ヘミングウェー短編集1「われらの時代に」
アーネスト・ヘミングウェー/高村勝治訳
目 次
序 スミルナの桟橋にて
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
第十三章
第十四章
第十五章
むすび
解説
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序 スミルナの桟橋にて
奇妙なことだが、あの連中は毎晩真夜中に金切り声をあげる、と彼が言った。そんな時刻に、なぜ、金切り声をあげたのか、ぼくにはわからない。われわれは港内にいた。あの連中はみんな桟橋にいて、真夜中になると金切り声をあげはじめた。われわれは連中を黙らせるために、サーチライトを当てたものだった。それはいつも効き目があった。われわれは連中の頭の上に、二、三度、サーチライトを行き来させた。すると、連中は金切り声をやめた。あるとき、ぼくは桟橋で先任士官だったが、一人のトルコの士官がおそろしく腹を立ててぼくのところへやってきた。われわれの水兵の一人が彼にひどい侮辱を与えたというのだ。そこで、ぼくは、その水兵を船に帰して厳罰に処してやるから、そして、その水兵を指摘してくれと彼に頼んだ。すると、彼は一人の掌砲兵曹を指摘したが、それはこのうえなくおとなしい男だった。だが、この男が恐ろしくひどい侮辱をくりかえし彼に与えたと、彼が言った。通訳を介してぼくにそう言ったのだ。掌砲兵曹が侮辱を与えられるほどトルコ語ができるとは思えなかった。ぼくはその男を呼びよせて、言った。「ひょっとして、トルコの士官のだれかに話しかけたことがないかと思って聞くんだが」
「だれにも話しかけたことなど、ありません」
「おれもそんなことはないと確信してるんだが」とぼくは言った。「おまえは船に戻って、きょうはもう陸へ上らないほうがいいぞ」
それから、ぼくはトルコの士官に、この男は船に帰され、こっぴどく処罰されるだろう、と言った。そう、すこぶる厳重にと。彼はそれで上機嫌になった。ぽくらは大の仲良しになった。
いちばん困ったのは、死んだ赤ん坊をだいている女たちだった、と彼が言った。その女たちに死んだ赤ん坊をあきらめさせるわけにはいかなかった。赤ん坊を六日間も死んだままでかかえていたのだ。手放そうとしないのだ。われわれは、どうすることもできなかった。けっきょく、赤ん坊をむりやりに運び去るよりほかなかった。そのとき、一人の年とった婦人がいた。ひどく変わった女だった。そのことをぼくは軍医に話したが、軍医はぼくが嘘をついていると言った。われわれはあの連中を全部、桟橋から追っ払おうとしていた。死んだ連中を残らず片づけねばならなかった。すると、この老婆が担架みたいなものにのせられて、横たわっていた。みんなが「あの女をちょっと見てください」と言った。そこで、ぼくがその女のほうを見ると、ちょうどそのとき、女が死に、身体を完全に硬直させた。脚を引きよせ、腰からちぢまり、すっかりこわばってしまった。まったく、前の晩から死んでいるかのようだった。完全に死んでしまい、完全に硬直していた。ぼくはそのことを軍医に話したが、軍医はそんなことはありえない、と言った。
あの連中はみんな桟橋にいた。連中はトルコ軍についてはなにも知らなかったから、地震とかなんとかいった、そんな騒ぎまでにはならなかった。その老トルコ人の司令官がなにをやらかすか、まったく分らなかった。連中が、もうこれ以上難民の収容に来ないでくれとわれわれに命令したときのことを覚えているだろう。その朝、われわれが港にやってきたとき、ぼくはびっくりした。司令官はいくらでも砲台をもっていたので、われわれを砲撃して海上からきれいに追っ払うことも可能だったのだ。われわれは港にはいり、桟橋にぴったり沿って進み、前と後の錨をおろし、それから、その町のトルコ人地区を砲撃するつもりだった。連中はわれわれを海上から追っ払ったかもしれないし、われわれのほうも町をめちゃくちゃに吹きとばしてしまったかもしれなかった。だが、われわれが港にはいっていくと、連中はわれわれに空砲を二、三発放っただけだった。ケマール〔トルコの軍人、一九二三年以後、大統領、第一次大戦後、ギリシア軍のトルコ占領に反対し、スルミナを奪回した〕がやってきて、そのトルコ軍の司令官を罷免《ひめん》した。越権行為とかなんとか、そのような理由でだ。司令官はちょっと思いあがっていたのだ。ひどい大混乱になっていたかもしれなかったのだ。
だれもあの港のことは忘れないだろう。そこには、すてきなものが、たくさん浮かんでいた。それは、ぼくがぼくの人生でいろんなことを夢に見た唯一の時だった。赤ん坊を産みかかっている女などは、死んだ赤ん坊をかかえている女ほどには、気にならなかった。女たちは無事に赤ん坊を産んだ。死んだ赤ん坊がほとんどいなかったのは、驚きだった。身体のうえになにかをかけてやるだけで、お産ができた。女たちはかならず船倉のいちばん暗いところを選んで、赤ん坊を産んだ。女はひとたび桟橋を離れると、なにも気にはしなかった。
ギリシア兵もまたいい連中だった。撤退するとき、輜重《しちょう》用の騾馬《らば》を全部連れかえるわけにいかないので、騾馬の前脚を折って、浅瀬にほうりこんだ。前脚を折られた騾馬はみんな浅瀬の中へ飛びこんでいった。それはまったく愉快なことだった。ちかって、きわめて愉快なことだった。
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第一章
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みんな酔っぱらっていた。砲兵中隊全員が酔っぱらって、暗闇のなかを道にそって行進していた。われわれはシャンパーニュ(フランス北東部の地方)に向かって進んでいた。中尉は馬を畑に乗り入れ、馬に向かって言いつづけていた。「おれは酔った。なあ、おまえ、おれは酔った」と。われわれは暗闇のなかを夜どおし道にそって行進していた。副官はぼくの炊事車の横に並んで馬を進め、言いつづけていた。「消さなきゃいかん。危険だ。見つかるから」と。われわれは前線から五十キロも離れていた。だが、副官はぼくの炊事車の火を気にしていたのだ。それは滑稽な行軍だった。ぼくが炊事伍長のときだった。
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インディアンの部落
湖の岸に、ボートがもう一艘、ひきあげてあった。二人のインディアンが立って、待っていた。
ニックとその父がボートの後尾に乗りこむと、二人のインディアンがそれを押しだし、その一人が漕ぐために、乗りこんだ。ジョージおじさんは部落のボートの後尾に坐った。若いインディアンがその部落のボートを押し出し、ジョージおじさんを乗せていこうと、乗りこんだ。
二艘のボートは暗闇のなかを出発した。ニックは前方のかなり先の霧のなかに、もう一艘のボートのオール受けの音をきいた。インディアンは速く不規則に漕いだ。ニックは父の腕にだかれ、仰向けになった。水の上は寒かった。インディアンはすごく一生懸命に漕いでいたが、もう一艘のボートはいつまでも、はるか前方の霧のなかを進んでいた。
「お父さん、どこへ行くの?」とニックがたずねた。
「インディアンの部落さ。インディアンの女のひとがひどく悪いんだ」
「ふうん」とニックが言った。
入江の向こう岸に、もう一艘のボートがひきあげてあった。ジョージおじさんが暗闇で葉巻をふかしていた。若いインディアンがボートを岸の上のほうまで、ひきあげた。ジョージおじさんは二人のインディアンに葉巻をやった。
彼らは岸をあとに、カンテラをもって、若いインディアンのあとから、露にしっとり濡《ぬ》れた草原のなかを歩いた。それから、林にはいり、小路をたどると、山に通じる材木のきりだし道に出た。きりだし道の両側は木がきってあるので、ずっと明るかった。若いインディアンは立ち止まり、カンテラを吹きけし、みんなはその道をどんどん歩いていった。
曲がり角にくると、一匹の犬がでてきて、ほえた。前方に、樹皮はぎで暮らしているインディアンたちの住む小屋の灯《ひ》が見えた。犬が何匹もとびだしてきた。二人のインディアンは犬を小屋に追いかえした。道路に一番近い小屋に灯がともっていた。一人の老婆がランプを手にもって、戸口に立っていた。
なかでは、木のベッドに、若いインディアンの女が横になっていた。二日間、赤ん坊を産もうと苦しんでいたのだ。部落じゅうの年とった女が手伝っていた。男たちは離れた道路にでて、暗闇に坐り、女のうめき声のきこえないところで煙草《たばこ》をふかしていた。ニックと二人のインディアンはニックの父とジョージおじさんのあとから小屋にはいっていったが、ちょうどそのとき、女が金切り声をあげた。下の段のベッドに、掛布団《かけぶとん》を大きなおなかに掛けて、横になっていた。顔を横に向けていた。上の段のベッドにはその夫がいた。三日前に、斧《おの》で足に大怪我《おおけが》をしたのだ。彼はパイプをふかしていた。部屋はひどくいやな臭いがした。
ニックの父は水をストーヴにかけるよう指図し、それが沸くあいだ、ニックに話しかけた。
「この女《ひと》に赤ん坊が生まれるんだよ、ニック」と彼が言った。
「わかってるよ」とニックが言った。
「わかっちゃいない」と父が言った。「いいかね。この女《ひと》がいま苦しんでいるのは陣痛《じんつう》というやつなんだ。赤ん坊は生まれようとし、この女は産もうとしているのだ。全身の筋肉で、赤ん坊を産もうとしているのだ。金切り声をあげるのは、そういうときなのだ」
「ああそう」とニックが言った。
ちょうどそのとき、女は大声で叫んだ。
「ねえ、お父さん、何かあげて、あの金切り声を止めさせられないの?」とニックがたずねた。
「だめだ。麻酔《ますい》剤をもってこなかったから」と父が言った。「でも、金切り声はたいしたことじゃないんだ。たいしたことでないから、お父さんにはきこえないよ」
上段のベッドの夫は壁のほうへ寝がえりをうった。
台所の女は医者に、湯がわいたという合図をした。ニックの父は台所にはいっていって、大きな湯わかしの湯を半分ほど洗面器にあけた。ハンカチをほどいて、いくつかのものを取りだし、湯わかしに残っている湯のなかにいれた。
「煮沸《しゃふつ》してもらおう」と言い、部落からもってきた石鹸《せっけん》を手につけ、洗面器の湯のなかでこすりはじめた。ニックは父が両手に石鹸をつけてこすっているのを、じっとながめていた。父は手をたいへん注意深く、まんべんなく洗いながら、話した。
「なあ、ニック、赤ん坊というものは頭から先に生まれるんだが、ときにはそうでないこともあるのさ。そんなときには、だれもひどく苦しむものなのだ。この女《ひと》は手術しなけりゃならないかもしれない。もうじきわかるんだが」
彼は気がすむまで手を洗うと、部屋にもどって、仕事にとりかかった。
「ジョージ、その掛布団《かけぶとん》をはがしてくれ」と言った。「わしはさわらないほうがいいから」
しばらくして、手術にとりかかると、ジョージおじさんとインディアンの三人の男が、女をしっかりおさえた。女はジョージおじさんの腕にかみついた。ジョージおじさんは「ひでえ女《あま》だ!」と言った。ジョージおじさんをボートに乗せてきた若いインディアンは笑った。ニックは父のために洗面器をもっていた。ずいぶん時間がかかった。
父は赤ん坊を取りあげ、ぴしゃっとたたいて、呼吸させてから、年とった女に渡した。
「ほら、男の子だよ、ニック」と言った。「実習勤務《インターン》になった気分はどうだね?」
ニックは「なんでもないよ」と言った。彼は父のしていることが見えないようにそっぽを向いていた。
「さあ、これでよし」と父は言って、洗面器になにかをいれた。
ニックは眼をそらした。
「さて」と父は言った。「いく針か縫《ぬ》わなきゃならない。ニック、見ててもいいし、見なくてもいい。好きなようにしな、切り口を縫い合わせるから」
ニックは眼をそらした。ずっと前から好奇心がなくなっていた。
父は縫いおわると、立ちあがった。ジョージおじさんと三人のインディアンも立ちあがった。ニックは洗面器を台所にもっていった。
ジョージおじさんは自分の腕を見た。若いインディアンは思い出し笑いをした。
「ジョージ、そこへ消毒剤をぬってやろう」と医者がいった。
彼はインディアンの女の上にかがみこんだ。女はもう落ちついて、眼を閉《と》じていた。すごく青ざめていた。赤ん坊のことやその他のことがどうなったのか知らなかった。
「朝になったら、また来る」と医者は言って、立ちあがった。「正午《ひる》までには、セント・イグネス〔ミシガン湖とヒューロン湖の接触する地点の町〕から看護婦をよこすようにする。必要なものはみんなもってこさせる」
彼は試合をおえて更衣室《こういしつ》にいるフットボールの選手のように、興奮して、おしゃべりになっていた。
「ジョージ、こいつは医学雑誌ものだぜ」と言った。「ジャック・ナイフで帝王切開をやり、九フィートもの先ぼそのテグス糸で縫い合わせたんだからな」
ジョージおじさんは自分の腕を見ながら、壁にもたれて立っていた。
「ああ、たいしたものだ。まったく」と彼は言った。
「得意な親爺《おやじ》さんをちょっと見ておかなきゃあ。こうしたちょっとしたことに一番苦しむのはいつも親爺だからなあ」と医者は言った。「ここの親爺さんはかなり静かに苦しみを忍んだといっていい」
彼はそのインディアンの頭から毛布をはいだ。手を引くと濡《ぬ》れた。彼は片手にランプをもって下段のベッドの端にのぼって、のぞきこんだ。インディアンは顔を壁に向けて横になっていた。咽喉《のど》が耳から耳まで切れていた。身体《からだ》の重みでベッドがへこんでいるところへ、血が流れて、たまっていた。頭は左の腕の上にのっていた。ひらいた剃刀《かみそり》が、刃を上にして、毛布のなかにころがっていた。
「ジョージ、ニックを小屋から出してくれ」と医者が言った。
その必要はなかった。ニックは台所の戸口に立って、父がランプを片手に、インディアンの頭の向きを向こうに変えたとき、上段のベッドの様子をすっかり見ていたのだ。
二人が材木のきりだし道を湖のほうへ向かってひきかえしたときは、ちょうど夜が明けはじめていた。
「ニッキー、お前を連れてきて、ほんとに悪かった」と、手術後の興奮がすっかりさめた父が、言った。「とんだめにあわせたな」
「女のひとは赤ん坊を産むとき、いつも、あんなに苦しむの?」とニックがたずねた。
「いや、あんなのはめったにない例外だ」
「お父さん、あの人、どうして自殺したの?」
「さあね、ニック。きっと、我慢できなかったんだろうよ」
「お父さん、自殺する男の人って、たくさんいる?」
「そんなにはいないさ。ニック」
「女の人は、多い?」
「ほとんどいないよ」
「全然ない?」
「いや。たまにはある」
「お父さん?」
「なんだい」
「ジョージおじさんはどこへいったの?」
「帰って来るよ、ちゃんと」
「お父さん、死ぬってつらい?」
「いや、かなり楽なようだよ、ニック。時と場合によるがね」
二人はボートに坐っていた。ニックが船尾に坐り、父が漕いだ。太陽が丘の上に昇ってきた。スズキが一匹とびあがって、水面に輪をえがいた。ニックは水に手をつけて、水を切った。朝のきびしい寒さのなかで、水は温かく感じられた。
朝早く、湖の上で、父の漕ぐボートの船尾に坐って、彼はぜったい死なないぞと心にきめた。
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第二章
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回教寺院の尖塔が、泥んこの平野の向うのアドリアノープル〔トルコ北西部の都市〕から、雨のなかに突き出ていた。荷車がカラガチ街道に三十マイルにわたってひしめいていた。水牛や牛が泥んこの中で荷車をひいていた。終わりもなければ、始めもなかった。ありったけのものを積みこんだ荷車ばかりだった。年とった男や女が、ずぶぬれになって、牛をひいて、歩いていた。マリッツア河〔ギリシアとトルコの国境を南下してエーゲ海に注ぐ〕はほとんど橋にとどかんばかりに、黄色くにごって流れていた。荷車は橋の上でびっしり詰まり、その間をラクダがぴょこぴょこと身体をゆらせて通っていた。ギリシアの騎兵隊がその行列の横を進んでいった。女や子供たちが荷車のなかで、ふとんや、鏡や、ミシンや、包みといっしょになって、うずくまっていた。女が一人、赤ん坊を産みかけていた。若い娘がその上に毛布をかけ、泣いていた。それを見、おびえ、気分が悪くなっていたのだ。避難の間じゅう、雨が降っていた。
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医者と医者の妻
ディック・ボールトンはニックの父にたのまれ、丸太を切りに、インディアンの部落からやってきた。彼は息子のエディと、ビリー・テーブショーというもうひとりのインディアンを連れてきた。彼らは森から裏門を通ってやってきた。エディは長い横引き鋸を持っていた。それは肩の上でぱたぱた動き、歩くと、音楽的な音をたてた。ビリー・テーブショーは大きな≪かぎてこ≫を二つかついでいた。ディックは斧を三丁、脇にかかえていた。
彼はうしろを向いて、門を閉めた。ほかの二人は、彼よりさきに、材木が砂に埋まっている湖の岸のほうへおりていった。
丸大は、蒸気船の「マジック」号が湖を下って製材所まで引っぱって行く大きな丸太の筏からはずれて、紛失したものだった。丸太は漂って岸に打ちあげられていたが、そのままにしておけば、いずれそのうち、「マジック」号の船員がボートで岸づたいにやってきて、丸太を見つけ、環のついた鉄の大きな釘を、一本一本の丸太の端に打ちこみ、やがてそれらを湖にひっぱりだし、新たに筏《いかだ》を組むことだろう。だが、材木の切り出し人たちは、丸太が二、三本なら、それを集めるために船員を使ったのでは、採算がとれないから、集めにはこないかもしれなかった。もしだれも取りに来ないとなると、丸太は岸辺でふやけて、腐ってしまうだろう。
ニックの父は、そうなるだろうと、いつも考え、インディアンを雇って、部落から呼びよせ、横引き鋸で丸太をひき、くさびを打ちこんで割り、暖炉用に四フィートの薪や太い割り木をつくらせた。ディック・ボールトンは山荘の前をまわって、湖におりていった。四本の大きなブナの丸太が、砂の中にほとんど埋まりかけていた。エディは鋸の片方の柄を一本の木のまたにひっかけて、つるした。ディックは三丁の斧を小さな船着場の上においた。ディックは白人とのハーフだが、湖のあたりの百姓の多くは彼を本当の白人だと思っていた。ひどいなまけ者だったが、いったん仕事をはじめると、すごくよく働いた。彼はポケットから噛みタバコを取りだし、ひとくち噛み切ると、オジブウェイ族〔アメリカン・インディアンの一種族〕の言葉でエディとビリー・テーブショーに話しかけた。
彼らは〈かぎてこ〉の端を一本の丸太にひっかけ、砂のなかの丸太が動くよう、〈てこ〉をゆすった。かぎてこの柄にからだの重みをかけて、ゆすった。丸太が砂のなかで動いた。ディック・ボールトンがニックの父のほうに振りむいた。
「ねえ、先生」と彼は言った。「なかなかいい材木を盗みましたね」
「そんな言い方はよせ、ディック」と医者が言った。「流木なんだ」
エディとビリー・テーブショーは丸太をゆすって、濡れた砂から出し、湖のほうにころがしていた。
「そのままぶちこめ」とディック・ボールトンがどなった。
「どういうつもりで、そんなことをするんだね」と医者がきいた。
「すっかり洗うんでさ。鋸をいためねえように、砂を洗いおとすんで。だれの材木なのかも、知りてえしね」とディックが言った。
丸太はちょうど湖のなかで波に洗われていた。エディとビリー・テーブショーは日ざしをあびて汗をかきながら、〈かぎてこ〉によりかかっていた。ディックは砂に膝をついて、森で立木の石数《こくすう》見積り人が丸太の端につけたハンマーの印を見た。
「ホワイト・アンド・マクナリーの丸太だ」と、彼は立ちあがって、ズボンの膝の砂をはらいながら、言った。
医者はひどく不愉快だった。
「じゃあ、鋸で引くのはよしたがいい、ディック」と彼は言葉すくなに言った。
「なにも怒るこたあねえよ、先生」とディックが言った。「怒るこたあねえ。だれのものを盗もうが、おらあ、かまわねえんだ。おらの知ったこっちあねえからな」
「盗んだと思うなら、丸太はそのままにして、道具を持って、部落に帰ってくれ」と医者が言った。顔がまっ赤《か》だった。
「早まることはねえよ、先生」とディックが言った。彼はタバコをかんだ唾を丸太のうえに吐いた。それは丸太からすべり落ち、水のなかで薄くひろがった。「おらにはわかってるが、先生だって、これが盗んだもんだってこたあ、ごぞんじでしょう。おらあ、どっちだっていいんだが」
「よし。丸太を盗んだと考えるんなら、道具を持って、帰れ」
「でも、先生……」
「道具を持って、帰れ」
「いいですか、先生」
「先生だなんて、もういちど言ってみろ、おまえの首根っこをへし折ってやるから」
「いや、それはごかんべんを、先生」
ディック・ボールトンは医者を見た。ディックは大男だった。どんな大男か自分でも知っていた。けんかをするのが好きだった。彼はたのしそうだった。エディとビリー・テーブショーは〈かぎてこ〉にもたれて、医者を見ていた。医者は下唇のあたりのひげをかみ、ビル・ボールトンを見ていた。やがて、顔をそむけると、丘をのぼって、家のほうへ歩いていった。その背中から、彼がどんなに怒っているかが、わかった。三人は彼が丘をのぼり、家にはいっていくのを、じっと見ていた。
ディックはオジブウェイ語でなにか言った。エディは笑ったが、ビリー・テーブショーはひどく深刻な顔付だった。彼は英語がわからなかったが、口論がつづいているあいだ、ずっと汗をかいていた。ふとっていて、中国人のようにうっすらと口ひげをはやしていた。彼はかぎてこを二つとりあげた。ディックは斧をとりあげ、エディは木から鋸をはずした。三人はそこを立ち去り、山荘の横を通り、裏門から森にはいっていった。ディックは門を開けたままにした。ビリー・テーブショーがもどってきて、門を閉めた。三人は森を抜けて立ち去った。
山荘のなかでは、医者は自分の部屋のベッドに腰かけ、箪笥《たんす》の脇の床につんである医学雑誌を見ていた。まだ帯封も切ってなかった。それが彼をいらだたせた。
「みんなが仕事をしているところへ、もどらないんですの、あなた」と、ブラインドをおろして横になっていた部屋から医者の妻がたずねた。
「うん、いかない」
「なにかあったんですの?」
「ディック・ボールトンとけんかしたんだ」
「まあ」と妻が言った。「まさかあなた、腹をたてたんじゃないでしょうね、ヘンリー」
「とんでもない」と医者が言った。
「いいですか、おのれの心を治める者は都市を攻め取る者にまさる〔旧約聖書、箴言、十六・三二〕ですよ」と妻が言った。彼女はクリスチャン・サイエンス〔キリスト教の一派で、医学を用いず信仰の力で病気を治すことを特徴とする〕の信者だった。聖書と「科学と健康」と「季刊」が、暗くした部屋のベッドの脇のテーブルにのせてあった。
夫は答えなかった。ベッドに腰かけて、猟銃を磨いていた。弾倉に重い黄色い薬莢《やっきょう》をいっぱいつめてから、またそれをはじきだした。薬莢がベッドにちらばった。
「ヘンリー」と妻が呼んだ。それから、ちょっと間《ま》があった。「ヘンリー!」
「うん」と医者が言った。
「あなた、ボールトンを怒らせるようなこと、言ったんじゃないでしょうね?」
「いいや」と医者が言った。
「何で争ったのよ?」
「たいしたことじゃない」
「話して、ヘンリー。あたしに隠さないで。どうしたの?」
「うん、ディックはやつの女房の肺炎の治療代としてかなりの金をわしから借りてるんだ。それで、仕事で借金のなしくずしをするのがいやで、けんかしたかったんだろうよ」
妻はだまっていた。医者はぼろ布で猟銃をていねいに拭いた。弾倉のばねを押して、薬莢《やっきょう》をつめなおした。銃を膝のうえにおいて、腰かけた。銃が大好きだった。すると、暗くした部屋から妻の声がきこえた。
「ねえ、あなた、あたしには考えられないわ、ほんとにそんなことをするひとなんて、あたしには考えられないわ」
「考えられない?」と医者が言った。
「そうよ。そんなこと、わざわざするひとなんて、どうしても考えられないわ」
医者は立ちあがって、猟銃を化粧箪笥のうしろの隅に立てかけた。
「お出かけになるの、あなた?」と妻が言った。
「散歩してこようと思うんだ」と医者が言った。
「ニックを見かけたら、あたしが呼んでるって言ってくださらない」と妻が言った。
医者はベランダに出た。網戸がうしろでばたんと閉まった。戸がばたんと閉まるとき、妻がはっと息をのみこむのがわかった。
「ごめんよ」と彼はブラインドがおりている妻の部屋の窓の外で言った。
「いいのよ、あなた」と彼女が言った。
彼は門を出て炎暑のなかを、小道づたいに、ベイツガの森のなかへはいっていった。そんな暑い日でも、森のなかは涼しかった。ニックが木によりかかって坐り、本を読んでいた。
「お母さんがよんでるよ」と医者が言った。
「お父さんといっしょにいきたいな」とニックが言った。
父は彼を見下した。
「よし。ついておいで」と父。「本を渡しな。わしのポケットに入れとくから」
「ぼく、黒リスのいるところを知ってるよ、パパ」とニックが言った。
「よし」と父が言った。「そこへいこう」
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第三章
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われわれはモンス〔ベルギー南西部の都市、第一次大戦の戦場〕のとある庭園にいた。若いバックレーが巡察隊をつれて川の向こうからやってきた。最初のドイツ兵が庭園の塀をよじのぼるのが見えた。われわれは彼が片足を塀にかけるまで待って、やがてねらい撃ちした。重装備で、ひどく驚いた顔をして、庭園のなかにころげ落ちた。それから、さらに三人、ずっと向こうの塀のうえに現われた。われわれは撃った。ドイツ兵はやってきて、みんなそんなぐあいになった。
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事の終わり
昔、ホートンズ・ベイ〔ミシガン湖の北にある入江をモデルにした架空の地名〕は製材の町だった。そこに住んでいる者で湖のそばの製材工場の大鋸《おおのこ》の音を聞かない者はなかった。ところがある年のこと、材木をつくる丸太が種切れになってしまった。木材運搬船が幾艘も入江にやってきて、材木置場に積んであった工場の製材を積みこんだ。材木の山はすっかり運びさられた。大きな工場の建物からは、移動できる機械はすべて取りはずされ、工場で働いていた人びとの手でその運搬船の一艘に積みこまれた。運搬船は、二つの大きな鋸《のこぎり》と、回転式円形鋸に丸太をかける走行運搬装置と、それから、あらゆるローラーや、歯車や、ベルトや、鉄器具を、船体いっぱいに積んだ材木の上に積みこんで、広々とした湖に向かって入江を出ていった。その無蓋《むがい》の船倉はズックでおおわれ、しっかり綱でしばられ、帆《ほ》は風をいっぱいはらみ、船は工場を工場とし、ホートンズ・ベイを町としてきたあらゆるものを積んで、広々とした湖へ出ていったのだ。
一階建の宿泊所と、食堂と、会社の売店と、工場の事務所と、大きな工場そのものまでが、湖の岸辺の湿地の草原を何エーカーもおおっているおが屑《くず》のなかに、人気《ひとけ》なく荒れはてていた。
それから十年もたって、ニックとマージョリーが岸にそってボートを漕いでいく今、工場の跡として残っているものは、湿地の二番|生《ば》えの間から見える壊れた白い石灰石の土台だけだった。二人は、湖の底が砂の浅瀬から急に十二フィートの深さになって暗い水をたたえている≪みお≫の底が隆起した部分にそって、流し釣りをしていた。二人は虹鱒《ニジマス》の夜釣りをしようと岬に行く途中、流し釣りをしていたのだ。
「あたしたちの古い廃墟ね、ニック」とマージョリーが言った。
ニックは漕ぎながら、緑の木立の中にある白い石を見た。
「うん、そうだ」と彼が言った。
「あれが工場だったときのことおぼえてる?」とマージョリーがたずねた。
「かすかにおぼえてるよ」とニックが言った。
「どっちかと言うと、お城の跡みたいね」とマージョリーが言った。
ニックは何も言わなかった。二人は岸にそって漕ぎ、工場は見えなくなった。それから、ニックは入江を横ぎった。
「食いつかないな」と彼が言った。
「そうね」とマージョリーが言った。彼女は流し釣りをしているあいだ、口をきくときでも、竿《さお》をじっと見ていた。彼女は釣りが大好きだった。ニックと釣るのが大好きだった。
ボートのすぐ近くで、大きな鱒《マス》が水面を乱した。ニックはボートが向きを変え、ずっとうしろでぐるぐる回っている餌《えさ》が、いま餌をあさっている鱒のところを通るよう、片方のオールを一生懸命こいだ。鱒の背中が水面から現われたとき、小魚がやたらに飛びあがった。ひと握りの散弾を投げこんだように、水面のあちこちに輪ができた。もう一匹、鱒がボートの反対側で餌をあさって、水面を乱した。
「餌をあさってるんだわ」とマージョリーが言った。
「だが、食いつきそうもないね」とニックが言った。
彼は餌をあさっているその二匹の鱒のところで流し釣りをしようとボートをぐるぐる回し、それから、岬にボートを向けた。マージョリーはボートが岸につくまで、道糸を糸巻《リール》で巻きあげなかった。
二人でボートを岸に引きあげ、ニックは生きたスズキをいれてあるバケツを取りだした。スズキはバケツの水の中を泳いでいた。ニックは手でそのうちの三匹をつかみ、その頭を切りおとし、皮をむいたが、一方、マージョリーはバケツに手を入れて追いまわして、やっとスズキを一匹つかみ、その頭を切りおとし、皮をむいただけだった。ニックは彼女の魚を見た。
「腹びれを取っちゃいけないよ」と彼がいった。「餌にするにはそれでもかまわないが、腹びれがあったほうが、なおいいんだ」
彼は皮をむいたスズキの一つ一つの尻尾《しっぽ》に針をとおした。どちらの竿にもテグス糸に針が二つついていた。それからマージョリーは糸を口にくわえ、ニックのほうを見ながら、ボートを〈みお〉の底が隆起したあたりへ漕ぎだした。ニックは岸で釣り竿をもち、糸巻《リール》から糸をくりだしていた。
「その辺がいい」と彼が叫んだ。
「おろしていいの?」とマージョリーが手に糸をもって、叫び返した。
「いいよ。はなしな」マージョリーは船から糸をおろし、餌が水の中に沈んでいくのをながめていた。
彼女はボートを引きかえし、同じようにして二つ目の糸を繰りだした。そのたびに、ニックは竿をしっかりささえておくようにその端に重い厚めの流木をのせ、小さな厚い板で竿をある角度に支えた。彼はゆるんだ糸を巻きこみ、〈みお〉の砂の底に沈んでいる餌まで糸をぴんと張らせ、糸巻《リール》の歯止めの〈つめ〉をかけた。底で餌をあさっている鱒がその餌に食いつけば、それをくわえて逃げるとき、糸巻から糸を引きだし、〈つめ〉がかかっている糸巻を鳴らすのだ。
マージョリーは糸をみださないよう、岬にそってすこし漕いだ。彼女はオールを一生懸命に漕いだので、ボートは岸の上まであがった。ボートといっしょに小さな波が打ち寄せた。マージョリーがボートからでると、ニックはボートを岸のずっと奥まで引きあげた。
「どうしたの、ニック」とマージョリーがたずねた。
「なんでもないよ」とニックは焚火《たきび》の薪《たきぎ》を拾いながら言った。
二人は流木で焚火をたいた。マージョリーはボートのところへ行き、毛布をもってきた。夕方の微風《そよかぜ》が煙を岬のほうに吹き流した。それで、マージョリーは火と湖のあいだに毛布をひろげた。
マージョリーは火を背中にして毛布の上に坐り、ニックを待った。彼はやってきて、毛布の上の彼女のとなりに腰をおろした。二人のうしろには、岬の二番|生《ば》えの木が茂っていた。前方には、ホートンズ・クリークの河口のある入江があった。まだすっかり暗くはなっていなかった。焚火の光が水面までとどいていた。二人には暗い水の上に、ある角度で突きでている二本の鉄の竿が見えた。焚火の光が糸巻《リール》の上できらきら光っていた。
マージョリーが夕食のバスケットをあけた。
「食いたくないな」とニックが言った。
「まあ、おあがんなさいよ。ニック」
「よし、食おう」
二人は無言で食べ、二本の竿と水にうつる火の光をながめた。
「今夜は月夜になりそうだね」とニックが言った。彼は入江の向こうに、空を背にくっきり浮かびだしてきた丘に眼をやった。丘の向こうから月が上ってくるのだ。
「ええ、わかってるわ」とマージョリーが愉《たの》しそうに言った。
「君はなんでもわかってるんだね」とニックが言った。
「まあ、ニック、お願いだからそんなこと言わないで! ほんとに、お願いよ、そんな言い方、よして!」
「だけど、仕方ないんだ」とニックが言った。「君はわかってるんだ。君はなんでもわかってるんだ。それが困るんだ。君は、なんでもわかってるってことが、わかってるんだ」
マージョリーは何も言わなかった。
「ぼくは君になんでも教えたよ。君はわかってるってこと、わかってるんだ。いったい、君のわからないものって、なんなんだ?」
「まあ、よして」とマージョリーが言った。「月が出てきたわ」
二人は互いに身体《からだ》を触れあいもしないで毛布に坐り、月の出をながめていた。
「つまらないこと言うもんじゃないわよ」とマージョリーが言った。「ほんとに、どうしたの?」
「わかんないな」
「もちろん、わかってるくせに」
「いや、わかんない」
「さあ、言って」
ニックは月が丘の上に出るのを見ていた。
「もう、ちっとも愉しくないんだ」
彼はマージョリーを見るのがこわかった。それから、彼女を見た。彼女は彼に背を向けて坐っていた。彼は彼女の背中を見た。「もう、ちっとも愉しくないんだ。ちっとも」
彼女は何も言わなかった。彼はつづけた。「ぼくの身体の中のものが、何もかも、めちゃくちゃになっちゃったような気がするんだ。わかんないんだ、マージ。なんと言っていいか、わかんないんだ」
彼は彼女の背中を見つづけていた。
「恋愛が愉しくないの」とマージョリーが言った。
「つまんないんだ」とニックが言った。マージョリーは立ちあがった。ニックは坐ったまま、両手で頭をかかえていた。
「あたし、ボートに乗ってくわ」とマージョリーは彼に呼びかけた。「あなた歩いて岬を回って帰れるわね」
「いいよ」とニックが言った。「ボートを押してやろう」
