ヘミングウェー短編集3「勝者には何もやるな」
アーネスト・ヘミングウェー/高村勝治訳
目 次
嵐のあとで
清潔で照明の明るいところ
世の光
紳士よ、神が諸侯を楽しく休ませ給わらんことを
海の変化
ひとりだけの道
オカマのおふくろ
一読者の手紙
スイス讃歌
一日待って
死者の博物誌
ワイオミングのワイン
博奕《ばくち》打ちと尼僧とラジオと
父親たちと息子たち
(付)世界の首都
(付)キリマンジャロの雪
解説
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嵐のあとで
たいしたことじゃなかった。パンチを作ることについてかなんかだった。そのうち、けんかをおっぱじめ、おれは足をすべらし、奴《やつ》はおれを倒し、膝で胸をおさえ、両手で首をしめつけ、まるでおれを殺そうとしているようだった。その間ずっと、おれは奴を切りつけて離すために、ポケットからナイフをとりだそうとしていた。みんなはひどく酔っぱらっていて、奴をおれから引き離せなかった。奴はおれの首をしめ、おれの頭を床にたたきつけ、おれはナイフをとりだし、刃を開けた。そして、奴の腕の筋肉を真横に切ると、奴はおれを放した。おれをつかんでいようったって、できない相談だった。それから、奴はころげまわり、自分のその腕を押さえながら、大声で泣きだした。で、おれは言ってやった……
「いったい、なんだって、おれの息の根をとめようってんだ?」
奴を殺しとけばよかった。おれは一週間というもの、ものを飲みこむことさえできなかった。奴のために、おれののどがひどく痛んだのだ。
それはともかく、おれはその場から逃げた。奴といっしょに、奴の仲間がおおぜいいて、その幾人かがおれを追いかけてきたのだ。おれは角を曲がって、波止場までくると、一人の男に出会ったが、そいつが、町で誰かが人を殺したと言った。おれは「誰が殺《や》ったんだ?」と言うと、その男は「誰が殺ったのか知らねえが、相手は死んじゃったんだ」と言った。あたりは暗く、通りには水たまりができ、灯りはなく、窓はこわれ、船はみんな町に吹きあげられ、木々は吹き倒され、なにもかもみな風に吹きとばされ、おれは一人乗りの短艇《スキフ》を手に入れ、それに乗っていくと、おれの船は、マンゴ・キーの内側の、置いてきたところにあった。船は水がいっぱいはいっていたほかは、万事オー・ケーだった。そこで、おれは水をかいだし、ポンプでくみあげた。月が出ていたが、ひどい雲で、まだ、だいぶ荒れ模様だった。おれは船を出した。そして、夜明けには、イースタン・ハーバーを離れていた。
じっさい、ひどい嵐だった。おれが一番に船を出したのだが、誰もあんな海は見たことはあるまい。まるで灰汁《あく》だるのように真っ白で、イースタン・ハーバーからサウウェスト・キーまで来るあいだ、岸がそれと見分けられなかった。浜の真ん中をぶちぬいて大きな水路ができていた。木々や、すべてのものが、吹きとばされ、水路が真ん中にでき、水がすべてチョークのように白く、あらゆるものがその上に浮かんでいた。枝や、根こぎになった木々や、死んだ鳥や、あらゆるものがただよっていた。内海には、ありとあらゆるペリカンがいたし、あらゆる種類の鳥が飛んでいた。嵐が来ることを知って、その内海にやってきていたに相違なかった。
おれは一日じゅうサウウェスト・キーにいたが、誰もおれのあとを追ってこなかった。おれが一番に船を出したのだが、帆柱が一本ただよっているのを見つけ、難破船があったのだと知り、それを探しに出かけた。船は見つかった。三本マストのスクーナーで、帆柱の先が水から顔を出していた。あまり深く水に沈んでいたので、何も取りだせなかった。そこで、何かほかのものをと探しつづけた。おれは奴らよりも先に来たのだから、そこらにあるものは何でも貰っていいわけなんだ。おれはその三本マストのスクーナーのところから砂州《さす》を越えていってみたが、何も見つからず、長いこと探した。ずっと流砂のほうまでいったが、やはり、何も見つからず、そのまま探しつづけた。やがて、レベッカ燈台が見えるところまで来ると、あらゆる種類の鳥が何かの上に群がっていた。何かと思って、そっちへいってみると、たしかに、雲のように鳥が群がっていた。
帆柱のようなものが水面に出ているのが見え、鳥に近寄ってみると、鳥はみな飛びたち、あたり一面に舞っていた。付近は水が澄んでいて、マストのようなものが水面に突きでていて、近づいてみるとそれは水の下に長い影のようにずっと黒ずんで見えた。真上までくると、水の下に定期船が沈んでいた。とても大きな船が、水底に横たわっていた。おれは船に乗ったまま、その上を漂った。横だおしになっていて、船尾が深く沈んでいた。舷側の丸窓は全部ぴったりと閉まっていて、水の中で窓ガラスが光っているのが見え、船体の全部が見えた。生まれてはじめて見る巨船がそこに横たわっていた。おれはその船の端から端までいってみて、それから引きかえして、いかりを下した。おれは短艇《スキフ》を船の前甲板に乗せていたので、短艇を水上におしだし、まわりを鳥にかこまれながら、漕いでいった。
おれは海綿採集に使うような箱眼鏡を持って来たが、手がふるえて、持っていられないくらいだった。船体に沿ってまわっていくと、下に見える丸窓はみんな閉っていたが、ずっと下の底の近くのどこかが開いているに相異なかった。というのは、何かの破片がひっきりなしに流れ出ていたからだ。何だかは、わからなかった。ただ、破片だった。鳥たちが追っかけているのはそれなのだ。こんなたくさん鳥を見た者はあるまい。鳥たちはおれのまわり一面にいて、狂ったように大声で鳴いていた。
おれにはすべてのものが、くっきり鮮明に見えた。船がひっくりかえっているのが水底に見え、長さが一マイルもあるかと思われた。真っ白い砂の浅瀬の上に横たわり、マストと思われたものは船首のマストか滑車装置のようなもので、船体が横にたおれているために、水面から斜めに突き出ていた。船首はたいして深くもぐってはいなかった。船首に船名を書き出してある文字の上に立つと、おれの首がちょうど水の上に出た。だが、一番近い丸窓でも十二フィート下にあった。もりの柄がちょうど届いたので、そいつで窓をこわそうとしたが、だめだった。ガラスが丈夫すぎたのだ。そこで、おれはボートまで漕《こ》ぎもどって、スパナを取ってきて、もりの柄の先に結びつけたが、窓はこわせなかった。おれは、まったく手つかずの定期船を箱眼鏡で見おろしていたのだが、一番先に来たというのに、船の中にはいれない。船内には五百万ドル相当のものがあるに相違ないのだ。
船内にどんなにたくさんのものがあるのか、考えると身ぶるいがした。一番手近の丸窓の中に何かが見えたが、箱眼鏡では何だかはっきりとはわからなかった。もりの柄では役に立たなかったので、服を脱いで、立ちあがり、二、三度、深呼吸して、スパナを手にして船尾から跳びこみ、水にもぐった。ちょっとの間、丸窓のふちにつかまり、中をのぞきこむと、髪を一面にただよわせている女が中にいた。女がただよっているのが、はっきり見えた。スパナでガラスを二度強くたたくと、カチンという音が耳にきこえたが、窓はこわれなかったし、おれも浮き上がらなきゃならなかった。
短艇《スキフ》につかまり、一息つき、それから艇にはいあがり、二、三度呼吸して、また飛びこんだ。もぐりこんで、指で丸窓のふちをつかみ、スパナで、渾身《こんしん》の力をこめてガラスをたたいた。窓ごしに、女が水の中をただよっているのが見えた。髪は頭にしっかりと束ねられていたのだが、いまでは水の中でほどけ、ゆらゆらゆれていた。手に指輪をはめているのが見えた。彼女は丸窓のすぐ近くにいた。おれはガラスを二度たたいたが、ひびさえはいらなかった。浮きあがるとき、呼吸が苦しくなり、うまく海面に出られないかもしれないと思った。
もう一度もぐって、今度はガラスにひびをいれた。ただ、ひびをいれただけだが、浮きあがると、鼻血がでていた。はだしで船名の文字を踏みつけながら、定期船の船首に立つと、首がちょうど水面から出たので、そこでひと休みし、それから短艇《スキフ》まで泳いでいき、はいあがって腰をおろし、頭の痛みがおさまるのを待ち、箱眼鏡で水中をのぞきこんだが、鼻血が出たので、その箱眼鏡をきれいに洗わなければならなかった。それから、短艇《スキフ》の中で寝ころび、鼻血を止めようと鼻の下に手をあてがい、仰向けになってそこに寝ころんだが、見上げると、頭上には、あたり一面、百万もの鳥が飛んでいた。
鼻血が止まると、もう一度、箱眼鏡をのぞきこみ、それからボートまで漕ぎもどって、スパナより重いものを探したが、何も見つからなかった。海綿採取用のかぎさえなかった。おれは前のところへ戻ったが、水は絶えずますます澄んでいき、底の白い砂の浅瀬の上にただよっているものは何でも見えた。おれは鮫を探したが、見つからなかった。ずっと離れていても、鮫がいれば見つかったはずだ。水が澄みに澄み、砂が白かったからだ。短艇には、いかりに使っている〈引っかけかぎ〉があった。おれはそれを切りはなし、それを持って水中にもぐった。それを持っていると、ぐんぐん沈み、丸窓のところも通りすぎてしまい、何かにつかまろうとしたが、何もつかめず、船腹のカーブにそって、どんどんすべり落ちていった。それで、おれはかぎを手ばなさなければならなかった。かぎが何かにぶつかる音が聞こえた。そして、おれが水面に浮かび上がってくるまで一年間もかかったように思われた。短艇《スキフ》は潮に流され、おれは水中で鼻血を出しながら、そちらのほうまで泳いでいった。鮫《さめ》がいないので、たいへん助かった。だが、疲れた。
頭が割れて裂けたような感じで、おれは短艇の中で横になり、休み、それから、もとのところに漕ぎもどった。午後もだいぶたっていた。おれはスパナを持って、もういちどもぐった。だが、何の役にも立たなかった。あのスパナは軽すぎた。大きなハンマーか、役に立つだけの何か重いものがなければ、いくらもぐったって、何にもならなかった。で、おれはスパナをもりの柄にもういちどくくりつけ、箱眼鏡でのぞきこみながら、丸窓のガラスの上をどんどん強くたたいたが、しまいにはスパナが抜けてしまい、箱眼鏡で見ると、スパナは船体にそってすべり落ち、やがて船体から離れて流砂のほうに落ち、その中にめりこんでしまった。こうなると、おれはどうすることもできなかった。スパナがなくなり、引っかけかぎは前になくしてしまったので、おれは船へ漕ぎ戻った。短艇《スキフ》をボートにのせる力もなかった。太陽はかなり低く傾いていた。鳥たちはみな巣に帰りかけ、難破船から離れていった。おれは短艇を引いて、サウウェスト・キーに向かった。鳥たちはおれの先やあとを飛んでいた。おれはすっかり疲れていた。
その夜、風が吹きはじめ、一週間、吹き続けた。難破船のところへは、とてもいけなかった。町から人がやって来て、おれがやむなく切りつけた男は腕のほかは大丈夫だったと知らせてくれた。おれは町へ帰って、五百ドルの保釈金を払わされた。町にいたおれの友だちが、あいつのほうが斧を持っておれを追いかけたんだと証言してくれたので、無事に事はすんだが、難破船のほうは、おれたちがそこに戻ったときには、ギリシア人の奴らが船をぶちこわして、中身をきれいに持ち出していた。金庫はダイナマイトで取り出したのだ。奴らがどのくらい手にしたか、誰も知らない。金を積んでいたのだが、奴らがそっくりそれを手にいれたのだ。船をすっかり剥《は》ぎとってしまったのだ。おれが見つけたのに、そのおれは五セント玉一枚、いただかなかったのだ。
それはまったく大変なことだった。みんなが言うには、その船はハバナの港を出たとたん、ハリケーンに襲われ、船が港にひきかえせなかったか、船の持主が船長にひきかえさせようとしなかったかだった。みんなが言うには、船長はやってみたかったのだ。そこで、船はやむなく、ハリケーンをついて進み、暗闇の中を、レベッカとトルチュガスの間の水道を抜けようとしていたが、そのとき、流砂に突っこんだのだ。たぶん、舵《かじ》が流されてしまったのだろう。たぶん、舵をとることもできなかったのだろう。だが、ともかく、流砂だということに気づきようがなかったのだ。船が坐礁したとき、船長は船を安定させるために、底荷の水槽をすっかり開けるよう命じたのに相違ない。しかし、ぶつかったのは流砂だったので、水槽を開けると、船はまず船尾が沈み、やがて、真横にひっくりかえった。船には、四百五十人の乗客と、船員が乗っていたのだが、おれが見つけたときは、全員が乗っていたに相違ない。船が坐礁したとき、水槽をいちはやく開けたに相違ない。そして、船が沈んで動きが落ちついたとたん、流砂にのみこまれてしまったのだ。それから、ボイラーが爆発したに相違ない。そのため、あの破片が流れ出てきたに相違ないのだ。だが、鮫があたりにいないのはおかしかった。魚は一匹もいなかった。真っ白い砂だから、いれば、見えたはずなのだ。
だが、いまでは、魚がたくさんいる。ハタだ。一番でっかい種類だ。船体の大部分は、いまでは、砂の中に埋まっているが、奴らはその船の中に住んでいるのだ。一番でっかい種類のハタだ。そのあるものは三百ポンドから四百ポンドもの目方があるのだ。いつか、みんなで、奴らを取りにいこう。船のあるところから、レベッカ燈台が見える。いまでは、その上に浮標《ブイ》がつけてある。船は水道のちょうどふちのところにある流砂の端にあるのだ。ほんの百ヤードほどの違いで、通りぬけられなかったのだ。嵐の暗闇の中で、通りそこなったのだ。あんなに雨が降っていたのだから、レベッカが見えなかったのだ。それに、船員たちはああいう事態には慣れていなかったのだ。定期船の船長はあんなところをさっと通りぬけることには慣れていなかったのだ。彼らには航路はきまっていて、羅針儀《コンパス》をセットしておけば、船は自動的に舵を取って進むはずなのだ。彼らはあんな嵐で走っているとき、どこに自分たちがいるのか、おそらくわからなかったのだが、だいたいは、うまく走っていた。だが、たぶん、舵をなくしていたのだろう。ともかく、その水道にはいってしまえば、メキシコに着くまで、ぶつかるようなものは、ほかにはなかったのだ。だが、あの雨と風の中で坐礁し、船長が水槽を開けろと命令したときは、大変だったに相違ない。あの烈しい風と雨では、誰もデッキに出ていられなかった。みんなが下にいたに相違ない。デッキにいたら、生命《いのち》などなかったのだ。ごぞんじのように船が早く沈んで動きを止めてしまったので、ひどい騒ぎがあったに相違ない。おれはあのスパナが砂の中に沈んでいったのを見て、それがわかるのだ。船長はこのへんの水域を知らなかったから、船が坐礁したとき、それが流砂だと気づくはずがなかった。ただ、岩でないことだけはわかった。ブリッジにいて、一部始終を見ていたに相違ない。船が沈んで動きを止めたとき、それがなんだか、わかったに相違ない。船はどんなに早く沈んだのだろう。航海士は船長といっしょにいたのだろうか。彼らはブリッジの中にとどまっていたのか、それともその外にいたときに、やられたのか、君はどっちだと思う? 死体は一体も見つからなかった。一体もだ。海上に浮かんでいるものもなかった。救命帯をつけていれば、遠くまで浮かんでいくものだ。彼らは中にいるときにやられたに相違ない。そうだ、ギリシア人がすべてのものを持っていったのだ。あらゆるものを。彼らはたしかに早くやってきたに相違ない。船の中のものをきれいに持っていってしまった。最初に鳥、それからこのおれ、その次にギリシア人がきたのだが、鳥たちでさえ、おれよりも多くのものを船から手にいれたのだ。
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清潔で照明の明るいところ
夜もふけ、カフェではお客はみんな立ち去り、老人がただひとり、電灯に照らされた木の葉の陰に坐っているだけだった。日中は、街はほこりっぽく、夜になると、夜露がほこりを静めた。老人はおそくまでこうして坐っているのが好きだった。つんぼだったが、いま、夜になると、あたりは静かで、そのちがいが感じられるからだった。カフェの中の二人のボーイは老人がいくらか酔っているのを知っていた。いいお客だったが、飲みすぎると払わないでいってしまうのを知っていたので、目を離さなかった。
「先週、あの爺さんは自殺しかけたんだぜ」と一人のボーイが言った。
「どうして?」
「絶望したのさ」
「何に?」
「なんとなくさ」
「なんとなくって、どうしてわかる?」
「金はたくさんあるんだから」
二人はカフェの入り口近くの壁際《かべぎわ》にあるテーブルにいっしょに坐って、テラスを見ていた。テラスのテーブルは、風にかすかにゆれている木の葉の陰に老人が坐っているほかは、みんな空《あ》いていた。一人の女と兵隊が街路を通りすぎた。街灯が兵隊の襟につけた真鍮《しんちゅう》の番号にきらっと輝いた。女は頭に何もかぶらず、男のわきを急ぎ足でついていった。
「衛兵につかまるぞ」と一人のボーイが言った。
「自業自得さ」
「表通りをさけたほうがいい。衛兵につかまるぞ。五分前に通ったばかりだから」
木陰に坐っている老人はグラスで受け皿をたたいた。若いほうの給仕がそちらへいった。
「何かご用ですか?」
老人は彼を見上げた。「ブランデーをもう一杯」
「酔っぱらいますよ」とボーイが言った。老人は彼を見た。ボーイは引きさがった。
「一晩じゅういるつもりらしい」と彼は同僚に言った。「ああ、眠い。三時前に寝たためしがないんだ。先週、自殺してくれればよかったのに」
ボーイはカフェの中のカウンターからブランデーのボトルと新しい受け皿を一枚とって、老人のテーブルのほうへ大股《おおまた》で歩いていった。受け皿をおき、グラスにブランデーをなみなみと注《つ》いだ。
「先週、自殺してしまえばよかったですね」とつんぼの老人に言った。老人は指で合図した。「もう少し」と言った。ボーイはグラスに注ぎたすと、ブランデーはあふれ、グラスの足をつたって、つみ重ねた受け皿の一番上の皿にこぼれた。「ありがとう」と老人が言った。ボーイはカフェのなかにボトルをもどした。彼はまた同僚のいるテーブルに腰をおろした。
「もう酔っぱらっちまってる」と彼が言った。
「毎晩、酔っぱらうんだ」
「なぜ自殺しようとしたんだろう?」
「わからないね」
「どんなふうにやったんだい?」
「縄で首をつってね」
「だれが縄を切ったんだ?」
「姪《めい》さ」
「なぜ助けたんだ?」
「自殺をしちゃあ、魂が救われないからさ」
「金はどのくらいあるんだ?」
「たくさんある」
「きっと八十にはなってるね」
「まあ、そのくらいだろう」
「帰ってくれればいいのに、三時前に寝たためしがないんだ。寝るには、ひどい時間だからね」
「好きだから、ああして起きてるんだ」
「孤独だからだよ。おれは孤独じゃないよ。ベッドで女房が待ってるんだ」
「奴《やっこ》さんも昔は細君がいたんだぜ」
「いまじゃ、細君がいたってしようがないさ」
「そりゃあ、わからないよ。細君がいりゃあ、もっとましかもしれない」
「姪が面倒をみてるんだろ。姪が縄を切ったと、さっき言ったね」
「そうだよ」
「あんなに老いぼれたくないね。年寄りはきたならしいよ」
「そうとも限らないさ。この爺さんは清潔だ。こぼさずに飲んでる。いま、酔っぱらっていてもね。見てごらん」
「見たくもないね。帰ってもらいたいよ。働かなけりゃならない者の身になってもらいたいね」
老人はグラスから眼をあげ、広場を見やり、それから、ボーイのほうを見た。
「ブランデー、もう一杯」とグラスを指さしながら言った。帰りを急いでいたボーイがやってきた。
「看板」と彼は、愚かな連中が酔っぱらいや外国人に話しかけるときのように、文章の形にしないで言った。「今晩、もうだめ、閉店」
「もう一杯」と老人。
「だめ。看板」ボーイはテーブルの縁をタオルで拭いて、首をふった。
老人は立ちあがり、受け皿をゆっくり数え、ポケットから革の財布をとりだし、酒代を払い、半ペセタのチップをおいた。
ボーイは老人が街を歩いていくのをながめた。ひどく年をとっていて、よろよろ歩いていたが、威厳があった。
「どうしてもっと飲ませてやらなかったんだ?」帰りを急がないボーイがきいた。二人はよろい戸をおろしていた。「まだ二時半にならないぜ」
「おれは家に帰って、ベッドにもぐりこみたいんだ」
「一時間ぐらい、どうだっていいじゃないか?」
「あの爺さんよりおれには、ずっと大切な時間だからね」
「一時間には変わりはないはずだ」
「爺さんみたいな言い方をするね。あの爺さんは一本買いこんで、家で飲めばいいんだよ」
「気分が違うよ」
「そりゃあ、そうだ」と女房もちのボーイが言った。彼は横車を押すつもりはなかった。ただ帰りを急いでいるだけだった。
「で、君はどうなんだ? いつもより早く家に帰るのは心配じゃないのか?」
「おれを侮辱《ぶじょく》しようってのか?」
「いや、|あんた《オンブレ》、ただの冗談さ」
「いや」と帰りを急いでいるボーイは、鉄のシャッターをおろして、立ちあがりながら、言った。
「おれは自信があるんだ。絶対、自信がある」
「若さも、自信も、仕事もあるんだな」と年上のボーイが言った。「君にはなんでもあるんだ」
「じゃあ、あんたは何がない?」
「仕事のほかは、何もないさ」
「おれと同じに、なんでもあるじゃないか」
「いや。自信などもったこともないし、もう若くもない」
「おい。馬鹿な話はよして、きちんと鍵をかけよう」
「おれは遅くまでカフェにいたいほうの人間さ」と年上のボーイが言った。「ベッドに行きたがらない連中の仲間さ。夜、あかりが必要な連中の仲間さ」
「おれは家に帰って、ベッドにもぐりこみたいよ」
「おれたちはお互い違った種類の人間なんだな」と年上のボーイが言った。家に帰るために服を着替えたところだった。
「若さや自信の問題だけじゃない。もっとも、そうしたものはすごく美しいものなんだけれど。毎晩、おれは店を閉《し》める気にならないんだ。カフェが必要な者がいるんじゃないかと思ってね」
「だが、|あんた《オンブレ》、終夜営業の酒場《ボディガ》があるよ」
「いや、そうじゃないんだ。ここは清潔で気持ちのいいカフェなんだ。それに、明るいしね。照明がすごくいいし、それに、木の葉の陰もある」
「おやすみ」と若いほうのボーイが言った。
「おやすみ」と相手もいった。彼は電灯を消して、心の中で会話をつづけた。明るいことは、むろん、必要だが、清潔で愉《たの》しくなくてはいけない。音楽はいらない。たしかに、音楽はいらない。それに、カウンターの前に威厳をもって立つわけにはいかない。こんな時間に用意されているのは、カウンターしかないにしてもだ。おれはなにを恐れてるのだ? 恐怖でも不安でもないのだ。あまりにもよく知りすぎている虚無というやつなのだ。すべてが無で、人間も無なのだ。それだけのことなのだ。必要なのは光だけなのだ。それに、ある種の清潔と秩序なのだ。あるものは虚無のなかに住み、それにちっとも気づかないのだが、それが|無にして無かつ無にして無《ナダ・イ・ブエス・ナダ・イ・ナダ・クイ・ブエス・ナダ》にすぎないとわかっているのだ。無《ナダ》にましますわれらの無《ナダ》よ。御名の無《ナダ》ならんことを。御国の無《ナダ》ならんことを、御こころの、無《ナダ》におけるかのごとく、無《ナダ》においても無《ナダ》ならんことを、われらにこの無《ナダ》を、われらの日々の無《ナダ》を与えたまえ。われらが無《ナダ》を無《ナダ》にするごとく、われらにわれらの無《ナダ》を無《ナダ》させたまえ。われらを無《ナダ》のなかに無《ナダ》にしたもうことなく、無《ナダ》より救いたまえ。しかして、無《ナダ》。無《ナダ》にみちたる無《ナダ》を祝したまえ。無《ナダ》はなんじのものなればなり。〔「主の祈り」新約聖書、マタイによる福音六章九節より十二節までをもじったもの〕彼は微笑して、ぴかぴか光った蒸気|圧搾《あっさく》コーヒー器のあるカウンターの前に立った。
「なんにしますか?」とバーテンがたずねた。
「無《ナダ》」
「|また気狂いだ《オトロ・ロコ・マス》」とバーテンは言って、そっぽをむいた。
「小さいカップ」とボーイが言った。
バーテンは彼のためにコーヒーを注《つ》いだ。
「ずいぶん明るくて気持ちがいいが、カウンターが磨いてないね」とボーイが言った。
バーテンは彼を見たが、答えなかった。話をするには、もう遅すぎた。
「|小さいカップ《コピア》を、もう一杯ですか?」とバーテンがたずねた。
「いや、いいんだ」とボーイは言って、外にでた。彼はスタンド・バーや酒場《ボディガ》が嫌いだった。清潔で照明の明るいカフェはそれとはまったく違ったものなのだ。さあ、もうこれ以上考えないで、自分の家の部屋に帰ろう。ベッドにもぐりこんで、夜明けになったら、なんとか、眠ることだろう。けっきょく、と彼は考えた、ただの不眠症にすぎないのだ。たくさんの人がこれにかかっているにちがいない。
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世の光
ぼくらが入り口からはいって来るのを見ると、バーテンは顔をあげ、それから、手をのばして、フリー・ランチ〔アメリカの酒場で、客寄せのために無料で出す料理〕のはいった二つのボールにガラスのふたをした。
「ビールをくれ」とぼくは言った。バーテンはビールを注《つ》ぎ、ヘらで泡を切ったが、グラスは手にもったままだった。ぼくが五セント玉をカウンターの上におくと、そのビールをこちらにすべらせてよこした。
「あんたは?」と彼はトムに言った。
「ビールさ」
バーテンは同じビールを注《つ》ぎ、泡を切り、金を見てから、トムのほうにビールをおしやった。
「どうしたんだ?」とトムがきいた。
バーテンは答えなかった。ぼくらの頭ごしに眼をやって、ちょうどはいってきた男に「なんにしますか?」と言っただけだった。
「ライ・ウィスキー」とその男は言った。バーテンはそのウィスキーのボトルとグラスと水のはいったコップを差し出した。
トムは手をのばして、フリー・ランチのボールのガラスのふたをとった。豚の足の酢漬けだった。木製のはさみのように動くものがおいてあって、その両端の木のフォークの部分でつまみあげるのだった。
「だめだよ」とバーテンが言って、ガラスのふたをボールの上にもどした。トムは木製のはさみを手にしていた。「もとにもどしな」とバーテンが言った。
「もどせって、どこに?」とトムが言った。
バーテンはぼくら二人の顔をじっと見ながら、カウンターの下へ片手をのばした。ぼくが五十セント銀貨をカウンターの上にのせると、彼は身体《からだ》をまっすぐ起こした。
「あなたはなんでしたっけ?」ときいた。
「ビールだ」とぼくは言った。彼はビールを注ぐ前に、ボールのふたを二つとも取った。
「お前んとこの豚の足はくせえなあ」とトムが言って、口にしていたものを床の上に吐きだした。バーテンは何も言わなかった。ライ・ウィスキーを飲んだ男は金を払って、ふりむきもせずに、出ていった。
「お前さんこそくさい」とバーテンが言った。「お前さんたちみたいなよた者は、みんなくさい」
「おれたちをよた者だとぬかしやがる」と、トミー〔トムもトミーも、ともにトマスの愛称〕はぼくに向かって言った。
「おい」とぼくは言った。「出よう」
「お前さんたち、よた者は、さっさと出てってくれ」とバーテンが言った。
「出るといってるじゃねえか」とぼくは言った。「お前の指図はうけねえよ」
「またくるぜ」とトミーが言った。
「まっぴらだよ」とバーテンが言った。
「やつに、けしからんって、言ってやれ」とトムがぼくに向かって言った。
「行こう」とぼくは言った。
外はとっぷり暮れていた。
「いったい、ここはどんなところなんだ?」とトミーが言った。
「さあね」とぼくは言った。「駅にいってみよう」
ぼくらは町の一方のはずれからはいってきて、反対のはずれから出ていこうとしていたのだ。町は獣皮と、タン皮と、高く積みあげたおが屑のにおいがした。はいってきたときは、日が暮れかけていたが、もう暗くなってしまうと、寒く、道の水たまりが端のほうから凍りはじめていた。
駅には、汽車の来るのを待っている五人の淫売婦と、六人の白人と、四人のインディアンがいた。それでもう、いっぱいで、ストーヴが暑く、煙がたちこめて、むっとしていた。はいっていったときには、だれも話していないで、出札口の窓は閉まっていた。
「ドアを閉めたらどうだ」とだれかが言った。
ぼくはだれが言ったのかと思って、見わたした。白人の一人だった。裾《すそ》を短く切ったズボンと、木材伐り出し人夫の使うオーヴァーシューズをはき、マキノー〔色格子じまの厚い毛織のシャツ〕をきている点は、ほかの連中と同じだったが、その男は帽子もかぶらず、顔も白く、手も白く、細かった。
「閉めないのか?」
「いいとも」とぼくは言い、閉めた。
「ありがとう」と彼は言った。ほかの一人がくすくす笑った。
「コックにちょっかいかけたことあるかね?」と彼はぼくにきいた。
「いや」
「こいつにちょっかいかけていいよ」彼はコックを見た。「こいつ好きなんだから」
コックは唇を固くむすんで、彼から眼をそらした。
「こいつはレモン・ジュースを手にぬるんだぜ」とその男が言った。「どんなことがあっても、食器を洗ったよごれ水に手を入れやあしないんだ。見ろよ、あんなに白いから」
淫売婦の一人が大声で笑った。こんな大きな淫売婦は見たこともなかったし、こんな大きな女もはじめてだった。例の、光線の具合で色の変わる絹のドレスを着ていた。同じくらい大きい淫売婦がほかに二人いたが、この大きい淫売婦は三百五十ポンドはあったにちがいない。実際に見ても、現実にそんな女がいるなどとは信じられないくらいだ。三人とも例の色の変わる絹のドレスを着ていた。ベンチに並んで腰かけていた。巨大だった。ほかの二人はごく普通の身なりの淫売婦で、オキシフルで髪を金髪に染めていた。
「こいつの手を見ろ」とその男は言って、コックのほうを顎《あご》でしゃくった。例の淫売婦はまた身体じゅうをゆすぶって、笑いこけた。
コックはその女のほうを向いて、早口に言った。「でっかい、いやらしい、肉のかたまりめ」
女は身体をふるわせ、笑いつづけるだけだった。
「まあ、とんでもない」と彼女が言った。きれいな声だった。「まあ、ほんとに、とんでもない」
ほかの大きいほうの二人の淫売婦は頭が足りないのかと思われるくらい、すごく静かに平然とふるまっていたが、大きかった。一番大きな女とほとんど同じくらい大きかった。二人とも、ゆうに二百五十ポンドは越えていた。あとの二人はおつにすましていた。
コックとしゃべっている男のほかに、男としては、二人の木材伐り出し人夫がいて、一人はおもしろそうに耳を傾けていたが、内気らしく、もう一人はいまにも何か言いだしそうだった。それから、二人のスウェーデン人がいた。二人のインディアンはベンチの端に腰をおろし、一人のインディアンは壁にもたれて立っていた。
いまにも何か言いだしそうにしていた男がぼくにひどく低い声で話しかけた。「干し草の山の上にのっかるみたいなもんですぜ、きっと」
ぼくは笑って、トミーにそれを教えてやった。
「神さまに誓うが、おれはこんなところに来あわせたことがねえ」と彼が言った。「あの三人を見ろよ」
するとコックが大声で言った。「あんたがた、いくつだ?」
「ぼくは九十六で、こいつが六十九〔わいせつな意味をもつ数字〕さ」とトミーが言った。
「ほ! ほ! ほ!」と大きな淫売婦が身体《からだ》をゆすぶって、笑いこけた。ほんとにきれいな声だった。ほかの淫売婦たちは笑わなかった。
「おい、お上品にできないのかね?」とコックが言った。「おれはただ仲良くしようと思ったんだが」
「ぼくらは十七と十九だ」とぼくは言った。
「どうしたんだ?」トミーがぼくのほうに向かって言った。
「まあいいさ」
「あたし、アリスっていうのよ」と大きい淫売婦が言い、それから、また身体をゆすぶって笑いだした。
「ふん、そうかね?」とトミーがきいた。
「そうよ」と女が言った。「アリスよ。そうだわね?」彼女はコックのかたわらに腰かけている男のほうに向かって言った。
「アリス。そのとおりだ」
「あんたたちがつけそうな名だな」とコックが言った。
「ほんとうにそうなんだもん」とアリスが言った。
「ほかの女《こ》はなんてんだ?」とトムがたずねた。
「ヘイゼルとエセルよ」とアリスが言った。へイゼルとエセルは微笑した。二人はあまり利口そうではなかった。
「お前はなんてんだ?」とぼくは金髪の一人に言った。
「フランセスよ」
「フランセスなんてんだ?」
「フランセス・ウィルソンよ。きいてどうすんのさ?」
「お前はなんてんだ?」ぼくはもう一人にきいた。
「まあ、失礼しちゃうわ」と彼女が言った。
「やつはみんなと仲良くしたいだけなんだ」とおしゃべりの男が言った。「仲良くしたいんだろ?」
「いやよ」とオキシフルで髪を染めた女が言った。「あんたたちとはね」
「こいつ、がみがみ女だ」とその男は言った。「ひでえ、がみがみ女だ」
金髪の一人が、もう一人の金髪を見て、首をふった。「くそったれじじい」と彼女が言った。
アリスは身体じゅうをゆすぶって、また笑いはじめた。
「おかしなことなんか、ないさ」とコックが言った。「あんたたち、みんなで笑ってるが、おかしいことなんか、ないさ。そこのお若いお二人さん、どちらヘ?」
「きみこそ、どちらへ?」とトムが彼にたずねた。
「キャディラック〔ミシガン州ウェックスフォード郡の町〕にいきたいんだ」とコックが言った。「あそこへいったことあるかね? 妹《シスター》がいるんでね」
「自分が妹《シスター》のくせして」と裾《すそ》を短く切ったズボンの男が言った。
「そんな言い方やめたらどう?」とコックが言った。「お上品に話したらどう?」
「キャディラックといやあ、スティーブ・ケチェルが出たところだし、アド・ウォルガストの生まれたところだ〔この二人のボクサーは一九一五年イリノイ州で対戦している〕」と内気な男が言った。
「スティーヴ・ケチェル」と金髪の一人がその名前をきいて身体のなかのピストルの引き金がひかれたように甲《かん》高い声で言った。「あの人は自分の親爺《おやじ》さんに射ち殺されたんだよ。ええ、そうよ、実の親爺さんによ。スティーヴ・ケチェルみたいな男はもう出ないわ」
「スタンレー・ケチェル〔射殺されたのはスティーヴでなくスタンレー・ケチェル。ただし、一九一〇年、農夫によって〕と言うんじゃなかったの?」とコックがたずねた。
「まあ、おだまり」と金髪が言った。「スティーヴのことなんか知りっこないわよ。スタンレーだって?スタンレーなんかじゃないわよ。スティーヴ・ケチェルはこの世で一番立派な好男子だったわ。スティーヴ・ケチェルほど、清潔で色白の好男子に、あたしゃ、あったことないよ。あんな男前はほかにゃあいないね。虎《とら》のように動き、金っぱなれがあんなにすてきな人、どこにもいないね」
「知ってたのかい?」と男の一人がたずねた。
「知ってたかだって?  あの人を知ってたかだって? 好きだったかだって? そんなこと、きくの? あたしゃ、だれよりもあの人をよく知ってたよ。神さまのように、愛してたよ。あの人は、この世の中で一番えらく、一番立派で、一番色白で、一番きれいな男だったよ、スティーブ・ケチェルは。だのに、親爺さんたら、あの人を犬のように射ち殺しちゃったんだからね」
「あいつといっしょに太平洋岸へいったのかね?」
「ううん。その前から知ってたわ。あたしの愛した男はあの人だけだったわ」
甲高《かんだか》い芝居じみた調子でこんなことを言っているオキシフルの金髪に、みんなはひどく敬意を表していたが、アリスはまた身体をゆすぶりはじめた。となりに腰かけていたぼくにはそれがよく感じられた。
「結婚すりゃよかったのに」とコックが言った。
「あの人の生活を傷つけたくなかったのよ」とオキシフルの金髪が言った。「あの人のひけめになりたくなかったのよ。あの人が必要だったのは奥さんなんかじゃなかったのよ。ああ、まったく、なんてすてきな男だったんだろう」
「それはすばらしい考え方だ」とコックが言った。「だが、ジャック・ジョンソンにノック・アウトされたんじゃなかったかね?」
「あれはインチキよ」とオキシフルの金髪が言った。「あの黒ん坊の大男が不意打ちをくらわせたのよ。あの人が黒ん坊の大男のジャック・ジョンソンの奴をノック・ダウンした直後だったわ。あの黒ん坊があの人をやっつけたのはまぐれだったのよ」
出札口の窓があいて、三人のインディアンがそちらにいった。
「スティーヴが黒ん坊をノック・ダウンしたのよ」とオキシフルの金髪が言った。「あたしのほうを向いて、にっこり笑ったわ」
「お前さん、太平洋岸には行かなかったといったんじゃなかったっけ」とだれかが言った。
「あの試合だけは見にいったわよ。スティーブがあたしのほうを向いて、にっこり笑ったわ。そしたら、あの黒ん坊の奴《やっこ》さんが飛びあがって、あの人に不意打ちをくらわしたのよ。スティーヴならあんな黒ん坊の百人ぐらいは一打ちよ」
「たいしたボクサーだったよ」と木材伐り出し人夫が言った。
「まったくそうだったわ」とオキシフルの金髪が言った。「あんなボクサーはもういないわ。神さまみたいだったわよ、あの人。すごく色白で、清潔で、きれいで、肌がすべすべして、す早く、虎か、稲妻のようだったわ」
「おれはその試合を映画で見たよ」とトムが言った。ぼくたちはみな感動していた。アリスは身体じゅうをゆすぶっていた。見ると、彼女は泣いていた。インディアンたちは外のプラットホームに出ていた。
「あんなにいい亭主って、いないわ」とオキシフルの金髪が言った。「神さまの眼からみりゃあ、あたしたちは結婚してたのよ。あたしゃ、いまでも、あの人のものだし、これからも、いつまでも、そうだし、あたしのすべては、あの人のものよ。あたしゃ、あたしの身体のことなんかどうでもいいのさ。あたしの身体はだれでも買えるよ。でも、心はスティーヴ・ケチェルのものよ。ほんとに、男だったわ」
みんなはひどく感動した。せつなく、どうしていいかわからなかった。すると、まだ身体をゆすぶらせていたアリスが話した。「あんた、けがらわしい嘘つきだよ」と例の低い声で言った。「あんた、スティーブ・ケチェルと一度も寝たことなんかないさ。それを知ってるくせに」
「あんたに、どうしてそんなこと言えるの?」とオキシフルの金髪が得意げに言った。
「ほんとだもん」とアリスが言った。「ここじゃあ、スティーブ・ケチェルを知ってるのはあたしだけよ。あたしはマンスローナ〔ミシガン州アントリム郡の町。キャディラックより北に位置〕の生まれだけど、そこであの人を知ったのさ、ほんとよ。あんただって、ほんとだってこと知ってるよね。嘘だったら、神さまに打ち殺されたっていいよ」
「あたしだって打ち殺されてもいいわ」とオキシフルの金髪が言った。「あたしの話はほんとよ、ほんとよ、ほんとよ。あんた知ってるくせに。ただの作り話じゃないんだよ。あたしゃ、いまでもはっきりと、あの人の言ったことおぼえてるよ」
「じゃあ、なんて言ったのさ?」とオキシフルの金髪がひとり悦《えつ》にいって、たずねた。
アリスはひどく泣いていて、身体をすごくゆさぶっていたので、口もきけないほどだった。
「あの人ったら、『アリス、お前はかわいいやつだ』って言ったわ。あの人の言ったとおりに言うと」
「嘘よ」とオキシフルの金髪が言った。
「ほんとよ」とアリスが言った。「ほんとにそう言ったわ」
「嘘よ」とオキシフルの金髪が得意げに言った。
「いいえ、ほんとよ、ほんとよ、ほんとよ、イエスさまとマリヤさまにかけて、ほんとよ」
「スティーブがそんなこと言うはずないわ。あの人そんなふうには言わないもん」とオキシフルの金髪はうれしそうに言った。
「ほんとよ」とアリスが例のきれいな声で言った。「あんたが信じようが信じまいが、あたしにはどうでもいいのよ」彼女はもう泣いてはいなかった。平静だった。
「スティーヴがそんなこと言うはずないわ」とオキシフルの金髪が言いきった。
「そういったんだもん」とアリスが言って、ほほえんだ。「そう言ったときのことおぼえてるわよ。あたしだって、あの人がそう言ったときには、かわいかったさ。いまだって、あんたのような、ひあがった、おんぼろ湯たんぽのばあさんよりは、ましだからね」
「あんたに侮辱されることないわ」とオキシフルの金髪が言った。「でぶっちょの、膿《うみ》の山。あたしにだって、昔の思い出はあるんだからね」
「嘘よ」とアリスが例のきれいな美しい声で言った。「あんたのほんとの思い出ったら、輸卵管をぬいたことと、C《コカイン》とM《モルヒネ》をはじめたときのことぐらいよ。ほかのことはみんな新聞で読んだことよ。あたしは清潔よ。それは知ってるわね。あたしは大きくても男の人から好かれるわ。それも知ってるわね。嘘もついたことないわ。それも知ってるわね」
「あたしの思い出をそっとしといてちょうだい」とオキシフルの金髪が言った。「あたしのほんとのすてきな思い出を」
アリスは彼女を見、それから、ぼくらを見たが、その顔には傷つけられたという様子はなく、ほほえみが浮かんでいた。見たこともないほどかわいい顔だった。かわいい顔で、きれいな、すべすべした肌で、きれいな声をしていて、まったくすてきで、じつに親しみがもてた。だが、残念ながら、大きすぎた。女三人ぶんの大きさだった。トムはぼくが彼女を見ているのに気づいて、「さあ、いこう」と言った。
「さよなら」とアリスが言った。たしかに、きれいな声だった。
「さよなら」とぼくは言った。
「あんたがたは、どちらのほうへ?」とコックがきいた。
「きみと反対のほうさ」とトムが言った。
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紳士よ、神が諸侯を楽しく休ませ給わらんことを
そのころは、 遠景はてんで違っていた。 いまでは木々が切り倒されているが、あの山々には土ぼこりが吹きつけ、キャンザス・シティはコンスタンチノープルそっくりだった。こう言っても、諸君は信じないだろう。誰も信じてはくれまいが、それは本当なのだ。その日の午後は雪で、自動車のディーラーのショー・ウィンドーは、夕暮れに早々と照明がつき、中に、全面銀色に仕上げられたレーシング・カーが一台おいてあって、ボンネットにダン・ザルジャンという文字が書いてあった。これは銀のダンスとか銀のダンサーという意味だとぼくは思い、そのどっちだろうかと、ちょっと決めかねたが、その車を見て愉しくなり、外国語を知っていたので嬉しい気分になり、雪の通りを歩いていった。クリスマスや感謝祭の日に七面鳥のごちそうを無料で出してくれるウルフ・ブラザーズ酒場から、町の煙や建物や通りを見おろす高い丘の上にある市立病院まで歩いた。病院の診察室にはドック・フィッシャーとドクター・ウィルコックスの二人の救急車係の外科医がいたが、一人は机の前に、一人は壁を背にして椅子に坐っていた。
ドック・フィッシャーはやせて、髪は灰色がかったブロンドで、唇はうすく、眼はおどけ、手は賭博師の手をしていた。ドクター・ウィルコックスは背が低く、髪は黒く、『若き医師の友とガイド』という索引つきの本をいつも持っていたが、その本はある特定の事項でひくと、病状と治療法が出てくるものであった。それはまた二重に索引がついていて、病状でひくと、診断が出てきた。ドック・フィッシャーは、将来改訂版が出る時には、さらに索引をつけて、実施している治療法でひけば、病名と病状がわかるようにすべきだと、提案していた。「記憶の助けとして」と彼は言った。
ドクター・ウィルコックスはこの本のことを気にしていたが、それなしではやっていけなかった。それはしなやかな革で装幀《そうてい》されていて、彼の上衣のポケットにぴったりおさまった。彼は彼の教わった教授の一人の忠告でそれを買ったのだが、その教授はこう言ったものだ。「ウィルコックス、君は医者になる柄《がら》じゃない。わたしは君が医者の免許を取れないように極力つとめた。が、いまや君がこの学問的職業の一員となった以上、ドクター・ウィルコックス、わたしは人類の名において、君が『若き医師の友とガイド』の一冊を手に入れ、使用するよう忠告する。その使い方を勉強したまえ」
ドクター・ウィルコックスは何も言わなかったが、その日すぐ、革装幀のそのガイド・ブックを買ったのだ。
「やあ、ホレス」と、ぼくが診察室にはいっていくと、ドック・フィッシャーが言った。そこは、煙草と、ヨードホルムと、石炭酸と、過熱した暖房装置のにおいがした。
「先生方《ジェントルメン》」とぼくは言った。
「下町《リアルトー》では何か面白いことないかね?」とドック・フィッシャーがたずねた。彼は好んでおおげさな言い廻しで言ったが、それがぼくには最大限に優雅に思われた。
「ウルフの店で七面鳥がただです」とぼくは答えた。
「君、食べたかね?」
「たくさん食べました」
「仲間もおおぜい出かけたかね?」
「おおぜいいきましたよ、全員ね」
「クリスマスの愉しさにあふれてたかね?」
「さほどでもありませんでした」
「このドクター・ウィルコックスもちょっとごちそうになってきたところさ」とドック・フィッシャーが言った。ドクター・ウィルコックスは彼を見あげ、それからぼくを見た。
「一杯どう?」と彼がたずねた。
「いや、けっこうです」
「そうか」とドクター・ウィルコックスが言った。
「ホレス」とドック・フィッシャーが言った。「君をホレスと呼んでもかまわんだろう、な?」
「いいですよ」
「なあ、なつかしいホレス。ひどく面白いことがあったんだ」
「おれが言おう」とドクター・ウィルコックスが言った。
「きのうここにいた若者を知ってるだろう?」
「どの方ですか?」
「去勢したがってた若者さ」
「ええ」ぼくは、その男がはいってきたとき、そこにいあわせたのだ。彼は十六ぐらいの少年だった。帽子もかぶらずにはいってきて、すごく興奮して、おびえていたが、心に期するものがあるようだった。髪の毛はちぢれ、体格がよく、唇が突きだしていた。
「どうしたんだね、君?」とドクター・ウィルコックスが彼にたずねた。
「去勢してほしいんです」と少年が言った。
「どうして?」とドック・フィッシャーがたずねた。
「お祈りをしたり、いろんなことをしましたが、役に立たないんです」
「役に立たないって、何の?」
「あのおそろしい性欲です」
「おそろしい性欲って、どんな?」
「あの、いつものやつなんです。止められないやつなんです。そのことで、一晩じゅう祈ったんですが」
「どんなようになるんだね?」とドック・フィッシャーがたずねた。
少年は彼に話した。「いいかね、君」とドック・フィッシャーが言った。「君には何ら悪いところはないんだ。そんなふうになるもんなんだよ。何ら悪いところはないんだ」
「悪いんです」と少年が言った。「純潔に対する罪なんです。神と救世主に対する罪なんです」
「そうじゃない」とドック・フィッシャーが言った。「それは自然なことなんだ。そんなようになるもんなんだ。あとになれば、とても仕合わせだと思うだろうよ」
「いや、おわかりにならないんです」と少年は言った。
「ね、聞きたまえ」とドック・フィッシャーが言って、少年にあることを話した。
「いや、聞きたくありません。ぼくに聞かせようったって、だめです」
「いいから、聞きたまえ」とドック・フィッシャーが言った。
「君は大馬鹿野郎だよ」とドクター・ウィルコックスが少年に言った。
「じゃあ、やっていただけないんですね」と少年がきいた。
「何をだい?」
「去勢です」
「いいかね」とドック・フィッシャーが言った。「誰も君を去勢しやせんよ。君の身体《からだ》には悪いところなんかないんだ。君は立派な身体なんだ。そんなこと考えちゃいかんよ。君が信仰心があるなら、君が訴えていることは決して罪深い状態なのではなく、神の聖餐を十分にいただくための手段だということを、忘れてはならないんだ」
「ぼくはあれが起こるのを止められないんです」と少年が言った。「一晩じゅう祈り、昼間も祈るんです。あれは罪です。純潔に対する不変の罪です」
「ああ、出ていけ、そして……」とドクター・ウィルコックスが言った。
「そんなようにおっしゃるなら、あなたのお言葉に従えません」と少年はドクター・ウィルコックスに向かって威厳をもって言った。「先生、やっていただけませんか?」と彼はドック・フィッシャーに頼んだ。
「だめだ」とドック・フィッシャーが言った。「君に言っただろ、な」
「ここから追いだせ」とドクター・ウィルコックスが言った。
「自分で出ていきますよ」と少年が言った。「触らないでください。出ますから」
これは前日の五時ごろのことだった。
