ヘミングウェー短編集2「女のいない男たち」
アーネスト・ヘミングウェー/高村勝治訳
目 次
挫《くじ》けぬ者
異国にて
白い象のような丘
殺し屋
ケ・テイ・ディチェ・ラ・パトリア?
五万ドル
簡単な質問
十人のインディアン
贈り物のカナリヤ
アルプスの牧歌
追走レース
きょうは金曜日
平凡な話
いま横になって
(付)橋のたもとの老人
(付)フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯
解説
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挫《くじ》けぬ者
マヌエル・ガルシァは、ドン・ミゲル・レタナの事務所への階段をのぼっていった。スーツケースをおろし、ドアをノックした。返答はなかった。マヌエルは廊下に立っていたが、部屋に人の気配を感じた。ドア越しにそれが感じられたのだ。
「レタナ」と呼び、耳をすました。
返答はなかった。
奴《やつ》はいる、たしかに、とマヌエルは思った。
「レタナ」と言い、ドアをドンドンたたいた。
「誰だ?」と事務所の中で言う声がした。
「おれだ、マノロだ」とマヌエルが言った。
「なんの用だ?」とその声がたずねた。
「働きてえんだ」とマヌエルが言った。
ドアが何度かカチカチ音をたて、バタンと開いた。マヌエルはスーツケースを持って、中にはいった。
一人の小男が部屋の向こう側に、机を前にして、坐っていた。頭の上に、マドリッドの剥製《はくせい》師が作った牛の首があった。壁には、額縁入りの写真と闘牛のポスターがあった。
小男は坐ったまま、マヌエルを見ていた。
「おめえは殺《や》られたと、思ってたんだ」とその男が言った。
マヌエルは机をこぶしでたたいた。〔手近の木をたたくのは、凶事を追い払うための迷信〕
小男は坐ったまま、机の向こうから彼を見ていた。
「今年《ことし》は闘牛《コリーダ》に何回でた?」とレタナがたずねた。
「一度」と相手が答えた。
「あの時だけか?」と小男がたずねた。
「あれだけでさあ」
「新聞で見たよ」とレタナが言った。彼は椅子にふんぞりかえり、マヌエルを見た。
マヌエルは剥製の牛を見あげた。以前から何度か見たものだった。それには、家族の者の思い出があった。九年ほど前、その牛が将来性のあった彼の兄を殺したのだ。マヌエルはその日のことを覚えていた。その牛の首をとりつけた樫の楯に、真鍮の板金《プレート》がついていた。マヌエルは字が読めなかったが、それは兄貴を記念して書かれているのだと想像した。ともかく、兄貴はいい奴だった。
板金にはこう書いてあった。「ヴェラグア公爵所有の雄牛『マリポサ』号。馬《カバーリョ》七頭を相手に、槍《ヴァーリャ》九本を受け、闘牛士見習《ノヴィリエーロ》アントニオ・ガルシァを殺す。一九〇九年四月二七日」
レタナはマヌエルが剥製の牛の首を見ているのを見た。
「公爵が日曜日用に送ってきた代物はひともんちゃく起こしそうだ」と彼は言った。「どいつも脚がだめなんだ。カフェでは、みんな、なんと言っとる?」
「さあね」とマヌエルが言った。「いま着いたばかりなもんで」
「なるほど」とレタナ。「まだ鞄を持ったままか」
彼は大きな机の向こうでふんぞりかえったまま、マヌエルを見た。
「坐りな」と言う。「帽子をとって」
マヌエルは坐った。帽子をとった。顔の感じが変っていた。顔色は青ざめ、髷《コレータ》が帽子の下から見えないように頭の前でピンでとめてあるので、異様な感じがした。
「顔色がよくないぜ」とレタナが言う。
「退院したばかりなもんで」とマヌエル。
「足を切断したと聞いたんだが」とレタナ。
「とんでもねえ」とマヌエル。「すっかりよくなったんだ」
レタナは机の向こうから身を乗りだし、マヌエルのほうに木製の煙草箱を押しやった。
「一服どうだ」と彼が言う。
「どうも」
マヌエルは一本とって火をつけた。
「吸うかね?」と言い、レタナのほうへマッチを差し出した。
「いや」レタナは手を振った。「おれはやらねえんだ」
レタナは相手が吸っているのを眺めていた。
「仕事を見つけて働きに出たらどうなんだ?」と言う。
「働きに出たくねえんだ」とマヌエル。「おれは闘牛士だから」
「もう、闘牛士なんていないんだぜ」とレタナが言う。
「おれは闘牛士でさあ」とマヌエル。
「そう、おめえがあそこでやっているあいだはな」とレタナが言う。
マヌエルは笑った。
レタナは坐ったまま、黙って、マヌエルを見ていた。
「よかったら、夜の部に出してやろう」とレタナが言いだす。
「いつのなんで?」とマヌエルがきく。
「あすの晩」
「代役はごめんですぜ」とマヌエルが言う。みんなが殺《や》られるのは、代役をやってだ。サルヴァドールが殺られたのも、それだ。彼は机をこぶしでたたいた。
「いまあるのは、それだけだ」とレタナが言う。
「来週、出してくれねえか?」とマヌエルは言ってみる。
「おめえじゃ、客が来ない」とレタナが言う。「みんなの見たがるのは、リトリとか、ルビトとか、ラ・トレなんだ。あいつらはいいからな」
「おれがうまくやるのを見にくるかもしれねえぜ」とマヌエルは望みありげに言う。
「いや、くるもんか。おめえのことなんか、もうだれも知っちゃあいないよ」
「おれの腕は確かなんですせ」とマヌエル。
「あすの晩のに入れてやろうと言ってるんだ」とレタナが言う。「若いエルナンデスと組んで、道化のシャーロットの組のあとで見習闘牛士《ノヴィリエーロ》用の牛を二頭、殺るんだ」
「だれの見習闘牛士用の牛ですかね?」とマヌエルがたずねる。
「そいつはわからん。柵《コラル》〔リングに隣接する囲いで、戦闘直前の牛がここで待機する〕の中にいれてあるのなら、どれでもかまわんさ。昼の部だったら獣医が通しっこない代物だ」
「代役はごめんですぜ」とマヌエル。
「やるかやらんかは、おめえの勝手だ」とレタナが言った。彼は書類の上に身をのりだした。もう何の関心もないのだ。昔の日々を思いだした瞬間、彼の心をとらえたマヌエルの訴えも、いまは消え去っていた。こいつをラリタの代役に使ってやろう、安くつくから。ほかの男だって安く使える。だが、こいつを助けてやろう。いままでと同じように、チャンスを与えてやったのだ。やるかやらぬかはこいつ次第だ。
「いくらもらえるんかね?」とマヌエルがきいた。彼は断ろうという考えを、まだもてあそんでいた。だが、断りきれないことは、わかっていた。
「二百五十ペセタとレタナが言った。五百と思ったが、口を開けたら、二百五十と言ってしまった。
「ヴィラルタには七千ペセタ払ってるんですぜ」とマヌエルが言う。
「おめえはヴィラルタじゃない」とレタナ。
「そりゃそうだが」とマヌエル。
「あいつは人気があるんだ、マノロ」とレタナは説明した。
「そのとおりでさあ」とマヌエルが言った。彼は立ちあがった。「三百にしてくれ、レタナ」
「いいよ」とレタナが同意した。彼は引き出しから書類を出そうと手をのばした。
「いま、五十もらえるかね?」
「いいとも」とレタナが言った。彼は財布から五十ペセタ札を一枚とりだし、机の上に、平らにのばして、置いた。
マヌエルはそれを取って、ポケットに入れた。
「介添闘牛士《カドリーラ》〔マタドールの配下にある闘牛士の組。ピカドール、バンデリリェロを含み、このうちの一人がとどめをさす〕はどうかね?」ときく。
「夜間ならいつでもやってくれる若い者がいる」とレタナが言う。「奴らは大丈夫だ」
「槍手《ピカドール》〔マタドールの命令をうけ、馬上から牛を突く人〕は?」とマヌエルがたずねる。
「たいした奴はいない」とレタナが白状する。
「いい槍手《ピカドール》が一人は、どうしてもほしいんだ」とマヌエルが言う。
「じゃあ、連れてこいよ」とレタナが言う。「いって、連れてこい」
「このなかから払うのはごめんですぜ」とマヌエルが言う。「六十デュロ〔一デュロは五ペセタ〕から介添闘牛士に払うつもりはねえから」
レタナは黙ったまま、大きな机ごしにマヌエルを見た。
「いい槍手《ピカドール》が一人、どうしてもほしいってことぐらい、わかるだろ」とマヌエルは言った。
レタナは黙ったまま、ずっと向こうのほうからマヌエルを見た。
「そいつは困りまさあ」とマヌエルが言った。
レタナはまだ椅子にふんぞりかえったまま、彼をじっと見つめていた。ずっと向こうから、じっと見つめていた。
「正規の槍手《ピカドール》ならいるぜ」と言いだした。
「そりゃあ、わかってる」とマヌエルが言う。「あんたの正規の槍手《ピカドール》なら、わかってる」
レタナはにこりともしなかった。マヌエルはもうだめだと思った。
「おれの望んでるのは、ただ、五分五分の勝負なんでさあ」とマヌエルは相手を説き伏せるように言う。「出るからには、牛のどこを刺すか観衆に知らせられるようにしてえんでさあ。いい槍手《ピカドール》が一人いさえすればいいんだが」
彼はもう聞いちゃいない男に話しかけているのだった。
「|臨時雇い《エクストラ》でもほしいんなら」とレタナが言う。「いって、連れてこいよ。正規の介添闘牛士《カドリーラ》ならいくらでもいるんだぜ。好きなだけ自分の槍手を連れてこい。道化組は十時半には終わるからな」
「わかった」とマヌエルが言う。「あんたがそんな気ならね」
「そんな気だよ」とレタナ。
「じゃあ、あすの晩」とマヌエル。
「おれは、いってるぜ」とレタナ。
マヌエルはスーツケースを取りあげ、外に出た。
「ドアを閉めな」とレタナが呼びかけた。
マヌエルは振りかえった。レタナは坐ったまま、身をのりだし、何か書類を見ていた。マヌエルはドアをカチリというまで、ぴったり閉めた。
彼は階段をおり、戸外の暑くぎらぎら輝いている街路に出た。街路は猛烈に暑く、白い建物に照りつける日光がいきなり目にいたかった。彼は急な坂道の日蔭の側をプエルタ・デル・ソルのほうに下っていった。日蔭は濃く、流れる水のように冷たく感じられた。十字路を横ぎるたびに、急に暑い日射しに襲われた。すれちがう人はマヌエルの知らない人たちばかりだった。
プエルタ・デル・ソルのちょっと手前で、カフェにはいった。
カフェの中は静かだった。二、三人の男が壁を背にしてテーブルに坐っていた。ひとつのテーブルでは四人の男がトランプをしていた。たいていの男は空のコーヒー・カップや酒のグラスをテーブルの上におき、壁を背にして坐り、煙草をふかしていた。マヌエルは長い部屋を通りぬけて、奥の小部屋にはいった。隅のテーブルに一人の男が眠っていた。マヌエルはそこのテーブルのひとつに腰をおろした。
給仕がはいってきて、マヌエルのテーブルの傍に立った。
「スリトを見かけなかったかね?」とマヌエルがたずねた。
「昼食前にはいましたが」と給仕が答えた。「五時にならなきゃもどってきませんよ」
「カフェ・オレと並みの酒一杯」とマヌエルが言った。
給仕は大きなコーヒー・グラスと酒のグラスをのせた盆をもって部屋にもどってきた。左手にブランデーのボトルをもっていた。彼がそれらをテーブルにおくと、あとからついてきた少年が、長い把手のついた二つのピカピカ光る口付きのポットから、コーヒー・グラスにコーヒーとミルクを注いだ。
マヌエルは帽子をとった。給仕は頭の前にとめた豚の尻尾みたいな髷《まげ》に気づいた。マヌエルのコーヒーの脇にある大きなグラスにブランデーを注ぎながら、給仕はコーヒー係りの少年に目くばせした。少年は好奇の眼差しでマヌエルの青白い顔を見た。
「ここで闘牛に出てるんですか?」と給仕はボトルにコルクの栓をしながら、きいた。
「そう」とマヌエルが言った。「あす」
給仕はボトルを腰にあてて、立っていた。
「道化のチャーリー・チャップリンの組ですか」ときいた。
コーヒー係の少年はまごついて、目をそらしていた。
「いや。普通の闘牛さ」
「チャヴェスとエルナンデスがやるんだと思ってましたが」と給仕が言った。
「いや。おれと、もう一人とで」
「誰です? チャヴェス、それとも、エルナンデス?」
「エルナンデス、だろう」
「チャヴェスはどうしてんです?」
「怪我《けが》したんだ」
「そんなこと、どこで聞きましたか?」
「レタナからよ」
「おい、ルーイ」と給仕が隣りの部屋に呼びかけた。「チャヴェスが牛の角で|やられた《コギタ》んだってよ」
マヌエルは角砂糖の包み紙をやぶいて、コーヒーの中に砂糖を入れた。かきまわして、飲んだ。甘く、熱く、すき腹に暖かかった。ブランデーも飲みほした。
「こいつを、もう一杯、くれ」と彼は給仕に言った。
給仕はボトルのコルク栓をぬき、グラスになみなみと注ぎ、受け皿に一杯分こぼした。別の給仕がテーブルの前に来ていた。コーヒー係の少年はいなかった。
「チャヴェスの怪我はひどいんですか?」と二番目の給仕がマヌエルにきいた。
「さあね」とマヌエルが言った。「レタナはなんとも言ってなかったな」
「奴《やつ》はそんなことを気にするもんか」と背の高い給仕が言った。マヌエルの見たことのない給仕だった。たったいまやってきたにちがいない。
「この町じゃあ、レタナに味方していれば、成功しますぜ」とその背の高い給仕が言った。「味方しないなら、町をおん出て、ピストル自殺したほうがましですぜ」
「そのとおりだ」と、そこにやって来ていたほかの給仕が言った。「まったく、おめえの言うとおりだ」
「そうさ、おれの言うとおりよ」と背の高い給仕が言った。「奴のことだったら、おれの言うことに間違いないさ」
「奴がヴィラルタにやった仕打ちを見ろよ」と最初の給仕が言った。
「ヴィラルタだけじゃない」と背の高い給仕が言った。「マルシャル・ラランダにやった仕打ちを見ろ。ナシオナルにやった仕打ちを見ろ」
「そのとおりだ」と背の低い給仕が合槌《あいづち》をうった。
マヌエルは彼のテーブルの前で立ちはだかって話している給仕たちを見た。彼は二杯目のブランデーを飲んでしまっていた。給仕たちは彼のことは忘れていた。彼に興味はなかったのだ。
「あのラクダみたいな連中を見ろよ」と背の高い給仕が続けた。「お前、あのナシオナル二世の闘牛ぶりを見たか?」
「この前の日曜日に見たぜ、なあ?」と最初からいる給仕が言った。
「奴はキリンだよ」と背の低い給仕が言った。
「おれの言ったとおりだろうが」と背の高い給仕が言った。「奴らはレタナの身内さ」
「おい、もう一杯くれ」とマヌエルが言った。給仕が受け皿にこぼしたブランデーをグラスにうつして、連中がしゃべっている間に飲んでしまったのだ。
最初の給仕が無表情になみなみとグラスに注ぐと、三人はしゃべりながら部屋から出ていった。
むこうの隅で、例の男が息を吸うたびに、かすかにいびきを立てながら、壁に頭をもたれて、まだ眠っていた。
マヌエルはブランデーを飲んだ。自分も眠くなってきた。町に出るには暑すぎた。それに、なんにもすることがないのだ。スリトに会いたい。待っている間、眠ろう。テーブルの下のスーツケースを蹴《け》とばして、そこにあるのを確かめた。壁際の座席の下においたほうが、たぶん、いいだろう。かがみこんで、それを下に投げこんだ。それから、テーブルにうつぶせになって、眠りこんだ。
目がさめると、誰かがテーブルの向こう側に坐っていた。インディアンみたいな黒褐色の顔の大男だった。しばらく前からそこに坐っていたのだ。手を振って給仕を追いやり、坐って新聞を読みながら、テーブルに顔を伏せて眠っているマヌエルを時おり見おろしていた。新聞をたどたどしく読んだ。読みながら唇を動かし、一語一語たしかめていた。読むのに疲れると、マヌエルを見た。どっかと腰をおろし、黒いコルドバ〔スペイン南部の県〕革の帽子を目深《まぶか》にかぶっていた。
「よう、スリト」と言った。
「やあ、お若けえの」と大男。
「眠っちゃったよ」とマヌエルは握りしめた手の甲で額をこすった。
「そうだろうと思ってたんだ」
「ところで、どうだい?」
「まあまあさ。おめえはどうだ?」
「あまりよかねえ」
二人とも黙った。槍手《ピカドール》のスリトはマヌエルの青白い顔を見た。マヌエルは目を伏せ、槍手《ピカドール》の巨大な手が新聞をたたんでポケットにしまいこむのを見た。
「頼みがあるんだが、マノス」とマヌエルが言った。
「|強い手《マノスデュロス》」とはスリトのあだ名だった。そう呼ばれるときまって彼は自分の巨大な手のことを考えた。意識して手をテーブルの上に出した。
「一杯やろうや」と言う。
「よし」とマヌエル。
給仕が来て、出ていき、またやって来た。テーブルの二人を振りかえって見ながら、部屋から出ていった。
「なんだい、頼みって、マノロ?」スリトはグラスをおいた。
「あすの晩、おれのために牛を二頭突いてくれねえか?」マヌエルはテーブル越しにスリトを見ながら、頼んだ。
「だめだ」とスリトが言う。「おれは槍突きはやらねえ」
マヌエルはうつむいて、自分のグラスを見た。そういう返事は予期していたのだ。それが、いまその返事を聞いたのだ。そうだ、その返事を。
「すまねえ、マノロ。おれは槍突きはやってねえんだ」スリトは自分の手を見た。
「ただ、きいてみただけさ」とマヌエル。
「あすの晩のやつか?」
「そうだ。一人いい槍手《ピカドール》がいたら、うまくやれると思ったんだ」
「いくら貰うんだ?」
「三百ペセタ」
「槍突きだけで、おれはもっと貰うぜ」
「そうだろうとも」とマヌエルが言う。「おめえに頼む資格はねえんだ」
「なんで、いつまでもそんなことをやってるんだ?」とスリトがたずねる。「髷《コレータ》を切ったらどうだ、マノロ」
「わかんねえんだ」とマヌエル。
「おめえだって、おれと似たりよったりの年じゃねえか」とスリト。
「わかんねえんだ」とマヌエルが言う。「やらなきゃならねえんだ。五分五分の勝負に持っていけるよう、うまくやれさえすりゃあ、それで充分なんだ。おれはどうしてもこれにしがみついていなくちゃならねえんだ、マノス」
「いや、そんなことはねえ」
「いや、そうなんだ。足を洗おうとしたこともあるさ」
「おめえの気持ちはわかるよ。だが、そりゃあ、よくねえぜ。足を洗って、きれいさっぱりしろよ」
「ところが、だめなんだ。それにこのごろ、うまくいってるんでよ」
スリトは相手の顔を見た。
「おめえ、入院していたんだな」
「だが、怪我したときは、うまくいってたんだ」
スリトはなにも言わなかった。彼はコニャックを受け皿からグラスについだ。
「新聞に、おれのファエーナ〔闘牛の最後の第三ラウンドで、闘牛士が赤い布≪ムレータ≫をもって牛と戦う演技〕ほどすばらしいのはないって、出ていたんだぜ」とマヌエルが言う。
スリトは相手を見た。
「おれがやれば、腕がいいってことは、おめえも承知だろ」とマヌエル。
「もう年なんだぜ」と槍手《ピカドール》が言う。
「とんでもねえ」とマヌエルが言う。「おめえはおれより十《とお》も年上だよ」
「おれは別さ」
「おれはまだ年じゃねえ」とマヌエルは言う。
二人は黙って坐っていた。マヌエルは槍手《ピカドール》の顔をじっと見つめていた。
「おれは怪我するまでは、すばらしかったんだ」とマヌエルが言いだす。
「おめえ、おれの試合を見てくれたってよさそうなもんだがな、マノス」とマヌエルが相手をなじるように言う。
「おめえのは見たくねえんだ」とスリトが言う。「見ると、いらいらするからな」
「近ごろ、おれのは見ちゃいねえんだな」
「もう、見あきたからな」
スリトはマヌエルの視線をさけ、相手を見た。
「やめたほうがいいぜ、マノロ」
「ところが、だめなんだ」とマヌエル。「いま、うまくいってるんだ、本当に」
スリトはテーブルに両手をおき、身体《からだ》をのりだした。
「いいか、槍突きは引きうけてやる。だが、あすの晩うまくいかなかったら、おめえ、足を洗うんだ。いいな。そうしてくれるな」
「いいとも」
スリトはほっとして、身体をおこした。
「足を洗うんだな」と彼が言った。「ごまかしはやめるんだ。髷《コレータ》を切るんだな」
「足を洗わなくてもいいさ」とマヌエル。「まあ見てろよ。たいした腕だから」
スリトは立ちあがった。言い合いに疲れを感じた。
「足を洗うんだな」と彼が言った。「このおれが、おめえの髷を切ってやるから」
「いや、そうはさせねえ」とマヌエル。「そんなふうにはなんねえさ」
スリトは給仕を呼んだ。
「来いよ」とスリトが言った。「来いよ、家へ」
マヌエルは座席の下からスーツケースを取りだした。彼はうれしかった。スリトが彼のために槍手を引きうけてくれるのだ。スリトは今いる槍手のなかで一番腕がいい。もう、なにもかも片づいたも同然だ。
「来いよ、家へ。いっしょに食おう」とスリトが言う。
マヌエルは馬場《パティオ・デ・カバーリョス》に立って、チャーリー・チャップリンの組が終るのを待っていた。スリトが横に立っていた。二人の立っていたところは暗かった。闘牛場《リング》に通じる高い扉は閉まっていた。二人の頭上に喚声があがり、それからまたどっと笑い声がわいた。それから、静かになった。マヌエルは馬場のあたりの厩舎の匂いが好きだった。暗闇のなかで、いい匂いがした。闘牛場から、また、どっとわめき声がわき、やがて、拍手が、長い拍手が、いつまでも続いた。
「奴らを見たことがあるかね?」とスリトがたずねた。マヌエルの脇の暗闇のなかで大きな図体がぼんやり浮かんでいた。
「いや、ねえ」とマヌエルが言う。
「けっこう面白いぜ」とスリトが言う。暗闇のなかで独り笑いしている。
闘牛場に通じる、背の高い二重扉が、ギイッと開いた。マヌエルには、アーク燈の強い光のなかに闘牛場《リング》が見えた。周囲一面の暗闇のなかにプラーサ(闘牛場)が浮きあがって見えた。闘牛場のふちを、浮浪者のなりをした二人の男がぺこぺこおじぎをしながら駈けまわり、そのうしろから、ホテルのボーイの制服を着た、もう一人の男が追いかけてきて、かがみこんでは、砂地に投げ込まれた帽子や杖を拾いあげ、暗闇のなかへ投げかえしていた。
電燈が馬場《パティオ》についた。
「おめえが若い奴《やつ》らを集めている間に、この馬のどれかに乗ってるからな」とスリトが言った。殺された牛につなぐために隣砂地《アレーナ》〔砂を敷いてあるリング〕に曳かれていく騾馬が現われた。
防牛柵《バレラ》〔闘牛が行われる砂地のリングの周囲にめぐらされている赤く塗った木製の柵〕と観客席の間の通路から道化を見ていた介添闘牛士《カドリーラ》の面々が、歩いて帰ってきて、馬場《パティオ》の下で、ひとかたまりになって立ち話をしていた。銀とオレンジの縞の服を着た美男子の若者が、マヌエルのほうにやって来て、ほほえんだ。
「エルナンデスです」と言って、手を差し出した。
マヌエルはその手を取った。
「今晩やるのは、まったく象みたいな奴ですぜ」と若者はたのしそうに言った。
「角《つの》のある巨象ってわけだな」とマヌエルも合槌をうった。
「あんた、ひどい貧乏くじを引きましたね」と若者が言う。
「いや、かまわんさ」とマヌエルが言う。「でかいほど貧乏人には食う肉が多いってね」
「そんな冗談、どこで仕入れたんです?」とエルナンデスがにやりとする。
「古い言い草よ」とマヌエルが言う。「おめえの介添闘牛士を整列させてくれ。そうすりゃあ、おれのがどんなのかわかるから」
「あんたのほうにはいいのがいますぜ」とエルナンデスが言う。彼はとてもたのしそうだった。彼はもう二度ほど夜間の闘牛に出たことがあって、マドリッドでは、ひいきの客がつきはじめていた。あと二、三分で闘牛がはじまるというので、うれしかったのだ。
「槍手《ピカドール》はどこだ?」とマヌエルがきく。
「うしろの塀のところで、美人の馬に乗ろうと、取り合いをやってますよ」とエルナンデスがにやっとした。
騾馬《ラバ》が門を通りぬけて、いっせいに駆けこんできた。鞭がビュンビュン鳴り、鈴が響きわたり、若い牛が砂をうねのように掘りあげた。
牛が通りすぎると、彼らはすぐパレードの隊形を組んだ。
マヌエルとエルナンデスが先頭に立った。介添闘牛士《カドリーラ》の若者たちは、重いケープを腕にかけ、背後に並んだ。そのうしろに、四人の槍手《ピカドール》が馬にまたがり、馬場の薄暗がりのなかで、はがねの切先《きっさき》の突槍をまっすぐ、つったてていた。
「レタナの奴、馬がはっきり見えるだけの明りをつけてくれねえのは、おかしいぜ」とひとりの槍手が言った。
「こんな痩せ馬なんか、あんまり見えねえほうが、おれたちにはよかろうってこと、お見通しなんだ」ともうひとりの槍手が答えた。
「おれの乗ってるこいつなど、やっとおれを地面からもちあげてるってところだ」と最初の槍手が言った。
「だが、馬は馬さ」
「そうとも、馬は馬よ」
彼らは暗闇のなかで痩馬《やせうま》にまたがり、しゃべっていた。
スリトは黙っていた。駄馬どものなかで、彼のだけはしっかりしていた。柵《コラル》のなかでその馬の向きを変えて、様子を見、くつわの〈はみ〉と拍車の具合を調べていた。すでに馬の右眼から目隠しの布をとり、耳をつけ根からぴったりとふたをするように縛ってある紐は切りとってあった。立派な、しっかりした馬で、脚がしっかりしていた。スリトにはそれで充分だった。彼は闘牛《コリーダ》の間じゅう、この馬をのりまわすつもりだった。もう、馬にのってからずっと、薄暗がりのなかで、つめものを入れた大きな鞍にまたがり、パレードの開始を待ちながら、心のなかで闘牛の全行程の槍突きをすませていたのだ。ほかの槍手たちは彼の両側でしゃべりつづけていた。彼には彼らの話し声は聞こえなかった。
二人の闘牛士《マタドール》は、同じように左腕にケープをかけ、それぞれ三人の付添闘牛士《ペオーン》〔マタドールの命令を受けて徒歩で動く闘牛士、バンデリリェロともいう〕の前に、並んで立った。マヌエルは背後にいる三人の若者のことを考えていた。三人ともエルナンデスのようにマドリッドっ子で、十九歳ぐらいの若者だ。そのうちのひとりは、まじめで、とりすました顔の、色黒のジプシーだった。マヌエルはその顔付が気にいった。彼はそちらを振りむいた。
「なんて名前だ、お若いの」と彼はジプシーにきいた。
「フェンテスです」とジプシーが言う。
「いい名だな」とマヌエルが言う。
ジプシーはにっこり笑って、歯を見せた。
「牛が出てきたら、おめえが引き受けて、ちょっと走らせるんだな」とマヌエルが言う。
「承知しました」とジプシーが言う。まじめな顔になる。これからやることを考えはじめたのだ。
「さあ、はじまるぞ」とマヌエルがエルナンデスに言う。
「よし。行こう」
頭をあげ、楽隊に合わせて身体をゆらせ、右腕を思うままに振り、二人はアーク燈に照らされた闘牛場の砂地《アレーナ》を横ぎって、進み出た。介添闘牛士《カドリーラ》たちは背後で隊形を開き、槍手《ピカドール》たちは馬にまたがって、そのあとにつづき、そのうしろから闘牛場《リング》の係員と、鈴を鳴らして騾馬がつづいた。砂地を横ぎって行進していくと、観衆からエルナンデスに喝采がわいた。彼らはふんぞりかえって、身体をゆり動かしながら、まっすぐ正面をみつめて、行進した。
会長の前でおじぎをすると、行進の隊伍はそれぞれの持場《もちば》に散っていった。闘牛士たちは防牛柵《バレラ》のほうへいき、重いマントを身軽な闘牛用のケープに着替えた。騾馬は退場した。槍手《ピカドール》たちは馬をぎくしゃくさせながら闘牛場のまわりを全速力で駆けまわり、そのうちの二人は入場してきた門から出ていった。係員が砂地を掃きならした。
マヌエルはレタナの代理が注いでくれた水を一杯飲んだ。その男が彼のマネジャーと剣持ちをやるのだ。エルナンデスは自分のマネジャーと打合わせをしてから、やって来た。
「なかなかの人気じゃないか、若いの」とマヌエルは彼をほめる。
「おれを好いてくれるんでね」とエルナンデスはうれしそうに言う。
「パセオ〔闘牛士たちのリングへの入場と、リングを横切る行進〕はどうだった?」とマヌエルはレタナの代理にきく。
「結婚式みたいだった」とその剣持ちが言う。「よかった。まるでホセリートとベルモンテ〔共に闘牛の最盛期を現出した実在の闘牛士〕のご登場だ」
スリトがそばを馬で駆けぬけた。巨大な乗馬像といった姿だった。馬の向きを変え、牛が出てくる闘牛場《リング》の向こう側の牛檻《トリル》のほうに馬を向けた。アーク燈の下では、妙な気持ちだ。たくさん金を貰って、かんかん照りつける午後の太陽の下で槍突きをやったのだ。こんなアーク燈の下でやるなんて、嫌だ。はやく始まればいいのに、と彼は思った。
マヌエルが彼のところにやって来た。
「マノス、突いてくれ」と言った。「おれがやりやすいように痛めつけてくれ」
「突くとも、お若いの」スリトは砂に唾を吐いた。「闘牛場の外までで飛びあがらせてやるぜ」
「奴のうえにのしかかってやれよ、マノス」とマヌエルが言う。
「のしかかってやるとも」とスリトが言う。「どうしてこんなに待たせるんだ?」
「もう出てくるよ」とマヌエルが言う。
スリトは箱型のあぶみに足をつっこみ、バックスキンでおおった甲胄《かっちゅう》をまとった巨大な脚で、馬をはさみつけ、左手に手綱を、右手に長い槍を持ち、つば広の帽子は、光りをさけて目深《まぶか》にかぶり、はるか向こうの牛檻《トリル》の扉をじっと見つめていた。乗馬の耳がぴくぴく動いた。スリトは左手で馬の首筋を軽くたたいた。
牛檻の赤い扉がギイッと向こう側に開くと、一瞬、スリトは砂地《アレーナ》を越えたはるか向こうの通路に目をやった。なにもいない。すると、牛がまっしぐらに飛びだしてきて、燈火の下までくると四本の脚を横すべりさせ、やがて全速力で突進し、速いスピードで軽やかに走り、突進するときに鼻の穴を大きくひろげてフーフーいう以外は、静かで、暗い檻から解放され、よろこんでいた。
観客席の最前列では、『エル・ヘラルド』紙の闘牛評論記者代理がやや退屈しながら、膝の前のセメントの壁の上で書こうと身体をのりだして、走り書きする……「カンパネロ号、黒牛。四二番〔角の鋭さを示す番号。四二番は中位の鋭さ〕。時速九十マイルというものすごいスピードで飛び出してきた……」
マヌエルは防牛柵《バレラ》にもたれかかり、牛をみつめながら、片手を振って合図した。すると、ジプシーがケープをなびかせて、走って出ていった。全速力で駆けていた牛は、くるっと向きを変え、頭を低くし、尻尾をはねあげて、ケープに向かって突進した。ジプシーはジグザグに走った。牛の前を走りすぎるとき、牛はその男をみとめ、ケープをやめて、その男に向かって突進した。ジプシーが全速力で走って、赤い防牛柵を飛び越えたとたん、牛が角を柵にひっかけた。めくらめっぽうに、どすんとその木の柵にぶつかり、角を二度も柵にうちこんだ。
『エル・ヘラルド』紙の評論記者は煙草に火をつけ、マッチを牛に投げつけ、それから手帳に書きつけた。「入場料を払った観客を満足させるにたる巨大な体躯と充分な角。カンパネロ号は闘牛士の領分に切りこんでいく傾向をみせていた」〔闘牛には、牛の領分と闘牛士の領分とがある。両者とも、各自の領分を守るかぎり、比較的安全なのである〕
マヌエルは、牛が柵にどすんと突っこんだとき、堅い砂地に踏み出した。闘牛場《リング》を左へ四半分ほどまわったところに、スリトが防牛柵《バレラ》にぴったりくっついて、白馬にまたがっているのが視線の隅にうつった。マヌエルはケープを身体のすぐ前にひろげ、左右の手でひだを握り、牛にむかってわめいた。「ハア! ハア!」牛は向きを変え、柵を目がけて突進し、とっ組み合いになるかに見えたが、ケープにおどりかかってきた。その瞬間、マヌエルは一歩横に体をかわし、牛の突進にくるりと踵《きびす》をめぐらし、角の正面でケープを振った。振りおわると、また牛の前に立ちはだかり、前と同じように身体の前にケープをひろげ、牛がまた突進してくると、ふたたびくるりと踵をめぐらした。彼がくるりと廻るたびに、観衆からどよめきがわいた。
四度、彼はケープをいっぱいに波うたせてかかげ、そのたびに、牛をひきまわしたが、また牛が突っかかってきて、牛といっしょに回転した。それから、五度目の回転の終りで、ケープを尻にあてて、くるりと廻ると、ケープはバレーの踊子のスカートのようにひろがり、牛は彼のまわりを一本のベルトのようにぐるっと廻り、彼はきれいに飛びのき、近づいてしっかり身構えて白馬に乗っているスリトのほうに牛を向けると、馬は牛と向きあい、耳を前に倒し、唇をひきつらせる。スリトは帽子を目深にかぶり、上体をのりだし、槍の長い柄のやや下のほうを握り、右腕で鋭い角度で斜めにかかえこんで、前方に突き出し、三角のとがった鉄の槍先を牛に向けた。
『エル・ヘラルド』紙の二流評論家の記者は煙草をふかしなから、目を牛から離さず、書いた。……「ベテランのマノロは観衆に喜ばれる一連のヴェロニカ〔ケープを振って身体を回転させ牛の攻撃をかわす技〕をやり、ベルモンテのようなレコルテ〔ケープで牛の攻撃をかわす技〕を最後に試み、常連から喝采を受けた。これから、いよいよ騎乗の|ラウンド《テルシオ》だ」〔闘牛は三つのラウンドにわかれる。各ラウンドをテルシオといい、槍のラウンド、鏃の形の鋼鉄を牛の肩胛骨間の隆起にうちこむラウンド、それに、牛を刺し殺すラウンドの三つ〕
スリトは馬にまたがり、牛と槍先との間隔をはかった。見ていると、牛が目を馬の胸にすえて、渾身の力をふりしぼって、突進してきた。頭を低くして、突っかかろうとするその瞬間、スリトは牛の肩のもりあがった筋肉に槍先を打ち込み、柄に全体重をかけ、左手で白馬の手綱を引っぱり、前肢で地面を蹴った馬を空中にのけぞらせ、その馬を右手に廻し、牛を下にずっと押しやると、角は馬の腹の下をうまい具合にすりぬけ、馬はふるえながら地上におりるが、エルナンデスのさしだしたケープに牛が突進すると、その牛の尻尾が馬の胸をかすめた。
エルナンデスはケープで牛を引きだし、いなしながら、他の槍手《ピカドール》のほうへ、横ざまに飛んだ。ケープをひと振りして、牛と馬と乗手のほうへ真直ぐ向けると、うしろへ飛びのいた。牛は馬が見えると、突っこんだ。槍手の槍が牛の背中をかすめて滑った。牛の突進におびえて馬が棒立ちになったとき、槍手はすでになかば鞍から投げだされ、槍で突きそこなって、右足を宙にはねあげ、左側に転落し、馬を自分と牛の間に置いた。馬は棒立ちになり、牛の角にやられ、角を突きさされたまま、まっさかさまに、どうと倒れた。槍手《ピカドール》は長靴で馬を蹴りつけ、馬から離れたが、だきおこされ、引きずられ、立たせてもらうのを待ちながら、横になっていた。
マヌエルは倒れた馬を牛が突くままにしておいた。彼はあわてなかった。槍手は安全なのだ。それに、こんな槍手には心配させるほうが楽なのだ。この次には、もうすこし頑張るだろう。しようがねえ槍手《ピック》だ。砂地の向こうを見ると、スリトが防牛柵《バレラ》からちょっと離れたところで待っていた。馬は硬直していた。
「ハア!」と牛に呼びかた。「さあ|突け《トマール》!」両手にケープを持ち、牛の目に見えるようにした。牛は馬から離れ、ケープに突進してきた。マヌエルは横っとびに走り、ケープを広くひろげて、立ちどまり、踵でぐるっとまわり、牛を鋭く回転させ、スリトの正面に引きまわした。
「カンパネロ号は駄馬一頭を殺したが、槍二本を受けた。エルナンデスとマノロが牛の攻撃をそらしている」と『エル・ヘラルド』の評論家の記者が書いた。「牛は槍を押しかえし、露骨な敵意を馬に示した。ベテランのスリトは槍に往年の技量を復活させた。特にスエルテ〔闘牛であらかじめ決めておいた演技〕は……」
「オーレ! オーレ!」記者のそばに坐っていた男が叫んだ。叫び声は観衆のわめき声でかき消され、男は記者の背中をぴしゃりとたたいた。記者は顔をあげ、すぐ真下にいるスリトを見た。スリトは馬上にぐっとのりだし、長い槍を鋭く斜めに小腋《こわき》にかかえ、ほとんど切先のところを握り、全体重を槍にかけ、牛を突き離していた。牛が押しまくって、馬に向かって突っこもうとすると、彼は身体をぐっとのりだして、牛の上におおいかかり、牛を押しとめ、押しとめしながら、ゆっくりと牛の圧力にさからって馬を旋回させ、とうとう牛から離れさせた。スリトは馬が離れ、牛が通過できるあの瞬間を感じとり、牛の抵抗をとめていたはがねの槍先をゆるめた。牛が図体をふりもぎって突進し、鼻づらの前にエルナンデスのケープを見つけたとき、三角にとがった鋼鉄の槍先は、牛のもりあがった肩の筋肉を切りさいた。牛はめくらめっぽうにケープに突っかかり、若者は牛をひろびろした砂地《アレーナ》へ導いていった。
スリトは馬にまたがり、その背を軽くたたきながら、観衆がどよめくなかを、エルナンデスがまばゆい光をあびて振っているケープめがけて、牛が襲いかかっていくのを見ていた。
「見たかね?」と彼はマヌエルに言った。
「すごかったな」とマヌエルが言う。
「さっきやっつけてやったぜ」とスリトが言う。「ほら、奴を見てみろ」
ケープがすぐ目の前でひるがえると、そのため牛は滑って膝をついた。牛はすぐに立ちあがったが、砂地をへだてたはるか向こうに、マヌエルとスリトは、噴き出す血のしぶきが牛の黒い肩の上で輝いているのを見た。
「さっきやっつけてやったぜ」とスリトが言う。
「いい牛だな」とマヌエルが言う。
「もうひと突きやらせてくれるなら、殺してやるがな」とスリトが言う。
「三番目のラウンドはおれたちにまかすだろうぜ」とマヌエル。
「ほら、奴を見てみろ」とスリト。
「おれは、あそこにいってみなきゃあ」とマヌエルは言い、闘牛場《リング》の向こう側へ走っていった。そこでは、雑役夫《モノ》〔モノサビオ。赤シャツを着た闘牛場の使用人。ピカドールが落馬したとき、馬に跨るのを手伝い、馬を牛に向かわせ、負傷した馬を殺したりする〕たちが棒切れなどで馬の脚をひっぱたき、馬勒をつかんで、牛のほうへ馬を引きだそうとしていた。みんなは一列になって、馬を牛に向けようとするのだが、牛は頭をたれ、地面を脚でかきながら、襲いかねて、立っていた。
スリトは馬にまたがり、そちらのほうへ進み、こまかいところまで見てとって、顔をしかめた。
遂に牛が襲いかかった。馬の曳手《ひきて》たちは防牛柵のほうへ逃げ、槍手《ピカドール》は槍を牛のうしろにそらし、牛は馬の下にもぐりこみ、馬をもちあげ、自分の背中の上に馬を投げあげた。
スリトはじっと見ていた。赤シャツを着た雑役夫《モノ》たちが槍手をひきはなそうと走っていく。槍手は立ちあがり、ののしり、腕をばたばたと振る。マヌエルとエルナンデスはケープを持って、待ちかまえている。そして牛は、大きな黒牛は、背中に馬をかついでいる。馬の足はだらりと下がり、馬勒は角にひっかかっている。背中に馬をかついだ黒牛は、小股によろめいたが、やがて首を曲げ、馬をもちあげ、突きあげ、突進して振りおとそうとする。馬は滑りおちてしまう。すると、牛はマヌエルがひろげたケープに襲いかかる。
牛の動きが鈍くなった、とマヌエルは感じた。ひどく血をたらしていた。脇っ腹一面に血がぎらぎら光っていた。
マヌエルは、ふたたびケープをさしだした。牛はやってきた。目を見開き、険悪な様子で、ケープを見つめていた。マヌエルは横っ飛びに身をかわし、両腕をあげ、ヴェロニカ〔闘牛士が牛の正面などに立ったままケープを動かして牛を通過させる演技〕をやろうと、牛の前にケープをぴたりとつけた。
いまや、彼は牛と向かいあっていた。そうだ、牛は頭を心持ち低くしている。いつもより低くしてくる。スリトの一撃が効いたのだ。
マヌエルはケープをばたばたさせた。そら、牛が来るぞ。彼は横っ飛びにかわして、またヴェロニカをやり、旋回した。おそろしいほど正確に突いてくるぞ、と彼は思った。いやというほど戦ったので、奴は今度は気をつけてやがる。獲物を狙ってやがる。おれに目をつけてるな。だが、やっぱり、ケープしかやれねえよ。
彼は牛にケープを振ってみせた。そら、来たぞ。彼は横っ飛びにかわす。ぞっとするほど近い。こんな近くじゃ、やりたくねえ。
牛が通りすぎたとき、ケープの端が、牛の背中にこすれ、血で濡れた。
よし、これで最後だ。
マヌエルは牛とにらみあい、牛が突っかけるたびに、牛と旋回し、両手でケープをつきだした。牛は彼をにらんだ。じいっと見つめ、角をまっすぐ突きだし、用心深く、彼を見ている。
「ハア!」とマヌエルが言った。「牛《トロ》め!」そして、そり身になって、ケープを前に振った。そら、来た。彼は横っ飛びに体をかわし、背後でケープを振り、旋回する。牛は旋回するケープを追う。すると、そこには何もない。ケープの動きに釘づけになり、とりこになる。マヌエルは片手で鼻づらの下でケープを振り、牛が釘づけになったのを示し、歩み去った。
喝采はなかった。マヌエルは砂地を横ぎり、防牛柵《バレラ》のほうへ歩いていった。スリトは闘牛場《リング》から馬で出ていった。マヌエルが牛と戦っている間に、トランペットが鳴って、|小槍打ち《バンデリーリャ》の演技に移ることを知らせていた。マヌエルはその合図を意識して気にとめてはいなかった。雑役夫《モノ》たちが二頭の死んだ馬にズックをかけ、そのまわりにおがくずを撒《ま》いていた。
マヌエルは水を一杯のもうと防牛柵《バレラ》のところへやってきた。レタナの代理人が重たい素焼きの水差しを手渡してくれた。
背の高いジプシーのフェンテスが二本の小槍を持って立っていた。二本いっしょに持っていた。細身で、柄が赤く、先端は釣針のようにとがっていた。彼はマヌエルを見た。
「あそこへいってこい」とマヌエルが言った。
ジプシーは駆けだして出ていった。マヌエルは水差しをおいて、じっと見た。ハンカチで顔を拭いた。
『エル・ヘラルド』の評論家の記者は、股ぐらにおいて、なまぬるくなったシャンペンのボトルに手をのばし、ひと口飲んで、一節をこうしめくくった。
「……老練なマノロはケープと槍の野暮くさい一連の闘技に喝采を期待せず。いよいよ小槍の演技に入る」
闘牛場の中央には、ぽつんと牛が一頭、まだ釘づけになったまま、立っていた。背の高く、すらっとしたフェンテスは、両腕をひろげて、横柄《おうへい》に牛のほうに歩いていく。二本の細身の赤い柄を左右の手に一本ずつ指先でにぎり、槍先をまっすぐに突きだしていた。フェンテスはずんずん進んでいった。彼の背後に、片側によって、ケープをもった一人の付添闘牛士《ペオーン》がついていた。牛は彼を見た。もはや釘づけではなかった。
牛の目はフェンテスをじっと見つめた。フェンテスは静かに立っていた。彼はそり身になって牛を呼んだ。二本の小槍《バンデリーリャ》をぴくぴくと痙攣させた。鋼鉄の先端が牛の目をとらえた。
尻尾をはねあげ、牛は突進した。
まっしぐらに、目をその男から離さず、突進した。フェンテスはそり身になり、小槍を前方につきだし、静かに立っていた。牛が頭を下げて突っかけようとしたとき、フェンテスは身体をうしろにそらし、両腕を一緒に合わせ、両手が触れあうようにして、振りあげた。小槍は二本の降下する赤い線となった。身体をのりだして、牛の肩へ槍先をうちこみ、牛の角の間にぐっと身体をのりだし、直立した二本の柄を軸に、ぴたりと両脚をそろえて、旋回し、身体を一方にひねりながら、牛をやりすごした。
「オーレ!」と観衆がわいた。
牛は四本の脚で地面を蹴り、鱒《マス》のように跳ねあがり、はげしく突いてきた。飛びあがるたびに、小槍の赤い柄がゆれた。
マヌエルは防牛柵のところに立っていたが、牛がいつも右に突いてくるのに気づいた。
「奴につぎの二本を右に打ちこめと言ってこい」と彼は、新しい小槍をもってフェンテスのほうに駈けていこうとしている少年に言った。
どっしりした手が彼の肩におちた。スリトだった。
「おい、どうだい」とスリトがたずねる。
マヌエルはじっと牛を見つめている。
スリトは両腕に体重をかけ、防牛柵に身体をのりだす。マヌエルが彼のほうをむく。
「おめえうまくいってるな」とスリトが言う。
マヌエルは首を振った。つぎのラウンドまで、いまはなにもすることがない。ジプシーは小槍をうまく扱っている。つぎのラウンドで牛は扱いやすい手頃な状態になって向かってくるだろう。いい牛だ。いままではみんな簡単だったんだ。剣でやる最後のラウンドが悩みの種なのだ。本当に悩んでいるのではない。そんなこと考えてもいないんだ。でも、そこに立っていると、重苦しい心配な気持ちがわいてきた。彼は牛を見ながら、自分のやる|最後の演技《ファエーナ》を考えていた。|赤い布《ムレータ》で牛の力を弱め、牛をあやつりやすくする演技のプランをたてていた。
ジプシーはまた牛のほうへ歩き出していき、牛を小馬鹿にして、ダンスホールの踊り子のように、どちらかの足を常に地面につけて歩き、小槍の赤い柄を、歩くたびに、ぴくぴく動かした。牛は釘づけになっているのではなく、じっと彼を見つめ、ねらっていた。しかし、確実に彼をとらえ、角で突っかけられるまで、接近するのを待っていた。
フェンテスが前に踏みだしたとたん、牛は襲いかかった。フェンテスは牛が襲いかかったとき、小さく四分の一回転の弧を描いて走った。それから、うしろ向きに走りすぎて、立ち止まり、前にのめりながら、つま先き立ち、腕を突きだして、牛の突進をかわし、その大きな肩のひきしまった筋肉へ小槍をまっすぐ突きさした。
観衆はわきたった。
「あの若造はこんな夜間の闘牛には長くいるような奴じゃあねえぜ」とレタナの代理がスリトに言う。
「あいつ、うめえな」とスリト。
「おい、よく見ろ」
二人はじっと見つめる。
フェンテスが防牛柵《バレラ》を背にして立っていた。二人の介添闘牛士《カドリーラ》はそのうしろで、ケープをもち、柵に投げかけて牛の注意をそらそうと、かまえていた。
牛は、舌を出し、腹を波打たせ、ジプシーをじっとにらんでいた。こんどこそ奴をひっつかまえた、と牛は思う。うしろは赤い板塀だ。ほんのひと突きの距離だ。牛はじっとにらんでいた。
ジプシーは身体をそらせ、腕をひき、小槍を牛に向けていた。牛に呼びかけ、片足を踏みならした。牛は疑ってかかった。ほしいのはあの男だ。肩に小槍の〈かぎ〉など、もうごめんだ。
フェンテスは牛のほうにもうすこし近づいた。身体をそらした。また、呼びかけた。観衆の中で誰かが気をつけろと叫んだ。
「奴、やけに近えぞ」とスリトが言う。
「よく見てろ」とレタナの代理が言う。
身体をそらし、小槍で牛をけしかけると、フェンテスは両足で地面から飛びあがった。飛びあがると、牛は尻尾をはねあげ、襲いかかった。フェンテスは降りてきて、つま先で立ち、両腕をまっすぐ突きだし、全身を弓なりに前に曲げ、右の角《つの》から身体をかわしながら、槍の柄をまっすぐ突きおろした。
牛は防牛柵《バレラ》にめりこんだ。ひらひらしているケープだけが目につき、人間を見失っていたのだ。
ジプシーは群衆の喝采を浴びながら、防牛柵にそってマヌエルのほうへ走ってきた。角の先をかわしきれなかったところの胴衣が裂けていた。彼はそれがうれしくて、観衆にその裂け目を見せていた。闘牛場《リング》を一周した。スリトは、彼が微笑して、胴衣を指さしながら、通りすぎて行くのを見た。スリトも微笑した。
ほかの誰かが小槍の最後の一対を打ちこんでいた。誰も注意して見てはいなかった。
レタナの代理がムレータ〔サージまたはフランネル製のハート型の深紅の布。太い把手には溝がほられ、細い先端を鋭い鋼鉄製のやじりでおおってある棒にかける〕の赤い布の内側に棒をおしこみ、布をまるめて、防牛柵《バレラ》ごしにマヌエルに手渡した。それから、革の剣ざやに手をのばし、剣をとりだし、革の鞘《さや》のところをにぎって、防牛柵ごしにマヌエルのほうに差しだした。マヌエルは赤い柄《つか》をにぎって刀身を抜く。鞘はぐったりと垂れる。
彼はスリトを見る。大男にはマヌエルが汗を流しているのが見える。
「さあ、殺《や》っちまいな」とスリトが言う。
マヌエルはうなずく。
「ころあいだぜ」とスリト。
「ちょうどおあつらえむきだ」とレタナの代理が請《う》けあう。
マヌエルはうなずく。
トランペットの奏者が、上のほうの屋根の下で、最後の演技の合図を吹きならすと、マヌエルは砂地を横切って、上のほうの暗いボックス席の、会長がいると思われるあたりに向かって歩いていった。
観覧席の最前列では、『エル・ヘラルド』の闘牛記者代理が、なまぬるいシャンペンをひと口ぐっと飲んだ。見たとおり書いてもはじまらないから、この闘牛《コリーダ》は社に帰ってから詳しく書こう、と決めていた。ともかく、こんなもの何だってんだ。つまらぬ夜間の闘牛じゃないか。見落としがあったら、よその朝刊から埋合わせりゃいいんだ。シャンペンをもうひと口飲んだ。十二時にマキシムでデートなんだ。ともかくこんな闘牛士など何だってんだ。若造とよた者じゃないか。よた者の集まりじゃないか。彼はポケットにはぎとり式のノートをつっこみ、マヌエルのほうを見ると、マヌエルは闘牛場にたったひとりでぽつんと立ち、暗い観覧席の遥か高くて見えないボックスのほうに向かって、帽子をとって挨拶を送っていた。闘牛場《リング》では、牛がうつろな目つきで、静かに立っていた。
「会長閣下ならびに世界一の知性と寛容を誇るマドリッド市民各位に、この牛を献上いたします」マヌエルはこんな口上をやっていた。それは決まり文句だった。彼はそれを全部しゃべった。夜間用にはすこし長かった。
彼は暗闇に向かってお辞儀をし、しゃんと姿勢を正し、肩ごしに帽子を投げあげ、左手に|赤い布《ムレータ》を、右手に剣を持ち、牛のほうへ歩きだした。
マヌエルは牛のほうへ歩いた。牛は彼を見る。その目はすばやい。マヌエルは小槍がその左肩にぶらさがっていて、スリトの槍突きで血が流れ出て光っているのに気づく。牛の足の具合に気をくばる。左手に赤い布を、右手に剣を持って前進しながら、牛の足を見つめる。牛は足を揃えなければ、襲いかかれないのだ。いま、牛は四足をふんばって、ぼんやりと立っている。
マヌエルは牛の足を見つめながら、そちらのほうへ歩いていく。大丈夫。殺《や》れるぞ。牛の頭を下げるようにしなきゃならん。そうすれば、角をやりすごして、殺れる。彼は剣のことは考えないし、牛を殺すことも考えない。一度にひとつのことしか考えないのだ。だが、つぎつぎにいろんなことが彼を圧倒した。牛の足を見つめて前進しながら、彼は牛の目を、濡れた鼻づらを、広く、前に突き出してひろがっている角を、つぎつぎに、見た。牛は目のふちに薄いくまがある。目がマヌエルをじっと見つめている。この青白い顔の小男なんか、ひと突きだ、と思う。
マヌエルはいま、静かに立ち、剣で|赤い布《ムレータ》を拡げている。布に剣の切っ先を突きさし、いま左手に持ちかえた剣で赤いフランネルの布をボートの三角帆のように拡げ、牛の角の先端を見つめる。角の一本は防牛柵《バレラ》にぶつかって裂けている。もう一本は山あらしの針のように鋭い。マヌエルは赤い布を拡げながら、その角の白い根元が赤く血で染っているのに気づく。こうしたことに気をくばりながら、彼は牛の足から目をそらさない。牛はマヌエルをじっと見ている。
奴、こんどは受けに廻ったな、とマヌエルは考える。精力をたくわえてるんだな。あんな構えからおびきだして、頭を下げさせなきゃあ。しょっちゅう頭を下けさせとくんだ。スリトが一度下げさせたが、またもとのようになっている。奴を走らせれば、血が出て、それで頭を下げるだろう。
左手に持った剣で、身体の前に|赤い布《ムレータ》をひろげ、彼は牛を呼んだ。
牛は彼を見た。
彼は小馬鹿にしたように、そりかえって、広くひろげたフランネルを振った。
牛は|赤い布《ムレータ》を見た。それはアーク燈の下で、緋色にかがやいていた。牛の足がひきしまった。
おいでなさった。ウーシュ! マヌエルは牛が来たとき、身をひるがえし、赤い布ををさしあげる。すると、布は牛の角を越え、その広い背中を頭から尻尾までかすめる。牛は突進して空中に浮く。マヌエルは動かなかった。
やりすごすと、牛は角《かど》をまわる猫のように身をひるがえし、マヌエルに向かう。
牛はふたたび受けに廻った。重々しさはなくなっている。マヌエルは血があらたに黒い肩からぎらぎら輝いて流れおち、足にしたたっているのに気づく。赤い布から剣をぬき、右手につかむ。赤い布を左手に低く持ち、左に身体を傾けて、牛を呼ぶ。牛の足はひきしまり、目は|赤い布《ムレータ》をにらむ。さあ、おいでなさった、とマヌエルは思う。やっ!
