ガラス玉演戯(上)
ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳
目 次
序章 ガラス玉演戯
演戯名人、ヨーゼフ・クネヒトの伝記
第一章 召命
第二章 ワルトツェル
第三章 研究時代
第四章 二つの宗団
第五章 使命
第六章 演戯名人
第七章 在職時代
第八章 二つの極
[#改ページ]
演戯名人、ヨーゼフ・クネヒトの伝記の試み、
クネヒトの遺稿※を添えて(H・ヘッセ編)
〔※本文のあとについている詩と散文(下巻に収録)をさす〕
[#改ページ]
東方巡礼者たちに
[#改ページ]
序章 ガラス玉演戯
その歴史への平易な手引きの試み
[#ここから1字下げ]
……non entia enim licet quodammodo levibusque hominibus facilius atque incuriosius verbis reddere quam entia, verumtamen pio diligentique rerum scriptori plane aliter res se habet: nihil tantum repugnat ne verbis illustretur, at nihil adeo necesse est ante hominum oculos proponere ut certas quasdam res, puas esse neque demonstrari neque probari potest, quae con traeoipso, quod pii diligentesque viri illas quasi ut entiatractant, enti nascendique facultati paululum approprinquant.
ALBERTUS SECUNDUS
tract. de cristall. spirit. ed. Clangor et Collof. lib. I. cap. 28
[#ここで字下げ終わり]
ヨーゼフ・クネヒトの自筆の翻訳
[#ここから1字下げ]
……ある点では、そしてまた思慮の浅い人々にとっては、現実的に存在しないもののほうが、存在するものより、ことばによって表現するのに、容易であり、責任を伴わないかもしれないが、敬虔《けいけん》で良心的な歴史家にとっては、まさにその反対である。すなわち、ある事物の現実的存在は証明することができないし、ほんとうらしくもないとしても、敬虔な良心的な人々が、それをある程度存在するものとして取り扱うことによって、存在と生起の可能性に一歩近づけられるような事物がある、そういう事物ほど、ことばで表現しにくいものはないが、また、そういう事物ほど、人々の目の前に示してやる必要のあるものはない。
アルベルツス二世
クランゴールおよびコロフ出版。精神の結晶に関する論文、第一巻第二十八章
[#ここで字下げ終わり]
ガラス玉演戯の記録の中で演戯名人ヨゼフス三世と呼ばれているヨーゼフ・クネヒトに関して見つけ出しえたわずかな伝記的材料を、この本に確保しておくことが、われわれの意図である。この試みが、現在行われている精神生活の法則や習慣とある程度矛盾しているという、あるいは矛盾するように見えるという事実に対し、われわれは盲目ではない。個人的なものを解消させ、個々の人格を教育庁や学問の聖職制度の中にできるだけ完全に織りこむことこそ、われわれの精神生活の最高の原則の一つである。それに、この原則は、長い伝統のうちに非常に広い範囲で現実化されたので、この制度に特にきわだって奉仕した個々の人物の伝記的な、心理的な事柄の詳細な点を見つけ出すことは、今日では非常に困難であるばかりか、多くの場合、まったく不可能である。人名さえ確かめられない場合が非常に多い。実際われわれの州の精神生活の聖職制度的組織が、匿名であるという理想を持ち、またその理想の実現にきわめて近づいていることが、われわれの精神生活の特徴なのである。
それにもかかわらず、演戯名人ヨゼフス三世の生活の一端を書きとめ、彼の人格のおもかげをほのかに素描しようという試みを固執したのは、個人崇拝のためでも、われわれの信じる風習に対する反抗のためでもなく、むしろ真理と学問に奉仕する精神からにほかならない。古くから行われている考えによれば、われわれが一つの命題を鋭く仮借なく公式化すればするほど、それは逆らいがたい力で反対命題を呼び起すものである。われわれの官庁と精神生活との匿名的な特徴の基礎になっている考えを、われわれは肯定し、尊敬する。しかし、ほかならぬこの精神生活の前史を、特にガラス玉演戯の発展を一見すると、否応《いやおう》なしに明らかになることであるが、発展の姿、拡張、変化、本質的な時期などのおのおのが、進歩的に解釈されるにせよ、保守的に解釈されるにせよ、真の主導者であるただひとりの人間を示さないまでも、変化を生ぜしめ、改造と完成に寄与した人物を通して、最も明らかにその面目《めんぼく》を、必ず示しているのである。
もちろん、今日われわれが人格と解しているものは、昔の伝記筆者や歴史家が考えていたものと、著しく異なったものである。彼らにとっては、特に、伝記趣味が顕著であった時代の者にとっては、どうやら、人格の本質的な点は、変則的なもの、破格なもの、一回ぎりのもの、いや、往々まさしく病的なものであったようである。これに反し、われわれ今日の人間が重要な人格と称するのは、あらゆる独創性や特異性を越えて、一般的なものの中に能《あと》うかぎり完全に織りこまれ、超個人的なものに能うかぎり完全に奉仕することのできたような人間に出会った場合に、初めていうことなのである。よく調べてみると、古代もすでにこのような理想を知っていた。すなわち、たとえば、古いシナ人のあいだに存した「賢者」あるいは「君子」という姿、あるいは、ソクラテスの道徳論の理想は、われわれの今日の理想とほとんど区別がないのである。また最盛期のローマ教会などのような、大きな精神的な組織も、同様な原則を知っていた。たとえばアキーノの聖トーマス〔トマス・アクィナス(一二二五〜七四)。イタリア生れの聖者で、神学と哲学を合一させたスコラ哲学の大成者〕のように、その最大の人物たちのあるものは、初期ギリシャの彫刻に等しく、個々の人物というよりも、類型の模範的な代表者であったように思われる。いずれにしても、二十世紀に始まった精神生活の変革をわれわれは継承しているのであるが、その変革より前の時代に、あの真の古い理想は、明らかにほとんどまったく消滅してしまった。その時代の伝記を読むと、主人公に兄弟姉妹がいくたりあったか、幼年期からの離脱、思春期、功名のための戦い、求愛などが、主人公の心にどんな痕跡《こんせき》を残したか、というようなことが、くどくどと語られているのを見いだして、われわれは驚くのである。われわれ今日の人間は、主人公の病理にも、家族の歴史にも、本能生活にも、消化にも、睡眠にも興味を引かれない。主人公が精神的にどんな生い立ちを持っているか、どんな研究や読書を愛好して教育されたか、等々さえ、われわれにとっては、特に重要ではない。われわれにとって主人公として、特殊な興味に値するのは、素質と教育とによって、個性を聖職制度の機能の中にほとんど完全に溶けこませることができながら、しかも個人の香気と価値とを作りあげる強い新鮮な驚嘆すべき衝動を失わずにいるような人物だけである。個人と聖職制度とのあいだに衝突が生じると、その衝突こそ、人格の偉大さをためす試金石と見なされるのである。欲望や熱情にかられて秩序を破るにいたるような反逆者を、われわれは決して是認しはしないが、それでもやはり、犠牲になった真に悲劇的な人物の思い出は、われわれにとって尊敬に値するのである。
前記のような主人公、すなわち真に模範的な人物については、その人となり、名まえ、顔つき、挙措などに対して興味を持つのは、許されることであり、自然なことと思われる。なぜなら、最も完全な聖職制度だとしても、摩擦の絶無な組織だとしても、われわれはそこに決して、部分としてはどうでもよい死んだ部分から組み立てられている機械仕掛けを見はせず、それぞれ特質と自由とを持って、生命の奇蹟《きせき》に参与している部分によって形づくられ、器官によって生命を与えられている、有機体を見るからである。その意味でわれわれは、ガラス玉演戯名人ヨーゼフ・クネヒトの生活に関する報告、特に彼自身によって書かれたもののいっさいを入手するために努力した。そして、読むに値すると思われる肉筆原稿も、いくつか手に入れた。
われわれがクネヒトの人物と生活について報告しうることは、宗団の団員のあいだでは、特にガラス玉演戯者のあいだでは、たしかにもう全部もしくは部分的に知っているものが少なくない。そういう理由からしてすでに、本書は、この仲間の人々に向けられるばかりでなく、それを越えて、理解ある読者に読まれることを望むのである。
あの狭い範囲の人々のためには、本書は、なんの手引きも注釈も必要としないだろう。しかし、われわれの主人公の生活と著作を、宗団外の人々にも読んでもらいたいと思うので、あまり予備知識のない読者のため、ガラス玉演戯の意義と歴史に対するささやかな通俗的な手引きをこの本の前につけるという、やや困難な課題を果さなければならない。念を押しておくが、この序文は通俗的なものであり、またそうであろうと欲するものであって、宗団自体の内部でこの演戯とその歴史の問題について討議された疑問を、明らかにしようなどということは、まったく望まないのである。この題目を客観的に叙述するには、まだまだその時期が来ていない。
したがって、ガラス玉演戯の完全な歴史と理論をわれわれから期待してはならない。われわれより以上に資格のある巧妙な著者でも、今日そういうものを書くことはできない。この課題は後世の人に保留されている。もちろんその資料と精神的前提がその前に散逸しない場合のことであるが。――このわれわれの記述をガラス玉演戯の教本にしようとは、なおさら思わない。そういう本は決して書かれないであろう。演戯の中の演戯ともいうべきこの演戯の規則を習得するには、慣行の規定の方法によるほかはない。それには幾年もかかる。それに通暁したものでも、その演戯規則をもっと習得しやすくしようとすることなどに興味を持つものは、ひとりもありえないであろう。
その法則、すなわちこの演戯の記号法と文法とは、一種の高度に発達した神秘のことばであって、それには幾多の科学と芸術、特に数学と音楽(あるいは音楽学)が関係している。またそれは、ほとんどすべての科学の内容と成果とを表現し、相互に関係づけることができる。つまり、ガラス玉演戯は、われわれの文化の内容と価値とのすべてをもってする演戯であって、さながら芸術の黄金時代に画家がパレットの絵の具をあしらったように、それらのものをあしらうのである。人類が創造的な時代に産み出した認識や高い思想や芸術品に、それに続く学究的観察の時代が概念に作りあげ、知的な所有物にしたもの、それらの精神的価値ある非常に豊富な材料を、ガラス玉演戯者は、オルガン奏者がパイプ・オルガンを奏するように、演奏する。そのパイプ・オルガンたるや、想像できないほど完全であって、その手鍵盤《しゅけんばん》と脚鍵盤《ペダル》は、精神的宇宙全体を打ちつくし、その音栓《おんせん》はほとんど数限りなく、理論的にはこの楽器によって、精神的な世界の全内容が演奏のうちに再現されうるであろう。この手鍵盤と脚鍵盤と音栓とは今はもう固定している。その数と順序を変えて完全にする試みは、実際は理論的にだけ可能である。すなわち、新しい内容を取り入れて演戯用語を豊富にすることは、最高演戯指導本部の極度に厳格な統制を受けるのである。これに反し、この確立している組織の内部では、あるいは、上記の比喩《ひゆ》を続けて用いるならば、この巨大なパイプ・オルガンの複雑な機構の内部では、個々の演奏者に、可能性と組合せが一つの世界をなすほど豊かに与えられている。それで、厳格に行われた一千回の演奏のうち、ただの二つだけでも、表面以上の点で似ていることは、ほとんどありえないくらいである。仮に、一度にふたりの演奏者が偶然、まったく同じように主題をわずかばかり選んで演奏の内容にすることがあったとしても、その二つの演奏は、それぞれ演奏者の考え方や性格や気分や練達の度合いに従って、完全に異なった姿と経過を示すであろう。
ガラス玉演戯の初まりと前史とをどこまでさかのぼらせるかは、結局、まったく歴史家の任意である。なぜなら、およそ偉大な理念がそうであるように、それは本来、初めというものを持たないのであって、理念に従えば、常に存在していたのだからである。われわれはガラス玉演戯が、理念として、予感として、理想の姿として、すでに昔の時代にいくども早くも作られていたのを見いだすのである。たとえば、ピタゴラスにおいて、それから古代文化の後期において、ヘレニズム・グノスティク〔霊知主義〕の一団において、またそれに劣らず、古代シナ人において、それからまたアラビア・ムーア人の精神生活の頂点において。さらに進んで、その前史の跡をたどると、スコラ学派と人文主義を越えて、十七、八世紀の数学者のアカデミーと、ロマン派の哲学おまびノヴァーリスの魔術的な夢の神秘的な文字にまで達する。学芸総合の理想の目標をめざす精神運動、プラトンのアカデミー、精神的精華の交わり、精密な科学ともっと自由な学問とを接近させようとする試み、科学と芸術、あるいは科学と宗教とを融和きせようとする試み、それらのすべての根底には、われわれにとってはガラス玉演戯という形をとったのと同じ永遠の理念が存していた。アベラールや、ライプニッツや、ヘーゲルのような精神は、疑いもなく、精神的宇宙を集中的体系にとらえ、精神と芸術との生き生きした美しさを精密な規範の魔術的形成力と結合しようとする夢を知っていた。音楽と数学とがほとんど同時に完成の域に達したあの時代には、二つの規範のあいだにしばしば親しい有益な交流が行われた。さらに二百年前に、ニコラウス・フォン・クエス〔ラテン名でニコラウス・クサーヌス(一四○一〜六四)。西部ドイツのクエスに生れた哲学者、神学者。「反対の一致」の直観哲学はヘッセに大きい影響を及ぼした〕が同じ雰囲気《ふんいき》から次のような文章を書いている。
「精神は、すべてを可能性の方法で計るために、可能性に合わせて自己を形成する。また、精神はすべてを、神のなすごとくに、統一性と単純性の方法で計るために、絶対的必然性に合わせて、自己を形成する。また、すべてをその特性に関連して計るために、結合の必然性に合わせて、自己を形成する。最後に、すべてをその現実的存在に関連して計るために、決定された可能性に合わせて、自己を形成する。さらに、しかし、精神は、象徴的にも、比較によって計る。数と幾何の図形を用い、これを比喩として引合いに出すように」しかし、われわれのガラス玉演戯をすでにだいたいさし示しているように思われるもの、ガラス玉演戯の思想の遊戯と似かよった想像力の方向に相応し、それから発しているものは、クサーヌスのこの思想だけではない。それをしのばす類似のものは、彼に、いくども、いや、しばしば現われている。彼が数学を喜んだこと、ユークリッド幾何学の図形や公理を神学的哲学的概念に応用して、比喩的に説明する能力を持ち、またそれを喜んだことは、この演戯の精神的性質にきわめて近づいているように思われる。ときには、彼のラテン語用法さえ、演戯用語の自由自在な造形的性質をしのばせる。(ラテン語の単語を彼は往々自由に案出しているのであるが、ラテン語のできるものが、それを誤解するおそれはない。)
この論文の標語がすでに示すように、アルベルツス二世も同様に、ガラス玉演戯の祖先のひとりである。また、引用によって証明することはできないが、十六、十七、十八世紀のあの博学な音楽家たちもガラス玉演戯の思想に支配されており、作曲の根底に数学的思考を置いていたと、推測される。古い文献のあちこちで、学者や僧によって、あるいは精神的なことに親しみを持つ王侯の宮廷で考え出され演じられた、知恵の深い魔術的な遊戯に関する伝説にぶつかるのである。たとえば、将棋の形ではあるが、そのこまや盤が、通常の意味のほかに、なお秘密な意味を持っていたというような話である。一般に知られているように、いっさいの文化の若い時代の記録や童話や伝説は、音楽に、単に芸術的なものをはるかに越えて、魂ともろもろの民族をも支配する力を与え、音楽を、人間や国家の秘密な統治者、あるいは法律書にしている。太古のシナからギリシャの伝説にいたるまで、音楽の君臨のもとでこそ人間の理想的な天国的な生活が行われるという思想が、有力である。この音楽崇拝(「歌のひそかな力が、不断に姿を変えて、下界のわれらに呼びかける」――ノヴァーリス)とも、ガラス玉演戯は実際最も深い関連がある。
演戯の理念は、永遠なものであって、したがって、それが実現するずっと前に、すでに常に存在し、働いていたものと認められるとはいえ、それが、われわれに知られているような形で実現するまでには、はっきりした歴史を経ている。その最も重要な段階について簡単に述べてみたいと思う。
いろいろなものの中でも、特に宗団の制度とガラス玉演戯という実を結んだ精神運動は、文学史家プリニウス・チーゲンハルスの基礎的研究以来、彼になって特に作られたフェユトン〔文芸娯楽欄〕時代という名を持っている歴史上の一時期に始まっている。そういう名は、うまくつけられているが、危険であって、過去における人間生活のある状態に不当な観察を加えるように、誘いがちである、そういうわけで、フェユトン時代も、決して精神を持っていなかったわけではなく、それどころか、精神に乏しかったわけでもない。しかし、チーゲンハルスによると、その時代は、精神に対処する法を知らなかったようである。というより、むしろ、生活と国家の運営の中で、精神にふさわしい位地と機能をあてがうことを知らなかったようである。率直に言うと、あの時期は、今日われわれの精神生活の特色をなしているほとんどいっさいのものが生じた地盤であるにもかかわらず、われわれはそれについてさっぱり知っていないのである。それは、チーゲンハルスによると、特に「市民的な」、過度な個人主義を奉ずる時期であった。その雰囲気をほのかに示すために、チーゲンハルスの叙述に従って、二、三の特徴をあげれば、少なくとも、それが虚構ではなく、本質的な誇張や誤記でもないという一事が、確実にわかる。それは、この偉大な研究家が無数の文献やその他の記録によって証明しているからである。この学者は、これまでフェユトン時代に真剣な研究を加えてきた唯一の人であるから、彼に従っていこう。それにつけても、遠い時代の誤りや弊風をせせら笑うのは、容易な、しかし愚かしいことだということを忘れまい。
ヨーロッパの精神生活の発展は、中世末期から二つの大きな傾向を持っていたようである。すなわち、思索と信仰とをあらゆる権威の干渉から自由にすること、つまり、自己の優越と独立とを自覚する知性がローマ教会の支配に対して戦ったこと、そして――他面では――この知性の自由を合法化し、知性自体から発して、知性に適応した新しい権威をひそかに、しかし情熱的に求めようとしたことである。一般的には、原則的に相矛盾する二つの目標を求めるしばしば驚くほど矛盾に満ちた戦いに、精神は総体として勝った、と言えよう。その勝利が無数の犠牲を償うかどうか、異端者裁判や火あぶりの刑から、発狂して、あるいは自殺して果てた多くの「天才」の運命にいたるまで、すべての苦悩やけいれんや脱線を、意味ある犠牲だと思わせるほど、精神生活のわれわれの今日の秩序が完全であり、長く続くであろうかどうか、それを尋ねることはわれわれには許されない。歴史は生起してしまっている――それがよかったか、起らなかったほうがよりよかったか、その「意味」を認めるかどうか、それは意味のないことである。そういうわけで、精神の「自由」のための、あの戦いも行われてしまい、あのフェユトン時代末期には、実際、精神が、前代未聞の、精神みずからもはや耐えられないほどの自由を享受するようになった。つまり、、教会の監督を完全に克服し、国家の監督も部分的に克服してしまったが、自分自身で作り尊重するような真の法律、真の新しい権威、法則の裏付けは、依然として見いだすことができなかった。あの時代に精神が品位を落し、買収されやすくなり、自己を放棄するに至った実例を、チーゲンハルスは伝えているが、それは部分的にはまったく驚くばかりである。
あの時代を名づけるもとになった例の産物すなわち「フェユトン」の、明解な定義を与えるのは、われわれには不可能なことを、告白せざるをえない。それは、日刊新聞の材料の中でも特に愛好された部分で、幾百万となく生産され、教養を求める読者の主要な栄養をなし、知識の無数の事項について報道した、というよりむしろ「漫談した」ものらしい。このフェユトン筆者の中でも、頭のある連中は、しばしば自分たちの仕事を笑い草にしたらしい。少なくともチーゲンハルスは、作者の自嘲《じちょう》とでも解するのでなければ、まったく不可解なような多数の作品にぶつかったと告白している。工場式に生産された原稿の中には、たくさんの皮肉や自己皮肉が織りこまれているので、それを理解するために、さらにまず合いかぎが発見されねばならなかった、ということもあったろう。これらの戯作《げさく》の制作者は、一部は、新聞の編集部に属し、一部は、「自由な」文士であった。それどころか、しばしば詩人と呼ばれさえした。しかし、彼らのきわめて多数は学者階級にも属していたらしい。いや、名声のある大学教授であったらしい。そういう文章で人気のある内容は、有名な男女の生活にちなむ逸話や彼らの文通などであった。たとえば、「フリードリヒ・ニーチェと一八七〇年代の婦人の流行」あるいは、「作曲家ロッシーニの好物料理」、あるいは、「有名な高等|娼婦《しょうふ》の生活における愛玩犬《あいがんけん》の役割」などという題であった。さらに、裕福な連中の現実的な話題に関する歴史的考察が好まれた。たとえば、「幾世紀にもわたる黄金人工製造に関する夢」、あるいは、「天候を化学的物理的に左右する試み」など、類似の多くの事柄、チーゲンハルスがあげているそういう漫談の題を読むと、われわれがいぶかしく思うのは、そういうものを毎日の読み物としてむきぼり読んだ人がいたという事情より、むしろ、名声も地位もりっぱな素養もある著者が、無価値な興味本位のものの巨大な消費に「奉仕する」一役を買ったという事実である。奉仕するという表現は、いかにもよくその特徴を現わしているのであるが、その表現は、機械に対する人間の当時の関係をも現わしている。ひところは、時事問題について有名人に質問することが好まれた。チーゲンハルスはそれに特別な一章をささげている。その質問では、たとえば、知名な化学者やピアノの名手に、政治について発言させ、人気俳優や舞踊家や体操家や飛行家や、あるいは詩人にも、独身生活の功罪、金融危機の推定原因等について発言させた。それのねらいはただ、知られた名を最も現実的な話題と結びつけるところにあった。部分的には目をみはらすような例をチーゲンハルスが幾百となくあげているから、参照するがよい。すでに述べたように、察するところ、この熱心な努力全体に、皮肉がたっぷりまじっていた。それどころか、おそらくそれは、悪魔的な言語道断な皮肉だったので、それを察知するのは極度に困難である。そのころは非常に多くの人が驚くほど読書好きだったらしいので、彼らはこういう奇怪なものを、疑いもなく、おめでたいまじめさで受け入れたであろう。有名な絵画の持ち主が変ったり、貴重な肉筆原稿が競売に付せられたり、古い城が焼け落ちたり、由緒《ゆいしょ》ある名門のものが醜聞にまきこまれたりすると、読者は、数千のフェユトンでそれらの事実を知るばかりでなく、その日か、翌日にはもう、その時々の見出し語に関して、たくさんの逸話的な、歴史的な、心理的な、好色的な材料、その他の材料を入手した。どんな日々の事件についても、くだらぬ文章がせっせと潮《うしお》のように書き流された。それらの報告を残らず集め、ふるいにかけ、型にはめる仕事は、急速に無責任に大量生産される商品とまったく軌を一にしていた。それはそうと、フェユトンには、読者自身もかり出され、うんざりするような知識の小間物を動員してやるある種の遊戯が属していたらしい。それについては「クロッスワードパズル」という不思議な題目で、チーゲンハルスが長い紙面をさいている。その当時は、幾千、幾万、という人が、大部分苦しい労働をし、苦しい生活をしていたのに、休みの時間には、文字の正方形や十字形の上にかがんで、その空所を一定の遊戯規則に従って埋めていた。それのこっけいな、あるいは狂気じみた表面だけを見ることは、つつしみ、それを嘲笑《ちょうしょう》することは控えよう。子どもじみた|なぞ《ヽヽ》の遊びをし、教養に資する論文を読んでいたそれらの人々は、決して無邪気な子どもでも、遊惰な人種でもなかった。むしろ彼らは、政治的、経済的、道徳的動乱と動揺のただ中におびえてうずくまり、身の毛のよだつような戦争と内乱をいくどもやってきたのであった。彼らのささやかな教養の遊戯は、単に楽しい無意味な子どもじみたことではなく、目を閉じ、解きがたい問題や不安な没落の予感を避けて、できるだけ無邪気な幻想の世界にのがれようとする深い要求に即応していたのである。彼らは、根気よく自動車の操縦や、むずかしいカルタ遊びを習い、夢みながらクロッスワードパズルを解くことに没頭した。――それというのも、教会からはもはや慰められず、精神からは助言を受けず、死や不安や苦痛や飢餓に対しほとんど無防御だったからである。あれほど多くの論文を読み、講演を聞きながら、恐怖に対し自己を強化し、死に対する心中の不安を征服するためには一時間と骨折りを惜しんだ。彼らは、けいれんしながら生を送り、明日というものを信じなかった。
講演も行われた。フェユトンのいくらか高尚なこの変種のことも、簡単に述べておかなければならない。教養がかつて持っていた概念を失っていたにもかかわらず、その時代の市民たちは教養の概念にまだ大いに執着していたので、彼らに対し、専門家や精神的切取り強盗の輩《やから》によって、論文のほかに講演も大量に提供された。それも、特別な動機になされる祝賀演説のたぐいばかりでなく、猛烈な競争をして、理解しがたいほど多量に行われた。当時、中都市の市民、あるいはその妻は、ほぼ毎週一回、大都市ではほとんど毎晩、講演を聞くことができた。そこでは、芸術品について、詩人、学者、研究家、世界旅行について、というふうに、何らかの題目について理論的に教えられた。そういう講演では、聴衆は終始まったく受動的であった。内容に対する聞き手の何らかの関係、何らかの素養、何らかの準備や摂取能力が暗黙のうちに前提されながら、聞き手はそんなものをたいていの場合持っていなかった。たとえば、ゲーテに関するおもしろい活気に富んだ、あるいは気のきいた講演があった。その中で、ゲーテが青いエンビ服を着て郵便馬車からおり、シュトラースブルクやヴェッツラーの少女を誘惑した。あるいは、アラビア文化に関する講演があった。その中で、多数の知的な流行語が、サイコロ筒にでも入れられたように、ぶちまけられた。聴衆はめいめいその中の一つでもだいたい見当がつくと、うれしがった。詩人に関する講演も聞いたが、その作品を一度だって読んだこともなければ、読む気もなかった。そのうえ、幻燈器械で肖像を映してもらった。こうして、新聞のフェユトンとまったく同様に、意味を失ったばらばらな教養価値や知識の断片の大洪水の中をもがいた。簡単に言えば、すでにあの恐るべきことばの平価切下げの直前にあったのである。それはまず、まったく秘密なごく小さいサークルのあいだに、英雄的禁欲的な反動を呼び起し、それがまもなく、おもてだって強力になり、精神の新たな自律と品位を回復する端緒となった。
他のいろいろの点では実行力と偉大さを示していたあの時代の精神生活は、安定と真実さを欠いていたが、それをわれわれ今日の人間は、精神が外見上の勝利と繁栄の時期の終りに突然虚無に直面したときに襲われた驚きの徴候として説明する。すなわち精神は、大きな物質上の困難に、政治的軍事的雷雨の時期に、自分自身に対し、自己の力と品位に対し、いや、自分自身の生存に対して、一夜のうちにわきおこった不信に、直面したのである。もっとも、没落気分のあの時期に、きわめて高い精神的な仕事がなおいくつもなされた。とりわけ、音楽学の初まりがその時期にあたっている。われわれはその後継者であることを感謝している。しかし、過去の任意の一区切りを世界史の中に美しく意味深くはめこむことは容易だとしても、およそ現在というものは自己をそのようにはめこむことができない。それで当時は、精神的な要求や能力がきわめて低い水準に急速に低下し、ほかならぬ精神的な人々のあいだで、恐るべき不安定と絶望がひろがったのである。そこで、発見されたのは(ニーチェ以来すでにあちこちでおぼろげながら感じられていた発見であるが)、われわれの文化の青年時代と創造的な時期は過ぎ去って、老年時代とたそがれが始まったということである。そして、突然みんなによって感じられ、多くの人によって厳《きび》しく簡潔に表現された、この見解にもとづいて、人々は時代の憂うべき徴候を説明した。それはすなわち、生活の殺風景な機械化、道徳の深い低下、諸国民の信仰喪失、芸術の不純化などである。あの驚嘆すべきシナの童話においてのように、「没落の音楽」が鳴りひびき、長くどよめくパイプ・オルガンの低音のように、数十年にわたって振動し、学校や雑誌や大学に流れこんで、腐敗の作用をし、まだ真剣さを失っていないと思われる芸術家や時事批評家の大多数にしみこんで、憂鬱《ゆううつ》症と精神病を引き起し、あらゆる芸術において猛烈なしろうと的な生産過剰として荒れ狂った。侵入してきて、もはやなんとしても追い払うことのできない敵に対して、とるべき種々の態度があった。にがい真実を黙認して、それをストア学派的に耐え忍ぶ法もあった。最もすぐれた人々の中には、そうするものが少なくなかった。真実をごまかしてかたづけてしまう法もあった。それには、文化没落論を文筆で唱える連中がつごうのよい攻撃の手がかりをいくらも提供した、そのうえ、そういう威嚇《いかく》的な予言者を相手に戦いをいどむものは市民のあいだに共鳴者を見いだし、勢力を得た。なぜなら、昨日までまだ持っていると思い、大いに誇りとしていた文化が、もはやまったく生命を失うということ、市民の愛していた教養や芸術が、もはや真の教養でも真の芸術でもないということ、そんなことは、金の突然なインフレや、革命による資本の危機に劣らず、ひどい、耐えがたいことと思われたからである。このほかに、大きな没落気分に対して皮肉な態度をとる法もあった。彼らは、ダンスをしにいき、未来を思いわずらうのはすべて旧弊な愚かさだ、と宣言した。芸術、学問、ことばの終末が近づいていることについて、情趣たっぷりな雑文をかなでた。みずから紙で作った雑文の世界に、いわば自殺者の喜びをもって、精神の完全な退廃、概念のインフレなどを確認した。また、芸術や精神や道徳や誠実さばかりでなく、ヨーロッパと「世界」さえ没落したのを、犬のように落ちつきはらったり、酒神のように陶酔して、傍観でもするふうを装った。善人のあいだでは、静かに暗い厭世《えんせい》主義が、よくない人間のあいだでは、陰険な厭世主義が盛んになった。文化が実際に自己省察と新しい適応をなしえないうちに、まず戦争と政治とによって、生きのびたものの整理と、世界と道徳との改造が行われねばならなかった。
しかし、この文化は、数十年の過渡期のあいだねむっていたわけではなく、それが堕落し、芸術家や教授や雑文家によって一見自発的に放棄されたかに見えるあいだに、個々の人間の良心の中では、極度に厳しく目ざめており、自己検討を行なっていた。すでにフェユトンの全盛期の最中に、至る所に、孤立した小さな一団があって、精神をあくまで見すてず、良い伝統や、しつけや、方法や、知的な良心を極力この時代のかなたまで救っていこう、と決意していた。これらのできごとが今日われわれの認めうる範囲では、自己検討、省察、堕落に対する意識的な抵抗の過程は、主として二つの団体において行われたようである。学者たちの文化良心は音楽史の研究と教授方法へ逃《のが》れた。というのは、この学問はちょうどそのころ頂点に達していたからである。フェユトン世界のまっただ中で、有名になった二つの学校が、模範的に潔癖で良心的な研究法を育成した。ごく小さな勇敢な一団のこの努カを運命が慰め励ましでもするかのように、陰鬱《いんうつ》きわまる時代の最中に、あの恵み深い奇蹟が起った。それ自体偶然ではあるが、神の保証のような働きをした。それはつまり、ヨハン・セバスチアン・バッハの十一の原稿が、そのむすこフリーデマンのかつての所有物の中から再び発見されたことである。堕落に対する抵抗の第二の点は、東方巡礼者の同盟であった。その兄弟たちは、知的の修行より、魂の修行を行い、敬虔《けいけん》と畏敬《いけい》との念を養うことにいそしんだ――この方面から、精神育成とガラス玉演戯の今日の形式は、特に冥想《めいそう》的な面に向って、重要な刺激を受けた。われわれの文化の本質とその存続の可能性に対する新しい認識にも、東方巡礼者たちは関与している。といっても、科学的業績によるよりも、彼らが古い神秘修行にもとづいて遠い時代や文化の状態に魔術的にはいっていくことができたためである。たとえば、彼らの中には、昔の音楽を完全に昔のままに純粋に演奏する能力を持っていると保証された楽人や歌手がいた。例をあげれば、一六〇〇年から一六五〇年の音楽を、後に付け加わってきた流行や陰影づけや名演技をいっさいまだ知らないかのように、精確に演奏したり歌ったりする能力を持っていたのである。強弱と漸層を好む癖がいっさいの音楽演奏を支配し、指揮者の演出や「解釈」のために音楽そのものをほとんど忘れていたあの時代にあっては、それはなみなみならぬことであった。東方巡礼者のオーケストラがヘンデル以前の時代のある組曲を、漸強や漸弱を施さずに完全に、別な時代と世界の素朴さと純枠さで初めて公開演奏したとき、聴衆のあるものは、終始まったく理解しなかったのに反し、あるものは、耳を澄まし、生れて初めて音楽を聞いたと思った、ということが報告されている。その同盟の中のひとりがブレームガルテンとモルビオのあいだの同盟会館に、バッハ・オルゲルを造った。ヨハン・セバスチアン・バッハが、もし資金と機会を得たら、このとおり造らせたであろうと思われるように。――そのパイプ・オルガン製作者は、当時すでに同盟の中で行われている原則に従って、自分の名を秘し、十八世紀の先輩にならって、ジルバーマンと名のっている。
こうしてわれわれは、今日の文化概念の発生した源泉に近づいた。最も重要な源泉の一つは、最新の科学、すなわち音楽史と音楽美学であった。ついでその後まもなく数学が飛躍をとげた。それに東方巡礼者の知恵の中から一滴の油が加わった。そして音楽の新しい解釈と解明とごく緊密に関連して、文化の年齢の問題に対する、あきらめていながら同様に明朗で勇敢な態度が始まった。それをここでくどくどと述べる必要はあるまい。こういうことはだれでも知っているのである。この新しい態度をとったこと、というよりもむしろ、文化の過程の中へ新しい地位を占めるようになったことから生じた最も重要な結果は、芸術作品の生産を過度に断念したこと、精神的な人々が世俗の営みから徐々に離脱したことである――それに劣らず重要で、かつ全体の精華をなすのは、すなわちガラス玉演戯である。
この演戯の端緒に対しては、すでに一九〇〇年以後まもなく、まだフェユトンの全盛時代の最中に始まった音楽学への没頭が、およそこのうえもなく大きな影響を及ぼした。この学問の相続者であるわれわれは、偉大な創造的な諸世紀の音楽、特に十七世紀と十八世紀の音楽を、以前のどの時期よりも(古典音楽の時期をも含めて)、よりよく知っているばかりか、ある意味ではよりよく理解していると、信じている。もちろん、われわれは後代の人間として、古典音楽に対して、創造的な時期の人々が持っていたのとはまったく別な関係を持っている。われわれは真正の音楽をあがめるが、それは精神化されており、あきらめの憂愁を必ずしも十分に脱していないのであって、あの時代のやさしい素朴《そぼく》な音楽愛好の喜びとは、まったく別なものである。われわれは、その音楽を聞いて、それが生れた事情と運命とを忘れるごとに、あの時代はもっと幸福だったのだと、うらやみがちである。中世の終りとわれわれの時代とのあいだに横たわる、あの文化的時期の偉大な永続的な業績として、二十世紀の人はまだほとんど始終、哲学あるいは文学を考えていたが、われわれは幾世代このかたもはやそうは考えず、数学と音楽こそそれだと考える。われわれが――少なくとも一般的に――あの世代と創造的に競争することをあきらめて以来、また、ほぼベートーヴェンとロマン派初期から二世紀にわたって音楽修業を支配していた、和声的なものと純枠に感覚的な強弱法との優位をあがめることを断念して以来、われわれはもちろんわれわれなりに、われわれの非創造的な亜流的な、しかし畏敬のこもった態度で!――われわれの継承したあの文化の姿をいっそう純粋に正しく見るようになった、と思う。われわれはもはやあの時代の酔うような生産欲を持っていない。十五、六世紀に音楽の様式が非常に長いあいだ不変の純粋さを保ってこられたことは、また、あの当時書かれた大量の音楽の中に全然劣等なものが見いだされないように思われることは、また、退化の始まった十八世紀が、様式や流行や流派の花火を、あわただしく、ぱっと、しかし自己意識をもって、高く打ちあげているのは、われわれにはほとんど理解しがたい光景である。しかし、われわれは、今日古典音楽と呼ぶものの中に、あの世代の秘密と精神と美徳と敬虔さとを理解し、模範として取りあげたと思う。たとえば、今日われわれは、十八世紀の神学や教会文化や啓蒙《けいもう》時代の哲学を、あまり、あるいはまったく尊重しないが、バッハの交声曲や受難曲や前奏曲の中に、キリスト教文化の最後の昇華を認めるのである。
ともかく、音楽に対するわれわれの文化の関係は、今なお非常に古い尊敬すべき模範を持っている。ガラス玉演戯はそれに高い敬意をはらうのである。「古い王たち」の伝説的なシナでは、国家生活でも宮廷生活でも、音楽に指導的な役割が与えられていたのを、思い出す。音楽の繁栄が文化や道徳の繁栄と、いや、国家の繁栄とまったく同一視された。楽長は、「古い楽調」を維持し、純粋に保つために厳重に気をつけねばならなかった。音楽が堕落すると、それは政府と国家との衰退の確実な徴候であった。詩人たちは、天にそむいた禁制の悪魔の音調、たとえば、凶声や鄭声《ていせい》のような音調、すなわち「亡国の音楽」について、恐ろしい物語を語った。王城でそのような大それた調べがかなでられると、たちまち空は暗くなり、城壁は震動して、くずれ、君主と国はくつがえった、ということである。古い著者の数多くのことばに代えて、呂不韋《りょふい》の「春秋」の中の音楽の章から数個所をここに引用しよう。
[#ここから1字下げ]
「音楽の由《よ》って来たる所のものは遠し。度量〔尺度衡量〕に生じ、太一《たいつ》〔宇宙の本源〕に本《もと》づく。太一は両儀〔天地〕を出《い》だし、両儀は陰陽を出だす。
天下太平、万物安寧にして、みなその上《かみ》に化し、楽すなわち成るべし。嗜欲《しよく》、辟《へき》〔邪僻〕ならずして、楽すなわち務むべし。楽を務むるに術あり、必ず平《ひょう》に由りて出ず。平は公より出で、公は道より出ず。故《ゆえ》にただ道を得るの人のみ、それとともに楽を言うべきか。
凡《およ》そ楽は天地の和、陰陽の調《しらべ》なり。
亡国、戮民《りくみん》〔罪あり、滅ぼさるべき民〕も、楽なきにあらざるなり。その楽たのしからず。……故に楽いよいよ侈《し》〔淫《いん》〕にして、民いよいよ鬱《うっ》し、国いよいよ乱れ、主いよいよ卑し。すなわちまた楽の情を失うなり。
凡そ聖王の楽を貴《とうと》ぶゆえんは、その楽しきがためなり。夏桀《かけつ》、殷紂《いんちゅう》は、侈楽を作為し、強き音をもって美となし、衆をもって興ありとなす。新奇の音響をめざし、耳の未《いま》だかつて聞かざる所、務めてもって相過ぎ、度量を用いず。
楚《そ》の衰うるや、巫音《ふおん》〔みこの用いる音楽〕を作為す。侈なることは侈なり。有道者《うどうしゃ》よりこれを見れば、楽の情を失う。楽の情を失えば、その楽たのしからず。楽たのしからざるものは、その民かならず怨《うら》み、その生かならずそこなわる。これ楽の情を知らずして、侈をもって務めとなすが故に生ずるなり。
故に治世の音は、安くしてもって楽し、その政平らかなればなり。乱世の音は、怨みてもって怒る。その政、そむけばなり。亡国の音は、悲しみてもって哀《かな》し、その政、危うければなり」
[#ここで字下げ終わり]
このシナ人の文章は、かなりはっきりと、すべての音楽の起源と、ほとんど忘れられてしまった音楽本来の意味を指摘している。すなわち舞踊やすべての芸術実演と等しく、音楽は、前史時代には、魔術の手段、魔法の古い合法的手段の一つであった。音楽は、〔拍子、足踏み、伐木、最も古い太鼓術などの〕リズムで始まり、多数の人間を同じ「気分」にし、みんなの呼吸や鼓動や情調を同じ調子にし、人々を励まして、永遠の力に呼びかけ、これを呼び出すように、また、舞踊へ、競争へ、出征へ、神聖な行為へ促すようにするための、力強い確かな方法であった。この本源的で純粋で根強い本質、すなわち魔術の本質は、他の芸術よりも、音楽にずっと長く保存されていた。ギリシャ人からゲーテのノヴェレ〔短編〕にいたるまで歴史家や詩人が音楽についていろいろと述べているのを思い出すがよい。実際に、行進曲と舞踊曲とが意味を失ったことは、一度もない。――だが、本来の主題にもどろう!
ガラス玉演戯の端緒について、知っておく値打ちのあることを、簡単に述べておこう。これは、ドイツとイギリスで同時に発生したようである。しかも両国において、新しい音楽理論の研究室で研究し仕事をしていた音楽学者や音楽家の小さい仲間で、演戯の実習として発生したらしい。演戯の当初の状態を、後世の今日の状態と比較してみると、それは、一五〇〇年以前の時代の記譜法と、縦線さえまだなかった原始的な音符とを、十八世紀の、あるいは十九世紀の総譜と比較するのと、まったく同様である。後者のそれは、強弱、速度、句切法などの略符が目まぐるしく充満しているので、そのような総譜の印刷はしばしば困難な技術上の問題となった。
演戯は初めは、学生や楽師のあいだで行われていた、しゃれたやり方の記憶と組合せの練習以上のものではなかった。それは、前に述べたように、イギリスとドイツで演じられていたが、やがてドイツのケルンの音楽学校で「発明され」、その名を冠せられた。もう久しい前からガラス玉とはなんの関係もなくなっているのだが、多くの世代を経た今日でもまだその名を持っている。その発明者、カルプ生れのバスティアン・ペロットは、いくらか奇人ではあるが、賢い、社交的で人道主義的な音楽理論家であって、文字や数や音符あるいは他の図形記号の代りに、このガラス玉を用いた。なおペロットは「対位法の盛衰」に関する論文をも残しているが、ケルンの研究室で、演戯の慣習が生徒たちのあいだですでにかなり発展しているのを発見した。すなわち彼らは、彼らの学問の略語を用いて、古典作曲から任意の動機あるいは冒頭をとって呼びかけ合った。呼びかけられたものは、その曲の継続か、あるいは、欲を言えば、上声部または下声部、対照的な対立主題などによって答えねばならなかった。それは、記憶や即興の練習であって、おそらく昔シュッツやパッヘルベルやバッハなどの時代に、熱心な音楽学生や対位法の学生たちのあいだで盛んに行われたものと酷似している。(もっとも理論的に公式で答えるのではなく、実演的にチェンバロや、リュートや、笛や、歌声で答えるのであった)。バスティアン・ペロットは、手仕事をすることの好きな男で、ピアノやクラヴィコード〔ピアノの前身〕を古い型に従っていくつも手ずから作った。彼が東方巡礼団に属していたことは、きわめて確からしい。一八○○年以来忘れられていた古いやり方で、高くそった弓と、手で調整される弓の毛とをもって、ヴァイオリンをかなでることができた、という伝説が伝わっている。――ペロットは、玉をならべて作った子ども用の単純な計算器にならって、数十本の針金を中に張った|わく《ヽヽ》を組み立てた。その針金に、さまざまの大きさと形と色とのガラス玉をならべることができた。針金は五線譜に、ガラス玉は音の長短に相応する、というぐあいだった。こうして彼は、音楽上の引用や、着想した主題をガラス玉で構成し、取り換え、移調し、発展させ、変化させ、他の主題を対立させた。それは、技術的な点では、一つの遊戯にすぎないが、学生たちに好まれ、模倣され、流行になった。イギリスでもそうであった。しばらくのあいだ、音楽練習の遊戯は、こういう原始的な優美な方法で行われた。よくあることだが、この場合も、永続する意義深い仕組みが、かりそめの付随的なことによって名をつけられたのである。あの研究生の遊戯と、ガラス玉をつるしたぺロットの針金とが、後に発展してできたものが、今日なお、民衆的になったガラス玉演戯という名を持っている。
二、三十年もたたないうちに、この演戯は、音楽学生のあいだでは人気を失ったが、そのかわり、数学者によって取りあげられたらしい。その時々に特に栄えていた学問、あるいは復興していた学問によって、この演戯が常に珍重され、利用され、発展させられたことは、久しきにわたって終始演戯史の特色であった。数学者のあいだでこの演戯は高い融通性と昇華力に達し、すでに自己意識と能力の自覚のようなものを獲得した。それは、当時の文化意識の一般的発展と並行していた。その文化意識は、大きな危機に打ち勝ち、プリニウス・チーゲンハルスのことばによると、「つつましい誇りをもって、古代後期、すなわちヘレニズム・アレクサンドリア時代の状態にほぼ相応する状態、つまり後期文化に属する役割に順応した」
チーゲンハルスはそう言っている。われわれはガラス玉演戯史の輪郭を書きあげるように努める。そうすると、音楽の研究室から数学の研究室に移るにつれ(その変化は、ドイツにおいてよりも、フランスとイギリスにおいていっそう急速に行われた)、演戯は、特別な記号と略号によって数学の過程を現わすことができるようになったことが、確認される。演戯者は、これらの抽象的な公式によって、それを相互に発展させて、奉仕し合い、数学の発展の系列や可能性を演じて見せ合った。このような数学的天文学的公式の演戯は、大きな注意力と緊張と集中とが必要だったので、当時すでに数学者のあいだでは、すぐれたガラス玉演戯者だという名声は、高く評価された。それは、きわめてすぐれた数学者だという名声と同等なものであった。
演戯は、ほとんどすべての学問によって、ある期間取り入れられ、模倣された。つまりそれぞれの分野に応用されたのである。古典言語学や論理学の分野に対しては、それが証明されている。音楽作品の分析的考察は、音楽の経過を物理的数学的公式で現わすようになった。少し遅れて、言語学もこの方法で研究を始め、物理学が自然現象を測ったのと同じ仕方で、言語形象を測り始めた。それに、造型美術の研究が加わった。この分野では、建築のほうから数学に対する関係がすでに早くから存在していた。この方法で得られた抽象的な公式のあいだには、常に新たな関係、類似、照応などが発見された。どの学問でも、この演戯をわがものにすると、その目的のために、公式や略語や可能な組合せによって演戯用語を作った。どこへ行っても、優秀な精神的な青年のあいだでは、公式の連続や公式の対話をもってする演戯が人気を得た。演戯は、単に練習や気晴らしではなく、精神訓練の集注された自覚であった。特に数学者は、禁欲的であると同時にスポーツマン的な巧妙さと形式上の厳格さをもってそれを行い、そこに楽しみを見いだした。彼らは当時すでに精神的な人間として、世俗的な享楽や努力を徹底的に断念していたが、それを容易にするのを助けたのは、この演戯の楽しみであった。フェユトンを完全に征服し、精神の精確な修練に新たな喜びを目ざめさせたことについては、ガラス玉演戯が大いにあずかっているのである。その精確な修練によってこそ、修道僧のような厳格さを持つ新しい精神訓練ができあがったのである。世界は変った。むやみに茂りはびこって、異常肥大に達した変質植物と、フェユトン時代の精神生活を比較することができよう。それに続く修正の時代は、植物を根もとまで刈りこむことになるのである。このとき精神的な研究に身をささげようと思った若い人々は、方々の大学をつまみ食いして歩くのを、研究だとは、もはや心得ていなかった。大学では、有名でおしゃべりではあるが、権威のない教授連から、昔日の高級な教養の名残りが提供されるにすぎなかった。かつて工科大学で技術家たちがしなければならなかったのと同様に、いや、もっと厳格に、もっと理路整然と、今や若い人々は学ばなければならなかった。彼らは、けわしい道を進まねばならなかった。数学と、アリストテレス的、スコラ的修練によって、思考能力を清め高めねばならなかった。そればかりでなく、その以前幾世代にもわたって学者たちが追求しがいのあるものとしていた財貨を、完全に断念することを学ばねばならなかった。つまり、手っとり早く金をもうけること、世間で名声を博し、尊敬を受けること、新聞でほめられること、銀行家や工場主の娘と結婚すること、物質的な生活でぜいたくに慣れ親しむことなどを、断念せねばならなかった。詩人で、多くの版を重ねる本や、ノーベル賞や、きれいな別荘を持っているもの、偉い医者で、勲章を持ち、召使に制服を着せているもの、大学教授で、富裕な妻とさんぜんたる客間を持っているもの、化学者で、工業の監査役の地位を占めているもの、哲学者で、フェユトン工場を持ち、満員のホールで魅惑的な講演をして、拍手を浴び、花束を贈られるもの。――そういう人物はみな消えてしまって、今日まで二度と現われなかった。もちろんそのときでもまだ天分のある青年で、そういう人物をうらやむべき手本と考えたものがたくさんいた。しかし、社会の尊敬とか、富とか、名声とか、ぜいたくとかへの道は、もはや講義室や研究室やドクトル論文を通ってはいなかった。精神的職業は、低落して、世間の目では破産してしまい、そのかわりに、精神に対するざんげ者的狂信的|帰依《きえ》を取りもどした。より多く栄光、あるいは裕福な生活をめざす才人たちは、無愛想《ぶあいそ》になった精神性に背を向けて、安楽と金もうけが自由にできるような職業を探し出さねばならなかった。
精神がみずからの浄化を求めて、どんなふうに国家の中にも浸透していったか。それを詳述するのは、行き過ぎとなるであろう。だらしのない、良心的でない精神のしつけの世代は、いくらも続かないうちに、実際生活をもいたくそこねたので、あらゆる高級な職業において、技術的な職業においても、能力と責任感が次第に乏しくなったことは、やがて人々の経験するところとなった。こうして国家と国民における精神の育成、特に、学校制度全体は、精神的な人々によっていよいよ独占された。実際、今日なおヨーロッパのほとんどすべての国々では、学校は、ローマ教会の統制のもとにないかぎり、優秀な精神的分子によって構成されるあの無名な宗団の手中にあるのである。この階級の厳格さと、いわゆる高慢とは、一般の人々の考えにとって往々きわめて不快であるかもしれないし、個々の人間はしばしばそれに対して反逆したかもしれない――しかし、その支配は依然として揺るがない。精神的なもの以外の財貨や利益を断念するという清廉潔白さが彼らをささえ守るばかりでなく、文明の存続のためには、こういう厳格な学校が必要だという、久しい前からの常識、あるいは観念もまた、彼らを守っている。だれでも知っている、あるいはほのかに感じていることであるが、思考が純粋でなくなり、ぼやけてくると、そして精神を尊重する気風がなくなると、たちまち船や自動車ももう正しく走らなくなり、技師の計算尺も、銀行や取引所の数学も、あやしくなり、権威がぐらつく。次いで来るのは混乱である。それにしても、技術、工業、商業など、文明の外面もまた、精神的道徳や誠実さのような共通の基礎を必要とするということが認識されるに至るまでには、ずいぶん長い時間がかかった。
さてその当時のガラス玉演戯にまだ欠けていたものといえば、普遍的になる力、つまり諸学科にこだわらないことであった。天文学者、ギリシャ語学者、ラテン語学者、スコラ哲学者、音楽学生などが、才気に富む規則で演戯を行なっていたが、演戯には、学科ごと、課目ごと、分科ごとに、独特のことばと規則の組織があった。この境界に架橋する第一歩がなされるまでには、半世紀かかった。そんなに暇どった原因は、疑いもなく、形式的技術的なものより、むしろ道徳的なものであった。つまり、架橋の手段はすでに見いだされたであろうが、課目や部類の混同というような「無用な事」に対する清教徒的な恐れ、遊びごとやフェユトンの罪に逆転することに対する深い正当な恐れが、新たによみがえった精神の厳格な道徳全体と、結びついていたのである。
さてガラス玉演戯をしてほとんど一挙にその能力を自覚させ、普遍的教養能力の関門にまで到達させたのは、一個の人間の業績であった。演戯にこのような進歩をとげさせたのは、今度もまた音楽と結びついたためであった。スイスの音楽学者で、数学の狂信的な愛好者でもあった人が、演戯に新しい方向を与え、それによって最高の展開への可能性を与えた。この偉大な人の市民としての名はもはや明らかでない。彼の時代は、精神的な領域における個人の崇拝ということを、もはや知らなかった。歴史では、バーゼルの遊戯者《ルゾル》(または道化師《ヨクラトル》)として伝わっている。彼の発明は、すべての発明がそうであるように、まったく個人的な仕事であり、恵みであったが、決して単に個人的な欲求や努力から生じたものではなく、もっと強い原動力に駆られていた。彼の時代の精神的な人々のあいだでは、至る所で、彼らの新しい思考内容を表現する手段を求める熱望が強く、哲学や総合にあこがれた。自分の課目にだけ閉じこもる従来の幸福では、物足りなく感じた。あちこちで、学者が専門学の限界を突破して、一般的なものへ進出を企てた。新しい精神的な体験をしっかりととらえ、交換することを可能にするような、新しい文字や象形語が夢みられた。そのころのパリの一学者の書物で、「シナ人の警告」という題を持っているのが、特に突っこんでその点を明らかにしている。この書物の著者は、その当時は多くの人々から一種のドン・キホーテとして嘲笑《ちょうしょう》されたが、彼の分野、すなわちシナ文献学では、名望の高い学者であって、学問や精神教育が、どんなにりっぱな態度をとろうと、国際的象形語を作りあげることを怠るならば、どんな危険に向って進んでいくかを、説明している。国際的象形語は、古いシナの文字に似て、個人的な空想や発明者の力を除外せずに、世界のすべての学者に理解されるような方法で、最も複雑なものをも図形で表現することを可能にするものである。この要求を満たすために、最も重要な一歩を踏み出したのが、ヨクラトル・バジリエンシス〔バーゼルの道化師〕であった。彼は、ガラス玉演戯のために、新しいことばの、つまり、象形語と公式語の原則を発明した。そこでは、数学と音楽が等分に取り入れられており、天文学の公式と音楽の公式を結びつけ、数学と音楽とをいわば公分母で割ることが可能にされた。発展はこれで終結したわけでは決してないが、われわれの貴重な演戯の歴史においてその後発展したいっさいのものの基礎は、バーゼルの無名氏によっで置かれたのであった。
ガラス玉演戯は、かつては、あるいは数学者の、あるいは言語学者の、または音楽家の特殊な娯楽であったが、今や次第に真に精神的な人々はみなその魔力に引きこまれた。古い大学や、秘密兵済結社会館で、この演戯に傾倒するものが少なくなかったが、特に東方巡礼者の非常に古い同盟がそうであった。二、三のカトリック宗団も、ここに新しい精神の空気をかぎつけて、これに没頭した。ことに二、三のベネディクト派修道院〔聖者ベネディクツス(四八○頃〜五五○頃)の始めた修道会。隠者生活から始まったが、学術、音楽、慈善などの事業にもたずさわるようになった〕は、この演戯に深く共鳴して打ちこんだので、その当時すでに、いったいこの演戯は教会と教父庁の側から容認さるべきか、支持さるべきか、それとも禁止さるべきかの問題が、緊急になった。それは後にも時折り再燃した問題であった。
バーゼル人のあの偉業以後、演戯は急速に発展して、完全に今日の状態に達した。つまり、精神的なものと芸術的なものとの総合となり、崇高な礼拝となり、文芸大学のいっさいの分離した部分の神秘的結合となった。それはわれわれの生活の中で、あるいは芸術の役割を、あるいは思弁哲学の役割を引き受け、たとえばプリニウス・チーゲンハルスの時代には、往々、魔術的劇場という表現でも呼ばれた。この表現は、フェユトン時代の文学に由来し、その時代には、夢想的な精神のあこがれの的をあらわしていた。
さて、ガラス玉演戯はその初めから、技術と素材の範囲との点で無限に発展し、演戯者に対する精神的な注文に関しては、高い芸術と学問になっていたが、あのバーゼル人の時代には、やはりまだ本質的なものが欠けていた。すなわちそれまでは、すべて演戯は、思想や美の多くの領域からの集約された表象を、並列し、秩序づけ、編成し、対立させることであり、超時間的な価値や形式を迅速に想起し、精神の国を巧妙に短時間に飛びぬけることであった。ずっと遅れて初めて、徐々に教育部の精神財の中から、特に東方巡礼団の慣習の中から、冥想《めいそう》という概念が演戯の中にはいってきた。記憶術の名人が、他に取り柄がないのに、目を奪うような巧妙な演戯をやり、無数の表象をすばやくつぎつぎと並べて、相手を煙《けむ》に巻き、混乱させる、という弊害が著しくなっていた。そこで、そういう名人芸は徐々に漸進的にきびしく禁止されるようになった。そして冥想が演戯の非常に重要な要素となった。いや、どの演戯の観衆にとっても聴衆にとっても、冥想が主要なことになった。それは宗教的なものへの転向であった。もはや単に、演戯の中に続いて出てくる理念や精神的なモザイク全体を、すばやい注意力と練達の記憶力で知的に追っていくだけではいけなくなり、より深い霊的な献身が必要となった。すなわち、その時々の演戯指導者が記号を出現さすと、必ずその記号について、その内容、由来、意味について、静かな厳しい観察が行われた。それによって、共演者はみな、記号の内容を強く有機的に思い浮べるように強いられた。宗団や演戯団の団員はみな、英才学校で冥想の技術と実習を学んできた。その学校では、冥想沈思の術に最大の注意がはらわれた。それによって、演戯の象形文字が単なる文字に退化しないように留意された。
それにしても、そのころまでは、ガラス玉演戯は、学者のあいだで愛好されたにもかかわらず、純粋に個人的な行為にとどまった。それをするのは、ひとりでも、ふたりでも、おおぜいでもできた。もちろん、特に精神の豊かな、よく組み立てられ、成功した演戯は、往々記録され、町から町へ、国から国へ知られ讃嘆され、批判されたが、演戯が徐々に、公の祝典となって、新しい働きを加え始めたのは、ようやくこのごろである。今日でも、個人的な演戯をすることはだれでも自由で、特に若い年輩の人々によって熱心に行われている。しかし今日では、「ガラス玉演戯」といえば、だれしもまず荘重な公の演戯を考えるのである。それは、どの国でもルディ・マギステルすなわち演戯名人を首班とする少数のすぐれた名人の指揮の下に行われ、招かれたものはうやうやしく耳を傾け、世界至る所の聴取者は注意力を緊張させる。この演戯の中には、数日、数週かかるものが少なくない。そのような演戯が祝われているあいだは、演戯者も聴取者もことごとく、睡眠時間に及ぶまで精確に定められた規定に従って生活する。絶対的沈潜の節欲と没我の生活であって、聖イグナチウスの業《わざ》の一つに加わるものが行う厳格に規制されたざんげ者の生活にも比較される。
これ以上付言することはあまりあるまい。この演戯中の演戯は、あるときはこの学問の、あるときはあの学問の、または芸術の支配の下に、というふうに、変ったものの支配を受けたが、一種の世界語に発達した。その世界語によって演戯者は、意味深い記号で価値を現わしたり、相互に関係づけたりすることができた、いつの時代にも、演戯は音楽と密接な関連を持ち、たいてい、音楽あるいは数学の規則に従って行われた。一つの主題、二つの主題、三つの主題がきめられ、演奏され、変奏され、フーガあるいは協奏曲の楽章の主題とまったく同様の運命を受けた。たとえば、演戯は、任意の天文学上の星の位置、あるいはバッハのフーガの主題、あるいはライプニッツまたはウパニシャド〔奥義書と訳される。サンスクリットで書かれた古代インドの一群の哲学書。秘密伝受の書〕の一文から出発することができた。そして、その主題から出発し、演戯者の意図や天分に応じて、呼び起された主導思想をさらに発展させ完成させるか、あるいは同種の表象を想起さすことによって表現を豊かにすることができた。初心者は、古典音楽と自然法則の公式とのあいだに、演戯記号によって対比を作ることができたとすれば、達人や名人は、演戯を初めの主題から無限の組合せまで自由に進展させた。ある演戯者の流派では、長いあいだ特に法則と自由、個人と社会というような二つの敵対する主題や理念を、並列させたり、対抗させたりし、最後に調和的に結合させることが愛好された。そのような演戯では、二つの主題もしくは定立を完全に同価値に不党不偏に展開させ、定立と反立とからできるだけ純粋に総合を発展させることに、大きな値打ちが置かれた。総じて、天才的な例外は別として、否定的な、あるいは懐疑的、非調和的な結果に終る演戯は好まれず、ときにはきっぱり禁止された。それは、演戯が高潮に達したとき演戯者にとって持った意味と、深い関連を有していた。それは、完全なものを追求する象徴的な形式の粋を、崇高な錬金術を、いっさいの形象と万象とを越えて内的一致を保つ精神、すなわち神への接近を、意味していた。昔の敬虔《けいけん》な思想家が、被造物の生命を神に至る途上にあるものとして現わし、現象界の多様さは神の統一において初めて完成され、究明されると見たように、まったく同様に、ガラス玉演戯の図形や公式は、すべての学問と芸術によって培《つちか》われた世界語で、建築し、音楽し、哲学した。そして演戯しながら、完全なものに向って、純粋な存在に向って、残りなく充足された現実に向って努力した。「実現する」というのが、演戯者たちの好む表現であった。そして自分たちの行為は、生成から存在へ、可能なものから実在するものへの道である、と感じていた。前に引用したニコラウス・クザーヌスの文章をここでもう一度思い出してほしい。
それはそうと、キリスト教神学の表現も、古典的に公式化され、そのため一般の文化財となっているように思われるかぎり、もちろん演戯の記号用語の中にいっしょに取り入れられた。たとえば、信仰の主要概念の一つ、聖書のある個所の文句、ある教父の一文、ラテン語のミサの一文などは、幾何学の公理やモーツァルトのメロディーと同様に、容易に精確に表現され、演戯の中に取り入れられた。演戯は、およそ自己の神学を持たなかったにもかかわらず、真のガラス玉演戯者の狭い範囲では、ほとんど神の礼拝と同じ意義を持っていたとあえて言っても、言いすぎではない。
非精神的な世俗の勢力のただ中にあって、存続のために戦っていくのに、ガラス玉演戯者もローマ教会も極度に依存し合っていたので、両者のうちいずれか一方に態度をきめるというようなことはなかった。もっとも、そうするように促される機会はしばしばあった。なぜなら、両者の勢力のどちらをも、知的な誠実さと、鋭い明白な公式を求める潔癖な衝動が、分離へ駆りたてたからである。しかし、分離は一度も行われなかった。ローマは、演戯に対し、あるときは好意的な、あるときは拒否的態度をとることで満足した。実際、修道会や、上級の聖職者階級や最上級の聖職者階級でも、最もすぐれた天分のあるもので、この演戯者に加わっているものが少なくなかった。また、演戯のほうも、公開の演戯が行われ、演戯名人が存在するようになってから、宗団と教育庁の保護のもとに立っていた。そしてこの両者は、ローマに対し、常にいんぎんそのもの、騎士道そのもののような態度をとった。法王ピウス十五世は、枢機官のときはすぐれた熱心なガラス玉演戯者であったが、法王になると、前任者と等しく、演戯から永久に手を引いたばかりでなく、演戯を起訴しようとさえした。そのときは、カトリック教徒には演戯が禁じられそうになった。しかし、それまで行かないうちに、法王は死んだ。そして、この凡庸でない人物の伝記は、しきりに読まれたが、それはガラス玉演戯に対する彼の関係が深い情熱の関係であったことを示していた。法王となってからは、敵対的な形をとることによって、かろうじてその情熱を、制御することができたのであった。