「で、どうなったんですか?」とぼくはたずねた。
「で、今朝の一時に」とドック・フィッシャーが言った。「かみそりで自分の大切なところを切りとった若者がかつぎこまれたんだ」
「去勢したんですか?」
「いや」とドック・フィッシャーが言った、「あいつは去勢がどういうことなのか知らなかったんだ」
「死ぬかもしれんな」とドクター・ウィルコックスが言った。
「どうしたんです?」
「出血多量さ」
「すぐれた医者で、ここなる、わが同僚のウィルコックス先生がお呼び出しにあずかり、先生は例の本の記載の中にこの突発事件を発見できなかったというわけさ」
「そんな言い方、ただじゃおかんぞ」とドクター・ウィルコックスが言った。
「親しさのあまり、そう言ってるまでだよ、ドクター」とドック・フィッシャーは言い、自分の手を見た。その手は、アメリカ連邦の法律に進んで従ってはいるが、尊敬はしていないために、彼に面倒を引き起しているのだ。「ここにいるホレスが証人になってくれるが、おれはただ親しさのあまり、ああ言ったまでさ。その若者がやったのは切断手術だったんだよ、ホレス」
「まあ、あのことでからかわんでくれ」とドクター・ウィルコックスが言った。「おれをからかわなくたっていいんだ」
「君をからかうんだって、ドクター? われわれの救世主の誕生日にか?」
「〈われわれ〉の救世主だって? 君はユダヤ人じゃないのか?」とドクター・ウィルコックスが言った。
「そうだよ、おれは。そうだよ。どうも、よく忘れるんでね。それがちゃんと重要だなんて思ったこと一度もないんだ。思い出させてくれて、ほんとにありがとう。〈君たち〉の救世主だったね。そうだ。〈君たち〉の救世主さ、間違いなく、〈君たち〉の救世主さ……それで、シュロの日曜日〔復活祭直前の日曜日で、キリストが受難を前にエルサレムにはいった日を記念する日。キリストが通る道で信者が勝利のしるしとしてシュロの枝をまいて祝ったことから、こう呼ばれる〕にロバに乗って、からかいに来たわけだ」
「よく頭がまわるよ」とドクター・ウィルコックスが言った。
「すばらしい診断だ、ドクター。おれはひどく頭がまわりすぎるんだ。たしかに、このへんじゃ、ひどく頭がまわりすぎる。気をつけろよ、ホレス。君にはその傾向はたいしてないが、時どき、ちらっと見えるんだ。だが、なんたるすばらしい診断か……しかも、本も見ないで」
「地獄へ行っちまえ」とドクター・ウィルコックスが言った。
「そのうちにね、ドクター」とドック・フィッシャーが言った。「そのうちに。そんな所があれば、きっと行くよ。ちょっと見たこともあるんだが。じっさい、ちらっとのぞいただけなんだが。すぐ目をそらしたんでね。で、このご立派なドクターがその若者を連れてきたときに、その若者が何と言ったか知ってるか、ホレス? こう言ったんだぜ。『おお、ぼくはあなたにやってくださいと頼んだんです。なんどもなんども頼んだんですよ』」
「しかも、クリスマスの日にね」とドクター・ウィルコックスが言った。
「何の日だかってことは問題じゃない」とドック・フィッシャーが言った。
「たぶん、君にとってはね」とドクター・ウィルコックスが言った。
「聞いたかね、ホレス?」とドック・フィッシャーが言った。「聞いたかね? この先生はぼくの弱点を、いわばアキレス腱《けん》を、見つけたもんだから、利用しているんだよ」
「君はあんまり頭がまわりすぎる」とドクター・ウィルコックスが言った。
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海の変化
「よし」と男が言った。「それがどうだってんだ」
「だめなの」と女が言った。「あたし、できないのよ」
「したくないんだろ」
「できないのよ」と女が言った。「ただ、それだけなのよ」
「したくないんだろ」
「いいわ」と女が言った。「好きなように考えて」
「好きなように考えたりはしないさ。好きなように考えられたらいいんだがね」
「ずっとそうだったくせに」と女が言った。
まだ時刻が早かった。そのカフェには、バーテンと、隅っこのテーブルにいっしょにいるこの二人のほかは、だれもいなかった。夏の終りで、二人はどちらも日焼けしていたので、このパリでは場ちがいの感じだった。女はツイードのスーツを着ていて、肌はなめらかな金褐色、金髪はショート・カットで、額から美しくのびていた。男は女を見た。
「あの女を殺してやる」と男は言った。
「お願い、やめて」と女は言った。すごくきれいな手をしていた。男はその手を見た。すんなりとして、小麦色で、とても美しかった。
「殺してやる。神に誓って、殺してやる」
「そんなことしたって、あなた、幸福になれないわよ」
「もっとちがったふうにはなれなかったのかい? 困ったことになったとしても、もっとちがったふうにはなれなかったのかい?」
「だめだったようよ」と女が言った。「あなたどうするつもり?」
「さっき言ったじゃないか」
「だめよ。あたし、ほんとのことがききたいわ」
「ぼくにもわかんないんだ」と男は言った。女は男を見て、手をさしだした。「かわいそうなフィル」と女は言った。男は女の手を見たが、自分の手で女のその手にふれようとはしなかった。
「いや、けっこうだ」と男は言った。
「ごめんなさいと言ってみたところで、はじまらないわ」
「ああ」
「それがどういうことか話してみたところで、おんなじね」
「聞きたくないんだ」
「とてもあなたを愛してるのよ」
「うん、こんどのことがその証拠さ」
「ごめんなさい」と女は言った。「わかっていただけないかと思って」
「わかってるよ。だから、困るんだ。わかってるよ」
「わかってるのよね」と女は言った。「だから、ますます悪いんだわ、ねえ」
「そうなんだ」と男は女を見ながら言った。「ぼくはいつもわかるんだ。昼でも、夜でも、ずっと。特に、夜は、ずっと。わかってあげるよ。だから、そのことは心配しなくていいよ」
「ごめんなさい」と女は言った。
「もし相手が男だったら……」
「そんなこと言わないで。男のはずがないから。わかってるくせに。あたしを信じてくださらないの?」
「おかしいよ」と男は言った。「信じてくれって、まったくおかしいよ」
「ごめんなさい」と女は言った。「あたしにはそれだけしか言えないようね。でも、おたがいにわかりあっているのに、わからないふりをしてみたって、はじまらないわ」
「そう」と男は言った。「そのとおりさ」
「あたし、かえってくるわよ、あなたがあたしをほしくなったら」
「いや、君はほしくない」
それから、二人はしばらく何も言わなかった。
「あたしがあなたを愛してるって、あなた、信じないんでしょう、ねえ?」と女はたずねた。
「つまらないことを言うのはよそう」と男は言った。
「あたしがあなたを愛してるって、あなた、ほんとに信じないのね?」
「なぜその証拠を見せないんだ?」
「あなたはそんなふうじゃなかったわ。あたしに何か証拠を見せろなんて言わなかったわ。ひどいわ」
「君はおかしいよ」
「あなたはおかしかないわ。立派よ。あなたから離れていくなんて、つらいけど……」
「しかたがないってんだろ、なあ」
「そうよ」と女は言った。「しかたがないのよ。知ってるくせに」
男は何も言わなかった。女は男を見て、もいちど手をさしだした。バーテンはカウンターの向こう端にいた。顔が白く、ジャケットも白かった。彼はこの二人を知っていて、すばらしい若いカップルだと思っていた。これまで彼は、すばらしい若いカップルが別れて、あたらしいカップルをつくったが、まえほどのすばらしさが長くは続かなかった例を、いくつも見ていた。だが、彼はそんなことを考えているのではなかった。馬のことを考えていたのだ。あと半時間もすれば、通りの向こうへ人をやって、その馬が勝ったかどうか知ることができるのだ。
「どうぞ、あたしを許して、行かせてくれない?」と女がたのんだ。
「ぼくが何をすると思う?」
二人の客が入口からはいってきて、カウンターのところへいった。
「かしこまりました」とバーテンが注文を受けた。
「あたしを許すわけにはいかないの? あのことがわかっても?」と女はたずねた。
「だめだ」
「いっしょに経験したりやったりしたのに、理解に違いができたと、思うの?」
「『悪徳は恐ろしい様子をした怪物なれば』〔イギリスの詩人ホープの『人間論』の一節〕」と若い男はにがにがしげに言った。「何かになるには、ただ見られる要あり。しかして、われら、なんとか、かんとか、しかして、あい抱く」男は詩句を思いだせなかった。「引用、忘れた」と男は言った。
「悪徳なんて言わないで」と女は言った。「品がないわ」
「じゃ、堕落だ」
「ジェイムズ」と客の一人がバーテンに話しかけた。「元気そうだな」
「お客さんこそお元気そうで」とバーテンが言った。
「ジェイムズさん」ともう一人の客が言った。「ふとったね、ジェイムズ」
「ひどいですよ」とバーテンが言った。「こんなにふとっちゃって」
「ブランデーを入れるのを忘れないでくれよ、ジェイムズ」と最初の客が言った。
「だいじょうぶです」とバーテンが言った。「ご安心を」
カウンターの二人はテーブルの二人のほうを見、それからまたバーテンのほうをふりかえった。バーテンのほうを見ているほうが楽だった。
「そんな言葉、使わないでほしいわ」と女は言った。「そんな言葉を使う必要はないもの」
「じゃあ、なんと言ってほしいんだ?」
「なんとも言う必要ないのよ。名前を付ける必要ないのよ」
「あれがその名前なんだ」
「ちがうわ」と女は言った。「あたしたちはいろんなものからできてるのよ。そんなこと、あなた、先刻、ごぞんじよ。あなた、それを充分うまく利用してきたんですもの」
「いまさらそんなこと言う必要ない」
「あなたにわかってもらいたいからよ」
「よし」と男は言った。「わかった」
「みんなまちがってたって言うんでしょ。わかってるわ。みんなまちがってたんだわ。でも、あたしは帰ってくるわ。帰ってくると言ったでしょ。すぐにでも帰ってくるわ」
「いや、帰ってこない」
「あたし、帰ってくるわ」
「いや、帰らない、ぼくのところへは」
「いずれわかるわ」
「ああ」と男は言った。「糞くらえだ。たぶん帰ってくるだろうよ」
「もちろん、帰ってくるわ」
「じゃあ、行けよ」
「ほんとう?」女は男が信じられなかった。が、その声はうれしそうだった。
「行けよ」男の声は自分にも異様にひびいた。男は女を、女の口の動きを、頬骨の曲線を、目を、額の上の髪の生えざわを、耳たぶを、首筋を見ていた。
「ほんとかしら。まあ、あなたって、とってもやさしいのね」と女は言った。「とっても親切ね」
「こんど帰ってきたときには、何もかも話してくれ」
男の声はひどく異様にひびいた。男はそれに気づかなかった。女は男をちらっと見た。男はどこか違っていた。
「いってもいいのね?」と女は真顔でたずねた。
「ああ」と男は真顔で言った。「すぐ行けよ」男の声は前と同じではなかった。口がひどく乾いていた。「さあ」と男は言った。
女は立ちあがって、足早に出ていった。女は男のほうを振り向かなかった。男は女の行くのをじっと見ていた。男は、女に行けと言った以前の男とは、まるで別人のように見えた。男はテーブルから立ちあがり、二枚の伝票をつかみ、カウンターのところへいった。
「ぼくは人間が変ったよ、ジェイムズ」と男はバーテンに言った。「すっかり変ったのがわかるだろう」
「そうですか?」とジェイムズは言った。
「悪徳は」と褐色に日焼けした若者は言った。「ひどく奇妙なものだね、ジェイムズ」男は入り口から外を見た。女が通りを歩き去るのが見えた。鏡をのぞきこむと、自分がほんとうに変って見えた。カウンターの二人の客は身体を動かして、男のために席をあけた。
「こちらへどうぞ」とジェイムズが言った。
二人の客はもうすこし身体を動かして、男がゆったりできるようにした。若者はカウンターのうしろの鏡のなかに自分の姿を見た。「ぼくは人間が変ったと言ったんだぜ、ジェイムズ」と男は言った。鏡をのぞきこみながら、男はそれがまったく嘘ではないことがわかった。
「すごくお元気そうですよ」とジェイムズが言った。「きっと、とてもすばらしい夏だったんでしょうね」
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ひとりだけの道
攻撃は平野を横ぎって進み、凹《へこ》んだ道路と一塊りの農家から打ち出す機関銃の援護のもとに、町では何の抵抗もうけず河岸に達した。ニコラス・アダムズは、自転車にのって道路を進んできたが、路面がひどく破壊されているので、自転車を押していこうと降りると、死体の状況で何が起こったかわかった。
死体は平野の丈の高い草の中や道路ぞいに、一つぽつんと、またはいくつもかたまって、ころがっていた。ポケットはひっくりかえされ、蠅《はえ》がむらがり、一つずつの死体や死体のかたまりのまわりには紙片がちらばっていた。
草むらや穀草の中や、道ばたや、ところによっては路上のあちこちに、いろんなものがあった。野戦用炊事具、これはまだ状況のよかったころ運ばれてきたらしい。牛皮蓋付の雑嚢《ざつのう》、手榴弾、へルメット、ライフル銃、ときには床尾を上にし、銃剣が土につきささっていた。死ぬ間際にずいぶん深く突きさしたものだ。手榴弾、へルメット、ライフル銃、塹壕《ざんごう》作業具、弾薬箱、照明弾用ピストル、散らばった照明弾、薬品箱、ガスマスク、からになったガスマスクの容器、からの薬莢《やっきょう》の山の中にうずまった三脚台つき機関銃、箱からはみだしている使ってない機関銃の弾丸《たま》のベルト、かたむいている空の冷水罐、とれてしまっている遊底、奇妙な恰好のまま死んでいる機関銃兵、そしてそのまわりに、草の中に、さらに多くの例の同じような紙きれ。
ミサの祈祷書があり、機関銃隊をうつした団体写真の葉書もある。大学年鑑用のフットボールの写真のように整列し、健康そうで愉しげだ。いまではこの連中も草の中で背中をまげ、ふくれあがっている。また、オーストリアの軍服をきた兵士がベッドの上で女にのしかかっている宣伝用の写真もある。姿は印象派的に描かれ、すごく魅力的な絵だったが、実際の暴行とは共通点が少しもなかった。本物の暴行はスカートを頭の上までまくりあげ、息もつけないようにする。ときには、戦友の一人が女の頭の上にのることもある。攻撃の直前に配られたらしいこういう刺戟的な絵葉書がたくさんあった。わいせつな絵葉書型の写真といっしょにちらばっていた。また村の写真屋のうつした村娘の小型写真や、ときには子供たちのもあり、無数の手紙があった。死体のまわりにはいつも、たくさんの紙片があるものだが、この攻撃が残した破壊の跡も、その例に洩れなかった。
ここにあるのは新しい死体で、誰もポケットのほかは気にかけなかったものだ。味方の死体、あるいは、味方の死体と思われるものが、驚くほど少ないことに、ニックは気づいた。彼らの上衣もあらされ、ポケットはひっくりかえされ、死体はその位置によって攻撃のやりかたとその巧みさを物語っていた。暑さは敵味方の別なく死体をふくれあがらせていた。
町の防衛は最後まで凹んだ道路の線から行なわれたらしく、町へ後退しようとしたオーストリア兵は殆どいなかった。いや皆無だった。路上には死体が三つあるだけで、それも走っているのを殺されたらしい。町の家々は砲撃のためくずれ、通りは壁とモルタルのかけらの山で、折れた梁材やこわれたタイルがあり、たくさんの穴があき、その穴のいくつかはイペリットのため縁が黄色くなっていた。砲弾の破片がたくさんあり、榴散弾《りゅうさんだん》が瓦礫の中にちらばっていた。町は人っ子一人いなかった。
ニック・アダムズはフォルナチを出てから誰にも会わなかった。ただし、一面に葉におおわれた田舎道を自転車でくる途中で、道路の左側に桑の葉陰にかくしてある銃器を見た。太陽が金具を直射して葉の上にかげろうが立ちのぼっていたので気がついた。ニックは町を通り、人気のないのに驚き、土手の下の低い道路にでた。町をでると、何もさえぎるもののない空間がひらけ、道路がゆるい下り坂になり、河のゆるやかな流れや、対岸の低いカーブや、オーストリア兵の掘った泥が太陽に白く乾いているのが見えた。このまえ見たときより青々と緑が濃くなり、歴史的な戦場になっているのに、このゆるやかな河の流れはなんの変化もなかった。
大隊は左手の土手に沿って展開していた。堤の高いところには穴が一面につづき、何人かがその中にいた。ニックは機関銃がすえられ、信号用ロケットが発射台におかれているのに気がついた。土手の脇の穴の中の人は眠っていた。彼は誰にもとがめられなかった。どんどん進み、泥の堤の曲り角までくると、不精ひげを生やし、目の縁が赤くひどく充血している若い少尉が彼にピストルを向けた。
「だれだ?」
ニックは名前を言った。
「証拠は?」
ニックは写真が貼られ第三軍の印がおされ身分証明のある通行許可証を見せた。相手はそれを受け取った。
「あずかっておこう」
「こまりますよ」とニックが言った。「かえしてください。それにピストルをしまってください。そこのピストル入れに」
「お前の正体がどうやればわかる?」
「通行許可証に書いてありますよ」
「偽造だったら? 許可証をよこせ」
「冗談じゃありませんよ」とニックが快活に言った。「中隊長のところへ連れてってください」
「大隊本部へ連れていこう」
「いいですよ」とニックは言った。「あの、パラヴィッチーニ大尉を知ってますか? ちょびひげをはやした背の高い、建築家だった、英語のしゃべれる?」
「知ってるのか?」
「ちょっと」
「何中隊の指揮官だ?」
「第二中隊です」
「いまはこの大隊の指揮官だ」
「それはよかった」とニックが言った。パラが健在なのでホッとした。「大隊へ行きましょう」
ニックが町はずれをあとにしたとき、三発の榴散弾が高く、こわれた人家の右の上空で炸裂したが、その後は、一つも砲撃はなかった。だが、この将校の顔は砲撃を受けている最中の男の顔のようだった。おなじように緊張し、声は自然ではなかった。彼のピストルはニックをいらいらさせた。
「そいつをしまってください」とニックが言った。「敵ときみのあいだには川があるんですよ」
「お前がスパイだとわかれば、すぐ射殺するぞ」と少尉が言った。
「さあ」とニックは言った。「大隊へ行きましょう」この将校はニックをひどくいらだたせた。
パラヴィッチーニ大尉は、少佐代理で、前よりやせ、ずっとイギリス人みたいな風貌になっていた。大隊本部になっている壕の中のテーブルの前でニックが敬礼すると、立ち上った。
「やあ」と彼は言った。「きみだとは気がつかなかったよ。そんな軍服で何をしてるんだ?」
「着せられてるんです」
「会えてよかったな。ニコロ」
「まったくね。元気そうですね。戦闘はどうでした?」
「立派な攻撃をやったぞ。まったくね。すごく立派な攻撃だ。こうなんだ。見たまえ」
彼は地図で攻撃の経過を示した。
「ぼくはフォルナチからきたんですが」とニックが言った。「どんなだったかわかりましたよ。すばらしかったですね」
「とびきりよかったね。まったくとびきりさ。きみは連隊付きなのか?」
「いや。あちこち歩いて、この軍服をみせてまわってるんです」
「おかしな役だね」
「アメリカ兵の軍服を一つみれば、あとから続々くると信じこませられるだろうってわけです」
「だが、どうしてアメリカ兵の軍服だってわかるのかね?」
「あなたがみんなに知らせるんです」
「ああ、そうか、分ったよ。伍長を案内人につけるから、あちこち前線をまわったらいい」
「いやらしい政治家なみですね」とニックが言った。
「背広を着たほうがずっと目立つぜ。あの服装はとても目立つから」
「ホンブルグ帽〔つばが狭く山の中央がへこんだフェルトの中折帽〕をかぶってね」とニックが言った。
「それとも、すごく毛羽《けば》だった中折帽をね」
「たばこや葉書なんかをポケットいっぱいにつめこんでくることになってたんです」とニックが言った。「チョコレートのいっぱいいれてある食糧袋をかついでくればよかった。親切な言葉を言って、背中をなでて、分けてやるんですよ。だけど、たばこも、葉書も、チョコレートもありゃしない。それなのにとにかく、ぐるっと一まわりしてこいっていうんですからね」
「きみが姿を見せるだけで、士気を鼓舞《こぶ》するにちがいないよ」
「そんなことあやしいもんですよ」とニックが言った。「このままでも、ずいぶんひどいと思ってんですよ。本来なら、あなたにブランデーを一本持ってきたかったんですがね」
「本来ならか」とパラは言って、黄色い歯をみせ、はじめて笑った。「いい表現だな。焼酎《グラッパ》はどうだね?」
「いや、結構です」とニックが言った。
「エーテルがまじっていないぜ」
「今でもまだ味ぐらいわかりますよ」ニックは突然、しかもすっかり思いだした。
「きみが軍用トラックに乗ってかえると言いだすまで、きみが酔っぱらってるとは気づかなかったんだ」
「攻撃のあるたんびに、いやな臭いをさせてましたよ」とニックが言った。
「ぼくは飲めないんだ」とパラが言った。「はじめての攻撃、ほんとにはじめての攻撃のときに、一杯やったんだが、ひどく気が転倒するばかりで、おっそろしくのどが渇いたよ」
「飲む必要なんかありませんよ、あなたは」
「きみは攻撃のとき、ぼくよりずっと勇気があるんだな」
「とんでもない」とニックが言った。「ぼくは自分がどんなだか知ってますよ。いやな臭いでもぷんぷんさせてるほうが性《しょう》にあってるんです。恥ずかしいなんて思いませんよ」
「きみが酔っぱらったのを見たことないな」
「そうですか?」とニックが言った。「一度もですか? メストレからポルトグランデまで車でいったあの晩はどうでしたか? ぼくが眠くなって、自転車を毛布の代りにして、あごの下に引きよせた、あの晩もですか」
「あれは前線じゃなかったよ」
「ぼくのことなんかやめましょうよ」とニックが言った。「それは、知りつくしていて、これ以上考えたくないことですよ」
「しばらくここにいたらどうだ?」とパラヴィッチーニが言った。「よかったら、昼寝でもしたらどうだ。砲撃中でもここは大丈夫だったよ。でかけるには暑すぎるよ」
「急ぐこともないと思いますが」
「ほんとは身体の具合、どうなんだ?」
「いいですよ。すっかりいいんです」
「いや、ほんとのところをきいてるんだ」
「大丈夫ですよ。ただ何か明かりがないと眠れないんですが。それだけですよ、いまじゃあ」
「開頭手術を受けたほうがいいと前に言っただろう。ぼくは医者じゃないが、それくらいは知ってるんだ」
「ええ、奴らは、そっとしといたほうがいいと思ったんですよ。それで、そういう療法を受けたんですよ。どこか変なとこありますか? まさか気違いには見えないでしょう?」
「最高の体調に見えるよ」
「ひとたび医者から気が変だと証明されてしまったら、ひどく迷惑ですからね」とニックが言った。「だれにも信用されませんからね」
「昼寝がしたいな。ニコロ」とパラヴィッチーニが言った。「ここは、われわれの知ってるような大隊本部とちがうんだよ。ひっぱりだされるのを待ってるのさ。この暑さに出ていっちゃだめだぞ……おろかしいことだよ。その寝台を使えよ」
「ちょっと横になろうかな」とニックが言った。
ニックは寝台に横になった。彼は自分がこんな気持になったのでひどくがっかりした。それに、それがパラヴィッチーニ大尉にすっかり見抜かれていたので、よけいがっかりした。ここはあの時の塹壕《ざんごう》ほど大きくはなかった……あのとき、一八九九年生まれが集まった小隊は、前線にきたばかりで、攻撃直前の砲撃のあいだ、ヒステリー状態になって塹壕にいた。パラはニックに、何でもないと納得させるために、兵士たちを一度に二人ずついっしょに壕の外につれ出して歩かせるようにと命じた。自分はわめきださぬようにあごひもをきつく縛っていた。泣きわめきたい気持にとりつかれたら、もうがまんできないことはわかっていた。それがひどい騒ぎになることも知っていた……奴がわめくのをやめなければ、鼻を折ってやれ。他のことに気がそれるだろう。一発くらわせたいが、もう遅すぎる。もっと悪くなるだけだ。奴の鼻を折ってやれ。攻撃開始を五時二十分までおくらせやがった。あと四分しかないんだ。もう一人の馬鹿な奴の鼻を折り、けつを蹴り、ここから追いだしちまえ。奴らが飛び出してゆくと思うか? ゆかなきゃ、二人ほど射ちころして、なんとか他の奴らを追いだすようにするんだ。うしろについていろよ、軍曹。前を歩いちゃだめだ。だれもついて来やしないぞ。前進しながら、奴らをおったてるんだ。ひどい騒ぎだな。よし、よし。それから時計をみて、あのおだやかな口調、あの価値あるおだやかな口調で叫ぶ。「|よし《サヴォイア》」おちついたが、気をとりなおす間もなくなっていた……一度言うなりになったあとは、自分の勝手は言われなくなり、全体の目的がひっこんでしまった。彼らを行動させたのはそれだった。冷静にあの坂をのぼったのが、彼が酒気なしでやった唯一の場合だった。それからあとは、多分、焼けた空中ケーブルの駅へもどったように思う。四日後に負傷者がおりてきたが、おりてこないのもあった。が、われわれは山をのぼり、退却し、山をおりた。……いつもおりてばかりいた。それに、奇妙なことだが、ギャビー・デリスという女がいて、羽かざりをつけていた。そして、あなたは一年前にあたしのことをベビー・ドルだなんて呼んだわね、タダダ、あたしをすてきだと言った、タダダ、羽かざりをつけていようと、羽かざりをつけていなかろうと、偉大なるギャビーだ、と。ぼくの名前はハリー・ピルサーとも言うんだ。丘のけわしいところをのぼるときはいつも隊列のずっと端のほうからのぼることにしていた。夢をみるときには、その丘が、真白に砲弾で吹きとばされ、石けんの泡のようになったサクレ・クール寺院といっしょに夜毎あらわれた。彼女がそこにあらわれたり、彼女がだれかといたりしたが、彼にはよくわからなかった。だが、そういう夜には、川が、現実のものよりずっと幅広く静かに流れていた。フォッサルタの郊外には黄色く塗られた屋根の低い家があって、まわりにはぐるっと柳がうえてあり、低い厩舎《きゅうしゃ》がついていて、運河があった。数えきれないくらいそこへいったのに、一度もその運河は見なかった。だが、毎晩の夢では、丘と同様、はっきりと運河がそこにあったが、彼を怯《おび》えさせるだけだった。あの家はなにものより意味があって、毎晩、その夢を見た。それは彼の欲したものだったが、彼を怯えさせもした。特に、ボートが運河の柳の間に静かに浮かんでいるときにはそうだった。が、土手はこの川に似ていなかった。ポルトグランデの時と同じように水面が低かった。あそこでは、奴らが水のあふれた地面を銃を高くかかげて渡ってきたが、さいごに銃をもったまま水のなかに倒れてしまったっけ。誰がそんなことを命じたのだったろう? そんなにこんがらがっていなけりゃ、ちゃんと思いだせたのに。だから、なんでも細かく気をつけて、なんでも整然とさせ、自分のいるところをはっきり知れるようにしようとしたのだが、それでも今みたいに急に、わけもなくこんがらがってしまう。その自分は大隊本部で、それを指揮しているパラと寝台に横になっているのだ。それに、ろくでもないアメリカ兵の軍服なんか着てるんだ。彼は起きあがり、あたりを見まわした。みんなが彼を見ていた。パラはいなかった。彼はまた横になった。
パリの頃のことがまずあらわれた。そのうちで彼が怯えたのは、彼女がほかの男といってしまって、二人が前にのったことのある運転手の車にのってしまわないかということだった。それが彼を怯えさせることだった。決して前線のことでは怯えなかった。もう彼はちっとも前線の夢は見なかったが、彼を脅かし、彼がのがれることのできなかったのは、あの長い黄色い家と川幅のちがいだった。いま、この川にもどってきて、同じ町を通り抜けたが、家は一軒もなくなっていた。また川ももとのようではなかった。では、毎晩、彼は夢でどこへいったというのだ、何が危険だったのだろう。どうして、びしょぬれになり、爆撃のときよりも、一軒の家と長い厩舎と運河になやまされて、怯えて寝られないでいるのだろう?
彼は起きあがり、そっと両足をおろした。彼の足は長いことまっすぐにしていると、いつも、かたくなってしまった。自分を見つめている副官と信号兵たちとドアのそばの二人の伝令に視線を返し、布張りの塹壕ヘルメットをかぶった。
「チョコレートや絵葉書や煙草を持ってこなくて残念だったな」と彼は言った。「だが、軍服を着てきたんでね」
「少佐はすぐ戻られます」と副官が言った。ここの軍隊では副官は将校ではなかった。
「この軍服はあまり正確じゃないんだ」とニックは彼に教えた。「だが、大体見当はつくだろう。やがて何百万の米軍がここへあらわれるよ」
「ここヘアメリカ軍が派遣されると思いますか?」と副官がきいた。
「ああ、絶対に。アメリカ人はぼくの倍も大きく、健康で、心が清く、夜は眠り、傷ついたこともなく、砲弾に吹っとばされもせず、頭に穴をあけられもせず、怯えもせず、酒は飲まず、あとに残してきた女たちに忠実で、大ていの奴が失敗したこともない、すばらしい奴らだ。いずれ、わかるがね」
「あなたはイタリア人ですか?」と副官がきいた。
「いや、アメリカ人だ。軍服を見たまえ。スパニオリーニ〔ミラノの有名な軍服の仕立屋 〕がこしらえたんだが、あまり正式とはいえない」
「北アメリカですか? 南アメリカですか?」
「北さ」とニックが言った。彼は例の発作が起こりそうな気がした。静かに横になりたかった。
「でもイタリア語を話しますね」
「いけないかね? イタリア語をしゃべるのが気になるのかね? イタリア語を使う権利がないのかね、ぼくには?」
「イタリアの勲章ももらったんですね」
「綬章と賞状だけだ。勲章はあとからくるんだ。じゃないと、人に預かってもらうと、その人が消えちゃうんだ。でなくとも、荷物といっしょに紛失しちまうから。ミラノヘ行けば代りが買える。大切なのは賞状だ。賞状だけだって気を悪くしちゃだめだ。君も前線に長くいりゃ、いずれもらえる」
「わたしはエリトリア戦役の古参兵ですよ」と副官がかたくなって言った。「トリポリ〔エリトリアとともにアフリカ北部の地名〕で戦ったんです」
「君に会えて、全くすばらしい」ニックは手をさしだした。「つらかっただろうね、あの頃は。その綬章には気がついてたんだ。ひょっとして、カルソーの戦闘にはいかなかったのか?」
「つい最近召集されたばかりなんですよ。ぼくの同年兵は年齢が行きすぎてますからね」
「ぼくも徴集年齢に達しなかった時もあったんだがね……」とニックは言った。「いまでは戦争に加われないんだよ」
「では、どうしてここに?」
「アメリカ軍の軍服を見せて歩いてるんだ」とニックが言った。「大切なことだと思わないか? カラーか少しきゅうくつだけど、すぐ、この軍服を着た何百万という数えきれない奴が、イナゴのようにやってくる。バッタだよ。アメリカでイナゴって言ってるのは、実はバッタなんだ。ほんとのバッタは小さく緑色で多少よわいんだ。だが、〈七年イナゴ〉というセミとまちがえてはだめだよ。いまはっきりと思いだせないが、あのセミは独得の長鳴をするんだ。思いだそうとするんだがだめだ。鳴いてるのがきこえそうでいて、きこえなくなっちゃうんでね。話が脱線してたら許してくれ」
「少佐を探してこい」と副官は二人の伝令の一人に言った。「あなたが負傷されていることはわかります」と彼はニックに向かって言った。
「あちこちにね」とニックは言った。「傷に興味があるなら、すごくおもしろいやつをお見せできるが、バッタの話がしたいんだ。バッタというのはつまり、イナゴのことだ。一時この昆虫がぼくの人生に大変意義があったんだ。あなたがたにもおもしろいだろうし、話をしてるあいだ、軍服を見ていられるよ」
副官はもう一人の伝令に手で合図した。その伝令は出ていった。
「この軍服をよく見たまえ。スパニオリーニがこしらえたんだよ」とニックは信号兵たちに言った。「ほんとはぼくは階級がないんだ。アメリカ領事の管轄下にいるんだ。見てくれてけっこうだよ。よけりゃ、じろじろ見てかまわないよ。アメリカのイナゴの話をしよう。並茶と呼んでいるのがいつもよかったな。水中で一番長く生きてるし、魚がこいつを一番好むんでね。もっと大きいのは、がらがら蛇の音に似た音をたてて飛ぶんだ。ひどくかわいた音だ。はっきりした羽の色だ。あるものは真赤で、あるものは黒い縞のある黄色だ。だが、その羽は、水の中でこなごなになり、まとまりのない餌になっちまう。だが、並茶のは丸々してて、がっしりして、汁っぽいから、きみたち紳士がたがお目にかかれそうもないものを推奨してよいとすれば、推奨できるよ。だが、よく言っとくけど、捕えるのに、手で追っかけたり、棒で叩こうとしたりしたんじゃ、一日分の魚釣り用にまにあうものも集められないぞ。こんなやり方はまったくナンセンスで時間のくだらん浪費だ。くりかえして言うが、諸君、とても間にあわないよ。正しい対策で、携帯兵器の教程で若い将校たちに教えておかねばならないことは、あえて言えば、小生しか知らないことだが、普通の蚊帳《かや》でこしらえた引き網をつかうことなんだ。二名の将校が網をひろげて両端をもつ。つまり、両端に一人ずつついて、身をかがめ、片手で網の端の下の方をもって、もう一方の手で上端をもって、風に向かって走る。風にあわせて飛ぶバッタが網にひっかかり、その折り目につかまえられるのだ。実際、大量に捕えるのはたやすいことであり、思うに、どの将校も、この即製バッタ網に適当な長さの蚊帳《かや》を携帯すべきである。以上、はっきりわかったと思う。なにか質問はないか。なにかやり方に不明の点があれば質問されたい。遠慮せずに。ないのか? ではこの講義は終りとする。あの偉大な兵士で紳士のサー・へンリー・ウイルスン〔英国元帥。大戦で名声をはくした。一九二二年アイルランド人に暗殺された〕の言葉で言えば、諸君、支配するか、されるかだ。くりかえして言う。諸君、忘れずにいてもらいたいことが一つある。この部屋を去るにあたり、心に銘記してもらいたいものが一つある。諸君、支配するか……支配されるかだ。これだけだ。諸君。さようなら」
彼は布製のへルメットを脱ぎ、またかぶり、身をかがめて、塹壕の低い入口から出ていった。二人の伝令をしたがえたパラが、凹んだ道をやってきた。日向《ひなた》はひどく暑く、ニックはへルメットを脱いだ。
「こういう物をぬらす方法があるはずだ」と彼は言った。「川でぬらしてこよう」彼は堤をあがっていった。
「ニコロ」とパラヴィッチーニがよんだ。「ニコロ、どこへ行くんだ?」
「別に行かなきゃならないこともないんですが」ニックは両手でへルメットを持って、坂をおりてきた。「こんなものは、ぬれていても乾いていてもひどく厄介なもんですな。あなたはいつもかぶっておられますか?」
「いつもかぶってるよ」とパラが言った。「そのせいで禿げてきたよ。中へはいれ」
はいるとパラは彼に坐れと言った。
「こんなものなんの役にもたちゃしないのさ」とニックが言った。「はじめてかぶったときは安心感を与えてくれたのは覚えているが、あんまりたびたび、頭がつまったまんまの奴におめにかかったもんでね」
「ニコロ」とパラが言った。「帰ってもらわなきゃならん。支給品がでるまでは前線にこないほうがいいよ。きみのすることは何もないんだよ。きみが動きまわると、与えるものがあるとしても、みんなが集ってきて、砲撃を招くことになるんだ。そんなのはごめんだからな」
「ぼくだって愚かなことだって分ってますよ」とニックが言った。「ぼくの考えはそうじゃなかったんです。旅団がここにいると聞いて、あなたか、または誰か知ってる人に会えないかと思ったんです。ツェンツォンかサン・ドナヘ行けたんですがね。あの橋をまた見にサン・ドナへ行きたいんですよ」
「目的もなしにぶらつかんでくれよ」とパラヴィッチーニ大尉が言った。
「わかりました」とニックが言った。あれがまた起こりそうな気がした。
「わかったか?」
「もちろんですよ」とニックが言った。彼はあれを押えこもうとしていた。
「そんなことは夜間すべきだよ」
「そうですとも」とニックは言った。もう押えきれないのがわかった。
「おい、おれは大隊を指揮してるんだからな」とパラが言った。
「あなたは指揮していけないわけがないでしょう?」とニックが言った。とうとう起こったぞ。「あなたは読み書きができるんでしょう、ねえ?」
「ああ」とパラがやさしく言った。
「困ったことに、あなたが指揮してる大隊は小さすぎますよ。この大隊が増強されると、あなたは中隊にもどされますよ。どうして死体をかたづけないんですか? 見てきましたよ。再び見たって気にしやしませんがね。ぼくの思うところでは、いつだって死体はかたづけられるんですよ。そのほうがずっといいんですぜ。みんな吐き気を催しますぜ」
「自転車はどこへ置いてあるんだ?」
「いちばん手前の家ですよ」
「大丈夫かな?」
「心配いりませんよ」とニックが言った。「すぐ行きますから」
「少し横になれよ、ニコロ」
「ええ」
彼は眼をとじた。すると、ひげをはやした男がライフル銃の照準の上から、人を追っ払う前の冷厳な眼付きで、じっと彼をみつめていたかと思うと、今度は白い閃光が光り、棒のようなもので殴られたような衝撃を膝に受け、息が暑くるしくつまって、岩の上に咳《せ》きこんで吐き出そうとすると、みんながそばを通りすぎ、低い厩舎のある一軒の長い黄色い家が眼にはいり、川は前よりずっと幅が広く静かだった。「畜生」と彼は言った。「でかけたほうがよさそうだ」
彼はたちあがった。
「でかけますよ、パラ」と彼は言った。「もう午後だから自転車で帰ります。支給品がきていたら、今夜もってきます。まだだったら、もってくるものが手にはいったとき、夜、きますよ」
「自転車で行くにはまだ暑いよ」とパラヴィッチーニ大尉が言った。
「心配いりません」とニックが言った。「ここしばらくは大丈夫です。今さっき起こったが、軽かったんです。ずっとよくなってきましたよ。起こるときには、おしゃべりになるから、いつ起こるかわかります」
「伝令をつけてやるよ」
「結構です。道はわかってます」
「すぐ帰るのか?」
「ええ、すぐに」
「送らせ……」
「いいです」とニックが言った。「信用してるところを見せてください」
「よし、じゃ、|さよなら《チアオー》」
「|さよなら《チアオー》」とニックは言った。彼は凹んだ道路をもどって、自転車を置いてきたところへいった。運河をとおってしまえば、午後は道は日陰になるだろう。運河を過ぎれば、砲弾を受けなかった木が道路の両側に並んでいる。以前、行軍の途中で、槍をもって雪の中を馬にのってくる第三サヴォイア騎兵隊とすれちがったのは、あのあたりだった。馬の息が、冷たい空気の中で羽かざりみたいになってたな。いや、どこかほかだったぞ。どこだったろう?
「あの自転車のあるところにもどったほうがいいな」とニックは思った。「フォルナチヘ行く道を見失いたくない」
[#改ページ]
オカマのおふくろ
奴《やつ》のおやじが死んだとき、奴はほんの駆け出しで、奴のマネジャーがおやじを永代埋葬にしてやった。つまり、おやじはその墓地を永久に自分のものにしたのだ。ところが、奴のおふくろが死んだ時は、マネジャーは奴といつまでもそんなに熱があるものでもないだろうと思った。二人は恋人だった。たしかに、奴はオカマなのだ。君は知らなかったかね、もちろん、奴がオカマなのだ。そこで、マネジャーは奴のおふくろを五年期限の仮埋葬にしただけだった。
ところで、奴は、スペインからメキシコに帰ってきたとき、第一回目の通知を受け取った。それは、五年の契約期限が切れるから、ご母堂の墓地の使用継続の手続きをなさいますか、という最初の通知だった。永代埋葬にするには二十ドルだけでよかった。俺はそのとき金庫を預かっていたので、パルコ、俺が行ってくるよ、と言った。ところが、奴は、いや、俺がやる、と言った。すぐにやってくる。おふくろのことだから、自分でやりたい、と言った。
それから、一週間とたたぬうちに、第二回目の通知を受け取った、俺は奴にそれを読んでやり、お前が行ってきたんだと思ってたよ、と言った。
いや、と奴が言った、まだ行ってないんだ。
「俺にやらせてくれないか」と俺が言った。「この金庫のなかに金があるから」
いや、と奴が言った。俺には誰も命令できっこねえ。そこへいった時に自分でやるさ。「必要以上に早く金を使うこたあねえ」
「いいさ」と俺が言った、「でも、ちゃんとやれよ」このとき、奴は慈善試合のほかに、一試合四千ペソで六試合の契約を結んでいた。この首都だけで一万五千ドル以上かせいでいた。奴はまったくけちだった。ただ、それだけなのだ。
さらに一週間とたたぬうちに、第三回目の通知が来た。俺はそれを読んでやった。次の土曜日までに支払いをすまさないと、ご母堂の墓地はあばかれ、ご遺体は共同墓地に捨てられるだろうと、書いてあった。奴は、その日の午後、町に行くから、手続きをしてくる、と言った。
「俺にやらせてくれないか?」と俺は奴にきいた。
「俺のことに手だししねえでくれ」と奴は言った。「俺のことだ、俺がする」
「いいとも、そうお前が思ってるのなら」と俺は言った、「自分のことだ。やりな」
奴は金庫から金を出した。もっとも、そのころ、奴は百ペソかそれ以上の金はしょっちゅう持ち歩いていた。そして、手続きしてくると言った。奴はその金を持って出かけたので、もちろん、俺は奴がいってきたものとばかり思っていた。
それから一週間して、通知が来た。最後のご注意にも何のご返答もないので、ご母堂の遺体は無縁墓地に捨てられた、共同墓地に入れられた、とあった。
「こりゃあ驚いた」と俺は奴に言った。「お前はあれを払うと言って、そのために金庫から金を持っていったのに、お前のおふくろさんはどうなったんだ? おい、よく考えろ。共同墓地なんだぜ、お前のおふくろさんが。どうして俺にやらせてくれなかったんだ。俺なら、最初の通知が来た時に、やっていたのに」
「お前の知ったことじゃねえ。〈俺〉のおふくろのことだ」
「〈俺〉の知ったことじゃねえとも。だがよ、〈お前〉のことだぜ。おふくろさんをこんな目に会わせるなんて、どんな血を引いてるんだ? お前はおふくろさんを持つ資格なんかないぞ」
「俺のおふくろだよ」と奴は言った。「これで、おふくろは俺にずっと近しくなったのさ。これで、おふくろがひとっところに埋められていることを思いだして、悲しんでいる必要がなくなったのさ。これで、おふくろは鳥や花と同じように、俺のまわりの空気のなかにいるのさ。これで、いつも俺といっしょにいるってもんさ」
「こりゃあ驚いた」と俺は言った。「ともかく、お前はどんな血を引いているんだ? お前なんかには口をきいてもらいたくもねえ」
「おふくろは俺のまわりのどこにでもいるってことよ」と奴が言った。「これで、俺はもう悲しくはねえ」
その頃、奴は自分を立派な男に見せ、ほかの奴らをばかにするために、女たちのまわりで、ありとあらゆる金を使っていたが、奴のことをすこしでも知っている連中はだまされなかった。奴は俺に六百ペソ以上の借金をしていたが、払おうとしなかった。「どうして、いま必要なんだ?」と彼はいつも言った。「俺を信用しないのか? 親友じゃねえか?」
「親友とか信用とかの問題じゃない。お前がいない時に、俺が自分の金で勘定を払ってやったんだ。で、いま、俺はその金を返してもらいたいのさ。お前は俺に払うだけの金は持ってるんだぜ」
「金なんか持ってねえ」
「持ってるとも」と俺は言った。「いま、金庫のなかにあるぜ。払えるはずだ」
「あの金はほかのことに必要なんだ」と奴が言った。「俺がどんなに金が必要か、お前は知らねえんだ」
「お前がスペインにいっている間じゅう、俺はここにいて、お前の委任をうけて、支払いが生じたときは、家に関する支払いなど、すべて払ったんだが、お前はあっちにいる間は、一文も金を送ってよこさないから、俺は自分の金で六百ペソ以上も支払ったのだ。で、いま、俺はその金が必要なんだ。お前は支払えるのだぜ」
「じきに払うよ」と奴は言った。「いまは、あの金はどうしても必要なんだ」
「なんにだ?」
「おれの仕事にさ」
「内金としていくらかでも払え」
「だめだ」と奴が言った。「あの金はどうしても必要なんだ。お前には、そのうち払うよ」
奴はスペインでは二度しか試合に出なかった。みんなが奴には我慢できなかった。奴の実力をすぐに見抜いてしまったのだ。奴は闘牛の衣裳を七着も新調させたが、ここがいかにも奴らしいところだが、その衣裳の荷造りがひどくまずかったので、そのうちの四着は帰りの船旅で海水につかって駄目になり、着られなくなってしまった。
「ちえっ」と俺は奴に言った。「お前はスペインに行く。まるまる一シーズンそこにいて、たった二回しか闘牛をやらない。持っていった金は全部、衣裳にかけてしまい、しかも、それを塩水でだいなしにして、着られなくしてしまう。お前のシーズンってのはこんなものよ。なのに、お前は自分の仕事をやるんだなどとぬかしやがる。俺から借りてる金を払ってくれ、俺がここを出ていけるように」
「お前にはここにいてもらいたい」と奴が言った。「払ってやるよ。でも、いまは、あの金が必要なんだ」
「お前はおふくろさんを埋葬するための墓地を買うために金がひどく必要なんだ、そうだろ?」と俺は言った。
「おふくろの件じゃ、俺は満足してんだ」と奴は言った。「お前にはわからねえだろうが」
「わからなくて、仕合わせよ」と俺は言った。「俺に借りてる分を払ってくれ。払わなけりゃ、金庫から出すぜ」
「これからは金庫は俺が持ってよう」と奴が言った。
「いや、駄目だ」と俺が言った。
その日の午後、奴はやくざを一人つれてきた。奴と同じ町の出で、失敗した男だ。奴は言った。「この混血のスペイン人は、おふくろが重病で、故郷に帰る金が必要なんだ」この男は、おわかりのように、やくざにすぎなかった。奴がいままでに会ったこともない男だが、奴の故郷の出だった。それで、奴は同じ町の男には腹の太いえらい闘牛士になっていたかったのだ。
「金庫から五十ペソやってくれ」と奴は俺に言った。
「俺に払う金がないと言ったばかりじゃないか」と俺は言った。「だのに、このやくざに五十ペソもやるのか」
「俺の同郷の男だ」と奴が言った。「困ってるんだ」
「畜生」と俺は言った。俺は金庫の鍵を奴に渡した。「自分で出せ。俺は町へ行く」
「怒るなよ」と奴が言った。「すぐ払ってやるから」
俺は町に行くために自動車を出した。それは奴の車だが、俺のほうが運転がうまいことを奴は知っていた。何でも、俺のほうが奴よりうまかった。奴はそれを知っていた。奴は読み書きもできなかった。俺は誰かに会って、奴に払わせるにはどうしたらいいか相談しようと思っていた。奴が出てきて、言った。「俺もいっしょに行くよ。払ってやるよ。俺たち、親友じゃないか。けんかなんかするこたない」
俺たちは町に車でいった。俺が運転していた。町にはいるちょっと手前で、奴は二十ペソ出した。
「さあ、金だ」と奴は言った。
「おふくろのいない馬鹿野郎め」と俺は奴に言い、その金をどうしたらよいか教えてやった。「お前はあのやくざに五十ペソやり、この俺には六百ペソ借りてるくせに、二十ペソしか出さないんだな。お前からは一セントだって貰わんよ。そんな金で何ができるかぐらい、わかってるだろう」
俺は車からおりたが、ポケットには一ペソもなかった。その夜は寝るところも、きまっていなかった。その後、俺は友達といっしょにいって、奴の事務所から俺の物を持ってきた。それから今年になるまで、俺は奴に一度も口をきかなかった。俺は、夕方、マドリッドのグラン・ヴィアで、キャラオ・シネマに行く途中、三人の友達と歩いている奴に会った。奴は俺のほうに手をさしだした。
「やあ、ロージャー、なつかしいな」と奴は俺に言った。「元気かい? お前が俺の悪口を言ってるって噂だぜ。俺のことで、言いたい放題、でたらめを言ってるって」
「お前は母なし子だってことしか、言わないよ」と俺は奴に言った。スペイン語で男を侮辱するには、それが一番ひどいことだった。
「そのとおりさ」と奴は言った。「俺のおふくろは俺がずいぶん若い時に死んだから、俺は母なし子だったようなものだ。ひどく悲しいことよ」
これがオカマっていうものだ。こんな奴を怒らせようったって、だめだ。まったく、どうしたって怒らせっこない。自分のためとか、虚栄のためなら、金を使うが、借金は払ったためしがないのだ。まあ、払わせようとしてみろよ。俺はグラン・ヴィアで、三人の友達の前で、俺が奴をどう思っているか言ってやった。それでも、奴はいま俺に会うと、親友みたいに俺に話しかけてくるんだぜ。奴みたいな男には、どんな血がかよってるんだろう?