牛の鼻先に赤い布をひらめかし、足をふんばり、廻転して、牛の突進をかわす。剣はカーブを描いて、アーク燈の下で一点の光となった。
パーセ・ナトゥラール〔左手にムレータをかまえ、正面から牛にいどみ、牛の襲撃とともに、ムレータを振りながら四分の一廻転で牛をかわす〕が終ったとたん、牛がまた突っこんできた。マヌエルはパーセ・デ・ペチョ〔パーセ・トゥラールが終ったとき、牛が反転して再襲撃すると、闘牛士が左手のムレータを前方に振って牛を胸もとで通過させ、牛から離れる、高度な技〕をしようと|赤い布《ムレータ》を上にさしあげた。牛はしっかりと大地を踏みしめ、さしあげた赤い布の下の、彼の胸もとをかすめる。マヌエルは頭をのけぞらせ、カチカチ鳴る小槍《バンデリーリャ》の柄を避ける。熱っぽい、黒い牛の図体が、すれちがいざまに胸にふれる。
やけに近いぞ、とマヌエルは思う。スリトは防牛柵《バレラ》によりかかって、早口にジプシーに言う。ジプシーはケープをもってマヌエルのほうに走り出てくる。スリトは帽子を目深にさげて、砂地《アレーナ》の向こうのマヌエルを見やる。
マヌエルはまた牛と向かいあい、赤い布を左に低くかまえる。赤い布を見つめると、牛は頭をさげる。
「あれがベルモンテなら、わくところだがな」とレタナの代理が言う。
スリトは何も言わない。マヌエルが砂地の真中に出ているのを見つめている。
「親分があいつをどこから掘りだしてきたんだ?」とレタナの代理がきく。
「病院からさ」とスリト。
「さっそく、そこへおもどりだろうぜ」とレタナの代理が言う。
スリトはきっとなって相手のほうにふりむく。
「そいつを叩け」と言って、防牛柵《バレラ》を指さす。
「ほんの冗談だぜ」とレタナの代理。
「その板を叩け」
レタナの代理は身体をのりだして、防牛柵《バレラ》を三回たたく。
「|最後の演技《ファエーナ》をよく見ろ」とスリトが言う。
闘牛場《リング》の中央では、光を浴びて、マヌエルが牛と向きあって、跪《ひざまず》いている。両手で|赤い布《ムレータ》をさしあげると、牛が尻尾をあげて、突っかかった。
マヌエルは身体を廻転して、それをかわし、牛がふたたび襲うと、赤い布で半円を描き、牛を跪かせた。
「うん、あいつはすばらしい闘牛士だ」とレタナの代理が言う。
「いや、ちがう」とスリト。
マヌエルは立ちあがり、左手に赤い布を、右手に剣を持ち、暗い観覧席からの拍手に答える。牛は膝から立ちあがるのがせいいっぱいだったが、立ちあがって待っている。頭は低くたれている。
スリトは介添闘牛士のほかの二人の若者に言いつける。二人はケープを持って走っていき、マヌエルの背後に立つ。これで、背後に四人の男がいることになる。エルナンデスは最初に赤い布を持って出場したときから、ずっとついている。フェンテスは立って見ている。背の高い身体にケープをかまえ、ゆったりと、ぼんやりした目付で見ている。そこへ、二人がやって来る。エルナンデスは両側に一人ずつ立つように合図する。マヌエルはひとりで牛に向きあって、立っている。
マヌエルは手を振って、ケープを持った男たちをさがらせる。二人は注意深くさがりなから、彼の顔がまっさおで汗をかいているのを見る。
うしろにひっこんでるんだってことぐらい、わからんのか。牛が動かなくなって、身がまえてるのに、ケープを目の前にちらつかせようってのか。それでなくても、おれは心配ごとがたくさんあるんだ。
牛は四足をふんばって立ったまま、赤い布を見ている。マヌエルは左手で赤い布を巻きあげる。牛の目がそれをじっと見る。足が重そうに図体を支えている。頭を低くかまえているが、低すぎはしない。
マヌエルは牛をめがけて赤い布をさっとあげる。牛は動かない。目でじっと見ているだけだ。
奴はすっかり鉛になった、とマヌエルは考える。すっかり、しゃちこばっちまった。うまくいったぞ。剣を受けるだろう。
彼は闘牛用語で考える。ときどき、彼はある考えが浮かんでも、適当な言葉が思いつかず、その考えを言い表わせないことがある。彼の本能と知識は自動的に動くのだが、彼の頭はゆっくり言葉となって動くのだ。牛のことは何でも知っている。牛のことは考える必要がない。ちゃんと正しいことをやってのけるのだ。目が物を見定め、考えなくても身体が必要な手段をとる。考えたりしたら、殺《や》られてしまうのだ。
いま、牛に向かいあって、彼は同時にいくつものことを意識した。角がある。一方は裂け、他方はなめらかで鋭い。左の角のほうに半身に構える必要がある。迅速にまっすぐ身体をうちこむこと。赤い布を低くかまえ、牛にそいつを追わせること。そして、角の上に身をのりだして、鋭くもりあがった牛の肩の間の、首のすぐうしろにある、五ペセタ銀貨ほどの大きさの小さな場所に、剣をぐっと刺しこむこと。これらをすべてやってのけ、さらに角の間をくぐりぬけてこなければならない。これらをすべてやってのけねばならないと意識していたが、考えたことはただ言葉で「迅速に、|まっすぐに《コルト・イ・デレチョ》」だった。
「コルト・イ・デレチョ」と、赤い布を巻きながら考える。迅速にまっすぐに、コルト・イ・デレチョ。赤い布から剣を抜く。裂けた左の角に半身に構える。赤い布を身体にかけ、目の高さに構えた剣を持った右手が十字を切る。それから、つま先だって、かたむけた剣の刃にそって、牛の肩の間のもりあがりにねらいをつける。
コルト・イ・デレチョ。牛の上に身体を投げだす。
ガクンときて、彼は身体が空中にはねあがるのを感じた。はねあげられながら、剣をつきだしたが、剣は手から飛んでいった。彼は地面にたたきつけられ、牛がのしかかってきた。マヌエルは地面に横たわったまま、靴で牛の鼻づらを蹴とばした。蹴って、蹴りまくると、牛は彼に向かってきたが、興奮のあまり、突きそこね、頭でぶつかってきて、角を砂地に突きさした。マヌエルは、ボールを空中に蹴りあげている男のように、蹴りつづけ、牛にグサリときれいにひと突きされるのを防いでいた。
マヌエルは牛に向かって振られているケープから彼の背中に風が来るのを感じた。それから、牛は彼の身体をとびこえて、サッと行ってしまった。その腹がとびこえるとき、まっ暗になった。踏んづけられもしなかった。
マヌエルは立ちあがり、赤い布を拾いあげた。フェンテスが彼に剣を手渡してくれた。肩甲骨を突き刺したところが、曲っていた。マヌエルはそこを膝に押しあてて、伸ばし、いま馬の死体のそばに立っている牛に向かって、駆けていった。駆けていくと、上着が、脇の下をひきさかれていて、ひらひらゆれた。
「そこから追っ払え」とマヌエルがジプシーに叫ぶ。牛は死んだ馬の血の臭いを嗅いで、ズックの覆いに角を突っこんでいる。裂けた角にズックをひっかけたまま、フェンテスのケープに襲いかかる。すると、群衆が笑う。闘牛場に出て、頭を振り、ズックをふり落とそうとする。エルナンデスが、牛の背後から駆けよって、ズックのはしをつかみ、じょうずに角からはずす。
牛はなかば気のなさそうにその後を追ってから、じっと立ちどまる。また、受けの構えだ。マヌエルは剣と赤い布を持って牛のほうに歩いていく。赤い布を牛の前で振る。牛は襲おうとしない。
マヌエルは牛に向かって半身にかまえ、剣の傾いた刃にそって狙いを定める。牛は動かず、立ったまま死んだように動かず、もう襲いかかれそうもない。
マヌエルはつま先だって、刃にそって狙いを定め、攻撃する。
ふたたび、ガクンときて、彼はどっとはねかえされ、砂地にひどくたたきつけられるのを感じた。こんどは、蹴るチャンスもない。牛が上にのしかかっていた。マヌエルは死んだように、頭を両腕でかかえこんで、横たわった。牛がぶつかってきた。背中にぶつかり、砂に埋まった顔にぶつかってきた。かかえこんだ両腕の間の砂地に角が突きささるのを感じる。牛が彼の腰を突く。顔が砂にめりこむ。角が片方の袖を突きとおし、袖をひきさく。マヌエルはきれいにはねとばされ、牛はさしだされたケープのあとを追いかける。
マヌエルは立ちあがり、剣と赤い布を見つけ、拇指《おやゆび》で剣の切先をしらべ、かわりの剣をとりに、防牛柵《バレラ》のほうへ走る。
レタナの代理は防牛柵《バレラ》の端から剣を手渡す。
「顔を拭きな」と彼は言う。
マヌエルはふたたび牛のほうへ駆けていきながら、ハンカチで血だらけの顔をぬぐう。スリトが見えない。スリトはどこだ?
介添闘牛士《カドリーラ》たちは牛から離れて、ケープを構え、待っている。牛はひとあばれしたあと、ふたたび鈍重につっ立っている。
マヌエルは赤い布を持って、牛のほうに歩いていく。立ちどまって、布を振る。牛は反応を示さない。牛の鼻づらの前を、右左、左右と、振る。牛の目はじっとそれを見て、布を追って動くが、襲いかかろうとはしない、マヌエルを待っているのだ。
マヌエルは当惑した。突っこんでいくよりほかに、手はない。コルト・イ・デレチョ。牛に近づき、半身に構え、胸に赤い布で十字を切って、攻撃する。剣を突き刺し、身体を左にぐいとひねって、角をかわす。牛はそばをすりぬけ、剣は空中にはねあがり、アーク燈の下できらめき、赤い柄《つか》をみせて、砂地に落ちる。
マヌエルはそちらに走っていき、それを拾いあげる。それは曲がっている。膝でそれをまっすぐになおす。
またじっと動かなくなった牛のほうへ駆けていくとき、ケープを持って立っているエルナンデスのそばを通る。
「奴は骨だけだ」と若者が元気づける。
マヌエルは顔を拭きながら、うなずく。血まみれのハンカチをポケットにしまう。
牛がいる。奴はこんどは防牛柵《バレラ》の近くにいる。くたばっちまえ! きっと骨だけなんだろう。剣のはいるところなんか、ねえのかも知れねえ。ちくしょう、ねえはずがねえ! そう思い知らせてやろう。
赤い布で突くふりをしたが、牛は動かない。マヌエルは牛の真正面で赤い布を前後に振った。なんら、ききめがない。
赤い布を巻き、半身に構え、牛に突き刺す。体重をかけて、突き刺すと、剣が曲がるのを感じる。それから、剣が空中に高く舞いあがり、観衆のなかへ、くるくる廻りながら落ちていった。剣が飛んだ瞬間、マヌエルは身体をぐいとひねって、角をかわした。
暗闇から投げつけられた最初のいくつかの座蒲団《ざぶとん》は、彼に当らなかった。それから、ひとつが彼の顔に、群衆のほうに向けたその血だらけの顔に、当った。蒲団は矢つぎ早に飛んでくる。砂地に点々と落ちる。誰かがすぐそばの座席から、シャンペンの空瓶を投げた。マヌエルの足に当たる。彼はこんなものが飛んでくる暗闇をじっと見つめて、立っている。すると、なにかがヒュッと空気をつんざいて、そばに落ちる。マヌエルはかがんで、拾いあげる。彼の剣だ。その剣を膝の前でまっすぐのばし、群衆に挨拶する。
「ありがとう」と言う。「ありがとう」
ああ、きたねえ野郎どもだ! きたねえ野郎だ! ああ、とんでもねえ、きたねえ野郎どもだ! 彼は駆けだしながら、座蒲団を蹴とばした。
牛がいる。ちっとも変っちゃいねえ。よし、きさま、きたねえ、とんでもねえ野郎め!
マヌエルは牛の黒い鼻づらの真正面で|赤い布《ムレータ》を振る。
なんら、ききめがない。
そうか! よし。彼は近づいて、赤い布の鋭く尖った先を牛の濡れた鼻づらに突っこんだ。
飛びすさると、牛が彼の上にのっかってきた。座蒲団につまずくと、角が身体に、脇腹に突き刺さるのが感じられた。両手で角を掴み、しっかりそこを掴んだまま、押しもどした。牛は彼をほうりあげ、彼は離れる。彼はじっと横になっている。それでいいのだ。牛はいってしまった。
彼は咳こみながら立ちあがる。打ちひしがれ、もうだめだ、と思う。きたねえ野郎ども!
「剣をくれ」とわめく。「そいつをくれ」
フェンテスが赤い布と剣を持ってやって来る。
エルナンデスは片腕で彼をかかえる。
「診療室へ行きな、なあ」と言う。「馬鹿《ばか》なまねはよせ」
「あっちへいってくれ」とマヌエル。「なあ、あっちへいってくれ」
彼は身体をふりほどいた。エルナンデスは肩をすぼめた。マヌエルは牛のほうに走っていった。
牛が、どっしりと、しっかり根をはって、立っていた。
よし、こん畜生め! マヌエルは赤い布のなかから剣をひき抜き、同じ動作で身構え、牛のなかに飛びこんだ。剣がずっとなかまではいっていくのが感じられた。鍔《つば》もとまでも。四本の指と拇指が牛の身体のなかにはいった。血が拳《こぶし》に熱《あつ》かった。彼は牛の上にのっかっていた。
のっかっていると、牛は彼といっしょに傾き、沈んでいくように思われた。それから、彼は離れて立った。彼は牛がゆっくりと横ざまに倒れていき、やがて、急に四本の足を空中に浮かせるのを見た。
それから、彼は群衆に向かって挨拶した。その手は牛の血でなまあたたかかった。
どうだ、貴様《きさま》ら! 彼はなにか言いたかったが、咳こみはじめた。熱く、咽喉がつかえた。うつむいて、赤い布を探した。会長のところへいって、挨拶しなくちゃいけない。会長なんて、くそくらえ! 会長は坐って、なにかを見ている。牛だ。四本の足を上に向けている。分厚い舌を出している。腹のあたりや足の下に何かが這っている。毛のうすいところにも這っている。牛は死んでいる。牛なんか、くそくらえ! どいつもこいつも、みんな、くそくらえ! 彼は立ちあがろうとして、咳こみはじめる。また、坐りこんでしまい、咳こむ、だれかが来て、彼をひきずりあげる。
人びとは闘牛場《リング》を横ぎって診療室に彼を運ぶ。砂地を走って横ぎり、騾馬がはいってくるので、門のところで通行止めにあい、立たされ、それから暗い通路の下を廻って、ぶうぶう不平を言いながら、階段をひきずりあげ、やっと彼を横にねかす。
医者と白衣を着た二人の男が待っていた。彼らは手術台の上に彼を横たえる。シャツを切りさく。マヌエルは疲労を感じた。胸のなか全体がやけどしたように熱かった。咳こみはじめると、口になにかがあてがわれた。みんな、あわただしく動いている。
目に電燈の光がはいった。彼は目を閉じた。
だれかがひどく重たそうに階段をあがってくるのが聞こえた。それから、それが聞こえなくなった。やがて、遠くで、ざわめきが聞こえた。それは群衆だった。そうだ、だれかかもう一頭の牛を殺《や》らなきゃならないんだ。シャツはすっかり切りとられていた。医者は彼に微笑《ほほえ》みかけた。レタナがいた。
「やあ、レタナ!」とマヌエルが言った。その声は自分には聞こえない。
レタナは彼に微笑み、なにか言う。マヌエルには聞こえない。
スリトが手術台の脇に立って、医者が手当をしているところにかがみこんでいる。槍手《ピカドール》の服を着ているが、帽子はかぶっていない。
スリトは彼になにか言う。マヌエルには聞こえない。
スリトはレタナに話しかけている。白衣の男の一人が微笑んで、レタナに鋏《はさみ》を手渡す。レタナがそれをスリトに渡す。スリトはマヌエルになにか言う。聞こえない。
こんな手術台なんて、くそくらえだ。おれはいままでに、ずいぶんたびたび、手術台に寝たことがある。おれは死にゃあしねえ。死ぬのなら司祭がくるはずさ。
スリトが彼になにか言っていた。鋏を上にあげながら。
そうだ。おれの髷《コレータ》を切ろうってんだ。髷《まげ》を切ろうってんだ。
マヌエルは手術台の上に起き上がった。医者が飛びのいた。怒った。だれかが彼を掴んで、おさえつけた。
「そんなこたあ、しちゃいけねえ、マノス」と言う。
急に、はっきりと、スリトの声が聞こえた。
「わかった」とスリトが言う。「やりゃあしねえよ。冗談だ」
「おれはうまくいってたんだ」とマヌエルが言う。「運が悪かったんだ。ただ、それだけよ」
マヌエルは仰向けになっていた。その顔の上になにかがかぶせられていた。それはまったくいつものとおりだった。彼は深く息を吸った。ひどく疲れを感じた。ひどく、ひどく、疲れていた。彼の顔から、ものがとりのぞかれた。
「おれはうまくいってたんだ」とマヌエルが弱々しく言う、「すばらしくうまくいってたんだ」
レタナはスリトを見、ドアのほうへ歩きだす。
「おれは、こいつといっしょに、ここにいるよ」とスリトが言う。
レタナは肩をすぼめる。
マヌエルは目を開け、スリトを見る。
「おれ、うまくいってただろう、マノス?」と、たしかめてもらおうと、たずねる。
「そうとも」とスリトが言う。「すばらしくうまくいってたとも」
医者の助手がマヌエルの顔に円錐形のものをあてがった。マヌエルは深く息を吸いこんだ。スリトはぎごちなく立って、じっと見ていた。
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異国にて
秋、戦争はいつまでも絶えなかったが、ぼくたちはもう戦争には行かなかった。ミラノの秋は寒く、日が暮れるのがとても早かった。それから、電燈がつき、ぼくらはショーウインドーをのぞきながら街《まち》を行くのが愉《たの》しかった。店の外には猟の獲物がたくさんぶらさがっていて、雪が狐《きつね》の毛皮に粉のようにふりかかり、風がその尻尾《しっぽ》にふきつけていた。鹿が臓物《ぞうもつ》をとられ、こわばって、重たそうにぶらさがり、小鳥が風に吹かれ、羽毛をさかだてていた。寒い秋で、風が山々から吹きおろしていた。
ぼくらはみな、毎日、午後、病院にいった。夕暮れどき、町を横ぎって病院へ歩いてゆくには、いろいろな道があった。そのうち二つは運河にそっていたが、遠まわりだった。だが、いずれにせよ、病院にゆくには、運河にかかった橋を渡るのだった。三つの橋のどれかを渡るのだった。そのひとつでは、女が焼栗《やきぐり》を売っていた。その炭火の前に立っていると暖かかった。栗はポケットにいれたあとまでも暖かかった。病院はひどく古く、すごく美しかった。門をはいって、中庭を通りぬけると、反対側の門から出られた。よく葬式が中庭から出ていった。古い病院の向こうに、新しい煉瓦《れんが》造りの病棟があった。ぼくらは、毎日、午後、そこで会い、みんな、とても愛想がよく、どんな病状かと関心をもち、身体におおいに変化をあたえてくれるはずになっていた機械に坐った。
軍医がぼくの坐っていた機械にやってきて、言った。「戦前には、なにをするのがいちばん好きだったかね? スポーツをやってたかね?」
ぼくは言った。「ええ、フットボールをやってました」
「よろしい」と彼は言った。「前よりもよくフットボールができるようになるよ」
ぼくの片|膝《ひざ》は曲らず、そちらの脚は膝から足首まで、ふくらはぎもなくなって、まっすぐたれさがっていた。機械は膝を曲げて、三輪車に乗っているときのように動かすものだった。だが、膝はまだ曲がらなかった。曲がるところにくると、機械のほうが傾いた。軍医が言った。「すぐによくなるよ、君は運がいい青年だ。一流選手のように、またフットボールができるから」
隣の機械には、片手が赤ん坊のように小さくなった少佐がいた。彼の手は、上下にはねて、こわばった指をばたばたとたたく二枚の革帯の間にはさまっていたが、軍医がその手を診察していると、少佐はぼくにウインクして、「軍医大尉殿、わたしもフットボールができるようになるかね?」と言った。彼はフェンシングがとてもじょうずで、戦争前は、イタリア一の腕前だった。
軍医は奥の医務室にいって、写真を一枚もってきた。それは機械にかかるまでは少佐の手のように小さくしなびていた手が、機械にかかってから少し大きくなったことを示す写真だった。少佐はいいほうの手でその写真をもち、すごく注意深くながめた。「負傷かね?」とたずねた。
「工場の事故です」と軍医がいった。
「なかなかおもしろい、とてもおもしろい」と少佐は言い、軍医に写真を返した。
「なおる自信ができたでしょう?」
「いや、だめだ」と少佐が言った。
ぼくと同い年ぐらいで、毎日やってくる、三人の青年がいた。三人ともミラノの出身で、一人は弁護士に、一人は画家になるつもりで、もう一人は前から軍人になるつもりだった。ぼくらは機械の治療をすますと、ときどき、いっしょに、スカラ座の隣のカフェ・コーヴァへ歩いていった。ぼくらは四人いっしょだったので、近道をして、共産党の地域を通った。そこの人々はぼくらを将校だからといって、憎み、酒場の前を通ると、酒場からだれかが「|ちびの将校に乾杯《ア・バッソ・グリ・ウフィチャリ》!」とどなった。ときどきぼくらと散歩するもう一人の青年がいて、それで、ぼくたちは五人になったのだが、彼は、そのころ、鼻がなかったので、黒い絹のハンカチを顔にあてていた。顔は整形手術することになっていた。士官学校を出てすぐ前線におもむき、はじめて第一線に立って一時間とたたないうちに負傷してしまったのだ。顔は整形手術をうけたが、非常に古い家柄の出だったので、ちゃんとうまい鼻にはならなかった〔よい家柄の者は鼻のかっこうがすぐれていると一般に考えられている〕。南アメリカに行き、銀行で働いた。が、この話はずっと昔のことで、その当時は、将来はどうなることか、だれにもわからなかった。当時わかっていたことといえば、戦争がたえずあるのだが、ぼくらはもう戦争には行かないんだということだけだった。
ぼくらはみな同じ勲章《くんしょう》をもらっていた。だが、顔に黒い絹の包帯をした青年だけは別だった。彼は勲章をもらえるほど長くは前線にいなかったのだ。弁護士になるつもりの青白い顔の背の高い青年は、志願歩兵隊《アルディティ》の中尉だったが、ぼくらが一つずつしかもっていない種類の勲章を三つももっていた。非常に長い間、死とともに暮らしていたので、少々よそよそしかった。そういえば、ぼくらはみな少々よそよそしかった。毎日午後、病院で会う以外には、ぼくらを結びつけるものは何もなかったのだ。だが、酒場からあかりがもれ、歌がきこえてくる暗闇の中を歩き、ときには男や女が歩道に群がっていて、押しのけて通らなければならないので、やむをえず、車道を歩いたりして、街の物騒《ぶっそう》なところをコーヴァのほうに歩いてゆくと、ぼくらを嫌っている奴らにはわからないことをぼくらが経験したということで互いに結ばれているという感じがした。
ぼくらはみなコーヴァをよく知っていた。豊かな気分で、暖かく、照明もひどく明るすぎることもなく、ある時刻には騒々しく、煙がたちこめて、テーブルにはいつも女の子がついていて、壁の新聞掛けには絵入りの新聞がおいてあった。コーヴァの女の子たちはすばらしく愛国心があった。イタリアでもっとも愛国心のあるのはカフェの女の子だとわかった……いまでもそうだと思っている。
青年たちは、最初、ぼくの勲章に非常に敬意を表し、どんなことをしてそれをもらったのか、とたずねた。ぼくは感状を見せてやった。それは非常に美しい言葉で書かれ、「友情《フラテランツァ》」とか「滅私《アブネガツィオーネ》」といった言葉でいっぱいだったが、形容詞を除いてみれば、ほんとうは、ぼくがアメリカ人だから勲章をやると書いてあるのだった。それからというもの、彼らのぼくにたいする態度がすこし変わった。もっとも、ほかの者にくらべれば、ぼくは彼らの親友であった。ぼくは親友だったが、彼らがその感状を読んでからは、ほんとうの意味で、彼らの仲間ではなくなった。彼らとは事情が違っていたからだ。彼らは勲章をもらうのに違ったことをしたからだ。なるほど、ぼくは負傷した。が、負傷するということは、けっきょく、実際のところ、偶然の事故だということが、ぼくらにはみなわかっていた。だが、ぼくは勲章を恥ずかしいとは思わなかった。ときには、カクテルをのんだあとなど、彼らが勲章をもらうのにやったことをみんな、ぼくもやったと想像したものだった。だが、夜、店がみんな閉《し》まって、人っ子ひとり通らない街路を、冷たい風に吹かれ、なるべく街燈の近くを歩くようにして、宿に帰ってくるとき、ぼくならそんなことはしなかったろうと思ったのだ。ぼくは死ぬのがとてもこわかった。しばしば、夜、ひとりぼっちで、ベッドに横になり、死ぬのがこわく、ふたたび前線に帰ったらどうなるだろうと考えた。
勲章をもらった三人は狩りの鷹《タカ》のようだった。ぼくは狩りをしたことのない人には鷹のようにみえたかもしれないが、鷹ではなかった。彼ら三人はそんなことはよくわかっていた。それで、ぼくらは遠ざかっていった。だが、前線にでた最初の日に負傷した青年とは親友の交わりをつづけた。負傷しなかったら自分がどんなふうになっていたか、いまの彼にはわからなかったからだ。それで、彼も三人の仲間にいれてもらえなかったし、ぼくも彼が鷹にはならなかったろうと思ったので、彼が好きだったのだ。
フェンシングの名手だった少佐は武勇というものを信じなかった。機械に坐っているとき、たっぷり時間をかけて、ぼくのイタリア語の文法を直してくれた。ぼくのイタリア語の話し方をほめてくれたこともあって、ぼくらはとても楽な気持ちで話しあった。ある日、ぼくはイタリア語はぼくにはとてもやさしい言葉のように思われるので、たいして興味がわかない、どんなことも簡単にいえる、と言った。「ああ、そうだね」と少佐が言った。「じゃあ、文法をやってみたらどうだろう?」そこで、ぼくらは文法をやりだしたのだが、たちまち、イタリア語はひどくむずかしい言葉になり、頭のなかに文法を正確におぼえこむまでは、彼に話しかけるのがこわくなってしまった。
少佐は病院にきわめて規則正しくやって来た。一日も来なかった日はなかったようだ。もっとも、機械がいいとは信じていなかったことは確かだった。ぼくらのだれもが機械を信じなかった時期があった。それで、ある日、少佐はまったくナンセンスだといったりした。そのころ、機械は新しく、その試験台になったのがぼくらだったのだ。馬鹿げた思いつきだ、と少佐は言った。「理論にすぎんよ、ほかにもあるようなね」ぼくは文法を覚えなかった。少佐はぼくを愚かで手のつけようのないつらよごしだといった。ぼくなんかにかかわりあって、馬鹿をみたと言った。小男で、椅子にまっすぐ坐り、右手を機械の中につっこみ、革帯が指をはさんでじょうずに動いているあいだ、まっすぐ前の壁を見ていた。
「戦争が終わったら、何をするつもりかね、終わるとしてだが?」と彼はぼくにきいた。「文法的に正しく言ってみな」
「合衆国に行きます」
「結婚してるんだね?」
「いいえ、でも結婚したいと思います」
「ますます馬鹿だね、君は」と彼は言った。すごく怒っているようだった。「男は結婚しちゃいけない」
「なぜですか、少佐殿《シニョール・マジオーレ》?」
「少佐殿《シニョール・マジオーレ》などと呼ばないでくれ」
「なぜ男は結婚しちゃいけないのですか?」
「結婚しちゃならんのだ。結婚しちゃならんのだ」と彼は怒って言った。「すべてを失うはずになっているなら、失う立場に自分をおいちゃあいけないのだ。失う位置に自分をおいちゃあいけないのだ。失いっこないものを捜すべきだ」
彼はすごく怒って、苦々しそうに言い、そう言いながら、まっすぐ前方を見ていた。
「でも、なぜどうしても失わなけりゃならないんですか?」
「失うんだよ」と少佐が言った。彼は壁を見ていた。それから、機械のほうに眼をおとし、革帯のあいだから小さな手をぐいと引きぬき、腿《もも》をぴしりとたたいた。「失うんだよ」彼はほとんど叫び声をあげそうになった。「ぼくと議論なんかしないでくれ!」それから、機械を操作していた看護兵に呼びかけた。「ここへ来て、このくだらんものを止めろ」
少佐は光線療法とマッサージをうけに別室にもどっていった。それから、軍医に電話を貸してくれと頼んでいるのがきこえ、ドアがしまった。彼が部屋に帰ってきたとき、ぼくはもうひとつの機械に坐っていた。彼はマントをきて帽子をかぶっていたが、ぼくの機械のほうへまっすぐやってきて、ぼくの肩に腕をかけた。
「すまなかった」と彼は言って、いいほうの手でぼくの肩を軽くたたいた。「これからは乱暴な口はきかないよ。妻がいま死んだんだ。ゆるしてくれ」
「ああ……」ぼくはひどく気の毒に感じた。「まことにご愁傷《しゅうしょう》さま」
彼は下唇をかんで、立っていた。「とてもつらい」と彼は言った。「あきらめきれない」
彼はまっすぐぼくのうしろの窓の外を見た。それから、声を立てて泣きはじめた。「どうしてもあきらめきれない」と言って、声をつまらせた。それから、泣きながら、顔をあげ、うつろな眼で、身体をまっすぐにのばし、軍人らしい歩きっぷりで、両頬に涙を流し、唇をかんで機械の横を通りぬけ、ドアから出ていった。
軍医の話では、少佐の奥さんはとても若く、少佐は負傷兵として完全に免役になるまで結婚しなかったのだ。その奥さんが急性肺炎でなくなったのだ。二、三日わずらっただけだった。だれも死ぬなどとは思っていなかった。少佐は三日間、病院にこなかった。それから、いつもの時間に、軍服の袖に黒い喪章をつけて、やってきた。彼が帰ってきたときには、機械で治療した前と後のあらゆる種類の傷の大きな写真が額にはめて壁にかけてあった。少佐が使っていた機械の前には、すっかりもとどおりになった少佐のと同じような手の写真が三枚かかっていた。軍医がどこでそれを手にいれたのか、わからない。ぼくは、ぼくらが機械をはじめて使ったのだと、いつも理解していたのだった。写真は少佐には格別の効目《ききめ》はなかった。彼はただ窓の外を見ているばかりだったから。
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白い象のような丘
エブロ河〔スペイン北部から南東に流れ地中海に注ぐ河〕の谷の向こうの丘は長く白かった。こちら側には、日蔭もなく、木立《こだち》もなく、停車場が陽《ひ》をあびて二本の線路のあいだにあった。駅舎の側面にぴったりと、その建物の影がなまあたたかくさしていた。竹の輪をじゅずつなぎにしたすだれが酒場に通じる開けっぱなしの戸口にかかり、蝿《はえ》をふせいでいた。アメリカ人と連れの女が建物の外の日影のテーブルに坐っていた。すごく暑く、バルセロナからの急行があと四十分で着くはずだった。この連絡駅で二分とまり、マドリッドに向かうのだった。
「何を飲む?」と女がたずねた。女は帽子を脱ぎ、テーブルの上においていた。
「ばかに暑いな」と男がいった。
「ビールにしましょうよ」
「|ビール二杯《ドス・セルヴェサス》」と男がすだれの奥にむかって言った。
「大きいほうですか」と戸口から酒場の女がきいた。
「ああ、大きいのを二杯」
酒場の女はグラスに入れたビールを二杯とフェルトのコースターを二枚もってきた。テーブルの上にフェルトのコースターとビールのグラスをおき、男と女を見た。女は向こうの丘の稜線を見ていた。丘は陽《ひ》をうけて白く、あたりは茶褐色で乾いていた。
「あの丘、白い象〔昔シャムの王が嫌いな家臣をこまらせるために白い象を下賜したという故事から、やっかいもの、もてあましものという意味がある〕のようだわ」と女が言った。
「白い象なんて、見たことないぜ」男はビールをのんだ。
「ええ、そうね」
「いや見たかもしれない」と男が言った。「ぼくが見たことないだろうって君がいってくれても、なんの証拠にもならないからね」
女はビーズのすだれを見た。「何かペンキで書いてあるわ」と女が言った。「なんて書いてあるの?」
「アニス・デル・トロ。酒の名だ」
「飲んでみない?」
男はカーテンごしに「おい」と声をかけた。酒場から女が出てきた。
「四レアル〔スペインの旧通貨単位〕いただきます」
「アニス・デル・トロを二つもらおう」
「水で割りますか?」
「水で割るかい?」
「わからないわ」と女が言った。「水で割るとおいしいの?」
「うまいよ」
「水で割りますか?」と酒場の女がたずねた。
「ああ、水で割ってくれ」
「リカリス〔乾燥したカンゾウの根、またはそのエキス。薬・菓子などに用いられる。甘い味がする〕のような味だわ」と女は言い、グラスを置いた。
「どれでも、そんな味がするさ」
「ええ」と女は言った。「なんでも、リカリスの味がするわ。ことに、長くお待ちになったものなんかはね、アブサン〔リキュールの一種。七十パーセントのアルコールを含む緑色の酒。フランス、スイスに多い〕なんか」
「ああ、やめてくれ」
「あなたが言いだしたのよ」と女が言った。「あたしおもしろかったわ。愉しかったわ」
「じゃあ、愉しもうじゃないか」
「いいわ。あたし愉しもうとしてたのよ。あの山が白い象のように見えるって言ったわね。しゃれた言いかたでしょう?」
「うん、しゃれてる」
「このはじめてのお酒、飲んでみたかったのよ。あたしたちのすること、これくらいのことよ、ねえ?…景色《けしき》をながめたり、はじめてのお酒を飲んでみたり?」
「そんなところだ」
女は向こうの丘を見た。
「きれいな丘だわ」と女は言った。「ほんとうは白い象のようには見えないのよ。ただ、木立のあいだから見える象の肌の色みたいだと言ったのよ」
「もう一杯のもうか?」
「ええ」
暖かい風がビーズのすだれをテーブルに吹きつけた。
「このビール、すごく冷えてるね」と男は言った。
「おいしいわ」と女が言った。
「ほんとに、すごく簡単な手術なんだよ、ジグ」と男が言った。「ほんとは、手術というほどのこともないんだ」
女はテーブルの脚がすえてある地面を見た。
「心配いらないと思うよ、ジグ。ほんとに、なんでもないんだ。ただ、空気をいれるだけなんだ」
女は何も言わなかった。
「いっしょにいって、ずうっとつきそっててあげるよ。ただ、空気をいれるだけなんだ。そうすりゃあ、すっかりなおるんだ」
「そしたら、あとは、あたしたちどうするの?」
「あとは、うまくいくさ。前のようになるんだ」
「どうしてそうだとわかって?」
「ぼくたちを悩ましているのはそのことだけなんだ。ぼくたちを不幸にしてるのはそのことだけなんだ」
女はビーズのすだれを見やり、手をさしだし、二本のビーズをつかんだ。
「そうすれば、あたしたちうまくいって、幸福になれると、思うの?」
「そうさ。こわかあないんだよ、そいつをやった人をたくさん知ってるから」
「あたしも知ってるわ」と女が言った。「すんだあとは、みんなすごく幸福になったわ」
「うん」と男が言った。「いやなら、しなくてもいいんだぜ。いやなら、無理にしてもらいたくないんだ。だが、すごく簡単なんだからね」
「でも、ほんとは、あたしにさせたいんでしょ?」
「そうしたほうがいちばんいいんだ。だが、いやなら、しなくてもい」
「それをすれば、あなたは幸福になり、何でももとどおりになって、あたしを愛してくださるんでしょ?」
「いまだって、愛してるぜ。愛してることぐらいわかってるくせに」
「ええ、わかってるわ。でも、あたしがそれをすれば、白い象のようだなどと言っても、ことはもとのようによくなって、あなた、よろこんでくれるわね」
「むろん、そうさ。いまだって、そうさ。ただ、そんなことを考えていられないんだ。ぼくが心配すると、どんなになるか、知ってるだろう?」
「あたしがそれをすれば、あなたはもう心配しないかしら?」
「そのことでは心配なんかしないよ。まったく簡単なんだから」
「じゃあ、するわ。あたしのことなんかどうでもいいのよ」
「そりゃあ、どういうことなんだい?」
「あたしのことなんかどうでもいいのよ」
「だが、ぼくはどうでもよくはないね」
「ええ、そうでしょう。でも、あたしのことなんかどうでもいいのよ。それをすれば、なんでもよくなるんだわ」
「そんな気持ちなら、してもらいたくないね」
女は立ちあがって、停車場のはずれまで歩いていった。駅の何こう側には麦畑があり、木立がエブロ河の岸にそって並んでいた。はるか、河の向こうに、山なみがあった。雲の影が麦畑を横ぎり、女には木立の間から河が見えた。
「それに、こうしたものは、みんな、あたしたちのものにしようと思えば、できるのね」と女が言った。「なんでもあたしたちのものにできるのね。それなのに、あたしたちは、日一日と、それを不可能にしていくのね」
「なんだって?」
「何でもあたしたちのものにできるって言ったのよ」
「何でもぼくたちのものだよ」
「いいえ、だめだわ」
「全世界がぼくたちのものだ」
「いいえ、だめだわ」
「どこへだって行けるぜ」
「いいえ、だめだわ。もう、あたしたちのものじゃないわ」
「ぼくたちのものだ」
「いいえ、ちがうわ。いったん取られてしまえば、もう取りかえせないわ」
「でも、まだ、取られてやしないぜ」
「いまにわかるわ」
「日蔭へもどろう」と男が言った。「そんなふうに思っちゃいけない」
「どんなふうにも思わないわ」と女が言った。「ただ、よくわかってるだけよ」
「したくないことは、してもらいたくないんだ……」
「それに、あたしによくないこともね」と、女が言った。「わかってるわ。ビール、もう一杯いただかない?」
「ああ、飲もう。でも、よくわかってもらわなきゃあ……」
「よくわかってるわ」と女が言った。「もう、お話やめましょう」
二人はテーブルに向かって腰をおろした。女は向こうの谷の乾いた側にある丘をながめ、男は、女を、それから、テーブルを見た。
「よくわかってもらわなきゃあ」と男が言った。「したくなきゃ、しなくたっていいんだよ。君に意味があることなら、ぼくだって喜んで我慢するんだぜ」
「あなたにだって意味があることじゃなくって? あたしたち、なんとかやっていけてよ」
「もちろん、意味があるさ。だが、君のほかにはだれもほしかあないんだ。だれもほかにはほしかあないんだ。それに、そいつがとても簡単だってこと知ってるんだ」
「ええ、すごく簡単だってこと、ご存知だわ」
「君がそんな言い方したって勝手だが、ぼくはよく知ってるんだ」
「ねえ、お願いがあるんだけど」
「君のためなら、なんでもするよ」
「どうぞ、どうぞ、どうぞ、どうぞ、おしゃべりやめてよ」
男は何も言わずに、駅舎の壁にもたせかけてある鞄《かばん》を見た。二人で幾夜もすごしたすべてのホテルのラベルがはってあった。
「だが、君にやってもらいたくはないんだ」と男は言った。「そんなことはどうでもいいんだ」
「大きな声をだすわよ」と女が言った。
酒場の女がすだれの向こうからビールを二杯もって出てきて、濡れたフェルトのコースターの上に置いた。
「汽車はあと五分で来ます」と言った。
「なんていったの?」と女がきいた。
「汽車があと五分でくるって」
女は酒場の女に明るくほほえんで、感謝した。
「停車場の向こう側に鞄《かばん》をもっていったほうがいい」と男が言った。女は男にほほえんだ。
「いいわ。それから、もどってきて、ビールを飲んじゃいましょう」
男は二つの重い鞄をもちあげ、駅舎を回って、向こう側のプラットホームへ運んだ。男は線路の先のほうを見やったが、汽車は見えなかった。帰りに、酒場を通りぬけた。汽車を待っている人々が酒を飲んでいた。男はカウンターでアニス〔せり科の植物アニスから製造するリキュールで、特有の芳香と強い甘味がある〕を一杯のみ、人々を見た。みんな、ちゃんと、汽車を待っていた。男はビーズのすだれをくぐりぬけた。女はテーブルに坐っていたが、彼にほほえみかけた。
「気分、よくなった?」と男がたずねた。
「いい気分よ」と女は言った。「もうなんともないわ。いい気分よ」
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殺し屋
ヘンリー軽食堂のドアが開《あ》いて、二人の男がはいってきた。二人はカウンターの前に腰かけた。
「なんにしますか?」とジョージが二人にきいた。
「そうだな」と 一人が言った。 「アル、 なんにする?」
「そうだな」とアルが言った。「そうだな、なんにしようか」
外は暗くなりかけていた。窓の外に街燈がついた。カウンターの二人はメニューを見た。カウンターの向こうの端から、ニック・アダムズが二人をじっと見ていた。二人がはいってくるまで、ジョージと話していたのだ。
「ヒレのロースト・ポークにしよう。アップル・ソースをかけ、マッシュ・ポテトをそえてくれ」と最初の男が言った。
「そいつはまだできませんので」
「じゃあ、いったいなんだってメニューにのせとくんだ?」
「そいつは夕食《ディナー》です」とジョージが弁解した。「六時になればできます」
ジョージはカウンターのうしろの壁にかかっている時計を見た。
「まだ五時です」
「五時二十分じゃねえか、その時計は」と第二の男が言った。
「二十分進んでるんでね」
「そんな時計、ぶっこわしちまえ」と最初の男が言った。「何が食えるんだ?」
「サンドイッチなら、なんでもあります」とジョージが言った。「ハム・エッグ、ベーコン・エッグ、リヴァー・ベーコン、ステーキ・サンド」
「チキン・コロッケをくれ。クリーム・ソースをかけ、グリーン・ピースとマッシュ・ポテトをそえて」
「それも夕食《ディナー》で」
「おれたちのほしいものはなんでも夕食なんだな?それがおめえたちのやりかたってわけか」
「ハム・エッグ、ベーコン・エッグ、リヴァー……」
「ハム・エッグをくれ」とアルと呼ばれた男が言った。山高帽をかぶり、黒いオーバーの胸のボタンをかけていた。顔は小さく色白で口元がひきしまっていた。絹のマフラーをして、手袋をはめていた。
「ベーコン・エッグをくれ」ともう一人の男がいった。アルと同じくらいの背格好だった。顔こそちがうが、双児《ふたご》のように、そっくりの身なりだった。二人ともぴったりしすぎるくらいのオーバーをきていた。前かがみに腰かけ、両|肘《ひじ》をカウンターについていた。
「飲みものは何がある?」とアルがたずねた。
「シルヴァー・ビアー、ビーブォー、ジンジャー・エール〔どれも清涼飲料〕」とジョージが言った。
「〈飲む〉ものはあるかってきいてるんだぜ」
「いま言ったものだけです」
「てえした町だな」ともう一人の男が言った。「なんてえ町だ?」
「サミットです」
「きいたことあるか?」とアルは相棒にたずねた。
「ねえな」と相棒が言った。
「ここじゃ、夜は何をするんだ?」とアルがたずねた。
「夕食《ディナー》を食うのさ」と相棒が言った。「みんなここへ来て、豪勢《ごうせい》な夕食を食うのさ」
「そのとおりです」とジョージが言った。
「そのとおりだと思ってるんだな?」とアルがジョージにきいた。
「さようで」とジョージが言った。
「なかなか賢いな、おめえは」
「さようで」とジョージが言った。
「ところが、そうじゃねえ」ともう一人の小柄の男が言った。「なあ、アル?」
「間抜けだよ、こいつ」とアルが言った。彼はニックのほうを向いた。「おめえはなんてえ名だ?」
「アダムズです」
「賢いな、おめえも」とアルが言った。「こいつは賢いだろう、マックス?」
「この町にゃ、賢いのがうようよしてるよ」とマックスが言った。
ジョージは二枚の大きな皿を、ハム・エッグの皿を一枚と、ベーコン・エッグの皿を一枚、カウンターの上においた。それから、ポテト・フライを入れた小皿をその脇におき、調理場との間の小窓を閉めた。
「どちらのがお客さんので?」と彼はアルにたずねた。
「おぼえてねえのか?」
「ハム・エッグでしたね」
「まったく賢いな、おめえは」とマックスが言った。彼は身をのりだして、ハム・エッグの皿をとった。二人とも手袋をはめたまま食べた。ジョージは二人が食べるのをながめていた。
「何を見てるんだ、おめえ?」マックスはジョージを見た。
「べつに何も」
「たしかに見てやがったくせに。おれを見てたろ」
「なあに、マックス、冗談《じょうだん》のつもりだったんだろうよ」とアルが言った。
ジョージは笑った。
「おめえ、なにも笑うこたあねえ」とマックスがジョージに言った。「まったく笑うこたあねえよ、わかったか?」
「わかりました」とジョージが言った。
「わかりましただとよ」マックスはアルのほうを向いた。「わかりましただってよ。こいつあ、しゃれてらあ」
「うん、頭のいい野郎だ」とアルが言った。二人は食べつづけた。
「カウンターの向こうのほうにいる賢そうな奴《やつ》の名はなんていったっけ?」とアルはマックスにたずねた。
「おい、賢いの」とマックスがニックに言った。「カウンターの向こう側へ回って、相棒といっしょになんな」
「どうしようてんです?」とニックがたずねた。
「どうしようてこともねえさ」
「賢いの、向こうへ回ったほうがいいぜ」とアルが言った。ニックはカウンターのうしろ側へ回った。
「どうしようてんです?」とジョージがたずねた。
「おめえらの知ったこっちゃねえ」とアルが言った。「調理場にはだれがいるんだ?」
「黒ん坊です」
「黒ん坊だって?」
「コックの黒ん坊で」
「ここへ出てこいと言いな」
「どうしようてんです?」
「ここへ出てこいと言いな」
「ここをどこだとお思いで?」
「どこだかぐらいは百も承知よ」とマックスと呼ばれた男が言った。「おれたち、馬鹿《ばか》づらかかえてるかね?」
「馬鹿げた話をしてるのさ」とアルが彼に言った。「こんな若造とつべこべ言いあうこたあねえじゃねえか。いいかね」とこんどはジョージに言う。「黒ん坊にこっちへ出てこいと言いな」
「あいつにどうしようてんです?」
「どうもしねえよ。頭を使いな、賢いの。黒ん坊なんかに何するもんか?」
ジョージは調理場のほうに開く仕切りの小窓を開けた。「サム」と彼は呼んだ。「ちょっとこっちへ来な」
調理場に通じるドアが開いて、黒ん坊が出てきた。「何か用かね?」と彼はたずねた。カウンターの二人の男は彼のほうをちらっと見た。
「いいよ、黒ちゃん。おめえはそこに立ってるんだ」とアルが言った。
黒ん坊のサムはエプロンを掛けたまま、そこに立ち、カウンターにいる二人の男を見た。「へえ、旦那《だんな》」といった。アルは|腰掛け《ストゥール》からおりた。
「おれはこの黒ん坊と賢いのを調理場につれて行くぜ」と彼は言った。「黒ちゃん、調理場にもどんな。おめえもいっしょにはいんな、賢いの」小柄な男はニックとコックのサムのあとから調理場にはいっていった。はいると、ドアがしまった。マックスと呼ばれた男がジョージと向きあって、カウンターに腰かけていた。ジョージを見ているのではなく、カウンターのうしろにずうっとはめこんである鏡の中を見ていた。ヘンリー軽食堂は酒場を改装したものだった。
「さて、賢いの」とマックスは鏡の中を見たまま、言った。「なぜ、なんにも言わねえんだ?」
「これはどういうわけなんですか?」
「おい、アル」とマックスがよびかけた。「この賢いのがどういうわけかきいてるんだがな」
「言ってやったらどうだ」とアルの声が調理場からきこえた。