「結構よ」と彼女が言った。彼女はボートに乗り、月光を浴びた水面に出た。ニックはもどって焚火のそばの毛布に顔をうずめて寝ころがった。マージョリーが湖を漕いでいくのがきこえた。
彼は長い間そこに横たわっていた。そこに横になっていると、ビルが林の中を通りぬけて、空地にはいってくるのがきこえた。ビルが焚火のところまでやってくるのが感じられた。ビルも彼に手を触れなかった。
「あの娘《こ》、うまく帰ってくれたかい?」とビルが言った。
「ああ」とニックは毛布に顔をうずめて横になったまま、言った。
「ひと騒ぎあったのか?」
「いや、騒ぎなんかありゃしない」
「どうだ、気分は?」
「ああ、あっちへいっててくれ、ビル! しばらく、いっててくれ」
ビルはバスケットからサンドイッチを選びだし、竿《さお》の様子をちょっと見ようと、歩き去った。
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第四章
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おそろしく暑い日だった。われわれは絶対に完璧《かんぺき》なバリケードで橋をふさいだ。それはまことに貴重なものだった。とある家の玄関からはずしてきた、大きな、古い、練鉄の格子だった。重くて持ちあがらないし、こっちはそのあいだから撃てたし、向こうはそれを乗り越えてこなければならなかった。それはまったくすばらしかった。彼らはそれを乗り越えようとした。われわれは四十ヤード手前から彼らをねらい撃ちした。彼らはそこに押しよせてきて、将校だけで出てきて、それを取りはずそうとした。それは、絶対に完璧な障碍物だった。敵の将校はじつにすばらしかった。その横側がはずされる音がきこえたとき、われわれはすっかりあわてふためいてしまい、退却しなければならなかった。
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三日間のあらし
果樹園を通り抜けるのぼり坂の道へニックが曲ると、雨がやんだ。果物はもう摘みとられていて、秋風がはだかの木立を吹きぬけていた。ニックは立ちどまって、道ばたの赤茶けた草むらに雨で濡れて光っているワグナーりんごを一つ拾いあげた。彼はそのりんごをマッキノー・コート〔格子じまの厚手のラシャ製の短い外套〕のポケットにつっこんだ。
道は果樹園から丘の頂上に通じていた。頂上には小屋があり、ポーチはがらんとしていて、煙が煙突から出ていた。裏手にはガレージと、鶏小屋と、うしろの森とのあいだに生垣のように見える二番生えの木があった。彼が眺めていると、大きな木立がはるか頭上で風に揺れていた。それは秋のあらしのはしりだった。
ニックが果樹園の上の広々とした畑を横切っていくと、小屋の戸が開き、ビルが出てきた。彼はポーチに立って、外を眺めた。
「やあ、ウェメッジ」と言った。
「よう、ビル」と、ニックは言い、ポーチの階段をのぼっていった。
二人はいっしょに並んで立ち、あたりの田野を見わたした。果樹園を見おろし、道路の向こうを、低い畑や岬の森をこえて、湖まで見わたした。風がじかに湖に吹きおろしていた。テン・マイル岬に波が打ち寄せているのが見えた。
「吹きあれてるね」とニックが言った。
「三日間はこんなふうに吹き続くよ」とビルが言った。
「君のパパ、いる?」とニックが言った。
「いや。鉄砲を持って出かけたよ。はいれよ」
ニックは小屋の中にはいった。暖炉にはさかんに火が燃えていた。風が吹きこんで、火がうなりを立てた。ビルはドアを閉めた。
「一杯どうだ」と彼が言った。
彼は台所へいき、グラスを二つと水差しを持って、もどってきた。ニックは暖炉の上の棚へ手をのばして、ウィスキーのボトルをとった。
「これ、いいのか?」と彼が言った。
「いいよ」とビルが言った。
二人は暖炉の前に腰かけ、アイリッシュ・ウィスキーを水割りにして飲んだ。
「煙くさい味がして、すてきだ」とニックが言い、グラスを炉の火ですかして見た。
「泥炭《ビート》のせいだよ」とビルが言った。
「泥炭を酒に入れるわけにはいかないね」とニックが言った。
「どっちにしたってたいしたことないさ」とビルが言った。
「泥炭って見たことあるのか?」とニックがきいた。
「ない」とビルが言った。
「ぼくもない」とニックが言った。
彼は靴を炉の前に突き出していたが、靴は火に当って湯気をたてはじめた。
「靴をぬいだほうがいいぜ」とビルが言った。
「靴下、はいてないんだ」
「ぬいで、乾かせよ。靴下はもってきてやるから」とビルが言った。彼は二階の屋根裏へのぼっていった。ニックには彼が頭のうえを歩きまわっているのが聞こえた。二階は天井がなく、じかに屋根になっていて、ビルと、ビルの父と、彼、つまり、ニックとがときどきそこで眠った。うしろに化粧室があった。簡易ベッドは雨のかからないところに移し、ゴムのカバーがかけてあった。
ビルは厚手のウールの靴下をもって、おりてきた。
「寒くなったから、靴下なしではいられないよ」と彼は言った。
「また靴下をはくなんて、もうまっぴらだな」とニックは言った。彼は靴下をはき、椅子にふかぶかと坐りこみ、炉火の前の衝立《ついたて》に足をのせた。
「衝立がへこむぜ」とビルが言った。ニックは足を暖炉の傍にひょいとどけた。
「何か読むもの、ある?」と彼はきいた。
「新聞なら、ある」
「カーディナルスはどうした?」
「ジャイアンツとのダブル・ヘッダーを落としたよ」
「じゃあ、ジャイアンツの優勝はきまりだね」
「楽勝さ」とビルは言った。「マックグロー〔一九〇二年から一九三二年までジャイアンツの監督〕がリーグ中の優秀選手をひとり残らず買えるかぎり、優勝なんか何の価値もないさ」
「みんな引き抜くわけにはいかないよ」とニックが言った。
「欲しい選手はみんな引き抜くぜ」とビルが言った。「でなきゃ、彼のところへトレードに出さなきゃならないように、その選手に不満をいだかせるんだ」
「ハイニー・ジムみたいにね」とニックが相槌《あいづち》をうった。
「あの間抜けはあいつのためにおおいに働くだろうよ」
ビルが立ちあがった。
「よく打つからな」とニックが言いだした。炉火が足を焼くくらい熱かった。
「野手としてもすばらしいしね」とビルが言った。「だが、試合は負けてばかりいるね」
「たぶん、それだから、マックグローがやつを欲しがったんだろう」とニックが皮肉った。
「たぶんね」とビルが相槌を打った。
「ああしたことには、いつも、ぼくらのわからないことがあるもんなんだ」とニックが言った。
「もちろん、そうさ。でも、遠くはなれているために、かえってかなりいい情報がつかめるのさ」
「競馬で馬を見ないほうが、ずっとよく馬を選べるってわけだな」
「そのとおり」
ビルは下にあるウィスキーのボトルに手をのばした。大きな手でそれをぐっとつかんだ。ニックが差し出したグラスにウィスキーをそそいだ。
「水はどのくらい?」
「前と同じだけ」
彼はニックの椅子の横の床に坐った。
「秋のあらしが来るのは、いいもんだね?」とニックが言った。
「すばらしい」
「一年じゅうで一番いい季節だ」とニックが言った。
「いまごろ町なんかにいたら、やりきれないだろうな」とビルが言った。
「ワールドシリーズ、見たいな」とニックが言った。
「でも、このごろはいつもニューヨークかフィラデルフィアでやるんだからな」とビルが言った。「ぼくたちにはまったく有難くない」
「カーディナルスがペナントを取るようなことあるかね」
「ぼくたちの生きている間はないね」とビルが言った。
「まったくだ。そんなことにでもなったら、やつらは気が狂うだろうよ」とニックが言った。
「やつらが、一度だけ、快進撃をはじめたとき、汽車の事故にあったのを覚えてるかい?」
「そうだ、そうだ!」とニックは思い出しながら、言った。
ビルは窓の下のテーブルに手をのばして本を取ろうとした。本は彼が戸口に出ていったとき、表紙をふせて、おいたまま、そこにあった。彼は片手にグラスを持ち、もう一方の手に本を持って、ニックの椅子によりかかった。
「何を読んでるんだ?」
「『リチャード・フェヴェレル』」〔イギリスの小説家ジョージ・メレディスの代表作〕
「ぼくはどうも読めないな」
「いいぜ」とビルが言った。「悪かないぜ、ウェメッジ」
「ほかに何がある、ぼくの読んでないもので」とニックがたずねた。
「『森の恋人たち』〔イギリスの小説家モーリス・ヒューレット〕読んだかい?」
「うん、恋人たちか毎晩、二人のあいだに抜き身の剣をおいて、ベッドにはいる話だろう」
「あれはいいぜ、ウェメッジ」
「すばらしい本だ。だが、どうにもわからなかったのは、その剣が何の役に立つのかってことさ。いつも刃を上に向けておかなきゃならないだろう。だって、もし剣が横になってしまったら、その上をころがって行って、何ということもないからね」
「ひとつの象徴さ」とビルが言った。
「そのとおりだ」とニックが言った。「でも、実際的じゃないな」
「『不屈の魂』〔イギリスの小説家ヒュー・ウォルポール〕、読んだことある?」
「あれはいい」とニックが言った。「本物の本だ。おやじにたえず追いかけられている話だ。ウォルポールのもの、ほかに何かもってるかい?」
「『暗い森』をもってる」とビルが言った。「ロシアの話だ」
「作者はロシアのどんなこと、知ってる?」とニックがたずねた。
「さあ、わからない。ああいう作者連中のことはわからないよ。きっと子供のころ、そこにいたのかもしれない。ロシアのこと、いろいろ知ってるから」
「ウォルポールに会ってみたいな」とニックが言った。
「ぼくはチェスタートン〔イギリスの小説家〕に会ってみたいんだ」とビルが言った。
「いまここにいればいいんだが」とニックが言った。「そしたら、あしたヴォイ川へ釣りにつれていくんだが」
「魚釣りなんかにいきたがるかな」とビルが言った。
「いきたがるとも」とニックが言った。「あんないい男はまたとないぜ。『空とぶ酒場』〔チェスタートンの小説、イギリスが禁酒国になった場合を想定したもの〕をおぼえてるかい」
天使が天から下りて来て、
ほかの飲みものを下さるならば、
やさしい心に感謝して、
それを流しに流しなさい」
〔『空とぶ酒場』にでてくる詩〕
「そのとおり」とニックが言った。「ウォルポールよりいいやつかもしれないね」
「ああ、いいやつだ、たしかに」とビルが言った。「でも、ウォルポールのほうが作家としてはすぐれてるぜ」
「さあ、どうかな」とニックが言った。「チェスタトンは古典だぜ」
「ウォルポールだって古典だ」とビルが言いはった。
「二人がここにいればいいのに」とニックが言った。「あした二人をヴォイ川へ釣りにつれていくんだが」
「酔っぱらおうぜ」とビルが言った。
「よし」とニックが同意した。
「ぼくのおやじはなんとも言やあしないからな」とビルが言った。
「きっとだな?」とニックが言った。
「わかってんだ」とビルが言った。
「もう、ちょっと酔ったよ」とニックが言った。
「酔っちゃいないよ」とビルが言った。
彼は床から立ちあがり、ウィスキーのボトルに手をのばした。ニックはグラスを差しだした。ビルがついでいるあいだ、彼の目はじっとグラスを見つめていた。
ビルはグラスに半分ウィスキーをついだ。
「水は自分でついでくれ」と彼が言った。「まだ一杯分あるよ」
「ほかにもうないのか」とニックがきいた。
「まだたくさんあるが、おやじは口のあいてるのしか飲ませないんだ」
「そうか」とニックが言った。
「おやじは新しいボトルをあけると酔っぱらいになるって言うんだ」とビルが説明した。
「そのとおりだ」とニックが言った。彼はひどく感心した。それまでそんなことは、考えてもみなかったのだ。酔っぱらいになるのは、ひとりで飲むからだと、いつも考えていたのだ。
「おやじさん元気かい?」と彼は敬意をこめてきいた。
「元気だよ」とビルが言った。「ときどき、ちょっと荒れるがね」
「なかなかいい人だよ」とニックが言った。彼は水差しからグラスに水をついだ。水はウィスキーとゆっくり混じった。水よりウィスキーのほうが多かった。
「たしかにそうだ」とビルが言った。
「ぼくのおやじもいい人だ」とニックが言った。
「たしかにそうだ」とビルは言った。
「おやじは、生まれてこのかた一滴も飲まないって言ってるよ」とニックは科学的事実を発表するような口調で言った。
「うん、君のおやじさんは医者だ。ぼくのおやじは画家だ。そこが違うのさ」
「ぼくのおやじは大損してるよ」とニックが悲しそうに言った。
「そりゃあわからないさ」とビルが言った。「どんなことにも償いがあるものだからね」
「自分で大損したと言ってるよ」とニックは打ち明けた。
「うん、おやじってたいへんだからね」とビルが言った。
「でもつぐなわれるよ、すっかり」とニックが言った。
二人は炉火を見つめ、この深遠な真理を考えながら、坐っていた。
「裏のポーチから割り木の太いのをもってこよう」とニックが言った。火を見ていると、火が消えかかっているのに気づいたからだ。それに、それくらいの酒では平気で、まだしっかり動けるのだということを見せたかったのだ。おやじが一滴も飲まないにしても、ビルよりさきに酔っぱらいはしないぞ、と思った。
「ブナの割り木の大きいのを一本もってきてくれ」とビルが言った。彼も意識はたしかで、しっかりしていた。
ニックは丸太を持って、台所を通ってきたが、通りがかりに、テーブルの上の鍋にぶつかって、鍋を落した。丸太を下におろして、鍋を拾いあげた。中には干しアンズが水につけてあった。彼はていねいに床から干しアンズを残らず拾いあげた。ストーヴの下にはいったのも拾った。そして、それらを鍋の中にもどした。テーブルの横のバケツの水を、すこしその上につぎたした。彼はひどく得意だった。まだ意識は完全にしっかりしていたのだから。
彼は丸太をかかえて、はいってきた。ビルは椅子から立ちあがり、手伝って、それを火にくべた。
「すてきな丸太だ」とニックが言った。
「天気の悪いときのために取っといたんだ」とビルが言った。「これだけの丸太だから一晩じゅう燃えてるよ」
「朝になって火を起すのに、〈おき〉が残っているだろう」とニックが言った。
「うん、そうだ」とビルが相槌をうった。二人は意気揚々と話していた。
「もう一杯のもう」とニックが言った。
「食器棚にもう一本あいてるボトルがあると思うんだ」とビルが言った。
彼は食器棚の前の片隅に跪き、角壜を一本とりだした。
「スコッチだ」と言った。
「水をもすこし持ってこよう」とニックが言った。彼はふたたび台所へいった。バケツから冷たい湧き水を柄杓《ひしゃく》でくんで、水差しにいっぱいにした。居間へもどる途中で、食堂の鏡の前を通りかかり、鏡をのぞきこんだ。顔が変だった。鏡の中の顔にほほえみかけると、その顔がにやっと笑いかえした。彼はその顔にウインクして、通りすぎた。それは自分の顔とは思えなかったが、そんなことはどうでもよかった。
ビルが酒をなみなみとついでいた。
「すごくついだな」とニックが言った。
「ぼくたちなら平っちゃらさ、ウェメッジ」とビルが言った。
「何に乾杯しようか?」とニックがグラスを上げながら、きいた。
「釣りのために乾杯しようや」とビルが言った。
「よし」とニックが言った。「紳士諸君、釣りのために乾杯」
「すべての釣りのために」とビルが言った。「あらゆるところの釣りのために」
「釣りのために」とニックが言った。「そのために、乾杯」
「野球よりいいからな」とビルが言った。
「比較にならないよ」とニックが言った。「どうして野球の話なんかはじめたんだろう?」
「間違いだったな」とビルが言った。「野球は野暮《やぼ》な男のやる遊びだ」
二人はグラスの酒を飲みほした。
「こんどはチェスタトンのために乾杯」
「それにウォルポールのために」とニックが言葉をさしはさんだ。
ニックが酒をついだ。ビルがそれに水をついだ。二人は互いに顔を見あった。すこぶる機嫌がよかった。
「紳士諸君」とビルが言った。「チェスタトンとウォルポールのために乾杯」
「まさにそのとおり、紳士諸君」とニックが言った。
二人は飲んだ。ビルがグラスにいっぱいついだ。二人は炉火の前の大きな椅子に腰をおろした。
「君はとても賢明だったよ、ウェメッジ」とビルが言った。
「何のことだい?」とニックがきいた。
「あのマージとのことをご破算にしてさ」とビルが言った。
「ぼくもそう思うね」とニックが言った。
「ああするよりほか仕方なかったのさ。ああしなけりゃ、いまごろ君は、家に帰って、結婚費用をかせぐために働いていたろうね」
ニックは何も言わなかった。
「男はいちど結婚すると、すっかりだめになっちゃうからね」とビルがつづけた。「何も残らないからね、なんにもだ。まったくなんにもなくなっちゃうんだぜ。もうおしまいなのさ。結婚した連中、君だって見てるだろう」
ニックは何も言わなかった。
「やつらはひと目でわかるさ」とビルが言った。「こんなふうにふとって、結婚してますって顔をしててさ。もうおしまいさ」
「そうだとも」とニックが言った。
「ご破算にしたのは、たぶんつらかったろうよ」とビルが言った。「でも、君はいつでも、まただれかほかの女に惚れるんだが、それでいいのさ。惚れるのはかまわないが、女のために身を滅ぼすなよ」
「うん」とニックが言った。
「あの女と結婚したら、あいつの一家と結婚する破目になったろうよ。あいつのおふくろと、そのおふくろが結婚している男のことを思いだしてみろよ」
ニックはうなずいた。
「やつらがしょっちゅう家のまわりにうろうろしてて、やつらの家に日曜日の正餐を食べにいったり、やつらのほうで食事にやってきて、あのおふくろがしょっちゅうマージに、ああしろ、こうしろと言っているのを、想像してみろよ」
ニックはだまって坐っていた。
「君はじつにうまく足を洗ったよ」とビルが言った。「これであの女は自分にふさわしい男と結婚し、落ち着いて、しあわせになれるよ。水と油は交《ま》ぜ合わせられないものさ。君がああいうものと交じり合えないのは、ちょうど、ぼくがストラトンズのところで働いているアイダと結婚したって、交じり合えないのと同じなんだよ。彼女のほうでも、そのほうがいいだろうよ」
ニックは何も言わなかった。酔いがすっかりさめ、彼はひとりぼっちだった。ビルはそこにいなかった。彼は炉火の前に坐ってもいなければ、あしたビルとビルの父親と魚釣りに行くというのでもなければ、なんでもなかった。彼は酔ってはいなかった。なにもかもなくなっていたのだ。わかっているのは、ただ、自分にはかつてマージョリーがいたということ、そして、彼女を失ったということだけだった。彼女は去ってしまったのだ。そして、彼が彼女を去らせたのだった。彼の心をとらえているのはそのことだけだった。もう二度と彼女には会えないだろう。たぶん、会わないだろう。すべてが消えさり、終ったのだ。
「もう一杯やろう」とニックが言った。
ビルは酒をなみなみとついだ。ニックは水をすこし、ばちゃっと入れた。
「君があのまま続けていたら、ぼくたちはいまここにこうやっちゃいなかったろう」とビルが言った。
それは本当だった。彼ははじめ、家に帰って職を探すはずだった。それから、マージのそばにいられるために、冬じゅうずっとシャルヴォイ〔ミシガン州北西部の町〕にいるつもりだった。いまは、これからどうするつもりか、自分でもわからなかった。
「あす釣りに行くということにもならなかったろうな」とビルが言った。「君の判断は正しかったよ、まったく」
「ほかにどうしようもなかったんだ」とニックが言った。
「うん。ああなるものなのさ」とビルが言った。
「急に、なにもかも終っちゃったんだ」とニックが言った。「なぜだかわからない。でも、仕方なかったんだ。ちょうどいま三日間のあらしが吹きつづけて、木の葉を残らず木からむしりとっちゃうようなものさ」
「ああ、終っちまったんだ。それがかんじんなことだぜ」とビルが言った。
「ぼくが悪かったんだ」とニックが言った。
「だれが悪いかは問題じゃないよ」とビルが言った。
「うん、そうだね」とニックが言った。
大切なことは、マージョリーがいってしまい、おそらく彼女とはもう会わないだろうということだった。二人でイタリアに行き、楽しくすごそうということを彼女に話したりしたものだった。いっしょに行く場所なども話したのだった。ところが、いまは、すべてが消えうせたのだ。なにかが彼の中から消えうせたのだ。
「もう終ったんだから、その終ったということだけが重要なんだ」とビルが言った。「いいかい、ウェメッジ、あれが進行中のときは、ぼくは心配だったよ。君はうまくやったよ。きっとあいつのおふくろはかんかんだろうよ。おおぜいの人に、君たちが婚約したって言いふらしてたものね」
「婚約なんかしてないよ」とニックが言った。
「婚約したって知れわたってたぜ」
「しようがないな」とニックが言った。「婚約してなかったんだが」
「結婚する気はなかったのか?」
「いや、そのつもりだったんだが、婚約はしてなかったんだ」とニックが言った。
「どう違うんだ?」とビルが裁判官みたいにきいた。
「わからない。でも違うことは違う」
「ぼくにはわからない」とビルが言った。
「いいよ」とニックが言った。「さあ、酔っぱらおうや」
「いいよ」とビルが言った。「さあ、ほんとに酔っぱらおう」
「酔っぱらって、それから泳ぎに行こう」とニックが言った。
彼はグラスを飲み干した。
「彼女にはほんとにすまないが、どうしようもないんだ」と彼が言った。「あいつのおふくろがどんなだか知ってるだろ」
「恐ろしい女だね」とビルが言った。
「急に終ってしまったんだ」とニックが言った。「もうこのことについちゃあ、話すべきじゃないんだ」
「そのとおりさ」とビルが言った。「ぼくがこの話をもちだしたのだ。で、そのぼくもこれでこの話は終りにするよ。もうこの話はよそうや。君も考えたくはないだろう。考えると、またよりをもどすかもしれないからな」
ニックはそんなことは考えてもいなかった。事はまったく決定的だと思っていたのだ。が、そんなことも考えられることだった。そう気づくと、気が楽になった。
「そうだ」と彼は言った。「そういう危険はいつもあるからな」
彼は楽しい気分になった。とりかえしのつかないことなんて、何ひとつないんだ。土曜日の夜、町へ行ってもいい。きょうは木曜日だ。
「チャンスならいつだってあるからな」と彼が言った。
「気をつけなければいけないぜ」とビルが言った。
「気をつけるよ」と彼が言った。
彼は楽しい気分になった。何もおしまいになったわけではなかった。何も失われてはいなかった。土曜日に町に行こう。彼はビルがその話をはじめる前の、あのうきうきした気分になった。いつも物事には出口というものがあるものだ。
「鉄砲をもって、岬にいき、きみのおやじさんを探そう」とニックが言った。
「いいとも」
ビルは壁の銃架から猟銃を二丁おろした。弾丸箱を開けた。ニックはマッキノー・コートを着、靴をはいた。靴は乾いて固くなっていた。彼はまだだいぶ酔っていたが、頭ははっきりしていた。
「気分はどうだ?」とニックがきいた。
「すばらしい。いい酔い心地だ」ビルはセーターのボタンをはめていた。
「酔っぱらっても、なんにもならないな」
「うん、そうだ。外へ行かなきゃだめだ」
二人はドアから外へ出た。風がぴゅうぴゅう吹いていた。
「この風じゃあ、鳥も草のなかにねているだろうよ」とニックが言った。
二人は果樹園のほうにおりていった。
「けさ、ヤマシギが一羽いた」とビルが言った。
「そいつが飛び立つかもしれないね」とニックが言った。
「こんな風では撃てないよ」とビルが言った。
いま、外に出てみると、マージのことはもうそんなに悲しいことではなくなった。たいして重要なことでもなかった。風がそんなことをすべて吹きとばしていた。
「大きな湖のほうから、じかに吹きつけている」とニックが言った。
風上のほうから、猟銃のどんという音が聞えた。
「おやじだ」とビルが言った。「湿地におりている」
「そっちへ近道をしておりていこう」とニックが言った。
「下の牧場を突っ切って、なにか飛びたたせられるか、やってみよう」とビルが言った。
「よし」とニックが言った。
あんなことはもう、どうでもよかった。風があんなことを頭の中から吹きとばしていた。これからも、土曜日の夜には、いつも町へいけるのだ。それはとっておきのすてきなことなのだった。
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第五章
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彼らは朝六時半に六人の閣僚をある病院の壁のまえに立たせて統殺した。中庭には水たまりがあった。中庭の舗装のうえには濡れた枯葉がおちていた。ひどい雨だった。病院のシャッターは全部おろされ、釘づけになっていた。閣僚の一人は腸チフスにかかっていた。二人の兵士が彼を階下に運び、雨のなかにつれだした。彼をおさえて壁のまえに立たせようとしたが、彼は水たまりのなかに坐りこんでしまった。ほかの五人は壁を背にして、きわめて静かに立っていた。最後に将校が、そいつを立たせようとしても無駄だと、兵士たちに言った。彼らが最初に一斉射撃をしたとき、その男は頭を膝の上にのせて、水のなかに坐りこんでいた。
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ボクサー
ニックは立ちあがった。何ともなかった。目をあげて線路を見ると、車掌専用車のあかりがカーヴを廻って消えていくところだった。線路の両側には沼があり、やがてそれは落葉松《カラマツ》の湿地になっていた。
彼は膝をさわってみた。ズボンが裂け、皮膚がすりむけていた。両手に擦り傷があり、爪に砂や石炭がらがつまっていた。線路の端から、ちょっとした斜面をおりて、水際に行き、手を洗った。冷たい水で丁寧に手を洗い、爪のなかのよごれをきれいにとった。しゃがんで、膝を水につけた。
あの制動手のくそ野郎。いつか仕返しをしてやるぞ。やつの顔は忘れるものか。さっきは、まんまといっぱい食った。
「こっちへおいで、お若いの」とあいつが言った。「いいものがあるから」
その言葉にだまされたのだ。だまされるなんて、おれはとんだ間抜け野郎だ。もうあの手にはのらんぞ。
「こっちへおいで、お若いの、いいものがあるから」それから、ガーンと一発くらい、線路のわきに四つんばいになったんだ。
ニックは目をこすった。大きなこぶができかかっていた。きっと、目のまわりが黒あざになるだろう。そろそろ痛んできた。あの制動手のくそ野郎。
指で目の上のこぶにさわってみた。まあ、いいさ、片目が黒あざになっただけさ。あんなことをして、ただこれだけだったのだ。お安いもんさ。黒あざが見たいものだ。水に映してみても、見えなかった。とっくに暗くなっていて、どこへ行くにも遠かった。両手をズボンでふいて、立ちあがり、土手をのぼって、線路に出た。
線路づたいに歩きだした。バラスがむらなく敷いてあって、歩きやすかった。枕木の間に砂と砂利が敷きつめてあり、しっかりとした歩調で歩けた。土手道のように平坦な線路道が湿地を貫いて前方にのびていた。ニックはそれにそって歩いた。どこかに行くはずだ。
ニックはあの貨物列車がウォルトン・ジャンクション〔ミシガン半島西北部の町〕のはずれの操車場にさしかかって速度をおとしたとき、それに飛び乗ったのだった。列車はニックを乗せたまま、暗くなりかかるころ、カルカスカを通過したのだ。だから、いまは、間もなくマンセロナに出るにちがいない。三マイルか四マイル、湿地だ。線路づたいに、枕木の間のバラスを踏んで歩いた。立ちこめる霧のなかに湿地がぼんやり見えた。目がいたみ、腹がへった。彼は歩きつづけた。もう線路を何マイルもあとにしたのだ。湿地は線路の両側にあり、まったく変らなかった。
前方に鉄橋があった。ニックはそれを渡ったが、ブーツが鉄に当ってうつろにひびいた。ずっと下のほうに、水が枕木の間から黒く見えた。ニックがゆるんでいるレールの留め釘を蹴ると、水のなかに落ちた。鉄橋の向こうに丘があった。線路の両側は高く暗かった。線路の先のほうに火が見えた。
気をつけて、その火のほうへ線路づたいに進んだ。火は線路の片側の土手の下にあった。さっきは、そのあかりだけが見えたのだった。線路が切り通しを抜けると、火が燃えているあたりは、田野がひらけ、はるかかなたの林につづいていた。ニックは用心しながら土手をおり、木の間から火に近づこうと、近道をして林にはいっていった。それはブナの林で、木の間を通りぬけていくと、落ちていたブナの実が靴の下でぎしぎし音をたてた。いまでは、火が木立のちょうどはずれに、明るく見えた。そのそばに男が坐っていた。ニックは木の陰で立ちどまり、様子をうかがった。男はひとりのようだった。男はあごを両手で支え、たき火を眺めながら、そこに坐っていた。ニックは木立から離れ、たき火の明りのなかに歩いていった。
男はそこに坐ったまま、火を見つめていた。ニックがすぐそばまできて立ち止まっても、動かなかった。
「こんばんは!」とニックは言った。
男は顔をあげた。
「その黒あざ、どこでもらったんだ?」と彼が言った。
「制動手になぐられたんだ」
「直通の貨物列車から突き落とされたのか?」
「うん」
「その野郎、見たぜ」と男が言った。「一時間半ばかり前に、ここを通っていった。両腕をぴしゃぴしゃ手のひらでたたきなから、歌をうたって、貨車の屋根を歩いていた」
「あんちくしょう!」
「おまえに一発くらわせて、いい気になっていたにちがいないぜ」と男は真顔になって言った。
「あいつに一発くらわしてやるぞ」
「あいつが通過するとき、いつか、石でもぶっつけてやりなよ」と男がそそのかした。
「そうしてやるとも」
「あんたはタフだな」
「いいや」とニックが答えた。
「あんたたち、若者は、みんなタフだよ」
「タフでなきゃあね」とニックが言った。
「それさ、おれの言ったのは」
男はニックを見て、ほほえんだ。たき火の明りで、ニックは男の顔がいびつなのを見てとった。鼻がつぶれ、目は細い裂け目のようだし、唇は奇妙な形だった。ニックはひと目でこれらすべてのことを見てとったわけではなかった。男の顔が奇妙な形で不具になっているのを見てとっただけだ。それは色のついたパテそっくりだった。たき火の明りで死んだように見えた。
「おれの面《つら》が気にくわんのか?」と男がたずねた。
ニックはまごついた。
「とんでもない」と彼は言った。
「よく見ろ」男は帽子をとった。
耳が片方しかなかった。それも厚ぼったく、頭の横にぴったりとくっついていた。もう一方の耳のあるところには、つけ根があるだけだ。
「こんなの見たことあるか?」
「いいや」とニックが言った。ちょっと気持が悪くなった。
「おれは平気だ」と男は言った。「おれが平気だと、おまえ、思うかね、お若いの」
「そう思うよ」
「やつらはみんなでおれをなぐったんだが」とその小男は言った。「でも、おれを傷つけられなかったぜ」
彼はニックを見た。「坐んな」と彼は言った。「食うか?」
「ううん、いいんだよ」とニックが言った。「これから町へ行くんだから」
「いいかい」と男は言った、「このおれをアドと呼びな」
「いいとも」
「いいかい」と小男が言った。「おれはまともじゃねえんだ」
「どうしたんだ?」
「気が変なんだ」
彼は帽子をかぶった。ニックはふきだしたくなった。
「あんたはまともだよ」と彼が言った。
「いや、違う。おれは気が変だ。いいかい、あんたは気が変になったことあるかね?」
「ないよ」とニックが言った。「どうやれば、なれるんだね?」
「わかんねえよ」とアドが言った。「そうなっちまうと、そんなこたあ、わかんなくなっちまうんだ。おまえ、おれ、知ってるだろう、なあ?」
「知らない」
「おれ、アド・フランシスよ」
「まさか」
「信じねえのか?」
「信じるよ」
ニックは嘘じゃないと思った。
「おれがどうやってやつらを負かしたか知ってるか」
「いいや」とニックが言った。
「おれの心臓はのろいんだ。一分に四十しか打たねえんだ。さわってみな」
ニックはためらった。
「やってみな」男は彼の手をつかんだ。「おれの手首をつかんでみな。そこに指をあててみな」
小男の手首は太く、筋肉が骨の上にもりあがっていた。ニックは指の下にゆっくり打つ脈搏《みゃくはく》を感じた。
「時計、持ってるかね?」
「いいや」
「おれもねえんだ」とアドが言った。「時計がなけりゃ、しょうがねえ」
ニックは手首を離した。
「いいかい」とアド・フランシスが言った。「もう一度つかんでみな。おまえ、数えるんだ。おれは六十まで数えるから」
ニックは指の下にゆっくりとした強い脈搏を感じながら、数えはじめた。小男が声をだして、ゆっくり、一、二、三、四、五、……と数えているのを聞いた。
「六十」とアドが数え終えた。「これで一分だ。おまえはいくつ数えた?」
「四十」とニックが言った。
「よし」とアドはたのしそうに言った。「けっして速くはならねえ」
一人の男が線路の土手を下り、空地を横ぎって、たき火のほうへやってきた。
「やあ、バッグズ!」とアドが言った。
「やあ!」とバッグズが答えた。それは黒人の声だった。ニックにはその歩き方から黒人だとわかった。彼は背中を二人に向けて、たき火の上にかがむようにして立っていた。背中をまっすぐのばした。
「仲間のバッグズだ」とアドが言った。「こいつも気が変なんだ」
「ようこそ」とバッグズが言った。「どこから来なさっただ?」
「シガゴから」とニックが言った。
「ありゃあ、いい町だ」と黒人が言った。「おまえさんの名前はまだ聞いてなかったが」
「アダムズってんだ。ニック・アダムズ」
「まだいちども気が変になったことねえんだってよ、バッグズ」とアドが言った。
「そのうち、いろんなことに会うだろうよ」と黒人が言った。彼は火のそばで包みをほどいていた。
「いつになったら食えるんだ、バッグズ」とプロボクサーがきいた。
「いますぐだよ」
「腹がへってるか、ニック?」
「ぺこぺこだ」
「聞いたか、バッグズ?」
「たいていのことは聞いてるよ」
「そんなこと、聞いちゃいねえ」
「ああ、そのかたの言ったことは聞いたよ」
彼はフライパンのなかにハムをいく切れか並べていた。フライパンがあたたまると、脂肪がじゅうじゅういい、バッグズは黒人らしい長い足で火の上にかがみこみ、ハムをひっくりかえし、卵を割って、フライパンのなかに入れ、フライパンを左右にかたむけて、あたたかい脂肪が卵にかかるようにした。
「袋からパンを出して切ってくれねえか、アダムズさん」バッグズが火のほうから振り向いた。
「いいとも」ニックは袋のなかに手をのばし、パンの塊をひとつ取りだした。彼は六切れ切った。アドはそれを眺めていて、身をのりだした。
「そのナイフ、貸してみな、ニック」と彼は言った。
「いや、だめだ」と黒人が言った。「ナイフを放しちゃいけねえよ、アダムズさん」
プロボクサーは坐り直した。
