シルクロード
スウェン・ヘディン/長尾宏也訳
目 次
一 そもそも事の起こりは
二 悲しみの第一歩
三 百霊廟《ペリミヤオ》への道
四 ゴビをめざして
五 ひととき足をとどめて
六 ゲオルクを幕舎に迎えて
七 クリスマスの宵祭り
八 河畔の憩い
九 ダムビン・ラマの城塞
十 ゴビタン横断
十一 襲撃、そして囚われとなる
十二 ウルムチへ
十三 監禁
十四 友|病《や》みて
十五 故国に旅だつ友
十六 ハンネケン後日譚
十七 囚われを解かれて
十八 絹の道ノート
十九 万里の長城
二十 一九三五年元旦
二十一 長城に沿うて
二十二 山塞近く
二十三 最後の日
解説
※ヘディンの道程がたどれるように、地図を用意しました。以下の場所から入手できます。
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一 そもそも事の起こりは
サンフランシスコでクリスマス・イブをむかえ、大みそかをホノルルですごしたわれわれは、一九三三年の新春元旦は太平洋の波の上ですごした。海はその名にそむいて、大荒れであった。そのためにわれわれが乗っていたプレジデント・ガーフィールド号は、もみにもまれて、生きたここちもなかった。
一月十九日|天津《テンシン》上陸、そして北京《ペキン》のスウェーデンハウスに直行。本来なら私の旅は、ここで終止符がうたれるはずであった。
北京の街《まち》も太平洋と同じように、平穏というわけにはいかないようであった。というのは、アジア――とくに中国大陸にまたもや、新たな風雲がまき起こっていたからである。公使館のある地域のすぐ近くでは、日本軍がこの古い都の支配者であるかのように、機動演習にうき身をやつしていたし、満州にある関東軍も、あの有名な寺院のジェホール(承徳)に向かって進撃を始めており、その街も三月四日には彼らの手におちていた。人々は、お次はここ北京と北支五省がやられる番だと観測していた。
反乱の火の手が、新疆《シンキアン》の荒野に燃えあがるや、そこから中国本土に対する謀反は、まるで燎原《りょうげん》の火のように、全地域に広がっていった。トラの王侯――ヨルバルス・ハンは、ハミ(哈密)周辺の彼の領土が戦火と剣とで荒らされるのを見るや、天山《テンシャン》の彼の要塞にたてこもって、復讐の機を待っていた。カラシャールにおけるトルグート族の王であり、また大ラマでもあるシン・チン・ゲーゲンはヨルバルス・ハンに対して開戦せよとの新疆省政府の命令に従うことを拒否したため、ウルムチ(廸化)にある省政府主席チンシュシェン(金樹仁)のもとによびだされ、ウルムチまで帰ってきたところで、その部下たちとともにむざんにも射殺されてしまった。
四月一日、この日チンは南京政府にあてて電報をうった。「東トルキスタンはすでに反乱をまき起こし、カンスー(甘粛)にあるツングース族の実力者マプーファン(馬歩芳)をそそのかして、スーチョー(粛州)に手兵を集結しつつあるマチュンイン(馬仲英)を撃たせようとしている」
それに対して南京からきた返電は、反乱をおさめて、省の秩序を保つ代わりに、むしろ内乱を扇動しようとするにも似た彼の計画に対する非難ともとれる叱責の言葉であった。
こうなってみると、彼の計画のごときは、ひとたまりもなく、おしつぶされてしまう結果とならざるをえない。
四月十二日、彼の陰謀はかくしてついえてしまい、かててくわえて彼のヤーメン〔役所〕は、武装したロシアの亡命者たちに包囲されたので、ようやく身をもって脱出、シベリアを経て南京にたどりついたのであるが、そこで彼は予期に反して、囚われの身となった。一般には、マチュンイン(馬仲英)が新疆を征服しようとする野望を、結局は成しとげるだろうと信じられ、ウルムチがすでに陥落した、といううわささえひろまっていた。
二月一日、アジア奥地を数年にわたって踏査探検していたエリック・ノーリン博士が、その成果をもって北京に帰ってきた。博士は日焼けした元気な顔で汽車からおりてくるなり「また、すぐチベット(西蔵)へやらせていただきたいものです」というのであった。あとでわかったことだが、彼はアジア大陸そのものに、そこのぼう大な地質学上の諸問題にとても未練をもって帰ってきたのであった。
そのまた一週間後には、ビルゲル・ボーリン博士と彼の隊商指導者でもあったデンマーク人ベントフリース・ヨハンセンとが、元気いっぱいでスウェーデンハウスに着いた。ボーリン博士は、貴重な古生物学的な資料をたくさんもって。
こうしてスウェーデン・グループは、だんだんふえてきて、その根拠地であるスウェーデンハウスは、異常な空気でふくれあがり、活溌な動きをみせてきた。戸棚という戸棚は、標品でいっぱいになり、アジアの山地で掘り出されてきた化石の荷物は解かれ、それらの資料は、仕事にたずさわった人に、それぞれ分けられていった。私たちの議論は、しばしば真夜中までつづけられ、そのたびにわれわれの評議員会の議長リンフー(林福)教授や、中国地質調査所長ウォンウェンハオ博士らの意見が求められた。
スウェーデンハウスの一室は、いまや、学術研究所の観を呈してきた。ノーリン、ボーリン、ベルクマンたちは、われわれの探検した全地域のぼう大な地図を、三つの大テーブルにひろげていた。縦横一八フィートと六フィート六インチもある大図幅、二七五万平方マイルにわたる地域――それはスウェーデン全土の十倍もあり、アジア大陸の十分の一をふくむものであった。われわれがこれまで踏破してきた道ともいえない踏みあとは、ひときわ明るい赤い色でしるされていた。われわれが、その生涯のうち、七年の歳月をささげてきたこの広大な地域を描いた図福を、じっと見ていると、なんと幻想的な地模様であることだろう。この地図は、その春ジェホールからシカゴに送られ、ラマ寺院の隣の会堂で公開展示されたものである。
パーカー・シー・チェン(陳)――彼は中国の天文学者であるが、その彼といまなおエッチンゴール河畔にとどまっていたニルス・ヘルナー博士から、悲しむべき知らせがとどいた。あの有能博学なボールト・ウォルター・ベイックが、鬱屈した精神の発作《ほっさ》から、ヴァジン・トイレで自ら生命を断った、というのである。ベイックといえば、ただ一人で、一五年ものあいだ中央アジアを放浪し、その間、すばらしい収集を成しとげた男である。とくにベルリン博物館に収蔵されている鳥とその卵の標品は、世界に類を見ない貴重なものである。彼はエッチンゴールが、砂漠の湖に流れこんでいるところから程遠からぬタマリスクの根元に葬られた。私たちは、ふかい哀悼の気持ちのなかで、彼のことを、その生前の彼の活動を回想するとき、彼がつくしてくれたその誠実な友情に対して、心から感謝をささげないではおれない。彼は自殺する直前、そのテントのなかでつぎのような言葉を紙片に書きつけていたという。
「神のおわすと同じように、私は中央アジアにおける博物学的探検に、いささかの貢献をなすために全力をつくしてこれまで生きてきた」
二月初めのある日、私は旧友タシラマを訪問するために出かけた。数人の隊員もいっしょであった。当時彼は禁断の都ナンハイ(南海)の近くの大理堂宮殿にいた。一九〇七年ごろのことなどを回想しつつ、われわれは話しあった。そのころ私は彼の客として一週間ほどタシルンボーに滞在したことがあった。いま彼は一日もはやくその故国チベットへの道がひらかれんことを望んでいた。ノーリンや私がもう一度この雪の国へ旅したいと切望していると聞いて、その聖都へきてくれたさいは、おおいに歓迎しようと約束してくれた。もう数カ月ものあいだニルス・アンボルト博士のようすを聞かないので、われわれの心配は、日に日に募っていった。
独支亜欧航空会社のルッツ大尉が、スーチョー(粛州)に向けて出発するというので、私は、いまなおその地方で活動しているゲルハルト・ベクセルとマンフレッド・ベーケンカンプとに、手紙をとどけてもらうように頼んだ。私はこの二人に、アンボルトと連絡をとるように、努力してほしいといってやった。すると一月になって、カシュガルのスウェーデン伝道教会から、つぎのような知らせがきた。
「クリスマスごろヤルカンドに到着した二人の男の報告によれば、彼アンボルトは十月八日にはチェルチェンにあり、ついでカンスーに向かった、ということである」
私は彼に関する、もう少し最近の動きを探って報告するように、といってやった。
マチュンイン将軍はカンスーから新疆にわたる全道路を閉鎖したものとわれわれは想像していた。つぎに私たちはアンボルトが、そのかけがえのない貴重な収集品の全部を、北部チベットの路傍に捨てて、みじめなかっこうでチェルチェンに着いたという知らせを受け取った。
彼を救い出すために、私はここからまっすぐに一六八〇マイルかなたにある、あのオアシスに自動車を急行させようと思ったが、それも財政的にできない相談とわかってみると、やむをえず待たねばならないことになった。
北京の情報は、日一日と騒がしくなってきていた。ある日この市にある数千台の人力車が全部、姿を消してしまった――彼らは弾薬輸送のために、政府機関に徴発されたのであった。三月一六日、戒厳令が発せられ、日没後は通行証を持たない市民は、出歩くことを禁じられた。
北京城内城外の付近の警察署には、その日その日の没収品を、毎晩中央本署にとどけるようにとの指令が出された。それというのも掠奪的な中国軍隊が、いつなんどき反乱を起こして、北京市内でひとかせぎ始めるかもしれないからであった。こうしたことは、前にも起こったことがあった。四月三十日には、日本軍は北京市から五〇マイル以内の地点まで押し寄せてきていた。
五月十一日の朝まだき、機関銃の音があちこちで始まった。私たちはびっくりした。ベルクマンがエッチンゴール河畔で発見した収集品は、リンフー教授の手でスウェーデンハウスに運びこまれた。その標品というのは、フン(匈奴)の彫刻文字で書かれた簡牘《かんどく》で、いうまでもなく貴重なものであった。
五月の二十日には、一一台の飛行機が、われわれの頭上で爆音をひびかせていた。中国の退却部隊は北京市内に集結し、彼らにその宿舎を提供するよう、市民に強請した。
五月二十二日、オーエン・ラチモア夫妻とわれわれは会食をした。私たちがちょうどテーブルについたとき、ドイツ大使館から電話がかかってきて、つぎのような報告があった。
「もしあなたが、銃声を二発聞いたら、アメリカ大使館の無線電信塔に注意されたい。そして三つの白い燈火と、三つの赤い燈火とが見えたら、すぐロックフェラーホールにいってください、そこへいけば軍用自動車があなたをアメリカ大使館へ連れていってくれる手はずになっています。というのは、おそらく今夜、北京の街は掠奪の危険にさらされるだろうから」
というのであった。しかしその夜は静かであった。小銃の発砲さえ聞こえてこなかった。市の城門は、いつもと同じように閉められたままであり、鉄道は完全に軍の支配下におかれていたが、すべての列車は、逃亡者であふれていた。私たちは街の北方地区をぬって車を馳せ、バリケードやその他の防衛の状況を見てまわった。
アンボルトに対するわれわれの心配は、一日一日とふかまっていった。ペシャワール〔パキスタン〕を中継ぎとして、カシュガルの伝道教会に問いあわせた電信は、一一日目ごとに連絡されているというのに、待てど暮らせど、なんの返事もこなかった。中国のこの地域の無電局は、回教徒の反乱者によって破壊されてしまったのである。
われわれの耳にしたうわさでは、多数のスウェーデン宣教師がインドの国境を越えて故国に引きあげていったということである。
三月九日、われわれはカシュガルにあるロベルンツ宣教師から、つぎのような知らせを受けた。
「アンボルトに関しては、チェルチェンから十月このかたまったく消息が絶えている」
彼の上に何事か起こったのであろうか。彼は果たして生きているのだろうか。もしかしたら、投獄のうき目を見ているのではないだろうか。あるいはすでに殺されてしまったのだろうか。八カ月ものながいあいだなんの手がかりもないということは、いかに奥地とはいえ、あまりにながすぎるともいえるのではないか。
ベクセルにいってやった私の通信。――アンボルトと、連絡をとるように工夫されたい、という私からの指示は、マチュンイン将軍がわの手によって、握りつぶされたにちがいない。将軍は、この行くえ不明になった僚友を捜してやると約束してくれたが、その後になって、われわれの手で捜索することを許可したのである。こうなったら誰か人を遣《や》って、探査するより他に手はない、私はエリック・ノーリンを現地に向かわせることにした。
ノーリンがいとまごいにきたとき、私はすぎし日、それは一九一六年十二月タシラマからもらった金の指環を、彼の指にはめてやった。その指環にはタシラマの紋章と、生命の保証を意味する記号とが彫りつけられていた。ノーリンはこの活仏の指環が持つ霊力こそは、アンボルトを捜し出すことができるにちがいないと信じていたもののようであった。彼はこの指環をはめて南京にいった。そこでスウェーデン総領事リンドクィスト氏、ドイツ大使館顧問フィッシャー氏らの力添えで、ともかく公用旅行証をもらい受け、またスーチョー(粛州)までいく亜欧航空の座席もとることができた。私たちはドイツ軍将校ルッツ大尉、バウムガルト、ラツエその他の関係者から理解ある手あつい恩義を受けていた。彼らはそれぞれのポストを利用して、当時なおスーチョーに本部を置いていたわれわれ探検隊のパーティーとの往復書信を輸送してくれ、またその航路にある新疆やカンスーの町の動きについて、重要な報道を提供してくれていた。
ルッツ大尉といえば、春の初めベルリンに帰ってくることになっていた。そして要件がかたづきしだい、われわれの知合いである、ウィルヘルム・シュミット氏といっしょにオムスク、ウルムチ、ハミ、スーチョーを経て空路北京に帰任することになっていた。この大陸横断飛行は、ルッツの指揮によって完全に遂行され、六月二十五日北京に帰ってきたが、シュミット氏のほうはくることができなかった。
ルッツは、ハミの現況、マ将軍の動静などほしいニュースをウルムチで手に入れることができたので、帰路はスーチョーまで直航し、ファンムスン(黄慕松)将軍に会った。将軍は彼の幕僚とともに中央政府から新疆に派遣されてきていたときで、その任務というのは、奥地の情勢を調査し、くわえて交戦者たちのあいだを調停することにあった。そのために将軍はクーデターを企て、高級将校を三人まで亡《な》くしたときである。当時、ウルムチにあっては、辺防督弁センシーツァイ(盛世才)ががんばっていて、その勢力にはファン将軍も抗することができず、計画はまんまと失敗したのであった。しかも督弁センシーツァイはファン将軍に敬意をはらうことを忘れず、空路南京にかえることを許したのであった。あとになってわれわれはこのセン将軍とも知合いになる機会をえたが、一くせも二くせもあるおもしろい人物との印象を得た。
四月二十七日には故国スウェーデンに向かってボーリン博士は出発した(ノーリンはさきにもいったように五月十五日にわれわれの本拠を出発していた)。しかしわれわれのスウェーデンハウスには、ニルス・ヘルナー博士も帰ってくるし、パーカー・シー・チェン氏の一行も砂漠の荒野から帰ってきたので、またもとのにぎやかさをとりもどした。エッチンゴール、ロプ・ノール、ペイシャン(北山)、ナンシャン(南山)などにおける四年の歳月にわたる探検は、前代未聞の成果をもたらした。なかでも一九二一年に出現した新ロプ・ノールの発見は、もっとも大きな成果であった。
私たちが、スウェーデンハウスをひきはらったのは、五月の初めであった。移ったさきは、中央公園の南西隅にある、中国家屋であった。それは純粋の民家で、僚友はそれぞれ庭がついた自分の棟《むね》をもつことができた。フル・ベルクマンは、さしあたりこの急ごしらえの植民地の女主人であった。
六月にはいると、雨はしとしと絶えまなく降りつづき、ときあって雷鳴さえともなってくることもあった。七日、八日と私の家は墓場のようにひっそりとしていた。私は、所在なく寝台に横になって読書していると、庭の木戸がそろっとあくような音がして、石畳の上を、静かに歩いてくるようなぐあいであった。時計を見ると、ちょうど午前三時であった。どうするかと思っていると、書斎の扉があく。音もなくあく。ただそれだけのことで、すべてはもとのとおりである。寝室に通じるドアは、あいたままであった。
「誰だっ!」
私のこの声にも、たいした驚いたようすもなく、そこには私たち植民地の門番がたっていた。彼は一葉の電報を持ってきていた。
なにか、不慮のことでも起こったのであろうか。そうでなかったら、真夜中に電報を配達するなんていうことがあろうとも思えない。私は、思わずとりみだし、電文に急いで目をとおした。
「アンボルトは、ホータンにて無事。インドを経て帰国の途にある。ロベルンツ」
ありがたい! 神よ、いまこそわれわれは心やすく、呼吸《いき》をつくことができるというものです。私は、すぐノーリンとベクセルとに、出発を見合わせるように、またアンボルトの故郷へも、彼の健在を知らせる電報をうった。そしてリンドクィストとフィッシャーにも。私の知らせでヘルナーは部屋にはいってくるなり、インド踊りをやって喜んだ。つづいてベルクマンもやってきた。寝まきを着たまま、まだ半分ねむっているような彼は、椅子にどっかり腰をすえたかと思うと、
「電文というのは、たった、それだけなんですか」
アンボルトは、従者も連れないで、たった一人で、チベットを越えてインドにぬけ、そこから帰国の途についたのである。彼はその探検記を、その著『キャラヴァン』のなかに書いている。ベクセルや、ノーリンの体験談は、ここに紹介する余裕はないが、ベクセルは、そう遠くまでいかないうちに、私の電報を運良く手にすることができ前進を中止したが、ノーリンは、北東部チベットの山地に踏みこんだあとだったので、知らせを渡すことができなかった。そのために、彼はテルミリークの東部トルコ族のなかにあって、スパイの嫌疑をうけ、あわや一命を失うところであった。ツァイダムにいるタジネール蒙古人たちも、彼を迎えることは迎えたが、疑う心は同じであった。しかし、ノーリンは、最後の切り札をもっていた。例のタシラマの指環である。これを見せると、うって変わって、彼らは最高の敬意をもって彼を遇し、その結果ことなく東方への旅をつづけることができた。
さて、同じ月のある日曜日であった。その日も雨が降っていた。私の玄関に、やせてひょろ高い一人の男がやってきた。彼こそは、第一次世界大戦のとき、マッケンゼン将軍の参謀長であり、数年前までドイツ国防軍の総司令官であった人、フォン・ゼークト将軍である。将軍は、私の親しい戦友である。ガリシアを攻略していたときは、毎日のように顔を合わせていた彼は、しばらくのあいだチヤンチエシー(蒋介石)大総統のところにいて、いま北京にやってきたところであった。
一九三三年六月二十八日、ドイツ大使トラウトマン主催のゼークト将軍招待晩餐会は、私の運命に、一つの異常をもたらす結果となった。この日も雨であった。ドイツ大使館は、どの部屋も明るく飾られ、つめかけた来賓のあいだには、シナの高官、有名人の顔が見られた。軍政部長ホーインチ(何応欽)、ファンフ(黄郛)将軍、前国務総理、外交部長、パリ駐剳《ちゅうさつ》大使といった面々であった。それらの賓客の中で、私の注意をひいた一人、彼は白い礼服で、背は高く、すぐれて高貴な顔をしていた。大使館員の一人に紹介してもらったのであるが、彼の名はリュウチュンチエ(劉崇傑)、外交部次長ということであった。主として南京政府といまなお北京にとどまっている多数の外国使節団との連絡係として、北京にとどまっている、ということであった。
私は、彼と新疆の情勢について話しあった。私は最近までそこにいたのだし、それに以前東部トルキスタンで数年のあいだ暮らしたことがあったので、リュウ氏は、私の体験なり、それにもとづいて意見を求めてきた。私は、思うところを歯に衣《きぬ》をきせず話した。
「乾隆帝《けんりゅうてい》が中華帝国周辺にきずいた、保護国ともいうべき、あの緩衝国家のうちで、現に存続しているのはただ一つにすぎません。シナ共和国が建てられてこのかた、チベット、外蒙古、満州、熱河、これらを失い、いままた内蒙古さえ重大な脅威にさらされている現在、ただ一つの新疆さえ、回教徒の反乱、それにともなう内乱、これらによって一瞬にしてお膝もとから分離させられる危険をはらんでいるかに見うけられます。もし、いまにして領土保全の防衛処置がとられなかったら、これさえ失ってしまうのではないでしょうか」
「あなたのお考えだと、われわれはどういう手をうつべきでしょうか」
「うつべき手は、そしていまとなっては唯一の方法でもあると思いますが、中国本土と新疆とをむすぶ自動車道路の建設、これがなにより優先されることだと思います。これにひきつづいて、アジア内陸部に、鉄路を敷設することです」
私とリュウ氏は、細目にいたるまで話しあった。別れにさいして、翌日彼のオフィスまでたずねてきてくれないか、ということであった。私たちは、この機会にぞんぶん話しあい、検討を加えていった。部長は、ついに一通の覚書きを渡して、私がもっとも適当だと思う道路予定線を、地図に書きこんでほしい、と提案してきた。
七月の中旬、私は体験にもとづく覚書きと、朱線入りの地図とを提出した。この文書はさっそく訳文をつけて、南京にある蒋総統、ワンチェンウェイ(汪精衛)行政院長、鉄道部長らに写本が届けられることになった。
私の力説点は、現状にかんがみて交易と交通の問題にしぼっておいた。ソヴィエトの貿易は、アジア内陸地域から中国人を追っぱらい、また同様にインドからイギリス貿易を駆逐しようとしていた。カシュガル、クルジヤ、チュグチャック、アルタイなどの地域においては、ソヴィエト人は、すでに立派な道路を持っているばかりか、不断に手入れをして、新疆の国境までのびて、直通しているのであった。これにくらべると、中国がわの貿易事情といえば、大昔からラクダの隊商によって行なわれ、クェイファチェン(帰化城)からゴビ砂漠を横断してハミ、クーチェンツェ(古城子)、ウルムチにいたる全行程三カ月もかかるものであった。いまここで、キャラヴァンの代わりにトラックを使用するということになると、所要日数は十日間、ながくても十二日にちぢめられ、これによって中国人も、他国人と競争することもでき、ある程度成功する見込みもたつであろう。その証拠には、すでに帰化城にいる商人たちが、ハミまでの貨物輸送自動車会社を設立している事実が、なによりも雄弁に物語っている。しかし、先発隊のトラックは、道路が悪いために、めちゃめちゃになってしまった。そこで、なにをおいても、ゴビ砂漠を横断する自動車用道路を建設すること、つぎには、カンスーを経て、南部皇帝大街道を生かす工夫をすることである。
リュウ外交部次長と意見のやりとりをしているあいだ、彼らが、私の近い将来にどんな関係を持つようになるかなど、ついぞ思いもそめなかったことである。ノーリンや、ベクセル、ベーケンカンプたちは、そのときはまだ荒野にいたのであるが、彼らが北京に帰ってきたら、私たちは故国へ帰り、われわれの偉大なる、長い年月にわたる探検旅行の仕上げを急ぐ心ぐみであった。
しかし、運命の星というやつは、予定どおりには、運行しないものとみえる。リュウ氏は七月の末、南京にゆき、私の覚書きを総統と行政院長とに提出した。覚書きは、彼らに強く訴えるところがあったのか、八月三日、私はつぎのような知らせを受けとった。
「行政院長汪精衛氏は、南京で急ぎ貴下を迎えたい、と。リュウチンチェ(劉崇傑)あて、返電頼む」
私は、この電報を手にしたときから運命の星に新しい局面がひらけかかってきた予感をもった。じっさい一八九〇年このかた、中国領土でうけてきた、かずかずの厚意に報いる手だてとして、南京政府に対して尽力するということを考えないでもなかった。中央アジアに関する私の経験が、どれだけ役立つか、幾分でも実際的な利益をもたらすようにと、切望してやまないものがあった。そして、もし新しい探検行が実現するとすれば、私がたぶんまだ知らない「絹街道」の一部分でも踏査する機会もあるかもしれない。この路は、新ロプ・ノールの北の岸にそうて、一九二一年に建設をみた、あのタリム盆地の新道路につづいているはずである。
八月五日、その日の夕暮れ、私は北京郊外を出発した。この地にあって、夏の美しさは、いまや絶頂かと思われた。汽車は翌日大昔からある、ある墓原をぬけ、この共和国の首都に|ばく《ヽヽ》進していった。車窓をおそって吹きくる風は、ここちよかった。
リュウ氏に伴われて、私は外交部長ローウェンカン(羅文幹)博士をたずねた。博士の人生に対する態度は、いかなる苦難にも打ちひしがれることなく、明朗、濶達をむねとし、かてて加えて公平去私をその信条としている人であった。ファンムスン将軍が失脚したとき以来、博士は、分裂闘争のさなかにある、この地方の騒動をしずめるため、また戦争をしている将軍たちのあいだにはいって、和平をさせるため、みずから新疆に行く決心をしていると語っていた。また博士の話では、政府は新疆への自動車探検旅行をやらせるため、私を招《よ》んだとのことであった。
私の直感は、的を射たというべきであろうか。そして希望は、まさに達せられんとしているとも見てとれた。
一時間の後、私は汪《ワン》行政院長に会った。彼は、私がこれまで聞いたところの事項について、すべて確認した。奥地まで鉄路を敷設することは、経費の点でどうだろう、と彼はいった。まずはじめに、自動車道路を完成することで満足しなければならないであろう。それは必要なことであり、また急がなければならない。しかもこの道路は、現在北部および中部中国に動いている鉄道に連結されなければならない。北部にあっては、帰化城から出、南方では、シーアン(西安)を起点とすべきである。この企画は、すぐにも実現しなければならない。しかし、政府要路のあいだでは、まだ決定したというわけではなく、汪氏自身、専門家と討議を重ねたい、といっている。私は、返事を二、三日待ってもらうことにした。
会議はかさねてひらかれた。路線とか、距離とか、その他の細目にわたって、新しい覚書きを書いた。それは五つの綱目にわたっていた。覚書きは翻訳され、ついで部長会議にかけられたという順序であった。こうしたいきさつのあいだにあって、私は、忍耐がいかに必要であるかを知った。それなくしては、説得に努めることもできるわざではない。こうと知ったら、不平をいうなどもってのほかである。私は、ワンチェンティン(王正廷)の別荘でもてなしをうけ、王者のような生活を送っていたのであるから。リュウ氏はたびたびたずねてきて、食事をいっしょにしたり、また別荘の庭で涼みながら、清らかな月光の下で、中国本土と、もっとも広くしかもいちばん西の方にある地域とのあいだをむすぶ道を、どのようにして強化するかという計画を、細目にわたって練りあげた。
南京では、気温が三九度にもなることがあったが、それにしてもときどき豪雨が見まってくるので、あんがい空気はひんやりしていた。玄武湖の上、八〇〇フィートの紫金山の上に建設中の天文台は、まさに完成しようとしていた。その近くの磁力調査所に、パーカー・シー・チェン氏が住んでいた。私は、彼に、今度の自動車探検隊がやろうとしている仕事に、ぜひ参加してくれるように、とくに頼んだ。彼はかつてニルス・ヘルナー博士について、その地方へ行き、詳しく知っているところである。
八月中旬、ロー外交部長は、政府当局が、自動車旅行のことを決定したことを、私に知らせてくれた。また、鉄道部長からも、つぎのような、重要な条項が決定された、ということも聞いた。すなわち、
[#ここから1字下げ]
この探検旅行は、すべて中華民国がとりまとめて決行するもので、鉄道部長クーメンユー(顧孟余)博士の指揮下において遂行さるべきこと。
この事業には、法律による国庫補助金を受けとりうること。
[#ここで字下げ終わり]
そこで私の資格であるが、さしあたり「鉄道部長顧問」ということで、探検隊の指導に任ぜられることになった。私が必要と認めた医者、地形学者、数人のスウェーデン技師を同行することもそれにつけ加えて許された。この探検旅行は、八カ月以上はかからないと思っていた。まず、ゴビ砂漠を横断したわれわれは、昔の皇帝大街道とも呼ばれている「シルクロード」に沿って帰ってくる、というのがわれわれの選んだルートである。途上、タリム盆地の新しい道を踏査し、あわせて一九二一年に生まれたロプ・ノール湖を探検すること。とくに大昔中国人がおおぜい移住していた楼蘭《ろうらん》周辺の水沢現況、入植できるかどうか、研究の課題を設け、その研究の権利を保有することになった。遠征隊の研究員は、めいめい旅行免状を下付してもらい、武器の携行や自動車通行証のこと、国内税関の免除など、すべて認証されることになった。
遠征隊の予算のうち、補助金として五万メキシコドルが加えられていたが、スウェーデン人の俸給などは、このうちからまかなわれるはずであった。中国人は国庫から受けること。私は、自動車やその他の装備品を買い入れなければならなかった。
訓令のなかには、なお数カ条があった。その一つは、新疆の内乱には、局外者としてノータッチたること。たとえこのような訓令が発せられないとしても、政治問題に口ばしを入れたり、またどちらか一方に力を貸すということは、探検の全事業を致命的なものにするということは、われわれは酸っぱいほど知っていた。私は、このまえ著わした『馬仲英の逃亡』Big Horse's Flight(1936)のなかで、われわれの自動車全部が、無理無体に取り上げられ、そればかりか、われわれの命さえ、どうなるかわからないという事態にさらされたため、まったく思いもそめないこと――マチュンイン(馬仲英)将軍に味方するということを表明せざるをえなくなったいきさつを記録しておいた。
いま一つは、南京の文教部長から発せられたものであるが、隊の指導者をふくめて、探検隊の誰も、どのような方法をとろうとも、考古学的調査収集を、やってはならないということであった。この一項こそは、われわれの事業を、根底から破壊する要素をふくんでいるが、政府当局は、この禁令に対して、見て見ぬふりをしていた。そのばかさ加減といったら、まったく言語道断である。「シルクロード」を踏査するということは、とくに敦煌《とんこう》(トンファン)とコルラとの間を行くことであるが、純然たる考古学研究でなくてなんであろう。私の提案の骨子をなすものは、大昔の「絹の道」を生かして、近代的な自動車道に変えようというもので、政府はすでに承認したものであった。それなのに、同一政府の文教をつかさどる一要員が、こともあろうに、街道に埋まっているであろう遺物に手を触れることを禁じるというのである。しかも街道を見分けるための痕跡たるや、二〇〇〇年の風雪にさらされ、それを発見する手だてとして、考古学のたすけを借りなかったら、とうていできるものではない。しかもこれを実行するに当たっては、十分責任をもとうとしているのである。鉄道部長が北京から帰ってこなかったので、私のほうから北京に訪れることにした。そこで彼の決裁をえて、たちどころにすべてのことをスムーズにかたづけることができた。
北京――スイユアン(綏遠)鉄道所長センチャン(盛章)氏が、補助金の全額を支払い、最後の準備を検討する権限を認められるところとなった。彼は、最後にもう一つ訓令をつけ加えることになった。それは、将来の自動車輸送という立場から、その地域における、次の三つのルートのうち一つを選んで踏査すること、そのルートは、ウルムチ――カシュガルまたは、ウルムチ――クルジヤないしは、ウルムチ――チュグチャックの三つのうち一つが指定されることになる。その地域は、とにかく動乱がいまなおつづいているので、探検調査をどういう方法でやったらいいか。流血凄惨な暗闘や掠奪などに関する騒がしい報告が、次々に新疆から内報されてきているときである。飛行機でハミに飛び、ウルムチまでいってきたロー外交部長さえ、言語を絶する困難に遇い、結局はチュグチャックからノボシビリスクにでて帰ってきたほどであった。ファン将軍の轍を踏んで、彼の和平工作も、失敗に帰したわけである。そしてこんどは、われわれにお鉢がまわってきたというものだ。しかし、われわれの目的は和平交渉ではなく、道路の発見である。
北京の心ある人たちは、われわれの計画を聞いて、狂人沙汰だと評した。その成功などは思いもよらぬこと、彼らは、この中国本土と新疆とのあいだに横たわっている古い隊商道に、自動車を乗り入れ、すでに死滅しているその地方と中国本土との貿易を軌道にのせようという企てこそは、ソヴィエトを刺激することになり、いろいろな障害の手がのびてくるにちがいない、と考えたようである。しかしそうした危惧が、いかに根拠なきものであったか、まもなくわかってきた。新疆にあるソヴィエト代表者は、私たち探検隊に、類なき好意をよせ、にっちもさっちもいかないとき、われわれを助けてくれたのは彼らであった。彼らだけであったのだ。
秋晴れのある日、技師アーヴィング・シー・ユウ氏が、われわれの本部にやってきた。またシー・シー・クンもすこし遅れてたずねてきた。この二人はわれわれの遠征旅行に、いっしょにいくことに、政府から選ばれたのであった。その第一印象は、とてもよかったが、旅行が終わるまで、それはかわることはなかった。南京からは、パーカー・シー・チェン、ジェムトランドからはダヴィッド・フルメン博士、またシカゴからきてくれていたゲオルク・ゼーダーボムなどが、つぎつぎにスウェーデンハウスに集まってきた。蒙古人の運転手と中国人のボーイを雇い入れると、これで探検隊の全員がそろうことになった。
私たちはある日、北京の西北の城門シーチーメン(西直門)に車を駆って、帰化城ゆきの無蓋車に積みこんである三台のトラック、しゃれたチュードル・セダンを見た。そこには、私たちの愛すべき助手ゲオルク・ゼーダーボムと蒙古人運転手ドラゴンおよびジョムカが、ガソリンや食糧その他の必要物資をたずさえて列車に乗りこんでいた。彼らは先遣隊として帰化城で、準備をすすめることになっていた。
北京での最後の夜、私の旧友ジョエル・エリクソン師とシー・ジー・ゼーダーボム師とが、われわれの探検の成功を祈るために、たずねてくれた。それは同時にお別れのあいさつでもあったが。
こうして夜の幕は、すっかり北京をおおい、われわれの物語の第一章も、終わったというものである。
次の朝から、つぎの章が始まるが、その内容たるや、野蛮なアジア人が暮らしている荒野にあって、不安と冒険にみちみちた日々をすごすことになるであろう。われわれは名誉にかけても、野ジシのように戦い、多くの人が、不可能と考え、また望みを託するにたりないと思っていたこの探検旅行を成しとげるまでは、けっして帰るまいと、臍《ほぞ》の緒《お》をかためたのであった。
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二 悲しみの第一歩
一九三三年十月二十一日、朝のうち、私たちは、フンメル博士といっしょに、シーチーメン(西直門)に通じる黄葉した並木道をぬって車を駆った。停車場には、自動車探検隊の面々を見おくるために、おおぜいの友人、知人がつめかけてきていた。リンフー(林福)教授、シューピンチャン(徐炳昶)、パウル・スティーヴンソン、ボシャード、タイムズ紙特派員のマクドナルドその他であった。列車が北西に向かって動き出すと、これら見おくりの人々のなかには、これがこの世での最後の別れになると思ったものもいるにちがいない。
北京市の城壁は、そこにそびえている壮麗な堂宇とともに、まもなく見えなくなっていった。列車は、灰色にくすんだ、落莫《らくばく》たる荒野を走り、南口路を越え、ゆるやかに波打つ丘陵は丘陵につづき、蜿蜒《えんえん》とのたくりつらなる万里の長城のそば近くを走り、その日の夕方、カルガン(張家口)で片時停車して、ふたたび走りつづけていった。夜がふけるとともに車室は冷えてきて、ベッドには毛布を敷くという始末であった。
あくる朝、それは六時ごろであったろうか、母国語で話している大声に目をさましてみると、一人の青年が飛びこんできて、若やいだ大きな声で、万歳を叫んでいるのであった。そのそばには、すこし年取った婦人が熱いコーヒーを煎《い》れてもってきていた。この若々しい目の碧《あお》い青年はカール・エフレーム・ヒル君、この地の伝道師の息子であった。彼は、アメリカ人の技師から自動車修理工の一等免許証をもらっていたが、惜しくもわれわれの遠征隊に加わることはできなかった。婦人は私の見知りごしの人、一八九七年の探検の途上、ニンシヤ(寧夏)で会ったことがある。列車が動きだしたので、青年はデッキから飛びおり、ホームを走りながら、故郷の歌――汝がふるき、自由なる、さちゆたかに恵まれたる北の国よ――をうたってくれた。何時間すぎたであろうか。気がつくと、行くて南西に当たって帰化《クェイファ》の城壁とそこにそびえる堂塔が波濤のかなたに見えてきた。
列車が帰化につくと、色とりどりの服装をした一団の人々が、がやがやしゃべりながらやってくる。
それらの群衆のなかに、ひときわ体躯堂々たるゲオルク・ゼーダーボムがいるのが見てとれた。つづいてフンメルが走ってくる。ゲオルクは、小声でなにかいったようだったが、フンメルはいきなりびっくりした表情で、叫ぶように「なんだって? 彼が死んだって……」
それを聞いて、私は強いショックをうけた。それというのも、ベクセルとベーケンカンプとは、いまなお荒野のほうにあって、われわれはもうながいこと、彼らからなんのたよりも受け取っていなかった。ゲオルクは、きっとこれらの行方不明になっている連中の運命について、なにか近況を手にしたにちがいない。あるいは彼らが不慮の襲撃をうけたということも考えられ、その一人はすでに虐殺されたとか、一人は匪賊《ひぞく》の手によってさらわれたとでもいうのであろうか。砂漠のどこかで、そうした惨劇がくりひろげられたということも、なきにしもあらずである。いまや大探検旅行の門出に当たって、しょっぱなから、流血の惨状を呈するなんて、とんでもない。私は、ゲオルクを呼んで、
「いったい、どうしたというんだ?」と、せきこんで聞いた。
「私は、恐ろしい出来事を、お知らせしなければなりません」
(ベクセルのことだ……)
私は、またしてもそう思った。しかし、ああ神よ! そうではなかった。その災難というのは、科学探検隊員に関するものではなかった。とはいえ、結局、われわれの新しい企画につながることには、変わりがなかった。
ゲオルクの伝えるところによると、私たち後続部隊がここにつくのは、日曜日の朝と聞いてはいたが、いつもの流儀で列車は遅れて着くものと想像し、はたして何時に着くか、確かめようとして停車場に向かった。蒙古人のドラゴンが運転のハンドルをとり出発した。ときもとき、彼ドラゴンはゆうべ、ゲオルクといっしょに、地獄のうえに架設されたこわれた橋のほうへ、全速力で走っていく夢を見た。そうしていま車を走らせながらも、なんとなく災厄が彼を待ちうけているような予感をいだいていたので、意気きわめてあがらざる体《てい》であった。ちょうど、ゲオルクは運転台につき、ドラゴンはその左に、そして愛犬のパオは後ろの席にいた。車は北に向かって、停車場へ急いでいた。ちょうど道が、ひらけた原っぱに出る地点で、鉄道線路がクロスしている。おりあしく、いつもいるはずの交通巡査もいなかった。そこは家並みがつきたとはいえ、ほんの五、六フィートなのであるが、その最後の家の軒が出っぱっていて、先の見通しのじゃまをしていた。そのためにゲオルクは、線路をまっしぐらにやってきている機関車のあることに気がつかなかった。両者はスピードを出しているので、気がついたときは、ブレーキをかけても、もうまにあわなかった。
まったく瞬間の出来事であった。瞬間といっても、そのあいだも、二つの車は、それぞれの路上を|ばく《ヽヽ》進している。ドラゴンは、「おお、神さま!」とさけびながら、ともかく車のドアを押し開けて、外にころがり出た。パオがそれにつづいた。
恐ろしい衝突が起こった。自動車の横っ腹に連結器が食いこみ、機関車はこの押しつぶされた自動車を、引きずっていった。左車輪は斜めになったまま、針金のようにへし曲がった心棒にからまり、まあそれでも連結器のおかげで、自動車はくるくるころがらないで、引っぱっていかれたのである。
もし、このとき神明の加護がなかったら、ゲオルクも車もろともぺっしゃんこになっていたことだろう。彼は万力《まんりき》でしめつけられるように、座席とハンドルと、操縦桿と、閉められた扉との真中に、身動きひとつできないまますわっていた。このつぶされた車体は、線路のうえを二五ヤードひきずられて、ようやく止まった。
傷つき、血のふき出るゲオルクは、やっと車から這《は》い出して、立ち上がった。歩くことができるのを知った。その喜びはなんといったらいいだろう。ドラゴンを呼んだ。返事がない。彼は飛び出してからどうしたのか? 不幸にもこの僚友は、額を押しつぶされ、手足を切断されて横たわっているではないか。機関車の下敷きになったのである。
即刻カトリック教会から医師が呼ばれて駆けつけたものの、医師はドラゴンの即死を証明するよりほかに、何ら手のつくしようもなかった。警察はさっそく機関手の逮捕を云々しようとしたが、ゲオルクが、自分たちにも落ち度があったのだから、ということで、法律的な措置は見おくることになった。
惨事の起こった現場にいってみると、わがすぐれたる運転手君は、血に染まったまま、蓆《むしろ》の下に寝かされていた。まもなく収容され、棺に納めて安置された。近親者が賠償金のことをもち出し、われわれもその要求の正当なることを熱心に申し添えてやった。南京の鉄道部長は、こわされたのと同じようなチュードル・セダンの新車を一台われわれに贈ってくれた。
このさいもっともふしぎなことは、ゲオルクが、かすり傷一つしないで、生きていたということである。彼は機関車の一部にその膝がふれたかっこうで、しめつけられたようになってすわっていたという。動きもどうにもならなかったということが、このさい彼の幸運をもたらしたことになった。そしてドラゴンも、じっとすわっているか、あるいはドアをあけようとしても、あかないでいたなら、きっとかすり傷一つしないで助かっていたかもしれない。
私たちはドラゴンの代わりの運転手を、一人補充しなければならなかった。そこで昼に電報をして、来てもらうことにした。彼は私たちのところに着いたその日から、みんなの人気ものになった。誰も彼をカールともエフレームとも呼ぼうとしない、親愛の情をこめてエッフェと呼ぶことにした。
帰化では、われわれの本部は、ゲオルクのうちにおいた。「綏遠《スイユアン》――新疆《シンキアン》自動車道路探検隊」は、この地で最後の総まとめをすることになっていた。庭は倉庫ともなり、また工場ともなった。仕事はそれぞれ分担してとり進められた。白いフェルトの蒙古パオが五つ並んでいたが、その一つでは八人の中国人の仕立屋が寝袋をつくり、足まである外套を縫っていた。しかもそれがみな真白いヒツジの毛皮である。これはいうまでもなく、吹雪く厳寒の中央アジアにおいて、冬にいどむための装備であった。
ガソリンのことで、われわれは頭を痛めた。必要量を自分たちで運ぶということは、どうしてもできない。そこでガソリン隊を編成して、エッチンゴールまで先発させておくという非常措置を考えた。四二個のドラム缶に詰めた一二六〇ガロンのガソリンを買いこみ、これをノゴン・デリーから雇った四十頭のラクダに運ばせる。そのようにするとしても、われわれの必要な物資はいちおうトラックに積みこみ、ひとまず帰化の西北一〇〇マイルの地点にある百霊廟《ペリミヤオ》の聖都まで運んでおく、そこにノゴン・デーリのラクダを待たせておき、ラクダ隊は第一主要目的地たるエッチンゴールに向かわせる。
私たちは、綏遠《スイユアン》の行政長官フツオイ(傅作儀)将軍、スウェーデンの宣教師、カトリック伝道本部を歴訪し、また内政部長ファンシャオシュン(黄紹雄)氏をも訪れた。部長は蒙古の諸王が、内蒙古の自治について協議するために集まっている百霊廟《ペリミヤオ》に出向くために、南京からやってきていたのである。
どこへ行っても、人々は政治的な不安におちいり、ひどく悩まされていた。パオトウ(包頭)では、盗賊将軍の異名をとったスンテイエンイン(孫殿英)ががんばっていた。彼は一九二八年、東方の皇陵を掘りおこして、ばく大な財宝を掠奪して以来、すっかり悪評を浴びていた。蛮族ともいうべきその手兵を動員して、青海(チンハイ〈ククノール〉)地方を手に入れ、その周辺地区を自己の植民地化しようとしていた。ニンシヤ省政府は、スン軍が通過することを拒絶したため、彼とのあいだに、小ぜりあいが起こらないともかぎらない情勢にあった。最近の報道では、これからわれわれの輸送隊がたどろうとしている西方の古街道の周辺まで、スン軍の掠奪兵がときおり襲来することもあるという。
新疆地区の最近の動静も、私たちのところに届いてきた。馬《ま》大人の名であまねく知られている、若いマチュンイン(馬仲英)将軍はハミからトルファン(吐魯番)にかけて支配権を確立した余勢をかって、ウルムチ(廸化)軍と血なまぐさい戦乱をくり返しているということである。フ将軍は、マ将軍と通報して、私たち遠征隊が、いよいよ近づきつつあることを連絡したとみえて、マ将軍は私たちを歓迎するとの返事をもたらした。おそらくは、そのときまで、私たちの自動車が手に入るものと、ほくそ笑《え》んでいたことであろう。
われわれの長官ともいうべきクーメンユー(顧孟余)鉄道部長は、つぎのような愉快な内容の一文を、われわれに打電してきた。
「いまや諸君は長途の探検旅行につかれんとするに当たり、この歴史的な壮挙の成功せられんことを衷心《ちゅうしん》から祈念し、健闘のあかつきには偉大なる不滅の成果をもたらされんことを望んでやまない」
この使命を果たすためには、いかなる難苦がともない、加えてどのような危険が襲いくるかも計りがたいことを、彼は身をもって知っていたはずである。それと同時に、アジアの心臓というべきこの地域をつらぬく新自動車道路の建設が成功すれば、この企ては確かに、大陸の歴史に、偉大なる一ページを加えることになる点も、万事承知していた。
戦争、反乱、掠奪はいたるところでくり返され、横行し、この地域に一歩踏み入れるや、悽愴《せいそう》な死が、その日から、われわれと隣りあっていることを知らなければならなかった。この探検旅行は、恵まれた星のもとにその第一歩を踏み出した、ということはできない。いやその前兆はむしろ破滅を暗示していたというべく、ゲオルクは、ドラゴンの不慮の横死と結びつけて、極度に悲観的であった。
しかし、そのために出発をためらい、尻ごみするような隊員は、一人もいなかった。一行の中国人、ユー、クン、チェンの三人は、踏み出しの第一歩から、最後の日まで、どのような苦杯をつきつけられようと、つねに正しい判断をもって処理していき、その態度は賞賛しないではおれなかった。
十二月二十二日、それはとり返しのつかない悲しみの日であったが、三十一日は、これはすばらしい平和をたたえる第一日であった。ベルクマンが、露霜《つゆしも》の輝くなかを新車を駆って北京からやってきた。
私たちは、夜がひきあけたばかりの研究室に集まっていた。そのとき、チェンがはいってきて、きわめて落ちついた態度で、
「ベクセルとベーケンカンプとが、ゲオルクの車で、いま着きました」
ゲオルクは、三台のトラックに荷物とガソリンを積みこんで百霊廟《ペリミヤオ》までいったのであるが、その帰り道で、ながいこと行方不明になっていたこの二人と、その隊商とにゆくりなくも出会ったのであった。ラクダの荷物は空車に移され、ひとたびは帰ることなき人とあきらめていた二人の神の子を乗せ、いまや遅しと帰化に着いたところであった。
私たちは、門を開けるのももどかしく往来に飛び出した。そこには二台のトラックが止まっていた。雨|覆《おお》いの下には、かつて誰も手をつけたことのない、荒寥たるアジアの危険地帯から、四年のあいだ欠乏困苦に打ちかって集められた採集の標品が、うず高く積みこまれていた。
ゲオルクがハンドルを取っている第三のトラックは、ちょうど往来を曲がって、こちらにすべりこもうとしていた。車が止まる、二人が、飛び出してくる。追剥《おいはぎ》ぎともいってみたい風体の二人、身にまとっている服とは名ばかり、ぼろぼろになっていた。そして伸び放題に伸ばした髭《ひげ》の底には、ゴビ砂漠の秋の日に焼け、風雨でひきしまった顔が、見るからに頑健そのものを語っている。彼らは、これから私たちが出かけようとしている荒野の生活を、そのまま身に沁みこませ、その靴底にこびりついている塵埃《じんあい》は、かつて白人が踏み入れたことのない土地から運んできたものであった。
「ああ、ありがたい。君たちが生きて還ってくれたなんて……」
二人は、われわれにとり囲まれ、勝利者の足どりで、中庭へはいっていった。
彼らがお茶の卓につくや、さあ、質問の矢が四方から襲いかかった。こんな邂逅《かいこう》を、いったい誰が予期していたろう。まったく奇跡というほかはない。七年の歳月をかけてつづけられたわれわれの前回の探検旅行は、いまわれわれが旅立とうとしているこの町で、しかもこれから出かけようというまぎわに、不可思議な連鎖反応の力によって結ばれる機縁をえたのである。そのうちの二人が、最後まで荒野に踏みとどまって活動をつづけていたとはいえ、その動静を知る手がかりはまったくとだえ、その行方を心痛していたのであるが、いまこそわれわれもこころ晴れ晴れとしたのであった。そして内陸アジアの秘奥の扉は、大きく開かれ、われわれの訪問を待っている。骰《さい》はすでに投げられたのである。すぐる十一月一日、ノーリンはアンボルト捜索の旅から帰ってきていた。その手には、ツァイダムでえた精密な地形図が、何枚か握られていた。