「いったい、どうなってんだと思う?」
「わかりませんね」
「どうだと思う?」
マックスはこう言ってる間も、鏡の中を見ていた。
「わかりませんね」
「おい、アル、こいつは何が起こると思ってるか言いたくねえんだってよ」
「ちゃんときこえてらあ」とアルが調理場から言った。彼は皿を調理場にもどす小窓を開《あ》け、トマト・ケチャップの壜をつっかえ棒にした。「おい、賢いの」と彼は調理場からジョージに向かって言った。「カウンターのもうすこし向こうへいってくれ。マックス、おめえ、もうすこし左へ寄ってくれ」彼はグループ写真をとろうと人物の配置をきめている写真屋みたいだった。
「ねえ、賢いの」とマックスが言った。「何がはじまると思う?」
ジョージは何も言わなかった。
「じゃあ、教えてやろう」とマックスが言った。「おれたちはスウェーデン人をばらすんだ。オール・アンダソンていう、でっけえスウェーデン人を知ってるだろ?」
「ええ」
「奴は毎晩ここへ食いに来るな?」
「ときどき見えますね」
「六時にここへ来るんだろ?」
「いらっしゃるときは」
「賢いの、おれたちはみんな知ってるんだぜ」とマックスが言った。「何かほかのことを話そうや。映画に行くかい?」
「たまに行きますがね」
「もっと行かなきゃいけねえぜ。映画はおめえのような賢い奴にはためになるからな」
「なぜ、オール・アンダソンを殺すんです? あんたがたに何をしたんです?」
「おれたちには何もしなかったさ。そんなチャンスなんて一度もありゃあしねえよ。おれたちを見たこともねえさ」
「それが、おれたちに一度だけお目にかかろうってんだ」とアルが調理場から言った。
「じゃあ、なぜ殺すんです?」とジョージがたずねた。
「友だちのために殺《ばら》すのさ。友だちに頼まれたからよ、賢いの」
「だまってろ」とアルが調理場から言った。「おしゃべりがすぎるぞ」
「いや、この賢いのが退屈すると思ったからよ。そうだな、賢いの」
「おしゃべりがすぎる」とアルが言った。「黒ん坊とここにいる賢いのは二人だけで退屈をまぎらわしてるよ。こいつらは修道院の二人の女友だちのように仲よくいっしょに縛りあげられてるからな」
「じゃあ、おめえは修道院にいたことがあるんだな」
「さあ、どうかな」
「正真正銘の修道院にいたんだな〔刑務所にいたと皮肉ったもの〕。それにちげえねえ」
ジョージは時計を見あげた。
「だれかがはいってきたら、コックが休んでると言え。で、それでもまだきかなかったら、おめえが奥にはいって、料理すると、そう言えよ、わかったな、賢いの」
「わかりました」とジョージが言った。「で、それがすんだら、わたしたちをどうするおつもりなんで?」
「そりゃあ時と場合によらあね」とマックスが言った。「前もって、わからねえってこともあるもんだぜ」
ジョージは時計を見あげた。六時十五分すぎだった。表のドアが開いた。電車の運転手がはいってきた。
「やあ、ジョージ」と彼が言った。「夕食はできるかい?」
「サムがでかけてるんで」とジョージが言った。「三十分もしたら帰ってきますが」
「じゃあ、ほかんとこへ行こう」と運転手が言った。ジョージは時計を見た。六時二十分すぎだった。
「うまくやった、賢いの」とマックスが言った。「おめえはえれえ」
「おれに頭を吹っとばされるのがこわかったからよ」とアルが調理場から言った。
「いや」とマックスが言った。「そうじゃねえ。賢いのがいいやつだからよ。いいやつだよ。気にいったよ」
六時五十五分に、ジョージは言った。「来ませんね」
軽食堂にはほかに二人、客があった。一度は、ジョージは調理場に行き、客が注文した「持ち帰り用」のハム・エッグのサンドイッチをつくった。調理場の中にはいると、アルは山高帽をあみだにかぶり、銃身を切りつめた散弾銃の銃口を棚の上にもたせかけ、仕切り窓のそばの|腰掛け《ストゥール》に坐っていた。ニックとコックは隅っこに背中あわせに縛られ、タオルを口につっこまれていた。ジョージはサンドイッチをつくり、油紙に包み、袋にいれ、店にもどってきた。客は金を払って、出ていった。
「賢いのはなんでもできる」とマックスが言った。「料理でもなんでもできる。おめえのかみさんになるやつはしあわせだな、賢いの」
「そうですか?」とジョージは言った。「おめあてのオール・アンダソンは来ませんね」
「もう十分待ってみよう」とマックスが言った。
マックスは鏡と時計をじっと見つめた。時計の針が七時を指し、七時五分すぎを指した。
「おい、アル」とマックスが言った。「行こうぜ、奴は来ないよ」
「もう五分待とう」とアルが調理場から言った。
その五分の間に、一人の男がはいってきた。ジョージはコックが病気だと言いわけをした。
「どうして別のコックを雇わねえ?」と男はたずねた。「お前さん、食堂をやってるんじゃねえのか?」
彼は出ていった。
「おい、行こう、アル」とマックスが言った。
「二人の賢いのと黒ん坊はどうする?」
「放っとけ」
「そうかな?」
「そうとも、もうおしまいだ、この仕事は」
「どうも気にくわねえ」とアルが言った。「やり方がだらしねえぜ。おめえ、しゃべりすぎだよ」
「とんでもねえ」とマックスが言った。「退屈しのぎに、やっただけよ」
「それにしても、しゃべりすぎだ」とアルが言った。彼は調理室から出てきた。切りつめた散弾銃の銃身が、ぴったりしすぎているオーバーの腰のあたりをちょっとふくらませていた。彼は手袋をはめたままの手でオーバーを直した。
「あばよ、賢いの」と彼はジョージに言った。「おめえは運がよかったぜ」
「まったくだ」とマックスが言った。「賢いの、競馬でもやったらどうだ」
二人は店から出ていった。ジョージは窓越しに、彼らがアーク燈の下をとおり、街路を横切って行くのをじっと見ていた。ぴったりしたオーバーを着、山高帽をかぶった二人はひと組のヴォードビリアンのようだった。ジョージは自在戸を押して調理場にはいり、ニックとコックの縄《なわ》を解いた。
「こんなこたあ二度とごめんでさあ」とコックのサムが言った。「二度とごめんでさあ」
ニックは立ちあがった。口にタオルをつっこまれたなんて初めてだった。
「ちえっ」と彼は言った。「なんだ、こんなことぐらい」彼はなんでもなかったようなふりをしようとつとめていた。
「あいつらはオール・アンダソンを殺そうとしてたんだ」とジョージが言った。「食事をしにはいってきたところを、射とうとしてたんだ」
「オール・アンダソンを?」
「そうだ」
コックは口の両端を両方の親指でなでた。
「二人とも行っちまったかね?」と彼はたずねた。
「ああ」とジョージが言った。「いっちゃったよ」
「いやなこった」とコックが言った。「いやなこった、まったく」
「なあ」とジョージはニックに言った。「オール・アンダソンのところへいってきたほうがいいよ」
「よし、いこう」
「かかわりをもたねえほうがいいですぜ」とコックのサムが言った。「手だしをしねえほうがいいですぜ」
「いきたくなけりゃ、いくなよ」とジョージが言った。
「へたにかかわりあったら、ろくなことにならんからね」とコックが言った。「手だしはしねえがいいですぜ」
「行って見てきます」とニックはジョージに言った。「どこに住んでるんです?」
コックは横を向いた。
「若い人はやりたけりゃ、やればいいんだ」と彼は言った。
「ハーシュの下宿屋にいる」とジョージがニックに言った。
「じゃあ、いってこよう」
外では、アーク燈が枯枝ごしに光っていた。ニックは電車の線路にそって歩いてゆき、次のアーク燈のところで横丁に曲がった。三軒目がハーシュの下宿屋だった。ニックは階段を二段あがって、ベルを押した。女が出てきた。
「オール・アンダソンはこちらですか?」
「お会いになりたいんですか?」
「ええ、いらっしゃったら」
ニックは女のあとから階段をあがり、廊下の一番奥までいった。女がドアをノックした。
「だれだ?」
「アンダソンさん、ご面会の方です」と女が言った。
「ニック・アダムズです」
「はいんな」
ニックはドアを開けて、部屋にはいった。オール・アンダソンは服をすっかり着こんだまま、ベッドに横になっていた。以前は、ヘビー・ウェート級のボクサーだった男で、身体がベッドには大きすぎた。枕を二つ重ねた上に、頭をのせていた。ニックのほうを見むきもしなかった。
「なにがあったんだね?」とたずねた。
「さっきヘンリー軽食堂にいたら」とニックが言った。「二人の男がはいってきて、ぼくとコックを縛りあげたんですが、あなたを殺すと言ってました」
いざ口にしてみると、馬鹿げてきこえた。オール・アンダソンは何もいわなかった。
「ぼくたちを調理場に押しこめたんです」とニックはつづけた。「あなたが夕食にくるところを射とうとしてたんです」
オール・アンダソンは壁を見つめたまま、何も言わなかった。
「あなたに知らせに来たほうがいいだろうとジョージが言うもんで」
「どうにもしょうがないんだ」とオール・アンダソンがいった。
「どんな様子をしてたかお話ししましょう」
「どんな様子をしてたか知りたくない」とオール・アンダソンは言った。彼は壁をみつめていた。「知らせに来てくれてありがとう」
「いや、どういたしまして」
ニックはベッドに横になっている大男を見た。
「警察に知らせにいってきましょうか?」
「いや」とオール・アンダソンは言った。「いったって、しようがないよ」
「ぼくに何かお役にたつことでもありましたら?」
「いや、どうにもしようがないんだ」
「きっと、ただのこけおどしでしょう」
「いや、ただのこけおどしじゃあない」
オール・アンダソンは壁のほうに寝がえりをうった。
「ただひとつわかってることは」と彼は壁に向かって話しかけた。「おれが外に出てゆく決心がつかないってことだ。今日は一日じゅうここにいたんだ」
「町から出ていかれないんですか?」
「そうだ」とオール・アンダソンは言った。「逃げまわるのはいやになったからな」
彼は壁を見つめていた。
「もう、どうにもしようがないんだ」
「なんとか話をつけるわけにはいかないんですか?」
「だめなんだ。まずいことをやっちまってね」彼は同じ単調な声で話しつづけた。「どうにもしようがないんだ。しばらくたったら、外に出る決心がつくだろう」
「じゃあ、ジョージのところへ帰って、そういいましょう」とニックが言った。
「さよなら」とオール・アンダソンが言った。ニックのほうは見なかった。「わざわざ来てくれてありがとう」
ニックは部屋を出た。ドアを閉めるとき、服をすっかり着こんだまま、壁を見つめてベッドに横になっているオール・アンダソンが見えた。
「一日じゅう部屋にはいったっきりなんですよ」と下宿のおかみさんが階下《した》で言った。「おかげんが悪いんでしょうね。『アンダソンさん、今日みたいにいい秋の日には散歩にでもお出かけなさいよ』って言ったんですがね。気が向かないんですよね」
「外に出たくないんですね」
「おかげんが悪くて、お気の毒ですよ」と女が言った。「すごくいいかたですからね。ボクサーだったんですってね」
「そうだそうですね」
「あのかたのお顔がああでなけりゃ、だれにもわからないわよね」と女が言った。二人は表《おもて》のドアのすぐ内側で立ち話をしていた。「すごくやさしいかたですからね」
「じゃあ、おやすみなさい、ハーシュさん」とニックが言った。
「あたしはハーシュじゃありませんよ」と女が言った。「ハーシュさんはここの持ち主で、あたしは代わりに管理しているだけなんですよ。ベルといいます」
「じゃあ、おやすみなさい、ベルさん」とニックが言った。
「おやすみなさい」と女が言った。
ニックは暗い横丁をアーク燈のついている角までゆき、そこから電車の線路にそって、ヘンリー軽食堂へいった。ジョージは店のなかのカウンターのうしろにいた。
「オールに会ったかい?」
「ええ」とニックが言った。「部屋にひっこんだっきり、外に出ようともしないんです」
コックはニックの声をききつけて、調理場からのドアを開けた。
「おらあ、ききたくもねえ」といってドアを閉《し》めた。
「あのこと、話した?」とジョージがたずねた。
「もちろん。話しましたが、何もかもちゃんと承知してました」
「どうするって言ってた?」
「どうもしないって」
「殺《や》られるぜ」
「そうでしょう」
「きっとシカゴで何かいざこざに巻きこまれたんだな」
「そうでしょう」
「ひでえこった」
「恐ろしいですね」とニックが言った。
二人は何も言わなかった。ジョージは手をのばして、タオルをとり、カウンターをふいた。
「何をしたんでしょうね?」とニックが言った。
「誰かを裏切ったんだ。そういうことで、やつらは人を殺《ばら》すからな」
「ぼくはこの町を出て行こう」とニックが言った。
「うん」とジョージが言った。「それもいい」
「あの人が、殺られるのを知っていながら、部屋で待っているなんて、考えてもたまらない。やけに恐ろしい」
「だがな」とジョージが言った。「そんなこと、考えないほうがいいぜ」
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ケ・テイ・ディチェ・ラ・パトリア?
峠の道は固く、なだらかだった。朝早いので、まだ砂ぼこりはたたなかった。下のほうに、樫と栗の木立の丘があり、はるか下には海があった。反対側は雪の山々だった。
ぼくらは峠から森林を通りぬけて、下《くだ》ってきた。道端に炭袋が積んであり、木の間ごしに炭焼き小屋が見えた。日曜日で、道は上《のぼ》り下りしながらも、峠の頂上からたえず下りになっていて、潅木の林をぬけ、村々を通りぬけていた。
村々の外にはぶどう畑があった。畑は茶褐色で、ぶどうの木は粗《あら》く密生していた。家々は白く、通りでは晴れ着をきた男たちがボーリングをやっていた。いくつかの家の壁を背にして梨の木があり、白い壁を背にして燭台のような枝ぶりを見せていた。梨の木は殺虫剤がかけてあるので、家々の壁は、噴霧器でそれをまいた跡が金属的な青緑色のしみになっていた。村々の周囲には、ぶどうの植わっている小さな開墾地があり、その先は森林だった。
スペチア〔イタリア北部の都市〕の北方二十キロの村で、広場に人だかりがしていた。スーツケースを持った若者が一人、車のところにやってきて、スペチアまでのせてくれと言った。
「座席は二つきりだし、それもふさがっている」とぼくは言った。ぼくらは古いフォードのクーペにのっていた。
「車の外にぶらさがるから」
「乗り心地が悪いぜ」
「そりゃあかまわない。スペチアに行かなきゃならないんで」
「乗せていくかい」とぼくはガイにきいた。
「なんと言おうと、乗っていくようだぜ」とガイが言った。若者は窓から荷物を中に手渡した。
「この荷に気をつけてくれ」と彼は言った。二人の男が車のうしろの、ぼくらのスーツケースの上に、彼のスーツケースをゆわえつけた。若者はみんなと握手し、ファシスト党員や彼のように旅なれた者には乗り心地など問題ではないのだと説明し、車の左側のステップに足をのせ、右腕を開いた窓から突っこんで、内側を握った。
「出発してもいいよ」と彼は言った。群衆が手を振った。若者はあいているほうの手を振った。
「なんて言ったんだ?」とガイがぼくにきいた。
「出発してもいいとさ」
「いい奴じゃないか?」とガイが言った。
道は河に沿っていた。河の向こうには山々があった。太陽が草から霜をとっていた。きらきら日が光る寒い日で、開けた風よけガラスから風が吹きこんでくる。
「外の乗り心地はどんなだろう?」ガイは道の先方を見ていた。彼の側からの眺めはお客さんのためにふさがれていた。若者は船の船首像のように車の横から突き出ていた。コートの襟を立て、帽子を目深《まぶか》にかぶり、鼻が風にあたって寒そうだった。
「きっとうんざりするだろうよ」とガイが言った。「あっち側は安物のタイヤがついてるんだ」
「ああ、パンクしたら、おれたちをほっぽりだしていくだろうよ」とぼくが言う。「手伝ったりして旅行服を汚したかあないだろうからね」
「うん、奴なんかどうでもいいんだが」とガイが言った。……「ただ、曲がり角で、あんなに身体をのりだすと、あぶない」
森林を過ぎた。道は河を離れ上《のぼ》りになる。ラジエーターは沸騰する。若者は心配そうに、うさんくさそうに、蒸気と錆《さ》びた色の水を見る。エンジンがうなり、ガイの両足がローギアのペダルを踏み、登りに登り、ぎくしゃくしながら登り、そして、ついに平坦なところに出る。エンジンのうなりがやみ、静かになるが、ラジエーターの水がすごく沸きかえっている。ぼくらはスペチアと海に出る最後の山脈の頂上にきた。道は何度も急に短いカーブを曲がりながら下っていった。ぼくらのお客が曲がり角で身体をのりだすので、頭でっかちになった車はすんでのところでひっくりかえりそうになる。
「乗りだすなとは言えないよ」とぼくはガイに言った。「奴の自己保存の本能なのさ」
「偉大なイタリア的本能さ」
「最も偉大なイタリア的本能だ」
ぼくらはもうもうと砂ぼこりをあげ、オリーブの木にふりかけながら、カーブを曲がって、下った。スペチアは海に沿ってひろがっていた。道は町の近くにくると、平らになった。ぼくらのお客は窓に首をつっこんだ。
「とめてほしい」
「とめろ」とぼくはガイに言った。
ぼくらは道のわきにより、ゆっくり車をとめた。若者はおり、車のうしろに行き、スーツケースをほどいた。
「ここでおりる。だから、人を乗せたといって面倒なことにならないですむだろう」と言った。
「おれの荷物をくれ」
ぼくは彼に荷物を手渡した。彼はポケットに手をつっこんだ。
「いくら?」
「いらないよ」
「どうして?」
「さあね」とぼく。
「じゃあ、|どうも《サンクス》」と若者は言った。
「|ありがとう《サンキュー》」とか、「|たいへんありがとう《サンキュー・ベリ・マッチ》」とか「|まことにどうもありがとう《サンキュー・ア・サウザンド・タイムズ》」とは言わなかった。以前、イタリアでは、時刻表を渡してもらったり、道を教えてもらったら、そう言ったものだった。ところが、若者は「|どうも《サンクス》」という最下級の表現を使った。ガイが車をスタートさせると、金を受けとらぬので、変だなという顔をしてぼくらを見送った。ぼくは彼に手を振った。彼は横柄に構えて、それに答えようともしなかった。ぼくらはスペチアにはいっていった。
「ああいう若者がイタリアでは成功するんだ」とぼくはガイに言った。
「うん」とガイが言った。「おれたちといっしょに二十キロも進んだからな」〔相手が「成功する」ということを「遠くに行く」という俗語的表現であらわしたので、それにたいし二十キロ進んだと、しゃれたもの〕
スペチアの食事
ぼくらはスペチアにはいり、食事をする場所をさがした。街路は広く、家々は高く黄色く塗ってあった。電車線路にそって、町の中心にはいった。家々の壁には目玉をむいたムッソリーニ〔イタリア、ファシスト党の党首〕の肖像画が刷り込んであり、そのわきに、手で書いた「万歳《ヴィヴァ》」という文字の二つのVの文字から黒ペンキのしずくが壁にたれていた。横丁は港に通じていた。晴れ晴れと明るく、人びとは日曜なので、みな街に出ていた。道路の敷石は水がうってあり、土埃りのところどころが湿っていた。ぼくらは電車をよけて、歩道の縁石《ふちいし》のそばを走った。
「どこか簡単なところで食事をしよう」とガイが言った。
レストランの看板が二つでているところの反対側で車を止めた。街路をへだてて車を止め、ぼくは新聞を買った。二軒のレストランが並んでいた。一軒の戸口に立っていた女がぼくらにほほえみかけた。ぼくらは街路を横ぎり、そこにはいった。
なかは暗く、部屋の奥には三人の娘が一人の老婆といっしょにテーブルについていた。ぼくらの向こう側のテーブルに、水夫が一人坐っていた。食べもせず、飲みもせず、ただ坐っていた。さらに奥には、ブルーの服を着た若者がテーブルに向かってなにか書いていた。髪にポマードをぬり、てかてか光らせていた。とてもスマートな着こなしで、目鼻だちがよかった。
戸口からと、野菜、果物、ステーキ、チョップが並んでいる陳列棚のある窓から、明りがはいっていた。娘が一人、注文をとりにやってきた。もう一人の娘が戸口に立っていた。気がつくと、家庭着の下には何も着ていない。注文をとりにきた娘は、ぼくらがメニューを見ているあいだ、ガイの首に腕をまわしていた。娘は全部で三人で、みんな順番に戸口に行って立っていた。部屋の奥のテーブルに坐っている老婆が娘たちに何か言うと、娘たちはまた老婆といっしょに腰をおろした。
調理室に通じる戸口のほかは、この部屋からの戸口はなかった。カーテンが一枚その戸口にかかっていた。注文をとった娘が調理室からスパゲッティを持って出てきた。テーブルの上にそれを置くと、赤ワインのボトルを一本持ってきて、テーブルに坐った。
「ところで」とぼくはガイに言った。「どこか簡単なところで食事しようって、言ってたね」
「簡単じゃないな、ここは。複雑だ」
「なんて言ってんの?」と娘がたずねた。「あんたがたドイツのかた?」
「南ドイツ人だ」とぼくは言った。「南ドイツ人はやさしく愛すべき国民だ」
「わかんないわ、なに言ってんのか」と娘が言った。
「この店はどうなってんだ?」とガイがきいた。「首に腕をまかせとかなきゃいけないのかい?」
「そうだとも」とぼくは言った。「ムッソリーニが淫売屋を撤廃したんだ。これがレストランさ」
娘はワンピースを着ていた。テーブルに身をのりだすと、胸に手をあてて、ほほえんだ。顔の片方がほかのほうよりいい笑い顔になった。いいほうをこちらに向けた。鼻の向こう側が、なにかのことで、あたたかい蝋《ろう》がのっぺりするように、のっぺりして、それがこちら側の魅力をひきたてているのだ。だが、その鼻はあたたかい蝋のようには見えなかった。それはひどく冷たく、堅く、ただなめらかにめりこんでいた。「あたし、好き?」と娘はガイにきいた。
「こいつ、君にまいってるんだよ」とぼくは言った。「でも、イタリア語ができないんだ」
「|わたしドイツ語できるわ《イッヒ・シュプレッヘ・ドイッチ》」と娘は言い、ガイの髪をなでつけた。
「お前の母国語でこのご婦人にしゃべれよ、ガイ」
「どこの生れ?」とご婦人がたずねた。
「ポツダム〔ベルリンの近くの町〕さ」
「で、ここにしばらくいるんでしょう?」
「この愛すべきスペチアにかい?」とぼくはきいた。
「行かなきゃならんって言ってくれ」とガイが言う。「ひどい病気で、金も一文もないんだ、と言ってくれ」
「おれの友だちは女嫌いなんだ」とぼくが言った。「愛すべき、女嫌いのドイツ人なんだ」
「愛してるって、言ってちょうだい」
ぼくは彼に告げた。「つべこべ言わずに、ここを出られるようにしてくれ」とガイが言った。女はもう一方の腕も彼の首にまきつけていた。「もうあたしのものよって、言ってちょうだい」と女が言った、ぼくは彼に告げた。
「ここから出られるようにしろよ」
「けんかしてるのね」と女が言った。「お互いに好きじゃないのね」
「ぼくらはドイツ人さ」とぼくは誇らしげに言った。「愛すべき南ドイツ人だ」
「あのかたに、ハンサムだと、言って」と女が言った。ガイは三十八歳で、フランスでセールスマンと間違えられるのを、いくらか自慢にしているのだ。「君はハンサム・ボーイだ」とぼくは言った。
「誰がそう言うんだ?」とガイがたずねた。「お前か、この娘《こ》か?」
「この娘さ。おれはお前の通訳にすぎないんだぜ。それでお前がおれをこの旅行に連れてきたんじゃないか?」
「この娘《こ》だとはありがたい」とガイが言った。「お前をこの娘のところに残しておきたくはないからね」
「どうだかね。スペチアは美しいところだよ」
「スペチア」と女が言った。「スペチアのことを話してんのね」
「美しいところだとね」とぼくは言った。
「あたしの国だもん」と女が言った。「スペチアはあたしの故郷、イタリアはあたしの故国」
「この女はイタリアが彼女の故国だと言ってるぜ」
「いかにも彼女の国らしいと言ってくれ」とガイが言った。
「デザートにはなにがある?」とぼくはきいた。
「フルーツ」と女が言う。「バナナがあるわ」
「バナナなら大丈夫だ」とガイが言った。「皮があるからな」
「まあ、バナナがほしいのね」と女が言った。彼女はガイに抱きついた。
「なんて言ったんだい?」と彼は顔をそむけながら、たずねる。
「君がバナナがほしいのだといって、喜んでるんだ」
「おれはバナナなんかほしかないって言ってくれ」
「まあ」と女はしょんぼりして言った。「バナナがほしくないの」
「毎朝、冷水浴をやってるんだと言ってくれ」とガイが言う。
「旦那《シニョール》は毎朝、冷水浴をやるんだ」
「言ってること、わかんないわ」と女が言う。
ぼくらの向こうで、店の〈さくら〉の水夫は見動きもしなかった。店の誰も水夫に注意を払わなかった。
「勘定だ」とぼくが言った。
「いえ、だめよ、いなさいよ」
「おい」と目鼻だちのいい若者が、なにか書いているテーブルから、言った。「帰らせろ、その二人は一文の得にもならねえよ」
女はぼくの手をとった。「あなた、いないの? あのひとに、いろって言わないの?」
「二人とも行かなきゃならないんだ」とぼくは言った。「今晩、ピサに行かなきゃならないんだ、できたら、フィレンツェまで。日暮れには、その町でたのしめるんだ。まだ昼間だ。昼間のうちに走っとかなきゃ」
「ちょっと休むのも、いいものよ」
「日のあるうちに、旅するものだよ」
「おい」と目鼻だちのいい若者が言った。「その二人にひっかかるなんて、馬鹿なまねはよせ。やつらは一文《いちもん》の得にもならねえって言っただろ。わかってんだ」
「おい、勘定書」とぼくは言った。女は老婆から勘定書を受け取って帰ってきて、テーブルに坐った。もうひとりの娘が調理室からやってきた。部屋をずうっとつきぬけて、戸口にいって、立った。
「あのふたりにはかまうな」と目鼻だちのいい若者が退屈そうな声で言った。「食べに来ただけさ。かまったって、一文にもならねえよ」
ぼくらは勘定を払い、立ちあがった。娘たちみんなと、老婆と、目鼻だちのいい若者とが、いっしょに一つのテーブルに坐っていた。〈さくら〉の水夫は両手で頭をかかえて坐っていた。ぼくらが昼食をとっていたあいだ、誰も彼に話しかけなどしなかった。娘が老婆の勘定した釣銭をぼくらのところにもってきて、テーブルのもとの席に帰った。ぼくらはテーブルにチップをおき、外に出た。車の席に坐って、出発しようとしていると、娘が出てきて、戸口に立った。車が動きだした。ぼくは彼女に手を振った。彼女は手も振らず、そこに立って、ぼくらの立ち去るのを見ていた。
雨の後で
ジェノヴァの郊外を通りぬけるとき、ひどい雨だった。電車やトラックのうしろをとてもゆっくり走ったが、泥水が歩道にはねかえったので、人びとはぼくらの車がくるのを見ると、戸口に飛びのいた。ジェノヴァ市外の工場地帯、サン・ピエール・ド・アレナには、複線の電車の軌道がある広い街路があり、ぼくらはその真中を走って、仕事から家に帰る人びとに泥をはねかけないようにした。左手に地中海があった。波が高く、波頭がくだけ、風がしぶきを車に吹きつけた。イタリアにはいるとき通りすぎた、広く、石だらけで、乾いていた河床に、いまは、褐色の水が流れ土手まで達していた。褐色の水は海の色を変え、波が薄くなって、きれいに砕けるとき、日光が黄色い水を通して射し、風で吹き散った波頭が、道路の向こうまで、吹きつけていた。
大きな車がスピードをあげて、ぼくらを追い抜いた。泥水がシーツのようにはねあがり、ぼくらの車のフロント・ガラスとラジエーターにかかった。自動式ワイパーが左右に動いて、ガラスに薄い水の膜をひろげた。セストリで止まり、昼食をとった。レストランには暖房がなく、帽子をかぶったまま、コートも着たままだった。窓ごしに、外に車が見えた。それは泥だらけで、波のとどかぬところに引きあげてある幾艘かのボートの横に止めてあった。レストランでは吐く息が白く見えた。
パスタ・アシュータ〔パイの一種〕はうまかった。ワインは〈みょうばん〉の味がした。ぼくらはそれを水で割った。そのあとで、給仕がビフテキとポテト・フライを持ってきた。一人の男と一人の女がレストランのずっと奥に坐っていた。男は中年で、女は若く、喪服を着ていた。食事の間じゅう、女は冷たいしめった空気に白い息を吐いていた。男はそれを見て、首を振っていた。二人はだまって食べ、男はテーブルの下で女の手を握っていた。女は器量がよく、二人はとても悲しそうだった。旅行鞄をひとつ持っていた。
ぼくらは新聞を持っていた。ぼくは上海事変の記事をガイに声に出して読んでやった。食事のあとで、彼は給仕といっしょに、このレストランにはない便所をさがしに出かけた。ぼくはフロント・ガラスと、ライトと、ナンバー・プレートをぼろ切れで拭いた。ガイがもどってきたので、ぼくらは車をバックさせ、出発した。給仕は彼を通りの向こう側の古い家に連れていったのだ。その家の人たちが疑い深かったので、給仕はガイといっしょにいて、何も盗まれないようにと番をしたのだ。
「おれが鉛管工じゃないんだから、どうしておれが盗みをやらかすと思ったのか、わからんね」とガイが言った。
町の向こうの岬へ出たとき、風が車に吹きつけ、すんでのことで、ひっくりがえるところだった。
「海の反対のほうに吹いてくれるから、ありがたい」とガイが言った。
「ところで」とぼくが言った。「シェリー〔イギリスのロマン派の詩人〕がどこかこのあたりで溺死したんだが」
「それは向こうのヴィアレジオの近くだ」とガイが言った。「なんのために、おれたちがこの国へやってきたか、おぼえてるか?」
「ああ」とぼくは言った。「でも、まだ着かないからな」
「今晩のうちに、出ちゃうぜ」
「ヴェンティミリア〔フランスとの国境にあるイタリアの町〕をすぎればね」
「どうなるか、やってみよう。夜、こんな海岸をドライブしたくないからな」午後はまだ早く、太陽が出ていた。下には、青い海が、サヴォナのほうに白波を走らせていた。うしろには、岬の向こうに、褐色の水と青い海が交り合っていた。ぼくらの前方には、不定期貨物船が海岸ぞいに向こうに走っていた。
「ジェノヴァはまだ見えるかい?」とガイがたずねた。
「ああ、見えるよ」
「つぎの岬で見えなくなるはずだ」
「まだ、ずいぶん長い間、見えるぜ。ジェノヴァの向こうのポルトフィノ岬がまだ見えるから」
とうとう、ジェノヴァが見えなくなった。岬へ出て、ふりかえると、海だけが見え、下の入江に、海岸線がひらけ、漁船があった。上のほう、丘の中腹に、町があり、海岸のはるか向こうに、岬が幾つがあった。
「もう見えない」とぼくはガイに言った。
「ああ、だいぶ前から見えない」
「でも、岬を出きるまでは、はっきりわからないさ」
S型のカーブの図に「|カーブ・危険《スヴォルタ・ペリコローサ》」と書いてある標識があった。道路は岬をぐるっと曲がって、風がフロント・ガラスのすきまから吹きこんできた。岬の下には、海にそって平坦地がのびていた。風のために、泥が乾き、車輪が砂ぼこりをあげはじめた。平坦な道路で、ファシスト党員が自転車にのり、革サックに入れた重いピストルを背中にかけているのを追い越した。彼は自転車を道路の真中で走らせていたので、ぼくらは外側によけた。通りすぎるとき、彼はぼくらのほうを見あげた。前方に、鉄道の踏切があった。近づくと、遮断機がおりた。
待っていると、例のファシスト党員が自転車でやってきた。汽車が通りすぎ、ガイがエンジンをかけた。
「待て」と自転車の男が車のうしろから叫んだ。「ナンバー・プレートが汚れてる」
ぼくはぼろ切れを持って、外に出た。昼食のとき拭いてあったのだ。
「読めますよ」とぼくが言った。
「そう思うか?」
「読んでください」
「読めない。汚れてる」
ぼくはぼろ切れで拭いた。
「どうです、これで」
「二十五リラだ」
「え?」とぼくは言った。「読めたはずですよ。道路が悪かったから、汚れただけですよ」
「イタリアの道路に文句があるのか?」
「汚ないですな」
「五十リラだ」彼は道路に唾をはいた。「お前たちの車はきたないし、お前たちもきたない」
「いいですよ。あなたの名前を書いた受取りをください」
彼は受取帳をとりだした。それは正副二通複写できるようになっていて、ミシンの切りとり線がはいっていた。一枚を相手に渡し、他の一枚は書きこまれたまま、控えとしてとっておくのだ。控えを写すカーボン紙がない。
「五十リラ、出せ」
彼は消えない鉛筆で書きこみ、紙片をさいて、ぼくに渡した。ぼくはそれを読んだ。
「これは二十五リラになってますよ」
「間違えた」と彼は言い、二十五を五十に直した。
「それから、そっちのほうも、あんたのもってる控えのほうも五十に直してください」
彼は美しいイタリア人の微笑をうかベ、ぼくに見えないようにして、控えになにか書きこんだ。
「行け」と彼は言った。「ナンバー・プレートがまた汚れないうちに」
ぼくらは暗くなってから二時間も車を走らせ、その夜はメントーヌ〔イタリアとの国境にあるフランスの町〕で寝た。とても愉しく、さっぱりとして、健全で、美しい旅に思えた。ぼくらはヴェンティミリアから、ピサとフィレンツェへ行き、ロマーニア地方を横断してリミニへ、それから、バックして、フォルリ、イモラ、ボローニア、パルマ、ピアチェンツア、ジェノヴァをとおり、ふたたびヴェンティミリアへ帰ってきた。全旅程はわずか十日間だった。このような短い旅行では、当然のことだが、この国と国民がどのようなものなのかを知る機会はなかったのだ。
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五万ドル
「どうだ、調子は、ジャック」とおれは彼にきいた。
「あのウォルコットって奴、みたことあるか?」と彼は言う。
「ジムでちょっとな」
「なあ」とジャックは言う。「あの若造とじゃ、よっぽど運がついてなくちゃ」
「あいつ、おめえにゃ手も足もでねえよ、ジャック」とソールジャーが言った。
「そうねがいてえもんさ」
「あいつのばらだまぐらいでおまえを倒せるもんか」
「ばらだまなら、なんともねえよ」とジャックが言う。「そんなのちっともこわかねえが」
「簡単に倒せそうな奴じゃないか」とおれが言った。
「そうだな」とジャックが言う。「あいつは長つづきしねえんだ。な、ジェリー、おめえやおれみてえにはつづかねえよ。だがよ、いまのあいつは絶好調なんだ」
「おまえの左で片付けられるよ」
「そうだろうな」とジャックが言う。「もちろん、そのチャンスはあるさ」
「キド・ルイスをやったときみたいにやっつけろよ」
「キド・ルイスか」とジャックが言った。「あのユダ公め!」
おれたち三人、ジャック・ブレナン、ソールジャー・バートレット、それにおれは、ハンレイの店にいた。隣のテーブルには淫売が二人腰かけていた。さっきから酒を飲んでいた。
「ユダ公って何さ?」と淫売のひとりが言う。「なにさ、ユダ公って、このばかでかいアイルランドのこじき野郎」
「そうよ」とジャックは言う。「そのとおりよ」
「ユダ公か」とこの淫売はまだ言う。「このばかでかいアイルランド人たちはよるとさわると、ユダ公のことばかり言っててさ。何さ、ユダ公って?」
「おい、出ようぜ」
「ユダ公か」とこの淫売はなおも言いつづける。「おまえさんが酒代払ったのをみた人は誰もいないよ。毎朝かみさんがポケットをぬいつけちまうんだろ。あんたたちアイルランド人はいつも、ユダ公、ユダ公って言っててさ! デッド・ルイスにまでこてんこてんにやっつけられるのにさ」
「そうだよ」とジャックが言う。「で、おめえはなんでも人にただでやっちまうんだろ?」
おれたちは外へでた。いかにもジャックらしかった。言いたいと思えば、ずばりと言えるのだ。
ジャックはニュージャージー州にあるダニー・ホーガンのヘルス・ファーム〔一種のトレーニング・キャンプ〕でトレーニングをはじめた。そこは快適だったが、ジャックは余り気にいらなかった。妻や子供たちと離れていたくなかったのだ。で、彼はしょっちゅういらいらして不機嫌だった。おれとはウマがあって、仲好くしていた。また、彼はホーガンも好いていたのだが、やがてソールジャー・バートレットが彼の鼻につきだした。キャンプなんかにいるとき、冗談がすこしひねくれていると、手におえなくなるものだ。ソールジャーはしょっちゅうジャックをからかっていた。ただなにかと、彼をからかっていたのだ。たいしておかしくもなく、あまり気のきいた冗談でもなかった。それがジャックのかんにさわりだした。それはまあこんな調子のものだった。ジャックがウェイト・トレーニングとサンド・バッグをすませ、グローブをつけるときのことだ。
「一丁やろうか?」とソールジャーに言う。
「よし。どんな稽古をつけてもらいたいんだ?」とソールジャーがきく。「ウォルコットみたいに手荒にしてもらいたいか? 二、三回ノックダウンくらいたいか?」
「たのむぜ」とジャックはこたえる。だが、どうもそれが気にくわないのだ。
ある朝、おれたちはそろってロードに出た。ずっと遠くまでいっての帰り途だった。三分駈けて一分歩き、それからまた三分駈けるのだった。ジャックはどうみてもいわゆるスプリンターではなかった。リングで、いざとなれば結構早く動くのだろうが、ロードでは決して早くはなかった。ロード・ワークのあいだじゅう、ソールジャーは彼をからかっていた。おれたちは丘をのぼってヘルス・ファームへ帰った。
「おい」とジャックは言う。「町へ帰ったほうがいいぜ、ソールジャー」
「どうしてだい?」
「町へ帰って、もどってこないほうがいいぜ」
「どうしてだい?」
「おめえのしゃべるのにうんざりしたのさ」
「ええ?」とソールジャーが言う。
「そうさ」とジャックが言う。
「ウォルコットにやられたら、うんざりするどころじゃないぞ」
「そりゃそうさ」とジャックは言う。「たぶんな。だが、おめえにはうんざりなんだ」
そこで、その朝、ソールジャーは汽車で町へ帰った。おれは汽車までついていった。彼はひどくにがりきっていた。
「ただ、からかってただけなんだぜ」と彼は言った。おれたちはホームで汽車を待っていた。「ああ言われちゃ、かなわんよ、ジェリー」
「気が立って、いらいらしてるんだよ、奴《やつ》は」とおれが言った。「いい奴なんだよ、ソールジャー」
「いい奴さ。いつもいい奴だったよ」
「じゃ」とおれは言った。「あばよ」
汽車がはいっていた。彼はかばんをもってのった。
「あばよ、ジェリー」と彼は言う。「試合の前に町にくるだろ?」
「いかれないな、たぶん」
「じゃ、またな」
彼が車にのりこむと、車掌が飛びのり、汽車がでた。おれは荷馬車でファームに帰った。ジャックはベランダで妻に手紙を書いていた。郵便がきていたのだ。おれは新聞をとり、ベランダの反対側へいって、坐って読みだした。ホーガンがドアからでてきて、おれのところへ歩いてきた。
「やっこさん、ソールジャーと喧嘩《けんか》したのか?」
「喧嘩じゃないよ」とおれは言った。「ただ町へ帰れと言っただけさ」
「こうなるのはわかってたよ」とホーガンが言った。「あいつはソールジャーが余り好きじゃなかったからね」
「うん、奴はきらいな人間が多いんだよ」
「ひどく冷淡な男だな」とホーガンが言った。
「うん、おれにはいつも親切なんだが」
「おれにもそうよ」とホーガンが言った。「奴とごたごたを起こしたことはねえさ。だが冷淡な男だな」
ホーガンは網戸から中にはいってゆき、おれはベランダにこしかけて新聞をよんだ。秋になったばかりの頃で、丘の上だし、ニュージャージー州の田舎は心地よかった。新聞を読みおえると、そこに坐ったまま、あたりの景色をながめていた。眼下には森を背に道路が走り、自動車が埃《ほこり》をたてて走っていた。天気はいいし、眺めはとてもよかった。ホーガンがドアのところへ来たのでおれが言った。「おい、ホーガン、このあたりで何か猟できるかい?」
「いや」とホーガンが言った。「スズメぐらいなもんさ」
「新聞、みたか?」とおれはホーガンに言った。
「何かあったのか?」
「きのうサンド〔当時の有名な騎手〕が三頭とも一着にもちこんだぞ」
「ゆうべ電話できいたよ」
「すごく早耳だな、ホーガン」とおれが言った。
「ああ、いつも連絡してるんだよ」とホーガンが言った。
「ジャックはどうなんだ?」とおれが言う。「まだやってるのか?」
「あいつか?」とホーガンが言った。「まだやってると思うか?」
ちょうどそのとき、ジャックが手紙を手にして角をまがってやってきた。セーターをきて古ぼけたズボンとボクシング用の靴をはいていた。
「切手あるか、ホーガン?」と彼はきく。
「その手紙をよこしな」とホーガンが言った。「だしてやるよ」
「おい、ジャック」とおれは言った。「競馬によく賭けるんだろ?」
「ああ、やるよ」
「前から知ってたよ。シープスヘッドでよくみかけたもんな」
「どうしてやめたんだ?」とホーガンがきいた。
「すっちまったんだ」
ジャックはおれと並んでベランダに腰かけた。柱にもたれた。まぶしくて眼をとじた。
「椅子を出そうか?」とホーガンがきいた。
「いや」とジャックが言った。「ここでいいよ」
「いい天気だな」とおれが言った。「田舎ってすごくいいな」
「おれはかみさんと町にいたほうがずっといいんだ」
「うん、あと一週間の辛抱だよ」
「そうだ」とジャック。「そうだな」
おれたちはポーチに腰かけた。ホーガンは中の事務所にいた。
「おれの調子はどうだ?」とジャックがおれにきいた。
「さあ、わからんな」とおれは言った。「フォームがきまるまで、まだ一週間あるよ」
「ごまかすなよ」
「そうだなあ」とおれは言った。「本調子じゃないよ」
「眠れねえんだ」とジャックが言った。
「二、三日したら本調子になるよ」
「いや」とジャック。「不眠症なんだ」
「何が気がかりなんだ?」
「かみさんが恋しいんだよ」
「こさせようか」
「いや。それほどおれは若かねえよ」
「ねる前にうんと散歩につれてってやるよ、そうすりゃ、ぐったり疲れるぜ」
「疲れるだって!」とジャックは言う。「おれは年じゅう疲れてるよ」
彼は一週間ずっとこんな様子だった。夜は眠れず、朝起きてもこんな調子で、両手を握りしめられないのだった。
「あいつ、救貧院のケーキみたいにかさかさになりやがった」とホーガンが言った。「駄目《だめ》だよ」
「ウォルコットの試合は見てないんだが」とおれが言った。
「ジャックはおだぶつさ」とホーガンが言った。「まっぷたつにひきさかれちゃうよ」
「ふうん」とおれは言った。「誰だって、いつかはそんな目にあうのさ」
「いや、だが、こんなじゃないよ」とホーガンが言った。「トレーニングをしなかったと思われるぞ。ここのファームの恥さらしだよ」
「新聞屋《ぶんや》がやっこさんのこと、何と言ってるかきいたか?」
「きいたとも! 見られたものじゃないって言ってるぞ。試合をさせるべきじゃないってね」
「へえ」とおれは言った。「奴らはいつも間違ってるんじゃないか」
「うん」とホーガンが言った。「だが今度ばかりは正しいよ」
「調子がいいかどうか奴らにわかってたまるもんか」
「うん」とホーガンが言った。「そう馬鹿でもないぜ、奴らは」
「奴らのしたことといえばトリードでのウィラード〔世界ヘビー級チャンピオン。一九一九年オハイオ州エリー湖畔のトリードでデンプシーに敗れた〕の勝ちを予想をしたことだけだぜ。あのラードナー〔当時の有名なスポーツ記者。短篇小説家〕は、いまじゃだいぶ目利きになったけど、トリードでのウィラードの勝ちを予想をしたときのことをきいてみろよ」
「ああ、あいつは来てなかったよ」とホーガンが言った。「あいつは大試合のことだけしか書かないんだ」
「奴らが誰だろうとかまわないが」とおれは言った。「奴らが何を知ってるってんだ? 書くことは書くだろうよ。だが何を知ってるんだ?」
「ジャックがなんとか調子がでてきたとは、おめえも思ってはいねえんだろ?」とホーガンがきいた。
「思わねえさ。奴は駄目だよ。奴に必要なのは、いたるところに、奴の勝ちだとコーベット〔もと世界チャンピオン。当時のスポーツ記者〕に書きたててもらうことさ」
「ふん、コーベットならしてくれるさ」とホーガンが言う。
「そうさ、奴なら書いてくれるよ」
その夜もジャックは眠らなかった。翌朝は試合前の最後の日だった。朝食後、おれたちはまたポーチに出ていた。
「眠れないときは何を考えてるんだ、ジャック?」とおれがきいた。
「ああ、心配なのさ」とジャック。「ブロンクスで手に入れた土地のこと、フロリダで手に入れた土地のこと、子供たちのこと、かみさんのこと、それが心配になるんだ。それに、ときどき試合のこともな。あのユダ公のテッド・ルイスのことを思うといらいらするよ。少しばかり株も持ってるんで、それも気がかりだ。気にならないものがあるかってんだよ」
「まあま」とおれが言った。「明日の晩にはすっかりけりがつくよ」
「そのとおりだ」とジャックが言った。「試合を考えると、いつも助かるよ。ね、そうじゃねえか? 万事、かたがつくんだよ、そうだとも」
彼は一日じゅういらいらしていた。おれたちは何もしなかった。ジャックはくつろごうと、そこらをちょっとぶらぶらしただけだった。数ラウンド、シャドウ・ボクシングをした。それさえ満足にできないようだった。しばらく、なわとびをした。汗もでなかった。
「何もしないほうがいいぜ」とホーガンが言った。おれたちは彼がなわとびをするのを見ていた。「もう汗もかかねえのかな?」
「汗もかけねえんだ」
「胸をやられてるんじゃねえか? 減量に苦心したことがねえだろ」
「いや、胸じゃない。ただ、心が空っぽみたいになってるだけよ」
「汗ぐらいかかなくちゃ」とホーガンが言った。
ジャックがなわとびしながらこっちへやってきた。おれたちの前でぴょんぴょん跳び、前へ出たり、後に下がったり、三度目ごとに腕を交叉させて跳んだ。
「おい」と彼。「禿タカども、何をぶつくさ言ってるんだ?」
「もうやらなくてもいいぞ」とホーガン。「くたばるぞ」
「ひでえな」とジャックは言って、なわを床にやけになって叩きつけながら跳んでいった。
その日の午後、ジョン・コリンズがファームに顔をみせた。ジャックは二階の彼の部屋にいた。ジョンは車で町からやってきた。二人友達をつれていた。車がとまり、みんな出てきた。
