ってから」
彼は時計の鎖の端につけていた金のカッターで葉巻の端を切った。
「葉巻は煙がほんとうに通るのがいいんでね」と伯爵がいった。「吸っても、葉巻の半分は煙が通りませんからな」
彼は葉巻に火をつけ、テーブルの向こうのブレットを見ながら、ぱっぱっとすっていた。「で、離婚されれば、アシュレイ夫人、爵位がなくなりますよ」
「ええ。悲しいわ」
「いいえ」と伯爵がいった。「爵位などいりませんよ。あなたは品位がありますから」
「ありがとう。あなた、すごくご親切ね」
「ひやかしているんじゃあありませんよ」伯爵は雲のように煙をはいた。「あなたはお会いしたかたのうちでは、いちばん品位がありますよ。そうですとも。そう申しあげただけですよ」
「ありがとう」とブレットがいった。「お母さんが喜ぶわ。そうかいてくださらない、手紙にいれてお母さんに送るから」
「私もお母さんに申しましょう」と伯爵がいった。「私はひやかしてるんじゃありませんよ。ひやかせば、敵ができますからね。これはいつもいってることなんですが」
「ほんとうね」とブレットがいった。「おそろしいくらい、ほんとうね。わたし、いつもひやかすから、世界中でだれも友だちがいないのよ、このジェイクは別だけど」
「このかたをひやかしはしないでしょう」
「そうよ」
「あなたは、いま」と伯爵がたずねた。「このかたをひやかしますか?」
ブレットはぼくをみて、眼尻に皺をよせた。
「いいえ」と彼女がいった。「ひやかしませんわ」
「ほら」と伯爵がいった。「あなたはこのかたをひやかさない」
「いやにつまらない話になったのね」とブレットがいった。「シャンペンはいかが?」
伯爵はかがみこみ、光っているバケツの中の壜をまわした。「まだひえてませんよ、あなたはいつも飲んでらっしゃいますね。なぜ話だけしていられないんです?」
「しゃべりすぎちゃったのよ、ジェイクにみんなしゃべっちゃったの」
「あなたがほんとうに話すのをききたいものですね。私に話すときは、文章を終わりまでいわれたことがない」
「あなたに結んでもらいたいの。だれでもいいから、好きなようにわたしの言葉を結んでもらいたいの」
「そりゃあとても面白い方法ですね」伯爵はかがみこみ、壜をぐるっとまわした。「でも、ときにはあなたのお話をききたいですよ」
「このかたへんじゃあない?」とブレットがきいた。
「さて」と伯爵は壜をもちあげた。「冷えたようです」
ぼくがタオルをもってゆくと、彼は壜をふき、さしあげた。「大壜のシャンペンを飲むのが好きでね。ワインのほうがいいんですが、冷やすのが面倒でね」彼は壜をかざして、ながめていた。ぼくはグラスをさしだした。
「ねえ。開けたら」とブレットがいいだした。
「ええ、そうですね。さあ、開けますよ」
それはすばらしいシャンペンだった。
「まあ、これこそワインだわ」ブレットはグラスをさしあげた。「なにかに乾杯しなければ。『王室のために』」
「このワインは乾杯するにはよすぎますよ。ねえ、そんなふうに、ワインに感情をまぜたくはないでしょう。味がまずくなりますよ」
ブレットのグラスはからだった。
「あなたはワインについて本をかくべきですよ、伯爵」とぼくがいった。
「バーンズさん」と伯爵がこたえた。「ワインはただたのしむことだけが望みでしてね」
「もうすこしこれをたのしみましょう」ブレットは彼女のグラスを前のほうにさしだした。伯爵はひどく注意して、ついだ。「さあ、ね。ゆっくりおたのしみなさい。そのうちに、酔いますよ」
「酔う? 酔うんですって?」
「ねえ、あなたは酔うと、魅力があるんです」
「あんなことをいってらっしゃるわ」
「バーンズさん」と伯爵はぼくのグラスにいっぱいついだ。「このかたは、酔ったときも、しらふのときと同じように、魅力があるんでね、こんなご婦人はほかには知りませんよ」
「あなたはあんまり世間を見てないんじゃないの、ねえ?」
「いや、あなた。しょっちゅう見てますよ。おおいに見ていますよ」
「お飲みなさいよ」とブレットがいった。「わたしたちみんな見ているのね。このジェイクもあなたぐらいに見てるようよ」
「ええ、バーンズさんは、きっと、おおいに、見てますとも、そう思わないなどと思わないでください。私もおおいに世間を見ておりますが」
「もちろん、あなたはそうよ」とブレットがいった。「からかってみただけよ」
「私は戦争に七回、革命に四回であってます」
「従軍なさったの?」とブレットがたずねた。
「ときにはね。矢傷をうけましたよ。矢傷を見たことがありますか?」
「ちょっと見せてちょうだい」
伯爵は立ちあがり、チョッキのボタンをはずし、ワイシャツを開けた。彼はアンダーシャツを胸までたくしあげて立っていたが、光のもとで、胸が黒く、大きな胃の筋肉がふくれあがっていた。
「見えるでしょう?」
肋骨の端の線の下に肉がもりあがった傷痕が二つあった。「背中の矢のでてきたところをごらんなさい」背中の腰の部分に指のようにあつく肉のもりあがった同じような傷痕が二つあった。
「まあ。すごいのね」
「見事に突きぬけたんですよ」
伯爵はワイシャツをつっこんでいた。
「どこでやられたんですか?」とぼくがたずねた。
「アビシニアです。二十一のときに」
「なにをしていたの?」とブレットがたずねた。「軍隊にはいっていたの?」
「商用で旅行してたんですよ」
「この人、わたしたちの仲間だといったでしょう。ねえ?」とブレットはぼくのほうをむいた。「あなた、好きだわ、伯爵。あなた、かわいいわ」
「そういわれると、私はとても幸せです。でも、それはうそです」
「ばかいわないで」
「ねえ、バーンズさん、私がなんでもこんなにたのしめるのは、いろんな経験をしたからなんですよね。そうお思いになりませんか?」
「ええ。その通りです」
「そうですとも」と伯爵がいった。「それが秘訣です。価値というものを知らなきゃあいけませんよ」
「あなたの価値にはなにも変わったことおこらないの?」とブレットが聞いた。
「いいえ。もうおこりませんね」
「恋愛したことないの?」
「いつも」と伯爵がいった。「いつも恋愛してますとも」
「それはあなたの価値をなにか変えないの?」
「それも私の価値のなかに位置を占めてます」
「あなたはなにも価値なんてもってないわ。あなたは死んでいるのよ。それだけよ」
「いいえ、あなた。ちがいますよ。すこしも死んじゃあいませんよ」
ぼくたちはシャンペンを三本あけ、伯爵は台所にバスケットを残した。ぼくたちは森《ボウ》のレストランで夕食をとった。いいディナーだった。食事は伯爵の価値にすばらしい位置を占めていた。ワインもそうだった。伯爵は食事のあいだ、礼儀正しかった。ブレットもそうだった。それはよいパーティだった。
「どこに行きましょうか?」と伯爵がディナーのあとでいった。ぼくたちだけがレストランに残っていた。二人のボーイがドアにもたれて立っていた。二人は帰りたがっていた。
「丘をのぼったらどうかしら」とブレットがいった。「すてきなパーティだったじゃない?」
伯爵は晴れやかにほほえんでいた。彼はとても幸福だった。
「あなたがたはとてもいいかたですね」と彼がいった。彼はまた葉巻をふかしていた。「どうして結婚なさらないんですか、お二人で?」
「ぼくたちはめいめい自分たちの生活がしたいんですよ」とぼくがいった。
「わたしたちの生きかたがありますから」とブレットがいった。「さあ。ここを出ましょう」
「ブランデーをもう一杯飲みましょう」と伯爵がいった。
「丘にのぼってからいただきましょうよ」
「いや。ここで、静かですから」
「あなたが静かですって」とブレットがいった。「静かって、どんな感じ?」
「ぼくたちは静かなのが好きですよ」と伯爵がいった。「あなたが騒がしいのが好きなようにね」
「いいわ」とブレットがいった。「一杯いただくわ」
「ボーイ!」と伯爵がよんだ。
「はい」
「ここのいちばん古いブランデーはなんだね?」
「一八一一年のです」
「一本もってきてくれ」
「まあ、見栄をはらないでよ。ジェイク、やめさせて」
「ねえ、いいですか。ほかのどんな骨董品《こっとうひん》よりも古いブランデーのほうがお金の使いがいがあると思いますね」
「骨董品たくさんあるの?」
「家いっぱいにありますとも」
最後にぼくたちはモンマルトルにいった。ゼリの店のなかは混んでいて、煙ったく、騒がしかった。なかにはいると、音楽が耳をうった。ブレットとぼくはダンスをした。すごく混んでいて、ほとんど身動きもできなかった。ドラムをたたいていた黒人の男がブレットに手をふった。ぼくたちは人混みにもまれ、彼の前の一カ所にとまって踊っていた。
「いかが?」
「元気よ」
「そいつは結構」
彼は歯と唇だけだった。
「わたしの大の親友よ」とブレットがいった。「すごくじょうずなドラマーよ」
音楽が止まり、ぼくたちは伯爵のすわっているテーブルのほうへ歩きだした。すると、音楽がまたはじまり、ぼくたちは踊った。ぼくは伯爵を見た。彼はテーブルに向かってすわり、葉巻きをくゆらしていた。音楽がふたたび止まった。
「向こうに行きましょう」
ブレットがテーブルのほうへ歩きだした。音楽がはじまり、またぼくたちは踊った、人の並にもまれながら。
「あなた、ダンスへたくそね、ジェイク。マイケルはわたしの知ってるうちでは、いちばんじょうずよ」
「あいつはすばらしいよ」
「要領を心得てるのよ」
「ぼくはあいつ、好きだな」とぼくはいった。「すごく好きだ」
「わたしあのひとと結婚するのよ」とブレットがいった。「変ね、わたし一週間もあのひとのこと考えなかったわ」
「手紙を書かないのかい?」
「ええ。一度も書かないわ」
「きっと、向こうからくるんだろ」
「そうなの、とってもいい手紙なのよ」
「いつ結婚するんだい?」
「わたしにわかるはずないわ。離婚できたらすぐによ。マイケルはお母さんに結婚を発表させようとしているの」
「ぼくに手伝えることがあるかい?」
「ばかいわないで。マイケルの家の人はたくさんお金があるのよ」
音楽が止まった。ぼくたちはテーブルまで歩いていった。伯爵が立ちあがった。
「とてもよかった」と彼がいった。「とても、とても、よかったですね」
「踊らないですか、伯爵?」とぼくがたずねた。
「いや、私は年とりすぎてましてね」
「まあ、そんなことおっしゃって」とブレットがいった。
「ええ、たのしみたければ、やるんですがね。あなたがたの踊るのを見てるのがたのしいんでね」
「すてきだわ」とブレットがいった。「いつか、あなたのために、また、踊るわ、ねえ。かわいいお友だちのジジはどうなさったの?」
「申しあげましょう。私はあの青年を後援していますが、つれてあるきたくはないんですよ」
「ずいぶんお固いかたのようね」
「ご存じのように、あの青年には将来があると思っていますよ。でも、私としては、つれてあるきたくはないんです」
「ジェイクも同じ考えね」
「あいつにはいらいらするよ」
「さて」と伯爵は肩をすぼめた。「彼の将来は、わかりませんよ。ともかく、お父さんが私の父の大の親友でしてね」
「さあ、踊りましょう」とブレットがいった。
ぼくたちは踊った。混んでいて、人いきれでむっとした。
「ああ、あなた」とブレットがいった。「わたしとてもみじめなの」
すべて前におこったことをくりかえしているような例の気持がした。「ちょっと前は幸福だったじゃないか」
ドラマーが叫んだ。「君は裏切れない――」
「何もかもおわったの」
「どうしたんだい?」
「わからないわ。ただすごく淋しいの」
「……」ドラマーが歌った。それから、ドラムをたたきはじめた。
「出ようか?」
ぼくは悪夢のなかにあって、すでに経験したが、いままた経験しなければならないような、なにかがくりかえされるような気持がした。
「……」ドラマーがやさしく歌った。
「出ましょう」とブレットがいった。「いいでしょう」
「……」ドラマーが大声で叫んで、ブレットに歯をむきだして笑った。
「いいとも」とぼくはいった。ぼくたちは人混みからぬけだした。ブレットは化粧室に行った。
「ブレットが、帰りたがってますので」とぼくは伯爵にいった。彼はうなずいた。「そうですか? それは結構。車をお使いください。私はしばらくここにおりますから、バーンズさん」
ぼくたちは握手した。
「すばらしかった」とぼくがいった。「これは受け取ってください」ぼくはポケットから紙幣をだした。
「バーンズさん、そんなばかなことを」と伯爵がいった。
ブレットは肩掛けをかけて出てきた。彼女は伯爵にキスし、立ちあがらないように彼の肩に手をかけた。外にでるとき、ふりかえると、彼のテーブルに女の子が三人いた。ぼくたちは大きな車にのりこんだ。ブレットが運転手に彼女のホテルの番地を教えた。
「いや。あがってこないで」と彼女がホテルでいった。彼女がベルを鳴らすと、ドアの鍵があいた。
「ほんとう?」
「ええ。お願い」
「おやすみ、ブレット」とぼくがいった。「気分を害して、悪かった」
「おやすみなさい、ジェイク。おやすみ、あなた。もうお会いしないわ」ぼくたちはドアのところに立ったままキスした。彼女はぼくをおしのけた。ぼくたちはまたキスした。「ああ、だめよ!」とブレットがいった。
彼女はすばやく背を向け、ホテルにはいった。運転手はぼくをアパートまで送ってくれた。ぼくが二十フランやると、彼は帽子に手をあて、「おやすみなさい」といって、車を走らせていった。ぼくはベルを鳴らした。ドアが開き、ぼくは階段をあがり、ベッドへはいった。
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第二部
第八章
ぼくはブレットがサン・セバスチアンから帰ってくるまで、会わなかった。そこから彼女は葉書を一枚よこした。コンチャ岬〔サン・セバスチアン郊外の岬〕の写真があって、「あなた、すごく静かで健康なところよ。みなさんによろしく。ブレット」とあった。
ロバート・コーンにも会わなかった。フランセスはイギリスに向けて出発したとのことだった。コーンからは短い手紙があり、どこかわからないが、一、二週間、田舎にでかけるが、冬に話していたスペインへの釣りの旅にはぼくと行きたい、とあった。彼の取引の銀行を通じて、いつでも連絡はとれる、とも書いてあった。
ブレットはいってしまい、ぼくはコーンの悩みにわずらわされず、テニスをしないですむのをむしろよろこんだ。しなければならない仕事がたくさんあり、たびたび競馬に行き、友人たちと食事をし、事務所で時間外に働いて、仕事を片付け、六月の末にビル・ゴートンとスペインにでかけるときに秘書にまかせておけるようにした。ビル・ゴートンがやってきて、二、三日アパートにとまったが、ウィーンに行った。彼は非常に元気で、合衆国はすばらしい、すてきな劇のシーズンだったし、すぐれた若いライトヘヴィー級の選手もたくさんいて、そのどれも成長して、体重がつき、デムプシー〔アメリカのボクシング選手、へヴィー級世界チャンピオン〕をまかす見込みが、充分あるといった。ビルはとても幸福だった。最新作でかなり金をもうけたが、さらに、もっと、もうけそうだった。彼がパリにいるあいだ、ぼくたちは楽しいときをすごした。それから彼はウィーンに行った。三週間でもどってきて、二人でスペインに行き、釣りをし、パンプローナ〔スペイン北部の都市〕の祝祭《フィエスタ》に行くつもりだった。ウィーンはすばらしいと彼は書いてきた。それから、ブダぺストから葉書で、「ジェイク、ブダぺストはすばらしい」とあった。それから、電報がきた。〈ゲ ツヨウニカエル〉
月曜の夕方、彼はアパートに到着した。彼のタクシーがとまるのがきこえたので、窓にいき、呼びかけた。彼は手をふって、カバンをもって、上にあがってきた。ぼくは階段の上で彼をむかえ、カバンの一つを受け取った。
「おい」とぼくはいった。「すばらしい旅行だったってね」
「すばらしかった」と彼がいった。「ブダぺストはまったくすばらしい」
「ウィーンはどうだった?」
「あまりよくなかった、ジェイク。あまりよくなかった。実際よりはよくみえたがね」
「というと?」ぼくはグラスとサイフォンを取り出した。
「酔っぱらっちゃってね、ジェイク。酔っぱらっちゃったんだ」
「そいつは意外だ。一杯やれよ」
ビルはひたいをこすった。「驚くべきことさ」と彼がいった。「どうしてそうなったかわからないんだ。急にそうなったんだ」
「長くつづいたのか?」
「四日間だよ、ジェイク。ちょうど四日間つづいたよ」
「どこへいったんだ?」
「おぼえがないんだ。君に葉書をかいたよ。それは完全におぼえている」
「ほかになにかしたかい?」
「あまりたしかじゃないんだ。しただろうね」
「それで。そいつを話せよ」
「おもいだせないんだ。おもいだせることはなんでもいうよ」
「さあ、そいつを飲んで、おもいだせよ」
「すこしはおもいだせるかもしれない」とビルがいった。「ボクシングの試合のことはいくらかおぼえている。すごいウィーンのボクシングの試合だった。黒人が一人いたよ。黒人のことは完全におぼえている」
「それで」
「すばらしい黒人だった。タイガー・フラワーズ〔アメリカのミドル級のボクシングのチャンピオン〕に似ていた。ただ四倍も大きかったがね。とつぜん、みんなが物を投げはじめたんだ。ぼくはやらなかったがね。黒人が土地の選手をノック・アウトしたところだった。黒人はグローヴを高くあげた。しゃべろうとしていた。ひどく立派な顔つきの黒人だった。しゃべりはじめた。すると、土地の白人の選手が彼をなぐった。すると、彼は白人の選手をなぐって、のしてしまった。すると、みんなが椅子をなげはじめた。黒人はぼくたちといっしょの車で家に帰った。自分の服もとってこられないんだ。ぼくの上衣をきせてやった。やっと全部思いだした。すばらしいスポーツの晩だったよ」
「どうなった?」
「黒人に服を貸して、いっしょに、やつの金をもらいにいったんだ。試合場がこわれたから、黒人のほうが金を借りていることになるといいはるんだ。だれが通訳したんだっけ? ぼくだったかな?」
「たぶん、君じゃあなかっただろうな」
「そのとおりだ。ぜんぜんぼくじゃあなかった。ほかのやつだった。土地っ子のハーヴァード出とよんでいたやつのようだ。やっと思いだした。音楽を勉強していたやつだ」
「で、どうなった?」
「ひどいったらないよ、ジェイク。どこへいっても、不正さ。プロモーターは黒人が土地の選手を倒さないって約束したといいはるんだ。黒人が契約を破ったといいはるんだ。ウィーンではウィーンのやつをノック・アウトできないんだな。『ひどいですね、ゴートンさん』と黒人がいうんだ。『四十分もの間、あそこで、なんにもしないで、ただあいつを倒れないようにしていたんですぜ。きっと、あの白人のやつのほうからぼくに向かってきて自滅しちゃったんですよ。ぼくのほうじゃあ一度も打たなかったんですからね』」
「金はもらったかい?」
「一文ももらわないよ、ジェイク。黒人の服をやっともらっただけさ。それと、だれかが時計はとりかえしてきたがね。すばらしい黒人さ。ウィーンにやってきたのが大間違いさ。ひどいったらないよ、ジェイク。ひどいったら」
「黒人はどうなった」
「ケルン〔ドイツ西部、ライン河に臨む都市〕に帰ったよ。そこに住んでいるんだ。結婚してね。子供があるんだ。ぼくに手紙をよこし、貸してやった金を返してくれるはずだ。すばらしい黒人さ。宛名を間違えずに教えたと思うんだが」
「たぶん、だいじょうぶだろう」
「ああ、とにかく、食おう」とビルがいった。「もっと旅の話をしてもらいたいなら別だが」
「話せよ」
「食おう」
ぼくたちは階下におり、六月の暖かい夕暮を、サン・ミッシェル大通りにでた。
「どこへ行こうか?」
「島〔セーヌ河の中にあるサン・ルイ島〕で食うのはどうだい?」
「そうしよう」
ぼくたちは大通りを歩いていった。大通りがダンフェール・ロシュロー通りと交わるところに、長くゆるやかにたれている服をきた二人の男の像がある。
「だれだか知ってるぞ」ビルは像をじろっと見た。「薬学を発明した紳士たちさ。パリのことでぼくをからかったってだめさ」
ぼくたちは歩きつづけた。
「剥製屋《はくせいや》がある」とビルがいった。「なにか買うかい? いい剥製の犬でも?」
「行こう」とぼくはいった。「君は酔っぱらってるよ」
「とてもいい剥製の犬だ」とビルがいった。「きっと君の部屋を明るくするぜ」
「行こう」
「剥製の犬、一匹だけでいいんだ。いくつかもっていってもいいし、このままにしておいといてもいいんだ。だが、いいかい、ジェイク。剥製の犬、一匹だけでいいんだ」
「行こう」
「買えば世界中のあらゆるものにも劣《おと》らなくなるぜ。単なる価値の交換さ。店に金を払う。店は剥製の犬をくれる」
「帰りに買おう」
「いいさ。すきなようにしろ。剥製の犬を買わないのもいいが、地獄にいっちゃうぞ。ぼくの責任じゃあないぜ」
ぼくたちは歩きつづけた。
「どうしてあんなに急に、犬がほしくなったんだ?」
「犬のことになるといつもああなんだ。いつも剥製の動物がすごく好きなんだ」
ぼくたちは立ちよって、一杯やった。
「たしかに、飲むのはいいね」とビルがいった。「ときには君もやれよ、ジェイク」
「君はぼくより百四十四杯もよけいに飲んでるぜ」
「君をおどかしてわるかった。おじけちゃいけないよ。ぼくの成功の秘訣さ。おじけたことはないんだ。人前でおじけたことなんかないんだ」
「どこで飲んでたんだい?」
「クリヨンによってきたんだ。ジョルジュがジャック・ローズを二、三杯つくってくれた。ジョルジュはえらいやつだよ。やつの成功の秘訣を知ってるかい? おじけたことがないんだ」
「もう三杯もペルノーを飲めば、君だっておじけるよ」
「いや、人前ではおじけない。おじけづいたと思ったら、一人で帰っちゃうよ。ぼくは猫みたいにそうするね」
「ハーヴェイ・ストーンにいつあった?」
「クリヨンでね。ハーヴェイはほんのちょっぴりおじけていたよ。三日間も食べないんだって。もう食わないんだって。猫みたいに消え去っちゃうんだ。すごく悲しいね」
「あいつはだいじょうぶだ」
「すばらしいね。でも、猫みたいに消え去ってほしくないね。いらいらしちゃうよ」
「今晩、どうしようか?」
「何でもいいよ。ただおじけるのだけはやめよう。ここにはかたゆでの卵あるかね? かたゆでの卵があれば、食いにはるばる島まで行かなくてすむんだけど」
「いや」とぼくはいった。「ちゃんとした食事をしようよ」
「ただ、いってみただけだよ」とビルがいった。「さあ、出かけるか?」
「行こう」
ぼくたちはまた大通りを歩きだした。馬車がわきを通りすぎた。ビルがそれを見た。
「あの馬車を見たかい? クリスマスには君のためにあの馬車を剥製にしてやるよ。どの友人にも剥製の動物を贈ろう。ぼくは自然をかく作家なんだからな」
タクシーが通りすぎ、そのなかのだれかが手をふり、それから、ガラスの仕切りをたたいて運転手にとめさせた。タクシーはバックして歩道のそばまでやってきた。なかにブレットがいた。
「美人だ」とビルがいった。「ぼくたちを誘惑する気だな」
「こんばんわ!」とブレットがいった。「こんばんわ!」
「こちらはビル・ゴートン。アシュレイ夫人」
ブレットはビルにほほえんだ。「いまかえってきたところなの。まだお風呂にもはいってないのよ。マイケルが今夜くるの」
「そいつはいい。いっしょにめしでも食いにいこう。それからみんなで迎えにいこう」
「身ぎれいになっておかなくちゃ」
「ああ、くだらない! こいよ」
「お風呂にはいらなきゃあ。九時すぎじゃなきゃこないのよ」
「じゃあ、風呂をあびる前に、一緒に飲もう」
「いいわ。それなら、話がわかるわ」
ぼくたちはタクシーにのりこんだ。運転手がふりむいた。
「いちばん近いバーでとめてくれ」とぼくがいった。
「クロズリにしてよ」とブレットがいった。「このへんのまずいブランデーなんか飲めないわ」
「クロズリ・デ・リラにやってくれ」
ブレットはビルのほうをむいた。
「こんないやな町に長くいらっしゃるの?」
「ブダぺストからきょう着いたばかりです」
「ブダぺストはいかが?」
「すばらしい。ブダぺストはすばらしい」
「ウィーンのことをきいてごらん」
「ウィーンは」とビルがいった。「ふしぎな町です」
「まるでパリのようなのね」とブレットは彼にほほえみかけ、眼尻に皺《しわ》をよせた。
「そのとおりです」とビルがいった。「いまの季節のパリにとても似てますよ」
「いいスタートを切られたわけね」
リラのテラスにでて、腰をおろし、ブレットはウィスキー・ソーダを注文し、ぼくもそれにし、ビルはまたペルノーを注文した。
「いかが、ジェイク?」
「元気だよ」とぼくがいった。「たのしかった」
ブレットはぼくを見た。「旅に出て、ばかみたわ」と彼女がいった。「パリをはなれるなんて、ばかよ」
「たのしかったんだろ?」
「まあ、そのとおりよ。面白かったわ。おそろしいほどたのしかったというわけじゃあないけど」
「だれかに会った?」
「いいえ、だれにも。外出しなかったのよ」
「泳がなかったかい?」
「ええ、なんにもしなかったの」
「ウィーンの話みたいですが」とビルがいった。
ブレットは彼にむかって眼尻に皺をよせた。
「ウィーンもそんなだったのね」
「まったくウィーンもそんなでしたよ」
ブレットはまた彼にほほえんだ。
「いいお友だちね、ジェイク」
「いいやつだよ」とぼくがいった。「剥製屋《はくせいや》なんだ」
「よその国でのことでありまして」とビルがいった。「それに、動物はみんな死んでいました〔イギリスの劇作家クリストファー・マーロー(一五六四〜九三)からの引用〕」
「もう一杯」とブレットがいった。「そしたら、急がなくちゃあ。ボーイにタクシーをよびにやって」
「並んでますよ、表に出たところに」
「よかったわ」
ぼくたちは飲んで、ブレットをタクシーにのせた。
「いいこと、十時ごろにセレクトにきてね。このかたもご一緒に。マイケルもいくわ」
「二人でいきますよ」とビルがいった。タクシーが動きだし、ブレットが手をふった。
「いい女だね」とビルがいった。「すごい美人だ。マイケルってだれだい?」
「結婚しようとしている相手さ」
「おや、おや」とビルがいった。「だれにあっても、いつもこうなんだからな。なにをおくろうか? 剥製の競馬馬二、三頭はどうだね?」
「めしを食ったほうがいい」
「あのひとは、ほんとうに、なんとかっていう爵位のある夫人なのかい?」とビルが、サン・ルイ島に行くタクシーのなかで、たずねた。
「ああ、そうだよ。馬の血統台帳やいろんなものに、そうあるよ」
「おや、おや」
ぼくたちは島の向こう側のマダム・ルコムトのレストランでディナーを食べた。アメリカ人がいっぱいいて、立って席を待たなければならなかった。アメリカ人がまだ手をつけていないパリの河岸《ケ》にある風変わりなレストランだと、だれかがアメリカン・ウィメンズ・クラブの表にのせたので、テーブルをとるのに四十五分も待たなければならなかった。ビルは、一九一八年、休戦の直後に、そのレストランで食事をしたことがあったので、マダム・ルコムトは彼を見て、大騒ぎした。
「だが、ぼくたちにテーブルをみつけてくれやしない」とビルがいった。「ともかく、たいした女だよ」
ぼくたちは、ロースト・チキン、やわらかで青々とした隠元《いんげん》、マッシュ・ポテト、サラダ、チーズいりアップル・パイのおいしい食事をした。
「ずいぶん繁昌してますね」とビルがマダム・ルコムトにいった。彼女は手をあげた。「とんでもない!」
「金持になるね」
「ならいいんですけど」
コーヒーと甘口のフィーンヌをのんで、勘定書を受けとると、以前のように石板にチョークで書いたもので、それはたしかに〈古風で趣のある〉特色のひとつだった。勘定を払い、握手して、外にでた。
「もういらっしゃらないでしょうね、バーンズさん」とマダム・ルコムトがいった。
「同国人が多すぎるよ」
「ランチ・タイムにいらっしゃいよ。混んでませんから」
「そいつはいい。近いうちにまた」
ぼくたちはケ・ドルレアン側の河の上までのびている木々の下を歩いた。河の向こうには取り壊しかけの古い家の破れた壁があった。
「街路をつくろうとしてるんだ」
「そうだね」とビルがいった。
ぼくたちは歩きつづけ、島をひとまわりした。河は暗く、遊覧船《バト・ムッシュ》があかあかと明かりをつけ、通りすぎたが、速く静かに、橋の下に消えていった。河下にはノートル・ダム寺院が夜空にうずくまっていた。ケ・ド・ベテュンヌから歩行者用の木造の橋を渡ってセーヌの左岸にでたが、橋の上で立ちどまり、河下のノートル・ダムを見た。橋に立つと、島は暗くみえ、家々は空を背に高く、木々は黒い影になっていた。
「ずいぶん壮大だね」とビルがいった。「ああ、帰ってきてよかった」
橋の木の手すりにもたれて、河上の大きな橋の燈火を見た。下の水はおだやかで黒かった。橋桁《はしげた》にあたっても、音をたてなかった。一組の男女がそばを通っていった。たがいに腕をからませあって、歩いていた。
ぼくたちは橋を渡り、カルディナール・ルモアンヌ通りを歩いた。急な坂道で、コントレスカルプ広場までずっと、のぼった。アーク燈が広場の木々の葉の間からもれ、木々の下からSバスが発車しようとしていた。|陽気な黒人《ネーグル・ジョワエ》のドアから音楽が流れていた。カフェ・オ・ザマトゥールの窓から、長いトタンのカウンターが見えた。外のテラスでは、労働者がのんでいた。ザマトゥールの開け放した調理場で、女がポテト・チップスを油であげていた。シチューの鉄鍋もあった。女は、片手に赤ワインの壜《びん》をもって立っている老人のために、皿へいくらかシチューをすくいあげた。
「飲むかい?」
「いや」とビルがいった。「いいんだ」
コントレスカルプ広場から右に折れ、両側に古い高い家々の立ちならぶ狭いなだらかな街路を歩いていった。道にとびだしている家があった。奥へひっこんでいる家もあった。ボ・ド・フェール通りに出、そこを歩いて、まっすぐ南北に通じているサン・ジャック通りに達し、それから南に歩き、鉄柵をめぐらした庭の奥にひっこんだヴァル・ド・グラースのそばを通り、ポール・ロワヤール大通りに出た。
「どうする?」とぼくがきいた。「カフェにいって、ブレットとマイクに会うか?」
「そうしよう」
ポール・ロワヤールを行き、それがモンパルナスになり、それから、リラ、ラヴィーニュ、それにあらゆる小さなカフェ、ダモアの前を通り、街路を横ぎってロトンドに行き、その明かりやテーブルの前を通りすぎて、セレクトに行った。
マイケルがテーブルからぼくたちのほうにやってきた。日やけして、見るからに健康そうだった。
「やあ、ジェイク」と彼がいった。「やあ! やあ! どうだい、君?」
「とても元気そうだね、マイク」
「うん、そうだよ。すごく元気なんだ。歩いてばかりいたんだ。一日じゅう歩いてたんだ。酒は、日に一度、お茶のときにおふくろと飲んだだけだ」
ビルはもうバーに行っていた。立って、ブレットと話していたが、ブレットは足を組んで、高いスタンドに腰かけていた。靴下をはいてなかった。
「会えてよかったなあ、ジェイク」とマイケルがいった。「ね、ちょっと酔っぱらっているんだ。驚いたろう、ね? ぼくの鼻をみたかい?」
鼻柱に血がでて乾いていた。
「お年よりのご婦人のカバンにやられたんだ」とマイクがいった。「カバンをおろしてやろうと手をのばしたところ、そいつがぼくの上に落ちたんだ」
ブレットがバーからシガレット・ホールダーで彼に合図して、眼尻に皺をよせた。
「お年よりのご婦人で」とマイクがいった。「そのカバンがぼくの上に落ちてきたんだ。さあ中にはいって、ブレットに会おう。なあ、いい女だろ。君はきれいだね、ブレット。その帽子どこで買ったんだ?」
「買ってもらったのよ、気にいらないの?」
「ひどい帽子だね、いいのを買えよ」
「まあ、わたしたち、いまじゃあ、お金がたくさんあるのよ」とブレットがいった。「ねえ、まだビルにあいさつしてないの? あなた、すてきなホスト〔主人公〕ね、ジェイク」
彼女はマイクのほうにふりむいた。「こちら、ビル・ゴートン。この酔っぱらいはマイク・キャムベル。キャムベルさんは免責未決済破産者なのよ」
「もちろん、そうさ。ねえ、きのう、ロンドンで、前にいっしょに仕事をしてたやつに会ったんだ。ぼくを破産させたやつなんだ」
「その人、なんて言った?」
「一杯おごってくれたよ。そうしてもらってもいいと思ったよ。ねえ、ブレット、君はシャンだね。こいつきれいじゃあないかね?」
「きれいよ。こんな鼻して?」
「すてきな鼻だよ。さあ、ぼくのほうへ向けてくれ。こいつはシャンじゃないかい?」
「その男をスコットランドにおいとくわけにはいかなかったの?」
「ねえ、ブレット、早く寝ようよ」
「下品なこといわないで、マイケル。このバーには、ご婦人がたもいらっしゃるのよ」
「こいつはシャンじゃあないかね? そう思わないか、ジェイク」
「今晩、ボクシングがあるんだよ」とビルがいった。「行くかい?」
「ボクシング?」とマイクがいった。「だれがやるんだ?」
「ルドゥとだれかだ」
「あれはとてもいい、ルドゥは」とマイクはいった。「見たいなあ」――彼はきちんとしようと努力していた――「だが、行けない。こいつと約束があるんでね。おい、ブレット、帽子を新調しろよ」
ブレットはフェルトの帽子を片方の眼の上に深く引きさげ、その下からほほえんだ。「二人で、ボクシングにいらっしゃいよ。わたしはキャムベルさんをまっすぐ家につれていかなきゃあならないの」
「ぼくは酔っちゃあいないよ」とマイクがいった。「たぶん、ほんのちょっと酔ってるだけだ。ねえ、ブレット、君はシャンだね」
「ボクシングへ行きなさいよ」とブレットがいった。「キャムベルさんは手におえなくなってきたわ。どうしてこんなに愛情を発散なさるの、マイケル?」
「ねえ、君はシャンだね」
ぼくたちはおやすみをいった。「行けなくて残念だよ」とマイクがいった。ブレットは笑った。ぼくはドアのところから、ふりかえった。マイクは片手をカウンターにのせ、ブレットのほうによりかかって、しゃべっていた。ブレットは彼をとても冷たく見ていたが、眼尻はほほえんでいた。
外の舗道で、ぼくはいった。「君、ボクシングに行くかい?」
「もちろん」とビルがいった。「歩かないですむならね」
「マイクはあのガール・フレンドにすごくのぼせてたね」とぼくはタクシーのなかでいった。
「うん」とビルがいった。「でも、あいつをそんなにひどく責められないよ」
第九章
ルドゥ対キッド・フランシスのボクシングの試合は六月二十日の夜だった。それは好試合だった。試合の翌朝、アンデエ〔フランス西南部のスペイン国境の近くの町〕からロバート・コーンの手紙を受けとった。風呂をあびたり、ゴルフをしたり、ブリッジを大いにやったりして、非常に静かにすごしている、とのことだった。アンデエにはすてきな海岸があったが、彼は釣りの旅行に出かけたがっていた。いつ君は出かけられる? 二重よりの先細の釣り糸を買ってきてくれれば、君がきたときに、代金を払う。
その同じ朝、ぼくは事務所からコーンに手紙をだし、ビルとぼくは電報で断わらないかぎり、二十五日にパリを出発し、バイヨンヌ〔フランス南西部、ビスケー湾近くの海港〕で会おう、そこから山を越えてパンプローナへバスがある、といってやった。その同じ日の夕方、七時ごろ、マイケルとブレットに会おうと、セレクトに立ちよった。二人はいなかった。それで、ディンゴへいった。二人はなかのバーにすわっていた。
「まあ、あなた」ブレットは手をさしのべた。
「おい、ジェイク」とマイクがいった。「昨夜は、ぼく、どうも、酔っていたようだ」
「もちろん、そうよ」とブレットがいった。「みっともなかったわよ」
「ねえ」とマイクがいった。「いつスペインに行くんだ? ぼくたち、いっしょにいってもいいかい?」
「それはすてきだ」
「ほんとに、いいかい? ぼくはね、パンプローナにいたことがあるんだ。ブレットがとても行きたがってるんだ。ひどく迷惑になることもないよ、なあ?」
「ばかなこと、いうなよ」
「ぼくはすこし酔ってるんだよ、ね。酔ってなきゃあ、こんなふうにききゃあしないよ。ほんとに、いいんだね?」
「まあ、おだまりなさい、マイケル」とブレットがいった。「いけないって、いまいえて? あとで聞いておくわよ」
「でも、いいんだろう、ねえ?」
「もうそんなこと、きくなよ。怒るぜ。ビルとぼくは、二十五日の朝、でかけるんだ」
「ところで、ビルはどこにいるの?」とブレットがたずねた。
「シャンティイでほかのやつと食事してるよ」
「いい人だわ」
「すばらしいやつだ」とマイクがいった。「なあ」
「おぼえてないくせに」とブレットがいった。
「おぼえてるとも。よくおぼえてるとも。いいかい、ジェイク、ぼくたちは、二十五日の夜、でかける。ブレットは朝おきられないんだ」
「ほんとにそうなのよ!」
「金がきて、君がたしかにかまわないならね」
「お金は、だいじょうぶ、くるわ。それは保証するわ」
「ねえ、どんな釣り道具を買えばいいんだ」
「竿を二、三本に、リールをつけ、それに釣り糸と、蚊ばりをいくつか」
「わたしは釣らないわ」とブレットが口をはさんだ。
「じゃあ、竿を二本買えよ、ビルが買わなくてすむから」
「よし」とマイクがいった。「店に電報をうとう」
「すばらしいじゃあないの」とブレットがいった。「スペイン! たのしみだわ」
「二十五日か。何曜だい?」
「土曜だ」
「支度しなきゃあだめだわ」
「おい」とマイクがいった。「ぼくは床屋へ行ってくる」
「わたし、お風呂にはいらなくちゃあ」とブレットがいった。「いっしょにホテルまでおくってちょうだい、ジェイク。親切にしてよ」
「とてもすばらしいホテルをみつけたんだよ」とマイクがいった。「淫売宿だと思うんだが!」
「わたしたち最初にいったとき、ここのディンゴにカバンをおいといたのよ。そしたら、午後だけ部屋をお使いになるのですかってきかれたわ。夜もずうっと泊まるといったら、とてもよろこんでいたようよ」
「ぼくは淫売宿だとふんでるよ」とマイクがいった。「ぼくはたしかさ」
「まあ、そんな話、やめて、髪をかってらっしゃい」
マイクはでていった。ブレットとぼくはカウンターに向かってすわっていた。
「もう一杯どう?」
「いいね」
「わたし、飲みたいの」とブレットがいった。
ぼくたちはドゥラムブル通りを歩いていった。
「帰ってきてから、まだお会いしてなかったわね?」とブレットがいった。
「うん」
「どうなの、ジェイク?」
「元気だ」
ブレットはぼくを見た。「ねえ」と彼女がいった。「ロバート・コーンも、この旅行に行くの?」
「ああ。どうして?」
「あのひとにはすこしつらいことになるとは思わなくって?」
「どうしてそれが?」
「わたし、サン・セバスチアンにだれといったと思う?」
「それはおめでとう」とぼくはいった。
ぼくたちは歩きつづけた。
「どうしてそんなふうに言うの?」
「わからない。なんていってほしかったんだ?」
ぼくたちは歩きつづけ、角を曲がった。
「あのひと、わりとお行儀よかったのよ。すこし退屈したけど」
「そうかい?」
「そのほうがあのひとにはいいだろうと思ったからよ」
「社会奉仕をはじめてもよさそうだね」
「ひどいこと、いわないで」
「いわないよ」
「ほんとに知らなかったの?」
「うん」とぼくはいった。「そんなこと考えなかったろうな」
「あのひとにはつらすぎると思わない?」
「それはあいつ次第だな」とぼくはいった。「君が行くといってやれよ。あいつ、行きたくなけりゃ、行かなくっていいんだ」
「手紙をかいて、逃げだすチャンスをあたえてあげるわ」
ぼくはそれから六月二十四日の夜までブレットに会わなかった。
「コーンから便りあって?」
「もちろん。熱心なんだぜ」
「まあ!」
「ぼくもずいぶんおかしいと思ったね」
「わたしには、会うのが待ちきれないっていってきたわ」
「君がひとりで行くとでも思ってるのかな?」
「ううん。マイケルもいっしょで、みんなで、行くといったのよ」
「あいつは不思議なやつだ」
「そうねえ」
彼女とマイケルは、翌日、金がくるはずだった。ぼくたちはパンプローナで落ち会うよう打ち合わせた。彼らはサン・セバスチアンに直行し、そこから汽車にのることになった。ぼくたちはみんなでパンプローナのモントーヤで会うことにした。彼らがおそくとも月曜までにこなかったら、ぼくたちは山間のブルゲーテ〔パンプローナ西北にあるスペイン領の部落〕に先行し、釣りをはじめよう。ブルゲーテへは、バスがあった。ぼくは彼らがあとからこられるように、旅行日程をすっかり書いてやった。
ビルとぼくはオルセ駅から朝の汽車にのった。美しい日で、暑すぎもせず、田園は初めからきれいだった。ぼくたちは後部のビュフェへ行って朝食をとった。ビュフェを出るとき、食堂係に第一回目の食券をくれといった。
「第五回分までは一枚もありません」
「どうしてだい?」
その汽車には昼食は二回しかなく、そのどちらにもいつも席が充分あったのだ。
「みんな予約ずみでして」と食堂係がいった。「三時半に第五回目のがあります」
「これは大変だ」とぼくはビルにいった。
「十フランやれよ」
「ちょっと」とぼくはいった。「第一回目に食事したいんだが」
食堂係はポケットに十フランつっこんだ。
「ありがとうございます」と彼がいった。「サンドウィッチを召しあがったらいかがでしょう。四回目までのお席はみんな会社の事務所で予約ずみです」
「君はすごく役に立つね」とビルは英語で彼にいった。「五フランやったのなら、汽車からとびおりろと忠告したろうね」
「|なんですか《コマン》?」
「勝手にしろ!」とビルがいった。「サンドウィッチをつくらせて、ワインを一本もってこい。そういってくれ、ジェイク」
「そして、隣の車までもってきてくれ」ぼくはぼくたちのいるところを説明した。
ぼくたちの車室には若い息子をつれた夫婦がいた。
「あなたがたはアメリカのかたのようですが、そうでしょう?」と男がきいた。「ご旅行は快適ですか?」
「すばらしいですね」とビルがいった。
「それはなによりです。お若いうちに旅行なさるんですね。家内も私も以前からやってこようと思ってたんですが、なかなか出られなかったもんで」
「その気になれば、十年前にこられたのに」と妻がいった。「いつもあなたは『アメリカをまず見よう?』とおっしゃってたのよ。いろいろ考えてみると、わたしたちも、ずいぶん見物したわけね」
「ねえ、この汽車にはずいぶんアメリカ人がいますよ」と夫がいった。「オハイオのデイトンからで、七輌も占領しています。ローマへの巡礼の途中で、いまビアリッツとルールドに行く途中なんです」
「ああ、そうなんですか。巡礼ですね。いまいましいピューリタンですね」とビルがいった。
「あなたがたは合衆国のどちらから?」
「キャンザス・シティです」とぼくがいった。「こっちはシカゴからです」
「お二人ともビアリッツへ行かれるんですか?」
「いいえ、スペインに釣りに行くんです」
「そう、私は釣りは好きじゃあないんでして。でも、私の郷里では、好きな人がたくさんいますよ。モンタナ州にはいちばんいい釣り場がいくつかありますよ。若い人たちと出かけたこともありますが、どうも好きじゃあありませんでしてね」
「そうした旅行にでかけても、まったく漁がないといってもいいんですの」と彼の妻がいった。
彼はぼくたちにウィンクした。
「女ってこんなものですよ。ジョッキだとかビールだというと、地獄だとか破滅だと思うんですよ」
「それが男なのよ」と彼の妻がぼくたちにいった。彼女は心地よさそうに膝をなでた。「わたしは主人をよろこばすために、それに家ですこしぐらいのビールはいいですから、禁酒法に反対の投票をしたのですよ。それなのに、あんなふうにいうんですからね。男が結婚してくれる相手を探せるなんて、不思議ですわ」
「ねえ」とビルがいった。「ピルグリム・ファーザーズ〔一六二〇年メイフラワー号に乗ってアメリカのプリマスに渡って植民地を開いたピューリタンの人たち。ここではいま列車に乗っているピューリタンのこと〕のあの一行がきょうは午後三時半までビュフェを占領してしまったこと、ご存じですか?」
「それはどういうことですか? そんなはずありませんよ」
「じゃあ、席をとってごらんなさい」
「では、お前、ひきかえして、もういちど朝食をとったほうがよさそうだ」
彼女はたちあがって、ドレスをなおした。
「私どもの荷物に気をつけていてくださいませんか? おいで、ヒューバート」
彼らは三人ともビュフェへいった。彼らがいってからしばらくして、ボーイが第一回目の食事をしらせながら通ってゆくと、巡礼たちが、牧師といっしょに、通路に並びはじめた。ぼくたちの友人とその家族は帰ってこなかった。一人のボーイがサンドウィッチとシャブリ酒〔フランスのブルゴーニュに産するワインの一種〕を一本もって通路を通ったので、彼をよびいれた。
「きょうは忙しくなりそうだね」とぼくがいった。
彼はうなずいた。「これからはじまります。十時半に」
「ぼくはいつ食えるかね?」
「いや、このわたしがいつ食べられるか心配で」
彼は酒のグラスを二つおき、ぼくたちはサンドウィッチの代金を払い、彼にチップをやった。
「皿をいただいていきましょう」と彼がいった。「もってきていただいてもいいんです」
ぼくたちはサンドウィッチを食べ、シャブリ酒をのみ、窓から田園をながめた。麦はちょうどみのりはじめ、田野にはケシがいっぱい咲いていた。牧場は緑で、美しい木々があり、ときには大きな河や城が遥か木々の間に見えた。
トゥールで車をおり、ワインをもう一本買い、車室にもどってくると、モンタナからきた紳士とその妻と息子のヒューバートが心地よさそうに腰かけていた。
「ビアリッツ〔フランス南西部の有名な避暑地〕ではいい泳ぎ場がありますか?」とヒューバートがたずねた。
「この子は水にはいるまでは、まるで気違いなんですよ」と母がいった。「旅行は若い者にはずいぶんつらいんですね」
「いいところがありますよ」とぼくはいった。「でも、荒れてるときは、危険ですよ」
「食事なさいましたか?」とビルがきいた。
「もちろん、しましたわ。あのひとたちがはいりはじめたときに、ちゃんと席についていましたから、あのひとたち、きっと、わたしたちを仲間だと思ったのですよ。ボーイの一人がわたしたちにフランス語でなにかいって、あのひとたちのうち三人を追いかえしてしまいましたわ」
「私たちを、きっと、うるさ型だと思ったんですよ」と男はいった。「これはたしかにカトリック教会の威力を示すもんですよ。あんたがたがカトリック教徒でないのが残念ですよ。そうなら、きっと食事がとれますがね」