この演戯は、昔は個人や仲間によって自由に行われていたが、もちろんもう久しく教育庁の好意ある奨励を受けていた。これが公の組織を持つようになったのは、まずフランスとイギリスにおいてであって、他の国々もかなり急速にこれにならった。どの国でも、演戯委員会と、演戯名人という称号を持つ最高演戯指導者が定められた。名人が親しく指導して行う公式の演戯は、精神的な儀式に高められた。名人はもちろん、精神の育成にたずさわるすべての高位高官がそうであったように、匿名であった。二、三の側近を除いては、だれもその個人的な名を知らなかった。演戯名人が責任を負う公式の大演戯にかぎって、ラジオその他の公式の国際的普及手段を利用することができた。公の演戯の指導のほかに、演戯者と演戯学校との助成が、名人の義務になっていた。しかし何よりも名人たちは演戯の発展を極度に厳格に監視せねばならなかった。(今日ではもうほとんど起らないことだが)、新しい記号や公式を演戯の目録の中に取りあげるかどうか、ときとしてあることだが、演戯規則を拡大すべきかどうか、新しく包含される領域が好ましいか、それともなくてもよいか、そういうことについては、あらゆる国々の名人たちの構成する世界委員会がもっぱら決定した。演戯を精神的な人々の一種の世界語と見れば、名人の指導下にある各国の演戯委員会は全体として、この世界語の現状、発展、純粋さの維持などを監視する学士院にあたる。各国の委員会は、演戯記録を、つまり、これまで検討され認可された記号やかぎの全体を所有している。その数はとっくに、古いシナの文字の数よりずっとずっと多くなっていた。一般に、ガラス玉演戯者の予備教育としては、学問的な上級学校の、特に英才学校の最後の試験を終えておれば、十分とされる。もっとも、主要な学問の一つ、あるいは音楽に、普通以上に熟達することが、暗黙のうちに前提とされた。いつかは演戯委員会の委員になること、できることなら、演戯名人にまでなることが、英才学校にいる十五歳の少年たちほとんどすべての夢であった。しかし、学士試験受験者の中にはもう、ガラス玉演戯とその発展に進んで奉仕する野心をまだ本気に持ち続けるものは、ごく小部分しかいなかった。そのかわり、演戯の愛好者はみな、演戯学や冥想《めいそう》を熱心に修練した。彼らは、「大」演戯の際、敬虔な献身的な共演者の中核の仲間を作った。それが、公の演戯に祭典のような性格を与え、演戯が単なる装飾的行為に堕落するのを防止するのである。これらの本当の演戯者や愛好者にとっては、演戯名人は王侯か高僧であり、ほとんど神のようなものである。だが、およそ独立した演戯者にとっては、いや、名人にとっても、ガラス玉演戯はまずだいいちに音楽することである。それはだいたい、ヨーゼフ・クネヒトが古典音楽の本質について次のように述べた意味においてである。
「われわれは、古典音楽をわれわれの文化の精粋であり、総合であると考える。それはわれわれの文化の最も明らかな独特な姿態であり、発現であるからである。この音楽の中には、古代とキリスト教との遺産が、朗らかで勇敢な信仰の精神が、しのぐことのできない騎士道の道徳が、含まれている。なぜなら古典的な文化の姿態はすべて結局、道徳を、人間の行動を一つの姿態に凝縮させて作った模範を、意味するからである。一五〇〇年から一八○○年のあいだに、さまざまな音楽が作られ、様式と表現手段は多種多様をきわめているが、精神は、というよりむしろ道徳は、いかなる場合にも同一である。古典音楽に現われている人間的な態度は常に同一である。この人間的な態度は常に、同じ種類の人生認識にもとづき、偶然を同じように超脱しようと努める。古典音楽の態度は、すなわち人間性の悲劇を知り、人間の運命を肯定し、勇敢であり、明朗であることを意味する! それがヘンデルやクープランのメニュエットの優雅さであるにせよ、多くのイタリア人やモーツァルトに見られるような、やさしい態度にまで昇華した感性であるにせよ、バッハに見られるような、静かな沈着な死の覚悟であるにせよ、常にその中には、抵抗心、死を恐れぬ勇気、騎士道などがあり、超人間的な笑いと、死ぬことのない明朗さとが鳴りひびいている。われわれのガラス玉演戯でも、そのようにひびかなければならない。われわれの生活や行為や苦悩の全体においても、同様でなければならない」
このことばはクネヒトのひとりの弟子によって書きとめられた。それをもってわれわれはガラス玉演戯に関する考察を終える。
[#改ページ]
演戯名人、ヨーゼフ・クネヒトの伝記
第一章 召命
ヨーゼフ・クネヒトの素姓についてはわれわれは何も知らない。英才学校の多くの他の生徒たちのように、彼は両親を早く失ったか、教育庁によって、好ましくない環境から遠ざけられて、引きとられたかしたのである。いずれにしても、彼は英才学校と両親の家との衝突に苦しまずに済んだ。その衝突のおかげで、青春時代を悩み、宗団にはいるのを妨げられたものが、彼と同じような青年の中に少なくなかった。また、そのおかげで、往々非常に天分のある青年たちが、やっかいな問題的な性格になっている。クネヒトは、まったくカスターリエン〔ギリシャのカスターリア(詩的感激を象徴するデルフィの聖なる泉)からヘッセが作った地名。芸術的な香気の高いユートピア〕のために、宗団のために、教育庁で勤務するために、予定され、生れてきた観のある、幸福な人間のひとりだった。彼とて、精神生活の疑問を全然知らずにすごしたわけではないが、およそ精神にささげられた生活に固有の悲劇を体験したとしても、個人的な苦汁を味わわずに済んだ。ヨーゼフ・クネヒトの人格に立ち入った考察をささげるように、われわれを誘ったものは、おそらくこの悲劇そのものではなくて、むしろ、彼が運命や天分や使命を実現させた静かな朗らかな、それどころか輝かしいやり方である。すべて非凡な人がそうであるように、彼は彼の魔神と運命の愛とを持っている。しかし彼の運命の愛は、暗さや狂信を伴っていない。もちろん、われわれには、隠れているものはわからない。また歴史を書くということは、どんなに冷静に、事柄に即するという善意を持ってしたとしても、常に創作であり、その第三の次元は虚構である、ということを忘れようとは思わない。だから、大きな例を選べば、ヨハン・セバスチアン・バッハ、あるいはW・A・モーツァルトは、実際朗らかに暮したのか、重くるしく暮したのか、われわれはまったく知らない。われわれにとって、モーツァルトは、早熟の人に特有な、胸をときめかせ、愛を呼びさます優美さを持ち、バッハは、苦しみ死ななければならない運命を、父なる神の意志として、それに服従しているところが、われわれの心を高め、慰めてくれる。しかし、そういうことをわれわれが読みとるのは、実際は彼らの伝記や、私生活の中に伝えられている事実からではなく、彼らの作品、すなわち音楽からなのである。さらに、バッハの伝記を知っており、そのおもかげを音楽によって思い浮べるわれわれは、知らず知らずバッハというものにその死後の運命を付け加える。すなわち、彼の全作品が死後すぐに忘れられ、彼の原稿は反古《ほご》として埋もれ、彼のかわりに、むすこのひとりが「大バッハ」となって、成功をおさめ、彼の作品は復活の後、フェユトン時代の誤解と蛮行のまっただ中に落ちこんだというようなことを、彼は、生きているうちにすでにある程度知っており、それを微苦笑し、沈黙していた、とわれわれは空想する。同様に、モーツァルトが生きているうち、健康な創作の全盛時代に、死の手に守られていることを知り、あらかじめ死によって包まれていたのだ、とわれわれは認めたり、想像したりしがちである。ある作品が存在すれば、歴史家は、そうするよりほか仕方がないのであって、作品はその作者の生活と生きた一体をなすものの半分で、二つではあるが、不可分だと、まとめて考える。われわれは、モーツァルトやバッハに対してそうするように、クネヒトに対してもそうする。もっとも彼は、われわれの本質的には創造的でない時代に属しているので、両巨匠の意味での「作品」は遺《のこ》さなかったけれど。
クネヒトの生活をあとづける試みをすることによって、われわれは彼の解釈をすることになる。彼の生活の最後の部分については、ほんとに確実な報告はほとんどまったく欠けていることを、われわれは歴史家として深く残念に思わずにはいられないが、クネヒトの生活の最後の部分が伝説になっているという事情こそ、まさにわれわれの企てに対して勇気を与えた。われわれはこの伝説を取りあげ、それに異論をさしはさまない。それが単に敬虔《けいけん》な創作であろうがなかろうが、同じことである。クネヒトの誕生や素姓について何も知らないように、われわれは彼の最期についても何も知らない。しかし、その最期は偶然なものであったろうと推定する理由は少しもない。知られているかぎりでは、彼の一生ははっきりした段階をなして築かれている。彼の最期を推測する際、進んで伝説に結びつき、それを信じるに足るものとして取りあげるのは、伝説の語るところが、その一生の最後の段階として、それまでの段階に完全に相応するように見えるからである。その一生が伝説の中に溶けこんでいくのは、われわれには有機的で正しく思われることをさえ、われわれは認める。それはちょうど、一つの星がわれわれの目から消えさり、われわれにとっては「没して」しまったとしても、その存続を信じる心をいささかも動揺させはしないのと同様である。ヨーゼフ・クネヒトは、われわれすなわちこの記録の筆者と読者とが生きている世界のうちで、およそ考えられる最高の境に達し、最高のことを成しとげた。つまり、演戯名人として、精神的に教養のあるものや精神的に努力するものの指導者となり、模範となり、伝えられた精神的遺産を模範的に管理し、豊富にし、われわれひとりびとりが神聖視する神殿の祭司長であった。しかし彼は、名人の域に、すなわちわれわれの聖職制度の最上位の席に達し、これを占めたばかりでなく、彼はそれを踏み越え、われわれには恭敬の念をもってするほか感ずることのできない次元にはいってしまった。そういうわけであるから、彼の伝記も普通の次元を乗り越えて、最後に伝説の中に移っていったのも、まったく当然であり、彼の一生に相応しているように思われる。われわれはこの事実の尋常でない点を受け入れ、それを楽しむが、あまりにあれこれと解釈を加えようとは思わない。しかし、クネヒトの一生はまったくはっきりしたある一日までは歴史であったのだから、そうであるかきり、われわれはそれを歴史として取り扱おう。また、伝承を、それがわれわれの研究に提供されているままに精確に記録するように努力した。
彼の子どもの時代、つまり、英才学校入学以前の時代については、たった一つの事件を知っているだけである。しかしそれは、象徴的な意味を持つ重要な事件である。それは、精神が彼に向って初めて大きな呼びかけをしたこと、彼の召命の第一幕を意味するからである。そして、この最初の呼びかけが、学問の側からでなく、音楽の側から来たのは、注目に値する。伝説のこの一小部分が残っているのは、クネヒトの私的生活のほとんどすべての思い出がそうであるように、ガラス玉演戯の一生徒の記録のおかげである。それは忠実な崇拝者であって、彼の偉大な師のことばや物語をたくさん書きとめておいたのである。
クネヒトはその当時、十二、三歳であったに違いない。ツァーバー森のはずれにある小さい町ベロルフィンゲンのラテン語学校の生徒であった。この町はおそらく彼の生地でもあったろう。この少年はすでにかなり長いあいだラテン語学校の給費学生であり、教師一同から、特に音楽の教師からは最も熱心にすでに二度三度、英才学校へはいれるように、最高の役所に推薦されていたが、彼自身は、そのことについて何も知らず、選抜された学生や、最高教育庁の名人たちと会ったこともなかった。そのころ彼は(ヴァイオリンとリュートを習っていた)、まもなくきっと音楽名人がベロルフィンゲンにおいでになり、学校の音楽の授業を視祭されるだろうから、お前はよく練習をしておいて、困ることのないように、先生を困らせることのないように、と音楽の先生から言われた。この知らせは少年を極度に興奮させた。もちろん彼は、音楽名人がだれであるかをよく知っていたからである。また、年に二度やって来る視学官などのように、教育庁のどこか高い部局から来るばかりでなく、十二人の半神のひとり、あの尊い役所の十二人の最高指導者のひとりであって、国全体にわたって音楽に関するいっさいの事柄の最高の判定者である、ということを、少年はよく知っていたからである。音楽名人が親しくベロルフィンゲンにおいでになる、というのである! 少年ヨーゼフにとって音楽名人よりなおいっそう伝説的で神秘的な人物は、この世にただひとりしかいなかった。すなわちガラス玉演戯名人だけであった。前触れされた音楽名人に対し、彼は、来ないうちからもう、途方もなく大きな不安な畏敬《いけい》に満たされ、その人を、あるときは王さまのように、あるときは魔法使いのように、あるときは、十二使徒のひとりのように、あるいは古典時代の伝説的な大芸術家のひとり、たとえばミヒャエル・プレトリウスとか、クラウディオ・モンテヴェルディとか、J・J・フローベルガーとか、J・S・バッハとかのように想像した。そして、この星の現われるときを深く楽しみにすると同様に、そのときに対し恐れをいだいた。半神のひとり、首天使のひとりが、精神界の神秘的な全能な支配者のひとりが、この小さい町に、ラテン語学校に親しくお見えになって、自分をごらんになるのだということ、名人がたぶん自分にことばをおかけになり、試験をなさり、とがめたり、ほめたりなさるのだということ、それはたいしたことであり、一種の奇蹟《きせき》、天変であった。実際、先生たちの断言によると、音楽名人が親しくこの町と小さいラテン語学校を訪れるのは、数十年来初めてのことであった。少年は、目前に迫っていることを想像して、さまざまの光景を描き出した。何よりも、大きな公式の祝典や、新しい市長の就任の際見たような歓迎を思い浮べた。ぴかぴか光る吹奏楽器、旗のひるがえる町。そればかりか、たぶん花火があがるだろう。クネヒトの友だちたちもそういう想像と希望をいだいていた。ただ、自分はこの偉い人の間近に行って、大家の前で音楽をかなで、質問に答えるとき、いたたまれない恥をかくかもしれない、と考えると、少年の喜びの期待は曇らされた。しかし、この不安は、悩ましいばかりでなく、甘くもあった。旗を立てたり、花火をあげたりして待ち受けているお祝いも、自分という小さいヨーゼフ・クネヒトがその人を間近で見るのだという事態、いや、その人はいくらかは自分のため、このヨーゼフのためベロルフィンゲンを訪れるのだという事情ほど、すてきではない、胸をときめかせはしない、重大でもない、なんといってもそれほどすばらしく楽しくはない、と彼は心ひそかに、口にこそ出さないが、そう思っていた。その人は、音楽の授業を試験するために来るのだし、音楽の先生は、彼が試験されることはまぎれもなく可能だと考えていたからである。
だが、おそらく、悲しいことながら、たしかにそういうふうにはならないだろう。そんなことはほとんどありえなかった。きっと名人は、小さい男の子にヴァイオリンをひかせるなどということよりほかにすることがおありになるだろう。もっと年上の最上級生にだけお会いになり、その音楽をお聞きになるだろう。そういうことをいろいろ考えながら、少年はその日を待ち受けた。その日は来たが、幻滅でもって始まった。往来には音楽がひびかず、家々には旗も花輪もかけられなかった。毎日と変りなく、本と帳面を持って、いつもの授業に行かねばならなかった。教室にも装飾やお祝いらしさの気配さえなく、万事ふだんの日と同じようだった。授業が始まった。先生はいつもと同じ不断着を着ており、偉い賓客のことは一言半句も述べなかった。
だが、二時間めか、三時間めに、やっぱりいよいよ来た。ドアをノックする音がして、学校の小使がはいってき、先生にあいさつして、ヨーゼフ・クネヒトという生徒を十五分のうちに音楽の先生のところによこすように、きちんとくしを入れ、手や指の爪をきれいにするように気をつけて、と告げた。クネヒトは驚きのあまりあおざめ、よろめきながら学校を出て、寄宿舎にかけこみ、本を置き、手を洗い、くしを入れ、ふるえながらヴァイオリンのケースと練習帳を取り、のどを詰らせながら、増築された方にある音楽室へ行った。興奮した同級生が階段で彼を迎え、練習室を指さして「呼ばれるまで、ここで待っているんだって」と告げた。
待つ身から解放されるまで、長い時間ではなかったが、彼には永遠のように思われた。だれも彼を呼んだのではなく、男の人がひとりはいってきただけだった。初めはひどく年寄りのように思われた。あまり大きくはない白髪の人で、美しい明るい顔をしており、鋭く見抜くようなまなざしの淡青色の目を持っていた。恐ろしいようなまなざしではあったが、鋭いばかりでなく、朗らかでもあった。笑ったりほほえんだりする朗らかさではなく、静かに輝く落ちついた朗らかさであった。彼は少年と握手し、うなずきかけ、古い練習用ピアノの前の小さいいすに静かにこしかけて言った。「君がヨーゼフ・クネヒトだね? 先生は君に満足しているようだ。先生は君が好きなんだね。さあ、いっしょに少し音楽をやろう」クネヒトはもうその前にヴァイオリンをケースから出していた。老人はイ音を鳴らした。少年はそれに合わせた。それから少年は音楽名人を物問いたげにおずおずと見つめた。
「君は何がひきたいかね?」と名人は尋ねた。生徒は答えることができなかった。老人に対する畏敬に、あふれるばかりに満たされていたのだった。こういう人はまだ見たことがなかった。ためらいながら彼は楽譜を取って、老人に差し出した。
「いや」と名人は言った。「君がそらでひけるものがいい。練習曲ではなくて、何か簡単な、そらでおぼえているもの、君の好きなリートでも」
クネヒトはどきまぎしていた。この顔と目に魅せられて、返事をしなかった。どぎまぎしているのをひどく恥じたが、何も言うことができなかった。名人はせきたてはせず、一本の指で、あるメロディーの最初の数音を鳴らし、尋ねるように少年を見つめた。少年はうなずいて、そのメロディーをすぐに楽しげに合わせてひいた。それは、学校でたびたび歌われた古いリートの一つであった。
「もう一度!」と名人は言った。クネヒトはメロディーをくり返した。老人は今度はそれに続け、第二声部をひいた。古いリートが二声で小さい練習室にひびいた。
「もう一度!」
クネヒトはひいた。名人はそれと合わせ、第二声部をひき、さらに第三声部をそれに付け加えた。美しい古いリートが三声でへやにひびいた。
「もう一度!」名人は三つの声部をひき足した。
「美しいリートだ!」と名人は小声で言った。「今度はそれをアルトの音域でひきなさい!」
クネヒトはそれに従ってひいた。名人は最初の音を出してやり、さらに三つの他の声部をひいた。くり返し老人は「もう一度!」と言った。そのたびごとにいっそう楽しげにひびいた。クネヒトはメロディーをテノールでひき、絶えず二つないし三つの対声付きで伴奏してもらった。ふたりはいくどもそのリートをひいた。もはやわからせ合う必要はなく、くり返すごとに、リートはまったくひとりでに装飾音とからみ合いの度合いを増していった。小さい殺風景なへやには、楽しい午前の光がさし、はなやかな音が反響した。
しばらくして、老人はやめ、「もう十分かい?」と尋ねた。クネヒトは頭を振って、新たにひき始めた。相手は三声で朗らかに加わった。四つの声部が細い澄んだ線を引き、互いに話し合い、ささえ合い、交差し、朗らかな弓形と図形を描いてもつれ合った。少年と老人は、他のことはもう何も考えず、美しい結ばれ合っている線や、ぶつかり合ってできていく音形に没頭し、その網の中にとらえられて音楽を続け、軽くいっしょにからだを揺すり、目に見えない楽長に従った。またメロディーが終ったとき、名人は頭をうしろに向けて、「気に入ったかい、ヨーゼフ?」と尋ねた。
感謝に顔を輝かせて、クネヒトは名人を見つめた。明るく輝いてはいたが、一言も発しはしなかった。
「君はもう知っているかい、フーガって何か」とそこで名人は尋ねた。
クネヒトはいぶかしげな顔をした。もうフーガを聞いてはいたが、授業にはまだ出てきたことがなかった。
「よろしい」と名人は言った。「それじゃ、わしが教えてあげよう。ふたりでフーガをやってみれば、いちばん早くわかる。そこでだ、フーガには何よりも主題が必要だが、時間をかけて探さずに、われわれのリートから主題を取ろう」
彼は短い音列をひいた。リートのメロディーの一小部分だった。切り取られたように、頭も尾もなく、不思議にひびいた。彼はその主題を重ねてひいた。そうして進んでいった。早くも第一の入りが来た。第二の入りは五度の音程を四度の音程に変え、第三の入りは第一の入りを一オクターヴ高くくり返した。同様に第四の入りは第二の入りをくり返した。提示部は属音の調べの終止形で終った。第二段の展開部は、もっと自由に他の調べへ移った。第三段の展開部は、下属音への傾向をもって、主音上に終止して終った。少年は、ひいている人の巧みな白い指を見つめ、その緊張した顔にフーガの展開の過程がかすかに反映しているのを見た。目は半ば閉じたまぶたの下でじっと動かなかったけれど。――少年の胸は、名人に対する尊敬と愛とにわき立った。彼の耳にはフーガが聞えた。彼はきょう初めて音楽を聞くような思いがした。目の前でできていく曲の背後に、法則と自由、奉仕と支配とを楽しく調和させる精神を、彼はほのかに感じ、この精神に、この名人に心を打ちこんだ。そして一身をささげようと誓った。この短いあいだに彼は、自分と自分の一生と世界全体が音楽の精神に導かれ、整えられ、説きあかされているのを見た。演奏が終ったとき、尊敬する魔法使いで王さまでもある老人がなおしばし鍵盤《けんばん》の上に軽く前かがみになって、まぶたは半ば閉じているけれど、顔は内部からかすかに輝かせているのを、少年は見た。そして、この瞬間の浄福に歓喜の声をあげるべきか、それが過ぎ去ってしまったことに涙を流すべきか知らなかった。そのとき、老人はピアノのいすからゆっくり立ちあがり、朗らかな青い目で、貫くように、同時になんともいえずやさしく少年を見つめて言った。「音楽をしているときほど、ふたりの人間がたやすく友だちになれることはないよ。これは美しいことだ。われわれは、君とわしはいつまでも友だちでいられるだろうね。君もたぶんフーガを作ることをおぼえるだろう、ヨーゼフ」こう言って、老人は少年と握手して出かけた。戸口で、彼はもう一度ふりかえり、丁寧に頭をちょっとさげ、ひと目見て、別れのあいさつをした。
クネヒトはずっと後になって、自分の弟子に次のように語った。家を出ると、町と世界が、旗や花輪やリボンや花火で飾られている場合より、ずっと変り、魔法にかかっているように見えた。召命の経過を体験したのだった。聖礼と呼んでもよいだろう。つまり、それまでは少年の心がただ聞き伝えか、熱く燃える夢によって知っていた理想の世界が、目に見えるようになり、戸を開いて招いているのであった。この世界は、どこか遠い所に、過去あるいは未来に、存在していたばかりでなく、すぐそこにあって活動し、光を放ち、使者を、使徒を、代表を、この老名人のような人を送り出した。ついでながら、この名人は、後にはヨーゼフにもそう思われたのだが、実際はそんなにひどく年をとってはいなかった。あの世界から、こうした尊い使者の一人を通じて、彼のような小さいラテン語学校生徒にも、督促と呼びかけが発せられたのである! あの体験は彼にとってこういう意味を持っていた。数週間たつと、あの神聖なひとときの魔術的なできごとに、現実の世界のできごとがぴたりと相応していたこと、あの召命は単に彼一個の魂と良心の中で行われた祝福と督促であるばかりでなく、この世の権力の贈り物と督促が彼に対してなされたのだということを、彼はほんとに知り、確信した。音楽名人の訪れは、偶然でも、ほんとの学校視察でもなかったことを、いつまでも秘密にしておくことはできなかったからである。クネヒトの名はもう久しい前から、彼の先生たちの報告にもとづいて、英才学校で教育を受ける資格があると思われたか、あるいは最高の役所に、その目的で推薦された生徒たちの名簿にのっていたかしたのである。この少年クネヒトは、ラテン語のできる生徒として、また好ましい性格のものとしてほめられていたばかりでなく、さらに特に音楽の教師によって推賞されていたので、音楽名人は、公用旅行のついでにベロルフィンゲンに数時間をさいて、この生徒を親しく見ることにしたのであった。その際、彼が問題にしたのは、ラテン語のことや指さきの技巧など(その点では彼は、教師たちの採点に信頼し、その点検に一時間もかけたほどである)ではなくて、この少年の人となり全体に、高い意味で音楽家になる素質、感激し、秩序に従い、畏敬をいだき、礼拝に奉仕する素質があるかどうか、ということであった。一般に、公立の上級学校の教師は、もっともな理由から、生徒を「英才」として決して気前よく推薦はしなかったが、それでもなお多かれ少なかれ不純な意向から、えこひいきの行われることはあった。ある教師が、眼識不足から、勤勉で名誉心があり、教師に対して利口に立ちまわるという以外には、さして取り柄のないお気に入りの生徒を頑強《がんきょう》に推薦するということも、珍しくなかった。こういうやり方をあの音楽名人は特にきらっており、試験される生徒が今自分の将来や進路が問題になっていることを意識しているかどうかを見抜く目を持っていた。彼に対してあまり巧妙に、あまり意識的に、利口に振る舞い、こびへつらう試みをするような生徒は、おあいにくだった。そういう生徒は、しばしば試験が始まらないうちに、もう退けられてしまっていた。
さてクネヒトは老音楽名人の気に入った。非常に気に入った。旅を続けているあいだも、彼は楽しげにクネヒトのことを思い返した。クネヒトについてメモや点数を帳面に書きつけることはせず、生き生きしていてつつましい少年の思い出を心にいだき、帰ってくると、手ずからクネヒトの名を名簿に書きこんだ。最上級の役所の一員がみずから試験し、入学の資格があると認めた生徒の名簿に。
それは、ラテン語学校生のあいだでは「黄金の書」と呼ばれていたが、ときとしては「点取り虫目録」という失礼な名称も生徒にとっては行われていた――この名簿について学校で時折り語られるのを、ヨーゼフは耳にした。もっともまったく異なったいろいろな調子で語られるのであった。ある先生がこの名簿について述べる際は、ある生徒に対して、お前のような少年はもちろんそんなところまで行くなんて思いもよらない、と訓戒するためにすぎないにせよ、その調子には一種改まった敬意があり、もったいぶったふしもあった。ところが、生徒たちが点取り虫目録のことを口にする場合は、たいてい鉄面皮な調子で、無関心さをいくらか誇張するのであった。あるときヨーゼフはひとりの生徒がこう言っているのを聞いた。「なんだ、おれはあんな愚劣な点取り虫目録なんか、つばをひっかけてやるぞ! 男一匹なら、あんな中にはいりゃしない。それは確かなものさ。あすこに先生が送りこむのは、モグラモチの選《え》り抜きか、はいつきバッタに限ってるさ」
あの美しい体験に続いて妙な時期が来た。彼は今自分が「エレクティ」〔選ばれたもの〕、「フロス・ユヴェンツティス」〔若人《わこうど》の花〕のひとりになっているのを、初めのうちはまったく知らなかった。宗団では英才学校の生徒をそう呼んでいた。当座は、あの体験が自分の運命や日常に実際上の結果を及ぼし、身近に感じられるような影響をもたらすとは、少しも考えていなかった。彼の先生たちにとって彼はすでに優等生として卒業してゆくはずのものであったが、彼自身はあの召命をほとんど自分自身の内心のできごととして体験しているにすぎなかった。それは彼の生活に作られた鋭い切れ目でもあった。魔法使いとのひとときは、彼の、心の中にすでにほのかに感じられていたものを実現させた、少なくとも接近させたのであるが、まさにあのひとときによって、きのうがきょうから、過去が現在と未来とからはっきり分けられたのであった。ちょうど、夢から呼びさまされたものが、夢の中で見たのと同じ環境の中に目をさましていても、さめていることを疑いえないようなものである。召命の種類と形はたくさんあるが、体験の核心と意味とは常に同一である。つまり、それによって魂が呼びさまされ、変えられ、あるいは高められて、内部からの夢や予感のかわりに、突然外部からの呼びかけが行われ、一片の現実が現われ、干渉するのである。この場合、一片の現実はすなわち名人の姿をとっていた。はるかな尊い半神的人物としてだけ知られていた音楽名人、天の最も高い所にいる首天使が、親しく現われたのであった。いっさいを知る青い目を持っていた。練習用のピアノのいすにこしかけ、ヨーゼフといっしょに音楽をなさった。すばらしくおひきになった。ほとんどことばを用いずに、いったい音楽は何であるかをお示しになった。彼を祝福して、また消えてしまわれた。それから続いてどういうことが起り、どういう結果が生じるだろうか、それを考えてみることは、クネヒトには当初はまったくできなかった。そのできごとの直接の内的な反響に、彼はあまりにも心を満たされ、夢中になっていたからである。これまで静かにためらいがちに成長してきた若い植物が、奇蹟の一時間のうちに突如として自分の形態の法則を意識し、熱烈にその実現をめざして努力でもするかのように、急にはげしく呼吸し伸び始める、ちょうどそんなふうに、少年は、魔法使いの手に触れられると、急速に切実に自分の力を集中し緊張させ始め、自分の変化、成長を感じ、自分と世界とのあいだに新しい緊張と新しい調和を感じ、音楽やラテン語や数学の時間に彼の年齢と同輩にはまだ手のとどかない問題をいくども征服し、そのつどどんな仕事でもできるように感じた。そうかと思うと、また別の時間には、何もかも忘れ、彼にとっては新たな柔和さで夢にふけり、風や雨に聞き入り、花や流水を見つめ、何ひとつ頭でとらえることをせず、すべてをほのかに感じ、同情と好奇心と理解欲とに心を奪われ、自我から他の我へ、世界へ、秘密と聖礼へ、現象の悲しくも美しい遊戯へと引かれていった。
こうして内面から始まり、内界と外界との出会いと確認に至るまで成長を続け、ヨーゼフ・クネヒトの場合、召命は完全に純粋に遂行された。彼はその段階を残らず通過し、その幸福と憂慮とを残らず味わった。突然の暴露や無思慮によって妨げられることなく、この高貴な経過、すべての高貴な精神の典型的な青春史と前史は、遂行された。内界と外界とが、調和と均衡とを保って、互いに作用し、成長し合った。この発展の最後に、この生徒が自分の位置と外的運命とを意識したとき、先生たちから同僚のように、いや、今にも去っていくことの予期される賓客のように取り扱われたとき、また同級生からは半ば讃嘆されたり、うらやまれたりし、あるいは、避けられるばかりか邪推され、数人の敵からは嘲《あざけ》られ、憎まれ、それまでの友だちからはいよいよ離れ捨てられたとき、――離脱と孤立の同じ経過がすでにずっと前から彼の内心において遂行されていた。内部から、自分の感情から、先生たちは彼にとり長上であることをやめて、ますます仲間となり、かつての友だちは、ある道のりをいっしょに歩いたが、今は取り残された道づれとなっていた。彼の学校にも町にももはや彼と同じような仲間はいなかった。そこは彼のいるべきところではなかった。すべてのものに今は、ひそかな死や、非現実と過去という液体が溶けこんでいた。それは過渡期の状態、着古されて、どこもかしこももう合わぬ着物になっていた。これまでの調和した愛する故郷からこのように脱け出てしまい、もはや彼のものでもなく、適応もしなくなった生活形式からこのように脱却してしまい、最高の幸福と輝く自覚を味わった数時間によって中断された生活を別れ、行くもの、召されて去っていくものとして送っていることは、しまいには彼にとって大きな悩みになり、もはやほとんど耐えられぬ苦しい重圧となった。なぜなら、すべてが彼を捨てたのに、捨てるのは実際は自分ではないが、名誉心や自負や思いあがりや不実や愛の欠如によって、住みなれたなつかしい世界で疎《うと》んぜられ、死に去っていくように自分からしたのではないか、ということが、はっきりしなかったからである。真の召命に伴う苦痛のうちで、これは最もにがい苦痛である。召命を受けるものは、それとともに、贈り物や命令ばかりでなく、罪のようなものを背負いこむ。ちょうど、戦友の列の中から引き抜かれて、将校に昇進させられる兵士は、戦友に対し罪の感情というより、良心のやましさをもってそれを償うことが多ければ多いほど、その昇進を受ける資格があるようなものである。
しかし、クネヒトは、妨げられず、まったく無邪気にこの発展をとげることができた。ついに教官委員会から優等の成績を受け、まもなく英才学校に進学することを告げられると、彼はその瞬間はすっかり面くらったが、次の瞬間にはもう、この新しい事態をずっと前から知っており、予期していたように思った。このときはじめて、もう数週間このかたときどき「エレクツス」〔選ばれたもの〕、あるいは「英才少年」ということばが、嘲りの意味でうしろから呼びかけられていたのに、気づいた。聞いてはいたが、半分しか聞いておらず、嘲りとしか解釈していなかった。「選ばれたもの」と皆は彼を呼ぼうとしているのではなく、「おい、お前は思いあがって、選ばれたものだといい気になっているぞ」と言っているのだと、彼は感じた。自分と友だちとのあいだの疎隔感の突発に、彼は時折りひどく悩んだが、自分自身を選ばれたものとほんとに思ったことは一度もなかっただろう。召命は、階級のあがることではなく、単に内的な促しや励ましだと意識していたからである。だが、やはり彼は、それにもかかわらず、それを知っており、常に予感し、百度も感知してはいなかったか。今やそれが熟し、彼の祝福は確証され、正当なものとされた。彼の苦悩は無意味ではなかった。耐えがたく古く窮屈になった着物は、脱ぎ捨てられてよかった。新しい着物が彼のために用意されていた。
英才に取りあげられたことによって、クネヒトの生活は別な平面に移され、彼の発展において最初のそして決定的な歩みがなされた。英才に公式に取りあげられることが、召命という内的な体験と一致するというぐあいに、すべての英才学校生徒の場合うまくいくわけでは決してない。それは恩寵《おんちょう》である。あるいは、ありふれた言い方をすれば、幸運である。それにめぐりあった人の生活はプラスを受ける。幸運が特に心身への幸福な贈り物を持ってきてくれた人は、プラスを得るように。――英才学校生徒はたいてい、いや、ほとんど全部、選ばれたことを、大きな幸福、優遇と感じ、それを誇りとしている。彼らの非常に多くは、その優遇を前から熱望していた。しかし、普通の故郷の学校からカスターリエンの学校への移動は、選抜された大多数のものにとって、やはり考えていたより苦しい困難を伴い、意外な幻滅を味わうものも少なくない。何よりも、両親の家で愛され幸福であったような生徒たちにとっては、進学は例外なく辛《つら》い別れと断念とを意味する。それで、特に英才学校の最初の二年のあいだには、元にもどされるものがおびただしい数にのぼる。その原因は、生徒に天分や勤勉さが足りないからではなく、寄宿舎生活になじんでいくことができないため、いや、何よりも、ゆくゆく家庭や故郷との結びつきを次第に解いて、ついには、宗団に所属するという関係だけを知り、かつ尊重しなければならない、という考えになじんでいくことができないためである。それからときには、逆に、父の家と、いやになった学校とから離れることを、英才学校へ入学する際、眼目としているような生徒もいる。そういう生徒は、厳格な父親や不愉快な教師などから解放されて、しばらくのあいだほっとはしたが、転学によって、非常に大きな、ありえないほどの変化を生活全体に期待したので、まもなく幻滅に見まわれた。本来の点取り虫や模範生、つまりこせこせした連中も、カスターリエンで辛抱していけるとはかぎらなかった。彼らが研究についていけなかったというのではない。この学校では、研究と学科成績とだけが問題ではなく、教育上と芸術上の目標も追究された。この目標に対しては、そんなたぐいの生徒は手をあげてしまった。いずれにしても、四つの大きな英才学校の組織の中には、多数の分科や分校があって、いろいろな天分のものを入れる余地があったので、数学や言語学の点取り虫でも、ほんとに学者になる素質をそなえていれば、たとえ音楽や哲学の天分が欠けていても、これはいけないと感じるには、及ばなかった。それどころか、カスターリエンではときとして、純枠な無趣味な専門学を大切にする傾向の非常に強いことがあった。この傾向の先頭に立って戦うものたちは、「空想家」、すなわち音楽的なものや、芸術的なものに対して、批評的で嘲笑的な気分であったばかりでなく、ときには彼らの仲間のあいだで、いっさいの芸術的なものを、特にガラス玉演戯をまっこうから否定し、厳禁した。
クネヒトの生活は、われわれの知っているかきりでは、終始カスターリエンで行われた。われわれの山国の最も静かな朗らかな地域であって、以前は詩人ゲーテのことばでしばしば「教育州」とも呼ばれていた。それで、ごく簡単に、しかも、とっくの昔から知っていることで読者を退屈させる危険を犯して、この有名なカスターリエンとその学校の構成をもう一度概略述べておこう。手っとり早く英才学校と呼ばれているこの学校は、知恵の行きとどいた弾力性のある|ふるいわけ《ヽヽヽヽヽ》組織であって、それを通して指導部〔いわゆる「学事委員会」であって、二十人の委員のうち、十人は教育庁を、十人は宗団を代表している〕が、国内のあらゆる部分と学校とから、最もすぐれた天分の選《え》り抜きを、宗団と教育学事制度のいっさいの重要な職務とのために招き寄せる。この国にあるたくさんの普通の学校や高等学校などは、その性格が人文主義的であるにせよ、自然科学的・技術的であるにせよ、学問をする青年の九割以上のものにとって、いわゆる自由職業にとっての準備学校であって、大学への資格試験でもって終る。その大学では、各専門ごとに一定の研究過程が終えられる。これがわれわれの学生の周知の普通の修業過程で、それらの学校は、ある程度きびしい注文をつけ、天分のないものを極力除外する。これらの学校と並んで、あるいはその上に、英才学校の系統があって、そこには、天分と性格とに最もひいでた生徒だけが試験的に採用される。それにはいる関門は試験ではない。英才学校の生徒は、先生たちから自由裁量によって選ばれ、カスターリエンの役所に推薦される。十一、二歳くらいの生徒に、先生がある日、お前は次の学期にはカスターリエンの学校の一つにはいれるかもしれないから、その資格があると感じるか、そうなるように心を引かれるかどうか、自分を検討してみなさい、と言われる。考慮の期間が経過してから、少年が肯定の返事をすると、もちろんそれには両親の無条件の同意が必要であるが、そうなると、英才学校の一つが彼を試験的に入学させる。この学校の校長と教頭と(大学教授などではない)は、「教育庁」を形づくっていて、それが国内のいっさいの授業と精神的な組織を指導する。ひとたび英才学校の生徒になったものにとっては、いずれかの教課で力が足りず、普通の学校へ送り返されなければならないということがないかぎり、もはや専門の勉強やパンのための勉強は問題にならない。宗団と教育庁の聖職制度は、教師から最高の役人、すなわち十二人の研究管理者、別称「名人」と、一名のガラス玉演戯の指揮者、別名、演戯名人に至るまで、英才学校の生徒の中から補充されるからである。たいてい、英才学校の最後の課程は、二十二歳から二十五歳までに完結し、宗団に取りあげられることによって終る。そのとき以後、英才大学卒業生は、宗団と教育庁のいっさいの教育機関と研究所とを自由に利用することができる。すなわち、彼らのために保留されている英才大学、図書館、文庫、実験所等で、教師の大きな陣容を含めており、さらにガラス玉演戯の施設がある。学校時代に、言語、哲学、数学、その他、何であれ、特殊な専門的天分を現わしたものは、英才学校の上級においてすでに選ばれて、その天分を最もよくはぐくむような教課へ進められる。これらの生徒の大部分は、公立学校や大学の専門教師として終り、カスターリエンを去ってからも、終生、宗団の団員である。つまり、(英才学校で教育されなかった)「普通人」と、厳格な間隔を保ち――宗団を脱退しないかぎり――医者とか弁護士とか技師とか等のような「自由」な専門家には決してなることはなく、一生のあいだ宗団の規則に従うのである。その規則の中でとりわけ重要なのは、無所有と独身生活とである。民衆は、半ば嘲笑的に、半ば敬意をもって、彼らを「官人」と呼んでいる。こうして英才学校卒業生の大多数は、彼らの最後の使命を見いだすのである。だが、残りの少数のもの、すなわちカスターリエンの学校の最も優秀な選り抜きの中の選り抜きは、期限をきめられない自由な研究、静観にいそしむ精神生活を送ることが許される。高い天分はあるが、性格の不均衡とか、その他、肉体的欠陥などの理由で、教職や、上級あるいは下級の教育庁の責任ある職務につくに適しないものの中には、学問、研究、収集を終生続けるものもある。官庁から年金をもらうのだが、彼らが全体のためにする仕事は、たいてい純枠に学問的な労作である。あるものは顧問として、辞書委員会、文庫、図書館等に配属され、あるものは、芸術のための芸術という合いことばに従って学問に従事する。中には、ひどく浮世ばなれした、往々珍奇な研究に、すでに一生をささげたものもある。たとえば、あのロドヴィクス・クルデリスは三十年間の労作で、伝わっている古代エジプトの原典をギリシャ語とサンスクリット語に翻訳した。あるいは、いくらか変りもののカツス・カルヴェンジス〔カルプのヘッセ〕二世は、四冊の大きな肉筆の二つ折り版で、「十二世紀末期の南イタリアの大学におけるラテン語の発音」に関する著作を遺《のこ》した。この著作は、「十二世紀から十六世紀に至るラテン語の発音の歴史」の第一部のつもりであったが、原稿は千枚に及ぶにもかかわらず、断編にとどまり、だれも書き続けるものがなかった。この種類の純粋に学問的な研究が何かと冗談のまとになるのは、怪しむに足りない。科学の将来や国民全体に対してそういう研究が実際どんな値打ちを持つかは、まったく評価することができない。しかし、学問には、昔、芸術が必要としたように、ある程度広い牧場が必要である。ときには、自分以外にはだれも興味を持たないような何らかの題目を研究する者が、知識を集めると、それが、辞典や記録のように、同時代の同僚に極度に価値ある奉仕をなすこともある。上述のような学問的研究は、できるだけ印刷された。人々は、本来の学者たちにはほとんど完全に自由に研究と演戯を行わせ、その研究の中に、目前国民と公共体に直接何らの利益ももたらさず、それどころか、無学者にはぜいたくな遊戯と思われるに違いないようなものがあっても、そんなことにこだわらなかった。それらの学者の中には、その研究の仕方のため冷笑されるものが少なくなかったが、非難されたり、特権を奪われたりすることはなかった。彼らも国民から、たとえいろいろなしゃれを飛ばされることはあっても、大目に見られるばかりか、尊敬を受けていたことは、学者たちの全員がその精神的な自由をあがなうためにはらっていた犠牲と関連があった。彼らは、多くの便宜を受け、つつましいながら衣食住を割り当てられ、りっぱな図書館、博物館、実験所を使用することができたが、そのかわり、安楽な生活や結婚や家庭を断念したばかりでなく、修道僧の団体として、世間一般の競争から除外され、財産や称号や表彰などを知らず、物質的にはきわめて簡単な生活に満足しなければならなかった。たった一つの古い碑文の解読に一生を費やそうと、それはその人の自由で、人々はその後押しさえした。しかし、よい生活とか、優雅な着物とか、金とか、称号とかをほしがると、仮借ない禁止にぶつかった。そういう欲望を重んじるものは、たいてい若いうちにもう「世間」に帰り、専門の教師になって給金をもらうか、家庭教師か、ジャーナリストになった。あるいは結婚し、何らかの方法で自分の好みにかなった生活を求めた。
ヨーゼフ・クネヒト少年がベロルフィンゲンに別れを告げることになったとき、駅まで送ってきてくれたのは音楽の先生であった。この先生に別れるのは、つらかった。汽車が走っていくにつれ、古い城の塔の白塗りの階段形の破風《はふ》が沈んで見えなくなってしまうと、少年の胸は、孤独と不安の感情に少しどきどきした。他の生徒の中には、もっとずっとはげしい感情を持って、気落ちして、涙を流しながら、この最初の旅行にのぼるものも少なくなかった。ヨーゼフは、気持ちのうえではもうここよりも向うに行っていたので、容易に耐えることができた。それに、旅行は長くはなかった。
彼はエシュホルツ校に配属された。この学校の写真を彼はすでに以前、校長室で見たことがあった。エシュホルツはカスターリエン最大最新の学校集落であって、建物は全部近い時代のもので、近くには町はなく、村に似た小部落があるだけで、そこは木立ちにこんもり囲まれていた。そのうしろに、広々と平坦《へいたん》に明るく学校が展開していた。中に大きな四角な空地があって、中央に、さいころの五の目のように整然と、五本の堂々としたマンモス樹が黒い円錐形の樹頭を高くそそり立たせていた。大きな広場は一部は芝、一部は砂でおおわれ、水の流れこんでいる二つの広い水泳プールで中断されているだけであった。そこへ幅の広い平らな階段でおりていけるようになっていた。この日あたりのよい広場への入口に校舎が立っていた。施設の中で唯一の大きな建物で、二|棟《むね》あり、棟ごとにそれぞれ五本柱の玄関があった。広場全体を三方からすきまなく囲んでいる他の建物は全部、ごく低く、平らで、飾りがなかった。すべて同じ大きさの部分に分れ、そのどれもが、屋根のある廊下と数段の階段とで広場に通じていた。廊下の窓にはたいてい植木鉢《うえきばち》が並んでいた。
到着の際、少年はカスターリエンの風習に従って、学校の小使に迎えられて、校長または先生たちの前に導かれるのでなく、ひとりの学友に迎えられた。大柄の美少年で、青いリンネルの服を着ており、ヨーゼフより二つ三つ年上だった。その少年はヨーゼフと握手して言った。「ぼくはオスカルで、君の住むはずのヘラス館の年長者です。君をぼくたちのところに歓迎し、案内するのが、ぼくの役目です。学校には明日行けばよいから、全体をちょっと見ておく時間は十分あります。すぐにかってがわかりますよ。君が生活に慣れるまで、最初のうち、ぼくを友人で指導役だと思ってください。また君が学友たちに悩まされるようなことがあったら、君の保護者だとも思ってください。実際、新入生を少しいじめてやらなくちゃいけない、と思っているものが少なくないんです。だが、ひどいことにはなりませんよ。それは請け合います。これからまずほくたちの宿舎ヘラスへ案内します。君の住むところがわかるように」
慣習に従って、舎長からヨーゼフの指導役に任ぜられたオスカルは、このように新入者を迎えた。実際、彼は自分の役をよく果すように努めていた。年長者にとってはこの役はたいていよいなぐさみである。十五歳の少年が愛想《あいそ》のよい同僚の調子で、いささか先輩風を吹かせて、十三歳の少年の心を奪おうと努めれば、いつだってうまくいくだろう。ヨーゼフは最初の数日間指導役から終始一貫お客として取り扱われた。たとえ明日もう旅立つのだとしても、この家と主人についてよい印象を持って帰ってもらいたい、と願われているふうであった。ヨーゼフは、他のふたりの少年とともに使用するはずの寝室へ導かれ、ビスケットと一杯の果汁をふるまわれた。大きな四角の宿舎の一つである「ヘラス館」を示され、さらに、空気浴をするときタオルをかける場所、鉢植えの花を育てたかったら、それを置いてよい一角を示された。夕方にならないうちに、洗濯室の洗濯主任のところへ連れていかれた。そこで青いリンネルの着物を選んで、からだに合わせてくれた。ヨーゼフは最初の瞬間からここを快く感じ、楽しくオスカルの調子に順応した。もう久しくカスターリエンになじんでいる年長者は、もちろん彼にとっていわば半神であったけれど、彼にはいささかも困惑の様子は感じられなかった。時折りちょっとした自慢や芝居じみたまねをされても、彼には悪い気はしなかった。たとえばオスカルは、複雑なギリシャ語の引用を話の中に織りこんでおいて、すぐ思いついたように、丁寧に、新入生にはもちろんこれはまだわかるまい、もちろんだれだってそんなことを注文しはしない、と言うのだった。
それはそうと、クネヒトにとっては、寄宿舎生活は何も新しいことではなかった。その秩序にはいりこむのに骨は折れなかった。彼のエシュホルツ時代についても、重大な事件は伝わっていない。恐ろしい校舎の火災があったときには、彼はもういなかったらしい。彼の成績は、今日なお残っている範囲では、音楽とラテン語とは時々最高点、数学とギリシャ語では中の上を保っていた。「寄宿舎控帳」には時折り彼について、「非常に理解力ある才能にして、研究狭からず、行状堅固なり」とか、「天分に恵まれ、進歩して飽かず、行状は義務にかなう」とか記入されている。彼がエシュホルツでどんな罰を受けたかは、もはや確かめられない。処罰帳は他の多くのものとともに火災の犠牲になってしまった。同級生のひとりが後に断言したところによると、クネヒトはエシュホルツの四年間にただ一度(毎週の遠足禁止という)罰を受けただけだ、それも、何か禁制のことを犯した学友の名を言うことを、強情に拒んだためだ、ということである。この逸話は信用できるように思われる。クネヒトは、疑いもなく、常によい学友であり、上にへつらうようなことは決してなかった。だが、その罰が実際四年間にただ一度のものであったというのは、どうもほんとうらしくない。
クネヒトの英才学校時代初期に関する記録はきわめて乏しいので、ガラス玉演戯に関する彼の後年の講義から一カ所を引いてこよう。もっとも、この講義は初歩のもののために行われたので、それのクネヒト自筆の原稿は存在しない。一生徒がクネヒトの自由な講述を速記したのである。クネヒトはその個所で、ガラス玉演戯における類推と連想について語っている。そして、後者について、「合法的」、つまり一般に理解される連想と、「個人的」、すなわち主観的な連想とのあいだに区別を設けている。彼はそこでこう言っている。「この個人的連想は、ガラス玉演戯で無条件に禁じられているからといって、個人的価値を失うものではない。個人的連想の一例を諸君に示すため、私は自分の生徒時代のその種の連想について語ろう。私は十四歳くらいだった。早春、二月か三月のことで、ひとりの学友がある午後いっしょに外出しよう、と私を誘った。ニワトコの小さい幹を二、三本切って、小さい水車を作るのに管に利用しようというのだった。そこでわれわれは出かけた。実際にことのほかよい日であったに違いない。それとも私の気持ちの中でそうだったのかもしれない。何せその日は私の記憶に残っており、ささやかながら一つの体験を伴ってきたのだから。――土地はぬれていたが、雪はなく、水の流れているほとりはもう勢いよく緑し、葉の落ちた茂みでも、芽や、ふくらみそめたネコヤナギが、もうほのかな色を漂わせていた。大気には、においが、命と矛盾に満ちたにおいがあふれていた。湿った土や、腐る葉っぱや、植物の若芽などのかおりがした。まだスミレは一本もなかったが、今にも初のスミレのかおりがかげるかと思われた。ニワトコのそばへ行くと、小さなつぼみをつけていたが、まだ葉はついていなかった。枝を切り取ると、あまにがいはげしいにおいが私の鼻をついた。それは、すべての他の春のにおいを集積し強めでもしたように思われた。私はそれにすっかりぼおっとなって、小刀と手とニワトコの枝のにおいをかいだ。それほどしみ入るように、抵抗しがたくにおっていたのは、その樹液だった。われわれはそれについて何も話しはしなかったが、私の友だちも長いあいだ物思いにふけりながら、管のにおいをかいでいた。その香気は彼にも話しかけていたのである。さて、すべて体験というものには魔力がそなわっている。この場合、私の体験というのは、つまり、ぬれてぴちゃぴちゃする草地を歩いているときもう、来たるべき春が、土やつぼみの香気で強くうれしく感じられていたのが、ニワトコのかおりのフォルティシモの中で凝集し高められて、官能的な比喩《ひゆ》となり、魔法となったことである。このささやかな体験それだけだったとしても、おそらく私は、このにおいをもう決して忘れなかっただろう。むしろ、今後あのにおいにまた出くわすごとに、老齢に至るまで常に、あの香気を意識的に体験した最初の記憶をきっと呼び起すだろう。だが、そこへさらに第二のものが加わってくる。そのころ私はピアノの先生の所で、一冊の古い譜本を見いだし、それにはげしく心をひかれた。それはフランツ・シューベルトの小曲の一巻だった。ある日やや長く先生を待たねばならなかったとき、私はそれをめくってみた。お願いすると、先生はそれを私に数日貸してくれた。暇な時間に私は発見の歓喜にすっかり浸った。私はそれまでシューベルトのものは何も知らなかったが、そのときはまったく彼に魅せられた。さて、ニワトコ散歩の日か次の日かに、私はシューベルトの春の歌『なごやかな大気は目ざめて』を見つけた。ピアノ伴奏の最初の協和音が、さながら記憶の再来のように私を襲った。つまりこの協和音は、ニワトコの若木とまったく同じように、あのとおり甘く苦く、強く、凝縮されて、早春にあふれて、におっていた! あのとき以来、私にとって、早春――ニワトコの香気――シューベルトの協和音、という連想は、揺るがない、絶対に狂いのないものとなった。あの協和音をかなでると、すぐ私は必ず渋い植物のにおいをまた感じる。二つがいっしょになって早春となる。この個人的な連想には私にとって、ある非常に美しいものがこもっているので、何物にも換えがたいのである。しかし、この連想、つまり、『早春』を考えるごとに、二つの感覚的体験がぴくっと目ざめるというのは、私一個人のことである。それはたしかに、私が諸君にいま語ったように、人に伝えることはできる。しかし、譲り渡すことはできない。私は諸君に私の連想を理解させることはできるが、諸君のうちのただひとりにでも、私の個人的連想が同様に通用する信号となり、呼びかけられると必ず反応し常にまったく同じ経過をたどる仕掛けになるようにすることはできない」
後にガラス玉演戯の記録係筆頭にまでなったクネヒトの同級生のひとりが語ったところによると、クネヒトは全体として静かに楽しむ少年であって、音楽を奏する際にはよくなんともいえず沈潜した、または幸福な表情を現わした。彼がはげしく情熱的になるのはごくまれで、特に彼が非常に好きであった律動的な球戯をするときくらいであった。しかし、この親切な健全な少年が二、三度人目をひいて、嘲笑、あるいは憂慮を招いたことがあった。それは、二、三回、生徒が退校させられたときのことであった。特に英才学校の下級では、退校はしばしばやむをえないことである。初めて、級友のひとりが授業にも遊戯にも姿を見せず、翌日になってももどってこず、病気なんかじゃなくて、退校させられて、もう旅立ってしまい、帰ってくることはないといううわさが広まったとき、クネヒトは悲しんだばかりでなく、数日間さながら乱心のていだったそうである。のちに彼自身、幾年もたってから、それについてこう言ったとのことである。「エシュホルツから生徒が送り返されて、われわれのあいだを去っていくことがあるたび、ことに、私はその人が死にでもしたように感じた。私の悲しみの理由を尋ねられたら、私は、軽はずみと怠慢とによって未来を台なしにしてしまった気の毒な人に同情したからだ、そしてまた、不安を、自分もいつかそんなふうになるかもしれないという不安をいだいたからだ、と言っただろう。同じようなことをもうたびたび経験し、そんな運命に見まわれることはもはやあるまいと、心の底で信じるようになって後、初めて私はいくらか深く見るようになり出した。そこで、選抜されたものの除籍をもはや不幸や罰と感じなかったばかりでなく、退校されたもの自身まったく喜んで家へ帰ったという場合も少なくないことを、私は知った。軽はずみのものがその犠牲になる裁きや罰というものがあるばかりでなく、あの外界では、われわれ選抜されたものが以前出てきた『世間』が、自分の思っているように存在することをやめてしまいはせず、むしろ多くのものにとって魅力に満ちた大きな現実として、存在し、彼らを誘い、ついに呼びもどしてしまったのだ、と私は感じた。たぶん世間は、個々の人間にとってそうであるばかりでなく、みんなにとってそうであったのだ。遠い世間にあんなに引き寄せられたのは、弱いものとか劣等のものとかだと、きまってはいなかった。彼らは一見逆転の打撃を受けたが、おそらくそれは転落でも打撃でもなく、飛躍と行為であったのだ。おとなしくエシュホルツにとどまっていたわれわれこそ、おそらく弱いもの、臆病者であったのだ」この考えがもうすこし後に彼にとってきわめて強くなったことが、やがてわかるだろう。
音楽名人にお目にかかるのは、いつも彼にとって大きな喜びであった。音楽名人は、少なくとも二、三カ月ごとに一度エシュホルツに来て、音楽の時間を参観、視察した。そこの先生のひとりと親しかったので、数日間その客になることも珍しくなかった。モンテヴェルディの夕方の礼拝の演奏にあたって、最後の予行演奏を親しく指揮したことも一度あった。特に、音楽の生徒の中で天分の恵まれているものに目をかけた。クネヒトは、彼から父親のような親愛の情を受けたひとりだった。時折り名人はクネヒトといっしょに一時間ほど練習室の一つでピアノに向ってこしかけ、好きな音楽家の作品か、古い作曲学の中の範例をいっしょに研究した。
「音楽名人とカノン〔典則曲〕を組み立てたり、拙劣に組み立てられているカノンの不条理を名人が指摘するのを聞いたりするのは、しばしば比類のない荘重さ、あるいは快活さを伴った。涙を抑《おさ》えかねることも少なくなかったが、笑いをとめかねることも少なくなかった。名人に一時間個人教授を受けると、ふろにはいり、マッサージをしてもらったあとのような気持ちになるのだった」
クネヒトのエシュホルツ生徒時代が終りに近づくと――彼は、同じ段階の約十二人の生徒といっしょに、次の段階の学校に入れられるはずであった――あるとき、校長はこの候補者たちに恒例の訓辞をして、卒業生らに、カスターリエンの学校の意味と法則をかさねて明らかにし、いわば宗団の名において、最後にはみずから宗団にはいる権利の得られるはずの道をあらかじめ示した。この荘厳な訓示は、学校が卒業生のために催す祝日のプログラムの一部である。その日、卒業生たちは、先生や生徒からお客のように遇せられる。いつでもその行事のあいだに、周到に用意された演奏が行われる――このときは十七世紀の大きな交声曲であった――音楽名人も親しく聞きに来られた。校長の訓示のあとで、飾りつけをした食堂へ行く途中、クネヒトは名人に近づいて、こう尋ねた。「校長先生は、カスターリエン以外の普通の学校や大学ではどんなふうであるか、お話しくださいました。そこの生徒は大学で『自由な』職業へ向うのだそうです。私の理解したところが正しいとすれば、それは大部分、このカスターリエンではまったく知られていない職業です。それをどう理解したらよいのでしょう? なぜそんな職業が『自由』だと呼ばれるのでしょう? なぜ特にわれわれカスターリエンのものはその職業につけないのでしょう?」
音楽名人は青年をわきへ連れていき、マンモス樹の一本の下に立ちどまった。彼が次のように答えたとき、ほとんどずるいと言ってもよいような微笑が、目のまわりの皮膚に小じわを寄せた。「君はクネヒト〔下男〕という名を持っている。おそらくそのため、『自由』ということばが君にはひどく魅力があるのだろう。だが、この場合はあまり本気にとらないようにしなさい! カスターリエン人でないものが自由な職業について話すと、そのことばはきわめて真剣に、それどころか悲壮に聞えるかもしれない。しかしわれわれには皮肉に考えられる。学生が職業を自分で選ぶという範囲では、ああいういろいろな職業の自由は存している。なるほど自由の外見はそなえているが、たいていの場合、選択は、生徒によってなされるより、その家族によってなされる。むすこにその自由をほんとにゆだねるくらいなら、舌をかみ切ったほうがよい、という父親も少なくない。しかしたぶんそれは中傷だ。そういう異論は別にしよう! そこで自由があるとする。だが、それは職業の選択という唯一の行為に限られている。そのあとは自由はおしまいになる。大学で研究するときにもう、医者とか、法律家とか、技術家とかは、はなはだ融通のきかない課程の中にむりやり押しこめられ、いくつもの試験を受けてやっと終る。試験に及第すると、免許状をもらい、そこでまた外見的に自由に、職業に従うことができる。だが、そのため低級な力の奴隷になるのだ。彼は、成功とか、金とか、野心とか、名声欲とか、人に好かれるとか好かれないとか、そんなことに左右される。彼は選挙に従わなければならない。金をもうけなければならない。階級や家族や党派や新聞の仮借ない競争に加わらなければならない。そのかわり、成功したり、富裕になったり、失敗したものに憎まれたりする自由、あるいはその反対の自由を持つ。英才学校で学び、後に宗団の団員になるものは、あらゆる点でその逆である。彼はいかなる職業も『選』ばない。自分の才能を先生たちよりよりよく判断できるとは思わない。彼は聖職制度の内部で常に、上長が彼のために選ぶ場所に赴き、その職務につく――事態が逆になって、生徒の性質や天分や欠陥が彼をあちらこちらに配属するように、先生たちを余儀なくさせれば、別だが。――この一見不自由な状態の中で、選抜された生徒はみな、最初の課程を終えると、およそ考えられる最大の自由を受ける。『自由な』職業のものが、専門教育を受けるため、融通のきかない試験を伴う窮屈な、融通のきかない課程に従わなければならないのに反し、選抜された生徒の場合は、ひとり立ちして研究を始めるやいなや、自由はきわめて広範囲に及ぶので、自分の選択に従って、極度に浮世ばなれした、往々ばかばかしいくらいの研究を一生行うものもたくさんいる。その行状さえ堕落しないかぎり、だれもそれを妨げない。教師に適任なものは、教師として、教育者に適任なものは、教育者として、翻訳者に適任なものは、翻訳者として用いられる。めいめいさながら自動的に自分が奉仕し、奉仕のうちに自由でありうるような場所を見いだす。そのうえ、彼は、実に恐ろしい隷従を意味する職業の『自由』から終生解放されている。彼は、金や名声や地位を求める努力を知らず、党派を知らず、個人と官職のあいだの分裂、公私のあいだの分裂を知らず、成功に左右されることを知らない。ねえ、君、わかったろう。自由な職業だなんて言っても、その自由はかなりこっけいなものだよ」
エシュホルツからの離別は、クネヒトの一生にはっきりと一時期を画するものであった。それまで彼は、幸福な子どもの時代にあって、ほとんど問題を持たずに、進んで秩序の中にはいり、調和を保った生活を送ってきたとすれば、今や戦いと発展と問題の時期が始まった。まもなく上級の学校へ転学させられる通知を受けたとき、彼はかれこれ十七歳であった。彼と一群の学友たちとであった。しばしのあいだ、選ばれた者たちにとって、いちばん重要で最も多く論議されたのは、めいめいがどういう土地に移されるかという問題であった。その土地は、古来の慣習に従って、出発の両三日前になってやっと各人に言いわたされるのだった。卒業式と出発とのあいだの期間は休暇であった。この休暇中にクネヒトにとって、美しく意義深い事件が起った。音楽名人が、徒歩旅行で自分を訪れ、数日間自分の客になるように、彼を招いたのであった。それは、めったにない大きな名誉であった。クネヒトはまだエシュホルツに所属しており、この段階の生徒はひとり旅は許されなかったので、同時に卒業したひとりの学友とともに、ある早朝、森と山に向って歩き出した。ふたりが三時間森かげを登って、ひらけた山頂に達すると、眼下にエシュホルツがもう小さく横たわって、たやすく見わたせた。黒くこんもりした五本の大きな木や、鏡のようなプールのある方形の芝生、高い校舎、農場、小さい村、有名なトネリコの森などによって、遠くから見分けられた。ふたりの青年は立ったまま、下を見おろした。われわれの中にもこの愛らしいながめをおぼえているものが少なくない。それはそのころも今日とそんなに異なってはいない。建物は大火災の後ほとんど元どおり再興されたからである。高い木のうち三本は火災にも枯れなかった。ふたりは、自分たちの学校と数年来の故郷とをそこに見た。そこからやがて別れていくはずであった。ふたりとも、そのながめに心を打たれる思いをおぼえた。
「あれがどんなに美しいか、今までほんとに見たことがなかったような気がするよ」とヨーゼフの道づれは言った。「ああ、そうだ。自分が別れを告げて去っていかなければならないものとして見るのは、初めてだからだろう」
「そのとおりだ」とクネヒトは言った。「君の言うとおりだ。ぼくも同様だ。だが、ここを去っていくとしても、エシュホルツをほんとに捨ててしまうことはないのだ。ほんとに捨てたのは、永久に去っていったものたちだけだ。たとえば、すばらしいラテン語の戯詩を作ることのできたあのオットー。あるいは、あんなに長く水中にくぐって泳ぐことのできたシャルルマーニュなど、彼らはほんとに別れを告げて、手を切ってしまった。ぼくは長いあいだ彼らのことを忘れていたが、今また思い出したよ。ぼくを笑ってくれたまえ。だが、あの脱落者たちは、やはりぼくにとって何か敬服させるような点を持っているよ。たとえば、神にそむいた天使ルチフェルが何か偉大なところを持っているように。彼らはたぶんまちがったことをしたのだろう。いや、まったく疑いもなく、まちがったことをした。だが、いずれにしても、彼らは何かをした。何かをやりとげた。思いきって飛躍をした。それには勇気が必要だ。ぼくたち他のものは、勤勉と忍耐と理性とを持ちつづけたが、何もしはしなかった。ぼくたちは飛躍はしなかった!」
