スウェン・ヘディン/岩村忍訳
さまよえる湖
目 次
一 ロプ湖への出発
二 三十三年ぶりの再会
三 サイ・チェケのベース・キャンプ
四 コンチェ河上の旅
五 クム河の旅
六 神秘の砂漠
七 王女の墓
八 三角州の迷路
九 ロプ湖への旅
十 ロプ湖と楼蘭
十一 キャンプ基地への帰還
十二 敦煌と千仏洞
十三 北山《ペイシャン》山脈の迷路
十四 ガシュン・ゴビの砂丘
十五 野生ラクダの住む地
十六 安西《アンシー》への道
十七 さまよえる湖
十八 新たな生命
解説
一 ロプ湖への出発
一九三四年四月一日の復活祭は、われわれにとって重大な日であった。その日、われわれは一か月間のコルラにおける幽閉《ゆうへい》から解放されたのである。「大馬」馬仲英〔一九三一年に新疆省で反乱したイスラム教徒軍の首領〕とその部下のトゥンガン軍〔漢化したトルコ族のイスラム教徒〕とは敗北して西方へ遁走《とんそう》しベクティエイエフ将軍配下の赤色、白色ロシア人、モンゴル人、中国人などで編成された北軍は、いまこの小さな町を支配している。新疆省の督弁《とくべん》・盛世才は、われわれに対して東方ロプ湖《ノール》方面の砂漠地帯へ去るように、そして首都のウルムチには、まだ途中トゥンガン軍の脱走兵や、盗賊の危険があるから、二か月後までは行かないようにと要求した、とベクティエイエフは知らせてくれた。おそらくロプ湖《ノール》の存在についてなにも聞いたことのない督弁は、その決定がわれわれ一同、ことに私にとってどんなにありがたいものであったか、夢にも知らなかったにちがいない。なぜなら、かつて二千年の昔あのように繁栄していた場所を、そして「さまよえる湖」がタリム河の下流と同時に一九二一年にふたたびその湖床に帰った所を、ぜひもう一度見ておきたいと切望していたからだ。
三月下旬の最後の数日間は、朝から晩まで、新しい軽装テントをこしらえたり、近くの村から小麦紛、米、果実、卵などの食料を買ったり、蓄えたり、残っているガソリンを自動車に積みこんだり、最後にはわれわれ自身の荷物をこしらえたりするのに忙殺された。不用なものはすべて、まえにわれわれ自身が捕えられていた部屋の一室に封印して残してきた。同様に破損した貨物自動車も、われわれが帰るまで兵隊に監視をたのんだ。なにかそうとうな冒険にとりかかるときのように、最後の瞬間まで引き延ばされたこまごましたことが、たくさんあった。仕立屋が、大工が、かじ屋が勘定書を持ってくるし、町のそとの村々からは、値段よく品物を買い取ってくれると聞きこんだ農民たちが、鍬《くわ》や手桶《ておけ》や銅|鑵《かん》などを持ちこんできた。こうして時間は過ぎていき、すっかり精算できたのはすでに正午をすぎたころであった。
低い灰色の土塀《どべい》と家々の間にある、狭い路に向かっている門は開け放たれ、物見高い群集は、ぎっしり荷を積んだ自動車がほこりのなかで、やかましい音を立てて走り出すと、さっと身をあけて道を開けた。
戦争中に都市の住民の大部分は安全な地方へ移注してしまったので、だれも灌漑用《かんがいよう》運河の流水の調節をするものはなく、村の通路はそのためにところどころ水浸しになっていた。三台の貨物自動車は、車輪のまわりに水をかき立てながら、これらの沼のなかを突進したが、小型自動車は泥にはまりこみ、付近の畑にいた二、三人の農民の力を借りて引き上げなければならなかった。
われわれは三月十一日の攻撃が行われた記念すべき場所で、ちょっと立ち止まった。そこのヤナギの幹《みき》にはトゥンガン軍の銃弾であけられた弾痕《だんこん》が残っていた。いまではもろい、小さい木橋以外に危険なものは、なにもなかった。しかし、不思議にもこの木橋は、われわれの重い積荷を支えてくれた。ヤナギの並木道は終わり、最後の畑には数人の女が見えていた。つぎには林も木立ちもない草原がきた。そこを過ぎてわれわれは荒涼とした砂漠を南方へと向かった。
この砂漠の幅は狭かった。まもなくふたたび、一面に草でおおわれた、柔らかく、なだらかに起伏する地面にたちこめた、黄塵のなかを走って行った。それからいくつかの運河を横ぎった。
そのうちの一つ二つはかなり広かった。ある橋は貨物自動車の重みで落ちてしまい、もう一度かさばった荷物を車上に積みこむのにだいぶ時間をくってしまった。夕方、いまは二、三の東トルコ人家族が住んでいる、さびしいシネガ村の郊外に近づいた。小さい草ぼうぼうな粘土の小丘や、たまに見える木立ちや、荒廃した畑の迷路を通り、祖末な木橋のかかっている運河を越えて車を走らせ、かなり大きな灌漑用水路の縁で、第五十二号キャンプとして適当な場所をさがし出した。シネガとその付近の村長はセイドゥルという人のよい男で、すぐさま、なんでもご用を足しますといった。この一行は、勝手に略奪しながら、支払いもしない野蛮なトゥンガン人ではなく、ヨーロッパ生まれと中国生まれの立派な人たちである――ということがわかったのである。彼はオアシスで見いだされるかぎりの小麦粉と米と卵とヒツジとをもってくると約束し、そのとおりに実行してくれたので、大いにありがたかった。
その夜、テントが静かになるまでには長い時間がかかった。技術者たち、ゲオルク・ゼーデルボムとエッフェ・ヒル、セラトとジョムチャの二人のモンゴル人運転手とは、いつものように車体を検査し、いろいろ修繕を加えた。ま夜中に、ぎしぎしきしみながら二つ三つウシ車が通り過ぎた。そしてウシを駆《か》る御者の叫びが、静寂を通して鋭く響いた。自分たちの農場に帰る避難民たちであった。
翌日、コンチェ河《ダリヤ》の南方三十二キロあまりのカラクム地方へ手はじめの偵察旅行を試みた。そのあたりは交互に断続する草原と砂漠と粘土の土地、車輪とウシやウマの蹄《ひづめ》で細かいほこりに打ち砕かれた道――といったようなありふれた場所であった。ほこりは自動車にまき上げられ、視界をきえぎるほど黄塵を上げた。道の西側には、しおれたアシとタマリスクとにおおわれた粘土の小丘が隆起しており、最初に通り過ぎた畑の付近にはポプラの小さい木立ちがあった。
戦争中であるということがわかる。この地方の畑の大部分は荒らされている。たっぷり報酬をあたえるという約束で、ついにこの地方の主要都市でコンチェ河畔にある尉犁県《ユーリーシェン》、東トルコ語でコンチェという町へ行く、いちばんよい道を案内してくれる、若い農民の娘を見つけることができた。
元気のいい娘である。「ついていらっしゃい」と叫ぶとさきに立って軽々と走り出した。われわれはゆっくりと、用心してついていった。とにかく、こんな道を早く行けるものではない。しかしそんなに遠く行かないでもすんだ。娘はまもなくヤナギの並木道の端《はし》へわれわれをつれて行き、立ち止まって、これがコンチェへ行く道だといった。
戦争で吸い尽くされてしまった、哀れなコンチェの村は、ついぞ自動車を見たことがなかったものだから二、三百人もの全住民が、すばやくめずらしい訪問者のまわりに集まってきた。
役所《ヤーメン》に行く道を見つけるのはむずかしくなかった。役所には尉犁県の中国人アンバン、すなわち地方長官が住んでいた。本道からかなり遠くに見えていたけれど、この役所はまんざら醜い建物でもなかった。それはごく普通の数戸の中国ふう木造家屋で、小さい四角な中庭によってそれぞれ隔てられていた。私たちは住民全部におともされながら、中庭に敷きつめられた平べったい石の通路を歩いて行った。そして厳粛な、びっくりしたような顔をした、やせてあおざめた小男のアンバンに会った。彼がびっくりしたのも無理はない、戦時にはどんなことでも起こりかねないのだから。
彼が示したもの怯《お》じと謙譲さとは、ある程度これらの異常な事件の追憶によるものである。彼はわれわれの仕事がなんであるかさえも聞かなかったし、旅券を見せてくれともいわなかった。こう思ったのではないだろうか。すなわち、もしわれわれが北軍に属しているなら、うしろに督弁の盛世才を控えているのだし、またもし馬仲英の分遣隊の一つからきた巡邏兵《じゅんらへい》なら、たとえ暑くなりすぎても、砂漠へ四度目の逃亡をすることはできるんだと。しかしできることは、なんでもすると約束してくれた。
われわれにはカヌーが一ダース必要だというと、アンバンは一人の若いトルコ人を呼びにやった。その男は、現在コンチェには一|隻《せき》も舟はないが、ここから少し離れたチョン・コール(大湖)地方ならいくらかあるはずだ、と受《う》け合い、二十四時間あれば、ボートと船頭とオールとをそろえて、コンチェに持ってこられるだろうといった。棒でカヌーを横に二隻か三隻いっしょに縛りつけ、その上に荷物を載せる厚い甲板をつけるとよいと忠告してくれた。このように三隻のカヌーで作った舟は、約九百キログラム運ぶことができる。食料の一部分は二、三日行程の川下《かわしも》に車で運ばせることにした。ヒツジについてはなにも心配する必要はない。というのは、ヒツジ飼いたちがヒツジの群れをつれて、新しいクム河がちょうど古い河床から離れる地点にある、トメンプーに向かってまっすぐに河岸を下って行ってくれたからである。
われわれはシネガのキャンプへ帰ろうとして席を立ったが、こんなぶっそうなときに愉快な、気持のいい人々に会ったことを明らかに喜んでいたアンバンは、もっといて、簡単な夕食をともにしてくれるようにといった。断わったら気持を悪くするだろうと思って、半時間したら帰ってくると約束した。
われわれは暗くならないうちに、コンチェ河の左岸をすこし歩いてきたいと思った。川はすぐそこだった。われわれは舟を出すのに適当なところと、新しい湖へ下って行く長い旅行の出発点をさがさなければならなかったのだ。小さい舟着き場に出た。高い車輪の馬車を二台、水の中で洗っていた。ウマも水浴していた。舟着き場のすぐ上で、岸は深い水に向かってかなり急な崖になっている。この場所を宿泊地《ていはくち》に選んだ。いまこの場所をふたたび見て、人生の不思議な、説明しがたい機会というものについて考えた。私は一八九六年の春にここを初めて訪れたのであった。当時、三十八年の長い年月を隔てて、ふたたびここへこようとは、当時は夢にも思わなかった。
コンチェ河は、そこここの木立ちと叢林におおわれた両岸のあいだを流れ、右岸の近くに細長い島のある、じつに堂々とした川である。そこにはただ一隻のカヌーが見られるだけで、しかもそれは水浸しになり、すっかりねじれ、ゆがんで廃物になっている。
そのあいだに役所では夕食が用意されていた。トルコ料理のご馳走《ちそう》――干しブドウとニンジンとタマネギいりのヒツジの脂《あぶら》で煮た米のプディング、ピルメーン〔ヒツジの油でいため細かくきざんだヒツジの肉〕、かき卵、煮たヒツジの肉――をもてなされた。それは内容の充実したイスラムふうなご馳走だったが、中華料理は一皿もでなかった。
食事をおえると、われわれは席を立って別れを告げた。すでに夕やみがおり、新しい夜が近づいていた。ゲオルクは、ヘッドライトがなくても車の跡をわけなくたどって行ける、と受けあった。ところがたちまち泥にはまりこんでしまい、堅い地面にいくら乗りだそうとあがいてもだめだった。ついにゲオルクは徒歩ででかけ、農民を数人集めてきた。彼らはすぐ車を引き上げて、道に押しだしてくれた。そこでヘッドライトをつけ、無事に視察をおえて、キャンプに帰りついた。
水上班の荷物は全部、五十人分二か月間の食料もいっしょにして、夕方三台の馬車に載せた。馬車は夜中コンチェまで行き、着いたらわれわれの新しい友人のアンバンに到着を知らせるはずであった。第四の馬車は、二つのテントと寝具と台所用具を翌朝、同じ道で運ぶことになっていた。
夜明けに水上班の隊員は、自動車隊に別れを告げた。それは陸上を迂回《うかい》して、一八九六年に私がキャンプしたことのある、なつかしいあの川のまがり目、サイ・チェケに行くはずである。二つの班は、そこで落ち合うことになっていた。陸上から行く道も、水上の道もともに確かではなかったので、正確にいつ落ち合えるかは決められなかった。先きに着いた班が、後からくる班を待つことにした。水上班は、自動車班に別れてから、人っ子一人見られない地方を、まったく単独で行かなければならなかった。
コンチェではすぐにアンバンを訪問した。彼はわれわれが注文しておいた品物は、みんな川の岸に用意しておいたといい、そこまでついてきた。選んでおいた乗船場所は、ついこのあいだ見たときとはまったくちがう姿をしていた。そこには六隻の大きいカヌーと、同数の小さいカヌーがつないであり、それぞれ岸の斜面につきささった一本のオールにしっかり結びつけられていた。そこにはまた、二つのカヌーの幅だけある厚板と、同じ長さの棒が全部そろって積み重ねられていた。
ヤルカンドのすぐ川下から終点まで、タリム河上いたるところで輸送のためごく普通に使われているカヌーは、一本のポプラの幹から斧《おの》でくり抜かれてつくられる。中型のカヌーは長さおよ四メートルだが、あまりに幅がせまいので、足を伸ばし、両手を舟べりにささえながら舟底に坐《すわ》ることはできるが、横をむく余地はない。舟はポプラの幹と同様に円いので、水上ではきわめて平均がとりにくい。積荷が動くたびに動揺する癖もある。しかし、こぎ手たちは北欧の筏師《いかだし》のように舟を安全、巧妙にあやつる。彼らは艫《とも》にまっすぐに立つか、または膝《ひざ》をつき、広い橈身《ブレード》で器用に操縦する。急ぐときには二人のこぎ手を使う。すると水音を立てながら舟は進む。不なれなものが、激しい動揺になれ、カヌーの釣り合いをとるようになるには数日を要する。
ところがわれわれは、ほとんど一か月間の旅行中、舟の上で仕事をするはずであった。私は新しいクム河のくわしい地図をつくり、その水量、水深、水速、川幅などを測定する予定であった。また動植物、とくに鳥類を採集して、それを剥製《はくせい》にする予定もあった。そのうえ食料、テント、寝具、その他の道具があるのだから、いずれこんな不安定なカヌーでは役にたつまい。そこで乗組員たちに、二隻いっしょにカヌーを縛って、中央に厚い板の甲板を渡すようにいいつけた。書きもの机――それは空になった荷箱だが――で仕事をするときには、両方のカヌーに一本ずつ足を突っこんで前方の甲板の上に坐った。そして寝袋《スリーピングバッグ》をぴったり後にくっつけて、背なかの支えにした。
ぐらぐらするカヌーは、横棒と甲板で結び合わせると、たちまち水上にしっかり安定したことは、いうまでもない。食料は二隻じたてのカヌーには、荷が重すぎることがわかったので、三隻のカヌーを一つに縛った二隻に積みこまれた。これで全部で十四隻のカヌーを買いいれたことになった。一路、ロプ湖へ向かう河川征服の堂々たる、この艦隊の値段は、わずかに約三十ポンドであった。
これらの準備にまる一日かかった。二つのテントを川のほとりに張った。隊員はコンチェの市場《バザール》へぶらぶら出かけて、四百五十キロの小麦粉を買って帰った。それは馬車で徹夜してアク・スぺの部落へ運ぶはずであった。購入品のうちには米、卵、クルミ、網、予備のオール、二、三本の長い棒などの補充品があった。網やそのほか魚をとる道具は、アク・スぺに用意されてあるはずであった。しかし旅行中にそれらのものを一度も使う機会はなかった。
コンチェに来た貧乏な農民たちと、戦争で貧乏になった商人たちは、購入品に対して正直に支払いをしてくれるお客を見つけたことを喜んでいた。給料は月に銀五ドルで、そのほか船頭たちには、家族の生活費として一か月分の賃金を前払いしてやった。夜になると好奇心に満ちた見物人たちはしだいに去り、ついにわれわれも自分たちのテントに帰って、夜のいこいにつくことができた。
四月五日、日が傾きはじめるころになって、やっといっさいのものが船内に納めこまれた。そしてこぎ手たちは、オールを手に各自の部署についた。アンバンを先頭にこの小さい町の住民が全部、かつて一人の人間も入りこんだことのない地方へ、こぎいでようとするわれわれ一行の出発を、岸の上で数時間も辛抱強く待っていた。だれ一人こんな光景は見たものはなかったし、なぜこんなにたくさんの食料を携えて、砂漠の中ヘ、新しい河上を旅しようとするのか、理解することができるものはなかった。隊商をして国内を旅して歩いた二、三の商人たちは、十三年前にできたクム河は、はるか甘粛省の敦煌《トンホワン》までも続いているといううわさを聞いたことがあった。流れが十分あるあいだは砂漠のなかを行くことは、それほど困難ではないだろうが、どうして流れをさかのぼって帰ってきたらよいだろうか。この問題をときどき考えなかったわけではない。しかし私にとっていっそう重要なことは、この川の終点まで全コースを測量することであった。そのあとでなにが起ころうとも、それはあとで考えればよいことだった。われわれには自動車がある。もしも地面が悪くて自動車が使えないなら、最悪の場合として川ぞいに帰ってこられる。そこにはいつも近くに水と鳥と魚とがいるだろう。旅行には思いがけない変事や危険があるかもしれない。しかしそれはただ旅行の魅力を増すばかりである。ここしばらくのあいだは、われわれの水路は基地と基地とのあいだにあって、よくわかっているのだから、最後の基地から遠く離れるようになるまでは、大きな危険は起こらないだろう。
二、三人の少年が岸の上に坐って、手をコップ代わりにして濁った川の水を飲んでいた。
「もうよいか」と私は聞いた。
「もういいです」という答え。
「さあ行こう」
舳《へさき》のサディクは橈身《ブレード》をまっすぐ水中にいれて、力かぎりに掻《か》いた。同時に艫《とも》のハジトは岸から舟を押し放した。舟は二、三度ゆれて岸を離れ、川のなかへすべりでた。そしてたちまち流れにのった。右岸に近い細長い島は、右手に隠れ、二隻ずつ、また三隻ずつ結び合わされたカヌーの一隊が続いた。コンチェの小屋や、灰色の粘土の家は背後に薄れていった。そして沈黙した人々の列のなかから、私はわずかに数人の淋しい、遠い叫びを聞いた。ホーダ・ヨル・ヴェルスム(さようなら)と。
二 三十三年ぶりの再会
われわれはまる一月、トゥンガン軍の暴徒のあいだで死の危険にさらされ、自由の影さえもなしに牢屋の壁のなかに捕われていたのだ。いまは愉快な二人のコサック以外、だれからも見張られずに草原のうちにいる。彼らにとってはこの舟旅はつらい軍務の中ではかえって好ましい間奏楽である。われわれはまもなく世界のこの地方で、人間に最後の別れを告げるであろう。私の日々はふたたびアジアの河上をすべって行くだろう。私は以前の同じような舟旅での多くの忘れがたい記憶がある。一八九九年にはタリム河をまっすぐに小舟で流れ下った。そしてその翌年には三角州(当時は三角州だった)の曲がりくねった分流をカヌーで回り、それを地図に書きこんだ。一九○七年にはヤクの皮を縫い合わせてつくった小舟に乗って、チベットのツァン・プ〔ブラマプトラ河上流〕へ短かったが、忘れることができない、楽しい旅行をしたことがある。その後九年たって、ユーフラテス河をジェラブルスからフェルジャまで九百六十キロの舟旅をした。また、一九三○年には、中国のジャンクで※[#さんずい+樂]河を承徳から海岸へ向かって下った。
そしていまは、アジアでの、もう一つの牧歌的な旅路にいるのだ。しかしこの新しい旅は以前のどれよりも重大な旅である。これは「さまよえる湖」に関連している水文学と第四紀層の地質学との問題に最後の解決をあたえるはずである。それゆえ、コンチェ河《ダリヤ》とその延長であるクム河《ダリヤ》を行くこの旅行は、以前のどんな河川旅行よりも魅力あるものに感じた。
一行は河上で生活する。流れは絶えずわれわれをその遠い目的地へと導く。コンチェ河の水量は徐々に減少し、気まぐれに曲折しながら東へ流れて行く。いま航行しているこの水路は、タリム本流に集められた全水系の最下流である。東へ行くにつれて、だんだんに小さくなっていく川を下っているのだ。二、三日後には、タリム河から出る最後の小さい分流を通るだろう。そしてそのうちに一連の湖沼が始まるであろう。
一九三○年〜三一年冬の調査で、この川が敦煌から三日行程のところまで行っているという記述はまちがっていることがわかった。また新しいロプ湖がどこにあり、クム河がどこでとまるかをも知った。ただ一つの疑問は、はたしてこの川がどのあたりまで航行できるかどうかということであった。これが四月五日に出発した探検旅行中、もっとも興味深い点であった。
いま下って行くこの灰緑色の水は、遠いところから流れ出てくるのだ。この川からくみ上げる一碗の水は、のどの渇きをいやしてくれる。しかしながら小川を流れ、支流を過ぎて、最後にはタリム河に合流するこれらの水は、どこで雲から地上に降りてきたのか告げてはくれない。カシュガル河、ゲズ河、ラスカン河は、パミール、カラコルム、西部チベットなどの永遠の雪原と、青く輝く氷河とから流れ下る水を運ぶのである。コンロン山脈はカラ・カシュとユルン・カシュとによって、夏季の二、三か月間タリム河に注ぐコータン河と結びついている。そして天山とハーン・テングリ山から流れ下る水は、アクス河によってタリム河に注ぐ。カヌーの下でさざめき、うずを巻いている水は、一行が三月の初めカラ・シャールで越えたカイドゥル・ゴールの上流である、天山山脈から発しているのである。
この川からくむ一碗の水を飲むのは、ただの泉や山の渓流からくむのとは全くわけが違うのだ。タリム盆地を西、北、南の三方から囲む世界で最も高峻な山脈のいくつかが聳《そび》え立つ山脈――すなわち真の中央アジアともいうべき、アジアの最も奥深い地域から流れが一つになったこの水には、何か思いおよばないものがある。東へ行くにつれて徐々に減水してこの川の源となる数々の泉がわき出す、あの山また山の広大な世界のことを考えると、ある種のおそれを感じないわけにはいかなかった。氷河と永遠の雪原にとざされたはるかな山の頂、鋭くて曲がった角を持つ、壮麗なマルコ・ポーロ・ヒツジ(中央アジア産の高山に住む大型のヒツジ)が自由に生活し、岩から岩へ軽々と跳躍しているあの高い山々に歓迎を受けた。そして私もまた彼らに報いて乾杯した。その岸辺にオロンゴ・カモシカや野生のヤクが平和に安全に草を食べている、雪解け水の急流の響きが聞こえるようであった。またチベットの猟師たちが歌う単調な歌と、先き込め銃から|どん《ヽヽ》と撃った銃声の、まさに消えてゆこうとする山びこをとらえることができそうな気がした。この川の上流地方では野生のロバが集団を作り、飢えたオオカミに襲撃されるのだ。キルギス人とモンゴル人がテントを張る天山の高い谷間にある草原や牧地では、ヒツジの群れとヒツジ飼いとがこの水を飲むのである。この流れがその最下流にいるわれわれ一行をはるかにはるかに、東へと運んで行くのだ。この川の川上が絶えまなくこころよい歌をうたっている地方へ、かつてウマ、ヤク、ラクダなどをつれて旅行したことがあった。私がいま昔を思い起こし、河上に戯れている渦と旧友と逢うような思いで相対したとて、さして不思議なことではない。
「アハー!」と私は流れの水に挨拶《あいさつ》した。「きみたちはムズ・ターグの氷河から、タグドゥンバッシェ・バミールからやってきたのだ! 一九○七年から八年にわたる冬に、聖都タシ・ルンポへ向かって、チベットを踏破しようとする、私の懸命な旅が始まった、あのおそろしい高所からやってきたのだ! きみたちは、小さい白いウマのラダキが、きみたちの氷のように冷たい、じゃりだらけの川のなかを、私を乗せて運んでいったとき、どんなにきみたちがそのまわりで泡立ちざわめいたかを、おぼえているだろうか?」
砂漠における多くの川と同様に、そのいろいろな段階においてタリム河は人生に似ている。最初は幼児のようにささやかな小川で、山のコケや地衣類のあいだでさざめいているが、青春に達すると、突進し咆哮《ほうこう》する奔流となって、抵抗できない強い力でもっともかたい岩さえも貫いて行く。さて壮年時代ともなれば、大きな山の障壁をあとにして、より平坦な地方をゆるやかに、穏やかに悠々と流れ去る。老年になると、その流れはますますゆっくりと静かになっていく。生長しきったその力は、もはや大きくはならず、減少していくのみである。川は人間のようにすでに命の頂点を過ぎたのである。もはやたたかわず、ひたすら受け身に、無為に生き始める。しだいに大きさは減り、ついには死に至って、永遠にその墓場である「さまよえる湖」へと落ち行く。
二、三日のうちに到達するはずのタリムの最下流は、ふたたび大事業をなし得ないほどに衰えてはいなかった。それは一九二一年にその力を示した。その弱々しい老衰と穏やかな平安との様子にもかかわらず、何世紀かの束縛を脱し、新しい道を切り開くだけの力はあったのだ。いま一行は、だいたい東南東の方向に向かう、かすかな屈曲にそってこの川を下っている。内側にくぼんだ岸は水で鋭く浸蝕《しんしょく》されて、切り立っており、一、二メートルの高さがある。ところがその反対がわでは逆に岸はふくれていて、ゆるやかに傾斜し、水に近く、泥は狭い帯状をなしている。ポプラは岸の上に小さい森をつくったり、または孤立して生えている。たけの高いロンバルディー・ポプラではなく、トルキスタン地方一帯にある変種ポプルス・ディウェルシフォリアである。木々の間には、とげだらけの灌木《かんぼく》やタマリスクやアシが密生している。ときどき、そこにはヒツジやヤギの群れをつれた牧人が見えた。
左岸には、棒切れと木の枝とアシの束でこしらえた簡単な小屋が一つ見えた。牧人はそこで夜を過ごし、ヒツジは囲いのなかにかこわれている。反対がわには狭い水路が近くの湖へ注いでいる。それはこの川の力を枯渇《こかつ》させる寄生虫のようなものである。川が十分なときには、小さい流れが浅い湖に流れこみ、その表面から絶えまなく蒸発しては水路を通して川の水を吸い上げる。
静かに、気持よく流れを下って行った。風はなく、水面はときおり運河のようになめらかで、絵のようにカヌーがくっきりと映った。ある舟は先に立ち、ある舟は後になって、配列は絶えず変わっていった。あるときは私が先頭に立ち、またあるときはほかの舟が先に立った。こぎ手たちの歌がどの舟からもひびいた。単調な旋律やメランコリックな歌のおかげで、こぐのが楽になる。歌うこぎ手はつかれない。とにかく歌いやむまで、疲れに気がつかない。歌は橈身《ブレード》のパシャリという音に伴われる最初の一こぎに始まる。ときどき、舟が互いに寄り合うと、数隻の舟の船頭たちが合唱に加わって、斉唱《せいしょう》で歌ったり、輪唱で歌ったりした。歌の種類は少なかった。同じ歌が日ごとにくり返され、朝から晩まで川を横切ってこだました。われわれはまもなくそれらの歌をおぼえた。でも飽きなかった。そして歌なしに、こぐことは考えられないということがわかった。
私は二つのカヌーに横に渡した甲板の上に坐《すわ》り、書きもの机の役をする荷箱に前かがみによりかかり、第一号地図を書くための用紙を広げた。羅針盤《らしんばん》と時計と鉛筆とは、私がいちばん多く使った道具である。ときどき、五分間ぐらい同じ方位をとることができた。だいたいわれわれの進路は、一分ないし二分ごとに変わった。絶えず仕事にかかりきってはいたが、日記に記入することができたのは、方向が数分間、変わらないときだけであった。
太陽はちょうど地平線上にある。灌木や木立ちや岸は赤々とした夕日をいっぱいに浴びている。午後六時である。するとこぎ手のサディクが突然叫んだ。「オルデック・ケルディ!」オルデックは東トルコ語で「野ガモ」、ケルディは「きた」という意味である。地図の製作で忙しかったので、最初ふと私は二、三時間前にコンチェを去ってから初めて見た野ガモに、サディクが私の注意をひこうとしたのだと思った。だが、彼が左岸を同じ方向へ行く二人の騎手を指さしたとたんに、そのうちの髪の白い老人が、かつての従者オルデック「野ガモ」だということがわかった。彼は三十年以上もたってから、この世でもう一度昔の主人に会いにやってきたのだった。
それでこぎ手たちに舟を岸に着けるように命じた。舟ははすかいに横切り、二人の騎手たちが下りた地点に舟をつけた。白髪の騎手は約二メートルもある岸をすべり下りて舟にやってきた。彼は目にいっぱい涙をためて近づき、時と労苦のために堅く硬ばった両手を差し出した。まちがいなくオルデックである。多くの歳月が無情に彼をいためつけた。やせ縮んでいる。額には深いしわが刻まれ、もじゃもじゃなあごひげと口ひげとは、胸まで垂れ下がっている。頭には古い毛皮の帽子をかぶり、身には色あせたぼろぼろのチャパン〔ありふれた東トルコ人の上衣〕を着、腰には布の帯をしめている。破れた靴はきっと砂漠や草原《ステップ》ややぶをかけまわった数十年のつらい旅路のあいだ、はいていたものに違いない。
「やあ、どうしていたね、オルデック? あれから三十二年にもなるが……」
「神さまのおかげで、だんなさまにお仕えしてからこのかた無事に暮らしておりました。ずいふん気楽に過ごしてまいりましたが、もう二度とお目にかかれまいと、とっくの昔にあきらめておりました」
「どうしてわかったのかね、きょう川を下るって?」
「はい、ヤンギ・コールの小屋で聞いてからもう一か月にもなります、だんなさまもとうとうコルラヘ帰っておいでだって。それからずっとだんなさまにお会いするまで、休みなしにやってまいりました。三十二年前にお別れもうしたとき、だんなさまはいつかもう一ぺん、私どものところへ帰っておいでになるというお約束をなさいました。待っても、待ってもいらっしやいませんでした。あのときの従者はたくさん死にましたけど、まだ生き残っている者もいくらかおります。だが、こうしてとうとう私の願いもかなえられました」
このオルデックは、一八九九年の十一月に私の従者になった。そのとき、私は小舟でタリム河を下っていた。そしてまもなく冬期の結氷にはばまれてしまった。彼はまた、チャルチャン河畔のヤンギ・コール、タトゥラン間のタクラ・マカン砂漠横断に参加した四人のうちの一人であった。一八九九年の大みそかの夜に、私はオルデックとそして彼の仲間三人とともに、大砂漠のまん中の小さいキャンプ・ファイアのまわりに坐《すわ》っていたのだ。
彼はまた千六百年間かわき続けていたクム河河床の調査にも参加し、楼蘭廃墟《ろうらんはいきょ》の発見には立派な役割を果たした。彼はラクダ隊の案内をしながら古代の木造家屋を最初に発見したのであった。
発掘を試みたときに、彼は手もとにただ一本しかなかったすきをおき忘れてきたので、つぎのキャンプから一人でそれを取り戻しに帰らなければならなかった。砂嵐が夜中吹きつのった。オルデックはわれわれの足跡を見失ったが、そのかわりに廃墟になった寺院にめぐり合い、数個の美しい木製の彫刻を持ち帰った。それはいまもストックホルムの東アジア古代遺物博物館に保存されている。彼はすきを見つけるまで捜索をあきらめなかった。それから二日後に彼はラクダ隊にたどりついたので、一同の喜びはたいへんだった。われわれは彼の生存をほとんどあきらめていたのである。
オルデックの寺院遺跡の発見は、私の全計画をくつがえした。私はこの発見が非常に大きい歴史的意義を持つことをすぐに認めたので、翌春早々砂漠のなかの古代都市に引き返そうと決心したのである。
一九〇一年の夏、モンゴル人に変装し、ブリヤート・カサック人シャグドゥルとカラ・シャール出身のモンゴル僧シェレブ・ラマとを伴ってラサへ向かったときもこの無人の土地にオルデックを伴って行った。
二日間というものは人間の足跡を一つも見ないで旅し、第二夜は心安らかに休めた。ところがま夜中にオルデックはとびおきて、テントをあけ、首を外へ出したと思うと、しっといった。「人がきた」われわれはライフル銃とピストルを持って飛び出し、いちばんいいウマを盗んだ二人の盗賊に二、三発発射した。賊のあとを追ったオルデックは、翌朝ひとり徒歩でキャンプに帰ってきた。彼は疲れ果てていた。自分の生命《いのち》をねらう盗賊だと思った夜の人影に対して、彼はそのときもまだひどく腹を立てていた。
私の探検生活で重要な役割を演じた忠実な「野ガモ」オルデックと最後に別れたのは、一九〇一年十一月二十九日のことであった。
こぎ手のサディクが「オルデック・ケルディ」と叫んだのは、野ガモのことをいったのではなしに、私の古い旅の道づれである従者のことだと知ったとき、私は簡単な「野ガモがきた」ということばと、テントのまわりに風がうなり、千切れ雲が竜のように月下を吹き飛ぶチベットの陰惨な夜に、オルデック自身が叫んだ「人がきた」という、あの不吉《ふきつ》なことばとの連想に心をうたれた。ところで「人」ビル・アダムとは、ウマをとばして逃げるとき、方向をまちがえないように盗賊たちが谷間《たにあい》に先に出しておく斥侯の意味である。三十三年〔著者がオルデックと別れてから経過した年月は、正しくは三十二年五か月。著者は三十二年ともいい、三十三年ともいっている〕たったいま、私のまえに現われた男は、年老いた一人の東トルコ人にすぎなかった。
われわれに会うために、わざわざコンチェ河までオルデックといっしょにきたもう一人の騎手は、やはりサディクという彼のむすこであった。オルデックは私と最後に別れてから二、三年後に結婚した。彼もむすこもヤンギ・コール付近のチャラにアシでつくった小さい家を持ち、魚やカモやガチョウや、その卵で暮らしていた。戦争のあいだ数回、その地方はトゥンガン軍に略奪され、彼らもウマ二、三頭とヒツジ五、六頭を奪われた。
一八九九〜一九〇〇年の冬に、私はヤンギ・コールにキャンプをおいたことがあった。タリム河には一面に氷が張りつめ、小舟がその中に閉じこめられていたが、当時この川は多くの支流が集まってできた大河であった。コンチェ河以外の東トルキスタンの流れはすべてこのタリム河に集まっていた。いまでは古い河床には、ほんの少しの水が残っているばかりで、カラ・コシュン湖には一滴の水もとどかない。
一八七六〜七七年にプルジェワルスキーが発見したこの湖のあった地方は、いままったくの砂漠になろうとしている。湖自体も一九二一年に北に移動した。いまわれわれが知ろうと努力しているのは、千六百年の後にふたたびよみがえった、この新しい、しかし同時に古い歴史的ロプ湖なのである。
太陽はポプラの木立ちのあいだに沈みはじめた。まもなく夕やみが河面に広がり、行く手にある屈曲に沿って方向をとることは、むずかしくなるであろう。オルデックは岸の上によじ登り、すり切れた鞍《くら》にまたがって、むすことともに前方へ馬を駆《か》った。彼は先に行って、樹木に囲まれた適当なキャンプ地を選ぶことになっている。
川はここではほとんどまっすぐに南東へ流れている。残照がすっかり消えるまえに二人の騎手が馬をつないで、くま手のように一対の枝を使いながら小枝やしばを片づけて、ちょうど川の縁《ふち》にキャンプ地をつくっているところへついた。このキャンプは、帰化城からエツィン・ゴール、ハミ、トゥルファン、カラ・シャール、コルラ、ユーリーシェン、コンチェ等と数えて第五十四番目に当たる。このあたりの樹木の多い地方はウズン・ブルンすなわち「大まがり」といわれている。
われわれ一行は一か月もコルラで兵隊たちに見張られていたのだが、こうした激しい緊張のあとでふたたび広々とした大自然に抱かれ、暗がりに燃える火を見るのは、なんという喜びであろう。これまでただ一人のヨーロッパ人しか見たことのない、気まぐれに移動する湖への途上にあるのだ。そのヨーロッパ人というのはニルス・ヘルネルである。彼は一九三○〜三一年の冬、東方から砂漠を通ってロプ湖を訪れ、その詳細な地図をつくったのである。
最初の日は、春のおも苦しい暑さをこぼす必要はなかった。軽やかで、さわやかなそよ風が時おり川を越え、それを縁どっている林を越えて吹いてきた。夕方には、静かに坐っていたり、書いたりしていると、むしろ肌寒かった。夜の気温はマイナス○・六度Cに下った。石炭が赤く燃えている鉄の火鉢をテントの中へ持ちこむと、心地よく温かくなって、かじかんだ手足はゆるんだ。パンとバター、チーズ付きの野菜スープ、リソール〔ひき肉(魚または鳥の)にパン粉と鶏卵とを混じたねり粉に衣をきせ、油でいためた食物〕、馬鈴薯《ばれいしょ》と菓子付きコーヒーの夕食後、オルデックがきて、数時間自分の生涯の物語を話して聞かせた。私は楼蘭を発見したときの砂漠における日々を追憶した。オルデックは忘れてきた|すき《ヽヽ》の捜索については、どんな小さなことでも覚えていた。
ついに燃えさしが消えかかり、夜の沈黙がウズン・ブルンの風通しのよい住居の上に落ちた。
三 サイ・チェケのベース・キャンプ
日の出とともにキャンプは活気に満ちた。船頭たちは落ちている枝や朽ち木から新しい薪《まき》を集め、お茶や料理の水を汲んでいるらしい。寝袋から新鮮な朝の空気の中へはい出しているあいだに、燃えさしを入れた火取りがテントを温《あたた》めるために運ばれてきた。私は家にいるときのように裸で眠り、起きると熱い湯をみたしたブリキの大きい洗面器で顔を洗った。ひげ剃りにはそんなにきちょうめんではなかったが、それでも少なくとも二日おきにはこのぜいたくを味わった。
着物を着るか着ないうちに、テントの中央の低い荷箱の上に朝食が出された。お茶に、熱い食ベ物に、バター付きパン、中国ふうに料理した米はおきまりの食物であった。
しかし、いちばん重要な食べ物はヒツジの肉であった。コンチェ河《ダリヤ》を下る道すがら毎日のようにヒツジの群れを見た。ヒツジはいつでも買うことができた。中国人の料理人は、スウェーデン料理に従ってどんなふうにでも上手に調理したし、またなかに|脂《あぶら》の薄切りを挾んだ肉を金串《かなぐし》に刺して燠《おきび》の上であぶるトルコふうなシャスリックという料理もうまかった。
キャンプをたたむのは、水上旅行のほうが砂漠旅行よりもずっと簡単である。砂漠旅行ではなんでもラクダに載せるが、こちらでは箱に荷を詰め、寝袋とテントを巻き、そして行李《こうり》はみんな舟のいつもの場所にしまい込めばよいから、あっというまにしたくはできてしまう。オールを岸へ突っ張ると、カヌーは水にすべりだし、不断の流れに運ばれて行く。
新しい日が始まった。ひっそりした印象深い独特な風景が、朝の光のなかにその輪郭と色彩を広げた。空はすばらしく澄んでいる。両岸には、灌木やアシの、かさかさな下生《したば》えのあいだに、荒れはてた疎林が点々としている。空だけが、ただ水に映ったその反映と同じように青い。そのほかのものはみな褐色《かっしょく》と黄色味を帯びた灰色である。木々にはまだ葉がないが、つぼみが見え始めている。砂ぼこりと、鋭く切り立った河岸の段丘とは灰色で、ただタマリスクのみが緑に輝いている。カヌーも、船頭たちの色あせ、よれよれになったチャパン〔東トルコふうな外套〕も灰色である。それでも、ちりぢりに散開した小船隊は絵のように美しい眺めであった。歌声は、はっきり冷たい空気に響き渡った。
タリムの分流が右岸からコンチェ河に注いでいる。それは実際よりはるかに大きく見えた。表面にはほとんど水流も見えないし、コンチェ河へはいり込む水の量も知れたものだ。川は目のとどくかぎり、はるかに鏡のように静かで、両岸とその上の樹木を映し出している。絶えまなく進むカヌーだけが、ときどき水面を乱すばかりである。たびたびカモやその他の水鳥が水を打ってばたばたと飛び立ち、魚が水面に飛びはねる音が聞こえた。
河岸の段丘は高さ一メートル半、ときには二メートルあった。それらは垂直に切り立っているが、またときには下部を水に洗い削られ、上部がのしかかっているものもあった。その崖縁《がけぶち》には枯れた黄色いアシが風にふるえ、根は垂れ下がって水面にシーツのように揺れていた。水は段丘のまわりに静かな音をたて、うようよとした蛇のようにその根をもがきくねらせている。
川は最初の日より今日のほうが、いっそう気まぐれである。一、二回半円を描いて屈曲したあと、進路をま南にとり、やがて北にまがり、それから南南東、北北西、南南東、ふたたび北北西にまがり、さらに進行を続けて、はるかに遠い未知の目標に向かって道を探すかのように、怪奇な形状を描いていた。
それは目まいがするほどであった。東と東南東へ進んでいるあいだは、われわれの顔にまともに太陽が輝き、ぎらぎらする水面の反射で目がくらむばかりであった。しかし川は急角度にまがった。それに気がつく前にすでに太陽はわれわれの背中に回り、光の影は一変する。こういうわけで、太陽は終日、あちこち振り子のように揺れているかのように見えた。最初は地平線上で、それからは時間のたつにつれて、しだいに上空にくる。羅針盤《らしんばん》の針はつねに北を指しているが、その真鍮の容器はつねに屈曲のために舟とともに動揺した。
正午ごろ、小半時間陸に上がり、お茶を飲んだり、菓子を食べたり、船頭たちに休息をあたえたりした。これが昼の休みである。
岸に沿ってかなり茂った森があり、美しい絵のような光景を示している。午過《ひるす》ぎおそく、五人の騎手が左岸の林のうちに現われ、そして私たちの進路を断つことを目的としているみたいに急いで流れにそって駆け下ってきた。われわれの自動車隊がトゥンガン軍の騎兵に進路を断たれ、馬上銃で射撃されてから、まだ一か月もたっていなかった。こんどもまた、この河上で差し止められて、うたれるのだろうか。彼らは糧食やその他の所持品を、ごっそり略奪しようとする馬仲英の敗残軍かもしれない。「ライフルを!」と私は叫んだ。しかしじつはなんの危険もなかった。
すこし離れた川下にとまっていたオルデックのむすこのサディクが、今の騎手たちはこの近辺に家族をつれてきたトゥルファンの平和な商人たちで、ヤルチェケからクチャへ行こうとしているのだと告げた。
暗くなりかけたころ、一行はその日のキャンプ地ヤルチェケに着いた。ここは、コンチェ河を渡ってコルラからチャルクリックへ行く隊商路であった。家畜をつれた旅行者や商人たちは、横に渡した甲板のある五隻のカヌーで組み立てられている、渡し舟を使って川を渡る。渡し舟は両岸のあいだに張った綱で引く。そして渡しもりは、われわれがテントを張った右岸に粘土作りの小屋をもっていた。
やがてわれわれは渡しもりの小屋へ行き、野外の地面に敷かれた絨毯《じゅうたん》の上に坐り、茶碗《ちゃわん》でお茶をすすめられた。ここの主は、あまり変わった人たちの訪問にすっかり驚いてしまって、最初この珍客をどうあしらったらよいかわからなかったらしい。しかししだいに安心した渡しもりは、二匹のヒツジと新鮮な魚と新しいパンとを出してくれた。それに対してわれわれは、あまり信用できない地方紙幣で十分に支払った。フンメルと、あとに残してきた二、三の運輸船とを待つあいだ、ぱちぱち燃えているキャンプ・ファイアのそばにすわって、渡しもりにこの地方の事情や、交通や、商売に及ぼした戦争の影響や、この川の水量の季節による増減などについて詳しくたずねた。
翌朝、早く発とうという希望は破れた。夜中にすさまじい嵐が吹き始めたのだ。フンメルは目をさまして、岸で眠っている船頭たちを起こしに急いで舟のほうへ下りて行った。波がひどいとカヌーはしだいに水浸しになり、積荷は水びたしになるか、流される危険がある。しかしすぐに行李《こうり》はみんな波のとどかない岸に運ばれた。テントが吹きとばされそうだったので、箱や袋でしっかり安定させてから寝床にはい込んだ。岸では波がとどろいていた。
翌朝も、とても出発する勇気が出なかった。砂ぼこりが空一面に立ちこめ、近くの川さえほとんど見えず、あたり一帯もうもうたる砂の霧におおわれていた。こんな天候を無視するということは思いもよらぬことである。テントのなかでのんびりしていた。船頭たちは渡しもりの小屋でヒツジの骨で博打《ばくち》をやっていた。われわれは原稿を書いたり、読書をしたり、いたって気ままに一日を暮らした。
夜の気温はマイナス○・五度C。あくる四月八日の朝は冷え冷えと肌寒かった。私は毛皮の外套《がいとう》をまとい、かじかんだ指で地図を描いた。もう嵐も静まっていたので、この日もまたあい変わらず川の屈曲を進んだ。
アシにおおわれた、黄色くきらきら輝く、細長いいくつかの小島が面岸に沿って突然現われた。ごつごつしたサフラン色の乾しブドウ入りの甘パンに似た形をしていた。岬《みさき》の突端《はな》を通り過ぎたとき、老婆が一人、籠を持って立ちながら、手招きしているのが見えた。一隻の舟が止まった。
籠の中には新しいガチョウの卵がいっぱいあった。私たちは大喜びでそれを買った。そして第五十六号キャンプにチュルルメチすなわち「うねり河」という意味深い名まえをつけた。
四月十日。目をさますと、サリック・ブラン「黄色い嵐」が吹いているのに気がついた。それはカラ・ブラン「黒い嵐」ほどではないけれども、かなりはげしい風であった。今日もまた強風は東から吹いてきたが、それを無視して出発した。かなりあぶない、騒々しい、はらはらする旅行である。波は船腹を強く打ち、なかにもはいってきた。なにもかも、しぶきを浴びて、びしょぬれだ。切り立った浸蝕《しんしょく》段丘とアシとが風よけになるので、風下の崖下は静かであったが、川が東の方へ曲がって、最後の突端を過ぎ、風に吹きさらされると、波がまたおどり始めた。するとこぎ手たちは、一刻も早く風かげに行こうとして根《こん》かぎりの努力をした。
われわれは毛皮にくるまって坐っていたが、それでもなお寒かった。しばらく暖をとらなければならなかった。左岸にはからからに乾いたポプラとタマリスクがあった。上陸して火を起こし、お茶を飲み、パンとガチョウの塩潰け卵を食べた。ときどきの休憩は、かなり骨の折れる地図作製のあいだの楽しいインターヴァルであった。しかし一回にたった四十分しか休めなかった。内外ともによく暖まると、急いで舟に帰った。水中に隠れてはいるが、黄味を帯びているのでそれとわかる油断のならない砂州を、こぎ手たちはじょうずに避けた。ときどきは乗り上げたが、すぐまた離れた。水中にはまり込んだり、川の中央の浅瀬にへばりついているポプラの幹の上を、すべり越えていくこともあった。そのほか、枯れたアシやタマリスクの枝のようなものが、浅瀬に乗り上げたポプラの幹や枝にひっかかって、だんだんと小さい島ができあがり、そのそばを流れが快いさざめきを立てながら流れている。ガンが頭上を飛び去った。まだ細工していないルビーのような太陽が、砂の霧の中を沈んでいく。
四月十日の夜から十一日の朝にかけて、最低気温はほとんど零度まで下った。春の終わりにしては驚くべき寒さだ。むしろ秋の訪れのようである。しかしよく晴れて澄み渡った日であった。いつも同じな、かなり単調な舟旅なのに、こんなことでもあると、やはり気分が新しくなり、気持も引き立つ。
二、三の屈曲点を通り過ぎてしまうと、急に川はしばらくのあいだ、ほとんど一直線に東北東に延びているように見えた。左岸のかなり前方、砂丘のタマリスクのあいだに、数個のテントと騎馬・徒歩の一群の人間とウマが見えた。
「あれがサイ・チェケだ!」と船頭のサディクとハジトがいった。
あれこそ、われわれと別れた隊員との再会に定めておいた「砂利《じゃり》砂漠の川の曲がり目」だ。
陸を踏むと、一同いっせいに「ばんざーい!」と叫んだ。蓄音器は行進曲を奏《かな》でた。みんなで握手をかわし、トゥルファンへ往来する商人たちに見守られながら、砂丘のあいだのキャンプに集まった。上流が一望できる高地の絶好な場所を占めている、ベルクマンのテントに招待された。コーヒーとバター付きパンとが出された。それをとり囲んで、お互いの話がやりとりされた。夕方、ゲオルクは自分のテントで歓迎会を催した。テントのまん中では、火がトルガン〔料理鍋を支える二重鉄輪〕のなかで燃えていた。オレンジ色の光が、風雨にさらされたスウェーデン人、中国人、ロシア人、トルコ人、モンゴル人の顔の上にさしていた。白ひげのオルデックも顔をほてらせて坐っている。サリ・ベックもいた。お茶はつぎつぎに注がれ、数か国語で活発に話がかわされた。それは絵のような光景であった。そのいきいきとした色彩は、トルガンから絶えず立ち上る煙で和らげられていた。
自分のテントに帰って行くとき、いつもならたまにヒツジ飼いのたき火から立ち上る煙しか見られないこの人気ない左岸に、ふだん見られない光景が展開されていた。十六を下らぬ焚火《たきび》が今すぐそこに、川上の岸に沿って一連の真珠《しんじゅ》をつらねたように点々と燃えている。クチャとトゥルファンから来た商人たちがキャンプしているのである。この燭光《あかり》は海辺の町の海岸通りの一つを思い出させた。下流には、たった五つの火しか見られなかった。そのまわりでは、われわれの従者や船頭たちが夕食をとっていた。