「ジャックは?」とジョンがおれにきいた。
「二階の自分の部屋でねてるよ」
「ねてる?」
「うん」とおれが言った。
「調子はどうだ?」
おれはジョンの連れの二人を見た。
「奴の友だちだよ」とジョンが言った。
「ひどく悪いんだ」とおれは言った。
「どうしたんだ?」
「眠れないんだ」
「畜生」とジョンが言った。「あのアイルランド人ときたら、どうしても眠れないんだな」
「身体がわるいんだ」とおれが言った。
「畜生」とジョンが言った。「しょっちゅう身体がわるいんだよ。十年間のつきあいだが、まだ一度も身体がいいってことはなかったよ」
彼といっしょにきた連中が笑った。
「モーガンとシュタインフェルトだ。挨拶しろ」とジョンがいった。「こちらはドイルさん。ジャックのトレーニングをしてるんだ」
「ようこそ」とおれは言った。
「二階にいって、やっこさんを見てこよう」とモーガンといわれた男が言った。
「見に行こうぜ」とシュタインフェルトが言った。
おれたちはいっしょに二階へ行った。
「ホーガンは?」とジョンがきいた。
「お客さん二人と納屋にいってるよ」とおれが言った。
「おおぜいかい?」とジョンがきいた。
「二人だけさ」
「ばかに静かじゃないか」とモーガンが言った。
「うん」とおれが言った。「ばかに静かだよ」
おれたちはジャックの部屋の外にきていた。ジョンがノックした。返事がなかった。
「ねてるんだろ、きっと」とおれが言った。
「なんで、ひるまっから、ねてやがるんだ?」
ジョンが把手《ノブ》をまわして、みんなで中へはいった。ジャックはベッドでねていた。うつぶせになり、枕に深く顔をうずめていた。両腕は枕をかかえていた。
「おい、ジャック!」とジョンが声をかけた。
ジャックの頭が枕の上でちょっと動いた。「ジャック!」とジョンがジャックにおおいかぶさるように身をのりだして言う。ジャックは、かえって枕に顔をうずめるだけだった。ジョンが彼の肩にさわった。ジャックは身を起こして、おれたちを見た。ひげもそらず、古ぼけたセーターをきていた。
「畜生! どうして寝かせといてくれねえんだ?」とジョンに言った。
「そう怒るなよ」とジョン。「おこすつもりはなかったんだ」
「そうだろうとも」とジャック。「もちろんね」
「モーガンとシュタインフェルトを知ってるだろ」
「よくきたな」とジャック。
「気分はどうだ、ジャック」とモーガンが彼にきく。
「いいよ」とジャック。「それがどうだってんだ?」
「調子よさそうだね」とシュタインフェルト。
「もちさ」とジャック。「おい」とジョンに言う。「おめえはおれのマネジャーだろう。分け前はたんまりとってるんだろ。どうして新聞屋《ぶんや》がきたときに出てこねえんだ! ジェリーやおれに奴らとしゃべらせておきたかったのか?」
「フィラデルフィアでルーの試合があったんだ」とジョンが言った。
「それがおれと何の関係があるんだ?」とジャック。「おめえはおれのマネジャーだ。分け前をたんまりとってるんだろ? フィラデルフィアでおれのため一銭でもかせいでくれたわけじゃねえだろ? ここにいて欲しいとき、どうしていてくれねえんだ?」
「ホーガンがいただろう」
「ホーガンか」とジャック。「ホーガンもおれくらいとんまなんだぜ」
「ソールジャー・バートレットがしばらくここで君と稽古してたんじゃないか、え?」とシュタインフェルトが話を変えようとして言った。
「うん、いたよ」とジャック。「いるだけはいたさ」
「おい、ジェリー」とジョンがおれに言った。「ホーガンをさがして、三十分ほどしたら会いたいって伝えてくれよ」
「いいとも」とおれは言った。
「どうしてジェリーをここにいさせちゃいけねえんだ?」とジャック。「ここにいなよ、ジェリー」
モーガンとシュタインフェルトは顔を見あわせた。
「おちつけよ、ジャック」とジョンが言った。
「ホーガンをさがしにいくよ」とおれは言った。
「いきたいならいけ」とジャック。「だけど人払いをしようってんじゃねえんだな」
「ホーガンをさがしてくる」とおれは言った。
ホーガンは納屋のジムにいた。グローブをつけたファームの二人の客に稽古をつけていた。二人は互いに打ちかえされるのを恐れて、相手を打とうとしなかった。
「じゃ、これまで」とホーガンはおれがはいってきたのを見て言った。「打ち合いはやめ。シャワーをあびてブルースにマッサージしてもらいな」
二人はロープをくぐって出て行った。ホーガンはおれのほうへやってきた。
「ジョン・コリンズが二人仲間をつれてジャックのところへきてるよ」とおれが言った。
「車でやってくるのが見えたよ」
「ジョンの連れの二人はだれなんだ?」
「いわゆる予想屋さ」とホーガンが言った。「知らねえのか、奴らを?」
「うん」とおれが言った。
「あれがハッピー・シュタインフェルトとルー・モーガンさ。賭博場をやってるんだ」
「ずっと足を向けてないからな」とおれが言った。
「そうだな」とホーガンが言った。「あのハッピー・シュタインフェルトってのはすごい相場師だよ」
「名前はきいたことあるが」とおれが言った。
「たいしたやりてだよ」とホーガンが言った。「二人とも山師だよ」
「それで」とおれは言った。「三十分したら会いたいそうだ」
「三十分たたないうちは会いたくねえってのか?」
「そうらしいな」
「事務所へいこう」とホーガンが言った。「畜生、あのいかさま師の奴ら、くそくらえ」
三十分ぐらいしてから、ホーガンとおれは二階へ行った。ジャックのドアをノックした。彼らは部屋の中で話していた。
「ちょっと待ってくれ」とだれかが言った。
「くそくらえ」とホーガンが言った。「おれに会いたきゃ、下の事務所にいるからな」
ドアの鍵のあく音がした。シュタインフェルトがドアをあけた。
「はいれよ、ホーガン」と言う。「一杯やるところなんだ」
「ふん」とホーガン。「そいつはいいな」
おれたちは中へはいった。ジャックはベッドに腰かけていた。ジョンとモーガンは椅子に腰かけ、シュタインフェルトはつったっていた。
「ずいぶん、わけありの顔がおそろいだな」とホーガンが言った。
「やあ、ダニー」とジョン。
「やあ、ダニー」とモーガンも言い、握手する。
ジャックは口もきかない。ただベッドにすわったままだ。みんなと離れていた。ひとりぽつんとしていた。古い紺のセーターとズボンをはき、ボクシング用の靴をはいていた。ひげもそってない。シュタインフェルトとモーガンはしゃれ者だった。ジョンも相当なしゃれ者だ。すわったままのジャックはいかにもアイルランド人らしくがっちりしている。
シュタインフェルトが酒壜を取りだし、ホーガンがグラスを持ちこんで、みんなで飲んだ。ジャックとおれは一杯でやめ、みんなはさらにそれぞれ二、三杯やった。
「帰りの車の中で飲む分はとっとけよ」とホーガンがいった。
「心配するなよ。たんまりあるんだ」とモーガンがいった。
ジャックは一杯きりで飲まなかった。彼は立ちあがってみんなをみつめていた。モーガンが、ジャックのすわっていたところにすわっていた。
「飲めよ、ジャック」と言って、ジョンはコップと酒壜をジャックに渡した。
「いやだ」とジャックは言った。「こんなお通夜みたいなのはいやだ」
みんな笑った。ジャックは笑わなかった。
帰る頃には三人ともかなりごきげんだった。ジャックは三人が車に乗りこんだとき、ベランダに立っていた。三人は彼に手を振った。「あばよ」とジャックは言った。
おれたちは夕食をとった。ジャックは食事中、「これをとってくれ」「あれをとってくれ」というほかはひと言もしゃべらなかった。ファームにきた二人の客もおれたちといっしょにたべた。いいやつらだった。夕食後、ベランダに出た。外はもう暗くなっていた。
「散歩しないか? ジェリー」とジャックが言った。
「うん、いこう」とおれが言った。
上衣をひっかけて外へでた。本街道まではかなりあった。それから本街道を一マイル半歩いた。車がひっきりなしに通り、そのつど、わきによけて、車をやりすごした。ジャックは何も言わなかった。大きな車をよけて繁みへはいったが、ジャックが言った。「こんな散歩なんか、くそくらえだ。ホーガンのところへもどろう」
丘をこえ、畑をよこぎる近道をとおって、ホーガンのところへもどった。丘の上に家のあかりが見えた。玄関へまわるとホーガンが入口に立っていた。
「散歩はよかったか?」とホーガンがきいた。
「うん、よかったね」とジャックが言った。「おい、ホーガン、何か酒はあるか?」
「あるとも」とホーガン。「どうしようってんだ?」
「部屋へもってきてくれ」とジャック。「今夜は寝るんだ」
「医者みてえなことを言うね」とホーガンが言う。
「部屋へこないか、ジェリー」とジャックが言う。
二階へいくとジャックは頭を両手でかかえてベッドにすわりこんだ。
「これが世の中ってもんか」とジャックが言う。
ホーガンが一クォート〔一リットル弱〕壜とグラスを二つもってきた。
「ジンジャーエールももってこようか?」
「おれがどうしたいと、おめえ思ってる? 病気になりてえとでも思ってるのか?」
「ちょっときいただけよ」とホーガンが言った。
「飲まねえか?」とジャックが言った。
「いや、いらねえ」とホーガンが言った。彼は出ていった。
「おめえはどうだ、ジェリー?」
「一杯つきあおうか」とおれは言った。
ジャックが二杯ついだ。「さあ」と言った。「ゆっくりのんびりやろうぜ」
「水で割れよ」とおれが言った。
「そうだな」とジャックが言った。「そのほうがよさそうだな」
おれたちはだまって二杯のんだ。ジャックがもう一杯おれにつごうとした。
「いや」とおれは言った。「もういいよ」
「そうか」とジャックが言った。自分のグラスにぐっとついで、水で割った。すこし酔がまわってきた。
「ひるまにはすげえ奴らがきたな」と言った。「あの二人は危ねえ橋は渡らねえ」
それからしばらくして、「うん」と彼。「やつらが正しいんだ、危ねえ橋を渡ったって、なんにもなんねえ」
「もう一杯やらねえか、ジェリー」と言った。「さあ、つきあいに飲んでくれよ」
「いらないよ、ジャック」とおれは言った。「すっかりいい気持ちなんだ」
「もう一杯だけだぜ」とジャックが言った。酒のおかげで機嫌がなおっていた。
「じゃ、もらおうか」とおれは言った。ジャックはおれにつぎ、もう一杯は自分のためにぐっとついだ。
「なあ」と言った。「おれは酒が大好きだ。ボクシングをしてなきゃ、だいぶ飲んでたろうな」
「まったくだ」とおれは言った。
「なあ」と彼は言った。「ボクシングのおかげでだいぶ損したよ」
「金はもうけたろう」
「そうさ。それだけが目的さ。おれが損したってこたあ、わかるだろ、ジェリー」
「どういうことだ?」
「うん」と彼。「たとえばかみさんのことさ。それにしょっちゅう家をあけることさ。娘たちにもよくないし。『君のお父さんは誰?』ってつきあう男の子が言うだろうよ。『お父さんはジャック・ブレナンよ』って言うのは娘になんのたしにもならねえからな」
「とんでもない」とおれは言った。「娘さんに金をやれるかどうかで話はちがってくるんじゃないか」
「うん」とジャック。「金はちゃんと作ってあるが」
彼はまた一杯ついだ。ボトルはほとんど空だった。
「水で割れよ」とおれが言った。ジャックはいくらか水をたした。
「なあ」と彼は言う。「どんなにかみさんが恋しいかわかんねえだろうな」
「わかるさ」
「わかるもんか。どんなものか想像もつかんよ」
「町にいるより田舎《いなか》にいるほうがずっといいだろうにな」
「おれにとっちゃ、いまんとこ」とジャックが言った。「どこにいようが問題じゃねえんだ。どんなものか、おめえにゃわかんねえよ」
「まあ飲めよ」
「おれ、酔ってきたか? 話がおかしいか?」
「調子がだんだんよくなったよ」
「どんなものか、おめえにゃわかんねえよ。誰にもわかるもんか」
「かみさん以外にはな」とおれが言った。
「あれは知ってるさ」とジャックが言った。「よく知ってるさ。知ってるとも。ちゃあんと知ってらあ」
「水で割れよ」とおれが言った。
「ジェリー」とジャック。「おめえにゃどんな気持ちになるもんかわかんねえんだよ」
彼はすっかり酔っていた。じっとおれをみつめていた。眼がだいぶすわっていた。
「よく寝られるぞ」とおれは言った。
「いいか、ジェリー」とジャックが言った。「金が欲しかねえか? ウォルコットに賭けろよ」
「え?」
「いいか、ジェリー」ジャックはグラスをおいた。「いま、おれ、酔ってねえぞ。な、おれがあいつにいくら賭けたか知ってるか? 五万ドルだぞ」
「大金じゃないか」
「五万ドルだ」とジャック。「二対一でだ。おれが二万五千ドルとれるんだ。あいつに賭けろ、ジェリー」
「よさそうだな」とおれが言った。
「おれが勝てるわけがねえじゃねえか」とジャックが言う。「八百長じゃねえんだぞ。勝てるわけがねえじゃねえか。それで金をもうけろよ」
「水で割れよ」とおれは言った。
「おれはこの試合かぎりやめるんだ」とジャックが言う。「やめちまうんだ。やっつけられるにきまってるからな。賭けて金をもうけねえって手はねえだろ」
「そうだとも」
「一週間も寝れなかったんだ」とジャックが言う。「ひと晩じゅう、眼をさまして、気が変になるほど心配したんだ。眠れねえんだ、ジェリー。眠れねえのがどんなものかわかんねえだろ」
「わかるとも」
「眠れねえんだ。ただそれだけの話よ。ただ眠れねえんだ。眠れなきゃ、今まで何年も苦労した甲斐《かい》があるかってんだ」
「そいつはいかんな」
「どんなものかわからねえんだよ、ジェリー、眠れねえときのことは」
「水で割れよ」とおれが言った。
ところで、十一時ごろにジャックは酔いつぶれ、おれはやっこさんをベッドに運んだ。ついに、こうなれば、奴だって眠れないわけでもない。おれはやっこさんが服をぬぎ、ベッドにはいるのを手伝ってやった。
「よく眠れるぞ、ジャック」とおれが言った。
「まったくだ」とジャックが言う。「さあ眠るぞ」
「おやすみ、ジャック」とおれが言った。
「おやすみ、ジェリー」とジャックが言う。「おめえだけが友だちよ」
「おい、何いってるんだ」とおれが言った。
「おめえだけが友だちよ」とジャックが言う。「おれのたったひとりの友だちよ」
「ねろよ」とおれが言った。
「ねるよ」とジャックが言う。
階下ではホーガンが事務所の机にむかって新聞を読んでいた。彼は目をあげた。「やあ、相棒をねかせたか?」とたずねる。
「のびちまったよ」
「眠れねえよりましさ」ホーガンが言った。
「そうとも」
「スポーツ記者にこいつを説明するのは骨だぞ、おめえ」とホーガンが言った。
「さてと、おれもねよう」とおれが言った。
「おやすみ」とホーガンが言った。
翌朝、八時頃、階下へいき、朝食をとった。ホーガンは納屋で二人の客に体操をさせていた。おれはそこへ行って、見物した。
「一! 二! 三! 四!」ホーガンが彼らに号令をかけていた。「やあ、ジェリー」と彼は言った。「ジャックはおきたか?」
「いや、まだねてる」
おれは部屋へもどり、町に出るために荷物の支度をした。九時半頃、次の部屋でジャックの起きる気配がした。階下へ行く音がしたのであとを追った。ジャックは朝食のテーブルについていた。ホーガンがもどってきていて、テーブルのそばに立っていた。
「気分はどうだ、ジャック?」とおれは彼にきいた。
「そうわるくねえな」
「よくねたか?」とホーガンがきいた。
「よくねたよ」とジャックが言った。「舌のまわりが悪いが、頭痛はしねえ」
「そいつあよかった」とホーガンが言った。「あれは上等の酒だったんだぜ」
「おれの勘定書につけといてくれ」とジャックが言う。
「何時に町にでかけるんだ?」とホーガンがきいた。
「ひるめし前だ」とジャックが言う。「十一時の汽車だ」
「すわれよ、ジェリー」とジャックが言った。ホーガンは出ていった。
おれはテーブルについた。ジャックはグレープフルーツをたべていた。種子があると、スプーンに吐きだして皿にすてた。
「夕べはちょっと酔っちまったらしいな」と言いはじめた。
「飲んだからな」
「くだらんことを言っただろうな」
「そうでもなかったよ」
「ホーガンはどこへいったんだ?」と彼はきいた。グレープフルーツをたべおわっていた。
「表の事務所だ」
「試合に賭けることについちゃ、何か言わなかったか?」とジャックがきいた。スプーンを手にして、それでグレープフルーツをさすような恰好をした。
女の子がハムエッグをもってきて、グレープフルーツの皿をさげた。
「もう一杯ミルクをくれ」とその子にジャックが言った。女は出ていった。
「ウォルコットに五万ドル賭けたって言ったけど」とおれが言った。
「そのとおりさ」とジャックが言った。
「大金だな」
「あまりいい気持ちじゃねえんだ」とジャックが言った。
「なにか起こるんじゃないのか?」
「いや」とジャックが言った。「あいつあ、タイトルがやけに欲しいんだ。みんなもそのつもりだしな」
「そんなことわかりゃしないよ」
「いや、あいつあ、タイトルを狙ってるんだ。あいつにとっちゃ大金と同じことなんだ」
「五万ドルは大金だぞ」とおれが言った。
「取引さ」とジャックが言った。「おれは勝ちっこないよ。どうやっても勝てねえよ」
「試合をやる以上は、チャンスがあるさ」
「いや」とジャックが言う。「おれは全然だめだ。ただ取引なんだ」
「気分はどうだ」
「とてもいい」とジャックが言った。「眠ったのがよかったんだ」
「うまくいくぜ」
「面白くやってやるよ」とジャックが言った。
朝食後、ジャックは細君に長距離電話をかけた。電話室でかけていた。
「ここにきてはじめてかみさんにかけたんだぜ」とホーガンが言った。
「手紙は毎日、書いてるよ」
「そうさ」とホーガン。「手紙は二セントだからな」
ホーガンはおれたちに別れの挨拶をし、ニグロのマッサージ師のブルースがおれたちを駅まで荷馬車で送ってくれた。
「さいなら、ブレンナさん」とブルースは汽車に向かって言った。「ぜひ、奴の頭をふっとばしておくんなせえよ」
「じゃあ」とジャックが言った。彼はブルースに二ドルやった。ブルースはずいぶんと彼の世話をしてくれたのだ。彼はちょっとがっかりしたようだった。ジャックは二ドルを掴んでいるブルースをおれがみているのに気がついた。
「みんな、つけになってるんだ」と彼は言った。「ホーガンはマッサージ代もつけにしてよこしたんだ」
町へ行く汽車の中で、ジャックはしゃべらなかった。帽子のリボンに切符をはさんで座席のすみっこに陣どり、窓の外をみていた。一度だけふりかえって、おれに話しかけた。
「今夜はシェルビーに部屋をとるって、かみさんに電話したんだ」と彼は言った。「ガーデン〔ニューヨークにあるスポーツ興行場のマディソン・スクェア・ガーデン〕から目と鼻の先なんだ。あすの朝は家へかえれるってわけだ」
「そいつはいい考えだな」とおれは言った。「かみさんは、あんたの試合をみたことあるのかね、ジャック?」
「いや」とジャックは言う。「一度もねえよ」
試合後すっとんで家へ帰りたがらないところを見ると、ひどくやられるのを覚悟してるにちがいないと思った。町で、シェルビーまでタクシーを拾った。ボーイが出てきて、おれたちのバッグを持ち、おれたちは受付へいった。
「部屋代はいくらだ?」とジャックがきいた。
「ダブル・ルームしかございませんが」と受付がいう。「いい部屋で十ドルでございます」
「高すぎるな」
「七ドルのもございますが」
「バスつきでか?」
「さようでございます」
「おめえも泊らねえか、ジェリー?」とジャックが言う。
「いや」とおれは言った。「義兄《あに》のところへ行くよ」
「おめえに払わせるんじゃねえんだぜ」とジャックが言う。「ただ同じ金を払うんだからな」
「ここにご署名をどうぞ」と受付が言う。そして、名前をのぞきこんだ。「二三八号室へどうぞ、ブレナン様」
おれたちはエレベーターで上がった。ベッドが二つあり、浴室へつづくドアがある大きないい部屋だった。
「いい部屋じゃねえか」とジャックが言う。
おれたちを案内してきたボーイがカーテンをあげ、カバンを運びこんだ。ジャックが知らん顔をしているので、おれがボーイに二十五セント銀貨をやった。二人がシャワーを浴びると、ジャックが外に何か食べにいこうと言った。
ジミー・ハンレイの店で昼食をした。若いやつらが大勢いた。半分食べてしまったころ、ジョンがやってきて、おれたちのテーブルについた。ジャックはあまりしゃべらなかった。
「体重のほうはどうなんだ、ジャック?」とジョンがきいた。ジャックはかなりな昼食をたいらげているところだった。
「服をきたままでも大丈夫だ」とジャックが言った。彼はいままで減量の心配は一度だってしたことがなかった。生れつきのウェルター級で、太ったことがなかった。それにホーガンのところにいて体重がへっていた。
「その心配がないのはもうけものだな」とジョンが言った。
「うん、助かるよ」とジャックが言う。
昼食がすんでから、ガーデンに計量検査にいった。三時に一四七ポンドという契約になっていた。ジャックはタオルを腰にまいたままで秤《はかり》にのった。目盛ざおは動かなかった。ウォルコットがちょうど計ったところで、大勢の男にかこまれて、立っていた。
「どのくらいあるんだ、ジャック?」とウォルコットのマネジャーのフリードマンが言った。
「いいとも、あとであいつのもみせてもらうよ」ジャックはウォルコットのほうにあごでしゃくった。
「タオルをとれよ」とフリードマンが言った。
「どのくらいだ?」とジャックが計っている男たちにきいた。
「一四三ポンド」と計っていたでぶっちょが言った。
「ひどく目方をおとしたな、ジャック」とフリードマンが言う。
「あいつを計ってくれ」とジャック。
ウォルコットがやってきた。ブロンドで、ヘビー・ウェート級なみの広い肩幅と腕だった。脚はあまり長くなかった。ジャックのほうが頭半分高かった。
「よう、ジャック」と彼は言った。顔は傷だらけだった。
「やあ」とジャックが言った。「どうだ?」
「いいよ」とウォルコット。腰のまわりからタオルをはずして秤にのった。見たこともないくらい広い肩と背中をしていた。
「一四六ポンド十二オンス」
ウォルコットは台からおりて、ジャックににやっとしてみせた。
「それじゃ」とジョンが言った。「ジャックが四ポンドばかり少ないわけだ」
「試合のときにゃ、もっとあるぜ」とウォルコット。「これから食事をしてくるから」
おれたちは控え室にもどり、ジャックは服をきた。「みかけはなかなかタフな奴だな」とジャックがおれに言う。
「何度もなぐられた顔だったな」
「うん、そうだな」とジャックが言う。「わけなくなぐれそうだ」
「どこへいくんだ?」ジャックが服をきると、ジョンがきいた。
「ホテルへかえるよ」とジャックが言う。「万事おめえがやってくれたんだろう?」
「うん」とジョンが言った。「万事オーケーだよ」
「しばらく横になるよ」とジャックが言う。
「七時十五分前に迎えにいくから、それから食いにいこう」
「よしきた」
ホテルの部屋で、ジャックは靴と上衣をぬぎ、ちょっと横になった。おれは手紙を書いた。二、三度ふりむいてみたが、ジャックは眠っていなかった。身動きもせず横になっていたが、ときたま眼をあけた。とうとうおきあがった。
「クリベッジ〔二人でするトランプ遊びの一種〕でもしねえか、ジェリー」と彼が言う。
「やろう」とおれが言った。
彼はスーツケースのところへ行き、トランプとクリベッジ盤をだした。二人でクリベッジをやり、彼が三ドル勝った。ジョンがノックしてはいってきた。
「クリベッジしないか、ジョン?」とジャックがきいた。
ジョンは帽子をテーブルの上に置いた。ずぶぬれだった。上衣もぬれていた。
「降ってるのか?」とジャックがきいた。
「どしゃぶりだよ」とジョンが言う。「のったタクシーが途中でえんこしたんで、おりて歩いてきたんだ」
「さあ、クリベッジをやろうぜ」とジャック。
「たべにいかなきゃだめだぜ」
「いや」とジャック。「まだ食いたくないよ」
そこで二人は三十分ぐらいクリベッジをやり、ジャックが一ドル半勝った。
「さあ、食いに行こうか」とジャックが言い、窓辺にいき、外をみた。
「まだ降ってるか?」
「うん」
「ホテルで食おう」とジョン。
「そうしよう」とジャックが言う。「もういちどやって、負けたほうが夕飯《ゆうめし》をおごるんだぞ」
しばらくしてジャックが立ちあがって言う。「おめえがおごるんだ、ジョン」そこで、みんなで階下へ行き、広い食堂で食事した。
食事がすんでから二階へ行き、ジャックはまたジョンとクリベッジをやり一ドル半勝った。ジャックはひどく上機嫌だった。ジョンは持物をみんないれたバッグを持っていた。ジャックはシャツとカラーを脱ぎ、表へでても風邪をひかぬようにジャージーとセーターを着こみ、トランクスとガウンをバッグにつめた。
「支度はすんだか?」とジョンがきいた。「電話をかけてタクシーを呼ばせよう」
すぐ電話のベルが鳴り、タクシーが来たと知らせてきた。
エレベーターで下り、ロビーを通り抜け、タクシーにのり、ガーデンにのりつけた。どしゃ降りだったが街路には大勢の人がつめかけていた。ガーデンは札止めだった。更衣室へ行くとき、どんなにいっぱいだかわかった。リングまで半マイルもあるかと思われた。すっかり暗くなっていた。リングの上だけあかりがついていた。
「この雨じゃ、この試合を野球場ですることにしないでよかったな」とジョンが言った。
「ずいぶん、はいってるな」とジャックが言った。
「この顔あわせじゃ、ガーデンにはいりきれねえくらいの客をひきつけるさ」
「天気はどうにもならねえな」とジャックが言う。
ジョンが更衣室の入口から首をつっこんだ。ジャックがガウンを体にまいて腰かけていた。腕をくんで床をみつめていた。ジョンは付き添いを二人つれていた。彼らは肩越しにのぞいた。ジャックが顔をあげた。
「奴はもう出てるか?」
「いま出ていったとこだ」とジョンが言った。
おれたちは出ていった。ウォルコットがちょうどリングにはいるところだった。みんながわっと拍手した。彼はロープの間をくぐってのぼり、両方のこぶしをあわせて微笑し、そのこぶしをみんなに振ってみせた。はじめ、片側の人々に、それから、反対側の人々に。そして腰をおろした。ジャックが観衆の間を通ると盛んな拍手がおこった。ジャックはアイルランド人で、アイルランド人は盛んな拍手をうけるものだ。アイルランド人は、ニューヨークではユダヤ人やイタリア人のようにはもてないが、いつもかなり拍手はされるのだ。ジャックはリングによじのぼりロープをくぐりぬけようとかがんだ。すると、ウォルコットが自分のコーナーからやってきて、ジャックが通れるようにロープをさげてくれた。観衆はすばらしい奴だと思った。ウォルコットはジャックの肩に手をおき、ほんのちょっと二人はそこに立った。
「人気者のチャンピオンになろうってんだな」とジャックが言う。「肩から貴様の手をどけてくれ」
「おちつけよ」とウォルコット。
こんなことがみんなにすごくもてたのだ。試合の前でも二人がえらく紳士的であるとか、互いに相手の幸運をどんなにねがっているかとかいうことが。
ジャックが両手にバンデージを巻いているあいだに、ソリー・フリードマンがこちらのコーナーにきた。ジョンはウォルコットのコーナーにいっていた。ジャックはバンデージの間から親指を出して、それから手をきれいにうまいぐあいにまいていった。おれはテープを手首にまき、二度、関節のところをまいた。
「おい」とフリードマンがいう。「そのテープどこで手に入れたんだ?」
「さわってみろよ」とジャックがいう。「やわらかいだろ。くだらんこというな」
フリードマンはジャックがもう片方の手にバンデージを巻く間、ずっとそこに立っている。付き添いの少年の一人がグローブをもってくる。おれがそれをはめて、もんでみる。
「おい、フリードマン」とジャックがきく。「ウォルコットはどこの生れだ?」
「さあ、知らんね」とソリーがいう。「デンマーク人らしいがね」
「ボヘミヤ人ですよ」とグローブを持ってきた少年がいった。
レフェリーが二人をリングの中央に呼びだし、ジャックは出ていった。ウォルコットが笑いを浮かべて出ていった。二人が向きあい、レフェリーが両腕を二人の肩にのせた。
「やあ、人気者」とジャックがウォルコットに言う。
「おちつけよ」
「なんで『ウォルコット』なんて名をつけたんだ?」とジャックが言う。「そういう名の黒ん坊がいたことを知らなかったのか?」
「よくきいて……」とレフェリーが言い、ありきたりの注意を与える。一度、ウォルコットが口をはさむ。ジャックの腕をひっつかみ、「こいつがこんなふうにつかんだときには、打っていいんですかい?」と言う。
「はなせ」とジャックが言う。「映画じゃねえんだぞ」
二人はめいめいのコーナーへもどった。おれはジャックのガウンをぬがせてやった。彼はロープによりかかって、二、三度膝の屈伸をし、樹脂《ロンジ》の中で靴をこすった。ゴングがなり、ジャックはすばやくふり向いて出ていった。ウォルコットが彼のほうにきて、二人はグローブを合わせ、ウォルコットが両腕を下げるや、ジャックは飛びこんで左を二発、相手の顔にきかせた。ジャックのようにうまくボクシングをやれる者は誰もいない。ウォルコットは、顎を胸につけたまま、常に前進しながらくい下がった。彼はフッカー〔ひじを曲げて打つのを得意とするボクサー〕で、手はかなり低くかまえている。彼にできることは、飛びこんでなぐるだけだ。が、近くへ飛びこむたびに、ジャックの左手が彼の顔をとらえた。まるで自動機械みたいなものだ。ジャックが左手をあげさえすれば、ウォルコットの顔に当っている。ジャックは三、四回右を出したが、ウォルコットは肩か頭の上にそらしてしまう。フッカー型の奴はみんな同じだ。奴がこわいのは、同じ型のフッカーだけだ。やっつけられそうなとこはみなカバーしてかかる。顔に左手を受けるぐらいへとも思わない。
第四ラウンドがすむころには、ジャックは相手を血だらけにし、顔じゅう傷をこしらえさせた。だが、ウォルコットが飛びこんでくるたびに、ひどく殴られ、肋骨のすぐ下の両側に大きな赤あざをこしらえた。相手が飛びこんでくるたびに、ジャックはクリンチし、片手をぬいて、アッパーカットをくらわしたが、ウォルコットは両手をぬくと、おもての通りまできこえるくらいな音をたててジャックのボディにパンチをくらわした。すごいパンチだ。
このようにして、さらに三ラウンドつづいた。二人はちっとも口をきかなかった。たてつづけにやっていた。おれたちも、ラウンドのあいま、ジャックの介抱に大わらわだった。調子がいいとも思えないが、いつもリングではあまり動かないのだ。動きまわらないで、あの左手だけが、ただ自動的に動いているのだ。まるで左手がウォルコットの顔にむすびついていて、ジャックがやろうと思いさえすれば、いつでも当るようだった。ジャックは接近戦でも落ちつきはらって、むだな精力は使わない。接近戦のことは知りつくしているので、いろいろな手を使って相手をかわしている。こちらのコーナーでやっているとき、見ていると、彼はウォルコットにクリンチし、右手をぬくや、アッパーカットをくらわした。そのとき、ウォルコットの鼻をグローブのヒールでたたきつけた。ウォルコットはひどく出血し、ジャックの肩に、その鼻をおしつけ、ジャックにも血をつけようとした。ジャックは肩をぐっとあげるようにして、その鼻をこづき上げておいて、右手をぬき、また同じことをくりかえした。
ウォルコットはかんかんに怒った。第五ラウンドがすむころにはジャックの気力にうんざりしていた。ジャックはいらいらしていなかった。つまり、いつもと同じだった、ということだ。彼はいつも、試合の相手がボクシングにうんざりするように仕向けたものだった。だから、彼はキッド・ルイスが大嫌いだったのだ。今までに彼はキッドを怒らせたことがない。キッド・ルイスはいつも、ジャックのできない、いやらしい新手を三つぐらい用意していたのだ。ジャックは強いときには、リングの上でいつも教会のように安全だった。たしかに、ウォルコットを手荒くあしらっていた。妙なことに、ジャックが八百長をやらぬオーソドックスなボクサーみたいにみえた。というのも、そうした素質が彼にすべて備わっていたからだ。
第七ラウンドがすんだとき、ジャックが「左が重くなってきた」と言う。
それから、彼が打たれはじめた。はじめは、目に見えはしなかった。だが、彼のペースでやっているのではなく、ウォルコットのペースだった。いつも安全どころか、いまは危なかった。もう左で相手をよせつけずにおくわけにはいかなかった。見た眼には前と変らなかったが、ミスの多かったウォルコットのパンチが正確に当りはじめていた。ジャックはボディに強烈なパンチを一発くらった。
「何ラウンドだ?」とジャックがきいた。
「第十一ラウンドだ」
「だめだ」とジャック。「足がきかねえ」
ウォルコットはもうずうっと長いあいだ彼を打ちつづけていた。野球のキャッチャーがボールを引いて受け、反動がないようにするみたいだ。このときから、ウォルコットはしっかりと打ちこみはじめた。まさにパンチの機械だ。もうジャックはブロックしようとするばかりだった。彼がどんなにひどくなぐられたかは、はっきり分らなかった。ラウンドの間におれは彼の足をマッサージしてやった。もんでいる間じゅう、おれの手の下で筋肉がぶるぶる痙攣《けいれん》していた。彼はすっかりまいっていた。
「どうだ試合は?」と彼は、すっかりはれあがった顔をジョンにむけてきいた。
「奴の勝だな」
「おれは、なんとかもちそうだぞ」とジャック。「こんなヘボにやっつけられてたまるか」
試合は、彼の思ったように進んだ。ウォルコットに勝てないことは分っていた。もうそんなに強くはなかった。だがそれでもかまわなかった。金は大丈夫だし、いまはただ気のむくように試合をすませたかった。ただノックアウトされたくはなかった。
ゴングが鳴り、おれたちは彼を押しだした。彼はゆっくり出ていった。ウォルコットが彼のあとからすぐ出てきた。ジャックは彼の顔に左をいれた。ウォルコットが受け、その下をくぐりぬけ、ジャックのボディをうちはじめた。ジャックはクリンチしようとしたが、丸鋸《まるのこ》をつかまえようとするようなものだった。ジャックは離れ、右を出したが、当らなかった。ウォルコットの左フックがきまって、ジャックはダウンした。ジャックは両手両膝をついてダウンし、おれたちを見た。レフェリーがカウントしだした。ジャックはおれたちを見て首をふっていた。カウントが八になるとジョンが彼に合図した。観衆のさわぎ声で声はきこえない。ジャックは立ち上がった。レフェリーはカウントしているあいだ、ウォルコットを片手でおしのけていた。
ジャックが立ち上がると、ウォルコットが向かってきた。
「気をつけろ、ジミー」ソリー・フリードマンが彼にどなるのがきこえた。
ウォルコットはジャックをにらんで進んできた。ジャックは左をうちこんだ。ウォルコットは首をふっただけだった。彼はジャックをロープに追いつめ、様子をうかがい、ジャックの頭の横にごくかるく左のフックを打ち、できるだけ低く、できるだけ力をこめて、ボディに右を打ちこんだ。ベルトの五インチ下を殴ったにちがいなかった。おれはジャックの顔から眼がとびだしたかと思った。彼の目玉がぐんと飛びだした。口がひらく。
レフェリーはウォルコットを押さえた。ジャックが前にのめった。ダウンしたら五万ドルもおじゃんだ。臓物がみんな出てしまいそうな恰好で歩いた。
「ロウブローじゃねえ」と彼は言った。「偶然だ」
観衆がわあわあわめきたて、なにもきこえない。
「おれは大丈夫だ」とジャックが言う。二人はおれたちの真正面にいた。レフェリーはジョンを見て、それから首をふった。
「さあ、こい、くそポーランド人」とジャックがウォルコットに言う。
ジョンはロープにつかまっていた。いつでもすぐなげこめるようにタオルを用意していた。ジャックはロープから少しはなれたところに立っていた。一歩前進した。汗が誰かがしぼりだしたかのように顔にでて、大きな汗の玉が鼻をつたって流れおちるのが見えた。
「さあ、こい、やろう」とジャックがウォルコットに言う。
レフェリーはジョンを見、ウォルコットにやれと手をふった。
「こい、うすのろ」と彼が言う。
ウォルコットが突っこんできた。彼もどうしていいか分らなかったのだ。ジャックがあのパンチにふみこたえられるとは思ってもいなかったのだ。ジャックが顔に左をうちこんだ。わあわあ喚声があがる。二人はおれたちの眼の前にいた。ウォルコットが彼を二度なぐった。ジャックの顔は今までみたこともないほどひどかった……あのすごい形相《ぎょうそう》! 彼はふんばって、全身の力を集中していたが、それが顔にあらわれた。なぐられて身体を「く」の字にまげながらも、ずっと彼は考えていたのだ。
それから彼は打ちはじめた。ずっと物すごい顔つきだった。両手をわきに低くさげ、ウォルコットめがけてふりまわして、打ちはじめた。ウォルコットがカバーした。ジャックはウォルコットの頭めがけて、めちゃくちゃにふりまわした。それから左をとばすと、ウォルコットのまたのつけ根に当り、右が、ウォルコットがジャックをなぐりつけたとちょうど同じところに命中した。ベルトのずっと下のほうだ。ウォルコットがダウンし、なぐられた箇所をおさえ、ころげてのたうちまわった。
レフェリーがジャックをつかみ、彼のコーナーへ押しやった。ジョンがリングに飛び込んだ。けんけんごうごうのさわぎだ。レフェリーは審判と相談し、アナウンサーがメガホンをもってリングにあがり「ウォルコットの反則勝」と言う。
レフェリーがジョンに話しかけてきて、言う。「どうしようもないよ、わしには。ジャックがファウルをみとめなかったんだ。すると、こんどは、グロッキーになってファウルをやらかしたんだ」
「とにかく負けたんだ」とジョンが言う。
ジャックは椅子に腰かけていた。おれは奴のグローブをはずしてやった。彼はうたれたところを両手でおさえてかがみこんでいる。がまんできるくらいならあんなひどい顔はしてないはずだ。
「行ってあやまってこい」とジョンが耳うちする。「ていさいがいいから」
ジャックが立ちあがる。顔中から汗が流れだす。おれは彼にガウンをかけてやる。彼はガウンの下で片手で痛むところを押さえながら、リングの向こう側へいく。奴らはウォルコットをだきあけ、介抱している。ウォルコット側のコーナーには、おおぜいの人がいる。だれもジャックに話しかけなかった。彼はウォルコットの上にかがみこむ。
「すまなかったな」とジャックが言う。「ファウルするつもりじゃなかったんだ」
ウォルコットはなにも言わない。ひどく苦しそうにみえる。
「さあ、おめえがチャンピオンだぜ」とジャックが彼に言う。「チャンピオンになって、たんと面白い思いをしなよ」
「構わんでくれ」とソリー・フリードマンが言う。
「やあ、ソリー」とジャックが言う。「ファウルしてすまなかった」
フリードマンは彼をちらっと見ただけだった。
ジャックはあのおかしなぎごちない恰好で自分のコーナーへかえってきた。おれたちは彼にロープをくぐらせておろしてやり、記者席のテーブルを通り、通路へ出してやった。おおぜいの人がジャックの背中を叩こうとした。彼はガウンに身をくるんだまま、その群衆をかきわけ更衣室へいく。ウォルコットの順当な勝だ。ガーデンでの賭がそうなっていたんだ。
更衣室にはいるやいなや、ジャックは横になり眼をとじた。
「ホテルへ行って医者を呼ぼう」とジョンが言う。
「内臓がめちゃくちゃだ」とジャックが言う。
「ほんとにすまなかったな、ジャック」とジョンが言う。
「いや、いいんだ」とジャックが言う。
彼は眼をとじたまま横たわっている。
「奴らはたしかにうまい裏切りを企らんだんだね」とジョンが言った。
「おめえの仲間のモーガンとシュタインフェルトだぜ」とジャックが言った。「いい仲間をもったもんだな」
彼は、眼を見ひらいて横たわっていた。まだあの恐ろしいひきつった顔をしていた。
「おかしなもんだな、あんな大金のことになると、頭が早く働くんだからな」とジャックが言う。
「おめえも相当なもんだよ、ジャック」とジョンが言う。
「なあに」とジャックが言う。「なんでもねえさ」
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簡単な質問
外では、雪が窓より高かった。日光が窓から射しこみ、小屋の松板の壁にはった地図を照らしていた。太陽は高く、光は雪の頂きの上から、射しこんできた。小屋の雪をかきわけた側にそって小道があり、晴れた日には、いつも、太陽が壁に照りつけ、雪に熱を反射し、小道を広くしていた。三月の末だった。少佐は壁を背にして、テーブルに向かっていた。副官が別のテーブルに向かっていた。
少佐の目のまわりには、白い輪が二つできていた。サングラスが雪に照りつける太陽から顔を守ったからである。顔のほかのところは雪焼けして、黄褐色になり、さらにその焼けたところが、また雪焼けしていた。鼻はふくれあがり、火ぶくれした皮膚のむくれた端がくっついていた。少佐は書類に眼をとおしながら、左手の指を油《オイル》の皿に入れ、指先で顔にそっと触れながら、油《オイル》を塗った。とても注意して、指を皿の縁でぬぐうので、指には油の薄膜が残るだけだった。そして、額や頬をなでてから、指で鼻をつまんで、とても慎重になでた。それがすむと、立ちあがり、油の皿を持って、彼の寝室になっている小屋の小さな部屋に行った。「ちょっと寝るよ」と副官に言った。その隊では、副官は将校ではない。「お前、やっといてくれ」
「はい、少佐殿《シニョール・マジョーレ》」と副官が答えた。彼は椅子にのけぞって、あくびをした。上衣のポケットからペイパーバックをとりだし、開いた。それから、テーブルの上にそれをおいて、パイプに火をつけた。本を読もうと、テーブルの上に身をのりだし、パイプをふかした。それから、本を閉じ、ポケットにしまった。片づけきれないほどたくさん書類があった。それを終らせるまでは、本を読んでも、愉しめないのだ。外では、太陽が山のうしろにかくれ、小屋の壁にはもう光が射さなかった。ひとりの兵卒がはいってきて、不揃いに切った松の枝をストーブにいれた。「静かにやれ、ピニン」と副官が彼に言った。「少佐殿がおやすみだ」
ピニンは少佐の従卒だった。あさ黒い顔の若者で、注意して松の薪《たきぎ》をいれて、ストーブを整え、ドアを閉め、また小屋の奥にはいっていった。副官は書類の仕事をつづけた。
「トナニ」と少佐が呼んだ。
「少佐殿《シニョール・マジョーレ》、お呼びですか?」
「ピニンを呼んでくれ」
「ピニン!」と副官が呼んだ。ピニンが部屋にはいってきた。「少佐殿がお呼びだ」と副官が言った。
ピニンは小屋の中心になっている部屋を横ぎり、少佐の部屋のドアのほうに歩いていった。半開きのドアをノックした。「少佐殿、お呼びですか?」
「はいれ」と少佐が言うのが副官に聞えた。「ドアを閉めろ」
部屋の中では、少佐が簡易ベッドに横になっていた。ピニンはベッドのわきに立った。少佐は余分な衣服をつめこんで枕がわりにしたリュックサックに頭をのせて、横になっていた。長い、雪焼けした、油《オイル》を塗った顔で、ピニンを見た。手は毛布の上にのっていた。
「お前は十九だったな?」と少佐がたずねた。
「はい、少佐殿《シニョール・マジョーレ》」
「お前、恋愛したことあるか?」
「どういうことですか、少佐殿《シニョール・マジョーレ》?」
「恋愛さ……女の子と」
「女の子たちといっしょだったことはあります」
「そんなこと聞いてるんじゃない、恋愛したことあるかって聞いてるんだ……女の子と」
「はい、少佐殿《シニョール・マジョーレ》」
「目下、その娘《こ》と恋愛中なのか? その娘に手紙を書かないじゃないか。わしはお前の手紙はみんな読んでるんだ」
「ぼくは恋愛してます」とピニンが言った。「でも、彼女に手紙は書きません」
「ほんとか?」
「ほんとです」
「トナニ」と少佐は同じ声の調子で言った。「わしのしゃべるの聞こえるか?」
隣室から返事はなかった。
「聞こえないな」と少佐が言った。「で、お前はその娘が確かに好きなんだな?」
「確かです」
「それに」と少佐は相手をすばやく見た。「よくないことをしちゃいないこともな」
「よくないことって、どういう意味か、わかりませんが」
「よろしい」と少佐が言った。「気どる必要はないよ」
ピニンは床を見た。少佐はその褐色の顔を見、頭のてっぺんからつま先まで見、その両手を見た。それから、にこりともせず、続けた。「で、お前はほんとうにしたくない……」少佐はためらった。ピニンは床を見た。「お前の大きな欲望はほんとうは……」ピニンは床を見た。少佐はリュックサックに頭をのせ、微笑した。彼はほんとうにほっとした。軍隊生活は複雑すぎるんだ。「お前はいい青年だ」と彼が言った。「お前はいい青年だ、ピニン。でも、気どっちゃいかんよ。それから、ほかのだれかがお前を連れに来ることのないよう気をつけろよ」
ピニンはベッドのわきで、じっと立っていた。
「こわがることはない」と少佐が言った。彼の手は毛布の上に組まれていた。「わしはお前に触ったりはしない。お前が望むなら、お前の小隊に帰してもいいぞ。だが、わしの従卒でここにいるほうがいいだろう。戦死する機会がすくないからな」
「なにかご用はございませんか、少佐殿《シニョール・マジョーレ》?」
「ない」と少佐が言った。「行って、やってた仕事をつづけろ。出ていくとき、ドアを開けとけ」
ピニンはドアを開けたまま、出ていった。副官は彼がぎごちなく部屋を横ぎり、ドアから出ていくのを、顔をあげて見ていた。ピニンは真赤な顔をして、ストーブの薪を持ってきたときとは違った身ごなしだった。副官は見送りながら、微笑した。ピニンはストーブの薪を前よりもたくさんかかえて、やってきた。少佐はベッドに横になり、壁の釘にかかっている布覆いのかかったヘルメットとサングラスを見ながら、彼が床を横切って歩いていく物音を聞いた。小悪魔め、と少佐は思った。わしに嘘をついたのかもしれん。
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十人のインディアン