「ぼくにはわからない」と相手は言った。「彼らの多くは何かをしたわけでも、思いきったことをしたわけでもない。ただ怠けて、追い出されただけだ。だが、たぶんぼくは君の言うことを十分理解していないんだろう。いったい、君の言う飛躍とはどんなことかね?」
「その意味は、離れる能力、真剣になること、つまり――飛躍することさ! ぼくは、昔の故郷や生活へ飛んで帰ろうとは願わない。ぼくは故郷に引きつけられはしない。ぼくは故郷をほとんど忘れてしまった。だが、ぼくは願っている。いつか、時が来て、必要になったら、振り切って、飛躍できることを。ただ、つまらないものへ飛んで返るのではなく、前へ、より高いものへ飛躍するのだ」
「そうだよ。そこへぼくたちは向っていくのだ。エシュホルツは一つの段階だった。次の段階はもっと高いだろう。最後に宗団がぼくたちを待ち受けている」
「そうだ。だが、ぼくはそのことを言ったのじゃない。先へいこう、友よ、歩くのはすてきだ。歩いていると、また楽しくなれるだろう。すっかり悲しい気持ちになっちゃった」
この気分とことばは、あの学友が残してくれたものであるが、それがもうクネヒトの青年時代のあらしのような時期の前触れを告げている。
二日間ふたりは徒歩旅行をして、音楽名人がそのころ住んでいた土地に着いた。高地のモンテポルトで、そこの昔の修道院で、名人は音楽指揮者たちのためちょうど講習をしているところだった。学友は宿屋に泊められ、クネヒトは名人の住居の小房をあてがわれた。そこでリュックサックを開き、顔を洗う暇もなく、早くも主人がはいってきた。尊敬する老人は青年と握手をし、ちょっと溜息《ためいき》をつきながらいすにこしかけ、ひどく疲れたときするように、しばし目を閉じた。やがてやさしく見あげながら言った。「許しておくれ。わしは、あまりよい主人ではないね。君は徒歩旅行をして着いたばかりで、疲れているだろう。正直のところ、わしも疲れている。わしの一日はいくらか詰りすぎている。――だが、もし君が眠くないようだったら、今すぐ一時間ほどわしのへやへ案内したい。君は二日ここにいてよい。あすは君の道づれもわしのところへ食事に招いてよい。だが、残念ながらわしは君のために多くの時間をさけない。だから、君のために必要な数時間を、どうやったら作り出すことができるか、くふうしなければならない。それでさっそく始めよう、いいね?」
彼はクネヒトを丸天井の大きなへやへ連れていった。そこには古いピアノと二つのいすのほか、家具は何もなかった。そのいすにふたりはこしかけた。
「君はまもなく別の段階に進む」と名人は言った。「そこでいろいろ新しいことを学ぶだろう。中にはおもしろいこともたくさんある。ガラス玉演戯にもきっとすぐ触れ始めるだろう。どれもこれも美しく重要だが、他のどれよりも重大なことが一つある。それは冥想《めいそう》を学ぶことだ。一見だれでもそれを学ぶが、必ずしも再検討するとはかぎらない。君がそれを正しくよく学ぶことを、望むよ。音楽を学んだのと同様によくね。そうすれば、他のことはすべてひとりでにできるようになる。それで最初の二、三課をわしがみずから授けてやりたい。わしが招待した理由はそれだったのだ。じゃ、今明日と明後日それぞれ一時間冥想する試みをしよう。音楽についてね。今、牛乳を一杯あげる。のどがかわいたり、空腹だったりで、妨げられないようにね。夕食はもっとあとで持ってきてくれる」
戸をたたく音がした。牛乳が一杯はこばれた。
「ゆっくり、ゆっくり飲みなさい」と老人は注意した。「時間をかけて、それから何も言わないで」クネヒトはごくゆっくり冷たい牛乳を飲んだ。向いあって、尊敬する人がこしかけ、また目を閉じていた。その顔はまったく老けて見えたが、やさしく、平和に満ちていた。疲れた人が足湯にはいるように、自分自身の考えの中に下ってでもいくかのように、彼は自分の心の中に向って微笑していた。彼の中から安らけさが流れ出た。クネヒトはそれを感じ、自分の心も安らかになった。
そのとき、名人はいすにこしかけたまま、からだをねじって、両手をピアノの上に置いた。彼は一つの主題をひき、それを変奏しつつ進めた。イタリアの巨匠の曲であるらしかった。彼は客に、この音楽の進行を、舞踏のように、間断なく続く均衡運動のように、均斉軸の中心から出た大小の歩調の連続のように考えよ、この歩調が作りあげていく形のほかには何ものにも注意するなと、指示した。彼はその小節を重ねてかなで、無言でその小節を追って沈思し、もう一度かなで、両手をひざにのせて、身動きひとつせずにじっとこしかけ、目を半ば閉じて、心の中で音楽をくり返し、考えていた。生徒も心中でそれに耳を澄まし、符線の断片を眼前に浮べ、何かが動き、歩み、踊り、漂うのを見た。そして、その運動を見きわめ、飛ぶ鳥の曲線のように、読んでみようと思った。曲線はこんがらがって、消えてしまったので、初めからやりなおさねばならなかった。一瞬、集中がゆるむと、彼は空虚の中にあり、戸惑いしてあたりを見た。すると、名人の静かに沈潜している顔が青白く薄明の中に浮んでいるのが見えた。彼は、脱け出したあの精神の空間に再び立ち返って、その中で例の音楽がまたひびくのを聞き、それが歩み、運動の線を描くのを見、目に見えないものの踊る足を見、それを追って考えた……
その空間から再び脱け出し、こしかけているいすや、|ござ《ヽヽ》の敷いてある石のゆかや、窓の外の弱くなった薄明の光を再び感じたとき、長い時間が過ぎたように思われた。だれかに見られているような気がしたので、見あげると、自分を注意深く見つめている音楽名人の目にぶつかった。名人は、ほとんど気づかれないくらいにうなずきかけ、一本の指で最も弱くあのイタリア音楽の最後の変奏曲をひいて、立ちあがった。
「ここにすわったままでいなさい」と彼は言った。「わしはまた来る。あの音楽を心の中でもう一度さがしてごらん。形に注意しなさい! だが、無理じいをしてはいけない。遊戯にすぎないのだから。そうしているうちに眠りこんでしまっても、いっこうかまわないよ」
彼は出ていった。まだ別な仕事が彼を待っていた。ぎっしり詰っている一日に、しのこした仕事であって、らくな快い仕事ではなく、好ましい仕事でもなかった。指揮者講習会の生徒の中にひとり、天分はあるが、虚栄心が強く高慢な人間がいた。それとなお話をし、無作法を指摘し、誤りを証明し、憂慮と優越、愛と権威を示してやらなければならなかった。彼は溜息をついた。もうこれでよいという秩序がないとは! わかっている誤りを一掃することができないとは! くり返しくり返し同じあやまちと戦い、同じ雑草をむしり取らなくてはならないとは! 才能はあるが、しっかりした性格を持たない人間、技巧には練熟しているが、聖職制度に属さないもの、それはかつてフェユトン時代に音楽生活を支配していたが、音楽復興期に根こそぎ取り除かれたのであった――それが早くもまた緑色になり、芽を吹いてきた。
ヨーゼフと夕食を共にしようと、名人が巡回からもどってくると、少年は静かではあるが、満足した様子で、もう疲れたふうは少しもなかった。「たいへん結構でした」と少年は夢みるように言った。「音楽はあれですっかり消えてしまいました。変化したのです」
「それを君の心の中で振動させ続けなさい」と名人は言い、少年を小さいへやへ案内した。そこには、食卓にパンとくだものが用意してあった。ふたりは食べた。名人は少年を、明日短時間指揮者講習会に出席するように招いた。彼は、少年を小房へ連れていき、自室に引きとる前、少年に言った。「君は冥想《めいそう》の際、何かを見た。音楽が形となって、現われたのだ。気が向いたら、それを書きとめてごらん」
客室には、机の上に一枚の紙と鉛筆が置いてあった。クネヒトは寝る前に、あの音楽が変化して形となった、その形をスケッチしよう、と試みた。一本の線を引いた。その線から斜めわきへ、リズミカルな間隔をおいて短い側線を引いた。それは、木の枝についている葉の秩序のようなものを思わせた。そこにできあがったものに、彼は満足しなかったけれど、もう一度、さらに重ねてやってみる興味を感じた。最後に彼は戯れに線を曲げて円にした。その円から、ちょうど花輪から花が出るように、側線を放射状に出した。それから床につき、すぐ眠りこんだ。夢の中で彼はまた、昨日友人と休んだ森の上の頂上に登り、なつかしいエシュホルツが眼下に横たわっているのを見た。見おろしているうちに、方形の校舎が伸びて卵形になり、円になり、花輪になった。花輪はゆっくり回転しはじめ、加速度で回転し、しまいには狂ったように早く回転し、破裂して、飛散し、きらめく星になった。
目をさましたとき、彼はそのことをすっかり忘れていたが、のちほど朝の散歩の際、名人から夢を見なかったかと尋ねられると、何かよくないことか、興奮するようなことを夢の中で体験したような気がして、考えてみると、その夢に思いあたった。それを話しながら、たわいないのを奇妙に思った。名人は注意深く耳を傾けていた。
「夢にも注意しなければなりませんか」とヨーゼフは尋ねた。「夢を解釈することができますか」
名人は彼の目をのぞきこみながら簡単に言った。「どんなことにでも注意しなければならない。どんなことだって解釈できるんだから」しかし数歩歩いてから彼は父親のように尋ねた。「君はどの学校へいちばんはいりたいかね?」そう言われると、ヨーゼフは顔を赤らめたが、すぐに小声で言った。「ワルトツェルへはいりたいと思います」名人はうなずいた。「わしもそう考えていた。君は古いことわざを知っているね。Gignit autem artificiosam……」
まだ顔を赤らめたまま、クネヒトは、どの生徒でもよく知っていることわざを言い足した。Gignit autem artificiosam lusorum gentem Cella Silvestris.ドイツ語で言うと、「さてワルトツェルは、ガラス玉演戯者という技巧に富んだ人々を生み出す」
老人は心をこめて彼を見つめた。「たぶんそれが君の行くべき道だよ、ヨーゼフ。君も知っているとおり、みんながガラス玉演戯に納得しているわけではない。あれは芸術の代用品であり、演戯者は文芸家であって、真に精神的な人間とはもはや見られない。即興をほしいままにする、しろうと芸の芸術家だ、と言うものもある。それの当っている点は、君にもわかるだろう。君自身ガラス玉演戯について、それが君に提供する以上のことを期待するような観念をいだいているかもしれない。あるいはその逆かもしれない。この演戯に危険があることは確かだ。だからこそわれわれはそれを愛するのだ。弱い者だけが、危険のない道に送られる。だが、君は、わしがあんなにたびたび言ったことを忘れてはならない。つまり、われわれの使命は、対立を正しく認識することだ。まず対立として、それから統一の両極として認識するのだ。ガラス玉演戯だってそのとおりだ。芸術家気質の人は、その中で空想することができるから、この演戯を好む。厳格な専門学者はこれをけいべつする――音楽家にもこれをけいべつするものが少なくない――演戯の規律には、個々の学問の到達しうる程度の厳格さが欠けているからである。よろしい、君はこの対立を知り、時とともに、それは対象の対立ではなく、主体の対立だ、ということを発見するだろう。たとえば、空想する芸術家が純粋な数学や論理学を避けるのは、そういうものをいくらか知っており、言うべきことがあるからではなく、本能的にどこか別の方に心を引かれているからだ。そういう本能的なはげしい愛憎を持つものは、取るに足らぬ魂の持ち主だということが、確実にわかる。実際、言いかえれば、大きな魂やすぐれた精神には、そういう情熱がないということになる。われわれひとりひとりは、一個の人間、一つの試み、一つの途上にすぎないのだ。だが、みんなが、完全なものの存するところへ向って途上にあるのでなければならない。周辺ではなく、中心に向って努力するのでなければならない。いいかい。厳格な論理学者あるいは文法学者であって、しかも空想と音楽に満ちていることもありうるのだよ。音楽家あるいはガラス玉演戯者であって、しかも法則や秩序に完全に帰服することができる。われわれが考えかつ欲する人間、そうなることがわれわれの目標であるような人間は、いつでも彼の学問あるいは芸術を、他の何とでも取りかえることができるだろう。ガラス玉演戯の中で最高度の結晶の論理を発揮させることも、文法の中で最も創造的な空想を発揮させることもできる。そうあらねばならない。いつなんどき他の地位に移されても、それに逆らったり、戸惑ったりしてはならない」
「わかるような気がします」とクネヒトは言った。「しかし、好ききらいの強い人は、ひときわ情熱的な性質で、他の人はもっと落ちついた穏やかな性質だというだけではないでしょうか」
「そのとおりのように見えるが、そうではない」と名人は笑った。「何ごとにも有能であり、何ごとも正当に評価するためには、確かに魂の力や生気の発動や熱がマイナスでなく、プラスである必要がある。君が情熱と称するものは、魂の力ではなくて、魂と外界との摩擦だ。情熱的な状態が優勢であるようなところでは、欲望や追求の力がプラスにならず、力が個々の誤った目標に向けられるので、雰囲気《ふんいき》の中に緊張と息苦しさが生じる。欲望の最高の力を、真の存在と完全さに向けて、中心へ注ぐものは、情熱的な人より落ちついているように見える。その人の熱情の炎は必ずしも見えないからである。そういう人は、たとえば議論するとき、どなったり、腕を振りまわしたりしないからである。だが、その人は熱し燃えているに違いないのだ」
「ああ、ものごとがわかるようになればいいんですが!」とクネヒトは叫んだ。「何か信じられるような教えがあればいいんですが! 何もかもが互いに矛盾し、互いにかけちがい、どこにも確実さがありません。すべてがこうも解釈できれば、また逆にも解釈できます。世界史全体を発展として、進歩として説明することもでき、同様に世界史の中に衰退と不合理だけを見ることもできます。いったい、真理はないのでしょうか。真の価値ある教えはないのでしょうか」
彼がそんなにはげしく話すのを、名人はまだ聞いたことがなかった。名人は少し歩いてから言った。「真理はあるよ、君。だが、君の求める『教え』、完全にそれだけで賢くなれるような絶対な教え、そんなものはない。君も完全な教えにあこがれてはならない。友よ、それより、君自身の完成にあこがれなさい。神というものは君の中にあるのであって、概念や本の中にあるのではない。真理は生活されるものであって、講義されるものではない。戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる」
この二日間にヨーゼフは初めて愛する名人の日常生活ぶりと仕事ぶりを見た。もちろんその日々の仕事のごく一小部分を見得たにすぎないけれど、彼は少なからず名人に驚嘆した。しかし名人が何よりも彼をありがたく思わせたのは、こんなに自分のめんどうをみてくれること、自分を招き寄せてくれたこと、山積する仕事のためしばしばひどく疲れた様子をしている人が、そのうえなお自分のため時間をさいてくれたことであった。しかも時間ばかりではなかった! 冥想への手引きが彼にきわめて深い消えない印象を与えたとすれば、それは、後に少年みずからありがたみを知るようになったことだが、特に微妙独特な技術のおかげではなく、もっぱらその人格、名人の実例そのもののおかげであった。その後の先生で、次の年彼に冥想を教授した人たちは、もっと多くの指示や立ち入った教訓を与え、もっと鋭く監督し、もっと多く質問し、もっと多く訂正することを心得ていた。音楽名人は、この青年に対する自分の影響力に自信を持っていたので、ほとんど何も言わず、教えず、実際ただ主題を示すだけで、実例をもって先に立った。名人はしばしばひどく老衰した様子を示すが、やがて半ば目を閉じ、沈潜すると、また、静かに非常に力強く、朗らかにやさしいまなざしをするのを、クネヒトは観察した。――源泉への道、不安から安らかさへの道をこれほど深く彼に確信させうるものはなかっただろう。名人がそれについてことばで言わなければならないようなことは、クネヒトは短い散歩や食事のついでにあれこれと聞いた。
クネヒトが当時名人からガラス玉演戯に対しても最初の暗示と手ほどきをいくらか受けたことは、わかっているが、ことばは少しも伝わっていない。主人がヨーゼフの道づれのためにも何かと気をくばって、道づれが自分はお相手にすぎないのだと、あまり強く感じないように努めたことも、ヨーゼフに感銘を与えた。この老人は何でも考えつかないことはないように見えた。
モンテポルトの短い滞在、三時間の冥想教授、音楽指揮者講習会見学、名人との数回の対話は、クネヒトにとって大いに意味があった。名人は確実に、短い干渉にとって最も効果的な潮時を選んだのであった。彼の招待は主として、青年の胸に冥想を植えつける目的を持っていたのであるが、招待そのものも、特別なあしらいとして、人々が彼に注目し、彼に期待しているということの象徴として、それに劣らず重要であった。つまりそれは召命の第二段だったのである。彼は内面の領域を見ることを許されたのであった。十二人の名人のひとりが、この段階の生徒をこんなに近くそばに呼び寄せたとしたら、それは単に個人的な好意を意味するだけではなかった。名人のすることは、常に個人的なものを越えていた。
別れるとき、ふたりの生徒はささやかな贈り物をもらった。ヨーゼフは、バッハの聖歌前奏曲が二つのっている仮とじ帳、学友はホラティウスのきれいなポケット版だった。名人は、クネヒトを帰らすとき、こう言った。「君は数日中に、どの学校に配属されるかを知るだろう。わしはそこへは、エシュホルツへ行くほど、たびたびは行けないだろう。だが、わしが達者でいたら、そこでもきっとまた会えるだろう。気が向いたら、年に一回はわしに手紙をおくれ。とりわけ君の音楽研究の経過についてね。先生たちに対する批判は禁じはしないが、わしはそれにたいして値打ちを認めない。多くのことが君を待っている。君が真価を発揮するように。わがカスターリエンは、精華だけであってはならない。何より聖職制度でなければならない。それは一つ一つの石も全体によって初めて意味を与えられるような建物でなければならない。この全体から脱け出す道はない。より高く登って、より大きな課題をあてがわれるものは、より自由になるのではなく、いよいよ責任が重くなるばかりだ。さようなら、若い友よ、君をここに迎えたのは、うれしいことだった」
ふたりは歩いて帰った。途中ふたりは、往路より朗らかで、よく話をした。数日間、別な空気を呼吸し、別な光景を見、別な生活環境に触れたことは、彼らをくつろがせ、エシュホルツとそこに漂う別れの気分とから、彼らをぐっと自由にし、変化と未来とを二倍にも待ち遠しがらせた。森の中や、モンテポルト地方のけわしい峡谷の一つの上で休んだとき、彼らはいくども木笛をポケットから取り出して、いくつかの歌曲を二声部でかなでた。エシュホルツの学校や木立ちを見おろす例の丘にまたたどりついたとき、ふたりが前にここで行なった対話が、もう遠い過去のものになっているように思われた。物事はすべて新しい光景を呈するようになっていた。ふたりは何も言わなかった。あのときの気持ちやことばを少し恥じていた。それほど早くそれは追い越され、内容を失ってしまっていたのであった。
エシュホルツで彼らはその翌日もう、行く先を聞いた。クネヒトはワルトツェルに行くことにきめられた。
[#改ページ]
第二章 ワルトツェル
「さてワルトツェルは、ガラス玉演戯者という技巧に富んだ人々を生み出す」と、古いことわざは、この有名な学校について言っている。第二、第三段階のカスターリエンの学校の中で、最も芸術的なのは、ここであった。すなわち、他の学校ではまったく、きわだって一定の学問が、たとえば、コイパーハイムでは古典語学が、ポルタではアリストテレスとスコラ学派の論理学が、プランファステでは数学が重きをなしていたとすれば、ワルトツェルでは逆に学芸の総合性と緊密化への傾向が伝統的に重んじられた。この傾向の最高の象徴こそガラス玉演戯であった。これは、ここでも、どの学校とも同様に、決して公式に義務課目として教授されたわけではなかった。しかし、ワルトツェルの生徒の個人的な研究は、ほとんどもっぱらガラス玉演戯に向けられた。そしてワルトツェルという小さい町は、公式のガラス玉演戯とその諸施設の所在地でもあった。ここに正式な演戯を行うための演戯館があり、館員と蔵書を擁する巨大な演戯記録所があった。ここは演戯名人の居住地であった。これらの施設はまったく独立に存在し、学校はいかなる点でもそれに結びついてはいなかったけれど、まさしくここではこの施設の精神が支配しており、大規模な公式演戯の霊感が何ほどかこの土地の空気の中にただよっていた。この小さい町自身、学校ばかりでなく演戯をも擁していることを非常に誇りとしていた。住民は生徒を「大学生」と呼び、演戯学校の研究者や来賓を「ルーセル」と呼んでいた。ルソレス〔演戯者〕のなまりである。それにしても、ワルトツェルの学校は、カスターリエンの学校全部の中でいちばん小さく、生徒の数も約六十名を越したことがほとんどなかった。確かにこういう事情のため、学校は何か特殊な貴族的な趣をそなえ、何か抜群なもの、選《え》り抜きの中の最高の選り抜きの観を呈していた。実際この尊敬すべき学校から過去数十年のあいだに、多くの名人とガラス玉演戯名人の全部が生れたのであった。もっともワルトツェルのこの輝かしい名声には、異論がなかったわけではない。ワルトツェルの人間は、思いあがった風流人で、甘やかされた王子だ、ガラス玉演戯のほかには、なんの役にもたたない、という意見もあちこちにあった。ときには、よその二、三の学校では、ワルトツェルの人間に対して、まったく意地の悪い、しんらつなことばがはやったこともあるが、こういう鋭い皮肉や批評こそ、ねたみそねみの原因のあったことを示している。要するに、ワルトツェルに移されたことは、一種の名誉を意味していた。ヨーゼフ・クネヒトもそれを知っていた。俗な意味で功名心にかられることはなかったけれど、彼はこの名誉を喜ばしい誇りをもって受け入れた。
数人の学友とともに彼は徒歩の旅をしてワルトツェルに着いた。高い期待と覚悟とに満ちて、南門をくぐったが、非常に古いくろずんだ小さい町と、学校になっている恐ろしく面積の広い、昔のチステルチーンゼル修道院とに、たちまち心を奪われ、うっとりした。新しい服を着せられる前に、学校の受付の広間で歓迎の簡単な食事をすますと、彼はすぐひとりで新しい故郷を知るために出かけた。昔の城壁の跡にあって、川の向うへ通じている歩道を見つけ、弓形の橋の上に立ちどまって、水車の堰《せき》のざわめきに耳を澄ました。それから墓場を通り過ぎて、ボダイ樹の並木道を下ると、高い生垣《いけがき》の中に、ヴィクス・ルソルムが見えた。ガラス玉演戯者の小さい特別市区だということがわかった。祭典会館や記録所や、講堂や、来賓館や、教師館があった。それらの建物の一つからガラス玉演戯者の服装をしたひとりの男が出てくるのが見えた。これが伝説的な演戯者のひとりなのだ、ひょっとすると、演戯名人その人であるかもしれない、とクネヒトはひそかに考え、この雰囲気《ふんいき》の魅力を強く感じた。ここでは、すべてが古く、尊厳で、神聖で、伝統をになっているように見え、エシュホルツより中心に一歩近づいていた。ガラス玉演戯の地区からもどると、今度はまた別の魅力を感じた。それはおそらく尊厳さでは劣るかもしれないが、心をかきたてる点では劣らなかった。それは小さい町であった。俗世界の一片で、商業が営まれ、犬や子どもがおり、商店や手工業のにおいがし、店の戸の奥には、ひげをはやした市民や太った女がおり、子どもたちは遊び、はしゃぎ、娘たちは人を嘲《あざけ》るような目付きをしていた。いろいろなものが彼に遠い昔の世界を、ベロルフィンゲンを思い出させた。彼は、そんなものはみんな忘れてしまったと思っていたのに、彼の心の深い層は、それらすべてに、さまざまの光景や物音やにおいに答えた。エシュホルツの世界より、やかましくはあるが、より多彩豊富な世界がここで彼を待ち受けているように見えた。
学校はもちろんさしずめ精確に前の学校の継続であった。もっともいくつか新しい課目が加わってきた。ここでほんとに新しいのは、冥想の練習だけであった。それもすでに音楽名人の手引きで味をためしてみたことがあった。彼は好んで冥想にふけったが、初めのうちは、快く緊張をゆるめてくれる遊戯としか思われなかった。いくらか後になってやっと彼は、その本来の高い価値を体験によって知るようになった。そのことはやがて、述べることにしよう。――ワルトツェルの校長は、いくらか恐れられていた変り者で、オットー・ツビンデンといい、そのころすでに六十歳くらいだった。彼は美しい熱情的な筆跡で、ヨーゼフ・クネヒトという生徒についていろいろのことを記入している。われわれもそれを見た。しかし、この青年の好奇心をまず呼びさましたのは、先生たちより同級生であった。彼は特に、同級生のふたりと活発な交際をし、意見をかわした。それを証拠だてるものがいろいろある。初めの二、三カ月のうちにすぐ近しくなったほうのひとりは、カルロ・フェロモンテといい、クネヒトと同年であった。(彼はのちに、音楽名人の代理として、役所の第二位の位に出世した)。とりわけ、十六世紀におけるリュート弦楽器の様式史は彼の業績である。学校では彼は「米食らい」と呼ばれ、気持ちのよい遊び仲間として珍重されていた。ヨーゼフとの友情は、音楽について話し合ったことから始まり、長年にわたる共同の研究や練習に及んだ。それについては、クネヒトが音楽名人にあてて書いた、少ないけれど内容の豊富な手紙によって、われわれも部分的に知っている。クネヒトはそれらの手紙の最初のものの中で、フェロモンテを「豊富な装飾法、装飾音、顫音《せんおん》奏法等の音楽の専門家、精通者」と呼んでいる。彼はクープラン、パーセル、その他、一七〇〇年ころの巨匠をフェロモンテといっしょに演奏した。それらの手紙の中の一通で、クネヒトは、その練習や、「多くの曲のどの音符にもたいてい装飾音のついている」音楽に関して詳しく述べている。「こうやって数時間」と彼は続けて書いている。「回音、反発顫音、漣音《れんおん》などばかり打つと、指が電気にかかったようになります」
音楽では彼は実際大きな進歩をした。ワルトツェルの二年めと三年めとには、あらゆる世紀と様式との記譜法、音部記号、略記法、数字付低音を、どうにかすらすらと読み、演奏した。そして、西洋音楽の範囲では、保存されているかぎり、例の独特な方法で精通した。それは、手のわざから出発して、精神に深くはいるのに、感覚的なものや技術的なものに細心に留意し、それを大切にすることを怠らない、というやり方である。感覚的なものをとらえることに熱心で、種々の音楽様式の中にある感覚的なもの、音響的なもの、すなわち耳の印象から、精神を読み取ろうと努力したため、彼は異常に長いあいだガラス玉演戯の初歩にたずさわることができなかったのである。彼はのちに講義の中で次のように言ったことがある。「ガラス玉演戯が音楽から蒸溜《じょうりゅう》させた抽出物によってだけ、音楽を知るものは、よいガラス玉演戯者であるかもしれないが、音楽家には遠い。おそらく歴史家でもないだろう。音楽は、それから抽出された純粋に精神的な躍動や音型法の展開からばかり成り立ってはいない。音楽は、あらゆる世紀を通じて、まず第一に、感覚的なものや、息の流出や、拍子や、色どりや、摩擦や、刺激を喜ぶことから成立した。そういうものは、声部がまざりあい、楽器が合奏されることによって生じるのである。確かに、精神が主要なものである。確かに、新しい楽器の発明、古い楽器の改造、新しい調種や構成や和声の規則、もしくは禁制の導入は、常に一つの表情や外見にすぎない。国民の服装や流行が外見にすぎないように。――しかし、この外面的感覚的特徴を感覚的に強烈にとらえ、味わうのでなければ、時代と様式とをそれから理解することはできない。音楽をするのは、手と指と口と肺とでもってするのであって、脳だけでするのではない。なるほど譜は読めるが、楽器は一つも完全にかなでることができないというようなものは、ともに音楽を語る資格がない。音楽の歴史もまた、抽象的な様式の歴史だけから理解することはできない。たとえば、音楽の衰退期はいつまでたってもまったく不可解であろう。もしわれわれがその時期にはいつでも感覚的なものと量的なものとが精神的なものに対し優位を占めていることを認識しないとしたら」
しばらくのあいだクネヒトは、音楽家以外のものにはならないと決心した観があった。ガラス玉演戯入門を含めて、生徒の随意にまかされている教課を全部、音楽のために、ひどく怠ったので、第一学期の終りに、校長はそれについて彼の答弁を求めた。生徒クネヒトはびくともせずに、頑強《がんきょう》に生徒の権利の立場をたてにとり、校長に次のように言ったそうである。「私が公式の課目でだめでしたら、先生がおしかりになっても、ごもっともです。しかし、そう言われるきっかけを作ったおぼえはございません。それに引きかえ、自分が自由に使ってよい時間のうち、四分の三あるいは四分の四を音楽にささげたとしても、私はまちがっておりません。私は学則をたてにとります」校長ツビンデンは利口だったから、言い張りはしなかったが、もちろんこの生徒をおぼえていて、長いあいだ冷たい厳格さであしらったということである。
クネヒトの学生生活のこうした一風かわった時期は、一年以上、おそらく一年半くらい続いた。普通ではあっても、輝かしくはない成績をとり、静かではあるが――校長とのできごとの後みられるように――いくらか反抗的に引っこんで暮し、目だつような友情は示さなかったが、そのかわり、異常に激情的な熱心さで音楽をやり、ガラス玉演戯をも含め、ほとんどすべての随意課目を断念した。こういう青年の姿に見られる二、三の特徴は、疑いもなく思春期のしるしである。たぶん彼はこの時期、異性には偶然のことで、しかも疑心をもって会ったきりであった。おそらく彼は――家に姉妹を持っていなかったエシュホルツの多くの生徒同様――まったく臆病だった。読むことはたくさん、ことにドイツ哲学者を、すなわちライプニッツ、カント、ロマン派などを読んだ。後者の中では、ヘーゲルが群を抜いて強く彼を引きつけた。
ここでわれわれは、クネヒトのワルトツェル生活において決定的な役割を演じたもひとりの同級生、すなわち聴講生プリニオ・デシニョリのことを、いくらか詳しく述べなければならない。彼は聴講生であった。つまり、客として、というのは、教育州に長くとどまって、宗団に加入する意志を持たずに、英才学校を卒業した。そういう聴講生は時折りあった。もちろんごくまれであった。教育庁は当然のことながら、英才学校時代を終えた後、また両親の家と世間へ帰っていく了見でいる生徒を教育することを重視しなかったからである。しかし、カスターリエンの創設時代高い功績のあったこの国の古い素封家で、むすこに天分が十分あれば、随時客として英才学校で教育を受けさせるという風習を今日なおすたれさせてしまっていない家庭が、いくつかあった。そうする権利は、それらの数家庭では伝統的になっていた。さて、そういう聴講生たちは、あらゆる点で英才学校生徒のすべてと同じ規則に従ったのではあるが、生徒仲間で例外をなしていた。彼らが、他の生徒たちのように、年々故郷と家庭とから疎遠になるということなく、休暇ごとに帰省して、故郷の風習や考え方を持ち続けているため、同級生たちに囲まれていても、いつも客であり、局外者であったという事情によって、すでにそうなったのである。両親の家や、世俗の行路や、職業や、結婚が、彼らを待っていた。そういう聴講生が、教育州の精神に感動して、家庭の同意を得て、結局カスターリエンにとどまり、宗団に加入したというようなことは、ごくごくまれにしか起らなかった。これに反し、われわれの国の歴史で知られた政治家の中には、青年時代聴講生だったものが、幾人かいる。彼らは、世論が何かの理由で英才学校と宗団に対し批判的になったとき、力強くこれを擁護した。
いくらか年少のヨーゼフ・クネヒトがワルトツェルでいっしょになったプリニオ・デシニョリは、そういう聴講生であった。彼は、高い天分の青年で、特に弁論や討論にかけて精彩を放ち、燃えるような、いくらか落ちつきのない人間で、ツビンデン校長にずいぶんめんどうをかけた。何せ彼は、生徒として品行はよく、非難は受けなかったけれど、聴講生としての例外の身分を忘れようとも、できるだけ目だたぬように皆の中に加わろうとも努めず、カスターリエン的でない、世俗的な考えを持つことを、あからさまに、鼻っぱし強く表白したからである。したがって、ふたりの生徒のあいだに特別な関係が生じたことは、避けがたかった。ふたりとも、高い天分を恵まれ、神に召されたものであった。そのことが彼らを兄弟にした。他のすべての点では、反対であった。そこに生じる問題から核心を引き出して、弁証法の法則に従い、対立のあいだに、また対立の上に、たえず総合を可能にするには、なみはずれて高い見識と技術を有する教師を必要としたであろう。ツビンデン校長には、そうする才能や意志が欠けてはいなかっただろう。彼は、天才をやっかいに思うような教師ではなかった。しかし、この場合、彼には最も重要な前提、すなわちふたりの生徒の信頼というものが欠けていた。局外者と革命家との役割を楽しんでいたプリニオは、校長に対しいつも非常に警戒していた。ヨーゼフ・クネヒトも、残念ながら随意課目の一件以来気まずかった。彼もツビンデンに知恵を借りるようなことはしなかっただろう。幸い、音楽名人がいた。クネヒトは名人に助けと知恵とを求めることができた。この賢い老楽人は、その件を真剣に取りあげてやり、後に記《しる》すように、模範的にかじをとってやった。この名人の手にかかると、若いクネヒトの生活の最大の危険と誘惑が、特記すべき課題となり、クネヒトはそれを処理する能力のあることを示した。ヨーゼフ・クネヒトとプリニオとのあいだの友情と敵対、それは二つの主題の音楽、あるいは二つの精神のあいだの弁証法的遊戯でもあるのだが、それの内面的な経緯はほぼ次のようなものであった。
まず相手に目だつ印象を与え、これを引きつけたのは、もちろんデシニョリであった。彼は、年上であったばかりでなく、きれいな、熱烈な、雄弁な青年であったばかりでなく、何よりも「外から来た」ひとり、カスターリエン人でないもの、俗世間のひとり、父母やおじやおばや兄弟姉妹のある人間であった。彼にとっては、いっさいの法律と伝統と理想をそなえているカスターリエンも、一つの段階、道程、期限つきの滞在を意味しているにすぎなかった。この珍客にとっては、カスターリエンは世界ではなく、ワルトツェルは、他のと同様な学校であり、「世間」へ帰ることは、恥でも罰でもなかった。彼を待っているのは、宗団ではなく、立身の経路、結婚生活、政治、つまり、すべてのカスターリエン人がもっと知りたいとひそかな欲望を感じているあの「現実の生活」であった。なぜなら「世間」は、カスターリエン人にとっては、昔ざんげ者や修道僧が考えた世間と同じものだったからである。つまり、値打ちの乏しいもの、禁制のものであったが、同様に秘密に満ちたもの、誘惑的なもの、魅惑的なものであった。さてプリニオは実際、この世間に所属することを秘密にせず、少しもそれを恥じないどころか、誇りにしていた。半ばまだ少年らしい、芝居がかった、半ばすでに自覚をもって主義と感じている熱をあげて、自分の別な流儀を強調し、あらゆる機会をとらえて、自分の世俗的な考え方と規範とをカスターリエンのそれに対立させ、自分のほうがより良く、より正しく、より自然で、より人間的だと称した。その際、彼はしきりに「自然」と「常識」とを振りまわし、生活にうといゆがめられた学校精神に常識を対立させた。また、標語や大言壮語をふんだんに使った。しかし、利口で、趣味も豊かだったので、乱暴なけんか口調で満足はせず、ワルトツェルで常用されている議論の形式は相当に認めた。「世間」と素朴な生活とをカスターリエンの「高慢なスコラ的精神本位」に対して擁護しようと欲したが、彼は、相手の武器でそれをすることができることを示そうと欲した。精神的教養の花園を盲目的に踏みにじる非文化人になろうとは、彼は決してしなかった。
デシニョリが中心に立ってしゃべっているささやかな生徒の群れのうしろの方に立ちどまってヨーゼフ・クネヒトは、口こそきかないが注意深く聞いていたことが、すでにいくどかあった。カスターリエンで権威があり神聖であるとされているいっさいのものを壊滅的に批判する文句を、この弁士がしゃべっているのを、クネヒトは、好奇心と驚きをもってはらはらしながら聞いた。その話の中では、クネヒト自身の信じているあらゆることが疑問とされ、問題とされ、笑い草にされた。もちろん、聞いているものがみんなその話をまじめにとってなんかいないのに、彼は気づいた。年の市でわめく商人の言うことでも聞くように、明らかにただおもしろ半分に聞いているものも少なくなかった。プリニオの攻撃を皮肉ったり、まじめにしりぞける反対の声もたびたび聞いた。しかし、いつでも数人の仲間がプリニオのまわりに集まっていた。いつでも彼は中心だった。反対者がいようがいまいが、いつでも彼は人を引きつけ誘惑するような力を発揮した。活発な雄弁家の周囲に集団を作り、その長ぜりふを聞いて、驚いたり、笑ったりしている他の連中と、ヨーゼフも同じような気持ちだった。その話を聞きながらはらはらして不安の感をおぼえたにもかかわらず、同時に無気味に引きつけられるのを感じた。しかも、それがおもしろかったからではない。いや、自分にも何かしら真剣に関係があるように思われた。大胆な弁士の言うことに内心で賛成したわけではないが、疑いはあった。疑いがあること、あるいは疑いのありうることを知っただけでもう、疑いのため悩みが起った。当初はひどい悩みではなかった。触れられた状態にすぎず、一種の不安であった。はげしい衝動と良心のやましさのまじった感情だった。
時は来ずにはいなかった。そして時は来た。デシニョリは、自分の聴衆の中にひとりの男がいて、自分のことばを、刺激的な、あるいは耳ざわりな話や議論癖の満足以上のものと受け取っているのに気づいた。ことば数の少ない金髪の少年で、美しく上品ではあったが、いくらか内気に見えた。デシニョリが打ちとけて話しかけると、その少年は赤くなり、まごついた簡単な返事をするだけだった。明らかにこの少年はもうだいぶ前から自分のあとを追っていると、プリニオは考えた。そこで、友情のこもった態度で彼に報い、完全に身方にしてやろうと考え、午後ぼくのへやに訪ねてきませんか、と誘った。だが、この内気でつんとしている少年は、そうたやすくは手にはいらなかった。プリニオは、相手が自分を避け、応答さえしようとしない、という仕打ちに会って、驚いた。相手はもちろん招待を受け入れなかった。それがまた年上の少年の心をそそった。彼はその日から、黙り屋のヨーゼフの友情を求め始めた。初めは自分の面目《めんぼく》からであったが、のちには真剣になった。ここに相手になる男がいる、将来友人になるかもしれないし、その反対になるかもしれないけれど、と彼は感じたからであった。くり返し彼は、ヨーゼフが自分のそばに現われるのを見、熱心に傾聴しているのに気づいたが、近づこうとすると、はにかみ屋はいつでもすぐ引っこんでしまった。
この態度にはそれ相応の理由があった。ずっと前からヨーゼフは、この相手の中で、何か重要なものが、おそらく何か美しいものが、自分の地平線をひろげてくれるものが、認識が、啓蒙《けいもう》が自分を待ち受けているのを感じていた。それは誘惑と危険であるかもしれないが、いずれにしても、乗り越えねばならぬ何かであった。プリニオの話によって自分の心に呼びさまされ初めて動き出した疑惑と批判心のことを、ヨーゼフは友人のフェロモンテに告げた。ところが、フェロモンテは、それをほとんど問題にせず、プリニオなんて思いあがった、偉そうぶるやつだ、あんなものの言うことは聞くに及ばない、ときっぱり言い、すぐにまた音楽の練習に没頭した。一つの気持ちは校長こそ、自分の疑惑や不安を訴えて裁いてもらうべき人だ、とヨーゼフに言った。しかし、例のささやかな対決以来、彼は校長に対してもはや心から打ちとけた間柄でなくなっていた。彼は、校長から理解されないことを恐れた。それ以上に、反逆児プリニオのことなんか話すと、結局一種の密告のように校長から解されることを、彼は恐れた。プリニオが友だちとして近づこうとする試みをするため、ヨーゼフはいよいよせつない困惑に陥ったあげく、自分の保護者であり、自分を助けてくれる霊である音楽名人に、非常に長い手紙を書いて、心中を訴えた。それは保存されているが、特に次のようなことが書かれている。「プリニオが私を同志にしようと望んでいるのか、単に話し相手にしようと望んでいるのか、まだ明らかでありません。私は、後者であることを望んでいます。彼の考え方に改宗するのは、実際、誘惑されて不信に走り、今はもうカスターリエンに根をおろしてしまった自分の生活を破壊することになるでしょう。私には、よそに、帰っていくことのできる両親も友人もございません。たとえほんとにそういう願いをいだいたとしても。――しかしプリニオのはばかるところなき演説が改宗や感化を全然めざしていないとしても、私はそれに直面して困惑しております。なぜなら、尊敬する先生、先生にほんとうに正直に申しますが、プリニオの考え方には、私のほうで簡単に否と答えることのできないあるものがあって、私に迫ってくるからです。彼が、私の心の中のある声に呼びかけると、その声は時々彼の言うことは正しい、と認めようと強く傾きます。察するところ、それは自然の声であって、私の教育や、私たちの心得ている見方と極端に矛盾するものです。プリニオが、私たちの先生や名人を僧侶階級と呼び、私たち生徒を意のままに操《あやつ》られる去勢された家畜群だと呼ぶのは、もちろん粗野な誇張の言ではありますが、やはりそれにはたぶん何か真実なものが含まれておりましょう。でなければ、それを聞いて、私がそれほど不安になるわけがありません。プリニオは、たいそう驚くべき、どぎもを抜くようなことを申します。たとえば、ガラス玉演戯は、フェユトン時代への転落だ、種々の学問芸術のことばを溶かしこんだ文字を単に無責任にもてあそぶものだ、単なる連想から成り立ち、単なる類推をもてあそぶものだ、と申すのです。あるいは、私たちが産み出すことを諦《あきら》めてしまっているのは、私たちの精神的教養や態度全体の無価値なことを証明するものだ、と申します。たとえば、われわれは音楽のあらゆる様式や時代の法則や技法を分析するけれど、みずから新しい音楽を作り出しはしない、と彼は言います。われわれはピンダロス〔ギリシャの合唱隊用叙情詩詩人〕やゲーテを読み解釈するけれど、みずから詩を作ることを恥じる、と彼は言います。その非難を私は笑ってすますことができません。それはまだ最もひどい非難ではありません。私を最もひどく傷つけるものでもありません。われわれカスターリエン人は、人工的に飼養されている歌う小鳥の生活を送り、みずからパンをかせごうとせず、生活の苦しみや戦いを知らず、われわれのぜいたくな生存の基礎を与えるために貧乏して働いている人類の一部について何も知らず、また知ろうともしない、などと申すときは、まったくひどいのです」その手紙は次のことばで結ばれている。「最も尊敬する先生、私はあなたの親切と好意とを乱用したかもしれません。あなたからおしかりを受けることは、覚悟しております。どうぞ私をおしかりください。私にざんげを課してください。私はそれをありがたく思うでしょう。だが、一つのご忠告を切に必要としております。私は今の状態をこのまま長く耐えることができません。これを助長して実際に実り豊かに発展させることは、私にはできません。それには私はあまりに弱く、経験も積んでおりません。おそらく最も悪いことでしょうが、校長先生に打ち明けることができません。あなたがはっきりそうせよと私にご命令なされば、別ですけれど。そういうわけで、私にとって大きな困難となり始めたことを訴えて、先生をわずらわした次第です」
助けを求めるこの叫びに対する名人の答えが同様に文書になって伝わっていたら、非常に貴重なものとなったであろう。しかし、この答えは口頭で行われた。クネヒトの手紙を受け取ると、まもなく音楽名人は親しくワルトツェルに現われ、音楽の試験を指導した。そこに滞在中、彼は小さい友を何くれとなくめんどうみた。クネヒトの後の物語によってそれがわかる。それは容易なことではなかった。名人はまず手はじめに、クネヒトの学校の成績と、特に随意課目を精細に検討し、その勉強があまりに片よっているのを知った。その点でワルトツェルの校長の意見をもっともだとし、クネヒトが校長に対しそれを認めることを主張した。デシニョリに対するクネヒトの態度についても綿密な方針を授け、この問題をツビンデン校長とも相談してから、初めて旅立った。その結果、デシニョリとクネヒトとのあいだに、居合せたもの一同にとって忘れられない奇妙な対決が行われたばかりでなく、クネヒトと校長とのあいだの関係がまったく新しいものになった。その関係は依然として、音楽名人に対するそれのように、心の通った神秘的なものではなかったが、明るく、緊張のとけたものとなった。
このときクネヒトに与えられた役割は、かなり長いあいだ彼の生活を決定することになった。先生たちの側からの干渉や監視を受けずに、デシニョリの友情を受け入れ、その影響と攻撃に対処することが許されたのである。しかし、師から課せられた任務は、カスターリエンをその批判者に対して弁護し、見解の論議を最高の水準に高めることであった。それは、とりわけ、ヨーゼフが、カスターリエンと宗団とを支配している秩序の基礎を強く身につけ、絶えず眼前に浮べていなければならない、ということを意味していた。友となったふたりの敵手の論争は、まもなく有名になり、それを聞きに、皆がつめかけた。デシニョリの攻勢的な皮肉な調子は、いっそう洗練され、彼の表現はいっそう厳格になり、無責任でなくなった。彼の批判はいっそう具体的になった。これまではプリニオがこの戦いで人気のあるほうだった。彼は「世間」からやってきており、世間の経験と方法と攻撃手段と、それと世間の屈託なさをも持っていた。自分の家でおとなと話し合っているため、世間がカスターリエンに対してどういう点で異論を唱えるかを知っていた。しかし、今度クネヒトの応酬によって否応《いやおう》なしにプリニオが悟ったのは、自分はなるほど世間をよく知っている、カスターリエンのだれよりもよく知っている、だが、カスターリエンを家とし、故郷とし、運命としている人々ほど、カスターリエンとその精神をよく知ってはいない、ということであった。彼は、深く見ることを学び、自分はここでは客である、土着のものではないということ、外にばかりでなく、この教育州にも、世紀を重ねた経験と自然の理があるということ、ここにも伝統が、いや「自然」があること、それを自分は一部しか知らないが、それはいま代弁者ヨーゼフ・クネヒトを通して尊敬を促しているのだということをも、次第に認めるようになった。これに反し、クネヒトは、弁明者の役割を果すために、研究や冥想《めいそう》や自制の助けをかりて、自己の弁護すべきものを、いよいよはっきりと深く自分のものにし、自覚しなければならなかった。修辞の点では、デシニョリがまさっていた。生れつきの熱情と野心のほかに、一種の世間的訓練と機知とが役にたった。特に、負けたときでもなお聴衆のことを考え、品位を失わない、あるいはせめて気のきいた切りあげ方をすることを心得ていた。これに反し、クネヒトは、相手に追いつめられると、「その点はまだよく考えてみなければならない、プリニオ。二、三日待っておくれ、また君に言うから」というふうに言った。
こうしてこの関係にはりっぱな形ができ、論争の当事者や聴衆にとっては、当時のワルトツェルの学校生活の欠くべからざる要素になったが、クネヒトにとっては、苦しみと戦いとはほとんど軽減されなかった。それとともに彼に課せられた高い信頼と責任とによって、彼はその課題を果しおおせた。彼が目につくような痛手を受けずにそれをしとげたのは、彼の生れつきの力とすぐれた素質とを証明するものである。しかし、彼はひそかに少なからず悩まねばならなかった。彼がプリニオに対し友情を感じたとすると、単に人好きのする機知に富む学友に対し、世才にたけ、弁舌の巧みなプリニオに対して友情を感じたのではなく、それに劣らず、彼の友であり敵であるプリニオの代表しているあのよその世界に対して感じたのであった。彼はプリニオの姿やことばや身ぶりで、あの世界を知ることを、ほのかに感じることを学んだ。それは、あのいわゆる「現実の」世界であって、そこには、やさしい母や子や、飢える人がおり、救貧院や新聞や選挙戦があった。その原始的で、同時に洗練された世界へ、プリニオは休暇ごとに帰り、両親兄弟を訪れ、少女にお世辞を言い、労働者の集会に出席したり、上品なクラブのお客になったりした。他方クネヒトはいつもカスターリエンにいて、学友たちと散歩をしたり、泳いだり、フローベルガーのリチェルカリを練習したり、ヘーゲルを読んだりした。
ヨーゼフにとっては、カスターリエンに属し、カスターリエンの生活を正しく送ることに、問題はなかった。それは、家庭のない、さまざまな伝説じみた気晴らしのない生活、新聞のない生活、困窮も空腹も知らない生活であった。――それはそうと、プリニオは、英才学校の生徒たちに、怠け者の生活を送っていることを鋭く非難したけれど、彼だってこれまで飢えたことも、自分のパンをみずからかせいだことも、ついぞなかった。いや、あのプリニオの世界は、よりよい、より正しい世界ではなかった。しかし、それはそこにあった。存在していた。世界歴史によって知っているように、それは常に存在し、常に今日と似ていた。多くの国民は、それより他の世界を知らず、英才学校や教育州や宗団や名人やガラス玉演戯などを全然知らなかった。全地球上の全人類の大多数は、カスターリエンの生活とは別の生活をしていた。より単純に、より原始的に、より危険に、より不用意に、より無秩序に生活していた。この原始的な世界はすべての人に生れついていた。みんなその世界のなにがしかを、それへの好奇心や郷愁や同情のなにがしかを自分の胸中に感じた。その世界を正しく評価し、それのため一種の郷土権を胸中に保持すること、しかしその世界に逆もどりしないことが、課題であった。その世界と並んで、そしてその上に、第二の世界があった。つまりカスターリエンの、精神的な世界があった。人工的な、よりよく秩序だった、よりよく保護された世界だったが、不断の監視と練習とを必要とする世界、すなわち聖職制度であった。それに仕えながら、しかもあの別な世界に不公平にならず、それをけいべつなどはせず、同時にまた何らかのあいまいな願望や郷愁をもってその世界をぬすみ見することもしないというのが、正しい態度であるに違いないだろう。なぜなら小さいカスターリエンの世界は、大きな別の世界に奉仕し、それへ教師や書物や方法を供給し、精神的な機能や道徳が純粋に維持されるように留意し、一生を精神と真理にささげることを使命としているらしい少数の人々のために、学校や避難所になっていたからである。なぜいったい二つの世界は、見うけたところ、調和して兄弟のように相並び交錯して生きなかったのか。なぜ二つの世界を心の中にいだき、結びつけることができなかったのか。
あるとき、ちょうどヨーゼフが自分の課題に疲れ、くたくたになって、心の平衡を保とうと、非常に骨を折っているところへ、めったに来ない音楽名人が訪れてきた。名人は、青年のそれとない二、三のことばによってそれを察したが、緊張しすぎた外見や、不安なまなざしや、いくらか散漫な態度から、ずっとはっきりそれを読みとった。名人は二、三質問して探ろうとしたが、ふきげんに渋るような態度にぶつかったので、質問を断念し、真剣に憂慮しながら、音楽史上の小さな発見を知らせてやるという口実のもとに、青年を練習室へ連れていった。クラヴィコードを持ってこさせ、調子を合わさせ、ソナタ形式の成立に関する特別講義に長いあいだまきこんだので、ついに生徒もいくらか苦しみを忘れて、引きこまれ、くつろぎ、感謝して、名人のことばと演奏に耳を傾けた。受け入れる心の用意のできていないのを見てとったので、名人は相手をそういう状態に移すため、根気よく時間をかけたのだった。それがうまくいき、講義を終え、結びにガブリエリのソナタ〔奏鳴曲〕を一つ演奏すると、名人は立ちあがり、小さいへやの中をゆっくり行ったり来たりして語った。
「ずいぶん前のことだが、わしはこのソナタに没頭したことがある。まだわしの自由な研究時代のことで、まだ教師に招かれない前で、音楽名人に招かれたのは、またその後のことだ。そのころわしは、ソナタの歴史を新しい見地で仕上げようという野心をいだいていた。ところが、わしはもはや進歩しないばかりか、およそこういう音楽的歴史的研究はいったい価値があるのだろうか、暇な人々の空虚な遊戯や、真の生活された生活の見かけ倒しの精神的芸術的代用品以上のもので実際あるだろうか、という疑いがいよいよ強くなり始めた時期にぶつかった。要するに、いっさいの研究や精神的努力やおよそ精神というものがまったく疑わしくなり、値打ちを失うような一危機を、私は通過しなければならなかった。畑を耕す農夫や、夕べ連れ立つ恋人同士や、木で歌う鳥や、夏草の中で鳴くコオロギまでが、ことごとくうらやましくなるような時期なのだ。そういうものがごく自然に、充実して、幸福に生きているように思われ、それらの苦しみや、その生活のきびしさや危険や悩みを、われわれはいっこう知らないからである。要するに、わしはひどく平衡を失ってしまった。決して楽しい状態ではなかった。それどころか、まったく耐えがたかった。わしは、逃げ出し自由になるため奇抜きわまる方法を考え出した。音楽の芸人になって世間へ出かけ、踊りを踊る結婚式の一座のため演奏することを考えたのだ。昔の小説にあるように、外国の徴募者が現われ、制服を着て、気の向いた軍隊に従い、気の向いた戦争に行くように、わしを誘ったら、わしはいっしょに行っただろう。そういう状態のときはよく起りがちのことだが、そのとおりになった。つまり、わしはひどく途方にくれてしまったので、自分ひとりでは始末がつかなくなり、助けを必要とした」
名人はちょっと立ちどまり、ひとりで笑ってから、話しつづけた。「もちろん、規定どおり、わしにも研究助言者があった。もちろんその人に助言を求めるのが、筋道の通ったことで、正しくもあり、わしの義務でもあったろう。だが、こうしたものなんだよ、ヨーゼフ。人は困難に陥って、道からはぐれ、訂正を最も切実に必要とするときに限って、常道にもどり、正常な訂正を求めることを、最もきらうものだ。わしの研究助言者はわしの新しい四季通信簿に不満で、真剣にわしに抗議をした。しかし、わしは、新しい発見あるいは認識に達する途上にあるんだと信じ、彼の抗議をかなり悪くとった。要するに、わしは、彼のところへ行くのがいやだったのだ。恭順の意を表して、あなたのおっしゃるとおりです、と認めるのがいやだったのだ。友だちにも打ち明けたくなかった。ところが、近所にひとりの変り者がいた。わしは、姿を見たり、うわさを聞いたりして知っているだけだった。『ヨーギン』〔瑜伽《ヨーガ》行者〕というあだなのあるサンスクリット学者だった。わしは、もう耐えられない状態になったとき、その男のところへやっていった。その人のいくらか孤独で風変りな姿を、わしは冷笑すると同様に、ひそかに驚嘆していたのだ。彼をその小さいへやに訪れ、話しかけようとしたが、彼が冥想にふけっているのを知った。彼は、礼拝の作法にかなったインド式の姿勢をしていて、近よりようがなかった。軽く微笑しながら、完全に現実を離れたところに漂っていた。わしは、戸口に立ちどまって、彼が冥想から立ち返るのを待っているほかはなかった。それは非常に長く続いた。一時間、二時間と続いた。わしはとうとうくたびれてしまって、ぺたりとゆかに腰をおろした。そして壁にもたれ、待ちつづけた。やっとわしは、彼が徐々にめざめるのを見た。頭を少し動かし、肩を張って、組んだ足を徐々にほぐした。立ちあがろうとしたとき、彼のまなざしがわしの上に落ちた。『何の用かね?』と彼は尋ねた。わしは起きあがって、何を言うのか、よく考えもせず、十分自覚もせずに、『アンドレア・ガブリエリのソナタです』と言った。彼はすっかり立ちあがって、たった一つのいすにわしをこしかけさせ、自分はテーブルの端に腰をおろして言った。『ガブリエリだって? そのソナタで彼はいったい君にどうしたのかね?』わしは彼に、自分がどういう状態を経てきたかを語り、自分がどういう状態にあるかを告白し始めた。彼は、わしにはこせこせしていると思われるくらい精確に、わしの身の上を、ガブリエリのソナタと研究のことを、根掘り葉掘り尋ねた。わしがいつ起きるか、幾時間くらい読書するか、どのくらい音楽をするか、いつ食事をし、いつ寝るかを、知ろうとした。わしは心を彼に打ち明けた。というより、彼に押しつけたわけなので、彼の質問を我慢し、答えないわけにいかなかった。だが、質問はわしを赤面させた。それはますます仮借なく細部にわたった。最近数週間、数カ月のわしの精神的道徳的生活が分析された。それから、瑜伽行者は急に黙りこんだ。わしがわけがわからずにいると、彼は肩をぴくっとさせて、『誤りがどこにあるか、自分でわからないのかね?』と言った。いや、わしにはわからなかった。そこで彼は、わしから聞き出したいっさいのことを、驚くほど精確にかいつまんでくり返し、疲労やふきげんや精神的秘結の最初の徴候までさかのぼった。そして、これは、あまり自由に向うみずに研究する者に限って起りうること、わしは自分と自分の力とを制御することができなくなっているが、他の人の助けを借りて、制御力をとりもどす潮時に達していたことを、証明してくれた。わしは、規則的な冥想の練習をかってにやめてしまったのだとしても、よくない結果の最初の現われを見たら、せめてすぐにその怠慢を思い出して、その償いをすべきだったろう、と彼は指摘した。まったく彼の言うとおりだった。わしはずっと冥想を怠っていたばかりか、暇がなく、いつも不快で、気が散っているか、あまり研究に熱中し、興奮していた。――それどころか、自分の久しきにわたる怠慢の罪の意識を、時とともにすっかり失ってしまっていた。そして、ほとんど失敗し絶望した今となって、初めて他人によってその罪に注意を喚起されるはめになったのだった。それから実際わしは、投げやりな状態を脱却するため、このうえない苦労をした。学校でやっている冥想の初歩の練習に立ちかえって、やっと集中と沈潜の能力を次第にとりもどした」
名人は、小さな溜息《ためいき》をついて、室内散歩をやめると、次のように言った。「当時のわしはこういうぐあいだった。それを話すのは、今日でも少し恥ずかしい。だが、そうなんだよ、ヨーゼフ。われわれは自分に多くを要求すればするほど、あるいは、その時々のわれわれの課題がわれわれに多くを要求すればするほど、われわれは冥想という力の源泉、精神と霊との常に新たな融和を頼りにしなければならない。そして――わしはまだいくらもその実例を知っているがね――ある課題がわれわれを駆りたてて、あるいは興奮させ、高め、あるいは疲れさせ、押しつけることが強ければ強いほど、われわれはその源泉をないがしろにしがちである。それはちょうど、精神的な仕事に没頭すると、肉体とその養生をないがしろにしがちなのと同様である。世界史の真に偉大な人物はみな、冥想することを心得ていたか、冥想によって達する所への道を無意識のうちに知っていた。そうでないものは、どんなに天分のある力強いものでも、みなしまいには失敗し敗北した。なぜなら、彼らの課題、あるいは野心満々たる夢のとりこになってしまい、とり憑《つ》かれた人間になって、現実的なものから絶えず離脱し、間隔を置く能力を失ったからである。いや、君はもうこんなことは知っている、最初の練習のときにもう習うのだからね。それは仮借のない真理だ。どんなに仮借ない真理であるかは、一度道を見失ってみて初めてわかる」
この物語は少なからずヨーゼフの心の中で効果のある働きをいつまでもした。それで、彼自身陥っていた危険に感づき、新たに心を打ちこんで修業に従った。名人が初めて、まったく個人的な生活に関する一端を、青年時代の研究期から取りあげて、彼に示したことは、彼に深い感銘を与えた。半神のような名人でも、かつては若く、道に迷ったことがあるのだということが、初めて明らかになった。尊敬する人がその告白によって自分にどんな信頼を示してくれたかを、彼は感じて、感謝した。迷ったり、疲れたり、あやまちを犯したり、規則にそむいたりすることはあっても、またそれを乗りきり、立ちなおり、しまいには名人になれるのだった。彼は危機を克服した。
プリニオとヨーゼフのあいだに友情が続いたワルトツェルの二、三年のあいだ、学校は、この闘争的な友情の光景を一つの戯曲のように演出した。それには、校長から最年少の生徒に至るまで、端役でも買わないものはなかった。二つの世界、二つの原理は、クネヒトとデシニョリとに具体的な形を現わした。めいめいが相手をせりあげた。議論はすべて、みんなに関係のある厳粛な代表者としての戦いとなった。プリニオが、休暇に帰省し、故郷の土を抱擁するごとに、新しい力を持ってきたように、ヨーゼフは、思索し、読書し、沈潜の修業をし、音楽名人と再会するごとに、新しい力を吸いとって、カスターリエンの代表者、代弁者としての資格を高めた。昔、まだ子どものころ、彼は最初の召命を体験した。今、彼は第二の召命を体験した。この数年が彼を鍛え、完全なカスターリエン人の姿に仕上げた。ガラス玉演戯の最初の授業ももうとっくに卒業し、そのころはすでに、休暇中、演戯指導者のひとりの監督のもとに、自作のガラス玉演戯を考案し始めた。そこに彼は、喜びと心のくつろぎの最も豊かな泉の一つを発見した。カルロ・フェロモンテとともに、飽くことを知らず、チェンバロやクラヴィコードの練習をして以来、こうしてガラス玉演戯の星の世界へ初めて進んでいくことほど、快感を与え、冷やし、強め、保証し、幸福にしてくれたものはなかった。
フェロモンテの写しで保存されている若いヨーゼフ・クネヒトのあの詩は、ちょうどこのころできたものである。詩の数は、伝わっているより、もっとたくさんあったらしい。その最も早いものは、クネヒトがガラス玉演戯に手引きされる前にできたものであるが、それが彼を助けて、彼の役割をやりとげ、あの危機の数年を切り抜けさせた、とも考えられるのである。一部は技巧に富んでいるが、一部は明らかに一気に書きつけられた。これらの語句を読むものはだれでも、ここかしこに、クネヒトが当時プリニオの影響のもとで悩んだ深い動揺と危機との跡を発見するであろう。深い不安と、自分自身や自分の生活に対する根本的な疑いとの現われている句も少なくないが、「ガラス玉演戯」という詩になると、敬虔《けいけん》な献身が成功しているように思われる。それにしても、彼がこういう詩を書き、それを数人の学友に時折り見せさえした、という単なる事実にすでに、プリニオの世界をある程度承認し、ある種のカスターリエンの内規に多少反抗したことがうかがわれる。なぜなら、一般にカスターリエンでは芸術品の創作を断念していた(音楽の製作もそこでは、様式上厳格に制約された作曲練習の形でだけ、認容されている)が、詩を作ることは、およそありうべからざる、最もこっけいな、厳禁されたことと考えられていた。これらの詩は、したがって遊戯ではなく、暇にまかせて作った小手さきの装飾品でもない。この創造的な性質を流れ出させるのには、高い圧力が必要だったのである。こういう詩句を書き、これを自分のものと公言するには、一種の反抗的な勇気がなければならなかった。