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一読者の手紙
彼女はベッドルームのテーブルに向かって腰をおろし、たたんだ新聞を目の前にひろげ、時折、手を休めて、降っては屋根の上で解ける雪を窓ごしに眺めていた。彼女は次のような手紙を書いていた。たえまなく書きつづけ、消したり書き直したりする必要はなかった。
ヴァージニア州ロアノーク
一九三三年二月六日
先生……
お手紙をさしあげるのは、とても大切なご忠告をいただきたいからですが、わたくしはいま、決心をしなくてはいけませんの。それに、どなたを一番たよりにしてよろしいか、わかりませんの。両親にはとても相談できません……それで、あなたさまにお手紙さしあげるのです……そして、あなたさまにお目にかからなくてもよろしいという、ただそのためだけで、わたくしはあなたさまに打ち明けられるのです。さて、事の次第はこういうことなのです……わたくしは一九二九年に、アメリカ軍の軍務についている方と結婚いたしましたが、その年、夫はシナの上海に、送られました……三年いました……それから帰国し……数カ月前に軍務を解かれ……アーカンソー州のヘレナにある彼の母の家に行きました。夫は手紙でわたくしにそこに来るようにと言ってきました……わたくしが行きますと、夫が注射の治療を受けていることを知りました。わたくしは当然そのわけをききました。夫が処置を受けているのは、どういう字で書くのかわかりませんが、バイドクとかいう病気のためだということを知りました……わたくしの意味がおわかりでしょうか……どうぞお教え下さい。ふたたび夫といっしょに暮らすのは、ほんとに安全なのでしょうか……夫がシナから帰って以来、わたくしは夫とは密接に接触したことは一度もありません。いまの医者が処置をおえれば、もう大丈夫だと、夫は保証しています……その通りでしょうか……わたくしは、おとうさんが、一度そんな病気にかかったら死んだほうがましだとおっしゃるのを、たびたび聞いたことがあります……わたくしはおとうさんを信じますが、夫のほうをもっとも信じたいのです……どうか、どうか、どうしてよいかお教え下さい……わたくしには夫がシナにいる間に生まれた娘が一人おります……
あなたさまに感謝し、あなたさまのご忠告を全面的にたよりにしつつ
そして、彼女は自分の名前をサインした。
きっと先生はどうしてよいか教えて下さるわ、と彼女は心に思った。きっと教えて下さるわ。新聞にある写真では、先生はよく知ってらっしゃるようだわ。利口そうだわ、ほんとに。毎日、どなたかに、どうしたらいいか教えてらっしゃるし、知ってらっしゃるはずよ。わたくしは正しいことならなんでもしたいわ。でも、長くかかるわね。長くかかるわ。それに、いままでも、長くかかったわ。まあ、ほんとに、長くかかったわ。あの人は派遣されるところなら、どこへでも行かなければなりませんでしたのよ。でも、なぜあんな病気にならなければならなかったか、わからないわ。まあ、ほんとに、あんなものにかからなければよかったのに。あの人がなにをしてあんな病気にかかったかなんて、どうでもいいの。でも、ほんとに、あんなものにかからなければよかったのに。かからなければならなかったというのでもなさそうよ。わたくし、どうしてよいかわからないわ。ほんとに、病気なんてものにかからなければよかったのよ、どんな病気にでも。どうして病気なんかにかからなければならなかったのか、わからないわ。
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スイス讃歌
第一部 モントルーにおけるウィーラー氏の肖像
駅のカフェのなかは暖かくて明るかった。テーブルの上はぴかぴかに麿いてあった。テーブルにはつや出しした紙に包んだビスケットの籠《かご》が置いてあった。椅子は彫刻がしてあり、そのシートはすりへっていて坐り心地がよかった。壁には彫刻のしてある木製の時計がかかっていて、部屋のずっと向こうの隅にカウンターがあった。窓の外は雪が降っていた。
駅の赤帽が二人、時計の下のテーブルに坐って、新酒のワインを飲んでいた。赤帽がもう一人はいってきて、シンプロン・オリエント急行列車がサン・モーリスで一時間延着した、と言った。その赤帽は出ていった。ウェイトレスがウィーラー氏のテーブルのところまでやってきた。
「急行は一時間遅れます」と彼女は言った。「コーヒーをおもちしましょうか?」
「眠気ざましにもならないだろうが」
「あの、なんでございますか?」とウェイトレスがききかえした。
「もってきてくれ」とウィーラー氏が言った。
「かしこまりました」
女は調理室からコーヒーをもってきた。ウィーラー氏は駅のプラットホームからの光に照らされて降っている雪を窓ごしに眺めた。
「君、英語のほかに言葉が話せるかね?」と彼はウェイトレスにきいた。
「はい。ドイツ語とフランス語、それに土地の方言が話せます」
「何か飲まないか?」
「いいえ。お店でお客さまと飲むことは禁じられていますから」
「葉巻はどうだね?」
「いいえ。いただきませんから」
「それは結構なことだ」とウィーラー氏は言った。彼はふたたび窓の外を眺め、コーヒーを飲み、煙草に火をつけた。
「|ねえさん《フロイライン》」と彼は呼びかけた。ウェイトレスがやってきた。
「何にいたしますか?」
「君にしよう」と彼が言った。
「そんなふうに、あたしをからかっちゃいけませんよ」
「からかっちゃいないよ」
「じゃあ、そんなことおっしゃっちゃいけません」
「議論してるひまなんかないんだ」とウィーラー氏は言った。「汽車は四十分もしないうちに来る。わたしと二階にいってくれれば、百フランあげるよ」
「そんなことおっしゃっちゃいけません。赤帽をお呼びしましょう、お話し相手に」
「赤帽なんかいらないよ」とウィーラー氏が言った。「巡査も、煙草を売ってる男も、いらないよ。君がほしいんだ」
「そんなことおっしゃると、出ていただきますよ。ここで、そんなことおっしゃってはいけません」
「じゃあ、君が向こうへいったらどうだ。君がいけば、わたしは君に話せないから」
ウェイトレスは向こうへいった。ウィーラー氏は女が赤帽に話しかけるかどうか注意して見ていた。女は話しかけなかった。
「|ねえさん《マドモアゼル》!」と彼が呼んだ。ウェイトレスがやってきた。「シオンを一本もってきてくれ」
「はい」
ウィーラー氏は彼女が姿を消し、やがてワインをもって現われ、彼のテーブルにそれを運んでくるのを、じっと見ていた。彼は柱時計のほうを見た。
「二百フランあげよう」と彼は言った。
「どうぞ、そんなことおっしゃらないで」
「二百フランは大金だぜ」
「そんなことおっしゃらないでください!」とウェイトレスが言った。彼女の英語が乱れはじめた。ウィーラー氏は面白そうに女を見た。
「二百フランだぜ」
「いやらしい人」
「じゃあ、向こうへいったらどうだ。君がここにいなければ、話しかけられないんだから」
ウェイトレスはテーブルから離れて、カウンターのほうへいった。ウィーラー氏はワインを飲んで、しばらく、ひとりでにやにやしていた。
「|ねえさん《マドモアゼル》」と彼は呼んだ。ウェイトレスは聞えないふりをしていた。「|ねえさん《マドモアゼル》」とまた呼んだ。ウェイトレスがやってきた。
「何かご用ですか?」
「おおいにあるよ。三百フランあげる」
「いやらしい人」
「スイスのお金で三百フランだぜ」
女はいってしまった。ウィーラー氏はそのうしろ姿を見ていた。赤帽がドアを開けた。ウィーラー氏の鞄をあずかっている男だ。
「列車がまいります」と彼はフランス語で言った。ウィーラー氏は立ちあがった。
「|ねえさん《マドモアゼル》」と彼は呼んだ。ウェイトレスがテーブルのほうへやってきた。「ワインはいくらかね?」
「七フランです」
ウィーラー氏は八フランかぞえて、テーブルの上に置いた。コートを着て、赤帽のあとから、雪の降っているプラットホームヘ向かった。
「|さよなら《オウ・ルヴォアール》、|ねえさん《マドモアゼル》」と彼が言った。
ウェイトレスは彼が行くのをじっと見ていた。不愉快だわ、と彼女は思った、不愉快でいやらしい人。あんなつまらないことをするのに三百フランだなんて。あたしなんか、なんにももらわないで、あんなこと何度もしたわ。それに、ここじゃあ、行く場所なんてないのよ。あの人、分別さえあれば、場所がないことぐらいわかるはずよ。時間もないし、行く場所もないわ。あんなことするのに三百フランだって。アメリカ人なんて、ほんとに馬鹿ね。
ウィーラー氏は、コンクリートのプラットホームに立ち、鞄をかたわらにおいて、雪のなかをやってくる列車のへッドライトに向かって線路を見やりながら、あれは金のかからない遊びだったな、と考えていた。実際に使ったのは、ディナーのほかに、ワイン一本分の七フランとチップの一フランだけだった。チップは七十五サンチーム〔サンチームは百分の一フラン〕のほうがよかったかもしれない。チップを七十五サンチームにしたら、もっと気分がよかったかもしれない。スイスの一フランはフランスの五フランだ。ウィーラー氏はパリに行くところだった。彼は金銭については非常に気を配ったが、女についてはどうでもよかった。彼は以前にその駅に来たことがあった。それで、行けるような二階などないことを知っていた。ウィーラー氏はけっして無茶なことはやらなかった。
第二部 ジョンソン氏、ヴェヴェイにてそのことを語る
駅のカフェのなかは暖かくて明るかった。テーブルはぴかぴかに磨いてあった。赤と白の縞《しま》のテーブルクロスが掛けてあるのもあったし、青と白の縞のテーブルクロスが掛けてあるのもあったが、どのテーブルにもつや出しした紙に包んだビスケットの籠が置いてあった。椅子は彫刻がしてあったが、木のシートはすりへっていて坐り心地がよかった。壁には時計がかかっていて、部屋のずっと向こうの隅にトタン張りのカウンターがあった。窓の外は雪が降っていた。駅の赤帽が二人、時計の下のテーブルに坐って、新酒のワインを飲んでいた。
赤帽がもう一人はいってきて、シンプロン・オリエント急行列車がサン・モーリスで一時間延着した、と言った。ウェイトレスがジョンソン氏のテーブルのところまでやってきた。
「急行は一時間遅れます」と彼女は言った。「コーヒーをおもちしましょうか?」
「あまりご面倒でなければ」
「あの、なんでございますか?」とウェイトレスがききかえした。
「もらおう」
「かしこまりました」
女は調理室からコーヒーをもってきた。ジョンソン氏は駅のプラットホームからの光に照らされて降っている雪を窓ごしに眺めた。
「君、英語のほかに言葉が語せるかね?」と彼はウェイトレスにきいた。
「はい。ドイツ語とフランス語、それに土地の方言が話せます」
「何か飲まないか?」
「いいえ、お店でお客さまと飲むことは禁じられていますから」
「葉巻はどうだね?」
「いいえ」と彼女は笑った。「いただきませんから」
「ぼくもやらないんだ」とジョンソンが言った。「あれは悪い習慣だ」
ウェイトレスは向こうへいった。ジョンソンは煙草に火をつけ、コーヒーを飲んだ。壁の時計は十時十五分前を指していた。彼の時計はすこしすすんでいた。列車は十時三十分着の予定だった……一時間遅れなら、十一時三十分着だ。ジョンソンはウェイトレスに呼びかけた。
「|ねえさん《シニョリーナ》!」
「何にいたしますか?」
「ぼくと遊ばないか?」とジョンソンがたずねた。ウェイトレスは顔を赤らめた。
「駄目ですわ」
「何も乱暴なことをしようというんじゃないよ。仲間を集めて、ヴェヴェイの夜を見物しないか? よければ女の友だちを連れておいでよ」
「仕事がありますから」とウェィトレスが言った。「ここのお勤めがあるんです」
「それはわかってる」とジョンソンが言った。「でも、誰かに代ってもらえないかね? 南北戦争の時だって、みんな代ってもらっていたよ」
「駄目なんですの。あたしがここにいなければいけないんです」
「君の英語、どこで習ったんだね?」
「ベルリッツ・スクール〔外国語学校〕です」
「その話をしてくれないか」とジョンソンが言った。「ベルリッツの学生は放埒《ほうらつ》だったかね? 例のネッキングやペッティングはどうだった? 口説きのうまい奴がおおぜいいたかね? スコット・フィッツジェラルド〔アメリカの小説家。放埓な若者の生態を描いた〕みたいな奴に会わなかったかね?」
「あの、なんですって?」
「君の大学時代は一生のうちで一番幸福な時代だったかってきいたんだ。ベルリッツはこの秋はどんなチームが活躍した?」
「からかってらっしゃるのね?」
「いや、ちょっとだけね」とジョンソンが言った。「君はすごくいい娘《こ》だ。どう、ぼくと遊ばないか?」
「駄目ですわ」とウェイトレスが言った。「何かおもちしましょうか?」
「そう」とジョンソンが言った。「ワインのリストをもってきてくれ」
「はい、かしこまりました」
ジョンソンはワインのリストをもって、三人の赤帽の坐っているテーブルのところまで歩いていった。三人は彼を見あげた。みんな、年寄りだ。
「|一杯どうかね《ヴォーレン・ジー・トリンケン》?」と彼はきいた。一人がうなずいて、ほほえんだ。
「|ええ、旦那《ウイ・ムッシュ》」
「フランス語、話せるね?」
「「|ええ、旦那《ウイ・ムッシュ》」
「何を飲もうか? |シャンペンのことわかるかね《コネ・ヴ・シャンパーニュ》?」
「|いいえ、旦那《ノン・ムッシュ》」
「|わからなきゃいかんぞ《フォート・レ・コネートル》」とジョンソンが言った。「|ねえさん《フロイライン》」と彼はウェイトレスに呼びかけた。「シャンペンをもらうよ」
「どのシャンペンにしますか?」
「一番いいのがいい」とジョンソンが言った。「|どれが一番いいかね《ラケル・エ・ル・ベスト》?」と彼は赤帽たちにたずねた。
「|極上のですか《ル・ミリュール》?」と最初に口をきいた赤帽がたずねた。
「そうとも」
その赤帽はコートのポケットから金縁の眼鏡を取り出し、リストを見わたした。タイプで打った四つの名前と値段の上に指を走らせた。
「スポーツマンでさあ」と彼は言った。「スポーツマンが最上です」
「みなさんも賛成かね?」とジョンソンはほかの赤帽にたずねた。一人の赤帽はうなずいた。もう一人はフランス語で言った。「あっしは自分じゃシャンペンをやったことないんですが、スポーツマンのことはよく聞きますよ。あれはいいです」
「スポーツマンを一本」とジョンソンはウェイトレスに言った。彼はワインのリストに書かれている値段を見た。スイスの金で十一フランだ。「スポーツマンを二本にしてくれ。君の横にかけても、かまわないかね?」と彼はスポーツマンをすすめた赤帽にたずねた。
「坐んなせい。さあ、ここへ、どうぞ」赤帽は彼にほほえみかけた。彼は眼鏡をたたんで、ケースにしまった。「今日は旦那の誕生日ですかい?」
「いや」とジョンソンが言った。「お祝いじゃないんだ。女房の奴、離婚の決心をしたんでね」
「そうですか」とその赤帽が言った。「そりゃいけませんな」もう一人の赤帽は頭を振った。三人目の赤帽はちょっと耳が遠いようだった。
「いや、よくあることさ」とジョンソンが言った。「はじめて歯医者に行く時とか、はじめて娘が身体の変調に気づいた時みたいなもんさ。それでも、ぼくはショックだったよ」
「わかりますな」と一番年上の赤帽が言った。「わしにはわかりますな」
「あなたがたは誰も離婚などしなかったかね?」とジョンソンがたずねた。彼は道化た言葉遣いをやめて、いまは、まともなフランス語を話していたが、しばらくその調子をつづけた。
「いや、誰も」とスポーツマンを注文した赤帽が言った。「ここじゃあ、あまり離婚なんかしませんよ。離婚する旦那もいますがね、あまり多くはありませんや」
「ぼくらは」とジョンソンが言った。「違うんだ。事実上は、みんな離婚してるんだ」
「そうらしいですね」と赤帽が相づちをうった。「新聞で読みましたよ」
「ぼく自身はだいぶ奥手《おくて》でね」とジョンソンがつづけた。「ぼくが離婚したのはこんどがはじめてなんだ。三十五歳なのにね」
「|でも、旦那はまだお若いですよ《メ・ヴ・ゼテ・ザンコール・ジュヌ》」と赤帽が言った。彼はほかの二人に説明した。「|旦那はまだ三十五なんだ《ムッシュ・ナ・ク・トラント・サン・カン》」二人はうなずいた。「とてもお若い」と一人が言った。
「で、離婚なさるの、ほんとにはじめてですかい?」と赤帽がたずねた。
「まさにはじめてさ」とジョンソンが言った。「|ねえさん《マドモアゼル》、ワインをあけてくれたまえ」
「で、ずいぶんお金がかかるんでしょう?」
「一万フランだ」
「スイスのお金で?」
「いや、フランスの金でだ」
「ああ、それじゃあ、スイスのお金で二千フランですな。それにしても、お安くはないですな」
「そうだ」
「で、なぜ離婚するんですかい?」
「請求されるからさ」
「でも、なぜ請求するんですかい?」
「ほかの奴と結婚するためにさ」
「しかし、そいつは馬鹿げてまさあ」
「その通りさ」とジョンソンが言った。ウェイトレスが四つのグラスをみたした。みんなはグラスをあげた。
「乾杯《プロージット》」とジョンソンが言った。
「|旦那の健康を祝して《ア・ヴォトル・サンテ・ムッシュ》」と赤帽が言った。ほかの二人の赤帽は「万歳《サリュート》」と言った。シャンペンは甘いピンクのリンゴ・ジュースのような味がした。
「スイスでは、よその国の言葉で受け答えするのが普通なのかね?」とジョンソンがたずねた。
「いいや」と赤帽が言った。「フランス語のほうが上品だからですよ。それに、ここはスイスでもフランス側ですから」
「でも、君はドイツ語を話すじゃないか?」
「ええ、わしの出身地ではドイツ語を使ってまさあ」
「ああ、なるほど」とジョンソンは言った。「で、君はまだ離婚したことがないって言ってたっけ?」
「ええ、まだ。お金がかかりすぎまさあ。それに、わしは結婚してませんや」
「そうか」とジョンソンが言った。「で、こちらの方々は?」
「こいつらは結婚してまさあ」
「君は結婚がいいと思ってるかね?」とジョンソンが赤帽の一人にたずねた。
「え?」
「結婚の状態がいいと思っているかね?」
「|ええ、それが普通でさあ《ウイ・セ・ノルマール》」
「その通りだ」とジョンソンが言った。「|で、君は《エ・ヴ・ムッシュ》は?」
「|よろしいですな《サ・ヴァ》」とほかの赤帽が言った。
「|ぼくにとっては《ブール・モア》」とジョンソンが言った。「|よろしかないんだ《サ・ヌ・ヴァ・パ》」
「旦那は離婚なさろうってんだ」と最初の赤帽が言った。
「ほう」と二番目の赤帽が言った。
「あ、そう」と三番目の赤帽が言った。
「さて」とジョンソンが言った。「どうやら話題が種切れになったようだ。ぼくの困ってることなんかに、君らは興味がなさそうだ」と彼は最初の赤帽に向かって言った。
「いや、そうでもありませんぜ」と赤帽が言った。
「いや、何かほかの話をしよう」
「お好きなように」
「何の話がいいかな?」
「スポーツをされますか?」
「いや」とジョンソンが言った。「妻はやるがね」
「娯楽は何をやられます?」
「ぼくは作家なんだ」
「お金がたくさんもうかりますか?」
「いや、でも、あとになって、名前が知られるようになれば、もうかるさ」
「面白いですね」
「いや」とジョンソンが言った。「面白かないよ。みなさん、悪いけど、失礼しなけりゃならない。もう一本のほうも、飲んどいてくれ」
「でも、列車はまだ四十五分も来ませんぜ」
「わかってる」とジョンソンが言った。ウェイトレスが来た。彼はワインとディナーの代金を払った。
「お出かけですか?」と彼女がたずねた。
「ああ」とジョンソンが言った。「ちょっと散歩にね、鞄はここに置いておく」
彼はマフラーを巻き、コートを着て、帽子をかぶった。外では雪がはげしく降っていた。彼は窓ごしにふりかえって、三人の赤帽がテーブルに向かって坐っているのを見た。ウェイトレスが開けたほうのボトルから残りのワインを彼らのグラスに注いでいた。開けないほうのボトルはカウンターのほうに持ちかえった。あれで一人あたり三フラン少々につくわけだ、とジョンソンは考えた。彼は向きを変えて、プラットホームを歩いていった。カフェのなかでは、あのことを話せば、いくらか気が晴れるだろうと思ったのだ。だが、気は晴れなかった。ただいやな気分になったにすぎなかった。
第三部 テリテットにおける特別会員の息子
テリテットの駅のカフェのなかは、すこし暖かすぎた。照明は明るく、テーブルはぴかぴかに磨いてあった。テーブルの上には、つや出しした紙に包んだビスケットの籠が置いてあり、ぬれたビールのグラスで輪の跡が残らないように、ボール紙のコースターがのせてあった。椅子は彫刻がしてあったが、木のシートはすりへっていて、とても坐り心地がよかった。壁には時計がかかっていて、部屋のずっと向こうの隅にカウンターがあった。窓の外は雪が降っていた。時計の下のテーブルに、一人の老人がコーヒーを飲みながら、夕刊を読んでいた。赤帽が一人はいってきて、シンプロン・オリエント急行列車がサン・モーリスで一時間延着した、と言った。ウェイトレスがハリス氏のテーブルのところまでやってきた。ハリス氏はディナーをちょうど終えたところだった。
「急行は一時間遅れます。コーヒーをおもちしましょうか?」
「よろしかったら」
「あのなんでございますか?」とウェイトレスがききかえした。
「いただこう」とハリス氏が言った。
「かしこまりました」とウェイトレスが言った。
女は調理室からコーヒーをもってきた。ハリス氏は砂糖を入れ、スプーンでそのかたまりをつぶし、駅のプラットホームからの光に照らされて降っている雪を窓ごしに眺めた。
「君、英語のほかに言葉が話せるかね?」と彼はウェイトレスにきいた。
「はい。ドイツ語とフランス語、それに土地の方言が話せます」
「どの言葉が一番好きかね?」
「どれも似たりよったりです。どっちが好きとも言えません」
「何か飲まないかね、それとも、コーヒーでも?」
「いいえ、お店でお客さまと飲むことは禁じられていますから」
「葉巻はどうだね?」
「いいえ」と彼女は笑った。「いただきませんから」
「ぼくもやらないんだ」とハリスが言った。「デイヴィッド・ベラスコ〔アメリカの劇作家、俳優〕には賛成しかねるよ」
「あの、何でございますか?」
「ベラスコさ。デイヴィッド・ベラスコさ。彼はカラーをうしろ前につけているから、すぐにわかるがね。でも、ぼくは彼には賛成しかねるよ。それに、もう死んじゃってるし」
「失礼させていただきます」とウェイトレスが言った。
「どうぞ、どうぞ」とハリスが言った。彼は椅子からのりだし、窓ごしに眺めた。部屋の向こうで、さっきの老人が新聞をたたんでいたが、ハリス氏を見ると、コーヒーカップを受け皿ごと持って、ハリスのテーブルのほうに歩いてきた。
「おじゃましてよろしいですか」と彼は英語で言った。「あなたは国立地理協会の会員ではないかしらと思いまして」
「どうぞ、おかけください」とハリスが言った。老紳士は坐った。
「もう一杯コーヒーか、リキュール、いかがです?」
「ありがとう」と老紳士が言った。
「キルシュ〔野生のチェリーでつくった無色のブランデー〕をごいっしょにどうです?」
「いただきましょう。でも、わたしの勘定にしてください」
「いや、ぼくのおごりにしますよ」ハリスはウェイトレスを呼んだ。老紳士は上衣の内ポケットから革の札入れを取り出した。幅のひろいゴムバンドをはずし、数枚の書類を抜き出し、一枚を選んで、ハリスに手渡した。
「わたしの会員証です」と彼が言った。「アメリカのフレデリック・J・ルーセルをごぞんじですか?」
「いや、ぞんじませんが」
「とても有名な方ですが」
「どこの出身ですか? 合衆国のどこなんでしょう?」
「もちろん、ワシントンですよ。協会の本部がそこにあるんでしょう?」
「そうだと思いますよ」
「そうだと思われるって。確かじゃないんですか?」
「ぼくは長い間アメリカに帰りませんので」とハリスが言った。
「じゃあ、あなたは会員ではないのですか?」
「ええ。でも、ぼくの父が会員です。父は長年ずっと会員です」
「じゃあ、お父さんはフレデリック・J・ルーセルをごぞんじでしょうね。協会の役員の一人ですから。いずれおわかりになると思いますが、わたしが会員になったのは、ルーセル氏のご推薦によるのですよ」
「それはたいへん結構なことで」
「あなたが会員でなくて、残念です。でも、お父さんの推薦で会員になれますよ」
「そうだと思います」とハリスが言った。「帰国したら、ぜひ会員にしてもらいましょう」
「そうしなさいよ」と老紳士が言った。「もちろん機関誌はごらんですね」
「見てますとも」
「北アメリカの動物のカラーの図版がある号をごらんになりましたか?」
「ええ、パリに置いてあります」
「それから、アラスカの火山のパノラマがのっている号も?」
「あれはすばらしかったですね」
「わたしは、ジョージ・シャイラス三世の撮った野生動物の写真もたいへん面白いと思いました」
「あれはすごくすてきでした」
「えっ、なんとおっしゃった?」
「あれはすばらしかった。あのシャイラスという奴は……」
「奴ですって?」
「ぼくの昔からの親友なんですよ」とハリスが言った。
「そうですか。ジョージ・シャイラス三世をごぞんじなんですか。とても面白い方でしょうな」
「そうです。あんなに面白い男、見たことありませんよ」
「で、あなたはジョージ・シャイラス二世もごぞんじですか? やはり、面白い方ですか?」
「いや、たいして面白くありません」
「とても面白い方だろうと思ってましたが」
「それが、おかしいんですよ。あの人はあまり面白くないんです。どうしてそうなのか、ぼくもしばしばふしぎに思いましたが」
「ふむ」と老紳士は言った。「あの家族の方はみなさん面白いだろうと思ってましたが」
「サハラ砂漠のパノラマをおぼえていらっしゃいますか?」とハリスがたずねた。
「サハラ砂漠? あれはかれこれ十五年前ですよ」
「そうです。あれは父のお気に入りの一つでした」
「お父上はもっと最近の号がお好きじゃないんですか?」
「たぶんそうでしょう。でも、父はサハラのパノラマがとても好きでした」
「すばらしかったですね。でも、わたしに言わせれば、あれは芸術的な価値が科学的関心をうわまわっていましたよ」
「そうでしょうか」とハリスが言った。「風が砂漠一面に吹き荒れ、ラグダを連れたアラビア人がメッカに向かってひざまずいている」
「わたしの記憶では、アラビア人がラクダの手綱をもって立っていました」
「ああ、そうでした」とハリスが言った。「ぼくはロレンス大佐〔「アラビアのロレンス」として知られるイギリスの冒険家〕の本のことを考えていましたので」
「ロレンスの本はアラビアのことを扱っていましたね、たしか」
「そうです」とハリスが言った。「あのアラビア人がぼくにそのことを思いださせたんです」
「ロレンスはとても面白い若者なんでしょうな」
「きっとそうですよ」
「いま何をしているか、ごぞんじですか?」
「イギリス空軍にいますよ」
「で、どうしてそんなことをしてるんです?」
「好きなんですよ」
「国立地理協会にはいっているかどうか、ごぞんじですか?」
「さあどうでしょうか」
「とてもいい会員になるでしょうな。みんなが会員になってほしいと思うような人物ですな。みんながあの人を会員にしたがっているとお思いなら、わたしは喜んで推薦いたしますよ」
「みんながそう思ってるでしょう」
「わたしはヴェヴェイ出身の科学者とローザンヌ出身のわたしの同僚を推薦しましたが、二人とも会員に選ばれました。わたしがロレンス大佐を推薦したら、みんなはとても喜ぶでしょう」
「すばらしい思いつきですね」とハリスが言った。「このカフェにはよくおいでですか?」
「夕食のあと、コーヒーを飲みに来るのです」
「大学にお勤めですか?」
「わたしはもう現役ではありません」
「ぼくは汽車を待ってるんです」とハリスが言った。「パリにいって、ル・アーヴルから船でアメリカに帰るんです」
「わたしはアメリカヘいったことがないんです。でも、とても行きたいですね。きっと、いつか、協会の会議に出席しますよ。お父さんにお会いできれば、うれしいですね」
「父もお会いできれば、きっと喜んだでしょうが、昨年亡くなりました。ピストルで自殺しました。意外なことで」
「それはお気の毒です。お父上の死は、ご家族ばかりか、科学にとっても大きな打撃だと確信いたします」
「科学にとっては大打撃でした」
「これがぼくの名刺です」とハリスが言った。「父のイニシャルはE・DではなくE・Jです。父もあなたにお会いしたら喜んだでしょう」
「お会いできたら、わたしもたいへんうれしかったのですが」老紳士は札入れから名刺を取り出し、ハリスに渡した。それにはこうあった。
理学博士シギスムント・ワイヤー
国立地理学協会会員
U・S・A・ワシントン・D・C
「大切にちょうだいしておきます」とハリスが言った。
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一日待って
われわれがまだベッドにいるのに、彼は窓を閉めに部屋にはいってきた。ぼくには彼が身体《からだ》が悪いように見えた。彼は身体をふるわせ、まっさおな顔で、動くのが痛いかのように、ゆっくり歩いていた。
「どうしたんだ、シャッツ?」
「頭が痛いんだ」
「ベッドにもどったほうがいいよ」
「いや。大丈夫」
「ベッドにもどりな。服を着てから、見にいってあげる」
だが、ぼくが下におりていった時には、彼は服を着て、暖炉のそばに坐り、ひどい病気の、みじめな、九歳の少年といった様子であった。額に手をあててみると、熱のあるのがわかった。
「ベッドにいってな」とぼくは言った。「病気だよ」
「大丈夫」と彼が言った。医者が来て、少年の体温をはかった。
「何度ですか?」とぼくは医者にたずねた。
「百二度」
階下で、医者は違った色のカプセルにはいった三種類の違った薬を使用上の注意書といっしょに置いていった。一つは解熱剤で、もう一つは下剤、三つ目は酸性の状態を取り除くためのものだった。インフルエンザの菌は酸性の状態にしか生存しえないのだと医者は説明した。医者はインフルエンザのことなら何でも知っているふうで、熱が百四度以上にあがらなければ、何ら心配することはない、と言った。これは流感の軽いやつで、肺炎さえ起こさなければ危険はない、と言った。
部屋にもどって、ぼくは少年の体温を書きとめ、いろいろなカプセルを飲ませる時間をメモした。
「何か読んであげようか?」
「うん。よければ」と少年が言った。彼の顔はまっさおで、眼の下に黒い〈くま〉ができていた。ベッドにじっと横になったきりで、何が行われていようと、まったく無関心のようだった。
ぼくはハワード・パイルの『海賊の本』を声を出して読んだ。だが、ぼくは彼が読んでいるのを聞いていないのに気づいた。
「気分はどうだね、シャッツ?」とぼくは彼にきいた。
「ちっとも変わらないさ、いままでのところ」と彼が言った。
ぼくはベッドの足許に腰をおろし、もう一つ別のカプセルを飲ませる時間を待ちながら、自分に向かって本を読んでいた。彼が当然ねむるはずだったのだが、ぼくが眼をあげると、彼はとても奇妙な顔付きで、ベッドの足許を見ていた。
「どうして眠ろうとしないんだ? 薬の時は、おこしてあげるよ」
「目をさましていたいんだ」
しばらくして、彼はぼくに言った。「ここに、ぼくといっしょにいなくたっていいんだよ、パパ、迷惑なら」
「迷惑じゃないよ」
「いや、いっしょにいなくたっていいと言ってんだよ、迷惑になるなら」
ぼくはきっと少年がすこし頭が変になったのだと思い、十一時に処方どおりにカプセルを飲ませて、しばらく外に出た。
よく晴れた寒い日で、地面は〈みぞれ〉でおおわれ、凍りついて、すべての裸の木や、灌木《かんぼく》や、刈った〈そだ〉や、すべての草地や、裸の地面が氷のニスをかけたようになっていた。ぼくはアイリッシュ・セッターの仔犬をつれて、道の向こうを凍りついた小川にそってすこし散歩したが、ガラスのような地面では、立っていることも歩くことも困難で、その赤い犬はつまずいて滑り、ぼくは二度もひどくころび、一度などは銃をおとし、氷の上を向こうへ滑らせてしまった。
ぼくは、〈やぶ〉がおおいかぶさっている高い土手の下でウズラの群れを追い出し、土手の上を越えて見えなくなるまでに、二羽を射とめた。ウズラの幾羽かは木々に止まったが、大部分はちりぢりに〈そだ〉の山のなかに逃げこんだので、こんど飛び立つには、何度も氷のかぶさった〈そだ〉の山の上で飛んでみなければならなかった。凍りついて弾力のある〈そだ〉の上で危なげに平均をとっているときにウズラが飛び出すのだから、射ち落とすのはむつかしい。ぼくは二羽、射とめ、五羽、失敗し、家のすぐ近くにウズラの群れを見つけたことに満足し、いずれ後日、たくさん見つかるだろうと楽しみにして、家へ向かった。
家では、少年が誰もその部屋に入れさせないのだと、みんなが言っていた。
「はいってきちゃいけない」と彼が言った。「ぼくの病気がうつるぞ」
ぼくは少年のところへ行くと、彼はぼくが出ていった時とまったく同じ姿勢で、まっさおだったが、熱のために頬が赤らみ、前と同じようにベッドの足許を、じっと見つめていた。
ぼくは体温をはかった。
「何度ある?」
「百度ぐらいだ」とぼくは言った。百二度十分の四だった。
「前は百二度だった」と彼が言った。
「誰がそう言った?」
「お医者さんが」
「体温は大丈夫だよ」とぼくが言った。「心配することなんかないんだ」
「心配なんかしない」と彼が言った。「でも、ぼく、考えないわけにいかないんだ」
「考えるなよ」とぼくが言った。「気を楽にしな」
「気を楽にしてるよ」と彼は言い、まっすぐ前方を見た。彼は明らかに何か思いつめていた。
「これを水で飲みな」
「これがきくと思う?」
「もちろん、きくとも」
ぼくは腰をおろし、『海賊』の本を開け、読みはじめたが、彼が聞いていないのがわかったので、やめた。
「だいたい、いつごろ、ぼくが死ぬと思う?」と彼がきいた。
「何だって?」
「だいたいどのくらいかかるの、ぼくが死ぬのに?」
「死にはしないよ。どうしたんだ、え?」
「いや、ぼくは死ぬ。お医者さんが百二度と言うのを聞いたもの」
「百二度の熱で人は死なないよ。そんなことを言うと笑われるぞ」
「ぼく、知ってるんだ。フランスの学校で、友だちから聞いたんだが、誰でも四十四度だと死ぬって。ぼくは百二度なんだ」
彼は一日じゅう死ぬのを待っていたのだ、朝の九時以来。
「かわいそうに、シャッツ」とぼくは言った。「かわいいな、シャッツ。それはマイルとキロメートルみたいなものなのだ。死にっこないよ。体温計が違うんだよ。その体温計では三十七度が平温なのさ。この体温計なら、九十八度なんだ」
「ほんと?」
「ほんとだとも」とぼくは言った。「マイルとキロメートルのようなものさ。車で時速七十マイルは、キロメートルならどれだけか、というようなものさ。わかるだろ?」
「ふうん」と彼が言った。
だが、ベッドの足許を見つめている彼の眼差しは次第に鋭さを失った。ついに、彼の身体全体の緊張もゆるみ、翌日はすっかり緊張がゆるみ、たいしたことでもないちょっとしたことにも、すぐ泣いた。
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死者の博物誌
戦争は博物学者の観察領域としては除外されてきたのだと、ぼくはかねがね思っていた。故W・H・ハドソン〔南米生まれのイギリスの博物学者、随筆家、小説家〕にはパタゴニアの動植物群に関する魅力的で正確な記録があり、ギルバート・ホワイト師〔イギリスの博物学者。『セルボーンの博物誌』の著者〕は、セルボーンにときどき珍しく姿をあらわすヤツガシラについて、はなはだ興味深い記録を残しているし、スタンレー僧正〔イギリスの牧師、著述家〕は通俗的だが貴重な『鳥類史入門』を書いている。そこで、ぼくらは死者について合理的で興味深い事実の二、三を読者に提供しようと考えてもよいのではなかろうか? ぼくはそうしてもよいと思う。
あの不屈の旅行家マンゴ・パーク〔スコットランドの医者、『アフリカ奥地旅行』の著者〕があるとき旅行していたが、アフリカの砂漠の広漠たる荒野で、着るものもなく、ただひとりで、気を失いそうになり、自分の生命《いのち》もこれまでと思い、ただ身を横たえて死ぬのを待つよりほか仕方がないと考えた。そのとき、驚くほど美しい一輪の小さな苔《こけ》の花が彼の眼をとらえた。「その植物は全体で」と彼は述べている。「わたくしの指一本の大きさしかなかったが、わたくしはその根と葉と種子を包む〈さく〉の精巧な確かさをじっと見つめて感嘆せざるをえなかった。世界のこのような辺鄙《へんぴ》なところに、とるにたらぬものとしか思えぬものを植え、水を与え、完全なものに育てあげた神が、神の姿にかたどって造られた人間の苦しんでいる状況を無関心で眺めていられようか? 確かにそのようなことはありえない。こう考えると、わたくしには絶望が許されなかった。わたくしは立ちあがり、飢えと疲労にもめげず、救いが手近にあると確信して、前進を続けた。そして、わたくしの期待は裏切られなかった」
スタンレー僧正が言っているように、これと同じような感嘆と崇拝の心をもっていれば、博物学のどの分野を研究しても、われわれの一人一人が人生の荒野を旅するのに必要な信仰と愛情と希望とをかならず増大することになろう。だから、われわれが死者からどのようなインスピレーションを受けるか、みてみよう。
戦争では、死者は通常、人間の男性である。もっとも、動物にはこのことはあてはまらない。現にぼくは牝馬《めすうま》が牡馬《おすうま》にまじって死んでいるのをしばしば見ている。また、戦争の面白い面は、博物学者が騾馬《らば》の死骸を見る機会にめぐりあうのは戦場だけだということだ。二十年間の市民生活での観察のなかで、ぼくは死んだ騾馬を見たことがなかったので、この動物は本当に死ぬことがあるのだろうかと疑いをいだきはじめていた。ごく稀に、死んだ騾馬と思われるものを見かけたことはあるが、近づいてよく見ると、きまって生きていて、彼らに特有の完全な休息状態のために死んでいるように見えただけだった。だが、戦争では、彼らも、もっとありふれた、それほど頑丈でない馬と同じような状態で、死んでいるのである。
ぼくが死んでいるのを見たこれらの騾馬《らば》の大部分は山道に沿ったところか嶮《けわ》しい斜面の下に横たわっていたが、通行の邪魔になるので、わきに押しのけられていた。彼らは山地でよく見かけられるので、こうして死んでいるのも山地にふさわしい光景に思われ、後にスミルナ〔エーゲ海スミルナ湾にのぞむトルコ西部の海港〕でギリシア軍が荷車用の馬を一頭残らず脚をたたき折って桟橋から浅瀬に突き落して溺死させた時のような不自然さはなかった。たくさんの騾馬や馬が脚を折られ、浅瀬で溺死する光景は、ゴヤ〔スペインの画家〕を呼んできて描いてもらいたいほどだった。だが、厳密に言えば、ゴヤは一人しかいないし、それもずっと前に死んでいるのだから、呼ぶといっても、できない相談だし、また、かりにこれらの動物が呼ぶことができるとしても、自分たちの苦境を絵に描いてもらいたいと呼んだかどうかは、はなはだ疑問である。むしろ、もっと可能性のあることとしては、かりに彼らが口をきけたら、誰かを呼んで、彼らの苦しい状態を和らげてほしいと頼んだことだろう。
死者の性別に関して言えば、死者がすべて男性ばかりなのを見なれているから、死んだ女性を見ると、ひどいショックを受けるのは事実である。ぼくは、イタリアのミラノの近郊にあった軍需工場が爆発したあとへいったとき、はじめて死者の性別がいつもと違っているのを見た。ぼくらはトラックに乗ってポプラの並木道を惨事の現場へ向かったが、その道に沿って溝《みぞ》があり、中にたくさん微生物がいたのに、トラックのまきあげるひどい砂ぼこりのために、はっきりと見ることができなかった。軍需工場のあったところに到着すると、ぼくらの一部は、何らかの理由で爆発しなかった多量の軍需品の警備に廻され、ほかのものは、隣りの草原に燃えうつった火炎の消火を命ぜられた。その作業が終わると、ぼくらは隣接地域や周囲の草原で死体を探すよう命令された。ぼくらは多数の死体を見つけ、それを急ごしらえの死体置場へ運んだが、それらの死体が男ではなく女であることを知ったときのショックは、卒直に言って、認めなければならない。そのころは、数年後にヨーロッパやアメリカで行われたように女性は髪を短く刈りこんではいなかった。それで、ぼくらを最もぎょっとさせたのは、まったく見慣れていなかったせいだろうが、死体にこの長い髪の毛がついていたことだった、また、それ以上にぎょっとしたのは、ときどきその髪の毛がなくなっていることだった。いまでも思いだすが、ぼくらは四肢の完全にそろっている死体を探し終ると、こんどは、ばらばらになった肉片を拾い集めた。その多くは、工場の敷地を取り囲んでいた頑丈な鉄条網の柵からはぎとったのだが、まだ破壊されずに残っていた工場の建物からも、たくさん拾い集めた。それは高性能の爆薬のすさまじい威力をまざまざと見せつける以外のなにものでもなかった。また、多くのちぎれた肉片がはるか離れた草原から発見されたが、それはそれ自体の重みで、そんなに遠くまで飛ばされたのだった。
ミラノへの帰途、いまも思いだすが、ぼくらの一人か二人が、この出来事について論じ合い、この出来事が現実ばなれしているためと、負傷者が一人もいなかったという事実のために、本来ならもっと大きかったかも知れない恐怖がこの災害から取り除かれているということで意見が一致した。さらに、それが出来事の直後であり、そのため死体を運搬したり処理したりする不快感が最低限にとどまっていたので、普通の戦場での体験とかなり違ったものになっていた。砂ぼこりこそかぶったけれど、美しいロンバルジアの田園を快適にドライブしたことも、この任務の不快感をつぐなってくれた。帰途、ぼくらはおのおのの印象を語り合ったが、ぼくらが到着する直前に起った火災があのように迅速に消し止められ、莫大な量と思われる弾薬に引火しなかったのは、まったく幸運だったということに意見が一致した。また、肉片を拾い集めるのは、途方もない仕事だったということにも、意見が一致した。人間の身体が解剖学的な線に沿って裂けず、むしろ、高性能砲弾が炸裂《さくれつ》した時の破片のように気まぐれに砕けて粉々に飛び散るのは、驚くべきことであった。
博物学者は観察の正確を期するために、その観察をある限られた時期に限定するようである。ぼくも、死体が最も多かった時期として、一九一八年六月のイタリアにおけるオーストリア軍の攻撃直後を、まずとりあげてみよう。その時は、撤退が余儀なくされ、その後、失地回復のための進撃が行われたので、戦闘終了後の状況は、ただ死体があるというほかは以前と変りがなかった。死体は埋葬されるまで、毎日その外観を変えた。コーカサス人種の色は、白から、黄、黄緑、黒と変化した。炎天下に長いあいだ放置されると、肉は、殊に破れたり裂けたりした箇所では、コールタールのようになり、はっきりとコールタールのような玉虫色になる。死体は日増しにふくれあがり、ついには軍服にはいりきれぬほど大きくなり、軍服がはちきれそうになることもある。手足は信じられぬほど太くなり、顔は気球のように、まんまるにふくらんでしまう。死体が次第に肥大化するのは驚くべきことだが、その次に驚くべきことは、死体のまわりに散らばっている紙の量である。埋葬が考慮される前に死体がとっている最終の姿勢は、軍服のポケットの位置によってきまる。オーストリア軍では、このポケットがズボンのうしろについているので死体はしばらくすると、結局はみんなうつ伏せになり、二つの尻のポケットが引っぱり出され、ポケットのなかにあったすべての書類は死体のまわりの草のなかに散らばっていた。炎暑と、ハエと、草のなかの死体の暗示的な姿勢と、散らばった紙の量は、忘れられぬ印象だ。炎天下の戦場の臭気は、あとでは思い出せないものだ。そんな臭いがしたということは思い出せても、その臭気をふたたび感じさせるようなことは決して起こらないものだ。それは軍隊の臭いとも違う。市街電車に乗っていると、突然、臭ってきて、向こうを見ると、その臭いを発散している男が見えるといった軍隊の臭いではない。君が恋している時と同じで、あとになると、すっかり消えうせてしまい、起った事柄だけはおぼえているが、そのときの感覚は思い出せないものだ。
あの不屈の旅行家マンゴ・パークなら、炎天下の戦場で自信を取りもどすために何を見ただろうか。六月の末と七月には、小麦畑にはいつもケシの花が咲いていた。桑《くわ》は葉をいっぱいにつけ、その葉のあいだから射しこむ日光に焼かれた銃身から、かげろうが立ちのぼっているのが見えた。大地はイペリットガス弾が炸裂してできた穴の縁のところが鮮やかな黄色に変色し、普通のこわれた家は砲弾が命中した家よりも立派に見えたが、しかし、あの初夏の空気を胸いっぱいに吸いこみ、神のみ姿に似せて造られた人間についてマンゴ・パークが考えたようなことを考える旅行者は、ほとんどいないだろう。
死者について第一に気づいたことは、射たれ方がまずいと、動物のように死んでしまうことだった。ある者はウサギでも死にそうもないと思われる小さな傷でたちまち死んでしまった。皮膚も傷つけそうにない小さな散弾でも、三、四発くらえば、ウサギは死ぬことがあるが、彼らも同じように小さな傷で死んでしまった。また、ある者は猫のように死んだ。頭蓋骨をぶちぬかれ、砲弾の破片を脳天につきさされても、彼らは、脳天に弾丸を射ちこまれて石炭箱に這いこんだまま、首を切りおとされるまで死なない猫のように二日間も生きたまま、横になっていた。きっと猫はそうなっても死なないだろう。猫は九つの生命《いのち》をもっていると言われている。ほんとかどうかは知らない。だが、たいていの人は動物みたいに死ぬ。人間らしくは死なない。ぼくはいわゆる自然死なるものを一度も見たことがない。だから、戦争による死を非難し、あの不屈な旅行家マンゴ・パークのように、何かほかの死、つねに目に見えない何かほかの死があると信じていた。そして、やがてその自然死なるものを見たのだ。
虚血による死は悪くはないが、そのほかに、ぼくが見た唯一の自然死は、スペイン風邪による死だ。これにかかると、自分の粘液に溺れて窒息する。そして、患者の死にざまといえば……最後になると、彼はたくましい力はまだあるが、もう一度赤ん坊にかえったようになり、そのシーツはおむつのように、死んだあとまで流れ出て滴《したた》り落ちる滝のような多量の最後の黄色い排泄物でぐっしょりとぬれてしまうのだ。そこで、今度は、ヒューマニスト(*)と自称する人たちの死にざまを見てみたい。というのは、マンゴ・パークやぼくのような不屈な旅行家は現在も存在するし、将来も存在して、この文学流派に属する連中の実際の死にざまを目撃し、彼らの高貴な大往生を見守るだろうからだ。博物学者として瞑想にふけっていたときに、ふと思ったのだが、上品さというものは、すばらしいものではあるが、人類が存続していくためには、下品さも必要で、生殖のために定められた恰好などは下品も下品、このうえなく下品で、それが上品な同棲生活の子供である人間たちの今も昔も変らぬ姿だと、そう思った。しかし、どのようにして彼らが生まれたかには関係なく、ぼくは二、三の人の最期を見て、彼らうじ虫どもがあの長いあいだ保たれてきた不毛の肉体を食い荒すさまを思い描きたいのだ。いまや、彼らの古びたパンフレットはばらばらに破れ、彼らのすべての情欲は脚注になりさがっているのだ。