「砂利砂漠の川の曲がり目」――じつにこの名まえこそは、この地点で砂漠が川岸に達し、死の沈黙が支配している息づまるようなかわいた荒野が、コンチェ河によってはぐくまれている生命へ向かって延びていることを意味している。サイ・チェケにキャンプしたのは、これが最初ではない。三十八年前、一八九六年の三月二十三日にかつてきたことがある。しかし、そのときはラクダとウマを伴っただけであった。
四 コンチェ河上の旅
四月十三日、コンチェ河岸の砂丘のあいだにある絵のような町サイ・チェケを出発し、未知の国へと旅立った。アシでおおわれた一連の長い島々が両岸に沿って並んでいる。両岸もまたアシで一面黄色くなっている。ガンや野ガモやその他の水鳥がときどき、羽をばたばたいわせ、警戒の鋭い叫びをあげて飛び立つ。草ぼうぼうとした小島を通り過ぎたとき、一人の船頭が岸に飛び上がり、カモの卵を六つ持ち帰ってきた。川なかのアシの一叢《ひとむら》から雌鳥が飛び立つときには、たいてい卵のある巣から出てくるものらしい。
茂った灌木のあいだで、エラシンの鉄砲が二発響いた。イノシシを手|負《お》いにしたが、そいつは逃げてしまった。
すこし前方で燃えている灯心草の中から黒い煙が立った。ガソリンをつんだ舟に火がついたのではないかと心配したが、そうではなかった。舟は後方にある。二隻のガソリンをつんだ舟をキャンプ・ファイアから、いつもかなり離して風上につなぐようにしてある。
ときどき、空はひっそりとし、川は鏡のようになめらかになった。そのうちにブヨがまわりに踊り始めた。蚊帳《かや》をかぶり、シガレットを吹かして、できるだけ防いだ。たそがれがとっぷりと川の面をおおい始めたとき、一行は左岸の疎林と倒木のあいだにテントを張った。露天に料理道具が並べられた。まもなくご馳走のはいった鍋《なべ》の下で火がパチパチなりはじめた。川はこの日も予想外に深かった。八メートル以上もある。
四月十四日の朝、出発するころ、キツツキが忙《せわ》しげに木の幹をつついていた。舟隊は面岸に樹木のある、澄んだ緑の川を快速ですべって行った。そしてふたたびアシの密生した、点々と散在する小島について下った。右岸にキャンプしたセペ・ニァシギでは、翌朝チャラ出身のベックアラ・クルの訪問を受けた。彼は百五十キロの小麦粉と五本の新しいオールと五十四メートルの魚網とを持ってきてくれた。彼はサットマ〔ヒツジ飼いの小屋〕で、お茶とパンと卵とで私たちをもてなし、ヒツジ一頭を贈ってくれた。彼の連れのうちの数人はヤンギ・コール生まれで、私が彼らの故郷へ訪問したことをまだ覚えていた。三十四年間の貧苦と生存のための苦労も、それを彼らの記憶から抹殺しなかったのだ。訪問者の中にはオルデックの妻と嫁もいた。
もう少し行ったクユシュと呼ばれる村で、村長のユスプ・ベックに会った。彼はシャスリックをご馳走してくれた。村長らといっしょに老ホダイ・クルがいた。彼は一九○○年の春、私の河床旅行に参加したのである。しわがふえ、腰は曲がっていたけれど、難なく彼だとわかった。こんなにも長い年月を隔てて再会し、昔の冒険を思い出すことは、老いた従者たちにとっても、私自身にとっても嬉《うれ》しいことであった。
なおしばらく降って、ふたたび止まった。そこではディルパル河の分流が、わずかに毎秒八立方メートル以下の水量をコンチェ河に注入していたにすぎない。
その日のキャンプ地ドゥッテでは船員、ベック、牧人、オルデックの家の女づれなどの訪問者をいれて三十人以上の人数にも達した。
四月十六日にもう二つの支流グルグルとアク・バシュがそれぞれ十五立方メートルと三・七立方メートルの水を運んでくるのを測定した。この二つの川の水は天山に源を発し、シャー・ヤールとクチャの南方を流れるインチケ河からくるのである。分流グルグルには高さ三メートル足らずの滝があり、その下には絵のような木橋が掛けられている。この分流は秋には一メートルは高くなる。すべての分流は、最後にはチョン・コール湖からくるのだといわれている。ヤルカンド河、すなわちタリム本流は、ヤンギ・コール湖に流れて、夏のあいだはほとんど干上がってしまう。
その日のキャンプの近くに七十六歳の老人イスラムが住んでいた。彼はその父親と同様にそこで六十年暮らしてきた。彼はヒツジを四十頭、ウシを二十頭、ウマを三頭、それに五、六頭のロバを持っていた。
育ちかたの悪い、わずかなポプラのあいだを流れに従って下っているあいだ、さわやかな微風がさらさら音を立ててアシを吹き鳴らしていた。川はひどく屈曲していた。ときどき、航路がまさに円になろうとする最後の瞬間に、さんざん時間をかけてまがってきた努力もむなしく、川はまた反対の方向に振れもどった。牧人たちや、その他の放浪者がまたやってきて、卵や魚をくれた。しかしこういう好意の訪問者のために時間をつぶされることがひどいので、だれにも邪魔されない地方へ、早く行ってしまいたいとさえ思った。
ちょうど「七本ポプラ」とよばれている一群の木立ちを通り過ぎたとき、行く手に鈍い轟音を聞いた。川幅はわずか七メートルにせばまり、流れは速くなった。なにがあるのか見きわめ、もし恐ろしい激流でもあったら、難破を避けるように上陸しなければならない。
偵察がすすむと、私は全速力で進めと命じ、船隊を率いて危険な個所に向かった。轟音はいっそう高まり緊張は増した。こぎ手たちはわめき立て、警戒の鋭い叫びを発した。しかし私の二隻立てカヌーはすでに激流のまん中におり、白いすさまじい波頭を立てた波がわれわれのまわりで踊っていた。こぎ手たちには、一かばちかだということがわかった。彼らは岸に平行に舟の進路をとり、油断のできない浅瀬と岩との間を前進した。彼らはもしも舷側《げんそく》を流れに向けたら、とたんにカヌーは水びたしになり、必ず転覆することを知っていた。
川はちょうどその場所で非常に鋭くS字形に二度曲がっていたので、なみなみならぬ注意が必要であった。波はカヌーを洗い、あたり一面しぶきを上げ、しゅうしゅういった。一刻ごとに座礁しやしないか、転覆しやしないかと思った。奔流の怒号で叫び声は後方にかき消されていった。しかしもう半ばを通り過ぎていた。白い波頭は小さくなり、川はふたたび広くなり、そして水は静かになった。すべては一分間のできごとであった。つぎの瞬間には舟は安全に岸に沿って走っていた。そこから他の舟が危険な岩と浅瀬のあいだを通る道を探してけんめいの努力をしているのを見た。わずかにガソリンを積んだ舟が座礁したのみであった。激流を脱すると、ほかの舟の連中は座礁した舟まで岸伝いに舞いもどって、ドラム鑵《かん》を二つ三つおろして、舟を離礁させた。
カルプック・オチョグで左岸にテントを張った。みんなまだ肝を冷やした激流下りに興奮していた。そして、もしまだこんな場所があったら、どうしようと思った。カヌーは「七本ポプラ」の激流よりひどいところではとてももたない。ヒツジ飼いたちがきてヒツジを一頭くれた。それで七頭になった。その夜、一頭を殺して大成功の激流越えを祝った。
四月十八日の朝出発するときには、冷たい東風が頬をなでて過ぎた。二メートルから三メートルぐらいの高さの段丘の陰に沿って行ったときには、崖下の冷気に肌寒さを感じて、手もとに軽い羊皮の外套のあるのが嬉しかった。しかし日が高くなるにつれて暑くなり、二十五度まで昇った。孤立した弱々しいポプラが、そこここに生えていた。そして段丘をなした南岸が流れの上にのしかかり、その裾は水の中へ引いていた。幾隻かの舟には、にぎやかに鳴くニワトリだのヒツジが乗っているものだから、この小船隊はまるで漂流している農家のようだった。船頭たちは歌った。しばしば一種の輪唱歌曲で調子のいい歌を歌うと、こぐのに力がはいる。北から北東にかけて、クルック・ターグ山をかすかな輪郭ながら、はっきり見ることができた。
トメンプーに上陸したのは、もう五時に近かった。トメンプーはコンチェ河の右岸にある非常に興味深い場所である。高さ四メートルの段丘が岸に沿ってまっすぐに走っている。大きくあけひろげた出入口に似ている四本の平行通路が掘られているために、段丘は奇妙な外観を示している。四年前、アンバンの命令でこの塁壁の下に川を横切って堰堤《せきてい》が築かれた。なぜなら一九二一年に、コンチュ河が旧河床を去って、クルックすなわちクム河のかわいた河床に流れこんだのは、ちょうどこの地点であったからだ。私はそのかわいた河床を一九○○年にたどって行って、地図につくったのである。二、三年の間に事実上、全部の川がクム河の河床に流れ込んでしまって、以前ティケンリックまで流れていた「古い河」コナ河はほとんど乾いてしまった。ただ秋にだけ、いくらかの水がまだこの河道をティケンリックまでくるが、これは農業のためにはほとんど役に立たない。
五 クム河の旅
一九二一年に新たに生まれたタリム河が砂漠の中へ新しい道を求めて――もっと厳密にいえば、その古代の河床へ、すなわち西暦四世紀ころまで流れていた歴史上|由緒《ゆいしょ》深い水路へ復帰するために、コンチェ河の旧河床から流れ出す地点である、トメンプーに別れを告げるときがきた。
トメンプーというところは、先年までティケンリックの畑地に灌漑《かんがい》しつづけるために、コンチェ河の河床に水をもどそうとして住民がむなしい努力をした場所である。私はここで船頭たちや村長《ベック》たちに、この川の性質と、どこまで航行できるかということについて詳しく質問した。しかしそれについては、だれも知っている者はなかったし、だれもカヌーでそこへいってみたものもない。ある占《うらな》い者は、一行は危険な激流にあって難破するか、新しいアシがすきまなく生えている湖や、沼沢にぶつかって、しっかり捕えられ、脱出できなくなるだろうと予言した。
四月二十日の朝、新しい船頭を四人つれてきた三人の村長、イサ、ハブドゥル、エミン・ベックと、そしてコンチェ河に別れを告げた。
村長と住民たちは岸の上に立ち、心配そうな顔で去り行くわれわれの船隊を見送っていた。彼らはきっとわれわれが破滅する運命にあるのだと思っていたにちがいない。しかしわれわれに希望をかけてもいた。なぜならこの地方の灌漑を根本から改良することを、われわれに南京政府にはたらきかけてほしいと依頼していたからである。
出発すると、まもなく眺めが極端に激しい変化を示した。舟は最後の生物であるポプラの木立ちの間をすべるように進んだ。ポプラは変化つねない川の上に、高く春の緑葉の冠を掲げていた。しかし南と東に向かってこの川沿いには、これから以後はただ一本の緑のポプラも見られないだろう。森林地帯の川から砂漠の川への変化はたった一回の屈曲によって起こった。そこを過ぎると、あたりは一面むき出しの荒々しく、淋しい地帯になった。こうして川は平坦な黄色いロプ砂漠へと向かった。川幅はほぼ百五十メートルに広がり、浅くなった。この日の旅の最大水深は四メートルであった。両岸はくっきりきわだって、垂直に川に落ちこんでいた。砂丘とタマリスクの茂みとが浸蝕作用のために切りさかれ、タマリスクとアシの根が、やさしくささやいている水にカーテンのように垂れ下がっていた。墓場のような沈黙がわれわれを取り囲んでいた。ただ岸の頂きから砂と粘士の塊《かたま》りが落ちるときのざあっという音が、この沈黙をかき乱すだけであった。コンチェ河の水は澄んだ淡緑色であったが、ここでは川は両岸からの絶え間ない地すべりで水面は脹《ふく》れ上がり、灰緑色になっていた。枯れかかったポプラの木立ちは、水がまた帰ってきたので息を吹きかえしていた。そちこちに灰色の、からからになった枯木の幹が見えた。そして流れの中央には、大小の枝が、隠れた砂州に乗り上げて川面から突きでていた。河床のほぼ半分は、砂州に占められ、いまのように水位が低いときには露出している。
岸の上には灯心草が、あるときは左に、あるときは右に、黄色く一面に生えている。昼すぎおそく、川は高さ約七メートルの裸の砂丘のあいだを突っ切って進んだ。水流はその砂丘の下を洗い、砂は落ちて水に運ばれ、新しいデルタをつくっている。とある砂丘の上に、三頭のカモシカが大空を背景にその美しいシルエットを見せた。彼らは驚いて二、三秒じっと動かないでいたが、やがてしなやかな跳躍をして、風のように消え失せた。右岸を船隊についてきた犬のタジルは、すぐあとを追うのをやめてしまった。その後、終日生きものの影すら見られなかった、一羽の鳥も一匹の魚も。所によってはかなり遠方まで緑の一点も見えない。やがて一行は四面ただ砂漠だけに囲まれてしまった。
この川は湖のように広がる傾向がある。水路をたどって行くのも、進路を見つけるのも困難である。前方の両岸が堅い陸地になっているように見えた。しかし、こぎ手たちは進路をまちがわない、すぐれた直感力を持っていた。ときどきまったくふいに岬《みさき》をまわっている自分に気がつくことがあったが、そこを越えるとまた新しい見通しが開けるのであった。川はしばらくのあいだまっすぐに流れていた。空と水とは、一つに融《と》けあっているように見えた。あたかも果てしない大洋に向かって入江をこぎ出したかのように思われた。ぼうっと暗く、たそがれ始め、太陽はもやの中へ沈んでいった。暗くならぬうちに右岸に上り、テントを張って夕ベの火を燃やした。
こうしているうちに、新しく復活した歴史的河川の第一日は終わった。一九○一年に発表した私の予言が実際に証明されるのを、私自身が目撃しつつあると思うと嬉しくもまた幸福でもあった。このことは新旧二つの両クム河とも私自身の川だという感情を呼び起こした。私は一種の畏《おそ》れに似た心のときめきを感じた。たしかにこの場所こそは、一九○○年三月に私のラクダが通った場所である。これからは日々、新しい感動が生まれるであろう。われわれははたしてこの小舟で川の終点まで行きつくことができるだろうか。
夕暮れ近く、空は美しく晴れわたり、永遠の星がキャンプの上にきらきらと輝いた。料理人と船頭たちの焚火《たきび》から、煙が星の方へと立ち昇り、沈黙する砂漠の神秘な無限が周囲をとりかこんだ。
新しい日は肌《はだ》刺す風に明けた。われわれを強風から守ってくれたコンチェ河の林は見えなくなった。むき出しな、恐ろしいほど荒廃した地方にきたのだ。両岸は高さ三メートルもある。われわれはできるだけその下の風かげを求めて進んだ。
二、三時間してトゥルファンからティケンリックへ行く隊商路が川と交差する地点に着いた。そこは営盤《インバン》の近くで、いまから二、三千年前、古い「絹の道」に沿って中国人の堡塁や寺院のあったところである。一九二八年二月二十日、私はトゥルファンで初めて、この町からティケンリックヘ行く道が、営盤付近で渡し舟を使わなければならないほど大きい川と交差していることを聞いた。同時に、私はタリム水系の水がその旧河床に復帰したことを知った、はるか東方、楼蘭の北方のデルタで分かれているその河床に。
風がかなり激しかったので、左岸にあるトゥルファン街道の渡し場に上陸した。二、三隻のカヌーが岸辺に横たわっていた。渡しもりのオスマンは、われわれが上陸するところへやってきて挨拶《あいさつ》した。彼はわれわれの自動車隊がシンディ渓谷の入口に三日間いて、そこからティケンリックの村長と私に手紙を依頼したといった。彼はベルクマンからの手紙を右岸に置いてきたので、カヌーに乗って取りに行った。まもなくまた帰ってきた。そして、外套《チャパン》や帯の間を探したが手紙は見つからなかった。きっと風と水が運び去ったに違いない!
風は増してほとんど強風になった。私は船上の書きもの机に向かってすわりながら、毛皮の外套にくるまっていた。白波が川を横切って追いかけ合い、小舟を危く浸しそうにした。こんな天候に出かけてもしかたがない。舟は水浸しになって沈んでしまうだろう。われわれはキャンプすることを決心した。
ラクダをつれた騎乗者が二、三人、右岸の頂に砂塵《さじん》を通してぼんやり見えた。トゥルファンへ行く商人たちに違いない。彼らはオスマンに川を渡りたいと合図した。オスマンはカヌーに乗って出かけ、ちょっとのあいだ上手まわしに舟をやったが、すぐもどってきた。波がかぶってだめなのだ。彼はふたたび出かけ、船体を突込みながら、白い波浪とたたかった。舟を半分水浸しにしながら、ついに渡河に成功した。
四月二十二日は暴《あ》れた夜の後にくる静かな晴れた日であった。川幅は二百メートルほどに広がったが、最大水深はわずかに三メートルあまりであった。川の大部分は非常に浅かった。小麦粉をたくさん積んだこぎ手一人きりの二隻立てカヌーは、よく岸に乗り上げた。船頭はオールで力いっぱい押した。舟はすべり出したがオールがくっついてしまい、その男はバランスを失ってころげ落ちた。舟はこぎ手を砂州においてきぼりにしたまま、勝手に流れて行ってしまった。われわれはどっと彼の災難を笑ったが、だれかが一人、舟をそばまでやって助けてやった。私の舟も座礁した。すると、ほかの舟がす早く追いついてきて、私の舟に打ち当たった。舟はぐるりと一回転して離礁した。
両岸はさむざむとしていたが、やがてひからびたタマリスクのかたまりと、まだ生きている灌木が黄色いアシの茂みのあいだに現われた。三人のヒツジ飼いがヒツジを連れて休んでいた。彼らは一行を見て逃げようとしたが、われわれは彼らを安心させ、二頭の肥えたヒツジを買った。若いヒツジ飼いに、この川の名前をなんというかときいた。するとはっきりクム・ダリヤ、すなわち「砂の河」と答え、クルク河《ダリヤ》「乾《かわ》いた河」とはいわなかった。しかし、どこへ流れて行くかは知らなかった。
二、三本の枯れしぼんだポプラが、十字架のようにいまだに岸に立っていた。左岸には高い段丘が、流れにのしかかるようになっていた。舟はその下を無事に通り抜けたが、ちょうどつぎの舟が通りかかったとき、大きなかたまりがくずれ出し、水の中に落ち込んだ。二人の船頭は頭からずぶぬれになってしまった。みんなは驚いて声高に騒ぎ立てたが、それよりむしろおかしくて笑いこけていた。
川はまっすぐに、かなり長いあいだ南東と東南東に流れている。太陽は後方に沈みかけ、前方には一帯のアシ叢《むら》が黄色い線をなして現われ、その上には巨大な、イルカに似た形の砂丘が頭をもたげていた。夕方、きわめて危険な上陸をした。川は前方でふたまたになり、島の両側に分かれていった。私の舟はひどく乗り上げてしまった。他の二隻はこちらからは見えない島の北岸に上陸した。三隻の舟はかなり上流の右岸についた。私の舟はようやく離礁すると、相当強い流れをさかのぼって、暗くなりかけたころ北岸につくことができた。墨を流したように暗くなったが、食料をつんだ舟はまだ見えなかった。はるか上流から鉄砲の合図があった。われわれは岸に火をもやして答えた。彼らは座礁して、暗がりの中を離礁できないでいるにちがいない。困ったことには、台所道具が全部その舟にあるのだ。
翌朝、ちりぢりになった小船隊を集めた。すると食料船がほかの舟といっしょに現われた。出発すると、船隊は左の分流を選んだ。それはクルック・ターグ山南麓の、トルコ人がサイとよぶ砂利の平原ぞいに流れている。分流は狭くて――幅十メートル――タマリスクの茂み、粘土のかたまり、アシの叢《むら》のあいだを運河のようにまっすぐに、深く流れている。右岸にヒツジ飼いの小屋とヒツジ小屋が見えた。
両岸に沿った段丘の高さは三メートルあった。がけ崩れで二、三メートルも河中へすべりこんで、かなり波を立てていたので、すぐ近くを通る舟にとっては、あまりよい気持はしない。右方から分流が注ぎ込んでいる鋭く切り立った突端《はな》を過ぎた。その根もとには渦が巻いているので、用心しなければならなかったが、しかし無事にそこを通過して、川幅が十三メートルぐらいの別な分流にすべりこんだ。日も暮れかけてきたので、ここでキャンプした。
四月二十四日は感激の深い日であった。朝、船頭たちが左岸からあまり遠くないところに、自動車タイヤの跡と、五人の足跡を見つけた。自動車が通ったのだ。そのうえ、そこはわれわれの会合地点になっている、私にとってなつかしい泉ヤルダン・ブラクからはそう離れてはいないのだ。午後、望遠鏡にテントが一つ見え、まもなくほかの舟の連中も左岸に人の群れが見えると叫んだ。もうなんの疑う余地もない。これはヤルダン・ブラクから遠くない根拠地である。
私の舟の船頭は両足を広くふんばり、オールをまっすぐ水中へ突きさして力強く進んだ。二隻立てカヌーは舳《へさき》に泡を立てながら野ガモのように前進した。ひっきりなしにオールのぱしゃぱしゃという音が聞こえる。ここでは川はまっすぐに北北東に流れていて、われわれの到着を待っている他の隊員もだんだんはっきり見えてきた。歓声をあげたり帽子を振ったりしている。われわれの舟は急速に岸に向かって進んだが、川が深かったので、いきなり小さい突端に猛烈に突きあたり舳《へさき》のサディクは平衡を失って、まっさかさまに川に落ちこんでしまった。水中に姿を消したが、じき浮かび出て岸にはい上がり、ぬれ犬のように身体《からだ》を振った。どっと笑い声が起こりユーモラスな質問が浴びせられた。なにか見つけたのかい、魚でもいたのかい、ぬれたじゃないか、などと。
われわれは、スウェーデン国旗のひるがえっている、三人のスウェーデン人のテントの中で、盛大なコーヒーパーティを開いた。彼らは北方かすかに屋根が見えるクルック・ターグ山麓に沿って踏破した困難な旅について語った。一同はすでにコルラで討議した計画について長いこと話し合った。私は、ロプ地方で過ごすことを許されている二か月間を、アルトミッシェ・ブラクを通って、われわれの根拠地から甘粛省の疏勒河《スーローホー》と敦煌へ行く探検旅行のために使うことを提議した。そこは二千年前ロプ湖《ノール》、楼蘭、クム河を経て敦煌からコルラへ行く交通路があった場所である。数十万のラクダとウシ車が西暦紀元三三○年ころまで五世紀近いあいだ、この道を往復していたのであった。川と湖が南方に移動したとき、楼蘭は見捨てられ、古い「絹の道」のこの部分は廃絶してしまった。いまその川と湖は昔の歴史的な河床に復帰し、この古い「絹の道」を復活すべき時がきたのである。私は、南京政府に提出した最初の覚え書で、甘粛省から東トルキスタンヘの通商路をはじめることによって、中国本土と共和国中最も大きくまた最も僻遠にある新疆《しんきょう》省との連絡を強化することの重要性を指摘しておいた。
一九○○年に行なった第一回探検後だいぶたってから、オルデックは南の砂漠で奇妙な発見をした。われわれの計画中最も重要な計画は、それについて彼が語った不思議な、感動的な報告に刺激されたものである。彼は楼蘭での発見に刺激されて、もう一度やってみようという気になったのだ。砂漠の奥には、おそらくそれにくらべれば楼蘭の発見などは、ものの数でもない、黄金やあらゆる種類の貴重品がはいっている墓など考古学上の遺物が隠されているだろうと、こんなふうに考えたのである。
十年前、すなわち一九二四年に行なった最後の探検で、オルデックは一八九六年に発見された、いまではすでに乾《かわ》いている旧湖アヴル・コールから、道を東にとった。砂漠にはいってから一日行程の所で不思議なものを発見した、と彼はいった。ある場所で堅固な木棺が無数にある墓地を発見した。五つ六つ棺を開けて見ると、その内部には見事な彫刻があり、しかも彩色されていた。立派な絹の上衣を着た、よく保存されているミイラのほかに、棺には奇妙な文字が書かれ、はなやかに彩色された紙がたくさんはいっていた。
少し離れたところに、戸が開け放しになっている家があった。彼は狭い窓から射し出すまばゆい光を見て、恐ろしさのあまり家に近づく勇気が出なかった。なぜなら疑いもなく、幽霊や妖鬼《ようき》が出没して、近くへでも行こうものなら殺されるに違いなかったから。またはるか東、楼蘭の方向に二つの立派な高い望楼を発見した。この望楼の話で、われわれは古い「絹の道」はこの辺でクム河の南を通っていたのではないかと考えたのある。さらに東に、墓地からはるかに離れて、おそらく楼蘭に属する一宇のブドゥ・ハーネ(仏陀《ブッダ》の家)すなわち寺院があった。
オルデックの想像は自由にかけめぐった。彼はしょっちゅうやってきて私のテントの入口にすわり、なにか新しく思い浮かんだ、こまごましたことを話した。ベルクマンと私とは、これらの、不思議に心をそそるような叙述には、実際、なにか根拠があるにちがいないと思わないわけにはいかなかった。その望楼が古代の道路を探し当てる手引きをしてくれるだろうと考えた。その大きな墓地が、私自身が発見した楼蘭出土の古文書にある場所のどれかに似ておりはしないかと思った。そこで私がロプ湖へ行くあいだに、フォルケ・ベルクマンとゲオルク・ゼーデルボムとは、以前アヴル・コールがあった地方へ向かって砂漠へ出発するということに決定した。彼らは従者を二人とオルデックを案内者として伴い、荷物は、戦争で荒廃したこの地方で集められるだけの二、三頭の駄獣に積んで行くことにした。
六 神秘の砂漠
全体の計画は大胆な、むしろむこう見ずなものであった。水が東の方へ、すなわちクム河《ダリヤ》がロプ湖《ノール》へはいりこむ地方まで、流れ続けているかぎり、旅行はむしろ容易なものであるが、万一自動車隊が帰ってこないとしたらどうなるのだろうか。われわれの予測では、順当にいけばガソリンのたくわえは、|敦煌《トンホアン》から遠くない疏勒河《スーローホー》が流れこむ湖まで行って、それからヤルダン・ブラク付近の第七十号キャンプヘ引き返すまでもつはずである。しかし地面があまり乾きすぎていて普通の量の倍のガソリンを消費しないという確証がはたしてあるだろうか。そのばあい、自動車は敦煌まで行くことはできようが、帰ることはできまい。そのうえ、そんなことにでもなったら、盛世才は、隊員全部が二か月の後にはウルムチにいるようにと約束しておいたのに、その半分は新疆《しんきょう》省から逃げ出し、東の甘粛《かんしゅく》省の方へ行ってしまったのだと非難するに違いない。
しかし、私にとって重要でなつかしいクム河の屈曲を、残らずだれよりもさきに地図に記入するという魅力ある希望が、ほかのすべての考えを圧倒してしまった。いまのところ、われわれの旅行にはどんな障害も起こらないであろう。もう一度、ロプ湖地方へ来るために、私はどれだけの努力を払い、どれだけの苦しみに堪えてきたことか。むかし、自分のたてた学説が現実に証明されたことをこの目で見ることになったのだ。もしだれかが行李《こうり》と食糧のたくわえをかかえて、どうして帰るつもりかとたずねるなら、私は簡単に答える。
「目指す湖に到着することができさえしたら、なんとかまた帰る方法は見つかるだろう。単独なカヌーなら扱いやすいが、しかしそれにしても流れを遡《さかのぼ》って行くのは、容易ではあるまい。もし自動車がきてくれなかったら、そのときは船頭を徒歩で川を上らせ、ティケンリックでロバと馬とを五、六頭集めさせる。しかし最悪の場合には歩いても帰るつもりだ」と。
わが艦隊はもとのままであった。私はいつものように横に渡した厚板の上に腰をかけ、両方のカヌーに片足ずつ突っ込み、からの荷箱を書きもの机にした。テーブルの下へ膝《ひざ》を入れ、そのうえ、地図箱や望遠鏡やその他いろいろなこまごました物をいれる場所をつくるために、箱の底は抜いてあった。携帯用寝袋を背中の支えとして、ペンを右手に、巻きたばこを左手に、羅針盤と時計を前において、いつも机にひじをついて、よりかかっていた。
何艇身も行かないうちに、一羽のめんどりがけたたましく鳴きながら、ばたばたと羽ばたいて、やっとのことで岸に飛びついた。同時にヒツジが一頭舟からとび出し、右岸まで泳ぎついて、すぐに裂けた地面のあいだに姿を消した。動物たちは不吉なことが起こるのをかぎつけ、まだ逃げられるうちに逃げるのが最も賢明だと考えたのだろう。
ふたたび大砂漠の中に出た。これは西暦三三○年ごろ、川が旧河床を捨てて南へ移って以来、何世紀ものあいだ死の沈黙を守っていた砂漠である。だが、ふたたび水が帰ってきて、古い乾いた河床を満たし、アシやタマリスクやポプラやその他の植物の種子が流れに運ばれて岸にただよいつき、芽を出し、根づき、新たな生命を得て成長しつつある。いま通過している地方には、枯木や流木さえもないが、それでも両岸に沿った、そちこちにはアシがかなり密生している。それは去年の草で、みんな黄色く枯れている。しかし新鮮な緑の芽を出し、荒れ果てた灰色の風景に生命と色彩の感触をもたらすのも、そう遠くはあるまい。岸づたいに枯死したタマリスクのかたまりが相ついで点々と現われてきた。それはモンゴルのユルト(包《パオ》)〔羊毛でつくったモンゴル人の半円形テント〕に形が似ていて、しげみの奥には根の残りが隠されていた。
河床は広く浅く、深さはわずか三メートル足らずしかない。
さっき逃げたヒツジが右岸のアシ叢《むら》のなかで草を食べているのを見つけた。一回は上陸してつかまえに出かけたが、この逃亡者は足が早くて追手から逃げてしまった。われわれのキャンプはその夜、あかるい銀白の月光に照らされた。夜〔四月二十八日〜二十九日〕の気温は○・七度まで下り、この季節としては例になく低かった。
たまたま、美しい紫色《むらさきいろ》の花のふさをつけたタマリスクの藪《やぶ》を通り過ぎた。また、小丘の上に枯木にとり囲まれて、たった一本生きているポプラが立っているのを見た。ときどき、いろいろな種類の水鳥、とくにカモとカモメがいた。小鳥もいた。
クルック・ターグ山が北方にはっきり見えた。山の手前は、非常に特色のある河岸段丘で、はるか昔に川の侵蝕作用でつくられたものである。左岸の岬の小丘上に、タマリスクがまるで王座にでも坐っているように見えた。幾世紀ものあいだ枯れてはいたが、まだ潜在した生命力をもっていたので、川がもどってきたいま、ふたたび生命《いのち》の生息《いぶき》を吹きかえしてきたのだ。タカが一羽、われわれの頭上を飛びすぎ、四頭のカモシカが跳んで逃げた。
川はたいへん奇態な曲がり方をしていた。目的地は東にあるのに、われわれは西に向かっていて、まともに顔を夕日に照らされた。九時間に三十二キロ足らず進んだ。水速は毎秒わずかに〇・四五メートルであったが、毎秒○・八三メートルの速さでこいだので、われわれの舟の平均速度は毎秒一メートル以上に達した。最も深い所は約六メートルはあった。砂丘のふもとにキャンプした。そこにはかわいた木が十分あった。テントのまわりで黒い粘土のつぼや皿を発見した。
翌朝、出発したときには、川の面は鏡のようであった。川は鋭く切り立った段丘と、まだ立っているものもあれば、倒れているものもある、かなり密生した枯木の下を、東北東に向かって二、三時間進んだ。クム河はときどき広く、堂々たる流れになった。われわれは左岸の丘の上にわずかのあいだ上陸した。
死の刻印を押された黄色い砂漠が、北方に伸びている。そこにはえんえんとした起伏、それはヤルダンという、風で奇妙な形になった粘土のかたまりが重なり合っている。ヤルダンとヤルダンとのあいだは深い通路になっている。この風景はまえの旅行のとき、深く心に刻みつけられて、ずっと忘れられなかったものである。この光景は岸まで迫っているが、風と乾燥に破壊されて、まるで昔の栄華をきわめた人の埋葬地の巨大な柩《ひつぎ》、その長い列のようだ。しかしこの広い墓場には、流木や岬のまわりに、つぶやく水の歌う生命の歌がふたたび聞かれ、植物や動物の生命が新たに生まれてきつつあるのだ。
河岸の段丘は高さ五メートルもあり、まっすぐに切り立っている。川に洗い流されてできた洞窟《どうくつ》の上に、白っぽい粘土のかたい屋根がのしかかっていた。タマリスクやアシの根がときどきその入口の上にシーツのように垂れ下がっている。たびたび粘土のかたまりが水に落ちる音が聞こえた。河岸段丘はスピッツベルゲンやグリーンランドの氷河のようにして形成されたものである。
夕方、テントを張るまでに三十キロ進んだ。この日の最大水深は四・三メートルであった。
五月一日。まるで田園にでもいるようだ。甲板の下にある檻《おり》の中ではおんどりが鳴いたり、小麦粉袋のあいだにつながれているヒツジがつぎのキャンプを恋しがって鳴いていた。
前方に激流の昔が聞こえる。やがてそこに着いた。船頭たちは流れに沿って、まっすぐに舟をあやつり、周囲にたわむれる波を越えて前進した。
まもなく、樹齢三、四年の小さい二本のポプラのそばを通り過ぎた。それから、すぐまた二本のそばを。これらは数千年前の楼蘭時代のような、樹林の先駆けであった。すこし行くと、左岸にまた一本の生きているポプラが春の緑に萌《も》えていた。われわれはここで上陸した。そのポプラは数百年来枯れていたのであるが、一九二一年に水が立ちもどってから生命を吹きかえしたのだ。それはハート形をした鋸歯の葉に厚くおおわれていた。そのそばの根づいた若木は細長い葉をつけていた。この木は一定の年齢に達すると葉がハート形になる。この種類のポプラがラテン名をポプルス・ティヴェルシフォリアとよばれる理由である。しばらく香《かぐ》わしい緑の木陰にすわり、砂漠に生命のよみがえるのを、夢見るのは楽しかった。
鋭い屈曲、岸に打ち上げられた流木、つぶやいている水、生きているタマリスクとアシ。川幅は垂直な段丘のあいだで十五メートルあった。流れの速度は増していた。砂は砂丘から高い段丘の縁を越えてすべり落ち、小さい滝のように川の中へ流れこむ。はるか遠くに、ものすごい音を聞くことができた。爆弾が破裂したような砂煙が上った。白波が川幅三十メートルもある川を横ぎって走り、われわれの舟は大きいうねり波の中で楽しく横にゆれた。
また前方に轟音が聞こえた。嵐が起こったのだろうか? 音が大きくなってきた。また激流だ。偵察のために上陸した。それから激流を無視して、逆巻《さかま》いて突進する水上を下った。「すぐにひっくり返りますよ」とサディクはいったが、そんなことはなかった。無事に通過して、ふたたび静かな水面に出た。
暗くなりはじめた。テントを張るのに都合のよい平らな地面を見つけしだい、キャンプしなければならない。しかしそんな場所は、ヤルダンができてひどく破壊された地方にはめったにない。最後にわれわれが選んだのは、風変わりな場所であった。それはヤルダンの頂点にあって、高さが七メートル、その表面は床《ゆか》のようになめらかであった。そこにテントを張り、料理器具をおいた。船頭たちは低い、くぼ地を選んだ。ヤルダンの山脈は北北東から南南西へ走っている。その頂上から見ると、ヤルダンの波を越えて見渡すかぎりすばらしい眺望がひらけている。川はこの地点では幅四十五メートルで、この高みから見ると、狭く小さな運河のように見える。
「今夜もし風が出たら、テントは飛んでしまうだろう」と私は考えた。
しかし目をさましてみると、テントはちゃんとそこにあり、下の流れは鏡のように静かであった。
川はまもなく八十メートルから九十メートルに広がり、相当な水量があった。小さい砂州のために、じょうご状の渦巻きができていた。新しい地すべりの音が絶え間なく聞こえる――河床を切りひらきながら、水は活動しつつあるのだ。サディクは休みなしに九時間も歌をうたい、ほかの連中はそれに合わす。いつも同じで、恋、冒険、戦争、聖者の生涯などの歌である。
岸の高さはわずかに一メートル足らず。カモシカが一頭草を食っている。土が両側から同時にすべり落ちた。白波が流れの中央でぶつかり合い、小さいうねりを起こした。舟が水面すれすれに隠れているヤルダンの頂にぶつかった。
われわれはかなり高いヤルダンの上から陸地を偵察した。段丘のあいだに閉じこめられた川は深い渓谷のようだ。三十四年前、砂漠を歩き回っていたときには、この地方は荒涼|索漠《さくばく》としていた。しかしいまは、またなんというすばらしさだろう。新しい光を浴びて生命がみなぎりつつあるではないか! 世界のどんな音楽も、浅瀬に乗り上げた木の幹のまわりにつぶやく水のかなでる柔らかな誇らしい旋律以上に、私の耳を魅了することはできないであろう。
光景は性質が変わり、しだいしだいにとりとめがなくなってきた。それはまるで流れがどう行ったらよいか、決心しかねているみたいであった。いったいロプ湖へまっすぐ行ける主流を発見できるだろうか? 湖や小さい水路の迷路に迷い込みはしないだろうか?
ヤルダンはますます高くなり、テーブルや、深い陰のある突き出た屋根か、塑像《そぞう》に似た怪奇な形になってきた。ときどき、人間が造った塔や城壁や古い家屋や堡塁《ほうるい》と見まちがえる。また伏せているライオン、横たわっている竜、神秘なスフィンクス、眠っている犬などの形をしている。淡灰色の、帯黄色の、バラ色の、うっとりする神秘なお伽話《とぎばなし》の国を通って行った。しかし、その神秘な国にはまだ死と崩壊の刻印が押されていて、たった一本のかわいた木の幹も、古代の森林地帯の跡も見えなかった。
まもなくこの珍しいヤルダンの彫像は消え失せ、もはや眠っている巨人や夢見る哨兵《しょうへい》は見られなかった。両岸は高く、平たく、単調になった。川幅は八十メートルある。アシとタマリスクがたまに生えている。タマリスクは非常にすくなかったので、通り過ぎるたびに一本一本、地図に書きこむことができた。
三角州の分流の一つが右に分かれ、澄んだ、静かな湖に注いで行ったが、下流でまた本流にもどった。南の方のかなり広い水面に太陽がきらきら輝いていた。
サールというのはトビのトルコ名である。じつに堂々とした響きのある名前だ。このサールが一羽、淋しそうに河岸の小さい段丘上に立って、流れを下る舟を、きびしさと驚きの混じった眼差《まなざし》で、じっと見送っていた。つがいの白鳥が、静かななぎさの上にいた。きっと巣が近くにあるのだろう。かえったばかりのワラ色のひなが、母鳥のまわりで泳いでいた。この美しい鳥を二羽、一人の船頭がつかまえてきた。私はすぐもとの場所へ放してやるように命じた。もっとさきへ行ってから雪のように白い白鳥の一群を驚かしたが、彼らは高く高く飛び立って、南方へ姿を消した。
ここから西では、一羽の白鳥もみかけなかった。フンエルは第七十号キャンプ基地にいたるコンチェ河岸の旅行中、世界の鳥類中でもっとも美しい、この鳥をただの一羽も見なかったという。クム河の三角州に近いここにだけ番《つがい》の白鳥をときどき見かける。ここはアシの生えた、かなり大きい湖がいくつもあって、白鳥は自由に遊び、広い水面を遠く見渡すことができるのである。
私は一八九六年、一九○○年および一九○一年に、南側に密生した深いアシのあるカラ・コシュン湖の広い水面でよく白鳥を見た。その地方の漁夫は、手で巧みにこの鳥をつかまえる。ちょうどうまい工合にアシの外側でのんきに泳いでいる白鳥のふいを襲う場合には、彼らは全速力で舟をこぎ、矢のように獲物に向かって突進する。白鳥は水から飛び立って、アシのあいだに逃げこみ、深い茂みのなかへ隠れようと急いで泳ぐが、しかしロプ人たちは楽々と後をつけ、アシのあいだでさえ白鳥より早くこいで行く。どこにもアシの茎がみっしり高く生えていて、白鳥には逃げこむ場所がない。その狭い場所から飛び立つどころか、羽を広げる余裕さえない。カヌーが追いつくと、白鳥は死にもの狂いに羽をばたつかせる。しかしロプ人たちは水に飛び込んで、ぎゅっと頸《くび》をつかまえ、すぐにその頸をひねって殺してしまう。
クム河下流の湖にはまだカラ・コシュンのような、あんなにたけの高くしげったアシはない。カラ・コシュンでは、たけは七メートルもあり、そのあいだの水面をぐるぐる回って、やっと通り抜けることができた。しかし、いまわれわれのいる、この水路の年齢はやっと三十二年である。でも河床を開きつつある。両岸や近接の湖に根をおろしたアシは新来者である。まだ自分の土地にいるような気がしないのであろう。また、いまはかわいている、南の湖のアシぐらいに伸びる時間もなかった。それには数世紀が必要だろうし、そのうえ安定した条件がいる。クム河の下流とそのデルタでは、すべてがいまもなお変わり、かつ動きつつある――水も、植物も、動物も。そのためにこそ、われらの旅行はこんなにすばらしく興味深いのだ。われわれは運よく、アジアの奥地に起こりつつある、地表の根本的な、しかし見かけは気まぐれな変化を、この目で見られるよい時期にめぐり合わせたのである。われわれは魚やあらゆる水棲《すいせい》昆虫が川と同じように早く広がり、また植物では、アシがこの新しい土地に先駆者のように最も早く根を下しつつある現場を観察した。ロプ地方では自然は死活の戦いを戦っている。南では、砂漠と乾燥と死が勝利を占めた。このクム河の周囲では、砂漠は打ち破られ、そこでは生命が止めようもなく前進する川と、動植物圏が勢いよく、いま登場しつつある。
しかし、この不思議な自然の演劇が展開され、ロプ湖問題が決定的に解決されたといえるまでには、まだまだ見なければならないことがたくさんある。
川幅が湖のように広がっている場所へきた。水路を求めて進むのはなかなか困難である。流れまた流れ、分流、島々の迷路! 空はかすむ。われわれは、ほかの舟が幽霊のようにぼやけて見える、灰色の霧に包まれた。小船隊は一隻の舟も、川のわき道へそれることのないようにお互いにくっついていなければならなかった。ときどき舟を止め、注意してあたりを見まわした。水の迷路は見通しがきかなかった。私は一つの格好の悪いヤルダンが、截頭《さいとう》円錐形の頂の上に大きな石板を水平にのせているスウェーデン西岸の古墳に、よく似ているのに気がついた。右の川筋を長いこと探しまわったが、たそがれが迫まり、風が起きてきたので、やむなくテントを張らなければならなくなった。われわれは島や半島や入江のあいだに道を探し、少し開けた場所に出て、小さい島に上陸した。そこで薪《まき》にありつき、さざめく波のこころよい響きを耳にしながら眠りについた。
五月三日の朝、目がさめると、例の北東の風が一時間三十一キロの速度で吹いていた。波頭を泡立てた、狂ったような波が、この島の北岸と東岸にくだけ散っていた。そしてどのようにしてヤルダンが、波に洗われてその下部を削られるかを実見することができた。このようにして、地表は歳月のたつにつれ、ときには嵐でときには水で形づくられ、平坦にされ、変形されるのである。風と波との絶えまない怒号、古い楼蘭時代の記憶を呼び起こす、あの心に深く訴えるような昔ながらの自然の音楽が、あたり一面に響きわたる。
われわれが、いまいる島はヤルダンによくある形状で、長さ二百七十、幅八十八メートルあって北東と南西に向いている。南の方に、ヤルダンの峰や島がたくさんある、一面に水をたたえている、かなり広い場所もある。白カモメの群れがやかましく鳴きながら、この島の南東にあたるヤルダンの風かげにいた。
舟は、運び去られないように、風下の島の西岸につないだ。夕方、天候が非常に悪かったので、ガガーリンたちは場所を移して、私たちといっしょに夜を過ごさなければならなかった。
私はしばらくのあいだ、ガガーリンの身の上ばなしを聞いて時間を過ごした。
ガガーリンはアルハンゲリスクに生まれ、一九二八年までその近くで農夫をしていた。それから彼はほかの二十五人の農民たちといっしょに、西トルキスタンのアルマ・アタに移され、土木事業をさせられた。しばらくしてピシュペックに逃亡し、それからアルハンゲリスクの家に帰った。しかし捕えられて、ふたたびアルマ・アタに追いやられた。彼は毎日、小麦粉またはパン四百二十グラムの支給を受けた。また逃亡し、こんどはバクティヘ、そしてチュグチャックヘ走った。新疆省に暴動が起きたときには軍隊にとられ、第一連隊にはいった。そのときには四個連隊あったのだが、第四連隊はあとになって、他の三個連隊に分割して編入された。彼はニコライエフ大佐配下としてウルムチに移され、シンディ、営盤《インパン》、ティケンリックを通ってコルラにいたる、山越えの五百人の行軍に参加した。ガガーリンはいま三十一歳である。父親は死んだが、母は存命でアルハンゲリスクにいる。
五月四日、大気は今日もまたざわめき続ける。いまにもテントが飛びやしないかと冷や冷やした。荒れ狂う波が、この小島に向かって押し寄せる。ときどき、ヤルダンがくずれて水に落ちる音が聞こえた。二隻立てカヌーの一つが夜のうちに岸から離れ、隣の島の岸に打ち上げられて、水浸しになっていた。幸いなことに、積んであった小表粉袋は夕方のうちに、岸まで運んできてあった。
空も、地面も、水も灰色の霧のなかに溶けこんでいる。湖の水は二、三日まえまでは水晶のように澄んでいたのに、波が岸を洗い、底から泥をかき上げるので、いまはグリーン・ピースのスープのように濁っている。ヒツジを一頭殺した。忠実な犬のタジルは臓《ぞう》もつのご馳走にありついた。三人の船頭たちは、自分の分け前をいちどきに平らげてしまったので、これから三日間はパンだけで過ごさなければならない。この島で、陶器の破片と、中国古代の弓の部分品をすこしと、真珠を一粒見つけた。
五月四日の夜、寝るまでに、嵐は約五十時間荒れ狂っていた。しかし寝袋にはいっても、嵐がおさまる気配はなかった。こうして風の怒号と波の響きを聞きながら眠りに入り、夢の国に導かれた。
七 王女の墓
五月五日! 記念の日。〔一八九四年二月十七日、スウェン・ヘディンの一行はカシュガルからマラル・バシイに向かって出発し、四月十日、メケット・バザールのオアシスをへて、ヤルカンド河《ダリヤ》からホータン河へタクラ・マカン砂漠を横断した。二十六日間の言語に絶する困難の末、五月五日ようやくホータン河に達し、命を救われた。このあいだの事情はへディン著、岩村忍訳『中央アジア探検記』を参照〕三十九年前、私はきわどいところでホータン河《ダリヤ》の河床に水を見つけ、奇跡的に救われたのだ。
嵐はたっぷり五十時間|暴《あ》れ狂ったが、けさもやはりうっとうしく、空一面に雲が低く垂れこめている。しかしわれわれは荷を積み、舟に乗り、北東方の広い湖へと乗り出した。湖は浅くてあちこちでオールが底にとどいた。深さは平均一メートルに足りない。ヤルダンの小丘に登り、南方に向かう一分流を発見した。二時間ばかりして東へ向かって流れる分流にはいり込み、そこを過ぎて、黄色い島のように水面から生え出ている密生したアシ叢《むら》のある湖へ出た。
ベフのヤルダンの島からもう一度観測した。あまり大きくない沼が北と北東にある。北東の道をとったが、袋小路にはいってしまったので、偵察のためにサディクとハジトを東の方へ派遣した。彼らは南西に大きな湖を見たが、北方にはヤルダンのほかには何も見えなかった。われわれはところどころで幅がようやく五、六メートルしかない小運河に舟を乗りいれたが、それはかたい粘土の岸とアシの密生した島のあいだを走っていた。十二時半にかなり広い水路にでる。これが本流であってくれればよいがと思った。その左岸に沿って行くと、少し離れた陸地に灰色をした木の幹が数本見えた。そのうち二本はXの形をしていた。この標《しるし》は何か未知のものを表象しているように感じた。自然の気まぐれなのか、それとも人間のしわざなのか。
そこで午後一時に上陸し、北西に約二百メートル歩いて一軒の家屋の遺跡を発見した。明らかに楼蘭時代のもので、少なくとも千六百年はたっている。粘土製の赤や黒の壷《つぼ》や碗《わん》の破片がたくさんあった。
十八本の柱が立っている。壁はアシとタマリスクとを交互に編んでつくっている。だから材料も建築様式も楼蘭のものと同じである。家の長さは約一三・五メートル、幅八メートルで、四室に分かれ、北東から南西にわたっている。周囲の地面からは約一・八メートルの高い小丘の上に立っており、そのまわりにはどれも荒けずりのままの、やや小さい梁《はり》や木材が散らばっている。室と室とのあいだには出入口があり、ある場合には入口の二本の柱が抜けて互いにもたれ合い、十字状をなしている。戸の一つには敷居があった。
一方のすみにはいろりがあり、火のあとがある。離れ屋であったかと思われる一室にはヒツジの|糞《ふん》がある。家のなかには、粘土の台所用具、家畜の角《つの》、魚の骨など少々、それに木製の櫛刷毛《くしはけ》一本、刀身一本、料理用の壷の底一つ、なん枚かのこまかに織られた布切れ、ヤナギの枝でつくられた籠の底一つ、そのほかいろいろなものの断片がある。家の南西には塀に囲まれた中庭があるが、塀の大部分はなくなっている。この中庭で、ウマに水を飲ませる大きな木製のまぐさおけの断片を見つけた。
昔、この家が何の目的に使われたのかを考えてみた。ここには高価なものもなければ、古文書もない。ただごく簡単な台所道具があるばかりである。普通の貧しい農家であったろうか?あるいは昔の「絹の道」にあった小さな休憩所だったのだろうか? それとも楼蘭へ往復する旅人の宿屋ででもあったのだろうか?