プリニオ・デシニョリも相手の感化を受け、著しい変化と発展をとげたことも、述べておかねばならない。しかも、闘争手段の純化というような教育的な意味だけではない。この学校時代、同僚として論争相手として意見の交換をしているうちに、プリニオは、相手が絶えず向上して、模範的なカスターリエン人に成長していくのを見た。また、この州の精神が友人の姿を通してだんだん明らかに生き生きと迫ってきた。彼が自分の世界の雰囲気《ふんいき》を伝染させて、相手をある程度の不安に追いこんだように、彼自身もカスターリエンの空気を呼吸し、その魅力と影響に負けたのであった。学校時代の最後の年に、修道僧生活の理想とその危険について、ガラス玉演戯の最上級生を前にして、二時間にわたる論争を思いきりやったあとで、プリニオはヨーゼフを散歩に連れ出し、その道すがらある告白をした。それをフェロモンテの手紙に従って引用しよう。「ヨーゼフよ、君はガラス玉演戯者と教育州信者の役をみごとに演じているけれど、百パーセントそうではないことを、ぼくはもちろんずっと前から知っている。ぼくたちはどちらも、一つの戦闘において危険にさらされた場所に立っている。そしてお互いに、自分の攻撃の目標がりっぱに存在し、否みがたい価値を持っていることをよく知っている。君は精神の高い訓練の側に立ち、ぼくは自然な生活の側に立っている。ぼくたちの戦いで、君は、自然な生活の危険をかぎつけ、それにねらいをつけることを学んだ。自然な素朴《そぼく》な生活は精神的な訓練をともなわないと、どんなに泥沼となり、動物的なものになり、さらにひどいものにあともどりするか、ということを指摘するのが、君の役目だ。ぼくのほうは、純粋に精神だけをめざす生活がどんなに冒険で、危険で、結局は実を結ばぬものであるか、ということをくり返し想起させなければならない。よろしい、めいめい、優位にあると信じるものを擁護する。君は精神を、ぼくは自然を。だが悪くとらないでくれたまえ。君は実際、単純に、ぼくを、君たちのカスターリエン制度の敵のように思っている。君たちの研究や修業や遊戯を、いろいろな理由からしばしのあいだいっしょにやってはいるが、根本的にはそんなものをつまらぬこととしか考えない男だと、ぼくのことを思っている。ぼくにはそんな気のすることがよくある。ああ、君、君がほんとにそう信じたとしたら、たいへんなまちがいだよ! ぼくは君たちの聖職制度に対し理屈ぬきの愛をいだいており、幸福そのもののように、たびたびそれに魅惑されることを、君に告白したい。それからまた告白したいが、数カ月前、しばらく両親の家にいたとき、父ととことんまで議論したあげく、学校を終えたとき、万一それを希望し、決心するならば、そのままカスターリエン人になり、宗団にはいってもよいという許しを得たのだ。ついに父が同意を与えてくれたとき、ぼくは幸福だった。だが、ぼくはその同意を用いることはないだろう。このごろになってぼくはそう自覚した。いや、そうする興味を失ったわけではない! だが、ぼくにとっては、君たちのもとにとどまることは、逃避を意味する。りっぱな高尚な逃避であるかもしれないが、やはりまさしく逃避だということが、ますますはっきりしてくる。ぼくは立ち返って、世俗の人間になるだろう。だが、世俗の人間でも、君たちのカスターリエンに常に感謝し、君たちの修業の多くを続け、毎年ガラス玉大演戯を共にするだろう」
深い感動をもってクネヒトは、プリニオのこの告白を友人フェロモンテに伝えた。フェロモンテは上記の手紙の中の物語に、次のようなことばを付け加えている。「プリニオのこの告白を、私は必ずしも正当に評価したわけではないが、それは音楽家たる自分にとって、音楽上の体験のようなものであった。世間と精神、あるいは、プリニオとヨーゼフという対立が、自分の目の前で、二つの相容れない原理の戦いから昇華して一つのコンチェルト〔協奏曲〕になった」
プリニオは、四年の学校課程を終え、家に帰ることになったとき、校長に父親の手紙を差し出した。ヨーゼフ・クネヒトを休暇に招待する手紙であった。それは異例の無理な注文だった。休暇をとって旅行し、教育州の外に滞在するということは、特に研究の目的のためなら、あまり珍しいことではなかった。しかし、そういう休暇は確かに例外であって、修練を積んだ年長の研究者にだけ許されることであり、生徒に許されることは決してなかった。校長ツビンデンは、それでも、非常に名望ある家の主人から来た招待なので、たいそう重大に考え、一存でことわりかねて、教育庁の委員会に意見を求めた。教育庁はすぐに簡単な否定の返事をした。若いふたりの友は互いに別れを告げねばならなかった。
「あとでまた招待の試みをするよ」とプリニオは言った。「いつかはきっと成功するよ。ぜひ一度ぼくの生家とうちのものを知ってもらい、ぼくたちだって人間だということ、単に世間の商売人のくずじゃないということを、心得てもらいたい。君がいないのはとても寂しいな。ねえ、ヨーゼフ、君はこの複雑なカスターリエンで早く出世するようにしたまえ。君はたしかに聖職制度の一員たることに非常に適しているが、ぼくの意見では、クネヒト〔下男〕という君の名にもかかわらず、君は学僕よりも坊主《ぼうず》に適している。君の未来のすばらしいことを予言するよ。君はいつか名人になり、高い位のひとりに数えられるだろう」
ヨーゼフは悲しげに相手を見つめた。
「いくらでも嘲《あざけ》るがいい!」と彼は、告別の感動と戦いながら言った。「ぼくは君のように野心家じゃない。ぼくがいつか役につくころ、君はとっくに大統領か、市長か、大学教授か、連邦大臣になっているだろう。ぼくたちやカスターリエンのことをなつかしんでくれたまえ、プリニオ、他人になりきってしまわないでくれたまえ! 外界でぼくたちについてしゃれを飛ばす以上に、カスターリエンのことを知っている人が、君たちのところにもいなくちゃいけないんだから」
彼らは手を握りしめあった。プリニオは旅立った。ワルトツェルの最後の一年間、ヨーゼフの身辺は非常に静かになった。ある程度公の人物としての彼の、危険な、骨の折れる役割は突然おわった。カスターリエンはもはや弁護者を必要としなくなった。この一年間、彼は自由な時間を主としてガラス玉演戯にささげた。彼はますますそれに引きつけられていった。そのころ演戯の意義と理論とに関して心覚えを書きとめた手帳は、次の文章で始まっている。「生命の全体は、肉体的生命であるにせよ、精神的生命であるにせよ、動的現象である。ガラス玉演戯は根本においてその美的な面をとらえるだけである。しかも主として律動的な進行の形でとらえるのである」
[#改ページ]
第三章 研究時代
ヨーゼフ・クネヒトはかれこれ二十四歳になった。ワルトツェル卒業とともに、生徒時代は終り、自由研究の時期が始まった。無邪気なエシュホルツの少年時代を除くと、それはおそらく彼の一生の最も朗らかで幸福な時期であった。初めて学校の拘束から自由になって、精神界の無限な地平線に向って進む青年、ちらつく幻影にまだ惑わされることもなく、無限な献身への自分の努力や精神界の無際限さに対する疑いもまだ知らない青年、そういう青年の奔放な発見欲や征服欲には、いつも新しく何か驚嘆すべきもの、感動的に美しいものがまつわっている。ただ一つの才能のためすでに早くから専門学科に集中を余儀なくされるというのではなく、本性に従って全体と総合と普遍とをめざすヨーゼフ・クネヒトのような性質の天分にとっては、自由研究の春は、しばしば強い幸福の、いや、陶酔のひとときである。それに先だって英才学校で訓練されることがなかったら、冥想修業によって魂の健康を保つことがなかったら、教育庁の監督が穏やかに行われることがなかったら、そのような天分にとってこの自由は大きな危険となり、多くのものにとって不幸な運命となったであろう。われわれの今日の秩序ができなかった時代、カスターリエン以前の世紀においては、無数の高い天分にとってこの自由がそうなったのである。あの前時代の大学には、若いファウスト的人物が実際うじゃうじゃしていたときがあった。彼らは、帆をいっぱいに張って、学問と大学の自由という大海へ乗り出し、放縦なしろうと趣味の難船にあわなければならなかった。ファウスト自身、天才的しろうと趣味とその悲劇の原型であった。さて、カスターリエンでは、研究者の精神的自由は、その以前の時代のいつの大学におけるよりはるかに大きかった。思いのままになる研究の手段はずっと豊富だったのである。そのうえ、カスターリエンでは、物質的な顧慮、名誉心、不安、両親の貧乏、パンや職業の見込みなどに左右されたり制約されたりすることはまったくなかった。教育州の大学、研究室、図書館、記録所、実験室では、研究者はすべて、素姓や前途の点で完全に平等だった。聖職制度は、単に生徒の知的な性格的な天分や素質にもとづいて段階ができるだけである。これに反し、物質的な点でも精神的な点でも、世俗の大学で多くの天才を犠牲にする自由や誘惑や危険は、カスターリエンではおおむね存在しなかった。ここにだって、危険や、魔にとりつかれた状態や、幻惑は、いくらでもあった。――どこに行ったら、人間の存在はそういうものから解放されるだろう?――だが、カスターリエンの学生は、それにしても、脱線や幻滅や破滅の機会をまぬがれることが多い。飲酒癖に陥るようなことも起りえないし、昔のある時代の学生のように大言壮語や秘密結社的なことを事として、青春の歳月を浪費することもありえないし、また、自分の大学卒業証書は誤りであった、自分の予備教育のもはや埋めるよしのない欠陥に、研究時代にはいって初めてぶつかった、という発見をある日思いがけずするということもありえない。カスターリエンの秩序がそういう不都合を予防してくれるのである。女性やスポーツ熱に精力を浪費する危険も大きくない。女性に関しては、カスターリエンの学生は、誘惑と危険の伴う結婚生活も知らないし、昔よくあったような、取り澄ましたふうを装う態度というものも知らない。そういう態度は、昔の学生を強《し》いて性的禁欲をさせるか、多かれ少なかれ金で自由になるいかがわしい女のところへ走らせるのであった。カスターリエン人には結婚生活ということがないから、結婚生活をめざした愛の道徳もない。カスターリエン人には、金銭がなく、財産もほとんどないから、金で買える恋愛も存在しない。この州では、市民の娘はあまり早く結婚しない風習である。そして結婚前には、学問のある学生を恋人にすることが、ことのほか望ましいと思っているらしい。恋人は、素姓や財産を問題とせず、精神的能力を生活的能力と少なくとも同等に見る習慣を持ち、たいてい空想とユーモアをそなえ、金銭を持たないので、他のものたち以上に、自分自身を投げ出して支払わなくてはならない。カスターリエンの学生たちの恋人は、あの方はわたしと結婚してくれるかしら、という問いを知らない。いや、彼は彼女と結婚しないだろう。いかにも実際に結婚が行われたこともある。ときとしてまれな場合ではあるが、英才学校の学生が、結婚という道をたどって、市民世界へ帰り、カスターリエンと宗団への所属を断念したことはある。しかし、そういう変節者の少数の場合は、学校と宗団の歴史において、珍しいものとしての役割を演じているにすぎない。
英才学校の生徒は、準備学校を卒業した後、自由に自律的にあらゆる学問や研究の領域に立ち向うことになるのであるが、その自由と自律の程度はきわめて高いものである。その自由も制限がないわけではないが、それは、天分と興味とが初めから狭い場合は別として、自由に研究する者は各自、そのつど半年分の研究計画を提出する義務があるというだけである。その計画の遂行に対する役所の監視は厳しくはない。多方面の天分と興味を有する者にとっては――クネヒトもそのひとりであった――研究時代の二、三年は、このきわめて広範な自由によって、なんとも言えず、心を誘い酔わせるふしを持っている。特にこのような多方面の興味を有する者に対しては、放逸に陥ってしまうようなことがなければ、役所は、ほとんど天国的と言えるような自由を与える。生徒は、気の向くままに、あらゆる学問にわたって知識をひろめ、極度に多様な研究の領域を交錯させ、六つないし八つの学問に同時に熱中しても、初めからぐっと狭い精選した範囲を拠《よ》り所にしてもよい。州と宗団で行われている一般的な道徳的な生活の規範を守るほか、彼に要求されるのは、年一回、自分の聞いた講義や、読書や、研究所での仕事などに関する報告だけである。彼の成績を詳細に監査検討し始めるのは、彼が専門学の課程にはいり、演習室に通うようになってからのことである。ガラス玉演戯と音楽大学の課程や演習もその中にはいっている。そこではもちろん、研究者はすべて、公式の試験を受け、演習指導者の要求する仕事をしなければならない。当然のことである。しかし、だれも彼をその課程へ強制しはしない。彼は、幾学期でも幾年でも、気の向くままに、図書室にこもったり、講義を聞いたりすることができる。そういう学生は、一つの学問の領域に束縛されることを急がないので、宗団に採りあげられることを引き延ばすが、ありとあらゆる学問と研究の種類を渉猟することを、非常に寛大に許される。いや、奨励される。道徳的な方正さのほかに、彼らは、仕事としては毎年「履歴書」を一つ書くことを要求されるだけである。この古い習慣は、しばしば嘲笑《ちょうしょう》されるが、そのおかげでクネヒトが研究時代に書いた三つの履歴書が残っているのである。これは、ワルトツェルでできた詩のように、純粋に自発的な非公式の、それどころか、秘密な、多かれ少なかれ禁じられた性質の文学的活動ではなくて、正常な公式のものである。すでに、教育州の最初期に、年少の研究者を、すなわち、まだ宗団に採りあげられていないものを随時督励して、特殊な論文、あるいは作文を書かせる慣習が現われていた。つまりそれがいわゆる「履歴書」で、言い換えれば、任意の過去の時代に自分を移した仮構的自叙伝である。生徒は、ある環境と文化の中に、いずれかの昔の精神的風土の中に自分を移し、その中で自分に相応する生活を考え出す、という課題をあてがわれた。時代と好尚に従って、帝政時代のローマ、十七世紀のフランス、また十五世紀のイタリア、ペリクレスのアテネ、モーツァルト時代のオーストリアが好んで取りあげられた。言語学の研究者のあいだでは、それが演ぜられる国と時代の言語と文体で伝記物語を書くのが慣習となった。ときには、一二〇〇年ころのローマ法王庁の公用文体で、僧のラテン語で、「百物語」〔ボッカチオ(一三一三〜七五)の『デカメロン』のこと。十人が十日間に語る百の物語から成る〕のイタリア語で、モンテーニュのフランス語で、シュワーン・フォン・ボバーフェルトのバロック・ドイツ語で書かれた、極度に巧妙な履歴書があった。古いアジアの再生の信仰や輪廻《りんね》の信仰の残りが、ここにこの自由な遊戯的な形で生き続けていた。教師も生徒もみな、自分たちの存在にさきだって、別なからだで、別な時代に、別な条件のもとに、前の存在があったろう、という考え方をよく知っていた。それはもちろん、厳密な意味での信仰のようなものではなかった。まして学説ではなかった。自我を変った状態と環境に置いて考えてみるという想像力の練習、遊戯であった。多くの文体批評の演習や、ガラス玉演戯でもしばしばやったように、過去の文化や時代や国々へ慎重にはいっていく練習をしたのであった。自己の人格を、素質円現《エンテレヒー》の仮面として、はかない装いとして見ることを学んだのである。そういう履歴書を書く慣習には、魅力があり、長所も少なくなかった。そうでなかったら、この慣習はそんなに長く維持されなかっただろう。それはそうと、輪廻の理念を多かれ少なかれ信じているばかりでなく、自分で考え出した履歴書の真実なことをも信じていた研究者の数は、決してひどく少ないものではなかった。もちろん、このような空想された前世の大部分は、文体練習や歴史的研究であるばかりでなく、願望像でも、高められた自画像でもあった。大部分の履歴書の筆者は、こういう姿をとり、こういうものになることが、願望だ、理想だ、と思うような衣装をまとい、性格を持つものとして、自分を描いた。さらに、履歴書は、教育的に悪い考えではなく、若い時代の詩的欲求の合法的なはけ口であった。幾世代も前から、本来の真剣な詩作は厳禁されており、一部は学問によって、一部はガラス玉演戯によって補われてはいたものの、青年時代の芸術家本能や形成本能は、それでかたづけられてはいなかった。その本能は、晴れて腕を振う公認の舞台を、履歴書に見いだしたのであった。したがって、履歴書はしばしば長くのびて小さな小説にまでなった。その際、自己認識の国へ最初の歩みを踏み入れようとする執筆者も少なくなかった。さてまた、研究者が各自の履歴書を利用して、今日の世界やカスターリエンについて、批判的な革命的な思想発表をすることも、しばしば起ったが、それはたいてい先生たちに好意的な理解をもって迎えられた。そのほか、研究者が最大の自由を享受し、厳密な監督を受けない時期のあいだ、その論文は、先生たちにとってきわめて参考になるものであって、執筆者の精神的な道徳的な生活や状態を、しばしば意想外にはっきり示すのであった。
ヨーゼフ・クネヒトのものでは、そういう履歴書が三つ保存されている。われわれはそれを原文どおり伝えるであろう。それはこの本のおそらく最も価値ある部分と思われる。彼がこの三つの履歴書しか書かなかったか、一つ二つなくなりはしなかったか、ということについては、種々の臆測が可能である。われわれがはっきり知っているのは、クネヒトは、三番めの「インドの」履歴書を提出した後、教育庁の事務局から、次の履歴書を書くような場合には、歴史的にもっと近く、記録が豊富にある時代に移し、歴史的細部にもっと留意するように、と暗示されたことだけである。そこで彼は実際、十八世紀を背景とする履歴書の準備研究をしたことが、物語や手紙によってわかっている。その中で彼は、シュワーベンの一神学者として現われるつもりであった。のちに礼拝に変えるに音楽をもってする神学者で、ヨハン・アルブレヒト・ベンゲル〔ドイツのプロテスタント神学者。新約聖書の釈義書で著名〕の弟子であり、エーティンガー〔ドイツの新教神学者〕の友人であって、しばらくのあいだチンツェンドルフ教団の客となったのであった。教会憲法や敬虔《けいけん》主義やチンツェンドルフ〔ドイツの伯爵で、ルターを信奉し、敬虔主義の伝道に献身して、ヘレンフート兄弟団を起した〕や、その時代の典礼や教会音楽に関する、古い、部分的には人目に触れなくなった文献を、彼がそのときたくさん読んで抄録したことを、われわれは知っている。また、彼が魔術的な主教エーティンガーの人物に正真正銘ほれこみ、ベンゲル師の人物には真の愛と深い尊敬を感じ、その肖像を特に写真にとらせ、しばらくのあいだ机の上に立てていたこと、チンツェンドルフには興味を引かれると同様に反感を感じたので、これを評価するために誠実に努力したことも、わかっている。しまいには、この研究で学んだことに満足して、仕事を放棄し、あまりに多く個々の研究をし、細部を集めたので、履歴書を書くことは不可能だと言明した。この表白は、書きあげられた三つの履歴書を、学者の労作となすより、詩人的な人間と高貴な性格の創作と告白であるとなすことを、完全に正当化するものである。そうすることによって三つの履歴書を不当に扱うものとは思わない。
さてクネヒトにとっては、自分で選んだ研究に向って解放された生徒の自由の上になお、別の自由と緊張緩和が加わった。彼は単に皆と同じような生徒であったばかりでなく、また、厳格な訓練や、綿密な日課や、教師の周到な監視などの秩序に従わねばならず、英才学校生のいっさいの努力をしなければならなかったばかりでもない。それらいっさいのこととともに、さらにそれをはるかに越えて、彼は、プリニオに対する関係によって、一つの役目と責任を担《にな》うようになった。それは、精神的に霊的に可能なものの局限にまで、彼をあるいは励まし、あるいは悩ました。主動的でも代表的でもある役目、一つの責任であって、実際は彼の年齢と力には荷が重すぎた。彼は、しばしばずいぶん危なくなりながらも、あり余る意志力と天分とで、かろうじてそれを果した。遠方からの力強い援助がなかったら、つまり音楽名人がいなかったら、とうていそれをなしとげることはできなかったろう。こうして、彼はかれこれ二十四歳で、尋常一様でないワルトツェルの学校時代の終りに、年齢以上におとなになり、いくらか過度の勉強に疲れていたが、目につくほど痛められていなかったのは、驚くに値する。しかし、彼が全体としてあの役目と重荷によってどんなに深く心身を労したか、いや疲労の極に近づけられたか、それについては直接の証拠はないが、学校を出たものが最初の二、三年のあいだに、きっとしばしば切望してやまなかった自由を手に入れて、それをどんなに使用したかを見れば、よくわかるのである。クネヒトは、生徒時代の最後の両三年間ひどく目だつ地位に立ち、すでにいわば公の存在になっていたが、今はただちに完全に公の地位から引きさがってしまった。実際、その当時の生活のあとを尋ねてみると、彼は何よりも人目につかぬようにすることを願った、という印象を受ける。彼にとってはどんな環境も社交も十分に無害ではなく、どんな生活の形式も十分に私人的ではありえなかった。それで、彼は、デシニョリの長い激情的な数通の手紙に対しても、初めは短く気乗り薄に返事を書き、やがてはもう書かなかった。生徒として有名だったクネヒトは姿を消し、もはや見あたらなくなった。ワルトツェルでだけ、彼の名声は咲きつづけ、時とともにほとんど伝説となった。
それで、研究時代の始まるとともに、上述の理由から、彼はワルトツェルを避けた。その結果、ガラス玉演戯の上級および最上級講座を当分断念した。それにもかかわらず、というのは、表面的な観察者は当時、クネヒトがガラス玉演戯をはなはだしくなおざりにしたことを確認したかもしれないが、それどころか、彼の自由な研究の、一見気まぐれな、脈絡のない、いずれにしてもまったく並みはずれた過程全体が、ガラス玉演戯の影響を受けており、演戯と演戯への奉仕に帰着したことを、われわれは知っている。この傾向は特色を示しているので、いくらか詳しく調べてみよう。ヨーゼフ・クネヒトは、最も風変りなわがままな方法で研究の自由を利用した。人を面くらわせるような、青年らしく天才的な方法であった。ワルトツェル時代、彼は、慣行どおり、ガラス玉演戯への公式の手引きと、復習講座を終えた。それから、学校の最後の一年間、友人仲間ではもうそのころすぐれた演戯者の評判を得ていたが、遊びの中の遊びともいうべきこの演戯の魅力に非常にはげしく引きつけられたので、さらに進んで講習を終了すると、まだ英才学校の生徒の身で、第二級の演戯者の中に入れられた。これはまったくまれな優遇であった。
公式の復習講座の際の仲間で、彼の友人であり、後に彼の助手となったフリッツ・テグラリウスに、彼は数年後ひとつの体験を報告した。それは、ガラス玉演戯者となる彼の使命を決定したばかりでなく、彼の研究の過程にもこのうえない大きな影響を及ぼしたものである。保存されている手紙のその個所には、次のように書いてある。「ぼくたちふたりが、同じ組に割りあてられて、ガラス玉演戯への最初の配置を熱心に研究していたあの時代の、ある一日を、ある演戯を思い出してくれたまえ。ぼくたちの組の指導者は、いろいろな提案をし、あらゆる主題を出して選択させてくれた。ぼくたちはちょうど、天文学と数学と物理学とから言語学と歴史学とへ移行するという、むずかしいところにいた。指導者は、ぼくたちのような好奇心の強い初心者にわなをかけ、許されない抽象や類推の落し穴に誘う術にかけて、名人であった。彼は、誘惑的な語源学や比較言語上のおもちゃをこっそりぼくたちの掌中に握らせて、ぼくたちのひとりがその手に乗ると、おもしろがった。ぼくたちはギリシャ語のつづりの長さをうんざりするほど数えたが、韻律的に詩句を分けて読むかわりに、抑揚をつけて読む可能性、いや、必然性の前に立たされるので、不意に足もとの地盤をさらわれる、といったぐあいだった。彼は、形式的にりっぱにまったく正確にやるべきことをやったが、ぼくには不愉快な精神でやった。ぼくたちに誤った道を示し、誤った思索に誘った。もちろん危険を教えるという善意をもってではあるが、いくらかはぼくたち愚かな少年を嘲笑《あざわら》い、特に最も熱心なものの感激にできるだけ多くの懐疑を注ぎこむためでもあった。しかし、ほかならぬ彼のもとにあって、彼のひねくれたたぶらかしの実験を受けていたとき、お互いが中途はんぱにしか役だたない演戯問題の考案を模索的に臆病に試みているうちに、ぼくは突然一挙に演戯の意義と偉大さとに打たれ、心の底まで揺すぶられたのだった。ぼくたちは、言語史のある問題をいろいろと分析し、ある言語の絶頂期と全盛時代をいわば間近からながめ、その言語がそれまでに数世紀を費やした道を数分間のうちに共に歩んだのであった。すると、ぼくは、無常の光景にはげしく心をとらえられた。つまり、ぼくたちの眼前で、非常に複雑な古い尊敬すべき、多くの世代のうちに徐々に構成されていった有機体が、花を開くとともに、花はもう衰滅の芽を宿し、意味深く組み立てられた全建築がくずれ、変質し、没落に向ってよろめき始めるのだった。――同時に、しかもなおその言語は衰滅しても、無に帰することなく、その青春と開花と衰退とは、ぼくたちの記憶の中に、その言語とそれの歴史とに関する知識の中に保持され、学問の記号や公式の中やガラス玉演戯の秘密な法式の中にも生き続け、いつでも再建されうるということを知って、ぼくは喜ばしい驚きにぴくっと身ぶるいしたのだった。その言語の中では、あるいは少なくともガラス玉演戯の精神の中では、実際すべてがすべてを意味していること、象徴と、象徴の組合せとはすべて、ここやかしこや、個々の実例や実験や証明に通じるのではなく、中心へ、世界の秘密と内奥へ、根源の知識へ通じるのだということを、ぼくは突如として理解した。ソナタの長調から短調への移行、神話あるいは礼拝の変化、古典的芸術上の形式はすべて、真の冥想《めいそう》的観察によれば、世界の秘密の内部へ通じる直接な道にほかならないことを、ぼくはその瞬間のきらめきのうちに悟った。世界の秘密の内部に至れば、吸う息と吐く息、天と地、陰と陽とのあいだの往来のうちに、神聖なものが不断に成就される。そのころすでにぼくは、うまく組み立てられ、うまく実演される演戯に、聴講者として立ち会ったことがある。その際、いくども、大いに心を高められ、ありがたい認識に恵まれた。しかし、そのときまでは、演戯そのものの本来の価値と高さについては、絶えず疑いをいだきがちであった。せんじつめれば、数学の問題をうまく解けば、必ず精神的な楽しみが味わえるし、よい音楽を聞けば、ましてよい音楽をかなでれば、ずっとそれ以上に、必ず魂は高められ、大きくひろげられた。一心不乱に冥想すれば、必ず心は静められ、万有と調和するようになれた。しかし、だからこそおそらくガラス玉演戯は、形式的な芸術、才知に富む技能、頭の働く組合せにすぎないと、ぼくの疑惑は言った。そうだとすれば、この演戯を演じないで、清潔な数学やよい音楽に携わるほうがよりよかった。だが、そのときはじめてぼくは、演戯そのものの内なる声を、その意味を、聞いた。その声はぼくをとらえ、心身に行きわたった。あのとき以来ぼくは、われわれの王者のごとき遊戯は実際 lingua sacra、すなわち神聖なことばである、と信じるようになった。君は思い出すだろう。君自身あのとき、ぼくの内で変化が起き、ある呼び声がぼくにとどいたことに気づいたのだから。――その呼び声に比較されるのは、ぼくが少年のころ音楽名人に試験され、カスターリエンに召されたとき、ぼくの心と生活を変化させ、高めた、あの忘れられない呼び声だけである。君はそれに気づいた。君はそれについて一言も言わなかったけれど、そのときぼくはそれをよく感じとった。きょうもそれについてはこれ以上何も言うまい。だが、いま君に一つの願いがあるのだ。それを君に説明するために、ぼくは君に、ほかのだれも知らないこと、知ってはならないことを、言わなければならない。つまり、あのときぼくがあれやこれやと研究したのは、気まぐれから出たことではなく、むしろまったくはっきりした計画が根本にあったということだ。あの当時ぼくたちが第三課程の生徒として指導者の助けによって構成したガラス玉演戯練習を、君は少なくとも大体の輪郭は思い出すだろうね。その練習中にぼくはあの声を聞き、演戯者への召命を体験したのだ。さて、あの練習演戯はフーガへの主題を律動的に分析することで始まり、その中心に孔子《こうし》の文章と称されるものがあった。あの演戯全体をぼくは今、初めから終りまで研究している。つまり、あの文章の一つ一つを調べあげ、演戯のことばから元のことばへ、すなわち数学へ、装飾法へ、シナ語へ、ギリシャ語へ、などと翻訳している。一生のうち少なくともこんど一回だけは、ガラス玉演戯の全内容を専門的に再研究し再構成したい。第一部はもう終えた。ぼくはそれに二年を費やした。もちろんまだ幾年もかかるだろう。よく知られたカスターリエンの研究の自由を、ぼくたちは持っているのだから、こういうやり方でその自由を利用しよう。それに対し異論のあることは、ぼくも知っている。先生たちの大多数はこう言うだろう。われわれは数世紀かかってガラス玉演戯を考案し完成した。いっさいの精神的芸術的価値と概念とを表現し、その公倍数を出すための普遍的言語および方法として。――そこへお前がやってきて、それが合っているかどうか、再検討しようとする。お前はそのため一生を費やし、後悔するだろう。そんなふうにね。――いや、ぼくはそのため一生を費やしはしない。後悔するとも思わない。そこで、ぼくの願いだが、君は目下、演戯記録所で働いているし、ぼくは特別な理由からなお当分ワルトツェルを避けたいと思うから、時々ぼくの質問のかずかずに答えてもらいたい。つまり、省略されない形で、そのつど、あらゆる主題の公式な|かぎ《ヽヽ》や記号を、記録所で調べて知らせてもらいたい。君をあてにしているよ。また、何か君の厚意に報いることのできるようなことがあったら、遠慮なくぼくを使ってよいのだよ」
たぶんここで、ガラス玉演戯に関するクネヒトの手紙の他の個所をも伝えておくべきであろう。もっとも、音楽名人にあてられたこの手紙は、少なくとも一両年後に書かれたものである。「私の考えでは」とクネヒトは恩人に書いている。「演戯の本来の秘密とその究極の意味を察知することなしに、まったくすぐれた、練達のガラス玉演戯者に、いや、おそらくは真に優秀な演戯名人になることができます。そうです。察知し事情に通じている者は、ガラス玉演戯の専門家、あるいはその指導者となれば、あの白紙の人々より、演戯を毒することがあるかもしれません。なぜなら、演戯の内面秘伝は、すべての秘伝と同様に、一にして全なるものの中へ、永遠な呼吸が永遠の出入のうちにみずからを十分に支配している深い所にはいっていくことをめざすからです。演戯の意義を心の中で究極まで体験したものは、もはや演戯者ではなくなってしまうでしょう。そういう人はもはや多様な世界の中におらず、考察や組立てや結びつけを喜ぶことができなくなるでしょう。まったく別な楽しみや喜びを知っているからです。私は、ガラス玉演戯の意義をかなり明らかにしえたと思いますので、演戯を天職とせず、むしろ音楽に移るほうが、自他にとってよりよいでしょう」
音楽名人は、たいていの場合、手紙を書くことはごくまれであったが、クネヒトのこのことばに明らかに不安をおぼえ、それに対し親切な警告的な教示を与えた。「君自身が、演戯名人たるものに、君のいわゆる秘伝免許者たることを要求しないのは、よいことだ。わしは、君がそれを皮肉でなしに言ったのだと思うから。演戯名人、あるいは教師で、『奥義』に十分近づいているかどうかを、まず第一に思いわずらうものは、きわめて劣等な教師であろう。たとえば、わしは、あからさまに言えば、音楽の『意義』についてわしの生徒たちに一生のあいだついぞ一言ももらしたことがない。意義があるなら、わしなどを必要としない。それに反し、わしは、生徒たちが八分音符や十六分音符を十分精確に数えることに、いつも重きをおいた。君は教師になるにせよ、学者になるにせよ、音楽家になるにせよ、『意義』を敬いなさい。しかし、それを教えうるものと考えてはいけない。『意義』を教えようと欲することによって、かつて歴史哲学者は、世界史の半分を毒し、フェユトン時代を招来した。そして多量の出血を促した罪の一半を負うている。たとえば、生徒にホメロスやギリシャの悲劇作家への手引きをしなければならない場合、わしは彼らに、作品を神性の現象形式として暗示しようとは試みず、言語上や韻律上の手段の精確な知識によって作品にはいりうるように努力するだろう。教師や学者のなすべきことは、手段を探究し、伝統を大切にし、方法を純粋に維持することであって、もはや言い現わしえない体験をかきたてたり促進したりすることではない。そういう体験は、選ばれたものに保留されているものであって、彼らはしばしば敗残者でも犠牲でもある」
それはそうと、その時代のクネヒトの文通は、それでなくてもたいして多くはなかったらしく、一部はなくなってしまったのであるが、それにはガラス玉演戯やその「秘伝」的解釈を述べた個所は一つもない。これらの通信のうち、最もよく保存されている最も大きな部分は、フェロモンテとの通信であるが、それは、それでなくても、ほとんどもっぱら音楽と音楽の様式分析との問題を取り扱っている。
こうしてクネヒトの研究過程が描いた独特なジグザグな線は、ただ一つの演戯形式を精確に写しとり、多年にわたって徹底的に研究することにほかならなかったのであるが、そのジグザグな線の中に、きわめてはっきりした意義と意志とが貫徹されているのを、われわれは見る。彼らがかつて生徒として練習の目的のため数日間に作曲したこのただ一つの演戯形式の内容は、ガラス玉演戯のことばでは、十五分で読みとることができたのであるが、その内容を自分のものにするため、彼は年々歳々を費やし、講義室や図書室ですごし、フローベルガーやアレッサンドロ・スカルラッティや、フーガやソナタの構成を研究し、数学を復習し、シナ語を学び、音型法の体系と、色の度合いと音楽的な調種との照応に関するフォイステルの理論をきわめた。なぜ彼がこのような骨の折れる頑固《がんこ》な、何よりも孤独な道を選んだのか、いぶかしく思われる。なぜなら、彼の最後の目標は(カスターリエン以外のところでは、彼の職業選択は、と言うだろう)、疑いもなく、ガラス玉演戯だったからである。彼が、臨時聴講者として、初めは拘束されずに、演戯者地区、すなわちワルトツェルのガラス玉演戯者部落の研究所の一つにはいったとしたら、演戯に関する特殊研究はすべて容易になっただろうし、あらゆる個々の質問に対しいつでも助言と教示が受けられただろう。そのうえ、自発的追放状態にでもいるように、独《ひと》りでしばしば心身をさいなむというようなことをせずに、仲間や同志の中で研究に専念することができただろう。だが、彼は独自の道を歩んだ。察するに、彼がワルトツェルを避けたのは、そこの生徒として演じた役割とその記憶とを、他の人たちのあいだからも自分からも極力消してしまうためであったばかりでなく、同様に、ガラス玉演戯の仲間にかこまれて、また新しく似たような役割に陥らないようにするためであった。というのは、指導者や代表者になる運命、あるいは予定のようなものを、彼はそのころ心の中に感じていたらしいからである。自分にのしかかってくるこの運命の裏をかくために、彼はできるだけのことをした。責任の重さを予知し、彼はこのとき早くも、自分に感激を寄せているワルトツェルの同級生たちに対し、その責任を感じて、彼らから遠のいた。特にあのテグラリウスに対しては責任を感じた。テグラリウスが自分のためなら水火も辞せぬことを、彼は本能的に知っていたからである。そこで、あの運命が彼を前方へ、公衆の中へ駆りたてようとしているのに反し、彼は隠遁《いんとん》と静観とを求めた。当時の彼の内心の状態を、われわれはだいたいこのように考えるのである。しかし、上級ガラス玉演戯者学校の普通の課程を敬遠して、局外者となったについては、もう一つ重要な原因、あるいは動機があった。すなわち、それは抑えがたい研究欲であって、ガラス玉演戯に対する以前の疑惑は、そこに根ざしていたのである。確かに彼は、演戯が実際最高の神聖な意味で演じられうることを体験し味わった。しかし、演戯者と生徒の多数は、いや、指導者や教師の一部も、あの高い神聖な意味では、演戯者では決してなく、演戯語を神聖なことばとは見ておらず、才気に富んだ一種の速記術と見、興味ある、あるいは楽しいお得意芸として、知的なスポーツとして、名誉心の競争として、演戯を行なっていることも、彼は知っていた。いや、音楽名人にあてた手紙の示しているとおり、演戯者の質を決定するものは、必ずしも究極な意義の探究ではないらしいということ、演戯には秘伝以前のものも必要だということ、演戯は技術、科学、社会的制度でもあることを、彼はすでにほのかに察していた。要するに、疑惑と分裂とが存在していた。演戯は人生の問題であったが、さしずめ彼の生活の重大問題となった。彼は、好意的な心の導き手や、親切に気をまぎらす教師の微笑が、自分の戦いを軽くあしらうことを許そうなどとは、毛頭考えてはいなかった。
もちろん彼は、すでに演じられたガラス玉演戯の幾万種、可能なガラス玉演戯の数百万種の中から、任意なのを取ってきて、自分の研究の基礎にすることができただろう、それを心得ていて、彼は、たまたまあの生徒の講習会で自分や仲間が組み立てた演戯計画から出発した。その演戯によって彼は初めていっさいのガラス玉演戯の意義に打たれ、演戯者となる使命を感じたのであった。彼が普通の速記符号で書きとめたその演戯の法式を、この数年間彼は絶えず持って歩いていた。そこには、演戯用語の記号やかぎや符号や略語で、天文数学の公式、古いソナタの形式原則や、孔夫子《こうふうし》のことばなどが記されていた。ガラス玉演戯など知るよしもない読者は、そういう演戯法式は将棋の定跡に似たようなものだと思えばよい。ただ、こまの意義や、相互関係と作用の可能性は、はるかに複雑に考えられ、おのおののこまや、配置や、さし手などに、まさにそのさし手や布陣などによって象徴的に現わされる実際の内容が与えられるのである。さてクネヒトの研究時代は、演戯計画に含まれている内容、原則、作品、体系などを、極度に精確に知り、修得するうちに、種々の文化、科学、言語、芸術、世紀を貫く道をたどるという課題に向けられたばかりではない。それに劣らず、彼は、教師たちのだれも知らないような問題をみずから設け、それを対象にしてガラス玉演戯術の体系と表現の可能性をきわめて精確に検討した。
その結果をあらかじめ告げておくと、彼はここかしこに欠陥や不十分な点を見つけはしたが、全体としてわれわれのガラス玉演戯は、彼の粘り強い検討に耐えたに相違ない。そうでなかったら、彼は最後にガラス玉演戯に帰っていきはしなかっただろう。
ここに文化史的研究を書くとしたら、クネヒトの学生時代に関係ある場所や場面で、記述に値するものが少なくないだろう。彼は、どうにかしてできるかぎり、ひとりで、あるいはごく少数のものとだけで仕事のできるような場所を特に好んだ。そういう場所のいくつかに、彼は感謝のこもった愛着を持ち続けていた。たびたびモンテポルトに滞在したが、音楽名人の客としてのことも、音楽史の演習の一員としてのこともあった。宗団本部の所在地であるヒルスラントにも二度現われている。「大修業」といわれる十二日間の断食と冥想に参加するためであった。彼は後に特別な喜び、いや、愛情をもって「竹林《ちくりん》」について語った。愛すべき隠遁者庵《いんとんしゃあん》で、彼が易経の研究をしたところである。ここで彼は、決定的なことを学び体験したばかりでなく、不思議な予感か手引きかに導かれて、独特な環境と超俗的な人間を見いだしたのであった。すなわち、「老兄」と呼ばれ、シナの隠遁庵「竹林」の元祖であり、住人であった。彼の研究時代のこの注目すべきエピソードをいくらか詳しく叙述するのは至当のことと思われる。
クネヒトは、シナ語とシナ古典の研究を有名な東亜学館で始めた。それは幾世代も前から、古代語学者聖ウルバンの学塾に付属されていた。彼はそこで読み書きに急速な進歩を示し、そこで働いていた数人のシナ人と親しくなり、詩経の詩をいくつも暗記したが、滞在の二年めには、いよいよ強く変化の書、すなわち易経に興味をおぼえ始めた。シナ人たちは、彼にせがまれて、いろいろなことを説明しはしたが、手引きをすることはできなかった。そのための教師が学館にはいなかったのである。クネヒトがくり返し、易経を根本的に研究するために先生を世話してほしいという願いを申し出たので、皆は彼に「老兄」とその隠者庵のことを語ってきかせた。クネヒトももうしばらく前から、自分が変化の書に対する興味によってめざしている領域は、学館の人たちが知ろうと欲していないものだということに、十分気づいていたので、問いただすにも慎重さを加えていた。だが、伝説的な老兄についてさらに詳しく知ろうと努めているうちに、おのずと明らかになったのは、この隠者はなるほどある種の尊敬を受けているどころか、名声を博していたが、それは学者としての名声というより、変りものの局外者の名声であった。クネヒトは、この道では自力でやっていくほかはないと感じたので、始めていた演習の仕事をできるだけ早くかたづけて、暇《いとま》を告げた。あの不思議な人物がかつて竹林を設けた地方へ、彼は徒歩で出発した、あれは賢者であり、名人であるかもしれないが、愚人であるかもしれなかった。彼はその人物について、だいたい次のようなことを聞いていた。その男は約二十五年前、シナ語部の最も有望な学生であった。この研究に生れついており、天職を授かってでもいるようで、毛筆で書いたり、古文書《こもんじょ》を解いたりする技術にかけては、本来のシナ人だろうと西洋人だろうとを問わず、最もすぐれた教師をもしのいでしまった。しかし、外見的にもシナ人になろうとあまり熱心に努めたので、少し奇異の感を人に与えた。たとえば、演習主任から名人に至るまで、すべての上長に話しかけるのに、すべての学生がしているように、その称号をつけ、規定どおりの「あなた」をもってすることを強情に拒み、「老兄」という呼びかけをもってした。その呼称がついにあだ名として永久に彼自身についてしまった。彼は、易経の神託の遊戯に特別の注意をささげ、伝統的なメドハギの茎を使って、占いを巧みにやった。神託の本の古い注釈の次には、荘子が彼の愛読書であった。学館のシナ語部では、合理主義的な、むしろ反神秘的な、厳格に孔子的に献身する精神が、当時すでに明らかに感じられた。それはクネヒトもよく知っていた。学館は老兄を専門教師として引きとめておきたがったのであるが、老兄はある日そこを去って、筆とすずりと二、三冊の本を携えて旅に出た。国の南部を訪れ、あちらこちらで宗団の兄弟の客となり、自分の計画する隠者庵に適当な場所を見つけた。しつこく請願書を出し、口頭で説明した結果、世俗の官庁からも宗団からも、この場所に入植する権利を得た。それ以来、厳格にシナ風に作りあげた田園詩的環境の中で、あるいは変人として冷笑され、あるいは一種の聖者として崇められながら、自分自身とも世間とも平和を保って暮した。そして、入念にこしらえたシナ式の小庭園を北風に対して防ぐ竹林を作る仕事をする必要がないときは、冥想や、古い巻き物の筆写に日を送っていた。
そこへヨーゼフ・クネヒトは歩いていった。たびたび休んだが、峠を越すと、南方から青くかすんで彼をさし招く景色にうっとりした。日当りのよいブドウの段々畑、トカゲのたくさんいる茶色の壁囲い、りっぱなクリの林などがあって、南国と高山地帯とがかおり高くまざりあっていた。竹林にたどりついたのは、午後おそくであった。彼ははいっていき、奇妙な庭のまん中にシナ風のあずまやが立っているのを驚嘆しながら見た。泉がかけひからさらさらと流れ落ちていた。小石の敷かれた中を流れる水は、近くで石だたみの水盤を満たした。その割れ目には、いろいろの緑草がはびこっており、静かに澄んだ水の中では金魚が数尾泳いでいた。すらりとして強い竹の幹の上で葉がなごやかにやさしく揺れていた。芝生は、古典の書体の碑文の読まれる平たい石で中断されていた。灰黄色の麻の着物を着て、のんびりした青い目の上に目がねをかけた、やせぎすの男が、花壇にじっとかがんでいたが、からだを起して、ゆっくりと客の方へ歩いてきた。無愛想《ぶあいそ》ではなかったが、引っこんで暮している人々や、孤独に生きている人々にありがちな、いくらかぎごちない小心さをもって、物問いたげなまなざしをクネヒトに向け、クネヒトの言おうとすることを待ちうけた。クネヒトは、あいさつのことばとして考えてきたシナ語を、いくらか固くなって口に出した。「若い弟子が失礼ながら老兄に敬意を表します」
「しつけの良いお客は歓迎いたす」と老兄は言った。「若い同学の士はいつでも、一わんのお茶とささやかな楽しい談話に歓迎いたす。また、お望みとあらば、寝床の用意もある」
クネヒトは頭をさげて、感謝し、小さい家の中に導かれ、お茶を振る舞われた。それから、庭や、碑文の記されている石や、池や、金魚などを示され、金魚の年を教えられた。夕食まで彼らは、風に動く竹の下にすわって、いんぎんなことばや、古典作家の歌詞や名句を交わし合い、花をながめ、山並みにバラ色に消えていく夕べの光を楽しんだ。そこでふたりは家の中にもどった。老兄はパンと果実を出し、小さいいろりで自分とお客のためにすてきな卵菓子を一つずつ焼いた。食べてしまうと、学生は、来訪の目的をドイツ語で尋ねられたので、ドイツ語で、ここへやってきた次第と、自分の願いの筋を語った。つまり、老兄の許してくれるあいだここに滞在し、弟子になりたいというのだった。
「そのことは明日話すとしよう」と隠者は言い、お客に寝床をすすめた。翌朝クネヒトは、金魚のいる水辺に腰をおろし、明暗と魔法のように戯れる色彩の小さい冷たい世界を見おろした。そこでは、濃い緑青とインキ色の暗黒の中で、金魚のからだが揺れていた。そして時々世界全体が魔法にかかり、永久に眠りこんで、夢の魔力にとらわれてしまったように思われた。とたんに、金魚は、穏やかに弾力のある、しかしぎょっとするような動きで、水晶と黄金のきらめきを、眠りの暗黒の中に発するのだった。彼はのぞきこんでいるうちに、いよいよ深い思いに沈んでいったが、冥想するというより、夢みているのだった。それで、老兄が静かな足どりで家の中から出てき、立ちどまって、深い思いに沈んでいる客を長いこと見つめているのに、彼は気づかなかった。やっとクネヒトが沈思の状態をふるい落して立ちあがったとき、老兄はもはやそこにいなかったが、まもなく家の中からお茶に招く声がした。ふたりは短いあいさつを交わし、お茶を飲み、すわったまま、朝の静けさの中に、泉のささやかな噴水が音を立て、永遠の旋律をかなでるのを聞いた。それから隠者は立ちあがり、不規則に建てられたへやの中のあちこちで仕事をし、時折りちらっとクネヒトの方を見たが、突然「くつをはいて、また旅に出る用意はできているか」と尋ねた。
クネヒトはためらったが、やがて言った。「そうしなければならないのでしたら、その用意はできています」
「君はしばしここにとどまっているとなれば、従順を旨とし、金魚のように静かに振る舞う用意があるか」学生は重ねてうなずいた。
「よろしい」と老兄は言った。「では、筮竹《ぜいちく》を置いて、神託をうかがおう」
クネヒトがすわったまま、好奇心と同様に大きな尊敬の念をもって、「金魚」のように静かにしてながめていると、老兄は、木の杯というより、むしろ一種の筒の中から、ひとつかみの小さい棒を取り出した。それはメドハギの茎であった。それを念入りに数えあらため、束の一部をまた筒の中におさめてから、一本の茎をわきへ置き、他のを同じ大きさの二つの束に分け、一つを左手に持ち、右手のとがって敏感な指で、も一つの束からごく小さい束をいくつか取って、数え、わきへ置いた。しまいに、二、三本だけ残ると、彼はそれを左手の指のあいだに挾《はさ》んだ。そうやって、儀式ばった数え方をした後、一方の束を二、三本の茎に減らしてしまうと、他の束についても同じ手続きを行なった。彼は、数え終えた茎を下に置き、二つの束を順々に改めて調べ、数え、小さい束の残りを二本の指の間に挾んだ。その所作のいっさいを、指は、動きの少ない静かな敏速さでやったので、まるで厳格な法則によって支配されている神秘な、幾千回となく練習をし、名人的な熟練に達した妙技のようであった。いくどもくり返すと、三つの小さい束が残った。彼は、茎の数から一つの記《しる》しを読みとり、とがった筆でそれを小さい紙に書いた。そこで、複雑な手順全体がまた新しく始まり、小さい棒は二つの同じ束に分けられ、数えられ、わきへのけられ、指のあいだに挾まれ、最後にまた三つの小さい束が残った。その結果は第二の記しとなった。踊り子のように動き、ごく低いかわいた音を立てて、茎はぶつかり合い、場所を変え、束を作るかと思うと、分けられ、新たに数えなおされるというふうに、小さい棒は無気味な確実さで動いた。一つの手順の終るごとに、指は一つの記しを書きつけた。しまいに陰陽の記しが六行になった。茎は集められ、念入りに筒の中にしまわれた。魔術師はアシの|ござ《ヽヽ》の上にうずくまり、神託を求めた結果を書きとめた紙を前に置いて、長いあいだじっと見つめた。
「これは蒙《もう》の卦《け》だ」と彼は言った。「この記しには、青年の愚かさという名がある。上は山、下は水、上は艮《ごん》、下は坎《かん》。山の下で泉がわくのは青年のたとえだ。その示すところはこうだ。
[#ここから1字下げ]
蒙は亨《とお》る。
われ童蒙に求むるにあらず。
童蒙われに求む。
初筮《しょぜい》は告ぐ。
再三すればけがる。
けがるれば、すなわち告げず。
貞《ただ》しきに利《よ》ろし。
(青年の愚かさは成就する。
私が若い愚か者を求めるのではなく、
若い愚か者が私を求めるのだ。
最初の神託で私は教示する。
彼が再三尋ねるならば、わずらわしい。
わずらわしければ、私は教示を与えない。
辛抱強くてこそ進歩する。)――〔独訳から〕
[#ここで字下げ終わり]
クネヒトは、気を張った緊張のあまり、呼吸をとめていた。立ちこめる静寂の中で、彼は思わす、深く溜息《ためいき》をついた。彼はあえて尋ねようとしなかったが、わかったように思った。つまり、若い愚か者は受け入れられ、とどまることが許されたのだった。指と小さい棒の微妙な人形劇は意味はよく推察できなかったが、いかにも意味深く見えたので、長いあいだながめ、それに心を奪われ、魅せられているうちに、その結果を彼は理解した。神託は下され、彼に有利に決定された。
もしクネヒト自身がこのエピソードを友人や弟子たちにしばしば楽しそうに話したということがなかったら、われわれはこんなに詳しく述べはしなかっただろう。さて、本来の報告にもどろう。クネヒトは数カ月間竹林にとどまり、メドハギの茎を取り扱うことを、先生とほぼ同じくらい完全に習得した。先生は毎日一時間クネヒトを相手に小さい棒を数える練習をし、神託のことばの文法と象徴を教え、六十四|卦《け》を書き暗記する練習をさせ、古い注釈書を読んで聞かせ、時折り、とりわけ良い日には、荘子の話を語った。そのほか、弟子は、庭の手入れをし、筆を洗い、墨をすることを習った。スープや茶をわかし、小枝を集め、天気に注意し、シナの暦を扱うことも習った。しかし、ガラス玉演戯と音楽をもことば少ない対話の中に織りこもうと、ときたま試みたが、完全に失敗に終った。それは、耳の遠い人に向けられた観があったり、寛大な徴笑でわきへおしのけられたり、「密雲、雨ふらず」とか、「大人《たいじん》は否にして亨《とお》る」とかいうような格言で答えられた。しかし、クネヒトがモンテポルトから小さいクラヴィコードを取り寄せて、毎日一時間ひいても、別に文句は出なかった。あるとき、クネヒトは先生に、易経の体系をガラス玉演戯に織りこむことができるようになりたいものだ、と打ち明けた。老兄は笑って、大声で言った。「やってみるがよい! きっとわかるだろう。きれいな小さい竹の庭を世間に移すことは、できないことではない。しかし、世間を竹林の中に建てることが、園丁にうまくいくかどうかは、わしには疑問に思われる」――それで、もう十分だろう。ただ数年後、クネヒトがワルトツェルでもう非常に尊敬される人物になっていたとき、老兄は、ワルトツェルで教職につくよう、クネヒトに招かれたが、それに対し返事をしなかった、ということだけ付言しておこう。
後にヨーゼフ・クネヒトは、竹林で暮した数カ月を、特に幸福な時期と呼んだばかりでなく、しばしば「目ざめの初め」とも呼んだ。そのときから、彼のことばには、目ざめという表現が現われることが多くなっている。それは、以前召命という表現に与えたのと類似の意味を持っているが、まったく同じではない。「目ざめ」とは、その時々の自分自身というものの認識と、カスターリエンの秩序と人間的な秩序全般との内部で自分の占める位置の認識を意味するものと、推測されるが、重点が次第に自己認識に移っていくように思われる。というのは、クネヒトは「目ざめの初め」から、ますます自分の特別な、二つとない位置と使命との自覚に近づいていったという意味である。他方、伝統的な一般的な、特にカスターリエン的な聖職制度の概念と部類は彼にとってますます相対的になった。
シナ研究は、竹林滞在で終ってしまったなどというわけでなく、引き続き行われた。特にクネヒトは、古いシナ音楽の知識を得るために努力した。古代シナの文士の著作の至る所で、音楽がいっさいの秩序、道徳、美、健康の根源の一つとして讃美されているのにぶつかった。音楽をこのように広く道徳的に解釈することは、まさしく音楽の権化《ごんげ》と言ってもよい音楽名人を通じて、クネヒトのとうから親しんでいるところであった。フリッツ・テグラリウスあての例の手紙によってわれわれの知っている研究の基本計画を、彼はついぞ放棄したことはないが、自分にとって本質的なものをかぎつけた場合は、というのは、彼の歩き始めた「目ざめ」の道が彼にとって先へ続いていると思われた場合は、どこであろうとかまわず、大胆にぐんぐん進んでいった。老兄のもとで修業した時期の実際的な結果の一つは、彼がそのときから、ワルトツェルに帰ることに対する恐れを克服したことであった。毎年彼はそこで何らかの高級講習会に参加した。そして、どうしてそうなったかよくわからないうちに、もう演戯村で注目と賞讃とをもって見られる人物となり、演戯全体の最も内面的で敏感な機関に所属していた。それは、練達な演戯者の無名な一群で、演戯のその時々の運命、あるいは少なくともその時々の方向と趣向とは、実際彼らの手に握られていた。演戯者のこの一群には、演戯庁の役人も加わっていたが、決して勢力を持ってはいなかった。彼らは主として、演戯記録所の片すみの静かなへやにいて、演戯の批判的研究に従っていた。新しい素材の領域を演戯の中に入れるか、遠ざけるかについて論争し、ガラス玉演戯の形式や外面的な取扱いやスポーツ的な点で絶えず変化する趣味の方向の是非について議論した。ここの常連はみな、演戯の達人で、その才能や特性を互いにきわめて詳細に知り合っていた。さながら内閣の外郭か、貴族的なクラブの中にでもいるようであって、明日、明後日の支配者、責任者になるべき人々が、ここで会ったり知り合ったりした。ここでは、なごやかな洗練された調子が支配していた。野心をいだいてはいたが、それを現わしはせず、行き過ぎるくらい注意深く批判的であった。演戯村の後継者として選り抜かれた彼らは、カスターリエンの多くのものから、そしてまた国内の他の地方のある人々から、カスターリエンの最後の花、もっぱら貴族的な精神の粋と見られていた。いつかはその一員になろうと、野心に満ちて幾年も夢みつづける青年も少なくなかった。しかし、またある人々にとっては、ガラス玉演戯の聖職制度の高い位をねらう英才連は、憎むべき堕落した存在であった。高慢ちきな無為のやからや、人生や現実を解せず、才知をむなしくもてあそぶ天才などの徒党であり、しゃれ者やがっつき屋の、思いあがった、実は居候《いそうろう》的団体にすぎない、その職業と生活内容は、遊びごと、精神の、実を結ばぬ自己満足にすぎない、というのだった。
クネヒトはいずれの考え方に対しても神経質になりはしなかった。学生たちがかげで彼を、非凡な人物だとたたえても、成りあがり者だ、がっつき屋だと嘲《あざけ》っても、彼はなんとも思わなかった。彼にとって重要なのは、研究だけであって、今は研究のいっさいをあげて演戯の領域に取り入れた。彼にとって重要なのは、そのほかにはおそらく、演戯はほんとうにカスターリエンの最高のもので、自分の一生をかける値打ちがあるかどうか、という問題だけであったろう。なぜなら、演戯の法則と可能性とのいよいよ深い秘密の中にはいりこんでいっても、記録と演戯の象徴の複雑な内界との入りくんだ迷路になじむようになっても、彼は疑惑を絶対的に沈黙させることはできなかったからである。信仰と疑惑とは結びついているものであり、吸う息と吐く息とのように互いに制約し合うものだということを、彼はすでに心の中で経験していた。そして、演戯という小宇宙のあらゆる領域にわたって、進歩していくにつれ、演戯のいっさいの解きがたい問題に対する視力と敏感さももちろん増大した。ほんのしばしのあいだは、竹林の田園詩的体験が彼を落ちつかせたかもしれない。あるいは迷わしたかもしれない。老兄の実例は、とまれ、そういういっさいの問題から脱する道がありうることを彼に示した。たとえば、老兄のように、シナ人になって、生けがきの奥に閉じこもり、申しぶんなく美しい方法で完全な生活を営むことができた。ピタゴラス学派の人になることも、修道僧やスコラ哲学者になることもできたろう。――しかし、それは逃げ道であった。それは普遍性の断念であって、ごく少数のものにしかできないし、また許されないことであった。完全なものではあるが、過去のもののために、きょうと明日とを断念することであった。それは一種崇高な逃避であった。クネヒトは、これは自分の行くべき道ではないと、早くから感じていた。それでは、どれが自分の道であったろう? 音楽とガラス玉演戯に対する大きな天分のほかに、なおまだ別な力が自分の中にあるのを、彼は知っていた。それはある種の内的な独立心、高い我意であって、奉仕することを決して禁じはしなかったし、困難にもしはしなかったが、最高の主人にだけ仕えることを、彼に要求した。彼の中にあるこの力、独立心、我意は、彼の姿に現われている特徴であったばかりでなく、また内部に向いて働きをしたばかりでなく、外部に向っても作用した。ヨーゼフ・クネヒトは、すでに学校時代に、特にプリニオ・デシニョリと対抗したあの時期に、しばしば、学友の中の同年のもの、それ以上に年下のものが、彼を好き、彼の友情を求めたばかりでなく、彼の支配を受け、彼の助言を求め、彼の影響のままになりたがった、という経験をした。その経験はその後たびたびくり返された。それには極度に快い甘い面があった。その経験は彼の野心を満足させ、自信を強めた。しかし、それにはまったく別な、暗い恐ろしい面もあった。助言と指導と模範とをしきりに求めるあの仲間が、弱く、我意と気位とを欠いているのを、見くだしがちになること、(少なくとも心の中では)彼らを言いなりになる奴隷《どれい》にする気持ちが時折りひそかにわいてくることは、すでにそれ自体いけない醜いふしを持っていた。そればかりか、すべて輝かしい代表的な地位は、どんなに多くの責任と努力と心の負担をもってあがなわれるものであるかを、彼はプリニオといっしょだったあいだに、痛感した。音楽名人がときには自分の地位をどんなに重荷にしているかをも、彼は知った。人々に対して力を持ち、他の人々にまさって光を放つのは、美しいことで、何か心を誘うものを持っていた。だが、それには魔神的な力と危険も伴った。世界史は実際、めじろ押しに並ぶ支配者や指導者や黒幕や司令官から成り立っていた。彼らは、ごく少数の例外を除いて、みな初めはよいが、終りは悪かった。彼らはみな、少なくとも自称するところでは、善《よ》いことのため権力を得ようと努力したが、後には権力にとらえられ、麻痺《まひ》させられて、権力のために権力を愛するようになった。生れつき与えられた力を神聖にし有益にするために、彼はそれを聖職制度に奉仕させる必要があった。そのことはいつでも彼にとって自明の理であった。だが、彼の力がいちばんよく奉仕し、実を結ぶことのできる場所はどこであったろう? 他の人々を、特に年下のものたちを引きつけ、多かれ少なかれ影響を与える能力は、将校か政治家にとっては価値があったろう。しかし、このカスターリエンはそれにふさわしい所ではなかった。ここではそういう能力は、本来教師や教育者にだけ役だった。あいにくクネヒトはそういう活動に対しては、心に興味を感じなかった。自分の思いのままになるのだったら、何よりも、自主的な学者の生活を――あるいは、ガラス玉演戯者の生活を選んだだろう。そこでまた彼は、古い悩ましい問題に直面した。すなわち、この演戯はほんとに最高のものであろうか。ほんとに精神界の女王であろうか。なんと言っても、結局はやはり遊戯にすぎないのではないか。それは完全な献身、終生の奉仕にほんとに値するだろうか。そういう問題であった。この有名な演戯は、かつて、幾世代も前、芸術の補充の一種として始められた。それは少なくとも多くの人々にとって、次第に一種の宗教になりつつあった。つまり、高度に発達した知性のための、精神集中や感奮や礼拝の手段になりつつあった。クネヒトの心中で行われたのは明らかに、美的なものと倫理的なものとの昔ながらの戦いであった。いまだかつて完全に表現されたことはないが、まったく沈黙してしまうことも決してない問題は、ワルトツェルの生徒時代の彼の詩のあちこちに、暗く脅やかすように現われていたものにほかならなかった――それは、ガラス玉演戯にだけでなく、カスターリエン全般にあてはまる問題であった。
この解きがたい問題に強く悩まされ、デシニョリとの議論をしきりに夢に見ていたころ、あるとき、ワルトツェルの演戯市区の広い庭の一つを歩いていると、彼はたまたまうしろから高い声で呼ばれた。すぐには聞きわけられなかったが、よく知っている声のようであった。振り返ると、背の高い、顔に小さいひげのある青年が、はげしい勢いで彼に向って走ってきた。プリニオだった。こみあげるなつかしさと情愛に駆られ、彼は心からあいさつした。ふたりは夕方会う約束をした。プリニオは、ずっと前に世俗の大学で学生時代を終え、もう役人になっていたが、短い休暇のあいだ、客としてガラス玉演戯の講習を受けにきたのだった。彼はすでに数年前、一つの講習を終了していた。ところが、夕方、会ってみると、ふたりの友はすぐ当惑してしまった。プリニオはここでは、客としての生徒、外部からきて、大目に見られるしろうとであって、非常に熱心に講習に従ってはいるが、局外者、愛好者のための講習であったから、ふたりの隔りはあまりにも大きかった。彼と向い合ってすわっているのは、奥義《おうぎ》に通じている専門家であって、手加減をしたり、ガラス玉演戯に対する友人の興味によろしく相づちを打ったりすることによって、彼がここでは同僚ではなく、子どもにすぎなくて、相手のほうでは奥の奥まで熟知している学問の周辺に満足を見いだしているにすぎないのだ、ということを感じさせずにはおかなかった。クネヒトは、話を演戯からそらそうとし、ブリニオに、外界での職務や仕事や生活について話してほしいと頼んだ。その点になると、ヨーゼフのほうが、遅れている子どもで、無知な問いを出して、相手からお手やわらかに教えられた。プリニオは法律家で、政治的な勢力をめざして努力し、ある党主の娘と婚約するばかりになっていた。彼は、ヨーゼフには半分しかわからないようなことばを話した。たびたびくり返される多くの表現は、彼には空虚に聞えた。少なくともそういう表現は彼にとっては何の内容も持たなかった。それにしても、プリニオが外の世界でいくらか重きをなし、事情を心得、野心に満ちた目標を持っていることは、察せられた。しかし、かつて十年前ふたりの青年の心中で好奇心と共感とをもって接触し合った二つの世界が、今は分裂して、結びつきようもなく、無縁になってしまった。なるほど世俗人で政治家であるこの友が、カスターリエンに一種の愛着を持ち続け、すでに二回にわたって休暇をガラス玉演戯のために犠牲にしたことは、多とすべきであった。しかし、それはやはり、自分がある日プリニオの所管区へ行って、物珍しげな客としていくつかの法廷や工場や厚生施設を見学する場合と、あまり変らないのだ、とヨーゼフは考えた。ふたりとも失望した。クネヒトは昔の友が粗野になり外面的になったと思い、デシニョリはこれに反し、往時の仲間が精神と秘伝ばかりに閉じこもって、ひどく高慢になった、と思った。相手は自己陶酔に陥り、遊戯に夢中になっている正真正銘の「精神だけの男」になってしまった、と、デシニョリには思われた。しかし、彼らは互いに努力をした。デシニョリはいろいろな話題を提供した。研究や試験について、英国や南国への旅行について、政治上の集会や議会について話した。あるとき、彼は、威嚇《いかく》とも警告とも聞えるような一言をもらした。「君もやがて目撃するだろうが、不安な時が、おそらく戦争がまもなく起るだろう。君たちのカスターリエンの存在全体がいつかまた真剣に問題にされることも、全然ありえないことではない」と彼は言った。ヨーゼフは、それをあまり本気にはとらないで、「それで、君は、プリニオ、カスターリエンに賛成なのかい、それとも反対なのかい?」とだけ尋ねた。
「ああ」とプリニオは強《し》いて笑って言った。「ぼくの意見なんか問題にならないよ。しかし、もちろんぼくは、カスターリエンがこのまま存続することに賛成だよ。でなかったら、ここに来たりなんかしないだろう。それにしても、君たちの要求は物質的な点ではごくつつましいものだが、カスターリエン州は国にとって年に相当な額の費用がかかるのだよ」
「うん」とヨーゼフは笑った。「聞くところによると、その金額は、戦争の多かった世紀のあいだにわれわれの国が武器弾薬のために支出した額の十分の一くらいだ」
ふたりはなお数回会った。プリニオの講習の終りが近づけば近づくほど、彼らはつとめて愛想をよくしあった。しかし、その二、三週間が過ぎて、プリニオが旅立ったとき、ふたりはそれぞれほっとした気持ちになった。