「ぼくはカトリック教徒ですよ」とぼくはいった。「だから、ぼくはこんなに怒ってるんです」
四時十五分になって、やっと昼食をとった。ビルはとうとう不機嫌になっていた。帰ってくる巡礼の流れの一つといっしょにもどってくる牧師をよびとめた。
「ぼくたちプロテスタントはいつ食べる機会があるんですか、神父さん?」
「そんなこと存じませんが。食券がないのですか?」
「これじゃあ、キュー・クラックス・クラン〔一九一五年アメリカ生まれの白人のプロテスタントたちによって結成された秘密結社。カトリック教徒、ユダヤ人、東洋人をアメリカ文明の敵として排斥運動を行なった〕にはいりたくなるのも無理ないよ」とビルがいった。牧師がふりかえって彼をみた。
ビュフェの中では、ボーイたちは、つづけざまに第五回目の定食を並べていた。ぼくたちのかかりのボーイは汗だくだった。白い上衣のわきの下が紫色だった。
「あいつ、たくさんワインをのんだにちがいない」
「さもなきゃ、紫色のアンダーシャツをきているんだ」
「きいてみよう」
「よせよ。あいつはつかれきってるから」
汽車はボルドーで半時間とまり、ぼくたちは停車場を出て少し散歩した。町にいく時間はなかった。それからランド〔フランス西南部の地方〕を通りぬけて、太陽の沈むのをながめた。松林にひろく防火帯が切り開かれ、大通りのようにみとおせ、むこうに木のしげった丘がみえた。七時半ごろ、夕食をとり、食堂車の開いた窓から田園をながめた。ヒースのしげった、一面に砂地の松の多い地方だった。家があるところはすこしひらけ、たまに製材所があった。暗くなり、窓の外に田野が暑く、砂っぽく、暗く感じられ、九時ごろにバイヨンヌについた。夫婦とヒューバートはみんなぼくたちと握手した。彼らはラネグレスまで行き、そこでビアリッツ行きにのりかえるのだった。
「じゃあ、さようなら」と彼がいった。
「闘牛にお気をつけなさいね」
「ビアリッツで会うかもしれませんね」とヒューバートがいった。
ぼくたちはカバンと竿箱を持って、暗い駅を通りぬけ、馬車やホテルのバスがならんでいる明るい町へ出た。そこに、ホテルの客引きといっしょにロバート・コーンが立っていた。彼は、はじめ、ぼくたちに気づかなかった。それから、こちらへ歩きだした。
「やあ、ジェイク。旅は楽しかったかい?」
「よかったよ」とぼくはいった。「こちらがビル・ゴートン」
「どうぞよろしく」
「いこう」とロバートがいった。「馬車を待たせてある」彼はすこし近視だった。ぼくはいままでそれに気づかなかった。彼はビルをみて、よくみさだめようとしていた。内気でもあったのだ。
「ぼくのホテルに行こう。かまわないから。とてもいいんだ」
ぼくたちは馬車にのりこみ、馭者はかたわらの席にカバンをつみこみ、席にのぼって鞭《むち》をふり、ぼくたちは暗い橋の上を渡り、町へ走っていった。
「会えてとてもうれしいですよ」とロバートがビルにいった。「ジェイクから、あなたのことはいろいろきいていたし、あなたの本もよみましたよ。ぼくの手紙を受け取ったかい、ジェイク?」
馬車はホテルの前でとまり、ぼくたちはみんなおり、中にはいった。いいホテルだった。受付の人たちはすごく陽気で、ぼくたちはそれぞれ小さないい部屋をとった。
第十章
朝は、よく晴れあがり、人々が通りに水をまいていた。ぼくたちはみんないっしょにカフェで朝食をとった。バイヨンヌはいい町である。とても清潔なスペインの町らしく、大きな河に沿っている。朝、非常に早かったが、すでに、河にかかった橋の上では、ひどく暑かった。ぼくたちは橋の上まで歩いていき、そこから、町を散歩した。
マイクの釣り竿がスコットランドから間にあうかどうか、ひどくあやしかったので、釣り道具屋をさがし、とうとう呉服屋の二階でビルのために釣り竿を買った。釣り道具を売っている男が外出していて、彼が帰ってくるまで待たなければならなかった。やっと彼が戻ってきて、かなりよい釣り竿を安く買い、手網《たも》を二つ買った。
ふたたび通りにで、寺院を見た。コーンはその建物が何かの非常によい例だということについて、なにかいっていたが、なんの例だか忘れた。立派な寺院のように思われた。スペインの教会のように、立派で、薄暗かった。それから、昔の要塞の前を通り、その土地の観光協会の事務所にいった。そこからバスがでることになっていた。そこできくと、バスは七月一日までは出ないということだった。旅行案内所でパンプローナまでの自動車代をきき、市立劇場から角をまがってすぐのところにある大きなガレージで四百フランで自動車をやとった。車は四十分以内にホテルでぼくたちをのせることになり、ぼくたちは朝食をたべた広場のカフェに立ちより、ビールをのんだ。暑かったが、町は、涼しい、新鮮な、早朝の匂いがし、カフェに腰をおろしているのは楽しかった。そよ風が吹きはじめ、風が海のほうから吹いてくるのが感じられた。外の広場には鳩がいて、家々は黄色く日に焼けた色で、ぼくはカフェを出たくなかった。しかし、ホテルにいって、荷物をまとめ勘定を払わなければならなかった。ぼくたちはビールの代を払った。コインを投げて払う者をきめ、たしかコーンが払ったと思う。それから、ホテルに帰った。ビルとぼくにおのおの十六フランずつで、サービス料がそれに一割加わっていた。ぼくたちはカバンを下に運ばせ、ロバート・コーンを待った。待っている間に、寄木細工の床《ゆか》にあぶらむしがいた。すくなくとも三インチあった。ぼくはそれをビルに指さして教え、それからぼくの靴で踏みつけた。庭からはいってきたばかりだったに違いないとぼくたちは意見が一致した。じっさい、おどろくほど清潔なホテルだったから。
やっと、コーンがおりてきて、ぼくたちはみな車のほうに出ていった。大きな箱型の車で、運転手はブルーのカラーとカフスの付いた白いダスターを着ていた。ぼくたちは彼に車のうしろを開けさせた。彼はカバンを積みこみ、ぼくたちは出発し、通りを進み、町を出た。いくつかの美しい庭園の前を通り、ふりかえると、町はいいながめだった。それから、起伏の多い青々とした田舎にでると、道はいつまでも上りだった。道で牛に荷車をひかせている多くのバスク人〔スペインのピレネー山脈地方に住む一種族〕を通りこし、屋根の低い、一面に白い漆喰《しっくい》をぬった、きれいな農家の前を通った。バスクの地方では、土地はどこも非常に豊かで青々とし、家や村は裕福で清潔にみえた。どの村にもペロータ〔スペインなどで行なわれるテニスに似た遊戯〕のコートがあり、そのいくつかで、子供たちが太陽の下で、ペロータをしていた。教会の壁にはそこでペロータをやってはいけないと注意が書いてあり、村の家々は赤いタイルの屋根で、やがて、道がまがって、のぼりになり、山腹にそってのぼって行くと、谷間が下に、丘が遥かうしろの海にのびていた。海は見えなかった。遠すぎるのだ。ただ、いくつか丘が見え、その向こうにもいくつか丘が見え、海のあるところが、察せられた。
ぼくたちはスペインとの国境を越えた。小さな流れがあり、橋があり、スペインの騎銃兵がエナメル革のボナパルト帽をかぶり、短い銃を背にしょって、片側にいて、反対側には、ふとったフランス人が陸軍帽《ケピ》をかぶり、口髭《くちひげ》をはやしていた。彼らはバッグの一つを開けただけで、パスポートをもっていき、それを調べた。国境線のどちら側にも雑貨屋兼宿屋が一軒ずつあった。運転手がなかにはいって、車についてなにか書類に書きこまなければならなかったので、ぼくたちは車をおりて、鱒《ます》がいるかどうか見に、小川までいった。ビルは騎銃兵の一人にスペイン語で話そうとしたが、あまりうまく通じなかった。ロバート・コーンが指さしながら、小川に鱒がいるかどうか、たずねると、その騎銃兵は、いるが、たくさんはいない、といった。
ぼくは彼に釣ったことがあるかときいたが、彼は、いや、釣りは好きではない、といった。
ちょうどそのとき、日やけした長い髪とあご鬚の、なんきん袋でつくったような服をきた老人が、橋のところへ大股でやってきた。長い杖をつき、子やぎを肩にかつぎ、その四つ足をしばりつけ、その頭をぶらさげていた。
騎銃兵が剣で彼に戻るように合図した。男はなにもいわずに、身を返し、白い上りの坂をスペイン領に引きかえしはじめた。
「おじいさんはどうしたんですか?」とぼくはきいた。
「パスポートがないんですよ」
ぼくは警備兵にタバコをすすめた。彼はそれをとって、礼をいった。
「あの人はどうするだろう?」とぼくがきいた。
警備兵は埃のなかに唾《つば》をはいた。
「ああ、あいつは小川を歩いて渡るだけですよ」
「密入国が多いんですか?」
「ああ」と彼がいった。「通りぬけちゃうよ」
運転手が書類をたたみ、上衣の内側のポケットにつっこみながら、出てきた。ぼくたちはみんな車にのりこみ、白い埃っぽい道をスペイン領にのぼりはじめた。しばらくは、そのあたりは前とほとんど変わらなかった。それから、ずうっとのぼりで、峠《とうげ》の頂上をすぎると、道は往ったり来たりくねくね曲がって、そして、ほんとうにスペインらしくなった。褐色の山々が長く続き、いくつかの山腹には、わずかばかりの松の木があり、遠くにブナの森があった。道は峠のいただきをいき、それから、下りになり、運転手はホーンを鳴らし、スピードを落とし、道で眠っている二頭の驢馬《ろば》をひかないように、よけなければならなかった。山をおり、樫《かし》の森林を通ったが、その森林では白い牛が草をはんでいた。眼下には、草原に澄んだ小川がいくつか流れていた。それから、小川を渡り、小さな陰気な村を通りぬけ、ふたたびのぼりはじめた。どんどんのぼって、また高い峠を越え、それにそって曲がると、道は右へ曲がって、下り、南のほうに新しい山脈が全景をあらわし、どの山も日に焦げたように褐色で、奇妙な形に、くぼんでいた。
しばらくして、山地から出ると、道の両側に木々が立ちならび、小川があり、みのった麦畑があり、道は前方に真白くまっすぐのび、それから、すこしのぼりになり、そして、左手に古い城のある丘があり、城の近くを家々がとりまき、穀物の畑が城壁のすぐそばまでのび、風になびいていた。ぼくは助手席にのっていた。ふりむくと、ロバート・コーンは眠っていたが、ビルはぼくを見て、うなずいた。それから、広い平野を横ぎると、右手に大きな河が、並んだ木々のあいだから、日をうけて輝き、はるか向こうに、平野から隆起したパンプローナの高台と、町の城壁と、褐色の大きな寺院と、空にうつったほかの教会のでこぼこな輪郭が見えた。高台のうしろは山で、どちらを見ても山々があり、道は前方に白くのび、平野を横ぎって、パンプローナにむかっていた。
高台の向こう側の町にはいって行くと、道は急なのぼりになり、埃っぽく、両側に日除けの木が立ちならび、それから、平らな道になり、昔の城壁の外にできつつある町の新開地にでた。日をうけて、高く白いコンクリート造りに見える闘牛場をすぎ、それから、横町を通って、大きな広場にで、ホテル・モントーヤの前でとまった。
運転手が手伝ってカバンをおろした。子供たちが群がって車を見ていた。広場は暑く、木々は緑で、旗が旗竿にだらりとたれていた。日向《ひなた》からのがれ、広場のまわりにぐるっとあるアーケードの蔭にかくれると、心地よかった。モントーヤはぼくたちに会ったのを喜び、握手し、広場に面したいい部屋を提供し、それから、ぼくたちはシャワーを浴び、さっぱりしてから、昼食をとりに階下の食堂におりていった。運転手も昼食をとろうと待っていた。食後、彼に料金を払い、彼はバイヨンヌに戻っていった。
モントーヤには食堂が二つある。一つは二階で、広場に面している。もう一つは広場の平面より一階分低くなっていて、牛が朝早く闘牛場に行くときに通る裏通りに面してドアがある。階下の食堂はいつも涼しく、とてもいい昼食がでた。スペインで初めて食事をとると、オードヴル、卵料理一皿、肉料理二皿、野菜、サラダ、デザートとフルーツで、いつもびっくりした。それをみんな食べるにはワインをたくさんのまなければならない。ロバート・コーンは肉料理の二皿目をいらないといおうとしたが、ぼくたちが彼のために通訳しようとしなかったので、ウェイトレスが、コールドミートだったと思うが、一皿かわりにもってきた。コーンはバイヨンヌで会ったときからずっと、ひどくいらいらしていた。彼はブレットとサン・セバスチアンでいっしょだったことをぼくたちが知っているかどうか知らなかった。そのため、彼はとてもぎごちない様子だった。
「ところで」とぼくがいった。「ブレットとマイクが今晩つくはずだけど」
「くるかなあ」とコーンがいった。
「どうして?」とビルがいった。「もちろん、くるさ」
「いつもおくれるんだよ」とぼくがいった。
「こないと思うな」とロバート・コーンがいった。
彼は自分のほうがよくわかっているという態度でそういったので、ぼくたち二人はしゃくにさわった。
「君と五十ペセタかけよう。今晩、あの二人はここにくる」とビルがいった。彼は怒ると、いつもかける。それで、たいてい、ばかな賭《かけ》をする。
「かけよう」とコーンがいった。「よし、おぼえていてくれ、ジェイク。五十ペセタだぜ」
「自分でおぼえているよ」とビルがいった。ぼくは彼が怒っているのがわかったので、彼をなだめようと思った。
「くることはたしかさ」とぼくはいった。「だが、もしかしたら、今晩じゃあないかもしれない」
「賭をやめるかい?」コーンがきいた。
「いや。やめるものか。よけりゃあ、百ペセタにしてもいいぜ」
「よし。そうしよう」
「いい加減にしろよ」とぼくがいった。「でないと、賭場でも開いて、手数料をよこさなきゃあならなくなるぜ」
「ぼくは満足だよ」とコーンがいった。彼はほほえんだ。「君は、とにかく、ブリッジで、たぶん、とりかえすだろうからね」
「まだ勝っちゃあいないんだぜ」とビルがいった。
ぼくたちは外に出て、アーケードの下をぶらつき、カフェ・イルーニアにコーヒーを飲みにでかけた。コーンは顔をそりに行くといった。
「ねえ」とビルはぼくにいった。「あの賭でぼくの勝つ見込みあるかい?」
「あぶないなあ。いつだって、時間にまにあったことがないんだからね。金がこなけりゃあ、きっと今晩はこないよ」
「口をあけたとたんに、しまったと思ったのさ。だけど、挑戦しないわけにはいかなかったんだ。あいつは正しいと思うよ。だけど、どこでこんな部情報を手に入れるんだろう? マイクとブレットがぼくたちとここにくることをきめたんだぜ」
コーンが広場を横ぎってやってくるのが見えた。
「ほら、やってきた」
「ところで、あいつにユダヤ人のようにいばらせるのはよそうや」
「床屋がしまってたんだよ」とコーンがいった。「四時までは開かないんだ」
ぼくたちはイルーニアで、心地よい籐椅子に腰かけ、涼しいアーケードから大きな広場を見ながら、コーヒーを飲んだ。しばらくして、ビルは手紙を書きに行き、コーンは床屋へ行った。床屋がまだ閉まっていたので、彼はホテルに行き、ひと風呂あびることにし、ぼくはカフェの前で腰をおろし、それから、町に散歩にでかけた。とても暑かったが、ぼくは通りの日蔭の側をえらび、市場を通りぬけ、また町を見物して楽しんだ。市役所《アユンタミエント》に行って、毎年、ぼくのために闘牛の切符を予約してくれる老紳士に会った。彼はパリからぼくが送った金を受け取って、予約を更新してくれていた。それで、万事がかたづいていた。彼は記録保管人で、町の公文書はみな彼の事務所にあった。これは話にはなんの関係もないことだ。とにかく、彼の事務所は緑の粗羅紗《ベーズ》のドアと大きな木製のドアがあり、ぼくは外に出るとき、四方の壁をおおっている公文書のあいだにうずもれてすわっている彼をあとに残し、両方のドアを閉めたが、建物から通りに出ると、門番がよびとめて、上衣の埃を払ってくれた。
「きっと自動車にのっていらっしゃったんでしょう」と彼がいった。
カラーのうしろと肩の上のほうが埃で灰色になっていた。
「バイヨンヌからさ」
「それは、それは」と彼はいった。「埃の様子で自動車にのられたのだと、わかりましたが」そこでぼくは彼に銅貨を二つやった。
通りのはずれに寺院が見え、ぼくはそっちのほうへ歩いていった。はじめて見たときは、正面が醜いように思ったのだが、いまではそれが好きになった。ぼくはなかにはいった。ぼんやりと薄暗く、柱が高くのび、人々がお祈りし、香のかおりがし、すばらしい大きな窓がいくつかあった。ひざまずいて、祈りはじめた。思いついた人はだれでも、ブレットと、マイクと、ビルと、ロバート・コーンと、ぼく自身と、闘牛士全部のために、好きな人は別々に、ほかのものはいっしょに、祈り、それから、ふたたび自分のために祈ったが、自分のために祈っているあいだに、眠くなってきたのに気づいたので、闘牛が面白く、祝祭《フィエスタ》がすてきで、魚が釣れるようにと、祈った。ほかになにか祈ることがあるかと考え、金があればいいと思ったので、たくさん金がもうかるように祈り、それから、どうしたらもうけられるかと考えはじめ、金もうけのことを考えたので、伯爵のことを思いだし、彼がどこにいるだろうと考えはじめ、あの夜モンマルトルで別れて以来、会っていないのを残念に思い、彼についてブレットがぼくに話してくれたなにか滑稽なことを考え、ずうっと前の木にひたいをつけてひざまずき、祈りながら自分のことを考えていたので、いささか恥ずかしくなり、そんなひどいカトリック教徒なのを残念に思い、しかし、すくなくとも、しばらくは、そして、たぶん、永久に、それはどうにもしかたがないことなのだが、とにかく、すばらしい宗教だと悟り、信心深い気持になり、また次の機会にも、たぶん、そうなるようにと望むだけだった。それから、外の、暑い日の照っている寺院の階段にでると、右手の人差指と拇指《おやゆび》がまだしめっていたが、日にあたって、乾くのが感じられた。日光は暑く、烈しく、ぼくは建物のいくつかのそばを横ぎり、横町をホテルに歩いて帰った。
その夜、夕食で、ぼくたちはロバート・コーンが風呂をあび、髭をそり、髪をかり、洗髪し、それから、髪をなでつけるためになにかつけていたのに気づいた。彼はいらいらしていたが、ぼくはすこしも彼を助けてやろうとはしなかった。汽車はサン・セバスチアンから九時に着くはずで、ブレットとマイクが来るとすれば、それにのっているわけだった。九時二十分前には、ぼくたちはまだ夕食を半分もすませていなかった。ロバート・コーンはテーブルから立ちあがり、駅に行くといった。ぼくは彼をただ困らせてやろうという気持から、いっしょに行こうといった。ビルは食事をすませないで行くなんてじょうだんじゃないといった。ぼくはすぐ帰ってくるといった。
二人で駅まで歩いていった。ぼくはコーンがいらいらしているのを楽しんでいた。ブレットが汽車にのっていればいいと思った。駅では、汽車が遅れ、ぼくたちは手荷物車に腰かけ、外の暗やみで待った。ぼくは軍隊生活以外でロバート・コーンほどいらいらした――また、熱心な――男をいままで見たことがなかった。ぼくはそれを楽しんでいた。それを楽しむなんて、なさけないが、ぼくは意地悪い気持になっていた。コーンはだれでも人の最悪なところを引きだす不思議な性質をもっていた。
しばらくすると、高台の向こう側の下のほうで、汽車の汽笛がきこえ、それから、ヘッドライトが丘をやってくるのが見えた。駅のなかにはいり、改札口のすぐうしろで、群がっている人々にまじって立っていると、汽車がはいってきて、とまり、みんなが改札口を通って出てきだした。
彼らはその群れの中にはいなかった。ぼくたちはみんながそこを通りぬけ、駅をでて、バスにのったり、馬車にのったり、友人や親類の者たちと暗やみを通って町に歩いていってしまうまで、待った。
「こないこと知ってたんだよ」とロバートがいった。ぼくたちはホテルに帰る途中だった。
「くるかも知れないと思ったな」とぼくはいった。
はいって行くと、ビルはフルーツを食べ、ワインを一本のみおえるところだった。
「こなかったのかい、え?」
「ああ」
「あの百ペセタはあしたの朝でもいいだろう、コーン?」とビルがたずねた。「まだここで両替してないんだ」
「いや、そんなこと忘れろ」とロバート・コーンがいった。「なにかほかのことにかけよう。闘牛にかけるかい?」
「いいよ」とビルがいった。「だけど、そんな必要ないよ」
「戦争にかけるようなもんだね」とぼくがいった。「お金の興味なんか必要じゃあないんだな」
「闘牛はすごく見たいね」とロバートがいった。
モントーヤがぼくたちのテーブルにやってきた。彼は電報を手にしていた。「あなたにきたのです」彼はそれをぼくに手わたした。
〈コンヤ サン・セバスチアンニトマル〉とあった。
「二人からだ」とぼくはいった。ぼくはそれをポケットにつっこんだ。ふつうなら、手わたすべきだったのだ。
「サン・セバスチアンにとまったんだ」とぼくはいった。「君によろしくとさ」
彼をいじめようというあの衝動をどうしていだいたのか、わからない。もちろん、わかっている。無我夢中だったのだ。許しがたいほど、彼に起こったことを嫉妬していたのだ。それを当然のこととして受けとったのは事実だが、嫉妬の気持はすこしも変わらなかった。ぼくはたしかに彼をひどくきらった。彼が昼食のとき、あのようにちょっとの間いばるまでは――それと、床屋にでかけた、あのすべての行動までは――ほんとうに彼をひどくきらいだとは思っていなかった。そんなわけで、ぼくは電報をポケットにつっこんだのだ。とにかく電報はぼくにきたのだ。
「それじゃ」とぼくはいった。「ぼくたちは正午のバスでブルゲーテへ出発すべきだろうな。二人はあしたの晩つけば、あとからこられる」
サン・セバスチアンからは汽車が二本しかなかった。朝早い汽車と、いま迎えにいったのと。
「そいつは名案だね」とコーンがいった。
「川へは早く行くほどいい」
「ぼくはいつ出発しても同じだ」とビルがいった。「早いほどいい」
ぼくたちはしばらくイルーニアで腰かけ、コーヒーを飲み、それから、すこし散歩して闘牛場へ行き、野原を横ぎり、崖縁の木の下を通り、まっ暗な川を見おろし、ぼくは早くねた。ビルとコーンはカフェにずいぶん遅くまでいた、と思う。というのは、彼らが帰ってきたときには、ぼくは寝ていたから。
朝、ぼくはブルゲーテ行きのバスの切符を三枚かった。二時に出る予定だった。それより早いのはなかった。イルーニアで腰をおろして新聞を読んでいると、ロバート・コーンが広場を横ぎってくるのが見えた。彼はテーブルのところまできて、籐椅子のひとつに腰をおろした。
「居心地のいいカフェだね」と彼がいった。「よく眠れたかい、ジェイク?」
「丸太みたいに寝たよ」
「ぼくはあんまりよく眠れなかった。ビルもぼくも、おそくまで出ていたんで」
「どこにいってたんだ?」
「ここだよ。そして、看板になってから、またもう一軒のカフェへいったんだ。そこのおじいさんはドイツ語と英語をしゃべるよ」
「カフェ・スイソ〔スペイン語で、カフェ・スイスの意〕だね」
「そうだ。あいつはいいおじいさんらしい。ここよりもいいカフェのようだね」
「昼間はあまりよくないよ」とぼくはいった。「暑すぎてね。ところで、バスの切符を買っといたよ」
「ぼくはきょうは行かないよ。君とビルとで先に行ってくれ」
「君の切符も買ったぜ」
「そいつをくれ。払い戻してもらうから」
「じゃあ、五ペセタだ」
ロバート・コーンは五ペセタの銀貨をとりだし、ぼくにくれた。
「ぼくはここにいないといけないんだ」と彼がいった。「ねえ、なんか誤解があるんじゃないかと思うんでね」
「しかし」とぼくはいった。「二人がサン・セバスチアンでパーティをはじめれば、三、四日はまだここにこないかもしれない」
「そこなんだよ」と、ロバートがいった。「サン・セバスチアンでぼくに会えると思っていたんだと思うんだ。それで、あそこに泊まったんだ」
「どうしてそう思うんだい?」
「うん、ブレットに手紙でほのめかしといたんだ」
「じゃあ、なぜ、そこにとどまって、迎えてやらなかったんだ?」ぼくはいいかけたが、やめた。そんなことはひとりでに思いつくはずだと思われたが、どうもそうでないらしい。
彼はいま打ち明け話の調子になっていたが、彼とブレットとのあいだになにかあることをぼくが知っているのを承知のうえで話しができるので、楽しいのだ。
「じゃあ、ビルとぼくは昼食後すぐ出かけよう」とぼくがいった。
「行けるといいんだけど。冬じゅう、こんどの釣りを待っていたんだからね」彼はそのことにセンチになっていた。「でもここにとどまっていなけりゃあならないんだ。ほんとに、そうなんだ。二人がきたらすぐつれて行くよ」
「ビルを探そう」
「ぼくは床屋に行きたい」
「昼食のとき会おう」
ぼくはビルを彼の部屋で見つけた。彼は髭をそっていた。
「ああ、そうだよ、あいつ、昨夜、そのこと、すっかりしゃべったよ」とビルがいった。「打ち明け話がうまいやつだ。サン・セバスチアンでブレットと会う約束があるといっていたよ」
「嘘つき野郎!」
「いや、いや」とビルがいった。「怒るなよ。こんなところまで旅行にきて、怒るなよ。とにかく、あいつと、いったい、どうして知り合いになったんだね」
「とがめだては、やめてくれ」
ビルはそりかけでふりむき、それから顔に石鹸の泡をぬりながら、鏡に向って話しつづけた。
「この冬、あいつをニューヨークのぼくのところへ紹介状をもたせてよこさなかったかい? ありがたいことに、ぼくは旅行好きで助かった。いっしょに連れてこられるましなユダヤ人の友だち、ほかにいないのかい?」彼は拇指で顎《あご》をこすり、こすったあとを見て、それから、また、そりはじめた。
「君にだっていい友だちがいるぜ?」
「ああ、そうだ。えらいやつがいるよ。だけど、このロバート・コーンにはかなわないね。おかしなことに、あいつはいいやつだ。ぼくは好きだよ。だけど、とてもいやなやつなんだよ」
「すごくいいときもあるぜ」
「ああ。そこがおそろしいのさ」
ぼくは笑った。
「ああ、勝手に笑え」とビルがいった。「君は昨夜二時まであいつとつきあわされたりしなかったからな」
「ひどかったのかい?」
「ひどいとも。とにかく、あいつとブレットとは、どうしたっていうんだい? ブレットはあいつと、いったい、なにかかかわりがあるのかい?」
彼は顎をあげて、端から端に引っぱった。
「おおありさ。ブレットはあいつとサン・セバスチアンへ行ったんだ」
「なんてばかなことをしたんだ。なぜそんなことをしたんだろう?」
「ブレットはパリから出たかったんだが、ひとりじゃあ、どこへも行けないんだ。あいつにもいいだろうと思って行ったといってたよ」
「人間てなんてばかなことをするんだろう。なぜ、自分の仲間のだれかと行かなかったんだろう? それとも、君とでもねえ?」――彼は早口に不明瞭にいった――「それとも、ぼくとでもね? ぼくとじゃあ、どうしていけないんだろう?」彼は鏡のなかの顔をよく見て、両方の頬骨にそれぞれ大きく石鹸の泡をぬった。「正直な顔だ。女が安心していられる顔だ」
「まだ見ていなかったんだよ」
「見ているべきだったよ、女はみんな見ておくべきだ。国じゅうのスクリーンに写すべき顔だ。あらゆる女に、祭壇を去るとき、この顔の写しをあたえるべきだ。母親はこの顔について娘に語るべきだ。わが息子よ」――彼は剃刀でぼくを差した――「この顔をもちて西部に行き、国とともに成長せよ」
彼は洗面器に首をつっこみ、冷たい水で顔をゆすぎ、アルコールをつけ、それから、鏡のなかの顔をよく見て、鼻の下を長くのばした。
「ちえっ!」と彼がいった。「ひどい顔じゃないか?」
彼は鏡のなかをのぞいた。
「それに、このロバート・コーンときたら」とビルがいった。「ぼくはむかむかするよ、あいつは地獄に行けばいい。あいつがここにとどまって、いっしょに釣りについてこないなんて、すごくうれしいよ」
「まったく、その通りさ」
「なあ、鱒釣りに行くんだぜ、イラチ河へ鱒釣りに行くんだぜ。で、いま、昼食に、この国のワインで酔っぱらって、それから、すばらしいバス旅行さ」
「行こう。イルーニアに寄ってから、出かけよう」とぼくがいった。
第十一章
昼食をすませ、旅行カバンと釣り竿箱をもって、ブルゲーテへ行こうと外にでると、広場はやけつくような暑さだった。人々はバスの屋根にのっていたが、梯子をのぼりかけている人もいた。ビルは上にあがり、ロバートがビルの横にすわり、ぼくの席をとってくれた。ぼくは旅行用にワインを二、三本もっていこうとホテルに引きかえした。もどってくると、バスは混んでいた。男や女が屋根の上で荷物や箱に腰をおろし、女たちはみな日のあたるなかで扇子をつかっていた。たしかに暑かった。ロバートがおりてきた。ぼくは彼のとっておいてくれた屋根にわたしてある木の座席に腰をおろした。
ロバート・コーンはアーケードの日蔭に立って、ぼくたちが出発するのを待っていた。一人のバスク人が大きな革の酒袋を膝にのせ、バスの屋根の上のぼくたちの座席の前に横になり、ぼくたちの脚によりかかっていた。彼は酒袋を、ビルに、それから、ぼくに、すすめ、ぼくが飲もうと、それを傾けると、自動車のクラクションを非常にじょうずに、しかも、非常に不意に、まねたので、ぼくはワインをすこしこぼし、みんなに笑われた。彼はあやまり、ぼくにもう一杯飲ませてくれた。彼はしばらくしてまたクラクションをまね、ぼくを二度からかった。彼はそのまねがすごくじょうずだった。バスク人たちは面白がった。ビルの隣にいた男がスペイン語で彼に話しかけたが、ビルはわからなかったので、その男にワインを一本さしだした。その男は手をふって断わった。彼は、暑すぎるし、昼食に飲みすぎた、といった。ビルが二度目に酒壜をさしだすと、彼はぐうっと飲んで、それからその酒壜はバスのそのあたりの人にずっといきわたった。だれもがとても上品に飲み、それから、ぼくたちにそれにコルクの栓をさせ、しまわせた。彼らはみんな自分の酒袋からぼくたちに飲ませたがった。彼らは丘の奥に行く百姓たちだった。
もう二、三回、クラクションのまねがあってから、バスがやっと出発し、ロバート・コーンがぼくたちに別れの手を振り、バスク人がみんな彼に別れの手を振った。町の外の道路にでると、すぐ涼しくなった。屋根の上にすわって、木のすぐ下をゆくのは気持がよかった。バスはかなり速く走り、いい微風をつくり、道路にそって、木々に埃をかけながら丘をおりてゆくと、木々の間から後方に、河の上に絶壁から立ちあがっている町が美しくながめられた。ぼくの膝によりかかっていたバスク人が酒壜の首でそのながめを指さし、ぼくたちにウィンクした。それから、うなずいた。
「なかなかいいじゃあないか、ね?」
「バスク人ってすばらしい人種だ」とビルがいった。
ぼくの脚によりかかっていたバスク人は日やけして鞍の革のような色をしていた。ほかの者と同じように黒い仕事着をきていた。日やけした首に皺があった。彼はふりむいて、ビルに酒袋をさしだした。ビルは酒壜を彼に手渡した。そのバスク人はビルに人差指を振って、手のひらでコルクの栓をたたきこみながら、壜を返した。彼は酒袋を高くあげた。
「|うえに《アリバ》! |うえに《アリバ》!」と彼がいった。「もちあげな」
ビルは酒袋をあげ、あおむいて、ワインを勢いよく口に流しこんだ。飲むのをやめ、革の袋をおろすと、二、三滴、顎にしたたった。
「だめだ! だめだ!」と数人のバスク人がいった。「そんなじゃだめだ」酒袋の持主が自分でやってみせようとしたが、一人がその酒袋をひったくった。彼は若者で、腕をいっぱいにのばして酒袋をもち、それを高くさしあげ、手で革袋をぎゅっと締めると、ワインがしゅっと口のなかへ流れこんだ。彼が袋をそのままもっていると、ワインは平らな固い弾道をえがいて口にはいり、彼はなだらかに、規則正しく、飲みつづけた。
「おい!」と酒袋の持主がどなった。「だれの酒なんだ?」
飲んでいた男は小指を彼に向かって振ってみせ、眼でぼくたちにほほえんだ。それから、急に袋を噛んで流れをとめ、いそいで酒袋をもちあげ、おろして、持主にかえした。彼はぼくたちにウィンクした。持主は酒袋を悲しそうに振った。
ぼくたちはとある町を通り、旅館《ポサーダ》の前にとまり、運転手が荷物を数個つみこんだ。それから、また出発したが、町を出ると、道は登りになった。ぼくたちは岩の多い丘が傾斜して田畑になっている農村地帯を通っていた。麦畑が山腹まで延びていた。高くのぼるにつれ、風が麦にそよいでいた。道は白く埃っぽく、埃が車輪の下から舞いあがって、ぼくたちのうしろにたちこめた。道は丘をのぼってゆき、豊かな麦畑が眼下になった。もう、裸の山腹と水路の両側にただ小さな麦畑があるだけだった。バスが急に道の片方によけ、長く一列に一頭ずつ並んだ六頭の騾馬が荷をつんだ高いおおいの荷車をひいていくのを通してやった。荷車も騾馬も埃にまみれていた。すぐあとに、もう一列の騾馬と荷車があった。これは木材をつんでいて、騾馬をあやつっていた|騾馬追い《アリエロ》は、ぼくたちが通ると、そり返って、分厚い木のブレーキをかけた。この高台では、まったく不毛で、丘は岩だらけで、雨でわだちの跡がついた土が日照で固くなっていた。
角をまがって町にでると、急に両側に緑の谷が開けた。小川が町の中央を流れ、ぶどう畑が家々のすぐそばまであった。
バスが宿屋《ポサーダ》の前でとまり、大勢の乗客がおり、荷物がたくさん、屋根の上の防水布の下で、綱からほどかれ、おろされた。ビルとぼくはおりて、宿屋《ポサーダ》にはいった。天井の低い暗い部屋があり、鞍、馬具、白い木でつくった干草用の熊手、房になった縄底のズックの靴、ハム、ベーコンの厚切れ、白いにんにく、天井からぶらさがっている長いソーセージがあった。涼しく、うす暗く、ぼくたちは二人の女が酒の給仕をしている長い木のカウンターの前に立った。女のうしろには、食料品や品物をのせた棚があった。
ぼくたちはめいめいアグアルディエンテ〔粗悪なスペイン産のブランデー〕を一杯ずつ飲み、二杯で四十サンチーム〔一サンチームは百分の一フラン〕払った。ぼくは女にチップのつもりで五十サンチームやると、彼女はぼくが値段を間違えたと思ってその銅貨をかえしてくれた。
さっきの二人のバスク人がはいってきて、一杯おごるといってきかなかった。そこで、彼らが一杯おごり、それから、ぼくらが一杯おごった。すると、彼らはぼくたちの背中をたたいて、もう一杯おごった。そこで、ぼくたちがおごり、それから、みんなで暑い日向に出て、バスにもどり、屋根にのぼった。こんどは、充分、余地があって、みんな座席にすわり、トタン屋根の上に横になっていたバスク人はぼくたちのあいだにすわった。酒を給仕していた女がエプロンで手をふきながら出てきて、バスのなかのだれかに話しかけた。それから、運転手が平べったい革の郵便袋を二つ振りながら出てきて、バスにのりこんだ。みんなが手を振って、ぼくたちは出発した。
道はすぐ緑の谷間をあとにし、また丘をのぼった。ビルとあの酒袋のバスク人が話していた。一人の男が座席の向こう側から身をのりだして、英語でたずねた。「あんたがたはアメリカのかたですか?」
「そうですよ」
「あっしもいってましたよ」と彼がいった。「四十年前に」
彼は老人で、ほかの者たちのように日やけしていて、白い無精髭《ぶしょうひげ》をはやしていた。
「どうだった?」
「なんだって?」
「アメリカはどうだった?」
「ああ、あっしはカリフォルニアにいたんですよ。よかっただ」
「なぜきたんだ?」
「なんだって?」
「どうしてここへ帰ってきたんだ?」
「ああ! 嫁さんをもらいに帰ってきたんだ。あっしはアメリカへ戻りたかったんだが、女房が旅がきらいでね。あんたどっからでがす」
「キャンザス・シティだよ」
「あっしもそこにいきやしただ」と彼がいった。「シカゴ、セント・ルイス、キャンザス・シティ、デンヴァー、ロス・アンジェルス、ソールト・レイク・シティにいきやした」
彼はそれらの名前を注意深くいった。
「どのくらい、いってたんだい?」
「十五年でやす。それから帰って嫁さもらっただ」
「飲むかい?」
「いただきやす」と彼がいった。「アメリカじゃ、こんなのは手にはいらないですな?」
「金をだせば、たくさんあるよ」
「なにしにここさきただね?」
「パンプローナの祝祭《フィエスタ》にいくんだ」
「闘牛さ好きだね?」
「そうだとも。あんたは?」
「好きでやす」と彼がいった。「好きだと思うだ」
それから、しばらくして――
「いまはどこへ?」
「ブルゲーテへ釣りにいくんだ」
「そうか」と彼がいった。「いいのが釣れりゃいいだが」
彼は握手して、またうしろの座席に向きなおった。ほかのバスク人たちは感心していた。彼は気持よさそうにふんぞりかえって腰かけ、ぼくがあたりを見ようと振りむくと、ぼくに微笑した。だが、アメリカ語を話すのに骨が折れて、疲れたらしかった。その後は、なにもいわなかった。
バスは道をたゆみなくのぼった。あたりは不毛で、岩が土から突きでていた。道端には草一つなかった。ふりかえると、ずっと下まで視野がひろがっていた。遥かうしろに、田畑が丘の中腹に緑と褐色のいくつかの正方形をなしていた。地平線になっているのは褐色の山々であった。山は珍しい形をしていた。のぼるにつれて、地平線が変化した。バスが道をのろのろ進むにつれて、ほかの山々が南のほうに出てくるのが見えた。それから、道路は頂上にたっし、一面に平らになり、森にはいった。コルクガシワの森で、日の光が木々をとおって斑点になり、牛が木々の奥で、草をはんでいた。森を通りぬけ、道路が開けたところにで、高台にそって曲がると、眼前に緑の平野がゆるやかに起伏し、その向こうに黒い山々があった。これらはいまあとにしてきた日にやけた褐色の山々とは異なっていた。これらは樹木でおおわれ、雲がそこからおりてきていた。緑の平野が遥かにのびていた。生垣で仕切りがしてあり、北のほうで、平野を横ぎっている二列の並木のあいだに、道路が白々と見えた。高台のふちにくると、前方の平野に一列に並んだブルゲーテの赤い屋根と白い家が見え、遥か向こうの、一番手前の黒い山の肩に、ロンセヴァレス〔スペインの北部ピレネー山脈中の村。シャルルマーニュ大帝の軍が敗れ、ローランが戦死した所。ロンスヴォはフランス語読み〕の修道院の金属ぶきの灰色の屋根があった。
「あれがロンスヴォだ」とぼくがいった。
「どこ?」
「ずっと向こうの、山のはじまるところだ」
「ここは寒いや」とビルがいった。
「高いからね」とぼくはいった。「きっと千二百メートルはあるだろう」
「すごく寒い」とビルがいった。
バスはブルゲーテに通ずるまっすぐな道をおりていった。十字路をすぎ、小川にかかる橋を渡った。ブルゲーテの家々は道路の両側にあった。横町はなかった。教会と校庭を通りすごして、バスがとまった。ぼくたちはおり、運転手がぼくたちのカバンと釣り竿箱をおろしてくれた。三角帽をかぶり、黄色い革紐を十文字に胸にかけた騎銃兵が、やってきた。
「なにがはいってますか?」と彼は釣り竿箱を指差した。
ぼくは開けて、みせた。釣りの許可書をみせろというので、それをとりだした。彼は日付をみて、手を振って、行ってよいと合図した。
「いいんですか?」とぼくはきいた。
「ええ、もちろん」
白く水漆喰《みずしっくい》を塗った家の戸口で家族の者がぼくたちを見ていたが、ぼくたちはその通りを歩いて、宿屋にいった。
宿屋を経営していた肥った女が台所から出てきて、ぼくたちと握手した。彼女は眼鏡をはずし、それを拭いてから、またかけた。宿屋のなかは寒く、外では風が吹きはじめていた。女は女中にぼくたちを二階に案内させて、部屋を見させた。ベッド二つ、洗面台、たんす、ロンセヴァレスの聖母《ヌエストラ・モニョーラ》の大きな額縁の鋼版画があった。風がよろい戸に吹きつけていた。部屋は宿屋の北側にあった。ぼくたちは顔や手を洗い、セーターを着、階下の食堂におりていった。石の床で、天井が低く、羽目板は樫《かし》だった。よろい戸がみんなしまっていて、とても寒く、はく息が白く見えた。
「おやおや!」とビルがいった。「あしたはこんなに寒くはないだろうな。こんな天気じゃあ、川にはいれないよ」
木のテーブルの向こう、部屋の奥の隅に箱ピアノがあって、ビルはそこへ行って、ひきはじめた。
「暖まらなきゃあ」と彼がいった。
ぼくは部屋を出て、女主人をみつけ、食事付の部屋代はいくらかとたずねた。彼女はエプロンの下に手をつっこみ、ぼくから視線をそらせた。
「十二ペセタです」
「え、パンプローナでもそれぐらいのものだぜ」
彼女はなにもいわずに、ただ眼鏡をはずし、エプロンで拭いた。
「高すぎるよ」とぼくがいった。「大きなホテルだってそんなに払わなかったのに」
「浴室もあるんですよ」
「もっと安いのがないのかい?」
「夏はだめですね。いまはトップシーズンなんですから」
宿屋にいる客はぼくたちだけだった。まあ、いいや、とぼくは思った。ほんの二、三日のことだ。
「ワイン代もこみなんだね?」
「ええ、そうですとも」
「じゃあ」とぼくがいった。「それでいい」
ぼくはビルのところにもどった。彼はどんなに寒いかわからせようと、ぼくに息をはきかけ、ピアノをひきつづけた。ぼくはテーブルの一つに向かって腰かけ、壁にかかっている絵をながめた。兎のパネル画が一枚あったが、死んだ兎だった。雉《きじ》のパネル画が一枚あったが、これも死んだ雉だった。それに、もう一枚、死んだ鴨《かも》のパネル画があった。パネル画はみんな暗く、くすんでいた。酒壜のいっぱい並んだ戸棚があった。ぼくはそれらをみんなながめた。ビルはまだひいていた。「熱いラムのパンチはどうだね?」と彼がいった。「こうやったって、いつまでたってもあたたまりゃあしないしね」ぼくは部屋を出て、女主人に、ラムのパンチとはどんなものか、また、どうしてつくるのか、教えた。二、三分して、女中が湯気のたっている石の容器を部屋にもってきた。ビルはピアノのところからやってきて、二人で熱いパンチをのみ、風に耳をすませた。
「あんまりラムははいってないね」
ぼくは戸棚に行き、ラムの壜をもってきて、容器にコップ半杯分ほどラムをつぎこんだ。
「直接行動だね」とビルがいった。「法律違反だぜ」
女中がはいってきて、テーブルに夕食の支度をした。
「ここはひどい風だね」とビルがいった。
女中は熱い野菜スープの大きな鉢とワインをもってきた。ぼくたちはそのあとで鱒のフライと、シチューと、大きな鉢にいっぱいはいった野いちごを食べた。ワインの出かたを思うと、損はしなかった。女中は恥ずかしがりやだったが、気前よくワインをもってきた。年とった女主人が一度のぞきこんで、空の壜を数えた。
夕食をすませ、二階にあがり、冷えないように、ベッドにはいってタバコをふかし、本を読んだ。夜、一度、目がさめ、風の音がきこえた。ベッドは、暖かく、心地よかった。
第十二章
朝、目がさめると、窓に行き、外を見た。澄みきった空で、山には雲ひとつなかった。窓の下に荷車が数台と古ぼけた乗合馬車が一台あり、馬車の屋根の板は風雨にさらされて、ひびがはいり、割れていた。バスが走る以前の時代の遺物に相違なかった。山羊が一台の荷車の上にとびあがり、それから、乗合馬車の屋根にとびうつった。下にいるほかの山羊に向かって首をぐいとふり、ぼくが手で追っ払うと、とびおりた。
ビルはまだ眠っていた。で、ぼくは服を着て、廊下で靴をはき、階下へいった。階下ではだれも起きていなかった。そこで、ドアの鍵をはずし、外に出た。早朝の戸外は涼しく、風がおさまってからおりた夜露を、太陽はまだ乾かしていなかった。宿屋の裏の小屋のまわりをぶらつき、鍬《くわ》のようなものを見つけ、餌にするみみずを掘ってみようと、小川のほうへおりていった。小川は澄んで浅かったが、鱒がいるようにはみえなかった。草のはえたじめじめした岸で鍬を地面に打ちこみ、大きな土の塊を掘りかえした。下にみみずがいた。土を掘りおこしているあいだに、みみずはかくれてしまった。ぼくは気をつけて掘り、たくさん、みみずをとった。じめじめした土地の縁を掘って、二つのタバコの空罐にみみずをいれ、その上に泥をかけた。山羊がぼくの掘るのをながめていた。
宿屋にもどってみると、女主人が台所におりていた。ぼくはコーヒーをたのみ、弁当をつくってくれるよう、たのんだ。ビルは目をさまして、ベッドのふちにすわっていた。
「窓から君が見えたんだが」と彼がいった。「じゃましたくなかったんだ。何してたんだ?金でも埋めていたのか?」
「この怠け者め!」
「公共の利益のために働いてたのか! すばらしいね、毎朝、そうしてもらいたいね」
「おい」とぼくはいった。「おきろ」
「なんだって? おきろだって? おきるもんか」
彼はベッドにあがってもぐりこみ、顎まで毛布をかぶった。
「ぼくに議論をふっかけて、おこしてみろ」
ぼくはかまわず釣り道具を探し、釣り道具袋にひとまとめにして、いれた。
「興味がないのかい?」とビルがたずねた。
「食いにおりていくんだ」
「食う? なぜ食うっていわなかったんだ? ただ面白いからぼくをおこしたがっているんだと思ったよ、食う? すてきだ。それで、わけがわかる。外へいって、もっとみみずを掘ってこい。ぼくはすぐおりるから」
「ああ、いい加減にしろ!」
「公共の利益のために働け」ビルは下着に足をつっこんだ。「皮肉とあわれみを示せ」
ぼくは釣り道具袋と網と釣り竿箱をもって部屋から出た。
「おおい! もどってこい!」
ぼくはドアから首をつっこんだ。
「すこしも皮肉とあわれみを示さないのか?」
ぼくは拇指を鼻につけ他の指を広げた〔これはあざけりの身ぶりである〕。
「そんなのは皮肉じゃあない」
下におりてゆくと、ビルが歌っているのがきこえた。「皮肉とあわれみ、心あらば……おお、皮肉をあたえよ。あわれみをあたえよ。おお、皮肉をあたえよ。心あらば……わずかな皮肉。わずかなあわれみ……」彼は階下へおりてくるまで歌いつづけていた。「鐘は鳴る、ぼくとぼくの恋人に」のメロディーだった。ぼくは一週間おくれのスペイン語の新聞を読んでいた。
「その皮肉とあわれみって、なんだい?」
「え? 皮肉とあわれみ〔アナトール・フランスの言葉。第一次大戦直後に流行った〕、知らないのか?」
「うん。だれがつくったんだい?」
「みんなだよ。ニューヨークじゃあ、みんな夢中だよ。以前のフラテリーニ〔パリや欧米で非常な人気を得た道化師一家の名〕の時みたいにね」
女中がコーヒーとバター・トーストをもってはいってきた。あるいは、トーストしてバターをつけたパンといったほうがよかった。
「ジャムがあるかきいてくれ」とビルがいった。「この娘《こ》に皮肉をいえよ」