ある年の七月四日の独立記念日が終わり、ニックは、ジョー・ガーナーとその家族たちと大きな荷馬車にのって、夜おそく町から帰ってくる道で、九人の酔っぱらいのインディアンたちを追いこした。九人だったとどうしておぼえているかといえば、うすぐらいところを馬車を走らせていたジョー・ガーナーが手綱《たづな》をぐっと引いて馬をとめ、道へ飛びおり、轍《わだち》の下からインディアンを引きずりだしたからだった。インディアンは砂の中に顔をうずめて眠っていた。ジョーはその男を草むらに引きずり入れてから、荷馬車にもどってきた。
「これで九人めだ。町はずれからここまでのあいだだけで」
「インディアンときたらね」とガーナーのおばさんが言った。
ニックはガーナー家の二人の兄弟とうしろの席にいた。そこから、ジョーが道の脇に引きずっていったインディアンを見ようと首をのばしていた。
「ビリー・テイブショーじゃなかったかな?」とカールがきいた。
「ううん、ちがうよ」
「ビリーのズボンによく似てたけどな」
「インディアンのズボンはみんな同じようなんだよ」
「ぼくにはなんにも見えなかったな」とフランクが言った。「パパったら道におりたと思ったら、ぼくが見もしないうちにもうもどってきちゃうんだもの。蛇《へび》でも殺してるのかと思ってたよ」
「今夜は大勢のインディアンが蛇を殺すよ、きっと」とジョー・ガーナーが言った。
「インディアンときたらね」とガーナーのおばさんが言った。
荷馬車はどんどん走っていった。道は大通りからそれ、山を上っていった。馬にとってはひどく骨が折れるので、少年たちは下りて歩いた。道は砂地だった。ニックは、山の頂上にくると学校の建物のそばからふりかえった。ペトスキー〔ミシガン湖とヒューロン湖の境の、ややミシガン寄りの町〕の町の灯《ひ》や、リトル・トラバース湾の向こう岸にはハーバー・スプリングズのあかりが見えた。三人はまた荷馬車にのりこんだ。
「このあたりには砂利《じゃり》を敷いとくべきだよ」とジョー・ガーナーが言った。荷馬車は森の中の道を通っていった。ガーナーのおじさんとおばさんは前の席に寄りそって坐っていた。ニックは二人の兄弟にはさまれていた。道は樹木のないところへ出た。
「ここだったよ、パパがスカンクをひいちゃったのは」
「もっと先だったよ」
「どこだってかまわないじゃないか」とジョーがふりむかずに言った。「スカンクをひくのにどこのほうがいいということもないだろう」
「ゆうべスカンクを二匹みたよ」とニックが言った。
「どこで?」
「下の湖のとこだよ。岸で死んだ魚をさがしてたよ」
「きっとあらい熊だよ、それ」とカールが言った。
「スカンクだったよ。スカンクぐらい、ぼくだってわかるよ」
「わかるはずさ」とカールが言った。「インディアンのガールフレンドがいるもんな」
「カール、そんなことを言っちゃいけません」とガーナーのおばさんが言った。
「だって、どっちも同じような匂いがするからな」
ジョー・ガーナーが笑った。
「ジョー、笑ったりしないで」とガーナーのおばさんは言った。「カールにあんなふうに話させたくないわ」
「ニッキー、インディアンのガールフレンドがいるのかね?」とジョーがきいた。
「いやしないよ」
「いるんだよ、パパ」とフランクがいった。「プルーデンス・ミッチェルっていうんだよ」
「ちがうよ」
「毎日、会いに行ってるんだよ」
「行かないよ」ニックは暗いなかで二人の兄弟にはさまれて腰かけ、プルーデンス・ミッチェルのことでからかわれると、うつろでまた愉《たの》しい気分になった。「ぼくのガールフレンドじゃないさ」
「あんなこと言ってらあ」とカールが言った。「毎日いっしょのところを見てるぞ」
「カールにはガールフレンドなんてできもしないしね」と母親が言った。「インディアンの娘だってね」
カールは黙っていた。
「カールは女にもてないんだ」とフランクが言った。
「だまってろ」
「いいんだよ、カール」とジョー・ガーナーが言った。「女は男を見る目がないんだよ。パパをごらん」
「へえ、あんたの言いそうなことね」とガーナーのおばさんは荷馬車のゆれるにつれてジョーに身をよせた。「若い時には女の子がたくさんいたくせに」
「パパはインディアンの娘《こ》なんかガールフレンドにしなかっただろうな」
「どうだかね」とジョーが言った。「ニック、プルーディをとられないように気をつけなよ」
妻が何かささやくと、ジョーが笑った。
「なに笑ってるの?」とフランクがきいた。
「言わないでね、ガーナー」と妻が注意した。ジョーがまた笑った。
「ニッキーはプルーデンスを友だちにしてていいよ」とジョー・ガーナーが言った。「おれはいい女をみつけたんだから」
「うまいこと言うわね」とガーナーのおばさんが言った。
馬は砂地で重そうに車を引いていった。ジョーは暗がりで鞭《むち》をふった。
「さあ、しっかり引っぱれ。明日はもっと大へんなんだぞ」
馬は荷馬車をがたがたいわせて、長い丘を駆けおりた。農場に着くとみんながおりた。ガーナーのおばさんはドアの鍵《かぎ》をあけ、中にはいり、手にランプをもって出てきた。カールとニックは荷馬車のうしろから荷物をおろした。フランクは納屋《なや》まで荷馬車を走らせ、馬をつなごうと、御者席に腰かけた。ニックは階段を上り、台所のドアをあけた。ガーナーのおばさんはストーブの火をつけていた。そして、薪《たきぎ》に油をそそぐのをやめてふりむいた。
「おばさん、さよなら」とニックは言った。「つれてってくれてありがとう」
「あら、お礼なんかいいのよ」
「とても愉しかった」
「来ていただいて、よかったわ。いっしょに夕食をたべていらっしゃいよ」
「帰ります。お父さんが待ってるから」
「そう、じゃおかえりなさい。カールに家へはいるようにいってくれる?」
「はい、わかりました」
「さようなら、ニッキー」
「さよなら、おばさん」
ニックは農場をでて納屋のほうへ行った。ジョーとフランクがミルクをしぼっていた。
「さよなら」とニックがいった。「とても愉快でした」
「さよなら、ニック」とジョー・ガーナーが言った。「いっしょに食べていかんかね?」
「いえ、だめなんです。カールに、お母さんが呼んでるっていってくれませんか?」
「あ、いいよ。さよなら、ニッキー」
ニックははだしで納屋の下の牧場の道を歩いていった。道はなだらかで、はだしの足に露が冷たかった。牧場のはずれで垣《かき》によじのぼり、谷間をくだった。両足は沼地の泥にぬれた。それから小屋のあかりがみえるまで乾いたぶなの森の中をよじのぼっていった。彼は垣根をのぼり、正面玄関へまわった。窓越しに父親がテーブルの前に坐って、大きなランプのあかりで本を読んでいるのがみえた。ニックはドアをあけて中へはいった。
「ニッキーかい」と父親が言った。「愉《たの》しかったか」
「とてもすばらしかった、お父さん。すばらしい七月四日だったよ」
「おなか、空《す》いてるだろ?」
「ペコペコさ」
「靴《くつ》はどうしたんだ?」
「ガーナーさんちの荷馬車の中においてきちゃった」
「さあ、台所へいこう」
ニックの父親がランプをもって先にたった。立ちどまって冷蔵箱《アイスボックス》のふたをあけた。ニックは台所へはいっていった。父親はコールド・チキンをひと皿と、ミルクの入れ物をもってきて、ニックの前のテーブルにおいた。ランプもそばにおいた。
「パイもあるよ」と言った。「これだけでいいかい?」
「すてきだ」
父親は油布のかけてあるテーブルのそばの椅子《いす》に腰かけた。台所の壁に大きな影がうつった。
「野球、どっちが勝った?」
「ペトスキーさ、五対三だった」
父親はニックが食べるのをながめ、ミルクつぎからコップについでやった。ニックはそれを飲み、ナプキンで口をふいた。父親は棚《たな》に手をのばしてパイをとった。ニックに大きく切ってやった。こけもものパイだった。
「パパは何をしてたの?」
「朝のうち釣りにいったよ」
「なにがつれた?」
「スズキだけさ」
父親はニックがパイをたべるのを見ていた。
「おひるからは何したの?」とニックがきいた。
「インディアンの部落のそばまで散歩してきたよ」
「だれかに会った?」
「インディアンたちはみんな酔っぱらって町へでかけてたよ」
「だれにも会わなかったの?」
「君の友だちのプルーディに会ったよ」
「どこにいた?」
「フランク・ウォッシュバーンと森にいたよ。偶然会っちまったんだ。愉《たの》しそうにしてたよ」
父親は彼のほうを見ていなかった。
「二人でなにしてた?」
「長くいなかったから、わからなかったな」
「なにしてたか教えてくれよ」
「知らんね」と父親は言った。「ころげまわってるのがきこえただけだよ」
「どうしてあの二人だってわかったのさ」
「見えたから」
「見なかったと言ったのかと思った」
「いや、見たことは見たさ」
「いっしょにいたの、だれだって?」とニックがきいた。
「フランク・ウォッシュバーンだよ」
「二人は……二人は……」
「二人はどうだって言うんだい?」
「愉《たの》しそうだった?」
「そのようだったよ」
父親はテーブルから立ち上がり、台所の網戸から出ていった。もどってくるとニックは皿をみつめていた。声をたてて泣いていたのだ。
「もっとたべるかい?」父親はパイを切ろうとナイフを持ち上げた。
「いらない」とニックが言った。
「もうひとつたべたほうがいいぞ」
「もういいんだ」
父親はテーブルを片づけた。
「森のどこにいたの?」とニックがきいた。
「部落の裏のほうだったよ」ニックは皿をみつめた。父親が言った。「ニック、ねたほうがいいぞ」
「うん、ねるよ」
ニックは自分の部屋へ行き、服をぬぎ、ベッドにはいった。父親が居間で動きまわっているのがきこえた。ニックは枕に顔を埋めて、ベッドに横たわっていた。
「失恋しちゃったんだ」と彼は思った。「こんな気持ちになるなんて、失恋したにきまってる」
しばらくして、父親がランプを吹き消し、自分の部屋に行くのがきこえた。戸外では風が木々をざわめかせているのがきこえ、窓の金網から涼しく吹いてくるのが感じられた。彼は長いあいだ枕に顔を埋めて横たわっていた。しばらくすると、プルーデンスのことを考えるのを忘れ、とうとう眠ってしまった。夜中に目をさますと、家の外のベイツガの木をざわめかせている風や、湖水の岸に打ちよせる波の音がきこえたが、また眠りこんだ。朝になると、風が強く吹き、波が岸に高く打ちよせていた。彼は目をさましてずっとたってから、ようやく失恋したことを思いだした。
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贈り物のカナリヤ
汽車は、またたくまに、赤い石作りの長い家を通りすぎた。庭があり、四本のこんもりした棕櫚《シュロ》の木の木陰にテーブルがいくつかおいてあった。反対側は海だった。やがて、赤い石と粘土の切通しになり、海はほんの時たましか見えなくなり、はるか下で岩を噛んでいた。
「パレルモ〔シシリー島の北岸の町〕で買いましたのよ」とアメリカの婦人が言った。「一時間しか上陸時間がなかったんですの。日曜日の朝でしたわ。ドルでほしいと言うものですから、一ドル半やりましたわ。ほんとに、とてもきれいな声で鳴きますのよ」
汽車の中はひどく暑く、|寝台車の仕切り客室《リ・サロン・コンパートメント》の中もひどく暑かった。窓が開けてあっても、すこしも風がはいらなかった。アメリカの婦人が窓のブラインドをおろしたので、海はもう見えなくなった。時たま見えることさえなくなった。反対側にはガラスがあり、その向こうに通路があり、さらに向こうに開けはなたれた窓があり、その窓の外には、埃《ほこり》だらけの木々や、油でよごれた道路や、平坦なぶどう畑があり、その向こうに灰色の石の丘が連なっていた。
たくさんの高い煙突から煙が立ちのぼっていた。マルセイユにはいったのだ。汽車はスピードを落し、たくさんあるレールの中からひとつをたどって、駅にすべりこんだ。マルセイユの駅で二十五分停車した。アメリカの婦人は「デイリー・メイル」紙を一部と、エヴィアン水の小壜を買った。彼女はプラットホームをほんのすこし歩いただけで、客車のステップの近くにいた。カンヌでは十二分停車だったが、汽車は出発の合図もなく出たので、あやうく乗りそこなうところだったからだ。そのアメリカの婦人はすこし耳が遠かったから、発車の合図がたぶんあるとしても、聞きのがすかもしれないと恐れていた。
汽車がマルセイユの駅を出ると、操車場や工場の煙ばかりでなく、ふりかえると、マルセイユの町や、石の丘の連なりを背景にした港や、海に沈む入日が見えた。暗くなってきたころ、汽車は畑の中で燃えている農家の前を通りすぎた。何台もの車が道でとめられ、農家の中から寝具や家財道具が畑の中に運びだしてあった。おおぜいの人が家の燃えるのをじっと見ていた。すっかり暗くなってから、汽車はアヴィニョン〔フランス東南部、ローヌ河沿岸の都市〕にはいった。人びとが乗り降りした。新聞売場で、パリに帰るフランス人がその日のフランスの新聞を買った。プラットホームには一隊の黒人の兵隊がいた。褐色の軍服を着て、背が高く、電燈のすぐ下で、顔がかがやいていた。まっ黒い顔で、じっと見ていられないほど背が高かった。汽車はその黒人たちをそこに残したまま、アヴィニョンの駅を出た。一人の背の低い白人の軍曹が黒人たちといっしょだった。
|寝台車の仕切り客室《リ・サロン・コンパートメント》では、ボーイが壁にはめこんだベッドを三つ引きおろして、寝る用意をした。夜、アメリカの婦人は横になったが、眠れなかった。汽車が急行《ラピド》で、すごく早く走り、夜のスピードがこわかったのだ。アメリカの婦人のベッドは窓ぎわにあった。パレルモから持ってきたカナリヤは、かごの上に布の覆《おお》いをかけ、風があたらぬよう、客室の洗面所に通じる通路においてあった。客室の下には青いライトがつき、ひと晩じゅう汽車はすごいスピードで走り、アメリカの婦人は横になったまま眠られず、事故が起きないかとびくびくしていた。
朝になると、汽車はパリに近づいていた。アメリカの婦人は眠らなかったのに、とても健康そうで、中年の、いかにもアメリカ人らしい様子で、洗面所から出てきて、鳥かごから覆いをとり、日のあたるところに、そのかごをつるしてから、朝食をとりに食堂車へ云った。|寝台車の仕切り客室《リ・サロン・コンパートメント》にもどってきたときには、ベッドは壁にはめこまれて、座席になっていた。カナリヤは開けはなたれた窓をとおして射しこんでくる日の光に羽をふるわせていた。汽車はますますパリに近づいていた。
「太陽が好きなんですの」とアメリカの婦人が言った。「もうすぐ鳴きますわよ」
カナリヤは羽をふるわせ、くちばしで羽のなかを突っついた。「わたしは昔から小鳥が好きでしてね」とアメリカの婦人が言った。「家で待ってるわたしの娘に持っていきますの。ほら……鳴いてますわ」
カナリヤは、かん高い声で鳴き、咽喉《のど》の羽をぴんと立て、やがて、くちばしをさげて、また羽のなかを突っついた。汽車は河を渡り、手入れの行きとどいた森を通り抜けた。パリの郊外の町をいくつも通り抜けた。それらの町には電車が走り、汽車の線路に面した壁には、ベル・ジャルディニエールやデュボネやペルノーの大きな広告が書いてあった。車窓から見えるものが、すべて、朝食前といった感じだった。数分間、ぼくはアメリカの婦人の話に耳を傾けていなかった。彼女はぼくの妻に話しかけていた。
「ご主人もアメリカのかたですか」と婦人がきいた。
「ええ」と妻が言った。「わたしたち、二人ともアメリカ人ですわ」
「おふたりともイギリスのかたかと思ってましたが」
「いいえ、ちがいますわ」
「きっと、ぼくがブレースをしているからでしょう?」とぼくは言った。ぼくはズボン吊りのことをサスペンダーと言いかけて、口のなかでブレースと言い直した。そのほうがイギリス風だからだ。アメリカの婦人は聞いていなかった。彼女はまったくのつんぼで、相手の唇の動きで言葉を読みとった。ぼくは彼女のほうを向いていなかった。窓の外を見ていた。彼女は妻と話しつづけた。
「あなたがたがアメリカ人でよかったわ。アメリカの男性は最高の旦那さんになりますわよ」とアメリカの婦人が言っていた。「だから、わたしたちはヨーロッパを離れたんですわ。娘がヴェヴェー〔スイス、ジュネーブ湖畔の町〕の男と恋愛しましてね」彼女は言葉を切った。「ふたりとも手のつけられないようなのぼせかたでしたわ」また、言葉を切った。「もちろん、娘を連れて帰りましたけど」
「お嬢さん、そのことは、もうお忘れになって?」
「そうでもなさそうなの」とアメリカの婦人が言った。「なんにも食べないし、ちっとも眠りませんもの。いろいろ手をつくしてみましたが、娘はなんにも興味がなさそうですの。なんにも関心かないんですわ。娘を外国人と結婚させるわけにはいきませんから」彼女は言葉を切った。
「ある人が、わたしの大の親友ですが、こう言いましたわ『外国人はアメリカの娘にとって、いい夫にはなれっこない』って」
「そのとおりよ」と妻が言った。「わたしもそう思うわ」
アメリカの婦人は妻の旅行用のコートをほめていたが、話は、彼女がこの二十年間、サン・オノーレ通りの同じ高級婦人服店《メゾン・ド・クチュール》で自分の衣服を買っている、ということになった。その店には彼女の寸法がひかえてあり、彼女を直接知っていて、彼女の趣味を心得ている女店員《ヴァンドウーズ》が、彼女のために服を選び、それをアメリカに送ってくれる。服はニューヨークの山の手の彼女の家の近くの郵便局にとどく。輸入税は決して高くはない。郵便局では荷物をほどいて、服をほめてくれるからだ。服はいつもとてもシンプルなデザインで、高価に見せるような金のレースや装飾などはついていない。現在はテレーズという名の女店員《ヴァンドウーズ》だが、その前はアメーリという女店員だった。二十年のあいだに、この二人だけだった。そして、いつも同じ店だった。ただ、値段はあがっていた。でも、ドル相場があがったから、同じことだ。いまでは、その店に娘の寸法もひかえてある。娘はおとなになったから、もう寸法もあまり変わることもないだろう。
汽車はいまパリにはいっていた。要塞はとりこわされていたが、草はまだ生えていない。線路には、たくさんの車輛《しゃりょう》がとまっている……褐色の木造の食堂車が何輛かと、褐色の木造の寝台車が何輛か。いまも五時発だとすれば、その晩、五時発のイタリア行きの列車だ。車輛には、パリ〜ローマと書いてある。屋根にも座席をとりつけてある車輛は、パリと郊外の間を往き来して、いまも昔と変らなければ、ある時刻には、座席も屋根も満員になり、家々の白い壁やたくさんの窓を通りすぎる。どれもまだ朝食前のようだ。
「アメリカ人は最高の旦那さんになりますわ」とアメリカの婦人が妻に言った。ぼくは鞄をおろすところだった。「結婚できるのは、世界じゅうで、アメリカの男性だけですわ」
「ヴェヴェーを離れたのは、どれくらい前ですの?」と妻がたずねた。
「この秋で、二年になりますわ。あの娘になんですよ、このカナリヤを持ってってやるのは」
「お嬢さんが恋愛なさったかたは、スイス人でしたの?」
「ええ」とアメリカの婦人が言った。「ヴェヴェーのとてもいい家柄のかたでした。エンジニア志望でした。ヴェヴェーで知り合ったんですわ。よくいっしょに遠くまで散歩にでかけました」
「ヴェヴェーはぞんじてます」と妻が言った。「新婚旅行でまいりましたから」
「まあ、そうでしたの? すばらしかったでしょう。あたしは、もちろん、娘がその男と恋愛するなんて思ってもみませんでしたわ」
「とてもすばらしいところでしたわ」と妻が言った。
「そうですわね」とアメリカの婦人が言った。「すばらしいわ。どこにお泊りになりまして?」
「トロワ・クーロンヌに泊りました」と妻が言った。
「とても立派な古いホテルですわね」とアメリカの婦人が言った。
「ええ」と妻が言った。「とても立派なお部屋でしたわ。秋には、あのあたり、とてもすばらしいわ」
「秋にいらっしゃいまして?」
「ええ」と妻が言った。
事故にあった三輛の車のそばを通りすぎた。車体が大きく裂けて、屋根がたれさがっている。
「ごらん」とぼくが言った。「事故があったんだ」
アメリカの婦人はふりむき、最後の車輛を目にした。「わたしはひと晩じゅう、あれが心配でしたの」と彼汝は言った。「ときどき、恐ろしいくらい予感があたるんですの。二度と夜の急行には乗りませんわ。あんなに早く走らなくても、乗心地のいい汽車が、ほかにあるはずですわ」
汽車はリヨン駅の暗い構内にはいり、やがて止まった。赤帽が窓のところへやってきた。ぼくは窓ごしに鞄を渡した。ぼくらは長いプラットホームの薄暗がりに降りたった。アメリカの婦人はクック〔ヨーロッパの各地にある交通公社のごときもの〕からきた三人の男のひとりに世話を頼んでいた。その男は言っていた。「マダム、ちょっとお待ちください。お名前をさがしますから」
赤帽は手押し車を持ってきて、荷物を積みこんだ。妻はアメリカの婦人にさよならを言い、ぼくもさよならを言った。クックから来た男はタイプで打った一束の書類の一枚にアメリカの婦人の名前を見つけ、それをまたポケットにしまった。
ぼくらは手押し車を押す赤帽のあとから、汽車にそってコンクリートの長いプラットホームを歩いていった。そのはずれに改札口があり、駅員が切符をうけとった。
ぼくらは別居するために、パリにもどってきたのだった。
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アルプスの牧歌
谷におりてくると、早朝でも、暑かった。太陽は、ぼくらのかついでいたスキーの雪をとかし、スキーの板を乾かした。谷は春だったが、太陽はすごく暑かった。ぼくらはスキーとリュックサックをかついで道を歩き、ガルツールにはいった。墓地の前を通りかかると、埋葬がちょうど終ったところだった。墓地から出てきた牧師とすれちがったとき、ぼくは「|こんにちは《グリュス・ゴット》」と声をかけた。牧師は会釈した。
「牧師が君になんにも言わないのはおかしいね」とジョンが言った。
「牧師が『|こんにちは《グリュス・ゴット》』とでも言いたがってると思ってるのかい?」
「でも、返事もしないぜ」とジョンが言った。
ぼくらは道に立ちどまって、寺男が掘りおこしたばかりの土をシャベルで埋めているのを眺めていた。黒い顎髭《あごひげ》をはやした百姓が、深い革のブーツをはいて、墓のそばに立っていた。寺男はシャベルの手を休め、背中をのばした。深いブーツの百姓は寺男からシャベルをうけとり、墓の穴を埋めつづけた……庭にこやしをまくように、土をまんべんなくかけていた。明るく晴れた五月の朝に、墓を埋めるなどとは現実ばなれしていた。だれかが死ぬなんて、とても想像できなかった。
「こんな日に埋葬されるなんて、考えてもみろよ」とぼくはジョンに言った。
「おれならいやだな」
「うん」とぼくは言った。「おれたちはそんな心配ないさ」
ぼくらはその道を歩きつづけ、町の家々を通りすぎて、宿屋についた。ぼくらはシルヴレッタ〔オーストリアと国境を接したスイス東端の山〕で一カ月ほどスキーをしてきたのだった。谷へおりてくるのは気持ちのいいものだった。シルヴレッタでは、スキーは愉しかったが、春のスキーだったので、雪の状態がいいのは朝早くと夕方だけだった。そのほかの時は太陽のために雪がだめになった。ぼくらはふたりとも太陽にはうんざりしていた。太陽からは逃げられなかった。日蔭といえば、岩の蔭とか、氷河の近くに岩で守られてつくられたヒュッテの蔭くらいで、日蔭にはいると、下着の下で汗が凍ってしまった。サングラスなしではヒュッテの外で坐ることもできなかった。真っ黒に日焼けするのは愉しかったが、太陽にはまったくうんざりしていた。太陽の照っているところでは、休むこともできなかった。ぼくは雪をあとにし谷におりてきたので、うれしかった。シルヴレッタにのぼっているには、もう春でも遅すぎたのだ。ぼくはスキーにいくらかあきていた。あまりに長くいすぎたのだ。ヒュッテのトタン屋根から解けて落ちる雪どけの水を飲んでいたが、その味がまだ口に残っていた。その味はスキーについてぼくがいだいた感覚の一部だった。ぼくはスキーのほかにもいろいろなものがあるのが、うれしかった。異常なほど高い山の春から、この谷の五月の朝に、おりてきたのが、うれしかった。
宿屋の主人は椅子の背を壁にもたせかけて、ベランダに腰かけていた。その横にコックが腰かけていた。
「シー・ハイル〔スキー万歳。スキーヤーに対する挨拶〕と主人が言った。
「ハイル」とぼくらは言い、壁にスキーを立てかけ、荷物をおろした。
「山はどうでした?」と主人がきいた。
「|よかった《シェーン》。ちょっと日が照りすぎたけど」
「そうでしょうな。もういま時分になると照りすぎるんでして」
コックは椅子に腰かけたままだった。主人はぼくらといっしょに中にはいり、フロントの鍵をあけ、ぼくらあての郵便物をとりだしてきた。手紙がひと束と新聞がいくらかあった。
「ビールを飲もう」とジョンが言った。
「よし。なかで飲もう」
主人がビールを二本もってきた。ぼくらは手紙を読みながら、飲んだ。
「もうすこしもらおう」とジョンが言った。今度は娘が持ってきた。栓を抜きながら、にっこり笑った。
「たくさん、手紙きてるのね」と彼女が言った。
「ああ、たくさんきてる」
「乾杯《プロジット》」と彼女は言って、空の壜を持って、出ていった。
「ビールの味を忘れてたよ」
「おれは忘れなかった」とジョンが言った。「山のヒュッテでは、ビールのことをおおいに考えてたもんだ」
「ともかく」とぼくは言った。「とうとうありつけたってわけさ」
「なんでも、長くやりすぎちゃいけないよ」
「そうだ、おれたちは山に長くいすぎたな」
「すごく長かったからな」とジョンが言った。「長くやりすぎるのはよくないよ」
日の光が開けっぱなしの窓から射しこみ、テーブルの上のビール壜のなかがすけて見えた。どの壜も、ビールがまだ半分はいっていた。壜のなかのビールには泡がすこし立っていたが、たいした泡ではなかった。寒かったからだ。たけの高いグラスに注ぐと、泡の輪が上にあがった。ぼくは開いた窓から外の白い道路を見た。道ばたの木立は埃をかぶっていた。その向こうには、緑の野原と小川があった。小川にそって木立がならび、水車小屋があった。水車小屋の開いた側から、中に長い丸太と上下に動いている鋸《のこぎり》が見えた。だれもそばについていないようだった。緑の野原には烏《カラス》が四羽、歩いていた。一羽の烏が木にとまって、じっと見張っていた。外のベランダでは、コックが椅子から離れ、奥の調理室に通じる廊下にはいっていった。なかでは、日の光がテーブルの上の空のグラスにあたっていた。ジョンは頭を両腕にのせて、テーブルにうつぶせになっていた。
窓ごしに、二人の男が正面の階段をのぼってくるのが見えた。二人は酒場にはいってきた。ひとりは顎髭《あごひげ》をはやし深いブーツをはいた例の百姓だった。もうひとりは、あの寺男だった。二人は窓の下のテーブルに席をとった。さっきの娘がはいってきて、二人のテーブルのわきに立った。百姓は娘に気づかなかったようだ。テーブルに両手をおいて坐っていた。着古した軍服を着ていた。膝につぎがあたっていた。
「なんにするかね?」と寺男がきいた。百姓は聞いていないようだった。
「なにを飲むかね?」
「ブランデー」と百姓が言った。
「それと、赤ワインを四分の一リットル」と寺男が娘に言った。
娘は飲み物を持ってきた。百姓はブランデーを飲んだ。彼は窓の外を見た。寺男は相手をじっと見ていた。ジョンはテーブルにふせて頭をつきだしていた。彼は眠っていた。
主人がはいってきて、二人のテーブルのほうへ行った。その土地の方言でなにかしゃべると、寺男がそれに答えた。百姓は窓の外を眺めていた。主人はその部屋から出た。百姓は立ちあがった。革の財布から折りたたんだ一万クローネ〔一クローネは十マルク〕紙幣をとりだし、それをひろげた。娘がやってきた。
「ごいっしょですか?」と娘がきいた。
「いっしょだ」と彼が言った。
「ワインは、わしが払うよ」と寺男が言った。
「いっしょだ」と百姓が娘にくりかえした。娘はエプロンのポケットに手をつっこみ、硬貨をいっぱいとりだし、釣銭をかぞえた。百姓はドアから出ていった。いれちがいに、主人がまた部屋にはいってきて、寺男に話しかけた。主人はテーブルに腰かけた。二人は方言で話した。寺男はおもしろがった。主人はあきれた顔をしていた。寺男はテーブルから立ちあがった。口髭をはやした小男だ。窓から身をのりだし、道の向こうを見た。
「やっこさん、はいっていったぜ」と彼が言った。
「獅子亭《レーヴェン》かい?」
「|ああ《ヤー》」
二人はまた話しだした。それから、主人がぼくらのテーブルにやってきた。主人は背が高く、年とっていた。ジョンが眠っているのを見た。
「かなり疲れとりますな」
「ええ、早起きしたからね」
「すぐに食事にしますか?」
「いつでもいい」とぼくは言った。「何ができる?」
「お望みのもの、なんでも。メニューを持ってこさせましょう」
娘がメニューを持ってきた。ジョンが目を覚ました。メニューはカードにインクで書かれ、木の枠にはめこんであった。
「献立表《シュパイゼ・カルテ》だ」とぼくはジョンに言った。彼はそれを見た。まだ眠そうだった。
「いっしょに一杯どうです?」とぼくは主人にたずねた。彼は腰をおろした。「あの百姓どもはけだものでさあ」と主人が言った。
「町にくる途中で、あの百姓が葬式をやっているのに会いましたよ」
「やっこさんのかみさんの葬式だったんでさ」
「ふうん」
「あいつはけだものでさあ。ここらの百姓はみんなけだものでさあ」
「どういうこと?」
「あんたは信じまいが。あいつの話なんか、あんたは信じまいが」
「話してくださいよ」
「信じまいが」主人は寺男に話しかけた。「フランツ、こっちへきな」寺男はワインの小壜とグラスを持って、やってきた。
「お客さんがたは、さきほど、ヴィースバーデンのヒュッテからおりてきなさっただ」と主人は言った。ぼくらは握手した。
「なにを飲みます?」とぼくはきいた。
「いや、いらねえ」とフランツは指を一本ふってみせた。
「もう四分の一リットルは?」
「いただきやしょう」
「方言、おわかりで?」と主人がたずねた。
「いいえ」
「いったい何の話だい?」とジョンがたずねた。
「町へ来るとき墓を埋めてた百姓を見ただろ。その百姓の話をしてくれるのだ」
「ともかく、ぼくにはわからない」とジョンが言った。「しゃべるのが早すぎるから」
「あの百姓は」と主人が言った。「きょう、かみさんを埋葬しに、町に出てきたんですがね。そのかみさんの死んだのが去年の十一月なんでさあ」
「十二月だよ」と寺男が言った。
「そんなこと、どっちでも、かまわんさ。ともかく、去年の十二月に死んで、やっこさんは役場に死亡届はだしましただ」
「十二月の十八日だ」と寺男が言った。
「ともかく、雪がなくなるまでは、やっこさん、かみさんを埋葬に運んでこられなかっただ」
「バツナウン川〔イン川の支流〕の向こう側に住んでるんだよ」と寺男が言った。「でも、この教区に属してるだ」
「どうやっても死体を運べなかったのかね?」とぼくはきいた。
「そのとおりで。やっこさんの住んでるところからだと、雪が解けるまでは、スキーでくるよりほか、手だてがねえんでさあ。それで、きょう、かみさんを埋めるために運んできたわけでさ。ところが牧師さんは、かみさんの顔を見ると、埋葬したくねえとおっしゃっただ。この先はおめえが言いな」と彼は寺男に言った。「ドイツ語で話すんだぞ。方言じゃなくてな」
「牧師さんには、とてもおかしなことだっただ」と寺男が言った。「役場への届けでは、かみさんは心臓病で死んだことになってたんでさ。あっしらは、かみさんが心臓をわずらってたことは、前々から知ってただ。ときどき、教会で気を失ったりしたもんでさ。長いこと教会にも来ませなんだ。山道がつらかったんでさ。牧師さんはかみさんの顔のおおいをとると、オルツにたずねなさっただ。『かみさんはひどく苦しんだかね?』『いいや』とオルツが言いましただ。『あっしが家にかえったら、かかあはベッドにぶったおれて死んでましただ』
牧師さんはもう一度かみさんの顔を見やした。どうも気にいらねえんだな。
『どうしてあんな顔になったんだ?』
『わからねえです』とオルツが言うんでさ。
『わけをはっきりさせなきゃいかん』と牧師さんはおっしゃって、毛布をもとのようにおかけになりやした。オルツはなにも言わなんだ。牧師さんはやつの顔を見ていなさった。オルツは牧師さんを見かえしただ。『知りてえですか?』
『知っておかなきゃならん』と牧師さんがおっしゃっただ」
「これからがいいとこですぜ」と主人が言った。「よくおききなせえ。フランツ、つづけな」
「『では』とオルツが言うんでさ。『かかあが死ぬと、あっしは役場へ届けをだし、死体を小屋へいれて、でっけえ丸太のてっぺんに寝かしといただ。その丸太が入り用になりだしたころにゃ、かかあは、こちこちになってたもんで、壁にそいつを立てかけといたんでさ。口がぱっくり開いてたんで、夜、小屋にいってその丸太を切るときは、カンテラをその口にぶらさげといたんでさ』
『どうして、そんなことをしたんだ』と牧師さんがおたずねになっただ。
『どうしてだか、わからねえです』とオルツが言うんでさ。
『何度もやったのかね?』
『夜、小屋に仕事しに行ったときは、いつもやりやした』
『とんでもないことだ』と牧師さんはおっしゃっただ。『お前は奥さんを愛していたのかね?』
『|ええ《ヤー》、愛してただ』とオルツが言うんでさ。『あっしは、とても愛してただ』」
「話がすっかりわかりましたかね?」と主人がたずねた。「あいつのかみさんの話、すっかりわかりましたかね?」
「わかった」
「食事はどうする?」とジョンがたずねた。
「きみ、注文しろよ」とぼくが言った。「ほんとうのことだと思うかね?」とぼくは宿の主人にたずねた。
「ほんとの話ですとも」と彼は言った。「このへんの百姓たちはけだものだから」
「やっこさんは、いま、どこへ行ったんだろう?」
「あっしの同業の獅子亭《レーヴェン》へ飲みに行きましただ」
「わしと飲むのがいやだったんでさ」と寺男が言った。
「やっこさんはこいつと飲むのがいやになったんですよ。こいつがかみさんのことを知っちまったもんだから」と主人が言った。
「おい」とジョンが言った。「食事はどうする?」
「よし、食おう」とぼくが言った。
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追走レース
ウィリアム・キャンベルは、ビッツバーグ〔アメリカ、ペンシルバニア州南西部の都市〕からずっと、バーレスク・ショーの一座と追走レースをやっていた。自転車競走の場合の追走レースでは、選手は一定の間隔をおいてスタートし、たがいに先行のものを追って行く。レースはたいてい短距離だし、スピードを落すと、自分のペースを守っている他の選手が、スタートのときの一定の間隔をちぢめてしまうから、選手はものすごいスピードで走る。追いつかれ、追い抜かれた選手は、レースから除外され、自転車をおり、トラックから退場しなければならない。追いつかれる選手がない場合は、一番距離をはなした者が優勝ということになる。追走レースでは、選手が二人だけの場合は、たいてい六マイルやっているうちに追いつかれるものだ。バーレスク・ショーの一座はウィリアム・キャンベルにキャンザスシティで追いついた。
ウィリアム・キャンベルはバーレスク・ショーの一座が太平洋岸に着くまでは、わずかの差でリードしていけると思っていた。彼はアドバンス・マン〔興行の先発員。興行の準備・宣伝をする〕としてバーレスク・ショーの一座に先行しているかぎり、給料がもらえた。バーレスク・ショーの一座が彼に追いついたときは、彼はベッドにはいっていた。バーレスクのマネジャーが部屋にやってきたときも、ベッドにはいっていたし、マネジャーが帰ってからも、ベッドにはいっていたほうがいいと、心にきめた。キャンザス・シティはすごく寒かったし、急いで出かけることもなかった。彼はキャンザス・シティが好きではなかった。ベッドの下に手をのばし、酒壜をとって、飲んだ。すると、胃の調子がよくなった。バーレスク・ショーのマネジャーのターナー氏は飲みたくないと断わったのだ。
ウィリアム・キャンベルとターナー氏との会見は、ちょっと奇妙なものだった。ターナー氏はドアをノックした。キャンベルは「どうぞ!」と言った。ターナー氏は部屋にはいると、椅子の上に脱ぎすてた衣類と、開けっぱなしのスーツケースと、ベッドのかたわらの椅子の上の酒壜と、布団《ふとん》をすっぽりかぶってベッドにもぐりこんでいる男が目についた。
「キャンベル君」とターナー氏が言った。
「あっしを馘《くび》にゃできねえよ」とウイリアム・キャンベルが掛けぶとんの下から言った。
掛けぶとんの下は暖かく、白く、息苦しかった。「あっしが自転車からおりたからって、馘にゃあできねえよ」
「酔ってるな」とターナー氏が言った
「ああ、酔ってるとも」とウィリアム・キャンベルはシーツにじかにしゃべり、唇でシーツの感触を味わいながら、言った。
「馬鹿だな」とターナー氏が言った。彼は電燈を消した。電燈が夜どおしついていたのだ。いまは朝の十時だった。「お前は酔っぱらいの馬鹿野郎だ。いつこの町へ来たんだ?」
「ゆうべだ」とウィリアム・キャンベルが、シーツにむかって言った。シーツを通してしゃべるのもいいな、と思った。「シーツを通してしゃべったことあるかい?」
「ふざけるんじゃないよ。おもしろくもないぜ」
「あっしはふざけてなんかいねえよ。ただシーツを通してしゃべってるだけだ」
「たしかにお前はシーツを通してしゃべってるよ」
「帰ってもいいんだぜ、ターナーさん」とキャンベルが言った。「もうお前さんのためには働かねえから」
「それだけはご承知なんだな」
「百も承知よ」とウィリアム・キャンベルが言った。彼はシーツを引きずりおろし、ターナー氏を見た。「百も承知だから、お前さんの顔を見ても平気なんだ。あっしがどんなこと知ってるか聞きてえか?」
「いや、たくさんだ」
「そいつはいい」とウィリアム・キャンベルが言った。「ほんとは、あっしはなんにも知っちゃいねえからな。言ってみただけよ」彼はまたシーツを顔の上に引っぱりあげた。「あっしはシーツの下が大好きなんだ」と彼は言った。ターナー氏はベッドのわきに立っていた。腹の出た禿頭《あげあたま》の中年男で、やるべきことをたくさんかかえていた。「しばらくここにいて、治療を受けるんだな、ビリー」と彼は言った。「その気があるなら、世話してもいいぜ」
「治療なんか受けたかねえ」とウィリアム・キャンベルは言った。「治療なんて、まっぴらだ。あっしはまったくしあわせなんだ。生まれてこのかた、ずっと、まったくしあわせなんだ」
「いつから、こんなふうなんだ?」
「なんてことを聞くんだ!」ウィリアム・キャンベルはシーツごしに息を吸いこみ、また吐き出した。
「いつから、こんな酔っぱらいになっちまったんだ、ビリー?」
「仕事はちゃんとやりましたぜ」
「そのとおりさ。ただ、いつからこんな酔っぱらいになっちまったかって聞いただけだ、ビリー」
「わからねえ。でも、狼《オオカミ》がまたもどってきたんだ」彼は舌でシーツをなめた。「一週間も、とりつかれてるんだ」
「そうか」
「ああ、そうさ。あっしのかわいい狼さ。あっしが一杯ひっかけるときまって部屋から出ていきやがるんだ。アルコールが嫌えなんだ。かわいそうな、かわいい奴さ」彼は舌でシーツをなめまわした。「かわいらしい狼なんだ。いつもおんなじ恰好をしててね」ウィリアム・キャンベルは目を閉じて、深く息を吸いこんだ。
「治療を受けなくちゃいけねえぜ、ビリー」とターナー氏が言った。「キーリー療法〔アルコール中毒療法の一つ〕なんか、どうだい。あいつはいいぜ」
「キーリーか」とウィリアム・キャンベルが言った。「ロンドンからあまり遠くねえな」彼はまつ毛をシーツにこすりつけて、目を閉じたり開けたりした。「あっしはシーツが大好きでね」そう言って、彼はターナー氏を見た。
「いいかね、お前さんはあっしが酔ってるって思ってるんだな」
「お前は、たしかに、酔ってるぜ」
「いいや、酔っちゃいねえ」
「いや、酔ってるよ。お前はアル中だ」
「いいや、ちがう」ウィリアム・キャンベルは頭のまわりにシーツをおさえつけた。「かわいいシーツ」と言い、シーツにやさしく息をかけた。「きれいなシーツ。お前はあっしが好きだろ、な、シーツ? これもみんな部屋代にへえってるんだぜ、まったく日本にいるみてえだ。いや、ちがう」と彼は言った。「いいかい、ビリー、親愛なるスライディング・ビリー〔ウィリアム・ロバート・ハミルトン。ナショナル・リーグの盗塁王、スライディングの名人〕、お前さんをびっくりさせることがあるんだ。あっしは酔っちゃあいねえ、麻薬で目にきてるんだ」
「まさか」とターナー氏が言う。
「見な」ウィリアム・キャンベルはシーツの下からパジャマの右袖をつきだし、右腕をまくりあげた。「こいつを見な」前腕には、ちょうど手首の上から肘《ひじ》にかけて、小さな青黒い刺傷が幾つもあり、そのまわりに青い隈《くま》が小さく輪を描いていた。輪と輪はほとんどふれあっていた。「こいつが新しいやつなんだ」とウィリアム・キャンベルが言った。「あっしは、いまじゃ、時たま、ちょっと飲むだけなんだ。狼を部屋から追っぱらうためにね」
「そいつにはそいつの冶療法があるんだぜ」とスライディング・ビリーのターナーが言った。
「ねえよ」とウィリアム・キャンベルが言った。「治療法なんて、どんなものにも、ありゃしねえさ」
「そんなふうに、あきらめちゃいけないよ、ビリー」とターナーが言った。彼はベッドの上に腰かけた。
「あっしのシーツに気をつけな」とウィリアム・キャンベルが言った。
「うまくいかねえからといって、お前の年で、あきらめちまって、そんなものをぼんぼん打つのは、いけねえぜ」
「取締りの法律がある。そう言いてえんだろ」
「いや、そんなものに負けちゃいけねえってことよ」
ビリー・キャンベルは唇と舌をシーツに押しつけた。「かわいいシーツ」と彼は言った。「おれはこのシーツにキッスするのと同時に、向こうを透かして見られるんだぜ」
「シーツの話はやめろ。そんなものを打ってばかりいちゃいけねえ、ビリー」
ウィリアム・キャンベルは目を閉じた。かすかに吐き気をおぼえはじめていた。彼にはわかっていた。この吐き気はだんだんひどくなっていくのだ。なんとかしなければ、なおらないのだ。彼がターナー氏に一杯やらないかと言ったのは、この時だった。ターナー氏は断わった。ウィリアム・キャンベルは壜からじかにひと口飲んだ。それは一時しのぎだった。ターナー氏はじっと彼を見ていた。ターナー氏はこの部屋にこんなに長くいるはずではなかった。やるべきことがたくさんあったのだ。麻薬を使っている人間と毎日つきあっていたけれど、麻薬のこわさを知っていた。それに、ウィリアム・キャンベルは好きだった。彼を残していきたくはなかった。かわいそうだ。治療を受ければ助かるだろうと思った。キャンザス・シティには立派な治療施設がある。だが、帰らなくちゃいけない。彼は立ちあがった。
「いいか、ビリー」とウィリアム・キャンベルが言った。「ちょっと言いてえことがあるんだ。お前さんは『スライディング・ビリー』って呼ばれてる。スライディングができるからよ。あっしはただのビリーよ。スライディングがからきしだめだからさ。スライディングができねえんだよ、ビリー。できねえんだ。ひっかかっちゃうんだ。やってみても、いつも、ひっかかるんだ」彼は目を閉じた。「あっしには、できねえんだ、ビリー。できねえって、ひでえぜ」
「そうだな」と『スライディング・ビリー』のターナーが言った。
「そうだなって、なにが?」と言って、ウィリアム・キャンベルが相手を見た。
「お前、言ってたじゃないか」
「いいや」とウィリアム・キャンベルが言った。「あっしは言っちゃいねえよ。なんかのまちげえだろ」
「スライディングのことを言ってたぜ」
「いいや、スライディングのことじゃねえはずだ。だが、いいか、ビリー、いいことを教えてやろう。シーツにしがみついていろよ、ビリー。避けるんだな、女や、馬や、それから……」彼は言葉を切った。「……鷲から。馬にほれると、馬の……鷲にほれると、鷲の……」彼は言葉を切って、首をシーツの下につっこんだ。
「帰らなきゃならん」と『スライディング・ビリー』のターナーが言った。
「女にほれると、淋病になる」とウィリアム・キャンベルが言った。「馬にほれると……」
「ああ、そいつは聞いた」
「聞いたって、何を?」
「馬と鷲のことさ」
「ああ、そうだ。シーツにほれると」彼はシーツに息を吹きかけ、鼻をこすりつけた。「シーツは知らねえ」と彼は言った。「このシーツは惚《ほ》れはじめたばかりだからな」
「帰らなきゃならん」とターナー氏が言った。「やることがたくさんある」
「帰ったってかまわねえよ」とウィリアム・キャンベルが言った。「どいつも帰らなきゃなんねえんだ」
「帰ったほうがよさそうだ」
「かまわねえよ、帰れよ」
「大丈夫か、ビリー」
「こんなにしあわせだったこと、いままでにもなかったぜ」
「で、大丈夫か?」
「あっしは、ぴんぴんしてらあね。お前さん、帰んな。あっしは、しばらく、ここで横になってるから。昼ごろになったら、起きるよ」
しかし、ターナー氏が昼にウィリアム・キャンベルの部屋にやってきたとき、ウィリアム・キャンベルは眠っていた。ターナー氏は、人生で価値のあるものは何であるかを知っていたので、彼を起さなかった。
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きょうは金曜日
[#ここから1字下げ]
三人のローマの兵士が、夜の十一時に、酒場にいる。壁にそって酒樽がある。木のカウンターのうしろに、ヘブライ人のバーテンがいる。三人のローマの兵士はやや酩酊《めいてい》している。
[#ここで字下げ終わり]
第一の兵士 赤をやってみたか?