そのころの演戯名人は、トーマス・フォン・デア・トラーフェで、有名な、広く旅行をした、世故にたけた人であった。近づいて来るものに対しては、だれにでも協調的で、いたって愛想よく親切にしたが、演戯に関することでは、このうえなく周到で、禁欲的な厳格さを保ち、非常な勉強家であった。その点は、大演戯の指揮者として式服をまとったり、外国の使節を迎えたりするような、代表者の面からだけ彼を知っている人々の思いもつかぬところであった。彼はひややかな、むしろ冷たい分別人で、芸術的なものに対して儀礼的な関係に立っているにすぎない、という陰口もあった。ガラス玉演戯の若い感激的な愛好家のあいだでは、ときとしてむしろ否定的な批評が聞かれた。それは誤った批評であった。なぜなら彼は、感激家ではなく、大きな公式の演戯では、大きな評判になるような主題に触れるのを避けはしたが、彼のみごとに構成された、形式の上で及ぶもののない演戯は、識者にとっては、演戯世界の隠れた問題に通暁していることを示していたからである。
ある日、演戯名人はヨーゼフ・クネヒトを自分のところへ呼び、私宅で、ふだん着すがたで迎えた。そして、これから幾日間かいつもこの時刻に半時間ほど顔を見せることができるかどうか、そうするのはいやではないかどうか、と尋ねた。クネヒトは、これまでまだ一度もひとりで名人を訪れたことはなかったので、不思議に思いながら、この命令を受け入れた。その日、名人は彼に、厚い書き物を示した。ある。パイプ・オルガン奏者が出した提案で、無数の提案の一つだった。そういうのを検討することは、最高演戯局の仕事になっている。その主旨はたいてい、新しい材料を記録所に採用してほしいという申し入れであった。たとえば、ある人は、マドリガル〔十六世紀の多声楽〕の歴史を特に詳細に研究し、その様式発展の中に一曲線を発見して、それを音楽的に数学的に書きとめ、演戯用語の中に採用できるようにした。またある人は、ジュリアス・シーザーのラテン語の律動的な性質を調べ、それが、ビザンチン教会唱歌のよく知られた音程調査の結果と、実に著しく一致しているのを発見した。あるいは、ある熱中家は、十五世紀の記譜法の新しい秘伝書をまた発見した。たとえば、ゲーテとスピノザの占星術を比較して、驚嘆すべき結論を引き出し、しばしば非常に美しい、なるほどと思われるような多色彩の幾何学的な図を添えている、というような邪道な実験家のはげしい手紙のことは、言わずもがなである。クネヒトは、この日提示されたものを熱心に検討した。彼自身この種の提案をこれまでたびたび頭に描いたことがあった。もっとも、送りとどけたことはなかった。活動的なガラス玉演戯者はみな、絶えず演戯の範囲を拡大し、ついには全世界を包含するに至らしめようと、夢みる。というより、この拡大を心の中で、個人的なガラス玉演戯練習の中で絶えず遂行し、その際その値打ちがあると思われるものについては、個人的な拡大を公の拡大にしたい、という願いをいだくのである。高い程度に進んだ演戯者の個人的な演戯の本来の微妙な点の極致は、演戯法則の表現し命名し形成する力を存分に駆使して、任意の遊戯の中に、客観的な歴史的な価値とともに、まったく個人的な一回ぎりの心象を採り入れるほどになるところにある。尊敬されているある植物学者は、それについて次のようなおもしろいことを言ったことがある。「ガラス玉演戯ではあらゆることが可能であるに違いない。たとえば、一本の植物がリンネ氏とラテン語で談話をすることだってできる」
こうしてクネヒトは名人を助けて、提出されている法式の分析をした。半時間はまたたく間に過ぎた。翌日もきちんと定刻に出頭した。そういうふうに二週間にわたって毎日やってきて、半時間演戯名人とふたりきりで仕事をした。初めの数日のうちにもうクネヒトは異様に思ったことだが、よく見れば一見役にたたないことの明らかな、無価値な請願書をも、名人は終りまで丹念に批判的に研究させた。名人がこんなことに時間をさくのを、クネヒトはいぶかしく思った。だが、次第に彼は、これは名人に奉仕し、仕事を軽減してあげることが主眼ではなくて、この仕事は、もちろんそれ自体必要なことであるかもしれないが、何よりも、若い達人である彼自身を最も丁寧な形で極度に念入りに試験する機会にちがいない、ということを悟り出した。自分の一身に何かが起きたのだ。かつて少年時代に音楽名人が現われたときと同じような何かが起きたのだ。そういうことを、彼はいま急に仲間の態度によっても気づいた。彼らの態度は、遠慮がちになり、隔てを増し、往々皮肉にうやうやしくなった。何かが用意されている、と彼は感づいた。ただあのときほどうれしくはなかった。
最後の会合のあとで、名人はいくらか高い丁寧な声で、非常に精確な抑揚のことばづかいではあるが、少しも格ばらずに言った。「よろしい。明日はもう来なくてもよろしい。われわれの仕事は差しあたり終った。もっともまもなくまたご足労をわずらわさねばならないだろう。君の助力に大いに感謝するよ。わしには貴重だった。それはそうと、わしの考えでは、君はそろそろ宗団に採用されるよう申請すべきだろう。困難にぶつかることはあるまい。宗団の当局にはわしがもう話をつけておいた。君は異存はないだろうね?」それから立ちあがりながら付け加えた。
「もう一言、ついでに言っておくがね。たぶん君も、すぐれたガラス玉演戯者がたいてい若いときするように、われわれの演戯を哲学するための一種の道具として使うような気になることが、ときにはあるだろう。わしのことばだけで矯正《きょうせい》することはできないだろうが、念のために言っておくよ。哲学するには、もっぱら合法的な手段、すなわち哲学の手段をもってすべきだ。われわれの演戯は、哲学でも宗教でもない。独特な規範であって性格は芸術に最もよく似ている。特殊の芸術だ。この点を手がかりにしていけば、百ぺんも失敗を重ねた後に悟るより以上に、進歩することができる。哲学者のカントはもうあまり知られていないが、優秀な頭脳だった。彼は、神学的に哲学することを『幻影の魔法ぢょうちん』と呼んだ。われわれのガラス玉演戯をそんなふうにしてしまってはならない」
ヨーゼフは思いがけぬことに驚いていた。興奮を抑えるために、最後の警告をほとんど聞きもらすほどだった。彼は電光に打たれたように、はっとした。つまり名人のことばは、彼の自由の最後、研究時代の終了、宗団への採用を、そしてまもなく聖職制度の一員にされることを意味していた。彼は深く頭をさげて感謝し、すぐにワルトツェルの宗団事務所へ行った。すると、果して、新たに採用されるものの名簿の中に、もう自分の名が記入されているのを発見した。彼は、彼の段階の学生たちと同様、宗団の規則をもうかなり詳しく知っていたので、高い階級の公職を占める宗団員はだれでも、採用執行の権限があるという規定を思い出した。そこで、音楽名人からその儀式の執行を受けたいという願いを述べ、証明書と短い休暇を得て、翌日モンテポルトをさして、保護者であり友である人のもとへ旅立った。尊敬する老人はいくらか病気であったが、喜んで彼を迎えてくれた。
「ちょうどよいところへ来てくれた」と老人は言った。「まもなくわしは、君を若い兄弟として宗団に入れる権限を持たなくなるだろう。わしは辞職しようとしている。わしの解職はもう承認された」
儀式そのものは簡単だった。翌日、音楽名人は、規定の要求に従って、ふたりの宗団員を立合い人として招いた。その前にクネヒトは、宗団の規則の一条文を瞑想《めいそう》練習の課題としてあてがわれた。その条文はこういうのであった。「高い官庁からある役に補されたら、心得よ。役の位階が昇進することは常に、自由への一歩ではなく、束縛への一歩である。役が高くなればなるほど、束縛はいよいよ深くなる。職権力が大きくなればなるほど、奉仕はいよいよ厳しくなる。個性が強ければ強いほど、我意はいよいよ厳禁される」さて皆は名人の音楽室に集まった。クネヒトがかつて冥想術への最初の手引きを受けたへやだった。名人は、新入団者を促して、このひとときを祝うため、バッハの衆讃曲〔コラール〕前奏曲を演奏させた。引き続いて、立合い人のひとりが宗団規則の要約を朗読し、音楽名人自身が儀式上の質問をし、若い友から誓約を受けた。彼はさらに一時間を彼のためにさいた。彼らは庭に腰をおろした。名人は彼に、いかなる精神で宗団の規則を身につけそれに従って暮さねばならないか、親切な指示を与えた。「ちょうどわしが退くときに、君がそのすきを埋めるのは、うれしいことだ。将来わしに代って面目《めんぼく》を発揮するむすこができたような気がする」と彼は言った。そしてヨーゼフの顔が悲しげになるのを見ると、こう言った。「さあ、悲しまないで。わしも悲しまないのだから。わしはひどく疲れている。暇になるのが楽しみだ。これから暇を楽しもう。君にもせいぜいその楽しみのお相伴をしてもらいたい。この次に会ったら、わしを君と呼びたまえ。わしは役についているあいだは、そう言い出せなかったのだ」ヨーゼフがもう二十年来親しんできた魅惑的な微笑を浮べて、名人は彼を立ち去らせた。
クネヒトは急いでワルトツェルに帰った。わずか三日の暇をもらっただけだったからである。帰ると、すぐ演戯名人のところへ呼ばれた。名人は同僚のような快活さで、彼を迎え、宗団に採用されたことを祝った。「われわれが完全に同僚となり、仕事仲間となるのには」と彼は続けて言った。「君がわれわれの機構の中で特定の席に配置されさえすればよいのだ」ヨーゼフは少し恐れをなした、ではいよいよ自由を失うことになるのか。「ああ」と彼はおずおずしながら言った。「どこかつつましい席で使っていただけたら、と思います。実を申すと、なおしばらく自由に研究できることを望んでおりました」名人は、抜けめのない、軽い皮肉をおびた微笑を浮べて、相手の目をじっと見つめた。「しばらく、と君は言うが、どのくらい長いあいだかね?」。クネヒトは当惑して笑った。「実際わからないんです」「そうだろうと思っていた」と名人はばつを合わせた。「君はまだ学生のことばで話し、学生の観念で考えている、ヨーゼフ・クネヒトよ、それは当り前なんだが、もうすぐそれが当り前でなくなるよ。われわれは君を必要とするんだから。君も知ってのとおり、後になって、いや、われわれの役所の最高の役についてからでも、君の研究の値打ちを当局に納得させることができれば、研究の目的のために休暇をとることができるのだよ。わしの前任者で先生でもあった人は、たとえば、演戯名人として老人になってからでも、ロンドンの記録所へまる一年の休暇を願い出て、許されたほどだ。しかし、この名人のもらった休暇は、『しばらくのあいだ』ではなくて、月、週、日の数をかぎったものであった。君も将来そのつもりにならなくてはいけないだろう。ところで、今は君に一つの提案をしなければならない。われわれの仲間の外ではまだ知られていないが、責任の持てる人物を、特別な使命のために必要とするのだ」
依嘱される事柄というのは、次のようなものであった。ベネディクト派の修道院、マリアフェルスは、この国の最も古い教育施設の一つであって、カスターリエンと友好関係を保ち、特に数十年来ガラス玉演戯を愛好していたが、演戯への手引きのため、同時にまた修道院の上級演戯者数名に刺激を与えるため、若い教師をしばらくのあいだ貸してほしい、と頼んできていた。名人はヨーゼフ・クネヒトに白羽の矢を立てたのであった。そのためにこそ、名人はクネヒトを慎重に試験し、そのためにこそ彼の宗団加入を促進したのであった。
[#改ページ]
第四章 二つの宗団
今度もまたクネヒトの状態は、かつてラテン語学校の時代、音楽名人の訪問を受けたあとと、いろんな点で似ていた。マリアフェルスへの招きが、特別の引立てと、聖職制度の段階上の有力な第一歩とを意味することを、ヨーゼフはほとんど考えなかっただろう。しかし今はいずれにせよ、あの当時より目があいていたのだから、同僚の態度振る舞いによって、そのことをはっきりと読みとることができた。彼はしばらく前からガラス玉演戯者の選《え》り抜きの中でも中枢部に属していたが、今度は異常な依嘱によって、上司が目をかけ、用いようと考えている人物として、皆にさきだって引き立てられたのであった。昨日までの仲間や、いっしょに働いてきたものたちが、露骨に引っこんでしまったり、不親切になったわけではない。そんなことをするには、この高度に貴族的な社会ではあまりに礼儀が重んじられていた。しかし、隔りができたことは明らかだった。昨日までの仲間が明後日から上官になることだってあった。相互の関係におけるそのような段階や差異を、この仲間は極度に微妙なこまかさで記録し、表現した。
例外をなしているのは、フリッツ・テグラリウスだった。フェロモンテについで、彼をヨーゼフ・クネヒトの一生の最も忠実な友と呼んでよい。彼は天分の点では最高の地位につける人物であったが、健康と均衡と自信とを欠いたのがひどい障害になって、クネヒトと同年輩ながら、宗団に採用されたときは、かれこれ三十四歳だった。クネヒトは、十年ほど前、ガラス玉演戯講習の際、初めてテグラリウスに会ったが、そのときすでに、この静かないくらか憂鬱《ゆううつ》な青年がどんなに強く自分に引きつけられているかに、感づいていた。クネヒトはそのころからもう、たとえ無意識にせよ、人間に対する勘のよさを持っていたので、この青年の愛の本質をも感得した。それは、無条件に献身し服従する用意のできている友情と尊敬であり、ほとんど宗教的な性質の熱中に貫かれていたが、内心の高貴さと、内的な悲劇をよく察知する感受性とによって陰影を受け、制御されていた。あの当時はまだクネヒトは、デシニョリとの対立期で衝撃を受け、神経質になっていた、いや、疑い深くなっていたので、このテグラリウスを徹底的に厳《きび》しく近づけないようにした。しかし実は彼のほうでも、このおもしろい並みはずれた仲間に引きつけられていた。クネヒトが数年後もっぱら最高当局に役だてるため書いた公務上の秘密記録があるから、その中の一葉を、人物の性格を明らかにするためにかかげよう。そこにはこう書いてある。
「テグラリウス。報告者と個人的に親交がある。コイパーハイムでしばしば優等となった生徒。すぐれた古代言語学者、哲学的に強い興味を持ち、ライプニッツ、ボルツァノ、後にプラトンを研究した。私の知っているかぎりで最も天分のある輝かしいガラス玉演戯者。もし健康が痛みやすいばかりでなく、性格がまったく不適当であるということがなかったら、天成の演戯名人であろう。Tを指導者や、代表者や、組織者の地位につけてはならない。それは彼にとっても役所にとっても不幸になるであろう。彼の欠陥は、肉体的には、沈滞状態、不眠症と神経痛の時期に現われ、精神的には一時的に、憂鬱症、強い孤独癖、義務や責任に対する不安、おそらくはまた自殺の念に現われる。ひどい危険な状態にあっても、彼は冥想《めいそう》と大きな自制の助けで勇敢に不屈な態度をとるので、周囲にいるものの大部分が彼の苦悩の辛《つら》さをまったく察知せず、非常に内気で打ちとけない性質だということを知るばかりである。つまりTは残念ながら上級の職務をつかさどるには不適当だとしても、演戯村では珠玉であり、まったくかけがえのない宝である。偉大な音楽家が楽器をこなすように、彼は演戯の技術をこなし、手あたり次第にやって、至妙な色合いをとらえ、教師としても軽視できない。上級および最上級の復習講習には、この人がいなくては、私は途方にくれるだろう。下級講習には彼は惜しい。彼が若いものたちの試演を分析して、しかも彼らをついぞ失望させず、また、彼らの策略を見抜き、模倣や装飾にすぎぬものをことごとく狂いなく見わけ、暴露し、また、基礎は良いが、まだ不確実で構成のあやふやな演戯については、欠陥の根源を見つけ、完全な解剖学のプレパラートのように呈示する、その手腕はまったく無類である。分析と修正の際にこのようにまどわされることのない鋭い眼光を放つことこそ、何ものにも増して、彼が生徒と同僚との尊敬を確保するゆえんである。そうでなかったら、彼に対する尊敬も、彼の不安定な、むらのある、内気で臆病な態度によって、疑問視されたであろう。ガラス玉演戯者としてのTの天才的な素質は、まったく比類のないものであるが、それについて私の言ったことを一つの例によって説明したい。私が彼と友人になった当初すでに、われわれ両人は講習会でもう技術にかけてはあまり学ぶ点がなかったのだが、彼は特に打ちとけた気持ちになったとき、そのころこしらえた二、三の演戯を私に見せてくれた。私は一見して、これはすばらしい着想で、様式にどこか斬新《ざんしん》で独創的なところがある、と思い、記された方式を研究させてもらったところ、真の詩ともいうべきこの演戯構成の中に、まったく驚嘆に値する独特なものを発見したので、それをここで言わずにおいてはいけないと、私は信じる。その演戯は、ほとんど純粋に独白的な構造を持つ小戯曲であって一作者の個人的な、天才的であるが、同程度に危険に陥っている精神生活を、完全な自画像のように反映していた。演戯の土台になっている種々の主題や主題群は、すこぶる巧妙な序列と対立とを示しているが、そのあいだで弁証法的な協奏と戦いとが行われているばかりでなく、対立的な声部の総合と調和も、ありきたりの古典的な方法で仕上げられてはおらず、むしろその調和が、多くの屈折を受け、絶えず、疲労したように、絶望したように、解体の寸前にあり、問いと疑いの中に鳴りやんでいた。あの演戯はそれによって、心をたかぶらせるような、私の知るかぎりではこれまでだれも企てたことのない着色法を施されていたばかりでなく、演戯全体が悲劇的な疑いと断念との表現になっていた。あらゆる精神的な努力が疑わしいものだということを、比喩《ひゆ》的に確証していたのである。それにしても、それらの演戯は、精神的な性質においても、演戯技術上の書法や仕上げにおいても、並みはずれて美しかったので、それを見るものは涙を抑ええないほどであった。その演戯のどれもが、非常に深く真剣に解決をめざして努力しながら、最後にはきわめて気高い諦念《ていねん》をもって解決を断念しているので、それはさながらいっさいの美しいものに内在するはかなさと、いっさいの高い精神の目標に究極的に内在する疑わしさとを歌う完全な哀歌となっていた。――さらに、テグラリウスが、私より、あるいは私の任期より長く生きた場合のため、極度に繊細な貴重な、しかし危険に陥っている宝として、彼を推薦しておく。彼にはきわめて多くの自由を与えねばならない。重要性のある演戯の問題については常に彼の意見を聞かなければならない。だが、生徒たちを彼一人の指導にゆだねることは禁物である」
この風変りな人物は、年のたつとともにまぎれもなくクネヒトの友となった。彼は、クネヒトの精神ばかりでなく、支配者気質のようなものをも讃嘆し、涙ぐましい献身ぶりでクネヒトに対した。われわれがクネヒトについて知っている多くのことは、彼によって伝えられたものである。新進のガラス玉演戯者のごく狭い仲間の中で、おそらく彼は、クネヒトの受けた依嘱のゆえにクネヒトをうらやまなかった唯一の友であったろう。またクネヒトが不定の期間よそへ招かれていったことを、深いほとんど耐えがたい苦痛、損失と感じた唯一の友であった。
ヨーゼフ自身は、愛着していた自由を突然失ったことに対する一種の驚きを克服してしまうと、新しい状態を喜ばしく感じ、旅行気分と、活動への興味と、送りこまれるよその世界への好奇心とをそそられた。しかし、宗団は若い兄弟をすぐにマリアフェルスに旅立たせはしなかった。彼はまず三週間「警察」に入れられた。学生のあいだでは、教育庁の機構の中で、政治局あるいは外務省とも呼んでよい小部局が「警察」と称せられていた。実際、小さな事柄に対して、政治局とか外務省とかいうのは、大げさすぎる名称であったろう。とにかくそこで、宗団の兄弟が外の世界に滞在中まもるべき訓令が教えこまれた。ほとんど毎日、その役所の長官デュボア氏が親しくクネヒトのため一時間をさいた。つまりこの良心的な人にとっては、まだ試練を経ていない、完全に世間を知らない男を在外の地位に送るのは、気がかりに思われた。彼はガラス玉演戯名人の決定に賛成できないことを隠そうとしなかった。そこで、彼は宗団の若い兄弟に、世間の危険について、またそれに有効に対処する方法について、親身に細心に説明するため、二倍の骨折りを惜しまなかった。父親のように行きとどいた長官の誠実な心持ちと、進んで教えを受けようとする青年の心がまえとが、非常にぐあいよく一致したので、俗世との交わりに際し守るべき規則を教えてもらう時間に、ヨーゼフ・クネヒトは先生に心から愛されるようになり、先生もしまいには安心して、すっかり信頼して彼を使命に赴《おもむ》かせることができた。そればかりか、先生は政策のためより好意から、クネヒトに自発的に一種の用事を託そうと試みた。デュボア氏は、カスターリエンの少数の「政治家」のひとりとして、同じ役人でも、カスターリエンの国法上および経済上の存続と、外の世界に対する関係と、外の世界への依存とを主として考え研究しているごく小さい一群に属していた。大多数のカスターリエン人は、役人でも学者や研究者に劣らず、彼らの教育州と宗団を、安定した、永続的な、自明の世界として、その中に暮していた。もちろんこの世界がいつでもあったわけではなく、いつか成立したこと、しかも困難をきわめた時代に徐々に、はげしい戦いののちに成立したことを、彼らは知っていた。それは、戦争の多かった時代の末期に、精神的な人々の禁欲的英雄的な反省と努力によって成立したのであるが、同様に、疲れきった、血を失った、よるべのなくなった民衆が、秩序や規範や理性や法則や標準などを切実に求めたところから成立したのであった。彼らはそのことを知っており、世界のあらゆる宗団や「州」の機能というものについて知っていた。すなわち、支配し競争することを断念し、そのかわり、いっさいの標準や法則の精神的基礎の恒久的持続を確保しなければならないことを知っていた。しかし、事物のこういう秩序は、決して当り前のことではなく、世俗と精神とのあいだのある種の調和を前提とすること、しかもその調和はいつなんどき破れるかもわからないということ、世界史は、所詮、願わしいもの、理性的なもの、美しいものを追求し助成するものでは決してなく、せいぜい時々例外としてそういうものを大目に見るにすぎないということ、それを彼らは知らなかった。カスターリエンの存在の隠れた問題は、大多数のカスターリエン人には、根本的には気づかれず、少数の政治的頭脳にまかされていた。デュボア長官はそのひとりであった。クネヒトはこのデュボアの信頼を得た後、カスターリエンの政治的基礎の概要を説明してもらった。宗団の兄弟の大多数のものと同様に、彼も初めはそれをむしろ不快につまらなく感じたが、やがて、デシニョリがカスターリエンの危機の可能性について言ったことばを思い出し、それにつれて、プリニオとの青年らしい議論の苦い後味を残りなく思い起した。そんなものは、とっくに忘れはてていたようだったのに。――そうなると、デュボアの説明が急に彼にとって極度に重要になり、目ざめの途上の一段階となった。
最後の会合の終りに、デュボアはクネヒトにこう言った。「これで君を出発させてもよいと思う。尊敬する演戯名人から与えられた依嘱を厳しく守り、われわれからここで受けた訓令をも同様に守りなさい。君の役にたつことができたのは、うれしい。ここに引きとめられた三週間はむだではなかったことを、君は悟るだろう。私に教えられ、私と親しくなったことを、君が満足に思い、それを私に示そうという気持ちを持っているのだったら、一つの方法を示してあげよう。ベネディクト派の修道院に行って、そこにしばらく滞在し、神父たちの信頼を得たら、その尊敬すべき人々や客たちの中で、きっと政治的な談話を聞き、政治的な気分を感じるだろう。君が時折りそれを私に報告してくれたら、ありがたいね。誤解してはいけない。君は決して自分をスパイのたぐいになるのだと思ってはいけない。また神父たちの示す信頼を乱用してはいけない。君の良心の許さないような報告をしてはならない。情報があったら、もっぱらわれわれの宗団とカスターリエンの利益のために、それを知り、利用するのだということを、私は保証する。われわれは実際政治家ではないし、何の権力も持たないが、われわれも世間に依存し、世間もわれわれを必要とし、容認している。ある政治家が修道院を訪れたとか、法王が病気といわれているとか、将来の枢機官の名簿に新しい候補者がのったとかいうことがあったら、それを知らしてもらうのは、時と場合によってわれわれの役にたつことがある。われわれは君の報告を頼りにしているわけではない。他にもいろいろ報告の出どころを持っているが、小さい出どころが一つふえても悪いことはない。さあ、出かけなさい。私の提案に対し何もきょう否応《いやおう》を言うには及ばない。何をおいても役所の依嘱をりっぱに果し、神父たちのあいだでわれわれの名誉を高めるように、ひたすら心がけなさい。つつがない旅を祈ります」
旅にのぼる前にクネヒトは、メドハギの茎の儀式を行なって、易経にあたってみると、「旅《りょ》の卦《け》」が出た。それは「旅人」を意味し、「旅《りょ》は小《すこ》しく亨《とお》る。旅《りょ》は貞《ただ》しければ、吉なること」を示している。彼は六二《りくじ》を見いだし、書物を開いて解釈を探した。
[#ここから1字下げ]
旅《りょ》にして次《じ》に即《つ》く。
その資を懐《いだ》き、
童僕の貞を得たり。
(旅びとは宿に着く。
富をたずさえており、
若い僕《しもべ》の辛抱強きを得る。)――〔独訳から〕
[#ここで字下げ終わり]
告別は朗らかに行われた。テグラリウスとの最後の語らいだけが、ふたりにとって、動揺せずにいられるかどうかの苦しい試練であった。フリッツは強引に自分を抑え、無理に冷静を装って、まるで石のようになっていた。クネヒトが去ることによって、フリッツにとっては、自分の持っている最上のものがなくなるのであった。クネヒトの本性は、ひとりの友に、そのように熱情的に、特に一面的に結びつくことを許さなかった。やむをえなければ、彼は友だちなしでもいられたし、自分の共感の光を新しい対象や人間に、支障なく向けることもできた。別れは彼にとっては、痛切な損失ではなかった。しかし、彼はそのときすでにこの友をよく知っていたので、今度の別れが友にとってどんな打撃と試練を意味するかを知り、友のために心配した。彼はこの友情について、これまでたびたびいろいろと考えてみ、音楽名人と話し合ったこともあった。そして自分の体験と感情を客観化し、批判的に観察することを、ある程度まで学んだ。それによって悟ったのは、自分の心を引きつけ、相手に対して情熱のようなものを感じさせるものは、実際は相手の大きな天分ではない、というよりその天分だけではなく、この天分がはなはだしい大きい欠陥と結びついている点にほかならないことであった。また、テグラリウスが彼にささげる一方的で排他的な愛は、美しいばかりでなく、危険な魅力と外観を持っている、つまり、愛にかけては弱くないが力にかけて弱いものに、時折り自分の力を感じさせる誘惑を起させる、ということを悟った。この友情では、彼は最後まで極力控え目にして自制することを義務とした。クネヒトは、テグラリウスを愛してはいたが、もし自分というはるかに強い安定した友に魅惑されている、このやさしい人物との友情によって、自分が多くの人に及ぼす牽引力《けんいんりょく》や力について教えられるところがなかったら、この友は、クネヒトにとって、いとおしくはあったが、彼の生涯においてさして深い意味を持たなかっただろう。他のものを引きつけ、感化を及ぼすこの力はある程度、先生や教育者の天分と本質的に相通じるもので、危険をはらみ、責任を負わせるものだということを、彼は悟るようになった。テグラリウスは、幾人ものうちのひとりにすぎなかった。クネヒトは、自分に慕い寄る多くのまなざしにさらされているのを知った。同時に彼は前年、演戯者村で暮したときの極度に緊張した雰囲気《ふんいき》を、ますますはっきりと自覚的に感じた。彼はそこで、公式には存在しないが、非常に厳しく限られた一団、あるいは階級に属していた。それはガラス玉演戯の候補者や復習教師たちのごく少数の選《え》り抜きであって、その一団から、一、二のものが、名人や記録者や演戯講習の助手に引き抜かれることはあったが、彼らの中から、中以下の役人や教師に任命されるということはなかった。彼らは、指導的な地位を占めるための控えであった。ここでは皆が互いに非常に詳しく知り合っていた。息苦しいほどよく知り合っていた。ここでは、天分や性格や能力について思い違いをすることはほとんどなかった。演戯研究の復習教師や、上位の官位を志願するものは、みな普通以上の、尊敬に値する人材であって、その能力や知識や成績の点で第一流であったから、人物の特徴や色合いが、指導者や成功者になろうとするものに栄冠を約束することになるので、その点が特に大きな、重視される役割を演じた。名誉心、りっぱな挙措、からだの大きさ、美しい容姿などの優劣、あるいは、魅力、後輩や役所に対する影響力、愛嬌《あいきょう》などのわずかな優劣が、ここでは大きな重味を持ち、競争で勝敗を決した。そういうわけで、たとえばフリッツ・テグラリウスは、明らかに支配者の天分を持っていなかったので、局外者として、客として、大目に見られるものとして、この一団に属するにすぎず、いわばその周辺に属していたとすれば、クネヒトはその中心の仲間に属していた。彼が若い者たちに人気があり、礼讃者《らいさんしゃ》を得たのは、彼の新鮮さとまだまったく若々しい優美さとであった。それは一見、情熱を受けつけず、誘惑にまどわされなかったが、同時にまた子どもらしく無心であった。つまり一種の無邪気さであった。彼が上長に喜ばれたのは、この無邪気さの他の面、つまり名誉心や成功主義がまったくない点であった。
彼の人格の作用は、初めは下に向い、徐々にそして最後には上にも及んだのであるが、それが最近になって、この若い人に自覚された。目ざめたもののこの立場に立って振り返ってみると、彼は、二つの線が少年時代までさかのぼって自分の生活を貫き、形づくっているのを発見した。一つは、同僚や後輩から寄せられた積極的な友情であり、も一つは多くの上役が彼を遇する際に示した好意的な心づかいであった。ツビンデン校長のような例外もあったが、そのかわり、音楽名人の愛顧、最近ではデュボア氏と演戯名人との愛顧のような特別な引立てもあった。すべて一見あきらかであったが、クネヒトはその全部を見て、承認しようとは決してしなかった。さながらひとりでにそうなるかのように、どこに行っても何の努力もせず、英才の仲間にはいり、友人の中に讃嘆者を、高位の人の中に保護者を見いだすのは、明らかに彼にとってあらかじめ定められた道であった。聖職制度の根もとの日かげに定着せず、絶えず、その先端に、明るい光に近づくのが彼の道であった。彼は、下僚や町学者にはならず、上に立つものとなるだろう。同様な立場にある他の人々より遅く、彼がこの点に気づいたことは、説明しがたいプラスを彼の魅力に加え、独特な無邪気さを彼に与えた。なぜ彼はそのことにそんなに遅く、しかも意に反して気づいたのか。彼はそういういっさいのことをまったくめざしもせず、欲しもしなかったからである。支配することは彼の欲求するところでなく、命令することは彼の喜びとするところでなかったからである。彼は、活動的な生活よりずっと冥想的な生活を望み、一生涯といわないまでも、なお幾年か、目だたぬ研究者のままでおり、昔の霊場や、音楽の大寺院や、神話や言語や思想の庭や森を、知識欲と畏敬《いけい》の念の強い巡礼者としてめぐることに満足したに違いないからである。今、彼は、活動的生活の中に手あらく突き出されたので、これまでよりずっと強く自己の身辺に努力や競争や名誉心の緊張を感じ、自分の無邪気さが脅やかされ、もはやささえがたくなったのを感じた。捕われ人の気持ちと、過去十年間持っていて今失った自由への郷愁とを克服するためには、心ならずもあてがわれた使命をみずから望み、肯定しなければならないのを悟った。心の中ではまだその気になりきっていなかったので、さしあたりワルトツェルと州とに別れを告げ、世間に旅立つのを、救いと感じた。
マリアフェルス本寺と修道院は、幾世紀にもわたる存続のあいだ、積極的に消極的に西洋の歴史と運命を共にしてきた。全盛期と衰退、再生と新たな沈滞とを体験し、いくどか、いろいろな分野で有名になり、光を放った。かつてはスコラ哲学と討論術の中心として、今日なお中世神学の巨大な蔵書を保有し、無気力と惰性の時代の後に、新たな光輝に達した。今度は音楽を盛んにしたためであった。評判の高い合唱や、神父たちが書き実施したミサやオラトリオのためであった。その昔から今なお、美しい音楽上の伝統を保ち、クルミの木でできた六つの長持ちの中にあふれるほどの音楽の原稿と、この国でいちばん美しいパイプ・オルガンを持っていた。それから修道院の政治的な時代が来た。その時代もまた一種の伝統と慣行とを残した。戦争のためのひどい荒廃の時代には、マリアフェルスはしばしば省察と理性の孤島になった。そこで、相敵対する党派のすぐれた連中が用心深く接触を求め合い、意志の疎通を求めて模索した。一度は――それがマリアフェルスの歴史の最後の頂点であった――講和を産み出した所となった。それによって、疲れ果てた諸国民のあこがれは、しばらくのあいだしずめられた。それから新しい時期が始まって、カスターリエンが創設されたとき、この修道院は傍観的な、むしろ拒否的な態度をとった。おそらくローマに指示を仰いだのだろう。カスターリエンの教育庁が、しばらくのあいだ修道院のスコラ派の図書館で勉強することを望んでいる学者のために、賓客としての待遇を求めたときも、音楽史の会議に代表を送るようにと招請したときも、丁寧に拒絶された。高齢に達してからガラス玉演戯に活発な興味を寄せ始めたピウス院長以後、交通と交易が開かれた。それ以来、活発とはいえないが、友好的な関係が結ばれた。書物が交換され、相互に賓客としての待遇が与えられた。クネヒトの恩人である音楽名人も若いころ数週間マリアフェルスにあって、肉筆の原稿を写し、有名なパイプ・オルガンをひいた。クネヒトは、それを知っていたので、尊敬する師が時々楽しげに語ってくれた土地に滞在するのを楽しみにした。
彼は、予期以上に親切な優待を受けたので、面くらったほどだった。もっとも、カスターリエンが修道院のために不定期間ガラス玉演戯教師を英才の中から提供したのも、初めてのことだった。クネヒトはデュボア長官のもとで、特に賓客の役を勤める最初のあいだは自分を個人と見なさず、カスターリエンの代表者と見なすように、また愛想《あいそ》よくされても、よそよそしくされるようなことがあっても、ひたすら使節としてそれを受け取り応酬するように、と教えられた。そのおかげで最初のこだわりを乗りこえた。初めの親しめない気持ちや、不安や、よく眠れない最初の幾夜かの興奮などにも、打ちかった。ゲルヴァジウス院長は彼に気のよい陽気な好意を示してくれたので、彼は新しい環境でたちまち快く感じるようになった。きびしい山地で、けわしい岩壁に囲まれた、美しい家畜のたくさんいる水々しい牧場のある風景が、さわやかさと力強さで彼を喜ばした。いく世紀もの歴史の跡の読みとれる古い建築の重味と広さが彼を楽しませた。彼は客舎の長い棟《むね》の上階の二へやを住居にあてがわれたが、その美しさと簡素な快適さに心を引かれた。二つの教会、回廊、記録所、図書館、院長の住居、いくつもの中庭、よく飼養されている家畜のたくさんいる広い小屋、水のほとばしる泉、丸天井の巨大なブドウ酒倉と果実倉、二つの食堂、有名な常任評議員会議場、手入れの行きとどいた庭、いちばん大きい中庭を囲んで小さい村をなしている|おけ《ヽヽ》屋や|くつ《ヽヽ》屋や仕立屋や鍛冶屋《かじや》など、修道士の仕事場、そういうさまざまなもののあるりっぱな小さい国家を、研究しながら歩くのは快かった。早くも彼は図書館にはいることを許された。オルガン奏者は彼にみごとなパイプ・オルガンを見せ、ひかせてくれた。楽譜のはいっている長持ちもそれに劣らず彼の心を引いた。そこで、おびただしい数の、まだ発表されていない、部分的にはまだまったく知られていない昔の音楽の原稿が自分を待っていることも、彼は知っていた。
修道院では、彼の職務上の活動の開始をせっかちに待っている様子はなかった。彼の滞在の本来の目的に真剣に近づくまでには、数日、いや、数週たった。もっとも最初の日から数人の神父が、特に院長自身までが、ヨーゼフとガラス玉演戯について喜んで語り合ったが、教授あるいはその他の組織的な活動は、まだ問題にならなかった。その他の点でも、僧籍の人々の振舞いや生活ぶりや交際の調子に、彼のこれまで知らなかった速度、一種の尊敬すべき緩慢さ、息の長い、気のよい根気を、クネヒトは認めた。神父たちは皆、個人的には活気のなくはない人々でさえ、そういう点を共通に持っているように見えた。それは彼らの宗団の精神であった。幸福や苦難にいくどとなく試練を受けた、非常に古い、特権を与えられた秩序を持つ共同体の、千年にわたる呼吸であった。それを彼らが共にしているのは、ちょうどどのミツバチでも、巣箱の運命と境涯を共にし、その眠りを眠り、その悩みを共に悩み、その震えを共に震えるのに似ていた。カスターリエンの生活ぶりと比較すると、このベネディクト派の生活ぶりは、一見それほど精神的でなく、それほど敏活でもなく、鋭くもなく、活動的でもないように見えたが、そのかわり、一段と落ちついており、外からの影響に左右されないように、より古く、より堅固であるように見えた。ここでは、すでにとっくに自然に返ってしまった精神と感覚が支配しているように見えた。好奇心と大きな興味と、同時にまた大きな讃嘆をもって、クネヒトはこの修道院生活を受け入れた。それは、まだカスターリエンが存在しないころ、すでに今日と同じくらいに古く、すでに千五百年を経ていた。この修道院の生活はクネヒトの性質の静観的な面を大いに満足させた。彼は客として尊敬された。予期以上に、正当以上に尊敬された。しかし彼ははっきりと感じていたが、それは形式であり、慣習であって、彼個人に向けられたものでも、カスターリエンあるいはガラス玉演戯の精神に向けられたものでもなかった。それは古い大国が若い国に示す威厳のある丁重さであった。クネヒトには、それに対する用意が十分できていなかった。しばらくたつと、彼は、マリアフェルスの生活がいたって快適であったにもかかわらず、ひどく不安定な気持ちになったので、自分の態度に対する、もっと詳細な訓令を役所に求めた。演戯名人は親しく彼に手紙を書いてくれた。それにはこう書いてあった。「かまわず、君のそこでの生活の時間を随意に研究にささげなさい。君の日々を利用し、学び、そちらで受け入れられるかぎり、愛され、役にたつようにしなさい。だが、押しつけがましくしてはいけない。決してせっかちな様子を示してはいけない。君の主人側より暇が乏しい様子を示してはいけない。先方が一年じゅう、まるで君を客として迎える第一日であるかのように、君を遇したとしても、静かにそれに応じ、二年間だろうが、十年間だろうが、問題でないかのように振る舞いなさい。忍耐の修業の競争だと考えなさい。細心に冥想《めいそう》することです! あんまり暇な時間が長かったら、毎日数時間、といっても四時間より多くなく、規則的な仕事のために、たとえば肉筆原稿の研究あるいは筆写のために費やしなさい。しかし、君が仕事をしているような印象を与えてはいけない。君と雑談したいという人があったら、だれにでも時間をさきなさい」
クネヒトはそれを守るようにした。まもなく彼はずっと楽な気持ちになれた。彼はそれまでガラス玉演戯愛好者のために教授する任務をあまり考えすぎていた。何せそれが彼のこの地における使命の名目だったからである、ところが、修道院の神父たちはむしろ彼を、よい気分に保っておくべき友好国の使節として取り扱っていた。ついに院長ゲルヴァジウスがその教授の任務を思い出して、さしあたり数人の神父を彼のところに連れてきた。ところが、彼らはガラス玉演戯への入門をすでに受けており、クネヒトからさらに進んだ講習を施されるはずであったのに、彼が驚き、初めはひどく失望したことには、客を厚遇するこの土地では、高貴な演戯の育成はきわめて表面的|好事家《こうずか》的であって、一見したところ、ごくわずかな程度の演戯知識で満足しているようであった。こういうことがわかったのに続いて、徐々に他のことがわかった。すなわち、彼がここに派遣されてきたのは、ガラス玉演戯のためでも、修道院でそれを教えるためでもなかった。演戯に真剣に打ちこんではいない数人の神父に、初歩的なことをいくらか教え、ほどほどな慰みごとの満足を得させるのは、たやすいこと、あまりたやすすぎることだった。そんなことなら、英才になんか属していない他の演戯候補者のだれを連れてきたって、間に合っただろう。つまり教授ということは、彼の使命の本来の目的ではありえなかった。自分がここに送られてきたのは、教えるためより学ぶためであることを、彼は理解し始めた。
もっともちょうど彼がこのことを見抜いたと思ったとき、修道院における彼の権威は再び突然強められ、それとともに彼の自信も強められた。というのは、客としての役割はすこぶる魅力もあれば、快くもあったけれど、彼はすでに時折りこの地の滞在を、罰として転任させられたように感じていたからである。ところが、ある日、院長と話をしているうちに、ふとシナの易経のことをほのめかしてしまった。院長はきき耳をたて、二、三の質問を発した。そして客が意想外にシナ語と変化の書に通暁しているのを知ると、院長は喜びを隠すことができなかった。彼は易経を特に愛好していた。もっとも、シナ語は解せず、神託の書や他のシナの秘義に関する知識は、他愛《たわい》なく表面的であった。だいたいこの修道院の当時の住人は、ほとんどすべての学問的な興味について、他愛なく表面的な程度で満足しているらしかった。しかし、客と比べて、きわめて経験に富み、世故にたけたこの賢明な人は、古いシナの政治哲学や人生哲学の精神に実際につながりを持っていることがうかがわれた。それで、異常に活気のある対話が始まり、これまで主客のあいだに存した儀礼的な態度の壁を突き破った結果、クネヒトは院長に週二回易経の講義をするように、頼まれた。
こうして、主人である院長に対する関係が、活気を加え、活動的なものに高まり、オルガン奏者とも同僚的な友情が深まり、クネヒトの暮している小さい宗教的国家と次第に親しんでいくうちに、彼がカスターリエンを出発する前にうかがった神託の約束も実現に近づき始めた。つまり、資を携えている旅人である彼に、泊る宿が約束されていたばかりでなく、「童僕の貞なるものが」約束されていた。約束が実現されていくのを、旅人は、良いしるしと受け取ることができた。すなわち、彼が実際に資を携えているということのしるし、学校や先生や同僚や保護者や助手から離れても、カスターリエンの故郷の、滋養の豊かな、いつくしみ深い雰囲気《ふんいき》から離れても、精神と力とを自己の中に集中させて持ち、それによって活動的な価値ある生活に向って進む、というしるしであった。卦《け》に出た「童僕」は、アントンという名の僧籍の生徒の姿で近づいてきた。この青年は、ヨーゼフ・クネヒトの生涯そのものにおいては何の役割も演じなかったけれど、妙にちぐはぐな気分だった修道院時代の初めのころは、一つの暗示であり、新しいより大きなものへの使者、来たるべき事件の告知者であった。アントンは、無口ではあるが、熱烈な、天分のある表情の青年で、もう僧の仲間に取り立てられてもよいほどに成熟していた。彼にはガラス玉演戯者の素姓もわざもまったく神秘的に思われたが、かなりたびたびその人に会った。しかし生徒の小さい一群は、隔離された、客ははいれない棟《むね》に住んでいたので、クネヒトはほとんど知らずにいた。明らかに彼から遠ざけられていたのである。演戯講習に加わることは生徒らには許されなかった。しかしこのアントンには毎週幾回も図書館の助手としての勤務があった。そこでクネヒトは彼に会った。時折り話をすることもあった。太い黒いまゆの下に黒っぽく力強い目を光らせているこの青年は、あの熱狂的でまめな性質の、青年や生徒に特有な敬愛をもって彼に心を寄せているのを、クネヒトは次第に強く気づいた。それは彼がこれまでずいぶんたびたび経験したことであった。彼はそのつどそういう敬愛の傾倒からのがれたいと思ったが、それが宗団生活の生きた重要な要素であることを、とっくに見抜いていた。この修道院では、彼は二倍にも控え目にしようと、心をきめていた。まだ宗教上の教育を受けている青年に感化を与えようとするのは、厚いもてなしにそむくように思われたのだろう。ここでは厳格な純潔のおきてが守られていることも、クネヒトはよく知っていた。そのため少年らしく夢中になるのは、なおいっそう危険なことになると、彼には思われた。いずれにしても、支障を来たす恐れのあることはいっさい避けなければならなかった。彼はその方針に従った。
図書館は彼がアントンにたびたび会う唯一の場所であったが、そこで、もうひとりの人と知合いになった。その人は目だたない様子をしているので、初めのうちはほとんど見すごしていたのだが、時とともにクネヒトは詳しく知り、感謝のこもった尊敬をもって終生愛した。彼がそれほど愛したのは、ほかには前音楽名人くらいだった。それはヤコブス神父だった。おそらくベネディクト派宗団の最大の歴史家で、当時六十歳くらいだった。長い筋ばった首にハイタカのような頭をのせている、やせぎすの、老境にはいりかけた人で、顔は、前から見ると、特に眼光が乏しいので、生気のない、消えたようなところがあったが、横顔は、額のぐっとそった線、鼻筋の深い切れこみ、鋭く切れたかぎ鼻、いくらか短いが見とれるようにすっきりと出ているあごなどによって、特徴のある頑固《がんこ》な個性を示していた。親しく知り合ってみると、非常に活気のある人かもしれないが、この静かな老人は、図書館の小さい奥まったへやに、自分の勉強机を持っており、いつも書物や稿本や地図をいっぱいにひろげていた。たいそう貴重な書物を持っているこの修道院で、実際真剣に勉強している唯一の学者であるらしかった。それはそうと、たまたまヨーゼフ・クネヒトにヤコブス神父を注目させたのは、あの修練者アントンであった。この学者が勉強机を置いている図書館の奥のへやは、個人の研究室のように見なされており、図書館の少数の利用者さえ、必要やむをえない場合にだけ、そしてそのときでも、そっとうやうやしくつま先ではいるようにしているのに、クネヒトは気づいていた。もっともそこで勉強している神父は、そんなに妨げられやすいような印象は与えなかった。もちろんクネヒトは、すぐに同じ配慮を厳守するようにした。そのため、勤勉な老人はクネヒトから観察されずにいた。さてある日クネヒトはアントンに数冊の本を出してもらった。アントンが例の奥まったへやからもどってきたとき、開いた戸口にちょっと立ちどまって、例の机で勉強に没頭している老人を振り返ったのが、クネヒトの目についた。アントンの情熱的な表情には、讃嘆と畏敬《いけい》とがこもっており、気立てのよい青年が、頭のはげた衰えた老人に時折り示すやさしい配慮と親切心がまざっていた。初めクネヒトはこの光景をうれしく思った。実際それはそれとして美しかったし、アントンの場合は、讃嘆する年長者に対する熱中が、肉体的な情愛を伴わずに可能であることを示していたからである。だが、次の瞬間には、むしろ皮肉な考えが起きた。クネヒトはそれを恥ずかしく思ったくらいだが、その考えというのは、真剣に働いている唯一の学者が青年から不思議な動物か伝説の動物ででもあるかのように驚嘆されるとは、この修道院では学問がなんと乏しいことだろう、というのであった。いずれにしても、アントンが老人に注いでいる驚嘆と尊敬の、情愛さえこもっているほどのまなざしが、老神父の姿に対しクネヒトの目を開いた。そのときから折り折りこの人に注目しているうちに、そのローマ人ふうの横顔を発見し、次第に、非凡な精神と性格を暗示するらしく思われるいろいろな点をヤコブス神父に発見した。彼が歴史家で、ベネディクト派の歴史に最もよく精通している専門家であることは、クネヒトもすでに知っていた。
ある日この神父が彼に話しかけた。間のびした、非常に親切で、上きげんで、いくらかおじさんめいた抑揚が、この修道院の流儀にはつきものらしかったが、ヤコブス神父はそういう抑揚をさっぱり持っていなかった。彼は、晩の日課ののち自分のへやを訪れるよう、ヨーゼフを招いた。低い、ほとんどはばかるような声で、しかし驚くほど精確な抑揚で言った。「私はカスターリエンの歴史の専門家ではなく、ガラス玉演戯者ではなおさらないことはおわかりでしょうが、われわれのひどく相違した二つの宗団も、今はどうやらますます親交を加えていくのですから、私も仲間はずれにならないように、私のほうからもあなたのご滞在を時々利用していささか得るところがあるようにしたいと思います」彼はまったくまじめに言ったのだが、低い声と老いた利口な顔とによって、過度に丁重なことばが幾様にもとれた。それは、ふたりの聖者、あるいは高僧が、あいさつを交わしながら、はてしもなくお辞儀をして、丁重さの根気くらべをやっているのを見るときにでも感じられるような、複雑な意味を持っていて、真剣さと皮肉、信服と軽い嘲《あざけ》り、情熱と遊戯とのあいだを、驚くほど千変万化した。優越と嘲り、知恵ともったいぶり、この両者がまざりあっていたが、それはシナ人との交わり以来なじみのものだったので、ヨーゼフ・クネヒトには清涼剤のように感じられた。ガラス玉演戯名人トーマスも巧みに操《あやつ》るこの調子を、クネヒトはずいぶん久しく聞かなかったことに気づいた。喜び感謝して彼はその招きを受け入れた。夕方、静かな横の棟のはずれにある神父の片すみの住居を訪れ、どの戸をたたいたものかと考えていると、意外にもピアノが聞えた。耳を澄ますと、パーセルのソナタで、山けなく、巧妙でもなかったが、狂いのない拍子で、入念にひかれていた。甘い三和音をもって、清らかな、しんから朗らかな音楽は、しんみりとなつかしげに彼の方にひびいてきた。そして、この種の曲を友人フェロモンテとともにいろいろな楽器で勉強したワルトツェル時代を、彼に想起させた。満喫するように耳を傾けながら、彼はソナタの終るのを待った。静かな薄暗い廊下に、寂しく、浮世を離れたひびきを発していたが、同時にけなげに純真に、子どもらしく、しかも堂々とひびいた。救われない沈黙のさなかでは、よい音楽はすべてそのようにひびくであろう。彼は戸をたたいた。ヤコブス神父は「おはいり」と呼んで、つつましい品位をもって彼を迎えた。小さいピアノにはまだロウソクが二本ともっていた。クネヒトの問いに答えて、ヤコブス神父は、ええ、私は毎夕、半時間か、ときにはまる一時間ピアノをひきます、暗くなるとともに日課を終え、寝る前の二、三時間は読み書きをいたしません、と言った。ふたりは、音楽について、パーセルについて、ヘンデルについて、本来芸術的な宗団であるベネディクト派の、遠い昔にさかのぼる音楽奨励について語り合った。クネヒトはこの宗団の歴史を知りたいという欲望を示した。対話は活気を帯び、無数の問題に触れた。老神父の歴史に関する知識はまったく驚嘆に値するように思われたが、彼は、カスターリエンの歴史、その思想の歴史、その宗団の歴史にたずさわったことがほとんどなく、興味もひかれなかったことを、否定しなかった。カスターリエンに対する批評的な態度を隠しもしなかった。彼は、カスターリエンの宗団は、キリスト教の信徒組合の模倣である、しかも、宗教も神も教会も基礎に持たないのであるから、根本において冒涜《ぼうとく》的な模倣であると見ていた。クネヒトは、この批評を終始敬意をはらって聞いていたが、宗教や神や教会については、ベネディクト派的な、ローマ旧教的な考え方のほかになお別な考え方が可能であり、存在もしたということ、その考え方に対して、意志と努力の純粋さを否定することはできず、精神生活に及ぼす深い影響を拒否するわけにはいかないということについて、一応考慮を促した。
「もっともです」とヤコブスは言った。「それは特に新教徒のことをさしていらっしゃるのですね。彼らは宗教と教会とを維持することができませんでしたが、ときとして大いに勇敢さを示し、模範的な人物を出しました。私の一生のあいだにも幾年間か、キリスト教の敵対する宗派や教会の融和を計る種々の試みを、特に研究の対象に取りあげたことがあります。ことに一七○○年ころのその試みを研究しました。哲学者で数学者のライプニッツに続いて、変り者のチンツェンドルフ伯が、敵対する兄弟たちの再結合のために苦心した時期です。総体に十八世紀の精神はしばしば安直でしろうとくさく見えるかもしれませんが、この世紀は精神的には一風かわった興味があり、一筋なわでいかぬところがあります。ことにあの時代の新教徒に私はたびたび心を引かれました。そこに私はかつてひとりの偉大な言語学者で教師で教育者である人を見いだしました。シュワーベンの敬虔主義者で、その道徳的な感化はまる二百年にわたって、はっきり指摘されるのです。――しかしそれは畑ちがいです。本来の宗団の正当性と歴史的使命に関する問題にもどりましょう……」
「いいえ、いいえ」とヨーゼフ・クネヒトは叫んだ。「どうか、今あなたが述べられた教師の話を続けてください。だいたいその人の見当がつきそうです」
「では、あててごらんなさい」
「初め私はハッレの人フランケを考えましたが、シュワーベン人でなければなりませんから、ヨハン・アルブレヒト・ベンゲルよりほかの人は考えられません」
笑い声が起り、喜びの輝きが老学者の顔を明るくした。「驚きましたね」と彼は元気よく叫んだ。「私が考えていたのは、まさしくベンゲルです。どうして彼のことを知っているのですか。それともあなたの州では、こんな片すみの忘れられた事物や名まえでも知っているのが、当り前のことなのですか。この修道院の神父や教師や生徒たちの全部に、なおそのうえいちばん新しい世代の人たちに尋ねてごらんなさい。だれひとりこの名を知らないことは、請け合いますよ」
「カスターリエンでもベンゲルを知っている人はほとんどありません。例外は私と私の友人ふたりくらいでしょう。私は、ただ個人的な目的のために、十八世紀と敬虔主義の領域の研究に従ったことがあります。そのとき、数人のシュワーベンの神学者が目につき、私に讃嘆と畏敬の念を起させました。それらの人の中で特にこのベンゲルが目だち、そのころの私には教師や青年の指導者の理想のように思われました。この人物にすっかり心を奪われたので、私は古い本から彼の肖像を写真にとらせ、しばらくのあいだ自分の勉強机にはりつけておきました」
神父は相かわらず笑っていた。「私たちはなみなみならぬしるしのもとでお目にかかりましたね」と彼は言った。「あなたと私とふたりが研究中、この忘れられた人にぶつかったのは、それだけでもう不思議なことです。おそらくもっと不思議なのは、このシュワーベンの新教徒がほとんど同時にベネディクト派の神父とカスターリエンのガラス玉演戯者とに影響を与えたことでしょう。それはそうと、あなたのガラス玉演戯は、多くの空想を必要とする芸術だ、と私は考えていますから、ベンゲルのような厳格に冷静な人物があなたをそれほど引きつけえたのは、不思議です」
こんどはクネヒトもおもしろそうに笑った。「そこで」と彼は言った。「ヨハネの啓示に関するベンゲルの多年の研究と、この書の予言に対する彼の解釈の体系を思い出されたら、彼には冷静さと反対の面もまったく無縁でなかったことを、あなたはお認めになるに違いありません」
「そのとおりです」と神父は朗らかに認めた。「それであなたはそのような矛盾をどう説明なさいますか」
「冗談を許してくださるなら、私はこう申すでしょう。ベンゲルに欠けていたもの、そして彼が自覚せずに切実に求め望んだものが、ガラス玉演戯だったと。つまり私は彼をわれわれの演戯の隠れた先駆者、先祖に数えるのです」
慎重に、また真剣になって、ヤコブスは尋ねた。「ほかならぬベンゲルをあなたの系譜にくっつけるのは、少し行き過ぎだと思われます。それをどういうふうに弁明しますか」
「冗談だったのです。しかし、弁明できる冗談です。まだ若いころ、大規模な聖書研究に従事しないうちに、ベンゲルはあるとき、彼の時代のいっさいの知識を百科全書的作品の中に、一つの中心をめざして釣合いよく摘要的に整理総括したいという計画を、友人たちに告げました。ガラス玉演戯のなすところも、それにほかならないのです」
「百科全書的思想こそ十八世紀が終始取りあげたものです」と神父は叫んだ。
「そうです」とヨーゼフは言った。「しかしベンゲルは、単に知識と研究との領域を並べたてようとしたばかりでなく、それをかみ合せ、有機的な秩序を与えようと努めました。公分母を求めてやまなかったのです。それこそガラス玉演戯の基本的思想にほかならないのです。さらに進んで私はこう主張したいのです。つまり、もしベンゲルがわれわれの遊戯のと同じような体系を持っていたら、おそらく、予言の数を換算したり、キリストの敵や千年の国を予告したりして、あんなにひどく道に迷わずにすんだでしょう。ベンゲルは、一身にそなえていたいろいろな才能のために共通の目的に達する方向をあこがれ求めながら、それを十分に見いだすことができませんでした。それで、彼の数学的才能は、言語学者としての明敏さと協力して、厳密さと空想との奇妙な混合物である『時代の秩序』を作りました。彼は多年その研究に従ったのでした」
「あなたが歴史家でなく」とヤコブスは言った。「空想する傾向を持っておられるのは、たしかに結構なことです。しかし、あなたのお考えはよくわかります。私がこまかいことにこだわるのは、自分の専門の学問に限られています」
それは、実り豊かな対話となり、両者たがいによく知り合い、一種の親交を結ぶこととなった。自分はベネディクト派の束縛を受けていながら、青年はカスターリエンの束縛を受けていながら、ふたりがこのような発見をしたこと、この貧しいヴュルテンベルクの修道院の教師ベンゲルを、心から柔和であると同時に岩のように堅く、夢想的であると同時に冷静である人物を発見したことは、単なる偶然ではない、少なくともまったく特別な偶然である、と老学者には思われた。ふたりを結びつける何かがあるので、いわば目だたぬ同じ磁石が非常に強くふたりに作用したに違いなかった。パーセルのソナタで始まったあの晩から、実際にふたりを結びつける何かが存在した。ヤコブスは、実によく修練を積んでいるうえ、なお柔軟性に富んだ若い精神との意見の交換を楽しんだ。しかしその楽しみはそう頻繁《ひんぱん》には与えられなかった。クネヒトにとっては、歴史家と交わり、今その修練を受けはじめたことは、目ざめの道程の上の新しい一段階となった。彼は人生というものを目ざめの道程と考えていた。それをつづめて言うと、彼は神父を通して、歴史を、歴史研究と歴史執筆の法則と矛盾とを知り、その後の幾年かのあいだに、それを越えて、現在と自己の生活を歴史的現実として見ることを知った。
彼らの対話はしばしば本式の議論となり、攻撃となり、弁護となった。初めはもちろん攻勢的に出たのはヤコブス神父であった。若い友の精神を深く知れば知るほど、これほど高いものを約束する青年が、宗教教育の訓練を受けず、知的かつ美的な精神の表面的な訓練を受けて成長しているのを知るのは、いっそう残念に思われた。クネヒトの考え方に非難すべき点があると、彼はそれをこの「近代的な」カスターリエン的精神、現実にうとい性質、遊戯的な抽象の傾向のせいにした。クネヒトが、そこなわれていない、神父自身の考え方と似かよった考え方やことばによって、彼を驚かすと、神父は、若い友の良い性質がカスターリエンの教育にこうも強く抵抗してきたことに、凱歌《がいか》をあげた。ヨーゼフは、カスターリエンに対する批判をきわめて冷静に受け取り、老人があまり激情的に走りすぎると思われれば、攻撃を冷たくはね返した。それはそうと、カスターリエンをそしる神父のことばの中には、ヨーゼフも部分的に正当だと認めなければならないようなものもあった。ある点で彼はマリアフェルス時代に大幅に勉強のしなおしをした。問題は、世界史に対するカスターリエンの関係、神父が「歴史的感覚の完全な欠如」と呼んだ点であった。「数学者でガラス玉演戯者であるあなた方は」と神父は言うことができた。「世界史を完全に蒸溜《じょうりゅう》してしまいました。その世界史は精神史と芸術史とだけから成り立っています。あなた方の歴史には、血も現実もありません。あなた方は、第二、三世紀におけるラテン語の文章構造のくずれについて詳しく知っておられるが、アレキサンダーや、シーザーや、イエス・キリストについては何も知りません。あなた方は世界史を、数学者が数学を扱うように、扱っています。数学には、法則と公式があるだけで、現実も、善悪も、時間も、きのうも、きょうもなく、永遠な平板な数学的現在があるばかりです」
「しかし、歴史に秩序を与えることをせずに、どうして歴史を研究したらよいのでしょう?」とクネヒトは尋ねた。
「確かに歴史に秩序を与えなければならない」とヤコブスはどなった。「学問はすべて何よりも、秩序づけること、単純化すること、精神にとって消化できにくいものを消化できるようにすることです。われわれは歴史の中に二、三の法則を認めたと思い、歴史的真理の認識に際してはそれを考慮しようと努めます。それはちようど、解剖学者が肉体を解剖する場合、まったく意外な発見物ばかりに直面することはなく、表皮の下に器官や筋肉や筋や骨などの世界を見いだして、自分の持っている図式が証明されるのを見るようなものです。しかし解剖学者が自分の図式だけを見て、そのために対象のただ一つしかない個性的な現実を閑却するとしたら、彼はカスターリエン人であり、ガラス玉演戯者であって、およそおかど違いの対象に数学をあてはめるというものです。歴史を考察するものは、われわれの精神や方法の秩序づける力を、涙ぐましいほど子どもらしく信じてもいっこうかまいません。しかし、そのほかに、それにもかかわらず、歴史的現象の理解しがたい真実や現実や一回性に対して尊敬をはらわなければなりません。歴史を研究することは、冗談ごとや無責任な遊戯じゃありませんよ。歴史を研究することは、不可能ではあるがしかも必然的であって、極度に重要なあるものをめざすのだという認識を前提とします。歴史を研究することは、すなわち、混沌《こんとん》に身をゆだねて、しかもなお秩序と意味とを信じる心を持ち続けることです。それはきわめて真剣な、おそらくは悲劇的な課題ですよ」
神父のことばは、クネヒトが当時友人たちに手紙で伝えたものであるが、その中のもう一つを、特徴の現われているものとして、あげておこう。
「偉大な人物は青年にとって、世界史というお菓子の中の干しブドウのようなものです。彼らも世界史の実体に属していることは確かです。しかし、真に偉大な人を、偉そうに見える人から区別することは、人の考えるほど簡単でも容易でもありません。偉そうに見える人物の場合、偉大さの外観を与えるものは、歴史的な機会とそれを推測してとらえることなのです。このように歴史的な機会を推測しとらえること、それは一時的成功ということになるのですが、それを偉大さのしるしだと考える歴史家や伝記筆者もなくはありません。ジャーナリストは言わずもがなです。一日で独裁者になった伍長《ごちょう》〔ヒトラーを諷している〕とか、しばらくのあいだ世界支配者のきげんのよしあしを左右するまでに成りあがった高等|娼婦《しょうふ》とかは、そういう歴史家の愛好する人物なのです。理想的な志向を持つ青年は、逆に、悲劇的な失敗者、殉教者、一瞬早く来すぎたか遅く来すぎた人々を愛します。もちろん何よりもベネディクト派宗団の歴史家である私にとって、世界史で最も魅力があり、驚嘆すべく、研究に値するのは、人物でも、離れわざでも、成功でも、没落でもありません。私が愛と飽くことのない好奇心とを寄せるのは、われわれの信徒組合のような現象です。つまりあの寿命の長い組織で、そこでは精神や霊の面から人間を集め、教育し、改造する試みがなされるのです。優生学によってではなく、教育によって、血によってではなく、精神によって、人間を、奉仕することも支配することもできる貴族にしようとするのです。ギリシャ人の歴史において私を引きつけたのは、星空のように輝く英雄たちでも、人民集会場のやかましい叫びでもなく、ピタゴラス学派の人々や、プラトンのアカデミーが行なったような試みなのです。シナ人の場合は、寿命の長い孔子の体系ほど私を引きつけたものはほかにありません。わが西洋の歴史では、私にとって第一級の歴史的価値と思われるのは、何よりもキリスト教の教会と、それに奉仕しかつその中に築かれた宗団です。冒険家が幸運をとらえて、一つの国を征服するか建設するかして、それが二十年、あるいは五十年、あるいは百年も続くということ、あるいは、善意の理想家である王や皇帝が、かなり誠実な政策をめざして、文化的願望の夢を実現しようと試みるということ、ある国民または他の団体がひどい圧迫のもとで、前代|未聞《みもん》のことをなしとげたり、耐え忍んだりすることができるということ、そういうことはすべて私にとって、われわれの宗団のような組織を作ろうとする試みがくり返しなされたということ、これらの試みのいくつかが千年も二千年も保存されえたということに比べて、いっこうに興味がありません。神聖な教会そのものについては、何も言おうと思いません。それはわれわれ信徒にとって討議の上にあるのです。しかし、ベネディクト派とか、ドミニカン派とか、後にはイェズイット派とかなどの信徒組合が、幾世紀も年をかさね、幾世紀も経たあとでなお、さまざまの発展、変質、順応、圧制にもかかわらず、その顔や声や姿態や個性的な魂を保持してきたことは、私にとって歴史の最も注目すべき現象です」