「パンを持ってきてくれねえか、アダムズさん」とバッグズがたのんだ。ニックは持っていった。
「パンをハムの脂肪につけたのは好きかね?」と黒人がきいた。
「好きだとも!」
「もうちょっと待ったほうがいい。食事の終りに食べたほうがいい。さあ」
黒人はハムをひと切れつまんで、切ったパンの上にのせ、その上に卵をすべらせて、のせた。
「それを重ねて、サンドイッチにしてくんねえか。そして、それをフランシスさんにあげてくだせい」
アドはそのサンドイッチを受けとり、食べはじめた。
「その卵がたれねえように気をつけな」と黒人が注意した。「こいつはあんたのだ、アダムズさん。この残りはおいらのだ」
ニックはサンドイッチをかじった。黒人は彼と向きあってアドの横にすわっていた。あたたかい焼きたてのハム・エッグはすばらしい味がした。
「アダムズさんはほんとに腹ぺこだな」と黒人が言った。ニックが拳闘の元チャンピオンだと名前だけ知っていたその小男は黙っていた。彼は黒人がナイフのことを口にしてから、ひと言もしゃべらなかった。
「熱いハムの脂肪につけたパン、あげようかな」とバッグズが言った。
「どうもありがとう」
小男の白人はニックを見た。
「あんたもどうだね、アドルフ・フランシスさん?」バッグズはフライパンからパンを取りだした。
アドは答えなかった。彼はニックを見ていた。
「フランシスさん?」と黒人のやさしい声が聞えた。
アドは答えなかった。彼はニックを見ていた。
「あんたに言ってるんだよ、フランシスさん」黒人はやさしく言った。
アドはニックを見たままだった。彼は帽子をまぶかにかぶっていた。ニックは気が気でなかった。
「いったい、何だってあんなまねをしやがるんだ?」と、帽子の下から鋭い声がニックに飛んだ。
「てめえは、どこの誰さまだと思ってやがるんだ? この高慢ちきめ。だれもこいなんて言わねえのに、こんなところにきやがって、人の食うものは食うし、ナイフを貸せといえば、いばりやがって」
彼はニックをにらみつけたが、その顔はまっ青で、目は帽子の下に隠れて、ほとんど見えなかった。
「ずうずうしい野郎だ。いったい、だれにたのまれて、こんなところに出しゃばってきやがったんだ?」
「たのまれやしないよ」
「そうさ、だれもたのむものか。だれもここにいてくれとたのみはしねえよ。のこのこきやがって、おれの面《つら》にけちをつけ、おれの葉巻を吸い、おれの酒を飲み、横柄な口をききやがる。よくもまあ、そんなまねができるなあ」
ニックは何も言わなかった。アドは立ちあがった。
「いいか、シカゴの腰抜け野郎め。おめえのけつをぶっとばすぞ。おい、わかったか」
ニックはあとずさりした。小男はゆっくり近づいてきた。左足を踏みだし、右足をそれにひきつけ、断固とした足どりで、追ってきた。
「なぐってみろ」彼は頭を動かした。「おれをなぐってみろ」
「なぐりたかないよ」
「そんなこと言ったって、逃がしゃあしねえぞ。一発くらわすぞ。さあ、おれにかかってこい」
「やめてくれ」とニックが言った。
「じゃあ、よし、この野郎」
小男はニックの足もとを見おろした。見おろしたとたん、たき火をはなれるときからうしろについてきていた黒人が身がまえて、小男の首のつけ根をこつんとたたいた。彼は前につんのめって倒れ、バッグズは草の上に布でくるんだ短い棍棒を落した。小男は顔を草につっこんで、そこに倒れていた。黒人は彼をだきあげたが、頭がだらりとたれていた。火のそばまで運んだ。ひどい顔色で、眼をあけていた。バッグズは彼をそっとおろした。
「バケツに水をくんで、持ってきてくれねえか、アダムズさん」と彼が言った。「ちょっと強くなぐったようだな」
黒人は男の顔に手で水をぶっかけ、耳をそっとひっぱった。眼が閉じた。
バッグズは立ちあがった。
「大丈夫だ」と彼は言った。「心配いらねえ。ごめんよ、アダムズさん」
「かまわないよ」ニックは小男を見おろしていた。草の上に短い棍棒を見つけ、ひろいあげた。やわらかい柄がついていて、手のなかでしなった。すり切れた黒のなめし革でできていて、重いほうの先端にハンカチがまいてあった。
「その柄は鯨の骨だで」と黒人はにっこりした。「もうそんなものだれも作りゃしねえ。おらあ、あんたがうまく身を守れるかどうかわからなかったんだし、それに、ともかく、あんたにこいつを傷つけてもらいたくなかったし、これ以上みっともない顔にしてもらいたくなかっただ」
黒人はふたたびにこっと笑った。
「あんた、このひとを傷つけたじゃないか」
「おれはやり方を知ってるだ。こいつはあとでは何も思い出しゃしないさ。あんなふうになったら、こいつを変えるには、ああしなけりゃならないだ」
ニックは、火の明りに照らされ、目を閉じて横になっている小男をまだ見おろしていた。バッグズは火に薪《たきぎ》をくべた。
「こいつのこたあ、心配いらねえよ、アダムズさん。こんなことは、たびたび見てるだ」
「何で気が変になったんだね」とニックがたずねた。
「ああ、いろいろあってね」と黒人は火のそばから答えた。「コーヒー一杯どうだね、アダムズさん」
彼はニックにコップを手渡し、気を失った男の頭の下にあてがった上衣のしわをのばした。
「ひとつには、あんまり何度もなぐられすぎただ」黒人はコーヒーをすすった。「でもよ、それだけなら、頭が多少ばかになっただけですんだのさ。ところが、妹がマネジャーでね、二人はいつも新聞に、兄妹《きょうだい》だからどうのこうのとか、妹が兄を愛しているのとか、兄が妹を愛しているのとか書きたてられ、やがてニューヨークで結婚しちまい、そのためいろいろ不愉快なことが起きちまっただ」
「それは覚えてるよ」
「そうだろうとも。もちろん、二人はてんで兄妹じゃなかったんだ。だがよ、そう思いたがらねえ連中がうようよいてよ、二人はけんかをおっぱじめるようになって、とうとう、ある日、女のほうがぴょいと飛びだして、それっきり帰ってこなかっただ」
彼はコーヒーを飲み、ピンク色の手のひらで唇をふいた。
「こいつはそれっきり気が変になっただ。コーヒー、もすこしどうだな、アダムズさん」
「ありがとう」
「その女を二、三度見たけどよ」と黒人がつづけた。「おそろしい別ぴんでよ。ふたごみていに、こいつに似てただ。こいつだって、顔をめちゃめちゃにやられなきゃあ、みっともねえ顔立ちじゃなかっただ」
彼は言葉を切った。話はおしまいらしかった。
「この人にどこで会ったんだね」とニックがきいた。
「監獄で会っただ」と黒人が言った。「女が行っちまってからというもの、しょっちゅう人をなぐりつけていただ。それで、監獄にぶちこまれただ。おらあ人を切って、ぶちこまれていただ」
彼はにっこりして、やさしい声でつづけた。
「じきに、おらあ、こいつが好きになってよ、監獄を出たら、探しただ。こいつはおらのほうが気が変だと思いたがってるがよ、おらあ気にしねえだ。ただ、いっしょにいたいだ。田舎が見たいだ。そしてりゃあ、こそ泥する必要もねえしよ。おらあ、紳士みてえに暮らしたいだ」
「二人で何してるんだね」とニックがきいた。
「いや、なにもやんねえ。ただ、動きまわってるだ。こいつは金持だでよ」
「ずいぶん金はもうけたんだろうな」
「そうだとも。でもよ、金はすっかり使っちまっただ。いや、みんなにまきあげられちまっただ。あの女が金を送ってよこすだよ」
彼は火をかきたてた。
「えらくすてきな女だよ」と彼が言った。「こいつとふたごみていに、よく似てるだ」
黒人は苦しそうに息をして横たわっている小男のほうをながめた。金髪が額の上にたれていた、不具になった顔が眠っていると、子供っぽく見えた。
「もういつ起してもいいだよ、アダムズさん。よかったら、ここからそろそろ立ち去ってもらいてえんだ。おらあ、もてなしてあげてえんだが、こいつがあんたを見たら、またおかしくなるかもしんねえだ。おらあ、こいつをこつんとたたくのは、でえきらいだが、ああなりゃあ、そうするほかねえだからよ。なるべく人さまに顔をあわせねえようにしとかなきゃならねえだ。気にしねえでくだせいよ、なあ、アダムズさん。いや、礼など言うこたあねえ、アダムズさん。前もって注意しときゃあよかっただが、こいつ、あんたが気にいっていたようだで、おらあ、うまくいくだと思ってただ。線路づたいに二マイルばかり行きゃあ、町にぶつかるだ。マンセローナって町だ。じゃ、さいなら。こん晩はここで明かしてもらいたいだがよ、そりゃあ、できねえ相談だで。あのハムとパンをすこし持って行くかな? いらねえって? サンドイッチを持ってったほうがええ」これらはすべて、低い、なめらかな、ていねいな黒人の声で語られた。
「よし。じゃあ、さいなら、アダムズさん。さいなら、元気でな」
ニックはたき火を離れ、空地を横切り、線路のほうへ歩いていった。たき火のあかりのとどかないところで、耳をすました。黒人の低いやわらかな声が話していた。ニックには言葉はききとれなかった。すると、小男が言うのが聞えた。「頭がやけにいたいよ、バッグズ」
「じきよくなるよ、フランシスさん」黒人の声がなだめていた。「ちょっと、この熱いコーヒーを飲みなせえ」
ニックは土手をのぼり、線路を歩きだした。気がつくと、ハムサンドを手に持っていたので、それをポケットにつっこんだ。線路がカーヴして丘の間にはいる前に、のぼり勾配のところから振りかえると、空地にたき火の明りが見えた。
[#改ページ]
第六章
[#ここから1字下げ]
ニックは教会の壁によりかかって坐っていた。彼らは通りの機関銃の砲火を避けて彼をここに引きずってきたのだ。彼は両脚をぶざまに突きだしていた。背骨を撃たれていた。顔は汗と泥にまみれていた。太陽が顔に照りつけていた。ひどく暑い日だった。リナルディは大きな背中を見せ、装具を投げだし、壁にもたれて、うつぶせに倒れていた。ニックは顔をぎらぎら光らせながら、まっすぐ前方を見ていた。向こう側の家のピンク色の壁が屋根から崩れ落ち、ベッドの鉄の骨組が、ねじれて、通りに向かって突き出ていた。二人のオーストリア兵の死体が家の陰の割れた石の破片のあいだに横たわっていた。通りの先にも、別の死体があった。闘いは町の奥のほうへ移っていた。情況はうまくいっていた。担架兵がいまにも来るだろう。ニックは注意して首をまわし、リナルディを見た。「|おい《センタ》、リナルディ。|おい《センタ》。お前とおれと、ふたりは単独講和を結んだのさ」リナルデイは苦しい息をしながら、日に照らされて、じっと横たわっていた。「おれたちは愛国者じゃないんだ」ニックは汗にまみれ、ほほえみながら、顔をそむけた。リナルディははりあいのない聞き手だった。
[#ここで字下げ終わり]
ごく短い物語
ある暑い夕方、パドゥア〔イタリア北東部の都市〕で、彼らが屋上に運びだしてくれたので、彼は町を見渡すことができた。空にはアマツバメがいた。しばらくすると、暗くなり、サーチライトが輝いた。ほかの者たちは酒のボトルを持って、下に降りていった。彼とラズのところに、下のバルコニーにいる彼らの声が聞こえてきた。ラズはベッドに坐った。彼女は暑い晩には涼しく新鮮だった。
ラズは三カ月間、夜勤をつづけた。彼らは喜んで彼女にそうさせた。彼らが彼の手術をしたとき、彼女は手術台の準備をした。彼らは味方とか浣腸器《エネマ》〔エネミー〈敵〉という言葉にひっかけたもの〕とかについて冗談《じょうだん》を言った。彼は麻酔をかけられてついつまらないことをしゃべってしまうようなときに、何もべらべらしゃべらないようにと、しっかり自分に言いきかせなから、麻酔にかけられた。松葉杖にすがるようになってからは、ラズがベッドから起きあがらなくてもいいように、自分で体温を計るようにした。患者がほんのわずかだったので、彼らはみんなそれを知っていた。みんなはラズが好きだった。彼は廊下を歩いて帰りながら、自分のベッドにいるラズのことを思い浮かべた。
彼が前線に帰る前に、二人は大教会堂《ドゥオーモ》へいって、祈った。薄暗く、静かだった。ほかにも祈っている人がいた。二人は結婚しようと思ったが、結婚予告(教会で結婚式をあげる前に、引き続き三回、日曜日に予告すべきものとなっている)をする時間がなかったし、二人とも出生証明書をもっていなかった。二人は結婚したような気分になっていたが、みんなにそのことを知ってもらいたかったし、そうするためには結婚式をやらないわけにはいかなかった。
ラズは彼にたくさん手紙を書いたが、彼は休戦になるまで一通も受けとらなかった。十五通が束《たば》になって前線に来た。彼は日付でそれを分け、全部一気に読みとおした。どれも病院のことで、どんなに彼を愛しているかとか、彼がいなくてはとてもやっていけないとか、夜、彼がいないのに気づいてすごく恐ろしくなるとか、書いてあった。
休戦後、二人は結婚できるように彼が帰国して職につくということで意見が一致した。彼がいい職にありついて、彼女を迎えにニューヨークまで出てこられるようになるまでは、ラズは帰国しないことにした。彼は酒を飲まないつもりだった。それに、彼は合衆国に帰っても、親友にもまただれにも会いたくなかった。ただ、職にありついて、結婚したかった。パドゥアからミラノまでの汽車の中で、二人は彼女がすぐに帰国したがらないことで、言い争った。ミラノの駅で別れなければならなくなったとき、二人は別れのキスをしたが、言い争いはまだ終わってはいなかった。彼にはそんな別れ方がたまらなかった。
彼はジェノアから船でアメリカに帰った。ラズはポルドノーネ〔イタリア北東部の都市〕に戻って、病院を開いた。そこは淋しく、雨が多く、町には特志歩兵の一個大隊が駐屯していた。冬のあいだ雨が多い泥んこのこの町に住んでいるうち、その大隊の少佐がラズに言い寄った。彼女は一度もイタリア人を知ったことがなかったのだが、とうとう、合衆国に、自分たちのことはほんの子供の恋愛にすぎなかった、と書き送った。彼女はすまないと思った。おそらく彼にはわかってもらえないだろうが、いつかは自分を許し、自分に感謝してくれるだろうと思った。そして春になったら、まったく予想外のことだが、結婚するものと思っていた。彼を以前のように愛してはいたのだが、いま、ああしたことは子供の恋愛にすぎなかったのだとわかったのだ。彼が大いに成功してくれるようにと望み、彼を絶対に信じていた。それが一番いいことだと思っていた。
少佐は、彼女と、春になっても、結婚しなかった。いつになっても結婚しなかった。ラズは、そのことをシカゴに手紙で知らせたが、返事は来なかった。しばらくたって、彼はタクシーでリンカン公園〔シカゴ市のミシガン湖畔にある公園〕を通っているとき、下町のあるデパートの売り子から淋《りん》病をうつされた。
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第七章
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フォッサルタ〔ヴェネチア東北方、ピアーヴェ河畔の村、ヘミングウェーはこの近くで負傷した〕で砲撃が塹壕をめちゃめちゃに粉砕しているとき、彼はぴたっと身を伏せ、汗を流し、祈った。「おお、イエス・キリストさま、ぼくをここから救い出してください。イエスさま、どうぞ救い出してください。キリストさま、どうぞ、どうぞ、どうぞ、キリストさま。ぼくを殺さずにお救いくださるだけで、ぼくは何でもおっしゃることはいたします。あなたを信じ、あなただけがこの世で大切であることを世界じゅうの人びとに伝えます。どうぞ、どうぞ、愛するキリストさま」砲撃は戦線の先のほうへ移っていった。われわれは塹壕にもどって作業し、朝になると、太陽がのぼり、日中は暑く、むしむしし、陽気で、平穏だった。翌日の夜、彼はメストレ〔ヴェネチアの西北方、約九キロの都市〕に帰ったが、ヴィラ・ロッサ〔軍人相手の淫売宿「赤い家」の意〕でいっしょに二階にあがった女には、イエスのことは話さなかった。そして、彼はまだ誰にも話さなかった。
[#ここで字下げ終わり]
兵士の故郷
クレブズはキャンサス州のメソジストの大学から戦争に行った。彼が大学の友愛会の仲間といっしょにとった写真があるが、それにはみんなが寸分違わぬ同じ高さと同じ格好のカラーをつけている。彼は一九一七年、海兵隊に入隊し、一九一九年夏、第二師団がライン川から撤収するまで、合衆国に帰ってこなかった。
彼がライン川で二人のドイツ娘ともうひとりの伍長といっしょにとった写真がある。クレブズと伍長は軍服が不釣合いなほど身体が大きく見える。ドイツ娘は美人ではない。ライン川は写真には写っていない。
クレブズがオクラホマ州の故郷の町に帰ってきたころには、帰還勇士の歓迎ということが終っていた。彼はあまりにもおそく帰ってきたのだ。召集をうけてその町から出征した兵士たちは、帰ってきたとき、至れりつくせつの歓迎をうけたのだ。大変な熱狂ぶりだったのだ。ところが、いまや、その反動が始まっていた。戦争が終って何年もたち、こんなにおそくクレブズが帰ってくるなんて、人びとにはむしろこっけいに思われたのだ。
ベローの森や、ソワソンや、シャンパーニュ地方や、サン・ミエルや、アルゴンヌの森〔いずれもフランス北部から東北部にかけての第一次大戦の古戦場〕で戦ったクレブズは、はじめは、戦争のことを一切話したがらなかった。あとになって、話す必要を感じたときには、だれも話を聞きたがらなかった。町の人びとは残虐な話をいやというほど聞いていたので、実際あったことを話してもスリルなど感じなかった。クレブズは話をきいてもらうためには、嘘をつかねばならないことをさとった。そして、嘘を二度つくと、彼のほうも戦争や戦争話に反撥を感じたのだった。嘘を話したおかげで、戦争中に彼が経験したあらゆることにたいする嫌悪感が生じた。思いだすと心のなかが冷静に明解に感じることのできたあらゆる時が、なにかほかのことをしようと思えばできたのに、そのひとつのことを、容易に自然に行うべきひとつのことを行った遥かに遠い過去の時が、いまでは、そのすがすがしい、貴重な性質を失い、やがて、消えうせてしまったのだ。
彼の嘘はまったく取るにたらない嘘で、ほかの兵隊たちの見たり、やったり、聞いたりしたことを自分の経験として話したり、兵隊ならだれでもよく知っている出所のあいまいな出来事を事実として述べたりするくらいのことだった。そうした彼の嘘もビリヤード場では人びとを驚かせはしなかった。アルゴンヌの森で機関銃に鎖でつながれたドイツ女のくわしい話をきいたことのある友人たちは、鎖につながれていないドイツの機関銃手のいたことが理解できなかったり、また、愛国心に邪魔されて、そんなことに興味をもてなかったりして、彼の話などにすこしも心を動かさなかった。
クレブズは嘘や誇張の結果としてのそんな経験には吐き気をもよおしていた。ときおり実際に兵隊だった男に会い、ダンスパーティーの化粧室で二、三分話していると、兵隊たちにまじっている古参兵のような気楽なポーズをとるようになった。しょっちゅう胸が悪くなるほどひどくびくびくしていたというポーズである。このようにして彼はすべてを失ってしまったのだ。
こうしたころ、もう夏の終りごろだったが、彼は朝寝坊して、起きると、本を借りに下町の図書館まで歩いていき、家で昼めしを食べ、玄関のポーチであきるまで本を読み、やがて昼のいちばん暑い時間を涼しい薄暗いビリヤード場ですごそうと、町を通りぬけて歩いていった。彼はビリヤードが大好きだった。
夕方になると、彼はクラリネットを練習し、下町をぶらつき、本を読み、ベッドにはいった。
二人の妹にとっては、彼はまだ英雄だった。母は彼が望むなら、ベッドのなかで朝食をとらせてくれただろう。まだ寝ているうちに、母はしばしば部屋にやってきて、戦争の話をしてくれとたのんだが、その母の注意はいつも散漫だった。父はどうでもいいという態度だった。
クレブズが戦争に行く前は、家の自動車の運転は許されていなかった。父が不動産屋だったので、農地を見せに客を田舎へ連れていくときに車を必要とする時はいつでも使えるようにしておきたかったからだ。車は、父のオフィスが二階にあるファースト・ナショナル銀行のビルの表に、いつも置いてあった。戦争が終ったいまでも、やはり同じ車だった。
町はすこしも変わっていなかった。ただ、若い娘たちがおとなになっていた。が、娘たちはすでにはっきりしている友情関係とか、たえず変っている反目状態といった複雑な世界に住んでいたので、クレブズにはそのなかに割りこんでいく精力も勇気もなかった。それでも、彼は娘たちを眺めるのは好きだった。器量のいい若い娘がたくさんいた。彼女たちはほとんど髪の毛をショートカットにしていた。彼が戦争に出かけたころは、髪をそんなにしていたのは、幼い女の子か身持ちの悪い女だけだった。いまでは、娘たちはみんなセーターを着、まるいオランダ風のカラーのついたワイシャツ型のブラウスを着ていた。それが流行《はやり》だった。彼は玄関のポーチから彼女たちが通りの向こう側を歩いていくのを見るのが好きだった。彼は彼女たちが木蔭を歩いていくのを眺めるのが好きだった。彼は彼女たちのセーターの上にまるいオランダ風のカラーがでているのが好きだった。彼は彼女たちの絹のストッキングや平らな靴が好きだった。彼は彼女たちの断髪と彼女たちの歩きぶりが好きだった。
町のなかに出かけると、彼女たちはそれほど強くは彼をひきつけなかった。彼はギリシア人の経営するアイスクリーム・パーラーにいる彼女たちを見かけても、好きにはならなかった。彼女たちを心からほしいなどとは思わなかった。彼女たちはあまりにも複雑だった。なにかわからないものがあった。彼はぼんやりと女の子がほしいと思ってはいたが、女の子を手に入れるために働きかけねばならないのが、いやだった。女の子を持ちたいとは思ってはいたが、女の子を手に入れるために長い時間をかけねばならないのが、いやだった。陰謀とか掛け引きに加わるのが、いやだった。なにか言いよったりするのが、いやだった。もうそれ以上嘘をつくのが、いやだった。そんなことをする価値がなかったのだ。
彼はどんな結果も、いやだった。どんなことがあっても、どんな結果も、いやだった。結果などのない生活をしてみたかった。その上、彼は実際に女の子を必要としなかった。軍隊生活で、彼はそういうことを教えられたのだ。女の子を持たなければならないかのようなふりをするのは、さしつかえなかった。ほとんど、だれでも、そんなふりをした。しかし、それは本心ではなかった。女の子なんか必要ではなかった。おかしな話だった。はじめは、女の子なんか自分には意味がない、女の子のことなど考えたこともない、女の子なんかに指一本触れさせるもんかと、自慢した。ところが、やがて、女の子なしではやっていけない、いつも女の子を持っていなければならない、女の子なしでは眠れないと、自慢するのだった。
それはまったく嘘だった。両方とも、まったく嘘だった。女の子のことを考えなければ、女の子なんか必要でないのだ。そういうことを彼は軍隊で学んだ。やがて、晩《おそ》かれ早かれ、いつかは女の子は手に入るものだ。女の子を持つ時期が本当に熟してくれば、いつでも手に入るものだ。だから、そんなことを考える必要はないのだ。晩かれ早かれ、そういうことになるものだ。彼はそういうことを軍隊で学んだのだった。
ところで、女の子がやってきて、あまりおしゃべりしなければ、彼は女の子が好きになったかもしれなかった。だが、この故郷では万事が複雑すぎた。彼にはそうしたことにふたたび耐えるわけにはいかないことがわかっていた。それは苦労するに価しなかったのだ。フランスの娘やドイツの娘の場合はあれでよかった。こんなふうにおしゃべりしなくてよかった。あまりしゃべれなかったし、しゃべる必要もなかった。ことは簡単で、それでもう友だちになれたのだ。彼はフランスのことを考え、それからドイツのことを考えはじめた。概していえば、ドイツのほうが好きだった。ドイツを離れたくなかった。故郷に帰りたくなかった。だが、彼は帰ってきた。彼は玄関のポーチに坐っていた。
彼は通りの向こう側を歩いている女の子が好きだった。フランス娘やドイツ娘よりも、顔つきがずっと好きだった。だが、彼女たちのいる世界は、彼のいる世界とは違っていた。彼はその女の子の一人を手にいれたかった。だが、そうする価値はなかった。彼女たちはあのように見事なひとつの型をなしていた。彼はその型が好きだった。それは胸をわくわくさせた。だが、彼はあのようなおしゃべりをはじめっからやる気にはならなかった。ある女の子をなんとしてでもほしいというわけではなかった。ただ、すべての女の子たちを見るのが好きだった。それだけの価値のあることではなかった。事情がふたたび好転している現在では、価値あることではなかった。
彼はポーチに坐って、戦争に関する本を読んでいた。それは戦史で、彼は自分の参加したすべての戦闘について読んでいた。いままでにこんな面白いものを読んだことがなかった。もっと地図がついていればいいと思った。ほんとうにいい戦史が、立派で詳細な地図つきで出版されたら、全部読んでやろうと心たのしく、期待していた。いま、彼は戦争について本当のことを学んでいた。彼は立派な兵士だったのだ。それは重要なことだった。
家へ帰ってきて一カ月ぐらいたったある日の朝、母が部屋にはいってきて、ベッドに坐った。彼女はエプロンのしわをのばした。
「昨夜、お父さんと話したんだけどね、ハロルド」と彼女が言った。「お父さんは、夕方なら車を持ちだしてもいいっておっしゃってたよ」
「ふん?」と、まだすっかり目がさめてないクレブズが言った。「車を持ちだしても? ふん?」
「そうだよ。夕方お前の好きなときに車を持ちだしてもかまわないって、お父さん、だいぶ前から思ってらしたんだけど、あたしたちゆうべ、はじめてその話をしたんでね」
「そりゃあ、きっと、お母さんがお父さんに頼んだんだろう」
「いいえ、お父さんが言いだして、そのことを話しあったんだよ」
「いや。きっとお母さんが頼んだんだ」とクレブズはベッドに起きあがった。
「朝食におりてらっしゃい、ハロルド」と母が言った。
「着物を着がえて、すぐ行くよ」とクレブズが言った。
母は部屋から出ていった。彼が朝食のため食堂におりていこうと、顔を洗い、髭をそり、着がえている間に、母が階下でなにか揚げている音が聞えた。彼が朝食を食べていると、妹が手紙を持ってきた。
「まあ、ヘアー」と彼女が言った。「寝ぼうね。起きて、なにしようっていうの?」
クレブズは彼女を見た。彼は妹が好きだった。彼のいちばん好きな妹だった。
「新聞きてる?」と彼がきいた。
彼女は彼に『キャンザス・シティ・スター』を渡した。彼は茶色の帯封を引きさいて、スポーツ欄を開いた。彼は『スター』を開いたまま折って、水差しに立てかけ、コーンフレークの皿でおさえた。食べながら読めるわけだ。
「ハロルド」母が台所の戸口に立っていた。「ハロルド、新聞をしわくちゃにしないでおくれ。しわくちゃにすると、お父さん、『スター』が読めなくなるからね」
「だいじょうぶだよ」とクレブズが言った。
妹が食卓に坐って、新聞を読んでいる彼を眺めていた。
「きよう、お昼から、学校でインドア〔室内ソフトボール〕をやるのよ」と彼女が言った。「あたし、ピッチャー」
「いいな」とクレブズが言った。「腕前はどうなんだ?」
「たいていの男の子よりうまく投げられるわ。あたしみんなに、兄さんに教えてもらったって言ってるのよ。ほかの女の子たちはたいしてうまくないわ」
「ふうん?」とクレブズが言った。
「あたしみんなに、兄さんはあたしの恋人だって言ってるのよ。恋人よね、ヘアー?」
「そうとも」
「兄さんて、ただ兄さんだから、ほんとうには恋人になれないの?」
「さあ、わからないな」
「わかってるくせに。あたしが大人《おとな》になって、兄さんがその気になっても、恋人になれないの、ヘアー?」
「なれるとも。いまでも、ぼくの恋人さ」
「ほんとうに、あたし、兄さんの恋人?」
「そうだとも」
「あたしを愛してる?」
「う、うん」
「いつまでも愛してくれる?」
「もちろん」
「インドアをやるの、見にきてくれる?」
「たぶんね」
「あら、ヘアー、あたしを愛してないのね。愛してたら、あたしがインドアをやるのを見に来るわ」
クレブズの母が台所から食堂にやってきた。目玉焼きの卵二つとぱりぱりに揚げたベーコンをのせた皿とそば菓子の皿を持ってきた。
「ヘレン、向こうへ行ってらっしゃい」と彼女が言った。「ハロルドに話があるんだから」
彼女は卵とベーコンを彼の前に置き、そば菓子につけるメイプル・シロップの壜を持ってきた。それから、クレブズに向かいあってテーブルに坐った。
「ちょっと新聞をおきなさい、ハロルド」と彼女が言った。
クレブズは新聞をおいて、たたんだ。
「お前、これから何をするつもりか、もう決めたかね、ハロルド?」と母は眼鏡をはずしながら言った。
「いいえ」
「もう決めてもいい頃だと思わないかね?」母は意地悪で言ったわけではなかった。気にしていたのだ。
「まだ考えてみなかった」とクレブズが言った。
「神さまは、一人一人に働く仕事を用意なさってるんだよ」と母が言った。「神の王国には怠け者は一人もいないはずだよ」
「ぼくは神の王国なんかにはいないんだ」とクレブズが言った。
「あたしたちは一人残らず神の王国にいるんですよ」
クレブズはいつものように当惑し、腹立たしくなった。
「あたしはお前のことが心配でたまらないんだよ、ハロルド」と母がつづけた。「お前が誘惑にさらされたにちがいないことは、知ってるよ。人間がどんなに弱いかってことも、知ってるよ。お前のおじいさん、つまり、あたしの父が南北戦争について話してくれたことも、知ってるよ。それで、あたしはお前のためにお祈りしたんだよ。ハロルド、あたしはお前のために一日じゅうお祈りしてるんだよ」
クレブズは皿の上のベーコンの脂肪が固くなっていくのを見ていた。
「お父さんだって心配なさってるんだよ」と母がつづけた。「お前は希望を失い、人生のはっきりした目標をもっていないと、お父さんはお考えだよ。お前とちょうど同い年のチャーリー・シモンズさんは立派な職について、ちかぢか結婚するんだよ。男の子たちはみんな身を固めようとしているよ。みんな、どこかでなにかしようと決めているよ。チャーリー・シモンズさんのような男の子は、いずれはこの社会の名誉になるだろうってぐらい、お前だってわかるだろう」
クレブズはなにも言わなかった。
「よそ見しないで、ハロルド」と母が言った。「お前にだってわかるだろう、あたしたちがお前のことを愛しているからこそ、こうやってあたしが世間さまの様子を話してあげてるんだってことぐらい。お父さんだってお前の自由を束縛しようなんて思っちゃいないよ。お前に車の運転を許してあげようと考えてるんだよ。だれか、かわいい女の子をドライヴに連れていきたいっていうんなら、あたしたちだって、この上なくうれしいんだよ。お前にたのしんでもらいたいんだよ。でも、職について、身をかためてもらわなくっちゃ、ね、ハロルド。お前がどんな仕事をはじめようと、お父さんは構わないんだよ。どんな仕事だって立派なものだとお父さんはおっしゃってるよ。でも、お前は、なにかをはじめなきゃいけないよ。けさお前にこの話をするようにいわれたんだからね。だから、お父さんのオフィスに寄って、会っておいでよ」
「話って、それだけ?」とクレブズが言った。
「そうだよ。お前、お母さんを愛していないのかい?」
「ううん」とクレブズが言った。
母はテーブル越しに彼を見た。その目は光っていた。母は泣きだした。
「ぼくはだれも愛しちゃいないんだ」とクレブズが言った。
そう言ってみても、無駄だった。彼は母にうまく言えなかった。母にわからせることはできなかった。そんなことを口に出したのが愚かなことだったのだ。母を傷つけただけだったのだ。彼は母のところへ行って、腕をつかんだ。母は両手に顔を埋めて、泣いていた。
「違うんだ」と彼は言った。「ぼくはただなにかに腹を立てていただけなんだ。お母さんを愛しちゃいないなんて、言うつもりじゃなかったんだ」
母は泣きつづけた。クレブズは母の肩に腕をかけた。
「ぼくを信じてくれないの、お母さん?」
母は首を振った。
「ねえ、ねえ、お母さん、ぼくを信じて」
「いいよ」と母は泣きじゃくりながら言った。彼女は彼を見上げた。「信じるよ、ハロルド」
クレブズは母の髪にキスした。母は顔を彼のほうに向けた。
「あたしはお前のお母さんだよ」と彼女は言った、「お前がちっちゃな赤ちゃんだったとき、お前をこの胸にしっかり抱きしめていたもんね」
クレブズは気分が悪くなり、なんとなく吐き気がしてきた。
「わかってるよ、お母さん」と彼は言った。「お母さんのために、よい子になるようにするよ」
「ひざまずいて、あたしといっしょにお祈りしてくれないか、ハロルド?」と母がたのんだ。
二人が食堂のテーブルの横にひざまずくと、クレブズの母が祈った。
「さあ、お祈りしな、ハロルド」と母が言った。
「ぼくはできない」とクレブズが言った。
「やってごらん、ハロルド」
「できないんだ」
「お前のかわりに、お祈りしてあげようか?」
「うん」
そこで、母はクレブズのために祈り、やがて二人が立ちあがると、クレブズは母にキスして、家から出ていった。彼は自分の生活が面倒なことにならないようにと努めてきたのだった。それでも、いまだに、彼を感動させるものは何ひとつなかったのだ。彼は母にすまないと思っていた。母のために、嘘をついてしまったのだ。キャンザス・シティに行って、仕事につこう。そうすれば母も安心するだろう。家を出ていくまでには、きっと、もうひと騒動あるだろう。父のオフィスへは立ち寄るまい。さっきのようなことは避けたい。自分の人生はスムーズに流れてほしかった。ところが、あんなふうになってしまった。まあ、いいや、ともかく、あんなことはもうすっかり終ったのだから。学校の校庭へ行って、ヘレンがインドアをやるのを見てやろう。
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第八章
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午前二時に、二人のハンガリー人が十五丁目とグランド・アヴェニュー〔ヘミングウェーが十八歳のとき新聞記者をしていたキャンザス・シティの通りの名〕が交叉している角の煙草屋におしいった。ドレヴィッツとボイルが十五丁目警察署からフォードに乗ってかけつけた。二人のハンガリー人は路地からワゴン車を後退させていた。ボイルは一人を運転席から、もう一人をうしろの荷台から射落した。ドレヴィッツは二人が死んだのを見て、ぎょっとした。おい、ジミー、と彼は言った。とんだことをしちまったなあ。えらく面倒なことになるぜ。
……こいつらは、ごろつきじゃないか、とボイルが言った。イタ公じゃないか。だれが面倒なんか起すもんか。
……まあ、大丈夫だろう、こんごのことは、とドレヴィッツが言った。だが、撃ち殺したとき、どうしてこいつらがイタ公だってこと、わかったんだ?