(*)すでに存在しない現象にこのように言及することについては、読者の寛容を乞わねばならない。すべて流行に関する言及がそうであるように、この言及は物語の書かれた年代を示している。しかし、多少の歴史的興味もあり、かつ、これを除けば物語のリズムがそこなわれる恐れがあるので、このままにしておく。
死者の博物誌において、これらの自称一般民間人を取り扱うことは、たとえその名称がこの作品の出版される頃には何の意味もなくなっているとしても、おそらく不合理ではなかろうが、しかし、彼らを取り扱えば、ほかの死者たち……好きこのんで若くして死んだわけではなく、一冊の雑誌も持たず、その多くはおそらく批評など読んだことさえなく、あの炎天下で、かつて口のあったところに半パイントほどのうじ虫がうごめいているあの死者たち……に不公平になる。死者には炎天がつきものとは限らなかった。むしろ、雨の時が多く、雨のなかに死体が横たわっている時には、雨は彼らをきれいに洗い流し、雨のなかで埋葬される時には、土をやわらかくし、時には、その土がどろんこになるまで降りつづき、死体を洗い出してしまい、改めて埋葬しなおさなければならないこともあった。また、冬、山岳地帯では、死体を雪のなかへ埋めなければならなかった。そして、春になって雪が解けると、誰かが埋めなおさなければならなかった。山岳地帯には美しい埋葬地があった。山岳地帯の戦争はあらゆる戦争のうちでも一番美しいものだ。そして、そういう戦争の一つで、ポコルというところで、狙撃兵に頭を射たれた将軍が埋葬されたことがあった。このことからでも、『将軍ベッドに死す』というような本を書いた作家たちは間違っていることがわかる。この将軍は高い山岳地帯の雪のなかに掘った塹壕《ざんごう》のなかで死んだのだから。将軍は鷲の羽根のついた登山帽をかぶり、帽子の前方には小指もはいらないほどの穴があき、後方には、小さい握りこぶしなら、突っこんでみようと思えば突っこめるほどの穴があいていて、雪の上におびただしい血が流れていた。彼はじつに立派な将軍だった。また、カポレットー〔イタリアとの国境に近いユーゴスラヴィアの町〕の戦闘でパヴァリア山岳部隊を指揮し、部隊の先頭に立ってウーディーネ〔イタリア東北部の町〕にはいるとき、イタリア軍の後衛隊の攻撃をうけ、参謀部の車のなかで戦死したフォン・べール将軍も立派だった。だから、そのような本の表題は、いくらかでも正確を期そうと思うなら、『将軍は通常ベッドに死す』とすべきものなのだ。
また、山岳地帯では、時どき、敵の砲撃から遮蔽された山かげの包帯所の外においてある死体の上に、雪が降りつもった。それらの死体は土が凍りつかないうちに山腹に掘られた洞窟《どうくつ》のなかに運びこまれた。その洞窟のなかで、花瓶が割られたように頭を射ちくだかれた兵士が一人、まる一日と次の日の昼間のあいだ、横たわっていた。こわれた頭は粘膜とじょうずに巻いた包帯でくっついていたけれど、包帯は血がにじんで固くなっていたし、頭のなかの組織も突きささった鉄の破片でこわれていた。担架兵たちは軍医に洞窟のなかにはいって、その男を診《み》てやってくれとたのんだ。彼らはなかへはいるたびに、その男の姿が目につき、見ないようにしても、その男の息づかいが耳にはいった。軍医の眼は催涙ガスのために赤く充血し、まぶたがはれあがって、ほとんどふさがっていた。軍医はその男を二度診た。一度は日中に、一度は懐中電燈で。これもゴヤのすばらしいエッチングになったろう。ぼくは懐中電燈で回診したときのことを言っているのだが。軍医は二度目に診たあとで、その兵隊がまだ生きていると言う担架兵たちの言葉をやっと信用した。
「この俺にどうしろと言うんだ?」と彼はたずねた。
担架兵たちはしてほしいことなど何もなかった。だが、しばらくすると、彼らはその兵士を洞窟から運び出し、重傷者といっしょに寝かせることを許可してほしいと言った。
「いや、いかん、いかん!」と多忙な軍医が言った。「どうしたのだ? あいつがこわいのか?」
「あいつが死体といっしょにいて、うめくのを聞きたくないんです」
「聞かないようにしてろ。運びだしたところで、またすぐ運び込まなきゃならんぞ」
「そんなことはかまいません、軍医殿」
「いかん」と軍医が言った。「いかん。いかんと言うのが聞こえんのか?」
「モルヒネを余分に射ってやったらどうです?」と腕の負傷を手当してもらうために待っていた砲兵将校が言った。
「モルヒネはそんなことだけに使うものと思ってるのかね? 君はモルヒネを使わないで手術してもらいたいのかね? 君はピストルを持ってるじゃないか。君が出ていって、奴を射ったらどうだ?」
「あいつはすでに射たれてるんだ」と将校が言った。「君たち軍医が射たれたら、そうは言わんだろ」
「ありがたいことだ」と軍医はピンセットを空中に振りながら、言った。「ほんとに、ありがとう。ところで、この眼はどうだね?」彼はピンセットで自分の眼を指した。「こいつをどう思うかね?」
「催涙ガスさ。催涙ガスなら、運がいいのさ」
「前線から離れられるからな」と軍医が言った。「催涙ガスにやられたと言って、戦線からここに逃げこめるからな。眼に玉ねぎをすりこんだりしてね」
「君はどうかしている。いまの侮辱は見のがしてやる。君は気が変だ」
担架兵たちがはいってきた。
「軍医殿」と一人が言った。
「出ていけ!」と軍医が言った。
彼らは外に出た。
「あのかわいそうな奴を射殺してやろう」と砲兵将校が言った。「俺は情を知っているからな。奴を苦しませておくわけにはいかない」
「じゃあ、射殺してこいよ」と軍医が言った。「射殺しろ。責任もとるんだぞ。報告書は俺が書いてやる。負傷兵は第一救護所において砲兵中尉に射殺さる、とな。射殺しろ、さあ、いって、射殺しろ」
「君は人間じゃないぞ」
「俺の仕事は負傷兵の手当で、殺すことじゃない。そちらのほうは砲兵隊の紳士諸公にまかせるよ」
「じゃあ、なぜ、手当してやらないのだ?」
「やったさ。出来る限りのことはやったのさ」
「どうしてケーブル・カーで下へ送ってやらないんだ?」
「どうして君はそんな質問を俺にするんだ? 君は俺の上官か? この包帯所を指揮してるのか? ご返答願いたいね」
砲兵中尉は何も言わなかった。その部屋にいあわせたのは兵隊ばかりだった。将校は一人もいなかった。
「返答しろ」と軍医はピンセットで注射針をつまみあげながら、言った。「返答はどうした」
「こんちくしょう」と砲兵中尉が言った。
「そうか」と軍医が言った。「よくも言ったな。よし。よし。いまに見てろ」
砲兵中尉は立ちあがり、軍医のほうに歩いていった。
「こんちくしょう」と彼は言った。「こんちくしょう。お前のかあさん、でべそ、お前の妹も……」
軍医はヨードチンキのいっぱいはいった皿を中尉の顔に投げつけた。中尉は軍医のほうに近づきながら、眼つぶしをくらい、ピストルをまさぐった。軍医はすばやく彼の背後にまわり、足を払ってひっくりかえし、中尉が床に倒れると、何度も蹴とばして、ゴム手袋のままピストルを捨いあげた。中尉は床の上に起きなおって、負傷していないほうの手で眼をおさえた。
「殺してやるぞ!」と彼は言った。「眼が見えるようになったら、すぐ殺してやる」
「俺がここのボスよ」と軍医が言った。「俺がボスだってことがわかったら、いっさい許してやるぜ。お前は俺を殺せやしないぜ、お前のピストルは俺が持ってるんだから。軍曹! 副官! 副官!」
「副官はケーブル・カーのほうにいっています」と軍曹が言った。
「この将校の眼を水でうすめたアルコールで拭いてやれ。ヨードチンキが目にはいったのだ。手を洗うから洗面器を持ってきてくれ。こんどはこの将校を診てやるから」
「俺にさわるな」
「しっかり押さえてろ。すこし気が変なのだ」
担架兵の一人がはいってきた。
「軍医殿」
「何だ?」
「死体置場のあの兵隊が……」
「出ていけ」
「死にました、軍医殿。お伝えしたら喜ばれるかと思いまして」
「いいかね、中尉君。われわれはつまらんことで議論するものさ。戦争の時には、つまらんことで議論するものさ」
「こんちくしょう」と砲兵中尉が言った。彼はまだ眼が見えなかった。「眼つぶしをくらわせやがって」
「たいしたことないさ」と軍医が言った。「眼はよくなるよ。たいしたことないさ。つまらんことで議論したものさ」
「ああ! ああ! ああ!」と中尉が突然金切声をあげた。「眼つぶしをくらわせやがったな! 眼つぶしをくらわせやがったな!」
「こいつをしっかり押さえてろ」と軍医が言った。「こいつ、ひどく痛がってる。しっかり押さえてろ」
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ワイオミングのワイン
ワイオミングの暑い午後だった。山々は遥かかなたにあり、頂上には雪が見えたが、山の影はまったくなく、谷間では穀物畑が黄ばみ、道路は行きかう車で埃《ほこり》っぽく、町はずれの小さな木造の家々は強い日射しに焼かれていた。フォンタンの家の裏のポーチは木陰になっていた。ぼくはそこのテーブルに坐った。フォンタンのおかみさんが地下の酒蔵から冷えたビールをもってきた。自動車が本通りをそれて、路地にはいってきて、家のわきで止まった。二人の男が車からおりて、門をはいってきた。ぼくはテーブルの下にビール瓶をかくした。おかみさんが立ちあがった。
「サムはいるかね?」と一人が網戸のところでたずねた。
「いないよ。鉱山へいってるよ」
「ビール、あるだろ?」
「ないよ。ビールなんかないよ。あれでおしまいさ。みんな出ちゃったのさ」
「奴は何を飲んでるんだ?」
「あれでおしまいさ。みんな出ちゃったのさ」
「なあ、ビール、出しな。顔みしりじゃないか」
「ビールなんかないよ。あれでおしまいさ。みんな出ちゃったのさ」
「おい、どこか本物のビールが飲めるとこへいこう」と一人が言った。二人は車のほうへもどった。一人は足もとが怪しかった。自動車はスタートするとき、がくんとして、道路を猛烈なスピードで走り、たちまち見えなくなった。
「ビールをテーブルの上に置きなよ」とおかみさんが言った。「どうしたのよ、ええ、大丈夫。どうしたの? 床において飲むことないよ」
「奴らが誰だかわからなかったから」とぼくは言った。
「酔っぱらってんのよ」とおかみさんが言った。「だから困るのよ。これからどこかへいって、ここで飲んだって言うのよ。きっとどこだか覚えてもいないくせにね」おかみさんはフランス語をしゃべったが、ただ時々フランス語になるだけで、英語の単語が多く、時には英語の構文になった。
「フォンタンはどこだね?」
「ぶどうの取り入れにいってるよ。まあ、あの人はワインとなると、きちがいでね」
「でも、奥さんはビールが好きだね?」
「ええ、あたしはビールが好きだが、フォンタンときたら、ワインきちがいでね」
彼女はまるまると太った老婦人で、すばらしく血色がよく、白髪だった。すごくきれい好きで、家も清潔できちんとしていた。ランス〔フランス北部、ベルギーに近い町〕の出身だった。
「食事はどこでしたの?」
「ホテルでね」
「ここで食べなさいよ、ホテルやレストランなんかで食べることないよ。ここでお食べなさい」
「面倒をかけたくないからね。それに、ホテルだって、けっこう食べられるよ」
「あたしはホテルでは食べないわ。けっこう食べられるだろうけどね。たった一度だけ、アメリカのレストランで食事したことがあるけど。何が出たと思う?なまのポークさ」
「ほんと?」
「嘘なんが言うもんか。料理してないポークさ。それに、あたしの息子はアメリカ人と結婚してるんだけど、年がら年じゅう、罐詰の豆ばかり食べさせられてるよ」
「結婚してどのくらいになるの?」
「おや、おや、忘れちゃったね。嫁は目方が二百二十五ポンドもあるんだよ。働きもしないし、料理もしない。息子に罐詰の豆ばかり食べさせてさ」
「それで、何してんの?」
「しょっちゅう、本ばかり読んでさ。本のほかは何もしないさ。年がら年じゅう、ベッドで本を読んでてさ。もう、赤ん坊も出来やしない。太りすぎよ。赤ん坊のはいる余地などないんだよ」
「嫁さん、どこが悪いの?」
「しょっちゅう、本ばかり読んでさ。息子は、いい人間さ。よく働いてね。鉱山で働いてたんだけど、いまは牧場で働いてるんだよ。これまで牧場で働いたことなどなかったんだけど、牧場主がフォンタンに、牧場でこんなによく働く男、見たことないって言ってたよ。なのに、息子が家へ帰ってくると、嫁はなんにも食わせないんだから」
「どうして離婚しないんだね?」
「離婚するだけの金がないのさ。それに、息子は嫁に首ったけでね」
「嫁さんは、きれいなのかね?」
「そう思ってるのよ、息子は。息子がはじめて嫁を家に連れてきた時にゃ、あたしは死んじまおうかと思ったくらいだよ。息子はいい子で、しょっちゅうよく働くし、一度だって遊びもしなけりゃ、さわぎも起こしたりしないんだよ。それが、油田へ働きにいったかと思うと、あのインディアンの女を連れて帰ってきたのさ。それがなんと、その時でも百八十五ポンドもある女なんだよ」
「インディアンなのかね!」
「正真正銘のインディアンさ。まさしく、そのとおり。しょっちゅう、こんちくしょうとか何とか言って、働きゃあしないんだから」
「いまどこにいるの?」
「ショーさ」
「ショーって、どこの?」
「ショーさ。映画よ。あの女のやることったら、本を読むか、ショーにいくかさ」
「ビール、もっとないかね?」
「ええ、あるよ、ちゃんと。今晩、あたしたちといっしょに食事なさいよ」
「それはいいですな。何を持ってきましょうか?」
「何もいらないよ。何も。きっと、フォンタンがワインを出すから」
その晩、ぼくはフォンタンの家で食事をした。ぼくらは食堂で食べたが、清潔なテーブルクロスがかかっていた。ぼくらは新酒のワインを飲んでみた。口当りがひどく軽く、澄んでいて、おいしかったし、まだぶどうの味が残っていた。フォンタンと、おかみさんと、小さい男の子のアンドレがテーブルについていた。
「きょうは何してたかね?」とフォンタンがたずねた。鉱山仕事で疲れた、小柄なからだつきの老人で、ごま塩の口ひげを垂らし、明るい眼をしていた。サン・テチェンヌ〔南フランス、リヨンの近くの町〕に近い中部地域《サントル》の出身だった。
「わたしの本にかかりっきりだった」
「本はうまくできて?」とおかみさんがたずねた。
「作家みたいに本を書いとると言われるんだ。小説をね」とフォンタンが説明した。
「パパ、ショーにいっていい?」とアンドレがたずねた。
「いいよ」とフォンタンが言った。アンドレはぼくのほうを向いた。
「ぼくいくつだと思う? 十四に見える?」やせた小柄な少年だが、顔は十六歳に見えた。
「うん、十四に見えるよ」
「ショーにいくと、こんなふうにかがんで、小さく見えるようにするんだ」甲《かん》高い声だが、声変わりしかけていた。「二十五セント銀貨を出したって、お釣りをくれないし、十五セントしか出さなくても、ちゃんと入れてくれるよ」
「じゃあ、十五セントやろう」とフォンタンが言った。
「いやだ。二十五セント銀貨をおくれ。途中でくずしてもらうから」
「ショーがすんだら、すぐ帰るんだよ」とおかみさんが言った。
「すぐ帰るよ」アンドレは戸口から出ていった。外は夜気が涼しかった。ドアを開け放していったので、涼しい風がはいってきた。
「おあがりなさい!」とおかみさんが言った。「何も食べないじゃないの」ぼくはポテトフライをそえた鶏肉を二皿と、とうもろこしを三本と、薄切りのきゅうりと、サラダを二皿も平らげていた。
「きっと、ケーキなら、食べられる」とフォンタンが言った。
「ケーキをつくっとくんだったわ」とおかみさんが言った。「チーズをおあがりよ。クリームチーズを。なんにも食べないんだね。ケーキを用意しとけばよかった。アメリカ人はいつもケーキを食べるからね」
「でも、たくさん食べましたよ」
「おあがりよ。なんにも食べないんだから。みんな食べなよ。残すことはないんだから。みんな平らげなさい」
「もっとサラダをどうだね」とフォンタンが言った。
「もっとビールをもってこようか」とおかみさんが言った。「一日じゅう本の工場で働いていると、お腹がすくからね」
「あれには、あんたが作家だってこと、わからないんだ」とフォンタンが言った。よく気のつく老人で、俗語を使い、一八九〇年代の終わりごろの、兵役についていた時代の流行歌を知っていた。
「この方はご自分で本を書くんだよ」と彼はおかみさんに説明した。
「ご自分で本を書くのかね?」とおかみさんはたずねた。
「ときどきね」
「まあ!」と彼女は言った。「まあ! ご自分で本を書くのかね。まあ! じゃあ、そんな仕事なら、お腹がすくね。おあがりよ! ビールをさがしてくるから」
地下の酒蔵へ階段をおりていく彼女の足音が聞こえた。フォンタンはぼくを見て、ほほえんだ。彼は自分と同じような経験や世間的な知恵をもたない人にたいしては、たいへん寛大だった。
アンドレがショーから帰ってきたとき、ぼくらはまだ台所で腰をおろし、狩猟の話をしていた。
「労働休日《レーバー・デイ》〔九月の第一月曜日〕には、みんなでクリア・クリーグヘいってね」とおかみさんが言った。「まあ、ほんとだ、あんたもいっしょにくればよかったのに。みんなでトラックでいったんだよ。みんな、トラックで、いったよ。日曜日に出かけてね。チャーリーのトラックで」
「みんなで食べたり、ワインを飲んだり、ビールを飲んだり、アブサンをもってきたフランス人もいてね」とフォンタンが言った。「カリフォルニアのフランス人さ!」
「ほんとに、みんなで歌ったよ。何事だろうと、お百姓さんが一人見に来てね、その人に飲ませてやったら、しばらくいっしょに遊んでいったよ。イタリア人も幾人か来てね、仲間になりたがったっけ。あたしたちはイタリア人たちのことを歌ったんだけど、あいつらにはわからなかったよ。あたしたちが仲間にしたがらないってこと、わかんなかったんだけど、こっちが相手にしなかったから、しばらくいて、いっちまったよ」
「魚はどのくらい釣れた?」
「ほんのすこしさ。しばらく釣りに出かけ、それから、また帰ってきて、歌ったのさ。じっさい、よく歌ったね」
「夜になると」とおかみさんが言った。「女はみんなトラックで寝、男は火のそばにいたよ。夜中にフォンタンがワインをとりにくる音がしたので、あたしは言ったよ。まあ、あんた、明日の分にすこし残しときな。明日になって飲むものがなかったら、みんながっかりするよって」
「でも、わしたちはみんな飲んじまった」とフォンタンが言った。「翌日は何も残ってなかった」
「で、何をした?」
「本気になって釣りをやったね」
「いい鱒《ます》が釣れてね、まったく。みんなそろっていて、半ポンド一オンスもあってね」
「どのくらいだって?」
「半ポンド一オンス。ちょうど食べごろよ。みんなそろっていて、半ポンド一オンスさ」
「アメリカは好きかね?」とフォンタンがぼくにきいた。
「自分の国だからね。自分の生まれた国だから、好きさ。でも、食い物はよくないね。昔はよかった。だが、今はだめだね」
「そうだね」とおかみさんが言った。「食い物はよくない」おかみさんは首を振った。「それに、ポーランド人の奴らが多すぎる。あたしが小さいとき、お袋さんがよく言ったもんだよ。『お前、ポーランド人の奴らみたいに食うね』って。でも、そのときは、ポーランド人ってどんなか、あたしにはわからなかったのさ。でも、アメリカに来て、いまはわかったよ。ポーランド人の奴らが多すぎるのさ。それに、ほんとに、ポーランド人って、きたならしい」
「猟と釣りにはすばらしい国だな」とぼくは言った。
「うん、それには一番だ。猟と釣りには」とフォンタンが言った。「銃は何を使ってるかね?」
「十二口径連発銃さ」
「ありゃあいい、あの連発銃は」とフォンタンはうなずいた。
「ぼくも猟にいきたいな」とアンドレが甲高《かんだか》い子供の声で言った。
「まだだめだ」とフォンタンが言った。彼はぼくのほうを向いた。
「男の子は野蛮だからね、まったく。野蛮だからね。すぐ射ち合いをやりたがる」
「ぼく、ひとりでいきたいんだ」とアンドレが甲高い興奮した声で言った。
「いっちゃいけないよ」とおかみさんが言った。「まだ子供だから」
「ひとりでいきたいんだ」とアンドレが甲高い声で言った。「水ネズミを射ちたいんだ」
「水ネズミって何だね」とぼくがたずねた。
「知らないの? 知ってるだろ、ジャコウネズミってやつさ」
アンドレは戸棚から二十二口径のライフル銃を持ち出してきて、明りの下で両手でつかんで離さない。
「野蛮だからね」とフォンタンが説明した。「すぐ射ち合いをやりたがる」
「ひとりでいきたいんだ」とアンドレが甲高い声で言った。彼はやけになって、銃身をずうっと眺めまわした。「水ネズミが射ちたいんだ。水ネズミのことならいっぱい知ってるんだ」
「銃をよこせ」とフォンタンが言った。彼はまたぼくに説明した。「子供は乱暴だからね。すぐ射ち合いをやりたがる」
アンドレは銃にしがみついた。
「見てるだけだよ。いたずらしないよ。見てるだけだ」
「この子、猟きちがいなんだから」とおかみさんが言った。「でも、まだ子供だからね」
アンドレは戸棚に二十二口径のライフル銃をもどした。
「大きくなったら、ジャコウネズミや野ウサギも射つんだ」と彼は英語で言った。「いつかパパといっしょにいったとき、パパは野ウサギを射って、ちょっとかすり傷をおわせただけだったが、ぼくはそいつをねらって、射止めたよ」
「そのとおりだ」とフォンタンがうなずいた。「この子が野ウサギを射止めたんだ」
「でも、パパが最初に射ったんだよ」とアンドレが言った。「ぼく、ひとりでいって、ひとりで射ちたいんだ。来年ならできるよね」彼は部屋の隅へいって、坐って本を読みだした。さっき夕食をすませて、くつろごうと台所にやって来たとき、ぼくはその本を手にとって見ていた。図書館の本で、『砲艦上のフランク』というのだった。
「あの子は本が好きでね」とおかみさんが言った。「でも、ほかの子供たちと夜遊びしたり、物を盗んだりするよりはましだからね」
「本はいいさ」とフォンタンが言った。「旦那は本を作られるんだ」
「ええ、たしかに、そのとおり。でも、本が多すぎるのはいけないね」とおかみさんは言った。「ここじゃ、本も病気だね。教会みたいにさ。ここじゃ、教会が多すぎるよ。フランスじゃ、プロテスタントとカトリックしきゃない……それに、プロテスタントなんか、ぐっと少いしね。ところが、ここじゃ、どこもかしこも教会だらけ。あたし、ここへ来たとき、言ったもんさ。おや、まあ、こんなにたくさんの教会、なんなのってね」
「そのとおりだ」とフォンタンが言った。「教会が多すぎる」
「せんだって」とおかみさんが言った。「フランス人の小さい女の子が母親とここへ来てね、その母親ってのがフォンタンのいとこなんだけど、あたしにこう言うのさ。『アメリカではカトリックじゃいけないのよ。カトリックじゃだめなの。アメリカ人はカトリックになるのをいやがるの。禁酒法みたいなものよ』ってね。で、あたしこう言ってやったよ。『あんたは何になるつもり? ええ? カトリックなら、カトリックでいるほうがいいんだよ』ってね。でも、その子は言ったよ。『ちがうわ、アメリカじゃカトリックはいけないのよ』ってね。だけど、カトリックなら、カトリックのままのほうがいいと思うね。宗派を変えるのはよくないよ。まったく、よくないよ」
「ミサにはいってる?」
「いいえ、アメリカじゃいかないね。ほんの時たまいくだけさ。でも、あたしはやっぱりカトリックだよ。宗派を変えるのはよくないからね」
「シュミットはカトリックだそうだな」とフォンタンが言った。
「そんな話だけど、どうだかね」とおかみさんが言った。「シュミットはカトリックじゃないと思うよ。アメリカではカトリックはあんまりいないんだよ」
「うちはカトリックだよ」とぼくは言った。
「そうよ。でも、あんたはフランスに住んでたからね」とおかみさんが言った。「シュミットがカトリックだなんて信じられないよ。あの人、フランスに住んでたことあるんかね?」
「ポーランド人の奴らはカトリックだ」とフォンタンが言った。
「そりゃそうよ」とおかみさんが言った。「教会へいって、その帰り途にナイフでけんかして、日曜だというのに一日じゅう殺し合いをしてるんだよ。ほんとのカトリックじゃないね。ポーランド・カトリックさ」
「カトリックはどれもおんなじだよ」とフォンタンが言った。「どのカトリックも、カトリックはカトリックさ」
「シュミットがカトリックだなんて信じられないよ」とおかみさんが言った。「カトリックだなんて、ちゃんちゃらおかしいよ。このあたしには、信じられないよ」
「奴はカトリックだ」とぼくは言った。
「シュミットがカトリックかねえ」とおかみさんは考えこんだ。「とてもそうとは思えなかったけど。まあ、あの男がカトリックかねえ」
「マリー、ビールを探して来てくれ」とフォンタンが言った。「こちらの旦那はのどがかわいてるんだ。それにわしも」
「はいよ」とおかみさんが隣の部屋から言った。彼女は地下におりていった。階段のきしむ音が聞こえた。アンドレは隅っこに坐って、本を読んでいた。フォンタンとぼくはテーブルに向かって坐り、彼が最後の瓶のビールを二つのグラスに注《つ》ぐと、瓶の底にビールかすこししか残らなかった。
「猟にはすばらしい国だね」とフォンタンが言った。「わしは鴨《かも》射ちが大好きでね」
「フランスだって、とてもいい猟ができるがね」とぼくが言った。
「そうだな」とフォンタンが言った。「あっちじゃ、獲物が多いからね」
おかみさんがビール瓶をかかえて階段を上って来た。「あの男がカトリックだってね」と彼女は言った。「へえ、シュミットがカトリックだってね」
「奴、大統領になれると思うかね?」とフォンタンがたずねた。
「とんでもない」とぼくが言った。
翌日の午後、ぼくはフォンタンの家へ車で出かけた。町の家並みの陰を抜け、埃《ほこり》っぽい道路を通り、路地を曲がり、垣根の横に車を止めた。その日も暑かった。フォンタンのおかみさんが裏口ヘ出て来た。女サンタクロースみたいな恰好で、小ざっぱりと、パラ色の顔色で、髪は白く、よろよろ歩いてきた。
「まあ、いらっしゃい」と彼女は言った。「暑いね、まったく」彼女はビールを取りに家のなかへもどった。ぼくは裏のポーチに腰をおろし、網戸と木の葉ごしに暑い日ざしや、遠くの山々を眺めた。褐色の山々には〈ひだ〉があり、その彼方に三つの峰と雪の氷河が木の間ごしに見えた。雪はまっ白で、けがれなく、現実のものとは思われなかった。おかみさんが出て来て、瓶をテーブルの上に置いた。
「何を見てんの?」
「雪さ」
「きれいだね、雪は」
「一杯、どうです?」
「いいわ」
彼女はぼくのわきの椅子に腰をおろした。「シュミットだけど」と彼女は言った。「もしあの人が大統領になったら、ワインもビールもまともに飲めると思うかね?」
「そりゃあ飲めるさ」とぼくが言った。「シュミットを信用するんだな」
「フォンタンは捕まって、もう罰金七百五十五ドルも払ったんだよ。警察に二度、政府に一度、やられたんだから。フォンタンが鉱山で働き、あたしが洗濯物をしてためたお金を全部、取られたんだよ。でも、すっかり払ったよ。フォンタンは刑務所に入れられてね。だれにも悪いことなんかしてないのにね」
「フォンタンはいい人だ」とぼくは言った。「ひどいことをするもんだ」
「うちじゃむちゃな代金をもらったりしないよ。ワインなら、一リットル一ドル。ビールなら一本十セント。ビールは飲みごろになるまでは売らないしね。ビールを造って、すぐさま売る人が多いけど、そんなのはきまって頭が痛くなるんだよ。そっちのほうは、うっちゃっておいていいんかね? フォンタンを刑務所にぶちこんで、七百五十五ドルもふんだくるくせにね」
「悪辣《あくらつ》だね」とぼくが言った。「で、フォンタンはどこ?」
「ワインにつきっきりさ。ちょうどいい頃合いを見はからうのに、見ていなくちゃいけないんでね」と彼女は言って、ほほえんだ。彼女は金のことはもう考えていなかった。「ね、フォンタンはワインきちがいでね。ゆうべは、すこし家にもって帰ってきたけど、あんたが飲んだあれよ。それに、新しいのを少しね。一番新しいのをね。まだ、できあがっていないんだけど、フォンタンは少し飲んだし、けさはコーヒーに少し入れたよ。ね、コーヒーによ。ワインとなると、夢中なんだから! いつも、そうなんだよ。あの人の国じゃあ、そうなんだよ。あたしの住んでいた北部じゃ、ワインは飲まない。ビールを飲むよ。あたしたちの住んでいたところの近くには大きなビール工場があってね。小さい時には、荷車に積んだホップのにおいがいやだったよ。畑にあるのもね。ホップはいやだったよ。ほんとに、いやだったよ。ところが、ビール工場の主人があたしと妹に、工場へ行ってビールを飲んでごらん、ホップが好きになるよって言うのよ。それはほんとだったよ。いってみて、あたしたち、ほんとに好きになっちまったんだもん。あたしたちにビールを飲ませてくれたんだよ。あたしたち、ほんとに好きになっちまったんだ。ところが、フォンタンときたら、ワインきちがいでね。いつか、野ウサギを取ってきて、ワイン入りのソースで料理しろって言うのさ。ワインとかバターとかマッシュルームとかタマネギなど、いろんなもののはいった黒いソースを野ウサギ用につくれって言うのさ。でね、あたしはちゃんとつくったよ。すると、あの人すっかり平らげて、こう言うんだ。『ソースのほうが野ウサギよりうまいや』ってね。あの人の国じゃ、そうなんだよ。獲物もワインも、たくさんあるのさ。でも、あたしは、じゃがいもや、ソーセージや、ビールが好き。いいんだよ、ビールは。健康にとてもいいんだ」
「いいよ」とぼくは言った。「ビールも、ワインも」
「あんたもフォンタンみたいなこと言うね。でも、ここへ来て、あたしのわかんないことが一つあるのさ。あんただってわかんないと思うよ。うちにアメリカ人がやってくるけど、ビールにウィスキーを入れるんだよ」
「まさか」とぼくが言った。
「いいえ、ほんとに、そうなのよ。それに、女のひとがテーブルでもどしたんだよ」
「えっ?」
「ほんとよ。テーブルでもどしたんだよ。それから、そのあとで自分の靴のなかにもどしてね。そして、あとから、その連中がもどって来て、次の土曜にまた来てパーティーをやりたいって言うんさ。あたしは、だめだよ、まっぴらだよと言ってやった。で、連中が来た時には、あたしはドアに鍵をかけといたよ」
「奴ら、酔っぱらうと、ひどいからな」
「冬になると、若い男の子たちがダンスにいく途中、車でやって来て、外で待っていて、フォンタンに言うのさ。『おい、サム、ワインを一本売ってくれよ』ってね。そうでないときは、ビールを買って、瓶づめの密造ウィスキーをポケットから取り出し、ビールのなかに入れて、飲むんだよ。ほんとに、あんなの見たのは生まれてはじめてだよ。ビールのなかにウィスキーを入れるんだからね。ほんとに、あれだけは、わかんないよ」
「気持が悪くなりたいんだよ。飲んだってわかるためにね」
「いつだったか、よく来る男がやって来てね。うんとごちそうを作ってほしい、ワインも一、二本飲みたい、女の子も連れてくる、そのあとでダンスにいくって、言うのさ。いいよって、あたしは言ったさ。で、ごちそうを作っといたら、やってきた時は、もうぐでんぐでんに酔っぱらってるのさ。それから、ワインにウィスキーを入れるのさ。ほんとに、そうなんだよ。あたしはフォンタンに『きっと気分が悪くなるよ』って、言ってやったら、『そうとも』って、フォンタンも言ってたよ。そのうち、女の子たちが気分が悪くなってね。いい子たちだがね、まったくいい娘っ子だがね。テーブルに向かったまんまで、気分が悪くなってね。フォンタンが女の子の腕をつかんで、気分が悪くなっても大丈夫な手洗いへ連れていこうとしたんだけど、男たちはだめだ、テーブルのところでいいんだって言ってね」
フォンタンが部屋にはいって来ていた。
「連中が二度目に来た時には、あたしはドアに鍵をかけ、『だめだよ。百五十ドルくれてもだめだよ』と言ってやったよ。じっさい、ひどいよ」
「そんなことをやらかす連中のことを呼ぶ言葉がフランス語にあるよ」とフォンタンが言った。彼は立ったまま、暑さのために疲れて、ふけこんで見えた。
「なんていうんだね?」
「コション(豚)さ」と彼はこんなきつい言葉を使うのをためらいながら、つつましやかに言った。「奴らは豚みたいなもんなんだ。とてもきつい言葉だけど」と彼は弁解した。「だが、テーブルで、もどすんだからなあ……」彼は悲しげに首を振った。
「コション(豚)か」とぼくは言った。「そのとおりだ、連中は……豚だ。下司《げす》野郎だ」
言葉の品の悪さをフォンタンは嫌っていた。彼はほかのことを話したがった。
「とてもやさしくて気持のいい人も来てくれるよ」と彼は言った。「基地の将校さんも見えるよ。とてもいい方々で、立派な人たちさ。フランスに一度でもいったことのある人はみんなうちに来てワインを飲みたがるさ。たしかに、ワインが好きでね」
「こんな人もいたよ」とおかみさんが言った。「奥さんが、どうしても外出させてくれない。そこで、疲れたからと言って、ベッドにはいり、奥さんがショーにいくと、まっすぐここにやって来なさる。ときにはパジャマの上にコートをひっかけたまんまでね。『マリア、頼む、ビール』と言うんだよ、パジャマのまま、ビールを飲んで、やがて奥さんがショーから帰らないうちに、基地にもどって、ベッドにはいってるのさ」
「あれは変人さ」とフォンタンが言った。「でも、とても品のいい人だ。立派な人だ」
「ほんとに、そうね。まったくご立派ね」とおかみさんが言った。「奥さんがショーから帰ってくる時は、いつもベッドのなかさ」
「ぼくは明日出かけなきゃならないんだ」とぼくは言った。「クロウ族の特別保留地にね。雷鳥のシーズン開きに行くんだ」
「そう? 出かける前に、もう一度いらっしゃい。きっと来てくれるわね?」
「きっと来るとも」
「その時にはワインができあがってるだろう」とフォンタンが言った。「一本いっしょにやろう」
「三本ね」とおかみさんが言った。
「また来るよ」とぼくが言った。
「待ってますよ」とフォンタンが言った。
「おやすみ」とぼくが言った。
ぼくらは午後早く狩猟を切りあげた。その朝は五時から起きていた。前の日は猟がよかったが、その日の午前は雷鳥が一羽も見当らなかった。オープンカーに乗っていると、ひどく暑く、日のあたらない道ばたの木陰に車を止めて昼食をとった。日は高く、木陰はほんのわずかしかなかった。ぼくらはサンドイッチと、クラッカーにサンドイッチの中身をのせたのを食べ、のどがかわき、つかれたので、最後に猟場を出て、町へもどる街道に出た時には、ほっとした。ちょうどプレーリー・ドッグの群棲地域の裏手にさしかかったので、ピストルで射とうと車を止めた。二匹射止めて、やめにした。射ちそんじた弾丸《たま》が石や泥に当ってはじけ、銃声が原野にひびきわたったが、その向こうには水路に沿って木立が並び、一軒家があったので、それ弾丸《だま》が家のほうに飛んで面倒なことになるといけないと思ったからだ。それで、そのまま車を走らせ、ついに町はずれの家々のほうに丘をおりてゆく道に出た。平野の向こうに山々が見えた。その日は山々は青く、高い山々の頂きの雪はガラスのように輝いていた。夏が終ろうとしていたが、まだ新雪が高い山々に降りつもるにはいたらなかった。あるのは、ただ太陽にとけた古い雪と氷だけだが、それは遠くのほうからじつにきらきら輝いていた。
ぼくらは何か冷たいものと日陰がほしかった。すっかり日焦《ひや》けしてしまい、日光とアルカリ性の砂埃のせいで、唇がふくれあがっていた。フォンタンの家に通じる路地を曲がって、家の外側に車を止め、なかにはいった。食堂のなかは涼しかった。おかみさんがひとりだった。
「ビールが二本しかないんだよ」とおかみさんが言った。「すっかり出ちゃってね。新しいのはまだだめだし」
ぼくは鳥を数羽おかみさんにあげた。「ご親切に」と彼女は言った。「どうも、どうも、ありがとう。ご親切に」彼女は涼しいところへ鳥をしまいに出ていった。ぼくらがビールを飲みおえると、ぼくは立ちあがった。「さあ、おいとましよう」とぼくは言った。
「今晩また来てくれるね、きっと? フォンタンがワインを持ってくるから」
「引きあげる前に来るよ」
「引きあげるの?」
「うん、明日の朝、帰らなきゃならない」
「帰るなんて、残念だね。今晩、来なさい。フォンタンがワインを持ってきて、お別れのパーティーをするから」
「出発の前に来るよ」
しかし、その午後は、電報を打たねばならなかったし、車を点検しておかねばならなかった……タイヤが石で切れていて、修理が必要だった……それで、ぼくは車なしで町へ歩いていき、出かける前にすまさねばならない用事をかたづけた。夕食の時には、すっかり疲れて、外出する気にはなれなかった。外国語をしゃべる気にもなれなかった。ただもう早く寝たかった。避暑に使ったいろんな物を荷造りするばかりにして積み上げ、窓を開け放ち、山の冷気が流れ込んでくるところで、寝る前にベッドに横になっていると、フォンタンの家にいかずに、悪いことをしたと思った。だが、間もなく眠りこんだ。翌日、午前中、荷造りしたり、夏の後片づけで、忙しかった。昼食をすませ、二時までに出発する用意をととのえた。
「フォンタンのところへお別れにいかなきゃならんな」とぼくが言った。
「そうよ、いかなきゃあ」
「ゆうべ待ってたんじゃないかな」
「いけばいけたのにねえ」
「いけばよかった」
ぼくらはホテルのフロントの男と、ラリーや、その他の町の友人たちに別れを告げ、それから、フォンタンの家へ車を走らせた。主人もおかみさんもいた。ぼくらを喜んで迎えてくれた。フォンタンはふけこんで、疲れて見えた。
「ゆうべ来てくれると思ってたのに」とおかみさんが言った。「フォンタンはワインを三本、用意してたのよ。あんたがこないんで、みんな飲んじまったがね」
「ちょっとしかいられないんで」とぼくが言った。「さよならを言いにきただけなんだ。ゆうべ、こようと思ってたんだ。来るつもりだったんだけど、猟のあとで、すっかり疲れちゃってね」
「ワインを持っておいで」とフォンタンが言った。
「ワインなんか、ないよ。あんた、すっかり飲んじまったくせに」
フォンタンはすごくあわてた様子だった。「取りにいってこよう」と彼は言った。「二、三分で、もどってくるよ。ゆんべ、すっかり飲んじまって、あんたのために取っといたのに」
「あんたがたが疲れてるのはわかってたのさ。『あの人たちは、ほんとに疲れてるから、来られないよ』って、あたしは言ったんだよ」とおかみさんが言った。「ワインをもっておいでよ、フォンタン」
「ぼくの車でいこう」とぼくが言った。
「ああ」とフォンタンが言った。「そのほうが早くいける」
ぼくらは車でその道路を行き、一マイルばかり先で横道にそれた。
「あのワインなら気にいるよ」とフォンタンが言った。「よく出来たからね。今晩、夕食に飲めるよ」
ぼくらは木造の家の前で止った。フォンタンがドアをノックした。答えはなかった。ぼくらは裏口に廻った。裏のドアも鍵がかかっていた。裏口のあたりには空き罐がちらばっていた。ぼくらは窓からのぞきこんだ。なかには誰もいなかった。台所は汚なく、乱雑だったが、どのドアも窓もしっかり閉まっていた。
「あん畜生。あの女、どこへいきやがったんだ?」とフォンタンが言った。彼はやっきになっていた。
「鍵のありかはわかってる」と彼は言った。「ここで待っててくれ」見ていると、彼は道路ぞいの向こうの隣家に行き、ドアをノックし、出てきた女に話しかけ、やかてもどってきた。鍵を持っていた。二人で表のドアと裏のドアを試してみたが、開かなかった。
「あん畜生!」とフォンタンが言った。「どこへいきやがったんだ」
窓ごしに見ると、ワインが貯蔵してあるのが見えた。窓に近づくと、家のなかの匂いを嗅ぐことができた。インディアンの小屋のように、甘い、むかむかする匂いだった。いきなりフォンタンはゆるんだ羽目板を引っぱがして、裏口の横の地面を掘りはじめた。
「はいってやる」と彼が言った。「畜生、はいってやるぞ」
隣家の裏庭で一人の男が古いフォード車の前輪の一つに何かしていた。
「やめたほうがいい」とぼくが言った。「あいつに見つかるよ。こっちを見てるよ」
フォンタンは身体をのばした。「もう一度、鍵を試してみよう」と彼は言った。ぼくらは鍵を試したが、だめだった。左右どちらへも半分しか廻らなかった。
「はいれないよ」とぼくが言った。「帰ったほうがいい」
「裏口を掘ろう」とフォンタンが言いだした。
「いや、無理にそんなことやってみないがいい」
「やるよ」
「だめだ」とぼくが言った。「あいつに見つかるよ。そうすりゃあ、没収されるぜ」
ぼくらは車のところにもどり、途中で鍵を返すために車を止め、フォンタンの家へ帰った。フォンタンは何も言わず、ただ英語で毒づいていた。すっかり取り乱し、がっくりしていた。ぼくらは家にはいった。
「あん畜生!」と彼は言った。「ワインを持ってこられなかった。わしが造ったわしのワインなのに」
おかみさんの顔から、幸福そうな表情がすっかり消えた。フォンタンは隅っこに坐りこみ、頭を両手でかかえこんだ。
「もう出かけなくちゃならない」とぼくが言った。「ワインのことは、いっこうかまわない。ぼくらのために、あとで乾杯してくれれば」
「あの気ちがい女はどこへいったんだね?」とおかみさんはきいた。
「わからんよ」とフォンタンが言った。「どこへいったか、わからんよ。やれ、やれ、ワインなしで、お別れか」
「それでいいんだ」とぼくが言った。
「よかあないけどね」とおかみさんが言った。彼女は首を振った。
「もう出かけなきゃあ」とぼくが言った。「さようなら、ごきげんよう。楽しかった、ありがとう」
フォンタンは首を振った。彼は面目をつぶしていた。おかみさんは悲しそうな顔をしていた。
「ワインのことは気にしないでくれ」とぼくは言った。
「この人は自分の造ったワインを飲んでもらいたかったんだよ」とおかみさんが言った。「来年もきてくれるね?」
「いや、たぶん再来年になるだろう」
「ほら、な」とフォンタンはおかみさんに言った。
「さようなら」とぼくは言った。「ワインのことはいいよ。ぼくらのために、あとで乾杯してくれれば」
フォンタンは首を振った。彼はにっこりともしなかった。彼は失敗したことを知っていた。
「あん畜生」とフォンタンがひとり言を言った。
「ゆうべは三本もってきたのにね」とおかみさんは彼を慰めようとして言った。彼は首を振った。
「さようなら」と彼が言った。
おかみさんは眼に涙をうかべていた。
「さよなら」と彼女が言った。彼女はフォンタンをかわいそうだと思っていた。
「さよなら」とぼくらは言った。ぼくらはみんな、残念な気持だった。彼らは戸口に立った。ぼくらは車にのりこみ、ぼくが車のエンジンをかけた。ぼくらは手を振った。彼ら二人はポーチの上に悲しそうに立っていた。フォンタンはとてもふけて見え、おかみさんは悲しそうだった。彼女はぼくたちに向かって手を振った。フォンタンは家にはいってしまった。ぼくらは道を曲がった。
「ひどく気にしてたわね。フォンタンはみじめなくらい」
「ゆうべ、いっとくんだった」
「そうね、いっとくんでしたね」
ぼくらは町を通りぬけて、平坦な道に出た。両側には麦畑の刈り株があり、右手に遠く山々が見えた。スペインに似ていたが、ワイオミングだった。
「あの人たち、うんとしあわせになってほしいわ」
「むずかしいな」とぼくは言った。「シュミットも大統領にはなれんだろう」
コンクリートの舗装道路は終った。いまは砂利道になり、平地をあとに、二つの低い丘の間をのぼりだした。道はカーブし、上《のぼ》りになりだした。丘の土は赤く、灰色の茂みになってサルビアが生え、道が上りになるにつれ、丘の向こうに、谷間の平地のはるか向こうに、山々が見わたせた。山々はすでに遥かかなたに遠ざかり、ますますスペインを思わせる風景になった。道はカーブして、ふたたび上りになり、前方には、ライチョウが砂浴びしていた。車が近づくと、ライチョウははげしく羽ばたきして飛びあがり、やがて、ゆっくりと斜線をえがいて滑走し、下の丘の斜面におりていった。
「とても大きくてきれいね。ヨーロッパのヤマウズラより大きいわ」
「猟にはすばらしい国だ、とフォンタンが言ってたよ」
「で、獲物がいなくなった時には?」
「そのころは二人とも亡くなってるさ」
「息子さんは死なないわ」
「そうとは限らないさ」とぼくが言った。
「ゆうべ、いっとくんでしたね」
「ああ、そう」とぼくは言った。「いっとくんだった」
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博奕《ばくち》打ちと尼僧とラジオと
彼らは真夜中に運びこまれた。それから夜どおし、廊下沿いの病室にいたみんなの者に、そのロシア人の言う声が聞こえてきた。
「どこを射たれたんです?」とフレーザー氏は夜勤の看護婦にきいた。
「太ももだと思います」
「もう一人は?」
「お気の毒に、死にそうなんですよ」
「どこを射たれて?」
「お腹に二発うけたんです。弾丸《たま》が一つだけしか見つからないんですけどね」
彼らは二人ともビート畑で働いていて、一人はメキシコ人で、もう一人はロシア人だった。終夜営業のレストランでコーヒーを飲んでいたら、誰かがドアからはいってきて、メキシコ人をめがて射ちはじめた。ロシア人はテーブルの下にもぐり込んだが、結局、それ弾丸《だま》に当った。下腹部に二発当って床にころげているメキシコ人をめがけて発射された弾丸がそれたのだ。これが新聞にのっていた報道だ。
メキシコ人は警察で、誰が射ったのか見当もつかないと語った。偶然の事故にちがいないと語った。
「八発もお前をねらいうちし、二発も当っているのに事故だというのか、おい?」
「|へえ《シー》、旦那様《シニョール》」とカイエタノ・ルイツという名前のメキシコ人は言った。
「あいつの弾丸に当っちまったのは偶然ですよ、あん畜生!」と彼は通訳に言った。
「何て言ってるんだ?」とベッドの反対側にいる通訳をみて刑事が言った。
「偶然の事故だと言ってますがね」
「本当のことを言うように、それに死にかけてるってことも言ってくれ」と刑事が言った。
「だめだね」とカイエタノは言った。「だけどよ、とても気分が悪くて、あまりしゃべりたくないって、だんなに伝えてくんな」