クネヒトは神父を怒りっぽい理不尽な点でも讃嘆した。しかもそのころは、神父ヤコブスは実際|何人(何人)なのか、彼はいっこう知らなかった。ただ深い天才的な学者だと思うばかりで、神父がそれだけでなく、みずから自覚をもって世界史の中に立ち、その形成に力を貸した人であり、彼の宗団の指導的政治家であり、多方面から情報や助言や仲介を懇望されている、政治史と現代政治の精通者であったことを、クネヒトはまだ知らなかった。最初の休暇をとるまで、約二年間、クネヒトはただ学者としての神父と交わり、その生活や活動や名声や感化については、自分の方を向いている一面しか知らなかった。この博学の士は、友情においてもまた沈黙することを心得ていた。修道院の兄弟たちも、ヨーゼフが考えていたより、よりよくそれを心得ていた。
二年ほどたつと、クネヒトは、客として局外者として可能な局限まで完全に修道院の生活に慣れてしまった。彼は時折りパイプ・オルガン奏者を助けて、小さい経文歌合唱の演奏に際し、非常に古い尊敬すべき大きな伝統を、つつましく、細い糸をたどるようにして持続させることに努めた。また、修道院の音楽記録所で二、三の発見をし、古い作品の写しをいくつか、ワルトツェルへ、特にモンテポルトへ送った。彼はガラス玉演戯者の初心者の小さい一組を身辺に集めていた。その中に今は、あの若いアントンも最も熱心な弟子として加わっていた。クネヒトはゲルヴァジウス院長に、シナ語こそ教えなかったが、メドハギの扱い方と、神託の書のことばに関する冥想のよりよい方法を教えた。院長はたいそう彼に親しんだので、時折り客を誘ってブドウ酒を飲ませようという最初の試みをとっくに断念してしまった。ガラス玉演戯名人の公式の問いに対して院長は半年ごとに、マリアフェルスではヨーゼフ・クネヒトにどんなに満足しているかを答えたのであるが、その報告は讃美にほかならなかった。カスターリエンでは、この報告よりさらに詳細に、クネヒトの演戯講習の講義表と成績表とが検討された。水準は高くはなかったが、教師がこの水準と、総体に修道院の風習や精神に順応することを心得ているやり方に、みな満足した。カスターリェンの当局が最も満足し、心から驚いたのは、クネヒトが有名なヤコブス神父としばしば打ちとけた交わりをし、ついには親交をも結んだということであった。もちろんそのことは、依嘱を受けて行っている当人には知らせなかった。
この交わりはいろいろの実を結んだ。それについて、この物語にいくらか先走りして一言述べることは許されよう。クネヒトにとって最も好ましかった収穫について語ることにもなろう。その実はごく徐々に熟した。高山の木の種子を肥沃な低地にまいた場合のように、成行きを待ち、警戒しながら伸びていった。肥えた土地と温和な気候にゆだねられたこの種子は、その先祖が持って育った控え目と疑い深さという性質を遺産としてそなえている。成長の緩慢な速度は先祖伝来の性質である。賢い老人は、自分に影響を及ぼしそうなものを疑い深く制御する習慣があったので、正反対の国の同僚である若い友がカスターリエンの精神として伝えるいっさいのものを自分の心に根づかせるにあたっても、ためらいがちに、一歩一歩それを許すにとどめた。しかしそれは次第に芽を出した。クネヒトが修道院時代に体験したさまざまの良いことの中で、いちばん良いもの、彼にとっていちばん貴重なものは、経験を積んだ老人がこうしてわずかながら信頼し、胸を開いてくれたことであった。それさえ初めはとても物になるまいと思われた状態から、ためらいがちに伸びてきたのであった。また、老人が年下の讃美者の人物ばかりでなく、その特にカスターリエン的な特徴を理解してくれたことも、貴重であった。その理解も徐々に芽ばえてきた。それが表白されるにはなおさら時間がかかった。神父は初めは「カスターリエン的」とか、「ガラス玉演戯者」とかいうことばを、いつも皮肉な抑揚をつけるばかりか、はっきり、ののしりのことばとして使っていたが、青年は、一見ほとんど弟子、聴講者、学習者にすぎないように見えながら、カスターリエン的精神、その宗団、その精神的貴族育成の試みをも、一歩一歩神父に承認させ、初めは容認させるという程度であったが、ついには尊敬の念をもって認めさせるに至った。二百年くらいしかたっていないカスターリエン宗団はもちろんベネディクト派宗団に比べ、千五百年も劣っていたが、神父はその宗団の若さに難くせをつけるのをやめた。また、ガラス玉演戯を単なる美的な|だて《ヽヽ》趣味と見ることをやめた。また、年代のひどくかけ離れている二つの宗団が将来親交や同盟のようなものを結ぶのは不可能だと拒否することもやめた。こうして部分的ながら神父を獲得したことを、ヨーゼフはまったく個人的な私的な幸運と考えていたが、当局はそれを、ヨーゼフのマリアフェルスにおける使命と業績の頂点と見た。もっとも彼はまだ長いあいだそれに気づかずにいた。時々彼は、いったいこの修道院における自分の依嘱はどうなっているのだろう、自分はいったいここで何か仕事をし、役にたっているだろうか、この土地に派遣されたのは、初めは昇進であり優待であるように思われ、同学の者たちからうらやまれたのであるが、長く続くとすれば、むしろ埋もれた閑職ではないか、待避線に押しこめられたことを意味するのではないか、と反省してみたが、答えは得られなかった。どこに行ったって何か学ぶことはできた。そうだとすれば、ここでだって学べないわけはない。しかしカスターリエンの精神から言えば、この修道院は、ただひとりヤコブス神父を除いては、学問の園でも模範でもなかった。たいていは小成に甘んじているしろうと連中ばかりのあいだに孤立しているので、自分はガラス玉演戯にかけてももうさびつき始め、退歩しているのではないか。それも彼ははっきりさせることができなかった。しかし、こういうふうにぐらついたとき、彼にがっつき根性のなかったことと、当時すでに運命の愛がかなり強くなっていたことが、彼を助けた。全体としては、この古くて居心地のよい修道院の世界で客として一介の専門教師として暮すのは、野心家に囲まれて暮したワルトツェル時代より、彼にとって快かった。運命が彼を永久にこの小さい植民地的地位に居すわらせようとでもするのだったら、彼はもちろんここの生活をいくらか変える試みをするだろう。たとえば、友人のひとりをここへ呼ぶ算段をするとか、少なくとも毎年相当長い休暇を願ってカスターリエンに帰るとかするだろう。しかしその他の点では満足するだろう。
この伝記的素描の読者はおそらく、クネヒトの修道院における体験の他の面、すなわち宗教的な面についての報告を期待するだろう。われわれはそれについて慎重な暗示をあえてするにとどめる。クネヒトがマリアフェルスで、宗教に、毎日実践されるキリスト教に親しみを加えたことは、ありえそうだというばかりでなく、彼のその後の幾多の言動によっても、明白である。だが、彼がそこでキリスト者になったかどうか、どの程度になったか、という問いには、答えを保留しておかねばならない。この領域にはわれわれの研究は及びえない。彼は、カスターリエンで宗教に対する尊敬をつちかわれたが、それを越えて、一種の畏敬《いけい》の念を心に持っていた。それを敬虔《けいけん》と呼んでもよいであろう。キリスト教の教義やその古典的な形式については、彼はもう学校で、特に教会音楽の研究の際に、十分よく教えられた。とりわけミサの聖礼や本ミサの儀式はよく知っていた。今度ベネディクト派の人々のあいだで、これまで理論的に歴史的に知っていた宗教に、まだ生きているものとして親しんで、驚きと畏敬とを感じたのであった。彼はたびたび礼拝に加わった。ヤコブス神父の著作の二、三をよく読み、神父の談話を受け入れるようになってから、このキリスト教という現象が完全に彼の目に映るようになった。キリスト教は幾世紀ものあいだに実にたびたび非現代的となり、追い越され、すたれ、硬化してしまったが、くり返しその本源を思い起し、それによってよみがえり、きのうまで現代的だと勝ち誇っていたものを、またあとに残してきたのだった。ひょっとしたらカスターリエンの文化も、キリスト教的西洋文化の世俗化された一時的な派生的末枝的形式にすぎないのであって、いつかはまたそれに吸収され還元されるかもしれないという考えが、神父との談話の中で時々暗示されても、クネヒトはそれに真剣に抗弁はしなかった。それはそうかもしれないが、自分はベネディクト派ではなく、カスターリエンの秩序の中に席と仕事をあてがわれた以上、そこでいっしょに働き、真価を発揮しなければならないのであって、自分が一員となっている秩序が永久に続く資格があるか、長く続く資格があるにすぎないかは、意に介しない、改宗は逃避のあまりりっぱでない形式としか見られない、とクネヒトはあるとき神父に言った。たとえば、あの尊敬するヨハン・アルブレヒト・ベンゲルもあの時代には、小さなはかない教会に奉仕していたのだが、それでも永遠なものに奉仕することを怠ったことはない。敬虔とは、すなわち信心深く奉仕し、忠誠をつくし、生命をささげて惜しまぬまでに至ることであるが、それはどの宗派においても、あらゆる段階で可能なことであって、この奉仕と忠誠こそ、あらゆる個人的敬虔の真実さと価値とをきめる唯一の有効な証拠である。そう言うのだった。
クネヒトが神父たちのもとに滞在しだして、ほぼ一年たったころ、あるとき、修道院にひとりの客が現われた。人々はその客を極度に細心にクネヒトから遠ざけ、ひと目引き合わすことさえ避けた。それでクネヒトは好奇心をそそられて、見知らぬ人を観察し、いろいろの臆測をした。もっともその人は数日しか滞在しなかった。客のまとっている僧服は仮装に違いない、と彼は思った。未知の人は、院長と、特にヤコブス神父と、戸をしめきって長時間相談をし、たびたび急使を接見し、また急使を派遣した。クネヒトは、修道院の政治的関係や伝統について少なくとも聞き伝えには知っていたので、この客は秘密の使命を帯びた高い政治家か、あるいは微行で旅をしている王公だろう、と推測した。こうして考察のあとをたどっているうちに、彼は、過去数カ月のあいだになお一、二の客のあったことを思い出した。それも今から思い合せてみると、同様に秘密に包まれ、意味ありげに思われた。すると、例の「警祭の長官」である親切なデュボア氏のことがふと頭に浮んだ。また、特に修道院におけるこのようなできごとに随時注意するように、と頼まれていたことを思い浮べた。クネヒトは依然としてそのような報告をする興味も使命もいっこう感じていなかったが、好意を寄せてくれる人に久しく手紙を書かないので、さぞかし失望させているだろう、と良心に責められた。彼はデュボアに長い手紙を書き、自分の沈黙の言いわけをし、手紙に多少実質を持たせるために、ヤコブス神父との交わりについて少し語った。この手紙が残らずどんなに細心に読まれるか、だれに読まれるか、ということをクネヒトは察しもしなかった。
[#改ページ]
第五章 使命
クネヒトの第一回修道院滞在は二年つづいた。今ここに語られている時代に、彼は三十七歳に達していた。マリアフェルス修道院に客として滞在していた末期、デュボア長官にあてた長い手紙の日付の約二カ月後、彼はある朝、院長の応接室によばれた。好人物の院長はシナ語について少し話したがっているのだろう、とクネヒトは考え、さっそく敬意を表した。ゲルヴァジウスは一通の手紙を手にして彼を迎えた。「はばかりながらあなたにお頼みがあります」と彼は、くつろいだ愛想《あいそ》のよい態度で満足げに言ったが、たちまち皮肉なからかいの調子になった。そういう調子は、彼が、まだ完全な了解に達していないこの宗教的宗団とカスターリエン宗団とのあいだの友好関係を表現するために作ったものであるが、実際はヤコブス神父の創作であった。「それはそうとあなたの演戯名人にはまったく敬服いたします! あの方こそ手紙が書けるというものです! 私にはラテン語の手紙をくださいました。なぜだか、さっぱりわかりません。あなた方カスターリエンの方々は、何かなさるとき、ねらっているところが、儀礼なのか嘲《あざけ》りなのか、敬意なのか教訓なのか、皆目わかりません。要するにあの尊敬する名人はラテン語の手紙をくださったのですが、そのラテン語たるや、目下のところわれわれの宗団中どこを探しても、だれひとりできそうにないようなものです。せいぜい例外はヤコブス神父くらいでしょう。キケロ直伝《じきでん》のラテン語といったところで、それに如才なく少量の教会ラテン語の香水が振りかけてある。それも、名人が単純にわれわれ坊主を釣る餌《えさ》にしたのか、皮肉な所存なのか、それともただ遊戯をし、スタイルを作り、装飾をしたいという抑えがたい衝動からできたのか、もちろんわかりません。つまり尊敬する名人はこう書いておられる。あちらではあなたをここらで再び迎え、抱擁し、同時に、あなたがわれわれ半野蛮人のあいだに長く滞在しているうちに、道徳上、文体上どんなに腐敗的な影響を受けたかを、確かめることが、願わしいというのです。要するに、この長い文学的芸術作品を私が正しく理解し解釈したとすれば、あなたは休暇を与えられるのです。私は、私のお客を無期限にワルトツェルへ返すように要請されています。しかし、いつまでもというわけではありません。こちらにそれが望ましいとあれば、あなたがまもなく帰任されることは、あくまで向うの当局の意向のようです。さて、残念ながら、私はこの手紙の微妙な点を余さずしかるべく説明することはとうていできませんでした。トーマス名人もよもやそんなことを私に期待はなさらなかったでしょう。この手紙はあなたにお渡しするようにとのことです。では、引きとって、出発することになさるか、いつ出発なさるか、よくお考えなさい。あなたがいなくなると、寂しいことでしょう。あまり長くもどられないようでしたら、こちらでは必ずあなたの当局にあなたを返還するよう、要求するでしょう」
クネヒトが手交された手紙には、休養のため、また上司との話し合いのため、休暇を与える、近々のうちにワルトツェルに出頭するように、という当局の通知が簡単に記《しる》してあった。開講中の初心者向き演戯講習は、院長のはっきりした希望のないかぎり、考慮するに及ばない、前音楽名人からよろしく、ということであった。この一行を読みながらヨーゼフは、はっとして、考えこんだ。この手紙を書いた演戯名人はどうしてこんなあいさつを頼まれたのだろう、それでなくても公式の手紙にはふさわしくないのに。前名人たちもまじえた全官庁の会議が行われたに違いなかった。教育庁がどんな会議をし、決議をしようと、彼にはかかわりのないことであった。しかし、このあいさつは不思議に彼の心を動かした。それは妙に同僚らしく聞えた。その会議がどのような問題を議したかは、どうでもよかったが、このあいさつは、最上位の人々がその機会にヨーゼフ・クネヒトのことも話したことを証明していた。何か新しいことが起ろうとしているのか。自分は呼び返されるのだろうか。そしてそれは昇進だろうか、左遷だろうか。だが、手紙には休暇のことしか述べてない。実際、彼はこの休暇を心から楽しみにしていた。できることなら明日にももう旅立ちたかった。しかし少なくとも弟子たちに別れを告げ、指示を残しておかねばならなかった。アントンは自分の出発をひどく悲しむだろう。数人の神父たちにも、みずから暇《いとま》ごいの訪問をする義務があった。ヤコブスのことを考えると、われながら不思議なほど切ない苦痛を内心におぼえた。その感動は、自分が、自覚している以上に、心からマリアフェルスに愛着をいだいていることを示していた。ここには、彼が慣れ親しみ、貴重に感じていた多くのものが欠けていた。二年のあいだに、カスターリエンというものが、遠く隔てられ、接触できなかったため、彼の頭の中でいやましに美しくなっていた。しかし今の瞬間、はっきり悟ったのは、ヤコブス神父と交わることによって彼の得ていたものは、かけがえがなく、カスターリエンにもない、ということであった。それとともに、自分がここで体験し学んだことも、今までよりはっきりと意識された。ワルトツェルへの旅、再会、ガラス玉演戯、休暇などのことを考えると、喜びと期待とに包まれたが、帰任することが確実でなかったら、その喜びは減少したであろう。
急に心をきめて彼は神父を訪《たず》ね、休暇に呼びもどされたことを語った。そして、われながら意外なことには、帰国と再会の楽しみの背後にすでに、帰任の楽しみを発見した。この楽しみは何よりも尊敬する神父その人のゆえにわいてくるのであるから、自分は勇気をふるってあえてあなたに大きなお願いをする、自分が帰任したら、どうか少し自分に教授してほしい、週に一時間でも二時間でも、と彼は言った。ヤコブスは笑いながらそれを拒んで、またしても、とうてい及ぶもののないほど多面的なカスターリエンの教養に対し、このうえもなく美しい嘲笑《ちょうしょう》的なお世辞をならべたて、自分のような愚直な修道僧はひたすら無言の讃美を久しくし、驚嘆に頭を振るばかりだ、と言った。しかし、ヨーゼフは、その拒否が本気ではないのに、もう気づいていた。彼が別れの握手に手を出すと、神父は打ちとけて、願いの点については心配しないように、自分はできるだけのことを喜んでする、と言い、心をこめて別れを告げた。
そこで彼はいそいそと故郷をさして休暇に赴《おもむ》いた。修道院時代はむだではなかった、と確信をいだいていた。出発の際、彼は少年のような気持ちになったが、もちろんすぐ、自分はもはや少年でも青年でもないのに気づいた。そう気づいたのは、解放された、休暇をもらった学童の楽しい気分に、何かの身振りか、叫びか、ささやかな子どもらしいしぐさで答えたいと思ったとたんに、自分の心中に、恥ずかしい、それに逆らう感情が起ったからであった。いや、木の間の小鳥に向って歓声をあげたり、高らかな調子で行進歌を歌ったり、ふわりふわりとリズミカルに踊りながら歩いたりすることは、昔は当り前のこと、心の軽くなることであった。――今はもうそういうわけにはいかなかった。そんなことは、ぎごちなく、わざとらしく見えただろう。愚かしく子どもじみているだろう。自分はおとなである、気持ちも力も若いが、瞬間の気分にひたることにはもはや慣れておらず、もはや自由ではなく、自覚を持たされており、拘束され、義務づけられていた――何によってか。役目によってか。修道院の人々のあいだで自分の国と宗団を代表するという任務によってか。いや、それは宗団そのものによって、聖職制度そのものによってであった。彼は今突然自己を観察してみると、不可解なほど聖職制度の中に溶けこみ、織りこまれているのを発見した。それはまた、責任によってであった。ことばをかえれば、一般的なものやより高いものによって囲まれていることによってであった。それは若いものたちを老人らしく見せ、老いたものたちを若く見せ、人をしっかりとらえささえるとともに、若木が縛りつけられている支柱と同様に自由を奪い、無邪気さを取りあげる一方、いよいよ澄んだ純潔さを要求した。
モンテポルトで彼は前音楽名人にあいさつした。前名人自身かつて若いころマリアフェルスの客になって、ベネディクト派の音楽を研究したことがあるので、いろいろなことをクネヒトに根掘り葉掘り尋ねた。老人はいくらか小声になり、脱俗の度を増していはしたけれど、外見はこの前のときより力強く快活であった。疲労は顔から消えていた。辞職して以来、若返ってはいなかったが、一段ときれいに上品になっていた。クネヒトがいぶかしく思ったのは、老人は彼にマリアフェルスのパイプ・オルガンのことや、楽譜だなのことや、合唱歌のことを尋ね、回廊に囲まれた庭の木がまだ立っているかということも尋ねたが、クネヒトがそこでどんな仕事をしたかということや、ガラス玉演戯講座のことや休暇の目的については全然知りたがらないように見えたことであった。それにしても、老人は、彼が旅を続ける前に、ひとこと彼にとって価値あることばをはなむけとして彼に与えた。「聞くところによると」と彼は冗談でも言うような調子で言った。「君は外交官のようなものになったということだ。実際は美しい職業ではないが、皆は君に満足しているらしい。それについては、なんとでも考えるがよい。その職業をいつまでも続けていることが君の野心ならいざ知らず、そうでなかったら、気をつけるがよい、ヨーゼフよ。皆は君をとりこにしようとしているようだ。抵抗したまえ。君にはそうする権利があるのだ――いや、尋ねるのはよしたまえ。わしはこれ以上何も言わない。今にきっとわかるだろう」
この警告をクネヒトはとげのように胸にいだいていたが、ワルトツェルに着くと、これまでにまだ感じたことのないほど、故郷と再会との喜びを感じた。このワルトツェルは彼の故郷であり、世界の最も美しい土地であるばかりでなく、るすのあいだになおいっそう美しくおもしろくなった、と思われた。あるいは、彼が新しい目と鋭くなった視力を持って帰ってきたかのようでもあった。そのことは、門や塔や樹木や川や中庭や広間や人物や古なじみの顔について言えたばかりではない。彼は休暇中も、ワルトツェルの精神に対し、宗団に対し、ガラス玉演戯に対して、帰郷したものの、旅したものの、円熟さと賢明さを増したものの、高まった感受力と、成長した感謝のこもった理解力のできたことを感じた。「ぼくは」と彼は、ワルトツェルとカスターリエンを強くたたえたあとで、結びのことばとして友人テグラリウスに言った。「ぼくはこれまでの年月ずっとここで眠ってすごしていたような気がする。幸福ではあるが、意識を持たずにいたようだ。今ぼくは目をさまし、すべてを鋭くはっきりと、現実として実証されているのを見るような気がする。異国に二年いたことがこんなに目を鋭くするとは!」彼は休暇を祝祭のように楽しんだ。特に、演戯村の英才たちの仲間で、同僚とともに演戯をし討議をするのを楽しんだ。友人たちとの再会を、この地の精神を楽しんだ。しかし、幸福と喜びとの高い気分がほんとに花を開いたのは、ガラス玉演戯名人のもとに最初に迎えられてから後のことであった。それまではまだ喜びにいくらかの不安がまじっていた。
演戯名人は、クネヒトが予期したほど質問をしなかった。初心者講習と、音楽記録所でのヨーゼフの研究については、言及するかしないかという程度だった。ただヤコブス神父については、いくら聞いても満足せず、くり返し神父のことに話を持っていった。ヨーゼフが神父について語ることは、なんでももうたくさんだということがなかった。当局が彼とベネディクト派における彼の使命とに満足していること、いや、大いに満足していることは、名人がたいそう愛想よくしてくださったばかりでなく、むしろそれ以上に、名人のさしがねですぐ訪れたデュボア氏の態度によっても、推察することができた。「君は君の役目をみごとに果した」とデュボア氏は言い、微笑しながらつけ加えた。「君を修道院に送ることに反対したとき、私はほんとに勘が悪かった。君が、院長ばかりか、偉いヤコブス神父の心をもとらえ、カスターリエンに有利な心境にさせたのは、たいしたことだ。だれも期待しなかったほどたいしたことだ」二日後、ガラス玉演戯名人は、デュボアと、ワルトツェルの英才学校の当時の校長、つまりツビンデンの後任者といっしょに、クネヒトを食事に招いた。食後の談話のときには、新しい音楽名人と宗団の記録官も、思いがけずやってきた。つまり最高官庁の役人がさらにふたり加わったわけである。そのうちのひとりは旅館にまで同伴して、長く話し合った。この招待はクネヒトを初めて、皆に公然と、高官候補のごく狭い範囲に進め、彼と普通の演戯英才とのあいだに、すぐにわかる柵《さく》を設けたことになった。目ざめたクネヒトは敏感にそれを感じた。なお彼は当分一カ月の休暇をもらい、州の旅館に通用する役人用証明書を下付された。何の義務も負わされず、報告の義務さえなかったが、彼は、上から観祭されているのを、はっきり感じることができた。実際に、コイパーハイムとか、ヒルスラントとか、東亜学館とかを訪れたり、遠足したりすると、彼はさっそくそこの高官から招待を受けた。彼はこの数週間のうちに、宗団の役所全部と名人や研究指導者の多数を直接知った。このようにきわめて公式な招待を受け、相識となるということがなかったら、その遠足はクネヒトにとって研究時代の世界と自由にもどることを意味しただろう。彼は、何よりもテグラリウスへの遠慮から、遠足を制限した。この友はクネヒトと会うのを妨げられるごとに、苦しい思いをしていたからである。だが、遠足を制限したのは、ガラス玉演戯のためでもあった。なぜなら、ここでまた最新の練習や問題提出にあずかり、自分の力を示すことを、非常に重視していたからである。この点でテグラリウスはかけがえのない奉仕をしてくれた。彼のもひとりの近しい友フェロモンテは、新音楽名人の側近のひとりになっていたので、このときは二回しか会えなかった。クネヒトは、この友が勉強にいそしみ、勉強を楽しんでいるのを知った。ギリシャ音楽と、バルカン諸国の舞踊と民謡に現われたその伝統に関する音楽史上の大問題を彼は明らかにした。彼はクネヒトに話すことがさも楽しそうに、最近の研究と発見とについて語った。それは、十八世紀末期にバロック音楽が徐々に衰退していった時代と、スラヴの民衆音楽の方面から新しい音楽の実質が侵入して来たことを取り扱ったものであった。
しかしクネヒトは、このお祭り気分の休暇の大部分をワルトツェルで、ガラス玉演戯をしてすごした。名人が最近の二学期に最上級者のために行なった課外講義のメモをフリッツ・テグラリウスがとっておいたのを、いっしょに復習し、二年間味わうことのできなかった、この高貴な演戯の世界に、再び全力をあげて親しんだ。その魅力は彼にとって、音楽の魅力と同様に、自分の生活から引き離しがたく、欠かしがたいように思われた。
休暇もあと数日で終るというときになって初めて、演戯名人は再びヨーゼフのマリアフェルスにおける使命と、当面の生活と任務とに言及した。初めは雑談の調子で、やがて次第に真剣にぐいぐいと突っこんで、当局の計画についてクネヒトに語った。それは、名人の多数にとってもデュボア氏にとってもきわめて重大なものであった。つまり、将来ローマ法王のもとにカスターリエンの代表を常置しようという計画であった。トーマス名人は、人の心をとらえずにはおかないように、理路整然とこう論じたのであった。ローマとこの宗団とのあいだに古くからあるみぞに、橋をかけるべき歴史的な瞬間が来た、少なくとも近づいている。将来危険が起るようなことがあれば、両者は必ず共通の敵を持つであろうし、運命の道連れとなり、自然の盟友となるであろう。これまでの状態、つまり、精神と平和とを維持保護することを歴史的な使命とする世界の二勢力が、こんなふうに相並び、互いにほとんど無縁な生存を続けるということは、いつまでも持ちこたえられるものではなく、元来不当なのだ。ローマ教会は、最近大きな戦争の時期の打撃と危機を、重い損害にもかかわらず、切り抜け、それによって更新され、浄化された。これに反し、当時の世俗的な学問教養の育成機関は、文化の没落の流れの中に共にさらわれてしまった。その崩壊の跡に初めて、この宗団とカスターリエンの思想が生れた。すでにその理由からして、また尊敬すべき年功からしてすでに、教会には優位を譲らねばならない。教会は、より多くのより大きな嵐の試練を経た、より古い、より高貴な勢力である。まず第一に問題となるのは、両勢力の近似性の意識と、あらゆる起りうる危機における相互依存の意識を、ローマ側にも起させ、培《つちか》うことである。
(ここでクネヒトは考えた。「ああ、それでは自分をローマへ送ろうというのだな。ひょっとすると永久に!」と。そして、前音楽名人の警告を思い出して、心の中でさっそく食いとめる用意をした。)
トーマス名人は続けた。カスターリエンの側からはすでに久しくそういう展開をめざして努力してきたのだが、その重要な一歩が、マリアフェルスにおけるクネヒトの使命によって踏み出された。その使命は、それ自体一つの試み、儀礼的なジェスチュアにすぎず、何の義務も負わず、付帯的な意図も持たず、先方の演戯仲間の招待に応じて行われたものであった。そうでなかったら、もちろん、政治的には何もわきまえないガラス玉演戯者でなく、デュボア氏の畑からもっと若い役人でも振り向けただろう。ところが、この試みが、このささやかな、他意のない使命が、意外に良い結果を生んだのだ。それによって、今日の旧教信仰の指導的精神であるヤコブス神父に、カスターリエンの精神をいくらか詳しく知らせ、彼が従来頭から拒否していたこの精神に、これまでより好意的な観念をいだかせるに至った。それについてヨーゼフ・クネヒトの演じた役割に、みんな感謝している。つまりここにクネヒトの使命の意義と成果とがある。この点から、接近工作全体ばかりでなく、クネヒトの使命と仕事も、さらに考察され、実行されねばならない。彼に与えた休暇は、彼が希望すれば、なおいくらか延ばしてやってもよい。みな彼とよく話し合ったし、最高当局の大多数の構成員とも知合いになってもらった。上司はクネヒトに対する信頼を表明し、特別な仕事と拡大された権限を与えて、クネヒトをマリアフェルスへ送り返すよう、ガラス玉演戯名人たる自分に依頼した。幸い彼はマリアフェルスで歓迎されることは、確実であろう。
彼は、聞き手に質問の時間を与えるかのように、間をおいたが、相手は恭順を現わすいんぎんな態度で、謹聴していること、依嘱を待っていることを示すばかりだった。
「わしが君にゆだねる用件は」とそこで名人は言った。「つまりこうなのだ。われわれは早晩ヴァチカンに当宗団の常置代表部を、できることなら相互に、設けたいと計画している。われわれは後輩として、ローマに対し、卑屈ではないが、きわめて恭《うやうや》しい態度を取る用意がある。こちらは喜んで第二位を占め、先方に第一位を譲ろうと思う。おそらく――わしはデュボア氏とは異なり、あまりよく知らないが――法王はわれわれの申し出《いで》をきょうにも受諾されるだろう。だが、向うから拒絶の返事を受けるようなことは、絶対に避けなければならない。さてそこで、われわれが知っており、手づるのある人物で、その声がローマでこのうえもなく重きをなしているような人がいる。つまりヤコブス神父だ。君に依嘱するのは、ベネディクト派修道院にもどり、今までどおりそこで暮し、研究をし、他意のないガラス玉演戯講習を行うとともに、君の目標と配慮とをあげて、ヤコブス神父を徐々にわれわれの身方にし、ローマに対するわれわれの意図のとりなしを君に約束させるように、持っていくことだ。今度は君の派遣の最後の目標がはっきり限定されている。その目的をとげるのに、どのくらいかかるかは、主要なことではない。少なくともなお一年はかかるだろうと思うが、二年かかるかも、数年かかるかもしれない。いや、君はベネディクトの速度を知っており、それに順応することを学んだ。どんな場合にも、あせってがつがつしているという印象を与えてはならない。事は、ひとりでにそうなるかのように、決定の潮時が来るのでなければならない。ね、そうだろう? この依嘱を了承してくれることと思う。異議でもあったら、腹蔵なく言ってもらいたい。希望なら、数日考慮の時間を設けてもよい」
これまでいろいろと話し合ったあげくのこととて、クネヒトはこの依嘱にもはや驚きはしなかった。考慮の時間は無用だと言い、すなおに依嘱を受け入れたが、こうつけ加えた。「ご承知のとおり、この種の使命は、依嘱されたものが自己の内心の抵抗や支障を克服する必要のない場合に、最もよく成功するものです。依嘱そのものに対して私は何も反対するところはありませんし、その重要さもわかります。それに添いうれば、と思います。しかし自分の将来については一種の恐怖と圧迫とを感じます。先生、どうか、私のまったく個人的な、利己的な願いと告白とをお聞きとりください。ご承知のとおり、私はガラス玉演戯者ですが、神父たちのところへ派遣されておりましたため、まる二年間研究を怠り、何も新しく習得せず、技術もゆるがせにしました。そして今度少なくともさらに一年加わり、おそらくはそれ以上になるでしょう。そのあいだにこのうえ退歩したくありません。それゆえ、ワルトツェルにもっとたびたび短い休暇をとって帰ってこられるよう、先生の研究室で行われる上級者のための講演や特殊練習に常時ラジオで連絡がとれるよう、お願いいたします」
「喜んで承知した」と名人は叫んだ。その調子にはもういくらか別離の気配がこもっていた。すると、クネヒトは声を高め、別なことを言った。つまり、マリアフェルスに対するもくろみが成功した場合は、ローマに送られるか、あるいはその他さらに外交的な勤めのために使われることを恐れる、と言った。「その見とおしは」と彼はことばを結んだ。「私と、修道院における私の努力とに、圧迫を加え、支障を来たさせるような働きをするでしょう。というのは、永続的に外交的な勤めに押しやられるのは、私にとって極度に望ましからぬことだからです」
名人はまゆを寄せて、とがめるように指をあげた。「君は、押しやられるなどと言うが、そのことばはまったくよろしくない選び方だ。だれも、押しやる、などということを考えたことはない。むしろ引き立て、昇進させることを考えているのだ。君を後にどう使うかという方法について、説明したり、約束したりする権能は、わしにはない。だが、君の懸念《けねん》は、どうにかわかる。君の恐れが実際にあくまで正しいということになったら、たぶん力をかしてやることができるだろう。では、聞くがよい。君は人に好感を与え、好かれるようにする一種の天分を持っている。悪意のあるものなら、君を幻惑者だ、とでも言いかねないだろう。当局が君を重ねて修道院へ派遣する気になったのも、おそらくその天分のせいだろう。だが、君の天分をあまり利用しすぎてはいけない、ヨーゼフよ、君の業績の値打ちをあまりに高く釣りあげようとしてはいけない。ヤコブス神父とのあいだがうまくいったら、そのときこそ個人的な願いを当局に申し出る潮時だ。きょうは早すぎると、わしには思われる。旅の用意ができたら、わしに知らせなさい」
ヨーゼフは無言でそのことばを受け入れた。とがめだてより、ことばの背後にひそんでいる好意を頼りに思ったからである。そしてその後まもなくマリアフェルスへもどった。
そこで、範囲をはっきり限られた依嘱に伴う安定感を、彼はありがたく思った。そのうえ、この依嘱は重要で、名誉あるものであった。しかも一つの点でそれは、依嘱を受けた当人の個人的な切望と一致していた。それはすなわち、できるかぎりヤコブス神父と親しくして、その友情を完全に得ることであった。彼の新しい使命がこの修道院で真剣に考えられ、彼自身地位を高められたことは、修道院の高位の人々、特に院長の態度がいくらか変ったことによっても証明された。親切であることに変りはなかったが、以前よりは、はっきり感じられるくらい尊敬の念が加わっていた。ヨーゼフは、その出身のゆえに、またその人格に対する好意のゆえに、親切にされる、位のない若い客ではもはやなく、今はむしろカスターリエンの高級官吏のように、全権公使とでもいうように、迎えられ、待遇された。こういう事物にかけて、もはや彼は盲目でなく、そこから自分の結論を引き出した。
もっともヤコブス神父の態度には何の変化も発見できなかった。神父は、打ちとけて、うれしそうにあいさつし、クネヒトの願いも催促も待たずに、約束した共同の仕事をやろうと言い出したので、クネヒトは深く心を動かされた。クネヒトの仕事の計画と日課とは、休暇前に比べ本質的に別な姿をとった。今度は仕事の計画と義務の範囲の中で、ガラス玉演戯講習はもうとっくに第一位を占めなくなり、音楽文書に関する研究や、オルガン奏者との同僚としての協同作業は、もはや全然問題にならなくなった。今度上位に置かれたのは、ヤコブス神父のもとで受ける授業だった。歴史学のいろいろな課目を同時に教授してもらうことだった。神父は、お気に入りの弟子に、ベネディクト派修道院の前史や初期の歴史の概観を教えたばかりでなく、中世初期の史料学の手引きもした。その他、特別な時間には、古い年代記作者のひとりを原典でいっしょに読んだ。クネヒトが、若いアントンをも参加させるよう、熱心に頼んだことは、神父の心にかなった。しかし、どんなに善意を持っていようと、第三者がはいると、この種の個人教授は必ず著しく妨げられるということを、クネヒトに納得させるのは、困難ではなかった。こうしてアントンは、クネヒトのとりなしを少しも知らなかったが、年代記作者の講読にだけ加わるように招かれ、それをたいそう喜んだ。疑いもなく、その時間は若い修業者にとって、このうえない名誉であり、楽しみであり、励ましであった。彼の生活については、それ以上のことはわれわれは知らない。彼が聴講者として、若い新兵として、いささか関与することを許された研究と意見の交換をしているのは、その時代の最も純粋な精神と最も独創的な頭脳を有するふたりであった。クネヒトが返務としてすることは、題銘学や史料学の講義ごとに引きつづいて行われた。カスターリエンとガラス玉演戯の指導理念との歴史と構成への手引きであった。そのときは弟子が先生になり、尊敬する先生が注意深い聴講者となり、しばしば容易に満足しない質問者となり批評者となった。カスターリエンの気質全体に対する神父の不信は、依然眠っていなかった。カスターリエンには本来宗教的な態度が欠けていると思ったので、真に真剣にとられる人間の型を教育する能力や品位があるかどうか、彼は疑った。もっともクネヒトという人物には、そのような教育の貴《とうと》い結果が反映していた。彼はとっくに、そういうことが可能な範囲で、クネヒトの教授と実例によって一種の改宗を経験し、カスターリエンをローマに接近させる斡旋《あっせん》をしようと、決心していたが、そういうときでも、その不信は決して眠りこんでしまったわけではなかった。クネヒトの手記には、その時々に即座に書きつけられたはげしい実例があふれている。その一つをここにあげよう。
神父「君たちは偉大な学者、美学者だ、君たちカスターリエン人は。君たちは、古い詩の中の母音の重さをはかり、その公式を遊星の軌道の公式と関係させる。それはすこぶるおもしろいが、結局、遊戯だ。君たちの最高の秘密や象徴、ガラス玉演戯も、遊戯だ。君たちがこの美しい遊戯を聖礼のようなものに、あるいは少なくとも教化《きょうけ》の手段に高めようと試みているのも、私は認める。しかし、聖礼はそういう努力からは生じない。遊戯はいつまでたっても遊戯だ」
ヨーゼフ「先生、われわれには神学の基礎が欠けている、とおっしゃるのですね?」
神父「ああ、神学を口にするのはよそう。君たちはまだ神学からはあまりに遠く離れている。君たちはすでに、二、三の単純な基礎を利用しているそうだね。たとえば、人類学を、人間に関するほんとの学説や知識を利用しているということだね。君たちは、人間というものを、その獣性も、神にかたどって作られた性質も、知らない。君たちが知っているのは、カスターリエン人と、特殊な性質と、階級的社会と、特別な育成の実験とだけだ」
神父をカスターリエンの身方にし、盟友の価値を彼に信じさせるという自分の任務のために、この時間に、およそ最も有利で広い地歩を占めえたのは、クネヒトにとって実際なみなみならぬ幸運であった。そのようにしてできた状況は、これ以上は望みえられない、また考ええられないほどのものだったので、彼はまもなく良心のとがめを感じた。というのは、尊敬する人が、秘密の政治的意図や用件の対象や目標になっているのに、信頼しきって自分と対座したり、つれだって回廊をぶらぶらと散歩したりするのは、クネヒトには恥ずべきこと、不当なことのように思われたからである。クネヒトは、この状態をいつまでも黙って甘受しているわけにはいかない、どういうふうに仮面を脱いだらよいかと、その形だけを考えていたところ、老人が先手を打って彼を驚かした。
「愛する友よ」と老人はある日何げなく言った。「われわれは実際、きわめて快い、また望むらくは、実り豊かでもある意見の交換法を考え出した。私が一生涯最も好ましく思ってきた二つの仕事、つまり学ぶことと教えることとが、われわれの共同の研究時間に、美しく新しく結びついた。しかも私にとってはまさしく打ってつけのときにそうなった。なぜならわしは老衰し始めたが、われわれの研究の時間ほど良い治療と若返りは考えられないからだ。つまり、私に関するかぎり、意見の交換によって利益を得るのは、どっちみち私なのだ。それに引きかえ、あなたも、特に、あなたを使節として送った上司のかたがたも、望みどおりの利益を得られるかどうか、私には確かでない。あとになって失望させるようなことをしたくない。それに、われわれふたりのあいだにあいまいな関係を生じさせたくない。そこで、この年とった実際家に一つ質問させてもらいたい。あなたがわれわれの修道院に滞在しておられるのは、私にとって結構なことではあるが、私はもちろんもうたびたびあなたの滞在について考えてみた。つい最近まで、あなたがこのあいだ休暇をとったときまでは、あなたがここにおられる意味と目的とがあなた自身にも十分はっきりしていなかったことは、疑いを入れぬ、と私は思っていた。私のにらみに狂いはありませんかな?」
クネヒトが肯定すると、神父は続けて言った。「よろしい。ところが、休暇からもどって以来、それが変ってしまった。今はもうあなたはここにいる目的について考えることも心を悩ますこともしない。その点について、はっきりしたことを心得ている。あたりましたかな?――よろしい。私の推測は誤っていなかった。あなたがここにおられる目的について私の考えるところも、おそらく誤ってはいまい。あなたは外交上の依嘱を受けている。しかもその目標は、この修道院でも院長でもなく、この私なのだ。――どうです、あなたの秘密はたいして残っていますまい。事情を完全に明らかにするため、わしは最後の一歩を踏み出して、勧告するが、残りもすっかり打ち明けなさい。そこであなたの依嘱は?」
クネヒトは飛びあがり、不意をつかれ、面くらい、ほとんど度を失った形で、神父と向い合って立っていた。「おっしゃるとおりです」と彼は叫んだ。「しかし、私の心を楽にしてくださいましたが、先手を打たれたので、私は恥じ入っています。もう先だってから私は、どうしたら私たちの関係をはっきりさせることができるかと、考慮しておりましたが、今あなたは一挙にはっきりさせてしまいました。ただ、あなたの学問へ手引きしていただくために、ご教授をお願いし、申合せをしたのが、私の休暇以前のことだったのは、まだしも仕合せでした。そうでなかったら、何もかも私の駆引きで、私たちの研究も口実にすぎなかった、という観をほんとに呈したでしょう!」
老人はやさしく彼をなだめた。「私は、われわれ両人を一歩さきへ進めるように、手をかしたいと思っただけだ。あなたの意図の潔白さは保証を必要としない。私があなたの先手を打って、しかもその結果があなたにも望ましく思われたことと一致したとしたら、申しぶんのないことだ」クネヒトが自分の依嘱されたことの内容を告げると、それについて神父は言った。「カスターリエンのかたがたは天才的とは言えないが、まったく好ましい外交官だ。運も良い。あなたの依嘱は、とっくり考えてみよう。あなたがカスターリエンの憲法と思想の世界とへ私を導き入れ、それを私に首肯させることがどこまで成功するかによって、私の決定はある程度きまるだろう。そのため時間を惜しまぬことにしよう」クネヒトが依然としていくらか当惑しているのを見ると、彼はからからと笑って言った。「そのほうがよければ、私の仕草を一種の教訓ととってもよろしい。われわれはふたりの外交官で、その会合は、友好的な形をとる場合でも、常に一つの戦いだ。この戦いで私は一時不利な立場にあった。行動の法則が私の手からすりぬけてしまった。あなたのほうが私よりよく心得ていた。それが今は調整された。さし手がうまくいった。つまり正しかったわけだ」
カスターリエン当局の意図のために神父を身方にすることが、クネヒトには貴重であり、重大であると思われたが、できるだけ多く神父のもとで学び、同時に彼のほうでは、この博学な有力な人物をカスターリエンの世界へ導く確実な案内人になることが、なおはるかに重要だと思われた。多くの点でクネヒトは友人や生徒たちからうらやまれた。それは、傑出した人間が内面的な偉大さと精力のためばかりでなく、とかく一見幸運に恵まれ、運命の優遇を受けているために、うらやまれるのに似ていた。小人物は大人物について、彼の見うる点だけを見るものである。ヨーゼフ・クネヒトの経歴と昇進には、実際だれが見ても、なみなみならぬ輝かしさ、速さ、一見らくらくとやっているふしがある。彼の生涯のあの時期については、彼は幸運だった、とだれしも言いたくなるだろう。われわれも、この「幸運」が外的事情の因果的結果であるにせよ、特別な美徳の一種の報いであるにせよ、それを合理的にあるいは道徳的に説明する試みをしようとは思わない。幸運は、理性とも道徳とも何ら関係のないもので、本質上いくらか魔術的なもの、初期の若々しい人類の段階に属するものである。天成の幸運児、妖女《ようじょ》から贈り物を受け、神々から甘やかされたものは、合理的な考察の対象にならない。したがって、伝記的な考祭の対象にもならない。そういう人間は、象徴であって、個人的なものや歴史的なものの彼岸《ひがん》にある。しかし、卓越した人物で、その生涯から「幸運」を無視することはできないとしても、ただ、彼らと彼らにふさわしい任務とが実際に歴史的に伝記的にうまく合致したという点、つまり彼らは早すぎも遅すぎもせずに生れてきたという点だけに、その幸運がある、そういう人物もある。クネヒトもそのひとりであるらしい。それで彼の一生は、少なくとも、時期は、望ましいものがすべてさながらひとりでにそのひざの中に落ちてきでもしたかのような印象を与える。われわれはそういう外観を否定したり、ぬぐい去ったりするようなことはすまい。それをもっぱら伝記的方法によって、理性的に説明することもできないことはあるまいが、そういう方法は、われわれの方法ではなく、カスターリエンで望ましいとされ、許されている方法でもない。すなわちそれは、最も個性的なもの、私的なもの、健康と病気、生命感情と自己感情の動揺と曲線などをほとんどはてしもなく詳細に調べる方法である。われわれにとっては問題にならない、そのような伝記の方法は、彼の「幸運」と苦悩とが完全に均衡を保っていたことを証明するかもしれないが、やはり彼の人物や生活の映像を不純にするものだということを、われわれは確信している。
余談はさておき、クネヒトが、彼を知っているものや、聞き伝えに知っているものの多くから、うらやまれたことを、述べておいた。しかしおそらく彼の生活において、小人たちにとって何よりもうらやましく思われたのは、ベネディクト派の老神父に対する関係であったろう。それは弟子であることと教師であること、受けることと与えること、征服されることと征服すること、友情と深い共同研究とを兼ねていた。クネヒト自身も、竹林で老兄に征服されて以来、今度ほど征服されて楽しかったことはなく、今度ほど引き立てられると同時に恥ずかしい思いをし、与えられると同時に刺激される思いをしたことはなかった。彼からのちに特に愛された生徒たちは皆ほとんど例外なく、彼がどんなにたびたび、どんなに好んで、楽しげにヤコブス神父の話をしたかを証言している。クネヒトは神父のもとで、当時のカスターリエンではほとんど学びえないようなことを学んだ。彼は、歴史的認識と研究の方法手段の概観とその応用の第一課を習得したばかりでなく、それをずっと越えて、歴史を、知識の領域としてでなく、現実として生命として獲得し、体験した。それに照応して、自己の個人的な生活も変化し、高まって、歴史となるのである。彼はこのことを単なる学者からは学びえなかっただろう。ヤコブスは、学識をはるかに越えて、観察者、賢者であるにとどまらず、そのうえ、体験するもの、共に創造するものであった。彼は、運命によって置かれた地位を利用して、観察する存在の安楽さにぬくまろうとはせず、世界の風を自分の書斎に吹きこませ、時代の苦難と予感を自分の胸に流れこませた。彼は、時代の事象に加わって働き、責務を共にした。とっくに経過した事件の概観、整理、解釈に携わるばかりでなく、また理念に携わるばかりでなく、それに劣らず、御しがたい物質と人間とを取り扱った。彼は、最近なくなったイェズイット派の僧で、彼の協力者でも反対者でもあった人とともに、外交的、道徳的勢力の真の樹立者と見なされた。またローマ教会が諦めとはなはだしい困窮の時代の後に、再び取りもどした高い政治的威信の真の樹立者と見なされた。
さて、先生と弟子とのあいだの対談では、政治上の現在のことについて語られたことはないが、――神父が沈黙し、控え目にすることに修練を経ていたばかりでなく、若いクネヒトが外交的なことや政治的なことに引きこまれることをはばかったため、それを阻止されたのであるが――ベネディクト派の神父の政治的地位と活動には、世界史の観祭がしみとおっていたので、その見解や、混乱した政治的事件に対するその透察には、常に実際政治家の立場がまじっていた。もちろん、野心家的でも陰謀家的でもない政治家であり、統治者や指導者でも、栄達主義者でもなく、助言者であり、仲介者であった。この人の活動は知恵によってやわらげられ、その努力は、人間というものの非力と難点との深い透察によってやわらげられていたが、その名声、経験、人間や状況に関する知識、それに劣らず、個人としての無私無欲と清廉潔白さが、彼に大きな力を与えていた。クネヒトは、マリアフェルスに来たとき、そういういろいろのことについて、何も知らなかった。神父の名まえさえ知らなかった。カスターリエンの住民の多数は、政治的に純真、無知に暮していた。そういうのは、古い時代にも学者階級には珍しいことではなかった。積極的な政治的権利や義務を持たず、新聞に目をとめることもほとんどなかった。それが、普通のカスターリエン人の態度、習慣だったとすると、ガラス玉演戯者の場合は、現実や政治や新聞を恐れることは、なおいっそう大きかった。彼らは、州の真の選《え》り抜き、精華だという自負を持っていたので、学者として技巧家としての存在の淡泊な純化された雰囲気《ふんいき》を何ものによっても濁らされないようにすることを非常に重んじた。クネヒトは、初めて修道院に来たときは、外交上の依嘱を受けているものとしてではなく、単にガラス玉演戯の教師として来たのだった。政治的な性質の知識といえば、デュボア氏が数週間のあいだに教えこんでくれた程度にすぎなかった。当時に比べれば、今日彼はずっと物知りにはなっていたけれど、現実政治に携わるのをいやがるワルトツェル人の気持ちを少しも捨てていなかった。ヤコブス神父との交わりによって政治的な点でも彼はいろいろ啓発教育されたが、それは、彼が、たとえば歴史に対し強い知識欲を感じたように、政治への欲望を感じたからではなく、避けがたかったので、事のついでのように、行われたまでであった。
要具を補い、カスターリエン事情に関する講義において神父を生徒にするという光栄ある任務に耐えるために、クネヒトは、州の憲法や歴史に関する文献や、英才学校の組織やガラス玉演戯発達史に関する文献を、ワルトツェルから持ってきた。それらの本の二、三は、すでに二十年前プリニオ・デシニョリとの論争の際用いたもので、それ以来手にしたことがなかった。他のは、特別にカスターリエンの役人のために作られた本なので、当時はまだ彼にはお預けになっていたもので、いま初めて読んだ。こうして彼の研究の領域は著しく拡大されたので、同時に彼は自分自身の精神的歴史的基礎を新しく観察し、理解し、強化せざるをえないようになった。宗団とカスターリエンの組織との本質をできるだけ簡単に明らかに神父の目の前に示す試みをしていると、自然の勢いで、たちまち自分自身の教養とカスターリエン的教養全体の最も弱い点にぶつかった。昔、宗団の発生と、それから生じたいっさいのものとを可能にし、また要求した世界史的事情は、彼自身にとっても、図式化された、精彩のない、具象性と秩序とを欠いた姿でしか思い浮べられないことがわかった。それで、神父は決して受け身的な生徒ではなかったので、共同研究は促進され、意見の交換は極度に活発になった。すなわち、クネヒトがカスターリエン宗団の歴史を講義しようと試みると、ヤコブスは彼を助けて、いろいろな点でその歴史を初めて正しく見、かつ体験するように、また一般の世界史や政治史にその根を見いだすようにしてくれた。神父の気質が気質であるから、この集中的な議論は往々極度に激烈な討論にまで高まったので、年を経てなお実を結び、クネヒトの最後まで生き生きと働き続けたことがわかるであろう。他方、神父がどんなに注意深くクネヒトの詳論についていき、それによってどれほどまでにカスターリエンを知り、承認することを学んだかは、彼の後の態度全体が示した。ローマとカスターリエンのあいだに、好意的な中立と折り折りの学問上の交流とによって始まり、ときには真の協力と同盟にまで発展した親善関係は、今日なお存続しているのであるが、それはこの両人のおかげである。神父は、初めは薄ら笑いを浮べてしりぞけたのであるが、ついにはガラス玉演戯の理論にさえ手引きされることを望んだ。彼は、そこに宗団の秘密と、ある程度まではその信仰あるいは宗教が求められると感じたからである。これまでは聞き伝えによって知っているだけで、ほとんど共感の持てなかったこの世界をきわめようという気になったので、彼は彼一流の強引なまた抜けめのないやり方で、思いきって中心に突進していった。そして、それでなくても年をとりすぎていたので、ガラス玉演戯者にはならなかったけれど、演戯と宗団の精神は、カスターリエンの外部では、この偉大なベネディクト派神父より真剣で貴重な友を得たことはかつてないくらいだった。
時折り、クネヒトが仕事の時間を終えて暇を告げると、神父は、今晩は君のためうちにいる、とほのめかした。それは、骨の折れる講義や緊張した討論に続くなごやかな二、三時間であった。ヨーゼフはたびたびクラヴィコードかヴァイオリンを携えていった。すると、老人はロウソクのやわらかい光を受けてピアノに向った。甘いロウのにおいが、彼らがかわるがわるに、あるいはいっしょにひくコレリやスカルラッティやテレマンやバッハの音楽のように、小さいへやを満たした。老人は早く就寝したが、クネヒトは、ささやかな音楽の礼拝に元気づけられて、規則で許されている局限まで勉強時間をのばし、深夜に及ぶのだった。
神父のもとで学んだり教えたりし、修道院でのんびりと演戯講習を行い、時折りゲルヴァジウス院長とシナ語の対談をしたほか、クネヒトはそのころなお非常に大がかりな仕事に携わっていた。つまり、最近二回怠った、ワルトツェルの英才の年次競演に参加したのであった。この競演では、三つないし四つの所定の主要題目にもとづいて、ガラス玉演戯の草案を作りあげねばならなかった。最高の形式上の純粋さと書法を守りながら、主題を新しく大胆に独創的に結合することに価値が置かれた。この唯一の機会には、宗規を逸脱することも、競争者に許された。すなわち、公式の法典や象形文字宝鑑にまだ採用されていない新しい符号をも使用する権利が認められた。それによってこの競演は、公の大奉納演戯に次いで、それでなくても演戯村で最も大きな興奮を引き起すできごとであったが、さらに、新しい演戯象徴をめざす最も有望な候補者の競争ともなった。この競争で勝利者が受けるおよそ最高の表彰は、ごくまれにしか与えられなかったが、それは勝利者の演戯がその年の最上の候補演戯としておごそかに上演されるばかりでなく、彼が新たにふやした演戯の文法や用語も承認され、演戯記録と演戯用語の中に採用されるという形をとった。かつて約二十五年前、今日の演戯名人である大トーマス・フォン・デア・トラーフェは、このまれなる名誉を与えられたが、それは、黄道十二宮のしるしの錬金術的意義をあらわす新しい略語によってであった。トーマス名人は後にも、啓発するところの多い秘密語としての錬金術の知識と整理のために多くの仕事をした。さてクネヒトは、ほとんどすべての候補者と同様、新しい演戯の持ちごまをいくつも用意していたが、それを用いることは今度は断念した。さらに、心理的演戯方法の信奉は彼には実際自明のことだったが、それを表白する機会をとらえることもしなかった。彼の組み立てたのは、近代的で個性的な構造と主題を持ってはいるが、何よりもあくまで透明で古典的な構成と、厳格に均斉のとれた、わずかに程よい装飾の施された、昔の名人をしのばすような仕上げを持った演戯であった。そうすることを余儀なくされたのは、おそらくワルトツェルと演戯記録所とから遠く離れていたためであろう。歴史研究のため時間と精力をひどく奪われたためかもしれない。あるいはまた、彼の師友であるヤコブス神父の趣味に極力合うように演戯のスタイルを作りたいという願いが、多かれ少なかれ意識的に彼を導いたためであるかもしれない。それはわれわれにはわからない。
われわれは「心理的演戯方法」という表現を使ったが、それはおそらく読者のみんなにそのままわかりはしないだろう。クネヒトの時代には、たびたび聞かれた標語であった。ガラス玉演戯の精通者のあいだには、どの時代にも、流れや、流行や、戦いや、見方や意味のつけ方の変化があったが、この時代には、とりわけ演戯の解釈が二つあって、それをめぐって論争や討論が行われた。二つの演戯の型、つまり形式的な型と心理的な型とが区別された。クネヒトは、テグラリウスと同様、論争からは遠ざかっていたけれど、心理的な型を信奉し推進するもののひとりだった。ただクネヒトは、「心理的演戯法」というかわりに、たいてい「教育的」という言い方を好んだ。形式的な演戯は、各演戯の具体的な内容、すなわち数学的な、言語的な、音楽的な、等々の内容から、できるだけ緊密な、すきのない、形式的に完全な統一と調和を形成するように努めた。これに反し、心理的演戯は、統一と調和、宇宙的まとまりと完成とを、内容の選択、排列、組合せ、結びつけ、対立などに求めず、演戯の各段階につづく冥想《めいそう》にそれを求め、そこにあらゆる力を入れた。そういう心理的演戯、あるいはクネヒトの好んだ言い方によると、教育的演戯は、外部から完全なものだという印象を与えるのでなく、詳細に規定された冥想に従うことによって演戯者を、完全なもの、神的なものの体験へ導くのであった。「私の考える演戯は」とクネヒトはあるとき、前音楽名人にあてて書いた。「冥想を終えたあとで、ちょうど、球の表面が中心を包むように、演戯者を包むのです。そして、くまなく均斉と調和のとれた世界を、偶然な混乱した世界から分離し、自己の中に取りあげたという感じをもって、演戯者を解放するのです」
さて、クネヒトが大競演に参加した演戯は、形式的に構成されたもので、心理的に構成されたものではなかった。それでもって彼が、マリアフェルスにおける客演や外交的使命のために、ガラス玉演戯者としての修練や弾力性や優雅さや巧妙さを失っていないことを、上司に、そしてまた自分自身に立証しようと望んだのかもしれない。その立証は成功した。彼は演戯草案の最後の仕上げと浄書とを友人テグラリウスにゆだねた。それはワルトツェルの演戯記録所でなければできなかったからである。実はテグラリウスも競演の参加者のひとりだった。クネヒトは原稿をみずから友人に手渡し、いっしょに検討することができた。同時に友人の草案もいっしょに調べた。それも、フリッツを三日間修道院の自分のもとへ招くことができたからであった。トーマス名人はこのときはじめて、すでに二度申請されたこの願いを入れたのであった。テグラリウスは、この訪問をいたく喜び、カスターリエンという島国の人間として多くの好奇心をいだいてきたのであるが、修道院では極端に不快に感じた。実際、この敏感な人間は、奇異な印象に囲まれ、親切ではあるが、単純で、健康で、いくらか粗野でさえあり、彼の考えや心配や問題などだれひとりなんとも思わない人々のあいだで、病気にならんばかりだった。「君はここで別な星に住んでいる」と彼は友人に言った。「君がここでもう三年も辛抱してきたのが、ぼくには理解できない。驚嘆するね。君の神父たちはぼくに対して非常に親切だが、ぼくはここではみんなから拒絶され、押しのけられているように感じる。何ひとつぼくを快く迎えてくれるものがない。理屈抜きに通じるものが何ひとつない。抵抗と苦痛なしに同化されるものが何ひとつない。二週間ここで暮さなければならないとしたら、ぼくには地獄だろう」クネヒトはこの友に苦労し、初めて二つの宗団と世界とのあいだのうとましさを傍観者として共にながめ、不快に思った。また、過度に敏感な友が神経質になすところを知らずにいるため、ここでよい印象を与えていないのを感じた。しかし、ふたりは、競演に出す二つの演戯計画を、互いに徹底的に批判的に検討した。そしてクネヒトは、そのひとときの後、別の棟《むね》のヤコブス神父のところへ行くか、食事に行くかすると、急に故郷の土地から、風土と気候と星とを異にするまったく別な国へ移されたような感じをいだいた。フリッツが去ると、クネヒトは神父にその印象を語るように促した。「カスターリエン人の多数は、あなたの友人よりあなたに似ていてほしいものですね」とヤコブスは言った。「あなたが友人を通じてわれわれに示したのは、親しみのない、しつけられすぎた、弱々しい、しかもどうやらいくらか高慢な種類の人間だ。私は今後もあなた本位で行きますよ。でないと、あなた方の種類に対して公平でなくなるでしょう。あの哀れな、敏感な、利口すぎる、落ちつきのない人間は、あなた方の州全体をまたきらわれものにするでしょう」
「それは」とクネヒトは言った。「ベネディクト派の方々の中にも、数世紀のあいだには、一度ぐらいは、私の友人のように、病的で、肉体的には弱いが、精神的にはかえって値打ちの申しぶんない人がいたことでしょう。私の友の弱点には鋭い目を持っているが、その大きな長所を理解する能を持たない人々のこの国へ、彼を招いたのは、おそらく賢明でなかったでしょう。彼はここへ来ることによって私に対し友人として大きな奉仕をしたのです」それから神父に、競演に参加することについて語った。クネヒトが友人のために弁護するのを、神父は好ましげにながめていた。「よろしい!」と神父は打ちとけて笑った。「それにしても、あなたはどうもつき合いにくい友人ばかり持っておられるようだ」。クネヒトがわけがわからず、けげんな顔をしているのを、神父はおもしろがっていたが、やがてあっさりと言った。「今度は別な人のことを言っているんですよ。あなたの友人プリニオ・デシニョリの近況をご存じですか」ヨーゼフの驚きはおそらくなおいっそう大きくなった。すっかり面くらって彼は説明を求めた。これはこういういきさつであった。デシニョリは政治上の論難書で、あまりにはげしく反旧教的信念を表白し、その際ヤコブス神父をも非常に強く攻撃した。神父は、旧教の新聞にいる友人たちからデシニョリに関する情報を得たところ、それには、彼のカスターリエン学校時代と、クネヒトに対する周知の関係にも言及されていた。ヨーゼフはプリニオの論文を読ませてください、と頼んだ。それに関連して、現実政治を内容とする話し合いが神父とのあいだに初めて行われた。その種の話はその後もごくまれにしか行われなかった。彼はフェロモンテにこう書いた。「われわれのプリニオの姿と、そのつけたりとしてぼく自身の姿も、突然政治の世界的舞台に押し出されたのを見るのは、奇妙であり、恐ろしくもあった。これまではこんな光景がありうるとは、夢にも考えたことがなかった」それはそうと、神父はプリニオの例の論難の書については、むしろ賞讃的な意見を述べた。いずれにしても神経質にはならなかった。彼はデシニョリの文体をほめ、さすがは英才学校出身だということがよくわかる、現実政治では、もっとずっと低い精神や水準に満足しているのに、と考えた。
友人フェロモンテからクネヒトはこの時分、後に有名になった論文の第一部の写しを送られた。「ヨーゼフ・ハイドン以後のドイツ芸術音楽によるスラヴ民衆音楽の摂取と同化」という題であった。それを送られたのに対するクネヒトの返事には、とりわけこう書いてある。「ぼくは以前しばらくのあいだ君の研究の相手をすることができたが、君はその研究に簡潔なしめくくりをつけた。シューベルトに関する、特に四重奏に関する二つの章は、音楽史について最近ぼくの読んだ最もしっかりしたものの一つだ。時々ぼくを思い出してくれたまえ。君がみごとに仕上げたような収穫から、ぼくは遠く離れている。マリアフェルスにおけるぼくの使命は無益ではないと思われるので、ぼくは当地の生活に満足してよいのだが、カスターリエンと、ぼくの所属するワルトツェルの仲間から長く離れているのを、時々胸苦しく感じる。ぼくはここで多くのことを、無限に多くのことを学んでいる。だが、ここで経験するのは、安定感と専門的な能力の増大ではなく、問題の増大だ。もちろん視野もひろがる。不安定、親しめなさ、信頼や明朗さや自信の欠乏、特に最初の二年間ここでしばしば感じた他の不如意については、今日ではもちろんずっと落ちついている。最近テグラリウスがここに来た。たった三日間だったが、彼はぼくに会うことをたいそう楽しみにし、マリアフェルスに好奇心をいだいていた。ところが、二日めにもう、圧迫感と親しめない感じのため、ほとんどもう耐えられなくなった。結局、修道院だって、保護された、平和な、精神に対し友好的な世界であって、監獄でも兵営でも工場でもないのだから、ぼくは自分の経験からして、われわれカスターリエン州の人間は、自覚している以上にはるかに甘やかされており、多感なのだ、という結論を下すわけだ」