イタ公だ、とボイルが言った。イタ公は一マイル先からわかるさ。
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革命家
一九一九年、彼は党本部発行の消えない鉛筆で書かれた一枚の四角い油布を持って、イタリアを汽車で旅行していた。油布には、ブダペストの反革命派のために非常に苦しめられた同志であると書かれ、なんとか彼を援助するよう同志たちに懇請していた。彼はこの油布を切符がわりに使った。彼はたいへん内気で、とても若く、汽車の乗務員たちは仲間から仲間へと彼を渡していった。彼は無一文で、彼らは駅の食堂のカウンターのうしろで彼に食事をさせた。
彼はイタリアが好きになった。美しい国だ、と言った。住民はみな親切だった。多くの町へ行き、ずいぶん歩き、いろいろな絵を見た。ジョット、マザッチオ、ピエロ・デラ・フランチェスカなどの複製を買い、『前進《アヴァンチ》』紙にくるんで持っていた。マンテニャは好きではなかった。
彼はボローニャの党支部に出頭し、ぼくはロマーニャ〔イタリア北東部の旧教皇領地〕まで彼を連れていった。ぼくはそこで、ある人に会う必要があったのだ。ぼくたちは二人でたのしい旅をした。九月の初めで、田舎は気持よかった。彼はマジャール人〔ハンガリーに住む主要種族〕の、なかなかの好青年で、たいへん内気だった。ホルティ〔ハンガリーの海軍大将〕の部下が彼になにか危害を加えたのだった。彼はそのことをちょっと話した。そんなハンガリーだったのだが、彼は世界革命を心から信じていた。
「だが、イタリアでは運動はどうなっていますか?」と彼はたずねた。
「ぜんぜんだめだ」とぼくが言った。
「でも、よくなりますよ」と彼が言った。「ここでは、あらゆるものがありますからね。だれもが確信をもっている唯一の国ですから。あらゆるものの出発点になるでしょう」
ぼくはなにも言わなかった。
ボローニャで彼はわれわれと別れた。彼は汽車でミラノへ行き、それからアオスタ〔イタリア北西部、山間部の都市〕へ行き、徒歩で峠を越えて、スイスにはいるつもりだった。ぼくはミラノにあるマンテニャの絵の話をした。「いや」と彼はたいそうはにかみながら言った。マンテニャは好きではない、と。ぼくはミラノで食事する場所と同志の住所を残らず書いてやった。彼は非常に感謝したが、心は早くも峠越えに向けられていた。天気がいいうちに徒歩で峠越えしようと、しきりに考えていた。彼は秋の山が好きだった。ぼくが最後に彼の噂を聞いたのは、スイス人がシオン〔スイス南西部の町〕の近くで彼を投獄したということだった。
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第九章
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最初の闘牛士《マタドール》は剣を持った手を角で突きさされ、観衆にやじりたおされた。二番目の闘牛士は足をすべらせ、牛に横腹を突きさされ、片手で角にしがみつき、もう一方の手で突かれた場所をぴったりおさえた。すると、牛は彼を柵にどすんとぶっつけたので、角がぬけ、彼は砂の上にほうりだされ、やがて、のんだくれの気違いのように立ちあがり、彼を運び去ろうとする人たちを殴りつけようとし、剣を返せとわめいたが、気絶してしまった。三番目に若者が登場したが、三人以上は闘牛士を使えないので、彼は牛を五頭殺さねばならなかった。最後の牛のときは、彼はすっかり疲れてしまい、剣を突きさすこともできなかった。腕をもちあげるのがやっとだった。彼は五度こころみた。観衆は、立派な牛なので、殺されるのは彼なのか牛なのかと、かたずをのんだ。だが、ついに彼が牛を仕止めた。彼は砂の上に坐りこんで、吐いた。係員は彼にケープをかけた。観衆はわめきたて、闘牛場の中にいろいろなものを投げこんだ。
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エリオット夫妻
エリオット夫妻は子供をつくろうと一生懸命こころみた。夫人が、耐えられるかぎり何回となく、こころみた。二人は結婚したあと、ボストンでこころみ、船でやってくるときも、こころみた。船では、エリオット夫人がすっかり船に酔ってしまったので、そうしばしばはこころみなかった。彼女は船に酔ったが、彼女は酔うと、南部の女が酔うように、酔った。南部の女とは、合衆国の南部出身の女ということだ。すべての南部の女と同じように、エリオット夫人は船酔いと、夜の旅と、朝あまり早く起きるために、たちまち身体ががたがたになってしまった。船に乗りあわせた多くの人びとは、彼女をエリオットの母だと思った。二人が夫婦だと知っていたほかの人たちは、彼女に子供ができたのだと思いこんだ。実際は、彼女は四十歳だった。彼女は旅行をはじめたとたん、急にふけこんでしまったのだ。
エリオットは彼女の働いていた喫茶店で知りあってからずいぶんたったある晩、彼女にキスし、それから数週間かかって彼女をくどいて結婚したのだが、そのときは、彼女はいまよりずっと若く見えたし、実際、年なんか全然とっていないように見えたのだった。
ヒューバート・エリオットは、結婚したときは、ハーヴァード大学の法科の大学院で研究していた。年に一万ドル近い収入のある詩人だった。非常に長い詩を非常に速く書いた。二十五歳で、エリオット夫人と結婚するまでは女といっしょに寝たことがなかった。妻に期待しているのと同じ精神と肉体の純潔を、妻に与えることができるように、自分自身の純潔を守っていたいと思っていた。彼はそれを正しい生き方だと自分に言いきかせた。彼はエリオット夫人とキスするまで、いろいろな娘と恋愛した。そして、そのたびに、早い晩《おそ》いの差はあったが、自分は潔白な生活をしてきたのだと相手に言った。すると、ほとんどすべての娘が彼に興味を失った。娘たちが、さんざん怪しげなところで遊んで来た男だと知っているにちがいないのに、そんな男と婚約し、結婚するのを見て、彼はびっくりし、実際ぞっとした。一度など、知り合いの娘に、大学時代にろくでなしだったという証拠に近いものをにぎっているある男について注意してやろうとしたところ、きわめて不愉快な結果になってしまった。
エリオット夫人の名前はコーネリアといった。彼女は彼にキャルティーナと呼ぶように教えた。それは南部で家族の者が彼女につけた愛称だった。結婚してから、彼がコーネリアを家に連れていくと、彼の母は泣いたものだが、二人が外国で暮らすつもりだと聞くと、たいそう晴れやかな顔になった。
彼がコーネリアに、君のためにぼくは純潔を守ってきたのだと言うと、彼女は「まあ、かわいいあなた」と言って、彼をいままでになく強く抱いた。コーネリアも純潔だった。「もいちど、あんなふうにキスして」と言った。
ヒューバートは、あるとき、ある男が話すのを聞いて、そのようなキスの仕方を覚えたのだと、彼女に説明した。彼はその実験が気にいり、二人でできるだけ工夫した。二人で長いキスをしているときなど、ときどき、コーネリアは彼に、あたしのために本当に純潔を守ってきたって、もう一度いって、とたのむのだった。彼がそうだと宣言すると、きまって、彼女はふたたびぼうっとなってしまった。
はじめは、ヒューバートはコーネリアと結婚する気はなかった。そんなふうに彼女を考えたことは一度もなかった。彼女は彼のとてもよい友だちだった。すると、ある日、彼女の同僚の女の子が店の表にいるあいだ、二人は奥の小さな部屋でレコードに合わせて、ダンスをしていた。彼女は顔をあげて彼の目をのぞきこみ、彼は彼女にキスした。いったいいつ結婚することに決めたのか、彼にはどうしても思い出せなかった。だが、二人は結婚した。
二人は結婚した日の初夜をボストンのホテルで過ごした。二人とも失望落胆したが、結局、コーネリアは眠ってしまった。ヒューバートは眠れず、新婚旅行用に買った新しいイェーガ布地〔純毛織物〕のバスローブすがたで、何度も、部屋を出て、ホテルの廊下を行ったり来たりした。歩いていると、どの部屋のドアの外にも、小さな靴と大きな靴が二足そろって並んでいるのが目についた。彼は心臓がどきどきしてきたので、急いで自分の部屋にもどったが、コーネリアは眠っていた。彼は彼女を起したくはなかった。そして、まもなく気持もすっかり落着き、安らかに眠った。
翌日、二人は彼の母を訪ね、その翌日、ヨーロッパに向かって出帆した。子供をつくろうとこころみることは可能だったが、二人ともなにはともあれ子供が一番ほしかったのに、コーネリアはそう何度もそれをこころみるわけにはいかなかった。二人はシェルブール〔イギリス海峡に面したフランスの要港〕に上陸し、パリに来た。パリで、子供をつくろうとこころみた。それから、ディジョン〔フランス東部の都市〕に行くことに決めた。そこには夏期学校がひらかれていたし、船でいっしょに海を渡ったおおぜいの人が行っていた。ディジョンでは何もすることがないのに気がついた。しかし、ヒューバートはたくさんの詩を書き、コーネリアがそれをタイプに打った。どれも非常に長い詩だった。彼はタイプのミスにとてもうるさく、ひとつでもミスがあると、一ページ全部を打ちなおさせた。彼女はさんざん泣いたが、二人はディジョンを去る前に、何度か子供をつくろうとこころみた。
二人はパリにもどり、同船の仲間もほとんどもどってきた。彼らはディジョンにあきあきしていたのだが、ハーヴァードかコロンビアかウォーバシュ〔インディアナ州クロフォーズヴィルにある大学〕を卒業後、ともかく、コート・ドール県のティジョン大学に学んだのだと言えるわけだった。彼らの多くは、もしそこに大学があれば、ラングドッグ〔もとフランスの南部にあった州〕か、モンペリエかペルピーニャン〔いずれもフランス南部。地中海の近くの都市〕に行きたかったのだろう。だが、それらの土地はどれもあまりにも遠すぎたのだ。ディジョンはパリから四時間半しかかからず、汽車には食堂車がついていた。
こうして、みんなは、通りの向こう側のロトンドはいつも外国人でいっぱいなので避け、カフェ・デュ・ドームのあたりに二、三日、腰かけていたが、やがてエリオット夫妻は『ニューヨーク・ヘラルド』の広告でトゥレーヌ〔もとフランス西北部にあった州〕にある別荘を借りた。エリオットはいまでは、たくさん友だちができ、みんな彼の詩を賞讃していた。エリオット夫人は夫を説き伏せ、喫茶店にいた彼女の女友だちに来るようにと手紙をボストンへだした。女友だちが来ると、エリオット夫人はずっと晴れやかな顔になり、二人で思うぞんぶん泣きあった。女友だちはコーネリアより幾つか年上で、彼女のことを「|あんた《ハニー》と呼んだ。彼女も南部のたいへんな旧家の出だった。
この三人と、エリオットをヒュービーと呼んでいたエリオットの友人の幾人かが、トゥレーヌの別荘に行った。行ってみるとトゥレーヌはキャンザスとじつによく似た、まことに平坦で熱い地方だった。エリオットはいまでは一冊の詩集にできるほどの詩を書いていた。彼はそれをボストンで出版するつもりで、すでにある出版社に小切手を送り、出版契約を結んだ。
しばらくたつと、友人たちはつぎつぎにパリに帰りだした。トゥレーヌがはじめ思ったほどの所でないことがわかってきたのだ。まもなく、友人たちは、ある金持で若い独身の詩人といっしよに、みんな、トルーヴィル〔フランス西北部の港市、イギリス海峡に面する海水浴場〕の近くの海岸の避暑地へ行ってしまった。そこで、みんなはおおいに楽しんだ。
エリオットは、ひと夏、借りていたので、トゥレーヌの別荘にずっと滞在した。彼とエリオット夫人は大きな暑い寝室の大きな固いベッドで、子供をつくろうと一生懸命、こころみた。エリオット夫人はタイプライターのキーを見ずに打つ方法を習おうとしていたが、速度がますにつれ、ミスが多くなるのに気づいた。いまでは、女友だちが実際には全部の原稿をタイプしていた。彼女は非常にきれいに打ち、有能で、タイプをたのしんでいるようだった。
エリオットは白ワインをもっぱら飲んで、自分の部屋でひとりで暮らしていた。夜のあいだにたくさん詩を書き、朝になると、げっそりやつれた顔をしていた。エリオット夫人と女友だちは、いまでは、大きな中世風のベッドにいっしょに寝た。二人は何度もいっしょに泣きたいだけ泣いた。夕方になると、三人はそろって庭のプラタナスの木の下で食卓についた。暑い夕べの風が吹き、エリオットは白ワインを飲み、エリオット夫人と女友だちはおしゃべりをし、三人はいたって幸福だった。
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第十章
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彼らはたたいた……白い馬の脚をぴしゃりぴしゃりたたいた。馬は膝《ひざ》を立てて起《た》ちあがった。騎馬闘牛士《ピカドール》〔闘牛の開始にあたり、馬に乗って長い槍で牛を突き、怒らせる役目の人〕はよじれた鐙《あぶみ》をまっすぐに直し、手綱を引くと、鐙の上にまたがった。馬の内臓は青いかたまりとなって垂れさがり、走りだすと前後に揺れた。雑役夫《モノ》が馬の脚のうしろを、棒でたたいた。馬はよろめき、なきながら柵にそって走った。馬が止って、動かなくなると、雑役夫《モノ》の一人が手綱をつかんで、前へ引っぱった。騎馬闘牛士《ピカドール》は拍車をあて、身を前に乗りだし、牛に向かって槍を振った。馬の前脚のあいだから、血が規則的にふきだした。馬はびくびくして、よろめいていた。牛は襲いかかる決心がつきかねていた。
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雨のなかの猫
そのホテルにはアメリカ人は二人しか泊っていなかった。二人は部屋に出入りするとき、階段ですれちがう人びとを、だれも知らなかった。二人の部屋は二階で、海に面していた。公園と戦争記念碑にも面していた。公園には大きな棕櫚《シュロ》の木と緑のベンチがあった。天気のいい日には、きまって画架をすえた画家がいた。画家たちは、棕櫚の繁り具合と、公園と海に面しているホテルのあざやかな色が好きだった。イタリア人たちは戦争記念碑を見るために、遠くからやって来た。それはブロンズでつくられ、雨にぬれて光っていた。いまは雨が降っていた。雨のしずくがシュロの木々から落ちていた。砂利の小道に水たまりがいくつかできていた。海は雨のなかを長い一本の線になってくだけ、浜辺からさあっと引いては、また打ち寄せ、雨のなかを長い一本の線になってくだけた。自動車が広場から戦争記念碑の横をとおって消えていった。広場の向こう側にあるカフェの人口で、ボーイが一人、人っ子ひとりいない広場を眺めて立っていた。
アメリカ人の妻が窓ぎわに立って、外を見ていた。その窓の外の真下に、しずくのたれている幾つかの緑のテーブルの下に、猫が一匹うずくまっていた。猫は雨のしずくがかからないように、じっと身体をまるめていた。
「下へ行って、あの子猫を連れてくるわ」とアメリカ人の妻が言った。
「ぼくが連れてきてやるよ」と夫がベッドの上から提案した。
「いいわ。あたしが連れてくるから。かわいそうに、子猫ちゃん、テーブルの下で濡れないようにしてるのよ」
夫はベッドの足許に枕をふたつ重ね、それをささえにして横になりながら、本を読んでいた。
「濡れないようにしな」と彼は言った。
妻が階下におりていくと、ホテルの支配人が立ちあがり、フロントの前を通っていく彼女におじぎした。彼の机はフロントのずっと向こうの隅にあった。年とった男で、たいへん背が高かった。
「|よく降るわね《イル・ピオーヴェ》」と妻が言った。彼女はホテルの支配人が好きだった。
「|左様ですね《シ・シ》、|奥さま《シニョーラ》、|いやなお天気で《ブルット・テンポ》。まったくひどいお天気ですね」
彼は薄暗い部屋の向こうの隅の机のうしろに立っていた。妻は彼が好きだった。彼がどんな苦情でもおそろしくまじめに聞いてくれる態度が好きだった。彼の威厳のある態度が好きだった。彼女にサービスしようとする態度が好きだった。ホテルの支配人であることをわきまえている態度が好きだった。年とってどっしりした顔付と大きな手が好きだった。
彼に好感をおぼえながら、彼女はドアを開け、外を見た。雨がますますひどく降っていた。ゴム合羽《がっぱ》を着た男が、人っ子ひとりいない広場をカフェのほうに向かって横切っていた。猫は右手のほうにいるだろう。たぶん、軒づたいにいけるだろう。戸口に立っていると、うしろに傘が開いた。二人の部屋の世話をしているメイドだった。
「濡れますよ」と彼女はイタリア語で言ってほほえんだ。もちろん、ホテルの支配人がよこしたのだ。
メイドに傘をさしてもらって、彼女は砂利の小道を自分たちの窓の下まで歩いていった。テーブルはそこにあった。雨に洗われて、緑があざやかだった。だが、猫はいなかった。彼女は急にがっかりした。メイドが彼女を見上げた。
「|なにかおなくしになったんですか、奥さま《ア・ペルドゥート・クワルケ・コーサ・シニョーラ》?」
「猫がいたのよ」とアメリカ人の女が言った。
「猫が?」
「|ええ、猫よ《シ・イル・ガット》」
「猫がですか」とメイドが笑った。「雨のなかに猫がいたんですか」
「そうよ」と彼女が言った。「このテーブルの下に」それから、「ああ、あの猫、そりゃあ欲しかったわ。子猫が欲しかったのよ」
彼女が英語で話すと、メイドの顔がこわばった。
「まいりましょう、奥さま」と彼女が言った。「なかにもどりましょう。濡れますよ」
「そうね」とアメリカ人の女が言った。
二人は砂利の小道をもどり、戸口からはいった。メイドは外にいて、傘を閉じた。アメリカ人の女がフロントの前を通ると、支配人が机のところから会釈した。女は心のなかで、なんとなく、すごくはずかしく窮屈な思いをした。支配人が彼女をすごくはずかしく感じさせたのだが、同時に自分をほんとうに偉いのだとも感じさせた。彼女は一瞬このうえなく偉いのだという感じになった。彼女は階段を上っていった。部屋のドアを開けた。ジョージがベッドの上で本を読んでいた。
「猫、連れてきた?」と彼は本を置きながら、きいた。
「それがいないのよ」
「どこへいったのかな」と彼は本から目をそらせて、言った。
彼女はベッドに腰をおろした。
「とても欲しかったわ」と彼女が言った。「どうしてあんなに欲しかったかわかんないけど。あのかわいそうな子猫、欲しかったわ。かわいそうに、子猫が雨のなかに濡れてるなんて、笑いごとじゃないわ」
ジョージはまた本を読んでいた。
彼女はベッドから離れ、化粧台の鏡の前に坐り、手鏡で自分を見ていた。横顔を、はじめは片側から、その次は反対側から、しげしげと眺めた。それから、頭のうしろと首すじを眺めた。
「あたし、髪をのばしたら、すてきじゃないかしら?」と彼女は横顔をふたたび見ながら、きいた。
ジョージは顔をあげ、男の子のように短く刈りこんだ彼女の首すじのうしろを見た。
「いまのままがいいね」
「あたし、あきあきしちゃったわ」と彼女が言った。「男の子みたいに見えるの、あきあきしちゃったわ」
ジョージはベッドの上で身体の位置を変えた。彼女がしゃべりだしてから、ずっと目を彼女から離さなかったのだ。
「すごくすてきに見えるがね」と彼が言った。
彼女は化粧台の上に鏡を置き、窓ぎわまで行き、外を見た。外は暗くなりかけていた。
「あたし、髪をきちんときれいに後ろへなでつけて、さわれるくらいに大きく後ろで束ねたいわ」と彼女が言った。「膝の上に子猫を坐らせて、わたし、なでて、のどをごろごろ言わせてあげたいわ」
「ふうん」とジョージがベッドから言った。
「それから、自分の銀の食器のおいてあるテーブルで食事したいし、ろうそくもほしいわ。それに、いまが春ならいいし、鏡の前で髪にブラシをかけたいし、子猫がほしいし、新しい服もほしいわ」
「ああ、もういい加減にして、なにか読むものでも持ってこいよ」とジョージが言った。彼はまた本を読んでいた。
妻は窓の外を見ていた。もうすっかり暗くなっていたが、雨は相変わらずシュロの木々に降っていた。
「とにかく、あたし、猫がほしいわ」と彼女が言った。「猫がほしいわ。いますぐほしいわ。髪をのばしたり、なにか楽しいことをしていけないなら、猫ぐらい、いいでしょう」
ジョージは聞いていなかった。彼は本を読んでいた。妻は窓の外を見た。明かりが広場についていた。
だれかがドアをノックした。
「|おはいり《アヴァンティ》」とジョージが言った。彼は本から目をあげた。
戸口にメイドが立っていた。大きな三毛猫をしっかりだきかかえ、ぶらさげていた。
「失礼します」と彼女が言った。「支配人《パドロン》からこれを|奥さま《シニョーラ》におもちするように言われましたので」
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第十一章
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観衆はたえず叫びながら、闘牛場のなかに、パンの切れっぱしや、やがて、座蒲団や、革の酒袋をなげこみ、口笛を鳴らしたり、わめいたりしていた。とうとう牛もさんざん突かれて、疲れ切り、膝を折り、倒れ、介添闘牛士《カドリーラ》の一人が牛の首の上にかがみこみ、短剣《ブンテイロ》でとどめをさした。観衆は柵を乗り越えて場内にはいり、その徒歩闘牛士《トレロ》をとりかこみ、二人の男が彼をつかまえて、おさえつけ、だれかが彼の弁髪を切りとって、ふりまわしたが、一人の子供がそれをひったくって、逃げていった。そのあとで、ぼくはカフェでその闘牛士に会った。茶褐色の顔をしたひどい小男で、すっかり酔っぱらっていたが、こう言った。ともかく、あんなことは前にもあったんでさあ。おれはたしかに立派な闘牛士じゃあねえんだよ。
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季節はずれ
ペドゥッツィはホテルの庭を掘ってかせいだ四リラで、すっかり酔っぱらってしまった。若い紳士が小道をおりてくるのを見かけると、なにかいわくありげに話しかけた。若い紳士は、まだ食事をしていないが、昼食をすませたらすぐ支度して出かけようと言った。四十分か一時間したら。
橋の近くの酒場では、彼が午後の仕事にいかにも確信があり、いわくありげな様子だったので、グラッパをもう三杯、つけで飲ませてくれた。風の強い日で、太陽が雲から顔を出したかと思うと、すぐに隠れて、雨がぱらぱら降ってきた。鱒釣りにはもってこいの日だった。
若い紳士はホテルから出てくると、彼に竿のことをたずねた。妻に竿を持ってあとから来させようか。「そう」とペドゥッツィが言った。「あとから来てもらいましょうや」若い紳士はホテルにひきかえして、妻に話した。彼とペドゥッツィは通りを歩きはじめた。若い紳士は小さな革のかばんを肩にかけていた。ペドゥッツィが見ると、若い紳士と同じくらいに若く見えて、登山靴をはき、青いベレー帽をかぶった夫人が両手にまだつないでない釣竿を一本ずつ持って、二人のあとから通りへ出てきた。ペドゥッツィには夫人がそんなにあとからついてくるのが気にいらなかった。「|お嬢さん《シニョリーナ》」と彼は若い紳士にウインクしながら、言った。「こっちへ来て、いっしょにいきましょうや」ペドゥッツィは三人いっしょになってコルチナ〔コルチナ・ダンペッツオ。イタリア北部のオーストリアとの国境にある山中の町〕の通りを歩きたかったのだ。
妻はあいかわらずうしろにいて、いくらかむっつりした様子でついて来た。「|お嬢さん《シニョリーナ》」とペドゥッツィがやさしく呼んだ。「こっちへ来て、いっしょにいきましょうや」若い紳士はふりかえって、何か叫んだ。妻はのろのろ歩くのをやめて、近づいてきた。
町の本通りを歩きながら、ペドゥッツィは会う人ごとにていねいに挨拶した。|こんちは《ブォン・ディ》、アルトゥーロ!と言って、帽子に手をふれた。相手の銀行員はファシスト党員の集まるカフェの入口から、じっと彼を見ていた。店先に三人四人とかたまって立っている人たちが、三人をじっと見ていた。新しいホテルの基礎工事をやって、石の粉にまみれた上衣を着ている労働者たちは、三人が通ると顔をあげてながめた。だれも話しかけなかったし、なんの合図もしなかった。ただ、やせこけて老いぼれた、顎鬚《あごひげ》がつばでべっとりよごれた町の乞食が、三人が通りかかると、帽子を差し出した。
ペドゥッツィはショーウィンドーに酒壜がいっぱいならんだ店の前で立ちどまり、古ぼけた軍服の内ポケットからグラッパの空壜をとりだした。「飲むものを、ちょっとばかり。|奥さん《シニョーラ》には、マルサーラ・ワインでも。なにか、なにか飲むものを」彼は壜を振ってみせた。すばらしい日だった。「マルサーラ、|お嬢さん《シニョリーナ》は、マルサーラなら、好きでしょう? マルサーラを、ちょっと」
妻はむっつりして立っていた。「あなた、こんなひとのお相手をして」と彼女は言った。「言ってること、ひと言もわかんないわ。酔ってるんでしょう?」
若い紳士はペドゥッツィの話を聞いていないようだった。彼は、なんだってこいつ、マルサーラのことなんて言いだしたんだろうと考えていた。それはマックス・ビアボーム〔イギリスの漫画家・随筆家〕の飲む酒だ。
「金を」とペドゥッツィはとうとう若い紳士の袖を引っぱって、言った。「銀貨《リラ》を」彼は微笑した。金を強要するのはいやだったが、若い紳士に動いてもらわねばならなかったのだ。
若い紳士は財布をとりだし、十リラ紙幣を渡した。ペドゥッツィは階段を上り、国産・舶来酒専門店の戸口へ行った。店は閉まっていた。
「二時までは閉まってるよ」と、だれかが通りがかりに、あざけって言った。ペドゥッツィは階段を下りてきた。彼は気分を害していた。「まあいいさ」、と彼は言った。「コンコルディアで買えるから」
三人は並んで、コンコルディアまで通りを歩いていった。錆だらけの二連橇《ボッブスレー》を積み重ねてあるコンコルディアのポーチの上で、若い紳士が言った。
「|何にするかね《ヴァス・ヴォレン・ジー》?」ペドゥッツィはいくつにも折りたたんだ十リラ紙幣を彼に渡した。「なんにも」と彼は言った。「なんでも」彼は困った。「たぶん、マルサーラを。わからねえが。マルサーラだね?」
コンコルディアのドアは、若い紳士とその妻がはいると、閉じた。「マルサーラを三つ」と若い紳士が菓子売場の女の子に言った。「二つですね?」と女の子がきいた。「いや」と彼が言った。「一つは|じいさん《ヴェッキオ》のだ」「あら、おじいさんに」と女の子は言って、笑い、ボトルを下ろした。彼女は濁って見える酒を三つのグラスについだ。妻は新聞が一列にラックに掛かっている下のテーブルに腰かけていた。若い紳士はマルサーラの一つをその前に置いた。「飲んだほうがいいよ」と彼が言った。「きっと気分がよくなるから」彼女は坐ったまま、グラスを見ていた。若い紳士はペドゥッツィの分のグラスを持ってドアの外へ出た。が、ペドゥッツィは見あたらなかった。
「どこへ行ったんだろう」と彼はグラスを持って菓子売場にもどってきて、言った。
「あのひと、一クォート(約〇・九五リットル)ほしがってたわ」と妻が言った。
「四分の一リットルでいくらかね」と若い紳士が女の子にきいた。
「|白ワイン《ビアンコ》ですか? 一リラです」
「いや、マルサーラさ。この二つもいっしょにして」と彼は自分のグラスとペドゥッツィの分についだグラスを女の子に渡しながら、言った。女の子は漏斗《じょうご》で四分の一リットル枡《ます》にいっぱいついだ。「持っていくから、ボトルにいれてくれ」と若い紳士が言った。
女の子はボトルをさがしにいった。女の子は終始おもしろがっていた。
「気を悪くさせて、ごめん、タイニー《かわいこちゃん》」と彼が言った。「昼食のとき、あんな言い方をして、ごめん。ぼくたち二人は、同じことを違った角度から見ようとしてたんだ」
「どうだっていいわ」と彼女が言った。「どっちだって、同じことよ」
「寒かないかい?」と彼がたずねた。「もう一枚セーター、着てくればよかったのに」
「もう三枚も着てるわ」
女の子がたいそう細い茶色のボトルを持って現われ、それにマルサーラをいれた。若い紳士はさらに五リラ払った。二人は外に出た。女の子はおもしろがっていた。ペドゥッツィは釣竿を持って、風の当らない向こう側を行ったり来たりしていた。
「さあ行きますぜ」と彼が言った。「竿はあっしが持ちますよ。だれに見られたって、かまいませんや。だれもあっしたちに文句はいいませんぜ。コルチナではあっしに文句はいいませんぜ。あっしは役場の連中を知ってるんでね。兵隊だったもんで。この町の者はみんなあっしが好きなんでさあ。あっしは蛙を売ってるんでね。魚釣りが禁止されてるからって、どうだっていうんかね。なんでもありゃあしませんや。ぜんぜん、なんの心配もいりませんよ。大きな鱒ですぜ、あんた。それも、たくさんいてね」
彼らは丘を下りて川のほうに歩いていった。町は彼らの背後にあった。太陽はかくれ、ぱらぱら小雨が降っていた。「ほら、あそこ」とペドゥッツィが彼らの通りかかった家の戸口にいる女の子を指さして、言った。「あっしの娘《ドーター》ですよ」
「このひとのお医者《ドクター》?」と妻が言った。「お医者まで教えようっていうの?」
「いや、娘《ドーター》って言ったんだよ」と若い紳士が言った。
ペドゥッツィが指さすと、女の子は家のなかへはいってしまった。
三人は丘を下り、野原を横ぎり、それから曲って、川の堤づたいに歩いていった。ペドゥッツィはさかんにウインクしながら、物知り顔に、早口にしゃべった。三人が並んで歩いていくと、彼のいきが風にのって妻にかかった。一度など、彼は彼女の肋骨のあたりをつついた。彼はしばらくダンペッツォなまりで話したが、ときにはチロルなまりのドイツ語で話した。若い紳士とその妻にどっちのほうがいちばんよく通じるかわからなかったので、二つの国語を使ったのだ。だが、若い紳士が「|うん《ヤー》、|うん《ヤー》」とドイツ語で言ったので、ペドゥッツィは全部チロル言葉で話すことに決めた。若い紳士とその妻には、全然わからなかった。
「町の者はみんな、ぼくらが釣竿を持って通ってきたのを見てたね。ことによると、いまごろは、釣り取締まりのお巡りさんに尾行《つけ》られてるかもしれない。こんなことで、ぶちこまれなきゃいいが。おまけに、このじじいは酔っぱらってるしね」
「もちろん、あなたには、いますぐ引きかえす勇気なんかないわね」と妻が言った。「もちろん、どんどん行くわけでしょう」
「君はどうして引きかえさないんだ? 引きかえせよ、タイニー」
「あなたといっしょにいるわ。あなたが監獄にはいるなら、いっしょにはいったほうがいいわ」
三人は急に曲って堤をおりると、ペドゥッツィは上衣を風になびかせ、川に向かって手を振りながら、立っていた。川は茶褐色ににごっていた。右手の先のほうに、ごみの山があった。
「イタリア語で言ってくれ」と若い紳士が言った。
「半時間《ウン・メッツ・オーラ》。|すくなくとも半時間かかる《ピウ・ドゥン・メッツ・オーラ》」
「すくなくとも、もう半時間かかるって言ってるよ。引きかえしな、タイニー。どっちみち、この風じゃ、寒いよ。きょうはひどい日だ。どっちみち、おもしろいことなんかないよ」
「じゃ、いいわ」と彼女は言って、草の生えた堤をのぼっていった。