「ジャム、あるかい?」
「それじゃあ皮肉にならない。ぼくがスペイン語を話せたらいいんだが」
コーヒーはうまく、ぼくたちは大きな鉢からそれをのんだ。女中はガラスの皿にきいちごのジャムをもってきた。
「ありがとう」
「おい! それじゃあだめだ」とビルがいった。「なにか皮肉をいえ。プリーモ・デ・リヴェラ〔一八七〇〜一九三〇。スペインの将軍、政治家。この小説の出た一九二六年には独裁執政官だった〕について警句をはけよ」
「リフ〔モロッコ北部海岸の山岳地帯。一九二六年ごろ、原住民の反乱があった〕ではどんな苦境《ジャム》になっていると思うか、きいてもいいよ」
「つまらない」とビルがいった。「じつにつまらない。君ではだめだ。それだけのことさ。君には皮肉がわからないんだ。あわれみもないんだ。なにかあわれなことをいえよ」
「ロバート・コーン」
「悪くないね。そのほうがいい。ところで、なぜ、コーンがあわれなんだ? 皮肉にいえよ」
彼はコーヒーをごくっとのんだ。
「ああ、畜生!」とぼくはいった。「朝っぱらすぎらあ」
「君はそうなんだ。そのくせ、作家になりたがってるんだ。たかが新聞記者じゃあないか。国籍を失った新聞記者さ。ベッドから出た瞬間に、皮肉にならなきゃあいけない。口にあわれみをいっぱいたたえて、目をさまさなきゃあいけない」
「それだけかい」とぼくはいった。「そんなことだれからきいたんだ?」
「みんなからさ。君は読まないのか? だれにも会わないのか? 君は自分がどういうやつか知ってるんだろ? 君は国籍喪失者さ、どうしてニューヨークに住まないんだ? そうすりゃあ、こんなことはわかるよ。ぼくになにをしてほしいのかい? 毎年ここへきて、話せというのかい?」
「もっとコーヒー、飲めよ」とぼくがいった。
「よし。コーヒーは君にいいよ。カフェインがはいっているんだから。カフェインよ、ぼくたちはここにいるぞ。カフェインは男を女の馬にのせ、女を男の墓にいれる。君の悩みはなにかわかっているだろう? 君は国籍喪失者なんだ。いちばんひどい型のひとつさ。そんなこときいたことないかい? 自分の国をすてた者は印刷に価するようなものを書いたためしがないよ。新聞にだって書けないよ」
彼はコーヒーを飲んだ。
「君は国籍喪失者さ。土との接触を失ってるんだ。ご立派だよ。にせのヨーロッパの標準が君をだめにしちゃったのさ。死ぬまで飲むのさ。セックスにとりつかれてるのさ。働きもしないで、しょっちゅう話してばかりいて、時をついやすのさ。国籍喪失者なんだよ、ね? カフェをうろつきまわってさ」
「すばらしい生活のようにきこえるね」とぼくはいった。「ぼくはいつ働く?」
「君は働かないよ。ある連中は女が君を養ってるっていってるよ。ほかの連中は君が性的不能者だと主張してるよ」
「ちがうよ」とぼくがいった。「事故にあっただけさ」
「それはいうなよ」とビルがいった。「それは口ではいえないことなんだ。君が神秘なものにして、しまっとかなきゃあいけないものなんだ。ヘンリー〔アメリカで生まれ、イギリスに帰化した小説家ヘンリー・ジェイムズのこと〕の自転車のようにね」
彼はすばらしく話しつづけていたが、やめた。不能だということにそのような警句をはいてぼくを傷つけたと思ったのかもしれなかった。ぼくはもう一度しゃべってもらいたかった。
「自転車じゃない」とぼくがいった。「あいつは馬にのってたんだ」
「三輪車だってきいたけど」
「うん」とぼくがいった。「飛行機はちょっと三輪車に似ているからね。操縦桿が同じように動くからね」
「でも、ペダルはふまないぜ」
「そう」とぼくはいった。「ペダルはふまないだろうな」
「その話はよそうよ」とビルがいった。
「うん、よそう。ぼくは三輪車を擁護してただけさ」
「あいつもいい作者だと思うな」とビルがいった。「君もすごくいいやつだよ。だれか君をいいやつだといったやついるかい?」
「ぼくはいいやつじゃあないよ」
「いいかい、君はすごくいいやつで、ぼくは世界じゅうのだれよりも君が好きなんだ。ニューヨークでは、君にそんなこといえなかったんだ。ぼくがホモだっていうことになるからね。南北戦争がおこったのはそのせいなんだぜ。エイブラハム・リンカンはホモだったのさ。あいつはグラント将軍〔南北戦争で北軍の総指揮官だった人〕に惚《ほ》れていたんだ。ジェファスン・デーヴィス〔南部連邦の大統領となり、南北戦争を起こした人〕もそうだったんだ。リンカンが奴隷を解放したのは、賭にすぎないんだ。ドレッド・スコットの事件〔最高裁で黒人が市民権を主張したが否決された事件〕は酒場反対同盟《アンティ・サルーン・リーグ》〔一八五九年創立の酒類販売飲用反対同盟〕のでっちあげなんだ。セックスがなんでも説明するよ。大佐夫人とジュディ・オグラディ〔フランスのアンドレ・モーロワの小説の人物〕は一皮むけば同性愛《レズビアン》さ」
彼はだまった。
「もっとききたいか?」
「さっさといえ」とぼくがいった。
「これ以上は知らないよ。昼食のとき、また話そう」
「おい、ビル」とぼくがいった。
「怠け者め!」
ぼくたちは弁当とワインを二本リュックサックにつめ、ビルがそれを背負った。ぼくは釣り竿箱と手網《たも》を肩からかけて、もっていった。道路を進んでいき、それから、牧場を横ぎると、田野をつっきり一番こちらの丘の斜面の森に向かっている小道があった。ぼくたちは砂の多いその小道を通って、田野を横ぎった。田野はゆるやかに起伏して、草が一面にはえていたが、羊に食われて短かった。羊は上の丘にいた。林のなかにその鈴の音がきこえた。
小道は丸太でつくった橋で小川を渡っていた。丸太は表面がすりへって、てすりのかわりに小枝がさしわたしてあった。小川のかたわらの淀んだ池におたまじゃくしが砂に斑点をつけていた。ぼくたちはけわしい土手をのぼり、起伏の多い田野を横ぎった。ふりかえると、白い家や赤い屋根のブルゲーテが見え、白い道路にトラックが走って、埃をたてていた。
田野をこえて、別のもっと流れの早い小川をわたった。砂地の道が浅瀬のほうにおり、さらに林にはいっていった。小道は浅瀬の下流のもう一つの丸木橋で小川をわたり、その道路に合していて、ぼくたちは林にはいった。
ブナの林で、木々はみな老木だった。根が地上にもり上がって、年がたって枝が曲がっているブナの太い幹のあいだの道を歩いて行くと、日光が木の葉をとおして草地の上に明るい斑点をつくっていた。木々は大きく、葉はしげっていたが、暗くはなかった。下ばえはなく、ただなめらかな草が青々ととても新鮮で、大きな灰色の木々が公園のように間隔よく並んでいた。
「これは田舎らしい」とビルがいった。
道は丘をのぼり、ぼくたちは茂った森にはいり、道はのぼりつづけた。ときどき、くだりになったが、また、けわしいのぼりになった。しょっちゅう、森のなかに羊の鳴声がきこえた。とうとう、道は丘の頂上にでた。ブルゲーテから見えた茂った山脈のいちばん高い部分の高台の頂上にでたのだ。木々のあいだをわずかに切りひらいた尾根の日のあたるところに、野いちごがはえていた。
前方で、道は森を出、丘の尾根の肩にそってすすんだ。前方の丘は樹木がなく、黄色いはりえにしだの茂った広い原野だった。遥かかなたに、木々で黒ずみ、灰色の岩のつきでたけわしい断崖がみえ、イラチ河の流れるコースを示していた。
「尾根づたいにこの道をいき、このいくつかの丘をこえ、向こうの丘の森をぬけ、イラチ渓谷におりていかなければならないんだ」とぼくはビルに指差して教えた。
「ひどく歩かなきゃあならないんだね」
「日帰りで釣りに行くには遠すぎるんだ、快適にやるには」
「快適にね。それはいい言葉だ。死物狂いになって行って、とにかく釣ってこなきゃあならないんだね」
長い道のりで、そのへんはとてもきれいだったが、樹木の茂った丘をでて、リオ・デ・ラ・ファブリカの渓谷に通ずるけわしい道をおりてゆくと、疲れてしまった。
道は林の蔭から暑い日向に出た。前方に、渓谷があった。河の向こうに、けわしい丘があった。丘にソバの畑があった。丘の中腹の木蔭に白い家が見えた。とても暑く、河をせきとめているダムのそばの木々の下で立ちどまった。
ビルは木の根もとに荷物をおき、ぼくたちは竿をつなぎあわせ、リールをつけ、テグス糸を結びつけ、釣りの支度をした。
「ここに鱒がいるのは確かかい?」とビルがたずねた。
「たくさんいるよ」
「ぼくは蚊ばりで釣るよ。マックギンティ製のはあるかい?」
「そのなかにあるよ」
「君は餌で釣るのか?」
「ああ。ぼくはこのダムで釣るよ」
「ああ、じゃあ、この蚊ばり入れをもっていくよ」彼は蚊ばりをつけた。「どこへ行けばいいだろう? かみ手かい、しも手かい?」
「しも手がいちばんいい。かみ手にもたくさんいるけど」
ビルは岸をおりていった。
「みみずの罐をもっていけよ」
「いや、いらない。蚊ばりに食いつかなきゃあ、振りまわすだけさ」
ビルはしも手にいって、流れをみつめていた。
「おおい」と彼はダムの音にまけずに叫んだ。「道の向うのあの泉にワインをつけといたらどうだ?」
「ようし」とぼくは叫んだ。ビルは手を振って、流れをくだっていった。ぼくは荷物のなかからワインの壜を二本だし、道をひきかえして、泉の水が鉄管から流れでているところへ、もっていった。泉に板が渡してあり、ぼくはそれをもちあげて、壜にコルクの栓をしっかりたたきこみ、水のなかにつけた。かなり冷たく、手と手首がこごえた。木の枝をもとどおりにし、ワインがだれかに見つからなければいいがと思った。
木にたてかけておいた釣り竿をとり、餌をいれた罐と手網《たも》をもち、ダムのほうへ歩いていった。ダムは丸太を流す水圧をつけるためにつくられたものだった。門は開いていて、ぼくは四角い材木に腰をおろし、河が滝になって落ちる前の、エプロンのようになだらかな水面を見まもった。ダムの足もとの白く泡だった水は深かった。餌をつけていると、鱒が一尾、白い水からとびあがって、滝のなかに躍りこみ、水に流されていった。餌をつけおわらないうちに、もう一尾の鱒が同じような美しい弧をえがいて滝にとびこみ、雷のような音をたてて流れていく水のなかに消えていった。ぼくはかなり大きい錘《おもり》をつけ、ダムに使われた木材のふちの近くに白く泡だっている水のなかに釣り糸をたれた。
最初の鱒がかかったのは感じなかった。引きあげはじめたら、かかっているのが感じられ、竿をほとんどまっぷたつに折れるほど曲げて、鱒と戦い、滝の真下の沸きかえっているような水から鱒をひきあげ、ダムの上にふりあげた。立派な鱒で、頭を木材にたたきつけると、ぴちぴちはねたが、ぴんとなって、死んだ。それから、ぼくは袋にそれをすべりこませた。
それを釣っているあいだに、数尾の鱒が滝にとびかかった。餌をつけて、また糸をなげこむと、すぐまたかかり、同じように釣りあげた。ちょっとのあいだに、六尾釣った。みんな、ほとんど同じ大きさだった。ぼくは鱒の頭を同じ方向にむけて並べ、ながめた。美しい色で、水が冷たいので、身が固くしまっていた。暑い日だった。そこで、ぼくは全部の腹をさき、内臓を、鰓《えら》ごと抜きとり、河の向こうへほうった。鱒を河岸にもってゆき、ダムの上の、冷たい、よどみなく早く流れている水で洗い、それから、羊歯《しだ》をつみ、全部、袋につめた。羊歯を敷いた上に鱒を三尾のせ、それから、また羊歯を敷き、それから、また鱒を三尾のせ、さらに、羊歯でおおった。鱒は羊歯につつまれると立派にみえ、袋はかさばり、ぼくは木蔭にそれをおいた。
ダムの上はとても暑く、ぼくは袋といっしょにミミズ罐を木蔭におき、荷物のなかから本をとりだし、ビルが昼食を食べにくるまで読んでいようと、木の下に腰をおろした。
正午をすこし過ぎて、あまり日蔭はなかったが、並んではえている二本の木の幹によりかかって、読んだ。本はA・E・W・メイソン〔一八六五〜一九四八。イギリスの小説家〕のなにかで、読んだのは、アルプスでこごえ、氷河へおち、行方不明になった男の不思議な物語だったが、男の花嫁は彼の死骸が堆石の上にあらわれるまで、まさに二十四年間待とうとしていて、そのあいだ、彼女のほんとうの愛人も待っていたのだが、ビルがあらわれたときは、二人はまだ待っていた。
「釣れたか?」と彼がたずねた。釣り竿と袋と網を片手にもって、汗をかいていた。ぼくはダムの騒音のために、彼のくるのがわからなかったのだ。
「六尾つった。君はどうだった?」
ビルはすわって、袋を開き、大きな鱒を草の上においた。彼はもう三尾とりだしたが、そのたびに前のより大きい鱒で、それらを木蔭に並べた。彼の顔は汗ばみ、たのしそうだった。
「君のはどうだい」
「もっと小さい」
「見せてくれ」
「包んじゃったよ」
「ほんとに、どのくらい大きいのかい?」
「みんな君のいちばん小さいやつぐらいの大きさだ」
「なにか隠してるんじゃあないだろうね」
「そうならいいんだけど」
「みんなミミズでとったのか?」
「そうだよ」
「この怠け者!」
ビルは袋に鱒をいれ、袋の口を開けたまま振りまわしながら、河のほうへ行った。彼は腰から下が濡れていた。歩いて流れにはいっていったにちがいなかった。
ぼくはさっきの道を引きかえし、ワインの壜を二本とりだした。壜は冷えていた。木蔭までもどるあいだに、壜は汗をかいた。ぼくは新聞紙の上に弁当をひろげ、一本の壜の栓をぬき、他の一本を木にもたせかけた。ビルが手を拭きながらやってきた。袋は羊歯でふくらんでいた。
「その壜を飲んでみよう」と彼がいった。彼は栓をぬき、壜を傾けて、飲んだ。「ひゃあ! 眼が痛くなる」
「やってみよう」
ワインは氷のように冷たく、ちょっと錆《さび》くさい味がした。
「そんなにひどくもない」とビルがいった。
「冷えてるから、ましだ」とぼくがいった。
ぼくたちは弁当の小さい包みを開けた。
「鶏《とり》だ」
「ゆで卵がある」
「塩はあるかい?」
「まず卵だ」とビルがいった。「次に、鶏《にわとり》。ブライアン〔ウィリアム・ジェニングズ・ブライアン。アメリカの政治家。一八六〇年生まれ。この小説の出版の前年一九二五年七月二十六日死す〕だってこれくらいの順番はわかるよ」
「あいつは死んだぜ。きのう新聞で読んだ」
「まさか。ほんとか?」
「そうだ。ブライアンは死んだ」
ビルはむきかけの卵を下においた。
「諸君」と彼はいい、鶏の脚を包んだ新聞紙を開けた。「ぼくは順序を逆にする。ブライアンのためにだ。『偉大なる下院議員〔当時ブライアンにつけられていたあだ名〕』への手向けとしてだ。まず、鶏。それから、卵」
「いつの日に、神は鶏をつくりたもうたのだろう?」
「ああ」とビルが鶏の脚をしゃぶりながらいった。「そんなことわかるはずがない。疑問に思っちゃあいけないよ。われわれの地上での滞在は長くはないんだ。喜び、信じ、感謝しようじゃあないか」
「卵を食え」
ビルは片手に鶏の脚をもち、片手にワインの壜をもって、ジェスチュアをした。
「われわれにさずけられたものをたのしもう。空の鳥を利用しよう。ぶどうからこしらえたものを利用しよう。すこしは利用するかね、兄弟」
「あとでいいよ、兄弟」
ビルはぐっと飲んだ。
「すこしは利用しろ、兄弟」といって、彼はぼくに壜を手渡した。「疑うのはよそう、兄弟。猿のような指で鶏かごの聖なる神秘をのぞきこむのはよそう。信仰をうけいれ、ただ言おう――ぼくといっしょに言ってもらいたいよ――なんて言おうか、兄弟!」彼はぼくに鶏の脚をつきつけて、言葉をつづけた。「いいかね、ぼくたちはこう言おう。ぼくもその一人としてこう言うのを誇りにしている――で、ぼくといっしょに君にもひざまずいて言ってもらいたいんだ、兄弟。だれもこの偉大なる戸外でひざまずくことを恥じてはいけない。森は神の最初の寺院だったことを忘れるなよ。ひざまずいて、言おう。『ご婦人よ、それを食うなかれ――これはメンケンだ』」
「さあ」とぼくはいった。「これをすこし利用しろよ」
ぼくたちはもう一本の壜の栓をぬいた。
「どうしたんだ?」とぼくはいった。「ブライアンが嫌いだったのか?」
「ブライアンは好きだった」とビルがいった。「ぼくたちは兄弟だった」
「どこで知りあったのだ?」
「彼とメンケンとぼくはみんなホーリー・クロス〔アメリカのマサチューセッツ州にある大学〕に行ってたんだ」
「それにフランキー・フリッチも」
「嘘だ。フランキー・フリッチはフォーダム〔ニューヨーク州にあるカソリックの男子大学〕へ行ったんだ」
「そうか」とぼくがいった。「ぼくはマニング僧正〔一八〇八〜八二。イギリスの宗教家、ウェストミンスターの枢機卿〕とロヨラ〔シカゴにあるジェスイット派の大学〕へ行ったよ」
「嘘だ」とビルがいった。「ぼくがマニング僧正とロヨラへ行ったんだ」
「君は酔ってるよ」とぼくはいった。
「ワインにか?」
「もちろんさ」
「いや、湿気のせいなんだ」とビルがいった。「こんなひどい湿気は追っぱらうべきだよ」
「もう一杯やれよ」
「これっきりなのか?」
「たった二本だよ」
「自分がなんだかわかってるかい?」ビルは壜を愛情をこめて見た。
「いや」とぼくがいった。
「君は酒場反対同盟に使われてるんだ」
「ぼくはウェイン・B・ホィーラー〔一八六九〜一九二七。アメリカの有名な弁護士、酒場反対同盟の有力な支持者〕といっしょにノートル・ダム〔アメリカのインディアナ州にある大学、フットボールが強くて有名〕に行ったんだ」
「嘘だ」とビルがいった。「ぼくがウェイン・B・ホィーラーとオースティン・ビジネス・カレッジ〔テキサス州にある大学〕に行ったんだ。あいつは級長だった」
「そうか」とぼくはいった。「酒場は開くべきだ」
「そいつは正しい、級友だけあるな」とビルがいった。「酒場は開くべし。ぼくはそう信じるな」
「君は酔ってるよ」
「ワインにか?」
「ワインにさ」
「うん、そうだろう」
「ひるねしようか?」
「よし」
ぼくたちは木蔭に頭を横たえ、木々のあいだを見あげた。
「ねむってるのかい?」
「いや」とビルがいった。「考えてたんだ」
ぼくは眼を閉じた。土の上にねっころがると、いい気持だった。
「ねえ」とビルがいった。「あのブレットとはどうなってんだ?」
「どうしたって?」
「彼女に恋したことでもあるのか?」
「もちろんさ」
「どのくらい?」
「すごく長いあいだ、やめたり、はじめたり」
「ああ、ひどい!」とビルがいった。「気の毒だな」
「かまわないよ」とぼくはいった。「もう気にしちゃあいないんだから」
「ほんとうかい?」
「ほんとうさ。ただそんな話はいやなんだ」
「そんなこときいたんで、怒ってるのかい?」
「怒ってなんかいないさ」
「眠るよ」とビルがいった。彼は顔に新聞紙をかぶせた。
「おい、ジェイク」と彼がいった。「君はほんとうにカトリック教徒か?」
「形の上はね」
「というと?」
「わからないね」
「よし、ぼくはこんどこそ眠るよ」と彼がいった。「やたらにしゃべって、ぼくをおこしとかないでくれ」
ぼくも眠った。目をさますと、ビルがリュックサックにつめていた。午後もおそく、木々の蔭が長く、ダムまでのびていた。ぼくは地面に寝たので、からだがこわばっていた。
「どうしたんだ? 目がさめたのか?」とビルが尋ねた。「どうして夜まで寝なかったんだ?」ぼくはのびをして、眼をこすった。
「ぼくはきれいな夢をみたぜ」とビルがいった。「なんの夢だか忘れたけど、きれいな夢だった」
「夢はみなかったらしいや」
「夢はみるべきものだぜ」とビルがいった。「われらの大実業家はみんな夢みる人だったぜ。フォードを見ろ。クーリッジ大統領を見ろ。ロックフェラーを見ろ。ジョー・デイヴィッドソン〔一八八三〜一九五二。アメリカの彫刻家〕を見ろ」
ぼくはぼくの竿とビルのとをばらばらにして、釣り竿箱にしまった。リールを釣り道具袋に入れた。ビルはリュックサックにつめてしまっていたが、鱒をいれた袋の一つをそのなかへつっこんだ。ぼくはほかの一つをもった。
「さて」とビルがいった。「みんなもったかな?」
「ミミズがある」
「君のミミズだ、そこに入れろよ」
彼はその荷物を背負っていたので、ぼくがたれぶたのついた外側のポケットの一つにミミズの罐を入れた。
「もうみんなもったね?」
ぼくはニレの木の根もとの草の上を見まわした。
「ああ」
ぼくたちは道を森のなかへ歩きだした。ブルゲーテまで帰るのに長くかかった。野原を横ぎって道路にで、窓に明かりのともった町の家々のあいだを通って、宿屋にいったときは、暗くなっていた。
ぼくたちはブルゲーテに五日間滞在し、すばらしい釣りをした。夜は寒く、昼は暑く、日中の暑さには、いつも微風があった。とても暑く、冷たい流れを歩いて渡ると気持よく、川から出て、岸に腰をおろしていると、太陽がからだを乾かしてくれた。泳げるだけの深さのよどみのある流れがあった。夕方、ハリスという名のイギリス人と、三人でやるブリッジをした。彼はサン・ジャン・ピエ・ド・ポール〔スペイン国境に近いフランスの町〕から歩いてきて、釣りのために宿屋にとまっているのだった。とても陽気で、二度いっしょにイラチ河へいった。ロバート・コーンからも、ブレットやマイクからも、なんの便りもなかった。
第十三章
ある朝、朝食におりてゆくと、イギリス人のハリスがもうテーブルについていた。彼は眼鏡をかけて、新聞を読んでいた。彼は顔をあげ、ほほえんだ。
「おはよう」と彼がいった。「あなたに手紙がきてますよ。郵便局に立ちよったら、ぼくのといっしょにくれたんです」
手紙はテーブルのぼくの席のコーヒー茶碗に立てかけてあった。ハリスはまた新聞を読みつづけていた。ぼくは手紙をあけた。パンプローナから回送されたものだった。サン・セバスチアン、日曜日、とあった。
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親愛なるジェイク
ぼくたちは金曜にここについた。ブレットが汽車のなかでぐでんぐでんに酔ったので、ぼくたちの旧友といっしょに三日間の休養をとろうと、ここにつれてきた。火曜にパンプローナのモントーヤ・ホテルに行くが、何時につくかはわからない。水曜に君たちといっしょになるにはどうしたらいいか、バスに簡単な手紙をたくして、教えてくれ。おくれて失礼したが、どうぞよろしく。ブレットはほんとうにまいっていたのだが、火曜までには、すっかりよくなるだろう。いまも実際には、すっかり元気だ。ぼくは彼女をよく知っているから、看護しているつもりだが、なかなか楽じゃあない。みんなによろしく。
マイケル
[#ここで字下げ終わり]
「きょうは何曜ですか?」とぼくはハリスにたずねた。
「水曜だと思いますが。ああ、間違いない。水曜です。こんな山のなかだと、不思議と、日のたつのを忘れてしまう」
「そうですね。ぼくたちは一週間近くもここにいるんだから」
「お帰りになろうと考えてるんじゃあないでしょうね」
「いや、午後のバスで帰るかもしれないな」
「それはそれは。イラチ河へもう一度ごいっしょできると思ってたのに」
「パンプローナに行かなければならないんです。そこで人に会うことになっているんで」
「じつに残念ですね。このブルゲーテでたのしく過ごしてたのに」
「パンプローナにいらっしゃいよ。ブリッジもできるし、すばらしい祝祭《フィエスタ》があるんですよ」
「そうしたいですね。さそってくださって、ほんとにありがとう。でも、ここにいたほうがいいようです。もう釣りをするひまもあまりないから」
「イラチ河で例の大きなのを釣りたいんですね」
「ええ、そのとおり。あそこの鱒はすごく大きなやつだから」
「ぼくも、もう一度やってみたいですね」
「そうしなさいよ。もう一日いらっしゃいよ。ぼくのいうことをきいて」
「ほんとに町に行かなきゃあならないから」とぼくがいった。
「残念ですな」
朝食ののち、ビルとぼくは宿屋の前の長椅子に腰かけ、日向ぼっこをしながら、そのことを相談していた。一人の娘が町の中心地のほうから道をやってくるのが見えた。彼女はぼくたちの前で立ちどまり、スカートにぶらさげている革の紙入れから電報をとりだした。
「|あなたがたのかしら《ボル・ウステデス》?」
ぼくはそれを見た、宛名は「ブルゲーテ、バーンズ」とあった。
「ああ、ぼくたちのだ」
彼女は帳面をだして、ぼくにサインを求め、ぼくは彼女に銅貨を二、三枚やった。電報はスペイン語で〈ヴェンゴ・フェヴェス・コーン〉(木曜日に行く、コーン)とあった。
ぼくはビルに手渡した。
「コーンという単語はどういう意味かな?」と彼がたずねた。
「なんてひどい電報だ!」とぼくはいった。「同じ代金で十語まで打てるのになあ。『木曜日に行く』か。こりゃあ、たくさん知らせてくれたもんだ」
「コーンに興味のある情報がすべて知らせてあるわけか」
「とにかくいこう」とぼくがいった。「ブレットとマイクをここまで呼んで、また祝祭までに帰るなんて、つまらない。返事すべきかね?」
「したっていいだろう」とビルがいった。「ぼくたちまでいばる必要はないからな」
ぼくたちは郵便局まで歩いていって、電報用紙をたのんだ。
「なんてうとうか?」とビルがたずねた。
「〈コンヤツク〉それで充分だ」
電報料を払い、宿屋に歩いて帰った。ハリスがいたので、三人でロンセスヴァリェスまで歩いていった。修道院を通りぬけた。
「すばらしいところですね」とハリスはでてきたとき、いった。「でも、こんなところはあんまり興味がないんでね」
「ぼくもそうなんだ」とビルがいった。
「でも、すばらしいところですね」とハリスがいった。「見にこないままだったかもしれませんね。毎日こようとは思ってたんですが」
「でも、釣りほどにはいかないでしょう、ね?」とビルがたずねた。彼はハリスが好きだった。
「そうですとも」
ぼくたちは修道院の古い礼拝堂の前に立っていた。
「向こうにあるのは居酒屋じゃあないですか?」とハリスがたずねた。「それとも眼の錯覚かな」
「居酒屋らしいね」とビルがいった。
「ぼくには居酒屋のように見える」とぼくがいった。
「ねえ」とハリスがいった。「利用しましょうよ」彼はビルから利用するという言葉をとりあげたのだ。
ぼくたちはめいめいワインを一本のんだ。ハリスはぼくたちに払わせようとしなかった。彼はスペイン語をきわめて巧みに話した。居酒屋の主人はぼくたちの金を受けとろうとしなかった。
「ねえ。君たちとここでいっしょになったことがぼくにどういう意味があるか、君たちにはわかってもらえないんですよ」
「ぼくらもとても楽しかった、ハリス」
ハリスはすこし酔っていた。
「ねえ、実際、君たちにはわかってもらえないんです、どんなに意味があるかが。ぼくは戦争以来あんまり楽しいことがなかったんだから」
「また、いつか、いっしょに釣りましょう。忘れずにね、ハリス」
「必ずしましょう。とても楽しいすてきな時をすごしましたからね」
「もう一本どう?」
「楽しいすてきな考えですな」とハリスがいった。
「ぼくがおごるよ」とビルがいった。「でなきゃあ、飲まない」
「ぼくに払わせてもらいたいです。ぼくを楽しませてくれるんだから」
「ぼくを楽しくしてくれるんだよ」とビルがいった。
居酒屋の主人が四本目の壜をもってきた。ぼくたちは同じグラスをまだもっていた。ハリスは彼のグラスをあげた。
「ねえ、これは非常に役に立つよ、ねえ」
ビルは彼の背をたたいた。
「君はいい人ですね、ハリス」
「ねえ。ぼくの名はほんとはハリスじゃあない。ウィルソン=ハリスです。一つの名前で、ハイフンをつけて」
「君はいい人だ、ウィルソン=ハリス」とビルがいった。「君がすごく好きだから、ハリスと呼ぶんだよ」
「ねえ、バーンズ。これがぼくにどういう意味があるか、君にはわからないよ」
「さあ、もう一杯、役に立てましょう」とぼくがいった。
「バーンズ。ほんとに、バーンズ。君にはわからないよ。それだけはいっとくよ」
「飲みほしなさい、ハリス」
ぼくたちはハリスをまんなかにして、ロンセスヴァリェスから通りを歩いて帰った。宿屋で昼食をとり、ハリスはバスまで送ってくれた。彼はロンドンの住所とクラブと事務所の所在地をかいた名刺をくれ、ぼくたちがバスにのるとき、封筒を一つずつ渡してくれた。ぼくのもらったのを開けると、蚊ばりが一ダースはいっていた。ハリスは自分でそれを結んだのだ。彼は自分の蚊ばりをみんな結んだ。
「ねえ、ハリス――」とぼくはいいだした。
「いや、いや!」と彼がいった、彼はバスからおりるところだった。「蚊ばりの一級品というわけじゃあないですよ。いつかそれで釣るとき、ぼくたちがどんなに楽しかったか思いだしてもらえるかと、思っただけなんで」
バスが動きだした。ハリスは郵便局の前に立っていた。彼は手を振った。バスが道を進んでいくと、彼は背を向けて、宿屋のほうへもどっていった。
「ねえ、あのハリスって、いいやつじゃあないか?」とビルがいった。
「あいつはほんとに楽しかったようだ」
「ハリスか? もちろんそうだとも」
「パンプローナにくればいいのにね」
「釣りがしたかったんだよ」
「うん。とにかく、イギリス人がどんなに交際したがっているか、君にはわからないんだよ」
「どうも、そうらしいな」
ぼくたちは午後おそく、パンプローナにはいり、バスはホテル・モントーヤの前でとまった。広場では、祝祭にそなえて広場を明るくするために電燈線を引いていた。バスがとまると、子供が二、三人やってきた。税関吏がバスからおりる人たちにみんな歩道で荷物を開かせた。ぼくたちはホテルにはいり、階段でモントーヤに会った。彼はいつものようにまごついたようにほほえみ、ぼくたちと握手した。
「お友だちがきてらっしゃいますよ」と彼がいった。
「キャムベルさんかね?」
「ええ、コーンさまと、キャムベルさまと、アシュレイ夫人です」
彼はぼくがなにかききたいことでもあるかのように、ほほえんだ。
「いつきた?」
「きのうです。あなたがたのお使いになられた部屋はとってあります」
「そいつはありがたい。キャムベルさんに広場に面した部屋をかしたかね?」
「さようです。どの部屋も広場に面しております」
「みんな、どこへ行った?」
「ペロータにお出かけだと存じます」
「で、闘牛はどうかね?」
モントーヤは微笑した。「今晩です」と彼がいった。「今晩、七時に、ヴィラールの牛がきますし、あしたはミウラのがきます、みなさん、おでかけになりますか?」
「ああ、でかける。牛を檻《おり》から出すのを見たことがないんだ」
モントーヤはぼくの肩に手をかけた。
「では、あちらでまた」
彼はまた微笑した。彼は闘牛がぼくたち二人のあいだのきわめて特別な秘密でもあるかのように、いつも微笑した。ぼくたちの知っている、とても驚くべき、しかもじつにひどく深い秘密ででもあるかのようにだ。ほかの者にはその秘密にはなにか淫らなことがあるが、ぼくたちにはわかっているといったような微笑を彼はいつもした。わからない者にはみせてもしかたがないといったような。
「お友だちも、|闘牛好き《アフィシオナード》ですか?」とモントーヤがビルにほほえみかけた。
「そうです。サン・フェルミネスの祝祭を見に、はるばるニューヨークから来たんですからね」
「そうですか?」とモントーヤはいんぎんにいったが、信じないようだった。「でも、あなたのような闘牛好きではございませんね」
彼ははにかみながらまたぼくの肩に手をかけた。
「とんでもない」とぼくがいった。「ほんとうの闘牛好きなんですよ」
「でも、あなたのような闘牛好きではございませんよ」
アフィシオンとは情熱の意味である。アフィシオナードとは闘牛に情熱をもっている人のことである。よい闘牛士はみなモントーヤのホテルにとまった。つまり、アフィシオンのある人はそこにとまった。金もうけ主義の闘牛士はたぶん一度はとまるが、次にはこなかった。よい闘牛士は毎年きた。モントーヤの部屋には彼らの写真があった。写真はファニート・モントーヤか彼の妹に捧げられていた。モントーヤがほんとうにいいと思っている闘牛士の写真は額に入れてあった。アフィシオンのなかった闘牛士の写真は彼の机の引き出しにしまってあった。それらには時々最上級のお世辞の言葉が書いてあった。しかし、それは意味のないことだった。ある日、モントーヤはそれらを全部とりだし、屑籠に入れた。そばにおいておきたくなかったのだ。
ぼくたちは時々牛や闘牛士について話した。ぼくはここ数年、モントーヤのところにとまっていた。ぼくたちは長い時間つづけて話したことはなかった。お互いに感じたことがわかれば、それが楽しみで話しあったのだった。人々は遠い町からやってきて、パンプローナを去る前に、たちよって、モントーヤと、闘牛について二、三分間、話すのだった。こういう人たちはアフィシオナードだった。アフィシオナードの人たちはホテルが満員のときでも、いつも部屋がとれた。モントーヤは彼らの幾人かにぼくを紹介してくれた。彼らは、いつも、はじめは、きわめていんぎんで、ぼくがアメリカ人だというので、非常に面白がった。どういうわけか、アメリカ人はアフィシオンがもてないものと思われていた。アメリカ人はそれをもっているふりをしたり、それを興奮と混同したりするかもしれないが、それをほんとうにもつことはできないものと思われていた。ぼくにアフィシオンがあるのを知り、それを引きだす合い言葉やおきまりの質問などなくて、むしろ、いつもすこし守勢にたってなにげない質問を行なう、いわゆる口述の精神の試験をするだんになると、このようにいつも、当惑したように肩に手をかけるとか、「|いい人だ《ブエン・オンブレ》」などといったりした。が、たいていは、実際に手でふれてみるのだった。彼らはアフィキシオンをたしかめるために手でふれたがっていたようだった。
モントーヤはアフィシオンのある闘牛士ならどんなことでも許せた。発作的な神経の興奮、恐怖、説明のつかない悪い行為、あらゆる種類の過失、を許せた。アフィシオンのある人なら、なんでも許せた。すぐに、ぼくのためにぼくの友人の全部を許してくれた。彼はまったくなんにもいわなかったが、ぼくの友人たちは、ぼくと彼とのあいだのちょっとした恥ずかしい存在にすぎなかった。言ってみれば闘牛で馬が腹をさされるようなものだった。
ぼくたちがはいってきたときは、ビルは上にあがっていて、彼の部屋で顔や手を洗い、着がえていた。
「おい」と彼がいった。「スペイン語をうんと話してきたかい?」
「牛が今晩くるっていってたぜ」
「みんなをさがしに、行こうじゃないか」
「ああ。たぶん、カフェにいるだろう」
「切符、あるかい?」
「ああ、檻放ちの通しの分があるよ」
「どんなものなんだい?」彼は鏡の前で顎を引っぱり、顎の線の下に剃り残しはないか見ていた。
「とても面白いよ」とぼくがいった。「牛を一頭ずつ檻から出すんだが、それをいれる囲い場には牛があばれないように、去勢牛がいれてあるんだ。牛は去勢牛に向かって突っこんでくるが、去勢牛は年とった未婚の女がなだめようとでもするように、ぐるぐる逃げまわるんだ」
「去勢牛を角で突くようなことはないのかい?」
「もちろん突くよ。ときには、すぐあとを追いかけて、殺すこともあるよ」
「去勢牛はどうにもできないのかい?」
「うん。友だちになろうとするんだがね」
「なんのためにそこへいれとくんだい?」
「牛をなだめて、角を石の壁にぶつけて折ったり、互いに角で突きあったり、させないためさ」
「去勢牛ってすげえもんだな」
ぼくたちは階段をおり、外へ出て、広場を横ぎり、カフェ・イルーニアのほうへ歩いていった。広場には切符売場が二軒さびしそうに立っていた。その窓には「日向席《ソル》」とか「中間席《ソル・イ・ソンブラ》」とか「日蔭席《ソンブラ》」と書いてあったが、閉っていた。祝祭の前日にならなければ開かないのだ。
広場の向こうに、イルーニアの白い籐のテーブルや椅子がアーケードを越えて道路の縁まではみだしていた。ぼくはブレットとマイクがテーブルにいないかさがした。彼らはいた。ブレットとマイクとロバート・コーンだ。ブレットはバスク風のベレーをかぶっていた。マイクもかぶっていた。ロバート・コーンはなにもかぶらず、眼鏡をかけていた。ブレットはぼくたちの来るのを見て、手をふった。テーブルに近づくと、彼女は眼尻に皺をよせた。
「まあ、こんにちは!」と彼女が呼びかけた。
ブレットは幸福だった。マイクは強い感動をこめて握手した。ロバート・コーンはよく帰ってきたといって、握手した。
「いったい、どこへいっていたんだ?」とぼくはきいた。
「二人をここへ連れて来たんだよ」とコーンがいった。
「ばかなこと言わないで!」とブレットがいった。「あなたがこないんだったら、もっと早くここに来られたのよ」
「ここにはこられなかったさ」
「ばかおっしゃい! あなたがた、日に焼けたわね。ビルの顔をごらんなさいよ」
「釣りはよかったかい?」とマイクがきいた。「行きたかったんだけど」
「よかったよ。君がこないんで残念だった」
「行きたかったのだけど」とコーンがいった。「この人たちをつれてこなきゃあいけないと思ったから」
「わたしたちをつれてですって。ばかなこと言わないで」
「ほんとによかったかい?」とマイクがたずねた。「たくさん釣った?」
「一ダースずつ釣った日もあったよ。イギリス人がいてね」
「ハリスっていう名なんだ」とビルがいった。「知ってるかい、マイク? やっぱり戦争にいってたんだ」
「運のいいやつさ」とマイクがいった。「あのころはすばらしかった。あのころがもどってくればいいんだけどなあ」
「ばかなこというな」
「戦争にいってたのかい、マイク?」コーンがたずねた。
「ああ、いってたさ」
「とても立派な軍人だったのよ」とブレットがいった。「あなたの馬がピカディリ〔ロンドンの有名な大通り〕をかけだしたときのことを話してごらんなさい」
「いやだよ、もう四度も話したからね」
「ぼくにはまだですよ」とロバート・コーンがいった。
「その話はいやだよ。ぼくの信用にかかわるから」
「勲章の話をしてあげたら」
「いやだ。あの話も非常にぼくの信用にかかわるね」
「なんの話だい?」
「ブレットが話すよ。ブレットはぼくの信用にかかわる話はなんでもするよ」
「じゃあ、話して、ブレット」
「話していい?」
「ぼくが話そう」
「どんな勲章をもらったんだ、マイク?」
「勲章なんかもらわないよ」
「なにかもらったはずだ」
「普通の勲章ならもらったと思うな。でも、ぼくは手続きをしなかったんだ。あるとき、ばかに大きな晩餐会があって、皇太子《プリンス・オヴ・ウェールズ》もでられるので、勲章|佩用《はいよう》のことと案内状にあった。そこで、当然、勲章をもっていないから、ぼくは洋服屋に立ちよったら、やっこさん、案内状に感服してね。ぼくはこいつはうまいと思って、『なにか勲章をつけてくれ』といったんだ。やっこさんは『なんの勲章ですか、旦那?』というんだ。で、『ああ、どんな勲章でもいい。二つ三つくれればいいんだ』といった。すると、『なんの勲章をおもちのわけですか、旦那?』というんだ、で、『そんなことわからないよ』といってやった。ぼくがしょっちゅう、くだらない官報を読んでいるとでも思ったのだろうか? 『いいやつをくれればいいんだ。君がえらんでくれ』そこで、勲章をいくつかさがしてくれたんだ、ねえ、小型の勲章さ。そして、箱にいれてぼくにくれ、ぼくはポケットにつっこみ、忘れてしまった。ところで、ぼくは晩餐会にいったが、ちょうどヘンリー・ウィルソン〔一八六四〜一九二二。第一次大戦中の有名なイギリスの将軍〕が射殺された晩で、皇太子はこなかったし、国王もこなかったので、だれも勲章をつけず、みんな勲章をはずすのに忙しく、ぼくはぼくのをポケットにいれたままだった」
彼は話をやめ、ぼくたちの笑うのを待った。
「それっきりかい?」
「そうだ。ことによると、話を間違えたかもしれない」
「そうよ」とブレットがいった。「でも、かまわないわ」
ぼくたちはみんな笑っていた。
「ああ、そうだ」とマイクがいった。「やっと思いだした。ひどくつまらない晩餐会で、いたたまれなくなって、とびだしたよ。その晩、あとで、ポケットに箱があるのに気がついた。なんだっけ? とぼくはいった。勲章? どえらい陸軍の勲章か? そこで、ぼくはその裏張りをみんなはがし――細長い布にはってあるんだよね――そして、まわりのものにみんなやった。女の子にひとつずつやったんだ。みんなはぼくをとんでもない軍人だと思ったよ。ナイト・クラブで勲章をばらまくんだからね。いせいのいいやつさ」
「みんな言っちゃいなさいよ」とブレットがいった。
「こっけいだと思わないのかい?」とマイクがたずねた。ぼくたちはみんな笑っていた。「こっけいなんだよ。たしかにこっけいだ。とにかく、洋服屋がぼくに手紙をよこし、勲章をかえしてくれっていうんだ。使いをよこしたよ。何カ月も手紙をずっとよこしたね。だれかが、クリーニングしてもらうために、おいといたものらしいね。おそろしく軍人向きのやつさ。すごく勲章を尊重したものさ」マイクは言葉を切った。「洋服屋こそいい災難さ」といった。
「そんなことはない」とビルがいった。「洋服屋にはすばらしいことだったと考えたいね」
「おどろくほどいい洋服屋だ。もうぼくと会いっこないと思うけど」とマイクがいった。「あいつを黙らせておくために、年に百ポンドずつ払ってたんだよ。だから、勘定書を送ってよこしはしなかったよ。ぼくが破産したとき、あいつにはひどい打撃だったね。ちょうど勲章のことがあった直後でね。とても悲痛な調子の手紙をくれたよ」
「どうして、破産したんだい?」とビルがたずねた。
「ふた通りあるんだ」とマイクがいった。「徐々にと、それから、急速に」
「なんのために?」
「友だちさ」とマイクがいった。「たくさん友人がいてね、にせの親友が。それに、債権者もあったよ。ひょっとしたら、イギリスじゅうのだれよりも、債権者を多く友だちにもっていただろうね」
「法廷でそのことをいいなさいよ」とブレットがいった。
「だけど、憶えてないんだ」とマイクがいった。「ほんのちょっとばかり酔ってたんだ」
「酔ってですって!」とブレットが叫んだ。「酔いつぶれていたくせに!」
「めったにないことだが」とマイクがいった。「先日、前に事業をいっしょにやっていたやつにあったんだ。一杯おごるっていうんだ」
「あなたの学識ある弁護士さんのことを話しなさいよ」とブレットがいった。
「いやだ」とマイクがいった。「ぼくの学識ある弁護士も酔っぱらっていたんだ。こりゃあ陰気な話だね。牛の檻放ちを見に行くんじゃないのかい」
「行こう」
ぼくたちはボーイを呼び、勘定を払い、町を歩きだした。ぼくははじめブレットと歩いていたが、ロバート・コーンがやってきて、彼女の向こう側に加わった。ぼくたち三人はバルコニーから旗がたれている市役所《アユンタミエント》の前をすぎ、市場をすぎ、アルガ河にかかっている橋に通じる急な坂道をおりていった。大勢の人が牛を見に歩いていて、馬車が丘をくだり、橋を渡った。馭者や馬や鞭が街路をあるいている人々の上に見えた。橋を渡って、牛の囲い場のほうへ道を曲がった。「上等のワイン一リットル三十サンチーム」と窓に書いてある酒場の前を通った。
「手持のお金がすくなくなったら、あそこへ行きましょうよ」とブレットがいった。
酒場の戸口に立っていた女がぼくたちの通るのを見ていた。彼女が家のなかのだれかを呼ぶと、娘が三人、窓のところに来て、じっと見た。ブレットをじっと見ていたのだ。
牛の囲い場の入口で、二人の男がはいっていく人から切符をとった。ぼくたちは入口からはいった。なかに木立があり、低い石の家があった。ずうっと奥に囲い場の石の壁があり、石に穴があいて、どの囲い場の正面にも銃眼のように並んでいた。梯子が壁の頂上にかけてあり、人々がその梯子をのぼって、二つの囲いを仕切っている壁の上のほうぼうに立っていた。木立の下の草地を横ぎって、梯子にのぼるとき、牛のはいっている灰色にぬった大きな檻のそばを通った。どの運搬用の檻にも牛が一頭いた。カスティールの牛の飼育場から汽車できて、駅で無蓋貨車からおろされ、ここまで運ばれて、檻から囲い場にいれられるのだった。どの檻にも牛の飼育者の名と商標が型紙で刷り込んであった。
ぼくたちはのぼって、囲いを見おろす場所を塀の上に見つけた。石の壁は水漆喰《みずしっくい》が塗ってあり、地面には藁が敷かれ、壁ぎわに木製のかいば箱と水槽がおいてあった。
「あんなところに」とぼくがいった。
河の向こうに町の高台があった。古い城壁や塁壁にずらっと人々が立っていた。三重の塁壁の列が三重の黒い人垣の列になっていた。城壁の上には、家々の窓から首がつきでていた。高台のずっと向こうの端では、少年たちが木々にのぼっていた。
「きっと、なにかおこると思っているのね」とブレットがいった。
「牛が見たいんだよ」
マイクとビルは囲いの向こう側の壁にいた。彼らはぼくたちに手をふった。あとからきた人々がうしろに立っていて、さらに人々がきて混みだすと、ぼくたちを押しつけた。
「どうして始めないんだろう?」とロバート・コーンがたずねた。
一頭の驢馬が檻のひとつにつながれ、囲い場の壁の入口まで引っぱられていった。男たちがカナテコで檻を入口の前まで押しあげた。壁の上に立っていた男たちが囲い場の入口をあけ、それから、檻の戸をあけようと、かまえていた。囲い場の反対側では、入口があいて、二頭の去勢牛がはいってきて、首をふり、突進し、やせた脇腹をゆすった。去勢牛はずっと向こうの隅に並んで立ち、頭を雄牛がはいってくる入口のほうに向けていた。
「楽しそうじゃあないわね」とブレットがいった。
壁の上の男たちがからだをそらせ、囲い場の戸を引きあげた。それから、檻の戸を引きあげた。
ぼくは壁の上でぐっとからだをのりだし、檻のなかを見ようとした。暗かった。だれかが鉄の棒で檻の上をたたいた。なかで、なにかが破裂したようだった。雄牛が角をあっちこっち木にぶつけ、大きな音をたてた。すると、黒ずんだ鼻面《はなづら》と角の影が見え、それから、がらんとした箱のなかの木をがたがたいわせて、雄牛が突進してきて、囲い場のなかに現われ、藁のなかに前足をいれ、すべりをとめて、とまり、頭をあげ、首に大きな筋肉の固い塊を盛りあげ、からだの筋肉をふるわせ、石の壁の上の群衆を見あげた。二頭の去勢牛が頭をうなだれ、眼で雄牛を見つめながら、壁ぎわにあとずさりした。
雄牛は去勢牛を見て、突進した。一人の男が箱のかげからどなり、帽子で板をたたくと、雄牛は去勢牛のところまでいかないうちに、ふりかえり、身がまえて、その男のいるところに突進してきて、右の角で六度すばやく探りの突きをいれ、板のうしろの男を突こうとした。
「まあ、きれいじゃあない?」とブレットがいった。ぼくたちは雄牛を真下に見おろしていた。
「見てごらん、角の使いかたを知ってるよ」とぼくがいった。「ボクサーのように左と右を使う」