ちょうど一時間ここにいて、それから相当強い北東風のなかを旅行し続けた。五時ごろまた別の小丘に登って観測した結果、東北東と南方とに走っている、二つの分流のどちらかを選ばなければならないことがわかった。東北東の道をとったが、まもなくこの水路が北東に向かっているのに気がついた。アシ叢《むら》のそばをこちらへ流れてくる水流があるのを見つけたので引き返した。暗くなりかけたので右岸に上陸し、薪《まき》が手にはいるところにテントを張った。キャンプは高さ十三メートルばかりのヤルダン、すなわちメサ〔メサ沈積物が浸蝕《しんしょく》されて残った粘土の大塊〕の断片の南東のふもとにあった。その頂上には道しるべの石塚があったが、それは小さい丸太の束《たば》に似て、互いにじょうずに結び合わされていたので、何世紀もの嵐《あらし》に堪えてきたのであろう。束の高さは三・六メートル、|のみ《ヽヽ》の跡がはっきり丸太の上に見られ、そのうちの一つはまるくて、南端が切られていた。この石塚がかなり大きい道を示していることはまちがいない。その東西のあるほかの同じような標柱によって、交通路を表示していたものと思われる。「絹の道」はちょうどここを通り、きょう見てきた家のそばを過ぎていたものであろう。
嵐のあとのつねとして気温が下がってきた。夜八時には十二度しかなかったので、まるで冬のゴビ砂漠にでもいるように寝袋にはいった。その夜の最低気温は五度まで下がり、五月六日の朝は刺すような東北東の風が吹いた。舟には毛皮にくるまって乗り込んだ。日除けの必要はまったくなかった。
川を下って行った。進路はわかりやすいが不規則だ。複雑に入りまじった島々、半島、入江、岬、ヤルダンのあいだを通って行く。水流はどのアシ叢《むら》のそばにも見られる。アシ叢には穂をつけた黄色い茎が、鳥の羽のように風になびいている。まもなく開けた水面を横切って進んで行った。
川は北東と東北東に、すなわち風にまともにさからって進んだ。水は自然にヤルダンのあいだのみぞを流れている。そこは水通りよく開いていた。われわれは第七十三号キャンプ以来、ずっとこの傾向に気づいていた。
しばらくヤルダンのあいだを行く。進路が北東に向いているときには、舷側《げんそく》の左右はヤルダンの方へ向く。ヤルダンはだいたい短くて、石棺《せきかん》に似ていたが、縦から見れば、北東または南西のどちらから見ても幅は非常に狭く、ときにはわずかに一メートルぐらいしかないことがあった。その両側はまっすぐに切り立っていて、頂上は平らであった。しかしまた、正六面体とか城壁の末端とか、塔のように見えるものもあった。ときどき、その輪郭があまりに整然としているので、つい立ち止まり、自分たちは古代の道路につきものの古い望楼を見ているのではないかどうか、確かめずにはいられなかった。もしそうなら調ベてみる値うちがあるかもしれないのだ。
また小さい島に上陸した。浸蝕によってヤルダンに残された二つの奇妙な形をしている、高く細い柱に、ひきつけられたのである。遠くから見ると、それはどうしても人間が造ったものだと思わずにはいられなかった。北方にヤルダンと丘の風景が、そのまた向こうにはるか離れて、灰色のサイの風景が見えた。サイとはクルック・ターグ山の麓《ふもと》に、平らに広がっている、石ころの原のことである。
人間が近づいてくるのを警戒し合うかのように、水鳥が、まわりを鳴き叫びながら飛んだ。浸蝕作用の巨大な遺物の一つである、非常に大きなメサのそばを通り過ぎた。このメサは第三紀末期のころにできたものであろう。それを右に見て北東に進んだが、まもなくまた弱い水流がこちらに向かってくるのを認めたので、南西に引き返した。二度目の大きなメサに近づいたとき、古参船頭のサディクが、メサの頂上に登って、最もよさそうな水路をさがしたいと申し出た。しばらくたって帰ってくると、ながめは非常に広いが、あまりに水路が混乱していて、どの方向をとったらよいか確めにくいから、私自身でメサに登って方向を決定してほしいといった。
そのうちに、ほかの船頭が五、六人岸に飛び上がって、そこに生えているアシとでこぼこした地面のあいだに姿を消した。切り立った突出部を登るのに、強く腕を使わなければならなかった相当険しい坂を、サディクに案内されながら登って行くと、途中で数人の者に行きあって、墓を見つけたという報告を受けた。
「行ってあの鋤《すき》をとってきなさい」と私はいった。
われわれは鋤を一本だけもっていた。このことはわれわれの旅行目的が考古学上の発掘にあるのではないことを示すためであった。十四人もいるのに一本の鋤では、発掘しようという気になれるものではない。テントを張るために地面を平らにしたり、上陸する場所をなおしたり、キャンプ・ファイアからまっ赤になった石炭を運んだり、アシのあいだに道をつくったりするためだけのものである。
こんな一見つまらなそうなことも全部、南京政府から受けた指令のおかげであった。指令を出したのは教育部長で、彼は北京にいる学者たちから、私の探検隊にはどんな種類の考古学上の発掘もさせてはならないと強く要求されていたのである。そのうちに墓の発見者たちは、サディクと私をメサの西側の斜面にある興味深い場所へ連れて行った。そこは水面から約十六メートル、メサの頂上は上陸個所から二十四メートルの高さであった。
数人の船頭たちは、自分たちの手やそこらに散らばっている木の根で、浅い墓を掘っていた。墓は小さいバルコニー、いわば平らなテラスのような地面にあった。われわれが到着したときには、すでに三つの髑髏《どくろ》、たくさんの骨片、いろいろな布切れなどを墓の端にひろげていた。これから見ると、明らかに共同墓地である。
鋤がきたものだから、仕事はどんどんはかどった。私はしばらくそこで発掘を見まもった。仕事は一時十分から三時半まで続けられた。墓は平たい板でおおわれ、二、三本の直立した柱がその端のあり場所を示していた。
みんなが仕事をしているあいだに、私は一人でメサの頂上へまっすぐ登って行った。そこには見渡すかぎり美しい眺めが展開していた。北の方には、クルック・ターグ山が灰色のサイを裾《すそ》に広げて、浮かび上がっている。目を転ずれば、周囲は、黄灰色のヤルダンと黄色の細長いアシ叢とが点々とし、あちこちに曲折する水路と湖とが入りまじわっている幻想的な風景である。空中から写真でもとるのでなければ、残らず地図に描くことは不可能であろう。私はこれまでどおり、新しくきた、この水の迷路の中を通る自分たちの道を地図に描くことで満足しなければならなかった。この水はヤルダンのあいだの狭《はざま》や窪地《くぼち》をみたして流れている。これらのヤルダンは、いつも北東から南西に延び、黄色の帯状をなして、眼界にくっきりはいっている。あちらこちらに、城や砦《とりで》や塔に似た美しい絵のようなメサが隆起しているが、その地面は全体としてみれば、ほとんど平らといってもいいほどである。メサの色の方が低いヤルダンよりは赤い。
私は写生帳をとり出して、羅針盤の方位を書きこみながら、見わたすかぎりの景色を全部描いた。それがすんでから、三時にふたたび共同墓地へ下りて行った。人々はもう墓の端に髑髏を十五個、四本足の小さい食卓を四個、弓を二張、木製の櫛《くし》三本、円形や楕円形の木の椀を八個、淡灰色の粘土製の土器を二個ならべていた。竹でつくった漆塗《うるしぬ》りのヘアピンが二、三本と美しい漆の模様のついた円筒形の欠けた木の壷が一個、小さいふたつきかご一個、木製のおもり四個、それに小さい皮の上ぐつ一足と色とりどりの絹布が数枚あり、そのあるものには美しい模様があった。手のこんだ鎖縫《くさりぬ》いの刺繍《ししゅう》をした二、三の絹の袋はとくに見事であった。
死体は柩《ひつぎ》の中にあったとは思えない。しかしとにかく断片のすべては、どうやら板で囲われてはいたらしい。この板囲いを見れば、盗まれたらしくも見えないけれども、たしかに墓は昔に盗難にあったものにちがいない。われわれは、こわれているたくさんの髑髏の破片はそのまま残してきたが、三つの髑髏と他のものは全部もってきた。
タカのように目のいい二人の船頭が、メサの頂上からもう一つの墓を見つけた。これは大きいメサのふもとにある、ごく小さいメサの頂上の東側にあった。
われわれはかきみだした墓をそっとしておいて、淋しい休息所へ下りて行った。そしてもう時間がおそいので、この墓の南西にテントを張るようにいいつけた。
このたった一つの墓のある小さいメサは北東から南西に向かっており、長さ十二メートル、幅三六メートル、頂上は水面から八・七メートル、周囲の地面からは六・二メートルある。大きいメサの頂上から見ると、この小丘に墓があることは一見してわかる。なぜなら、メサの頂上はいつもまる裸で、なにも生えてはいないのに、その上にタマリスクの柱が一本立っているのはどう見ても、普通ではないからである。
孤立したこの一本の柱が、掘ってくれといわぬばかりに誘っているので、人々はさっそく仕事にとりかかった。しかしこのメサの北西の斜面のきわにあり、斜面から粘土壁は上が○・三、下のほうは○・六メートルぐらいある。深さ○・七メートルのところで、木の蓋《ふた》に打ち当たり、最初は|おの《ヽヽ》で、次には鋤で土を取り除けた。この蓋は長さ一・八メートルのよく保存されている二枚の板でできていて、幅は頭のところで○・五四メートル、足のほうで○・四五メートル、木の厚さは○・○二メートルあった。頭部は北東に向いていた。棺のふたはきれいにとれたが、棺そのものは粘土にぴったりくっついていて、いま掘った穴をもっと大きくしないことには、とても上にあがらないことがわかった。すぐに北西側の粘土壁をすっかりとり払うことにきめた。それは時間もかかるし、労力もいる仕事であった。しかしついに最後の障害が取り除かれると、気をつけながら、なんとかうまくメサの上まで、棺を持ち上げることができた。
棺の型は水の多い地方に特有なもので、舳《へさき》と艫《とも》とを鋸《のこぎり》で切り落とし、まっすぐな板を横に渡した、普通のカヌーとまったく同じ形をしている。
ふたになっていた二枚の板は、メサの外壁をこわすまえに開いてみた。われわれはこのように長いあいだ、乱されずに眠り続けてきた死体を見ようと、熱心に待っていた。ところが見えたのは死体ではなくて、頭の先から足の先まで身体を完全に包んでいる毛布だけであった。そのおおいは非常にもろくなっていたので、ちょっと触れただけで粉々になってしまった。注意して頭を隠している部分をとりのけた。美しい砂漠の支配者、楼蘭とロプ湖の王女を見た。
うら若い女は突然の死に見舞われ、愛する人々の手で経帷子《きょうかたびら》を着せられ、平和な丘の上に運ばれて、はるか後代の者たちが呼びさますまで、二千年近くの長い眠りをとっていたのだ。
顔の皮膚《ひふ》は羊皮紙のようにかたくなっていたが、目鼻立ちや顔の輪郭は長い歳月にも変えられずにいる。彼女は、ほとんど落ちくぼんでいない、目の上に瞼《まぶた》を閉じて横たわっている。くちびるのまわりには、幾世紀ものあいだ消えずにいた微笑がいまもなお漂っていて、この神秘な女性をいっそう可憐《かれん》な、魅力の深いものにしている。しかし彼女はもはや過去の秘密や、墓場まで持ってきた楼蘭の多彩な生活や、湖辺に萌《も》える春の緑や、小舟やカヌーの川の旅の思い出をもらしてはくれない。
彼女は、匈奴《きょうど》やその他の蕃族たちと戦うために出かける楼蘭の守備兵の行進を見、射手や槍兵《そうへい》たちを乗せた戦車を見、楼蘭を通ったり、宿場に休んだりする隊商を見、また中国の高価な絹の荷物を「絹の道」を通って西方へ運ぶ、数知れないラクダを見たにちがいない。そして彼女は恋し、また恋されたにちがいない。もしかすると、恋の悲しみのために死んだのかもしれない。しかしこれらは、すでに知るよしもない。
棺の内側の長さは一・五五メートルある。世に知られぬこの王女の身長は、一・五メートルぐらいであった。
午後の日光を浴びながら、しばらくのあいだ王女が埋葬されるとき、着けていた着物を調べた。頭にはターバンふうな帽子をかぶり、簡単なベルトを巻いている。身体は麻の織物〔たぶん大麻の〕でおおわれ、その下に同じような二枚の黄色の絹布のおおい物を着けている。胸はま四角な赤い刺繍《ししゅう》のある絹でおおわれ、その下にもう一枚麻の下着をつけている。下半身はスカートのような二重の絹でおおわれ、黄色の絹と麻とがかさなっている。同じような白地のスカートが短い麻の下衣から続いている。この下にまた薄いスカートとズボン下をはき、絹の上ぐつをはいている。腰ひもは肌に直接巻かれている。
われわれは、これらの衣類からそれぞれの標本を持ってきた。そのうちのあるものは――たとえば頭のかぶり物とか、上ぐつのようなものは――そっくりそのまま取り、なおそのうえ、美しい色模様のついた袋も一つだけもち帰った。柩《ひつぎ》の外側の頭に当たるところで、低い縁のある四本足の長方形の食卓と赤く彩色した木製の碗を一つずつ、それからヒツジの骸骨を一頭分そっくり見つけた。これは、あの世の旅路で旅行者が食べるための食糧であったのだろう。
しかしもう暗くなり始めたので、第七十七号キャンプに行ったが、そこは蚊とブヨに刺される危険があった。世に知られぬうら若い麗人《れいじん》は、柩の中でほんのただ一夜だけ星の光を沿びた。そよ風が彼女の青白く、いくらか黄味をおびた頬と長い髪をなでていた。二千年近いあいだにたった一晩だけ、彼女は墓から出て、この世へ帰ったのである。しかしいまは干からびたミイラにすぎない。短い生涯を送ったこの土地は、彼女の周囲で黄灰色に荒れ果てている。そしてふたたび帰ってきた水も、彼女が昔に見ていた森や庭園や草原や畑には、まだ生命を呼び戻《もど》してはいない。
あくる五月七日の朝の光の中で、「砂漠の麗人」を撮影した。それから彼女を注意深く柩に納め、その柩をまた墓場のなかに納め、できるだけていねいに埋めた。
われわれはこの未知の麗人と、しばしのあいだ触れ合った古代に別れを告げて、五隻の二隻立てカヌーのつないである上陸地点に帰り、この着い女性が幾世紀も眠りつづけた平和の棲家《すみか》に、新しい生命を呼びさましつつある流れにもどって行った。
八 三角州の迷路
五月七日の朝、われわれは「楼蘭の王女」が二千年間にただ一夜だけ、星の光を浴びながら眠った墓を後にしてふたたび出発した。
さてそれから、この思い出の深いメサのふもとを通って、まったく偶然に選んだ分流へと、すべり出した。ところがこの分流が、またも偶然にもわれわれをロプ湖《ノール》へと導いてくれることになった。
十一時十五分前、太陽が一瞬暗くなったと思うと、乾燥地帯では例外な雨が二滴、三滴落ちてきた。風がさーっと吹いて、蚊を追い払い、湖や水路に羽のような頭をもちあげている、密生したアシ叢の中へ追いこんだ。
ふたたび、粘土の丘で休みながらあたりを観測していると、二百七十メートルばかり南東のメサがわれわれの注意をひいた。頂きの中央には鞍《くら》に似たくぼみがあり、そのすぐ近くには、明らかに人の手で立てられたらしい、数本の柱がメサの背から突き出ていた。
われわれは二本の小さな水路を横切り、アシの生えた沼を渡ってそこへ行った。ごく短い直立した柱が水面上十八メートルのところに立っていたが、それは小さい家屋の最後の残存物であった。地面を鋤《すき》で二、三度打つと、革靴の断片と籠が一つ、ウシの皮が幾片か出てきた。そのすぐ南西に骸骨のはいっている墓があった。
水路に沿って川を下ることは不可能なので、道を見付けるために高いメサに登った。北東の方に、無数のヤルダンのうねりにすっぽり、とりまかれているかなり広い沼がある。このメサはいちばん近い川岸から三十メートルの高さに隆起している。この高みからの眺望は、水面で見たのとは、ずいぶん違っている。おもな相違は、舟からではあたりを水平に見るという点にある。もし湖にでたとすれば、湖はむやみに大きく見え、岸ははるか遠方に細く黄色い輪のように見える。ところが三十メートルもあるメサに登れば、足もとに地図を繰りひろげたように、もっとよく風景が見られる。ヤルダンを形成している黄色い粘土の沈積物が目立ち、あざやかな灰緑色の水面は、なんでもないものになってしまう。
ここでもまた、眺望はうっとりするほどであった。この新しい展望をスケッチせずにはいられなかった。だいたい描きおえたときに、一人の船頭が登ってきて、メサの東側の斜面にまた一つ墓を見つけたと報告した。
墓は小さい段丘の上にある。鋤《すき》と斧《おの》とで一メートルほど掘ると、かたくなった一枚のま四角な牛皮を見つけたので、注意深くもち上げて墓の端のところへおいた。そのとき、ミイラになった死体が現われた。それは前章で述べた女性とは違って、木のふたもなく、経帷子《きょうかたびら》を着てもいなかった。ただカヌー型の柩《ひつぎ》だけは同じである。
顔にはおおいもない。静かな徴笑をたたえた容貌《ようぼう》は、気品高い威厳のある印象を与えた。棺は長さ一・八メートル、幅は頭のところで○・七メートル、足のところで○・六メートル。ミイラのたけは一・五メートルである。
この死体もまた女性である。羽毛のふさのある、二本のまっすぐな針を刺した帽子をかぶっている。それには赤いひもが何本かつき、裂け目のあるイタチの皮が、頭を前にぶら下げた格好でついている。疑いもなく、これはなにか特別な意味を象徴している。髪は灰色でかなり長く、まん中から分けられている。
あとは全身、目の細かい黒褐色の織物にくるまっていた。それは長方形で、幅約二・五センチの軽やかな布で縁どりしてある。長さ二メートル、幅は一・六メートルある外套《がいとう》の右手の端のところは三つのまるい袋になっていて、まわりを細長い布で縛ってある。たぶんなにか意床があるのだろう。そのなかにはエフェドウラ〔麻黄《まおう》。木賊《とくさ》に似た植物。ロシアの農民が、これの果実を食用にする。スギナの類を大きく、堅くしたような植物で、葉はきわめて小形、全体緑色である。裸子植物であるが、被子植物にきわめて近い。中国奥地に自生し、発汗、鎮咳の薬という〕の小枝がはいっていた。ミイラを棺から出して、そのおおいを地上にひろげた。この婦人は、長いふさが下がっている薄い腰ひもを身につけていた。靴底の内部はヒツジの皮である。
この女は小柄で虚弱だったのだろう。骨格はきゃしゃで、羊皮紙のようにかたい褐色の皮膚がその上にぴったりくっついている。また顔の色も暗褐色で、明るい色をしていた第一のミイラとくらべると、著しい対照をしている。頭のそばに二ふさ三ふさ、とび色の髪の毛があった。ウシ皮の上には籠が載せてあり、そのなかには食糧がいくらかはいっていた。われわれは、三つの袋がついている外套の右側のところをも含めて、およそ鑑定の役に立つものは、なんでももってきた。上品な横顔を持ったこの孤独な老婦人は、だれだったのだろう。たぶん、楼蘭王国の一住民であったのだろう。
墓は水面から約二十四メートル高く、メサの頂上から三メートルとは低くないところにある。これで四つの墓を見つけたわけであるが、どれも水からはかなり高いところにあった。出水したときにも水がとどかないように、わざわざそんな場所を選んだものであろう。比較的に低いところにあった若い婦人の墓でさえ、けっして水はとどかなかったにちがいない。
メサの頂上から、去年のアシが黄色い帯状になって生えている、かなり大きい青緑色の湖が南方に見えた。この湖はヤルダンに囲まれ、島や岬や入江がたくさんあった。東には点々とした小さい水たまりと、そのあいだを結びつける分流とが見えた。
われわれはメサを下りて、神秘な婦人の墓のすぐ近くで休んだ。気温は最低二度まで下がったので、肌寒さを覚えた。ま夜中ごろ、ふといままで聞いたことのない、鋭い刺すような叫び声を間いた。
南西、西、北、北東と、相当水流の強い、奇妙に曲がっている分流について舟を進めた。かなり長いあいだ中断されていない分流にいるように感じたが、実際はアシですっかりおおわれた、たくさんの小水路がそこから流れていて、三角州や他の分流に続いているのであった。この錯綜した水の迷路は、ヤルダンや小丘の頂きからしかわからなかった。
ついに水路は狭くなり、水流もなくなった。やがて他の水路にはいりこむ一本の道が見つかった。この水路はかなり大きい水たまりに通じている。二つのうち、どちらかを選ばなければならなかったが、われわれは北より東へ三十五度の方向へ行く道を選んだ。水は緑に澄み切り、じつに新鮮な感じであった。ときどき密生したアシにすっかりとり囲まれたが、そのアシの上には孤立したヤルダンがあちこちに隆起しているのが見えた。
われわれはあらゆる方向に水路をさがしながら進んだが、新しい水路の袋小路に行きあたって、しかたなく南西にかなりの道のりを引き返し、そこの水路からアシ叢《むら》に縁《ふち》どられている、すこし遠方の大きい沼に出た。ガンの群れが二つ三つ飛び立ち、南西に姿を消した。
七時半に河岸にテントを張ったが、薪《まき》がなかったので、舟の甲板《かんばん》を二枚|犠牲《ぎせい》にしてキャンプ・ファイアをたいた。
テントを張るすこし前に、粘土でできたオベリスクと、まるで王宮か、立派な城のようにすばらしい数個のメサのそばを通った。夕方のうちに、明朝早く出かけてもっと有望な分流をさがすようにと、船頭たちに命じておいた。
五月八日の夕方から九日の暁にかけての最低気温は六度であった。この季節にしてはなんという珍しい寒さだろう! 偵察隊は出かけた。そして朝起きたときに、水流のある分流は一つも見つけられなかったが、北西にあたる陸地にかなり大きい廃屋を見つけたという報告を受けた。九時に二隻立てカヌーに乗って、アシのない水面を進んで、その場所へ向かった。三十分足らずで着いた。
数人の船頭が家の中央に穴を掘ったが、なにも見あたらなかったので、私はすぐにそれ以上掘ることをやめさせた。なにも見つかりはしまい。薪にする、ほんのちっぽけな丸太でさえ拾えないだろう。一時間ばかりそこにいた。この場所を詳細にスケッチするのに、これだけの時間がかかったのである。
この前つくった地図と比較してみて、アルトミッシュ・ブラクが北北西二十七キロのところにあることもわかった。
十一時十五分にふたたび舟を出し、第七十九号キャンプに帰って荷を積みこんだあと、南西にむかう進路についた。こうしてつぎのことが明らかになった、すなわち、これらの廃墟は北東に流れ出さない、一つのたまり水のほとりにあるということが。クム河《ダリヤ》の水をロプ湖へ運ぶ、この三角州の多くの分流は、もっと南方で見つかるにちがいない。
前日見た、奇妙な形のオベリスク、あるいは円柱に似た粘土の突出物を、だいぶ離れた距離から見て進んだ。側面から見ると、それはペルシア王クセルクセスの宮殿の入口にある記念門の一つに似ていた。
また広い場所に出たが、灰緑色の澄んだ水から浮かび出ている、黄色のアシの生えた島のそばをしばしば通った。方向を北西と北にとる。小島とアシの迷路にはいった。午後二時には気温二十三度、水温十二度になった。左舷《さげん》に島を見つけたので、舟をまわし、かわいたタマリスクの小枝や幹をかなりたくさん集めた。それから北方に進み、たそがれごろ上陸した。テントを張れるだけ十分に広い地面のあるヤルダンを見つけたが、南西を除いて、まわりはどこも二メートルから三メートルぐらいの垂直な崖になっている。
五月十日。気持のよい日だ。軽い北東からの微風が小波を立て、きらきらと目に映じる。緑色の水が、黄灰色のヤルダンとうす赤いメサとに生き生きとした対照をなしていた。
陸地を左手に、アシの密生した島を右手にした、川幅わずか七メートルの水路をこいで行った。一つのカヌーを二人の屈強なこぎ手がこいだので、かなりの速度がでて、水が舳《へさき》のまわりであわ立った。私の乗ったカヌーが先頭にたつ。前方五メートルの個所にイノシシが現われ、陸地からアシ叢へ向かって泳いで行った。危険をかぎつけると、死にもの狂いで泳いだ。水がその鼻先きで、あわ立っていた。「力いっぱいこげ!」と私は叫んだ。それなのに、こぎ手たちはただ速度を増すような格好をしただけである。
「あれは口に牙《きば》をもっています。危険です!」とサディクがいった。
そんなことをいっているうちに、イノシシはすでにアシ叢《むら》のはしについてしまった。イノシシが進むにつれて、黄色い茎がカーテンのように押しのけられる。足が地面に触れたと思うと、一|跳《は》ね、二跳ねして、かわいた陸地へ上がってしまった。踏みしだかれるアシの、ぎしぎし、ぽきぽきという音を聞いた。やがて、イノシシの姿は島の東側に消えてしまった。
一頭のカモシカがメサのふもとに立って、一行を見まもっていた。まるで博物館にある剥製《はくせい》みたいにじっとして。つぎの瞬間、いきなり跳び立って、メサと粘土の小丘とのあいだにある谷まに姿を消した。
タマリスクとアシが水から頭を出している。なんという気持のいい場所であろう。私は袖《そで》をたくし上げ、さらさら流れる冷たい水に手をつけた。三十分ばかり行くと、水路は終わった。陸地は北にある。一同はそこに上陸した。すぐ近くにメサが隆起していた。私は広々とした風景を描くために、その頂上へ登った。
絵を描いていると、船頭のアリが息もつかずにとび上がってきて、大きなウマで北東へ行った二人の騎手の新しい足跡を見つけたといった。彼は、それがわれわれを捜している偵察者だと思いこんでいた。すこしたってからサディクが二頭のラクダと二頭のウマ、三頭のロバに七頭のヒツジ、それに徒歩で行った一人の人間の足跡を見つけたといった。それは考古学者の黄文弼にちがいないとわれわれは考えた。彼もまたほぼその辺にいるはずだ。われわれはコルラを発《た》ってから、彼に会っていない。おそらく彼は、自分がかつて訪れた、なじみの場所トゥ・ケンに行く途中なのであろう。
舟に乗って帰途についた。南西に開けたメサの光景は、まさに沈もうとする夕日を浴びて、美しく壮麗である。六時ちょっとまえ、たけの高いメサが投げかけている深い陰影のなかにはいった。上陸してその頂上へ登った。緑の水と、風水にいためつけられたヤルダンやメサの交錯した珍しい風景を、さらに数枚スケッチした。
薄暮にテントへ帰りついた。七時、北の方にあって叫び声が聞こえた。ガガーリンが一、二発合図の銃を射つ。ヤルダンの頂上では火をたいた。ときどき船頭たちが大声で叫んだ。北の方にはなんの物音もしない。ひっそりとしている。探りに出した三人は、八時になってやっと帰ってきた。
九 ロプ湖への旅
五月十一日、目がさめてみると時速三十三キロの強い北東風が吹いていた。夜の最低気温は十三度。午後二時には三十三度C、水温は十八度。湖も入江もまっ白に波が立っている。舟はアシの奥につないだ。そこでは比較的、波が穏やかであった。もうもうたる砂塵が吹き飛び、テントにばらばらぶつかって、いまにも吹き飛ばされはしないかと、ひやひやした。風速はしだいに増し、午後八時には時速六十二キロに達した。激しい突風が、たびたび灯火を吹き消した。寝袋にはいって寝るには暑すぎるので、その上に寝ころんだ。細かな黄色いほこりが、テントのなかいっぱいに立ちこめている。
翌朝もまたひどい風であった。時速約四十八キロ。
嵐は夜通し荒れた。しかし十三日の朝になって、風波を無視して出発した。できるだけ風陰を通った。ところが二、三日まえにタマリスクを集めた島まで行くと東と東南東が広く開けているために波が高く、カヌーで行くには無理であった。しかし島に上陸し、ヤルダンとアシのあいだに、ぐあいよく囲まれている船着場を見つけた。四人の船頭が薪を集めてくる。風がなぐのを待った。しかしまる一日過ぎても風はやまない。
嵐のために三日をむだにしてしまった。五月十一日と十二日と十三日とを。そのうえ十四日には、あたり一帯、一メートル先も見えない濃霧におおわれてしまった。それは暗く陰鬱《いんうつ》に、南方から、もうもうと吹いてきた。二時間たって風は南西に変わったが、霧は吹き払われなかった。なにもかも、まるでロンドンのスモッグに包まれているようである。湖面は百メートルそこそこしか見えない。厚い霧でおおわれた薄黒い灰色の湖面に、もうろうとアシ叢《むら》が浮かび上がっている気味の悪いながめであった。にわか雨が落ちてきた。午後一時半には本降りになり、一時間降りつづいた。しかしもう雨もおさまり、たそがれのとばりが降りてきた。第八十号キャンプのすぐ近くにいたので、夕方、あとに残してきた人たちの歌声が聞こえた。
夜中、どしゃ降りになったが、長くは続かなかった。翌朝、太陽がまっさおな空にのぼった。ロプ湖《ノール》への曲がりくねった水路を求めて、ふたたび出発した。高いメサから、ロプ三角州の珍しい眺望をもう一度見わたした。北東岸にトゥ・ケンの堡《とりで》のある湖が、袋のように広がっている。これでは三角州に運びこまれる水は、ロプ湖へ出て行く口をどこかほかに見つけなければなるまい。がいったいどこだろう。南東へ向かう分流をためしてみたが、そこには水流はなかった。水は水晶《すいしょう》のように澄み、メサの影を映し出している、そして前にもたびたびそうであったように、柩《ひつぎ》の形を連想させる一連のヤルダンの影をも。
われわれはアシのあいだの水流について行った。流速はだんだんと増した。また、もう一度高いメサから偵察する。深いアシ叢が方々にあって、その中の一つに広い水路が見えた。おそらく、われわれが進んできた流れの続きであろう。春の新しい緑のアシが、水面から一メートルほどの高さに萌《も》えでて、藁《わら》のように黄色い去年のアシにまじりながら、ひときわ目立っている。タマリスクは目もさめるように新しい緑でよそおわれていた。魚は水面にはね、水鳥も多くなった。
六時には、しだいにアシが密生している、かたい粘土の両岸のあいだを進んでいた。両岸はアシのためにほとんど隠れているが、あちらこちら、秋の増水のときに推積した泥が長く突き出ているところもあった。
水路はますます広くなり、百三十メートルから百六十メートルになった。ワシが二羽しげしげと一行を見まもっていた。カモメとアジサシが周囲に舞っており、小鳥はアシ叢の上でさえずっていた。カモの群れが一度、二度飛び立った。いままでよりは生物が多い。ここまでクム河《ダリヤ》から流れてきた新鮮な水は、生命を与えるというその使命をさらに活発に果たしている。
しかし、まもなくアシの生えかたは薄くなって、ついにほとんどなくなってしまい、右も左もまる裸な、黒ずんだ粘土の岸になった。もうメサ一つ見えず、川からかなりのあいだ、孤立したヤルダンさえほとんど見えない。ここはヤルダンと塩分のある粘土、すなわち、トルコ人がショールとよんでいる塩気のある古い軟泥とのかわり目なのだ。分流はますます広く、浅くなっていく。アシのあいだでは三メートルも深かったのに、いまではたった一メートルしかない。舟はしばしば川底に触れ、そのたびに船頭たちはオールで突いたり、押したりしなければならなかった。
日はかたむき、夕暮れが近づく。私は一同に上陸してテントを張るように命じた。われわれの位置は川の中央、南岸から等距離のところにあった。日は沈み、夕やみがおり始めた。サディクは左岸に舟を着けようとした。いけない。右にやってみた。どこも同じように浅い。暗くなる。細長い新月はのぼったが、淡い光がさしているのみである。
方向を変えて、ふたたび流れを溯《さかのぼ》ったが、座礁してしまった。さわやかな夕べのそよかぜが出て、さっきまで鏡のようになめらかであった川が小波をたて、カヌーにあたって快い音を立てた。西に行き、南に行こうとしてみた。どこも同じように浅い。いよいよまっ暗になってきた。しかしいろいろと押したり、もがいたりしたあげく、とうとう右岸に着き、練瓦のように堅い岸に上陸した。そこには草の葉一つなく、流木一本も打ち上げられていなかった。やっとのことで、テントを張れるだけの平たい地面を見つけた。甲板を一枚、夜のたき火と夕飯の支度のために犠牲《ぎせい》にする。これが第八十二号キャンプで、ここからわれわれは「さまよえる湖」へ向かって最後の前進をするのだ。
五月十六日の朝、テントのそとに一歩ふみ出した。われわれは、クム河すなわち三角州の主流がロプ湖に流れこむ地点――南東に入江のように広がっている、ロプ湖の最北端のすぐ近くにいるのだ。カモメが、平和なえさ場へやってきた闖入者《ちんにゅうしゃ》に驚いたのか、テントや川の上を鳴き叫びながら飛んだ。カモメがいるので、あたかも海岸にいるような幻想を受けた。視界には一木、一草もない。ただ死と荒廃があるだけだ。
さわやかなそよかぜが吹いている。しかしやがて出発の準備は完了した。二人のこぎ手を連れ、いちばん大きいカヌーで行くことにした。小さい方のカヌー二隻には食糧品と水二鑵と毛皮の外套《がいとう》を積んで、それぞれ一人ずつのこぎ手をつけた。テントは持って行かない。それは第八十二号キャンプに残した。
一時四十五分湖へ出たが、なんだか岸が遠のいたように思えた。ぼんやりした東岸の岬に向かって南南西に舵《かじ》をとったが、水が浅いために進路からしょっちゅうはずれないわけにはいかない。この聖なる湖へはじめて乗り出して、なんだかお伽《とぎ》の国にでもいるように感じた。いままでただ一隻の舟も、この湖上をこぎまわったことはないのだ。いまもやはりそれは死んでいるかのように寒々としている。湖面は鏡のように静かだ。少し離れたところにカモが泳いでいる。カモメやそのほかの水鳥が警戒の叫びを上げた。南東には一列の黒いかたまりが連らなっていた。明らかに桟橋型に突き出ている岬の小丘である。しかし実は蜃気楼《しんきろう》が水平線上に浮かび上がって、そう見えているのだ。ま南と南西の水平線は非常にはっきりしていた。そこでは空と水とが、まるで大海のように一つに溶けあっていた。南西に近づくと、騎馬隊のような形をした黒いものが現われ出た。草を食べているウシとラクダである。暖められた空気の上昇による震えでちらちらしている。
南に行くにしたがって、水はますます浅くなった。二人の従者はカヌーを引きながら徒渉し、二人の船頭は、自分たちの舟を座礁させてしまったので、そのあとから押して行った。舟の通ったあとには、水面に黒い泥のすじが現われた。日は強く照りつけ、目がくらむほど、まぶしかった。水は西の方では蛋白石《たんぱくせき》のように、また鋼《はがね》のように灰色に輝いていたが、南と東とでは海のように青く輝いていた。
夕暮れが近づいていた。太陽はまさに沈もうとし、その壮麗な光景は、どんな言葉でも表現することはできない。南西は全部鋼青色で、どこで空が終わり、どこで陸地が始まっているかわからない。太陽は赤、黄、紫、白などの雲の層の上にあり、西方の湖上には鮮紅色の光が広がっている。船頭たちは、汗をたらしながら、堅い泥底の上をカヌーを引きずって行った。沈殿層の下は堅く結晶した塩の層で、足は傷ついた。
最も近い島へ向けて北西に進路を変えたが、深さ○・三メートルの水にさしかかったので、船頭たちはまたカヌーに乗り込み、オールを使った。夕やみせまるころには、小さい島の岸に上陸した。島は土地が堅く塩分を含んでいて、そのカチカチな表面は褐色をしている。草一本生えていない。ここでわれわれはカヌーを岸へ引いてきてキャンプした。
薄い霧がロプ湖上にかかった。南と東には陸地がすこしも見えなかったが、南西には細く一条の岸が見えていた。軽いそよ風が南南西から吹いてきて、湖上に小波がたった。午後二時には気温と水温はともに約二十七度であった。
湖の西部は東部とちょうど同じぐらい浅く、それ以上南へ行けなくなってしまったので、ここで止まり、水路をさがすために、船頭たちを南の方へやった。彼らは水の上を歩いているように見えた。その通った跡には、かきみだされた泥がインクのようにまっ黒に上がっていた。
湖の北側の部分は淡水である。それに含まれている○・三パーセントの塩分はほとんど舌には感じない。魚はすこぶる多い。二人の船頭は魚をオールでたたいて、巧みに手でつかまえる。つかまえた魚のうちでいちばん大きいのは、長さ一メートル以上もあった。こんな大きさの魚が深さ○・二メートルの水中に住むことができるとは不思議である。われわれが近づくと、魚はびっくりして動き出す。そのとき彼らが背鰭《せびれ》を、水面から潜望鏡のように突き出すのをたびたび見た。水面には魚のす早い動きで小波や渦《うず》がいっぱい立つ。こんなふうだから、それを追いかけることはちっとも困難なことではなかった。おかげでロプ湖の北部では、餓死する危険は全然なかった。そこには魚もいれば、水もあった。しかし、魚はどうして生きているのだろう。水草や他の植物が生えているらしい形跡も見えないし、一つの甲殻動物も、一匹の昆虫も見えない。たぶん湖底の泥が栄養になるような有機物を、なにか含んでいるのだろう。この魚の白い身は、タリム河の下流で捕えられる魚〔フンメルのフム河畔の魚類と爬虫類《はちゅうるい》の収集は自動車での帰途、不幸にしてこわれてしまった〕に比べると味がわるい。
北から西へ四十四度のところから、北から東へ十六度までのあいだに、クルック・ターグ山がくっきりと見え、静かで穏やかな印象をあたえていた。
この日の夕方もまた、濃い茶と紫と青との色とりどりの、すばらしい日没であった。太陽はだいだい色をしており、そして静かな輝く湖上に、きらきらとオレンジのように反映していた。
鳥が一羽どこか近くにいて、ときどき大きな叫び声をあげた。その声はときにはウシの鳴くように、またロバのいななくように、あるときは汽船か自動車の短く、鋭い信号のように聞こえた。たぶんサンカノゴイであろう。東トルコ語ではサンカノゴイをコール・ブカ(湖のウシ)という特徴的な名前でよんでいる。コンチェ河《ダリヤ》付近の人々は、この鳥には空気でのどをふくらまし、そして六、七声鋭い叫びを発する奇妙な習慣がある、といっている。鳴くための努力はとても鳥を疲らせるので、ときにはほとんど麻痺《まひ》状態になり、手で捕えることができるほどであると。また彼らのいうところによると、肺病の治療薬になるものが、この鳥の体のある部分からとれるとのことである。ロプ湖中の孤島のキャンプで、われわれはあまり感心しないこの鳥のセレナーデを満喫した。
翌日は空はトルコ玉のように青く、湖は鏡のようになめらかであった。われわれは昨日見つけた水路に沿って偵察した。水路はまた浅くなって消えてしまった。水深を測って行くと、ところどころ水面に突き出ている、じゃま物のために止められてしまう。増水した川がロプ湖に注ぎ、南と同様、北の半分へも舟で行ける秋の末に、湖全体の測深を行なわなければならないことは明らかである。
生涯に一度は「さまよえる湖」の新しい北部湖床に舟旅をしたいという、私の夢は確かにかなえられた。そしてこのことは、あらゆる意味で感謝しなければならなかった。しかしロプ湖を一周しようという希望は実現されなかった。三日のあいだこの目的を遂行するために最善の努力はしたのだと思って満足した。二隻の舟はおのおの単独であったので、重量は軽い。しかし湖底がそのまま水面といったような、非常に浅い水路がところどころにある湖では、船頭が四人がかりでも舟を引っぱって行けなかったのは、あるいは反対に幸いであったかもしれない。こういうきわめて浅い個所は、おそらく淡水と塩水との境界であったろうと思われる。適当な水路を探して、むなしい努力をした湖の北部は、絶えずクム河から淡水を受けていた。そしてその余りがこの浅い水路を経て、気球のような格好にふくれている大きい南部へ流れこんでいた。そこもまた非常に浅いのであろう。かつて私が、カラ・コシュンで測った最大水深は四・五メートルで、ソゴ湖の最大水深もほぼこれと同じであった。ソゴ湖はエツィン・ゴール三角州の分流が二本流れこんでいて、この水深はヘニング・ハズルンド中尉が一九二七年の秋に測ったのであった。
新しいロプ湖の深さも、おそらくこれより深くはなかろう。しかしあのいまいましい浅瀬があったために、それをはっきり確かめることはできなかった。しかし、もしあの浅瀬が途中でじゃましなかったら、どうであったろう。われわれは、ヘルネルの地図に出ているロプ湖をこいでまわるのに、五日かかるだろうと計算したのであった。それが、縦百二十三キロ、もっとも幅の広いところで七十六キロある、かなり大きい塩水湖であることはわかっていた。ロプ湖ははけ口のない湖である。だから水は塩分を含んでいて、その大きさは季節による流入量の変化と蒸発とによって変わる。この蒸発は夏季に大気が暑く、そのうえ乾《かわ》いているときには、とくに激しい。
われわれはガソリン鑵に入れた淡水と五日分の食糧とを積んできた。そしてまえに書いたように年齢が十三になったこの湖の上を、かなり広範囲に舟で歩くことがわれわれの目的であった。ただこのような舟旅は、スポーツの一種とか冒険としてだけ考えれば楽しいものであろう。それは大胆で危険なものであるかもしれないが、それだけにまた大きな魅力がある。私一人ならば一八九五年の四月十日と同じような気持でそこへ出かけたかもしれなかった。あのときには、ラクダを連れてタクラ・マカン砂漠の旅行に旅立ったのであった。さて今のばあい、計画の魅力は「成功するか、否か」という、意味の深い問題なのだ。一九○○年の初夏に、タリム河畔の湖上で、私はたびたび突風に見舞われ、いまにもカヌーが水浸しになるというせとぎわで、やっと陸へ着くというような目にあった。あるときなどは小舟が沈んでしまったが、幸い陸のすぐ近くだったために、私と船頭とは岸まで徒渉して、助かったというようなこともあった。
しかしロプ湖はとても大きい湖水である。おおいもないカヌーで横切るのは危険な企てである。われわれは、東岸の湖の中へいちばん突き出ている場所から、穏やかな天候を選んで出発し、精いっぱいこいで、南西の岸まで行こうというつもりであった。突風はたいてい北東から吹いてくるので、たとえ湖のまん中でひどい風が吹き始めたにしても、少なくとも追い風にはなるだろう。しかし相当高い波が立つだろうし、それはまた一瞬ごとに高さを増していくであろう。
チベットの湖上でかつて使ったことのあるような布製のボートならば、近づく波のてっぺんに上げられては、やわらかにうねりのくぼみに落ち、またもつぎにくる波にもち上げられるだろう。ところが木製のカヌーのばあいはまったく違ってくる。カヌーは長くまっすぐで、ふなべりが低く内側に湾曲している。こんな形の舟を追い越す波が、舟の中へはいってくるのは当然である。波はひっきりなしに立っているのだから、つぎからつぎへと水が舟の中へはいり込む。それがどんなものだか、私にはよくわかっている。こぎ手の一人は舳《へさき》に、一人は艫《とも》にいて二人とも膝《ひざ》をつき体を前にかがめている。彼らは一こぎをできるかぎり長く、早くし、カヌーを前進させるために全力を注ぐ。そしてもしできれば、速力を増して、波に舟を越えさせないようにし、いつも風の方向に走る、うねりのくぼみにはいりつづけさせる。
嵐の日の舟旅の経験から、もしもわれわれが「さまよえる湖」の南部にいて、突然起こる北東からの、あの強烈な春の嵐に見舞われたとしたら、たぶんこんなことになるだろう。私は、つぎにこういう情況の空想的描写をしようと思う。「いま私は二人の船頭のあいだで、船の中央に膝をついている。私はいつも足を伸ばしてカヌーの底へ坐るのだ。しかしいまは生きるか死ぬかのせとぎわである。おまけに、舟べりを洗う波がカヌーにはいるたびに、すぐに水をかき出すのが私の仕事だ。食事に使う琺瑯《ほうろう》引きの碗で水をかき出し、まるでガリー船の奴隷みたいに働いている。ひじを波にぶつけ、せめて舟の中央では波の力をそぐようにしている。揺れるたびに、水はカヌーの底を上がったり下がったりする。勝負にならない戦いだ。波に追っつけない。いまきた波をくみ出し切れないうちに、つぎの波がやってくる。カヌーの中まで水が意外に早く高さを増していく。水がはいるにつれて重くなり、ふなべりはだんだん水面に近づいていく。こうなると波はますます、はいりやすくなり、舟にはいりこむ水量は、そのたびごとに増していく。それにつれて船頭と私の力は、しだいに減っていく。最も近い岸さえまだはるかかなただ。どれくらいこうして浮かんでいられるかは、ただ時間の問題である。そして、われわれの助かる見込みはいよいよ減っていく。こういう恐ろしい危険なときに、私はいつも冷静である。私はどこから、どうしてこの落着きがくるのか知らない。たぶん死に直面したときには、自己統御を失ったら、事態はけっしてよくならないという潜在意識的な、冷静な論理的本能によるものだろう。タクラ・マカン砂漠で私の従者が――そのときも同じく四人であったが――倒れて渇《かわ》きで死んだときでも、私の自信は動揺しなかった。私は彼らに対してなにもできなかった。彼らを救うことのできるものは、水だけであった。もしも私が彼らと同じように死んでしまったら、元も子もなくなってしまったろう。私の義務はむやみに急がず、自分を消耗《しょうもう》させないで、最後までもちこたえることであった。
ついにカヌーのふなべりが非常に低くなり、つぎの波で縁まで水がいっぱいになってしまった。食糧とキャンプの毛布はさらわれ、淡水のはいった鑵は船のそとへ流れてしまった。長いあいだ、われわれは最後の瞬間の近づくのを見まもっている。カヌーを統御できなくなった以上は、ただそのふなべりに、へばりついているよりほかに仕方がない。しかし、カヌーは水中では支える力をほとんど持っていない。ましてオールではどうしようもない。水面ではすこしも風を受けないか、受けてもごくわずかであるから、いったい岸へ向かって近づいているのか、いないのか、ほとんど感じられないくらいだ。もしも嵐がこやみになるか、あるいは底へ足のとどく浅瀬へただよいつくまで、もちこたえることができさえすれば、カヌーをからにして、またそのなかにはいりこんで前進することができる。水は北部に比べればはるかに冷たい。北部は浅いから、すぐ太陽で暖められるのだ。
つぎからつぎへと新しい波が舟を洗って通り、そのたびに塩水を一と口、飲まされる。しかしたえなければならない。一人が力尽きたとしても、ほかの二人には助けることはできない。泳ぎができるということは、なんの役にも立たない。体力を使うことがすくなければ、すくないほど、それだけ長く難破しないでいられるのだ。