「彼は本当のことを言ってるそうです」と通訳が言った。それから、そっと刑事に、「誰が射ったか知らないわけですよ。うしろから射たれたんですから」
「そうか」と刑事が言った。「わかった。だが、どうして弾丸《たま》はみんな前方から射ちこまれてるんだ?」
「きっと身体が回転したんですね」と通訳が言った。
「おい」と刑事は指をカイエタノの鼻先でふりまわしながら言ったが、その鼻は、蝋《ろう》のように黄色くなって、死んだような顔から突きでていた。眼だけが鷹のそれのように輝いていた。「誰が射ったかはどうでもいいが、事態ははっきりさせなきゃならないんだ。お前を射った奴を処罰させるのがいやなのか? そう言ってくれ」と彼は通訳に言った。
「誰が射ったか言えと言ってるぞ」
「|こん畜生《マンダロ・アル・カラジョ》」とカイエタノは言った。彼はすごく疲れていた。
「ぜんぜん相手を見てなかった、と言ってます」と通訳は言った。「はっきり言いますが、奴らはうしろから射ったんですよ」
「誰がロシア人を射ったか聞いてくれ」
「かわいそうに」とカイエタノは言った。「ロシア人は頭を両腕でかかえて床にたおれちまった。射たれやがると泣きだして、ずっと泣いてやがった。かわいそうな奴だ」
「誰か知らない奴だと言ってます。きっとこいつを射ったのと同じ奴でしょう」
「な、いいか」と刑事は言った。「ここはシカゴじゃないんだぜ。お前はギャングじゃない。映画の真似はよせ。誰が射ったか言やいいんだ。誰だって、誰に射たれたか言いたがるもんだ。言わなきゃならんぞ。誰だか言わなきゃ、そいつらはまたほかの奴を射つぞ。女子供を射ったらどうするんだ? そんな奴を逃がしてしまうわけにはいかない。そう言ってくれませんか」と彼はフレーザー氏にいった。「あの忌々しい通訳は信用できないんでね」
「わたしは信用できますよ」と通訳は言った。カイエタノはフレーザー氏を見た。
「ねえ、君《アミゴ》」とフレーザー氏が言った。「警察の方は、われわれはシカゴではなく、モンタナ州のヘイリーにいるんだって言ってるよ。君は悪漢じゃないし、これは映画とは関係のないことだと言ってるよ」
「あっしだって信用してるよ」とカイエタノがおだやかに言った。「|もちろん《ヤ・ロ・クレオ》」
「どうどうと、加害者は告発できるんだよ。ここではみなそうするって言ってるよ。君を射ったあとで、女や子供も射ったらどうするんだと言ってるぜ」
「おれは結婚してねえです」とカイエタノは言った。
「どの女でも、どの子供でも、と言ってるんだよ」
「その男は気違いじゃねえですぜ」とカイエタノが言った。
「その男を告発すべきだと言ってるんだよ」とフレーザー氏が最後にそう言った。
「ありがとう」とカイエタノは言った。「あんたは立派な通訳だね。あっしは英語をしゃべるが、へたくそでね。分ることは分る。その足の怪我はどうしたんで?」
「馬から落ちてね」
「運がわるかったね。気の毒に。ひどくいたむんで?」
「いまはそうでもないが、始めはひどかった」
「ねえ、|あんた《アミゴ》」とカイエタノが言いだした。「あっしは身体がすっかりへこたれてるんだ。失礼は許してくだせい。それに、ひどく痛むんで。すごい痛みなんで。死ぬかもしんねえ。あっしはつかれきってるから、このおまわりさんを、ここから追いだしてもらえねえかね」彼は寝がえりをうつように身動きした。それからじっとした。
「おっしゃった通りこの男に言いました。この男は、ほんとに誰が射ったか知らないし、とてもへたばっているから、あとで質問して欲しいそうです」とフレーザー氏は言った。
「あとでは死んじまうだろう」
「そうですね」
「で、いま質問したいんだ」
「誰かがうしろから射ったんだ、と言ったでしょ」と通訳が言った。
「もうたくさんだ」と刑事は言って、手帳をポケットにしまった。
外の廊下で、刑事は通訳といっしょにフレーザー氏の車椅子のそばに立っていた。
「きみも誰かがうしろから射ったと思ってるんだろう?」
「ええ」とフレーザー氏は言った。「誰かがうしろから射ったんですね。だったらどうだって言うんです?」
「おこらんでください」と刑事は言った。「スペイン語がしゃべれたらいいんだが」
「習ったらどうです?」
「おこっちゃ駄目ですよ。スペイン語の質問をやっておもしろがろうってんじゃないんですよ。スペイン語ができれば、事態はちがってくるんだから」
「スペイン語をしゃべることはないですよ」と通訳が言った。「ぼくは信用のできる通訳ですから」
「もう、たくさんだ」と刑事は言った。「じゃ、お大事に。いずれおめにかかろう」
「そいつはありがとう。わたしはいつもおりますから」
「身体はもうよろしいのでしょう。まったくひどい目にあわれましたな。ひどく運がわるい」
「骨をついでもらってから、ずっとよくなりましたよ」
「そうですか、だが、全治にはひまがかかりますね。すごくひまが」
「あなたもうしろから射たれないように」
「まったくですな」と刑事は言った。「まったくです。では、これで。ごきげんを直してくださってよかったです」
「ごきげんよう」とフレーザー氏は言った。
それからずっと、フレーザー氏はカイエタノに会わなかった。だが、毎朝、シスターのセシリアが彼の様子を教えてくれた。彼はちっとも苦痛を訴えないと彼女は言った。が、容態はひどく悪かった。彼は腹膜炎になっており、助からないだろうと思われていた。気の毒なカイエタノ、と彼女は言った。美しい手をし、顔もきれいで、苦痛一つ訴えません、と彼女は言った。この頃では体臭がひどいんです。自分の鼻を片手で指し、笑って、首を振るんですよ、と彼女は言った。あの人はその臭いのに閉口してるんです。困ってるんですわ、とシスターのセシリアが言った。まあ、ほんとにいい患者さんですわ。いつも微笑してて。神父さまのところに告白に行こうとはしないけど、お祈りをすることは約束したんですよ。ここに運びこまれてから一人のメキシコ人も会いに来ませんよ。ロシア人の方は週末に退院なさるわ。あたしはあの人には何も感じませんわ、とシスターのセシリアは言った。かわいそうに、あの人も苦しんでますわ。油のついた弾丸だったので、傷にばいきんがついたんです。あの人は大さわぎをするし、いつだってあたしは重患が好きなんですよ。あのカイエタノ、あの人は重患です。重患だわ、ああ、ほんとに重患なんですもの。瀕死の重患なんですわ。あの人は立派で、きゃしゃにできてて、手仕事なんかしたことないんですわ。ビート作りなんかじゃありません。そうじゃないこと、わかりますわ。両手が、つるつるしてるし、節くれだってないわ。あの人は何か悪いことしてるんです。これからあの人のためにお祈りに行きますの。気の毒なカイエタノ、おそろしいほど苦しんでるのに、音一つたてないんですの。なんで射たれたりしたんでしょう。ああ、かわいそうなカイエタノ! あの人のためにお祈りに行きますわ。
彼女はすぐさま彼のために祈りに行った。
病院では夕方になるまでラジオがよく聞こえなかった。地下に鉱床が多過ぎるからだとか、山がどうだのとかいわれていたが、とにかく、表がうす暗くなる頃まで、ちっともよく聞こえなかった。だが、夜はずっと美しい音をだし、一つの放送局が終了したら、もっと西部のほうへ切りかえ、ほかの放送局を入れることができた。最後までやっているのがワシントン州のシアトルの放送局で、時差のために、その放送が午前四時に終了すると、病院では五時だった。そして六時にはミネアポリスの朝の陽気な連中を聞くことができた。それも時差のおかげだったが、フレーザー氏はスタジオに到着した朝の陽気な連中のことを考え、楽器をもって、明るくならないうちに市街電車から降りる姿を想像するのが好きだった。それはまちがっていて、演奏する所に楽器はおいてあるのかもしれなかったが、いつも楽器を持っている姿を想像した。彼はミネアポリスにいったことはないし、いくこともないだろうが、朝、そんなに早いときは、どんな様子なのか、わかっていた。
病院の窓からは、雑草が雪から頭をだしている野原や禿げた粘土質の岩山が見えた。ある朝、医者がフレーザー氏に、雪の中に出てきた二羽のキジを見せようとして、ベッドを窓辺に引きずっていくと、電気スタンドが、ベッドの鉄のてすりから落ちて、フレーザー氏の頭に当った。このことはいま考えるとおかしくはないが、その時にはとてもおかしかった。みんなが窓の外を眺めている。医者は、とても優秀な人だったが、キジを指さしてベッドを窓辺にひっぱっていく。と、喜劇かなんかのように、フレーザー氏は鉛のスタンドの台に頭をやられてノック・アウトになる。これは治療とか、人びとが病院にきている目的とは逆なことで、フレーザー氏と医者をからかう冗談として、みんながすごくおかしがった。病院ではすべてが、冗談もふくめ、とても単純だった。
別の窓からは、ベッドの向きを変えると、わずかに煙がたなびいている町が見え、冬の雪をいただいていかにも山脈らしいドウスンの山脈が見えた。車椅子を使うにはまだ早すぎると言われていたので、この二つだけが見える外の景色だった。病院にいるときは、ベッドにいるのが実際一番よい。というのは、見る時間がたっぷりあり、温度を調節できる部屋から見る二つの景色は、ほかの人のために用意されているか、患者が退院したばかりの、暑くるしい空っぽの部屋に車椅子で出はいりして、わずか数分間見る多くの景色より、ずっとすぐれていた。一部屋にたっぷりおちついていれば、どんな景色だろうと、立派な価値があるようになり、非常に大切なものとなり、角度をちがえて見るのさえいやになるだろう。同様、ラジオにも、気に入るものがいくつかあって、そういうのはよろこんで聞き、耳新しいのはいやなものだ。その冬の一番よかった放送曲目は、「やさしい歌を歌え」「歌う乙女」と「小さな白い嘘」だった。ほかの曲はあまりいいできではないとフレーザー氏は思った。「女子学生ベティ」も曲はよかったが、フレーザー氏の心にいやおうなしにはいってくるもじり文句が確実にだんだんわいせつになってきて、だれもいいと言わなくなり、彼はとうとうそれをやめ、フットボールの中継にきりかえた。
朝九時頃になると、レントゲン装置を使いはじめる。すると、それまでにへイリーの放送しかはいらなくなっているラジオは、ちっとも用をなさなくなってしまう。へイリーでラジオを持っている大勢の人々は、朝の放送を聞こえなくしてしまう病院のレントゲン装置のことで抗議した。人々がラジオを聞かない時刻に病院がレントゲン装置を使うようにしないのはひどいという人も多かったが、何の処置も取られなかった。
そろそろ、ラジオのスイッチを切らなければならなくなったとき、シスターのセシリアがはいってきた。
「セシリアさん、カイエタノはどう?」
「ええ、ひどくおわるいんですよ」
「頭がどうかしたんですか?」
「いいえ。でも、だめらしいです」
「あなたのご気分はどう?」
「あの方のこと、すごく心配です。それに誰もお見舞にもこないの知ってらして? あの方が犬のように死んだって、メキシコ人には何のこともないんですわ。ほんとに恐ろしい人たちね」
「午後、試合の放送を聞きに来ませんか?」
「あら、だめですの」と彼女は言った。「すごく興奮しちゃいますから。お祈りにチャペルにいってますわ」
「かなりよく聞こえると思うんですがね」とフレーザー氏はいった。「太平洋岸《コースト》でやってるし、時差で遅くなるからよく聞こえますよ」
「ええ、でもだめです。聞いていられませんわ。わたし、ワールド・シリーズを聞いてくたくたでしたわ。アスレティックの攻撃のときには、大声で祈りましたわ。『ああ、主よ、選球眼をお与えくださいませ! ヒットが出ますように! ああ、主よ、無事にヒットが出ますように!』と。それから三回目に満塁になったときは、もうたまりませんでした。『ああ主よ! 長打が出ますように! ああ、主よ、フェンスを越えるホームランでありますように!』それから、カーディナルズの攻撃の時には、ただびくびくでしたわ。『ああ、主よ、球が見えませんように! おお、主よ、ちらとも見えませんように! おお主よ、三振しますように!』だけど、今日の試合はなお悪いわ。ノートル・ダム〔ニューヨーク市にあるフットボールが強い大学〕でしょ。ノートル・ダムって聖母マリアさまのことよ。だめ、わたし、やはりチャペルにいますわ。聖母マリアさまのために。聖母さまのために試合してるんですもの。あなたもいつか聖母マリアさまについて何かお書きになるといいことよ。あなたならできますわ。おできになるとお思いでしょ、フレーザーさん」
「聖母マリアについて書けるようなことは何も知っちゃいませんよ。もう今までに書きつくされてますよ」とフレーザー氏は言った。「ぼくのような書き方は、あなたには気に入りませんよ。マリアさまにだって気に入りゃしませんよ」
「いつかお書きになるわ」とシスターは言った。「わかってますわ、聖母マリアさまのことをお書きになるにきまってますわ」
「ここへ来てラジオを聞いてたほうがいいですよ」
「わたしには耐えられませんわ。やっぱりチャペルでわたしにできることをしますわ」
その午後、試合が始まって五分もたたぬうちに、見習看護婦が部屋へやってきて言った。
「シスターのセシリアが試合がどんな具合かおききになりたいそうです」
「もうタッチダウンを一回したと言ってください」
しばらくすると、またやってきた。
「相手を動けなくしてしまってると言ってください」とフレーザー氏が言った。
しばらくして彼はベルをならし、その階の受持看護婦を呼んだ。「すみませんが、チャペルへ行ってくださるか、連絡して、シスターのセシリアに、ノートル・ダムは最初の十五分が終ったところで十四対|零《ゼロ》とリードし、うまくやってると伝えて下さい。お祈りはやめても大丈夫ですとね」
数分してシスター・セシリアが部屋へはいってきた。ひどく興奮していた。「十四対零だと、どうなんですの? このゲームのことはちっともわかりませんの。野球ならすばらしい安全圏内にはいってるわけですけど。でも、フットボールのことはわかりませんの。大したことじゃないんじゃないかしら。チャペルにもどって、済むまでお祈りしてますわ」
「もう勝ったんです」とフレーザー氏が言った。「約束しますよ。ここにいて、いっしょに聞いてらっしゃい」
「だめ、だめ、だめよ、だめ、だめ、だめよ」と彼女が言った。「お祈りしにチャペルへ行きます」
フレーザー氏はノートル・ダムが得点するたびに伝言してやった。そして、とうとう暗くなってずっとたってから、最終結果を伝言した。
「シスターのセシリアはどうだった?」
「みなさん、チャペルにいらっしゃいます」と看護婦が言った。
翌朝、シスターのセシリアがやってきた。とても機嫌よく自信たっぷりだった。
「マリアさまをやぶれるはずないと思ってましたわ」と彼女は言った。「破れませんよ。カイエタノさんもよくなってきたんです。ずっとよくなりました。お見舞の方が見えることになってるんです。まだ面会はできませんが、見えるはずですし、そうすればあの人も元気づいて、仲間に忘れられていないってわかるでしょう。わたし、警察本署にでかけていって、例のオブライエン刑事に会って、メキシコ人を何人かお気の毒なカイエタノのお見舞にこさせるように話したんです。今日の午後に何人かよこしてくださるはずよ。そうすればあのお気の毒な人が元気づくでしょう。だれもお見舞にこないなんていけませんわ」
その午後、五時ごろ、三人のメキシコ人が部屋へはいってきた。
「はいっていいですか?」といちばん大きいのがきいた。すごく唇が厚く、それにすごいでぶだった。
「いいですとも」とフレーザー氏が答えた。「どうぞおすわり下さい。何か飲みますか?」
「どうもありがとう」と大きい男が言った。
「ありがとう」と一番色の黒く一番小さい男が言った。
「いや、けっこう」とやせたのが言った。「頭にくるんでね」彼は頭を叩いた。
看護婦がコップをもってきた。「ボトルごと渡してあげて」とフレーザー氏は言った。「レッド・ロッジです」と彼は説明した。
「レッド・ロッジはいちばんいい」と大きい男が言った。「ビグ・ティンバーよりずっといい」
「きまってるさ」と一番小さい男が言った。「それに高いんだ」
「レッド・ロッジにもいろんな値段があるよ」と大きい男が言った。
「このラジオはいくつ真空管があるんかね」と飲まない男が言った。
「七つです」
「いい音色だね」と彼は言った。「いくらするんかね」
「さあ」とフレーザー氏は言った。「借り物ですよ。あなたがたはカイエタノの友だちですか?」
「いや」と大きな男が言った。「あいつを傷つけた奴の友だちなんでね」
「警察にここへくるように言われたんだ」と一番小さい男が言った。
「ちょっとした店をもってるんだよ」と大きな男が言った。「奴とぼくでだがね」と飲まない男をさして言った。「奴も持ってるんだ」と小さくて黒い男をさして言った。「おまわりに、こなくちゃいかんと言われたんでよ……で、きたわけだ」
「きていただいてうれしいですよ」
「こちらこそ」と大男が言った。
「もう一杯いかがですか」
「いただくとも」と大きな男が言った。
「ごめんをこうむって」と一番小さい男が言った。
「ぼくはいらない」とやせた男が言った。「頭にきちゃうんでね」
「とてもうまい」と一番小さい男が言った。
「すこしやったらどうです」とフレーザー氏がやせた男に言った。「すこしぐらい頭にきたっていいでしょう」
「あとで頭痛がしてね」とやせた男が言った。
「カイエタノの友だちを見舞にこさせられないんですか?」フレーザー氏がきいた。
「友だちなんかいないんだよ」
「だれにも友だちはいるもんですよ」
「あいつはいないんだよ」
「何をしてるんですか、あの人は?」
「トランプ博奕《ばくち》をしてるんでね」
「上手なんですか?」
「そうらしい」
「ぼくから」と一番ちびが言った。「百八十ドルまきあげたんでね。もうぜったいに百八十ドルなんて金はありゃしないよ」
「ぼくからは」とやせたのが言った。「二百十一ドルまきあげたんだ。そんなにたくさんの金をですぜ」
「ぼくは奴と一度もしたことがない」とでぶが言った。
「あの人は大金持なわけですね」とフレーザー氏が言った。
「おれたちよりも貧乏なんでさあ」と小さなメキシコ人が言った。「きてるシャツしかないんだよ」
「そのシャツも台なしってわけですね」とフレーザー氏が言った。「あんなに穴だらけじゃ」
「そのとおりでさ」
「あの人を傷つけたのもトランプ博奕打ちだったんですか?」
「いや、ビート作りさ。町をでなくちゃならなくなったよ」
「いいですかい」と一番ちびが言った。「奴はこの町で一番上手なギター弾きだったんだ。とびきりうまい」
「ひどいことをやったもんだな」
「ほんとだな」と大きな男が言った。「ギターにかけちゃ大したもんだよ」
「ほかに上手なギター弾きはいないんですかね?」
「陰さえ見あたりませんや」
「ちょっといけるアコーデオン弾きならいるが」とやせた男が言った。
「いろんな楽器をひけるのが数人いるが」と大きな男が言った。「音楽はお好きで?」
「きらいなわけがありませんよ」
「いつかの晩に、音楽のできる奴らをつれてこようか? シスターが許可するかね? やさしそうな人だが」
「カイエタノが聞けるようになってからなら、もちろん許可するでしょうね」
「ちょっと気違いじみてるんじゃないのかな?」
「だれが?」
「あのシスターが」
「いや」とフレーザー氏は言った。「非常に知性と同情のあるいい人ですよ」
「牧師と坊主とシスターは信用できませんや」とやせた男が言った。
「子供の頃に苦い経験があるんでね、奴は」と一番ちびが言った。
「侍僧〔礼拝儀式で司祭を助ける者〕だったんで」とやせたのが自慢らしく言った。
「いまじゃ、何も信じてませんよ。ミサにもいきやしない」
「どうして? 頭にくるから?」
「いや」とやせたのが言った。「頭にくるのはアルコール分ですよ。宗教は貧乏人の阿片でさあ」
「ぼくはまた、マリファナが貧乏人の阿片かと思ってましたよ」とフレーザー氏が言った。
「阿片を喫ったことあるかね?」と大きな男がきいた。
「いいや」
「ぼくもない」と彼は言った。「ひどく悪いようだね。はじめりゃ、やめられないんだよ。悪い癖だな」
「宗教みたいにね」とやせたのが言った。
「こいつは」と一番ちびのメキシコ人が言った。「大の宗教反対者なんでさ」
「何かにすごく反対することも必要ですよ」とフレーザー氏があいそよく言った。
「たとえ無知でも、信念を持ってる奴は尊敬するがね」とやせたのが言った。
「結構ですね」とフレーザー氏が言った。
「こんどは、何をもってきたらいいだろうか?」と大きなメキシコ人がきいた。「足りないものはないかね?」
「いいビールがあれば、喜んで買いたいがね」
「ビールを持ってこよう」
「でがけにもう一杯どう?」
「けっこうですな」
「あなたの分まで飲んじゃうね」
「ぼくは飲めない。頭にくるんでね。それから、頭痛がし、胸がむかつくんでね」
「さよなら、みなさん」
「さよなら、ごちそうさん」
みんながでていき、夕食になり、ラジオが、できるだけ静かに、やっと聞こえるくらいにつけられ、それからとうとう、次の順に放送がおわっていった。デンバー、ソールト・レーク・シティ、ロスアンジェルス、シアトル。フレーザー氏はラジオを聞いてデンバーを想像することはできなかった。「デンバー・ポスト」紙でデンバーを想像し、「ロッキーマウンテン・ニューズ」紙でその想像を訂正することはできた。また、ソールト・レーク・シティやロスアンジェルスも、そこからの放送で何も感じられなかった。ソールト・レーク・シティのことで感じたのは、きれいだが活気がないということだし、ロスアンジェルスにはホテルが多すぎ、そのホテルにはダンス室が多すぎて、町を見物できないのだった。ダンス室のおかげで町の様子を感じとれなかったのだ。だが、シアトルはよくわかるようになり、白い大きい車(それぞれの車にラジオがついている)をもったタクシー会社のこともわかり、毎晩、彼はそこの車でカナダ寄りの路ぞいのダンスホールにでかけて、そこで、リクエスト曲を放送する音楽にあわせて、パーティのコースを辿るのだった。彼は毎晩午前二時からずっと、いろんな人のリクエスト曲を聞いてシアトルにいる気分になり、シアトルは、ミネアポリスと同様に、想像とは思えないほどだった。ミネアポリスでは、例の陽気な連中が毎朝床をはなれてスタジオにでかけていくのだった。フレーザー氏はワシントン州のシアトルがすごく気に入ってきた。
メキシコ人たちはビールをもってやってきたが、いいビールではなかった。フレーザー氏は彼らに会ったが、しゃべる気にはなれなかった。彼らが帰ったとき、もうこないだろうとわかった。神経がいらいらして、そんな気持のときは人に会いたくなかった。五週間後には、彼の神経がひどくなり、機嫌のいい時には、長くもちこたえられたが、答えのわかっている同じ実験を強制されるのはいやだった。フレーザー氏はこんなことをずっとやってきたのだ。彼に新しいものはラジオだけだった。彼は一晩じゅうラジオをかけ、自分だけがやっと聞こえるくらい音を低くしておいた。そして、何も考えずにそれに聞き入るようになっていった。
その日の午前十時ごろ、シスターのセシリアが部屋へ郵便をもってきた。彼女はとても美しく、フレーザー氏は、彼女に会い、彼女のしゃべるのを聞くのが好きだった。だが、郵便物は別世界から来るものと思われたので、彼女よりもっと重要だった。しかし、郵便物には面白そうなものは何もなかった。
「ずっとよくなったようですね」と彼女は言った。「もうじき退院できますよ」
「ええ」とフレーザー氏は言った。「今朝はとても楽しそうじゃありませんか」
「ええ、そうよ。今朝はあたし、聖人になったみたいな気持よ」
これにはフレーザー氏の方がちょっとばかりぎょっとした。
「そうなんですわ」とシスターのセシリアはつづけて言った。「それがあたしの望みなんだわ。聖者。小さな子供の頃から、聖者になりたかったんですもの。娘のときには世を捨てて修道院へ行けば聖者になれるだろうと思いました。それがあたしのなりたかったもので、聖者になるためにしなけりゃならないと考えたことでした。自分が聖者になれるものと望みをかけてました。絶対なれる自信がありました。あるときなんか、ちょっと、自分が聖者になったと思ったりしました。すごくうれしく、聖者になるのはとても簡単でやさしく思えました。朝、眼をさますと、自分は聖者になっているものと期待をかけましたが、なってはいませんでした。決して聖者になんかなれやしませんでした。すごくなりたいんですのに。それだけが唯一の望みでしたわ。今までだってそれだけしか望んでいませんでした。それが、今朝、なれたような気がしたんですの。ああ、聖者になれるといいのですが」
「なれますとも。みんな自分の願いは叶えられますよ。みんな、いつもそう言ってますよ」
「さあ、わかりませんわ。娘の頃にはすごく簡単に思えたんですの。聖者になれると思ってました。ただね、急にはなれないんだと分ってからは、それは時間がかかることだとは思ってました。今では、ほとんど不可能に思えますわ」
「きっといいチャンスがありますよ」
「本当にそうお思い? いや、あたし、ただの気休めなど言って欲しくありませんわ。気休めなどおっしゃらないでね。聖者になりたいんです。ほんとになりたいんです」
「もちろん、なれますよ」とフレーザー氏が言った。
「いいえ、きっとなれないわ。ああ、でも、もし聖者になれたら! 聖者になれたら!」
「カイエタノはどんな具合ですか?」
「よくなっているんですが、神経が麻痺してるんです。弾丸《たま》が一発、太ももを通っている大きな神経にあたったので、その足が麻痺《まひ》してしまったんです。動けるくらいよくなってからやっとそのことがわかったんです」
「きっとその神経も元通りになりますよ」
「そうなるように祈っているんですが」とシスターのセシリアは言った。「お会いになっていただきたいんです」
「だれにも会いたくないんですよ」
「お会いになりたいんでしょ。ここへ車椅子でつれてこられましてよ」
「承知しました」
彼は車椅子で運ばれてきた。やせて、皮膚はすき通り、髪は黒くて手入れが必要なほどのび、眼は笑っていたが、微笑するとひどい歯が見えた。
「|やあ、君《ホラ・アミゴ》! |どうですか《クエ・タル》」
「ごらんのとおりですよ」とフレーザー氏が言った。「君は?」
「いのちびろいしたけど、片足が麻痺しちゃってね」
「いけないね」とフレーザー氏は言った。「だが、神経はもとどおり新品同様になりますよ」
「ということだがね」
「痛みは?」
「いまは痛まない。しばらくは、下腹の痛みで気が狂いそうだった。痛みだけであっしは殺されると思ったね」
シスターのセシリアが愉しそうに二人を見ていた。
「シスターが、あなたは音一つたてなかったって言ってますよ」とフレーザー氏は言った。
「病室には大ぜいいるからね」とメキシコ人は恨めしそうに言った。「あんたのはどのくらい痛いんで?」
「ひどいよ。あなたのほどでないのは分ってるが。看護婦さんがいなくなると、一、二時間は声をあげて泣きますよ。それで気が休まるんでね。神経は今もわるいんでね」
「ラジオをお持ちですね。個室にいて、ラジオがありゃ、このあっしだって一晩中泣いたりわめいたりしてるだろうよ」
「どうだか」
「いえ、本当。そいつはとても身体にいいんでさ。でもあまり大ぜいいるところじゃ、そんなこと、できないがね」
「少くとも」とフレーザー氏は言った。「両手は無事なんですね。手仕事で暮しておられるとか」
「それと頭ね」と彼はひたいを叩きながら言った。「が、その頭が大したことなくてね」
「お国の人が三人みえましたね」
「おまわりに来るように言われたんだよ」
「ビールをもってきましたよ」
「きっと、まずかったろうな」
「まずかったね」
「今夜、おまわりに言われて、セレナードを聞かせにくるよ」彼は笑い、胃をたたいた。「あっしはまだ笑えないんだ。奴らは音楽家としては致命的だな」
「で、君を射った奴は?」
「あいつも愚かものよ。トランプでおれが奴から三十八ドルせしめたんだ。人殺しするほどのことでもないよ」
「例の三人は君がずいぶん金をかせいだと言ってたよ」
「なのに、いまは鳥より文なしでね」
「どうして?」
「あっしはあわれな理想家でね。幻影のぎせいだよ」彼は笑い、にやっとし、胃をたたいた。「あっしはプロの博奕《ばくち》打ちなんだが、博奕が好きでね、ほんとの博奕がね。小さな賭はみないんちきさ。本当の博奕には運がいるよ。あっしには運がついちゃいないんでね」
「ちっともかね?」
「ちっとも。徹底的に運がついてなかったね。いいかね、こないだあっしを射ったあの伊達《だて》男のことを考えてみな。奴は射撃がうまいか? いやだめだ。第一発目は空をきった。第二発は気のどくにもあのロシア人に当ってさえぎられる。運がついてるようにみえる。が、どうなるんだ? 奴はあっしの腹に二発当てる。運のいい奴だ。あっしには運がついていないんだ。奴はあぶみをつかんでいても、馬に命中させられない奴なんだ。まったく運さ」
「君を先に射って、ロシア人はあとかと思った」
「いや、ロシア人が先で、あっしがあとだったんだ。新聞はまちがってるんだ」
「どうして君は奴を射ち返さなかったんだね?」
「ピストルなんか持ってないんだ。あっしの運じゃ、ピストルをもってりゃ一年に十ぺんはしばり首さ。あっしはしがない博奕打ちでさあ。それだけのことでさ」
彼は話しやめ、またつづけた。「金ができりゃ、博奕をやり、やりゃあ、損するんだ。三千ドルかけちゃ負け、六千ドルかけちゃはたいちゃったよ。まっとうなさいころでね。一度ならずね」
「で、どうしてまたやるんだね?」
「長生きすりゃ、運も変るだろうよ。ここ十五年間というもの運が悪かったんだよ。運が向いてくりゃあ、金持になれるだろうよ」彼はにやっとした。「あっしは腕のきく博奕打ちで、金持ちになってほんとに楽しみたいんだ」
「いつも運がわるかったんだね?」
「あらゆるものにね、女にだってね」と彼は、ひどい歯をみせて、また笑った。
「ほんとに?」
「ほんとですぜ」
「で、どうすりゃいいんだね?」
「つづけるんだね、ゆっくり。そして運の変わるのを待つことだよ」
「だが女には?」
「博奕打ちは女には運がないんだよ。全力をそそいでやってるもんでね。仕事が夜だし、夜は女にくっついてなきゃならん時間だからね。夜、働く男は、女をひきとめられないよ、すこしでも価値のある女はね」
「なかなか哲学者だね」
「いや、ただの人間だよ。小さな町の博奕打ちでさあ。小さな町からまた次の町ヘ、それから次の町ヘ、それから大きな町ヘ。それをまたくりかえすんでさあ」
「そして腹を射たれる」
「はじめてでさあ」と彼は言った。「こいつは一度しか起こりませんよ」
「しゃべって疲れないかね?」とフレーザー氏がそれとなくきいた。
「いや」と彼が言った。「あんたこそ」
「で、脚は?」
「脚は大して用がないんでしてね。脚の一本やそこらあってもなくてもいいんだよ。町をまわるのにさしつかえないからね」
「ほんとの運がむくといいね、心から祈ってるよ」とフレーザー氏が言った。
「あんたも」と彼が言った。「それに痛みがなくなるように」
「そうつづかないですよ、きっと。だんだんうすらいでるから。大したことないですよ」
「早くうすらぐように」
「君もね」
その夜、例のメキシコ人たちは病棟でアコーデオンなどの楽器をひき、楽しそうで、アコーデオンや、鈴や、打楽器や、ドラムのブーブー、ガーガーいう音が廊下に聞こえてきた。その病棟には|荒馬乗り《ロデオ・ライダー》がいた。彼は暑いほこりっぽい午後、大ぜいの群集が見ているところを、ミッドナイト号にのって急な坂から飛びだしてきたのだが、いまでは、背骨が折れているので、よくなって退院したら革細工か椅子張りをおぼえるつもりでいた。足場もろとも落っこって、両くるぶし、両手首を折ってしまった大工もいた。猫のようにうまく落ちたが、猫の弾力性がなかったのだ。仕事ができるようにちゃんと直すことはできたが、とても長くかかりそうだった。農家からきた十六ぐらいの男の子もいて、折った足をまちがって接合されたので、もう一度、折ってやりなおさねばならなかったのだ。それに、片足の麻痺した田舎博奕打ちのカイエタノ・ルイツがいた。廊下のこちらでフレーザー氏は、みんなが笑い、警察からさしまわされたメキシコ人のかなでる音楽をたのしんでいるのを聞いていた。メキシコ人もたのしそうだった。彼らはすごく興奮して、フレーザー氏に会いにきて、何か弾いてほしいかときいた。その後二度も、自発的に、音楽を、夜、弾きにきた。
彼らが最後に弾きにきたとき、フレーザー氏は部屋に横になり、ドアを開けて、そうぞうしい下手くそな音楽を聞いたが、考えごとはやめなかった。何が聞きたいかときかれて、彼はクカラチャを所望した。この曲には、みんながそれを聞いて死にたくなったようなあの多くの曲の不吉な軽さとたくみさがあった。それはそうぞうしく情熱的にかなでられた。フレーザー氏の心には、その曲はそのような多くの曲よりずっとよかったが、効果は全く似たりよったりだった。
こんなふうに感情がわいてきたが、フレーザー氏は考えつづけた。いつもは、執筆のとき以外はできるだけ考えるのを避けていたが、いま彼は演奏している人たちや例の小男の言ったことを考えていた。
宗教は大衆の阿片である。彼もそれを信じ、陰気で小さな阿片窟の経営者を信じた。そのとおりで、音楽もまた大衆の阿片である。あの、酒が頭にくるんで、と言う男はこのことは考えつかなかった。そして、今や、経済学は大衆の阿片である。イタリアやドイツでは大衆の阿片は愛国心と共にあるのだ。性交はどうだろう? それは大衆の阿片だろうか? ある人々にとってはそうだ。ある最上の人々にとってはだ。だが酒は、大衆の最上の阿片、ああすぐれた阿片である。ラジオを好むものもいる。ラジオも、いま一つの大衆の阿片で、使っているうちで一番安いしろものだ。これらと共に、博奕《ばくち》も、昔、阿片であったとしたら、もっとも古くからの大衆の阿片の一つである。野心もまた別口の阿片で、新しい政治形態に信頼を置く大衆の阿片である。人々の欲するのは最小の支配、常に支配のより少なくなることである。自由とは、かつてわれわれが信じたもので、今ではマグファドン社の刊行誌の名前にすぎない。われわれは自由を信じた。誰もまだ自由の新しい名前をみつけていないのだ。だが、本物はどれだろう? どれが、本物で、現実の大衆の阿片なんだろう。彼にはよくわかっていた。それは、夕方二、三杯飲んだあとで、心の明るいところで、ちょっと角をまがって行ってしまった。それがそこにあったことはわかっていた。(もちろんそこには本当にはなかったのだ)それは何だったろう? 彼はよく知っていた。何だったろう? もちろん、パンは大衆の阿片である。それを思いだしても、白昼では、何か意味があるのだろうか? パンは大衆の阿片である。
「ちょっと」とフレーザー氏は看護婦がはいってくると言った。「あのやせたメキシコ人をここへつれてきてくれませんか?」
「あの曲はいかがです?」とメキシコ人がドアのところで言った。
「いいな」
「あれは歴史的に有名な曲なんです」とメキシコ人が言った。「本当の革命の歌です」
「ねえ」とフレーザー氏は言った。「どうして大衆は麻酔剤なしで手術をされなきゃならないんだろう?」
「わかりませんね」
「どうして大衆の阿片がよくないんだろう。あんただったら大衆に何をしてやりたいと思うかね?」
「無知から救われるべきです」
「くだらんことを言うなよ。教育は大衆の阿片だよ。それを知っとかなきゃいかん。教育を少しは受けてるんだろ」
「あんたは教育を信じないんですね?」
「うん」とフレーザー氏は言った。「知識なら信じるが」
「よくわからない」
「自分でも自分の言ってることに、心からついていけないことが往々あるよ」
「またいつかクカラチャを聞きたいですか?」とメキシコ人が心配そうにきいた。
「ええ」とフレーザー氏は言った。「いつかクカラチャを聞かしてくださいよ。ラジオよりずっといいから」
革命は、とフレーザー氏は思った、阿片ではない。革命はカタルシスである。残虐行為によってのみ延期される陶酔《エクスタシー》である。阿片はその前後に用いるためのものである。彼はいっしょうけんめい、少しいっしょうけんめいすぎるくらい考えた。
もうすぐ彼らは帰ってしまうだろう、と彼は思った。そしてクカラチャを持ってってしまうだろう。そうしたら、ウィスキーをちょっと飲み、ラジオをつけよう。やっと聞こえるくらいにラジオをつけることができるんだから。
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父親たちと息子たち
この町の本通りの中央に迂回《うかい》の標識が立っていたが、どの車も遠慮なく通り抜けていたので、ニコラス・アダムズは、どこかで工事していたのだが、それももう終ったのだと思い、人通りのない煉瓦《れんが》舖装の道を通って町に車を乗り入れ、信号機で車を止めた。信号機はこんな車のない日曜日にも点滅していたが、その設備も来年は収支が合わなくなって、取りはらわれるだろうと思われた。小さな町のよく茂った木々の下を走ったが、もしそれが故郷の町で、その木々の下を歩いたことがあるのなら、その木々も心の一部なのだろうが、他国者には、茂りすぎていて、日光をさえぎり、家々に湿気をもたらすだけのものだった。家並みを出はずれると、ハイウェイは上ったり下ったりしながらまっすぐのび、両側はきれいに削り落した赤土の土手で、二番生えの木が生えていた。そこは彼の故郷ではなかったが、秋の半ばで、このあたりはどこもドライブによく、眺めもよかった。棉《わた》は摘まれていて、開墾地には小麦畑があり、そのうちのいくつかは、幾列もの赤いトウモロコシで区切られていた。息子が助手席で眠っているし、その日の仕事も終わり、夜に行き着く町はよく知っていたので、ニックは気楽に車を走らせながら、どの小麦畑に大豆やえんどう豆が植わっているか、どのように茂みと伐採地が分布しているか、小屋や家が畑や茂みとどのような関係の位置にあるか、注意して眺めた。彼はドライブしながら、心のなかでそのあたりで猟をした。どの開墾地も獲物の餌場と隠れ場所という点から評価し、どこに鳥の群れを発見し、それがどっちの方向に飛び立つだろうか想像してみた。
ウズラを射つ時は、犬がいったん見つけたら、ウズラとウズラのいつもの隠れ場所との間にいてはいけない。その間にいると、ウズラは、ぱっと飛び立つと、こちらに向かって奔流のように飛んでくるからだ。急激に空に舞いあがるのもあるし、耳をかすめて飛ぶのもあるが、見たこともない形になって、風を巻きおこして空中を飛びすぎていくのだ。だから、こちらは、彼らが翼をおさめて急角度に茂みにおりる前に、さっと向きを変えて、肩のあたりを通りすぎるところをねらうしかない。ニコラス・アダムズは、父親に教えられたとおりに、このあたりで、ウズラ狩りを心のなかでやっているうちに、父親のことを考えはじめた。父親のことを考えるとき、まず思い浮かぶのは、きまって、あの眼だった。大きな体躯、敏捷な動き、広い肩幅、鉤《かぎ》の形の鷲鼻、弱そうな顎《あご》をおおう〈ひげ〉、それらは思い浮かばず、きまって思い浮かぶのは眼だった。その眼は眉毛の構造によって顔のなかに保護されていた。なにかきわめて貴重な器具を保護するために特別の工夫がなされているみたいに、奥深いところに据えられていた。その眼は人間の眼が見るよりも、ずっと遠く、ずっと早く、ものを見た。それは父親が持っている偉大な天の賜物《たまもの》だった。彼の父親は文字通り、オオツノヒツジやワシが見るように、ものを見た。
彼はよく父親といっしょに湖の岸に立ったものだ。その頃、彼の眼も非常によかった。父親はよく言った。「旗を揚げてるよ」ニックには旗も旗竿《はたざお》も見えなかった。「ほら」と父親はよく言った。「お前の妹のドロシーだ。旗を揚げたぞ。舟つき場のほうに歩いていくぞ」
ニックは湖の向こうを眺めた。目にはいるものは、木立ちにおおわれた長い岸の線や、そのうしろの小高い森や、入江を守っている岬や、樹木を切りはらった丘の農場や、木立ちにかこまれた自分たちの小屋の白さなどで、旗竿や舟つき場などはてんで見えず、ただなざさの白さと岸の曲線が見えるだけだった。
「岬のほうの丘の斜面に羊が見えるかい?」
「うん」
丘の灰緑色のところにある白っぽい斑点《はんてん》がそれだった。
「お父さんは数えられるぞ」と父親が言った。
人間の必要とする以上の能力をもったすべての人々と同じように、彼の父親もきわめて神経質だった。それから、また、感傷的でもあった。そして、たいていの感傷的な人々と同じように、残酷で、人から悪く言われた。それに、とても運が悪かった。それはかならずしも全部が彼の責任ではなかった。彼はほんのちょっと罠《わな》をかける手伝いをしただけなのに、その罠にかかって死んでしまった。彼の死ぬ前、人々はみんな、いろいろな方法で、彼を裏切った。感傷的な人々はすべて、何度となく裏切られるものだ。ニックは、そのうち父親のことを書きたいと思ってはいるが、まだ書けなかった。しかし、このウズラ猟の土地は、ニックの少年の頃の父親のありのままの姿を思いださせた。そして、彼は二つのことで父親に感謝した。魚釣りと狩猟だ。父親は、たとえば性については確かではなかったが、この二つのことについては確かだった。そして、そんなふうであったことを、ニックは喜んだ。そのわけは、誰か銃を最初にくれる人がいるか、あるいは銃を手に入れ、それを使う機会を与えてくれる人がいなければならないし、また、獲物や魚のことを知るには、それのいるところに住まなければならないからだ。そして、いま三十八歳の彼は、はじめて父親と出かけた時とまったく同じに、魚釣りと狩猟が好きだった。それは決して衰えたことのない情熱であり、それを彼に教えてくれた父親に彼は心から感謝していた。
ところで、彼の父親が確かでなかったほかのことについては、やがては身につけるにいたる必要なことはすべて用意されていて、人が知らなければならないことはすべて、忠告されないでも、知るようになるものだ。だから、どこに住んでいようが同じなのだ。彼は父親がそのことについて教えてくれた二つの知識だけは非常にはっきり覚えていた。あるとき、いっしょに猟に出かけたが、ニックはベイツガの木にいた赤リスを射ち落とした。リスは傷ついて落ちたが、ニックが拾いあげると、親指のつけ根のふくらみにぱくっと噛みついた。
「汚ならしい、ちびの下衆野郎《げすやろう》」とニックは言い、リスの頭を木にたたきつけた。「ほら、こんなに噛みやがった」
父親はそれを見て、言った。「きれいに血を吸いだして、家に帰ったらヨードチンキをつけときな」
「ちびの、あの下衆野郎《バガー》」とニックは言った。
「下衆野郎って何だか知ってるのかね?」と父親が彼にたずねた。
「ぼくたち、何でも下衆野郎って言ってるんだ」
「下衆野郎《バガー》ってのは、動物と交接する男のことなんだぞ」
「なぜ?」とニックは言った。
「なぜか知らないよ」と父親が言った。「だが、恐ろしい罪なんだ」
ニックの想像力はこれにより刺戟され、ぞっとした。彼はいろいろな動物を考えてみたが、どれも魅力がなく、実際には相手にできそうもなかった。父親が彼に授けてくれた性についての直接的な知識は、もう一つのことを除けば、以上がすべてだった。もう一つとは、ある朝、彼は新聞で、エンリコ・カルーソー〔イタリア生まれの世界的に有名なテノール歌手〕が|女たらし《マッシング》の罪で逮捕されたという記事を読んだ。
「|女たらし《マッシング》ってなんなの?」
「一番恐ろしい罪の一つさ」と彼の父親が答えた。ニックの想像力は、この偉大なテノール歌手が、葉巻の箱の内側にはってあるアンナ・へルド〔無声時代のアメリカの映画女優〕の写真のようなきれいな婦人に、|じゃがいもつぶし器《ポテト・マッシャー》で、何か異様で怪奇で憎むべきことをやっている姿を思い描いた。彼はすくなからずぞっとしながらも、大きくなったら、すくなくとも一度は|女たらし《マッシング》をやってみようと、心に決めた。
彼の父親はこの問題全体を要約して、こう述べた。マスターべーションをやれば、盲目になったり、気違いになったり、死んだりするし、淫売のところへ行くような奴は、恐ろしい性病にかかる。だから、要するに他人に手をふれないことだ、と。ところで、彼の父親は彼の見たこともないほどすばらしい眼をしていて、ニックは長い間すごく父親を愛していた。いまでは、すべての事の次第がわかったので、事態がひどくなる以前の初期のころの思い出さえ、いい思い出ではなくなった。そのことを書けば、それを忘れることもできるだろう。いままで、書くことによって、多くのことを忘れてきた。しかし、まだ書くには早すぎる。まだ、あまりにも多くの人々が生存している。そこで、彼は何かほかのことを考えようと心に決めた。父親については、何ら打つべき手だてはなかった。何度もそのことは考え抜いたのだ。葬儀屋が父親の顔にほどこした巧みな処置は彼の心のなかから消えてはいなかったし、ほかのことも、責務ということもふくめて、すべて、きわめて明瞭だった。彼は葬儀屋にお世辞を言った。葬儀屋は得意になって、満足げに喜んでいた。だが、父親の最後の顔をあのような顔にしたのは葬儀屋ではなかった。葬儀屋はただ芸術的に疑わしいところを大胆に修整しただけだった。その顔は長い間かかって、おのずと作られ、また他から作られたものだ。最後の三年間に急速にその型ができあがったのだ。それはよい物語になるのだが、彼がそれを書くには、まだあまりにも多くの人々が生存しているのだ。
それらの初期の事柄のなかでニック自身の受けた教育は、インディアン部落のうしろのベイツガの林のなかで行われた。そこへは、小屋から表を抜けて農場に通じている小道を行き、さらに樹木を伐採した空地をまがりくねって部落に通じる道を行けばよかった。いまも、裸足《はだし》であの小道のすべてを感じたいと思った。まず、小屋の裏手のベイツガの森は針葉が散り敷いていて、倒れた丸太がぼろぼろに砕けて粉になり、雷に打たれた木に長く裂けた木の断片が投げ槍のようにぶらさがっていた。小川があって、丸太で渡るのだが、足を踏みはずすと、沼地の黒い腐った泥にはまりこんだ。柵を乗り越えて森から出ると、小道は日が射していて固く、刈りこまれた草やヒメスイバやモウズイカの生えている野原を横ぎっていた。左手には小川の底の湿地にさざ波が立ち、チドリが餌《えさ》を食べていた。その小川のなかに冷蔵用の小屋があった。その小屋の下手には、できたての暖かいこやしや、表面が乾いて固まった古いこやしがあった。それから、もう一つ柵があって、小屋から家に通じる固くて熱い小道があり、さらに、熱い砂の道路が小川を、こんどは、橋で渡り、森に通じていた。その橋のたもとにはガマがはえていたが、これは灯油にひたして、夜、魚を突くときの〈たいまつ〉にできた。