カルロあてのこの手紙の日付とちょうど同じころ、クネヒトはヤコブス神父を促して、カスターリエンの宗団管理局へ短い手紙を書いてもらい、例の外交上の問題には応諾するが、「当地で皆に愛されているガラス玉演戯者ヨーゼフ・クネヒト」はカスターリエン事情について自分に個人講義をしていてくれるので、なおしばらくここに置いてほしい、という願いを付け加えてもらった。もちろん先方では、その願いを入れることを光栄とした。クネヒトはちょうど自分の「収穫」に達するにはまだ遠いと思っていたとき、宗団管理局とデュボア氏の署名のある手紙を受け取った。彼が依嘱を果したことを賞讃する手紙であった。この非常に改まった手紙の中でこのとき彼に最も重要に思われ、無上の喜びを与えたのは(彼はそのことを凱歌をあげんばかりにフリッツあての短い手紙で報告した)、宗団はガラス玉演戯名人を通じて、演戯村に帰りたいという彼の願いを知った、現在の依嘱を済ませたら、その願いをかなえることに、いささかも異論はない、という内容の短い文章であった。彼は、この個所をヤコブス神父にも朗読して聞かせ、どんなに自分がそれを喜んでいるかを打ち明けたうえ、カスターリエンからいつまでも追放状態でおり、やがてはローマへ送られるかもしれないことを、どんなに恐れていたかをも、今は打ち明けた。神父は笑いながら言った。「確かに、宗団にはそういうところがありますよ。そのおひざ元で暮すほうが、その周辺はもちろん、追放のうちで暮すより、ずっとましです。あなたはここで少しばかり政治という不純なものに近づいてしまったが、政治家ではないから、そんなものはあっさりまた忘れてしまってよろしい。しかし、歴史に背をむけてはなりませんよ。歴史はあなたにとって結局二次的な部門、趣味の部門であるかもしれないとしても。あなたは歴史家になるうつわなのだから。今はあなたがここにおられるかぎり、ふたりは互いに利益を得るようにしようじゃありませんか」
ワルトツェルをたびたび訪れてよいという許可を、クネヒトはあまり利用しなかったらしい。しかしラジオで一度実習を聞き、講演や演戯をいくどか聞いた。こうして、修道院の上品な客室にありながら、遠くから、演戯村の式場で懸賞募集の成績が発表される「荘厳さ」にあずかった。彼が提出した作品は、非常に個人的ではなく、全然革命的ではなかったが、手堅く、極度に高雅であって、みすから価値を認めることができたので、讃辞か、三等賞か、二等賞を受けるものと予期していた。ところが、思いがけず、自分に一等賞が授けられるという決定を聞いた。そして驚きのため喜びがほんとにまだわいてこないうちに、演戯名人事務局の放送者はもう美しい深い声で成績を読み続け、二等賞の受賞者としてテグラリウスの名をあげた。彼らふたりが手を携えてこの競演の勝利者として栄冠をになったことは、確かに心を動かしわれを忘れさせる体験であった! 彼は飛びあがってそのさきを聞かず、階段をかけおり、足音のひびく廊下を通って、外に出た。そのころ前音楽名人あてに書かれた手紙には、次のように読まれる。
「先生、お察しくださいますように、私はたいそう幸福です。まず、自分の使命を果し、宗団管理局から光栄ある表彰を受け、さらに、将来外交上の勤務に用いられることなく、まもなく故郷へ、友人たちのもとへ、ガラス玉演戯へ帰れるという重大な見透しが得られたうえ、形式については骨を折りましたが、しかるべき理由があって自分の力を出しきってはいない演戯に対し、今一等賞を授けられました。かてて加えて、この成功を友人と分つという喜びです。――これは実際、一度にはたいへんなことです。私は幸福です、まったく。しかし、楽しいとは言えないでしょう。わずかのあいだ、あるいはわずかのあいだと私には思われたのでしょうが、この宿望の実現は私の内心の気持ちにとっては、いくらか突然すぎ、豊かすぎるように思えました。私の感謝には一種の不安がまじっています。ちょうど、ふちまでなみなみと満たされた容器では、ほんの一滴でも加わると、全体が不安定になるようなものです。しかし、こんなことは、どうぞ、何も申さなかったものとお考えください。今はどんなことばも余計なのです」
ふちまでなみなみと満たされた容器がまもなく、ほんの一滴以上のものを受け入れる運命にあったことを、われわれはやがて知るであろう。しかしそれまでの短い期間クネヒトは、迫っている大きな変化を予感でもしたかのように、幸福と、それにまじった不安とに、強く浸りきって暮した、ヤコブス神父にとっても、この数カ月は、幸福な、心のはずむ期間であった。弟子であり同僚であるこの人を失わねばならないのは、残念であった。彼は、勉強時間はもとより、自由な談話の折りにはなおさら、勉強にかけても思想にかけても充実した生涯のうちに自分が獲得した、人間生活と諸民族の生活の高さ深さの認識を、極力クネヒトに伝え、相続させよう、と努めた。クネヒトの使命の意義と結果についても、ローマとカスターリエンのあいだの親交と政治的一致の可能性と価値についても、彼は時折りクネヒトと話し合った。そして、カスターリエン宗団が創設され、ローマが屈辱的な試練の時期から徐々に復興した、という実を結んだ時代を、研究するようにすすめた。また、十六世紀における宗教改革と教会分裂とに関する本を二冊すすめたが、原則的に直接的な史料を研究し、研究をそのつど見透しのきく部分的な範囲に限定するほうが、世界史の部厚い本を読むよりよいと、懇々と言いきかせた。そして、およそ歴史哲学というものに対する深い不信を少しも隠そうとしなかった。
[#改ページ]
第六章 演戯名人
クネヒトは、ワルトツェルへ引きあげるのを、春に、つまり大規模な公式のガラス玉演戯、年次演戯または荘厳演戯の時期まで延ばそうと決心した。この演戯の記念すべき歴史上の頂点、すなわち、数週間継続し、世界中から貴顕の士や代表者が訪れた年次演戯の時期は、すでに過ぎ去り、永久に歴史上のものとなってしまった。しかし依然として、この春の大会は、十日ないし十四日続く荘厳な演戯を伴い、全カスターリエンにとって毎年の大きな祝典行事であった。それには高い宗教的な道徳的な意味も欠けてはいなかった。というのは、必ずしもまったく同じ方向を持ってはいないが、カスターリエン州のあらゆる考え方や傾向の代表者を、この祝典は、調和になぞらえた精神のもとに集めたからである。また、個々の規律の利己的精神を和解させ、多様さの上に君臨する統一を想起させた。この祝典は、信仰のあるものにとっては、真のきよめの聖礼的な力を持ち、信仰のないものにとっては、少なくとも宗教を補うものとなった。そして、どちらにとっても、美の清い泉に浴することであった。同様にかつてヨハン・セバスチアン・バッハの受難曲は――それができた時代にはそれほどではなかったが、それが再発見された後の世紀において――演奏に携わるものや聞くものにとって、あるいは真の宗教的な行為であり、きよめであり、あるいは礼拝であり、宗教を補うものであり、すべての人々にとって同時に、芸術と精神創造者との荘厳な現われであった。
クネヒトは、修道院の人々からも故郷の当局からも自分の決心に賛成を得るのに、たいして骨は折れなかった。演戯村という小さな共和国に再び編入された後、自分の占める地位がどんな種類のものとなるか、まだよく考えることができなかったが、いつまでもこの地位においておかれることはなく、ごく近いうちに何かの役か任務を負わされ、敬意を表されるだろう、と推測した。さしずめ彼は、帰国や、友人との再会や、迫っている祝典期を楽しみにし、ヤコブス神父といっしょにいられる最後の日々を楽しんだ。そして、院長や修道院の僧たちがはなむけにいろいろとにぎやかに好意を示してくれるのを、悪びれずに快く受け入れた。それから彼は旅立った。好きになった土地から、また後に残る人生の一区切りから別れるとなれば、悲しい思いがしたが、祝典の催しの準備として冥想《めいそう》にいそしんだため、早くも祝典らしい気分になれた。指導者も仲間もなかったが、規則の本文に従って、きわめて精確に冥想を行なった。演戯名人が久しい前から正式に年次演戯に招待していたヤコブス神父を説きつけて、招待を受諾させ、同行させることはできなかったが、そのため彼の気分は少しもそこなわれはしなかった。彼は、古くからのカスターリエン反対者の消極的な態度を理解した。こうしていっさいの義務や窮屈さから解放されて、自分を待ち受けている祝典にすっかり浸りきる気分になれているのを感じた。
祝典というものは独特なものである。より高い力が好ましからぬ干渉をするようなことがあれば別だが、さもなければ、真の祝典が完全に失敗するということは決してありえない。信心深いものにとっては、雨にたたられた行列も神聖さに変りはないし、できそこなったお祝いのごちそうも、興をさますことはない。ガラス玉演戯者にとって、毎年の演戯はお祭りであり、いわば神聖なものになっている。しかし、だれでも知っていることだが、演劇の上演や音楽の演奏が、はっきりわかるような原因がないのに、奇蹟《きせき》の力でもかりたように、頂点へ内的体験へもりあがることがあるのと同様に、祝典や演戯でも、何から何までぴったり調和し、互いに引き立て、調子づかせ、もりあがらせ合うことがある。これに反し、準備は少しも劣らないのに、感心なできばえ程度にとどまることもある。体験者の心構えがあの高い体験を成立させる原因の一つとなるという点では、ヨーゼフ・クネヒトはおよそ最上の準備をしていたと言えよう。どんな思いわずらいにも悩まされず、名誉をになって帰国した彼は、喜ばしい期待をもって来たるべきものを待ち望んだ。
しかし、今度の荘厳演戯は、奇蹟のあの息吹《いぶ》きに触れて、特別な程度の神聖さと光輝とに達するようにはならなかった。それどころか、楽しくない、明らかに不運な、失敗といっていいくらいの演戯になった。それにもかかわらず、参加者の多くは心を引き立てられ高められたように感じたかもしれないが、そういう場合いつもそうであるように、本来の当事者、主催者、責任者は、それだけいっそう仮借なく、歯切れの悪さ、まわり合せの悪さ、失敗、障害、不幸などの雰囲気《ふんいき》がこの祝典の空を脅やかしたのを感じた。クネヒトももちろんそれを感じ、張りつめた期待に一種の幻滅を味わったのであるが、この非運を最もはっきりと感じさせられた一人ではなかった。つまり、この演戯に際し、協力者ではなく、したがって共同責任もなかった彼は、そのいく日かのあいだ、たとえこの行事に本来の精華と恵みとは伴わなかったとしても、敬虔《けいけん》な参加者として、精神のこもった構成を持つ演戯に感心しながらついていくことができた。そして、妨げられずに冥想をほしいままにし、祝典と奉納の体験、神の足下で参会者が神秘的に一体となる体験を、ありがたい気持ちに浸りながら心の中で成就することができた。その体験は、この演戯の客なら皆よく知っているものであり、精通者の狭い範囲では「失敗」だとされる祝典行事でも、味わうことのできるものである。どっちみち、今度の祝祭を支配していた不運に、彼も超然とはしていられなかった。演戯そのものはもちろん、そのプランと構成は、トーマス名人の演戯はどれもそうであるが、非の打ちどころのないものであった。そればかりか、最も印象的で、最も単純で、最も直接に心を打つものの一つであった。しかしその実演は特別に不運な星のもとに行われ、ワルトツェルの歴史においてまだ忘れられていない。
大演戯開始の一週間前、クネヒトはそこに到着し、演戯村に届け出たが、彼を迎えたのは、ガラス玉演戯名人ではなくて、その代理者ベルトラムであった。ベルトラムはいんぎんに彼を迎えるあいさつを述べたが、手短かに、ひとごとのように、名人はこのところ病気だし、自分自身はあなたの使命について十分承知していないので、あなたの報告を受けることができない、それゆえヒルスラントの宗団本部へ行って、そこで帰還の届けをし、命令を受けてほしい、と告げた。その応対の冷たさとあっけなさに対し、クネヒトが別れる際、声か身振りで思わずけげんの情をもらすと、ベルトラムは次のように弁解した。同僚を失望させたのは、お許し願いたい。特別な事情を理解してほしい。つまり名人は病気だし、年次大演戯は目前に迫っている。名人が演戯を指導なさることができるかどうか、それとも代理者たる自分が身代りを勤めなければならないかどうか、まださっぱりきまっていない。名人の病気が、これより都合の悪い、むずかしいときに、起ることはありえなかったろう。自分は実際いつものように、名人に代って職務を行う用意はしている。だが、こんな短い期間内に十分に大演戯の用意をし、その指導を引き受けることは、やっぱり自分の力に余るだろう、とおそれている。そう言うのだった。
クネヒトは、目に見えて打ちしおれ、いくらか平衡を失っている男を気の毒に思ったが、それに劣らず、ひょっとしたら祝典の責任がこの男の手にゆだねられそうなのを、残念に思った。彼はあまり長くワルトツェルを離れていたので、ベルトラムの憂慮がどれほど根拠のあるものか知らなかった。何せこの男は、代理者にとってはおよそこのうえなくぐあいの悪いことであるが、しばらく前から、英才、いわゆる復習教師たちの信頼を失っており、まったくひどい苦境に陥っていたのである。クネヒトは、ガラス玉演戯名人のこと、この古典的形式と皮肉の英雄で、完全な名人であり、騎士である人のことを考えて、憂慮をおぼえた。彼は、名人に迎えられ、報告を聞いてもらい、再び演戯者の小さい共同体に加入させられ、たぶん秘密にあずかる地位につけられることを楽しみにしていた。トーマス名人によって祝典演戯が取り行われるのを見、その目の下で仕事を続け、その賞讃をかち得ることが、クネヒトの願いだった。ところが、名人が病気の陰に隠れ、他の上司へ行けと言われたのは、つらくもあり、がっかりもした。もっとも、宗団の秘書とデュボア氏が、敬意のこもった好意をもって、いや、同僚かたぎをもって迎え、報告を聞いてくれたのは、その埋合せになった。また最初の話し合いの際、当局はローマに対する計画についてはさしあたり自分をこれ以上使う意向のないこと、永続的に演戯に復帰したいという願いを考慮していることを、クネヒトはすぐ確かめた。さしあたり当局は、演戯村の客舎に宿を取り、取りあえずここの様子を見、年次演戯に列席するように、彼を親切に招いた。彼は友人テグラリウスといっしょに演戯開始前の数日を断食と冥想の業にささげ、多くの人の思い出にあまりかんばしくないものとなったあの独特な演戯に、敬虔《けいけん》に感謝の念をもって参加した。
「影法師」とも呼ばれている名人代理者の地位、特に音楽名人局と演戯名人局のそれは、きわめて独特なものである。名人はめいめい代理者をひとり持っているが、それは、当局が名人の補佐として配置するというようなものではなく、名人自身が狭い範囲の候補者の中から選び、その行為や署名に対しては、代表される名人その人が全責任を負うのである。それゆえ、名人から代理者に任命されるのは、候補者にとって大きな名誉であり、最高の信頼のしるしであった。それによって彼は、全能な名人の秘密な協力者、右手と認められる。そして名人に支障があって、代りに派遣されるようなことがあれば、いつでもその職務を代行する。もっともすべての職務をするわけではない。たとえば、最高官庁の採決においては、名人の名で諾否を伝えるだけで、弁士あるいは提案者として登場することは決して許されない。それに類する注意事項はもっとある。さて代理者に任命することは、その人を、非常に高いが、往々風あたりの強い地位に置くことになると同時に、勢力を奪うとでもいうようなことを意味している。それは、官庁の聖職制度の内部でいわば例外としてのけものにすることだからである。それは、しばしは当人にきわめて重要な職務をゆだね、高い名誉を与える反面、志を同じくする他のものがみな授かっているある種の権利や可能性を、その人から取りあげてしまうのである。特に二つの点で、その人の例外的地位がはっきりわかる。すなわち代理者は、職務行為の責任を負わず、聖職制度の内部においてそれ以上昇進することができないのである。この規則はなるほど明記されてはいないが、カスターリエンの歴史から読みとられるのである。すなわち、名人が死ぬか、辞職するかした場合、その「影法師」が名人の地位に推されたことは、一度もない。影法師のことだから、ずいぶんたびたび名人を代表しているし、影法師という存在そのものが、当人を名人の後継者にすることを予定しているように見えるのであるが。――カスターリエンのしきたりは、一見固定していない、融通のきく限界の制限を、越えがたいものとしてことさらに強調しようと欲するかのようである。名人と代理者とのあいだに引かれた境界は、官職と個人とのあいだに引かれた境界のたとえのようである。それで、あるカスターリエン人が代理者という高い機密の職を引き受けると、彼は、いつかみずから名人になり、代理の形でたびたび身につけた官服や印章をいつかほんとに自分のものにする、という見込みを断念するのである。同時に彼は非常にあいまいな権利を持つようになる。つまり職務執行に誤りでもあると、その責任をしょいこむのは自分自身ではなくて、名人なのである。名人がひとりで彼を保証しなければならないのである。実際、名人が、自分の選んだ代理者の犠牲となり、代理者の犯したひどい過失のため、職を退かねばならなかった、ということもこれまでにあった。ワルトツェルでガラス玉演戯名人の代理者に冠せられている名称は、その独特な地位、名人との結びつき、外見上の一心同体、公職上の存在の空虚な実体のなさなどを、まことによく言い現わしている。つまり、そこでは彼を「影法師」と呼んでいるのである。
トーマス・フォン・デア・トラーフェ名人は久しく、ベルトラムという名の「影法師」に仕事をまかせていたが、この男には、天分や善意よりもむしろ幸運が欠けていたように思われる。彼は、言うまでもなく、すぐれたガラス玉演戯者であった。また少なくとも未熟ではない教師であり、良心的な役人でもあった。名人には無条件に心服していた。にもかかわらず、この数年間、役人のあいだできらわれるようになり、後進の英才のいちばん若い層を敵にまわした。名人の騎士らしく明るい性質を持っていなかったことが、彼の態度の安定と落ちつきを乱した。名人は彼を見捨てず、数年来例の英才たちとの摩擦から彼を極力遠ざけ、表だった所にはだんだん出さないように、事務所や記録所で余計使うようにしてきた。難はないが、今ではもう人気のない、どう見ても幸運に恵まれていないこの男が、名人の病気のため今度突然演戯村の先頭に立つことになった。実際に年次演戯を指導しなければならないことにでもなると、祝典の時期のあいだ、州全体でいちばん目だつ地位に置かれるわけであった。彼がこの大きな任務を果しうるのは、ガラス玉演戯者あるいは復習教師団の多数が彼を信頼し支持する場合に限られたであろうが、残念ながらそういうことにはならなかった。それで荘厳演戯は今度はワルトツェルにとって困難な試練となり、ほとんど破局となった。
演戯開始の前日になって初めて、名人は病重く、演戯を指導することができない旨、公示された。告示がこんなに延引したのは、病める名人が、あるいは最後の瞬間まで、元気を回復して、せめて演戯の監督をすることができるようになりたいと望んでいたため、その意志に強《し》いられたのかどうか、われわれにはわからない。そういう考えをいだくには、すでに彼の病は重すぎたということ、彼の「影法師」が、ぎりぎりになる少し前までワルトツェルの状況に関してカスターリエンを不安定の状態に置くという誤りを犯したということのほうが、真相に近いようである。もちろん、このためらいが果して誤りであったかどうかについても、議論の余地があろう。疑いもなくそれは善意をもって、すなわち、祝典を初めから不評に陥《おとしい》れることのないように、トーマス名人の崇拝者たちが失望して、参集しなくなることのないように、と考えてしたことであった。もし万事が順調にいったとしたら、ワルトツェルの演戯者団体とベルトラムのあいだに信頼が存在したとしたら、「影法師」はほんとに代理者となり、名人の欠席もほとんど気づかれずに済んだだろう。それは十分考えられることである。この点についてこれ以上推測をするのは無用である。ただ、あのベルトラムは、ワルトツェルの世論が当時見ていたほど頭から役にたたない人物でも、不適当な人物でもなかったことを、暗示しておかねばならないと思う。彼は、罪のある人間というより、犠牲者だったのである。
さて例年のとおり、大演戯へおおぜいの客が流れこんできた。多くのものは、何も知らずに来たが、演戯名人の安否を憂慮し、祝典の経過におもしろからぬ予感をいだいて来たものもいた。ワルトツェルと近くの住宅地は人間でいっぱいになり、宗団本部と教育庁のものはほとんど全員集まった。国内の遠隔の地や外国からも、お祭り気分の旅行者がやってき、旅館が満員になった。いつものとおり、祭典は演戯開始前夜、冥想の時間で開幕された。その時間のあいだ、鐘の合図とともに、人間でいっぱいになった式場地帯は、深い敬虔な沈黙に沈んだ。次の朝は、第一の音楽演奏と、第一の演戯命題の告知と、この命題の二つの音楽上の主題に関する冥想とが行われた。ガラス玉演戯名人の式服を着たベルトラムは、型にはまった、きりっとした態度を示したが、ただひどく青ざめており、一日一日と日がたつにつれ、疲労と、苦しみと、諦《あきら》めの度を増していき、最後のころにはほんとに影法師に似てきた。演戯の第二日に早くも、トーマス名人の容態は悪化し、生命は危険に陥っているといううわさがひろまった。その日の夕方ここかしこで、また消息通のあいだでは至る所で、病める名人とその「影法師」に関して徐々に伝説が作られ始めていくのを耳にした。この伝説は、演戯者村の中枢である復習教師団から発したもので、名人は演戯指導者としての職務を執行する意志であり、それが可能でもあったのだが、「影法師」の名誉心のために犠牲を忍び、祝典の任務をまかせたのだ、というのだった。さてしかし、ベルトラムには、高い役割を完全に果す力はないように見え、演戯は失望を招くことになりそうだったので、病める名人は、演戯に対し、「影法師」に対し、影法師の無能に対し責任を感じ、影法師に代ってみずからあやまちを償うことにした。まさしくそれこそ彼の容態《ようだい》が急速に悪化し、熱があがった理由だ、ともいうのだった。もちろんそれが伝説の唯一の解釈ではなかったが、英才連の解釈はそうだった。またそれで、英才連と呼ばれる熱心な新進が、状況を悲劇的に感じながら、この悲劇をそらしたり、明るくしたり、とりつくろったりするように援助する意志のないことを示していた。名人に対する尊敬と、「影法師」に対する反感とが釣合いを保ち、たとえ名人が打撃を共に受けなければならないとしても、「影法師」が失敗し、失脚すればよい、と思われていた。また一日たつと、名人は病床から代理者と英才中の二長老に、平和を保ち、祝典を危うくしないように、切望した、という話が伝わった。次の日には、名人は遺言を口述し、自分が後継者にしたいと思う人物を当局に指名した、と主張するものがあった。その名もあげられた。刻々悪化する名人の容態の知らせとともに、あれこれとうわさがうずまいた。式場でも旅館でも、気分は日一日と低調になったが、続行を断念して、旅立つところまでいくものは、さすがにひとりもいなかった。行事の全体に重い暗い圧迫がのしかかっていたが、外面的な経過は狂いのない形で遂行された。しかし、この式典の際には付きものとされ、期待されていた喜びやはずんだ気持ちは、ほとんど感じられなかった。最後の演戯の前日、祝典演戯の創造者であるトーマス名人が永久に目を閉じた際は、当局の努力にもかかわらず、その知らせがひろまるのを抑えることができなかった。不思議なことに、もつれた事態がこんなふうに解決されたのを見て、ほっとした参加者も少なくなかった。演戯学校の生徒や、特に英才連は、荘厳演戯が終らぬうちは、喪服を着ることを許されず、公演と冥想の業を交互に行うよう、そのころ厳重に定められていた時間表を中断することも許されていなかったが、最後の行事と日程は、尊敬する故人のための葬儀であるかのような態度と気持ちで、一致して取り行なった。そして、疲れ果て、眠り不足に悩み、青ざめ、半ば目を閉じて、職務に従っているベルトラムの身辺に、氷のように冷たい孤立の雰囲気を生ぜしめた。
ヨーゼフ・クネヒトは、テグラリウスを通して英才たちとまだ活発な接触を保ち、年長の演戯者として、そういう流れや気分をくまなく感じとっていたが、そういうものが自分の心に介入するのを許さず、四日めか五日めからは、名人の病状報告で自分を妨げることさえ、友人フリッツに禁止した。彼は祝典の悲劇的な暗影をよく感じ、理解し、深い憂慮と悲しみをもって名人のことを思い、つのる不快と同情をもって、共に死ぬべく宣告を受けた観のある「影法師」ベルトラムのことを思いはしたが、真実の報道にも伝説的な報道にもいっさい影響されないように、強くきびしく抵抗し、みごとに組み立てられた演戯の練習と進行に没頭し、さまざまの不調和や暗影にもかかわらず、真剣に荘重に祝典を体験した。「影法師」ベルトラムは、最後に、いつものとおり、副名人として祝賀客や官庁の人々を引見する義務を免じられた。ガラス玉演戯研究者の恒例の祝賀日も今度はお流れになった。祝典の幕が音楽によって閉じられた直後、当局は名人の死を発表した。演戯者村では、喪の日が始まった。客舎に泊っているヨーゼフ・クネヒトもそれを共にした。今日なお高い尊敬を受けている、功績に富む名人の葬式は、カスターリエンのならわしで簡素に行われた。「影法師」ベルトラムは、祝典のあいだ最後の力を振りしぼって難役を演じ終えたが、自分の立場を理解し、休暇を請うて、山地へ旅立った。
演戯者村、いや、ワルトツェル全体が、悲しみにおおわれた。おそらくだれも、死んだ名人に対し、隔てのない、特に親密な関係を結んだものはひとりもなかっただろう。しかし、その高尚な人となりの卓抜さと清浄さは、賢明さと、形式に対する洗練された感覚と相まって、彼を統治者にし、代表者にした。元来まったく民主的にできているカスターリエンでも、そのような統治者や代表者をしょっちゅう出しているわけではなかった。皆は彼を誇りにしていた。この人物は、情熱とか、愛とか、友情とかいう領域を離脱しているように見えたとすると、それが青年たちの崇拝の欲求にとっていよいよ打ってつけのものとなった。この品位と、王侯のような典雅さは、余談ながら、半ば愛情のこもった「閣下」というあだ名を彼にもたらしたのであるが、厳しい反対にもかかわらず、年がたつうちに、高級委員会や、会議や、教育庁の共同事業においても、かなり特別な地位を彼に与えたのであった。彼の高い職の補充の問題は、もちろん熱心に討議された。いちばん熱心だったのは、ガラス玉演戯の英才たちであった。「影法師」の離任と旅立ちのあと、影法師の失脚をもくろみ、望みをとげた英才連が、みずから投票によって、三人の臨時代表者に名人事務局の機能を分担させた。といっても、もちろん、演戯者村内部の機能だけのことであって、教育委員会における官庁の機能は別であった。慣習によると、教育委員会は、三週間以上名人の職を埋めずにおくことはできなかっただろう。死んでいく、あるいは離任していく名人が、決定的な、競争の余地のない後継者をのこした場合は、その職はただちに、官庁のただ一回の全員会議を経て新任者を得た。今度はおそらくかなり長びくであろう。
喪のあいだ、ヨーゼフ・クネヒトは、友人と時折り、終了した演戯と、妙に沈滞したその経過について話した。
「あの代理者ベルトラムは」とクネヒトは言った。「役割をどうにかこうにか演じ終えたばかりでなく、つまりほんとの名人の役をしまいまで演じようと試みたばかりでなく、ぼくの見るところでは、ずっとそれ以上のことをした。彼は、自分の最後の最も厳粛な職務執行として、この荘厳演戯に自分を犠牲にささげた。君たちは彼に対して、無情だった、いや、残酷だった。君たちは祝典とベルトラムを救うことができただろうに、それをしなかった。ぼくはそれについてあえて批判はしない。君たちにはそれ相応の理由があったのだろう。しかし今となっては、あの気の毒なベルトラムは離任し、君たちは志をとげたのだから、寛容にすべきだ。彼が再び現われたら、君たちは彼を迎え、彼の犠牲を理解したことを示さなければならない」
テグラリウスは頭を振った。「ぼくたちはそれを理解し、受け入れたのだ」と彼は言った。「君は非常に幸運に、今度はお客として中立の立場で演戯に参加することができた。それで経過をそれほど詳しく心得ていない。いや、ヨーゼフよ、ぼくたちは、ベルトラムに対する何らかの感情を行為に変える機会を、もはや持たないだろう。彼は、自分の犠牲が必要だったことを知っており、それを撤回しようとはしないだろう」
このときはじめてクネヒトはベルトラムを完全に理解し、悲しそうに口をつぐんだ。彼は実際、今度の演戯期間を、ほんとのワルトツェル人として、同僚としてでなく、まったくむしろ客として体験したにすぎなかったことを悟った。それで今はじめて、ベルトラムの犠牲が本来どういう性質のものであったかを理解した。これまで彼の目に映じたベルトラムは、野心家で、自分の能力以上の任務に倒れたので、これ以上の野心の目標を断念し、一度は名人の「影法師」であり、年次演戯の指導者であったことを忘れるように努めなければならないのだ、と思われた。今はじめて、友人の最後のことばを聞いて、――そのとたんに彼は口をつぐんだのだが――ベルトラムが裁《さば》き手たちから完全に断罪され、もう帰ってこないだろう、ということを理解した。皆は、彼が祝典演戯を最後まで演じることを許し、失態なく演じ終える程度に援助した。しかし、そうしたのは、ベルトラムを大事にするためではなく、ワルトツェルを大事にするためであった。「影法師」の地位には、名人の全幅の信頼が必要であったが――その点ではベルトラムは申しぶんなかった。そればかりでなく、それに劣らず英才たちの信頼が必要であった。気の毒な男はそれを得ることができなかった。彼の主人であり、手本である人の場合と違って、彼があやまちを犯せば、彼を守ってくれるために聖職制度がうしろについているわけではなかった。以前の仲間から完全だと認められなければ、何の権威も彼を助けてくれなかった。そして彼の同僚である復習教師たちが彼の裁き手となった。彼らが仮借しなかったとすれば、「影法師」はおしまいだった。果してベルトラムは、山への旅からもはやもどってこなかった。しばらくたって、彼は絶壁から落ちて死んだ、と語り伝えられた。それ以上それは話題にならなかった。
その間に、宗団本部と教育庁の高官と最高首脳部が毎日演戯村に現われた。ひっきりなしに、英才連と役人の中から、ひとりびとり呼び出されて質問されたが、その内容については、英才連のあいだでだけあれこれと取りざたされた。ヨーゼフ・クネヒトもたびたび呼び出されて、質問された。あるときは、宗団本部のふたりから、あるときは、言語名人から、次いでデュボア氏から、さらに二名人から質問された。テグラリウスも同様に、類似の情報のため数回招かれたが、よい気分に興奮し、法王選挙の秘密室気分だと称して、しゃれを飛ばした。ヨーゼフは、演戯期間中すでに、英才連との昔の密接な関係がどんなに薄れてしまったかに、よく気づいていたが、このいわゆる法王選挙期間中にそれをなおいっそうはっきり感じさせられた。彼が他国の者のように客舎に泊っており、上司が彼とまるで対等の交際をしているように見えたばかりでなく、英才連、復習教師団のほうでも、打ちとけた同僚らしい態度で彼を迎えず、嘲笑《ちょうしょう》的な丁重さ、あるいは少なくとも傍観的な冷淡さで彼を迎えた。彼がマリアフェルスへの招きを受けたあのときすでに、彼らは彼から離れてしまった。それは当然であり、自然であった。つまり、自由の身から勤めの身へ、学生ないし復習教師の身分から聖職制度の中へ、ひとたび足を踏み入れたものは、もはや同僚ではなく、上官となり、親分となる道を進んでいるのであった。彼はもはや英才の仲間にははいらなかった。そして、英才連が当分自分に対し批判的な態度をとることを覚悟しなければならなかった。彼のような立場にあるものはだれでもそうだった。ただ、このとき、特に強く隔りと冷たさを感じただけであった。それは一つには、いま英才連が、いわば親を失い、新しい名人を迎えることになっていたので、二倍も密接に防御的に団結していたからである。またもう一つには、彼らの不退転の決意が「影法師」ベルトラムの運命に仮借なく現われたからであった。
ある晩テグラリウスが極度に興奮して客舎に駆けこみ、ヨーゼフを探し、あいたへやへ引っぱっていき、戸をしめて、せきを切ったように早口にしゃべった。「ヨーゼフ! ヨーゼフ! ああ、察しがついてもよかりそうだったのに。気づかなければならないはずだったのに。実際そんなにとっぴなことじゃなかったのだ……ああ、ぼくはまったく無我夢中だ。喜んでよいのかどうか、ほんとにわからない」演戯者村の報道のもとをあまさず詳細に知っているこの男は、熱中して報告した。ヨーゼフ・クネヒトがガラス玉演戯名人に選ばれるだろうということは、確からしいどころか、すでにいわば確実だ。多くの人からトーマス名人の予定の後継者と考えられていた記録所長官は、すでに一昨日、狭《せば》められた選考の範囲から除外された。英才の中の三人の候補は、名まえこそこれまで質問の際上位にあったが、ひとりも名人あるいは宗団本部の特別の好意や推薦を受けていないらしかった。これに反し、クネヒトのためには宗団本部の二構成員とデュボア氏が保証に立ったうえ、前音楽名人の重要な声が加わってきた。最近、前音楽名人が数人の名人から親しく訪問されたことは、確かにわかっている。そういうのだった。
「ヨーゼフ、あの人たちは君を名人にするのだ」と彼はかさねてはげしく力をこめて言った。すると、友はその口を手で抑えた。最初の瞬間ヨーゼフはその推測を聞いて、フリッツに劣らず驚き、心を打たれた。それは彼にはまったくありえないことと思われたが、「法王選挙の秘密室」の状態や推移に関する演戯者村の意見を、フリッツが語っているうちに、クネヒトは、友人の推測がまとはずれでないことを悟り始めた。むしろ、自分の心の中に肯定のような何かを感じた。自分はそれを確かに知って期待していたのだ、それは当然で自然なのだ、という感じだった。そこで彼は、興奮した友の口に手をあてて、突然距離ができでもしたように、遠くから、よそよそしく、たしなめるように友を見て、言った。「そんなにしゃべってはいけない、友よ、そんなおしゃべりは聞きたくない。仲間のところへ行きたまえ」
テグラリウスは、まだまだ言いたいことがたくさんあったが、その目付きに黙ってしまった。新しい、未知の人間にじろじろ見られているような目付きだった。それで彼はあおくなって、出ていった。後に彼の語ったところによると、クネヒトがこの瞬間示した不思議な冷静さを、彼は最初、なぐられ、侮辱されたように、ほおをぶたれたように、古い友情と親密さに対する裏切りのように、やがてなる最高の上司としての地位をひとあし先に利用し、どはずれて笠《かさ》に着る不可解な仕打ちのように感じた。実際彼は、打たれた人間のように立ち去ったのであるが、立ち去っていくうちに初めて、この忘れがたいまなざし、遠い、王者のような、しかし同じように苦しんでいるまなざしの心がわかってきた。友人は、自分にあてがわれたものを、高慢にではなく、謙虚に受け入れたのだ、ということがわかった。ヨーゼフ・クネヒトが少し前ベルトラムとその犠牲について尋ねたときの沈痛なまなざしと、その声にこもった深い同情の調子を、思い出さずにはいられなかった、と彼は語った。まるでクネヒト自身が、あの「影法師」と同じように、自分を犠牲にし、消滅させようとしているかのようであった。この友が彼を見つめた顔は、威厳があると同時に謙虚であり、崇高で、しかもすなおであり、孤独であって、運命にさからわず、さながらカスターリエンの既往の名人全部の記念碑のようであった。「仲間のところへ行きたまえ」と友は彼に言った。友は、自分の新しい位のことを初めて聞いた瞬間に、もう知りがたい人の列に入り、新しい中心から世界を見ていた。もはや仲間ではなく、仲間になることは決してないだろう。
クネヒトは、この任命を、この最後の最高の召命を、みずから十分に予測し、少なくともありうべきこと、おそらくは確からしいことと認めていたかもしれない。しかしそれは今度も彼を驚かし、不安をいだかせた。考えられないことではなかったのに、と彼は後になって自分に言った。そして、熱中しているテグラリウスに対し微笑した。テグラリウスは、この任命を初めから期待していなかったとはいえ、決定と発表の数日前に推定して、予言したのだった。実際、ヨーゼフが若いというようなことを除いては、彼が最高の官庁に選任されることに何の反対もなかった。同僚の大多数は、少なくとも四十五歳から五十歳の年齢で高い職についたのに、ヨーゼフはまだ四十歳にもならなかった。しかし、そういう早い任命を禁止するような法律は存在しなかった。
さてフリッツが、その観察と総合の結果でもって、友を驚かすと、何せそれは、小さいワルトツェル共同体の複雑な機構を微に入り細をうがって知っている練達の英才演戯者の観察であったから、クネヒトはすぐに、相手のことばのあたっていることを悟り、自分の選任と運命を理解し、受け入れた。しかし、その知らせに対する彼の最初の反応は、「そんなおしゃべりは聞きたくない」と言って、友だちを立ち去らせたことであった。相手が面くらい、侮辱でもされたようなふうで、立ち去ると、ヨーゼフはさっそく、気持ちをととのえるため、冥想の場所を訪れた。彼の省察は、折りから彼の心を異常な強さで襲った思い出の光景から出発した。その幻影の中に見えたのは、がらんとしたへやと、そこに置かれているピアノであった。窓から冷たく明るい午前の光がさしていた。へやの戸口に、美しいやさしい人が現われた。老いかけた人で、髪は白かったが、親切さと品位とのあふれた明るい顔であった。ヨーゼフ自身はしかし小さいラテン語学校生で、半ばびくびくし、半ば心をはずませて、音楽名人を室内で待っていた。英才学校の伝説的な州からやってきた、尊敬すべき人、名人を、今はじめて見るのだった。名人は、音楽とは何であるかを、彼に示すためにやってきて、それから彼を一歩一歩その州の中へ、国の中へ、英才連の中へ、宗団の中へ導き、迎え入れたのだった。彼は今この名人の同僚となり、兄弟になった。一方、老人は魔法の杖《つえ》、つまり名人のしるしを捨てて、愛想よくことば少なで、相かわらず親切で、品位高く、神秘に包まれたおじいさんに変った。そのまなざしと模範は、ヨーゼフの生活を見おろしていた。この老人は常に、品位と同時に謙虚さと名人気質と秘密にかけて、一世代だけ、人生の階段を数段だけ、いや、計り知れないくらい、彼にまさっているだろう。しかし彼の後援者として、のぼったり沈んだりする星が兄弟の星を引き寄せるように、穏やかに、しかし否応なしに、彼についてくるように促すだろう。クネヒトは、最初の緊張緩和の状態の中で、夢さながらに現われてくる心の映像の流れに、無心に身をゆだねていた。すると、流れの中から出てきて、かなり長いあいだとどまっているのは、とりわけ二つの心象、二つの映像、あるいは象徴、二つの比喩《ひゆ》であった。その一つの中では、少年クネヒトが、先に立つ名人について歩いていると、名人は案内者として前を歩いているが、振り返って顔を見せるたびごとに、年齢と静けさと品位とを加え、見る見るうちに、時間を越えた知恵と品位の理想像に近づいていった。他方、彼ヨーゼフ・クネヒトは、このお手本のあとに虚心におとなしくついていくのだったが、いつも変らず同じ少年だった。それに彼は、恥ずかしさを感じたり、一種の喜びを感じたり、反抗的な満足に近いものを感じたりした。第二の映像というのはこうだった。ピアノ室の光景で、老人が少年のところへはいってくる。それがひっきりなしに、いくどとなく無限にくり返された。名人と少年は、機械仕掛けの針金で引っぱられてでもいるように、互いにあとを追いあうので、だれが来て、だれが行くのか、だれが導いて、だれが従うのか、老人なのか、少年なのか、まもなく見わけがつかなくなった。あるときは、老齢と権威と品位とに尊敬と服従とを示しているのは、少年であるらしかった。あるときは、青春と始まりと明朗さとを現わす、軽快に先へ急ぐ姿によって、それに従って奉仕し礼拝するように強いられているのは、どうやら老人であった。そして、この無意味で意味深い夢の堂々めぐりをながめていると、夢みるものが、あるときは老人と、あるときは少年と一体になった。あるときは尊敬するものになり、あるときは尊敬されるものになり、あるときは案内者になり、あるときは服従者になった。そしてこの目まぐるしい変化の続いているうちに、ある瞬間が来ると、彼は二つのものになった。名人であると同時に小さな生徒になった。いや、そう言うより、彼は両者の上に立っていた。つまりこの循環、老人と少年とのあいだに無益にぐるぐると演じられる競争の主催者、考案者、操縦者、見物人であって、気のむくままに速度をゆるめたり、極度に早く駆りたてたりした。この段階から新しい心象が展開してきた。それは、夢というより象徴であり、映像というより認識であった。つまり、次のような心象、あるいは認識であった。名人と生徒とのこの意味深く無意味な堂々めぐり、知恵は青春を求め、青春は知恵を求める、この営み、無限に飛躍するこの戯れは、カスターリエンの象徴であった。いや、老若、昼夜、陰陽に分れて無限に流れる生そのものの戯れであった。ここから出発してやがて、冥想するものは、映像の世界から静安へ通じる道を発見し、長いあいだ続いた沈潜ののちに、力づけられ朗らかになって帰ってきた。
数日後、宗団本部が彼を呼び出したとき、彼は心安らかに出かけた。そして、最高の上司が握手と意味ありげな抱擁によって兄弟のあいさつをするのを、落ちついて、明るい真剣さで受け入れた。ガラス玉演戯名人に任命する旨を通告され、叙任と宣誓のため、明後日祝典演戯会館へ出頭するよう、言いわたされた。ついこのあいだ、永眠した名人の代理者があの息苦しい祝典を、金で飾られた犠牲の動物のように終了した、あの会館であった。叙任の前のあいた一日は、ふたりの上司の指導と監督のもとに、宣誓の形式と「名人規則抄」とを精細に研究し、儀式的な冥想を同時に行うことにあてられた。今度指導監督するのは、宗団局長と数学名人であった。この非常に骨の折れる一日の昼休みのあいだに、ヨーゼフは、宗団に採用されたときのことと、それにさきだって音楽名人に手引きされたときのことを、まざまざと思い出した。今度の採用の儀式はもちろん、年々数百人のものを迎えるように、広い門を通って大きな団体の中へ彼を導くのではなく、針のめどをくぐって最も高い最も狭い仲間の中へ、名人たちの中へはいっていくのだった。前音楽名人に彼が後に告白したところによると、厳しい自己批判のあの日、彼は、一つの考えに、まったくこっけいな小さな思いつきに、悩まされたそうである。つまり、お前は実に並みはずれて若く最高の位を授けられたのだ、と名人のひとりから言われる瞬間を恐れたのであった。彼は真剣にこの恐れ、この子どもじみたつまらない考えと、戦わなければならなかった。また、自分の年齢をあてこすられるようなことがあると、「じゃ、どうか静かに私に年をとらせてください。私はこんな昇進を求めたことはありません」と答えようとする気持ちと戦わなければならなかった。しかし、もっと立ち入って自己を検討してみると、無意識であるにせよ、任命されたいという願いは、そんなに彼の心に遠いものではなかったことが、わかった。彼はこのことを自認し、自分の考えのいわれのないことを悟り、それを放棄した。実際、彼はその日もその後も、ついぞ同僚から、年齢をとやこう言われたことはなかった。
もっともそれだけ、それまでクネヒトと努力を共にしてきた人たちのあいだでは、新名人の選任は熱心に論議され、批判された。公然たる反対者はなかったが、競争者はあり、その中には年長のものが数人いた。その仲間はあくまで、戦いと試練をへたうえで、少なくとも極度に厳密な批判的な観察をへたうえで初めて、選任を是認するという意見であった。たいていいつの場合でも、新名人の就任と就任初期は、浄罪火をくぐっていくようなものであった。
名人の叙任は公式の儀式ではない。最高教育庁と宗団本部とを除けば、上級の生徒と、新名人を迎える課目の候補者と役人だけが、儀式につらなるのである。式場の儀式でガラス玉演戯名人は、職務の宣誓をし、さらに、数個の|かぎ《かぎ》と印判とからなる職務のしるしを役所から受け取り、宗団本部の代表者から法服を着せてもらわねばならなかった。これは儀式用の上着で、名人の最高の式典の際、特に年次演戯の祝典の際、つけるものであった。このような式には、公の祝典に伴う高潮や軽い陶酔は欠けており、その性質上儀礼的で、むしろあっさりしているが、そのかわり、二つの最高官庁の全員が列席するだけで、もう異常な重みが加えられる。ガラス玉演戯者の小さい共和国が、その長となり、全官庁に対し代表者となるべき新しい主人を得るのである。それは重大な、めったにないできごとである。生徒や若い学生たちはその重大さをまだ十分に理解せず、この式典を単に儀礼、目の保養と受け取るかもしれないが、他の参列者はみなその重大さを意識し、所属の団体と一心同体となっていたので、その経過を自分の肉体や生活の中の経過のように感じるのである。今回は、式典の喜びが、前名人の死とその喪によってだけでなく、年次演戯の不安な気分と、代理者ベルトラムの悲劇によって曇らされていた。
着服の儀式は、宗団本部の代表者と演戯記録所長官とによって執行された。ふたりはいっしょに法服を高くかかげ、新しいガラス玉演戯名人の肩にかけた。短い祝辞を述べたのは、コイパーハイムの古典言語学の大家である文法名人で、英才たちから出されたワルトツェルの代表者が|かぎ《かぎ》と印判を手交した。パイプ・オルガンのそばには、老齢の前音楽名人がしたしく立っていた。彼は、愛弟子《まなでし》の着服を見るため、また思いがけぬ出席によって弟子をうれしく驚かすために、おそらくはまた二、三の助言を与えるために、叙任式にやってきたのであった。できることなら老人みずから祝いの音楽を奏したいところであったが、もはやそんな骨の折れることをする自信がなかったので、演奏は演戯者村のオルガン奏者にまかせ、自分はそのうしろに立って、楽譜をめくってやった。心のこもった微笑で彼はヨーゼフを見つめ、ヨーゼフが法服とかぎを受け取るのを見、まず誓いの文句を言い、それから、将来の協力者や役人や生徒に向って自由なあいさつを述べるのを聞いた。この少年ヨーゼフがきょうほど愛すべく好ましく思われたことはなかった。今はもう彼はヨーゼフであることをほとんどやめてしまい、ただもう法服をまとい、職務をになったものとなり、いわば王冠の宝石、聖職制度という建物の柱となっていた。残念ながら彼はヨーゼフ少年とほんの短いあいだしか、ふたりきりで話すことができなかった。朗らかにほほえみかけて、彼は急いでヨーゼフに強くさとした。「この三、四週間うまく切り抜けるように気をつけなさい。実にたくさんの仕事をさせられるからね。いつも全体を考えることだ。個々の事柄の手ぬかりは今ではたいして重要でないことを、いつも忘れないように。英才たちに心身をあげて打ちこまなければいけない。他のことは全然頭に入れないように。君の後見としてふたりの人が送られてくるだろう。そのひとりはヨーガ〔瑜伽《よーが》〕行者アレクサンダーで、わしのおしえを受けている。彼の言うことをよく聞きなさい。彼は自分のすべきことを心得ている。君に必要なのは、上司が君を同僚に引き立てたのは正しかったのだという、岩のように堅い信念だ。上司を信頼しなさい。君を助けるためによこされる人々を信頼しなさい。君自身の力を盲目的に信頼しなさい。しかし、英才連に対しては、陽気な、油断のない不信をもってのぞむように、彼らは当然それを予期しているのだ。君は勝つだろう、ヨーゼフよ、わしにはそれがわかっている」
名人の職務の大部分は、新名人にとってなじみの深い熟知した仕事であった。すでに属官、もしくは助手の資格で従事したことがあった。いちばん重要なのは演戯講習で、生徒のためや初心者のための講習、休暇講習や、来賓講習から、英才のための実習、講義、演習に及んだ。最後のものを除けば、この仕事は、新任の名人はだれでも、らくらくとやりこなした。これに反し、一度も実際に行う機会のなかった新しい職務は、ずっと多くの、心配と苦労を伴わずにはいなかった。ヨーゼフにとってもそうだった。できることなら彼は当座この新しい義務に一心不乱に立ち向いたいところだった。それは、名人特有の仕事、つまり、最高教育委員会で協力し、名人委員会と宗団本部とのあいだの共同作業に従い、全官庁に対してガラス玉演戯と演戯者村とを代表することであった。彼は、この新しい仕事に熟達し、無知な人間だと思われないようにしたいと熱望した。なんとかして当分数週間暇な身になって、憲法や礼式や会議の記録などの精細な研究に没頭したかった。この分野で事情を知らせ教示をしてくれる人として、デュボア氏のほかに、名人の形式や伝統について最も豊かに経験を積んでいる専門の大家が、彼の力になってくれることを彼は知っていた。それはすなわち宗団本部の代弁者で、この人自身は名人でこそなかったけれど、つまり階級の点では名人より本来下であったけれど、官庁のあらゆる会議を宰領し、王公の宮廷の式部長官のように、伝統的な秩序にりっぱに物を言わせた。この賢い、経験を積んだ、まぶしいほど丁重であるが、見透しがたい人、ついこのあいだおごそかに法服を着せてくれたこの人に、クネヒトはどんなに個人教授を受けたいと願いたかったことだろう。せめて、この人が、どっちみち半日行程だけ離れているヒルスラントでなくて、ワルトツェルに住居を持ってさえいたら! しばらくのあいだモンテポルトへのがれて、前音楽名人に上述のことの手引きを、どんなにしてもらいたかったことだろう! しかし、そんなことは思いもよらなかった。そのような個人的な、学生らしい願いをいだくことは、名人には許されなかった。むしろ初めのあいだは、なんのぞうさもあるまいと考えていた職務に、ひたすらひたむきに注意をはらい、心を打ちこんで従わねばならなかった。ベルトラムが祝典演戯のあいだ、自分の所属する団体、つまり英才仲間から見捨てられた名人代理として、いわば真空の空間の中で戦い、窒息するのを、クネヒトが見たとき、ほのかに感じたこと、そして着服式の日モンテポルトの老人のことばが裏書きしたこと、そのことが、就任してからの一瞬ごとに、自分の立場を考えてみる一瞬ごとに明らかになった。つまり、自分は何をおいても、英才たちと、復習教師団と、研究の最上級と、演習と、復習教師たちとの個人的な交わりとに専心しなければならないことがわかった。記録所は記録官に、初心者講習は現在の教師たちに、郵便は秘書にまかせることができた。それでたいした手ぬかりにはならないだろう。だが、英才たちを放任しておくことは、一瞬たりともできなかった。彼は、彼らに献身し、強く迫り、自分がいなくてはだめだと彼らに思わせ、自分の能力の値打ちと意志の純粋さを確信させ、彼らを征服し、彼らの意を迎え、身方にし、候補者になろうとするだれとでも力くらべをしなければならなかった。そういう候補者にはこと欠かなかった。その際、以前はあまり役にたつまいと思っていたいろいろのことが役にたった。特に、ワルトツェルと英才仲間から長いあいだ離れていたことが、役にたった。今彼はほとんど新人としてここに再び現われたからである。テグラリウスの友情さえ有用であることがわかった。というのは、テグラリウスは、機知に富んだ虚弱な局外者で、立身出世街道を行くものにとっては明らかに問題にならないし、彼自身も野心はほとんど持っていないらしかったので、新名人に引き立てられるようなことがあったとしても、競争者たちにとって不利になることはなかったからである。それでもやはりクネヒトは、大部分の選《え》り抜きの仕事は自分でして、演戯世界のいちばん上の、いちばん活気のある、いちばん落ちつかない、いちばん敏感な層を探り抜いて、騎士がすぐれた馬を乗りこなすように、彼らを思いのままにしなければならなかった。ガラス玉演戯の場合に限らず、カスターリエンの施設ではどこでも、教育は終えたけれどまだ自由に研究しており、教育庁や宗団の勤務に配置されていない候補者たちの中の英才は、復習教師とも呼ばれ、最も貴重な持ちごま、正真正銘の予備であり、カスターリエンの精華と未来を現わしている。そして、演戯者村においてだけでなく、至る所で、この後継者の高慢な選り抜きは、新しい教師や上司に対してすこぶるそっけなく、批判的な気分を現わし、新しい上長に対しかつがつ最小限度の礼儀と服従を示すのである。したがって、彼らに自分を認めさせ、自分の指導に自発的に従わせるためには、あくまで個人的に、当人の全部をあげて彼らを身方にし、承服させ、征服しなければならない。
クネヒトは、不安もいだかず、この課題に立ち向ったが、その困難に驚いてしまった。それを解決し、彼にとって極度に骨の折れる、いや心身をすりへらす仕事に打ちかっているあいだに、むしろ彼が心配して考えがちであった別の義務と課題が、ひとりでに引っこんで、あまり注意を要求しなくなったようであった。彼がある同僚に打ち明けたところによると、彼は役所の第一回の全体会議に急行便で到着し、終了後急行便で帰ったので、会議は夢うつつですごし、あとでは何も考えることができなかった。それほど完全に、現在の仕事に心を奪われていたのであった。それどころか、会議そのもののあいだでさえ、しかもその議題は彼の興味を引いており、またこれは役所に初めて登庁するというので、いくらか不安な気持ちでのぞんでいたのに、自分の頭はここで同僚にまじって討議をしておらず、ワルトツェルに残って、記録所の青く塗られたへやにいるのに気づいて、いくどもはっとした。目下彼はそのへやで、三日ごとに、わずか五人の参加者を相手に、弁証法の講習をしていたが、そこの一時間一時間が、いつも、あとの勤務時間全部より大きな緊張と力の消費を必要とした。あとの勤務時間も楽ではなく、どこにものがれるところがなかった。前音楽名人の告げたとおり、初めのあいだ、役所から、駆りたて役の監督が彼につけられたからである。この監督は、彼の日課を一時間一時間監視し、時間の割り振りに知恵を貸し、かたよらないように、力を出しきってしまわないように、彼を守ってくれる義務があった。クネヒトはこの人に感謝した。それ以上に彼が感謝したのは、宗団本部から派遣された人で、評判の高い冥想術の名人であった。アレクサンダーという名であった。この人は、緊張のぎりぎりまで仕事をするクネヒトが毎日三回、小さい業《ぎょう》、あるいは短い業に従うよう、その業の経過や継続|分数《ふんすう》は、極度に精確に守られるよう、心をくばった。自分を鍛えてくれる人と、冥想を教える宗団人と、このふたりとともに、クネヒトは毎日、夕べの冥想の直前に、一日の職務を振り返って反省し、進歩と敗北とを確かめ、冥想教師の言い方によると、「脈をさわって」みなければならなかった。つまり、自分自身と、現在の状態と、健康と、力の配分と、希望と、心配とを認識し、計り、自分自身と日々の仕事とを客観的に見て、未解決のものは何ひとつ、夜と翌日へ持ちこまないようにしなければならなかった。
復習教師たちが、一部は同情的な関心をもって、一部は挑戦的な関心をもって、名人の大きな仕事をながめ、どんな機会ものがさず、名人の力量と忍耐力と機知とをその場の思いつきでちょっとためしてみ、その仕事をあるいは励まし、あるいは妨げようとしているうちに、テグラリウスの身辺には耐えがたい空虚が生じた。クネヒトがいま彼のためにどんな注意も、時間も、考えも、関心もはらう余裕のないことは、彼にもよくわかったが、自分が友人にとって急にすっかり忘れられてしまったようになったことに対しては、いくら無情冷淡だと言っても足りないくらいだった。日ごとに友人を失っていくように思われたばかりでなく、仲間からもある程度の不信な目にあい、ほとんど話しかけられなかったから、なおさらであった。それも不思議はなかった。なぜならテグラリウスは、たとえ野心家たちを本気に妨げることはありえなかったとはいえ、やはり不偏不党ではなく、若い名人に重んぜられていたからである。そういうことは一々、クネヒトにもよく考えられた。しかし、他のいっさいの個人的なこと私的なこととともに、この友情をもしばらく除外することは、彼の目下の課題の一つであった。しかし、後にこの友に打ち明けたように、ほんとに承知してことさらにそうしたわけではなくて、まったくわけもなく、友だちを忘れてしまったのだ。彼はすっかり道具になりきったので、友情というような個人的なものは消えてしまって、ありえないものになった。どこかで、たとえば五人でやっている演習室で、フリッツの姿や顔が現われてくることがあっても、それはテグラリウスではなく、友人でも、知人でも、人物でもなく、英才たちのひとりであり、学生であった。むしろ候補者であり、復習教師であり、仕事と任務の一片であり、いわばそれを訓練して、勝つという目標に使うところの軍隊の一兵士であった。フリッツは、初めて名人からそんなふうに話しかけられたとき、ぞっと身ぶるいを感じた。そのまなざしによって、名人のこのよそよそしさと客観的な態度は、装ったものでは決してなく、真実な無気味なものだということ、自分の前にいて、精神的に非常に緊張していながら自分をこんなに客観的な丁重さで取り扱う人は、もはや友人ヨーゼフではなく、教師に、試験官に、ガラス玉演戯者にすぎないことを、火の中でまわりに注がれて硬《かた》くなった、つやのある上ぐすりに囲まれてでもいるように、真剣さと厳格さに囲まれ、隔絶されていることを、フリッツは感じた。それはそうと、テグラリウスにとってこの興奮した数週間のうちに、ちょっとした不慮の事件が起きた。にがい思いを味わったため不眠症になり、心からくたくたになっていたので、小さい演習の際に、はしたないことを、小さな爆発を引き起してしまった。もっとも名人に対してではなく、嘲笑的な調子で彼の神経に触れるようなことをした同僚に対してであった。むろんクネヒトはそれに気づいた。失礼を犯した人間の過度に興奮した状態にも気づいていた。彼は無言で指を動かして、たしなめただけであったが、あとで冥想名人をやって、このむずかしい男に魂の救いを施させた。この配慮をテグラリウスは、数週間も見捨てられていたあげく、再び目ざめてきた友情の最初のしるしと感じた。彼はそれを、彼に個人的に向けられた親切と取って、進んでその治療を受けた。実際はクネヒトは、この配慮をだれに示すのかほとんど意識しなかった。単に名人として振る舞ったにすぎなかった。彼は、一復習教師が興奮して度を失ったのに気づき、それに教育的に反応しただけであって、その復習教師を個人と見て、自分自身に結びつけるということは、一瞬たりともしなかった。数カ月後、友人が、この場面を彼に想起させ、あの好意のしるしによって自分をどんなに喜ばせ、慰めてくれたかを、力をこめて語ったとき、ヨーゼフ・クネヒトは、そのことをすっかり忘れていたので、誤解のままにしておいた。
ついに目的は達せられ、戦いには勝った。これらの英才連をかたづけ、くたくたになるまで訓練し、野心家を制御し、腹のきまらない者たちを身方にし、高慢な者たちに畏敬《いけい》の念を起させるのは、たいへんな仕事であった。しかし今はもうその仕事を果した。演戯者村の候補者連が名人を認め、名人に心服したとなると、にわかに万事が容易になった。まるでただ一滴の油が欠けていただけだ、という観があった。駆りたて役は、クネヒトといっしょに最後の仕事の予定を作ると、当局の賞讃を述べて、去った。冥想名人アレクサンダーも同様だった。朝のマッサージのかわりに、また散歩をすることになった。研究のようなものはもとより、読書さえ、当分まだ考えられなかったが、晩、就寝する前にはまた少し音楽をする日があるようになった。その次に官庁に出頭したときは、クネヒトは、口にこそ出さなかったが、今は同僚のあいだで折り紙をつけられた同等の者と見なされているのを、はっきりと感じた。真価を示すための烈火の勢いに献身した後に、今は目ざめと、冷却と、平静が訪れた。彼は自分がカスターリエンの中心に、聖職制度の最上階にいるのを知った。そして、このようにきわめて希薄な空気でも呼吸できることを、しかしもちろん、ほかの空気を知らないかのように、それを呼吸している自分が、すっかり変ってしまったことを悟って、妙な興ざめと、ほとんど失望を感じた。それが、ほかのどんな勤めや努力もこれまでなしえなかったほど、彼を焼きつくした、この厳しい試練の時期の結果であった。
名人が英才たちの賞讃を得ると、今度はそれが特別な形で現われた。復習教師たちの抵抗がやみ、信頼と和合とが感じられるようになって、最大の難関を越えると、クネヒトにとって、「影法師」を選ぶときが来た。実際、ほとんど超人間的な力の試練から急に相対的な自由の中へ解放された、勝利のあとのひとときほど、影法師と負担軽減を必要としたことはなかった。これまでにもすでに、ちょうどここまで来て倒れたものが少なくなかった。さてクネヒトは、候補者の中から選び出すという当然の権利を放棄して、復習教師団に、彼ら自身の選んだ「影法師」を提供するように頼んだ。ベルトラムの運命から受けた印象をまだ忘れかねていた英才たちは、このねんごろな態度を二倍も真剣に受け取り、いくども会議を開き、秘密に問合せをした後に、選定を行い、彼らの中でいちばんすぐれたもののひとりを代理者として名人に推薦した。それは、クネヒトが任命されるまでは、名人位の最も有望な候補者と見なされていた人物であった。
これでおそらく最も厳しい試練は切り抜けられた。また散歩と音楽とが行われるようになった。時がたつにつれ、また読書を考えることも許されるだろう。テグラリウスとの友だち付き合いも、ときにはフェロモンテとの文通もできるようになるだろう。時折りは半日の自由か、いつかは小さな旅行休暇も得られるだろう。しかし、そういういろいろな快適なことも、別人になればいざ知らず、これまでのヨーゼフには役にたたなかっただろう。熱心なガラス玉演戯者で相当りっぱなカスターリエン人だと自負してはいたものの、カスターリエンの秩序の核心に思い及ばず、ごく無心にかってに、子どもらしく遊戯的に、はたから思い及ばぬほど個人的に、責任を負わずに暮してきた従来のヨーゼフには、そんなものは役にたたなかったろう。もうしばらく自由な研究の生活をさせてほしいという願いを口に出したあとで、トーマス名人から聞かされた嘲笑的な警告のことばを、あるとき彼はふと思い出した。「しばらくだって――いつまでのことかね? 君はまだ学生のことばを話しているね、ヨーゼフ」それは数年前のことであった。驚嘆と深い尊敬をもってトーマス名人のことばを聞いたものであった。同時にまた、この人の非個性的な完全さと規律とに対しひそかに身ぶるいしたものであった。そして、カスターリエンはクネヒト自身に向っても手をのばし、彼を吸いこんで、いつかはトーマスのようなものに、つまり、名人に、支配者兼奉仕者に、完全な道具にしようとしているのを感じた。今彼は、かつてトーマス名人が立ったところに立っていた。復習教師たちのひとり、海千山千の抜けめない演戯者で在野の学者である彼らのひとり、勤勉で高慢な公達のひとりと話をするごとに、クネヒトは相手を見て、別な、異様な美しさの、不思議な、かたづけられてしまった世界をのぞきこむのだった。ちょうどかつてトーマス名人が彼の不思議な学生の世界をのぞいたのと、そっくり同じように。
[#改ページ]
第七章 在職時代