湖の岸はトルコ語でショールという塩分を含んだ泥で、まるで練瓦のように堅い。水が氾濫《はんらん》すると、柔らかくなり、石けんのようにすべっこくなる。ロプ湖のまわりに広くあちこちへ延びているショールには小さい起伏があるが、見たところ、まるで床のようになめらかに見える。水面と同じ高さにいるわれわれには、岸を見ることができない。状態は絶望的に思える。大海にいるのと同じように、おぼれて死ぬのを待っている。
だから、まっすぐ立って足が底に触れたと感じたときにはまったく驚いた。それはたいへん柔らかい泥のようにぬめりはするが、まだいくらか助かる望みをあたえてくれる。何時間も波のまにまに奔弄《ほんろう》される。ときどき、底が少しは堅くなる。ほんのちょっと、それで自分を支えることができ、一時は救助と休息の感じをもつことができる。水はだんだん浅くなる。嵐は相変わらず猛烈に吹きつのっているが、波は湖底との摩擦のために、だんだん小さく、穏やかになっていく。休息の瞬間が少しずつ長くなり、ときにはかなり堅い土の上をカヌーを引いてすこしのあいだ歩くことができる。カヌーがなくてはとても助からないだろう。
波はますます小さくなっていく。ロプ湖の岸は数キロにわたって異常に浅く〔「いかにその地方が平坦であるかは、水面がわずか○・五メートル降下すると、四・八キロもの地面がむき出しになるという事実で示される」(へルネル著『ロプヘの旅』一九三ぺージ)〕、なだらかに傾斜している。ここではもう波が立たない。水は風に打たれるが、あまり浅すぎて波にならない。われわれは一瞬立ちどまる。疲労で死にそうだ。ひと休みしなければならない。みんなで力を合わせて、水を多少は出せるだけカヌーをかたむける。もしすっかり水を追い払うことさえできれば、さし迫った危険はなくなる。
とはいっても水をかき出すために使った琺瑯引きの碗はなくなっている。救命帯がないので、オールにしっかりすがりついていた二人の船頭は、ブレードで水をすくい出す。まだるっこい仕事だ。しかし忍耐力が勝ち、カヌーはからになる。二人の船頭が支えているあいだに、私は舟の中へはい上がり、つぎに二人はおのおのの位置につくまで、舟の平均をとる手伝いをする。
超人間的な努力のあとのなんという快い休息だろう。着物をぬいで、水をしぼり、風通しのよいところにかけてかわかした。風は熱くて乾燥しているから、時間はかからない。船頭たちは着たままかわかす。ふたたびオールを取り、風下へこぎ出す。どこにも岸は見えない。もしまた深いところへこぎ出したら波が立つだろうし、そうなればふたたび今までずっとやってきたとおりの、命がけの戦いをまたくり返すことになるであろう。
湖はだんだん浅くなってくる。南西の水平線がでこぼこに見えてきた。乾燥して直立したショールの石板にちがいない。ところでカヌーが底にとどく。船頭たちは立ち上がり、オールで底を押して無理に前進させる。まもなく、また舟から出てカヌーを押さなければならない。水はどんどん浅くなるばかりだ。とうとう一歩も前進できなくなる。水深は○・一メートル」
こんな場合になったとしたら、いったいどうするであろう? 水の深みの危険からは救われたといっても、どう考えてもわれわれの立場は憐れむべきである。われわれは、湖の北端にある赤裸な泥の島のキャンプからもっとも遠い、百二十三キロも離れた最南端の岸にいる。そして食糧と淡水の貯《たくわえ》えは全部、流されてしまっている。としたら、ただちにできるかぎりの速さで、もっとも近くて安全な地点であるキャンプまで帰る以外に方法はあるまい。二隻のカヌーに乗って、ロプ湖の西岸について北へこぐこともできるだろう。水もなしに、太陽のこの酷熱の下を六十キロも歩くということは、若い船頭たちにはなんでもなかろうが、私にはとても堪えられない。しかしまた、いぜんとして荒れ狂っている嵐や逆《さか》まく波をついて北へ舟で進むということも、まったく考えられないことである。こうなっては、嵐が静まるのを待つよりほかに方法はない。といって、こうして待つ間というものはありがたいものではあるまい。われわれは、つい最近も三日間、続いた嵐を経験したばかりだ。もしもあのような状態になったら、数日間というもの、飲まず食わずでいなければならないことになる。
あるいは幸運に恵まれて、数日穏やかな日が続けば、すばらしい旅行ができるし、湖を一周して豊富な収穫が得られるかもしれない。しかし実際はどちらのばあいも起きなかったのだ。というのは、あの不快な関所が計画を挫折させ、湖の塩水の部分には一歩も踏み入れさせなかったのだから。いまは、クム河の水量は日に日に減少し、そのためにロプの湖面は少しずつ低くなっている。もし計画が成功し、南部で五日暮らしたとしたら、あの浅瀬はわれわれが帰るまでにすっかり干上がってしまったであろうし、そうなれば北方の淡水の部分との連絡は絶たれてしまったであろう。
現状の「さまよえる湖」からは、これ以上どんな結果も得られないことがわかったので、北へ向けて舵を取り、第八十三号キャンプのある小島へ帰った。ここで荷をまとめ、カヌーに積み込んで、第八十二号キャンプヘと向かった。なにしろ夜は恐ろしくて、川へなにかが落ちる音がして目がさめたときなど、ひとりぼっちでいるキャンプへなにか大きい怪物でも近づいてきたのではないかと思った。しかしよく耳をすまして、もうそれ以上なにも聞こえなくなった後に、岸がゆるんで水の中へ落ちたにすぎなかったのだとわかり、はじめて安心するといったわけである。
このキャンプを出発するとき、碗に一杯の水を戸外において出た。それは五十一時間に二十八ミリ蒸発していた。夏にクム河が日ごとに減水していくとき、ロプ湖の水面もまた低くなるに違いない。そうなれば、湖の北部全体が干あがるに相違ない。たぶんクム河の分流は、夏中、湖底の露出した沈殿物の上を曲がりくねって流れることであろう。しかし夏の盛りにはこの分流も、南部のもっと深い塩水の部分へとどく前に干あがってしまう可能性がある。もしそうなれば、南部は完全に遮断されて、まだ残っている水から、夏のはげしい蒸発のあとに、どれだけの塩水が残るかを見ることができる。アラル海での蒸発は、夏期一か月間に約一メートルである。ロプ湖からの蒸発も、これ以上ではないにしても、おそらく同じくらいであろう。
われわれがキャンプに着いたときはもうおそかったが、それでも私は荷造りをしてすぐに出発するように命じた。そして三角州を遡り、日没に、低いヤルダンのあいだでキャンプした。
五月十九日の朝、船頭たちは私のテントに、かなり以前にあばかれた墓場から見つけた四本足の食卓二個と髑髏《どくろ》二個、それにいくつかの器具の断片を持ってきた。これらのものは格好といい、型といい、前章で述べたものとまったく同じであった。キャンプから五十五メートルのところにもう一つメサがあったので、歩いてそこまで行った。途中流れのゆるい分流を渡らなければならなかった。これはまちがいなく秋には増水するだろう。同時に川ぞいの湖や入江も水でいっぱいになるだろう。
メサの頂上に近く、小さい木がたくさん地面から突き出ていて、小型の棒杭《ぼうくい》の柵《さく》になっているのを見つけた。その近くに墓が四つあった。われわれはそのうちの一つを開いた。なかには八個の髑髏と、まえに見つけたと同種類のものがあった。
楼蘭をめぐる地方全部をすみずみまで探したら、このような墓を数えきれないほど発掘できることは疑いない。そこには楼蘭人の死体が何世紀間も埋められていて、いまなお永遠に眠っている。当時は、都市や村々の付近は洪水に脅《おびや》かされ、そのために水のとどかない墓場が選ばれたのであった。浸食《しんしょく》でできた昔の沈殿層の残存物であるメサは、水の多い地方に黄褐色の小尖塔になって、完全な安全地帯を提供した。普通の墓地は用いられなかったように思われる。墓は、今でも中国で見られるように、あちこちに分散していて、死体はそこで二千年間も眠りつづけ、春の嵐がいくど彼らの頭上で荒れ狂ったかわからない。
このメサの頂上に立つと、東から南よりの西に十度めところまで、ロプ湖がはっきり見える。まるで海のくっきりした水平線を見ているようである。
午後二時には三十四度ものいいようのない暑さに悩んだ。しかし夜はまた涼しくなって、十六・七度まで下がった。
翌朝、ふたたび太陽が光と色彩とを荒野にふりそそいだときに、われわれはふたつの二隻だてカヌーに乗り込み、西北西へ向かった。またもアシの茂みは厚くなり、新鮮な春の緑がますます鮮かになってきた。それから両岸をヤルダンに囲まれている、はっきりした水路を長いあいだ進んで行った。密生したアシ叢《むら》の間を進み、小さい湖に出て、さらに南西に向かって舵《かじ》をとった。水路は広がり、かなり大きい湖になった。その澄んだ水の下に、ヤルダンの淡黄色の頂が見られた。
午後、古い堡《とりで》のある、とがった半島に上陸した。その壁〔この廃墟は、スタインが西暦二六六年と二六七年に書かれた中国の古文書を発見した堡《とりで》L・Fとまったく同じようなものである〕はきっちり詰めた土でできていて、タマリスクの枝や根で固められ、不規則な長方形をしていた。われわれは壁に登った。その頂は幅○・九メートルから一・五メートル、底は厚さ七メートル。壁の内側には堀に囲まれ、島のように周囲から切り離された壇のようなものがある。その堀の一部には水がある。
堀の水面は湖面より○・三メートル低い。壁は湖面から六・五メートルの高さにそびえ、島は堀のなかの水面から約三メートル高い。堡のある半島は、北、東、西の三方を湖で囲まれている。湖は楼蘭時代には堅固なこの建造物にとって、自然の障害となっていたにちがいない。中央に入口の門が見られる、南向きの壁ぞいに、いまも水をたたえ、半島を島にしている掘割りがある。堡をざっと調べ、必要な個所は写真にとったり、図に描いたり、測量したりしたあと、ふたたび舟に帰り、南西と南南西へ向かって進んだ。都合よく二隻だてのカヌーの通れる運河によって下った。この運河は楼蘭に向かって、だいたいまっすぐ走っていたから、これが人の手で掘られ、その昔、楼蘭の町と堡の間を往来する水路として使われたのではないかと思いたくなった。
太陽が燃えるような金色と深紅色のうちに沈むとき、われわれは豊富に薪《まき》のある川岸に舟をつけ、テントを張って、焚火《たきび》をした。空の輝かしい色彩がまったく消えるまで、われわれは西の地平線から目を離すことができなかった。それから簡単な夕食をすまし、灯を消して寝についた。いろいろな空想にふけった。夜中に外で人声を聞いたように思い、墓場のあたりで囁《ささや》かれたのではないかと疑った。また生まれかわった、この古い水路にオールの音が聞こえた。昔、この水路には数えきれないカヌーや小舟が往来し、清らかに新鮮なその水は、あの乾燥した不毛の砂漠を旅してきた「絹の道」の旅行者たちの心を喜ばせていたにちがいない。
私は耳をすました。そして、射手や槍兵を乗せた戦車の軋《きし》りを、楯《たて》や剣の打ち合う音を、矢が放たれる音を聞いた。続々とつらなる隊商の鈴《すず》の音をどんなにはっきり聞いたことか。また高価な、重い絹を積んで砂漠を静かに、おずおずと歩を進めるラクダの絶え間ない行進や、楼蘭の川や湖の岸にある、肥えた牧草地をかぎつけて喜びに輝くラクダの目や、ひろげられた鼻孔をどんなにはっきり見たことか。
そして二千年も眠り続けた、やまびこのように、駅馬の首につけている鈴の音が楽しそうに響きわたるのを聞いた。その駅馬は中国本部から敦煌を経て、楼蘭まで「絹の道」ぞいに通信文を運ぶのであった。私は三十三年前、楼蘭の再度の探検のときに、これらの通信文をたくさん見つけたのである。にぎやかな生活、ひき続く旅行者の群れ、騎手、隊商、荷車の数々、変化のはげしい、色とりどりな祭りのひびきが、私の心の耳に聞こえ、私を眠らせなかったが、永遠の星は墓の上に昔のとおりまたたいていた。
しかし、生命の源泉である川がその進路を変え、砂漠の南部へ水を注ぎ、そこに湖をつくろうとする日がきた。森林も、草原も、並木道も、庭園も耕地も、みな干あがり、しぼみ、そしてみな死んでしまった。そこで人々はもう楼蘭とそのまわりの国に住めなくなって、彼らの都と、付近の村落を捨て、水と野菜に恵まれた、よそのオアシスヘと移って行った。
しかし、いまや川と湖とは、砂漠の北部に帰り、新たな生命と住民とのために土地を準備している。いま楼蘭とその村落とは新たに花を開き、「絹の道」による交易をふたたび始めることができるのだ。
これこそわれわれがここに来た理由である。眠れないでいるのは、不思議だろうか? 昔、東西を連結していた、地上で最も古く、最も長い隊商路が死からよみがえろうとしている。だがしかし、われわれの夢が実現されたら、古い「絹の道」の生活と活動とは、あの過ぎ去った昔のはなやかな光景とは、どれほどかけ離れたものになることであろう。すでにラクダもいなければ、隊商隊の鈴の音も聞こえず、駅馬の首輪の鈴の音も聞かれないであろう。それどころか、現代の文明が詩的な霊感を追い払ってしまうであろう。まず自動車が、ついで汽車がくるだろう。シベリア鉄道のほかに、新しい鉄道が太平洋と大西洋を結ぶ日がくるのを見られるだろう。われわれの新ロプ湖への舟旅の探検は、一九三三年の夏、中国政府へ提出した計画中の一部分にしかすぎなかった。自分のまえにこうした広大な予想が開け、私が眠れずに、夜の神秘な霊の声や、砂漠の沈黙の囁《ささや》きに耳をかたむけたとしても、なんで不思議なことがあろうか。
十 ロプ湖と楼蘭
五月二十一日の朝、目がさめて、われわれはあのなつかしい廃都楼蘭への道にいるのだと知ったとき、私は異様な気持に襲われた。その楼蘭は、一九○○年三月二十八日、幸運にも私が発見した遺跡である。歴史上、政治上、戦争および通商上ひじょうに重要なこの都を、これで三度も見られるのだろうか。
いまわれわれは、まっすぐ楼蘭に向かっている。人の手で掘られたものらしい狭い水路について進んだ。あるいは孤立し、あるいは木立ちとなって、タマリスクが両岸にならんでいる。これらの砂漠の灌木は、もしかすると昔、カヌーの乗り手たちに樹陰をあたえるために植えられたものではないかと思いたくなる。
しかし水路はつきあたり、かなり大きい湖へ曲がって行った。湖底には、タマリスクとヤルダンが突き出ていた。湖水は狭くなって、ついにまったく行き詰まったので陸地の小さい出っぱりをふたつの二隻じたてカヌーを引きずって越えなければならなかった。この突出点の反対側へ行って、広く開けた水たまりに出ると、タマリスクとアシが長い帯状になってヤルダンと平行に、すなわち北北東から南南西へつづいていた。
さわやかな北東からの風が吹いていたので、すばらしい追い風を受けて湖を横切った。舟は揺れ、水は濁る。湖はだいたい浅い。測鉛で測った最大水深は約一・六メートルであった。太陽は、じりじりと焼けるように照りつけた。気温は日陰で三十一度、水温は二十三・一度。触れるたびに、ばさばさいうアシ叢《むら》をかすって通る。ときどき、タマリスクが紫色の花房《はなぶさ》を伸ばしていた。牧歌のような旅である。この湖が楼蘭へ、まっすぐ南西に続いていてくれればよいがと、ただそればかりを祈った。頭上でカモメが鋭い警戒の叫びをあげた。このカモメは、まだ一度も楼蘭の曲がりくねった水路でカヌーを見たことがなかったのだ。
ロプ湖探検旅行も終わりに近づいていた。ウルムチで許可された二か月のうち、残っているのは、わずか一週間しかない。夏が近づいていた。それなのに気温は、五月二十三日の夜から二十四日の朝にかけて十八・六度まで下った。空はあくまで澄みきっている。ただ北西の空にだけ、軽やかな雲が二つ三つ浮かんでいた。かすかなそよ風が北北東から吹き、こころよい冷気を運んだ。私は書きもの机の上に布を張って太陽の熱をやわらげた。ときどき、アブが弾丸のように唸《うな》って飛んでくる。しかし蚊はそよ風の吹いているあいだは襲来しなかった。
われわれは前に通った同じ湖や水路を通って、青い堡《とりで》へと帰って行った。両岸には去年の黄色いアシが帯のように連なっていたが、あざやかな緑の茎がしだいに目立ってきた。まわりには広いアシ叢があって、白い頂上と黒ずんだ側面をもったヤルダンの峰が突きでている。
河岸や三角州にある、こういう湖はすべて、秋になると、水がまだロプ湖へすこしも注ぎ込まないうちにクム河《ダリヤ》から水を取りいれる。これらの湖から蒸発する量は、じつに膨大なものである。
ちょうど午後一時、堀を見るために堡《とりで》の南側の壁ぎわに上陸した。堀は半島を島に変えてしまい二千年ちかくたった現在でもなお、西北端の三十メートルばかりが干あがっているきりで、それさえ去年の秋にはたしかに水がたっぷりあったのである。
午後二時には気温は三十五度、湖の水温は二十七度になった。水位は、われわれが最初この水路を通ったときよりも下っていた。舟の南側にタマリスクの枝やアシの茎が触れるほど狭い水路を、カヌーを押したり、引いたりして行進するのは、このまえ以上に困難であった。舟に品物を置くと、そとにほうり出される心配があった。私の日よけは、タマリスクの枝に引っかかってもぎ取られてしまった。クモやカブトムシがタマリスクの小枝や灯心草から舟のうえに落ちてきた。一度など、狭い浅い通路を通って、荷物全部を運ばなければならなかった。日が傾いたので、暑さがやわらいだ。このまえ湖を出て行く途中に通り過ぎた、侵蝕による奇妙な円柱が南西に見えた。われわれは小島の上でキャンプしたが、そこにはちょうどテントを張れるだけの平らな地面があった。薪《まき》はまったくなく、甲板を犠牲《ぎせい》にしてたき火をした。
ロプ湖への忘れられない旅の最後の日、五月二十五日は明けた。第八十号キャンプはそう遠くはない。そこには、ガガーリンと三人の船頭が残っている。そして二人の牧人がヒツジをつれて、われわれのいないうちに、そこへ着いているはずである。しかしそのキャンプへ帰るまえに、もう一つしなければならない仕事がある。クム河の最終の地点の水量を正確に測定することである。
風化されて、ラクダやライオンや堡や塔のように見える、壮麗なメサのある風景の中で、この重要な地点を見つけるのはむずかしいことではなかった。メサのあいだを、くっきりとした河床をなして水が流れ、狭い長方形の島で二つの分流に分かれていた。ここでの測量の一々について述べるのはやめよう。ただこの地点で、川は毎秒三十六立方メートルの水を運び、その大部分をロプ湖へ注ぎこむが、夏の初めであるいまは、日に日に減水していることをいえば十分であろう。
私は何回も、どうしたらロプ湖から帰れるかと考えた。この地方は自動車で進めるのだろうか? もし行けなければ、流れを遡《さかのぼ》って軽い単独なカヌーでこぎ帰るか、馬に乗って帰るしかないのだ。ところが、敦煌探検隊は、アルトミッシュ・ブラクから一歩もさきへ行けなかったので、都合よくわれわれが帰る旅に必要な道路を見つけた。このようにして、ロプ湖探検の無事な終局をすべての意味で喜び、感謝した。
おさえようのない空気の精――風――たちが、す早い羽でテントの上を飛びはじめた。テントの布がばたばたはためき、いまにも裂けそうだった。みんな起き上がって、木釘や綱でテントを動かないようにしなければならなかった。
これが「さまよえる湖」に近いお伽《とぎ》の国を去るにあたっての、最後のお別れの、はなばなしい吹奏楽であった。
十一 キャンプ基地への帰還
五月二十七日は、いそがしい日であった。われわれはクム河《ダリヤ》の三角州を去って、ひからびた不毛の砂漠へ帰ろうとしていた。
第八十号キャンプには、小麦粉を百五十キロ残していく。これは袋に詰めたまま、テントの中にしまいこんだ。カヌーはすべて水に沈めていく。こうしておけば、風雨や太陽にいためつけられることはあるまい。みんな湖底に打ち込んだ杭《くい》にしっかり縛《しばり》りつけた。後日、再び訪問のさいに、この場所にカヌーとテントと小麦粉の用意があるように、とのつもりである。
八人の船員と二人の牧人には、ヤルダン・ブラクの泉に近い第七十号キャンプ基地へロバ五頭、ヒツジ三頭、ガソリン、荷物の残り全部を持って帰るように命じた。私は五日の旅と計算した。
これらを全部用意するのに、だいぶ時間がかかった。二時半になって、ようやく用意がすべてととのい、輸送隊は出発した。自動車隊員は、単独のカヌーに分乗し、自動車へいちばん近い岸までこいで行った。そこでわれわれは輸送隊と落ち合った。彼らは一夜をその岸で過ごし、ヒツジを一頭殺すつもりだった。自動車に乗せる荷物は全部ロバにつけた。五時ごろ、やっとわれわれはトクタが自動車を見張っている場所へ向かって出発した。
十五分で、岸にアシがある最後の分流に着く。そこを過ぎると、土地はまったく乾いて不毛になった。われわれは列をなしている、絵のようなメサについて行く。私はロバに乗った。ロバはでこぼこな粘土の上を軽々と、しっかりと歩いた。一行が最後のメサの麓《ふもと》にある自動車のところについたのは六時半過きであった。ロバを連れてここまでついてきた四人の船頭は、仲間のいる湖岸のキャンプへもどるまえに、ロバに二、三駄ほどの薪をとってこなければならなかった。それが終わってから、彼らはわれわれに別れを告げた。太陽は地平線にあり、月はメサのある山の背の向こうから昇りはじめていた。八時には、まだ時速四十二キロメートルの風が吹いていた。いつも溶けて果汁のようになっていたバターが、気温二十三度の風にあたって固まった。われわれは、バター付きパンとチーズとお茶の、すばらしくおいしい夕食をしたためた。
そのうちに、自動車に荷を積み終えた。一同が乗りこむと、自動車はヤルダンのあいだを北西と北へ向かって進み、生きているタマリスクの最後の一本を通り過ぎた。まもなく、ほんとうの砂と石の砂漠へ出た。セラトは轍《わだち》の跡をさがした。一時間行くと、山脈から流れでてきている広い、かわいた河床に行き着いた。おそらく、それはアルトミッシュ・ブラクから出ているのであろう。それから両岸に堅い岩のある、北北西へ走る峡谷を通って登った。
アシ叢《むら》に囲まれた二つの塩泉、モホライ・ブラクで車の跡を見つけ、そこからさきは忠実にそれをたどって進んだ。車の跡は、オロンテメントゥ・ブラクから峡谷を通って上っている。その泉は、北北西に走っている丘の間にあった。丘はだんだん高くなり、峡谷には生きているタマリスクが生えていた。
進路は西南西へ変わった。数本のタマリスクの向こうに、二頭のカモシカが疾走するのが見えた。かなり大きい山頂がわれわれの右手にそびえている。まわりはすべて山の風景であった。人の歩く小道さえなかったが、車の跡について進んだ道は、堅くてよい道であった。
最高温度は二十八度。しかしここではアブがとても多く、自動車の開いている窓から小銃弾のような音を立てて、はいってきた。三時半に、ガソリン・タンクをみたすためにブルトゥ・ブラクで少し休んだ。それから右側につぎつぎと現われるオボを見て過ぎた。これらの石塚は、最近に猟師たちによって立てられた単純な道標でないとすれば、古い時代にこの山間に道があったことを示すものである。
午後六時、右側にあるベシュ・ブラクをあとにした。一メートルから二メートルおきに互いに交差している、無数の小さい地溝をつぎからつぎへと通って行くのには、ほとほと閉口《へいこう》してしまった。高い段丘のあいだの谷間を通って、すっかり侵蝕で削りとられている土地へ出た。そしてついに新しい山脈に入り、ナン・チャン・ブラクへついた。この泉の水温は十二度で、味はあまりよくない。われわれは荒れた道もない地方を通って、ほぼ百六十キロメートルを踏破したのである。七時二十五分、太陽は多彩な輝きを放ちながら、ちらちら金色《こんじき》に縁どられている青や、淡紅色の小さな雲の間を沈んでいった。
アシとタマリスクと約二十本のポプラが、悪臭をはなつ泉のまわりに生えていた。ちょっと離れたところには、この種の樹木がかなりたくさんある。泉のそばには、旅人が風雨をよけるために建てた、石造の小さい簡単な小屋が四つあった。われわれはテントを持っていなかったので、朝のあいだブヨや蚊の襲撃を防ぎようがなかった。
進路は西北西に向かっている。最初、地面はやや柔らかかったが、まもなくいい自動車道路のある堅い沖積層の平原になった。
路上には土の塊《かたまり》が、円錐形や半球の形で盛り上がっていた。すばらしい薪《まき》になる、ひからびた灌木がそれをおおっている。これらの土の堆積は、ちぢれた黒人の頭髪のようだった。タマリスクと叢林《そうりん》は珍しくなかった。タマリスクのうちの一本は、そうとう大きかった。
空一面に雲がひろがり、涼しい微風が吹き始めると、アブは姿を隠した。一行は低い丘のあいだを走っている、もう一つ別の小さい谷間を進んだ。砂と泥との谷底には、タマリスクが繁茂している。
風景は山脈と丘、草原と砂漠との、つぎはぎのなかに絶えず変化した。われわれは堅い平坦な峡谷中の、タマリスクが密生している並木道を走って行った。東北東にアズガン・ブラクが見えた。ここの高度は約千五百メートル、ロブ湖《ノール》から約七百メートル登ったわけである。
もうカクス・ダワン峠《とうげ》まで遠くはない。この峠は北方の平原からおよそ四十メートルしか高くないが、ひどくけわしい。自動車は一回に○・三メートルぐらいしか進めない。われわれは降りて歩き、車体が坂をあともどりしないように、また曲がりくねった登り道でひっくり返らないように、車輪の後に石を置いた。峠の南側に、二十三リットル入りのガソリン鑵《かん》を一本埋めておいたので、それを取り出して、タンクの中へあけた。
こんどはほんとうによい道に出た。その道には、鋤《すき》やつるはしやたくさんのラクダ隊の通った跡がついていた。これはトゥルファンから営盤《インパン》へ、サイ・チェケからコルラへ通ずる道で、トクスンへ通ずる道がとざされてからは、自由に使われているのだ。
一行は、淡紅色と黒と白との、テントに似ている山脈のあいだの狭い谷間を南西へ進んだ。道は付近の小丘の上にある石塚で、それとわかった。ふたたび展望が開けてくる。四時ごろトグラク・ブラクへ着いた。この泉は幅がおよそ三メートルある谷底の砂から湧き出ていて、すばらしい水であった。こんな荒涼とした山中で出あったものだから、「ポプラの泉」はじつにうれしい場所だった。一方には高い崖があり、他の側には高さ二メートル足らずの侵蝕段丘があって、そのあいだに二、三百本のポプラがはえていた。
最初は北に、つぎには西に、そうとう折れまがり、それから山を出ると、段丘のあいだの水を運び出す漏斗《じょうご》である、広い石ころの原に出た。そこでクム河《ダリヤ》の方に向かって南西に進むと、黄色いアシ叢《むら》のおかげで遠方にクム河が流れていることがわかった。
チャルチャックの山脈を左に見ながら、不毛の平原を越えて進んだ。道はよかった。午後六時三十分に第七十号キャンプ基地へ着いたが、そこには、コサックのニコライとトルコ人が二人いるだけであった。ニコライは、ベルクマンとゲオルクが明朝、砂漠へ出かけるので、テントや従者やウマやロバを準備してクム河の右岸にいると告げた。
いまの私にとって最も重大なことは、ベルクマンの部隊が出発するまえに、彼らと連絡をとることである。そのため、われわれは四百メートル離れた河岸へ行き、二隻のカヌーを用意した。舟に乗ったときには、もう暗くなりはじめていた。かなりの距離をこいでから、やっとベルクマンのテントが見えた。まっ暗がりのなかを、灯を照らして近くの岸に上陸した。ゲオルクと従者たちが、迎えに岸まで下りてきた。ベルクマンはすでに寝ていたが、声を聞きつけて大急ぎで着物を着た。彼はそのときまで、われわれの生死さえも知らないでいたのである。そこへ突然、夜になって彼らのキャンプに一行が現われたのである。
いうまでもなく、ベルクマンは墓場の発見にひじょうな興味をもった。われわれは持ち帰った収集品〔この収集についての記事はベルクマンによってすでに発表されている。(『新疆省における考古学上の調査』ストックホルム、一九三九年刊)〕の取り扱いを、彼にまかせた。まえに約束したガソリンのことについては、やはりなんの話もなかったということが、彼とゲオルクの話で確かめられた。彼らは、便りをよこしてくれるようにと頼んだ手紙をもたせて、使いをコルラの守備隊司令官に派遣した。しかし、その使いは帰ってこなかった。こうなっては私自身でコルラヘ行き、また必要とあればウルムチまで出かけようという決意は、やはり正しかった。
話したいことは、山ほどあったので、われわれは夜半過ぎても、しばらく起きていた。ベルクマンは一行に夕飯をもてなした。いちばんのご馳走《ちそう》は酸化したヒツジの乳で、それはクム河畔の湖の岸で放牧している、牧人から買ったものである。
ベルクマンとゲオルクの小部隊は、砂漠の中央にある珍《めずら》しい墓場について知っているオルデック、道に詳しいヤンギ・スー出身の一人のトルコ人、二人の従者、五頭のウマ、二頭のロバで編成され、三週間の食糧を携えた。彼らは西へ、南へ、南東へと未知な墓場をさして行くことになっていた。そこはヤンギ・スーの東へ一日行程ほどあり、旧タリムの下流からいくぶん東の方に当たっていた。
われわれの寝袋はあとから届けられた。われわれはベルクマンのキャンプでその夜を過ごしたが、当夜の最低気温は二十四度Cより下がらなかった。
ベルクマンは、彼の隊を率いて日の出とともに出発した。川を渡ってセラトと協議してきたゲオルクは、われわれがキャンプ基地へ行く用意ができるまでいっしょにいた。われわれはすぐべルクマンのあとを追い、神秘な砂漠へはいって行く彼と川岸で別れを告げた。
第七十号キャンプで私は自分の小型旅行鞄や箱から、コルラヘあるいはウルムチへ行くことになるかもしれない旅行に必要なものを取り出した。パラフィンを一部使用したので、まだかなりたくさんのガソリンが残っていたが、三台の貨物自動車全部がウルムチへ行くのには十分ではなかった。潤滑油も足りなかった。この量は、ちょうどここから新疆省の首都までの六百四十キロメートルを、小型自動車で行くのに必要なだけであった。私が自動車で第七十号キャンプを出発したときには、あとに一滴の潤滑油も残っていなかった。
私は、さっぱりした白い夏服の着換えを三枚、帆布一枚、毛布二枚、夜のキャンプのために毛皮の外套を二枚携えた。第七十号キャンプ基地では、不思議な出会いが起こった。私は一か月留守にしていたのであるが、われわれはクム河《ダリヤ》で最後の晩を過ごしていたベルクマンとゲオルクとに、うまく会えたのである。そして一時半、長い不安な旅のための自分の所持品の準備をしていると、みんなが叫んだ。
「フンメル博士だ!」
「何をいっているのかね?」
「まあ、でてきてごらんなさい! 自分で」
私は望遠鏡を手にした。まったくそのとおり、川岸からフンメル博士が二人の従者をつれて、足ばやに上がってきた。やけつくような暑さにパジャマを着、日よけ帽をかぶり、ひげをそり落として、いかにもたくましく、健康そうに見えた。われわれは再会を喜んだ。お互いに抱きあった。つぎつぎと止めようもない質問と返答のやりとりをした。
私の出発の用意はすべて整っていた。だから、もしフンメルが十五分遅く来たとしたら、私はすでにコルラへの旅路についていたにちがいない。まさにきわどいときに到着したものである。
「しかし、いったいどうした。右の腕をつってるのは?」と私は尋ねた。「なぜほうたいなんかしているのか?」
彼は笑った。
「いや、ひどいめにあいました」と彼はいった。「コンスタンチンと私とで猟をしていたんですよ、クム河で。するとイノシシの親子づれがおどろいてとびだしてきました。子を三匹捕えたってわけなんです。それ以来、箱の中にいれて舟の上で飼っていたんですが……ところがある日|餌《えさ》をやっていると、一匹がおや指にかみつきましてね、そのおかげで血毒性のかなりひどい発作が起きたのです。一週間ものあいだ、寝たきりでなにもできませんでした。自分で手術したら、だいぶよくなりましたが。もうほとんどなおったんですよ。あと二、三日もすれば、またもとどおりになりましょう」
彼があまり健康そうに、いきいきしているので、私は危険なことがあろうなどとは、ゆめにも思わなかった。そしてまた、だれだって彼自身以上に彼の状態がわかるはずはなかった。そのとき彼を自動車に乗せてウルムチまでつれて行き、家へ送りとどけて、適当な治療をあたえてやらなかったことを、それから一か月たってから私はどんなにはげしく後悔したことだろう! ありがたいことには、彼は不治の傷害に苦しんだのではなかった。しかしもしわれわれといっしょに来たのであったら、われわれもあまり心配しなくてすんだろうし、彼自身もそんなに苦しんだり悩んだりしないですんだろうに。
そのうちに私の荷造りも終わり、お茶もすんだので、フンメルといっしょに岸へ引き返した。そこには彼の二隻じたてのカヌーがふたつつながれていた。
彼の船隊はたしかに一見の価値があった。荷箱には、背中に縞《しま》のある、土を掘るための鼻をもつ性悪なイノシシが三匹はいっていた。コンチェからつれてきた犬のペルがテントのそばで見張りをしており、ヒツジが一頭そのすぐ横でイヌのように慣れて、草をたべていた。こんなかわいい慣れた動物は誰も殺しはしまい。一隻のカヌーと岸のあいだの網囲いのなかには、黄色いガチョウのひなが五羽、オシドリが一羽泳いでいた。そしてアオサギが一羽、さぐるような目つきでわれわれを見ながら立っていた。また一羽のコウノトリのひながこの愉快な動物園のなかにいたが、これはみんなの大のお気にいりであった。これらの動物はみなよく慣れていて、じょうぶだったが、長い旅行中にみなそれぞれ悲しい最期をとげてしまった。
船中のフンメルの書斎《ヽヽ》は彼の学識と勤勉の性質を示していた。不幸にもイノシシにかまれてやむなく仕事を中止させられたけれども、それでもクム河畔で集めた、剥製《はくせい》にした鳥や植物の立派な標本があった。彼はこの水の少ない川に沿って、この地方に分布する動植物をさがしたのだ。
彼の従者たちはテントを整え、設備をそろえていた。そのあいだに従者のひとりのカシムがヒツジを殺して、火の上であぶってシャスリックをつくった。カシムは善良で、忠実な召使だったが、この川の旅行の最初にとんだ失敗をしてしまった。舟の上のキャンプにたったひとりでいたときに、博士が灯火用に使うつもりでパラフィンを入れておいた五ガロン入りのガソリン鑵のふたの螺旋《らせん》を抜いた。カシムは、パラフィンとはどんなものだかを知らなかったので、ただの水だと思った。それでその液体が奇妙な、不快なにおいがするのに気がつくと、もしも博士が飲んだらあぶないと思って、博士のためを思って一滴も残さず流しだしてしまい、鑵をすっかり洗って、きれいな川の水をいっぱい詰めておいたのだった。このためフンメルは、もっとパラフィンを送ってくれるように書いた手紙を持たせて、使いを本隊におくるという、とんでもないめんどうなめにあった。そのあいだ、彼はろうそくの光だけに頼らなければならなかった。そのうちに夕食の用意ができたので、フンメルと私たちとはテーブル代用の荷箱をかこんですわり、気持のいい、楽しい時をともに過ごした。
しかし、もう時間もだんだんおそくなってくるし、それにわれわれは破損している貨物自動車をおいてある場所まで行かなければならなかった。そこでわれわれはフンメルと同行して、第七十号キャンプまで歩いて帰った。自動車はすでに修理され、荷が積まれてすぐにも乗れるようになっていた。フンメル一行と、あとに残る人たちに別れを告げ自動車に乗った、たちまち、彼らは自動車がまき上げる雲のようなほこりにかくれて見えなくなってしまった。
七時半になった。夕闇は地上に刻一刻と濃《こ》くなっていき、夕焼けの最後の反映も消えてしまった。私は全隊員をあとに残し、どんななりゆきになるかわからない、たいへん心細い旅に出たのだった。私は油を手に入れなければならない。これがなくては自動車も動かなくなるし、コルラのときのようにまたつかまって、みんなひどいめに、あわなければならないかもしれない。
もう西の空さえ暗くなってしまった。そしてエジブトの僧侶のように、黙々と星が行進を始めていた。
われわれのその後の冒険については、私の『シルク・ロード』に述べてある。
十二 敦煌と千仏洞
われわれは、この新しい川〔クム河〕を全部、「さまよえる湖」に注ぎこむ地点まで正確に地図に描いた。そしてこの湖の北部をできるかぎり南へ行って見たのである。一九○一年の楼蘭における天文学上の観測と、クム河《ダリヤ》西岸に沿って行なったアンボルトの綿密な観測との結果によって、われわれが訪れた場所の緯度と経度を確定した。クルック・ターグと新しい水路に沿った地方の高さは、私が一八九九年〜一九○○年にヤンギ・コールと営盤《インバン》で実施した一連の観測によって定められた。これらによると新ロプ湖《ノール》は海抜約九百メートルである。
南京と中央アジアを結ぶ新しい自動車道路のルートを発見する目的で、第七十号キャンプの基地から東へ向かってでかけた自動車旅行は失敗だった。一九三五年には、帰途|安西《アンシー》から南京までこの道をためしてみるはずであった。ハミからトゥルファン、コルラ経由でクチャに至る道はすでにわかっていたし、またコルラからクム河畔の第七十号キャンプまでの約二百キロメートルも同様に踏破していた。したがって自動車隊の任務は、第七十号キャンプから一直線にほぼ三百九十キロメートル隔たった疏勒河《スーローホー》の末端にある、水のはけ口をもたない湖へ進むことであった。
実際は潤滑油《じゅんかつゆ》の不足のために、アルトミッシュ・ブラクより遠くへは行けなかったのである。
ここまでは直線にして百四十キロメートルであったが、うねりくねって進んだので、自動車隊にとっては、少なくともその三倍はあった。そのうえ疏勒河の湖から敦煌までは百六十キロメートルあったし、敦煌から安西まではさらに百十一キロメートルあった。
そのため、困難は大きかった。この夏に、アルトミッシュ・ブラクから安西までの五百三十五キロメートルの全区域の旅行には失敗した。ヨーロッパやアメリカの道路なら、ガソリン潤滑油を十分もった自動車にとっては、この程度の距離は問題ではない。ところが、道らしい道もない中央アジアのこのあたりでは、五百三十五キロメートルというのは恐るべき距離といわなければならない。
国へ帰ったフンメルとベルクマンを除いて、全探検隊員は一九三四年九月八日にウルムチへ集まった。しかし、まだわれわれがこの恐怖の町から自由になるまでには、六週間も待たなければならなかった。盛世才は帰り道にも、来た時と同様、エツィン・ゴールを通るようにと主張した。新疆《しんきょう》省と甘粛《かんしゅく》省の境界の猩猩峡《シンシンシャア》には、六十人もの組織された盗賊団がいて、隊商や旅行者を略奪するから、ハミと安西のあいだの道は避けるほうがよいと盛将軍はいっていた。私はなんの約束もしないで、心のうちで考えた。「ハミへ出さえしたら、どこへでも自分たちの好きな方向へ行こう」と。
われわれは十月二十一日、二台の貨物自動車と一台の小型自動車でウルムチを出発し、とくに危険もなく十月三十日に安西へ着いた。
ウルムチを出発するまえに、私は三人の中国人隊員に、もし安西でガソリンを見つけることができたら私は西方へ、できればアルトミッシュ・ブラクまで行こうと思うといった。
これはただ、つつましい希望にしかすぎなかった。というのはウルムチで手に入れたガソリンのたくわえは安西まで行くには十分であったが、それ以上はむずかしかったからである。もし安西でガソリンが入手できなかったら、「絹の道」に沿って荷馬車かウマかラクダで、旅を続けるよりほかにしかたなかったろう。そしてロプ湖の低地へ行くことは、問題外であったろう。
しかし幸運はいつもわれわれにほほえんでくれた。われわれの願いはまえもって計画し、組み立てておいても、これ以上には果たされなかったろうと思われるくらいにかなえられた。われわれは安西の市長と、この町にある欧亜航空公司の代理人の親切なもてなしを受けた。その話では六百キロリットルのガソリンがここに貯えられているということである。ベルリン〜上海間の航空路のために用意してある、この膨大なガソリンはさしあたって必要なかった。というのは、ソ連がドイツ人に対しソ連領アジアの上空を飛ぶことを拒絶していたからである。
私は上海にいる航空公司主脳部と無線電信を交換して、われわれの計画どおりに無制限にガソリンを使ってよいという承諾を得た。
さて残る問題は、西へ向かう自動車旅行の許可を南京政府から獲得することだけである。こんなアジアの奥地ではガソリンの値もひじょうに高いし、この新しい探検旅行のためには数千ドルという多額の費用がいるというのに、許可はなかなか与えられなかった。
この自動車偵察隊が完全に成功するためには、安西の住民のだれひとりにも、われわれの真の目的を気づかれないことが、なによりも大切である。市長にも、ガソリンを提供してくれた航空公司代理人にも、秘密は打ちあけなかった。そればかりでなく、ゲオルク・ゼーデルボムにも、またかつて四年間われわれの探検隊の一員であり、現在安西でほかの仕事に従事しているマンフレッド・ベーケンカンプにさえ、なにも知らせなかった。わが運転手エッフェとセラトには、ただどれぐらいのガソリンと油を積み込まなければならないかを命じただけである。
この秘密は、全部ただ予防手段であった。アルトミッシュ・ブラクは全ロプ湖《ノール》地帯と同様、新疆省の領域である。かつてわれわれは新疆省で、いやというほどトゥンガン軍やロシア人や中国人から拘束を受けた。もしもわれわれの真の意図が安西で一般に知れわたったら、その報道が新疆省に広がり、当局者の耳にはいることはまちがいない。安西の市長はハミの主《ぬし》、古狐《ふるぎつね》のヨルバルス・ハーンの友人で、かれらは毎日電話で話し合っている。もしも市長がわれわれの計画をかぎつけたなら、彼はヨルバルスにいうだろうし、ヨルバルスはウルムチヘ告げるだろう。そうなったら、新疆省の支配者は、われわれがカシュガルまでの自動車旅行の許可を申請して却下されたので、彼の勢力範囲外にある南方から同省へ引き返してきたのだと疑うだろう。そこで彼は騎馬兵をアルトミッシュ・ブラクの泉へ送って、われわれを捜《さが》すにちがいない。もしもそんな状況の下でつかまったら、われわれを密偵《みってい》とみなし、また密偵として取り扱うのに、おあつらえむきの理由になるであろう。
そこで、自分たちの意図をかくすために、われわれは敦煌に近い有名な断崖の巌窟《がんくつ》、千仏洞を訪れるつもりだという、ほんの一部分しか真実でないうわさをひろめたのである。
十一月二日、われわれの出発準備は完了した。とはいうものの、用意ができるまでにはしばらくかかった。地位のある市長自身が安西の外まで一行を送ってきてくれたが、われわれは城門で歩哨に止められ、目的や品物について尋問《じんもん》された。しかし無事に通過することが許可されたところからみれば、明らかにわれわれの理由はほんとうらしい、と思われたのであろう。
道は、ヤナギの並木道を通り、短く狭い橋がかかっている運河を越えて、南につづいていた。地面は柔らかい砂地である。西流している小川があったが、こんな季節なのに水はもう氷のあいだをほんの少ししか流れていなかった。橋と孤立したポプラのある河岸でキャンプしたときには、南方の低い丘からそれほど遠くないところにいた。
十一月二日から三日にかけての夜の気温は十二度まで下がった。そして翌朝は、じつによく晴れあがった。予想外の乗客が二人、貨物自動車に現われた。一人は安西の警察署長、一人は憲兵である。なんの用かと尋ねると儀杖兵《ぎじょうへい》として皆さんのお供をし、敦煌滞在中お仕えするように市長が命じたのだと答えた。おそらく、彼らの真の仕事はわれわれの行動の看視であったろう。
小さな饅頭《まんじゅう》山や草の茂みや深く掘れた轍《わだち》やらがいっぱいな道は、あぶなっかしい小さな木橋のかかったたくさんの水道を越えて、あいもかわらず南方へ走っていた。しかし数人の農民が灰色の壁の家に住んでいる小村を越えると、ついに敦煌・粛州間の本道へ出た。そして、ここからわれわれは敦煌へ向かって西南西へ向かった。
ここで灌漑《かんがい》用運河が十文字に交差している安西オアシスの柔らかい沃野《よくや》が終わっている。正南の山麓にあたる、堅くて不毛の砂利《じゃり》だらけのゴビを横切った。道は自動車の通行には理想的な砂漠を通っている。すぐ右手にオアシスが現われた。
一頭のカモシカがこの荒野に姿を現わしたが、エッフェの鉄砲の用意ができたころには、もう前方の道沿いに見えなくなってしまった。それからまた行手に同じ方向へ行く二人の騎乗者がいた。彼らは、自動車の音を聞くと、すばやく方向を変え、馬のわき腹を蹴《け》って南方の丘に向かって逃げ去った。
小さい古寺が一つ、丘のあいだに立っていた。しばらく行くとまた一つあった。家や塀が残っているところをみれば、その昔、人が住んでいたことは明らかである。途中で渓谷を一つも渡らなかったことを知って、われわれは意外に感じた。われわれが渡ったのは、ひじょうに浅くて、自動車がかすかに揺れでもしなければ、感じられない程度のものであった。
粘土の沈殿層と沖積層の上に風化作用で形成された、高さ約一メートルのえんえんと続くヤルダンの奇妙で特徴あるあの風景が、いままた道の右側に現われた。クム河上の舟旅中も、われわれは華麗《かれい》なすばらしいヤルダンを見て過ぎたのであったが。
ついに生き物の影が現われた。三人の男と一頭のロバといっしょに、車輪の高い荷車がウシ二頭に引かれてやってきた。綿花とナシの実を積んでいる。聞くところによると、敦煌ではナシ一個銅銭一枚で売れ、安西では三枚で売れるとのことである。敦煌では、まん中に四角な穴のあいたこれらの銅銭四百で銀一ドルだが、安西では五百五十である。
蘆子谷《ルーツァオコー》で、われわれは偶然もう一つのやや小さい古寺を発見した。南方に連なっている丘は、だんだん小さくなり、われわれから遠ざかっていった。土地はおそろしく荒涼としている。どちらを向いてもまったく不毛の砂漠である。しかし往来は反対に多かった。ときどきナシを積んだ馬車や、ロバをつれた土地の人々や、ラクダに乗った中国人にも一、二度行きあったりした。甜水泉《テイエンシュイチェアン》すなわち「淡水の泉」――その名にそぐわず水はにがかった――の小さい宿屋で、旅人たちが駄獣と車をおいて休んでいた。孔辛屯《クンシントウン》は荒れ果てた村で、最近つくられた六角の望楼が一つ、またその前面に小さい塔が五つ立っていた。われわれは、たびたびモンゴルのオボを思いおこさせる道標を通り過ぎた。遠方にカモシカの群れがいるのを数回見かけた。