私のまわりには、一九二七年の春このかた、行をともにしてきた老練な探検家の全部と、さらに新企画による探検の全隊員が、それぞれくつわを並べている。果てしなくつづくであろう旅の門出に当たって祖国、スウェーデン人本部を組織することができた。
その忠誠と、その功績とに対して、数年前スウェーデン国王から贈られた金の勲章を胸に輝かしている蒙古人のセラットが、死んだドラゴンの代わりに、いまふたたび私たちの僚友として加わった。彼は、内蒙古の自家からここにくる途中、盗賊の襲撃にあい、持ち物全部を掠奪され、ほとんど半裸体で、疲れきってカルガンに着いたのであった。
時は、文字通り矢のようにすぎていった。私たちは、まもなく別れなければならない。われわれと、奥地から帰ってきた二人の探検家とのあいだを、しっかりむすびあっていたきずなを、解くときがやってきた。お別れの晩餐には、北京とスウェーデンに向かって旅だつ二人のため、またこれから砂漠の荒野に進路をとって旅ゆく人たち、それらすべての僚友のため、つつがなからんことを私は祈念した。
十一月九日の夜、トラックは往来に勢ぞろいした。ながいながい旅路にのぼる最後の夜、寝台にねむるのもこれが最後であった。そしてつぎの朝、霧におおわれた朔北《さくほく》の野の道を|ばく《ヽヽ》進しつづけた。夜は吹きすさぶ風を歌声と聞きつつ、砂漠の空にちりばめられた星の光の下で、蒙古テントの中に憩いの場を求めなければならないであろう。
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三 百霊廟《ペリミヤオ》への道
十一月十日、荷物をこぼれるほど積んだ三台のトラックの運転手の席には、ゲオルク、エッフェ、セラットがそれぞれ分乗し、私とユー、クンは、フンメルが運転する小型乗用車に乗って一行のしんがりをつとめることになった。私たちは出発に先立ち、もう一度、ベクセルやベーケンカンプ、それにスウェーデン伝道師たちに別れのあいさつをして、さていよいよ車はそうぞうしいうなりをたてて、古都を出発した。
干上がった河床を渡り、小さい村が点々とたむろしている田舎に出ていった。あるところでは、土製の煉瓦《れんが》造りの小屋が立ち並んでいる。田圃《たんぼ》には農夫が耕作にいそしんでいた。みちみち、徒歩や騎乗の旅行者にもたびたび出会い、また石炭を積んだロバの列も見た。ウシ車は、ギーギーきしませながら、ゆっくりゆっくり野路をたどっている。そうかと思うと、スーチョー(粛州)やエッチンゴールから産物を運んでくるラクダの隊商にもいきあった。
帰化《クェイファ》――百霊廟《ペリミヤオ》をつなぐ自動車専用道路は、ウシ車の轍《わだち》で、すっかりいためつけられていた。この国道は、本来ウシ車の通行はできないことになっていたが、その禁令に従うものはいないとみえて、轅《ながえ》のあいだにしばりつけられて車を引っぱるウシやウマは、とても歩くことのできないほどの、深さ二フィートもあろうかと思うような穴を道に作っている。われわれの車には、さして障害ともならなかったが、それにしてもゲオルクは、まったく運の悪いことに、左後ろの車輪をこの穴にすべらせてしまった。
積み荷をいちおうおろして、ジャッキで車両を押し上げるなど、そのために二時間も空費してしまった。車が持ち上がったところで、穴に石や礫《れき》を埋め、やっとのことでトラックは安全な位置にもどり、荷物を積み込むことができた。それにしてもありがたいことは、心棒がおれないで、そのまま使えたことだった。私たちは、この先一万マイルを突破しなければならないのだ。そこには幾多の試練があるだろうが、はたしてこれだけ走行して、無事帰ってくる車が一台でもあるだろうか。
近くには二〇〇ほどの家族が住んでいる、パコウチェ(八溝択)という村があった。そのうち九〇パーセントは、コウ(溝)という名前であるそうだ。この地を通過する隊商にとって、やっかいなのは税関であるが、それもわれわれには、なんのかかわりもなかった。私たちは、ちょろちょろ水が流れている礫石《れきいし》のあいだをぬって、河床をどこまでもたどっていった。
道路は、しだいにのぼりになり、かつ狭くなってきた。嶮《けわ》しさも加わってくる。道の片がわに柵が設けられたところに出た。中国や蒙古からの輸送をねらってかっぱらいが出没するということである。コムギ粉を積んだ荷車が、角笛を吹きながら、のっそりのっそりやってくるのに出会う。荷車を引いているウマ、ウシ、ロバは、ときにはとびはねたり、あと足で突っ立つなど、そのために丘の斜面をすべり落ち、死を招くこともあるので、二頭を一組にしてつないであった。
いよいよ峠にたどりつくと、行くてには色とりどりの村の衆が寄りあっていて、そのながめは、まったく奇怪なものであった。そこでは、中国人が長い鞭を鳴らし、杖を振り、がなりたて、頑固なウマを引きたてようとしていた。と、一隊の騎馬の列がやってきて、いきなりこの連中を足げにかけて駆けぬけていったのをさいわい、われわれはそのあとをぬって、牌楼関《ぱいろうかん》の村めがけて、いっきにくだっていった。
道とは名ばかり、ゲオルクは、あわやその運転していたトラックを、半ば凍った河床に横倒しにするところであった。礫で埋まった道を通過すると、こんどは赤土のゆるい斜面のつづく丘へ出ていった。ククイルゲン(可可以力更)の小さな流れまできたとき、日はまさに暮れようとしていた。やれやれと思うまもなく、またしてもトラックの災難、こんどはエッフェの番だった。河岸に腹ばいになって、河流につかってシャベルや、つるはしを打ちこむが、車は微動だにしないていたらく、所詮《しょせん》は積荷をおろすほかなかった。またしても二時間の空費。
太陽は凍てつく西の荒野に沈み、ためらいがちな残光も消えると、まわりは真暗になった。蒙古平原ですごす初夜のいぶきは、なんというさわやかさだろう。
われわれは、真夜中に凍てついた小さい流れのほとりに着いた。二度あることは三度ある、こんどはセラットがやった。彼のトラックが氷を踏み破って落ち込んだので、そこから這《は》い上がるためにあれこれ試みられたが、すべてはむなしい努力にすぎなかった。まごまごしているあいだに、車輪そのものが凍ってきて、いつかな動こうとしない。氷は刃物のように、ヘッドライトに輝いている。その氷を切る、たたき割る、掘り返す、流れに浮く氷塊を岸に積み上げる、それでもトラックは頑固にへばりついて動こうとしない。二人のスウェーデン技師がさけぶ中国語、蒙古語の指図は、闇にすいこまれて凍《こ》ごり、やがて消えてゆく。とうとう彼らは断念しなければならなかった。あたりは、もとの静寂につつまれていく。日の出までには、まだだいぶ待たなければならない。われわれの最初の夜は、こうして過ぎていった。いまはもう綿のようにくたくたに疲れ、しばしの休息を求めて、一人去り二人消えていった。トラックの運転台や、荷物のうえに横になるために。
私は、突然目がさめた。われわれをとり囲むすべてのものが、深い沈黙に閉ざされていた。ヘッドライトも消され、夜の闇の壁はいよいよ厚い。このときラッパが鳴りひびくのを聞いた。起床の号令だ。隊員は昨日の元気をとりもどし、それぞれの受け持ちにとりかかった。しめたっ! 車はついに動くようになった。そこで夜の闇をついてふたたび|ばく《ヽヽ》進が始まった。午前二時、セラットの車が、チャオホー(趙河)の小さな流れにいき当たったのをしおに、ここで最初の幕営をすることにした。「晩餐」とは名ばかり、氷点下二〇度、しかも午前四時をすぎている。東の空に、夜明けをつげる光の第一陣がのぼりはじめるころ、われわれはやっと寝袋にもぐりこんだ。凍《い》てつく冬の夜をこめて、ふたたび災難をくり返したくないものだが……。
私たちはすっかり寝坊をしてしまった。テントや車はそのままにして、疲れた足を引きずりながら、近傍にある古い城砦シリ・ゲーゲン・スメ(廟)の寺塔を見物に出かけた。そこには数人の中国巡羅兵がいた。彼らは隊商を襲う追剥《おいはぎ》や盗賊団を見張っているのである。私たちの幕営地は、バガノールから九マイルの地点で、そこにはアルタイ・トルグート・アラッシュが、その家族および方術師兄弟といっしょに住んでいた。
アラッシュは、四角に構築された城壁の内にユルトを張っていた。彼はその炉辺に素朴な敷物をとり出して、われわれを招待してくれた。茶卓には、お茶やチーズやクリーム菓子、砂糖などが出され、祭壇は壁にとりつけられ、黄金色《こんじき》の仏像が、薄暗い炎のなかで、夢見るように輝いていた。
テントは城壁の外郭に張られていた。そこでは、スウェーデン伝道教会でリゾールや油で揚げたパンケーキの作り方を習ってきた、われわれのチャクェイ(賈逵)が、晩の食事の支度にとりかかっていた。
私たちは、アラッシュのところに三日間滞在した。この失われた時間も、考えてみればむだではなかった。何しろ、エッチンゴールに向かって先発したガソリン輸送隊は、罐《かん》が漏れるというので、百霊廟《ペリミヤオ》の手前三〇マイルのところに止まっているというのである。彼らはむりに前進を試みることなく、われわれの指図を待っていたのであるから。
三日間の休息のあいだに、荷物はすっかり梱包《こんぽう》され車に積みこまれた。われわれの幕営は、一台のトラックがあれば、まにあうので、他の二台は、手をつけないことにした。日々の食糧、炊事用具、テント、ベットなどは一台に積みこまれる。テントは四張りでまにあうので、一つのテントは棄てていくことにした。中国人の隊員が一つを使う。ゲオルク、エッフェ、セラット、ジョムカの四人は、自動車の受持ち責任があるので、一つのテントを占め、第三のテントは炊事用具とともにチャクェイ、サンワツェ(孫伍沢)とリー(李)のために引き当て、フンメルとベルクマンおよび私が第四のテントを使う。食事はこのテントでする。この八人の隊員と五人の従者によって私たちの探検隊は構成されているわけである。
私たちは、バガノートまで車を進めたが、道はしだいにやわらかくなってくるので、一本タイヤではどうも、ぐあい悪い。そこで後部の車輪だけ二本に改装した。ガソリン罐や食料品など積荷が多いので、スペアのタイヤとテントは、車の外にしばりつけてやっと処理するといったあんばいであった。
ときのたつのが、おそろしいほど速い。誰も彼も、てんてこまいをしている。ゲオルクが、落ちてきたドラム罐で脚をくじいたのは、こんなときであった。医者はすぐ手当をした。パーカー・チェンは、われわれのいる位置を天測し、また気象観測もやらねばならない。ベルクマンと他の二人の技師は、新ルートの地形図をつくり、私はノートする、他の記録に目をとおすなど、それぞれ分担があった。
静かに沈み行く太陽を見おくった、あるかわたれどき、アラッシュが長年月手しおにかけてきたラクダが一一頭、われわれの幕営地に着いた。西の地平線に、わずかに残光がたゆたうなかに描かれた、ラクダの黒い影絵像は、幻想的なながめであった。このラクダたちは、すぐる日われわれに仕えていた当時は、それぞれの左の頬に「H」の焼き印が押されていたが、あれから六年の歳月を経た今日では、その印も消えて、うち一頭だけが、かすかにそれと認められる痕跡をとどめているにすぎない。
この一頭こそは古強者《ふるつわもの》というべく、ヘルナーおよび陳《チェン》について、ロプ・ノールにもいったことがあった。こいつは、その当時のことを思い出したにちがいない。彼は仲間うちからひとり離れて、われわれのところにやってくる足どりといい、その美しい毛むくじゃらの首を差し伸ばして、食べ物をねだるようすといい、懐旧の情にあふれているではないか。私たちは、彼がなにをほしがっているのか知っている。大きい巻きパンである。私は、涎《よだれ》をたらしている口の中に、大きなやつをねじこんでやった。私にしても、かずかずの思い出をもった旧友に、ゆくりなくも出会ったときの感慨そのままであった。
十一月十四、五の両夜《ふたよ》は、気温は零下四度、完全に冬がやってきたことを示す。私たちは、はやくから起こされ、急いで朝食をすませた。焚き火は消される。テントはたたまれ、寝袋といっしょに巻きこまれた。支度はいいか? 私たちは、アラッシュにあいさつをして、うなりをあげている車の人となった。曹達湖、ウランノールをまたたくまにすぎ、波打つ草原を横断してつっ走った。途中、野放しのウマの一群が、もの珍しげにギャロップでわれわれの車についてきたが、やがてひづめの音も遠のき、われわれの背後に去っていった。ウシ車にもときどき会った。ウマに乗ったものにも出くわした。またかすかではあるが、しかしさえざえと鳴る鈴をつけた一〇〇頭からのラクダを連ねた隊商にも会った。その倍もある大部隊にもゆき会った。彼らはリャンチョー(涼州)からきたもので、密輸品を守るために、護衛らしいものもついていた。
凍結したタンガンゴールに着いた。そこから百霊廟《ペリミヤオ》へのコースは、全行程を流れにそっていくことにした。ここらあたりまでが、中国入植者の圏内で、この先は、北西のはてにかすかに波濤を見せている山々まで、内蒙古の草原である。ここには高さ六フィートほどの城壁があったが、ながい歳月を経て、いまは丸くなり、なめらかになっていた。どっちみち古いもので、その城壁には五〇〇ヤードごとにこわれた塔もついていた。
その日の目的地は、われわれの旅行の第一段階ともいうべき偉大なる聖都|百霊廟《ペリミヤオ》で、われわれの行く手のくぼ地に、その町の姿を現した。
われわれは、寺院の門近く、平坦な空閑地に乗りつけた。そこでは、タシラマ麾下《きか》のチベット人、蒙古人、中国人から成る親衛隊が、教練をうけていた。停車すると、おおぜいの人々が、われわれのまわりをとりまいた。赤い衣をまとった坊主頭のラマ僧、士官、兵隊のあいだに、数人のヨーロッパ人も目についた。団長格のラルソン閣下、ロイター通信員のオリヴァー夫妻、アヴァス社特派員のエム・ベチラート氏らがいた。彼らは内蒙古独立に関する蒙古諸王と中国内政部長との会議のもたらすニュースを記事にするために、ここ百霊廟《ペリミヤオ》にやってきたのである。
タシラマは平和的解決をえるために、いまこの聖都に住んでいるとのこと。そしていま一人の旧友ウルガの活仏デイロワ・ゲーゲンの姿が、群衆のなかから突然現われた。
私たちは、僧院から一マイルぐらい離れて幕営した。そこは、あの一九二九年十一月初めに私たちが屯営し、ヘルナーやチェンやベルクマン、それからボーリン、ベクセルたちと別れの言葉をかわした思い出の土地でもあった。その夜はじつにすばらしい饗宴の席がもうけられた。豆のスープ、揚げパンに似たリゾール、コーヒーなど。それからわれわれ一四人そろって撮影した。そのうちの二人はひじょうに若い婦人であった――ロシア人のオリヴァー夫人、それにガシャツ伝道会から派遣されている蒙古人のミス・メアリー・フォルダムである。
あくる日は、フンメル、ベルクマン、ラルソンとともに四人で聖都にドライブし、バルン・サンニット王のはなやかなフェルトづくりのユルトのある寺院に立ちよった。中国人からテーワン(徳王)と呼ばれていたこの権力者は、蒙古独立の熱烈な主導者でもあった。りっぱな風貌をした彼は、その体躯も堂々としていて、ジンギスカンの後裔たる彼らの種族の独立と自由と栄誉とを守りぬいてきたその勢力と権威とは、まことに彼にふさわしく身についているというべきである。
私たちは彼の副官の案内で、接見用のテントにみちびかれ、暖炉のまわりの座に招じられた。待つほどなくふちどりした毛皮の寛袍《かんぽう》をまとったテーワンがはいってきた。頭には小さい帽子が載っている。彼は、われわれのことをすでによく知っていた。ずっと前のことであるが、サンニット・ワンにあった彼の宮殿に一度お客になったことがあったから。私たちはしっかりと手を握りあった。
私たちの旅行について、あれこれたずねたあとでの、彼の話題は、蒙古独立に関するものであった。彼の意図するところは、蒙古のため、また中国にも利益をもたらすような独立であった。ラルソン公は、彼の顧問たるはもちろん、他の諸王の顧問でもあった。そしてこんどの会談をして平和的に締結したいと尽力していた。この会見から二年ばかりたった一九三六年一月末、私はテーワンが、内蒙古の独立を宣し、その帝位につくよう要望されていることを、北京で知った。
テーワンは、われわれがたどりゆくルートについてたずね、かつ新疆における計画について関心を示したとはいえ、こんな問題に興味をもっているというものではなかった。もし関心があるとすれば「ハミにつくには、その最短、最良のルートは、昔から帰化――百霊廟の延長なんだ」ということではなかったかと思う。
その日、もう遅くなって、われわれはタシラマの招待をうけた。彼のいる建物は、すべての僧院のうちで、もっとも美しいとの定評があった。私たちは、ひかえの部屋で一人のラマ僧にあったが、彼はわれわれにお茶をすすめたあと、まもなく会見の室に案内してくれた。タシラマは、親しみをこめた微笑をもってわれわれの待っている室にはいってきて、両手を差し出した。そして手織りの布でカバーをした長椅子に掛けるようにすすめながら、つぎからつぎと話がほぐれていった。アジアの地勢、ヨーロッパの政情、そして欧州に最後まで残っていた蒙古王たちのこと、さらにテブーに旅行したフンメル博士のこと、二六年前、私がタシルンボーにいったときのことなどにおよんだ。一九二六年、北京で私に贈ってくれた黄金づくりの指環を彼に見せると、彼は懐かしそうに微笑していた。この指環は、いままでもそうであったように、こんどの旅行でも、きっと探検隊に役だってくれるにちがいない。
私は、このとき、彼への贈物としては、『アジアに還れ』と『探検家としての余の生涯』の中国版のほかは、なにも持っていなかった。彼は、そのとき蒙古人が嗅ぎタバコを入れる、小づくりの瑪瑙《めのう》の壺を、三つくれた。その他、中国語で献題を書き、司祭長の赤い押捺《おうなつ》した近影とカラシャルトルグート旗長あての手紙を一通書いてくれた。
私たちが、タシラマを訪れてから一カ月ほどして、チベットと中国、ソヴィエト、それにイギリス領インドとの関係にあって、いろんな場合、重要な役割を果たしてきたダライラマが、ラサ(拉薩)で永眠した。一九二四年、タシルンボーから北京それから内蒙古へ逃避の旅をつづけたタシラマには、鋼鉄のようなすじ金が通っていた。ダライラマの死は、彼タシラマの前途に光明をもたらした。そして一九三五年、カンスー(甘粛)で聞いたところによると、彼は神々のおわす聖地への途上、アラシャンに立ちよっているとのことであった(タシラマは、一九三七年十二月逝去した)。
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四 ゴビをめざして
百霊廟《ペリミヤオ》での最後の夜は、テーワン(徳王)とジュンスニットからきた王との、二人の貴人の答礼を受けた。そしてひきつづき私たちは、タシラマの賓客として招待されていた。そこでは高級のラマや蒙古やチベットの士官たちにとり囲まれていた。
(われわれのテントに還って)毛布にもぐっているときであった。真夜中、鈴の音が聞こえてきた。初めは遠くのほうからであった。かすかに、ほとんど聞きわけ難いほどの鈴の音。だんだん近よってくる。その調子を聞いていると、ラクダの足音の伴奏として起こっているのだ。ひと足ごとに近づき、先頭のラクダが、テントの脇をすぎていくときは、そのひびきは、まるで耳を聾《ろう》するばかりであった。鈴の音は、いつ果てるとなくつづいていたが、やがて一つ消え二つ遠のいて、ついには隊商の列も通りすぎ、鈴の音のみが余韻をひいて、いつまでも耳底に残っていた。私は、一〇〇〇年という歳月、荒野に描かれたたった一本の路に、深く刻みこまれてきたキャラヴァンの足跡とともに、雨の日も風の日も鳴りつづけてきた鈴のひびきを耳にして、感動しないではおれなかった。鈴とともに、旅行者や巡礼者たちがくりひろげる砂漠の生活は、恍惚《こうこつ》とするような夢幻の世界が、今日から明日へつづいていることであろう。いまや、ふたたびひびきはかすかになり、ふかい闇のなかに消えてしまうまでには、だいぶ時間がかかった。
十一月十八日、トラックの出発を前にして、各車は三十ガロン入りドラム罐四十二本を積みこんだ。ラクダの糞(燃料用)、手提げ用鉄|竈《かまど》などの代金の支払いのため手まどって、出発がすくなからず遅れた。
エンジンがすっかり凍っているので、火鉢を下に入れて、暖めなければならなかった。引火の危険を感じないでもなかったが、毎日くり返しているうちに、だんだんうまくなってきた。
支度ができたところで、ある間隔をおいて、三台のトラックはすべり出した。私は、フンメル博士が操縦する小型車に乗った。ユーとベルクマンが同乗。地図作製係が、それぞれ日課にとりかかる。目標は赤い小旗で表示され、それを土中にさしこんでは、また抜き取っていく。ベルクマンの仲間は、二人の技師とチェンであった。
行くてに砂漠が現われた。ふり返ると、百霊廟《ペリミヤオ》の町は、もうすっかり見えなくなっていた。嶮岨《けんそ》な、渓谷にも似た大きな地溝帯《ちこうたい》をいくつかすぎた。その一つを越えるとき、私の小型車はブレーキがきかなくなって、その溝にはまりこんだが、幸運にも、転覆だけはまぬかれた。シャベルで一時間半も苦闘をつづけた後、やっと路上に引っぱり上げることができた。
そのあたりには、湧泉があるので、放浪のキャラヴァン連中が宿営していた。一つの泉のほとりに、蒙古兵の一隊がいた。ここはダルカンベルとミンガン旗との境界をなすところであった。黒い土に、黄色い草が一すじ、帯のように生えていた。丘の上には、石塚も見られた。それはオボと呼ばれている。その一つは、パイン・ボグド(富の神)と名付けられ、もう一つはカラオボ(黒塚)であった。一九二七年の春から夏にかけて、われわれの本部――第八号野営地区がおかれた周囲の黒ずんだ丘の一つがここである。かずかずの思い出にいろどられたフゼルツゴールの地方が、見はるかす南方に、指さすことができた。
西方の行くてには、蒙古の高原地帯が、果てしない海原のように横たわっている。草もそう生えていず、道はかたくしまってよかった。道にそって、草原には、カモシカの大群が、精悍《せいかん》な足さばきで走っているのも見えた。
またしても、時は流れ去っていく。道路を記入し、その両側のひらけた地帯の地形を測図するには、一とおりの手間ではない。ベルクマンは、先頭にあって、あるときは後尾につき、方向を測定している。小型車の中は、日の当たるがわは、まるで温室のような暖かさであった。またしても車のパンク。そのためにエッフェは、タイヤを取り替えねばならなかった。そうこうしているうちに、冬の日は光を惜しみ始め、たそがれの翼は、この静寂な世界をおおい始める。私たちは、ヘッドライトや、電気ランプの光なくしては、仕事ができなくなってきた。
その日の幕営地イクヘノール(大湖)に近づいたときには、ゲオルクとセラットによってテントの支度はすっかりできていた。ストーヴが燃えさかり、ランプがあかあかと、ともっていた。誰も寝台なしなので、地上に帆布をひろげ、そのうえに寝袋をしつらえる。そしておたがいに脚は交差して臥床しなければならなかった。万一を思って、車は風上に配置された。日記をつけながら、晩飯を待っていると、夜の高原には、吹雪が舞ってきた。テントはハタハタと鳴り、支柱はためにきしみ、ランプは揺れる。テントの棟に吹きつけてくる風のうなり。私たちは、防水布を車にかけて、しばりつけなければならなかった。見る見る雪は積もってきた。冬のよそおい。
零下一三度。夜はいよいよきびしくなってきた。朝起き出してみると、雪はあらかたとけ、空には半かけの雲もなく晴れわたっていた。太陽はたのものしくものぼってきた。僚友の一人は、うれしくないうわさを聞いてきた。われわれが近づこうとしている南のほう、ランシャン(狼山)山脈の向こうがわには、盗賊将軍の異名をとったスンの軍隊が、黄河《ファンホー》の流域にそうて、パオトウ(包頭)とウーユーアンとの地方にがんばっており、ダルハンベルやミンアンの蒙古人は、この強盗団からひどい目にあわされた、というのである。彼らはヤンチャンツェコウ(羊腸子溝)の谷間で待ちうけていて、通行人をあやめる手をつかっていた。しかし、私たちは、旅程としては、どうしてもそこを通ることになっていた。この国では、悲しいことに、正規の軍隊と盗賊軍との見わけがつかないもどかしさがある。正規兵にしても、もし自分らが受けとる給与が満足する額に足りないときは、しばしば銃やピストル、弾薬まで捨てて、強盗に早替わりをし、隊を組んで掠奪もしかねない。こうまでして彼らはらくな暮らしをしようというのである。そしてある場合は、盗賊一団が、野望に燃える将軍の幕下にはいって、その手先をつとめるという事態も起こりうるのである。
われわれは十一月十九日の行程においては、すべての火器を整備して、いつなんどきでも取り出せるように命令が出された。射手には弾薬も渡された。
イクヘノールは、エッチンゴールまでの全行程六〇〇マイルの約五分の一をきたにすぎない。この程度のスピードでいけば、私たちの目的地である旧砂漠の川、すなわちエッチンゴールに着くのは、十二月四日ごろになるであろう。しかしいまの状況は、なんとしてもわれわれに不利と判断される。輸送のことはもちろんだが、毎日の仕事を、それぞれの部署においてとどこおることなく運んでいくようになるまでには、手間ひまがかかっている。地図の作製には以外の時間をくう。おまけに、道は悪いときている。西へいけばいくほど悪い。それに予期せざる故障が起こり、邪魔がはいって、いっそう遅延を促すことになった。最初の四日間は、まあよしとして、五日めは、日は照り映え、万事うまくいくかにみえたが、それもつかのま、われわれの明るい見とおしは、へし曲げられてしまった。
夜のあいだに、機械油が凍って石のように固くなった。これを溶かすには、とても時間をくい、おかげでゲオルクとセラットの二台のトラックがイクヘノールを出たのは、もう日がだいぶのぼってからであった。地図づくりの連中は、それよりもさらに遅れて出た。
行くてチェンダメンへの隊商道路は平坦で固かった。そしてどこまでも丘陵がうちつづき、ところどころに草むらがあった。ゲオルクはその途中で羊の大群を見て驚いていた。彼はヒツジ飼いから、ヒツジ二頭を買った。銀五ドル。すぐ屠殺《とさつ》してわれわれを待っていた。毛皮は、ヒツジ飼いに進呈した。
あたりには、石を矩形にすえて、古い墓の目じるしとしたものがあった。フン(匈奴)あるいはトルコ人の時代からここにあったものであろうか。
ホニン・チャガン・チェラゴールの谷に着いてみると、半ば凍った小さい流れがあった。その岸は、一九二七年私たちが宿営したところである。この付近には、中国の移住民たちが定住していた。五九三頭というラクダをもったキャラヴァンの一隊が、名入りの旗三|旒《りゅう》を押し立てて、西方から堂々と、足並みをそろえてやってきたが、これらのラクダは帰化《クェイファ》および海岸地方に送り出す羊毛の梱《こり》を運んでいたのである。
私たちはもう一つの小さい流れ、リウタオコウ(六道溝)を越えた。その川は、黄河に向かって蛇行している。
名もない小さい山脈や漂礫《ひょうれき》がうち重なる、荒れ果てた村を通り越して、ヤンチャンツェコウ(羊腸子溝)の谷にはいっていくと、流れという流れは、みな凍《い》てついている。私たちの行くてには、いままさに荒野のかなたに沈まんとしている太陽の残光を浴びて、黒い影絵を描きながら前進していくゲオルクとセラットの車を見つけた。ゲオルクは、岸に出ていったようであったが、その先は直線的にのびていたのだろうか、あっというまに後部車輪が、厚い氷の表面を破って、|えんこ《ヽヽヽ》してしまった。前輪はあごを出したように空に浮いている。みんないっせいにとび出してきた。つるはし、鍬《くわ》が活動をはじめる、氷との取っ組み合いだ。ドクトルは、川幅のもっと広いところから渡ろうとしていた。彼は私の小型車を運転して、フルスピードで氷のうえに出ていった。そしてゲオルクらの障害地点までやすやすと近よっていった。
そこで、いまテストした氷上コースを、エッフェがまず渡ることにした。渡ったところでゲオルクの車を引っぱりあげるという算段である。エッフェは全回転で車を走らせた。その車は指定の積載量以上に積んでいたので後部車輪が、左の方だけであったが、またしても氷を割ってしまった。車体は左にかしいで、いまにも横倒しになりそう。私たちは、この二台のトラックを凍る川に釘づけされたわけである。積荷をおろさなくては、どうにもならない。夕闇はいっそう濃くせまってくる。燈火がつき、幕営用意を急ぐ。あのうわさの高い盗賊団地帯を、夜中に越そうという案は、これですっかりおじゃんになってしまった。
燃料はほとんどなかったので、ドクトルは小型車を走らせて、中国人の入植地ウランハタクを訪れていった。そこには貧しい数家族が、病気ときびしい孤独に堪えながら、希望なき暮らしをしていた。彼はさっそく病人を診察し、繃帯《ほうたい》をしてやった。おかげでやっと三袋ほどのラクダの糞を手に入れることができた。かくしてこの夜の焚き火はできたのである。こうしているあいだに、ゲオルクの車は、氷から這い出て、エッフェの車を引っぱり上げるのに成功したとはいうものの、車はひどいことになっていることがわかった。後輪の軸箱がつぶれてしまっているのである。われわれは、またしても憂鬱になり、意気が上がらざることはなはなだしい。
いったいどうしたらいいのだろう? 夜遅くまで焚き火を囲んで協議をした。まずとらなければならない措置は夜警である。二時間交代でやるにしても、この分では当分ヤンチャンツェコウを動くことはできそうもない。
後部の全体を取りはずされたトラックは、ドラム罐をつぎたして、その上にすえつけられた。翌日はまる一日、車輌全体の精密検査についやされた。結論は、北京か天津《てんしん》にいって、後部軸箱の新品を調達し、同時に新しいトラックを一台買い入れること、そのためには、ゲオルクはジョムカを連れ、小型車を駆って百霊廟から帰化を経て出かける、しかもジョムカは帰化からすぐ引っ返してくる、というのが全員の意見であった。もちろん、ゲオルクは必要品と新車を手に入れたらすぐ帰ってくることはいうまでもない。そのあいだ、われわれはジョムカが帰ってきしだい、ゆるゆると西方への道をたどっていくことにした。
ああ、それにしても忍耐が、あの僧院のみで見られるきびしい忍耐が、要求されることだろう。われわれの、やみくもに近い探検旅行にあって、これがはじめてというのでもないが、またこれが最後というわけにもいかなかった。いまぶきみな危険地帯にあって、もっとも強固な結合が必要なときに当たり、われわれは、かくもわかれわかれにならなければならないとは。場所もあろうに、ここでわれわれは五日間もときをすごさなければならないのであった。
十一月二十一日、黎明の中を、きびしい寒風をついて、ゲオルクとジョムカは出発した。ジョムカはその日のうちに帰ってくるはずであった。しかるに、|なし《ヽヽ》のつぶてである。一日すぎ、二日待った。もちろん、通行証を持っているが、盗賊諸君にとって、そんなものがなにになるというのか。私たちの心痛は、時間とともに濃くふかまっていった。セラットは、ヒツジの肩胛骨《けんこうこつ》で、彼の運命を占ってみた。焚き火で描かれたそのひび(亀裂)の割れ目を見る。縦にはいったひびは、骨の頸のところまでは達していない。出てきた卦《け》によると、ジョムカは百霊廟より先にはいっていない。しかしこの卦はなにかの手ちがいがあったらしい。ジョムカは、セラットが予言したごとく二日のうちどころか三日たっても帰ってこないではないか。しかし、彼はついに帰ってきた。ゲオルクが汽車で天津にいくことにしたので、帰化で別れてきたのである。そこへ、こんどはベルクマンが床についた。高熱である。数日は安静を要するというので、われわれの出発は、またしても見あわせなければならなかった。ユーもまた病気をした。彼はエッフェの車を引きあげるとき、鼻に怪我をしたのである。いまやテントは病棟に早替わりしてしまった。
その日、ガソリン隊が、われわれの幕営地を通過していった。五ガロン罐を五つずつ両側にしばりつけたラクダが二三頭。これによるとエッチンゴールに運ばれる油は、全部で一一五〇ガロンということになる。残りの一四頭は、隊員の装備、食糧などを受けもっていた。
二人の病人は、十一月二十五日までは、出発することをドクトルから禁じられていた。そこで、二人を病棟に残して、他のものはひとまず西方への旅をつづけることにした。蒙古人チョクッドゥングはジョムカと二人でヤンチャンツェコウに残り、二六個のガソリン罐の見張りをする、われわれの二台のトラックは、大罐六個と二五個の小罐、計六一〇ガロンを運ぶことにした。
ヤンチャンツェコウの名にたがわず、道はつづら折りの渓谷をくだり、低い丘陵にそうていく。川という川は凍っていたが、いつかそれも砂地に代わり、やがてひろやかな原野に出た。丘の墓碑をすぎると、ランシャンの鋸歯《きょし》状の峰が、南方の空に、くっきりと浮いて見えた。ときには、ラクダの白くさらされた骸骨を見た。このあたりは、オオカミ軍の寄り場であった。土地は黒くいろどられている。熔岩のためである。野生の馬が、われわれの車に歩調を合わせて走ってくる。みごとな一群であった。
われわれは、ほんとうの砂漠には、まだ踏みこんではいなかった。この地域には、まだ居住区が点々とあり、ラマ寺も遠く見えていた。ときには、ウマに乗り、ラクダを連れた蒙古人にも出会うことがあった。またカモシカ群のうっとりするようなさまよい歩きも見た。
まもなく、ガソリン隊を追い越した。ラクダは、やや神経をいらだてていたが、まだ自制する力をなくしている、というほどにも見うけられなかった。丘にはラクダの肉をねらうハゲタカが、鋭い目を磨ぎすましていた。
私たちの幕営地は、その日ハイリュートゴールの左岸に求められた。たそがれどきに、ガソリン隊のラクダは追いついてきた。彼らは、トラックが渡河しやすいようにと、その日のうちにドラム罐の大部分を向こう岸に運んでくれた。
幕営地は、低地であった。海抜五〇〇〇フィートしかない。おかげで気温も一三度八分もあった。朝の献立はおかゆ、パン菓子、ココアであった。手ばやにかたづけ、私たちは小型車で向こうへ渡った。幅二〇〇ヤード、流れは三つの小流に分かれていた。そのうち二つは凍っていた。私たちが選んだコースはじめじめとしていた。ラクダの糞がうずたかくころがっている。これを見たセラットは、車を止め袋の中に詰めこんでいた。晩の燃料にするのだ。
その夜は、大きい石塚があるホンゴリンゴールのほとりで幕営した。われわれのテントの上手に、ガゼル(一種のカモシカ)がたくさん出てきていた。水を飲むためであろう。ベルクマンがそのなかの一頭をねらった。叢林の茂みに逃げこまれると、暗闇とあって、手はつけられない。しかし、私たちが最近手に入れた蒙古犬のペレが、ガゼルのあとをつけていった。われわれが駆けつけてみると、一頭ぶっ倒れてキーキー白い歯を見せている。エッフェが一突きでその苦痛を取り去ってやった。
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五 ひととき足をとどめて
つぎの夜は気温が急に下がり、零下一〇度七分。十一月二十七日の太陽がのぼろうとする一時間前、われわれの手もとには、もう一片のラクダの糞もなくなっていたので、ランプの光のもとで、ぶるぶるふるえる始末だった。空は凍るかと思うほど冴《さ》えている。大地はダークグリーンの弓状を描いて、地平のかなたに、ぐいぐいとふくれ上がってくるに従って、一とき、あたりの明暗のバランスを破るかにみえたとたんに、太陽が大きく浮いて、砂漠を色ぞめしていった。と同時に大地の影はうすれ、やがてまったく消えていった。
このさい、太陽こそ唯一の熱源である。私はその光を誘いこむために、テントの垂れを巻き上げた。ぱちぱち燃え上がる焚き火もないテントの中で、寝袋を這い出て、身支度をするということは、そうとうつらいものである。
おまけに、自動車のモーターが凍っているというのに、燃料欠乏で、暖める手だてもない。やっと一台が動き出したので、自力で走れるところまで他の車を、引っぱって活動を開始した。
ペレが近くにいる蒙古人パオ(包)の雌イヌと意気投合して、どこへいったのか、姿をくらました。私たちの出発まぎわに雌イヌのほうが、食べ物をあさりにやってきた。ペレもつづいてそのあとを慕って現われたところをさっそくつながれ、小型車に監禁、ここに道ゆきも終止符をうつことになった。
このあたりは草の茂みも深く、行くてにはいくつかの渓流があり、それがことごとく凍っている。砂礫やごろた石がむき出しの沖積層の谷も何度か渡った。隊商路も入り乱れ、交差しているところもある。その中には、このあたりの小地域だけのものもあり、そういう道は、たいてい寺院に通じている。またフェルトづくりのユルトやパオの中国商人の店に通じているものもある。遊牧者のユルトは、このあたりには、ほとんどないようだった。
ガシャツに幕営したが、そこには帰化《クェイファ》からハミへ輸送される商品の大きな山が八つ、幌でおおわれて積んであった。これらの荷は去年の新疆《シンキアン》の反乱で、すべての貿易品の動きがとまったとき、投げ売りされたものである。一軒の中国人貿易商社と、奇妙な三棟の住宅もあった。ドンドゥール・グンの利益を守るために、蒙古軍の分遺地方隊が、この四つの豪壁のうちにいるのである。税関は国内関税を徴収し、通過する隊商をしぼっていたのである。私たちがここに着くと、すぐあとから南京巡遺の監督官がきたので、われわれに関するかぎり、リシャツその他のところでも、収税の発動はしないようにとの伝達がゆきわたっていた。
奥地には入れば入るほど、道は羊腸として凹凸もひどくなってくる。草も生えたところがあったが、荒涼として見るかげもない不毛地帯であった。われわれは海抜五六六〇フィートの高地を越えていった。そのあたりには、路傍にも丘陵の背にも、カモシカが枯れ草をあさり、遊んでいるのが見られた。彼らは、奇妙な習性をもっている。まったく不意に出てきて、|ばく《ヽヽ》進している車のすぐ前を横切るというのは、なにを意味するのか。
小さな峠の頂上には、石塚が築かれていた。一九二七年の夏に通った、あのモルグチックの狭い谷に通じる道とは反対に、北方への進路をとった。あの黒い丘は、南方はるか彼方に見えていた。羊腸路と名付けられたこのモルグチックの峡谷への道は、一九二六年に、オーエン・ラチモアが通過したルートで、そのときの旅の記録は、すぐれた旅行記として刊行された。いまわれわれがたどっている道は、一八八七年四月、フランシス・ヤングハズバンドの旅したコースである。ここよりはるかに北に当たって、一本のルートがあるが、外蒙古共和国に通じているために、現在では使用可能の見込みはなかった。
風景はいよいよ単調、荒涼としてきた。行くての空にはつねに暗灰色の雲が低く垂れていたが、吹きくる風は鮮烈で、砂丘は筋道通りに形づくられる。
われわれのテントは、ウニェンウス(カラスの水の意)の渓流のほとりに張られた。すぐあとから、妙な乗用車がやってきた。一一人の男と一人の女が乗っていた。彼らは幕営の用意もなければ食糧も持たず、そのうえ目的地のニンシヤ(寧夏)へ行く道すら知らないというのである。夜は商人や遊牧者の軒下を借り、たずねたずねここまでたどりきたというのである。帰化を出て、アラシャンのワンヤフを経由していくつもりだといっていた。その運転の自動車は、スン軍の侵寇に対する防衛の責任者マフンピンのために、天津で買ってきたものだそうである。マフンピンの従兄マフンツクエイ(馬鴻逵)は、ニンシヤ省政府の主席で、例のマフンシャン(馬福祥)の養子になっている。マブファン(馬歩芳)は、現在、青海《チンハイ》省政府主席であり、シーニン(西寧)にあっても、政府枢要の椅子を占めていた。彼ら「馬《マ》氏」はツンガン(東安)人〔漢化したトルコ族の回教徒〕の出の一族、イスラム教徒である。「馬《マ》」という性は、ムハメットの意がふくまれ、そのうえ「ウマ」という意味もある。「五大馬氏」とは、その郷国では誰ひとり知らぬものはないくらいである。われわれは、一、二カ月後には、いまひとりのマ氏――彼らの同族マ大人と知合いになる機縁をえたのであるが……。
われわれが着いた夜、ウニェンウスに、三二頭のラクダによって編成された一団の隊商がついた。皮革や毛獣皮を、エッチンゴールからパオトウ(包頭)に運んでいるところであった。彼らはハイリュートゴールで、パオトウからきたという一人の男に出会った。そこで、パオトウへの道を開き、またスン将軍の組織する盗賊団らは、どこに根城をおいているかを聞き出すことができた。もし盗賊団を回避するルートが選べるなら、帰化までの行程をそのまま行って、彼の地で荷さばきをやって、その売り上げで、料理用具――壺や煮鍋《になべ》など、それから罐詰類、鉄、青銅製品を仕入れてエッチンゴールに引き返したい、というのが彼らのスケジュールであった。隊商の棟領は二人いて、彼らは年二回このコースを往来しているのであった。その話によると、外蒙古の群盗が網を張っている地帯は、エッチンゴール西方、七日の行程あたりから、ハミに出るコースの至るところ、出没しているということである。
われわれは、ここで一日の休養を必要としていた。ベルクマンは病気になるし、従者のうちにも熱を出し、頭痛がするというものがいたから。それに車も一度精密検査をする時間がほしかった。
十一月二十九日、気温は零下一三度一分まで下がった。故国チャールズ十二世陛下のご誕生記念日は、朝から雲が低くたれていたが、後、晴れていった。
私がノートを整理しているとフンメルは、日当たりに小型車を出して、快適な研究室をつくってくれた。われわれのテントの棟には、陛下ご誕生を祝す国旗がひるがえっている。
十二月一日、空は碧玉のように晴れあがった。夜の気温は、この時期としては変則なもので、二一度二分もあった。ベルクマンは、寝袋の中で終日横臥、黄疸《おうだん》は気ながの病気である。出発の第一歩から予測しがたい困難がつづいているが、しかし、辛抱する以外にはない。たたけよ開かれんだ。
われわれのガソリンを二十日のうちにエッチンゴールに運ぶことを約束した四人のキャラヴァン商人は、ワイントレイに宿営して、われわれの着くのを待っているようにいってやった。われわれがエッチンゴールに着くまでは、彼らに会えるか、どうか。
百霊廟《ペリミヤオ》で出会ったトルグールの巡礼隊が、ラクダに乗って、われわれの幕営地に着いた。赤と青に染めわけた毛皮の外套を着た男たちのラクダに乗った姿は、深い碧空に映えて、まったくこの世ならぬ見ものであった。日に焼けた一人の若者が、私のところにたずねてきた。そしてゆったりと腰をおろして、動く気配もない。彼はそこでにこにこしている。ついに父親らしい人が呼びにくるまでいた。彼らキャラヴァンも、丘を越えて、西方の草原に消えていった。
ドクトルは、われわれの近くにいる中国人の商人から、大きいフェルトづくりのユルトを借り受けてきた。それをベルクマンの病棟に当てることにした。
十二月二日、夜の気温は二三度二分にものぼった。ゲオルクはいったい、どうしたんだろう? いま、どこにいるだろう? いつ帰ってくるだろう? その夜は銀盤のような月が空にかかり、荘厳をきわめていた。キャラヴァンの往来もなく、もの音一つなく、東からも西からも、なんのニュースもこなかった。降臨節最初の日曜日は、あいかわらずさわやかに晴れあがった空に、毛すじほどの白い雲が、軽やかに流れていた。
エッフェは、チェンといっしょに、すぐる一九二七年のルートを南の方へ車を駆って、測地をやっているノーリンと連絡を始めた。車はまもなく、帰ってきたが、チェンだけは写生をするために途中でおりたそうであった。セラットは、またもや骨占いをやった。それによると、ゲオルクが帰ってくるのは、今月一六日という卦《け》が出た。指折ってみれば、彼がわれわれのところから出ていったのは、もう二週間も前である。待ちわびる気持ちのなかには、一抹《いちまつ》の暗い不安がなくもない。とはいえ、いまいるわれわれ隊員のあいだには、何ら懸念すべききざしはない。天候がどうあろうと、みんな悠長にかまえている。チェン、ユー、クンの中国人の僚友の落ちつきはらった態度は、このさい大きい作用をしている。彼らは、哲学者であり、楽天家でもある。しかも彼らは、このアジア心臓部の奥ふかくわけ入る以上は、測り知れない難儀な出来事がふりかかってくるだろうということは、出発前からわかりきったことではないか、というふうに割りきっていた。
エッフェは、三匹のヒツジを手に入れてきて、これを料理した。また彼はセラットとカモシカもとってきた。われわれは、ゆたかな食糧を手にしたので、西方への途上、当分遊牧民にたよる必要はなさそうである。この時期を利用して、一日かけてテントの虫干しをした。
四日、夕方から、雪片が舞ってきた。もしやこの雪にゲオルクが閉じこめられでもし、あるいは吹きだまりに落ちこむようなことでもあると、いったいどうなることだろう。冬将軍の襲来。いっそう辛抱が必要なときがきた。どんなにしてもこの危難を切りぬけていかなくてはならない。私たちが、かつて企てようとしたことを、いま中国政府のために、一つの事業としてりっぱに成しとげるということは、われわれの光栄でもあるはずである。夜闇がせまってきた。雪片は、ほとんどあるかないかの、かすかな音をたてて終夜舞っていた。テントは、雪の重みで、しだいに垂れてきたが、内部はかえって暖かくなった。夜があけても、雪は降りつづいていたが、昼ごろようやくやみ、日射しが輝いてくると、雪はみるみる溶けていった。
ドクトルは料理の手ぎわもすぐれているが、夕飯は、彼がうでをふるってくれた。カードが手もとになかったので、器用なユーが名刺を利用して、一そろいつくった。この名刺が、そんなことに役だとうとは思わなかった。
中国の慣例として、旅行者は、各地の税関にはもちろん、各地駐屯の軍隊にも、名刺をおくことになっている。そんなこともあるので、私はそうとうつくって持っていた。仲間のブリッジ愛好家のためにも、わたしは名刺の提供を喜んだわけである。さっそく卓を囲んで始まった。勝負は午前一時半までつづいた。夜半、東西を駈けぬける、とてつもない嵐が襲ってきて、深い眠りから呼びさまされた。テントはいまにも倒れそうであった。隊員の総動員で、テント杭《くい》は凍った大地に打ち直され、ドラム罐はテントのすそに押し石がわりに置き並べられた。風はいっそう募り、猛りたち、歓声をあげて襲いかかってくる。その嵐の中で、テントはぱたぱたと訴えるような、あるいは話しかけるような、悲痛なささやきをあげていた。風は終夜威勢をふるいつづけていた。
朝、寒さはいよいよきびしく、空は低くたれ、暗澹たる一日が始まった。寝袋から出るのも、なんとなく尻ごみしたくなる。私は、自動車の位置に不安を感じた。それというのも、われわれの炊事用の火の子が油に引火でもしたら、という懸念があったので、エッフェにいって、風かみにまわさせた。火が起こったところで、私は服を着た。そしていまは病棟になっているユルトに移って、朝の食卓についた。
ゆうべ、ドクトルが、私のベットをつくっていたとき、一匹のトビネズミが、とつぜん現われたが、今朝はまた病棟のユルトからも、そして他のテントからもとび出してきた。これら小さい齧歯《げっし》動物は、冬眠しているところを、心なくも妨げられたというわけである。きっとわれわれの焚き火の暖気で、めっぽう、春がはやくやってきたものと思ったにちがいない。
十二月七日、夜の引き明けにエッフェとセラットは空車を駆って、ヤンチャンツェコウ(羊腸子溝)のほとりの幕営地まで出かけた。そこには、ゲオルクの帰りを待ちわびながら、破損の車を見はっているジョムカとチョックドゥングの二人がいた。エッフェたちは、三日間いて、ガソリンを積めるだけ積んで引き返してくることになっている。それはゲオルクの積荷を、たった二、三日ほど分担してやるという以外には、なんの役に立つわけのものでもなかったが……。
パオトウゆきのキャラヴァンが、また通りかかった。彼らはラクダ一二頭から成り、エッチンゴールからきたものであった。われわれは、パオトウの郵便局で投函してもらうように、郵便物を中国人の馭者に頼んだ。われわれのクリスマス郵便は、当日までには故国に着くように、とっくに出しておいた。この奥地の砂漠にあっては、われわれの動静を外部に連絡してくれるものといっては、西に向けていくキャラヴァンの他は手だてはなかった。
十二月十一日、すっかり闇に閉ざされている荒野を、野のけだものの瞳のように、光り輝くものが|ばく《ヽヽ》進してくる。自動車のライトだ。エッフェとセラットが一六本のドラム罐を運んで帰ってきた。彼らの話によるとヤンチャンツェコウの二人の蒙古人は、あまりながいあいだ待たされたので、休養どころか、むしろノイローゼ気味になり、辛抱できそうもない状態であったという。