「ほんとかしら?」
「見てごらん」
「速すぎるわ」
「ほら。すぐにもう一頭でてくるから」
男たちが入口に別の檻をおしつけた。向こうの隅に、一人の男が板のかげにかくれながら、雄牛の注意をひき、雄牛がそちらを向いているあいだに、入口の戸が引きあげられ、別の雄牛が囲い場のなかに出てきた。
雄牛は去勢牛めがけてまっすぐ突進した。二人の男が板のかげから駆けだし、雄牛の向きを変えようと、叫んだ。雄牛は方向を変えず、男たちは「はあ! はあ! 雄牛《トロ》!」と叫んで、腕をふりまわした。二頭の去勢牛は突撃をかわそうと横によけ、雄牛は去勢牛の一頭に角を突きさした。
「見ちゃあいけない」とぼくはブレットにいった。彼女は恍惚《こうこつ》として、じっとながめていた。
「すばらしい」とぼくがいった。「君を角で突きさしさえしなけりゃあ」
「見えたわ」と彼女がいった。「左の角から右の角に変えるのが見えたわ」
「すごくいい!」
去勢牛はもう倒れていた。首をのばし、頭をまげ、倒れたまま横になっていた。とつぜん、雄牛はそこを離れ、向こうの隅に立っていたもう一頭の去勢牛めがけて、頭をふり、ずっと相手を見張りながら、突進した。去勢牛はぶざまに逃げ、雄牛はそいつを捕え、軽く脇腹を突っつき、それから、ふりむき、首筋の筋肉をもりあげて、壁の上の群衆を見あげた。去勢牛は雄牛のところに来て、鼻でくんくんかぐような身振りをすると、雄牛はおざなりに突っついた。次には雄牛のほうが去勢牛を鼻でかぎ、それから、その二頭はもう一頭の雄牛のほうへ速足でかけていった。
次の雄牛が出てくると、この三頭は、つまり二頭の雄牛と去勢牛は、みな、頭を並べ、角を新しく来た雄牛に向けた。二、三分して、去勢牛は新しい雄牛をえらび、おとなしくさせ、その群れに加えた。最後の二頭の雄牛が檻から出されたとき、みんなひとつの群れになった。
前に突きさされた去勢牛は立ちあがって、石の壁に向かって立っていた。どの雄牛もそれに近よろうとせず、その去勢牛も群れに加わろうとはしなかった。
ぼくたちは群衆といっしょに壁をおり、囲い場の壁の銃眼から最後に雄牛を見た。もうみんなおとなしく、頭をたれていた。ぼくたちは外で馬車をひろい、カフェまでのった。マイクとビルが三十分後にやってきた。彼らは途中で寄り道して何杯か飲んできたのだった。
ぼくたちはカフェで腰をおろしていた。
「すばらしかったわねえ」とブレットがいった。
「あのあとのほうの牛もはじめのやつのようにあばれるのかい?」とロバート・コーンがきいた。「すごく早くなだめられたようだけど」
「みんな知り合いなんだよ」とぼくがいった。「一頭だけのときとか、二、三頭だけでいっしょにいるときだけが、危険なんだ」
「危険って、どうして?」とビルがきいた。「ぼくにはみんな危険に見えるんだけど」
「一頭だけのときだけ、殺す気が起こるんだよ。もちろん、君があそこにはいりゃあ、たぶん、彼らの一頭を群れから引き離すことになるから、そいつが危険なんだ」
「複雑すぎるな」とビルがいった。「ぼくを群れから引き離さないでくれよ、マイク」
「ねえ」とマイクがいった。「あの牛は立派だったよ、ね? 角が見えただろう?」
「ええ」とブレットがいった。「何とも言いようがなかったわ」
「あの去勢牛をやっつけたやつを見たかい?」とマイクがたずねた。「あれはすばらしかった」
「去勢牛になるなんてあわれだ」とロバート・コーンがいった。
「そう思ってるのかい?」とマイクがいった。「去勢牛になるのが好きなのかと思ってたが」
「どういう意味だ、マイク?」
「彼らはとても静かな生活を送っているんだ。なんにもいわないで、いつもぶらぶらしているんだ」
ぼくたちは当惑した。ビルは笑った。ロバート・コーンは怒った。マイクは話しつづけた。
「君は好きだと思うんだが。君は一語もいう必要はないんだ。おい、ロバート。なにかいえ。そんなとこにすわってばかりいないで」
「ぼくはいったよ、マイク。忘れたのかい? 去勢牛のことを」
「ああ、もっといえよ。なにかおかしなことをな。おれたちがここで楽しんでいること、わからないのか?」
「やめなさいよ、マイケル。あなた酔ってるのよ」とブレットがいった。
「酔っちゃあいないよ。しらふさ。ロバート・コーンはしょっちゅう去勢牛のようにブレットのあとを追いかけようっていうのか?」
「おだまりなさい、マイケル。すこしは育ちのよいところをみせるようにしなさい」
「育ちだなんてくそくらえだ。いったい誰に育ちなんてあるんだ、牛は別として? 牛はきれいじゃないか? 好きなんだろう、ビル? どうしてなんにもいわないんだい、ロバート? ひどい仏頂づらして、そんなところにすわってなんかいないで。ブレットが君と寝たって、どうだっていうんだ? 君より上等な大勢の人と寝たんだぜ」
「だまれ」とコーンがいった。彼は立ちあがった。「だまれ、マイク」
「ああ、立ちあがったりして、おれをなぐるようなかっこうはしないでくれ。そんなことをしたって、おれには同じさ。ねえ、ロバート。どうして、あわれな去勢牛のように、ブレットのあとを追っかけまわすんだ? 君はうるさがられてること、わからないのか? ぼくはうるさがられてるときは、わかるけどね。君はうるさがられてるとき、どうしてわからないんだ? 君はうるさがられてるのにサン・セバスチアンにやってきて、いやったらしい去勢牛のようにブレットのあとを追っかけまわしたんだぜ。それがいいとでも思ってるのかね?」
「だまれ。君は酔ってるんだ」
「たぶん、おれは酔ってるよ。どうして君は酔ってないんだ? どうして酔ったことがないんだ、ロバート? 君はサン・セバスチアンで楽しくはなかったってことはわかってるんだね。ぼくたちの友だちはだれも君をパーティに招待しなかったからね、でも、その人たちに文句を言うわけにはいかないぜ。そうだろ? おれは君を招待してくれといったんだ。あいつらは君を呼ぼうとしなかったんだ。いまさら、文句を言うわけにもいかないぜ。そうだろう? さあ、返事しろよ。文句を言えるかね?」
「くたばっちまえ、マイク」
「おれなら文句を言えないな。君は文句を言えるかね? どうしてブレットの後を追っかけまわしてるんだ? 礼儀をわきまえないのか? ぼくがどう考えてると思う?」
「礼儀だなんて、あなた、すてきなことを言うわね」とブレットがいった。「とてもお上品な礼儀をわきまえてらっしゃるから」
「行こう、ロバート」とビルがいった。
「なんで彼女の後を追っかけまわしてるんだ?」
ビルは立ちあがって、コーンをつかんだ。
「行くなよ」とマイクがいった。「ロバート・コーンが一杯おごるんだから」
ビルはコーンといっしょに行ってしまった。コーンの顔には血色がなかった。マイクは話しつづけた。ぼくはしばらく腰かけたまま、耳を傾けた。ブレットはいやな顔をしていた。
「ねえ、マイケル、そんなばかなこと、言わないでよ」と彼女がさえぎった。「わたし、この人が間違ってるといっているんじゃあないのよ、ねえ」彼女はぼくのほうをふりむいた。
感情がマイクの声から消えた。ぼくたちはみんな親友だった。
「おれはこんなにみえても、たいして酔ってないんだ」と彼がいった。
「そうだわ」とブレットがいった。
「ぼくたちはみんなしらふじゃあないんだ」とぼくがいった。
「おれは思ってたことしか、いわなかったよ」
「でも、言いかたが悪かったのよ」とブレットが笑った。
「でも、あいつはばかさ、まったく邪魔にされてるのに、サン・セバスチアンに来たんだ。ブレットのまわりにくっついていて、ただ顔を拝んだだけさ。まったくいやになっちゃったよ」
「とてもお行儀が悪かったわ」とブレットがいった。
「いいかい。ブレットはこれまで男といろんな事件をおこしたんだよ。だけどなんでも話してくれる。あのコーンのやつの手紙を読めといって見せたぜ。読もうとは思わなかったけど」
「すごくご立派だね」
「いや、いいかい、ジェイク。ブレットは男と遊びにいったさ。だけど、ユダヤ人なんかじゃあなかったよ。あとになって、追っかけまわすってなことはなかったよ」
「すごくいい人たちだったわ」とブレットがいった。「そんな話、くだらないわ。マイケルとわたしはお互いに理解してるんですもの」
「ブレットはおれにロバート・コーンの手紙を見せたんだ。おれは読もうともしなかったが」
「あなたはどの手紙も読もうとなさらなかったわ、わたしの手紙も」
「おれは手紙なんか読めないんだ」とマイクがいった。「おかしいだろう?」
「あなたはなんだって読めないのよ」
「いや、そうじゃあない。おれはすごくたくさん読む。家にいるとき、読む」
「その次には、書くというんでしょう」とブレットがいった。「さあ、マイケル、しっかりしてちょうだい、もうこんなことやめにしなけりゃあいけないわ。あのひと、ここにいるのよ。祝祭を台なしにしちゃあ、だめよ」
「じゃあ、あいつに行儀よくさせよう」
「お行儀はよくするでしょう。あのひとにいっとくわ」
「君からいってくれ、ジェイク。行儀よくするか、出て行くかしろって」
「ああ」とぼくがいった。「あいつにそういうのも面白い」
「ねえ、ブレット。ロバートがなんて君を呼ぶか、ジェイクにいえよ。すごいんだぜ、君」
「いやよ。言えないわ」
「いえよ。おれたちはみんな親友なんだぜ。みんな親友なんだろう、ジェイク?」
「言えないわ。あんまりこっけいなんですもの」
「おれが言おう」
「いけないわ、マイケル。ばかなことしないで」
「あいつはブレットをサーシー〔ホメロスの『オデュッセイア』の中に出てくる魔女。魔法の酒を飲ませてオデュッセウスの部下たちを豚に変えたという〕と呼んでるんだ」とマイクがいった。「ブレットが男たちを豚に変えると言い張ってるのさ。うまいね。おれもあんな文学者の一人になりたいね」
「このひとだって、じょうずよ」とブレットがいった。「手紙、じょうずよ」
「ああ」とぼくはいった。「サン・セバスチアンから手紙をもらった」
「あんなのたいしたことないわ」とブレットがいった。「このひと、とても面白い手紙が書けるのよ」
「おれにあんなこと書かせたんだ。ブレットが病気だということにして」
「わたし、ほんとに、病気だったのよ」
「さあ」とぼくはいった。「帰って食わなきゃあ」
「コーンに会うときどんなふうにすればいい?」とマイクがたずねた。
「なんにもなかったようにしてろよ」
「おれはちっともかまわないんだけど」とマイクがいった。「平気だけど」
「もしなにか言われたら、酔っていたといっていればいい」
「そうだ。それに、おかしなことに、おれも酔っていたと思ってるんだ」
「さあ」とブレットがいった。「あんな不愉快なこと、取り返しがついて? わたしは食事の前に、お風呂をあびなくっちゃあ」
ぼくたちは広場を横ぎっていった。暗くなっていたが、広場のあたり一面はアーケードの下のカフェの明かりで明るかった。ぼくたちは木々の下の砂利を横ぎって、ホテルへ歩いていった。
マイクとブレットは上にあがり、ぼくはモントーヤと話すために足を止めた。
「さて、牛はどうでした?」彼はたずねた。
「よかった。すてきな牛だった」
「まあ、どれもいいですが」――モントーヤは首を振った。――「あんまりいいほうでもありませんよ」
「どこが気にいらないんだね?」
「さあ。ただ、あまりよくはないという気がしたんですよ」
「その意味はわかるね」
「みんないいんですよ」
「うん、みんないい」
「お友だちはどうでしたか?」
「よろこんでたよ」
「それはようございました」とモントーヤがいった。
ぼくは上にあがっていった。ビルは自分の部屋のバルコニーに出て、広場をながめていた。ぼくは彼のそばへ行った。
「コーンはどこ?」
「上の自分の部屋にいる」
「どんな気持なんだろう?」
「やけになってるさ、もちろん。マイクはひどかったよ。あいつは酔うと、むちゃになる」
「あんまり酔ってなかったぜ」
「うん、そうだ。ぼくたちがカフェに行く前に、どのくらい飲んだか、知ってる」
「あとになって、しらふになったんだね」
「そうだ。あいつはむちゃだよ。ぼくはコーンが好きじゃあないよ、まったく。それに、あいつがサン・セバスチアンに行ったのはばかだったと思うよ。でも、だれもマイクのように言う必要ないよ」
「牛はどうだった?」
「すばらしかった。牛の出しかたがすばらしかった」
「あした、ミウラのがくるよ」
「祝祭はいつはじまる?」
「あさってだ」
「マイクをあんなに酔っぱらわせないようにしなくちゃあ。あんなになっちゃあ、むちゃだからなあ」
「夕食前に顔や手を洗ったほうがいい」
「うん。楽しい食事だろうから」
「そうだとも」
事実、夕食は楽しかった。ブレットは黒の袖なしのイブニングを着ていた。すごく美しかった。マイクは何事もなかったように、ふるまった。ぼくはロバート・コーンをつれに、上に行かなければならなかった。彼はよそよそしく、他人行儀で、顔はまだこわばって、血色がなかったが、しまいには朗らかになった。彼はブレットを見ないではいられなかった。見ていると、幸福になるらしかった。美しい彼女を眺め、彼女と旅にいって、しかも、みんながそのことを知っていることを意識して、彼は楽しんでいたに違いなかった。だれも彼のそうした楽しみをとりあげることはできなかった。ビルはすごくふざけた。マイケルもふざけた。二人はいっしょに楽しんでいた。
それはぼくの覚えている戦場でのディナーのようなものだった。ワインがたくさんあり、緊張を無視し、防ぐことのできないことが起こりつつあるという感じだった。ワインに厭な気持を忘れ、愉快になっていた。みんな、とてもいい人のように思われた。
第十四章
いつベッドにはいったか、わからない。服をぬいで、バスローブをき、外のバルコニーに立っていたのを覚えている。すっかり酔っていたことは、わかっていた。部屋にはいると、枕もとの明かりをつけ、読みだした。ツルゲーネフの本を読んでいた。たぶん、同じ見開きの二ページをなん度も読みかえしていたようだ。それは『猟人日記』のなかの一篇だった。前に読んだことがあったが、まるではじめてのように思われた。田園が非常にはっきり目にうかび、頭のなかの圧迫感がうすらぐように思われた。すっかり酔っていて、部屋がぐるぐるまわるので、眼を閉じたくなかった。読みつづけていれば、その感じも消えるだろう。
ブレットとロバート・コーンが階段をあがってくるのがきこえた。コーンはドアの外でおやすみといって、自分の部屋にあがっていった。ブレットが隣の部屋にはいっていくのがきこえた。マイクはもうベッドにはいっていた。彼は一時間前にぼくと帰ってきたのだ。彼は彼女がはいってくると、目をさまし、二人でしゃべった。笑い声がきこえた。ぼくは明かりを消し、眠ろうと努めた。もう読む必要はなかった。ぐるぐるまわる感じがしないで、眼が閉じられた。だが、眠れなかった。暗いからといって、明るいときと違った物の見かたをすべきだ、という理由はなにもないのだ。まったく、ないのだ!
ぼくはかつてそのことをあれこれ考えたあげく、六カ月のあいだ電燈を消さないで寝た。それもいい考えだった。しかし、とにかく、女なんて、くそくらえ。君なんて、くそくらえ、ブレット・アシュレイ。
女はとてもすばらしい友だちになるものだ。全くすばらしい。まず、友情の基礎をもつには女と恋愛しなくちゃあならない。ぼくはブレットと友だちとしてつきあっていたのだ。彼女の側のことは考えていなかったのだ。ただで、なにかをえていたのだ。そのため勘定書がくるのが遅れただけだった。勘定書はきっとくるものだった。それは予定していいすばらしいことのひとつだった。
ぼくはみんな支払ったと思っていた。女が払って、払って、また払うというのではなく。償いとか罰という考えではない。ただ価値の交換なのだ。なにかをすてて、なにかをえるのだ。または、なにかを求めて働くのだ。なにかに役立つもののためにとにかく支払うのだ。ぼくは好きなものを充分手にいれるように支払ったので、楽しかったのだ。それらをおぼえたり、経験したり、冒険したり、金を使ったりして、支払うものなのだ。生活を楽しむということは、金に相当する価値のあるものをえることを学び、それをつかんだときを知ることなのだ。金に相当する価値をえることはできるものだ。この世は買物をするのによい場所なのだ。これは立派な哲学のように思われる。五年もすれば、前に考えたほかの立派な哲学と同じように愚かに思われるだろう、と思った。
だが、だぶん、それも正しくはないだろう。たぶん、やっていくうちになにかをおぼえるのだ。それがどんなことか気にはならない。知りたいのは、そこでどう生きるかということだけだ。たぶん、そこでどう生きるべきかを発見すれば、それがどんなことかわかるのだろう。
だが、マイクはコーンにあんなにひどくふるまわなくてもよいと思う。マイクは酒ぐせが悪い。ブレットは酔いっぷりがいい。コーンはすこしも飲まない。マイクはある程度を越すと、不愉快になるのだ。ぼくは彼がコーンを傷つけるのを見るのが好きだ。が、そうしないようにと願った。あとで自分がいやになるからだ。それは道徳だ。あとで自分をいやにさせるものは。いや、それは不道徳にちがいない。これはたいしたことを言いだしたな。夜になると、なんてくだらないことを考えつくんだろう。なんてつまらないことを、とブレットがいうのがきこえる。なんてつまらない? イギリス人といるときには、イギリス的な表現を用いる習慣が考えのなかにはいってくるものだ。イギリス人の話し言葉は――とにかく、上流階級では――エスキモー語よりも語数がすくないにちがいない。もちろん、エスキモー語については、なにも知らないが。たぶん、エスキモー語って立派な言語だろう。チェロキー語〔アメリカインディアンの一種族の言語〕といったほうがいい。チェロキー語についても、なにも知らない。イギリス人は屈折の豊富な語句を使う。ひとつの語句で、いろんな意味になる。だが、彼らが好きだ。彼らの話しかたが好きだ。たとえば、ハリスだ。でも、ハリスは上流階級ではない。
ぼくはまた明かりをつけて、読んだ。ツルゲーネフを読んだ。いま、ブランデーをたくさん飲みすぎて心がひどく鋭敏になっている状態のとき読んでいると、どこかで読んだことがあるように思え、やがて、それが実際にぼくに起こったことのように思えた。いつもそうなのだ。これも支払いをして手にいれるよいことのひとつなのだ。いつか明け方近くなって、ぼくは眠った。
パンプローナでの次の二日間は静かで、もう騒ぎはなかった。町は祝祭の準備にかかっていた。職人たちが門柱をたてた。それは牛が囲い場から放たれて、朝、街路を走って闘牛場に行くときに、横町を遮断するためのものだった。職人たちは穴を掘り、柱を立てた。どの柱にもそれぞれの場所の番号がつけてあった。町の向こうの高台では、闘牛場の従業員たちが|突き手《ピカドール》〔槍で牛を突き、怒らせて闘牛を開始させる騎手〕の乗る馬を調教し、闘牛場の裏にある日に焼きついて固くなった野原で、足をこわばらせた馬を全速力で駈けさせていた。闘牛場の大きな門は開いていて、なかの円形劇場は清掃されていた。闘牛場は地ならしされ、水をまかれ、大工が弱くなったり、ひびのはいった柵の板《バレラ》をとりかえていた。なだらかに地ならしされた砂地の端に立って、人のいないスタンドを見あげると、老婆たちがボックスを掃いているのが見えた。
外では、いちばん町はずれの街路から闘牛場の入口に通じる垣根がもうできていて、長い囲いになっていた。群衆が最初の闘牛の日の朝、牛のあとを追いかけてくるだろう。馬や牛の市のたつ野原の向こうには、ジプシーが何人か木蔭でキャンプしていた。ワインやアグアルディエンテ〔スペイン産の粗悪なブランデー〕を売る人たちが売店を建てていた。一軒の売店には「|雄牛のアニス酒《アニス・デル・トロ》〔アニス酒は、地中海地方に産する植物アニスの実で味をつけたリキュール〕」とかいてあった。布の旗が板にかけられ、暑い日をうけていた。町の中央の大きな広場には、まだなんの変化もなかった。ぼくたちはカフェのテラスの白い籐椅子にすわり、バスがはいってきて、田舎から市場にやってきた百姓をおろすのをながめ、バスが、町で買ったものをいっぱいつめた袋をかかえて腰かけている百姓をつめこみ、発車するのをながめた。砂利の広場や街路にホースで水をまく男と鳩のほかは、背の高い灰色のバスだけが広場で動いていた。
夕方、行列《パセオ》があった。夕食後一時間、みんな、きりょうのいい娘がみんな、守備隊の将校、それに、町の上流の人がみんな、広場の片側の街路を歩き、カフェのテーブルはいつもの食後の群衆でいっぱいになった。
午前中はぼくはたいていカフェにすわり、マドリッドの新聞を読み、それから、町を歩いたり、田舎に出たりした。ビルがいっしょにくるときもあった。彼は部屋で書きものをしていることもあった。ロバート・コーンは朝はスペイン語を勉強したり、床屋へ髭を剃りにいったりして過ごした。ブレットとマイクは正午までは起きたことがなかった。ぼくたちはみんなカフェでヴェルモットを飲んだ。静かな生活で、だれも酔わなかった。ぼくは二、三度教会へ行った。一度、ブレットといった。彼女はぼくが告白するのをききたいといったが、ぼくは、そんなことは不可能なばかりか、思ったほど面白くもないし、それに、彼女が知らない言葉で告白するだろう、といってやった。ぼくたちが教会から出てくると、コーンに会った。彼がぼくたちのあとをつけてきたことは明らかだったが、しかし、彼はとても快活で機嫌よく、ぼくたち三人でジプシーの部落まで散歩した。ブレットは運勢をうらなってもらった。
気持のよい朝で、山の上に白い雲が高く浮かんでいた。前夜、すこし雨が降ったので、高台はさわやかで涼しく、ながめがすばらしかった。ぼくたちはみんな気持よく、健康な気分になり、ぼくはコーンにとても親しみを感じた。そのような日には、どんなことにも心を乱すことはありえないのだ。
これが祝祭の前日だった。
第十五章
七月六日の日曜、正午、祝祭《フィエスタ》が爆発した。そう書くよりほかに書きようがない。人々が、終日、田舎からやってきたが、彼らは町に溶けこんでしまい、それと見分けがつかなかった。広場はほかの日と同じように、暑い日ざしをうけて静かだった。百姓たちは遠く離れた酒場にいた。そこで彼らは飲みながら、祝祭のために備えていたのだ。彼らは平野や丘から来たばかりなので、だんだんと価値の転換に慣れる必要があったのだ。彼らははじめからカフェで金を使うわけにはいかなかった。まず酒場で金の価値に相当するものを手にいれた。金はまだ働いた時間や売った穀物の量ではっきり表わされる価値をもっていた。だが、祝祭の終わりごろになると、彼らはいくら払おうと、どこで買おうと、問題ではなくなるのだ。
さて、サン・フェルミンの祝祭のはじまる日に、彼らは朝早くから町の狭い通りの酒場にいた。朝、寺院のミサに行こうと通りを歩いていると、酒場の開いたドアから彼らの歌っているのがきこえた。彼らは次第に興奮していった。十一時のミサには大勢の人がいた。サン・フェルミンは宗教的な祝祭でもあるのだ。
ぼくは寺院から丘をおりて、街路を広場のカフェのほうに歩いた。正午すこし前だった。ロバート・コーンとビルがテーブルのひとつについていた。大理石ばりのテーブルや白い籐椅子はなかった。鋳物の鉄でできたテーブルや安っぽい折りたたみ式の椅子がかわりにおいてあった。カフェは戦闘にそなえて準備した戦艦のようだった。きょうは、午前中読んでいても、ボーイがなにかご注文ですかとききにこない、というようなことはなかった。ぼくが腰をおろすと、すぐ、ボーイがやってきた。
「なにを飲んでるんだい?」とぼくはビルとロバートにきいた。
「シェリーだ」とコーンがいった。
「ヘレス〔スペイン語でシェリー酒の意〕」とぼくはボーイにいった。
ボーイがまだシェリーをもってこないうちに、祝祭を知らせる花火が広場で打ちあげられた。それは破裂して、広場《プラーサ》の向こう側のガヤーレ劇場の上に高く、灰色の煙のかたまりがあがった。煙のかたまりは榴霰弾《りゅうさんだん》が破裂したように空に漂い、ながめていると、また花火がそこにあがってきて、まばゆい日射しのなかに煙をばらまいた。破裂するときに、まばゆい閃光が見え、また小さな煙のかたまりがあらわれた。二度目の花火が破裂するころには、一分前までは人のいなかったアーケードは、いっぱいの人出で、ボーイは頭の上に酒壜をあげたままで、人ごみをつっきってぼくたちのテーブルのところまで来られそうにもなかった。人々は四方八方から広場にはいってきていて、街路の向こうからは、葦笛や横笛や太鼓が近づいてくるのがきこえた。リアウ・リアウの音楽で、葦笛が甲高く、太鼓が強く鳴り、そのあとから、大人や子供が踊りながらやってきた。横笛吹きが立ちどまると、彼らはみな街路にうずくまり、葦笛と横笛が甲高く鳴り、平板な、乾いた、うつろな太鼓がふたたび鳴ると、彼らはみな立ちあがって、踊った。群衆のなかからでは、踊っている人たちの頭や肩が上下に動いているのが見えるだけだった。
広場で、一人の男がかがみこみ、葦笛を吹き、そのあとから子供たちが群がってわめきながらついて行き、その男の服を引っぱっていた。男は広場を出、子供たちを従え、カフェの前を通り、横町まで、子供たちを笛でつれていった。男が笛を吹き、子供たちがすぐそのあとをわめきながら、男の服を引っぱって、通って行くとき、男の無表情なあばたづらが目についた。
「あいつはきっと村の白痴だね」とビルがいった。「おい、ほら! あれを見ろよ!」
通りを踊り手たちがやってきた。通りは踊り手でぎっしりつまっていた。みんな男だ。彼らはめいめいの笛吹きや太鼓たたきのあとから、調子をあわせて踊っていた。彼らはクラブかなにかの人たちで、みんな労働者の青いスモックをき、首のまわりに赤いハンカチを巻きつけ、二本の竿に張った大きな旗をもっていた。彼らが群衆にかこまれてやってくると、旗は彼らといっしょに上下に踊った。
「ワイン万歳! 外国人万歳!」と旗に書かれてあった。
「外国人はどこにいるんだ?」とロバート・コーンがたずねた。
「ぼくたちが外国人なんだ」とビルがいった。
花火があがりどおしだった。カフェのテーブルは、もう、どこも満席だった。広場は人々が散りはじめ、群衆がカフェにはいってきた。
「ブレットとマイクはどこにいるんだ?」とビルがたずねた。
「行ってつれてこよう」とコーンがいった。
「ここへつれてこいよ」
祝祭がいよいよはじまった。七日間、昼も夜も、つづいた。踊りつづけ、飲みつづけ、騒ぎつづけた。祝祭のあいだしか起こらないことが起こった。どんなことも、しまいには、まったく現実ばなれがしてきて、どれも、とるにたらないもののように思われた。祝祭のあいだに大切かどうか考えるなんて場違いのように思われた。祝祭のあいだじゅう、静かなときでさえ、きこえるためには大声でどならなければならないという気持になるのだった。どんなことをするにも、同じ気持だった。それが祝祭というもので、七日間つづいた。
その日の午後、盛大な宗教上の行列があった。サン・フェルミンが別の教会へ移された。行列には、俗界と宗教界のすべての高官が加わった。人出があまりひどかったので、ぼくたちは彼らが見えなかった。儀式ばった行列の前と後ろに、リアウ・リアウの踊り手が踊っていた。黄色のワイシャツの一団が群衆のなかを見えかくれして踊っていた。歩道や縁石をすべてぎっしりうずめている群衆のあいだから見える行列といえば、大きな巨人、タバコ屋の店先にあるインディアンの人形の三十フィートもあるもの、ムーア人、王と王妃などが、リアウ・リアウにあわせておごそかに円をえがき、ワルツを踊っている姿だった。
サン・フェルミンの像と高官たちは教会堂のなかにはいり、外に護衛の兵隊が残され、巨人の人形のなかにはいっていた男たちが人形をおいてそのそばに立ち、小人《こびと》が群衆のあいだをおもちゃの風船をぶつけながら歩いていた。ぼくたちがなかにはいろうとすると、香《こう》のにおいがし、人々が教会に群がってはいっていった。しかし、ブレットは帽子をかぶっていなかったので、ドアをはいったところで止められた。そこで、ぼくたちはまた外にで、教会堂から町に引きかえす街路を通った。街路の両側は行列の帰りを待って縁石にがんばっている人々でうまっていた。踊り手のいく人かはブレットのまわりに輪をえがき、踊りはじめた、ビルも踊りはじめた。彼らはみな歌っていた。ブレットは踊りたがったが、彼らは踊らせなかった。彼らは彼女をとりまいて踊る像にしておきたがった。歌が甲高いリアウ・リアウという声で終わると、彼らはぼくたちを酒場に押し込んだ。
ぼくたちはカウンターのところで立った。彼らはブレットを酒樽に腰かけさせた。酒場のなかは暗く、こわばった声で歌っている男でいっぱいだった。カウンターのうしろで、彼らは樽からワインをくんだ。ぼくはワインの代金をカウンターにおいたが、一人の男がこれを拾いあげて、ぼくのポケットにつっこんだ。
「革の酒袋がほしい」とビルがいった。
「通りをいったところにあるよ」とぼくがいった。「いって、二つくらい買ってこよう」
踊り手たちはぼくを外に出したがらなかった。三人の男がブレットのそばの高い酒樽に腰かけて、彼女に酒袋からの飲みかたを教えていた。彼女の首にニンニクの花環がかかっていた。だれかが彼女にグラスをやれと言いはっていた。だれかがビルに歌を教えていた。彼の耳もとでうたっていた。彼の背中をたたいてリズムをとっていた。
ぼくは彼らにすぐもどってくると説明した。外の街路に出て、革の酒袋をつくっている店を探しながら街路を歩いた。群衆が歩道にいっぱいで、多くの店はしまっていて、その店は見つからなかった。ぼくは街路の両側を見ながら、教会まで歩いていった。それから、ある男にきくと、その男はぼくの腕をとって、店までつれていってくれた。シャッターは閉まっていたが、店はやっていた。
店のなかは、真新しいなめし革と熱いタールの臭いがした。一人の男ができあがった酒袋に型紙で文字を刷りこんでいた。袋は天井から束になってぶらさがっていた。男は袋をひとつ取り、ふくらませ、口にしっかり栓をして、それから、そのうえにとびのった。
「どうです! もれませんよ」
「もうひとつほしいんだ、大きいのを」
男は、一ガロンか、あるいは、もっとはいりそうな大きなのを、天井からおろした。頬をふくらませて酒袋に空気をいれ、椅子につかまって、その|革の酒袋《ボタ》の上にのった。
「どうするんですか? バイヨンヌで売るんですか?」
「いや。酒を飲むためだ」
彼はぼくの背中をたたいた。
「いいおかただ。二つで八ペセタにしときましょう。大サービスですよ」
できたばかりの袋に型紙で文字を刷りこんでは、それを山積みになったところに投げていた男が、手をとめた。
「ほんとうですぜ」と彼がいった。「八ペセタじゃあ安い」
ぼくは代金を払って、外に出、街路を酒場まで帰った。なかは前よりも暗く、混んでいた。ブレットとビルが見えなかったが、奥の部屋にいるとだれかが教えてくれた。カウンターで女がぼくに二つの酒袋をいっぱいにしてくれた。ひとつは二リットルはいった。もひとつのは五リットルはいった。二つに満たして、三ペセタ六十サンチームだった。カウンターにいた会ったこともない男がそのワインの代を払ってくれようとしたが、ぼくはやっと自分で払った。払ってくれようとした男はぼくに一杯おごってくれた。彼はぼくがお返しに一杯おごるというのをきかずに、新しい酒袋から一口のませてくれといった。彼が大きな五リットルの袋を傾け、しぼると、ワインがのどの奥にしゅっとほとばしった。
「これでいい」と彼はいって、袋を返してくれた。
奥の部屋では、ブレットとビルが踊り手たちにかこまれて樽の上に腰かけていた。みんなほかの人の肩に腕をかけ、歌っていた。マイクは上衣をぬいでいる数人の男とテーブルに向かい、どんぶりから、きざんだ玉葱《たまねぎ》と、酢のかかったマグロを食べていた。みんな、ワインを飲み、パン切れで油と酢をぬぐって食べていた。
「よお、ジェイク。よお!」とマイクが呼んだ。「こっちにこいよ。ぼくの親友に会ってくれ。みんなでオードブルをやってるんだ」
ぼくはテーブルにいる人たちに紹介された。彼らはマイクに彼らの名前をいい、ぼくのフォークをとりよせてくれた。
「その人たちの食事を食べるのはよしてよ、マイケル」とブレットが酒樽のところから叫んだ。
「君の食事をすっかり食べちゃ悪いね」とぼくはだれかがフォークを手渡してくれたときに、いった。
「食べなさい」と彼がいった。「なんのためにここにあると思うんですか?」
ぼくは大きな酒袋の口の栓を抜き、みんなにまわした。みんなは腕をのばして革袋を傾け、一口ずつ飲んだ。
外では歌声よりも一声高く、行列の進んでいく音楽がきこえた。
「行列じゃあないかな?」とマイクがきいた。
「|いいえ《ナダ》」とだれかがいった。「なんでもないよ。飲んじゃいなさい。袋をもちあげて」
「どこでこの人たちと会ったんだ!」とぼくはマイクにたずねた。
「だれかがおれをここにつれてきたんだ」とマイクがいった。「君がここにいるっていうんで」
「コーンはどこへいった?」
「ぐでんぐでんに酔っちゃったのよ」とブレットがいった。「みんなでどこかへつれてったわ」
「どこにいるんだ?」
「知らないわ」
「知ってるわけがないよ」とビルがいった。「死んでるんだろう」
「死んじゃあいないよ」とマイクがいった。「死んじゃあいないさ。『|猿のアニス酒《アニス・デル・モノ》』でぐでんぐでんに酔っただけさ」
彼が「|猿のアニス酒《アニス・デル・モノ》」というと、テーブルについていた男の一人が顔をあげ、上っ張りのなかから小さな壜を出し、ぼくに手渡した。
「いや」とぼくはいった。「いいんです」
「さあ、さあ、|あげなさいよ《アリバ》! 壜をあげなさいよ!」
ぼくは一口飲んだ。甘草《かんぞう》の味がして、からだがずうっと暖かくなるのが感じられた。
「いったい、コーンはどこにいるんだ?」
「知らない」とマイクがいった。「きいてみよう。あの酔っぱらった仲間は、どこにいるんだい?」と彼はスペイン語でたずねた。
「会いたいんですか?」
「ああ」とぼくがいった。
「おれじゃあないんだ」とマイクがいった。「このかたがただ」
『|猿のアニス酒《アニス・デル・モノ》』の男は口をふき、立ちあがった。
「いらっしゃい」
奥の部屋の酒樽の上で、ロバート・コーンは静かに眠っていた。暗くて、顔も見えないくらいだった。上衣がかけてあり、もう一枚の上衣をたたんで、枕にしてあった。頭と胸のまわりに、ニンニクをより合わせた大きな花環がかかっていた。
「眠らせておきな」とその男がつぶやいた。「大丈夫だよ」
二時間後、コーンが現われた。彼は首のまわりにまだニンニクの花環をかけたまま、表の部屋にやってきた。彼がはいってくると、スペイン人たちが歓声をあげた。コーンは眼をこすって、にやにや笑った。
「どうも眠ったらしい」と彼がいった。
「いいえ、すこしも眠ってなかったわ」とブレットがいった。
「死んでただけだよ」とビルがいった。
「夕食を食いに行くんじゃあないのか?」とコーンがたずねた。
「食いたいか?」
「ああ。もちろんさ。腹がへった」
「そのニンニクを食えよ、ロバート」とマイクがいった。「なあ、そのニンニクを食えったら」
コーンはそこに立っていた。眠ったので、すっかり気分が落ちついたのだ。
「食べにいきましょうよ」とブレットがいった。「わたし、お風呂にはいらなけりゃあ」
「行こう」とビルがいった。「ブレットをホテルまで送りとどけよう」
ぼくたちは大勢の人にさようならをいい、大勢の人と握手して、外に出た。外は暗かった。
「何時ごろだろう?」とコーンがたずねた。
「もうあしただよ」とマイクがいった。「君は、二日も眠ったんだぜ」
「嘘つけ」とコーンがいった。「何時だ?」
「十時だ」
「すいぶん飲んだなあ」
「おれたちがずいぶん飲んだっていうんだろ。君は寝たんだぜ」
暗い街路をホテルに帰って行くと、広場に花火があがるのが見えた。広場に通じる横町の向こうに、人々がぎっしりつまっている広場が見え、まんなかの人がみんな踊っていた。
ホテルではすばらしい食事だった。祝祭のために値段が倍になってからの最初の食事で、新しいコースがいくつかあった。食後、ぼくたちは町へ出た。ぼくは朝六時に雄牛が街路を通るのを見るのに夜どおし起きていようと決心したのだが、とても眠く、四時ごろベッドにはいったのをおぼえている。ほかの者は起きていた。
ぼくの部屋は鍵がかかっていて、鍵がみつからなかったので、ぼくは上にあがり、コーンの部屋のベッドのひとつで寝た。祝祭が外で夜どおし行なわれていたが、とても眠く、祝祭だといって、起きているわけにもいかなかった。町はずれの囲い場から雄牛を放つことを知らせる花火が炸裂した音で目がさめた。雄牛が街路を走って、闘牛場まで行くのだ。ぐっすり眠っていたので、目がさめたときは、もう間に合わないと思った。コーンの上衣をはおって、バルコニーに出た。下の狭い通りは人気がなかった。バルコニーはどこも人でうずまっていた。急に、群衆が通りをやってきた。みんな押しあいながら、駈けだしていた。通りを通って、闘牛場のほうに向かい、そのあとから、もっと大勢の人がもっと早くかけていき、それから、おくれた人がいく人か、必死になって、かけていた。そのあとには、すこし間があり、それから、雄牛が頭を上下に振りながら、飛ぶようにかけてきた。曲がり角で、みんな見えなくなった。一人の男が倒れて、溝のほうに転がっていき、静かに横になっていた。だが、雄牛はぐんぐん走っていき、彼に気づかなかった。みんな、ひとかたまりになって、走っていた。
みんな見えなくなると、大きな喚声が闘牛場からきこえてきた。それはいつまでもつづいた。それから、最後に、雄牛が闘牛場のなかの人々のあいだを通って囲い場にはいったことを知らせる花火があがった。ぼくは部屋にもどり、ベッドにはいった。はだしのまま、石のバルコニーに立っていたのだ。群衆がみんな闘牛場にいっているにちがいないと思った。ベッドにもどって、眠った。
コーンがはいってきて、ぼくを起こした。彼は服を脱ぎかけて、通りの真向かいの家のバルコニーにいる人々がのぞいているので、窓を閉めにいった。
「見てきたかい?」とぼくがきいた。
「ああ。みんなでいってきたんだ」
「だれか、けがした?」
「一頭の雄牛が闘牛場の群衆のなかにはいって、七、八人、はねとばした」
「ブレットは喜んでたかい?」
「あんまり急だったから、だれも気にとめるひまはなかった」
「行けばよかったな」
「君がどこにいるか、わからなかったんだよ。君の部屋にいったけど、鍵がかかっていたんでね」
「どこで夜どおし起きていたんだい?」
「何とかいうクラブで踊っていたよ」
「ぼくは眠くなってね」とぼくがいった。
「ちえっ! ぼくはいまごろになって眠くなった」とコーンがいった。「こういうことはなかなか終わらないのかい?」
「一週間はつづくよ」
ビルがドアを開けて、首をつっこんだ。
「どこにいたんだ、ジェイク?」
「バルコニーから走って行くのを見たよ。どうだった?」
「すばらしかった」
「どこに行くんだ?」
「眠るんだ」
だれも昼まで起きなかった。ぼくたちは外のアーケードの下に並べたテーブルで食事をした。町は人々でごったがえしていた。ぼくたちはテーブルがあくのを待たなければならなかった。昼食後、イルーニアへ出かけた。もう満員だったが、闘牛の時間が来ると、ますます人びとであふれ、テーブルはさらに混雑した。毎日、闘牛の前には、ぎっしり混んで、がやがやした。このカフェはほかのときなら、どんなに混んでも、こんなにはがやがやしなかった。この騒音はつづき、ぼくはそのなかにはいり、その一部になった。
ぼくは全部の闘牛に六つの席をとっておいた。そのうち三つはバレラでリングサイドの一番前の列で、他の三つはソブレプエルトで、円形の観覧席のまんなかの、板の背の座席だった。マイクは、ブレットははじめてなのだから高い席で見たほうがいい、と思った。コーンは彼らといっしょにすわりたがった。ビルとぼくはバレラにすわることにし、残った切符をボーイに売ってくれといって渡した。ビルはコーンに馬を気にしないためには、どうすればよいか、どこに目を向けていればよいか、話してやった。ビルは闘牛を一シーズン見たことがあったのだ。
「どうやったら辛抱できるかは心配じゃあないんだ。ただ、退屈しやあしないかと思うんだ」とコーンがいった。
「そう思うかい?」
「牛が馬を突いたら、馬を見ちゃあいけないよ」とぼくはブレットにいった。「突進するところをよく見て、|突き手《ピカドール》が牛を離しておこうとするところを見るんだ。もし馬が突かれたら、死ぬまでは、そっちを見ちゃあだめだよ」
「わたし、すこしこわくなってきたわ」とブレットがいった。「ちゃんと終わりまで見られるかどうか、心配だわ」
「大丈夫だよ。いやなのは、あの馬の部分だけで、それも、牛のでるたび、ほんの二、三分だよ。ひどいときは、見ないにかぎるよ」
「大丈夫だよ」とマイクがいった。「ぼくが気をつけてるから」
「君は退屈しないからね」とビルがいった。
「ホテルへ行って、望遠鏡と酒袋をもってこよう」とぼくがいった。「じゃあ、ここでまた会おう。酔っちゃあ、だめだぜ」
「ぼくもいこう」とビルがいった。ブレットはぼくたちにほほえんだ。
ぼくたちは広場の暑さを避け、アーケードを通りぬけていった。
「コーンってやつはいやなやつだ」とビルがいった。「ユダヤ人の優越感をすごく強くもっているから、闘牛からえる感情というと退屈することしか考えられないんだ」
「望遠鏡で見ててやろうよ」とぼくがいった。
「ああ、あんなやつ、くたばっちまえ!」
「あいつは、しょっちゅう、あそこにいる」
「あそこにいてもらいたいよ」
ホテルの階段で、ぼくたちはモントーヤに会った。
「おいでになりませんか」とモントーヤがいった。「ペドロ・ロメロに、お会いになりませんか?」
「すばらしい」とビルがいった。「会いに行こう」
ぼくたちはモントーヤのあとについて、階段をのぼり、廊下を歩いていった。
「八号室にいらっしゃいます」とモントーヤが説明した。「闘牛の服装をととのえているところです」
モントーヤはドアをノックして、開けた。薄暗い部屋で、狭い通りに面した窓からわずかに光がはいっていた。ベッドが二つ修道院風に仕切ってあった。電燈がついていた。青年がまっすぐに立って、闘牛士の服装で、微笑すらうかべていなかった。上衣が椅子の背にかけてあった。ちょうど飾り帯を巻きおえたところだった。黒い髪の毛が電燈の下で輝いていた。白いリンネルのワイシャツを着ていた。剣使いの男は飾り帯を巻きおえると、立ちあがって、うしろへさがった。ペドロ・ロメロはぼくたちと握手して、うなずくと、とても気品高く、威厳があるように見えた。モントーヤは、ぼくたちが闘牛の非常な愛好家《アフィシオナード》で、彼の幸福を祈っているといった。ロメロはすごく真面目に耳を傾けた。それから、ぼくのほうを向いた。彼のような美青年は見たことがなかった。
「闘牛見物に行かれるのですね」と彼は英語でいった。
「英語を知ってるんですね」とぼくはいったが、ばかげたことをいったと思った。
「いいえ」と彼は答えて、ほほえんだ。
ベッドに腰かけていた三人の男の一人がやってきて、ぼくたちにフランス語が話せるかときいた。「通訳しましょうか? ペドロ・ロメロにおたずねになりたいこと、ありませんか?」
ぼくたちは彼に感謝した。たずねたいことはなんであろうか? 青年は十九歳で、剣持ちと三人の取巻きのほかには、だれもいっしょの者はなく、闘牛は二十分もしたらはじまるはずだった。ぼくたちは彼に「多幸《ムチャ・スエルテ》」を祈って、握手し、部屋を出た。ドアを閉めるとき、彼はまっすぐ、立派な容姿で、立っていた。部屋には例の取巻きたちだけしかいなかった。
「いい青年ですね。そうお思いになりませんか?」とモントーヤがたずねた。
「容姿のいい青年だ」とぼくがいった。
「闘牛士《トレロ》らしい容貌ですよ」とモントーヤがいった。「そういうタイプです」
「いい青年ですね」
「闘牛場ではどんなかすぐわかりますよ」とモントーヤがいった。
ぼくの部屋の壁に大きな革の酒袋が立てかけてあったので、それと望遠鏡をとり、ドアに鍵をかけ、下へおりた。
面白い闘牛だった。ビルとぼくはペドロ・ロメロにすっかり興奮した。モントーヤは十ほど向こうの席にすわっていた。ロメロが最初の牛を殺したとき、モントーヤはぼくと眼を見合わせ、うなずいた。こいつは本物だ。長いあいだ、本物がなかった。ほかの二人の闘牛士は、一人はかなりよかったし、もう一人はまずまずだった。だが、ロメロとは比較にならなかった。もっとも、彼の相手にした牛はどれもたいしたことはなかったが。
闘牛のあいだ何回か、ぼくは望遠鏡でマイクとブレットとコーンのほうを見上げた。みんな大丈夫のようだった。ブレットは気が転倒している様子はなかった。三人とも前のコンクリートの手すりに身をのりだしていた。
「望遠鏡をかしてくれ」とビルがいった。
「コーンは退屈している様子かい?」とぼくがたずねた。
「あの野郎め!」
闘牛が終わると、闘牛場の外は、混雑して身動きもできなかった。通り抜けられず、ゆっくり、氷河のように、皆といっしょに動かされ、町へ帰らなければならなかった。ぼくたちは闘牛のあとでいつも感じるあの混乱した感動的な気持になり、よい闘牛のあとで感じる高揚した気持になっていた。祝祭がつづいていた。太鼓が鳴り、笛の音が甲高く、あらゆるところで群衆の流れが踊っている人の群れで断ち切られていた。踊り手は群がっていたので、足のこまかなさばきは見えなかった。見えるのはただ上下に動いている頭と肩だけだった。やっとぼくたちは群衆から抜けだし、カフェに向かった。ボーイはほかの三人のために椅子をとっておいてくれた。ぼくたちはアブサンを一杯ずつ注文し、広場の群衆と踊り手をながめた。
「あの踊りはなんだい?」とビルがたずねた。
「ホータ〔カスタネットを振りながら二人で組んで踊るスペインの軽快なダンス〕の一種だ」
「みんな同じわけじゃあないんだね」とビルがいった。「ちがった曲には、ちがった踊りだ」
「すばらしい踊りだよ」
ぼくたちの前のすいた街路に、少年たちの一団が踊っていた。ステップが非常に混みいっていて、熱心な顔つきで、わき目もふらなかった。踊りながら、みんな下を向いていた。縄底の靴でタップして、舗道を打った。爪先が触れた。踵《かかと》が触れた。足の裏が触れた。それから音楽が荒々しく乱れ、ステップがやみ、みんな街路を踊って行った。