八十七キロメートル進んで夜の休みについたときには、もう敦煌までそう遠くはないと思った。距離は大きくないが、しかし道はひどい。この道は、一連の小村のあいだを抜け、あぶなっかしい橋のかかったたくさんの運河をこえ、塀や農家や望楼を過ぎ、わずらわしいヤルダンや、たびたび車がはまりこんだ重い砂の地帯とのあいだにある菜園や、旅人の避難所を通り過ぎて行った。避難所には東トルコ人もトゥンガン人もみられず、ただ中国人がいるだけであった。ところどころ、道は地面のなかに深く沈んだかと思うと、また高い運河の堤防を越えなければならなかった。提防では自動車の車輪がくいいってしまい、掘って引きださなければならなかった。菜園や雑木林がだんだんと多くなり、並木道もところどころにあった。安定県《アンテイシエン》の付近で、運河と橋の迷路に迷いこんだが、やがて三メートル近くも深く沈んだ道へ出た。水はたびたび冷却器《ラジエーター》のなかでわきたぎり、運河でいっぱいにした手桶《ておけ》の水で冷やさなければならなかった。こんな状態であるから、進行はのろかった。おまけに、つねに地図を頼りに道をとっていたから、よけいのろかったのである。
莫家堡《モチャボ》は一八五○年代の終わりに建てられたものである。そこを過ぎてから、道は大きい運河を越えて延びていた。運河には、七本の桁《けた》の上に平たい石をのせた、がっちりした橋がかかっていた。この運河の水もほかの運河と同様に党河《タンホー》から引かれていた。
文学の神様|文昌《ウェンチャン》〔北斗星の魁(第一星)前の六星。科挙で五経の各主席を魁という。したがって文昌をまつり、科第を祈る〕のために建てられた祠《ほこら》が、ちょうど敦煌の東門の外にあった。ここで一行は兵隊にとめられたが、うるさいこともいわずに、通してくれた。われわれは漢字の名刺を衙門《ヤーメン》外側の門においてきた。いちばん地位の高い官吏が自身で迎えにきて、今夜は自分のところのお客になってくれるようにいった。われわれは辞退したかったが、夕食をともにすることを断わるわけにはいかなかった。ご馳走《ちそう》は細かく刻んで煮た肉とコウシの肝臓のフライと炒《い》り卵であった。主人はたいへん丁寧な、客あしらいのよい人で、尋ねることにはなんでも喜んで答えてくれた。敦煌には三千五百家族住んでいるが、安西には五百家族しかいないこと、住民は中国人であるが、チャルリック、ハミ、トゥルファン出身の東トルコ人の商人も数人いること、しかし戦争があらゆる取り引きを麻痺させてしまってから、その商人たちにはあまり仕事がなくなったことなどを話してくれた。しかしその後、われわれの聞いたところによると、最近は品物の取り引きもひかえめながら始められ、小規模の隊商が用心しながらも問題の三都市との交通を始めているということである。
商取り引きに関するかぎり、敦煌ほど世間から取りのこされている町は世界にもそうたくさんはない。しかも、この町は二千年前には重要な中継地であった。絹の貿易にとっては最も重要な通路であった隊商道路が、敦煌の西北西約八十キロの玉門関《ユーメンクアン》の古い堡《とりで》のところで二またに分かれている。北を通る道はトゥルファン、カラ・シャール、コルラを通り、南のはチャルクリック・チェルチェン、ホータンを通っている。そしてこの二本の中間を楼蘭、コルラを経由する第三の道路がかつて通っていたが、それはロプ湖の北を通り、われわれが地図に描いたクム河の川筋沿いに通っていたのである。とくに関心をひくのは、この最後の道路である。われわれの仕事は、これが自動車道路として実用可能かどうかを調査することである。もし、使いものにならないほど悪かったら、砂漠のこの古い道路の北にある北山山脈の中に新しい道をさがそう。幸いなことには、市長は物のわかる人だったので、われわれが何をしようとしているのかを聞こうともしなかった。
しかしもう千仏洞へ出かけなければならない時間なので、食後の別れを告げた。役所の外の中庭には物見高い見物人がぎっしりつまっていた。ここの町には安西よりもはるかに活気がある。客は市場のなかの露店のまわりに群らがり、品物は荷車やロバやラクダで店をあちらこちらと運ばれていた。
町の外へ出ると、まもなく灰色の家、塀、菜園、並木道、そして土塁や橋のある運河などがめちゃくちゃに錯雑している農村になった。衙門から第一一六号キャンプまでは、わずかに七・五キロしかなかったが、どんな思いきった空想をしても、こんなひどい自動車道路を考えることはできないほどひどい道であった。運河は堤を破って、道路を水びたしにしていた。
ときには泥の中にしっかりとはまりこみ、ときには車体の底を堤にひっかけ、またしても鋤《すき》とつるはしで働かなければならなかった。ときどき、この長い路面の湖のなかから、かわいた地面が少し顔を出していた。しかしそれも長くは続かず、たちまち水は、モーター・ボートの舳《へさき》のまわりのように、車の前面ではねかえった。
運河や水や危険な橋のあるこの耕地地帯が、やっと終わりにきたときに、またもや別の障害が起こった。平たくて不毛な、そうとう広い砂丘がひろがっている。なが細い繩《なわ》むしろを車の下に敷き、注意深くモーターを動かして、一メートル前後進ませ、つぎにむしろをすこし前へやるまでは、じっと立ち止まっていた。
この障害もついに乗り越えたが、洞窟へ行くまでには、まだ五か所もこんなところがあることを知ったので、ひとまず休息して相談した。ウマは一頭も手にはいらないから、荷車とウシを動員することにきめた。もうまっ暗になっていた。テントを張って、第一一六号キャンプを張った。二時間のうちに、二台の荷車と九頭のウシが届けられた。ウシは敦煌へ帰るときに自動車を引かせるつもりであった。
翌日、われわれは荷車に乗って、高さ約一メートルの点々としたヤルダンと、一連の吹きだまった砂丘のあいだを進んだ。さわやかな微風が頬《ほお》を吹いていたが、空にうず巻く砂塵《さじん》がまもなく山々を隠してしまった。自動車がウシに引かれて行くなどとは、まったく笑い話どころではない。正直で、遅鈍なこの動物は、一歩一歩ゆるやかに前進した。頭をたれ、鼻を地面に近づけ、すこしも急ごうとはしない。十五キロを行くのに六時間かかった。
やっと干あがった河床につき、それに沿って南南西へ進んだ。突然右手に、長い年月、河水に侵蝕された絶壁が現われた。岩壁にまっ暗な口を開いている最初の洞窟《どうくつ》がここにある。それらの洞窟を通り過ぎ、高いポプラやその他の樹木が生えている、垣をめぐらした道教寺院の境内に到着した。
われわれが見たときには、そこには人影もなくがらんとしていた。しかし、恒例の祭礼にお参りするときには、敦煌からくる中国人の巡礼たちは、ここにいれられるのである。ここには三人の道士が住んでいる。王という主席の僧は不在であったが、一人の僧がわれわれを接待し、建物のなかの客間に案内してくれた。それは二つの大きい荒れ果てた室で、飾りといっては三体の仏像があるばかり、祭壇もなければ供物皿《くもつざら》もない。道士は沈みがちな、ぼんやりした人だったが、家は甘州にあり、四年前にここにきたことや、べつに宗教が結婚を禁じているわけではないが、未婚でいることなどを話した。寺は土地をもち、畑を農夫に貸している。農夫たちは道士に仕え、彼らを養っているのである。道士たちは敦煌からアワを買う。またここにはラマ僧院が二つあって甘粛省出身の七人の中国人修道僧がいる。
ところで、道士は洞窟が千八百あると断言した。彼は日に二回、九つの洞窟のなかで、叩頭《こうとう》という膝を析り、額《ひたい》を地面にすりつけて拝む、礼拝をするだけである。そろそろ暗くなりはじめたので、われわれは手近かの洞窟を一つ二つ見ただけだったが、その壁面には神像が描かれていた。それはつまらないものであった。これは革命〔一九一一年〕後に描かれたものである。その道士は、千年以上たった、色あせて、いたましく破損している壁画を、修復するために寄付金を募集するつもりだといった。そんなことをしたら絵の歴史的、芸術的価値はまったく失われるであろう。かつて千仏洞の洞窟に保存されていて、一九○八年と一九○九年にスタインとペリオが調査した有名な洞窟には、薄い巻き物の古文書さえもう一通も残ってはいない。その大半がロンドンやパリにもち去られ、あとに残っていたものは、役人に盗まれたり、最初の入札者の手にはいったりした。つい二、三年前には、中国語やチベット語やインド語で書かれたこれと同じような巻き物の市場が立っていた。粛州の市場などでも、自由に買い求められたものである。そのなかのいくらかは、北京の国立図書舘に保存されている。
敦煌への旅行には、以前にも述べたように、千仏洞の訪問とはまったく別な目的があった。ここは専門家によって細部にあたって記述され、壁画の複製も出版されており、またこれ以上、新たな発見の可能性はまったくない。私は一部分は好奇心で、また一部分はせっかく敦煌に来ながら、この有名な洞窟を見ないのは惜しいので、訪れてみただけである。それはアグラへ行って、タージ・マハール〔インドのアグラにある壮麗な寝陵で、シャー・ジャハーンが十七世紀の中葉その美妃のために建築した大理右の陵〕を見ないようなものであろう。
多数の四角い部屋が、丘の側面に掘られている。狭い入口は東に面している。天井はまるく、壁には宗教画が描かれ、神々や守護神、さては仏陀やその弟子などの彫像がみられる。この日はこの数えきれないほどたくさんの洞窟が黒い口を開けている、ふしぎな河岸段丘の正面をうろついて過ごしてしまった。洞窟の下の床は、外部の地面と同じ高さである。私はそのうちの二十一を訪れた。一般に、どの洞窟にも、彫像の主要な群れが入口の反対側の中央にあって、南側の壁面にはおのおの三つの絵がある。奥にはここの守護神である犬、または有翼のライオンに似ている二匹の動物と、香をたき、供物《くもつ》を供える木製の容器が置いてある。
はしごを登ると洞口の並んでいる第二階へ出る。洞口のあるものには、木製の扉があり、谷の方を向いている。そして新しくつくられた、外側の石の階段を登って第三階へ出るのである。横柱があちこちの外壁にくっついていて、以前にはバルコニーやベランダが洞窟の入口に横に渡してあったことを示している。また柱穴だけしか残っていないところもある。ときどき洞窟へはいるのが命がけの芸当のようなところがあるが、いくつかは内側にある出入口で互いにつながっている。
洞窟のまえを少し南に行ったところに、巨大な仏像をまつった十階建ての、中国ふうな寺院があった。
千仏洞はむしろ私を失望させた。なにかもっと立派な、もっとすぐれたものだと思っていた。こんなに粗末にされて、後世の人間の荒らすにまかせてしまった、単調きわまる一様なものを期待してはいなかったのだ。感銘をあたえられたのは、洞窟の数の多いこと、こんな堅い岩に、このような洞窟と壁龕《へきがん》を彫った労力と忍耐だけであった。この巨大な仕事に時間と労力を費やした人々は、彼らの神々の力に対して、火のような信仰をもっていたにちがいない。この洞窟の正面と仏寺の周囲にある、たけの高いロンバルディー・ポプラは、このふしぎな宗教的神秘郷に美と詩のムードをそえている。やはりこの地方ではあるが、別な場所のほうがもっと興味があった。それは西千仏洞といって、敦煌から南西約三十五キロメートルのところにある。党河《タンホー》が、その地の、小さい一連の丘のあいだで急に屈曲している。この洞窟は一九二八年ごろ土地の住民に発見された。敦煌の牧人たちがビルゲル・ボーリン博士にその洞窟のことを話したので、博士は一九三一年六月十八日にそこを訪れた。
ボーリンは、小さい一連の丘のちょうど北にある、河の左岸の高さ九十メートルの礫岩《れきがん》の斜面に洞窟を発見した。洞窟は現在の河床からわずか六メートルしか高くない。それはこの斜面を百メートルも続いている、ひと並びの壁龕《へきがん》からできていて、明らかに川の侵蝕作用で破壊された、はるかに大規模なものの最後の遺跡である。この洞窟のいちばん西寄りの部分は、もっともよく保存されていて、一部分は互いに連絡している。中央の部分は、内壁だけが残っていた。東側の洞窟はよく保存されていたが、おのおの孤立している。洞窟の壁は白く塗られ、明らかに時代の違う壁画でおおわれている。ところどころで、ボーリンは一つの絵の上にさらにもう一つの絵が、描きなおされているのを発見した。ところが古いもののほうが、新しいものとは比較にならないほど美しかった。彼は道士たちが管理している寺院を見つけた。道士は寺の洞窟の西にある、小さい洞窟に住んでいた。ボーリンはもっとも重要な洞窟の平面図を作製し、写真を二十数枚撮影した。
われわれは午後に茶菓のご馳走を受けた。それから、軽い荷を車に積みこみ、一同も乗車した。すると角のある、のろまな哲学者みたいなウシは、北へ向かって、のんびり帰途についた。強い北東風が、谷間のかわききったポプラの落葉をパサパサ吹き立て、舞い上がらせていた。ひとたび開けた場所へ出ると、ウシ車は舞い上がる砂塵におおわれ、われわれは毛皮の外套の襟《えり》を、できるだけ高く立てた。
いまにもつぶれそうな、小さな寺のそばを通り過ぎた。何年となく僧もいないで、信徒の埋葬もなかったような寺である。ところが梵鐘《ぼんしょう》が重々しくなりだし、その余韻《よいん》が砂漠を越えて遠くまで鳴りひびいた。吹き過ぎながら、空気の精たちが、いたずらをしたのだろうか? いや、それはわれわれの中国人隊員たちが鳴らしたのだった。彼らはさきに行って、われわれが葬列のように、おごそかにゆっくりと寺を通り過ぎるので、鐘を鳴らして挨拶《あいさつ》をしたのであった。
低い丘は、うず巻く雲のような砂ぼこりに隠れ、どこを通っているのか見当もつかなかった。二台の馬車が砂の霧の中に浮かび上がった。一台は二頭のウマに、他の一台はウマ一頭とロバ一頭とにひかれていた。きいてみると、その御者たちは、市長から次のようにいいつけられてきたのである。――お客様を迎えに行って、おととい自動車で行った道を帰る手伝いをせよと。水が氾濫《はんらん》して、あちこちへ広がったものだから、市長は牛車では足をぬらさないでは、町まで帰れないだろうと心配したのである。
新しい車に乗り換え、荷物も移して、また出発した。夕闇がおりた。車輪は第百十六号キャンプに近い、高い砂丘の砂の中に、はまりこんでしまった。それからすこし行って、浸水地帯にさしかかった。新疆省や甘粛省では、灌漑用運河や危険の多い橋や堤防や浸水した道のある耕地地帯を出て、砂漠にはいることが救いなのである。というのは、砂漠の地面は人間の手で荒らされていないからである。われわれの旅も残りわずかに三、四キロメートルになったが、この短いあいだはじつに感興に富んでいた。先導の松明《たいまつ》が、ほんの一部分だけ照らしている、まっ暗闇のなかになにもかも包まれて、暗い色をしたすばらしい絵のような光景が浮き出ていたのである。
一行の車を引いていく動物たちは、足をひたす水中を水をはねとばしながら進んだ。ウシはしばしば柔らかい泥のなかにはまりこんで、再び動きだすのにたいへんな骨折りをした。高い輪の荷車は右に左に大揺れに揺れ、ときどきひっくり返りはしないかと心配した。最初の農家にたどりついた。イヌがほえ、老樹が暗黒のなかに幽霊のようにぼんやりと見えた。松明《たいまつ》の光が、水に反映し、周囲にかすかな光をあたえていた。
二日まえ、帰り道で、貨物自動車はかなり大きい運河にかかっている、くさりかけた木橋を二ツ破損してしまった。自動車自体は、車軸一本折らずに通り越した。一つの橋はある程度、修繕してあったが、もう一つの橋には黒い大きな穴が口を開けていた。それにはかまわず、中国人の学者と二人の従者は、最初の車に乗ってさきに進んで行った。すさまじいきしり音とともに、一方の車が心棒のところまですべりこんでしまった。だれも運河の中へとびこまないですんだのは幸いだった。ウマをはずし、みんなで力をあわせて車を引き上げ、橋の上を押して渡すことに成功した。
私は二番目の車でついて行った。この車の車輪は注意して穴の南側を渡すようにした。ところが、そのかわりにウマが轅《ながえ》のあいだからぶざまに落ち込み、四本の足を穴の中へ突っ込んでぶら下がってしまった。馬具をはずして引き上げたが、ウマはその場所をいやがって暗闇のなかをまっしぐらに飛んで逃げ、やがて見えなくなってしまった。ロバはもっと注意ぶかかった。用心しいしい、口をあけている穴を無事に通り過ぎた。車はまるで荒い波のなかの舟のように、ぐらぐら揺れながら進んだ。
とうとう敦煌の城壁が左手に見えた。われわれは外側の町の東門の扉を叩いた。すこし待つと、門番が鍵をまわす昔が聞こえた。閂《かんぬき》が地面に落ち、門が開かれたので、われわれはまっ暗な道へ車を乗りいれた。それから内側の東門を通って城内へはいると、街はもうひっそりしていた。提灯《ちょうちん》をさげた通行人が、一人二人とぼとぼ歩いているばかりであったが、まだ閉めていない店先には灯油ランプがともっていた。
十一月七日。この日は一日中、さしせまったつぎの旅行に関するあらゆる種類の仕事に忙殺されてしまった。ヒツジ、小麦粉、米、卵などを買った。トゥルファン出身の村長アイップ・アホンは敦煌で二十七年間、働いていた。またチャルクリック出身のエミン・アホンは敦煌に定住して、つい三年前から事業を始めたばかりであった。ハミから安西まで通ってきた道と、砂漠を通ってチャルクリックヘ行く道は、かつてマルコ・ポーロが通り、またなつかしい友人で死後まもないP・K・コズロフが四十年前に通った道である。サー・オーレル・スタイン、ヘルネルなどが通過したロプ湖と楼蘭へ通ずる砂漠の道や、事実上の隊商道路であるもっと北の北山山脈中の道など、われわれにとってとくに興味のある道については、彼らはなにも知らなかった。また現在ごくまれにしか使われていない、あるいは全然使われていないといってもいいトゥルファンへの直通道路についても、彼らはなにも知らなかったが、私はその道を旅したことがあるブグラという一人のトルグート・モンゴル人を知っていた。しかし運わるくその男はいなかった。新疆省の不安からのがれるために、ときどきクルック・ターグ山中の道を通って敦煌や安西へ行ったという亡命者、とくに商人たちから新疆省で聞いた話は、そうとう誇張されていたにちがいない。なぜなら、これらの町には、その道についてすこしでも知っている者はなかったから。
われわれは西方のハミヘ通ずる間道を知っているという一人のトゥンガン人に会った。その道は敦煌から北に向かい、それから北山山中で北西にまわり、ハミへ向かってふたたび北に走っているとのことである。また道中にはいくつかの泉があり、薪も手に入るということであった。
アルトミッシュ・ブラクやロプ湖のことを耳にした者は一人もいなかったし、ハミとトゥルファン、あるいはチャルクリック経由以外にコルラとクチャへ行ける道のことを知っている者などは、全然いなかった。このような不完全な知識や、西部地方との連絡の欠如はまったく当然なことである。西には世界でもっとも荒涼たる砂漠のひとつである、神から見はなされた地方が広がって、あらゆる交通を害している。これが敦煌が行き止まりの道に存在し、古い交通路からもっとも離れた位置におかれている理由である。同時に、これは安西がハミから粛州へ直通する路上の宿駅である理由でもある。一九三四年のような内乱には、これらの町やオアシスが、人の往来の多い道から遠くにある、もっとも恵まれた土地となった原因でもある。
こんなわけで、われわれの友人であり、主人役である市長は、人にもめったに会ったことがなかったから、珍《めずら》しい遠来の客を喜んだ。そのうえさらに彼をうれしがらせたのは、二人の中国人学者が市長と同じ江蘇省の出であるということである。彼はあきもしないで自分の郷里の町の生活や実情について語った。彼が論じた興味ぶかい問題は、河の水量である。彼は百年前には疏勒河も、丹河もひじょうに水量が豊富だったので、カヌーや小舟で航行できたと語った。
十月三十日に疏勒河《スーローホー》を渡ったときは、その流水量は一秒間にただ十立方メートルしかなかった。河床は幅約十メートル、深さ二メートルで泥深く、しかもそのときは凍っていた。安西では疏勒河に橋はかかっていないが、敦煌では丹河《タンホー》に、支柱が十二ある橋がかかっていて、水面から二メートルの高さのところにあり、長さは七十五メートルもあった。橋をささえている柱は、厚さが三十八センチもあった。
十三 北山《ペイシャン》山脈の迷路
十一月八日。今日もまた新しい別れの日であった。われわれの荷物は衙門《ヤーメン》の外庭へ運びだされた。たくさんの群衆が集まったので、二人の巡査が物見高《ものみだか》い連中をあまり近づけないようにしていた。空はどんより曇り、太陽は薄い霧にさえぎられていた。ハトの群れが頭上を、あちらこちらへ飛んでいた。尾には軽い笛が結びつけられていて、飛ぶにつれて快い響きをたてた。トゥンガン人が最初の一日か二日、案内役をつとめる約束になっていたが、いよいよのときになって断わってきたので、市長はその代わりに中国人を一人世話してくれた。その男は西の地方ならよく知っているということだった。
われわれは内城の町の東門を通って車を進めた。そして鼓楼のそばを過ぎ、町の外壁の南門を通りぬけて、北へ向い、丹河《タンホー》にかかっている長い橋へさしかかった。河床に打ちこまれているまっすぐな杭《くい》が、大きい梁《はり》の底部をささえている。梁の上には横木と荒削りの厚板とがのっていて、その上に土と石塊をかぶせてある。小型自動車はどうやら通れたが、貨物自動車は重すぎるので、荷物全部を荷車で向こう岸まで運んでから、もう一度自動車に積みかえた。
川は昨日より、はるかに水が豊富である。丹河からは十本の運河が敦煌近郊へ流れ出している。ある農夫がこの運河をある期間使用しようと思えば、他の九本は閉じておかなければならない。この前日には上流の運河が全部の水を使っていたので、橋の下にはほんのすこしの水が流れているばかりであった。十一月八日はこの橋から下流の運河の番であったから、全水量がここを通っていた。
こんどこそ、われわれは敦煌にほんとうの別れを告げた。貨物自動車にはガソリン九百五十リットルを積み込んである。二台の自動車で約十キロごとに八リットルを必要とする。ところで距離は直線コースにして約三百九十キロメートルある。もしまっすぐで、道の状態がよいとすれば、アルトミッシュ・ブラクまで三百十二リットルで十分往復できるはずであった。しかしこれは誤算であった。これから述べるように、道は曲がりくねっていたし、路面はじつに悪かった。
われわれは村々を通り、農家や土塀のかたわらを過ぎ、耕された麦畑や寺のそばを通り、並木道を抜け、運河を越えて北西へと車を走らせた。農夫たちがタマリスクの枯れ枝や根を荷車に積んで、ウシやウマに引かせたり、またはロバの背に積んだりしてくるのに行きあった。薪として町で売りさばくのである。ここではヒツジの群れが、あちらではラクダが草を食っている。黒いブタが溝のなかで土をほじり、イヌがほえている。そしてときどきネコがまっしぐらに道を突っきる。
道にはところどころ、一メートル以上も沈下している所があった。荷車の車輪と、ウシやウマの蹄《ひづめ》と、歩行者たちの足とで、過去千年間にすりへらされたものであることは明らかである。
草原地帯を通り過ぎて、把子場《パーツェチャン》の村の端に到着した。自動車はどこでもセンセーションを巻きおこした。むりもない。この辺ではウシやウマが引かないで大道を走る車などは絶対に見られないのだから。一行に行きあった農民たちは、びっくりして、ものもいえないで突っ立っていた。農家からは人々が道へとびだしてきたが、自分たちの目を信じることができなかった。ウマはおじけて、荷をふり落とした。ところがロバとウシとは哲学的な冷静さで、この見知らぬ怪物を迎えた。
われわれは把子場《パーツェチャン》郊外の平原でキャンプした。この珍しい見せ物見たさに、付近の人びとは、われわれの周囲に集まってきた。彼らは着古した羊皮の外套を着ていた。これは新しいときは白か、または中国にふつうの青い着物であったのだろう。ある者は帽子をかぶらないでいたし、またある者は羊毛の帽子やターバンをかぶるか、額のまわりに簡単なひもを巻いていた。トゥンガン人はひとりもおらず、みんな中国人ばかりだった。なかにはトルコ種族の血がまじっていることを示す濃《こ》いひげをはやしたのもいた。彼らはわれわれを馬仲英部下の敗残兵だと思ったかもしれないが、われわれの雇った中国人の案内人は彼らを安心させた。そしてちょっとした交渉ののち、薪を売らせ、台所へ水を運ばせるようにさせた。荷車がきしりながら、夜どおしテントのそばを通り過ぎた。草原で薪を集めては、敦煌で売って日々の食を得ている人々であった。
夜のうちに気温は四度まで下がった。黄色くなり、がさがさした草の茂みや、タマリスクにおおわれた平坦な草原を通った。セラトがカモシカを一頭射った。一行はたけの低い植物のはえた砂丘をこえて、ふたたび丹河の広く、低い河床に近づいた。川には一滴の水もなく、柔らかい砂がいっぱいたまっていた。われわれは、ここでできるかぎりの忍耐をしなければならなかった。自動車が二台とも砂の深い河床に食い込んでしまったのである。灌木のはえているこの砂丘をこえて、右岸まで自動車を渡すことができたのは、まったく繩筵《なわむしろ》のおかげだった。まもなく、ここからは一歩も前進できないことがわかった。数時間のあいだ努力してみたが、一度にわずか一メートル以内しか前進できなかった。しかしやっとラクダ六頭とウシ車二台をつれた数人の男がきたので、荷物を全部それにのせ、草原のもっとかたい地面の上に運んだ。このような地方ではこのほうがずっと有効な運般法である。最後には、ウシに自動車を引っぱらせて、砂丘のひどい砂の上を越えなければならなかった。
それから、やや柔らかい草原の進路に沿って北北東へ向かった。この草原は狭い砂丘地帯によって、丹河の河床から分かたれているだけである。われわれは黄塔子《ホアンタズ》という見捨てられた古い廃墟のそばを通り過ぎた。そこには二つの寺があって、こわれかけているほうの寺にはアーチ形の門が三つあり、もう一つのほうには僧侶《そうりょ》が一人さびしく住んでいた。こんな荒廃した地方に寺があるというのも不可思議である。こんなところへたずねてくる人間といえば、薪を拾う人以外にはほとんどない。しかしきっと信心深いものが、祭の日に参詣《さんけい》にくるのだろう。神仙廟には二人の道士が住んでいた。一人はそこにいたが、もう一人はこの地方では北河《ベイホー》という疏勒河《スーローホー》のほとりにある寺に出かけていた。
昔の望楼|間屯子《チェントンツェ》を通り越すと、植物がすこしずつまばらになり、粘土の砂漠はますます平坦に、ますますかたくなってきた。ときどきカモシカがびっくりして、われわれの進路からとんで逃げた。この荒涼たる地方に通じている道も、まだすっかり廃物にはなっていない。薪を拾う人々が五、六人ラクダやロバをつれて歩いていた。
道は北へ向かっている。アルトミッシュ・ブラクは西にあるのだから、われわれは目的地へ近づいてはいないことになる。そちらへ向かって行く道をいくつかさがしてみたが、失敗であった。市長が世話してくれた案内人は、すばらしく屈強な、骨組みのがっしりした男であったが、西の地方にたいして深い嫌悪をもっているように思われた。彼にいわせると、そっちへ行っても砂と砂利の路床以外にはなにもなく、とてもこの自動車では行けないというのだ。彼は新疆省へおびきだされはしまいかと、びくびくしているようにみえた。そこでは戦争があるから、うっかりすると射たれるかもしれない。新疆省へ行く道に関するかぎりでは、彼はただ北西への道と、北北東へ向かう道とを知っているだけだった。そのどちらも、北山山系中の外側の山系の低い道を通っているが、後者のほうがらくである。とはいえ実際には、西へ向きを変えることができるとわかったときには、われわれはすでにかなり北へ行っていた。
荒野の中で第百二十号キャンプを張った。道だけが、わずかに人跡を示している。寺もなければ廃坑もない。キャンプを張る操作は、大ラクダ隊で旅行しているときよりは自動車旅行のときのほうが簡単である。テント、寝袋、台所道具、それに旅行者各自の所持品など、必要な物は全部自動車のてっぺんとドラム鑵にしっかり結びつけてある。そしてそれぞれの性質によって、上から放り出すか、注意深くもち上げて、おろすかすることができる。料理道具をすえつけると、壺《つぼ》と水差しに水をみたし、テントを張っているうちに火をたきつける。テントのなかには寝袋がのべられ、枕のそばには各自の箱が置かれる。そして携帯用ストーブはテントの出入口のすぐ内側にそなえつけて火を燃やす。といってもこのストーブは、鉄の口をテントの入口から突き出したガソリンのあき鑵《かん》なのだ。われわれが各自に寝床の上にあぐらをかくと、まもなくお茶が出され、バターつきのパンとチーズとジャムとが運ばれてくる。それからわれわれはめいめいその日のできごとを書きとめ、自分の観察をしるす。セラトたちは自動車の手いれに忙しい。一時間たって、スープと肉の皿とコーヒーとの夕食が出される。
ガラスの笠《かさ》のある光の強いランプがテントの柱からつり下げられる。テントの出入口はまっ黒な三角形をしているが、まっ白いテントの布地はランプの光に明るく輝いている。しかしランプが外へ運びだされたあとは、テントの中がまっ暗になるので、出入口がかすかな星の光にぼんやり三角形に見える。そこから、神秘な大空が、永遠の荘厳な沈黙の大空が、われらの上をのぞきこむ。
かすかな鈴《すず》の音がはるか、かなたから聞こえてきた。その音はしだいに強まり、だんだん近づいてきた。ついにま近くにせまり、ラクダ隊がキャンプのそばを通るときには、鈴の音は蹄《ひずめ》の音とともに、大きく重く鳴りながら過ぎた。しかしまもなくそれはふたたび弱まり、遠方に消えてしまった。
夜の気温マイナス七度。あくる十一月十日の朝は、空一面に薄いもやがかかっていたが、太陽はおぼろな光を放つ黄色い円盤のように見えた。北方の山なみは、かすかにしか見えなかった。
気の弱い案内人とちょっとした話をしてから、われわれはこんどは疏勒河《スーローホー》へ向かって北への道をとることにきめた。地面はそうとうにかたく、車輪の残した深い轍《わだち》がついている。北へ向かって下りになっている小さい段丘が、粘土土壌のなかにたびたびみられた。道はうっそうとしたタマリスクのあいだに、ほとんど平らになっている河床を横切っていた。佃賑扶《テイエンチェンクン》は労働者たちの家がある小さい煉瓦《れんが》工場である。そのうしろにある低い丘の上には壁龕《へきがん》があるが、昔は仏像が収められていたものであろう。
道がいつまでも北東へ向かって続いているので、われわれはそれから離れようと決心した。そしてタマリスクがそうとう繁茂している草原を走った。しかしあまり行かないうちに、通れなくなった。地面はでこぼこでおまけに柔らかいし、土塊の上にはタマリスクがいっぱいはえている。そこでわれわれはもとの道にひき返し、絶えず西や北西を注意しながら前進した。
点水井《テイエンシュイチン》、「したたる水」の泉は、その名のとおりで水はごくすくなく、ラクダの糞やほこりやごみでよごれていた。それなのに、夜中にわれわれが鈴の音を聞いたラクダ隊が、ここにキャンプしていた。彼らは十九頭のラクダを引き連れ、小麦粉と米を持ってハミヘ行くところであった。ラクダの世話をしているのはトゥンガン人たちであった。われわれが尋ねると、「私たちは道を知りません。こんど初めて通ってみるのです」と答えた。彼らのいうところによると、この連中はわざわざ安西・ハミ間の本道を通らなかったのであると。盗賊がときどきその道を襲撃するからということだ。われわれの案内人は盗賊のことはなにもかもよく知っていた。そして「あいつら、東の道と同じようにこっちの道だってよく知ってまさあ」ときっぱりいった。
かたい粘土の地面のあちこちに、タマリスクが帯状にはえていた。灌木が薪拾いたちの斧《おの》で倒されて、株だけしか残っていないようなところを通り過ぎる。さらにすこし行くと粘土の土地も植物も突然なくなって、かなりかたいゴビ、すなわちまったく不毛な暗灰色の砂漠になった。そのなかを淡灰色のリボンのように、道がうねうね、なだらかに曲がりながら走っているのが、くっきりと見える。地表は黄灰色の砂の上を薄い砂利の層がおおっている。砂漠は海のように平らかに見えていたが、まもなくほとんど気づかないほどの起伏がはじまった。
北山《ペイシャン》山系の南端にある外側の山脈がしだいに輪郭をはっきり見せてきた。われわれは小さい石塚のかたわらで、しばらく車を止め、西の方をながめた。最後の第百二十号キャンプから百八十メートルほど登ってきたのである。
われわれは特別なんの注意もはらわずに、すでに疏勒河の河床を渡ってきていたのである。佃賑拱《ティエンチェンクン》で渡った、ほとんど平らな河床、水の流れた跡もなかったあの河床こそ、ほかならぬこの疏勒河であった。しかしこれでも、われわれが安西で渡ったときには、量こそすくないが、まだいくらか流れのある、明らかに川らしいものではあった。丹河《タンホー》の河床も同じように涸《か》れ果てていた。まるで水が通ってから長い歳月が経過したかのように。
さて、われわれはまさに岐路《きろ》に立っている。西の方へ急転回して、古い「絹の道」をさがしたものだろうか? 以前、私は一九○一年二月六日に北山山脈を通って北へ進むまで、アチック・クドゥク〔敦煌から百七十キロメートル西方〕からトグラック・クドゥクまでたった一日行程だけ、その道を通ったことがあった。スタインは一九○六年〜八年の旅行のときにそこを通ったのである。私が通った十五キロメートルの短い距離の一部は、ラクダが通ると深い足跡が残る細かいほこりで、一部は砂や奇妙な形の粘土の段丘でできていた。それより西方で、ヘルネルは、「非常に目のあらい沖積層の砂利」とみずから記している地方を見つけた。そのうえ、この砂漠にはひじょうに水がすくなかった。トグラック・クドゥク「ポプラの井戸」では、水は飲めたが、ほんのたらたらとしか流れ出ていなかった。
これにひきかえ山道はたしかにらくである。北山の低い山頂や山稜のあいだには、堅いしっかりした地面と水があるだろう。最後に、ヨーロッパ人がだれひとり足を踏みいれたことがない、まったく未知の地方へ行けるだろうという理由で、山道の方に心をひかれた。われわれがはるか西へ行ってから横切ることになっている、たった一本わかっている道は、一九○一年二月に私が地図に描いた道である。そのときにはラクダをつれ、北山の峰を越えて北緯四十一度二十九分のところまで進み、そこから西へ転じてさらに南西に向かい、ふたたび西に転じてアルトミッシュ・ブラクに着いたのであった。それ以来、三十三年の歳月が経過してはいるが、砂丘のために行手をはばまれることがなかったことと、地面が比較的に堅くて、ラクダが進むのに都合がよかったことを、いまでもはっきり記憶している。
以前から、あんなにもたびたび私を冒険に誘った、あの古代からの「未知なる土地へのあこがれ」が、こんどもまたすすんで山中の道をとらさせた決定的な原因であったことを、私は率直に認める。われわれは交通に適する自動車道路をさがしているのであり、砂漠の道が信じられないことには正しい理由があるのだから、この決定は当然なことである。それでわれわれは西へ転じないで、北山の麓《ふもと》に向かって進路をとった。まもなく一行は山のあいだに入り、山の石塚と低い丘の上に立っている望楼によって、明らかにそれとわかる昔ながらの道を進んで行った。
右手の山の麓に小さな石の城壁と望楼があった。小さい峰の根方にあった石板泉には、澄んだ水がわいている。ここで容器の方の悪い水をあけて、きれいな新しい泉の水をいっぱいに汲みいれた。
なおも小さい石塚の立っているこの道は、低い山脈と孤立している小さい峰のあいだを北北西へ続いている。地面は堅く、道路の勾配はごくわずかである。あちこちに叢《くさむら》があった。われわれは小さい山脈を越えてから、海抜千七百メートルの砂利の高原でキャンプした。
つぎの日は、黒ずんだ低い山脈の間を北へ進んだ。地面の堅い、広い谷間について行った。案内人はわれわれの計画に驚いて、このつぎの峠《とうげ》はとても自動車では越せないという。左側にある石塚が、いまはかわいているが、ときどき雨が降ると水が出る泉のありかを示している。越せないはずの峠は低くて、らくに通れた。そこは高さほぼ千九百メートルで、北側の眺望が広く開けていた。一行は幅わずか三メートルの狭い道を通って、闘技場ふうな谷のなかへ出た。かわいた、棘《とげ》のある植物の茂みがふえてきた。古い荷車の轍《わだち》が見えるところから考えると、ハミへ通ずるこの道はたしかに車が通れるのだ。どこにも石塚がある。ある場所では十も数えられた。あちこちに昔キャンプした跡があった。あるキャンプにはラクダの骸骨《がいこつ》があった。丘の相対的な高さは知れたもので、五十メートルか、高くてせいぜい百メートルぐらいのものである。
つぎの峠の高さは二千メートルで、小石を積み重ねた、大きい円錐形《えんすいけい》の石塚が立っていた。下りにかかると、またも低い丘ですっかり囲まれた闘技場ふうな谷が現われた。雪が少し落ちてきたが、ときどき太陽が姿を見せて、高原の上を照らしていた。寒かったので、貨物自動車のてっぺんに乗っている連中は毛皮の外套《がいとう》をひっかけた。谷の中央にタマリスクが数本はえていた。明水「澄める水」には泉も井戸もなかったが、谷底を掘ると水がでた。その上のほうに、廃墟になっている石造の望楼があって、七メートル平方、高さは三メートルあった。
谷はだんだん狭くなって、とうとう自動車がやっと通れるくらいになってしまった。そこから石塚の立っている海抜ほぼ二千メートルの峠へでる。下り坂になっている谷は、低い丘の間を曲がりながら通っていた。丘はしだいに高くなっていき、フグの背のような格好にまるかった。さきほどから雪がちらついていたが、やがて午後になると西から吹雪がやってきた。われわれはタマリスクのはえているところで夜たく薪《まき》を集めた。渦巻く雪が自動車の窓を打つ。周囲は一面まっ白になった。まったくの冬だ。黄灰色の叢《くさむら》がまっ白い雪の下から、あちこちに顔を出している。
一行はまがりくねった狭い道を進んで行った。前方の地形がどうなっているか、見ることができない。それで、前進するまえに、前方を偵察させた。山頂や山稜や尖峰のうちつづいているこの地方は、まるで荒れ狂う波頭がかたく凍結したかのような光景を呈していた。二週間まえに通ったハミ・安西間の道から、わずか六十キロメートルぐらいの距離しかなかった。あるときには、細いまがりくねった狭い道を通り、ときには谷を過ぎたかと思うと、また湿った地面に植物がはえているいくらか開けたところを横切ったり、やがてまた中腹の柔らかな黒い土の上に漢字を書いた白い石を並べてある、丘のそばを通り過ぎたりした。
やがてたくさんの丘が無秩序にごちゃごちゃ並んでいる、高地の北の麓へ着き、馬蓮泉という泉でとまった。この第百二十二号キャンプは、このまえのキャンプからわずか三十八キロメートルしかないのに、はやこの日の大部分は過ぎていた。たえまなく自動車の通れる道をさがさなければならなかったり、地面はといえば、あるいは柔らかかったり、あるいは砂利や石ころでおおわれていたりするし、それからまた地図作製のために方位を取らねばならなかったりしたので、例によってわずかしか進めなかった。
馬蓮泉は小さい吹きさらしの泉で、侵蝕でできた割れ目の口にあり、直径は一メートルあるかないかくらいである。この泉からほぼ七十メートル下に、深さ一メートルの泉がある。水面は平地から○・三メートル近く低い。われわれは全部の水いれに八日分の水をみたした。一日じゅう降り続いた雪はたちまち消えて、影になった峡谷や、割れ目に白いすじになって残っているだけであった。
案内人は敦煌へはとても一人では帰れないから、一行といっしょに、つれていってくれといいだした。そしてこの希望がとげられると、急にひじょうな話好きになって、以前数年間アヘンの密輸をやっていたことがあるなどと打ちあけ話をしはじめた。彼のいうところによると、だれでも新疆省から甘粛省へアヘンを輸出することはできるのだが、関税が高すぎるから、みんな秘密の経路で送る方法をとっているのだ、ということである。この経路は密輸入者たちには、よく知られていた。彼らはまた砂漠のなかに水を見つけることもうまかった。李《り》という名前をもっているこの案内人自身は、もっと西の方の秘密な道を通って、ハミから南へ行ったことがあるので、馬蓮泉の西に水のよくない泉が三つあることを知っていた。彼はいつも他の季節より、むしろ冬にラクダでその高価な商品を運んだ。この時期に行けば、雪を溶かした水を動物に飲ませることができるのである。
その夜の気温はマイナス九度であった。翌十一月十二日には谷間を進み、ついに北西と西に進路をとることができた。道は一つもなかったが、まもなく北へ行く古い道に行きあたった。地面は適度に柔らかくて、侵蝕地溝がたくさん刻まれていた。またところどころに、タマリスクや灌木の茂みがある。野生動物の形跡は見あたらなかったが、ハミと敦煌のあいだの、この間道を通った亡命者や、密貿易者たちの駄獣と思われるラクダやウマやウシの糞《ふん》があった。われわれはまえに横切った山脈の麓に沿って進んだ。その山脈はここから一・五キロか三キロ南方にある。侵蝕によってできた無数の小溝が、山脈から北へ向かって走りだしていた。そのためやむなく速度をゆるめて進まなければならなかった。案内人はわれわれの行路の南方にある丘のうちに、紅柳泉「タマリスクの泉」とよばれる泉があるといった。
その日の旅程を二十キロメートルほども行ったかと思うと、通路のすぐ右手にある小丘のあいだに、九頭のラクダがのんびり草を食べているのが目についた。われわれは新疆省へ行く隊商か、それとも甘粛省へ避難して行く亡命者だろうぐらいに思って、行進をつづけた。ところがつぎの瞬間、前方百メートルほどのところに銃を持った男が一人いるのが見えた。まともな連中のさまよい歩く場所でないところに、自動車の音を聞いて驚いたその男は、ちょっとのあいだ立ち止まったかと思うと、たちまち逃げだし、全速力で道のそばの、でこぼこした地面の間に見えなくなってしまった。
南西の高台に望楼が一つ立っている。そこまで行かないうちに、道のすぐ右側の丘の項に半ば隠れて、よれよれな東トルコふうの着物を着た六人の男が認められた。なかの二人は口装銃を構えている。ところが彼らは、われわれがそのすぐそばに行くまで、こちらに気がつかなかった。というのは、自動車が進んでいる小さい峡谷のうちに隠れていて見えなかったからである。しかし小型自動車と、すぐそのうしろに続いてきた貨物自動車を見ると、すっかりびっくりしてしまい、どうしたらいいか見当がつかなかったらしい。ほかの一人がとびだして、東の方のいちばん近い小丘に姿を消すと、他の二人は走りいいように、まず毛皮の外套をぬぎ捨てて、それから北の方へ走り去った。残りの三人はすぐに決心がつかなかったらしくて、そのまま、そこにとどまって地面にしゃがみこんでしまった。
われわれは急に車をとめ、彼らに向かって叫んだ、「こっちへこい。話がある!」近くにいた三人は、そろそろと車の方へ近づいてきた。まもなく、他の三人ももどってきた。さきにきたうちの二人は、トルコふうな毛皮の外套の下に軍服を着けていた。明らかにハミのヨルバルス・ハーン軍出身の略奪者である。
トルコ語で話しかけると、彼らは車窓の外側へ集まってきた。
「君たちはなんだね?」と私はきいた。
「わたしらはハミからきた猟師です」
「この砂漠で何をとってるのかね? 獲物の影もないじゃないか」
「はア、ここには野生のラクダがいるんで。わたしらはまだみつけませんが、ここから北や西やをさがし歩くんです。肉をとろうと思いまして……。わたしらはキツネもとります。毛皮がほしいもんで……」
なかの一人が出かけて行き、キツネの毛皮を二枚もってきて見せた。
「君たちはいったい何人いるのかね。動物は」
「十一人です。ラクダは十一頭、ロバは十三頭」
「ほかの連中はどこにいる」
「三人はラクダの足跡をさがしに西の方へ行きました。あとはすぐ近くの北の方にいます」
「キャンプはどこかね」
「ここです。|※[#さんずい+兆]刀水《タオタオシュイ》の泉で……」
「ハミからくるときは、どこをきたのかね」
「|※[#さんずい+兆]水《タオシュイ》、孤石《クジー》、オットゥン・コサなどの泉を通ってきました」
ここから北へどのくらい自動車で行けるか尋ねると、彼らはそっちの方向へは小一日行程のところまでしか知らない、そしてその辺は丘が多いので車で行くのは、とてもむずかしいと答えた。彼らは|※[#さんずい+兆]水《タオシュイ》へ昨晩ついたのだが、猟が失敗したらハミへ帰るつもりだともいった。このひどい荒野へ突然われわれが現われたので、すっかり驚いてしまった彼らは、不安を隠すことができなかった。もちろんやましい点があるので、てっきりわれわれが自分たちを目あてにやってきたのだ、と思ったのだろう。彼らのうちの背の高い、頑丈《がんじょう》な身体つきのトルコ人が、あなたがたはどこへ行かれるのか、とびくびくしながら聞いた。コルラヘ行く新しい道をつくるつもりで、この土地を見にきたのだ、という私の答えは、全然彼を納得させなかったらしい。おそらく彼は、ほんとうの目的を隠すための口実に、そんなことをいっているのだと考えたにちがいない。
われわれは浅い侵蝕地溝が縦横に走っている草原を越えて、西へ進んだ。左手の小丘の上に立っている望楼は四、五キロメートル南へ遠ざかってしまった。いま通っているのは、古代にはさかんに使われた古い道である。途中、やや大きな、つぶれた石塚のそばを通り過ぎた。右手に黄色いアシと、樹木が四本立っている、小さいくぼみのかたわらに、昔の望楼ででもあったのだろうか、小さい家屋の廃坑が見えた。地面はゆるく西の方へ下りになっている。第百二十二号キャンプから二百メートル下った。土地はまったくの赤裸で、そうとう堅い。車輪はくっきりとした轍をあとに残した。われわれのあとを追おうと思えば、だれでもわけなく見つけることができるであろう。