その夜は、音律のさわやかにひびく鈴の音が、西の方から聞こえてきた。新たなるキャラヴァンが到着した知らせであった。郵便係長の栄誉をになうクンは、到来のキャラヴァンが、明日朝パオトウに旅立つまでに、各人の出したい手紙をまとめておくようにふれてまわった。このキャラヴァンは、羊毛の輸送を目的とするもので、一六頭にぎっちり積んでいた。一隊のあいだには、妻子連れの商人も見うけられた。彼らは、二カ月も前に、アンシー(安西)を出て、ペイシャン(北山)の南麓ルートをエッチンゴール河畔のパイン・ボクドにとり、砂漠を横断してきたのであった。その話によると、河流はいまだ凍っておらず、三、四フィートも水かさがあり、ラクダの渡河は困難なので、エッチンゴールに沿ってマオムーまできて、砂漠を横断し、ウニェンウスまわりのコースを選んだとのことである。途中の国内関税として、二カ所で合計一三〇〇銀ドルを徴収され、しかも、これからパオトウに着くまでに、同様の関門がまだ何カ所かあるわけである。彼らの羊毛の仕入れは、アンシーで百斤につき四ドル、これをパオトウまで運べば二一ドルでさばけるといっていた。彼らはこれほどの高率関税にもめげず、こうした旅行を年二回やり、そうとうな利益を上げているようである。彼らは一人のコックを連れており、テントを張ると、肉入りのすばらしいマカロニスープを全員二十五人に供するのであった。彼らの慣例によれば、料理方は、その隊商仲間のうちで、ある種の特権を持っているそうである。たとえば、個人的な財物を保有する権利もその一つであるし、料理に要する必需品、水がめなどは、第一列のラクダの背に積む権利、といったたぐいのものである。まあ、いわばそのために、他の仲間の連中が、荷をおろしたり、幕営準備をしているあいだに、食事の支度をととのえることもできよう、というもの。彼はまた途中で屠殺したヒツジの毛皮はすべてもらう、という特権も許されているという。
商人の話によると、マブファン(馬歩芳)将軍治下において、唯一のオアシス的位置を保っているアンシーの町は、「皇帝街道」たる「シルクロード」にあるスーチョー(粛州)や、カンチョー(甘州)などと同じように、治安は申し分ないそうである。マブファンは、現在はカンスー(甘粛)から新疆《シンキアン》に通じる道を封鎖しているともいった。
侵略将軍マチュンイン(馬仲英)――馬《マ》大人は、話によると、トルファンにその統監司令部をおいて、いまなお三〇〇〇人の親衛的な部下をもち、またハミにも、分遺小隊をおいているということである。
そして彼らは、語気も強く、
「もしも、マチュンイン発行のパスをおもちでないのであったら、ハミゆきは、断念なさったほうがいい……」という。
「それに……」
と彼らはさらにつづけて、
「エッチンゴール西部山岳地帯には、トルコ人やイギリス人の群盗がばっこしていますよ……」
と警告してくれるのであった。
私は思うに、彼ら群盗団にしても、われわれを襲撃することは、よもやあるまい。
私はさらに、マオムー経由のコースについて、往来可能かどうかを語りあった。それにしても、現在のところ、どっちのコースを選ぶかなどということは、早すぎるきらいがある。先へいけば、もっと確かな情報を知ることもできるであろう。われわれのもっとも興味を覚えたニュースは、ペイシャン南麓地帯の、アンシー――マオムー間の砂漠のコースに関するものであった。いまやわれわれは、ウニェンウスについては、知りすぎるほど、各般のニュースが手に入った。これらの話を聞いていた昼間は、テントをなぶりゆく風は、春のとろけるような、なよなよとしたものであったのに、いまやウニェンウスでは、寒気のきびしさはいっそうあらあらしく、雪も多い、とセラットはいう。雪といえば、この地方のキャラヴァンコースのうちで、いちばん降雪量の多いという彼の言葉を裏書きするように、ベルクマンも、かつて二度もその地で遭遇した大雪の話を持ち出した。
いまや、ベルクマンも、エッチンゴールへの自動車旅も可能な程度に回復したので、十二月十四日は、早朝を期して出発するように、万事手ぬかりなきよう命令が出された。これはわれわれの旅行の新段階ともいうべく、また、新生の第一歩を意味するものとして、新疆省の国境をめざして、いよいよ踏み出すことになった。その地こそは、未知の運命が、いかなる態勢で、われわれを待っているだろうか。
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六 ゲオルクを幕舎に迎えて
十二月十四日、われわれが、テントから出たときは、いまちょうどのぼろうとしている太陽のさしくる光に染め分けられて、大地の影が、西のほう荒野いっぱいに描かれていた。空は鋼鉄《はがね》色にふかくしずまっている。
テントを仕まい、梱包《こんぽう》して車に積み込みをやっているあいだに、われわれは食卓についた。車に乗りこむ。進路をモルグチックからの道を、北路から南路に向けて、南南西にとった。
花崗岩《かこうがん》のあいだをいく。右手に、三十個ばかりの石を並べた石垣が見えてくる。長さ五〇ヤードぐらいのものもあろうか。ベルクマンによると、この列石は一つの暗号的記録で敵軍を何人くらい殺したかを表示している、ということである。トルコ人が残していったもので、東部蒙古には、いくらでもあるものだとか。彼はそのことを、大汗《たいかん》の宮廷を訪れた旅人の記録のなかに見つけたそうである。
道には、ときどき通せんぼうをするように小丘が頭をもたげ、枯れた草むらが、車のじゃまをする。これらを避けながら走行をつづけることは、ずいぶんわずらわしいことである。丘陵の一角には、野ウマが、カモシカの群れといっしょに、枯れ草をあさっているのが見えた。|ばく《ヽヽ》進するエンジンの音が近づくと、彼ら動物群はいっせいに驚いて、見えなくなってしまった。ここから南方に山が見えたが、あれはランシャン(狼山)山脈の支脈であったろうか。その支脈からは、西北西に向かって水のない、かわいた水路が走っている。その河床は、砂ばかりで、夏期は、ここの通行はいまよりずっと困難であろう、と見うけた。
このような地帯は、たった五キロを走るのに、一時間もかかることが、たびたびであった。
われわれが南方コースへ出て行くと、カルカ族の巡礼者に出会った。たった二人である。彼らは、路ばたに休んでいたが、荷物を運ぶウシ、ウマもいなければ、乗るラクダももっていなかった。まるまる歩いて遍歴しているのである。そこにある荷物を見て、驚いたことには、袋のなかに毛皮にくるまった赤ん坊が、すやすや眠っているではないか。彼らは、巡礼用具――テントも食糧も着替えの衣類も――すべて持って、とにかく一本の杖にすがって自分を運んでいるのである。
いまや、ラオフーコーの近くまでやってきた。この「虎の谷」は、標石がごろごろころがっているので、腰高の二輪車でも、通行困難である。われわれの進んでいった道というのは、風雨にさらされて、裸になった、丘陵と丘陵の谷間に通じていた。ベルクマンが、一九二九年十二月二十日に通ったときは、雪が一フィートも積もり、気温は零下二二度にも下がったそうである。われわれが通過したときは、零下一五度七分を示していた。
セレボンの谷までくると、リャンチョー(涼州)からやってきたキャラヴァンが休息していた。彼らは、商取引のためこれから東方に向かって旅をつづけるところであった。カササギとハトのすみついているこの深い谷では、いろいろな難儀に出あい、また不愉快なことも多かった。この谷をやっと出はずれると、ふたたび平原に出ることができ、本当に救われた気持ちでほっとした。そこではまたリャンチョーからきたキャラヴァンにゆきあった。中国人の馭者がゆうゆうとラクダの上で、はでな服のすそをなびかせている。
ベルクマン、ボーリン、ヘルナー、ベクセルの僚友たちが、一九二九年のクリスマスをともに祝福したあと、それぞれの自分のコースに分かれていったというダル・ウラン・オホを通過した。またしても、われわれの前進をはばむものが出てきた。浸食段丘、すぐくずれる土地、これらの難場は、ともすれば進行に手まどった。またキャラヴァンがやってきた。衣類、ろうそく、茶、ハタメンタバコを積んだ大がかりな一行は、エッチンゴールを経由、スーチョー(粛州)にいくそうである。ロバを連れた旅行者のグループも同じ方向に急いでいた。ここには、一組のユルトがあって、旅ゆくもののため、ミルクその他の品物をあきなっていた。われわれが小憩しているとき、ニンシヤ(寧夏)からきたキャラヴァンも見た。彼らは、アヘンの密貿易を目的とするものらしく、らくだの背の羊毛のなかには、小箱詰のものが隠されていたようである。
はるか南方に望み見てきたランシャン山脈の山稜が、意外にはっきり見えだした。その手まえには、テーブル型のテプチが、小さいながら堂々と山すそから峰までよみとることができる。そこでは、かつてわれわれの遠征隊が、豊富な化石層、なかんずく沼沢や湖に棲息する大トカゲの化石を発見した。その日は、ハラ・トロゴイまできて車を止どめた。一七時三〇分であった。この地名は、すぐ近傍の黒い丘にちなんでつけられたのである。夜の寒かったこと、気温は零下一九度一分まで下がった。
明くれば、太陽は燃えさかるダイヤモンドもかくやと思うほど、きらきらと輝きながら地平のかなたにのぼってきた。九時、車の内は暖まってきたが、外は切れるような寒さであった。金属類を手にする隊員にとっては、ことにひどかったにちがいない。波濤のようなうねりのつづく荒野の上は、今日の晴朗な天気を約束するかのように、深い紺碧をたたえている。われわれは、夏期雨が降ったときだけ水が流れる河床を越え、ゆるやかな丘陵をぬっていった。そこには、あの優美なともいいたいほどしなやかなカモシカが、静かにたたずみ、まもなく西のほうへ見えなくなっていった。越しかた、東のほうは、目路《めじ》はるか、どこまでもさえぎるものもない。一九二七年の遠征旅行でわれわれが、文字どおり静寂な何日かをすごしたあの僧院都市シャンデミヤオは、ここから二日行程のところにある。
路傍に、帰化《クェイファ》にいく隊商のテントがあったので、われわれはパンクしたセラットを待つことにした。ここのキャラヴァンの連中は、百頭からのラクダに、薬草やその根などをつけてスーチョー(粛州)を、もう一カ月も前に出発してきたものであった。その品の値だんは、一〇〇|斤《きん》あたり二〇ドルもするとか。二人の中国人がラクダをもち、二人の商人が賃借りして品物を運ぶため一六人の馭者を雇ってきていたのである。彼らは、油煙ですすけたテントに招待してくれた。一歩踏みこむと、そこにはトロックが仕かけられ、二つの料理鍋が、もうもうと湯気を立てていた。中国出来の茶碗にお茶を入れ、またコムギ粉や肉入りスープが出た。見たところむさくるしいようでも、こうしてもてなされることは楽しいことである、とりわけ旅行にあっては。彼らにしても、こうして訪問をうけることは、一つの名誉と心得て喜んでくれ、こちらも歓迎されていると思えば、愉快にきまっているではないか。
果てなき荒野をゆく隊商の途上の生活は、まったく絵のように多彩で、われわれの空想をかぎりなくそそるものがある。彼らは、親代々このような生活を受け継ぎ、今日におよんでいるのである。そのみなもとは、伝説の時代までさかのぼりうるであろう。それほど大昔から、このアジアの広大な土地を、鈴を鳴らしながらゆき、また帰ってきた隊商たちと、そっくり同じように、いまもわれわれの前にある。当時もいまも、ちがうところとてなく、人もラクダも、国土も気候も、これに対して、誰ひとり変革をもちきたそうとするものはなかった。
中国隊商の人たちは、自分らだけの同業組合をつくっている。彼らは、大昔からの律法をもち、伝統、慣習のなかでもし反抗したり、違反でもすれば、自分の社会的声望がまるつぶれになることを覚悟しなければならない。
中国隊商のもっているユーモアこそは、共通の特色といっていい。旅にある彼らの生活は、はた目にはいかにものんきそうだが、ひと皮むくと、ひととおりの難儀ではない。なにしろ手当といったら、月に二シリング以下で、しかも粗末な食事に耐えていくということは、誰にでもやれることではない。彼は、一つなぎのらくだの群れを率いて、果てしなき道を、その日その日を歌に託して歩いてゆくのである。冬季には、夜道をたどるのが原則だ。それというのも、昼間は、草むらを見つけて、そのかわいてよく実のはいった草をゆっくりラクダに食べさせなければならないから。そしてつぎの水場につくと、引き綱は順序よく解かれ、またたくまに、背の荷はおろされて、つぎつぎと整頓していく。夜明けを待って、から身のラクダを連れ出して飼い、水を汲み上げてたらふく飲ませる。そうこうしているうちに、料理壺はたぎり、茶釜《ちゃがま》のうなっているテントのしたに集まっていく。彼らが長い銀製の雁首《がんくび》をくわえくつろぎ、ながながと寝そべるときこそ、人生の醍醐味《だいごみ》ここにありというわけである。食べ、飲み、そしてタバコを吸いながら駄べりあっているうちに、誰彼ということなく、毛皮の外套一枚かぶって、ふかい眠りにおちていく。そしてそこにくりひろげられるのはシラミ群の大饗宴である。
西の地平線が茜《あかね》に染まり、やがて闇が押し寄せてこようとする前に、いよいよ出発の合図が起こる。顔も洗ったことのない馭者連中は、眠い目をこすりながら、とびはねて草むらからラクダを集めてくる。手ぎわよくそこにすわらせると、荷鞍をつけ、荷物を積む。荷をしばる秘密は二つの環と掛けくぎにある。数百頭のラクダを連れたキャラヴァンの馭者が、またたくまに出発の準備を完了する手ぎわを見ると、まるで魔術をつかっているとしか思えない。数分間でテントを梱包《こんぽう》し、らくだの背に積みあげる。先頭から序列正しく動き出すと、鈴が一つまた一つ、その音はあたりに広がり、長蛇のような列は、風雪にさらされた荒涼たる丘をぬって闇のなかにすいこまれていく。
われわれのたどりゆく道は、いまやかわききって、河床をむきだしにしているツァガンゴールへと通じていた。この川は、はじめは北方に、ついで北北西の荒野に向かって流れている。道は草むらをぬい、小さい丘陵を超えるので、ともすればスピードを落とさなければならなかった。途中ランシャン山脈の支脈にそって、峡谷が三つもあった。
北のはるかかなたには、高い山塊が――それは、たぶん北蒙古共和国の領土内と思われる地域である――見えるなかに、ひときわ高くぬきん出ている峰を指さすことができた。峡谷はさらにつづき、危険な行進をつづけ、やっと第一一号幕営地たるツオンドール地帯に着いた。そこでは中国商人が、羊肉をあきなっていた。しかし、われわれはなお三週間分のたくわえがあったので、買う要はなかった。薪にしても、すこし手まひまをかければ、われわれが使う分くらいは、集めることができた。
翌朝、空は低く雲がたれ、やや憂鬱にならざるをえなかったが、それも昼ごろは晴れていった。中国商人の話によると、去年のいまごろは、雪が三フィートも積もっていたそうである。それにくらべたら、まだしも幸運といわなければなるまい。天候も、ここまでは、まあわれわれの味方であったようだ。考えてみれば病人は出る、車はこわれるなど、故障つづきであったが……。
巡礼からの帰途らしい、二〇人からなる蒙古人のグループが、われわれの傍らを通りすぎていった。
自動車の爆音が、遠くからひびいてくる。一六時、凹凸道を泳ぐようにして、われわれの幕営地にすべり込んできた。彼らは帰化のバス会社のものであった。ハミで二カ月間軟禁されていたが、ウルムチにはゆかないという条件で、やっとマチュンイン(馬仲英)の手から離れ、とにかくフルスピードでツオンドールまで八日間で突っ走り、さらにエッチンゴールからここまで、三日行程で走破してきたというのである。
彼らは、荷物といっては、ほとんどないようだったが、バス会社の役員の一人モー(莫)氏とも全員一九人という数である。お茶をすすめたが、ろくろく落ちついて飲むまもないほど先を急いでいた。きれぎれの話をつなぎあわせると――
ハミを出た彼らはペイシャン(北山)の南麓をたどったが、盗賊団の一味には遭遇しなかったそうである。モー氏はかつて、マチュンインが頑ばっていたトルファンに、車でいったことがあった。モー氏にいわせると、われわれまでが、マチュンインを怖れるいわれはないだろう、将軍個人は友好的であり、とくにバス道路の建設には、ひじょうに関心をもっているのであるから。新疆《シンキアン》省はすでに平穏をとりもどし、すべての戦闘的な動きはやみ、センシーツァイ(盛世才)将軍が天山《テンシャン》山脈の北境の守備を固め、マチュンインが、その南麓を警備しているそうである。モー氏の伝えるニュースというのは、まあ、吉報というべきであったので、万事はうまくとり運ぶことと信じ、いちおう胸をなでおろした。しかし、不幸にも、彼の話は、とんでもない出たらめだということが、まもなくばくろした。
彼らは車にとびこむようにして、潮騒《しおさい》のよせてくる海原に漕ぎ出る小舟のように、ひときわエンジンのひびきも高く、走り去った。そして数分もすると、もう山峡に隠れてしまった。
十二月十七日の朝は、未明に目をさまし、ベットの上に起きていると、車のエンジンがひびき出すまでの時間のながいこと、それは悠久なるときの流れを思わせるものがあった。合図を聞いて、寝袋から這い出し、ちゃんと服を着て支度をすませると、手早くテントが梱包《こんぽう》される。朝の冷たい風のなかに立つと、もうそこに小型車の用意もできている。
出発のまぎわになって、裕福な蒙古巡礼者の一群がやってきた。彼らは、青い毛皮のコートを着こみ、りっぱな毛皮の帽子をかぶって、まるで絵でも見るようであった。彼らは、つい最近まで、ランシャン山脈の南麓シャンデミヤオのロンボチにいたそうであるが、いま巡礼を終えて家路を急いでいるところである。騎乗用ラクダ一〇頭、運搬用一〇頭、その手入れのゆきとどいたけだものたちは、そろいもそろって、大きなこぶをもっている。男の連中は一ぷくつけながら、われわれに好意にみちたあいさつをした。
道はあい変わらず、砂や小石の地帯がつづき、峡谷をぬけていった。昨日のバス会社の車の跡がはっきりと残っていた。おせじにも道はいいなんていえない。われわれは終始ギヤの調子を加減しながら走らねばならなかった。このあたりは、いたるところカモシカが群れをなして遊んでいる。しまいには、もうわれわれも珍しくなくなった。行くてにそう高くもない双峰の山が現われてきた。パインウントゥールだ。この山を回避するため、山峡を遠く迂回《うかい》しなければならなかった。パインウントゥールにつづく小丘の左手に、シャンデミヤオの聖都が見えてきた。そして右手に、一本の木が寂然と立っているのが印象的であった。
丘は丘につづき、その先はふたたび草原であった。しかも砂地なので、時速三マイル以上はスピードが出せない。このあたりは流砂で出来た砂丘のあいだに、ひねこびたサラソウジュの群生もあった。
今や、溶鉱炉のるつぼのごとき太陽が、西の地平に沈まんとするとき、われわれは、グングハタックに車を止め、今宵《こよい》の幕営の支度にとりかかった。気温はぐんぐん下がっていって、夜中には、零下一三度五分になった。あくる朝は、空はいちめんに曇り、花びらのような雪さえ静かに舞ってきた。幕営地のまわりは、灌木《かんぼく》の茂みが取り囲んでいたので、思いのほか寒くはなかった。いわゆる砂漠というやつは、これからであるが、エッチンゴールに出るコースでは、つぎつぎに旅ゆく人にゆきあった。泉のほとりではたいてい、中国商人のテントや蒙古人のユルトを見、その近傍には、ラクダやあるときはウマが放たれ、草を食っていた。
われわれの行くてには、砂礫地帯に混じってくずれやすい軟弱な土の地帯がつづいていた。ところどころイルカの背のような、柔らかい線を描いて砂丘が波打っている。われわれがそうたいしてゆかないうちに、北風が出て雪嵐になってきた。こうなると、すべての景観は、まったく|おじゃん《ヽヽヽヽ》である。土地はだんだん低くなっていく。われわれの唯一の標識であった西北西に見えていた山もついに隠れてしまった。昨日の位置からいうと、約一〇〇〇フィートもくだっている。くぼ地には、タマリスクがおい茂っていた。先頭にいたセラットは、ひとかかえほど枝をとってきた。夜になっては、燃料が手に入るかどうかあやぶまれたから。われわれは、思いがけなくも、自動車の古い轍《わだち》を見かけた――それは、一九三〇年のゲスタ・モンテルやゲオルク・ゼーダーボムの、それから一九三二年の宣教師ハンツーやフィッシュバッヘル、その他の人たちの通った跡なのであろう。
目路のとどくかぎり白一色になってきた。そこらには、数本のニレの木が、裸の幹をさらしていた。道はよくなってきた。右手に山稜を見ながら、そのすそを操縦していった。ツアガンハタックまでくると、そこには樹木の群落があり、木の幹をくりぬいた水槽がしつらえてあった。ラクダやウマのためのものだ。切通しになった河床は、この上もないドライブウェーである。ここでは木も茂り、今までとはうってかわった、魅力的な景観であった。ホイエル・アマツの近くまできてみると、ふたたびひらけた平原に出た。ここにはユルトが十棟も並び、テントにすむ商人の部落もあり、バス会社の油槽倉庫もあった。その後まもなく、ゴビの地帯の一角に進んでいった。右手にはなおイルカの背のような砂丘が見えていたが、すでに白く染まっていた。それはどこまでもつづき、灌木が藪《やぶ》をなしているところもあった。サグラリンゴールは、一つの河床であって、その流れはアブダーまでくだっていた。どこにあっても、またどんなときでも樹木の林というものは、われわれの目の保養になるものだ。この灌木の林も、ちんまりしたものであるが、われわれの目を楽しませてくれた。五〇マイル走ったところで、第一三号設営にとりかかった。
十二月十九日、夜の気温零下二〇度、空気はあやしいほど明澄、はるか西の地平に浮かぶ山なみのひださえ読みとれるではないか。われわれは、ラクダの踏み荒らした足跡をたどっていったが、道は舗装したように固くしまっていたので、時速一五キロで走ることができた。このあたりは、見たところ不毛の荒地であったが、やがて樹林地帯となった。新疆までの全行程が、このようであったら、道づくりの必要はないんだが……。
アブダーは、その頂きがこわれたピラミッド型であるが、それにつづく南方には、二つの峰をもった丘陵が、こぶのあるラクダのように見えた。私は、そこの鮮烈な清水のわく泉を思い出す。あの大探検旅行のとき以来なつかしいところである。われわれの仲間は、そこで後期石器時代の出土品を種々収集したものである。道は深く切れ込んだ峡谷にはいっていく。水食と風化の作用で奇てれつな形をした台地もあって、荒涼とした風土は、ひじょうに印象的な景観を呈していた。赤と黒に染まった台地は台地につづき、その中に迷いこんでいったわれわれの背後は、砂礫まじりの砂漠で、一片の草も見つけることはできなかった。曲がりくねった回廊めいた道は、外蒙古共和国の国境線であったのだ。その日の目的地インエンの泉は、外蒙古領にあった。セラットの道に対する特殊な触角は、弧峰丘に向かってわれわれを誘っていった。彼のトラックと小型車は、地溝峡をうまく越えたが、エッフェの操縦する車は、とうとう|えんこ《ヽヽヽ》してしまった。われわれは一フィート幅の長い布を敷いて、ようやく車を危急地から引きあげることができた。またしても車がえんこする。しかしこんどはもっと念入りのえんこで、時間は情け容赦もなく、どんどんすぎていく。地溝帯にまたさしかかった。砂地にはサラ(沙羅)の木が群がっている。エッフェの車は、いっこうに影を見せない。音もひびきも聞こえてこない。引っ返して見にいく。彼は車をブッシュのなかに突っこんであえいでいるところだった。布敷きもこんどはなんの役にもたたない。われわれは、灌木を切って即製の木《き》ん馬《ま》道をつくったが、桟木《さんぎ》が若くかつ細いのでポキンポキンおれてしまう。セラットの車が引っぱってみたが、こんどは、ロープが役だたない。とうとう積荷を全部おろしてエンジンをかけ、仲間でかけ声もろとも押してみた。やっと車が正常な位置にかえってきた。それから積みこみ。私は今晩の焚き火材料をも集めておかなければならなかった。
再度行進。珍しくそよとの風もない。空はふかく澄み、ちぎれ雲一つもない。これこそ大ゴビ砂漠であり、文字どおり死の都ともいうべきである。西の地平線には牙《ぎ》っ歯《ぱ》山の頂きだけが、まるで蜃気楼《しんきろう》のように、宙に浮かんで見えている。われわれの設営は、インエンの泉のほとりに選ばれた。北の泉は外蒙古、南の泉は内蒙古にある。ここでは国境線は、ちょうどこの二つの泉のあいだを通っている。
土地はひどく砂っぽかったが、いわゆるほこりとはちがって、清潔な感じである。サラの木がいたるところで茂っている。夕闇のせまるころ、あの陽気なエッフェは、豪勢な焚き火を始めた。なんとなく国境警備の騎乗兵に挑戦するかのようであった。これら国境兵に捕えられると、ひともめしそうであった。もし彼らがなにかの理由でつかまえるとうむをいわせずウランバートル(ウルガともいう)に引っぱってゆき、そこで尋問裁判にかけられ、悪くすると、長期拘留ということがないともかぎらない。現在ウランバートルは赤旗の支配下にあるので、赤い闘士の町とも呼ばれている。しかし、われわれは、一人の国境兵も見かけなかった。人影という人影がひとつもない。ここでわれわれは一日休養することにした。チェンは天文学上の測定にとりかかり、ユー、クンの二人はセラットの案内で、もっと南の方の道の偵察に出かけていった。もしも、外蒙古領域内に、すこしでも路線を乗り入れるような企画をするとしたら、中国のバス道路建設の計画などは、まったくたわけたことといわなければならない。
夕飯がすむと、南の泉はまったく静寂になっていった。エッフェの焚いた火も、いまは衰え、ただ青い煙だけが、星空に音もなく立ちのぼっていった。この夜の気温零下二二・三度。休息するとはいえ、仕事はなにかとある。タイヤの修理、道路の偵察、ベルクマンは新石器時代の遺物の収集など。
十二月二十日、いよいよ冬将軍はたけりせまってくる。エッフェの焚き火じょうずは、まったく景気よく燃え、おかげで気温がどんなに下がっても、快適にすごすことができる。朝、てんでに焚き火を囲んで、からだを温める。私は燠《おき》を背にして腰をおろすと、いましも大地の影が、西方の草原のかなたに一歩一歩遠のき、ついには消えてゆくところであった。太陽はすっかり顔を出した。焚き火もこれまでだ。サラの木影もしだいに短くなっていく。われわれは元来、早朝の出発を心ぐみしていたのであるが、モーターの故障で、それも思いとどまらざるをえなくなった。電気連接部分の故障もすぐ修理できたので、試運転の後、爆音も高らかに、砂礫地帯を通りすぎ、もっと走行しやすい道に出た。南方には、縞《しま》枯れ模様を描いた低地が、エッチンゴール近傍までひろがっていた。その先には、たぶん河岸段丘であったろう、三本の黒い線が、平行に蛇行しているのもかすかに見える。
不毛の赤茶けた丘陵には、石塚が立ち、またときにはラクダの骸骨が道標の役目をしている。またしゃれこうべをのっけた石塚、頁岩《けつがん》を二つ組み合わせた、なにかのモニュメントのようなもの、道は多彩にいろどられ飾られていた。もうそこは、生けとし生けるものすべてが姿を消し、完全な砂漠地帯であった。インエンは海抜六五〇メートルしかなかった。道は登り坂となり、二十キロもいくと海抜七五〇メートルになっていた。ホルンボスクの水場では、一隊のキャラヴァンが休息をとっていた。そこから一種の迷路のような道になったが、路面はよく、分岐点では、石塚がそれぞれの方向を示していた。水場にはいつとなく名がつけられ、キャラヴァンの馭者連中は、手さぐりでもわかっているが、風雪や砂嵐のときは、さすがに迷うこともあるようだ。黒い砂礫の小さい丘陵や、風雪にさらされた暗緑色を帯びた頁岩の新しい迷路をすぎると、ふたたび平坦になってきた。
バンテトロゴイまできて小憩した。ここには一四のユルトと、商人の住むみすぼらしい小舎が一軒あった。彼の商品は茶、皮革、羊毛などで、高床づくりの台の上に収蔵していた。われわれは、枯れ木の株など散乱している、砂礫地帯を南方に曲がって出ていくところで、またしてもセラットの車の座礁、それをしおにサラの木のおい茂る小さい砂丘のそばで設営することにした。榾木《ほたぎ》はよく枯れているので、とろとろと燃える。水もある。昼食にはスープとウシの舌、茶でかんたんにすますはずであったが、バンテトロゴイの商人は惜しげもなく、最上のピルメや捏粉《こねこ》をのして包んだひき肉のまんじゅうなど出して、ご馳走してくれた。われわれの料理番チュクエイ(賈逵)も、このようなアジア風な料理は、お得意とするところである。
大ゴビの旅――そこには化石した魔法使いのように、かしこまっている石塚が並び、浅い河床が無数に縦横に走っている広大な平原、風の吹きぐあいで規則正しく波形の描かれた砂丘の連続など、単調ななかにも、また魅力のあるものである。人はくる日もくる日も、泉のほとり、焚きもののある地を求めて幕営する。そして大地のうえで寝袋をひろげ、いとも安らかにふかい眠りに誘われてゆく。新鮮な大気、簡素な生活、二度の食事。そして設営地から設営地につづく砂漠や草原の展開してゆく景観の日々こそはうみつかれることなく、もうご免だという日は、ついにこないであろう。果てしない空間がかもす、海洋にもおとらない、砂漠のもつ壮麗な雄大さは、魅力に富むものである。
はるか遠くにみえる青い山々に連なる、大洋のごとき波打つ土地の起伏は、寝袋に引きあげ、たとえ一たびはまどろむとも、近づきたるキャラヴァンの鈴のひびきに目はさまされるにちがいない。われわれの視界にはいる景観は、つぎつぎに変わっていく。軽やかに走りゆくカモシカ、空かけりゆく荒ワシ、そして野ウサギ、またときにはオオカミの群れが出てくることもある。道路図をつくることのつらさ。しかもそれこそもっともたいせつなことである。それは旅行を手まどらせるとはいえ、それを償うてあまることである。
また一日の単調なながれに色彩をそえる間奏曲ともいうべきことは、予期することなどほとんどできなかった。パンクだとか、|えんこ《ヽヽヽ》による予定の変更などは、不幸にも、すべて日常慣れっこになり、どんなことが起ころうと、冷静にこれを処理していけようになった。二十二日の朝の出来事は異例といわなければならない。八時、もういつでも出発できるように、整備ができていた。ただテントの梱包《こんぽう》と柱との積みこみだけが残っていた。私とベルクマンとが、火のそばに立って、駄べっているとき、
「爆音らしいものが、聞こえませんか?」
私は注意ぶかく耳を傾けた。
「ほんとだ……」
数秒の後には、トラックの運転台のひさしが、はるかかなたの丘上に浮かび出た。
「ゲオルクです」ベルクマンは興奮して叫んだ。
「一台だけだろうか?」
「いいえ、もう一台走ってきます」
彼らは、見ているうちに向きを変え、われわれが通ってきた轍《わだち》をたどってやってきた。そしてつぎの瞬間には、長い間その消息を絶っていた仲間を迎えるために、全員とび出してきた。
十一月二十一日の朝、われわれが送り出してこのかた、ゲオルクとジョムカの帰りを、今日か今日かと待っていた。もっともジョムカのほうは、まもなく帰ってきたが、ゲオルクは、今日まで帰らなかった。われわれは、しまいには、彼のことは、もう半ば諦めて、考えないことにしていた。彼は北京か天津かで、病気になったのかもしれない。あるいは、帰路盗賊、強盗の手あいに襲われ、虜《とりこ》になったことも想像しうる。とにかく、彼の口からは、どんなことが起こったかを聞くことはできないものと諦めていた。きょう十二月二十二日、彼はまったく不意打ちに、沈黙の砂漠から帰ってきた。いま、彼は停車し、元気におり立った。
彼は二台のトラックをいま運んできた。もう一台買い入れろという私の命令どおりに。
「よくきた。ゲオルク!」隊員は、そっちこっちからとび出して、彼をとりまいた。
われわれは、榾火《ほたび》のそばに彼を誘って、その後の物語を聞こうとした。
「帰化《クェイファ》から先は、どうした?」
「天津に急行し、そこで、エッセル・フォードから隊長宛の電報のきているのを知りました。それによると、フォードは、道路創設遠征隊に、一九三三年型八汽筒つきトラックを一台寄贈するということなのです」
彼のもたらしたこのニュースは、隊員ひとしく感謝するところであった。
「手紙は、受けとった?」
「もちろん、一束もって帰りました。新聞も……」
ゲオルクは、なお彼一人になってからのようすを語りつづけた。彼がジョムカと別れて、天津についたのは十一月二十四日、フォード代理店にゆき、そこでエッセル・フォードの贈物の話を聞いたのであった。そのときはまだ組み上がっていなかった。運転手席と屋根の仕上げが残っていたので、しばらく待たなければならなかった。十二月四日新車を駆って北京へいった。ガソリンは大型ドラム罐と角罐とに入れて積みこんだ。北京に四日間滞在の後、ようやく貨車の便をえてトラックを運ぶ手だてが解決された。その他、綱、シャベル、水圧捲上げ機などをもって十日、帰化に着いた。さらに十二日同地発、助手として老蒙古人ネイダンを雇い連れてきた。十四日、彼の帰りを待ちわびていたジョムカとチョックドゥングといっしょになることができた。二人はあまりにながいことむなしく待っていたために、ノイローゼ気味におちいっていたそうである。川は増水しついに氾濫《はんらん》したのに、自動車修理が完成しないうちは、移すこともできなかった。ゲオルクは三人の蒙古人を督励して、やっと十七日朝、出発準備がすっかりできた。十九日はツオンドールにいた。ホイエル・アマツに着いたのは二十日深夜、よく二十一日未明進発、一日じゅう全速力で走り、とっぷり暮れてバンテトロゴイに設営した。そこでわれわれが、その前日通過したことを知った。そのため元気百倍、黎明をついて、われわれの跡を追ったわけである。二十二日朝八時ついに追いついた。
ゲオルクは、まとまって話すひまもなかった。全員朗らかになった。われわれの輸送隊はこれで強化され、トラック四台、ハイヤー一台、隊員一五人。とはいえ、ここはまだエッチンゴールをへだたること二二〇キロの地点である。クリスマス前夜までには、あのなつかしい、古い砂漠の川、エッチンゴールに着きたいものである。われわれは、めいめい自分あての手紙を封切った。故郷では人々つつがなきことを確かめた。
さあ、西方へ前進!
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七 クリスマスの宵祭り
五台の車が一列になって走るわが輸送隊は、はた目にも堂々としていたにちがいない。凸凹道のため思いのほか骨がおれた。揺さぶられどうしなので、やむえず徐行することになる。やがてわれわれは、浅いかわいた砂の積もった地峡へくだっていった。そこには、灌木の茂みも見られた。先導はゲオルクであった。そのゲオルクの車がはやくも|えんこ《ヽヽヽ》してしまった。われわれはそれを除けて走りすぎた。古いトレールは深く掘りつけられ、はっきりと見分けられた。
カラ・マック・シャンダイは、荒涼そのものともいいたい地域にある泉である。左手南方に段丘の隆起が見えている。そのまた向こうには、きのう見えていた低地帯がながながとつづいてふたたび現われた。黒い丘陵のあいだに平地がひろがっている。まだたおれてまもないラクダにハゲタカが寄ってきて、腿《もも》をえぐり、肉をさいているのも見た。丸い丘と塚山とが形づくる嶮しい坂をよじ登ると、そこは低いが、一つの山頂である。われわれはここで小憩しながら仲間を待つことにした。セラットは臆病なひびきをたてながら追いついた。つづいてジョムカとエッフェの車も着いた。ゲオルクは? 彼の新しい車は――エッセル号と命名――かなり遅れて、泡をふきながら駆けのぼってきた。山脈の向こうがわには、さらに広い平原がひろがっている。砂礫でおおわれた河床を渡る。この河床は南に遠く流れ低地に向かって走っているが、木かげとてないさくばくたる展望であった。ここでも道標の石塚はラクダの頭骸骨で飾られていた。
ノゴ・オロボックは砂地にある水場で、そこまでいくと、灌木の藪《やぶ》があった。われわれが横断している平地は、北方に見える一連の山脈、ツァンガンウルのふもとまで延びている。その夜の水はビルヘルの泉で用意した。道は低い黒い丘と嶮しい頁岩《けつがん》の岩々のあいだを進んでいった。それらの丘は黄色い砂でおおわれ、絵画的なピラミッドのように屹立《きつりつ》しているものもあった。日はすでに傾き、その影が明暗を織りなして、月光のもとにあるような風景を描いていた。
デリシン・ハタクには、ぼろぼろになったバスの車体が一台野ざらしになっていた。そこには、新疆《シンキアン》からもってきた皮革や帰化《クェイファ》からきたガソリンが、山と積まれている。わずかにカルカ蒙古人が|ちまちま《ヽヽヽヽ》した買い物にやってくるだけなのに、一人の商人が三つのユルトをもって店を開いていた。日はいよいよ沈んでいった。ツァンガンウルの山なみが、その山頂を薄|菫《すみれ》色に染めて空にそびえている光景は、一日の終わりを飾るにふさわしい印象的なものであった。
設営。この日の走破距離一〇〇キロ、丸一日かかって、わずかこれっぽっちしか走れないと聞いたら、おそらく人はおかしいと思うであろう。しかもこれがわれわれの今日までの一日の最長旅程なのであった。この旅程は、一年のうちでもっとも日のみじかい季節の記録である。ともあれ、一度中央アジアの奥地を走ってみていただきたい。しかもわれわれには、測地、作図という手間のかかる作業がつきまとっていることも、忘れないでほしい。
テントはすでに張られていた。横になると、ポケットから故郷の手紙が取り出される。静夜の空は澄み、大気はさわやかであった。こんなとき、上機嫌にならずにいられようか。
十二月二十三日、朝焼けの空は、きょう一日の爽快な天気を予約するがごとく輝いていた。それこそ片雲すらとどめない快晴である。微風さえない。夜の気温零下二〇度三分。オルドス族蒙古人たちは、もと、ツァンガンウルの山地帯に住んでいたが、一九二八年、カルカ蒙古人がやってきて、
「おまえたちは、ウランバートル・コトに服従しなければならないぞ」
オルドス族の酋長ラマは、こう答えた。
「じゃ、おれたちは、ここを引きはらうまでだ。そしてわれわれの家族や、ラマや、ラクダやすべての財産をとりまとめるために、兵隊をよこすことにしよう」
オルドス族の連中は、南に移住したので、そのあとがまに、カルカ族が代わってやってきた。しかし、彼らは、その地方がまったくの砂漠で、ラクダの飼育以外には、なにひとつ役立たないので、カルカ族の国境を、五〇キロないし一〇〇キロ北へもどした。するとそのあとからオルドス族は、彼らのもとの故郷へ帰ってきた。彼らの酋長はニーミ・ゲッシ・クェイと言い、ツァンガンウルの寺の裕福で高貴なラマ僧であった。その力と権威は、種族の福祉と保護のため、つくすところ厚かった。カルカ族の連中がえた唯一の利益は、中国の交易者たちが、彼らの移住地を訪問した。ということであった。彼らのあいだの交易は、現在の政治組織にあっては禁じられているのである。
われわれの行くてには、ヤガン・ケルカンの山の聖なる峰がそびえていた。蒙古では、聖なる山の名を口にすると、その人に、不幸が忍びよるといわれている。ケルカン――聖なる山ということは、いってもよいが、山の名として「ケルカン山」と呼んではならないことになっている。もしそれを口にすると、ラクダがいなくなる、ウマが逃げる、あるいは旅にあって路に迷う、頭が痛くなる、嵐に出くわすなど、不慮の災いがふりかかる。
山麓には、カラブルガスと呼ぶ灌木が茂っている。蒙古人や中国人は昔からその枝でラクダの鼻ぐりをつくる。隊商の連中は、ここによく泊まって、この枝をたくさんとっていく。ふもとのよき泉は、ヤガン・ウスと呼ばれていた。
路面はあるときは固く、あるときは砂礫であった。つぎの水場のところでは、エッチンゴールにゆくキャラヴァンが休憩していた。彼らはタバコ、お茶、ムギ粉その他の雑貨を運んでいたようである。われわれの行くてには、黒い山峰が、|でん《ヽヽ》とそびえ、このままではとても通れそうもない。砂がちでおまけに傾斜のひどい峠へ迂回《うかい》していった。向こうがわは、あんがいひろやかな平原で、いたるところサラ(沙羅)の木が草むらをつくり、その夜の燃料として、十分にとることができた。
クリスマス・イブの朝、フンメルは張りきって早く起こしにきた。彼は、快適なクリスマス幕営地を捜すために、小型車とセラットの車とで、早めに出かけようというのである。ゲオルクなどと朝食を急ぐ。運転台には、彼の図らいで、火鉢がしつらえられ、足もとが暖かく、気持ちよかった。太陽がしずしずとのぼってくるにつれ、暗緑をおびた影が、砂漠の上を、移動しているのを見ていると、いかにも悠久そのものだ。われわれが、たった一夜ではあるが、生命をふきこんだこの地も、ふたたび沈黙と死が占領する世界にもどっていくだろう。そしてわれわれの足跡は、風雪がひとたまりもなく消し去ってしまうにちがいない。
万事は好調のうちに進んでいったが、まもなく路面は柔らかくなってきた。トラックはどれも二トン半は積んでいた。二台とも砂地にめりこんでしまった。またしても縄むしろのやっかいにならなければならなかった。ネイダンはいろいろルートを知っていたので、こんな場面に遭遇すると、かけがいのない男である。まもなく彼は砂礫地帯をぬけだして、ラクダで踏み固められた、もっと良い道に連れ出してくれた。エッチンゴールに達するバス道路にとって、砂というやつは、もっとも大きい障害をなしている。これを克服するには、どうしたらいいか。ここに重大な課題がある。
月夜の景観こそは、微妙な美しさをもっている。黒くそびえ立つ峰、切り立った岩と砂礫のかもす光、丘のあいだに、暗い平原が横たわり、その向こうにはキャラヴァンの踏み道が、黄色い帯のように、蜿蜒《えんえん》と伸びている。バガ・ホンゴル地区では、真黒い山やピラミッド型の砂丘のあいだの、明るい平坦な砂利道を進んでいった。ここには、一握りの植物も生えていなかった。丘陵の多くは一〇メートルから二〇メートル程度のもので、それ以上のものは、ほとんどない。その丘陵と丘陵とのあいだは、一〇〇メートルそこそこであった。昼食後われわれは、アラシャンと、トルグート蒙古人の故郷であるエッチンゴールとの境界を通過した。この重要な地点には、一基の石塚をたてて標識としてあった。ところどころ、ひどく風雪にさらされた石英岩のくっきりと点在しているのが目だつ。石灰岩と思われる白い露頭も見られたが、トルグートの連中は、お寺の建設用にそれをセメントとして用いているようである。その丘陵のはるかかなたに、エッチンゴールの河畔《かはん》の森が見えてきた。このうえもなく壮麗な景観である。これこそ、今宵《こよい》われわれに与えられた、最上のクリスマス・プレゼントというべきであったろう。
ワイントレイへ! 車は直行した。先発のセラットはここで待っていた。乗用の小型車は見えなかった。探索の途上にあったのであろう。われわれは、おとなげもなく、わくわくしながら、エッチンゴールの風景のなかに突進していった。河畔の地形はどこも同じで、砂地、あるいはタマリスクのおい茂った砂丘、またポプラの森など。ここでふたたび木の茂みをながめ、緑こそないが、木かげにテントを張るということは、楽しいかぎりである。いつものように、荷物はテントのそばに積み重ね、車は火気のない安全な場所に一列に並べられた。
われわれは、クリスマス祝福の用意万端を手ぬかりなくととのえた。水はゲオルクが汲みにいく。彼は大罐に二、三杯、それに二羽のキジ(雉)まで手にしてきた。そのあいだ「エッセル号」で、書類や記録の整理をした。われわれのガソリンキャラヴァンは、前の日の晩にワイントレイからノゴン・デーリの設営地へ移動していた。われわれは、ひとわたりかたづいたところで討議をなし、数日間この地に滞在し、それからソゴノール経由でオボエンゴールへのルートをとることに決めた。雪解け水が流れこむ前に、そこを渡ってしまわなければならないからである。またゲオルクをスーチョー(粛州)に進発させて、われわれあての郵便物をとってこさせることにする。それにしても、きょうはクリスマス・イブだ。とにかく帰化から一五〇〇キロを走破したことは、なんといっても大事業であった。
ワイントレイの設営は、第一八号である。
もう暗くなってきた。私は、仕事を中止してユーのテントにいった。ゲオルク、エッフェもきていた。フンメルやベルクマンが、なにかすばらしいお祝いものを作ってくれるそうで、それを待つあいだ、われわれは、とりとめなく駄べった。九時ごろようやく、クリスマス用のテントにくるように呼びにきた。提灯《ちょうちん》をつけていってみると、儀仗兵《ぎじょうへい》が、テントの入り口に立っている。スウェーデン人は「ゴットユール!」を叫んだ。また「ウラー!」も三唱した。テントの内は、行進曲を奏していた。これはもちろんグラモフォンであるが、器用人のドクトルは、二つのテントを連結して、そのつなぎめに、ドラム罐に板を渡した長テーブルをすえて、即席の食卓をつくっていた。スウェーデンと中国の旗が交差して、美しく飾られている。あやしいクリスマス・ツリーが、食卓の中央に|でん《ヽヽ》とすわっている。その先端には、スウェーデン語で「見よ、われ汝《な》れに大いなる喜びをもちきたさん……」と書いたカードがつるされてあった。それは、私の父がずっと昔に、装飾文字で書いてくれたものである。故国からお祝い用のカードとして、また昔すごしたくる年々のなつかしいクリスマスの思い出として、こんど持ってきたものである。モミの木、いやタマリスクなのであるが、枝には銀紙が飾られていた。赤い小さいろうそくの光のなかで、小妖精が踊っている。われわれの家族の写真をとり囲んで、紙づくりの子どもやブタなどが大行進をやっているのも見られる。
このふしぎな部屋にはいってくると、たくさんのろうそくや、きらびやかな銀紙などでまぶしいようであった。皿の上に砂糖菓子、チョコレート、クリスマスケーキが、山のように積まれている。フンメルはコックとしても腕利《うでき》きで、メニューを見ると、すばらしく、品数も豊富であった。一九二七年のクリスマスのとき、セビスタイスの泉で食べたのと同じような、カモシカ肉のスープ、魚の肉だんご、サーディン、ストックホルム出来のハムとエンドウ、砂糖煮の果実、ほしアンズ、モモ、さいごに香料入りのパン、バター、チーズ。それにリキュール、レモン、コーヒーもついている。ゴビ砂漠の、ど真中で、これ以上の料理を望むなんて、どうしてできよう。しかもきょうはクリスマス・イブだ。おおいに祝福すべき日だ。故国の親しいかぎりの人々のことを話しあい、スウェーデン、中国、蒙古にいるわれわれの近親の人に、心からの祝詞を送りたい。
中国人の助手、蒙古人の運転手もはいってきた。彼らのためには、別の演説がなされ、ユーとゲオルクが通訳した。セラットが立って、彼の同朋のために、見事な答辞を述べた。彼らは、こんどの探検の重要さについては、よき理解をもち、この遠征隊に加わりえたことを、誇りとしていると述べた。それにつけても、私たちは、誰もみな、彼らがその義務に忠実なる点については、毫末《ごうまつ》も疑うところはない。エッフェとチャクェイは中国語で、賛美歌をうたった。素朴で、感動的なものであった。グラモフォンは、「ああ、うるわしの朝のひととき」を奏し、ヘンデルの「ラルゴ」それからベートーヴェンの「讃歌」などにつづいて、民謡や俗謡も奏された。助手諸君にも、お茶、菓子、糖菓、タバコなどが供された。全隊員うちそろった、クリスマス気分あふれるような楽しい集《つど》いであった。われわれは、はるか西のほうに、危険が待ち受けていることなど、誰も忘れて、考えてみようともしなかった。モミの木の赤いろうそくは、テーブルの上の白いろうそくとともに、ゆらゆらと静かに部屋を照らしていた。この日、クリスマス・イブに、遠征旅行の第一段階ともいうべきエッチンゴールへの行程を完遂したわけである。そして、今後もつごうよくいってくれればいいのであるが……。帰化をたつときは、車は四台であったが、いまは五台になっている。妙なことだ。
ユークン、チェンは夜半にかえってきた。われわれスウェーデン人はなおも食卓を囲んで、詩をよみ、グラモフォンに耳を傾けていた。かくてついにクリスマス・イブの聖なる饗宴も果て、それぞれの寝所に引きとった。
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八 河畔の憩い
夜の気温は、零下五・八度であった。クリスマス祝日の第一日の朝は、南東の嵐が吹き荒れていた。大気は砂塵で濁り、かわたれどきにも似た暗さであった。樹木も、藪《やぶ》も、砂丘も、テントも、車も、すべてのものが輪郭を失い、奇妙な怪物に見えた。ゲオルクが、小型車で、アルブダングのおかあさんのところに出かけたので、私は「エッセル号」のなかで新聞を開いた。アルブダングの母親は、一九二七年の秋の遠征では、毎日ミルクをとどけてくれたものである。
きょうの砂塵は、われわれが帰化《クェイファ》を出てからはじめあったものである。風そのものは、たいしたことはないのだが、陰鬱な、重苦しい濃度のこいものである。すばらしいラクダ騎乗のトルグート族の一隊が、靄《もや》のなかから突然現われ、われわれのテントを訪れてきた。われわれは、北京からもって帰った「クロニクル」より、マチュンイン(馬仲英)将軍が、ウルムチを攻略したことを知った。この事件が、われわれになにをもたらすか、考えてみなければならない。
嵐がひととき猛威をふるい、ポプラの枝が、悲痛な叫びをあげているなかを、われわれはお茶に招かれたので出かけた。ハムや糖菓、コーヒーなど、おおいにもてなされた。
われわれの一八号幕営地は、オンツァインゴールのほとりであったが、この川は、春も遅くまで流水はなかった。クリスマスの翌日、ゲオルクはラクダを連れて、われわれのすぐ近所に幕営していた中国人をたずねていった。彼らは、一〇トン近いわれわれの積荷を、ここから二二マイルのかなたのオボエンゴールの河口の三角州の第一九号設営地まで、運搬をうけあってくれることになった。われわれのうちの数人も、いっしょにいくことにした。こうなればわれわれは、ほとんど空車にして、ソゴノールを経由してゆくことができる。長行程五三マイルは、路面が柔らかく、荷物を積んではとても通れそうもないからである。
進発の準備にかかる。自動車隊は、草林地帯から出て、いくらか踏み固められた砂丘を越えた。ついでまた柔らかい平坦な、暗灰色をおびた礫層をもった道へ出た。ここではわれわれの車は轍《わだち》の跡をふかく刻みながら進んでいった。北方へ!