第二の兵士 いや、まだだ。
第三の兵士 やってみろよ。
第二の兵士 よし、ジョージ、みんなに赤だ。
ヘブライ人のバーテン はい、どうぞ。お気にいりますよ。ちょっといけるワインですぜ。
第一の兵士 お前も、どうだ。〔彼は酒樽によりかかっている第三のローマの兵士のほうを向く〕おい、どうしたんだ?
第三の兵士 腹が痛いんだ。
第二の兵士 水ばかり飲んでたくせに。
第一の兵士 赤をやってみろよ。
第三の兵士 そんなもの、飲めるかよ。腹の具合が悪くならあ。
第一の兵士 お前、ここに長くいすぎたんだ。
第三の兵士 ちえっ、そんなこと先刻ご承知よ。
第一の兵士 おい、ジョージ、こいつの腹を治すもの、なんかないか?
ヘブライ人のバーテン ここにありますぜ。
〔第三のローマの兵士はバーテンが混ぜてくれたものをちょっと飲む〕
第三の兵士 おい、このなかに何をいれたんだ、ラクダの乾いた糞か?
バーテン ぐっと飲みなさい、副官どの。治りますぜ。
第三の兵士 ああ、これ以上悪くはならねえよ。
第一の兵士 ためしてみろよ。ジョージは、こないだ、おれを治してくれたよ。
バーテン 副官どのは、ひどかったですな。あっしは腹痛に効く薬は心得てるんでさ。
〔第三のローマの兵士がぐっと飲みほす〕
第三の兵士 |こりゃひでえ《イエス・キリスト》。〔顔をしかめる〕
第二の兵士 イエス・キリストか。人騒がせの奴《やつ》だ。
第一の兵士 さあ、どうかな。奴は、きょうあそこ〔ゴルゴダの丘のこと〕で、かなり立派だったぜ。
第二の兵士 じゃ、なぜ、十字架からおりてこねえんだ。
第一の兵士 おりたくなかったのよ。芝居じゃねえからさ。
第二の兵士 十字架からおりたくない奴がいたら、つらが見てえよ。
第一の兵士 ああ、てめえはなんにも知っちゃいねえんだ。そこのジョージに聞いてみな。なあ、ジョージ、奴は十字架からおりたがったかい?
バーテン みなさん、じつは、あっしはあそこにいかなかったんで。あんなことちっとも興味がないんでさ。
第二の兵士 いいかい、おれは奴らを山ほど見てるんだ……ここでも、ほかのいろんなとこでも。いよいよという時が来て、十字架からおりたがらねえ奴がいたら……いよいよという時が来てだぜ……そんな奴がいたら、教えてくれ……おれもそいつといっしょに十字架にのぼってみせらあ。
第一の兵士 奴は、きょう、あそこで、かなり立派だったと思ったよ。
第三の兵士 奴はよかったな。
第二の兵士 お前らは、おれの言ってること、わかんねえんだ。奴が立派だったかとか、そうじゃねえとか、言ってるんじゃねえんだ。おれの言ってるのは、いよいよという時が来ての話よ。奴をいよいよ釘で打ちつけようって時はよ、できりゃ、だれだって、そんなことやめてえと思わねえはずはねえさ。
第一の兵士 ジョージ、お前、見にいかなかったのか?
バーテン ええ、あっしは興味がなかったんでさ、副官どの。
第一の兵士 奴のふるまいには、驚いたな。
第三の兵士 おれがきらいなのは、奴らに釘を打ちこむ時さ。だれも、かなりいやだろうな、きっと。
第二の兵士 そうひどくもないさ。奴らをこう持ちあげるときにくらべりゃ。〔彼は両方の掌を合わせて持ちあげる格好をする〕奴らの重みがかかってよ。そんな時は、ひどいぜ。
第三の兵士 かなり音《ね》をあげる奴もいるな。
第一の兵士 おれだって見たよ。たくさん見たよ。だが、奴は、きょう、あそこで、かなり立派だったぜ。
〔第二の兵士はヘブライ人のバーテンに微笑する〕
第二の兵士 お前、なかなか立派なクリスチャンだな。
第一の兵士 そうとも、なんとでも、奴を馬鹿にするがいいや。でも、おれがなんか言ってる時は、ちゃんと聞け。奴は、きょう、あそこで、かなり立派だったんだ。
第二の兵士 ワイン、もうすこしどうだ?
〔バーテンは注文を期待して顔をあげる。第三のローマの兵士は頭をたれたまま腰かけている。気分がよくないようだ〕
第三の兵士 もういらねえ。
第二の兵士 二人分だけ、ジョージ。
〔バーテンは、前のより小さな、ワインのはいった水差しを置く。木のカウンターに身をのりだす〕
第一の兵士 奴の女〔マグダラのマリア〕を見たか?
第二の兵士 そのすぐ横に立ってたんだぜ、おれは。
第一の兵士 しゃんだったな。
第二の兵士 奴より先に、おれのほうが知ってたんだぜ。〔彼はバーテンにウインクする〕
第一の兵士 あの女、よく町で見かけたっけな。
第二の兵士 なかなかいける女だったぜ。奴はあの女をしあわせにできなかったってわけだ。
第一の兵士 ああ、奴も運が悪かったんだ。でも、きょうは、あそこで、かなり立派に見えたぜ。
第二の兵士 奴の一味はどうなった?
第一の兵士 うん、消えちまったよ。女どもだけが奴にあくまでへばりついていた。
第二の兵士 からきし、いくじのねえ奴らだ。奴があそこへのぼった時にゃ、もうたくさんだとぬかしやがった。
第一の兵士 女どもはへばりついていたぜ、ちゃんと。
第二の兵士 そうだ、ちゃんと、へばりついていた。
第一の兵士 おれが奴をいつもの槍で突き刺したのを、お前、見たか?
第二の兵士 あんなことをして、いつか面倒なことになるぜ。
第一の兵士 あれが、おれのせめてもの情《なさ》けさ。たしかに、奴はきょう、あそこで、かなり立派に見えたぜ。
ヘブライ人のバーテン お客さん、〈かんばん〉ですが。
第一の兵士 もう一杯ずつもらおう。
第二の兵士 むだだよ。ここの酒は、てんで、まわらねえ。さあ、行こう。
第一の兵士 もう一杯だけさ。
第三の兵士 〔樽から立ちあがって〕よせ、行こう。出よう。こんばんは、気分が悪い。
第一の兵士 もう一杯だけ。
第二の兵士 よせ、行こう。もう出るんだ。おやすみ、ジョージ。つけにしといてくれ。
バーテン おやすみなさい、みなさん。〔ちょっと困った顔をする〕ちょっとでいいから、払っといていただけませんか、副官どの。
第二の兵士 なんだって、ジョージ! 給料日は水曜日なんだぜ。
バーテン じゃあ、よろしいです、副官どの、おやすみなさい、みなさん。
〔三人のローマの兵士はドアから通りへ出た〕
〔外の通りで〕
第二の兵士 ジョージはほかの奴と同じに、やっぱりユダヤ人だ。
第一の兵士 いや、ジョージはいい奴だ。
第二の兵士 今晩《こんばん》は、お前にゃ、だれでもいい奴なんだ。
第三の兵士 さあ、兵営へ帰ろうや、今晩は、気分が悪いんだ。
第二の兵士 お前、ここに長くいすぎたんだ。
第三の兵士 いや、お前、そうじゃない。気分が悪いんだ。
第二の兵士 お前、ここに長くいすぎたんだ。それだけのことよ。
……幕……
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平凡な話
そこで、彼はオレンジを食べ、ゆっくり種をはきだした。外では、雪が雨になりだしていた。なかでは、電気ストーブが熱をまったく発散していないようだった。彼は執筆用のテーブルから立ちあがって、ストーブの上に腰をおろした。なんていい気持ちだ! ついにここに人生があるんだ。
彼はもうひとつのオレンジに手をのばした。はるか彼方のパリでは、マスカールがまぬけなダニー・フラッシュを第二ラウンドでノックダウンした。遠くメソポタミアでは、二十一フィートも雪が降った。地球の向こうの遠いオーストラリアでは、イギリスのクリケットの選手たちが三注門《ウィケット》をみがいている。そういうところにこそ、ロマンスがあるのだ。
芸術や文学の愛好者《パトロン》は「広場《フォーラム》」〔アメリカの月刊雑誌〕の真価を発見していた、と彼は読んだ。同誌こそ考える少数の者の案内者であり、哲学者であり、友人である。懸賞短篇小説……その作者たちは明日《あす》のベストセラーを書くだろうか?
これらの心あたたまる、生枠のアメリカ短篇を、みなさんは愉しむであろう。それらは、ひろびろとした牧場や、ごみごみしたアパートや、心地よい家庭などの現実の生活の断片で、すべて健康なユーモアが底に流れている。
これは読まねばなるまい、と彼は考える。
彼は読みつづける。われわれの子供たちの子供たち……彼らはどうなるか? 彼らはだれなのか? 太陽の下で、われわれのために余地を見いだすには、新しい手段が発見されねばならない。それは戦争によってなされるであろうか、それとも平和な手段によってなされるであろうか?
あるいは、われわれはみなカナダに移住しなければならないだろうか?
われわれの最も深い信念は……科学がそれをくつがえすだろうか? われわれの文明は……それは古い事物の秩序に劣るのだろうか?
そして一方、遠いユカタンの樹液したたるジャングルでは、ゴム採取者の斧をうちこむ音がひびいている。
われわれは偉大な人物を欲するか……あるいは、教養ある人物を欲するか? ジョイス〔アイルランドの作家。『ユリシーズ』の作者〕を考えてみよ。クーリッジ大統領を考えてみよ。われわれの大学生たちはどういう人物を目ざすべきか? ジャック・ブリトンがいる。ヘンリー・ヴァン・ダイク博士〔アメリカの牧師、文学者〕がいる。この両者を融合できるだろうか? ヤング・ストリブリング〔アメリカの拳闘家、ヘビー級のチャンピオンだった〕の場合を考えてみよ。
自らの人生航路を定めねばならぬわれわれの娘たちはどうなるか? ナンシー・ホーソーンは人生の大海原で自らの航路を定めねばならない。勇敢に、分別をもって、彼女は十八歳の娘の誰にでも起る問題に立ち向かう。
すばらしいパンフレットだ。
あなたは十八歳の娘さんですか? ジャンヌ・ダークの場合を考えてみなさい。バーナード・ショーの場合を考えてみなさい。ベッツィ・ロス〔ワシントンにすすめて、アメリカの国旗の星の形を五角形のものにしたといわれている〕の場合を考えてみなさい。
一九二五年に、これらのことを考えてみよ……ピュアリタンの歴史に、いかがわしいページがあったろうか? ポカホンタス〔アメリカン・インディアンの酋長の娘。白人に捕らえられたが、のち、キリスト教を信じ、白人と結婚した〕に二つの側面があったろうか? 彼女は第四次元をもっていたろうか?
現代の絵画は……そして詩は……芸術だろうか? しかり、そして、否。ピカソを考えてみよ。
浮浪者には行為の規約があるか? あなたの精神を冒険の旅に出せ。
あらゆるところに、ロマンスはある。「広場《フォーラム》」の執筆者は要点をつき、ユーモアとウィットをもっている。しかし、気のきいたことを言おうとはしないし、まわりくどい言い方もしない。
新しい思想に興奮し、異常なロマンスに陶酔して、精神の充実した生涯を送れ。彼はパンフレットを下においた。
そして、一方、マヌエル・ガルシア・マエラ〔作者お気に入りの名闘牛士〕は、トリアナの自宅の暗くした部屋のベッドに長々と横たわり、両肺に管をとおしたまま、肺炎で死んで行く。アンダルシア〔スペイン西南部地方〕の全新聞は、数日前から危篤だった彼の死をいたみ、特大号を出す。男や若者たちは彼を偲んで、等身大の色刷りの肖像を買い、そのリトグラフを眺めているうちに、記憶にいだいた彼の姿を忘れてしまう。闘牛士たちは彼の死でほっとする。彼らが時たましかできないことを、彼は闘牛場でいつもやったからだ。彼らはみな彼の棺のあとから雨のなかを行進する。百四十七人の闘牛士たちが彼のあとにつきそい、ホセリトのとなりの墓に彼をほうむる。みんなは、葬式ののち、雨をさけてカフェに坐る。マエラの色刷りの肖像がたくさん売られ、それを買った人たちはそれをくるくるまるめて、ポケットにつっこむ。
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いま横になって
その夜、ぼくらはその部屋の床に横になった。ぼくは蚕《カイコ》が食っている音に耳をかたむけていた。蚕は桑の葉の棚のなかで食べていた。夜どおし、蚕が食べたり、桑の葉のなかへ落ちたりする音が聞こえた。ぼく自身は眠りたくなかった。暗いなかで目を閉じたままにしていると、魂が身体から脱けだしていくのを、ずっと前から知っていたからだ。夜、砲撃で吹きとばされて、魂が身体から脱けだし、どこかへいってしまい、それからまたもどってきたと感じた、あのとき以来、ぼくはずっとそんなふうだったのだ。ぼくはそんなことは、どうあっても考えまいとつとめたが、あのとき以来、夜、眠りにつく瞬間、そのような気持ちになってしまい、よほど努力しなければ、それをおさえきれなかった。だから、いまでは、魂がほんとうには脱けだしたりはしないだろうと、かなり確信してはいるが、当時、つまりその夏は、それを実験してみる気にはなれなかった。
目を覚まして横になっているあいだ、気持ちをまぎらわせる方法はいろいろあった。少年のころ鱒《マス》を釣った小川を思いだし、心の中でたんねんに、その小川の上から下まで釣ってみる。注意して、あらゆる丸太の下や、川岸のあらゆる曲がり角や、深い穴や、澄んだ浅瀬で釣って、時には鱒を釣り、時には釣りそこねる。ひるには、釣るのをやめて、昼食をたべる。時には、小川の上の丸太に腰かけ、時には、高い土手の木の下に坐り、いつもとてもゆっくり昼食をたべ、たべながら下の小川をじっと見おろした。しばしば、餌がきれた。出がけに、タバコの空罐にミミズを十匹しか入れてこなかったからだ。それを使いきると、ミミズをほかに探さねばならなかった。
杉の木立が日ざしをさえぎっている小川の土手は、草がはえていない裸のじめじめした土地なので、ひどく掘りにくく、ミミズが見つからないことがよくあった。だが、いつも、なにか餌になるものを見つけはしたが、ある時など、湿地で何も餌になるものが見つからないので、釣った鱒の一匹を細かく切って餌にしなければならないこともあった。
ときには、川辺のじめじめした草地で、草むらや、羊歯《シダ》の蔭に昆虫をみつけて、餌に使った。古い朽ちた丸太の中に、カブト虫や、草の茎のような足をした虫や、地虫《ジムシ》がいた。褐色のちぢかんだ頭の白い地虫は、釣針になかなか引っかかっていないで、冷たい水にいれると、はずれて見えなくなった。丸太の下には木ダニがいたが、ときどきミミズもいて、丸太を持ちあげると、たちまち土の中へもぐりこんだ。いつか、古い丸太の下からイモリを見つけて、使ったことがあった。そのイモリはとても小さく、きちんとしていて、はしっこく、美しい色をしていた。小さな足で、釣針につかまろうともがいた。それからは、イモリはよく見つけたが、一度も使わなかった。コオロギも釣針で身をもがくので、使わなかった。
ときには、小川はひろびろとした草地をつっきって流れていた。ぼくは乾いた草の中からバッタをつかまえてきて、餌に使った。また、ときには、バッタをつかまえて、小川に投げこみ、それが流れにのって泳ぎ、流れの渦にまきこまれて水面をくるくるまわりながら漂い、やがて鱒が浮かびあがると姿を消してしまうのを眺めていた。ときには、同じ夜のうちに、四つも五つもの異った小川で釣ることもあった。水源地にできるだけ近いところからはじめて、流れを下りながら釣るのだ。あまり早く川下までいってしまい、まだ時間があるときには、小川が湖にそそいでいるところからはじめ、下ってくるときに釣りもらした鱒をみんな釣ろうと、また小川をさかのぼって行って、釣った。それから、小川を空想ででっちあげる夜などもあった。そんなときの小川はひどく心をわくわくさせ、目をさましていながら、夢をみているようであった。そうした小川のいくつかは、いまでも記憶の中にあって、そこで釣りをしたのだと思いこみ、じっさいに知っている小川とごっちゃになってしまう。ぼくは空想の小川にもみな名前をつけ、汽車でそこへ行き、ときには何マイルも歩いてそこへ行った。
しかし、釣りのできない夜もあった。そんな夜には、頭が冴《さ》えて、眠れず、いつもの祈りの文句をなんどもなんどもくりかえし、知っているかぎりの人びとのために祈ろうとした。最も古い記憶にまでさかのぼって、知っているかぎりの人びとを思いだそうとすると、ずいぶん時間がかかった……ぼくに関していえば、生れた家のあの屋根裏、ブリキ箱に入れて、梁《はり》にぶらさげた父と母のウェディング・ケーキ、屋根裏にあった、父が子供のころ集めてアルコール漬《づ》けにした蛇やその他の標本のはいった壜、壜のアルコールが蒸発して減り、蛇やその他の標本のいくつかは空気にさらされて背中が白く変色していた……そんなにまで遠く記憶をたどれば、ずいぶん多くの人びとが思いだされたからだ。それらのすべての人びとのために祈り、その一人一人のために「アヴェ・マリア」と「天にましますわれらの父よ」をとなえると、ずいぶん時間がかかり、とうとう夜が明けてしまった。そうなると、昼間に眠れるような場所にいさえすれば、眠ることができた。
そのような夜など、ぼくは戦争に行く直前のことからはじめて、つぎつぎに記憶をさかのぼり、ぼくにおこったあらゆることを思いだそうとした。ぼくは祖父の家の屋根裏までしか記憶がさかのぼれないことがわかった。すると、そこから出発して、ふたたび記憶をこちらにひきもどし、戦争にまでたどりついた。
祖父が死んだあと、その家をひきはらい、母が設計して建てた新しい家に移ったときのことが思いだされる。新居にもっていかれないものがたくさんあって、それらはみんな裏庭で焼いた。屋根裏の例の壜が火の中に投げこまれたのをおぼえている。熱のために、ぽんとわれ、アルコールから炎が立ちのぼった。蛇が裏庭の火の中で焼かれたのをおぼえている。しかし、記憶の中には人はいない。あるのは物ばかりだ。物を燃やしたのがだれだったのか、それすら思いだせない。それで人が出てくるまで記憶をたどり、人が出てくると、こんどは、その人びとのために祈ったものだ。
新しい家のことでは、母がいつもきれいに掃除し、よけいなものを処分したことをおぼえている。あるとき、父が猟の旅に出かけていると、母は地下室をすっかりきれいに掃除して、不必要なものをみんな燃した。父が帰ってきて、馬車からおり、馬をつないでいる時も、家の横の道で火がまだ燃えていた。ぼくは父を迎えに外に出た。父は猟銃をぼくに手渡して、火を見た。「何だ、これは?」と父がきいた。
「地下室を掃除したのよ、あなた」と母が玄関から言った。母は父を出迎え、ほほえみながらそこに立っていた。父は火を見て、何かを足で蹴った。それから、かがみこんで、灰のなかから何かをひろいあげた。「火掻き棒をもってこい、ニック」と父はぼくに言った。ぼくは地下室に行き、火掻き棒をもってきた。父は灰をたいへん注意深く掻きまわした。そして、石の手斧や、皮はぎ用の石のナイフや、矢尻《やじり》をつくる道具や、いくつかの陶器や、たくさんの矢尻をとりだした。それらはみな、火のために黒くこげ、欠けていた。父はそれらをみなとても注意して掻き出して、道ばたの草の上にならべた。革のケースに入れた猟銃と獲物袋は、馬車からおりたとき草の上においたままになっていた。
「ニック、銃と袋を家の中にしまって、紙を一枚もってきてくれ」と父が言った。母はもう家の中にはいっていた。ぼくは猟銃と二つの獲物袋をもって、家のほうへ歩きだした。猟銃は手に持つと重く、脚にがたがたぶつかった。「ひとつずつにしろ」と父が言った。「いっぺんにたくさん運ぼうとしちゃだめだ」ぼくは獲物袋をおろし、猟銃をもってはいり、父の仕事部屋に積んである新聞紙の一枚をとりだしてきた。父はその新聞紙の上に黒こげになって欠けた石器を全部ならべ、やがてそれらをちゃんと包んだ。「一番いい矢尻がすっかりこなごなになった」と言った。父はその紙包みをもって家にはいった。ぼくは外の草の上にふたつの獲物袋をもったまま残っていた。しばらくたってから、獲物袋を中に入れた。そのことを思いだすと、そこにはたった二人の人しかいなかった。そこで、ぼくは二人のために祈るのだった。
だが、祈りの文句さえ思いだせない夜もあった。「天に行わるるごとく地にも行われんことを」までしか思いだせなくて、またはじめからやりなおしてみなければならないのだが、どうしてもそこから先が出てこなかった。そこで、思いだせないのだと認めて、その夜は祈りをとなえるのをあきらめ、何かほかのことをしなければならなかった。そんなわけで、ある夜は、世界中の動物の名前を思いだそうとし、それから鳥、それから魚、さらに国、都市、それに食物の種類、思いだせるかぎりのシカゴの通りの名を思いだそうとした。そして、もう何も思いだせなくなると、耳をただじっとそばだてた。何の物音も聞こえないという夜はなかったように思う。暗いときだけ、ぼくの魂が身体から脱けだすのだと知っていたので、明りがあれば、眠るのがこわくはなかった。そこで、もちろん、多くの夜は、明りのえられるところにいて、眠った。ほとんどいつも疲れていて、しばしばとても眠かったからだ。魂が脱けだすことを知らずに眠ったことも、たしかにたびたびあったが……そうだと知りながら眠ったことはなかった。そして、こんなある夜、ぼくは蚕の音に耳をすましていたのだ。夜、蚕が食べているのがとてもはっきり聞え、ぼくは目を開けたまま横になり、その物音に耳をすましていた。
その部屋には、ぼくのほかにもうひとりしかいなかったが、彼もまた目をさましていた。ぼくは彼が目をさましている気配に、長いあいだ耳をすましていた。彼はぼくのようには静かに横になってはいられなかった。おそらく、彼は目をさましていることに、ぼくほどなれていなかったからだ。ぼくらは藁の上にひろげた毛布に横になっていた。それで、彼が動くと、藁ががさがさいった。しかし、蚕はぼくらのたてる音には驚かず、しきりに食べつづけた。前線から七キロ後方のここでは、戸外に夜の物音があった。だが、それはこの部屋の中の暗闇のかすかな物音とは違っていた。部屋のもうひとりのその男は静かに横になっていようと努力した。それから、また動いた。ぼくも動いた。それで、ぼくが目をさましているのを彼も気付いたようだ。
彼はシカゴに十年間住んでいた。一九一四年、家族に会いに帰ったとき、兵隊にとられたのだ。そして、英語が話せるので、ぼくの従卒になったのだ。彼が耳をすましている気配を感じたので、ぼくは毛布の中でまた動いた。
「眠れないんですか、中尉殿《シニョール・テネンテ》?」と彼がきいた。
「ああ」
「わたしも眠れません」
「どうしたんだ?」
「さあ、わかりません。眠れないんです」
「気分はどうだ?」
「ええ。気分はいいんです。ただ眠れないんです」
「すこししゃべってみるか?」とぼくはきいた。
「ええ。こんなところで、何が話せますか?」
「ここはなかなかいいぜ」とぼくは言った。
「ええ」と彼は言った。「いいですね」
「シカゴでの話をしてくれ」とぼくは言った。
「はあ」と彼が言った。「前に一度すっかり話しましたけど」
「お前の結婚したときのことを話してくれ」
「そいつも話しましたが」
「月曜にきた手紙……細君からか?」
「ええ。しょっちゅうくれますよ。店でけっこうかせいでるんです」
「帰れば、いい店があるんだな」
「ええ。よくやってくれますよ。だいぶもうけてるんです」
「ぼくらの話で、ほかの連中が目をさましゃしないだろうな?」とぼくはきいた。
「いいえ。聞こえませんよ。ともかく、あいつらは豚のように眠ってますから。わたしは違います」と彼は言った。「神経質なんです」
「静かにしゃべろう」とぼくは言った。「煙草どうだ?」
ぼくらは暗闇の中で器用に煙草を吸った。
「中尉殿《シニョール・テネンテ》はあまりのみませんね」
「ああ、やめようと思ってんだ」
「そうですね」と彼は言った。「身体によくありませんからね。なれれば、さびしくはないでしょうよ。めくらは煙が出るのが見えないから、煙草をやらないって、そんなこと聞いたことありますか?」
「まさかね」
「わたしも嘘っぱちだと思いますが」と彼が言った。どこかで聞いただけなんです。話ってそんなものですね」
ぼくらはふたりとも黙った。ぼくは蚕の音に耳をかたむけた。
「あのいまいましい蚕の音を聞いてるんですね?」と彼はきいた。「ごそごそ食べているのが聞こえますね」
「おもしろいじゃないか」とぼくは言った。
「ねえ、中尉殿《シニョール・テネンテ》、あなたが眠れないのは何かわけがあるんですか? あなたが眠られるのを見たことがないんです。わたしが従卒になってから、夜、眠られたこと、ないですね」
「そうかな、ジョン」とぼくは言った。「春のはじめからずっと身体の調子が悪くなって、夜になると、悩まされるんだ」
「わたしと同じですね」と彼が言った。「わたしはこんな戦争にこなきゃよかったんです。ひどく神経質になりました」
「きっと、よくなるよ」
「ねえ、中尉殿《シニョール・テネンテ》、いったい、どうして、こんな戦争に加わられたんですか?」
「さあ、わからんよ、ジョン。そのときは、参加したかったんだ」
「したかったんですか」と彼が言った。「すごい理由ですね」
「あんまり大きな声を出すなよ」とぼくは言った。
「あいつらは豚のように眠ってますよ」と彼が言った。「いずれにせよ、英語はわかりませんからね。なんにもわからんですよ。戦争が終って、合衆国へ帰ったら、何をなさいますか?」
「新聞の仕事をやるよ」
「シカゴでですか?」
「たぶんね」
「ブリスベイン〔シカゴの著名な新聞編集者〕って人の書いたもの、読んだことありますか? 妻が切り抜いて、送ってくれたんですが」
「ああ、読んだとも」
「会ったことありますか?」
「いや、ない。だが、見たことはある」
「その人に会ってみたいですね。立派な記者ですね。妻は英語が読めませんが、わたしが家にいたときと同じように新聞をとって、社説とスポーツ欄を切り抜いて、送ってくれるんです」
「子供さんはどうかね?」
「元気ですよ。娘のひとりは、いま小学校の四年生です。ねえ、中尉殿《シニョール・テネンテ》、わたしに子供たちがいなければ、あなたの従卒にはなれなかったでしょうね。ずうっと前線におかれたでしょうね」
「子供があって、よかったな」
「ほんとによかったですよ。みんないい子供たちですが、男の子がひとりほしいですね。娘三人で、息子がないんです。ひどいもんですよ」
「なぜ寝ようとしないんだ?」
「いや眠れないんです。すっかり目がさめちゃいました、中尉殿《シニョール・テネンテ》。でも、あなたが眠れないのが心配です」
「そのうちよくなるよ、ジョン」
「考えてもみなさいな、あなたのようなお若い方が眠れないなんて」
「よくなるよ。ただちょっと時間がかかるがね」
「よくなんなきゃいけません。眠れなきゃ、やっていけませんよ。何かなやむことでもあるんですか? 心の中に何かひっかかってんですか?」
「いや、ジョン。そんなことない」
「結婚しなくちゃいけません、中尉殿《シニョール・テネンテ》。そうすりゃあ、なやみごとなどなくなりますぜ」
「どうかな」
「結婚しなくちゃいけませんよ。すてきなイタリア娘で、うんと金持の娘《こ》を、どうしてつかまえないんですか? あんたなら、好きな娘が選べますよ。若いし、立派な勲章はもってるし、男前ですからね。それに、負傷も二、三度してるでしょう」
「言葉がじゅうぶんできないからな」
「じょうずに話せますのに。言葉なんかどうでもいいんですよ、話す必要なんかないんですから。結婚すりゃいいんですよ」
「考えとこう」
「知ってる娘《こ》もいくらかいるでしょう?」
「いるとも」
「じゃあ、いちばん金持の娘と結婚しなさい。ここじゃあ、娘のしつけがいいから、みんないい奥さんになりますよ」
「考えとこう」
「考えちゃいけませんよ、中尉殿《シニョール・テネンテ》。実行することです」
「わかった、わかった」
「男は結婚しなくちゃいけません。後悔なんか、しませんよ。男は誰でも、結婚しなくちゃいけません」
「わかったよ、わかったよ」とぼくは言った。「すこし眠ってみようや」
「いいですとも、中尉殿《シニョール・テネンテ》。もう一度、眠ってみましょう。でも、わたしの言ったこと忘れちゃいけませんぜ」
「忘れないよ」とぼくは言った。「さあ、すこし眠ろう、ジョン」
「いいですとも」と彼は言った。「どうか眠れますように、中尉殿《シニョール・テネンテ》」
ぼくは彼が藁の上の毛布の中で寝がえりをうつ音を聞いた。それから、彼はとても静かになった。ぼくは彼が規則正しく呼吸するのに耳をかたむけた。やがて、彼はいびきをかきだした。ぼくは彼がいびきをかくのに長いあいだ耳をかたむけ、それから彼がいびきをかくのに耳をかたむけるのをやめ、蚕が食べる音に耳をかたむけた。蚕はひっきりなしに食べ、桑の葉の中に落ちた。ぼくは新しく考えることがでてきたので、目を開けたまま暗闇に横になり、知っている娘たちのことをみんな思い浮べ、どんな女房になるだろうかと考えてみた。
それを考えると、とてもおもしろかった。それで、しばらくは、鱒釣りは葬り去られ、祈りは妨害された。だが、最後には、また鱒釣りにもどった。なぜなら、ぼくはあらゆる小川を思いだすことができ、つねにそこには何か新しいものがあったが、娘たちときたら、二、三度考えてみると、ぼやけて、思いだせなくなり、ついには娘たち全部がぼやけ、みんな似たりよったりになってしまい、娘たちのことを考えることは、すっかりあきらめてしまったからだ。しかし、祈りはつづけた。ぼくは、夜、しばしばジョンのために祈った。彼の同年兵たちは、十月攻勢の前に、戦闘勤務からはずされていた。ぼくは彼がその攻勢に加わっていないのをよろこんだ。加わっていたら、ぼくはおおいに悩んだだろうから。数カ月後、彼はミラノの病院へぼくの見舞いにやってきた。そして、ぼくがまだ結婚していないので、とてもがっかりした。だから、ぼくがいまだに結婚していないと知ったら、ひどく気分を害することだろうと思う。彼はアメリカに帰ることになっていたが、結婚というものにひどく信頼をおき、それがすべてを解決するものと思っていた。
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(付)橋のたもとの老人
鉄ぶちの眼鏡《めがね》をかけ、ひどく埃《ほこり》っぽい服を着た老人が路傍に坐っていた。河には船橋がかかっていて、荷車やトラック、それに男や女や子供が渡っていた。騾馬《ラバ》にひかれた荷馬車は兵士たちに車輪の輻《や》をつかんで押しあげてもらうと、船橋から急坂の土手をよろめきながらあがっていった。トラックは車輪をきしらせてそこをのぼると、それらのものをみんな追いこしていってしまった。百姓たちは〈くるぶし〉まではいる砂塵《さじん》の中をとぼとぼ歩いていった。だが、その老人は身動きひとつしないでそこに坐っていた。すっかり疲れきって、もう一歩も歩けなかった。
ぼくの任務はその橋を渡って、向こう側の橋頭堡《きょうとうほ》〔橋のたもとに築いた陣地〕を調べ、敵がどの地点まで進出しているかを偵察《ていさつ》することだった。ぼくはこの任務を果たし、橋を渡って帰ってきた。いまは荷車も前ほど多くなく、歩いている人もごくまれだったが、老人はまだそこにいた。
「どこから来たんだね?」とぼくがきいた。
「サン・カルロス〔スペイン東部海岸のエブロ河口に近い町〕からでさ」と彼は言って、微笑した。
それが彼の生まれ故郷の町だった。それで、その名を口にしてうれしくなり、微笑したのだった。
「生きものの世話をしてたんでさ」と彼は説明した。
「ああ、そう」とぼくは言ったが、あまりわけはわからなかった。
「そうとも」と彼は言った。「ねえ、わしは生きものの世話をしてたんで、あとまで残ってたんでさ。サン・カルロスの町を出てきたのは、わしが一番あとなんでさあ」
老人は羊飼いでも牧夫でもなさそうだった。ぼくは彼の埃《ほこり》にまみれた黒い服と、埃にまみれた灰色の顔と鉄ぶちの眼鏡を見て、こうたずねた。「どんな生きものだったのかね?」
「いろんな生きものでさあ」と彼は言い、首をふった。「残してこなきゃならなかったんでな」
ぼくは船橋と、エブロ三角州《デルタ》のいかにもアフリカ的な風景の地域を眺めやりながら、どのくらいしたら敵に遭遇《そうぐう》するだろうかなどと考え、また、敵との接触という、いつになっても神秘な出来事の合図となる物音がいつ起こることかと、終始聞き耳をたてていたが、老人はやはりそこに坐ったままだった。
「どんな生きものだったのかね?」とぼくはきいた。
「みんなで三種類いただよ」と、彼は説明した。「山羊《ヤギ》が二匹、猫が一匹、それに、鳩が四|番《つがい》でな」
「で、それを残してこなきゃならなかったのかね?」とぼくはたずねた。
「そうとも、砲撃のためでさあ。隊長さんが、砲撃があるから立ちのけってわしにいうんだ」
「で、家族はないのかね?」とぼくはたずね、船橋の向こうの端を二、三台の最後の荷車が土手の坂をかけおりるのをじっと見ていた。
「ないね。わしのいま言った生きものだけさ。猫は、むろん、だいじょうぶ。猫は自分で始末をつけるからな。でも、ほかのやつはどうなったか、わからんな」
「どっちの政府についてるんかね?」とぼくはたずねた。
「どっちでもないよ」と彼は言った。「もう七十六になってるからな。十二キロも歩いたから、もう、これ以上、動けないよ」
「ここで休んじゃいけないよ。うまくいけば、トルトサ〔スペイン北東部、タゴーナ州の都市。エブロ河下流の河港〕のほうに道が分れているところに、トラックがあるかもしれないから」
「しばらく待ってみるよ」と彼が言った。「それから出かけるとしよう。トラックはどこへ行くんかね?」
「バルセロナのほうだ」
「あっちのほうには知り合いがいないでな」と彼が言った。「でも、ほんとにありがとうよ。ほんとにありがとうよ」
彼はぼんやりと疲れた様子でぼくを見ていたが、だれかに心配事をきいてもらわなければならないのであろうか、こう言った。「猫はいいさ。そりゃあ、確かさ。猫は心配するこたあない。だが、ほかのやつがな。あんた、どう思うかね?」
「まあなんとかうまくやるだろう」
「そう思うかね?」
「もちろん」とぼくは言って、もう荷車の一台も通らなくなった向こうの土手をじっと眺めていた。
「だがよ、わしが砲撃があるから逃げろといわれたのによ、やつらは砲撃でどうなるんだろうな?」
「鳩小舎《ハトごや》の鍵は開けといたかね?」とぼくがたずねた。
「うん、そうとも」
「じゃあ、飛んでゆくよ」
「そうとも、やつらは飛んでゆくさ。だが、ほかのやつのことよ。ほかのやつのことは考えないほうがええな」
「まだお神輿《みこし》をあげないんなら、おれは行くよ」とぼくはうながした。「立って歩いてみたらどうだね」
「ありがとうよ」と彼は言い、立ちあがったが、左右によろめくと、また埃《ほこり》の中に尻もちをついてしまった。
「わしは生きものの世話をしてたんでさ」と彼はものうげに言ったが、もうぼくに向かって言っているのではなかった。「わしは生きものの世話ばかりしてたんでさ」
老人をどうするわけにもいかなかった。その日は復活祭の日曜日で、ファシスト軍がエブロ河に向かって進撃しつつあった。雲が低くたれこめ、灰色にくもった日だったので、敵機は飛んでいなかった。そのことと、猫が自分で自分の最後の始末ができるということだけが、その老人のもちうる幸運《しあわせ》のすべてだった。
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(付)フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯
昼食時だった。みんなは何事もなかったような顔をして、食堂テントの二重になった緑色のたれ布の下に腰をおろしていた。
「ライム・ジュースにする? それとも、レモン・スカッシュ?」とマコーマーがきいた。
「ギムレット〔ジンの下地にライム・ジュースを加えた青い色のカクテル〕にしましょう」とロバート・ウィルソンが言った。
「あたしもギムレット。何か飲まなきゃあ」とマコーマーの妻が言った。
「それがいい」とマコーマーが同意した。「ギムレットを三つ作るようにボーイに言ってくれ」
食堂のボーイはもう作りはじめていた。テントに蔭を射している木立《こだち》の間を吹き抜けてくる風をうけて、ぐっしょり汗をかいている冷却用のズックの袋から、ボトルをとりだしていた。
「あの連中にどれくらいやればいいかね?」とマコーマーがたずねた。
「一ポンドもやれば充分でしょう」とウィルソンが答えた。「奴《やつ》らを甘やかしてはいけませんからね」
「親分が分けるのかね?」
「もちろん、分けますとも」
フランシス・マコーマーは、半時間前、コックや、つきそいのボーイや、皮はぎの男や、運搬人たちの腕や肩にのって、意気揚々と、キャンプの端から彼のテントまで運ばれてきたのだ。鉄砲もちたちはこのデモには加わらなかった。土人の男たちが彼をテントの入り口でおろしたとき、彼はみんなと握手し、祝いの言葉をうけ、それから、テントにはいってゆき、妻がはいってくるまでベッドに腰かけていた。妻ははいってきたとき、彼に話しかけなかった。彼はすぐテントを出て、外の携帯用洗面器で顔と手を洗い、食堂テントのほうにいって、そよ風の吹く木蔭の心地よいズックの椅子に腰をおろしたのだった。
「あなたもライオンを手にいれたわけですな」とロバート・ウィルソンが彼に言った。「しかも、すごく立派な奴を」
マコーマー夫人はちらっとウィルソンを見た。彼女は非常に美しく、身だしなみのいい女で、その美貌と社会的地位のために、五年ほど前、一度も使ったことのない化粧品を写真入りで推薦して、五千ドルももらったことがあった。フランシス・マコーマーと結婚して十一年になる。
「いいライオンだね、あれは」とマコーマーが言った。妻は彼を見た。彼女はこの二人の男を、まだ見たこともない男のように、見た。
その一人の、白人の狩猟家のウィルソンを、彼女はほんとうにはまだ一度も見たことがなかったのに気づいていた。彼はほぼ中背で、髪は砂色で、口ひげは短くごわごわし、顔はまっ赤で、すごく冷たく青い眼のすみには、かすかに白いしわがより、ほほえむと、愉《たの》しそうに溝ができた。彼はいま彼女にほほえみかけた。彼女は彼の顔から視線をそらし、ゆったりした短上衣《チュニック》につつまれた彼の肩の曲線、左の胸ポケットがあるあたりにある輪飾りに差し込まれた四つの大きな弾薬《だんやく》筒、小麦色に日やけした大きな手、古ぼけたズボン、泥だらけのブーツなどに目をやり、ふたたび彼の赤ら顔に視線をもどした。その顔の日やけした赤らみが白い輪になっているのはステトソン帽がつけた跡だと、彼女は気づいた。その帽子はいま、テントの柱の釘《くぎ》のひとつにかかっていた。
「じゃあ、ライオンのために乾杯しましょう」とロバート・ウィルソンが言った。彼はふたたび彼女にほほえみかけた。が、彼女のほうはほほえみもせず、物珍しいものを見るように、夫のほうを見た。
フランシス・マコーマーは非常に背が高く、骨格の長さを気にしなければ、非常にしっかりした体格で、色が浅黒く、髪をボート選手のように短く刈り、どちらかというと唇が薄く、ハンサムだと思われていた。ウィルソンと同じような狩猟服《サファリ・クローズズ》をきていたが、ただ彼のは真《ま》新しかった。三十五歳で、体調がよく整い、テニスがじょうずで、大物の魚釣りの記録をいくつももっていたが、つい今しがた、みんなの面前で、はっきり、臆病だということを見せてしまったのだ。
「ライオンのために乾杯」と彼が言った。「あなたがしてくれたことに、なんとお礼をいってよいかわからないが」
妻のマーガレットは彼から視線をそらし、またウィルソンのほうを見た。
「ライオンの話はやめましょうよ」と彼女が言った。ウィルソンはほほえまずに、彼女のほうを見たが、こんどは彼女が彼のほうにほほえみかけた。
「すごく変な日だったわね」と彼女が言った。「日盛りには、テントの下でも、帽子をかぶっていなければいけないんでしょう? そうおっしゃったわね」
「かぶったほうがいいですよ」とウィルソンが言った。
「あなたの顔、すごく赤いのね、ウィルソンさん」と彼女は言って、またほほえんだ。
「飲むからです」とウィルソンが言った。
「そうじゃないわ」と彼女が言った。「フランシスはすごく飲むけど、顔はちっとも赤くないわよ」
「今日は赤いよ」とマコーマーは冗談《じょうだん》を言ってみた。
「いいえ」とマーガレットが言った。「今日、赤いのは、あたしの顔よ。でも、ウィルソンさんの顔はいつも赤いのね」
「人種的なものですよ」とウィルソンが言った。「ところで、ぼくの美男ぶりを話題からはずしていただきたいですな」
「いまはじめたばかりよ」
「やめましょうよ」とウィルソンが言った。
「話がすごくむずかしくなってきそうよ」とマーガレットが言った。
「馬鹿なことを言うな、マーゴット」と夫が言った。
「むずかしいことありませんよ」とウィルソが言った。「すごく立派なライオンを仕止めたのですから」
マーゴットは二人を見たが、二人には彼女が泣きだしそうなのがわかった。ウィルソンはずっと前からその気配を感じて、びくびくしていた。マコーマーはびくびくしてもはじまらないと思っていた。
「あんなことにならなきゃよかったのよ、ほんとに、あんなことにならなきゃよかったのよ」と彼女は言って、彼女のテントのほうに歩きだした。泣き声は立てなかったが、バラ色の防暑シャツの下で肩がふるえているのが二人にはわかった。
「女の人はすぐ気が顛倒《てんとう》しますが」とウィルソンは背の高い男に言った。「なんでもないんですよ。神経がいらだったり、いろんなことでね」
「いや」とマコーマーが言った。「これから一生、こんなことになるんだろうよ」
「馬鹿な。ウィスキーでもちょっとどうです」とウィルソンが言った。「すっかり忘れるんですね。とにかく、なんでもないんですから」
「忘れるようにしよう」とマコーマーが言った。「でも、あなたのしてくれたことは忘れないよ」
「たいしたことじゃありません」とウィルソンが言った。「まったく、つまらんことです」
こんなふうに、二人はテントの日蔭に腰をおろしていた。テントは頂きのひろがったアカシヤの木々の下に張られていたが、その背後には、丸石の露出した崖があり、その前面には、いちめんに草原が、丸石のいっぱいころがっている流れの岸までつづき、その向こうは森になっていた。二人はボーイたちが昼食のテーブルの用意をしているあいだ、ほどよく冷えたライムのカクテルを飲みながら、お互いの視線をさけていた。ウィルソンにはボーイたちがみんなとっくにそのことを知っているのがわかった。それで、マコーマー付きのボーイがテーブルに皿をならべながら主人を好奇の眼で見ているのに気がつくと、ウィルソンはスワヒリ語〔中央アフリカの土語〕でがみがみ言った。ボーイはぽかんとした顔で、向こうへ行ってしまった。
「なんて言ったんだね?」とマコーマーがたずねた。
「いや、なんでもないんです。急いでやらないと、一番痛いのを十五ばかりくらわせるぞ、言ったんです」
「そりゃ、なんのこと? 鞭《むち》かね?」
「これはまったく非合法なんですよ」とウィルソンが言った。「こういうときには、罰金を課すことになってるんですがね」
「まだ、あの連中を鞭でたたくのかね?」
「ええ、そうですとも。あいつらは文句を言いたければ、騒ぎをおこせるわけですが、やりませんね。罰金より鞭《むち》のほうがいいんですよ」
「妙な話だな!」とマコーマーが言った。
「妙なことはありませんよ、まったく」とウィルソンが言った。「あなたならどっちにしますか? しこたま鞭をくらうか、それとも給料をふいにするか?」
すると、彼はまずいことをきいたと思い、マコーマーが答えないうちに、つづけた。「わたしたちは、毎日、鞭をくらってるようなもんですよ、ね、あれやこれやと」
これもやっぱりまずかった。「おや、おや」と彼は考えた。「おれは外交家のはずだが?」
「そう、ぼくたちは鞭をくらってる」とマコーマーがまだ相手を見ないで、言った。「あのライオンのことでは、まことにすまなかった。あのことはこれ以上ひろまらないだろうね。つまり、だれもあのことは耳にしないだろうな」
「わたしがマサイガ・クラブでしゃべるとでもおっしゃるんですか?」ウィルソンは今度は冷たく相手を見つめた。彼はこんなことを言われるとは思わなかった。なるほど、こいつはいやらしい臆病者であるばかりでなく、ひどくいやらしい野郎だ、と思った。今日までは、どちらかといえば、好意をもっていたのだ。どうも、アメリカ人というやつは、わからないものだ。
「とんでもない」とウィルソンが言った。「わたしは狩猟を商売にしている人間ですよ。お客さんのことなんか、しゃべりませんよ。その点はご安心ください。でも、しゃべらないようになどとわたしたちに頼まれるのは感心しませんね」
