中央アジア探検記
スウェン・ヘディン/岩村忍訳
目 次
前編 タクラマカンの横断
第一章 カシュガルからマラルパシイへ
第二章 砂漠の入り口
第三章 流沙中の「死の都」に関する口碑
第四章 メルケットより砂漠へ
第五章 砂漠の外辺
第六章 地上の楽園
第七章 砂漠の呪詛
第八章 ラクダついに倒る
第九章 水ついに尽く
第十章 死の宿営
第十一章 危機到る
第十二章 最後の行進
第十三章 人間の足跡
第十四章 ホータン河《ダリヤ》の羊飼い
第十五章 森林中の憩い
後編 ロプ・ノールへ
第十六章 ホータンの町とホータン・オアシス
第十七章 ホラサンとホータンの出土品
第十八章 死の都タクラマカン
第十九章 未開の牧羊種族
第二十章 ケリヤ河《ダリヤ》を下る
第二十一章 野生ラクダの棲息地
第二十二章 タリム河はどこ
第二十三章 タリム河の森林
第二十四章 コルラからカラシャールへ
第二十五章 移動するロプ・ノール
解説
※ヘディンの道程がたどれるように、地図を用意しました。以下の場所から入手できます。
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前編 タクラマカンの横断
第一章 カシュガルからマラルパシイへ
一八九五年二月十七日午前十一時、私はイスラム・べイ、宣教師ヨハネス、ハシム・アクヌの三人と共にマラル・パシイに向け東行の途についた。
一行は各々四頭の馬が牽引する大きい鉄縁の車輪を有するアルバもしくはアラバと称されるバネなしの車二台に分乗した。ヨハネスと私との乗るアルバの藁屋根の内側には、いわゆるキギーズという毛氈の一種を張りつけ、車の後部の出入口にもまた毛氈を垂らし、できるだけ砂塵の車内への浸透を防ぐ工夫を凝らした。アルバの床には毛氈・クッション・毛皮等を敷きつめ柔かくすることに努めたが、しかし悪道を行くときにはこの乗物はあたかも荒海の上を走るようにひどく動揺し、その騒音は耳を聾するばかりであった。このアルバの所有者も我々と同行し、二台共に各々、長い鞭を持った御者がつき、この御者はあるとき車の側について走り、あるときは轅《ながえ》にまたがって口笛を吹いた。もう一台のアルバにはイスラムとハシムとが乗り、荷物を積み込んだ。そして我々の二頭の犬、ヨルダッシュとハムラーは私の車に縛りつけた。二台のアルバは轆々《ろくろく》と大道を進みカシュガルの西側城壁を横ぎり、クム・デルヴァセエすなわち「沙の門」と称する場所に着いた。ここからカシュガルの中国人町であるヤンギ・シャール(新城)まではほぼ二時間の行程であったが、この中国人町で次のような滑稽な出来事が起こった。
一人の中国兵が突然駆けて来て我々の車を止めたうえで、ハムラーは自分の犬だと大声で叫んだので、群衆はたちまちにして我々の車を包囲した。私はかまわず車を出すように命じたのであったが、この中国兵はなおも身振りを交じえて大声に叫び、ついには車輪の下に身体を投げ出して犬は自分のものだから自分に返せと怒号してやまないので、私は仕方なくこの男を鎮めるためにハムラーの綱を解いて彼に預けることに同意した。もしハムラーが本当にこの兵士の犬であったら彼について行くであろうし、もしハムラーが我々についてきたら我々の犬であるといって説明し、私はハムラーを解き放ってやった。ハムラーは綱を解かれるや全速力で一目散に駆け出し、たちまち黄塵を後に姿を消してしまった。これを見た群衆は大笑いをするし、この中国兵はしおれきって、こそこそと群衆の間に隠れてしまった。
この日は陰鬱な天気で薄寒く不愉快な気候であった。空は灰色で風はなく視界を濃い霞がさえぎっていた。道路を往来するおびただしい車馬のかもしだす厚い黄塵は道の両側にならぶ楊柳の樹皮に、枝に、積もっていた。
その時期にはキジル・スウ河にはほとんど流れのないのが普通で、いくらか残っている水は氷結していた。橋を越して東に折れ、河を西に見る路をとって進み、「見る影もない悲惨な土地」という意味のヤーマン・ヤールの村に到着したのは午後九時で、漆のような暗夜を二、三時間たどった後であった。ここで我々は小さな家屋に泊り、二人の御者は車に残した荷物を盗賊から保護するために車中に眠った。
翌二月十八日にはマラル・パシイとカシュガルとの中間の主要な町であるフェイザバードすなわち「祝福の宿る地」の意味である町をはじめ多くの村落を通過した。
この日はちょうど市場《バザール》の立つ日に当たっていたので、近隣の村落からは羊・山羊・鶏・果実・秣《まぐさ》・薪・木造器具等をたずさえた人々が続々と集まり、道路は混雑し、市場は買い手と売り手の叫び声で充満していた。ここでもまた婦人は円い帽子と白色の面沙《ヴェール》をかぶり、そして中国人は上から下まで青い衣装を着込み、群衆の中を縫ってロバの隊商は緩やかに進んでいた。フェイザバードは蟻の巣のごとく生き生きと活発である。
市場の両端には木の扉を有する門が立っているが、町は城壁で囲まれてはいない。町の外に散在する農家をも含めて七、八百戸の人家が存在し、住民の大多数はサルト人(チャガタイ・トルコ人)で、ヅンガン(敦干)人も相当多いが、中国移民は余り多くはいない。この町の主産物は米・綿花・麦、その他の穀物、西瓜・林檎・梨・葡萄・胡瓜・野菜類等である。
二月十九日。我々はフェイザバードを去って平々坦々と際はてなき平原に入った。この平原は一面見渡す限り黄灰色でおおわれ、単調な荒蕪《こうぶ》土と少しの風にも舞い立つ微細な塵で被われた乾燥土とを示している。この塵はあらゆる場所に浸透し、毛皮に浸み込み、車中のあらゆるものに侵入し、車の屋根には塵の層ができた。我々は眺望を妨げない範囲で帳《とばり》を下ろし、車全体を天幕用毛氈で被覆したが、この塵の上を進むのはあたかも巨大な羽根蒲団の上を行くような感じで、車輪は塵の中に深く埋もれるほどであった。アルバには重い荷物を積み込んであったため一行の進みはすこぶる遅々たるものがあった。人間が歩めば足はまったく塵中に埋もれ、足跡は穴の連続のように深くしるされた。馬は全力で土を踏みつけ、その背からは汗が滝のごとく流れ落ちた、そして汗は塵に混じり、全身黄灰色の馬のごとくなった。一台のアルバにつけてある四頭の馬のうち三頭は先頭にならべ、残りの一頭は轅の中間に結わえて車の中心を保つようにして進んだ。
正午少し過ぎごろヤンギ・アバード(新しい町)の隊商休憩所で四時間馬を休息させたが、この休息所には近所のヤンガール(森)からの薪を積んだ多くのアルバが我々一行と同様に憩いをとっていた。我々はこの夜は漆のような暗夜を一夜たどり、午後五時から翌朝午前五時まで車を進めた。我々のアルバは蹌踉《そうろう》として進むのみであった。車を止めて横になると、一同は柔らかいクッションと毛皮と毛氈の上でたちまち前後不覚の眠りにおちいった。
二月二十日。前夜御者が車中で居眠りをしたために路を迷い、しばらくのあいだ右に行き左に折れようやくにして路を発見した。カラ・ユルガン村で木橋によってカシュガル河《ダリヤ》を渡り、まもなくヤズ・ブラーク(夏の泉)を通過したが、その村はその名が示すように夏期には河が氾濫して両岸の地は水に浸される場所である。この時期においてさえ氾濫の名残りは氷結の状態で残り、カミッシュ(蘆の一種)の草むらが見受けられた。氾濫期にはこの道路は氾濫地を避けるために大迂回を余儀なくされるそうである。午後五時、我々はかかる氾濫の跡に出会ったが、この場所には道路の上に氷結した水が残っていた。アルバは全速力で行進したが、不幸にも氷が裂けて車輪が没入したため、馬を車から離し車の後部につけてようやくにして難関を脱した。このため一時間を費し、一つのアルバの車輪は氷の中にめり込み、回転|鋸《のこ》のように軋りを立てたので、我々は積み荷を下ろし氷上を運ばなければならなかった。気温は低く、不快な天気であった。イスラム・ベイは私のために河岸に火を燃やしつけてくれた。午前一時半、我々はオルデクリク(家鴨の村)に到着し、しばらくの憩いをとった。
二月二十一日。駅場を過ぎてまもなく、行くにしたがってしだいに茂みの増す白楊樹《ポプラ》林に入った。道路はあるところでは黄土の中に深く埋もれ、しばしば低い円錐形の丘陵の間を縫っている。この丘陵は灌木によっておおわれていた。ヅンガン・マサールという村落を過ぎ、我々一行は河からかなり離れたカラ・クルチンで一夜を宿った。
二月二十二日。この日、我々は虎、狼、狐、鹿、カモシカ、野兎等の棲み家といい伝えられている森林を通過した。チルゲエの駅場はカシュガル河《ダリヤ》を去る四マイル以上の所にある。
駅場の光景は――秣《まぐさ》と薪との堆積とアルバの群と――牛馬・羊・猫・犬・鶏が戯れ、絵のような感じを浮き出させていた。鶏卵と牛乳とパンはどこででも買い求めることができた。ロバに牽引される車は主として、綿布・茶・絨毯・毛皮等を積んでカシュガルとアクスとの間を運ぶために往来しているものであった。
この両地の間は約三四〇マイルの行程で十八オルテン(区画)に分れ、各オルテンはアルバあるいは隊商で一日の行程である、また中国の郵便輸送は三日半でこの全行程を疾駆することができるようになっている。各駅場には中国人の駅逓管理者と三人の回教徒の下役がおり、その中の一人は駅逓管理者の召使で、他の二人は郵便物の輸送に当たっている。郵便|行嚢《こうのう》はひとつの駅場から次の駅場へ輸送され、さらにそこから馬背で次々に駅伝式に送られる仕組みになっている。各駅場には各々十頭の馬が飼育され行嚢は迅速かつ正確に輸送されている。英国政府のすすめによって中国政府が電信を採用するようになって以来、この旧式な駅逓制度は昔日のおもかげなく特にカシュガル、アクス間およびそれからカラ・シャール、ウルムチ、ハミ、粛州、涼州府に達する間の駅逓制度は、衰退への一路をたどっている。アジアの奥地において電柱を見掛けるのはむしろ奇異な感じがしないではない。これらの電柱は可能なる限り直線に配置され、注意が行き届いていることが看取された。電信事業に従事している中国人は一隊のサルト人を引率し食料品と器具を載せたアルバを有している。
二月二十三日。森林はマラル・パシイに達する前に姿を消したが、森林がなくなると同時に道路は悪くなり土地も荒蕪に、そして途上の興味は減退するように思われた。一行はカシュガル河《ダリヤ》が乾いている土地で木橋によってこの河を再び渡り、煉瓦を積み重ねた造りの小さい見張り塔を有する中国の堡塁《ほうるい》を通過したが、この堡塁は三百人の一隊で警備されているとのことであった。町の市場は東西に細長い直線に作られ、すこぶる雑然として中国人とサルト人の店が立ちならんでいた。市場の外れには隊商休息所の門が開いていて一行はそこで二室を借りて宿り、荷物は汚い納屋に入れることにした。
二月二十四日。マラル・パシイはその近郊を入れて約一千戸の住居を有すといわれ、この町はまたドロンと呼ばれている。東トルキスタンの一部、例えばヤルカンドにおいてはこの名称が使用されているのはただ一つしかない。「ドロン」という言葉は「村落のない森林の地」という意味で、ここではカシュガルやアクスに対象する意味で用いられているのである。「ドロンの者」と呼ばれることを誇りにしている住民は東トルキスタンの他の民族と同様の言語、習慣および宗教を有してはいるが、しかし幾分は異なっているように見受けられる、すなわちドロンの住民は純粋のウイグル型に近いように思われる。
私はこの小都会の中を散歩してみた。この町はフェイザバードと同様に市場の両端にカシュガル門およびアクス門と呼ばれている二個の小さい門を有しているが、町としてはさほど重要性を持っていない。町の中には灰色の粘土の門と内庭に単純な造りの正面《ファサード》を有するドロンおよびムッサフィールと称する二つの回教寺院があって、ひとつはアクス門に近く、その外側に墓地が設けられている。その近くにカシュガル河《ダリヤ》が流れているが、水は少なくほとんど淀んでいるようで、そこからアリクと呼ばれている灌漑用の小運河が掘削され、両岸に近く建てられている製粉所に水が導かれている。
我々はこれらの河岸の製粉所の一つをのぞいてみたが、それは簡単な草屋根でおおっただけのもので、穀粒はこの屋根の片隅に設備された水平動をする磨石によって製粉されていた。この磨石はカシュガルから運搬されてくるもので、一個の値百テンゲー(約二十二シリング六ポンド)とのことであった。この磨石は約五年の使用に耐え得るそうで、私たちの見たときはコナーク(とうもろこし)とボグダイ(小麦)の製粉中であった。製粉人の利得は挽いた粉の十六分の一であって、一日に三十二チャレックから四十チャレック(十六ジングスすなわち二十四ポンド)の生産額である。他の場所では籾《もみ》の殻をはいでいたが、籾はシャルと呼ばれ、精白米はグリッチと称される。精白米は水平軸の上で動いている二個の木製槌を使用し、この槌で凹所の内に流れ込む籾を精白する設備になっている。籾はこのようにして剥穀され、殻は後に選り別けられる、そしてこの過程が三回繰り返され製粉人は籾の十分の一を取得することになっている。通常は製粉人は一日に十五チャレックを製粉することができるので、米一チャレックはマラル・パシイにおける相場四テンゲーとして一日の収入六テンゲー(一シリング三ポンド)になる勘定である。原料の稲・とうもろこし・小麦等はこの町の郊外に多量に栽培されている。
この日の朝、一人の中国人官吏と四人のトルコ人の軍人とがアムバン(都督)の代理として私に歓迎の意を述べに来訪した。トルコ人達はきわめて慇懃でそして話し好きらしく見えた。彼らはタクラマカン砂漠横断の私達の計画は実行可能だと考えていた。彼らの話によればヤルカンド河《ダリヤ》とホータン河《ダリヤ》との中間の砂漠にはかつてタクラマカンと呼ばれる大都市が存在していたが、いつのころからか流沙の中に埋没してしまったとのことである。彼らはさらに付け加えて次のようないい伝えを話してくれた。砂漠の内部はテレスマート(アラビア語で「巫妖」「超自然力」を意味する)の禁断の地であって、そこには塔や城壁や家屋が廃墟と化して存在し金銀の古貨幣が隠されているが、もし隊商が行ってラクダにこれらの金銀を載せて帰ろうとすれば決して再び砂漠から脱することはできず、妖霊によって流沙の中に閉じ籠められて帰ることを許されない。そのさい唯一の逃れて生命を全うする途は財宝を捨て去ることであると。
このトルコ人達は、私がマサール・ターグ河《ダリヤ》をたどっていけるところまで行って水の供給を得るならば、おそらくは砂漠を横断することができるであろうが、いかなる場合にも馬では不可能で、もし馬を使用するならば馬は必ず途中で倒れるであろうといった。
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第二章 砂漠の入り口
三月十五日。この日は待ちに待った機会の最初の日であった。日一日と過ぎたがラクダは到着しなかった。私はその間この東方遥かにひろがる砂漠に関し、できるだけの情報を収集することを毎日の仕事とした。例えばこの日私は、十二日分の食糧を携帯してヤルカンド河《ダリヤ》の右岸ヤンターク村を数年前に出発した経験を有する二人の男の次のような話を聞いた。三日の後彼らは、荒廃しきって渡ることのできそうもない木橋が架けられ、深い底には岩石が露出している枯渇した河床にいたった。彼らは最初はこの川に沿ってさかのぼろうと考えたがその方向には水が見い出されなかったので引き返し、下流に向かって進んだところが多数の軟玉《ジェード》を発見した。さらに七日間の行程の後、草むらを発見しそこを掘って水を得たのであった。
普通略してクタークと呼ばれているシャール・イ・クタークは広大なアジアの砂漠のこの部分にまつわる伝説的都市跡の一つである。その存在を推定されている場所はかなりの差違があり、ライリックではそこを去る五ポタイ(十二マイル半)の場所に廃墟があるということを聞き、その後にその場所を探索したがついに発見できなかった。この辺の住民はただアラーの神のみがそこに人間を連れていくことができるといっている。人間がいかに辛抱強く捜しても神の意志でない限り決して発見できないであろうといっていた。私はまた黄金を砂漠中に探索するために、十二人の一隊がちょうどヤルカンドを出発したばかりであるということを耳にした。黄金探索者は一般に、砂嵐が埋没されている黄金を露出せしめる時期を選んで出かけることになっているが、今から一月前に砂漠に入った一人はついに帰ってこなかった。砂漠を進む旅行者はときに彼の名前を呼ぶ声を聞くが、もしその声を追って進むならばついに道に迷い渇きのために死んでしまうのであるとヤルカンドの住民達は信じている。この話は広大なロプ・ノール砂漠についてマルコ・ポーロが語っているところと比較すると興味がある。マルコ・ポーロは次のごとくいっている。「しかしながらこの砂漠に関してきわめて不可思議なことがある。それは旅行者が夜旅行し、仲間と離れ、あるいは眠り、あるいはこれと類似の状態になった後、再び仲間を見つけようと試みるときには悪霊の話し声が聞こえ、それを仲間の声と思い込んでしまう。ときには悪霊は名前を呼ぶのでつい迷わされてしまい、再び仲間の一行を見い出すことができなくなる。こうして多くの人々が命を落としている」
この日、イスラム・ベイはヤルカンドからの帰り、二個のチェレック(鉄製水槽)、ごま油、ラクダの食糧の籾殻、石油、パン、タルカン(炒麦粉)、蜂蜜、ガウマン(マカロニ)、麻袋、鋤、鞭、ラクダ用器具、鉢、湯呑み、その他多くの必要品を買い求めてきた。
三月十八日。最近数日間、私は輻射熱と大気中に存在する塵の量との間の密接な関係を調査する好機会をとらえた。大気がほとんどまったく澄んでいるときの輻射熱は摂氏四六度に上昇したが、猛烈な風の後には二〇・六度に降下した。しかし後しだいに大気が澄んで三月十七日には二七・六度に昇り、さらに翌日には三六・六度まで上昇した。かかる現象と逆行して夜間における最低温度は風がやみ、大気が澄むにつれて下降する、すなわち、風の吹く前には最低はマイナス六度で風の吹いた最終日はマイナス〇・三度であった。換言すれば輻射熱は塵が地面に落ち着くにしたがって増加する。同様に空気の温度は大気が澄むに比例して日陰では上昇する。すなわち三月十六日、十七日、十八日は各々五・四度、七・四度、一一度であった。大気中の塵の量は気象測定器具の取り扱い上にかなりの影響を与えるものである。
三月十九日。我々一行は隊商の砂漠に向けて出発する地点であるヤルカンド河《ダリヤ》の右岸に位置するメルケットという大村落に向かって出発した。早朝、メルケットの住民が多数我々を出迎えてくれた。メヘメット・ニアズ・ベックというトルコ人の守備隊長が鶏、鶏卵、ダスタルカーンと称する清涼剤等を持ってきたが、この男は丈の高い、精力的な、しかし厳格らしい男で白い薄いあご髭をはやしていた。荷物運搬用の駄馬を雇い入れて進み、川を超え、南東に進むこと約十五分間の行程にして一行はヤルカンド河《ダリヤ》の東方に流れている一支流から灌漑をしているアングェトリックの村落を通過した。この行程の一時間の終わりにあたって我々はチャムグールックの村に達し、さらに四十五分間にしてメルケットに達した。この町の守備隊長は私のために自分の乗馬を自由に使用させてくれたし、まもなく一行のために絨毯を敷き詰め壁龕《へきがん》のある大きな快適な一室を提供してくれた。
周囲に散在するキシュラーク(冬期のみ居住する村落)をあわせれば、メルケットは約一千戸を擁し、その中の二百五十戸は市場のごく近くに存在している。少し西に偏して存在するヤンターク村は三百戸を有し、ヤンタークはアングェトリックおよびチャムグールックとともにべクリークおよびあるいはベグリーク(トルコ人の守備隊長管下の行政区画)の一区画を構成している。しかしメルケットはそれ自身のみで一人の守備隊長を戴いているのである。メルケットには二人の収税吏と二人の中国人の商人とシカルプールからきた四人のインド人の金融商人とが住んでいる。この町は生産の盛んなところで、麦、とうもろこし、てんさい糖、葡萄、杏、梨、桑、林檎、桃、綿花を産する。豊作の年には多量の種子がカシュガルやヤルカンドに輸出されるが、凶年には逆にヤルカンドから穀物を輸入する。
メルケットはヤルカンド河《ダリヤ》の岸に接近しているにかかわらず灌漑用水はヤルカンド河《ダリヤ》と平行しているカルガリックの河すなわちチスナブ河から導いてきている。水量の少ないときにはこの河はヤンタークに達するのみであるが、それ以外のときには遥かに北にまでいたりそこで二つの小湖水を形成する。この湖水は渇水期には涸渇しているものである。その右岸は一帯の森林によって縁取られてはいるがせいぜい二マイル半くらいの幅を有するのみである。この地では降雪量はごくわずかであるが、冬はなかなか厳しい。そして夏期は反対に酷熱である。降雨量は温暖期においてほぼ平均にあって、ときとしては家屋の平屋根を湿潤破壊するにいたることもある。風は北東風が多く、嵐が二日ないし四日間続く。大気はときには塵で満たされ、塵の「雨」が降る。この塵の雨は灰黄色の厚い層になって農作物の上に注ぐ。
メルケットにはかつてヨーロッパ人の訪れたことがなかったということは少々奇異な感じがしないでもない。メケットという名前でではあるがこの土地のことが最初に記されたのはピェウツォフ将軍の旅行においてである。しかしピェウツォフ将軍はヤルカンド河《ダリヤ》の氾濫期に会したため、ついにこの地にはいたり得なかった。
メルケットにおいてもまたすでに述べたような黄金探索者の群れが存在していた。ある男はロバの背に食糧と水とを積んで自分は徒歩で砂漠の中を二十日間にわたって旅行を続けたと私に語った。彼は七日間東北東に向け巨大な砂丘にそって進んだ後、長く連接する山に達し、所々の草むらの中で地下水を見つけた。この男は他の黄金探索者達のごとく毎年黄金を求めて砂漠に入る習慣であったが、いまだかつてそれを発見したことはなかった。彼らはこの砂漠をタクラマカンと呼び、優良なラクダによれば砂漠をまっすぐに横断しホータン河《ダリヤ》に出ることができるという意見に一致していた。
この日の夕刻、私は守備隊長等からひつじを贈られ、またインド人の金融商人はじゃがいもと牛酪《バター》を持参した。この夜は彼らと宴会を催した後セタール(ジイザー――一種の弦楽器)とグアーリン(小型のたて琴)の演奏に打ち興じた。この原地民の楽器は緩やかな調子で奏され、快い響きを発した、少しく憂愁《メランコリー》をこめた音楽ではあったが。
三月二十日。メルケットにおいては回教の儀式はきわめて厳格に施行されている。最近の市場日《バザール・デー》のことであったが、断食中にある男が日の出前に食物を口にした。たちまち捕縛されて鞭打たれた後、両手を背中で縛りつけられ、市場の中を引かれて歩いた。群集は口々に次のような質問を繰り返し、それにたいして犯人は同じ答えをするのであった。
「お前は日の出前に食べたのは本当か」
「そうだ」
「それをまた繰り返すつもりか」
「けっして二度とやらない」
市場を引かれて歩く前に犯人の面に傷をつける習慣がまた一般に行われているようであった。
三月二十一日。市場を見物に行ったが、それはなかなか広い場所を占め、各商売はおのおの特に指定された場所を有していた。しかし取り引きは商品が家の前にならべられる市場の日だけ、すなわち一週に一回だけしか行われない。私が市場を見に行ったときには、たくさんの婦人が家の前にならべた台の上で針仕事をしていたが、誰も面紗《ヴェール》を着けず頭には何もかぶらないで、漆黒の厚い頭髪を弁髪に結んでいた。しかしときとして小さい円帽子をかぶっている者もあった。特に多く見かける光景はある不愉快な寄生物――すなわちシラミ――を退治している光景で、一人の婦人が他の婦人に膝枕をしているのも珍しい光景ではない。
町外れにあたかも何らかの特殊の目的があってこしらえたように見える高さ二十フィートから三十フィートの砂丘が南南西から北北東に走っていた。その頂上にはチムデレー汗のマサール(墓陵)があり、脚下を見下ろせば小さな正方形の内庭を囲んだ平屋根を有する多数の住居が立ちならんでいる町を一望に収める眺めであった。
三月二十二日にはついにモハメット・ヤクブが膨らんだ郵便行嚢をたずさえてカシュガルから帰ってきた。ただしラクダはつれて来なかったのである。これではまったく元の木阿弥ではないか。私はやむを得ず、我が信頼するイスラム・ベイをヤルカンドに急派することに決し、彼にはラクダを伴わずして再び帰るべからず、という絶対命令をくだした。幸いにして私自身はモハメット・ヤクブのもたらした多数の手紙を読むほかに、気象や天文の観測という仕事があった。私にとっては宣教師ヨハネスは話し相手にならなかった。彼はむしろ病的といってもよいほどに狂信的で、人生の一切の享楽とか快適さとかいう種類のものは真のキリスト教とは両立し得ないものだと考えているのである。これは一部分確かに彼が回教徒から改宗したという事実によっている。いったいこのような改宗者は彼に教えを授けた師よりも頑迷であることがしばしばあるものだ。とはいうものの彼は生来すこぶる善良で役に立つ男であった、もっとも常に沈鬱に過ぎ、そして勇気を欠いてはいたが。
数日後私は不幸にしてこの地方に流行するゴルカックという咽喉の疾患に取りつかれた。私は守備隊長の処方にしたがってたいした期待もなしに暖かい牛乳でうがいを試みたが、彼はさらにペル・バクシすなわち祈祷師のやっかいになることをすすめたので、私はそのような馬鹿げたことはといって一応は拒絶したが、ついにこの祈祷師を好奇心から呼んでみることにした。
夜のとばりが降りて暗黒に閉ざされた部屋の内部の明かりといえば、炉の火だけになったころペリ・バクシ――長いチャパン(外套)をまとった三人の、肥満し、あご鬚をはやした祈祷師――がやって来た。これらの祈祷師は各々すこぶる固く張った牛皮のドッフと称する太鼓をたずさえ、あるいは指であるいはてのひらで打ちながら入って来た。この音は六、七マイル離れたライリックにまで聞こえそうな大音響をたてた。この演奏者達はほとんど想像し得ないほどの速度で太鼓を叩き、三人は正確に音を合わすことができた。最初は指で次にてのひらでそして最後に拳で叩き、この運動を一瞬も絶え間なく繰り返した。時々はまったく静止し、時々は自分たちの奏でる音楽につれて立ち上がりダンスを始める。そしてまた太鼓の騒音を繰り返す。五分間ばかり続く一回ごとに太鼓が一定の順序で繰り返されることから見ても、この三人は時間を正確にあわせるために非常によく訓練されていることがわかる。悪霊を退散させるための回数は前後九回であって、祈祷師が一度これを始めるならば完全に終わるまでは中途で中止せしめることはまったく不可能である。
ペリ・バクシが最も多く招かれるのは出産のときと、もう一つは病人が婦人である時とである。婦人は常に男よりはるかに迷信深いことはいうまでもない。祈祷師は病人の横たわる部屋に入り石油ランプの燃え上がる炎にじっと見入る、そして彼らはこの婦人には悪霊が憑《つ》いていると宣言する。太鼓が鳴り始め病人の友人等は部屋の内外に集まる。しかし祈祷の儀式はこれで終わるのではない。太鼓の最後の響きが消え失せるとき、群集はしりぞき、ペリ・バクシと病人とのみが残る。そこで祈祷師は一本の竿を床の真ん中に勢いよく突き立てる。竿の先には縄を結びつけ、縄のほかの一端を天井に固くゆわえつける。病人はこの縄を力を込めて引っぱりついに縄を緩めることができれば、そのとき、ペリ・バクシは太鼓を打ち鳴らす。そして縄が天井から離れたとき、憑いていた悪霊は退散したことになる。
鷹狩りで使用する鷹もまた同様な巫祝《ふしゅく》的性質を有していると信ぜられ、したがってグシュ・バクシ(祈祷鷹)と呼ばれている。ペリスすなわち悪霊は鷹を非常に恐れると考えられている。陣痛の間に婦人は他の人間には見えない悪霊が室内を飛び回っているのを見ると考えられている。しかし鷹には悪霊が見えるので悪霊を追い出すために鷹を室内に放っておく。鷹・太鼓・縄・竿等がすべて同一の目的のため――すなわちある程度まで婦人の注意を他に集中せしめて苦痛を忘却せしめるため――であることはきわめて明らかである。
三月二十六日。ニアズ・ベックは毎日のように彼の邸宅で公事を見ている。彼の席は、ヴェランダの天井を支えている一本の円柱の側に設けられている、そして公事の弁論が進行している間中、彼はきわめて厳粛な顔をしている。彼の側に置かれている台には紙挟みに書類を入れて持っている彼のミルザすなわち秘書役が座を占め、周囲には護衛や法官が座し彼の前には被告が座らされる。
この日の裁判はすこぶる奇妙なものであった。ある男が五人の妻を有していたが、美しくそして健康な若い五番目の妻は他の男とカシュガルへ駆け落ちをした。だがただちに捕らえられ、再びメルケットに連れ戻され、今ここで自分の非行に対する言い訳を述べることになっていた。彼女が自身の不貞を認めたとき、ニアズ・ベックは彼女の片頬を平手で打ったので彼女はすすり泣きを始めた。彼女の弁解はただ他の四人の妻達との生活は耐えがたいものであったというのみであった。彼女はナイフを身につけていたが、なぜナイフを携帯しているのかという問いに対し、もし再び夫の許に連れ戻されるときは自殺するつもりであると答えた。結局この小さい悲劇の結末は刑罰として彼女はしばらく回教僧の監督の下に暮らし、心の平静を取り戻したならば再び夫の家に帰らなければならないという判決であった。
この裁判が終わって次にまた若い婦人がよび出された。彼女の顔は傷つき、血が滴っていた。彼女は母と夫に付き添われていたが、この女もまた夫から逃げ出したのであった。夫は自ら罰を与え彼女に傷をつけたとのことであった。数人の証人は夫が剃刀を使用して負傷せしめたと陳述したが、夫はその事実を否定した。夫に自白せしめるためニアズ・ベックは彼の両手を背中で縛り木の枝から飛び下りることを命じたが、この命令を聞くとたちまち自白したので彼は笞の四十叩きの刑に処せられ、かかる刑罰にもっとも適している体のある部分を四十回叩かれることになった。ところがこの男はさらに妻に背中を殴打された事実があると供述したため、たちどころに衣服をはがれて調べられた。しかし、背中には何ら殴打の痕が見られなかったので、この男はたちどころに笞刑の回数を追加された。
この僻遠の地においては、刑罰の程度は相当の融通自在のおもむきを有している。被告が重い財布を持っている場合には彼は罰金に処され、いかなる場合においても判官は手数をかけられた代償に何テンゲーかを受け取る。もしも原告が判決に不満であるならば高等裁判官――最も近接の地に駐在する中国人官吏――に控訴することが許され、そのときには地方の判官は高等裁判官の訊問に応じる義務を課されているのである。中国のこの地方における行政組織はなかなか巧みにできている。その一例はこの地方の土着民がカシュガルのヤクブ・ベックの時代にできた地方自治制度をそのまま保存している事実にも見られると思う。
不貞行為は全体として決して少なくはないが、特に重い刑罰を科せられるようなこともない。不貞行為に対する刑罰は通常は、不貞を犯した婦人の顔に傷をつけ、牡のロバの背に後ろ向きに乗せて両手を背中で縛ったまま、町の中と市場を引き回す刑である。結婚制度は一夫一婦が普通で、一人の夫が四、五人の妻を有する場合はむしろまれである。もし婦人が中国人またはヨーロッパ人と結婚すれば彼女はもはや純潔でないとみなされ、死んだときには共同の墓所に葬られない。その理由は「豚の肉を喰う者」と結婚した女の体はアラーの神の信者の墓所をけがすからである。
結納金すなわちこの地方でカリムと称するものに関しての習慣はキルギス人の習慣と同様である。カリムは花嫁の両親に支払われることになっており、その額は花婿の境遇や財産に応じて異なる。ベイすなわち金持ちは二ジャムバ(九ポンドないし十ポンド)におよぶ。普通は品物で支払うことになっているが、花嫁の衣装だけは必ずカリムとして贈らなければならないことに定まっている。貧乏人は単に食糧と衣装とのみを贈る。この結納の金額は両親の要求によって異なる。この地方の土着民は、キルギス人に比して容貌や身体の美しさを軽視するようである。若い男女が両親の同意を得られないときに駆け落ちすることは珍しくはない。しかし彼らは数カ月経ってから帰って来た上で老人を宴会に招待し、それで一切を水に流してしまうのが例である。
私の見たもう一つの裁判の場面はニアズ・ベックが賭博をしていた二人の男に判決を下したときであった。彼らの中の一人は耳に大傷をつけられ、顔面と胸部は血まみれになっていた。彼は賭博で十テンゲー(一シリング六ペンス)を負けた結果、市場でその金額をもうけてくる約束をしたところが、勝った男の方が即座に支払うように要求したので、ナイフを抜いて自ら自分の耳を切り裂き「金の代わりにこれでよいだろう」と啖呵を切ったというのである。判官ニアズ・ベックは勝って金を即座に支払うことを強要した男を公衆の面前で笞刑に処すべき旨をいい渡し、負けて自ら傷つけた男に対しては傷が癒えしだい笞刑を加えるように命じた。そして賭博の金がニアズ・ベック判官のポケットに転がり込んだことは付け加えるまでもない。
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第三章 流沙中の「死の都」に関する口碑
タクラマカン砂漠横断に使用するラクダを購入するために人をカシュガルに派し、またイスラム・ベイをヤルカンドに派遣し飲用水貯蔵用のタンク、パン、米、ロープ、鋤、斧その他の器具等の買い入れを命じた。かくて砂漠横断の準備のためにマラル・パシイに滞留中、私はタクラマカン砂漠に埋もれた廃墟についての話を聞き出すことができた。
それはもう八十になる老人が話してくれたのであった。我々がタクラマカンの流沙を横断する計画を持っていると聞いて、この老人はわざわざ私の宿に訪ねて来た。この老人がまだ若いころのことであったそうであるが、ホータンからアクスに旅した男を知っていた。彼は流沙中に道を迷い、はからずも古代の都市の廃墟に行き着いたが、そこで多数の中国靴が散乱しているのを見い出した。それは手を触れるやいなやたちまちにして塵のごとく崩れ落ちて跡形もなくなってしまったとのことである。またある男はアクサク・マラルを出発して流沙中に入り偶然に都市跡に行きあたり、廃墟の中に多くの金銀貨の散乱しているのを見い出し、できるだけ懐中にねじ込んだうえ、ちょうど持ち合わせていた袋にも一杯詰め込んで、いざ帰ろうとすると、どこからともなく山猫の大群が現れておどりかかって来たので、恐怖のあまりせっかくの獲物を投げ捨てて逃げ帰った。のちに勇気を鼓して再び廃墟を尋ねてみたが、ついに再びその場所を見い出すことができず、この神秘の都市跡は流沙の中に永遠に姿を消してしまっていた。
ホータンから来たある回教僧の話がある。彼は多大の負債を生じ返却できそうにもないので自殺を決心し砂漠の中に迷い込んだが、死ぬ代わりにおびただしい金銀の財宝を発見し、今では大変な金満家になっているとのことである。しかし彼にならって砂漠に入ったものでかつて帰って来た者の例はない。このような話をした後に老人は、隠された財宝の発見に成功するためにはまず砂漠の悪霊を退散させなければならない、といとも厳粛に語ったのであった。これらの悪霊は廃墟をたずねる者を惑わし、精神を錯乱せしめて、同じ場所を自分の足跡をたどりながら迷い歩かせ、ついに疲労と渇きから死にいたらしめるように呪うというのである。
砂漠の外縁の地には、埋もれた古代都市をいつか発見しその財宝をわが物にしようとしてうろうろしている|やくざ《ヽヽヽ》者が常に絶えない。そしてこれらの黄金探究者達は常に彼らの隣人から冷眼視され、かつ交際を嫌われている。彼らは一向に働こうとはせず、一度に金持ちになろうという望みのみで生活している。彼らは寄生虫的な存在で、閑なときには泥棒や強盗をその生業《なりわい》としているのである。しかし付け加えるまでもなくこれらの|やくざ《ヽヽヽ》者たちはかつて埋もれた宝を発見したことはない。
このような言い伝えはいったいどこから生じたのであろうか。これらの埋もれた都市に関する種々の確からしい話や、また流沙にのまれてしまったという過去の大都会タクラマカンについての色々な伝説をいかに説明したらよいであろうか。これらの口碑・伝説がホータンやヤルカンドやマラル・パシイやアクスで耳から耳へ伝えられているのは単なる根も葉もない偶然の言い伝えであろうか。これらの地の住民が、自分で見たと称し、かつては麝香鹿《じゃこうじか》やその他の獣が付近に生息していたというこれらの今は人跡なき廃墟について詳細に語り聞かせるのは、単に話を面白くするためなのであろうか。否、決して偶然ではあり得ない、これらの口碑はある根拠と、よってくるところの原因を持っていなければならぬ。その根底には何らかそのよっている実在がなくてはならない。これらの口碑は決して軽蔑し一笑に付し去るべき物でもなければ、またなおざりにすべき物でもない。
この奇怪な冒険談に対して私は児童のごとく熱心に耳を傾けた。くる日もくる日も私の計画している危険な旅行に対する魅惑をそそるばかりであった。私はこの浪漫的な伝説にまったく魅了されてしまい、危険に対する懸念などは念頭からまったく去ってしまった。私もまた砂漠の蠱惑《こわく》的な悪霊のとりこになってしまったのであった。中央アジアの恐るべき砂嵐《あらし》、熱砂の堝《るつぼ》から吹き来る呪詛さえも私にとっては美しい限りであり、私を魅了するものにすぎなくなった。水平線の彼方に起伏する砂丘のなだらかな形もまたこよなく気高く映じ、見ても見飽きぬものになった。砂丘を越えて彼方には墓場のごとき沈黙の中に、もっとも古い文書にも、記録にも、かつて記載されなかった未知の憧憬の地、そして今や自分が最初の足跡をしるすべき地が横たわっているのであった。
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第四章 メルケットより砂漠へ
イスラムとヤクブは四月八日に帰って来た。いろいろと掛け合ったのち、彼らはカルガリックで一頭六ポンド十シリングの割り合いで八頭の立派なラクダを手に入れることに成功した。我々の砂漠旅行のためにはラクダが絶対に必要であるという噂がこの地の住民にひろがったので、彼らはラクダの値段を普通の倍から三倍につり上げた。もう一つの困難は我々の必要とするラクダは、平地に慣れそして砂漠の旅行に適するもの――すなわち砂の上を歩き暑熱やその他の窮乏に耐え得るものでなければならないということであった。これらの性質のほうがラクダの単なる外形や肉付きのよさよりもより重要であった。
午前中に我々はラクダに洗礼をほどこし命名式を行ない、かつコブ間の部分の胴の周りをはかっておいて、旅行の終了時の状態と比較する材料を記録した。我々のラクダの名前と年齢、胴回りは次のごとくであった。
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アク・ツヤ(白駝)八歳 七フィート九インチ
ボグァラ(牡駝)四歳 七フィート八インチ半
ネェル(背高駝)二歳 七フィート四インチ半
ババイ(老駝)十五歳 七フィート五インチ半
チョン・カラ(大黒駝)三歳 七フィート三インチ半
キチック・カラ(小黒駝)二歳 七フィート三インチ
チョン・サリック(大黄駝)二歳 七フィート六インチ半
キチック・サリック(小黄駝)一歳半 七フィート
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これら八頭のうち、ただ一頭すなわちチョン・カラのみが旅行のあとまで生き残るということはこのときは夢にも考え及ばなかったことであった。アク・ツヤは大きな美しいラクダで重い鉄の舌を持つ鈴の綱をつけていたものだから、砂漠を横断し終わってまもなく極度の疲労からたおれてしまった。ボグァラは非常に均整のとれた忍耐強くそして柔順な獣であったので、私の乗用に選んだ。ネェルは獰猛《どうもう》な野獣のようで、常に近寄る者をかみつこうとしたり、蹴ろうとしたりしていた。最も年とったババイは灰色で最初にたおれたラクダであった。他の三頭は若くそして生き生きとしていた。長い休息ののちに彼らは皆いつでも出発ができる状態にあり、旅行に出発することを喜んでいるように見えた。
彼らが到着したときはちょうど厚い暖かい冬の毛が脱落する時期に当たっていたので外見はぼろきれをまとっているようなみすぼらしい格好をしていた。これらの全部にはおのおの乾し草と藁とをつめた鞍がつけられた。イスラムは荷物を背に縛りつけるためのアルクァン(ラクダの毛でよった綱)と三個の大きな鈴とをもって来た。
ラクダはニアズ・ベックの家に向かい合った大きな広場につながれ、最後の豊富な飼料としてたくさんの乾し草を与えられた。地面にうずくまって香りの高い乾し草をゆっくり咀嚼し、そしていかにも楽しんでいるらしいこれらの獣を見ていることは愉快なことであった。我々の二匹の犬、ヨルダッシュとハムラーは、しかし少々違った感じを持っていたようである。特にヨルダッシュはラクダの存在を寛容《かんよう》し得ないらしく声がしわがれるまで吠え続け、そしてある一頭から一房の毛をむしり取ったときはすこぶる満足気であった。
イスラム・ベイはまたヤルカンドで二人の信頼し得る従者を雇った。一人はモハメット・シャーといい、白いあご鬚を生やした五十五歳の老人でラクダの世話にはすこぶる熟練しており、強情なネェルのかたわらに行ってもかみつかれない唯一の男であった。彼は妻と子供達をヤルカンドに残して来たのであったが、砂漠に入ることにはいささかの恐怖をも持っていなかった。私はいまでも、あたかもきのう別れたばかりのようにはっきり彼を想い出すことができる。彼はその哲人的な明朗さを決してうしなうことがなく、不幸な運命が我々に襲いかかったときにも、なおユーモアを失わずにいることができた。死の直前の幻覚状態におちいったときも彼の両眼は朗らかに輝き、疲労しきった赤銅色の顔には精神の平静さがみなぎっていた。
ラクダの世話を助けるために雇ったもう一人の男はカシム・アクヌというアクス生まれで当時ヤルカンドに住んでいた男であったが、彼は四十八歳の独身者で隊商の道案内を業にしていた者であった。中背の頑健な体格を有し、黒いあご鬚を生やしていたが、すこぶる生真面目な人間で決して笑うことがなかった。彼は常に親しめる男で決して不快な人間ではなかったが、しかし、しばしば仕事の遂行を督促してやらなければならぬようなことがあった。
我々は今一人従者を雇う必要があった。そしてニアズ・ベックが我々のために捜してくれたのは先に雇った男と同じ名前を持ったもう一人のカシム・アクヌという男でヤンギ・ヒッサールの者であった。彼はモハメット・シャーと同年輩であったが、過去六年間毎春必ずロバに食糧を積んで黄金を求めに砂漠を十日ないし十四日間放浪するのが習慣になっていた。しかし彼は地下水を掘り当てることができる所までは行ったことがあるが、それ以上に進んだことはなかった。我々は旅行中彼をもう一人のカシムと区別するためにヨルチ(道路から飛び出したポインター犬の意)と呼び、あるいはクムチ(砂漠の人)と呼んだ。数年前彼はメルケットに移住し、そこに妻と成長した子供達を残して来たのであった。
砂漠での彼の運命は一部自身の招いたものである。彼は獰猛な性質で気短かであった。この男は常に他の仲間を押さえつけようとしたために仲間はたちまち彼を憎悪するようになった。彼は砂漠の体験から当然他の仲間の上に立つべきものだと考えていたので、我々のカラヴァンの道案内に任命されたイスラム・ベイにはとくに反感を抱いていた。メルケットのある人々は、彼は一度窃盗の罪で刑罰を受けたことがあるからといって私に忠告してくれた。しかしこの忠告はすでに彼を雇い入れた後であったのでいかんともしがたかったのである。私ははじめ彼を雇い入れたときには彼は砂漠に通暁しているから、我々は砂漠の財宝のありかに一脈の光明を見い出したと考えたのであった。
我々はラクダの他に、食糧として三匹の羊と十羽の雌鶏および一羽の雄鶏を伴ったが、鶏のほうはかごに入れてラクダの背に積んだ荷物の上に載せた。最初の数日の間は雌鶏は一日に卵を二つか三つずつ生んだが、水が欠乏するやいなや、たちまち卵を生まなくなってしまった。雄鶏はすこぶるエキセントリックでラクダの背にのせられることを非常に嫌い、たびたびかごの蓋を押しのけて砂の上に飛び下りた。我々は野営するたびに鶏をはなして運動させるのが常であったが、満目荒涼たる砂漠にこの小さな生き物が喜々としてたわむれるのはむしろ奇異な感じのする光景であった。こうして彼らは我々の投げ与える少しの穀物をついばみながら砂の上を駆けめぐるのであった。
四月九日。我々一行は最後の準備を整え、あらかじめ焼かせておいたパンを数個の袋に詰め込み、四個の鉄製水槽には新しい河水を満たした。この水槽は各十七ガロン半、十九ガロン、十九ガロン半および二十七ガロンの水を入れることができた。くわえるにヤギの皮袋を一個用意したのでこれに十七ガロン半と、合計百ガロンの水を携帯することになり、二十五日間の旅行には十分な量であった。この長方形の水槽は元来ヤルカンドからインドに蜂蜜を運搬するために特に製造されたもので、薄い鉄板が激動で破壊されるのを防ぐために木の格子でおおってあった。我々は太陽の光線が鉄に直射することを防ぐために水槽の鉄板と格子の間に野草や蘆《あし》を詰め込んだ。
次に私の砂漠横断の予定計画を少しく述べておこう。プルジェワルスキーとキャレーおよびダルグレイシュの両人がホータン河《ダリヤ》の左岸のマサール・ターグ山脈を目撃した(一八八五年)最初のヨーロッパ人であった。プルジェワルスキーは次のごとく述べている。
「(タヴェク・ケールから)三日の行程にして我々はマサール・ターグ山脈がその左岸にそびえるホータン河《ダリヤ》の岸に到着した。この山脈の東部はその幅一マイル四分の一を超えることはなくその高度は付近の土地よりも約五百フィートだけ高くなっている。それは驚くほど異なった二つの平行した山稜から成り立っている。南の山稜は多数の石膏鉱床の点在する赤色の粘土板からなり、北方山稜は白色の雪花石膏《アラバスター》の塊である。ホータン河《ダリヤ》から十六マイルの距離にあるマサール・ターグからは火打ち石が産出され、ホータンに運搬されてそこで売却される。これから先は砂漠の中に溶け込んで山脈の形は我々の視界から消えている。しかし山脈は北西に屈折し中央はいよいよ高度がまし、カシュガルの河岸にあるマラル・パシイの堡塁近くまでのびている、と土地のものは語っている。この地方にはまったく草木のたぐいは生じない。山脈の両側はその中腹まで流沙に埋もれてしまっている」
原地民からえた材料によってプルジェワルスキーは、彼の作った地図にこの山脈が砂漠を斜に延びているように記載しているが、彼の誤謬《ごびゅう》はまったく当然であった。その理由は彼がマラル・パシイにもマサール・ターグという山があることを聞いたのでその山がホータン河《ダリヤ》のマサール・ターグであると思い込んだのであった。ところがキャレーの方はもう少し用心深く、地図には河から見得る限りにおいてのみ山脈を記載した。
以上から私は次のように想像した。もしメルケットから東あるいは東北東に進むときはいずれはマサール・ターグ山脈に行き当たるに違いないと。そして私もまたこの原地民と同様に流沙のない山脈の風陰の土地が存在し、したがって固い地の上をたやすく旅行し得るものと確信し、古代文明の遺跡の発見の可能性もあるものと考えた。私のたずさえている地図によって砂漠横断の距離は百八十マイルと推定し、一日に十二マイルを進むならば全行程を十五日くらいで踏破しえるであろうと考えたのであった。したがって我々の携帯した水の量はいかに考えても十分なはずであり私自身自分の計算に満足し、この旅行はさして困難なものではあるまいと思った。ところが実際にあたってこの旅行は二十六日間すなわち私の期待のほぼ二倍を要したのである。
四月十日。日の出前から庭は騒がしく、各種の箱・包み、その他の行李《こうり》が運び出され、重量を測り適当にラクダに積み込む準備がなされ、ある荷物は綱で縛りつけられた。これが終わると全部の荷物を二列にならべてラクダがその間に入り膝を折ってうずくまるとただちに背に載せ得るようにした。かくして積み込みが終わると我々は数カ月を支え得る用意に種々の品物、すなわちとくに米・パン・乾燥および缶詰め食糧・砂糖・茶・野菜・麦粉、その他をたずさえてこの砂漠横断に上ることになった。私としてはホータン河《ダリヤ》を去ってからさらに西蔵《チベット》に入るつもりであったので、これらの品物の他に多くの冬服類・毛氈・絨毯等を携行することにした。さらに私は数千枚の乾板と写真機、数冊の書物、毎晩一冊ずつ読むつもりにしていたあるスウェーデン語の雑誌一年分、七輪一揃え、金属製の台所用具、三挺のライフル銃、拳銃六挺、弾薬二箱等をも持参することにした。以上に加えるに二十五日分の飲料水をたずさえているのであるから、ラクダ一頭あたりの荷物の重量はかなりのものになることは明らかであった。
ラクダに荷物を積んでいる間を利用して私は最初の四百メートルの基線を測定した。ボグァラはこの基線を歩むのに五分三十秒を要した。等高線はかなり変わり、かつ砂の深さによってラクダの歩行速度が違うのでこの測定は毎日繰り返さなければならなかった。
一八九五年四月十日はメルケットの年代記に記されるに足る日であったかもしれない。庭という庭、あらゆる家の屋根という屋根は群集で埋まり、我々一行の出発を見送った。「あの一行は決して再び帰って来はしないだろう――決して帰って来ないに違いない」と彼らが話し合っているのが聞こえた。「ラクダの荷が重すぎるから、深い砂の中を越えていくことは決してできないに違いない」しかしこのようなつぶやきは少しも私の苦にならなかった。脚下の土地は焦げつくように暑かった。群集の口々にする縁起の悪い予言の中にただ一つ私の門出を祝福してくれたのは、私がラクダに進行を命じたとき、インド人の金融商人が数十枚の銅銭(真ん中に四角い穴の開いた中国の青銅銭)を私の頭の上で撒いて、「ご無事に」といったことであった。
ラクダは四頭ずつ二列に結びつけられた。ラクダの鼻の軟骨には穴がうがたれて棒切れが通されている。この棒切れの一端に結びつけられている綱はすぐ前のラクダの尾に緩やかに結びつけられ、後ろのラクダが転んだ場合にはこの結び目はひとりでに解けるように工夫されていた。