ペドゥッツィは川のところまでおりていたので、彼女の姿が丘の頂上から消えかかるまで、気づかなかった。「|奥さん《フラウ》!」と彼は叫んだ。「|奥さん《フラウ》! |お嬢さん《フロイライン》! 行かないで」
彼女は丘の頂上を越えてどんどんいってしまった。
「行っちゃった!」とペドゥッツィが言った。彼は驚いていた。
彼はつなぎ竿をくくっていたゴム紐をはずし、竿の一つをつなぎはじめた。
「だけど、まだ半時間かかるって言ったじゃないか」
「ああ、そう。たっぷり半時間かかりますぜ。でも、ここだっていいです」
「ほんとうかい?」
「もちろんですとも。ここもいいし、あっちもいいんです」
若い紳士は堤に腰をおろし、竿をつなぎ、糸巻《リール》をとりつけ、糸道《ガイド》に糸をとおした。彼は落ち着かなかった。いつなんどき、釣り場の番人か町の連中の一隊が町から堤を越えてやってくるかもしれないと、びくびくしていた。丘の端の向こうに町の家なみや鐘楼が見えた。彼は〈はりす〉の箱を開けた。ベドゥッツィはかがみこんで、平べったい、こわばった親指と人差し指をつっこみ、しめらせてある〈はりす〉をかきまわした。
「鉛のおもり、あるかね」
「いや」
「おもりがなくちゃあ」ペドゥッツィがいらだった。「|おもり《ピオンポ》がなくちゃあ。|おもり《ピオンポ》が。ちょっとでいいんだが。ここんところにね。針のすぐ上につけるんだ。つけないと、餌が水に浮いちゃうんでね。ないとこまる。ほんのちょっとでいいんだが」
「あんたは、持ってないのかい」
「ない」彼はポケットをやっきになって探した。軍服の内ポケットのなかの糸くずをかきまわした。「ない。|おもり《ピオンポ》がなきゃあ」
「じゃあ、釣れないね」と若い紳士が言い、糸道に通した糸を巻きもどしながら、竿をはずした。
「|おもり《ピオンポ》を手に入れて、あすまた釣ろう」
「でも、いいかね、|あんた《アーロ》、|おもり《ピオンポ》がなくちゃだめですぜ。糸が水の上に浮いちゃうんで」ペドゥッツィのすばらしい一日が目の前でこなごなになろうとしていた。「|おもり《ピオンポ》がなくちゃ。ほんのちょっとでいいんだが。あんたの道具はどれもきれいで新しいが、おもりがなくちゃねえ。あっしが、すこし持ってくりゃよかったが。みんなそろってるって言われたから」
若い紳士は雪解けで濁った流れを見た。「わかった」と彼は言った。「あす、|おもり《ピオンポ》を持ってきて、釣ろう」
「朝の何時かね? きめときやしょ」
「七時にしよう」
太陽が出た。暖かく、心地よかった。若い紳士はほっとした。もう法律を破らなくてもいいのだ。堤に腰をおろし、ポケットからマルサーラのボトルを取りだし、ペドゥッツィに渡した。ペドゥッツィは彼に返した。若い紳士はそれをひと口のんで、ペドゥッツィにまわした。ペドゥッツィがまた返した。「飲みなせえ」と彼が言った。「飲みなせえよ。あんたのマルサーラだ」
もうひと口ちょっと飲んで、若い紳士はボトルを手渡した。ペドゥッツィはそれをじっと見ていた。彼はおおいそぎでボトルを受けとり、ぐっとかたむけた。飲むとき、首のしわのあたりで、白髪が揺れ、目は狭い茶褐色のボトルの端をじっと見ていた。彼はそれを飲みほしてしまった。彼が飲んでいるあいだ、太陽が照っていた。それはすばらしかった。やっぱり、きょうは、すてきな日だ。すばらしい日だ。
「いいかね、|あんた《セニタ・カーロ》! 朝七時だぜ」彼は若い紳士に何度か|あんた《カーロ》と呼んだが、何事もおこらなかった。マルサーラはうまかった。彼の目は輝いた。このような日々がまだこれから先つづくわけだ。その一つがあすの朝七時に始まるだろう。
二人は丘をのぼって町のほうへ歩きだした。若い紳士が先頭に立った。彼は丘のずっと先にいた。ペドゥッツィが呼びかけた。
「いいかね、あんた、すまんが五リラくださらねえか?」
「きょうの分かい?」と若い紳士が顔をしかめてきいた。
「いや、きょうの分じゃあねえ。あすの分として、きょうくだせえ。あすのことは、すっかり用意しとくでね。パンとか、サラミとか、チーズとか、あっしらみんなで食べるうまいものをな。あんたと、あっしと、|奥さん《シニョーラ》の分をな。それから、餌もな、みみずだけじゃなく、小魚もな。それに、きっと、マルサーラも買えるでよ。五リラあれば全部買えるで。すまんが、五リラくだせえ」
若い紳士は財布のなかをのぞき、二リラ紙幣一枚と一リラ紙幣二枚を取りだした。
「すまんな、|あんた《カーロ》。すまん」とペドゥッツィは、カールトン・クラブ〔一八三二年、ロンドンでできた英国保守党クラブ〕の会員がほかの会員から『モーニング・ポスト』紙を受取るような口調で言った。これこそが人生なのだ。彼は馬糞用の熊手で凍った堆肥《たいひ》をくだくような、ホテルの庭仕事とはおさらばなのだ。人生が大きく開けつつあった。
「じゃあ、七時にな、|あんた《カーロ》」と彼は若い紳士の背中をたたきながら、言った。
「ぼくはいけないかもしれない」と若い紳士は財布をポケットにしまいながら、言った。
「ええっ」とペドゥッツィが言った。「あっしは小魚を持っていきますぜ、|だんな《シニョール》。サラミなんかもね。あんたと、あっしと、|奥さん《シニョーラ》のな。三人分をな」
「いけないかもしれない」と若い紳士が言った。「たぶん、だめだろう。ホテルの事務室の支配人に言《こと》づけとくよ」
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第十二章
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それが君の目の前のすぐ下で起ったら、ヴィヤルタ(ニカノー・ヴィヤルタ。スペインの闘牛士)が牛にどなりつけ毒づいているのが見えただろう。そして、牛が襲いかかってくると、彼は両脚をぴたっとそろえ、|赤い布《ムレタ》をひらめかせ、そのあとから剣をまわし、風をうけてもびくともしない樫の木のように泰然として、身をひるがえした。それから彼は牛に毒づき、|赤い布《ムレタ》をばたばた振り、牛の攻撃から身をひるがえし、両脚をぴったりとそろえ、|赤い布《ムレタ》をひらめかし、身をひるがえしたが、そのたびに、観衆がどよめいた。
牛を殺しにかかると、すべてが一挙に片づいた。牛は真正面から彼をにくにくしげに見つめる。彼は赤い布のひだのあいだから剣を抜くと、同時にねらいを定め、牛に、牛《トーロ》! 牛《トーロ》! と呼びかける。と、牛は襲いかかり、ヴィヤルタも襲いかかり、一瞬、両者がひとつになった。ヴィヤルタは牛とひとつになった。と、それは終っていた。ヴィヤルタは直立し、剣の赤い柄が牛の両肩の間からものうげに突き出ている。ヴィヤルタは観衆に向かって片手をあげ、牛はヴィヤルタをまっすぐ見、両脚を折り、血を噴きだしながら、うなっている。
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曠野《こうや》の雪
登山電車《ケーブルカー》はもいちどがたんといい、それから止まった。雪が線路にびっしり吹きよせられていたので、それ以上進めなかった。吹きさらしの山腹をかすめる強風が、雪の表面に吹きつけ、板のように固くしていたのだ。ニックは荷物車の中でスキーにワックスをかけていたが、ブーツをトーアイアンにつっこみ、止め金をしっかりしめた。彼は車からななめに、板のように固くなった雪の上に飛びおり、ジャンプターンをして、身体をかがめ、ストックを引きずって、一気に斜面をすべりおりた。
眼下の白銀の上では、ジョージがひょいと下っては上り、またひょいと下って、見えなくなった。山腹の急な起伏をおりていくスピードと急降下がニックから意識を奪い、ただすばらしい飛行感と降下感を肉体に残した。ゆるい登り斜面を上り、最後の長い急斜面をぐんぐんスピードをあげて下っていくと、雪が足下から落ちていくような感じがした。スキーの上に腰をおろしてしまうくらいかがんで、重心をうんとさげていると、雪が砂あらしのように吹き飛び、スピードを出しすぎていることがわかった。だが、そのまま降下しつづけた。おさえがきかなくなって、転倒することもないだろう。すると、風で窪地《くぼち》に柔らかい雪が残っていたが、そこで彼は転倒し、スキーをがちゃがちゃいわせながら、まるで撃たれた兎みたいな感じで、何度もごろごろころがり、それから、やっと止まったが、両脚はねじれ、スキーはまっすぐに突きささり、鼻にも耳にも雪がいっぱいつまった。
ジョージが斜面のすこし下のところに立って、ヤッケの雪を大きくはたき落していた。
「お見事だったな、マイク」と彼はニックに呼びかけた。「そこはいやに雪が柔かいだろ。ぼくもご同様、やられたよ」
「あの急斜面の向こうはどうなってる?」ニックはあおむけになったままスキーをけあげ、立ちあがった。
「左へ左へと滑らなくちゃだめだよ。一番下に柵《さく》があるから、クリスチャニアでさっさとうまく下りなきゃ」
「ちょっと待てよ。いっしょにやろう」
「いや、君、さきにやれよ。君が急斜面を下るのを見たいんだ」
ニック・アダムズは大きな背中や金髪にかすかに雪を残して、ジョージの脇を通りすぎ、やがてスキーのエッジを立てて滑りだし、水晶のような粉雪の中をヒューッと音をたてて、波のように大きくうねり起伏している急斜面を浮き沈みするように上ったり下ったりして、急降下していった。重心を左側にかけていたが、最後に柵に向かって突進していくとなると、両膝をぴったりそろえ、ねじをしめつけるようにして、身体《からだ》の向きを変え、雪煙をあげて、スキーを右へ鋭くふり、スピードをおとして、山腹と針金の柵に平行に滑っていった。
彼は丘の上を見た。ジョージが膝を折り、テレマークの姿勢でおりてきた。片足を前に出して曲げ、片方をひきよせておりてくる。ストックは昆虫の細い脚のように身体につけてあるが、雪の表面にふれるたびに粉雪を散らしている。ついに、膝を曲げ、片足を引きよせた姿勢で見事に右に旋回した。両足を前と後に突き出したまま身をかがめ、身体をぐらつかないように前につきだし、ストックが光の点のようにカーヴを強調して、激しい雪の雲に包まれた。
「クリスチャニアがこわかったんだ」とジョージが言った。「雪が深すぎるんだ。君は見事だったな」
「ぼくの脚はテレマークがだめなんだ」とニックが言った。
ニックが針金の柵の一番上の線をストックでおさえると、ジョージがそれを越えてきた。ニックは彼のあとから道に出た。二人は膝を曲げて松林へ滑っていった。道は丸太をひっぱる人夫たちのため、つるつるの氷となり、みかんの皮でよごれ、煙草で黄色くなっていた。二人のスキーヤーは道にそって雪の上を進んだ。道は急に流れに向かって傾斜し、そこからまっすぐ上り斜面になった。森の向こうに、長い、廂《ひさし》の低い風雨にさらされた建物がみえた。木間《このま》越しにみると、色あせた黄色い建物だった。さらに近づくと、窓枠は緑色に塗ってあった。ペンキははげかかっていた。ニックは片方のスキーのストックで締め金をゆるめ、スキーを蹴ってはずした。
「スキーはかついでいったほうがいいぞ」と彼は言った。
彼は肩にスキーをかついで、凍りついた地面にかかとで足場をつくりながら、急な坂道をのぼった。すぐあとからジョージがはあはあ言い、かかとの鋲《びょう》をけこみながらやってくるのがきこえた。二人は居酒屋の横にスキーをたてかけ、互いに相手のズボンの雪をはらい、足ぶみしてブーツの雪をおとして、中にはいった。
中はまっくらだった。部屋の隅に大きな磁器のストーヴが光っていた。天井は低かった。部屋の両側に、黒っぽいワインのしみのあるテーブルが並び、その向こう側に、つるつるした長椅子があった。スイス人が二人、ストーヴのわきでパイプをふかし、にごった新しいワインの二デシリットル入りのグラスをかたむけていた。二人はヤッケをぬぎ、ストーヴの反対側の壁の前に腰をおろした。隣の部屋の歌い声がとまり、青いエプロンをかけた女の子がドアからはいってきて、二人に何を飲むかときいた。
「シオン〔スイスのローヌ川沿いの町シオンで産するワイン〕のボトル一本」とニックが言った。「いいだろ、それで、ジッジ?」
「ああ」とジョージがいった。「君のほうがワインにくわしいからな。ぼくはなんでもかまわんよ」
女の子は出ていった。
「スキーほどいいものはないね」とニックが言った。「長い斜面をはじめて滑りおりる気持ったらないな」
「うん」とジョージが言った。「言いようがないほどすばらしいな」
女の子がワインを持ってきた。二人はコルクの栓に苦労した。ニックがやっとあけた。女の子が出ていき、隣の部屋でドイツ語で歌っているのがきこえた。
「コルクの破片《かけら》がはいったけど、いいよな」とニックが言った。
「ケーキはないかな?」
「きいてみようよ」
女の子がはいってくると、ニックはエプロンの下で妊娠してお腹がふくらんでいるのに気がついた。はじめにはいったとき、どうして気がつかなかったんだろう、と思った。
「なにを歌ってたの?」と彼は女の子にきいた。
「オペラ、ドイツのオペラよ」彼女はそのことについてしゃべりたがらなかった。「りんごのシュトルーデル〔一種のパイ〕ならあるわ」
「あいつあまり愛想がよくないね」とジョージが言った。
「うん、そうだね。ぼくたちを知らないし、きっと自分の歌をからかうんだろうぐらいに思ったんだろうよ。きっとドイツ語を話すこの奥地の生まれで、ここにきてるだけでいらいらしてるのに、結婚もしないで赤ん坊ができちまって、ますますいらいらしてるんだろうよ」
「結婚してないってどうしてわかる?」
「指輪、はめてないよ。ここらじゃ、お腹がふくれなきゃ、結婚しないんだ」
ドアがあき、きこりの一団が上の道からやってきて、足ぶみして靴の雪をおとし、身体から湯気《ゆげ》をたてていた。ウェイトレスが新しいワインの三リットル入りのカラフをもっていくと、その一団は二つのテーブルに向かって腰をおろし、帽子をぬぎ、だまって煙草《たばこ》をふかし、壁によりかかるか、テーブルにもたれるかしていた。表《おもて》では、木材を運ぶそりにつけられた馬が頭を動かすたびに、ときたま鋭い鈴の音がきこえた。
ジョージとニックはしあわせだった。二人は互いに好きあっていた。二人はもうすぐ国に帰らなければならないことはわかっていた。
「いつ学校へもどらなくちゃならないんだ?」とニックがきいた。
「今夜」とジョージが答えた。「モントルー〔スイス西部。レマン湖の東岸の町〕から来る十時四十分のに乗らなくちゃならないんだ」
「もう一晩泊まって、明日いっしょにダン・デュ・リー〔モントルー市近くの山脈の名〕にいけるといいんだが」
「学校に行かなきゃならないんだよ」とジョージが言った。「ね、マイク、いっしょにぶらっと旅行したいね。スキーをかついで、いいゲレンデまで汽車にのり、さらに先へ行き、宿に泊まり、オーベルランド〔スイス中央部の山地〕をまっすぐ横ぎり、ヴァレへいき、エンガディーン峡谷をこえるのさ。修繕用具と余分のセーターと、パジャマだけリュックに入れて、学校のことなんか何も考えないでね」
「うん、そして、そんなふうにして、シュワルツバルト〔ドイツ南西部の山地名〕を抜けるんだ。おい、あそこはいいとこだぞ」
「去年、君が釣りにいったところだね?」
「うん」
二人はシュトルーデルを食べ、ワインをのみ干した。ジョージは壁によりかかり、眼をとじた。
「ワインを飲むといつもこんな気分になるんだ」と彼は言った。
「気分でもわるいのか?」
「いや、気分はいいんだけど、どこか変なんだ」
「わかるよ」とニックが言った。
「そうだろ」とジョージが言った。
「もう一本もらおうか?」とニックがきいた。
「ぼくはいらない」とジョージが言った。
二人はそこに腰かけていた。ニックはテーブルに両|肘《ひじ》をつき、ジョージは壁にぐったりよりかかって言った。
「ヘレンに赤ん坊ができるのか?」とジョージが壁からテーブルのほうに身体をおこしながら言った。
「うん」
「いつ?」
「この夏の終りごろだ」
「うれしいか?」
「うん。いまはね」
「アメリカに帰るのか?」
「多分ね」
「帰りたいのか?」
「いや」
「ヘレンはどうなんだ?」
「あいつだってそうさ」
ジョージは黙っていた。空《から》のボトルや空のコップをみつめていた。
「こまったもんだな」と彼が言った。
「いや。そうでもないよ」とニックが言った。
「どうして?」
「さあ、わからんね」
「アメリカでは二人でスキーにいくのか?」とジョージがきいた。
「さあね」とニックが言った。
「山がたいしたことないからな」とジョージが言った。
「そうだ」とニックが言った。「岩だらけだ。林が多すぎるし、遠すぎるんだよ」
「そうだね」とジョージが言った。「カリフォルニアじゃそうだよ」
「うん」とニックが言った。「ぼくのいたとこではどこもそうなんだ」
「うん」とジョージが言った。「そのとおりだ」
二人のスイス人が立ちあがり、金を払って出ていった。
「スイス人に生れてたらよかったんだが」とジョージが言った。
「スイス人はみな甲状腺腫《こうじょうせんしゅ》にかかってるんだってさ」とニックが言った。
「そんなことないよ」
「ぼくもそう思うがね」
二人は笑った。
「もうきっといっしょにスキーにはいけないな、ニック」とジョージが言った。
「いや、ぜひいこう」とニックが言った。「スキーにいけなきゃ、意味ないよ」
「よし、いこう」とジョージが言った。
「ぜひね」とニックが同意した。
「約束しておきたいがね」とジョージが言った。
ニックは立ちあがった。ヤッケのバックルをしっかりしめた。ジョージのほうに身体をのりだし、壁に立てかけてあった二本のストックを取りあげた。床にその一本をつきさした。
「約束したってしようがないさ」と彼が言った。
二人はドアをあけて外へ出た。ひどい寒さだった。雪はすっかり固まっていた。道は丘をのぼって松林につづいていた。
二人は居酒屋の壁にたてかけておいたスキーを手にとった。ニックは手袋をはめた。ジョージはすでにスキーをかついで道を歩きはじめていた。さあ、これで二人はいっしょに急ぎ帰国するだろう。
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第十三章
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通りの向こうから太鼓の音が聞こえ、つづいて、横笛と縦笛の音がし、やがて彼らがみんな踊りながら、町角を曲がってやってきた。通りは彼らでいっぱいになった。マエラが彼に気づき、ぼくも彼に気づいた。彼らが音楽をやめてしゃがむと、彼も彼らといっしょに通りのまんなかで背をまるめてしゃがみ、彼らがまたはじめると、彼は飛びあがり、いっしょになって踊りながら通りを進んでいった。彼はすっかり酔っぱらっていた。
きみ、あいつのあとを追っかけてくれ、とマエラが言った。あいつはおれが大嫌いなんだ。
そこで、ぼくは通りを歩いていき、彼らに追いつき、音楽が始まるのを待ってしゃがんでいる彼をつかまえて、言った。いこう、ルイス。後生だ、きょうの午後、おまえ、闘牛があるんだぞ。彼はぼくの言うことなど聞いていなかった。彼は音楽が始まるのを、耳をすませて待ちかまえていた。
ぼくは言った。ばかなまねは、よせ、ルイス。ホテルへ戻ろう。
すると、音楽がふたたび始まり、彼は飛びあがり、身体をひねって、ぼくから離れ、踊りだした。ぼくは彼の腕をつかんだが、彼はそれを振りはなして言った。ああ、ほっといてくれ。おやじづらをしやがるな。
ぼくはホテルへもどったが、マエラがバルコニーに出て、ぼくが彼を、連れてもどってくるかどうか見ようと外をながめていた。彼はぼくを見ると、中にはいり、にがりきった顔で階下におりてきた。
ああ、とぼくは言った。要するに、やつは無智なメキシコの野蛮人にすぎん。
そのとおり、とマエラが言った。だが、やつが牛にやられたら、やつの牛をだれが殺すんだ?
おれたちだろうな、とぼくは言った。
そうとも、おれたちよ、とマエラが言った。おれたちがやつら野蛮人たちの牛を殺すんだ。あの飲んだくれの牛を、あのリアウ・リアウ踊り〔スペイン東北部ナバラ地方で闘牛の前の祝祭に踊る踊り〕の連中の牛を。そうとも、おれたちが殺すんだ。おれたちが立派に殺すんだ。そうとも。そうとも。
[#ここで字下げ終わり]
ぼくのおやじ
いま考えてみると、ぼくのおやじは太った男、つまり、そこらで見かける、あのずんぐり太った好ましい小男の一人になる体質だったのだと思うが、たしかに一度も、そんなふうにはならなかった。もっとも、晩年、ちょっとのあいだ太ったが、そのときも、それがおやじの欠点にはならなかった。おやじは障害競馬ばかりやっていたし、かなり体重があっても、うまくこなしていたのだ。いまでも覚えているが、おやじは二、三枚のジャージーのシャツの上に、ゴムびきのシャツを着こみ、その上に大きなスウェットシャツを着て、昼まえのかんかん照りの中をぼくを連れだして、いっしょに走ったものだ。たいてい、朝の四時にトリノ〔イタリア西北部の都市〕からやってくると、タクシーで厩《うまや》へすっとんでいき、朝早くから、ラッツォの持馬の一頭で試乗をすませるのだった。そして、あたりがすっかり露にぬれ、ちょうど太陽が昇ろうとするころ、ぼくはおやじが乗馬靴をぬぐのを手伝ってやり、おやじはスニーカーにはきかえ、例のシャツなどをすっかり着こみ、二人で出かけるのだった。
「さあ、ぼうず」とおやじは騎手の更衣室の前を、爪先《つまさき》だちになって行ったり来たりしながら、言うのだった。「出かけよう」
そこで二人はまず競馬場のインフィールドをゆっくり一周するのだが、だいたい、おやじが先頭になって見事に走った。それから、門を出ると、サン・シロ〔ミラノの郊外〕からつづいていて、両側にずっと木が植わっている例の道のひとつを走る。その道に出ると、こんどはぼくが先頭に立ち、かなりうまく走れる。うしろを振りむくと、おやじはすぐうしろをゆうゆうと走っている。しばらくして、また振りむくと、おやじは汗を流しはじめている。ぐっしょり汗だくになって、ぼくの背中から目を離さず、あとからついてくるのだが、ぼくが振りかえるのを見てとると、にやっと笑って「ひどい汗だろう?」と言う。おやじににやっと笑われると、だれでも同じように笑いかえさないではいられなかった。ぼくらは山のほうに向かってどんどん走りつづける。と、おやじは「おい、ジョー!」と叫ぶ。振りかえると、おやじは木の下に坐り、腰に巻いていたタオルを首に巻いているのだった。
ぼくが引き返して、おやじの横に坐ると、おやじはポケットから縄を取りだし、顔から汗をだらだら流しながら、日照りの中で、縄とびをはじめ、縄をばたり、ばたり、ばた、ばた、と回しながら、白いほこりを浴びて縄とびをするのだが、太陽はますます暑く、おやじはますます熱心に、そのあたりを行ったり来たりして、とびつづける。じっさい、おやじが縄とびをするのを見るのは、すばらしいことだった。おやじはぶんぶん早く回すこともできたし、ゆっくり回して曲とびもできた。ときどき、イタリア人たちが、白い大きな牡牛に車をひかせて、町にやってくる途中、通りがかりに、ぼくたちを眺めていたが、その様子を見てもらいたかったね、じっさい。彼らは、たしかにおやじの頭が変なのではないかという顔付をしていた。おやじが縄をぶんぶん回しはじめると、彼らはじっと立ちどまって見物していたが、やがて牛をしっしっと追い、突き棒でひとつこづき、ふたたび動きだすのだった。
おやじが暑い日射しの中で縄とびをしているのを坐って見ていると、ぼくは心からおやじが好きになるのだった。おやじはたしかに見ていて楽しみだし、すごく一生懸命にやり、しまいには、かならず、ぶんぶん回して、顔から汗を滝のように流し、それから縄を木に投げかけると、ぼくのところにやってきて、となりに坐り、首にタオルとスウェットシャツを巻きつけて、木によりかかるのだった。
「ふとらないようにするのは地獄だよ、ジョー」とおやじは言い、よりかかったまま、眼をとじ、深く長く息をして、言うのだった。「若いころとは違うからな」と。それから、立ちあがって、身体が冷えはじめないうちに、厩へゆっくりもどっていった。おやじはこんなふうにして、太らないようにしていたのだった。しょっちゅう気にしていたのだ。たいがいの騎手は馬に乗るだけで、好きなだけ体重を減らすことができ、一回乗るたびに、一キロぐらいは減るものだが、ぼくのおやじはいわば枯れきっていて、あんなうに、あれだけランニングをしなければ、体重を減らすことができなかったのだ。
ぼくは覚えているが、あるとき、サン・シロで、ブッツォーニの馬に乗っていた小男のイタリア人のレゴリがなにか冷たいものを飲もうと、下見所を横切って、バーへ行こうとしていた。ちょうど体重測定をしたばかりで、乗馬靴を鞭《むち》でぴしぴしたたいていた。おやじもちょうど体重測定をしたばかりで、腕に鞍《くら》をかかえて現われ、顔を赤くして、疲れた様子で、勝負服〔騎手の帽子とジャケットの一そろい〕がばかに小さく見えた。おやじは、若いレゴリが戸外のバーに悠々《ゆうゆう》と向かっていくのを、冷ややかに、子供のような顔付で、そこに立って、眺めていた。ぼくは、たぶんレゴリがおやじにぶつかったかなにかしたのだと思って、「どうしたの、パパ?」ときくと、おやじはレゴリのほうをちらっと見やり、「ええ、くそくらえ」と言って、更衣室のほうへずんずんいってしまった。
ところで、ぼくらがミラノにいて、ミラノやトリノの競馬に出ていたら、たぶん、万事がうまくいっていたのだろう。やさしい競馬場といえば、この二カ所だったからだ。「簡単さ、ジョー」とおやじはイタリア人たちが大変な障害競馬と考えていたレースのあとで、優勝馬の馬席で馬からおりるときに言った。あるとき、ぼくはおやじにその意味をたずねた。おやじは言った。「この競馬場ではひとりでに走れるよ。障害飛びが危険なのは、速く走らせようとするからなんだ、ジョー。ここでは速く走る必要なんかないんだ。だから、ひどい跳躍もないんだ。とにかく、厄介《やっかい》なことがおこるのは、いつもスピードで、跳躍じゃないのさ」
サン・シロはそれまで見たうちでいちばんすばらしい競馬場だったが、おやじはそこの生活がいちばんみじめだったと言った。ミラフィオーレとサン・シロのあいだを行ったり来たりして、ひと晩おきに汽車に乗り、一週間のほとんど毎日、馬に乗っていたからだ。
ぼくも馬が大好きだった。馬が場内に現われ、トラックを出発標に向かって行くときは、なんとも言われないものがあるものだ。いわばダンスをしているみたいで緊張した様子なのだ。騎手が手綱をしっかりつかみ、進みながら、たぶん手綱をちょっとゆるめて、ちょっと走らせる。やがて、馬が出発点の柵《さく》に出揃うと、ぼくはすっかり夢中になる。特に、あの広々とした緑のインフィールドがあって遥《はる》かな山々にかこまれたサン・シロでは、そうだった。大きな鞭をもった、太ったイタリア人の出走係《スターター》がいるし、旗手が馬をあっちこっち動かしている。やがて、柵の戸がばたんとあがり、例のベルが鳴りだし、馬が一団となって飛びだし、まもなく一線になって走りだす。馬が一団となって飛びだす有様はごぞんじのとおりだ。双眼鏡を手にしてスタンドにいるなら、見えるのはただ馬が突進していく様だけだ。やがて、例のベルが鳴り、それは一千年も鳴っているように思われ、やがて馬が曲り角をさっと曲がってやってくる。ぼくにはあんなすばらしいものはほかにはなかった。
ところが、おやじが、ある日、更衣室で、外出着に着がえながら言った。「あんなものはどれも馬なんてもんじゃないよ、ジョー。パリに行きゃあ、あんな老いぼれ馬は、皮と蹄《ひづめ》を取るために、ひとかたまりにしてぶっ殺してしまうからな」その日は、おやじがラントルナに乗って、最後の百メートルをまるで壜からコルク栓を引き抜くように、地面から馬を飛びあがらせて、コンメルチオ賞を獲得した日だった。
おやじが競馬から手を引いて、ぼくらがイタリアを去ったのは、コンメルチオ賞を獲得した直後のことだった。おやじと、ホルブルックと、ハンカチでたえず顔をふいていた麦藁帽子の太ったイタリア人が、ガレリア通り〔ミラノの中心街〕でテーブルに坐って言い争っていた。三人ともフランス語をしゃべり、二人がなにかのことでおやじを追及していた。しまいに、おやじはもうなんにも言わず、ただそこに坐って、ホルブルックをながめているだけだった。相手の二人は、一人が先に話すと、次にもう一人が話し、おやじを追及していたが、太ったイタリア人はいつもホルブルックの話の途中で、口をさしはさんでいた。
「おまえ、外へいって、『スポーッマン』を買っておいで、ジョー」とおやじは言い、ホルブルックから視線をそらさず、ぼくに銅貨を二枚渡した。
そこで、ぼくはガレリア通りを出て、スカラ座の前まで歩いていき、新聞を買い、戻ってきたが、邪魔したくないので、すこし離れて立っていると、おやじは椅子に深々と腰掛け、自分のコーヒーを見おろしながら、スブーンをいじくりまわしていたが、ホルブルックと大男のイタリア人のほうは立ちあがっていて、大男のイタリア人は顔をふいて、頭を振っていた。そこで、ぼくは近づいた。おやじはまるで相手の二人がそこに立っていないかのような様子で、「アイスクリーム、食べるかい、ジョー?」と言った。ホルブルッグはおやじを見おろし、ゆっくり、慎重に「こんちくしょう」と言い、彼と太ったイタリア人はテーブルのあいだをぬって出ていった。
おやじはそこに坐ったまま、ちょっとぼくにほほえみかけたが、顔はまっ青で、ひどく気分が悪い様子だったので、ぼくは恐ろしくなり、胸苦しくなった。なにかあったことはわかっていたし、おやじをこんちくしょうと呼んだやつが、なんにもしないなんて、考えられなかったからだ。おやじは『スポーツマン』を開き、しばらくハンディつきのレースを調べていたが、やがて「おまえも世の中のいろんな目にあわねばならんぞ、ジョー」と言った。それから三日後、ぼくらはトランクとスーツケースに入れきれないものは残らずターナーの厩の前で競売に付し、パリに向かって、トリノ行きの汽車に乗り、永久にミラノを去った。
ぼくらは朝早くパリに着いたが、その長い、きたない停車場はリヨン駅というのだと、おやじが教えてくれた。パリはミラノにくらべれば、おそろしく大きな町だった。ミラノではだれもがどこかに向かって行き、あらゆる電車がどこかに走って行き、ちっとも混乱などないように思われるのだが、パリはてんでごちゃごちゃしていて、それを整理しようとしないのだ。けれど、ぼくはパリが、ともかくその一部分が、好きになった。そう、パリには世界で最良の競馬場がいくつかあった。あたかもそれがあることがパリを動かしているみたいに思われたし、たったひとつの当てにできることといえば、どこで競馬があろうと、毎日、その競馬場までバスが出、それはあらゆるところを通って競馬場まで通じているだろうということだった。ぼくはパリを本当によく知るようにはならなかった。ぼくは週に一度か二度、おやじについてメゾン〔パリの西北七マイル、競馬場がある〕からパリに出てくるだけだったからだ。しかも、おやじはメゾンからやってくるほかの騎手仲間とオペラ座のならびのカフェ・ド・ラ・ペにいつも坐っていたのだ。で、ぼくはそこがパリのいちばん繁華なところのひとつだと思っている。でも、パリのような大きな町にガレリア通りのような通りがないなんて、ねえ、おかしくはなかろうか?