ヘルナーやハウデ、チェンたちは、一九三一年の降誕祭に設営した地点を通りすぎ、亜欧連絡飛行機が着陸しているかたわらを、まっしぐらに進んでいった。
砂丘帯の見えるところで、渡河の必要もなくすぐ曲がる。ここからカラ・コトの廃墟へは南南西二〇マイルである。われわれのコースにはいくつもの孤立した砂丘が並び、左方南がわには、丘陵性の支脈が、見わたすかぎりつづいている。そのあるものは半円形を形づくり、あるものは楯《たて》形であった。ヘルナーやチェンが、前年の遠征で、砂丘の成立過程や、強風のもたらす砂丘形成の変化などの法則を、詳細に研究したのはここである。あるところでは、二、三の孤立した砂丘が、古い車のトレールの上に移動して、すっかり埋めているのを見た。これらのトレールは、たぶん先年ここを通過した宣教師フンテルとフィッシュバッハの残していたものであろう。われわれのこの前の遠征(一九二七〜三三年)のときには、何度も死神にとっつかれ、七人の男が、帰らざる人となった。そのうちの六人までが、エッチンゴールの河畔で死亡したのである。さらにふしぎきわまることには、隊員の二人は、すぐ隣りあった森林地帯で、それぞれあえて自ら己の命を断ったのであった。
若い中国学生のマ君は、ストレスの発作が昂じ、自分につき添っていた中国人の従者を殺し、ついでみずから傷ついて、出血多量のためあたら死をはやめた。もう一人は、ボールト・ベイックで、彼の埋葬地は、いまわれわれが通過した、すぐ向こうに見える。他の中国人の従者は、病気でたおれ、もう一人はラクダ係であったが、いつも水を飲ませていたエッチンゴールの岸で道に迷い、深みにおちこんで溺死した。最後にはジョセフ・ゼーダーボム、彼はゲオルクの兄弟の一人で、いつもスーチョー(粛州)からわれわれの設営地に荷物を運んでいた助手であった。しばらく病床にあったが、よく頑張る男であった。河畔をくだってくる途中、病勢が悪化し、予感めいたものを感じたのか、同僚を呼んで、
「たぶん、今夜のうちに死ぬであろう。そうしたら、死体はかまわぬから、埋葬などしないで、川に放りこんでほしい」
こういって、やがてそのとおりに、死んでいった。もちろん仮葬がなされた。
遍歴者が、その旅の途上に亡《な》くなるというようなことは、そう珍しいことではない。しかし、二人の教養もあり、有能な男が、同じ場所で自殺するというようなことは、どう説明したらいいのであろうか。ふしぎな暗号にすぎないとみるべきか。迷信ぶかい蒙古人や中国人の考えでは、けっしてそんな偶然な暗号とは受けとれなかった。マ君の不幸なる死の翌年、彼が最後のテントを張ったところ、そして従者を刃物で切りつけ、みずからも傷つき死んだところを、トルグートの若い娘が通りかかると、その娘さんも倒れて死んだ、ということが起こった。そこに関連があるのか、どうか、とにかくふしぎなことである。
こうした出来事を、やや冷静に、かつ理性をもって観察するとしても、このような謎めいた死に当面してみると、異様に感じないではおれない。われわれの霊性は、土地っ子とちがうことはもちろんである。彼らの推理によると、その人たちは、エッチンゴールの河畔で死んだ。その場所のまわりには、悪魔や幽霊がひそんでおり、成仏《じょうぶつ》できない精霊たちは、そこに忍び出て、たそがれどきなどいたずらをやって、人をまどわし、自暴自棄にさそいこむというのである。
私は、一九二七年と三四年の二回、このエッチンゴールの下流の河畔で、数週間すごしたことがあった。この地区は、東ゴビを超えてながい旅をやったあとでは、真に地上の楽園のように思われ、魅惑《みわく》的であった。河畔に立つタマリスクの木立の描く風景は、太初のままの息吹を秘めている。その木かげでの休息は四季を問わず、精妙な音楽を伴い、うっとりするようだ。河畔の高見からながめる砂丘は、巨大なイルカの背のようなまろやかな線を描いている。ある砂丘はまるで裸で、風で移動したかと思うと、たちまちタマリスクの茂みを促し、くる春ごとに、高貴なかおりを放つ紫の花房を見るようになる。その密生した藪は、いささか臆病でしかも優雅なキジの避難場所となっている。このユニークな、純粋にアジア的な風景のなかを、川がまるで剣のように、世界有数の砂漠ゴビをつらぬき流れている。このような土地から黒ゴビの荒野を通って旅をつづけるときは、ちょうど南太平洋の豊穣《ほうじょう》な島を漕ぎ出して、果てしなき海原に舵を向けた船旅のわびしさに似ている。しかし、なんにもせよ、この樹林や砂丘のあいだにさまよい出るという幽霊や悪鬼に関するアジア人の迷信は、まんざら理解できないこともない。
白状すれば、私もまた、月夜ただ一人こうした木立のなかを歩くのは、気持ちのいいものではない。まして砂嵐の荒れまくるときなど、いっそうである。いたるところで、よじれた腕や足をもった妖怪や幽霊が、さまよっている。その手は、われわれをずたずたに引き裂こうとしてつかみかかってくるし、背後からそっと、忍び足で近づいてくるのを聞いて覚えず怪異な姿をしたものの腕のなかにとびこんでいく。青やかにしのびよる静夜など、うら悲しい声をひそめた音が、耳にはいってくる、その声のぬしこそは、死んだ人の浮かばれない霊であろうか。あるいは、オオカミやヤマネコの声にすぎないのであるかもしれない。
ウォルター・ベイックは、広大な沈黙の砂漠に帰ってくるよりも、むしろ死を選んだのであろうか。他の人たちの想像によれば、彼を恐怖におとしいれた原因を、ただ一人でアジアの奥地を一五年ものあいだ彷徨したあと、潮騒《しおさい》の海辺に、ふたたび帰っていくということは、彼にはとても耐えられないために、むしろ寂寥《せきりょう》に閉ざされた荒野の一隅に、おのが墓標を建てることを選んだのであろう。
黒い砂礫を敷きつめた、ゆるい起伏のうちつづく平原に出たが、ともすれば車輪がめりこみそうなので、全回転で|ばく《ヽヽ》進していった。北北西にあたって、ソゴノール湖が、その全容を現わしてきた。その周囲はたった一〇キロメートルしかないので、いささかならず貧弱に見えたのも当然であろう。私は一九二七年、ヘニング・ハズルンドとラルソンの造った丸木船で、あの塩気をふくんだ清澄な水をたたえた湖水を周遊したことがある。一三時半ごろには西方にあたって見えてきた。西北西には、ボロ・オボが姿を現わし、その土壇のような頂きには、石塚が飾られていた。道は、サラの木の立枯れがたくさんある低地を横断した。路面は平坦で、一見、固そうなのであるが、ところどころ、とても柔らかいところがあって、まるで落とし穴のようであった。そのために大迂回をよぎなくさせられた。つぎのくぼ地にはサラの木が多かった。われわれは、ヘルナーとチェンとが測定した古い湖岸線の外郭を選んで進んでいった。右手には、古い湖岸と推定される遺跡は、なにも見えなかった。左手は、ボロ・オボのある山。この山を一つの目標として、われわれは、色彩に富んだ砂や、泥や、暗緑色の頁岩《けつがん》の破片がころがっている、ゆるい坂をのぼっていった。ついに小型車の立ち往生のときがきた。ボロ・オボまで歩いてのぼった。そこの祭壇のある山頂に立ってみると、ソゴノール湖全景を一望のうちにおさめることができ、すばらしい展望であった。この湖は、鳥瞰《ちようかん》すると、全域くまなく漕走し、帆走したとき、湖にあってながめたよりも、さらに貧弱に見えた。しかしじつに美しい湖だ。人っ子一人いるのでなく、またテントはもちろん、けもの一匹、目に入るものもない。
東方に、われわれの四台のトラックが現われた。徐々に前進をつづけ、やがて丘陵のかげに姿を消した。
ボロ・オボの山頂からの展望にも別れをつげなければならない。私は車のほうへ帰っていった。やっと車をもとにもどし、西方へ進路をとった。
太陽は沈んだ、湖水も見えなくなった。われわれの行くてには、タマリスクや丈の低い藪や枯れ木の多い砂地がつづいていた。これ以上不快なドライブ道なんてあるもんではない。
あとからきている四台のトラックを待っていると、オオカミの瞳のように、そのヘッドライトが、闇のなかから光りおどり出てきた。
予感がないでもなかったが、事態は悪化しつつあった。車は砂の谷に釘づけにされ、四台のトラックも、ついに止まった。一台また一台、前進してみるものの、すぐ止まってしまう。いまや車は砂の中にふかぶかと|えんこ《ヽヽヽ》した。縄むしろ、ジャッキ、鋤《すき》、一台ごとに掘り起こし、引き出した。しばらく暗闇の中で、エンジンがふきげんにうなっているが、またしても立ち往生。なんべん試みても、|らち《ヽヽ》があきそうもない。すべての試みもむだであった。月明下、いますこし慎重であったなら、情勢の判断もできたものを、いまは設営を急ぎ、水汲み、薪拾い、わずかに危地から脱していた小型車が活躍した。
テントを張り終え、飲み物なしの遅い夕飯をすましたときは、みんなが、へとへとに疲れていた。喉《のど》がかわくことおびただしい。トラックの連中は、立ち往生の連続だったので、足腰が、くたくたであった。小型車が丸罐に新鮮な水を三|荷《が》みたして帰ってきた。ちょうど食事が終わって、お茶がほしいときであったが、外は闇がしんしんとふかまり、すべてのものが闇の底にとけていった。
翌朝は、みんな寝袋を出るのが遅かった。疲れがぬけきっていなかったようだった。正午になって、ジョムカのトラックが先発した。と、見る間に砂に突っこみ|えんこ《ヽヽヽ》である。今しがた梱包《こんぽう》したばかりの「愛用の縄むしろ」が、砂の上に広げられた。つづくゲオルク、セラット、エッフェの車も例外なくやってしまった。二時間もかかったろうか、やっと危険地帯を脱出し、タマリスクや藪の茂る砂丘を、のぼりまた下がった。
このあたりは、砂塵がたちこめてくる。見通しがきかないなかを、どうにかけんとうをつけながら走りつづけた。この窒息しそうな砂塵に包まれたときは、いちばん近い車さえ、ぼんやりと妖怪めいて見えた。川に達するまでは、がたがたと動揺も激しく、ともすれば、ほうり出されそうになる。ようやく川のほとりに出、浸食段丘の右岸に沿ってコースをとった。オボエン川は、一年のうちでいまがいちばん渇水期で、一しずくの水も流れていなかった。道は狭くなってきた。うっかりすると、水のない河床へ転落しないともかぎらない。また立ち往生だ! あるかぎりの鋤やシャベルを動員し、行くてをはばむじゃまものをとり除き道をひろげた。先頭の車がうまく通過した。つづく車も故障なく通った。道は河岸段丘を離れ、タマリスクの叢林の中を蜿蜒《えんえん》と進んでいった。ときにほうり出されそうになるので、車にしっかりしがみついていなくてはならない。外の景色は、砂塵のため、ぜんぜん見通しがきかない。しかしようやくにして、開けた地形の土地に出、路面のしっかりした高原へとたどりついた。
トルゲート貴族の居城がそこにある。われわれは、前庭に横づけにした。王は不在であったが、司法大臣がわれわれを迎え、内庭の中央に設けられた大型ユルトの内へ案内してくれた。ここでわれわれは予期せざる歓迎をうけた。慣例によってお茶が出る。バターやクリーム菓子、糖菓など、珍客としてもてなされた。ユルトの入口の正面になる中央の部分に、玉座ともいうべき席があって、王が祭事を執行するときは、ここに出てきてすわることになっている。ここでは、人民といっても、総勢一〇〇戸にもたりないものであるが、われわれの使命を大臣に話すと、彼はうなずき、さらにおおいなる歓迎の意を表明した。しかし、実際問題として、ここのトルゲートの王が、彼の領有地を通過して、往来の頻繁に交通路が敷設されることを喜びとするかどうかは、はなはだ疑わしいものといわなければならない。輸送路が開通すれば、彼の人民に対して、好まざる影響をもたらすことになるかもしれないし、その他いろいろな点で、自由と自治とをおびやかすことにならぬともかぎらないから。
やがてわれわれはいとまを乞い、出てきた。そしてふたたび進発した。が、まもなくエッフェの車の立ち往生という仕儀《しぎ》となった。夕暮れは迫ってくる。いまは闇夜をついて、叢林をぬけ、峡谷や砂丘をぬって行進をつづけなければならない。枯れ枝が、車体の下で、ポキポキ折れる。車はまたしても立ち往生。密雲は月光さえかき消し、ために幻想的な景色をたのしむなど、まったく思いもそめないことであった。われわれが、ボーラーの森に着いたのは、かれこれ二一時であった。ここにしばらく設営することにした。
緊張と頑張りとでいろどった一日のあと、われわれはすっかり熟睡した。翌朝は、日が高くのぼってから起き出た。この新しい幕営地は、輝く光のなかでひじょうに魅力的に見えた。各テントの背景をなすタマリスクのおい茂る砂丘は、その堂々たる木立とよくマッチして、まったく申し分ない景観である。われわれは、乾燥したオボエンゴールの左岸に設営しているのであった。一〇キロさかのぼると、水もあるし、氷塊もあるそうだ。ボーラーでは、もう一カ月もすると、冬季洪水の時期にはいるとも聞いた。
フンメルは、近隣のトルグート族から、ゆったりとしたユルトを一つ賃借りする契約をし、夕暮れにそれを木の下に組み建てた。このユルトは、われわれの集合室として、食事もし、読書もし、また手紙も書くなど、利用することになった。クリスマスのテーブルに使ったカシの板は、ここで食卓に供され、また書卓ともなり、長椅子がそれに添って並べられた。鉄製ストーブもすえられた。この居心地のよい室で、われわれの最初の夕食をすますと、みんなグラモフォンの音楽を伴奏として、ひとわたり討議の会を催した。
何人ものトルグート人が、われわれを訪問してきた。彼らはその立派な乗用ラクダをポプラの幹につないだ。彼らの話によると、スーチョー(粛州)の当局者は、すこし前、ここへ警察官を派遣し、トルグート族の王に、彼の領有地を通過して、新疆《シンキアン》に向かおうとする自動車は、その通行をいっさい厳禁するようにいってきたそうである。われわれは、初めの計画では、手紙の発送と受領のため、ゲオルクをスーチョーに遣《や》ることにしていたが、たぶんかの地では、車は没収されるであろうから、このさいはむしろ早継ぎラクダに乗るトルグートの飛脚を利用するほうがはるかに安全だろう、という見通しをつけた。したがってわれわれは、二週間あるいは、飛脚が用をたして帰ってくるまでは、ここで待っていなければならない、ということは明らかである。そのあいだに、ユーとクンとは、トラックを渡すための、架橋工事に着手するにもっともいい場所を発見するため、デルタ地帯の調査をしなければならない。
この集会ルームは、みんなとても気に入ったようである。そこでフンメルとベルクマンは、もう一つユルトを借り入れる話をつけた。このほうは主として、リビングルームに使おうというのである。ユーとクン、チェンたちも借りることにした。最初のユルトは集会用ばかりでなく、やがて応接室としての役割を果たすようになった。第一日は、なにをおいても、手紙を書くことにした。故郷では、家族のものが、安否を気づかっているにちがいない。ながいたよりになった。私は、直接の上長たる鉄道部長のクーメンユー(顧孟余)、行政院長のワンチンウェー(汪精衛)に報告を書かなければならなかった。
十二月二十九日、気温零下一八・四度、午後になっても零下一〇度であった。ゲオルク、エッフェ、セラット、ジョムカ、チョックドゥングの五人は、中国人従者二人を連れて、ボーラーから二・五キロほど離れたところへ移った。このほうが、車の修繕をするのに好つごうであったから。彼らの設営地は、平坦でしかも地層がしっかりしていたので、矩形の坑を掘って丸太を渡し、車の手入れをしやすいように工夫した。テントは機械修理工場兼用となったが、もちろん食堂にも当てられていた。彼らは仕事の合間には、われわれのところにやってきて駄べり、またレコードを楽しんでいた。
三十日の夜、郵便物は、発送準備ができ、袋のなかに縫いこまれた。蒙古人の飛脚キャクターは、この前の遠征のとき以来、旧知の間がらであった。もう一人の中国人が――いっしょにいくことになった。彼らは、若いときから速駆け用として慣らされた二頭のラクダをもっている。二頭のラクダは見たところ、あまり肉付きはよくない。むしろ痩《や》せて見えるが、夜になるにつれて、その筋肉は鋼《はがね》のようにたくましくなり、その鍛えられた騎者を乗せて、南の方をさして消えていった。
暮れから正月にかけて、寒さはいっそうきびしくなってきた。十二月三十一日の夜は、じつに零下二三・二五度であった。大晦日《おおみそか》の晩は特別料理がつくられ祝われた。スープ、子ウシ肉のかつ、キジ肉、アスパラガス、糖菓、ブランデー、コーヒーなど。食卓には三枝の燭台が二つ立てられた。また、こんどの遠征旅行の途上にあって、ともかく、つつがなくやってこれたことを感謝して、私は所感を述べた。ゲオルク、エッフェの二人は、機械工場からの客人として、おおいなる歓迎をうけた。彼らの考案で、テントとユルトの間の空閑地に、よく枯れたポプラの幹一二本をひきずりこみ、それを叉銃《さじゅう》のように組み立て、そのすきまに枝や柴を詰めた。真夜中になろうとする直前、てんでんにろうそくを持ち、一同いきおいよく繰りだした。小銃が、除夜の鐘がわりに鳴る。すると、全員はろうそくから薪《まき》に火をつけた。
われわれは円陣をつくり、積まれた枯れ木のまわりに腰をおろした。真っ赤になった篝火《かがりび》は、パチパチはねて燃え上がり、火花が暗い夜空をこがす。枯れた幹が一つまた一つ、地上に横倒しになるときは、炎はいっそうあでやかだ。焚き火のおかげで、寒さを忘れるどころか、丸焼きにあうような熱気につつまれて、誰も誰もあえいでいた。枯れ木は、森に行けばいくらでも倒れていたので、ここでは薪の心配はすこしもなかった。元旦の夜は最低気温は零下二二・五度であった。私が起き出すときだとか、就眠のときは、ストーブが真赤になるほど焚かれていたが、昼間は一日じゅう集会室のほうですごしていた。料理方の隊員のために、また一つユルトを借りた。
幕営地の対岸の砂丘に生い育つタマリスクの茂みの中には、キジが群棲していた。仏教徒は、これを決して殺さないという。そのために、鳥たちは撃たれる心配がないことを知っているので、われわれの幕営地まで、よく飛んできた。われわれはあいにく仏教徒ではなかったから、この地に滞在しているあいだじゅう、われわれの食卓には、毎度のように、キジ料理がのぼった。とはいうものの、いささか尊大ぶったかっこうをして、河畔《かはん》の土手から幕舎のほうに歩いてくるキジを見ていると、見あきるということがない。私はとうとう、設営地付近にいるキジはとらないようにした。
河床には掘り抜き井戸が一つあったが、そこは、いつでも氷のかけらがまきちらされていたので、キジの仲間にとっては、一つの目標になっていた。まず、さき見の雄が一羽、ようすをうかがいにやってくる。その足どりは、けっして直線コースをとらないで、ゆっくりと近づいてくる。つぶらな瞳は、前方のなにかを、しっかりと見つめている。彼が歩みをとめる。すると、あとから数羽の雄がやってくる。この豊麗な衣をつけた騎士的な親衛グループの偵察がすむと、雌鳥が愛敬たっぷりの歩き方で、われ先にやってくる。その灰色がかった黄色い衣装は、周囲の砂地にぴったりである。彼女らは、親衛隊の見守っているなかで、ゆっくりと、あるときは急いで、氷の破片をついばむのである。
みずからを、キジのパトロンとして任じているクンは、氷やパン屑をいつも用意してやっているので、鳥たちは腹がすくということはないようだ。キジは、数フィート先で薪を切っていても、てんで意に介せず、平気で遊んでいる。水汲みが泉のほとりにおりていくと、キジたちはすこしは遠のくが、立ち去ると、またすぐ引っ返して集まっていた。しかしこの水汲みは、あまり親切でなく、キジがやってくると、うるさがって追っ払った。キジというやつは、その衣装が美しいとともに、姿もよく、動作にいたっては優雅そのものであるが、だまされやすく、やや軽率なうらみがある。彼らは、この設営地にいる人間どもは、まれに見る寛大な仁《じん》で、しかも好意をもち、けっして撃ち殺したりはしない、と見てとったようである。彼らの仲間のうち、一羽でも、われわれが毎日のように料理をし、ご馳走になっていることを感づいたら、おそらくわれわれに対する考え方を変えたにちがいない。しかし、彼らは、われわれを疑うどころか、うまそうな匂いが立ちこめ、鉄鍋の中でジュージューいっている音が、彼らの仲間から出ていることなど、ご存じないのである。
外蒙古から逃げてきた、約七〇家族のカルカ蒙古人が、エッチンゴールの河畔に住んでいる。その酋長(名はナラヴァチン・ゲーゲン)は、ここからハミにいく途中にあるマツンシャンに住んでいるらしいカルカ蒙古族と、ひそかに通じているということであった。トルグートの王は、カルカ族が、自分と自分の家族を養うことができる者だけ、河畔に住みつくことを許している。もし自活できなかったら、彼らはよそに移らねばならないのである。われわれは、その後、機会をえて、この土地にいるチャンゲラップ・メーリンを訪問した。彼は、数年間、ウルガに投獄されていたが、そこからソヴィエト支配が撤退したとき、逃亡してきたのであった。
元旦は、このうえもなく静かにすぎていった。微風さえもなく、燃えるろうそくをかざして、野天に立つこともできるほどであった。穹窿《きゅうりゅう》のごとき天空のもとで、森も、われわれのユルトも、寂然《じゃくねん》として立っている。日没は四囲の景観に、静寂だがいきいきとした色彩を与え、東洋の砂丘は、あたりの叢林とともに、残光のもとで青やかに、やがて紫にと色あせていった。ゲオルクとエッフェは、元旦には、とうとう姿を見せなかった。彼らは、五台の車の手入れを急いでいたのである。この機械工場を訪問した者は、みなかつての探検旅行以来の旧友たちであったようだ。トルグートの女性たちもたずねてきて、炊事のてつだいをしたり、また衣類の繕《つくろ》いや濯《すす》ぎなどもしてくれた。
一九三四年という年は、どういう年になるであろうか?
ここエッチンゴールにいて、新疆省の近況については、なにひとつ手がかりがなかった。このふかい謎を秘めた省からは、一隊のキャラヴァンも、一人の旅行者も、また一人の使者も、この河畔を通りすぎなかった。われわれをたずねたものといっては、スーチョー(粛州)やアンシー(安西)やリャンチョー(涼州)からきたものであった。もしわれわれが、新疆から確かなニュースをえたとしたら、ここから引き返していくだろうか。いな、いな、断じて。われわれは、期待にこたえるべく、すでにとりかかっているではないか。われわれは、いかなる障害にあおうとも、これを乗りきる決意を固めている。
サンワツェは、いつも太陽の顔を待たないで、私のストーヴを焚きつけてくれることになっている。そのとき、ちょっと目をさますが、またすぐ睡魔におそわれたごとくに、すぐふかい眠りにおちた。私としては、できるかぎりよく眠り、去年秋以来の激しい疲労を癒やし、これからの探検旅行を完遂《かんすい》するための英気をたくわえておきたいからであった。けだものや草などと同じように、大陸の冬の寒さがきびしいあいだは、ふかくかつながい睡眠をとることは、めぐり来る活動の季節にそなえる必然的な行為なのではなかろうか。熟睡は確かにありがたい。そのうち、この睡眠がものをいうときがくるであろう。
話がそれたが、キジは、われわれがボーラーに滞在しているあいだじゅう、限りない観察の対象となり、慰藉《いしゃ》を与えてくれた。カササギ、スズメ、カラス、シャコなど、親しき友となりえないものはなかった。これらの賓客をくる日もくる日も設営地に迎えるということは、探検旅行をいろどる思い出として、書き落とすことのできないものである。彼らのうち、キジはけっして高く飛ぼうとしなかった。まず、一羽の雄が雌キジを連れて河床を横切って、大股に歩いてくる。つづいて、第二のグループがやってくる。泉のまわりは、ひっそりかんとなる。彼の行く先は、こんどはタマリスクの下生えの茂みのなかだ。そこで彼ら独特の饗宴をひらいたあと、たぶん恋と甘い夢とにひたるのであろう。
新年の太陽が、やがて沈んでいくなかを、河床を、一人の中国人が、一〇頭の空荷《あきに》のラクダをひいて通った。いまやさかんな夕映えは、彼らを赤く染めだしていた。その長い影までもいろどられて、光芒《こうぼう》のなかで揺れている。
われわれの機械係は、ガソリンの手もち数量を調べていたが、二〇リットル入り罐二六三本、一四〇リットル入り三八本であった。五台の車のタンクには、約一二五リットルある。差し引き三五〇〇リットル使ったことになる。ハミにゆきつくまで、概算二一〇〇リットルはいるであろう。その残り約八六〇〇リットルで、これからの全行程をまにあわせねばならないことになる。もっとも、ウルムチへ着けば、ロシアのガソリンを手に入れることも可能であろう、と予期している。
梢《こずえ》を吹きわたる風が、騒がしく鳴るのを聞いていると、砂漠そのものの声のようでもある。それは、われわれの西方への旅に、警告するがごとく、悲調をおびて、訴えている。
「ねえ、エッチンゴールにとどまるか、それとも、東の、もっと安全な地帯に、コースを変えなさい……」
ある日、私は機械工場へいってみた。蒙古人の隊員は、みんなそろって働いていたが、彼らのユルトの高い棟には、スウェーデンの国旗がひるがえっているのを見た。解体した車の精巧な細かい作業は、室内工場で行なわれ、いっぽう臨時雇入れの大工たちは、戸外の職場で、木箱や荷造りの作業をやっていた。彼らは専属の木樵《きこり》を連れていて、燃料の世話をさせたり、水を汲ませ、いつでも熱いお茶を飲むことができるよう雑用をさせていた。私は、ハミまで偵察旅行を試みようと企画した。それには乗用車とトラック一台をあてよう。この企画は思いつきではなく、もう前から懸案として、何度もみんなで討議したことである。隊員一同もこれに賛成していた。私は、ひと晩ゆっくり熟考し、翌日も、いろいろな観点から、これを検討した結果、スーチョーにいっている早飛脚が帰ってくるまで待ったほうがいいだろう、という考えになった。彼らは、なにかわれわれの行動につながりをもつニュースを持ち帰るかもしれないから。
一月五日、チェンが南京放送をキャッチした。それによると、ハミにいる三〇〇〇ないし四〇〇〇のトルコ人が、マチュンイン(馬仲英)将軍に対し反乱を起こし、ために将軍はいちじ、トルファンに後退せざるをえない事態にたちいったというのである。ここにいたれば、早飛脚の帰りを待つほうがいいことが、いっそう明白になった。
六日、ハミからニュースが到着した。チャンゲラップ・メーリンが、逃亡者か、スパイからか、とにかくなんとかして手に入れた報告によると、ハミではすべて平穏だというが、これは、どうも眉《まゆ》つばものに思われた。しかし、もっと重大なことを、南京の無線放送で接受した。
「ハミは万事平穏、南京政府は、協商するため、使節を派遣した」
ある日、われわれは、幕舎から北一〇キロの所にいるトルグート王を訪問した。案内のゲオルクは、砂のあいだを通り、芦原や草むらをぬけて走っていった。路面がひどいので、からだはくたくたであった。こうしたドライブの後、われわれは、砂丘とタマリスクの叢林にとり囲まれた、六つの大きなユルトに到着した。ユルトのかたわらには、冬のための薪が山のように積み上げられていた。われわれはやがて、接見用のユルトに案内された。三〇分くらい待ったであろうか、王が出てきたので、持参の罐詰とハディック(蒙古人が、神仏や珍客に献じる長いうす絹)を献上すると、喜んで納められた。王は、ずっと前に、われわれの探検隊員の一人が献上した双眼鏡を、返礼として私にくれた。この前の探検隊員のことなどたずねられた。ハミからのニュースは、なにも届いてないようすであった。最近では、新疆省とエッチンゴールとのあいだは、あたかも越え難き障壁が設けられたごとくに、行き来も絶え、静寂そのものといっていい状態であった。帰路は、もっとよいハイウェーがあると聞いたが、ゲオルクは聞きちがったのであろうか、運転を始めるとまもなく、ひどい砂地につっこんでしまい、それを復旧するのに、たっぷり二時間はかかってしまった。
九日、私はフンメルと並んで、家郷へのたよりを書いた。夜はいっそう寂涼を極めていた。一二時ごろ、フンメルは、驚いたようにとび上がって、
「車の音が聞こえる!」
われわれは、突如としてざわめきたった。ヘッドライトが見えてくる。ゲオルクが早飛脚を乗せてやってきたのだ。車からとびおりると、彼はそっけなく、
「手紙は一通もありません。中国人にだけきています」
集会室で、郵便袋が開かれた。どの手紙も、中国語で書かれているものばかり。「北京クロニクル」を包んだ一束の包み紙以外には、われわれにはなにもきていなかった。鉄道部長からの公文書は、クンが読んで訳してくれた。一つは、スーチョー(粛州)の郵便局あてに、二万ドル送ってある旨の知らせであった。もう一つは、スーチョーとニンシヤ(寧夏)の政府に対して、われわれの必要とするだけの援助を与えるようにという指令で、右政府からはすでに応諾の通知があった、と述べてある。軍令部長からは、一九三四年の一年間、探検隊員の各員は、武器携帯許可証が与えられたという。亜欧航空の支配人は、彼が入手した情報によると、ハミには一〇〇〇人のトルコ兵がおり、マチュンインはトルファンにいる、と知らせてきた。「ハミは、伝えられるほど平穏ではない、新しい騒擾《そうじょう》が起こりうる空気がみなぎっている」
彼の知らせは、われわれに喜びと安心を与えるものではなかった。われわれスウェーデン人が家郷の手紙を一つも受けとらなかったということは、いわば当然なことであった。なぜなら、ゲオルクが十二月九日北京をたつとき、それまでに彼の地に着いていた郵便物は、残らずもってきたからである。その後に北京に着いた郵便物は、まだスーチョーに回送されているとも思えない。キャクターもリャンも、この二カ月のあいだスーチョーには、一台の飛行機もきていないことを聞いてきた。しかし、この帝王街道を運ばれる郵便物は、ランチョー(蘭州)からスーチョーに届けられるのに、一二日はかかるという。二人の急使の成しとげた仕事は、みごとに果たされていた。ボーラーからスーチョーまでは約四三〇キロである。したがって彼ら飛脚連中は、往復で八六〇キロを走り、しかも一〇日とかかっていないことになる。彼らはスーチョーに一日滞在していた。キャクターのラクダが川を越すとき、氷のあいだに踏みこんだため一日を損したことになる。ラクダを引き上げるには、一日かかった。つまり八六〇キロを八日間で走破、一日一〇〇キロ以上走ったことになる。途中彼らは、スーチョーの城門で、歩哨にとめられたが、私の発行した公用証明は、このさい十分に役だった。パインボクドでは、夜中にラクダが急に驚いて手綱を切り、近くの山に逃げこんだので、この出来事も、仕事の運びをかなりじゃましたわけである。
彼らはきびしい日程のなかにあって、あまり疲れたようすもない。日当は一日二ドルの割であったが、彼らの全行程についやした経費は二ドル半以上は出ていまい。それにしても、ラクダはその苦労をどのように酬いられたことだろう? もっともつらい目にあったのは、彼らであったはずである。彼らは、次の旅行に出るまで、よく休息し、しっかり体力を養っておかなくてはならなかった。
飛脚は帰ってきたし、もう待つものはなにもなかった。こうなったら、一日も早く出発すること以外にはない。輸送隊は全員、直接ハミへコースをとることになった。このコースは、一九二七年から二八年にかけて、われわれが通ったよりも南のほうに当たり、ミンスイ(明水)のほとりを通っていた。ハウデやハズルンド、ユアンが選んだルートである。このやや不安な気配の漂う地域を横断するには、はなればなれにならず、全速力でピッチをあげていくにかぎる。
十四日、われわれは自動車工場のほうへ移った。近在の人まで、別れのあいさつにやってきた。それなのに、キジたちは、エンジンの音が騒がしいためか、ついに姿を見せなかったことは、寂しいことである。これほどに平和で、味わいぶかい素朴な日々を送った一八日間をすごした土地を立ち去るにさいし、そこには一抹の哀愁せまりくるものがあった。日没のころ、新しい設営地めざして明朝先発する予定のトラック四台が、貨物を積んで待機していた。一四日の夜は、この旅行中最低の気温で、零下二七・八度。明日はいよいよ出発、準備完了。ネイダンは帰化へ帰っていくので、書いた手紙は彼に託す。ユーは、スーチョー(粛州)の郵便局長に手紙を書き、今後なにか指図があるまで、われわれあての郵便物は、局留めにしてほしいといってやった。
十五日未明、全隊員が集まった。篝火《かがりび》が大きな炎をあげている。引き揚げとなると、思わざる用事があって、一〇時出発の合図が鳴った。
オボエン川の右岸に沿い、ほぼ南南東に向かっていった。川の本来の流れの方角は北北東なのであるが、このあたりで鋭く迂回《うかい》していた。はじめは「こりゃひどい……」と話しあっていたが、やがて路面がよくなってきた。このあたり、どの藪かげでもキジが群棲しているのが見られた。爆音にびっくりした、つぶらな瞳で、いつまでもわれわれを見おくっているようであった。行くての砂丘の頂に、ダッシュ・オボが見えてきた。われわれは小憩するあいだに、チャンゲラップ・メーリンの本拠ともいうべきベイヘンの地を訪れることにした。そこには、彼と彼の幕僚の二四人のラマとがいた。八つのユルトのうち、一つは寺院で、その大形のドームは、八本の円柱で支えられ、内部は寺院の様式で飾られていた。読経しているラマ僧の姿も見られた。われわれの僚友の一人は、この荘厳な勤行《ごんぎょう》の持つ雰囲気《ふんいき》に強く引かれ、中に入って、ひとときすごしていた。
もう一つのユルトで、われわれは茶菓の饗応をうけた。右手二キロほど離れたところに、タマリスクの茂る砂丘が見えていた。この地こそは、一九二七年の旅行の時、設営地として選ばれ、その後二年間本部がおかれ、さらに二年間気象観測班の拠点となっていたところである。われわれは、マニンツァガンでエッチンゴールの右岸に出た。ここでは流れはただ一本になり、その幅は一五〇メートル、五〇センチもある氷が張りつめていた。そのうえにラクダのトレールがある。河岸にはポプラが叢林をなし、また対岸には砂丘がつづいていた。ここに架橋工作することになった。われわれは、路面の固くしまった砂利道を、西南西にとって、ゴビ砂漠を進んでいった。三台のトラックが、はるかかなたの道をたどっているのが見えた。それらの車は、蜃気楼現象で、地平線上に浮いて見え、ちょうど離陸したばかりの飛行機のようでもあった。右手からは、乾燥|煉瓦《れんが》で築いた黄褐色の防塞の残骸のある、崩壊した堡塁《ほうるい》がそびえていた。この地方では、ムドゥルベルジン、すなわち「不吉な地域」とも呼ばれているもので、国境塁壁の一つである。
しっぽが白いカモシカが、われわれの車の前を走っていった。西方および西南方には、湖とも見えるし、また雪原にも似た広漠たる平原が光をともなってひろがっていた。それも蜃気楼現象のしわざであった。ここでは、キャラヴァンのハイウェイともいうべき本来のトレールが、はっきりと走っている。一すじの水のない河床があったが、それはナリンケールと呼ばれるものであった。前方を走る三台の車は見ものであった。まもなくメールインゴールの東支流が見え始めた。この流れはエッチンゴールの分流で、あるときはまた合流し、さらに二つに分かれる運命をもっている川である。エッチンゴールおよびその三角州地帯は、かつてベルクマンとヘルナーが地図記入の作業をやり、このメールインゴールは、チェンによって地図作業がなされたことがある。
西支流の河岸を、われわれの第二二次の設営地として選んだ。一日の休息。それはネイダンがここから帰化に帰るのを送るためにも、またハミまでの長途の旅に出るに先だち、準備万端、完全な旅装を整えておきたいためであった。最も大事な準備の一つは、氷を切り出して、九つの袋に詰めておくことであった。ゴビの大砂漠を横断するには、欠くことのできないものである。
向こう岸には税関事務所があり、また商社の代表者と称するものも、二、三十人たむろしていたが、いずれも武器は持っていないようであった。税関こそは、中国におけるもっとも忌《い》むべきダニである。カンスー(甘粛)、ニンシヤ両政府とも、忌まわしき貪欲漢をエッチンゴールに派遣して、貿易業者にたかり、また、時には掠奪行為をも、あえて見て見ぬふりをしていた。収税者には、最高値の入札者を指名し、とれるだけ多額の課税を行ない、標準元金だけを政府に納入し、その他は懐《ふところ》に入れるというのが、彼らのやり方である。ここから南一〇キロの所に、エッチン・ラマイン・スム――すなわち「西の寺」と通称されている寺院がある。エッチンゴールの合流点での最後の晩は、なんとなく心あわただしいものがあった。ネイダンに託する郵便物を袋に入れてしばるときは、一種厳粛なものを感じないではおれなかった。これが家郷へ出す最後のたよりにならないともかぎらない。
ともかく、エッチンゴールまでの第一段階たるこの旅をつつがなく終え、つぎの新段階は、暗黒と神秘に閉ざされた旅路が待っている。夜が明ける。われわれは、いわば背水の陣ともいうべき旅立ちである。その行くてには、かつての探検旅行で馴染みになっているとはいえ、あの荒涼たる砂漠に挑戦するには、かたい決意なくしては、一歩たりとも踏み出せるものではない。とはいえ、あのアジア奥地が平静をかき乱していたらどうなる……。われわれは、カルカ族がいる山地帯から盗賊団が出没し、砂漠のあっちこっちにひそんでいるから気をつけるようにとの忠告もうけている。また新疆省内に、反乱部隊の新手が行動を起こしたニュースもえた。
テントの扉は閉じ、燈火は消された。一九三四年一月十七日から十八日にかけてのエッチンゴール河畔の夜は、またわれわれの平和で静穏な最後の夜となるかもしれない。永遠に溶けることなきほどに濃い闇のなかで、夜はいよいよふかくしずんでいく。わずかに空の一隅に青白い星の光が、生き物のように明滅していた。
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九 ダムビン・ラマの城塞
寒暖計は三・七度以下には下がらなかった。一月十八日が明けゆく。南南西の強風あり。私の車はフンメルがハンドルを取る。彼はメールインゴール渡河に関しては、少しも危惧《きぐ》をいだいているようすはなかった。氷の厚さは五〇センチはあったろう。右岸に沿ってさかのぼり、税関に横付け。四人の収税官が道を教えてくれる。もちろん荷物に対する課税はない。ここからいよいよゴビに出た。道標として建てられた石塚のかたわらを通りすぎる。路面は、暗い背景のなかで、一筋の白い縞《しま》を描いて蜿蜿《えんえん》と続く。
一人の徒歩遍歴者が、軽い荷をつけたラクダを引いてやってくるのに会った。荒涼たる風景。これこそ「黒ゴビ」で知られ、蒙古人たちによって「カラゴビ」と呼ばれている地域である。まれに、低い丘に、かれがれのカモガヤが、風になびいている以外は、一茎の草も生えていなかった。ときどき、先発の車が見えなくなる。わずかながら、土地が波打っているためであろう。ときにはキャラヴァンのトレールが、数本いり交じっていることもある。それはヤン(揚)将軍が、貿易のために開いた道路であった。夜の焚き火のため燃料のことを懸念した先発隊が、車を止めた。このあたりの道標はタマリスクの丸太をたばねたものを立てている。ここでも蜃気楼のいたずらを見うけた。
まもなくわれわれは、タマリスクと二、三本のポプラの生えている丘にたどりついた。ここには一棟の税関支所と関羽廟《かんうびょう》と呼ばれる寺院とがあった。その丘陵から展望した西のほうの景色は、まったくすばらしいの一語につきるものであった。霊場の名の起こりの関羽というのは、その王に仕えた忠誠をたたえて、三国時代このかた崇敬されているのであった。寺の近くにルーツァオチンと呼ばれる水場があり、そのまわりには、アシの類が密生していた。
ゆけどもゆけども、景色はすこしも変わらない。ときたまなだらかな丘の上にカモガヤの草むらを見、さらにまれではあるが、タマリスクの生えた地帯に遭遇した。古いかれがれの河床があったが、両岸の浸食残層によって、時に水が流れることもあるように見うけた。山とも言いがたい低い丘陵のあいだに、トレールがひときわ、はっきりとついている。平坦なあぜ、うす黒い砂礫、不毛の野、白いまだら入りの石英、岩棚のあいだの小径、迷路は迷路に結ばれ、日の当たる広い野へ出ていくのには、かなり手まどった。真西に向かって進んでいたため、沈みゆく太陽の射る光線が目にしみるようである。私たちは、先行のトラックの轍《わだち》跡を、どこまでもたどっていった。太陽が平地のかなたに沈んでしまうと、残光もうす暗い世界にすいこまれ、やがて消えてゆく。地図製作班の目標である赤い小旗も、捜し出すのに手まどってくる。こうなると、夜目のきくけだものの瞳が必要だ。見通しもきかなく、ついには地図作製など思いとどまらなくてはならない。ついに、はるかかなたに、毛すじほどに光っている新月のかかっている空の下に、火影を見出した。今夜の設営地が篝火《かがりび》を焚いていたのである。われわれが、たどたどしく着いたときは、すでに宿営の準備が、すっかりできていた。
夜は気温零下九・四度。
一月十九日、キャラヴァンの踏み跡をたどりながら一路行進。あるところでは、ラクダの糞が、うず高く積もり、また炊爨《すいさん》の跡が、古い宿営地を物語っていた。
土地はことごとく不毛、ただしキャラヴァンウェーとしては平坦で、道路建設技師といえども、これ以上改良する余地はないように見うけられた。
すべては故障なく、うまく進行していくかにみえたが、しんがりをつとめていたセラットの車から、われわれに引っ返すように信号がきた。車はみな集まった。「エッセル号」が、二三号幕営地で、遭難したらしい、というのである。今朝、出発にさいして、ゲオルクが受けもっていた「エッセル」が、凍ったため動かないので、ジョムカの車に引っぱってもらった。そのとき、河岸のちょっとした出っ張りに車がぶっつかり、「エッセル」は突っこんだのである。おまけに心棒が曲がったため、前進不可能になった。この修理には、二日を要するというのである。
われわれはまたしても、ゴビの砂漠のど真ん中で、緊急会議というわけである。つぎの泉で、いずれにしても二、三日は宿営しなくてはならないと予定していたところである。ジョムカとエッフェは、引っ返して、ゲオルクを救援し、セラットはわれわれと、同行することになった。
われわれは、行動を起こした。道はしだいに険悪な様相を呈してきはじめた。浅い河溝《かこう》が横たわり、車の動揺は暫時激しくなって、進行をはばみがちである。土地は全体にゆるい起伏を呈し、徐々にのぼるかに思えた。このあたりは、あたかも外洋の波濤を思わせるような丘陵が丘陵につづいていた。
道は狭い岩棚のあいだをぬっていく。オボ(石塚)が、丘の背に建っている。右手に黒い山なみが望まれる。セラットは、車を止めて設営の指図を待っていた。燃料採取地で十分薪材を用意し、設営準備を始めた。そこへジョムカとクンとがやってきた。クンの話によると、二三号設営地のほうの事態は、いっそう重大さを増してきたようである。ゲオルクは一つの計画を発案した。「エッセル号」は積荷をおろすとしても、曲がった車軸は、どのようにして圧延するか。あれこれ方法が提案されたが、結局のところ、「エッセル号」放棄のほかはなさそうであった。
西も南北も丘陵でとり囲まれた地峡帯を、揺られながら越えていかねばならなかった。途中で黄《キ》セキレイを見かけたが、彼女はこの死のごとき砂漠における、唯一の生き物であった。われわれは闘技場型をした谷間にくだっていった。道は絶えず曲がりくねっていたが、おおむね固くしまっているので、走りよかった。ときどき、ラクダの頭骸や白ちゃけた骨格を見かける。何年前にたおれたものなのであろうか。
やっと一つの水場――フンリュウカタチン(『タマリスクの根の泉』と呼ばれていることをあとで知った)にたどりついたが、塩気がひどく飲用には適しない。
車を待ってむなしくときをすごした。だが、こないので、案じて、引っ返していった。われわれは、北方に進路をとった、二台のトラックの轍《わだち》を見つけたので、それを追っていくと、ヤマチンと呼ばれている泉にきた。それは、セラットのような土産子《どさんこ》でなければ、とうていわかりそうもない場所であった。この袋小路の奥のようなところを、二五設営地としてテントを張った。
私は、あれこれ思いまどった。ゲオルクは一人で「エッセル」を助けるため、あらゆる犠牲をはらって、早まったことをしようとしているのではなかろうか。彼に正しい判断を与えてやるのは、私の義務である。私は、ユーを連れ、ジョムカの運転で、とにかくゲオルクのところに引っ返すことにした。
太陽を背にうけて走りゆく、この地峡の風景は、かつて想像もしたことのないような、美しいものであった。昼下がりの、人気《ひとけ》の絶えた荒野の静寂さは、一種ぶきみな憂鬱さがただよっている。
ユーが、東のはるかかなたをさして、
「ゲオルクのくるまではないですか?」と叫ぶ。
路傍をのそのそと近づいてきたのは、一頭のラクダであった。ただ一匹の孤独なラクダは、もちろん馭者もいなければ、荷もつけていない。彼はラクダ仲間にあって、競争に破れて漂泊者になったものにちがいない。若い雌ラクダに、おのが遣《や》る瀬《せ》なき恋を打ちあけたために、仲間の老ラクダから野の掟としての懲罰をうけたものであろう。発情期がすぎるまでその放浪はつづくならわしである。
丘を背にして、二三設営地のテントと二台のトラックが見えてきた。ああ、よかった。では、エッフェはまだここにいるのだ。
ジョムカは車をテントに横づけにした。そこには|ねじ《ヽヽ》を磨きながらゲオルクがいる。他の三人も車輪を整備していた。しかも、われわれが着いたことを誰も気がつかない。
「やあ……」私は声をかけた。
彼らは、いっせいに驚きの目を見張った。
「万事うまくいっています」
「車軸は……」みなまでいわないうちに、
「りっぱになりました」
ゲオルクは、いかにも満足そうに、
「真直ぐに延ばすことが、できました」
「じゃ、準備はできたのだねえ……」
「ええ、徹夜しても完成させます」
「われわれは、なるべく早く出発したいんだが、急ぐことにしよう」
この夜は、チョックドゥングによって、とてつもない、おいしい料理を給仕してもらった。われわれは、遅くまで榾火《ほだび》のまわりで、楽しい雑談にふけった。そうして小さい一張りのテントの中に、七人が寝た。ユーと私とが並んで横臥しているようすは、ストックホルムのリーダーホルムスキルカのなかのカール・ナットソンとマグヌス・ラデュラスとでもいってみたいところであった。他の連中は、罐詰めのイワシそっくりに詰めこまれていた。技師たちの疲れは、心労をともなってくたくたであったにちがいない。その疲労のひびきが伝わってくる。リズミカルないびきの音調こそは、なんてぶきみな調べを宿していることだろう。それは窒息を思わすような詰まったひびきをともない、野生ラクダを丸飲みにでもしようとしているような音調といっても言いすぎではないと思う。これも砂漠生活の一断面にちがいない。
あくる朝、私は「エッセル」のエンジンの快調音で目をさました。試運転をやっていたのである。「エッセル号」はついに救われた。その代わりというのでもなかろうが、今度は小型乗用車の不調が起こった。それもとにかくおっつけ仕事で、一四時出発。はれものにさわるような、おっとり刀よろしく悠長に進んで、八時には峠らしい表示旗のあるところまできた。ここからコースは北に延びている。ユーマチンへの道である。
仲間がとび出してきた。われわれが、こんなに早く引っ返してこようとは、誰も想像していなかった、しかも「エッセル」を救助して。歓声をあげ、大はしゃぎであった。私の不在中に、ベルクマンは、付近一帯の風雨に浸食された小丘陵や、荒涼たる風景を、鳥瞰《ちょうかん》撮影におさめ、その作業は貴重な記録となった。生きとし生けるもの、すべて姿を秘めているここでは、けだものの足跡さえ見ることができない。
夜、チェンは南京放送をキャッチしたが、その中に重大なニュースがあった。しかし新疆に関するものではなかった。
ユーマチン(海抜一四四〇メートル)で一日空費するのはつらかったが、小型車を完全修理するには、やむをえないことであった。
一月二四日、夜の気温零下一四・八度。万事調整なって出発するのは、だいぶ遅れた。キャラヴァンのトレールをたどる。右手に海抜一五二〇メートルの山を見ながら進路をとる。この山は、このあたりで最高峰であった。われわれのフンメルとクンとは、この頂きにオボ(石塚)を建てて記念とした。
われわれは無数の浸食|畦溝《けいこう》を横断した。この畦溝の水食作用によって、この地帯もかなりの降雨量があることを示している。前方には円丘が、つぎつぎ現われてきた。新しい山脈も顔を出してきた。そのふもとを流れる水路を渡り、ちょうど岬のような地形の黒い出っ張りを迂回《うかい》して進んだ。路面が荒れてきて、行進を手間取らすところもあった。黒色の角ばった礫の堆積地が、とくにひどかった。所々、車はひじょうに険しい山稜越えをやるので、見ていてはらはらするような、いまにも転倒しそうな放れ業もやらねばならなかった。それほどの地形ではあるが、将来輸送路をつけるとすれば、やはりここを通らなければならないであろう。
平坦地域に出ると、道はあんがいよくなってきた。名を知らない小鳥が一群れ飛びたち、空をかすめて飛んでいった。彼女らは、どのようにして生きているのだろうか。まるで月世界もかくやと思うほど荒涼たるこの地域で。われわれのとっている進路は、谷にはいり、やがてラクダさえ通れそうもないほど、狭くなってきた。他のトレールを捜さなければならない。谷の幅広いところは、土地が柔らかく、砂地となり、とうとう二台のトラックは|えんこ《ヽヽヽ》状態になった。引き出そうとしたが、日は落ち、暗くなってくる。仕方なくここに宿営することになった。水はまだ手もちがあるので心配はなかった。タマリスクの枯れ幹とカラブルガスの矮樹《わいじゅ》があった。きつねの足跡も砂面に描かれている。こんな猟場で、いったいなにを捜し出して生きているのであろう。宿営地のすぐ近くに、峠らしい乗越しがある。ここに立つと、豪快な風景が西の果てまでつづいている。砂は雲かと思うように立ちのぼり、紡《つむぎ》ぎ車にも似てうず巻いていた。
南方には、丘陵性の山が蜿蜿《えんえん》と連なっている。われわれは、南南西に進路を選び走りつづける。あるところではサラ(沙羅)の木の叢林があった。道は台地状の狭い谷に沿うている。このあたりにも、オボが旅人を迎え顔に要所要所に建っている。丘のかげには、雪が斑《まだら》に縞《しま》を描いているのも見られた。休息しているあいだに、エッフェが撮影作業を強行した。
谷の狭間《はざま》は、いっそうせばまってくるが、風景はひきしまって、密度の高い構成を見せてくる。台地そのものさえ、マッチした情景となり、狭地のタマリスクの梢とともに、雅致ある趣は印象的であった。残雪が多くなってきた。砂丘は山なみに連らなり、緩やかな傾斜をなしている。
セラット、ジョムカ、ゲオルクの運転する三台のトラックは、三頭の灰色の巨ゾウのようである。灰色の砂漠を走るので、ともすればその姿は見失いがちである。この隠顕《いんけん》がなければ、起伏の形状もつかみ難い。ときには、遠く影だけ描いて、動かないで止まっているようにも見うけられる。小丘がつぎつぎある間隔をおいて並列している。それは、太古の墳墓を想像させるものがある。砂漠は文字どおり荒涼地なのだが、われわれは、カモシカの何頭かをみた。ラクダの頭骸骨もころがっていた。われわれは、たびたび目測をちがえた。だまされるのである。かなり近いと思っていた丘陵が、じつはとてつもなく時間がかかったりすることは、たびたびであった。
二、三の藪のある小さな丘をすぎると、一六〇〇メートルの高地に出ていった。ここから見ると、三頭の巨ゾウの乗員によって設営せられている土地までは、そう遠くない。
翌日は、草原帯が連続した地帯に車を馳せていった。そこには、二、三の古いキャンプサイトが見うけられた。炊爨《すいさん》などの掘り口を見ると、黄土色の粘土層がのぞいている。太古にあっては、湖底であったことを物語っているのであった。南方には、馬のたてがみを意味するマツンシャンが、いつまでも見えている。
台地状の高み――これこそ大ゴビであるが――には、浅いくぼ地に、カモガヤの枯れ草が、ひょろひょろとなびいている。八、九頭のカモシカのグループが、それら枯れ草をあさっているのも見られた。エンジンの爆音に驚いたのか、鞠《まり》のように跳《と》びはねて、高地のほうの山かげに隠れてしまった。
先達のセラットはホーシァオチンは、もうすぐだと、それを語る粘土の小山やタマリスクを指して、かつて旅した日のことなどを回想していた。実際、古いキャラヴァン道が、入り組んでその足跡を残しているこのあたりでは、いったい、なにをよりどころにするといってみようもないところと見うけた。泉は、簡単には見つからなかったが、やっと捜し当ててみると、塵や土砂で荒廃し、長いこと旅人の用に供された面影はなかった。
泉から引っ返して、さて本道へ出ようとしても、その足跡を見つけるには、そうとう手まどった。サラの木のあるくぼ地が唯一の目標で、ここをぬけたところに、トレールがある。
またしても雪原。
一一時、クンパオチュアン着、低地の河床から湧き出るこの泉は、水藻が浮き、小さい甲殻類が這いまわっていた。ここでは凍結した氷塊を見つけ、簡単な食事をとることにした。食後、南方の円丘をめぐる峽地にあるダムビン・ラマの古城を訪れた。石と日干し煉瓦《れんが》とで築造した城壁が、小さいヤードをとり巻いていた。材料からくる一種の錯覚だろうか、なんとなく城壁そのものが廃墟を思わすようなところがあり、室内の石の長椅子までが、法廷の壁とともにぶきみな印象であった。狭い階段をのぼる。そこには戸棚のような、ダムビン・ラマの私室があった。のぞき穴のような小窓からは、落莫たる砂漠の遠景をとり入れ、石の竈《かまど》のついた調理室も付設されていた。煙出しの穴も、なにか他の役目を兼ねているように見うけた。
このダムビン・ラマは、キャラヴァン泣かせを働いていたようである。われわれが訪問したときから、一〇年ばかり前、カルカ蒙古族に襲撃され、あえなく殺されのであった。今ではその足跡から、このロマンチックな要塞を固守し支配しているのは、キツネと鳥たちであるようだった。
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十 ゴビタン横断
盗賊の頭目ダムビン・ラマの巣窟をのぞいたあと、行路はきわめて不愉快なものであった。凍結した小さい川があった。セラットは氷を調べてみた。自動車は渡るにさしつかえなかった。
進路は、のぼるかと思うとくだり、じつにめまぐるしい変化であった。谷をくだる、小丘をのぼる。土質が柔らかいので、どちらにしてもあえぎあえぎの体《てい》たらくである。
チァオフーはアシのおい茂った沼沢地で、結氷した表面には、薄く雪が積もり、ほのかに緑色に光っていた。われわれが着いたとき、ちょうどカモシカが数頭、水を飲みにきていた。この近傍は、原野もひらけ、蒙古人がツァガン・デリズンと呼んでいる草が密生していた。また、セラットの車が、落とし穴におちこんだ。われわれは車を軽くするために、みんなおりて歩いた。空車でさえのめりこみ、車の底が地面にへばりついて釘づけのように動かない。セラットの車だけが、幸運にも粘土質のいやな野原を越えて先行した。その車を見ていると、荒海に浮かんだボートのように、上下、左右に跳《と》びまたおどりながら、翻弄《ほんろう》されている。いま転覆するか、いま転覆するか、と思わせる。車軸が折れないのがふしぎだ。奇跡というほかない。
ゲオルク、エッフェ、ジョムカもぬけ出して貴重な時間の空費の後、おのおの車を走らせた。骨のおれる、緊張したハンドル作業の何時間かの後、がたがた揺さぶられながらこの恐ろしい危険地帯を脱しえたが、思えば、私は歩くほうが、よほどましだと考えるようになった。まもなく、また小型車の故障、こんどは前部バネがこわれた。
南のほうにマツンシャンが、いっそう壮麗な姿を現してきた。山頂から山麓まで、全山雪におおわれている。太陽が地平に近接してくるにつれて、稜線がくっきりと天空に浮かび、青やかな影に縁《ふち》どりされて量感がみなぎってくる。われわれの立ったところは、標高一七〇〇メートルであった。
一月二十八日、夜の気温零下四・五度。空はくまなく雲におおわれていた。出発一二時。ベルクマンは、途中たびたび車からとび出してコンパスで測りながら方位の測定をやった。三頭の例の巨ゾウは、砂漠の起伏にあえぎながら、先頭を|ばく《ヽヽ》進している。一時間半ぐらいで、二つの泉があるところまできた。ここはニンシヤ(寧夏)とカンスー(甘粛)の省境だと考えられている。もしこの省境が、ミンスイ(明水)の西一〇キロのところだとすれば、われわれは新疆《シンキアン》省の省境から、そう遠くないところまできているわれである。
この泉で水を汲み貯蔵用とした。まもなくわれわれは、標高一八二〇メートルの地点を通過した。道の南がわには、耳をたて、鼻腔《びこう》をふくらまして、われわれを見つめている野ロバの一群を見かけた。その毛並みは赤みを帯びた黄土色、あらあらしく風になびいている。胸毛の白いのも特徴がある。その肢体のしなやかなこと、まさに優雅ともいうべきか。その馳せゆくさまは、大地すれすれに弾《はず》んで、しかも鮮やかだ。
われわれは、丘のふもとを、さらに河床へとたどっていった。曲がりながらのぼっていく。それは明らかに、一つの峠へとみちびかれ、第二の分水嶺まできてみると、標高二一〇〇メートルであった。ここに第二九号設営地を築いた。
ここからミンスイまでは、もう一五キロとはないであろう。夜は寒気がいっそうきびしかった。気温零下一一・七度。
あけてみれば、快晴、風もおち、すべてのものはおさまりかえっている。われわれは、車をミンスイへのコースをとって進めていった。ハミへは二六〇キロである。そこまでいけば、いやおうなく、われわれの運命は決まるであろう。南方にそうとうな標高をもった山がそびえ立っている。曲がった角をもったアーガリの頭骸骨が、雪の斑点のように、山の頂きに、あたかも守護神への供物《くもつ》のようにすえられている。カモシカが馳せゆくのも見えた。このあたり西風の大吹雪が襲いきたのか、斑雪が、鏃《やじり》の形に残っていた。