この棒切れの他の端には瘤ができていてラクダの鼻から滑り落ちないようになっていた。若いほうの四頭は第一列になり、次に私の乗っているボグァラが進み、その後ろにババイ、アク・ツヤ、ネェルの順で続いた。モハメット・シャーは決してボグァラの綱を離さないので、私自身は自分の乗っているラクダに気を配る必要はなく、ただすべての注意をコンパスに注ぎ、方向を指示し、行程を測定し、そして過ぎ行く土地の観察を十分にするだけでよかった。イスラム・ベイはきわめて巧みに私の荷物をラクダにつけてくれた。私の荷物は観測用の器具を入れた二つの箱と野営の時に必要な品物とであった。ラクダのコブの間の二つの箱の上に彼は毛皮と絨毯とクッションを縛ってくれたので、私は前のコブの両側に足を垂らしあたかも安楽椅子に座っているような具合に心地よく乗っていることができた。すべての準備が終わったとき、私はニアズ・ベックに別れを告げた。私は出発の前に彼とヨハネスとハシムには相当のお礼をしておくことを忘れなかった。宣教師ヨハネスはすでにライリックで私とともにタクラマカン横断を試みるつもりはないと申し出ていた。そして今私のカラヴァンが出発しようとするのを見て、かれはまったく意気喪失してしまって私を見捨てて去ることになった。彼の表面の敬虔らしさは危険に直面して消え失せてしまった。彼は人をして神に絶対の信頼を抱かしめる原動力である勇気という性質を欠いていたのである。これに反して回教徒イスラム・ベイは善良にして忠実な召し使いの典型であった。彼は幾日でも幾月でも彼の主人の行くところには何らの躊躇もなくしたがって来た。たとえ慎重な考慮からすれば当然避けるべき危険の中に私が飛び込んでいったときにさえも。
春が訪れて四囲の変化は日一日と目に見えて現れて来た。気温は少しずつではあるが絶えず上昇をたどって来て、最低温度も常に零度を超える程度にとまり、太陽の光線はしだいに強さをましつつあった。春風のそよぎは耳に聞こえだし、畑には穀物が播かれ、田には水がそそがれた。大気は小さい昆虫の羽ばたきとうなり声で生き生きと活気づいた。アジアの美しい春がかくて我々の周囲に訪れて来たのだ。そして我々はこの春のさなかに、死のごとき千歳の眠りの中に抱擁され、そこに横たわる砂丘はことごとく墓所であり、気候に較べてはいかなる酷暑といえども微笑むごとき春にすぎない土地を目指しての旅路に上ったのである。
人の密集する町の中の狭い道をラクダの一列が首をもたげ厳粛げに通過した。それはおごそかな光景であり、この行列を見守る人々は深い印象に打たれたようであった。死のような沈黙が群集を支配した。この瞬間を回想するとき私は、常に葬送の行進を思い出さずにはいられないのである。今でもこの耳はこのカラヴァンの鈴の単調な音を聞くことができる。そしてこの緩やかな悲しげな音は、実に、恐怖の砂漠中の荒廃した流沙の中の悲劇に向かって進みつつあった我々の大部分の者に対する弔鐘《ちょうしょう》なのであった。
町の四囲は平坦で、町そのものは白楊樹《ポプラ》と畑と森と果樹園とそして灌漑用の溝との間に散在していた。半時間ほどの間我々がこの美しい景色の中を縫って進んだとき、突然恐るべき騒ぎが持ち上がった。元気のあふれた若いラクダが手綱を断ち切り荷物を振り落とし犬の仔のように跳ね回り、彼らの走った後には黄塵の雲が立ち上っているように見えた。二個の水槽を載せていた一頭は水槽をついに振り落としたので一つの水槽には孔があき水が漏りはじめたが、幸い穴は上部に開いたので、損害は比較的軽くて済んだ。この二頭の暴れラクダは難なく取り押さえられ再び荷物が載せられ、そしてこの二頭は別々の列につながれた。我々一行は幸い町外れまで、百人以上の人々が騎馬で見送るためについて来ていたので、この騒ぎはただちに取り静めることができたのであった。一時間後にまた他の二頭が暴れだし、いろいろの荷物が投げ出され傷をつけられた。弾薬箱もまた道路に落とされて引きずられた。モハメット・シャーは「永い休息の後にはラクダは常に人のいうことを聞かなくなる、それは彼らの四肢を伸ばすためなのだから二、三日歩き続ければ彼らは羊のごとく従順になる」といっていた。この騒ぎに懲りてから、ラクダには一頭ごとに人を一人つけることにした。
しかしながらこの探険の出発後一日二日の間は我々は予期しない色々の障害と闘わなければならなかった。例えばラクダの左側の荷物が右側の荷物より重かったのを調整したり、米袋が滑り落ちそうになったのを固く結びつけたり、色々のことが相次いでおこった。
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第五章 砂漠の外辺
二日めの旅路はより静穏に,そしてより秩序よく進行した。最初の日の経験から我々は荷物をより巧みに平均を取って積み、また最も貴重な品物――その中の第一は水であったが――は一番穏やかなラクダに載せた。私自身は地面からかなりの高さに座っているわけで四方をよく眺望し得た。最初はラクダの動揺のため私はいくらか目眩《めまい》を感じたが,まもなく単調な絶えまない前後の動揺と左右への一種特別の動揺に慣れてしまい全然不快は感じなくなってしまった。しかし私はこのような一種の船酔いに似た気持ちは誰にとっても不快な感じであるに相違ないと思った。
メルケットの最後の人家と畑とを後にし、我々はいたるところ草むらとやぶとがかなり繁茂している平坦な草原《ダシュット》に行き当たった。西北西の疾風が吹き荒み、灰黄色の「砂竜巻」は高く東方に向かい、その上端は風の方向に少しく屈折していた。地面の、一部分は微細な柔らかい砂に、一部分は結晶塩によっておおわれている所を過ぎて、まもなく小さい低い砂丘のみの地すなわち砂の隆起以外には何ものもない地域に進み入った。しかしこの地域は狭く細長い形をしていることがすぐ判明した。すなわちこの地域の一端にある主としてカミッシュ(蘆)と白楊樹《ポプラ》とからなる繁茂した植物帯に行き着いたのであった。そしてここで我々は深い渓谷の縁に野営することになった。
半時間後、我々は全部の荷物をラクダからおろし、ラクダを円形につなぎ、膝をおることによって起こる脚の麻痺を防ぐようにした。こうして二時間ばかり立たせておいた後に蘆を自由に喰《は》ませるために綱を解き放った。多くの荷物と動物を擁する我々のキャンプはあたかも一個の絵画であった。そしてこの光景はこれらのすべてが私のものだということを考えるとき、私にこよなき満足感を与えるのであった。マッカートニー氏が私に寄贈してくれたテントは小綺麗なインド軍士官用のテントで、私はそれを白楊樹《ポプラ》の下に張ることにした。このテントはその中でダヴィドソン中尉がパミールからカシュガルへの旅路の間に亡くなった由緒つきのものであったが、よく消毒してあったし、私は別に迷信的観念は抱いていなかった。テントの内の地面は彩った絨毯で敷きつめられその中には私の箱類・機械箱・写真機および簡素な寝室が置かれた。その他の箱や荷物は水槽とともに野天の下に置かれた。他の者は焚火を燃やしその周囲にしゃがんで晩餐――ライス・プッディングとたくさん持ってきた鶏卵との――用意をした。羊は草を喰みつつ歩み、鶏は料理鍋からのこぼれものの間を気楽そうに遊んだ。そして犬は投げ与えられた肉を飲み込んだ後、砂丘の間をお互いに追いつ追われつ駆けめぐった。こうして我々のキャンプの光景はまったく一枚の牧歌的な絵のようであった。
キャンプができると、私のまず第一の関心事は我々の行く手をはばんでいる渓谷の調査であった。それは北から南に走りチスナップ河《ダリヤ》の一支流によって生じ今は涸渇しているものに違いなかった。それは幅二十フィート、深さ五フィートを有し、試みにその底を掘らせてみたところが三フィート六インチに及ぶやいなや水が滴り出した。水の温度は摂氏九・九度であったが、このときの大気の温度は二四・八度であった。水は苦くかつ飲むと胸が悪くなるようなものであったが、犬も羊もむさぼるように飲んだ。しかしラクダには翌朝出発の一時間前まで水を飲ませないでおいた。
出発のはじめから我々は飲料水に関しては極度の節約をしなければならなかったので、皿洗いや鶏卵を茹でるためや水浴には渓谷から得た水を使用した。モハメット・ヤクブはキャンプまで一緒についてきて我々にとっては最も歓迎される贈り物である新しい河水を入れた銅製の水容れ二個を寄贈した。カラヴァンの全員はその水で飽くまで渇きを癒したので我々の水槽の口を開く必要はなかった。
この日は暖かかったが、しかし日が暮れるとたちまち我々は身に寒冷を覚え、上衣を重ねなければならなかった。夜は死せるがごとき静寂が支配した。天幕の垂れ扉を開けても内のロウソクの焔は決して震えることはなかった。我々の「砂漠の人」はまず彼の砂漠に関する知識の一端を披露した。彼は最初に数日間ヤルカンド河《ダリヤ》の右岸に沿って行進し、チャクマックと称する山と、北流する河に連結するある大きな湖水のところまでいたることを我々にすすめた。彼は次のごとく述べた。その場所に達するためには十八日間を要し、さらにそこから一日の行程でマサール・ターグすなわちこの地方における最高峰にいたる。マサール・ターグから東の方ホータン河《ダリヤ》にいたる道路は遠くない。チャクマック山の北には黄金探求者達が常に往来する路が存在し、その路はヤガチ・ニシャン(道標)に達している。この道標の向こうに横たわる砂漠はキルク・シュラックすなわち「四十の町」という名前で知られているが、その理由はこの砂漠中に多数の古代都跡が流沙に埋もれているからである。
四月十一日。静寂なそして爽快な一夜の眠りの後、我々は日の出前に目覚めてこの日の天候はきわめて不快であることを見いだした。強い北東風がキャンプを吹き鳴らし大気は塵をいっぱいに含み、天幕のごく付近以外の視界は灰色にもうろうとかすんでいた。
荷物を下ろし天幕を張るにはきわめてわずかの時間しかかからなかったが、反対に荷物を全部積み込むには朝食の用意の時間を入れて二時間は十分にかかった。ラクダは荷物を乗せられることをいやがったが、その後の行進の間は穏やかであった。植物はしだいに影をひそめ、我々はその大部分が南北に向かっている高さ十五フィートから二十フィートの不規則な形の砂丘の迷宮に迷い込んでしまった。我々はできるだけこれらの砂丘の裾を縫って進むようにしたが、それでもあるときは険しい丘陵を超えざるを得なかった。これらの丘陵の二、三で水槽を運んでいるラクダが転んだが、幸いなことにはともに前脚をついたのみで事は済んだ。それでもなお我々は転んだラクダの背から荷物を下ろしてやり、また再び積む手数をかけなければならなかった。ラクダは後脚を制動機として使用して、きわめて巧みに砂の傾斜面を滑り降りた。ちょうど正午に我々は高い砂丘に閉じこめられ、やむなくこの砂丘の間を脱するために北方に一時進路をかえた。ヨルチは、東の方向はチョン・クム(大きい砂)にみたされているのだから、どうせ引き返すより他はない、したがって東に進む必要はないと主張した。この日たどった我々のコースは「大きい砂」の縁に沿った波状の線であった。砂丘は再び十フィートの高さに低まり、そして時々はやや平坦な柔らかい塵の上を行進した。そしてたびたび三日月状の砂丘の角の間の行きづまりに乗り入れ、やむを得ず引き返さなければならなかった。ときに我々は四、五本ぽつんと立っている白楊樹《ポプラ》と萎びた蘆に行きつき、ラクダはその側を通りながら口に葉をくわえるのであった。
北東風は終日吹き続いた。空は灰色に曇り、変に冷たかった。黄昏にいたって我々は行進を止めたが、この日の行程は十三マイル四分の一であった。そしてかなりよく乾燥した固い平坦な砂丘の頂上に野営の天幕を張った。その近くには枯れた白楊樹が数本立ちならび我々はその枝で火を燃した。また、ラクダには蘆の葉を飼料に与えた。一行が行進を止めたとき、ラクダは長い歩みの後で汗をかいていたので風邪を引かせないためにしばらくの間緩やかな散歩をさせなければならなかった。
二つの丘陵の間に湿った砂地を発見したのでそこに井戸を掘り二フィート半にして水に達した。水の温度は摂氏九・五度で前日渓谷で掘った水と同様に黒ずんでいた。
四月十二日。東の方向に岬のように走っている巨大な流沙の荒れ地の縁にそってほぼ十五マイルを進んだ。この岬状の流沙をいくつか越さなければならなかったが、あるところではこの荒れ果てた砂漠は、ガラスのように固くしおれちょっと触れただけでかさかさと音を立てて崩れ落ちる草むらの点々とする草原《ステップ》に変わった。固い平坦な地面は行進しやすいのだが、ときにはこの種の地面が塵におおわれて、平たいラクダの足痕が深く刻まれて残るところがあった。塵は羊毛のごとく柔らかく、そして二、三の場所ではラクダの膝を没するほど深いところもあった。時々ラクダの蹄の下で音を立てて崩れる薄い結晶塩の殻が砂地の平坦な部分にひろがっている場所もあった。厳粛じみてそしてのろのろとこの不格好な獣は、不時の用意のためにするがごとく、近くの草を過ぎつつむしり取りながら、首を長く伸ばして順々と歩みを続けるのであった。
第三キャンプにおいても例のごとく二人の男は井戸を掘ったが、六フィート以上掘り下げることができず水はなお出てこなかった。しかしながら二時間ばかり掘った井戸をそのままにしておいたところが、その底の方に小さな水溜まりが生じた。犬と鶏は常にすこぶる関心を寄せて井戸を掘るのを見守っていた。彼らは何のために我々が地面を掘るのかをよく知っていた。そして彼らは常に渇していたのだ。今までのところすべてはうまく行っていた。用意してきた貴重な水は手つかずに残っていた。ラクダの秣《まぐさ》もまた減少していなかった。ラクダは蘆を喰《は》み黒ずんだ水で満足していたから。また犬にはパンを与え鶏は卵の殻と穀粒で飼ってきた。鶏は第一日目は三つの卵を、第二日目は二個、第三日目には三個を生んだ。しかし我々は他でたくさん用意してきたので生みたての卵は食べてしまわないで籠の中に藁を入れて貯蔵しておいた。
この日の行進中に我々は南東に向かって走ったカモシカの群れの足跡を見出した。ヨルチはその方向にはエシル・ケール(緑の湖)と称されている大きな湖があると言った。しかし、彼自身も、また彼の知っている誰もその湖を見たことはなく、ただ彼はその存在を耳にしていただけのことであったので、この説はただその程度の確実性を有するものにすぎなかった。彼はさらにその湖には流れが注いでいるわけではなく、泉の水で充たされているのであると付け加えた。しかし、古地図にはこの名前の湖が記載されているということは注意に値する。ただしそれは異なった方向すなわち第三キャンプから南南西の方向に存在するように記されている。
四月十三日。朝までのうちに井戸の中には水が七インチ溜まっていた。この日の行程十二マイル四分の三の間、我々はただ砂丘の間のみ歩みを続けた。砂丘はすべて三日月型をなし、その外側は東を向き両端は西あるいは南西に向かっていたので、この時期の風は主として東または北東から吹いてくることが推測された。
この日の旅路には白楊樹をたびたび見かけたが、その中のあるものには芽がすでに萌え出ていたので、その緑の房をラクダはむさぼり食べた。多くの場合砂丘は白楊樹を避けているように見え、窪みの中に樹を残して円を描いていた。そしてそこには風の陰になって乾燥した枝やしおれ落ちた葉が小さい堆積をなしていた。
この日は暖かかった。犬は我々が砂漠の中に掘った井戸に似たようなくぼみを見つけしだい駆け寄って水を求めた。他に日陰が見当たらないので彼らは白楊樹の木陰を見出すたびにそこへ駆けつけて、まず砂を掻きのけ夜間の冷気がいくらかでも残っている層の中に身を横たえるのであった。
イスラム・ベイは我々一行の道案内であるヨルチが率いている一番先のラクダに乗っているので、イスラムの方が眺望がきく位置にあった。それでしばしばヨルチの誤りを指摘し行進の方向を正した。しかしこれは曲がった性質を有する「砂漠の人」の怨みを買い、ヨルチは数回おもがい〔馬具の一種〕を捨てて砂上に身体を投げ出し、イスラムに自身でカラヴァンを案内したらよいではないかと言って挑戦しかけた。我々が野営の場所に着いたとき、この二人の間に激しい喧嘩が持ち上がり、ヨルチは私の天幕にきて、もしイスラムが干渉するくらいならば自分は帰ってしまう方がよいと思うと告げ、またイスラムはパンを出し惜しみすると言った。しかし私が彼に対してそれでは帰ってもよいが去る前に一カ月分の賃金として前渡しした百テンゲーを返していくように、と言ったとき、ヨルチは驚いて熱心に一行と共に止まらせて貰いたいと懇願したので、私は以後イスラムの命に服従することを条件としてそれを許してやった。同時に私は砂漠における寂寥《せきりょう》と単調な生活の中で再びこの二人の間に起こるかもしれない争いに想到して危惧を抱かざるを得なかった。しかしそれ以上の争いは生じなかった。イスラムに対するヨルチの怨恨はしだいに増していったが、ヨルチは口を開くのを努めて制し常に一人のみでおり、決して、他の者に言葉をかけず、また眠るときも残りの者から少し離れて横たわり、またイスラムやその仲間が寝るまではキャンプ・ファイアのかたわらに行くこともしなかった。彼らが、ヨルチは一行を故意に誤った方向へ道案内をしていると私にそれとなく注意したのは正しかったのかもしれない、もしそうであったとしたら彼はその罰を受けたのであった。彼は後に砂漠の中で渇き死をしてしまった。
この日は三フィート四分の三だけ地面から掘り下げることによって水に達することができた。その温度は摂氏一〇・四度。犬は非常に渇して我々の掘った穴に飛び入ろうとするので、我々はそれを防ぐために犬を縛りつけざるを得なかった。
四月十四日。復活祭。この日の行程十一マイル半のみ。ある場所の砂丘の片側は鋼のような灰色を呈していた。調べてみたところが、これは雲母の殻におおわれていたためであった。私はまた緑の白楊樹《ポプラ》は砂丘の間の地にのみ生えているという発見をした。砂丘がつきると白楊樹もまた影を潜める。この樹木あるいはこの樹木の根は砂丘の形成を助けるのであろう。
次いで我々は、あたかも地上に横たわっている丸木の材木のように見える黄色の砂でできた低い砂丘がその上を走っている、雑多な褐色を有する固い平坦なそしてまったく荒蕪そのものの帯状の砂漠に達した。この平坦地の上には多数の小さい石塊が散在していた。この日の行進中に、我々ははじめて野生のラクダの足跡に行き当たった。ヨルチはそれは野生のラクダによってしるせられたものだと言ったが私は半信半疑であった。しかしもう少し進んだところで足跡は多くなっていた。むしろ消極的な推測であるが、人間に飼い馴らされたラクダは自ら砂漠中にさまよい出ることはまずないように考えられた。我々はまた馬の糞と馬の足跡とを見た。そしてヨルチは野生の馬が砂漠のこの部分に棲んでいると断言した。私は砂丘の頂上に少しの間止まって北方遥か彼方の蘆の草むらに草を食している動物の群を望遠鏡で観測した。しかしそれが馬であるかあるいはカモシカであるかを判別し得る以前に彼らはさらに北方に走りさって姿を没した。乾燥した灰色の粘土は奇妙なことには、あたかも灰色の粘土で作った家屋のように小さな台地や丘陵を形成していたので、私はすぐかたわらまで行って調べてみた。
この日犬は何となく騒がしく、数回カラヴァンから遠く走り去り、あるときのごときは十五分間も姿を見せなかった。そして帰ってきたときには体中濡れ鼠になっていたので、彼らはどこかで水を見つけたに相違なかった。約十一マイル半ばかり進んだ後に偶然水たまりにぶつかった。私はカシムにその水を味わってみるように命じたところが、一口飲んで彼は「蜜のように甘い」と叫んだ。そこで、我々は天幕を張り、この水溜まりの側に野営することにした。人間・犬・羊・鶏、すべては渇きを癒すためむさぼり飲んだ。この日は暑かったので我々はみな喉がひどく渇いていた。水は水晶のごとく透明でそして甘く、泡と共にこんこんと湧き出し、長さ約八、九十ヤード、幅約四ヤードくらいの窪みに注いでいた。この水溜まりの水はちょうど我々の掘った井戸くらいの深さのところにあるわけであった。すなわちこの水溜まりは四フィートよりは深くなかった。水温は午後五時に摂氏二一・九度であったが、このときの気温は摂氏二五・五度であった。水中にはミズスマシや甲虫の種類がたくさん泳ぎまわって、そのあるものは岸に上がってくるので鶏が追いかけた。羊の最初の一頭をここで屠殺し、血とクズ肉は犬に与えた。砂漠中にいるということを考えれば、この場所の光景はまさに牧歌的な情緒を漂わせていた。
太陽は塵の烟霧《えんむ》の中に姿を没したが、その位置はなお水地平線上二十度であった。そして温度は驚くほど急速に下降した。夜の九時までに泉の水温は摂氏一五・二度に下降し、水温は気温によって変化するということを証していた。
この快適な宿営地は、我々を誘って人間にも動物にも等しく喜ばれた一日の休息を取らしめたのであった。我々はことごとく長時間の熟睡をとり翌日は一日かかって荷物の整理をし、水槽を充たし、衣服を洗濯し、そして鞍や手綱を修繕した。この日は暑く熱砂の温度は摂氏四四・六度に達した。しかし竜巻きが二、三回北北東から来襲し気温は見る間に低下したので、その間に我々は好きなだけ水をむさぼり飲んだ。ラクダや犬は皮膚が見る見るうちに膨れ上がるほど多量の水を飲んだ。この一日の休息は鶏にも好影響を与えたものと見えこの日は四個の卵を生んだ。犬はこの日の夜じゅう絶えず吠え続け、一行がたどって来、そして我々が野生のラクダの足跡を見つけた道を走り歩いていた。この砂漠を棲み家とする動物が夜の間に泉を訪ねる習慣を持っていることには疑いがなかった。そして我々が彼らの泉を占領しているのを見て、この夜は少しく離れた場所に宿ったに違いなかった。
四月十六日。我々は十五フィートないし十六フィートの高さの砂丘と、ラクダが上を通るごとにかさかさと鳴りちょっとした塵煙をあげる草原《ステップ》との入り交じった土地を十六マイル四分の三行進した。蘆と白楊樹は所々に草むらをなして存在していた。一行は二個所の水溜まりの側を通過したが、それは我々が今朝去ってきたばかりの水溜まりとよく似たものであった。この三個所の水溜まりは東北東に延びた一線上に位置しヤルカンド河《ダリヤ》の旧河流上にあるように考えられた。
我々はしだいに未知の大砂漠にさしかかりつつあった。なんらの生命のしるしもなく、ただラクダの脚の上げ下ろしにあわせて聞こえる鈴の音以外にはなんらの響きもなかった。我々はたどるべき道筋がよくわからなくなったときには時々しばしの間休憩し、そしてその機を利用して私の従者たちは木の鉢にいれた水に浸したタルカン(炒《い》った麦粉)の簡単な朝食を済ませた。水槽の水はこの日かなり生温かくなっていた。私自身は常に朝食の時間を失し一日二食で済ました。
四月十七日。この日は快い西の微風が吹いたが、空はまったく清澄であった。私は数回にわたる経験で塵の暴風は東風あるいは北東風のみによって生じるという事実を発見した。そして西風のときにはいかに強い風でも空が澄み渡っているということを知った。
あまり進まないうちに我々は雲かあるいは地平線上の大気が少しく厚みを増しているかのように見えるかなり高い山の形を北方に見出した。一時間一時間一行はその方向に進んでいくのであるが、山の姿は一向にはっきりしなく、いっこうに近づいてくるようには見えなかった。砂丘の高さは十六フィートに達し、しばしば越えるのに難儀をした。砂丘の間の蘆の草原《ステップ》はしだいに多くなり、蘆はしだいに茂みを増していった。我々のカラヴァンが近くを通るときこれらの蘆の草むらから数匹の野兎が跳び出すこともあった。この日我々は二、三の水溜まりを見出したが、ことごとく塩分を含有した層で囲まれ、水は黒ずんだものであった。東北東に向かって流れていた河の旧河床が砂漠を波状に曲がりくねって横ぎり、なかば砂で埋まり所々に水溜まりが断続しているのみのこの旧河床の幅は約四十五ヤード、深さは六フィート半であった。まったく乾燥しきっているもう一つの河床の幅は二十二ヤードであった。北の方角にあたって数個の黒い綿毛状の雲が地上から立ち上る煙のごとく見えていた。ヨルチの説明によれば我々の見た山脈はヤルカンド河《ダリヤ》の右岸すなわち東岸にそって下流に向かい走行しているマサール・ターグの南東の山続きであった。そしてこの二つの乾燥した旧河床は夏の氾濫期に水の一部分が注ぐヤルカンド河《ダリヤ》の支流であった。また北方に見えた雲はヤルカンド河《ダリヤ》の流れか、あるいはその蒸発気の幾条かが清澄な青空に反射したものであるとのことであった。ヨルチのこの説明は正しかったのだ、私は後に彼の言ったことの二、三を確かめてみて間違っていなかったことを知った。
まる一時間一行は東経十五度を北方に走っている二つの平行した砂の丘陵の間を行進し続けた。右側の丘陵は高さ三十フィートを超過していた。そして二つの陵の輪郭は共にむしろ滑らかな半円形をしていた。その間の平坦な草原《ステップ》はアザミと白楊樹とが繁茂していた。かくして行くこと十七マイル半にして葉の茂った二本の白楊樹の木陰に第七キャンプを設けた。ここでは水を求めて掘る必要はなかった。湖水あるいは流れが遠からぬところにあることはきわめて明らかであった。我々のキャンプの北には白楊樹の繁茂した森があった。蚊や蝿や蛾は群れをなして飛び廻り、夜に入ってからは私の野営のロウソクの周囲に何百となく蛾が集まってきた。
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第六章 地上の楽園
四月十八日。この日は清々《すがすが》しい北東風で明けた。夜の間におもりはつけておいたが、それでもともかく天幕が倒れそうになった。空は隅々まで灰色に閉ざされ、昼間も暑さを感じないほどであった。我々は夕刻前には到着できるであろうとの考えから、前方に見える山脈の最高点に向かってまっすぐ進むことに決した。しかしこの期待は外れた。我々は白楊樹林の中に道を迷い、山脈の姿は塵に閉ざされた大気の中に消え失せた。
あらゆる方角に不規則に走っている砂丘が周囲を閉ざし、これらの砂丘の上には大きな白楊樹が林を、森をなしていた。地面にはしおれた落ち葉や、枯死した幹や枝が散乱していた。このような林の中で我々は何百回、何千回となく右往左往した。一行はついに春の装いに青々とした葉を繁らせている白楊樹が周囲に立ちならんだ大きな沼沢に行き着いた。そしてここで人間や馬の足跡やまた火を燃やしたことを示している灰や焦げついた木片を発見したことは予期していない出来事であった。これによって、ドロン族の春期の牧畜地であり、かつマラル・パシイの住民が燃料を採取する土地にたどり着いたことがわかった。
我々の行く手はまもなく沼沢地から流れ出る狭い数条の小川《クリーク》によってはばまれた。小川を越えるためにまず一人は素足になって流れに入り、深さを測った。河の底は固い粘土で十分ラクダを支えるに足りた。さらに行くことしばらくして、北方にひろがる長大な湖水中にこの沼沢の端がつながっていることを見出した。我々はその東岸に沿い、この清澄な水に向かって傾斜しているかなり高い砂丘の側面を伝って進んだ。林はなお繁茂し、ある場所ではあまり茂みがはなはだしいので、もっと濶《ひら》いた所に出るために迂回しなければならなかった。一行は樹林の間に見え隠れする絵のごとき景色を眺めるためになるべく湖水に沿って行進を続けた。鮮やかな緑の葉は濃い青色の水とはっきり対照し、そして水と林との背景は共に灰色の靄《もや》に閉ざされていた。
湖水の幅も広いところでは二マイルにおよび、その北および東の端は非常に狭くなっていた。この湖水の成因は疑いもなくヤルカンド河《ダリヤ》であって、夏期の増水期の氾濫が溜まったものである。冬期においても水の大部分はそのまま残り、氷結し、そして春になって融け始め、夏の氾濫が水を増すまではしだいに水準がさがるのである。砂丘の側面に水準の跡がしるされていることから見て、前年夏期の水準は我々が到着したときの水準よりは半ヤード高かったということがわかった。
ついに、一行は湖水を左方に見てしだいに遠ざかり、たちまちにして人間の高さくらいのかつて見なかったほど繁茂した蘆の草むらの中に迷い込んだ。ラクダがこの乾燥したもろい蘆の中を歩むにつれて騒音の交響楽を響かせた。周囲を眺望し得るのはただラクダに乗った者のみであった。蘆の草むらを通過して今度はひどく繁茂した森林に入り、私は枝のために数回ラクダの背から払い落とされそうになったので、やむなくラクダをおりて徒歩で進んだ。この林の一部には、枯死した若木が立っている部分があったので、一行は道をはばまれ各々手に斧を取って途を切り開かざるを得なかった。この作業のために時間を大分浪費したが、ついに再び平坦な草原《ステップ》に出ることができた。ここで先端が南および南西に向かっている孤立した砂丘の上に今宵のキャンプを張ることにした。
この地方の地形をいくらかでも知らせてくれる者が近所にいはしないかと思ったので、我々の居場所を知らせるために砂丘の麓にあった乾燥しきった白楊樹の一むれに火をつけた。焔は遠くからも見えたはずであったが、ついに誰も我々の野営を訪れる者はなかった。我々はことごとく、この日の行程十六マイルの困難さのために疲弊していたので夜は早く寝についた。しかしラクダは最も元気であった。彼らは今まで毎日十分な飼料と水にありついていたのであったから。
四月十九日。天幕を取り外したとき絨毯の下に一インチ半ばかりの長さの蠍《さそり》がいるのを見つけたが、この毒虫は棲み家を荒らされていたのでその恐るべき尾で刺そうと暴れまわった。前日の疲労で我々がこの日出発したときはすでに九時を過ぎていた。我々が今向かって進みつつある小さな山系は東の方にかすんで見えていた。山系は南東の方向に走り、しだいに低くなり、ついに端は霞の中に消え去っていた。さらに北方にも一座の山岳があった。私の作成した旅程によれば、後者はマサール・アルディのはずであった。この二つの山の間をヤルカンド河《ダリヤ》が曲折しつつ流れているのであるが、この河は我々の視界には入らなかった。
この日我々はわずかに七マイル四分の三を進んだのみであった。この日の行路は草原であったが、この草原にはきわめて多くの渓谷と沼沢とが存在していた。山の形はしだいに明瞭になってきた。風化されてぎざぎざになった輪郭も識別し得るようになった。北側の山腹にはかなりの高さにまで砂丘がひろがり、その山麓に沿って各々低い岬によって分たれている小さな淡水湖の一連鎖があった。湖沼群中の最大のものに注いでいる水路は、これら湖沼の水が河から出ているということを証明していた。夏期の間はこれらの湖沼は収縮して単一の湖水を形成する。湖沼と山との間を縫って我々はまず東を目指して進んだ後、この山の支脈を迂回するために北東方へ進路を変えた。この日は数本の葉陰の多い白楊樹の下に湖水の岸に野営を設《しつら》えた。山はまったく孤立し、他の山との、あるいはどの方向との連繋もないように見えた。
この日、二頭目の羊が屠《ほふ》られ、数日間肉がなくパンのみを食べていた犬は久しぶりに御馳走にありついた。鷹が鶏の上をしきりに旋回していたが、ライフル銃の射撃に驚いて飛び去った。弾丸は当たらなかった。
四月二十日。キャンプの位置はすこぶる快適だったので、我々はもう一日ここにとどまりたい誘惑に打ち勝つことができなかった。夜から朝まで吹き続いた清々しい北東風にもかかわらず、この日はまったく暑い日であった。直射熱は摂氏六三・五度に昇り、午後二時における砂の温度は五二・七度に達した。我々は絶えず渇きを覚え、半時間ごとに水を飲みにいった。鉄の水槽中の水を少しばかり冷たく保つためになみなみならぬ苦労をしなければならなかった。水槽をぬれた布で捲き微風の吹く木の梢にぶら下げることによって我々は水槽の水の温度をやや冷たく保つことに成功した。
イスラム・ベイは雁を撃ちに出かけ二羽を撃ち落としたが、湖水の中に落ちたので取ってくることができなかった。その他の者は一日寝て暮らした。私自身は付近の岡の頂上に上ったが、そこでマサール・アルディで見つけたと同様の斑岩の鉱脈の走った岩石を発見した。頂上の眺望は素敵であった。西南西の方向には前日通ってきた二つの透明な湖水の水面に、山腹が砂におおわれている周囲の山が鏡に映じるように反映しているのが眺められた。マサール・アルディ山は我々の北西にそびえ、それと我々のキャンプとの間には北東に向かって湿潤な繁茂した草原の所々に水溜まりや沼沢が点在しているのが見えた。東方にもまた一つの山嶺があり、我々のキャンプにおおいかぶさっている山系と同一の山系に属する小さな風化した山の頂が錯綜していた。白楊樹林と蘆の草むらは北方に散在し、草原を緑と金色をもって点綴《てんてい》していた。山の色はしだいに菫色に変わり、水は濃紺に変じていった。黄昏が訪れたのである。
午後の冷気の中に岡の頂上に立ってこの景色を賞賛しているうちに風はしだいになぎ、太陽が沈み、草原と湖水は薄い靄につつまれ、静寂と平和とが一帯にみなぎった。耳に聞こえる唯一の音は蚊とブヨの低い唸りと沼沢中の一匹、二匹の蛙の鳴き声と遥か彼方の空を翔ける雁の叫びと、そして時々蘆の中から響くラクダの鈴の音のみであった。それは比類《たぐい》ない眺望《ながめ》であった。私はこの快い美しさを飽くまで味わった。その後に来たった日の艱難とはなんと隔たりのあったことであろう。以後二週間、私の心はしばしばこの地上の楽園の思い出に飛ぶのを制し得なかった。
しかしながら、この地方の黄昏はきわめて短いので、私は急いでキャンプへ帰った。私の晩餐――羊肉のスープ、フライド・ポテト、茶――の用意をしていたイスラム・ベイ以外の者はすでに熟睡におちいっていた。このとき寒暖計は摂氏二〇度であったが、夜が深くなるにしたがい摂氏一〇・四度にくだり寒さを覚えた。これらの湖水の付近で我々は再び人間の足跡を見出した。そして湖岸には二、三の小屋が捨てられていた。翌四月二十一日、湖水と山との間を進んでいるとき、高い砂丘の片側に白楊樹林の中を貫いているアルバ(背の高い木製の車)の轍《わだち》を発見した。我々一同はこの発見に等しく驚かされた。私の従者達はこの轍はホータン河《ダリヤ》の左岸に沿っていると伝えられている道路に違いないと主張した。しかし私はそれはマサール・ターグ山の麓を迂回してホータン河《ダリヤ》に達している、従来知られていなかった道路ではないか、との疑念を抱いた。この疑問を解決するためにどこに行き着くかということには頓着なく、この道をたどって進んでみることに決した。しかし遠くも行かないうちにこの轍は消失し、道は終わってしまった。そしてまもなく白楊樹《ポプラ》林もまた姿を消した。
その後我々は前日の野営地におおいかぶさっていた山脈と東方に横たわる山稜との中間を南東に向かって行進を続けた。我々の行く手は薄い野草に覆われた固い平坦な地で、行進はきわめて容易であった。ラクダは規則正しく歩み、鈴の音は歩調に合って響いた。東の山稜の麓には一つの湖水が横たわっていた。そして驚くべきことにその岸には人間が棲んでいることはもはや疑いがなくなった。彼らは一体何者であろうか。どこに彼らは住んでいるのであろうか。私は二人の従者に砂丘の間にしるせられて西方の山腹の斜面にいたっているこの新しい路をたどってみるように命じた。まもなく彼らはマラル・パシイの男を一人伴って帰ってきた。この男はこの地方に塩の採取に来ていたので山中には多量の塩があるとのことであった。私は彼の採取した塩を調べて見たがそれは優れた品質のものであることがわかった。この男は塩をマラル・パシイに運び、そこで市場最高の値段で売ることができるのだと言った。マラル・パシイの位置を聞いたところが、彼は北西を指し二日の行程であると答えた。その方向に見えた山はやはり我々の想像通りにマサール・アルディ山系であった。南東の地方およびホータン河《ダリヤ》の距離に関しては彼はなんらの知識をも持っていなかった。ただ彼は南の方角には砂以外のものは何ものもなくそこでは一滴の水をも見出すことはできないと付け加えた。しかし彼はその砂漠がタクラマカンと呼ばれていることだけは知っていた。
我々はこの孤独な塩採取人に別れを告げ、固い荒蕪な、そして路のない平原を南南東に向かって行進した。一行が進むにつれて右方の山の高さはしだいに減じ砂丘の頂に没し、ついに砂漠中に消え失せてしまった。したがってこの山にはなんらの連鎖がないということが判明した。我々はただこの山はプルジェワルスキーがその地図にホータン河《ダリヤ》付近に終わる、と記載しているマサール・ターグとつながった東方の山系であると推測することができたのみであった。
我々が通過しつつあった地面は固い乾燥した土地で、数千の裂け目が縦横に走っていることが、この場所は夏期中は水面下にあったことを証明していた。一行は湖水の岸に沿って進んだが、ついにそれは狭くなり少しばかり離れている沼沢をまわる迂回路を取らなければならなくなった。湖水の南岸からは数条の狭い流れがしだいに高くなっている土地に向かって指を広げたように走っていた。これらの砂漠の湖水はすべて山の麓に位置しているという事実は記載しておくに足る発見であった。
ついに一行は長い迂回路をたどって湖水の東岸に達しそこでキャンプを張った。この辺りを最後として我々はもはや新鮮な水を得ることができなくなるであろう、という想像の下に、翌四月二十二日は終日休息に費やすことにした。ラクダと羊には湖岸に繁茂している蘆を十分に与えた。私は山の頂上に登り、そこから付近を一望の下に眺めた。この山はあたかも砂漠の大洋に突出する岬のごとく南東に向かって突き出て、たいして高くはないが孤立した山頂を有していた。現に私の立っている山を除いては他にはただ一つの丘陵さえも目に入らなかった。我々は今やマラル・パシイのマサール・ターグの最南東端に到達したのであった。したがってそれはホータン河《ダリヤ》のマサール・ターグとはなんらの関係をも有してはいないのだ。南東・南・南西の方向には視界の範囲内には荒漠たる砂漠の大洋以外には何物もない。その方向の水平線はただ一直線であった。この日から以後、山脈らしいものの姿は何一つ見ることなく東南東および東に行進していったが、私はマラル・パシイのマサール・ターグの連続が再び砂漠中に現れ出るだろうと考え、また我々はそれを我々の行路の右方に見て過ぎてきたのだという考えを持たざるを得なかった。しかしそのようなことはあり得べからざることであったのだが。
日没前に我々は一同集まって協議した。ヨルチはホータン河《ダリヤ》は東にわずか四日の行程のところにあると断言した。私がたずさえていた最も正確なロシア製地図によればその距離は約七十八マイルなので、一日約十二マイル二分の一の速度をもってすれば六日にして河に達し得ることになっていた。その上ヤルカンド河《ダリヤ》の付近の経験にてらしてみても、河岸から二日の行程の所にいたれば、掘削することによって水を得ることができるに相違ないであろうと考えた。しかし私は十日の行程に対して十分な水、すなわち水槽に半分だけ水を充たすことを命じ、深い砂の中を行くラクダの疲労を減じるように計らった。そしてこれだけの余裕があれば、あらゆる危険を考慮に入れてもなお安全であると思った。これだけの水があれば、六日の間一日に二度あてラクダに十分な水を与えることができるのである。私はヨルチとカシムに水槽に水を入れることを命じた。夕方から彼らは交替でこの仕事にあたり、私は鉄の水槽に絶えずこの貴重な液体が注がれる音を聞いた。そして翌朝早く出発し得るように荷物は夜のうちにすべて準備された。
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第七章 砂漠の呪詛
四月二十三日。この日は酷暑であったが、ラクダは前日の休息で元気がつき、かくて我々は次の休憩の前に十七マイルを進んだ。最初は我々の道は湖水から南東に延び、馬の形によく似た小さな丘や台地の点々とする薄く草の生えている草原上の道であった。一時間半ほど進んだとき、砂の畦のある起伏地帯に入り、さらに十分程で相互に切れ目なく連結しあっている砂丘地に入った。砂丘の方向は北東から南西に向かい、その険しい方の側面はすべて南・南西および西に向かっていた。高さは二十フィートから二十五フィートでしばしばそれを越えるには困難なことがあった。一同はこの砂丘をヤーマン・クム(憎むべき砂)とかチョン・クム(大きい砂)とかまたイグイズ・クム(高い砂)とか呼び、その頂のことをべレス(狭い路)と称した。ここで我々は時々奇妙な砂丘の形成状態を見出した。すなわち砂の波が二本ぶつかるときには、一本は他の上に重なり、結局二倍の高さになっているのである。同様に巨大な砂の波が幾重にか積み重なるときには、その地には他の波から群を抜いて高いピラミッド形の砂丘ができ上がる。同様の現象はまた絶え間なく方向の変わる風によって二つの砂丘が交差するときにも生ずる。
北北東から南南西に向かう我々の通路に直角に、我々の視界の範囲内のあらゆるものを超える高さの巨大な砂丘の嶺が横たわっていた。これらの巨大な砂丘の群れはおそらく隆起のある地面上に形成されたものであろう。ラクダがこの険しい斜面をいささかの不安もなしに確かな足取りで上るのは驚くべきものであった。かかる坂を我々が登坂するには大努力を要し、一歩踏み出すごとに一歩後ろに滑らざるを得ないであろう。砂丘の嶺は一帯の砂面よりはほとんど見えないほど少しずつ高くなっていて、常に相当に広い視界を保つことができた。行手に幾マイルとなく巨大な砂丘が連鎖し、微細な交差のかぎりなき砂漠の大洋が遥か東方にひろがっているこの光景に見入ったとき、なぜ私は恐怖で青ざめなかったのであろうか。それは恐らくは常に頭上で輝いていた幸運の星が今消え果ててしまうとは考えられなかったからであろうと思う。否、むしろ反対に私の眼にはこの荒涼たる砂漠の海は一つの蠱惑的な美でさえあった。その深い沈黙、その防ぐものなき静寂に私は魅せられてしまった。それは巨大な荘厳な眺めであった。|未知の熱望《デジデリアム・インコグニチ》が支配する魅力は、過去幾世紀の啓示をあばくために砂漠の王の城に入り、そして古代世界の伝説や物語にある埋もれた宝を発見する、という抵抗し得ざる蠱惑を私に投げ掛けていたのであった。私の信条は「勝つか負けるか」であった。私は躊躇することを知らず、また恐れを知らなかった。「進め、進め」と砂漠の風がささやいた。「進め、進め」とラクダの鈴が響いていた。目的地に達するためには千度も千歩を行く、しかし後退は一歩でも呪いあれ。
砂丘は急速に高さを増し、最大のものは六十フィートから七十フィートに達した。かかる砂丘を越すには恐るべき努力を要した。ラクダは険しい斜面を巧みに滑り降りた。ただ水槽を積んだ二頭の中の一頭が転んだのみであった。しかし転んだラクダから荷物を下ろし再び積み上げるには手数を要した。あるときは行路が険阻な勾配にはばまれ、行進を一時停止しなければならなくなったため、ラクダのために地ならしをし、道を踏み固めてやらなければならないこともあった。砂丘の高さはついに八十フィートから百フィートに達した。その下に立って縁をよじ上っていくカラヴァンを見るときはカラヴァンはなんと小さいものかと思われるほどであった。上り下りを避けるために我々はできる限り、曲折した頂上の線をたどって行進した。その結果として一行の過ぎた道は非常に曲がりくねったものになった。なるべくなだらかな頂上を一つの砂丘から次へとたどることにしていたが、それでもしばしば頂上を行き得ないで急峻な斜面を降らなければならぬ場合に逢着した。ラクダがしばらく躊躇した後に脚下の締まりのない砂地を滑り降りはじめるときには、一同はことごとく緊張して見守るのであった。なぜなら砂はラクダの滑り下りる後から急流のごとく流れ落ち、膝まで埋めてしまうことがあるからであった。
砂漠中の旅行の最初の数日の間にはよく見かけた固い粘土地はもはや見当たらなくなった。今や一行はまったく砂の中に閉ざされてしまった。砂漠における死滅に最後まで挑戦していた蘆の草むらもすでに姿を消した。ここでは、葉の一片さえも見当たらない、すべてが砂また砂――黄色の微細な砂――である。双眼鏡をもって望む視界の限り、かぎりなき砂の原が、丘が続く。大空には鳥の影さえ見当たらぬ。カモシカや鹿の跡もない。マサール・ターグ山系の最後の岬も大気を朦朧と混濁させている塵の靄の真中に視界から消え去った。
可哀想に暑い毛皮を着ている犬はこの暑熱にひどく悩まされ、特にハムラーは吠えたり鳴き声を立てたりしながらしばしば一行に遅れがちになった。我々はまる一時間野営の場所を探し求めつつさまよい、ようやくにして蘆の草むらが二つ残っている固い粘土地を見出した。ラクダはたちまち葉をむさぼり食べてしまった。この地にはもちろん蘆以外に緑のものはない。我々はラクダに油と胡麻の殻とを与えた。井戸は掘っては見たが二フィート四分の一に達してもなお乾いた砂のみであったので、我々はこの仕事を中止した。とかくするうちにハムラーが見えなくなったので口笛を吹き、そして叫んだが犬はついに再び戻ってはこなかった。我々が通過した最後の蘆の草むらで地を掻いていたがついにそこに横になってしまったのをモハメット・シャーが見たというので、ハムラーは暑熱のために死んでしまったのだろう、と従者達は考えるようになった。しかし私は思うにこの利口な動物は砂の中を走ることにあきてこの砂漠中を我々一行にしたがって行くことはすこぶる危険である、と判断した結果湖水の方に引き返しそこで水を飲み身体を冷やしてヤルカンド河《ダリヤ》を泳ぎわたってマラル・パシイに向かって走り去ったのではあるまいか。後にカシュガルに帰ったとき、私はハムラーのことについて聞きただしてみたがなんら得るところはなかった。ヨルダッシュは我々に忠実にしたがって来、ついに砂漠中に倒れたのであった。
地上で最も惨澹たる場所であるこの砂漠中に最初の野営の天幕を張ったとき、私はまったく奇態な説明しがたい感情に襲われたのであった。一行のものはほとんど話することなく、ただ一人も笑うものはいなかった。異常な沈黙が蘆を焚いた篝《かがり》の周囲を支配した。ラクダは最後に若葉を喰《は》んだ湖水の方に逃げ帰るのを防ぐためにキャンプのかたわらにつないだ。死のごとき沈黙が我々の上におおいかぶさり、ラクダの鈴の音さえ時たまに鳴るにすぎなかった。聞こえるのはただ重苦しい長いラクダの呼吸のみであった。二、三の迷った蛾が天幕の燈《ともしび》をめぐって飛びまわっていた。この蛾はおそらく我々のカラヴァンにとまってついてきたものであったろう。
四月二十四日。私は明け方三時半の時刻に西から吹いてきた突風に眠りを破られた。沙塵は天幕の中まではいりこみ、暴風は天幕の綱に当たって音を発し、いつ天幕が裂けて飛ぶかわからぬほどであった。我々のキャンプは砂丘によって周囲を取り囲まれていた窪地にあったので風は四方から天幕に当たった。大きな砂丘が北に一つ、東に一つ、西に一つそびえ、このうち、西の砂丘は一度ほど南に偏していた。砂丘の表面は皺でおおわれこの皺は北から南に走っていた。南には第四番目の砂丘が横たわり、それは第三の砂丘にほぼ平行に位置し北に十度だけ偏していた。砂丘の険しい方の側面がここでは南および北に向かい、なだらかな方の斜面は東および北に向いていた。そして我々にとってはこのような砂丘の形態ははなはだ都合の悪い状態であった。
疾風にもかかわらず空は清澄であったが、しばらくして風は西から吹き始めた。砂塵を吹き上げるのは常に東風なのである。大気は風のためにいくらか涼しかったが、この日はかなり暑さが増した。やがて砂の雲と砂の柱が砂漠に立ち昇り、あらゆるものはたちまちに砂塵の中に呑み込まれてしまった。しかし砂塵の高さは常に十二フィートを越すことはなく、その上には常に清澄な青空がひろがっていた。そして太陽の光線は相変わらず猛烈に我々を直射しているのであった。地平線はかぎりなく褐色の靄に包まれていた。微細な砂塵はあらゆるところに――口に、鼻に、耳に――浸み込み、そして衣服にさえも浸透し、我々の皮膚は砂だらけになった。しかしこれにさえも我々はすぐ慣れてしまった。
地平線上の砂塵の靄には少なからず悩まされた。この砂塵のため我々はしばしば行進の方向を決定するのに困難を感じたのであった。この反対の現象――すなわち頂上が曇り地平線が晴れている状態――の方が遥かによかったに違いない。しかし砂丘の上から眺めると風の方向に面している縁に置かれた羽毛あるいは逆さになった総《ふさ》のような一つ一つの砂丘の形状がすこぶる明瞭になる。そしてまた一瞬間微細な砂粒が砂丘の風上に狂気の舞踏のごとく風のまにまに舞い、次の瞬間にはあたかも優れた型にしたがって熟練した技工が織りなす細かい皺のようになって静かに風下に落ち着くのが見られるのであった。しかしながら一度面を上げて砂丘の頂上を吹く砂漠の暴風を見るならば、その光景はまったく言語を絶するものであった。我々は眼を閉ざし口を結び、耳にごうごうと響く強烈な疾風に向かって頭を下げていなければならなかった。しばらくして疾風は止んだ。一行は立ち止まり文字どおり数ポンドの重さに積もった塵を衣服から払い落とした。私は幸い黒い針金で細かに編んだ雪眼鏡を数個用意していた。微細な砂粒は編み目をとおして幾分は浸入してきたが、それでもこれらの接眼鏡の効用はこの際すこぶる大きなものであった。
この西疾風はしかし一つの便宜をもたらしてくれた。この疾風は砂丘の険阻な方の面をなだらかにし、それを東側に移動させてくれたのであった。しかし結局ただ一回の涼風の力は幾世紀間積り重なった巨大な力の前には果たしてどれだけの効果を有したであろう。
この朝一行は、夕刻以前に砂丘の低い砂漠の地に達し、そこで水とそして恐らくはラクダの飼料と焚火の材料とを見出し得るであろうとの希望の下に出発したのであった。しかしそのような期待はまったく裏切られた。砂丘は高さを増す一方である、そして一行は砂漠中の未知の恐怖の中に歩一歩と踏み入るばかりであった。ただこの日は一回だけ砂丘が低くなった場所へ行き着いた。そこでは砂丘の高さは四十フィートから五十フィートであった。その荒涼たる場所で一部分粘土であり、一部分塩分の結晶した少しばかりの平坦な土地を見出した。
私の最初の考えはマサール・ターグ山系が再びタクラマカン砂漠中に現れるまでの距離を知るために南東に向かって進むことであった。ところが我々はなんら山らしいものの姿を見ることができなかったので、ホータン河《ダリヤ》への近路を取ってしだいに進路を正東に修正することにした。今やイスラム・ベイが我々の道案内となったが、彼は一行にかなり先立って歩み、最も楽な路を選び、常に手からコンパスをはなさずきわめて信頼するに足る道案内であった。彼の姿は砂丘の彼方に消え、しばしの後また次の砂丘の頂上に現れ、かくして一行はイスラム・ベイにしたがって流沙の中を一歩一歩と進むのであった。我々の進路は流沙の中を曲折する波動状の道であった。我々は砂丘の頂上をつなぐやや低い嶺をたどって一つの砂丘から次の砂丘へと進んだ。しかしイスラムが立ち止まり、ピラミッド形の砂丘の頂上に立ち、手を額にかざしてじっと東を望んだとき、私は非常に不安な気持ちに駆り立てられた。イスラムのこの様子は行手がより困難なものであることを示していた。時々彼は項垂《うなだ》れて帰ってきて「ヘチョリ・ヨック」(絶対に進むことができない)、「ヘル・タラーフ・ヤーマン・クム」(どこを見ても憎らしい砂ばかりだ)と言ったり、また単に「クム・ターグ」(砂の山)と叫ぶのであった。かかるときには一行はやむなく直線の進路をはばんでいる険阻な場所を避けるために北または南に大迂回をしなければならなかった。
一行は素足で全身汗にまみれつつ、沈黙し疲れきり地上を見つめてよりたやすい路を見出そうと努めながら――そして常に失敗しつつ――俯向いて歩んだ。時々立ち止まって水を飲んだ、しかし水そのものもすでに熱く、摂氏三〇度に達していた。水は熱せられた鉄の水槽の中で揺られるために熱くなるのであるが、水槽の加熱を防ぐための蘆もすでにラクダに与えてなくなってしまっていた。我々は発汗を増やすためにとにかく異常に多量の水を飲んだ。