ところで、ぼくらはメゾン・ラフィートに行き、メイヤーズ夫人という人のやっている下宿屋に住むことになった。メゾンにはシャンテリー〔フランス北部の都市。競馬場がある〕にいる連中のほかは、ほとんど全部の仲間が住んでいた。ぼくがこれまで見たうちでは住むにいちばんすばらしい所のようだった。町はそんなに大きくないが、湖やすばらしい森があり、ぼくら二、三人の子供たちはそこで一日じゅうぶらついたものだ。おやじはぼくにパチンコをつくってくれ、ぼくらはそれでいろんなものを射とめたが、いちばんの獲物《えもの》はカササギだった。ディック・アトキンソン少年が、ある日それでウサギを射とめ、ぼくらはウサギを木の下におき、そのまわりにみんなで坐り、ディックがたばこを何本か持っていたので、それをふかしていると、不意にウサギが飛びあがって、やぶのなかへ飛びこんだ。で、ぼくらは追いかけたが、見つからなかった。まったく、メゾンは楽しかった。メイヤーズ夫人が、朝、弁当をつくってくれたので、ぼくは一日じゅう外に遊びに出ていた。ぼくはたちまちフランス語がしゃべれるようになった。フランス語なんて、簡単さ。
ぼくらがメゾンに移るとすぐ、おやじは騎手の免許状を送ってくれるようミラノへ手紙を出し、それが来るまでかなり気をもんでいた。おやじはよくメゾンのカフェ・ド・パリのあたりで仲間といっしょに坐っていたものだ。戦前、パリで馬に乗り、メゾンに住んでいたので、知り合いの男がたくさんいたし、厩《うまや》のあたりで騎手のする仕事も朝の九時にはすっかり片づいていたので、カフェのあたりに坐っている時間がたっぷりあるのだ。騎手たちは朝の五時半に最初の組の馬を早駆けさせるために連れだし、二番目の組を八時に走らせる。ということは、朝ともかくも早く起き、夜も早く寝るということになる。もし騎手がだれかの持馬に乗るとなると、大酒を飲んで、そこらをぶらついているわけにはいかない。若造の騎手なら、調教師がたえず眼を光らせているし、若造でないなら、自分で自分に気をつけていなければいけないからだ。そこで、騎手はする仕事がないと、たいてい、仲間といっしょにカフェ・ド・パリのあたりに坐っている。ベルモットを炭酸水で割ったような飲みものを前にして、二、三時間も坐っていられるし、いろんなおしゃべりをしたり、玉突きをしたりして、そこはいわばクラブか、ミラノのガレリア通りみたいなものなのだ。ただガレリア通りと違うのは、ガレリア通りでは、しょっちゅうだれでもそばを通っていけるし、だれでもテーブルに坐っていられるということだ。
ところで、おやじは免許状を無事に受けとった。何も言わずに送ってよこしたので、おやじは二、三度、レースに出た。フランスの北の田舎のアミアンとか、そんなところだったが、おやじは契約は結ばなかったようだ。みんなから好かれていて、ぼくが昼まえにカフェにはいっていくと、だれかがおやじといっしょに酒を飲んでいた。一九〇四年にセントルイスの万国博覧会での競馬ではじめて賞金をもらった騎手のほとんどのように緊張しているというわけにはいかなかったからだ。ジョージ・バーンズをからかうとき、おやじはその話をよくしたものだ。だが、みんなはおやじに馬に乗る機会を与えるのを避けているようだった。
ぼくらは、どこで競馬があろうと、毎日メゾンから車に便乗して、そこへ出かけた。それがいちばんの楽しみだった。ぼくは、馬が、夏のあいだいたドーヴィル〔フランス西北部の避暑地。競馬場がある〕から戻ってくると、うれしかった。もっとも、それからは、アンガン〔パリの北九マイル、今のモンモランシー〕、トランブレー〔パリの東南の郊外〕、サン・クルー〔パリの西南の郊外〕などへ出かけて、調教師や騎手の席からレースを見るようになったので、もう森でぶらぶらできなくなったわけだ。おやじの騎手仲間といっしょに出かけたため、ぼくはたしかに競馬についていろいろと学んだし、ともかく、毎日行くのが、おもしろかった。
あるときサン・クルーでこんなことがあったのを覚えている。それは七頭の出走馬による二十万フランの大レースで、ツァーが本命だった。ぼくはおやじといっしょに馬を見に下見所にいったが、あんなすばらしい馬の群れを見たことがなかった。このツァーという馬は黄色い、すごく大きな馬で、ただ走るためにだけ生れてきたように見えた。ぼくはそんな馬をまだ見たことがなかった。頭をたれ、下見所をぐるぐる引き回されているところだった。ぼくの前を通りかかったとき、あまりにすばらしかったので、ぼくの身体の中がすっかりうつろになったように感じた。そんなにすばらしい、ほっそりした、走るためにできた身体つきの馬は、ほかにはいなかった。馬はきちんと、静かに、注意深く、脚を踏みながら、自分のしなければならないことをちゃんと知っているように落ち着いて動き、麻酔を注射されている売りもののやくざ馬のように、急にぐいと動いたり、後脚で立ちあがったり、狂暴な目つきをしたりするようなこともなく、下見所をぐるっと回った。たいへんな人混みで、はじめは見えたが、つぎにはただ通りすぎてゆく脚と、どこか黄色いところしか見えなかった。おやじが人混みを分けて歩きだしたので、ぼくもあとについていき、背後の木立の中にある騎手の更衣室のほうへいった。そのあたりもたいへんな人の混みようだったが、入口にいた山高帽の男がおやじに会釈し、ぼくらは中にはいった。中ではみんなが坐っていたり、着替えていたり、頭からシャツを着たり、乗馬靴をはいたりしていて、あたり一面、暑く、汗と塗布薬のにおいがした。外から、おおぜいの人が中をのぞきこんでいた。
おやじはずんずん進んでいって、ズボンをはきかけのジョージ・ガードナーの横に坐り、ごくあたりまえの声の調子で、「予想はどうだい、ジョージ?」と言った。おやじはあたりに気をくばる必要はなかったのだ。ジョージは教えたければ教えるし、教えたくなければ、教えないのだから。
「やつは勝たないだろう」とジョージは、身をかがめて、ズボンのボタンをはめながら、低い声で言う。
「どれが勝つかね?」とおやじは、だれにも聞えないように相手のすぐ近くに身をかがめて、言う。
「カーカビンだ」とジョージが言う。「で、やつが勝ったら、おれの分に、馬券を二、三枚、とっといてくれ」
おやじはいつもの口調でジョージになにか言い、ジョージは「わかったか、どれにもかけるなよ」と冗談のように言い、ぼくらは外へ出て、中をのぞきこんでいる人混みをかきわけ、百フランの馬券売場のほうへいった。が、ジョージがツァーの騎手なので、なにか大変なことが起りそうだと思った。途中で、おやじは基準率の書いてある黄色い歩合表を一枚手に入れたが、ツァーは十に対してわずか五の払いで、次がセフィシドートで、一に対し三の払い、五番目に、このカーカビンがのっていて、一に対し八の払いだった。おやじはカーカビンを単勝で五千ドル、複勝で一千ドル買い、ぼくらは正面特別観覧席のうしろを回って階段をのぼり、レースを見るため席についた。
観覧席はぎっしり詰っていた。まず、長い上衣を着て、灰色のシルクハットをかぶり、鞭を手ににぎった男が現われ、それから、馬が、次々に、騎手を乗せ、左右の手綱をとって歩いている馬丁につきそわれて、その年とった男のあとにつづいていた。例の黄色い大きな馬のツァーが先頭だった。ツァーははじめちょっと見ただけでは、たいして大きく見えなかったが、脚の長さとか、身体つき全体とか、動きっぷりを見ていると、なるほどと思われた。まったく、ぼくはあんなすばらしい馬を見たことがなかった。ジョージ・ガードナーが乗っていた。サーカスの演技主任のような歩き振りの、灰色のシルクハットをかぶった年とった男のあとから、ゆっくり進んでいった。ツァーのあとには、トミー・アーチボールドが乗っている、首のきれいな、格好のいい黒馬が、おだやかに、日の光を浴びて黄色く光りながら、進んでいった。そして、黒馬のあとを、さらに五頭の馬が一列になって、ゆっくりと、特別観覧席と体重測定場の前をすぎていった。おやじが、あの黒馬がカーカビンだと言うので、ぼくはじっとそれを見た。たしかにすてきな格好の馬だったが、とてもツァーの比ではなかった。
ツァーが通りかかると、みんなが歓声をあげた。たしかに、すばらしい格好の馬だった。馬の行列が向こう側へぐるっと回って芝地をすぎ、やがて走路のこちら側の端近くまで戻ってくると、サーカスの演技主任は、馬が出発標へ行く途中、観覧席の前を走って、みんなによく見えるように、馬丁に次々に手綱を手放させた。馬が出発標に揃うか揃わないうちに、ゴングが鳴り、インフィールドのずっと向こうで、まるで小さなおもちゃの馬のように、いっせいに、一団となって、飛びだすのが見えた。ぼくは双眼鏡で見ていたが、栗毛の一頭がペースメーカーになり、ツァーはかなりおくれて走っていた。馬たちは疾走し、角を曲がり、地面をとどろかせながら走りすぎたが、ぼくらの前を通ったときは、ツァーはずっとおくれていて、例のカーカビンが先頭に立って、好調に走っていた。馬が目の前をすぎるときは、まったく、すごいものだ。それが次第に遠ざかり、だんだん小さくなり、やがて、全部が一団となって曲がり角にさしかかり、それからそこを曲がって直線コースにさしかかるのを見ていると、だれしも誓いの言葉や呪いの言葉を次第に口ぎたなく言ってみたくなるものだ。とうとう、馬は最後の曲がり角を曲がり、直線コースにはいってきたが、例のカーカビンが他をずっとひきはなして先頭に立っていた。みんなは変だなという顔をして、いささかがっかりした調子で「ツァー」と言っていた。馬は地面をとどろかせて、直線コースをゴールへと近づいたが、そのとき、ぼくの双眼鏡に、馬の頭の形をした黄色い線のようなものが一団から飛びだしてくるのがうつった。すると、みんなは、まるで気でも狂ったように「ツァー」と叫びはじめた。ツァーはぼくがそれまでに見たこともないスピードで走り、カーカビンに迫ったが、カーカビンも騎手に鞭でひどく打たれ、どんな黒馬にも負けない勢いで走った。そして、一瞬、二頭はぴたりと頭を並べたが、ツァーは例のすばらしい跳躍とあの頭を突き出して二倍も早く走っているように見えた……だが、二頭の馬が決勝標を通過したのは、頭と頭をそろえたときであり、審判柱に数字があがったとき、最初にあがった数字は二で、それはカーカビンの優勝を意味していた。
ぼくは身体じゅうがふるえ、おかしな気分だった。それから、ぼくらは押しあいへしあいしながら、カーカビンに支払われる金額が掲示される掲示板の前にいこうと階下《した》におりていった。正直いって、レースを見ているあいだ、おやじがカーカビンにどれだけ賭けたのか、忘れていた。ツァーの優勝をやたらと願っていたのだ。ところが、すべてが終ったいま、ぼくらが優勝馬に賭けていたのだとわかり、すばらしいと思った。
「すばらしいレースだったね、パパ」とぼくはおやじに言った。
おやじは山高帽を頭のうしろにのせ、ちょっとこっけいな格好で、ぼくを見て、「ジョージ・ガードナーはすばらしい騎手だ、まったく」と言った。「ツァーを勝たせないようにするなんて、たしかに、たいした騎手だ」
もちろん、ぼくも始めからおかしいと思っていた。でも、おやじがそんなにはっきり言うので、レースの喜びも、たしかに消えてしまい、掲示板に数字が出て、払戻しのベルが鳴り、カーカビンには一〇に対し六七・五〇の割で払戻しがあるのを見たときでも、心からの喜びはもう戻ってはこなかった。まわりの人はみな「気の毒なツァー! 気の毒なツァー!」と言っていた。で、ぼくは自分が騎手で、あのインチキ野郎のかわりにあの馬に乗ることができたらなあ、と思った。ぼくはいつもジョージ・ガードナーが好きだったし、それに勝ち馬を教えてくれたのだから、ジョージをインチキ野郎だなんて考えるのはおかしなことだった。だが、たしかに彼の正体はインチキ野郎なんだと、ぼくは思っている。
おやじはそのレースでしこたま金を手に入れ、前より足しげく、パリに出かけるようになった。トランブレーで競馬があると、メゾンへ帰る途中、パリでおろしてもらい、おやじとぼくはカフェ・ド・ラ・ペの前で坐り、人びとが通っていくのを眺めていたものだ。そこに坐っているのは、おもしろいものだ。人びとが流れるように通りすぎ、いろんな種類のやつがやってきて、物を売りつけようとする。ぼくはおやじといっしょにそこに坐っているのが好きだった。そんなときが、いちばん楽しいときだった。ゴムの玉を握ると飛びはねるおかしなウサギのおもちゃを売っている連中が通りかかり、ぼくらのところに来ると、おやじはその連中によく冗談を言ったものだ。おやじはフランス語を英語とまったく変わりなく話せたし、競馬騎手というものはいつでもひと目でわかったので、そういう種類の連中はおやじを知っていた……それに、ぼくらはいつも同じテーブルについていたので、連中はぼくらがそこにいるのに見なれていたのだ。結婚証明書を売っている連中もいたし、押すと中から雄鶏が飛びだすゴムの卵を売っている女たちもいた。一人のうじ虫みたいな顔付のじいさんが、パリの絵葉書をもって、みんなに見せながら売り歩いていたが、もちろん、だれも買いはしなかった。すると、じいさんは戻ってきて、包みの下のほうにあるものを見せる。すると、それはみんないかがわしい絵葉書で、おおぜいの人が下のほうをひっかきまわして、買うのだった。
そうだ、ぼくはいつもよく通りかかったおもしろい連中のことを覚えている。夕食時になると、食事に連れていってくれるだれかを物色している女たち。彼女たちはよくおやじに話しかけ、おやじはフランス語でなにか冗談を言い、彼女たちはぼくの頭をなでて、いってしまうのだった。あるとき、隣のテーブルに女の子を連れたアメリカの婦人が坐っていて、二人でアイスクリームを食べていた。ぼくは女の子をじっと見つめていたが、すごくかわいかった。ぼくは女の子にほほえみかけ、女の子もぼくを見てほほえんだが、ただそれだけで終ってしまった。というのは、ぼくは毎日その母親と娘をさがし、女の子にこんなふうに話しかけようと心に決め、女の子と知り合いになったら女の子を連れて、オートゥイ〔パリ近郊ブーローニュの森の入口にある有名な競馬場〕かトランブレーに行くことを母親が許してくれるかどうかと心配だったが、それっきり、ぼくは二人のどちらにも会わなかったからだ。まあ、会ったところで、仕方なかったろう。いま、振りかえってみると、ぼくは女の子にこう言うのがいちばんいいだろうと思いついていたのを覚えているからだ。「あのう、たぶん、きょうのアンガンの競馬で、君に勝馬を教えてあげられるんだけど」と。そして、けっきょく、彼女は、ぼくが心から彼女に勝馬を教えてやろうとしているのではなく、ぼくを予想屋にすぎないと、たぶん思ったことだろう。
ぼくら、つまり、おやじとぼくは、よくカフェ・ド・ラ・ペに坐っていたものだ。そして、給仕にひどく好かれていた。というのは、おやじはウィスキーを飲み、五フラン払ったが、飲んだ分の皿を勘定すると、それはたいしたチップになったからだ。おやじはそれまでになく酒の度が進んでいたが、いまでは全然、馬に乗っていなかったし、それに、ウィスキーを飲んでいればふとらないと言っていた。しかし、ぼくには、おやじがやっぱり、ちゃんと、ふとっていくのがわかっていた。おやじはメゾンの昔の仲間から急に離れて、ただぼくといっしょに|大通り《ブールバール》のあちこちに坐っているのが好きになったようだった。しかし、毎日、競馬で金をすっていたのだ。すった日は、最後のレースが終ると、ちょっぴりしょげているが、ぼくといつものテーブルに坐り、最初のウィスキーをやると、もう元気になるのだった。
おやじは『パリ・スポーツ』を読みながら、ぼくのほうを見て、「あの女の子はどこにいった、ジョー?」と言って、ぼくをからかうのだった。ぼくが、あの日、隣のテーブルにいた女の子のことを話したからだ。ぼくはまっ赤になるのだが、あの子のことでからかわれるのはいやではなかった。うれしい気持になるのだった。「目玉をむいて、見張ってるんだな、ジョー」とおやじは言うのだった。「またやってくるから」
おやじはぼくにいろいろなことをたずね、ぼくの答えを、ときどき笑った。それから、おやじはいろんな話をはじめるのだった。エジプトで競馬に出た話とか、母が死ぬまえにサン・モリッツ〔スイスの有名な観光地〕で氷の上で競馬をやった話とか、戦時中、南フランスで賞金も賭けも観衆もなにもなく、ただ馬匹育成のために本式の競馬をやった話など。騎手が馬をやたらに走らせる本式の競馬の話だ。じっさい、ぼくは何時間でもおやじが話すのを聞いていることができた。おやじが二、三杯、酒を飲んだときは、なおさらそうだった。おやじはケンタッキーにいて、アライグマを獲りにいった少年時代のことや、まだなにもかもめちゃめちゃにならない頃のアメリカの昔の時代のことを話してくれたものだ。そして、「ジョー、こんど、ちゃんとした賞金がはいったら、おまえ、アメリカへ帰って、学校へ行くんだぞ」と言うのだった。
「なにもかもめちゃくちゃなのに、どうしてアメリカへ帰って、学校へいかなきゃならないの?」とぼくはたずねる。
「それは話がべつさ」とおやじは言い、給仕を呼び、飲んだ酒の受け皿を数えて金を払い、タクシーをひろって、サン・ラザール駅に行き、メゾンまで汽車に乗るのだった。
ある日、オートゥイで、勝馬を売る障害物競馬があり、そのあとで、おやじは勝馬を三万フランで買った。その馬を手に入れるために、すこしばかり競《せ》らねばならなかったが、厩舎《きゅうしゃ》ではそれをけっきょくは手放し、おやじは一週間で、許可証と騎手用の色ジャケットを手に入れた。じっさい、ぼくはおやじが馬主になったので、得意だった。おやじはチャールズ・ドレイクと相談して、厩のことを取り決め、パリに出かけるのをやめて、また汗だらけのランニングをはじめた。厩舎係はおやじとぼくだけだった。馬の名はギルフォードといい、アイルランド産で、すてきな名障害馬だった。おやじは調教も騎乗も自分でやれば、いい投資をしたことになると考えていた。ぼくはただもう得意で、ギルフォードはツァーに劣らない立派な馬だと思っていた。障害跳びが上手なしっかりした粟毛の馬で、平地でも、スピードを出させようと思えば、ずいぶんスピードを出した。それに格好がよかった。
じっさい、ぼくはこの馬が大いに気にいった。おやじが乗ってはじめて出場したときは、二千五百メートルの障害レースで、三着になった。そして、おやじが汗をびっしょりかいて、うれしそうに、入賞馬席で馬からおり、体重測定のために中にはいっていったとき、ぼくはおやじがはじめて入賞した競馬のときのように、おやじを得意に思った。そうだろう、長い間、馬に乗っていなければ、以前に乗ったことがあるなんて、本当には信じられないからね。それに、いまでは事情がすっかり変っていた。あのミラノでは、どんな大レースでもおやじにはまったく同じに見えたようだし、たとえ優勝しても興奮したりなんかしなかった。ところが、いまは違う。レースの前の晩は、ぼくはほとんど眠れなかったし、おやじも顔には出さなかったが、やはり興奮していることは、ぼくにもわかっていた。自分で自分の馬に乗るとなると、こうも違うものなのだ。
二度目にギルフォードとおやじが出場したのは、ある雨の日曜日にオートゥイで行われた、マラ賞をかけた四千五百メートルの障害レースだった。おやじが出ていくとすぐ、ぼくはレースを見ようと、おやじが買ってくれた新しい双眼鏡をもって、急いで観覧席にあがっていった。走路のずっと向こうのはしで馬がスタートしたのだが、障害のところでちょっとした騒ぎが起きた。目隠し皮をつけた馬が大あばれして、後脚で立ちあがり、一度障壁を跳びそこねた。が、ぼくにはおやじが例の黒いジャケットを着、白い十字記章をつけ、黒い帽子をかぶり、ギルフォードにまたがって、片手で馬を軽くたたいているのが見えた。それから、馬たちはいっせいに跳びこえ、木立のうしろに見えなくなり、ゴングがつづけさまに鳴りつづけ、馬券売場の窓口ががたがたと閉まった。まったく、ぼくはすごく興奮してしまった。馬を見るのがこわかった。でも、馬が木立のうしろから出てくるところに双眼鏡を向けると、まもなく馬が出てきたが、例の黒いジャケットのおやじは三番手を走り、どの馬も小鳥のように障害を跳びこえていた。やがて、また馬がみんな見えなくなり、それから、蹄の音をひびかせて現われ、丘をくだったが、どの馬も見事に、気持よく、楽々と走り、柵を一団となって跳びこえ、ぼくらの前をしっかりとひとかたまりになって通りすぎた。まったくひとかたまりで、まったくなめらかに走っていたので、その背中を渡って歩いていけそうに見えた。やがて、大きな二重の生垣を越えたが、そのとき倒れたものがあった。だれだかはわからなかった。が、すぐに馬は立ちあがり、騎手を失い勝手に疾走した。ほかの出走馬は依然としてひとかたまりになって、長い曲がり角を左に勢いよく曲がり、直線コースにさしかかった。右の壁を跳びこえ、入り乱れて直線コースを進み、観覧席のすぐ前の大きな水場に向かった。馬がやってくるのが見え、ぼくはおやじがぼくの前を通過したときには大声をあげて声援した。おやじは一馬身ほどリードして先頭に立ち、さらにぐんぐん飛ばし、猿のように軽やかに乗っていた。みんな水|濠《ごう》に向かって飛ばしていた。水濠の大きな生垣をいっせいに越えた。そのとき、衝突があった。二頭の馬が横に避け、そのまま走りつづけたが、他の三頭が重なり合って倒れた。どこにもおやじの姿はなかった。一頭は膝を立てて立ちあがり、騎手は手綱をつかんでいたので、その馬にまたがり、入賞金めがけ、鞭をうちふりながら走っていった。もう一頭も立ちあがると、首をぐいと振り、手綱をぶらぶらさせたまま、ひとりで疾走していった。騎手は柵にそい走路の片側へよろけながら歩いていった。すると、ギルフォードが片側にごろりところがり、おやじを振り落して、立ちあがり、右の前脚をぶらぶらさせながら、三本脚で走りはじめた。おやじはそこの草の上に、仰向けにばったり倒れ、頭の横は血だらけだった。ぼくは観覧席をかけおり、人混みをかきわけ、手すりのところまでやってきたが、巡査が腕をつかんで、ぼくをおさえた。二人の大男の担架係がおやじをのせようと、そちらのほうへ向かっていた。反対測の走路のあたりに、三頭の馬がはるか一線に並んで、木立の中から現われ、障害物を跳びこえるのが見えた。
おやじは運びこまれたときは、死んでいた。医者が耳になにかを差しこんで、おやじの心臓の音を聞いていたとき、走路のほうで一発の銃声がした。それはギルフォードの射殺を意味していた。病室に担架が運びこまれると、ぼくはおやじの横に坐りこみ、担架にしがみついて、声をたてて泣きに泣いた。おやじはまっさおで、もうだめだった。まちがいなく死んでいた。おやじが死んだのなら、ギルフォードを射殺することもなかったのではないかと、ぼくは感じないではいられなかった。ギルフォードの脚がよくなったかも知れないのだ。ぼくにはわからない。ぼくはおやじをすごく愛していたのだ。
やがて、二人の男がはいってきて、一人がぼくの背中を軽くたたき、それから、向こうへいって、おやじを見、やがて簡易ベッドのシーツをはがし、それをおやじの上にかけた。もう一人はメゾンまでおやじを運ぶ救急車をよこしてくれと、フランス語で電話をかけていた。ぼくは声をたてて泣きに泣き、いわば泣きじゃくるのを止めるわけにいかなかった。すると、ジョージ・ガードナーがはいってきて、ぼくの横の床《ゆか》の上に坐り、腕をぼくの身体にまわして言った。「さあ、ジョー、いい子だから、立ちな。外に出て、救急車を待っていよう」
ジョージとぼくは門のところに出ていき、ぼくが大声で泣くのをこらえようとしていると、ジョージがハンカチでぼくの顔をふいてくれた。群集が門から出てくるあいだ、二人ですこし離れたところに立っていた。群集が門を出きってしまうのを待っていると、二人の男がすぐそばに立ちどまって、一人が賭金の切符の束を数えながら、言った。「そうとも、バトラーは自業自得さ、まったく」
相手の男が言った。「そうだとしても、おれはへとも思わんよ、ごろつきめが。やつは自分でやらかしたことのために、ああなったんだから」
「たしかに、そうさ」と相手の男が言い、切符の束を二つに裂いた。
するとジョージ・ガードナーは、ぼくにその話が聞こえたかどうか確かめようと、ぼくを見た。ぼくはちゃんと聞いていた。で、彼はこう言った。「あんなくだらん連中の言うことなんか気にするなよ、ジョー。おまえのおやじは立派な人間だったんだ」
だが、ぼくにはわからない。人間なんて本気で何かをやりだしても、あとには何も残らないようだ。
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第十四章
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マエラ〔スペインの実在の闘牛士〕はじっと横たわったまま、頭を両腕にのせ、顔を砂に埋めていた。出血がなまあたたかく、ねばねばしていた。しょっちゅう、角が向かってくるような気がした。ときどき、牛が頭で彼にぶつかってくるだけだった。一度など、角が彼の身体じゅうを突きぬけ、砂に突きささったように感じられた。だれかが牛の尻尾《しっぽ》をつかんだ。彼らは牛に向かって毒づき、その目の前でケープをひらめかせていた。やがて、牛は立ち去った。数人の人がマエラをだきかかえ、柵《バリア》に向かい、門をくぐりぬけ、通路に出、特別観覧席の下をとおって、診察室にいそいだ。彼らはマエラを簡易ベッドにおろし、一人が医者を呼びにいった。ほかの者はまわりに立っていた。医者は|柵囲い《ローラル》で騎馬闘牛士《ピカドール》の馬の傷を縫っていたが、そこから走りながらやってきた。彼は立ちどまって、手を洗わなければならなかった。頭上の特別観覧席では大喚声がつぎつぎにわきあがっていた。マエラはすべてがしだいに大きく、大きくなり、それから、しだいに小さく、小さくなるのを感じた。それから、すべてが大きく、大きく、大きくなり、それから、小さく、小さくなった。やがて、映画のフィルムが早く回るときのように、すべてがしだいに早く、早くなりはじめた。やがて、彼は死んだ。
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二つの心臓の大きな川〈第一部〉
汽車は線路をずんずん進み、焼けた木立の丘のかげに消えていった。ニックは、手荷物係りが手荷物車のドアからほうりだしていったテントと寝具の包みの上に腰をおろした。町などまったくなく、あるのは、ただ、線路と一面の焼野原だった。シーニー〔ミシガン州北端のゴーストタウン〕の町の一つの通りに並んでいた十三軒の酒場は跡形もなかった。マンション・ハウス・ホテルの土台が地面につき出ていた。土台の石は火事で欠けたり、割れたりしていた。シーニーの町で残っているものは、ただそれだけだった。地面まですっかり焼けていた。
ニックは町の家々が散らばっているものとばかり思っていたのだが、すっかり焼けつくした一帯の山腹を眺めると、やがて、鉄道線路ぞいに、川にかかった橋のほうへおりていった。川は変りなかった。水は橋の丸太杭にぶつかって、うずをまいていた。ニックは小石だらけの川底の色が映って茶色に見える澄んだ水のなかをのぞきこみ、鱒《マス》の群れが流れの中で、ひれを動かしながら平衡を保っているのを眺めた。見ていると、鱒は急角度でその位置を変えるが、すぐまた速い流れの中で平衡を保った。ニックは長いあいだ眺めていた。
彼は鱒が鼻づらを流れにつっこんで同じ姿勢でいるのを眺めた。早い流れの深い水の中に鱒がたくさんいた。丸太を打ちこんだ橋の杭に流れがあたり、よどんだ水面がなめらかにもりあがっていたが、そうした水面をずっと下まですかして見ると、どの鱒もいくらかゆがんで見えた。よどみの底に大きな鱒がいた。ニックは、はじめのうちは、それに気づかなかった。そのうち、よどみの底にいるのが見えたのだが、その大きな鱒は、流れのためにふきあげられては消えてゆく霧のような砂利と砂につつまれ、底の砂利の上でじっとしているようだった。
ニックは橋からよどみを見下した。暑い日だった。カワセミが一羽、川上へ飛んでいった。ニックが流れをのぞきこんで鱒を見るのは、久しぶりのことだった。鱒はまったく申し分なかった。カワセミのおとす影が流れをのぼって行くと、一匹の大きな鱒がゆるやかな角度で上流へ勢いよくのぼり、その影だけがその角度を見せていたが、やがて、水面から飛びあがると、その影は消え、陽光をあび、やがて、水面の下の流れにもどると、その影はなんの抵抗もなく、流れとともに、流れをただよい下って、橋の下のもといた場所にもどり、流れの中に鼻づらを向けて、身をひきしめていた。
ニックの心はその鱒が動くにつれて、ひきしまった。以前の懐しい感情がすっかりよみがえった。
彼は向きなおって、流れを見おろした。それは遠くのほうまでのび、小石だらけの底には浅瀬や大きな丸石があり、崖の下でぐうっと曲がっているところは、深いよどみになっていた。
ニックは鉄道線路のわきの燃えがらの中においてある包みのところまで、枕木づたいにもどっていった。彼は愉しかった。包みにかけた革ひもを締めなおし、包みを背負い、肩ひもに両腕をとおし、額をかがめて、肩の重みをいくぶん軽くした。それでも、包みは重すぎた。あまりにも重すぎた。革の釣竿入れを手にもち、包みの重みを肩にかけようと、前かがみになり、焼けた町を日照りの中に残して、鉄道線路と並行している道路を歩き、それから、焼け跡になった高い丘を両側に見ながら、ひとつの丘をまわって、田野に通ずる道にでた。重い包みの肩にくいこむ痛さを感じながら、道を歩いていった。道はたえず上り坂になっていた。丘をのぼってゆくのは、つらかった。筋肉が痛み、暑くもあったが、ニックは愉しかった。考える必要も、書く必要も、そのほかの必要も、みんな捨ててきた感じだった。そんなものは、すべて、うしろに残してきたのだ。
彼が汽車からおり、手荷物係りが手荷物車のドアを開けて、彼の包みをほうりだしたときから、事態が変わってきたのだ。シーニーは焼け、あたりもすっかり焼けて変わっていたが、それは問題ではなかった。すべてが焼きつくされるはずはないのだ。彼にはそんなことは分っていた。日照りの中を汗をかきながら道を歩き、鉄道線路と松原を分離している丘陵地帯を越えようと、のぼっていった。
道はときには下りになったが、しょっちゅう上り坂になって、つづいていた。ニックは上りつづけた。とうとう、道は焼けた山腹と平行して進んでから、頂上に達した。ニックは切株にもたれかかり、背負いひもをはずした。眼の前は見渡すかぎり、松原だった。焼野原は左手の丘陵地帯で途切れていた。ずっと前方には、黒い松の森林がいくつも平原から浮き出していた。はるか左手には川があった。ニックが眼でそれをたどっていくと、水が太陽に照ってきらきら光っていた。
前方には、一面に松原があるばかりで、遥かにスペリオル湖〔アメリカ合衆国の五大湖のうち最北端にある世界最大の淡水湖〕岸の台池を示す青い丘陵地帯にまでつづいていた。それは平原のはるか彼方に、暑い日の光をうけて、かすかに見えるにすぎなかった。あまりじっと目をこらして見ていると、見えなくなった。だが、なにげなく見ていれば、はるかな台地の丘がちゃんとそこにあった。
ニックは黒くこげた切株にもたれて、腰をおろし、煙草をふかした。包みを切株の上にうまくバランスをとってのせ、ひもはすぐにでもかつげるようにしておいた。背中にあたって窪んだところはそのままだった。ニックは坐って、煙草をふかし、あたりを眺めた。地図をとりだす必要はなかった。川の位置で、自分のいる場所がわかった。
脚を前になげだして、煙草をふかしていると、バッタがやってきて、毛の靴下にのぼってくるのに気がついた。バッタは黒かった。さっき、道をのぼってきたとき、埃の中からバッタがたくさん飛びだしたのだ。みんな黒かった。飛びたつとき黄と黒か、赤と黒のまだらの羽根を黒いさや羽根の下からばたつかせる、あの大きいバッタではなかった。ごく普通のバッタだったが、どれも、すすけた黒い色をしていた。ニックは歩きながら、どうして黒いのだろうかと思ったが、深くは考えなかった。ところが、いま、四方にさけた口で毛の靴下を噛んでいる黒いバッタをじっと見ていると、これらのバッタはみんな焼野原に住んでいるため黒くなったのだと分った。火事は去年だったに相違ないが、いまでもバッタはみんな黒かった。いつまでそのように黒いのだろう、と彼は思った。
彼はそっと手をのばし、バッタの羽根をつかんだ。ひっくりかえすと脚をばたつかせた。腹に節があった。思ったとおり、腹も黒く、背中と頭の埃をかぶっているところは玉虫色だった。「行きな、バッタ」とニックがはじめて大声で言った。「どこかへ飛んで行きな」
彼は空中にバッタをほうりあげ、道の向こうの黒くこげた切株のところに飛んでゆくのを眺めた。
ニックは立ちあがった。切株の上にまっすぐ立っている重い包みにもたれかかり、肩ひもに腕をとおした。包みを背負って、山の端に立ち、田野を遠くの川のほうまで見渡し、やがて、道からそれて、山腹を下った。足もとの土は歩きやすかった。山腹を二百ヤードおりたところで、焼跡が終っていた。その先は、くるぶしの高さにしかのびていないヤマモモと、バンクスマツの木立の中を歩いていくわけだった。しょっちゅう上ったり下ったりする長い起伏のある田野だ。足もとは砂地で、あたりはふたたび生き生きとしてきた。
ニックは太陽の位置で方向をきめた。川のどの辺に出たいか分っていたので、松原の中を歩きつづけた。小さな丘をのぼると、前方にまた別の丘が見え、ときには、丘の頂上から、右手や左手のかなたに大きな松林がこんもり茂っていた。彼はヒースのようなヤマモモの小枝を折り、包みのひもの下にさしこんだ。それはすれると、つぶれ、彼は歩きながら、その匂いをかいだ。
でこぼこの、日蔭のない松原を歩いていると、疲れて、すごく暑かった。左手におれれば、いつでも川に出られることは、分っていた。一マイルと離れているはずがなかった。だが、一日の行程で、できるだけ上流に出ようと、北に向かって歩きつづけた。
歩きながら、ニックは、いま横切っている起伏した台地の上に、大きな松林があるのを、しばらく前から、眼にしていた。ちょっと坂を下ってから、ゆっくりその尾根の頂上にのぼりつくと、向きを変えて、松林に向かった。
松林には下ばえがまったくなかった。松の幹はまっすぐにのびたり、互いに相手のほうに傾いていた。幹は枝をつけず、まっすぐ、茶褐色だった。枝はずっと上のほうについていた。枝がいくつもいりくんでいて、茶褐色の林の地面に濃い影をおとしていた。林のまわりには空地があった。茶褐色で、ニックが歩いてゆくと、足もとは柔かかった。一面に松葉がつもりすぎるほどつもっていて、高い木の枝におおわれていない先のほうまで散らばっていた。木々が高くのび、枝が高いところに移ったので、前には影で覆われていたこの空地に日があたっていたのだ。この落葉のつもった地面のちょうど端のところから、ヤマモモがはじまっていた。
ニックは包みをずりおろし、日蔭に横になった。仰向けにねころんで、松林を見あげた。身体をのばすと、首や背中や腰がやすまった。大地が背中に心地よく感じられた。枝ごしに空を見あげ、やがて、眼を閉じた。眼を開け、ふたたび見上げた。高い枝に風が吹いていた。また眼を閉じ、眠りこんだ。
眼を覚ますと身体がこわばり、しびれていた。日はほとんど沈んでいた。包みは重く、かつぐと、革ひもが痛かった。包みを背負い、前かがみになり、革の釣竿入れをとりあげ、松林から、ヤマモモの生えた沼地を横ぎり、川へ向かった。川が一マイルとは離れているはずがないことは、彼にもわかっていた。