それぞれ塊《かたまり》になっている、枯れたタマリスクが、広さ百平方メートルばかりの場所をおおっていた。薪は豊富である。|匪賊《ひぞく》を驚かした|※[#さんずい+兆]刀水《タオタオシュイ》のそばの望楼がまだ見えている。昔は数キロメートル四方から見える絶好の目標であったにちがいない。地面には昔の轍のくぼみがかすかながらも、今日も明らかに見られる。新しい馬蹄《ばてい》の跡があった。ワシが荒涼たる風景の上を舞っている。この二日間に見た最初の動物であった。
四十三キロメートル前進した後、一メートルぐらいの石塚の近くでキャンプした。この無人の土地のまん中を、古代の道路が走っているのに気づかずにはいられなかった。おそらくこれはラクダによって踏み固められてできたものにちがいない。土地のかたい、ひじょうに狭い谷底や、地面の性質が侵蝕地溝の形成を妨げているような場所では、無数のラクダの足に踏み固められてできた道が、ひじょうに長い間そのまま残りうる。この望楼や、つぶれた石造の家や、小高い丘の上の石塚などが、近代になって立てられたものでないことは、かなり確かである。そしてこの山岳地方が二千年前も現在と同様、風雨にいためつけられた、さびしい荒れた土地であったという事実は、疑いもないことである。道も、道標も、塔も、おそらくは楼蘭はなやかだったころの遺物であろう。当時、中国から行く絹の隊商は全部ではないまでも、すくなくもその大部分は、夏には息のつまるような暑い平坦な砂漠を通るよりは、高くて涼しいこの山岳地方を選んだにちがいない。そのうえ、山のなかには、泉や井戸があって、水は豊富である。たとえ塩分が含まれているとしても、それはそれでラクダの飲料になる。そのかわり、いまわれわれが通っている道は、荷車にはたぶん使われなかったであろう。
その夜、キャンプに落ちついたとき、案内人の李がやってきて、まだいくらか興奮しながらつぎのような話をした。われわれが谷で驚かした、十一人の東トルコ人たちは、彼がよく知っている盗賊団で、彼自身かつて密輸入隊を率いて北山を通ったときに、この盗賊団に襲われて略奪されたことがある。そして彼は私と話をした男のうちの二人を見知っている、そのなかの一人は彼を知っていて、目が合うと向こうを向いてしまった、と。李は彼らがもっていたラクダは、そんな隊商を襲撃して、盗んだものだときめこんでいた。そしてきっと奪ったものを、この山中のどこかの、たぶん|※[#さんずい+兆]刀水《タオタオシュイ》あたりの隠れ家に隠しているにちがいないといった。
李は自分の経験から、彼らの仕事の手口を知っていた。彼らは待ち伏せしていてとびだし、通りかかった隊商をとめて新疆省の税関の者だといい、一定額の支払いを要求する。隊商たちが武装していないとわかれば、自分たちのほうはライフル銃をもっているものだから、一定額の支払いなどとは一言もいわずに、ラクダはもちろん、金になる物はなんでも略奪し、隊商は身ぐるみ裸にされて追いはらわれるのである。李の考えによれば、あの泥棒たちは今晩は|※[#さんずい+兆]刀水《タオタオシュイ》にはいないだろう、地面がひどくてすぐにもわれわれが引き返してきでもしたら困るからである。
十四 ガシュン・ゴビの砂丘
第百二十三号キャンプから約千二百メートル南に、案内人が駱駝井《ロトチン》とよんでいる井戸がある。十一月十三日の朝、われわれは盗賊団のひとりと出会った。その男はロバが二頭逃げ出したので、自分ともう二人でさがしにきたのだといった。彼らは夕方のうちに発動機の音を聞いたので、夜のうちにわれわれのキャンプまできたのである。
この井戸の水は五つの割れ目から、にじみだしていて、正しくいえば泉というべきである。いくらか塩分を含んではいるがいざというときには、飲めないことはない。泉のそばの氷塊から融けた水は新鮮である。駱駝井は、将来われわれの重要な基地になるだろう。その夜の気温は、すでにマイナス十四度まで下がっていた。
空はすっかり晴れわたり、日光はさんさんと輝いている。そしてあたりは墓場のような静けさ。われわれはまもなく小丘のあいだで道を見うしなった。三人の盗賊が、いちばん高い丘の上に登ってわれわれ一行を見張っていた。風景はつねに変わっていった。ときには低くて、まるい丘のある狭い谷間を通るかと思えば、ときには藪《やぶ》やタマリスクのはえている小さい草原のいくつかを通り過ぎた。老いた灌木は枯れて、すばらしくよい薪《まき》になったが、若い木のほうはまだ生きていた。ウマに乗った男が二人、前方に現われ、われわれを見ると急いで南方へ姿を消した。あやしい連中が、つきまとっているらしい。
地面が柔らかなので、ときどき貨物自動車は動けなくなる。かたい土地を見つけるために、北西に方向を変えて進み、もっと開けたところへ出た。野生ラクダの糞《ふん》がときおり見うけられる。野生ロバとカモシカの新しい足跡も。野生の動物は、野ざらしの泉なら、どこにあるものでも、よく知っている。駱駝井《ロトチン》の付近には、たくさん足跡がついていた。
一行の進路はふたたび西へ向かいはじめた。北方の土地は、たいへん平坦で広々としているが、南方には遠くに低い丘が見える。あるときは細かい灰色の砂利《じゃり》におおわれている柔らかい不毛の地を走り、あるときは雨に洗われて宮殿の床のように光った、かたくてなめらかになっている、黄灰色の粘土の上を進んだりした。
午後、高さ三メートルの侵蝕段丘のあいだにある、幅の広い谷に出た。この河床が数時間つづいた。道中ずっとこんなであってくれればよいが、と思った。この道は、かすかに西南西へ下りになっており、土壌はかたくて、平らであった。この谷からすこし離れたところで、低い丘が隆起しはじめた。
貨物自動車がとまったと思うと、一頭の野生ラクダが一行の右手をゆっくり歩いている。ラクダはちょっと立ちどまって頭を上げ、一瞬彫像のようにじっとしていたが、やがて北へ向かって一目散《いちもくさん》に駆けだして、見えなくなってしまった。
午後五時には、たそがれが訪れた。羅針盤の方位を見るために、懐中電灯をつけた。すこしたってキャンプを張った。今日は五十七キロメートル近く前進したことになる。最初の数日間はひじょうな難行であったため、おそろしくガソリンを使いこんだ。われわれは第百二十四号キャンプに帰るためのガソリンを千二百三十リットル埋め、五百リットルだけ携帯することにした。貨物自動車をおいていくのに都合のいい場所まで、二百十キロをいっしょに行き、それからアルトミッシュ・ブラクまでの残りの九十キロは、小型自動車だけで行くという計画を立てた。
十一月十四日。前日と同じような、すばらしい谷について行く。しかし最初の三、四キロメートルを進むと谷が狭くなり、土地が柔らかくなった。そこで、あちらこちらに黒色を散らした淡紅色の低い小丘のあいだを通って、西南西へまがって行った。丘はときどき赤みを帯びたかと思うと、またところどころにまっ白い珪岩《けいがん》が露出していたりする。
大きな谷は、しだいに谷らしくなくなってきて、ついには開けた場所になってしまった。貨物自動車がさきにたって進んだ。
三時半、およそ五十八キロメートル近くも行ったかと思ったときに、この谷は突然終わり、低い砂丘の下に姿を消してしまった。貨物自動車はすっかり砂にはまりこんで、一メートルと進めない。自動車の屋根に登って、あらゆる方面の土地を望遠鏡で調べた。砂、砂、砂、どこもかしこも、砂ばかりである。西も北西も北も、砂丘の海だ。どこか通れる場所はないかと、小型自動車が先に立って進んだ。しかし、なにものも見あたらない。われわれは東へ向けて十五キロメートル引き返し、キャンプを張った。明日はここから偵察しよう。これこそ地上で、もっともすさまじい砂漠の一つである、ガシュン・ゴビだ。これが、われわれの西へ行く前進を止めてしまったのだ。
夜は晴れている。星が電灯のように輝く。人っ子ひとり見えず、野生動物の影さえもない。テントのまわりに立つ、ひからびた灌木二、三本以外には、どんな植物も見あたらない。どちらを向いても、広々とした神秘な砂漠である。
十一月十五日に北と南へ向かって行なった、偵察はむだにおわった。前日、通ったあの呪《のろ》われた谷こそ、とんでもないまやかしであった。そのうえ、このガシュン・ゴビへの前進は、ガソリンの貯《たくわ》えを、かなりくいこんでしまった。野生ラクダを六頭見かけたが、そっとしておいた。一度雪のようにまっ白な、かわいた小さな塩湖のそばを過ぎた。ときどき、野生ラクダが踏み固めた道を見た。それは砂漠のさまよえる船だけが知っている泉へ続いている。生き物の影はない。
われわれは自分たちの以前の轍《わだち》に帰ってきた。野生ラクダは、この平和なすみかでは、いままで見たこともない、神秘な轍のみぞを、すすんで横切る勇気があっただろうか。彼らは、この高原にある、どんな石も丘も流れも知っているが、まだ一度も自動車の轍を見たことはないのだ。彼らは、この標《しるし》はいったい何を意味するのか、泉へ行く途中、自分たちをとらえようとする罠《わな》のようなものではなかろうか、と怪《あや》しんだかもしれない。
われわれは外側の山系から西南へ新しい進路を見つけるつもりで、自分たちの轍に沿って東へ引き返した。第百二十四号キャンプに残しておいたガソリン鑵《かん》をまた掘り出した。それから薄闇と真の暗がりのなかを駱駝井《ロトチン》まで進んだ。こんどは、羅針盤の方位を地図に書きこむために時間を費やさなかったので、まえよりは早かった。気温は下がった。夜の最低気温はマイナス五度、冬が近づいてきたのだ。
私と一人の隊員は第百二十六号キャンプのある駱駝井の泉を去り、小型自動車に一日分の食糧を積んで、南方の山脈へ向かって出かけた。はじめは、石塚のある一連の低い丘のあいだに、はっきり刻まれている轍について行き、東西に走る山系と平行な谷を横切った。つぎには、そうとう地面の荒れている低い山脈と峡谷とについて進んだ。小高いところには、どこにも石塚がある。盗賊団の二人の騎手がつけた蹄《ひづめ》の跡があった。カモシカの群れが逃げて行った。野生ラクダやロバの足跡は、全部西へ向かっている。そちらには、きっと泉があるにちがいない。
われわれはまるっきり、なにもはえていない平原で、道を見失ってしまった。しばらくさがすと、狭くて石の多い谷へ行く道を示している、もう一つの石塚が見つかった。その道は南および南西へ向かい、赤い花崗岩《かこうがん》と黒い斑岩《はんがん》の山頂を越えて、高さ二千メートルの峠に通じていた。谷はそこから先へは行けなかったので、われわれは平原まで引き返し、夕方おそくふたたび駱駝井にもどった。
こんなぐあいで、この偵察もまた失敗だった。小型自動車でさえ前進できない、けわしい岩壁のあいだの狭い谷を、貨物自動車がどうして通れよう。われわれは地図を開いて、いままできた道を調べ、駱駝井からアルトミッシュ・ブラクおよび安西までの距離を計算した。私が一九○一年に通った道筋以外は、北山《ペイシャン》山脈の西部の地図は空白であった。
たった一つの基地もない未知の地方を旅行するときには、たしかに食糧や水やガソリンや潤滑油が必要である。しかしそれと同時にもう一つそれがなくては、他のいっさいの物の価値がなくなるほどのあるものが必要である。それは忍耐である。むしろ超人的といってよい忍耐力である。
十一月十七日、私は自分のテントに帰った。ストーブには火が燃えている。いつものとおり、われわれは地図を研究し、距離を測定した。それから私は読んだり、書いたりするために、小型自動車のなかにはいった。私は感動深い沈黙、砂漠のふしぎな静寂にとりかこまれた。ただ軽い南風が、自動車の上に立っているスウェーデン国旗と中国の国旗をはためかせているばかりである。周囲に広がっているのは、すべて「未知の土地」である。昔からまだだれひとりとして、ヨーロッパ人でここへ足をふみいれた者はない。西方にある、かつて人の通った唯一の道筋というのが、われわれの通った道だ。そこからわれわれの行手に立ちふさがっている、ガシュン・ゴビの砂漠の難所までは百キロばかりある。砂がわれわれを打ち負かした。こんどは、その南の方を行かなければならない。そうすれば、きっと成功するにちがいない。そして中央アジアの地図の最後の空白の部分を横断することができるだろう。いままで、だれひとりそこへは行った者はない。盗賊団でさえ、駱駝井から先へは踏みださない。地平線が丘から丘へと単調な線を描いている西方に、未知の地へ通じる門が開かれているような気がしてならない。われわれが引き返した場所は、一九○一年に私が通った、空白の部分を横切っている、ただ一本の道から四十八キロメートル離れているのである。
気温は一日中、氷点以下であった。太陽が沈むと、すぐに寒さが増してきた。まだ八時なのに気温はマイナス十二度C、夜のあいだにマイナス二十一度まで下がった。翌日はよく晴れた。ただ、はるか南方の低い丘の上に、白い薄雲がかかっているだけであった。われわれのキャンプは、ありとあらゆるもののなかで、もっとも荒涼とした地表の大きな一片のただなかに立っていた。
十一月十九日の一時すぎ、井戸の付近からつづけざまに三発銃声が聞こえた。その場所はキャンプに近い、小丘に隠れていた。「盗賊団だ」と私は思った。
私は拳銃をとりだし、すぐ近くの小丘へ登って望遠鏡でながめた。なにも見えない。なにも聞こえない。それで、私はテントのなかでまた仕事を続けた。三十分もすると二人の従者が水を持ってきた。私が聞いたのは、野生ロバに発射した彼らの銃の音であった。
十一月二十一日、新疆省では新しく戦争がはじまっていた。東トルコ人が盛世才にそむいたのである。われわれは最後の瞬間に、のがれたわけだ。もしもう一日、長く滞在していたら、捕われの身になっていたかもしれなかった。馬仲英については何もわからないが、おそらくホータンにいるものと信じられている。トゥンガン軍の二個師団は、西方の安西と新疆省へ向かって移動しているということである。われわれは、どうも「絹の道」で彼らに出会いそうだ。そうなれば、われわれの自動車は奪われることになるだろう。南京政府の交通部長顧孟余は無線電信で、自由に計画を遂行してもよいとわれわれにいってよこした。
十一月二十三日、十一時二十分に出発。こんどは地図作製に手まどるということはなかったから、まえに通った自分たちの轍をたどって、|※[#さんずい+兆]刀水《タオタオシュイ》の「盗賊の井戸」ヘ着くのに、そう時間はかからなかった。こんどはだれもいない。われわれはすこしのあいだ、車をとめて、煮立っているラジエーターに水を注ぎこんだ。さわやかな微風が、背後を通り過ぎた。それから一時間で馬蓮泉に着いた。|※[#さんずい+兆]刀水《タオタオシュイ》にはぼろぼろになった花崗岩質の片麻岩が多かったが、馬蓮泉には粗《あら》い黄白色の大理石が多い。趙璧淫はアシ叢《むら》と藪《やぶ》とにとりかこまれた野ざらしの泉である。それから、われわれは深さ四メートルの河床について進み、多くの水路を渡り、タマリスクが密生していて、まるで小さい森のように見える、平原を横切った。
太陽は鮮紅色になって沈み、東方の地平線はしだいに暗くなっていった。ハミ・安西のあいだの道にある、大泉から十キロメートルも行かないうちに、まっ暗ななかで隊員は速度をゆるめて叫んだ。「人が二人いる」しかしそれは盗賊ではなかった。
十五 野生ラクダの住む地
十一月二十四日、その夜の気温はマイナス十五度。翌二十五日の日曜日は、くっきり晴れた美しい日であった。午後おそくなって、空には高くごく薄い雲のとばりがかかった。
十一月二十六日の夜から二十七日の夜明けにかけて、気温は○・一度になった。テントの外へ出て、刺すような西風にあたると、たちまち指がかじかみはじめ、すぐストーブが恋しくなってしまう。ながいこと駱駝井《ロトチン》に滞在しているあいだに、われわれはこの地の高度をかなり正確に見つもることができるようになった。海抜百五十メートル、これがわれわれの計測した高さである。三十三年前に私が測ったアルトミッシュ・ブラクの高さは千メートルであった。したがって、土地はだいたい西の方へ徐々に傾斜しているわけである。
ここでわれわれの経験を総括してみると、フォードの一九三三年型四気筒の貨物自動車のほうが、同じフォードの一九三四年型八気筒の貨物自動車よりも、中央アジア地方の旅行には耐久力があることがわかった。ロプ湖《ノール》窪地への旅行中にこの自動車になにか重大事故が起きていたら、われわれの計画は放棄されなければならなかったろう。たしかに、安西から西安への帰途に、この自動車は数回の事故を起こしはしたが、しかしとにかく無事に北京に達し、一九三五年の晩秋、イギリス大使館書記官のサー・エリック・テイチマンが、われわれにとってのなつかしい土地であるゴビからハミを過ぎ、古城子、ウルムチ、コルラを経てカシュガルまで行った、自動車旅行に参加する光栄に浴したのである。サー・エリックはわれわれと同様に、フォードの貨物自動車が「堅固で強力で信頼できる」ことを知った。そのうえ彼はつぎのようにもいっている。「ゴビ旅行の困難には、ただ最強の機械だけが耐えうるであろう。そういう機械を使えば、この地域のなかには、旅行にさしつかえない土地もいくらかあるということが、わかるにちがいない」
彼は綏遠《スイユアン》からカシュガルまでの四千八百キロの旅行に三十八日かかった。出発にあたって、サー・エリック・テイチマンはわれわれやそのほか多くのゴビ旅行者たちと同様に、ゲオルク・ゼーデルボムから多大の援助を受けた。われわれの一九三三〜三五年の自動車旅行と、彼の一九三五年の秋の旅行との関係について、サー・エリック・テイチマンはつぎのようにいっている。
「私の自動車隊はフォード貨物自動車二台で編成されていた。一台は新車で、一台は昨年すでにスウェン・ヘディン博士の探検旅行で数千キロメートルを走ったものである。古自動車は数回機械に故障を生じた。そして結局、カシュガルの六百キロメートル手まえて放棄しなければならなくなった。新車は完全な状態で旅の終わりまで走った。そして中国国境からカシュガルまで踏破した最初の自動車であるとの栄誉をになった。このことから、ただ新しい自動車だけが、ゴビ旅行の困難によく耐えうるという教訓をえた。最初からいた六人の隊員のうちには、スウェン・ヘディンの最後の旅行に加わった二人のモンゴル人運転手が加わっていた。このうちの一人はセラトである。彼は帰化城のゲオルク・ゼーデルボム氏の推薦によって雇いいれたのだが、私は彼から、いいきれないほど多くの助けを受けた。セラトはこの旅行を通じて、私の片腕であった。若いときラルソン氏に仕えたのを手始めに、以後ずっと内外モンゴルを縦横無尽に旅行してきたセラトは、そのごスウェン・ヘディン博士といっしょに新疆省の探検旅行を二回している。したがって、おそらくいまでは、モンゴルと中国トルキスタンのルートと、その自動車旅行についての詳細な実際的知識をもっていることにかけては、第一人者であるといえるだろう」
十二月一日、ふたたびわれわれは荷物をまとめて、自動車に積みこんだ。たった一台の貨物自動車に全部の荷物はとてものせられそうにもなかった。こちらにはガソリン鑵《かん》の列、食料品の箱、さては荷物がまったく雑然としているかと思うと、そちらには携帯用テントや寝袋がある。氷を詰めた袋ものせなければならないし、ガソリン鑵の置き場所も考えなければならない。貨物自動車の積荷はどうしても二トンは越えそうだ。
ガソリンは合計千五百キロリットルある。この道を帰ってくるのか、またちがう道を通るものかはわからないから、とても帰りのためのガソリンを残して行くことはできないであろう。余分なドラム鑵四本には砂をいれて道標に立てた。この「道標」はたぶん案山子《かかし》が鳥をおびやかすように、駱駝井《ロトチン》に水を飲みにくる野生のラクダやロバに、疑念や恐怖を起こさせることであろう。しかし、もし盗賊たちがいつかここへ現われたとしたら、われわれの記念碑はおそらく安全ではいられまい。鉄のドラム鑵は、水を運ぶのには便利なものだから。
一同が出発し、井戸のかたわらを通り過ぎたときには、すでに正午を過ぎていた。井戸にはすくい上げた氷のかけらが、まだ太陽に輝いていた。この辺にはラクダの足跡がたくさんついている。われわれはそのひとつをたどって南西へ向かった。ここにもまた古い道が通っていた。小高い丘の上には石塚がたくさん立って、道を示していた。ときどき、白っぽい花崗岩《かこうがん》の堅い岩がある。またあちらこちらに石英が白く地表にあらわれていた。狭い谷や低い小丘を越えて進んだ。ほこりの層におおわれているこれらの小丘は、やや目のあらい、とがった小石が、いっぱいにばらまかれている、平らでせまい場所によって、たびたび中断されている。太陽は前方で、ダイヤモンドのようにキラキラ輝きながら沈んでいき、沈黙している砂漠を夕映《ゆうばえ》の光がおおった。この地方は、だいたいはまったく不毛な地であるが、ところどころに枯れたタマリスクや叢林が土塊の上にはえていた。このような場所にわれわれは第百二十八号キャンプを張った。わずか二十四キロメートル前進しただけである。地図の作成と、でこぼこな、やわらかい道に、大部分の時間をとられてしまったのである。テントの上にはオリオン星座が輝いていた。夜の静寂をかき乱す物音は、なに一つ聞こえない。
翌日、われわれは高さ三メートルほどある段丘のあいだに、幅百メートルの谷を見つけた。それは南西へ向かうに都合のよい道であった。地面は床のように平坦である。ここでもまた、小石が淡黄色の砂ぼこりの上に、信じられないほど平らかに並んでいて、先発隊がつけた自動車の深い轍を残していた。ほとんど幾何学的な正確さで、まかれているこの白と黒とのさまざまな小石は、ふれ合うか、ふれ合わないかぐらいの間隔をおいていた。ヘルネル博士は土地の形成と土質を研究していたから、どうして重い砂利《じゃり》が、細かくて軽いほこりの下に沈まずに、水の上のコルクのように浮かんでいるかという理由を、われわれに説明できるにちがいない。ときどき、一連の山が三、四キロメートル向こうの左手にぼんやり見えたが、近づくにつれて、はっきりしてきた。ところどころ、地面は起伏して、小溝《こみぞ》が刻まれていた。それはわずか数メートルずつの間隔をあけているだけであった。自動車は海路を行く小舟のように、もち上げられたり、横に揺られたりした。二つのみぞのあいだが二十メートルも離れていると、ほっとうれしい気持になる。このみぞは南北に走っていた。右手には淡紅色の低い丘が隆起していたが、南方の連山は、ほとんどまっ黒であった。
六十七キロメートル行ったのち、われわれはタマリスクの薪がたくさんあるところで第百二十九号キャンプを張った。
世界の海から遠く離れているこの大きな大陸のまん中に、大陸性の寒気をともなった、ま冬が近づきつつあったが、べつに寒さについては苦しむことはなかった。十二月二日から三日にかけての夜の気温マイナス十三度は、たいして気にはならなかった。嵐が吹いて、黄塵や飛砂で苦しむようなことは、一度もなかった。
われわれはあいかわらず、気持のよい谷を通って進んだ。その道は南西へ向かって低下し、その幅はたえず四十から百二十メートルのあいだを変化していた。側面には高さ三メートル程度の段丘が並び、そのうえに風化によって荒涼とした丘や峰が隆起していた。高度は海抜千二百メートル、ロプ湖《ノール》面からは三百二十五メートル高かった。
死の国がわれわれの周囲をとりまいている。一匹の動物もいないし、その足跡もない。ひとりさびしく死んでいくために、たどりついた野生ラクダの古い骸骨《がいこつ》さえもない。ときおり谷のなかにひからびた藪《やぶ》が見える。枯れているようだが、この地方特有のどしゃ降りの雨が降りさえすれば、二、三週間のあいだには生き返るだけの生命力のひらめきを内に秘めているのかもしれない。
南南西に山脈が三つ見える。そのなかのもっとも近い山脈はきわめて低く、われわれの通る谷の側面に立っている。もっとも遠い山脈はかなり大きくて、遠くにぼんやり、ただ青白い塊《かたまり》のように見えている。これはたぶん北山山脈の外側にある、いちばん南の連山であろう。われわれが通っているこの谷は、先へいって暗灰色の斑岩《はんがん》の断崖《だんがい》を通過していた。寒さのために裂けたこの断崖の部分は、表面が新しくて、風化されてもいなかった。それからの進路は、黒い小さな山脈のあいだにある、低い丘や谷や通路の迷路を、くねくねと蛇行《だこう》した。ここには、きめの細かい角閃岩《かくせんがん》と小さく砕けた、きめの細かい片麻岩が多かった。
はるか南、頂上に雪を頂いた山脈の輪郭が、砂漠の蜃気楼《しんきろう》のようにかすかに認められた。これは百七十キロメートルかなたのチベット北東の国境にある山脈、アスティン・ターグである。われわれの目は二つの山脈のあいだにある砂漠地帯のうえをさまよっていた。そこには一人の人間もいないし、動物や植物もごくまれにしかみられない。疏勒河《スーローホー》の最後の触手が、この地帯で消えている。また私が一九○一年二月に越えたクム・ターグ(「砂の山脈」)がある。
われわれは赤と黒の崖《がけ》のあいだにある、もう一つの浅い谷を通った。それはしだいに開け、起伏のある平原になった。少し遠方に低い丘が連なっていた。四十八キロメートルを進み、二人の中国人学者の待つ地点についた。携帯した地図によって、第百三十号キャンプからアルトミッシュ・ブラクまで二百四十八キロメートル、安西まで百九十二キロメートルと計算した。ここは、私が一九○一年に北へ向かって通った道からは、まだ九十キロメートルは離れているにちがいない。そのとき、ガシュン・ゴビの砂丘のため引き返した地点は、第百三十号キャンプから、ま北にあたっているはずである。
翌日はもっぱら北西へ向かって偵察することに決定した。自動草は小型のほうだけをつかった。私自身は第百三十号キャンプに残った。六時には暗闇のなかでヘッドライトが輝き、偵察員たちが帰ってきた。七十四キロメートルの往復、つまり百四十八キロメートルを走るのに、三十五リットルのガソリンを消費した。彼らは塩分を含んでいる野天泉を見つけたが、そこにはラクダ(おそらく飼養の)の骸骨《がいこつ》と、ラクダやウマの糞《ふん》があり、そしてだれかがキャンプしたらしい跡が、かすかに認められた。彼らは幅三・二キロメートルの砂原の向こうの端まで行った。そこには貨物自動車の進行を妨害するようなものがあるとは、考えられなかった。
十二月五日、第百三十号キャンプを出発して、われわれはまったく不毛な地方を通って西の方へ車を走らせた。起伏しているこの平原の黒い砂利の下には、やわらかい土の層があった。石塚が一つ、われわれが小憩をとった丘の上に立っていた。はたして将来この石塚を見る旅人があるだろうか。われわれが通ってきた谷の両側にある山脈は、斑岩と斑岩状の凝灰岩でできていた。
この地方は、南西と西に向かって開けていて、まるで海のようである。南西には疏勒河のかわいた河床がはっきりみられ、それを越えた南の方にはアスティン・ターグの麓《ふもと》に向かってなだらかに隆起している土地が見える。ここと疏勒河のあいだには山脈も、低い丘もなく、土地は河床まで、すこしずつ低くなっている。
われわれはでこぼこな低地を南西へ向かって進んだ。前方はるかに砂丘が見える。タマリスクを一本、そして小さいしぼんだアシ叢を一つ見て過ぎる。ちょっとまえに通ったばかりの、二頭のラクダの足跡があった。これは昨日、偵察隊が出かけたときには、なかったものである。景色はひどく混乱している。前方の西の方は平らに見えていたが、あまり行かないうちに狭い谷に迷いこみ、またも丘のあいだにはいりこんだ。あちらこちらの割れ目には、砂が吹きだめられている。一本の草木もない。われわれは迂回して、ひと続きの狭い砂の地帯に出た。高い砂丘が北方に姿を現わした。土地はきわめてやわらかであった。
やがて、高さ一メートルあまりの砂丘に達し、それを右に見て進んだ。ときどき、丘の頂からながめると、砂の地帯を通過する狭い、まがりくねった道があった。細かな黄色い砂の道を通って行くと、風のために波うっている黒い、ざらざらした砂地に達した。右手の、あまり遠くないところに、小さい塩湖の湖床が見えた。この湖床には河床が一筋はいりこんでいて、そのかたい底はよい道路になっている。われわれは四十二キロメートルを踏破して、日暮れがた第百三十一号キャンプを張った。
六日、キャンプをたたんで、一行はかわいた河床を進んで行った。高さおよそ四メートルの岩に、むかし流水によって鋭く削りとられた痕《あと》があった。その岩の頂には古い石塚が一つ立っていた。河床の表面は、結晶した塩の層でおおわれている。タマリスクの枯れた茎がたくさん洗い流されて、河床のなかの一か所に推積していた。その岸の上には、生きているタマリスクのこんもりした茂みが二つあった。
開いている門でも通るように、南側の丘の上に石塚が立っている、谷間を走って行った。この河床のなかに、野ざらしではあるが、塩分を含んだ浅い泉を見つけた。左側すなわち東側には、はっきりした侵蝕段丘があり、右側にある丘はこの河床まで急な坂になっている。この泉には湧口《わきぐち》が二つあり、高いほうのそばには小さい石ころがあり、それが堰《せき》になって、水たまりをつくっている。しかし、いまは氷が張っている。われわれはその氷を携帯することにし、そのうえ帰るまでに氷結させておくために数個のあき鑵《かん》に水をみたした。泉のまわりにはタマリスクやアシが、たくさんはえていた。ここは魅力のある楽しい場所で、憂鬱《ゆううつ》な山中の砂漠のオアシスであった。
二台の自動車に、三度キャンプするに足るだけの、かわいた薪を積みこんだ。野生ラクダの足跡が、あらゆる方向に向かっている。そしてときどき、ま新しい糞が見えた。野生ラクダそのものの姿がほとんど見えないのは、たしかに自動車の音をおそれて逃げてしまうからである。野生ラクダの感覚は異常に発達している。ひじょうに遠くでガソリンのにおいをかぎつけ、発動機の音を聞きつけて、適当なころに逃げてしまうのである。そのあとに残っているものは、柔らかい土の上に、すぐそれとわかる足跡だけである。野生ラクダの足跡と、飼養ラクダの足跡とは、たやすく識別できるというのは、ほんとうである。後者のほうが、より大きくて、跡が深い。
谷は北西から西方へとまがって行き、ついに平原に溶けこんでいる。低い丘が平原のずっと向こうに見える。六頭の野生ラクダが通り過ぎた。石塚は小高い丘の上には、どこにでも立っている。その一つは、四つの石からなり、他のものは円錐形に積み上げられた、さまざまの大きさの石や石板でできていた。この道が夏の道としてよく知られ、よく使用されていたという事実は、疑う余地がない。またラクダのための牧草地もあった。おそらく、清水の出る泉か、井戸がいくつか、われわれの進路のすぐそばにあるのだろう。古代の西方諸国に中国の絹を運んだラクダ隊にとっては、――人にとっても動物にとっても――下の方の平坦な息づまるような砂漠のなかを通るよりは、北山山中を行くほうが、どんな場合でもらくで、気持がよかったのである。また山中には掘ると、たいていかなりよい水が出てくる窪地《くぼち》がある。ちょうどいま私が述べた、百メートルばかり谷を下ったところにある泉でも、○・四五メートル下で水を見つけることができた。地下の水は、泉の水よりも塩分がすくなかった。二千年前、高価な荷をつけた多くの隊商がここでキャンプしたにちがいない。そのときにはこの地にも名前はあったが、それも砂漠の風に吹きとばされてしまったのだろう。われわれは綏遠と新疆省との二つの地名にちなんて、この泉を綏遠泉《スイシン・ブラク》と名づけた。泉のかたわらには、石英をちりばめた片麻岩と角閃岩、それに石英と斑岩を含む凝灰岩があった。
河床を跡づけることができなくなったので、この前のキャンプから五百メートル高い、小さい分水嶺となっている低い丘の上に登った。この分水嶺から北西へ向かって、土地はふたたび低くなっている。このあたりで、私が一九○一年に北に向かって行った道に行きあうにちがいない。しかし、時は、かつて私のラクダが踏んだ足跡を地面からかき消してしまった。あれから三十四年の歳月が経過し、人けのないこの山々には何回となく嵐が吹きまくった。私は全員に目を皿のようにして、さがしてくれるようにたのんだ。どこか風陰のくぼみに、ほとんど消えかけた、かすかな跡が見つかるかもしれない。しかし捜索はむだだった。足跡は海の上の航跡のように完全に見えなくなっていた。むかし、私が乗って通った砂漠の舟ラクダの進路でも、砂の波が行きあい、はげしい嵐に吹きたてられて、いつもさまよっている細かな砂塵が、私のラクダ隊が小丘のあいだに描いた、はかない目じるしを、ぬぐい去ってしまったのである。われわれがいま通っている道路と交差するあたりを、むかし、白いウマにまたがりながら――いやおそらく暖をとるために徒歩で歩きながら、北へ向かって進んで行ったのだ。そのとき、私は三十四年十か月後にふたたび訪れ、すぐまた遠ざかって行くその場所を、自分はちょうどいま過ぎつつあるのだなどとは、夢にも思いはしなかった。
一九○一年二月六日と七日に、トグラック・クドゥク、「ポプラの井戸」でキャンプした。そこは敦煌・楼蘭間を往来する絹貿易の隊員たちが、冬に通ることにしていた、あの古い砂漠の道にあった。高度は海抜八百メートル。そこから北へ十キロメートル進み二月八日、高さ八百七メートルある山脈の麓にキャンプした。二月九日のキャンプは、前日のキャンプから十九キロメートル北方の、高さ千二百二十メートルの個所であった。そのご、われわれは国境の山脈を横断し、北山山脈の南部にでた。さらに二十キロメートル北へ行って、二月十日の第百四十三号キャンプに到着したのであった。高度は海抜千六百メートルあった。
高度と山脈の状態から判断すると、一九三四年十二月六日にわれわれが昔の道と交差したところは、以前の第百四十二号と第百四十三号キャンプの中間であったに相違ない。運わるくこんどの自動車旅行では、天文学上の観測ができなかったし、無線電信の装置は没収され、同時にコルラにいるロシア人にだいなしにされてしまっていた。こうしてわれわれは、ただ推測航法〔航海日誌と羅針盤だけで、船の位直を推測する航海用語〕と自動車の速度計を頼りにするだけだった。
やがてわれわれは、西方へ向かって走っている谷に沿って前進した。黄色い粘土の谷底は、かたくて平坦であった。谷はいつもすぐ行きどまりになりそうに見えたが、角《かど》をまわるとさらに先へ続いていた。植物の茂みが二つ三つ、あちこちでいまも自分たちの生存のために戦っている。ときどき塩で白くなっている赤い粘土の段丘のあいだを、このすばらしい谷は南西から南へとまがり、砂漠へ向かって降っていた。そこでわれわれはその道を捨て、低い山脈へ向かって幅五十メートルの谷を進み、つぎに同じように小さい谷へでて、その日の宿営地、第百三十二号キャンプまで行った。ここの高さは百四十メートル。今日は四十八キロメートル進んだ。
われわれは暗闇のなかでキャンプした。テントは自動車のヘッドライトをつけながら組み立てた。翌朝、外に出てみると、見知らない風景の上に朝日が輝いていた。しかしたいして困りはしなかった。われわれは丘のあいだの浅い谷にいたのである。そこを出てすこし西へ行き、鋭く切り立った低い崖のあいだを進んだ。ここには石塚が見られない。昨夕、暗くて、昔の本道からはずれてしまったのだ。あたりはまったく荒れ果てた土地である。二頭のラクダの足跡が北東へ行っている。この神秘な動物は足跡を見せるだけで、姿を現わさない。遠くから自動車の音を聞きつけて逃げたにちがいない。
われわれが進んでいる谷は、赤と灰色の片麻岩と輝緑岩との二つの岩が、門のように並んでいるあいだを走っていた。大きな石ころが数個、地面にころがっていたが、通るじゃまになるほどではなかった。岩はかたくて、ほとんど風化のあとがなかった。人間がつくった防御工事のようなふしぎに規則正しい格好をしている、長さ約百メートル、高さ一メートル足らずの畝状《うねじょう》の起伏のそばを通過した。右手に明るい茶褐色《ちゃかっしょく》の蜂が隆起していた。
われわれは高さ十四メートルから二十八メートルの小丘のあいだにある谷を西へ向かって進んで行った。死の沈黙が支配している。色はおもに黒と赤とである。しばらくして土地は開けた。西の方の眺望はかぎりもない。もう薪にするような灌木もなければ、草叢もなく、泉もない。神に見すてられた土地へはいりこむかと思うと、一種の畏怖の情におそわれた。あちこちに白い塩が見える、赤い段丘のあいだを通っている谷を進んで行くにつれ、土地はしだいに低くなっていく。海抜は九十メートル。
西方はるかに、うっすらと新しい山脈が見える。南方の土地はかすかに起伏して、その上を越えて、はるかかなたにアルティン・ターグ山脈の輪郭がぼんやり見える。
地面はだんだん柔らかくなってきた。丘は黒くてまるく、谷は南西へ走っている。貨物自動車は、うなりをあげて難行した。車輪は土のなかへ深く沈んだ。ついで小丘のうちの最後の関門をくぐると、まったく開けて平坦な土地へでた。ただ南方にだけ、クム・ターグに属する山稜がやっと認められた。
われわれの前方、西南西にロプ湖《ノール》がある。しかし距離が遠すぎて、とても見ることはできない。西南西の方向は意外に地平線が平らで、まるで海のようである。こんなところにある湖は地面の反《そ》りで完全に隠されてしまう。高度計によると、ここは海抜八百七十メートルある。おそらくロプ湖はここより約三十メートル高いだろう。というのは、以前われわれがはかったときには、ロプ湖の海抜は八百九十メートルあったから。
ついに、われわれは二つの低くて平たいが、ひじょうにはっきりしている岸のあいだを下って、六十九キロメートル踏破したのち、「さまよえる湖」の、たった一つの遺跡である干あがった湖の岸で、第百三十三号キャンプを張った。
十六 安西《アンシー》への道
一九三四年十二月七日の夕方、テントを張った第百三十三号キャンプは、地理学上の観点から非常に興味のある場所であった。われわれはすでに、北山《ペイシャン》山系のいちばん外縁にある連山を越えて、南方のアルティン・ターグ山脈から北方の北山山脈を切り離している、幅五十六キロの砂漠地帯の北端にでたのである。アルティン・ターグのもっとも外側にある連山の頂までは、ここから百六十三キロある。東トルコ人はこの砂漠をクム・ターグ「砂の山脈」とよんでいるが、その名の由来はこの砂漠の内部に大きい砂丘が山の連なりのように重なり合っているからである。
このクム・ターグ砂漠は二つの山系を分離している一方、また二つの大きい砂漠地帯――西方タリム盆地内のタクラ・マカンの流砂と、東方のほんとうのゴビ砂漠――を結び合わせる連結点になっている。
われわれが計算したところによると、第百三十三号キャンプから新ロプ湖《ノール》の東岸の最も近い地点までは、西南西へ千五十五キロあることになる。そしてアルトミッシュ・ブラクまでは西北西へ直線距離にして百六十キロ離れている。まえに述べたように、われわれはおそらく思ったよりは、すこし西よりの場所にいるのであろう。
十二月八日。砂漠と山々の上に暁が訪れ始めると、さっそく、われわれはアルトミッシュ・ブラクに到達できる道を発見するには、どうしたらよいか考えた。干あがったロプ湖の広い北東の入江をまわるために、北方に遠回りしたらよいか、それとも第百三十三号キャンプからまっすぐ西北西へ行ったらよいか――そうすれば、われわれは古い干あがったロプ湖の広い北東の入江を横切らねばならないから、おそらくは不可能であろう。
この干あがった湖底は、たぶんロプ湖が現在よりも六、七倍も大きかったころのものと思われる。ところでこの湖底は、東トルコ人がショールとよぶものからできている。ショールとは塩分を含んだ泥で、かわくと煉瓦《れんが》のように堅くなり、平均○・五四メートルの高さで畝状になったり、突起になったりしている。このまえのロプ砂漠横断で、私はすでにこの恐ろしい土地とはなじみになっていた。これを横断することはどんな手段によっても、たとえば歩いて行っても、非常に困難である。まして技術上の理由から、自動車で行くなどは問題にならないということを知っている。
ヘルネルたちは、たいへんな困苦欠乏に堪えながら、彼らの第六十一号キャンプからロプ湖の東岸まで行く途中で、この恐ろしいショールを横切った。彼らの地図とわれわれの推測航法によると、彼らの第六十一号キャンプはわれわれの第百三十三号キャンプから、たった二十四キロメートル南南西に離れているだけであった。彼らの足跡をたどりながら、自動車で東トルキスタンへ行くということは、どうしても不可能である。とにかくこの道は、まっすぐ湖まで行ってはいるのだ。唯一の可能な方法は北山外縁の山脈の南側を伝って、ここからそれほど遠くないその西端へ行き、これをまわって北西および北に向かって、われわれの左手を北東に走っている乾いたショールの入江を離れて行くことであろう。
まず第一に偵察が必要である。もしもこの方面の土地が通行可能なら、われわれ一同は二台の自動車で出発しよう。しかし偵察は長くは続かなかった。自動車がのろのろと南西にあたる外側の山系の端《はし》へ近づくのが終始見えていた。自動車はそこでしばらく立ちどまっていたが、やがてキャンプへ引き返してきた。偵察は全部でたった一時間十五分のあいだ続いたばかりであるが、結局、全然行けないということがわかった。偵察員の報告はこうであった。
「全然不可能。南西と西へ向かって、地面はますます柔らかくなる。細かい、ふかふかした石膏《せっこう》まじりの土地である。ついに自動車はどうにもならないまでに、深くはまりこんでしまった。ひき返すよりほかに方法はない。われわれは自動車を動かすためにたいへんな苦労した。そこからみると、すこしさきの西の方にヤルダンのような不規則なでこぼこが見られた。ところどころショールになりかけているらしい地表もあった。西南西へ六・五キロメートルのところで、地表に足跡のようなものがあった。ほんのわずか沈んでいるだけであったが、たいへんはっきりしていた。われわれは、旧ロプ湖の岸の一部であったにちがいない、小さいメサの上に石塚を一つ見つけた」
われわれの知りたいことは、これに尽くされている。砂漠の道は確実に閉ざされているのだ。軽い小型自動車で越えられない場所を、貨物自動車で強行しようなどということは思いもよらないことである。しかし、だれが山脈の西端をラクダ隊を運れて通ったのであろう、まただれが旧ロプ湖の岸に石塚を立てたのであろう。おそらく古い時代のことではあるまい。古いにしては土壌があまりにゆるすぎる。スタインはかつてこの道を通ったが、その時から二十年の歳月が経過しているし、それにこんな土壌の、しかもどんな嵐にもさらされている、こんなあけっぴろげの場所に、そんなに長いあいだ、跡が残っているはずはない。しかしヘルネルたちが一九三○年のクリスマスにこの近くでキャンプしている。彼らの一隊がつけた足跡が、三年十か月のあいだ残っているということはあり得ることだし、またありそうなことでもある。もしこの推測が正しいとすれば、結局この偵察は非常に重要であったわけだ。
ニルス・ヘルネルは、その著書『ロプへの旅』のうちに述べている。
「一九三○年十二月二十八日……われわれはかつて湖岸の岬《みさき》であった場所を去り、かさかさに乾いた堅い塩で一面におおわれている、でこぼこな地表を越えて進んだ。足もとの土はしっかりしていたけれども、われわれは海へでも乗り出したかのように感じた。いま、われわれは楼蘭へ行く西北西のコースを進んでいる。しかし、われわれは新しい湖の水というじゃま物に出会うことを、計算にいれなければならない。といっても、この新しい湖こそ、まさにわれわれがあこがれ、求めているものである。あらゆるものが、どうしようもないほどに、現在かわききれるだけ、かわききっている。塩は石のように堅い。海上と同様、われわれはただ羅針盤に頼るだけで方向をとった。もう目標となるものはなに一つない」
ヘルネルは私に、われわれの第百三十三号キャンプからそう遠くない北山の外側にある連峰のすぐ南方に、長さ四十八キロメートルの非常に目のあらい沖積層の砂利からなる地帯があって通行できない、と語った。同地方について、彼はその著書でいっている。「ラクダには歩きにくい道であった」と。またショールについて述べている。「荒く耕された畑地が堅く凍ったようなものである」と。この比喩《ひゆ》はたいへん適切である。また「その中の凸起《とっき》や畝《うね》は、塩の上皮や塩と粘土のかたまりからできていて、○・二メートルから○・五メートルの高さがある」と。もっと西の方で彼は、床のようになめらかな、堅くて新しい塩と古いショールの塩とのあいだに、明瞭《めいりょう》な境界を見つけた。この境界は新しい湖が一九二一年に旧湖床にもどって以後、いちばん広がったときの痕跡《こんせき》であった。ヘルネルの著書の説明はたいへん有益で、この異常な土地に関する明快な観念をあたえている。ロプ湖の輪郭を跡づけているショールの表面は、ほぼ長い二等辺三角形をなしている。その一頂点は西南西《カラ・コシュン》を指し、他の頂点はヘルネルの第六十一号キャンプのほうに向かって東北東を指し、第三の頂点は北東に向かっている。ヘルネルらは一九三○年の終わりから三一年の初めにかけて、このショールを二週間かかって横断したのである。私は一九○一年二月十七日にこの第三の頂点を、端からあまり遠くない、幅二十キロメートルぐらいのところで横断した。一九○六年には、アメリカ人エルスワース・ハンティントンが一面に塩の張った地面をまっすぐ横ぎり、一九一四年にはスタインが三角形の南端を横断した。だがこの奇妙な古い湖底を、一九三○〜三一年にヘルネルたちが共同して行なった調査以上に、完全な調査をした人はだれもいない。
とにかく、すでにわれわれは疏勒河《スーローホー》流域をあとにし、第百三十三号キャンプでふたたびロプ低地に出たのである。すなわち、われわれはヘルネルのいうように、疏勒河とロプ湖の低地との連結を不可能にしている山脈を越えてきたのである。ヘルネルはその著書の中に述べている。