カラヴァンはカタツムリのごとくのろのろと進むのみであった。我々は砂丘の頂上に登るごとに四方を見渡すのであったが、いずれの方向を見てもただ同様の単調な悲観すべき眺め――相互に入り交じる砂丘――岸辺なき大波の大洋・微細な黄砂でおおわれた山脈――のみであった。ラクダは相変わらず驚くべき確実な足取りで斜面を登りそして滑り降りていた。しかし我々は時々ラクダのために道を作ってやらなければならなかった。ダヴァン・クム(砂中の通路)と称されるこの険しい場所は我々一同の意気を少しく沮喪させた。しかし一行が砂丘の間の平坦な地面にさしかかったときにはただちに元気を回復し、新しい勇気を取り戻して「コーダ・カレサ」(神の恵み)、「インシャラー」(神の意志)、「ビスミラー」(神の名において)と叫ぶのであった。しかしまた少し進むと新たな砂丘が行手をふさぎ、新たな砂丘の嶺が視界の及ぶ限りひろがっているのであった。
付近を偵察し、そして渇きを癒すために我々は小高い砂丘の頂上でかなり永い休息をとった。可哀そうな犬のヨルダッシュと羊は渇きのために死にかかっていたので水を与えた。ヨルダッシュは水の音を聞いた瞬間は、まったく狂気のようになった。誰かが水槽に近寄るときにはヨルダッシュはたちまち駆けよって尾を振るのであった。最後に生き残った羊は犬のごとき忍耐と忠実さとをもって一行にしたがって来た。一同はこの忠実な動物を愛し、そしてこの羊を殺すくらいなら飢渇で死んだ方がましだといった。
ラクダは目に見えて疲労してきた。つまずくことがしだいに多くなり、急峻な斜面にさしかかったときには人の助けなしには上ることができなかった。その中の一頭のごときは砂丘の頂上近くに来たとき、背中の荷物を全部下ろし、鞍まで外して二個の砂丘の間の窪地まで我々が肩を当てて斜面を七十フィート滑り下ろしてやった後はじめて自分で起き上がることができたほどであった。
この日は八マイル進んだだけであった。そしてわずか八マイルの行進の後、我々は井戸を掘ってみる元気も失ってキャンプを張ったのであった。生物の跡は今や影さえなく、野営に点すロウソクの焔にも一匹の蛾さえ慕い寄ってはこなかった。死のような単調さを破る一枚の枯れ葉さえ風に伴って舞って来ることもない。我々は各々野営の準備を済ました後、座ってこの日の出来事を論じ、そして明日はいかにすべきかということを語り合った。イスラム・ベイが他の者に元気をつけるためになした努力は深く私の心をうった。彼は我々の旅行の経験について語り、アライ渓谷で我々が遭遇した大雪の例を引いて「雪は砂よりいっそう始末が悪い」といい、またムス・ターグ・アタの氷河やこの高山に登ったときの数度の困苦について語るのであった。
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第八章 ラクダついに倒る
四月二十五日。大気の清澄さのため最低温度はきわめて低下し、氷点を超すことがわずかに数度にすぎなかった。午前中北西風が吹いたため、空はまた砂塵に包まれた。したがって、この日は終日暑さを感じることなく、正午といえども温度はたいしたことはなかった。晴天の夜は放射熱の発散がすこぶる活発であった。そして次に地上にあたかも笠のごとくおおかぶさる塵のヴェールが現れ、太陽の光線は永い間土地を温めた。そのうちに空気が砂塵を含み始め、ついにはすぐ次の砂丘を眺めるにも困難なほどになった。砂丘の中間に存在する粘土と沈泥の地面は特異な形成物で、我々はできる限りこのような地面にキャンプを営むことにしていた。この種の地面はもろい含塩粘土の薄片の平坦地で、この薄片は少し触れてもただちに粉々に砕け去るのであった。薄片は同一平面に横たわるばかりでなく多くの場合数層に重なり合っていた。そしてかかる地表には砂はまったく存在せず、また草木の跡さえなかった。かかる地表が沖積層たることにはいささかの疑いもなく、恐らくはかぞえるべくもないほどの永い年月の間に乾き切ってしまった中央アジアの地中海の遺跡であって、その高さの異なる台地は異なる水準線を示しているものであろう。一般にこの粘土の地表は二檣《にしょう》帆船〔帆柱が二本ある帆船〕の甲板の程度の面積を越えることもなく、絶えることなく連続的に積層運動を続けている砂丘は粘土の地表に砂をそそぎ、それをおおう傾向にある。
朝になって私は最も恐るべきことを発見した。前日私は水槽中の水がしきりに揺れていることを知ったので、この朝私はその原因を確かめるために、水槽のふたを開けて中をのぞき込んだところが、驚くべきことには水槽の水はわずかにあと二日分を余すにすぎないことを見出したではないか。愕然として私は従者一同に対し、なぜ私の命令にしたがって十日分の水を入れて置かなかったかと詰問した。ところが、彼らは水槽の水に関しては一切をヨルチが処理したので彼に責任があると答えた。で、私はヨルチに命令に違反したことをなじったとき、彼は「砂漠中の湖水の最終のものから再び地中を掘って水を見出し得る地まではただ四日の行程にすぎないのだからそれで十分やってゆけると思った」と答えるのであった。ヨルチのこの返答は私の地図に現れているところとまったく一致していた。それ故私はこの男の知識が今までも正確であったことに鑑み、一切彼のいうことを信頼することにした。我々一同は一人の例外もなく西に戻ると同様に東に進むときは一歩一歩水に近づくことになると確信していたのであった。したがって誰一人として最後の砂漠の湖水の方向に帰ろうという者はいなかった。しかし後になって考えてみれば、このとき最後の砂漠の湖水の方向に立ち戻っていたならば、我々自身にも、また我々の運命を気遣っていた人々に対しても、いかに多くの損失と悲しみとを避け得たことであったろう。しかし一同はとにかく現在残っている水を極度に節約すべきこと、水を黄金のごとく大切に扱うべきことに一致した。私は密かにイスラム・ベイに命じて、一刻も二つの水槽から目を離さないようにさせた。この朝以後ラクダは一滴の水も与えられなくなった。
砂の靄のおかげで空気は清々しくそして涼しかった。砂丘の頂上は暗黒の中から幽霊の姿のごとく、また弓状の背を有する黄色のイルカのごとく、彼らに挑戦する我々の無謀を嘲笑《あざわら》うかのように浮き出ていた。濃い大気のため我々は距離と先方の見透しを判断するのにかなり困難を感じた。眺望が利かないのでいまだかなり遠くにあると思っていた砂丘の底部に突然行き着くことがあった。
我々の前方には、かぎりない砂丘の丘が続いていた。砂丘の大部分は北から南に延びていたが、最も高いものは東から西に向かってひろがっていた。ついにはこの砂の波から脱出し得るという希望をつながせてくれる粘土の平坦地は今やまったく姿を消してしまった。あらゆるものは完全に砂の下に埋もれてしまった。砂丘はもちろん砂である、そして砂丘間の凹地もまたことごとく砂になってしまった。我々は現在砂漠中で最悪の部分に迷い込んでいることは明らかであった。そして私自身は我々一行の状態がすこぶる危惧すべき位置にあることをさとり、心を痛めたのであった。
この日、終日私もまた徒歩で行進した。それによって私は一面において私の優れたラクダ、ボグァラの労を少なくし、同時に一行を鼓舞するためであった。しばしばボグァラをつないだ綱が切れた。そしてボグァラの鼻には傷がついた。ついにボグァラは砂上に倒れ、再び立ち上がろうとはしなかった。それで我々が荷物を全部下ろしてやってはじめて起き上がれたので、再び荷物をつけた。しかしボグァラはきわめてのろのろと歩みしばしば立ち止まるので、誰かが綱を引いてやらなければならなかった。こうして、ついにボグァラには荷物を積むことを諦め、その荷物は他のラクダに分けて載せることにした。そしてボグァラは一頭だけ離して自分勝手にカラヴァンの跡を追って来させることにした。この際はてなき海上におけるわれらの唯一の頼みの綱である「砂漠の船」が難破するのを見るのは耐えがたい光景であった。我々は行手の困難さが幾分でも緩和されはしないかといらいらしながら東の方を幾度となく見詰めるのであった。眼の届く限り、しかし、砂の山また砂の山であった。突然一匹の牛虻《うしあぶ》がラクダの間を唸りをあげて飛んできた。たちまちにして我々の希望はよみがえり「陸」に近づきつつあると信じるのであった。しかしそれは何でもなかった。この虻はどのラクダかの毛の中に今まで隠れていたものに違いなかったのである。
ラクダ、ババイはだんだん一行に遅れるようになったので、休養を与えるために一時間だけ行進を休止することにした。そしてババイには数パイントの水とそしてその背にあった乾草の鞍から少し草をむしり取って与えた。ババイは水と草をむさぼり呑んだ。ババイの背から鞍を取り除けて見たところが、鞍の固い部分がその背をすりむいたものと見え、黄色い肉が傷口にのぞいていた。足は震え、舌は白く乾いていた。このあわれな動物を見ることはむしろ苦痛であった。モハメット・シャーをババイの世話に残して一行は再び歩みを続けた。そして我々の耳には永い間この哀れな獣が我々を慕って啼くのが聞こえていた。
最も高い砂丘はその底部から頂上まで百五十フィートないし二百フィートあった。しかし行くことしばらくにして、また高さは百フィートから百三十フィートに減じた。
カラヴァンの周囲を二度三度旋回して砂丘の頂上を越えて姿を消した一羽のカラスを指さしてイスラム・ベイは「カルガ! カルガ!」と叫んだ。この出来事は一同の喜びを呼び覚ました。我々はホータン河《ダリヤ》が遠くない証拠であると思った。なぜならカラスが単に気の趣くままに砂漠の奥深く飛んでくるはずはありそうにもなかったから。
十二マイル半進んだとき、大きな黒いラクダのチョン・カラはもはや一歩も前進することを拒んだ。やむなく我々はここで第三号キャンプを営むことにした。我々はラクダにババイの鞍の中につめてあった乾し草を与えた。他のラクダの鞍にもすべて乾し草をつめてあったので、まだ相当多量の乾し草が用意されているわけであった。
私の晩餐の献立も日に日に単純にそして貧弱なものになり、ついに茶とパンと缶詰だけで満足しなければならなくなってしまった。私の従者達は茶とパンとタルカン(炒《い》った麦粉)だけで生活した。我々の燃料もまた欠乏しかけたので、あまり必要のない箱などを燃料として使用するにいたった。夜一同は集まって討議を重ねた。その結果我々は最も永くかかってもホータン河《ダリヤ》までは三日の旅程を余すにすぎず、かつ恐らくそれ以前に白楊樹のある地にいたり、そこでは地を掘って水を得ることができるだろう、との結論に達した。二匹のブヨが飛んできて私の天幕の中に入ったが問題はこのブヨが我々一行について来たものかあるいは付近の森から風に流されてここまで来たものであるか、ということであった。
四月二十六日黎明。まだ一同が天幕をたたみカラヴァン出発の準備をしている間に、私は独り東の方に向かう路を探すために歩き出した。この地点からホータン河《ダリヤ》にいたるまで私はすべて徒歩で歩いたので、ラクダの歩幅による距離の測定は不可能になった。しかしその代わり私自身の歩幅による測定を行った。この測定そのものは私にとって興味あるものであった。百歩で行き得る距離はそれだけ「陸」に近づくことであり、千歩はそれだけ安全への途を意味するのであった。
一方の手には羅針盤、他の手には望遠鏡をたずさえ、私は東方へ向かって急いだ。東方には「安全」を意味する河が流れているのだ。キャンプとラクダとはまもなく砂丘の頂上の彼方に影を没した。一匹の蛾のみが私の唯一の伴侶であった。この唯一の道連れに対し私は異常な親しさを感じるのであった。一匹の蛾以外には私はただ一人、絶対的の孤独でこの死のような沈黙の中に水平線の続く限り黄色の砂丘の波となって消え去る流沙の中に取り残されていたのであった。今私の周囲を支配しているよりも静かな安息日は、墓所にすらかつてなかったであろう。この端的な比喩を事実に換えるために欠けているものは墓所への道標のみにすぎなかった。
私はすぐ付近の砂丘は今までのように高くはないのではあるまいかと想像した。私は砂丘の頂上に近く最高の地点をめぐりつつできる限り同一の高さで進むように努めた。私はラクダが私の後について来ながら、すこぶる困難な歩行を続けていることを知った。砂丘の嶺は北東から南西へと、そして東から西へと錯綜して奇妙な具合に交錯していた。我々の現在の位置はまったく絶望に近いものであった。砂丘は百四十フィートから百五十フィートの高さにそびえていた。この巨大な砂の波の頂上から脚下の底部を見下ろすと長い斜面の下は深い窪地になっている。我々はこの恐怖すべき砂丘の梁《りょう》によって徐々に、かつきわめて確実に死の淵に追いやられているのである。砂丘は我々の行進をはばんでいる、しかも我々はこの砂丘を越えて前進しなければならない。砂丘を避ける手段は何もない。砂丘を越えて我々は進まなければならなかった。かくて我々は墓地への葬列のごとくラクダの鈴の悲しげな音と共に進むのであった。
砂丘の険阻な面は今度は東および南東に向いた。この辺りではこの数日の間北西風が吹き続いていたに相違ない。かなりの微風が今でもこの方向から吹いている。この風の翼にのってときに白い植物の総《ふさ》の幾葉かが落ちてきた。ある砂丘の梁にそって乾燥し、萎び切り、固く一束になったアザミが一握りばかり転がって来たが、あいにくこの微かな生命の残骸は北西の風のまにまに彼方へ吹き去られてしまった。恐らくこの枯れ草は我々の行路と同一の道をたどって吹き運ばれて来たものであったろう。
正午にいたって私は疲労と渇きでほとんど気を失わんばかりになった。太陽はあたかも溶鉱炉のごとく頭上に輝いていた。強い光線は真正面に照りつけ、文字通り私は一歩も前進することはできなくなった。私の道連れになって来た一匹の蛾は勢いよく私の周囲をめぐりあたかも私を覚醒せしめ「もうほんの少しばかりだ」とささやき「さあ次の砂丘の頂上まで」といっているようであった。それは「もう千歩、それだけホータン河《ダリヤ》により近く――ロプ・ノールに注ぐ新鮮な水のあふれる場所により近く――そして生命と青春の唄を歌いながら踊っているあの流れ、生命の泉の流れにより近く――なるのだ」とささやいているように聞こえるのであった。私は敢然千歩を進み砂丘の頂上に背を下に倒れ、私の白い帽子を枕に仰向けに寝ころんだ。真上の灼熱の太陽、急げ、西へ、西へ、地平線の彼方へ没せよ。そして彼方の氷に閉ざされた父なる山の氷雪を溶かせ。そしてその鋼のごとき青い氷河から流れ出でその山腹を泡を立てて流れ下る冷たい水晶のごとき水の一杯を我に与えよ。
私は八マイルを歩いたのであった。休息はまったくこころよかった。私は一種の知覚麻痺状態におちいり、我々の地位の深刻さをも忘却してしまった。私はあたかも冷ややかな緑柱石《エメラルド》色の草の上に横になり、上には葉の繁った銀色の白楊樹がひろがり、そよかな微風がその揺らぐ青葉の間をささやいて通っているかのように夢見ていたのである。私は夢幻の中に、白楊樹の根もとを洗う湖水の小波《ざさなみ》が憂愁《メランコリック》な音調を響かせているのを聞いた。鳥は樹の梢で唄を――私にはわからない神秘な意味を持つ唄を――さえずっていた。美しき夢よ。私は喜んでこの幻影の中に私の魂を溶け込ませることを続けたかった。しかし悲しいかな、葬列の鈴の空虚《うつろ》な響きが私の魂をこの忌《いま》わしい砂漠の陰惨な現実によび返したのである。起き上がった頭は鉛のごとく重い、眼は永遠に黄色の砂に反射する光線でめまいするばかりであった。
ラクダは蹌踉《そうろう》として砂丘をよじ登って来た。彼らの眼は弛《だ》るそうで光りなく、まさに没せんとする落日の光のようであった。それは諦めの様子、何事にも無関心の状態であった、食物に対する一切の欲望も消え果てて。彼らの呼吸は重苦しく緩やかで、いつもよりはいっそう不快であった。ラクダの数は六頭に減じ、イスラム・ベイとカシムに引かれていた。他の二人はババイとチョン・カラと共に残っていた。この日のはじめからチョン・カラはすでに進むことができなかった。イスラムは「彼らはできるだけ急いでキャンプに来るはずだ」と私に告げた。
この日、我々は砂漠の有するある性質を知った。我々は砂丘の中間に存在する想像を絶するような微細な砂の平坦な地表にたびたび行きあたり、あたかも泥濘《でいねい》の中を行くように膝までその中に没した。その後我々はこの困難な地表の歩行をできる限り避けるように用心した。またある場所では砂の表面は鋭い縁を有する微細な火打石の層でおおわれていた。この火打石の細片層の砂丘に及ぼす影響は、あたかも油が水に及ぼす結果と同一のものであった。すなわち火打石の細片層に覆われている砂丘は大体平坦で丸味を帯びその表面のさざなみ状の皺《しわ》は消えていた。
二つの砂丘の間で我々は予期しない不思議な発見をした。すなわちロバの骸骨の破片を見出したのであった。私の従者達はそれは野生のロバの骨だと主張した。この骨は白墨のように白く、少しでも触れるときにはあたかも灰のごとく砕け散る脚部の一片に過ぎなかった。蹄《ひづめ》の部分は比較的よく保存されていたが、それはロバの蹄にしては余りに大きすぎ、といって人間に飼養されている普通の馬の蹄にしては余りに小さすぎた。砂漠の中のこの獣は果たしてなんであったろうか。この骨はいつのころからここにさらされていたのだろうか。これらの疑問に対して砂漠は黙して答えなかった。私自身としてはなぜこれらの骨が幾千年間ロバが住んでいる場所に見出されないで、この砂漠中で見出されるのだろうかという疑問を抱いた。しかし他の種々の例から私は乾燥し切った微細な砂漠の砂は有機体を非常に永い期間保存する性質を有しているということを確かめ得たのであった。恐らくこの骸骨は数世紀の間砂中に埋もれていたのが風のために移動し始めた砂丘の下から最近露出したものであったろう。
我々はすべて疲労と渇きのためにまったく意気消沈してしまい、一マイル半以上はさらに進むことができなくなったので固い平坦な粘土の上に止まることにした。ここでも我々は種々の奇妙なものを見出した。それは小さなもろい白色の蝸牛の殻、水で洗われ転がされたと思われる小石、無結晶の火打石、貽貝《いがい》の殻、石灰が蘆の茎のまわりで固まったようなそのパイプ状の塊等であった。
ヨルチとモハメット・シャーとが疲労し、渇き切り這いずるようにしてキャンプに到着したのは夜に入ってからのことであった。ラクダはしかし一緒に来なかった。二頭のラクダは歩こうとはしなかったのでやむなく運命の手に委ねて残して来たとのことであった。空気が冷たくなるやいなや私はラクダを連れてくるために従者の一人を派遣した。彼はラクダが自ら少しばかり歩いて来たところに出会い、夜半近くなってから野営の場所に連れ戻って来た。
この夜一同の元気は回復を見た。望遠鏡で東を眺めたとき私はその方向の砂丘が最高四十フィートから五十フィート程度に低下しているように思った。明日は高い砂丘の梁を越えて恐らくはホータン河《ダリヤ》の岸辺の林の中にキャンプし得るであろう、という想いが我々すべてに生気を吹き込んだのである。この夜から私は天幕を張らずに寝ることにした。より必要なことのために精力を集中する必要があったからである。
我々一同は野天の下に眠ったが、ヨルチのみは我々から少しく離れて横になり、誰かに話しかけられない限り彼自ら人に話しかけることは決してなかった。彼の眼には何となく表裏ある色が光っていた。我々は彼が我々の見えないところにいる方がむしろ気が休まるように感じるのであった。この日中最もしばしば耳にした言葉は「ヤーマン」(悪い、困った、の意味)であった。しかしまもなく何か絶望的な陰惨な気分が我々を襲う感じがした。この日我々は石塊を所々に見かけた。ある一人は仲間に向かって、黄金を探してみるように忠告した。しかし一日がどのようにして暮れたところが、次の野営地に近づくにしたがっていくらか元気が出るのであった、明日を苦にすることが何になるのであろうか。ただ一日の労苦と疲労の後に休息をとり、はなかい希望から目覚めるのみである。日中の炎熱の後に来る冷気のみがただ一つ歓迎さるべきものであった。
夕刻ごろ、私はふとあることを思いついた。なぜ井戸を掘ってはみないのか。イスラム・ベイとカシムはたちまちこの仕事に熱心に賛成した。イスラムが私の「晩餐」をととのえている間に、カシムは井戸を掘り始めた。彼は袖口を巻き上げて腹這いになり、ケットメンと称する刃が柄に直角についたサルト族の使用する鋤で掘り出した。乾燥した粘土がたちまち砕かれた。そしてカシムは掘るたびに唄を歌った。他の二人もキャンプに来るやいなや三人で交替に掘り続けた。ここには水があるだろうかという私の問いに対してヨルチは嘲笑するごとく「水はあることはあるが三十グラッツ(三十ファゾム)掘れば出てくる」といった。カシムは約一ヤード掘り下げたが、そこでは粘土は砂と混じ、それは|湿って《ヽヽヽ》いた。ヨルチは今度は逆にあざけられ、一生懸命になって掘り出した。一同の希望はよみがえった。私は急いで食事を済ましイスラムと共に井戸に駆けつけた。そして我々五人は力を併せてできるだけ働いた。穴は深くなった。掘っている者の姿は穴の中に没し、彼はもはや砂を地上に投げ上げることはできないまでになった。そこで籠に綱を結びつけて柔らかい砂を釣り上げることにし、一人はその籠の砂を捨てる役目についた。穴の口にはしだいに円い砂山ができ上がり、私自身もシャヴェルを執って掘り出される砂を取りのけることに従事した。我々がこの仕事をはじめたのは午後六時でそのときの気温は摂氏二八・六度であった。地表の温度はこのとき二六・八度、地表下三フィート半の深さの粘土状の砂は一六・六度、五フィートでは一二・四度であった。
我々の掘った土は灰色がかった黄色粘土状の土壌で、所々に何種かに属する植物が赤みがかった褐色の莢《さや》の残骸を混じていた。岩石らしい物は影もなかった。
冷たい砂の上に横たわることは気持ちよかった。鉄の水槽中の水は摂氏二十九・四度であった。井戸から掘り出された砂に含まれていた数滴の水は我々の渇きを癒すに十分なほど冷えていた。
徐々にではあるが砂の湿気は掘るにしたがってしだいに増して行った。しかしヨルチはなお水に達するには遠いと信じていた。六フィート半の深さに達したとき、砂の湿度は手で球《ボール》をこしらえることができ、そしてそれによって手を濡らすことができるほどに達した。湿った砂の球で熱した頬を冷やすのは実に心地よかった。かくて二時間はすぎ、一同は疲れ切り、裸の胸と肩とは汗で濡れた。しばしば掘る手を休めては一口の水を飲み干した。かかる貴重な水槽の水の浪費も別段苦にはならなかった、我々は空の水槽を充たすために井戸を掘っているのであったから。
しばらくして四囲は漆黒の闇に閉ざされたので、井戸の内側の窪みにさしたロウソクの光で仕事を継続した。ラクダ達は本能によって穴の口のところに集まってきた。彼らは待ち遠し気に長い頸を延ばして冷たい湿った砂を嗅いだ。犬のヨルダッシュは駆けて来て穴の口にうずくまった。鶏さえもやって来て何事が行われているのかとのぞき込むのであった。
我々は一インチ一インチ掘り下げて行った、貴重な生命への愛着によって精力を傾けて。助かるかもしれないという希望は我々に新しい元気を与えた。我々は決してこの仕事を投げ出さない決心を固めた。中止するまでには一日中でも掘り続けるつもりであった。我々は水を発見できるかもしれないのであった。我々は水を欲していた。
一同は地面に掘った穴の周囲に立ち、話し合いながら半ば裸体になって我々の脚下の薄明るく照らされた中に奇怪にそして気味悪い影を下ろして働いているカシムの姿を凝視していた。突然彼は鋤を手から放り出してしまった。それから半分窒息したようなうめき声を発し地面に倒れてしまった。
「何事だ、何が起こったのか」と我々は驚いて異口同音に叫んだ。
「クルック・クム」(乾いた砂だ)という声があたかも墓の底からの声のごとく響いた。
鋤に一、二杯の砂を掬《すく》い上げて見て、私はカシムのいった通りであることを知った。砂は火口《ほくち》のように乾いているのだ。我々をあざむいていた湿気は恐らく冬期の降雪の名残りか、さもなくば降雨のためであったに違いない。我々はそれには夢にも思い及ばなかった。砂丘はその秘密をば我々には知らしめようと欲しないのだ。我々の掘った深さは十フィート四分の一で底の温度は摂氏一一・二度であった。
この悲しむべき発見によって我々は急に疲労を感じ、この空しく苦労した三時間にいかに多くの貴重な体力を消耗したかということを悟った。文字通りに一同は倒れ伏し、すべての気力を喪失してしまった。深い陰影が一同の顔に現れていた。お互いに顔を見合わすことを避けるようにしながら、永い深い眠りの中に絶望を忘却し去るためによろめきつつ寝床へ向かった。横になる前に私はイスラム・ベイと密かに話を交わした。我々二人は共に我々の地位が極端に深刻な状態にあることを認め、そして我々自身と他の者の元気をできるだけ鼓舞することを申し合わせた。私の地図によれば我々はホータン河《ダリヤ》からさほど遠くない場所にいたっているはずであった。しかしとにかく最悪の事態に備えなければならない状態に直面していることにもまた疑いがなかった。横になる前に私は他の者が寝入っている機を利用して最後に残された一つの水槽の中身を調べた。それには一日分には十分な水がまだ残されていた。この水は黄金と同様に監視されなければならない。もしこの際もう一日分の水を我々の所有しているすべての金銭で購い得たとすれば、我々は一瞬の躊躇もなくそうしたに違いなかった。我々はこの最後の貴重な水を一滴一滴で計る決心をした。もうあと三日間この水を保存しなければならない。一日一人につきコップに二杯に限るならばそれは可能であった。三日間ラクダには一滴の水も与えることはできない。犬のヨルダッシュと羊とには一日に一椀だけ与えることができるが、彼らはそれだけでどうやら凌いでゆけるであろう。イスラム・ベイと私はそれから眠りについた。ついに与えられなかった水を空しく待ちながら、我々を嘲笑しているように感じられる井戸の周囲に、穏やかにそして忍耐強く立ちならんでいるラクダを残して。
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第九章 水ついに尽く
四月二十七日黎明。我々はラクダに元気をつけるためにできるだけのことをした。鞍の一つから中の乾し草を取り出して与えた。彼らはこの飼料をむさぼり食べた。食べ終わって彼らは次に水をほしがったが、我々のできることはただ唇を濡らしてやる程度であった。乾し草の後に古いパンと油を少し与えた。また彼らの荷を軽くしてやるために、たずさえて来た天幕用の寝台と絨毯とその他余り必要でない品物を数個捨て去ることにした。
朝の茶を飲み終わるやいなや私はただちに進発した。砂丘は常よりも低く三十五フィート以下であったので、私は一刻も早く出発したい焦燥に駆られたのであった。砂丘の中間の窪みからのぞいている地層には少しく高低のあることを見出したので、この辺の砂丘の高度の低いのは一つは地表の自然的高低に基づき、他は砂丘の上部の砂が幾らか薄いことによるということがわかった。一時間後私は再び以前と同じように険阻でかつ無限に続く高い砂丘の迷路に踏み入った。大砂丘の大集団は東から西へと延び、余り大きくない砂丘が北から南、または北東から南西へひろがっていた。険峻な方の斜面は今度は東方および南方に向いていた。生物の徴《きざし》は影だにない、水平線の平坦な直線を乱すただ一つの蘆さえなく、「陸」の存在を示すものはまったく見当たらないのであった。
今我々の迷い入っているこの深いそして荒涼たる砂の大洋を凝視するとき、私の感覚はめまいを感じるのみであった。砂丘の嶺にいたるごとに私は、遥か東方にホータン河《ダリヤ》の森が微かにでも見えはしまいかと望遠鏡をもって水平線を見つめるのであった。しかしすべては徒労にすぎなかった。
ある砂丘を下っているとき、私の視線は草の根に似たあるものに行き当たった。屈んで拾い上げようとしたとき、その物体は突然走り出し、砂丘の縁にある小さい穴の中に消えてしまった。それは砂と同じ黄色のトカゲであった。トカゲは何も食べないでいられるのだろうか、それは一滴の水も必要とはしないのであろうか。
この日は素晴らしい日であった。青空には軽やかな羽毛に似た雲が点々と漂い、太陽の熱はさほど激しくはなく輻射熱も常よりは少なかった。三時間半の後カラヴァンは私に追いついた。この日カラヴァンは終日まず普通の進行を続けて来たのであった。しかし彼らが私に追いついたときにはモハメット・シャーと二頭の弱っていたラクダはすでに落伍してしまっていた。「二頭のラクダとモハメットは後れてついて来ている」と他の者はいった。空高く二羽の雁が北西に飛び去った。これによって我々の希望はまた少しよみがえった。この二羽の雁はホータン河《ダリヤ》から飛び出し、我々が過ぎて来た山脈の麓にある砂漠中の小さい湖に向かって飛んでいるものである、と我々は推測した。しかしこれとても自らあざむき自ら慰めていたに過ぎなかった。雁が一つの場所から他の場所に移住するときにはすこぶる高い高度をとるものである。そしてかかる高度で飛翔しているときには雁にとっては二百マイル程度の砂漠横断は何でもないはずである。
私はしばらくボグァラの背にまたがった。しかしこのラクダは別にいやがりもしないで私を乗せた。ラクダの背に乗ってみて、私は自分がいかに疲労しているかということを悟った。またそれと同時にボグァラの膝が一歩ごとに震えていることを知ったので、まもなく私は降りて再び歩き出した。
この日我々はいままで経験した中で一番高い砂丘――十分二百フィートはあった――に行き当たった。高さの測定は次のような方法によった。私はカラヴァンが動いている砂丘の頂上から少しく離れて立った。私はラクダの高さをあらかじめ測っておいた。鉛筆の軸にラクダの高さをあらわす刻み目をつけ、次に砂丘の高さはラクダの丈の何倍あるかを調べた。このような測定は別として、眼で見ただけでは砂丘はあたかも岡のごとく、それに較べてはラクダなどはきわめて小さなものにすぎなかった。このような巨大な砂の波を越えるのでは、早い速度で進行し得ないことはわかり切ったことである。一行はかくして砂丘を避けるために多大の時間を浪費しつつ何遍となく迂回路をとらざるを得なかった。事実上我々は時々、進行の方向とはまったく正反対の方向に進むことさえ余儀なくされた。
犬のヨルダッシュは水槽の側を離れないで、この貴重な最後の数滴の水が水槽の中で揺れる音を聞くたびに唸ったり吠えたりした。方向を定めるために一行が立ち止まるときに、この犬はあたかも我々に井戸を掘りそして水をくれるようにといわんばかりに水槽を嗅ぎ、砂を前脚で掻きわけ吠え続けた。私が腰を下ろして休むときには、ヨルダッシュは私の前にうずくまり、あたかも何ともほどこすべき術《すべ》がないのか、と訊ねるように私の顔を見守るのであった。私は静かに彼の背を叩いてやり、東の方には水があるのだ、ということを知らせるためにその方向を指して話しかけてやった。ヨルダッシュは耳をそばだてて跳び上がり、そして東の方へ駆け出しては見るがまもなく項垂れ失望した恰好で再び戻ってくるのであった。
イスラム・ベイと私とは相当骨を折ってピラミッド形の砂丘の頂上に登り、望遠鏡によって永い間東方を偵察した。しかしそこには砂丘の高さが低下しているようななんらの徴候も見当たらず、また我々が進路として選ぶべき砂丘間の間隙も見つからなかった。いたるところ同一の巨大な凝結した砂の波の連続だった。どこを眺めても我々は同じような荒涼たる生命の跡なき土地によって取り囲まれているのであった。イスラムと協議を重ねた結果、とにかく六頭のラクダが歩み得る限り、そしてどうにもならなくなるまで行進を強行することに決心した。この日の夕方午後六時、この不快な土地に囲まれた中で、北方に向かった砂丘の斜面に第十五キャンプを設けた時に、我々は重大な危機に当面した。
野営を張ってまもなくモハメット・シャーが到着した。彼のいうところによればこの日ははじめから彼のラクダが一歩も進むのを嫌がっていたので、運を天に委せてそのまま置いて来たのであった。二頭の中の一頭は空の水槽を二個載せていたが、他の一頭は何も積んでいなかった。彼らはもう二日以上は生きていられないのだから、私がいたならば、射殺した方が苦痛がなくてよかった、とモハメットはいうのであった。しかしモハメットは夜になる前に水を見つけたらあるいはこの二頭は助かるかも知れないと言っていたが、この二頭は結局置き去られて死が来るまで苦痛にさいなまれなければならなくなったのであった。神よこの哀れむべきラクダに早く死を賜え。
モハメットの報告を聞くのは苦痛であった。この罪のない獣の死に対しては責任は私にあった。私のカラヴァンの人間と動物のあらゆる苦痛、あらゆる悲惨はすべて私の責任である。最初の一頭が砂漠の呪詛の犠牲になったときに私はその場に居合わせなかった。しかし私はその光景を頭に描くのであった。その光景は夢魔のごとく私を襲い、私の眠りを妨げた。私はモハメット・シャーがババイを捨て去ったときのことをありありと見る心地がした。他の一頭は足を震わせ小鼻を開き眼を輝かせて恨めし気に去り行くカラヴァンの後を眺めた。しかしカラヴァンは無情に遠のいてゆく。次いで倒れているラクダの方に頭をさし向け、友のかたわらに同じくうずくまったであろう。共に砂の上に長い頸を投げ出し、眼を半ば閉じ、開いた小鼻で重い呼吸をしながら静かに横たわっている光景を私は想像した。疲労は刻々に加わり、足を投げ出して横たわっている中に血の循環は緩慢になり、そして血の濃度が高くなり、死の前の幻惑と共に四肢を強ばらせたに違いない。呼吸は次に穏やかになってついに最後の時が来る。恐らく弱いババイの方が先に死んだであろう。このような死との闘いはどのくらい続いたことであろう。私にはわからない。恐らく彼らは何日か生きており、そして生きたまま砂の暴風に埋められたのではないかと考えるとき、私の血は恐怖で凍ってしまいそうであった。彼らは今この無慈悲な果てなく涯《かぎ》りない砂漠の流沙の下に永遠の眠りに入っているであろう。
午後に入って我々は西方の空が驟雨のために鋼鉄《はがね》のような青味を帯びた厚い雲に閉ざされているのを認めた。それは水と、そして生命との象徴であった。我々はいま涸渇と死とに閉ざされているのだ。彼方の雲はひろがったり収縮したりして我々の眼を魅惑した。一同は雲から眼を離し得なかった。雨がここまで来るかも知れないという期待はしだいに強くなり、我々はからの水槽を下ろし、天幕を地面に広げて端を手に持ってこの慈雨の来るのを待った。しかしついに雨は来たらず、雨雲は一滴の水も我々に恵むことなく空しく南方に去った。イスラム・ベイは私のために最後のパンを焼いてくれた。モハメット・シャーは我々がテレスマートすなわち魔力に囚われてしまっているので再び決して砂漠から脱することはできないのだと断言した。またイスラム・ベイは恐るべきほどの冷静さをもって、ラクダはことごとく倒れてしまうであろう、そしてその次は我々の番であると言った。それは単に不可避の順序だ。私は我々が決して砂漠中で死なぬと確信していると答えた。ヨルチは私のコンパス――私のケブレー・ナメー(聖地メッカへの方向を示す器具の意)を嘲笑し、我々が流沙中でぐるぐるめぐりをしているのはこのコンパスが我々を迷わせているからだと罵《ののし》り、何日歩いても結果は同じことだと言い放った。このさい我々のなし得る最善の手段は不必要に体力を浪費しないことであった。我々は数日後には渇きのために死ぬであろう。私はヨルチにコンパスは絶対に信頼すべき器具であることを説明してやった。そして彼にこの事実を納得させるためには、日出と日没の例をとって説明してやることが必要であった。しかし彼の答えは次のようであった――砂塵とテレスマート(魔力)とは太陽にさえ影響する力を持っているくらいだからそんな機械などは何にもならない。
四月二十八日。我々は北北東から吹いて来た突風によって目をさまされた。この突風のため我々の天幕は濛々たる砂塵につつまれた。砂丘の上には砂竜巻きが起こり、風下へ向かって次々に狂気のような乱舞をなしつつ行き過ぎるのであった。私は紙片を千切って風にさらし、それが砂丘の風の当たらぬ側に落ち、そのままそこに止まるのを見つめた。大気は塵と砂とによって完全に塞がり、視界は最も近い所にある砂丘の頂にさえ達しなかった。したがってこの日は太陽の位置によって我々のコースを定めることさえ不可能であった。空には太陽の位置を示すごくわずかの光線さえなかった。この日の嵐は我々が砂漠の旅行中で今までに経験した最悪のもので、日中を夜のごとく真暗にするいわゆるカラ・ブランすなわち「黒い嵐」であった。
我々は前夜、野天の下に眠った。夜気は冷やかであったので私は頭にバシュリーク(頭巾の一種)をかぶって毛皮にくるまって横になった。夜明けに目覚めたときには私の身体は文字通り砂の中に埋もれていた。微細な黄色い砂の厚い層が私の頭と胸とをおおいつくし、衣服のあらゆる隙間という隙間に砂が浸透していた。立ち上がったとき細かい砂は肌着の上を流れ落ちるほどだったので、衣服を脱いで、払わなければならなかった。毛皮は砂丘の色と同じになってしまっていた。野営地に置かれたあらゆるものは砂に覆いつくされていた。これらの品物から砂を唐竿の柄で払い落とすのは一通りの苦労ではなかった。この日の行進はまったく名状すべからざるものがあった。視界が極端に狭められていたため、どの方向に進んでいるのやらまったく見当がつかなかった。しかし空気が冷たかったのと、この強風のおかげで我々はしばし渇きを忘れてしまった。
この日は私だけ先に進むことはできなかった。私の足跡はたちまちにして消されてしまうのであった。ただ我々一同は人間も動物も皆お互いにひしと寄り合って歩く他はなかった。もし一度仲間を見失うときは、かかる暴風の中では叫んでもまた鉄砲の音によっても所在を知らせることは不可能である。耳を聾するばかりの疾風の音は他のあらゆる響きを消してしまうのであった。このようなときに一度一行から離れてしまえば道を迷い、永久に合することができなくなることはきわめて明瞭なことであった。見えるのはまっすぐ前を進んでいるラクダのみであり、また聞き得る音響は耳の側を突進する数百万の砂粒が発する音のみであった。マルコ・ポーロの想像を刺激しこの大砂漠について次のごとく書き残させたのは、恐らくはこの奇異な音であったに違いない。
「日中においてさえこれらの妖霊がささやく声を聞くことがある。時々は楽器を奏するような種々の音を聞き、そして太鼓を打つような響きが特に多い。それ故この旅行ではお互いに一団に固まって進むのが例である。ラクダの頭には鈴をつけて迷うことを防ぐようにする。夜寝るときには翌日の行進の方向を示すために標識をこしらえておくのである」
一行は困難な行進を続けた。この日は日中もほとんど漆黒の闇であった。ただ時々は、かすかな残燭のような半ば灰色の光がさすことがあった。しばしば猛烈な砂風が吹き当り我々はほとんど窒息せんばかりになった。余りにひどい風が来たときには我々は地面に顔をつけるか、あるいは風下に当るラクダの横腹に顔を押し当てるのであった。このようなときにはラクダさえも風に背を向けて首を地面につけていた。
砂丘は少しも低くはならず、我々の前面にそびえ立っていた。一つの砂丘を越すとすぐに我々の前途には砂塵の中から高い嶺を見せて次の砂丘が横たわっているのであった。この日の行進中に比較的若いラクダの中の一頭が倒れた。ラクダがきわめて疲労していることは明瞭であった。彼らは蹌踉として歩み、その脚は震え、下唇は力なく垂れ下がり、小鼻は開いていた。物凄い砂嵐の吹き荒ぶ砂丘の頂上を進んでいたとき、一行の最後に死にかけたラクダを連れて歩いていたヨルチが急いで駆けて来た。彼は一行から離れることを極度に恐れている様子であった。彼はラクダが一つ後ろの砂丘を越えられないで頂上に近い所で倒れたまま背を下にして斜面を転がり落ち、ついに再び起き上がろうとはしない、と告げた。私は一行の進行を止め、そのラクダが到底起き上がって我々について来ることができないかどうかを調べるために二人の従者を遣わした。彼らの姿は砂塵の中に消えたが、まもなく戻って来て足跡がすでに吹き消されてしまっていたので、カラヴァンから余り遠くまで行くことはできなかったと報告した。
かくて第三のラクダを失った。この獣もまた他の二頭と同様に砂漠中の苦痛に満たされた死の罠の中に取り残されたのであった。我々はしだいにかかる悲惨な情景に慣れてしまい、今はただ我々自身がいかにして生き残るべきかということのみに関心を持つようになった。人間はこのような極度の苦難に当面するとき、感情は鈍ってしまい、他のものの苦痛には無関心になってしまうものである。朝になって出発するときごとに、私は密かに、果てのない永い暗い旅路に旅立つ番に当たるものは次は誰だろうか、と自ら尋ねてみるのであった。
午後六時、この日十二マイル四分の三の行程の後、行進を終えた。我々の現在の状態を慎重に考慮した結果、絶対に必要な以外の携帯品は一切捨てることに意見が一致した。私とイスラム・ベイとは品物を一つ一つ調べた。我々は箱を開けて砂糖・麦粉・米・馬鈴薯その他の野菜類、マカロニ、二、三百の缶詰等を取り出し、その大部分および数枚の毛皮・毛氈・クッション・書物・数束の雑誌、料理用ストーヴ、石油入りの樽等を箱に詰め直してその上を絨毯でおおい、二つの砂丘の中間の窪地に残した。次の砂丘の頂上に竿を立ててそれにたくさんのスウェーデンの雑誌を結びつけて旗の代わりにした。水を発見した時には、これらの残した品物を取りに戻ってくるつもりであった。我々は夕方、時間を費やして、荷物の箱の蓋の横木を外してそれに雑誌をたくさん巻きつけた。この急造の旗を二十本こしらえて翌日越して行く砂丘の頂上に一つずつ立てて行くことにした。そしてこの目標を不知の地の浮標《ブイ》の代わりにして、我々の荷物を残した第十七キャンプを後日見つけることができるように工夫した。
私はとにかく水分を含む液体性のもの、すなわちキノコ・カニ・イワシ等の缶詰を持っていくことにした。私の従者達はこれらの缶詰には豚肉や燻肉《ベーコン》が入っていないことを知り、喜んで中身を食べた(回教徒は決して豚肉を食べない)。三パイント半残った水は二つのクンガン(鉄製の水差し)にいれた。ラクダのためには乾し草を詰めた鞍の一つを残したが、彼らは咽喉が渇き切っていたために全然食欲がなかった。私は最後に茶を喫し、そして水分の多い缶詰でかなり豊な食事を取った。
四月二十九日。生き残った五頭のラクダを率いて黎明に出発した。ちょうど一行が出発し始めたとき、イスラム・ベイがやって来てすこぶる浮かぬ顔つきで鉄の水差しが空になっていることを告げ、彼もその他の仲間も共にヨルチが闇の中でこそこそ歩き回り何か探している音を聞いたことから推測してヨルチが水を呑んでしまったに違いないと話した。しかし我々はヨルチが水を盗んだというなんらの証拠ももってはいなかった。それでもヨルチが胸と胃が痛いといって、私の足元に這いよって来たとき彼に対する嫌疑はいっそう深くなった。我々は、ヨルチが単に仮病を使っているにすぎないのだと信じた。しかし一行のものに範例を示し、かつ彼らに元気をつけるのは私の義務なので、私は彼に私の半分を分かち飲ませてやった。水を飲み乾してヨルチはどこかへ行ってしまい、翌朝まで姿を見せなかった。
我々一同は地平線上に「陸地」を熱心に探してみたが、一切は無駄であった。見渡す限り生物は影さえ見当たらなかった。砂漠の大洋はかぎりなくひろがっているのみであった。地面の平均高度は少し減じて来ているようではあったが、大気の乾燥度は依然として同様であった。砂丘の梁は北から東に延び、険阻な方の斜面は西方に向かっていたため、我々の進路はいっそう困難になった。高い頂上から東方を眺めるとき我々の前方にはかぎりない険しい砂の堤の起伏が連続しているのであった。しかしそれは錯覚で少しも険阻ではないように見えるのであった。西の方に顔を向けるとき、視界に入るのは風の方に面した砂丘の長い斜面で、その方向の表面はほとんど凹凸がないように見えるのである。その結果我々は常に落胆させられ、一歩を行くごとに砂丘はしだいに高くなり、進路は歩一歩困難を増すのだと想像するのであった。ここでもまた、砂丘の風下の側は鋼鉄色の青さを帯びた雲母片岩の微細な破片で輝いているのであった。
この日我々の希望は野鼠(もぐらねずみ科)の骨の発見によってよみがえった。同時に我々は灰白色の枯れ切った白楊樹《ポプラ》を発見した。しかしこの希望はまったく薄弱な根拠に基づいているにすぎなかった。すなわち鼠の骨は鳥が運んで来たものであったかも知れないし、白楊樹には根がついていなかった。もしこの木に根がついていてくれたならば、我々の遣る瀬ない気持ちに幾分かの希望の火を点じてくれたであろうに。
我々はこの日終日、この恐るべき砂上を歩き続けた。したがって我々の行進はきわめて遅々たるものであった。ラクダの鈴の音は永い間をおいてこだました。ラクダはすでに疲労で半ば死にかかっていたのである。しかし彼らはなおその特徴であるあの静かな威厳さと悠々たる足取りで行進していた。彼らの糞にはもはやほとんど藁を含んでいなかった。彼らはほとんどまったく自分の身を消費しながら行き永らえていたので非常に痩せてしまった。そして肋骨は毛の上に一本一本かぞえられるほどに現れ、哀れな恰好であった。一行が置き去りにして来た三頭はすでに死んでしまったに違いない。何としても今ではもう救う方法はなかった。たとえ今すぐに水を見つけてもすでに遅いであろう。
この日は静穏な日であった。大気はいまだ砂塵で充たされてはいたが。私の従者達が、過去数日間涼しくあの酷射する太陽の光線がなかったのは幸運である、といったのは正しかった。もしそうでなかったら、ラクダは一頭も残らず捨てなければならなかったであろうし、したがって我々は自分の脚以外に頼るものはなくなったであろう。
私は二時間半のあいだ休まずに歩き続けた。そして夜に入ってキャンプを張るまでにほとんど十七マイルの行程を歩んだ。東方を望んでも道は少しも容易らしくなかった。同じような砂の波が彼方の地平線までいっぱいにひろがっているのであった。視界の限り砂以外は一物も見当たらなかった。
四月三十日。気温は最低摂氏五・一度まで下降し、朝になっても恐ろしく寒かった。微細な塵の雲はなお大気中に漂ってはいたが、靄中に微かに輝いている太陽の位置を見るに十分なほどには澄んで来た。ラクダにはもう一つの鞍の中の乾し草と、あるだけのパンを与えたので、今日一日だけは歩き続けることができるであろうと思った。水差しの一つには大コップに二杯分の水が残っていた。一同が出発の準備に荷物をラクダに積み込んでいるとき、イスラム・ベイはヨルチが仲間の方に背を向けて水差しに口をつけている現場を捉えた。そしてすこぶる不愉快な痛々しいシーンが現出した。イスラム・ベイとカシムとは極度に怒ってヨルチを地上に投げ倒し顔を殴りつけた。もし私が間に入りヨルチを起き上がらせてやらなかったなら、彼は殺されてしまったであろう。ヨルチはしかしすでに水差しの中の水の半分を呑み乾し、わずか三分の一パイントを残しているのみであった。正午になったとき私は各自の唇を湿すことを提議した。そして夜になったら最後に残った水を五等分して一同に各々分配するつもりであった。その後は果たして幾日の間水なしで済まさなければならないかと思った。モハメット・シャーによれば彼は西蔵でかつて十三日間水を飲まないで過ごしたことがあったそうである。
再び葬列の鈴はその悲痛な音を立て、我々のカラヴァンは東に向かって行進を始めた。はじめ砂丘の高さはわずか二十五フィートであったが、いくらも進まない間に我々は再びチョン・クム(巨大な砂)の間を縫って歩まなければならなくなった。一羽の小さなセキレイがカラヴァンの周囲を旋回して飛び去った。そして再び我々の希望をめざめさせたのであった。イスラム・ベイはこの出来事に元気づけられて自分一人だけ鉄の水差しをたずさえて先行し、水を見つけて戻ろうと申し出た。しかし私はこの提案を拒絶した。私は彼が私の側を離れないでいてくれることをますます必要としたのである。我々は一同揃って進むことにした。
ほとんど出発当初からヨルチの姿は見えなかった。他の者はヨルチはもはや我々と一緒についてくることができず、そして我々の後に取り残されて死んでしまうであろうと信じた。彼らはすべてヨルチを憎んでいた。最後の湖水を我々が通過したときに彼は四日分の水を携帯すれば十分であって、それまでに地面を掘って水を得られる場所に一行を導いて行けると断言したのであった。一同ははじめからヨルチは我々を裏切る意志を持っていたので、巧みに一行を渇きで死んでしまうような砂漠の地に導き、そこで我々の水を盗んで逃げ出し我々のカラヴァンが倒れた後に一行の携帯品を略奪するために彼の仲間の「黄金探求者達」を連れて戻ってくる意図を抱いていたのだと信じていた。この考えが正しかったかどうかはわからない、そしてこれは永久にわからなくなってしまった。
これまで私は一日一日の出来事を詳細に日記に記載して来た、そしてこの恐ろしい旅行の記述はその日記に基づいて書かれたのである。私の書き得た最後のものになったかも知れない日記の最後の数行は次のごとくであった。
「ラクダがもはや進み得なくなった高い砂丘上に休息した。望遠鏡をとり東方の地平線を眺めたが視界の限り砂の山また砂の山である。一木一草もなく生命のしるしさえ見えぬ。夕方になっても夜に入ってもヨルチの消息は不明。残った一同はヨルチは我々の残して来た缶詰のある場所に戻っていき、それで生命をつなぎ他の品物を運んでゆくために手伝いを呼んでくるつもりだろうといっていた。イスラムはヨルチが死んでしまったものと信じている。朝までわずかばかり――大コップに一杯――の水が残されていたので、その半分を使って各自の唇を湿《しめ》した。そして残ったわずかの水を夕方一同の間で平等に分配する予定であった。ところが、夕方になってカラヴァンを率いていたカシムとモハメット・シャーとが一滴も残らず盗んで呑んでしまったことを発見した。我々は人間もラクダも共にまったく疲労困憊の極に達した。神よ我等を救い給え」
この後の出来事はすべてを、畳んだ紙片に鉛筆でしるした走り書きによって記述しなければならない。しかし私はそれでも一日の出来事と共にいかなる場合にもコンパスに現れる位置をノートにとり私の歩行の数を記すことは決してやめなかった。ついにホータン河《ダリヤ》の岸にたどりつき休養の時間を得たときの私の最初の、そして主要な仕事は記憶の新鮮な間に記述を残しておくことであった。
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第十章 死の宿営
五月一日。夜はすこぶる寒かった。寒暖計は摂氏二・二度という我々の二十六日間にわたる砂漠旅行中の最低温度を記録した。しかし大気は清澄で暗夜の星は比類《たぐい》ない光を放って輝いていた。夜は静寂にそして輝かしい光と共にほのぼのと明けた――蒼穹には一点の雲さえなく、砂丘の頂を吹く一筋の風さえなかった。太陽が昇ると共に気温もまた上り始めた。