手を切ったほうがずっと楽だと、彼はすでに心にきめていた。そうすれば、ひとりで食事し、食事しながら本が読めるのだ。こいつらはこいつらだけで食事するだろう。こいつの遠征狩猟《サファリ》を、おれはまったく形式ばった態度……フランス人ならなんと言ったっけ? すぐれた配慮とでも言ったかな……で最後まで見てやればいいのだ。そのほうが、こんなくだらない感情を我慢しなきゃならないのより、ずっと楽だろう。ひとつ恥をかかせて、きれいに手を切ろう。そうすれば食事をしながら本も読め、しかも相変わらず、こいつらのウィスキーが飲めるんだ。こういうのが遠征狩猟《サファリ》がうまくゆかないときの決まり文句なのだ。ほかの白人の狩猟家にばったり出会って、「どうだい、景気は?」ときいて、相手が、「ああ、やつらのウィスキーを相変わらずいただいてるよ」と答えたら、万事が駄目になったんだってことがわかるのさ。
「これは失礼」とマコーマーは言って、彼を見たが、その顔は中年になるまで若さを失わないあのアメリカ人らしい顔だった。ウィルソンは相手のボート選手みたいに刈りこんだ髪と、ごくわずかながら、うさんくさそうな眼つきと、立派な鼻と、薄い唇と、形のととのった顎《あご》をながめた。
「失礼、そうとは知らないで。ぼくの知らないことがたくさんあるんでね」
じゃあ、どうしたらいいんだ、とウィルソンは考えた。おれはすぐにでもきれいさっぱり手を切ろうとしていたのに、この乞食《こじき》野郎はたったいまおれを侮辱《ぶじょく》しておきながら、言いわけなんかしやがる。彼はもう一度、相手を突っついてみた。「わたしが話すなどと心配しないでください」と言った。「わたしだって食ってゆかなきゃなりませんからね。でも、ごぞんじでしょうが、アフリカでは、女だってライオンを射ちそこなったりしませんし、白人も逃けだしたりしませんよ」
さて、こんな物の言い方をする男をおれはいったいどうしようというんだ、とウィルソンは考えた。
ウィルソンは、無表情な、青い、機関銃手のような眼で、マコーマーを見た。相手は彼にほほえみかえした。気持ちを害したときのマコーマーの眼つきがどんなであるか気づかないものには、そのほほえみは愉しそうに見えた。
「水牛だったらきっとうまくやれるだろうね」と彼が言った。「この次は、水牛を追いかけるんだったね」
「よろしければ、明日の朝でも」とウィルソンが答えた。どうも、おれは考え違いしていたらしい。たしかに、こんなふうにして危機を切りぬけられるんだ。アメリカ人なんて、まったく、正体がつかめない。彼はふたたびマコーマーがすっかり好きになった。今朝《けさ》のことさえ忘れられればだ。だが、もちろん、忘れられっこない。今朝はとてもひどかったからな。
「奥様《メムサーイブ》が見えましたよ」と彼が言った。彼女は元気をとりもどし、快活でとても愛くるしい様子で、テントからこちらへ歩いてきた。完璧《かんぺき》な卵形の顔で、あまり完璧な卵形だから、白痴《はくち》ではないかと思われるほどだった。だが、彼女は馬鹿ではない、とウィルソンは考えた。まったく、馬鹿なんかじゃない。
「赤ら顔の好男子のウィルソンさん、ごきげんいかが? ご気分はよくなって、あたしの真珠のフランシス?」
「ああ、ずっとよくなった」とマコーマーが言った。
「あたしあんなこと、みんな水に流したわ」と彼女はテーブルの前に腰をおろしながら、言った。
「フランシスがライオンを殺すのがじょうずかどうかなんて、問題じゃないわ。商売じゃないんですもの。それは、ウィルソンさんの商売よ。ウィルソンさんは殺すことにかけては、ほんとにすてきよ、すごくすてき。なんでも殺すのよ、ねえ?」
「ええ、なんでも」とウィルソンが言った。「まったく、なんでも」アメリカの女は、と彼は考えた、世界じゅうで、いちばん難物だ。いちばん難物で、いちばん残酷で、いちばん略奪《りゃくだつ》性があり、それでいて、いちばん魅力がある。それに彼女らがかたくなってゆくのにつれて、相手の男はやわらかくなるか、神経がずたずたになってしまうんだ。それとも、自分が操縦《そうじゅう》できる男をえらぶのだろうか? 結婚する年には、そんなことまでわからないだろう、と彼は考えた。彼はこれまでにアメリカの女についていちおう心得ていることに感謝した。この女がすごく魅力があったからである。
「あすの朝、水牛狩りに行きますよ」と彼は彼女に言った。
「あたしも行くわ」と彼女が言った。
「いや、いけません」
「ううん、行くわ。いいでしょ、フランシス?」
「キャンプにいたらどうだ?」
「どうしても行くわ」と彼女が言った。「ぜったい、今日みたいなことを見逃したくないから」
彼女がさっき出ていったとき、とウィルソンは考えていた、泣くためにあっちへ行ったとき、彼女はひどく立派な女に見えた。理解があり、察しがよく、夫と自分のために心をいため、事情をすっかりのみこんでいるように見えた。それが、二十分ほど席をはずして、もどってくると、あのアメリカ女の残酷さをすっかり身に塗りこんでいる。アメリカの女なんてまったくいやな奴《やつ》だ。ほんとに、いやな奴だ。
「明日はお前のために別の見世物をやってあげるよ」とフランシス・マコーマーが言った。
「奥さんは来ないでください」とウィルソンが言った。
「あなたは勘違いしてるわ、まるで」と彼女は彼に言った。「あなたがもう一度やるのを見たいのよ、すごく見たいのよ。今朝は、あなた、すてきだったわ。獲物《えもの》の頭をふっとばすのがすてきだと言えるんなら」
「昼食がきました」とウィルソンがいった。「えらく愉《たの》しそうですな」
「もちろんよ。退屈するためにわざわざこんなところまで来たわけじゃないわよ」
「なるほど、退屈じゃなかったですね」とウィルソンが言った。彼には川の中の丸石や、向こうの木の茂った高い岸が見えた。すると、今朝のことが思いだされた。
「そうよ」と彼女が言った。「すばらしかったわ。それに、明日も。明日がどんなに愉しみか、あなた、わからないでしょう」
「いまボーイが出しているのがオオカモシカです」とウィルソンが言った。
「野兎《のうさぎ》のように跳ねる大きな雌牛《めうし》みたいなのね?」
「まあ、そういったものですね」とウィルソンが言った。
「とてもうまい肉だよ」とマコーマーが言った。
「フランシス、あなたが仕止めたの?」と彼女がたずねた。
「ああ」
「あぶなくはないの?」
「向こうからとびかかってこなければね」とウィルソンが答えた。
「うれしいわ」
「すこしはおしゃべりをやめたらどうだ、マーゴット」とマコーマーは言いながら、オオカモシカのステーキを切り、その肉片をつきさしたフォークを裏返しにして、その上にマッシュ・ポテトと肉汁と人参《にんじん》をのせた。
「やめようかしら」と彼女が言った。「あなたがとてもお上品に言うんだから」
「今晩は、ライオンのために、シャンペンをぬきましょう」とウィルソンが言った。「日盛りじゃあ、すこし暑すぎますからね」
「まあ、あのライオンね」とマーゴットが言った。「あのライオンのこと忘れてたわ!」
それでは、とウィルソンは考えた、この女は夫をからかっているんだな。それとも、うまくやってのけようとしているのかな? 夫がひどく臆病者だとわかったときは、女はどんなふるまいをするものだろう? この女はすごく残酷だが、女はみんな残酷なものだ。むろん、女が男を尻の下に敷くのだが、そのためには、ときには残酷にならなければならないのだ。それにしても、女のひどく残忍な行為は、いやというほど見せつけられたな。
「オオカモシカ、もっとめしあがりませんか」と彼は彼女に向かって、ていねいに言った。
その日の午後おそく、ウィルソンとマコーマーは現地人の運転手と二人の鉄砲もちをつれて、自動車で出かけた。マコーマー夫人はキャンプに残った。すごく暑いから、いまは出かけるのいやだわ、明日の朝早く、ごいっしょするわ、と彼女は言った。車で遠ざかってゆくとき、ウィルソンには彼女が大きな木の下に立っているのが見えた。美しいというより、むしろ、かわいらしかった。かすかにバラ色がかったカーキ色の服を着て、黒髪を額からうしろにかきあげ、首の下のほうで束ねていた。顔は、まるでイギリスにでもいるかのようにみずみずしい、と彼は思った。車が背の高い草の茂った湿地をぬけ、木立《こだち》の間をまがりくねって、果樹の茂みのある小さな丘にはいっていったとき、彼女は彼らに向かって手をふった
果樹の茂みの中で、彼らは一群のインパラを発見し、車をすてて、長い角を幅広く張った一頭の老雄羊《ろうオヒツジ》に忍びより、マコーマーはたっぷり二百ヤードはある距離から、まことに見事な一撃でそれを射ちたおした。ほかのインパラたちは狂ったように跳ねあがり、互いの背中をとびこえ、ときどき人が夢でみるように、信じられないくらいに、足をちぢめて、空中に浮かびあがり、逃げていった。
「見事に射ちましたね」とウィルソンが言った。「小さい的《まと》でしたが」
「捕りがいのある奴かね?」とマコーマーがたずねた。
「すばらしいですよ」とウィルソンが答えた。「あんなふうに射てば、面倒はないんですよ」
「明日、水牛は見つかるかね?」
「充分そのチャンスはありますよ。朝早く、草を食いに出てきますから、うまくいけば、見とおしのきく原っぱで見つけら黷ワすよ」
「あのライオンの失敗をとりもどしたいんだよ」とマコーマーが言った。「あんなヘマをやるところを女房に見られるなんて、あんまり愉快じゃないからね」
女房が見ようが見まいが、あんなことをすること自体、また、やってしまっておいてから、そんなことを話すほうが、ずっと不愉快だ、とウィルソンは考えた。だが、彼は言った。「もうあんなことは考えたくないですね。だれだって、初めてライオンに会ったときは、あわてますよ。でも、もうすっかりすんだことですから」
だが、その夜、食事をし、火のそばでハイボールを飲んでから、ベッドに行ったものの、フランシス・マコーマーはかやをつった簡易ベッドに横になって、夜の物音に耳を傾けていたが、それはすっかりすんだことではなかった。すっかりすんだのでもなく、はじまりかけているのでもなかった。それはまったく起こったとおりのままでそこにあり、そのある部分が拭《ぬぐ》い消せないほど強調され、彼はみじめにもそれを恥じていた。だが、恥ずかしい以上に、心の中に、冷たい、うつろな恐怖を感じていた。かつて自信のあったところは、いまは、まったく空《から》になり、そこに恐怖が、冷たいぬらぬらしたくぼみのように、いまだに存在していた。それが彼に吐気《はきけ》をもよおさせた。それが、いまでも、彼とともにそこにあったのだ。
その恐怖が起こったのは、その前の晩、彼が目をさまして、川上のどこかでライオンが咆《ほ》えているのを耳にしたときだった。深い声で、そのあとに咳をするような唸《うな》り声がつづき、テントのすぐ外にいるように思われた。フランシス・マコーマーは、夜、目をさまして、それを耳にし、恐ろしくなったのだ。ぐっすり眠っている妻の静かな寝息がきこえた。恐ろしいという気持ちをうちあける相手も、いっしょに恐れてくれる相手もなく、ひとりぽっちで横になっていた。「勇敢な男もかならず三度はライオンにおびやかされる……はじめて足跡を見たとき、はじめて咆えるのをきいたとき、はじめて面と向きあったとき」というソマリランド地方の諺《ことわざ》も知らなかった。
それから、太陽がまだ出ないので、食堂テントの外に出てカンテラの灯で朝食をたべているとき、ライオンがまた咆えた。フランシスはライオンがキャンプのすぐそばまで来ているのだと思った。
「古強者《ふるつわもの》のようですね」とロバート・ウィルソンがくん製ニシンの開きとコーヒーから顔をあげながら、言った。「あの咳《せ》くような唸り声がきこえるでしょう」
「すぐ近くかね?」
「一マイルかそこら川上でしょう」
「見えるかね」
「あとで、見てみましょう」
「咆える声があんなに遠くからきこえるのかね? キャンプのすぐ近くにいるようだ」
「すごく遠くまできこえますよ」とロバート・ウィルソンが言った。「どうしてそんなに遠くまできこえるか、不思議ですよ。適当な奴だといいんですが。ボーイの話では、このへんには大きな奴がいるそうですよ」
「射つとしたら、どこを狙《ねら》えばいいのかね?」とマコーマーがたずねた。「止《とど》めをさすには?」
「肩ですね」とウィルソンが言った。「できれば、頚《くび》ですがね。骨を打つんです。倒しちゃうんですな」
「うまくあたればいいが」とマコーマーが言った。
「あなたは射撃がじょうずですよ」とウィルソンが言った。「ゆっくりやりなさい。見定めてから射ちなさい。最初に打ちこむ一発が大事ですからね」
「距離はどのくらい?」
「それはわかりませんね。ライオンによって違います。はっきり見定められるくらい近づくまでは、射ってはいけませんよ」
「百ヤード以内?」とマコーマーがたずねた。
ウィルソンはちらっと相手を見た。
「まあ百ヤードがいいところでしょうね。もうすこし近いほうがいいかもしれません。それ以上はなれたところからは、射ってはいけませんね。百ヤードというのが適当な距離です。その距離なら思うところを狙えますからね。奥様《メムサーイブ》がいらっしゃいましたよ」
「おはようございます」と彼女が言った。「あのライオンを追いかけるんですの?」
「奥様が朝食をおすませになりしだい」とウイルソンが言った。「ご気分はいかがですか?」
「すばらしくいい気分よ」と彼女が言った。「興奮してるのよ、すごく」
「準備ができているかどうか見てきましょう」ウィルソンは立ち去った。彼が行くとき、ライオンがまた咆《ほ》えた。
「うるさい乞食《こじき》野郎だ」とウイルソンが言った。「あの唸り声を止めてやろう」
「どうしたの、フランシス?」と妻が彼にきいた。
「いや、なんでもない」とマコーマーが言った。
「いえ、何かあるわ」と彼女が言った。「何にうろたえてるの?」
「いや、なんでもない」
「ねえ、おしえて」と彼女は夫のほうを見た。「気分が悪いの?」
「あのいまいましい唸り声なんだ」と彼が言った。「ひと晩じゅう、咆えてやがるんだ」
「おこしてくれればよかったのに」と彼女が言った。「ききたかったわ」
「あのいまいましい奴を殺さなくちゃならないんだ」とマコーマーがみじめな調子でいった。
「あら、そのために、こんなところまできたんじゃなくって?」
「ああ、だが、いらいらしちゃってね。あいつが咆えるのが神経にさわるんだ」
「じゃあ、ウィルソンが言ったように、あれを仕止めて、あの咆えてるのを止めさせることよ」
「ああ、そのとおりさ」とフランシス・マコーマーが言った。「言うはやさしいがね」
「あなた、こわいんでしょう」
「もちろん、こわかないさ。だが、ひと晩じゅう唸られたんで、いらいらしてるんだ」
「あなた、見事に仕止めるんでしょうね」と彼女が言った。「きっと、そうよ。見たいわ、すごく」
「朝食、すませな、出かけるから」
「まだ暗いんじゃないの」と彼女が言った。「こっけいね」
ちょうどそのとき、ライオンが胸の奥からうめくように咆え、だしぬけに喉《のど》を鳴らし、唸り声がしだいに高まり、空気をふるわせるかと思われたが、しまいには溜《ため》息と、胸の奥からでる重々しい、ぶつぶついう声になった。
「すぐそこにいるみたい」とマコーマーの妻が言った。
「いやだな」とマコーマーが言った。「あのいまいましい声は大嫌いだ」
「すごく印象的よ」
「印象的さ。ぞっとするがね」
そのとき、ロバート・ウィルソンが銃身の短い、無格好な、おそろしく大きな、〇・五〇五インチ口径のギブズ銃をもち、にやにや笑いながら、やってきた。
「行きましょう」と彼が言った。「鉄砲もちがあなたのスプリングフィールド銃と大型銃をもってますよ。車のなかにみんなのせてあります。弾丸《たま》はおもちですね?」
「うん」
「あたしも支度《したく》できてるのよ」とマコーマー夫人が言った。
「奴の騒ぎを止めさせなきゃ」とウィルソンが言った。「あなたは前に乗ってください。奥様《メムサーイブ》はわたしといっしょにうしろの席に坐りますから」
彼らは自動車にのりこみ、灰色の最初の暁《あかつき》の光の中を、木立をぬけて、川上に向かった。マコーマーは銃尾をあけ、金属のケースにはいった弾丸《たま》がつまっているのを確かめ、遊底を閉じ、安全装置をかけた。手がふるえているのがわかった。薬莢《やっきょう》がほかにもあるかと、ポケットをさぐり、服の前の輪飾りに差し込んである薬莢を手でさわった。彼は、ウィルソンがドアのないワゴン車の後部座席に妻と並んで坐っているほうを振りむいた。二人とも興奮してにやにや笑っていた。ウィルソンは身を前にのりだし、ささやいた。
「鳥が急降下するのが見えるでしょう。やっこさん、獲物をすてていったんですよ」
流れの向こう岸の木立の上を、禿鷹《ハゲタカ》が旋回し、まっすぐに降りてゆくのが、マコーマーに見えた。
「ことによると、このへんに水を飲みにくるかもしれませんよ」とウィルソンがささやいた。「ねぐらに帰る前にです。よく見張っててください」
ここでは流れは丸石のいっぱいころがった川床に深く切りこんでいたが、彼らはその流れの高い岸にそってゆっくり走り、大きな木々の間を出たりはいったりして縫っていった。マコーマーが向こう岸を見張っていると、ウィルソンが腕をつかむのが感じられた。車がとまった。
「あそこにいる」とささやく声がした。「前方の右手。おりて、射ちなさい。すばらしいライオンですよ」
マコーマーにもライオンが見えた。ほとんど真《ま》横にむき、大きな頭をもたげて、彼らのほうを見て、立っていた。彼らのほうへ吹いてくる早朝のそよ風がその黒いたてがみをたまたま動かしていた。ライオンは灰色の朝の光の中で、岸の高くなったところに影絵になって、巨大にみえた。肩は重々しく、樽《たる》のような胴体がなだらかにふくらんでいた。
「どのくらいの距離かね?」とマコーマーは銃をあげながら、きいた。
「七十五ヤードぐらいですね。おりて、射ちなさい」
「ここから射ってもいいだろう?」
「車の上から射つもんじゃありませんよ」とウィルソンの声が耳もとでした。「おりなさい。一日じゅうあそこにいるわけじゃありませんからね」
マコーマーは前の座席の横の湾曲《わんきょく》した出口から、ステップに足をかけ、地上におりた。ライオンはなおも堂々と冷静にこちらの物体をじっと見ながら立っていた。それは彼の眼には、影絵にしか映らず、巨大な犀《サイ》のようにふくれていた。人間の臭いが彼のほうに運ばれてゆかないので、彼はその物体をじっと見つめ、大きな頭をすこし左右に動かしていた。恐怖からではないが、そのようなものが眼の前にあるので、水を飲みに川岸をおりるのを、ためらいながら、その物体をじっと見ていると、ひとりの人間の姿がそれから離れるのが見えた。彼は重い頭を回して木蔭へ隠れようと走りだした。そのとき、するどい轟音《ごうおん》がして、口径〇・三〇〜〇六インチの二二〇グレーンの弾丸がずしりと脇腹に突きささり、突然、熱い、焼けつくような吐気をともなって、胃袋を裂いていった。彼は重たげに、大きな足をふみしめ、傷ついた太鼓《たいこ》腹をふりながら、木立のなかを、丈の高い草むらに隠れようと、走った。と、ふたたび轟音がきこえ、あたりの空気をつんざきながら、そばを通りすぎた。それから、また轟音がした。彼は下部の肋骨《ろっこつ》を打たれ、あたったものが体内に食いこんでゆき、血が、突然、口の中に熱く泡立つのが感じられた。彼は丈の高い草むらのほうに突進した。そこにうずくまって、見えないようにしていれば、人間たちにあの轟音を出すものを充分に近くまで持ってこさせ、とびかかって、それをもっている人間をやっつけることができるのだ。
マコーマーは車からおりたとき、ライオンがどのように感じているかなど、考えもしなかった。自分の手がふるえていることだけがわかった。車から歩きだしたとき、足がほとんど言うことをきかなかった。腿《もも》がこわばっていた。だが、筋肉がぴくぴく動いているのが感じられた。銃をあげ、ライオンの頭と両肩のつけ根に狙いをさだめ、引き金をひいた。指が折れるかと思われるくらいにひいたのだが、何もおこらなかった。それから、安全装置をしてあったことに気づき、銃をさげ、安全装置をはずしながら、凍りついたような足をもう一歩ふみだした。ライオンは、車の影絵から、いま、はっきりと、人間の影絵がはなれたのを見てとって、向きを変え、早足でかけだした。マコーマーは発砲《はっぽう》した。弾丸《たま》が命中したと思われるズブリという音がきこえた。だが、ライオンは走りつづけた。マコーマーはふたたび射った。弾丸が早足でにげるライオンの向こうに落ちて、土煙りをあげるのが、みんなに見えた。彼は狙いを低くしなければいけないと思いだしながら、また射った。弾丸の命中する音がみんなにきこえた。ライオンは全速力で駆けだし、マコーマーが遊底を前へ押しだすよりも早く、丈の高い草むらの中にはいってしまった。
マコーマーは胃のあたりがむかむかするのを感じながら、そこに立っていた。まだ打ち金を起こしたままのスプリングフィールド銃を構えている両手はふるえていた。妻とロバート・ウィルソンがそばに立っていた。二人の鉄砲もちもワカンバ語〔イギリス領東アフリカのワカンバ族の言葉〕でしゃべりながら、そばにいた。
「あたった」とマコーマーが言った。「二度あたったね」
「腹へあてましたね。それから、どこか前のほうへ」とウィルソンがすげなく言った。鉄砲もちたちはひどく容易ならないといった顔をしていた。いまは、黙りこんでいた。
「仕止められたかもしれなかったんですがね」とウィルソンがつづけた。「捜しにはいってゆくには、しばらく待たなきゃなりません」
「というと?」
「追いつめる前に、弱らせとくんです」
「ああ、そう」とマコーマーが言った。
「すばらしいライオンですよ」とウィルソンが快活に言った。「だが、まずいところにはいりこんだもんですな」
「どうしてまずいんだね?」
「面とぶつかるまで、見えませんよ」
「ああ、そう」とマコーマーが言った。
「さあ、ゆきましょう」とウィルソンが言った。「|奥さん《メムサーイブ》はこの車の中にいてください。わたしたちは血の跡を調べに行きますから」
「ここにいな、マーゴット」とマコーマーが妻に言った。彼の口はひどく乾き、ものを言うのも面倒だった。
「どうして?」と彼女がたずねた。
「ウィルソンがそう言うから」
「ちょっと見てきますから」とウィルソンが言った。「ここにいてください。ここからのほうがよく見えますよ」
「いいわ」
ウィルソンは運転手にスワヒリ語で何か話した。運転手はうなずき、「はい、旦那《ブワナ》」と言った。
それから、彼らは急な岸をおり、丸石をよじのぼったり、迂回《うかい》したりして、流れを渡り、突きでている木の根にすがって、向こう岸へあがり、川にそって歩き、やがて、マコーマーが最初に射ったときにライオンが走っていたところを見つけた。鉄砲もちが草の茎で指さした短い草の上に黒い血がこびりついていて、血痕《けっこん》は川岸の木立の背後に消えていた。
「どうするんだね?」とマコーマーがたずねた。
「どうにもしようがないんですよ」とウィルソンが言った。「車を乗りいれるわけにいきませんしね、岸があまり急ですから。やっこさんをもう少し弱らせておいて、あなたとわたしで中にはいり、捜しましょう」
「草に火をつけるわけにはいかないかね?」とマコーマーがたずねた。
「青すぎますよ」
「勢子《せこ》〔狩のとき、鳥・獣を誘い出したり、追い込んだりする人夫〕を使うわけにはいかないかね」
ウィルソンは相手を品定めするような眼つきで見た。「もちろん、使えますよ」と彼は言った。「でもそいつはちょっとむごいですね。ライオンが手傷を負ってることをこちらは承知してるんですから、手傷を負っていないライオンなら狩りたててもいいんですが……物音がすれば逃げていきますから……ですが、手傷を負ったライオンは攻撃してくるんです。出くわすまでは、見えませんね。野ウサギ一匹、隠れられないと思われるような物蔭に、ぴたりと腹ばいになってるんですからね。そんなところへ勢子《せこ》をやるわけにはいきませんよ。きまって、だれかが八つ裂きにされますからね」
「鉄砲もちはどう?」
「ああ、あの連中はいっしょにきますよ、それが彼らの仕事《シャウリ》ですから。そのために雇われてるわけです。でも、あまり愉《たの》しそうな顔つきじゃありませんね」
「あんなところにはいりたくないね」とマコーマーが言った。思わず、そう口から出てしまった。
「わたしだって同じですよ」とウィルソンがひどく快活に言った。「でも、ほかにしようがないんです」それから、あとでふと思いついて、マコーマーをちらと見たが、相手がふるえ、哀れっぽい表情を顔にうかべているのを、すばやく見てとった。
「むろん、あなたは、はいらなくていいんです」と彼は言った。「わたしが雇われているのはそのためなんですから。わたしが高い給金をいただいてるのも、そのためなんですから」
「あなたが一人で中にはいってゆくというのかね?あいつをここにほったらかしといたらどう?」
ロバート・ウィルソンはライオンと自分がもちだした問題にばかり気をとられていて、マコーマーについては、臆病になってるらしいことに気づいた以外は、何も考えていなかったが、突然、ホテルで間違えた部屋のドアを開《あ》け、何か恥ずかしいものを見たときのような気持ちになった。
「とおっしゃると?」
「あいつをほったらかしといたらどう?」
「弾丸《たま》があたらなかったような顔をしろというんですね?」
「いや。ただ、ほうっとくんで」
「そりゃあ、いけません」
「どうして?」
「ひとつには、あいつは確かに苦しんでいる。それに、だれかほかの人があいつに出くわすかもしれない」
「なるほど」
「でも、あなたは手だししなくてもいいんですよ」
「ぼくもいきたいんだが」とマコーマーが言った。「ただこわいんでね」
「はいるときは、わたしが先頭に立ちますよ」とウィルソンが言った。「それに、コンゴニに血の跡をつけさせましょう。あなたはすこし片側によって、わたしのあとから来てください。あいつが唸っているのが聞こえるかもしれませんよ。見つけたら、ふたりで射ちましょう。何も心配はいりません。わたしが援護《えんご》していますから。でも、実際のところ、おいでにならないほうが、よさそうですね。そのほうがずっといいでしょう。お帰りになって、|奥さん《メムサーイブ》といっしょにお待ちになったらどうです。わたしが片づけますよ」
「いや、行きたいんだ」
「じゃあ、けっこうです」とウィルソンが言った。「でも、いやなら、はいらないでください。これがわたしの仕事《シャウリ》なんですから」
「行きたいんだ」とマコーマーが言った。
彼らは木の下に坐って、煙草をふかした。
「お待ちしていますから、引き返して、|奥さん《メムサーイブ》とお話してこられませんか?」とウィルソンがたずねた。
「いや」
「わたしはちょっともどって、奥さんに辛抱《しんぼう》して待っててくださるよう言ってきましょう」
「ありがとう」とマコーマーが言った。彼はそこに坐ったままだったが、脇の下に汗をかき、口は乾き、胃は空っぽの感じで、ウィルソンにひとりでいって、ライオンを片づけてくれと言えるだけの勇気があればよいがと思っていた。彼は自分がいましがたまでどんな状態であったかも考えずに、ウィルソンを妻のところにやったために、ウィルソンがひどく怒っているのに、気づかなかった。そこに坐っているうちに、ウィルソンがもどってきた。「あなたの大型銃をもってきました」と彼は言った。「おもちください。奴にたっぷり時間をあたえたようです。でかけましょう」
マコーマーは大型銃をうけとった。ウィルソンが言った。
「わたしのうしろの右側五ヤードぐらいのところにいてください。わたしの言うとおりにしてください」それから、スワヒリ語で二人の鉄砲もちに話したが、二人は陰鬱《いんうつ》そのもののような顔をしていた。
「さあ、ゆきましょう」と彼は言った。
「水を飲みたいんだが」とマコーマーは言った。ウィルソンはベルトに水筒をつるしている年上のほうの鉄砲もちに話しかけた。その男は水筒をはずし、栓《せん》をぬき、マコーマーに手渡した。マコーマーはそれをうけとると、ずいぶん重い感じで、手にしたフェルトの覆《おお》いがひどく毛ばだっていて、まがいものなのに気づいた。彼は水を飲もうと水筒をもちあげ、前方の丈の高い草むらを見た。その背後は、頂きの平らな木が茂っていた。そよ風が彼らのほうに吹き、草が静かに波うっていた。鉄砲もちを見ると、鉄砲もちも恐怖にとりつかれているのがわかった。
草むらの三十五ヤード奥に、あの大きなライオンが地面に平べったく臥《ふ》せていた。耳をうしろによせ、動きといえば、長い黒い毛のふさふさした尻尾《しっぽ》を上下にわずか動かしているばかりだった。彼はこの隠れ場についたとたん、追いつめられて踏みとどまったのだ。太鼓腹を貫いた傷に吐気をもよおし、肺を貫いた傷のため、呼吸するたびに泡のような薄い赤い血が口もとに吹き出てきて、身体が弱っていた。脇腹はぬれてほてり、堅い弾丸《たま》が茶褐色の皮膚にあけた小さな傷口に蝿《はえ》がたかっていた。大きな黄色い眼は憎悪をこめて細められ、まっすぐ前方を見、呼吸するたびに苦痛を感じて、わずかにまばたくだけだ。爪《つめ》は日に焼けたやわらかい土に突き立っていた。彼のすべて、苦痛も、吐気も、憎悪も、残っている力の全部が突撃ということに完全に凝結し、集中していた。人間たちの話し声をきき、人間が草むらにはいってきたら、すぐとびかかろうと、その準備に全力を集中して、待っていた。彼らの声をきくと、彼の尻尾はこわばって上下にぴくりぴくり動き、彼らが草むらのはずれに踏みこんだとき、彼は咳《せき》ばらいのような唸り声をあげて、とびかかった。
年よりの鉄砲もちのコンゴニは血の跡を調べながら先頭に立ち、ウィルソンは草むらがちょっとでも動くかと、大型銃を構えて、見張り、もうひとりの鉄砲もちは前方を見ながら、きき耳をたて、マコーマーはウィルソンのすぐ近くで、ライフル銃の引き金を引いていた。彼らが草むらに踏みこんだとたん、マコーマーは血に喉《のど》をつまらせた咳ばらいのような唸り声を耳にし、草むらの中をひゅっと突進してくるものが見えた。次に気づいたときは、彼は逃げだしていた。気ちがいのように逃げていた。恐怖におびえ、原っぱを、小川のほうに逃げていた。
ウィルソンの大型のライフル銃がカラウォン! と鳴るのがきこえ、次の瞬間、また、すさまじいカラウォン! という音がきこえ、ふりむくと、ライオンが今ではすさまじい形相《ぎょうそう》で、頭の半分が吹きとんでしまったようになって、丈の高い草むらのはずれにいるウィルソンのほうへ這《は》ってくるのが見えた。と、この赤ら顔の男は、短い不格好なライフル銃の遊底を操作して、注意深く狙いをさだめた。また、銃口からカラウォン! という爆発音が鳴り、這いよってくる、重い、黄色いライオンの図体《ずうたい》がこわばり、片輪にされた巨大な頭ががっくりと前につんのめった。マコーマーは逃げだしてきた空地に弾丸《たま》をこめたままのライフル銃をもって、ひとりで立っていたが、二人の黒人と一人の白人が軽蔑して彼のほうをふりかえったので、ライオンが死んだことを知った。彼はウィルソンのほうへ近よっていった。その背の高い全身はあらわな非難にさらされているように思われた。ウィルソンは彼を見て、言った。
「写真でもとりますか?」
「いや」と彼は言った。
それっきり、車のところへつくまで、だれも口をきかなかった。つくと、ウィルソンが言った。
「すばらしいライオンですな。鉄砲もちたちが皮をはいでくれますよ。われわれはこの日蔭で持つことにしましょう」
マコーマーの妻は彼のほうを見なかったし、彼も妻のほうを見なかった。彼は後部の座席に妻と並んで坐り、ウィルソンが前の座席に坐った。一度、彼は眼をそらしたまま、手をのばして、妻の手をとったが、妻はその手をひっこめた。川向こうで、鉄砲もちたちがライオンの皮をはいでいるのを見ていると、彼は妻にすべてが見えたのだと知った。彼らがそこに坐っているあいだに、妻は手を前にのばして、ウィルソンの肩においた。ウィルソンがふりむくと、彼女は低い座席の上に身をのりだして、彼の口にキスした。
「これは、これは」とウィルソンは言い、いつもの日焼けした顔をさらに赤くした。
「ロバート・ウィルソンさん」と彼女は言った。「美男で赤ら顔のロバート・ウィルソンさん」
そう言って、彼女はふたたびマコーマーの横に腰をおろし、川向こうに眼をやったが、そこにはライオンが腱《けん》の著しく目立った白い筋肉の裸の前肢《ぜんし》を上にあげて横たわり、黒人たちが皮から肉を削りとっていた。最後に、鉄砲もちたちが濡《ぬ》れて重い皮を運んできて、それをぐるぐる巻いてから、それをもって車の後部に乗りこんだ。車が動きだした。キャンプに帰るまで、だれも、ひと言もいわなかった。
これがライオンの物語である。ライオンがあの突進をはじめる前にどう感じたか、また、その突進の最中に初速二トンという口径〇・五〇五インチ銃の信じられないほどの強打を口にうけてどう感じたか、また、ライオンがそのあとで、二度目のすさまじい轟音で腰のあたりを打ち砕かれても、轟音を発し、火を吹き、自分を破壊した物体に向かって這いよっていったのだが、なぜそのように前進しつづけたのか、マコーマーにはわからなかった。ウィルソンのほうはいくらかはわかっていたので、「すばらしいライオンですな」といって、それを表現しただけだった。だが、マコーマーは、ウィルソンがその事にどのように感じたのか分らなかった。妻についても、自分に愛想をつかしているということのほかは、どんな感じをもっているのか分らなかった。
妻は前にも彼に愛想をつかしたことがあったが、一度も長続きはしなかった。彼はすごい金持ちで、将来はもっと金持ちになりそうだった。妻はもう彼と別れはしないことを知っていた。それは彼がほんとうに知っているごくわずかなことのひとつだった。彼の知っていることといえば、そのことと、オートバイのこと……それは一番はじめだった……自動車のこと、鴨猟《カモりょう》、魚釣り、鱒《マス》や鮭《サケ》や大きな海の魚のこと、書物に、多くの書物に、あまりにも多くの書物にでてくるセックスのこと、あらゆる球技のこと、犬のこと、馬のことはほんのちょっぴり、自分の金にみれんをもっていること、そのほか自分の世界に関係のあるたいていのこと、それから、妻が自分と別れはしないということだった。妻はすごい美人だったし、いまでも、アフリカではすごい美人だが、もう本国では、彼と別れて、いまよりよい身分になれるほどのすごい美人ではなくなっていた。彼女はそれを知っていたし、彼もそれを知っていた。彼女は彼と別れる機会を失ってしまったのだし、彼はそれを知っていた。彼の女の扱い方がもっとじょうずだったら、彼女はたぶん、彼がほかの新しいきれいな妻を手にいれるのではないかと心配しはじめたことだろう。だが、彼女は彼のことを知りすぎていたので、そんな心配はしなかった。それに、彼はいつも非常な寛大《かんだい》さをもっていた。それは彼のもっとも不気味な点ではないにしても、彼のもっともよい点だと思われたのだった。
総体的にみて、二人は比較的幸福に結婚した夫婦として知られていた。別れるということがしばしば噂《うわさ》にはのぼるが、決して実現しないといった夫婦の一例で、新聞の社交欄担当のある記者が述べたところによると、マーティン・ジョンソン夫妻〔アフリカ猛獣探検映画の制作者として有名〕がたびたびスクリーンで、ライオンの『オールド・シンバ』や、水牛や、象の『テンボ』などを追跡し、同時に、博物館〔オレゴン大学付属の博物館〕のために標本を集めて、その様子を世間に知らせるまでは、『最も暗黒なアフリカ』として知られていた地方に、こうして『遠征狩猟《サファリ》』を行なうことによって、大いにうらやましがられ、いつまでも長続きしている二人の『ロマンス』に、『冒険』という風味以上のものをつけ加えていたのだった。この同じ記者は二人が過去において少なくとも三度、いまにも離婚しそうになった、と報じたが、じじつ、そのとおりだった。だが、二人はいつも和解した。二人が結ばれる堅固《けんご》な土台があったのだ。マーゴットはマコーマーが離婚するにはあまりにも美しかったし、マコーマーはマーゴットが別れるにはあまりにも金持ちだったのだ。
いまは、午前三時ごろだった。フランシス・マコーマーはライオンのことを考えるのをやめて、しばらく眠り、それから一度、目をさまして、ふたたび眠りこんだが、今度は、血だらけの頭のライオンが自分の上に立ちはだかっている夢を見て、驚いて急に目をさまし、心臓をどきどきさせながら、耳をすましていると、妻がテントの中のもうひとつの簡易ベッドにいないのに気がついた。彼はそうと知って二時間も目をさましたまま横になっていた。
その二時間の終わりに、妻がテントにはいってきて、かやをあげ、気持ちよさそうにベッドにもぐりこんだ。
「どこへ行ってたんだ」とマコーマーが暗闇の中できいた。
「あら」と彼女が言った。「おきてたの?」
「どこへ行ってたんだ?」
「ちょっと外の空気を吸いに行ってただけよ」
「嘘《うそ》をつけ」
「じゃあ、なんと言ったらいいの、あなた」
「どこへ行ってたんだ?」
「外の空気を吸いに行ってたのよ」
「そいつは新しい口実だね。売女《ばいた》め」
「じゃあ、あなたは臆病者ね」
「いいとも」と彼が言った。「それがどうした?」
「あたしにとっちゃあ、なんでもないわ。でも、おねがい、あなた、おしゃべりやめて。あたし眠いの、すごく」
「ぼくがなんでも我慢すると思ってるんだね」
「そうでしょう、あなたは」
「ところが、ちがうぞ」
「おねがいだから、あなた、おしゃべりやめて。眠いのよ、すごく」
「もうこんなことはしないはずだったんだ。そう約束したじゃないか」
「でも、こうなっちゃったの」と彼女は甘ったるい口調でいった。
「この旅行にでたら、もうこんなことはしないと言ったじゃないか、約束したじゃないか」
「そうよ、あなた。そのつもりだったのよ。でも、旅行は昨日《きのう》でめちゃめちゃになったじゃないの。そんなこと、いまさら、いう必要ないんじゃない?」
「お前は自分に都合のいいことがあると、待てないんだな?」
「おねがいだから、おしゃべりやめて。すごく眠いのよ、あなた」
「ぼくはしゃべるよ」
「じゃあ、あたしのことなんか気にしないでよ。あたし、寝るから」そう言って、彼女は眠った。
夜明け前、朝食で、三人はそろってテーブルについた。フランシス・マコーマーは自分の嫌いな多くの男のうちで、ロバート・ウィルソンが一番嫌いだということに気がついた。
「よく眠れましたか?」とウィルソンはパイプにタバコをつめながら、例のしわがれ声できいた。
「あなたは?」
「ぐっすりとね」と白人の狩猟家は答えた。
この野郎、とマコーマーは考えた、あつかましい野郎め。
じゃあ、彼女はテントにはいるとき、奴の目をさましたんだな、とウィルソンは無表情な冷たい眼で二人を見ながら、考えた。じゃあ、なぜ、奴は自分の妻君をいるべきところにおいておかないんだ? このおれをなんだと思ってるんだ? 信心深い偽善《ぎぜん》者とでも思ってるんだろうか? 細君をいるべきところにおいておけばいいんだ。自分が悪いんだ。
「水牛、見つかるかしら?」とマーゴットがあんずの皿をおしやりながら、きいた。
「見つかると思いますよ」とウィルソンは言って、彼女にほほえみかけた。「キャンプにお残りになったらどうです?」
「絶対いやだわ」と彼女が答えた。
「キャンプに残るようお命じになったらどうです?」とウィルソンがマコーマーに言った。
「あなたが命じてくれ」とマコーマーが冷たく言った。
「命令なんてよしましょうよ。それに」とマコーマーのほうに向いて、「馬鹿なことを言うのもね、フランシス」とマーゴットはひどく愉《たの》しそうに言った。
「出発の準備ができたかね?」とマコーマーがたずねた。
「いつでも」とウィルソンが答えた。「奥様《メムサーイブ》をお連れになりますか?」
「どっちだって同じだよ」
こん畜生め、とロバート・ウィルソンは考えた。まったく、糞《くそ》くらえだ。まあ、こんなふうになるんだろう。そうだ、こんなふうになるのさ。
「同じことですよ」と彼は言った。
「あなたは、この女とキャンプに残って、ぼくを水牛狩りに行かせるってんじゃないだろうね」とマコーマーがたずねた。
「そんなわけにはいきませんよ」とウィルソンが言った。「わたしがあなたなら、そんな馬鹿なことは言いませんよ」
「馬鹿を言ってるんじゃない。胸がむかついてるんだ」
「いやな言葉ですね、むかつくなんて」
「フランシス、おねがい、言葉に気をつけて」と彼の妻が言った。
「ぼくは言葉に気をつけすぎるんだ」とマコーマーが言った。「こんなきたならしいもの食べたことあるかい?」
「何か料理がいけませんでしたか」とウィルソンがおだやかにたずねた。
「何もかも気にくわんよ」
「おちついてほしいですな、あなた」とウィルソンがおだやかに言った。「すこしは英話のわかるボーイも給仕してるんですからね」
「そんな奴、糞くらえだ」
ウィルソンは立ちあがり、パイプをふかしながら、彼を待って立っていた鉄砲もちの一人にスワヒリ語で、ふた言《こと》み言《こと》話しかけて、向こうへぶらぶら行ってしまった。マコーマーと妻はテーブルに向かったままだった。彼はコーヒー・カップをじっと見つめていた。
「あなたがみっともない騒ぎを起こしたら、あたし、あなたと別れるわ」とマーゴットがおだやかに言った。
「いや、別れはしないよ、お前は」
「やってみれば、わかるわ」
「ぼくと別れないさ」
「ええ」と彼女が言った。「別れないわ。あなたもちゃんとふるまってね」
「ちゃんとふるまえだって? これは恐れいった。ちゃんとふるまえか」
「そうよ、ちゃんとふるまってちょうだい」
「お前はどうして、ちゃんとふるまおうとしないんだ?」
「あたしは、ずいぶん長いこと、そうしてきたわ。すごく長かったわ」
「ぼくはあの赤ら顔の豚野郎が大嫌いだ」とマコーマーが言った。「見るのもいやだ」
「あのかたはほんとうにいいかたよ」
「おい、だまれ」とマコーマーはいまにもわめきそうな声で言った。ちょうどそのとき、車がやってきて、食堂テントの前で止まり、運転手と二人の鉄砲もちが出てきた。ウィルソンが歩いてきて、そこのテーブルについている夫妻を見た。
「狩に出かけますか?」と彼はたずねた。
「ああ」とマコーマーは立ちあがりながら、言った。「行こう」
「セーターをもっていったほうがいいですよ。車の中は冷えますから」とウィルソンが言った。
「あたし、革のジャケットをとってくるわ」とマーゴットが言った。
「それならボーイがもっていますよ」とウィルソンが言った。彼は運転手といっしょに前の座席にのりこみ、フランシス・マコーマー夫妻はひと言も口をきかずに後部の座席に坐った。
この馬鹿な乞食野郎がおれの頭をうしろから吹っとばそうなどという気にならなければいいが、とウィルソンは考えた。女なんて遠征狩猟《サファリ》にはやっかいな代物《しろもの》だ。
車は明け方の灰色の光の中を、車輪をきしませながら下りてゆき、小石がごろごろしている浅瀬で、川を渡った。それから、けわしい岸を急角度で上っていった。そこは、ウィルソンが前日、シャベルで道をつくらせておいたところで、彼らは向こう側の、猟園のような、木のおい茂った、起伏《きふく》のあるところへ出た。
気持ちのいい朝だ、とウィルソンは考えた。朝露がじっとりおりて、車輪が草むらや低い潅木《かんぼく》のなかを進んでゆくと、おしつぶされた羊歯《シダ》のにおいがした。それはクマツヅラのようなにおいだった。彼は車が道のない猟園のような土地を走ってゆくとき、このような早朝の露のにおいや、おしつぶされたワラビや、早朝のもやの中に黒ずんで見える木の幹の有様が好きだった。彼はうしろの座席の二人のことを忘れてしまい、水牛のことを考えていた。彼が追いかけていた水牛は日中は射撃できない密林の沼地にいるが、夜になると、広々とした原っぱへ草を食べに出てくるのだった。そして、車で彼らと沼地の間に乗りこめれば、マコーマーは原っぱで彼らを射つ絶好のチャンスにめぐまれるのだ。ウィルソンは茂った隠れ場などにはいって、マコーマーといっしょに水牛狩りをするのはいやだった。水牛であろうが、何であろうが、マコーマーといっしょに狩りをするのはいやだった。だが、おれは職業狩猟家なのだ。若いころには、一風変わった狩猟家のお伴をしたこともあったものだ。もし、今日、水牛を仕止めたら、あとは犀《サイ》ぐらいしかいない。そうすれば、このあわれな男も危険な遊びを切りぬけて、事態も好転するだろう。おれもこの女とこれ以上の関係をもつ気はないし、マコーマーもあのことは我慢してくれるだろう。見たところ、同じような目に何度も出くわしているに相違ない。かわいそうな乞食野郎だ。我慢する方法を心得ているに相違ないのだ。ともかく、このあわれな男色家自身が悪いのだ。