彼は切株でおおわれた山腹をおりて、草原にはいっていった。草原のはずれに川が流れていた。ニックは川に着いたので、うれしかった。彼は草地を川上のほうに歩いていった。歩くと、ズボンが露でぐっしょりぬれた。暑い日だったので、露が早く重くおりていたのだ。川は音もなかった。あまりにも早くなめらかに流れていたのだ。草地のはずれで、キャンプのテントを張るために高台にのぼっていこうとして、ニックが川を見おろすと、鱒が水面に浮きあがっていた。日が暮れて、流れの向こう側の沼地からやってきた虫をさがして浮きあがっているのだ。虫をとろうと水面から飛びあがった。ニックが流れにそって草地をいくらか歩いてきたときにも、鱒が水面高く飛びあがったのだった。いま、川を見おろすと、鱒があたりの水面一帯でひっきりなしに餌を食べていたから、虫が表面に浮かんでいるにちがいなかった。見渡すかぎりの川筋に、鱒が浮きあがり、水面にまるい波紋をえがき、まるで雨が降りだしたようだった。
そこは高くなっていて、木が茂り、砂地で、草地や、川筋や、沼地が見渡せた。ニックは包みと釣竿入れをおろし、平らな土地をさがした。すごく空腹だったが、食事の用意をする前に、テントを張ろうと思った。二本のバンクスマツの間に、平らな土地があった。包みの中から斧を取りだし、出っぱっていた二本の根を切りとった。そうすると、充分眠れる広さの平らな土地になった。手で砂土を平らにし、ヤマモモを根こそぎ抜きとった。そのヤマモモのおかげで、手はいい匂いがした。彼は根を抜いた土地を平らにならした。毛布の下にでこぼこがあるのはいやだった。土地を平らにならすと、毛布を三枚しいた。一枚は二つ折にして、地面にじかにしいた。ほかの二枚はその上にひろげた。
斧で切株の一つから色の鮮やかな松の幅広い厚い板を切りとり、それをさいて、テントの杭にした。地面の中でしっかり支えてくれる長い杭が必要だった。テントを包みから取りだし、地面に広げると、バンクスマツに立てかけてあった包みがずっと小さく見えた。ニックはテントのはり材として使う綱を松の木の幹にゆわえつけ、綱のもう一方の端でテントを地面から引きあげ、その端を別の松の木にゆわえつけた。テントは物干綱にかけたズックの布のように綱にかかった。ニックは切ってあった柱をテントの中心の頂きになる部分の裏側につっこみ、隅を木杭でとめて、テントをつくった。隅をぴんと張るように木杭でとめ、斧の背で木杭を地面に打ちこみ、綱の結び目が埋まり、テントがしっかり張るようにした。
テントの開いた入口に、ニックは蚊をよけるために寒冷紗《かんれいしゃ》〔目のあらい薄地の綿布〕を張った。包みから取りだしたいろいろなものをもち、かやをくぐって中へ這いこみ、それらを傾斜しているテントの下のベッドの枕もとに置いた。テントの中は、褐色のズック地を通して、光がさしこんでいた。ズックの布の匂いが気持よかった。もうこれだけで、神秘的で家庭的な感じがした。ニックはテントの中に這いこんでゆくと、愉しかった。一日じゅうずっと愉しくないわけではなかった。だが、これは違った愉しさだ。これで仕事が終ったのだ。いままでは、これをしなければならなかった。いま、それが終ったのだ。苦しい旅だった。彼はすごく疲れた。終ったのだ。テントはできた。これで落ちついた。どんなことにも、びくともしないだろう。いいところにテントを張ったものだ。このいいところに、いま、いるのだ。自分でつくった自分の家にいるのだ。ところで、腹が空いた。
彼は寒冷紗の下を這って、外にでた。外はすっかり暗かった。テントの中のほうが明るかった。
ニックは包みのあるところまで行き、包みの底の釘の紙包みの中から、手さぐりで、良い釘を一本さがした。それを松の木におしこみ、しっかりおさえ、斧の背でしずかに打ちこんだ。それから、その釘に包みをぶらさげた。食料が全部、包みの中にあった。これで食料も地面から離れ、安全になった。
ニックは空腹だった。こんなに空腹になったことはないと思った。豚肉と豆の煮込みの罐詰とスパゲッティの罐詰を開けて、フライパンの中にいれた。
「いそいそと持ってきたのだから、こうしたものを食う権利があるんだ」とニックは言った。その声は暗くなりかかった森林の中で奇妙に響いた。彼はそれっきり口をきかなかった。
彼は切株から斧で切りとった松の厚い切れはしで火をおこした。その火の上に、焼網をのせ、その四本の脚を靴で踏みつけ、地中におしこんだ。ニックは焔の上の焼網にフライパンをのせた。彼はますます空腹になった。豆とスパゲッティがあたたまった。ニックはそれをかき廻して、まぜた。それは泡だちはじめ、小さな泡がぽつりぽつりと表面に浮かんできた。いい匂いだった。ニックはトマトケチャップの壜を取りだし、パンを四切れ切った。小さな泡がだんだん早く浮かびあがってきた。ニックは火のそばに腰をおろし、フライパンをおろした。その中身を半分ほど錫《すず》の皿にあけた。それはゆっくり皿の上にひろがった。熱すぎることは、ニックもわかっていた。トマトケチャップをその上にかけた。豆とスパゲッティがまだ熱すぎることはわかっていた。彼は火を見、それからテントを見た。舌をやけどしてなにもかも台なしにしたくなかった。長年の間、彼は揚げバナナを食べたことがなかった。冷めるのが待ちきれなかったからだ。彼の舌はひどく敏感なのだ。彼は非常に空腹だった。川向こうの沼地のほとんど暗くなりきったところに、靄《もや》がのぼるのが見えた。彼はもう一度、テントを見た。もうよろしい。彼は皿からスプーンに山盛り一杯しゃくった。
「ほう」とニックが言った。「こいつはすごい」と彼は愉しそうに言った。
彼はひと皿すっかりたいらげて、やっとパンに気がついた。二杯目はパンといっしょにたいらげ、パンで皿をきれいに拭った。セント・イグネス〔ミシガン州の人口三千ほどの町〕駅の食堂でコーヒーとハム・サンドを食べてから、何も食べていなかったのだ。それはとてもすばらしい経験だった。前々からとっくにこの空腹は感じていたのだが、それを満足させることができなかったのだ。その気になりさえすれば、数時間前に、テントを張っていられたのだ。川岸にテントを張るいい場所はいくらもあったのだから。だが、これでよかったのだ。
ニックは焼網の下に松の木の大きな切れはしを二つ押しこんだ。火が燃えあがった。彼はコーヒーをわかすための水をもってくるのを忘れていた。包みからズックの折りたたみバケツをだし、丘をおり、草地のはずれを横切って、流れにおりていった。向こう岸には白い靄がたちこめていた。岸に膝をついて、ズックのバケツを流れにつけると、草は湿って、冷たかった。バケツは流れの中でふくらみ強く引っぱられた。水は氷のように冷たかった。ニックはバケツをゆすぎ、水をいっぱいいれてキャンプの場所まで運んだ。流れからここまで運んでくると、水は前ほど冷たくはなかった。
ニックはもう一本、大きな釘を打ちこんで、水のいっぱいはいったバケツをつるした。コーヒー・ポットに半分、水をすくいとると、焼網の下の火にさらに木片をいれ、ポットをのせた。彼はどっちの方法でコーヒーをつくるのか思いだせなかった。つくり方についてホプキンズと言い争ったことはおぼえていたが、どっちの方法に彼が賛成したかは、おぼえていなかった。彼はそれを煮《に》たたせることに決めた。すると、それがホプキンズの方法だったことを思いだした。かつて、彼はいろんなことでホプキンズと議論したことがあった。コーヒーがわくのを待っているあいだ、彼はアンズの小さな罐をあけた。アンズの罐を錫《すず》のコップにあけた。火にのせたコーヒーを眺めながら、アンズの罐詰の汁を飲んだ。はじめは、こぼさないように気をつけ、やがて、何か考えこんでいるように、アンズをのみこんだ。生《なま》のアンズよりはうまかった。
見ているうちにコーヒーがわいた。蓋がもちあがり、コーヒーと滓《かす》がポットの側面にこぼれだした。ニックはポットを焼網からおろした。ホプキンズ流が勝ったのだった。彼はアンズのはいっていた茶碗に砂糖をいれ、コーヒーをつぎ、さまそうとした。熱すぎて、つげなかったので、帽子でコーヒー・ポットの柄をもった。どんなことがあっても、帽子をポットにつけたくなかった。ことに初めの一杯は。最後までホプキンズ流で行くべきだ。ホプキンズはそれだけの価値がある。彼はじつに真面目くさってコーヒーを飲んだ。あんなに真面目な男をニックは見たことがなかった。のろまじゃなく、生真面目なのだ。あれはずっと前のことだ。ホプキンズは唇を動かさないでしゃべった。彼はポロをやった。テキサスで数百万ドルもうけた。彼は最初に大きな油田を掘りあてたという電報を受けとったとき、シカゴまでの汽車賃を借りた。金を電報で送らせることもできたのだ。だが、待ちきれなかった。みんなはホプキンズの恋人を金髪のヴィーナスとよんだ。だが、ホプキンズは彼女が本当の恋人ではなかったので、気にしなかった。だれもおれの本当の恋人ならからかうわけにはいかないさ、とホプキンズはひどく自信ありげに言った。彼は正しかった。ホプキンズは電報がくると、行ってしまった。それはブラック川にいたときのことだった。電報が彼の手許につくのに八日もかかった。ホプキンズは〇・二二インチ口径のコルト式自動ピストルをニックにくれた。カメラをビルにやった。いつまでも自分を思いだしてもらうためだった。翌年は、みんなで釣りに出かけることになっていた。ホップ・ヘッド〔ホプキンズのあだな〕は金持だった。ヨットを買いこんで、みんなでスペリオル湖の北岸にそって乗りまわそうと言った。彼は興奮していたが、真剣だった。みんなはさよならといったが、悲しかった。それで、旅行は中止になった。それからは一度もホプキンズに会っていなかった。それはブラック川でのずっと昔のことだった。
ニックはコーヒーを飲んだ。ホプキンズ流にわかしたコーヒーだった。コーヒーはにがかった。ニックは笑った。それはホプキンズの話にふさわしい結末だった。彼の心は動きはじめていた。疲れているから、心の動きをとめられるということも分っていた。彼はポットからコーヒーをこぼし、コーヒー滓《かす》を火の中にふりおとした。煙草に火をつけ、テントの中にはいった。靴とズボンをぬぎ、毛布の上に坐り、靴をズボンにまるめこんで枕にし、毛布の間にもぐりこんだ。
テントの入口から見ていると、外の焚火が夜風に吹かれて、赤く輝いた。静かな夜だった。沼地はまったく静かだった。ニックは心地よげに毛布の下で身体をのばした。蚊が耳もとでうなった。ニックは起きあがって、マッチをすった。蚊は頭の上のズックにとまっていた。ニックは急いでマッチをそっちのほうにもっていった。蚊は焔の中で気持よくじゅっと音をたてた。マッチが消えた。ニックはふたたび毛布の下に横になった。横向きになって、眼を閉じた。眠かった。眠りがやってくるのが感じられた。毛布の下に身をまるめて、眠りに落ちた。
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第十五章
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彼らはサム・カーディネラを、朝六時に、郡刑務所の廊下で絞首刑にした。廊下は両側に独房が何段にも並び、高く、狭かった。独房は満員だった。男たちが絞首刑を受けるために連れてこられていたのだ。絞首刑の宣告を受けた五人の男が一番てっぺんの五つの独房にはいっていた。宣告を受けた男たちのうち三人は黒人だった。彼らはひどくおびえていた。白人の一人は簡易ベッドに坐り、両手で顔をおおっていた。もう一人は頭から毛布をかぶり、ベッドに伏せていた。
彼らは壁につくられたドアを通って絞首台へやってきた。二人の牧師をふくめた七人だ。彼らはサム・カーディネラを運びこんできた。彼は朝の四時ごろから、そんな状態だった。
彼らが彼の両脚を革紐でゆわきつけているあいだ、二人の看守が彼をおさえ、二人の牧師が彼にささやいていた。「きみ、男らしくしなさい」と一人の牧師が言った。彼らが、頭からすっぽりかぶせる帽子をもって来ると、サム・カーディネラは肛門の括約筋をしめる力を失った。彼をおさえていた看守は二人とも彼を落とした。二人ともにがりきっていた。「椅子はどうする、ウィル」と、看守の一人がきいた。「持ってきたほうがいいぞ」と山高帽の男が言った。
みんなが、樫と鋼鉄でできていて、ボール・ベアリングで回転する、非常に重たい絞首台から、うしろの足場にしりぞくと、サム・カーディネラはしっかり革紐で縛りつけられたまま、絞首台に坐り、二人の牧師のうち若いほうが椅子の横にひざまずいていた。絞首台が落ちる直前、その牧師は足場にとびすさった。
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二つの心臓の大きな川〈第二部〉
朝、太陽がのぼり、テントが暑くなりだした。ニックはテントの入口に張ってある蚊帳《かや》から這いだして、朝を見た。出てくるとき、手にふれた草が濡れていた。彼は手にズボンと靴をもっていた。太陽は丘の上に出たばかりだった。草原と、川と、沼地があった。川の向こう岸の沼地の草の生えたところには樺の木立があった。
早朝の川は澄み、よどみなく早く流れていた。二百ヤードほど川下で、丸太が三本、川幅いっぱいに浮かんでいた。そのため、それより上流は水がなめらかで深くなっていた。ニックが眺めていると、ミンクが丸太をつたって川を渡り、沼地へはいっていった。ニックは興奮した。早朝と川に興奮した。ひどく気がせいて、朝食など食べていられなかったが、食べなければいけないと思った。小さな火をおこし、コーヒー・ポットをかけた。
ポットの湯がわく間に、彼は空の壜をもって、高台のはずれから草原へおりていった。草原は露に濡れ、ニックは太陽が草を乾かさないうちに、餌にするバッタをつかまえようと思った。いいバッタがたくさんいた。草の茎の根っこにいた。ときには、草の茎にしがみついていた。露で冷たく濡れていて、太陽にあたためられるまで飛べなかった。ニックは中ぐらいの大きさの茶褐色のバッタだけを選んで、つかみ上げては、壜《びん》の中にいれた。丸太をころがすと、その縁の真下に何百匹というバッタが隠れていた。バッタの宿屋だったわけだ。ニックは中ぐらいの大きさの茶褐色のを五十匹ほど壜に入れた。バッタをつかまえている間に、ほかのバッタは太陽にあたためられ、跳ねて、逃げはじめた。跳ねては、飛んでいった。はじめは、ぴょんと飛んだが、地面におりるとまるで死んだようにじっとしていた。
ニックは、朝食をすませてしまう頃には、バッタがいつものように元気になることを知っていた。草に露がおりていないと、壜にいっぱいのバッタをつかまえるには一日かかるだろうし、帽子でたたきつけるとなると、多くはつぶしてしまわなければならないだろう。彼は流れで手を洗った。川の近くにいるので興奮した。それから、テントのほうへ登っていった。バッタがもう草むらの中でぽんぽんと飛んでいた。壜の中では、太陽に暖められて、バッタがひとかたまりになって飛んでいた。ニックはコルク栓のかわりに松の木の枝をさしこんだ。壜の口をしっかりふさいだので、バッタは出てこられなかったが、空気は充分ではいりした。
彼は丸太をころがし、元どおりにした。毎朝ここへ来れば、バッタがとれるな、と思った。
ニックはバッタがいっぱいはいって飛び跳ねている壜を松の木の幹に立てかけた。急いで、そば粉に水をまぜ、よくかき廻した。そば粉をカップに一杯、水をカップに一杯の割合だった。ひとつかみのコーヒーをポットにいれ、罐からひと塊りの脂をすくいとり、じゅうじゅういわせながら、熱いフライパンの上にたらした。煙をだしているフライパンに練ったそば粉を静かに一面にいれた。そば粉は熔岩のようにひろがり、脂がじゅうじゅういった。端のほうから、そば粉のホットケーキが固まりだし、やがて茶褐色になり、それから、ぱりぱりになった。表面に泡がたち、次第に小さな穴があいた。ニックは茶褐色になった裏の下に新しい松の切れはしを押しこんだ。フライパンを横にふると、ホットケーキは離れた。木の切れはしを使わずに、ぽんと放りあげて、ひっくり返すのはよそう、と彼は考えた。きれいな木の切れはしをホットケーキの下にずうっとすべりこませて、ひっくり返した。それはフライパンの中でじゅうじゅう音をたてた。
できあがると、ニックはフライパンにもう一度脂をひいた。練ったそば粉を全部使った。それで大きいホットケーキがもう一つと、小さいのが一つ、できた。
ニックはりんごジャムをつけて、大きいホットケーキ一つと、小さいのを一つ、食べた。もう一つのホットケーキにりんごジャムをつけ、二つに折り、油紙でつつみ、ワイシャツのポケットに入れた。りんごジャムの壜を包みにもどし、サンドイッチ二つぶんのパンを切った。
包みの中に大きな玉ねぎを見つけた。二つに切って、絹のような外の皮をむいた。それから、切った半分を薄切りにして、玉ねぎのサンドイッチをつくった。油紙につつんで、カーキ色のワイシャツのもう一つのポケットに入れてボタンをかけた。フライパンを焼網の上で裏がえしにし、コンデンス・ミルクを入れた黄色っぽい茶褐色の甘いコーヒーを飲み、テントを整頓した。気持のいいキャンプだった。
ニックは革の釣竿入れから蚊ばり用の竿を取りだし、それをつなぎ、釣竿入れをテントにつっこんだ。糸巻《リール》を取りつけ、糸道《ガイド》に糸道を通した。糸を通すとき、糸を手から手へと持ちかえていかなければならなかった。さもないと、糸はその重みで巻きもどされてしまうからだ。それは先細の糸を二重により合せた重い蚊ばり用の糸だった。ニックはずいぶん前にそれを八ドルで買ったのだ。それは重くできていて、おもりのない蚊ばりを投げると、背後の空中に高くあがってから、水平に、重く、まっすぐ前に出るようになっていた。ニックはテグス糸をいれたアルミニュームの箱を開けた。テグス糸は湿ったフランネルの糸当ての間に巻いてあった。ニックはセント・イグネスにつくまでの汽車の中で糸当てを冷水器でぬらしておいたのだ。しめった糸当ての中でテグス糸は柔らかくなっていた。ニックはその一つをほどいて、その先に輪をつくって重い蚊ばり糸に結びつけた。テグス糸の先に釣針をつけた。小さい針で、とても細く、弾力があった。
ニックは膝に釣竿をおいて坐り、針入れから針をとりだした。糸をぴんと張って、釣竿の継ぎ目と弾力を調べた。いい気持だった。針を指にささないよう気をつけた。
彼は流れにおりていった。釣竿を手にもち、バッタの壜の首のまわりを皮ひもで半ば引掛け結びで結び、そのひもで壜を首からつるしていた。たも網は鈎《かぎ》にかけてベルトからつるしてあった。肩にはすみずみを耳のような形に結んだメリケン袋がのっていた。ひもが肩にかかっていた。袋が脚にあたってばたばたいった。
ニックは装具をすっかり身体につるした。ぎごちなかったが、くろうとのようで嬉しかった。バッタの壜が胸にあたって揺れた。ワイシャツの胸のポケットが弁当と針入れでふくらんでいた。
彼は流れに足を踏みいれた。ひやっとした。ズボンが脚にぴったりくっついた。靴の下に砂利が感じられた。水が脚のうえまで上ってきて、冷たく、ひやっとした。
流れが勢いよく脚にぶつかり、吸いこまれそうだった。踏みこんだところは、水が膝の上まであった。流れに押されながら、歩いた。砂利が靴の下ですべった。脚の下に渦巻く水を見おろし、壜を傾けて、バッタを出した。
最初のバッタは壜の首から跳ね上って、水の中へ飛びこんだ。ニックの右脚のそばの渦に吸いこまれ、すこし下流の水面に浮かびあがった。脚をばたばたやりながら、どんどん流れていった。なめらかな水面を、速くぐるぐるまわっていたが、消えてしまった。鱒がくいついたのだ。
次のバッタが壜から頭をつきだした。触角がふるえていた。跳ねあがろうとして、壜から前脚を出していた。ニックはその頭をつかみ、おさえつけ、細い針を顎の下から胸をとおして腹の最後の節まで突き通した。バッタは前脚で針をつかみ、噛んだ煙草のような褐色の汁を吐いた。ニックはそのバッタを水の中へおとした。
右手に釣竿をもち、流れに流されてゆくバッタの引っぱるにまかせて、糸をくり出した。左手で糸巻《リール》から糸をはぎとるようにたぐり出し、自然に流れるままにした。流れのさざ波の中にバッタが見えた。と、それは見えなくなった。
糸がぐっと引かれた。ニックはぴんと張った糸をたぐった。初めて鱒が食いついたのだ。手ごたえのある釣竿を流れの上にささえながら、左手で糸を巻いた。釣竿がぐうっと曲がり、鱒が流れにさからって、上下に動いた。ニックにはその鱒が小さいことがわかった。彼は釣竿をまっすぐ空中にあげた。竿は弓なりに曲がった。
流れの中で角度を変えている釣糸に向かって、水中の鱒が頭と身体をぐいぐいひっぱっているのが見えた。
ニックは左手で糸をつかみ、くたくたに疲れて流れにさからっている鱒を水面にひきあげた。鱒の背中には砂利の上を流れている透明な水の色が斑らに映り、横腹が日光にきらめいていた。ニックは右腕の下に竿をはさみ、かがみこんで、流れの中に右手をつけた。すこしもじっとしていない鱒をぬれた右手でつかみ、口から針の掛りをはずし、流れの中へ放してやった。
鱒は流れの中でふらふらしていたが、やがて川底の石のそばに沈んでいった。ニックは手をのばし、肘のところまで水に入れ、鱒に触った。鱒は流れの中でじっとして、石のそばの砂利の上で休んでいた。ニックの指が鱒のなめらかな、冷たい、水中での感触にふれると、鱒は逃げ、流れの底を横切って物蔭にかくれてしまった。
あれでいいんだ、とニックは考えた。あいつはただ疲れているだけなんだ。
彼は鱒にさわる前に手を濡らしておいた。鱒の表面のもろい粘液を傷つけたくなかったからだ。乾いた手で鱒にさわると、白いかびがその無防備の箇所を襲うのだ。何年も前のこと、前にも後にも蚊ばり釣りをやっている釣人がいっぱいいる流れで釣りをしたことがあったが、白いかびにおおわれて死んだ鱒が、押し流されてきて岩にぶつかったり、よどみに腹を上に向けて浮きあがっているのを、ニックは何度となく、見ていた。ニックは川でほかの人といっしょに釣りをするのを好まなかった。気心の知れた人とでなければ、釣りの気分が台なしになってしまうからだ。
彼は、膝の上まで流れにつかって、流れに渡して積んである丸太の土手の浅瀬を五十ヤードほど、よろけながら歩いた。針に餌をつけかえないで、針を手にもったまま、流れの中を歩いた。浅瀬なら小さな鱒をつかまえられると確信していたが、小さいのは欲しくなかった。今頃の時刻では、大きい鱒は浅瀬にはいないだろう。
流れが腿《もも》の深さになり、刺すように冷たかった。前方には、丸太でせきとめられた水が静かによどんでいた。水がなめらかで黒く、左は草原の低いはずれで、右は沼地だった。
ニックは押し流されないように身体をそらし、壜からバッタを取りだした。それを針に通し、おまじないにそれに唾を吐きつけた。それから糸巻《リール》から糸を数ヤード引きだし、バッタを前方の黒い急流に投げた。バッタは丸太のほうへただよっていき、やがて糸の重みが餌を水面下に引っ張った。ニックは右手に竿をもち、指の間から糸をくりだした。
ぐいと長く引いた。ニックが糸を引くと、竿は生きているように、たわわに折れそうに曲がり、糸はぴんと張った。重く、今にも切れそうに、絶えず引っ張られて、ぴんと張って、水から出てきた。ニックはこれ以上引っぱられるとテグス糸が切れるのではないかと思い、糸をくりだした。
糸が勢いよく出ていくと、つめ車仕掛けの糸巻《リール》がひとりでに廻りだしてキーキー鳴った。速すぎた。ニックはそれを止められなかった。糸がぐんぐん出て、それにつれ糸巻《リール》の音が高まった。
糸巻《リール》の芯《しん》が見えだし、ニックは興奮で気も顛倒《てんとう》し、腿まで氷のように冷たくつかりながら、流れに押し流されないように身体をそらし、左手の親指で糸巻をしっかりおさえた。蚊ばり釣りの糸巻の枠の内側に親指を突っ込んでおくのは大変だった。
圧力を加えると、糸が急にぴんと張り、丸太の向こうで、大きな鱒が水面から高く飛びあがった。それが飛びあがったとき、ニックは竿の先をさげた。だが、張りをゆるめようと竿の先をさげたとき、張りが強すぎると感じた。あまりに固すぎた。もちろん、テグス糸はもう切れていた。糸から弾力がまったくなくなり、固くこわばったときの感じは、間違いっこなかった。すると、糸がたるんだ。
ニックは口が乾き、がっかりして、糸巻《リール》に糸を巻いた。あんなに大きい鱒は見たことがなかった。飛びあがったときは重かったし、支えきれないほどの力があり、そのうえ、その大きさったらなかった。鮭くらいの大きさだった。
ニックの手はふるえていた。彼はゆっくり糸を巻いた。スリルがあまりにも大きすぎたのだ。彼はどことなく気分が悪くなり、坐りこんだほうがよさそうだと思った。
テグス糸は針を結びつけたところで切れていた。ニックはそれを手にとった。あの鱒は川底のどこかで、顎に針をつけたまま、丸太の下の、光のとどかない下のほうで、砂利の上にじっとしていることだろうと思った。鱒の歯がテグス糸の針を噛み切ることをニックは知っていた。あの針はあいつの顎に喰いこんでいるだろう。きっと、あの鱒は腹を立ててるだろう。あのくらい大きいやつなら、どれも腹を立てるだろう。あいつはすばらしい鱒だった。しっかり針に引っかかっていたのだ。岩のようにしっかりと。あいつも、逃げるまでは、岩のようだった。まったく、大きいやつだった。まったく、見たこともない大きいやつだった。
ニックは草原にはいあがって立った。水がズボンと靴から流れおちた。靴がごぼごぼいった。丸太のところまでいって、腰かけた。すこしでもこの感動を忘れたくはなかった。
靴をはいたまま、足を水につけ、足先をもそもそ動かし、胸のポケットから煙草を取りだした。煙草に火をつけ、マッチを丸太の下の急流に投げこんだ。マッチが速い流れの中でくるくるまわっていると、小さな鱒がそれをねらって浮きあがってきた。ニックは笑った。煙草をすってしまおうと思った。
丸太に腰かけ、煙草をふかし、日向《ひなた》で身体を乾かした。陽にあたって背中がぽかぽかした。眼の前の川は浅く、森の中へ流れこみ、森の中へ曲がってはいり、浅瀬や、きらめく光や、水で洗われた角《かど》のとれた大きな岩や、岸辺の西洋杉や、白樺があり、丸太は陽にあたって暖く、皮がはげていて坐るとつるつるし、ちょっと灰色がかっていた。徐々に、失望感が去っていった。肩をうずかせたあのスリルののちに激しくやってきた失望感が徐々に消えた。もう大丈夫だった。釣竿を丸太の上にほうりだしたまま、ニックはテグス糸がよじれて固い結び目になるまで強く引っ張って、テグス糸に新しい針をつけた。
餌をつけ、竿を取りあげ、丸太の向こう端へ歩いてゆき、あまり深くない水の中にはいっていった。丸太の下からその向こうにかけて、深いよどみになっていた。ニックは沼地の岸に近い浅瀬を廻って、浅い川床へ出た。
左手の、草原がつき、林がはじまるところに、大きな楡《ニレ》の木が根こぎにされていた。嵐で倒され、林のほうへひっくりかえり、根に土がこびりついたまま、草が生え、流れの傍の岸にがっしりとつきでていた。川は根こぎにされた木のふちまで切りこんできていた。ニックが立っているところから、轍《わだち》のような深い水路が水の流れによって浅い川床にできているのが見えた。彼の立っているところには小石が多く、その向こうにも、小石や丸石がいっぱいあった。川が木の根の近くで曲がっているあたりは、川床は泥で、轍のような深い水路の間に、水草の緑の葉が流れにゆれていた。
ニックが釣竿を肩のうしろに振りあげて、前に投げると、釣糸は前のほうにカーヴをえがきながらとび、水草の中の深い水路のひとつにバッタを落した。鱒がくいつき、針にかかった。
根こぎにされた木のほうへ釣竿をぐっと差し出し、流れの中をばちゃばちゃあとじさりしながら、ニックは竿をたわわに曲げて、川に飛びこむ鱒を危険な水草の中から広々とした川につれだした。流れに押されて盛んに上下にゆれる釣竿をしっかりにぎって、鱒を引きよせた。鱒は勢いよく引いたが、たえず近づいてきた。その引く力に弾力のある釣竿がしない、ときには水の中に引っぱられたが、たえず鱒を引きよせた。ニックは引っぱられると、川下のほうに、糸の張りをゆるめた。釣竿を頭の上にあげ、鱒をたも網の上へさそって、引きあげた。
鱒はたも網の中で重くたれ、斑点のある背中と銀色の腹が網目を通して見えた。ニックは針をはずした。重い腹はつかみ心地がよく、大きな顎は下顎が突きでていた。肩からつるして水の中へ入れてある長い袋に滑りこませると、ばたばたはねて、大きく滑りこんでいった。
ニックがその袋の口を流れに向かって拡げると、袋は水が満ち、重くなった。袋の底を流れにつけたまま、もちあげると、水が側面から流れでた。底の内側には大きな鱒が水の中でぴちぴちしていた。
ニックは川下に歩いていった。肩からつるした袋は水の中で前のほうに流され重く沈んでいた。
次第に暑くなりだし、日が首すじに暑かった。
ニックは立派な鱒を一匹とったのだ。彼はたくさんとろうとは思わなかった。流れは浅く川幅が広くなっていた。両岸に木立があった。左岸の木立は午後の日射しの中で流れに短い影をおとしていた。どの木蔭にも鱒がいることをニックは知っていた。午後、太陽が丘のほうに移ってしまうと、鱒は流れの向こう側の涼しい木蔭に行くことだろう。
一番大きいやつは岸のすぐ近くにいるだろう。ブラック川では、いつも、そういうやつがそういうところでとれる。日が沈むと、みんな流れの中に移動する。ちょうど日が沈もうとして、水面がぎらぎらと輝くときには、流れのいたるところで大きな鱒がよく餌にくいつく。だが、水面が日をうけて鏡のようにまぶしいので、釣りあげることはほとんどできない。もちろん、川上で釣れるわけだが、ブラック川とかこの川のような流れでは、流れにさからって、よろけながら歩かなければならないし、深いところでは、水かさがぐっと迫ってくる。このように水量の多い流れでは、上流で釣るのは面白くなかった。
ニックは岸に深い穴がないかと探しながら、浅瀬を歩いていった。ブナの木が一本、川のすぐそばに生えていて、枝が水の中にたれていた。流れはその葉の下にはいって、ぐるっと引きかえしていた。そのようなところには、いつも鱒がいるのだ。
ニックはそのような穴で釣りたいとは思わなかった。針が枝にひっかかるのはわかりきっていたからだ。
だが、そこは深いようだった。バッタを落とすと、流れはバッタを水の中にすいこみ、たれかかった枝の下へ巻きこんだ。糸がぐっと引き、魚がくいついた。鱒が水面から半分顔を出し、木の葉や枝の間で激しくあばれた。糸がひっかかった。ニックが強く引くと、鱒ははずれてしまった。彼は糸巻《リール》に糸を巻きとり、針を手にもったまま、川下に歩いていった。
前方、左岸の近くに、大きな丸太があった。それが空洞《くうどう》になっていることがニックにわかった。川上にむいているので、流れがその中にすうっとはいっていき、ちょっとしたさざ波が丸太の両側にひろがっているだけだった。水は深くなってきた。空洞の丸太の上は灰色で乾いていた。一部分が蔭になっていた。
ニックがバッタの壜から栓を抜くと、バッタが一匹、栓にしがみついてでてきた。彼はそれをつまみとり、針にとおし、投げた。釣竿をうんと先のほうに突きだし、水に浮いたバッタが、空洞の丸太に流れこむ水に乗れるようにした。釣竿を低くすると、バッタは丸太の中へ流れこんだ。ぐっとくいついてきた。ニックはその引きに応じて、釣竿を引きもどした。ぴくぴく引く手ごたえがなかったら、丸太に針をかけたと思ったほどの重さだった。
魚を流れの中に引き出そうとした。重い手ごたえで、出てきた。
糸がたるみ、ニックは鱒が逃げたのかと思った。すると、すぐ近くの流れで、鱒が頭をふりながら、針を抜こうとしていた。口をしっかり結んでいた。澄んだ流れの中で、針を抜こうともがいていた。
ニックは左手で糸を輪にしてたぐりながら、釣竿を振りあげ、糸をぴんと張らせ、鱒をたも網のほうへ引きよせようとしたが、鱒は逃げて、見えなくなり、糸が上下にはげしくゆれた。ニックは流れに乗せて鱒と戦った。釣竿のしなりを利用して鱒を水中でばたつかせた。釣竿を左手にもちかえ、竿の重みにたえ、竿をあやつりながら、鱒を川上に導き、それから、たも網に引きあげた。水からきれいに引きあげたが、鱒はたも網の中で重い身体を半円形にまるめた。たも網から水がたれた。彼は鱒を針からはずして、袋の中へ滑り落とした。
彼は袋の口を拡げて、水の中でぴちぴちしている二匹の大きな鱒を見おろした。
だんだん深くなっていく水の中を歩いて、ニックは空洞の丸太のほうへいった。首から袋をはずした。袋が水から出ると鱒がばたばたやった。彼は鱒が水に深くつかるよう、袋をつるした。それから、丸太の上にはいあがって坐ると、ズボンと靴から水が流れに流れ落ちた。釣竿を下において、丸太の日蔭になった端のほうにいき、ポケットからサンドイッチを取りだした。サンドイッチを冷たい水にひたした。パンくずが水に流れていった。サンドイッチを食べ、水を飲もうと帽子に水をいっぱいすくったが、水は飲む寸前に帽子から流れでてしまった。
日蔭の丸太に坐っていると涼しかった。煙草を取りだし、火をつけようとマッチをすった。マッチは灰色の丸太の上に小さな跡をつけて、めりこんでしまった。ニックは丸太の横にかがみこんで、固い場所を見つけ、マッチをすった。煙草をふかし、川を眺めながら、坐っていた。
前方では、川がせばまり、沼地に流れこんでいた。川はなだらかに流れ、深く、沼地には西洋杉がこんもり茂り、幹が密生し、枝がぎっしりつまっていた。そのような沼地を通りぬけるのは不可能のようだった。枝が非常に低く生えていた。すこしでも身動きするには、身体をほとんど地面にすれすれにしなければならないだろう。枝の間を押し分けていくわけにはいかない。だから、沼地に住んでいる動物があんな恰好にできているのだ、とニックは考えた。
何か読むものをもってくればよかったと思った。本が読みたかった。沼地にははいっていく気にはならなかった。川を見おろした。大きな西洋杉が一本、ぐうっと川を横ぎって傾いていた。その向こうで、川は沼地に流れこんでいた。
ニックは、いま、そこにはいっていきたくなかった。わきの下まで水のくる深いところを歩いて、大きな鱒が釣れそうもない場所で釣ろうとすることには反撥を感じた。沼地では岸には何も生えていなかった。大きな西洋杉が頭上を覆い、日の光がわずかにもれてくるだけだった。薄暗がりの深い急流では、魚釣りは悲劇になるだろう。沼地では、魚釣りは悲劇的な冒険なのだ。ニックはそれがいやだった。今日はそれ以上、流れを下りたくなかった。
ナイフを取りだして、開き、丸太につっ立てた。それから袋を引きずりあげ、それに手をつっこみ、鱒を一匹とりだした。ぴちぴちして掴みにくい鱒の尾のあたりを手でつかんで、丸太にたたきつけた。鱒はふるえ、身体をこわばらせた。ニックは日蔭になった丸太の上にそれを置き、同じようにしてもう一匹の鱒の首を折った。二匹を丸太の上に並べた。立派な鱒だった。
ニックは二匹を肛門から顎の先まで切り開いて、きれいにした。全部の内臓と鰓《えら》と舌がひとかたまりになって出てきた。両方とも雄で、長い灰色がかった白い白子の筋がなめらかで、きれいだった。きれいな、ぎっしり詰った内臓がすっかりひとかたまりになって出てきた。ニックは臓物を、ミンクが見つけられるようにと岸に投げすてた。
鱒を流れで洗った。水の中で背を上にしてもっていると、生きている魚のようだった。まだ色がさめていなかった。手を洗って、丸太で拭いた。それから丸太の上にひろげた袋の上に鱒を置き、くるくると巻いて、それをしばり、たも網の中に人れた。ナイフの刃が丸太に突きささったままになっていた。ナイフを丸太の木できれいに拭い、ポケットにしまった。
ニっクは釣竿を手にもち、重たくなったたも網をぶらさげて、丸太の上に立ちあがり、それから、水の中へ足を踏みいれ、岸のほうへざぶざぶ歩いた。岸によじのぼって、台地のほうへ向かって林を踏みわけていった。テントにもどるつもりだった。ふりむいて、見た。川が木々の間からちらっと見えた。沼地で釣りたければ、そんな日はこれからまだいくらもあるのだ。
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むすび