それから本街道は左に曲がって、森の周辺を通り、丘をのぼっていたが、そこから分れる広い粘土質の泥板岩の道に沿って森にはいっていくと、木々の下は涼しく、インディアンが伐採したベイツガの樹皮を滑材《すべりざい》にのせて運ぶために道幅が広げてあった。ベイツガの樹皮は幾つかの長い列に積みあげられ、家の屋根のように、その上をさらに樹皮でおおってあった。皮をむかれた丸太は切り倒された場所で、黄色い巨大な姿で横たわっていた。丸太は森のなかで腐るまま放置されていて、片づけたり、表面を焼くこともなかった。ボイン・シティの製革所でほしがっているのは、樹皮だけだった。冬になると、それは湖の氷の上を運ばれていき、年々、森はすくなくなり、広々とした、暑い、木陰のない、雑草の生い茂った空地が多くなった。
だが、そのころはまだ森には樹木がたくさんあった。ずっと高くまで枝一つない木々のそびえ立つ処女林だった。下生えのない、褐色で、きれいな、ふかふかと松葉の散り敷いた地面を歩いていくと、ひどく暑い日でも、涼しかった。彼ら三人は、ベッドを二つつないだのよりも幅の広いベイツガの幹によりかかって寝ころんでいた。微風が高い梢を吹き渡り、木の間から日の光がさわやかに射しこんでいた。ビリーが言った。
「トルーディともう一度やりたいんだろ?」
「君だってやりたいだろう?」
「ええ、まあ」
「じゃあ、ね」
「いやよ、ここじゃあ」
「でも、ビリーが……」
「ビリーなんか、かまわないわ。あたしの弟だもの」
それから、そのあとで、彼ら三人は、見えないが一番高い枝のなかにいる黒リスの鳴き声に耳をかたむけながら、坐っていた。彼らはリスがもう一度鳴くのを待っていた。鳴けば、尻尾《しっぽ》を急に動かすので、ニックは動いたところを見て、射てるからだ。彼の父親は猟には一日に弾丸を三発しかくれなかった。彼の持っていたのは長い銃身の単発式の二十口径の猟銃だった。
「畜生、ちっとも動かない」とビリーが言った。
「射ちなさいよ、ニッキー。驚かすのよ。跳ぶのを見てるわ。そしたら、もう一度、射つのよ」とトルーディが言った。彼女としては長くしゃべった。
「弾丸《たま》が二発しかないんだ」とニックが言った。
「ちえっ」とビリーが言った。
三人は木にもたれて坐り、だまっていた。ニックはうつろな感じだったが、しあわせだった。
「エディが、いつか夜、きて、君の妹のドロシーといっしょに寝ると、言ってるよ」
「何だって?」
「そう言ってたんだ」
トルーディがうなずいた。
「彼がやりたいのは、それだけよ」と彼女が言った。エディはこの二人の腹ちがいの兄だった。年は十七歳だった。
「エディ・ギルビーが夜やってきて、ドロシーに話しかけでもしたら、ぼくがどうするかわかってるだろう? こんなふうに殺してやるぞ」ニックは銃の打ち金を起こし、ねらいも定めずに、引き金をひいた。あの混血のエディ・ギルビーの奴の頭かどてっ腹に、手のひらぐらいの穴をぶちあけてやるつもりだった。「こんなふうにだ。こんなふうに殺してやるんだ」
「じゃあ、エディはこないほうがいいわね」とトルーディが言った。彼女はニックのポケットに手をつっこんだ。
「あいつ、うんと注意したほうがいい」とビリーが言った。
「あの人、からいばりするだけよ」とトルーディがニックのポケットを手でさぐりながら、言った。「でも、殺さないでね。すごく面倒なことになるわよ」
「こんなふうに殺してやるんだ」とニックが言った。エディ・ギルビーは胸をすっかり射ち抜かれて地面に倒れていた。ニックは得意げに彼を足で踏みつけた。
「頭の皮をはいでやるんだ」と彼は満足げに言った。
「だめよ」とトルーディが言った。「きたないわ」
「頭の皮をはいで、あいつのおふくろのところへ送ってやるんだ」
「お母さんは死んでるわ」とトルーディが言った。「あなた、殺さないで、ニッキー。あたしのために殺さないで」
「頭の皮をはいだら、犬どもにくれてやるんだ」
ビリーはひどくふさぎこんでしまった。「あいつは気をつけたほうがいい」と彼は元気なく言った。
「犬どもがあいつをずたずたに引き裂いてしまうだろう」とニックは言い、その光景を想像して喜んだ。それから、あの混血の罰当りの頭の皮をはいで、犬どもが彼の身体《からだ》を引き裂くのを顔色も変えずに眺めて立っていたが、うしろの木に引き倒された。トルーディが彼の首のまわりにしっかりしがみつき、叫んでいた。彼は息もできないほどだった。「殺しちゃだめよ! 殺しちゃだめよ! 殺しちゃだめよ! だめよ! だめよ! だめよ! ニッキー、ニッキー、ニッキー!」
「どうしたんだ?」
「殺しちゃだめよ」
「殺さなきゃならないんだ」
「あの人、からいばりするだけよ」
「いいよ」とニッキーは言った。「殺しゃしない、あいつが家のまわりをうろつかないなら。ぼくを放してくれよ」
「そんならいいわ」とトルーディが言った。「いま、あなた、何かしたいんでしょう? あたし、いま、とてもいい気持よ」
「ビリーがあっちへいっててくれればね」ニックはエディ・ギルビーを殺してしまい、それから彼の生命を助けてやったので、いまや彼は男になっていたのだ。
「ビリー、あっちへいってなさい。いつまでもぶらぶらしてないでさ。いっちまいなさい」
「畜生」とビリーが言った。「こんなことしてんの、あきちゃった。つぎは何をやろうか? 猟かな、それとも何かな?」
「銃を持っていっていいよ。弾丸が一発残ってるから」
「よし。大きな黒リスをちゃんと射とめよう」
「あとで大声で呼ぶからな」とニックは言った。
それから、あと、長い時間がすぎたが、ビリーはまだもどってこなかった。
「赤ちゃんができると思う?」トルーディは仕合わせそうに褐色の脚を組み合わせ、彼に身体をすりよせた。ニックの内部にあった何かが遠くへ抜けだしてしまっていた。
「できないだろう」と彼が言った。
「ねえ、赤ちゃん、いっぱいつくって」
ビリーの射つ音が聞こえた。
「射とめたかな」
「そんなことどうでもいいわよ」とトルーディが言った。ビリーが木の間を抜けてやって来た。彼は肩に銃をかつぎ、黒リスの前足をつかんでぶらさげていた。
「ほら」と彼が言った。「猫より大きいよ。もうすんだ?」
「どこで、とったんだ?」
「あっちでさ。はじめ跳ぶのが見えたんだ」
「家へ帰らなきゃ」とニックが言った。
「まだよ」とトルーディが言った。
「夕食までに帰らなきゃならないんだ」
「じゃあ、いいわ」
「明日も狩をしたい?」
「ええ」
「そのリス、あげるよ」
「ありがとう」
「夕食のあとで、出てくるかい?」
「だめよ」
「気分はどう?」
「いいわ」
「それはいい」
「顔にキスして」とトルーディが言った。
いま、ニックはハイウェイを車で走っていたが、暗くなりかけていて、父親のことを考えるのは止めていた。一日の終りは父親のことを考えさせなかった。一日の終りは、いつも、ニックだけのものであり、そのときひとりでなければ、彼は決して心が落ち着かなかった。父親が彼のところにもどってくるのは、一年のうちで秋の季節とか、平原に小シギのいる早春とか、麦の刈束の山を見た時とか、湖を見た時とか、一頭立ての馬車を見た時とか、ガンを見たりその声を聞いた時とか、鴨《かも》猟で身をひそめていた時などであった。彼は、鷲《わし》が渦を巻いて降りしきる雪のなかをズックでおおった〈おとり〉をねらって急降下し、ズックに爪をとられて、飛びあがろうと翼をばたつかせているのを思いだした。父親は、荒れはてた果樹園や、新しくすき返された畑や、茂みや、小さな丘の上などで、あるいは、枯草をかきわけて行く時や、木が裂けたり、水がほとばしっている時はいつも、さらに、製粉用の水車小屋やリンゴ汁をつくる水車小屋やダムなどのそばや、また、焚火のそばに、いつも、突然、彼のところに現われた。が、ニックが住んだ町々は彼の父親の知らない町ばかりだった。十五歳以後は、彼は父親とは何ら共通なものがなかった。
彼の父親は寒い時には顎《あご》ひげに霜《しも》をつけ、暑い時にはひどく汗をかいた。父親は日のあたる農場で働くのが好きだった。それは働く必要がなかったからだし、手仕事が好きだったからだ。ところが、ニックはそうしたことは好きではなかった。ニックは父親を愛したが、父親のにおいは大嫌いだった。それで、いつか、小さくなった父親の下着の上下を着せられたとき、胸がむかつき、それを脱いで、小川のなかに捨て、石を二つその上に置き、なくしてしまったと言った。父親にそれを着せられたとき、においのことを父親に言ったのだが、父親は洗濯したばかりなのだと言ったのだった。また、たしかにそのとおりだった。ニックがにおいをかいでみてくれと言うと、父親はむっとして、かいでみて、清潔できれいだぞと言った。ニックがそれを着ずに釣りから帰ってきて、なくしてしまったと言うと、父親は嘘だと言って、ニックをむちで打った。
そのあとで、ニックは薪小屋のドアをあけたまま、そのなかに坐り、猟銃に弾丸をこめ、打ち金を起こし、向こうの虫よけ網をはったベランダに腰をおろして新聞を読んでいる父親を見て思った。「おやじを射てるぞ。殺せるぞ」と。しまいに、彼は怒りが自分から抜けていくのを感じ、その銃が父親からもらったものだったので、いささか嫌な気持になった。それで、インディアンの部落に行き、真っ暗闇のなかを歩きまわり、においを消そうとした。家族のなかで、彼の好きなにおいを持っている者が一人だけいた。妹の一人だ。あとの者とは、だれとも彼は接触を避けた。煙草を吸いはじめると、この感覚がにぶった。その感覚はいいものだったのだ。猟犬にはいいものだったが、人間には何の役にも立たなかった。
「パパ、パパが子供のころ、インディアンといっしょに猟に行ったときは、どんなだったの?」
「さあねえ」と答えて、ニックはびっくりした。彼は息子が眼をさましていることに全然気づかなかったのだ。見ると、息子は助手席に坐っていた。彼はまったく一人でいるような気がしていたのだが、この息子がずっといっしょだったのだ。どのくらい、いっしょだったのかと、彼は考えた。「一日じゅう黒リス狩りに出かけたものだよ」と彼は言った。「おじいさんはパパに一日三発しか弾丸をくれなかったよ。そのほうが猟のやりかたがわかるし、子供がやたらに射ちまくるのはよくないと言ってね。パパはビリー・ギルビーという名の少年とその姉さんのトルーディといっしょにいったが、ひと夏じゅう、ほとんど毎日出かけたもんだよ」
「インディアンにしちゃあ変な名前だね」
「ああ、そうだ」とニックが言った。
「でも、どんな人たちだったか話して」
「オジブウェイ族だったよ」とニックは言った。「それに、とてもいい人たちだった」
「でも、いっしょにいると、どんなふうだった?」
「それは説明しにくいね」とニック・アダムズは言った。誰もそれ以上うまくやれなかったことを、彼女がはじめてやってくれたなどとは、とても言えなかった。また、ぽちゃぽちゃした褐色の脚、平らな腹、かたい小さな乳房、しっかり抱きつく腕、すばやく探り求める舌、じっと見る眼、すばらしい味の口、それから、ぎごちなく、しっかりと、甘く、しっとりと、愛くるしく、しっかりと、痛々しく、十分に、ついに、はてることなく、いつまでも終ることなく、けっして終ることなく、そして、突然、終り、森のなかでは日中だけだが、たそがれのふくろうのような大きな鳥が飛び、ベイツガの針葉が腹に刺さる、こんなことを話せようか。だから、インディアンたちの住んでいたところへ行けば、彼らが立ち去ったあとのにおいがするのだ。空っぽの痛み止めの薬の壜《びん》も、ぶんぶんうなるハエも、ニオイ草の香りや、煙草のにおいや、ケースにいれたばかりのテンの毛皮のようなにおいなどを消しはしない。また、彼らに関する冗談も、年とったインディアンの女たちも、それを消しはしない。また、彼らがかならずつけているむかむかするにおいも、消しはしない。また、彼らが最後にしたことも、消しはしない。彼らがどのように終ったかは問題ではない。彼らはすべて同じように終ったのだ。昔はよかった。今はだめだ。
ところで、ほかのことについてだ。飛んでいる鳥を一羽射ち落とせば、飛んでいる全部の鳥を射ち落としたことになる。鳥はみな違うし、違った飛び方をしているが、その感じは同じで、射ち落とす感じは最初も最後も同じようにすばらしい。彼はそのことを教えてくれた父親に感謝した。
「お前はあの連中が好きじゃないかもしれないが」とニックは息子に言った。「でも、そのうち好きになるさ」
「ぼくのおじいさんも、子供のころ、あの人たちといっしょに住んでいたんだね?」
「そうだよ。おじいさんに、彼らがどんなかって聞いたら、おじいさんはたくさん友だちがそのなかにいると言ったよ」
「いつかあの人たちといっしょに暮らせるの?」
「そうだね」とニックが言った。「それはお前次第だよ」
「ぼく、いつになったら、ひとりで猟銃をもって狩りにいけるの?」
「お前が注意深いことがわかれば、十二だな」
「いま十二だといいんだが」
「すぐになるさ」
「おじいさんはどんな人だったの? ぼくがフランスから帰ってきたとき、ライフル銃とアメリカの旗をくれたけど、あのときのことしかおぼえていないよ。どんな人?」
「説明しにくいね。猟と魚釣りの名人で、すばらしい眼をしてたよ」
「パパよりえらかった?」
「射撃はずっとうまかった。おじいさんのお父さんも射撃の名人だった」
「パパよりうまいはずないよ」
「いや、うまかったよ。とても早く見事に射ったよ。パパの知ってるどんな人のよりも、おじいさんの射つのを見たいもんだね。おじいさんはパパの射つのを見て、いつもひどくがっかりしていたよ」
「ぼくたち、どうしておじいさんのお墓参りに一度もいかないの?」
「この国でも離れたところに住んでいるからさ。ここからずいぶん遠いんだ」
「フランスだって同じでしょう。フランスじゃ、お墓参りにいくよ。おじいさんのお墓参りにいかなきゃいけないよ」
「いつかいこう」
「ぼく、パパが死んだら、パパのお墓参りにいけないようなところには住みたくないな」
「それはなんとかしとかなけりゃいけないね」
「ぼくたち、みんな、便利なところに埋めてもらったらどうだろう? フランスに埋めてもらってもいいんだ。そしたらすてきだね」
「パパはフランスに埋めてもらいたくないな」とニックが言った。
「じゃあ、どこか便利なところをアメリカに探さなくちゃ。牧場に埋めてもらうわけにはいかないの?」
「それはいい考えだ」
「そうすれば、牧場へいく途中、おじいさんのお墓によって、お参りできるもの」
「お前はすごく実際的だね」
「でも、おじいさんのお墓に一度もいったことがないなんて、いい気持じゃないもの」
「いかなきゃならないな」とニックが言った。「いかなきゃならないことがわかった」
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(付)世界の首都
マドリッドにはパコという名前の少年がおおぜいいる。パコというのはフランシスコという名前の愛称である。マドリッドの笑話の一つにこんなのがある。一人の父親がマドリッドに来て、『エル・リベラル』新聞の人事欄に「パコ、火曜日の正午、ホテル・モンタナで会いたし。万事許す。父」という広告を出したら、この広告に応じて八百人もの少年がおしかけ、彼らを追い散らすために国家警察一個中隊が出動しなければならなかったということだ。だが、これから述べるパコは、ルアルカという下宿屋《ペンション》の食堂のボーイで、彼を許してくれる父親もいなければ、父親が許してやろうというような事をしでかしてもいなかった。彼には二人の姉があり、やはりルアルカで部屋係りのメイドをしていた。二人がそこで働くようになったのは、以前ルアルカで女中をしていた女が同じ村の出身で、働きもので、まじめだったために、その村と、村の出身者が信用されたからであった。この姉たちは、弟に、マドリッドまでのバスの料金を出してやり、ボーイ見習いとしての仕事を見つけてやった。彼はエストレマドゥラ〔スペインの西部、やや南よりの一地方〕の村の出だったが、そこは信じられぬほど未開の土地で、食物も乏しく、娯楽には縁がなく、彼は物心がついてからこのかた、ずっと、せっせと働きつづけてきた。
彼はがっしりした身体つきの少年で、いくらか縮れている真っ黒い髪に、きれいな歯と、姉たちがうらやむような肌をしていて、屈託のない微笑をいつも絶やさなかった。きびきびと動き廻って、仕事をよくやり、美しくて世間ずれしているように見える姉たちを愛した。彼はマドリッドをも愛した。そこは、いまなお、ほんとだと信じがたい都会だった。また、彼は自分の仕事を愛した。明るい照明の下で、清潔なリンネルの布を手に、夜の服装を身につけてする仕事だったが、調理場には食べ物がいっぱいあり、うっとりするほど美しい仕事に思われた。
ルアルカに住んでいて、そこの食堂で食事をする者が、ほかに八人から十二人いたのだが、テーブルで給仕をする三人のボーイのなかで一番若いパコにとっては、現実に存在している客は、闘牛士たちだけだった。
二流のマタドール〔剣をもって正面から牛に立ち向かう闘牛士〕がその下宿屋にいた。そのわけは、サン・ジェロニモ街に住んでいるというと聞こえがいいし、食物もすばらしいし、部屋代も食事代も安かったからだ。闘牛士にとっては、豪華とまではいかなくても、すくなくともある程度は恥しくないようにやっているという体裁をととのえる必要があるのだ。というのも、スペインでは、礼儀とか威厳とかが、もっとも高貴な美徳として評価され、勇気よりも上に格づけされているからである。だから、闘牛士たちは、最後の一ペセタがなくなるまで、ルアルカに部屋をとっていた。ルアルカを出て、もっと上等の、もっと金のかかるホテルヘ移っていった闘牛士がいたという記録はない。二流の闘牛士が一流になるということは決してないのだ。ところが、ルアルカから落ちるとなると、あっという間だ。ともかく何かやっている人間なら、誰でもそこに泊っていることができたし、経営者の女主人から見込みがないと思われるまでは、請求書は、こちらが請求しないかぎり、突きつけられることはなかったからだ。
そのころ、ルアルカには、マタドールが三人滞在していた。それに、非常に巧みなピカドール〔馬にのって槍で牛を突いて怒らせる役〕が二人と、優秀なバンデリリェロ〔小さな旗などのついた銛を牛に突き刺す役〕が一人いた。家族をセビリアに残して、春のシーズンのあいだマドリッドに滞在しなければならないピカドールとバンデリリェロにとって、ルアルカはぜいたくな所だった。だが、給料もよかったし、つぎのシーズンにたくさん契約をしている闘牛士たちに固定的にやとわれていたので、この三人の部下たちはおそらく三人のマタドールの誰よりも、それぞれ、収入がよかったのだろう。三人のマタドールはと言うと、一人は病気だったが、それをかくそうとしていた。一人は新顔として短期間人気があったのだが、いまはその時期もすぎていた。そして、三人目は臆病者《おくびようもの》だった。
この臆病者は、かつて、はじめて正マタドールとして出場したシーズンのはじめに、牛の角で下腹部に特別ひどい傷を受けたが、それまでは途方もなく勇敢で、すばらしく技巧がすぐれていた。そして、彼は、その大当りの時代の数々の変わった癖を、いまだに身につけていた。度が過ぎるほどはしゃぎ、笑う種があってもなくても、たえず笑っていた。人気のあったころは、悪ふざけばかりしていたが、いまはもうやらなくなっていた。彼は感性がなくなったのだと、人びとは信じていた。このマタドールは、頭のよさそうな、ひどくあけすけな顔で、身のこなしがすごく気どっていた。
病気のマタドールは、病気だということをすこしも表に出さないように注意し、テーブルに出された料理はどれもすこしずつ食べるように気を配っていた。ハンカチをたくさん持っていたが、部屋のなかで自分で洗濯した。そして、近ごろは、闘牛服を売っていた。クリスマスの前に、一着、安く売り、四月の第一週に、もう一着、売った。それらはとても高価な服で、いつも手入れが行きとどいていた。彼は、もう一着、持っていた。病気になる前は、たいそう有望な、センセーションをまきおこすほどの闘牛士で、自分では読めなかったが、マドリッドでの彼のデビューではベルモンテ〔ジョアン・ベルモンテ、実在の闘牛士〕よりもすばらしかった、と書いてある新聞の切り抜きを持っていた。彼は小さなテーブルでひとりで食事をし、顔をあげることはほとんどなかった。
かつて新顔として人気のあったマタドールは、たいへん背が低く、日焼けしていて、すごく威厳があった。彼も離れたテーブルでひとりで食事をしたが、微笑することはめったになく、声をたてて笑うことはまったくなかった。バリャドリッドの出身で、その土地の人びとはおそろしくきまじめなのだ。彼は有能なマタドールだったが、勇気とか冷静な技術などの美点によって大衆の人気を得る前に、彼のスタイルが時代おくれになってしまった。それで、ポスターに彼の名前が出ても、そのために闘牛場へ駆けつける者は一人もいなかった。彼が珍重されたのは、背があまりにも低く、牛の両肩の隆起を越して向こうがほとんど見えなかったからだ。だが、ほかにも背の低い闘牛士はいたので、彼は大衆の好みに自分を売りこむことなど、とてもできなかった。
ピカドールのなかの一人は、やせて、鷹みたいな顔つきの、白髪まじりで、小柄な男だが、脚と腕は鉄のようで、ズボンの下にいつも牛飼いのはくブーツをはき、毎晩ぐでんぐでんに飲み、下宿屋の女に誰かれの見さかいなく、みだらな目を向けていた。もう一人は、大きな図体《ずうたい》で、色が浅黒く、顔は日焼けしていて、ハンサムで、インディアンみたいな黒髪の、手のばかでかい男だった。二人ともすぐれたピカドールだったが、前者は酒と放蕩のため、才能のほとんどをだめにしてしまったという噂だったし、後者はあまりにも頑固で喧嘩早いので、どんなマタドールと組んでも一シーズン以上はつづかないという評判だった。
バンデリリェロは中年の男で、白髪まじりで、年に似合わず猫のようにすばしこく、テーブルに向かっていると、かなり裕福な実業家のように見えた。彼の脚はこのシーズンはまだ大丈夫だった。たとえ脚がだめになっても、まだしばらくは、きまった仕事につけるだけの才能と経験があった。ただ違っている点は、脚のスピードがにぶると、いまのように闘牛場の内外で自信たっぷりに落ちついているわけにいかず、いつもびくびくしていなければならなくなることだった。
その夜は、みんなが食堂から引きあげてしまって、そこにいたのは、酒を飲みすぎた鷹みたいな顔つきのピカドールと、スペイン各地の縁日や祭礼で時計をせり売りして歩く、これも飲みすぎた、顔にあざのある男と、隅っこのテーブルに坐り、飲みすぎでないことは確かだが、ともかく飲んでいる、ガリシアからやってきた二人の僧侶だけだった。そのころ、ルアルカでは、酒代は部屋代と食事代のなかにふくまれていた。ボーイたちはいま、バルデペニアスの新しいボトルを、せり売りの男のテーブルヘ、それからピカドールのところヘ、そして、最後に、二人の僧侶のところへ持っていったところだった。
三人のボーイは部屋の端に立っていた。この下宿屋《ペンション》の規則として、ボーイは受持のテーブルの客が全部出ていくまで、そこに残っている義務があった。ところが、二人の僧侶のテーブルを受持っていたボーイがアナルコ・サンディカリストの会合に行く約束があったので、パコがかわりにそのテーブルを受持つことに同意していたのだ。
二階では、病気のマタドールがひとりでベッドにうつ伏せになって寝ていた。もはや珍重されなくなったピカドールは、カフェへ出かける前に、坐ったまま窓の外を眺めていた。臆病者のマタドールは、自分の部屋にパコの姉といっしょにいた。彼女に何かをさせようとしていたが、彼女は笑いながらそれを拒んでいた。このマタドールは言っていた。「おいで、おてんばさん」
「いやよ」と姉が言った。「どうして、しなきゃいけないの?」
「おねがいだ」
「食事がすんだから、こんどは、あたしをデザートにしたいのね」
「一度だけだよ。別にどうってこと、ないじゃないか」
「放してよ。ねえ、放して」
「たいしたことじゃないんだぜ」
「放してよ、ねえ」
階下の食堂では、会合におくれてしまった一番背の高いボーイが言った。「あの黒い豚どもの飲むのを見ろよ」
「そんな言い方をするもんじゃない」と二番目のボーイが言った。「立派なお客さんだぜ。飲みすぎるわけじゃなし」
「俺にしちゃあ、ちゃんとした言い方なんだ」と背の高いのが言った。「スペインにゃあ、二つののろいがある。警官と坊主さ」
「だが、個々の警官や坊主のことじゃないぜ」と二番目のボーイが言った。
「ところが、そうなんだ」と背の高いボーイが言った。「個々を通してはじめて、その階級を攻撃できるものだからよ。個々の警官と坊主をぶっ殺す必要があるんだ。一人残らずね。そうすりゃ、奴らはもういなくなる」
「それは会合でしゃべるんだな」と相手のボーイが言った。
「見ろ、マドリッドの野蛮さ加減を」と背の高いボーイが言った。「もう十一時半というのに、あいつら、まだ飲んだくれていやがる」
「あの人たちは十時に食べはじめたばかりなんだ」と相手のボーイが言った。「わかってるだろうが、料理の数が多いのさ。ワインは安いし、ちゃんと払ってるんだからな。それに、強い酒じゃないんだよ」
「お前みたいなあほうが相手じゃ、労働者の団結なんて、どうなっちまうんだろ?」と背の高いボーイが言った。
「なあ」と五十がらみの二番目のボーイが言った。「俺はいままで働きどおしだった。これからも生涯働かなくちゃならねえ。働くことにゃあ、ちっとも不平はねえ。働くのがあたりまえだからよ」
「そりゃそうだ。けど、働く仕事がなくなったら、おしまいだぞ」
「俺はずっと働いてきた」と年上のボーイが言った。「会合に行きなよ。ここにいる必要はないから」
「お前はいい同志だ」と背の高いボーイが言った。「けど、イデオロギーが全然ないんだな」
「メホール・シ・メ・ファルタ・エソ・ケ・エル・オトロ」と年上のボーイが言った。仕事がないより、そんなものがない方がましだ、という意味だ。「会合《ミテイン》に行きな」
パコは何も言わなかった。彼はまだ政治のことはわからなかったが、背の高いボーイが僧侶や国家警察の奴らをぶっ殺さなきゃならないと言っているのを聞くと、いつもスリルを感じた。彼には背の高いボーイは革命の象徴であり、革命はまたロマンチックであった。彼自身は、善良なカトリック教徒でありたかったし、革命家にもなりたかったし、いまのような安定した仕事を持っていたかったが、一方、同時に、闘牛士にもなりたかった。
「会合に行きなよ、イグナシオ」とパコは言った。「お前の仕事は引き受けるから」
「俺たち二人でな」と年上のボーイが言った。
「一人だって暇なくらいだ」とパコが言った。「会合に行きな」
「|じゃ、行くよ《プエス・メ・ボイ》」と背の高いボーイが言った。「すまねえな」
その間、二階では、パコの姉が、固めわざをはずすレスラーのように巧みに、マタドールの抱擁から逃れ、今度は腹だたしそうに言った。「がつがつしてんのね。落ちぶれた闘牛士って。ひどくびくびくしてるくせに、そんなに元気があるんなら、闘牛場で元気をお出し」
「淫売みたいな口をきくな」
「淫売だって女のうちよ。でも、あたしは淫売じゃないけど」
「そのうちになるぜ」
「でも、あなたにしてもらわないわ」
「出ていけ」とマタドールは言った。彼はいま、撃退され拒絶されて、自分の臆病がむきだしになって戻ってくるのを感じた。
「出ていけだって? ええ、出ていくわよ」とパコの姉が言った。「ベッドを整えなくっていいの? あたし、それで給料をもらってんだけど」
「出ていけ」とマタドールが言った。大きなハンサムな顔がくしゃくしゃにゆがみ、泣いているようだった。「淫売め。きたならしい淫売の小娘め」
「はい、マタドールさん」と彼女はドアを閉めながら、言った。「あたしのマタドールさん」
部屋のなかで、マタドールはベッドに坐っていた。彼の顔はまだゆがんだままだったが、彼は闘牛場では、そのゆがみを、いつも絶やさぬ微笑に変えていた。その微笑は眼前に展開している闘牛がどんなものであるかを知っている最前列の席の人びとを、びっくりさせたものだ。「で、これだ」と彼は声にだして言っていた。「で、これだ。で、これだ」
彼は好調だったころのことを思い出すことができた。それはほんの三年前のことだった。あの暑い五月の午後、どっしりとした金襴《きんらん》の闘牛ジャケットが肩に重かったのを思い出すことができた。あのころは、彼の声はカフェでも闘牛場でもまだ同じだった。彼は牛の両肩の間の高くもりあがったところへ切先《きっさき》の鋭い刃をあてがいながら、ふっと息を吐く。そこは短い毛の生えた黒い、埃にまみれた筋肉の瘤《こぶ》だ。殺そうと踏み込むと、その下で、木の柵にぶつかって、先がぎざぎざになった、幅の広い角が、ぐっとさがる。手のひらを剣の柄頭《つかがしら》に押しあてて、左腕を低く斜めに構え、左肩を前に突き出して、剣を突き刺すと、固まったバターの塊でも刺すように、簡単にずぶりと突き刺さる。体重をはじめ左脚に置き、つづいて、体重を脚から抜く。体重が下腹部にかかる。牛が頭をもたげると、角《つの》は彼の視野から消える。彼が二度もその角に振りまわされて、やっと人びとが彼を角から引き離した。そのため、彼はいまでは、牛を殺そうと踏み込む時は、もっともそんなことはめったにないが、角を見ることができないのだ。彼が闘う前にどんな気持を経験するか、淫売なんかにわかるはずがないのだ。それに、彼を嘲笑する奴らは、どんな経験があるというのか? 奴らはみんな淫売なんだ。淫売の手口を知ってやがるんだ。
階下の食堂では、ピカドールが僧侶たちを見ながら、腰をおろしていた。もしその部屋に女たちがいたら、そっちを見ていたろう。女がいなかったら、外国人を、|イギリス人《ウン・イングレス》を見て、楽しんだだろう。ところが、女も外国人もいなかったので、彼はいま、二人の僧侶を、楽しそうに、横柄《おうへい》に見ていた。じっと見つめている間に、顔にあざのあるせり売りの男が立ちあがり、ナプキンをたたんで、出ていった。彼が最後に注文したボトルには、ワインがまだ半分以上も残っていた。ルアルカでの宿代を全部払ってあったなら、彼はそのボトルをすっかり空にしたことだろう。
二人の僧侶はピカドールのほうを見返さなかった。一人が言っていた。「あの方にお会いしようと、もう十日もここで待っておるんじゃ。一日じゅう控え室に坐っておるんじゃが、会おうとはせんのじゃ」
「どうしたらよかろう?」
「どうしようもないのう。どうもできますまい。権力に楯《たて》つくわけにはいかぬでな」
「わたしはここに来て二週間になるが、だめですわ。待ってるんですが、会おうとしないのでね」
「わしらは見捨てられた国から来たんじゃ。金がなくなったら、帰るとしよう」
「見捨てられた国へね。マドリッドはガリシアのことなど気にしますまい。わたしらの国は貧乏ですからね」
「バシリオ師の行動もわかるんじゃ」
「でも、バシリオ・アルバレスが誠実かどうか、ほんとうのところ、わたしにはわからないんですわ」
「マドリッドにいると、いろいろとわかってくるんじゃ。マドリッドはスペインの命とりじゃ」
「会うだけ会って、それから断わるのならいいのに」
「いや。待ちくたびれて、身も心もくたくたになるじゃろ」
「まあ、やってみますわ。わたしだって人並みに待てないことはないんですわ」
ちょうどこのとき、ピカドールが立ちあがって、僧侶たちのテーブルのところまで歩みよってきた。白髪まじりの頭と鷹のような顔つきで、そこに立って、二人をじっと見つめて、微笑していた。
「闘牛士《トレロ》ですね」と一人の僧侶が相手の僧侶に言った。
「それも、腕のいい奴でさ」とピカドールが言い、食堂から出ていった。グレイのジャケットを着、腰がしまり、がに股で、牛飼いのはくハイ・ヒールのブーツの上に、ぴったりした半ズボンをはいていた。彼がひとりでふくみ笑いをしながら、悠々と肩を怒らせて歩いていくと、そのブーツが床の上でかちかち鳴った。彼は狭くて窮屈な芸人の世界に住んでいて、そこは個人の実力が物を言い、夜ごとアルコールで熱をあげ、横柄に行動する世界だった。いま、彼は葉巻に火をつけ、廊下で帽子をちょっと横に傾け、カフェへ出かけていった。
僧侶たちは、ピカドールが出ていくと、自分たちが食堂に残った最後の客だと急に気づき、すぐ出ていった。そこで、いま食堂には、パコと中年のボーイのほかは、だれもいなかった。二人はテーブルを片づけ、ボトルを調理場へ運んだ。
調理場には、皿洗いのボーイがいた。彼はパコより三つ年上で、ひどく皮肉で辛辣《しんらつ》だった。
「一杯やんな」と中年のボーイが言って、バルデペニヤスをグラスについで、そのボーイに手渡した。
「ああ飲もう」とボーイは言って、グラスを取った。
「パコ、お前は?」と年上のボーイがたずねた。
「ありがとう」とパコは言った。三人は飲んだ。
「俺は帰るぜ」と中年のボーイが言った。
「おやすみ」と二人が彼に言った。
彼が出ていくと、二人だけになった。パコは僧侶の一人が使っていたナプキンを取りあげ、踵《かかと》をしっかりと踏みしめて、まっすぐ立ち、ナプキンを下にさげ、身体の動きにつれて頭を動かしながら、ゆっくり振り動かすヴェロニカ〔赤いケープを振って牛の角をかわすわざ〕の身振りで両腕を振った。それから、向きを変えると、右足をわずかに前方へ出し、二回目のパス〔向きを変えて牛をやりすごすこと〕をやり、架空の牛に対して、ちょっと有利な位置を占めた。それから、三回目のパスを、ゆっくりと、完全なタイミングをとり、ていねいにやってのけ、ついで、ナプキンを腰のところへ引き寄せ、半ヴェロニカの身振りで、腰を振って牛から離れた。
エンリーケという名前の皿洗いのボーイは、批判的な、冷笑的な眼で、彼を見つめていた。
「どんな牛なんだい、相手は?」と彼は言った。
「とても勇敢な奴さ」とパコが言った。「見てろよ」
彼は、ほっそりと、まっすぐに立って、さらに完全なパスを四回、なめらかに、上品に、優雅に、やってみせた。
「で、牛は?」とエンリーケは、流し台によりかかり、ワインのグラスを手に持ち、エプロンをかけたまま、たずねた。
「まだまだ元気がいい」とパコが言った。
「お前を見てると、むかむかするぜ」とエンリーケが言った。
「どうして?」
「見てろよ」エンリーケはエプロンをはずし、架空の牛を引きよせながら、完全な、ゆっくりした、ジプシー風のヴェロニカを四度、彫刻をほるような動作で、やってみせ、最後に、牛から離れるとき、牛の鼻先をかすめて固い弧を描くようにエプロンを振って、レボレラ〔赤いケープを振る演技の一つ〕をやってみせた。
「どうだい」と彼は言った。「ところで、俺は皿洗いなんだ」
「どうして?」
「こわいからさ」とエンリーケが言った。「恐怖《ミエド》さ。お前だって、牛といっしょに闘牛場《リング》に入れられりゃ、同じようにこわくなるさ」
「いや」とパコが言った。「俺はこわがらないよ」
「|ふん《レーチェ》!」とエンリーケが言った。「誰だって、こわがるぜ。ただ、闘牛士は、牛を扱えるように、自分の恐怖をおさえられるんだ。俺はアマチュアの闘牛に出たことがあるが、とてもこわくて、逃げだしちまったんだ。みんなにひどくこっけいだと思われたがね。お前だって、こわくなるさ。恐怖なんてものがなかったら、スペインじゅうの靴みがきは、みんな闘牛士になってるよ。お前は田舎者だから、俺よりも、こわがるだろうよ」
「とんでもない」とパコが言った。
彼はいままで、想像のなかで何度となく、くりかえしてきたのだ。何度も何度も、牛の角を見たし、牛の湿った鼻先を見たし、ぴくぴく動く耳も見た。それから、頭を下げて突進するのも。どすんどすんと蹄《ひづめ》を踏み鳴らして、たけり狂った牛が突進するのを、彼はケープを振って、やりすごす。と、ふたたび牛が突進し、彼はふたたびケープを振る。さらに、三回、四回、五回、ついに、彼の見事な半ヴェロニカによって、牛は彼のまわりをぐるぐるまわり、彼は意気揚々と歩き去る。ジャケットの金の飾りには、近くでパスをやったために、牛の頭の毛がくっついている。牛は催眠術をかけられたように立ったままだ。観衆は拍手喝采する。いや、俺はこわがったりしない。他の者は、こわがるだろう。俺はこわがらない。彼は自分がこわがらないことを知っていた。かりにこわがっても、何とかやっていけるとわかっていた。彼は自信があった。「俺はこわがりはしないよ」と彼は言った。
エンリーケはまた「|ふん《レーチェ》」と言った。
それから、「やってみたらどうだ?」と彼が言った。
「どうやって?」
「いいか」とエンリーケが言った。「お前は牛のことを考えても、角のことは考えない。牛はものすごい力を持っているんだ。だから、角は包丁みたいによく切れるし、銃剣みたいに突き刺さるし、根棒みたいに相手を殺すんだ。いいか」彼はテーブルの引き出しをあけて、肉切り包丁を二本とり出した。「こいつを椅子の脚にくくりつけるぜ。それから、俺はこの椅子を頭の前にかまえて、お前のために牛の役になってやろう。包丁が角ってわけだ。さっきのようなパスができたら、たいしたもんだ」
「お前のエプロンを貸してくれ」とパコが言った。「食堂でやろう」
「いや」とエンリーケは急に口調をやわらげて、言った。「よしな、パコ」
「やるよ」とパコが言った。「俺はこわくないんだ」
「包丁が向かってくるのを見たら、こわくなるさ」
「やればわかるよ」とパコが言った。「エプロンを貸してくれ」
ちょうどこのころ、つまり、エンリーケが、剃刀《かみそり》のように鋭く、重い刃のついた二丁の包丁を椅子の脚にしっかりくくりつけ、よごれたナプキンで、それぞれの包丁を半分ほどくるみ、しっかり巻きつけ、結びつけていたころ、パコの二人の姉の部屋係りのメイドは、『アンナ・クリスティ』〔ユージン・オニールの劇〕に出るグレタ・ガルボ〔スウェーデン生まれのアメリカの映画女優〕を見に映画館に行く途中だった。二人の僧侶のうち、一人は下着のまま坐って、聖務日課書を読んでいた。もう一人は下着姿で、ロザリオの祈りをとなえていた。闘牛士たちは、病気の一人を除いて、みんな、例のごとく、夕方、カフェ・フォルノスに姿を現わしていた。そこでは、身体の大きな、黒い髪のピカドールがビリヤードをやっていたし、背の低い、まじめそうなマタドールが混み合ったテーブルで、ミルク・コーヒーを前にして坐っていた。その横に、中年のバンデリリェロと、まじめそうな労働者たちがいた。
白髪まじりのピカドールは、カサラス・ブランデーのグラスを前にして、一杯やりながら、坐り、おもしろそうに、よそのテーブルのほうをじっと見ていた。そのテーブルには、勇気がなくなったマタドールが、剣を捨てて、またもとのバンデリリェロにかえったもう一人のマタドールや、ひどく世帯やつれのした二人の淫売といっしょに腰かけていた。
せり売りの商人は、街角で、友人たちと立ち話しをしていた。背の高いボーイはアナルコ・サンディカリストの会合で、発言の機会をねらっていた。中年のボーイは、カフェ・アルバレスのテラスに腰かけ、小壜のビールを飲んでいた。ルアルカの所有者の女主人はもうベッドで、両脚の間に長枕をはさみ、仰向けになって眠っていた。大柄で、ふとっていて、正直で、きれい好きで、のんき者で、きわめて信心深く、もう二十年も前に死んだ夫のことを考え、毎日さびしがり、その夫のために祈ることを続けていた。病気のマタドールは、ひとり、自分の部屋のベッドの上で、口にハンカチを押しあてて、うつ伏せになっていた。
さて、人のいなくなった食堂では、エンリーケは、包丁を椅子の脚にくくりつけるナプキンの最後の結び目を結び、椅子をもちあげた。包丁のついた脚を前のほうに突き出し、その二丁の包丁が、それぞれ頭の左右から、まっすぐ前方を指すようにして、椅子を頭上にかまえた。
「こいつは重い」と彼は言った。「おい、パコ、すごく危険だ。やめろ」彼は汗をかいていた。
パコは彼と向かい合って立ち、エプロンをひろげて持ち、その端を折っておのおの手のなかにたくしこみ、親指を上に、人差指を下に向け、牛の眼をひくように、ひろげた。
「まっすぐかかってこい」と彼は言った。「牛のようにまわるんだ。好きなだけ、何回でもかかってこい」
「いつパスをするか、わかってんのか?」とエンリーケがたずねた。「三回パスしたら、つぎは半ヴェロニカのほうがいいんだ」
「よしきた」とパコが言った。「だが、まっすぐかかってこいよ。さあ、いいか。来い、かわいい小牛君!」
頭をさげて、エンリーケはパコに向かっていった。パコは包丁の刃が彼の腹部のすぐ前をかすめる瞬間、そのすぐ前方でエプロンを振った。包丁は、かすめるとき、彼には、先端が白く、全体が黒い、すべすべした、本物の角だった。エンリーケがやりすごされて、向きを変え、ふたたび突進してきたとき、それは脇腹を血まみれにして怒り狂った牛の肉塊だった。どすんどすんと蹄の音をたてて通り過ぎたかと思うと、猫のように向きを変え、パコがゆっくりケープを振ると、ふたたび突進してきた。それから、牛はまたもや向きを変えて、突進してきた。彼は牛が突込んでくる地点を見きわめようと、左足を二インチ前に出しすぎた。すると、包丁は通り過ぎず、酒袋でも刺すように、らくらくとパコの身体に刺しこまれた。突然、体内に突きささった固い鋼鉄の周囲から、焼きつくような熱いものが、ふきあげてきた。エンリーケは叫び声をあげた。「わあ、大変だ! 早く抜かなくちゃ! 抜かなくちゃ!」その間にも、パコはエプロンをひろげたまま、椅子のほうへよろけかかった。エンリーケは椅子を引っぱったが、包丁は、彼のなかヘ、彼のなかへ、パコのなかへと、くいこんでいった。
包丁はやっと抜けたが、パコはなま温かい血の池がひろがっていく床の上にしゃがみこんでいた。
「ナプキンをあてがうんだ。おさえていろ!」とエンリーケが言った。「しっかりおさえていろ。俺は走って医者を呼んでくる。出血をおさえていなきゃだめだぞ」
「ゴムの吸い玉がないかな」とパコが言った。彼は闘牛場でそれを使うのを見たことがあった。
「俺はまっすぐ向かっていったんだ」とエンリーケが泣きながら言った。「ただ、危いってことを見せようと思っただけなんだ」
「心配するなよ」とパコが言った。遠くから聞こえるような声だった。「だが、医者は連れてきてくれ」
闘牛場なら、みんなが俺をかつぎあげて、手術室へ走って、連れていくだろう。そこへ着かないうちに、股動脈《こどうみゃく》が空《から》になったら、僧侶を呼ぶだろう。
「さっきの神父さんのどちらかに知らせてくれ」とパコが下腹部をナプキンでしっかりおさえながら、言った。こんなことが自分に起ろうなどとは、彼は信じられなかった。
しかし、エンリーケは夜間も開いている救急所へ向かって、サン・ジェロニモ街を走っていった。パコはひとりっきりで、はじめ身体を起こしていたが、やがてうずくまり、それから床の上にばったり倒れた。それで終りだった。浴槽の栓を抜くと、きたない水が流れだして空になるように、生命が身体から抜け出していくのを感じた。彼はおびえ、気が遠くなるように感じ、懺悔《ざんげ》の言葉を言おうとして、最初の文句を思い出したが、それを言う前に、できるだけ早くこう言った。「おお、神さま、わたくしの愛のすべてを捧げるべきあなたさまのご気分を害しましたことを心からおわびいたします。わたくしは固く決心して……」彼はあまりにも力が弱ったことを感じ、床にうつ伏せになっていたが、事はきわめてすみやかに終ってしまった。切断された股動脈は信じられぬほど早く空になった。
救急所の医者が、エンリーケの腕をつかんで附き添っている一人の巡査を伴って、階段をあがってきたとき、パコの二人の姉はまだ|大通り《グラン・ビア》の映画館にいた。二人はこのガルボの映画にひどくがっかりしていた。いつもすばらしい豪華ときらびやかさにかこまれているのを見なれていたのに、この大スターはこの映画ではみじめに落ちぶれた境遇にいたからである。観客はこの映画がまったく気にいらないので、口笛を吹いたり、足踏みしたりして、抗議していた。ホテルのほかの人たちはみな、事故が起きたときにやっていたのとほとんど同じことをやっていた。ただ、二人の僧侶は祈祷をすませ、眠りにつく用意をしていた。白髪まじりのピカドールは、二人の世帯やつれした淫売のいるテーブルへ酒をもっていって、飲んでいた。しばらくすると、彼は女の一人といっしょにカフェから出ていった。その女は、勇気をなくしたマタドールが酒をおごってやっていた女だった。
パコ少年はこうしたことについては、また、これらの人たちのすべてが、翌日、さらに翌々日、するであろうことについては、なんら知らないままだった。彼は、彼らが実際にどのように生涯を送ったか、また、どのように生涯を終えたか、知るよしもなかった。彼は、彼らが生涯を終えたことさえ知らなかった。彼は、スペインの諺《ことわざ》にあるように、幻想にみちて、死んだのだ。彼は、生きている間に、その幻想のどれかを失うだけの時がなかったし、最後にあたって、懺悔《ざんげ》の言葉をすませる時もなかったのだ。
彼は、マドリッドのすべての人びとを一週間にわたって失望させたガルボの映画に失望する時さえなかったのだ。
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(付)キリマンジャロの雪
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キリマンジャロは標高一万九七一〇フィートの、雪におおわれた山で、アフリカの最高峰と言われている。西側の頂上はマサイ語で「ヌガイエ・ヌガイ」つまり、「神の家」と呼ばれている。その西側の頂上の近くに、ひからびて凍りついた| 豹《ひょう》 の| 屍《しかばね》がある。豹がそのような高いところで何を求めていたのか、だれも説明したものはいない。
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「驚いたことに、痛みがなくなったんだ」と彼が言った。「それで、やって来たなって、わかるんだ」
「ほんと?」
「ほんとだとも。だが、このにおい〔壊疸による悪臭〕は、まったくすまないね。きっとまいってるんだろ」
「そんなこと! おねがいだから、そんなこと言わないで」
「あいつらをごらん」と彼が言った。「あいつらがあんなふうに来るのは、おれの姿なのか、においなのか?」
その男が横になっていた簡易ベッドはミモザの木の広い木陰にあり、木陰をとおして平原のぎらぎら光っているあたりを見ると、大きな鳥が三羽、みだらな格好で地面にうずくまり、空には十数羽の鳥が飛びかい、その影がすばやく地上を横切っていた。
「トラックがこわれた日から、ずっとあそこにいるんだ」と彼が言った。「地上におりたのは今日がはじめてだ。小説で使いたくなることもあるかと思って、初めのうちは、ずいぶん注意して、飛びかう様子を観察してたんだがね。でも、いまじゃあ、馬鹿げたことだよ」
「そんなこと言わないで」と彼女が言った。
「おれは、ただ、しゃべっているだけなんだ」と彼が言った。「しゃべってたほうが、ずっと楽なんだ。でも、君に迷惑はかけたくないよ」