「疏勒河はロプ湖低地へは絶対に流れこまない。それまで水路と思われていた多くの峡谷は、まったく別な原因によって生じたものであることは明らかである」と。
さらに彼はつけ加えていっている。「ロプ湖と疏勒河とが連結していたといわれる証拠は、明らかに現存しないし、また歴史上一度も存在したこともなかったのである」と。
さて、一九三四年十二月八日にもどろう。
偵察員が帰って、問題の砂漠は自動車では通れないと知らせてきたので、われわれは山脈のあいだを北に向かって偵察しようと決心した。われわれは六百三十リットルのガソリンを持っているし、安西《アンシー》へ帰るためには綏遠泉《スイシン・ブラク》に百リットル、そのほかに七十二リットルを用意してある。そのために燃料に関しては心配する必要はない。
まず最初にわれわれは、低い土地へ海浜の岬のように突き出ている黒い山脈を右に見ながら、自分たちの以前の轍《わだち》をたどった。北に方向をとり、赤いバラ色の山脈と黒い山脈とのあいだを進み、石ころにおおわれた起伏の上を越えて行った。そこには野生動物の影もなければ、草木一本さえ見られなかった。低い峰が行く手をさえぎっている。それをまわって北西へ行こうとしたが、いくつかの低い、黒い粘板岩の畝《うね》にさまたげられた。われわれは見晴らしのきく丘の上から地表の状態を観察した。北へも西へも、とても望みはなさそうだ。
われわれは小型自動車で北東から北、そして北西へと偵察した。あるいは険しい峰に止められ、あるいは落下した石ころでふさがっている狭い谷に妨げられた。しかしやがて赤い石塊がちらばっている広い谷が、道を開いてくれた。赤と黒との低い丘のあいだに、小さい平原がいくつか広がっている。われわれはジグザクまがりくねった道のなかに、自分たちの進路をかぎだして行く。ときには、小型自動車さえ捨て、徒歩ででこぼこな丘の迷路のあいだに道を求めて歩いた。これらの丘は、おおよそ東西に走っている。その外縁にある一連の丘の分水嶺《ぶんすいれい》を通り過ぎると、土地はふたたびロプ低地へ向かって下っているように思われた。しかしそこはまだ、第百三十三号キャンプより約百三十六メートル高かった。明らかに、われわれは入江へと近づいているのである。入江は大ロプ湖の古い、乾いたショールの表面から北東に走っている。
北東から東へまわって行くと、この入江の端の近くにでた。入江は明黄色の大平原に似ていて、あちらこちらに見える黒ずんだすじで切られたり、ヤルダン地帯やメサで中断されたりしている。午後おそく、一つの谷から低地の平らな地面へ下って行ける道を見つけた。この谷にささやかな叢《くさむら》が三つあった。カモシカと野生ラクダの足跡もあった。こんなに乏しい食物で生きてゆける動物は、かんたんに満腹するにちがいない。ここでも湖岸の線がはっきりわかる。低くて、まるい段丘がそれである。七十一キロメートルの偵察を終わってから、第百三十四号キャンプを張った。この日の旅行中に通り過ぎたでこぼこな丘は、斑岩と片麻岩と粘板岩でできてる。
十二月八−九日の夜は、めずらしく暖かであった。最低気温マイナス六・五度。われわれはまた余分な荷物は全部キャンプに残して、できるだけ貨物自動車を軽くした。
荒涼たる風景が日光を浴びているなかを、最後の行程に出発した。困難な道を避けたり、新しい道を試みたりしながら、だいたい前日の轍をたどった。地表の色は赤かったが、低い丘はいつも黒ずんでいた。ところどころに珪岩《けいがん》が光っている。地面はあまりよくなかった。貨物自動車はたびたびはまりこんで、鋤《すき》や帆布の助けをかりて、引き出さなければならなかった。
北山のこの辺は、先端が五つ六つに分かれている大きな舌のように、半島となって西方の低地へ突きでている。どの辺で越えたらいいかを見つけるのに苦労した。こうして一日を費やし、第百三十五号キャンプを張った。
翌十二月十日、午前十時十七分、一行は西北西へ向かって出発した。三分後、低地へ下りた。地表は小さい石ころにおおわれ、ところどころ塩で白くなっている。背後にはいま通ってきた小さい谷が口を開いているし、前方には平らな平原がひろがっている。土地は西へ向かってわずかに下りになっている。一行は昔の湖岸の線のかすかな跡の上を、一つ二つ越えて前進した。
貨物自動車では、どうにも身動きできそうもないような地面である。小型自動車ならどうにか支えられるが、しかしゆっくり進まなければならない。こんな地面の上を二十三分進むと、古城の廃墟《はいきょ》によく似ている、高さ三十メートルほどもあるメサに着いた。それは巨大な粘土のかたまりで、側面がところどころ垂直になっている。層理はだいたい水平で、一部分いくらか不規則になっている。しばらく車を止めて、写真を一、二枚とったり、大急ぎで写生したりした。近づいてみると、この赤黄色の堆積物《たいせきぶつ》の中に、白い石膏の薄い層が見える。この白い条《すじ》はたった○・二五メートル以内の厚さで、赤黄色の部分は○・一から○・二メートルある。
第三紀末期に侵蝕によって残されたこの巨大な記念物のすぐ西に、さらに四つのメサを見られた。四つとも最初のものよりは小さく、それほど絵画的でもなかった。数千年の嵐に風化された侵蝕の遺物は、ほかでも一つ二つ見ることができた。
われわれは粘土の巨大なかたまりでできたこの印象的なメサ群のあいだで四十五分を過ごした。それは大海に浮かび上がっている、岩石が重なりあう島のように突きでていて、南と西南西につづいていた。土地は完全に水平とはいえない。われわれは、なだらかな長い起伏があるのに気づいた。その色は遠ざかるにしたがって、だんだん淡くなっていた。
南から西に七十度の方向へ数分間行くと、右方数百メートルのところに、もっと赤いメサの断面がいくつか見えた。
西に方向をとり、さらに二つ三つのもっと小さいメサのそばを通り過ぎる。八分たって、きらきら日に輝いている石膏が地表一面にちらばっている場所を横切った。ところどころに、まだできかけの小さい砂丘が見えた。
十二時十五分前、十四・四キロメートルを踏破して、車をとめ、自動車をおり、水平線を見わたした。南から西に十五度のところに、なだらかにまるくなった丘陵がいくつか見えた。それはわれわれが通ってきた半島形地帯の最西端の斜面で、北山山系の最南端にある連峰に属している。南西と西南西の水平線は、海のように平らであった。そこはちょうどロプ湖があると考えられる方向である。西北西に、低くごくかすかに山脈の輪郭が見えているのは、クルック・ターグ山系にちがいない。北西、北、北東にも、やはり青味を帯びた山脈が見える。
われわれは、一九○一年の二月に私が通った道から南方三十キロメートル、ロプ湖の干あがったショールから北東に走っている入江の東方四十キロメートルの地点で引き返した。この入江《ヽヽ》の土質や外観については、拙著『中央アジアとチベット』第二巻、九十四ぺージにある、一九○一年二月の旅の叙述中に書いておいた。ラクダにとってさえヤルダンは、どんなにたいへんな障害であるか、また自動車にとって、どんなにこの入江が越えにくい障害であるかについては、つぎのように記してある。
「一九○一年二月十七日、われわれの状態は非常に危険に思われてきた。一週間ほどまえに二口、三口、雪を食べたのを除けば、ラクダはこの十日以来、一滴の水も飲んでいない。彼らの強さも、ながくはつづかないだろう。
この日の進行中に、われわれは北行したときに通ったことのある、二つの荒涼とした山脈を無事に通り過ぎた。それは両方とも西へ向かって続いていて、砂のなかに消えていた。それをクルック・ターグ山脈と直接結びつけることはできない。しかしこれらの山脈は、クルック・ターグとは山岳論上、同一系統に属するものである。はるか西方にクルック・ターグの連峰が見えた。しかしそれはこちらの山脈よりは高くて、ずっと大きかった。砂漠のなかよりは山に近いほうがはるか容易に水を発見できそうに思えたから、われわれはそこに向かって進むことに決めた。……
これらの山脈の分脈に背を向けて、まもなく塩まじりの粘土の平原に出た。けれどもこの平原は、高さ三メートル以下の畝状起伏のために平坦ではなかった。砂漠は南西と北東が完全に開いていて、むかしの湖の細長い入江に似ていた。五時間さまよったあと、停止してラクダ隊を待った。現在では土地の様子が変わり、いままで横切ったどんな砂漠の状態よりも悪い。ここは私が『ロプ砂漠』のなかで記述したようなヤルダン、すなわち粘土の脈でできていて、高さは六メートル、峰から峰への距離は十メートルから十三メートルあった。しかしそんなものがあるのは、ここばかりである。ヤルダンは果てしなく北と南とに続いていた。もしもそのあいだに裂け目がなかったら、前進することは不可能であったろう。その両側はまったく垂直であったから。ときどき、三メートルから四メートル前進するのに、○・一六キロメートルか、または○・三二キロメートルもまわり道しなければならなかった。……
しかし、とうとうこのわずらわしい迷路から出る道を見つけることに成功した」
ところで、われわれが旧ロプ湖床の北東の一端を横切ったときには、そこの地表は、塩のショールではなく、ヤルダン脈でできていた。おそらくこのヤルダンの入江は、自動車ではまわるのに困難なほど、北東へ遠く広がっているわけではあるまい。
ロプ低地へ向かって行なった第二の前進の終点であるこの地の観察も終わったので、自分たちの残してきた轍をたどり、黄褐色のメサの線を過ぎて、第百三十九号キャンプへ帰った。われわれはアルトミッシュ・ブラクと完全な連絡をとることはできなかった。しかし、われわれの経験から考え、コルラ・安西間のわが自動車踏査の未踏の百三十五キロメートルのあいだも、いつの日か問題が具体化したばあいには、自動車道路を建設するための大きな障害にはならない、ということだけはわかった。通路を改良するためには、もっとも堅い岩にさえトンネルを通すこの時代に、床のように平らなヤルダン地方を二十キロメートル進むということは、大したことではない。安西《アンシー》・コルラ間の直線距離八百二十六キロメートルのうち、われわれは自動車で六百九十一キロメートルを踏破したのである。残りの百三十五キロメートルだけが、貨物自動車で通れない、ただ一つの部分であった。というのは土地がやわらかすぎて、とても貨物自動車には耐えられなかったからである。しかし私は、一九○一年と一九三四年の経験から、われわれが引き返した場所からアルトミッシュ・ブラクまで迂回しての通行が可能な道路を見いだすことは、北山山系と同じ程度に容易であると確信している。もしできたら、いつでも私は西安から蘭州、涼州、甘州、粛州、玉門関、安西、アルトミッシュ・ブラク、コルラ、クチャ、アクス、マラルバシを経てカシュガルにいたる直線距離三千七十二キロメートルを、軽自動車隊を指揮して走破してみるつもりである。われわれはエツィン・ゴールを通ってでも、公道ぞいにでも、トゥルファンをへてクチャまで行く道が通行可能であることを証明した。クチャからカシュガルへのあいだは、ソ連のアモ会社の自動車がたくさん通っているし、また最近ではサー・エリック・テイチマンが通っている。安西からコルラにいたるハミ、トゥルファン経由の道は千二百九十六キロメートルある。われわれが偵察した北山を通る砂漠の道は、それより四十八キロメートルだけ短く、有名な「絹の道」の跡をたどっている。
からのドラム鑵八本を使って、第百三十五号キャンプに記念碑を建てた。そのうち三本には、ピラミッド型の道標に安定をあたえるために砂を満たした。いつかそのうちに、旅行者や道路工夫たちが見つけることであろう。というのは、こんな場所へやってきて、これを取りのける者は、ほかにはだれもないだろうから。幽霊船のようにこのあたりをさまよう野生ラクダが、いままであったためしのない黒い妖怪《ようかい》がいるのを見たら、ぎょっとして立ち止まり、くんくんあたりを嗅《か》いでみることだろう。そうしてたちまち方向を変えて、走り去るであろう。
一行は帰途についた。地図作製に暇をつぶす必要もなく、つぎつぎと以前のキャンプをあとにして行った。十一日、出かけてからあまり行かないうちに、小型自動車の前のスプリングが折れてしまった。これはウルムチのガレージでつくられ、三千四十三キロメートルももちこたえたものである。幸い予備のスプリングをいっしょにこしらえさせておいた。それはほかのいろいろな道具といっしょに、貨物自動車に積みこんでいた。修繕にはたっぷり三時間かかった。もしこの災難がアルトミッシュ・ブラクヘ行く途中で起きたとしたら、貨物自動車の助けがないから、小型自動車とその隊員たちは破滅したことであろう。
綏遠泉《スイシン・ブラク》からすこし行くと、野生ラクダが、自動車の轍を横ぎる勇気がでないままに、ながいあいだ轍にそって、ついてきた跡が残っていた。その足跡はジグザグまがっていた。いくたびか轍のところにきてはまたはずれ、かと思うとすぐまた好奇心にそそられて引っ返している。恐ろしさにすすんで前進もできず、地面に深く刻まれている二本のみぞを、一はねして飛びこす決心もつかなかったのである。
十二月十二日の朝、すでに試験ずみの道よりも北によった道をとって、新たに西へ前進するということについて、われわれははげしく議論した。ガソリンと食料は、このまえのように安西で求めればよい。このような計画を実行するのに、もっとも重大な障害となるのは、われわれの自動車が使い古した状態にあるということであった。自動車はすでにもっとも困難な地方を一万四千四百キロメートルも走ってきた。それだけに北山のはげしい困難をおかして、新しい旅をすることはできないだろう。新しい前進には、新しい準備がいる。こうして計画は中止に決定した。
さらに旅を続けていくと、第百二十九号キャンプと第百二十八号キャンプのあいだの、一メートルぐらいおきに溝が道を横ぎっている場所にさしかかった。自動車は揺れに揺れ、われわれは胃の腑《ふ》をさらけ出さないばかりであった。例のとおりエッフェが歌をうたうと、まるでしゃっくりをしているように聞こえた。
夕方八時、われわれの前方五十メートルそこそこのところに、突然大きい淡灰色のオオカミが姿を現わし、急に立ち止まり、催眠術にでもかかったように立ったまま、自動車のヘッドライトの光に射すくめられて、ふらふらしていた。
「全速力。オオカミをひいてしまえ」と叫んだ。しかしエッフェは、どぎまぎして機会をのがしてしまった。オオカミは正気にかえって、光のとどかない暗黒に姿を消してしまった。夜のあいだに駱駝井《ロトチン》、|※[#さんずい+兆]刀水《タオタオシュイ》、馬蓮泉を通り過ぎ、翌日にはハミ街道上の大泉を過ぎ、その夜は疏勒河の北岸にキャンプした。
最後の日、十二月十四日の朝、東北東の嵐で目をさました。嵐は時速五十一キロメートルの速度で、濃密な砂塵をテントに吹きつけていた。疏勒河《スーローホー》の三つの分流は凍結している。最初の一つは小型自動車の重量を支えたが、二番目の分流を渡ろうとしたら、前の車輪で氷が破れてしまった。自動車にはべつに故障もなかった。われわれは下流のもっと堅い所を渡り、やがてまもなく安西の城門に着いた。すると毛皮の外套をまとい、高い毛皮の帽子をかぶった兵隊が六人いて一行を引き止めた。しかし二、三分後には、われわれは腰をおろして愉快な市長と話をしていた。
十一月十二日、まったく思いもかけずに、|※[#さんずい+兆]刀水《タオタオシュイ》で盗賊団に遭遇して以来一か月以上のあいだ、人間には一人も会わなかった。そのあいだ人跡未踏の地に住んでいたのである。長いこと石灰化していたこの静脈にも、昔はやはり生命が脈うっていたのだ、ということを示しているただ一つのものは、商人やラクダ隊に「絹の道」の道順を示すために、小丘や段丘や山の峰の上に建てられた石塚だけであった。この多くの石塚は、たしかに北から南へ行く道を示している。すくなくも、そのうちハミ・敦煌間にある三つだけは、多くの地図にのっている。われわれは方々で、この道を横ぎった。しかもこれを建てた人びとは、二千年ものあいだ墓場のうちに眠りつづけている。そしてその墓は、アジアと中国の奥地に広がっているのだ。
われわれの時代に、この忘れられた道をたどって旅する者は、ラクダの鈴の音が遠くに消えるこだまや、ラクダを追う御者の叫び声のこだまを、ただ想像のうちで聞くのみである。
十七 さまよえる湖
アジアの奥地を旅行しているあいだに、私はいままで知られていなかった湖を、いくつか地図に書きこむ機会を得た。そのなかには、東トルキスタンとツァイダム盆地とのあいだにある、チベット高原の最北を東西に走っている渓谷中の連湖をはじめ、トランス・ヒマラヤ山系の北麓に集まっている連湖などもある。
聖書にでている神聖なガリラヤ湖を除けば、アジアの湖のなかで、四つの湖が他のどんな湖よりも私の心に親しい。
それはチベットの中心にあるチャルグート・ツォ湖上のことであった。一九○一年の秋、私は布製の小舟に乗ってこぎ出し、数日間荒れ模様のうちを湖上にでていた。ところが、チベットの民兵はこのために召集されて、岸辺でそのあいだじゅう、むなしく私を探していた。
一九○六年の終わりから一九○七年の初めにかけて、私は徒歩で歩いたり、またラダク人に引かれた橇《そり》に乗ったりして、氷の割れ目から測深をするために、ナガンツェ・ツォ湖の堅い結氷面を行きつ戻りつした。東岸ではナクツァアング州の総督が私に通行の許可をくれなかった。しかし長い交渉のあげく、彼は私の探検隊にこの禁制の国とタシ・ルンポの聖なる僧院の門を開いてくれた。そこには、高僧タシ・ラマが居住していた。
私の生涯で重大な役割りを演じたアジアの第三番目の湖は、何億というインド人に神聖な湖とされ、またチベット人によっても同様にツォマヴァンという名で神聖視されている、世界で最も聖なる湖水マナサロワル湖である。この湖水は北方に聖なる山、シヴァの楽園、梵天《ブラーマ》の天国であるカイラス山すなわちカン・リンポチェを、南方にはきらきら輝く青い氷河や、まっ白い雪原によそおわれている雄大なブルラマンダータ山系をひかえて、夏は太陽に輝き、冬は氷雪の下に白く、目もくらむばかりに輝きながら横たわっている。嵐の日と静穏な日とに、私はこの湖にボートをこぎ出して、その深さを測り、まっ青なトルコ玉の腕輪のなかの宝石のように、おかれている八つの僧院に客になった。
しかしながら「さまよえる湖」ロプ湖《ノール》はこの三つのうちのどれよりも深く、私の生涯にはいりこみ、いろいろな事情によって私の運命と結びつけられるようになった。最初その岸辺にテントを張って以来四十年、最後にアシを渡る春風のささやきに耳を傾け、この本に書いたように、その湖の北半をカヌーでこぎ回ってから三年の歳月がたった。この二つの日のあいだに過ぎ去った長い年月を通して、一部は私自身で、一部はわが隊員の探検によって、医者が患者の心臓とその循環をしらべるように、私はタリム河とロプ湖の脈搏《みゃくはく》を探ったのである。そして、いまこそついにわれわれの団結した努力が、この神秘な湖の移動について、六十年のあいだ問題になっていた点を解決し、そのきまぐれな行動の物理的原因を発見することができたのである。
タリム河と、この水のはけ口のない湖とに関する最も古い記事は、紀元前一世紀に始まり、漢書に記載されている。それによると、パミール高原から出てきた一流水が、崑崙《コンロン》から流れ出て、縦も横も三百里ある塩湖、蒲昌海すなわちロプ湖に注ぎこんでいるもう一本の流水と合している。この古典の誤りから、中国人はその後二千年間、ロプ湖にはいった川がふたたび地表に現われて北東チベットに達し、中国を流れる黄河になるものと信じてきたのである。
一一三七年以前の中国の地図がまったく滅びてしまっているので、西安の博物館にある石板に描かれた地図が、タリム盆地とロプ湖(蒲昌海)を含む現存最古の地図である。
もっとも興味ある事実は、漢代にあたる時代の一ヨーロッパ人、テュロスのマリノスというギリシア人が、この川と湖を記しており、それが漢書の記載と一致していることである。マリノスは「絹の道」ぞいにラクダ隊を連れて旅行した商人たちから、その知識を得たものである。紀元二世紀のプトレマイオスはこのマリノスの記述を採用した。プトレマイオスは自分のつくったアジア地図の最北東部にセリカという名、すなわち「絹の国」と、二つの河源から発し、はるか東方の山脈の麓《ふもと》にある湖に終わるオエカルデース川を記載している。
プトレマイオスの地図では、オエカルデース川の南にもう一本、やはり水源が二つで、終わりが湖になっているバウティソス・フルウィウスという川がある。多くの地理学者は、このバウティソス川とチベットのツァンポー・ブラマプトラとを同一だとしている。私は『南チベット』の第一巻のうちで、バウティソス川はタリムであり、それが注いでいる湖はロプ湖であることを証明しようとした。プトレマイオス地図には同じものが二度でてくるのである。ではなぜだろうか。マリノスもプトレマイオスもチベットの存在については、なにも知らなかったからである。プトレマイオス地図には、西から東へ走っている山脈があって、西部をイマウス・モンテース、中央をエモディ・モンテース、東部をセーリキー・モンテースとよんでいる。イマウスはヒマラヤでセーリキー・モンテースがコンロン山脈と南山山脈、すなわち昔の商人たちが耳にしていた「絹の道」の南にある山脈のことである。プトレマイオスは非常に高い山脈のある地域が、南方のイマウス山脈と北方のセーリキー山脈とのあいだに広がっている事実を知らなかった。彼にとってはチベットは存在しなかったのである。タリム河とロプ湖が、なぜ同じ地図に二度でてくるかも簡単に説明がつく。すなわち、タリム河とロプ湖の報告が二つの方面からきてマリノスもブトレマイオスも、この二つの報告にある湖と川とが、それぞれ同一のものであるということに気がつかなかったのである。
ところで、つぎのような疑問が当然起こらないだろうか。すなわち――世界最大の大陸の奥地にかくされ、世界最大の砂漠にとりかこまれている上に、一八七○年代になって、やっとヨーロッパの地理学者たちにその存在を知られるようになったエビ湖《ノール》を除いては、どんな湖よりも海岸から隔だっている湖が、二千年も昔にどのようにして少数の西方の地理学者に知られるようになったのか。また二本の分流でできている大河が西から東に走っていて、クム河《ダリヤ》のように、砂漠の北部、すなわち最近十年間の探検中にわれわれが発見したロプ湖と同じ場所にある湖に注ぎこんでいるということを、どうしてプトレマイオスが知り得たか。またプトレマイオスの後の時代になってロプ湖が、夜の流星のように姿を消し、それ以後千五百年以上のあいだ完全に沈黙におおい隠されていたというようなことが、どうしてあり得たのか。
一二七三年、あるヨーロッパ人の旅行者が、ロプという名を聞いたことは事実である。この旅行者こそは不朽の東方旅行家ベネチアの商人、マルコ・ポーロである。彼はわれわれと同様に、この名前のもつ意味を理解していなかった。その旅行記によって、ロプの名が初めてヨーロッパに知られるようになった。しかしマルコ・ポーロはロプ湖についてはひと言も述べていない。ただ大ロプ砂漠について語っているだけである。彼は魔法使いとか、妖精《ようせい》などの伝説で、ロプ砂漠のことを、おもしろく物語っている。
十六世紀になると、ロプの名がヨーロッパの諸地図に現われた。たとえば一六六一年刊行のヤコポ・ガスタルディの『インドおよび中央アジア地図』に載っている。この地図のなかでわれわれは「ロプの砂漠」ということばを見いだすことができる。
それだからといって、マルコ・ポーロはロプ湖について何も知らなかった、あるいはすくなくとも一つの湖が存在することについて何も知らなかった、といい切れるだろうか。彼はチャルクリックから敦煌まで行く途中、その左側すなわち北側にアシの生い茂った湖を一つ、もしくは一つ以上見るか、話に聞くかしたであろうが、自分の発見についてなにかいうほどの価値があろうなどとは、夢にも考えなかったろうと思われる。彼はカシュガルからヤルカンド、ホータンをへてチャルクリックまで旅行する途中、世界最高の山脈の一つを、つねに右手に見て行きながら、それについてはまったく語ってはいない。
つぎからつぎへと世紀が移っていっても、なおこの気まぐれな湖は、その秘密を隠すことに成功した。一六○三年にジェスイット僧ベネディクト・ゴエスは、アジア横断の冒険旅行をしてタリム下流を通った。そして不幸にも一六○七年に粛州《スウチョウ》で病気のため死んだ。敵意をもっていた、イスラム教徒がその記録を全部焼却してしまった。あとになって北京にいたジェスイット教徒たちは、ゴエスの同伴者であったアルメニア人たちから、その行程について多少のことは聞いたが、これはごく不十分なものであった。
前世紀の六○年代に、清朝の乾隆帝はジェスイット宣教師ハレルシュタイン、ダロチャ、デスピナたちを東トルキスタンに派遣し、天文学的観測によって、アジア奥地の新征服地の何か所かの位置を確定させた。ところが学識あるこれらの旅行者たちも、ロプ湖については、なにも言っていないのである。
しかしテュロスのマリノスとアレクサンドリアのプトレマイオスは、湖の存在についても、それに注ぐ川の存在についても非常によく知っていたので、自分たちの地図に二度も重ねて記載したほどである。
彼らの知識が絹の貿易のおかげであることは疑えない。隊商はセレスの国、中国から敦煌を過ぎ、ロプ砂漠を通り、その北岸とクム河とにそって進み、さらにコルラ、クチャ、アクスを経由して、カシュガルにいたる世界最長で最古の通商路を通って、高貴な絹を運んだのである。南方からきた商人たちもこの道を通り、彼らが見てきた国々や湖や川について語ったのである。このようにしてこの知識がマリノスに伝わり、マリノスからプトレマイオスに伝わったのである。そのため、初期の地理学がこの有名な湖と、その河川の水系に関する知識に対して感謝しなければならないとしたら、それは絹の貿易に対してでなければならない。北部ロプ湖の西方、あまり遠くないところにあった楼蘭は、この絹の道にそっていた。しかし紀元三三○年ごろに、タリムの河道とロプ湖の位置に大異変が起こった。幾世紀ものあいだ、ま東へ流れ、砂漠の北部にはけ口のない湖をつくっていたのちに、タリムの下流――すなわち、いまクム河とよぶタリム河の一部はその旧河床を去って、南東および南にあたる砂漠へ新しい河道を切り開き、砂漠の南部にいくつかの新しい湖をこしらえることにしたのである。同時に、古い河道と古い湖は干あがってしまい、楼蘭の町は住民に見捨てられて、完全に忘れ去られたのである。
マルコ・ポーロ、ベネディクト・ゴエス、ハレルシュタイン、ダロチャ、デスピナたちは、たとえこの新生の湖を見たとしても、だれ一人「さまよえる湖」が北から南へ移動したのであるとは、夢にも思わなかった。そして不思議なことには、蒲昌海の名で二千年前に知られていた湖が、過去においても「さまよえる湖」、あるいはヘルネルが「|変わる湖《オルターネーティング・レイク》」とよぶものと同じであったし、現在も同じであるということに、中国人は昔から現在にいたるまで気がつかなかったのである。あらゆる地図に――一八六三年の重要な大清一統輿図の武昌図にさえ、タリム河はま東に流れ、その東端にロプ湖があるように描いてある。また一九二八年の地図の製作者たちでさえ、古代地理書の観念から解放されることは、全然できなかった。
有名なパリの地図製作者ドゥリールが、一七○六年に作製した、すぐれた地図書のうちに「タルタリー地図」というものが一葉はいっている。それには、以前の地図にあった地名に、さらにいくつかの新しい地名がつけ加えられている。カシュガル、ウゲン、コンチェ、クチャ、ユルドゥス、そしてコンチェ河にあたるケンケル河などの名が載っているが、しかしロプ湖はない。そのときでもなお「さまよえる湖」は、その所在を匿《かく》しつづけた。ドゥリールは内奥アジア全体を「独立タルタリー」とよんでいた。そしてこの独立タルタリーが広大な砂漠からできていることを知っていた。彼はアクスとクチャとのあいだに、おそらくイマウス大山脈の続きと思われる非常に大きな山脈をおいている。プトレマイオスの地図では、このイマウスが、西部のイマウス山脈内のスキティアと東部のイマウス山脈外のスキティアとを分けている。
シュトラーレンベルクというカルル十二世の士官が、シベリアに捕虜になっていた時につくった、北部と中部アジアの注目すべき地図が、一七三○年にストックホルムで出版された。タリム河に関する彼の考えはドゥリールの考えと一致していたが、彼自身はカラ・シャールも知っていたし、カイドゥ河をも知っていた。彼によればカイドゥ河はタリム河に注いではいないのである。ところがロプ湖は依然として存在していなかった。
やはりカルル十二世の兵士であったグスターフ・レナートの地図は、この地域に関してさらにいっそう興味がある。彼もまた疏勒河《スーローホー》をロプ湖と同一水系にいれているという点を除けば、ロプ湖とその諸河川の記載は、本質的には正しい。彼はまがりくねったカイドゥ河をタリムに注ぐとし、それと同時にレープ・ラプに流入するとしている。ラプとは約五百年以前に、マルコ・ポーロがロプと言ったものの、発音の変化である。
レナートの地図が現われた同じ一七三三年に、中国のジェスイット宣教師の探検を基礎にして作製した、ダンヴィルの内奥アジア地図がパリで印刷された。同地域の水系とロプ湖に関する記載は、レナートのものより、はるかに不正確である。レナートはジュンガリア地方でその知識を得たのである。
その後、なお一四○年間、ロプ湖は、解けない謎《なぞ》のままになっていた。一八七○年、イギリス人ロバート・ショウが東トルキスタンの西部で行なった有名な旅行から帰国したとき、ヨーロッパ人たちは、この河川と湖についてむしろ混乱した概念を受けとることになった。ショウは、それらに関する信頼のできる知識を獲得することはできなかったのである。彼はつぎのように書いているだけである。
「砂漠の周辺には、イスラム教徒のドゥーラン人という半遊牧の略奪常習民が住んでいる。さらにそのさきには、東トルキスタンから出る合流河川が、そこで砂のなかに消え去るクールダムカークとよばれる地方があるが、この地方に近い砂漠の中央に形成されている沼や湖(その主なるものはロブ・ヌール)のあいだには、魚を食べて生活し、木の皮をまとっている未開種族がいるという、はっきりしないうわさがある。しかし私は彼らを見たことがあるという人に会ったことは一度もない」
ショウはまた別に、「野生ラクダ(?)と同様、カモシカが、大群をなして砂漠を東の方へ行く。そしてこの砂漠については不思議な迷信が伝えられている」ということを聞いた。ショウは野生ラクダのあとに疑問符を打っているが、おそらくその存在を疑っていたものとみえる。
一八七○年までは、博学なドイツの地理学者カルル・リッターほど、ロプ湖と野生ラクダに関して信用できる知識をもっていた者はなかった。彼はその『地理学』の第七巻〔二十七ページ〕にカシュガル、アクス、カラ・シャールなどについて書いている。すなわち、
「トルキスタンの大水系の河道とその相互の関係、およびロプ湖に終わる草原《ステップ》の川に関しては、その河岸を旅行した目撃者が記した、なにか特別な報告があるような話を、われわれは一つも聞いていない。それがあれば、一般に想像されている、その地方の諸河川の相互関係も、疑いない事実として立証されるはずなのだが」
ゴビ砂漠の広さについては、つぎのように書いている。
「もしそうした場所があるとすれば、この場所こそは野生状態の、あるいは野生状態に近いラクダとウマとが住んでいるところである。野生のラクダとウマとの話はたびたび聞いている。ボグド・オーラ山周囲の草原や高い山地には、二つの瘤《こぶ》がほとんど見られないという点を除いては、家畜のラクダとそっくりな野生ラクダがまだいると、この種のラクダを目撃した老ラマ僧が語った。若いうちに捕えたものは、たやすくなれる。そこでは、だれも年とったものなどは問題にしない」〔『地理学』第七巻三八一ページ〕
一八七五年ごろには、四十年前にリッターが知っていた以上のことは、野生ラクダについても、ロプ湖についても、なんにも知られていなかった。一八七五年に出版されたスティーラーの小型地図では、タリム河はま東に流れ、その東端にロプ湖があるように描かれている。このように、ロプ湖は中国のあらゆる地図と同様、砂漠の北方におかれている。ヨーロッパで作製された、そのほかのすべての地図と同じように、この地図でもロプ湖は南方のもっとも近い山脈から四百五十九キロメートルも離れた位置に描かれている。
しかしいまこそ、二千年間、ロプ湖上をおおっていた神秘の帳《とばり》を引き裂くときがきたのだ。一八三九年、スモレンスク付近に生まれたロシア人ニコライ・ミハイロヴィッチ・プルジェワルスキー大佐は、中央アジアの未知の地域で行なった第一回の探検によって、すでに有名になっていた。彼は一八七六年八月十二日と一八七七年七月三日のあいだに第二回の旅行をして、まだほとんど知られていない地方を四千二百四十七キロメートルにわたって踏破した。
プルジェワルスキーは、「クルジャから天山およびロプ湖をへてアルティン・ターグに達する」この旅行で、タリム河はま東に流れるのではなく、実際は南東と南に屈曲して砂漠の南部に達し、古代中国の地図に記されている地点よりも南へ一度の個所に、双湖であるカラ・ブランとカラ・コシュンを形成していることを発見したのであった。中国の地図にあるロプ湖と同一であると彼が考えた、その水のはけ目のない湖は、南方の山脈からわずかに六十一キロメートルしかないということをも知った。これによって内奥アジアの地図は、根本から改訂しないわけにはいかなくなった。
プルジェワルスキーは住民が使用している交通路からはずれなかったために、野生ラクダを見ることはできなかったが、運よく土地の猟師からその皮を手にいれたので、それまで疑問とされていた、この大きな野生動物が存在するという事実を確かめることができた。
この旅行におけるプルジェワルスキーの発見は、地理学界に異常なセンセイションをまき起こした。この旅行に関する第一回の電報が世界に伝わると、地理学者E・ベーム博士は『ペーターマンズ・ミツタイルンゲン』誌上に一文を寄せてつぎのように述べた。
「このように、ついにロプ湖をめぐる暗黒は、まさにとりはらわれようとしている。われわれは、まもなく本当にあるがままのロプ湖を地図上に見ることになるだろう。しかしながら、かつてだれがこの湖の南部に高い山脈があることを想像したであろう。ゴビ砂漠に関するわれわれの知識は、いままさに変革されようとしている」
大地理学者フォン・リヒトホーフェン教授は、この旅行を「近年なされた最も重要な業績の一つ」と考えた。またアウグスト・ペーターマン博士は、自分の『ミツタイルンゲン』誌上につぎのように書いた。
「プルジェワルスキーの旅行は最も興味ある、最も重要な、またきわめて賞讃さるべき地理学上の偉業である。……それは中央アジア探検においてきわめて重大な事実を明らかにし、近代の探検を、八百年前のマルコ・ポーロの旅行や、さらに古いいろいろな旅行に関連させるものである。地図上に引かれたこの一線こそは、なにものにも劣らない重要なものである。なぜかといえば、それは今日まで、ほとんど未知であった中央アジアを貫通するものであるから。……プルジェワルスキーのこの旅行によって、中央アジアの主要な輪郭は、みごとに決定的な形と、堅固な骨格を与えられた。このようにして地理学者の大きな渇望は満たされた。この点において、彼の旅行は、オーストラリア横断、北極あるいはティンブクトゥーヘの到達、ナイル水源地の発見、スタンレーのコンゴ下流の旅行などのような、著名な問題解決に匹敵するものである。……プルジェワルスキーのロプ湖旅行は、地理学界における典型的な偉業である」
プルジェワルスキー大佐が帰国した翌年、フォン・リヒトホーフェン男爵は、大佐のいわゆるロプ湖発見に対して、精密な批判的分析を加えた。プルジェワルスキーの発見したものは、史上のロブ湖《ノール》(塩沢)ではなくて、新しく形成された湖水であることを立証するのが、その目的であった。行きどまりの湖には、草原と砂漠を流れる川が、数世紀にわたってあらゆる種類の塩分を注入、堆積するため、かならず塩湖でなければならない。実際、それは中国では「塩沢」とよばれているではないか。いま非凡な観察力をもつヨーロッパの最初の目撃者が、タリム河の末端である集水湖は淡水湖であるといっているではないか。
フォン・リヒトホーフェンはいろいろな説明を試みた。「タリム河は、たびたびその河道と位置とを変えるので、古い集水湖をすてて、現在のものに注いだのである。もしそうなら、現在のこの湖水は比較的新しいものであろう」
プルジェワルスキーはタリムの多くの支流を旅行中、中国の古い地図にあるように、東流して砂漠の内部に、史上にある真のロプ湖をつくる支流を見落としたとするのが、もっとも妥当な解決である、とリヒトホーフェンは考えた。彼はつぎのように結論している。
「ロプ湖探検におけるプルジェワルスキーの仕事は、大いに高く評価しなければならないけれども、その困難が大きかったという事実のために、問題が完全に解決されたと考えるわけにはいかない」
プルジェワルスキーはこれに対して、つぎのように書いた。
「タリム河が最近、河道を変えて、南東にコースをとったというような大きな変化が、比較的近代に行なわれたということはない。反対に、それはたんに中国の地図にあるタリム下流とロプ湖の表示、およびその記述が、中国人自身がもっていたそれらの地域に関する誤った、不確かな知識のためだというのが、私の見解である。……
フォン・リヒトホーフェン男爵がいうような、他の一支流が存在して、タリムの水を東に送り、そこに真のロプ湖を形成しているという可能性に関していうならば、このような想像は、今日までの証拠のうちには、どんな証明もえられない、といわなければならない。こんな水路と湖水が存在するならば、土民たちはそれを知っていたはずだし、結局私にも語ったはずである。いま、このことは別にしても、われわれはタリムの河岸を進んで行きながら、われわれの道を横ぎるどのような細流をも発見できなかった、という事実をどう説明したらよいだろうか。万一、一つでも水路があったら、われわれの注意をのがれはしなかったであろうに。なんとなれば、水路を渡るにはつねに非常な困難を経験したのであるから。……最後に、たびたび湖辺に住んでいる土民たちが、この湖以外に、周囲の砂漠にはどんな湖も存在しないといった事実を、ここにくり返すのを私の義務と思う」
タリム河の水量が下流に行くにつれて減水するのは、プルジェワルスキーによれば、この川の大部分が灌漑《かんがい》と漁業に使われている、多くの運河に流れこむためである。またカラ・コシュンの水が淡水である理由は、タリムの流れが遠くロプ湖に流れこむのに反し、河岸に近接する比較的よどんだたまり水が、塩分を含んでいるからである。
おそらくカラ・コシュンが淡水湖であることは、さして不思議ではあるまい。私は同湖の北東部の岸に近い沼の水が、かすかに塩気のあることを認めた。おそらくヘルネルが想像したように、淡水湖の北東に塩分を含むはけ口のない水たまりがあるのではあるまいか。もしそうとすれば、カラ・コシュンは行きどまりの湖ではない。したがって、それは淡水湖である。中央アジアへの第四回探検〔一八八三〜八五年〕でも、またプルジェワルスキーはカラ・コシュンを訪れ、その湖岸に二か月滞在している。彼はつぎのように語っている。
「タリムの末端に別のロプ湖があるということに関して、……今度こそは、それについてロプ湖地方の人びとに詳細に質問したのであるが、彼らはことごとくこれを否定したということをいっておきたい。彼らは土地に伝わる伝説を遡《さかのぼ》れるだけ遡っても、この湖はつねにいまと同じ場所にあったのだといった」
以上が、大探検家プルジェワルスキーと大地理学者フォン・リヒトホーフェンとのあいだの論争のあらましである。こうしてロプ問題は、歴史や地理の立場から未解決な課題として残された。「さまよえる湖」について現在、知られている知識で考えるとき、この二人の論争者の聡明《そうめい》さを大いに賞讃しなければならない。そして二人とも、ある点では正しく、ある点では誤っていることを認めなければならない。プルジェワルスキーがロプ湖とよんでいるカラ・コシュンは新成の湖水であるが、歴史に名をとどめている湖水は、タリム河の延長として東方に見いだされるはずである、と理論的見地から主張したとき、リヒトホーフェンは正しかった。しかし一八七七年ごろに、一つの支流が砂漠の北部を流れて、中国人の古書にある古い湖へ注いでいる、と想像した点では誤っていた。
私が発見した湖が中国の古い地図にあるロプ湖、すなわち蒲昌海と同一であると主張したとき、それはプルジェワルスキーの説とはちがっていた。しかしプルジュワルスキーは、どの支流も東へ向かって流れてはいないという確信をもっていた点では、正しかった。彼はそのような湖の存在を、上述の支流の存在と同様、まったく否定した。そしてこれは正しかった。
プルジェワルスキーの発見は、スウェーデンでも多大の関心をよび起こした。一八八四年の春、カルル・ニストレーム博士は、地理学会でプルジェワルスキーの旅行に関する講演をした。当時、私はまだ大学にいたが、講演を説明するための大きな地図を描かせられた。これがプルジェワルスキーと彼の事業に対する私の最初の接触であった。同じ年の四月二十四日、ヴェガ日《デイ》に、当時中央アジアの奥地にいた、この偉大なロシア人はヴェガ星章を贈られた。そのころアジア・ヨーロッパ周遊旅行から帰ってきたノルデンスキョルトは、このように重要な大陸の奥地まではいって、探検に従事したこの人に対して賞讃の言葉を贈った。私はいつかプルジェワルスキー探検隊の一員に加わろうと夢みていた。一八八八年に彼の死を聞いたときには、いまでもおぼえているが、非常に深い悲しみに襲われた。一八九一年の正月、私はイシック・クールにある彼の墓を訪れた。そしてその年、私はノルデンスキョルトの序文をつけて、スウェーデン語で彼の旅行記を発表した。
プルジェワルスキーのあと、一八八五年にはイギリス人ケアリーとダルグレイシュが、一八八九年にはボンヴァロとオーリアンズ公アンリーが、その翌年にはピェフツォフ将軍が、一八九四年にはリットルデールが、プルジェワルスキーの足跡をたどり、タリム下流とその末端の湖を訪れたが、砂漠の内部にはいらなかったので、謎の解決にはなんの貢献をもできなかった。
またコズロフ中尉は、一八九三〜九四年の冬にロプ砂漠の北部を旅行して、東トルコ語でクルック河《ダリヤ》「かわいた川」とよばれる東流する、かわいた河床を発見した。コズロフは二か所でこの川に接触したが、その意義を理解できなかった。
ロプ湖問題の解決に貢献しようというのが、一八九三〜九七年の私のアジア旅行の目的の一つであった。一八九六年三月に、干あがったその古い河床が、コンチェ河から分かれているクルック河の上部を渡ったとき、私はそれを「コンチェ河の干あがった古い河床」と地図に書きこんだ。そのときには、私は二年前に、もっと東でコズロフが旧河床を発見していたという事実を、まだ知ってはいなかった。なぜなら、それについてはまだ何も発表されていなかったから。
それから私はリヒトホーフェンの想像したような支流が、本流から分かれて砂漠の中へ流れこんでいるかどうかを確かめたいと思って、タリム三角州の錯綜した河道の東岸を進んだ。しかし、そんなものはなにもなかった。だからこの点では、プルジェワルスキーは正しかったわけである。
そのかわり、私はタリム河の諸分流が通っている連湖を発見した。私はこれらの連湖を古代ロプ湖の形がくずれた最後の名ごりではないかと考えた。リヒトホーフェンもこれと同じ意見であった。しかし、その後、私は新たな発見をした結果、この考えをすてなければならなかった。四十余年前のその当時でさえ、私はロプ湖に「さまよえる湖」という名まえをつけていた。
一八九七年十月二十七日、セント・ペテルスブルクのロシア帝室地理学会での私の講演に対して、コズロフは小冊子を書いて私の理論に反対した。彼は、クルック河はたしかにコンチェ河の旧河床にちがいないが、この旧河床は東へまわり道をしてカラ・コシュンへ注いでいたのだと述べた。彼はなんとかしてプルジェワルスキーの名誉を弁護したかったのである。彼はつぎのようにいった。
「以上の分析から引きだすことのできる唯一の結論は、カラ・コシュンは私の忘れがたい恩師ニコライ・ミハイロヴィッチ・プルジェワルスキーのロプ湖であるだけではなく、また中国の地理学者が記している史上の古いロプ湖そのものである。このことは、過去数千年間にわたって事実であったし、未来もまた、つねに事実であろう」
この結論が早計であったことは、三年後に立証された。一九○○年に私は問題のこの地方に帰り、砂漠を通ってクルック河のかわいた河床について、行けるだけ行った。そしてこの河床が、だいたい幅約百メートル、深さ四メートルから五メートルあることを知った。これだけ大きければ、コンチェ河の水をも含めた全タリム河が、昔この河床を流れて行くことができたはずである。
私はアルトミッシュ・ブラクからロプ砂漠を越えてカラ・コシュンに行き、それから一九○○年三月二十八日には、砂漠の北部で楼蘭の廃墟を発見した。飲料水のたくわえがすくなかったので、十二時間以上いられなかった。この発見は重要だと思ったので、一九○一年の三月はじめ、まえに述べた北山山系を通る東方のまわり道を通って、ふたたび楼蘭に行き、そこに一週間滞在して、重要な結果をもたらした考古学上の発見をしたのである。
それから楼蘭の南方を踏査して、砂漠の北部に低地のあることを知った。楼蘭のキャンプとカラ・コシュンとの高度上の差異は、二メートル以下であった。このようにロプ砂漠は全体としてほとんど水平で、海のようであるといってもよかった。その低地は、湖中にたまっている、時代のちがう幾つかの沈殿層におおわれていた。この沈殿層は風にけずられて、まえに述べたヤルダンという奇妙な形のものになった。この古い湖床はまた、広範囲にわたってショールという塩を含んだ粘土であった。それは煉瓦のように堅くて、平たい石のような個所と畝《うね》のような場所になっていた。