「おえらがたのご到着だ」とビルがいった。
彼らが街路を横ぎってやってきた。
「おい、みんな」とぼくがいった。
「まあ、みなさん!」とブレットがいった。「わたしたちに席をとっといてくださったの?ありがたいわ」
「ねえ」とマイクがいった。「あのロメロとかなんとかいうやつは、たいしたやつだ。そうだろう?」
「まあ、あのひとすてきじゃない」とブレットがいった。「それに、あのグリーンのズボンも」
「ブレットはズボンから眼をはなさなかったよ」
「ねえ、わたしあしたはあなたの望遠鏡を借りなくちゃあ」
「どうだった?」
「すばらしだったわ! まったく最高よ。ねえ、見ものだったわ!」
「馬はどうだった?」
「見ないではいられなかったわ」
「馬から眼をはなせないんだ」とマイクがいった。「ひどいあばずれだよ」
「馬にとてもひどいことをするのね」とブレットがいった。「でも、眼をはなせなかったわ」
「気分は大丈夫だったかい?」
「ちっとも気分、悪くならなかったわ」
「ロバート・コーンは気分が悪くなったよ」とマイクが口をはさんだ。「君はすっかり蒼《あお》くなっていたぜ、ロバート」
「最初の馬がいけなかった」とコーンがいった。
「退屈はしなかったんだろう、なあ?」とビルがたずねた。
コーンは笑った。
「うん。退屈しなかった。あんなこと言って、許してくれ」
「かまわないさ」とビルがいった。「君が退屈しさえしなければね」
「退屈しているような顔じゃあなかったよ」とマイクがいった。「気分が悪くなるんじゃあないかと思ったよ」
「そんなに気分は悪くはならなかったよ。ほんのちょっとの間だけだった」
「ぼくは気分が悪くなるんだと思っていたよ。君は退屈しなかったんだね、ロバート?」
「その話はやめよう、マイク。あんなこと言って悪かったと言ってるんだから」
「そうだったね。彼はまっさおだったぜ」
「まあ、やめなさいよ、マイケル」
「最初の闘牛で退屈しちゃあいけないよ、ロバート」とマイクがいった。「そんなことになったら、めちゃめちゃだからね」
「まあ、やめなさいってば、マイケル」とブレットがいった。
「こいつ、ブレットをサディストだっていったぜ?」とマイクがいった。「ブレットはサディストじゃあない。ただ、かわいい健康な女さ」
「君はサディストかい、ブレット?」とぼくはきいた。
「まさか」
「こいつは、ブレットが立派で健康な胃をもっているからというだけで、サディストだというんだ」
「いつまでも健康じゃあないわよ」
ビルはマイクにコーン以外のことを話させた。ボーイがアブサンのグラスをもってきた。
「君ほんとうに、闘牛、好きになったのかい?」とビルがコーンにたずねた。
「いや、好きだとはいえないよ。すばらしい見ものだと思うが」
「まあほんとだわ! とてもいい見ものだわ!」とブレットがいった。
「馬の出てくるところがなければいいんだけど」とコーンがいった。
「あれは重要じゃあない」とビルがいった。「しばらくすれば、なにも不快には思わなくなるよ」
「はじめは、ちょっと、強烈よ」とブレットがいった。「牛が馬に襲いかかるときは、わたし、ちょっと、いやだったわ」
「牛は立派だった」とコーンがいった。
「牛はとてもよかった」とマイクがいった。
「こんどは、下のほうの席がいいわ」ブレットはアブサンのグラスをかたむけた。
「ブレットは闘牛士を近くで見たいんだ」とマイクがいった。
「すてきなんですもの」とブレットがいった。「あのロメロという青年はまだ子供ね」
「すごい美青年だ」とぼくはいった。「あいつの部屋にいったとき見たんだが、あんな美青年はいないね」
「いくつかしら?」
「十九か二十だ」
「まあ、すてき」
二日目の闘牛は初日よりずっとよかった。ブレットはバレラの席で、マイクとぼくの間にすわり、ビルとコーンが上にあがった。ロメロだけが見ものだった。ブレットはほかの闘牛士には目もくれなかったようだ。頑固な専門家のほかは、だれでもそうだった。ロメロの一人舞台だった。闘牛士はほかに二人いたが、彼らは問題ではなかった。ぼくはブレットの横にすわって、ブレットにどういうものか説明した。牛が|突き手《ピカドール》に襲いかかるときは、馬でなく、牛を見るようにと話し、|突き手《ピカドール》が剣先を突きさすのをよく見て、闘牛とはどんなものなのかを納得し、はっきりした目的があって行なわれているもので、説明のつかない恐怖の見世物でないことをわからせた。ロメロがケープで牛を倒れた馬から引きはなし、思いっきりケープで牛を引きつけては、なめらかにやわらかく、その向きを変えさせ、決して疲れさせないところを、彼女によく見させた。彼女は、ロメロが荒っぽい動作はすべて避け、息を切らせたり、落ちつきを失わせたりしないで、牛を次第に疲れさせ、最後の必要な一撃にそなえるのを見た。彼女はロメロがいつも牛に非常に接近してやっているのを見、ぼくは、ほかの闘牛士が接近してやっているように見せるために用いるごまかしを彼女に指摘した。彼女は、彼女がロメロのケープのさばき方を好み、ほかの者のやり方を好まない理由がわかった。
ロメロは決してからだを曲げなかった。いつも、彼はまっすぐで、純粋で、自然な線だった。ほかの者は栓抜きのようにからだをねじり、肘《ひじ》をあげ、角が行きすぎてしまってから牛の脇腹によりかかり、危険だという様子をしてみせた。そのあとで、そうしたみせかけはどれもひどいものだということがわかり、不愉快な感じをあたえた。ロメロの闘牛はほんとうの感動をあたえた。というのは、彼は動作に線の絶対の純粋さを保ち、いつも、静かに、落ちついて、すぐそばに角を通らせた。彼は角が近いと強調する必要はなかった。ブレットは牛のすぐ近くで行われれば美しいものが、すこし離れたところで行なわれると、こっけいだということを、知っていた。ホセリートが死んでから、闘牛士たちはみんな、ほんとは安全なのに、にせの感動をあたえるために、危険だという様子をまねる技巧がじょうずになってきたと、ぼくは彼女に話した。ロメロは古いやりかたをし、できるだけ危険に身をさらして、線の純粋さを保ち、牛にとどかないと悟らせて、牛を支配し、一方では牛を殺す準備をしていた。
「ロメロがへまなことをしたのを見たことがないわ」とブレットがいった。
「彼がおじけづかないかぎり、へまはないね」とぼくがいった。
「おじけづくことなんかないよ」とマイクがいった。「よく知りすぎてるからね」
「やりはじめたときから、なんでも知ってるんだ。ほかの者たちは、彼が生まれながらに知っていることさえ、おぼえられないでいる」
「それにまあ、なんていい顔つきだこと」とブレットがいった。
「なあ、ブレットはあの闘牛士に惚れているんだね」とマイクがいった。
「そうだろうよ」
「たのむよ、ジェイク。もうあいつのことはブレットにいわないでくれ。闘牛士なんて年とったおふくろをぶんなぐるものだって話でもしてやってくれ」
「あの人たちがどんなに酔っぱらうか話してちょうだい」
「ああ、すごいぜ」とマイクがいった。「一日じゅう飲んで、しょっちゅう、かわいそうに、老母をなぐってるんだ」
「あの人そんなふうな感じね」とブレットがいった。
「そうみえるかい?」とぼくがいった。
彼らが騾馬を死んだ牛につなぎ、鞭がなり、男たちがかけだすと、騾馬は足をふんばり、前方にのりだし、かけ足になり、牛は頭を横倒しにして、角を一本、上向きにしたまま、砂にすうっと跡を残して、赤い出入口から出ていった。
「こんどで最後だ」
「そうかしら」とブレットがいった。彼女は、|手すり《バレラ》にからだをのりだした。ロメロは|突き手《ピカドール》に手をふってそれぞれの位置につかせ、それから、ケープを胸にあて、牛が出てくる闘牛場の向こう側を見て、立った。
それが終わると、ぼくたちは外にで、群衆にもまれた。
「闘牛ってひどいものね」とブレットがいった。「わたし、ぼろきれみたいに、くたくただわ」
「いや、一杯飲めるさ」とマイクがいった。
翌日、ペドロ・ロメロは出なかった。ミウラの牛で、すごくつまらない闘牛だった。その翌日は、闘牛の予定はなかった。だが、終日、終夜、祝祭がつづいた。
第十六章
朝、雨になっていた。霧が海から山々にかかってきていた。山々の頂きが見えなかった。高台は曇って陰気で、木々や家々の形が違って見えた。ぼくは町はずれまで歩いて行き、空を見た。海から山々の上のほうに悪い空模様がひろがってきた。
広場の旗が白い旗竿から濡れて垂れ、吹流しが家々の前で、濡れて、しめっぽく垂れさがり、霧雨が小やみなく降っている合間に、雨が本降りになり、みんなをアーケードの下に追いこみ、広場に水たまりをつくり、街路は濡れて、暗く、人通りがなかった。だが、祝祭はすこしも休むことなく、つづいた。ただ、屋根の下に追いこまれただけだった。
闘牛場の屋根のある席は、雨をさけて、バスク人やナヴァール人の踊り手や歌い手の通るのを見ている人々で、いっぱいになっていた。そのあとから、ヴァル・カルロスの踊り手たちが例の服装で雨のなかを踊りながら街路を行進し、太鼓を、うつろに、しめっぽく鳴らし、楽隊の隊長は脚の重い大きな馬に乗って先頭を行き、服も馬のコートも雨に濡れていた。群衆はカフェにあふれ、踊り手もはいってきて、腰かけ、テーブルの下に、白い布をしっかり巻きつけた足をなげだし、鈴のついた帽子から水を振りはらい、椅子に赤と紫の上衣をかけて、乾かした。外では、はげしく雨が降っていた。
ぼくはカフェの群衆を離れ、夕食のために髭を剃ろうと、ホテルへもどった。部屋で髭を剃っていると、ドアをノックする音がした。
「どうぞ」とぼくが叫んだ。
モントーヤがはいってきた。
「いかがですか?」と彼がいった。
「元気です」とぼくがいった。
「きょうは闘牛はないんですよ」
「ええ」とぼくはいった。「雨ばかりでね」
「お友だちはどちらへ?」
「イルーニアにいますよ」
モントーヤは例の当惑したような微笑をした。
「ところで」と彼はいった。「アメリカの大使をごぞんじですか?」
「ええ」とぼくはいった。「だれでもアメリカの大使は知っていますよ」
「いま、この町にみえてますがね」
「ええ」とぼくはいった。「だれでも見てますよ」
「私も見かけました」とモントーヤがいった。彼はなにもいわなかった。ぼくは髭を剃りつづけた。
「おかけなさい」とぼくはいった。「一杯もってこさせましょう」
「いや、行かなきゃあなりませんから」
ぼくは剃りおえ、顔を洗面器へつっこみ、冷たい水で洗った。モントーヤはそこに立ったまま、さらに当惑した顔をしていた。
「ところで」と彼はいった。「ただいまグランド・ホテルの大使のご一行から、ペドロ・ロメロとマルシアル・ラランダ〔実在の闘牛士〕に今晩夕食後コーヒーを飲みにきてほしいという伝言があったんですが」
「そう」とぼくはいった。「マルシアルはさしつかえないだろう」
「マルシアルはきょうはずっとサン・セバスチアンにいっているんです。けさ、マルケズと車で行きました。今晩、かえりそうもないんですよ」
モントーヤは当惑していた。彼はぼくになんとか言ってほしかったのだ。
「ロメロにはその伝言は言わないことだね」とぼくがいった。
「そう思いますか?」
「絶対にそうだ」
モントーヤはすごく喜んだ。
「あなたがアメリカ人だから、ききたかったのです」と彼がいった。
「ぼくならそうするね」
「とにかく」とモントーヤがいった。「みなさん、ああいうように扱われるんでして。ロメロの値打ちがわからないんですよ。彼の意味がわからないんですよ。外国のかたはみな彼をほめることはできますよ。このようなグランド・ホテルに招待するといったことをまずやって、一年もすれば、おさらばなんですよ」
「アルガベーノのようにね」とぼくがいった。
「さよう、アルガベーノのようにです」
「あの人たちは結構な連中だよ」とぼくはいった。「いまも、ここに、闘牛士を集めているアメリカの女がいるよ」
「知ってます。若い人ばかり探してらっしゃる」
「うん」とぼくがいった。「年とるとふとるからね」
「でなけりゃあ、ガリョのように気違いになりますからね」
「とにかく」とぼくはいった。「簡単だよ。ロメロに伝言しさえしなければいいんだから」
「彼はとてもいい青年ですよ」とモントーヤがいった。「仲間の人たちといっしょにいるべきですよ。あんな人たちといっしょになっちゃあいけません」
「一杯飲まないか?」とぼくがすすめた。
「いいえ」とモントーヤがいった。「行かなけりゃあなりませんので」彼は部屋から出ていった。
ぼくは下におり、戸外に出て、アーケードを通り、広場のあたりを散歩した。まだ雨が降っていた。連中がいるかと、イルーニアをのぞきこんだが、いなかったので、また広場をぶらつき、ホテルに帰った。彼らは下の食堂でディナーを食べていた。
彼らはぼくよりもずっと前から食っていたので、追いつこうとしても無駄だった。ビルはなんどもマイクの靴を靴みがきにみがかせていた。靴みがきが街路に面したドアを開けると、そのたびにビルは呼びとめ、マイクの靴をみがかせた。
「これで十一回もみがいてもらうんだ」とマイクがいった。「なあ、ビルはばか野郎だ」
靴みがきは明らかにその噂をひろめたようだ。また一人がはいってきた。
「|靴をみがきますか《リンピア・ボータ》?」と彼がビルにいった。
「いや」とビルがいった。「こっちの旦那《セニョール》だ」
その靴みがきは靴をみがいている別の靴みがきのそばに膝をついて、すでに電燈の光に輝いているマイクのあいているほうの靴にとりかかった。
「ビルはひどく笑わせる」とマイクがいった。
ぼくは赤ワインを飲んでいたが、彼らより酔うのがあんまり遅れていたので、この靴みがきのことにすこし不愉快になった。ぼくは部屋を見まわした。隣のテーブルにペドロ・ロメロがいた。ぼくがうなずくと、立ちあがり、こっちに来て、友だちに会ってくれと、いった。彼のテーブルはぼくたちのテーブルのそばで、ほとんどくっついていた。ぼくはその友だちに会った。マドリッドの闘牛批評家で、顔のやつれた小男だった。ぼくはロメロに彼のわざがどんなに好きかと話すと、彼はすごく喜んだ。ぼくたちはスペイン語で話したが、批評家はフランス語をすこし知っていた。ぼくは自分のワインの壜をとろうとぼくのテーブルに手をのばしたが、批評家がぼくの腕をつかんだ。ロメロが笑った。
「ここで飲みなさいよ」とロメロが英語でいった。
彼は自分の英語をひどく恥ずかしがったが、ほんとうはそれが非常にたのしくて、話しているあいだに、たしかでない単語を持ちだして、ぼくにたしかめた。「コリダ・デ・トロス」を正確に訳すと、英語ではなんというかと知りたがった。彼は、闘牛という訳語はあやしいといった。ぼくは、スペイン語で闘牛は「トロ」(牛)の「リディア」(戦い)になると説明した。スペイン語の「コリーダ」は英語では雄牛の走ることという意味で、フランス語に訳せば「|雄牛の走ること《クルス・ドゥ・トロ》」となる。こう批評家が口をはさんだ。闘牛にあたるスペイン語はないのだ。
ペドロ・ロメロは、ジブラルタルで英語をすこしおぼえた、といった。彼はロンダ〔ジブラルタルの北四十二マイルのスペインの美しい町〕の生まれだった。それはジブラルタルのちょっと北の町だ。彼はマラガ〔ジブラルタルの東北六十五マイル、地中海に面したスペインの港町〕の闘牛学校で闘牛をはじめたのだ。三年間いただけだった。闘牛の批評家は彼が使ったマラガなまりの表現をかぞえあげて、彼をからかった。彼は十九歳だといった。兄はバンデリーリェロ〔雄牛の肩や首に短剣を突き刺す役の男〕として彼といっしょにいたが、このホテルには滞在していなかった。彼はロメロのために働いているほかの人たちといっしょに、もっとちいさなホテルにいた。彼はぼくに彼を闘牛場で何回見たかたずねた。ぼくはたった三回だと答えた。ほんとうはたった二回だったが、間違ってしまったので、弁解したくなかった。
「前にどこでごらんになりましたか? マドリッドですか?」
「ええ」とぼくは嘘をついた。闘牛新聞で彼がマドリッドに二回出場したという記事を読んだことがあったので、ぼくはうまくいった。
「はじめてのときですか、二度目のときですか」
「はじめてのときです」
「あのときは、さんざんでした」と彼がいった。「二度目はまだよかったです。おぼえていらっしゃいますか?」彼は批評家のほうをむいた。
彼はちっとも当惑していなかった。彼は自分のわざをまったく自分自身とは別個のものとして話した。彼には、気どったり、ほらをふいたりするところがなかった。
「ぼくのわざがお気に召して、ほんとうにうれしいです」と彼がいった。「でもまだほんものをごらんになられてないんですよ。あした、いい牛でしたら、お目にかけるようにしましょう」
こういって、彼はほほえんだが、闘牛の批評家やぼくがそれを自慢だと思わないようにと気にしていた。
「ぜひ見たいですね」と批評家がいった。「なっとくいくまでね」
「このかたはぼくのわざをあまり好きじゃないんですよ」ロメロはぼくのほうをむいた。彼は真剣だった。
批評家はとても好きだが、まだ不完全なのだ、と説明した。
「あしたまで待ってください、いい牛がでてきてくれれば」
「あしたの牛をごらんになりましたか?」と批評家がぼくにたずねた。
「ええ、乗りこみのとき見ました」
ペドロ・ロメロはからだをのりだした。
「どう思いますか?」
「とてもいい牛です」とぼくがいった。「二十六アローバ〔一アローバは約一一・五キロ〕ぐらいの重さです。角がすごく短い。まだ見てないんですか?」
「いや、見ました」とロメロがいった。
「二十六アローバはないでしょう」と批評家がいった。
「ありませんね」とロメロがいった。
「もってるのは角じゃあなくて、バナナですよ」と批評家がいった。
「あなたはバナナだとおっしゃいますか?」とロメロがいった。彼はぼくのほうをむいて、ほほえんだ。「あなたはバナナだなどとよばないでしょうね?」
「いや」とぼくはいった。「まちがいなく角ですよ」
「とても短いんです」とペドロ・ロメロがいった。「とても、とても、短いんです。だけど、バナナじゃあありません」
「まあ、ジェイク」とブレットが隣のテーブルからよびかけた。「おみかぎりね」
「ちょっとだけ」とぼくがいった。「牛の話をしてるんだ」
「お得意のところね」
「雄牛に角がないとあいつにいってやれ」とマイクがどなった。彼は酔っていた。
ロメロはけげんそうにぼくを見た。
「酔ってるんです」とぼくがいった。「|酔っぱ《ボラ》|らいです《チョー》! |ひどい酔っぱらいです《ムイ・ボラチョー》!」
「お友だちを紹介してくださってもよさそうなものにね」とブレットがいった。彼女は、ペドロ・ロメロをじっと見ていた。ぼくはいっしょにコーヒーを飲まないかとたずねた。二人とも立ちあがった。ロメロの顔はすごく日やけしていた。立居振舞いがとてもよかった。
ぼくは彼らをみんなに紹介した。彼らは腰をおろしはじめたが、席が充分なかったので、ぼくたちはコーヒーを飲むために、壁際の大きいテーブルに移った。マイクがフンダドール一本とみんなのグラスを注文した。酔って話がはずんだ。
「書くことなんかくだらないと思っているって、そいつにいえ」とビルがいった。「さあ、そういってくれ。おれが作家なのを恥じていると、いってくれ」
ペドロ・ロメロはブレットの横に腰かけ、彼女の話に耳を傾けていた。
「さあ。いってくれ!」とビルがいった。
ロメロはほほえみながら眼をあげた。
「こちらの紳士は」とぼくはいった。「作家です」
ロメロは深い印象をうけた。「こちらのかたもね」とぼくはいって、コーンを指さした。
「あのかたはヴィリヤールタ〔実在の有名な闘牛士〕に似てますね」とロメロがいって、ビルを見た。「ラファエルさん、あのかたはヴィリヤールタに似てませんか?」
「そうかね」と批評家がいった。
「ほんとうに」とロメロがスペイン語でいった。「とてもヴィリヤールタに似てますよ。あの酔っぱらったかたは、なにをしてるんですか?」
「なんにもしてませんよ」
「だから、飲んでるんですか?」
「いいや、このご婦人と結婚するのを待ってるんですよ」
「雄牛に角がないと、そいつにいえ!」とマイクがひどく酔って、テーブルの向こう側から、どなった。
「なんていってるんです?」
「酔ってるんですよ」
「ジェイク」とマイクが呼びかけた。「雄牛に角がないと、そいつにいえ!」
「わかりますか?」とぼくがいった。
「ええ」
彼にはわからないことは、たしかだったから、だいじょうぶだった。
「そいつがグリーンのズボンをはくのをブレットが見たがっているんだと、そいつにいってくれ」
「静かにしろよ、マイク」
「そいつがそのズボンをどんなふうにはくか、ブレットが死ぬほど知りたがっているんだと、そいつにいってくれ」
「静かにしろよ」
そのあいだ、ロメロはグラスを指でいじりながら、ブレットと話していた。ブレットはフランス語で話し、彼はスペイン語で、すこし英語をまじえて話し、笑っていた。
ビルはグラスに酒をついでいた。
「そいつにいってくれ、ブレットがしたい――」
「おい、静かにしろ、マイク、たのむから!」
ロメロは顔をあげて、ほほえんだ。「静かにしろよ! それ、わかります」と言った。
ちょうどそのとき、モントーヤが部屋にはいってきた。彼はぼくを見てほほえみかけたが、そのとき、ペドロ・ロメロが大きなコニャックのグラスを手にして、酔っぱらいの大勢いるテーブルで、ぼくと肩をあらわにしている女のあいだに笑いながら腰かけているのが、彼の目にはいった。彼はうなずきもしなかった。
モントーヤは部屋から出ていった。マイクは立ちあがって、乾杯しようといいだした。「さあ、みんなで飲もう――」と彼がいった。「ペドロ・ロメロのために」とぼくがつけたした。みんな立った。ロメロはおおまじめで、ぼくたちはグラスをふれあい、飲みほし、ぼくは、マイクが乾杯しようとしているのはそんなことのためではないとはっきり言いだしかけていたので、すこし急いで乾杯した。しかし、うまくいって、ペドロ・ロメロはみんなと握手して、彼と批評家はいっしょに出ていった。
「まあ! かわいいわねえ」とブレットがいった。「あの服を着るとこを見たいわ。きっと靴べらを使うのね」
「おれはあいつに話しかけようとしてたんだ」とマイクがいった。「だのにジェイクはおれの邪魔ばかりしてたんだ。なぜ邪魔するんだ? ぼくよりスペイン語がうまいとでも思ってるのか?」
「おい、だまってろよ、マイク! だれも邪魔しないよ」
「いや、これだけははっきりさせときたい」彼はぼくから眼をそらせた。「君は何かえらい人間とでも思ってるのか、コーン? ここで、おれたちの仲間だとでも思ってるのか? たのしもうと思ってきているおれたちの仲間だと? たのむから、そんなにうるさくしないでくれ、コーン!」
「ああ、やめろよ、マイク」とコーンがいった。
「ブレットが君にいてもらいたがっているとでも思ってるのか? 仲間にプラスになるとでも思ってるのか? どうして、なにも言わないんだ?」
「こないだの晩、言うべきことは言ったよ、マイク」
「ぼくは君のような文学者じゃあないんだ」マイクはふらふらしながら立ちあがり、テーブルにもたれた。「おれは利口じゃあないよ。だが、うるさがられてるときは、わかるさ。どうして、うるさがられてるのが、わからないんだな、コーン? 行っちまえ、行っちまえ、たのむから。その悲しそうなユダヤ人の顔をもって行っちゃってくれ。おれが正しいとは思わないのか?」
彼はぼくたちを見た。
「そうだとも」とぼくはいった。「みんなでイルーニアに行こう」
「いやだ。おれが正しいとは思わないのか? ぼくはあの女にほれてるんだ」
「まあ、またそんなこと言いださないでよ。よして、マイケル」とブレットがいった。
「おれが正しいとは思わないのか、ジェイク?」
コーンはまだテーブルに向かって腰かけていた。彼の顔は侮辱されたときの血色の悪い黄ばんだ顔つきになったが、どこか楽しんでいるようにも思われた。酔っぱらって、子供っぽく、芝居がかっていた。爵位のある婦人とかかわりがあるからなのだ。
「ジェイク」とマイクがいった。彼は泣きださんばかりだった。「おれが正しいことはわかってるだろう。おい、よく聞けよ!」彼はコーンのほうをむいた。「出て行け! さあ、出て行っちまえ!」
「だが、ぼくは行かないよ、マイク」とコーンがいった。
「じゃあ、行かしてやる!」マイクはテーブルをまわって彼のほうに歩きだした。コーンは立ちあがり、眼鏡をはずした。彼は顔から血色を失い、両手をかなり低くし、得意気に、断乎として、攻撃を待ちかまえ、彼の爵位ある婦人との恋のために、いまにも戦闘を開こうと、待っていた。
ぼくはマイクをつかんだ。「カフェに行こう」とぼくはいった。「このホテルで、あいつをなぐっちゃあいけない」
「よし!」とマイクがいった。「わかった!」
ぼくたちは出かけた。ぼくはマイクが階段でつまずいたので、ふりかえると、コーンが眼鏡をかけているところだった。ビルはテーブルに向かって腰をおろし、フンダドールをもう一杯ついでいた。ブレットはまっすぐ前のなにもないところを見てすわっていた。
外の広場では、雨がやみ、月が雲間から出ようとしていた。風が吹いていた。軍楽隊が演奏し、群衆が広場の向こう側で花火師とその息子が花火風船をあげようとしているところに集まっていた。風船は急な傾斜でぐいとあがり、風で破れたり、広場の家々にぶつかって破裂したりするのだった。いくつかは群衆のなかに落ちた。群衆のなかでマグネシウムがぱっとひらめき、花火が破裂して、飛びちった。広場で踊っている人はだれもいなかった。砂利が濡れすぎていたからだ。
ブレットがビルといっしょに出てきて、ぼくたちに加わった。ぼくたちは群衆にまじって立ち、花火王のドン・マヌエル・オルキトが小さな壇にのぼり、注意して棒で風船をとばし、風船が風にのるように、群衆の頭より高いところに立っているのを、ながめていた。風が風船をみんな吹きおろし、ドン・マヌエル・オルキトの顔が複雑な花火の光に照らされて、汗をかいていた。花火は群衆のなかに落ち、破裂して、ぶすぶす燃えたり、ぱちぱち鳴りながら、人々の脚のあいだに飛びちった。新しい紙風船がよろよろとのぼり、火をふき、落ちるたびに、人々が喚声をあげた。
「ドン・マヌエルをからかってるんだ」とビルがいった。
「ドン・マヌエルだって、どうしてわかるの?」とブレットがいった。
「プログラムに名前がでている。ドン・マヌエル・オルキト、風船花火《エスタ・シウダド》の名人、とね」
「照明風船《グロボス・イルミナード》だ」とマイクがいった。「照明風船の大集合。新聞にそうでてるんだ」
風が楽隊の音楽を吹きとばした。
「ねえ、うまくあがるといいけどね」とブレットがいった。「あのドン・マヌエルっていうひと、乱暴ね」
「『祝サン・フェルミン』と略さずに書きだそうと、たぶん何週間も花火の準備をしてたんだろう」とビルがいった。
「照明風船さ」とマイクがいった。「たくさん、すごい照明風船をね」
「行きましょうよ」とブレットがいった。「こんなところには立っていられないわ」
「奥方は一杯きこしめしたいのだ」とマイクがいった。
「よくわかるわね」とブレットがいった。
カフェのなかは混んで、すごくやかましかった。だれもぼくたちがはいってきたのに気づかなかった。テーブルが見つからなかった。すごくやかましかった。
「おい、こんなところ、出よう」とビルがいった。
外では、行列《パセオ》がアーケードの下にはいって行くところだった。ビアリッツから来たスポーツウェアのイギリス人やアメリカ人が何人かテーブルのあちこちに散らばっていた。何人かの女がオペラグラスで通って行く人をじっと見ていた。いつの間にか、ぼくたちのグループにビアリッツから来たビルの女友だちが加わっていた。彼女はもう一人の女のつれとグランド・ホテルに泊まっていた。その女は頭痛で、ねていたのだ。
「酒場があるぞ」とマイクがいった。バー・ミラノという、小さなひどい酒場で、食事もできるし、奥の部屋でダンスもできた。ぼくたちはみんなテーブルの前に腰かけ、フンダドールを一本注文した。酒場は混んでいなかった。なにもやっていなかった。
「ひどいところだな」とビルがいった。
「まだ早すぎるんだよ」
「壜だけもらって、あとからこようよ」とビルがいった。「こんな晩にこんなところに腰かけていたくないよ」
「あっちへ行ってイギリス人を見よう」とマイクがいった。「ぼくはイギリス人を見るのが好きなんだ」
「ひどくいやなやつらだぜ」とビルがいった。「あいつら、どこから来たんだろう?」
「ビアリッツから来たんだ」とマイクがいった。「この奇妙なちょっとしたスペインのお祭りの最後の日を見に来たんだよ」
「ぼくはあいつらを見にいこう」
「あなたはすばらしくきれいですね」とマイクはビルの友だちに向かっていった。「いつここにいらっしゃったんですか?」
「およしなさいよ、マイケル」
「たしかにきれいな娘《こ》だ。ぼくはどこにいたんだろう? いままでどこを見てたんだろう? 君はきれいだ。お会いしたことあるかね? ぼくやビルといっしょにこないか。イギリス人を見にいくんだ」
「あいつらを見にいくんだ」とビルがいった。「あいつらは、いったい、この祝祭でなにをしてるんだ?」
「行こう」とマイクがいった。「三人だけで。いやなイギリス人を見に行くんだ。君はイギリス人じゃないだろうね? ぼくはスコットランド人だ。イギリス人なんか大嫌いだ。あいつらを見に行くんだ。行こう、ビル」
窓ごしに、三人が腕を組んで、カフェのほうに行くのが見えた。花火が広場であがっていた。
「わたし、ここにすわってるわ」とブレットがいった。
「ぼくもいっしょにいましょう」とコーンがいった。
「まあ、よして!」とブレットがいった。「お願いだからどこかへ行ってちょうだい。ジェイクとわたしで話があること、わからないの?」
「気がつかなかった」とコーンがいった。「すこし酔ったようだからここにすわっていようと思ったんだ」
「いっしょに腰かけようというのに、なんてひどい理由なの。酔ってるのなら、ベッドに行きなさいよ。ベッドに行きなさいってば」
「あの人に乱暴だったかしら?」とブレットがたずねた。コーンはいってしまったのだ。「ああ! あのひとにはうんざりだわ!」
「あいつがいても、ちっとも楽しくならないよ」
「あのひとのおかげで、ゆううつになっちゃうわ」
「すごく失敬なことをするやつだ」
「ほんとにひどいわ。お行儀よくする機会があったのに」
「いまも戸のすぐ外できっと待ってるんだろう」
「ええ。そうよ。あのひとがどんな気持か、ちゃんとわかってるわ。あのことがなんの意味もないなんてあのひとには信じられないことなのよ」
「そうだとも」
「あんなに失礼なひといないわ。ああ、なにもかもいやになっちゃったわ。それにマイケルも。マイケルもご立派だったわ」
「マイクにはひどくつらかったろう」
「ええ。でもあんなにひどくする必要はなかったのよ」
「みんな失敬なふるまいをしてるんだ」とぼくはいった。「適当な機会をあたえてやろうよ」
「あなたは失礼なふるまいなんかしないわ」ブレットはぼくをみた。
「ぼくもコーンのように大ばかさ」とぼくはいった。
「あなた、つまらないこというのよしましょうよ」
「いいよ。君の好きなことなんでも話せ」
「むずかしいこと言わないでよ。あなたはわたしのたった一人の人なのよ。それに、今晩、わたしとても気がめいってるのよ」
「マイクがいるじゃないか」
「ええ、マイクがね。あのひと立派じゃなくって?」
「うん」とぼくはいった。「コーンにうろうろされて、君がつきまとわれるのをみるなんて、マイクはすごくつらかったろうよ」
「わたしもそう思うわ、あなた。どうか、いまよりつらい思いなどさせないでね」
ブレットはみたこともないほどいらいらしていた。彼女はぼくから眼をそらし、前の壁をみたままだった。
「散歩しないか?」
「ええ。いきましょう」
ぼくはフンダドールの壜にコルクの栓をして、バーテンに渡した。
「それ、もう一杯飲みましょうよ」とブレットがいった。「むしゃくしゃしちゃったわ」
ぼくたちは舌ざわりのいいアモンティヤードのブランデー〔ファンダドールのこと〕を一杯ずつ飲んだ。
「いきましょう」とブレットがいった。
外に出ると、コーンがアーケードの下から出てくるのが見えた。
「あそこにいたんだわ」とブレットがいった。
「あいつ、君から離れられないんだよ」
「かわいそうにね!」
「かわいそうじゃあないよ。ぼくはあいつ大嫌いだ」
「わたしも大嫌いだわ」といって、彼女は身ぶるいした。「あの人みたいに悩んでるの、大嫌いよ」
ぼくたちは腕を組んで、群衆と広場の明かりから離れ、横町を歩いていった。通りは暗く、濡れていて、ぼくたちは町はずれの要塞まで歩いていった。何軒か酒場の前を通ったが、燈火が戸口から暗い濡れた通りにもれ、音楽が急に聞こえてきた。
「はいろうか?」
「いやだわ」
ぼくたちは濡れた草地を横ぎり、要塞の石の壁まで歩いていった。ぼくが石の上に新聞紙をひろげると、ブレットが腰をおろした。平野は一面に暗く、山々が見えた。風は高く、月から雲をうばった。下に要塞の暗い穴があった。うしろに、木々と寺院の影があり、月を背にして町が影絵になっていた。
「元気を出せよ」とぼくがいった。
「わたし、気分がめいってるの」とブレットがいった。「話すの、やめましょう」
ぼくたちは平野を見わたした。木々の長い線が月光のなかで黒々としていた。山をのぼっている道に自動車の明かりが見えた。山の頂上には砦《とりで》の明かりが見えた。左手の下には、河があった。雨のために水量が増し、黒く、なだらかに流れていた。木々は岸にそって暗かった。ぼくたちは腰をおろして、ながめていた。ブレットはまっすぐ前をじっと見つめていた。急に彼女が身ぶるいした。
「寒いわ」
「帰ろうか?」
「公園を通って」
ぼくたちは下におりた。また曇ってきた。公園の木立の下は暗かった。
「いまでもわたしを愛してて、ジェイク?」
「うん」とぼくはいった。
「わたしが救いようがない女だから」とブレットがいった。
「というと?」
「救いようがないのよ。ロメロっていう子にのぼせあがってるのよ。あの子を愛してるんだと思うわ」
「ぼくだったら、そんなことやめるね」
「どうにもならないのよ。救いようがないのね、わたし。わたしの心、すっかりずたずたになっちゃってるのよ」
「そんなこと、だめよ」
「どうにもならないのよ。どうにもならなかったのよ」
「やめるべきだよ」
「どうしたらやめられるの? わたしはやめることができないたちなの。わかって?」
彼女の手はふるえていた。
「わたし、いつも、こうなの」
「そりゃあいけないな」
「どうにもならないのよ。とにかく、わたし救いようがないのよ。変わったことわからない?」
「わからない」
「わたし、なにかしなきゃあならないわ。ほんとうにしたいこと、しなきゃあならないわ。自尊心をなくしちゃったんですもの」
「そんなになっちゃあいけない」
「まあ、あなた、むずかしいこといわないで。あのいやったらしいユダヤ人につきまとわれ、マイクにあんなふうにふるまわれたら、どんなだと思う?」
「うん」
「いつも酔ってるわけにはいかないわよ」
「そりゃあそうだ」
「まあ、あなた、わたしのそばにいてね。わたしのそばにいて、これをどうにか切りぬけるのを見とどけてね」
「ああ」
「そりゃ、いいことだとは言わないわ。でも、わたしには、いいことなのよ。ほんとに、わたし、こんなにみだらな女だと感じたことなかったわ」
「ぼくはどうしたらいいんだ?」
「いきましょうよ」とブレットがいった。「あのひとを探しにいきましょう」
ぼくたちは、いっしょに、公園の暗い木立の下の砂利道を歩き、それから、木立の下を出、門を抜け、町に通じる通りに出た。
ペドロ・ロメロはカフェにいた。彼はほかの闘牛士や闘牛の批評家たちといっしょにテーブルに向かっていた。彼らは葉巻をふかしていた。ぼくたちがはいっていくと、彼らは顔をあげた。ロメロはほほえんで、おじぎした。ぼくたちは部屋の中ほどのテーブルに向かってすわった。
「ここに来て一杯飲むように言ってちょうだい」
「まだだめだよ。向うから来るよ」
「あのひとのほうを見られないのよ」
「美青年だね」とぼくがいった。
「わたし、いつも、したいことをしてきたわ」
「そうだね」
「みだらな女の気持がするの」
「うん」とぼくはいった。
「ああ!」とブレットがいった。「女がやりとげることっていえば」
「え?」
「まあ、みだらな女の気持がするわ」
ぼくは向こうのテーブルを見た。ペドロ・ロメロがほほえんだ。テーブルのほかの男たちになにか言って、立ちあがった。ぼくたちのテーブルへやってきた。ぼくは立ちあがり、握手した。
「一杯いかがです?」
「ぜひ、いっしょに、いただきましょう」と彼がいった。彼はなにも言わずにブレットの許しを求めて、すわった。立居振舞いがとてもよかった。しかし、葉巻をふかしつづけていた。それが彼の顔によく似合った。
「葉巻、好きなんですね」とぼくがたずねた。
「ええ、そうです。いつも葉巻をふかしてるんです」
それは彼が威厳をつくるための方便の一つだった。それで彼は年よりもふけてみえた。ぼくは彼の皮膚に目をとめた。きれいで、すべすべして、こい褐色をしていた。あご骨の上に三角形の傷痕があった。ぼくは彼がブレットを見つめているのを見た。彼はブレットとのあいだになにかがあると感じていた。ブレットが彼に手をあたえたとき、それを感じたにちがいない。ひどく注意深くなっていた。自信はあったのだと思うが、間違えたくなかったのだ。
「あしたは闘牛なさるんでしょう?」とぼくがいった。
「ええ」と彼がいった。「アルガベノがきょうマドリッドで怪我したんです。おききになりましたか?」
「いいえ」とぼくはいった。「ひどいんですか?」
彼は首をふった。
「なんでもないんです。ここなんです」といって、彼は手を見せた。ブレットは手をのばして、彼の手の指をひろげた。
「おや!」と彼は英語でいった。「占いをなさるんですか?」
「ときどきね。よろしいですか?」
「ええ。ぼくは好きです」彼はテーブルの上に手をひらいた。「いつまでも生きていて、百万長者になると、おっしゃってください」
彼はまだひどく鄭重だったが、次第に自信をもってきた。「ねえ」と彼がいった。「ぼくの手に牛が見えますか?」
彼は笑った。彼の手はとてもきれいで、手首が小さかった。
「何千頭も牛がいますよ」とブレットがいった。彼女はもう、全然、いらだっていなかった。美しく見えた。
「いいですね」といって、ロメロは笑った。「一頭で千ドゥーロ〔スペインドル〕ですよ」と彼はぼくにスペイン語でいった。「もっとうらなってください」
「いい手ですわ」とブレットがいった。「この人、長生きするわ」
「ぼくにそうおっしゃってください、お友だちにでなく」
「あなたが長生きなさるだろうと言ったのよ」
「そうですか」とロメロがいった。「ぼくはどんなことがあっても死にません」
ぼくは指の先でテーブルをたたいた〔凶事を追い払うために手近の木をたたく迷信がある〕。ロメロがそれに気づいた。彼は首をふった。
「いや、そんなことなさらないでください。牛はぼくの一番の親友です」
ぼくはブレットに通訳してやった。
「あなたは親友を殺してしまうの?」と彼女がきいた。
「いつも」と彼は英語でいって、笑った。「それで、牛はぼくを殺さないんですよ」彼はテーブルごしに彼女を見た。
「あなたは英語をよくごぞんじね」
「ええ」と彼はいった。「ときには、かなりよく知っています。でも、みんなに知られちゃあいけないんです。ひどくよくないことでしょうから、英語を話す闘牛士なんて」
「どうしてなの?」とブレットがきいた。
「よくないでしょう。人は嫌いますよ。まだ」
「どうしてなの?」
「嫌いなんですよ。闘牛士というものはそんなもんじゃあないことになってるんです」
「闘牛士って、どんななの?」
彼は笑って、帽子を目ぶかに傾け、葉巻をくわえた角度と顔の表情を変えた。
「向こうのテーブルにいる人のようにです」と彼がいった。ぼくは向こうに眼をやった。彼はナシオナール〔当時の有名な闘牛士〕の表情を正確に真似ていたのだ。彼はほほえみ、またいつもの顔になった。「いや。ぼくは英語を忘れなけりゃあいけません」
「まだ忘れないでちょうだい」とブレットがいった。
「だめですか?」
「だめよ」
「じゃあ、いいです」
彼はまた笑った。
「わたし、そんな帽子、好きよ」とブレットがいった。
「よろしい。あなたにひとつ手にいれてさしあげましょう」
「うれしいわ。そうしてちょうだい」
「ええ、今晩、ひとつ手にいれてさしあげましょう」
ぼくは立ちあがった。ロメロも立ちあがった。
「すわっていらっしゃい」とぼくがいった。「ぼくは友だちを探しにいって、ここにつれてこなきゃあならないんですから」
彼はぼくを見た。それはわかっているのかと問いただす最後的な眼差しだった。話はよくわかっていたのだ。
「おすわりなさいよ」とブレットが彼にいった。「わたしにスペイン語教えてくださらなきゃあ」
彼は腰かけ、テーブルごしに彼女を見た。ぼくは外に出た。闘牛士のテーブルにいた男たちが、けわしい眼つきでぼくの行くのをじっと見ていた。愉快ではなかった。二十分して帰ってきて、カフェをのぞくと、ブレットとペドロ・ロメロはいなくなっていた。コーヒーのグラスとぼくたちの空《から》のコニャックのグラスが三つ、テーブルの上にあった。ボーイが布をもってやってきて、グラスをとりあげ、テーブルを拭いた。
第十七章
バー・ミラノの前までくると、ぼくはビルとマイクとエドナにあった。エドナというのは例の女の子の名前だ。
「わたしたち、ほうりだされちゃったのよ」とエドナがいった。
「警官にさ」とマイクがいった。「ぼくを嫌ってるやつがここにいるんだ」
「四度も喧嘩しそうになったのを、わたし、とめたのよ」とエドナがいった。「わたしを助けてくれなくちゃあだめよ」
ビルの顔は赤かった。
「もう一度、なかへはいろう、エドナ」と彼がいった。「はいって、マイクと踊れ」
「よしましょう」とエドナがいった。「また喧嘩になるだけよ」
「あのビアリッツのやつら」とビルがいった。
「はいろう」とマイクがいった。「なんてったって、酒場じゃあないか。やつらに酒場を独占させとけないからな」
「なあ、マイク」とビルがいった。「イギリス人のやつがここにきて、マイクを侮辱し、祝祭をぶちこわしにしようっていうんだぜ」
「ひどいやつらだ」とマイクがいった。「おれはイギリス人は大嫌いだ」
「マイクを侮辱しちゃあいけない」とビルがいった。「マイクはすばらしい男だ。マイクを侮辱しちゃあいけない。ぼくは我慢できない。マイクが破産者だって、かまわないじゃあないか」彼は涙声になった。
「どうでもいいさ」とマイクがいった。「おれはなんとも思わないんだ。ジェイクもなんとも思わないんだ。君《ヽ》はどうだ?」
「なんとも思わないわ」とエドナがいった。「あなた、破産したの?」
「もちろん、そうさ。君はなんとも思わないんだろ、なあ、ビル?」
ビルは腕をマイクの肩にまわした。
「ぼくも破産者ならいいんだが。あいつらをこらしめてやろう」
「あいつらはたかがイギリス人さ」とマイクがいった。「イギリス人の言うことなんか、たいしたことないよ」
「きたないやつらだ」とビルがいった。「あいつらを一人のこらず追いだしてやるぞ」
「ビル」といって、エドナはぼくを見た。「お願いだから、もうはいらないで、ビル。あのひとたち、すごく愚劣ですもの」
「そのとおり」とマイクがいった。「愚劣だ。まったく、そのとおりだ」
「あんなことをマイクに言えるはずがないんだ」とビルがいった。
「知り合いかい?」とぼくはマイクにきいた。
「いや。会ったこともないよ。あいつらは知ってると言うんだが」
「我慢できないんだ」とビルがいった。
「さあ。スイソへ行こう」とぼくがいった。
「あいつらはビアリッツから来たエドナの仲間なんだ」とビルがいった。
「ただもう愚劣なのよ」とエドナがいった。
「あいつらの一人はシカゴから来たチャーリ・ブラックマンというんだ」とビルがいった。
「おれはシカゴなんか行ったことはない」とマイクがいった。
エドナは笑いだしたが、笑いがとまらなかった。
「わたしをここからどこかへ連れてってよ」と彼女がいった。「ねえ、破産したあなた」
「どんな喧嘩だったんだい?」とぼくはエドナにたずねた。ぼくたちは広場を横ぎってスイソのほうへ歩いていた。ビルはどこかへいってしまった。
「なんだかわからないの。ただ、だれかが警官をよびにやって、マイクを奥の部屋から連れてきたのよ。カンヌでマイクを知っていた人が何人かいたのよ。マイクがどうしたっていうの?」
「たぶん、あいつらから金を借りてるんだろう」とぼくがいった。「人間というものは、よく、そんなことで辛辣《しんらつ》になるもんだからね」
広場の切符売場の前には人々が二列に並んで、待っていた。彼らは椅子に腰かけたり、毛布や新聞紙を地面に敷いて、しゃがんでいた。闘牛の切符を買おうと、朝、窓口の開くのを待っているのだ。夜は晴れて、月が出ていた。列のなかで眠っている人もいた。
カフェ・スイソで、すわり、フンダドールを注文したところへ、ロバート・コーンがやってきた。
「ブレットはどこにいるんだ?」と彼がたずねた。
「知らない」
「いっしょだったんじゃあないか」
「きっともう寝たんだよ」
「寝てない」
「どこにいるか、知らないね」
彼の顔は明かりをうけて血色がなかった。彼は立っていた。
「いるところを教えてくれ」
「すわれよ」とぼくがいった。「どこにいるか、知らないよ」
「ちえっ、知らないのか!」
「黙ったらどうだ」
「ブレットのいるところ、教えてくれ」
「君なんかには、なにも言わんよ」
「いるところ、知ってるんだろ」
「知ってたって、教えないさ」
「ああ、うるさいぞ、コーン」とマイクがテーブルの向こうから呼びかけた。「ブレットは闘牛のやっこさんと逃げちゃったよ。いま新婚旅行ってところさ」
「黙れ」
「ああ、勝手にしろ!」とマイクが気のりのしない様子でいった。
「ブレットはどこにいるんだ?」コーンはぼくのほうに向いた。
「勝手にしろ!」
「きさまといっしょだったんだぜ。どこにいるんだ?」
「うるさいな!」
「きさまに言わせてみせるぞ」――彼は前に進みでた――「おいポン引き野郎」