五月一日。この日は私の生まれ故郷では春のはじめの日である。五月一日という日は私の心に数多くの楽しい想い出を浮かばせるのであった。私はこの東方の荒蕪不毛の砂漠中にあってもこの日は喜びの日になるであろうというはかない慰めに、我が心を自ら慰めるのみであった。一年前の五月一日に私はカシュガルに到着し、私の眼を傷めた激烈な炎症の予後を癒し、休養を取ったのであった。そして私はこの今日五月一日もまた再び我々の運命の転機たることを心から望んだのである。
朝早くすでに死んでしまったものと一同が思っていたヨルチが再びキャンプに姿を現した。彼は元気を回復していて我々に、今日夜になる前に水を見出すことができると断言した。一同は彼のいうことに耳を傾けることを拒絶しつつ、不快な匂いのする温めたラクダ用の油の最後の数滴を固くなったパンにつけて、うなだれ黙々として呑み下していた。前日は終日私は一滴の水も味わわなかった。しかし恐るべき渇きのために、思い切って中国人が火酒《ブランデー》と称している料理用|暖炉《ストーブ》に使用する燃料を大コップ一杯飲み乾したところが、それはあたかも硫酸のごとく私の咽喉を焼きただらせた。それはともかくも液体には違いなかったから、私はいくらかでも身体に水気を与えるだろうと考えたのであった。犬のヨルダッシュは私が何か飲むのを見て尾を揺すりながら駆け寄って来たが、私がそれは水ではないことを知らせたとき、うなだれて哀れな泣き声を立てて去った。幸いなことには他の者はこの液体を飲もうとはしなかった。私はこの液体をその容器と共に砂丘のかたわらに投げ捨てた。
しかしとかくするうちに私は力が抜けるように感じ、カラヴァンが静かに東へ東へと向かって進むにもかかわらず、私の脚はもはや私を運ぶ力がなくなってしまった。静寂な大気の中に葬列の鈴のごときラクダの鈴がいつもよりはいっそう明瞭に聞えて来た。我々は三つの墓を途上に残さなければならぬのであろうか。我々の葬列は今や急速に墓地に近づきつつあるのだ。
イスラム・ベイは手にコンパスを持って真っ先に進んだ。五頭のラクダはモハメット・シャーとカシムに引かれて歩み、ヨルチは最後のラクダにくっついて歩いていた。極度の渇きにさいなまれて、私はカラヴァンの最後について蹌踉《よろめ》きつつ進んだ。そのうちに一行は砂丘の彼方に没しまた砂丘の上に現れつつしだいに遠ざかり鈴の音はようやく微かになり、ついに響きも聞こえなくなってしまった。
私はさらに数歩進んだが再び倒れてしまった。這いずりながらまたすこしく進み再び倒れ、こうして同じ事を数回続けた後、ついにまったくラクダの鈴の音を聞くことできなくなった。
死のような静寂が私の周囲を支配していた。しかしカラヴァンの跡は砂上にしるされていた。私はこの跡をたどって、しかも蹌踉として歩む歩数をかぞえながらなお進むことを続けた。ついにある砂丘の頂上で私は再びカラヴァンを遥か彼方に見出した。カラヴァンは止まっていた。五頭のラクダは死んだように地上に身体を投げ出して横たわっていた。老人のモハメット・シャーは砂上に俯伏せになって祈りを捧げ、アラーの神に救いを求めていた。カシムはラクダの陰にうずくまり喘いでいた。カシムは私にモハメット・シャーは完全に疲労し切り、もはや、一歩も前進することはできなくなっていると告げた。この日は朝からモハメット・シャーには精神錯乱の状態が見え、常に水を求めてうわ言を言っていた。
イスラム・ベイは遥か先にいたので、我々は彼に戻って来るように大声で叫んだ。彼は一行中でもっとも元気で、私に対し、自分一人だけ鉄製の水差しをもって先を急いではどうかと再び申し出た。彼は一晩に三十五マイルは歩けると考えている。しかし私のまったく疲労し切っている状態を見て、彼はこの提議を撤回した。しばらく休んだ後イスラムは別な案を考え出した。それはなるべく固い地面を選んで残った力のあるだけを出して井戸を掘ることであった。彼はカラヴァンの先頭に立つことになった。白色のラクダからその積荷である二個の弾薬箱とヨーロッパ風の二個の鞍と一枚の敷物《カーペット》とを下ろして捨て去り、私はイスラムの力を借りてようやくにしてこの白いラクダの背に這い上った。しかしラクダは立ち上がろうとはしなかった。一同にとって、この燃えるような暑熱の中を一歩でも前進することはもはや不可能であるということが明瞭になった。特にモハメット・シャーは完全に精神錯乱を来たし、一人で笑ったりうわ言をいったり、てのひらで砂を掬《すく》い上げては指の間からこぼしたりするのであった。彼は絶対に一歩も進むことはできなかった。そしてもちろん我々としても彼を見捨て去ることはできなかった。
このような状態なので我々はもっとも暑いときが過ぎるまで現在の位置にとどまることに決した。そして夕方涼しくなった時分に行進を始め、夜の間歩むことにした。ラクダは倒れている場所にそのままにしておき、荷物だけは下ろしてやった。イスラムとカシムとが天幕を張ってくれたので我々は少しばかりの日陰に恵まれた。彼らは最後に残った敷物《カーペット》と毛氈《フェルト》を地にひろげ嚢《サック》を枕代りに置いた。私は這いずり、文字どおりにてのひらと膝とで這いずって、天幕の中にもぐり込み衣服を上から下まで脱ぎ捨てて横たわった。イスラムとカシムも私の例にならった。そして犬のヨルダッシュと羊も同様に真似をした、すなわち彼らまでも天幕の中にもぐり込んで来たのであった。ヨルチは天幕の外で陰を求めて横になった。モハメット・シャーはなお彼が最初に倒れたところに伏していた。一行の中で依然として元気を失わないでいるのは鶏のみであった。彼らは輝く日光の下をラクダの鞍の中の乾し草を啄《ついば》んだり、食料袋をあさったりしてそこいらじゅうを歩きまわっていた。このときまだ朝の九時半。我々はこの時までにわずかに三マイル以内進んだだけで、日が暮れるまでにはまだまだ長かった。一八九五年の五月一日ほど我々のすべてが日没をかくも熱心に待った日はかつてなかった。
私はまったく疲労し切り、寝返りをうつ元気すらもなかった。このとき――後にも先にもただこのときのみ――絶望が私を捉えた。過去が夢の中のように私の脳裡を去来した。固い地面と騒がしい人込みと色々様々の出来事を見るように感じた、そして彼らはすべて私からは非常に遠い、到底達することのできない彼方のことのように思われた――そしてすべては一瞬に消失し永遠への門が半ば開かれあたかも数時間以内にその入口に立たなければならないように思った。遥か北方にある私の家に想いは馳せ、私が再び帰ることなく消息が絶えるとき私の身の上を案じるであろう人々の不安を思うとき、私の心は痛むのであった。彼らは何年も何年も私の帰りを待つであろう、まったく無駄に待つであろう、しかしなんらの消息も得られないであろう。ペトロウスキー氏はもちろん我々の運命を気遣って捜索者を派遣するに違いなく、彼らはメルケットへ行き、そこで我々一行が四月十日に東方に向かって出発したことを聞き出すであろう。しかしそのときにはすでに我々の足跡は流砂の中に消え果て、我々の進んだ方向を示すものは絶対になくなっているであろう。そのうちに組織的な捜索が始められ、我々の空骸《なきがら》がこの流動し休息することなき貪欲な砂の波の中から数カ月経って発見されるかも知れない。
次に私の過去の旅行の数々の出来事が眼前にパノラマのごとく彷彿《ほうふつ》とした。私は満一年間、あたかも回教徒托鉢僧《ダーヴィッシュ》のごとく、ありとあらゆるアジアの回教国を巡礼して歩き、今ついに私の最終の宿営に達したのだ。運命は私に次のごとく語った「汝はここまでいたらなければならない、しかしここで止まるのだ」と。ここで私の生命の脈は絶えるのだ。私がはじめて旅行に出たのは十年前のことであった。そしてイスパハンにおいては四十円柱宮の壮麗さに嘆美の感を抱き、シャー・アッバスの大理石の橋梁の脚柱に打ち寄せるサイエンデー・ルードの波に耳を傾け、またあるときはサイラス王の陵墓の涼しい日陰に憩った。クセルクセス王とダリウス王の宮殿の廃墟に立ち、またペルセポリスの遺跡の石柱の立ちならぶアーチの下で私は往昔の詩人の唱した次の詩の言葉の意味を知ったのであった。――Det harliga pa jorden, forganglig ar dess lott(死滅はここ地上のあらゆるものの運命である)。バスラーのなつめ椰子の樹の陰での休息は何と心地よかったことであろう。チグリス河はその泥に濁った水の数滴を私に今恵んではくれないであろうか。もしあのロバの背に積んだ皮袋の水全部を数枚の銅貨で売るバグダードの町を呼び歩く水売りが今その皮袋の水を私に売ってくれるなら、私はその代償に何ものをも惜しまないであろう。私は千一夜物語中の出来事のような出来事が毎日持ち上がっている国における私の冒険の数々を思い浮かべた。九年前私はテヘランまでの旅費五十フランをポケットにして、アラビアの隊商と聖地メッカへの巡礼達と共にバクダードを出発した。しかし彼らののろのろとした旅行ぶりと途中の単調な生活に耐えられないで、私は残りのわずかばかりの金をあるアラビア人に与えることにして二人で暗夜に乗じ隊商から逃げ出したことがあった。
我々二人の乗った馬はケルマンシャハンの町が見える所まで来たときには、ほとんど倒れそうになっていた。私はこの町に住むモハメット・ハッサンという富裕なアラビア商人の許に行ったが、私がチャールズ二世の国に属する一人であることを告げたとき、この富裕な商人の目は輝いたように思われた。そして半年の間私を賓客としてもてなしたい、と申し出たが私はわずか数日しか止まることができなかった。しかしこの数日の間に、私は千一夜物語中のヌール・アル・ディン・アリの生活のような日を送ったのであった。私の住んだ家の向こう側は甘い香りを放つ満開の薔薇と紫丁香花《ライラック》とに充たされ、庭内の小径には大理石片が埋められており、そして庭の中央には水晶のような水を湛えた白大理石の水盤があって、その中心からは噴水が繊細な水柱と水煙とを澄み切った空気中に送っていた。水柱は先の方で数千の水滴に別れて落下し、輝かしい太陽の光線に銀の蜘蛛の巣のごとく映じていた。このような魅惑的な生活に別れを告げようとしたとき、この富裕で鷹揚な主人は餞別として銀貨の一杯詰まった財布を私のてのひらに載せてくれたのであった。
私はまた、宝石をちりばめた制服を着てテヘランの宮殿でオスカー王の使節を引見したときのあの不幸なナスル・エッジン王の高貴なそしていかにも賢明そうな整った容貌を眼前に彷彿とし、またそれと共に我々使節一行が泊ったエマレット・セパ・サラールと、そこである宵、糸杉《サイプレス》の陰の下で野原をさまよったことを想い出した。
これらの過去の想い出の数々の場面はあたかも夢の中のごとく私の心を去来した。しかしこれらの過去の冒険は今度の旅行に比しては何でもない出来事にすぎなかった。
かくのごとくにして私は定まった一つの物体に視線を止めることなく、朦朧と混乱した視線の中にあらゆるものを映ぜしめながら天幕の白い布を凝視したまま、目を見開いて終日横たわっていたのであった。一度か二度、私の視線はかすみ、そして考えは混迷を来たした。このときは半ば微睡《まどろ》んだときなのであった。まどろみのとき私は再び銀色の白楊樹の陰の、緑の牧草の上に横たわっている幻想にとらわれていたのだ。そして現実に還るのは何と悲惨なことであったろう。意識を取り戻したとき私は、あたかも棺《ひつぎ》の内に横たわっているように感じた。葬列はすでに墓地に達した。葬列の鈴はその悲し気な響きを収めてしまい、墓穴はすでに掘られ、次に来る砂の暴風が墓穴を埋めるのを待つのみであった。我々のうちの誰がまず死ぬ番だろうか。誰が最後に死ぬ苦悩を味わうのであろうか。最後に死ぬ者は仲間の死骸の発する悪臭で肺を窒息させられるように感じるに違いない。神よ、一刻も早く死期を下し給え――この恐るべき肉体の苦痛に精神が打ち負かされることを避けしめ給え――この心の苦痛に打ち勝たしめ給え。
時間はあたかもこの死に近づきつつあるラクダの歩みのごとく、一歩一歩緩やかに過ぎるのであった。私は時計を凝視し、各瞬間はあたかも一つ一つの永遠のごとく感じた。一瞬私の体は突然の冷気に浸されたごとく爽快に心地よく感じた。天幕の垂れ扉が吹き上げられた。ちょうど正午であった。微風がこの酷熱の砂丘を越えて吹いて来たのだ。微かな風にすぎなかったが、私の感じやすくなっている皮膚に感じるには十分であった。微風はしだいに強くなり、午後三時にいたってそれは毛氈で身体をおおわなければならないほどの強さになった。
しばらくの後、奇蹟と考えるより外はない事が起こった。太陽がしだいに地平線に近づくにしたがって私の体力は徐々に回復し、太陽が西方の砂丘の頂上に灼熱した砲丸のように見えるときにいたって、私は完全に元気を取り戻した。私の肉体は再びその以前の弾力を回復し、何日でもまだ歩み続け得るように感じた。こうして横たわっていることに焦燥を感じた。私は決して死んではならない。家に残した人々が私の死を悲しみ、私の墓場に花を捧げることのできないのを悔やむであろう、という考えが私にとって最も苦痛であった。それで私はたとえ這いずってでも、そしてたとえ私のカラヴァンの隊員が倒れても、全力をつくしてただ前進するのみと決意を固めた。横になって休息することはこの極度に疲労し切っているとき、最も強い誘惑であった。しかしそうすることはただちに眠り、それからは決して再びめざめることなき永い深い眠り、そしてその中ではすべての心と身体の苦痛を忘れる眠りにおちいることを意味していた。この誘惑から私は決然と立ち上がった。
日没にいたってイスラム・ベイとカシムもまた回復した。私は彼らに私の決心を告げた。彼らもまた私と同様の決心であった。モハメット・シャーは依然として同じ所に横たわり、ヨルチは天幕の陰に仰向けに寝ていた。モハメット・シャーとヨルチは精神混迷状態におちいり、我々の声に応えることなく訳のわからぬうわ言を口走っているのみであったが、夜になってヨルチは動き出し感覚を取り戻し、彼の中に潜む野獣性がめざめた。彼は私のかたわらに這い寄って来て拳を振って調子外れの脅かすような声で「水をくれ、水を」と呼び、そして啜り泣きを始め、私の前に膝を折ってうめきながら少しでも水をくれるように懇願するのであった。私は彼に対し水を盗んで飲んでしまったのは彼自身で、彼は我々他の一同の全部を合わせたより、より多くの水を飲んでいるのであるし、かつ一番最後に水を飲んだのもまた彼であるから、当然最も渇きに耐え得るはずであると語って聞かせた。彼は依然として啜り泣きを続けながらはいずって去った。
この恐るべきキャンプを立ち去る前にたとえ幾分でも――ただ唇と咽喉を濡す程度にでも――身体に湿り気を与える方法はないものであろうか。我々は――他の者は私以上に――想像を絶し言語を絶する渇きの苦痛によってさいなまれていた。ふと私はいまだ生き残っている鶏の上に目を止めた。それは倒れているラクダの間を悠々と歩きまわっていた。この鶏の血を飲んではどうであろうか。従者の一人が鶏の頸を切断したところが少量の鮮血が徐々に流れ出した。しかしそれでは足りないので他の生命を犠牲にしなければならなかった。従者達は飼い犬のごとく忠実に我々について来た穏やかな羊を屠ることをすこぶる躊躇したのであったが、私は自分達の生命を救うためにはこの羊の血をすすらなければならないといって彼らに説明した。
ついにイスラムはうなだれながらこの哀れな動物を少しかたわらにひいて行き、その頭を聖地《メッカ》の方へ向けた。そしてカシムが羊の脚を綱で縛っている間に小刀《ナイフ》を抜き一閃して頸の動脈を切断した。血は厚い赤褐色の流れになって桶の中に溜まりたちまち凝結作用を起こした。匙《さじ》と小刀ですくってみるとなお暖かであった。我々はきわめて注意深く味わってみたがそれは不快な液体であった。桶からは、いとうべき臭気が発散していたが、とにかく私は匙に一杯呑み下した。しかし二杯とはどうしても飲む気になれなかった。従者達もこの不快な臭いに参ってしまい、犬のヨルダッシュに与えたが犬はそれを舐めてしまった。我々一同はこのように役に立たないのに忠実な羊を屠ったことを大いに後悔したが及ばなかった。
私はいま極度の渇きというものがいかに人間を半ば狂気にするかということを知った。イスラムと他の者達はラクダの尿を手鍋《ソースパン》に一杯溜めてそれに酢醋《ヴィネガー》と砂糖を加えてコップに注ぎ、鼻をつまんでこの奇怪な混合物を飲み込んだ。彼らは私にもコップを差し出したが、その不快な臭いは私に吐き気を催させるにすぎなかった。カシム以外の者はすべてこの悪臭のある液体を飲み干した。カシムが飲まなかったのは賢明であった。しばらくすると他の三人は恐ろしい苦痛を伴う嘔吐を催し、ことごとく地に倒れ伏した。やつれ果て目を見開き狂乱の相貌を呈したヨルチは天幕の側に坐り、死んだ羊の肺臓から滴り落ちる脂を舐め血にまみれ物凄い様子であった。今では正気なのはカシムと私の二人のみになってしまった。イスラム・ベイは嘔吐の後、少し回復しかけて来たようであった。我々はもう一度荷物を整理してその大部分を捨て去ることにし、私の絶対に必要と思うもの――私の描いた図面および行程図・岩石と砂の標本・地図・観測用具・筆・紙・聖書およびスウェーデン語の讃美歌・その他の小さい品物等――を一まとめにした。イスラム・ベイも同様に絶対に必要な三日分の食料(麦粉・茶・砂糖・パン・二、三箱の缶詰)を選び出した。私は一頭のラクダの半分を占める約二百八十ポンドに値する中国の銀貨をも捨てて行くことを提議した。私は水を発見したらこれらの品物を取りに帰って来るつもりであった。しかしイスラム・ベイは銀貨を後に残して行くことを承知しなかった。これは後になって彼の主張が正しかったことが証明された。以上の品物以外にイスラムは第十七号キャンプからたずさえて来た葉巻煙草と紙巻き煙草各一箱、数個の料理器具、武器、少量の弾薬筒・蝋燭・カンテラ・水桶・鋤・綱《ロープ》その他の二、三を載せる余地を見出した。
以上の他に残留することに決したものは、二個の重い弾薬箱・天幕・数枚の毛氈・絨毯・布地・コップ・旅行の参考書・写真機と砂漠旅行中に撮影した百枚以上の乾板と未使用の乾板千余枚等を入れた数個の箱・鞍数個・薬品箱・写生用具・スケッチブック・衣類・冬用長靴・冬帽子・手套等であった。
我々は残しておくべき品物を九個の箱に詰めて、天幕の中に収め天幕の端を箱の下に折り入れて暴風のときに天幕の吹き飛ばされるのを防ぐ工夫をした。砂丘の上に張られた天幕はかなり遠くから見得るのでこれを我々が再び帰って来るときの目標とした。私自身は上から下まで白い衣服を着込んだ。もし砂漠の中で命を落とすとき私は見苦しい恰好をしていたくなかった。それで私は死の装束として汚れていない白衣を着たつもりであった。必要欠くべからざるものと思った品物は帆布でできているサルト族の使用する五個のクルチンと称する一種の鞍嚢に詰めてラクダの背につけた。一頭のラクダにはライフル銃、鋤その他重量のあるものを載せ、荷物はすべてキギーズすなわち毛氈の絨毯でおおった。出発前に我々は一箱の缶詰を開いた。中身は湿った食料ではあったが咽喉が極度に乾き切っていたので呑み込むのに非常な困難を感じた。
ラクダは終日同一の場所に横たわっていた。その重苦しい呼吸がこの静寂を乱す唯一の音であった。この不幸な動物はまさに死に瀕していたが、依然として無関心と諦めの表情を保っていた。彼らの嚢状をした喉頸は萎び縮んで白味がかった青色を帯びていた。ラクダを起き上がらせるために我々は大変な努力を払わなければならなかった。
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第十一章 危機到る
この日、午後七時死の鈴が最後の響きを立てた。私は体力を少しでも保存するために最も元気な白いラクダにまたがった。イスラム・ベイはあの恐るべき液体を飲んだために体力を消耗し、カラヴァンの前を蹌踉《よろめ》きながら歩んだ。カシムはカラヴァンの後からラクダを追い立てながらついて来た。かくして我々は死の宿営から東を指して――ホータン河《ダリヤ》が緑の森の間を縫って流れている東方に向かってさまよい出た。
我々がこの呪われた場所を立ち去るやヨルチは天幕の中に這い入り私の寝床を占領して横になりながら、いまだ羊の肺臓をむさぼるように一滴の湿り気をも残すまいとかじりついた。モハメット・シャーはなお同じ場所に倒れていた。私は出発する前に彼の名を呼び額に手を当ててやった。彼は灰色の空虚《うつろ》な眼を見張り混迷した表情を浮かべていたが、しかし彼の顔には去るべからざる静寂の色がみなぎり、あたかも次の瞬間には|天の楽園《パラダイス》に入り無限の喜悦を味わおうとするもののように見えた。恐らく過去数日の間彼は回教聖典《コーラン》の中で繰り返し読んだことのあるビヘシュトの幻影をその混迷した頭の中に描いていたのであろう、そして来るべき喜悦への思慕が疑いもなく霊魂が肉体から離れるときに味わうべき苦痛に打ち勝っていたに違いない。彼はすでに生命の終りに来たと考え、今はただ永遠の休息を希求するのみで、再びこの東トルキスタンの荒廃した流砂の中を町から町へ隊商について歩き、老いの身を酷使することを永久にやめるのだと考えていたのであろう。彼の身体はまったく枯れ切って木伊乃《ミイラ》のごとく細り、銅色の顔のみが彼の中で幾分でも生気を保っている部分であった。呼吸はしだいに緩慢にそして不規則になり唇からは死の前の喘ぎを洩らすようになった。私は再び彼の乾き切り萎《しな》びた額を撫でてやり私の今の感情が許すだけの静かな声で、我々は先を急ぎ水を発見して水差しに冷たい水を湛えて帰って来るから体力が回復するまで今のところに休んでいるように言った。そしてもし元気が出たならば我々の後を追って来るように告げた。彼は一方の手を上げようと努力し、何かつぶやいたようであったが、聞き取れたのはただ「アラーの神よ」という一言であった。私には彼とは生きて再会することのないことはわかっていた。彼はもはや数時間とは生きていないであろう。彼の眼光は鈍り、眩惑しているようであった。彼のこの微睡《まどろみ》はやがて深い死の眠りに変わるであろう。彼はこの永久の沈黙と、そして神秘の彼方へ向かって不断の動きを続ける砂丘とによって囲まれた永遠の休息《いこい》の中に入りつつあるのだ。
この老人の運命に対する自責の念に傷心しつつ私は立ち去った。
私はまたヨルチにも訣別を告げ、カラヴァンにしたがい来るように励ました。それのみが彼の生命を救う途なのであった。私は彼が我々一行を迷わせたことを非難もせず、また彼が自ら砂漠に通暁していると称し、四日以内に井戸を掘って水を得られる地に到着するといって我々をあざむいたことを責めることもしなかった。私が命じたところに反して十日分の水の代わりにわずか四日分の水しか水槽にいれなかった、といって責めてみても果たしてどうなることだろう。それはただこの男の最後の瞬間に苦痛を付け加えるだけである。私はただこの男のために悲しむだけであった。
最後に残った六羽の鶏が羊の死骸を満足そうについばんでいたのはむしろ悲喜劇的な光景であった。
なぜ我々はこの哀れな生物を殺して行かなかったか。それはなお二人の死にかけた人間を殺して彼らの苦痛を救ってやらなかったと同じような理由からであろうか。死が口を開いて待っているときには人間というものは他人の苦痛に対する共感同情の念が薄れるものである。死はただ時間の問題にすぎなかった。そして最も老いた者と最も弱い者がまず倒れるのは自然の理である。カラヴァンの隊員が一人ずつ倒れて行くことは別段我々を驚かしはしなかった、ただ「次は誰の番か」と考えるのみであった。たとえ死に瀕している人間でも、とにかくも殺すのは殺人行為であることには違いない。我々がラクダを捨て去るにさいしては水を持ってきてやればあるいは助かるかも知れないという微かな希望を抱いて捨て去った。しかし人間はラクダほど永く生命を保つことはできないであろう。
彼らはすでに事実上死んだも同様であった。もしそうでなかったならば私は彼らを捨て去ってはならぬし、かつそうすることができなかったに違いない。しかし彼らが完全に息を引き取るまで待つことはさらに余計な犠牲を付け加えることを意味していた。その上我々はなんら彼らの苦痛を緩和してやるべき手段を持たなかった。水――彼の必要とする唯一のもの――彼らを救うべき唯一のものはまったく一滴もなかったのだ。それではなぜ彼らを我々と一緒に伴わなかったか。我々は彼らの最後の瞬間に与うべきなんらの慰安の手段も持たなかった。彼らはまったく無意識状態におちいり精神錯乱を起こし理性の活動は停止してしまっていた。彼らをつれて出発することは全然不可能であったのだ。彼らはすでに歩行の力を失い、ラクダはまた彼らを運ぶには弱り過ぎていた。それ以外に仮にラクダが彼らを運び得たとしてもこのような状態の下にあって事実上死んでいる者をつれて行くことは自殺的行為――まったくの狂気の沙汰にすぎなかった。我々自身の体力も弱り切り、我々の生命はこの急速に退潮しつつある精力《エネルギー》と速く過ぎゆきつつある時間との競争の勝敗に依存していたのであった。さらに果たしてどこへ行けば生命の源泉たる水を発見し得るかは見当がつかなかった。我々の体力を保存し行進を速やかにし時間を節約するために必要不可欠のもの以外はことごとく捨て去らなければならなかった。したがって我々が何事もなす術《すべ》がなくなったこの絶望の状態にある二人の男を無理に伴うことは、絶対に意味のないことのために我々の生命をいっそうの危険にさらすことに外ならなかった。私の心としては、この不幸な二人を砂漠中に置き去るには忍びなかった。私の心は傷つき、疼《うず》くのであった。重い自責の念が私の心におおいかぶさった。しかし私に何ができようか。このときの苦悩――それは筆舌に尽くし能わぬものであった。それはただ神のみが知るであろう。
鶏についてはそれは我々が再びこの天幕に戻ることがあるならば、何か役に立つことがありそうだという予感がしたので殺さないことにした。鶏は羊の死骸を食べて、かなり永く生きていることができるように思われた。
かくて我々はのろのろと進んだ。犬のヨルダッシュはなお忠実に我々にしたがった――骸骨のように痩せ細ってはいたが。ラクダの鈴の音は死に瀕しつつあるカラヴァンの隊員に対する弔鐘のごとくに響き渡った。最初の砂丘の頂上に来たとき、私は二人の従者が最後の呼吸をしている死の野営を振り返って眺めた。天幕は微かに見える西の空に鋭角状の三角形をなして立っていた。砂丘をくだると共にそれは視界から没した。そして私はただ何となくため息を吐《つ》き、再びその方向を振り返ることをなし得なかった。
我々の前方には暗夜とそして砂の海とがかぎりなくひろがっている。しかし私は気力と生きることの喜びとによって辛くも力を保っていた。私はこの砂漠で倒れたくはない。私はいまだ若いのだ。いまだなすべきことはたくさんある。私はこのときほど生命を貴く思ったことはかつてなかった。アジアの旅行はこの場所を最終の地としてはならない。私はこの大陸の一端から一端を横断するのだ。私の遥かなる目的地たる北京にいたる前に解決すべき問題は多い。かつて経験したことがなかったような精力が心に湧き出で、私はあふれる喜悦に浸った。たとえ砂中を這いずる昆虫のごとく這いずっても私はこの難関を切り抜ける、と決心を固めたのであった。
我々の行進はまったく遅々たるものであった。それにもかかわらず我々は順々に砂丘を越えて進んだ。一頭のラクダはついに倒れた。それは脚と頸を延べて死ぬときを待つのみであった。我々は荷物を最も強そうなアク・ツヤに移し、この死に瀕したラクダの綱を解き放ってやり、ただその下げていた鈴だけはつけておき、夜の暗黒の中に運命の手に委ねた。残りの四頭を伴って我々は次の砂丘に向かってたどって行った。
夜は漆黒の扉に閉ざされ、星は清澄な大気を通してきらきらと瞬いていた。しかし星の光は地面の隆低を判断するためにはあまりに微かであった。我々は砂丘に行き当たるごとに行進を止められた。幾分かの間平坦な地面を進んだあと突然我々の行く手にそびえる砂の壁に行きあたり、ラクダは疲労してしまうのであった。涼しい夜気ももはやラクダに元気をつける力を失ってしまった。彼らはしばしば立ち止り、一頭が止れば他が止るというありさまであった。ときにはラクダをつないである綱が緩み、ついに外れて一、二頭があとに取り残された。我々はしばらく進んでからラクダの数が足りないことに気がつき、行進を休止し、あるいは後に戻って連れ帰って来なければならないこともあった。イスラム・ベイはまったく疲労の極に達した。彼は打ち続く苦痛に身をもだえ、ひどい痙攣を伴う嘔吐を繰り返した。そして胃の腑がまったく空なので嘔吐するごとに彼はわずかに残った体力を消耗して行った。可哀そうに彼は地上をもだえて這いずりまわった。私は彼の嘔吐があまりに激しいので、かれはついに臓腑まで吐き出すのではないかとさえ思ったほどであった。
このようにしてあたかも虫のごとく暗闇の中を這うようにして進んだ。しかしながら私はこのように暗中模索で砂丘の上を進み続けることは不可能であることを見取ったので、ラクダを下り、カンテラをともして砂の海の巨大な波の中間の最も容易な通路を見つけるために先頭に立った。私は手にコンパスを持ち東に向かって歩んだ。カンテラは険峻な砂丘の斜面に微かな光を投げた。私はしばしば立ち止まってカラヴァンの来るのを待たなければならなかった。夜半十一時ごろには、もはやラクダの鈴の音も聞こえなくなり、ただ一頭だけがついて来るのみであった。夜の真っ暗な闇と死のような沈黙とが私の周囲を閉ざした。私はカンテラを砂丘の頂上に置き砂の上に横になって眠ろうと努めたが、ただ一瞬の眠りをも得られなかった。何か微かな物音でも聞こえはしまいかと膝を立てて座し、そして耳を傾けた。しかし何ものもなかった、希望の閃光すらなかった。すべては闇また闇の連続で墓場のごとき沈黙が支配しているのみであった。生命の存在を示す何物もなかった。周囲の静けさは私自身の心臓の鼓動を聞き得るほどであった。
ついにラクダの鈴の音が聞こえた。はじめは遠く遠く、しかしそれはしだいに近づいて来た。私の坐っている砂丘の頂上に達したときイスラム・ベイはカンテラの側によろめいて来て地上に倒れ伏し喘ぎながら、もう一歩も前進できないと告げた。彼はまったく体力を使いつくしてしまったのだ。
この悲劇的な砂漠旅行の最後の場面が演ぜられ、すべては終末を告げるのも間もないことを看て取って、私は|あらゆるもの《ヽヽヽヽヽヽ》を捨て去って力の続く限り東へ東へと急ぐ決心をした。イスラムはほとんど聞き取れないほどの声で私にしたがって進むことはもはやできないとささやいた。彼はラクダと共に残りここで死にたいと告げた。私は涼しい夜気の中の一、二時間の休息は彼の力を回復させるであろうと言って激励し、そして回復したらラクダと荷物の全部を棄て、私の足跡をたどって来るように命令《ヽヽ》した。私の言葉に答えをする力もなく彼は砂上に仰向けに倒れ、眼と口を大きく開いていた。私は彼に別れを告げ、彼ももう永いことはないと思い、心を後に残しつつ去ったのであった。
カシムはもう少し元気であった。彼は私と同じく、死の宿営であの恐ろしい混合液を飲まなかった。私が最後に携帯したものは二個の精密時計《クロノメーター》・鈴・コンパス・小刀・鉛筆・紙・マッチ・ハンカチーフ・エビの缶詰・錫《すず》の箱にいれたチョコレート、それから偶然に持ってきた紙巻き煙草十本等であった。カシムは井戸を掘るかも知れないときの用意に鋤・水桶・綱を携帯した。そして空の水桶の中に羊の尾と数切れのパンと凝結した羊の血塊とをいれていた。しかし急いだので彼は帽子を忘れ、朝が来たときには私のハンカチーフを借りて光線を避けるために頭に巻きつけなければならなかった。
我々のたずさえた食料はあまり役には立たなかった。それを呑み込むにしては我々の咽喉はあまりに乾燥し切り、咽喉の粘膜は手や顔の皮膚と同じくらいかさかさに乾いてしまっていた。何かを呑み込もうとするとそれは咽喉に突き刺さるのみで、窒息しそうになるので急いで吐き出さなければならない始末だった。渇きにさいなまれているときには、ほとんどすべて飢えの感覚を喪失してしまう。はじめの数日の間は渇きの苦痛のためほとんど神経が失われるように感じるが、やがて皮膚の発汗が停止し、あるいは血管を流れる血が濃度を増すために発汗がごく微量になって来ると体力が急速に減退し危険な状態が近づく。
つい数日前まで勇敢に行進を続けて来た我々のカラヴァンをついに放棄するのやむなきにいたったのは正確にいえば真夜中のことであった。我々は文字通りに難破し、ついに「砂漠の船」をも無慈悲な砂の海に捨て去らなければならなくなった。我々は「岸」を求めて出発した。しかしそれに到着するまでにはどのくらい進まなければならないか見当はまったくつかなかった。
残った四頭のラクダは犠牲に供される羊のごとく、黙し、諦め、そして忍耐強く横たわっていた。彼らは重苦しく呼吸し、長い頸を砂丘の表面に投げ出していた。我々がイスラム・ベイを残して去るとき、彼は我々の方を一瞥もしなかった。しかし犬のヨルダッシュは不思議そうに我々を見送っていた。恐らくヨルダッシュは我々はまもなく水をたずさえて帰って来るに違いないと思っていたのであろう。カラヴァンはあとに残っていたし、我々はかつて決してカラヴァンから遠くに離れたことはなかったから。
私はカンテラに火を点《とも》してイスラムのかたわらに残した。しばらくの間それは燈台の代わりになりどのくらい道程《みちのり》を歩んだかを示し、また東に向かって進むべき我々の道を指示した。しかしまもなく燈火は砂丘の陰に隠れ、我々は夜の闇の中に呑み込まれてしまった。
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第十二章 最後の行進
五月二日。死の運命にあるカラヴァンを背後に残した後、私は自分自身のコースを選択することがより自由になったように感じた。いま私の唯一の関心は、行程をできるだけ短縮するために東方に可能なる限り直線を描いて進むことであった。我々は休まずにまる二時間、行を急いだ。砂丘は依然として高くかつ険しかった。二時間の後、我々は眠くなり、ついにしばらくの間横にならざるを得なかった。我々は衣服をごくわずかしか着けていなかった。カシムは一枚のジャケットとだぶだぶのズボンとそして長靴だけであった。私は羊毛の下着と木綿の白い薄いシャツと先の尖った白いロシア帽とを着けていた。それでうす寒い夜気のためにまもなくめざめてしまった。我々は暖まるまで速や足で進んだが、今度は非常に強い睡魔に襲われ、途中でめざめることなく熟睡した。午前四時にいたって刺すような空気の感じでめざめたが、それは夜明けであった。今度は骨まで刺すような寒気を覚えた。我々は起き上がり、休むことなく五時間歩いて午前九時になった。そして疲れたので一時間の休息をとった。
休息している間に爽快な西の微風が吹き、空気を冷やしたのでまたしばらく前進を続けた。しかし十一時半にいたって暑熱が激しくなり、眼の前が真っ暗になるように感じたのでまったく疲労して砂丘の上に打ち伏してしまった。その砂丘の北に面した斜面は砂がまだ光線で暖められていなかったので我々は日の暮れるまで止まっていた。カシムは砂丘の頂上に穴を掘り夜の冷気がまだ残っている砂層に達した。そこで我々はまったくの裸体になって頸まで砂に埋めて鋤を立てた上に衣服を張り太陽を避ける帳《スクリーン》の代わりにした。このような状態で終日涼しく心地よく過ごした。実際ときには寒くさえ感じた。しかし砂は身体の温かさと大気の熱とによって徐々に暖められて来たので我々は穴から這い出て、カシムは新しい穴を掘り、私に冷たい砂をかけてくれた。それは燃えるような太陽の直射下の冷砂浴ともいうべきもので、すこぶる爽快を覚えた。我々は穴から頭だけ出し、その頭もある程度まで太陽の直射から防いだ。二匹の蝿と一匹の蚋《あぶ》とが我々の付近を飛び回っていた。これらの虫は遠方から風で吹き流されて来たものであろう。
このようにして我々は一言も発することなく、しかも眠ることもせずに、永遠の流砂の中に埋もれたまま休息を続けた。午後六時まで我々は動かずにいた。それから砂の中から這い出して衣服を着け、ゆるゆると重い足取りで進んだ。この乾いた砂に長時間埋もれていた事はかなり体力を消耗せしめたようであった。疲労にもかかわらずたびたび休みながらも東へ東へと翌朝の午前一時まで歩み続けた。そして疲れ果てて砂丘の上に倒れて眠りに落ちた。
五月三日。心地よい睡眠の後に我々は午前四時にめざめた。冷たい空気の中では休むことなくかなりの距離を行くことができるので、日の出までの間が最も行程がはかどった。この日我々の消えそうであった希望がよみがえり勇気が再び萌《きざ》した。突然カシムは立ち上がり、私の肩を押さえて一言も発せずに遥か東を凝視した。私は彼の指す方向を眺めた、しかし何も変わったものは眼に入らなかった。カシムの鋭い眼は地平線の縁にタマリスクの緑の葉の茂りを見出したのであった。我々のすべての希望はこの微かな緑の影につながれた。目標を失わないように最大の注意を払いつつ、我々はこの樹の影に向かって直線に進んだ。二つの砂丘の間の窪地に入るときにはもちろんこの目標は眼界から消えてしまったが、次の砂丘の登るとそれは依然として我々の前に現れて来た。そして歩一歩近づいて行くのであった。ついに我々はそれに達した。まず第一に今まで無事に導いて来てくれた神に感謝を捧げた。
我々は樹の新鮮な緑を心ゆくまで味わった。動物のごとくその液汁の多い葉をかむのであった。この木は生きているのだ。その根は明らかに含水層まで達しているのだ。我々は今や地表に現れている水にも遠くはないのである。タマリスクは砂丘の頂上に生えていた、そして付近には少しの平坦地さえなかった。このタマリスク(Tamarix elongata)は不思議な生活を営んでいる。その枝と強靭かつ弾力に富む幹は滅多に七フィートの高さを越すことなく、太陽の熱を浴びてその根は信ずべからざるほどの深さに達し、地下から水分をサイフォンのような作用で吸い上げている。実際この樹の存在は砂漠の海の巨大な波の中を漂う睡蓮を連想させる。タマリスクを見ることだけですでに大きな喜悦であり、その小さい陰にしばしの間疲れ果てた四肢を伸ばすことは大きな歓喜であった。それはこの砂の大洋の果てを示すオリーブの枝――平和と憩いの標識――のように思われた。あたかもスケルガルト〔スウェーデンの東岸に接する群島〕の最端の岬が難破船の乗組員に岸の近きを示すごとくに。私は松葉に似たこの樹の葉を手に一杯盛り上げ、その心地よく冷たい感触と香りを心ゆくまで楽しんだ。いま希望はかつてないほど燃え上がり、そして勇気を新たにして我々は東へ向かって進み始めたのであった。
砂丘は少し高さを減じ三十フィート前後になった。ある砂丘の間の窪地で我々は二叢《ふたむら》の蘆《カミッシュ》(Lasiagrostes splendens)を見つけたので、先の尖った茎を摘んでかんでみた。九時半に我々はタマリスクに行きあたり、進むにしたがってさらに数本を見出した。しかし我々の精力は酷熱のためにまったく尽き、その繁みの陰に疲労した身体を横たえなければならなかった。そして昨日やったように砂に穴を掘り、裸体でその中に埋もれた。
かくて我々はあたかも死んだようになって時間を過ごしたのであった。カシムはもはや冷たい砂を私にかけてくれるだけの元気はなかった。午後七時、我々は震える脚を踏みしめながら黎明の中を再び歩み出した。三時間歩んだとき、カシムは突然立ち止り「トグラーク」(白楊樹)と叫んだ。私の眼には二つ三つ先の砂丘に何物か闇の中に微かに見えた。カシムの叫びは本当であった。それは樹液の豊富な葉をつけた三本の白楊樹であった。しかしその葉はかんでみたがあまりに苦かった。それで我々は葉をかむ代わりに葉で身体中を摩擦し皮膚を湿すことに成功した。
我々は余りに疲労していたために二時間何事もなすことなく休息し、したがってこの場所はどんな所であるかを詳細に調べてみる気力もなかった。樹の根の辺《あたり》を掘ってみたが、もはや掘り続ける力がなく、鋤は手の中でぐるぐるまわりしばしば手から滑り落ちるのであった。砂にはほとんど水分が含まれていなかった。水に達するにはかなり深く掘る必要があることはきわめて明らかであった。それにもかかわらずしばらくの間手で砂を掻き分けて見たが、このようなことをしても何にもならないことがわかったので、井戸を掘る計画は放棄することにした。
我々の次の計画はこの白楊樹の一叢に見出しえるだけの枯れ枝を拾い集めて焚火をし、砂丘の遥か彼方まで我々の所在を知らそうということであった。焚火の火焔は暗黒の空にあたかも闇の中に立ち上る幽霊のような不気味な姿を躍らせた。我々の目的の一つは、もし万一イスラム・ベイが生きていたら彼に目標を与えること、もう一つの目的はホータン河《ダリヤ》の左岸に沿う路をホータンからアクスに向かって旅をしている者に対する救助信号のつもりであった。このようにしてまる二時間、焚火を盛んに燃やし続けた後はしだいに火力の弱るままに放置した。カシムは羊の尻尾の一片を脂で揚げて非常な努力をして嚥み下した。私自身は缶詰のエビを嚥み下そうとしたが、うまくゆかなかった。その他の我々の「食料」は行進を鈍らせるのですべて放棄して来たが、ただ一つチョコレートの空缶のみを携帯していた。この空缶で私はホータン河《ダリヤ》の水を心ゆくばかり飲むつもりであったのだ。それから冷たい夜気を篝火で防ぎつつ熟睡に落ちた。
五月四日。午前三時に目覚め、四時には早くも行進を始めた。歩一歩ごとに体力は減退し、蹌踉たる歩調で幾度となく憩いをとりつつ午前九時まで行進を続けた。砂漠の大洋は我等の行手にその貪欲な口を開き、あたかも我等を呑み込んでしまう最後の瞬間を意地悪く待っているように見えた。三本の白楊樹を最後としてその後白楊樹には行き当たらなかった。タマリスクの数もまた少なく草むらと次の草むらとの間隔はしだいに遠く、一つの草むらに立っては次の草むらは視野に入らぬようになった。我々の元気もまた銷沈し始め、我々が通過した場所は単に窪地にすぎないのではあるまいか、そして我々は再び無限の流砂の中に閉じ籠められるのではないか、と恐れ始めるようになった。午前九時我々はタマリスクの下に倒れたままそれから十時間の間を焼きつく太陽の下に生死の間を彷徨した。
カシムは急に弱って来た。身体を隠す穴を砂地に掘る力さえ消え果て、私に冷たい砂をかけてくれるすべもなく私自身も熱気で非常な苦痛を味わった。終日我々は一言も話さなかった。このさい何を話すことがあったろうか。我々二人の考えは同じことであった。実際のところ我々は話すことそれ自身さえもできなかったのだ。ただささやくか、言葉らしいものを唇から発するにすぎなかった。一週間前の我々と太陽との間をさえぎって完全に熱気を遮断してくれたあの砂塵の嵐は今どこに行っているのだろうか。我々は赤銅のごとく輝く光線を遮断しえる唯一のものである黒雲をただ無駄に待つのみであった。太陽と砂漠とは無慈悲に我々の生命を浸蝕しつつあった。
しかしながらこの永い苦痛な一日もやはり終るときはあった。太陽は再び西に沈んで行った。私は必死の努力で身を起こし、ぴったりと身体に合った赤褐色の羊皮紙のように身体に付着した砂を払い落として、着物をまといカシムに随って来るように呼びかけたが、彼はただもはや一歩も進むことはできないと喘ぎ喘ぎいい、身振りで最後のときが到来したということを私に知らせるようであった。
私は独り、ただ独りで歩み続けた、夜のさ中を、永遠に続く砂地の上を。砂地は依然として墓のごとく、地上に落ちる影は常にもまして濃いように思われた。時々砂丘の上で休息し、そして私は今いかに孤独であるかということを知った。私は今や私の良心と頭上に輝く星以外にはなんらの伴侶も持たぬのだ。ただ良心と星のみが私の見得るもの、そして知り得る唯一のものである。同時に良心と星とは私が今歩んでいる途が死の影の谷ではないという想念を私に吹き込んだ。大気はまったく静寂で、そして冷たかった。私は遥か彼方の最も微かな音ですら耳にし得た。砂に耳をつけそして音を求めたが、聞き得るものはただ私自身の所持している時計の刻みと心臓の鼓動とのみであった。この荒れ果てた空間の世界の中には何一つ生物の動きを示す音はなかった。
私は最後の一本のシガレットに火を点じた。シガレットはすでにこの一本を残すのみ。シガレットはある程度まで渇きを癒す効果があった。私は一本のシガレットの最初の半分を吸い、残りをカシムに与えることにしていたが、彼は永い時間をかけてほとんど吸い口までふかし、そして満足したというのが常であった。しかしこの最後のシガレットは私一人で吸いつくしてしまった。私は今やただ独りきりになってしまったのだから。
五月五日。十二時半まで歩き、そしてついにタマリスクの陰に身を横たえた。火を燃しつけようと試みたが、駄目であったのでしばしまどろんだ。
砂上に音を聞いた、足音を。暗黒の中にすべり行く人影を見た。それはカシムであった。夜の冷気が彼をよみがえらせたので、カシムは私の足跡を追って来たのであった。この出会いは非常に私を喜ばせ、我々はまたしばし漆のごとき闇の中に歩みを続けた。
しかし我々の体力は急速に減退してゆき、脚はよろめいた。そして疲労と闘い、睡魔と争うのであった。砂丘の険しい方の側面は今は画然《かくぜん》と東を向いていた。這いずって砂丘を降った。我々はしだいに無関心になってゆき、精神もまたよろめき出した。そして生命――ただ生きること――のみに努力するのであった。砂上にしるせられた人間の足跡を突然見出したではないか。驚くべき発見。我々はひざまずき、この足跡を調べ始めた。足跡、人の足跡たることに疑いはない。何人かがこの途を通ったのだ。今や河から遠くないことは明らかである。何となれば河が近くになくしてなぜ人間がこの砂の荒野にさ迷い出るだろうか。たちまちにして我々は元気づいた。カシムはこの足跡が非常に新しいことに気づいた。だがこの数日間は無風であった。恐らく前々夜我々の燃した火を眺めた河岸の樹林中にいた牧人が、その原因を見きわめるために砂漠中に足を踏み入れたのではなかったか。
我々はこの足跡をたどって砂丘の頂上にいたった。そこでは砂がより固まっていたので足跡はより鮮明に見られた。
カシムはかがんでいたが、ほとんど聞こえない程度の声で叫んだ「我々自身の足跡だ」。
私もひざまづいて見、そしてカシムの正しいことを知った。この砂上の足跡は明らかに我々自身の足によってしるされたものであり、一定の間をおいて鋤の跡が刻まれていた。カシムは鋤を杖代わりについていたのである。意気阻喪の発見であった。一体我々は何時間同じ場所を廻っていたのだろうか。しかし私は余り永い時間ではないという確信で自ら慰めた。コンパスをつい眠さのために見るのを忘れていたのはこの一時間くらいのことであった。しかしいずれにせよしばしの間、踏み迷っていたことは事実である。朝の二時半にいたって砂上に横たわり眠りに落ちた。
黎明にめざめ、再び行進を始めた。このとき四時十分。カシムの姿は実に惨めなものであった。舌は乾き切り真っ白になって腫れ上がり、唇は蒼ざめ、頬は落ち、両眼はものうげにそしてガラスのように澄んでいた。彼はまた頭から足の先まで震えるようなしゃっくりをしていたが、それはあたかも死の直前の痙攣に似ていた。立っているのさえ一方《ひとかた》ならぬ努力のように見えたが、それでも彼は立ち上がり、私の後を追って来るのであった。
咽喉は焦げつくように乾き、身体の関節は鳴り、歩く度に関節の摩擦で火が出そうに感じた。眼もまた乾き切り、開け閉じさえ自由にならなかった。
太陽が昇ったとき、我々は渇したように東を望んだ。地平線は切り立ったように鋭く明確で、今まで見慣れて来たものとは違っていた。それはもはや砂丘の縁の無数の鋸の歯のようになっている地平線とは異なり、ほとんど見えるか見えぬ程度の凹凸を示す地平線であった。しばらく歩んだ後、我々は地平線が黒く縁取られていることに気がついた。何たる歓喜、何たる祝福。それは実にホータン河《ダリヤ》の岸を縁取る森林であったのだ。ついに我々はホータン河《ダリヤ》に近づきつつあるのだ。
五時少し前、ダラア(渓谷の意)すなわち砂漠の窪みにいたった。私はすぐにそれは河流の跡であるとの結論に達した。その低所には多数の白楊樹が生えていた。そしてその下には余り深くないところに水があるに相違ない。ただちに鋤をとってみたが我々にはもはや掘るだけの力はなかった。やむを得ず再び東へ向かって進んだ。まず低い荒れた砂地を越えたが、次に五時半には繁茂した連続した森林に踏み入った。樹木はそこで葉をいっぱいにまとい、林の中の地面は沈鬱な陰を構成していた。何にせよ希望が萌し始めたことは事実であった。
籠手《こて》をかざしてこのすばらしい眺めを立ったまま釘づけにされたようになって眺め入った。注意を集中するためには少なからぬ努力が必要であった。私は悪夢から半ば覚めた時の状態のようにいまだ半ば眩惑していた。過去数週間というものは死の影のつきまとう谷の中を一インチ一インチ死に近づきつつ身体を引きずって来たのだった。しかし今我々の周囲はどの方向に眼を向けても生命と春と鳥のさえずりと森の香と緑のすがすがしい木の葉とそしていたるところ林の育《はぐく》みの中に棲息する数知れぬ獣――虎・狼・鹿・狐・カモシカ・野兎等――の群れとが取り巻いている。大気には蝿とブヨとが群れており、甲虫は疾き矢のごとく身体の周囲を飛び過ぎ、その羽音はオルガンの響きのごとく聞える。そして小鳥は木の枝から夜明けの歌をさえずっている。
樹木はしだいに繁茂してきた。ところどころ白楊樹の幹にはツタが巻きつき、我々は歩行の途中しばしば枯れ木や枯死した樹幹や灌木や、また茂ったいばらのために妨げられた。
七時十分過ぎ、この森林はようやく繁みが少なくなった。そして樹間に人間や馬のおぼろな足跡を見出した。しかし足跡がいつごろのものか判別は不可能であった。その理由はここでは森林のため砂風が足跡を消す力を失っているからである。何たる歓喜、何たる祝福。我々は救われたのだ。
私は河が近くに存在するはずだといって、東方へ向かって直線に進むことを提議したが、カシムは途を示している足跡をたどっていけば河岸に出るものと考えていた。足跡をたどるのは容易な上、それは木陰にしるされていたので私はカシムのいうところにしたがうことにした。
よろめきつつ我々二人は南に向かって足跡をたどった。しかし九時までに熱帯地のごとき暑気のため我々は完全に参ってしまい、ついに二、三本の白楊樹の陰のある地面に横になった。私は素手で木の根本を掘って横たわったが微睡《まどろみ》もできず、終日輾転とした。カシムは幻想状態で独り何事かつぶやき、かつうめきつつ仰向けに寝たまま私が呼びかけても返事もなく揺り動かしても応えがなかった。
この日はあたかも終ることがないように永く感ぜられた。このときほど私は忍耐力を必要としたことはなかった。河は近い、しかるに私は行きつく前に死にかかっているではないか。
身支度を終えたのは七時。私はカシムに水を求めに私と共に来るように言いつけた。しかし彼は頭を振り、絶望の身振りで、私に独りで行き、水を飲み、そして水を持って来てくれるように合図したばかりであった。水なくしてはカシムは今の場所で死ぬより他に仕方がないであろう。