「迷惑じゃないってことわかってるくせに」と彼女が言った。「何もしてあげられないので、すごくいらいらしてるだけなのよ。飛行機がくるまで、できるだけ楽にしてあげようと思ってるのよ」
「それとも、飛行機がこないとわかるまでか」
「おねがい、あたしにできること、教えて。あたしにできることだって何かあるわよ」
「脚《あし》をちょんぎってくれないか。そしたら、痛みもおさまるから。もっとも、そいつも怪しいがね。それとも、ぼくを射ち殺してくれ。君はもう射撃がうまくなったからな。おれが射撃を教えたんだっけ?」
「おねがいだから、そんな言いかたしないで。何か読んであげましょうか?」
「読むって、何を?」
「本の鞄につめてあって、まだ読んでないもの」
「きいてなんかいられないんだ」と彼が言った。「しゃべっているのが一番らくなんだ。喧嘩でもすれば、時間をすごせるよ」
「あたし、喧嘩なんかしないわ。喧嘩したいなんて思ったこともないわ。もう、喧嘩、やめましょう。どんなにいらいらしてもね。きっと、あの人たち、今日あたり、別のトラックで、もどってくるかもしれないわ。きっと、飛行機がくるわ」
「動きたくないんだよ、おれは」と男が言った。「君を楽にするためでなければ、いま動くなんて意味ないんだ」
「それは卑怯よ」
「男をできるだけ安楽に死なせてやれないのかい、悪口などを言わずに? おれに悪態をついたって、はじまらないじゃないか」
「あなたは死なないわ」
「馬鹿言うなよ。いま死にかかってるんだぜ。あいつらにきいてみろよ」彼は大きな汚ならしい鳥が、ふくらんだ羽毛の中に毛のぬけた首を突っこんで、うずくまっているほうを見た。四羽めの鳥がまいおりてきて、足早に走って、ゆっくり、よたよたと、仲間のほうへ歩いていった。
「あんなのはどのキャンプの周りにもいるわ。気にとめないことよ。あなた、あきらめないかぎり、死にっこないわよ」
「どこで、そんな文句、読んだんだい? まったく、お馬鹿さんだね、君は」
「あなた、だれかほかの人のことを考えててもいいのよ」
「ちえっ」と彼は言った。「それはおれの仕事だったんだぜ」
それから彼は、横になり、しばらく静かにし、炎熱《えんねつ》のちらちら光る平原を、向こうの茂みの端まで見渡した。二、三頭の牡羊《トミー》が黄色い砂地に小さく白く見え、はるかかなたには、シマウマの群れが茂みの緑を背景に白く見えた。ここは、丘を背にして、大きな木立の陰になった気持ちのよいキャンプ地で、水もよく、すぐ近くには、ほとんど水のかれかかった泉があって、そこには毎朝、サケイ〔砂漠地帯に住む鳥。飛ぶのが早い〕が飛んでいた。
「本、読みましょうか?」と彼女がたずねた。彼女は彼の簡易ベッドのわきのディレクターズチェアに腰かけていた。「そよ風がでてきたわ」
「いや、けっこう」
「きっと、トラックが来るわ」
「トラックなんてどうでもいいよ」
「あたしは気になるわ」
「君はおれがどうでもいいことをいろいろと気にするんだね」
「そういろいろでもないわ、ハリー」
「ひとつ飲もうか?」
「あなたにはいけないことになってるのよ。ブラック〔ジョゼフ・ブラック。医師。体熱の研究で有名〕の本に、アルコールはいっさいさけるようにと書いてあったわ。飲んじゃだめよ」
「モロー!」と彼は叫んだ。
「はい、旦那《ブワナ》さま」
「ウィスキー・ソーダをもってこい」
「はい、旦那さま」
「いけないわ」と彼女が言った。「そういうのがあきらめるってことなのよ。あなたにはよくないって書いてあるわ。よくないのよ、あなたには」
「いや」と彼は言った。「おれにはいいんだ」
こうして、もう、人生がすっかりおしまいになるのだ、と彼は考えた。こうして、もう、人生にしめくくりをつける機会もないのだろう。こんなふうにして、酒を飲むとか飲まないとか口論しながら、おしまいになってしまうのだ。壊疽《えそ》が右脚にできてから、彼は苦痛がなくなり、苦痛とともに、恐怖がなくなり、いま感じていることは、ただ、ひどい疲労と、これでおしまいになるのだという憤《いきどお》りだけだった。いまやって来つつあるこのことについては、彼はほとんど好奇心がなかった。何年もの間、それは彼の心につきまとっていたのだ。だが、いまとなっては、それ自体はなんの意味もなかった。すっかり疲れきってしまうと、それもどんなに安楽になるか、不思議だった。
いまとなっては、充分にわかってよく書けるようになるまではと書かずにとっておいたことも、もう書くことはないだろう。そうだ、書こうと試みて失敗しなければならないことも、もうないだろう。きっと、書く力がなかったのだ。だから、のばしのばしして、書きだすのをおくらせていたのだ。そうだ、いまとなっては、それもわからないことだが。
「来なければよかったんだわ」と女が言った。彼女はグラスを手にもち、唇を噛みながら、彼を見ていた。「パリにいたら、こんな目にあわなかったのよ。あなたはいつもパリが好きだと言ってたわ。あたしたち、パリにいることもできたし、また、どこへでもいけたんだわ。あたしはどこへだっていったわ。あなたがいきたいところならどこへでもいくって、あたし言ったわ。狩猟がお望みなら、ハンガリーにいって、愉快に猟ができたんだわ」
「君のろくでもない金でね」
「あんまりだわ」と彼女が言った。「お金はいつもあたしのものだし、あなたのものでもあったんだわ。あたしは何もかもすてて、あなたがいきたいところならどこへでもいったし、あなたがしたいことをしてきたわ。でも、ここへは来なければよかったんだわ」
「君はすてきだと言ったぜ」
「あなたが丈夫《じょうぶ》のときは、そうよ。でも、いまは、大きらいよ。あなたの脚がどうしてそんなふうになったのか、わからないわ。あたしたちがこんな目にあうなんて、どんなことをしたというの?」
「おれのしたことといえば、はじめ掻き傷をつくったとき、ヨードチンキをつけ忘れたことだけだぜ。それから、おれはそれにちっとも注意しなかったんだ。ばいきんにおかされることなんてなかったからだ。それから、あとで悪くなってから、ほかにいい消毒液がなかったので、あの弱い石炭酸液を使ったのだが、そのため、毛細血管が麻痺《まひ》して、壊疽《えそ》ができたんだ」彼は彼女を見た。「それだけだろう?」
「そんなこと言ってるんじゃないわ」
「もし、半人前のキクユ族〔イギリス植民地ケニヤの西部に住む文化的に最もすぐれた原住民〕の運転手なんかじゃなく、いい機械工を雇っていたら、オイルを点検してくれて、トラックのベアリングを焼ききるようなことはなかったろう」
「そんなこと言ってるんじゃないわ」
「君が、君の家族や、あのいまいましいオールド・ウェストベリや、サラトガや、パームビーチ〔いずれもアメリカの有名な保養地〕の連中と別れて、おれに熱をあげたりしなかったら……」
「だって、あたしあなたを愛してたのよ。あんまりよ。いまだって、愛してるわ。愛しててよ。あなたはあたしを愛してないの?」
「うん」と男は言った。「愛してるとは思わないよ。愛したことなんかない」
「ハリー、何を言ってるの? 頭が変よ」
「いや。変になる頭なんかもってないよ」
「それは飲まないで」と彼女が言った。「あなた、おねがい、それは飲まないで。できるだけのことをしなけりゃいけないのよ」
「そいつは君がやってくれ」と彼は言った。「おれは疲れた」
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≪いま、彼は心の中で、カラガッチ〔ブルガリアのギリシア・トルコ国境近くの町〕の停車場を見ていた。彼は荷物をもって立っている。いま、暗闇をつっきってくるのはシムプロン・オリエント鉄道〔ロンドンまたはパリと、イスタンブールまたはアテネを結ぶ国際列車〕のヘッドライトだ。彼は退却のあとで、トラキア〔エーゲ海の北東岸、ダーダネルス〕を去ろうとしていたのだ。それは彼が書くためにとっておいたことの一つだった。それと朝になって、食卓で、窓を見ると、ブルガリアの山々に雪が見えたこと。ナンセン〔南極探検家。 第一次大戦後にこの地方で国際連盟の一員として働いた〕の秘書が、あれは雪じゃないかとナンセンにたずねると、老人はそれを見て、いや、あれは雪じゃない、雪には早すぎる、と答える。すると、秘書はほかの女たちにその言葉をくりかえす。違うんですって、雪じゃないのよ。すると、女たちは口をそろえて言う。雪じゃないわ、あたしたち間違えてたんだわ。だが、それはまさしく雪だった。彼は住民の交換計画をやりはじめたとき、その人たちを雪の中へ送りだした。あの冬、彼らが踏んで、死んでいったのは雪だった。
あの年、ガウェルタール〔オーストリアの山地にある峡谷〕で、クリスマスの一週間ずっと降ったのも雪だった。あの年、彼らは木こりの家で暮らしたが、そこには部屋の半分を占める大きな四角い陶器のストーブがあり、彼らはブナの葉をつめたマットレスの上で眠った。そのとき、脱走兵が雪の中を、血だらけの足で、やってきた。彼は憲兵がすぐあとからやってくると言った。彼らは彼に毛の靴下をやり、その足跡が吹雪で消されるまで、おしゃべりして、憲兵を引きとめておいたのだった。
シュルンツ〔オーストリア西部の山地の町〕では、クリスマスの日に、雪があまりきらきらするので、居酒屋《ワインシユトゥーベ》から外を見ると、眼が痛んだ。みんなが教会から家に帰ってくるのが見えた。彼らが、橇《そり》で踏み固められ、小便で黄色くなった川ぞいの道を、歩いてのぼったのは、あそこだった。川ぶちには松の生えたけわしい丘があった。スキーが肩に重かった。そして、そこで、マドレーネルの小屋の上の雪渓を雄大に滑り降りたのだ。雪はケーキにかけた砂糖の衣のようになめらかに見え、白粉《おしろい》のように軽かった。小鳥のように滑り降りるとき、スピードがついて音もなく驀進《ばくしん》して行くのを、彼は思いだした。
あのとき、彼らはマドレーネルの小屋で、一週間、吹雪に閉じこめられ、煙った中で、カンテラの灯りで、トランプをやった。レント氏が負ければ負けるほど、賭金がせりあがった。とうとう、彼は何もかもすってしまった。何もかも、スキー教室でもうけた金と、シーズン中の全収入と、それに、〈もとで〉までも。長い鼻の彼がトランプをめくって、それを≪|めくら札《サン・ヴワール》≫で切るのが眼に見えた。そのころは、賭がはやっていた。雪が降らないときは、賭をし、雪が降りすぎたときも、賭をした。彼はいままで賭をして過ごしたあらゆる時のことを思いだした。
だが、彼は、そのことについては一行も書いたことがなかった。また、あの寒い、晴れ渡ったクリスマスの日のことも書いていなかった。あの日、山々は平原の向こうにくっきりと見え、ガードナーが飛行機で戦線を越え、休暇で帰るオーストリアの将校の列車を爆撃し、敵がちりぢりになって逃げるところを機銃掃射《きじゅうそうしゃ》したのだ。ガードナーがあとで、食堂へはいってきて、そのことを話しはじめたときのことを、彼は思いだした。みんなはしんとした。そのとき、だれかが「このいまいましい人殺しめ!」と言った。
あのとき彼らが殺したのは、その後、彼がいっしょにスキーしたのと同じオーストリア人だった。いや、同じじゃない。あの年ずっといっしょにスキーしたハンスは、カイゼル猟兵隊に属していたのだ。二人でいっしょに製材所の上の小さな谷間を上って兎狩りに行ったとき、パスービオ〔イタリア北部の山〕の戦闘のことや、ペルチカとアサローン〔ベニスの北西の町〕の攻撃のことを語りあった。だが、そのことはまだ一語も書いてないのだ。モンテ・コルノ〔イタリア北部の山〕のことも、シエーテ・コムムのことも、アルシエードのことも書いていないのだ。
いくたびの冬を、フォラルベルク〔オーストリアの山地、チロルの近く〕とアルルベルク〔オーストリア西部地方〕で過ごしたことだろう? 四冬だ。すると、彼は思いだした。ブルーデンツまで歩いて行ったとき、狐を売りにきた男に会った。あれはみんなで土産物を買いにいったときだった。上等の桜桃酒《キルシュ》のさくらんぼの種の味。凍った雪の表面に粉雪のなだれを起こすスキーの急滑降。「ハイ! ホー!ロリーは言った」と歌いながら、最後のストレッチを急な谷へと滑り降り、道をまっすぐに走って、果樹園の中を三度曲がって通りぬけ、濠を越え、宿のうしろの凍りついた道にでた。ビンディングをたたいてゆるめ、スキーを蹴ってはずし、宿の木の壁に立てかけた。ランプの灯りが窓からもれ、中では、煙の立ちこめた、新酒の香りのする暖かさに包まれ、みんながアコーディオンをひいていた≫
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「パリではどこで泊まったっけ?」と彼は、いま、アフリカにきて、隣のディレクターズチェアに腰かけている女にきいた。
「クリヨン〔コンコルド広場付近にある高級ホテル〕よ。知ってるくせに」
「おれが知ってるわけないじゃないか?」
「わたしたちがいつも泊まったところよ」
「いや、必ずしもそうじゃなかった」
「あそこと、サン・ジェルマン〔セーヌ河南岸のパリの繁華街〕のアンリ四世館よ。あなた、そこが好きだと言ったでしょう」
「好きだとかなんだとかいうのは糞溜《くそだめ》みたいなものさ」とハリーが言った。「おれはその上にのっかって〈とき〉をつくる雄鶏なのさ」
「どうしても助からないというときには」と彼女が言った。「あなたは、あとに残してゆくものを、なにもかも、消し去らなきゃ、気がすまないの? なにもかも奪い去らなきゃならないの? 馬も奥さんも殺し、鞍《くら》や鐙《アーマー》までも焼いてしまわなきゃならないの?」
「ああ」と彼が言った。「君のろくでもない金がおれの鎧《アーマー》だったんだ。おれのスウィフトであり、おれのアーマー〔スウィフトとアーマーは、ともにシカゴの缶詰会社の大金持ち。鎧にかけたしゃれ〕なんだ」
「やめて」
「よろしい。やめよう、君をいじめたくないから」
「もう、ちょっと手遅れよ」
「じゃあ、もっといじめよう。そのほうがおもしろいからね。君といっしょにやるのがほんとうに好きだったたった一つのことが、いまじゃできないんだからね」
「いいえ、それは嘘よ。あなたはいろんなことをするのが好きだったわ。それに、あなたがしたがったことは、あたしなんでもしたわ」
「ああ、ごしょうだから、自慢はやめてくれ」
彼は彼女を見た。彼女は泣いていた。
「いいかい」と彼は言った。「こんなことをするのをおもしろがっているとでも思ってるのか? おれはどうしてこんなことをしているのかわからないんだ。たぶん、君を生かしておくために、君を殺そうとしているんだろう。話をはじめたときは、おれもちゃんとしていた。こんなことを言いだすつもりじゃなかった。それが、いまは、いかにも気違いじみて、むやみと君に残酷になろうとしている。ねえ、おれの言うことなんか気にしないでくれ。おれは、ほんとに、君を愛してるんだ。それはわかってるね。君を愛してるようにほかの人を愛したことなんか一度もないんだ」
彼はいつもの嘘にずるずるとはまりこんでいった。その嘘で彼はパンとバターをかせいできたのだ。
「あなた、やさしいかたね」
「この牝犬《めすいぬ》め」と彼は言った。「金持ちの牝犬め。こりゃ詩だ。おれの頭は、いま、詩でいっぱいなんだ。たわごとや詩でね。たわごとみたいな詩でね」
「やめて。ハリー、どうして、あなたは、いま、悪魔にならなきゃならないの?」
「おれはなんにも残していきたくないんだ」と男は言った。「おれはあとにものを残していきたくないんだ」
* * *
もう夕方だった。彼はしばらく眠っていた。太陽は丘のうしろに沈み、平原は一面にかげり、小さなけものがキャンプの近くで食物をあさっていた。首をひょこひょこさげ、尻尾をふりまわしながら、それらがいま森林からかなりはなれたところまで来ているのを、彼はじっと見ていた。鳥はもはや地上に待ってはいなかった。みな一本の木に重そうにとまっていた。前よりずっと数が多くなっていた。付添いの少年がベッドのそばに坐っていた。
「|奥さま《メムサーイブ》は猟に行かれました」と少年が言った。「旦那《ブワナ》さま、ご用は?」
「いや、用はない」
彼女は肉を手にいれるために出かけたのだ。彼が猟の鳥獣をながめるのが好きなことを知っているので、彼が見ることのできる平原のこの小さな地域を荒らさないように遠くへ出かけたのだ。あいつはいつも思慮深い女だ、と彼は考えた。知っていることや、本で読んだことや、耳にしたことについて。
あいつと知りあったとき、おれがすでにだめな男になっていたことは、あいつの責任ではなかった。こちらが心にもないことを言っているのだということ、ただ習慣から、いい気分になりたいために言っているのだということなど、どうして女にわかるだろうか? おれが心にもないことを言うようになってからは、真実を語っていたときより、嘘をついたほうが女にはるかに効き目があったのだ。
嘘をついたというより、語るべき真実がなかったということだ。人生を充分に愉しんだし、その人生もおしまいになっていたのだ。すると、おれは、違った連中と、金をもっとたくさんもって、同じ場所でも最上の人々と、また、はじめての人々と、ふたたび人生をつづけはじめたのだ。
考えることをやめてしまうと、それはまったくすばらしかった。心をしっかりきめていたので、多くの人のように、あんなふうに、めちゃくちゃになることがなかったのだ。いままでやってきた仕事がもうできなくなってしまったから、そんなことは見向きもしないのだという態度をとったのだ。だが、心の中では、こういう連中のことを、非常な金持ち連中のことを、書いてやろうと思っていた。ほんとうは自分はこの連中の仲間ではなく、連中の国にはいってきたスパイであり、そこを立ち去って、その国のことを書けば、自分の書いていることの意味がわかっている作家によって、一度は、その国のことが書かれたということになるのだ、と思っていた。だが、おれはそれを書くことはないだろう。なぜなら、毎日、書かないで、安逸《あんいつ》をむさぼり、自らが軽蔑しているような人間になってしまい、才能を鈍らせ、書こうとする意志を弱め、その結果、けっきょく、まったく書かなかったからだ。いま知りあっている連中は、彼が仕事をしていないときのほうが、ずっと気楽につきあえる連中なのだ。アフリカは、彼の人生の盛りのとき、もっとも愉しかったところだった。だから、再出発のためにここに来たのだ。二人はサファリをするために安楽を最小限度にきりつめたのだ。つらいことはなかった。だが、ぜいたくもなかった。で、そんなふうにして修業の生活にもどってゆけるものと考えていたのだ。なんとかして、自分の魂から脂肪を拭いとることができるのだと考えていたのだ。ちょうど、ボクサーが山にこもって労働したり修業したりして肉体から脂肪を燃焼させるようにだ。
あいつもそれを好んだのだ。それ、すてきだわとも言った。あいつは刺激のあるもの、場面の変化をともなうものなら、なんでも、好きだった。そうすれば、新しい人々に会え、物事が愉快になるからだった。それに、おれのほうも仕事をする意志の力がもどってくるという錯覚をいだいたのだ。ところで、こんなふうにしてことが終わるとしても、そして、そのとおりだということがよくわかっていたが、背骨が折れたからといって自分の身体を噛む蛇《へび》のように振り返ってはならないのだ。こんなになったのもあの女が悪いからではない。あの女じゃなくたって、別の女でもこうなったろう。自分が嘘で生きてきたのなら、嘘をつきとおして死のうとすべきなのだ。丘の向こうに銃声がきこえた。
あいつは実に射撃はうまかった。この金持ちの牝犬、この親切なおせっかい、おれの才能の破壊者は。馬鹿な。おれは自分で自分の才能を破壊したのじゃないか。おれを大事にしてくれたからといって、この女をとがめていいだろうか? おれは自分の才能を使わないでいたために、それを破壊したのだ。自分と自分の信ずるものを裏切ったためだ。知覚の尖端を鈍らせるほど大酒を飲んだためだ。怠惰《たいだ》や、無精《ぶしょう》や、俗物根性や、高慢や、偏見や、その他、あらゆることのためだ。いったい、これはなんだ? 古本のカタログか? とにかく、おれの才能はなんなのか? それはたしかに才能だ。だが、それを使わずに、おれは売物にしたのだ。おれの才能とはおれが実際にしたことではなく、つねに、おれがなしうるということなのだった。で、ペンや鉛筆ではなく、何かほかのもので、生活を立てる道を選んだのだ。ほかの女と恋すると、きまってその女は前の女より金持ちだったなんて、不思議なことではなかったろうか? だが、この女にたいするように、もはや恋していないで、嘘ばかりついているときに、だれよりも金をもっているこの女、いやというほど金のあるこの女、夫や子供のあったこの女、恋人があったが、満足しなかったこの女、おれを、作家として、男として、伴侶《はんりょ》として、また、誇らしい所有物として、心から愛しているこの女、この女をおれがまったく愛してもいないで、嘘ばかりついているときに、ほんとうに愛していたときよりも、この女の金に対してもっと多く報いてやれるとは、不思議なことだった。
おれたちはめいめいのすることに向くようにできているにちがいない、と彼は思った。どんなふうに生活を立ててゆこうと、そこにめいめいの才能があるのだ。おれはこれまでずっと、なんらかの形で、活力を売ってきたのだが、愛情があまり関与していないときに、かえって、支払われる金にたいして、ずっと多くのお返しをするものだ。おれはそういうことを発見したのだが、もうそれを書くこともないだろう。いや、たとえ、書く価値があるとしても、そんなことは書くまい。
そのとき、彼女の姿が見えて、原っぱを横ぎって、キャンプのほうに歩いてきた。乗馬ズボンをはき、ライフル銃をもっていた。二人の少年が一頭の牡羊《トミー》を肩にかついで、うしろからついてきた。まだ、なかなかきれいだな、と彼は思った。気持ちのいい肉体だ。ベッドのことでも、すばらしい才能と鑑賞力をもっている。美人というのではないが、好ましい顔立ちだ。大変な読書家で、乗馬や狩猟が好きだ。酒もたしかに飲みすぎる。まだかなり若いのに、夫に死なれ、しばらくは二人の子供に身を打ちこんだのだが、その子供たちも成長して彼女を必要とせず、いっしょにいるのを迷惑がった。彼女は、また、厩《うまや》の馬や、本や、酒に、身を打ちこんだ。夕方、夕食の前に読書するのが好きで、読みながら、スコッチのソーダ割りを飲んだ。夕食までには、かなり酔ってしまい、夕食にワインを一本飲むと、たいていは、酔って、寝てしまった。
それは恋人のできる前のことだった。恋人ができると、あまり飲まなくなった。酔って寝る必要がなくなったからだ。だが、恋人たちは退屈だった。自分を退屈させたことのない男と結婚していたので、こうした恋人たちにはまったく退屈してしまったのだ。
やがて、子供の一人が飛行機の墜落《ついらく》事故で死に、それからというもの、恋人をほしがらなかった。それに、酒もうさをはらす麻酔剤にはならなかったので、新しい生活をはじめなければならなかった。ふいに、孤独感に、ひどくおびえた。だが、求めたものは、自分が尊敬できる男だった。
ことの起こりはきわめて簡単だった。あいつはおれの書くものが好きで、おれの送っていた生活をつねづねうらやんでいたのだ。おれがしたいとおりのことをしているものと思ったのだ。あいつがおれをものにした手段と、とうとう、ほんとうにおれを愛するようになった事の次第は、すべて、あいつが自らのために新しい生活をうちたて、おれが過去の生活の残骸《ざんがい》を売りはらっていったという、よくある成り行きの一部分にすぎなかった。
おれは生活の安定のためにそれを売りはらったのだ。安逸をむさぼるためでもあった。それは否定できない。そのほかに、どんなためだったろう? おれにはわからない。あいつはおれのほしいものはなんでも買ってくれたろう。それはわかっている。それに、すごくいい女だった。ほかの女と同じように、あいつとすぐにベッドにはいりたかった。いや、むしろ、あいつと、はいりたかった。ほかの女より金持ちだし、とても気持ちがいいし、観賞力があるし、決して泣きわめくようなことがなかったからだ。ところが、いま、あいつが立て直したこの生活も終わろうとしているのだ。それも、二週間前、とげが膝に掻き傷をつくったとき、おれがヨードチンキを使わなかったからなのだ。あのとき、二人はウォーターバックの群れを写真にとろうと前進していたのだった。ウォーターバックは首をあげて立ち、鼻づらで空気をかぎながら、あたりをうかがい、ちょっとでも音がしたら茂みにとびこもうと、耳をぴんと立てていた。あのときも、写真をとらないうちに、逃げられてしまったのだ。
このとき、彼女がやってきた。
彼は簡易ベッドの上でふりむき、彼女のほうを見た。「やあ」と彼は言った。
「あたし、牡羊《おひつじ》を一頭、仕止めたわ」と彼女が言った。「あなたにいいスープができそうよ。それに、クリム〔アメリカの粉ミルクの商品名〕をいれて、マッシュポテトをつくってもらうわ。気分、どう?」
「ずっといいよ」
「すてきじゃない? きっとそうだと思ってたわ。でかけたとき、あなた眠ってたのよ」
「よく眠ったよ。遠くまでいったのかい?」
「いいえ、あの丘をちょっとまわったところよ。牡羊《トミー》を一発でみごとに仕止めたわ」
「君の射撃の腕はすばらしいよ」
「あたし好きよ。アフリカも好きだわ。ほんとうに。あなたさえ丈夫なら、こんなに愉しいことないわ。あなたといっしょに猟にきたのがどんなに愉しかったか、あなた、わからないでしょうね。あたし、ここが好きになったわ」
「おれも好きだよ」
「ねえ、あなた。あなたの気分がいいのを見るのがどんなにすばらしいか、わからないでしょう? さっきみたいなご気分のときは、あたし、たまらないのよ。もうあんなふうな言いかたなさらないわね? 約束してくださる?」
「だめだ」と彼が言った。「なんと言ったか覚えていないからな」
「あなた、あたしをめちゃめちゃにする必要なんかないのよ。そうでしょう? あたしは、あなたを愛して、あなたのしたいことをしてあげたいと思ってる中年女にすぎないのよ。あたしは、もう二度も三度も、めちゃめちゃになったのよ。これ以上、あたしをめちゃめちゃにしないでしょうね?」
「おれは、ベッドで、君を二度も三度もめちゃめちゃにしたいんだ」と彼が言った。
「そうよ、そういうやっつけかたがいいのよ。あたしたち、そんなふうに、めちゃめちゃにされるようにできてるんですもの。明日《あす》、飛行機が来るわ」
「どうしてわかる?」
「確信があるの。きっと来るわよ。少年たちは焚火《たきび》をたくための材木や草をすっかり用意してるのよ。今日も下へおりていって、見てきたわ。着陸する余地は充分あるし、両端に焚火の用意もできてるわ」
「どうして明日くると思うんだ?」
「きっと来るわ。もう予定の日が過ぎてるんですもの。来たら、町にいって、あなたの脚をなおしてもらい、それから、めちゃめちゃにやっつけっこしましょうよ。あんな恐ろしいおしゃべりはなしよ」
「一杯飲もうか? 陽も沈んだし」
「どうしても飲みたいの?」
「もう飲んでるよ」
「じゃあ、いっしょに飲むわ。モロー、ウィスキー・ソーダを二つもっといで!」と彼女は叫んだ。
「蚊よけのブーツをはいたほうがいいよ」と彼は言った。
「身体を洗ってからにするわ……」
暗くなっていく中で、二人は飲んだ。そして、まさに日が暮れようとして、射撃のできる光ももうなくなったころ、一頭のハイエナが原っぱを横ぎって、丘の陰にかくれた。
「あいつは毎晩あそこを横ぎるんだ」と男が言った。「毎晩、二週間つづけてなんだ」
「夜、なき声を立てる奴ね。あたし、気にしないわ。でも、いやらしいけものね」
いっしょに酒を飲みながら、いま、彼はなんら苦痛を感じなかった。ただ、同じ格好で寝ているのが不快なだけだった。少年たちが火を焚くと、その影がテントの上で踊った。彼はこの心地よい屈従の生活を黙認したい気持ちがふたたびわいてくるのを感じた。こいつはたしかに、とてもやさしくしてくれた。おれはこの午後、残酷で不当な仕打ちをしつづけた。こいつは立派な女だ。ほんとに、すばらしい。すると、ちょうどそのとき、自分が死にかかっているのだという気がしてきた。
それは勢いよくやってきた。水や風のような勢いではなく、急に、いやな臭いのする空虚のような勢いだった。そして、奇妙なことに、あのハイエナがその空虚の端をするするとすりぬけてゆくように思われた。
「どうしたの、ハリー?」と彼女がたずねた。
「いや、べつに」と彼は言った。「君、向こう側へ移ったほうがいいよ。風上だから」
「モローが包帯をとりかえてくれた?」
「ああ、もう硼酸《ほうさん》を使うだけなんだから」
「気分はどう?」
「ちょっとふらふらする」
「あたし、テントの中で身体を洗ってくるわ」と彼女が言った。「すぐ出てきてよ。いっしょに食事して、それから、簡易ベッドを中に入れましょう」
だから、と彼は心の中で考えた、喧嘩をやめてよかった。おれはこの女とあまり喧嘩したことがなかった。好きだったほかの女とはひどく喧嘩して、いつも、けっきょくは、喧嘩の腐蝕《ふしょく》作用によって、お互いにもっているものを殺してしまったのだ。おれはあまりにも愛しすぎ、あまりにも求めすぎたので、いまは何もかもすりへらしてしまったのだ。
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≪彼は、パリを出る前、喧嘩し、そのあげく、コンスタンチノープルヘひとりでやってきた、あのときのことを思いめぐらした。ずっと女を買いつづけ、それがすんだあとも、寂しさをまぎらすことができず、いっそうひどくなるばかりだったので、あの女、最初の女、自分をすてた女に手紙を書き、寂しさをまぎらすことができないでいると言ってやった……あるとき、レジャンスの外で君を見かけたような気がしたときは、まったく気も遠くなり、胸苦しくなったとか、どこか君に似ている女がいたので、ブールヴァール〔パリ市の外周を走る環状道路〕にそって、あとをつけようとしたが、人違いだとわかって、はじめに見かけたときの気持ちを失うのがこわかったとか、書いてやった。どんな女といっしょに寝ようが、それはただ君をますます思いだすばかりだったとか、どうしても君を愛さずにはいられないことがよくわかっているから、君のしたことなどなんとも思っちゃいないとか、書いてやったのだ。おれはこの手紙をクラブで大まじめになって書き、パリの事務所に返事をくれるよう書き添えて、ニューヨークヘ郵送したのだ。そのほうが安全に思われたのだ。それから、その晩は、心の中が空《うつ》ろで苦しくなるほどその女がたまらなく恋しくなり、タクシム〔イスタンブールの繁華街〕の酒場のあたりをうろつき、一人の女をひろって、夕食につれだしたのだ。それから、いっしょにダンスしにいったのだが、その女はダンスがまずかったので、情欲的なアルメニア人の商売女に乗りかえた。その女は火傷《やけど》するばかりに腹をこすりつけてきた。その女は喧嘩のあげく、イギリスの砲兵下級士官から奪いとったのだった。その砲兵は外に出ろと言ったので、二人は暗闇の中の、路上の丸石の上で、取っ組み合いをした。相手のあごのわきを二度ほどひどくなぐりつけたが、相手がへたばらないので、これは本式の喧嘩になったと覚悟した。砲兵はおれの胸を打ち、眼のふちをなぐりつけてきた。おれは左手を振り廻して、一撃くらわせたが、砲兵はおれの上に倒れかかってきて、おれの上衣をつかみ、袖をひきちぎった。おれはそいつの耳のうしろを二度なぐりつけ、相手をおしのけるようにして、右手でたたきのめした。砲兵は頭を先にして、ぶっ倒れた。そこヘ、憲兵がやってくる音がしたので、女といっしょに逃げだした。二人でタクシーに乗りこみ、ボスフォラス海峡にのぞんだリミリ・ヒッサヘ車を走らせ、一回りして、涼しい夜気の中をもどってきて、ベッドにはいった。女は一目でわかるように、女盛りを過ぎた感じだったが、すべすべした肌で、バラの花びらを思わせ、蜜《みつ》のようで、腹がなめらかで、乳房が大きく、腰の下に枕をあてがう必要がなかった。明け方の光の中で、女はまったくだらしのない格好をしていたが、その女の目を覚まさないようにして、そこを出、上衣は片袖がもぎれていたのでかかえ、眼のふちに黒いあざをつけて、ペラ・パレスに現われたのだった。
その同じ夜、おれはアナトリア〔小アジアのこと〕に向かって出発したのだ。そして、その旅の終わりごろ、阿片をとるために栽培しているケシの畑を一日じゅう馬に乗っていったが、しまいには、感覚がおかしくなり、距離感がすっかり狂ってしまったことが思いだされるのだ。そこは、てんで何も知らない、新しく到着したばかりのギリシャのコンスタンティヌス一世の将校たちを交えて、攻撃を加えたところで、砲兵隊は敵の部隊に砲撃をあびせ、イギリスの観戦武官は子供のように叫び声をあげていた。
それは、白いバレーのスカートをつけ、リボンのついたそりかえった靴をはいた死人をはじめて見た日だった。トルコ兵は次々と群がって押しよせてきた。スカートをはいた兵隊が逃げだすと、将校たちが彼らの間にピストルを射ちこみ、やがて、自分たちも逃げだした。おれも、イギリスの観戦武官もいっしょに逃げだし、おれの胸は痛み、口は一セント銅貨を噛むような味がした。岩陰で休んだが、トルコ軍は相変わらず群がってやってきた。そのあと、思いもよらないことを見たし、さらにそのあとで、もっとひどいことを見た。だから、あのとき、パリに帰っても、その話をすることもできなかったし、その話をきくのもたえられなかった。そして、通りがかりのカフェには例のアメリカの詩人がいて、コーヒーの受け皿を眼の前につみかさね、じゃがいもみたいな顔に間抜けた表情をうかべながら、一人のルーマニア人とダダの運動の話をしていた。そのルーマニア人はトリスタン・ツァラ〔詩人、ダダの唱導者〕という名前だと言い、いつも片眼鏡《かためがね》をかけ、頭痛もちだった。それから、いまでは喧嘩もすっかりおわり、気違い沙汰《ざた》もすっかりやみ、また愛しはじめた妻のいるアパートヘもどって、家はいいなと思った。郵便物は事務所からアパートまで回送された。こうして、ある朝、前に書いた手紙の返事が、お盆にのせられてやってきた。そして、その筆蹟を見て、身体じゅうぞっとし、その手紙をほかの手紙の下にすべりこませようとした。だが、妻は、「あなた、その手紙、だれからなの?」と言った。こうして、あの生活も、始まったかと思うと、終わってしまったのだ。
おれは女たちとすごした愉しかった時や喧嘩のことを思いだした。あいつらはいつも喧嘩をするには一番いい場所を選んだのだ。それに、なぜ、おれが一番いい気分のときに、きまって、あいつらは喧嘩をおっぱじめたんだろう? おれはそのことについてはまだ一行も書いていない。というのも、最初のうちは、だれをも傷つけたくなかったからだし、そのうちに、そんなことを書かなくても、充分、書くことがあるように思われてきたからだった。だが、いつかはそれを書くだろうと、そういつも思っていたのだ。書くことはたくさんあるのだ。おれは世の中が変わるのを見てきたのだ。ただの事件というのじゃあない。事件はいろいろ見てきたし、人間も観察してきたが、もっと細かな変化を見てきたのだ。いろいろ違ったときに、人間がどのように違うか、思いだすことができるのだ。おれはその中にはいりこんで、それを観察していたのだ。それを書くのがおれの任務なのだ。だがもう書くこともないだろう≫
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「気分はどう?」と彼女が言った。彼女はいま身体を洗って、テントからでてきたところだった。
「いいよ」
「お食事にする?」
彼女のうしろに、モローが折たたみ式の食卓をもち、もう一人の少年が皿をもっているのが見えた。
「おれは書きたいんだ」と彼が言った。
「力をつけるためにスープを飲まなきゃいけないわ」
「おれは、今晩、死ぬんだ」と彼は言った。「力をつける必要なんかないさ」
「芝居がかったことを言うのはよしてよ、ハリー、おねがい」と彼女が言った。
「もっと鼻をきかせろよ。おれは、もう、腿《もも》の半分まで腐ってきてるんだぜ。スープなんかいじりまわしたって、しょうがないんだ。モロー、ウィスキー・ソーダをもってこい」
「おねがい、スープを飲んで」と彼女はやさしく言った。
「いいとも」
スープは熱すぎた。彼はカップにいれたまま、飲めるくらいにさめるまで待っていなければならなかった。それからやっと、むかつかないで、それを飲みほした。
「君はいい人だ」と彼が言った。「おれのことなんか、かまわないでくれ」
彼女はみんなからよく知られ、よく愛されている例の顔で彼を見た。それは『拍車』とか『都会と田舎」とかの雑誌によく出る顔だが、ただ酒のために、またベッドのことのために、いくぶんまずくなっていた。が、『都会と田舎』には、あんな見事な乳房や、あんな役立つ腿や、あんなに軽やかに腰のあたりを愛撫する手が載ったためしがなかった。だが、彼女のよく知られた快活なほほえみに眼をやって見ているうちに、彼はふたたび死がやってくるのを感じた。こんどは、襲いかかってくるのではなかった。蝋燭《ろうそく》の火をちらつかせ、焔を高く燃えたたせる風のひと吹きのように、フーッと吹いてきた。
「あとで、おれのかやを出して、木からつるし、焚火をしてもらおう。おれは今晩はテントの中へははいらないよ。動いたってしょうがない。晴れた晩だし、雨も降らないだろう」
つまり、このようにして、死ぬものなのだ、聞こえないささやきにとりかこまれて。そうだ、もう喧嘩することもないだろう。それは約束できる。いままで一度も経験したことのない経験を、いまになって台なしにすることもないだろう。ことによると台なしにするかもしれない。お前はなんでも台なしにするからな。だが、おそらく、台なしにすることもないだろう。
「君は口述筆記はできないだろうね?」
「習わなかったけど」と彼女が答えた。
「いや、いいんだ」
もちろん、時間がないのだ。もっとも、焦点をあわせて、うまくやれば、すべてのことを一つの段落《パラグラフ》に圧縮することもできないわけではなさそうだが。
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≪湖の上の丘に、すき間を白いモルタルで塗ったログ・ハウスがあった。戸口のそばの柱にベルがついていて、人々を食事に呼びいれた。家のうしろは畑で、畑のうしろは林だった。ロンバルディア〔イタリア北部の平原地〕種のポプラが一列に家から桟橋《さんばし》まで並んでいた。ポプラの木立《こだち》はほかに岬にそってのびていた。一本の道が林の端にそって丘をのぼっていたが、おれはその道ぞいに黒イチゴを摘んだものだ。その後、あのログ・ハウスは焼けてしまい、暖炉の上の、鹿の足でつくった銃架にかけてあった銃もすべて焼けてしまい、あとでみると、弾倉の中で鉛がとけ、台尻も焼けて、銃身が灰の山の上にころがっていたが、その灰は洗濯用の大きな鉄鍋に入れる灰汁《あく》をつくるのに用いられた。そして、その銃身を玩具にして遊んでもいいかと、祖父にきくと、祖父はいけないと言った。焼けてもまだ自分の鉄砲だというわけなのだ。そして、祖父はほかの鉄砲をどんなことがあっても買わなかった。また、もう狩りをすることもなかった。いまでは、家が同じ場所に板材で建てられ、白くペンキで塗られ、玄関からポプラやその向こうの湖が見えた。だが、もう銃はなかった。ログ・ハウスの壁の上の鹿の足にかかっていた鉄砲の銃身は外の灰の山の上にころがり、だれ一人それに手をふれる者はいなかった。
戦後、|黒い森《ブラック・フォレスト》で、鱒《ます》釣りの川を借り切ったことがあるが、そこへ歩いて行くには二つの道があった。一つはトリベルクから谷間をおりて、白い道の両側に並んでいる木立の陰を谷間の道ぞいに回り、それから、横道にそれて丘をのぼり、シュヴァルツヴァルト〔ブラック・フォレストのドイツ名〕風の大きな家々のある小さな農場をいくつも過ぎて、その道が川を渡るところまで行くのだった。そこがみんなで釣りをはじめたところだった。
もう一つの道は森の端までけわしい道をのぼり、それから、松林を通って丘の頂上を横切り、そして、牧場の端に出、この牧場を横ぎって橋のほうへおりて行く道だった。流れにそってカバの木立があり、流れは大きくはなく、幅が狭く、澄んでいて、早かった。流れがカバの木々の根元をえぐっているところは、淵になっていた。トリベルク〔シュヴァルツヴァルトにある保養地〕のホテルでは、経営者にとっては景気のいいシーズンだった。すごく気持ちのいいところで、みんなとても親しくなった。翌年はインフレがやってきた。前の年にもうけた金ではホテルを開くために必要な物資を買いいれるのに不充分で、経営者は首をくくって死んだ。
こういうことは口述筆記させることもできる。だが、コントルスカルプ広場〔パリ、セーヌ河左岸、ルクセンブルク公園の東にある広場〕のことはだめだ。あそこでは、花売りが街頭で花を染め、染料が乗合バスの発車するあたりの舗道の上に流れた。それに、いつも老人や女がワインやマール〔ブドーのしぼりかすでつくった安物のブランデー〕を飲んで、酔っぱらっていた。それから、子供たちが寒さに鼻水をたらしていた。カフェ・デ・ザマトゥールには汚れた汗と貧乏と泥酔《でいすい》の臭いがしたし、おれたちの住んでいた部屋の下のバル・ミュゼットには淫売婦どもがいた。門番《コンシェルジュ》の女はフランス共和国軍の騎兵を自分の部屋でもてなして、馬の毛をたてたヘルメット帽が椅子の上にのっていた。廊下の向こうの部屋は競輪の選手を亭主にもつ女が借りていたが、その朝、牛乳店で『自動車《ロト》』を開いて、亭主が初出場の大レース、パリ=トゥール間のレースで三着になったという記事を見たときの彼女の喜び。真赤になって、声をだして笑い、それから、その黄色いスポーツ新聞を手にしたまま、わめきながら二階へあがっていった。バル・ミュゼットを経営していた女の亭主はタクシーの運転手で、おれが早朝の飛行機に乗らなければならなかったとき、ドアをたたいて、おれをおこし、二人で出発前に酒場のトタン張りのカウンターで白ワインを一杯ずつ飲んだ。そのころのその界隈の隣人たちはみな貧乏だったので、おれはよく知っていた。
あの広場《ブラス》のあたりには二種類の人間がいた。酒飲みと、スポーツ好きとだ。酒飲みは酔っぱらって貧乏を退治し、スポーツ好きは運動をして貧乏を忘れた。彼らはパリ・コミューン党員の子孫で、自分たちの政策を知るのになんの苦労もなかった。彼らは自分たちの父親や親類や兄弟や親友をだれが射殺したか知っていた。あのときには、ヴェルサイユ宮殿の正規軍がはいってきて、コミューン自治政府のあとのパリを占領し、荒らくれた手をした者や、人民帽をかぶっていたり、労働者だとわかる何らかのしるしをつけている者を、手当たり次第、捕えて、処刑してしまったのだ。そして、ああした貧乏の中で、馬肉屋とワイン共同組合から道を渡ったあの地区で、おれは将来書くはずのすべての作品の最初の部分を書きだしたのだ。パリであんなに好きなところはほかにはなかった。枝を広げた木々、下のほうを茶褐色にペンキで塗った古ばけた白い漆喰《しっくい》の家々、あの円い広場の細長い緑色の乗合バス、舗装の上の紫色の花の染料、カルディナル・ルモワンヌ街〔パリの街路。この七十四番地にはまだ無名の若いヘミングウェーが住み、創作に励んでいた〕の丘からセーヌ河へ下る急な坂道。その反対側の、ムフタール街の狭いごたごたした界隈。パンテオン〔セーヌ左岸第一の丘。フランスの偉人の壁画や銅像などが数多くある〕のほうへ上る通りと、いつも自転車で通ったもう一つの通り。あれはその界隈では唯一つのアスファルト道路だった。タイヤがなめらかに滑り、背の高い、間口の狭い家々や、ポール・ヴェルレーヌ〔フランスの象徴派の詩人〕が死んだという背の高い安ホテルがあった。おれたちが住んでいたアパートには部屋が二つしかなく、おれは一カ月六〇フランでそのホテルの最上階の一室をかり、そこで執筆した。そこからは、屋根や、煙突や、パリのあらゆる丘が見えた。
アパートからは、薪炭商の店が見えるだけだった。その店ではワインも売っていた。ひどい酒だった。馬肉屋のおもてには金色の馬の首がかけてあり、開いた窓には赤味のさした黄金色の馬肉がぶらさがっていた。それから、緑色のペンキを塗った共同組合の店。そこではワインを売っていた。上等で安かった。そのほかは漆喰の壁と隣家の窓だった。夜、だれかが酔っぱらって街路に倒れ、酪酊《めいてい》などは存在しないのだと宣伝で信じこまされていたが、あの典型的なフランス式の酔いどれ口調で、うめいたり、うなったりしていると、隣人たちは窓を開け、それから、ぶつぶつ言うのだった。
「お巡りはどこだ? 用のないときにかぎって、あの野郎はいつもその辺にいやがる。どこかの門番の女と寝てやがるんだろう。お巡りを呼んでこい」しまいには、だれかが窓から、バケツに一杯、水をぶっかける。すると、うめき声が止む。「ありゃ、なんだ? 水か。そいつあ、頭がいいや」すると、窓は閉まる。おれの家政婦のマリーは八時間労働制に抗議して、こう言った。亭主が六時まで働けば、帰りみちにほんのちょっぴり飲むだけで、あんまり無駄遣いなんかしないさ。五時までしか働かないとなると、毎晩酔っぱらって、びた一文なくしちまうさ。働く時間が短くなって困るのは、労働者の女房《にょうぼう》さ」≫
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「スープ、もっと飲まない?」と、そのとき、女が彼にきいた。
「いや、どうもありがとう。とてもうまかった」
「もうすこしどう?」
「ウィスキー・ソーダがほしいね」
「身体によくないわ」
「そうだ。≪おれの身体にはわるいよ≫コール・ポーター〔アメリカの流行歌作者、代表作、ビギン・ザ・ビギン、ナイト・アンド・デイ〕が作詞作曲して歌にあるな。≪お前さんがおれに熱をあげてるってきけばよ≫」
「そりゃ、あたしだって、あなたに飲ませたいわ」
「ああ、そうだろう。ただ、おれの身体によくないんだな」
女が行ってしまったら、と彼は考えた。好きなだけ飲もう。好きなだけとはいかないまでも、いまあるだけだ。ああ、疲れた。疲れすぎた。すこし眠るとしよう。彼は静かに横になった。死は、そこにはいなかった。どこか別の通りへでも曲がっていったにちがいない。二人づれで、自転車に乗って、まったく物音も立てず、舗道《ほどう》を走っているのだろう。
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≪そうだ、おれはパリについてまだ一度も書いたことがない。心にかけているパリについてそうなんだ。まだ一度も書いたことのないほかのことについてはどうなんだろう?