ロバート・ウィルソンは遠征狩猟中は、どんな幸運にめぐりあわせるかわからないので、それにそなえて、ダブル・ベッドをもち歩いていた。ある常連客のために狩猟にでかけたことがあるが、それはいろんな国籍の人間のまじった、放埓《ほうらつ》で、スポーツ好きな一団で、その中の女たちはこの白人の狩猟家とベッドをともにしなければ、金を払っても損をすると思っていた。そのときには、ずいぶん好きになった女もいたが、離れてみると、みんな軽蔑すべき女たちだった。しかし、彼はこうした連中によって生計を立てているのだった。だから彼らに雇われているかぎり、彼らの価値基準が彼の価値基準なのだ。
彼らは射撃以外のすべての点で彼の価値基準だった。狩猟に関しては、彼は独自の価値基準をもっていた。彼らはそれに従うか、それがいやなら、だれかほかの人を雇わなけれはならなかった。この点では彼らがみな彼を尊敬していることも、彼は知っていた。だが、このマコーマーという男は変な奴だ。たしかに、変だ。それに、細君。そう、細君。うん、細君。ふん、細君。そう、まったく、あのことは忘れていた。彼は首を回して、二人を見た。マコーマーは、むっとして、こわそうな顔をしていた。マーゴットは彼にほほえみかけた。今日はいつもより若々しく、ずっと無邪気で、商売女のような美しさはなかった。いったい何を考えているのだろう、とウィルソンは考えた。彼女は、昨夜は、あんまり話さなかった。それなのに、その顔を見ていると、愉しいのだ。
車はゆるやかな坂をのぼり、木立《こだち》の中を走りつづけ、やがて、大平原のような草の茂った原っぱに出て、その原っぱの端の木立にそって隠れながら進んだ。運転手はゆっくり車を進め、ウィルソンは注意深く大平原を見渡し、その向こうのほうを見やった。彼は車を止めさせ、双眼鏡で広い草原をくまなく調べた。それから、運転手に進むように合図すると、車はゆっくり進んだ。運転手はイボイノシシの穴をさけたり、泥でできた蟻塚《ありづか》を迂回《うかい》した。やがて、草原の向こうを見ていたウィルソンが不意にふりむいて、言った。
「そら、あそこにいますよ!」
そこで、車がはねるように前進し、ウィルソンが早口のスワヒリ語で運転手に話しかけているあいだに、マコーマーがウィルソンの指さすほうを見ると、三頭の巨大な黒い獣が見えた。その長く重そうな巨体はほとんど円筒形で、大きな黒い液体輸送貨車《タンクカー》のようで、広々とした大平原の向こうのはずれを疾走《しっそう》していた。首をこわばらせ、身体をこわばらせ、疾駆《しっく》していた。頭を前へつきだして疾走していたのだが、その頭の上に、幅の広い黒い角が上のほうにつきでているのが見えた。頭は動かしていなかった。
「親の雄《おす》水牛が三頭です」とウィルソンが言った。「沼地へゆかないうちに、道をさえぎりましょう」
車は時速四十五マイルで草原を猛烈に走ったが、マコーマーがじっと見ていると、水牛の姿はしだいに大きくなり、ついには、一頭の巨大な雄水牛の、灰色の、毛のない、かさぶただらけの姿が見え、頚《くび》が両肩の一部分になっていて、角が黒く輝いているのが見えた。それが疾走してゆくすこし前を、ほかの二頭が間隔をおいて同じ調子でずんずん突進していた。やがて、車が道をとびこえたかと思うほど揺れると、彼らは水牛のすぐ近くに来ていた。突進する水牛の巨体や、毛のまばらにはえた皮膚についた砂や、角の幅広い突起や、大きい鼻孔《びこう》のある広がった鼻面《はなづら》が見えた。マコーマーはライフル銃を構えようとした。すると、ウィルソンに「馬鹿野郎、車の上から射つな!」とどなりつけられた。そのとき、彼には何の恐怖もなかった。ただ、ウィルソンに対する憎悪の念だけがあった。車はガチャンとブレーキがかかり、ギーッと横すベりして、ほとんど止まりかかった。ウィルソンは車の片側に飛びおり、マコーマーは反対側に飛びおり、まだ動いている地面に足をぶつけて、よろめいたが、すぐに、逃げてゆく水牛に向かって射った。弾丸《たま》が相手の身体にめり込む音がきこえたが、水牛は歩度を乱さず走りつづけるので、ありったけの弾丸をうってしまい、やっと弾丸を前の方の肩へうちこまなければいけないということを思いだし、装填《そうてん》しなおそうとして、ごそごそやっていると、水牛の倒れるのが見えた。膝をついて、大きな頭をふりあげていた。ほかの二頭がまだ走りつづけているのを見て、彼は先頭の奴を射ち、命中させた。また射ったが、はずれた。と、ウィルソンの射ったカラウォン! という銃声がきこえ、先頭の水牛が前へつんのめって鼻を地面にぶっつけるのが見えた。
「あのもう一頭を」とウィルソンが言った。「さあ、射て!」
だが、そのもう一頭は同じ調子で歩度を乱さず、疾走していた。彼は射ちそこない、土煙りをあげたが、ウィルソンも射ちそこない、砂ぼこりを雲のようにあげた。ウィルソンは「さあ、急げ。遠すぎる!」と叫んで、彼の腕をつかんだ。彼らはふたたび車にのった。マコーマーとウィルソンは車の両わきにぶらさがり、でこぼこの地面をゆれながら突進して、歩度をゆるめずまっしぐらに疾走してゆく頚《くび》の太い水牛に近づいていった。
彼らはその水牛を追いかけた。マコーマーはライフル銃に装填しようとして、弾丸《たま》を地面に落としたり、銃を詰まらせ、詰まったのを取り除いたりしているうちに、水牛にほとんど追いついた。ウィルソンは「止まれ」と叫んだ。車は横すべりして、いまにもひっくりかえりそうになった。マコーマーは前のめりになって飛びおり、遊底を前へつきだし、できるだけ前方を狙《ねら》って、丸くなって疾走している黒い背中めがけて射った。また、狙い、射った。それから、一発。また、一発。弾丸は全部、命中したが、見たところ、水牛はびくともしなかった。すると、ウィルソンが射った。耳をろうするばかりの轟音がし、水牛がよろめくのが見えた。マコーマーは注意深く狙って、もう一発うった。水牛は倒れ、膝《ひざ》をついた。
「よろしい」とウィルソンが言った。「うまくやりましたね。これで三頭」
マコーマーは喜びに酔った感じだった。
「あなたは何発うった?」と彼はきいた。
「ちょうど三発です」とウィルソンが言った。「最初の水牛はあなたが仕止めました。いちばん大きな奴ですよ。ほかの二頭はお手伝いしました。隠れ場へはいっちゃうといけないと思いましてね。仕止めたのはあなたですよ。わたしはちょっと後片づけしただけです。あなたの射撃はすばらしかったですね」
「車へもどろう」とマコーマーが言った。「一杯やりたいから」
「その前に、まず、あの水牛の息の根をとめなきゃなりません」とウィルソンがいった。水牛は膝をついていたが、彼らがそちらに行くと、猛然と頭をもたげ、豚のような小さい眼に荒々しい怒りをこめて、咆《ほ》えた。
「おきあがるかもしれませんから、気をつけてください」とウィルソンが言った。それから、「ちょっと脇へよって、頚の、耳のすぐ下のところへ射ちこみなさい」
マコーマーは、激怒《げきど》して、ぴくぴくけいれんしている、巨大な頚のまんなかを注意深く狙い、射った。その一発で、頭が前にたれた。
「それでいいんです」とウィルソンが言った。「脊椎《せきつい》にあたりましたね。なかなかの見物《みもの》ですね」
「さあ、飲もう」とマコーマーがいった。彼は、生涯に、こんないい気持ちになったことはなった。
車の中では、マコーマーの妻がまっ青な顔をして坐っていた。「すばらしかったわ、あなた」とマコーマーにいった。「でも、ひどく車をとばしたのね」
「荒っぽかったですか?」とウィルソンがたずねた。
「こわかったわ。あんなにこわかったこと初めて」
「みんなで一杯やろう」とマコーマーが言った。
「そりゃあ、いいですな」とウィルソンが言った。「まず|奥さん《メムサーイブ》から」彼女は携帯壜から生《き》のままのウィスキーを飲み、飲みほすとき、ちょっと身ぶるいした。彼女は壜をマコーマーに渡し、マコーマーはそれをウィルソンに渡した。
「ほんとに、はらはらしたわ」と彼女が言った。「おかげで、ひどい頭痛よ。でも、車から射っていいなんて、知らなかったわ」
「だれも車からなんか射ちはしませんよ」とウィルソンが冷たく言った。
「車で追いかけるということよ」
「ふつうはしませんがね」とウィルソンが言った。「でも、やってるときは、ずいぶんおもしろかったですよ。穴やなんかがいっぱいある平地をあんなふうに車でとばすのは、従歩で狩するより、スリルがありますよ。水牛のやつは、われわれが射つたびに、とびかかってこようと思えば、とびかかってこられたんですからね。あいつにはあらゆるチャンスをあたえてやったんですよ。でも、こんなことはだれにも言ってもらいたくありませんね。おわかりのように、違法行為なんすからね」
「あたしにはすごく卑怯《ひきょう》に思えたわ」とマーゴットが言った。「車なんかにのって、あんな図体の大きい力のないものを追いかけるなんて」
「そうでしたか?」とウィルソンが言った。
「ナイロビ〔ケニアの首都〕の人たちが、これをきいたら、どういうことになるの?」
「まず、わたしは免許証をとりあげられますね。それから、いろんな不愉快なことがおこりますよ」とウィルソンは携帯壜からひと口のみながら、言った。「わたしは失業しますよ」
「ほんとう?」
「ええ、ほんとうですとも」
「では」とマコーマーが言った。彼は、その日はじめて、ほほえんだ。「妻はあなたの痛いところを握ってるわけだな」
「あなた、ずいぶんうまいことを言うわね、フランシス」とマーゴット・マコーマーが言った。ウィルソンは二人を見た。男色野郎《ホモ》とみだらな女が結婚したら、どんなすごい子供が生まれるんだろう? だが、彼はこう言った。「鉄砲もちが一人みえなくなりましたよ。気がつきましたか?」
「いや、ちっとも」とマコーマーが言った。
「ああ、やってきましたよ」とウィルソンが言った。「だいじょうぶでした。われわれが最初の水牛のところから移るとき、車からほうりだされたんでしょう」
やってきたのは中年の鉄砲もちで、編んだ帽子に、カーキ色の短上衣《チュニック》をつけ、半ズボンにゴムのサンダルをはき、ゆううつな顔をし、うんざりした様子で、びっこをひいていた。近づくと、スワヒリ語でウィルソンに話しかけた。白人の狩猟家の顔色が変わるのに、みんなは気づいた。
「なんと言ったの?」とマーゴットがたずねた。
「最初の水牛が起きあがって、茂みの中へはいっていったと言うんです」とウィルソンは無表情で言った。
「ふうん」とマコーマーはぽかんとして、言った。
「じゃあ、あのライオンみたいになるのね」とマーゴットが期待にみちて、言った。
「ライオンのようには絶対になりませんよ」とウィルソンが彼女に言った。「もう一杯どうです、マコーマーさん?」
「ありがとう、飲もう」とマコーマーが言った。彼はライオンのとき感じた気持ちが、またもどってくるものと思っていたが、そうではなかった。生まれてはじめて、ほんとうに恐怖をまったく感じなかった。恐怖どころか、はっきりした心の高揚《こうよう》を感じた。
「二番目の水牛を見に行きましょう」とウィルソンが言った。「運転手に車を木蔭にいれさせておきます」
「何をなさるの?」とマーガレット・マコーマーがたずねた。
「水牛をちょっと見にゆくんです」とウィルソンが言った。
「あたしもいくわ」
「いらっしゃい」
三人は、二番目の水牛が原っぱの草地の上に頭を前につきだし、巨大な角を幅広くひろげ、黒い大きな図体を横たえているところへいった。
「とてもいい角ですね」とウィルソンが言った。「五十インチの幅はありましょう」
マコーマーは、愉しそうに水牛を見ていた。
「いやな格好ね」とマーゴットが言った。「木蔭にはいっちゃいけない?」
「よろしいですとも」とウィルソンが言った。「ごらんなさい」と彼はマコーマーに言って、指さした。「あの茂みですがね」
「ああ」
「あそこが最初の水牛がはいっていったところですよ。鉄砲もちの話だと、彼が車からほうりだされたとき、水牛は倒れていたそうです。彼はわれわれが猛烈な勢いで車をとばし、ほかの二頭の水牛が疾走してゆくのを見ていたんですが、見上げると、最初の水牛が起きあがり、彼を見ていたんだそうです。鉄砲もちは夢中になって逃げたんですが、水牛はゆっくりとあの茂みにかくれたというわけです」
「奴のあとを追いかけて、いま踏みこむわけにはいかないかね?」とマコーマーは熱心にきいた。
ウィルソンは彼を値ぶみするように見た。これはずいぶん妙な男だ、と彼は考えた。昨日《きのう》はひどくおびえていたが、今日《きょう》はすごく血気にはやっている。
「いや、しばらく時間をあたえましょう」
「おねがい、木蔭にはいりましょう」とマーゴットが言った。顔がまっ青で、気分が悪そうだった。
三人は車のほうへ歩いていった。車は枝をひろげて立っている一本の木の下においてあった。三人は車に乗った。
「やつはあそこで死んでいるかもしれないんですよ」とウィルソンが言った。「しばらくしてから、見てみましょう」
マコーマーはいままでに感じたことのない、はげしい、わけのわからない幸福感をあじわった。
「まったく、あれこそ追跡というものだったよ」と彼は言った。「あんな気持ちをあじわったこと、なかった。すばらしかったろ、マーゴット?」
「あたしは、すごくいやだったわ」
「どうして?」
「すごくいやだったわ」と彼女はにがにがしげに言った。「むかむかしたわ」
「ぼくはもう何もこわくはないね」とマコーマーはウィルソンに言った。「水牛を最初に見て、追いかけはじめて以来、何かがぼくの中に起こったんだ、ダムの堰《せき》が切れたみたいにね。純粋な興奮という奴さ」
「あなたのおじ気《け》を洗い流したわけですな」とウィルソンが言った。「人間にはまったくおかしなことが起こるもんですよ」
マコーマーの顔は輝いていた。「そう、何かがぼくに起こったんだ」と彼が言った。「ぼくはすっかり前と違った気分なんだ」
妻はひと言もいわず、彼を不思議そうに見ていた。彼女は座席に深く腰をおろし、マコーマーは前にのりだし、ウィルソンに話しかけていた。ウィルソンは横向きになって、前部座席の背ごしに話していた。
「ねえ、もう一度ライオン狩りをやってみたいがね」とマコーマーが言った。「ほんとに、もうこわくなくなったよ。けっきょく、奴らにはなんにもできやしないからね」
「そのとおりですよ」とウィルソンが言った。「せいぜいのところ、あなたを殺すぐらいのことですからね。なんていいましたっけ? シェイクスピアですよ。すごくうまい言葉だったが。ええと、そう、すごくうまい言葉だったが、以前にはよく、それを自分に言いきかせたものでしたがね。うんと、『誓って、気にはかけぬわ。人の死ぬのはただ一度のこと。死とは神さまの授かりものだ。なるがままにまかすがよい。今年死ぬ者は来年は死なぬ道理』〔『ヘンリー四世』第二部、第三幕第二場の言葉〕すごくいいですな、ねえ?」
彼は生活の信条としているこの言葉をもちだし、ひどく当惑した。が、以前にも、人が成年に達するのを見たことがあり、それはいつも彼を感動させたものだった。それはただ二十一回目の誕生日を迎えたといったことではないのだ。
こういう変化がマコーマーに起こったのは、あらかじめ心をわずらわす機会もなく、いきなり行動に突入する、狩猟というものの奇妙な偶然のためであった。だが、どのようにしてそれが起こったにしろ、それが起こったことは間違いなく確かだった。いま、あの乞食野郎を見るがいい、とウィルソンは考えた。ある者はいつまでも子供のままでいるのだ、とウィルソンは考えた。ときには、一生、子供のままなのだ。五十歳になっても、子供っぽい様子をしているのだ。偉大なアメリカの子供じみた大人という奴《やつ》さ。まったく奇妙な奴らだ。だが、おれは、いま、このマコーマーが好きになった。まったく奇妙な奴だ。たぶん、間男《まおとこ》されることもこれでおしまいだろう。うん、そいつはすごくいいことだろう。すごくいいことだ。乞食野郎は、たぶん、一生涯、びくびくしていたのだろう。どうしてそうなったのかはわからない。が、もう、それも終わりだ。水牛とでは、びくびくしている暇もなかったのだ。そのことも、怒ったことも原因だ。自動車もだ。自動車がそうした気持を身近にしたのだ。いまじゃ、ひどく血気にはやっている。戦争でも、これと同じことが起こったのをおれは見た。処女を失うというより、はげしい変化なのだ。手術したように、恐怖がなくなってしまうのだ。何かほかのものがそのかわりに生まれるのだ。男としての大切なものがだ。男にするものがだ。女だってそれを知っているのだ。恐怖なんかないんだ。
座席の向こうの隅から、マーガレット・マコーマーは二人の男を見ていた。ウィルソンにはなんの変化もなかった。その前日、彼の才能がどんなにすばらしいかを、はじめて実感したときと、同じだった。だが、いま、彼女はフランシス・マコーマーに変化を認めた。
「これから起ころうとしていることに、あなたはあの幸福感をおぼえてるんだね?」とマコーマーは新しく手にいれた富をなおも探《さぐ》りながら、たずねた。
「そんなことは言うものじゃありませんよ」とウィルソンが相手の顔をのぞきこみながら、言った。「こわいんだ、とおっしゃったほうが、あたりまえなんですから。いいですか、あなただって、これからたびたび、こわいことがありますよ」
「だが、あなたはこれからの行動に幸福感をおぼえてるんだね」
「そうですとも」とウィルソンが言った。「そこなんですがね。そういうことはあまりしゃべらないほうがいいんですよ。しゃべりすぎると、なにもかもだめになっちゃいますよ。なんでも、あんまりしゃべると、おもしろくなくなりますからね」
「二人ともつまらないことを言ってるのね」とマーゴットが言った。「車で無力なけものを追いかけたというだけで、英雄みたいな口のきき方ね」
「失礼しました」とウィルソンが言った。「だいぶ自慢しすぎたようです」彼女はもうあのことを心配しているのだな、と彼は考えた。
「ぼくたちの話がわからないんなら、口をださないでいたらどうだ」とマコーマーが妻に言った。
「あなたはおそろしく勇敢になったわね、しかも、おそろしく急に」と妻は軽蔑をこめて言ったが、彼女の軽蔑は確固たるものではなかった。彼女はあることをひどく恐れていたのだ。
マコーマーは笑った。心からの自然の笑いだった。「ぼくが勇敢になったのがわかったんだね」と彼はいった。「ほんとに勇敢になったのさ」
「ちょっと手遅れじゃない?」とマーゴットがにがにがしげに、言った。彼女は長年のあいだ、できるだけのことをしてきたのだし、二人がいまいっしょにこんなふうになっているのも、どちらか一方が悪いからではなかったからだ。
「ぼくには遅くはない」とマコーマーは言った。
マーゴットはひと言もいわず、座席の隅に深く腰かけていた。
「もう奴にたんまり時間をやったんじゃないかな?」とマコーマーが快活にウィルソンにたずねた。
「見に行きましょう」とウィルソンが言った。「弾丸は残ってますか?」
「鉄砲もちが、いくらかもっている」
ウィルソンがスワヒリ語で呼ぶと、水牛の一頭の皮はぎをしていた年上の鉄砲もちがすっくと立ちあがり、ポケットから弾丸箱を一個とりだし、マコーマーのところへもってきた。マコーマーは弾倉に弾丸をつめ、残りの弾丸をポケットにいれた。
「あなたはスプリングフィールド銃を使われたらいいでしょう」とウィルソンが言った。「それになれてらっしゃるから。マリンカ銃〔オーストリアのライフル〕は|奥さん《メムサーイブ》にあずけて、車の中においていきましょう。鉄砲もちがあなたの重い銃をもちます。わたしはこの大砲みたいな奴がありますから。ところで、奴らのことをお話ししときましょう」彼はマコーマーを心配させないように、このことを最後まで伏せておいたのだ。「水牛が向かってくるときは、頭を高く、まっすぐつき出して、やってきます。出っぱった角が頭を狙ったどんな弾丸でもはじいてしまいます。唯一の狙いは、まっすぐ鼻に射ちこむことです。もうひとつだけ狙えるところは、胸か、あなたが横にいるときなら、頚《くび》か肩です。一度でも弾丸にあたると、奴らは殺されても、あばれまわります。凝った射ち方などやらなくていいんです。そのときできる一番やさしい射ち方をしてください。連中はもうあの水牛の皮をはいでしまいましたね。出かけましょうか?」
彼が鉄砲もちたちを呼ぶと、彼らは手を拭きながらやってきた。年上のほうが後部にのりこんだ。
「コンゴニだけをつれてゆこう」とウィルソンが言った。「ほかの一人は、鳥がこないように見張ってもらう」
車はゆっくりと、広々とした草原を横ぎって、雑木林《ぞうきばやし》の茂みに向かって進んでいった。その森林は広々とした草のはえた湿地帯を横切っている涸《か》れた流れの跡にそって、葉の茂りを舌のようにつきだしていた。マコーマーは心臓が高鳴り、口がふたたび乾くのを感じたが、それは興奮のためで、恐怖のためではなかった。
「ここが奴のはいっていったところです」とウィルソンが言った。それから、鉄砲もちに、スワヒリ語で、「血の跡をつけろ」と言った。
車は雑木林に平行してとまった。マコーマーとウィルソンと鉄砲もちがおりた。マコーマーはふりかえると、妻がライフル銃を横において、彼を見ているのが眼にはいった。彼は彼女に手をふって合図した。彼女はそれには答えなかった。
茂みは先にはいるにつれ、ひどく茂っていて、地面は乾いていた。中年の鉄砲もちはひどく汗をかいていた。ウィルソンは帽子を目深《まぶか》にかぶり、赤い首をマコーマーのすぐ前に見せていた。突然、鉄砲もちがスワヒリ語で何かウィルソンに言って、前方へかけだした。
「あそこで死んでいるんです」とウィルソンが言った。「じょうずにやりましたね」そう言って、彼はふりかえり、マコーマーの手を握った。二人が握手して、歯をだして笑いあっていると、鉄砲もちが荒々しい叫び声をあげ、茂みから、蟹《かに》のようにすばやく、横っとびに走りだしてくるのが見え、水牛が鼻をつきだし、口をしっかり結び、血をしたたらせ、巨大な頭をまっすぐあげ、おそいかかってきた。小さな血ばしった豚のような眼が彼らをにらんだ。ウィルソンは先頭にいたが、膝をついて、射った。マコーマーも射ったが、ウィルソンの銃の轟音《ごうおん》で自分の射つ音はきこえず、でっぱった巨大な角から、スレートのように破片がとびちるのが見えた。頭がぐいと動いた。彼は幅広い鼻孔めがけてまた射ったが、角がまたはげしくゆれ、破片がとびちるのが見えるだけだった。ウィルソンの姿は見えなかった。注意深く狙って、また射ったが、水牛の巨体がほとんど彼の上にのしかかっているようで、彼の銃は鼻をもたげて突っかかってくる水牛の頭とまるで同じ高さだった。悪意のこもった小さな眼が見え、頭部がさがりはじめた。と、突然、マコーマーは頭の中に白熱した、眼もくらむような閃光《せんこう》が爆発するのを感じた。それが彼の感じたすべてだった。
ウィルソンは肩に射ちこもうと片側によってかがみこんでいたのだ。マコーマーはしっかりと足をふみしめ、鼻をねらって射ち、どの弾丸《たま》もすこし高めで、重い角にあたり、スレートの屋根にあたったように破片をばらばらと散らせていた。車の中にいたマコーマー夫人は、水牛がマコーマーを角でつきさすかと思われたとき、六・五のマンリッヒャー銃で水牛めがけて射ち、夫の頭蓋骨《ずがいこつ》のつけ根から二インチほど上の、すこし片側へよったところに打ちこんでしまったのだった。
いま、フランシス・マコーマーは水牛が横倒しになっているところから二ヤードと離れていないところに、うつぶせになって倒れ、妻はそのかたわらにひざまずき、ウィルソンがその横にいた。
「仰向けにはしませんよ」とウィルソンが言った。
女はヒステリックに泣いていた。
「わたしは車にもどります」とウィルソンが言った。「ライフル銃はどこですか?」
彼女は首を横にふった。顔はゆがんでいた。鉄砲もちがライフル銃をひろいあげた。
「そのままにしておけ」とウィルソンが言った。それから、「アブドゥラを呼んできてくれ。事件の証人になってもらうんだから」
彼はひざまずいて、ポケットからハンカチをとりだし、ボートの選手のように刈りこんだフランシス・マコーマーの頭が横たわっている上へかけた。血が、乾いたばさばさした土にしみこんでいた。
ウィルソンは立ちあがり、水牛が脚をのばし、横倒しになっているのを見た。薄く毛のはえた腹にはダニがうようよしていた。「すごく立派な水牛だ」と彼の頭脳が機械的に記録した。「角の広がりはたっぶり五十インチはある。それ以上だろう」彼は運転手を呼び、死体の上に毛布をかけ、そばにいるように命じた。それから、自動車のほうへ歩いていった。女が片隅に坐って声をあげて泣いていた。
「えらいことをやりましたね」と彼は単調な声で言った。「ご主人のほうから、あなたと別れたかもしれないのに」
「やめて」と彼女が言った。
「むろん、事故ですよ」と彼が言った。「それはわかってます」
「やめて」と彼女が言った。
「ご心配にはおよびません」と彼が言った。「多少は不愉快な思いをされるかもしれませんが、取り調べのときに大いに役立つよう写真をとらせておきましょう。鉄砲もちや運転手の証言もありますしね。あなたは、全然、だいじょうぶです」
「やめて」と彼女が言った。
「やらなきゃならないことが山ほどできた」と彼は言った。「トラックを湖までやって、われわれ三人を飛行機でナイロビへ運んでくれるよう無電を打ってもらわなければならないでしょう。どうして毒殺なさらなかったのですか? イギリスではそうしますよ」
「やめて。やめて。やめて」と彼女が叫んだ。
ウィルソンは無表情な青い眼で彼女を見た。
「わたしはもうたくさんですよ」と彼は言った。「さっきは、ちょっと怒ってたんですがね。ご主人が好きになりかけてたもので」
「ねえ、おねがいだからやめて」と彼女が言った。「おねがい。おねがいだから、やめて」
「そのほうがいい」とウィルソンが言った。「おねがいと言ったほうが、ずっといい。じゃあ、やめましょう」
[#改ページ]
解説
『女のいない男たち』の成立
ヘミングウェーの最初の短篇集ともいえる『われらの時代に』が出版されたのは、一九二五年十月だったが、そのころのヘミングウェーは、作品を、いわゆる小雑誌《リトル・マガジン》〔実験的な作品をのせる発行部数のすくない雑誌〕に発表していて、原稿料などはほとんど手にはいらなかった。しかし、彼は熱心に作品の制作に従事し、すでに最初の長篇『日はまた昇る』の初稿を書きあげていたし、十一月には中篇『春の奔流』を完成した。そして『春の奔流』は翌一九二六年五月に、『日はまた昇る』は同じ年の十月に、いずれもスクリブナーズ社から出版された。ことに、『日はまた昇る』は「ロースト・ジェネレーション」(失われた世代)とよばれる当時パリに生活していたヨーロッパやアメリカの国外亡命者たちの生態をリアルに描いたモデル小説として大評判になり、若者たちはこぞって作中人物の会話の口調をまねるというほどの人気で、その年のうちに二万六千部を売りつくし、大ベストセラーになった。ヘミングウェーの名は広く世間に知られるようになった。
こうして、一九二七年のはじめには、それまであまりかえりみられなかった彼の短篇も、急に雑誌の編集者の関心を呼ぶようになり、いくつかの大雑誌が彼に寄稿を求めるようになった。しかし、ヘミングウェーは慎重だった。依頼に応じて書きとばすというようなことはしなかった。この点、同時代のフィッツジェラルドが『楽園のこちら側』の大成功により、雑誌の求めるままに書きなぐり、すぐれた才能をすりへらしてしまったのと、きわめて対照的である。ヘミングウェーは作家の誠実さは女性の処女性と同じく、一度失えば回復できないものと堅く信じていて、金のために書こうとはしなかった。そのころの友人の回想によると、「彼はモンパルナスの墓地のうしろの小さな屋根裏部屋に住んでいて、ベッドとテーブルしかなく、ポテト・フライを売りにくる男から、五スウの金を出してそれを買い、昼食にしていた」のだった。
だから、その年、一九二七年の秋に出た第二短篇集『女のいない男たち』は十四篇の短篇を収めてあったが、「スクリブナーズ・マガジン」「アトランティック・マンスリー」などのいわゆる商業雑誌に発表したものは「異国にて」「殺し屋」「ケ・ティ・ディチェ・ラ・パトリア?」「贈り物のカナリヤ」「五万ドル」の五篇にすぎなく、残りの九篇については、「白い象のような丘」(トランジション)、「挫けぬ者」(ジス・クォーター)、「アルプスの牧歌」(アメリカン・キャラバン)、「平凡な話」(リトル・レヴュー)の四篇がそれぞれ括弧内の小雑誌に発表されたものであり、彼の最初の戯曲「きょうは金曜日」は前年の夏にパンフレットの形で出ていたもので、「簡単な質問」「十人のインディアン」「追走レース」「いま横になって」の四篇は未発表の短篇であった。
このような短篇を収めた『女のいない男たち』は、しかし、大成功であった。一九二七年十月十四日、スクリブナーズ社から出版されたが、初版は七六五〇部で、前の『われらの時代に』の初版一三三五部に比べてもわかるように、当時としては相当な部数を出したものであった。それに、内容的に見ても、『われらの時代に』が新鮮で実験的な小品を多くふくんでいるのに比べて、この『女のいない男たち』はより本格的で複雑な短篇を集め、ヘミングウェーの短篇作家としての力量を充分に示すものであった。どれも粒よりな名作といえるものだが、なかでも、「挫けぬ者」「殺し屋」「五万ドル」などの短篇はことのほか有名になり、その技巧の冴えを高く買われ、のちに多くのアンソロジーに収められることとなる。たとえば、彼の代表作だとされている「殺し屋」などは、あるアメリカの批評家の調べによると、三十七ものアンソロジーに収められ、「挫けぬ者」は十七のアンソロジーに収められているという。また「異国にて」や「白い象のような丘」は短いものだが有名で、のちに作者自身が好きな作品としてあげているもので、たしかに多くの読者に愛される佳作である。『女のいない男たち』は短篇作家としてのヘミングウェーの油ののりきった時代の傑作集だと言えよう。
『女のいない男たち』のテーマと手法
『われらの時代に』はひとりの男が成長していく一連の物語であった。少年がミシガン湖畔で育ち、やがて戦争にゆき、傷つき、絶望し、スキーや鱒釣りのセンセーションに逃避する。『女のいない男たち』のおもなテーマはそのように絶望した男の虚無である。たとえば二番目の短篇「異国にて」……これは『日はまた昇る』の成功によって、闘牛にたいする読者の興味に答えようと、闘牛士の物語「挫けぬ者」を短篇集の初めにもって来たと考えると、じつはこれが最初におかれた短篇と考えてよいが……は最後におかれた短篇「いま横になって」と並置してみるとき、この二つがこの短篇集の前後をしめくくり、全体のトーンを打ちだしているといえる。そのトーンとは『女のいない男たち』という皮肉な絶望的なトーンなのである。
「異国にて」では、ミラノの秋が舞台である。まだ戦争はたえずあったが、「ぼくたちはもう戦争に行かなかった」。戦争から離脱していた。そして、そのかわり、毎日、治療のため病院に通っていた。少佐は規則的に通院しているが、いくら機械にかかっても、負傷した手が治るものとは自分でも信じていない。〈ぼくたち〉は機械にかかりながら、〈ぼく〉が戦争が終ったら、合衆国に帰って結婚したいと言うと、少佐は「結婚しちゃならんのだ」結局はすべてを失うことになるのだから、そんなものを求めてはならないと言うのである。戦争で少佐は肉体的に精神的に深く傷つけられているのである。「彼はただ窓の外を見ているばかりだった」という最後の文章は少佐のニヒルな姿を読者に深く印象づける。
そして、「いま横になって」では、〈ぼく〉は、夜、ねむれぬまま、少年時代のことなどを思いめぐらしているのである。夜、戦場で砲弾に吹きとばされて以来、不眠症になっているのだ。そのねむれない〈ぼく〉に、〈ぼく〉の従卒が話しかける。彼は幸福な結婚をしているのだ。そして、〈ぼく〉に結婚をすすめる。イタリア娘はすばらしい。だから、イタリア娘と結婚しなさいとすすめるのだ。結婚は万事を解決してくれると言うのである。しかし、〈ぼく〉はどうしても結婚する気にはなれない。「異国にて」で結婚しようと希望をもっていた〈ぼく〉は、ここでは結婚を強く拒否するにいたっているのだ。結婚は機械が肉体の傷を治せないのと同様、精神の傷を治せないことを知っているからだ。
「異国にて」のつぎに置かれている「白い象のような丘」は夏のスペインである。ひどく暑く、日蔭もなく、木立もない「荒地」とも言うべきところの停車場で汽車を待ちつつ、アメリカの男女が会話している。男は女に堕胎をすすめるのである。「ほんとに、なんでもないんだ。ただ、空気をいれるだけなんだ」と男は言うのだ。これにたいし、女は何も言わない、二人の鞄には「二人で幾夜もすごしたすべてのホテルのラベルがはってあった」
中ほどにある短篇「贈り物のカナリヤ」も……一読したところではポイントのない話のようだが……なかなかの「荒地」である。戦争が終って間もないころの話である。パリ行きの急行列車の中はとても暑くるしく、あけはなした窓から、そよ風も吹き込まない。そして、列車は火事で燃えている農家を通りすぎる。これらは登場人物の心象風景にほかならない。寝台車の客室にはひとりのアメリカの婦人と語り手のアメリカ人とその妻の三人が乗り合わせている。アメリカの婦人は娘への贈り物のカナリヤを持っているのだが、その娘の結婚に反対しているのだという話をする。汽車はやがてパリに近づくが、事故にあって破損した三輛の客車が見える。これは乗り合わせた三人を象徴している。アメリカの婦人は娘の結婚に反対して自分は空虚な生活へと向かうのだし、語り手とその妻はこの短篇の最後の一行でハッとわかるのだが、別居するためにパリに帰る途中なのだ。
そして三人は駅に着き、長いコンクリートのプラットホームを行き、その終りで駅員に切符を手渡すのだ。これで三人の人生の旅も終るわけだ。切符を渡すことは、旅の終りを意味しているのだ。……ちなみに、この短篇は一九二六年秋に書かれ「スクリブナーズ・マガジン」の一九二七年四月号に発表されたものだが、ヘミングウェーは執筆当時、最初の妻ハドレーとの間がうまくいかず別居していて、一九二七年の三月には正式に離婚している。この作品はそうした作者の「荒地」的背景のもとで書かれたことを考えあわせると、その意味がいっそうよく理解される。
「アルプスの牧歌」もそのロマンティックな題名とはうらはらに、ニヒリスティックな作品である。春スキーをたのしみ、明るくのどかな風景の宿屋にやってきた〈ぼく〉は、そののどかさとは対照的な恐ろしい話を聞いて、大きなショックを受ける。話は雪深い山で妻を失った農夫が、雪どけまでは埋葬のため死体を山からおろすことができず、山小屋に立てかけておくが、小屋に薪を切りに行くたびに、その開いた口にカンテラを吊し、そのために口の形がゆがんでしまったというのだ。農夫は妻を愛していたことは確実なのだ。しかし、ひとたび死んでしまい、生命が失われれば、死骸は物体以外の何ものでもないのである。そうヘミングウェーは信じていたのだ。これは彼の最高作『武器よさらば』の最後で恋人に死なれた主人公が恋人に別れを告げるのを「まるで彫像に別れを告げるようなものだった」と語っているのと同じ考えからである。恋人も死ねば彫像にすぎない。そこに深い絶望がある。
そして、「簡単な質問」では男色の少佐が語られ、「追走レース」ではアル中になり、麻薬中毒になり、絶望しきって、救いを求めようともしない男が描かれる。また、「殺し屋」や「十人のインディアン」などの名篇は少年時代のニックが絶望を知るにいたる過程を描いたもので、むしろ『われらの時代に』に収めれるべきものかもしれないが、「殺し屋」ではニック少年は殺し屋にねられていることを知りつつも逃げようともせず絶望して下宿の部屋でねそべっている大きな図体のボクサーの姿を見てはげしいショックを受けるし、「十人のインディアン」ではより若い少年ニックがミシガンの森で失恋を経験し、人生のつらさを次第に知っていく様が語られる。
ともかく、いずれにせよ、『女のいない男たち』はそのアイロニカルな題名が示すように、「荒地」的な人生のむなしさを語っている短篇集で、(戦争による)絶望と虚無がその主たるテーマだと言うことができよう。
しかし、この虚無と絶望とはうらはらに、人生に積極的な意味を見出そうとする短篇がある。「挫けぬ者」「五万ドル」などがそれだ。
「挫けぬ者」の主人公マヌエル・ガルシァはもう引退すべき年に近づいた闘牛士である。闘牛で死ぬほどの怪我をして入院していたのだが、退院すると、すぐさま、こんどは二流の夜間闘牛でも、それに出場する。闘牛が彼の生きがいだったからだ。照明も悪い、馬も悪いという悪条件のもとで、大きな牛に立ち向かう。彼は何回か失敗し、牛の角にやられ、観衆からやじられ、座ぶとんを投げられるが、動ぜず、がんばり、ついに牛を倒す。が、同時に彼も瀕死の重傷を負う。診療室にかつぎこまれ、手術台の上にのせられ、手当を受ける。そのとき、彼の髷を友人がはさみで切りとろうとすると、彼は起きあがってそれに抗議する。髷は闘牛士のシンボルであり、彼は闘牛士であることに最後までプライドを持っていたのである。髷は切りおとされない。彼は「挫けぬ者」であった。肉体的に衰え、技術が低下しても、彼は闘牛士として勇気ある男だった。ヘミングウェーはそうした男をたたえているのである。これはヘミングウェーの自伝的な作品にあらわれたヘミングウェー的な絶望する男とはまったく対比的な人物なのである。
「五万ドル」のボクサー、ジャック・ブレナンも「挫けぬ者」である。このウェルター級のチャンピオンはすでに体力的に限界に来ていて、相手の若いウォルコットに対し勝ち目のないことを知っている。そこで賭博師にすすめられ、負けると約束し、五万ドル賭けるが、いざリングにあがるとベストをつくしてしまう。彼には不屈の魂があり、ボクサーとしてのプライドがあるのだ。しかし、相手がロウブローの反則を犯してくると、これを認めず、逆に自分のほうでロウブローをやり、反則負けになり、チャンピオンシップを失う。彼はノックアウトされることを選ばなかった。自らの行為により敗者になった。相手のロウブローでひどいダメジを受けても屈せず、自分の役割を忠実になしとげる。賭博師との約束は不正なものであるにせよ、約束は約束で、あくまでもこれを守る。そこにスポーツマンとしての倫理がある。
ヘミングウェーは闘牛(「挫けぬ者」)、拳闘(「五万ドル」)、魚釣り(「二つの心臓の大きな川」、『老人と海』)、狩猟(「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」)などのスポーツを好んだが、そのスポーツの世界のなかに、退屈で虚無的な日常生活にはみられない道徳的な戒律とか宗教的な倫理とも言うべきものを見出し、その戒律なり倫理なりを高く買っているのである。
『女のいない男たち』の中心的なテーマは作者ヘミングウェーを思わせる男の虚無と絶望であるが、そのなかにそれとは対照的なスポーツマンのさわやかな倫理が顔をのぞかせていて、ヘミングウェー自身の虚無からの脱出をにおわせているのである。しかし、完全な脱出はまだほど遠い。……二年後の『武器よさらば』はヘミングウェー的な青年の戦争における虚無の物語であり、完全な脱出は晩年の『老人と海』(一九五二)においてはじめて達成される。そこではそのころのヘミングウェーを思わせる老漁夫が原始的で粗野で勇敢で倫理的なスポーツマンとして描かれる。……
「橋のたもとの老人」と「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」
ヘミングウェーは一九二八年、パリからアメリカに帰り、フロリダ州の南端の島キー・ウェストに住み、一九三〇年代の大半をここで過した。一九三〇年代というと、アメリカをはじめ世界中が不況に苦しんだ時代だが、ヘミングウェーはそうした時代から逃避するかのように「釣りと猛獣狩りの名手として、また拳闘家、万能スポーツ選手としての評判を得た」のだった。一九三三年には四六八ポンドもあるマカジキを釣り、翌年には西インド諸島まで出かけて、三一〇ポンドのマグロを釣っている。また一九三三年十一月から翌年三月まで、二度目の妻ポーリーンをともない、東アフリカの狩猟旅行に出かけ、ライオン、カモシカ、水牛、犀などを仕止めた。そのときの紀行が、一九三五年に出た「アフリカの緑の丘」だが、翌三六年にはその旅行を題材にした二つの名篇が発表される。すなわち、「エスクヮイア」の八月号に出た「キリマンジャロの雪」と、「コズモポリタン」の九月号に出た「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」である。
「フランシス・マコーマー……」は構成の巧みな緊迫感にあふれた名品である。時間の自然な流れを逆流させ、まずライオン狩りに失敗したあとのことから始め、次にライオン狩りにもどり、さいごに翌日の水牛狩りのことを描き、クライマックスにもりあげている。
マコーマーは金持のアメリカのハンターである。彼は美人の妻とアフリカに狩猟に来ている。二人の間はすっかり冷却しているのだが、夫の財産と妻の美貌が二人を別れさせないでいる。その日、ライオン狩りで、臆病なマコーマーは射ったライオンにとどめの一発を射ちこめず逃げだしてしまい、一緒に来ているガイドの白人のプロハンターばかりか土人たちからもさげすまれる。このことは、しかし、妻には喜びだった。夫が狩猟の戒律を破り、手おいの獣を仕止めなかったことは、夫との結婚の戒律を破る口実をあたえてくれたからだ。その夜、彼女は夫の優位に立ち、ガイドと平然と不義を犯す。しかし、翌日、マコーマーは水牛狩りで、人が変る。猛然とおそいかかってくる水牛に、たじろぎもせず、銃を向ける。彼は勇者になったのだ。その瞬間、夫婦の立場が逆転した。夫が優位に立ったのだ。夫を支配できなくなる。これは妻には耐えられぬことだ。妻は危険な夫をたすけ水牛を射つふりをして、夫を射殺する。すくなくとも、そうガイドの白人には見えたのだ。マコーマーは勇気という美徳を学びとり、幸福になったが、その瞬間、死んだのだ。死の恐怖を克服して、やっと本当の生を得たその瞬間、死んだのだ。これがいささか逆説的なひびきのする「短い幸福な生涯」という題名の意味するところである。
ヘミングウェーはこれまで主として絶望を描いてきた作家であった。しかし、このマコーマーの物語は絶望を雄々しく乗り越えて、真の人間に変貌した男の話である。そして、その変貌こそ作者ヘミングウェーの『女のいない男たち』の絶望からの変化を語っているにほかならないのではないか。
ヘミングウェーはスポーツマンで魚釣りや狩猟のほかに、闘牛見物に異常な情熱を燃やした。一九二四年にスペインに旅行し、闘牛を六回も見物して以来、何度もスペインに行っている。彼の闘牛好きは既に『日はまた昇る』や「挫けぬ者」で闘牛士を主要な登場人物として登場させていたことでわかるが、一九三〇年代では一九三二年に闘牛の解説書とも言える多数の写真を入れた『午後の死』を出版するほどであった。
ところが、そのスペインに一九三六年七月、フランコ将軍のクーデターによる内乱が起きた。彼の愛する闘牛の国スペインである。彼は内乱に異常な関心を示した。彼は同年末には政府軍援助のため四万ドルの金を集め、さらに、翌三七年二月には新聞の特派員となってスペインに渡り、以後、アメリカとスペインの間を何回も往復した。こうして、八月から十一月にかけて砲撃にさらされているマドリッドのホテルにがんばって、劇『第五列』を書き、一九三八年四月には「橋のたもとの老人」をバルセロナからアメリカの新聞社に電送し、一九四〇年七月にはアンドレ・マルローとの約束をはたし、ハバナでスペイン内乱を舞台にした『誰がために鐘は鳴る』を書きあげた。
「橋のたもとの老人」は『ケン』の一九三八年五月十九日号に掲載された。スペイン内乱の短いスケッチであるが、こんなに短くて、戦争の惨めさをこれほど的確に描きだしたものも珍らしい。長篇『誰がために鐘は鳴る』に匹敵するという批評家もあるくらいである。橋のたもとに腰をおろしている一老人に〈ぼく〉が話しかける。老人は二匹の山羊と、一匹の猫と、四つがいの鳩を残して、ここまで避難してきたのだと言う。動物を残して来たのが気になって仕方がない。家族はいない。孤独な老人だ。〈ぼく〉が「どっちの政府についてるんかね?」とたずねると、「どっちでもないよ、もう七十六になってるからな。十二キロも歩いたから、もう、これ以上、動けないよ」と答える。老人は立ちあがるが、またしゃがみこむ。そして、この短編は「老人をどうするわけにもいかなかった。その日は復活祭の日曜日で、ファシスト軍がエブロ河に向かって進撃しつつあった……」という説明で終る。皮肉にもキリストが復活した日だというのに、われわれはこの老人をどうすることもできないというのだ。短いが、絶品と言って過言ではなかろう。(高村勝治)