私は鋤の金具を取り外して途の中央に張っている木の枝に吊るし、我々が入った林の入り口の目印にした。それは今では残してきた荷物を再び取り戻すことができると思うようになったからである。その場所はこの森林の入り口から真西に当たっているのだ。私はイスラムおよびその他の者はすでに死んでしまったものと考えていた。私は鋤の柄をたずさえ、それを杖としてまた必要な場合には武器にするつもりであった。
途を東にとり森林をまっすぐに横切ることにしたが、それは容易なことではなかった。二度三度私はいばらの草むらに踏み入り、衣服を裂き、手にすり傷をつけた。木の根や倒木の幹にいらいらしながら腰を下して休息した。すでに極度に疲労し切っていたのである。黄昏が来たり、しだいに闇がせまった。めざめているためには、ほとんど想像以上の努力が必要であった。急に森林が終った、あたかも山火で燃え尽したように。そして東には固い粘土と砂の平坦な地面がひろがっていた。それは森林のある地からは五フィートないし六フィート低地になっており一個の砂丘も存在していない。私はただちにそれはホータン河《ダリヤ》の河床に違いないと悟った。この推測はすぐに確かめることができた。私は白楊樹の幹や枝が半ば地中に埋もれている場所に来かかり、一フィート前後だけ高くなっている溝と鋭い縁を見出した。これは正しく水流によって生じた現象である。しかしながら砂は依然として砂漠の砂のごとく乾燥し切っている。この河床は夏季にいたって山脈から流れ来たる氾濫を待つ間は空虚なのである。
さほど永い間、さほど熱望していた河床で渇死するとは考えられないこと、そして同時に信じ得られないことであった。私は東方に向かってその流れを変える傾向を有するヤルカンド河《ダリヤ》のことを記憶によみがえらし、そして森林中で越えてきた古い河床のことを思い出した。恐らくホータン河《ダリヤ》もまた同様の傾向をたどったのだろう。恐らくはその流れは東岸をたどっているのであろう、したがってもし水路の最深の部分を発見すれば河流を発見できるに違いないと考えた。そしてすべての希望を捨て去る前に向こう岸に渡る決心を固めたのであった。
途を南東に選んだ。なぜ今まで通り東に向かわなかったかは私自身にもわからない。恐らく月光が私を蠱惑《こわく》したのであろう。月はそのとき南東の空にその半弦の姿を掛けてこの沈黙の光景におぼろな青白い光を投げかけていた。あたかも眼に見えぬ抵抗すべからざる手に導かれるごとく、私は鋤の柄を杖にして南東に向かって重い足を引きずった。時々睡魔に襲われ、立ち止り、そして休息しなければならなかった。脈拍はきわめて微弱になり、ほとんど触れてもわからぬ程度になってしまった。眠りに落ちないためには意志の力を鋼鉄のごとくにする必要があった。眠ったならばそのまま再びめざめることなき永い眠りに入ってしまうのではないかということを恐れた。月を見つめて歩みながら、その銀色の帯が黒い河流に流れている場所を見出すことを念じた。しかしいまだそのような光景は見えない。東の方は冷たい夜霧にまったく閉ざされている。
約一マイル半を歩いた後、ついに河の右岸に黒い森林の一線を見るを得た。進むにしたがってそれはしだいにはっきりしてきた。灌木と葦の草むら。風に吹き倒された一本の白楊樹が河床にうがたれた深い穴の上に横たわっていた。河岸の数ヤード近くまで行き着いたとき、私の足音に驚かされて飛び立った鴨が矢のごとく飛び去った。水音を耳にし、そして次の瞬間に私は新鮮な冷たい水――美しい水――に充たされた小さい水溜まりの際に立っていた。
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第十三章 人間の足跡
このとき、私の心にあふれた感情を記述しようと試みることは恐らく無駄な試みであろう。この感情は想像し得るかも知れない、しかし記述しようとすることは不可能である。水を飲む前に私は脈を計った。このとき、脈拍四十九。ポケットからブリキ製の水飲みを取り出し、水を充たし、そして飲み乾した。この水は何と美味だったことか。何人《なんぴと》といえども渇きのために死の苦痛に瀕したことのないものにはこの味を想像することは不可能である。私は水呑みを唇につけ――静かに、そろそろと、そして用心深く――何回となく心ゆくまで飲んだ。何という味わい。何に譬《たと》うべき愉悦。葡萄から搾り出した最善最美の酒――あのギリシアの神々の美酒――といえどもこの水の半ばの味もなかったに違いない。私の期待は私をあざむかなかったのだ。私を守護する運命の星はいつもと同じように私の頭の上に燦然と輝いている。
十分間の間に五パイントないし六パイント(一パイントは半リットル余)の水を飲み乾した、といっても決して誇張ではない。このとき、私は一時にこのように多量の水を飲むことが危険であるなどということは考えもしなかった。しかしこの多量の水によってなんらの害を受けるどころか、反対にそれは私の身体中に新しい精力を注いだようなものであった。あらゆる体内の血管と組織とはあたかも海綿が水を吸うごとくにこの生命の水を吸収した、そして弱り果てていた脈拍は数分の後にはすでに五十六をかぞえるようになった。渇きのために滞っていた血行はまったく回復した。枯れ木のごとくかさかさになりきっていた手も再び人間の手らしくなり、羊皮紙のようになっていた皮膚は湿気を帯び、伸び縮みができるようになった。そしてまもなく額に発汗が始まった。つまり私の全身はこの生命の水の注入によって新鮮な生命を得たのであった。このときこそまったく厳粛な、そして最も希望に満ちた瞬間であったのだ。
このときこのホータン河《ダリヤ》の河床における一夜ほど生命が価値あり、美しく、かつ豊かなものに感じられたときはかつてなかった。未来は茫漠として彼方に微笑み、人生の悲痛惨苦などというものは私にとってこのときはまったく嗤《わら》うにも値しない空言のように思われた。天使の優しい手が私をこの河床の水溜まりに導いてくれたのだ、私は自分のかたわらに天使の羽衣の響きを聞く思いがした。このときほど「永遠なるもの」――神――の厳粛な存在を切実に感じたことはなかった、そしてこれ以後も恐らく……
このような感覚の幻想状態を経過し、さらに数杯の水を飲み乾した後、ようやく人心地ついたというのであろうか、思考力も常態に復し始め、現実の問題を考え得るようになった。
この水溜まりは河床の最も深い部分にあり、右岸に近く、恐らく去年の夏期の氾濫の名残りが水溜まりになっていたのであろう。したがってそれは遥かに河床の水準線より低く、ほとんど脚を水溜まりに踏み入れそうになるまでその存在に気づかなかったくらいである。もう五十歩右か左に方向を取ったならば、恐らくこの水溜まりを発見し得なかったに違いない。そして後で知ったことであるが、次の水溜まりまではかなり遠い距離があった。ホータンとアクスの間を旅行する隊商は水溜まりの位置を明瞭に知っているのであるが、もしこのときかかる知識のない私がこの水溜まりに行き当たらなかったならば、恐らく私の力は次の水溜まりに行き着くまでに尽き果ててしまったであろう。
河の東岸は乾き切って黄色くなっている前年の蘆に縁取られ、そして若芽が古い幹の間からようやく萌え出していた。蘆におおわれた岸の彼方には梢の高い白楊樹林の端に銀色の弦月が、厳粛に、冷たく、そして脅かすごとくかかっていた。私は水溜まりの側に腰を下し樹林の投影の下に漆黒に見える水面を眺めた。水溜まりの長さは二十ヤードもあったろうか。私はこのとき私の背後にひそやかに忍び寄る足音を聞く心地がした、蘆を静かに掻き分けながら忍び寄る音を。虎ではなかろうか。しかし私はなんらの恐怖も戦慄も覚えなかった。私はちょうど今新しい生命を恵まれたばかりなのだ。蘆の間からのぞく虎のきらきら光る眼は、このときの私にはかえって一つの魅惑であったろう。しかし獣はまもなく去った。足音は再び遠くなった。虎であったにせよ、何にせよ、水溜まりに水を求めて来る森の野獣達は人間のいる場所近くに来ることを避けるのであろうか。
私の思いはたちまちカシムの上に馳せた。カシムはいまだこの水溜まりから三時間の距離の所に死と闘争しつつ一歩も動くことができずに横たわっているであろう。しかしチョコレートの缶は小さ過ぎて何にもならない。何か水を運ぶに適当な器はないものかと考えたとき、私は自分のはいている靴に気づいた。
スウェーデン製の私の靴は完全な防水靴で一滴の水も通さない。私は靴に一ぱい水を充たし、カシムを求めて道を引き返した。恐らくアジア大陸を横断した上、一人の生命を完全に救った靴を製造したのは、この私の靴を作った靴屋が初めてのことであったに違いない。
月はいまだその柔かい光を河床の上に投影していたので、砂地に刻された足跡をたどるのは別段困難ではなかった。それにもはや疲労は回復し、足取りは軽かった。しかし樹林を抜けるのは容易ではなかった。厚い霧はときたま月光をさえぎり道を迷わせた。マッチをすって見、コンパスを出してみたが、道はわからず、ついに再びこの沈黙の樹林中の疲労のために一時休息しなければならない羽目になった。私は結局夜明まで待つことに決心し、枯れ枝を集めて一つはカシムへの信号のために焚火をした。そして焚火のかたわらに横たわり静かな深い眠りに落ちた。
めざめたときは夜のまさに明けようとするときであった。焚火の焔は弱くなり、濃い煙が樹林の上に立ちこめていた。しかしかたわらに立てかけておいた靴の中の水は一滴も減じてはいなかった。一口水を飲み、明るみですぐ見出した足跡をたどってまもなく私はカシムを見つけた。カシムは私が別れたときと同一の姿勢で仰臥し、うつろな眼を見開いていたが、私を認めたらしくかすかに「死にそうだ」とつぶやいた。
彼は靴の中に入っているのが何であるかわからないらしく、私が「水は」と訊ねたとき、頭を動かし肯いたのみで再び意識を失いかけた。しかし、靴を揺り動かして水の音を聞かせたとき、カシムは突然に叫び声を上げ、私の差し出す靴の端に口を当てたままほとんど一息に水を飲み乾し、瞬く間にもう一方の靴の端に唇を押し当てていた。
五月六日。カシムの回復経過はまったく私の場合と同様であった。我々は協議した結果もう一度水溜まりに引き返し充分の休息をとることにした。しかしカシムは弱り切っていたので私と歩調を合わせることができず私自身もまたカシムを助けるほどには回復していなかったので、私はカシムに後をついて来るように言い残して独り水溜まりに戻り、再び水を飲み、また身体を洗った。
次に来るものは飢餓であった。私はこのさいまず人間に会い、食物を貰い受けてイスラムの救助に赴き、また残して来た品物の一部を拾って来なければならないと考えた。そこで私はカシムをそのままにして河の右岸にそって南へ下った。
午前九時、激しい嵐が襲来し黄塵の雲は天をおおったが、そのおかげで暑熱は減じた。砂塵の中をさまようこと三時間ばかりの後、再び渇きを覚えたので、このままどこにあるのかわからない次の水溜まりまで歩くことの危険を思い、元の水溜まりに一応引き返すことにしたが、北に向かって歩むこと半時間ばかりで今度は小さな第二の水溜まりを発見した。再び水を飲み、嵐の静まるのを待ち焚火の信号をして付近に人間がいるならば、自分の居所を知らせることにしようと試みた。
厚い繁みの陰に横になり靴と帽子を重ねて枕とし深い眠りに入った。めざめたときすでに周囲は暗かったが嵐はいまだ樹木の梢を揺すっていた。時間は午後八時。起き上がって水を飲み焚火をした。飢餓は急に増大し胃に微痛を覚えたので、蘆の芽と蛙を数匹つかまえて飢えを凌いだ。
犬のヨルダッシュはどうしたであろう。多分まだ生きて我々の足跡を追っているに違いない。そう思ったので私は高く口笛を吹いてみた。しかしヨルダッシュはついに現れなかった。
五月七日。嵐はやんだ。大気はいまだ黄塵を多分に含んでいる。
午前四時半、私は再び行進を始め、できるだけ直線コースをたどって河床の中心を歩いた。河床の幅は半マイルから二マイル半に及んでいた。しばらくして清水をたたえた小さい水溜まりに出会ったので、靴に充たし河床の左岸寄りを歩いているうちに羊小屋を見出した。しかしこの小屋は久しい以前に見捨てられたもののようなので、失望を喫した。小屋近くの河床には人が掘った井戸の跡が存在していた。
疲労と暑熱のため十一時半にいたって樹林の陰に休息を求めざるを得なかった。そこで私は蘆の若芽を摘み、細かく切り刻んで水に浸し朝食に代えた。
正午過ぎからまた歩き出し、午後八時再び焚火をこしらえ、私の「野営《キャンプ》」の準備をした。
五月八日。この日黎明に出発し、左岸をたどって南南西に方向を取った。しかしついに人跡を見出さない。恐らく隊商路は森林の真ん中を通っているのであろうか。それならば出会うことがないのかも知れない、と考えたので進路を西に変え森林を横断した。森林の幅は約二マイルでその端には人を恐怖せしめるあの黄色い砂の大洋がさいはてなく連続している。一時間後、森林を横切り、南南東に広がる砂丘を望んだ。砂漠と河床との交錯点には白楊樹が点々と立っている。この地点に達する途中私は九つの水溜まりを横切ったが、その中の大部分は多少の塩分を含有していた。
二時間の休息後、南に向かって進んだ。もしも隊商路が存在するならばそれは必ず左岸ではなく右岸にあるはずだ、何人でもやむを得ない限り砂丘を越えて進む愚はしないはずなのだから。したがって私は右岸に沿うて樹林中に隊商路を探し出そうと試み、この辺の一マイル四分の一にわたる河床を横断して樹林中に達したがついに見つからなかった。こうして再び河床に帰り河岸と樹林に近いところを進んだ。約三百五十ヤードばかり進むと河床の中に二つの小さい島があり、それはやぶと白楊樹におおわれていた。このうち南によった方の島と河岸との中間の地点で日没に間もないころ、ついに北方に向かって四匹のロバを伴った二人の人間の新しい足跡を見つけた。
足跡、ついに足跡。今や私はまったくの孤独ではない。足跡はいまだすこぶる新しく、足の裏の形がはっきりしている。少なくともしるせられてから一日以上は経っていない足跡だ。私とは反対の方向に進んでいるこの一行と行き会わなかったのはなぜであろう。恐らく彼らは夜歩いて昼間は休養していたのであろうか。彼らはどこから来、どこへ向かっているのか。どこで昨夜は野営したのであろうか。この足跡を追うのは恐らく一日先に行っているのであるから無駄であろう。このようなわけで私はこの足跡を追って北方に引き返すのは断念して、反対の方向に南にむかって再び歩み続けた。
この足跡を最も深い関心と注意を持って観察しながら、私は依然としてホータン河《ダリヤ》の河床を河岸と樹林とに近く右岸を南に向かって進んだ。
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第十四章 ホータン河《ダリヤ》の羊飼い
黄昏の帳《とばり》はしだいにその翼を周囲にひろげつつあった。岬のように突出した部分を進んでいるとき私は物音を聞いたように思った。立ち止り、そして息を殺して耳を傾けた。しかし四囲は元のごとく沈黙に閉ざされている。たびたび私を驚かした鶫《つぐみ》の声ではないかと疑ったがそうではなかった。再び物音を聞いた。まもなく牛の唸り声が物音に続いた。私はこのとき、この音を歌劇のプリマ・ドンナの唄よりもいっそう美しいものと思った。
狂人と見られないために私は靴をはき、音の聞えて来る方向に向かってやぶを越え、倒れている枯れ木の幹を飛び越えて急いだ。行くにしたがって物音はいっそう明瞭になりだした。人の話し声が聞こえ出し、羊の群れの鳴き声も聞えた。そしてついに林の中の開いた地に羊の一群が草を喰《は》んでいるのを見た。側には一人の羊飼いが長い杖を持って羊の群を見張っていたが、ぼろぼろになった衣服をまとい、青い色眼鏡をかけて突然草むらの中から躍り出した人間を見たとき、この羊飼いは少なからず驚いたように見えた。恐らく彼は最初、私を森林に住む妖精《ゴブリン》か砂漠の悪霊が迷い出たのだと思ったであろう。あたかも地に根が生えたように恐怖の表情をして立ち止り、口を開けて私を凝視した。私は例のごとく「サラーム・アレイクム」(汝に平安あれ)といって挨拶した後、簡単に私のここにたどり着いた理由を述べた。ところが、羊飼いは突然羊の群を残したまま近くの樹林の中に跳びはねるようにして消え失せた。
しばらくして彼はやや年老いた羊飼いを伴って戻ってきた。私は前と同様に「サラーム・アレイクム」の挨拶を繰返し、それから私の砂漠横断の経緯を話し、一週間一物も口にしない事情を述べてパンを恵んでくれるように頼んだ。羊飼い達は私を近くの草と木の枝でこしらえた小屋へ案内し、若い羊飼いは木皿に盛った新しいとうもろこしのパンを運んで来てくれた。私はお礼を言ってパンを千切って食べ始めたが、たちまち昏倒状態におちいった。羊飼い達は私においしい羊の乳を与え、二匹の犬を残して一時立ち去った。日が暮れてまもなく二人の羊飼いはもう一人の羊飼いを連れて帰って来た。そして羊の群を羊小屋に追い込み、彼ら三人と私とは野天のしたに焚火をして寝についた。
五月九日。黎明、羊飼い達はすでに羊の群を連れて出かけた。彼らの小屋は森林の端にあり、樹木を通してホータン河《ダリヤ》を眺める位置にあった。小さい流れが小屋のすぐ近くまで来て清れつな水溜まりを作っていた。羊飼い達はその他に河床に井戸を掘っていた。
正午、彼らは真昼の暑気を避けるために羊群を率いて井戸の側に帰って来たので話を交わすうちに、彼らの名はユッスフ・ベイ、トグダ・ベイ、パシイ・アクヌというのであって、百七十頭の羊と山羊の外に六十頭の牛を牧しているのだということを知った。しかし彼らの家畜はホータンのある金持の所有で冬期も夏期も森林の中で牧することになっており、彼らは報酬として三人で一カ月に合計二十テンゲー(ホータンの一テンゲーはカシュガルの二テンゲーに当たる)をもらってこの単調な仕事に従事しているのだそうである。そしてある場所の草を食いつくすと次の場所を求めて行き、このようにして一年中さまよい歩いているのである。彼らはこの場所に来てからちょうど五日目になるが、近々草の豊富な場所へ立ち去る予定であるといった。この場所はブクセム(繁茂した樹木の意)と呼ばれている。
彼らホータン河《ダリヤ》の牧羊人達の生活は単調そのものである。昨日と今日とそして明日と、毎日彼らは変わったこともなく孤独でそして楽しみもないらしく見えたが、彼らは快活で何の屈託もなく満足しているように見えた。三人の中のトグダ・ベイは結婚しており、彼の妻はホータンに住んでいる。彼は年に一、二回はホータンに帰るとのことであった。
私の出現は彼らにとってはその単調な生活を破る突発事であった。彼らは私に対し幾らか疑いの目を向け注意していたが、私が彼らの言葉を解すということは幾らか彼らの疑惑を減じるに役立ったようであった。
彼らの食物はとうもろこしのパンと水と、胡椒で香りをつけた茶であった。彼らは毎日二回大きなパンを焼いて三分して食していた。パンの製造法はとうもろこしの粉末を水と麹でこね合わせ、丸い木の皿の中に押し込んで形を作った後、余燼の中にひろげて熱い灰でおおう、こうして四十分か四十五分の間放置すればおいしいとうもろこしパンができ上がる。私はこのパンをむさぼり食べた。そして羊飼い達は私がただの一テンゲーも持っていないということをよく知っていながら、私に対しきわめて鷹揚な態度を示してくれた。
この牧羊者等の所持品はまたきわめて簡単なものであった。チャパンと称する上衣、テルペックという羊皮の帽子、ベルバグと呼ぶ帯の一種とを身に着け、脚には羊皮を巻きつけていた。衣服以外の物では大きな木皿(カザン)・中形皿(アヤッグ)・小皿(ジャム)・水いれ用のひょうたん(カパック)・白楊樹の根をくりぬいて作った大きな匙(チュムチ)・毛氈製の敷物(キギーズ)・三線の琴《ギター》(ジャバブ)等であった。しかしこれらよりいっそう大切な器具は森に道をつけ、草むらややぶを切り開き、また小屋を建てるのにも使用する一種の斧(バルタ)と火を起こすための鋼鉄片(チャクマック)である。彼らはすこぶる火を大切にし、一度火を起こすと次の宿営地に向かって出発するまでは火を消さないようにする、家畜の群を連れて草を喰ましに行くときは、火に丁寧に灰をかけて行き、帰るまで火種を保つように工夫する。彼らはとうもろこしは袋(サック)にいれて持ち運び、この袋やその他の持ち物は一切小屋の屋根に載せておく。これは犬の悪戯を避けるためである。
羊飼い達の話すところによると、この河の両岸はホータンの町にいたるまできわめてよい牧地で、草は町に近づくにしたがって繁茂の度を増している。それ故たくさんの家畜を所有している金持達は、彼らの家畜を年中ホータン河《ダリヤ》の両岸の地で養牧することにしている。河水の涸れている時期には人々は河床をたどって歩くので、森林中の径をとるのは河水が流れているときのみに限られている。
真昼の暑熱がようやく去った時分にこの牧人達は再び森の中に出かけたがまもなく帰って来た。ホータンからアクスへ向かう隊商が百頭余りのロバに米を積んで小屋のかたわらを過ぎた。隊商は私の存在に気づかなかったが、パシイ・アクヌは隊商を見つけて話し掛け、私の砂漠の冒険を語った。彼らが去った後、私は小屋に入って休息していたが、まもなくあぶみの音と人声がかしましく聞えるので、再び外に出て見たところがアクスからホータンへ向かう途中の三人の裕福らしい商人が立派な馬にまたがって通りかかったのであった。彼らはアクスを十一日前に出発し、これから六日目にはホータンにつく予定であった。
彼らは樹林を駆け抜けまっすぐに小屋の前に馬を乗りつけ急いで飛び下りた。そしてなんらの躊躇もなくあたかも以前から私を知っている者のごとく私に挨拶した。三人の中の黒い顎鬚を生やし立派な衣服をまとった一人が私を驚かせ、かつ歓喜せしめるニュースを語った。昨日彼らがホータン河《ダリヤ》の左岸に沿って馬を駆っているとき、ブクセムから北方約十二マイルの地点で白いラクダのかたわらに半死半生の態の人間が横たわっていたので彼らは馬から下りて尋ねて見たところが「水、水」というのみなので近くの水溜まりに馬を馳せてクンガン(鉄製の水差し)に水を充たして飲ませてやった。私は瞬間にしてこれはイスラム・ベイであることを悟った。そして三人の商人はパンと乾し葡萄と胡桃を与えたところが、半死半生の態であったその男はようやく遭難の顛末を語った。そしてイスラムは彼らに私を捜索してくれるように依頼したが、そのとき彼は私を見つけたならば、馬を貸してやってホータンに帰れるようにしてやって欲しいと依頼した。それでこの三人の商人は途々私を探しながら来て、ついにこの小屋で私を発見したのであった。彼らは私に馬の提供を申し出たが、彼らの話によってイスラム・ベイがラクダと荷物の一部を無事伴っていることを知ったので、私はイスラム・ベイの到着を待つことに決心した。これで貴重な日誌と地図も無事であることを知ったのであった。
未来に対する希望が油然《ゆうぜん》と湧いて来た。午前中、私は今度の遭難の結果と今後の計画とについて考えた。そして現在の状態の下に、いかにすれば最大の効果をもって今後の旅行を続け得るか、という問題に考慮をめぐらした。最初は最善の方法としてホータンからカシュガルに出て、そこから最も近いロシアの電信局に使いをつかわし、ヨーロッパに電報を打ち必要な機械を取り寄せてからカシュガルに残して来た資金でロプ・ノールまで行き、次いでシベリア経由で帰国するという案を考えたのであったが、今イスラム・ベイも生きておりラクダも一頭は役に立つことがわかったので、砂漠中に残して来た天幕やその他の物品を捜し出し、これからの計画を縮小する代わりに拡大することができそうであると感じた。
三人の商人はたくさんの小麦パンと銀貨十八テンゲーを私のために置いて行った。私は再びホータンで彼らに会い、この借りを返済することを約束した。牧羊人達はこれで私の話が本当であったことを知ったようであった。そして私は彼らに対しいずれ報いるところあることをそれとなく知らせてやった。
五月十日。強い疾風のため大気は塵埃におおわれた。私は終日小屋の中に横たわって睡眠と休養をとった。恐怖すべき砂漠中の過去数日間にわたる過度の肉体の酷使は、今ようやく私の身体にその結果をあらわし始め、あたかも一年間も病気のために床についていた病人のように極度の疲労を感じた。
日没ごろラクダの唸り声で眼を覚ましたので、急いで外に出てみたところが、パシイ・アクヌが白ラクダのアク・ツヤを率い、イスラム・ベイとカシムとが後に続いていた。我が天晴れなイスラムは私を見るや地上に身を投げ出し、私の脚を抱いて嬉し泣きに泣いた。私は彼に感情を鎮めるように命じて起きあがらせた。ちょうど私が再び彼に会うことを期待し得なかったと同様に、彼もまた私に再開することはまったく予期できなかったのであろう。
白ラクダには二個のクルチン(帆布製の鞍嚢)が積まれていた。その中の一つには私の器具の全部(ただし高度計を除いて)すなわち画帳・旅程表・紙類・ペン等が入っており、他の一つには中国銀貨・角燈・茶瓶・紙巻煙草等が入っていた。その上イスラムは二挺の施條銃《ライフル》を毛氈に包んで運んで来た。
イスラムは一片のパンを食べ終わってから私と別れた後の経緯を語った。
五月二日に我々がイスラムを置き去った後、数時間たって彼は自分で起き上がり、我々の足跡をたどって進んだ。しかし四頭のラクダはなかなかいうことを聞かないので、進行は遅々たるものであった。五月三日の夜、彼は我々の燃した焚火の焔を認めたが、その距離は大分あったらしかった。しかし焚き火の焔を見たことによって大いに元気づけられ、我々がまだ生きており、その上森林の近くに達して恐らく水を発見したのであろうと考えた。五月四日の朝にいたり三本の白楊樹のある場所に達し、我々が井戸を掘ろうと試みた痕跡を見つけた。その日はひどい暑熱だったので数時間白楊樹の陰に休息し、持っていた斧で樹皮を裂き、碗に一杯の樹液をすすったので咽喉の渇きもいくらか楽になった。そこで彼はラクダから荷物を下した。五月五日彼は我々の足跡をたどり、翌日最初の河床に達し、そこでまた我々が井戸を掘った痕跡を見た。そしてその場所で一頭のラクダは倒れてしまった。この地点まではヨルダッシュも半死半生の態《てい》でしたがって来たが、その以後はまったく行方不明になった。五月七日に私の乗用ラクダであったボグァラが倒れ、それから一時間後にはネェルもまた再び起たなかった。ネェルは高度計・葉巻・茶・砂糖・蝋燭・マカロニ等を運んで来たのだった。イスラムはこうしてついに白ラクダを連れて河に達することに成功したのであったが、河はすでに乾き切っているのを見てまったく絶望し、静かに自ら横たわり死の来るのを待っていた。それは五月八日の朝であった。ところがこの日正午ごろ奇蹟的に三人の商人が通りかかり、彼に水を与えたのでようやく救われたのであった。それからまもなく彼はカシムに出会ったが、カシムは彼に私は健在で進行を続けているはずだが、どの方向に行ったかはわからないと語った。カシムは私が北にコースをとったものと考えアクスに向かって進んでいるに違いないといったが、利口なイスラムは南に進みホータンの方向に私を捜すことに決心した。そして私の方から捜しに出したパシイ・アクヌと出会ったのであった。これがイスラムの語った話である。
このようにイスラム・ベイの行動は英雄のように崇高なものであった。私自身やカシムは自分自身のことだけしか考える余裕がなかったのに、イスラムは私が大切にしていた品物を運んで来るほどの忠実さを持っていた。彼はこれらの器具類を一番最後まで残った白ラクダに積み変える労をいとわなかった。この忠実なイスラムのおかげで私は元の計画通りに旅行を継続する事ができたのであった。このときから二年半の後にイスラム・ベイがその故郷であるフェルガナのオッシュに帰ったとき、彼の英雄的行為に報いるためにスウェーデンのオスカー陛下は彼に金牌を賜った。
五月十日の夜、我々は牧羊人の小屋のかたわらに集まり、大きい焚火を囲んで砂漠の危難から逃れたことを祝して「盛大」な宴会を開いた。パシイ・アクヌは「もし」とか「しかし」とかを連発した後、ようやく一頭の羊を三十二テンゲーで我々に売ることを承諾した。私は焚火でこしらえた腎臓のチェスリック(ステーキのような焼肉料理)を賞味し、他の者は各々好きな部分を壷で煮て食べた。このご馳走でようやく私の脈拍は六十に昇り、三日後には休息の結果七十二に回復した。
五月十一日、この地域の草もそろそろ欠乏を告げて来たので、羊飼い達は河の下流に向かって六マイルばかりを下って右岸の「他の青い牧地」に移ることを申し出た。我々は荷物をアク・ツヤに載せ、彼らと共に出発し河岸に近い小丘に宿営することにした。そこは周囲を叢林とやぶに囲まれ、白楊樹の大木がそびえている地であった。イスラムとカシムは私のために二本の白楊樹の間に樹皮で小屋を設けてくれたが、この小屋は太陽の強い光線から私をかばってくれ、高い樹木に取り囲まれた居心地のよい住居になった。そして小屋の内部には毛氈を敷き詰め身体を休めるようにした。寝るときには中国銀貨を詰めた帆布の嚢を枕とし、起きているときは紙巻き煙草の箱を机に代用した。地図、紙挟み、画帳、ペン等は白楊樹の根元に雑然と置かれていたが、私にとってこの小屋は故郷ストックホルムにある自分の書斎のように居心地がよかった。
イスラムとカシムは白楊樹の木陰にいつものように焚火をこしらえていた。羊飼い達は近くの蘆の草むらに羊と共に陣取った。パシイ・アクヌは一日に二回濃い羊の乳と一片のとうもろこしのパンを持って来てくれるし、煙草はまだ二、三週間は大丈夫であった。この後数日間に私が享楽したような生活は最も贅沢な享楽家《エピキュール》といえども経験したことはないに違いない。私のこの森林中の生活は孤島中のロビンソン・クルーソーの生活と少なからず似たものであったかもしれない。
五月十二日。正午少し過ぎごろ、我々は北から隊商の一行が近づいて来るのを知った。それは河床に沿って進んでいる様子であったが、いまだかなり遠くにいるらしかった。彼らの到着を待ち遠しく思い、イスラムとカシムは河岸まで出て行き、隊商を我々の小屋へ呼んで来た。それはちょうど十三日前にクチャを出発したホータンに住む商人四人の一行であった。彼らは葡萄を持ってクチャへ赴き、そこで売った代金で馬十頭・ロバ数頭・牛一頭をあがない、さらにそれをホータンでよい値で手放すために帰るところであった。
彼らのいうところによれば、ヤルカンド河《ダリヤ》とホータン河《ダリヤ》との合流点であるシルではヤルカンド河《ダリヤ》の水はすこぶる多く、乗馬で越えても腰の辺りまで水浸しになるほどであったとのことである。上流でもホータン河《ダリヤ》の河床には水溜まりはいたるところに存在し、水溜まりのない所でも井戸さえ掘れば水を得ることは造作もないとのことである。夏の氾濫期は六月中旬であるが、氾濫の最大に達する時期はそれから二カ月後、すなわち八月ごろになる。
我々はこの四人の商人を無理に説き伏せて、半時間の後にはもっともよい馬三頭を七百五十テンゲーで買うことにした――もっとも彼らはこの三頭をクチャでは六百テンゲーで手に入れたのだそうであるが。その他に鞍三個、馬の飼料としてとうもろこし一袋、我々自身のための麦粉一包み、イスラムの靴一足――イスラムは死の宿営以来素足であった――茶一つまみ、陶器の茶碗二、三個を買い六十五テンゲーを支払った。これで品物も大体揃い、白ラクダと三頭の馬も得たのでホータンまで行って揃えてくる必要もなく、砂漠中に捨ててきた二頭のラクダの荷物を取りにおもむくことができるようになった。
夕方、我々は二人の若い猟人の訪問を受けた。彼らは銃身のすこぶる長い銃を持っていた。この銃で射撃するときには固定した台が必要であった。彼らは鹿の群を求めてちょうどブクセムの森林にたどりついたばかりであった。この猟人たちは医薬として高い値を呼ぶ鹿の角を中国人に売るために猟をしているそうであった。彼らはこの辺りの地理にくわしかったので、私は「死の宿営」の場所を探す目的でイスラムとカシムに同行させるために彼らを雇うことにした。
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第十五章 森林中の憩い
五月十三日。四人の商人達はホータンに向かって出発した。二人の若い猟人は森の下生《したばえ》を分けて行き、一時間後には前夜射止めておいた一頭の鹿(ボグウあるいはマラールと称している)をたずさえて帰った。皮をはぎ四肢を切り離した後、イスラムはすこぶる美味しい肉汁を作った。肉もまたよい味がして美味しかった。
猟人の一人は私にホータン河《ダリヤ》とケリヤ河《ダリヤ》との中間に横たわる砂漠の砂はすこぶる深いが、この砂漠を横断するさい、最初の数日の間は井戸を掘れば水は出ると語った。
しかし季節が遅れていたので、私はこの砂漠横断計画は断念することにした。
この日二人の猟人の父親が到着した。父親のアーメッド・メルゲン(メルゲンとは「猟人」の意味である)は丈が高く痩身で肩幅が広く、高い尖った鼻をしている典型的な中央アジア人型に属していた。彼はきわめて我々に対し好意を有し、我々の冒険に多大の興味を感じ、救助隊を組織するについて貴重な忠言を与えてくれた。彼はまた砂漠の旅行に深い関心を持っていた。我々にとってアーメッド・メルゲンの出現はまったく天佑《てんゆう》であった。彼は猟をしていて迷ったとき、私とカシムが救援の焚火をしたあの三本の白楊樹のかたわらを通ったことがあるのを思い出したと語った。
我々は午前中は救助隊組織についての詳細な計画を立てるのに費やし、午後一時救助隊員たるイスラム・ベイ、アーメッド・メルゲン、およびその二人の息子達は我々の森林中の宿営を発足した。彼らは三頭の馬と一頭のラクダとそれから食料としてパン・麦粉・羊肉および水を充たした三個のカパック(ひょうたん)とメッシュ(山羊皮の袋)とを携帯した。アーメッドは出発前にこの小屋の付近にはサソリが多いから河床中の小島に移転するように忠告してくれた。アーメッドの言った通り、その後私は数回この不愉快な毒虫を見かけた。砂地につくサソリの足跡はレースの意匠と驚くべきほど似ていた。しかし私はこの小屋の環境に深い愛着を感じていたし、かつ移るのはわずらわしかったのでサソリと闘いながら小屋に止まることにした。
救助隊はその日のうちに私が目標に吊るしておいた鋤のある地点に達するように時間を見計って出発した。アーメッドは銃を肩にし徒歩で、他の三人は馬上で出発した。私の新しい友人たるこの頑丈な猟人が|森の人《ニムロッド》のようにやぶや下生《したばえ》を掻き分けつつ、あたかもとんでいるような軽やかな足取りで去っていくのを私は頼もしく見送った。
一行が去った後、私は再び羊飼い達だけとの孤独な環境にいなければならなくなった、そしてこのような生活は多分一週間は続くであろう。羊飼いの宿営地は私の小屋から数百歩の場所にあったが、パシイ・アクヌは夜焚火を燃しておくために私と共に小屋の付近に寝ることに同意した。彼は日に三回パンと羊乳を運んでくれた。そして水は河床の井戸に湧いていた。
五月十四日。五時に目覚めた。空は黒雲におおわれ、濃い霧がたちこめ小雨が降っていた。雨はまもなくやみ、地上の湿り気はごくわずかにすぎなかったが、それでも大気に新鮮の気をみなぎらせた。これはまったく珍しい現象であった。七時起床。この長い孤独な一日を森林の小屋に過ごしたが、しかし怠けていたわけではない。私は砂漠旅行の終わりに近いときのノートを整理し砂丘に関する地図を作成した。そして合間合間に「寝台」に横たわり、聖書とスウェーデン語の賛美歌をひもとき、特に賛美歌の中に見出されるスウェーデン語の詩の美しさを楽しんだ。
大きな黄色のサソリが私の寝床の側に這ってきたので即座に打ち殺そうとしたところがサソリは気狂いのように刃向って来た。森林中を衰弱しきった身体を引きずって歩いていたときや、前後不覚に寝入っていたとき、この狂暴な毒虫の襲撃を受けなかったことはまったく不思議であり、そして幸運であったと思い、一方では慄然たるものがあった。
アクスに向かって旅行の途中の乾し葡萄を積んだ四十匹のロバを率いる商人の隊商十人の一行が小屋の側を通り、私に挨拶をした。私は彼らから一袋の乾し葡萄を買い、羊飼い達に分け与えた。
この商人達はマサール・ターグ山脈は二つの平行する分水嶺を有しているが、砂漠中に深く突出しているわけではないと言った。分水嶺に近い砂漠の部分は特に荒涼たる荒地で、高い砂丘が立ちならび固い地面はきわめて少ない。この山の名はマサールすなわち聖者の墓を意味している。墓の所在は高い砂丘の頂点に裂《きれ》地を結びつけた棒を立てて印としている。この聖なる墓の墓守は平常はホータンに住み、冬の一部だけ砂漠中に住んで、その報酬としてこの地方を牧地とする羊の所有者達から毎年二百テンゲーの献金を受けている。
数日間の平和な休息によって私はようやく砂漠におけるほとんど人力を絶した苦難の疲労から回復するを得た。しかしここでもまた忍耐力の試練をへなければならなかった。森林中の生活は一日一日一夜一夜が単調と孤独に明けまた暮れるのであった。しかし私は満足を感じた。健康はよいし、森林のさわやかな空気を吸い、白楊樹の梢を渡る北東の微風に聞き惚れた。暑熱も耐えがたいほどではなかった。空気中の微塵と繁茂した木の葉は常に大気に冷気を与えた。周囲は無人の境のごとく平和であり、沈黙に閉ざされていた。ただこの単調を破るものは食物を運んで来たり焚火を見廻りに来るパシイ・アクヌの訪問だけであった。私は普通七時に起床したが、そのときにはすでに羊の群は森林中にあって草を喰んでおり、私の側にはパンと羊乳を充たした碗がすでに置かれているのであった。
かつて三日間にわたって河床を彷徨《さまよ》い歩きながら一人の人にも逢わなかったのに、今はホータンとアクスの間を往来する隊商は毎日私の小屋のかたわらを過ぎる。ほとんどすべての隊商は河床から小屋の方に上がって来て私に挨拶をして行くが、彼らのたずさえているものは乾し葡萄と毛氈と羊毛と家畜とに限られている。しかし彼らとの話に私は非常な興味をそそられた。彼らは東トルキスタンにおける貿易とかホータン河《ダリヤ》とかこの地方の気象とかについて種々貴重な情報を提供してくれた。
我々の旅行とその危難に関するニュースは野火のごとく河を伝ってホータンにさらにアクスにひろがった。ある商人のいうところによればホータンでは我々のことが町の話題になっていて、我々の到着が鶴首《かくしゅ》されているとのことであった。私もまた北部西蔵に向かって出発するためのカラヴァンの準備に数日間は滞在しなければならない場所でもあるホータンに一刻も早く行きたいと熱心に希望するようになった。
五月十五日。北からきた二、三人の商人は途でイスラムの一行に出会ったという報告をもたらしてくれた。彼らの出会った日はイスラム達が出発してから二日目だった。そして一行はそのとき水を準備するため一日その場所に滞留していたとのことであった。
翌日私達の森林の友人たる羊飼いの主人すなわちこの羊の群の所有者が現れた。彼は一年に二回、春と秋に来ることになっていて、この日は羊の毛を刈るのを監督に来たのであった。
五月二十一日にイスラムの一行が帰って来た。彼のもたらした報告は余り芳しいものではなかった。彼らは森林の端から西方に向かって進んだが、暑熱が厳しかったため我々が天幕を残してきた場所までは達し得なかった。彼らが持ちかえったものは比較的価値のないもののみであった。例の三本の白楊樹の場所まで行ったのであるが、その途はボグァラの屍体を頼って進んだ。このラクダの屍体はすでに腐敗し、非常に遠方からでもその臭気を嗅ぎつけることができた。しかし最も不思議な出来事はネェルをついに発見できず、したがって三個の気圧計・気温計・望遠鏡・ライフル銃二挺・弾薬筒五十・葉巻二百本等の品物がついに見つからなかったことである。彼らはイスラムがネェルを置き去った場所をただちに発見した。イスラムはラクダを残すことになったとき目標として側のタマリスクに帯を結びつけてきたのであったが、そのタマリスクは依然として砂丘の上に見えていたが帯はなくなって、代わりに白い毛氈で枝を結び合わせてあった。周囲には人の靴跡があったが、イスラムはそのとき裸足であったのでそれはイスラムの足跡でないことは明らかであった。ラクダと貴重な器具類は紛失し、一行はラクダを発見し得なかったのみでなく、その足跡さえ見出すことができなかった。
イスラムの帯を取り去り、その代わりに毛氈のぼろ切れをぶら下げたのは誰だろうか。この疑問に対し私は、それは我々が天幕を去った後に蘇生したヨルチではなかろうかとイスラムに尋ねたが、イスラムは「死の宿営」を去って後はヨルチの影さえ見かけなかったのだから、それはあり得ないことだと断言した。それではイスラムに水を与えて私に十八テンゲーを貸してくれた三人の商人の仕業だったろうか。彼らは私を捜してイスラムの倒れている場所からブクセムまでまっすぐにやってきたのだから、そのようなことは不可能である。その上彼らとしてはラクダの居場所を見つけ出すのは容易なことではないはずである。もしネェルを見つけて連れ去った者が正直な者であったなら、我々のところに返しに来たはずである。もしそれが盗まれたのであったならラクダを連れ去る道は二つすなわち北の方アクスかあるいは南の方のホータンしかないはずである。しかも私と一緒にいる羊飼い達はホータンへの道路を常に注意深く見張っていたが、ネェルに似たラクダはついぞ見掛けなかった。それ故アクスへ連れ去ったという可能性のみが残っている。我々はラクダは盗まれたのであって足跡のないのは計画的に跡を消したのに違いないとの結論に達した。
アーメッド・メルゲンは森林の中でラクダの足跡を見つけたので後を追って行ったところが若いラクダに出会った。そのラクダは例の三本の白楊樹のところから荷も何もない状態で森林の中に走り去った。このラクダは水を飲み、そして何日かの間森林中で自由に草を喰んでいたので、調子はすこぶるよかったが非常に臆病になっていたらしかったとのことである。
私の計画の北部西蔵旅行はたちまちにして覆《くつがえ》されてしまった。高度計を失いその他の器具も大部分欠けてしまった。唯一残された方法はカシュガルに帰り、準備をし直すことであった。そして距離からいえば、損であるがアクス経由の道程を選ぶことに決した。しかしそれから一年以内に私は再びカシュガルからホータンへの六百年前のマルコ・ポーロの足路をたどるという誘惑に打ち勝つことができなかったのである。ついでにここでヤルカンド河《ダリヤ》とホータン河《ダリヤ》の河流地域に関する私の直接の観察をごく簡単に記しておきたい。
この二つの河はほとんど平行に流れ、しかも同一のはけ口を有しているという事実は、かえって二つの河はある点では相互に異なっているということを示すものである。ヤルカンド河《ダリヤ》は東トルキスタンにおける最も重要な河である。その河流は地中に深く刻み込まれ年中水をたたえている。六月は特に増水する、そして冬の季節氷に閉ざされているとき以外には常に渡船で渡ることになっている。これに反してホータン河《ダリヤ》の方は一年中の大部分は水がなく河流として水をたたえているのは夏の最中の時期においてのみである。ホータン河《ダリヤ》はタクラマカン砂漠の最も荒蕪な地を流れていて、この点では西方を流れているその姉妹河たるヤルカンド河《ダリヤ》とは比較にならぬ程度に流沙にさえぎられている。あるときには流沙はほとんど河流を窒息せしめ、ホータン河《ダリヤ》を、その流入する本流たるヤルカンド河《ダリヤ》の下流すなわちタリム河から切り離すことさえある――この現象はケリヤ河《ダリヤ》に関してもすでに起こっている現象である。
さらにヤルカンド河《ダリヤ》の岸の森林地帯にはしばしば草原地帯や沼沢地帯に変化している地点が存在するが、ホータン河《ダリヤ》の岸はこの二河の合流地点いたるまで常に森林地帯を伴っている。そしてホータン河《ダリヤ》の河畔の森林地帯はヤルカンド河《ダリヤ》のそれに比してより繁茂し、より幅が広い。またヤルカンド河《ダリヤ》の岸には砂丘が迫ってきていないが、ホータン河《ダリヤ》の場合にはその西岸においてはほとんど森林地帯のすぐかたわらまで来ている。
しかしながら次の点でこの二つの河は相似点を有する。すなわち両河は各々その現在の河流の西に平行した旧河床の跡を有しているが、東にはそのような痕跡を持たない。両河に沿う隊商路は共に左岸に存在しているということもまた注意に値する。この事実はもちろん氾濫のさい左岸の方が安全であるということを示している。さらにヤルカンド河《ダリヤ》の中流地域に沿う町はことごとく河流から少しばかり離れた左岸の地点に存在している、ホータン河《ダリヤ》の中流には森林地帯のみで聚落はなく、ただ遊牧する羊飼い達がさまようのみである。ホータン河《ダリヤ》に沿って下る隊商路は単に地方的の存在でしかないが、これに反してヤルカンド河《ダリヤ》の中流に沿ったマラル・パシイとカシュガルとの中間にはアジアの中央部における主要なる交通路の一つが走っている。
五月二十三日。ものすごい疾風が西方から吹き荒んで来たので午前三時半に目をさました。私の貧弱な小屋はこの疾風で無惨に破壊しつくされ、森林の樹木は根こそぎにされそうに見え、葉の叢《むらが》りついている白楊樹は今にも真中から二つに折れそうにほとんど地面と平行に打ち伏した。枯れ枝はたちまちにして裂け飛び散り、地上にたたきつけられ蘆はこの嵐の暴威の前に穂先を地にすりつけた。森林は吠え叫び、あたかも無数の瀑布の音で充たされているようであった。ホータン河《ダリヤ》の河床を越えて来るほとんど塊になったような砂塵の雲が空を一面におおった。嵐は半時間続いたのみで収まり、前と同様に完全な沈黙と静寂が再び周囲を支配した。
午前七時半。我々はことごとく出発の準備を整えた。この地には永い間逗留したが、しかし数々の楽しい思い出が生まれたところだった。私の思いは今でもしばしばこのときの記憶によみがえる。ホータン河《ダリヤ》における幸福な数日をば感謝と悲哀との交錯した心持をもって想い起こすのである。ここで私は死から一度よみがえったのだった。ここで私はあの恐怖に充たされた砂漠の流沙から逃れたのであった。ここではじめて私を快く受けいれてくれ、水と食物を恵みかつ親切にいたわってくれる人間に出会ったのであった。ここで私ははじめて森林の心地よい涼気の中で休養をとることができたのであった。
私は去るにのぞんで親切な羊飼い達に各々三十テンゲーずつを与えたが、彼らはこの贈物に深く満足したようであった。そして我々は二頭のラクダと三匹の馬を伴って出発した。ラクダの鈴は再び周囲にこだまし、快く朗らかに響き渡ったが、今度は葬列の音ではなく、新しい生命と新しい希望の音であった。
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後編 ロプ・ノールへ
第十六章 ホータンの町とホータン・オアシス
ホータンはきわめて古い町である。この町の歴史の始まりは遠い伝説の時代の中に茫漠と消えてしまう。ホータンという名前がヨーロッパに最初に知られるようになったのはイタリアの水都ヴェネチアの生んだ大旅行家マルコ・ポーロによってである。
何世紀にもわたってホータンは軟玉《ジェード》の産地として著名であった。玉は一部はカラ・カシュ河および古《いにしえ》の樹枝水〔今のユルン・カシュ河〕の渓谷の岩石中に存し、一部はユルン・カシュ河の河床に研磨された状態で産出する。玉はチャガタイトルコ語ではカシュ・タシュといわれる。玉が中国人に古今を通じていかに珍重されたかということはいまさら述べるまでもない。
現今のホータンはむしろ微々たる一田舎町で人口はわずかに五千人の回教徒と中国人五百人程度を擁するにすぎない。玉以外の産物として重要なものは絹・白毛氈の絨毯・皮革・葡萄・米・穀物・野菜・林檎・西瓜・綿花等であるが、その絹製の絨毯は美麗なので有名である。このホータン製絨毯は中国ではテーブルクロスに、西トルキスタンでは壁掛けに使用されている。
ホータンとはもともと三百ほどの村落を含む緑地《オアシス》の名であって、いわゆるホータン町は普通イルチと称され、この緑地には他に二つの町すなわちカラ・カシュとユルン・カシュを擁している。中国との貿易は、一部はホータン河《ダリヤ》よりアクスとトルファンを経由し、一部はヤルカンドとマラル・パシイを経由し、これらの通商がロプ・ノールを通過することはほとんどない。ロシアとの貿易はカシュガルを経由、英領インドとの貿易はラダックのレーを経由する。ホータン町の市場には中国人・アフガン人・インド人・西トルキスタン人等以外にオレンブルクのノガイ・タタール人等が集まってくる。
私はホータンの町に九日間滞在したが、現在の町には別に取り立てていうべきほどのものはない。それは単に矮小なみすぼらしい家屋と狭い通りが交錯する迷宮のような町であるにすぎない。町には七つの回教宗教学校《マドラサ》と二十の回教寺院《モスク》と多数の|聖者の墓《マサール》が存在している。これらはヤルカンドやアクスやトルファンにある|聖者の墓《マサール》の名と同様の名前を有しているものが多く、また巡礼達は必ずニヤ河《ダリヤ》が注ぐ砂漠の中にあるジャフェル・サジックの墓に詣でることになっている。
回教徒の町によくあるようにイルチの町の生命は市場《バザール》で、そこから四方八方に走る狭苦しい路の所々にちょっとした広場があり、その中央に水槽または池がある。町の中心には市場に近くハジ・パトシャー(斡耳朶《オルダ》の廃墟)が朽ち果てた塔や崩れた城壁にその残骸をとどめている。そこからは町の屋根や中庭や、さらに遠く郊外の景色が一望の下におさめられる。郊外の畑は雨期の降雨に浸され、畝によってかろうじて区切られ、あたかも磨かれた将棋盤《チェス・ボード》のように見える。遠くの地平線は付近の聚落への道路や花園の黒い線と融け合っている。
一週に二度の市場日には町は地方から産物を持って売りに来る人々で混雑する。ここの女達は市場に座っているときでも面衣《ベール》をかぶっていない。西トルキスタンからは四十人ほどの商人が来ていて、羊毛・絨毯・毛氈等を輸入し、他方ではアフガン人と同じように地方の産物を輸出している。煙草と阿片はかなり大量に栽培されているし、養蚕もなかなか盛んである。絹は一部分はインドに輸出され、一部分は西トルキスタンに送られる、そして残りはこの町で絨毯を作る原料として使用される。皮革と羊毛も重要な輸出品でその大部分はカシュガルとナリンスクを経由して西トルキスタンに輸出されている。
オレンブルクから来た年老いたタタール人のモハメット・ラフィコフはホータンにすでに十年も暮らし、市場に近い場所にかなり立派な家を建てて住み、なめし革兼精毛工場を所有している。この工場は大きな天幕帳とロシア式の仮小屋とからなり、二つともユルン・カシュ河に面している。このタタール人は毎年二月になると今年限りで工場を畳んで商売を廃し、故郷のオレンブルクに引揚げる、と宣伝して町中の皮革を安い値で買い占めるが、五月の月が来るとまた工場を開きこのようにして過去十年間続けて来た。この詭計《トリック》にホータンの住民がいまだに気づかないことを不思議がる私に対して、モハメット・ラフィコフはホータンの人間ほど阿呆で物事に無関心な人間はいないと言った。