クルック河の干あがった河床を地図にとり、楼蘭の近辺を調査し、それからアシが密生していて、それ以上行けなくなるまでタリム三角州の水路や湖水をあらまし航行し、古いロプ湖の低地の最も北東にある入江を越えた結果、私はみずからこの地方を知り、それを観察して、つぎのような理論を組み立てることができた。
実際に、海の表面のように平らな砂漠地方では、どんなかすかな水準線の変化でも感じとるほど、流水は敏感である、長期間の地殻運動によって起こる水準線の変化が、いま問題になっている千五百年という短い(地質学上からいって)期間に、いくらかでも気がつく程度に行なわれるということは、ありえない。砂漠の南部と北部とを定期的に移動する、いいかえれば、交互に南北の湖床を使用する、このはけ口のない湖の運動は、なにかほかの要因、たとえば地表のもっと急速な変化によるものでなければならない。
すなわち流水によってたえず有機、無機の固形物を運んだり、風の力で土地の表面を浸蝕《しんしょく》したり、またつねに地表の堅い物質を分解して、運び去るというようなことが、その原因である。
南方の湖、カラ・コシュンは私が測ったときには、平均深度○・六三メートルあったが、これはいま述べた理由から、空を飛んでくる砂や、ほこりや、分解した動植物の残骸《ざんがい》、たとえば枯れて砕けたアシだとか、軟体動物の甲羅《こうら》、魚の皮、鱗《うろこ》、骨、トリの卵の殻、いろいろな動物の排泄物《はいせつぶつ》などで埋められる。
こういうことが南の湖で行なわれているあいだに、北の乾燥した砂漠地帯はものすごい東北東の嵐に侵蝕されている。そしてロプ砂漠の水準線が沈下している一方では、カラ・コシュンの湖底はしだいしだいに隆起してくる。この直接の結果として、カラ・コシュンは徐々に沈泥で埋められ、そのうえたえずタリム河から新しい流入物が運びこまれるので、水はどうしても低い岸からあふれ出て、湖面を広げるようになる。南岸からアスティン・ターグの山麓までの土地がごくわずか隆起しつつあるときに、北岸では北方へ向かって地面が平らになり、カラ・コシュンの北に一時的の、消えたり、現われたりする小湖水がいくつもできる。
幾世紀ものあいだ、なにものにも妨げられることなく進行してきた南北交替の最後の結果として、最も深い低地が砂漠の北部にでき、川と湖とが以前の古い乾いた湖床に帰ってくるにちがいない。これに反し、タリムの南流する水はかれ果て、カラ・コシュンの盛んな蒸発を、流入する水によって埋め合わせることができなくなると、急速に干あがってしまう。
この学説は表面上、気まぐれに見える「さまよえる湖」のその後に起こった変移によって、考えついた「あとから出た知恵」ではない。この理論は一九○○年と一九○一年に、クルック河の乾いた川とカラ・コシュンの湖岸を調査旅行中に考え出されたものである。このことは、『中央アジアとチベット』のなかでも述べておいた。そのなかでとくにつぎのように述べてある。
「この二、三十年間に、すなわちプルジェワルスキーの旅行以来、カラ・コシュンは明らかに干あがっていく傾向を示してきた。アシは年々はびこり、沼沢はますます小さくなっていく。この湖は昔、中国の地図製作者が記しておいた以前の位置、そしてリヒトホーフェンが、かつてあったにちがいないと、みごとな推論によって証明した位置へ、数年のうちには帰って行くだろう、と私は確信している。……ところで、このような水準線の変化は、純粋に機械的な法則と、この地方の大気の条件によって、決定されるものである。したがってタリム水系の最後の水たまりとしてこの湖水は、以上の影響に対してきわめて敏感である。湖の水があふれ出して低地へ流れて行くのは、単純な物理的必然性の問題である。水が移動し、湖が涸渇《こかつ》するとともに、魚族と同じく動植物も、かならずこれについて行く。将来もまた、同じ現象がくり返されるだろう。法則の示すところによれば、この現象はまったく同じではあるが、その順序は反対になるであろう。しかしこの移動の周期を決定できるのは、もっと確実な多くの資料が集められたときのことである。われわれが現在確実に知っているのは、魏《ぎ》の元帝の晩年にあたる紀元二六五年にはロプ湖《ノール》は、まだ砂漠の北部にあったという事実だけである。実際、ロプ湖は、タリム河という振子《ふりこ》にかかる錘《おもり》ともいうべきものである。たとえ、その一振動が一千年をこえるとしても、地質学の時間で測れば、われわれの一秒と同じようなものである」
私の『一八九九〜一九○二年における中央アジア旅行の科学的成果』〔ストックホルム一九〇五年刊〕には「ロプ湖の移動」という一章があるが、私はこの章でロプ湖の移動問題を徹底的に論じた。その一部をつぎに引用しよう。
「ロプ砂漠の平坦地について、現在われわれがもっている知識にもとづいて見るなら、いつかタリム河はかならずクルック河に回帰するだろう、と論断しても大胆にすぎるということはない。……タリム下流とカラ・コシュン周囲の地方に多量の沖積土が沈積して、タリム河が北部の河床に回帰せざるをえなくなるのは、ただ時間の問題である」
同書には、タリム下流とその末端にある、はけ口のない湖とが、北のロプ低地と南のカラ・コシュン低地とのあいだを、どのようにして振れ動くかについての大略が示されている。
川も湖も、ともに元来の位置に回帰するだろうという、一見大胆にすぎる私の予言は、地理学者のあいだに、すこしも特別な注意をひき起こさなかった。地表の地質学的変化に関する予言の価値は、だいたい疑わしいものである。たとえ正しくとも、それが立証されるまでには、数千年あるいは数十万年もかかるだろう。そしてそのころには、予言者とその著書とは、とっくに忘れられてしまっているのだ。
私は「さまよえる湖」という言葉によって、最初に移動するものはロプ湖であり、川は現在の位置にとにかく、後まで残っているという、誤った印象を読者に与えたくない。事実、川と湖との移動には、複雑な並行関係がある。もしもタリム下流がチャラとヤンギ・コールの上流にあたるカラウル地方あたりで旧河床を捨てなかったとしたら、そしてまた分流ウゲン河《ダリヤ》とインチケ河《ダリヤ》を合わせて東に流れ、チョン・コール付近でコンチェ河にはいり、さらにトメンプーでクム河の旧河床に流れこまなかったとしたら、プルジェワルスキーの発見したカラ・コシュンは、北に移動して、われわれが楼蘭付近で発見したロプ湖を形成するようなことは、きっとなかったであろう。それだから厳密にいえば、この一連の現象で主要な役割を演ずるものは、河流の移動である。とはいうものの、移動の原因はつねに同一である。すなわち風に浸蝕《しんしょく》され、固形物に埋められるからである。
私の知っているかぎりでは、ただ|一人の《ヽヽヽ》探検家、考古学者サー・オーレル・スタインが、あらゆる重要な点について私の学説を批判した。私はここでくわしく彼の説を論ずることはできない、とくに、その後の事件が彼の議論の意義を奪ってしまったことがわかった現在では。彼はそのすぐれた著作『内奥アジア』の第二巻、七百六十一ページでつぎのように書いている。
「この地方についての検討は、ヘディン博士が一九○○〜一九○一年の踏査後、いわゆる『ロプ湖問題』として提出した学説のために、私にはいっそう重要に思われる。この学説によれば、クルック河《ダリヤ》は支流としてのコンチェ河の水をも合わせて、タリム全流域の水を、ヘディン博士が楼蘭の南にあるという『旧ロプ湖』へ運んでいたのであるが、比較的近代になって、それは現在の河道に変わったのであるという。この学説は、楼蘭遺跡の南と東にかなり広い地域にわたってたどることができる、クルック河のきわめて明らかな三角州について、私の踏査が示したものと一致しないし、それにもっと重大に思われることは、重要な中国の記録に見えるこの地方の水理学に関する確実な初期の資料とも一致していないのである。この記録は、彼の学説が構成されたときには、まだ彼の手にはいっていなかった。私がいっているのは、魏略に見える西域に関する注釈のうちにシャヴァンヌが|※[#麗+おおざと]道元《りどうげん》の水経注から抽出、訳述している記事のことである」
|※[#麗+おおざと]道元《りどうげん》の注からみごとに翻訳《ほんやく》したシャヴァンヌの記事と、スタインの鋭い分析とは、その後、数年にしてもっとも強力な反対を受けた。この反対はあらゆる未解決な問題に対する解答であり、それ自身なんの注釈をも必要としない性質のものであった。それはなんであるか。タリム下流とロプ湖に、鼓動しはじめた新たな生命である。自然はみずからその秘密をあらわし、開かれた書物のように、われわれの眼前に示してくれたのである。これは[#麗+おおざと]道元の記述をしりぞけ、どんな誤解をも、またどんな誤った解釈をも、許さない性質のものであった。
十八 新たな生命
一九二八年二月二十日、探検隊はなつかしいトゥルファンのホジャ・アブドゥルの家に滞在していた。ここでいつものように、私はもの知りの商人ドクタ・アホンに交易や交易道路のことや、そのほかこの地方の事情についてくわしく質問した。
ドクタ・アホンはいろいろ話してくれたが、とりわけ毎年ティケンリックへヒツジを買いに行き、それをトゥルファンの市場《バザール》で売る話をくわしく語った。どの道を通って行ったか、どこどこへ泊まったかという問いに対して、彼はキャンプの名前を教え営盤《インパン》では渡船場を使ったといった。そこでは、「川が深すぎて渡渉できないから旅人と品物を舟で渡している」のだという。
いったいなにが起こったのだと、私はドクタ・アホンにきいた。なぜかというと、このまえ一九○○年に営盤にいたときには、旧河床は乾ききっていたのだから。「七年まえ、一九二一年にコンチェ河《ダリヤ》は古い河道をすてて、クルック河《ダリヤ》のかわいた河床に流れこみました。で、川は営盤の廃墟《はいきょ》のかなり近くを流れています。渡船場はこの廃墟の南につくられたのです」と彼は答えた。しかし、川がどこまで流れているかについては知らなかった。それを知っているのは、ラクダ打ちのアブドゥ・レヒムだけであると、ドクタ・アホンはいった。
以上の話を聞いて、私は雷に打たれたように感じた。それはただ二十四年前、発表した自分の学説が正しかったということを示したばかりではなく、ロプ湖《ノール》と下タリム下流が、まもなく旧湖床と旧河床に回帰するだろうという私の予言が、あたっていることを告げるものであった。
この日ほど徹底的に、土民の知っていることを聞き出したことはいままでになかった。私はとっさに、この一九二八年の二月二十日という日こそは、かならず中央アジア探検史上に特筆すべき日になるだろうと感じた。これによって「さまよえる湖」の|なぞ《ヽヽ》は解かれたのである。ここにフォン・リヒトホーフェン、プルジェワルスキー、コズロフと私自身の論争に対する回答がある。ここにまた、ハンティントンとスタインの発見や、その記述に対する説明がある。
私は一八九六年以来、ロプ湖に関する地理学上の問題に全力をあげていた。昔の絹の道は、ロプ湖の北岸とクルック河の河岸を通っていたのである。楼蘭はこの地方の中心地であった。紀元三三○年ごろ、川と湖が南方に移って以来、絹の道はすたれ、楼蘭は捨て去られ、忘却にまかせられた。しかしいま、ふたたび水が戻ってきて、将来は重要な意味をもつようになるだろうという新しい予想が眼前に開けた。この地方は、十六世紀間、乾燥と死の沈黙と忘却とにおおわれていたのであるが、いまや突然よみがえってきたのである。だからわれわれ探検隊に残されている問題は、われわれの知っているいろいろな事実をつなぎ合わせることだけであった。背後には、ロプ湖が中国人に知られてきた二千年の歳月が横たわり、前途には自動車道路、鉄道など交通の大動脈がアジアの奥地に建設され、千六百年間サソリやトカゲさえ住まなかったほど不毛な砂漠に、新しい林や町や都市が発達するにちがいない。これまではクルック・ターグ山中の塩泉から、ときどきただ野生のラクダが、この砂漠へさまよい出てきていただけであるが、水がもどり、人が近づきつつある今となってみれば、これからさまよえる砂漠の舟は、昔ながらの隠れ場が人間に強奪されるのを、ただ驚いて眺めるよりほかはないであろう。
二十八年前に、クルック河の河床を旅行した当時の行進のつらかったこと、疲労のひどかったこと。私はいまでも思い出すのだ。両岸に枯死した樹木のある、広くて深い、しかもかわき切っている河床が、えんえんとして続いている荒涼たる光景を。墓場の墓標石のように、割れ裂けた灰色の樹木が、千六百年間も枯死したまま立っていた。しかも、それは粘土ででも、できているかのように、もろかった。河床には一つの生物も一滴の水もなかった。しかし、昔に遡《さかのぼ》れば、かつてはここに大きな川が流れ、葉の茂ったポプラのこずえに、砂漠の風がささやいていたことがあるのだ。そこには派手《はで》な装飾のある寺と舎利塔《しゃりとう》のある町があったし、また北方の遊牧民の侵入を防ぐために、強力な守備隊がおかれていた。西方からくる商人たち、中国、インドからくる商人たちが隊商宿や市場《バザール》にあふれていた。ローマ帝国の遊び女たちが着ていた美しく高価な中国の絹は、行李《こうり》や袋にいれられ、ラクダやウシ車に積みこまれて、運ばれていたのである。
たしか一九○○年には、まだ一滴の水もなかった。一九二一年には川は旧河床にもどり、一九二八年には私の予想があたったという最初の知らせを受けた。私自身が、このことを知った世界で最初の人間であったということは、神の恩寵《おんちょう》であったといいたい。それはあまりに奇異で、ありそうにも思えないことであったから、あるいは空想かと思われたかもしれない。
それからまもなくわれわれは、トゥルファンから新疆省の首府ウルムチへ行った。そして老省長、楊増新の歓待を受けた。
ところで、ドクタ・アホンの話を聞いただけでは、安心はできなかった。東洋人は豊かな空想力をもっていて、真実はきわめて伸縮自在にされている。自分の目と器械で、ドクタの話が正確かどうか、たしかめなければならなかった。私は楊将軍から、地質学者エリック・ノリン博士をすぐにこの復活した川に派遣する許可をえた。
ノリンは一九二八年四月十一日、クルック・ターグ山中のシンガーという部落から出発し、まもなく南方十キロメートルのところで、この新しい川の水が日光に輝いているのを見た。河床が乾いているあいだは、クルック河を「かわいた川」とよんでいたが、いまでは東トルコ人たちは、クム河《ダリヤ》「砂の川」といっている。この名は、トメンプーからロプ湖にいたるまでのあらゆる場所で使われている。
ノリンは淡黄色の砂漠を青いリボンのように屈曲しながら流れているクム河を見た、最初のヨーロッパ人である。彼は流れについて百二十五キロメートル東へ進み、楼蘭の北北東二十キロメートルの地点まで、河岸からできるかぎり詳細に河道を地図に書きこんだ。彼はこの大きな川は二十八年前、私が地図に描いた河床とほば同じところを流れているということを知った。上流では、川幅百メートルから百五十メートル、深さもまたかなりあって、水速は毎秒一メートルあった。楼蘭の北で、ノリンは川が三角州によって分かれていることを知った。そのため楼蘭の廃墟《はいきょ》までは行けなかった。
当時でさえ、たけの高いうっそうたるアシが両岸に茂っていた。新しいタマリスクが根づき、その種が流れに運ばれて、私の青年時代にはまだ月の表面のように生物もなく、荒涼としていた砂漠の内部へと、しだいしだいに侵入していった。いまではカモシカがいる、野ウサギが住む。アシのあいだにイノシシもすみついた。青い湖の上には、カモやアヒルが群れをなしている。コウノトリやアオサギが沼沢で、えさをあさっている。
若い天文学者ニルス・アムボルトとともに、ノリンは一九三○年の二月と三月のうちにクム河の踏査をおえ、東経九○度、すなわち楼蘭の北北東四十キロの地点まで、この川を下って行った。ノリンとアムボルトの共同でつくられたクルック・ターグ山脈とその南部地方の地図は、このような砂漠地帯の地図作製においては、ほかにほとんどみられないような正確さをもっていた。
一九二八年の秋、私はがんこで頭の古い新疆省の新省長金樹仁にクム河行きの許可を求めたが、失敗した。私は川が凍結する冬を利用して、新生のロプ湖まで行きたかったのである。この湖は、昔の中国の地理学者の著書と地図に記載されている史上の蒲昌海と同じ湖床にあるはずだ。ところでノリンとアムボルトとは、時期が遅れたために舟がなく、目的地まで行けなかった。それに二人の専門がちがうので都合が悪かった。ノリンはもともと地質学者であったし、アムボルトは測地学と天文学を専門としていた。そこで、ロプ湖調査は私の仕事にすべきだという、彼らの意見に私は賛成した。しかしこの計画は、省長の不許可のために放棄しなければならなかった。
そこで、一九二八年十二月に徐炳昶《シュウピンチャン》とフンメルと私は、南京に行って省長のがんこさについて政府に訴えた。|※[#くさかんむり+将]介石《しょうかいせき》は支持を約束してくれた。しかし、そのときは他の事情があったので、私は新しい仕事にとりかかっていた。それでロプ湖行きは時期のくるのを待たなければならなかった。
この問題の主要点に関する解決は、すでについていた。ロプ湖そのものだけが、まだ調査されていなかったのである。探検隊の五人の隊員は、タリム下流の三角州を、すでに一九二八年に旅見していた。この地はさきにプルジェワルスキーが第一歩をしるし、この私もその後二十年たってからラクダとボートによって行ったところである。五人の隊員中、考古学者フォルケ・ベルクマンと気象学者ワルデマール・ハウデ博士とは、旅行と観測の報告を送ってよこした。彼らはタリムとコンチェの下流地方は、ほとんど干あがってしまっていることを発見した。ただ増水期だけ、ようやく少量の水が河床に流れつくのみであった。ベルクマンの観測によれば、一九二四年以来一滴の水もアルガンにはとどかなかったということである。わずかに、よどんだ水たまりがいまでもタリム河の、すてられた河床に見られるだけである。
こうして、タリム河もその支流のコンチェ河も、すでに一九二八年ごろには河道を変えていて現在クム河とよばれているクルック河に流れこんでいたということは明らかである。この事実によって、ただコンチェ河だけではなく、東トルキスタン水系の主流タリム河もまた、一九二一年以来クルック河の旧河床に流れこんだという、私の学説の正しさは証明されたのである。一九○○年三月十二日の営盤《インバン》訪問のさいに、私は昔タリムが、この河床を流れていたのだということに気がついた。当時でも、まだ最も深い部分には塩があった。そのときの旅行記〔『中央アジアとチベット』第一巻〕で私はつぎのように書いた。
「われわれがいるのは、昔の河床《タリム》であることは、住民たちにもわかっていた。しかし、水はあまり東の方まで伸びてはいない。この河床は、それと同じように乾ききった旧ロプ湖の低地に消えてしまう地帯まで、完全に乾燥している」
一九二八年の夏、私の『ふたたびアジアへ』の出版準備ができあがったとき、ロプ湖とタリム下流の最近の移動の発見に対するスウェーデンの優先権を確立するために、私は同書中にこの問題に関して二ぺージを挿入し、一九二一年以来起こった事実を、知っているかぎり叙述することができた。同書は一九二八年十月、ストックホルムで出版された。ドイツ版は一九三○年の春に出版された。イギリス版とアメリカ版は一九三一年である。ニルス・ヘルネル博士たちの新しいロプ湖のスケッチ地図を挿入することができた。
このような革命的な、異常な地表の変化が、ひとたび世に知られたら、たちまちこの地に、旅行者たちが魅《ひ》きつけられることは当然である。この発見の優先権を主張する証拠を用意するためにとった、私の処置が正しかったことは、まもなく明らかになった。一九二八年の六月と七月、私がストックホルムにいたとき、イギリスのションバーグ大佐は、ウルムチとボグド・オーラヘ行って、数人の私の探検隊員に会った。まえにションバーグは数年間、インド政庁のために東トルキスタンの詳しい踏査を行なった。『東タリム河流域における河川の変化』という標題で、一九二九年七〜十二月の『地理学雑誌』第七十四巻、七十三〜七十六ぺージに彼の手記が載っている。
「私はウルムチで西北科学考査団〔ヘディン探検隊の中国名〕の隊員から、タリム流域の河川に変化があったという話を聞いた。アブドゥラ・レヒムはこの報告を確認し、さらにくわしく調査した。もともと私の目的は、この川に終わりまでついて行くことであったが、季節が早すぎて実行できなかった。全体的に河川と、湿地と、当時の事情とが、この企てを不可能にした。私は湿地が凍結し、水がすくなくなるときまで旅行を延期した。
ヤンギ河、すなわちクム河の終わりは、楼蘭地方の西と西北で、大きな湿地になっているということである。そのため、いまでは楼蘭の遺跡へは東と南、すなわちロプ湖のほうからしか行けないとのことである」
この書のはじめの部分で述べたように、この新しい川を終わりまで調査する最上の方法は、ボートを使用することであるということを、ションバーグは思いつかなかった。新湖の位置に関して彼が受けた報告は、事実とまったく反対のものであった。というのは、「さまよえる湖」は楼蘭の東と南東にあったからである。一九三四年にわれわれが行ったころには、ロプ湖の位置を知っているものは、地方の住民にはおそらく一人もいなかったであろう。
ションバーク大佐が企てたクム河とロプ湖への冬の旅は、実行されたようには思えない。なぜなら『中央アジアの山と平原』という彼の著書には、このような旅行についてはなにも記述されていないからである。同書で述べていることは、最初の手記以上あまり出ていない。すなわち、つぎのように記載されている。
「幸いにもウルムチで会ったスウェン・ヘディン博士の探検隊員から、タリム流域の河川に変化が起こり、かわいた、長い水路にふたたび水が流れているということを聞いた。計画が失敗したのは、残念だったが、見聞した収穫が多かったことを思って、ひとり慰めた」
さらに彼は述べている。〔一二九ページ〕
「われわれは最近、興味深い地理学上の変化が起こった地方へ、まさに到達しようとしていた。幾世紀もの昔、クルック・ターグの山すそを通り、楼蘭をすぎて一つの川がロプ湖へと流れていた。その後、河道が変わり、古い水路の周辺地方は不毛の地になり、人間に見すてられてしまった。それなのに、いまふたたび、この空虚な川に水が戻ってきた。天山南路のほとんどあらゆる河川の水を集めていたタリム河は、元の河床へ水が戻ったために、ほとんど干あがってしまった。これはきわめておもしろい現象である。かならず地方の事情に影響して、牧地を不毛にし、畑地を荒廃させ、村落を放棄させるであろう。事実、千年の昔、楼蘭に起こったことが、タリム河のこちら側にも起きるであろう」
楼蘭の変化は、千六百年前、すなわち紀元三三○年ごろに実際に起こった現象である。七月三十日付けのいくつかの中国の英字新聞に、サー・オーレル・スタインがまさにやろうとしていたロプ地方への新探検についての詳細な記事が掲載された。これらの記事には楼蘭地方の略図が載っていて、その下に「サー・オーレル・スタインによって探検される地方の地図」と書いてあった。それは、楼蘭地方の三角州に終わるクム河の地図であったが、その末端にははけ口のない湖が記されてはいなかった。そのかわりロプ湖はプルジェワルスキーの時代のように、アブダルの北東に描かれていた。スタインはその著書『中央アジアの古代道路について』〔一九三三年刊〕のなかで、一九一五年にクルック河床の深い場所で浅い井戸を掘ったところ、塩気のある水を得ることができた、といった。そして続けてつぎのように書いている。
「このため私はタリム流域の第四旅行〔一九三〇〜三一年〕において、最近の水理学上の大変化がタリムの河道に影響をあたえ、夏期増水の大部分が、以前よりはるかに北でコンチェ河と合し、こうして合流したこの両河の水が、もう一度クルック河にはいり、昔の楼蘭地方へと方向を転じた、ということを知っても、それほど驚きはしなかった。ところで、ロプ低地に影響をあたえている、最近の変化を研究しようとする待望の機会は、残念にも中国の妨害のために、拒まれてしまった」
右に引用したションバーグとスタインの記事からみても、ロプ湖とタリム下流の新たな生命に注目しているものは、われわれだけではなかったということがわかる。エリック・ノリンはスタインの旅行よりも二年半ぐらいまえに、タリムを楼蘭付近の三角州まで明らかにし、ベルクマンとハウデとは、その水がタリムの旧河床を見すてた事実を確かめていた。ただ一つ残されている仕事は、タリムの水が蒸発して消えうせてしまう、最後の水たまり場がどこにあるかを発見することであった。
すでに述べたように、われわれの探検隊はスウェーデンと中国との共同事業で、そのうえ隊員の中には徐炳昶《シュピンチャン》、衰復礼《ユアンフーリ》のような著名な学者が参加していてさえ、省長金樹仁からロプ砂漠行きの許可を得ることは、全然不可能だということがわかっていた。言葉をかえていえば、われわれにとっては、ロプ湖へ達する新疆省内のあらゆる通路が閉ざされていたのである。そこで私は、|※[#くさかんむり+将]介石《しょうかいせき》の命令さえ無視した、このわからずやの金が、妨害できないような手段をとろうと考えた。この手段というのは、新疆省当局をまったく考慮しないで実行するということであった。
実行は急ぐ必要がある。ションバーグは機会をみて、いつか予定のロプ湖旅行を決行するにちがいない。それに新聞は、スタインが同湖への途上にあることを報じている。私は、ロプ湖問題について、自分がいままでやってきた仕事と、一身をそれにささげてきた研究の成果を、他人に摘《つ》みとられるのを、だまって見ていることはできなかった。
二組の私の探検隊員が、一九三○年にエツィン・ゴールで仕事をしていた。すなわちフォルゲーベルクマンらは考古学、ニルス・ヘルネルらは地質学と測地学。ゲスタ・モンテルとゲオルク・ゼーデルボムと私は北京にいた。私はこの二人をフォード自動車で百霊廟経由で、エツィン・ゴールまで派遣した。彼らの使命はいろいろあったが、私にとってもっとも切実だったのは、ヘルネルらにつぎのような趣旨の手紙を渡すことであった。
強力な輸送隊を編成すること。敦煌を経由し、北山南方の砂漠を通過してロプ低地へ行くこと。一九一三年以来、形成されてきたロプ湖を発見するまで帰らないこと。ロプ湖の地図を作製し、クム河三角州を踏査すること。
ヘルネルらは、あらゆる点でみごとにこの仕事を遂行した。
ロプ湖探検をこれまで書いてきたが、一九二八年から三四年にかけての、われわれのロプ湖地方の調査が、「さまよえる湖」の歴史の最後の章だと考えてはならない。現在、可能な範囲では、たしかにわれわれはロプ湖問題を解決したのであるが、この休みなく移動する湖は、過去数世紀のあいだ、砂漠の南方にあった時代にくらべて、いっそう永続的に砂漠の北方の湖床に定着しているわけではない。一九二一年以来、発生した変化が、一九○一年に提出した私の説の正しさを証明してからは、いま始まったばかりのこの新しい期間が終わって、振り子が振れもどるときには、タリムの下流とロプ湖は、現在の場所を去って南方に帰り、砂漠のもっと低い部分――おそらくはプルジェワルスキーの時と同じあたりか、あるいは現在かわいているどこかほかの場所へ向かってさまよい帰るだろうというのは、疑いのないこととも思われる。
この説の基礎となっている二つの要因は、流水中にある固形物の沈殿と、風による乾燥した粘土性砂漠の浸食《しんしょく》とである。この過程が行なわれる事実は、『|変わる湖《オルターネーティング・レーク》』という論文の中でヘルネルが確証した。彼はつぎのようにいっている。「全体として、河川の変化と湖の移動は、沈殿と風蝕の作用によるものと思われる」と。そして、これらの自然力が将来の幾世紀、幾千年のあいだ、過去におけると同じ過程、すなわち中国の史書や、自然自身の偉大な書物によって跡づけることができる現象と、同じ過程で働くであろうということは明らかである。
いま始まったばかりのこの期間が、どのくらい続くかは、予測しないほうが賢明である。もとの場所を放棄した紀元三三○年ごろまでに、河と湖は何世紀くらい楼蘭付近にあったのか、われわれにはわかっていない。これからもまた、千六百年もながいあいだ続くだろうか。あるいは、十八世紀の初めにたびたび起こったように、中間の段階があるのだろうか。これらの疑問に対しては、ただ未来が答えを提供できるだけだと、いいたい。
おそらくは、川も湖も非常にながいあいだ、現在の場所にとどまるだろうから、振り子のつぎの振れを証明することは、遠い未来に残されるであろう。しかしこの地方の人たちは、いつかきっと水をせきとめて、もとの河床に押し戻すことに成功するにちがいない。
ロプ湖周辺に定期的に起こる変化は、動植物と人間に破滅をもたらす。ふいに川が減水しはじめ、まもなく干あがるようなばあいには、人間にとっては危険はそれほど大きくない。水量が減ると人間は警戒し、適当な時期にどこかへ移住することができる。それから樹林、下生え、岸に住んでいる高等動物と羽のあるこん虫は、水のきている方へ移っていくことができる。しかし魚類や軟体動物や水棲《すいせい》昆虫はすべて、すみやかに絶滅する運命にある。植物は、根が地下水にとどいているあいだは、破滅と戦うことができる。とはいえ彼らもそうながくは生きられない。私はこの事実を、クム河を下る旅の途中で目撃した。日ごと、乾燥した樹木とか、叢林とか古墳《こふん》の上の白や灰色の記念標を見てすぎた。このまえ、楼蘭付近やロプ砂漠を旅行したときにも、この事実をみた。雲のような砂塵を運ぶ無数の嵐が吹きすさんでも、千六百年後の現在でも、なおまっすぐに立っているポプラの幹を見て、私はなんとも驚いた。ただ幹だけが、もちこたえてきたのである。枝や梢《こずえ》はとっくの昔になくなってしまっていた。材質はひからびて枯れ、色は淡灰色でもろかった。そしてすばらしくよく燃え、水にいれると沈んだ。水に沈むという性質は、偶然の機会に気がついたのだが、おそらく皮が落ちて割れたところへ、風に吹きよせられた砂や細かい土がはいったためだと思われる。そのために、もちがよくなり、かたくなって、風に抵抗する力を増したものにちがいない。
以上のことはすべて、紀元三三○年ごろ、クム河とロプ湖周辺に起こったことである。一九○○年三月二十八日に、楼蘭の古代都市を訪れたとき、私はあらゆるものに死の刻印が押されている光景にとりかこまれた。ときおり、三角州の分流を通って水がいくのか、砂漠のもっと南方にある二、三の低地にだけ、いまだに生命の火をとどめているタマリスクが数本生えていた。
砂漠で水がなかったら、生物の存在は不可能である。水が帰ってくれば、生物もそれについて帰ってくる。最初に住みつくのは水棲動物である。つぎにアシやそのほかの植物の種子が運ばれてくる。それらは、すぐ岸に足がかりを見つけて、根づいてしまう。驚くべきことに、流れを下るに従って、生きたタマリスクの数がふえる。それは初めの方の章で述べた水路のような分流では、とくに多い。これらの古い水路に近接した土地では、地下水が地面にいっそう近いのではあるまいか。そのために、タマリスクが長いこと生きていられるのではあるまいか。そして最後にくるものは、ポプラである。
おごそかな、同時にお祭りのように陽気な気持で、私は一九三四年の四月と五月に、この水に運ばれて、昔この川が征服していた王国を、東へ東へと進んで行った。私は自分の勝利の一つを祝う、自然の祭典に招かれた一人の客であるかのような感じをいだいた。アシの葉にささやく風の音、岬《みさき》のはなにつぶやく水の音に凱旋《がいせん》行進曲の響きを聞いた。わずか数年前までは、死が支配していたあの寂寞《せきばく》とした砂漠には、いろいろな形をした生物が、またもどりつつあった。タマリスクの生命は新たによびさまされ、小さな茂みとなって生えいで、広い黄色なアシ叢《むら》には、春の初めの緑の茎と葉が萌《も》え始めている。イノシシは、すでに三角州を広い範囲にわたって、自分たちの住地にしていた。そしてまた淡水であるロプ湖の北部には、魚が驚くほど繁殖している。一年一年、アシ叢はひろがり、繁茂し、動物はふえていくであろう。もしも、川が相当長く河道を変えないでいれば、コンチェ河岸の樹林はクム河の三角州までつながってしまうだろう。われわれの時代には、プルジェワルスキーの古い水路と、彼が発見したカラ・コシュンでは、自然は凱旋行進曲を奏することはないであろう。そこには砂漠の沈黙が支配している。動物たちは水が減っていくのに気がついた。しかし何世紀ものあいだ受けついできた経験で、彼らの本能は、いつものように春か秋かには増水して、新しい、さわやかな水をもたらしてきてくれるだろうと感じたのであった。ところが、その時期になっても新しい水はこなかったので、最後の水たまりは蒸発してしまい、魚と軟体動物は湖底の泥にとらえられて、窒息してしまった。
アシは枯れてゆき、株しか残らない。樹林は、地下水から生命の源泉をえられるあいだは生き残ることができる。しかし現在の水系がこのままでいるかぎりは、結局は干あがって、枯死する運命をのがれられない。将来になっても、南の方のもっとも遠いところに生えている木を見れば、現在と同じように、このまえの振り子の振れのあいだに、どのくらい遠くまで樹林がひろがっていたかということが、わかるであろう。それはカラ・コシュンまでは、とどいていなかった。この湖の岸はいつも樹木がなく、広々としていた。この事実は、かつてプルジェワルスキーの友人であった八十を越えた老村長クンチェカン・ベックがアブダルの漁村で、一八九六年に私に教えてくれた話が正しかったことを証明している。彼の話によれば、その父ヌメット・ベックは若いとき、カラ・コシュンの北にあった大きい湖のあたりに住んでいたが、このカラ・コシュンは一七二○年から三○年ごろまでには、まだできてはいなかった、ということである。このようにプルジェワルスキーの湖は、明らかに中間の段階を通って、砂漠の最南端の低地に二百年ほど以前にできたものである。
一九○一年に、タリム河がカラ・コシュンに落ちこむ、すぐ上手にあるアシぶき小屋の小部落で会った漁民たちは、一九二一年まではそこにいたが、川の水が減少し、湖が乾きはじめると移住してしまった。大部分はチャルクリックへ行って農夫になったが、その他は上流へ行った。いまでは、この地方全体がプルジェワルスキーのときとは、まったくちがった様相を示している。こんな急激な変化は、この地上では珍しい現象だといってもよい。
クム河風景の変化を観察することは、将来の地理学者にとって興味ある研究となるであろう。私は舟旅の途上、わずか数人のヒツジ飼いが、この川の上流に放牧しているのを見ただけである。彼らのほかには、この新しい川のほとりには、一人の人間もいなかった。しかし夏にはわれわれのキャンプの付近や、さらにもっと下流の方までヒツジの大群をつれたヒツジ飼いがやってきた。クム河の南にも、やはりサットマ〔ヒツジ飼いの小屋〕がある。水のあるところには、必ず生命があり、水は人間を誘いよせる。コンチェ河畔には昔から耕地があった。畑は川から引いた運河で灌漑されている。しかし、クム河畔にはヤルダンという妨害物があるために、人工的な灌漑は非常に困難な問題になる。たとえ可能にしても、多くの労力が必要とされるだろう。タリムの最下流に住んでいたロプリック人と同じような温和な型の漁民が、クム河へもやってきて、生活の手段を見つけるであろう。それからまたウシやヒツジを飼うのに適当な広い牧地もある。
もし一九三四年にわれわれが計画した自動車道路が実現されるなら、水に恵まれているので、この地方は、将来は、重要な地域になるだろう。そのときには、おそらく古都楼蘭さえも死から甦《よみがえ》るであろう。たとえ場所は変わり、姿は異なっても。(完)
解説
スウェン・ヘディン Sven Anders Hedin は一八六五年、スウェーデンのストックホルムに生まれた。かれの少年時代、すなわち十九世紀の後半は、一種の探検時代といってもよかった。少年ヘディンは、とくに北極探検のニルス・ノルデンシェルドやアフリカ冒険のヘンリー・スタンレーなどに非常な感銘を受けて、探検家として一生の方向を決めたのは、十二歳の時であったと自ら言っている。しかし探検家としてのヘディンが育ったのは、恩師フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンのもとで学んだ結果であるといってよい。フォン・リヒトホーフェンは当時、第一流の地理学者であり、アジアの研究者として世界的な名声を博していた。ヘディンがその一生を中央アジアの探検にささげることになったのも、この恩師の指導によるものであった。
ヘディンの探検旅行は、一八九○〜九一年のペルシアと中央アジアの旅行に始まった。この時には、ペルシアから西トルキスタンのメルヴ、ブハラ、サマルカンド、タシュケントなどを経て、東トルキスタンに入り、その西端のカシュガルに達した。一八九三年には第二回の探検を試み、この時にはパミール高原、タリム盆地、北チベット、新疆省北東部〔ジュンガリア〕を踏査した。この書の主題になっている「さまよえる湖」ロプ・ノール地方に最初に足を踏みいれたのも、この時のことである。それから以後四十余年にわたるヘディンとロプ湖との因縁はこの時に結ばれることになった。かれはこの旅行において一生の課題になった「ロプ湖問題」に深くつながれたとともに、もう一つ世界最高、最大のヒマラヤ山系の魅惑にとりつかれることになった。ヘディンの数多い地理学者としての業績のうちでも、もっとも輝かしいのはロプ湖問題の解決とチベットのトランス・ヒマラヤ山脈の発見だといってよいであろう。
ヘディンはさらに徹底的なタリム盆地とチベットの調査を計画し、十九世紀最終の年、一八九九年にはふたたび東トルキスタンにはいった。そして翌年にはロプ砂漠中に楼蘭の遺跡を発見した。その後チベットに潜入し、それまで地図上ブランクになっていた地方を測量し、とくにその中央部において多くの高山湖を調査した。ついでチベットの首都ラサに潜入を試みたが官憲に阻止されて、やむなく西方に途を転じ、ついに一九○二年の春、インドのレエに達してこの探検を終わった。
ヘディンの一生をかけた探検のうちでも最も重要な発見のいくつかは、その次の一九○四〜九年にわたる調査旅行中になされた。この探検において、かれは、インダス、ブラマプトラ二大河の河源を確定したのみではなく、ヒマラヤ山脈とコンロン山脈のあいだに横たわるトランス・ヒマラヤ山脈を発見した。この大山脈の発見によって、インド洋と中央アジアに注ぐ南北の水流の分水嶺を確かめることができたのである。
ヘディンの最初の調査旅行は一八九○年に始まったのであるから、一九○九年に第三回目のチベット探検を終えた時には、すでに前後十八年の歳月を中央アジアの探検とその結果の整理、発表にささげていたわけである。しかしそのうちにヨーロッパの情勢はしだいに険悪化し、ついに第一次世界大戦になり、戦争そのものは一九一八年に終わったが、大戦の余波はなかなか治まらず、中央アジアの調査などをただちに再開できるような情況ではなかった。とくにロシア革命によって西あるいは北から中央アジアにはいることは絶望であった。このながい探検活動の休止時代にも、ヘディンはけっして無為であったわけではない。スウェーデンは中立国として、直接戦争の渦中に巻き込まれなかったので、かれはこの時代を探検結果の整理、研究、出版に費やすことができた。このあいだにいくつかの優《すぐ》れた中央アジア、チベットの旅行記を書き、在来神秘の扉に閉ざされていたアジア奥地の国々を世界に紹介した。かれの鋭い観察力と優れた文筆力は、あらゆる国に多くの愛読者を生んだ。しかしヘディンの本領は、あくまでも地理学者であった。かれのチベット探検の学術報告書「南チベット」は全九巻の大冊であって、その量だけから見ても他に比べうる著書はない。この厖大な書物は印刷、出版だけで前後五年の歳月を費やしたものであった。
ヘディンはかねてから中央アジアのような広大で、複雑な地域の研究は、学問のいろいろな分野の専門家を集めた、組織的な総合調査を必要とすることを痛感していた。戦争によるながい調査の空白時代に、かれはこのような総合研究の想を練りつづけ、ついに一九二六年にはその予備調査としてシベリア経由北京への旅行を試み、一九二七年には調査計画を公表することになった。このころになると探検家、科学者としてのヘディンの名声は世界的であり、大調査隊員の補充や資金の調達には大きな困難はなかったが、問題は当時の中国内部の政治情勢であった。このころ、中国ではすでに軍閥割拠時代は終わり、|※[#くさかんむり+将]介石《しょうかいせき》の下に国民党政権が確立されてはいたが、日本と中国の関係は悪化の一途をたどりつつあった。
他方、新疆省(東トルキスタン)の官憲は一応南京政府を承認していたものの、この西北の辺境は事実上、依然として一個の独立国みたいなもので、省主席が実質的な支配者であり、当時の主席楊増新は清朝時代からの旧官僚であった。しかしかれは中国本部の争乱から新疆を隔離し、ソ連とも直接に友好関係を結び、その統治には見るべきものがあった。楊は一九二八年に暗殺され、その部下であった金樹仁が省主席の地位についた。一九三○年にはウイグル人の叛乱が起こり、ついで甘粛省回教徒の首領の一人馬仲英が新疆内に侵入した。こうした騒ぎの結果、金樹仁は失脚し、満州事変によって満州を追われた盛世才が辺防督弁となって新疆の支配権を握った。
ヘディンは一九二八年二月、新疆の省都ウルムチに到着し、楊増新を説得して調査の許可を得たので、五月には準備のため帰国した。ヘディンの帰国中、同年七月楊の暗殺事件が起こり、九月にふたたび新疆を訪れた時には、金樹仁の下に事情が一変しており、調査には南京政府の承認が不可欠であることがわかった。そこでヘディンは南京におもむいて直接、国民政府と交渉を重ねることになった。
ところが、さらに思わないところから支障がでてきた。二十世紀にはいって以来、中央アジアは世界の秘境として注目を浴び、イギリスのオーレル・スタイン、ドイツのアルベルト・グリュンウェデル、アルベルト・フォン・ル・コック、フランスのポール・ペリオ、日本の大谷探検隊等があいついで中央アジアの考古学的調査を行ない、多くの遺跡を発掘し、莫大な量の貴重な資料を本国にもち帰った。他方、国民政府によって統一の気運にあった中国では、民族主義が高揚され、民族的文化財の海外流出に反対する声が強くなり「古物保存」が叫ばれつつあった。ヘディン探検隊は、当然この反対の目標にあげられ、南京の古物保存委員会の強硬な反対にあったのである。中国の学者たちの反対理由は「古物保存」にあったのだが、ヘディンにとって重要なのは自然科学上の調査で、考古学はむしろ副次的なものにすぎなかった。そこで、ヘディンは中国側の要求を容《い》れて、中国とスウェーデンの共同事業とし、中国人専門家を参加させることになり、名称も The Scientific Expedition to the Northwestern Provinces of China under the Leadership of Dr. Sven Hedin. 中国名は西北考査団と呼ばれることになった。この探検はまた通称 The Sino Swedish Expedition として知られている。
こうしてヘディンの苦心の結果、成立した調査隊は主要メンバーだけでもスウェーデン人、ドイツ人科学者十八名、中国人科学者十名に達し、その調査領域は地理学、測地学、地質学、古植物学、無脊椎動物古生物学、脊椎動物古生物学、考古学、民俗学、気象学、動物学、植物学の広い範囲にわたることになった。この調査は結局一九二七年から一九三五年にわたり、その専門的報告として五十五巻の出版が予定された。
ヘディン最後の中央アジア探検になったこの調査中に、かれは四十余年の長い年月にわたってかれの学問的生涯と不可離に結びつけられていた「さまよえる湖」ロプ・ノールの秘密に、ついに最終的解決をあたえる機会に恵まれたのである。努力のいかんにかかわらず、人間には運と不運がある。中央アジアに一生を賭《か》けたかれの努力はまさに超人的である。しかしかれの場合は非常な、例外的な幸運だといってもよい。この訳書にも書かれているように、かれ自身が四十数年前に参加した中央アジア地理学上の大論争が、この書に見られるような形で解決――かれ自身が事実の証明を自分の眼で目撃するという劇的《ドラマティック》な解決――されるとは、学者にとって異常な幸運といわないで、はたして何といったらよいであろうか。
この訳書は、友人矢崎秀雄と共同で翻訳し、昭和十八年四月に筑摩書房の竹之内静雄君の好意で出版されたものである。その後十五年の歳月が流れ、そのあいだには原著者ヘディンも共訳者矢崎もともに故人になってしまった。
紀行や自伝というようなものには、いろいろな書き方がある。本人自身が書いたものが、最も重要であることはいうまでもない。しかし読者の側にしてみれば、そのなかには興味のないと感じる部分も見いだされるし、足りないと思われる個所もある。それで読みものとしては、原文を削ったり、編集しなおしたりしても、それはかならずしも原作者を侮辱することにはならないと思われる。こういう作業は、歴史家と呼ばれる人たちが平常やっている、ごく普通の仕事であろう。
わたくしはこの「さまよえる湖」の全訳のまえに、やはりヘディンの初期の中央アジア探検記を縮小し、再編集して「中央アジア探検記」として出版したことがある。この「さまよえる湖」も同じ方法で|わたくしの《ヽヽヽヽヽ》「さまよえる湖」として、読みやすいよう、誰でも楽しめるようなものにしたつもりである。
一九六八年三月(訳者)
◆さまよえる湖◆
スウェン・ヘディン/岩村忍訳
二〇〇四年十一月二十日