ぼくは彼をなぐろうとしたが、彼は首をひっこめてかわした。彼の顔が灯りのなかで横のほうにひっこむのが見えた。彼はぼくをなぐった。ぼくは舗装の上に尻もちをついた。立ちあがろうとすると、彼は二度ぼくをなぐりつけた。ぼくはテーブルの下に仰向けに倒れた。起きようとしたが、脚がなくなったような感じだった。立ちあがって、彼をなぐってやらなきゃあならないと思った。マイクがぼくを助け、おこしてくれた。だれかがぼくの頭の上に水差しの水をぶっかけた。マイクがぼくをだきかかえ、気がつくと、ぼくは椅子にかけていた。マイクがぼくの耳をひっぱっていた。
「ねえ、君は冷たいぜ」とマイクがいった。
「いったい、君はどこにいってたんだ?」
「いや、そのへんをぶらぶらしてたんだ」
「かかわりあいになりたくなかったんだろう?」
「あのひと、マイクもなぐりたおしちゃったのよ」とエドナがいった。
「なぐりたおしゃあしないよ」とマイクがいった。「おれはただ寝ころんでただけなんだ」
「あなたがたの祝祭ではこんなことが毎晩あるの?」とエドナがたずねた。「あのひとがコーンさんでしょう?」
「ぼくはだいじょうぶだ」とぼくはいった。「頭がすこしぐらぐらするけど」
数人のボーイと人々が群がってまわりに立っていた。
「|さあ《ヴァヤ》!」とマイクがいった。「あっちへ行ってくれ。あっちへ」
ボーイが人々を追っぱらった。
「見ものだったわ」とエドナがいった。「あのひと、きっとボクサーなのね」
「そうだ」
「ビルがここにいればよかったのよ」とエドナがいった。「ビルがなぐりたおされるのも見たかったわ。前から、ビルがなぐりたおされるのを見たかったのよ。とても大きなひとだもの」
「ボーイをなぐりたおして、つかまればいいがなと、思ってたんだ」とマイクがいった。「ロバート・コーン氏が刑務所にはいっているのを見たいんでね」
「よせよ」とぼくがいった。
「まあ、いやだわ」とエドナがいった。「じょうだんでしょう」
「いや、本気さ」とマイクがいった。「ここのやつらのように、なぐりあいは好きじゃあないんだ。おれはゲームだってやらないんだ」
マイクは一杯飲んだ。
「おれは猟だって好きじゃあないんだよ、ね。いつも馬にふみつけられる危険があるからね。気分はどうだ、ジェイク?」
「だいじょうぶだ」
「あなた、いいひとね」とエドナがマイクにいった。「ほんとに破産したの?」
「すっかり破産しちゃったんだ」とマイクがいった。「おれはだれにでも借金があるんだ。君は借金なんかしてないだろう?」
「たくさんあるわ」
「おれはだれにでも借金があるんだ」とマイクがいった。「今晩、モントーヤから百ペセタ借りてきたんだ」
「ほんとかい?」とぼくはいった。
「返すよ」とマイクがいった。「おれは、いつも、なんでも、返すよ」
「だから破産しちゃうのね。そうでしょう?」とエドナがいった。
ぼくは立ちあがった。遠くのほうで二人が話しているようにきこえていたのだ。なにか安っぽい芝居のように思われた。
「ホテルに帰るよ」とぼくがいった。すると、二人がぼくのうわさをしているのがきこえた。
「だいじょうぶかしら?」とエドナがきいた。
「いっしょについていったほうがいい」
「だいじょうぶだよ」とぼくはいった。「こないでくれ。いずれまたあとで」
ぼくはカフェを出ていった。二人はテーブルに向かってすわっていた。ぼくは、彼らと人のいないテーブルをふりかえって見た。一人のボーイがテーブルに向かって腰かけ、頭を両手でかかえていた。
広場を横ぎって、ホテルのほうに歩いて行くと、なにもかも、新しく変わって見えた。ぼくはいままで木立に気づかなかった。いままで、旗竿も、劇場の正面も、気づかなかった。みんな変わっていた。前に町の外でフットボールの試合をして家に帰ってきたときのような気分だった。ぼくはフットボールの道具をいれたスーツケースをぶらさげ、生まれてからずっと住んでいる町の駅から街路を歩いていたが、町はすっかり新しく見えた。人々が芝生におちた木の葉を熊手でかき集め、道路でもやしていたが、ぼくは長いあいだ、たちどまって、ながめていた。まったく珍しかったのだ。それから、ぼくは歩きだしたが、足が遠くにあるように思われ、あらゆるものが遠くから来るように思われ、足がずっと遠くを歩いている音がきこえた。試合のはじめに頭を蹴られたのだ。広場を横ぎっていると、そんなふうな気がした。ホテルの階段をあがって行くときも、そんなだった。階段をあがるのに時間がかかり、ぼくはスーツケースをぶらさげているような気がした。部屋に明かりがついていた。ビルがでてきて、廊下で顔を合わせた。
「おい」と彼がいった。「あがっていって、コーンに会ってやれ。やつは困りきって、君にきてくれって言ってるんだ」
「あんなやつ、勝手にしろ」
「行けよ。あがっていって、会ってやれ」
ぼくはもう階段をあがっていきたくなかった。
「どうして、そんなふうにぼくを見てるんだ?」
「見てやしないよ。あがっていって、コーンに会ってやれよ。まいってるんだ」
「君はついさっきまで酔ってたけど」とぼくはいった。
「いまも酔ってるよ」とビルがいった。「だけど、君、あがっていって、コーンに会ってやれよ。君に会いたがってるんだ」
「わかったよ」とぼくはいった。ただ、階段をまたあがっていくのが、いやだったのだ。ぼくは幻のスーツケースをぶらさげて、階段をのぼっていった。コーンの部屋まで廊下を歩いていった。ドアが閉まっていた。ぼくはノックした。
「だれ?」
「バーンズだ」
「はいってくれ、ジェイク」
ぼくはドアを開けて、はいり、スーツケースをおいた。部屋には明かりがなかった。コーンは暗闇のなかで、ベッドに、うつぶせになって、横になっていた。
「やあ、ジェイク」
「ぼくをジェイクだなんて呼ぶなよ」
ぼくは戸口に立っていた。ぼくは家に帰ってきたときも、ちょうどこんなだった。いま、ぼくに必要なのは熱い風呂だった。たっぷり湯のある熱い風呂のなかで仰向けに横になることだった。
「バスルームはどこだ?」とぼくはきいた。
コーンは泣いていた。ベッドに顔をつけて泣いていた。プリンストンで着ていたような白いポロシャツを着ていた。
「ごめんよ、ジェイク。どうか許してくれ」
「許せだって、ちえっ」
「頼むから許してくれ、ジェイク」
ぼくはなにも言わなかった。戸口に立ったままだった。
「気が変だったんだ。どんなだったかわかってくれるだろう」
「ああ、気にしてないさ」
「ブレットのことがたえられなかったんだよ」
「君はぼくをポン引き野郎だと言ったじゃないか」
ぼくはどうでもよかった。熱い風呂にはいりたかったのだ。たっぷりある熱い湯にはいりたかったのだ。
「わかった。頼むからそんなことは忘れてくれ。気が変だったんだ」
「そんなことかまわないさ」
彼は泣いていた。声はこっけいだった。暗闇のなかで、ベッドの上に、白いシャツを着、横になっていた、あのポロシャツを着て。
「朝になったら、姿を消すよ」
彼は声も立てずに泣いていた。
「ぼくはブレットのことがたえられなかったんだ。地獄の苦しみだったんだよ、ジェイク。まったく地獄だったんだ。ここでブレットに会ったとき、あれはぼくをまったく知らない男のように扱ったんだよ。まったくたえられなかったんだ。二人で、サン・セバスチアンにいたんだぜ。君も知ってると思うがね。もうたえられないよ」
彼はベッドに横になっていた。
「じゃあ」とぼくは言った。「一風呂あびてくるよ」
「君はぼくの唯一の親友だったんだ。それにぼくはブレットをあんなに愛していたんだ」
「じゃあ」とぼくはいった。「さよなら」
「むだだと思うんだけど」と彼は言った。「本当にむだだと思うんだ」
「なにが?」
「なにもかも。頼むからぼくを許すと言ってくれ、ジェイク」
「もちろん」とぼくが言った。「なんでもないさ」
「ぼくはとても辛かったんだ。地獄の苦しみだったんだよ、ジェイク。これで、すっかりよくなった。すっかり」
「じゃあ」とぼくが言った。「さよなら。いかなきゃあならないんだ」
彼はごろりとねがえって、ベッドのふちに腰かけ、それから、立ちあがった。
「さよなら、ジェイク」と彼はいった。「握手してくれるだろう、ね?」
「もちろん、するとも」
ぼくたちは握手した。暗闇のなかで彼の顔はあまりはっきりとは見えなかった。
「じゃあ」とぼくが言った。「あしたの朝また」
「ぼくは朝になったら、いないよ」
「ああ、そうか」とぼくは言った。
ぼくは外にでた。コーンは部屋の戸口に立っていた。
「だいじょうぶかい、ジェイク?」と彼がきいた。
「ああ」とぼくがいった。「だいじょうぶだ」
ぼくはバスルームがわからなかった。しばらくたって、みつけた。深い石の浴槽があった。栓をひねったが、湯がでてこなかった。浴槽のふちに腰かけた。出ていこうと立ちあがったが、靴をぬいだことに気がついた。靴を探しまわってみつけ、靴を持ったまま、階下までいった。ぼくの部屋をみつけ、なかにはいり、服をぬぎ、ベッドにもぐりこんだ。
朝、頭痛と街路を行く楽隊の音で目がさめた。ぼくはビルの友だちのエドナに牛が街路を通って闘牛場に行くのを見せにつれてゆくと、約束したことを思いだした。服をき、階下におり、冷たい早朝のなかに出た。人々が広場を横ぎり、闘牛場のほうへ急いでいた。広場の向こうでは、切符売場の前で、男たちが二列に並んでいた。七時に売りだす切符をもう待っているのだった。ぼくは急いで街路を横ぎり、カフェにいった。ボーイはお友だちのかたがいらっしゃったが、もうおでかけになった、といった。
「なん人だった?」
「男のかたお二人とご婦人がお一人です」
それでよかった。ビルとマイクがエドナをつれてきたのだ。昨夜、彼女は彼らが酔いつぶれるだろうと心配していたのだ。だから、ぼくが必ず彼女をつれていくということになったのだ。ぼくはコーヒーを飲み、ほかの人たちといっしょに、闘牛場のほうに急いだ。もうグロッキーではなかった。頭痛がするだけだった。なにもかもはっきり鮮明に見え、町は早朝の匂いがした。
町はずれから闘牛場までの道はぬかっていた。闘牛場に通じる柵にそって、ずっと、人々がむらがり、外側のバルコニーや闘牛場の上段は人でぎっしりつまっていた。花火の音がきこえ、牛の入場を見るのに間に合うように闘牛場にはいって行けないことがわかったので、人ごみをかきわけて、柵のところまでいった。ぼくは柵の板にぴったり押しつけられた。牛の通り路の二つの柵のあいだから、警官が人々を追いだしていた。やがて、人々がかけだしてやってきた。酔っぱらいが一人すべって、ころんだ。二人の巡査がその男をつかんで柵のほうへ押しやった。人々の走りかたが早くなっていた。群衆から大きな喚声があがり、板のあいだに首をつっこむと、ちょうど牛が街路から疾走用の長い囲いにはいるのが見えた。牛は早く走り、群衆に追いつきそうだった。ちょうどそのとき、もう一人の酔っぱらいがゆるやかな仕事着を手にもって柵から飛びだしてきた。牛をケープであやつるまねをしようというのだ。警官が二人走ってきて、彼の襟をつかみ、一人が彼を棍棒でなぐり、二人で柵までひきずって行き、最後の群衆と牛が通りすぎるまで、柵にぴたりとからだを押しつけていた。牛の前を走っている人々が非常に多かったので、闘牛場の入口にはいるとき、ますます混雑し、進み方がおそくなった。それで、牛が重い躯で、脇腹を泥だらけにし、角をふりながら、全速力で駈けてきたとき、そのうちの一頭が前方に勢いよく飛びだし、走っている群衆のなかの一人の背中をつかみ、空中につりあげた。角がつきささると、その男の両腕がだらりとたれ、頭ががくりとうしろにそり、牛はその男をつりあげ、それから、落とした。その牛は前を走っているもう一人の男をつかんだが、その男は群衆のなかへ消え、群衆は牛に追われながら、入口から闘牛場にはいった。闘牛場の赤い扉が閉まり、闘牛場の外側のバルコニーの群衆がなかへはいろうと押しあい、喚声がおこり、また喚声があがった。
角で突き刺された男はぐしゃぐしゃにふみ荒された泥んこのなかで、うつぶせになっていた。人々が柵によじのぼり、その男のまわりに人々がぎっしり集まったので、その男の姿は見えなかった。闘牛場のなかから喚声がいく度か聞こえた。どの喚声も牛が群衆に突っこんでいることを知らせていた。喚声のはげしさの程度で、起こっていることのひどさがわかった。それから、花火があがったが、それは去勢牛が雄牛を闘牛場から囲い場へいれたことを知らせるものだった。ぼくは柵を離れ、町のほうへ帰りだした。
町に帰ると、ぼくはも一度コーヒーを飲み、バター・トーストを食べに、カフェにいった。ボーイたちがカフェを掃除し、テーブルを拭いていた。一人がやってきて、注文をきいた。
「|囲い場《エンシエロ》でなにかありましたか?」
「全部は見なかったが。一人が牛にひどく|突かれ《コギド》たよ」
「どこを?」
「ここ」ぼくは片手を腰に、片手を胸においた。角がそこを突き通したように見えたから。ボーイはうなずき、テーブルのパン屑を拭きとった。
「ひどく|突かれ《コギド》たんですね」と彼がいった。「それもまったく面白半分のためにね。まったく楽しみのためにね」
彼は立ち去ったが、把手《とって》の長いコーヒー・ポットとミルクつぎをもって、もどってきた。彼はミルクとコーヒーをついだ。それは長い注ぎ口から二本の流れになって、大きなコーヒー茶碗のなかにそそがれた。ボーイがうなずいた。
「背中をひどく|突かれ《コギド》たんですね」と彼がいった。ポットをテーブルの上におき、その前の椅子に腰をおろした。「大きな角の負傷ですね。それもまったく面白半分のためにね、ほんの面白半分のためにね。あなたはどうお考えですか、お客さん?」
「さあ」
「それなんですよ。まったく面白半分のためにですよ。面白半分ですよ、お客さん」
「君は|闘牛好き《アフィシオナード》じゃあないね?」
「私ですか? 牛なんかなんです? 動物ですよ、畜生ですよ」彼はたちあがって、腰に手をおいた。「背中をね。背中を|突かれた《コルナダ》んですね。面白半分のために――でしょう」
彼は首をふり、コーヒー・ポットをもって行ってしまった。二人の男が街路を通りかかった。ボーイが彼らに呼びかけた。彼らはまじめな顔をしていた。一人が首をふった。「|死んだよ《ムエルト》!」と彼が叫んだ。
ボーイはうなずいた。二人の男は歩いて行った。なにか用事があったのだ。ボーイがぼくのテーブルのところへ来た。
「おききになりました? ムエルト。死んだんです。死んだんですよ。角に突かれて。朝、面白半分にやったばかりにですよ。まったくかわいそうに」
「かわいそうに」
「わたしならいやですね」とボーイがいった。「わたしはそんなこと面白くもないですね」
その日、あとになって、殺された男はヴィセンテ・ジローネスという名で、タファーヤ〔パンプローナの南二十二マイルのスペインの町〕の近くから来たのだということがわかった。翌日、新聞に、彼は二十歳で、農場と、妻と、二人の子供がある、とでていた。彼は結婚後、毎年、祝祭に来ていたのだった。翌日、妻がタファーヤから遺骸をひきとりに来た。そして、その翌日、サン・フェルミンの礼拝堂で葬式があり、柩《ひつぎ》はタファーヤの踊って酒を飲む会の会員たちによって、鉄道の駅まで運ばれた。太鼓が先頭にたち、横笛が鳴り、柩を運ぶ人々のうしろから、妻と二人の子供が歩いた。……彼らのうしろから、パンプローナ、エステーヤ、タファーヤ、サングエサの踊って酒を飲む会員で葬式の日まで滞在できるものが、みんな、歩いていった。柩は汽車の手荷物車に積みこまれ、未亡人と二人の子供は三等の無蓋車にのり、三人いっしょに腰かけた。汽車はがたんといって動きだし、それから、すうっと走りだし、高台のふちの下り坂をまわってくだり、平野の風でなびいている麦畑にで、タファーヤへ向かった。
ヴィセンテ・ジローネスを殺した牛はボカネグラという名で、サンチェ・タベルノの家畜場の一一八号だったが、その同じ日の午後、三頭目の牛として、ペドロ・ロメロに殺された。その耳は観衆の要求で切りとられ、ペドロ・ロメロにあたえられたが、ロメロはそれをブレットにあたえ、ブレットはそれをぼくの持ち物であるハンカチにつつみ、耳もハンカチも、たくさんのムラチの巻タバコの吸いがらといっしょに、パンプローナのホテル・モントーヤの彼女のベッドのわきにあるベッド・テーブルの引き出しの奥のほうにつっこんだままにした。
ホテルにもどると、夜警がドアのなかのベンチに腰かけていた。彼は、夜どおしそこにいたので、すごく眠かったのだ。ぼくがはいっていくと、立ちあがった。同時に、ウェイトレスが三人、はいってきた。彼らは闘牛場の朝のショーにいってきたのだ。笑いながら上にあがっていった。ぼくは彼らのあとから上にあがり、ぼくの部屋にはいった。靴をぬぎ、ベッドに横になった。窓がバルコニーに向かって開いていて、日光が部屋にまばゆかった。ぼくは眠くなかった。ベッドにはいったのは三時半だったにちがいない。そして、楽隊が六時にぼくの目をさましたのだった。ぼくの顎は両側とも痛かった。指でさわってみた。あのコーンのやつめ。あいつは、はじめて侮辱されたときに、相手をなぐって、どこかへ消えてしまえばよかったのだ。ブレットが愛しているものだと確信していたんだ。ねばっていれば、真実の恋はすべてを征服する、と思ってたんだ。だれかがドアをノックした。
「どうぞ」
ビルとマイクだった。彼らはベッドに腰かけた。
「たいした|牛追い《エンシエロ》だった」とビルがいった。「たいした|牛追い《エンシエロ》だった」
「おい、君は行かなかったのか?」とマイクがたずねた。「ベルを鳴らして、ビールをもってこさせろ、ビル」
「なんて朝だ!」とビルがいった。彼は頭をこすった。「おや、おや! なんて朝だ! それに、なつかしいジェイクがここにいる。なつかしいジェイクが、人間の顔をした|吊り袋《パンチング・バッグ》〔ボクシングのパンチをあてる練習をするため、詰め物をして、上からつってある革の袋〕みたいになぐられて」
「場内で、なにがおこったんだ?」
「おや、おや!」とビルがいった。「なにがおこったんだ、マイク?」
「あの牛どもがはいってきたんだ」とマイクがいった。「そのすぐ前に、群衆がいて、だれかがつまずいて、みんなが倒れちゃったんだ」
「それで、牛どもがみんなを真上から踏みつけたんだ」とビルがいった。
「わめき声がきこえたよ」
「それがエドナだったんだ」とビルがいった。
「やつらがつぎつぎに出てきて、ワイシャツを振るんだ」
「一頭の牛が柵《バレラ》〔闘牛が行なわれる砂地を囲んだ、木製の赤くぬった柵〕にそって走りまわり、一人のこらず角にかけたんだ」
「病院に二十人ほど運ばれたよ」とマイクがいった。
「なんて朝だ!」とビルがいった。「警官の野郎が出ていって牛といっしょに自殺しようっていうやつらを捕えていたんだぜ」
「去勢牛が、けっきょく、雄牛をなかへいれたよ」とマイクがいった。
「それに一時間ぐらいかかったぜ」
「ほんとは、十五分ぐらいだった」とマイクが反対した。
「おい、うるさい」とビルがいった。「君は戦争にいっていたからだ。ぼくには二時間半てえとこだったぜ」
「ビールはどうした?」とマイクがたずねた。
「きれいなエドナはどうした?」
「いま宿まで送ってきたところだ。もう寝てるよ」
「たのしんでいたかい?」
「ああ。毎朝あんなふうなんだと話してやったよ」
「感激してたぜ」とマイクがいった。
「おれたちにもリングにおりろといってたよ」とビルがいった。「行動が好きなんだ」
「そんなことしたら、おれの債権者に不公平だろうと言ってやった」とマイクがいった。
「なんたる朝だ」とビルがいった。「それに、なんたる夜だ」
「顎はどうだ、ジェイク?」とマイクがたずねた。
「痛むよ」とぼくがいった。
ビルは笑った。
「なぜ、椅子であいつをなぐりつけなかったんだ?」
「口では言えるけどね」とマイクがいった。「君だって、いたら、ノック・アウトされてただろうよ。おれはあいつがおれをなぐったのは拝見しなかったよ。あいつがすぐ前にいるのが見えたと思ったら、たちまち、おれは街道にすわりこみ、ジェイクがテーブルの下にのびていたんだからね」
「あいつ、あとで、どこへいったんだ?」とぼくはたずねた。
「ああ、きた」とマイクがいった。「美しいおかたがビールをもってきてくれた」
女中がビール壜とコップをのせた盆をテーブルの上においた。
「ビールをもう三本もってきてくれ」とマイクがいった。
「コーンは、ぼくをなぐってから、どこへいった?」とぼくはビルにたずねた。
「知らないのかい?」マイクはビール壜をあけていた。彼はコップのひとつを壜のそばにつけ、ビールをそそいだ。
「ほんとうに?」とビルがたずねた。
「ねえ、あいつは闘牛士の部屋にはいっていき、ブレットと闘牛士のやっこさんを見つけ、そこで、気の毒にも、闘牛士を虐殺しちゃったよ」
「まさか」
「そうなんだ」
「なんたる夜だ!」とビルがいった。
「あいつは気の毒にも、闘牛士のやつを、すんでのとこで殺すところだった。それから、コーンはブレットをつれて行こうとしたんだ。ブレットを正式の妻にしようとしたんだ、と想像するがね。すごくいじらしい光景だったよ」
彼はビールをぐうっと飲んだ。
「あいつはばかだ」
「で、どうなった?」
「ブレットがあいつをとっちめたよ。しかりつけたよ。なかなかよくやったと思うな」
「たしかに、そうだ」とビルがいった。
「すると、コーンが泣きくずれて、闘牛士の野郎と握手しようというんだ。ブレットとも握手しようというんだ」
「うん。あいつはぼくとも握手した」
「そうかい? だけど、二人はそれに応じなかった。闘牛士のやつはなかなかよかった。ろくに口もきかずに立ちあがっては、またなぐり倒されていたよ。コーンはやつをノック・アウトできなかったんだ。さぞこっけいだったことだろうよ」
「どこで、そんなこと、きいたんだ?」
「ブレットさ、けさ、会ったんだ」
「けっきょく、どうなった?」
「闘牛士のやつがベッドにすわっていたようだ。やつは十五回ばかりなぐり倒されても、もっと闘おうというんだ。ブレットが押えて、立ちあがらせようとしなかったんだ。やつは弱かったんだが、ブレットは押さえきれず、やつは立ちあがった。すると、コーンはもうなぐらないというんだ。なぐれないというんだ。いけないことだというんだ。そこで闘牛士のやっこさんはコーンのほうに、いってみればよたよたとむかっていったんだ。コーンは壁のほうに、あとずさりした。
『じゃあ、おれをなぐらないのか?』
『うん』とコーンがいった。『恥を知ってるからな』
そうすると、闘牛士のやつが、あいつの顔を思う存分なぐりつけ、それから床《ゆか》にすわりこんじゃったんだ。立てなかったのよ、とブレットは言ってたよ。コーンはそいつをかついで、ベッドまで運ぼうと思ったんだ。だが、やつは、もしコーンが手をかしたら殺しちゃうし、コーンが町から出なければ、けさにでも殺しちゃう、と言うんだ。コーンは泣いていた。そしてブレットは出ていけと言っていた。あいつは握手をしたがった。これはさっき話したっけね」
「先をつづけろよ」とビルが言った。
「闘牛士のやつが床《ゆか》にすわりこんでたようだ。立ちあがって、コーンをまたなぐるだけの力が回復するのを待っていた。ブレットは握手なんかしようとしなかったし、コーンは泣いて、とても彼女を愛していると言い、彼女のほうはいやらしいばか者になるなとコーンに言ってたよ。するとコーンは身をかがめて闘牛士のやつと握手しようとしたんだ。悪気はなかったんだよ、ね。まったく、許してもらうためなんだ。ところが、闘牛士のやつはあいつの顔をまたなぐったんだよ」
「たいしたやつだなあ」とビルが言った。
「コーンはまいっちゃったんだ」とマイクが言った。「コーンはもう二度とみんなをなぐろうとはしないと思うな」
「いつブレットに会った?」
「けさだ。物を取りにやってきたんだ。あのロメロという男の世話をやいているんだ」
彼はビールをもう一本あけた。
「ブレットはすごく悲観してるんだよ。でも、人の世話をやくのが好きなんだ。だからこそこうして、二人でいっしょににげてきてたわけなんだ。いままでおれの世話をやいていたんだから」
「そうか」とぼくは言った。
「どうも酔っぱらった」とマイクが言った。「酔っぱらったままでいたいよ。まったく、すごく面白いけど、あまりたのしくはないよ。おれはあまりたのしくないよ」
彼はビールを飲みほした。
「おれはブレットに言うだけのことは言ってやったんだよ。ユダヤ人や、闘牛士や、そんなやつらとあるきまわったら、承知しないぞと言ってやった」彼は前にのりだした。「なあ、ジェイク、君のそのビール飲んでもいいかい? 女中が別のを持ってくるよ」
「いいよ」とぼくはいった。「どうせ、ぼくは飲んでいなかったんだから」
マイクは壜をあけはじめた。「あけてくれないか?」ぼくは栓をぬいて、彼についでやった。
「ねえ」とマイクがつづけた。「ブレットはなかなかいいやつだよ。いつでもいいやつだよ。おれは、ユダヤ人や闘牛士や、そんなやつらのことでおそろしいくらいなぐったんだが、なんてブレットが言ったと思う? 『ええ。わたしはイギリスの貴族ととても幸福な生活をおくったわ!』だとさ」
彼は一口飲んだ。
「なかなかよかったね。あいつが称号をもらったアシュレイというやつは船乗りだったんだよ。九代目の準男爵なんだ。家に帰ってきても、ベッドで寝ないんだ。いつもブレットを床《ゆか》の上で眠らせるんだね。しまいには、本当にひどくなって、よくブレットに殺すぞといってたよ。いつも弾丸をこめた、軍用ピストルを抱いて寝たんだ。ブレットはよく、あいつが眠ってしまうと弾丸をぬいたものだ。完全に幸福な生活なんてなかったんだよ、ブレットは。まったくひどいよ。だから、ブレットはなんでも楽しいんだ」
彼は立ちあがった。彼の手はふるえていた。
「おれは部屋にかえるよ。すこし寝てみるから」
彼はほほえんだ。
「祝祭で睡眠不足がすぎたよ。これから行って、うんと寝よう。眠らないなんて、まったくひどいよ。おそろしいくらい、いらいらしちまうからね」
「正午《ひる》にイルーニアで会おう」とビルがいった。
マイクは部屋から出ていった。次の部屋で彼の気配が感じられた。
彼はベルを鳴らすと、女中がやってきて、ドアをノックした。
「ビール半ダースとフンダドール一本、もってきてくれ」とマイクが彼女に命じた。
「|はい、旦那様《シ・セニョール》」
「寝るよ」とビルが言った。「かわいそうにマイクのやつ。昨夜はあいつのことでひどいさわぎだったよ」
「どこで? ミラノという酒場でかい?」
「うん。以前、金を払ってブレットとマイクをカンヌから救いだしてやったというやつがそこにいたんだ。すごくいやなやつでね」
「その話は知ってるよ」
「ぼくは知らなかったな。だれもマイクについちゃあ、とやかく言う資格はないはずだ」
「だからいけないんだ」
「だれも資格はないはずだ。資格がないと地獄に祈るよ。ぼくは寝る」
「だれか闘牛場でころされた?」
「殺されなかったろう。ただすごい怪我をしたよ」
「場外の牛の通り道で、一人殺された」
「そうか?」とビルがいった。
第十八章
正午にはぼくたちはみなカフェに集まっていた。そこは混んでいた。ぼくたちは小エビを食べ、ビールを飲んでいた。町は混雑していた。どの街路も混んでいた。ビアリッツやサン・セバスチアンから大きな自動車がひっきりなしに、やってきて、広場のまわりに駐車していた。闘牛見物の人々をのせてくるのだ。観光バスもやってきた。イギリスの女を二十五人ものせたのがあった。彼らは大きな白い車にのって、望遠鏡で祝祭を見ていた。踊り手たちはみんなすっかり酔っていた。祝祭の最後の日だった。
祝祭は絶えず続いていたが、自動車や観光バスは見物人のちょっとした島になっていた。自動車がからになると、見物人は人ごみに吸いこまれた。彼らはぎっしりつまった黒いスモックをきた百姓たちの群れにはいると、テーブルに向かって異様に見えるスポーツ着の姿として目につくだけだ。祝祭はビアリッツからのイギリス人をも吸収してしまい、テーブルのすぐ近くを通らないかぎり、見あたらなくなる。街路には、しょっちゅう、音楽がきこえる。太鼓がひっきりなしに鳴りひびき、笛がきこえる。カフェのなかでは男たちが、テーブルや、お互いの肩を、つかんで、どら声で歌っていた。
「ブレットがきた」とビルがいった。
見ると、彼女は広場の人ごみのなかを、祝祭が彼女のために催され、彼女がそれを楽しく面白いと思っているかのように、頭を高くあげ、歩いてきた。
「まあ、みなさん!」と彼女はいった。「ねえ、わたし喉がかわいたわ」
「ビールの大きいやつをもう一杯もってきてくれ」とビルがボーイにいった。
「小エビは?」
「コーンは行っちゃったの?」とブレットがたずねた。
「ああ」とビルがいった。「車をやとってね」
ビールがきた。ブレットはガラスのジョッキをもちあげようとしたが、その手がふるえた。彼女はそれを見て、ほほえみ、前かがみになって、ぐっと一口飲んだ。
「いいビールねえ」
「とてもいい」とぼくはいった。ぼくはマイクのことが気がかりだった。彼は眠らなかったようだ。ずうっと飲み続けていたに違いないが、自制しているように見えた。
「コーンがあなたに怪我させたんですってね、ジェイク」とブレットがいった。
「いや、ぼくをノック・アウトしたんだ。それだけさ」
「ねえ、あのひとペドロ・ロメロに怪我させたのよ」とブレットがいった。「とてもひどい怪我だわ」
「で、どんなぐあい?」
「もう、だいじょうぶよ。部屋から出ようっていわないの」
「みにくい顔にでもなったかい?」
「ひどい顔よ。ほんとに怪我したのよ、ちょっとあなたがたに会ってくるといって、出てきたのよ」
「闘牛やるのかね?」
「もちろん、やるわ。わたし、よければ、あなたがたといっしょに行くわ」
「君のボーイ・フレンドはどうした?」とマイクがたずねた。彼はブレットの言ったことをなにも聞いていなかったのだ。
「ブレットは闘牛士をものにしたよ」と彼がいった。「コーンという名のユダヤ公がいたが、けっきょく、うまくいかなかった」
ブレットは立ちあがった。
「あなたから、そんないやらしいこと、ききたくないわ、マイケル」
「ボーイ・フレンドはどうした!」
「すごく元気」とブレットがいった、「きょうの午後、見ててごらんなさい」
「ブレットは闘牛士をものにしたよ」とマイクがいった。「美男子のすごい闘牛士だ」
「わたしとそこまで散歩しない? 話があるのよ、ジェイク」
「きさまの闘牛士のことをすっかり話してやれよ」とマイクがいった。「ああ、きさまの闘牛士なんて、くそくらえ!」彼はテーブルをひっくりかえした。ビールと小エビの皿が粉々になった。
「さあ」とブレットがいった。「出ましょう」
混雑した広場を横ぎりながら、ぼくはいった。「どうしたんだ?」
「昼食後は、闘牛まで、あのひとには会わないのよ。お世話する人たちがやってきて、服を着せるの。みんながわたしのことを怒っていると、あのひと言うのよ」
ブレットは輝いていた。彼女は幸福だった。太陽が出て、晴ればれした日だった。
「わたしはすっかり変わったような気分よ」とブレットがいった。「あなたにはわからないわ、ジェイク」
「なにかしてほしいことある?」
「なんにもないわ。ただ、わたしといっしょに闘牛にいって」
「昼食で会おうか?」
「だめ。あのひとといっしょに食べるのよ」
ぼくたちはホテルの入口のアーケードの下に立っていた。ボーイたちがテーブルを運びだし、アーケードの下に並べていた。
「公園のほうに行ってみない?」とブレットがたずねた。「まだ部屋にいきたくないのよ。あのひと眠っていると思うわ」
ぼくたちは劇場の前を通り、広場をでて、市場の掘立小屋のあいだを通り、人ごみにもまれながら、両側に露店がならんでいるところを通りぬけた。パセオ・デ・サラサーテに通じる十字路に出た。大勢の人がそこを歩いているのが見えた。みんな流行の服を着ていた。公園の向こうのはずれでひきかえした。
「あそこへ行くのはやめましょう」とブレットがいった。「いま、じろじろ見られたくないわ」
ぼくたちは日向にたたずんだ。雨あがりで、海から来た雲も晴れ、暑く、よい天気だった。
「風がおさまればいいんだけど」とブレットがいった。「あのひとには、とても悪いのよ」
「ぼくもそう思うよ」
「牛はだいじょうぶだ、というのよ」
「牛はいいやつだからね」
「あれ、サン・フェルミン?」
ブレットは教会堂の黄色い壁を見た。
「ああ、あそこから日曜に行列が出たんだ」
「はいってみましょうよ。かまわないでしょう? あのひとのために、ちょっとお祈りかなにか、してみたいの」
ぼくたちは重い革張りの扉からはいっていったが、扉は非常に軽く動いた。なかは暗かった。大勢の人が祈っていた。眼が薄暗さになれると、彼らが見えた。ぼくたちは長い木のベンチに向かってひざまずいた。しばらくすると、ブレットがぼくのわきでからだをこわばらせているのが感じられ、まっすぐ先を見ているのが目についた。
「行きましょう」と彼女がしわがれた声でつぶやいた。「出ましょう。ひどくいらいらしちゃうわ」
外の、ぱっと明るく暑い街路に出ると、ブレットは風にそよぐ梢《こずえ》を見あげた。祈りはあまり成功しなかったのだ。
「教会でどうしてあんなにいらいらしたのか、わからないわ」とブレットがいった。「ご利益《りやく》のあったためしがないのよ」
ぼくたちは歩きつづけた。
「わたし、宗教的な雰囲気には、まるでだめなの」とブレットがいった。「わたしの顔がいけないのね」
「ねえ」とブレットがいった。「わたし、あのひとのこと、ちっとも気にしちゃあいないのよ。ただ、あのひとのことで幸福なのよ」
「いいね」
「でも、風がおさまってほしいわ」
「五時にはおさまるだろう」
「そう願いたいわ」
「祈ったらどう」ぼくは笑った。
「ご利益のあったためしがないのよ、祈りがかなえられたためしがないのよ、あなたはある?」
「ああ、あるよ」
「まあ、ばからしいわ」とブレットがいった。「でも、ご利益のあるひともいるのね。あなたはたいして信心ぶかそうにも思えないけど、ジェイク」
「ぼくはかなり信心ぶかいんだぜ」
「まあ、ばからしいわ」とブレットがいった。「きょうになって、改宗しはじめてもだめよ。それでなくても、きょうはひどくなりそうなのよ」
彼女がコーンと逃げてから、以前のようにこんなに幸福でのんきな様子を見るのは、これがはじめてだった。ぼくたちはホテルの前にまたもどってきた。テーブルはすっかり並べられ、いくつかのテーブルはもう食事をしている人で占められていた。
「マイクに気をつけてね」ブレットがいった。「あんまりひどいことさせないでね」
「お友だちは、上に、あがりました」とドイツ人のヘッドウェイターが英語でいった。彼はたえず立ち聞きをする男だった。ブレットは彼のほうに向きなおった。
「どうも、ありがとう。なにかほかに教えてくれることない?」
「いいえ、奥さま」
「そう」とブレットがいった。
「三人分のテーブルをとっといてくれ」とぼくはそのドイツ人にいった。彼は例のいやらしいピンクと白の微笑をちょっとうかべた。
「奥さまはここで召しあがりますか?」
「いいえ」とブレットがいった。
「では、お二人分のテーブルでたくさんでしょう」
「このひとには話しかけないでね」とブレットがいった。「マイクは気が転倒してるにちがいないわ」と彼女は階段でいった。ぼくたちは階段でモントーヤとすれちがった。彼はおじぎをしたが、ほほえまなかった。
「カフェでまたね」とブレットがいった。「いろいろと、ありがとう、ジェイク」
ぼくたちはぼくたちの部屋のある階で立ちどまった。彼女は廊下をまっすぐ行き、ロメロの部屋にはいった。彼女はノックしなかった。いきなりドアをあけ、なかへはいり、ドアをしめた。
ぼくはマイクの部屋のドアの前に立ち、ノックした。答えはなかった。ノブに手をかけると、開いた。部屋のなかはすごくちらばっていた。カバンはみんな開けっぱなしで、衣服があたりに散らかっていた。ベッドのわきには空壜がころがっていた。マイクはベッドの上に横になって、デス・マスクのような顔をしていた。彼は眼をあけ、ぼくを見た。
「ああ、ジェイク」と彼はすごくゆっくりいった。「ちょっ と ねてたんだ。ずいぶん前から ちょっ と ねた かったんだ」
「毛布をかけてやろう」
「いや。あったかいよ」
「行くなよ。おれはまだねむ らな くったっていいんだ」
「ねむれよ、マイク、心配するな」
「ブレットが闘牛士をものにしたんだ」とマイクがいった。「あいつのユダヤ人はいっちゃったんだけど」
彼はふりむいて、ぼくを見た。
「いいことだよ、ねえ?」
「ああ。さあ、ねむれよ、マイク、すこしねなきゃあだめだ」
「いまねる ところだ。ちょっと ねるよ」
彼は眼をとじた。ぼくは部屋をで、静かにドアをしめた。ビルがぼくの部屋で新聞を読んでいた。
「マイクにあった?」
「ああ」
「食いに行こう」
「あのドイツ人のヘッドウェイターのいる下じゃ食いたくない。マイクを上につれていったとき、やつはひどく生意気だった」
「あいつはぼくたちにも生意気なんだ」
「町に出ていって、食おう」
ぼくたちは階段をおりた。階段で、お盆におおいをかけて、もってあがってくる女中にあった。
「ブレットの昼食だ」ビルがいった。
「それから、あの子供のだ」とぼくがいった。
外のアーケードの下のテラスで、ドイツ人のヘッドウェイターがやってきた。赤く頸が光っていた。彼は丁寧だった。
「お二人さまのテーブルをとってあります」と彼がいった。
「あんたがそこに行って、かけるんだね」とビルがいった。ぼくたちはどんどん行って、街路を横ぎった。
ぼくたちは広場から離れた横町のレストランで食事をした。レストランで食事をしているのは男たちばかりだった。煙と酒と歌でいっぱいだった。食事はよく、ワインもよかった。ぼくたちはあまりしゃべらなかった。食後、カフェに行き、祝祭が沸騰点に達するのをじっと見まもった。昼食後すぐブレットがやってきた。彼女は部屋をのぞいたが、マイクはねむっていた、といった。
祝祭が沸騰して、闘牛場のほうに向かったとき、ぼくたちは群衆といっしょに、いった。ブレットはビルとぼくのあいだの最前列の席に腰をおろした。ぼくたちの真下に、カリェホン、すなわち、スタンドと赤い柵《バレラ》のあいだの通路があった。うしろのコンクリートのスタンドはぎっしりと人でうずまっていた。赤い柵の向こうの、前方には、闘牛場の黄色い砂がなだらかにならされていた。雨のため、すこし重そうだったが、日が出て、乾き、硬く、なだらかだった。剣使いや闘牛場の従業員が闘牛のケープやムレタ〔サージやフランネルのハート形の赤い布。竿につけて、振り、牛を疲れさせるためのもの〕のはいった籐のバスケットを肩にしょって、カリェホンを通ってやってきた。ケープやムレタは血痕がついていて、きちんとたたんで、バスケットにいれてあった。剣使いが重い革の剣箱をあけると、柵に立てかけてあった革の剣箱から、束になった剣の赤く巻いた柄が見えた。彼らは黒ずんだ血痕のついた赤いフランネルのムレタをひろげて、それをひろげたり、闘牛士がもつために、それに棒をつけた。ブレットはそれをすっかり見まもっていた。彼女は専門的な細かなことに心を奪われていた。
「あのひと、ケープにもムレタにも、みんな、名前を型紙で刷りこんであるのよ」と彼女がいった。「なぜ、あれ、ムレタっていうの?」
「わからないな」
「洗濯するのかしら?」
「しないだろう。色がおちるからね」
「血で、きっと、こわばってるんだろうね」とビルがいった。
「おかしいわ」とブレットがいった。「だれも血を気にしないんですもの」
下のカリェホンの狭い通路で、剣使いたちがいろいろな準備をした。どの席もいっぱいだった。上のボックスもみんないっぱいだった。会長のボックスのほかは、あいている席はひとつもなかった。彼がはいってくると、闘牛がはじまるのだった。ならされた砂の向こう、囲い場に通じる高い入口のところに、闘牛士たちが立って、腕をケープのなかに巻きこみ、なにか話しながら、闘牛場に進みでる合図を待っていた。ブレットは望遠鏡で彼らを見まもっていた。
「さあ、あなたも見たいでしょう?」
望遠鏡で見ると、三人の闘牛士《マタドール》がみえた。ロメロがまんなかで、ベルモンテ〔ジュアン・ベルモンテという闘牛士が実在した〕がその左に、マルシアル〔当時マルシアル・ラランダという闘牛士が実在した〕がその右にいた。彼らのうしろに、介添えがいて、バンデリリェロ〔闘牛士に雇われていて、その命令で、ケープで牛を走らせ、槍を牛に突きさす役の男〕のうしろに、通路の奥や、囲い場の広い場所に、|突き手《ピカドール》がいた。ロメロは黒い服装だった。三角帽を目深にかぶっていた。帽子の下で顔がはっきりとは見えなかったが、ひどく痕がついているようだった。彼はまっすぐ前を見ていた。マルシアルは手に巻タバコをもって、用心ぶかく、ふかしていた。ベルモンテは前方を見ていたが、顔はやつれて黄色く、狼のような長い顎をつきだしていた。彼はなにも見ていなかった。彼もロメロも、ほかのものと共通なものを、なんにももっていないように思われた。彼らはまったく孤独だった。会長がはいってきた。頭上の特別観覧席に拍手がおこった。ぼくはブレットに望遠鏡をわたした。喝采がおこった。音楽がはじまった。ブレットは望遠鏡を見た。
「さあ、見てごらんなさいよ」と彼女がいった。
望遠鏡で見ると、ベルモンテがロメロに話しかけていた。マルシアルはからだをまっすぐにのばし、巻タバコをすて、三人の闘牛士は、まっすぐ前方を見、頭をそらせ、手はなにももたずにふりながら、歩みでた。そのうしろから、全員が行進して、左右にひろがり、みんな大またで歩き、ケープをたたみ、みんな、なにももたずに腕をふりながら、出てきた。そのあとから|突き手《ピカドール》が矛《ほこ》を槍のように立てて、馬にのってきた。これらのあとから、二列になった騾馬と闘牛場の従業員がつづいた。闘牛士は会長のボックスの前で、帽子をかぶったまま、おじぎをして、それから、ぼくたちの下の柵《バレラ》のほうにやってきた。ペドロ・ロメロは金糸でかざった重いケープをぬぎ、柵の向こうの剣使いに渡した。彼は剣使いになにか言った。ぼくらのすぐ下で、ロメロの唇がふくらみ、両の眼が変色していた。顔も変色し、はれあがっていた。剣使いがケープをうけとり、ブレットを見あげ、ぼくたちのほうにやってきて、ケープをさしだした。
「君の前にひろげとけ」とぼくがいった。
ブレットはからだをのりだした。ケープは金の飾りで重く、なめらかにこわばっていた。剣使いはふりかえり、首をふって、なにか言った。ぼくのわきの男がブレットのほうにからだをのりだした。
「それをひろげてもらいたくないんだよ」と彼がいった。「たたんで、膝にのせておきなよ」
ブレットは重いケープをたたんだ。
ロメロはぼくたちのほうを見あげなかった。彼はベルモンテに話しかけていた。ベルモンテも自分の儀式用のケープを友だちに渡してあった。彼は友だちのほうを見て、ほほえんだ。例の口だけでやる狼のようなほほえみだった。ロメロは柵《バレラ》のうえに身をのりだし、水差しをくれといった。剣使いがそれをもってくると、ロメロは闘牛用の密織の布のケープに水をかけ、かかとの浅い靴をはいた足で、その裾を砂のなかで踏みつけた。
「あれはなんのためなの?」とブレットがたずねた。
「風のなかで、重くするためなんだ」
「顔色が悪いぜ」とビルがいった。
「気分がとても悪いのよ」とブレットがいった。「ベッドでやすんでいなきゃあいけないのよ」
最初の牛はベルモンテのだった。ベルモンテは非常に上手だった。しかし、彼は三万ペセタもらっているのだし、人々は彼を見るために切符を買おうと夜どおし行列していたのだから、観衆は彼に非常にじょうずである以上のことを要求した。ベルモンテの大きな魅力は牛に近づいて闘うことだった。闘牛には、牛の領分と闘牛士の領分というものがある。闘牛士は自分の領分にとどまっているかぎり、比較的安全だ。牛の領分にはいるたびに、非常な危険にさらされる。ベルモンテは全盛期には、いつも、牛の領分で闘った。このようにして、彼は悲劇が来るという感動を人々に味わわせた。人々はベルモンテを見、悲劇的な感動を味わい、もしかしたら、ベルモンテの死ぬのを見ようと、闘牛《コリダ》へいった。十五年前には、ベルモンテを見たければ、彼が生きているうちに、急いで行かなければならないと、よく言われた。そのときから、彼は牛を千頭以上も殺した。引退したとき、彼の闘牛がどんなだったかという伝説が生まれた。引退から復帰したとき、大衆は、現実では、どんな男でも、もちろん、ベルモンテでも、ベルモンテがやったと伝説で考えられていたほど、牛の近くで闘えはしなかったので、失望した。
それに、ベルモンテは条件がうるさく、牛は大きすぎてはいけないとか、あまり危険な角がついていてはいけない、と主張した。それで、悲劇の感動を味わうに必要な要素がなくなり、大衆は、ベルモンテがかつてあたえることのできた感動の三倍もの感動を、瘻《ろう》を病んでいるベルモンテに要求して、だまされ、ごまかされたと感じた。そこで、ベルモンテの顎は大衆を軽蔑して、さらに突きだし、顔はさらに黄色くなり、苦痛が増すにしたがって、ますます動作が困難になり、とうとう、観衆は積極的に彼に反感をもち、彼のほうでは、観衆をまったく軽蔑し、彼らに無関心になった。彼はすばらしい午後をすごそうと思っていたのに、それどころか、嘲笑と、大声の侮蔑と、ついには、クッションや、パン切れや野菜の攻撃の午後になってしまった。それらはかつては大勝利を収めた闘牛場で彼をめがけてなげつけられたものだ。彼の顎はさらにつきだしたにすぎなかった。ときどき、彼は、とくにひどく侮辱されたことをいわれると、歯をむきだし、顎をながくのばし、唇はうごかさずに、例のほほえみをうかべ、ちょっとでも動くとおこる痛みがたえず次第にひどくなり、ついには黄色い顔が羊皮紙の色になり、第二の牛が死に、パンやクッションがなげつけられなくなり、あの同じ狼の顎のようなほほえみをうかべ、嘲笑にみちた眼差しで会長に挨拶し、剣をふいて、その箱に入れてもらうために柵《バレラ》の向こうに渡し、彼はカリェホンを通り抜け、ぼくたちの下の柵によりかかり、頭を腕にのせ、見もせず、ききもせず、ただ痛みに耐えていた。最後に彼は顔をあげて、水を一杯もとめた。ちょっと飲んで、口をゆすぎ、水を吐きだし、ケープをとり、闘牛場にもどっていった。