一月十一日(一八九六年)、私はカルタ・クマートというホータン町から北東約六マイル四分の一の所にある村落に杖を引いた。途中ホータンから十五分の行程にあるユルン・カシュと呼ばれている村落を通過し、ユルン・カシュ河を渡船で越した。タム・アグィルという村の向う側はすでに砂漠の入り口で、砂丘もちらほら姿を現し河流で削られた渓谷が点在している。その向うは礫《れき》が多くなり、かつて河床であったことがわかる。この渓谷を刻んだ河流がユルン・カシュ河であったことは明瞭である。同時にこの河はこの地方の他の河と異なって流域を西にかえたことは疑いない。
この旧河床は玉の最大の産地の一つである。河床はいたるところ深さ、六、七フィートに幅数フィートから最大二十フィートに掘り下げられている。この壕から切り出される玉の原料は、すでに河床にあって研磨された玉と砂と粘土が混じったものであって、この原料から玉が刻み出される。数カ月間掘っても一つの玉も得られないことがあり、すぐ見つかることもある。玉の価格は色と純粋度とキズの有無とによって大差がある。黄色または白色に紅がかった褐色の斑点あるものは稀少である。あるいはグッシュ(肉)と称する表面が粗なるものもまた値を呼ぶ。全緑の玉は値が低い。
低い木造と土造との家屋の集まったこの村落の付近の河床は厳格にしきられていて、各々所有者がある。河床を掘るのは大部分は中国人であるが、たまには回教徒もいる。
ホータン滞在はあらゆる意味で愉快であった。砂漠で失ったラクダについてその後何の手がかりもなかったが、私はあらゆる必要なものをすでに手に入れていたので別段失望もしなかった。箱はすでに荷造りを終え、大きな部屋の内に保管されている。私はカシュガルから秘書としてミルザ・イスケンデルと呼ぶ男を連れて来たが、この男の助けで私は道程の途中のみならずかなり離れた土地の名前をも収集し、翻訳、記録することができた。このようにして私はカシュガルとホータンとの間で五百余りの地名を地図に記入することができた。そのうちごくわずかのものだけが私以前のヨーロッパ人の旅行者に知られていたにすぎない。ホータンでは私は約三百の緑地《オアシス》の村落の所在と無数の灌漑溝とに関する完全な地図を作製した。これらの灌漑溝はすべてカラ・カシュ河とユルン・カシュ河とに源泉を有し、あたかも指のごとく北に向かってひろがっている。
地名の調査は先を急ぐ旅行家にとってとかく見逃されがちであるが、それはすこぶる興味と意義のある仕事である。第一に地名の調査は言葉を習得する上で非常に役立つ。八百余りの地名は原則として名詞とその修飾詞(例えばカラ・カシュのカラは「黒」、カシュは「玉」のごとく)とからなり、語彙の収集と利用にすこぶる有益である。その上地名は常にその地の産物とか位置とかを示している。これらの八百の地名の中には意識されないで忘却の中に埋没されてしまった遠い昔の時代を想い起させる名前も決して少なくはない。こうしてある地名は重要な歴史上の発見とか、問題解決への鍵とかを与えることさえある。
地名の調査に関しては、丹念に原地民に尋ねて歩くことが必要である。直接の観察も必要は必要であるが、例えば夏期にある地方を旅行するとすれば、冬期の降雪の状態については無知であるわけであり、あるいは快晴の日にある土地を経由するときにはその土地が降雨量が多いということに思い及ぶことがないであろう。私としては常に一定の質問を一定の順序ですることにしている、すなわち人口、産物、|聖者の墓《マサール》、回教寺院《モスク》、伝説、春秋いずれが種蒔き期かまたは春秋共に種蒔き期であるか、同一の畑に年に二度異なる種類の穀物を植え得るか、それとも一種の穀物の収穫は一回きりかまたは隔年か、次に交易と交通、道路、砂漠と山岳にいたる距離、河川の水流の源泉とその量の多少、河川の結氷時期と解氷時期、灌漑設備および灌漑に関するその地方の規則慣習、井戸、風の方向、砂嵐の頻発度数、降雨等。
一つの質問は次の質問への伏線となっていて、これらの質問は全体で約二時間から三時間を必要とする、そして答えは一々記録する。これらの質問をすべき者に出会った時には、私は夜半より早く寝床に入ったことはなかった。ある質問に対する答えが既定の計画を全然放棄する原因となったことさえある。例えばもし新しい発見の絶対的確実性を証する聞き込みがなかったならば、私はあえて危険な再度の砂漠横断を試みることはしなかったであろう。
ホータンにおける九日間の滞在は、以上述べたような調査や砂漠横断の準備の中にまたたく間にすぎ去った。
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第十七章 ホラサンとホータンの出土品
一八九六年一月九日。私は古代の遺跡発見に関して中央アジアで最も重要な地の一つであるホラサンを訪問した。ホラサンはホータンから西の方約三マイルの地にある。この辺の土地の表面はいわゆる黄土で、それは礫岩層の上に約二十五フィートの厚さの層を形成している。この軟らかい黄土層は水流によって削られ、直角に切り立った壁面の底には礫岩が現れている。崑崙《コンロン》山脈の北側の融雪期すなわち春のころにはこれらの水流はほとんど河のように水量を増し黄土層を洗い流すのである。夏期の氾濫が終わって秋にいたれば、削り取られた黄土の間に古代の遺跡が往々に露出している。|焼物の小像《テラ・コッタ》や青銅の仏像や宝石の彫刻や古銭等はこうして人の眼に触れるようになる。ホータンの住民達にとっては、これらの遺物は金銀製のものでない限り、なんの価値もなく子供の玩具になるにすぎない。しかし考古学者にとってはこれらの遺物はすこぶる貴重なものたるを失わない。この地の出土品はギリシアの影響によって洗練された古代インドの芸術がアジアの最奥部まで浸透したということを示している。
前にいったように私がホラサンに杖を引いたのは一月初旬であった。そのとき水流は泉から湧き出る水によってかろうじて流れているのみであった。その年の出土品は毎年金銀の遺物をあさるホータンの住民達のためにすでに採取しつくされていた。それゆえ私自らが発見した遺物はせいぜい数個の|焼物の小像《テラ・コッタ》にすぎなかった。私が持ち帰った五百二十三個に及ぶ収集品は一部はホータンで購入したものであり、残りはロプ・ノールへの旅行の準備中に原地民を雇って捜させたものである。私がホラサン出土品に最初に興味を引かれたのはカシュガルのペトロウスキー氏邸で一見したときであった。ペトロウスキー氏はホラサンを通過する西トルキスタン商人から買い求めたものを多く所有していたが、同氏の収集品はホラサン出土品として優なるもので、最近キセリツキー氏によってロシア帝室考古学会報に記載された。|焼物の小像《テラ・コッタ》は細粒の粘土できわめて芸術的な手法をもって作られ、高熱で焼かれたものである。この事実はその煉瓦色の赤さと非常な硬度によって証明される。
出土の小像は大体、(一)自然描写的あるいは模写的なものと、(二)高度に発達したまたは独創的な芸術感覚の産物との二つに分かれる。
前者はその製作年代について鑑別の資料となるものを有しないが、それでもホラサンの古代住民は現代のホータン人と同様に双隆肉《ふたこぶ》のラクダ、いわゆるバクトリアラクダと馬を乗用および運搬用に使用していたことを示している。単隆肉《ひとこぶ》のラクダは現代のホータンの住民に知られていないと同様に古代の住民にも未知のものであった。単隆肉ラクダの原産地はペルシャであって単隆肉ラクダと双隆肉ラクダの地理的分布の限界線はペルシャにあった。現在野生のラクダがホータンの北方の砂漠中に棲息しているが、この野生ラクダは真正の野生ラクダではなく、ホラサン芸術の栄えた時代よりは後期の時代に逃げ出して砂漠に走った馴らされたラクダの野生化したものであると考えられる。
第一類の自然描写的小像といえども決して興味のないことはない。その中のあるものはその製作者がどの地方から移住して来たかということを示している。例えば水差しの飾り首であったらしい猿の首の像を得たが、それに表現されている猿は学名 Macacus rhesus と称せられるもので、インドからヒマラヤ山脈の南側にかけて棲息する種類である。私の所有品中には約四十個の猿の像があるが、その多くは六弦琴《ギター》をひいているところを表現している。しかしさらに面白く思われるのは仏像ではない人間の像で大部分は高さ二インチくらい、すこぶる精緻な女人の頭部像である。これらの女人像は明らかにインド人を表現している。それは巴旦杏《はたんきょう》形の眼、おごそかな眉毛、豊かな頬、少しく鈎《かぎ》形の鼻、かろうじて認め得られる程度に突出した顎等を有し、さらに髪の毛の巻き方もインドのバラハトやサンチの浮き彫、アマラヴァチの懸崖上の浮き彫に見られる女人像とまったく同様である。アマラヴァチの浮き彫像の製作年代はベハールの阿育《アショーカ》王の時代すなわちインド芸術がペルシャの影響下にあったとき、これを年代でいえば紀元前三世紀とされている。
高さ約四インチ半のきわめて特色ある男子像は細長く、良くくしけずられた顎髭と直線的な眼とローマ型の鼻を有し、インド人とは異なった人種を表現している。それはむしろペルセポリスの廃墟に描かれているペルシャのアケメネス朝の諸王の肖像に驚くべきほど類似している。しかしながら長い耳と額にしるされた白毫《はくごう》はペルシャのものではなく、インドのものであることを意味している。白毫はグリュンヴェーデルによれば、眉毛が一線を形作っている者は特に優れた人間である、という古代インド人の思想にその起源を有する。それゆえこの像はインドの芸術家がペルシャ人の王あるいは英雄を表現せんとしたものである、と考えるのが妥当であろう。もう一つの解釈は、ペルシャ芸術の影響下にある芸術家がホラサンの貴人を描こうとしたものと見ることである。
ペルシャのアケメネス朝時代の芸術がインドの建築と彫刻に大影響を与え、インドの芸術家もまた固有の偶像表現をすてペルシャ式表現を模倣、換言すればペルシャ型をインド化しようとしたことは事実である。ペルシャとインドの政治上の結合時代の始まった時代は、それが終末を告げた時代とともに明確にはなっていない。しかし西ペルシャ、ベヒストゥンに存在するペルシャ語、メド・スキタイ語およびバビロニア語の三か国語で書かれた碑文によってアケメネス王ヒスタスペスの子ダリウス(紀元前五二一〜四八五年在位)は、その帝国を構成する三十二か国中にインダス河流域に住むヒンズー人とカブール河南岸に居住するアリアン人の一部族ガンダーラ人とをかぞえていることが判明している。ダリウス王はギリシアの史家ヘロドトスによれば「アジアの広漠たる地域」の探検に熱心になり、彼によって派遣された探検隊の一隊はカリヤの町の一つであるカリヤンダの人スキラックスの指揮の下にバクチャン人あるいはバクツ人すなわちアフガン人の地にあるペウケラオチスを船出して、アラビアをめぐり紅海を北上してスエズ地峡にいたったといわれている。
ヘロドトスの記すところにしたがえば塞《サカ》族すなわちスキタイ人およびカスピイ人はダリウス大王に毎年二百五十タレントの銀を貢物として献上していたという。塞《サカ》族は現今カシュガリヤと称されている地域に住み、この地方には今だにサキ、ソク・タシュ・トックサク等、かつて塞《サカ》族が居住していた事実を証する多数の地名が残存している。いかなる経路でペルシャ芸術がホラサンに入って来たかを決定することは困難であるし、かつこの問題はさほど重要ではない。しかし、いずれにせよ中央アジアのこの部分とガンダーラ地方との間に直接の交通路が存在していたことは確実であり、また遠く古代からカラテギンを経由してメルヴとセレスの首都ホータンとをつなぐ交易路があったことは確かである。
私の収集品中にはまた多数の獅子の頭像が含まれているが、それらは猿の像と同様に強い擬人化への傾向をしめしている。形態から判断したところによればこれらの像は水差しの装飾であるように考えられる。それゆえ獅子像はちょうど純粋の自然描写的あるいは模倣的なものと、より高度の独創的のものとの中間的存在である。キセリツキー氏はこの種のものの中にバビロニアの神話的民族英雄たるイヅバールあるいはギヅウバールの模写を認めている。しかし他方それが古代ギリシアの半人半羊の|森の神《サチュロス》に似ていることも否定し得ない。
より高級な独創的芸術品としての有翼獣《グリッフィン》像は興味がある。それは古代インドの固有の芸術品中によく見かけるガルーダ(巨鳥)の古い主題《モチーフ》の継続あるいは発展とも考えられる。しかし同時にそれと、紀元前三世紀に描かれたギリシア神話にある鷲の爪をもった有翼獣《グリッフィン》との間の関係もまた否定し得ないところである。
今から三十年前ドイツのクルチウスは当時知られていた資料によってギリシア芸術は紀元前三世紀においてインド芸術に影響を与えたという結論に達し、彼の説によればギリシア芸術のインダス河流域地方への流伝はアレクサンドロス大王のインド侵入とその死後インダス河の両岸地方に建設されたギリシア人王国に起因するという。
グリュンヴェーデルは古代インドの芸術を次の二期に分けている。すなわち(一)は阿育《アショーカ》王すなわち紀元前三世紀のペルシャ式最盛期でバラハト、サンチ、アマラヴァチ等はこの時代に属する。(二)はガンダーラ時代あるいは|ギリシャ式仏像時代《グレコ・ブツクイスティック》と称される時期である。なおヴィンセント・スミスはこの両時代の中間に|インド・ギリシャ時代《インド・ヘレニスティック》を挿入している。
ホラサン出土の焼物像はアレクサンドロス大王の後継者達がインドの北部国境近くに王国を建設しつつあったころのものであるということも考えられる。当時ペシャワールの付近はギリシア芸術の中心地で、そこから各方面にひろがり、遠くホータン地方まで伝播したものではなかろうか。
ホータンの町で私は青銅および銅の仏像を多数購入し、またホラサンでも発見するを得た。これらの仏像は後代のものでギリシア芸術の影響が土着固有の形式によって完全に拭い去られてしまった後の製作であることに疑いはない。私の推測ではこれらの青銅像《ブロンズ》は紀元四、五世紀のものではないかと思う。これらの像は近代の仏像とまったく同形式のものに属している。
ホラサン出土品中で特に興味のあるのは青銅の盾形の偶像であって、それは盾形の頂上に一個、左右に各々六個の仏像を配している。インドの仏像中七個の菩薩に取り囲まれた仏陀を表現しているのは古今を通じて普通に見受けられるところであるが、私の所蔵に属する像は仏陀を中心として七個のかわりに六個の菩薩像を配している。そしてインド式では仏陀像は常に菩薩像より大であるにかかわらず、私の盾形青銅像では周囲の六個の像はことごとく同型で、中心の一つだけが少しく小さい。したがって私の青銅像は何か違った範疇に属するものであろう。
これらの遺物を出土するところに近く存在するホータンは、すでに述べたようにすこぶる古い歴史を有する町である。ホータンという名称は梵語の矍薩旦那《クスタナ》から出たものであって、「町」を意味する蒙古語クオーテンから出たというのは誤りである。紀元前二世紀のころには、この町を中国人は|于※[#「門<眞」、unicode95D0]《ウタン》と呼んでいた。ホータンの歴史については欧人の著としてアベル・レミュザーの「ホータン史」があるが、それは主として大清一統志の引用している漢書・晋書・魏書・周書・隋書・唐書の翻訳である。右によれば紀元前一四〇〜八七年漢帝の位にあった武帝が于※[#「門<眞」、unicode95D0]にたびたび使節を遣わし、明帝の時代にいたりついに漢は于※[#「門<眞」、unicode95D0]を征服した。しかしホータンが中国と最も密接な関係にあったのは、はるかに下って清朝の下においてであることは疑いがない。
我々にとって特に興味のあるのは古い時代においてホータンの産業はすでに高い程度に発達していたということである。ホータンから漢の宮廷に派した使節は数多くの貢物の中に精巧な瑠璃器を持参したということである。ひとりホータンにおいてのみでなく東トルキスタンの各地で私は瑠璃製の小皿、盃、湯呑、蓮の花の型の装飾品等の破片を発見した。しかるに現在のホータンにおいてはガラス類の製作技術は全然知られていない。中国の史書の語るところによれば、ホータンの住民達は銅器と織物の製作技術に長じていたという。さらにそれにしたがえば、ホータン人は常に印章を使用していたというが、私はホータンで二十余個の古印章を発見した。
私はホータンで、ある者から次のような話を聞いた。彼は砂漠の中で流沙に埋没した都市跡を発見したが、その家屋の中にはあたかも突然何かの変事のために死んでしまったような屍体を発見した。この地方の伝説によれば、この古代の都市はあたかもポンペイが一夜のうちに火山灰に埋もれてしまったように突然の流沙に埋もれてしまったということになっている。
中国の史書や古代の紀行やまたこの地方の伝説が語るところは、夢物語や空想の所産ではなく確かに一部の真実を物語っている。私はまもなくタクラマカン砂漠中で砂に埋もれた二つの仏教時代の古代都市跡を発見した。しかしこれらの遺跡を調査した結果、埋没作用は数千年にわたって徐々に行われたもののように考えられた。
紀元六三二年に記されたある中国の文書にしたがえば当時ホータンの住民は年代記を有し、彼らの文字・法律・文学等はインドから伝来したものであるという。この記録を裏書きするようなインド起源のものと思われる手写文書を私自身発見している。
アラビア人が西トルキスタンのホータンドを攻略したのは紀元七一二年のことで、次いで東トルキスタンに侵入し、ついに中央アジア全部を回教で席巻するにいたった。ホータン地方の仏教がまったく廃絶したのはこのアラビア人の侵入によるものである。次いで蒙古時代にはホータンは一二二〇年、蒙古軍の鉄蹄下に蹂躙しつくされた。
古代|于※[#「門<眞」、unicode95D0]《ウタン》の遺跡は現代のホータンにはまったく跡を絶っている、そしてマルコ・ポーロの時代においてさえ、すでに古代ホータンの姿は跡を止めていなかったらしい。マルコ・ポーロは一二七四年にホータンの町を過ぎたのであるが、彼は単に次のように述べているにすぎない。
「この地の住民は大汗(元の世祖フビライ)に服従し、ことごとくマホメットを信ず。この地方には多くの町と聚落が存在するも首都ホータンは就中壮麗にして、この王国はその名を取ってもって国名としている。物資、特に綿花(亜麻・大麻・麦・葡萄酒等も)が豊富である」
「住民は葡萄畑・花園および農園を有す。彼らは交易売買および製造業をもって生計をなして、兵士は存在しない」
この有名なヴェネチアの旅行家の記述はただ一点を除いて現在でも当てはまる――すなわちホータンの現在の支配者は大清光緒帝である、という事実だけがマルコ・ポーロの時代と異なる。
マルコ・ポーロはカシュガルおよびヤルカンドにおける景教の存在を語っているが、ホータンについてはキリスト教のことにはまったく触れていない。しかし私がホータンで発見した遺物の一つはキリスト教の宣教師がホータン地方まで来ていたことを証明している。その遺物は明らかにローマカトリックに属する一派の徽章で、表面には十字架を拝している光輪を頂いた一人の僧侶が刻まれており、その周囲には S. ANDREA AVELIN という文字が記されている。裏面には同じく光輪を頂きシュロかオリーブの葉を手にしている聖女イレーナの像が刻まれている。これらの聖者の名前から判断して、この徽章の年代を推定することは困難ではないであろう。これ以外に私はホータンで黄金製の大翼天使《セラフ》の小像、銅の十字架、数個のビザンチン時代の金貨を発見した。
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第十八章 死の都タクラマカン
一八九六年一月十四日。私は四人の従者と三頭のラクダからなる隊商《カラヴァン》を率いてホータンを出発した。三頭のラクダ以外に二匹のロバを伴ったが、これは砂漠におけるロバの耐久力実験のためであった。従者はオッシュからのイスラム・ベイ、およびケリム・ジャンで他の二人は猟人アーメッド・メルゲンとカシム・アクヌであった。去年の砂漠の遭難の苦い経験から荷物はできるだけ軽減し、絶対に必要なもの以外は一物も持たなかったので三頭のラクダの荷物としてはむしろ軽きに過ぎるくらいであった。この度の旅行でまたラクダと荷物を放棄するようなことに立ちいたっても損害は軽微で済むはずであった。
重い荷物と中国銀貨はすべてホータンに残し、五十日分の食料を携帯した。私の最初の計画はプルジェワルスキーのマサール・ターグ山を探険し、次いで砂漠を東方に横切り、ケリヤ河《ダリヤ》を目指して進み、その途中で古代の遺跡を探ろうとすることであった。帰路はケリヤ河《ダリヤ》の河床に沿ってさかのぼり、ケリヤの町を経由してホータンに戻る予定であった。この最初のむしろ小さな計画が意外な結果をもたらしたことは次に述べる通りである。
私は出発にさいして中国官憲発行の旅券を携帯しなかったので、ちょっとした面倒も起こったが大したこともなく済んだ。私の最初の計画では中国官憲との接触などはまったく思いがけないことであった。
観測用器具と調理器具との箱各一個、麦粉・パン・乾菜・マカロニ・砂糖・茶・ろうそく・カンテラ・湯沸かし・煮物鍋その他をいれた袋《クルチン》数個とそれに毛皮、山羊皮製の寝袋・毛氈の絨毯・斧・鋤・銃・弾薬等が我々の携帯品であった。この度は冬のさなかで、温度は最低摂氏氷点下二二度まで降ったときもあったにかかわらず、私は従者達と同様に地面の上に毛皮にくるまって寝た。しかし燃料は豊富であったし、季節は春に向かいつつあった。
一行はホータンの町を出発し北方へのコースをとってユルン・カシュ河の左岸に沿って進んだ。四日間我々は荒蕪の地の旅行を続けて時々|粗《まば》らな木立を過ぎ、最後の聚落であるイスラマバードにいたり、そこで氷結したユルン・カシュ河を渡った。
砂漠にいよいよ脚を踏み入れる前に、我々はラクダに休息を与えるためにユルン・カシュ河のほとりに一日を過ごした。東の方には去年我々がマサール・ターグ山の麓の沼とホータン河《ダリヤ》との間で横切った地帯の約半分の広さの砂漠が横たわっている。この地帯の砂漠の砂はさほど深くはなく、井戸を掘ることによって水は得られるし、タマリスクと白楊樹《ポプラ》はいたるところに存在するので今回の旅行は昨年のそれに比してはるかに危険が少ない。私は最後の聚落で、黄金やその他の貴重品を捜し求めて埋もれた都を数回訪ねた経験のある二人の村民を案内者として雇い入れた。
一月十九日。ユルン・カシュ河畔を出発し、砂丘の間を縫って東へ向かって進んだ。砂丘は最初の数日間は比較的低くせいぜい六フィート内外に達しているにすぎなかった。その上多くはないが雑草が生えていた。第三日目に砂丘の高さは十五フィートないし三十フィートに達し、東北および南北に走る網目状をなし、その険しい方の面は西、南および南西を向いており交錯点は盛り上がってピラミッド型の砂丘を構成していた。
一行はラクダを余り疲労させないために普通一日五時間ないし六時間を行進した。日課は毎日同じように繰り返された。宿営地に到着するとただちに二人は井戸を掘り、他の二人は焚火の世話のためにタマリスクの根を採取した。イスラムが私の夜食を用意する間にケリム・ジャンはラクダの世話をする。私自身の仕事は毛皮を着、毛氈の長靴をはいたまま一日の記録をつけ、砂丘の形を描き高さや幅を測り、角度や方向を計算することで、この仕事が終わって井戸の側へ行くときまでにはそれはほぼ掘られてしまっている。最初の数日間我々は各々七フィート十インチ、六フィート、五フィート六インチにして水に達した。水の温度は摂氏九度および十二度であった。地面は八インチ半の深さまで凍結していた。三日目の井戸の水は河の水と同じくらい新鮮であった。不思議なことにはヤルカンド河《ダリヤ》に近いところほど井戸の水はからく、遠くなるほど淡水に近い。
我々はまもなく井戸を掘る場所の選択に巧みになった。タマリスクまたは白楊樹が生えているところあるいは地表に湿り気のあるところでは五、六フィートにして淡水を得られるということがわかった。我々はちょうどそのような場所を選んで宿営地を定めた。毎日一日の行程の終わりに近づくとき、私は適当な宿営地を捜しに誰か一人を先に進ませることにしていた。
進むにつれて砂丘はしだいに高度を増し、しだいに荒蕪|寂寥《せきりょう》の光景になって来た。一月二十二日には砂丘の高さは四十フィートに達した。ここで私はタクラマカン砂漠の西部で見たと同様な、奇妙な形をした砂の堆積、すなわちホータン河《ダリヤ》とケリヤ河《ダリヤ》に平行して南北に向かっている砂丘の大集団を再び見出した。砂丘と砂丘との間には、北から南にかけて細長い帯状にひろがっているタマリスク繁茂地帯をしばしば見かけた。これらのいわゆるダヴァンすなわち「通路」は眺望の変化によってはじめて見分けられるものであって、ダヴァンすなわち砂丘の集団の西斜面へ上ると、東の地平線はすぐ近いように見え、かぞえることのできる砂丘の数はせいぜい二、三十にすぎない。しかし一度この「通路」の頂上に達すると、砂漠の大洋のかぎりないひろがりが眼の前に横たわり数百の砂丘をかぞえることができる。したがってダヴァンの頂上にいたる度毎に我々は一度立ち止まり、どの方向に進めば一番険しくないかを見きわめるのであった。もし頂上からタマリスクの影を見つけるならば、我々はただちにその方向に向かって進んだ。タマリスクはそれに行き着くまでに幾度となく砂丘にさえぎられて我々の視界から姿を消す、しかしまもなく同様に再び現れる。タマリスクがすぐ近くにあるように見える時でさえも、達するまでにはなかなか時間がかかるときもあった。
一月二十三日。砂丘はほとんど五十フィートの高さに達した。ある窪地で枯れて幹にひびの入った二本の白楊樹を見たが、枝にはまだ生命があって春には葉が繁りそうであった。ラクダとロバはこの白楊樹の小枝をむさぼり食べた。
正午、一行は北から南へ走っている窪地に達したが、そこにはケーテックすなわち枯れ木の樹林が立ちならんでいた。短い幹と株はガラスのように灰色になり、かつもろくなっており、枝は枯れ切って壜の口抜きのようにねじれ、根は陽に焼かれて乾き切っていた。かつて繁茂していたであろうこの樹林に残っているのはただこれらの残骸のみであった。いつのころにか河がこの地を流れていたに違いない、そしてその河がケリヤ河《ダリヤ》であったことにもまた疑いがない。すでに述べたように東トルキスタンの河はすべてその流域を東に変じる傾向を有している。枯れ木の林のうち数本の樹木はケリヤ河《ダリヤ》東遷の最後の標《しるし》としていまだに多少の生命を存していた。
我々にとってはこの死の樹木は重大な意味を持っていた。私の案内人は彼らがタクラマカンと称している流沙中の死都はこの枯れ木の林の東端に位置していると言った。この辺の地形からみて我々が都市跡に近づきつつあることは明らかであった。ここに達するまでにすでに数個の土器片を見出したので、この地に宿営することに決し、井戸を掘り六フィート七インチにして水に達した。
それから私は二人の案内人に付近で廃墟を捜してみるように命じた。その間に他の者は一頭のラクダをつれて薪を採りに行き、森林からラクダの背に薪木を満載して帰って来た。そしてこの宵、我々は巨大な二つの焚火を燃やした。この夜の温度は摂氏マイナス一五〜二〇度の間を上下した。
一月二十四日。我々は宿営《キャンプ》をそのままにしておいて私はラクダの背にまたがり、他の者はいつものごとく徒歩で鋤と斧をたずさえ、付近にあるに違いないはずの廃墟を求めて歩いた。
今まで私が東トルキスタンで見て来た古代の都市の遺跡は、城壁と太陽で乾燥しあるいは焼いた粘土でできた塔であった。しかし今我々が探険しようとしている奇妙な廃墟はこれとはまったく異なる。タクラマカン砂漠中の古代の遺跡に残骸を止めている家屋は木造(白楊樹造り)であって、そこでは唯一つの石造あるいは粘土の家屋の跡も見つからなかった。これらの木造の家屋の構造はかなり違ったものであった。家屋の平面図は多くの点で近代家屋のそれに似ているが、そのうちの多くは、大きな正方形または長方形の敷地の内に小さな正方形あるいは長方形に造られ、さらに数個の部屋に仕切られている。残っている唯一の部分は砂と風とにさらされ、ひびが入って少し触れるとすぐに崩れ落ちるまでになった先の尖った六フィートないし十フィートの高さの柱のみである。
この辺にはこの種類の家屋の遺跡は数百をもってかぞえられるほど存在しているが、私はこの都市跡の平面図を作製することも、また街路・市場・広場等の位置を確かめることもできなかった。この遺跡は半ば流沙に埋没して直径二マイルから二マイル半の広さにわたって存在しているのである。砂漠の大海の上にあって眼に触れる家屋は元々小高い場所にあったものか、あるいは現在砂丘の中間にある窪地になっている部分に存在しているもののみに限られている。
乾燥した砂地を掘るのはなかなか一通りの困難ではない。掘る片端から砂は再び元に帰って穴を埋めてしまう。砂丘の下に埋もれている家屋を発掘するためには砂丘全体を取り除けてしまわなければならない。かかる作業は到底人間の力では不可能で、たまたま砂嵐が砂丘を移動せしめるので埋没した家屋が表面に現れるくらいのものである。しかしこの古代都市の概念を得るには十分な程度の発見をすることには成功した。
原地民がブドクァネー(仏陀の寺院)と称している建物の一つの壁は、いまだに約三フィートの高さまで地上に現れていた。この壁の構造は小さい固い束になって棒切れに結びつけられた蘆《カミッシュ》に刻み藁を混じた粘土を塗りつけたもので、かなりの耐久力を有している。壁はむしろ薄い方で内面と外面の双方に塗りつけられ、内面の壁には巧みな手法で装飾画が描かれている。これらの絵画は、軽装しあたかも祈っているような姿勢でひざまずいている女人像を表現している。その髪は頭の頂上で結ばれ眉は左右一線《ヽヽヽヽ》に描かれ鼻の側には黒子《ほくろ》が描かれている。これらは今日インド人の間で普通の手法である。また黒い頬髭と口髭をつけた男子像を発見したが、この肖像は一見してただちにアリアン人種を描いているものであることに気づく種類の絵であった。その上この肖像の人物は近代ペルシャ人の衣服と同一のものをまとっていた。右の他に犬と馬の絵があり、さらにこの乾燥した砂漠の真中ではすこぶる異常に感じられる波の上に浮かぶ船があった。また楕円形の中に手に数珠を持った女人坐像もあり、蓮花は特に多い。
この壁を参考資料として持ち帰ることはもちろん問題外の話であった。壁そのものは相当の耐久力を有しているが、漆喰と壁とはほんの少し触れただけですぐ剥落《はくらく》する状態にあった。それで私は壁画の各部分の大きさを計り、色彩を記録して別に模写した。壁に沿って砂を掘り下げたところが、よく保存されていたが、私には解読できない文字が書かれた紙の一片を発見した。またその近くに実物大の人間の石膏像の脚を見出したが、それは壁画と同様にきわめて巧みな手法で製作されたものであって偶像、恐らくは仏像の一部であろうと推測された。この場所は恐らく仏教寺院の遺跡であろうという想像はあり得ないことではなかった。この廃墟の位置が小高い岡の上であること、および祈りを捧げている人物像の存在等は、この想像を裏書きするものであった。
この部分にはもうこれ以上発見できそうにもなかったので、次の家屋を探検することにした。次の家屋の壁の外側は完全に崩れ落ち、数本の柱が残存しているのみであった。しかしこれだけでこの家屋がその柱の上部にうがたれた四角な穴やその他の標《しるし》から判断して、ペルシャ家屋のような二階建てであったことが明瞭であった。そしてそれはホータン・カルガリック・ヤルカンド等の家屋のようにバラ・クァネー(上屋)がついていたことを推測せしむるに十分であった。
この場所の砂は割合に浅かった。偶然に背面が平らで高さ四インチないし六インチの浮き彫の小像数個を掘り当てたが、背面部の平坦なことからそれは壁の装飾物として使用されていたことが明らかであった。これらの小像は蓮の葉または火輪を背にした坐仏像と、片方の手を差し伸べ他の手を胸に押し当て袖を垂らし首ぎわを開いて首飾りをのぞかせている長い裳《もすそ》の寛《ゆる》やかな衣服をまとった女人像を表現していた。顔の形はほぼ円形で髪は頭の頂点で結んでいた。耳は非常に長く耳朶《じだ》は現今の仏像にあるごとく長く垂れていた。眼は巴旦杏形で斜めである、そして頭の後ろには後光に似た輪がついている。他の像は胸をあらわにし頭の上に弓形の花環を載せた女性の像を表現していた。またその他に種々の片面に毳《けば》のある粗羅紗、石膏製の角柱、玉縁くり形、花等の破片が散乱していたが、私はその中から資料として持ち帰るべきものを選択した。
その他の家屋においても前述の遺物ほどの価値はないが、それでも種々のものを発見した。彫刻をほどこした木製の長い蛇腹、蚕のさなぎ、織機の車の部分品らしい軸、水差しの破片と把手、木製の螺旋、斑岩製の磨臼《まうす》等を発見した。この磨臼は確かにかつては水流を動力として動かされたものに違いない。
この砂漠中の呪われた都市は遠い昔には水量の豊富な河――ケリヤ河《ダリヤ》――の水がかたわらを流れていたのである。そして多くの家屋と寺院とは多数の人口の運河によって水を供給されていた。この都に近くケリヤ河《ダリヤ》に沿って繁茂した樹林が微風に枝をそよがせていた、そして夏の暑い日には葉の青々とした杏《あんず》の樹の木陰は市民達の憩い場所となっていたであろう。水流は水車を動かし、蚕が飼われ、園芸と工業が栄えていた。そして住民は洗練された趣味と芸術とを解していたことは家屋の装飾によってもうかがわれる。
この神秘の都市ははたしていつごろ繁栄していたのであろうか。杏の樹が輝く太陽の下にその最後の実を結んだのはいつのころであったろうか。白楊樹《ポプラ》の緑葉が黄ばみ、再び緑に立ち帰らなくなったのはいつのころであったろうか。水車小屋の車が再び軋まなくなったのはいつであったろうか。砂漠の魔王の貪欲な胃の中に呑み込まれそうになったこの都を、住民達が見捨てて去ったのはいつごろであったろうか。いかなる住民がここに居住したのであろうか。彼らの言語はどのようなものであったろうか。彼らはどこからこの土地に移住して来たのであったろう。そしてどのくらいの間この都に住まい、どこに移り去ったか。彼らがこの都の城壁内に住むに耐えないことをさとったのはいつのころであったろうか。
私の案内者のいわゆるタクラマカン市――多くの未解決の疑問の中に神秘の衣をまとった廃墟にふさわしい名前――の存在については、今までただ一人のヨーロッパ人も知る者はなかった。この廃墟の発見は私のアジア旅行中における最も予想しなかった発見の一つであった。荒涼たる砂漠の最奥部、地球上で最も荒れ果てた地域の只中に数千年風雨にさらされてかつて文明が栄えていた都市が深い眠りに落ちている、とは誰が想像し得たであろうか。今私は荒れ狂う砂嵐以外には訪れる者もないこの古代の都市の荒涼たる廃墟の中に佇《たたず》んでいるのだ。今私はこの数千年の眠りに閉ざされた都市に、新しい生命を与えつつあるのだ。少なくともこの廃墟を永遠の忘却の中から救い出さんとしているのだ。
私自身が提出した疑問の一つに対する答えは明瞭である。この廃墟中の家屋の壁画に見られるような高度に発達した芸術上の感覚は、少なくとも現在東トルキスタンに居住しているトルコ種族の間には決して存在していなかった。そしてこの都市は仏教都市であったこともまた確実である。したがって私はまずこの都市は紀元八世紀におけるクテイベイ・イブン・ムスリムに率いられたアラビア人の侵入以前のものであると結論した。たびたび述べた中央アジアに多く存在するいわゆる聖者の墓なるものは、この回教徒侵入当時の遺跡である。
紀元七世紀に唐僧|玄奘《げんじょう》は「西域記」に、ホータン河《ダリヤ》の東、タリム河の南、ロプ・ノール(西域記の牢蘭海)の西南に住むトカラ人の地を訪ねた旨を記している。かかる歴史上の材料と共に考古学的資料と砂丘の移動速度に関する私自身の観測とを総合して考えれば、現在|崑崙《コンロン》山北麓に最も近く存在する砂丘と、この廃墟との間を、砂丘が移動するに要する大体の時間を推算するのは難しくない。
彫刻をほどこした蛇腹がすこぶるよい保存状態にあったとか、また私のつれて来たラクダやロバが廃墟の壁の蘆をむさぼり食べたとかいう事実は、決してこの都市の年代が比較的新しいものだということを証明する材料にはならぬ。砂丘が移行する遅い速度はかかる推測をくつがえすに足るものである。さらに微細な乾燥した砂漠の砂は有機物を保存する一種の効果を有していることを注意する必要がある。
この廃墟の存在する地方の風は大体北東と東から吹く、そして特に四月と五月に強い。「|黒い砂嵐《カラ・ブラン》」が吹き荒み、砂塵を天に冲《ちゅう》し、日中をあたかも暗夜のごとく変ずるのは主に四月と五月である。三月と六月には「黒い砂嵐」に比しては弱いが、それでも砂を移動せしめる非常に力の強い「|黄色い砂嵐《サリーク・ブラン》」が吹く。これらの四カ月以外の月の風は度数が少なく方向もまちまちである。かなり強い南西風が吹いた一月二十五日の観測によれば、砂丘の頂点は北東に向かって四十五分間に四インチだけ移動した。夜にいたって風が変わり、砂丘の頂点は南西に戻り結局九時間に三十五インチ四分の一移動した。毎年平均二十四日間南西の強風が終日終夜吹き続き、したがって一日に六インチから七インチ砂丘が移動するものとの仮定に立てば、一年間には百六十フィート移動し、廃墟の地点から砂漠の現在の南端に達するには一千年を要する計算になる。この計算は砂丘の移動速度を最小限度にしているので、一千年前という時間はこの都市の年代を最小限度に見積もったことになる。さらに砂丘は直線的に南移するのではなく、南西に移動しているので恐らく現在の位置まで砂漠が達するには千五百年を要したであろうと考えられる。これに加うるに南風および南西風ほど強くはないが、それと反対の方向に吹く風の作用を考慮に入れる必要があるから、恐らくさらに五百年を加えることが妥当であろう。
この都市の住民は仏教徒でアリアン人種であったと考えられる。スルタン・アルスラム(オルダン・パドシャー)が戦ったと伝えられるトクタ・ラシッド、ノクタ・ラシッド人という民族に関する伝説は恐らくこの民族から由来したものであろう。この死の都はホラサンと同時代のものであると推測される。
次に少し砂丘の性質について述べておきたい。砂丘の原型は底部はなだらかな凸型部を風上に、急峻な凹型部を風下にした半月形である。風の方向にある端の方に向けて砂丘から角《つの》あるいは翼と称すべき部分が突出し、先に行くほどしだいに低くかつ尖っている。二個以上の砂丘が相次いで隆起している場合にはこの原型は崩れて相互に融け合っている。それにもかかわらず、常に同一の構造を保有している。このような砂丘の形態に関してはほとんど例外というものを見出し得ない。風下の斜面の角度は常に三十度で偏差は微少である。風上の斜面はこれに反して二十度から一度の間にわたる偏差を有している。砂丘の風下の底部の砂を掘るときには、頂上から新たに砂が流れ下って穴を埋め、頂上から底部にいたるまで一本の溝が生ずる。この溝は砂が風圧の最強部にさらされて最も密着している線を表現する。したがってこの溝が砂丘の頂上に達するやいなや二重になっている内部構造――すなわち風上に平行の層と風下に平行の層――を識別することができる。水晶の裂開線に当たるこの構造が砂丘の頂点から底部まで貫通しているのである。砂丘の表面に現れる微細な一種の波紋はかかる内部構造とはまったく関係がなく、その移動速度は砂丘そのものの移動速度に比してはるかに速く、普通の強さの風で一時間に九インチ半の距離を移動する。波紋の成因は漂積である。すなわち風に吹き寄せられた砂が砂丘の頂点に衝突し、砂粒の付着程度の最も弱い風下の斜面に滴り落ちるのでその砂は自重によって定着し、風圧の作用をこうむらない。それゆえ重量のあるラクダにとって砂丘の風下に当たる斜面を昇ることは不可能である。隊商がこの障害にぶつかるときには、砂丘の裾を迂回する以外に方法はない。砂丘間の平坦面の砂地もまた軟らかいのでラクダの足は七、八インチも砂中に埋まる。したがって我々は常にできるだけ砂丘の頂上線をたどって行進するようにした。この部分ではラクダの足はせいぜい半インチか、それ以下砂中に沈むだけである。
すでに述べたことのある「|砂漠の通路《ダヴァン》」は相互に交錯する無数の砂丘の頂上からなり、砂漠を端から端まで貫いているように見える。各|通路《ダヴァン》は各々窪みを伴って約一マイル四分の一の幅を有している。砂漠全体の横断面は小歯形を有する波状態をなしている。小歯形は砂丘で、波状態は表面のより大きい隆起である。この隆起は砂漠の生起以前から存在していた地形線によるものであろうと考えられる。この地方の隆起は北と東に走っている。したがってこれらの隆起は旧時の河流によって決定される。すなわち砂は河流がその河床を変えたときに河流によってかつて浸されなかった地域線に沿って堆積されたものである、ということもあり得ぬことではない。
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第十九章 未開の牧羊種族
案内者の必要もすでになくなったので帰すことにした。彼らは我々の足跡をたどり、我々の掘った井戸のかたわらに宿りつつ帰路についた。私はホータンから来た四人とともに旅行を続けることになった。
一月二十五日。八十フィートあるいはそれ以上の高さに達する「通路《ダヴァン》」を八つ横切った。夕方近く行進を止めた場所では六フィートにして水を得た。
翌二十六日。八つの「通路《ダヴァン》」を越すにしたがって砂は深く、第八番目の「通路」を過ぎたとき、窪地に多数のタマリスクと枯れかけた蘆《カミッシュ》を見出したので、この日の行程はまだ短かったが一応休息をとることにした。東方には巨大な「通路」が存在し、それは模糊たる中に遠い山岳のごとくそびえて見えた。我々は額を集めて協議した結果この巨大な「通路」の向う側には何があるのかを見届けることに決した。その高さは百三十フィートにおよび、我々が今までにであった最大の「通路」であった。従者達はこの威圧するごとき巨大な「通路《ダヴァン》」に恐れを抱き、ラクダはのろのろと弛《だ》るそうな足取りで進んだ。ロバは一行の最後にそれでも遅れずについて来た。
ついに頂上に達した。驚いたことに、向うにはもはや「通路《ダヴァン》」は一つもない。しかし大気が先刻の嵐で不透明になっていたので遠望は利かなかった。まもなく我々は一匹の狐の足跡を発見し、次いで死んだ鴨を見つけた。タマリスクやその他の砂漠の植物の数も多くなって来た。砂丘もしだいに低くなった。さらに高い梢の葉の落ちた白楊樹林が密集している樹林中に人間と馬の足跡を見出した。また、屋根があるのみで荒れ果てた小屋も発見した。この夜我々はケリヤ河畔に宿営した。
かくして我々は砂漠を横断し、ついに河に達したのであった。一週間の間、黄色い砂以外に何ものも見るを得なかった我々にとって河畔の樹林は眼を楽しましめるに十分なものであった。この辺の河幅は百フィートくらいでかなりの厚さの氷に閉ざされていたが、我々は氷に穴をうがって水をくみ出した。ラクダは冷たい河水に咽喉を潤して満足気であった。我々はここで最後の羊を屠り、巨大な丸太の焚火を燃やした。我々一同は黄塵に視界をさえぎられ、大気は濁って頭上の星の光を見ることはできなかったが、それでも大元気であった。この小屋に昨日まで人間がいたことは野営の焚火の跡と新しい足跡から判断できた。しかし我々はついに人間には出会わなかった。
翌一月二十七日。ケリヤ河《ダリヤ》の左岸に沿って北に進んだ。今我々の最大の関心事は誰かに会ってこの河に関して色々なことを訊ねることにあった。今までヨーロッパ人でかつてケリヤ河《ダリヤ》のこの部分にいたった者はいない。ケリヤの町から北方に当たる河流は私の地図上では点線がほどこされているにすぎない。ついに人間に会うことができず、あるときはやぶと枯れ枝の中を、あるときは黄色くしおれた蘆の堆積中を、またあるときは砂丘間の迂回路をたどった。この辺りでも砂丘はときには河岸のすぐ近くまで迫っている個所があった。
氷に閉ざされて銀色に光っている河は北に向かって流れ、あるときは急角度に河流を変じ、あるときは湖水のごとくひろがって、対岸は模糊とかすんで見えなくなっている。我々はしばしば下生《したばえ》の繁みの中に消えてしまっている樹林中の小径をたどって進んだ。そこには野猪・野兎・野狐・鹿・小鹿等の野獣の足跡から羊や人間の足跡までを見出した。しかし林の中は墓のごとき静寂が支配し、一つの物音さえも聞こえて来なかった。羊と羊飼いの足跡は南に向かっていた。我々は今はちょうど羊飼い達が羊群を追ってケリヤの町の方に行ってしまう季節に当たっているので、ついに人間には出会う機会がないのではないかと考えるようになった。
この日一日の行程の終わりに近づいて来たとき、河から少し離れた樹林に取り囲まれた蘆地にいたったが、我々はそこで羊の鳴き声を耳にし、まもなく羊の一群が高い蘆の間で平和に草を喰んでいるのを見出した。付近に人がいるに違いないので私達は大声をあげ、口笛を吹いたが、なんらの答えもなかった。だれも現れなかった。
私は四人の従者達を四方に派し、一人でラクダのかたわらに休んでいた。半時間後にアーメッド・メルゲンが一人の羊飼いとその妻を伴って帰って来た。だが、彼らは私の姿を見るや驚いて飛んで逃げ、下生《したばえ》の間に姿を隠してしまった。しかしまたまもなく現れて、ここから遠くない場所にある彼らの蘆小屋《サットマ》への路を教えてくれた。我々はここに宿営することとし、この羊飼いに色々訊ねた。事実、私はこの羊飼いが困惑するほどこの辺の事情について根掘り葉掘り質問し、すべてを日誌の中に書き込んだ。
彼の名前はフッセイン・ハッサンというのであったが、私はこの二重名に不審を抱き聞いてみたところが、ハッサンというのはケリヤの町に住む彼の双子の兄弟の名前であるが、双子であることを示すために二重名を使っているとの話であった。フッセインの語るところによれば、この河のある限り北へ進むと羊飼いとその羊群が散在しているが、それらはケリヤの金持ち達の所有に属しているのだそうである。
各羊群は大体三百頭から二千頭の間で、各羊飼いには各々一定の地域が牧地として当てがわれていて、じぶんの持ち場所外で牧羊してはならないことになっている。彼らは森から森へと年中移動し歩き、一個所に大体十日から二十日間止まる。例えばこのフッセインは各々二十日の行程を有する三十個所の羊小屋《アグイル》を移動して来たのであった。彼の羊群の所有者はケリヤにすんでいて、春と秋とに各々一回毛を刈り羊の頭数をかぞえるためにやって来て、そのさいにとうもろこし粉やその他の必要品を置いて行く。フッセインは毎年一回だけ町に出る。我々が河で行き当たった牧羊小屋《コチカル・アグイル》からケリヤまでの距離はわずか四日の行程に当たっているとのことであった。はるか河下の方には一生中ただ一度しかケリヤに行ったことがないという羊飼いが住んでいるとの話を聞いたが、それどころではなくその後に私があった一人のごときは三十五歳の今日までかつて町というものを見たことがなく、町とか市場とかはどのようなものであるかまったく想像をすることもできなかった。しかし彼らの多くは時々は町に出て行くのが普通である。
ケリヤ河《ダリヤ》の森林はケリヤの町から下流方面に約百五十人の人口があるが、彼らは外界とはまったく隔絶し官憲とはなんらの交渉もなく、砂漠の荒涼たる沈黙の中にいつも居住しているのである。
彼らは同じ羊飼い仲間か、または河を下って羊小屋を訪ねに来る羊の所有者以外には人間を見ることが決してない。彼らは半ば未開で野蛮人特有の臆病さを有し、原始林の中に生まれ、原始林の中に育ち、そして原始林の中で一生を終わる。彼らの知識の範囲は羊の番と牧羊と若木の切り方と牧地とそして子羊を母羊から離す時期にのみ限られている。彼らはまたとうもろこしのパンを作り蘆小屋《サットマ》を建て、井戸を掘ることを知っている。彼らの重要な道具はケットメとバルタとの二種の斧で、斧は常に帯に通して背中に背負っている。
ホータン河《ダリヤ》の羊飼い達は妻と子をホータンに残しておくが、それはホータン河畔は相当の交通があり、この地方の羊飼い達が恐れている中国人が通るためである。しかしケリヤ河畔の地はそれと異なってほとんどまったく外部との交通がなく、羊飼い達も安心して家族を伴って移動して歩いている。ここで会ったフッセインとその妻の間には子供がなく、私は彼らを見てアダムとイヴをこの世に見るような思いがした――ただ違っているのはフッセイン夫婦は頭のてっぺんから足の先まで羊皮に包まれているということだけである。
ケリヤ河《ダリヤ》に関してフッセインの語るところによれば、ケリヤ河《ダリヤ》はケリヤの町の少し上流で多数の灌漑用運河《アリック》に分かれ、河そのものはほとんど消滅してしまっている。ケリヤを訪れた旅行家達――プルジェワルスキー、ピュウツォフ、グロムブチェフスキー、ヅトルイユ・ド・ラン、リットルデール氏等――がこの河の流域の探検を無価値であると考えたのは一つはこれらの事情によっていることに疑いがない。
ケリヤの町の下の方には運河《アリック》から氾濫した水の豊富な井戸が多数に存在する。そしてこれらの井戸の水は逆にまた河流に入る。したがってこの地方の原地民は河は下流に行くほど大きくなっていると信じている。しかしそれはまったく事実に合しているわけではない。六月および七月には西蔵高原の雪融けで水はほとんど河の縁まで達するが河を越すために方々で渡船を必要とするまでには決していたらない。運河《アリック》を越して来る氾濫水は「|白い水《アクス》」と呼ばれ、そうでなく自然の泉の涌水は「|黒い水《カラ・スウ》」と称される。秋には水は急速に減少し、十一月に至ればいたるところ氷結し、氷の表面が順次に重なり合うので、河は実際よりも大きく見える。
我々がケリヤ河《ダリヤ》に達したときは、ちょうどこの季節すなわち冬季であった。天気がよいときには河水は二十日間で融けるが、悪天候が続くときにはこれより少し長くかかる。融雪期にはかなりの氾濫が起こり、その後河床は二カ月くらいの間乾いてしまい、その間は羊飼い達は水を得るために井戸を掘らなければならない。このようにケリヤ河《ダリヤ》は水量と河流の長さにおいては劣るがその姉妹河たるホータン河《ダリヤ》とほぼ同様の性質を有していることがわかった。