心なしか、西に傾斜を描くように、平原は波打ちひろがっていく。かれがれのカルガヤがあるところ、野生のロバが必ず足跡をのこしている。白大理石でつくられた記念碑のような山稜がうちつづく。最近に雪がきたのであろう、青空に映えて目もくらむばかりであった。
二〇〇〇年のその昔、要塞と物見櫓《ものみやぐら》として築造された廃墟についたところ、太陽はちょうどわれわれの真上であった。この建造物は、北西方から中国本土をおびやかそうとするフン(匈奴)に対して、大漢が構築した外郭防衛の遺跡である。
設営の準備がすすめられるあいだに、防塞の石壁を観察した。それらは、今日なお朽ち果てることを潔《いさぎよ》しとせざるがごとく、大自然に挑戦しながら堅固に建っていた。地下室を暗示する窖《あなぐら》、そこには真新しいキツネの足跡もあった。エッフェは猟銃を用意していたが、万事は静寂そのものであった。
エッチンゴールとハミとの中間に、第二天文観測所を設置する予定だったので、われわれは、いずれにしてもミンスイの近くに数日滞在を必要としていた。今日われわれが越えてきた最高地点は、標高二三〇〇メートルで、新疆省に至る北部自動車道路の全路線のうち、最も高い地点であった。
ミンスイに近く、しかも水、燃料、牧草など貴重な資料のあるこのあたりでは、カルカ蒙古人か盗賊団がわれわれを待ちうけているかもしれないという不安は、われわれを悩ませつづけている。おそらくは、マチュンイン(馬仲英)将軍は、彼が征服しようとしているこの地域の扉を守るために、巡察隊か国境警備兵をおいているだろう、と想像していたが、予想に反して、人影はもちろん、騎馬の跡も見出すことはできなかった。このあたり、カモシカは悠長に枯れ草をあさり、空に漂う雲のたたずまいも、のどかで平穏そのものであった。
いまここ闘技場型の谷の真中に、悠久なる歳月のあいだ、砂嵐に絶え、風雪と戦いながら、なお滅びることなく厳然と建っている要塞は、「時」といえどもこれを屈服させることはできなかったのである。残存する七つの堅牢《けんろう》な城塞が、その姿を完全に消し去るのは、はたして、いつのことであろうか。
しかし、いつかは、考古学者も、これがその場所だということを識別しがたいときを迎え、キツネといえども、またその穴を他所《よそ》に求めなくてはならなくなる日が、やってくるであろう。
ミンスイの泉は、いまでは一滴も水がないところであった。たぶんそれは、キャラバンの往来が跡絶《とだ》えてからは、砂塵で埋もれたためであろう。しかしわれわれのためには、最近降った雪の解けた水が、手近にえられた。なお、そこにはラクダの糞《ふん》が長い行列をなして残っていた。彼らが、夜のあいだどういうふうにつながれていたかを物語っていた。二年のあいだ太陽にさらされ、寒風にあい、雨露に打たれてもなお、この糞は破砕されることなく、かつてありしごとくに、今日もあったのである。
一月三〇日、西北西の微風、夜の寒気は〇・九度よりくだっていなかった。それにもかかわらず、寒く不愉快なのは、厚い雲が低く垂れこめていたせいであった。チェンがせっかく天体観測をしようと張りきっているのに、こんな空模様であいにくである。冬を迎えてこのかた、よく晴れた日がつづいてきたのに、ここで断ち切られることになるらしい。一八時、ついに雪が降りしきり、みるみる大地は雪で埋まった。二、三日もつづくとしたら、われわれはすっかり雪に閉じこめられてしまうであろう。われわれはこんなに目的地近くまでせまってきているのに。しかしまあ、雪に閉じこめられて、ミンスイに幽閉されたとしても、それはそれで、まんざら意義なきことでもないであろう。「人間万事|塞翁《さいおう》が馬」というではないか。われわれが到着するまでに、いやなごたごたも落着し、残忍非道をほこる将軍が、あんがい退散を余儀なくされているかもしれない。私は、なにものにも心の平和をかき乱されることなく、テントの棟に降りしきる雪の音を、静かに耳傾けて聞いていた。
ラジオは、前夜つぎのようなニュースをキャッチしていた。「中国全土は平穏なり。サンプオが、一通信記者に語ったところによると、新疆からは、なにも新しい事件の報告はきていない」そうである。ついで、三〇日南京放送局は「ファンムスン(黄慕松)は、調停のため、チベットに派遣されるはず。センシーツァイ(盛世才)は、南部新疆地方は、これまでもたびたび言明してきたように、同省から分離せることなき由を、南京政府に報告した」と、いっている。
これら二つの事項は、声明としてなんら明るい資料となるものではなかった。「西部に異常がない」ということは、省境がかたく閉塞されたため、異常があってもその報告が、そこを通過しえないでいるかもしれない。いずれにしても、南部新疆、すなわち東部トルキスタンが、一月三十日には省から分離されてしまっていたことは確かである。われわれはまもなく、うわさのほうが、取消しよりも真実に近いことを知ったのである。
ともあれ、二つの声明は、新疆省の省境を通っていけるだろうというわれわれの見込みを、有力に裏書きするなんらの手がかりにもならなかった。われわれの不安は、増大するとも減ることはないとはいえ、キャッチしたニュースに対しては、平静に正しい判断をくだし、将来の見通しの資料としなければならない。それにしても、われわれの態度を決めなくてはならないのは、そう遠いことではない。
一月三十一日、最低気温零下十五・七度を指していた。四囲完全なる冬の装いになった。朝来の密雲の層、昼過ぎその一角が破れ、わずかながら日射しを見るようになった。ベルクマンは廃墟を写生し、見取図をとった。太陽の傾けるとともに、雲の移動を見る。われわれは、廃墟の損壊状況をつぶさに観察して、ここでは、過去二〇〇〇年のあいだ、南南東の風よりも、北北西からせまりくる風のほうが、はるかに強く吹きすさんだにちがいない、という結論をえた。南南東のがわや、そのがわに建っている壁石は、構築当時の状況を、かなり強く維持しているのにくらべて、北北西の面の部分は、角が落ち、やや丸味をおび、風雨の浸食を物語っているからである。
この夜、気温零下二一度まで下がる。空は晴れる見込みは、ちょっとない。雲の層はいまだ溶けず低迷しがちであった。ただ西方の地平線のみは、うすスミレ色になってきた。夜ふけて、しだいに晴れてきた。チェンは、星の観測をすることができる程度になった。彼は、もう一晩やらなければならない。彼は忍耐という衣をしっかりと身につけてやった。二月一日の夜から二日の朝まで、二〇時間作業をつづけた。気温は零下二六・五度まで下がった。ユーとフンメルとクンとは、幕舎内で榾《ほだ》を焚き、チェンの作業を手伝ってやったそうである。茶をわかし、食べ物を供し、手あぶりの火を絶やさぬように気をくばってやったわけである。
二日、好晴。雪もかなり溶けてきた。漢朝の城砦を観察したベルクマンによると、古い砦《とりで》の内部は各辺二五メートルの正方形、外郭には、高さ六・五〇メートル、基底六メートルのどっしりした塔が七、八基建ち、北がわには、障壁を設けて建物を保護し、その基底は塁壁の構造をもっていたそうである。そして南がわは峡谷をとりいれ、自然の塹壕を形づくっていたのである。そこでは、漢代によく見るタイプの青銅の鏃《やじり》や、弓の大きさによってちがう、種々の寸法の鏃などが、台座の下から発見された。
二月二日から三日にかけての夜は、気温は異常なまでに下がり零下二四度という目盛りを指していた。乳白の朝霧が、生クリームをぶちまけたように、平原にたゆたい、山々はそのすそをすっかり塗りつぶされて、稜線だけが黒々と浮かんでいた。草や丘の灌木《かんぼく》には木花が咲き、ガソリン罐や梱包《こんぽう》箱は霜でおおわれ、まるで石膏細工よろしくの態であった。廃墟は、たゆたいがちな朝霧の切れめから見え隠れしていたが、夢幻的な美しさを描き、その変容はとても形容しうるものではない。
われわれは出発した。この漢の帝王の城砦の右手、山の支脈の頂きに、ぽつんと一基塔が見えていたが、それもやがて後になり、道は山稜をぬい、雪の積もった細流の河床を渡っていく。凹凸や小山、草むらや大地、溝《みぞ》や峡谷がまるで迷路のように錯綜《さくそう》し、吹きだまりのため、そこここに、けんのんなおとし穴があった。
第二の泉は、谷間の廃屋のかたわらにあった。またしても砂地となり、スピードをおとしてやっと前進をつづける始末である。|えんこ《ヽヽヽ》した車をやっと動けるようにしたとたんに、別のやつが立ち往生とくる。そのつどわれわれは雑役人夫よろしくシャベルだ、鋤《すき》だとかつぎ出す。
峠に向かう。低迷していた霧も、ここまではのぼってこなかった。ために空気はかわき、明澄であった。越しかたをふり返ると、ミンスイあたりの谷間には、なおも霧がまといつき、雲海のようである。くだりはいっそうけんのんで展望どころではなかったが、わずかに、天山《テンシャン》のアウトラインを望見することができた。くだりゆく斜面は、積雪もふかくなっていく。われわれは、ここにたどりつくまで五〇〇キロ以上、人の足跡らしいものは、とうとう見ずじまいであったが、ここではじめて、新雪の上にラクダと馬とをつれた人間の足跡を見たときは、われわれは言いしれぬ懐かしさを感じたものである。この、南をさして、とぼとぼとひとすじたどりいった旅人は、いったいどんな人なのか。
われわれの周囲には、枯れ草がおおった黒みかかった山々がうちつづいていた。そこにはサラの木の茂みもあった。道の幅はわずか二メートルそこそこではあったが、広大無辺際ともいうべき平原を、うねうねと走っている。目に見えないほどのくだりである。最後の峠からは、すでに三五〇メートルもくだってきていた。波状をなした大地は、路面も固くなってきたが、雪で埋まった河溝がでたらめに横ぎっていたため、その一つに車を突っこみ、またまた掘り出し作業が始まった。われわれは、さらに五〇メートルばかりもさがった平原の、ど真中に、三一号キャンプ地を設営、テントを張った。
キャンプサイトは、四囲は山で囲まれ、雪で埋まった河溝が交差していた。その河溝のなかには、われわれがいままでいきあったものより、ずっと深いものもあり、この吹きだまりは、翌朝手ごわい障害となった。ミンスイの東で越えた最初の峠路は、分水領をなしていて、東のほうではその地方を流れる小さな川となり、西のほうは、ハミの南側にすり鉢型の盆地を形づくっていた。ミンスイの北北西にあるもう一つの峠は、幹線とは関係のない、間道《かんどう》である。
二月四日の朝は、平穏に明けはなれていった。もちろん晴れてはいたが、カルリークダグ山(雪の山の意)の空は、雲ゆきが激しくすくなからず怪しまれた。その雲は、われわれのほうに近づくかにみえた。ハミ方面の空は、いちじは晴れていたが、まもなく密雲閉ざし、視界もきかなくなっていった。この雲ゆきは、おそらくは、この地域でわれわれを待ちうけていたアクシデントの前兆であったかもしれない。
積雪量はだんだん減ってきた。われわれは、どこまでもラクダの踏み跡をたどっていった。そのトレールは、どこまでも雪が積もり光っていた。やがて斑《まだら》雪になったが、そのようなところは、勘《かん》で足跡をたどり、行くてを定めなければならなかった。いちどならずたどりそこなって道を失い、そのために吹きだまりに落ちこみ、にっちもさっちもつかない羽目になった。泣きっ面《つら》にハチで、雪が降り始めた。二時間走るあいだに、二十回も落ちこんだ。
ようやく危機を脱し、道はスピードを出して走れる程度のものになってきた。草むらや灌木《かんぼく》が溝をおおい、枯れたタマリスクの樹幹やラクダの骸骨で、大きなオボ(石塚)が建てられていた。そのてっぺんには、無常を物語るがごとく、頭蓋骨がかぶせられていた。それはあたかも砂漠を旅するものたちを待ち構えている、いろいろな危険を表象しているようでもあった。雪も小降りとなり、斑雪さえもなくなってきた。北の空をおおっていた雪雲も、いまは吹き払われ、青空が透《す》けてきたので四囲が明るく、天山の山稜もふもとの丘陵も、おぼろながらその輪郭が遠望できるようになった。われわれは、これまでいくつとなく越えてきたような台地の流砂がうず高く積もった斜面をくだってきた。ここでは、雪は跡かたもなかった。
午後遅く、楊柳の沢に着いた。それは泉から出てくる幅一五メートル、長さ一〇〇メートルの氷におおわれた沼である。ゲオルクはここで二つの革袋に氷を詰めこんだ。道はどんどんくだっている。ミンスイからこっち、もう一〇〇〇メートルも低い地点をすぎようとしていた。雲は破れ、夕日さえ射してきたとはいうものの、それもつかのま、日は没して、測量にはランタンをつけなければ、作業はできなかった。およそ六〇キロ走破したところで設営することにした。
その夜は、気温は零度。カルリークタグの山頂が、波濤のごとき山なみのただなかに、その雪稜を輝かしている遠望は、壮麗でありまた荘厳でもあった。しかし、まもなくうず巻くような暗雲が襲いかかり、このたぐいなき遠望も奪い去ってしまった。西のほうには雲の窓から青い空がのぞき、砂漠に描く雲影は、黒い浮き島のようである。ミンスイを出て以来、われわれは北北西に進路をとってきたが、このあたりから西方にコースをとって、ひたに走りつづけた。
とある小さな丘の頂きに、五つのオボが建っている。それにつづいて、新疆省における最寄《もよ》りの村、ミヤオアルコーの部落が出てきた。それはわれわれが、一九二八年一月十九日にゴビ砂漠を通って遍歴したときゆきついた、最初の、人の住んでいる部落であった。フンメルはある丘の頂きで、白い丸屋根のマザール、聖者の墓を見つけた。一九二八年のときは、この部落にトルコ族の数世帯が住んでいたものである。私は、いささかならず興奮の体《てい》で望遠鏡を取り出し、西のほうの丘をくまなく探ってみた。それというのも、もしあの礼儀正しい、素朴な心の連中が、いまなお、煉瓦《れんが》づくりのお粗末な家にいるなら、私はこの旧知の人たちをたずねたかったし、またその地方がいまどうなっているか、マチュンイン(馬仲英)とセンシーツァイ(盛世才)とのあいだの抗争状況はどうか、はたして和平の交渉が成立したのかなど、現状を聞きたいと思った。
三十分後には、マザールがはっきりと見えてきた。結氷したオアシスのそばを通り、アシと野バラの茂みを超すと、みちみち右手に望んできた山脈の山裾に近づいてきた。その右手の、出っ張りの岩壁を背にして、叢林に囲まれたシナ寺院があったのを、私は憶えている。しかし、お寺は跡をとどめることなくなくなって、道は、高原の頂き近いひだをぬって、うねうねと通っている。一群れのカモシカが、われわれの爆音にびっくりしてとび去っていく。カモシカはこんな村の近場まで出てきて遊んでいるのであった。
村に着いたのは昼すぎであったが、村は戦争のうず巻きの中にあえぎつつあるようすがすぐ読めた。家という家、屋根という屋根は剥《は》がれ、粘土の壁が天日にさらされたまま立っていた。生けとし生けるもの、なに一つ見あたらないありさまであった。村は掠奪され、ついには見捨てられたにちがいない。それにしても、この地を領有していたのは、マチュンインかそれともセンシーツァイか。かつては、もっとも重要な貿易路の一つであったこの道を、それにカンスー(甘粛)、ニンシヤ(寧夏)に対する新疆省の最前線哨戒基地たるこの村を、歩哨の一人もおくことなく見捨てたとは……。われわれには理解し難いやり方というほかはない。われわれは、香《かんば》しからざる予感を胸に秘めて、この沈黙の村をあとにした。
われわれが岩門を通りぬけると、そこはもう平坦な砂漠である。そこには荒れ果てた望楼台と一棟の土造りの家とが、寂しく建っていた。先頭をいく車のすぐ前を横ぎって南に走るカモシカを見おくりつつ、やがてわれわれは、イクンの泉のある台地をすぎた。ところどころオボの建っているのも見えた。いや、ここではもうオボではない、いまやわれわれは回教圏に踏み入っているので、トルコ族の人たちにはニッシャン、すなわち単なる「道標」と呼ばれているものである。
砂平線はわれわれの目も届かないほど、はるかかなたにあるので、平原はまさに大海原の様相を呈している。道はよく、車はたけりつ野獣のように、砂塵を巻き上げて快走をつづけた。一すじの荷車の轍《わだち》は、寂しく建つ一棟の土造りの小屋に結ばれている。しかしここにも人はいなかった。追い払われたのか、みずから見捨てて去ったのか。大地に深くくい入っている轍と荷車を引く動物の蹄跡《ひづめあと》をあわせ見て、すぎし日、この地はいかばかり輸送の往来|頻繁《ひんぱい》であったかを想像するに難しくない。しかしいまは荒廃して、死のごとき寂寥《せきりょう》だけが、この土地の主人公となっている。
砂塵はもうもうと上がり、一行の車がどこを走っているのかもとらえ難いほどであった。セラットはわれわれの前を走り、ジョムカの車のタイヤはすぐ見わけがつくので、けんとうもつくが、ゲオルクはいったいどこを走っているのだろう? われわれは彼の車に追いつくためにスピードを出した。そのうち、日はかげり、もうぼつぼつ設営にとりかかる時間のようだ。こんな時間にハミまで突っ走るということは考えものだ。私は設営の合図を出した。ゲオルクはなおも前進をつづけていた。われわれが一かたまりになっていたほうが好ましかったのだが、このときはばらばらになってしまっていた。フンメルとチェンとは、小丘に上がって、手旗信号で「引っ返せ」の合図をした。ゲオルクはついにセラットに追いつき、二人はやっとターンして引っ返してきた。
テントは一本のポプラの根方に張られた。三三号キャンプサイトは前夜の地より三九〇メートルも低地にあった。ここには野天の淡水泉があった。地名はわからなかったが、ハンルーカン、すなわち「黄色いアシの山」の村からは、わずか二、三キロしか離れていなかった。篝火《かがりび》を焚き、四張りのテントが、くっきりと夜目にも白く浮いて見えた。われわれは、もう一八日間も誰にも会わないですごしている。いまやわれわれは、ハミの近郊の村近くまできているわけである。それなのに、人影とてもなく、もちろん警邏《けいら》の士卒も現われない。この緑地帯の生え茂った枯れ草をあさりゆくラクダもウマもウシも見当たらず、イヌの遠吠えも聞こえない。何事か起こったのであろうか? なにがこの土地をこんなに荒廃させてしまったのだろうか? この地帯は、いったい誰が統治しているのだろうか? 東部の盗賊が出没するという地区での幕営には、不寝番をたててきたが、ここではそんな必要はないらしい。われわれはいっそう元気で、雑談の声も明るく響いた。私も、いつもより夜ふかしした。
われわれは国境の通い路を閉ざされていることを確かめるまでは、この探検旅行を断念するつもりはない。もしハミから追い出されでもしたら、南南東にルートをとり、アンシー(安西)に出る道を西方からペイシャン(北山)にたどりつき、アルトミッシュブラークおよびコルラに出るつもりであった。いってみれば、手ぶらでは南京に帰っていくまいと決心していたわけである。
骰《さい》は投げられたというべきか、とにかくわれわれはルビコンの川を渡る前の最後の夜を、きらめく鶉火《じゅんか》の星かげを宿したテントの中で、ぐっすりとふかい眠りにおちていった。
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十一 襲撃、そして囚われとなる
二月六日、ハミに出発するに当たって、われわれのこの地に関する知識といったら、お粗末なものであったというほかない。新疆《シンキアン》省における謀反と反乱との織りなす支離滅裂ともいうべき現状については、正確を期しうるなんらの手がかりもなかったのである。なるほど、エッチンゴール、ミンスイ(明水)の両地において、無線放送による声明を傍受していたが、それによると、ハミの東のほうに蟠踞《ばんきょ》しているトルコ族住民のあいだに、局地的ないざこざが起こっていると、広報で伝えてはいた。しかし全体としての平和は確立され、万事は平穏におさまっているだけでなく、局地的な闘いも終熄《しゅうそく》のきざしが明らかとなり、われわれは、すこしも危惧するところなく、省境を走破できるものと思っていた。われわれはみんな勇躍、その前途におおいに期するものがあったわけである。それゆえに、オアシスの郊外に乗り入れたときも、協議一つ必要とは思わず、われわれの一行を、じろじろ見ている土着人があっても、注意を促すようなところもなく、ひたすら行進をつづけていった。
道はクモの巣のように、枝葉に分かれている。右はファンルーカンの村、左をとれば、幕舎が一棟建っている。この村の辻まできたときであった。われわれの両がわから、兵隊らしきものが二〇人ばかり、バタバタと駆けて現われた。乗馬のものもいたが、たいていは徒歩であった。彼らは道に腹ばいになり、ライフルを構えていた。セラットの車にいたユーは、とっさに危険を感じたので、テントの前で車を止めさせた。もし彼らが数ヤード前進していたら、至近距離の射撃を浴び、惨劇を演じていたことであったろう。ユーが車から出てきて、両手を上げ丸腰であることを語ると、彼らも銃をおさめた。ユーは隊長を呼んだ。隊長は、銃の引き金に指をかけたまま、車に近づいてくる。彼は人を食ったような、どぎつい言葉で、
「手めえは何者だ? いったい、どこからやってきたんだ……旅券を持っているのか?」
隊長らしい男は、相手が、どの程度の火器をもっているのか、どこへいこうとしているものなのかを気にしているようすであった。
ユーは、ござんなれとばかりに、落ちつきはらっていた。そのあいだにわれわれの後続部隊が、そこへ着いたのである。
私は、旅行許可証を取り出して見せた。彼らは、われわれをとり囲み、ものものしいやりくちで、武装を解きはなったうえ、
「ハミから指令がくるまで、行進はならん。ここでとどまっておれ」
そう待つほどなく指令がくると、旅行許可証に検査の印を押してわれわれに行進許可の手を振った。われわれの車は、数名の兵隊が乗りこんだまま、ファンルーカンの村へと進んでいった。またしてもライフル銃を構えた一隊の兵たちに、行くてをはばまれたが、検査印を見せて、無事ハミにたどりつくことができた。チャン司令官のヤーメン〔役所〕の前で停車、同乗してきた兵たちの連絡で、司令官のところでは、意外の歓迎をうけたばかりか、われわれの小銃も拳銃もここで返された。とはいえ、このときすでに骰《さい》は投げられていたのである。われわれの身分は、もうこのときどんなにひいき目に見ても、袋のなかのネズミ以上には、安全度を期待することはできなかった。
無線放送によると「新疆省における万端の事態は平静をとりもどした」という声明は、現地にきてみると、月とスッポンほどもかけ離れていて、情勢はもっとも苛烈《かれつ》をきわめ、決定的な最後の段階に突入しつつあったときで、われわれはそのうず巻きにとびこんできたようなものであった。ファンルーカンの軍分遺所から引っ返していったほうが、むしろ賢明な策であったことを感づいたときは、万事が手遅れであった。われわれがエッチンゴールから旅してきた隊商路は、ファンルーカンからアンシー(安西)とスーチョー(粛州)とを経てカンスー(甘粛)省に延びていたのである。それにしても、われわれが南京政府から受けた指令は、チュグチャックか、クルジヤか、カシュガルかに出る三つのルートのうち、どれか一つを踏査するように命令されていたし、われわれにしてもこの遠征隊の使命を果たさないで東へ引っ返そうなどということは、誰ひとり考えてもみなかったことである。それに、引っ返そうたって、ときすでに遅しであった。なぜなら、われわれはすでに国境をまたぎ、馬《マ》将軍たるマチュンイン(馬仲英)の張った網のなかに落ちこんでいたのである。現状では、われわれ遠征隊の生命を生かすも殺すも、彼の一撃のよくなしうるところである。
「トルファンに出る道はどうなっているだろう?」
私は、チャン司令官にたずねにやった。確かに通れるということであった。
われわれは、トルファンへのルートに車を進めた。途中いたるところで、尊敬と厚意あふれるもてなしで迎えられ、また送られたのは、いったいなにを語っていたのだろう? われわれが通った路々、宿泊の支度までしてあり、おまけに食事代の請求もせず、出しても受け取ろうとしなかった。そのうえ、われわれが注文するものは、なにによらず調達してくれもした。トルファンでは、兵器工場を見学させてくれたし、兵隊の入営式にも招いてくれた。われわれの行動は、なんら束縛するところはなかった。ただここでは、ウルムチに出る道はふさがれ、かつその途中のダワンチェンにいく山地の峠は、マ将軍の手中に落ち、峠をはさんで両軍が戦っていたようである。このさいわれわれは、カラシャル、コルラ、クーチャ、アスクを結ぶコースをとってカシュガルに出るなら、あるいはできなくもなかったかもしれない。マチュンインはこれらの町に駐屯している司令官への命令書を、われわれにくれたのであるから。しかしわれわれは迂闊《うかつ》にも、このときマチュンイン自身が、風前のともし火に似て、危殆《きたい》に瀕し、われわれとときを同じくして、数週間後には、彼も、その軍隊も、クーチャ、アクス、カシュガルと敗走撤退せざるをえざる戦況となった。われわれの行くては、想像以上に悪化し、進むも退くも、死の決意なくしては動けない窮地におちいった。
トルファン、トクス、カラシャルを結ぶコースの部落は荒廃の極みに達し、たくさんの避難者の列を追い越して進まなければならなかった。カラシャルの指揮官は、いとも丁重《ていちょう》にわれわれを迎えてくれたばかりか、カイドゥゴールを渡るのに必要なあらゆる手助けを惜しみなくやってくれた。
ときはもう三月であった。一八八五年以来、われわれがこのアジアの奥地に踏みこんだ、どの時期よりも、最悪の場面に刻一刻近づきつつあった。
三月四日の夜が来た。われわれは夜のぶきみなとばりをついてコルラに到着したとき、この町が、カンスー省における戦乱から逃亡してきた職業的殺人者や悪漢の群れによって占拠されていることをはじめて知った。彼ら無頼《ぶらい》の徒は、ここにたどりつく前に、砂漠の南方のオアシスとその付近で、すくなくとも一万人の無辜《むこ》の民衆を殺戮《さつりく》してきたのである。われわれの遠征自動車隊が、かすかなランタンの明かりでコルラの中心街にたどりつくや、これこそは盗賊団の懐中ふかくすべりこんでいったも同然、もはやいなも応もなかった。事態は一抹の光明が射しくるかに思えた。われわれがこの町を出発するにさいして、トルファン駐在のマチュンインの部下であるリー将軍は、アスクに着くまでということで、五人の護衛兵をつけてくれた。場合によっては、カシュガルまで連れていってもいいといってくれた。彼ら護衛兵は、途中クムシュの部落では、まったくの悪ふざけから、危うくフンメルを射殺するところであった。その五人のうちのチャンは、箸《はし》にも棒にもかからない奴であることを、われわれはすぐ見ぬいた。
三月五日、これら護衛兵どもは、彼らの戦線に重大な命令を伝えるようにと、指令されているということを種に、車と運転手一人を貸してくれないか、とわれわれに申し込んできた。私は「ノン!」ときっぱりいい放った。われわれの車は、われわれのものではない。政府のもので、これを自由に扱うなど許されていないことを彼らに理解させようとした。
その夜、二二時に二人の兵隊がやってきた。本部へきてカラシャルから電話がかかってきているので、返事をしてくれ、という。私は、ユーとゲオルク、エッフェを伴い、丸腰のまま、小型車を走らせていった。
われわれが本部室にはいっているあいだ、エッフェは車に残っていた。チャンは尊大に構えてふたたび車を貸せ、と強く申し込んできた。私は、ここでも断固拒絶した。
「てめえたちが、許すも許さんもあるものか。とにかく、おれはトラックを一台もらった」
おうへいきわまる言い草であった。私は車のところに引っ返した。ユーもついてきた。車のなかに腰を下ろす。ユーもハンドルに手をかけて乗ろうとした。そのとき、三人の荒武者がとびかかってきて、腕ずくで彼を引きずりおろした。彼はもちろん抵抗した。
「静かにしろ!」
私はすぐ車からおりて、彼ら荒武者に言葉をかけようとしたとたんに、数人の武装兵にとり囲まれた。そして、銃の台尻で、営内の中庭に連れこまれた。エッフェとゲオルクもまた縄目にかけられた。それはあっというまの出来事であった。中庭では、荒武者の一人は、私の革ジャケットを剥《は》ぎとり、シャツまで引き裂いてしまった。そこには、四〇人ぐらいもいたであろうか。流れおちる星屑とたった一本のろうそくの燈影《ほかげ》によって垣間《かいま》見たこのときの光景は、私が生涯のうちで目にした、もっとも呪われたる瞬間であった。死刑執行の用意が、この漆黒《しっこく》の闇のなかでとり進められていたのである。ライフル銃は発砲するばかりになっている。あとは、われわれを石壁の前に立たせるだけのことである。私のつぎには、フンメルが、ベルクマンが、クンが、チェンが……。そして運転手も従者たちも消され、トラックとそこに積みこまれている全財産はもちろん押収。遠征自動車隊はかくしてその行方を闇に葬り去ったあと、ツンガン人のあいだから、運転手の五人や六人見つけ出すなど容易なことである。
われわれをとり囲んでいた四〇人の荒武者は、文字どおり野獣であり悪魔であって、人間の生命なんてたった一人も一〇〇〇人も問題にならない。私の全生命は、いま飛び去ろうとしている。ふるさとでは待てどもなんの音沙汰もなく、ついには諦めてしまうのであろうか。コルラにいるトルコ族の居住者たちだけが、三月四日の夜、われわれがこの町に到着したが、その後ついぞどうなったかわからなくなった、ということを知らせうるにすぎない。この痛ましい殺害を目撃するものは、野獣のほかにはないのである。しかもその手下人の連中も、やがてはちりぢりばらばらとなり、事実を語ろうとするものもあるまい。われわれのバス道路探検事業は、このような莫大な犠牲に値するものなのであろうか。われわれは、この事業に、たった一つしかない生命を投げ出すべきであろうか。いや、すべてはどうしようとしても、あまりに遅すぎたではないか。われわれは、夜目にも光る筒先の前に立っているのである。しかも、われわれ一人一人を裸にして、両の手を縛りあげようとしてその胸には、二挺のモーゼル拳銃の筒先が、肌身すれすれに突きつけられていたのである。この場合、荒武者のうちの一人が、暗闇でつまずくとか、たけりたつ指がちょっとでも引き金を引くとかしたら最後、われわれの仲間の一人がたおれる。そうなったら、残りのものの処置も即座に決まってしまうだろう。私は意識の底で、ぎりぎりの瞬間を感じた。
「そんなことをさせてなるものか!」
ああ、もう遅すぎたであろう。しかしできるだけのことをやる以外にない。
「撃てっ!」
この言葉を待っているとき、私は閃光のようなチャンスを感じた。チャンの心に憤怒の感情が、ほんのわずかでも波打ったら、もうそれで事は終わるであろう。私はそのことを計算したうえで、ゲオルクに呼びかけた。
「われわれは、もうたったいま、射殺されるのだから、いまのうちに自動車を、彼らにやってしまおうではないか!」
落ちついた返事が、ゲオルクの口から漏れた。チャンはこれを聞きとって、部下に命じ私一人だけを、本部室に連れていかせた。もちろん裸になった私の両がわには、あい変わらず武装した荒武者が、ぴったりとくっついている。腰掛けにすわって待っていた数分間、私は寒さもなんも忘れていた。ながいながい、無限につづく数分間であった。一秒ごとに、闇に閉ざされた中庭のほうから射撃の銃声がおこりはしないか、と意識は一点に凝結していた。暗闇にひそやかな足音がする。ついにユーも、部屋に押しこめられてきた。つづいて二人のスウェーデン人もはいってきた、裸のままで。
ぶるぶるふるえながら話し合いが始まった。その結果、門の入口まで自動車を引き入れ、あす明け方ゲオルクがアクスまで運転してゆくことに同意の意思表示をさせられた。その夜われわれは眠れなかった。ゲオルクはわれわれと別れるとき、スウェーデン語で賛美歌をうたってくれ、と私に言った。これが最後になるかもしれない、とおたがいの胸のなかで言葉を交わしあった。このようにして、われわれの探検事業も、コルラを最後として|おさらば《ヽヽヽヽ》することになったのである。ベルクマンとチェンとは、二台の車で、クムダリアからロプ・ノールのほうへ、われわれ残りのものは、三台の車を駆って、カシュガルへのコースをとり、その道の完全なバス輸送路となしうるように道路を敷設するには、どういうことが、もっとも緊急を要するかを調査することに話が決まった。
事態は刻々に移り変わっていた。ロプ・ノール隊と、いまここで別れて、別コースをとることは、どう考えても危険である。ゲオルクは最後の提案として、全員ができるかぎり東方、ロプ砂漠地帯に出て、道路も村落も住人もいない安全地帯を捜し、避難することをしきりともち出した。しかし、私は、われわれ隊員のうちには、仲間を危地に追いやり、また見捨てるような卑劣漢は一人もいないことを強く言い聞かせたうえで、翌日はクーチャ、アクスのコースをとって出発することにした。二日の旅の後、ブグールという大きな村落をすぎ、やがてチョムパック村にさしかかろうとしたとき、ベルクマンが、すっとん狂な声で、
「ゲオルクがやってくるぞ!」
と叫んだ。われわれは、車を止めた。高原の一すじ道に砂塵が舞いたつなかに、トラックの輪郭が、かすかに写し絵のように浮かび上がってくる。その車が、われわれのところで止まると、なかからゲオルクがとび出した。われわれは応急の打ち合せ会を開いた。ゲオルクは、たてつづけにその冒険談をぶちまける。彼の車に同乗した一二頭の野獣どもを、クーチャでおろすと、あとをも見ないで一目散に引っ返してきたのである。このまま全員がクーチャに向かうことは危険このうえもないということを、彼は身をもって体験してきていた。またしてもわれわれは、袋のネズミ同様の体《てい》となった。クーチャの西パイ村には、ウルムチにあるセンシーツァイ(盛世才)将軍の派遣部隊がいるし、東のほうコルラとカラシャルとをつなぐ道には、マチュンインの敗残のトンガン人部隊が出没していた。
私の状況判断は、クーチャに一度出て、パイの戦線を突破したうえで、アクス、カシュガルへのコースを前進したほうが、より安全ではなかろうか、というにあった。しかし仲間は、ことにゲオルクは、コルラにいちおう引っ返すこと、そのうえでロプ・ノール地方への道をとって、探検の矛《ほこ》を収めるよう提案した。われわれは、虚心になって、その意見を尊重し、従うことにした。かく話しあっているあいだ、あたりは静穏であったとはいえ、そこはなまぐさき戦場のうず潮のまっただなかであったのである。私は、カシュガルゆき、すなわち三つのルートのうち、チュグチャックか、クルジヤか、それともカシュガルに到着する、そのどれか一つのバリエーションルートを詳細に調査したい念願に駆られていた。ウルムチに寄らないなら、ガソリンはどこで補給したらいいだろう? チョムパックからクーチャへは、ほんの二、三時間の走行距離であったが、もしこのコースをとっていたら、それこそとり返しのつかない羽目にあっていただろう。おそらくは、われわれの車はもちろん、ガソリンも運転手までも強奪されていたにちがいない。ここでは、クーチャと前線とを結ぶ戦争物資の輸送に、即刻利用されていただろう。逃亡の荒武者は、われわれの車が勝ちほこっているウルムチ軍の手中に収まることを妨げるためにも、車を焼き捨てて、運転手も消して逃げるがおちである。
二つの銃火の挟撃にあい、どっちにしても危険は危険を生み、すべては処置なしであった。東部地方では、まだ、マチュンインが支配者たることを認め、その命令に従って、われわれは懇切に迎えられた。このさい、コルラに蟠踞《ばんきょ》している無頼の徒党のような軍隊さえ、うまくかわして、逃避行をつづけることができれば、ロプ砂漠への東方コースに車を乗り入れることは、さして至難ではないように思えた。そこまでたどりつけば、戦線を脱して、しばらくは身を隠すすべもあろうものを。もしそうできれば、われわれは、クムダリアを灌漑用その他の利用なり、また二〇〇〇年の昔、漢朝時代からの「絹の道」をさぐり、その復活をいかにとり進めるかなど、われわれに与えられた高貴なる課題を査察するにふさわしい時間を生み出すことにもなろう。
三月十一日、その日午すぎ、われわれはコルラの町にはいっていった。ここら近在の住人の話では、ここにいた全駐屯軍は、一人残らず避難または逃亡したとみえて、町には十数人のトンガン人がいるにすぎないことがわかった。
われわれは、神明の加護によって? まったく運のいいときに到着したものである。市の当局者を訪問した後、コルラを出発して、シンネガに通じている道を、南にとって進んでいった。三・五キロばかりいったところで、灌漑用のクリークにのぞんだヤナギの並木道に出た。このとき、まったく不意をついてわれわれの両側から騎乗兵がとび出してきた。彼らはつけねらっていた形跡があった。灌木の茂みのあるところまでくると、ウマからおり、われわれを攻撃し始めた。われわれは車からおり、クリークの岸に身を隠した。ゲオルクとユーとは、弾丸《たま》が彼らの頭を、ビューンと掠めたとき、一瞬ひょいと地に伏せたので、事なきをえた。弾丸はつづけざまに、車や荷物のあいだを、ビュンビュン飛んでいった。
「撃つのをやめ!」私は、彼らに命令したつもりだった。もし、このときわれわれのほうでも応戦のつもりで発砲していたら、おそらく隊員一人として生命を全うすることはできなかったと思う。わずかであったが射撃は続き、そのあいだ銃火を浴びていたのであるが、奇跡的にも、かすり傷一つなかったのは、まったく神明の加護いよいよあらたかなるを思わざるをえない。すこしも手ごたえがなかったので、トンガン兵たちは、百歩ばかり向こうまで近づいてきて、誰か一人やってこいと叫んでいる。クンがいった。
「すぐコルラに引っ返せ!」
トンガン兵の宣託である。これを拒否すれば、これは抗戦を意味したことになり、ただではおさまりそうにないので、われわれは宿舎としていたトルコ人のアブドゥル・ケムリの家に引っ返してきた。ここにいたってわれわれは、マチュンインの配下のトンガン人駐屯隊の術策にまんまとおちいり、監禁の状態に追いやられたわけである。ちょうどそのとき、北方からトンガン人の逃亡兵が、町に流れこんでき始めたので、われわれはトルコ人を雇い、不寝番を立てることにした。われわれ自身も、交代で警戒に当たった。このため不眠の夜がつづいた。深夜不寝番に立っていると、イヌの遠吠えが各所で起こり、小銃の射撃や叫び声、ウマのいななき、まさに物騒なもの音ばかりが伝わってきた。
「門をあけろ! あけなきゃ、発砲するぞ……」
銃の台尻で門をどやしながら、不穏な叫び声が聞こえてくる。彼らは、食料をねらい、また武器を強奪しようとたくらんでいたようであった。
三月十三日、町はトンガン兵の軍隊でいっぱいになった。敗軍の将マチュンイン自身、この町にはいってくる、といううわさがたった。彼は、われわれの宿所に将校をよこして、彼自身訪問することができない由を伝え、しかも丁重に詫びて、トラック四台借りたい旨申し入れてきた。また負傷した幕僚の一人を診察してほしい、との依頼をもって、フンメルを迎えによこした。
そのあいだに、われわれの庭に、将校や兵がいっぱいはいってき、足の踏み場もない騒ぎとなった。将校たちは、車を受け取りにきたのである。こうした混雑のさなかに、爆撃機が一機やってきて、このかわいらしい小さな町を爆撃する騒音が聞こえ始めると、庭に詰めていた兵どもは、クモの子を散らしたように、どこかへいってしまった。飛行機はソヴィエトのものであり、二十九個の爆弾が投下された。
この爆撃機がいってしまうと、自動車の支度はでき、ゲオルク、エッフェ、セラット、ジョムカの四人がそれぞれ運転して出かけていった。われわれは見送りながらも、神のみ手によって、つつがなからんことを祈念しないではおれなかった。拠《よ》ってくる不安は、トンガン人の習性にあった。彼らは、自分の不正を隠すためには、殺したり焼き捨てたりするぐらいは朝飯まえであったから。町を出はずれると、トラック隊は、真直ぐにマチュンインのもとにいった。マ将軍はエッフェの車に乗っていった。クーチャに着くや、マ将軍は写真をゲオルクに贈り、また車の礼を何度もいったそうである。なかでももっとも貴重なものは、マ将軍からもらった通行証で、それによると、トンガン人部隊といえども、われわれの車がコルラに帰りつくまでは、停車させたり、押収したりすることを禁じてあった。マチュンインについては、他にどのような酷評があったとしても、われわれに対するその私的なやり方は、非難すべき点はこれといってなかった。
三月十三日の夜、町では流れこんできたトンガン人の逃亡兵によって、各所で掠奪が始まり、無軌道的な敗走ぶりを発揮してきた。道路には、食料や軍需物資を積んだキャラヴァンや輸送部隊がつづき、妻子を連れた難民が、右往左往して混乱をきたしていた。あたりは黄塵がたちこめ、この混乱の群衆をまるごと包み、一人一人の動きは見わけがつかず、ただ大きな黒いかたまりが動いているようであった。飛行機は、この黒い密集をめがけて、爆弾を投下して逃げ去った。コルラの南に残留していたトンガン族の敗残兵をも襲ったようであった。
三月十七日、町の商店街は蒙古人やソヴィエト人やその連れているウマなどで、ごった返えしていた。これは北軍の戦勝部隊の一部で、このコルラに着くや、マ軍の敗残兵を追撃して、息の根を止めようとしている連中であったのである。ダワンチュンからコルラに出る路上では、マ軍は七〇〇〇からの部下を失ったそうである。
その朝、コザック兵がやってきて、前哨部隊の司令官が呼んでいる由を告げていった。司令官は、数日前までマチュンインが本拠としていた建物にいた。
ボルジン将軍は、矢つぎばやに私に訊問の矢を向けてきた。話の過程から、私がマチュンイン軍に属し、なんらかの使命をおびて、この地にいるものと勘ちがいしていたもののようであった。彼は、南京政府発行の旅行査証を見せても、その誤認は解けないようであった。
夜、われわれの宿舎に四人の兵が、ボルジンからつかわされた。門外に出ることをきびしく見張るための監視兵なのである。
去る三月十一日、われわれの自動車が、強引にもち去られたとき、われわれはすでに監禁的な措置をうけていたのであった。トンガン兵による監禁は三月十六日までつづき、その日北方軍がこの町に進駐してくると同時に、われわれの第二次禁足の鎖が用意されたというわけである。
この日は――というのは、三月十七日のことであるが――白ロシア士官がわれわれの宿営の建物にやってきて、私と話したいと申しこみがあった。私は粗末なお茶の部屋に彼らを招じた。そのうちの一人プロシュクラコフ大佐は、いまコルラに進駐してきた北方軍の司令官ベクティイエフ将軍の副官で、私からなにかこの地の情報をえてくるように命ぜられてきたのであった。
またしても、訊問的な話題であるが、われわれのやりとりは、ロシア語で始められた。私は、彼らにつながりのある事項は、なにもかも披露《ひろう》した。一時間半ぐらい後、
「最後に、貴下が、危険な謀反人のためにその貴重な経験と学識とを提供されたことは、ベクティイエフ将軍も、まったく考えられないこととして、遺憾に思っておられることをお伝えしておきたい」といった。
「それは、どういう意味でしょうか?」
私は、反ばくでなく、真にそう思ったので、まったく平静な気持ちでこういった。
「ベクティイエフ将軍の言葉は、貴下がマチュンインに車を提供され、そのためにまさに捕虜にするばかりになっていた彼を、わが軍の手から、逃亡を手伝ったことを指すのです」
それに対しては、われわれには正当な理由があった。
「私は、ともかくこれで自分のうけた命令だけは果たしました。あとは、将軍に復命するだけです」
大佐は、さも朗らかに、前よりもっともの柔らかくこういった。
その翌日、プロシュクラコフ大佐が、またやってきて、彼と同伴でベクティイエフ将軍をたずねる意志はないかとたずねた。私は拒む理由もないし、喜んでこの申し出を受け入れ、むしろ連れていってほしいとさえいった。つい数日前ボルジン将軍と会った同じ建物の中で、ベクティイエフ将軍は私を引見した。
将軍は私の話に、ひじょうに興味を示し、傾聴していた。われわれはおたがいに好意を感じたことだけはまちがいない。将軍は一人のコザックを護衛につけて私の宿舎まで送ってよこした。しかし、われわれの唯一の無電受信機を没収してしまった一事は、なおわれわれに対する不信を物語るものであったろう。トルファンでは、目下もっとも必要なこの機械を隠し、完全に役にたててきたのだが、ベクティイエフ将軍は、われわれがこの機械を持っていることをつい口をすべらせたら、しばらくその機械を管理しなければならないといって、とりあげたのである。
つぎの日、将軍は答礼を意味して、われわれのところにたずねてきた。彼はその日クーチャにゆくと聞いたので、われわれの二人のスウェーデン人と、二人の蒙古人運転手の生命を救い出すために手を貸してほしい旨を述べ、懇願した。またできれば、自動車も取り戻すように斡旋《あっせん》してもらえまいかと、頼んだところ、彼は即座《そくざ》に快く引き受けてくれ、とにかく運転手の身辺については至急報告をもたらすであろうと約束してくれた。私が、
「彼らの生命のなりゆきについて、どうご判断されるでしょう?」
こうたずねると、将軍は、トンガン族の悪党ぶりを考えあわせたうえで、
「保証は難しいとも思われるが……」
と控えめに、短くこういった。
彼は、運転手諸君の運命は、あんがい窮地におちこんでいるものと見てとっていたようである。
小型車は、われわれの手もとにある唯一の車であるが、彼がもし小旅行に使うのだったら、提供する旨を申し出たところ、ひじょうに喜んで受け入れてくれた。第二次の監禁をうけて数週間というものが、意味もなく日を重ねていった。そのあいだ、六人のコザックが警衛に名をかりて、常時小銃を手に門を固め、中庭をうろつき、ときあってわれわれの居間にまでずかずか入りこんできて、椅子を占領し、雑談の押売りをしていった。われわれは、中庭に出るのでさえ、銃を手にした護衛なくしてはゆかれない仕儀《しぎ》であった。
コルラにきた初めのころ、フンメルは、トンガン族の負傷者やトルコ人の病人を診察するために、まったく席のあたたまる暇もなかった。彼は、街路がわの門に赤十字旗を掲げていたので、患者は日一日とふえてきて、来診の患者を、すごすご帰らせなければならないことも、しばしばあった。町から軍隊が去っていくと、トンガン族も姿を消していった。しかしここにいるトルコ人はあい変わらず診察を願ってきた。
北方軍がコルラにはいってきてからは、病人の診察は禁じられて、赤十字旗もおろされた。これは明らかに、われわれを締め出す第一歩であったともみられる。われわれの監禁戦法は、トンガン族よりもベクティイエフ支配下になってからのほうが、知的に、それだけきびしくなってきたともいえる。
三月二十日、われわれをいささかならず喜ばす事態が起こった。セラットとジョムカの二人の蒙古人が、二人の兵隊のつき添いで、なんの予告もなくわれわれの庭に、その姿を見せた。彼らは、北方軍のため、兵器をトラックに積みこむ要務をおびて到着したのであった。彼らの手には、ゲオルクとエッフェの手紙があった。マ将軍および彼の幕下は、われわれのところから持っていった自動車のおかげで、クーチャに無事に入れたことを知った。彼は、われわれの運転手たちに暴威をふるうどころか、完全な自由にして解放してくれた由である。彼らはその帰路、北方軍に遭遇し、こんどはベクティイエフの命令で、車は四台とも監収され、居間では、前線輸送のため使役されているのであった。これをみても、われわれは、どっちに味方するという立場をとるのでなく、まったく中立的な態度を堅持していたのである。同じ日、セラットとジョムカは、二人のスウェーデン人のために、銭や食べ物、手紙などを届けることになった。彼らの安全性については、もう懸念する点は、なんらなかった。われわれの無電機であるが、破損したまま返された。しかし向後十日間は使わないようにと申し添えられていた。
三月二十七日、われわれが食卓についたとき、四人のソヴィエト軍人、ナレイカ、サロマキン、ニコライエフといま一人がやってきて、ナレイカは、いかにも軍人らしい態度で、
「新疆省の最高指揮官たるセンシーツァイ将軍からの命令で、貴下ら探検隊員全員は、ロプ・ノールまで後退させよ」
と無電を接受した旨いってきた。
今のところ、コルラからウルムチに出る道には、トンガン族の逃亡兵や無頼の徒党がうろつき、かつはキルギス人、蒙古人の盗賊団もたむろし、その出没は危険このうえもないことを語っている、というのであった。加えてセン将軍は、この道中におけるわれわれの安全は保ち難く、責任ももちかねるので、二カ月ほど遠ざかってくれ。そのあいだに不安な事情も掃蕩《そうとう》されるだろうから、そのうえでウルムチに進行したほうがよくはないか、というのである。
この好意ある提案は、われわれの新計画――新ロプ・ノール湖をたずねてみたいと、ながいあいだ望んでいた私にとっては、新情勢をもたらすものとして、ひじょうな喜びであった。とくに最近の身辺多事かつ危険を思えば、願ってもないことである。私は、タリムやロプ・ノールへの新コースについて、ベクティイエフ将軍と話しあった。彼は、センシーツァイ将軍に説いて、われわれ一行のこの地方への旅行を斡旋してくれたほどである。しかし、真意がわかってみると、なにをかいわんや、である。われわれを戦闘圏内から追い出そう、というのがその魂胆《こんたん》であった。マチュンイン追撃だとか、戦線のまき返しとか、軍隊の出入りなど、コルラ周辺での軍隊の動静をわれわれの目から離そうとする目的から、われわれをロプ・ノールに押し出そう、ということであったのである。中央政府のお目付役と見なされるものが、「ソヴィエト」の軍隊や、飛行機や、自動車その他の兵器が、中国内乱において、いっぽうの味方らしい行動をいささかなりともしているというにおいをかぎ出されるということは、まったくありがたくない、とでも思っていたのであろうか。
三月二十九日、中庭のほうに起こったそうぞうしさで、私は目をさました。門の扉は真一文字に開かれ、ゲオルク、エッフェ、セラット、ジョムカの四人が、トラック四台をひっさげて帰ってきたのである。喜びの声がはずみ、抱きあったり、握手したり。朝の食卓は、この帰還者たちをとり巻いて、それからそれと話題はつきない。彼らは、落ちつくに従って、世にもふしぎな物語をくりひろげていった。
四月一日、出発の準備で一日がつぶれた。われわれはこのさい、当分不用な品を一まとめとし、トラック一台とあわせて、兵舎の保安官たるデヴィアシン大尉の手もとに寄託することにした。他の三台のトラックと小型乗用車とは、クルークタグ山脈の山すそを、ロプ・ノールの新河、クムダリアにもってゆく。第七十号キャンプサイトはヤルダンプラークの泉の近傍に設定する予定であった。
私はチェンといっしょに、カラクムからクムダリアに沿うて、新ロプ・ノール湖まで六〇日の旅をつづけ、北斗の柄《え》が宵々《よいよい》に卯《う》の方角を指す五月の末かた、湖の北岸でクンに遭遇し、鶉火《じゅんか》の星が南中するころ帰ってきたのである。
ユー、クン、エッフェの三人は、四月じゅうにアルトミッシュプラークの踏査行を終え、フンメルはヤルダンプラークの川で、野鳥や水禽、昆虫、植物を採集、またベルクマンは、クムダリアのデルタ地帯に沿って、南方砂漠の一角を踏査旅行についやした。われわれの研究は、それぞれの専門に従ってなされたわけである。その成果は、いまや貴重度をいよいよ増し、これをまとめ、編集して別巻を上梓する予定になっている。
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十二 ウルムチへ
五月三十日、私は砂漠を横断して、ユーの幕営地へ急いだ。ヤルダンプラークに近いクムダリア河畔《かはん》の設営七〇号幕舎にはフンメルと従者たちが残っていた。ユーのところには、破損トラックが腹を出して横たわっていた。そこに着いたのは二一時ごろであったが、ヘッドライトを見つけたユーは、もう遠くからわれわれの到着を知ってたらしかった。テントに着くや、私はユーに、
「明日、君は私とコルラにゆけるだろうか? たぶん、さらにウルムチまで|のす《ヽヽ》ことになるだろうと思うんだが……」
「ええ、喜んでお伴をします。いますぐだって……」
われわれの麗しき五月の最後の日は、セラットもユーも私も忙しく、おちおち話す暇もなかった。やっとかたづいて、午《ひる》、車は出発した。われわれの目的地は、コルラ。われわれの保有していた燃料は、一度はマチュンインの強奪にあい、また、ベクティイエフへの態《てい》のいい貸与によって、ウルムチまでゆくのにどうにかまにあう程度しかなかった。おまけに精選された機械油は使い果たしていたので、トラックの移動はならず、やむなく、七〇号キャンプサイトに釘づけの態たらくであった。ソヴィエト司令官は、私たちが用立てたガソリンと機械油とは、五月中旬には届けてくれる約束になっていたのに、いま下旬もおしつまってきたのに、なんのあいさつもないので、私は自身コルラに出向いて、どうなっているのか調べるほか手がなかった。もし、ガソリンがコルラにまだきていないことをも計算して、私はウルムチまではゆけるように、油の準備もして出た。私はこれから、私とユーの身辺にどんなことが起こったか、アジアの奥地では、いとも単純な偶発の出来事が、いかにもつれていくか、われわれの経験は、地球の最奥部での出来事であったが、それを一巻の絵巻物に仕立てて、読者に供しようと思うのである。
私とユーは、セラットの運転で北北西に向かって走り出した。道の右手は山脈で、一つの流れに沿っていくと、シンデイ、インバンに出る十字路にいきついた。道は粘土質の堆積丘のあいだをとり、オボやラクダの骸骨があり、やがてクムダリアが望見されるところへ出た。一五時、昼食のために車を止めただけで、あとは走りつづけた。落日の光に映えあう彩雲が、あたりの空気を染め、地に宿す影のはしばしまでが、精妙に濃淡を織りなして、仙境とでもいってみたいひろびろとした谷間にやってきた。われわれはクルバチックの谷々をさまよった後、やっとクルバチックの泉を発見したので、ここにテントを張った。この野営地は、タマリスクがおい茂り、濃き灌木《かんぼく》の草むらは、人を詩人にしないではおかないような風景であった。
六月一日、荒野のなかに、たった一本、しかも緑濃き木かげをつくっているタマリスクの下で昼食をとっているとき、三人のトルコ人が一五〇頭のヒツジ、ウマ、ロバ各一頭を連れてやってきた。彼らは、コンツェ川からトルファンへの道中をしているところである。今夜はオルクンプラークに野営するともいっていた。ここから二キロばかりいったところに、昔の「絹の道」に建っていた古い望楼の形骸の下を通っていった。タマリスクが叢林をつくりアシや若いポプラも茂っていた。私は一八九六年の旅行で、ラクダとともに、このコースを歩いたことを思い出す。焦げつくような天日にさらされていく砂漠旅行では、タマリスクやポプラの叢林に出あうと、まったく生きかえったように思われる。われわれの道は、いまは深いアシの茂みのあいだを走り、見上げるような梢のタマリスクやポプラ樹はだんだんと姿を消していった。一棟のヒツジ飼いの小屋の前には、若い屈強そうなヒツジ飼いが見えたが、彼は右の道をとっていくように教えてくれた。その道沿いには、ヤルカラウルの烽火《のろし》台の土台がくずれ落ち、まるでメサ(粘土塊)のようになっていた。
二一時、スゲットプラーク泊《どま》り。
六月二日、北北西に向かって進路をとる。出るとまもなく、シンネガの郊外農地や牧柵のあるところに達した。そこでは住民にあったが、彼らの一人は、われわれの友人セイドゥル・シァンイエの叔父さんのところに案内してくれた。われわれは、ロプ・ノールへ出て以来戦闘に関することは、なにひとつ聞かずにきたが、ここではじめて漠然とした近況ではあったが耳にすることができた。それによると、ウルムチのソヴィエト軍は、コルラ、アクス、シャーヤール、マラルパンを占拠し、トンガン族の兵は、カシュガル、ヤルカンドの両地を保持し、ホータンに向かって戦端を開こうとしているということである。事態険悪と判断しなくてはならないであろうか。四月一日から二カ月以内には、戦争も妥結するだろうというサロマキン大佐の見通しは、もろくも根拠なきものであったことを思い知った。トルコ人の知人たちは、くわしく知っているわけもなく、またいおうともしなかったが、その言葉つきや態度から、われわれのおかれている立場というものは、四月一日にわれわれが判断していたほど希望のもてるものではないということ、コルラは三月当時とおんなじで、われわれにとって危険なところであるらしいことが、はっきりとしてきた。
少時休憩の後、三月十一日にわれわれが襲撃されたヤナギ並木のところまでやってきた。ソヴィエト兵営本部の門に着いたのは一四時すぎであった。すぐデヴィアシン大尉をたずねた。彼はわれわれをアブドゥルケリムの家に連れて行ってくれた。そこには六人の兵が見張って、われわれの託していった全財物を保護していてくれたわけである。われわれのトラックも、荷物も、いまはソヴィエト軍本部に移すことを大尉は提案した。トラックは、発動機の重要な部品を他に転用していたので、おおぜいの兵隊に引っぱってもらい、またウルムチで必要と思われる衣類、食糧などもとり出し、残余のものは車といっしょにアブドゥルケリムに預けることにした。ただし、トルコ語による一つの契約書を取りかわしておくことを忘れてはならなかった。ガソリンのこともあるので、われわれはどうしてもウルムチにいってこなければならないようである。
大尉はわれわれのところにやってきて、ウルムチへの道中について、最近の報告をもたらしていった。それによると、途中は安全どころではない。あいかわらずキルギス人や蒙古人の群盗が出没し、旅行者から手当たりしだいにものを掠奪するばかりか、殺戮《さつりく》をほしいままにしているそうである。彼は、われわれに対し責任を持っている関係から、もしウルムチへどうしてもゆくなら、護衛としてソヴィエト士官を一人伴っていくようにとすすめてくれた。小型車には、もう一人乗りこむ余地はなく、何しろひどく急いでいたので、護衛の件はいちおう断った。しかし、彼はそのような理由だけでは、決して後退しなかった。すでにヤロスラヴィエフ少尉を護衛として選び、われわれに紹介してくれた。少尉は見たところ小さいゾウのような体格で、善良そのものといった風貌《ふうぼう》、いかにもたのもしそうであった。しいて同行することになったのはいいが、車ははちきれそうで、私はどこに座を占めたらいいのだろう!