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国王〔王位を追われ幽閉されていたギリシア国王ゲオルギオス二世〕は庭園で働いていた。彼はぼくを見てたいへんうれしそうだった。ぼくらは庭園を歩いていった。これが王妃です、と彼が言った。彼女はバラの茂みを刈りこんでいた。まあ、はじめまして、と彼女が言った。ぼくらは大きな木の下のテーブルに向かって腰をおろし、国王はハイボールを命じた。とにかく、いいウィスキーがありますよ、と国王が言った。革命委員会が宮殿の庭園から外に出るのを許さないのだ、と国王はぼくに言った。プラスティラスはたいへんいい男だと思うが、ただひどく気むずかしい、と彼は言った。でも、あの連中を射殺したのは正しかったと思う。もしケレンスキーが二、三人でも射殺していたら、事態はまったく異っていただろう。もちろん、こうした類の事態で重要なことは、自分が、撃たれないことなのだが。
それはたいへん愉快だった。ぼくらは長時間、話しあった。すべてのギリシア人のように、彼もアメリカに行きたがっていた。
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ミシガン州の北部にて
ジム・ギルモアはカナダからホートンズ・ベイにやってきた。彼は爺さんのホートンから鍛冶屋の店を買った。ジムは背が低く、色が浅黒く、大きな口髭で、大きな手をしていた。馬蹄づくりが上手だった。革の前掛けをしていても、鍛冶屋のようには見えなかった。鍛冶屋の仕事場の二階に住んでいて、地方裁判所判事のスミスの家で食事をした。
リズ・コーツはスミスの家で働いていた。スミスの奥さんはすごく大柄できれいずきな女だったが、リズ・コーツほどきれいずきな娘《こ》を見たことがないと言っていた。リズはいい脚をしていて、いつもきれいなギンガムのエプロンをかけていた。ジムは彼女の髪がいつもきちんとうしろで束ねてあることに気づいていた。彼は彼女の顔が快活なので、好きだったが、彼女のことを考えたことはなかった。
リズはジムがすごく好きだった。彼が店から歩いてくる様子が好きで、しばしば台所の戸口にいっては、彼が通りへ出てくるのを眺めていた。彼の口髭が好きだった。笑うとき、歯が白くなるのが好きだった。鍛冶屋のように見えないのが、すごく好きだった。スミス判事夫妻がジムを好いているのが好きだった。ある日、彼が家の外で洗面器で身体を洗っているとき、腕の毛が黒く、腕の日焼けしていないところがとても白いのが好きなことに気がついた。そして、そんなことまで好きになる自分がおかしかった。
ホートンズ・ベイの町は、ボイン・シティとシャルルヴォワを結ぶ大通りにそっていて、家が五軒しかなかった。正面だけが高いように見せかけて造ってあり、たいてい馬車が一台その前につないである、よろず屋と郵便局を兼ねた建物と、スミスの家と、ストラウドの家と、ディルワスの家と、ホートンの家と、ヴァン・フーゼンの家だけだった。そうした家々は楡《ニレ》の大きな林の中にあり、通りはひどく砂っぽかった。通りの上手にも下手にも農園と森林があった。上手にはメソジストの教会があり、反対側の下手には郡区〔郡内の地方行政区分、六マイル平方の地域〕の学校があった。鍛冶屋の店はペンキで赤く塗ってあり、学校と向かいあっていた。
急な砂の道が森林をぬけ、丘をくだって入江に通じていた。スミスの家の裏口からは、下の湖までつづいている森林から入江の向こうまで見渡せた。春と夏には、入江があおく、きらきら輝き、岬の向こうの湖には、シャルルヴォワとミシガン湖から吹いてくる微風《そよかぜ》で、いつもは白波が立っていて、非常にきれいだった。スミスの家の裏口から、はるか湖の上をボイン・シティに向かってゆく鉱石を積んだはしけが、リズの眼についた。見ているときは、はしけはすこしも動いていないように思えたが、家にはいって、残りの皿を拭き、それからまた出てくると、はしけは岬の向こうに姿を消しているのだった。
いまでは、しょっちゅう、リズはジム・ギルモアのことを考えていた。彼のほうでは彼女のことをあまり気にかけてはいないようだった。彼はスミス判事に自分の店のこととか、共和党のこととか、ジェイムズ・G・ブレーン〔共和党の政治家で、一八八一年国務長官になった〕のことなどを話した。夕方になると、表の部屋のランプの灯りで、『トレド・ブレード』やグランド・ラピッズの新聞を読むか、スミス判事といっしょに松明《たいまつ》をもって入江に魚を刺しにいった。秋になると、彼とスミスとチャーリー・ワイマンは荷馬車と、テントと、食糧と、手斧と、ライフル銃と二匹の犬をつれて、ヴァンダビルトの向こうの松林に鹿狩りに出かけた。リズとスミスの奥さんは彼らが出かける四日前から、彼らの食糧の用意をした。リズはジムに何か特別なものをつくって持ってゆかせたかったが、けっきょくは、やめてしまった。スミスの奥さんに卵やメリケン粉をくれというのが気がひけたし、買ってきたところで、スミスの奥さんに料理しているところを見つかりはしないかと思ったからだった。スミスの奥さんのほうはなんでもなかったのだが、リズのほうで気がひけたのだ。
ジムが鹿狩りに行っているあいだじゅう、リズは彼のことを思っていた。彼がいないと、たまらなかった。彼のことを考えてよく眠れなかったのだが、彼のことを思うのも愉しみだということが分った。いっそ身をまかせたほうが、よかったのだ。彼らが帰ってくる前の晩、彼女はすこしも眠れなかった。眠れなかったと思ったのだった。というのは、眠れないという夢と、ほんとに眠れないことが、すっかりごっちゃになっていたからだ。荷馬車が通りをやってくるのが見えると、どこか身体に力が抜け、気分が悪くなったような気がした。ジムに会うまで待ちきれなかった。来さえすれば、何もかもすっかりよくなるように思われた。車が外の大きな楡《ニレ》の木の下で止ると、スミスの奥さんとリズは外に出ていった。男たちはみな髭をはやし、車のうしろに鹿を三頭のせていた。鹿の細いこわばった足が馬車の荷台の端から突きでていた。スミスの奥さんは判事にキスし、判事は彼女を抱きしめた。ジムは「やあ、リズ」と言って、にやっと笑った。リズにはジムが帰ってきたらどんなことが起るか分らなかったが、何かすばらしいことが起るだろうと確信していた。が、何も起らなかった。男たちがただ帰ってきたというだけだった。ジムは黄麻布《バーラップ》の袋を鹿の上から引きはがした。リズは鹿を見た。一頭は大きな牡鹿だった。こわばっていて、馬車からおろすのがひと苦労だった。
「あんたが撃ったの、ジム?」とリズがたずねた。
「そうさ。きれいだろう?」ジムはそれを背中にかついで、燻製《くんせい》場に運んでいった。
その夜チャーリー・ワイマンはスミスの家に泊って夕食をとることにした。シャルルヴォワに帰るには、時間が遅すぎたのだ。男たちは身体を洗い、表の部屋で食事を待っていた。
「あの瓶《かめ》の中にいくらか残っていなかったっけ、ジミー?」とスミス判事がきくと、ジムは外にでて納屋にある荷馬車のところへ行って、狩りにもっていったウィスキーの瓶をもってきた。四ガロン入りの瓶で、底のほうにかなりたくさんの酒がごぼごぼいっていた。ジムは家にひきかえす途中でぐうっと一杯ひっかけた。そんなに大きな瓶をもちあげて飲むのは骨がおれた。ウィスキーがすこしワイシャツの前にこぼれた。ジムが瓶をもってはいってきたとき、二人の男が笑った。スミス判事がグラスをもってくるようにいうと、リズがもってきた。判事は三杯なみなみと注いだ。
「さあ、あんたに乾杯だ、判事さん」とチャーリー・ワイマンが言った。
「すごくでっかい牡鹿だったな、ジミー」と判事が言った。
「わたしたちが射ちそこなったやつのために乾杯しましょう、判事さん」とジムが言い、酒を飲みほした。
「男にとっちゃ、こたえられないね」
「今どきの憂《う》さばらしにゃ、もってこいさ」
「もう一杯どうだね?」
「乾杯、判事さん」
「きゅっとほすんだね」
「来年のために乾杯」
ジムはいい気分になりだした。ウィスキーの味と舌ざわりが好きだった。気持いいベッドと暖かい食事と店に帰ってきたのが嬉しかった。彼はもう一杯のんだ。三人は陽気な気分になったが、決してつつしみを忘れず、夕食をとりにはいってきた。リズは食物をテーブルに並べてから、席につき、家族の者といっしょに食べた。いい夕食だった。男たちは真面目な顔をして食べた。食後、男たちはまた表の部屋に行き、リズはスミスの奥さんといっしょにあと片づけをした。それから、スミスの奥さんが二階にあがり、まもなく、スミスがやってきて、やはり二階にあがった。ジムとチャーリーはまだ表の部屋にいた。リズは台所のストーヴのわきに腰かけ、本を読んでいるようなふりをして、ジムのことを考えていた。彼女はまだベッドに行きたくなかった。ジムが出てくることが分っていたし、彼の出てくるのを見たいと思ったからだ。そうすれば、彼の見上げる眼差しを胸にいだいてベッドに行くことができるからだ。
彼女は彼のことをしきりに考えていた。すると、ジムが出てきた。眼が輝き、髪がすこし乱れていた。リズは本に眼をおとした。ジムは彼女の椅子の背のところにやってきて、そこに立っていた。彼女には彼の息づかいが感じられた。すると、彼が腕を彼女の身体にまわしてきた。彼の手の下で乳房がふっくらとして、ひきしまった感じになり、乳首がぴんとした。リズは恐ろしくこわかった。いままで身体を触られたことなどなかったからだ。しかし、彼女は「とうとう、あたしのところへ来たわ。この人ったら、ほんとうに来たんだわ」と考えた。
彼女はすごくこわかったし、どうしていいか分らなかったので、身体をこわばらせていた。すると、ジムは彼女を椅子の背にしっかりおさえつけてキスした。それはとても鋭く、疼くような、痛い感じで、彼女には耐えられそうもなかった。彼女は椅子の背のすぐうしろにジムを感じ、それに耐えられなかったが、そのとき何かが身体の中でかちりと音をたて、次第に暖かい柔かな感じがしてきた。ジムは椅子の背に彼女をしっかりおさえつけていた。いまでは彼女はそれを望んでいた。ジムがささやいた。「散歩にいこう」
リズは台所の壁の釘から上衣をとり、二人は外に出た。ジムは腕を彼女の身体にまわしていた。二人はすこし歩いては、立ちどまり、互いに身体をよせあい、ジムは彼女にキスした。月は出ていなかった。二人は足首までうまる砂の道を、木立の中を抜けて、入江の船着場と倉庫のところまでおりていった。水は基礎ぐいの中でぴしゃぴしゃ音をたて、岬が入江の向こうに暗く見えた。寒かったが、リズはジムといっしょにいるために身体中がほてっていた。二人は倉庫のかげに腰をおろし、ジムはリズをひきよせた。リズはこわかった。ジムの片手は彼女の服の内側にすべりこみ、乳房をなで、もう一方の手は彼女の膝の間にはいっていた。彼女はすごくこわく、彼がどのように事を運ぼうとしているのかわからなかったが、彼のほうに身体をすりよせた。すると、膝に大きく感じられていた手がはなれ、脚にさわり、上にあがりはじめた。
「よして、ジム」とリズが言った。ジムは手をさらに上にすべらせた。
「いけないわ、ジム。いけないわ」ジムもジムの大きな手も彼女の言うことをきかなかった。
床板は堅かった。ジムは彼女の服をまくりあげ、彼女に何かをしようとしていた。彼女はこわかったが、それがほしかった。どうしても、それをしてほしかったが、それがこわかった。
「そんなこと、いけないわ、ジム。いけないわ」
「いや、やらなきゃ。やるんだ。ねえ、二人でやらなきゃならないんだ」
「いいえ、そんなことないわ、ジム。そんなはずないわ。まあ、いけないわ。ああ、大きいのね。痛いわ。だめよ。ああ、ジム。ジムったら。ああ」
船着場のベイツガの床板は堅く、ぎざぎざで、冷たかった。彼女の上にのっているジムは重かった。彼は彼女を痛がらせた。リズは押しのけた。とても気分が悪く、身体がひきつっていた。ジムは眠っていた。動きそうにもなかった。彼女は彼の下からやっと抜けだし、起きあがって、スカートと上衣のしわをのばし、髪をちょっとなでつけようとした。ジムは口をすこし開けて、眠っていた。リズは彼の上に身をかがめ、その頬にキスした。彼はまだ眠っていた。彼女は彼の頭をすこしもちあげ、ゆすぶった。彼はごろりと首をまわし、ごくりと咽喉をならした。リズは泣きだした。彼女は船着場の先端までいって、水面を見おろした。入江から霧が立ちのぼっていた。彼女は寒く、みじめで、何もかも消えうせてしまった感じだった。ジムが横になっているところにもどっていって、たしかめようと、もう一度、ゆすぶった。彼女は泣いていた。
「ジム」と彼女がいった。「ジム、お願いよ、ジム」
ジムは身動きし、さらに身体をすこしまるめた。リズはコートを脱いで、かがみこみ、コートを彼にかけた。きちんと、ていねいに、コートで身体をくるんでやった。それから、ベッドにはいるために、船着場を横ぎり、急な砂の坂道をのぼった。冷たい霧が入江から森を抜けてのぼってきた。
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解説
『われらの時代に』までのヘミングウェー
ヘミングウェーはきわめて自伝的な作家だと言っていい。幼少のころのミシガン湖畔での釣りや狩猟の生活、第一次大戦での死ぬほどの重傷、戦後のパリでの国籍喪失者としての作家生活、スペインでの闘牛見物、アフリカでのサファリ、そして、スペイン内乱と第二次大戦への参加、それらの波乱にみちた体験をヘミングウェーはすべて作品化している。もちろん文学作品である以上、原体験そのままではないが、体験にきわめて近い作品である。私小説作家というわけにはいかないが、自伝的色彩のきわめて濃厚な作家である。
アーネスト・ヘミングウェーが生まれたのは、一八九九年七月二十一日、アメリカの中西部、イリノイ州のシカゴの西にあるオーク・パークという町である。そこは郊外住宅地で、お上品な中流階級の人たちの住む町であった。六人きょうだいのうち、二番目で、長男。姉が一人、妹が三人、弟が一人いた。父親はクラレンス・エドモンズ・ヘミングウェーといい、オーク・パーク病院の産婦人科長で、髭《ひげ》をゆたかにたくわえた頑丈なからだの持主であり、釣りと狩猟をたのしみ、飛ぶ鳥を撃つのが得意だった。母親のグレース・ホールは信仰心があつく、音楽好きで、家にステージつきの音楽室を設け、人びとを招待して、みずから歌を歌ったりした。父親とは正反対の性格の人であった。そして父親はアーネストがまだ三歳にもならないうちから釣り竿をあたえ、十歳になると猟銃をあたえたりしたが、母親のほうは彼にチェロをあたえ、一日に一時間の練習を強いた。
しかし、アーネストは戸外生活を好み、しばしばチェロの練習をやめ、こっそり家をぬけだして、釣りや狩猟に出かけた。こうして、しだいに父親似の逞しい男性的な男に育っていった。「医者と医者の妻」はそうしたヘミングウェーの父親への傾斜を物語った作品である。
ヘミングウェー一家は夏になると、ミシガン州の北部のワルーン湖畔にあった別荘に避暑に出かけた。当時、ここは未開の土地で、林と湖と小鳥と魚の世界だった。ヘミングウェーは裸足で原野を駆けまわり、戸外生活を満喫した。釣りや狩りのほかに、水泳や乗馬も覚えた。近くにはインディアンの部落があった。「インディアンの部落」はこうした夏の体験がもとになっている。
一九一三年、十四歳の秋、オーク・パーク・ハイスクールに入学した。国語の成績がよく、学校の週刊誌『空中ぶらんこ』の編集者になり、季刊誌『タビュラ』に短篇を寄稿したりして、文学の方面で大活躍をした。歯切れのいい短文を書いたが、そのころシカゴで人気のあった作家リング・ラードナーに学ぶところがあったようだ。ラードナーはアメリカの生きた俗語を駆使したが、ヘミングウェーの文章も生き生きとした口語体の文章になったのだ。すごく旺盛な創作力で、一九一六年から、彼がハイスクールを出る一九一七年にかけて、前出の二誌にのせたものが、短篇二十四、記事三十に及んでいる。
ハイスクール時代のヘミングウェーは、こうした文学的な活動のほかに、狩猟クラブに加わったり、フットボールのチームをつくったり、水泳チームに属したり、陸上チームを統率したり、ありとあらゆるスポーツに関係していた。男性的な活動的な少年だった。
しかし、ヘミングウェーはこのころ、なぜか数回にわたって家出している。幸福ではなかったようだ。クラスメートの話では、孤独な少年で、ダンスパーティーにも行かなかった。そして、結局、大学進学が当然のように思われていたヘミングウェーは、ハイスクールを出ると、ミズーリ州の新聞社「キャンザス・シティ・スター」への就職という形で、決定的に家を出ることになった。
「スター」での記者生活はわずか七カ月という短いものだったが、ヘミングウェーはこの間に文章の修業の上で多くのことを学んでいる。当時、この新聞はアメリカの一流紙のひとつで、若い新米記者に厳格な訓練をあたえていた。たとえば、入社早々に手渡された「スタイル・シート」には「短い文章を用いよ。力強い英語を用いよ。肯定形を用い、否定形を用いるな」「形容詞を用いるな。とくに〈すばらしい〉〈華麗な〉〈雄大な〉といった極端な形容詞を避けよ」といった文体上の細かな注意があったが、それがのちのヘミングウェーの有名な簡潔な文体を形成するのにおおいに役だっていることは明らかである。しかも文体のみでなく、新聞記者として事物を冷静に客観的に観察する態度をこの期間に学びとっているのだ。
のちのヘミングウェー文学の、感情を言葉に出すことを拒否して、冷静に非情に外面の行動と事物を描写する方法はこのころから生まれたものだろう。「第十五章」のサム・カーディネラの絞首刑のスケッチ風なシーンは、このときの事件記者としての実際の体験であり、その冷徹で非情な外面描写は「スター」紙の記者としての訓練によるところ大なのである。
ところで、ヘミングウェーがハイスクールを卒業した年の一九一七年の四月にはアメリカは第一次大戦に参戦していて、ヘミングウェー自身も機会があればヨーロッパの戦争に加わりたいと思っていた。そして、その機会が来た。すなわち、一九一八年の四月、イタリア戦線の赤十字で志願兵を求めていることを知り、さっそくそれに応募し、五月、中尉として入隊し、ニューヨークを出発し、大西洋を横断し、パリを経て、イタリア戦線に着いた。傷病兵運搬車を運転して、戦場から負傷兵を運ぶことが任務だった。そして、戦線に出て二カ月とたたない七月八日の真夜中、満十九歳の誕生日の二週間前、イタリアのフォッサルタという小さい村で、塹壕《ざんごう》にいるイタリア兵たちにチョコレートを配っていたとき……彼は志願して最前線の赤十字酒保の仕事をしていた……数フィート離れたところに敵の迫撃砲が落ち、そばのイタリア兵は即死し、ヘミングウェーはその場に倒れ、意識を失い、気がつくと、もうひとりの負傷したイタリア兵を背負って近くの応急手当所に運んでいた。この様子は『武器よさらば』の第九章にほとんどそのまま描かれている。
担架で後方に運ばれ、野戦病院に五日間いて、やがて、ミラノの病院に送られたが、ここでの精密検査によると、迫撃砲弾による負傷は二百二十七カ所にも達し、ほかに機関銃でも脚をやられていた。手術を十数回も受け、二十八箇の弾丸の破片が摘出された。
大戦はまもなく終り、ヘミングウェーは翌年帰国するが、右脚はなかなか回復せず、しばらくはオーク・パークの町を松葉杖をついて歩いていた。参戦したときは、戦争をロマンティックに考え、自分を英雄視していたのだが、いまは戦争に傷つき、そのはげしい現実を知り、深い虚無思想をいだくにいたっていた。「少年のとき、戦争にいけば、自分は不死であるという大きな幻想を持っているものだ。ほかの人は死ぬがA自分は死なない……それから初めて手ひどく負傷すると、その幻想は失われる」とヘミングウェーはのちに語っている。ヘミングウェーのこの戦争体験を語ったものが、「第七章」のスケッチやそれにつづく「兵士の帰郷」などである。
帰国したへングウェイは、シカゴで、「シカゴ・グループ」とよばれるジャーナリストや文学者、なかでも当時『ワインズバーグ・オハイオ』を出してアメリカでもっとも有名な作家になっていたシャーウッド・アンダスンと親しくして、文学者になろうとしていた。そして一九二一年十二月、カナダのトロントの「スター」という新聞の海外特派員になって、パリに行った。
パリでは、アンダスンの紹介状を持って、アメリカの女流作家のガートルード・スタインを訪ねた。彼女は一九〇二年以来パリに住んでいた。ピカソの発見者であり、前衛的な作品を発表していた。ヘミングウェーは彼女のサロンに出入りし、そこで多くの作家たち……アメリカの詩人エズラ・パウンド、『ユリシーズ』の作者ジェイムズ・ジョイス……に会い、親しく交際した。ことにスタイン女史とパウンドは、ヘミングウェーの文学上の直接の指導者になり、彼の書いてきた短篇を読み、スタイン女史は一般的な鋭い批評をしてくれ、パウンドは青鉛筆を手にして、彼の短篇からほとんどの形谷詞や副詞を削りとって、フローベールの感情をぬきにした即物的な描写の仕方を学ぶようにとすすめた。ヘミングウェーに小説の書き方を具体的に教えてくれたのである。ヘミングウェーは貧しく、しばしば昼食が食べられぬこともあったが、屋根裏部屋で文学にすべてをうちこむ満ちたりた日々を送っていたのだ。のちに、「キリマンジャロの雪」や『移動祝祭日』でこれらの日々が生き生きと愛着をもって回想されている。
一方、新聞記者としてのヘミングウェーは、パリのアメリカ人のボヘミアンぶりをルポしたり、ジェノアの経済会議をカバーしたり、スペインの闘牛について、ルポとしてはかなり長い解説的な記事を送ったりしていたが、一九二二年九月、ギリシア・トルコ戦争に従軍するため小アジアに向かった。ギリシア軍が敗れ、潰走していた。そこで見たものは雨のなかを敗走する兵隊たちと惨めな避難民だった。それは言語に絶するものだった。第一次大戦でも経験しなかった惨めな人間の姿だった。一九二二年十月二十日の「スター」にのった彼の通信記事は圧巻だった。小止みなく降りつづく雨の泥んこ道をギリシア軍が混乱して後退する。そのあとから、難民が家財道具一切を荷車につみこんで黙々と避難する。その群れがえんえんと二十マイルに及んでいる。この記事はのちに、さらに手を加えられ、簡潔なものになって……ただ二十マイルは三十マイルに誇張されて……「第二章」のスケッチに見事に結晶した。また、この有様は「キリマンジャロの雪」には回想として出、『武器よさらば』のカポレットーの退却の力強い描写の原体験となっている。
十一月、ヘミングウェーはギリシアとトルコの講和会議の取材にローザンヌに向かったが、あとから来た妻がリヨンの駅でスーツケースを盗まれ、その中にあった、彼の書きためてあったほとんどの原稿は永久に失われてしまった。ただ『ポエトリー』誌に送ってあった六篇の詩と、「ミシガン州の北部にて」と「ぼくのおやじ」の二篇の短篇だけは紛失をまぬがれた。
ヘミングウェーは、しかし、くじけず、がんばった。一九二三年、すでに送ってあった詩六篇が『ポエトリー』の一月号に発表になり、スケッチ六篇が『リトル・レヴュー』の春季号に発表になった。そして、たまたまエズラ・パウンドをイタリアのラパルロに訪ねたとき知り合ったロバート・マッカルモンの好意で彼の出版社から、その年の夏、『三つの短篇と十の詩』という最初の単行本を出すことができた。三つの短篇とは「ミシガン州の北部にて」「李節はずれ」「ぼくのおやじ」の三篇だった。
ヘミングウェーはいったん帰国するが、まもなく一九二四年一月、パリに戻ってくる。こんどは記者としてではなく、本腰を入れて文学者になろうという決心をしていた。貧しさを覚悟の上で書いた。が、のちに、『アフリカの緑の丘』で回想しているように、苦心して書いて送った原稿はみな雑誌社から送りかえされてきた。「短篇小説ではなく、逸話とか、スケッチとか、コントだといわれて断わられた。短篇は売れなかった。ぼくたち夫婦はネギばかり食べ、カーオル酒と水を飲んでいた」と彼は書いている。彼の真面目な作品は迎えられなかったのだ。
しかし、ヘミングウェーはパウンドの紹介で、フォード・マドックス・フォードと知りあい、彼がはじめたばかりの雑誌『トランスアトランティック・レヴュー』の編集を手伝うことになった、そして、その四月号に「インディアンの部落」を、十二月号に「医者と医者の妻」を載せた。また、翌年の一月号に「曠野の雪」を発表した。
ヘミングウェーは、また、一九二五年の初め友人と『ジス・クォーター』という前衛的な雑誌の発刊をくわだて、五月にその創刊号を出し、これに「二つの心臓の大きな川」を発表した。
こうして、ヘミングウェーの名はしだいにパリの文学者仲間に知られるようになった。
この間、一九二四年の春、三月の中ごろ、パリのスリー・マウンテンズ出版社(パウンドの親友ウィリアム・バードの経営していた出版社)から、題名をすべて小文字にした……これは当時のモダニズムを示すものだったが……『ワレラノ時代ニ』が出版になった。叢書の一冊として出たもので、三十二ページという小冊子で、わずか百七十部しか印刷されなかったが、前衛的なヘミングウェーの作風を見事に示すものであった。短いスケッチ風のものばかりで、戦争や闘牛や新聞記者時代の経験を書いていた。
ここに訳出したアメリカ版の『われらの時代に』(In Our Time)は前作と同じ題名だが、書名の各語を大文字ではじめたもので、一九二五年十月五日、ニューヨークのリヴァライト社から出版になり、一三三五部印刷された。前のパリ版のスケッチ風の小品十八篇をすこし順序を変えて全部収録し、そのうちの二篇を「ごく短い物語」「革命家」と改題して短篇に昇格させ、結局小品を十六篇とし、その十六篇の間に十四篇の短篇(うち最後の「二つの心臓の大きな川」は二つに分けたので、形では十五篇となるが)をはさんだものであった。(のち、これが一九三〇年にスクリブナーズ社から再版になるとき、ヘミングウェーはこれに序文をつけた。それが「スミルナの桟橋にて」である)……なお、リヴァライト社はこの短篇集を出すにあたって、検閲をおそれ、短篇の一つ「ミシガン州の北部にて」を全部削除し……ここではこれを付録として最後に付けた……さらに「エリオット夫妻」を改訂した。
こうしてヘミングウェーは作家として立つにいたった。時に二十六歳であった。
『われらの時代に』のテーマと手法
『われらの時代に』は短篇集であろうが、D・H・ロレンスが既に指摘したように、短篇集ではなく、一人の人間の生涯のスケッチの連続であり、断片的な一つの長篇小説だと言える。まず、ニックという少年のミシガン湖畔での生活があり、彼の恋愛と失恋がある。やがて、戦争の断片があり、それから一人の兵士が傷つき、絶望して、故郷に帰還する。それから戦後のヨーロッパにいる若いアメリカ人夫妻の不毛な生活、釣りやスキーに逃避している男、ミラノとパリでのアメリカ人の競馬の騎手の話、そして最後に(戦争という野火で)焼け野原になった(故郷の)町にやって来て鱒釣りをたのしむ、いや鱒釣りしかたのしめない(戦争で虚無になった)男が語られる。これはひとりの人物の物語とはなっていないが、しかし、事実はひとりの男の、まさに「われらの時代に」起る一連の物語なのである。
『われらの時代に』は暴力に満ちあふれている。最初の序文の「スミルナの桟橋にて」が全体のトーンをかなでている。それはスミルナの桟橋のスケッチにすぎないが、そこでは母親たちは死んだわが子をかかえたまま六日間も手放そうともしないし、荷を積んで来たギリシア軍の馬は退却するとき、海に投げこまれてしまう。『われらの時代に』のテーマは暴力と恐怖にみちた「死」なのである。
「第一章」のスケッチでは砲兵中隊の副官は前線から五十キロも離れているのに、死におびえている。そして、それにつづく「インディアンの部落」では、ニック少年がインディアンの自殺という暴力に直面してショックを受ける。さらに、「第二章」のスケッチでは雨の中を死におびえて逃げて行く難民の姿が描かれ、「医者と医者の妻」では夫と妻との間の不和……平和のなかの戦争……が語られ、つづいて、「第三章」のスケッチでは、ドイツ軍の兵士が塀によじのぼってくるのだが、つぎつぎに射殺される。
ヘミングウェーが『われらの時代に』を書いていたころのパリは前衛的な作家の町だった。スタイン女史、ジェイムズ・ジョイス、そしてピカソ、それらの芸術家の影響を当然ヘミングウェーは受けていた。ヘミングウェーはたんなる物語作者ではなく、技法をもつ芸術家を志していた。だから、『われらの時代に』をたんなる短篇集にはしないで、三十二箇の異ったスケッチや短篇を並置し対比することにより、全体として「われらの時代」というひとつのイメジをつくりあげようとしたのである。ひとつの統一ある物語にしたのである。(この方法は、すでにシャーウッド・アンダスンが『ワインズバーグ・オハイオ』という短篇集で試み、またジョイスも『ダブリン市民』で試みていた)
ヘミングウェーは、この並置とか対比という方法を各篇のなかにも当然試みている。
たとえば「第一章」のスケッチでは、いくつかのイメージが並置される。まず、暗闇の道を中隊が行進していく。中尉が「酔ったぞ」と自分の馬に向かって語りかける。副官が五十キロも前線から離れているのに、あぶないから炊事車の火を消せと言う。こうしたイメジが特に原因結果という因果関係なしに並置されているのである。作者のコメントは、あるとすれば、ただ「滑稽な行軍だった」という一行だけである。
つぎの「インディアンの部落」は、ニックの父親の医者がインディアン部落に呼ばれて、インディアンの女に帝王切開をほどこし、無事、男子を取りあげるという話だが、しかし、その物語のクライマックスの瞬間に、女のベッドの上段に、三日前、斧で大怪我をした親父《おやじ》が横になってねていたのだが、その親父が妻の苦しむのにたえかねたのか、咽喉《のど》を耳から耳まで切って、自殺するのである。ここに生と死との見事な対比があり、作者の皮肉な人生観が語られているのだ。だが、作者は一語のコメントもしていない。あるのはただ「インディアンは……横になっていた。咽喉が耳から耳まで切れていた……血が流れて……ひらいた剃刀《かみそり》が、刃を上にして、毛布のなかにころがっていた」という客観的な外面描写だけである。作者の感情も書かれていなければ、まして「自殺した」というような説明の文章などはない。またその情景を目撃してニックは当然ひどいショックを受けたはずだが、そうした説明もなく、ただ、「お父さん、あの人はなぜ自殺したの?」と父にたずねるだけである。そして、最後に太陽が丘の上に昇るのである。それは、作者は何ら説明はしないが、人事にかかわりなく自然は運行しているという対比的な皮肉な証拠として描いたのだろうし、死を目撃したニックの生への実感をあらわしたものでもあろう。
この短篇につづく「第二章」のスケッチも生と死との対比がテーマである。まず、遠景として回教寺院の尖塔が雨のなかに突き出ている。そして、難民の群れが戦争と死からのがれようと、えんえんと続いている。やがて、カメラの目は次第に近景に向けられ、家財道具を積み込んだ荷車の列が写しだされ、最後に焦点は一台の車の上にあわされ、そこではひとりの女がお産をしている。作者の説明はひとつもないが、しかし、ここに見事な生と死との対比がある。そこに作者の「われらの時代」に向けられた皮肉な人生観が読みとられるわけである、しかも、その人間の悲劇を遠くから回教寺院の尖塔が眺めている。大きな皮肉にほかならない。
また、「事の終わり」では捨てられ廃墟となった町ホートンズ・ベイのイメジが若者ニックの失恋のイメジと並置されているし、「三日間のあらし」の秋のあらしは女と別れたニックの気持をあらわしている。そして「二つの心臓の大きな川」のイメジはニックの行動と並置されるとき、シンボリカルになってくる。これはたんなる鱒釣りの物語ではない。ニックは「第六章」のスケッチにあるように戦争で傷つき、絶望して帰国したのであり、焼けおちたシーニーの町は戦争により荒廃した「われらの時代」ということになるのだろう。
ヘミングウェーは前衛的なモダニストの芸術家だった。彼はいま見てきたような並置、対比、皮肉、非情な客観描写などの巧みな手法を駆使し、くどくどしい説明を一切省き、イマジストの詩(あるいは日本の俳句)のような簡潔で明快なイメジを読者にあたえ、彼のいわゆる「われらの時代」のリアリティを鋭く描きだしてみせている。しかも、そこに描きだされたリアリティは今日の日本の「われらの時代」にも通じるものを確かに多くもっている。そこにヘミングウェーの偉大さがあると言えよう。(高村勝治)
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略年譜
一八一九年 シカゴの近郊オーク・パークに生まれる。
一九一三年 十四歳 オーク・パーク・ハイスクール入学。
一九一七年 ハイスクール卒業。「キャンザス・シティ・スター」紙の記者となる。
(アメリカ第一次大戦に参戦)
一九一八年 十九歳  第一次大戦に参加、イタリア戦線で重傷。
(第一次大戦終結)
一九一九年 二十歳 松葉杖をついて故郷オーク・パークに復員。
一九二〇年 二十一歳 シカゴで、シャーウッド・アンダソンに会う。
一九二一年 二十二歳 クリスマスの直前、新聞の特派員としてパリへ。
一九二二年 二十三歳 パリでガートルード・スタインやエズラ・パウンドの指導を受ける。
一九二三年 二十四歳 『三つの短篇と十の詩』をパリで処女出版。
一九二四年 二十五歳 パリで小品集『ワレラノ時代ニ』を出版。
一九二五年 二十六歳 アメリカで短篇集『われらの時代に』を出版。
一九二六年 二十七歳 『春の奔流』と『日はまた昇る』を出版。
一九二七年 二十八歳 第二短篇集『女のいない男たち』を出版。
一九二八年 二十九歳 パリから居をフロリダ州キー・ウェストに移す。
一九二九年 三十歳『武器よさらば』を出版。作家としての地位を確立する。
一九三一年 三十二歳 スペインを旅行し『午後の死』を執筆、翌年出版。
一九三三年 三十四歳 第三短篇集『勝者には何もやるな』を出版。
一九三五年 三十六歳 アフリカ旅行記『アフリカの緑の丘』を出版。
一九三六年 三十七歳 アフリカ旅行にもとづく短篇「キリマンジャロの雪」を発表。
(スペイン内乱勃発。一九三九年終結)
一九三七年 三十八歳 『持つこと持たざること』を出版。
一九三八年 三十九歳 『第五列と最初の四十九の短篇』を出版。
(翌三九年第二次大戦勃発)
一九四〇年 四十一歳 スペイン内乱を扱った『誰がために鐘は鳴る』を出版、ベストセラーになる。
一九四一年 四十二歳 日中戦争の特派員として中国を訪問。
一九四四年 四十五歳 「コリヤーズ」の特派員としてヨーロッパ戦線で活躍。兵士からパパとの愛称を受ける。。
(翌四五年、第二次大戦終結)
一九五〇年 五十一歳 『河を渡って木立の中へ』を出版。
一九五二年 五十三歳 『老人と海』を出版。ピュリッツア賞を受ける。
一九五四年 五十五歳 ノーベル文学賞を受ける。
一九六〇年 六十一歳 闘牛士のことを書いた「危険な夏」を「ライフ」に連載。高血圧などのために入院。
一九六一年 六十二歳 六月末退院し、七月二日の朝、アイダホ州のケチャムの自宅で愛用の猟銃で自殺。
一九六四年 遺稿『移動祝祭日』が出版される。
一九六七年 報道記事集『バイライン・アーネスト・へミングウェイ』が出版される。
一九六九年 『第五列とスペイン内乱の四つの短篇』、カーロス・べーカーの決定的な伝記『アーネスト・ヘミングウェー』が出版される。
一九七〇年 遺稿長篇『流れの中の島々』が出版される。
一九七二年 ニック・アダムズを主人公とする短篇を集めた『ニック・アダムズ物語』が出版される。
〔訳者紹介〕
高村勝治(たかむら・かつじ) 英米文学者。筑波大学名誉教授、共立女子大学特任教授。文学博士。一九一六(大正五)年、石川県に生まれる。東京文理大、ブラウン大卒。専門はアメリカ小説。著書『現代アメリカ小説序論』『ヘミングウェー』『英米現代詩の鑑賞』『英米文学』など、訳書『キリマンジャロの雪』『武器よさらば』『日はまた昇る』『楽園のこちら側』『オー・ヘンリー名作集』『イーサン・フローム』など。