農場とか、銀灰色のヤマヨモギとか、灌漑《かんがい》用水路の流れの早い澄んだ水とか、濃緑色のウマゴヤシのことはどうだろう? 山道は丘の中にのぼってゆき、夏の牛たちは鹿のように内気だ。秋、彼らを山からおろすときのうめき声、絶え間ない物音、土ぼこりをまきあげてのろのろ動く集団。そして、山々のかなたには、夕暮れの光の中に、くっきりと鋭い線を描く高峰。月光を浴びて山道を下ってくると、月は谷間に照り渡っている。暗闇の中の森林を通りぬけるとき、眼が見えないので馬の尻尾をつかみながら、下りてきたこととか、書こうと思っているあらゆる物語を、いま、彼は思いだした。
あのとき、牧場に残され、だれにも乾草をやってはいけないと言われていたあの間抜けの雑役《ざつえき》少年のこと。それから、飼料《しりょう》をぬすもうと立ちよったフォーク家のあのくそじじいのこと。このじじいは以前その少年を使っていたときは、よくなぐったものだが、そのとき、少年がいけないと言うと、じじいはまたなぐるぞと言った。少年は台所からライフル銃をもってきて、じじいが納屋《なや》にはいりこもうとするところを射った。みんなが牧場に帰ってきたときは、じじいが死んでから一週間たっていた。死体は家畜の檻《おり》の中で凍りつき、犬どもに食いちぎられていた。だが、おれは死体の残りを毛布に包んで橇《そり》に積みこみ、縄《なわ》をかけ、少年に手伝わせて、それをひかせた。それから、二人でスキーをはき、道路の上を引っぱり、町まで六十マイルの道を下り、少年を警察に引き渡した。少年は逮捕されるなどとはまるっきり考えていなかった。義務を果たしたのだし、おれとは親友だから、自分はほうびをもらえるものだと思っていた。少年はこの老人がどんなに悪いやつだったか、自分のものでもない飼料をどんなふうに盗みだそうとしたかを、みんなにわかってもらおうと、老人を運びだす手伝いをしたのだが、治安官《シェリフ》に手錠をはめられたとき、少年はそれがほんとうだとは信じられなかった。それから、泣きはじめた。それはおれが書かずにとっておいた話の一つだ。あそこのことなら、すくなくとも二十はいい話を知っているのだが、まだ、一つも書かなかった。なぜだろうか?≫
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「なぜだか教えてくれ」と彼が言った。
「なぜって、何が、あなた?」
「いや、なんでもない」
彼を手に入れてからというもの、彼女はあまり飲まなくなったのだ。だが、彼は生きのびたとしても、彼女のことは決して書くことはないだろう。彼には、いま、そのことはよくわかっていた。また、あの連中のだれかれについても書くことはないだろう。金持ちなんて退屈な奴で、酒を飲みすぎるのだ。あるいは、すごろく遊びをやりすぎる。退屈で、同じことをくりかえしている。彼は貧乏なジュリアン〔ジュリアンとは『偉大なるギャツビー』の作者フィッツジェラルドをさす。最初、この短編を雑誌に発表したときは、はっきりフィッツジェラルドと記してあった〕のことを思いだす。ジュリアンは金持ちにたいしロマンチックな畏敬の念をもち、あるとき、「大金持ちは君や僕とは違った人種だ」という書き出しの短編〔「金持ちの少年」をさす〕を書いた。すると、だれかがジュリアンに、そうだ、奴らはおれたちより金がある、と言った。だが、その言葉はジュリアンにはユーモアとは受けとれなかった。彼は金持ちとは特殊な魅惑的な種族だと考えていたのだ。それで、それがそうでないとわかったときは、それは何事にもまして、彼をすっかり打ちのめしてしまった。
彼は打ちのめされた人間をいままで軽蔑していた。理解できるからといって、好きになる必要はないのだ。おれはなんでも打ち負かせるんだ、と彼は考えた。こっちが気にしなけれは、おれをいためつけるものなんてないんだから。
よし、それじゃあ、死ぬことなんか気にしないことにしよう。彼がいつも恐れていたのは苦痛だけだった。苦痛が長すぎるくらい続いて、彼をすっかりすりへらしてしまうまで、彼だって、ほかの人のように、苦痛を耐え忍ぶことができたのだ。だが、ここには恐ろしく彼をいためつけたものがあった。そして、それがまさに彼をこなごなにしそうだと思われたとき、苦痛はとまっていた。
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≪彼は、ずっと前に、砲兵将校のウィリアムソンがドイツ軍の巡邏《じゅんら》隊の一人が投げた手榴弾《しゅりゅうだん》にやられたときのことを思いだした。それは、ウィリアムソンが、その夜、鉄条網をくぐって壕《ごう》にはいろうとしていたときだった。彼はわめきながら、自分を殺してくれと、みんなに嘆願した。肥っていて、すごく勇敢で、立派な将校だった。ただ、大げさな身振りをする癖があった。だが、その夜、鉄条網にひっかかり、探照灯《たんしょうとう》に照らしだされ、臓腑《ぞうふ》がとびだし、鉄条網にくっついていた。だから、みんながまだ生きている彼を壕に運びこむとき、その臓腑を切り離さなければならなかった。おれを射ち殺してくれ、ハリー。ごしょうだから、射ち殺してくれ。あるとき、みんなで、主は堪えがたきものを与え給わず〔新約聖書、コリント人への第一の手紙十章十三節参照〕ということについて議論したことがあったが、そのとき、だれかが、それはある時期がくれば苦痛は自然に消えてしまうという意味だという説を述べた。だが、おれは、いつも、その夜のウィリアムソンのことは忘れられなかった。自分で使おうといつもとっておいたモルヒネの錠剤を全部ウィリアムソンにあたえてしまうまで、彼の苦痛は、どうしても、おさまらなかったのだ。しかも、そのモルヒネもすぐには利かなかった≫
[#ここで字下げ終わり]
それでも、いまのおれの苦痛はとても楽だ。このままで、ずっと続いてゆくのなら、何も心配することはない。ただ、もっといい相手がいっしょにいてほしいだけだ。
彼は、いっしょにいたい相手のことをちょっと考えた。
いや、と彼は思った。何をするにしても、長くやりすぎたり、遅くなりすぎたりすると、仲間にいつまでもそこにいてもらうわけにはいかない。みんなは帰ってしまう。パーティが終わり、いま、お前は、招待主の女主人と二人だけなのだ。
おれは何もかもうんざりだが、死ぬことにもうんざりしているんだ、と彼は思った。
「うんざりした」と彼は声にだして言った。
「何がなの、あなた?」
「何でもめちゃに長くやりすぎるとね」
彼は、自分と焚火《たきび》の間にある彼女の顔を見た。彼女は椅子の背によりかかっていたが、火の明かりがその美しい輪郭の顔を照らしていた。彼女は眠そうだった。火の明かりがとどかなくなったすぐそこで、ハイエナが音をたてるのがきこえた。
「おれは書いていたんだ」と彼は言った。「でも、疲れた」
「あなた、眠れそう?」
「どうやらね。どうして君はテントにはいらないんだ?」
「あなたとここに坐っていたいの」
「何か変な気がしないか?」と彼はたずねた。
「いいえ。ちょっと眠いだけよ」
「おれは変な気がするんだが」と彼が言った。
彼は死がふたたび近づいてきたような気がしたのだ。
「ね、おれがいままでに一度もなくしたことのないものは好奇心だけだね」と彼が言った。
「あなたはなんにもなくしやしないわ。あたしの知っているうちで一番完璧なかたですもの」
「ちえっ」と彼は言った。「女ってなんにもわからないんだ。それはなんなんだね? 君の直感かい?」
というのは、ちょうどそのとき、死がやってきて、簡易ベッドの足もとにその頭をもたせかけ、彼がその死の息をかぐことができたからだ。
「死神が大鎌《おおがま》と〈しゃれこうべ〉をもっているなんて信じちゃいけないよ」と彼は彼女に言った。「そいつは自転車に乗った二人の巡査だったってかまわないし、鳥だったっていい。それとも、ハイエナのような大きな鼻面《はなづら》をしてたっていい」
死は、いま、彼のほうへやってきた。が、それはもはや形がなかった。ただ、空間を占めているだけだった。
「あっちへ行けと言ってくれ」
それは向こうへは行かず、なおも、すこし近づいてきた。
「なんてひどい息をしてやがるんだ」と彼はそれに向かって言った。「この鼻もちならぬ野郎め」
それは、なおも、彼に近づいてきた。もう、彼はそれに話しかけることもできなかった。口がきけないと見てとると、それは、なおも、すこし近づいてきた。いま、彼は黙ったままそれを追っぱらおうとするのだが、それは彼の上にのしかかってきて、その重みをすっかり彼の胸の上にのせた。それがそこにうずくまり、彼のほうも動いたり、話したりできないでいると、女の声が聞こえた。「旦那《ブワナ》さまはおやすみになったわ。そうっと簡易ベッドをもちあげて、テントの中に連んでちょうだい」
彼は、それを追っぱらってくれと彼女に言おうとしても、口がきけなかった。それは、いまでは、さらに重くうずくまっていて、彼は息もできなかった。そのとき、みんなが簡易ベッドをもちあげた。と、ふいに、何もかも具合よくなり、重みが胸からとれた。
朝だった。夜が明けてからかなりたっていた。彼は飛行機の音を聞いた。それはごく小さく見えたが、やがて、大きな円を描いた。少年たちは駆けだしていって、灯油で火を焚き、その上に草をつみ重ねた。平坦な土地の両端に大きな焚火《たきび》がもえ、朝のそよ風がそれをキャンプのほうへ吹きつけていた。飛行機は今度は低空で、さらに二度|旋回《せんかい》し、やがて、下降し、機体を水平にすると、すうっと着陸した。そして、だれかが彼のほうへ歩いてきた。それは旧友のコムプトンで、スラックスにツイードのジャケットをきて、茶色のフェルト帽をかぶっていた。
「どうした、大将?」とコムプトンが言った。
「脚《あし》を悪くしてね」と彼は答えた。「朝食をたべないか?」
「ありがとう。お茶だけで結構だ。プス・モース〔欧州産の大型の蛾の一種。転じて小型機の機種名〕できたんでね。|奥さん《メムサーイブ》は連れてゆくわけにはいかないんだ。一人しか乗れないからね。トラックが途中まできているよ」
ヘレンはコムプソンをわきへ連れてゆき、何か話していた。コムプソンは前よりも明るい顔で帰ってきた。
「君をすぐ乗せよう」と彼が言った。「|奥さん《メムサーイブ》を連れにもどってくるがね。燃料を補給するために、アルーシャ〔キリマンジャロの西部に位置する町〕に寄らなけりゃならないかもしれない。すぐ出発したほうがいい」
「お茶はどうする?」
「お茶なんて、ほんとは、どうでもいいんだ」
少年たちは簡易ベッドをもちあげ、緑色のテントをいくつか回り、岩にそって下り、平原に出、もう草がすっかり燃えつきて、風にあおられ、あかあかと燃えている焚火のそばを通り、小型の飛行機のところへ来た。機内に彼を乗せるのは面倒だった。しかし、いったんはいってしまうと、彼は革のシートに深く腰かけ、脚を、コムプソンの座席の横にまっすぐ突きだした。コムプソンがエンジンをスタートさせ、乗りこんだ。彼はヘレンと少年たちに手をふった。がたがたという音が耳なれた唸《うな》りに変わると、機体がぐうっと回り、コムピー〔コムプソンの愛称〕がイボイノシシの穴に気をつけて見張っているうちに、機は唸り、がたんがたんと揺れ、焚火の間の平地を走り、最後にがたんと一揺れして、あがっていった。彼にはみんなが下に立って、手をふっているのが見え、丘のかたわらのキャンプがもう平べったく見え、平原がひろがり、木々のかたまりや、茂みが平べったくなり、一方、獲物の通る道がいくつか干あがった泉のところまでなめらかに走り、いままでまったく気づかなかった新しい水の流れが見えた。いまや、シマウマは小さな丸い背中だけになり、ヌーは大きな頭だけの点になって、長い指のように連なり、平原を横ぎり、のぼっていくように見えた。機影が彼らのほうに近づくと、ばらばらに散らばり、小さくなってしまい、その動きは疾走《しっそう》しているとは思えなかった。平原は見渡すかぎり灰色がかった黄色になり、眼前には、コムピーのツイードの背中と茶色のフェルト帽があった。それから、最初の山脈を越えると、ヌーがあとを追ってくる。それから、こんもり茂った緑の森林の急に深い谷や、うっそうと竹が茂っている斜面の山々を越え、それから、ふたたび、峰や窪地《くぼち》に刻みこまれた深い森林が見え、それを越えると、丘がなだらかに低くなり、それから、また平原になった。今度は暑く、紫がかった褐色の平原で、熱気のため動揺がはげしく、コムピーは病人の様子を見ようと、ふりかえる。やがて前方に、別の黒い山脈が現われた。
それから、機はアルーシャに向かって飛びつづけずに、左へ機首を向けた。燃料が足りると考えたことは明らかだ。見下ろすと、ふるいにかけたようなピンクの雲が地上すれすれの空中を動いているのが見えた。どこからともなくやってくる吹雪《ふぶき》の前ぶれの雪のようにも見えたが、それは、バッタが南方から飛来してくるのだった。それから、機は上昇しはじめた。東方に向かうらしかった。それから、暗くなり、嵐の中にはいった。はげしい雨で、滝の中を飛んでいるようだった。やがて、嵐をぬけると、コムピーがふりかえって、にたりと笑い、指さした。見ると、前方、視野いっぱいに、全世界のように幅広く、大きく、高く、日をうけて信じられないくらい白く、キリマンジャロの四角い頂きがあった。すると、彼はそこが自分の行こうとしているところだと知った。
ちょうどそのとき、ハイエナが闇の中で鼻をならすのをやめ、奇妙な、人間のような、ほとんど泣くような声をたてはじめた。女はそれをきいて、不安げに身を動かした。眼はさまさなかった。夢の中で、ロング・アイランド〔ニューヨーク州の南東端の島〕の自分の家にいた。娘が社交界にデビューする前夜だった。どういうわけか、父親がいて、ひどく無作法にふるまっていた。すると、ハイエナの声があまり大きいので、彼女は眼をさまし、一瞬、どこにいるのかわからず、ひどく不安だった。それから、懐中電灯をとりだし、ハリーが眠りこんでから運びこんだもう一つの簡易ベッドを照らした。彼の身体がかやの下に見えたが、どういうわけか、脚を外へつきだしていた。それはベッドのわきからぶらさがっていた。包帯はすっかりずり落ち、見るにたえなかった。
「モロー」と彼女は呼んだ。「モロー! モロー!」
それから、「ハリー、ハリー!」と言った。それから、声を高くした。「ハリー! ねえ、ハリー!」
答えがなく、寝息も聞こえなかった。
テントの外では、ハイエナがさっき彼女の目をさまさせたのと同じ奇妙な声を立てた。だが、彼女の胸の動悸《どうき》ははげしく、彼女にはその声は聞こえなかった。
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解説
人と文学
ノーベル賞作家ヘミングウェーの生涯は波乱にみちたものであった。一九六一年、愛用の猟銃で自殺したのだが、その翌年に出版された弟のレスターの書いた伝記『わが兄、アーネスト・ヘミングウェー』のなかに、「アーネストは暴力的な死に方をしたが、その生き方も暴力的だった」という言葉がある。この言葉こそヘミングウェーの生涯を適切に物語っているものといえよう。
ヘミングウェーはわれわれがふつう作家にたいしていだいているイメージとは、およそかけはなれた、きわめて行動的な人であった。それがへミングウェイのアメリカ的なところなのだが、ともかく、彼はたんに作家だというのではなく、ボクシングをやり、大魚を釣りあげる名手であり、猛獣狩りをやり、闘牛見物を好み、みずから進んで戦争に参加している。そして、そうしたスリルにみちた生活体験のすべてを作品に定着させたのだった。
〔生いたち〕
アーネスト・ミラー・ヘミングウェーは、一八九九年七月二十一日、アメリカ中西部のイリノイ州のシカゴの郊外、オーク・パークに生まれた。六人兄弟の二番目の長男だった。父のクラレンス・エドモンズは髭《ひげ》をたくわえた逞《たくま》しい医者で、母のグレース・ホールは信仰心のあつい、音楽好きの人であった。そして、アーネストは父から、まだ三歳にならないうちに釣り竿をあたえられ、十歳のときに、猟銃をあたえられ、しだいに逞しい男性的な男になっていった。
ヘミングウェー家は夏にはミシガン州のワルーン湖畔の別荘で過ごしたが、そこでヘミングウェーは釣りや狩りをたのしみ、恋愛も知った。そのころの経験が「インディアンの部落」「十人のインディアン」「事の終わり」などの短編になっている。
〔高校時代〕
オーク・パークの高校では、ヘミングウェーは高校の新聞の編集にたずさわり、いくつかの短編を発表した。オー・ヘンリーとか、リング・ラードナーなどのアメリカの作家におおいに学んだらしい。ミシガン州ワルーン湖畔の生活が材料になっていた。
こうした文学的活動のほかに、ヘミングウェーは狩猟のクラブに加わったり、フットボール、水泳・ボクシングなど、あらゆるスポーツをたのしんだ。男性的な青年だったのだ。だが、このころ、なぜか、数回にわたって家出をしている。孤独を好んだのかもしれない。そして、それがミズーリー州の新聞『キャンザス・シティ・スター』への就職という形で家を出ることになる。
〔新聞記者時代〕
高校を卒業する年の一九一七年の四月に、アメリカが第一次世界大戦に参戦したので、ヘミングウェーは卒業直前に兵役を志願したのだが、父は息子の戦死をおそれて反対したので、断念した。そこで、高校を卒業すると、伯父の知人の紹介で『キャンザス・シティ・スター』紙の記者となった。この記者時代はわずか七カ月だったが、のちの文体を重視する作家ヘミングウェーをつくるのにおおいに役立っている。たとえば、入社早々手渡された『文体心得』には次のような注意が記されていた。
「短い文章を用いよ、最初のパラグラフは短く。力強い英語を用いよ、肯定形を用い、否定形を用いるな」
「形容詞を用いるな。とくに、〈すばらしい〉〈華麗な〉〈雄大な〉などの極端な形容詞をさけよ」
〔第一次大戦〕
ヨーロッパの戦争は、しかし、ヘミングウェーをじっとさせてはおかなかった。彼はイタリア戦線の赤十字で志願兵を求めていることを知ると、さっそくそれに応募し、一九一八年五月、中尉として入隊し、イタリア戦線に加わった。が、まる二カ月とたたない、七月八日の真夜中、満十九歳になる二週間まえ、イタリアのフォッサルタという小さな村で、兵隊たちにチョコレートを配っていたとき、敵の迫撃砲弾《はくげきほうだん》が近くに落下し、「咳のような音がきこえ、チュー、チュー、チューとつづいて、いきなり熔鉱炉《ようこうろ》の戸をひきあけたみたいな閃光《せんこう》と唸り」に見舞われ、ヘミングウェーはその場に倒れ、気を失ってしまった。それは『武器よさらば』に描かれているとおりである。
担架で後方に移され、野戦病院に五日いて、やがてミラノの病院に後送されたのだが、検査の結果、砲弾の破片を二百二十七個も受けていて、その他に機関銃にも脚をやられていることがわかった。そして、手術を十数回も受けたが、なかなか回復しなかった。
このミラノの病院で、ヘミングウェーはアグネス・フォン・クロスキーというドイツ系のアメリカ人の看護婦と恋愛し、帰国後も結婚しようと考えていた。が、彼女が年上だったために彼女に拒否されてしまった。これが短編「ごく短い物語」や『武器よさらば』に利用される。
〔パリ時代〕
戦後、ヘミングウェーは帰国し、シカゴで当時有名な作家だったシャーウッド・アンダソンに会ったりして、文学者になろうと思う。そして、ハドレー・リチャードソンと恋愛し、結婚し、カナダのトロントの『スター』という新聞の海外特派員となって、パリに行く。パリではアンダソンの紹介状をもって、アメリカの女流作家ガートルード・スタインを訪ね、彼女のサロンに出入りしていた作家たちにも会い、作品を見てもらったりした。貧しい生活だったけれども、文学にうちこんだ充ちたりた日々であった。食べるものも食べられず、短編をせっせと書いていた。「キリマンジャロの雪」や、死後に出版になった『移動祝祭日』で生き生きと回想されているのが、このパリ時代のことである。
やがて、短編集『われらの時代に』が出、つづいて最初の長編小説『日はまた昇る』が出、へミングウェイは一躍有名な作家になった。一九二六年で、へミングウェイは二十七歳だった。この『日はまた昇る』は当時パリに集まっていた各国からの亡命者の放埒《ほうらつ》な生活を描いていて、若い人びとのあいだで愛読書になったのである。ヘミングウェーはこの長編が出た翌年のはじめ、すでに別居していたハドレーと正式に離婚し、夏、雑誌『ヴォーグ』のパリ駐在の婦人記者ポーリン・プァイファーと結婚し、翌一九二八年、アメリカに帰って来た。
〔『武器よさらば』〕
名作『武器よさらば』は第一次大戦の経験をもとにした長編だが、ヘミングウェーは、その年の三月にすでにパリで書きだしていたが、アメリカに帰っても、書きつぎ、完成しても、さらにそれに手を加え、ことに最後の章などは十七回も書きなおしたというほどの熱のいれようで、ようやく一九二九年九月にこれを出版した。へミングウェイという作家はそういう作家で、一言一句もおろそかにしない人であった。そういう努力のかいもあって、『武器よさらば』は非常な成功であった。多くの外国語に訳され、へミングウェイはこの一作でアメリカ一の作家とみなされるようになった。
〔一九三〇年代〕
ところで、『武器よさらば』が出てすぐ、一九二九年の十月に、ニューヨークの株式が急に暴落し、以来、一九三〇年代いっぱいアメリカはもちろん、世界じゅうが不景気になった。世間の人びとはみな経済問題、社会問題に目を向けた。しかし、ヘミングウェーはそうした世間に背を向けて、フロリダ州のキー・ウェストに住み、魚釣りのたのしみにふけった。そしてときどき海外旅行をこころみ、一九三二年にはスペインの闘牛のことを書いたノン・フィクション『午後の死』を、一九三五年にはアフリカの狩猟旅行を扱ったノン・フィクション『アフリカの緑の丘』を発表した。これはへミングウェイとしてのひとつの社会にたいする反抗の方法だったのかもしれなかった。(名作として知られている短編「キリマンジャロの雪」や「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」はこのアフリカの狩猟旅行の産物だった)
一九三六年、スペインに内乱が起こると、へミングウェイはこれに異常な関心を示し、翌年には新聞の特派員となって、スペインに渡り、政府軍を応援した。このときの体験から生まれたのが、彼の唯一の本格的な劇『第五列』と長編の大作『誰がために鐘は鳴る』である。
〔第二次大戦〕
第二次大戦では、へミングウェイは再び特派員となって大陸に渡り、前線の将兵とともに生活し、ときには報道員としての枠を越え、みずから銃を手にしたこともあった。パリをドイツ軍から解放した日には、地理にくわしい彼は連合軍の先頭に立っていたらしい。冒険とスリルをこのうえなく好んだのだ。
一九四五年、大戦が終わり、帰国して、キューバに居を定め、旅行のほかはほとんどそこで釣りをたのしみながら、執筆にはげんだ。彼は、一九四〇年にポーリンと離婚し、同じ年、『コリヤーズ』の婦人記者のマーサ・ゲルホーンと結婚していたのだが、一九四六年には、このマーサと離婚し、『タイム』の記者をしていたメリー・ウェルシュと結婚した。四度めの結婚になるわけだが、ヘミングウェーは結婚をまじめに考えているからこそ、結婚の相手を変えるのだという説なのだった。
〔晩年〕
第二次大戦後は、一九五〇年に、『河を渡って木立のなかへ』を『誰がために鐘は鳴る』以来十年ぶりに発表したが、評判は悪く、二年後の一九五二年に『老人と海』を出して、ヘミングウェー衰えずと、名声を回復し、一九五四年にはノーベル文学賞を受賞した。しかし、このころからしだいにヘミングウェーの創作力は衰えをみせていたようだ。
一九六〇年、高血圧の治療のため、ミネソタ州の有名なメイヨ・クリニックに入院し、十五回にわたって電気衝撃療法を受け、クリスマスにはいったん退院したのだが、まだ思わしくなく、翌一九六一年四月、再び入院し、六月の末に退院が許され、七月一日、キューバから数年前に移ってきていたアイダホ州のケチャムの山荘に帰ってきたが、以前は二二五ポンドあった体重が一五五ポンドとすっかり痩せおとろえていた。そして、翌朝七時半ごろ、銃声におどろいてメリー夫人が階下にかけつけたときには、ヘミングウェーは銃架の前に倒れ、顔全体が銃弾でふっとんでいた。ヘミングウェーは愛用の猟銃で死んだのだった。
『勝者には何もやるな』の成立
『勝者には何もやるな』がスクリブナーズ社から出版されたのは一九三三年十月二十七日で、前の第二短篇集『女のいない男たち』(一九二七)から六年たっていた。その間、ヘミングウェーは名作『武器よさらば』(一九二九)を上梓して、すばらしい人気作家になっていた。そして、この短篇集の初版二万三〇〇部という発行部数は、『われらの時代』の初版一三三五部、『女のいない男たち』の初版七六五〇部とくらべると、ヘミングウェーの人気の急上昇を端的に物語っているものであった。
このころ、ヘミングウェーは、『女のいない男たち』の解説でふれたように、パリからアメリカに帰り、フロリダ州の南端のキー・ウェストに住み、おりからの世界的な不況のなかで、そうした時代から逃避するかのように「釣りと猛獣狩りの名手として、またボクサー、万能スポーツ選手としての評判を得ていた」のだった。そして、一九三一年にはスペインに旅行し、闘牛見物に異常な興味を示し、闘牛の解説書・百科全書ともいえる大著『午後の死』をその翌年に出しているし、『勝者には何もやるな』の出版直後の一九三三年十一月には、東アフリカへ狩猟旅行《サファリ》に出かけ、猛獣狩りを愉しみ、その紀行『アフリカの緑の丘』を一九三五年に出している。
『勝者には何もやるな』はそうしたころのヘミングウェーの作品集である。収録された作品十四篇のうち、八篇は既に雑誌などに発表されたもので、もっとも古いものは『スグリブナーズ・マガジン」の一九三〇年八月号に出た「ワイオミングのワイン」で、もっとも新しいものは同じ雑誌の一九三三年四月号に同時に出た「スイス讃歌」と「博奕打ちと尼僧とラジオと」の二篇である。つまり、作者は一九二〇年代のものはすべて省き、三〇年代初期の作品のみから選んだわけである。そして、それに未発表の「世の光」「ひとりだけの道」「父親たちと息子たち」などの六篇を加え、計十四篇の作品集にしたのである。
ヘミングウェーは、のち、『われらの時代に』『女のいない男たち』『勝者には何もやるな』の三つの短篇集の作品群に、それ以後の「世界の首都」「キリマンジャロの雪」「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」「橋のたもとの老人」の中短篇の力作四篇を加え、さらに当時発表した劇『第五列』をトップに入れて、『第五列と最初の四十九の短篇』を一九三八年に上梓した。そして、その序文で彼は次のように述べている。
この本にはいろいろな種類の短篇がある。読者諸氏は好みのものをいくつか発見されることだろう。わたしはこれらを読みかえしたが、もっとも好きなものをあげると……学校の先生が教科書に入れたものを除き……「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」「異国にて」「白い象のような丘」「ひとりだけの道」「キリマンジャロの雪」「清潔で照明の明るいところ」、それに、いままでだれにも好まれなかった「世の光」という短篇ということになる。もちろん、ほかにもある。なぜなら、人は好きでなければ、作品を発表しないだろうから。
つまり、そこに収められた四十九の短篇はヘミングウェーの好きな自信作で、それを生前最後の短篇集として一冊にまとめたものなのである。ヘミングウェーの短篇集としては、以上のほかには、作者の死後に出たもので、『第五列とスペイン内乱の四つの短篇』が一九六九年に、ニック・アダムズを主人公とする短篇を一冊にまとめた『ニック・アダムズ物語』が一九七二年に、そして、生前未発表の短編を加えたフィンカ・ビヒア版『ヘミングウェー全短編集』が一九八七年に出版されている。
『勝者には何もやるな』のテーマと手法
『われらの時代に』はひとりの男の成長の過程を描いた一連の物語で、『女のいない男たち』はそのように成長した男がどのように絶望したかの物語集だったが、『勝者には何もやるな』はより深い絶望の物語であり、あきらめの境地に達した男の物語とも言える。そこにはもがきはなく、作者は静かに虚無の世界を眺めているかにみえる。
最初の「嵐のあとで」は、一読したところでは、難破船から物を盗みだそうとして失敗した男の話と受けとられよう。が、じつはよく読むと、まことに深い絶望の物語なのだ。男が船に近づいたときに、船から何かの破片がひっきりなしに流れ出ていて、それを上空の鳥たちがねらっていたのだ。そして、その破片が何であったかはこの短篇の最後の一行が暗示している。「鳥たちでさえ、おれよりも多くのものを船から手にいれたのだ」つまり、鳥の手に入れたのは船の乗客の腐った肉体の破片だったのだ。そうはっきりと作者は指摘しない。ひかえめな描写にとどめる。が、かえって、そこに作者の深い絶望を読みとるべきであろう。これはまことに強烈なニヒリズムの文学なのである。
「清潔で照明の明るいところ」は夜ふけのスペインのカフェである。つんぼの老人がひとりブランデーを飲んでいる。二人のボーイがあの老人は金持ちだが、先週自殺しようとしたのだと、噂話をしている。若いほうは妻の待っている家へ早く帰りたいのだ。しかし、年上のボーイは老人に同情している。人生は孤独なものだと知っているからだ。だから、若いボーイが老人を追いだし店を閉めたあと、年上のほうはひとり、すべてが無だ、無だ、とつぶやきながら、とある酒場にはいるのだ。そして、最後に考える、「ただの不眠症にすぎないのだ。たくさんの人がこれにかかっているにちがいない」と。
老人は金持ちなのだ。そして、酔っても酒をこぼすようなことはない。若いボーイが言うような「きたならしい」老人ではないのだ。ひとり静かに飲んでいる。そして、カフェを出て行く老人には「威厳」があったのだ。しかし、人生は孤独なものだ。ことに老人になるとそれはあまりにも明らかになるのだ。それを目にして、年上のボーイは無だ無だとつぶやいたのだ。これは虚無を的確にとらえたものとして得がたい名篇と言っていいだろう。また読者はこの作品にヘミングウェーのなみなみならぬ対比の手法を読みとるべきだろう。虚無を知る者、対知らぬ者、老人と年上のボーイ対、若いボーイと女を連れて町を行く兵隊の対比を。
「世の光」は小さな駅の待合室で汽車を待っている淫売婦たちの話である。作者は皮肉にもそのような淫売婦も世の光になりうると言うのである。肉体の象徴とも言える山のように大きな身体のアリスが禁欲の人であるキリストだと言うのである。アリスがきれいな声をしていると、くりかえし述べられていることでも、このことがわかる。男心とちがった女心の真実を描いてみせた佳作と言えよう。
「紳士よ、神が諸公を楽しく休ませ給わらんことを」は、はじめ一九三三年にパンフレットとして出たものを短篇集に収めたもの。若いころの作者が「キャンザス・シティ・スター」の記者としてその町の総合病院をカバーしていたころの経験にもとづいているという。ホレスという記者の見聞したものとして語られる。十六歳ぐらいの少年が≪性欲≫を≪罪≫であると考え、医者に相談するが、医者がとりあってくれないので、自らのペニスを切断して死ぬという話である。しかも、クリスマスの日に。これは前の短篇と同じくキリスト教にたいする諷刺である。ドック・フィッシャーという名前は漁夫《フィッシャー》を、つまり、キリストを思わせる。
「海の変化」は『女のいない男たち』の「白い象のような丘」を思わせる。若い男女の別れを二人の会話で見事に描きだしている。しかし、ニヒリズムは「白い象」より深刻だ。女は同性愛の相手のところへ行くのである。男はあきらめきれないのだ。足早に立ち去る女は男のほうを振り向かないが、男は女の行くのをじっと見ている。そして、最後のバーテンの「きっと、とてもすばらしい夏だったんでしょうね」という言葉が皮肉なひびきで男の耳に残る。
「ひとりだけの道」も『女のいない男たち』の「異国にて」や「いま横になって」に似た作品である。どれも第一次大戦で傷をうけたヘミングウェーの体験から生まれたものだ。だが、これは『女のいない男たち』の二作以上にニヒリズムの色濃い作品である。ここではニックの傷は深い。彼の傷はまだ充分には回復せず、彼はほとんど発狂せんばかりである。彼はある任務をおびて、まだ死体のごろごろころがっているイタリアの前線にもどってきて、旧友を訪れる。彼はヘミングウェーと同じように不眠症で、明かりがなければ眠れないのだ。そこで、旧友は彼にいっしょに昼寝しようとさそってくれる。寝台に横になると、初めて戦場に立ったときの恐怖がまざまざとよみがえってくる。それはまさに悪夢なのだ。その悪夢からさめると、ニックは周囲のイタリア兵たちにアメリカで魚釣りのためにバッタを捕えた愉しかった思い出を異常なまでに熱心に語る。それはかつての自己をとりもどそうとの努力なのだ。そして、旧友にさそわれ再び昼寝をすると、こんどは銃撃される夢を見る。ニックの傷はいたましく、いつまでも癒えそうもない。
「オカマのおふくろ」はやや軽い作品である。自分のためとか虚栄のためなら金を使うが、借金は払ったためしがないという、金にきたない闘牛士の話だが、これも人間失格の話として、作者の興味をそそったものだろう。
「一読者の手紙」も軽い作品だ。夫の梅毒について妻が医師にアドバイスを依頼するという手紙だが、作者はそのような純情な女の存在を皮肉っているのだ。
「スイス讃歌」は同じ急行列車を待つ三つの異った駅のカフェでのアメリカ人の挿話である。これも軽い作品に思われる。アメリカ人とウェイトレスたちとの会話のやりとりがヘミングウェーらしい軽快なもので、まことに愉しい読み物になっている。第二部でジョンソンという三十五歳のアメリカ人の作家が赤帽たちにシャンペンをおごり、ぼくらは事実上みんな離婚してるんだ、女房がほかの奴と結婚するために自分は請求された一万フランの金を払わねばならないんだ、などと話すが、しかし、「気は晴れなかった。ただいやな気分になったにすぎなかったのだ」これは作者自身の離婚の暗い体験を述べたものだろう。
「一日待って」はやや滑稽な設定だが、≪死≫におびえながらも強くそれに耐えようとする九歳のけなげな少年の姿を巧みに描いて、短いながらも、佳作といえるものである。
「死者の博物誌」も≪死≫を扱っている傑作である。エッセーと言うべきもので、小説的なうまみはないが、読者に強く訴えるところが多い。作者は第一次大戦で、またギリシア・トルコ戦争で数多くの死者をその目で見たし、大戦では自ら死ぬほどの負傷もした。その体験をもとに、ここでは科学者の目で≪死者≫を冷静に体系的に観察する。「人間の身体が解剖学的な線に沿って裂けず……気まぐれに砕けて粉々に飛び散るのは、驚くべきことであった」とか、「たいていの人は動物みたいに死ぬ。人間らしくは死なない」などという記述に読者は慄然とするであろう。
「ワイオミングのワイン」は「死者の博物誌」の重くるしさとは対照的に、小説家夫妻の夏のたのしい思い出が語られる。小説家は狩猟をたのしみ、フォンタンの家で(禁酒時代だったが)ワインをごちそうになる。猟と酒、そうしたセンセーションのたのしみにのがれている姿がヘミングウェー流のテンポの早いさわやかな会話で描かれている。
「博奕打ちと尼僧とラジオと」はヘミングウェーが一九三〇年モンタナで自動車事故をおこし、ビリングズの病院にいたときの体験から生まれたもの。物語は足を怪我して入院しているフレーザーというアメリカの小説家らしい人物の視点から語られる。中心人物は博奕打ちのメキシコ人カイエタノだ。彼は仲間の博奕打ちに撃たれて入院したのだが、警察に撃った男の名を言わない。それが彼らの仁義なのだ。そして自分は徹底的に運がついてなかったんだと言って、笑っているのだ。彼にはおよそ絶望というものはない。それに対し、フレーザーは考える人である。宗教は阿片であるという考えが、やがて、音楽も、愛国心も、酒も、ラジオも、博奕も、パンさえも阿片だという考えになる。そう考えるのだが、しかし、けっきょくは、酒と音楽にのがれようとするのである。読者はカイエタノとフレーザーとの対比の意味を読みとるべきであろう。
最後におかれた「父親たちと息子たち」はニック・アダムズが登場するいわゆる≪ニックもの≫の時間的に最後に位置する短篇である。(最初のものは『われらの時代に』の「インディアンの部落」である)ここではニックは三十八歳で父親になっていて、息子に、自分の子供時代のこと、いまは亡き自分の父親のことを、静かに語りきかせる。これは≪ニック・アダムズもの≫の最後の短篇として、またニヒリズムの色濃いこの短篇集の最後をしめくくるものとして、まことにふさわしい短篇といえる。人生のはげしい嵐をとおりぬけ、ひとつの諦観に達したニック(ヘミングウェー)の物語なのである。
「世界の首都」と「キリマンジャロの雪」
前述のように、ヘミングウェーは『武器よさらば』(一九二九)で人気作家になって以後、一九三〇年代は、スペインに闘牛見物に行き、闘牛のノンフィクション『午後の死』を一九三二年に出し、アフリカのサファリにでかけ、その紀行『アフリカの緑の丘』を一九三五年に出したりしたが、作品としては長篇はなくもっぱら短篇で、それらは『勝者には何もやるな』(一九三三)に収められたのである。そして、その後、『エスクワイア』の一九三六年六月号に闘牛の町を描いた「牛の角」(これは前述の『第五列と最初の四十九の短篇』に収められたとき「世界の首都」と改題された)が発表され、ついで、同じ雑誌の同じ年の八月号にサファリを題材にした「キリマンジャロの雪」が発表された。
「世界の首都」は闘牛の町マドリッドの一日のさまざまな様子をパコという少年を中心に描いている。パコは闘牛士の下宿屋《ペンション》に働くボーイで、闘牛士にあこがれ、自分も闘牛士になりたいと思っているが、この日、食堂の椅子の足にナイフをくくりつけ闘牛のまねごとをやり、あやまって死ぬ。この少年のことを作者は「がっしりした身体つきの少年で……きれいな歯と、姉たちがうらやむような肌をしていて……マドリッドを愛した」と書いているが、これは作者のこの少年への讃歌であり、闘牛への讃歌でもあるのだ。
「キリマンジャロの雪」はきわめて自伝的な作品である。主人公のアメリカの作家ハリーはアフリカに狩猟に来て、膝にトゲがささったのが原因で、いま右脚が壊疽《えそ》になり、死を待つばかりである。キャンプで横になり、過去のことを思い出す。スキーのこと、鱒《ます》釣りのこと、ギリシア・トルコ戦争のこと、パリのダダのこと、ワイオミングの農場のこと、書くべくしてまだ書けずにいるこれらのこと(これらはみな作者ヘミングウェーの経験したことである)が、回想として思いだされる。ハリーはそれらのことを書くべきだったのだ。それが書けなかった。それは彼がいま一緒にいる金持の女のためなのだ。金と女、それが作家としての彼を破滅させてしまったのだ。書かずに安逸をむさぼっているあいだに、才能が鈍り、堕落してしまったのだ。彼は再出発を期して、サファリにアフリカにやって来たのだ。だがその変身の希望もむなしく、昼はハゲタカが飛びまわり、夜はハイエナのほえるキャンプで(そうした死の象徴にとりかこまれ)〈えそ〉(えそという英語は道徳的腐敗という意味もある)にかかり、死んでいくのだ。ハリーは死の直前、救出の飛行機にのせられ、キャンプから連れだされる。スコールを通りぬけると、前方にキリマンジャロの山頂が大きく、高く、日の光をあびて信じられぬほど白くあらわれる。彼はそこが彼の行くところだと知る。しかし、それは彼の死の直前の幻想にすぎなかった。彼は死ぬ。
「キリマンジャロの雪」より一カ月おそく発表された「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」では主人公はやはりアフリカのサファリで死ぬが、死の直前、勇気ある男に変身する。しかし、「キリマンジャロの雪」では主人公は変身を願ってはいるが、ついに変身できずに終わる。これはヘミングウェーの自己にたいするきわめてきびしい態度である。ヘミングウェーは、前述のように、三〇年代前半にはノンフィクションしか書けなかった。長篇はなかった。『武器よさらば』の成功で安逸をむさぼっていた。そうした自己をここでさらけだし批判したのである。またこの作品の主人公は彼の親友で『偉大なるギャツビー』で大成功をおさめた小説家フィッツジェラルドを原型としたと考えることもできる。フィッツジェラルドこそ金と女で身をほろぼした作家だからだ。
文体《スタイル》について
ヘミングウェー文学の大きな特徴は文体《スタイル》である。そのいわゆる「ハード・ボイルド・スタイル」はあまりにも有名だ。感情をぬきにして、もっぱら外面の行動の描写に徹し、短い文章で、行動をたたみかけるように描く、いわゆる乾いた文体だ。たとえば、『武器よさらば』の終りで恋人が死ぬくだり……
出血がつぎつぎにあったようだ。それをとめられなかったのだ。ぼくは部屋にはいり、キャサリンが死ぬまでそばにいた。彼女はずうっと意識がなく、死ぬまでたいして時間はかからなかった。
というような感情を殺した描写とか、『われらの時代に』の各章の短いスケッチとかに特徴的なスタイルが見られるが、本巻では、たとえば「清潔で照明の明るいところ」で老人の孤独な姿が次のように簡潔に描かれる……
夜もふけ、カフェではみんなが立ち去り、老人がただひとり……坐っているだけだった。やがて、その老人は若いボーイに閉店だといわれてカフェを追いだされる……
老人は立ちあがり、受け皿をゆっくり数え、ポケットから革の財布をとりだし、酒代を払い、半ペセタのチップをおいた。
この描写には老人の淋しいといった気持などは一切言葉では説明されていない。もっぱら老人の行動がたたみかけるように描写され、孤独な虚無的な老人の気持は暗示されるだけだ。乾いた老人の気持と乾いた文体とがぴったり合致している。そこにこのスタイルの成功があると言えよう。
ヘミングウェーの会話もまた大きな特徴のひとつである。「と彼女は〈悲しそうな声で〉言った」というような説明をせず、ただ「と彼女は言った」というだけで、その「と言った」という言葉もほとんど省き、短い会話だけをつぎつぎに並べて、テンポの早いものにしている。たとえば、同じ「清潔で照明の明るいところ」の二人のボーイの会話とか、「海の変化」の男女の会話とか、「スイス讃歌」のアメリカ人とウェイトレスの会話など、まことにヘミングウェー的なテンポの早いリズカルな会話と言えよう。
ヘミングウェーが評判になったのはこのようなスタイルのためであったが、それはジョイスの『ユリシーズ』のスタイル……あの意識の流れを細かく分析する長々しい文章……と対比的なものであり、ヘミングウェーは意識的にジョイスの逆をいったものと言える。
しかし、このヘミングウェーのスタイルは初期の作品のいちじるしい特徴であって、彼は次第にそのスタイルを変化させている。すでに『武器よさらば』で一ページほどの長さのモノローグ(独白)を主人公に数回させているが、本巻では「ひとりだけの道」の精神錯乱の状態にあるニックの戦争の回想とか、「キリマンジャロの雪」のほとんど半分に近い量の主人公の回想など、「ハード・ボイルド・スタイル」を超えた新しいスタイルがある。そして、それはやがて『誰がために鐘は鳴る』や『老人と海』などの内面描写のスタイルへとうけつがれる。
だが、しかし、ヘミングウェー文学の特徴は何と言ってもその簡潔なきびきびした爽快なスタイルにあり、そしてそのスタイルがもっとも効果的に駆使されているのが彼の短篇で、短篇こそもっともヘミングウェーらしいものであるということを、われわれは忘れてはならないだろう。(高村勝治)