われわれはクルカでは、ひと晩しか泊まらなかった。われわれはこの前の滞在ちゅう牢獄でもありまた食堂でもあった部屋で寝た。翌日はわれわれのところに一人のヨーロッパ人がはいってきてあいさつする。彼はいったい誰なのか? ブラブスキー、彼はわれわれが二月にトルファンで会ったポーランド人の旅行中の一人で、三月にもブグールからの帰途出会っていたのである。彼はカシュガル経由で故国に帰る予定であったが、いまとなっては、とうていそんなコースはとれそうにない、そのためにウルムチへの道をとろうとしているのであった。
われわれのウルムチゆきに対して、あるものは、断固反対を表明した。
「あなたが投獄されないとしても、きっと半年、いや一年ぐらいは、抑留されるものと見なければならないでしょう」
しかし、彼の予言めいた警告は、われわれに感銘を与えるものとならなかった。
いまのわれわれが、たとえあり余るほど燃料油を持っていたとしても、アルトミッシュプラークから敦煌《とんこう》(トンファン)経由でカンスー(甘粛)省にいくコースをとるなどということは、とうてい考えられない。われわれは、自動車道路建設、中国本土と西域地区との交通事情の現状、その将来の改善などについて、公務を持って旅行しているものであり、そのうえ、新疆《シンキアン》省政府主席センシーツァイ(盛世才)をも訪問しなければならないと思っていた。彼はマ将軍を掃討し、新疆省を手中に収めようとしていたマチュンインをわれわれの見ている前で撃破した人であった。われわれはどのような待遇をうけるか、とまれこのうえ引っこんでなどいられるものではない。
一五時、われわれはいよいよ車を馳せ、絵のように美しいコンチェ川《ダリア》の谷間に、はいっていった。ときどきウマやロバや二輪車に乗った旅人にゆきあった。彼ら旅人は、道中、なんら不安なく、無事旅をつづけてやってきたそうである。われわれが、すぐる三月四日、見てきたここのアシ原のなかの道は、コルラを脱出クーチャに敗走したトンガン族の逃亡兵によって、ひどく荒廃していた。かわたれどき、われわれは夕映えに緑の美しいポプラの叢林をカイドゥゴールの岸辺に見出した。渡し舟でこの川を渡り、土地の人の力を借りてさらに測流をも無事越えていった。われわれはここから真直ぐにトルグート蒙古族の若い王のもとをたずねた。彼は、カラシャルの最高主権者であると同時に常置師団の将軍であり、ラマとしての最高の栄誉を担《にな》っている人であった。その側近者はわれわれを彼のヤーメン〔役所〕に案内してくれた。王は副官を連れて、中庭でわれわれを引見した後、その客室に招じてくれた。
王はわれわれの旅行の目的をたずね、あわせて私の油の依頼をしるした手紙について、ウルムチの政府当局からなんらの返事も来ていない旨を話した。私は、彼の叔父シン・チン・ゲーゲンが、われわれの前回の遠征旅行のとき寄せられた厚意に謝し、ことにスウェーデンの皇帝に、一つの完全なラマ寺院用のユルトを贈与された芳志に対し、心からなる謝意を表明する機会をえた。このヘンニング・ハズルンドが託されて持ち帰った贈物に対し、皇帝は感謝のしるしとして、自分の肖像と高貴な贈物をされたのであった。
シン・チン・ゲーゲンの後継者たる若き王は、これらのいきさつをよく知っておりまた皇帝からの贈物は、いまでは彼の手もとにある由を話していた。しかし彼は微妙な感情の動きのなかで、叔父に関する話題を、ぽつんと打ちきり、われわれの旅中の話題にそらしていった。彼の立場としては、自然のなりゆきというべきであったろうか。われわれは、このカラシャルトルグート族の王位の継承の背後をいろどる忌《いま》わしいいきさつに関する風聞は、単なるうわさとして聞き流していたが、いまとなってみると、まんざら風説だけではなかったのかと、思い当たる節もあった。
トンガン族が数年前新疆省に討ち入ってきたとき、当時の同省辺防都督の長官チンシュージェンは省軍隊を即刻動員して、できうるかぎり堅固な防備態勢をしいた。当時「活仏《かつぶつ》」として尊崇され、トルグート族の真の王たるべき甥《おい》の後見者として、最高の実勢力を握っていたトルグート王シン・チン・ゲーゲンをたずね、おびき出し、彼の蒙古騎馬隊と合体して、この無法なる侵略者と一戦交えようとした。シン・チン・ゲーゲンはこの提案に同意しなかった。その後になって、省政府主席チンシュージェンの、ゲーゲンをウルムチに招き会談したいという申し出に、うっかりのってしまったのである。
彼は側近者数人を帯同ウルムチへいった。そこでは丁重《ていちょう》に抑えられ、会談中、彼の側近者は、外庭で待つように言い渡された。このときの会談なるものが、どのような内容のものであったか、かずかずの罪名のもとに、その後南京政府の手で投獄されたチンシュージェン以外には、おそらくは誰も知っていないであろう。
会談が終わると、チンは中庭から客を送り出し、門に達するあいだに、小銃のぶきみな発砲音が、数発聞こえた。王は驚いた。そしてことさらに落ちついてたずねたが、その返辞を聞く前に、一撃が彼の頭蓋に打ちこまれたのであった。彼の幕僚たちは、その首班をこのような卑劣なる暗殺手段によって奪い去ったやり方に対し、なぜ攻撃を加えなかったのであろうか。幕僚たちは、事を隠密裡に処理して、まだ成年に達しないチンシン・メンツーク・カムポーを汗《はん》(王)として祭り上げた。きょう私が訪問した人こそ、この王である。
われわれは、旧友タシラマのことをもち出した。百霊廟《ペリミヤオ》でこの崇高な大僧正を訪れたとき、カラシャルにあるトルグート族の王者にあてて、自筆の紹介状をしたためてくれたのである。この会見で、最後に、今夜の宿舎の斡旋《あっせん》方を市長に命令された。その結果、われわれは図らざる大歓迎をうけ、豊富な中華料理とりっぱな部屋を提供された。その後ふたたびウルムチで、かの王者に会ったが、それはしるすほどのこともない。
翌日はカラキジールを経て、一七時タムシュに到着したが、そこには住民が四世帯しかいなかった。ここでは何本もの枝道があったが、われわれは、クルークタグの山の背を南にくだった。シンジ、インパン、ティッケンリークをむすぶこの道は、コルラ路線として軍用路に指定されていた。分水嶺を越えると、道は大きく迂回《うかい》しながらくだっていた。夕方、岩壁の割れ目から、どうどうと湧き出ている泉にたどりつき、ここで設営することにした。九七号キャンプである。
冷たい清冽《せいれつ》な湧き水のそばで迎えた朝は、ふかい静穏のうちに、しずしずと明けていった。この日スパシ付近の路傍に、装甲車がうっちゃってあるのを見た。ウルムチ製の装甲車の残骸で、マチュンインの逃亡兵が、捨てていったものであった。トクスンでは一七個の鶏卵とわずかばかりのパンを手に入れた。このあたり、見覚えのある丘陵がつづき、その一つを越えると、トルファンからきているキャラバン道に出会うところにきた。一九二八年以来|馴染《なじ》みが深い土地である。われわれのたどる道は、岩間をぬけ、細流に沿い、ダワンチェン峠に通じていた。峠には監視哨があり、二人の兵が見張っていた。ボクドゥラ(神の山)は低い雲に包まれていた。その夜はボツェンツェ村で設営した。
六月六日、ウルムチへの最後のコースである。嵐めいた風が吹きすさび、なんとなくぶきみな天候であった。タイヤのパンク、つづいて起こった送油パイプの故障は、あたかもわれわれを、ウルムチへ連れていくまいとするかのようでもあった。この修理中、私はヤロスラヴィエフと話していたが、彼はオレンブルグからきたコサックで、もと親衛隊に籍があったそうである。一九一四年はセント・ペテルスブルグに、ついでオランダ、イギリス、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドに派遣され、一九一九年には、オレンブルグのコサック、ダトフ将軍(のちに赤軍のために消された)についてからカラサリークの峠越えをして新疆省に逃亡を企て、翌年ウルムチにたどりつき、以来土着しているとか。他の白ロシア人と同じく、彼もマ将軍討伐に参戦し、軍属として、クムショからクルークタグを越え、コルラに進駐していたのである。マ将軍はウルムチ退却のとき、一一門の臼砲をトルファン付近に埋めていった。センはそれらの大砲探索のため、最近部下を派遣し、そのうち六門を発見、荷車で運んでいくのを、われわれはダワンチェン峠で見た。ダワンチェンの大きな村には、銃眼のついた城塞が残っていた。マチュンインの司令本部がながいことおかれていたそうである。
一八時、野川にカエルの声があふれていた。ウルムチの郊外にたどりついたのである。トルコ人、ロシア人町を通り、ロシア銀行の前まできた。この建物は、一九二八年にきたとき、しばらく寝起きしたところで、ノーリン、アンボルト、ユアン教授の三人は前後二年ここを本拠として調査研究をすすめたわけである。それから一〇分後に、中国人街の第一の門を通過した。万事好つごうにいくかにみえたが、第二の門までくると、武装した兵が駆けよってきて、
「止まれ!」という。
すぐ停車した。おきまりの訊問《じんもん》、そしてセンテュパンのヤーメン〔役所〕に電話報告、その間ヤロスラヴィエフは立ち去るゆるしをえて、消えていった。われわれはヤーメンの門前まで車を進め、そこで旅行許可証と名刺とをもって営内にはいっていった。まもなく放免の伝言がきた。われわれはセンテュパンの客舎に案内され、ウルムチに滞在中は、彼の客としてここですごすことになった。室代はもちろん食費もセンテュパンのほうで賄《まかな》ってくれるらしいのである。五つの寝台をそなえた部屋がわれわれに提供され、そこには先客の中国人の旅行者が一人いた。ここでは、一人の若い士官がわれわれに当てがわれ、もっぱら世話をしてくれることになった。われわれは、なにによらず彼に希望を述べさえすれば、すべて取りしきってくれるわけである。
第七〇キャンプからいえば、約八八〇キロを七日で走破したことになる。とまれ、ここまでは万事|骰《さい》の目も順調であった。しかし、これからさき、いったいどうなるのか、神よ! 照覧あれだ。われわれは、探検旅行は完全に休止、しかも遠征隊からは遮断《しゃだん》される始末であった。ユーもセラットも、新疆省の首都での時の空費は、そのとき起こったかずかずのアクシデントとともに、忘却のかなたに追いやろうとしても追いやれない、にがい思い出である。
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十三 監禁
ウルムチでの最初の一日ときたら、じつにながい一日であった。センテュパンこと、省政府主席のセンシーツァイ(盛世才)が、われわれを晩餐に招待したいといってきた。そこで、断わる理由もないので、案内のあるのを待っていると、夜二〇時になっても音沙汰がない。ヤーメン〔役所〕に問いあわせてみた。センテュパンは、翌朝八時に引見するといってきた。さて、あくる日八時一五分にたずねてみると、一七時にこいという。そこでソヴィエトロシア総領事とデンマークの郵便局長をたずねることにした。
総領事のガレジン・アブラモヴィッチ・アプレゾフは、すぐ会ってくれた。われわれの使命を話すと、彼は全面的に賛意を表したうえ、ぐずぐずしていると、マナス川の氾濫期にはいって通れないともかぎらないから、一週間以内に出発の要あり、と話してくれた。ウルムチでのガソリン、機械オイルの入手状況をたずねたとき、その許可を与えうるものは、センテュパンただ一人であることも教えてくれた。
アプレゾフは、われわれに対してなみなみならぬ好感をもってくれたらしく、さっそく六月十一日の正餐にわれわれを招待してくれた。現在のわれわれにとって彼の厚意をうるということは、ひじょうに大きい意味をもつことになる。この地における彼の権限は、もしもわれわれに疑いをかけるとしたら、即刻監禁措置もとれたし、われわれの探検さえ根底から破壊し去ることも、思うがままであった。
われわれは、思うに、総領事から嫌疑をかけられるような資格は、十分もっていたようである。南京政府から、前によこされた密使ファンムスン(黄慕松)将軍、ローウェンカン(羅文幹)外交部長に照らしあわせても、われわれの道路建設という仮面のもとにいかなる秘密を蔵した政治的使命なるやも図り難いという観点から、疑うとなると、それはむしろ当然ともいえるような立場にあったからである。それゆえに、われわれは最初からデリケートな立場にあり、いまは右顧左眄《うこさべん》しているときではなかった。われわれは、なにはともあれ真正直に赤裸々にやること、戦術はこれ以外にないことを私は痛感していた。われわれのとるべき道は簡単|直截《ちょくさい》でいい。しかもわれわれのウルムチ滞在は、煉獄《れんごく》にあるがごときものであった。われわれの忍耐の極限までためそうとする、緊張と試練の連続であった。それはウルムチ自体が陰謀の巣窟であることを意味するものでもある。
郵便局長ハラルド・キェルケゴールは前の探検旅行のとき以来の旧知の間がら、しかも彼はたび重なるわれわれの危険に、よき助力を与えてくれた人である。ことにアンボルトの行くえ不明の期間中は、なみなみならぬ援助の手を差しのべてくれたのであった。彼は今年四八歳、喜ぶべきか、はた悲しむべきか、彼はここ一週間のうちに、この忌むべきウルムチを去ることになっていた。
彼はその書斎に私を案内して、ウルムチやカシュガルやその他の場所で起こったかずかずの残酷な出来事を、くわしく話してくれた。一九二八年の旅行で知りあったロシアタタール人のグミルキンは、銃殺されそうである。キェルケゴールは、「他人に話しかけるなかれ。他人をして語らしめよ。おのれはつねに聞き手であれ、ただし無関心の表情で。なんぴとも信頼するなかれ。彼らは諜報者であり、密偵であり、裏切者である。いついつなんぴとが姿を消そうとも、その行くえを話題にし、たずねることなかれ」と、こんな鉄の規律を与えてくれた。ウルムチに滞在するかぎりは、まさに金科玉条とすべきであるようだ。
センテュパンのヤーメン〔役所〕をたずねる時間がきた。応接室に通ると、やがて彼が出てきた。その容貌は、人ずきのするものを感じさせはしたが、その目は疑心の光をたたえ、人を真正面に見ることに耐ええない動きがあった。彼はガソリンおよび機械油について、アクス経由で、クムダリアの探検隊のベースキャンプまで送り届けることを約束してくれた。そのうえ、ここ三カ月以内にはタリムへの旅行も、安全な行路をとりうる状態にする見込みもついている旨を言明した。これまでまったく暗黒のなかに、誰からもかえりみられようとしなかった新疆省の秩序を回復し、産業の開発を基盤とする民心の安定が彼の使命とするところであったので、そうした工作に対し、政治的ジャンル以外での面で協力する旨を申し出たとき、彼の喜びようは、ひととおりではなかった。われわれは、もっと静穏な宿舎を申し出たとき、完備した調理室付きの三室ある平屋建て住居を準備するように秘書に命じてくれた。さらに彼はあれこれ配備を示してくれたが、われわれは必要以上に、彼の配慮にもたれかかろうなど毛すじほども思っていなかった。
翌朝センテュパンの命をうけて、ロシア人のパウル・アレクサンドロヴィッチ・パオ大佐がやってきて、ユーと私のため、住み心地のいい寝室二つと、絨毯《じゅうたん》を敷きつめたリビングルーム、二つのテーブルを整備して提供するというのであった。
花どきの野の木かげを飛びかうミツバチのうなりのように、根も葉もないデマが、巷《ちまた》に入り乱れていた。
六月十日には、ドイツカトリック教会堂で、ヒルブレンナ神父やレーダマン、ハバールたちに会った。彼らはすぐる日の反乱や内乱に関する想像もつかないような、恐ろしい話を聞かせてくれた。翌十一日は、これはまた変わった経験をした忘れることのできない日であった。一三時、われわれはロシア領事および同夫人主催の餐宴に招かれていた。センテュパンも、ずっと遅れてきたが、彼はひと言もいわず席についていたが、その探るような目は、絶えずわれわれのうえに注がれていた。彼はその会のあいだじゅうたったひと言、
「あなたたちは、古くから友人なんですねえ……」
エム・アプレゾフの話によると、四カ月前われわれが、ハミ、トルファン、コルラにはいってきたという知らせは、センテュパンをおおいに驚かし悩ませ、あげくの果てはわれわれのことを疑うようになっていたそうである。それにしてもアプレゾフがわれわれがすでに新疆省に探検的旅行を試み、かつその成果は世界的な意義をもちきたしているなど、いまではセンテュパンにも疑う余地のない方法で惜しみなく紹介の労をとってくれたことは、向後のわれわれの取扱いのうえに大きく影響するところがあった。
その後、アプレゾフの乞いを入れて、一八九五年のタクラマカン砂漠探検の旅行談を、ロシア人クラブの講堂でやった。二五〇人の共産党員と数人の中国文化人とで会場はいっぱいであった。会場の背の壁には「われわれは地球上のすべての人々とともに平和な生活を欲す」というスターリンの言葉が掲げられていた。
アプレゾフは、その後もいろいろとわれわれの相談相手になってくれた。頭痛のたねのガソリンも、クルジヤにあるロシア領事館に打電して、天津からコルラにいたる旅行用のものを送らせよう、と図ってくれた。
この計画はうまくいかなかった。しかしセンテュパンが供給を約してくれているので、彼を信頼して数日を待つことにした。その待機中にチェンテーリの要請で、テュパンから「ロプ・ノールに関する」講演を依頼してきた。快諾、約束を果たした。われわれは、キェルケゴールの厚意によって、この日ごろ、センテュパンの客舎では落ち着けないので、彼の家に引っ越すことにした。
こんどの家は別荘ふうの建物で、ヴェランダもあり、王者のような生活を楽しむことができるかに思えたが、この家の主人公の語る残酷な事件など聞いていると、その惨劇は、われわれと無縁のものではないということを思わせるものがあった。一九三三年に満州の野で日本の関東軍によって攻撃され、シベリア国境から追い出された敗亡の中国軍は、ソヴィエト兵によって武装を解除され、新疆省に移され、ウルムチで投獄され、ついに射殺されたのであった。
一九三三年に貿易を開く目的でやってきた若いドイツ人のドーンは、当時自動車に関する事務の主任をやっていたグミルキンをたずね、その家族の一員としてしばらくそこに腰を落ちつけていた。ある夜、ヤーメン〔役所〕で省主席の主催の晩餐会があり、グミルキンも客の一人として出席した。彼はマ将軍と内通していたという嫌疑により、食事のさなかに逮捕、つづいて投獄。それに関連してドーンも連れてゆかれ、中国の牢獄で、一年ものながいあいだ耐えがたい責め苦に呻吟しなければならなかった。一九三五年三月、私は北京で彼にあったが、痩せ衰え、意気まったく沮喪《そそう》していた。グミルキンと彼は同じ棟の獄房にいたそうであるが、獄卒がグミルキンの首を、はねたとき、半ば窒息したような断末魔の叫びを聞いたということであった。
とつぜん、キェルケゴールが祖国に引き揚げていった。ユーと私との生活は、これから先、どんなに味気ないものになるだろう。ユーと私は、アジアのもっとも奥地にあって、わびしくも夜闇のせまりきたるヴェランダで話しあった。いま、われわれは、四、五人の郵便局員とこの広大な局舎にとり残されてしまったのである。
なにを意味しているのだろうか。私はセンテュパンが、あいも変わらずいやになるほど、口先だけの親切を示してくれるその底意を、どうもつかむことができないでいた。どんな理由からか、ひとたびこの新疆省に足を踏みこんだ外国人は、その意図するしないにかかわらず、何カ月も引きとめられるという、目に見えないお仕置きがある。周囲の動きは、その影ふかく、まことに不愉快きわまるものであった。木かげにそよぐ風のように、絶えず不安な脈搏が、われわれを襲っている。拷問《ごうもん》の締め木にかけられたように、われわれに対する圧力が、じわじわとせまってくる。われわれが嫌疑をうけているということは、もう動かすことのできない現実である。
ウルムチには、政府機関の「天山時報」が日刊で出ていた。唯一の機関誌であるが、北京や南京で、半年前に報道された出来事が「ホットニュース」として掲載されているのである。全紙面、信頼しうる記事は、ただの一行もないというのが、この新聞の特徴でもある。
日が経《た》つにしたがって、食料品の値だんが気まぐれと思うほど高騰していった。そしてしだいに物資が出まわらなくなり、せまりくる不安は複雑な様相を呈してきた。
われわれの七〇号ベースキャンプでは隊員が首をながくして待っている。彼らは食糧はどうしているだろう? ベースにはガソリンそのものは、クルカからハミ、アンシー(安西)経由スーチョー(粛州)に出る距離を走るものはあるのだが、いかんせん機械油が一滴ももちあわせがないのである。その油と食料品をコルラを経てベースキャンプまで運ぶために、一台の二輪馬車を動かしたいというわれわれの要請も、他の請願と同じように、体《てい》よく退けられたのである。もし、われわれ探検隊を、無人の砂漠の果てに、餓死させようとするなら、その目的のために、こうしたやり方をとるのは、政治家的手腕というのだろうか。虚妄の正義をふりかざし、真赤なうそでわれわれをつって、いったいなんの役にたつというのだろう。もしわれわれが、いささかでも抗議めいた言葉を放とうものなら「われわれはいま、マチュンイン(馬仲英)と戦っておるので、しかもいたるところ戦線がひろがり、これを討伐しなければならない。そのためにはガソリンと名のつくものは一滴たりとも、他の目的に使用することは許されないのである。第一、貴下にこの地へくるようになど、誰が頼んだというのか。貴下が待つぐらいのことは、とうぜん穏忍していていいではないか」
彼らの抗弁は、こうくるに決まっている。
六月二十九日、われわれは故国から力強い激励の電報を受け取った。一月十七日エッチンゴールをたってこのかた、外界からのたよりは聞くことはできず、墓原のようなぶきみな不安がわれわれをとり囲んでいた。自宅に幽閉された囚人であった。室を一歩出れば、変装したスパイがうろうろしているし、同居の郵便局員でさえ、われわれの行動を巨細に報告していたにちがいない。その夜、局長のチェンが居間にやってきて、
「当局の入手したニュースによると、南京政府軍の大部隊が、エッチンゴールを進発し、いつハミに到着するかもしれない状況だそうです。そうなると、ハミの民衆は南京軍に混成され、その足でウルムチに進駐してくるに相違ないでしょう。シヤンハイ版英字新聞には、もう公然と、センテュパン討伐の記事が堂々と記載されている。そうなったら、ウルムチは三度包囲攻撃をうけることになる。思ってもぞっとする情勢に突入しつつあるようです」という。
いまこそわれわれは、冷静にならなければならない。このような状況にあっては、新疆省が、ちょうど外蒙古と同じように、じりじりとソヴィエトの領土化されていくことを、南京政府が恐れる。もし南京派兵がハミを攻撃し、ウルムチに進駐してくるという懸念が現実となるときは、われわれ探検隊は、どのような位置におかれることになるのだろう。隊のキャプテンたる私は、中国技師のユーといまウルムチにいるのである。南京軍のために、その軍用通路を踏査先遣されたものと疑われることは、動かすことはできないであろう。南京軍の先発が、ある未明、朝靄《あさもや》をついてこのウルムチの郊外にとつぜん銃声をひびかしたら、われわれの運命はそこで決まってしまうであろう。銃殺の手数も惜しむかもしれない。さきにマチュンインの逃亡を助け、いままた進入軍の手先となって、砂漠を先発し、その越えてくるバリエーションルートを教えたと疑う彼らが、われわれを消すのに、手段なんか選ぶわけがない。われわれは、来る日くる日不吉な風評を聞かない日とてなかった。いまはこの不幸な風評が現実として襲ってくるのは、もう時間の問題だけであった。毎夜決まった時間に、一隊の中国兵が風笛と太鼓との伴奏により、きわめて単調な軍歌を高唱しながら、われわれの門の前を行進していった。このながい監禁のあいだ、私はアーヴィング・シー・ユーのような誠実でしかも崇高な忍従的な僚友のあったということは、これこそ神の高貴なる仕組みであったろう。
われわれは、風そよぐ夕闇に閉ざされたヴェランダで、ユーと話しあった。くる日もくる日も、話はつきなかった。そして召使いがランタンをもってはいってきても、気がつかないことが多かった。ネズミはまだ生きている。垂木《たるき》の下でそうぞうしく騒ぐとき、われわれは、ともすれば低迷しがちな判断をもう一度吟味するために、うす暗いランタンの火影《ひかげ》で、卓上の骰《さい》をもう一度投げてみるのであった。
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十四 友|病《や》みて
六月三十日もわれわれは、なすすべもなく、骰をふって時間をつぶしていた。そこへロシア総領事からの使いがきた。フンメルの手跡である。コルラにあるロシア守備隊の司令官から転送されたものである。
まだ七〇号ベースキャンプにある彼は、四月の初め以来、コンチェダリアおよびクムダリアの河岸で動植物の収集と研究とに貴重なときをすごしていた。彼が船の上に設けた小動物園には、野生の若いブタが三匹囲われていた。六月十日ごろ、この野ブタが彼の右手を噛《か》んだのであるが、たいしたこともなかろうと、とくに細かい注意もしなかったが、しばらくすると腕がふくれ上がり、発熱、しだいに衰弱していった。丹毒《たんどく》にかかったのである。フンメルは手術の必要を感じたが、なにしろ砂漠の、ど真中のことである。彼は歯をくいしばって、みずからメスをとり、右手の骨に届くほど切開手術を自分でやった。それ以来、いささか小康《しょうこう》をえたかにみえたが、とにかく絶対安静を守り療養につくした。しかるに丹毒は悪化の過程をたどり、熱はすこしも下がらない。彼はウマに引かせる担架《たんか》に乗り、ジンゲル経由でトクスンに出よう、そこでは自動車も頼めるはず。さきの手紙は十日の日付であるが、十一日には出発することに手はずができていたようである。さらに飛行機で北京に急行するか、とにかく容態は急を要する事態にたちいっていること歴然としていた。
フンメルは十一日には出ており、いまは三十日である。もうとっくにウルムチに着いていなくてはならない。途中どうなったか。不吉な想像がまたしても頭をもたげてくる。
われわれはロシア総領事のもとに飛んでいった。総領事は病気、他の館員は外出というので、しばらく待たせてもらった。背の高くないがっちりした白い服の男が、われわれの前を通りかかった。彼はサボシュニコフ博士で、総領事館付属病院の外科医であった。私は彼においすがるような気持ちで、その手を握った。天の神がいまのとき彼をおくってくれたにちがいない。サボシュニコフ博士は、アプレゾフを診察にきたのである。その足ですぐ副領事官邸に連れて行って、コロコフに会い、フンメルの手紙を読んで聞いてもらった。容態については、サボシュニコフ博士の見解は、楽観的といっていい。博士は現在来診患者が毎日おおぜい押しかけてくるだけでなく、臨床の講義もあり、二つの病院の外科主任でもあってみれば、手に余る仕事をもっているわけである。そのためにフンメル救助に出向けないことを、たいへん残念がっている。フンメルがクルークタグ経由でウルムチにくる道程は五六〇キロはあった。
コロコフは私たちの話を聞き終わると、電話の受話器を急いでとり上げ、まずチェンテーリを呼び出した。そしてガソリンと機械油とを若干量すぐ届けるよう要請した。そのやりとりは、まったく聞いていても胸のすくほど断固たる態度であった。つづいて同じような毅然《きぜん》たる話しぶりで、車庫担任のイヴァノフを呼び出し、小型乗用車修理に要する応急なる処置を、セラットを中心にしてとり運ぶよう命令した。ここまでは、意外なことであったが、とんとん拍子にはかどっていった。しかし翌七月一日になって、省政府当局はあられもない陰謀の牙をむき出してきた。ワン(王)外交部長がいうには、特別な旅行免状がなければ、ウルムチを発《た》つことは許可されないというのである。
「旅行免状が必要なら、どうしてそれを即刻つくってくれないんですか? 一人の命を救うか、死なすかの境いめなんですよ」
「あす、一〇時に、旅行免状がいつ差し上げられるか、お知らせしましょう。ガソリンもそのとき用意できると思います」
翌日曜日、われわれは朝から待っていた。しかし旅行免状のことも、ガソリンのことも、沙汰なしであった。何時間かがすぎていく。セラットはガレージから車を引き出してきた。修理も出来、いまは旅行免状がきさえすればいいのだ。
その日も、もう暮れようとするとき、陰謀の采配をふっているワンがやってきた。
「もし、貴下が所有しているトラックのうち、二台をセンテュパンに払い下げくだされば、貴下の欲せられるものが手に入るでしょう」
「お話ですが、そのことについては、車が当地についてからにさしていただき、ともかくいまはフンメル博士を救うための旅券のほうを……」
「それは、明朝一〇時……」
「人間一人を、それもかけがえのない貴重な体験を持った人間を生かすかどうかの|せとぎわ《ヽヽヽヽ》であることは、ご承知のことと思いますが、どういうお考えでしょうか?」
彼は、あと味のわるい笑いを浮かべて出ていった。夜になった。われわれは翌朝まで、旅券を待つより手はなかった。翌日一〇時になったが、あい変わらず沙汰なしである。ワンは、午後遅くやってくるだろう。そして明日は旅行免状が渡せるであろう、と約束するだろう。これが彼ら陰謀劇の上演台本第一ページであり、最終ページの台詞《せりふ》である。
私はユーとロシア総領事館にいった。ユーモアたっぷりのアプレゾフは、
「なんですって。あなた方は、なにをぶらぶらしているんです? こんなところで、時間を浪費しているなんて。私は、スウェーデン政府に回訓して、あなたがたの度はずれた怠慢を槍玉にあげますよ。まったく怪しからんことだ……」
「その通り、まったく同感です、ガレンジン・アブラモヴィッチ。われわれが出発するにはセンテュパンの旅券がいるというんです。しかも、いくら催促しても、その旅券免状を発行しようとしないんです」
「どうして、はやくそのことをおっしゃってくださらないんのです。さっそく運びをつけましょう」
彼はまたしても電話口にチェンテーリを呼び出して、命令的な調子で、
「ヘディン博士が、これから出発しようとしてここにいらっしゃるのですが、いまの場合、あなたもご存じのとおりで、旅行免状など問題ではないと思うが、君はこの電話ですぐ、博士に口頭で出発許可を言い渡したまえ。なんなら僕がとりついでもいいが……。博士は出発していいね、え?」
アブレゾフはさらに、
「なぜ、あなたはウラジミイル・イワノヴィッチを同行なさらないんです? 彼はれっきとした一流の外科専門医ですぞ」
「だって、患者がこぼれるほどいて、忙しくてこの土地を離れることはできないと聞きましたが……」
「あなたが必要とされる期間、私は彼に休暇を与えることにしましょう。彼の妻君も医師です。留守ちゅう代理もやれましょう。すぐ出発するよう、お頼みなさい」
ああ、なんてありがたいことか。それはほんとうなのであろうか。
私はすぐ、サボシュニコフ博士の病院へ急いだ。待合室には、外来患者があふれるほど待っている。博士はアプレゾフの処置を喜んで受け入れ、一時間後には、手術用の準備を整えて、私たちを待っているという。われわれも食事をとり、ユーに別れを告げて、車を病院へ走らせた。外科用の注射器、麻酔薬、折りたたみベット、毛布などといっしょに、タバコの包みをもって博士は中庭で待っていてくれた。途中、中国服を着た天主教伝道師が、われわれの車にあいさつにきた。そのうちの一人モリッツ神父は、前回の探検旅行でたいへんごやっかいになったっけ。
私は帰路のために、ダワンチェン村にガソリン五ガロンを預けていった。その夜は、戦災を蒙って完全に破壊された隊商宿の庭ですごした。
七月三日、われわれは、いまではもう古馴染みになったトクスン街道を同市長邸へ車を横づけした。
「病気のスウェーデン医師のことを、なにか耳にしませんでした?」
市長のカジム・ベッグは、
「いいえ」
と答えた。ありがたい! フンメルは、まだ生きている。
七時四十五分、露をおびた朝風が、庭のアカシアの梢を、かすかにそよぎ渡っていた。庁丁が一枚の名刺を市長の前に差し出した。私は、それをとりあげた。
「フォルケ・ベルクマン」
これこそ夢じゃないのか? 大急ぎでふり返ると、背の高い、おだやかな風貌に軽い微笑みを浮かべた彼を見た。彼は大股で近より、
「これはまるで夢の国にいるようです」
「そうだ。ところで病状はどうなんだ?」
「おととい、私は彼と別れてきたのですが、快方に向かっているようでした」
「ありがたい。そして、いまどこにいるのかね?」
「クムシュの東、キルギスタムに」
「……」
「彼のウマが困憊《こんぱい》して、動けないのです。牧草もなく、飼料もない状態なんです。彼は、クムダリア河畔《かはん》のベースキャンプからトラックで、クルークタグのジンゲルに向かいました。ところがガソリンを使い果たしたため、ジンゲルで三週間ばかり足止めをくい、そこからは、煮《に》えたぎるような砂漠の山を、一足一足歩いて越えたのです」
これを聞いたカジム・ベッグはすぐ三頭のウマと、それに必要な飼料の準備をさせ、コンスタンティヌと呼ぶ若いコサック人に命じて、クムシュにいるフンメルのところへ届けさせるよう配慮してくれた。われわれは急がなければならない。スシバ谷を越え、砂丘のすそを曲がり曲がりしているうちに、心配していた車が、とうとう立ち往生した。二台の二輪馬車が峠からくだってくるところであった。この馬車の援助をうけて引っぱり出し、車は動くようになった。が、理想的なスピードで走破することはできない。
七月四日、道路のためおそろしく手まどり、苦境におちいる。一五時、われわれが立ち往生しているところへ、青い幌《ほろ》をかけた北京馬車がやってきた。三頭のウマが引いていた。その中にトルコ婦人が幼い娘を膝にのっけていた。婦人はさきにここに着いていたアブドゥル・セミから、なにか悲しい知らせを聞いたらしく、大声をあげて泣きだした。その哀愁にみちた泣き声は谷じゅうに反響して異様であった。アブドゥルは、われわれと別れるとき、トクスンに着いたらすぐ燃料とヒツジ一頭とを届けさせることを約束していった。しかも前金を渡してあったのに、とうとうナシのつぶてであった。
七月五日、夕べは牧草はおろか一枝の燃料もなく、ただ洪水に直面した一夜であった。終日立ち往生した車の中ですごすなんて、不本意きわまる時の経過。翌日は一〇時になっても雨の音を聞きながら、うつらうつらしていた。そこへ旧友モスール・バイがトルファンからやってきて、車の外で大声をあげている。彼の話によると、フンメルは、ごく近くまできているそうである。私は、半ばまどろみながらとび出して走っていった。と、まもなく向こうからこっちにやってくる二人の乗馬姿を見出した。二番目の乗り手は、まるでインド人のように、日焼けしているが、まどろみがちな私の目にもうかがえた。いきなり流暢《りゅうちょう》なお国言葉で、
「おはようございます……」
このあいさつの主こそフンメルではないか。ありがたい、彼は病後疲れ果てているとはいえ、とにかくこのようにウマによる旅ができるとは、ウラジミイル・イワノヴィッチも走ってきた。そうこうしているうちに、フンメル隊の小キャラヴァン――三頭のウマと五匹のロバが彼の荷物を積んで到着。われわれは、さっそく岩壁のすそに毛布をのべ、ともかく病人の休息の場を急造した。われわれはトクスンを経て、もう真夜中といっていい時刻に、砂漠で設営のやむなきにいたった。
七月七日、ダワンチェン付近の峠を越え、またしても、ひやひやしながら危険な旅をつづけていった。この日も一回立ち往生したが、それも通りかかりのキャラヴァンに助けられ、ヘッドライトを点灯して夜路を走らせた。ウルムチの南門の手前四キロまできたとき、浅い溝の粘土のなかに、ふかく前輪を突っこんでしまった。またしても時間をくうので、城門の門限時にはまにあわないことになった。これでは病人を虐待しているようなものである。恐ろしい夜、それも一夜ならがまんもなるが、つづけて三晩もというのはあまりにながすぎるではないか。
七月八日、未明、通りかかった中国人の一団に声をかけ、協議の結果、高い報酬を約束して、自動車引揚げ作業にとりかかった。
われわれは、やっと溝のぬかるみから這い上がると、こんどはもう止まることなく、ウルムチの町にすべり込んだ。病院前でサボシュニコフ博士をおろすと、八時すぎキェルケゴール邸へ横づけした。
われわれが、すぐる日フンメルを救援のため旅に出立するや、ワン外交部長は、怒り心頭に発した面持で、ユーのもとにやってきて非難叱責を浴びせ、それだけではまだたりず、さんざん毒づいたそうであるが、ウルムチにおける省当局のこれまでのやり方を思えば、さもありなん……。
ワンはアプレゾフのもとにもやってきたそうである。それによると、
「ヘディン博士は旅券もとらずこの町を去ったのは、フンメルの病気を口実にして、その探検隊をまとめ、国境を越えてカンスー(甘粛)に逃亡を企てたものである」と、ワンはいったそうである。
アプレゾフは、ワンに答えて、
「博士の旅行許可は、私がチェンテーリから取り付けたものです。逃亡なんて、それこそとんでもないデマというものです。それに、医師サボシュニコフ博士が同行しているんですよ」
もちろんワンには一言もなかった。
そして、アプレゾフは、微笑しながら、ワンをいたわるように、扉のところまで送り出したそうである。
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十五 故国に旅だつ友
ウルムチでは、ずっと雨つづきであった。ある日、クンがやってきた。ベルクマンもときを同じくしてここに着いた。彼らは第七〇ベースキャンプを出て、小さいキャラヴァンを組み、クルークタグ峠を越え、それぞれちがったコースをとって旅をつづけた。彼らの遍歴譚はここでは省略しなければならないが、ともども針の筵《むしろ》を渡るような冒険にみちたものであった。
フンメルとベルクマンの故国へのロシア旅行査証は、容易に下付された。苦悩を胸にいだきながら、フンメルは療養のため、われわれの隊から離れなければならなかったのである。そして故国への旅中これを看護しながら見送る最適任者はベルクマンより他にはいなかった。こうして二人の老練なる探検家を同時に見おくることは、向後の業績に、どんなに大きくひびくことか。そのさしさわりは図り知れないものがあった。それはそれとして、あのロシア人の医師が、われわれにつくしてくれた無私の厚意は、なにをもって酬いたらいいのだろう。彼はわれわれの差し出した謝礼を、どうしても受けとらないのである。
クムダリア河畔ではゲオルク、エッフェ、チェンがわれわれを待っている。ここへも救援のキャラヴァンを仕立てて送らなければならない。私はそれらを案じながら、ヴェランダにすわって、下の庭に咲き競っているヒマワリだとかキョウチクトウなどを終日ながめ暮らしていた。しかも、私は忍耐で鍛えられながら、精神の浄化を祈念していた。とはいえ、真の平静はどこかへ去って、絶えずなにかが起こりそうに思えてならなかった。
北方からたどりきた旅人の話によると、マナスの流れもズンガリア盆地の河川も氾濫《はんらん》を始めているそうである。
センテュパンは、クンを説き伏せて、彼の企画する道路建設事業に引っぱりこもうとしている。なんたることか。それこそわれわれがここにやってきた目的ではないか。しかもわれわれは囚人同様に監禁され、スパイの嫌疑をうけているとは。センテュパンは、われわれからトラックを一台召し上げてしまった。彼の遣《や》り口は、買い上げ価格を契約しながら、支払いを請求すると「明日」である。いつまでたっても「明日」。この謀略に耐えるには、いったいどうしたらいいのだろう。
モスコー政府は、アプレゾフのもとに、われわれ探検隊のことを問いあわせてきた。われわれが包囲襲撃され、危殆に瀕《ひん》しているというニュースが流れたらしいのである。
われわれは、フンメルとベルクマンがウルムチ出発の日を、もう一カ月以上も待ちわびてきた。フンメルの容態は、けっしてかんばしいとはいえず、発熱はつづいていた。出発準備を何度やり直したことか。しかしついに万事がとりそろう日がきた。八月十一日の夜、ソヴィエトの貨物自動車一一台が、ここを発足して、チュグチャック、バクティの路線を鉄道のあるところまでゆくことになった。しかもこんどは三度めの正直で、うそではないらしい。われわれは別れの晩餐をともにし、刻々にせまりくる最後のときを迎えるなかで、旅ゆく二人のうえに神明の加護を念じていた。
ベルクマンは準備万端怠りなかったが、フンメルときたら、ゆうゆうとしていつまでもそこに腰をおちつけ、ユーに私のことをあれこれ指図していた。ベルクマンは、きょうこのときトラック便を逃したら、また何カ月も待たなければならない、といささかフンメルを促しつつ、やや悲観の態であった。外には郵便車が、故国スウェーデンへの荷物を積んで待っていた。われわれは二人のたぐいなき忍耐と貴き結盟的精神を感謝しつつ送り出した。最後の握手の後、ウマを促すひときわ冴《さ》えた鞭《むち》の音ともに馬車は走り出した。
ユーとクンの二人は、城門まで別の馬車で見おくった。私は一人ヴェランダにとり残され、瞬間、越しかた行くすえのことが頭に浮かんだ。邸内はいよいよ静寂になり、まるでお通夜のようであった。そのうちユーとクンが帰ってきた。
ロシアのトラックが、長い旅の運転を開始したのは、翌朝五時であった。この二人の旅人は、アヤグス、セミパラチンクスを経てノヴォシビリスクに着き、そこでドイツ領事グロスコップの手厚い加護により、さらによき旅をつづけることができた。
フンメルとベルクマンがベルリン入りをしたのは八月二十五日である。この知らせを受けて私は安堵《あんど》の胸をなでおろすことができた。もうこれで彼らのことを案じることはないから。
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十六 ハンネケン後日譚
八月十四日、南京のクーメンユー(顧孟余)鉄道部長から電報をうけた。自動車探検旅行は、向後どのくらい日を延ばしたいか。出発のさいとり決めた所要日数は、とっくにすぎているのに、いまになって南京に帰りたいというのは、どういう意味か。貴隊は最初のプランでは、チュグチャック、クルジヤまたはカシュガルまで行くはずではなかったのか。貴隊がいま帰還されるということは、任務の責任を果たさないということになりはしないか。帰還を希望せられる理由をくわしく返電ありたい、というのである。
われわれは、この電文に示されている三つのコースのうち、どれ一つも旅行する許可を受けることができないばかりか、このうえウルムチにへばりついていたところが、なんらうるところはないことをいってやった、それに対する鉄道部長の回答的なものであった。
そこで、改めて(というのは、これまで酸っぱくなるほどくり返してきたことなのだが)センテュパンに書簡を送って、鉄道部長の電文(これもセンテュパンは、われわれに先立って内容を知っているはずであるが)を引用して、ガソリンのこと、旅行許可証のことをいってやった。八月十七日にその回答らしいものが寄せられた。あいも変わらず、いとも丁重な文言で、拒絶を示してあった。
二十一日、再度鉄道部長から、三つのコースのうちいずれかを踏査すべしと要請してあった。私は、さきにベルクマンがフンメルと協力して、チュグチャックへの踏査旅行で、その道路に関する覚書をつくっていることをいってやろうかとも思った。この覚書は、その後、専門技術者の報告書に添付して提出されたものである。それゆえわれわれの委託された使命は、いちおう果たしていたのである。われわれは、いまカシュガルへゆきたいのである。しかるに旅券が下付されない。鉄道部長のわれわれに対する非難に対して、その理由を説明してやれないもどかしさ。
ああ、なんと因果なことか! 好事魔多し、とはこのことか。新疆に出る途上、われわれは南京政府の訓令をおもんじて、考古学的発掘を慎んできたのである。しかし、新河流たるクムダリアの河畔で、数千年も昔の古墳を六基発見したときは、それを発掘し、出土品を持ち出したが、その中に人間の頭蓋骨がふくまれていた。ここで旧絹の道を証するに足りるようなものが出たら、掘り出したものすべてを南京政府に返還するつもりであった。実際、中央アジア縦断の新自動車道を建設するについてのプランを立てるということは、考古学的研究と密着しなかったらできるものではない。なぜなら、シーアン(西安)からカシュガルに出るルートを選ぶとすれば、その全線の九〇パーセントまでは、旧絹の道を通じることになるからで。
八月二十六日、私は去る七月七日出の発信電報をうけとった。
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本官はいま、教育部長から次のような文章をつきつけられました。『スウェン・ヘディン博士は、ロプ・ノールおよびタリムの岸辺にて許可なく考古学的発掘をなし、各般の財宝を持ち出せり。これが国法にもとることはもちろん、部長訓令にも反するは明らかにして、貴交通部はこの不法なる行動に対して、その責に任ずべきであることを交通部長に指摘されたし』本官はこの事件を調べ、その結果を教育部長に報告の要がありますので、前記教育部長の報告どおりなら、発掘を中止するのはもちろん、発掘物件のすべてを教育部長に提出せられたい。すぐ返電を乞う。
[#ここで字下げ終わり]
というのである。私は、電文をくり返し読んでみた。
私は、ただちに反ばく文を送ることにした。探検隊の使命、目的、ついで探検隊がどうして内乱にまきこまれていったか、射殺されそうになったこともつけ加えることを忘れなかった。そして二カ月ものあいだどうしてロプ・ノールに旅行していたか。さらにわれわれの一隊はクルークタグを越え東方ルートを探査、他の一隊はクムダリアに踏みこみ、この新生河の利用度を研究、そのさい古墳を発見したこと、この古墳はいつ崩壊して風雨のためにめちゃめちゃになるかもしれないこと、ロプ・ノール湖畔の水流の移動から起こる古墳流失のおそれあることを強調して打電した。
この電文には、中国人隊員の名も連記し、センテュパンの手もとに届けた、検閲のために。電文が長すぎる旨を付して突っ返されたので、さらに要約して簡略なものとするなど、ひとかたならぬ手数がかかった。
この簡約電報とともに、中国人隊員だけで、私に関するものを鉄道部長にあて打電されたことをあとで知った。センテュパンは、この二つの電報を検閲して、九月二日遅滞なく発信したようである。
九月五日、前記電報の返事がもたされた。
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新扱い至急報。南京発九月三日一九時三〇分。ウルムチにてスウェン・ヘディン顧問殿
八月二十九日付貴電入手。綏遠《スイユアン》――新疆ルート(カシュガルまで延びる)の踏査はきわめて緊要。貴下の知識、経験は世界的意義あるもの、名声もまた。現在大いなる責任をもって精進せられつつあるを賞賛すると同時に、あつく感謝するところです。なお向後とも現在の探検をつづけられんことを願う。クーメンユー
[#ここで字下げ終わり]
かくしてわれわれの地位もようやく確立したものというべきか。
九月四日の夕方、初秋のすがすがしい風を楽しみながら、ユーとヴェランダで雑談しているときであった。私の耳にはいった警笛は、その調子にどこやら聞き覚えのあるひびきをもっていた。門の扉は真一文字に開かれ、庭に、あの夢寐《むび》にも忘れえなかった「エッセル号」がすべりこんでくるところであった。ゲオルク、チャクェイ、チョックドゥング、コサック人のニコライがとび出した。ゲオルクが走ってくる。
「ほかの仲間は、どこ? 元気っ?」
「ええ、元気です。張りきっていますっ」
うれしいことだ。四六時中おおいかぶさっていた心の霧が、いまこそ晴れていく。
二十日ほど前に、私はセラットに機械油を持たせて荷馬車でコルラにいかせたが、そこで輸送隊とおちあい、ウルムチに集合する手はずにしておいたのであるが、またしても外部的な障害から、思わざる手ちがいを招き、ようやく「エッセル」一台だけここウルムチにやってきたのである。それにしても九月八日には隊員全部の顔がそろって、晩餐をともにしえたのは、なんという恵まれた喜びであったろう。
コルラに残してきた荷物の一部は、ロシア兵たちに盗まれてしまった。まあそれぐらいはいいとしてわれわれはいったい、いつまでこの無実のぬれ衣をかぶって、幽閉されなくてはならないのだろう。われわれ隊員全部がこうして五台のトラックと乗用車とをもってウルムチに集まりえたことは、救い出すどころか、この町に釘付けにする逃げ口上を敵に与える結果におちいったことになる。十三日には、センテュパンの秘書がやってきて、われわれが発見した考古学的資料は、国境外に持ち去ることは法律によって禁じられているので、そっくりおいていけと命令した。彼はセンテュパンの側近者二、三人がロプ・ノールに出向いて、われわれがなにをしでかしたのか、また彼の地ではどこを本拠にしていたのか、調査に出張した由を語っていた。これはまったくすばらしい思いつきにちがいない。われわれが、貴重な考古学的資料ないしは財宝に類するものを、彼の地のどこかに隠蔽している、という嫌疑をいだいてのやり方なのだ。
「もしその財宝が発見されたら」と秘書はいう、「あなた達は、そっくり投獄されることになるでしょう。そのうえで……」
いやはや、ここにいたっては、開いた口がふさがりようもなく、なにをかいわんや! である。
われわれはその後、二台のトラックが完全に修理できしだい、この地を出発する許可を出してもらいたい旨を申し出た。
「好きなところへどうぞ……」
センテュパンのあいさつである。
「それで、修理ができるまで、どのくらいかかりますか」
「一〇日もあれば……」
「じゃ、十月一日にウルムチをたたれたらいかがです」
この日、センテュパンは、これまでにないじょうだん交じりの口あたりのいい応答ぶりであった。
こんなきげんのいい後には、われわれは南京の鉄道部長あてに電報を打つことにしていた。
九月十八日、満州事変の三周年記念日であった。悲しみの街頭行進とセンテュパンの火を吐くようなアジ演説で活発に祝われた。
センテュパンの演説はつぎのような言葉で始まった。
「九月十八日の思い出を意義あらしめるために、われわれは挙省一致、新疆全省を保衛し、その高貴なる権利と領土を保全し、各種族の団結を堅固にして、帝国主義者をしりぞけ、われらから奪った全領土を奪還しなければならない。……」
この言葉の裏には、われわれ探検隊をも、帝国主義者と見なしていたことを見落としてはならない。
九月二十二日、ソヴィエトの軍事顧問団の一人マリコフ将軍を私はたずねた。彼は軍事に関するかぎり、センテュパンの片腕ともいわれ、その勢力は強大であったようだ。将軍はきわめて社交的で、われわれの話はずいぶんはずんだが、そのなかで、若いハンネケンの悲痛きわまりない運命について語った。ハンネケンは、一九三三年の秋、北京を出てランチョー(蘭州)に旅行し、その地で一人のロシア系のタタール人に出会った。その男はドイツ語ができるので、おおいに気にいりかつ信用したのはいいが、なんと殺人罪で八年も監獄に入っていたような人物であったのである。もちろんハンネケンはそんなことは知らないため、その年九月タタール人の案内で、ハミからチコーチンツェまでいった。道は分かれて、右ルートはクーチェンツェ、左ルートはトルファン街道である。ハンネケンは左をとろうとしたのに、このタタール人は右ルートを勧め、やむなくそのルートをたどっていった。しかし、彼はついにクーチェンツェに姿を現すことなく、それ以来、彼に関する消息は誰も知るものはなかった。
カトリック神父たちが、ハンネケンの行方を捜してくれた。彼は雌のグレイハウンドを連れていて、どこにゆくにも手離さなかったそうである。またスーチョー(粛州)からきたマチュンイン(馬仲英)部隊の一兵士は、ハンネケンを見かけ、黒と白の斑《まだら》のイヌには、とくにひかれ注意して見たそうである。その兵士が一九三四年の暮れスーチョーに帰ってきたとき、その冬ハミの毛皮商のところで一匹のイヌの皮を見たが、どうもハンネケンが連れていたグレイハウンドそっくりであった由を話していたそうである。この兵士は、瞬間、主従とも消されたな、と思ったとか。この話をハバール神父は聞いて、タタール人の手にかかってやられたにちがいないと確信する手がかりをえたわけである。マリコフ将軍はこの話から、
「この事件を解きほごすべく、手をつくしてみましょう」といった。「まず、マチュンイン討伐中の一九三三年九、十月にチコーチンツェとクーチェンツェのあいだにいたのは、どの部隊であったかを調査してみることにしましょう」
「たとえ、ハンネケンが死んでいたとしても、たぶんはそうでしょうが、その事実を確かめ、彼の身の上にどのようなことが起こったかをはっきり握ることが大切だと思います。たぶん日記なり他の旅行用の所持品ぐらいは見つかるのではないでしょうか」私はこう答えた。
私はまた、ハンネケンの母すなわちハンネケン将軍の未亡人が、その息子の捜索のためベーケンカンプをこの地方によこしたことも、将軍に語った。
私が最後にセンテュパンを訪問したとき、クーチェンツェ、チコーチンツェを経由するルートの通行許可証を願い出たのも、とくにこの地帯のキルギス人に会って、ハンネケンのうわさの断片でも聞き出すことはできないものかと、思っていたからである。しかしそれは私の勘《かん》が、不幸にも当たっていなかったことがわかった。このコースはわれわれのトラックを乗り入れるには不向きにできているし、彼らキルギス人は、護衛をつけたヨーロッパ人が、その幕舎に近づこうものなら、いちはやく山のなかに逃げこむぐらいのことは、現地を踏まなくても想像できようというものである。
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十七 囚われを解かれて
九月末、センテュパンからいかなる種類のものもこの地方で収集することは禁ず、という通牒がもたされた。但し書があって、地形学、植物学にかんするものはこのかぎりに非ずというのである。われわれは現在では、二台のトラックを召し上げられ、「絹の道」を通って帰路につくときは三台でいくことになった。そのために、荷物も大幅に減らさなければならなくなった。
九月二十七日、センテュパンの秘書二人が秘密警察の巡査を連れて、われわれの荷物の検査にやってきた。この検査はじつにばかばかしいものであった。われわれは、捨て場に困るほどのがらくたにいたるまで、センテュパンのヤーメンまで持ってこいと命令をうけた。隊員個人の持ち物、道具類や、説明のしようもないような物まで部屋に山と積まれた。もちろんロプ・ノールの古墳で発見した品も、一つ残らず長テーブルにひろげられた。どれもこれも見たところ意味のないようなものばかりである。隊員が集まっているところへ、アプレゾフも他の総領事館員とやってきた。チェンテーリ、それから最後にセンテュパンもはいってきた。
センテュパンは、ごまかそうったってそうはいかんぞ……といった顔つきで、異様に目をぎょろつかせていた。ユーと私とが説明する。質問にも答える。私は心ひそかに恐れるところが、一つあった。それは、私の旅行中の日記やスケッチ、地形図、また夏じゅうかかってチェンが描いたクムダリアの南岸からロプ・ノールにいたる湖水の地図などが、どうなるかということであった。またユーやクンの荷物のなかには、ベルクマンと協力してつくったゴビ横断の北部自動車道路図、クムダリアから南方における支脈、支流図などがある。これらはもっとも重要な意味を持つわれわれの地質学的な研究成果であった。秘書はそれらの一つたりとも、省外に持ち出すことは許可しないと、われわれにおどし文句を浴びせていた。この措置こそは、われわれの探検旅行を無意味ならしめ、完全に失敗に追いこむ手段であった。私はまたしてもアプレゾフにこの心配をぶちまけるほかなかった。そのために、この日とくに彼は、この検閲場所に顔を出してくれたのであろう。そして心配顔の私のところへやってきて、
「すべては、うまくいくようです……」
ただそれだけを低声《こごえ》にささやいて、そしらぬふりで、ロプ・ノール将来品などを見ていた。こうして、一わたり検閲が終わったところで、センテュパンは、
「諸君は、すべてこれらの品を箱に詰め、国境外に持ちだしてよろしい。私は特別旅行券といっしょに、荷物の証明書もさしあげることを約束します」
またしても、アプレゾフがいなかったら、かくも手がるに事を運ぶことはできなかったであろうことをつくづくと思った。
十月二日、私はとうとう病床につくことになった。すぐサボシュニコフ博士に来診を乞い、その指図どおりの療養を始めた。私は博士にたずねた。
「チフスでしょうか……」
「正直にお答えしましょう、どうもそうらしいようです。もし高熱がつづくようなら、病院に移っていただいたほうがいいかと思います」
十月五日、私は思いきって入院させてもらった。われわれは十月一日にはこの幽閉の地ウルムチから発《た》って、ふたたび探検の旅行を始める心づもりであったのに、することなすこと、予期に反することばかりである。私は、いまや自分が旅にあって、重態におちいっていることを、故国にいる妹たちに知らせなくてはならないのか。アプレゾフは毎日容態を聴きとり、かつちょっとした閑暇をみては、見舞いにきてくれた。ありがたいことに、私は思いのほか順調な経過をたどり、そうながく病院のベッドにふしていなくてもいいことになった。
こんな災難のなかにあっても、われわれに関するデマはデマを呼び、トンボの羽根のように飛んでいった。私の病気は仮病だというのである。やれ! やれ!