観衆はベルモンテに反感をもっていたので、ロメロに味方していた。彼が柵《バレラ》をはなれ、牛のほうに向かった瞬間から、彼らは彼に喝采した。ベルモンテもロメロを見つめた。いつも見ないふりをして、見つめていた。彼はマルシアルには注意を払わなかった。マルシアルのことは、彼はなんでも知りつくしているようなものだった。彼はマルシアルと競争するために復帰したのだ。前から、競争には勝つとわかっていたからだ。彼はマルシアルや闘牛の頽廃期のほかの闘牛士と競争しようと期していた。彼自身の闘牛の誠実さが頽廃期の闘牛士の偽りの美学と区別されるであろうから、自分は闘牛場に出さえすればいいと考えたのだ。彼の復帰はロメロによっていためつけられた。ロメロは、彼、ベルモンテがいまではときどきしかだせないものを、いつも、すらすらと、冷静に、うつくしく、やってのけた。観衆はそれを感じた。ビアリッツからきた人々や、アメリカの大使までも、しまいにはそれがわかった。それは、ひどい角の傷をうけたり殺されたりするにすぎないから、ベルモンテはやろうとしない競争だった。ベルモンテはもう大したことはなかった。もう闘牛場ではあのすばらしい瞬間などはもてなかった。すばらしい瞬間などもてるとは確信がなかった。昔とはことが違って、いまは、生命がひらめきとしてしかあらわれなかった。牛にたいしては昔のようにすばらしいひらめきをみせたが、それらは無価値だった。自動車からおりて、柵によりかかり、友人の牛の飼育人の牧場の牛の群れをみわたし、安全そうな牛を選びだしたのだから、前もって、その価値を割引していたのだ。だから、彼は大した角もない、小さな、ぎょしやすい牛を二頭相手にし、すばらしさが、ふたたび、彼がいつも感じている痛みをとおして、わずかながら感じられても、そのすばらしさは前もって割引かれ、売られていたので、彼をいい気持にしなかった。それはすばらしかったが、もはや闘牛を彼にとってすばらしいものにはしなかった。
ペドロ・ロメロはすばらしかった。彼は闘牛を愛し、思うに、牛を愛し、思うにブレットを愛した。自由にやりうる術はなんでも、その午後ずっと、彼女の面前でやった。一度も目をあげなかった。このようにして、技を強調し、彼女にたいしてばかりでなく、彼自身のためにもそうしたのだ。気に入られたかどうか知ろうと目をあげなかったから、自分の内部の心のためにやったことになり、それが、彼を強くし、しかも彼女のためにもやったわけであった。しかし、損をして彼女のためにやったわけではなかった。その午後ずっと、その行いによって得をしたのだ。
彼の最初の「キーテ〔牛に危険にさらされた男から牛を引き離すこと〕」はぼくたちの真下で行なわれた。三人の闘牛士《マタドール》は牛が|突き手《ピカドール》に襲いかかるたびに、順番に牛を相手にした。ベルモンテが最初だった。マルシアルが二番目だった。それから、ロメロだった。三人は馬の左側に立っていた。突き手は帽子を目深にかぶり、矛の柄を鋭く牛に向け、拍車をかけ、かけたままで、左手に手綱をしめ、馬を牛のほうへ歩みよらせた。牛はじっと見ていた。見たところ、牛はその白い馬を見ていたが、実際は、矛の三角形の鋼鉄の先をみつめていた。ロメロがじっと見ていると、牛が頭をまわしはじめた。牛は襲いかかろうとしなかった。ロメロはケープをひらめかして、その色が牛の眼につくようにした。牛は反射的に襲いかかり、襲いかかって、色のひらめきではなく、白馬に気づいた。と、男は馬の上からからだをのりだし、長いクルミ材の柄の鋼鉄の先を牛の肩のもりあがった筋肉につきさし、矛を軸に馬を横ざまに走らせ、牛に傷をあたえ、牛の肩に鉄を刺しこみ、ベルモンテのために、牛に血をださせた。
牛は鉄を刺しこまれても、それにはこだわらなかった。ほんとうに馬に向かう気はなかったのだ。牛が向きを変えると、三人は別れて、ロメロは彼のケープで牛を引きはなした。彼は牛をやわらかに、すらすらと、引きはなし、それから、とまって、牛にまっこうから立ち向かい、ケープをみせた。牛の尾が立ち、襲いかかると、ロメロは牛の前で腕を動かし、くるくるまわしながら、足をふんばっていた。しめって、泥で重くなったケープがぱっと開いて、帆のようにふくらみ、ロメロは牛のまん前でそれを軸にして、まわった。やりすごすと、また向きあった。ロメロはほほえんだ。牛がまたそれを望んだ。ロメロのケープはまたふくらんだ。こんどは反対側だった。牛を間近にやりすごすたびに、男と、牛と、牛の前にふくらんでまわるケープは輪郭のはっきりしたひと塊だった。まったく悠々と整っていた。彼が牛をあやして眠らせているようなものだった。彼はそのようにヴェロニカ〔ケープで牛をやりすごすこと〕を四度やり、最後にケープを半分まわし、背を牛に向け、喝采のほうにやってきて、片手を腰にあて、腕にケープをかけた。牛は彼の背中が遠ざかるのをじっと見ていた。
自分の受けもっていた牛にたいして、彼は完璧だった。最初の牛は目がよく見えなかった。最初二度ケープをまわしてから、ロメロは視力がどんなにひどくそこなわれているか正確にわかった。彼は相手にあわせて闘った。すばらしい闘牛ではなかった。ただ、完璧な闘牛だった。観衆は牛をかえるよう要求した。大騒ぎになった。おびきよせるものが見えない牛では、あまりよい演技はおこなえなかったが、会長は牛をかえるよう命令しなかった。
「どうしてかえないの?」とブレットがたずねた。
「牛の代金を払ったんだよ。金をむだにしたくないんだ」
「ロメロにはあまりありがたくないわね」
「よく見てごらん、色の見えない牛をどう扱うか」
「そんなの、わたし、見たくないわ」
それは、やっている人をいくらかでも好きなら、見ていて面白いことではなかった。ケープの色やムレタの赤いフランネルの見えない牛が相手では、ロメロは自分のからだで牛を納得させなければならなかった。牛が彼のからだを見つけ、それに向かって突進してくるように、近づいて行き、それから、牛の襲撃をフランネルに転換させ、古典的なやりかたで、最後にやりすごさなければならなかった。ビアリッツから来た人々はそれを好まなかった。彼らはロメロがこわがっているのだと思い、そのため牛の襲撃を彼のからだからフランネルに移動させるたびに、ちょっと横に寄るのだ、と考えた。彼らは、ベルモンテがかつての自分のやり方を模倣したり、マルシアルがベルモンテを模倣するほうを好んだ。ぼくたちのうしろの列にビアリッツから来た男が三人いた。
「なぜ牛をこわがってるんだろう? あの牛はのろまで、布のあとばかり追っかけまわしてるのに」
「若い闘牛士だからだよ。まだ技術を習得してないんだ」
「でも、さっきのケープはうまいと思ったが」
「たぶん、いまは、びくびくしてるんだ」
闘牛場のまんなかでは、ロメロが、まったく一人で、同じことをくりかえし、牛にはっきり見えるように近づくまで行き、からだをさしだし、さらに、もうすこし近くまでからだをさしだし、ぼんやりながめている牛に、あんまり近いので、相手を捕えたと思わせ、またからだをさしだし、ついに牛に襲撃させ、それから、角が来る寸前に、赤い布を牛にあたえ、ほとんど眼に見えないほどわずかからだをぐいと引くのだが、これがビアリッツの闘牛マニアの批評眼をひどくそこなったのだ。
「さあ、とどめをさすよ」とぼくはブレットにいった。「牛はまだ強い。疲れきってないんだよ」
闘牛場のまんなかで、ロメロは牛の前で横向きになり、たたんだムレタのなかから剣を引きぬき、爪先立って、刃を一通りずっとながめた。ロメロが攻撃すると、牛も襲撃した。ロメロの左手はムレタを牛の鼻面の上に落として、牛をめくらにし、左肩は剣をつきさすときに、角のあいだにはいり、一瞬、彼と牛が一体になり、ロメロは、剣の柄が牛の肩のあいだにはいっているところに、右腕を高くのばし、牛の上にまたがるようにみえた。それから、その姿勢がくずれた。ロメロがはっきりと別れるとき、ちょっと揺れ、それから彼は片手をあげ、牛と向かいあって立ち、ワイシャツを袖の下から裂き、白く風になびかせ、牛は肩に赤い剣の柄をしっかり刺され、ひたいをうなだれ、脚は動かなくなった。
「そら、倒れるぞ」とビルがいった。
ロメロは牛によく見えるくらい近くにいた。彼は手をあげたまま、牛に話しかけた。牛は力をふりしぼり、それから、頭を前につきだし、ゆっくりと、やがて、急に、倒れ、四肢を宙に浮かせた。
係りが剣をロメロに渡すと、ロメロは刃を下にして、持ち、ムレタをほかの手に持って、会長のボックスの前まで進み出て、一礼して、からだをのばし、柵《バレラ》のところへ来て、剣とムレタを手渡した。
「悪い牛だ」と剣持ちがいった。
「汗をかいたよ」とロメロがいった。彼は顔をふいた。剣持ちは水差しを渡した。ロメロは唇をぬぐった。水差しから飲むと口が痛んだ。彼はぼくたちのほうを見あげなかった。
マルシアルにはすばらしい日だった。人々はロメロの最後の牛がはいってきても、まだマルシアルに喝采していた。はいってきた牛は、けさ、闘牛場にくるとき、走りだしてきて、人を殺したやつだった。
ロメロが最初の牛と闘っているあいだ、彼の傷ついた顔は非常に目立った。彼が何をしてもそれは目立った。目のよく見えない牛を相手に、面倒なほど細かな芸を見せるための精神の集中が、それを目立たせた。コーンとの争いは彼の精神には影響がなかったが、顔はなぐられ、からだは傷ついていたのだ。彼は、いま、それをすっかり、ぬぐい去ろうとしていた。この牛を相手に彼がすることは、みんな、それをすこしずつ、きれいにぬぐい去った。それはいい牛で、大きな牛だった。角が立派で、すぐさま、確実に、向きを変え、ふたたび襲いかかってきた。ロメロの望みどおりの牛だった。
ムレタでの作業がおわって、とどめをさそうとしても、観衆は彼につづけさせた。彼らはまだ牛を殺してもらいたくなかった。終わりにしたくなかったのだ。ロメロはつづけた。それは闘牛のひとつの過程のようなものだった。なんべんも牛をやりすごすが、それを彼はひとつに結びあわせ、すべてを完全なものにし、すべてをゆっくりとした、壮厳な、なだらかなものにした。ごまかしたり、煙にまいたりすることはなかった。粗雑なところがなかった。牛をやりすごすたびに、それが頂点にたっし、観客に急に心の痛みをおぼえさせた。観衆はそれがかりにも終わることを望まなかった。
牛は殺されるとき、四肢でふんばったが、ロメロはぼくたちのすぐ下で殺した。彼は最後の牛に強いられて仕方なく殺したのではなく、殺したいので、殺したのだ。彼は牛の真正面で横向きになり、ムレタのたたんだなかから剣を引きぬき、刃を一通りずっとながめた。牛は彼をじっと見ていた。ロメロは牛に話しかけ、牛の脚の一つをたたいた。牛は襲いかかったが、ロメロはムレタを低くかまえ、刃をずっと見渡し、足をふんばって、その襲撃を待っていた。それから、一歩もふみださずに、彼は牛と一体になり、剣を牛の肩のあいだに高くつきさし、牛は低く振られたフランネルのあとを追い、ロメロがあざやかに左にからだを傾けたとき、フランネルは消え、そして、すべては終わった。牛は前進しようとしたが、脚が動かなくなり、からだを左右にゆらし、ためらい、それからひざまずき、ロメロの兄が彼のうしろからからだをのりだし、牛の首の角の根元に、短いナイフをつきさした。はじめは失敗した。彼はふたたびナイフをつきさし、牛は倒れ、ぴくぴくひきつって、かたくなった。ロメロの兄は片手に牛の角を片手にナイフをもって、会長のボックスを見あげた。ハンカチが闘牛場一面に波うっていた。会長はボックスから見おろし、ハンカチをふった。ロメロの兄は死んだ牛から鋸《のこぎり》の歯のようにぎざぎざの黒い耳を切りとり、それをもってロメロのほうへ走っていった。牛は砂の上に、重く、黒く、横たわっていた。少年たちが闘牛場のほうぼうから牛のほうに駈けてきて、そのまわりを小さくとりまいた。彼らは牛のまわりで踊りはじめた。
ロメロは兄から耳をうけとり、それを会長のほうにさしだした。会長が会釈すると、ロメロは人々の先頭にたって駈けだし、ぼくたちのほうにやってきた。彼は柵《バレラ》にのびあがって、耳をブレットにあたえた。彼はうなずき、ほほえんだ。人々は彼をとりまいた。ブレットはケープを差し出した。
「気にいったでしょう」とロメロが叫んだ。
ブレットはなにも言わなかった。二人は顔を見あわせ、ほほえんだ。ブレットは手に牛の耳をもっていた。
「血がつかないようにして」とロメロがいって、にやりと笑った。集まった人々は彼を自分たちのものにしたがった。数人の少年が、ブレットに向かって叫んだ。集まったのは少年や、踊り手や、酔っぱらいだった。ロメロはふりかえり、人々の群れのなかを通りぬけようとした。彼らは彼をとりかこみ、胴あげして、肩にかつごうとした。彼は反抗して、身をもがいて逃げ、彼らのまんなかを、出口に向かって、走りだした。人々の肩にのせられたくなかったのだ。だが、彼らは彼をつかまえ、胴あげした。気持のよいものではなく、彼は足をひろげていたが、からだがいたかった。彼らは彼を胴あげして、みんなで出入口のほうに走っていった。彼はだれかの肩につかまっていた。弁解でもするように、ぼくたちのほうを見まわした。群衆は駈けながら、彼をかついで、出入口から出ていった。
ぼくたち三人はホテルにもどった。ブレットは上にあがった。ビルとぼくは下の食堂で腰をおろし、かたゆでの卵を食べ、ビールを数本飲んだ。ベルモンテが外出着をきて、マネージャーとほかに二人の男といっしょに、おりてきた。彼らは隣のテーブルに向かい、食べた。ベルモンテはほんのわずかしか食べなかった。彼らは七時の汽車でバルセロナ〔スペイン北東部の地中海に面した港町〕にたつはずだった。ベルモンテはブルーの縞のワイシャツと黒のスーツをき、半熟の卵を食べた。ほかの人はたくさん食事をとった。ベルモンテはしゃべらなかった。ただ質問に答えただけだった。
ビルは闘牛のあとで疲れていた。ぼくもそうだった。二人とも闘牛に夢中になりすぎたのだ。すわって、卵を食べ、ぼくはテーブルに向かっているベルモンテと連れの男をみていた。彼といっしょの男は頑丈にみえ、商人のようだった。
「カフェに行こう」とビルがいった。「アブサンがのみたいんだ」
祝祭の最後の日だった。外はまた曇りはじめていた。広場は人でいっぱいで、花火の名人が今夜のために仕掛花火をつくり、ブナの枝をそれにかぶせていた。少年たちがそれを見物していた。ぼくたちは長い竹の筒をとりつけた花火《ロケット》の打揚場の前を通った。カフェの外は、すごい人出だった。音楽と踊りが行われていた。巨人と小人《こびと》が通っていた。
「エドナはどこにいる?」とぼくはビルにたずねた。
「知らない」
ぼくたちは祝祭の最後の宵のはじまるのをながめていた。アブサンを飲むと、なんでもよく見えた。滴《しずく》のたれるグラスに砂糖もいれずに飲んだが、苦味があって心地よかった。
「コーンが気の毒だよ」とビルがいった。「ひどい目にあったからね」
「ああ、コーンなんて、くそくらえ」とぼくはいった。
「どこへ行ったと思う?」
「パリだろう」
「なにをすると思う?」
「ああ、あんなやつ、勝手にしろ」
「なにをすると思う?」
「たぶん、昔の女とよりをもどすだろうよ」
「昔の女って、だれだい?」
「フランセスとかっていうやつだ」
ぼくたちはアブサンをもう一杯飲んだ。
「いつ帰る?」とぼくはたずねた。
「あした」
しばらくたって、ビルがいった。「ああ、すてきな祝祭だった」
「うん」とぼくはいった。「しょっちゅう、なにかやってたね」
「信じられないだろう。すばらしい悪夢のようだ」
「そうだ」とぼくがいった。「ぼくはなんでも信じるよ。悪夢もね」
「どうしたんだ? 元気がないが?」
「すごく元気がないんだ」
「アブサン、もう一杯、飲めよ。ちょっと、ボーイ! このかたに、アブサン、もう一杯」
「ひどくみじめなんだ」とぼくはいった。
「そいつを飲め」とビルがいった。「ゆっくり飲め」
だんだん暗くなりかけていた。祝祭はつづいていた。酔ってきたが、すこしも気分がよくならなかった。
「気分、どうだ?」
「ひどくみじめなんだ」
「もう一杯どうだ?」
「飲んでも、だめだ」
「ためしてみろよ。飲んでみなけりゃあ、わからないさ。ことによったら、よくなるかもしれんぞ。おい、ボーイ! このかたに、もう一杯、アブサン!」
ぼくはそれをちびりちびり飲まずに、それに水をじかにいれ、かきまわした。ビルが氷のかけらをいれた。ぼくは茶褐色のどんよりした混合物のなかの氷をスプーンでかきまわした。
「どうだい?」
「うまい」
「そんなに早く飲むなよ、気持が悪くなるぞ」
ぼくはグラスをおいた。早く飲もうとは思わなかったのだ。
「酔ったみたいだ」
「そのはずさ」
「そうなってもらいたかったんだろう、なあ?」
「そうさ。酔えよ。つまらない憂鬱なんかふっとばしちゃえ」
「うん、酔った。願ったり叶ったりなんだろ?」
「すわれよ」
「すわるもんか」とぼくはいった。「ホテルへ帰るよ」
ぼくはひどく酔った。そんなに酔ったことはそれまでにないことだった。ホテルで、ぼくは階上にあがった。ブレットの部屋のドアがあいていた。ぼくは首をつっこんだ。マイクがベッドにすわっていた。彼は酒壜をふった。
「ジェイク」と彼はいった。「はいれよ、ジェイク」
ぼくははいって、すわった。どこかきまったところを見ていないと、部屋がぐらついて見えた。
「ブレットがねえ。あいつ、闘牛士のやつと逃げちゃったんだ」
「まさか」
「ほんとなんだ。さようならを言おうと、君を探していたよ。七時の汽車で行った」
「そうか」
「ばかなことをやりやがる」とマイクがいった。「やるべきことじゃあない」
「うん」
「飲もうか? ビールをもってこさせるから、待ってくれ」
「ぼくは酔ってるんだ」とぼくがいった。「部屋にいって、ねるよ」
「酔ってるのか? おれも、かなり酔ってるんだ」
「うん」とぼくがいった。「酔ってるんだ」
「じゃあ、また」とマイクがいった。「すこし眠れよ、ジェイク」
ぼくはそこを出て、ぼくの部屋にはいり、ベッドに横になった。ベッドが沈んでいったのでそれをとめようと、ベッドに起きあがり、壁を見た。外の広場では、祝祭がつづいていた。それはなんの意味もないことだった。しばらくして、ビルとマイクが、下の食堂におりていって、いっしょに食事をしようと、さそいに、やってきた。ぼくは眠っているふりをした。
「眠ってるよ、そっとしといたほうがいい」
「酔いつぶれてるよ」とマイクがいった。二人は出ていった。
ぼくは起きて、バルコニーにで、広場の踊りを見た。あたりはもうぐるぐるまわっていなかった。すごく鮮明で、輝かしく、端のほうがぼんやりしているだけだった。ぼくは顔を洗い、髪にブラシをかけた。鏡のなかの自分を別人のようにながめ、下の食堂におりていった。
「やあきたぞ」とビルがいった。「おい、ジェイク! 君が酔いつぶれるはずがないって、わかってたんだ」
「よお、酔いどれさん」とマイクがいった。
「腹がへったから、目がさめた」
「スープでも飲め」とビルがいった。
ぼくたち三人はテーブルに向かって腰をおろしたが、六人ぐらいの仲間が欠けているように思われた。
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第三部
第十九章
朝、すべては終わっていた。祝祭は終わった。ぼくは九時ごろ目をさまし、風呂をあび、服を着て、下におりていった。広場はからっぽで、通りには人の姿がなかった。子供が二、三人、広場で花火の燃えがらを拾っていた。カフェがちょうど開くところで、ボーイたちがすわり心地のよい籐椅子を運びだし、アーケードの日蔭の大理石ばりのテーブルのまわりに並べていた。通りを掃き、ホースで水をまいていた。
ぼくは籐椅子の一つに腰をおろし、心地よげに、深々とよりかかった。ボーイが急いで来るようなことはなかった。牛の乗りこみを知らせる白い貼紙や、特別列車の大きな時刻表が、まだアーケードの柱に貼ったままだった。ブルーのエプロンをかけたボーイが水をいれたバケツと布きれをもって、出てきて、それらの知らせをはがしはじめた。紙をむしりとり、石にくっついている紙を洗って、こすり落とした。祝祭が終わったのだ。
ぼくはコーヒーを飲んだが、しばらくすると、ビルがやってきた。ぼくは彼が広場を横ぎって歩いてくるのを見つめていた。彼はテーブルに向かって腰をおろし、コーヒーを注文した。
「さて」と彼がいった。「すっかり終わったね」
「ああ」とぼくがいった。「いつ帰る?」
「わからない。みんなで車をたのんだほうがいいんじゃあないかな。君もパリに帰るんだろ?」
「いや。もう一週間いられるんだ。サン・セバスチアンに行こうと思ってるんだけど」
「ぼくは帰るよ」
「マイクはどうするだろう」
「サン・ジャン・ド・リュ〔スペイン国境に近いフランスの町〕に行くんだって」
「車を呼んで、バイヨンヌまで行こう。君は今晩そこから汽車で行けるから」
「そうしよう。昼めしを食ってから行こう」
「うん。ぼくは車を呼ぼう」
ぼくたちは昼食をとり、勘定を払った。モントーヤはぼくたちに近づいてこなかった、一人の女中が勘定書をもってきた。車が外にきていた。運転手が車の上にカバンをつみ、綱をかけ、前の座席の彼の横にカバンをおき、ぼくたちは乗りこんだ。車は広場をぬけ、横町を通り、木々の下から、丘をくだり、パンプローナを離れた。あまり長いドライヴでもなさそうだった。マイクはフンダドールを一本もっていた。ぼくは二、三杯飲んだだけだった。山々を越え、スペインをで、白い道路をくだり、木が茂りすぎ、雨で濡れた、緑のバスクの田園をぬけ、とうとうバイヨンヌにはいった。ビルは荷物を駅におき、パリ行きの切符を買った。彼の汽車は七時十分に出るのだ。ぼくたちは駅から出た。車は駅前で待っていた。
「車はどうしよう?」とビルがたずねた。
「ああ、めんどくさいなあ」とマイクがいった。「まあ、やとっておこうや」
「よし」とビルがいった。「どこへ行こうか?」
「ビアリッツへ行って、一杯やろう」
「マイクは金づかいが荒いな」とビルがいった。
ぼくたちはビアリッツにドライヴし、リッツの外で車を待たせた。バーにはいり、高いスタンドに腰かけ、ウィスキー・ソーダを飲んだ。
「ぼくがおごるよ」とマイクがいった。
「ダイスできめよう」
そこで、ぼくたちは深い革のダイス・カップでポーカー・ダイスをふった。ビルは最初ふって勝になった。マイクはぼくに負け、バーテンに百フラン札を渡した。ウィスキーは一杯十二フランだった。もう一回やったが、マイクがまた負けた。そのたびに、彼はバーテンにチップをはずんだ。バーの奥の部屋で、よいジャズ・バンドが演奏していた。たのしいバーだった。ぼくたちはもう一回やった。ぼくは最初にフォア・キングズで勝になった。ビルとマイクがやった。マイクが最初にフォア・ジャックスで勝った。ビルが次に勝った。最後にふったとき、マイクはスリー・キングズを出し、それでやめた。彼はダイス・カップをビルに渡した。ビルはがらがらとふって、ころがしたが、キングが三つ、エースが一つ、クイーンが一つ出た。
「君の払いだぜ、マイク」とビルがいった。「かけ事師のマイクさん」
「ごめんよ」とマイクがいった。「払えないんだ」
「どうしたんだ?」
「金がないんだ」とマイクがいった。「一文もないんだ。二十フランちょうどしか持ってないんだ。さあ、二十フランとってくれ」
ビルはちょっと顔色を変えた。
「モントーヤに払うだけはあったんだ。それだけでもあって、助かったよ」
「小切手を現金にしてやろう」とビルがいった。
「そいつはありがたいが、小切手が切れないんだ」
「これから金なしでどうしようってんだい?」
「ああ、いくらかは、はいってくるだろう。ここなら二週間は猶予がきくよ。サン・ジャンのこの宿屋でつけで暮らせるんだ」
「車をどうする?」とビルがぼくにたずねた。「まだやとっとくかい」
「どっちだっていいよ。ちょっとばかり、ばかげてるけどね」
「さあ、もう一杯飲もう」とマイクがいった。
「そいつはいい。こいつはぼくがおごる」とビルがいった。「ブレットは金をもってるかい?」彼はマイクのほうを向いた。
「もってないだろう。ぼくのやった金の大部分はモントーヤに払っちゃったからね」
「ブレットは金を全然持ってないのか?」とぼくがきいた。
「どうもそうらしい。あいつは金をもっていたためしがないんだ。年に五百ポンドはいるんだが、そのうち三百五十ポンドをユダヤ人たちに利子として払うんだからね」
「天引きで、とられちゃうんだろう」とビルがいった。
「そのとおりだ。ほんとうのユダヤ人じゃあないんだ。ただユダヤ人とよんでいるだけだけどね。スコットランド人だと思うんだが」
「まったく一文なしなのかい?」とぼくがたずねた。
「そうらしいな。あいつ、行くとき、ぼくにすっかりおいてったから」
「さて」とビルがいった。「もう一杯飲もう」
「そいつはいい」とマイクがいった。「金のことを話したって、はじまらないさ」
「そうだ」とビルがいった。ビルとぼくはさらに二回ダイスをふった。ビルが負けて、払った。ぼくたちは外の車のところへ行った。
「どこか行きたいところ、あるかい、マイク?」とビルがたずねた。
「ドライヴしよう。ぼくの信用もつくだろう。ちょっとドライヴしてまわろう」
「すばらしいな、ぼくは海岸を見たいんだ。アンデエのほうまでドライヴしよう」
「あの海岸のほうには信用がないんだ」
「そんなことは、わからないさ」とビルがいった。
ぼくたちは海岸ぞいの道をドライヴした。岬の緑、赤い屋根の白い別荘、ところどころにある森、それに潮がひいて、海岸よりずうっと向こうに波がさかまいているまっ青な海があった。サン・ジャン・ド・リュを抜け、その海岸のさらに向こうの村々を通った。通りすぎていく起伏のある田園のうしろに、パンプローナから越えてきた山々が見えた。道は前方につづいた。ビルは時計を見た。もう帰る時刻だった。彼はガラスをたたき、運転手に引きかえすように言った。運転手は向きを変えようと、草原のなかへ車をバックさせた。ぼくたちのうしろに、森があり、下には牧場がひろがり、それから、海があった。
サン・ジャンでマイクが泊まろうというホテルで車をとめ、彼がおりた。運転手が彼のカバンをはこびこんだ。マイクは車のわきに立った。
「さようなら」とマイクがいった。「すごくたのしい祝祭だった」
「さよなら、マイク」とビルがいった。
「また、いつか」とぼくがいった。
「金のことなんか心配するなよ」とマイクがいった。「車代は払ってくれ、ジェイク。ぼくの分は送るから」
「さよなら、マイク」
「さよなら。どうもありがとう」
ぼくたちは、みな、握手した。ぼくたちは車のなかからマイクに手をふった。彼は道路に立ってじっと見ていた。ぼくたちは汽車の出るちょっと前に、バイヨンヌに着いた。赤帽が一時預けからビルのカバンをはこびこんだ。ぼくはホームに通じる奥の入口までいった。
「さよなら」とビルがいった。
「さよなら!」
「すばらしかった。すばらしかったね」
「ずっとパリにいるかい?」
「いや。十七日に船にのらなきゃあならないんだ。さよなら!」
「さよなら!」
彼は入口を通って、汽車のほうへ行った。赤帽がカバンをもって先に立った。ぼくは汽車が動きだすのを見まもった。窓の一つにビルがいた。その窓が通りすぎ、うしろの車輌もすぎさり、ホームはからになった。ぼくは外の自動車のところへ行った。
「いくら?」とぼくは運転手にたずねた。バイヨンヌまでの料金は百五十ペセタと約束してあった。
「二百ペセタです」
「帰りにサン・セバスチアンまで行くと、あといくら?」
「五十ペセタです」
「ふざけるなよ」
「三十五ペセタです」
「そりゃあ高い」とぼくはいった。「ホテル・パニエ・フルーリへやってくれ」
ホテルで運転手に料金を払い、チップをやった。自動車は埃にまみれていた。ぼくは釣り竿箱の埃をはらった。それはスペインと祝祭にぼくを結びつける最後のもののように思われた。運転手は車にギアをいれ、通りを走りさった。ぼくは車がスペインへ通じる道にまがるまで見送った。ホテルにはいって、部屋をとった。ビルとコーンとぼくがバイヨンヌにいたとき泊まった部屋だった。あれはずっと昔のことのように思われた。顔を洗い、ワイシャツをとりかえ、町に出た。
新聞|売場《キオスク》で「ニューヨーク・ヘラルド」を買い、カフェで腰をおろし、読んだ。フランスにまた帰ってきたなんて、不思議な気がした。落ちついた郊外の気持だった。ビルといっしょにパリに行っていればよかった、と思った。ただ、パリにいけば、もっと祝祭の気分がしたことだろう。ぼくはしばらくは祝祭はたくさんだった。サン・セバスチアンなら、静かだろう。八月までは、シーズンにならないのだ。ホテルで、いい部屋をとって、読んだり、泳いだりできる。海岸もいい。海岸ぞいの散歩道には、すばらしい並木があり、シーズンのはじまる前に、子供がたくさん乳母につれられて来るのだ。夕方、カフェ・マリーナスから、木々の下で楽団が演奏するのがきこえる。マリーナスで腰をおろし、耳を傾けることができる。
「なかの食事はどんなだ?」とぼくはボーイにきいた。カフェのなかはレストランだった。
「いいです。とてもいいですよ。お食事はとてもいいですよ」
「ようし」
ぼくはなかにはいり、ディナーをたべた。フランスとしてはたくさん食事がでたが、スペインとくらべると、ずいぶん注意して種類を割当ててあった。ワインを相手にして、一本飲んだ。シャトー・マルゴだった。ゆっくり飲み、ワインを味わい、ひとりで飲むのは、楽しかった。一本のワインはよい相手だった。そのあとで、コーヒーを飲んだ。ボーイがイザラというバスクのリキュールをすすめた。彼は壜ごともってきて、リキュールのグラスに、いっぱい、ついだ。イザラはピレネー山脈の花からつくるのだと言った。本物のピレネー山脈の花からだそうだ。見た目にはヘア・オイルのようで、イタリアのストレーガに似た匂いがした。ぼくはピレネー山脈の花はいいから、ヴュ・マルク〔ブランデーの一種〕をもってくるようにと言った。マルクはよかった。ぼくはコーヒーのあとで、マルクをもう一杯飲んだ。
ボーイはピレネー山脈の花のことで、いくらか気を悪くしているようだったので、ぼくはチップをはずんだ。それで彼はうれしそうになった。人をたのしませるのにこんなに楽な国にいると思うと、気持よくなった。スペインなら、ボーイが感謝するかどうかは、わからない。フランスでは、なんでも、こういうふうに、はっきりと、金次第なので、いちばん住みよいのだ。はっきりしない理由で親友になって、物事をごちゃごちゃにしてしまうようなことはない。人に好かれてもらいたければ、ちょっと金を使いさえすればいいのだ。ぼくがちょっと金を使ったら、ボーイがぼくを好いてくれた。彼はぼくの真価を認めた。ぼくがまたきたら、喜ぶだろう。いつかまたそこで食事するだろうが、彼はぼくを見つけて喜び、受持のテーブルにぼくをつかせたがるだろう。しっかりした根拠があってのことだから、心から好きだということになるのだろう。ぼくはフランスにもどってきたのだ。
翌朝、ぼくはもっと多くの親友をつくるために、ホテルでみんなにすこしずつ余計にチップをやり、朝の汽車でサン・セバスチアンに向かった。駅では赤帽に必要以上のチップをやらなかった。二度と会うとは思わなかったからだ。バイヨンヌにまたもどってきたときに、歓迎してくれるフランス人のいい親友が二、三人ほしかっただけだ。彼らが覚えていてくれれば、その友情は誠実だろうということは、わかっていたのだ。
イルン〔フランス国境にあるスペインの町〕で、汽車を乗り換え、パスポートを見せなければならなかった。ぼくはフランスを離れるのがいやだった。フランスの生活はとても簡単だった。またスペインにもどるなんて、ぼくはばかだと思った。スペインでは、どうなるかなにもわからないのだ。またもどっていくなんて、ばかだと思ったが、パスポートをもって、カバンをあけ、税関吏にみせ、切符を買い、ホームへの入口からはいり、汽車にのりこみ、四十分後には、トンネルを八つくぐり、サン・セバスチアンについた。
暑い日でも、サン・セバスチアンはどこか早朝のようなところがあった。木々の葉は一度も乾ききったことがないように思われる。街路は水をまいたばかりのような感じがする。もっとも暑い日でも、どこかの街路は、いつも涼しく、木蔭になっている。ぼくは前にとまったことのある町のホテルに行き、町の屋根を見わたすバルコニーのある部屋をとった。屋根の向こうに緑の山腹があった。
カバンをあけ、ベッドの枕もとのテーブルの上に本を並べ、髭そり道具を出し、大きな衣装だんすのなかに衣類をつるし、洗濯物を一束つくった。それから、バスルームでシャワーをあび、昼食におりていった。スペインには夏時間がないので、早すぎた。また時計を合わせた。サン・セバスチアンに帰ってきて、一時間とくしたわけだ。
食堂にはいっていくと、コンシェルジュ〔多国語を使う接客係〕が警察の書類をもってきて、記入してくれといった。ぼくはそれにサインして、電報用紙を二枚たのみ、ホテル・モントーヤに、ぼくの郵便物や電報は全部こちらに回送するように、電報で言ってやった。サン・セバスチアンに何日いるか計算し、事務所に郵便物はとめておき、電報は全部、六日間は、サン・セバスチアンに回送するよう、電文を書いた。それから、食堂にはいって、昼食をとった。
昼食後、部屋にもどり、しばらく本を読んでから、眠った。目がさめたら、四時半だった。水着をさがし、櫛《くし》といっしょにタオルに包み、下におりて、通りをコンチャのほうへ歩いていった。潮は、なかば、ひいていた。浜はなだらかで、硬く、砂は黄色だった。更衣所にはいり、服をぬぎ、水着をき、なだらかな砂を横ぎって、海のほうへ歩いていった。砂は裸足《はだし》の下で暖かだった。海や浜におおぜい人が出ていた。向こうのコンチャの岬と岬がほとんどぶつかって港ができるあたりに、波の白い線と外海が見えた。潮がひいていたが、ゆるやかなうねりが二、三あった。それは海の起伏のように寄せてきて、水の重みを集め、それから、暖かい砂の上になだらかに砕けた。ぼくは海のなかを歩いた。水は冷たかった。うねりがくると、とびこみ、水の下を泳ぎぬけ、海面に浮かびあがったが、もう冷たくはなかった。筏《いかだ》のところまで泳いで行き、はいあがり、暑い板の上に横になった。少年と少女が向こうの端にいた。少女は水着の上の紐をはずし、甲羅をほしていた。少年は筏の上でうつむいて、彼女に話しかけていた。彼女は彼の言ったことで笑い、日向で茶褐色の背中の向きを変えた。ぼくは筏の上に横になり、からだが乾くまで日にあたった。それから、何回か、飛びこんだ。一度、深く飛びこみ、底まで泳いでいった。眼をあけて泳いだが、緑で暗かった。筏は暗い影をつくっていた。筏のわきの水面に顔を出し、はいあがり、もう一度、飛びこみ、長くもぐったままでいて、それから、岸に泳いでいった。浜でからだが乾くまで横になり、それから、更衣所にはいり、水着をぬぎ、真水をあび、からだをふいた。
港をまわって、木々の下をカジノまで歩き、それから、涼しい街路をカフェ・マリーナスまで歩いた。カフェのなかは、オーケストラが演奏していた。外のテラスに腰かけて、暑い日の新鮮な涼しさを楽しみ、かき氷のはいったレモン・ジュースを一杯飲み、それから、ウィスキー・ソーダをゆっくり飲んだ。長いあいだ、マリーナスの前に腰かけ、新聞を読み、人々をながめ、音楽に耳を傾けた。
やがて暗くなりかけると、港をまわって、散歩道を歩き、やっと夕食にホテルに帰った。バスク地方周遊の自転車競走があって、選手たちが、その夜、サン・セバスチアンにとまっていた。食堂の片側に長いテーブルがあり、自転車の選手がトレーナーやマネージャーたちといっしょに食事をしていた。みんなフランス人とベルギー人で、食事に厳密な注意を払っていたが、楽しんでいた。テーブルの向うの端に二人のきれいなフランス娘がいた。フォーブール・モンマルトル通り風のシックなところの多分にある娘《こ》だった。だれの恋人かはわからなかった。長いテーブルでは、みんな俗語をつかい、さかんにひそひそ冗談をいったり、向こうの端で冗談をいうが、娘たちがききかえしても、くりかえさなかった。翌朝、五時、レースはサン・セバスチアン=ビルバオ間の最後の区間が開始されるはずだった。選手たちはワインをたくさん飲んだ。そして、日やけして、茶褐色になっていた。彼らは仲間同士で打ち合わせをするとき以外は、レースのことをまじめに考えなかった。仲間同士でしょっちゅうやっているので、だれが勝とうが問題ではなかったのだ。特に、外国ではそうだった。金のことでは協定ができていた。
レースで二分間リードしている男はおできができ、それがすごく痛かった。彼は腰のくびれたところですわっていた。首すじが真赤で、ブロンドの髪が日やけしていた。ほかの選手たちが彼のおできをからかった。彼はフォークでテーブルをたたいた。
「いいか」と彼がいった。「あしたはおれは鼻をハンドルにくっつけて走るから。このおできにふれるものは楽しい微風《そよかぜ》だけさ」
娘の一人がテーブルの向こうから彼を見ると、彼は歯をむきだして笑い、赤くなった。スペイン人はペダルの踏みかたを知らないと彼らはいっていた。
ぼくは、チームのマネージャーをしている大きな自転車工場主の男とテラスにでて、コーヒーを飲んだ。彼の話では、それはとてもたのしいレースだったし、ボッテキアがパンプローナで棄権さえしなかったら、見ごたえのあるものだったろうとのことだった。埃がひどかったが、スペインの道路はフランスよりはよかった。自転車のロード・レースは、世界中でたったひとつのスポーツだ、と彼はいった。ツール・ド・フランスについていったことがありますか? いや、新聞で読んだだけです。ツール・ド・フランスは世界中で最大のスポーツの行事です。ロード・レースを組織し、そのあとを追っかけているので、フランスを知るようになりましたよ。フランスを知っている人は、すくないですね。春も、夏も、秋も、ずうっと、自転車のロード・レースをやる選手と、いっしょに道路ですごすんですがね。ロード・レースのとき、町から町へ、選手のあとを追いかける自動車の数をごらんなさいよ。ゆたかな国ですよ。年々、|スポーツ好き《スポルティフ》になりましてね。世界中で、いちばん|スポーツ好き《スポルティフ》の国になるでしょう。自転車のロード・レースのおかげですよ。それと、フットボールの。わたしはフランスを知ってますよ。|スポーツ好きなフランス《ラ・フランス・スポルティーブ》をね。自転車のロード・レースを知ってますよ。ぼくたちはコニャックを飲んだ。だが、けっきょくのところ、パリに帰るのは悪くはありませんね。パナム〔パリの俗称〕はひとつしかない。世界中で、ひとつしかないですよ。パリは世界中でいちばんスポーツ好きの町ですよ。ショップ・ド・ネグルはごぞんじですか? ごぞんじじゃあないんですね。いつかそこでお会いするでしょう。きっと、会いますよ。いっしょにまたブランデーを飲みましょう。ぜひ飲みましょう。あすの朝、スタートは六時十五分前ですよ。スタートのとき、起きられますか? ぜひ起きるようにしましょう。起こしにいってさしあげましょうか? とても面白いんですよ、フロントに起こしてもらうように言っておきます。私ならかまいません、起こしてあげますよ。そんなことお頼みするわけにはいきません。フロントに起こしてもらうように頼んでおきます。ぼくたちは翌朝までさよならと言った。
翌朝、目をさますと、自転車レースの選手も、そのあとについて走る自動車も、三時間も道路を走っている時刻だった。ぼくはベッドでコーヒーを飲み、新聞を読み、それから、服をきて、水着をもって浜へいった。早朝で、すべてがさわやかで涼しく湿っていた。制服や百姓の服装の乳母たちが子供たちと木々の下を歩いていた。スペインの子供たちはきれいだった。靴みがきが数人、木の下にかたまってすわり、一人の兵隊に話しかけていた。兵隊は片腕しかなかった。潮が満ち、浜には心地よい微風が吹き、波が打ちよせていた。
ぼくは更衣所のひとつで服をぬぎ、狭い浜を横ぎり、海にはいった。沖のほうに泳ぎ、うねりを泳ぎきろうとしたが、ときにはもぐらなければならなかった。それから、おだやかな海面に、仰向けになって、浮かんだ。浮かんでいると、空が見えるだけで、うねりの上下するのが感じられた。波打ちぎわに向かって泳ぎ、顔を伏せ、大きなうねりにのり、それから、向きを変えて、泳ぎ、うねりのあいだのくぼみにいて、波をかぶらないようにした。くぼみで泳いでいると、疲れてしまい、向きを変えて、筏のほうに泳いでいった。水は浮力があって、冷たかった。決して沈まないように思われた。ゆっくり泳いだが、潮が満ちていて、長く泳いだように思われ、それから、筏によじのぼり、日にあたって暑くなっている板の上に、しずくをたらしてすわった。湾をぐるっとながめた。古い町、カジノ、散歩道の並木、白い玄関と金文字の大きなホテルがあった。右手の向こうに、ほとんど湾をつつむように、城のある緑の丘があった。筏は水の動きにつれて揺れた。外海に通じる狭い湾の入口の向こう側に、もうひとつ高い岬があった。湾を泳ぎわたりたかったが、こむらがえりがこわかった。
日向にすわって、浜で泳いでいる人々をながめた。彼らはすごく小さく見えた。しばらくして、たちあがり、筏の端を爪先でおさえると、筏はからだの重みで傾き、ぼくはきれいに深く飛びこみ、きらめいている水から浮かびあがり、頭から塩水をふりはらい、ゆっくり、着実に、岸に向かって泳いだ。
服をきて更衣所の料金を払い、ホテルに歩いてかえった。自転車レースの選手が、「自動車《ロオト》」を数冊おいていったので、それを読書室から集めてきて、フランスのスポーツ界の動きをとらえるために読もうと、日向の安楽椅子に腰をおろした。そこに腰かけていると、コンシェルジュが青い封筒を手にもって出てきた。
「電報です」
封じ目に指をつっこみ、開けて、読んだ、パリから回送になったものだった。
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マドリツド ノ ホテルモンタナニキテクダサイ トテモコマツテイル ブレツト
[#ここで字下げ終わり]
ぼくはその男にチップをやり、電文をもう一度よんだ。郵便配達夫が歩道を歩いてきた。彼はホテルにはいった。大きな口髭をたくわえ、いかにも軍人あがりらしかった。ホテルからまた出てきた。例の男が彼のすぐうしろからきた。
「また電報がきました」
「ありがとう」とぼくがいった。
開けた。パンプローナから回送になったものだ。
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マドリツド ノ ホテルモンタナニキテクダサイ トテモコマツテイル ブレツト
[#ここで字下げ終わり]
コンシェルジュはそこに立っていた。たぶんチップをもらおうというのだろう。
「マドリッド行きの汽車は何時かね?」
「けさの九時に出ました。十時に普通列車があり、夜の十時に南行きの急行があります」
「その急行の寝台をとってくれ。金はいま払っとこうか?」
「どちらでも結構です」と彼がいった。「伝票につけときますから」
「そうしてくれ」
さて、これでサン・セバスチアンもすっかり台なしだ。ぼくはこんなことを、なんとなく期待していたように思える。コンシェルジュが入口に立っているのが見えた。
「電報用紙を一枚たのむ」
彼はもってきた。ぼくは万年筆をとりだし、活字体で書いた。
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マドリツド ホテルモンタナ アシユレイフジン
アスミナミユキキユウコウデ ツク アイヲコメテ
ジエイク
[#ここで字下げ終わり]
これでなんとかなるだろう。こんなだったのだ。女の子をある男といっしょに行かせる。彼女にまた別の男を紹介して、かけおちさせる。こんどは、彼女をつれに行く。そして、電報に愛情をこめてなどとサインする。まったくこのとおりだったのだ。ぼくは昼食を食べに中にはいった。
その夜、南行きの急行で、ぼくはあまり眠らなかった。朝、食堂車で朝食をとり、アヴィーラ〔マドリッドの西北五十八マイルの町〕とエスコーリアル〔マドリッド西北部にある有名な宮殿、礼拝堂などがある町〕のあいだの岩や松の景色をながめた。窓からエスコーリアルが見え、日をうけて、灰色に、長く、寒々としていたが、すこしも注意しなかった。マドリッドが、平野の向こうに、日にやけた田園の向こうの小さな崖の頂上に、くっきりと白い輪郭を示しているのが見えた。
マドリッドの北停車場はその線の終点だった。どの列車もそこが終点だった。どこにも先にはいかなかった。外には、辻馬車とタクシーが客待ちをし、ホテルの客引きが一列にならんでいた。田舎町みたいだった。ぼくはタクシーをひろった。車は崖っぷちにあるがらんとした宮殿と未完成の教会のわきの公園を抜けてのぼり、どんどんのぼって、高台の、暑い、現代風の町に出た。タクシーはプエルタ・デル・ソル〔太陽の門という意味の広場〕へなだらかな道をくだり、それから、往来をつっきって、カレラ・サン・ヘロニモ通りに出た。店はみんな暑さを避けて、日除けをおろしていた。街路の日のあたる側に面した窓はシャッターがおりていた。タクシーが縁石のところで止まった。二階にホテル・モンタナという看板が見えた。タクシーの運転手がカバンをもちこみ、エレベーターのそばに置いた。ぼくはエレベーターを操作できなかったので、歩いてあがった。二階には真鍮に「ホテル・モンタナ」と刻んだ看板があった。ベルをならしたが、誰もドアのところにはでて来なかった。もう一度ベルを鳴らすと、ふくれっつらをした女中がドアを開けた。
「こちらにアシュレイ夫人、おいでですか?」とぼくはたずねた。
彼女はきょとんとしてぼくを見あげた。
「こちらにイギリス人の女のひとがいますか?」
彼女はふりかえって、なかのだれかをよんだ。すごくふとった女が戸口にきた。髪は、白く、顔のまわりに油でかため、ほたて貝の形をしていた。背が低く、堂々としていた。
「|こんにちは《ムイ・ブエノス》」とぼくがいった。「こちらにイギリス人の女の人がいますか? そのイギリス人に会いたいんですが」
「|こんにちは《ムイ・ブエノス》。ええ、イギリス人の女のひとはいらっしゃいますよ。あの人がお会いになりたければ、もちろん、お会いになれますとも」
「ぼくに会いたがってるんです」
「女中にききにいかせましょう」
「ずいぶん暑いですね」
「マドリッドの夏はすごく暑いんですよ」
「じゃあ、冬はどうです」
「ええ、冬はすごく寒いんです」
あなたもホテル・モンタナにおとまりになりますか?