フッセインは我々と別れて南に、我々は北に進んだ。我々の通った路はケリヤ河《ダリヤ》が二マイル東方にその河流を移動した跡である乾き切った旧河床にそって進んでいるが、この河道の変遷は十五年前に起こったのだそうである。ケリヤ河《ダリヤ》は今もなおその東遷の傾向を続けている。旧河床の岸には今でも樹林と蘆地帯が残って地下水を吸って繁茂している。しかしそのうちに木の根が地底の水に届かなくなり、砂が凱歌を挙げ、樹木はしだいに枯死し、我々が彼の古代の埋没した都市跡で見たような死林地帯《ケーテック》に変わることは明らかである。そして新しい森林帯が新しい河流のほとりに生ずるであろう。
一月二十八日の黄昏、我々は再び四百頭の羊群を率いた三人の羊飼いに出会った。彼らの語るところによれば、彼らは自分達の食料として年二十頭だけを屠る権利を有し、その上に狼や野猪に襲撃されて傷ついたり、あるいは足を折ったりした羊を食料とすることを許されているそうである。このようにして傷つく羊は年に平均十五頭は出るとのことである。そしてこれらの羊を控除して彼らは四百頭の羊を三年間に五百五十頭に増殖する義務を負わされている。しかしこの羊群の所有者の牧地では四百頭以上の羊を飼育する余地はないので年に六、七十頭の羊をケリヤで売却している。この売却代金と年に二回の刈り毛とが所有者の収益となる。ケリヤでの羊の値段は優良なもので一頭三ポンド六シリング、普通の羊は一ポンドを越すことが余りない。
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第二十章 ケリヤ河《ダリヤ》を下る
一日の休息をとった後、我々は再び北方に向かって行進を起こした。大木が繁茂している森林中をしばしば横断したが、ラクダは密生した下生《したばえ》の中を進むのに困難し、ラクダにまたがる私は垂れ下がっている樹枝でラクダの背からなぎ落とされないように始終用心しなければならなかった。一月三十日、一行は新河床と旧河床の接合点を通過した。この地点で河は百十フィートの幅に達し、氷の厚さは四インチあった。ある所では氷は鏡のごとく澄み、またある場所では黄塵におおわれていた。
この十日間、大気は今年の始めの風で吹き上げられた黄塵におおわれていた。この種の塵は再び地上に落ち着くまでには相当長い時間を要する。毎年この季節には大気は多量の塵を含むが、この現象は羊飼いにとって大きい苦労の種である。すなわちこの微細な砂塵は一面に木の葉を覆い、葉を喰む羊を往々に窒息せしめることがある。それはあらゆる物体をおおい、黄色の砂丘を白色にする、そして砂丘を越えて通る路は遠くから望んでも一見してわかるように黒色の一線を画している。
二月一日。河は北東へのいっそう強い傾向を示した。私はすでに以前からこの部分を南から北に横断して、タリム河に達する計画を頭に描いていたのであった。それゆえ右手に流れる傾向を知ったとき私はむしろ失望を禁じ得なかった。何となればかかる傾向の下では行進するにしたがってこの傾向は強くなる懸念があり、ついにはタリム河と平行になり、むろんロプ・ノールには達しはしないが、方向はロプ・ノール方向に直線になるかもしれないからである。この心配は日に日に濃くなりつつあった。私の探検は成功し得るであろうか、あるいは失敗して、再び来た道を引き返さなければならなくなるのではあるまいか。
「|強い砂《ユガン・クム》」というこの日到着した地名はよくその体を現している。そこではケリヤ河《ダリヤ》の岸まで砂丘がせまり、河岸にほとんど直角に砂丘がそびえている。しかし南岸には草原がひろがり我々は再び羊飼いに出会った。彼らの中の一人は我々と同行して「|さまよう野猪《トンクズ・バステ》」と呼ばれる樹木の多い径まで来た。この辺りに住んでいる羊飼いの二家族は野天の下に焚火を囲んであたかも野蛮人のような生活をしている。彼らの周囲には裘《かわごろも》を着た子供がたくさんいた。彼らはこの付近で三百頭の羊を飼っていたが、同時に一羽の牡鶏、三羽の牝鶏、鳩一羽、犬二匹を飼養していた。彼らの家財道具というべきものは食物をあぶり乳を飲み肉を盛る皿数枚のみで、それらは地面に乱雑に散らかされていた。彼らは飲用水を皮袋と白楊樹《ポプラ》の幹をくり抜いてこしらえた木鉢の中にいれておき、とうもろこし粉は袋に貯蔵していた。私の見た器具類はこの他に二、三個の銅製の缶・小刀数丁・鋏一丁・木製の匙数本・二弦の楽器一丁・毛氈の敷物数枚・料理用の壷一個・馬毛の篩《ふるい》一個・裂地二、三のみであった。二人の男の履物はまったく驚嘆に値するものであった。すなわちそれは蹄も何も完全に揃った野生ラクダの足をそのままの形ではいているのだ。しかしこの原始的は羊飼い達は案外従順で、私のいうままに静止して写生のモデルになってくれた。
これらの羊飼い達はここから北西に一日の行程の場所に、流沙に埋もれた廃墟の存在することを教えてくれた。彼らはそれを「|黒い丘《カラ・ヅン》」と呼んでいるが、その理由は砂丘の上にタマリスクが生えているので、黄色い砂地と対照してそう呼んでいるとのことであった。
我々は二月二日と三日をこの廃墟を訪ねて費やした。途中面白い発見をした――すなわちシイスマ・ケール(ケールはクールあるいはコールと同一語源で湖の意である)という小さい鹹水《かんすい》の溜まり付近の砂丘に終わる旧河床を進んだのであった。ここでも河は東方に移動しているが、旧河はときには廃墟の辺りを流れていたに違いない。
この廃墟は前のものより小規模であったが、建物から判断して同時代に属するものであった。ある建築は各々二百七十九フィートおよび二百四十九フィートの四辺形で隊商宿《カラヴァンセライ》に類似していて、周囲に庭を有し、建物の中央にはさらに小さな中庭がある。もう一つの建物は基底部の梁が特によく保存されていた。この建物については特に興味を引くようなものもなかったが、私は家の構造を念入りに調べた結果、梁が相互に接合されていることと暖炉が設備されていることとを見出した。さらにそこでは車の軸棒を発見したので、この辺りにはかつて、車を使用するに足る道路があったことが知られた。また、土器の破片は多数散乱していた。この廃墟はホータン河《ダリヤ》の羊飼いや猟人等の間によく知られている。カシムは前にもこの場所を訪れたことがあったが、ホータン河《ダリヤ》からは五日の行程であったとのことである。しかし奇妙なことには誰もさらに一日の行程を東方に延長して、水と彼らと同一の言葉を話す種族とパンとその他の物が豊富にある場所にまで行く者はいない。
彼らは十日分の食料と水とをロバに積んで来て、一日だけこの廃墟に止まっていわゆる宝探しをやって帰る。ホータン河《ダリヤ》の森林の住民も、またケリヤ河畔の羊飼い達も共にこの廃墟の地をたびたび訪問するのであるが、彼らは決してお互いに出会うことはない。したがってホータン河《ダリヤ》の羊飼い達はケリヤ河《ダリヤ》の存在を知らず、ケリヤ河《ダリヤ》の牧羊者達はホータン河《ダリヤ》に関するなんらの知識をも有していない。しかし彼らがこの場所を同じ名前――すなわち「|黒い丘《カラ・ヅン》」と呼んでいるのは、この場所に存在するタマリスクの黒い色と黄色の砂との対照によっているので、この遠い孤立した地方においてもなお、地理上の命名作用は意味のないものではないということを示している事実として興味がある。「|黒い丘《カラ・ヅン》」の遺跡を調査した後、我々はケリヤ河《ダリヤ》に帰り再び行進を続けた。進むにしたがって河はいよいよ不規則になり多数の支流を出し、これらの支流は沼沢地を構成していた。「|さまよえる野猪《トンクズ・バステ》」の付近でケリヤ河《ダリヤ》は二つに分離して北に流れ、この二つの分流は距離を増すにつれていよいよ遠ざかっている。
羊飼い達の話によれば、七、八年前までは河流は右すなわち東方の河床を流れていたのだが、しだいに左すなわち西に移動し、ついに現在のようになったとのことである。しかしながら今年の冬には水流は再び東に向かう傾向を示し、夏期にはそのまま東流するのではあるまいかと彼らは言っていた。二つの河道に水流はかくのごとく移動する。毎年水流の運び来る沈殿物は河底にてのひらの幅くらいの厚さに堆積し、かくして河床を上昇せしめるので水はより低い河道に移動する。河流に沿って樹林を有する東河道の末端にはカタックの森林から四日の行程の地にあたって数個の小|鹹湖《かんこ》が存在している。
かかる河道の変化は平坦な地における河道の遷移を説明するものとして注意する必要がある。これと同様の現象を私は後にロプ・ノールの湖についても発見した。ただこの二つの差はケリヤ河《ダリヤ》の場合には河であり、ロプ・ノールの場合には湖水であるという違いだけである。
二月四日。我々は「|二つの河の間の地《アルカ・チャット》」の森林中に住む羊飼いのところに宿った。翌日は、周囲の地形が非常に変わった。河の両岸には多数の支流が出て、そのあるものの場合には支流は本流とまったく切り離され、森林中に姿を消してしまっている。蘆の草むらも樹林も共にその幅を増して来て、あたかも熱帯地の三角州の上を歩いているの感があった。ここでは眺望の限りただ一つの砂丘もない。この好都合な地形はいつまで続くであろうか。これらの森林はタリム河の森林と接続しているのであろうか。私は常にこのような疑問を頭に描きながら進んだ。我々は毎日のように羊飼いに出会ったが、彼らは河の達する限界については何事も知っていなかった。二月五日の夜、我々は四人の羊飼いと共にチュグトメックに宿営した。
二月六日に到着したサリック・ケシュメーという地では河の幅は実に二百六十フィートに達し、これからいまだ五百マイルも下流に流れているように見えた。夏期にはタクラマカン砂漠を貫いてヤルカンド河《ダリヤ》(ヤルカンド河はさらにアクス河と合してタリム河となる)に注ぐ水量の豊富なホータン河《ダリヤ》は冬期にはきわめて小さい流れと化し、ブクセムにすら達し得ないで地中に消え去る。この現象はホータン河《ダリヤ》の水は北部西蔵の雪と氷河の融水とのみによっているからである。しかるにケリヤ河《ダリヤ》は秋も冬も多数の涌泉から水の供給を受けているのである。
砂漠の中のよい道しるべとなったケリヤ河《ダリヤ》も、しかしついに砂漠に吸収されてその姿を消すときが来た。二月七日カタックの森林に達したとき我々はこの河も北に向かってもう一日半の行程まで流れているのみで、そこではこの河は多数の方向に分流し、ついに砂漠中に呑み込まれてしまっていることを知った。
カタックで我々は一日の休息をとった。このとき我々はモハメット・ベイという名の森林の住民と一緒であったが彼は喜劇型の老人で一生を森林中に過ごし、一体自分の住む地は何人《なんぴと》に属しているのかも知らなかった。この辺りの森の住民達は税金も払わずまた中国人官憲となんらの交渉も有していない。中国人官憲自身も恐らくケリヤ河《ダリヤ》の森林に住民がいることに気づいてはいないであろう、もし中国人が住民の存在を知っているならば、税金を徴収しないはずはないのであるから。
カタックを過ぎて流れている河は、できてからまだ十日より経たないとのことであった。その流れは氷の下をあたかもパイプを通じて流れるように流れ、順次に凍結して氷はあたかも長い触手のように北に向かってひろがっていた。
この地方では三年前、一頭の虎がカタックの蘆小屋《サットマ》を襲撃し、牝牛をさらって行ったことがあったそうである。モハメット・ベイと彼の羊飼い達は殺された牝牛の皮をはぐために屍骸を拾って帰り、それから羊の群を小屋の中に追い入れた。ところがその虎は再び付近に現れ、焚火のかたわらに置いてあったにもかかわらず牝牛の屍骸を食べ荒らして帰ったそうである。後に羊飼い達は虎の足跡が北に向かってついていることを見出した。この虎は数日後に三たび付近に現れ、砂漠を越えて今度は東方に去ったそうである。この地方では虎を見かけることはむしろ珍しいとのことである。
虎の話は私にとっては耳よりな便りであった。私はこの虎はタリム河の河畔の虎が多く棲息するシャーヤール地方から来たものに違いないと考えた。しかしモハメット・ベイ老人はこの点について疑問を抱き、北方の地には高い砂丘が幾重にもかさなり、もしヤルカンド河《ダリヤ》あるいはタリム河と呼ばれているような河があるにしても、そこに達するには二カ月か三カ月はかかるであろうといった。
老人の知る限りでは三十五年間ケリヤ河《ダリヤ》の水が減少したことはかつて見た例《ためし》がないそうである。しかし彼は毎年砂が多くなり、樹木はしだいに少なくなりつつあると付け加えた。彼の意見にしたがうと北方にひろがる砂漠は地のはてまで続き、そこに達するには約三カ月を要するとのことである。
彼の妻と息子と娘達以外には他の人間や外界との接触がないモハメット老人もまた信仰に篤い回教徒であって、毎日礼拝と祈祷を欠かしたことがない。彼の説にしたがえば「もし私が礼拝と祈祷を欠かしたら狼と野猪が私の羊達を皆殺しにしてしまうに違いない」この森の老人は毎日、彼の守護神でありかつ自分自身も羊飼いであったハズレッチ・ムサ(モーゼ)に祈りを捧げる。彼は月の名も週日の名も知らないが、しかし言葉だけは忘れない。森の住人達の言葉は所によって多少の方言的変異と語法の差異があるばかりで大体同一の言語と見なして差し支えない。
彼らに対し現在のような外界からのなんらの干渉のない絶対の自由、特に中国人官憲との無関係な状態を希望しているかと聞いてみたところが、彼らは等しく狼や野猪が彼らの仇敵であるごとく中国人もまた彼らの仇敵であると答えた。
二月九日。我々は再びコースを北にとった。カタック付近では幅に百八十フィートもあったケリヤ河《ダリヤ》は今は五十フィートに収縮し、繁茂した森林中を急角度に曲がりくねって流れている。この夜我々は羊飼いの小屋にありつけず、また元のごとく野天に眠った。この辺りで河はいっそう縮小し、一秒間にせいぜい三十五立方フィート程度の水量を流すにすぎない幅十五フィートの小川に変わってしまった。
我々の最後の案内人は昨日帰ってしまい、我々はしだいに収縮しつつある流れに沿ってあるときは繁茂したタマリスクの草むらを手斧で切り開きつつ、またあるときは蘆《カミッシュ》の草むらやかすかに野草の生えている砂丘を越えつつ前進した。
ついに薄い氷片の下の砂地にケリヤ河《ダリヤ》が最後の姿を消し去ったとき、私は何とも知れぬ悲しみにうたれた。河はついに砂漠との闘いにここでも打ち負かされているのだ。しかしさらに一日間だけ乾いた河床が我々の道しるべになった。この河床は狭く深く、夏期には氾濫した水を通すらしかった。そして両岸は野火以外には切り開くことは何人の力でも不可能なほどに繁茂した原始林におおわれていた。所々この密林を貫く小径の跡があったが、それは河床に生える蘆の根を掘りに通う野猪の路であった。この辺りの景色はシャトニ・エル・アラブ河畔バスラ付近のなつめ椰子の密林を屈曲しながら貫流する数多くの小川を思い起こさせるものがあった。
二月十日の夜、一行は河床上に宿営を設け、水を求めて地を掘ること六フィートにして地下水に達した。ここでしおれて黄色くなった白楊樹の葉が風でこすれ合って鳴る音を聞いたのが葉音を耳にした最後であった。翌日から我々は再び満目荒涼たる流砂の中に閉ざされたのであった。
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第二十一章 野生ラクダの棲息地
子供のころ、まだ砂遊びに余念がなかったころ、私は野生のラクダを見、そしてその皮を欲しいものだとしばしば考えていたことがあった。しかし今になってこの奇異な獣にこのように親しく接することになろうとは夢だに思わなかったところである。かつて私はロシアのサンクトペテルブルグの科学博物館で剥製の野生ラクダを見たことがあるが、この標本はリットルデールとピェウツォフやその一行が射止め、プルジェワルスキーがたずさえて来たものであった。しかしながら私はこの野獣の存在についてはある程度の懐疑を有せざるを得ず、常に一種の神秘的魅惑の中にその存在を想像していた。
このような冒頭によって読者諸君が私を非常な狩猟家《ニムロッド》と考え違いしては困るので、まずもって私はかつて生涯にただの一度も野生ラクダを射止めたことはない、ということを断っておきたい。第一に私は決してスポーツマンではない――そしてスポーツマンではなかったゆえに私はむしろ科学上の観測を十分になし得たともいえる。第二に私は狩猟には不便な近視眼である。ようやく獲物の姿を見つけるころには、すでにそれは遠く射程距離を逸脱してしまっていることが多い。第三にたとえ私がスポーツマンであると仮定しても、私は野生のラクダのような壮麗な姿態をした獣の中にあの不粋な丸い鉄砲玉を打ち込むことを躊躇することだけは確かである。さらに常に私は生命をよみがえらす力のないものが生命を奪うということに関しては疑いを抱いている、そして再び生命を与える力を持たないのならば、人間は必要もないのに他の動物の生命を奪う権利を有しないのではないかと考えることがある。
しかしながら今我々はゴビ砂漠中の最も人跡まれなる部分で野生ラクダの棲息する地方に近づきつつあるので、私はその皮を一枚是非ともストックホルムに持って帰りたいという熱烈な希望に打ち勝ちがたかった。私のスポーツマンとして欠けるところをイスラム・ベイとホータン河《ダリヤ》から連れて来た二人がおぎなって余りあった。彼ら三人は共に優れた狩猟家であり、かつ彼らは話に聞くばかりでかつて見たことのない野生ラクダをここで目のあたりに見るばかりでなく、それを砂漠で射撃することができるという喜びで一杯になっていた。実際上ケリヤ河《ダリヤ》を下りつつあった間、この野生ラクダの問題が常に我々の間の主要な話題であった。
「野生ラクダは滅んだ町で飼養されていたラクダの子孫に違いない」と猟人アーメッドはいった。そして私としてはこの言が正しいのかもしれないという疑いを抱かざるを得なかった。ホラサンで発見した二千年前のものと推定される焼物製のラクダ像から判断すると、ラクダはその時代ですらすでに重要な家畜の一つであったらしい。そしてタクラマカン砂漠の埋もれた町々の住民がラクダを交通手段として中国やインドと交通していた、と想像することは十分根拠のある想像ではないだろうか。流砂が町に侵入し草木を枯死せしめ水路をふさいだとき、この砂漠の船たるラクダは永い間の人間の支配から脱出したのではなかったろうか。そして人間の桎梏《しっこく》から解放された彼らは、現在のように砂漠のあちらこちらに繁殖するにいたったのではないだろうか。かかる想像は少しく大胆に過ぎるかもしれない。しかしもし野生ラクダの系図をさかのぼって見るならば、家畜として飼養されたラクダに達するまでにはせいぜい百代くらいさかのぼればよいのではないか、というように私には考えられたのである。
プルジェワルスキーはアルチン・ターグとロプ・ノール付近で野生ラクダに出会っている。そして彼の観察したところから「現在棲息するすべての野生ラクダはやはり野生ラクダたる祖先から繁殖し来ったのではあるが、彼らはいつの時代かに人間の桎梏の下から逃れ去った飼養ラクダと交配したものらしく考えられる。飼養ラクダは――もし繁殖できるとしたら――人間の手を逃れて何代か後には野生ラクダときわめて類似した子孫を残すはずである」といっている。エー・ハーン博士もまた同様の意見をその著「家畜《ディー・ハウスチェール》」の中で述べている。
プルジェワルスキーの想像は彼自身出会ったラクダに関する限りでは正しいが、ケリヤ河《ダリヤ》下流地方に棲息するラクダについては彼の意見は当てはまらないと考えられる。プルジェワルスキー自身はケリヤ河《ダリヤ》下流のラクダについてはその存在さえ知らなかった、すなわち彼はラクダの棲息地方を次のように限っている「野生ラクダの棲息地はロプ・ノールの東のクム・ターグの砂漠であるということについてはロプ・ノールの住民達の意見はまったく一致している。野生ラクダはまたタリム河下流およびクルク・ターグ山脈地方にも見出される。しかしチェルチェン河《ダリヤ》の流域にはまれであって、さらに西方のホータン付近ではまったく影を断っている」
ハーン博士はまた次のごとく述べている「野生ラクダの原住地は中央アジアの砂漠であろう。一般に砂漠を棲息地とする獣の分布は広いという事実から、野生ラクダもまたかつては北インドおよび北ペルシアの西境から蒙古にいたる広大な砂漠の全部にわたって棲息していたと仮定し得る。ラクダが最初に飼養されたのはどこで、いつ、そしていかなる民族によってであるかはまったく不明である。しかし恐らくそれは時たま緑地《オアシス》を耕すことはあるが、大体は狩猟によって生活している砂漠の遊牧民によって初めて馴らされたものであろう」
プルジェワルスキーが記述している野生ラクダはケリヤ河《ダリヤ》の北に横たわる砂漠にしばしば姿を見かけるラクダの外形と、全体としてはかなり類似しているところがある。しかしケリヤ河《ダリヤ》のラクダは一定の限られた地域にのみ棲息し、ロプ・ノールのラクダとはなんらの関係もないという事実からみて、この二つが同一の範疇に無条件で属するということは承認しがたい。ロプ・ノールの付近のラクダには野生ラクダの血が濃くケリヤ河《ダリヤ》北方のものには飼養ラクダの血が濃いということはあるかもしれない。しかしいずれにせよ飼養種と野生種との間の相違は動物学上からはほとんど問題にならない程度である。再びハーン氏の説を引用すれば「野生ラクダと飼養ラクダとの間の相違は単に前者は隆肉《こぶ》下の脂肪を有していないという点のみである」ところが我々が射止めた三頭の野生ラクダの隆肉の下には相当の脂肪が存在していた。ただ飼養種と違う点はその量が少ないということのみであった。
ケリヤ河《ダリヤ》の野生ラクダについて我々が初めて話を聞いたのは二月一日「|さまよう野猪《トンクズ・バステ》」路においてであった。その辺りの羊飼い達は自分の眼で見たわけではなく砂漠の縁《ふち》にしるされた砂中の足跡をときたま見かけたにすぎない。その後我々は連日何かしら野生ラクダの特徴について新しい話を聞いた。ケリヤ河《ダリヤ》下流地方では多くの羊飼い達が単独のあるいは五、六頭の群をなした野生ラクダを自分達の眼で見たといい、それは飼養ラクダと毛も同一であり大きさも等しく歩き方も同様でその上に同じ性質を有している、といっていた。さらに交尾時期もまた同様、すなわち一月と二月であり、砂上にしるされた足跡もまったく同一であると話していた。
彼らの語るところによれば、野生ラクダは極端に臆病で、追いかけられているということを知るやいなや疾風のごとく駆け去り、二、三日間は止まらないとのことである。それはまた野営の焚火に非常な恐怖感を抱いており、樹木を燃やす臭いを嗅ぐときはただちに遠くへ逃げ去り、当分の間その付近には近寄らない、と羊飼い達はいっている。あるとき誰かが二頭の飼養ラクダをケリヤ河《ダリヤ》に沿って連れて下ったことがあったが、その背からは鞍を取り去り綱も離してあったにもかかわらず、野生ラクダは飼養ラクダをあたかも虎か狼であるかのように恐れ、あえて側に近づくこともしなかった。さらに野生ラクダはただちに飼養ラクダの小鼻に通っている木釘と綱を嗅ぎつけ、また背に乗せてあった荷物を悟りかつ隆肉下の脂肪の存在と鞍痕《くらあと》を見て取るとのことである。
私は決して動物学者ではないけれども、あえて次のような推論(後に修正しなければならなくなったのであるが)を試みた。すなわち右のような性質および特徴は野生ラクダがかつて飼養ラクダであったということを証明するに足る隔世遺伝的現象で、現在ここの砂漠の砂丘の間をさまよっているラクダは、彼らの祖先がかつて人間の奴隷であった時代――すなわち人間という暴君が彼らの小鼻に穴をうがって木釘を通し隆肉を押しつけ、また鞍や荷物で毛をすりむき、また夜は宿営の焚火の側にたたずまされていた時代――を思い起こさせるあらゆるものに対する無意識の本能的恐怖観念をいまだに抱いているのであると。
生涯を砂漠と森林中に暮らしたモハメット・ベイは野生ラクダの習性に関して、彼の羊に関するのと同様の詳しい知識を有していた。事実上十二、三人の牧羊者達は冬中、主として野生ラクダの肉を食べているのである。この年モハメット・ベイは五十歩以上離れては利かないような大変な古物の鉄砲で三頭の野生ラクダを射止めていた。彼は風下に身を隠してラクダの近寄るのを忍耐強く待っているより仕様がなかったとのことである。前年彼は生後一週間くらいの仔ラクダをうまく捕えて飼養してみたが、それは羊とともに春と夏は草を喰み飼養ラクダとまったく同様なものになった、しかしまもなく死んでしまったとのことである。
野生ラクダがたやすく人間に慣れるということは、かつて人間に飼養されていたということの隔世遺伝的現象かもしれない。しかしそれは同時に反対の事実、すなわちかつて人間の桎梏の下にあったということをたやすく忘れてしまうはずであるとの証明にもなる両刃《もろは》の剣《つるぎ》である。昨年我々がタクラマカン砂漠の中で遭難したさいに我々の連れていたラクダの中の一頭は独りでホータン河《ダリヤ》に達し、数日間森林中をさまよっていた。猟人アーメッドが見つけたときにはすでに半ば野生の状態に返り、アーメッドの近づくのを見て驚いて逃げ出した。一般に飼養ラクダという家畜は無愛想で荒々しい動物であって、いかにしても馬のように馴らすことは不可能である。うっかりなでてやろうとしたりすると蹴られることがある。また顔面に触れたりすると叫び声をあげ、不快な臭気のする唾液を吐きかける。しかし今度の探検旅行中に私の乗用にしたラクダはむしろ例外に属するほど温順なものであった。
私はさらに野生ラクダが砂漠の最深部に棲息し、白楊樹《ポプラ》とタマリスクの点在する低地をよく知っていると、聞かされた。夏期河水が氾濫し水が人間の住む地域の中まで達するときには、彼らは群をなして水を飲み美味な蘆を食べに人間のいる場所近くまでやって来る、という誘惑に打ち負かされることがある。モハメット・ベイのいうところにしたがうと、冬の間は野生ラクダは一滴の水も飲まないそうである。
野生ラクダは森林を嫌い、決して叢林中には足を踏み入れない。彼らは木の茂っている場所は眺望が利かず早い速度で逃げることができない、ということをよく知っている。彼らはむしろ砂漠中の荒涼たる地を好む。飼養ラクダが砂漠の船であるとしたら、野生ラクダは砂漠の荒海の上をさまよい、決して難船することのなき幽霊船《フライング・ダッチマン》である。
二月九日。我々はやぶの中で一房のラクダの毛を見出したことによってはじめて野生ラクダの存在に親しく接した。翌日には乾いた河床上で多数の足跡と排泄物とを見出した。猟人等は勇み切って砂漠の縁を徘徊して行ったが、ついに何の獲物もなく帰って来て七頭の野生ラクダの群が砂漠中に姿を消すのを認めたと報告した。
ケリヤ河《ダリヤ》の羊飼い達の間には次のような野生ラクダの起原伝説が流布されている。あるとき神はある|天上の霊《ペレシュ》を地上に遣わし、そこで姿を回教托鉢僧《デイヴァネー》に変ぜしめ、イスラエルの族長ハズレット・イブラハム(アブラハム)の許に行き、貧しき己に彼の家畜の群の中から幾分をわかち恵むように乞うことを命じた。二十五日間にアブラハムは毎日托鉢僧に千頭の家畜を与えた。第一日目は羊、第二日目は山羊、第三日目はヤク、第四日目は馬、第五日目はラクダというように。神は托鉢僧に対し、アブラハムは彼の懇願を聞きいれたかどうかと尋ねたので、アブラハムはその持てるすべてのものを与えてくれたので、今は自分は金持ちになった、と答えた。それで神は托鉢僧に対しもらった家畜全部をアブラハムに戻すように命じた。しかしアブラハムは一度他人にくれたものを再び受け取ることはできない、といって戻してもらうことを肯《がえ》んじなかった。托鉢僧はアブラハムの答えを神に伝えたので、神は、これらの家畜を主なきものにし、世界中をさまよい誰でも欲しい者は勝手に取れるようにした。それで羊は野羊《アルクハリ》に山羊はケテとキイイクとマラールになり、ヤクは山地に逃れ野生ヤクに、馬は|野生ロバ《クウラン》に、そしてラクダは砂漠に逃れて野生ラクダになった。
二月十一日。我々はこの日、河床の区別がより不明瞭になり、樹木はしだいに消滅し、タマリスクもしだいにまばらになり、砂もより深さを増して来たが、しかし砂漠ほど悪条件ではない、一種の中間地帯を通過した。河床に沿って半ば砂のために窒息しかけている孤独な白楊樹《ポプラ》をたびたび見かけた。このような孤独な白楊樹の間にはガラスのようにもろくなった枯れ木の並木が存在していた。
このような状態の土地を終日進んだが、野生ラクダの痕跡はますます頻繁になり、我々ももはや大した注意を払わないまでになった。午後にいたり一行は旧河床がより鮮やかに識別され得る地に行き着いた。この場所ではタマリスクも繁茂していた。
銃を肩に常に一行に先立って途を捜しながら進むカシムがまったく突然に立ち止まった。あたかも電撃を受けたように立ち止まり、そして猫のごとくうずくまりながら我々に対し進行を中止するように合図をした。次いで彼は豹のごとく足音を立てずにタマリスクの中を這いずった。我々はただちに約二百歩前方に二頭の野生ラクダの姿を見出した。
私は常にいつでも使用できるように望遠鏡を用意していたので、猟の次第を始めから終わりまで一部始終を観察することができた。カシムは旧式なフリントロック式銃を持ち、その後に従ったイスラム・ベイはロシア製ベルダン銃を携帯していた。まずカシムが発砲した。ラクダは驚き、危険のくる方向を注意深くほんの数秒の間見つめてから急に向きを変え、北方へ駆け出した。しかし彼らはあたかも突然の驚愕から脱しきれないごとく、あるいは何事が起こったのかよくわからないように余り速くは駆けなかった。カシムの狙った方のラクダは遅い重い足取りで走った。我々は傷ついたラクダの後を追いかけ、倒れてからまもなく追いついたが、そのときはいまだ生きていたので頸部を切ることによってとどめを刺した。
その夜の宿営は興奮で一杯だった。この日まで我々は野生ラクダに出会うことをほとんど絶望していたのだった。
私はもちろんこの動物をできるだけ詳細に検分した。この野生ラクダは生後十二年経過していることが証明され、大きさは我々の伴っている飼養ラクダとほぼ同様であった。頸の下と頭の頂辺と隆肉《こぶ》と前脚の外側の部分を除いては毛は短く、したがって飼養種に比べるとむしろ裸に近かった。長さは下唇から腹部を伝って尾の付け根まで十フィート十インチ、隆肉間の部分の胴まわり七フィート、前足の裏の幅八インチ四分の一、同身長八インチ二分の一で足の肉趾《にくし》は飼養種に比較して粗くかつ固かった。上唇は鋸状で短く、下唇は垂れ下がってはおらず眼は大きかった。隆肉は飼養種に比して小さく凸凹がすくなく直角的であった。飼養ラクダの隆肉は労役と多量の脂肪分泌とのためかなり垂れ下がっている。毛色は少しく赤を混じた褐色で、飼養種に比して幾分淡色であった。毛の性質は非常に細かく軟らかく、かつキズがなかった。
太陽は彼方に没し、黄昏の空気は冷えびえと感じられた。午後九時の温度は摂氏零下八・四度。私が皮をはいで持って行こうといい出したとき、イスラムはラクダの皮の重さはほぼ一頭のラクダに積み得る限度に達しており、我々は多分これから砂漠を横断しなければならないしかつ水を運ぶ必要があるので、ラクダに積む目方はできるだけ軽くしなければならないといった。これを聞いて私は一瞬躊躇したが、カシムは断然皮を持って行くことを主張し、もしラクダに積み得ないなら自分が担いで行くとまでいったので、私はこの貴重な皮を持ち帰ることに決心した。イスラムとアーメッドは皮をはぎにかかり、カシムは井戸を掘った。ケリム・ジャンは宿営の準備をした。ラクダはその野生の仲間を慕って逃げ去らないようにこの夜は杭に縛りつけた。そして私は自分の夕食の用意をし、いつものように記録をつけ、またこの日の行程を計算した。
夜ふけてから我々は焚火のかたわらに円座を作った。ラクダの皮はそれを宿営のかたわらまで運ぶのに三人の力を要した。しかしこの重さはいまだ頭と足を切り離さないときの重量であった。皮を完全にはぎ取り、地面の上にひろげ温かい砂をかける準備をするまでには七時間を要した。この夜はひろげられた生皮の上に砂をかけ、湿気を取り去って重さを減じるためにたびたび起きなければならなかった。
この日の井戸掘りはなかなか楽ではなかった。カシムはこの労働でかなり疲労したようであったが、十フィート六インチの深さにいたってもなお水に達せず、砂は依然として乾燥していたのでついに井戸を掘ることを断念した。
我々は十分の水を携帯しないで砂漠中に足を踏み入れることの危険と愚かさを苦い経験によって知っていたので、翌日もこの場所に留まることに決定した。我々は最終の井戸から一日行程以上は前進しないことに決した。もはや水を見出し得ないならば、来た路を引き返すより外はなかった。一度通った同じ路を帰るのは、遺憾この上もないことであったがこのさい何とも仕様がなかった。
翌二月十二日の午前中は井戸を掘るために有望そうな場所を捜しまわったが、すべて徒労に終わった。そのためカシムはもう一度昨日掘った所を掘ってみたが、結局十三フィート八インチの深さにいたってはじめて水に達した。地表の温度はこのとき薄い氷が張るくらいであったにかかわらず、水の温度は十三・七度であった。
急造の梯子で井戸の底に降り、二重になっている粘土層の中間の部分から滴る水をバケツに汲み上げた。まずラクダとロバに水を飲ませた。午後中かかって四個の山羊皮の袋に水を充たすことを得た。温かい砂を振りかけることを繰り返した結果、ラクダの皮はロバ一頭分の荷物くらいの軽さになった。しかし積まれたロバは可哀想にかなり重たそうに歩み、常に一行に遅れがちであった。
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第二十二章 タリム河はどこ
枯死した樹林と所々に散在する一本立ちの白楊樹を見ながら、小砂丘を越えて北方にコースをとった。半日の間は旧河の跡を識別することができたが、水はもはやこの河床に達することがないことを知った。砂丘はしだいに高さを増し十二フィートから二十フィート、二十五フィートに達するようになった。植物もしだいに影をひそめて来た。東と西の方向には砂丘が山の縁のようにそびえ、乾いた河床の近くに達している。
河床を離れてまもなく左方に六頭のラクダの群が草を喰みつつ静止しているのを見た。一頭は大きな雄で二頭の子ラクダと三頭の雌を伴っていた。彼らは不思議にも我々が近づくのを気にとめなかったので、私は二百フィートの距離から燦々たる太陽の下、澄み切った大気の中で彼らの行動を子細に観察した。大きな雄ラクダは白楊樹のかたわらに寝そべり、雌ラクダと子ラクダは我々に注意といぶかしさの眼を向けてたたずんでいたが、別段逃げ出す気配も示さなかった。
イスラム・ベイはわずか五十フィートくらいの所まで近寄ったが、そのとき彼らは危険な空気を感じたらしく雄も立ち上がり、一緒に東北を目指して我々の進路を横切り、イスラム・ベイの待ち伏せしている蘆の草むらを通過した。雄のラクダはイスラムの射撃によって二、三歩にして倒れた。我々はそれが死んで二、三分後に倒れた場所に達した。弾丸は頸部に入っていた。
この雄ラクダは素晴らしい獲物だった、がしかし砂漠の状態は我々に皮をはいで持ち去る余裕を許さなかった。従者達はそれでも隆肉の脂肪を切り取った。この脂肪はライス・プッディングをこしらえるときに大いに役に立った。我々はまた毛を切り取って丈夫なロープをこしらえた。
このラクダの隆肉は非常によく発達し、前方隆肉は脊椎骨七関節にわたり、後部隆肉は六関節に及んでいた。前部の七関節は非常によく隆起していたが、後部の七関節は脊椎骨の他の部分とほぼ同じ高さであった。関節間には強靭な腱が存在し、脂肪は単に上部で組織体で結合されているのみなので切り離すことはわけはなかった。屍骸はそのまま狼や狐の餌食として捨て去ることにした。先に射止めたラクダの皮は一夜を越して氷の塊のように硬くなってしまった。
それから余り遠くも行かないうちに我々はさらに五頭の野生ラクダ――雄一頭、雌二頭、仔二頭――に出会ったが、この群もまた我々の存在をさほど気にとめていないようであった。約五十歩歩いたまま彼らは立ち止まり我々が近づいても平気であった。それから彼らはさらに数ヤードのろのろ歩いた、そしてこのような行動が数回繰り返された。イスラムは私が制止する前に発砲してしまった。弾丸は雌ラクダの右前脚の関節に命中した。それはただちに倒れラクダがいつもうずくまる姿勢で砂の上に座し、頭を左に向けて口を開け、苦痛を表す叫び声をあげた。それは我々の方を見なかったが、私はその叫び声の中にその先祖を桎梏の中にとらえていた暴君人間に対する憎悪と恐怖との表現を感じた。死を早めるためのナイフの一突きでこのラクダの生は終焉を告げたが、私はこの無邪気なそして幸福な無辜《むこ》の動物の生命を無意味に奪ったことを自分に対して恥じ、かつこれ以上野生ラクダに群に発砲することを従者達に禁じた。
羊飼い達が野生ラクダは極端に臆病だといっていたのは我々自身の経験によれば間違いであった。野生ラクダは注意深くもなければ、また行動敏活でもなく人間が間近に来るのを平気で見逃している。その上、野生ラクダを射殺するのはいとたやすいことである。それがあまりに注意深くなさ過ぎるのは、一つはこのときちょうど交配期に当たっていたからでもあろう。
我々の伴っている三頭の雄ラクダの行動を注意することも興味があった。彼らは我々が見つける前にいち早く野生ラクダの存在に感づき、うなり、尾を振り、口辺から泡を流した。死にかかった雌ラクダを見たとき、彼らは歯をかみ合わせ口から泡を吹き眼は狂気じみた光を放っていた。
それから数日の間、我々はしばしば数個の野生ラクダ群と数頭の単独のものを見たが、すでに慣れてしまい別段気にも止めなくなった。彼らは大体乾燥した白楊樹の葉や蘆を喰《は》んでいた。そして逃げるときにはいつも高い砂丘の間に隠れた。彼らの歩態は例によって無器用不格好なものではあったが、しかし驚くべき容易さをもって砂丘を登って行った。飼養ラクダの隆肉は歩いているときはジェリーのようにぶるぶると振れるが、野生ラクダの場合ではそれは動くことなくまっすぐに立っている。野生ラクダの鳴き声は飼養ラクダの鳴き声と同様に悲し気に響く。
二月十三日。我々は偶然にも容易に水にありついた。この日、五フィートを掘ったのみで澄んだ淡水に達した。温度は摂氏五・六度。
二月十四日。砂丘はより高く、蘆と白楊樹はより少なくなったが、枯死した樹木はかなり多く見受けられた。この日の行進は思ったより早かった。時々木の幹が密生し、注意深く間を縫って進まなければならなかった。ラクダの背の荷物がそれに触れるとき、あたかもガラスを砕くような鋭い音を発した。砂丘の険しい方の面は南西に向かっていた。視界は高くそびえる|砂丘の通路《ダヴァン》によってさえぎられた。どの白楊樹にも野生ラクダが葉や樹皮を食べた跡が見受けられた。我々がなお旧河床の上を進んだのは、その他の地は枯れ木の幹が散在していて障害になるのと、砂丘間には隆起が存在していたからである。
北に進むにしたがって地表の凹凸は少しずつ流沙によって平坦化され、河床の識別は困難になって来た。ラクダの足跡にしたがって進んだところが西方に行き過ぎてしまった。翌日の野営地では五フィート五インチにして水に達し、水温は摂氏五・一度で河水のような淡水であった。この日偶然に砂丘の頂上から八インチ半のところで四分の三インチ余りの雪の層を発見したが、それは、砂でおおわれ砂丘の表面と平行になっていた。この事実はこの地方ではときに降雪があることを意味している。雪の層の上の砂の厚さは九インチあったので、雪はこの冬のものであることが明らかであった。私がタクラマカン砂漠で雪を見たのはただこのときのみであった。
二月十五日、我々は砂丘の間に道を踏み迷った。この辺りの砂丘は高さ百フィートに達した。砂丘の風下の面は南東に向かい、砂丘の頂上間の距離と砂丘の高さの比は、大体十二対一であった。白楊樹とタマリスクはこの日すこぶるまれであったが、黄昏近く植物帯を発見した。我々の宿営地から眼の届く限りに四十二本の生きた白楊樹が存在していた。ラクダの足跡はただ一筋より見えなかったが、野兎と鳥の足跡にはしばしば出会った。ほど近いところにケリヤ河畔から来た猟人でも立てたのであろうか、彼らの猟地の北方の限界を示すように数本の杭が立てられていた。この夜は三フィート二分の一インチにして水に達し、水温は摂氏七・五度であった。地面は五インチの深さまで凍結していた。砂の含水層は排水性の粘土層の上部にあった。
二月十六日。一行は北方に向かって進んだ。毎日私は注意深く行程を測定し、宿営地ではタリム河まで残すところどのくらいか計算した。我々は早くタリム河に達し、危険な砂漠を脱したいと熱心に望んだ。この日の午後、砂丘は前日よりも低かった。我々はタリム河の森林地帯を捜して熱心に北方の地平線を見守った。七十本ほどの白楊樹林の緑地を見出し、ここに宿営したい誘惑を感じたが、猟人アーメッドは一匹の豹の足跡を見つけ、この動物は水のある場所から一日の行程より遠くには決して来ることがないと断言したので行進を続けることに決した。この足跡を残した豹は南すなわちケリヤ河《ダリヤ》の方向から来たものではないことはきわめて明らかであった。
砂丘は再び高度を増し五十フィートに達し周囲は例のごとく荒蕪寂寥を加えて来た。我々はただ野生ラクダの足跡を見出すのみであった。日が暮れかかったときにいたって一本の白楊樹のかたわらに宿営することにしたが、ラクダはこの白楊樹の樹皮をむさぼった。この砂漠旅行中我々の連れたロバは主として野生ラクダの排泄物をたべた。井戸を掘るには時間が遅すぎたが、しかし幸い山羊皮の嚢中にはいまだ水が残っていた。薪を拾い集めて火をつくり、その周囲に集まって話に花を咲かせた。頭上には宝石のように燦然たる星をちりばめた深青の空がひろがっていた。
一行は明日の希望に満ちて元気だった。ケリム・ジャンはラクダの世話をし、カシムは乾いた木の根や枝を拾い集めた。イスラムは料理鍋の上に屈み、長い匙で内容《なかみ》を掻きまわし、米にラクダの隆肉から採った脂肪と葱《ねぎ》・乾し葡萄・人参等をごた混ぜにして煮たライス・プッディングをこしらえていた。私はパイプを口に焚火の光で日誌を記した。白楊樹は砂上に長い影を投じ、天上の星はあたかも我々が流沙に埋もれた廃墟の中からよみがえった者ではないかと疑うように頭上に瞬いていた。凄惨な死の砂漠中で我々は、何度数千年の永い眠りについている墓場の上を通過して来たことであろうか。万象はすべて沈黙と静寂の中に閉ざされていた。焚火のぱちぱちという音でもなかったならば、耐えがたいほど不気味であるに相違ない。この不可思議な地において私は、王者であり、征服者である、と感じた。私はヨーロッパ人としてこの未知の、幾世紀も忘却の中に埋没していた土地を踏んだ最初の者である。このような愉快な考えにふけっている間に私はいつとはなしに眠りに落ちてしまった。
二月十七日。周囲の光景は同様であった。砂丘は高く砂は深く|砂漠の通路《ダヴァン》は再び東から西へ走っていた。二、三の白楊樹が常に視界内に入って来たが、相互の距離は常に一時間の行程であった。これらの白楊樹間を結ぶ線はいまだにホータン河《ダリヤ》とケリヤ河《ダリヤ》に平行に北から南へ走っており、タリム河とは交錯する線を描いていた。いまだタリム河を暗示する何ものもなかった。水の存在を示す二本の白楊樹のある場所で行進を止め、井戸を掘った。五フィート四インチで地下水に達した。水温は摂氏五・四度。
二月十八日。井戸の水の出が悪く、この朝出発までにわずかに一個の山羊皮の袋に水を充たし得たのみであった。|砂漠の通路《ダヴァン》は百三十フィートの高さに達した。我々は一番高い砂丘の頂上に登ったが、北方の地平線は遥か彼方に模糊として空と一線に合しているのみであった。砂地は生物の影を止めず、荒涼としタクラマカン砂漠の西部地方に類似していた。一同はこの日元気なくただ黙々として歩んだ。五フィート掘ってみたが、砂に湿り気があったのみで水は出そうにもなかったので掘ることを中止した。山羊皮の袋の中の水は夕方と朝でつきてしまった。ラクダが腹を減らしたので、鞍の中の乾し草を喰ませた。この日我々は二度狐の足跡を見つけたが、その一つは砂漠中を北に走っていたので、我々は幾分元気を回復した。狐は恐らく野兎を追って来たものであろう。我々はさらに同じく北に向かって飛んでいるカラスを見た。アーメッドの解釈によれば、このカラスは我々が射止めた二頭のラクダの屍骸を発見したので、仲間を呼びにタリム河方面に帰る途中に違いないとのことであった。
ついに我々の水はまったくつきた。井戸は空であった。我々の行く手にはかの恐怖すべき砂漠が、西部のタクラマカン砂漠で我々が逢着したような恐ろしい運命が我々を待っているのではあるまいか。我々は額を集めて協議した結果、さらに一日北方へ行進を継続することに決した。狐がタリム河から非常に遠くまで来るはずはないと我々は考えたのであったが、狡猾な狐の足跡を頼りに遠く進むのはむしろ危険なので、もう一日だけ進んでもし水が得られなかったならば、第二十七号宿営に帰って井戸を掘ることに決した。
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第二十三章 タリム河の森林
二月十九日。高い砂丘の間を通って二時間ばかり進んだ後、我々は北方にサクサウルと呼ばれる砂漠の草むらを見出した。サクサウルはカシュガルのトルコ語方言ではサク・サクといい、ホータン方言ではクウルックと称される。この地方ではサクサウルがタマリスクに取って代わっている。我々はここで再び野生ラクダ・野兎・狐・トカゲ等の姿を見かけるようになった。砂丘間の地は湿気のある粘土で結晶塩におおわれていた。そして所々に蘆《カミッシュ》の草むらが点々と存在していた。タリム河に近づいたことは明らかであった。
砂丘の高さは二十五ないし三十フィートであった。私は通路《ダヴァン》の頂上から、繁った蘆の草むらを見つけたのでそこに宿営しラクダに葉を喰ませることにした。ラクダは朝までに蘆の葉を一枚残らず平らげてしまった。五フィートにして水に達した。水温は摂氏四・六度。しかし水は、塩分を含み苦く、ラクダやロバも飲もうとはしなかった。
私の経験によって井戸水は河に近いほど塩分を含むことが多いことがわかっていたので、一同はようやく懸念を一掃した。この日は私の誕生日であった上、タリム河に近づきつつあるという嬉しい出来事があった。夕方井戸の水を容器に汲み出しておき、朝になってその上に張った氷を溶かし、かくして幾分水の塩分を取り去った。しかしこの水もいまだ余り感心した飲物ではなかった。
二月二十日。午前中の行進ですでに砂丘の高さはまず十六フィートに減じ、次いで六ないし七フィートとしだいに減じ同時に砂丘間の距離もまた遠くなり、ついに点々と存在するのみになった。タマリスクと白楊樹もあるいは単独にあるいは叢《むれ》をなして見え始めた。ついに遠くにタリム河の森林を望み得る位置に達した。野猪と馬の足跡を見出した。これは恐らく騎馬の猟人が野猪を追跡したものであろう。次には羊飼いのものらしい裸足の足跡が砂上にしるされているのを見た。さらに野生ラクダの新しい足跡があった。恐らく野生ラクダはタリム河の南方地帯までさまよいくるのであろうか。
地は今や平坦かつ広大になり、植物は繁茂し砂丘はいよいよ少なくなった。明らかにタリム河の支脈とおぼしい乾いた河床の跡を横切った。底にはいまだ小さい凍った水溜まりが点在していた。樹林はしだいに繁みを増した。野獣の足跡は奇妙なことにはことごとく東西に走り車《アルバ》の轍もまた東西についていた。一時間、二時間と我々は北に道をたどったが依然として沈黙が周囲を支配していた。しだいに黄昏の帳《とばり》はあたりを閉ざしたが我々は歩みを止めなかった。闇の中を歩み、夜かなりふけて繁茂したやぶの内に棄て去られた羊小屋に行き当たったので、ついにそこに宿営することに決したが、この夜は二日に及ぶ水の欠乏で渇きに苦しめられた。従者達は闇の中を水を求めて捜し歩いたが、ついに水は得られず、やむを得ず翌朝を待つことにした。
二月二十一日。タリム河は故意に我々を避けているのであろうか。人や馬の足跡は縦横に砂上に刻まれているが、しかしついに水のありかは見つからないではないか。路は所々依然として繁茂した叢林中を通過しているので、我々は枝を掻き分けながら進まなければならなかった。さらに路は蘆の草原《ステップ》と荒蕪な砂上とを交互に過ぎていた。我々は渇きのために二、三度立ち止まり、井戸を掘ってみたが、無駄な労力を費やしたにすぎなかった。
ある場所で三個の蘆葺きの小屋を見出したが、昨日まで人がいた形跡があった。付近には耕された畑と人と家畜の足跡があった。我々は叫んでみたが答えはなかった。森林中には数本の水流の痕跡があったが、少しの水も残ってはいなかった。我々は進むにしたがっていよいよ果て知らぬ樹林の中に迷い込むばかりであった。
ついに先頭に立っていたイスラム・ベイの「スウ、スウ」(水、水)と叫ぶ声を聞いた。うねり曲がっている深い水流の跡に大きな水溜まりが氷に閉ざされているのを発見した。従者達は鋤と斧を持って水溜まりの方に駆け出した。そして一、二分の後には我々は氷の表面に孔を開け、身体を伏して乾き切った咽喉を潤し、急いで胃の中に水を送り込んでいた。
我々はただちに白楊樹の大木のそびえる森の中に天幕を張った。一同は力を合わせて二、三本の乾いた木の幹を運び、遥か遠方からも見えるような巨大な焚火を燃やした。一同は元気が出た、そして遠くに犬の吠え声を聞いたとき、さらにいっそう元気づけられた。アーメッドとカシムは吠え声の聞こえて来た方向に急ぎ、しばらくして三人の者を伴って帰って来たので私は色々と尋ねてみた。彼らのいうところによれば一昨日我々が横切った河床はアチック・ダリヤ(塩の河)と呼ばれ、その付近の森林中の路はカラ・ダッシュ(黒い水溜まり)と称されている。この付近にはシャーヤールの金持ちの所有である約四千頭の羊と数人の羊飼いがいる。
翌日我々は一人の道案内を伴って北東に向かい、河幅約百七十フィートのヤルカンド河《ダリヤ》(タリム)を横切った。河上の氷はかなり厚かったが、それでもラクダの重みで軋りかつたわんだ。ラクダは本能的に大股で重量を分散せしめるように歩み、頭はできるだけ下にして脚が氷中に入ったとき頭を傷つけないように用心していた。チーメンという村落で我々はお粗末なものではあったが、屋根の下に一夜の眠りをとった。
アーメッドとカシムはここからホータン河《ダリヤ》をさかのぼってタヴェク・ケールに帰るので、私は彼らに相当の謝礼をした。この率直素朴な森林の住民を私は好きであった、そして彼らとここで別れることに悲しみを感じた。しかし彼ら自身は春の播種期までに彼らの土地に帰りたがっており、そことの距離が増すにしたがって不安を感じているようであった。私は彼らに案内賃とロバとタヴェク・ケールに帰着するまでに必要な食料とを与えた。彼らはまた私のために野生ラクダの皮をホータンまで運んで行くことになったが、この仕事を彼らは正直に果たした。