十月十二日、退院。私は病後とはいえ、最後の数日間を別離の訪問についやさなければならなかった。サボシュニコフ博士は、もうすっかり回復したから、いつ旅だってもいい、という。われわれは十月十九日出発ということを全員で決めた。省当局は、新疆省内の道路に関する調査した報告を提出してほしい旨申し入れてきた。その道路こそは、彼らが、悪意にみちたやり方で、われわれの邪魔をしたのではなかったか。
旅中の護衛兵のことで、センテュパンは、ユーをとくに招いて、
「自分はヘディン博士のことはすべて責任をもたなければならない。旅中、博士の身にもしものことがあると、全世界はあげて私を非難するでしょう。私が博士を襲わせたと。私はピチャンに打電して、チコーチンツェとチェコーローに護衛隊を派遣するよう命令します。この命令は二十一日以降でないと届かないので、探検隊もその出発を二十一日もしくはその以後にされたい。しかし出発の日取りはけっして口外しないでくだされ、キルギス人の盗賊団は、この町にスパイを入れていて、出発の日をすぐ頭目に連絡するでしょうから。……」
九月十七日、センテュパンの主催で、われわれ自動車探検隊の正式なる別れの正餐の宴が、官邸で催された。
九月十八日、ユーは急いで私を起こしにきた。センテュパンが、夫人、令嬢を連れて別れのあいさつにみえている、というのである。
センテュパン自筆の「旅行券」を渡してくれ、それには、ヘディン自動車探検隊の荷物は全部税関も軍隊も検閲の要なく、国外にもち出すことを許可し、もしこの旅行券の指図に従わぬときは、政府機関において処罰する旨が明記してあった。彼は、自分の家族の写真、大きな駑馬《どば》と黒ヒツジの毛皮とを贈ってくれた。
十月二十日、一九時、センテュパンのもとに最後のあいさつをしにいった。二台のトラックはアプレゾフの厚意によって運ばれたガソリンをいっぱい詰め、食糧、その他の梱包された荷物を積んで、邸の中庭に勢ぞろいしている。悪夢にみちたウルムチの最後の夜のとばりは、その漆黒の闇の中になお前途に幾多の波乱を秘めながら、ふかく静まっていった。
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十八 絹の道ノート
紀元前一三八年、チャンチェン(張騫《ちょうけん》)を主班としておおよそ一〇〇人の使節が、漢朝武帝から大月氏《だいげつし》につかわされたことがある。彼ら大月氏は、フン(匈奴)におわれ、西のほうに移ってこのかた、ターユァン(大宛)に定住していた。現フェルガナの地である。
フンは当時中国人にはもっとも怖ろしい強敵であった。武帝は前記大月氏と結び、この共同の敵を討つことを提案しようとした。チャンチェン一行は、その使命を達することはできなかったが、十数年の歳月を囚われの身となって、フンの国にすごした経験は、幾多の貴重な報告をもたらすことになった。
彼チャンチェンの伝えるところによると、現在の東トルキスタンには、人が利用できる幾多の緑地帯があって、インド、ペルシア、カスピ海に通じているりっぱな街道があり、そこには巨大な富を持った人々が住まい、高い文明をきずいているという。これらチャンチェンの話を聞いて武帝は交易の計画をたて、それによっておのが国に巨富をもちきたし、いっそう強大な国づくりを思いめぐらした。それにあの「血の汗《あせ》をかく」というウマの話は、帝の心をひどくゆさぶる力をもっていた。このウマはすぐれた神の恩寵《おんちょう》によって育《はぐく》まれた種馬の、純血種族であるという。このウマの血を移しとることによって、道産子《どさんこ》を改良したい、敵に優位する騎兵を養成するために、もっとも大切な馬種の改良こそ緊要であると考えた。
この高貴なるウマの血を移しとるには、どうしたらいいか。彼はウマを手に入れるために、完全武装の使節を、おおぜいターユァンに送りこんだ。しかし使節はなんらうるところなくして帰ってきた。さらに武帝は、こんどは金貨一〇〇〇枚と金無垢《きんむく》の馬をつくって使節を送りこんだ。彼の地で使節は獄舎に囚われたが、なんとかしてその危地を脱したものの、帰りの道で消されて跡形もなくなった。これらかずかずの仕打ちは、武帝をして怒らしめ、六〇〇〇の騎兵をもってターユァンを襲撃にかかったが、その軍隊の大部分は、事をけっする前に敦煌《トンファン》西方の砂漠地帯でゆき悩み、失われてしまった。その残余のものがターユァンに着いたとはいえ、みじめにもなすところなく、国を出たときの十分の一にもたりない人員が、生きた色もなくトンファンにたどりついた。
帝の執念は、この程度の痛みで計画を挫折するようなものではなかった。六万の兵を武装させ、三万のウマ、ロバ、ラクダ、車に戦時物資を積みこんで、三たびくり出した。三万の兵は目的地にいきつき、彼らは持久戦にもちこもうとするターユァンの首都を包囲し、ついによくおとしいれ、戦利品を携えて凱旋した。そのなかに三十数頭の「血の汗をかく」種馬とすぐれた牝馬《ひんば》とがいた。武帝の執念はついに実を結び、道産子ウマを改良する緒《しょ》についたわけである。漢朝の古記録(『前漢書』をさす)によると、前記三回の西域地への遠征で、新しい文明をとり入れる機をえ、あわせて街道はさらに開発され、美術や思想などの交流も活発になり、いわゆる仏教もこの機会にはじめて中国に紹介されたのである。
チャンチェンは、中国帝国と西域地方の文化をむすぶ機縁をつくった、中央アジア探検家として、高く評価されるべき一人といっても、言いすぎではないであろう。
フンが南部カンスー(甘粛)から追い出された結果として、中国と西域地方との交易の道が開かれることになった。始皇帝《シーファン》によって創設された万里の長城は、武帝の時代に、さらに西方に延築されたばかりか、そこには道路の保護と交易の促進とを目的とする望楼と烽火台とが構築された。この道路建設と長城の防備工作などについては、碩学オーレル・スタイン卿が二〇年前に、現地研究をなし、著述にもまとめられたが、これら皇帝大道に描くラクダの足跡には、中国本土から輸出される優雅な絹布がもっとも重きをなしていた。二〇〇〇年の昔、世界の貿易界の王者の位置を占めたものは、この中国絹布であった。
紀元一〇〇年ごろのことであるが、マケドニアの絹商人マエス・ティティヌアスは西トルキスタンに取引代理人をおいていた。彼ら代理人は絹布を生産しているセレス(絹をつくる人々)の国に旅し、そのときの営業日記を主人すじへ提出した。これらの日記は、マエス・ティティアヌスからティルスの地理学者マリヌスの手に渡り、ついでアレクサンドリアの有名な地理学者プレトマイオスの著書 Scythia extra Imaum(イマウムの彼方のスキティア)の資料となったのである。いわゆる東トルキスタン地方を、この書は扱っている。
紀元二二〇年、漢朝が崩壊するや、かの「三国時代」と呼ばれている、分裂と壊滅をくりかえす一時代が中国の歴史を哀《かな》しくもいろどっている。しかし、そうした内紛事情にもたいして影響されることなく、絹を主とする交易は太平洋岸から地中海岸に至る遠路を、ラクダの鈴の音をかなでながらつづけられていった。およそ紀元二六〇年から二八〇年にいたる二〇年間、楼蘭《ろうらん》の中国町には、交易を中心とした取引街があり、はなやかな生活をくりひろげていた。その楼蘭の廃墟を、私は幸運にも、一九〇〇年五月二十八日に、北部地域の干《ひ》あがったロプ・ノール湖畔で、発見する機会をえた。城塞都市として成立した楼蘭は、一方では主要貿易ルートの交差街として、きわめて重要な意義をもっていた、とみることができる。キャラヴァンたちが、タリム盆地に位置する最初のオアシスたる楼蘭に出るには、ロプ・ノール湖畔に達するまでに、中国文明の最前哨地敦煌から、ながい砂漠路を横断しなければならなかった。
故国ストックホルムの帝国図書館に収蔵されている、私の発見した古記録によると、コンラディ教授はこれを翻訳して、昔のこの大街道は、砂漠や草原地帯を通って西のほうのホータンに至り、そこからバリエーションルートがインド、ペルシア、ヨーロッパへ、一方、敦煌、スーチョー(粛州)を経由中国本土につながっていた、という。私は、ある一棟の廃屋から黄色や紺青《こんじょう》の絹布の端切れを発見した。翻訳された尺牘《しゃくとく》によると、楼蘭の住民たちが、おそらくは貿易商人であろうか、四三六〇梱《こり》の生糸を買いつけていることがしるされている。コンラディ教授もいっているように、そこには住民がそうとう住んでいたことを物語っている。
敦煌を経て輸送されていたころは、コムギが取引の対象となっていたので、住民にとっては、絹はもっともたいせつなものであった。
楼蘭の町が住民から見離され、したがって、その地を中心として取引されていた交易が途絶した理由は、この地域に水を供給していた下タリム川が、流路を変えて、カシュガル湖から南南東に出ていくようになったからである。それは紀元三三〇年と推定される。そのころから絹の交易路は海路をとり始め、インド、アラビア、地中海沿岸、エジプトの諸都市にもたらされるようになっていった。ここにいたって、あれほど繁栄した楼蘭は、この地球の表面から消え去っていったのである。一二七三年、マルコ・ポーロが東方に向かって旅をしたときも、ロプ・ノールの南方に足跡を残している。そのころ、このベネチア人は楼蘭の町のことなどすこしも知らなかったが、この古い町は、そのときより一〇〇〇年も前に、姿を消していたのである。そしてなおも六〇〇年近くもそのまま地下にもぐっていたのであるが、突如として、地の底に砂漠の太陽が射しこんできた。廃墟は二〇〇〇年前、中国本土と西域とをむすんだ接触地点として、その高貴なる意義が闡明《せんめい》せられることになった。
すでに述べたように、シーアン(西安)からランチョー(蘭州)、スーチョー(粛州)をつなぎ、さらにおそらくは万里の長城の一番西の端チァユークワン(嘉谷関《かよくかん》)にまで延びていたはずのこのグランドハイウェーを、中国本土では皇帝街道と呼んでいる。そこからさらにカシュガルに出るまで、この西域への道は、テンシャンナンルー(天山南路)と呼ばれ、この呼び名は、そのまま天山《テンシャン》の南麓地域をも表示していた。
「絹の道」とか「絹街道」とかの呼び方は中国名にはなく、また中国人は使いもしなかった。この写実的な固有名詞の発案者は、たぶんリヒトホーフェン教授ではなかろうか。教授は中国に関する著述のなかで「絹街道」についてくわしく掘り下げ、添付されている地図のうえでは「マリヌス街道」の名を与えられている。ヘルマン教授は一九一〇年『シナ――シリア間の古代絹街道』というすこぶる貴重な書物を上梓《じょうし》した。
中国本土から西北西に向かって敦煌地区までは「絹の道」は一本道である。
敦煌またはユーメンクワン(玉門関)から、バリエーションルートが三本出ている。ヘルマン教授もいっているように、一本はホータンを通り、一つは楼蘭経由そして北方にもう一本あって、ハミおよびトルファンを通っている。なお、東トルキスタンの西部を起点としているもう一つの間道がある。イシッククール湖畔をたどる一筋の踏跡が、ウス(烏蘇)の人々によって、絹と他の物質との交換地として選ばれ、この道は中央アジアのフェルガナを経てサマルカンドあるいはアラル湖近くのアラン族の国を通ってタシュケントへ、さらにウスボイからオクザスの旧道、あるいはアムダリアを通ってカスピ海に出ている。そこから道はさらにヌラーク川の上流フェジスに延び、黒海およびビザンチンに達していた。
第三の街道が、もう一つある。トハラ、バクトリア、マルギアナの首都ヘカントピロスからメディアのエクバタナおよびパルミラを経由してアンティオキアあるいはティルスなどの諸都市を通っているものである。そこでは絹織物が、さかんに行われていた形跡がある。ヘルマンの著述によると、「絹の道」の一つはヤルカンドからパミール高原を越えてユーエナーに至り、もう一つはヒンズークシの難路を越えインドの北北西ガンダーラへ、カブール、南部イラン、ホルムズ、ブシールあるいはセレウキアなどの都市をぬいながらペルシア湾から南部アラビアに達し、ついにはエジプトのみやげ物との交易がむすばれるにいたったそうである。
中国における絹の生産はずっと古く、武帝以前から輸出されていたもので、クリミアのケルチ付近の古代ギリシアの植民地でも、絹布が発見された記録があり、アレクサンドロス大帝の謀将ナルコス提督も、北方からインドにもたらされた「シナ絹布」のことを記している。この量《かさ》ばらない運搬に便利なしかも誰もがほしがる貴重な商品は、中国国内の絹の道には、どういうものかほとんど足跡を残していない。交易物資が、各キャラヴァンのルートをとって、アジアの各地に分散されていった西域地方のいずれの土地からも見あたらないようである。
さきに私は、一九〇一年に楼蘭で発見した絹布の端切れのことを述べたが、この発見は中国における最初のものであったと思う。スタインも一九〇六年と一九一四年との二回にわたって、同じ場所で絹布を発見している。そしてフランスの考古学に関する学術探検隊が、パルミラにいったとき、墳墓のなかからシナ絹布の端切れを収集したことを、エル・プイスタアが報告している。
蒙古地方の探検で、幾多の貴重な業績を残しているピー・ケー・コズロフも、その第三次の旅行において、かなりたくさんの絹布および生糸を発見している。一九三〇年から翌三一年にかけて、ベルクマンがエッチンゴールで発掘した漢朝時代の収集品のなかにも、他の織物に混じって多量の絹布があった。一九三四年の春、私はパーカー・シー・チェンとの新ロプ・ノール湖への旅で述べたごとく(『さまよえる湖』)、楼蘭の繁栄時代の最後のころと思われる年代銘の刻まれた墓から、若き婦人の絹の薄ものを発掘している。ベルクマンも同じころクムダリア南方の砂漠のなかにあった墓から、かなりたくさんの絹の薄ものを発掘した。
次章で述べるアンシーからシーアンまでの一五〇〇キロは「絹の道」の一部に相当する。そのルートはアンシーからペイシャン(北山)を経て新ロプ・ノール湖とクムダリアの北岸に沿うてコルラに出ている。このルートは全行程九三〇キロあり、おおむねまだ紹介せられざる地を通っている。このルートをわれわれは、水路は手製の筏《いかだ》を使用し、ペイシャンの山中は二台の自動車で旅をつづけたものである。この探検旅行は、本書と姉妹関係をなす『さまよえる湖』の中にくわしく述べておいた。
シーアンからアンシー、カシュガル、サマルカンド、セレウキアを経てティルスにいたる全絹街道は直線にして七五〇〇キロ、もし曲折も計算に入れると一万キロに達するであろう。すなわち赤道の四分の一の距離に相当する。この旧世界全体に通じる貿易大街道は、世界最長のものであり、文化史的にいっても、もっとも重要な意味をもつといっても、けっして誇張した表現ではないと思う。シーアン、ローヤン(洛陽)やそれらの都市の中国商人たちは、数千年前彼らのキャラヴァンが車やラクダの背で運搬した無数の絹|梱《こり》が、最後にどこにたどりつくかなどということは、少しも知らなかった。彼ら貿易商人にとって重要なことは、最初に出会った仲買人に絹の梱をもっとも高価に売りつけることであった。トハラ人、バクトリア人、パルティア人、メディア人、シリア人は、この貴重品をなお遠方の諸都市に運んでいった。この絹布の主な取引市場がローマであることを知っていたのは、イタリアやその他の地中海の海沿いにいたフェニキア人の船乗りだけであった。
ローマに居住する貴族は、その妻や娘を遠来の絹布で飾りたてていたが、この織物がどこからどうやってローマに運ばれるかということは、不確かなことしか知らなかった。彼らは |Sericum《セリクム》(絹)または |Serica《セリカ》(絹織物)は、セレス(絹をつくる人々)と呼ばれるアジアのはるか東方に住む人たちがつくって輸出しているのだ、ということ以上には知ろうともしなかった。絹のラテン語は明らかに中国語のシュー、シエル、朝鮮語のシイルからきているのである。このように、絹は異なった土地の異なった人種をむすびあわせる優しい鎖の働きをなし、また無数のキャラヴァンのトレールをつくることにもなったのである。
中国の古記録類をひもといた人たちは、西暦紀元前後の、「絹の道」に関しての歴史的に内容多彩な様相が、あんがい乏しいことに気がつくであろう。この街道が、学者に今日のようにふかい関心を呼び起こしたのは、近々三〇年ぐらいではなかろうか。私は『さまよえる湖』のなかで、この時代のかずかずの話題を拾い上げるつもりである。貿易、旅の宿、避難所、キャラヴァンの仕組み、軍隊の駐屯所、輸送の保護、その他使節のこと、巡礼たちのこと、砂漠の水場や持ち運ばれる飲料水のこと、通訳者と税関、望楼のことや烽火台のこと、野生のラクダやカモシカの群れのこと、郵便飛脚のことなど、読者の関心を深めないではいない話題がたくさんある。
南京政府に出した私の覚書のなかにも、何世紀にもわたって川の流れのごとくに西方諸国に輸出されつづけていった絹輸送路たる皇帝大街道の貴重さと、その復活の重要性とにふれて詳述しておいた。われわれが、現にこの荒野にいるのは、中国本土とアジア奥地をむすぶ連絡路を踏査するためであり、自動車による貨物輸送に役立つように改良し維持するには、どういう手だてが緊要な事項かを見出すためである。ウルムチからの帰路、われわれは、はじめて「絹の道」に踏み入った。
次章で述べるように、われわれは、万里の長城に沿って旅をつづけたが、それはくる日もくる日も、蜿蜒《えんえん》と砂漠のなかにつづき、巨大なヘビがのた打つにも似て、しかも果てなきものであった。この土壁は北方の蛮族にたいして中華をほこる国を護るという使命を、もっとも忠実に果たしているかにみえた。路傍に建っている無数の望楼も見たが、それは偉大な、過ぎにし日を何世紀にもわたって風雪に耐えながら見守ってきた記念物として、われわれに、じつに多くのことを語りかけていた。それらの塔や楼台は、自然の法則とは無縁なるがごとくに、冬の霧氷のなかに、その崩壊の姿を忘れて、立ちつくしていた。
われわれは衰滅寸前の「絹の道」をこの目で見、そしてたどってきた。冬眠――いやすでに死滅した貿易、道沿いの村や町は荒涼として廃墟のごとく、住民の多くは常時不安におびえおののき、窮乏のなかであえいでいるではないか。いかんせん、いまはわれわれの想像の瞳のみが、よく過去にいろどりし光景を、あのキャラヴァンの隊列や旅行く人の群れを見うるのである。われわれはこのコースをたどるとき、毎日のように鞍の後ろに郵便袋を下げた馬に出あった。その首で鳴る鈴のひびきを聞いていると、この街道に鳴りひびいた遠き日のリズムが、生きかえってこだましてくるようでもあった。
アンシーからシーアンにたどりつくのに、一九三四年十二月十一日から一九三五年二月八日、すなわち五三日間かかった。作図したり、自動車の故障などに多くの時間をとられたが、そういう雑音がなかったら、もっとわずかな日数でたりたはずである。
私個人としては、「絹の道」をえっちらおっちらゆっくり時間をかけることは反対ではなかった。道路やその周辺の景観、村人の生活状況など目の前の現実を観察する余裕があってよかったと思っている。
中国政府にとっては、現在中央アジアの自国領域へ大道路を建設することは、どんなに重要であるかは、これ以上説明の必要はないと思う。もし、輸送に適した道路がつくられないとしたら、新疆省は政治的にも経済的にも、安定を失うであろう。
モーターファンが自家用車を駆って、上海を出発し「絹の道」を通って、カシュガルに出、アジア奥地を走破してイスタンブールに達し、そこからさらに、ブダペスト、ウィーン、ベルリン、ハンブルク、ブレーメルハーフェン、カレーまたはブーローニュに至るにも、今はわずかな日数でたりるであろう。これはもう遠い先の夢物語ではない。だが、道路の曲がりを見こんで一万六〇〇〇キロの全行程を走破するとしたら、いかにモーターマニアでも、当分は自動車旅行など考えもしないことであろう。
その人は、かずかずの忘れ難き経験をしながら旧世界の横断をなしとげ、地球上で想像しうるもっとも印象的な自動車旅行の喜びを味わうことになるはずである。絵画的な中国の印象、ゴビの果てのオアシス、敦煌から楼蘭のあいだの神秘な砂漠、荒涼たる野のたたずまい、ラクダのふるさとなど、いろいろな思い出を土産としてもち帰るであろう。さまよえる湖やクムダリアの岸辺に生い茂っているタマリスクの叢林など、目の覚めるような風景が、ゆくさきざきで待っている。タクラマカン砂漠の北方砂丘や、天山のふもとにある東ツルキのオアシスなども見てくるであろう。中央アジアの夏の日は、日焼けを贈物とし、砂嵐やつむじ風や大吹雪のうなり声は、いっそう野性的で忘れられないであろう。巡礼の親子と知合いになり、キャラヴァン宿の榾火《ほだび》を囲む夜話に、天地の悠久を聞くであろうか。
テレワク・ダワンの西のほうの国々からは、どんな思い出をもち帰るであろうか――サマルカンドではタメルラン王朝時代からつづいているすばらしい回教寺院や霊廟《ミヤオ》など、それからブハラでは、はなやかなフェアンスづくりの丸屋根や高いミナレット(塔)の神学校があるし、学園都市としてのメルフの町、イマム・リーザの墓のある回教寺院には、イスラム全土から巡礼者がのぼってきており、ハジ・ババのふるさと、夢幻を誘うペルシアの国、さてはカリフの町であり、アラビア夜話の中心舞台たるバクダッドの町などが待っている。アンカラやイスタンブールを訪れる旅人は、ヨーロッパ文明のもたらす、そうぞうしい暮らしのうずにまきこまれるとともに、過ぎきしアジアの砂漠のもつ神秘にいろどられた沈黙と平和とに、哀惜の念を駆りたてられるであろう。
大西洋の岸にたたずみ、砂塵を浴びた肺臓に、新鮮な海風を思う存分吸いこむとき、そこには旅人の歓声があがることだろう。
このような計画は夢だとか、実行性がないとかいう人は、二〇〇〇年前には、それが現実に行われ、しかもシーアンからティルスの間「絹の道」として、取引が五〇〇年もつづけられていたということを思い出していただきたい。「絹の道」が通じていた国々では、幾多の血なまぐさい戦闘や駆引きがなされていたが、世界貿易の最大最富の動脈からえられるばく大な利益と重要さはかわりなく、平和裡につづけられていたのである。もっと昔に、新分野の開拓が進捗《しんちょく》していたとしたら、アジアにも現在よりはるかに旅行がたやすくなしえたであろう、あの暗黒世界ともいうべきアジア奥地さえも、文明と進歩とが近づきやすかったであろうことも想像に難しくない。
中国政府が、おそまきながら「絹の道」に活をいれ、これを世界の公道とするならば、これは確かに、人類に大きく貢献することになるであろうし、中国自身にとっても、文化的一大記念碑を建てるゆえんともなる。
キャラヴァンや駅馬の鈴の音に代わって、汽笛や警笛が砂漠の荒野に高く鳴り渡るということは、幾多のほほえましさ、また哀愁をたたえた昔語りを滅ぼすことになるにちがいない。しかしアジアの奥地は広大無辺際であって、古い輸送方法をつづけてゆく余地は十分ある。タクラマカン砂漠だけについていっても、その砂漠の本来の平和を破りうるものは、飛行機以外には、いまのところ見あたらない。クラスノボドスクからサマルカンドを経てアンディシャンに達する鉄道は、西部トルキスタンの住民には、いささかも影響するところとならず、彼らは、昔ながらの美しい暮らしを楽しんでいることも事実である。
このようなとりとめないことを考えながら、われわれは「絹の道」を東へ東へと、長い旅路についたのである。過ぎし日の輝かしい栄光の絵巻は、西の砂平線に一齣《いっく》一齣と消えてゆき、新生の生気あふれる光景が、東方の空のもとに日々展開されようとしている。
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十九 万里の長城
一九三四年十二月十四日、目も開けていられないような砂塵の吹き巻くなかを、われわれは、神から見離されたような荒涼たるガシュンゴビを横断してアンシー(安西)に帰ってきた。そこでは自動車の手入れだの、梱包《こんぽう》作業だの、つぎの旅行のための仕事がいっぱいあったので、やむなく数日滞在しなければならなかった。
十二月十八日、すっかり準備のできたわれわれは、町の南にあるスイユアン(綏遠)門を出ていった。一時間も走ると、三差路に出た。一つは敦煌《トンファン》方面へのコースであり、他はユーメンクワン(玉門関)を経由して中国本土に通じている。ここから南方一キロあたりには低い丘陵性の山がうちつづき、北方にはかれがれの草原が、キツネ色に波打っている。われわれは、いまこそ砂礫砂漠を一すじ貫いている「絹の道」にいるのである。砂利道で、快適な走路をなしている。北方のキツネ色の草原は、はるかにかすむとともに、南方の山稜はすぐ近くにせまってきた。ときたま焚《た》きものを積んだ荷車だの、ロバに乗った人たちに出会う。少年を連れた旅ゆく老人もいた。彼らは鼻歌交じりで、いかにも身軽な遍歴姿であった。途中われわれは、装備の不完全なトンガン兵の一隊に出会ったが、一瞬ぎょっとせざるをえなかった。身ぐるみやられないものでもなかったから。街道のうわさでは、アンシーの守備隊の入替えがあって、新手の守備隊としてトンガンの連中がやってきたのだそうである。古い連中は出発にさいして一文も払わず、手当たりしだいにありったけのコムギをかき集め、一三〇匹のヒツジをかっさらっていったとも聞いた。
シャオワンは、まるで人気のない村であった。ここからしばらくゆくと東方への連絡|駅逓《えきてい》もあった。スーローホーもそう遠くはないはずである。対岸には、低い河岸段丘が見え、北方山地に向かってすこしずつわずかにのぼっている。ここがヤルタン高地と呼ばれているところだ。
われわれのたどりゆく道を、一人の駅夫がすずやかな音の鈴をつけたウマを引いてやってきた。二〇頭もいるだろうか、メリケン粉をつけて西方へ運んでいるところらしい。そのメロディアスな鈴の音は、漢朝時代にも聞かれたものなのだが、その時代に運ばれた絹の梱《こり》は、いまではすっかり姿を消してしまっている。この道のすり減っていることといったら、どうだろう。ときに二メートルも深く切れこんでいるところがある。これほど磨り減らすには、どんなにながい歳月が、かかったことか。とまれ数千年も、人はこの道を歩きつづけてきているのだから、ふしぎはないかもしれない。
十二月十九日、われわれの|こらえ性《ヽヽヽヽ》をためすようなやっかい千万な出来事が起こった。私が乗った小型車はエッフェが運転していた。ユーもチェンもいっしょであった。走りながらも、「絹の道」の途上に、方向を示す赤い小旗を挿していかねばならない。われわれは、街道地図のために、コンパスで測量した結果を書きこんでいく。あとからくるセラットが、小旗を集めてくる。しんがりは「エッセル」がつとめていた。二十キロぐらいも走ったであろうか。ゲオルクが運転していた「エッセル」が姿を見せない。われわれは連絡をとるために、ワンチァチュアンツェの村の辻で待っていた。ゲオルクの車を偵察に出たセラットは、「エッセル」を引いてこなければならない仕儀である。さあ、またエンジンの故障だ。村の百姓家のそばに、ともかくテントを張って、修理にとりかかった。ぴゅうぴゅう吹きまくる風のなかでの作業は、なかなかつらい。十九日の夜の気温は零下五・八度であった。夜のあいだに雪が降ったので、起きてみると、あたりいちめん白一色に塗りつぶされていた。まあ、人間なにがさいわいするかわからないもので、われわれはここに早泊まりしたおかげで、この街道を行進してきた軍隊に会わないですんだわけである。道はひどく踏み荒らされていた。
プールンチの城壁は崩壊して、旧城門のあったところは、大きな坑口のようになっていた。街すじは荒れ果て、ところどころに古墳があった。東北の一隅を仕切って、三十戸ばかり人が住んでいるのが見えた。すでにくずれてしまっている東の門跡から車を乗り入れると、家から駆け出して、われわれを見にやってきた。スーローホーをあとにして、われわれは草原をつっきり東南への道を走っているとき、草むらからカモシカがとび出した。この近くにはもう一つのキャラヴァンコースがあり、一群のラクダがアンシーに向かって歩いていた。電信線はこのルートに沿って架せられている。その日、われわれがキャンプしようとしたあたりは、古い望楼が建っていた。チータオコウ村である。一三四号キャンプのそばでは、キジが草むらを走りまわっていた。
きょうは、クリスマスの宵祭りの日だ。雪かと思うほど霜がおりていた。かなり幅広い河床の両側には、ヒツジの大群が放し飼いされていた。われわれはその空《から》川の岸をたどっていったのであるが、この道はバザールのある町(サンダオコウ)に通じ、われわれはそこでクリスマス用の買い物をした。この曲がりくねった汚い町並みは、東トルキスタンや新疆の村々で見かけるものとそっくりで、どこへいっても簡単なつくりの建物、汚い、ものほしそうな連中で町が埋まっている。どこへいってもくずれた家や土塀《どべい》。話ではこの地方では、もっとも格式ある町であったそうだが、飢餓が起こり、政治の積弊は年々人をして移住を促し、逃亡せしめるにいたったということである。カンスー(甘粛)の人々を苦難に追いやったすべての無道悪虐のうちで、将軍連が軍隊を維持するために、住民にその分担金を課したこと以上にひどいものはない。その軍隊たるや、住民の保護のために駐留しているのではなく、権力と地盤争いの戦争のためのものであった。住民は、百姓も小商人も、明日にも自分たちが食べられなくなることがわかっていても、軍費として、所有するすべてのものを差し出さなければならなかったのである。最近、カンスーではいっそうひどいようである。われわれが買い物をしたサンダオコウは、アンシー市長が治めているうちでは、比較的大きい栄えた村だというのだが。アンシーは市会をもち、また市長がいる地方都市である。サンダオコウはこの地区のもっとも東にあり、その東隣にユーメンクワン(玉門関)がある。われわれの料理人は、サンダオコウの一軒の店で買い物をしたが、宵祭りに披露《ひろう》されたのを見ると、ナシや花火がいっぱい詰まった籠であった。
町を出はずれるとすぐ氷が張った河床を横切る。が、すぐ引っ返して、この河床をたどって進むことになった。
この日われわれは、あまり見かけない風景のなかを走っていた。それはロプ・ノール地方にある、風と水とで捏《こ》ね上げてできた彫塑のようなもので、トルキスタンの人が「ヤルダン」と呼ぶ、独特の風景であった。
道の両がわの草原に、カモシカをしばしば見かけるようになった。彼らは、人間には慣れっこになっているのか、さしておじけるふうもなかった。エッフェはとうとう一頭しとめた。クリスマスの宵祭りというのに、こんな殺生は、あまりいいものではないのだが、獲物はその夜料理され、さっそく新鮮な肉が祭りの食卓に供せられた。
行くてには、叢林地帯が現われてきた。これがスーローホーの河畔《かはん》の林としたら、ユーメンクワンも、もう近いにちがいない。河畔まではすぐだった。先発のトラックがそこに着いて、設営の支度に取りかかっていた。明日はいよいよ降誕祭だが、城壁の外の広やかなすがすがしいところで迎えたいものだ。
スーローホーの河床は二五メートルぐらいもあり、河岸の高さは一〇メートルもあろうか。ここを水深二メートルもある水量が、悠遠に流れていた。宵祭りは、前から予期していたごとく、まことににぎやかであった。テントの向こう岸は展望ひろやかで、その一部は庭園になっていた。ユーメンクワンの町は橋を隔ててすぐそこにある。去年の降誕祭はエッチンゴールの河畔の森の中であった。あのときはフンメルもベルクマンもいっしょで、彼らの肝煎《きもい》りで、宵祭りから心入れの行事が和気あいあいと、執り行われたものである。しかし、彼らは故国に行って、いまはいない。私の自動車探検旅行の第二回目の降誕祭には、スウェーデン人といえば、エッフェとゲオルクの二人だけになった。われわれは疲れてもいたし、それに時間も時間なので、さして準備らしいことをする余裕がなかった。しかしいっしょにいる中国人はみな熱心なキリスト者であり、この行事を重んじていた。テントに招かれたのでいってみると、なんとたくさんのろうそくが赫々《かくかく》と輝き、急ごしらえのテーブルには、茶菓子やくだものが飾りたててあった。クリスマスツリーこそなかったが、踊る人形も飾り、切抜きの祝詞もはりつけてあった。
カモシカ入りの肉スープも煮えたぎってきた。焚《た》き火で焙《あぶ》った焼き肉、プディングからコーヒーにいたるまで、まことにそつのない宵祭りのご馳走である。キャンプにふさわしい古い聖歌の合唱、それぞれの国の民謡も出た。私は、こうして隊員が一人もかけることなく元気で一同に会しえたということが、なによりもうれしかった。
かくして、宵祭りはふけゆき、やがてすべての燈火が消えていった。二〇〇〇年前にベツレヘムで光っていた星は、今宵もその光をすり減らすことなく、いっそうあざやかに輝いていた。
降誕祭の朝、われわれはスーローホーを渡ってユーメンクワンの市庁舎を訪れ、最高行政官リチントンにあいさつ、つづいて司令官マーヨオリンの官邸に駆けつけた。
街のようすを聞いたところでは、市民は四〇〇家族、うちトンガン人は三〇家族、トルキスタン、蒙古の人は一人もいないそうである。
われわれは東門から、車を連ねて出ていった。十二月二十六日には、南方の山岳地帯が間近にせまり、茂った草原地帯がどこまでもつづいていた。正午にはフイフイプ峡谷のなかにいた。一八〇〇メートルの高地であった。ここには、周囲をとりまく城壁のなかに、一つの小さい町があった。ここで買い物をしたのは楽しかった。町を出ると、道はまるでもつれた糸のように本街道と里道《さとみち》とがおり重なっているので、ぬけ出すにはそうとう骨であった。
数時間の後、ふたたび草原地帯に出ていった。路傍には粘土でできた築山《つきやま》ふうの一里塚があった。一〇キロに一塚の割で築かれていた。ここで第二の峠を越えたのであるが、標高は一九〇〇メートル、向こうにくだると不毛の平坦地で、石塚のある峽道がチァユークワン(嘉谷関《かよくかん》)に通じていた。われわれは、かつて人類がなしとげたもっともぼう大な構築物たる万里の長城にやってきたことを知った。門は破損していたものを、いまから一〇〇年ほど前、チァチン(嘉景)によって原型に修復されたのであるが、アーチ型の城門、望楼、銃眼をもった城壁が精密に構築され、まわりは小公園でとりまき完全に建ち直っていた。ここでは寺院脇の空閑地に一四六号キャンプを張った。
翌日、すがすがしく晴れた朝のうち、われわれはこの新しいものと古いものとが、おのおのそのところをえて建造された、門や望楼やアーチ型の通路や、ちんまりととりすました小庭園を取り囲んだ墻壁《しょうへき》の上を散歩した。この歩廊の形をした見張りのための通路からながめた古い町のたたずまいは、中国固有の伝統の香りにみちている。町は一辺が一〇〇メートルぐらいの四角形をなす墻壁にとり囲まれた中に、粘土づくりの家屋や町並みをぬうて、小路が、まるで寄せ木細工のように組み立てられている。その伝統の中には、堅固と趣味とが巧緻な手法をもって、今日の時限に適応しようと工夫されているのが見てとれる。ここは中国本土の最前哨に位置し、それにふさわしくとりつくろってある。
チァチンは、古い門を高雅な堅牢《けんろう》を旨とした建築様式のものに取り替えたが、昔のままの市門のなかに、独自の様式をもったすぐれたものを見出した。望楼の銃眼から見たながめは、どっちをみても珍しいものであった。鳥瞰《ちょうかん》するチァユークワン(嘉谷関)の街並み、城壁外の田園風景、そのなかにわれわれのテントが一すじ紫の煙を上げているのも見える。芸術家であったら、きっとこのふしぎな町に何カ月いや何年滞在したとしても、退屈するということはないと思う。画材にゆきづまるということはないであろう。今日では、あらゆるものがそうであるように、中国ではこれらのすぐれた文化財を、そのあとからくる世代のために、いかにして保存するかを研究すべき時機にきている。北京と南京には有形文化財保護委員会があるが、彼らが取り上げなければならない仕事が、ここへくればいくらでもある。何世代もの年ふりた門の羽目板、窓|縁《ぶち》など、ともすれば見すごしがちなこれらの一つにも、かけがえのない美が深くたたえられているのに、マチュンインの逃亡兵は、容赦もなく破壊していっている。かしこでは、現にわれわれの目の前で、桜の梁《はり》や厚い床板が、はぎ取られて焚き木代わりに使われている。煉瓦《れんが》を抜き取って、自分の新しい建築に使っているものもある。これらの文化財がこわされ、打ちひしがれて荒廃していっても、責任ある当局は、いままで保護の手を差し延べようとしなかったのである。
われわれがいまやってきているチァユークワンの長城の外には、オーレル・スタインによって研究された最も古い城壁の遺跡がある。そこにも望楼がついて、敦煌《トンファン》までつづいている。漢朝の時代に構築された、長城の西の行き止まりである。
往古、西域地方に遠征した中国の軍隊は、遠征のたびに、「願わくばユーメンクワン(玉門関)を通ってふたたび帰りこんことを」と謳《うた》ったものである。チァユークワン(嘉谷関)から西方に遠征する兵士の胸臆には、前途にゴビ(砂漠)あり、背後にはチァユークワンあり、愛《いと》しき妻や子は、この堅固なチァユークワンの城塞と長城に囲まれているので憂うることはなにもないという、はればれとした信念がおのずから流露するものがあった。
かつて無数の外交使節や軍隊がこの関門を通って西へ旅だっていったが、一方にはキャラヴァンを連れた商人も、この門から第一歩を踏み出していったのである。そのラクダの背には、西域のオアシス都市の商人が待ち望んでいる梱包《こんぽう》された絹布があった。もしこのアーチの門扉《もんぴ》のついた城壁が話すことができるとしたら、かずかずのロマンチックな遍歴談が聞かしてもらえるのではなかろうか。秋風吹いてつくさず、すべてこれ玉関の情、中国人はこれを「天下雄関」と言い、南の扉の上にその額を掲げている。長風一万里を吹きゆく関門に射しくる陽光は中天をわたり、このうえぐずぐずしておれない時間を示している。われわれは蒼茫《そうぼう》たる辺域に、限りない哀愁の情を覚えつつ、望楼の梯子《はしご》をおりてきた。キャンプでは、出発の準備がなり、われわれを待っていた。
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二十 一九三五年元旦
道はチァユークワン(嘉谷関)を後ろにするとまもなく、不毛の砂漠にかかった。ところどころ草むらがあり、そこにはカモシカの走っていくのも見られた。脇街道にキャラヴァンの新しい足跡があった。このあたりで見られる里程標は、東トルキスタンのメーンルートにあるものとよく似ている。プタイ(歩台)と呼ばれ、土製の円錐形をなしたものである。またおおむね二キロおきに、蒼古《そうこ》とした、絵のような望楼が建っている。かつてアジアの東の果てからシナ絹布を運んだキャラヴァンの主要ルートであった皇帝大街道が、現代の人にとっては想像もできない喜びと哀《かな》しみとを見、一声天上よりきたるに似た鈴の音を聞いてきた望楼は、そのまわりを小庭を隔てて低い築地《ついじ》がとり囲んでいる。路傍には、五つのプタイがすえられ、方向と距離とを指示している。
われわれは、新しい橋を渡って、凍った泉を越えた。この地方にしてはまったく珍しい景観であった。このあたりは道路改修もおおむねゆきとどき、車の調子もいい。
廃墟化した灰いろの望楼が、まるで歩哨兵のように、野のなかにつぎつぎと現われる。その廃楼のなかには、「ペイユートオ(予備防衛楼)」と大書してあった。
布やタバコ、コムギを荷積みした九台のウシ車がアンシー(安西)に向かって、しずしずと歩いていた。つぎの望楼には「シァパトゥン(下手《しもて》の岸にある楼)」と刻みこんでいる。東に進むに連れて、交通量がぐんとふえていく。石炭をつんだロバの群れにも会った。ナンシャン(南山)の南方にタイファンコオという炭鉱があり、スーチョー(粛州)に供給しているのである。われわれは結氷した、ペイタホの支流を渡った。街道の左の方にスーチョー(粛州)緑地帯の家が、木がくれに見えてきた。一三時半、ペイタホの本流の岸まできた。この川は、エッチンゴールの二つの水源のうちの一つなのである。
まもなくスーチョーの町の城壁が見えてきた。北門で衛兵に止められているあいだ、城内の暮らしぶりを垣間《かいま》見るに、そこには東洋的な多様性をもって、いそがしく、がさついた、一見ほこりっぽいものがあった。おんぼろ、さんぼろの風来者、そらぞらしいウシ追い。近郊農家からは野菜を売りにくる百姓もあった。荷積みをしたラクダ、空身《からみ》のラクダ、絶えずなにかが織りなすように城門を出またはいっている。
われわれは市長を訪れ、軍司令官マプカンにあいさつしにいった。彼はカンスー(甘粛)におけるマチュンイン(馬仲英)一味の旗頭的存在であるとか。この夜、市長の招待晩餐会があり、われわれは地方行政についていろいろ聞いた。翌日はマプカンの招待午餐会があったが、主人役の正統派回教徒である彼は、寺院でのお籠《こ》もりがあるとかで、顔を見せなかった。
スーチョーにおけるわれわれの使命は、きわめて重大なもので、その計画に取りかからなければならなかった。まずその基礎をなす北方自動車道路の調査と地図作製とは、すでに完成していたが、皇帝大街道の研究をまとめること、北方のルートとこの大街道とのあいだに、エッチンゴールに沿って二つの道を結接するルートが、スーチョーに通じているので、このルートがはたして自動車路として適するかどうかを、現地にあたって調査しなければならない。
私は、ユーとセラットの二人に、このルートを調査させることにした。そしてわれわれ本隊は、ひとまず東へ行進を起こすことにした。蒙古人の話では、エッチンゴールの秋の洪水期にはまだ一〇日ぐらいは間があるだろう、ということなので、いまならメールインゴールを渡ることができるであろう。われわれはノゴンデーリのところにガソリンを預けているので、ほかの荷物といっしょにとってこなければならない事情にあった。この遠出の旅をたった一台のトラックでやるということは、ある種の危険に対する用意もいり、進んでやりたいことではなかったが、すべての運命は神のみ手にあることなので、ともかく決行することにした。
町の高官連があいついで饗応してくれたのをみて、亜欧航空もバスに乗りおくれてはならじとばかり、一卓二七皿のご馳走をふるまってくれた。スーチョーの町は、雑ぱくながら活気があふれていた。通りをゆく人の流れ、取引き街における車馬の声、楼上紅艶つねに香塵を連ね、帰化《クェイファ》やエッチンゴールからながい旅路をたどってきたキャラヴァンの鈴が鳴りひびいている。スーチョーオアシスには、八万四〇〇〇もの住民がいるなかで、一万人は城内に居住しているのである。
マルコ・ポーロがスーチョーに足跡を残したのは、一二七三年であった。キャセイとチャイナが同じ国か、ちがった二つの国なのかを踏査するために、ゴア伝道会東洋本部はジェスイットのパーテル(教父)ベネディクト・ゲースをこの地に派遣したことがある。ゲースは、カブール、カシュガル、アクス、ハミを通過してスーチョーにたどりついたのであるが、哀しくも一八カ月間も抑留され、一六〇七年この地で永眠した。この付近の回教徒はゲースを敵として、その旅嚢に詰められていたにちがいない貴重な手記などを、惜しげもなく焼き捨ててしまったのである。
十二月三十日、全隊員は市長邸の中庭に勢ぞろいした。東方にゆく荷物は「エッセル」に積みこまれた。最後に寝台とテント、シュヴァ、たらい、鍬《すき》などのがらくたがトラックに積み上げられたが、それらのなかには、ながいこと使われてぼろぼろに銹《さ》びたものもあった。南門を通過、久しぶりに開けひろげた荒野の風をついて車を馳せていくと、スーチョー市場通いの荷車の列にたびたび出会った。われわれは皇帝大街道と別れて、村々をむすぶ荒涼たる野のなかをたどるルートにはいっていった。午《ひる》下がりの日は、この冬には珍しく、車の中はまるで温室のような暖かさであった。シーティエンチェの村は、小さな寺院を中心として、やや文化的なふんいきが感じられた。ここでは灌漑用の運河も縦横に通じ、おかげで小さい橋をたびたび渡る手数にわずらわされたものである。そこにはご他聞にもれず極貧のものがいたが、四人の先生のいる小学校は、これら窮民の子弟にも、その文化に浴する分け前を惜しみなく分かちあっていた。七〇人いる児童のなかの何人かは、窓から乗り出して、われわれを見送ってくれた。
路面が激しく荒れていたために、トラックの荷の上にいたサンワツェは不幸にして振り落とされ、腕の関節をくじく災厄に遭《あ》った。行くてインエルプ地方は、盗賊の横行がうわさされていたので、一四八号キャンプでは、たいせつな用品はテントの中に収納して寝なければならなかった。
十二月三十一日、大晦日はナンシャン(南山)からのぼってくる陽光のなかで、われわれの作業が始まった。平砂のかなたにつらなるナンシャンの山容、山頂を埋めた雪に陽光が映え、万里長征のわれわれは、その精妙な風光にしばし、ときの移るを忘れるほどであった。ふと気がつくと、老若の村人が、めずらしげに瞳を見はり、われわれをとり巻いていた。
村を出はずれると道は二つに別れ、皇帝大街道は左の方に延び、砂丘地帯を一路東方にたどっている。われわれはいま一方の不毛の道をゴビに出ていった。路面はほどよく踏み固められていた。ここにも望楼が寂然と建っている。付近にチャンサンリミヤオがあって、われわれの注意をひいた。この小さいお寺は巡礼者たちに希望を与える役目をしているようであった。城壁と望楼とをもったシャンホーチン村は、ふしぎにも城内には住まいてがないのだという。そういう村もあるのである。チンシェイプ村も堅牢《けんろう》な城壁でとり囲まれていた。幕営。標高一六〇〇メートル。
一九三五年元旦、新年のあいさつをみんなでとり交わす。スーチョー県は七つの行政区から成り、チンシュイプはその東よりの地区にあった。村を出るとふたたび荒涼たる砂平の地となり、先達の必要を感じたので、マヤン村で車を止め、そっちこっちたずねてみたが、さて私が案内して進ぜようというものが見あたらない。村長は見るに見かねて、みずからその役を引き受け、カンチョー(甘州)への先達となってくれた。ペイルンホーはこの夜設営した一五〇号キャンプの東に当たり、なかなか川幅も広かった。クシュイから峡谷になり、路傍の草むらにカモシカが出ていた。エッフェお得意のねらい撃ちが始まり、とうとう三頭射止めてきた。カモシカというやつは、どうも見ていて、はがゆくなることがある。二頭いるやつをエッフェがねらったのだが、一頭が射止められるや相棒はそのたおれた友を見守って、いっこうに逃げようとしないのである。とうとう二頭ともやられてしまった。カモシカ撃ちは、見ているこっちがやりきれない。とはいえ、テントの食卓に供されると、結構なご馳走として頂戴するのではあるが。
はるかにラオシャンを望めば、雲低く辺域に垂れ、いまにも雪がきそうな気配である。われわれはユァンサントウから程遠からぬ荒野に、一五〇号キャンプを張った。ついに雪が降り出した。
われわれの一日の行程は、おおむね一〇キロないし一五キロで、それ以上は走れなかった。地図を作製したり、書きこみをしなければならないからである。砂平地では、見通しがきくので、作業はおおいにはかどった。しかし一たび峡谷に踏み入ると、眺望はきかず、方位の測定となると、近距離作業になるので、情けないほどすべてが遅々としてはかどらなかった。
ここでまた新手《あらて》の先達をたのんで、サンカンミヤオの道教の寺院に向かって車を馳せた。ユームシャンでは北にゴビの果てしない砂平線がつづいている。雲間をもれる陽光の作用で砂漠は黄に灰色に、また灰白色にだんだらの縞がらをつくっていた。とくに残雪の縞は、砂平の色彩を複雑にいろどっている。われわれが燃料を求めて立ちよった一軒の農家では、小童の遊んでいるのが、われわれの注意をひいた。すでにカンチョウから七五キロきていた。その日はカオタイ(高台)に近いヤンシャン村に設営。村長がわざわざ来訪され、二人の夜番を心配してくれた。ヤンシャンの夜空に宿す天狼星《てんろうせい》のあざやかさは、万里長征の思いをひしひしと誘うものがあった。
一月二日の夜は、べらぼうに気温が下がってきた。翌朝は霜野に満ち、明けゆく陽光に映えあってダイアモンドのように、紫に、紅に輝いて、えもいわれぬ風景を描き出していた。皇帝大街道が凍っているときはドライブするにも好つごうなのだが、春秋の運河氾濫季節には、ほうぼうで洪水が起こり、そのために大街道は泥濘《でいねい》と化し自動車はおろかウシ車も進めないことになる。それゆえ掘割りや運河の状況を四季にわたって調査しなければ、百年耐えうる真の道路建設はむずかしいであろう。