それについては、まだ、きめていないのだけど、ぼくのカバンが盗まれないように、一階から運んできてもらえたらありがたい。ホテル・モンタナでは盗まれたことなど、ございませんよ。ほかの宿なら、ございます。ここでは、ございません。はい。この家の雇人は厳重に選んでありますから。それをきいて、安心した。でも、カバンをもってきてほしい。
女中がはいってきて、イギリス人の女の人が、いま、すぐ、イギリスの男の人に会いたがっている、と言った。
「よろしい」とぼくがいった。「ほら、ぼくの言ったとおりでしょう」
「そうですね」
ぼくは女中のうしろから、長い暗い廊下を歩いていった。いちばんはずれで、彼女はドアをノックした。
「まあ」とブレットがいった。「あなたなのね、ジェイク?」
「ぼくだよ」
「はいってちょうだい。はいって」
ぼくはドアをあけた。女中はぼくがはいると、ドアをしめた。ブレットはベッドにいた。髪にブラシをかけているところで、手にブラシをもっていた。部屋は、いつも召使をつかっている人だけが見せる乱雑な状態だった。
「あなた!」とブレットがいった。
ぼくはベッドのところへ行き、腕を彼女にまわした。彼女はぼくにキスした。そして、キスしているあいだ、なにかほかのことを考えているのが、感じられた。彼女はぼくの腕のなかでふるえていた。ひどく小さな感じがした。
「あなた! わたし、とてもつらい思いをしたのよ」
「話してくれ」
「話すことなんかないわ。あのひと、きのう、行っちゃったのよ。わたしが行かせたの」
「どうして、とめとかなかったんだ?」
「わからないわ。あんなこと、人間のやるようなことじゃあないわ。わたし、あのひとを傷つけやしなかったかしら」
「たぶん、あいつに、すごく親切だったんだろう」
「あのひとはだれともいっしょに暮らせないひとよ。それがわたし、すぐわかったの」
「そうだろう」
「まあ、いやだわ」と彼女がいった。「そんなこと話すのやめましょう。ほんとに、やめましょう」
「いいとも」
「あのひとがわたしを恥じていたのが、ひどいショックだったわ。しばらくの間、わたしを恥じていたのよ、ね」
「まさか」
「いいえ、ほんとよ。カフェで、わたしのことで、からかわれたようだわ。わたしの髪をのばしてくれといったわ。髪が長いわたしなんて。見られた姿じゃあないわ」
「そいつはこっけいだ」
「そのほうがもっと女らしくなるって、いうのよ。ひどい顔になるのに」
「それで、どうなった?」
「ええ、それっきりよ。いつまでもわたしのことで恥ずかしがったりしなかったわ」
「困ったことって、なんだい?」
「あのひとと別れられるかどうか、わからなかったのよ。それに、あのひとをおいてきちゃうにも、わたし、一スウももってなかったんですもの。あのひとはわたしにたくさんお金をくれようとしたわ。わたしはたくさんあるといったわ。それが嘘だっていうこと、あのひと、知ってたのよ。わたし、あのひとのお金をもらうわけにはいかなかったわ、ね」
「そうだろう」
「まあ、そんな話、やめましょう。でも、こっけいなことがあったわ。タバコをちょうだい」
ぼくは巻タバコに火をつけた。
「あのひと、ジブラルタルでボーイをして、英語をおぼえたのよ」
「そうだ」
「最後には、わたしと結婚してくれって言ったわ」
「ほんとかい?」
「もちろんよ。わたし、マイクとでも結婚できないのにねえ」
「たぶん、結婚すれば、アシュレイ卿になれるとでも、思ったんだろう」
「いいえ。そうじゃないわ。ほんとうに、わたしと結婚したかったのよ。だから、離れちゃあいけないって、言ってたわ。わたしが離れられないってことを、たしかめたかったのよ。もっと女らしくなってからのことだけど、もちろん」
「まあ、元気をだしな」
「元気だわ。もうだいじょうぶよ。あのひと、いやらしいコーンを追っぱらってくれたから」
「そうだ」
「ねえ、あのひとにわるいって、わからなかったら、いっしょに暮らしていたかもしれないのよ。とてもよくやっていたのですもの」
「君の髪形は別としてだね」
「まあ、それは見なれてしまうわ」
彼女はタバコをもみけした。
「わたしだって、もう三十四よ。子供みたいな男を破滅させる、みだらな女にはなれないわ」
「そうだとも」
「わたし、そんな女にはならないわ。わたし、気分はとてもいいのよ。とても元気だわ」
「それはいい」
彼女は眼をそらした。ぼくはタバコをもう一本さがしているのだと思った。すると、泣いているのに、気がついた。彼女の泣いているのが感じられた。からだをふるわせ、泣いていた。
眼をあげようとしなかった。ぼくは腕を彼女にまわした。
「もう、そんな話、やめてね。お願い、そんな話、やめて」
「ブレット」
「わたし、マイクのところへ帰るわ」彼女をしっかりだいていると、彼女が泣いているのが感じられた。「マイクはとてもいいひとよ、それに、すごくいやなひとよ。わたしに似合いのひとよ」
彼女は眼をあげようとしなかった。ぼくは彼女の髪をなでた。彼女がふるえているのが感じられた。
「わたし、みだらな女になんかにはなれないわ」と彼女がいった。「でも、ねえ、ジェイク、お願い、そんな話はやめて」
ぼくたちはホテル・モンタナを出た。ホテルを経営していた女はぼくに勘定を払わせなかった。勘定は払ってあったのだ。
「まあ、そんならそれでいいわ。行きましょうよ」とブレットがいった。「もう、どっちだってかまわないわ」
ぼくたちはタクシーにのって、パレス・ホテルに行き、カバンをおき、夜行の南行急行列車の寝台をたのみ、ホテルのバーにカクテルを飲みにはいった。バーテンが大きなニッケルのシェーカーでマティーニをふっているあいだ、カウンターの前の高い椅子にかけていた。
「大きなホテルのバーにはいると、すばらしくお上品なんだから、こっけいだよ」とぼくがいった。
「バーテンと競馬の騎手ぐらいしか、もう丁寧な人はいないのよ」
「ホテルがどんなに野卑でも、バーはいつもすばらしいからね」
「ふしぎね」
「バーテンはいつもすばらしいひとだ」
「ねえ」とブレットがいった。「ほんとなのよ。あのひと、まだ十九よ。おどろきでしょう?」
ぼくたちは二つのグラスを、カウンターに並べたまま、ふれあった。冷えて汗をかいていた。カーテンをおろした窓の外は、マドリッドの暑い夏だった。
「マティーニにオリーヴをいれてほしいんだけど」とぼくはバーテンにいった。
「かしこまりました。さあどうぞ」
「ありがとう」
「おうかがいすべきでしたのに」
バーテンはカウンターのずっと向こうの、ぼくたちの会話のきこえないところへ、いった。ブレットは板の上にマティーニをおいたまま、すすった。それから、グラスをもちあげた。彼女の手元は、最初すすっただけで、グラスをもちあげられるほど、しっかりしてきた。
「おいしいわ。すばらしいバーじゃあない?」
「バーはどこもすばらしいよ」
「ねえ、はじめは、わたし、信用しなかったのよ。あのひと、一九〇五年生まれよ。わたしは、そのころ、パリの学校にいっていたわ。それを考えてごらんなさい」
「そのなにを考えろというんだい?」
「ばかなこと言わないでよ。あなた、ご婦人に一杯おごってくださる?」
「マティーニをもう二つくれ」
「前のと同じでよろしいですか?」
「とってもおいしかったわ」ブレットは彼にほほえみかけた。
「ありがとうございます」
「さあ、乾杯」とブレットがいった。
「乾杯!」
「ねえ」とブレットがいった。「あのひとったら女のひとをまだ二人しか知らないのよ。闘牛のことしか考えていなかったんですもの」
「ずいぶん暇だろうにね」
「そうかしら。あのひとはわたしに見せるためにやったと思ってるのよ。みんなに見せるためでなく」
「ああ、君のためにね」
「そうよ、わたしのためよ」
「君はそんなこともう話さないと思ってたんだけど」
「でも、しかたがないわ」
「そんな話をすると、ぶちこわしになるよ」
「そのまわりの話をしてるだけよ。ねえ、わたし、とてもいい気持なのよ、ジェイク」
「そうだろうね」
「みだらな女にならないようにと決心すると、とてもいい気持になるものねえ」
「そうさ」
「それが神さまのかわりにわたしたちがもっているものなのね」
「神を信じている人だっているよ」とぼくがいった。「たくさん」
「神さまはわたしにあんまりご利益《りやく》がなかったのよ」
「もう一杯マティーニを飲もうか?」
バーテンはもう二杯分のマティーニをシェーカーでふり、新しいグラスについだ。
「どこで昼食をとろうか?」とぼくはブレットにきいた。バーは涼しかった。窓ごしに、外の暑さが感じられた。
「ここで?」とブレットがたずねた。
「このホテルはひどい。ボティンという店、知ってる?」とぼくはバーテンにきいた。
「はい、場所をお書きしましょうか?」
「ありがとう」
ぼくたちはボティンの二階で昼食をした。世界で一番いいレストランのひとつだった。子豚の焼肉をたべ、リオーハ・アルタ〔スペイン北部地方産のワイン〕を飲んだ。ブレットはあまり食べなかった。いつもあんまり食べなかった。ぼくはたっぷり食べて、リオーハ・アルタを三本飲んだ。
「どう、ジェイク?」とブレットがきいた。「まあ! ずいぶん食べたわね」
「いい気持だ。デザート、どうだね?」
「たくさんよ」
ブレットはタバコをふかしていた。
「あなた、たべたいんでしょう?」と彼女がいった。
「そうだ」とぼくはいった。「いろんなことがしたいからね」
「なにがしたいの?」
「ああ」とぼくはいった。「いろんなことがしたいよ。デザート、ほしくないかい?」
「いまきいたじゃあないの」とブレットがいった。
「うん」とぼくがいった。「そうだった。リオーハ・アルタをもう一本飲もうよ」
「いいわね」
「あんまり飲まなかったじゃあないか」とぼくはいった。
「飲んだわ。見てなかったのよ」
「二本もらおう」とぼくがいった。酒壜がきた。ぼくはぼくのグラスにすこしつぎ、それから、ブレットのグラスにつぎ、さらに、ぼくのグラスに満たした。ぼくたちはグラスをふれあった。
「乾杯!」とブレットがいった。ぼくはグラスを飲みほし、もう一杯ついだ。ブレットはぼくの腕に手をのせた。
「酔わないでね、ジェイク」と彼女がいった。「酔わなくていいのよ」
「どうして?」
「だめよ」と彼女がいった。「だいじょうぶ、酔わないわね」
「酔わない」とぼくがいった。「ただ、ちょっとワインを飲んでるだけさ。ワインが好きだから」
「酔わないでね」と彼女がいった。「ジェイク、酔わないで」
「ドライヴしようか?」とぼくがいった。「町をドライヴしようか?」
「いいわ」とブレットがいった。「マドリッドを見てなかったんですもの。マドリッドを見とかなくっちゃあ」
「これを飲んじゃうよ」とぼくはいった。
下におり、一階の食堂を通って、街に出た。ボーイがタクシーをよびにいった。暑く、照り輝いていた。街路を行くと、木立と芝生のある小さな広場があり、そこにタクシーが駐車しているのだ。タクシーが街路を走ってきた。ボーイが横にぶらさがっていた。ぼくは彼にチップをやり、運転手に行き先を告げ、ブレットのわきにのりこんだ。車は街路を走りだした。ぼくはうしろにもたれかかった。ブレットがぼくのほうに寄ってきた。ぼくたちはぴったり身を寄せて、腰かけていた。ぼくは腕を彼女にまわし、彼女は心地よさそうによりかかった。ひどく暑く、日は輝き、家々が眼にしみて白かった。車はグラン・ヴィア〔マドリッドの目抜き通り〕へと曲がった。
「ねえ、ジェイク」とブレットがいった。「わたしたちいっしょにいたら、とてもすばらしかったでしょうにね」
前方に、カーキ色の服をきた騎馬巡査が交通整理をしていた。彼は警棒をあげた。車は急にスピードを落し、ブレットのからだをぼくに押しつけた。
「うん」とぼくはいった。「そう考えるのも、いいじゃあないか?」(完)
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解説
『日はまた昇る』(The Sun Also Rises, 1926)はヘミングウェー(Ernest Hemingway一八九九〜一九六一)の最初の長篇小説で、ヘミングウェーがこの一作によって、一躍、作家としての名声を獲得したものだが、この作はまた、今日でも、彼のもっとも芸術的にすぐれた作品として、古典的な名声を確立している。
へミングウェーは、第一次大戦後、しばらく、この長篇小説の主人公のジェイク・バーンズのように、新聞記者としてパリに滞在していた。そして、詩や短篇小説などを書いて作家修業をはげんでいたのだが、やがて、いったんアメリカに帰り、記者をやめて、いよいよ本腰をいれて創作に専念する決心をかため、パリにまいもどってくる。一九二四年の一月のことであった。そのころ、パリには多くのアメリカ人がいた。当時は戦後で、フラン価がひどく下落し、一ドルが十二フランという相場で、アメリカ人はわずかのドルで、じゅうぶん楽な生活ができたのだった。そのため、作家志望のアメリカの青年がおおぜいパリに来ていた。文化の伝統の古いパリは彼らアメリカ青年のあこがれの地だったのだ。雑誌や新聞の特派員になったり、出版社から前金をもらったりして、やってきたのだ。そして、モンパルナス界隈を飲みあるいては、ただ、放蕩に日を送っていたのだ。この長篇『日はまた昇る』に描かれているように、モンパルナスの酒場には、ジェイクや、ブレットや、コーンのような人間が毎晩のようにあらわれ、酒を飲み、ダンスをし、恋愛を語ったものだ。
しかし、ヘミングウェーは誠実な生き方をしていた。真剣に文学にとりくんでいた。前からパリに来ていたアメリカの女流作家ガートルード・スタイン女史のサロンに行き、そこに集まった人たちと文学を語った。同じくパリに来ていたアイルランドの作家ジェームズ・ジョイスの代表作『ユリシーズ』が一九二二年パリで出版になっていたし、そのころはまだイギリスに帰化していなかったアメリカ人のT・S・エリオットも、一九二二年、長詩『荒地』をパリで書いていた。そして、彼らもスタイン女史のサロンに出入りしていた。だから、これらの作品がサロンの話題になっていたことは容易に想像できよう。ヘミングウェーはこうした雰囲気のなかで、せっせと短篇を書き、スタイン女史にみせて、指導を受けた。アメリカの詩人エズラ・パウンドがスタイン女史のサロンにいて、エリオットの長詩『荒地』に手を加え、原詩を半分の長さにカットしたというのは有名な話だが、パウンドはまたヘミングウェーのもってきた短篇に青鉛筆で手を入れ、ほとんどの形容詞を削りとり、簡潔で適切な表現をヘミングウェーに教えたのだった。『日はまた昇る』はこのような状況下で書かれた。
へミングウェーの短篇集『われらの時代に』がヘミングウェーの単行本としてはじめてアメリカで出版されたのは、一九二五年十月のことだったが、しかし、その作品によっては、当時、まだ、ヘミングウェーの名は故国アメリカに広く知られるまでにはいたらなかった。
それより以前、その年の七月二十七日、つまり、彼の二十六歳の誕生日に、ヘミングウェーは『日はまた昇る』をヴァレンシアで、書きだしていた。それから、八月いっぱい、マドリッド、サン・セバスチアン、アンダイユでこれを書きつぎ、九月六日、パリでこの長篇の初稿を書きあげた。
初稿はこのように一カ月そこそこで書きあげたのだが、ヘミングウェーはこの間、執筆に全力を傾倒した。のちに彼はこう述懐している。「ぼくは書きだしたとき、長篇小説の書き方をなにも知らなかった。だから、すごく早く書き、毎日、まったく疲れ切ってしまった。そのため、最初の草稿はひどかった。……ぼくはそれを完全に書きかえなければならなかった。しかし、書きかえているあいだに、多くのことを学んだ」
へミングウェーは、十一月、感謝祭の前の一週間を利用して、いわば息抜きのために、中篇小説『春の奔流』を書いたが、クリスマスの前の一カ月間、スイスのシュルンスで、スキーをたのしみながら、『日はまた昇る』の書きかえに従事した。そして、さらに、一九二六年一月、二月、三月と書きかえ、四月のはじめ、これを完成した。最初の草稿から、じつに四万語が削りとられ、全体で九万語の長篇になった。これがタイプにうたれ、四月二十四日、ニューヨークのスクリブナーズ社に送られたわけだが、総計九カ月を費やした労作だったのだ。
ヘミングウェーの努力は、しかし、見事にむくいられた。すなわち、一九二六年十月二十二日、『日はまた昇る』が出版になると、それは非常な成功だった。売れ行きはすばらしく、ヘミングウェーはこの一作で、たとえば十九世紀初頭のバイロンが「チャイルド・ハロルドの巡礼」でたちまち有名になったように、たちまち名声を博し、若者たちはこぞって、この作品を読みふけり、作中人物をまねて、酒を飲み、機智あふれる会話にふけり、恋愛をたのしんだといわれている。また、そのきびきびした乾いたスタイルは当時の文学者に多くの模倣者をだした。いわゆる「ハード・ボイルド派」を生んだのである。そして、三年後、一九二九年、ヘミングウェーはふたたび長篇小説『武器よさらば』で大ヒットし、三十歳という若さで、アメリカ文学をしょってたつ、おしもおされもしない大家になったのだった。
『日はまた昇る』と『武器よさらば』はこんにちでもヘミングウェーのもっともすぐれた作品なのだが、この二作は出版年代とその扱っている時代との順が逆になっている。すなわちあとからでた『武器よさらば』は第一次大戦に参加したアメリカの青年が戦争に幻滅する過程を描き、前にでた『日はまた昇る』は時代的にはそのあとをうけ、第一次大戦後、大戦を経験し、深い幻滅を味わい、パリに集まった、いわゆる「ロースト・ジェネレーション(失われた世代)」とよばれる人びとの、幻滅から脱けだそうとして脱けだしえない過程を描いているものなのだ。そして、この二作はへミングウェーの代表作として、今日おおくの批評家から認められている。そんなわけで、わたしは、へミングウェーを読みはじめるには、まず、この二作からはいることをおすすめしたいと思う。
『日はまた昇る』の見返しには、「あなたがたはみんな、失われた世代《ロースト・ジェネレーション》ですよ」という、ガートルード・スタイン女史がヘミングウェーにむかって語った言葉が書き込まれているが、この小説はさきにふれたように、第一次大戦後、パリに集まった「失われた世代」の人びとの群れをじつに鮮明に描きだしている。それは、一九二三年から一九二五年までのあいだに、パリのモンパルナスを知り、ロトンド、セレ、ナポリタン、ディンゴーなどの酒場を訪れた人なら、だれでも、この小説の登場人物のブレットや、マイクや、コーンや、それから、ビルや、ブラドックス夫妻や、ミピポポラス伯爵は、だれをモデルにしたものか、すぐにわかるといわれているほど、当時パリに集まった人びとの群れをリアルに描きだしているらしい。人物の性格ばかりでなく、会話の癖とか、行動の癖まで、そっくりそのまま描かれているとのことだ。だから、『日はまた昇る』の当時の成功は、そうした、ゴシップ的な興味も手伝っていたことは否めない。
それから、第二部の後半にでてくる闘牛士ペドロ・ロメロには十八世紀の有名な闘牛士の名前が用いられているのだが、これはその当時の有名な闘牛士のニノ・デ・ラ・パルマをモデルにしていることは明らかだそうだし、ペドロといっしょに登場するベルモンテやマルシアなどの闘牛士は当時の実在の闘牛士の名前だった。それに、会話のなかにでてくるメンケンとかブライアンといった人物は、そのころ、話題になった実在の人物なのだ。
『日はまた昇る』は、だから一九二五年ごろのパリを舞台としたきわめて現実的な物語なのであった。
『日はまた昇る』の見返しには、また、『旧約聖書』の「伝道之書」の第一章からの「日は出《い》で日は入りまたその出《いで》し処に喘《あえ》ぎゆくなり」という言葉が引用されているが、これは「空の空、空の空なる哉《かな》、都《すべ》て空なり」という言葉につづいてでてくる言葉で、日が昇るということは空虚で無意な営みをくりかえすという意味なのである。つまり、これはヘミングウェーが、この作品で描きだそうとしている虚無的な生活を端的に言いあらわしているものなのだ。
『日はまた昇る』にでてくる人物はほとんど人生に絶望している。この小説を一人称で物語っているこの小説の主人公とみられるアメリカの青年新聞記者ジェイク・バーンズは第一次大戦で生命より大切なものを失ってしまったのである。つまり、性的不能者になっているのだ。そして、女主人公とみられるブレット・アシュレイは戦争で恋人を失い、アシュレイ准男爵と結婚したが、彼に満足できず、離婚して、マイクと結婚しようとしているのだが、しかも、そのマイクにも満足できず、いま、自分を男性として満足させてくれる資格のないジェイクを追いまわしているのだ。これはまことに実りのない恋愛なのだ。彼らは人生に深い絶望を感じているのだ。だから、彼らは彼らなりに、その絶望から脱けだそうと、パリからスペインに旅し、釣りを愉しみ、闘牛を見物する。暗い夜のパリの生活から脱けだそうとするのだ。しかし、けっきょくは、彼らはふたたびパリにまいもどらなければならない。こうして、彼らの不毛の生活はまたはてしなくつづく。「日は出で日は入りまたその出し処に喘ぎゆく」のだ。
『日はまた昇る』はこのように第一次大戦後のパリに集まった「失われた世代」の虚無的な人びとをリアルに描いている点で傑作なのだが、しかし、われわれが今日この小説を読んで、しかも、深い感銘を受けるのは、なぜであろうか。それはこの作品がただリアルな描写をもっているからばかりではない。この作品をとおして、われわれが人生そのものの虚無を鋭く感じとれるからなのだ。これを読んで、われわれはヘミングウェーとともに人生の虚無を味わう。ヘミングウェーをふくめて、ニヒルを体験した人びとのはげしい慟哭を、われわれは聞き、ともに慟哭するのだが、それがまた広く人生一般への哀歌になっているのだ。
へミングウェーは『日はまた昇る』の三年後の一九二九年、『武器よさらば』を出し、この二作で、世界的に有名になった。そして、この二作で、いわゆるヘミングウェー的なものが確立した。手法の面でも、題材の面でも。へミングウェーは、しかしながら、一九三七年の第三の長篇『持つと持たぬと』によって変貌した。すなわち、へミングウェーはその長篇では、虚無から脱却し、三〇年代の世界的な経済的危機にあたり、社会的な関心を積極的に示すようになり、文体の上でも、簡潔で非情な乾いたスタイルがくずれ、説明的な描写になり、ときには、ジョイス的な内面描写もしている。
第四の長篇『誰がために鐘は鳴る』(一九四〇年)では、ヘミングウェーはさらに大きく変貌した。そこでは、スペイン内乱にあたり、民主々義を擁護するためには、あえて戦争をも肯定し、進んで生命までなげだすアメリカの一青年を描いている。文体も初期のものと比べて、はるかに長い文章になり、心理描写も長々と行なわれている。
そして、最後の作品『老人と海』(一九五二年)では、ヘミングウェーは、一種の寓話の形式で、人間の不屈な精神をたたえ、老いても屈しない人間を讃美している。文章はむだのないものだが、老漁夫の内面独白をことこまかに描くというもので、初期の「ハード・ボイルド・スタイル」とはかなり違ったものになっている。
つまり、ヘミングウェーは十九歳という感受性の強い時期に、第一次大戦に参加し、たちまち、ひどい負傷をし、人生にたいする虚無をいやというほど体験し、そうした「暗い谷間」をとおって、それを『日はまた昇る』や『武器よさらば』で作品化し、多くの読者をえ、いわゆる「失われた世代」の代表的な作家とみなされたのだが、その彼が、初期の絶望感から、第二次大戦ころの戦争肯定へ、さらに、『老人と海』の人生肯定へと、たえず変貌をとげ、それぞれの時代の風潮を敏感に作品に反映したのだった。
しかし、けっきょくのところ、ヘミングウェー文学で最後まで残るものは何かといえば、やはり、人生を虚無とみた初期のペシミスティックな作品であろう。ヘミングウェー研究で第一人者と目されているカーロス・ベーカー教授はヘミングウェーの最大の作品は、『日はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』の四つだとしていて、それは正しいわけだが、後期の『誰がために鐘は鳴る』は、彼のものとしてはいちばん長い作品だし、読んで、たしかに面白いが、反面、多分にメロドラマ的で、ハリウッド的な恋愛事件があまりにも前面にでてきすぎている。そして、主人公が、この世は戦うに価するところだと述べるあたりも、とってつけたようで、充分に説得力のあるものとはいえない。これにくらべれば、『老人と海』はむだのない古典的な感じさえする名作だ。しかし、長篇小説とすれば、長さの点で、ややものたりない。そう考えると、ヘミングウェーの長篇では、けっきょく、『日はまた昇る』と『武器よさらば』が残る。しかし、この二作を比較してみると、『武器よさらば』では通俗的な筋やセンチメンタルなところが気になってくる。ところが、『日はまた昇る』にはヘミングウェーのひたむきな姿がはっきりあらわれている。読者との安易な妥協など、みじんも、ない。ヘミングウェーは虚無におちいった人びとの絶望的なあがきを冷酷なまでにリアルに描いている。それらの人びとを、その虚無感によくマッチした、つめたい、乾いた、感情をぬいたスタイルで、みごとな芸術作品に結晶させているのだ。こうみてくると、多くの作家のばあいのように、全力投球をした処女作が、つまり、長篇小説としては処女作の『日はまた昇る』が、けっきょく、ヘミングウェーの最高作といえるのではないだろうか。(訳者)
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年譜
一八九九年(明治三十二年) 七月二十一日、イリノイ州のシカゴの郊外オーク・パークに生まれた。長男。父クラレンス・エドモンズは医師で、魚釣り、狩猟を好み、母グレース・ホールは音楽を好んだ。
一九〇一年(明治三十四年 二歳) 父から釣り道具をあたえられた。このころから一家はミシガン州北部のワルーン湖畔の別荘で夏を過ごすようになった。
一九〇九年(明治四十二年 十歳) 誕生日に父から猟銃をあたえられた。
一九一三年(大正二年 十四歳) 秋、オーク・パーク・ハイ・スクール入学。在学中は学校の週刊誌を編集し、文芸誌に寄稿した。また、水泳やフットボールの選手もした。
一九一七年(大正六年 十八歳) 六月、ハイ・スクール卒業、兵役を志願したが、父の反対にあい断念。秋、「キャンザス・シティ・スター」紙の記者となる。
一九一八年(大正七年 十九歳) 四月、「スター」社を退き、イタリア軍付き赤十字要員の募集に応じ、五月、ニューヨークを出発、六月、パリを経てミラノに着く。七月九日早朝、北イタリアのフォッサルタ・ディ・ピアーヴェで脚部に重傷を負い、ミラノの陸軍病院に三ヵ月入院。このとき、アメリカ人の看護婦アグネス・フォン・クロスキーと恋愛。退院後、ふたたびイタリア軍に所属する。十一月、休戦。
一九一九年(大正八年 二十歳) 一月、故郷オーク・パークに復員。
一九二〇年(大正九年 二十一歳) 一月から五月まで、カナダのトロントで、「トロント・スター・ウィークリー」「トロント・デイリー・スター」に関係。秋、シカゴに行き、「アメリカ生活協同組合」の月報を編集。冬、シャーウッド・アンダソンと知り合う。
一九二一年(大正十年 二十二歳) 春、ふたたび「トロント・スター・ウィークリー」に関係、「署名入り」執筆者となる。九月、セント・ルイス生まれで八歳年上のハドレー・リチャードソンと結婚。十二月、前記トロントの二つの新聞の特派員としてパリに渡る。
一九二二年(大正十一年 二十三歳) 三月、アンダソンの紹介状をもって、パリにいたアメリカの女流作家ガートルード・スタインを訪れ、詩人のエズラ・パウンドとも知り合う。秋、ギリシア・トルコ戦争とローザンヌの講和会議を報道。妻ハドレーがローザンヌに行く途中、それまで彼が書きためてあった、長編一、短編十八、詩三十の原稿のはいったスーツケースを盗まれる。
一九二三年(大正十二年 二十四歳) ルール地方の報道を終えパリに帰る。七月、『三つの短編と十の詩』をパリで処女出版。九月、トロントに帰る。十月、長男ジョン誕生。十二月、「トロント・デイリー・スター」をやめる。
一九二四年(大正十三年 二十五歳) 一月、パリに戻り、小品集『ワレラノ時代ニ』を出版。夏、スペインを旅行し、パンプローナで闘牛を見物し、闘牛に興味をいだく。
一九二五年(大正十四年 二十六歳) 五月、パリでアメリカの流行作家だったスコット・フィッツジェラルドと知り合う。七月、『日はまた昇る』に着手。十月、アメリカで短篇集『われらの時代に』を出版。
一九二六年(昭和元年 二十七歳) 五月、『春の奔流』を、十月、『日はまた昇る』を出版。いわゆる「失われた時代」を代表する作家として名声をあげた。
一九二七年(昭和二年 二十八歳) 一月、すでに別居していたハドレーと正式に離婚。夏、「ヴォーグ」誌のパリ駐在の記者でセント・ルイス出身のポーリン・プァイファーと再婚。ポーリンは熱心なカトリック教徒で、彼はこのときカトリックに改宗する。第二短編集『女のいない男たち』を出版。
一九二八年(昭和三年 二十九歳) 『武器よさらば』の執筆にとりかかり、パリからアメリカに帰って、フロリダ州キー・ウェストに居をさだめる。一九三八年までここに居住。六月、次男パトリック誕生。十二月六日、父、オーク・パークでピストル自殺。このころ『武器よさらば』は一応脱稿され、手を加えられていた。
一九二九年(昭和四年 三十歳) 『武器よさらば』を「スクリブナーズ・マガジン」に連載。さらに手をいれ、九月、単行本として出版。四ヵ月に八万部という、すばらしい売れ行きで、作家としての地位を確立する。
一九三〇年(昭和五年 三十一歳) 十一月、ドス・パソスと同行中、自動車事故で負傷し、モンタナ州の病院に入院。
一九三一年(昭和六年 三十二歳) 夏、スペインに旅行し、闘牛案内書といえる『午後の死』を執筆。
一九三二年(昭和七年 三十三歳) 九月、『午後の死』を出版。三男グレゴリー誕生。
一九三三年(昭和八年 三十四歳) 十月、第三短編集『勝者には何もやるな』を出版。十一月、夫人同伴で東アフリカに狩猟旅行に出かける。
一九三四年(昭和九年 三十五歳) アフリカ旅行中、アメーバ赤痢にかかる。全快後ふたたび狩猟旅行をつづけ、四月、帰国。「コズモポリタン」に『持つこと持たざること』の第一部になる「ある渡航」を発表。ハバナ付近で素人釣り最大のマグロを釣り、ネオマリンテ・ヘミングウェイの学名を付与される。
一九三五年(昭和十年 三十六歳) 海釣りや、ボクシングに凝る。十月、アフリカ旅行記『アフリカの緑の丘』を出版。
一九三六年(昭和十一年 三十七歳) 七月、スペイン内乱にあたり、政府軍援助のため四万ドルを個人で調達、医療援助のため献金。『持つこと持たざること』の第二部になる「商人の帰還」を「エスクワイア」二月号に発表。アフリカ旅行の経験をもとにした短編「キリマンジャロの雪」を「エスクワイア」八月号に、「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」を「コズモポリタン」九月号に、それぞれ発表。
一九三七年(昭和十二年 三十八歳) 一月、「アメリカ、スペイン民主主義友好協会」などを主宰。NANA(北米新聞連合)の特派員となり、三月、フランスを経て、スペインに渡る。帰国後、六月、全米作家会議で、「作家と戦争」と題する反ファシズムの演説をする。八月、ふたたびスペインにNANA特派員として戻る。このとき、マドリードで、劇「第五列」を書き、女流作家で「コリヤーズ」の特派員としてここに来ていたマーサ・ゲルホーンと恋愛。十月、『持つこと持たざること』出版。
一九三八年(昭和十三年 三十九歳) 一月、帰国。三月、スペインへ。五月、帰国。九月、スペインへ。六月、『スペインの土地』(映画の台本に従軍記を加えたもの)を出版。十月、『第五列と最初の四十九の短編』を出版する。
一九三九年(昭和十四年 四十歳) 『誰がために鐘が鳴る』の執筆にとりかかる。
一九四〇年(昭和十五年 四十一歳) 十月、『誰がために鐘は鳴る』を出版。初版七万五千部。ベストセラーとなる。「第五列」ニューヨーク・シアター・ギルドで上演。十月、ポーリンと離婚し、マーサ・ゲルホーンと三度めの結婚。
一九四一年(昭和十六年 四十二歳) 日中戦争の特派員として中国方面をマーサと旅行し、のち、ハバナの近郊サン・フランシスコ・デ・ポーラの丘の上に眺望農園という意味のフィンカ・ヴィギアという名の屋敷に居を定める。
一九四二年(昭和十七年 四十三歳) 夏、自家用の漁船「ピラー号」を改装、一九四四年春まで二年間、キューバ近海でドイツ軍潜水艦探索に従事する。『戦う人びと』という戦争小説集を編み、出版する。
一九四四年(昭和十九年 四十五歳) 「コリヤーズ」誌特派員として第三軍に所属。五月、ロンドンで自動車事故にあい、頭部を負傷。六月、ノルマンディ上陸作戦で第一軍第四歩兵師団に転じ、フランスのゲリラ隊とともにパリに進駐。兵士たちからパパの愛称を受ける。
一九四五年(昭和二十年 四十六歳) 三月、帰国。十二月、マーサと離婚。
一九四六年(昭和二十一年 四十七歳) 四月、ミネソタ州生まれの、「タイム」誌の特派員メリー・ウェルシュと四度めの結婚。(一九四四年、滞英中に知り合った)
一九四七年(昭和二十二年 四十八歳) 戦時報道員としての勲功にたいし、ブロンズ・スター勲章を授与される。
一九四八年(昭和二十三年 四十九歳) キューバで執筆に専念する。
一九四九年(昭和二十四年 五十歳) イタリアに滞在。猟銃によるけがで眼をわずらい、一時は生命を危ぶまれる。
一九五〇年(昭和二十五年 五十一歳) イタリアを舞台にした『河を渡って木立のなかへ』を「コズモポリタン」の二月号から六月号まで連載。九月、単行本として出版。評判は良くない。
一九五一年(昭和二十六年 五十二歳) 『老人と海』を執筆。母を失う。
一九五二年(昭和二十七年 五十三歳) 『老人と海』を「ライフ」の九月一日号に全編一挙に掲載し、同月八日、単行本として出版。たちまち評判となり、五十二年度のピュリッツァ賞を受ける。
一九五三年(昭和二十八年 五十四歳) 夏、スペインへ。秋、夫人同伴でアフリカ旅行に出発。十二月、ケニヤに至る。
一九五四年(昭和二十九年 五十五歳) 一月、英領ウガンダのマーチソン滝付近で飛行機事故にあい、あやうく一命をとりとめた。四月、アメリカ・アカデミー賞を授与される。一九五四年度のノーベル文学賞を受賞。
一九五五年(昭和三十年 五十六歳) ほとんどハバナの自宅で執筆をつづける。
一九五九年(昭和三十四年 六十歳) 夏、夫人同伴でスペインに旅行し、闘牛見物をたのしむ。秋、狩猟のため、アイダホ州サン・バレーに行く。
一九六〇年(昭和三十五年 六十一歳) 春、アイダホ州ケチャムに居を移す。九月、「ライフ」に闘牛を題材にした「危険な夏」を三回にわたって連載。高血庄と糖尿病のために、十一月三十日、ミネソタ州ロチェスターのメイヨー・クリニックに入院。クリスマスに、いちおう、退院。
一九六一年(昭和三十六年 六十二歳) 健康すぐれず、四月末、ふたたび入院。六月末、退院。七月二日朝、ケチャムの自宅で、愛用の猟銃で頭を打ちぬいて死ぬ。
一九六四年(昭和三十九年) 遺稿『移動祝祭日』出版される。
一九六七年(昭和四十二年) 報道記事集『バイライン・アーネスト・ヘミングウェイ』出版される。
一九七〇年(昭和四十五年) 遺稿長編『流れの中の島』出版される。
〔訳者紹介〕
高村勝治(たかむらかつじ)一九一六年石川県生まれ。東京文理大、ブラウン大卒。筑波大教授。文学博士。著書、「現代アメリカ小説序論」「ヘミングウェイ」「英米現代詩の鑑賞」ほか。