二月二十三日。我々はついに四十一日間にわたるタクラマカン砂漠の横断を終え、途中多くの予期しなかった発見の結果を得てシャーヤールの町に入った。私はケリヤ河《ダリヤ》の詳細な地図を作製し、同河の北の砂漠における野生ラクダの棲息を立証し、半ば未開の状態にある羊飼い種族を発見し、さらに二つの古代都市跡を発見した。私の第一次タクラマカン砂漠横断は失敗に終わった。そして第二回目はこの通り成功であった。第一回目は古代文明の遺跡を発見せずに終わったが、第二回目には流沙に埋もれた宝と都市に関する千夜一夜の伝説は単なる炉辺の語り草ではなかったことを実証したのであった。
シャーヤールに滞在中、私は一つの素晴らしい着想を得た。それは帰路をホータン河《ダリヤ》に取る代わりに直接にロプ・ノールに向かい湖水を舟で渡る計画であった。しかしたちまちこの計画実行上の困難が念頭に浮かんだ。ホータンを出るときにはこのような千五百マイルにわたる大迂回旅行の予定はしなかったので、第一にロプ・ノールの地図を携帯してこなかった。第二にホータン地方の官憲の発行になる地方的旅券は持って来たが、中国政府の公式の旅券は置いて来た。旅券の問題に関しては私の旅行は砂漠の旅行であるから別段必要もないと考えたが、正にその通りであったことは後の経験でわかった。さらに我々の身支度は冬物の衣服と毛氈の靴で、私のスケッチ・ブック、記録帳、ペン先、茶、煙草等も欠乏しかけていた。しかしこれらの困難も打ち勝ちがたいものではなかった。私はプルジェワルスキーのロプ・ノールの地図はほとんどまったく空《そら》で記憶していた。旅券に関してはできるだけ中国の官憲に出会わないようにすればよい。衣服と靴に関してはコルラで入手できる。紙も粗末なものならシャーヤールで売っている。コク・チャイ(緑茶)はどこにでもある、煙草もすこぶる粗悪なものながら中国煙草を吸えば済む。こうして必要なものはまずどうやら手に入れ、イスラム・ベイは麦・米・パン・鶏卵・砂糖等を用意した。ラクダの鞍の修繕も終え、かくして我々はシャーヤール滞在の二日間で次の新しい旅行に備える用意を調えることができた。
シャーヤールについて二、三述べておきたい。この小さい町はその水の供給を天山山脈から仰いでいる。町の少し北にムサルト河《ダリヤ》(氷路の河)が存在し、それは南東に流れ二つの支流に分岐している。その一つはパスニン・コールの湖に注ぎ、他の一つは町の付近で多数の灌漑用運河に分かれている。分流点には堰堤《ダム》があって夏期には水を貯めて氾濫を防ぎ、水の少ないときにはそれを開いて町や付近の村落や畑に水を供給する装置になっている。シャーヤールとは「王様の壇」という意味である。町の郊外には米・麦・とうもろこし・大麦・杏・桃・葡萄・林檎・梨・瓜・綿花等が栽培され、絹も産する。しかし最も重要な物産は羊・皮革・羊毛等でアクスに輸出される。市場には十人の中国商人と五人の西トルキスタン商人とその他にカシュガル、アクス、ホータン等からの商人が取り引きをしている。この町でともかくも幾らか目立つ建物といえば祈祷所《クアネカー》と二つの回教学校《マドラサ》と数カ所の隊商宿《カラヴァンセライ》である。
なおタリム河森林中の旅行について二、三言加えたい。我々一行四人は二月二十六日シャーヤールを出発し郊外の畑を過ぎてから羊群が草を喰んでいる広漠たる草原地帯に入った。最初コースを南東にとりタリム河に近づいた。我々が渡った辺りではこの河はウグェン・ダリヤと呼ばれている。そこからウグェン河とインチケ河との間を通って数日間コースを東にとって進んだ。
二月二十七日。一行は時々広大に開いた草原を通り、森林中を進み、この日はヨルバールス・バシイ(虎の現れはじめる地)という樹木の多い土地の蘆小屋の中に宿った。ある羊飼いの語るところによれば、アチック河はこの地方ではアルカ河とよばれ、それは夏期のみ水があり、数日の行程の終わりに流沙中に没する。この河の南には野生ラクダが少なく砂漠の奥にはいまだ誰も眼で見たことはないが、誰でもその存在については始終聞いている廃墟が存在する。その名はシャーリ・ケーテックすなわち「枯木林中の町」という。この廃墟はしたがってヤルカンド河《ダリヤ》とカシュガル河《ダリヤ》との中間の砂漠に位置していると考えられる。
この羊飼いはさらにタリム河について語った。この河は六月には非常に水量を増すが、その増水期は二十日間続き、河の幅六百ヤード、深度五十フィートに達する。この氾濫は約一カ月継続し、次いでしだいに減退し、十一月の末には霜がきてそれから凍結する。この河は底から表面に向けて凍り始め、融けるときは逆に表面から融け始めて底に達する。凍結期間は三カ月半である。もう十日後には氷が溶け始めるので渡るのは危険であった。水量が最も減退するのは五月初旬であるとのことである。
二月二十八日。アチック河を去って以来毎日多数の雁を見かけたが、この日宿ったツッペ・テシュジという森林中の空地には特に多く群がって飛ぶのを見た。二、三分毎に三十羽から五十羽の雁が東すなわちロプ・ノールの方面に向かって飛び去った。そしてときたま四、五羽が群れに後れて飛んでいた。太陽のあるうちは高く高く空を翔り黒い点にしか見えないが、日が暮れると地上六、七十フィートまで降り、ほとんど白楊樹の梢とすれすれに飛ぶ。次いで夜の宿を決める相談でもしているように鳴き声を立てているのを聞く。しかしある群れは夜も高く飛んでいるのがある。
これらの雁は不思議にもあたかも最善の地図と最良の測定器をたずさえているようにこの地方の地理に詳しい。彼らはある時間をおいて次々に飛翔して来るが、その方向は実に正確ではじめの一群がある白楊樹の真上を通過すれば次の群れも必ずその上を通る。彼らはなんらかの目標を地上に定めていることは明らかである。地上に降りる前には必ずしばらくの間低空を飛翔し続ける。毎年一回これらの雁はインドからシベリアへと長い旅をして帰って来る。アジア大陸の渡り鳥の飛翔コースの研究は鳥類学者にとって多大の興味をよぶものに違いない。
これらの雁がタリム盆地を通るときの目標はタリム河であることは間違いあるまいし、ロプ・ノールが彼らの集合休息地であることも明らかである。ロプ・ノールで多くの渡り鳥のコースが交錯しており、雁・鴨その他多くの水鳥が来たり、またある期間そこに止まる。これらの渡り鳥はいかにして高山の上を通過し西蔵の峻険な山脈を越えて来るのであろうか。後に私が西蔵の探検旅行を試みたとき雁の群れを見たのは二、三回にすぎなかった。しかるにサリク・コールの渓谷やランク・クールおよびチャックマクデン・クールの湖沼地帯は渡り鳥の重要な通路に当たっているらしかった。もう一つの渡り鳥の主なコースはクチャの上空を通りタリム河に及ぶ線で、そこからさらに同河を下ってロプ・ノールに達しているように考えられる。
今我々が旅行してる地方は一般にウグェンと呼ばれている。そして一つ一つの蘆小屋や森や牧場がまた各々名前を持っている。この辺りの家屋は大概粘土でできており、平坦な屋根を有しているが、その他に、多くは柱で支えられた突出した屋根を有する軽い風通しのよい|夏の寮《サマー・ハウス》を持っている。しかし全体から見てタリム河付近の羊飼い達はホータン河《ダリヤ》やケリヤ河《ダリヤ》の羊飼い達と同様に一種の遊牧生活を営んでいるといえる。彼らは決して平和のうちにのみ生活し善良な性質を有している者だとはいいがたい。彼らはしばしば私達を疑いの眼を持って見、そして彼らの家は常に数頭の獰猛な番犬で守られている。
日一日と旅を続けるにしたがって、我々はこの河の複雑な形態とその性質を理解し得るようになった。タリム河の本流は一筋ではなくそれは屈曲しながら森林中を流れる際たびたび数本に分流し、また合して一本になる。ズン・サットマにおいてヤルカンド・ダリヤ(タリム)はユムラーク河《ダリヤ》(周回する河)と呼ばれ、その左側すなわち北方の支流はウグェン河《ダリヤ》と称されている。しかしながら森林中の所々でこの河の名前は非常に混乱しているので、私自ら詳細に記入した地図なしでは、この河の名称を明瞭にすることは不可能である。
繁茂した森林中を進むのは決してたやすい仕事ではなかったし、また平坦な空地でさえも十フィートの高さに及ぶ蘆の中を歩むのにはかなりの困難を感じた。ただ幸いなことにはシャーヤールから同行の地理に明るいイスラム・アクヌの道案内が大いに役に立った。
三月二日。我々はウグェン河畔に宿営した。翌三日は狭く深い河道の底を静かに流れているインチケ河(狭い河)の透明な青々とした流れの岸に宿った。
三月五日。一行はこの日チョン・トカイ(大森林)の中の小径のかたわらに宿営し、一日ラクダに休息を与えることにした。ここで我々は一頭の羊を買い入れ、私は天体観測をした。この場所ではインチケ河はチャヤンと呼ばれ幅二十六フィート深さ五フィートである。
三月六日。我々はチョン・トカイの羊飼いを道案内として北東に進んだ。森林はしだいにまばらになり、まもなくタマリスクとサクサウルが点々と存在するのみになった。周囲はしだいに荒蕪の野と化し、小さい砂丘も徐々に現れ始めた。この日ついに再び荒涼たる砂漠中に宿営することになった。ホータン河《ダリヤ》の付近までひろがりクチャの南で収縮している一筋の砂漠には別に定まった名称はなく、一般にクム(砂)あるいはチョール(荒蕪な平原)と呼ばれているのみである。この辺りにもまた古代都市の廃墟に関する噂が流布されているが、その所在は曖昧である。私は一個の火打石製小刀と焼いた粘土器の破片数個を採取したにすぎなかった。
二十フィートから二十五フィートに達する砂丘の間に存在する古い乾燥した河床に宿営したが、この旧河道は急角度に何度も屈曲しつつほぼ東方に向かっていた。それは今まで我々が通過して来た河のうちのいずれかの河流跡に違いなく、この地方における河道移動の激しさを立証するものであった。
翌日一行は砂漠を越えて再び繁茂した白楊樹林中に踏み入った。ここでは我々はタリムの一支流チャー・チャック河にかけられた橋を渡った。この点の河幅は三十フィート、深さは十フィートであった。この橋は弾力のある木橋で水面上十フィートにあった。二頭の大きい方のラクダは橋を用心深く渡ったが、若い方のラクダはなかなか橋を渡ろうとはしないので迂回してウイユップ・セルケールに達し、そこでより頑丈な出来の橋を渡らせなければならなかった。
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第二十四章 コルラからカラシャールへ
三月十日。我々はついにコルラの町に達した。砂漠の静けさに慣れていた我々のラクダは町の喧騒に驚き、不安らしい様子を示した。町の子供達は隊をなして一行の後にしたがい、背の高いラクダの上にとまっている私の恰好を面白がってはやし立てた。市場で私はロシア領のトルキスタンから来た数人の商人に逢ったが、彼らは狡猾さを含んだ慇懃さをもって私を遇し、隊商宿の大きな部屋を私達のために提供してくれたが、この部屋で我々は無数の暴れまわる野鼠と同居しなければならなかった。
コルラは中国官憲からむしろ軽視されており、行政上はカラシャールに従属している。そして最近建設された北京から蘭州、ウルムチ、カラシャール、アクスを経てカシュガルをつなぐ電信線はコルラに寄っていない。しかしこの街は北京と西アジアとを結ぶ重要な通商路上に位置している。ここで最も私の興味をひいたのはこの街が中央アジアにおける最大の湖水――それに較べてロプ・ノールなどは単なる一沼沢に過ぎない――バグラシ・コールから流れ出るコンチエ河《ダリヤ》すなわちコルラ・ダリヤ河畔に臨んでいるということであった。
三月十一日。コンチエ河《ダリヤ》の水量を計測した結果、秒速二五三〇立方フィートであることが判明した。この河の街を貫いて流れる部分には木橋がかけられているが、その橋梁はほとんど水面とすれすれであるのに私は一驚を喫した。この季節はまさに春にあたり東トルキスタンの諸河はおよそ例外なく最低の水準にあるのだが、夏の氾濫期には一体どうなるのかと疑ったのであった。しかしこの河は東トルキスタンでは例外に属し、一年を通じて水準線の増減は高々一、二インチにすぎないということを聞いて初めて納得できた訳であった。
その上コンチエ河《ダリヤ》はこの地方の他の河とはまったく異なり、水は水晶のごとく澄み青々としている。私は右のような状態からこの河流はバグラシ・コールと密接な関係があることを悟った。季節的な小流を除いてバグラシ・コールの大湖に注ぐ河はユルヅス渓谷の主流で蒙古人のいわゆるカイジック・ゴールあるいはハエジック・ゴール、回教徒のいわゆるカラシャール・ダリヤシの水量すこぶる豊富な河流である。この河は東トルキスタンの諸河と同様に夏期の水量は多く、秋と春とは中位で冬は減少しかつ凍結するのである。
この河流問題の調査のため私はついにハエジック・ゴール左岸に位置するカラシャールまで赴くことに決心した。
三月十二日。私はクール・モハメットのみを伴いイスラム・ベイとケリム・ジャンをラクダと荷物の番にコルラに残し、カラシャールに向かった。コルラ、カラシャール間の距離は三十六マイルあり、我々は六時間で目的地に達した。我々の到着したときはちょうど融氷期でカルムック人は平底船で渡船を始めたところであったので私は幸いに水量を測定する好機に恵まれた。三月十四日の計測では秒速一八九〇立方フィートであった。したがって当時の流出量は流入量より多いこと、毎秒六四〇立方フィートであることが判明した。
昨年の夏の最大増水期の水準はいまだ痕跡が残っていた。私はカルムック人からこの河の水量に関するデータを聞き出すことができたので、一年間を通じての流出入の相対量を推定し得た。それによればこの湖水の水量は年に七〇六億五〇〇〇万立方フィート増加することになる。しかし、この増水量はバグラシ・コールと少なくとも同量の水を吸収し、しかも蒸発以外には一滴の水も流出しないロプ・ノールの事実に比較するとき、さほど驚くには足りない。相当多量の水が地下に吸収されることも、その一原因ではあるが、流入量と減退量との均衡《バランス》を維持する作用は湿度のきわめて低いこの地方の蒸発作用に負うところが多いのである。
しかしいっそう不思議なことは冬期において、この湖水は流入量より流出量の方が大きいことである。この現象は次のごとく説明できると思う。すなわち天山山脈とクルク・ターグ山脈との間に存在し、端から端まで馬上で三日を要する大盆地が水の分散器あるいは調節器のごとき機能を果たしているのであろう。
最後に記しておきたいのは、この湖へ流入する水は冷たい濁った淡水であるが、流出する水は少しく温度が高く、水晶のごとき透明で、微量の塩分を含有しているという事実である。もちろんこれはいまさら説明の必要もないほど単純な現象であるにすぎない。
セミリェチェンスクにある大湖水イシック・コールは地質学者・水流学者・旅行家等に大きな疑問を提出している。相当の大河であるチュ河がこの大湖の西方二マイルほどの所にある坦々たる平地を流れているが、しかしこの河は湖水には注がないで北西に向かい、非常な氾濫のとき以外には湖水の水量に影響を与えることはまったくない。この現象に対しては半ば地質学上より半ば水流学上より、種々の複雑な理論が提出されている。私自身もまた一説を考えているが、私のはまったく単純な理論である。私の考えによれば、チュ河のイシック・コールに対する関係は、カイジック・コールおよびコンチエ河《ダリヤ》のバグラシ・コールに対する関係と正確に一致するものである。
カイジック・ゴールの三角州が湖に入る地点とコンチエ河《ダリヤ》が湖水から流出する地点との距離は十五ないし十六マイルにすぎない。この二点間の湖沼はすこぶる浅くかつ蘆が繁茂している。しかるにこの湖水の中心部および東部の湖床は深くしたがってなんらの植物も存在しない。さらにカイジック・ゴールはコンチエ河《ダリヤ》の方向に長い三角州的突出部を有している。カラシャールへの途中で、我々はそこへ一時間半ばかりの行程の場所でカイジック・ゴールからわかれてコンチエ河《ダリヤ》と合する乾いた河床をすぎたので、付近で訊ねてみたところが、五年あるいは八年毎にカイジック・ゴールは氾濫して堤防を越え、その一部がこの河床を通ってバグラシ・コールに入ることなく直接にコンチエ河《ダリヤ》に合するということがわかった。この辺りの地形線はほとんど平坦で湖水の水平線よりごくわずかばかり高いにすぎない。
いま一世紀間にかくのごとき氾濫が十五回起こると仮定すると次の一世紀間には三十回に増加する可能性があり得る。そしてカイジック・ゴールがその三角州を湖水中に突出するたびにこの氾濫回数は増加し、したがってますます湖水流入に対する障害を増し、同時にまた砂と地とによって妨げられた河水の大部分は現在乾燥している河床に注ぐことになる。この現象は天山山脈の高峰間に存在するイシック・コールのすぐ付近を大河が流れていながらこの河が一滴の水をもイシック・コールに注がないのと同様の現象である。この場合湖面が減少するにしたがって水の含塩分が増加するのもまたこの二つの湖水における共通の現象である。
カラシャール(黒い町)の名は正にその体を表している。この町は中央アジアで最も汚い町に違いあるまい。それはカイジック・ゴールの左岸の平坦な荒れ果てた地に位置し、なんら興味を引くに足るものはない。しかし町としてはコルラよりも遥かに大きく、城壁の中に数多くの貧弱な茅屋や小庭や市場や蒙古|包《パオ》が雑然としていて、中国トルキスタンのこの地方における主要な商業上の中心地をなしている。
三月十五日。私は調査の結果に十分満足を感じて、カラシャールからコルラに帰還したが、イスラム・ベイは私を見るやただちに次のような出来事が起こったことを私に訴えた。
私の帰る二日前、彼は一人のアンディジャン(西トルキスタン)商人と市場の物売り台の側で話をしていたところが、ちょうど五人の中国兵が通りかかった。この兵隊の首領は大清皇帝の権威を象徴する旗印を掲げていたにかかわらず、イスラム・ベイは自分がロシア国民だというのでこの旗印に対して敬礼しなかった。すると、この五人の中国兵はイスラムをつかまえて殴打し負傷せしめたというのであった。しかしこの小事件も私とこの町の中国官憲との折衝で穏やかにおさまった。
コルラとその郊外に存在しコルラに依存している五十五カ村は羊毛・羊皮・綿花・絹・米等を産出し、ことごとくアクスに輸出している。その他の産物に小麦・とうもろこし・大麦・ザクロ等の果実がある。この地方の名産たる一種の梨でネスベットと称されるものは、舌の上で溶けそうに柔らかくかつ美味で、東トルキスタンの全地方を通じて有名である。小麦の播種期は三月で、七月には収穫される。米の播種期は四月で、収穫は六月に行われるが、小麦は秋に播種される。
町としての大きさにおいてコルラはマラル・パシイ、ヤンギ・ヒッサール、グマ、シャーヤールに匹敵する。この町の市場は他の東トルキスタンの町と別に変わったところはないが、町の位置は水晶のように透明な水流の岸にあり、数本の小川は町の中の小さな橋の下を流れている。家屋の立ちならぶ地積は割合に狭く、家屋の多くは河岸の堆積地に建っている。これらの家屋の所々では床の間から下を流れる青緑色の水をのぞくことができる。
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第二十五章 移動するロプ・ノール
コルラで我々は一行の中に、コンチエ河《ダリヤ》の下流に位置しタリム河の分流点に当たる小聚落チッケンリックまでの案内者として、二人の原地民とそして二頭の馬を加えた。コルラからこの聚落にいたるには三筋の路が存在し、一はコンチエ河《ダリヤ》に沿い、二はクルク・ターグ山脈の麓を縫い、最後のものはこの山脈と河との中間の砂漠地帯を走っている。
私はこの三本の路の中の最後のものを選んだが、途中二個所で中国人の造った古代城址と、多数の材木と粘土製のピラミッド型の道標を発見した。
これらの道標は特に私の興味を引いた。それはコルラとどこかとをつなぐ重要な古代の道路の存在を示すものであった。この道路は南東に走り、砂漠中に姿を消してしまっている。中国人の作製した地図によればこの砂漠中の北緯四十度三十分の地点には古代のロプ・ノールが記入されている。次に述べるようにこの地図に印してあるところの正しいことは後に判明したのである。
この古代の道路が旧ロプ・ノール湖岸に達していたことは疑う余地がないところであって、この湖が乾燥してしまった後にこの道路にもまた人の往来が絶えて、打ち棄てられたのであるが、道標遺跡によってもこの道路は古代の隊商路としてきわめて重要なものであったことが推測される。
ロプ・ノールを初めて見たヨーロッパ人はプルジェワルスキーであった。そして彼はロプ・ノールは中国の地図に記載されている点より一度だけ南に偏していることを発見したのであった。さらに彼はこの湖水が鹹湖《かんこ》〔塩水湖〕ではなく淡水湖であると発表し、有名なドイツの地理学者フォン・リヒトホーフェンとの論争を惹起したが、この論争の帰結はプルジェワルスキーの死後もなお依然として不明のままに残されていた。フォン・リヒトホーフェンはロプ・ノールのごとく海にはけ口を持たない湖水は必然的に鹹湖であるべきはずだということを端的に証明し、プルジェワルスキーが発見した湖水は淡水湖であり、かつ比較的に正確な古い中国の地図はこの湖水の位置を一度北に記載していることから見て、プルジェワルスキーのロプ・ノールは近代の出現になる湖水でなければならない、ということを暗示した。
プルジェワルスキーが彼のいわゆるロプ・ノールに達した経路はコンチエ河《ダリヤ》およびタリム河の中間を走る道路によったもので、したがって、それより東の方に湖水が存在するか否か、あるいはまたすでに乾燥してしまった湖床が存在するか否かということは確かめる術《すべ》がなかった。すなわち古い中国の地図に記載されているロプ・ノールに注ぐコンチエ河《ダリヤ》の支流が存在すべきはずであるゆえ、この疑問はコンチエ河《ダリヤ》の東方を調査してみない間は解決不可能の問題であった。
プルジェワルスキーがはじめてロプ・ノールを発見して以来、数人の著名なヨーロッパ人がこの湖水まで旅行しているが、彼らはすべてこのロシアの大探検家が通った経路を通っているので、プルジェワルスキーがロプ・ノール旅行記(一八七六〜七七年)に記載し、かつ後に再び一八八五年の第二次旅行で付け加えた報告にある以上のことは事実上なんら発見されていなかったのである。
以上のようなしだいで、私自身としてはプルジェワルスキーとフォン・リヒトホーフェンとの間の論争の帰結を発見するために、今までの旅行家が通らなかった経路をとって、中国の地理書に記載されている場所に果たしてフォン・リヒトホーフェンが主張しているようにロプ・ノールまたはその遺址が存在するやいなやを確かめたい希望を持っていたのである。
かくして三月三十日、私はチッケンリックを出発し路を正東にとって進んだ。一行は私の外にイスラム・ベイとケリム・ジャンと、そしてこの地方の地理に明るい二人の案内者とであったが、この案内者達は、東に向かってしばらく進んだ所には長い湖沼の連鎖地帯が存在しているといった。この探検行の最初にあたって、我々はコンチエ河《ダリヤ》がチッケンリック聚落の北方にあるマルタック・コールという沼沢に注いでいることを見出したが、河はさらにこの沼沢の対岸から流れ出して、さきに述べたタリム河の二支流と合していた。合流後の河流はクンチェキッシュ・タリムと呼ばれ、その水の一部はチヴィリック・コールに入り再びタリム河に流入している。そして他の一部は途中の蒸発作用でその水の大部分を失い、アルグァン(プルジェワルスキーのいわゆるアイリルグァン)の渡し場付近で直接タリム河に注いでいる。
コンチエ河《ダリヤ》の残余の水流は東南東に流れてイレック(河)の名前で呼ばれている。我々は三日間この河流の左岸に沿って進み、四月四日に我々はこの河が中国の地理書に記されており、かつフォン・リヒトホーフェンが信じていたように細長い湖水――我々はその湖岸に沿って三日間歩いた――に注いでいることを発見した。この湖水は数年前にはロプ地方の原地民が漁撈に従事していた所であるが、今ではほとんどまったく蘆《カミッシュ》におおいつくされている。ロプの原地民等は普通この湖水を四つの部分に分け、それぞれアヴァル・コール、カラ・コール、タエック・コール、アルカ・コールと呼んでいるが、事実は一つの湖水で、水中に突出した岬によって二、三個所で区切られたような形になっているのみである。
この湖水は中国の古い地図にあるロプ・ノールのごとく、ほぼ北緯四十度三十分に位置している。現在の中国の地理学者はチッケンリックとアルグァンとの間の地方を依然としてロプ・ノールと称しているが、この名称はプルジェワルスキーによって発見された湖水付近では絶対に耳にし得ない名称である。その湖水はカラ・ブランおよびカラ・コシュンといわれる二つの盆地を擁している。ロプという名称はウグェン河《ダリヤ》とタリム河の合流点からチャルクリックへの間に存在する全地域に対して、ロプの原地民および東トルキスタンのすべての住民によって与えられている名称である。
しかし一つの点において齟齬《そご》があった。私が発見した湖水は北から南へ延びているにかかわらず、中国の古い地図によれば、それは東から西へ伸びている。この事実は一見大きな齟齬のように見えるが、じつは立派に説明できるものである。まず第一にロプの全地域はほとんど同一地平線上に存在するので、ごくわずかばかりの相対的水準における変化がこの地全体の水勢分布に重大な影響を及ぼすということを考えなければならない。そしてこの種の変化を招来すべき二つの要素――すなわち風向きとタリム河の沈澱層――は不断に作用している。ロプ地方の風は大体東および東北東から吹いており、この方向からの砂嵐は三、四、五の三カ月間に多い。我々がこの湖水地方に止まっていた間は天候静穏であったが、我々が去った後ただちに砂嵐が襲来し、二日間を除いて毎日砂嵐に見舞われた。
このようなしばしば起こる砂嵐の偉力は言語に絶する。それはまったく文字通りに湖の水を持ち上げ西岸に水の膨らみをこしらえる。それにこの錯雜した形態を有する湖がかつては現在に比して東方にひろがっていたという証拠も存在しないわけではない。すなわちその東岸一帯に沿って小さい鹹水沼、沼沢、水溜まり等が比較的最近形成された形跡を残してこの湖水から切り離されて散在している。これらとほとんど平行に細長い樹林地帯が存在している。この樹林の大部分は白楊樹とタマリスクとである。ここでは三つの変化の段階が明らかに看取される、すなわちまず砂漠の奥深くには枯死した樹林《ケーテック》があり、次に湖水の東岸に最も近い砂丘の間には生きている樹林が存在する、そして最後に湖岸には若木の樹林がある。水の存在しない場所に樹林のあるはずはないのであるから、湖水が移動し、かつその移動にしたがって樹林もまた移動したと考える以外に説明はつかない。東方の荒れ果てた砂漠の奥深くに存在する白楊樹の残骸はかつては湖岸に繁茂し、湖水から水を吸収していたことに疑いはないのである。
この四つの部分に分かれた長い湖水が旧ロプ・ノールの残存であることは疑うことができない。湖水の北端に注ぐイレック河は再びその南端すなわちアルカ・コールから流出し、紆余曲折して南流し、メルデック・シャールという古代の中国城砦址の東方約三マイルの個所を通っている。さらにこの河は多くの小河流連鎖を形成しつつ、ついにシルゲー・チャパガンにおいてタリム河と再び合している。この湖水の連鎖中の最大のものはサダック・コールとニアズ・コールと呼ばれている。これはロプ人のある夫婦の名に因んだものである。
これらの諸湖にイレック河が流入して湖水を形成したのはわずか九年前のことであった。それ以前はこれらの湖は砂漠にすぎなかった。もっとも当時も湖床と河床とが乾いたまま存在し、最も深い部分には鹹水が溜まりラクダの訪う場所になっていたのではあるが。プルジェワルスキーがその第二次ロプ・ノール旅行(一八八五年)を終えて帰国したとき、彼はタリム河の東方には湖水が存在しないことを主張したが、当時は確かに湖水はなくその三年後にはじめて湖河床に水が充たされたのであった。他方フォン・リヒトホーフェンがこの地点に湖水があるべきだと主張したのもまた同様に正しかったのである――一時的乾燥状態にあったとはいえ確かに存在していた。
南ロプ・ノールはプルジェワルスキーがこの地を訪れた時代には、かなり大湖水であったので、彼はアブダル村から湖上をボートで数日間の旅行を続けてカラ・コシュンの漁村にいたったほどであった。それから十一年六カ月後に私は同じくアブダルからボートによる湖上の旅を試みたが、わずか二日目には蘆の繁茂のために湖上を行くことは不可能になったのである。カラ・コシュンの漁村はその後まったく放棄されてしまった。
プルジェワルスキー当時には、南ロプ・ノールのもう一つの盆地カラ・ブランは対岸が見えないほど大きな湖水であった。その名前すなわち「|黒い砂嵐《カラ・ブラン》」はこの地方に起こる恐るべき砂嵐の頻発状態を示すに十分である。私がこの地を訪ねたときにはこのかつての大湖水は左岸に多少当時の面影を伝える名残りが存するにすぎず、この地方の漁民の使用する底のきわめて浅い丸木舟さえも浮かばないほどにタリム河の沈殿物で浅くなっていたのである。夏にはこの沈澱層上の浅い湖は完全にタリム河とチェルチェン河《ダリヤ》から遮断され、その結果として含塩分が多くなり、夏の終わりにはまったく蒸発してしまい、湖址には草が繁茂し、チャルクリックの住民達の羊やその他の家畜の牧地に変ずる。四月の末に我々がアブダルからチャルクリックに旅行したとき沖積地帯を通過したが、その場所はプルジェワルスキーが訪れたときはカラ・ブラン湖の水におおわれていたのである。
以上に述べたようにプルジェワルスキーの時代に比較しては、現在のタリム河が南ロプ・ノールに注ぐ水量はお話にならないほど少量である。彼の後四年目にこの地を通った探検家の報告によっても同様の現象の存在が知られる。かくてこの湖水は現在収縮過程にあることはきわめて明らかである。
タリム河は東北東に屈曲するチェグェリック・ウイ辺りからその水量が激減するが、この現象の原因は河岸に沿う多数の小さく浅い湖の存在によって説明し得られると思う。これらの小湖の一部分は自然にできたものであるが、一部分はこの地方の漁民が人工的に造ったものである。しかしそのいずれもその中に流入した水は蒸発するに任せられ、したがってタリム河に対する不断の排水器となっている。次に示す計測の結果は以上の説明を証明するに足るものと思う。因みにチェグェリック・ウイとクム・チャパガンとの間の距離はほぼ四十マイルあることを断っておく。
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それぞれの数値は上からチェグェリック・ウイ、アブダル、クム・チャパガンの順
河幅  五〇、四九、三三《マイル》
最深部 一四、二〇、二二・二五《フィート》
流速(秒) 一・七、一・二、〇・九八《フィート》
水量(分) 二五三〇、二一四五、一七七五(立方フィート)
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以上の計測は四月十八日と四月二十三日に行った結果である。
クム・チャパガンにおいてタリム河は分裂し、無数の湖と沼沢の中に姿を消す。これらの湖の中で最大のもの、すなわちちょうど中部に存在するものは淡水湖であるが、周囲の小湖水はことごとく鹹水である。前の表によって河幅・流速および水量はタリム河が東に向かうほど各々減退し、深さのみは増加するということがわかる。
かくて我々は中国の地理学者のいわゆる四つのロプ・ノールはこの九年間の間に再び水が充たされたが、他方南ロプ・ノールは過去十二年の間に多数の浅い沼沢に変化しつつあった、ということを発見するにいたった。したがってこれらの二つの湖水地帯は相互にきわめて密接に連関しているという結論、換言すれば北ロプ・ノールが増大すれば南ロプ・ノールは縮小し、かつその逆もまた正しいという結論に達せざるを得ないのである。
ついでにプルジェワルスキーによって発見された湖水は地質学上からみて最近の形成であるという理論を証拠立てる一、二の根拠について述べておきたい。
合流してタリム河をなす東トルキスタンの諸河流はその河岸に沿って白楊樹林地帯を有している。今ではタリム河流から遮断されて流沙中に姿を消しているケリヤ河《ダリヤ》でさえも、この原則に対する例外ではない。ある個所では白楊樹林は非常に繁茂し、その中を通過することはほとんど不可能でさえある。かかる樹林は数本の河流が平原に流入する地点、したがって同一条件の気象を有する個所に起こるのを原則としている。そして河流が植物の繁殖分散にとって最も好適な手段であることはもちろんであることから、タリムの各支流が合流する地点において白楊樹林が最も繁茂するものと推定することができる。ところが現在の合流地点において樹林は突然姿を消しているのである。チェグェリック・ウイで最後に私の眼にとまった白楊樹(Populus diversifolia)は樹齢三十年を決して越すものではなかった。カラ・ブランおよびカラ・コシュンの両湖の湖岸には全然樹林が存在せず、周囲は荒涼たる砂漠に取り囲まれている。北ロプ・ノール付近およびその周囲には反対に枯れ木も存在し、生きている樹林もまた繁茂している。
このような樹林分布の不均衡状態に対する説明は、南ロプ・ノールはごく最近の形成に属し、いまだ樹林が発生していない状態にあるということである。
以上の議論は純粋な自然地理学的根拠に基づいている。しかしその他に次のような歴史上の論拠も存在する。私はすでに一再ならず、中国の古地図の製作者等が北緯四十度三十分の地点に数個の小湖水に取り囲まれている巨大な一湖水を彼らの地図に記載していることを述べた。
私のロプ・ノール旅行からちょうど六二五年前、マルコ・ポーロは「ロプの町」を訪ねた。現在はまったく存在しなくなってしまったこの町の址は、恐らくカラ・ブラン湖のすぐ南にあったものであろう。もしその時代にこの付近に湖水が存在していたならば、ヴェネチアのこの大旅行家がそれについてなんらか言及していないことはないと思う。彼はヤルカンドもホータンもチェルチェン・ダリヤも記していない。マルコ・ポーロがプルジェワルスキーのロプ・ノールの位置になんらの湖水の存在をも記しておらず、かえってロプ砂漠に関して詳細な記録を残し、それ(ロプ砂漠)は「一方の端から他の端まで横断するのに旅行者はまる一年を必要とする」と述べている事実は注意に値する。
アブダルの酋長クンチェカン・ベックはかつてプルジェワルスキーの友であり今は私の友であるが、この老人は八十の老齢である。彼の父ジェハン・ベックも祖父ヌメット・ベックも九十歳の老齢に達したそうである。クンチェカン・ベックの語るところによれば彼の祖父はプルジェワルスキーのいわゆる現在のロプ・ノールの北にあった大湖の岸に住んでいたというが、プルジェワルスキーのロプ・ノールの現在の所在地には砂漠以外に何ものも存在していない。南ロプ・ノールが初めて形成されたのはヌメット・ベックが二十五歳のときタリム河が新しい河床に流入した結果として生じたときで、この変化と同時にヌメット・ベックが当時その付近に住んでいた漁撈をしていた湖水は乾いてしまったそうである。アブダルを建設したのはこのヌメット・ベックである。私の推算では、これは約百七十五年前すなわち西暦一七二〇年ごろの出来事かと思われる。
かつてプルジェワルスキーやピェウツォフの旅行に参加したぺー・カー・コズロフが一八九三〜九四年の冬にロプ地方を訪問している。彼はチッケンリックを出てクンチェキッシュ・タリムの左岸に沿って進み、私自身遥か遠くから眺めたことのあるチヴィリック・コールを発見した。アルグァンから彼はソゴット湖――これは恐らく私のアルカ・コールと同一の湖水であると思う――に小旅行を試み、そこから普通の道路によってアブダルに出てさらにカラ・コシュンの南岸に沿い北東に向かって路を転じた。
私はツラ――紳士の意すなわちヨーロッパ人――がチッケンリック付近を通ったということを聞いたので、彼が通った経路を原地民にできるだけ正確に訊ね、同一の路を通る無駄を避けることにした。コズロフの発見中最も興味のあるものの一つは原地民がクム・ダリヤ(砂の河)と呼んでいる古い河床の発見である。それはチッケンリックの北方少しばかりの場所でコンチエ河《ダリヤ》から分岐している河床である。
コズロフの探検も私の経路も共にプルジェワルスキーの通った路とは違っているので、これらの探検がロプ地方全体に関する知識に貢献したことは事実である。今では我々はこの地方の詳細な地図を有しているのではあるが、しかしロプ・ノールに関する論争が完全に終わり、多くの疑問がまったく解決してしまったわけでは決してない。コズロフは「一八九七年十月十五(二十七)日、ロシア帝室地理学会におけるスウェン・ヘディンの講演に関連してロプ・ノール問題を論ず」という論文において中国の古い地図にあるロプ・ノールの位置に関するフォン・リヒトホーフェンの説および私の意見を論駁している。ホータンに帰着して後、私はただちに私自身の発見の結果をフォン・リヒトホーフェンに報告したが、それは「ベルリン地理学会雑誌」一八九六年刊第三十一号二九五〜三六一頁に掲載された。私のこの論文にはフォン・リヒトホーフェンの覚書が付されているが、その中で彼は次のように述べている。
「数人の旅行者が今までにタリム河流を踏査したが、彼らはすべてプルジェワルスキーの足跡を踏襲しているにすぎなかった。スウェン・ヘディンがこの問題の解決を期したのは実にこの理由による。彼が北から南へ、より東寄りのコースを選んだ事実はこの問題を正しく把握しているということを証するものである。彼の観察とその結果としての結論は一八七八年のベルリン地理学会議事録一二一〜一四四頁の私の推論の正しさを確証するものである」
コズロフはプルジェワルスキー、フォン・リヒトホーフェン等のロプ・ノールに関する見解および彼自身の説と私の意見をも分析した後に次のように述べている。
「以上に引用した議論から導き出し得る唯一の結論はカラ・コシュンは独り私の尊敬する師プルジェワルスキーのロプ・ノールであるのみならず、また昔の中国の地理学者の記している史上のロプ・ノールそのものであるということである。そしてこの事実は過去数千年にわたりそうであったし、現在もまたそうであり将来も同様であろう」コズロフのこの見解は同一の論文中に次のごとく述べているのと明らかに矛盾している、すなわち「私はロプ・ノールの現在の住民の祖先はロプ・ノールの北方に当たる湖岸に居住していたという点でまったくスウェン・ヘディンの見解と意見を同じくする。さらにその湖水はかつてピェウツォフが報告しているウッチュ・コールである」
以上の引用でコズロフの見解の撞着を疑うことはできない。以上の二つの引用文は、ロプ・ノールは「過去数千年間」その現存の状態を続けていたのではない、ということを証拠立てるのみである。しかし数千年間不変であったという彼の非批判的見解は彼の作製による地図に最もよく表されている。彼は地図の中に「コンチエ河《ダリヤ》の古代河床《クム・ダリヤ》」をクルク・ダーグの南に、「乾河床《ケーテック・タリム》」をタリム河の子午線の西六マイル半に、「チェルチェン・ダリヤの古代河床」をチェルチェン・ダリヤがカラ・ブランに注ぐ地点の十二マイル北に、「シルゲー・チャガパンの乾河床」をアブダルの北八マイルにそれぞれ記入している。私はさらにクム・チェケーおよびメルデック・シャールにおいて古い乾河床を発見した。しかしながらコズロフの指摘している四つは、共にロプ・ノールの湖水およびそれに流入する諸河流の位置が変化していないというどころか正に反対にそれは地球上のいかなる湖水に比してもよりはなはだしい変化にさらされている、という事実を示すに十分なものである。
ロプ・ノール問題は科学上からきわめて興味ある問題ではあるが、ここでは以上で止めておきたい。コズロフの反対論は私にとって興味ある問題である。我々は解決に必要な材料を収集した、ただ残るところは二個の湖水群すなわち私の発見した北ロプ・ノールとプルジェワルスキーの発見になる南ロプ・ノールとそのいずれがより古いかという点である。そしてより古い方が中国の古い地理書のいわゆる塩沢《ロプ・ノール》であることに疑いはない。
かくして、「移動する」湖水の岸において次のような事実を見出したのであった――アジア大陸の深奥部の巨大な盆地を灌漑する膨大な河流組織、東部パミール山系、ヒンヅー・クッシュ山系、北西部西蔵等の氷河の流入する水量豊富なラスカン河《ダリヤ》、タクラマカン砂漠の砂丘の間を縫って端から端へ貫くホータン河《ダリヤ》、アクスおよびタシコカン・ダリヤ、北部西蔵の降雨量の一部を平原まで運び夏期にはホータンとロプ・ノールの間の交通を遮断するほど水量の多いチェルチェン・ダリヤ等の巨大な河流も、さいはてなきこの砂漠の中心部にただ一つの永久的な湖水をも構成せしむるにはなお不十分なのである。
四月の季節に我々は、チェグリック・ウイにおいて合流した河流はその一支流であるコンチエ河《ダリヤ》のコルラ付近における水量と同一の水量を有するにすぎないということを発見した。しからばその他の水は果たしてどこへ行くのであろうか。答えは次のごとくである。コンチエ河《ダリヤ》の水の大部分は北方の湖水群に注ぎそこで蒸発する、他の一部分はあたかも海綿のような吸収力を有する砂漠に吸い込まれる。その上に湿度の極端に低いこの地方の大気が非常に多量の水を吸収する。これらの要素がこの河流の水を涸渇せしめる作用をなしているのである。したがって地表にかろうじて残存している少量の水――すなわち湖水――がその位置を転々として移動し、かつその水量を刻々変ずることにはなんらの不思議もないわけである。
クム・チャパガンの漁村はいわばタリム河の墓の入り口を示している。そこでは、人間の意志も水流の巨大な力も同様にその凶暴さを征服し得ない。恐るべきタクラマカン砂漠が地上の森羅万象を支配する神の名において「この地まで来たれ、されどこの地より進むなかれ、この地において汝ら誇らしげなる波よ、永遠に止まれ」と宣言しているのである。
付記
ヘディンはロプ・ノールよりチェルチェン・ダリヤに沿い一旦ホータンに帰り、さらに北部西蔵、およびツァイダム盆地を経てクチャ・ノールを過ぎ、内蒙古を横切って包頭から北京に入った。それは一八九七年三月二日であった。その後、外蒙古・西シベリアを経て故郷ストックホルムには同年の五月十日に帰着した。
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解説
スウェン・ヘディン Sven Anders Hedin は一八六五年、スウェーデンのストックホルムに生まれた。かれの少年時代、すなわち十九世紀の後半は、一種の探検時代といってもよかった。少年ヘディンは、とくに北極探検のニルス・ノルデンシェルドやアフリカ冒険のヘンリー・スタンレーなどに非常な感銘を受けて、探検家として一生の方向を決めたのは、十二歳の時であったと自ら言っている。しかし探検家としてのヘディンが育ったのは、恩師フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンのもとで学んだ結果であるといってよい。フォン・リヒトホーフェンは当時、第一流の地理学者であり、アジアの研究者として世界的な名声を博していた。ヘディンがその一生を中央アジアの探検にささげることになったのも、この恩師の指導によるものであった。
ヘディンの探検旅行は、一八九○〜九一年のペルシアと中央アジアの旅行に始まった。この時には、ペルシアから西トルキスタンのメルヴ、ブハラ、サマルカンド、タシュケントなどを経て、東トルキスタンに入り、その西端のカシュガルに達した。一八九三年には第二回の探検を試み、この時にはパミール高原、タリム盆地、北チベット、新疆省北東部〔ジュンガリア〕を踏査した。このときの記録が一八九八年にまとめられた Through Asia である。本訳書はこの書をもとに、そのうちのカシュガル以降の分を適宜、省略して訳出したもので、タクラマカン砂漠の横断で九死に一生をえた有名なエピソードが一つのクライマックスになっている。「さまよえる湖」ロプ・ノール地方に最初に足を踏みいれたのも、この時のことで、かれはこの旅行において一生の課題になった「ロプ湖問題」に深くつながれたとともに、もう一つ世界最高、最大のヒマラヤ山系の魅惑にとりつかれることになった。ヘディンの数多い地理学者としての業績のうちでも、もっとも輝かしいのはロプ湖問題の解決とチベットのトランス・ヒマラヤ山脈の発見だといってよいであろう。
ヘディンはさらに徹底的なタリム盆地とチベットの調査を計画し、十九世紀最終の年、一八九九年にはふたたび東トルキスタンにはいった。そして翌年にはロプ砂漠中に楼蘭の遺跡を発見した。その後チベットに潜入し、それまで地図上ブランクになっていた地方を測量し、とくにその中央部において多くの高山湖を調査した。ついでチベットの首都ラサに潜入を試みたが官憲に阻止されて、やむなく西方に途を転じ、ついに一九○二年の春、インドのレエに達してこの探検を終わった。
ヘディンの一生をかけた探検のうちでも最も重要な発見のいくつかは、その次の一九○四〜九年にわたる調査旅行中になされた。この探検において、かれは、インダス、ブラマプトラ二大河の河源を確定したのみではなく、ヒマラヤ山脈とコンロン山脈のあいだに横たわるトランス・ヒマラヤ山脈を発見した。この大山脈の発見によって、インド洋と中央アジアに注ぐ南北の水流の分水嶺を確かめることができたのである。
ヘディンの最初の調査旅行は一八九○年に始まったのであるから、一九○九年に第三回目のチベット探検を終えた時には、すでに前後十八年の歳月を中央アジアの探検とその結果の整理、発表にささげていたわけである。しかしそのうちにヨーロッパの情勢はしだいに険悪化し、ついに第一次世界大戦になり、戦争そのものは一九一八年に終わったが、大戦の余波はなかなか治まらず、中央アジアの調査などをただちに再開できるような情況ではなかった。とくにロシア革命によって西あるいは北から中央アジアにはいることは絶望であった。このながい探検活動の休止時代にも、ヘディンはけっして無為であったわけではない。スウェーデンは中立国として、直接戦争の渦中に巻き込まれなかったので、かれはこの時代を探検結果の整理、研究、出版に費やすことができた。このあいだにいくつかの優《すぐ》れた中央アジア、チベットの旅行記を書き、在来神秘の扉に閉ざされていたアジア奥地の国々を世界に紹介した。かれの鋭い観察力と優れた文筆力は、あらゆる国に多くの愛読者を生んだ。しかしヘディンの本領は、あくまでも地理学者であった。かれのチベット探検の学術報告書「南チベット」は全九巻の大冊であって、その量だけから見ても他に比べうる著書はない。この厖大な書物は印刷、出版だけで前後五年の歳月を費やしたものであった。
ヘディンはかねてから中央アジアのような広大で、複雑な地域の研究は、学問のいろいろな分野の専門家を集めた、組織的な総合調査を必要とすることを痛感していた。戦争によるながい調査の空白時代に、かれはこのような総合研究の想を練りつづけ、ついに一九二六年にはその予備調査としてシベリア経由北京への旅行を試み、一九二七年には調査計画を公表することになった。このころになると探検家、科学者としてのヘディンの名声は世界的であり、大調査隊員の補充や資金の調達には大きな困難はなかったが、問題は当時の中国内部の政治情勢であった。このころ、中国ではすでに軍閥割拠時代は終わり、蒋介石《しょうかいせき》の下に国民党政権が確立されてはいたが、日本と中国の関係は悪化の一途をたどりつつあった。
他方、新疆省(東トルキスタン)の官憲は一応南京政府を承認していたものの、この西北の辺境は事実上、依然として一個の独立国みたいなもので、省主席が実質的な支配者であり、当時の主席楊増新は清朝時代からの旧官僚であった。しかしかれは中国本部の争乱から新疆を隔離し、ソ連とも直接に友好関係を結び、その統治には見るべきものがあった。楊は一九二八年に暗殺され、その部下であった金樹仁が省主席の地位についた。一九三○年にはウイグル人の叛乱が起こり、ついで甘粛省回教徒の首領の一人馬仲英が新疆内に侵入した。こうした騒ぎの結果、金樹仁は失脚し、満州事変によって満州を追われた盛世才が辺防督弁となって新疆の支配権を握った。
ヘディンは一九二八年二月、新疆の省都ウルムチに到着し、楊増新を説得して調査の許可を得たので、五月には準備のため帰国した。ヘディンの帰国中、同年七月楊の暗殺事件が起こり、九月にふたたび新疆を訪れた時には、金樹仁の下に事情が一変しており、調査には南京政府の承認が不可欠であることがわかった。そこでヘディンは南京におもむいて直接、国民政府と交渉を重ねることになった。
ところが、さらに思わないところから支障がでてきた。二十世紀にはいって以来、中央アジアは世界の秘境として注目を浴び、イギリスのオーレル・スタイン、ドイツのアルベルト・グリュンウェデル、アルベルト・フォン・ル・コック、フランスのポール・ペリオ、日本の大谷探検隊等があいついで中央アジアの考古学的調査を行ない、多くの遺跡を発掘し、莫大な量の貴重な資料を本国にもち帰った。他方、国民政府によって統一の気運にあった中国では、民族主義が高揚され、民族的文化財の海外流出に反対する声が強くなり「古物保存」が叫ばれつつあった。ヘディン探検隊は、当然この反対の目標にあげられ、南京の古物保存委員会の強硬な反対にあったのである。中国の学者たちの反対理由は「古物保存」にあったのだが、ヘディンにとって重要なのは自然科学上の調査で、考古学はむしろ副次的なものにすぎなかった。そこで、ヘディンは中国側の要求を容《い》れて、中国とスウェーデンの共同事業とし、中国人専門家を参加させることになり、名称も The Scientific Expedition to the Northwestern Provinces of China under the Leadership of Dr. Sven Hedin. 中国名は西北考査団と呼ばれることになった。この探検はまた通称 The Sino Swedish Expedition として知られている。
こうしてヘディンの苦心の結果、成立した調査隊は主要メンバーだけでもスウェーデン人、ドイツ人科学者十八名、中国人科学者十名に達し、その調査領域は地理学、測地学、地質学、古植物学、無脊椎動物古生物学、脊椎動物古生物学、考古学、民俗学、気象学、動物学、植物学の広い範囲にわたることになった。この調査は結局一九二七年から一九三五年にわたり、その専門的報告として五十五巻の出版が予定された。「シルク・ロード」も「さまよえる湖」も、その中に含まれる。
紀行や自伝というようなものには、いろいろな書き方がある。本人自身が書いたものが、最も重要であることはいうまでもない。しかし読者の側にしてみれば、そのなかには興味のないと感じる部分も見いだされるし、足りないと思われる個所もある。それで読みものとしては、原文を削ったり、編集しなおしたりしても、それはかならずしも原作者を侮辱することにはならないと思われる。こういう作業は、歴史家と呼ばれる人たちが平常やっている、ごく普通の仕事であろう。(訳者)