カオタイの町はリンツァイ県の管下にあり、市庁舎、カトリック教会堂が建っていた。カオタイの近郊はよく耕された農村であった。これに隣りあって、サンチャンプ村があった。この道は皇帝大路の南側を走っている脇街道であるが、カンチョー(甘州)では大街道とむすばれて一つになっている。この地方では皇帝大街道は、万里の長城に沿ってコースをとってあるのである。路傍の風景は見すごし難く、強く印象されるものがあった。サホープ村は冬枯れとはいえ並木道が坦々《たんたん》とつづき、路面に描く樹枝の影は、精密なペン画を見るようである。われわれはトンカンと呼ばれる東門の外からさらに車を馳せ、シートウハオ地区でキャンプした。
翌朝起き出てみると、青空は打てばひびくかと思われるほど、澄みわたっていた。ここシートウハオはカンチョー管轄区内で、ホホーが県境になっている。われわれは三たび皇帝大街道に車を乗り入れて走った。ここでは電信線が風にうちふるえ、五六年前ツオツォンタンの企画で植えられた大街道の並木樹がホーナン(河南)からアンシーまでつづいていた。サチェンチェ村にはすてきな芝居小屋もあった。見物人は大路まではみ出し、立ちあるいはすわって、京劇を楽しんでいた。
大地の表層は、ちょうどロプ・ノールの湖畔地帯と同じように、典型的なヤルダンをなしている。粘土の隆起はとがり、その高いものは五メートルぐらいもあった。大街道の交通量は、急にふえてきた。荷車、ウシ、ブタ、イヌ、そして人間が、交通規則を無視して、のんきにまたにぎやかに歩き、また、たたずんで世間話をやっている。やがてカンチョーオアシスがわれわれの行くてにひらけて現われた。そこには、エッチンゴールの東の水源をなすヘイホーが表面結氷して流れていた。この川を渡るのに、われわれはたっぷり二時間ぐらいかかった。最初試みた渡河地点はむりであり、キャラヴァンや荷車は、北の方の迂回路をとっている。われわれもその跡を追っていった。スーチョーゆきの飛脚の話だと、川下の方がいいというので、またぞろ方向転換。クリークに出たり、小さな橋や、曲がりくねった掘割りや、水のない河床や、そんなごちゃごちゃした迷路にまよいこんで、出ようにも出られないでいたとき、小さな木橋に出てきた。あぶなげでとても渡れそうにないので、まごまごしていると、荷車がやってきた。彼らはそんな木橋には目もくれないで、流れの中へ車を押し進めている。われわれもそれにつづいた。そのようにしてやっとヘイホーを無事渡ったのである。
カンチョー(甘州)の北門では、衛兵の出迎えをうけた。われわれはすぐ市長のヤーメン〔役所〕に車を馳せた。あたかも待ちくたびれたとでもいうように、市長は室に案内してくれたが、われわれはむしろ中庭にテントを張って休息することにした。二人の警邏が、車の見張りに立ってくれた。
中国では、旧暦をよして、新暦を用いるように、法令が制定されていた。これまでスーチョーでは、入口の扉や柱や壁などに、新年の赤い通告が張ってあるのを見てきたが、カンチョーでは正月祝いのさなかであった。町には芝居小屋に|どさ《ヽヽ》まわりの芝居が掛かり、着飾った近郊のひとたちや、原色の毒々しい着物を着た娘子たちの醸《かも》すお祝い気分が氾濫《はんらん》していた。彼らは、旧正月がくれば、またお祝いをするのである。簡単にお触れひとつで、一朝にして旧慣を改めるなんて、そんなことができるものではない。
カンチョーには三日間滞在した。買い物をしたり、車の修理があったから。この滞在中に、ハーベルストロオ神父とフリッシュ神父の招待にあずかった。彼らの伝道部には、ステンドグラスのはまった教会を中心に、学校があり、また住宅もそなえている。これらは、五〇年も前にベルギーのシュート伝道教会の肝煎《きもい》りでできたものである。われわれは、六〇人の女児の養育や身寄りのなき人を引きとって献身している四人のドイツ尼僧をもたずねた。
帰化の実業家たちは、バス会社を設立して、ハミ――スーチョー間に貨物輸送をすでに走らせている事実に照らしても、アジアの奥地に、自動車輸送を始めるべき時機が到来していると見る十分な根拠となるであろう。リャンチョー(涼州)でも輸送会社が創立されたことをカンチョーで聞いた。その会社は六台の車両をもっていて、リャンチョー――カンチョー間を月に二往復しているのであった。彼らが使用している車種は知らないが、この二都府間を二日あるいは一日半で走行すると聞いた。貨物輸送が主で、旅客の取り扱いはほとんどないそうである。しかし現状では路面整備ができていないため、貨物輸送のコストは、ラクダを使役するほうが、まだまだ低廉であるとか。
カンチョー(甘州)の町は、カンスー(甘粛)省の他の町や村と似たりよったりで、貧弱で、しかも発展性を認めがたい印象をうけた。しかし町通りのある場所では、かつての繁栄を物語る門や、優雅な木彫りの屋根をもった家屋もあり、いくつか見た寺院の中にも、由緒ぶかいものがあった。ここから三〇キロ南方の山峡中にマンティツェと呼ぶラマ教の寺院があり、巡礼者が絶えないそうである。
一月五日には、町の役人たちの発意で、新年の芝居興行があったが、見るに耐えない不愉快なテーマで、カンスー省辺の習俗の特徴を表象しているらしかった。
ゲオルクとエッフェとは、この興行を見てきた。そのストーリーは、いかにも時代錯誤的なものであったが、ここでは割愛しておこう。
われわれが新疆で反乱のうず潮にまきこまれていたさなかに、いま一つの動乱がゴビの東方地区にも起こっていたのである。われわれが帰化に滞留していたとき、たびたびその名を聞いたスンティエンインは、その幕下の一味を引きつれて、当時黄河《ファンホー》の北北西の流曲河畔にひそんでいた。彼は南京政府から、青海《チンハイ》すなわちククノール方面に攻略の軍を進め、これを膝下《しっか》におさめ、軍隊を拓殖して開発せよとの命をうけていた。しかし、シーニン(西寧)に駐留していたマプーファン(馬歩芳)、およびニンシヤ(寧夏)のマフンクェイ(馬鴻逵)の反対にあい、まずこれらの討伐ないしは降服から期してかからねばならなかった。挑戦、追撃。最初にニンシヤのマフンクェイが敗走した。マフンクェイは南京政府の救援を求め、スンに干渉してきたが、その命に従わずニンシヤを経てさらに追撃の準備を進めていた。パオトウ(包頭)方面軍のパフツォイ(傅作儀)将軍は北からスン軍に圧力を加えてきたので、スンは不本意にも北京・天津方面へ後退せざるをえない事態にたちいった。
南京政府は、こうした地方的どさくさを利用してトンガン人を懐柔《かいじゅう》し、その地盤を固めてきた。城壁のところどころが崩壊を見せていたが、たぶん洪水期の巨大な爪跡なのだろうと思う。路面は粘土大地の間に沈下し、三ないし四メートルも下がっているところがある。われわれはこの狭隘なコースをやっとすりぬけて、トンルー村に近づいてきた。いくつかの村の辻を通り、標高一七〇〇メートルのミファンティエン村に一五四号の設営をした。キャンプサイトはサンターホーの河畔であった。
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二十一 長城に沿うて
われわれが奥アジアの心臓部をぬって走破してきた果てもなき輸送大道には、キャラヴァンやウシ車のために、いくつものサライ(宿駅)が点在している。ウルムチ――ハミ間には全部で一八宿、ハミ――スーチョー(粛州)、スーチョー――ランチョー(蘭州)、ランチョー――シーアン(西安)間は、それぞれ一八日の旅程である。駅逓《えきてい》の飛脚は、その半分ということになっている。アンシーからシャンハイ(上海)への郵便は、これまた通常一八日かかることになっている。
一九三五年一月八日、われわれはカンチョー(甘州)を発足した。さっぱりした大通りには、あいも変わらず人馬の往来が盛んで、取引は活発になされていた。中国の町には鼓楼と鐘楼とが別棟であるものなのだが、この町ではそれが寄合い世帯になっている。南門のアーチと外壁門とをくぐり抜けると、もう城外である。城門を出てもなお街《まち》通りはつづいていた。商店が軒をつらね、南関地区と呼ばれている道路の幅員はおおむね一〇ないし一二メートル、沿道には型どおりの望楼が建っていた。エリシリプ村では、新築の楼門が建っていたが、これはたぶん行政区画を示すパイロウであったろう。このあたり樹林も農地も見あたらない。道路に近いペイシャン(北山)の南麓に沿うて、万里の長城の一部が遠望のなかにはいってきた。進むに連れて果てなき城壁が、いよいよ明瞭になってきた。
一月九日の朝は長風一万里、凍気身肌を刺すを覚え、私は急いでシューヴをとり出した。キャンプサイトの近傍に、夏朝《かちょう》時代の禹帝《うてい》をまつった禹王廟《ウワンミヤオ》があった。禹は一三年にわたって、黄河《ファンホー》および揚子江《ヤンツェ》の治水に力を尽くし、万障これを排して成しとげた。その恩沢は、われわれがいまいる地域にまでおよんでいる。彼はその仕事にたずさわっているあいだは、三回も自分の家の前を通りながら、はいろうともしなかった。この一大事業が成功した暁は、孤独と自適の世界に隠遁《いんとん》しようと思っていた。しかも沿岸の住民は皇帝に推載し、いやおうなくその位にまつり上げてしまった。この二つの河川の流域とカンスー(甘粛)省には、彼の事績をたたえる寺院が村々に建っている。
タイフォチェの祭壇には、三体の仏像が安置されていた。サンタンシェンの町をすぎると大道に露天商が店をひらき、商いは繁盛していた。夜の旅行はさしひかえるを上策とするために、行程をちぢめる必要があった。
サンタンシェンを出ると、万里の長城に出た。長城は煉瓦でその基部が築かれている。ここには望楼と烽火台とが、城壁に食いこんで建てられていた。ところどころ断ち切られているが、われわれは終日左手に長城を見て走ってきた。はてなき荒野に、蜿蜒《えんえん》とつづく長城は、幻想的で、中国そのものを語るかのごとく、見ていてけっして飽きなかった。地形に準じて、あるところは高く、あるところでは低く、その形も自然の風土を物語って、雨や風、それから洪水などに対する抵抗力の度合いが、そのままに象《かた》どられて現われ、時代、時の経過に照応したこのような変化は、望楼の形態にもその建つ位置にも関連をもっている。
われわれのサンシーリプ村におけるキャンプサイトは一五五号である。
東南への旅は、かならずしも晴天ばかりではなかった。行くてにはタイファンシャン(大黄山)が、その孤立した支脈の主峰をなしてそびえていた。
カンスーの人口の九〇パーセントは阿片《あへん》の中毒にかかっている。そのためひじょうに貧窮しており、生きているそのことが過重な荷物のごとく見うけられる。万里の長城は変わらざる正確さで、われわれから程遠からぬところを走っている。道の左手にチトウシャン(赭頭山)が現われてきた。この山はいままでペイシャン(北山)とわれわれが呼んできたものである。荒涼たる高原性の台地にはカモシカが顔を見せ、空には低く垂れた雲とたわむれるごとく大ワシが遊翔《ゆうしょう》していた。フェンチェンプ村には、たった一二家族しか住んでいなかった。しかも極貧であるのに「フェンチェンプ」(裕福な町)と呼ばれている。
皇帝大街道は、ここでわれわれを静かな谷間にみちびいていった。両側はなだらかな丘陵性の枯れ草山である。この谷間で、皇帝大街道はひととき長城に分かれることになる。それは水もあり居住地もある山のなかをたどるが、砂漠を走る長城沿いには一滴の水もえられないからである。われわれが越えた山中地溝帯の標高は二七〇〇メートルであった。ここでふたたび長城は山稜を這いのぼってきているので、皇帝大街道と手を握るばかりになった。われわれはこの高見で、延び去り延びゆく長城の姿を俯瞰《ふかん》して、この構築に参加した人民とその帝王の根強い意欲に、まったく賛嘆せずにはおれない。峠から道はさらに見晴らしのきく展望台のようなところへ出ていった。天涯はるかなるところ、長雲雪山暗く、望む黄砂は夢幻を誘う風景であった。一五六号キャンプがここに設けられた。
一月十一日、美しい門のある荒廃の町シュイチュアンイは、六十家族がほそぼそと煙をあげていた。われわれは望楼をはるかにとらえ、丘から峽谷へ走って、ひたすら旅を急いだ。長城は北北東のチェンファンの方向に曲がっている。シーリープにはいろうとするあたりから沿道に並木がそろっていたが、かのツオツォンタンの記念であることをあとで知った。
ユンチャンシェン(永昌県)では、入門に手まどったが、それも事なくすみ、車を市当局のヤーメン〔役所〕に走らせ、市長に会った。彼はかつてウルムチに居住していたことがあり、ヤン元帥のもとで役人をしていたそうである。その日の幕営はユンチャン城外の農場であった。町には生気がなく、伸びゆく気配は微塵《みじん》もなかった。むしろ退嬰《たいえい》的な空気がみなぎり、なにもかもみすぼらしく貧乏たらしいものであった。
翌日は砂風野にみち、地図を作る測地作業など思いもよらなかった。このあたりの道路の手入れはかなりゆき届いていた。これは例のキリスト者将軍の異名あるフンイーシャンの軍隊が四、五年前建設に当たったためである。兵隊というものは、人民に奉仕すべきである、というのが同将軍の持論で、前記ツォツォンタンの植樹もわずかだが望楼付近に生い育っていた。黄砂は大地を傾けて吹きすさび、辺域ために愁殺するなかで、車の前につけた小さい国旗だけが、はためきわぶるのであった。
しばらくも停車していられない。われわれは万丈波だつ黄砂のすさぶなかを、しゃにむに前進した。われわれはこの荒野のなかで、黒い制服を着た三人の中国人のカトリック教尼さんに出会った。彼女らの二輪馬車が近くで遭難していたので、ゲオルクは「エッセル」の荷をおろして、救助の手を差しのべ、日暮れまでかかって、破氷の流れのなかからとうとう引き揚げることに成功した。チャンループの小さい村まできて設営した。ここは標高一七〇〇メートル。
一月十三日、道はおそろしく粗悪になり、車は「エッセル」をはじめ枕を並べて擱坐《かくざ》し、思わざる時間をくった。やがてぬけ出た村落では、耕地に氷柱《つらら》が剣のように立ててあるのを見たが、五穀|豊穣《ほうじょう》を祈念する習俗であるとか。われわれがたどりきた村落の一つは、保全の城壁がなく、その代わりにめいめいで、屋敷まわりに築地《ついじ》をめぐらしていた。明《みん》の時代に、蒙古馬賊の襲撃があり、そのとき以来、各戸で保護体制をとらねばならなかったのである。
リャンチョー(涼州)に着いたのは一七時であった。ここでも市長の歓迎をうけ、そのヤーメンに宿泊するように、と申し出をうけた。リャンチョーは、人口五〇〇〇の都市である。翌一四日は、故障車のために滞在。私はクン、チェンと連れだって二〇キロ隔たった新市街に人力車を走らせた。一八九六年十二月、私がたずねてきたとき見た楼門は破壊されたまま、その姿はもうなかった。新市街はいわば軍都で、兵舎と将校宿舎がいかめしく建っている。私はマプーチンを訪ねるためにきたのである。彼の応接室に通されると、小がらなマ将軍は丁重にわれわれを迎え、午餐会に招待し、榾火《ほだび》の燃える炉辺でしばらく閑談した。
亜欧航空の支社に代表者を訪れ、ここではガソリンを補給してもらうことができ、おおいに助かった。マ将軍は晩餐会をも催し、またしても招待してくれたが、回教徒の彼は、この夜は宗教的な約束から出席しなかった。
一月十五日、中国奥地伝道教会の宣教師ジョン・スタンレイ・ミュア夫妻を訪れた。彼らのところで、一八九六年の降誕祭をベルヘル夫妻とともに迎えた私は、尽きせぬ思い出がある。ベルヘルはその後三〇〇人を収容しうる教会堂を建て、その外壁には一九二九年に永眠したスージー・ベルヘルのモニュマンがはめこまれていた。夫君のベルヘル君も同じ年になくなったそうである。彼は、この奥地で、流行病が蔓延したとき、ついに伝染してチフスでたおれたのである。ミュアの話によると、郷に入っては郷に従う掟《おきて》を守って、中国人の生活にとけこんで布教しているそうである。
私は、三八年も前にイギリス人宣教師の類なき手あついもてなしをうけた同じ場所を、ふたたび訪れきて、感慨切なるものを覚えた。ゲオルク・ゼーダーボムが一九二八年に彼らを助けたとき、私あての心情こもった手紙を託されたが、不幸にも、ベルヘル君の生存中には届かなかった。私はさらにカトリック伝道教会で、アロア・ベーケル、オベルレ両神父に会った。一八九六年にきたとき、ランチョウ(蘭州)の郊外にある説教所もたずねたが、当時はベルギー人が布教していて、私の訪問も記録されていることであろう。
神父の話では、近年この季節には豪雨がつづき、広地域にわたって連年不作をくりかえしてきたそうである。ところが珍しくこの冬は暖かである。夏季の豪雨は自動車道にとってはもっとも大きい凶敵で、破壊と流失以外なにものももちきたさないであろう。そのうえ旅行者は橋げたを盗み、見るかげもない残骸を残してゆくことになる。
十六日|午《ひる》下がり、エンジンの音も高らかにエッチンゴールからユーが帰ってきた。この計画はうまくいった。とにかく傷ついた車ではあったが、もって帰ることができたのだ。おまけに食糧をうんと仕込んできている。とくにバター、オレンジマーマレードが加えられているのは大歓迎であった。滞在はなお二、三日つづき、宣教師たちとの交歓晩餐会などで、われわれのテントはいつも訪問客で満員であった。村落の事情がわかってみると、村人が不当な重税のために、いかにさいなまれているか、そのために農場さえ捨てて、村を出ていくものもあるということである。
リャンチョー地区はそうでもないが、ピンフォンあたりでは、耕作といえば阿片一作である。コムギは価格の暴落がわざわいして、引き合わないため、農家にとっては大きな痛手であるにちがいない。そんなことから農村の荒廃に拍車をかけ、灌漑、農道など基本的なことはぜんぜん考えられなくなってしまった。中国の土地をかくも荒廃に追いこんでいく根源的な理由は、地方に蟠踞《ばんきょ》する将軍たちの勢力争いであるようだ。
一月十九日、ゲオルクはクンと、またジョムカはサンワチェと「エッセル」に乗って、黄河の河岸沿いにチュンウェイ(中衛)経由で近道をしていくことにした。シーアン――リャンチョー間に鉄道を敷設するとしたら、このコースが最適だろうと推定する。われわれはゲオルクやジョムカとランチョーで落ちあうことにしてある。彼らが出発したあと、ユーはエッチンゴール往復の冒険譚を語ってくれたので、これは記念にノートにしておいた。
エッチンゴールにいるトルグート王が、ハミ、スーチョーを経てやってきた遍歴の人から、われわれ探検隊は全部やられてしまった、すなわちマチュンイン(馬仲英)将軍の部下の手で殺害されてしまったと聞いたそうだが、いまとなってみればこっけい以外なにものでもないことである。ユーは、われわれにはもう会うことは、できないと決めてしまっていたのに、われわれのテントに帰ってきたときは、胆《きも》をつぶさんばかりに驚いた。リャンチョーでわれわれを見たある収税史は、
「あなた方は九カ月も新疆にいて、みんな無事に生還なさったんですか。どうも信じられないこってすたい……」と語ったものである。
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二十二 山塞近く
一月二十日、出発の準備怠ることなく整備できた。気温もややゆるみ凌ぎよい日、早手まわしにお別れのあいさつもすました。とはいえ数日を滞在したあとなのでなにかと時間をくって、出発したのは午後であった。トンクワン(東関)では、ラクダのキャラヴァンのため進路を阻《はば》まれいっそう遅くなった。都門のほの明るい光に浮き出たラクダの姿は王者のように、まったくすばらしいものである。
チンクワン(金関)をすぎ、いくつも支流をもつチンシュイホーという川を二度渡った。ここで、二頭のヤク(犁牛)をつれたチベットからきた男に会った。このあたり、モミの木を見るのも珍しいことである。この日ターホーエン村の対岸で設営した。夜はあい変わらず見張りが必要であった。
翌日はいよいよランチョー(蘭州)への旅路の新たなるコースにのぼったのであるが、それはシーアン(西安)への長途における最後の段階であったのである。ランチョーに着くまでは、われわれは開化地域に一日一日近づいていったのであるが、しかも実感としては、途中そういう印象はいっこうに受けなかった。
ホートンプ(河東堡)は、文字どおり政治の不在を物語るかのように、すべてのものが貧窮そのままである。途中通過したチンペイイは、かつては富裕な村であったことを、城門が物語っていたが、現今は廃墟にもひとしい衰亡の姿となり、町の大通りに倒壊家屋の残骸がころがったりしていた。クーラン村では馬賊に注意するようにと、リャンチョー(涼州)をでるとき注意されてきたのを、忘れてはならない。スーチョー(粛州)の軍事部長スンは、ピンファン――クーラン間で襲撃され、馬も銭も着ていたものさえ剥《は》ぎとられ、命からがら逃げてきたそうである。
この夜の設営には、心ならずも警備の人を雇うことができず、不安なうちに寝袋にはいったのであったが、真夜中にユーの大声が聞こえてきた。
「自動車に誰か近づいてきている」というのである。チョックドゥングがすぐいってみた。積荷の上からとびおりた音は聞いたが、それ以上の災害はなく、平穏に一夜を過ごした。
翌日、クーラン村に近づいていくと、丸腰の兵隊に停車を命じられた。なぜ武装していないのかたずねたら、賊のために強奪されて、かえって危険を招く結果をおもんぱかってのことだとか。
両側から山がせまって峡谷をつくっている道をたどっていくと、眼下に潺湲《せんかん》たる流れが、清冽《せいれつ》な水を堪えている。やがて峡谷はひらけ、展望ひろき風景のなかにはいっていった。六台の馬車がやってくる。曲馬団であったろうか。この日の午後にはさらに、ふう変わりな一団に出会った。シボレーのトラックに乗った一五人の一団で、リャンチョー――ランチョー間の乗合いとして運転されているものであった。このバス会社は、マプーチンに設立されたもので、不定期、それも満員にならなければ車を出さないという、まことにふるったバスで、旅行者は計画を立てることなど思いもよらない妙なバスもあったものである。岩塊と砂礫とのあいだを、のぼったりくだったり、泳ぐようにしてわれわれは進んでいったが、ここを抜けると、往来がかなり頻繁にあるようになった。荷馬車、ロバ、徒歩旅行者、巡礼など。
谷はふたたび連亙《れんこう》せる山の起伏の間をたどり、美しい遠望がかなたに隠見していた。陽光煙る山の夕照は壮麗な風景であった。この道は、たしかに自動車道路としてつくられたものではない。が、名勝クーラン峡として付近に知られた風致区であった。壁岩をくりぬいて、一枚の記念碑がはめこまれていた。この道路開設に献身した人の頌徳の文が碑のなかに読まれた。
渓流はさらに深くのぼっている。つづら折りの崖道《がけみち》であった。この登路で、車がよくも平衡を保ちえているものだ、と思うほど急|勾配《こうばい》であった。
峠の向こうでは、一四、五頭のヤクが、枯れ草を楽しんでいた。残雪もあった。この断崖道を事故なく通過しえたということは、神の加護あったればこそであると思う。万里の長城は、谷の右側から力動的な相貌を出してきた。チャクェイ、リー、チョックドゥングは独自の人生観をいだいていて、車を操縦するにも、危殆《きたい》に瀕してくると、たとえ死の谷に投げこまれるとしても、最善を尽くすやり方を見失うようなことはない。セラットの車がパンクしたので、余儀なく他の車も止まっていると、一人の若者が旅行者を装ってやってきた。そしてわれわれにわずらわしく問いかけてきた。おそらくは馬賊団のスパイ活動をやっているのだろうとはエッフェの観察であった。その日は、ホーシュイ村で設営した。標高二一〇〇メートルであった。
一月二四日の朝、気温の激変、肌身を刺すような寒さが襲ってきた。騎乗の一隊が、リャンチョー方向に急いでいたが、彼らはどんな種類の者なのか、そう思って見ているところへやってきた。彼らの話によると、昨日は三〇人からなる群盗団がつかまえられ、いま数珠《じゅず》つなぎになって、リャンチョーへ連行されているところだとか。われわれは、南南西から流れてきた川に沿ってくだっていった。道々、放浪者らしいトンガ人や、百姓、商人などに出会った。やがて谷沿いの横棚をよぎり、谷底の道へ出た。数人の騎馬姿に護られた二台の馬車に出会ったが、その一台は花嫁を迎えにゆく新郎の車で、あと二台の馬車に彼自身の財産、これから迎えにゆく花嫁の年老いた両親に贈るくさぐさのみやげ物を積んでいるのであった。人はこの谷奥にあって貧しくとも、とまれその人生はなんとかその軌道をたどっていくものらしい。人は結婚し、子をもうけ、そして死んでゆくことに変わりはないのである。
一すじの嶮岨《けんそ》なそばみちが、曲折しながら、われわれをふたたび本谷のほうへみちびいていった。荷をつけたトラックが、どうしてこの勾配《こうばい》をのぼれようか。われわれは二三〇〇メートルの高所をたどりつつあった。谷の氷は凍って氷塊化し、日をうけて、きらきら光っていた。ルンコープ村はわずか二、三軒しか人家がない、そんな僻遠《へきえん》の村であった。ナンユアンには谷沿いに二つの水車場があった。こんなところにも、望楼は建ち、ラマ寺や仏教寺院も谷かげや山腹の岩棚に見えていた。
その日幕営したのはナンニエン村の近くであった。標高二六〇〇メートル。村には一人の分限者がいて、二〇〇頭のヒツジを飼育していた。彼の肝煎《きもいり》りで若者の夜警を雇うことができた。
一月二十五日、一六三号キャンプサイトの朝は、身肌も凍るかと思うほどの寒気であった。風さえ激しく吹きすさんでいた。道は残雪で埋まり、結氷帯で行路は必死であった。一〇時四五分に峠の頂上。二七七五メートルの標高といえば、これまでの全旅程のうちで最高の場所である。峠から右にハンワーミヤオのあるウシャオリンの山頂が延びている。白鬚の老僧がミヤオからおりてきて、われわれを見つめていた。彼の話で、この峠はクーランとピンファンの境をなしていることを知った。
降りにかかり始めたとき、左手に長城が三度現われてきた。見下ろす山麓地帯には羊群が枯れ草をあさっているのも見えた。
まもなくわれわれは、長城の外がわに出たが、このあたりは長城の荒廃もひどく、断ち切れたところがほうぼうにあった。チンチャンイエの村をすぎピンファンホーを渡る。山塞めいた土壌の崩壊跡が各所にあった。万里の長城とピンファンホーの交差点のあたりは、望楼、烽火台などが、これまでよりもたくさん現われてきた。道と長城とが並行して走っているころもすくなくない。われわれは車の窓から、時の流れのなかで哀愁誘う荒廃の長城にはたびたび接してきたが、構築当初の姿をくずさず、高さ五メートル、基礎幅二・五メートルもある完全な姿を見るのは珍しかった。
フォウチョンプは標高二二〇〇メートル、ここに一六四号幕舎を設けた。
フェンプの村から典型的な谷底道になった。路面は深くえぐられ、トラック輸送にはまったく不向きな道である。シーリティエンツェの村から、ようやく開濶な平原に出ていった。このあたりまでくると、帰化《クェイフア》発足以来一年半ぶりで見る頻繁な往来であった。美しい屋根の道教寺院は異域のものの目をひく。
ピンファンでは市長を訪れ、敬意を表しただけで先を急いだ。三八年前私は、チベット(西蔵)、シーニン(西寧)方面からやってきたときは、西門をくぐって町にはいったものである。
一六五号キャンプは一九〇〇メートルの高地であった。キャンプの近傍に一つの鬼人窟があった。それは鍾鬼《しょうき》を祀《まつ》った塔である。ここにいう鍾鬼とは満州朝の時代、考試制度が採用されていたころ、その試験官であった人。
一月二十七日、地溝路ともいってみたいような狭い道をたどっていると、ラバに引かせた荷車が何台もやってくる。出会うたびに、ラバは竿《さお》立ちになり、あばれていた。舞い上がるほこりにおびえて騒ぐのであった。
カオチンツェの村では、並木の上枝が美しく、河岸段丘をふちどりしていた。ほこりはところきらわず、また情け容赦もなく舞い上がるのであるが、こんなときでもわれわれは測量の作業を休むわけにはいかなかった。とはいえ二、三メートル先は濃い灰色で塗りつぶされているのであるから、はかどらざることおびただしいものがあった。クワンインツェでは、思わざるところに長城がひょこりたち現われてきた。ピンファンホーはあい変わらず右手の崖下をそうそうと流れている。この道は豪雨でもあったら、ひじょうに危険な要素をもっていた。まかりまちがえたら、深淵に真逆さまにお陀仏するにちがいない。リャンチョー――ランチョー間の道路は、われわれが越えてきた道のうちで、いちばん嶮岨《けんそ》困難なものであった。夕暮れから雪が舞ってきた。われわれはうす暗くなって幕営したのであるが、夜が明けてみると、ここは墓地で、われわれはその土|饅頭《まんじゅう》の上に寝ていたのである。数えてみると、一八人の死体が埋葬してあった。
一月二十八日、シャオルーチェの村では旧正月のお祝いを迎えるために、人々はすす掃きをやっていた。ここでは女性はみんな|てんそく《ヽヽヽヽ》をやっていた。行くてに峠が立ちふさがっている。道はおそろしく嶮岨で、じぐざぐたどるのであるが、ブレーキがあやぶまれるほどであった。誰もがおっかなびっくりで操縦しているのである。峠からの展望を楽しみにのぼりきってみると、展望どころか、こんどはまたつづら折りの崖《がけ》鼻道である。途中一台の荷車が転覆して、路上に貴重な食用油を流していた。エッフェは車を止めて馭者のために、あたたかい救いの手をかしていた。この道を通う荷車には、ウマとともに鈴がつけてあるので、歩くたびに、谷間にひびきわたり、その音律は旅愁にも似た感情を誘うものがあった。
岨道《そばみち》は、なおも山々のあいだをたどり、日かげになっているので、寒気がいっそうきびしい。谷はついに黄河《ファンホー》の河畔に達し、われわれは、ほっと大きな呼吸《いき》をついた。川面は落日の残光に映え、美しく煙っていた。アルシーリプはカンスー(甘粛)の首都ランチョーまで、あと八〇キロの距離である。右手には万里の長城が、暮れなずむ残光のなかで、光っていた。望楼も建っている。われわれは黄河の河岸に沿って町にはいり、一六八号キャンプを張ったところは、ヤーメン〔役所〕の中庭であった。翌日はチューシァオリャァン・テュパンを儀礼的に訪問した。ここへはワンチンウェイ(汪精衛)行政院長から訓電がきていた。あらゆる援助を与え、シーアンまでの旅程は護衛をつけるようにというのである。軍隊の派遣もいちおう下準備ができていたようである。
私はブッデンブロ僧正を、カトリック伝道教会に訪れることも忘れなかった。僧正は真心から迎えてくれたが、この親身な心づかいは、その手紙によって私の胸臆に数年間培われてきたものと、そっくりそのままであった。W・ハウデ博士は私の乞いを受け入れて、カンスーにおける気象学上重要なデータを惜しみなく寄与せられた。私は長時間彼と語りあった。彼はランチョーに一三年間居住しているが、その前の七年間はシャントン(山東)で伝道活動していたのである。この教会には神父四人、伝道僧四人、尼僧一四人が献身して完き奉仕の日を送っているのであった。中国奥地伝道教会もこのランチョーに枢要な教会をもっていたので、そこではケプルとその家族に会った。
われわれを驚かしもし、また喜ばしたことは、クンとゲオルクがすでに先に着いて、われわれをいまや遅しと待っていたことである。彼らは、途中かずかずの冒険を重ねて、うまく突破してきたのであった。
一月三十日、われわれはチュテュパンと午餐を共にした。彼こそは、この土地にあって「五人の馬《ま》大人」を防衛撃破しうる唯一の人物と私は見た。われわれはいまいちど中国奥地伝道教会を訪れ、バウガン・リース博士夫妻、トマス・モズレー夫妻にお目にかかる機会をえた。モズレー夫人は南部スウェーデンのスケーンからはるばるきた人だ。かつてはランド博士が管理し、そのあとリース博士に受け継がれているイギリス病院は川向こうの台地にあった。この病院の窓からは、黄河の両岸一帯があますところなく展望でき、すばらしい風景をとりいれたながめであった。一、二週間はやければ、結氷していたので川を横断することもできたのに、いまでは流氷がところどころ残って漂《ただよ》っている程度であった。川には五つの鉄橋が架かっていた。こればかりは周囲の風景にそぐわない、なんとなく異質なものを感じさせると見たのは、私だけであったろうか。
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二十三 最後の日
二月二日、ランチョー(蘭州)を去るに当たり、この町でえた新しい友に最後の別れのあいさつをしてまわった。町の通りのいたるところに見かけた赤い紙や人の雑沓は、二日前の旧正月の名残りである。われわれはそのようなにぎわいをあとに南門をさして車を走らせた。トンクワンをぬけるともう城外である。出はずれたところは霊園で、その墓石の下には、ランチョーの何世代にもわたる中国人がその最後の憩いの場としてやすらかに夢をむすんでいることであろう。
われわれは黄河《ファンホー》の広濶な谷間をたどる。河岸自体が山すそである。道は枝谷に入り、さらに小さい谷々をのぼりくだりして進んでいった。土地はだんだん平坦になっていく。日かげでは残雪がかなりあった。二時間後、われわれは今宵《こよい》の設営準備にとりかかった。この地方は、その地形をはじめ、なにからなにまで知りきっているので、地図の作製などの手間はかからない。一六九号キャンプはマチャチャイという村であった。
粘土質の丘に沿っていったとき、あっちこっちの路上に、円錐形をした粘土のかたまりのような山が取り残されているのは、いったいなんだろうかとふしぎに思って見てきたのであるが、わかってみれば意味のないことではない。それらは、これまでどれほど粘土を運び去ったかを示しているもので、そのそばには木の札が立ち、道路を平坦にするためにさらにどれぐらい土をけずったらいいかを表示していたのである。両がわが谷になっている山の尾根をのぼって峠にでたが、ここも粘土の丘陵で、段々の切り開けには、原始的な作りつけがしてあった。
人一人通るでなし、旅人にも会わない寂しい道は荒野に出ていった。いまや道の両がわは大きなうねりを見せた起伏の複雑な丘の連続である。丘の頂上とそのふもとにえぐられたひだの底との高距《こうきょ》はそうとうある。われわれはそのような丘の道で、ドッジ会社のバスとゆき会った。乗客の話によると、シーアン(西安)からここまで二週間もかかってきたそうで、途中襲いくる盗賊団と戦いながら、みずからの安全を守らなければならなかったとか。
ティンシーの市長を訪ねたとき、この先三〇キロのあいだは、道中安全だが、そこから先は、襲撃にそなえて、そうとうな準備をしておいたほうがいいと忠告してくれた。彼は一人の士官と二人の兵隊とを護衛のためつけてくれることになった。のぼり路は岨道《そばみち》をなし、ために車はのぼりきれず、前進、後退とやりながら、ぬかるみの勾配をのぼりくだりした。
セラットの車はどうしたのか? なにかあったのだろうか。しばらく待った。そしてやっと彼の車のエンジンがひびいてきた。あたりはしだいに暮れてきた。ついにフントーヨー村に車を止め一七〇号キャンプを張った。宿屋の庭には、シーアン――ランチョー間の電話架設隊が電柱を運搬してきた馬車をつれて、今宵野営するところであった。
ファチァリンまでは道路もかなりよくなってきた。また戦略的どさくさもなかった。が、その先は道も悪く、馬賊の危険も勘定に入れて動かなくてはならない。出発寸前、三人の護衛の連中は城外の望楼にのぼって、射撃練習をやっていた。
おそろしく急勾配の坂をひた走りにくだると、こんどは谷沿いののぼりといったあんばいで、とうとう故障をひき起こした。しばらく歩いて、あとからきている車を待ったが、人影一人見えない。人の叫び声に交じって、炸裂音が谷のほうから谺《こだま》してくる。私はなんとなく不安なものを感じたが、そのうち整調されたエンジンのひびきが聞こえ始めたので、ほっとした。エッフェ、セラットの車が現われた。
われわれはついに二二〇〇メートルの峠に達した。こんなところにも斜面を切りひらいた耕作風景が隠見している。中国農民の驚くべき執念を見るようである。彼らは、いったい精農なのか、それともその反対なのか。われわれの行くてには山塞めいたものもあった。展望のきく鞍部《あんぶ》に出て休息していると、赤い紙で耳を飾ったロバの小キャラヴァンが通りかかった。この飾りも旧正月の行事のひとつだとか。このあたりの丘陵性の山の背は、どこもよくひらかれ耕作されていた。
ファチァリンからさきは、例の馬賊が蟠踞《ばんきよ》しているところだ。これから九〇キロは無人地帯をゆくことになるので、われわれの護衛は銃に充填《じゅうてん》して、応戦体制をとった。道は霜どけのためすべりやすい。無人地帯と教えられたこの辺りにも、二、三耕地が見えていた。それに草原には、ヤギも交じった羊群をつれたヒツジ飼いにも会った。路傍にトラックの残骸を見つけたときは、ちょっとぶきみなものを感じた。
われわれは、二時間以上も真暗いなかを走らなければならなかった。この中国大陸の乾燥した奥地を遠ざかって、海岸地方に近づくにつれ積雪量はしだいに増し、闇のなかに星かげを宿した雪があわく浮いて見えている。嶮しく幾曲がりもした丘の尾根を走るのは、精妙な操縦技術を持ったものにも、容易なことではない。
しばらくいったところで、闇道を歩いてくる三人の放浪者らしいものに出会った。彼らの話だと、つぎの部落はそうとう遠いようであったが、われわれはまもなく燈火がぼんやりと透けて見える家居《いえい》に近づいてきた。村の辻に車を進め休閑地を借りて設営にとりかかった。われわれはランチョーから二六四キロ走破したが、ピンリャン(平涼)に着くまでに、あと一三八キロある。その途中にはリウバンシャンの嶮《けん》を越さなければならないのである。その峠の頂上までが思いやられる。峠をくだると、もうそこがシーアン(西安)である。
マチュアポ村には五つの望楼が建っていた。前にわれわれはこれによく似た望楼を見たことがあった。村から村へ並木が断続的だが植樹されていた。チンニンの町で護衛兵の交代があり、われわれは市長の斡旋になる新手を待っていたが、軍司令官の不在のため|らち《ヽヽ》があかない。しかもこれから先はさらに強固な護衛を必要とする地帯だというのに。しかし、市長の説明のうちに、駐留軍隊の兵のなかには、馬賊を連れてきて補充しているものもあるとか。市長はさらに、
「奴らは護衛兵として、なかなか重宝なこともありますよ。なぜって、盗賊と知合いなので、彼らが護衛している人はけっして襲撃しないという、いわば不文律みたいなものがあるからです。ルンテー(隆徳)から先は、中央政府の軍隊なので、まあいちおう信頼できますよ」
二、三時間待って、ついに出発することになった。旧正月の祝いの行列が、黄色に飾ったシシの頭や旗さしものをかついでやってきた。打ちひしがれがちな農民には、この年一度のお祭りは、待ちに待った行事で、とても幸福そうであった。町を出はずれたところで一三一頭からなるキャラヴァンに出会った。冬枯れの荒涼たる田園風景のなかで迎えるキャラヴァンは、生彩を添える一つのながめである。並木は赤ハンノキであった。黒豚の大群がその並木道をそうぞうしくシーアン方面にたどっていた。旧正月のあとなので、交通量は極度に減っている。商家は大店は二週間、小売店でも一週間は|のれん《ヽヽヽ》をおろして休業するから。
ルンテーの城門に着いたときは、もう暮れかかっていた。ヤーメン〔役所〕はきわめて質素な建物で、壁ぎわに、カン〔暖炉〕がとりつけてあるなど、むしろ事務室というより民家であった。ガラスを用いた窓というものもない。これが市役所の事務室、応接室、同時に市長の居間であり茶の間でもある唯一の部屋なのである。町は過去二カ年に、九回も賊の襲撃を受け掠奪にあったため、城内の広範囲にわたって廃墟と化していた。住民のうち何人かは殺害され、また逃亡したものもあるそうだ。
ピンリャンまでは、七〇キロといわれているが、そのうち一〇キロはリウバンシャンの尾根をゆく山道である。これまで越えてきた峠道のように、嶮しくはないそうである。
これまでどこのヤーメンでも聞いてきたことであるが、ルンテーの市長も農家の税金の負担をなるべく軽減するために、家屋や土地所用を、最小限にちぢめようとしているようであった。子どもは学校に入れるとそれだけ負担がかかるので、入れようとしないそうである。中央政府派遣の守備兵は二五〇人が駐在して、この町を護衛しているそうである。
二月六日はゆうべからの雪が降りつづいていた。七人の護衛兵とともに雪の野をついて出かけた。並木があるかぎりは道もはっきりしているが、それがなくなると、雪におおわれた道は隠れて、手探りで進まなくてはならなかった。ロバの隊商踏み跡を見つけて、ほっとしたこともあるが、たえまなく降りしきる雪のため、目標をさえぎられ、ゆき悩むこともたびたびであった。除雪のため車を降りて時間が思いのほか流れ、先を急ぐわれわれにとって、負担はますますかかってくる。
ホーシャンプの村ではラクダの隊商が二組も先を急いでいた。われわれのたどっていた傍流に沿うた谷道では、キジの群れがおりて遊んでいたが、雪野を背景とした何百羽というキジはみごとなものである。
サンクワンコウを経てピンリャンの西門をくぐったのは一五時であった。ここにも中国奥地仏教協会の支部があった。設営は一二五〇メートルの高地スーシーリプでやった。きょうは八時間も走っているのに、たった九五キロしかきていないのである。
二月七日、雲の重く垂れた陰鬱な天候である。シューチュアンはかなりの村のように見うけたが、街《まち》の通りには、人影もなくひっそりとしていた。数日前、バスが襲撃され、乗客は銭や貴重品や、なかには着物まで剥《は》ぎとられたそうである。
チンホーの河岸に出たのは正午ころであった。チンチュアンから道はまた急坂になり、山腹の林は樹氷が美しく、ともすれば見とれるようであった。
カンスー(甘粛)とセンシー(陜西)の省境にヤオティエンという村がある。ここで梱包《こんぽう》されたタバコの荷をつけた二〇〇頭のラクダキャラヴァンに会った。走行距離一五〇キロにしてピンシェンの町にきた。チェンチュンまで延ばし、ながい緊張の旅もやっと終わった。ここまでくれば盗賊の心配もいらなくなったから。
シェンヤン(咸陽)の三つの楼門をすぎ、ウェイホー(渭河)を渡るとシーアンの西門である。ときに一五時であった。この地が古代の「絹の道」の起点といっていい。そしてわれわれにとっては、たどりきた「絹の道」の終着駅ということになる。
われわれはシーペイファンテンのヨーロッパまがいの部屋に、ひとまず落ちついた。
漢朝から唐朝にかけて、西域にまでその名を馳せたシーアンは、われわれの長征たる自動車探検旅行の最後の設営地となった。そのキャンプナンバーは一七五号。二月八日には一七〇キロを走って私の旅行の目的も、有終の美を結びえたことになる。
滞在二、三日にして、われわれは鉄路によって南京に引揚げてきた。政府は凱旋せる王者を迎える礼をもって遇してくれた。国民政府主席リンセン(林森)、蒋介石《チヤンチエシー》元帥の歓迎。汪精衛《ワンチェンウェイ》行政院長は、とくに全隊員を主賓として晩餐会をもち、きわめて純粋なる賞辞を贈られたことは、ながく忘れられないであろう。政府高官要人二五〇人列席のもとで、私は探検旅行に関する第一回報告発表の機をえた。二月十九日、私の七〇回の誕生日に寄せられた心づくしは滞在ひさしきにわたる玉関の思い出とともに、誇りともし、また貴重なるモニュマンでもある。
私はエリック・ノーリン博士と同道、上海に出た。そこのスウェーデン領事リンドクィストのわれわれに寄せられた厚意はまたかけがえのないものであった。われわれは、さらに多くの称賛の詞《ことば》に心うちふるえながら、北京経由で故国に向かった。満州、ノボシビリスク、そこではグロスロップ領事を一日たずね、その客舎の人となった。彼はすぐる八年のあいだ、われわれ探検隊に、力強い援助の手を差しのべてくれた人である。
一九三五年四月一五日、われわれが故国スウェーデンに第一歩を印したそのときから、ストックホルムに着くまで、同胞の歓声は絶えることなくつづいた。ストックホルムでは、われわれが着く前から、ながいあいだ心配してくれた親類縁者、旧友たちが、首を長くして待っててくれた。スウェーデン生まれの隊員は、その夜私の家で催された喜びの会に、みんな出てくれた。とにかく全隊員がつつがなく帰還しえたこと、またここ数年にわたって私に示された彼らの無垢なる誠実は、どんなに感謝してもたりない思いであった。
私がアジアの開かれざる扉の奥の探検に、生涯をささげる決心をして、はじめて故国を去ってからこのかた、ちょうど五〇年を迎えたのも霊妙なる摂理といわなければならない。
(完)
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解説
本書『シルクロード』は、一九三三年から三五年、足かけ三年にわたるヘディンの第五次アジア内陸探検の貴重な見聞をその内容としている。その探検が目指した針路は、北京からハミ、アンシー(安西)を経て、シーアン(西安)にいたる広漠たる中国大陸の横断路であったが、この道は二〇〇〇年の昔、シナ絹を西域欧州方面へ運んだ、あの「シルクロード」と呼ばれた道であった。万里荒涼たるこの沿道には、時の移り変わりとともに、さまざまな歴史劇が展開されたが、その舞台となったこの道は、開通以来、五〇〇年のながきにわたって、変わることなく、シナ絹を運びつづけた。マルコ・ポーロの、あの有名な東方への旅も、この道であった。しかし、時代がくだり、海上行路が開発されるにおよび、永遠の陸路とも思えたこの「絹の道」も、ようやくすたれ、以来、千数百年の惰眠のうちに、まったく、その道を失ってしまったのである。
ヘディンのこの探検により、かつての東西文明の懸け橋として、脈々と息づいていた、この古い廃道に、ふたたび赤い血潮が通ったわけであるが、それは単に歴史の再現というような意味にとどまるものでないことは、この道が後に西北ルートという名のもとに、赤色援蒋の動脈として、ある時代に、はなばなしい脚光を浴びていたことを思い起こす必要があろう。
ところで、本書の成立事情についてであるが、ヘディンはその著『馬仲英の逃亡』の序文のなかで、次のように語っている。
「一九三三年八月、私は、南京中央政府から新疆《シンキアン》探検の指導を委託された。この辺境地方と中国本土のあいだに、二すじの自動車道路を設計するのがその目的であった。……」
「探検旅行を終え、ストックホルムへ帰ってから後の一九三五年夏、私はその見聞を一冊の書物にまとめようと筆をとり始めた。ところが材料があまりにも多く、とても一冊の本には盛りきれないことがわかった。で、私は、これらのぼう大かつ雑多な材料を三つの異なった主題――戦争と政治、交通機関、進行しつつある地理および水路の変化――に分け、そのそれぞれに一冊を当てようと決心した。……」
「こうして『馬仲英の逃亡』『シルクロード』『さまよえる湖』という三部作が期せずして、できあがったのである。……」
つまり、本書はヘディンの西域探検の一側面をなすものであり、この探検の遠大な結構は、他の二著をあわせ読むことにより、はじめてその真面目に触れうるわけであるが、ヘディンがもつ天与の麗筆から流露する本書の味わいは、また、おのずからにして独自の内容とまとまりをつくりあげている。
ヘディンは、前記の序文のなかで、また、本書の執筆意図について、こんなふうにも述べている。
「『シルクロード』と題する第二部においては、アジア東部から奥地へいたる一万マイルの自動車旅行を取り扱う。それは二〇〇〇年前において〈絹《セレス》の国〉シナをローマ帝国に結びつけていた古典的な〈シルクロード〉についての歴史的記述であるが、そのほかに新疆の首都ウルムチにおけるわれわれの監禁生活についてお話しする。この監禁は四カ月つづき、寛大なものではあったが、そうとうの忍耐と神経とを必要とする災難であった。……」と。
およそ探検というものには、多かれ少なかれ、ある種の危険が伴うもので、そうした意味では、この探検が経験したさまざまな事件について、とくに声を高めてあげつらう必要はないが、彼自身が右にとくに強調しているように、数カ月にわたる監禁という事実は、いわば前へ前へと志す探検家にとっては、ある意味では、まこと死にまさる苦痛であったのではあるまいか。また、ヘディンがこの探検に志したときは、じつに齢七〇になんなんとしていたが、彼の北京出発を見おくる知友の多くが、その再会をひそかに疑っていたことを思うと、その生還そのものが、まこと、一つの驚異ともいうべく、この探検を語る上に特筆されてよい事がらであろう。彼の愛弟子アンボルトは「若さとは、齢にあらずして、能力の謂《い》いである」といったが、一種、霊的なニュアンスともいえるもののただようこの記録は、また一編の叙事詩とも言い変えてもよく、彼のこれまでの著書には見られない、特異な内容を占めるものといえよう。(訳者)