名人の職務を引き受けたことが、当初は利益よりは損失をもたらしたように見え、精力と個人的な生活をほとんど食いつくし、いっさいの習慣と趣味とにとどめをさしてしまい、過労のため、心の中には冷たい静止を、頭の中には目まいの感じのようなものを残したとすると、それに続く休養と反省と慣れの時期は、それなりにまた新しい観察と体験とをもたらした。その最大のものは、戦い終って後、英才たちと信頼のこもった友好的な協力ができることになったことである。「影法師」と相談したり、試験的に文書通信の助手に使っているフリッツ・テグラリウス相手に仕事をしたり、前任者が残していった、生徒や協力者に関する成績やその他の覚え書を、徐々に研究し、再検討し、補充したりしているうちに、急速につのっていく愛情をもってこれらの英才たちの中にはいりこんでいった。彼は彼らをいたってよく知っているつもりであったが、その本質も、演戯者村の全特性も、カスターリエンの生活で自分の演じる役割も、今はじめてその実相がわかったのであった。いかにも彼は、この英才仲間と復習教師団に、芸術的であると同時に名誉心の強いワルトツェルの演戯者村に、多年所属し、自分をあくまでその一部だと感じてきた。しかし今彼は、もはや何らかの部分であるばかりでなく、この団体と緊密に生活を共にするばかりでなく、自分はこの団体の脳髄、意識、さらにその良心である、と感じた。その動きと運命を共に体験するばかりでなく、それを導き、責任を負っているのであった。初心者のための演戯教師養成講習の終了に際し、興奮した気分のときに、彼はこう言明したことがある。「カスターリエンはそれ自体小さい国家である。わが演戯者村はこの国家の中の一小国である。小さいが、古くて誇りを持つ共和国で、その姉妹たちと同列、同権であるが、その任務が特に芸術的で、いわば神聖な性質を持っているので、自覚を強められ高められている。なぜならわれわれは、カスターリエン本来の神聖な宝、その独特の秘密と象徴、すなわちガラス玉演戯を守る光栄ある任務を与えられているからである。カスターリエンは、すぐれた音楽家、美術史家、言語学者、数学者、その他の学者を教育する。カスターリエンのいっさいの施設は、そしてすべてのカスターリエン人は、ただ二つの目標と理想を知らなければならない。すなわち、自分の専門において、できるだけ完全な仕事をすること、そして、自分の専門を絶えず他のいっさいの学科と結びつけ、すべてのものと深い親交を保つことによって、自分の専門と自分自身とに活気と弾力とを保つことである。この第二の理想、つまり人間のいっさいの精神的努力は内面的に一体であるという思想、総合性の思想は、わが崇高な演戯において完全な表現を見いだした。物理学者、あるいは音楽史家、あるいはいずれかの他の学者にとっては、ときとして自分の専門に厳格に禁欲的に閉じこもることが要求されるかもしれない。また、普遍的教養の思想を放棄することが、その時々の特殊な最高能率にとって効果的であるかもしれない。――われわれはいずれにしても、われわれガラス玉演戯者は、この限定と自己満足を決して是認し、実行してはならない、なぜなら、学芸の総合の思想と、その最高の現われである高貴な演戯とを守り、個々の学科が自己満足に走る傾きがあるのに対してこれを絶えず救うことが、まさしくわれわれの任務だからである。しかし、みずから救われたいという願いを持たぬものを、どうして救うことができようか。考古学者や、教育学者や、天文学者などに、自己満足的な専門知識を放棄せよ、他のあらゆる学科に絶えず窓を開け、とどうして強制することができよう? たとえばガラス玉演戯をすでに学校で正式の課目にするというような強制規定によって、強制することはできない。また、われわれの先輩がこの演戯をどう考えていたか、ということを単に想起させることによっても、そうすることはできない? われわれの演戯とわれわれ自身とが欠くべからざるものであることを証明する方法はただ一つしかない。すなわち、われわれは常に全精神生活の頂点から下ることのないようにし、学問の新しい収穫や方向や問題をすべて注意深く摂取し、われわれの普遍主義を現わしている高貴なかつ危険な演戯を、統一の思想で常に新しくくり返し優美に、人を首肯させるように、心を引くように、魅力あふれるように作りあげ、運営して、どんなまじめな研究家や勤勉な専門家でも、絶えずその警告と誘惑と甘言とを感ぜずにはいられないようにすることである。考えてもみるがよい。われわれ演戯者がしばらくのあいだ、仕事に対する熱意を減退させ、初心者に対する演戯講習が従来より退屈になり、表面的になったとしたら、また上級者のための演戯において専門学者が、生き生きと脈打つ生命や、精神的な現実的な活気や、おもしろさを失ったとしたら、われわれの年次大演戯が二、三回引き続いて、賓客から空虚な儀式だ、生命がない、古くさい、過去の旧弊な遺物だと感じられたとしたら――われわれの演戯とわれわれとはどんなに急速に没落することだろう! ガラス玉演戯が一世代前に立っていた輝かしい高さに、今日すでにわれわれは立っていない。あのころは、年次演戯は、一、二週間ではなく、三、四週間つづいて、カスターリエンにとってばかりでなく、国全体にとって、その年の頂点であった。今日でも年次演戯には、政府の代表者が一名列席するが、退屈したお客であることが実に多い。いくつかの都市と議会はまだ使節を送ってくるが、演戯期間の終りごろになると、これらの世俗的な勢力の代表者は、祝典が長く続くので、代表者を送ることを見あわす都市が少なくないこと、祝典をぐっと短縮するか、将来二、三年ごとに開催するにとどめるほうが、時勢にかなっているかもしれないことを、時折り丁重な形でほのめかすのである。ところで、こういう発展、いや、衰退を阻止することはできない。われわれの演戯が外の世界でやがて全然理解されなくなり、祝典がわずかに五年ごと、あるいは十年ごとに行われるか、あるいは全然もはや行われなくなることも、十分ありうる。しかしわれわれが食いとめなければならないこと、食いとめうることは、演戯がわれわれ自身の故郷で、われわれの州で、信用と価値を失うことである。この点ではわれわれの戦いは、希望に満ちており、いくどでも勝利を得ることができる。毎日のように経験することであるが、若い英才学校生徒で、たいして熱意もなく演戯講習に申込みをし、神妙に、しかし感激を持たずに修了したものが、突然、演戯の精神や、知的な可能性や、尊敬すべき伝統や、魂を動かす力に心を打たれ、われわれの熱情的な帰依者《きえしゃ》、同志となる。また、位階も名声も高い学者で、豊富な仕事をしている年間を通じ、われわれガラス玉演戯者をむしろ上から見おろし、われわれの施設の繁栄を必ずしも願っていないと思われていた人々が、毎年、荘厳演戯の際、大演戯の進行中に、われわれの芸術の魔力に次第に溶かされ、引きこまれ、ほぐされ、高められて、若返り、飛躍し、ついには心を強められ、感奮して、恥じ入ったような感謝のことばをもって、別れを告げていくのを、われわれは見る。われわれの任務を果すために自由に用いることのできる手段をちょっと考察してみると、豊かな美しい整然とした機構がある。その心臓、中心は演戯記録所であるが、われわれは皆、たえずこの機構をありがたく利用しており、名人や記録官から末席の助手に至るまで、それに奉仕しているのである。われわれの施設の最も生き生きとした精華は、最も優秀なもの、すなわち英才選抜のカスターリエン古来の原則である。カスターリエンの学校は、全国から最も優秀な生徒を集め、それを教育する。同様に、演戯村では、演戯に対し愛と天分を持っているものたちのあいだから、最も優秀なものを選び出し、それを確保し、いよいよ完全に教育しよう、と努める。われわれの講習と演習は、数百人を採用し、やがて帰らせるが、最も優秀な者は、真の演戯者として、演戯の芸術家としてどこまでも教育していく。諸君はみな知っているように、われわれの芸術には、すべての芸術においてと同様、発展の終点というものがない。また、われわれは皆、ひとたび英才の一員になったうえは、官吏に属するか否かにかかわりなく、自分自身とわれわれの芸術とをさらに発展させ、洗練させ、深める仕事に終生たずさわる。英才というものの存在をときとしてぜいたくだと非難し、官吏の地位をたえず補充するに必要である以上に、英才演戯者を養成すべきでない、と考える人もいる。しかし、一つには、官吏階級というものはそれだけで十分な制度ではないし、次には、たとえば、すぐれた言語学者が必ずしも教師に適してはいないように、だれでもが官吏に適しているわけでは決してない。復習教師団は単に、われわれの穴を埋め、後継者を供給する天分を有し、演戯に経験を積んだ人々の貯水池ではないことを、われわれ官吏は、いずれにしても、心得ており、はっきり感じている。われわれの施設の意義や存在の根拠が問題になると、事情を察しないものに対して、われわれはすぐにこの点を大いに強調はするけれど、これは演戯英才の付随的な働きにすぎない、と言いたいくらいである。いや、復習教師は、第一に未来の教師、講習指導者、記録官だというわけではない。彼らは彼ら自体が目的である。彼らの小さい一団は、ガラス玉演戯の本来の故郷であり、未来である。ここの数十の心臓と頭脳の中で、われわれの演戯の発展、順応、飛躍、時代精神や個々の科学との対決などが行われる。われわれの演戯がほんとに正しく、全価値を発揮して、全力をかけて演じられるのは、ここにおいてだけである。ここの英才のあいだにおいてだけ、演戯はそれ自体目的であり、神聖な奉仕であって、趣味とか教養の虚栄とか、もったいぶりとか迷信とかともまったく別物なのである。演戯の未来は、君たちワルトツェルの復習教師たちの双肩にかかっている。演戯はカスターリエンの心臓であり核心であり、君たちはわれわれの村の核心であり、最も活気のある生命であるから、君たちこそまったくカスターリエン州の塩であり、精神であり、不安である。君たちの数が多くなりすぎ、君たちの熱意がはげしすぎ、りっぱな演戯に対する君たちの情熱が熱烈すぎるというような危険は存在しない。その情熱を高めたまえ、高めたまえ! 君たちにとっては、すべてのカスターリエン人にとってと同様、根本においてただ一つの危険しか存在しない。それに対してはわれわれはみな毎日警戒しなければならない。われわれの州と宗団の精神は、二つの原理、すなわち、研究における客観性と真理愛、および冥想的な知恵と調和との育成の上に築かれている。この二つの原理の均衡を保つことは、われわれにとって、賢明であり、宗団を恥ずかしめないことにほかならない。われわれは学問を愛する。各人は各自の学問を愛する。しかし、学問に対する献身は、必ずしも利己や悪徳や愚行に対して人を絶対安全に守ることはできないことを、われわれは知っている。学問の歴史には前例がたくさんある。ファウスト博士という人物は、この危険を文学的に通俗化したものである。他の世紀では、精神と宗教の結合、探究と禁欲の結合に、避難所が求められた。文芸大学では神学が支配していた。われわれのあいだでは、冥想と多様の段階のあるヨーガ修業によって、われわれの内なる動物と、すべての学問に巣くっている悪魔を追い払おうと努める。さて、諸君も私と同じようによく心得ているが、ガラス玉演戯も悪魔を内に蔵しており、空虚な技巧、芸術家的な虚栄の自己満足、成功主義、他人を制する力の獲得、それにつれてその力の乱用へ堕する可能性がある。それゆえ、知的教育とは別な教育も必要である。われわれは宗団の道徳に服従しているが、それはわれわれの精神的能動的な生活を折り曲げて、心霊的植物的な夢の生活に変えるためではなく、それとは反対に精神的な最高能力を可能にするためである。われわれは活動的生活から冥想的生活へ逃《のが》れてはならない。またその逆もいけないのであって、両者のあいだを往復して、両者を家として、両者に関与しなければならない」
クネヒトのことばは、職務に関する彼の考え方、少なくとも名人になった最初の両三年間の考え方をたいそうよく明らかにするので、ここに転載した。似たようなことばはたくさん弟子たちによって書きとめられ、保存されている。彼が卓越した教師であったことは(初めは自分自身でさえ驚いたくらいである)、彼の講演の筆記が目を見はるほどたくさん今日まで伝わっていることによっても、すでに明らかである。教えることが、彼に非常に多くの喜びを与え、しかもきわめて容易に成功したことは、高い職務に初めから伴ってきた発見と驚きとの一つであった。彼はそれを考えたこともなかったろう。というのは、今まで彼は教師の仕事にあこがれたことは一度もなかったからである。もちろん、英才のだれかれと同じく、上級学生のときにもう時折り、短いあいだではあるが、授業をする依頼を受けて、いろいろな程度のガラス玉演戯講習で、代理として教えたことがあるし、もっとたびたびそういう講習の参加者に復習教師を勤めたことがあった。しかし当時の彼には、研究の自由と、その時々の研究の領域への孤独な集中が、好ましく重要であったので、そのころもう彼は巧みな教師として人気があったが、その依頼をむしろありがたくない妨げと見なしていた。最後に、例のベネディクト修道院でも講習を行なったが、それはもちろん、それ自体としてたいして意味がなく、彼にとっても同様に意味がなかった。あすこでは、彼にとっては、ヤコブス神父について学び、この人と交わることが、他のいっさいの仕事を片手間のことにしてしまった。良い生徒であること、学ぶこと、摂取し、自己を教育すること、それがあのころは彼の最高の努力であった。今はその生徒が教師になっていた。何よりも教師として彼は、就任初期の大きな課題をかたづけた。つまり、権威を獲得し、個人と職務とをぴったり合致させるための戦いに勝った。その際、彼は二つの発見をした。精神的に獲得したものを他の精神に移植し、それが変化して、まったく新しい現われ方をし、光を放つのを見ることによって得られる喜び、すなわち教える喜びが一つ。も一つは、学生や生徒の人格との戦い、権威と指導権を獲得し行使すること、すなわち教育する喜びであった。彼は両者を決して分離したことはなかった。名人の職にあるあいだ、多数のすぐれた、最もすぐれたガラス玉演戯者を養成したばかりではない。弟子の大きな部分を、実例と模範、警告、厳しい性質の忍耐、人間として性格としての彼の本質の力などによって、弟子たちの達しうる最上のものにまで伸ばしてやった。
その際、彼は、ここで先まわりすることが許されるならば、特色のある経験をした。職務活動をはじめたころ、彼はもっぱら英才たち、生徒の中の最上層のものたち、学生、復習教師を相手にした。その中には彼と同じ年齢のものが少なくなく、いずれも皆すでに完成された演戯者であった。英才たちを確実につかんだとき、初めて彼は徐々に、ゆっくり用心深く年ごとに、力と時間とを英才たちから抜いて、ついには腹心の者や協力者にほとんどまったくまかせきることさえ、ときにはできるようになった。その過程は数年かかった。一年一年とクネヒトは、自分の指導する講演や講習や実習において、生徒のうちだんだん隔りの大きい若い層へ逆にさがっていき、しまいには、演戯名人はめったにしないことであったが、いちばん若いものたち、つまりまだ学生になっていない生徒たちのために、いくども親しく初心者講習をさえしてやった。すると、生徒が若くて無知であればあるほど、教える喜びは大きいのに気づいた。こうした年月を重ねていくうちに、若いものやいちばん若いものから学生あるいは英才へもどるのは、まったく不愉快で、ひどく骨の折れることを、いくども経験した。いや、ときとして彼は、もっとずっとさがって、もっと若い生徒たち、まだ講習もガラス玉演戯もまったく知らないものたちに、実験をしてみたいという願いを感じた。たとえば、しばらくのあいだエシュホルツ、あるいは他の準備学校の一つで、小さい少年にラテン語、唱歌、あるいは代数を教えてみたいと思うこともあった。そこでは、ガラス玉演戯の最初級講習の場合よりもずっとわずかの才気で事足りたが、ずっと率直で柔軟で教育しやすい生徒を相手にするのであろうから、授業と教育とはなおいっそう深く一体になった。名人の職にあった最後の二年間に、彼は手紙の中で二回「教員」と自称した。それはマギステル・ルディという名称は、数世代も前からカスターリエンではもっぱら「演戯名人」を意味してきたが、本来は単に教員の称号だったことを思い出したからである。
もちろん今となっては、そういう教員になりたいという願いを実現することは、問題にならなかった。灰色の寒い冬の日に真夏の空を夢みるような夢であった。クネヒトにとってはもはや道は開けていなかった。彼の義務は職務によってきめられていたが、この義務をどういうふうに充実するかという方法は、きわめて広範囲に彼自身の責任にまかされていたので、年月のたつうちに、初めはもちろんまったく無意識ではあったが、次第に強く主な興味を教育に、それも手のとどくかぎり若い年齢層に向けた。年をとればとるほど、若いものが彼を引きつけた。今日では少なくともそう言ってよいだろう。が、当時は、クネヒトの職務執行ぶりのどこかに、好きこのみや気ままをかぎつけることは、批評家にだって骨が折れただろう。実際、職務に余儀なくされて、彼は絶えず英才たちへもどった。演習室や記録所をほとんどまったく助手たちや「影法師」にまかせたときになっても、たとえば毎年の演戯競争、あるいは公式年次演戯の準備などのような、長期にわたる仕事のため、彼は英才たちと活発に毎日のように接触した。友人フリッツに彼はあるとき冗談に言ったことがある。「臣下に対する不幸な愛に終生なやまされた王公があった。心の中では、農夫や、羊飼いや、職人や、学校の教師や、学童に引きつけられたが、彼らはそういう人々をめったに見ることができなかった。いつも大臣や将校が彼らをとり囲んでいて、王公と人民とのあいだを壁のようにふさいでいた。名人も同様だ。人間を相手にしたいと思っても、見るのは同僚ばかりだ。生徒や子どもを相手にしたいと思っても、見るのは、学問をしたものや英才連ばかりだ」
だが、われわれはあまり先まわりしすぎた。クネヒトの在職時代の初期にもどろう。英才連に対して望ましい関係を樹立した後は、彼が親切な注意深い主人として確保しなければならなかったのは、何よりも記録所の役人たちであった。書記局も職務運びの構成の点で研究し整備しなければならなかった。絶えず郵便がたくさん来た。全官庁の会議や回章が絶えず彼を義務や課題へ呼び出した。それを理解し、正しく整理するのは、新前《しんまい》には容易なことではなかった。そういう場合、州の職員が利害を持ち、互いにねたみ合いがちな問題たとえば権限問題が懸案となることが珍しくなかった。しかし、ようやく徐々に、カスターリエン国家の生きた魂であり、その憲法の注意深い擁護者である、宗団の隠れてはいるが強力な機能を知って、驚嘆の念をつのらせた。こうして、仕事の充満した厳《きび》しいいく月かが過ぎた。ヨーゼフ・クネヒトの頭にはテグラリウスのことを考える余地はなかった。半ば本能的にしたことだが、この友をあまり暇にしておかないようにするため、いろいろな仕事を頼んだくらいだった。フリッツは親友を失ってしまった。親友は一夜にして主人となり、最高の上司となった。もはや私人として近づく道はなく、服従し、「あなた」、「尊師」と呼びかけねばならなかった。しかし、名人が自分にしてくれることを、彼は、保護と個人的な心づくしのしるしと受け取った。また、いくらかむら気な孤立者である彼は、一つには、友人の昇進と、英才連全体が陥っている極度に興奮した気分とによって、自分も興奮に巻きこまれ、一つには、自分に託された仕事によって、自分に有利に活気づけられているのを知った。いずれにしても彼は、クネヒトが、ガラス玉演戯名人にきまったという報道を聞いて、自分を追いかえした、あのとき、彼自身が思ったより、完全に一変した状況によりよく耐えた。彼はまた十分賢明でもあり、同情心もあったので、友人がそのころどんなに大きな骨折りと力の試練とを克服しなければならなかったかを見ることが、少なくとも察することができた。友人が火の中に立って、あかあかと焼かれるのを、彼は見た。その際体験される切なさは、試練を受ける当人より、彼のほうがおそらくより強く体験した。テグラリウスは、名人からあてがわれた仕事には、最大の骨折りを惜しまなかった。彼が自分自身の弱点と、職務や責任に対する不適格とを、真剣に悲しみ、欠陥と感じたことがあったとすれば、それは、助手となり、役人となり、「影法師」となって、驚嘆する名人の側近にあって、助けたいと熱望したあの当時であった。
ワルトツェルのブナの森は、もう茶色に色づき始めた。そのころクネヒトはある日、小さな本を持って、住居の隣にある名人の庭へ出かけた。この小さい美しい庭は、故トーマス名人が非常に大事にし、ホラティウス張りの好事家《こうずか》の手でみずからしばしば手入れしたものであった。クネヒトもすべての生徒や学生と同様、かつては、尊い場所、名人の神聖な静養と精神集中の地として、魅力のある詩神の島、キケロの別荘地ツスクルムのように考えていたのであるが、彼自身名人となり、庭の主となってからは、めったに足を入れたことがなく、ゆっくり楽しんだことはほとんどなかった。今も食後ほんの十五分間出てきたのであって、高い茂みのあいだを数歩、屈託なくそぞろ歩いただけであった。茂みの下には、彼の前任者が南国の常緑の植物をいろいろと移植していた。やがて、木かげはもう冷えたので、軽いトウのいすを日の照っている場所へ運び、それにこしかけ、持ってきた小さい本を開いた。それは「演戯名人懐中暦」で、かれこれ七、八十年前、当時のガラス玉演戯名人ルードヴィヒ・ワッサーマーラーが作ったもので、その後、後継者によって、それぞれ時勢に合うように訂正され、けずられ、補われていた。この暦は、名人、特に就任初期の、まだ未経験な名人のために編まれた便覧であって、一年じゅうの仕事や職務を通じ、一週ごとに名人の義務の最も重要なものをはっきり示していた。見出しだけのところもあれば、詳しい説明や個人的な助言を添えたところもあった。クネヒトは、今週のことを書いたページを探し、注意して通読した。何も意外なことや、特に緊要なことは見つからなかったが、章の終りに次のように書かれていた。「君の考えを次第に次の年次演戯に向け始めよ。早いように思われる。いや、早まっているように思われるかもしれない。しかし私は君に忠告する。演戯の計画をすでに脳裏に持っていないとしたら、きょう以後、次の演戯に考えを向けずに、一週間もすごしてはならない、少なくとも一カ月をすごしてはならない。君の着想を書きとめよ。三十分の暇な時間にも古典的演戯の型を常時携行せよ。公用旅行をするような場合にも同様、準備せよ。しかし、うまい着想を無理に得ようとは欲せず、数カ月後に美しい壮麗な仕事が君を待っているのだから、絶えず自分を強め、集中し、調子を合わせなければならない、ときょう以後しばしば考えることによって準備せよ」
この文章は、三世代ほど前、この道の名人だった賢明な一老人によって書かれた。それは、ガラス玉演戯が形式的におそらく最高の文化に達した時代であった。当時、演戯は、たとえば後期ゴシックあるいはロココ時代に建築芸術や装飾芸術が到達したような、華麗で豊かな装飾法に達していた。約二十年間、実際それは、ガラス玉をもってするような演戯であった。一見ガラスのようにもろく、内容が乏しく、いかにもなまめかしく、陽気な演戯で、線の細い装飾形式に満ちていた。繊細をきわめた節奏を持つ、舞踊ふうの、いや、往々綱渡りふうの浮動であった。当時の様式を、消えてなくなった魔法のかぎのようなものだという演戯者もあったし、外面的で、装飾が多すぎ、退廃的で、男性的でないと感じる演戯者もいた。名人暦の行きとどいた親切な助言と警告とを書いたのは、こういう時代の様式の名人のひとりであり、その創造者のひとりであった。ヨーゼフ・クネヒトは、そのことばを二度三度検討しながら読んでいると、朗らかな快い感動を胸中におぼえた。それは、どうやら初めただ一度感じたことがあるが、その後二度と感じたことのない気分だった。よく考えてみると、叙任式の前の冥想《めいそう》の際に感じたもので、あのとき、不思議な輪舞、すなわち音楽名人とヨーゼフのあいだの輪舞、名人と初心者のあいだの輪舞、老人と青年とのあいだの輪舞を思い浮べたときに彼の心を満たした気分だった。かつて「一週間もすごすな……」、「うまい着想を無理に得ようと欲するな」という文章を考え書いたのは、老人、もう高齢の人だったのだ。少なくとも二十年間、おそらくはもっと長く、演戯名人の高い職についていた人で、演戯を楽しんだロココ時代に、疑いもなく、極度に甘やかされた自信のある英才連を相手にし、当時はまだ一カ月も続いたきらびやかな年次演戯を二十回以上も考案し執行した人だったのだ。この老人にとっては、年ごとにくり返し大荘厳演戯を組み立てるという任務は、もはや高い名誉や喜びなどではとっくになくなって、むしろ重荷と大きな骨折りを意味した。つとめてその気分になり、自分をなだめ、いくらか刺激しなければならない任務であった。経験を積んだ助言者であるこの賢明な老人に対し、クネヒトは、すでにたびたびこの人の暦を貴重な指南書としたので、感謝のこもった尊敬を感じていたが、そればかりでなく、喜ばしい、いや、陽気な、思いあがった優越を、つまり若さの優越を感じていた。彼はすでにガラス玉演戯名人の心労をさんざん味わいはしたが、年次演戯を考える時期を逸しはすまいか、この任務に十分の喜びと精神の集中をもって臨むことができないのではないか、この演戯に対する冒険心や着想を欠きはしないか、というような心配だけは起きたことがなかったのである。いや、クネヒトは、この数カ月のあいだすっかり老いこんだような気になっていたが、今は若々しい力を感じていた。この美しい気持ちに長くひたり、それをじっくり味わうことはできなかった。短い憩《いこ》いのひとときはもうほとんど過ぎてしまった。しかし、美しい楽しい気持ちが心に残った。彼はそれを携えていった。こうして名人の庭で短い休息をし、暦を読んだことは、ある収穫をもたらし、何かを産み出した。すなわち、緊張を解き、しばしのあいだ生命感を喜ばしく高めたばかりでなく、二つのことを思いつかした。それはその瞬間にもう決意の性質を持った。第一に、将来年をとって疲れたら、年次演戯の構成をわずらわしい義務と感じ、その着想に窮するようなことがあったら、そのときはさっそく辞職しようと思った。第二に、自分の第一回の年次演戯の仕事をすぐに始めよう、そしてこの仕事の仲間として筆頭の助手としてテグラリウスを招こう、友だちは満足し喜んでくれるだろう、自分自身にとっても、現在|麻痺《まひ》状態に陥っているこの友情に新たな形の生命を吹きこむ試みの最初の踏み出しになるだろう、と思った。そのきっかけを作り、すべり出させることは、テグラリウスにはできないことだった。それは、名人たる彼から踏み出されなければならなかった。
そればかりか、そうなれば、友人にはなすべき仕事がたくさん生じるだろう。すでにマリアフェルスにいたころから、クネヒトは一つのガラス玉演戯の着想をいだいていた。それを名人としての最初の荘厳演戯に利用しようと思った。この演戯の構成と次元には、シナの家屋建築の古い孔夫子《こうふうし》流の儀式的図式を基礎とするはずであった。それはおもしろい思いつきであった。東西南北の方位、門、鬼門よけの壁、建物と内庭の割合と測定、星や暦や家庭生活への適応、さらに庭園の象徴性と様式。かつて易経の注釈を研究しているとき、こういう法則の神秘的な秩序と意義とが、宇宙と、世界に対する人間の地位との比喩《ひゆ》として、特に心を引く、愛すべきものに思われた。また家屋建築のこの伝統の中で、非常に古い神秘的な国民精神が、思弁的学究的官人精神や名人気質と驚くほど密接に結びついているのを発見した。彼は、もちろん書きとめるには至らなかったが、この演戯の案をずいぶんしばしば心をこめて練ってきたので、実際もう全体としてできあがったものを頭の中に持っていた。就任以来ようやくそのことを考えなくなっていた。今この瞬間、シナ人の思想の上に祝典演戯を築こうという決意がかたまった。もしフリッツがこの着想の精神に心を開くことができたら、今からもう構成のための研究と演戯用語への翻訳の準備を始めさせねばならなかった。ただそこには一つの障害があった。テグラリウスはシナ語ができなかった。これから習うには、あまり遅すぎた。しかし、一部分はクネヒト自身が、一部分は東亜学館が指示を与えれば、テグラリウスは文献の助けによってシナ人の家屋の魔術的象徴にはいっていくことができるだろう。ここでは言語学が問題ではなかった。いずれにしても、時間がかかる。特に、テグラリウスの場合のように、甘やかされた、毎日仕事をする気になるとは限らない人間の場合は、そうだった。だから、仕事をすぐに始めるのが良かった。なるほど慎重な老人が懐中暦の中で言っていることはまったくもっともだ、とクネヒトは悟って、快い驚きをおぼえながら微笑した。
早くも翌日、面会時間がたいそう早く終ったので、クネヒトはテグラリウスを呼んだ。相手はやってくると、クネヒトに対してはいつものことながら、いくらかうやうやしさとつつましさを強めた表情でお辞儀をしたが、いつもは至って簡潔で、ことば少なになっていた名人が、いたずらっ子のようにうなずきかけて、次のように尋ねたのには、すっかり驚いてしまった。「学生時代にけんかのようなことをしたが、君をぼくの考えに改宗させることができなかったのを、まだおぼえているかい? 東亜研究、特にシナ研究の価値と重要さが問題だった。ぼくは君をしばらくのあいだ学館に入れて、シナ語を習わせようと思ったのだ。――そうか、おぼえているかい? ところできょうはまた、あのとき君の気持ちを変えさせることができなかったのを、残念に思うよ。今、君がシナ語ができたら、どんなにいいだろう! 実にすばらしい仕事をいっしょにすることができるだろうに」こんなふうになおしばらく友だちをからかって、期待を張りつめさせてから、提案を持ち出した。自分はまもなく大きな演戯の仕上げを始める。いやでなかったら、フリッツにこの仕事の大部分をやってもらいたい。自分がベネディクト派の修道院にいた当時、荘厳演戯に出す競演作品の仕上げを助けてくれたように、というのだった。相手はほとんど信じられないようにクネヒトを見つめた。今はもう主人として名人としてのみ知っている友人の、朗らかな調子と微笑を浮べた顔を見ただけでもう、深く驚き、快い胸さわぎをおぼえた。この提案の中に示された尊敬と信頼とを感じて、彼は感動し喜んだばかりでなく、何よりも、この美しい表情の意味を理解し、とらえた。それは癒《いや》してやろうとする試みであり、友人と自分とのあいだに閉ざされた戸を再び開こうとすることであった。シナ語についてのクネヒトの懸念《けねん》にこだわらずに、名人とその演戯の仕上げのためにどんなことでもする用意があると、すぐ言明した。「よろしい」と名人は言った。「君の約束を受け入れよう。それではまた時間をきめて仕事と研究との仲間になろう。今はもう不思議に遠いような気のする時代に、いくつもの演戯をいっしょに研究し、苦労してやりとげたように。ぼくはうれしいよ、テグラリウス。さて何よりも君は、ぼくが演戯を組み立てる基礎にする理念を理解しなければならない。シナの家屋とはどんなものであるか、それを建てる際に定められている規則は何を意味するかを、知らなければならない。――東亜学館あての紹介をあげよう。あすこなら助けてもらえる。あるいは――別な、もっとうまいことを思いついた――老兄に頼むことにしてみよう。あのころ君にしきりに話して聞かせた竹林《ちくりん》の人のことだ。シナ語を心得ないものを相手にすることは、たぶんあの人の品位にふさわしくなく、あまりにひどい迷惑になるかもしれないが、試みてみるべきだろう。あの人は、その気になれば、君をシナ人にすることだってできるよ」
老兄のところへ使いが発せられた。ガラス玉演戯名人は職務のため訪問する時間がないので、老兄が名人の客としてしばらくワルトツェルへ来て、自分が求められている務めについて教示をしていただきたい、と心をこめて招待したのであった。しかしシナ人は竹林を離れなかった。使者は、老兄のかわりに、短い手紙を持ってきた。墨で漢字で書かれていた。「大人《たいじん》にお目にかかるのは、光栄のいたりです。しかし、出かけることは支障を生じます。犠牲には二枚の小盤を用うべきです。崇高な方に若輩がごあいさついたします」という文面だった。そこでクネヒトは、友人に、みずから竹林に赴《おもむ》き、入門と教授を請うよう、ことばを尽して決意させた。しかし、その小旅行は成功しなかった。竹林の隠者は、卑屈なくらいの丁重さでテグラリウスを迎えたが、名人が手ずから美しい紙にみごとな推薦状を書いてくれたにもかかわらず、テグラリウスの質問には、シナ語の親切な文章で答えるばかりで、滞在するようにすすめはしなかった。フリッツはむなしく、ふきげんのていでワルトツェルへもどってきた。名人への贈り物として、金魚に関する古い詩が毛筆で書かれている紙片を持ち帰った。結局、東亜学館で運だめしをしてみるほかなかった。そこでは、クネヒトの推薦はずっと有効だった。名人の使者だというので、願いの筋を持ってきた人は、懇切な助言を受けた。それでまもなく彼は、シナ語を知らないものとしてはこれ以上は望めないほど完全に、自分の題目について教えられた。そして、こういう家屋の象徴を計画の基礎にしようというクネヒトの着想に大きな喜びを感じたので、竹林の失敗の苦痛に打ちかち、それを忘れてしまった。
クネヒトは、老兄を訪ねて拒まれたものの報告を聞き、それからひとりで金魚の詩を読むと、この人の雰囲気《ふんいき》と、そのいおりで竹のそよぐ音を聞き、メドハギの茎をならべてすごした往時の思い出とが、ひしひしと彼の心を動かした。同時に、自由や、閑暇や、学生時代や、青春の夢の多彩な天国などの思い出がわいた。このひょうひょうとした、物に動ぜぬ隠者は、なんと引きこもって、自由を守ることを心得ていたことだろう! 静かな竹林はなんと彼を俗世から守っていたことだろう! 第二の性となった、さっぱりとした、きちょうめんな、知恵のあるシナ人気質の中に、彼はなんと深く強く生きていたことだろう。彼の生活の夢の不思議な力が、年々歳々幾十年も、なんと凝集的に緊密に彼を取り巻いていたことだろう! そして彼の庭をシナにし、彼のいおりを神殿にし、彼の魚を神にし、彼自身を賢者にしたことだろう! クネヒトはこうした回想から離れるとき、溜息《ためいき》をせずにはいられなかった。自分は別な道を歩いてきた。むしろ導かれてきた。ひたすら心すべきは、自分にあてがわれたこの道をまっすぐに忠実に進むこと、他の人たちの道と自分の道を比較しないことであった。
彼は、時間をこしらえて、テグラリウスと協力し、演戯を考案し組み立てた。記録所で選《え》りわけをする仕事は、すべて友人にまかした。最初の原稿作成も、第二回のも友人にまかした。新しい内容とともに、友情は再び活気を帯び、以前とは異なった形を得た。ふたりで作っている演戯も、変り者の特色と鋭い空想とによって、いろいろと変更され、豊富にされた。フリッツは、決して満足しないが、足ることを知る人間のひとりだった。他の人ならだれでも、申しぶんなくできあがっていると思う花束や食卓を、彼は幾時間も、こうでもない、ああでもないと楽しそうに、まめな心のこもった巧みな腕でいじくりまわし、ごくささやかな仕事を、せっせと熱心に手がける一日の仕事にすることを心得ている。その後、年がたってもいつまでもそのとおりだった。大荘厳演戯はいつもふたりの合作だった。テグラリウスにとっては、友人である名人のために自分がこんなに重要なことで役にたつどころか、なくてはならぬものであることを示し、演戯の公式執行に、無名ではあるが、英才たちにはよく知られた合作者として携わるのは、二重の満足であった。
さて就任第一年めの晩秋、友人がまだ最初のシナ研究に従っていたころ、名人はある日、事務局の日誌の記入に急いで目を通していると、「モンテポルトから学生ペトルスが到着。音楽名人の推薦があり、前音楽名人からの特別なあいさつを携行、宿泊と、記録所への出入を願い出る。学生宿舎に宿泊させた」というメモにぶつかった。学生と願い出のことは、安心して記録所の人たちにまかしておけた。それは日常ありふれたことだった。しかし「前音楽名人からの特別なあいさつ」は、彼自身だけに関係があるかもしれなかった。彼は学生を招いた。冥想的であると同時に熱情的に見える、しかし口数の少ない青年で、明らかにモンテポルトの英才のひとりだった。少なくとも名人の謁見には慣れているらしかった。クネヒトは、前名人からどんなことを頼まれたのか、と尋ねた。「あいさつでございます」と学生は言った。「名人閣下への深い心と敬意のこもったあいさつと、それにご招待でございます」クネヒトは、着席するようにすすめた。青年はことばを入念に選びながら言い続けた。「尊敬する前名人は、すでに申しあげましたように、閣下によろしくお伝えするよう、懇篤にお頼みになりました。同時に、あなたさまを近いうちに、それもできるだけ早く一度お呼びしたい、という願いをおもらしになりました。あなたさまをご招待申すのでございます。近いうちに前名人をお訪ねくださるように、とのご内意でございます。もちろんご訪問を出張にからませて、あまりお妨げにならないことを前提としてのことでございます。おことづけはだいたいそんなふうでございました」
クネヒトは青年をしげしげと見つめた。確かに彼は老人が目をかけているもののひとりだった。クネヒトは慎重に尋ねた。「君はどのくらい記録所にとどまっているつもりかね?」すると、「閣下がモンテポルトへの旅につかれるのを見とどけるその日まででございます」という答えを聞いた。
クネヒトはじっと考えた。「よろしい」とやがて彼は言った。「ところで、なぜ君は、前名人が私にと言って君にことづけたことを、文面どおり伝えなかったのかね? 本来そうあるべきだろうに」
ペトルスはクネヒトのまなざしをぐっと見返して、ゆっくり答えた。外国語で心持ちを表現しなければならないかのように、絶えす慎重にことばを選んでいた。「閣下、おことづけも何もございません」と彼は言った。「文面も何もございません。ご存じのとおり、私の尊敬する名人はいつも非常に謙虚な方でした。モンテポルトで聞いた話では、あの方はまだ復習教師だったお若いころ、英才仲間全体のあいだですでに未来の音楽名人と見なされておりましたが、英才たちから『卑下の大家』というあだ名をつけられたそうです。この謙虚さ、それに劣らず、つつましい心、世話ずきな心、心づかいの深さ、寛容などが、年をとられ、すっかり職を辞されてからは、なおいっそうつのってまいりました。そのことはもちろんあなた様のほうが私よりよくこ存じでいらっしゃいます。この謙虚さのため、切にご希望なさっていながら、閣下のご訪問をお願いすることができないのでしょう。それで、先生、私はこういうご依頼を受ける光栄にあずかりませんでしたが、ご依頼を受けでもしたように振る舞いました。それが誤っておりましたら、ご依頼のなかったものを、実際になかったものとお考えになるのは、あなた様のお心次第でございます」
クネヒトはかすかに微笑した。「それで記録所での君の用というのは? 口実にすぎなかったのかい?」
「いえ、いえ。私はあすこで演戯のかぎをたくさん抜枠しなければなりません。それでなくても、近いうちにあなた様のご厚意を仰がなければならなかったでしょう。しかし小旅行は少し急いだほうがよろしかろう、と思われました」
「大いによろしい」と名人は、また改まってうなずいた。「そのように急ぐ原因を尋ねてもよいか」
青年は一瞬間目を閉じた。その問いにひどく悩まされてでもいるように、額に深いしわを寄せていた。やがてまた、探るような若々しい批判的なまなざしをじっと名人の顔に注いだ。「そのお尋ねにお答えすることはできません。お尋ねをもっとはっきりさせるお心になれば、別でございますが」
「ではよろしい」とクネヒトは大きな声で言った。「つまり前名人の容態が悪いんだね? 憂慮すべきほどなんだね?」名人は落ちつきはらって話していたが、老人のことをやさしく気づかっているのが、学生にはわかった。この会話を始めてから初めて、彼のいくらか陰気なまなざしに一条の好意の光がさしてきた。やっとあからさまに彼の願いを述べ始めたとき、彼の声はいくらか打ちとけ、直接にひびくようになった。
「名人様」と彼は言った。「ご安心ください。尊師の容態は決して悪くはございません。いつも模範的に健康な方でございましたが、今も相かわらずそうです。もっとも高齢のためもちろんたいそう弱ってはおられますが。といって、ご様子が目に見えて変ったとか、力が急速に減退したとかいうようなことはありません。ちょっとした散歩はなさいますし、毎日少し音楽もなさいます。ついこのあいだまでは、ふたりの生徒、それもまだ初心の者にオルガンを教えておられました。ごく若いものを身辺に置くのが何よりお好きでした。しかし、数週間前このふたりの最後の生徒もおことわりになったので、いずれにせよ、これは変な徴候だと思いました。それ以来、私は尊師の容態に一段と注意をはらい、いろいろと考えてみました。――これが、私がここへ参ったわけでございます。こういうふうに考え、こういう行動をする資格があったとしましたら、それは、私が以前したしく前音楽名人の弟子であったという、いや、こう申してよろしければ、いわば愛弟子であったという事情、さらに、後任の方がもう一年来私をいわば学僕兼話し相手として老先生におつけになり、ご起居に気をつけるよう、ご依頼なさったという事情によるのでございます。私にはたいそうありがたいご依頼でございました。私をかわいがってくださるこの老師に対して寄せるほどの尊敬と愛着を寄せる人は、ほかにはひとりもないからです。音楽の秘密を開いて、音楽に奉仕することを可能にしてくださったのは、あの方です。さらにそれ以上に、宗団に対する考え方や理解、成熟、内面的な秩序などの点で私がなお得るところがあったとしたら、それはすべてあの方から出たことであり、あの方のなさったわざでございます。そういうわけで、かれこれ一年このかた、私は先生に付ききりで暮しております。もちろんいくらか研究をし、講習にも出ておりますが、いつも先生のご用をつとめ、食事の相手、散歩のお伴をし、音楽などのお相手もいたします。夜は壁を隔てて隣に休みます。このようにおそばでごいっしょに暮しておりますので、先生が一段一段と――老いていかれるのを、と言わなければならないのですが、肉体的に一段一段と老いていかれるのを、詳細に観察することができます。私の仲間の中には、私のように若い者を高齢の老人の召使兼生活の道連れにする奇妙な役目に、同情や嘲《あざけ》りの酷評を時々加えるものもおります。しかし、この名人がどんな年のとり方を恵まれているか、彼らは知らないのです。私ひとりを除いては、おそらくだれもそれをよく知らないでしょう。からだは次第に衰弱し、召しあがるものはますます減り、短い散歩からお帰りになったときの疲れはいよいよひどくなります。しかし病気だということはついぞありません。同時にご老齢の静けさの中で、いよいよ精神となり、祈りとなり、品位となり、単純さとなっていきます。学僕あるいは看護人としての私の務めに多少の困難があるとしますと、尊師は給仕をされ、世話をされることをまったく欲せず、常にただ与えることを欲し、受けることを欲しない、という一点だけです」
「ありがとう」とクネヒトは言った。「これほど献身的で恩を知る弟子が尊師のもとにいるというのはうれしい。だが、君は老師のご依頼をうけて話しているのでないとすれば、私がモンテポルトを訪ねることを、君はなぜそれほど念願するのか、もうこのへんではっきり言いたまえ」
「あなた様はさきほど気づかわしげに前音楽名人の健康のことをお尋ねになりました」と弟子は答えた。「私のお願いが、あなた様に前名人は病気かもしれない、いよいよもう一度前名人を訪ねる潮時かもしれないという考えを、ほのめかしたのは、明らかでございます。実際、私は、今が潮時だと信じます。尊師のご最期が近いとは思いませんが、俗世に別れをお告げになる、その仕方が、まったく独特なものです。たとえば、数カ月このかたほとんど物をおっしゃらなくなりました。いつも長い話より短い話をお好みになってはおりましたが、、現在の短かさと沈黙ぶりは、いささか心配になります。私がことばをおかけしても、何かお尋ねしても、返事をなさらずにいることがいよいよたび重なってまいりましたので、初めは、耳が遠くなりだしたのかと思いました。が、相かわらずよく聞えております。私はたびたびためしてみました。それで今度は、老師は心が散漫になって、もはや注意をよく集中することがおできにならないのだ、と考えずにはいられませんでした。しかしこれとて満足な説明ではございません。むしろあの方はもう久しくいわば途上にあるのであって、もはや完全に私たちのあいだで暮してはおられず、次第にあの方自身の世界で暮しておられるのです。それで、だれかをお訪ねになるとか、お招きになるということは、いよいよまれになり、今ではいく日も私以外にはだれにももうお会いになりません。こんなふうに浮世を離れ、もはや浮世の人でないという状態が始まりましてから、私は、あの方がいちばん愛していらっしゃることのわかっている数人の友人をもう一度お連れしてこよう、と努めてまいりました。あなた様があの方をお訪ねくださいますならば、年老いた旧友を喜ばせることは必定と、私は確信しております。ご敬愛なさった方に、今ならまだお目にかかれるというものでございます。数カ月、いや、数週間もたったら、あなた様に対する喜び、関心もきっとずっとずっと少なくなりましょう。それどころか、あなた様だということがわからなくなるか、わかってももう気にとめなくなることだって、ありえましょう」
クネヒトは立ちあがって、窓べに歩みより、外を見、空気を吸いこみながら、しばらく立っていた。学生の方に向きなおると、学生は、謁見は終ったと考えでもしたように、いすから立ちあがっていた。名人は手をさしのべた。
「重ねてありがとう、ペトルス」と彼は言った。「名人にはいろいろな義務があることは、君も知っているだろう。私は、帽子をかぶって、旅行に出る、というわけにはいかない。私はまず整理し、出かけられるようにしなければならない。明後日までにはその支度ができるだろう。それでいいかね? それまでに記録所で君の仕事をかたづけられるかね?――いいんだね? では、そのとき、君を呼びにやろう」
実際クネヒトは数日後、ペトルスを伴って、モンテポルトへ旅立った。そこに着いて、前名人が庭に囲まれて住んでいる離れ屋の、優雅な非常に静かないおりにはいると、奥のへやから音楽が聞えてきた。なよなよと細いが、拍子の確かなすばらしく朗らかな音楽だった。そこに老人がすわって、二本の指で二声部の旋律をかなでていた。――クネヒトはすぐ、これは十六世紀末の二声部曲教本の一つをひいているに違いない、と察した。鳴りやむまで、ふたりは立っていた。それからペトルスは名人に呼びかけ、もどってきたこと、お客さんを連れてきたことを告げた。老人は戸口に出てきて、ようこそと、ふたりを見つめた。音楽名人のこの、ようこそという微笑は、皆から愛されているもので、いつも子どものように快活で、明るい現われ方をする真情と親愛とがこもっていた。やがて三十年になる昔、ヨーゼフ・クネヒトは、あの胸苦しく幸福な朝のひとときに、音楽室で、初めてこの微笑を見、このやさしい人に心を開き、ささげたのであった。それ以来彼はこの微笑をたびたび見、そのたびごとに深い喜びと、なんとも言えない感動をおぼえた。やさしい名人の灰色がかった頭髪が次第にすっかり灰色になり、やがて真っ白になるあいだも、その声がかすかになり、握手が弱くなり、歩行が困難になるあいだも、その微笑は、明るさと優美さと清らかさと真実さを少しも失わなかった。今度もまぎれもなくそのとおりなのを、友人であり弟子であるクネヒトは見た。青い目の色と、ほおの柔らかい赤い色とは、年とともにだんだん薄くなりはしたが、微笑する老人の顔の輝かしい、誘いこむような福音は、たびたび見た昔のままであったばかりでなく、むしろ深さと神秘さと強さとを増していた。いま初めてこのあいさつに接して、クネヒトには、ペトルス学生の願いの筋が本来どこにあったかがほんとにわかりだした。またその願いの犠牲になってやろうとした自分自身がかえってどんなに恵みを受けるものであるかが、わかりだした。
数時間後、彼は友人カルロ・フェロモンテを訪ねた。当時、有名なモンテポルト音楽図書館の司書官をしていたこの友に、クネヒトは初めてこのことを話した。彼はそのときの対話を一通の手紙に書きとめている。
「われわれの前音楽名人は」とクネヒトは言った。「君の先生であった。君はあの方をたいそう愛していた。今でもたびたびお目にかかるかい?」
「いいえ」とカルロは言った。「と申しても、もちろんお目にかかるのは、珍しくはありません。あの方が散歩をなさっているところへ、私がちょうど図書館から帰ってくる、といったぐあいです。しかしお話したことは、数カ月以来ありません。あの方はいよいよ引きこもって、もはや人づき合いに耐えられないようです。以前は、私のようなものたちのため、昔あの方のもとにいた復習教師たちのため、それが今モンテポルトの役人であるかぎり、あの方は一夕をさいてくださいました。しかしそれがもう一年前からやめになりました。あなたの叙任式のときワルトツェルへお出かけになったのは、私たち一同にとって極度に驚くべきことでした」
「そうかい」とクネヒトは言った。「だが、君は時折り先生にお目にかかるとしたら、そのとき、先生に何かお変りになったところが、目についたことはないかい?」
「ありますとも。あの方のりっぱなご様子、朗らかさ、不思議な輝きなどのことをおっしゃっているのでしょう。もちろん私たちはそれに気づきました。あの方の力が衰えていく一方、この朗らかさは絶えず増していきます。私たちはそれに慣れていますが、あなたにはきっと目だったでしょう」
「学僕ペトルスは」とクネヒトは大きな声で言った。「君よりもっとずっとたびたびあの方にお会いしているが、君が言うように、それに慣れっこになってはいない。彼はもちろんもっともらしい理由をこしらえて、かってにワルトツェルへやってきて、ぼくにこの訪問をさせた。君はあの学生をどう思うね」
「ペトルスのことですか。彼はまったくすぐれた音楽通です。もっとも天才的なたちというより、こまかいたちです。いくらか鈍重な、憂鬱《ゆううつ》なたちです。前名人には無条件で心服し、名人のためなら命も惜しまないでしょう。崇拝する主人であり偶像である人への奉仕で彼の心身はいっぱいになり、それにとりつかれていると、私は思います。あなたもそんな印象をお持ちになりませんでしたか」
「とりつかれているって? いかにも。だが、この青年は単に偏愛と情熱にとりつかれているのではない。単に老先生にほれこんで、先生を偶像にしているのではない。彼は、君たち他のものたちよりよりよく見、感情をもってよりよく理解している真正の現象によってとりつかれ、魅せられているのだ。ぼくがどう思ったかを語って聞かせよう。ぼくはきょう、半年もお目にかからずにいた前名人のところへやってきた。学僕の話から察して、ぼくはこの訪問にさして期待を持っていなかった。全然持っていなかったくらいだ。ぼくはただ、尊敬する老人が近いうちに突然おなくなりになるかもしれない、という不安をいだいたばかりだ。それで、せめてもう一度お目にかかりたい、と急いでかけつけた。ぼくだということにお気づきになり、あいさつなさったとき、お顔は輝いたが、ぼくの名まえのほかは何もおっしゃらず、手をお出しになった。この動作と手も、光り輝いているように思われた。この人全体が、あるいは、その目、白い髪、薄いバラ色の皮膚などが、かすかな冷たい光を発しているように思われた。ぼくがおそばにすわると、先生はただひと目の合図で学生を去らせた。それから不思議きわまる対話が始まった。ぼくはああいう対話はついぞ経験したことがない。初めはもちろんぼくにはかってが悪く、気づまりで、恥ずかしくもあった。何せぼくはくり返しご老人に話しかけ、質問をするのだが、ご老人はまなざしでご返事なさるだけだったからだ。ぼくの質問や報告がご老人の耳にとどいても、うるさい騒音以上に受け取られたかどうか、ぼくにはわからなかった。そのためぼくは面くらい、失望し、疲れ、自分がひどく無用で、押しつけがましく思われた。名人に何を申しあげようと、その答えとして受けるものは、微笑と、ちらっと向けられるまなざしだけだった。実際、そのまなざしにあれほど好意と真情とがあふれていなかったら、ご老人はあからさまにぼくを、ぼくの話や質問を、ぼくがここまではるばる訪ねてきた無用な浪費を、からかっているのだと、ぼくは考えずにはいられなかっただろう。ところが、あの沈黙や微笑にはそんな考えはまったくなかったのだ。それは確かにぼくを遠ざけ、たしなめようとしていたのだが、ただ嘲笑《ちょうしょう》的なことばなどでなしうるのとは、別な仕方で、別な平面で、別な意味段階で行われていたのだ。ぼくは力つきて、対話のいとぐちを作ろうと、ぼくなりに根気よくいんぎんにやってみた試みに完全に失敗してみて初めて、わかってきたのだが、ご老人は、ぼくよりも百倍も根気よく、忍耐強く、いんぎんになさっていた、しかし、やすやすとなさっていたのだ。それは十五分か半時間のことだったかもしれないが、半日も続いたように思われた。ぼくは悲しく、疲れ、ふきげんになり、旅行してきたことを後悔し始めた。口がからからにかわいた。ぼくの恩人であり友人である尊敬する方、もの心ついてからこのかた、ぼくが心から信頼をささげている方、ぼくのことばに返事をしなかったということのない方が、そこにすわって、ぼくの話すことを聞いておられた。聞いていなかったかもしれない。ともかくそこにすわって、あの輝きと微笑のうしろに、みごとな仮面のような表情のうしろに、とりでを作って完全に隠れ、別な法則の支配する別な世界の、近よりがたい人となっていた。そしてぼくのほうからあの人に、ぼくたちの世界からあの人の世界へ話しかけようとすることはすべて、雨が石にあたってすべり落ちるように、あの人にあたってすべり落ちてしまった。最後に――ぼくはもう希望を失っていた――あの方が魔法の壁を突き破って、最後にぼくを助けてくださった。最後に一言あの方は口に出された! きょうあの方の口から聞くことのできた、唯一のことばであった。
『君は疲れたね、ヨーゼフ』とあの方は静かにおっしゃった。君も知っている、例の、心を打つ、やさしさと思いやりのこもった声だった。『君は疲れたね、ヨーゼフ』それだけだった。ぼくが重荷にすぎる仕事に、苦しんでいるのを長いあいだごらんになっていて、注意してやろうとなさったかのようであった。もうずいぶん長いあいだ、話すためにくちびるを動かさなかったと思われるくらい、ことばを出すのにいくらか骨が折れるようだった。同時にあの方は手をぼくの腕の上におのせになった。その手はチョウチョのように軽かった。そしてあの方はぼくの目をじっと深くのぞきこんで、ほほえまれた。その瞬間ぼくは負けた。あの方の朗らかな静けさ、忍耐、落ちつきなどの一部がぼくの中に移ってきた。突然ぼくには、ご老人の心が、そして、あの方というものが、人間を離れて静けさへ、ことばを離れて音楽へ、思想を離れて統一へと転回していった心境が、はっとわかった。ここで見る機会を恵まれたところのものが何であるかを、ぼくは理解した。いま初めてその微笑と輝きをも理解した。つまりひとりの聖者、完成された人が、一時間のあいだここでその輝きの中に共にいることを、私に許したのであった。ぼくという無骨者は、そういう人のお相手をし、あれこれと質問をし、会話に誘おうとしたのだ。ありがたいことに、手遅れにならないうちに、ぼくは目がさめた。あの方はぼくを追い返し、永久に拒否することだってできたのだ。そうなったら、ぼくはついぞ体験したことのないほど不思議きわまる、すばらしいことを失ってしまっただろう」
「あなたは」とフェロモンテは考えこみながら言った。「前音楽名人の中に聖人のようなものを見いだしたようですね。その報告をなさったのが、ほかならぬあなたであって、よかったと思います。白状しますが、話す人が他の人であったら、だれの報告であろうと、私は極度の不信をもって迎えたでしょう。つまり、私は、神秘的なものを好まぬ人間です。特に私は音楽家として歴史家として、基本的な概念の区別をはっきりさせることを愛する、こまかい人間です。カスターリエンのわれわれは、キリスト教の信徒会を作ってもおらず、インドあるいは道教の修道院を作ってもいないのですから、だれかを聖者の列に、純枠に宗教的な概念の中に入れることは、われわれの仲間にとっては本来許されないことと思われます。君以外の――いや、失礼、名人よ、あなた以外の人だったら、私はそういうやり方は脱線だとして非難するでしょう。しかしあなたは、尊敬する前名人を聖人に加える手続きを取る意向はないでしょうね。われわれの宗団には、それを所管する役所もないでしょう。いいえ、私のことばを中断しないでください。私は真剣に話しているのです。決して冗談に申しているのではありません。あなたは一つの体験を話してくださいました。それを伺っていささか恥ずかしく感じたことを、白状せずにはいられません。あなたの述べられたことは、私やモンテポルトの同僚たちもまったく気づかずにいたことではありませんが、今やっと知ったことであって、これまではほとんど注意せずにいました。自分の頭が働かず、無関心でいた原因をよく考えてみましょう。私が前名人の変化にほとんど気づかなかったのに反し、あなたがそれを強く目にとめ、心を引かれたことは、もちろん、私はこの変化がゆっくりと行われるのを見ていたのに引きかえ、あなたはこの変化に、思いがけず、できあがった結果としてぶつかったということによって説明がつきます。あなたがいく月も前にお会いになった前名人と、きょうお会いになった前名人とは、非常に違っております。これに反し、われわれ近くにおるものは、一度お会いして後またお会いしたとき、目につくような変化にほとんどぶつかりませんでした。だが、白状しますと、この説明に私は満足いたしません。わたしたちの目の前で何か奇蹟《きせき》のようなものが、たとえどんなに静かにゆるやかであるにせよ、起ったとすれば、先入主にとらわれていないかぎり、私が経験したよりも強く動かされるでしょう。ここで私は、自分の心が閉ざされていた原因につきあたります。つまり私は、先入主にとらわれていたのです。私があの変化に気づかなかったのは、気づこうとしなかったからなのです。尊敬する前名人がいよいよ引きこもり、無口になると同時に、やさしさが高まり、お会いした際無言で私のあいさつにお答えになるお顔の輝きがますます明るく非感覚的になるのに、私も他のだれかれと同様に、気づいておりました。それは私だってもちろんよく気づいていました。だれでも気づいていました。だが、それ以上のものをその中に見ないように、私は逆らいました。逆らったのは、老名人に対し尊敬の念を欠いていたからではなく、一つには、個人崇拝や熱狂というものに一般的に反感を持っているからであり、一つには、特殊な場合の熱狂、つまり学生ペトルスが自分の名人や偶像に寄せているような崇拝に対して反感を持っているからです。あなたのお話をうかがっているあいだに、このことがすっかり明らかになりました」
「それはどっちみち、哀れなペトルスに対する君の反感を発見するためのまわり道だったのだ」とクネヒトは笑った。「だが、今度はどうかね? ぼくも神秘家、熱狂家かね? ぼくも、禁じられた個人崇拝、聖者崇拝を行なっているかね? それとも、君が学生には認めなかったこと、つまり、われわれが見、かつ体験したものは、夢や空想ではなく、何か現実的な具体的なものだということを、ぼくには認めるのかね?」
「もちろんあなたにはそれを認めます」とカルロはゆっくりと考えながら言った。「あなたの体験を、そして人に向ってあんなふうに信じられないほどにほほえみかけることのできる前名人の美しさ、あるいは朗らかさを、だれひとり疑いはしないでしょう。問題はただ、この現象をどこへ持っていくか、それをなんと名づけ、なんと説明するか、ということです。そう言うと、学校の教師らしく聞えますが、われわれカスターリエン人は学校の教師なのです。あなたの、そして私たちの体験を整理し命名しようと願ったとしても、それは、抽象化と一般化によって、体験の現実性と美しさを解消させたいからではなく、できるだけ明確に記録し、しっかりとらえておきたいからなのです。旅行中どこかで農夫か子どもが、私の知らないあるメロディーを口ずさんでいるのを聞いたとしたら、それは私にとって同様に一つの体験です。その場合、メロディーをさっそくできるだけ精確に譜に写そうと試みるとしたら、それは自分の体験を片づけ、たなあげしてしまうことではなく、尊敬し永遠化することなのです」
クネヒトは親しげにうなずきかけて言った。「カルロよ、ぼくたちがごくまれにしか会えないのは、残念だ。若いときの友だちがみな、会うたびに変らぬ友であることを示すとはかぎらない。老名人の話を持って君のところにやってきたのも、この土地では、話を聞いてもらい、思いを分ちたいと思うのは、君ひとりだからだ。ぼくの話を君がどうしようと、光明のさすようになったぼくたちの名人の状態をなんと名づけようと、君にまかせるほかはない。ただ、君がもう一度名人を訪ね、後光の中にほんのしばしとどまる気になってくれたら、ぼくはうれしい。神の恵み、完全、老人の知恵、浄福、その他どのように呼ぶにしても、そういう名人の状態は宗教的な生活に属するものであろう。われわれカスターリエン人は宗派も教会も持たないけれど、敬虔《けいけん》の情を全然知らないわけではない。わけても前音楽名人は常にあくまで敬虔の人であられた。神の恵みを受けたもの、完成されたもの、光り輝くもの、神聖な変容をとげたもののことを伝える話は、多くの宗教にあることだから、われわれカスターリエンの敬虔さも、そういう花を咲かせることがあっていけないわけはないだろう。――遅くなった。寝なくてはなるまい。あすは未明に出発しなければならない。すぐまた来たい、と思う。ただごく簡単にぼくの話をしまいまで話させてくれたまえ! さて、『君は疲れたね』と名人に言われた後で、やっとぼくは、対話のいとぐちをつけようとする努力をやめて、静かにするばかりでなく、ことばと対談の助けをかりて、この無言の人をさぐり、利益を得ようとする誤った目的から心をひるがえすことができた。すると、断念して、いっさいを向う様におまかせした瞬間から、事はひとりでのように運んだ。君はあとでぼくの表現を随意に他の表現で補ってさしつかえないが、今はぼくの言うことを聞いてくれたまえ。たとえ不正確に見えたり、部類を混同したりすることがあってもね。ぼくが老人のもとにいたのは、一時間か一時間半くらいだ。あの方とぼくとのあいだに何が起ったか、あるいは何が交わされたかを、君に伝えることはできない。その間ことばは話されなかった。ぼくは、抵抗をくじかれた後、老人の平和と明るさの中に抱きとられたのを、感じただけであった。あの方とぼくは、朗らかさと不思議な安らかさに包まれた。意志と自覚をもって冥想したのではないが、それは特別にうまくいった冥想、また幸福な気持ちになる冥想に、ある程度似ていた。いわば前名人の生活を主題とする冥想であった。ぼくはあの方を、またあの方が少年のぼくの前に初めて現われたときからきょうこのときまでの発展の過程を、ぼくは見たり、感じたりした。それは、献身と仕事との生活であったが、強制はされず、名誉心を知らず、音楽に満ちていた。音楽家となり、音楽名人となることによって、あの方は音楽を、人間の最高目標への、内的自由への、純枠さへの、完全さへの道の一つとして、選んだかのように、発展してこられた。その後はただもういよいよ音楽に満たされて、変化と浄化を受けてきたかの観があった。器用にそつなくチェンバロをひく手や、豊かな途方もない音楽上の記憶から、心身のあらゆる部分と器官に至るまで、脈搏《みゃくはく》と呼吸に至るまで、眠りと夢に至るまで、そうであった。そして今はもう音楽の象徴、むしろ音楽が具体的に現われた形、化身にほかならない観がある。少なくともぼくは、あの方から放射したもの、あるいはあの方とぼくとのあいだを律動的な呼吸のように波打って去来したものを、まったく音楽と感じた。完全に非物質的となった、秘教的な音楽と感じた。多声部の歌曲が新たに加わってくる声部を迎えるように、魔法の円内にはいってくるすべてのものを迎え入れる音楽と、ぼくは感じた。音楽家でない人なら、神の恵みはおそらく別な姿で知覚されただろう。天文学者なら、おそらく自分が月となって、ある遊星のまわりをめぐるのを見ただろう。言語学者なら、いっさいを意味する魔術的な原始語で話しかけられるのを聞いただろう。さあ、もうたくさんだ。おいとまするよ。ほんとに楽しかった、カルロ」
このエピソードをいくらか詳しく述べたのは、前音楽名人がクネヒトの生活や心の中で、きわめて重要な席を占めていたからである。それとともに、フェロモンテとクネヒトの談話が、フェロモンテ自筆の手紙で今日に伝わっているという事情も、そうするようにわれわれの心を動かし誘惑したのである。前音楽名人の「神聖な変容」については、この報告が確かに最も古く信頼すべきものである。後になると、この主題に関する伝説や解釈はありあまるほどできた。
[#改ページ]
第八章 二つの極
「シナ人の家の曲」として今日なお知られ、しばしば引用される年次演戯は、クネヒトと彼の友一人とに労作の結実をもたらし、カスターリエンとその役所には、クネヒトを最高の職に招いたのはまちがっていなかったことを実証した。再びワルトツェルや演戯村や英才たちは、輝かしい高潮した祝典時の満足を体験することができた。いや、年次演戯が今度のような盛大な催しになったのは、久しくないことであった。今度はいちばん若い、とかくの批評の最も多かった名人が、初めて皆の前に姿を現わし、真価を発揮したからである。そればかりでなく、ワルトツェルは、前年こうむった損失と失敗を償う予定でもあったのである。今度は病気で寝ているものはいなかった。おびえた代理人がびくびくしながら大きな儀式を主宰し、英才たちのうの目たかの目の悪意と不信とに冷たく見まもられ、神経質になった役人から忠実ではあるが感激のない補佐を受ける、というようなことはなかった。名人は、音もなく、近づきがたく、大司祭になりきって、象徴の荘重な将棋盤上に白と金の服をまとった大駒《おおごま》のように、彼と友人との合作の作品の演戯を執行した。静けさと力と品位を輝くように発しながら、世俗の呼びかけに超然と、名人はおおぜいの助祭に囲まれて、祝典場に現われ、演戯の作品を一幕一幕儀式にかなった動作で始め、光り輝く金の硬筆で記号を一つ一つ、後ろにある小さい黒板にきれいに書いた。すると、同じ記号が演戯符号で百倍に拡大されて、後ろの壁の大きな黒板にすぐに現われ、無数のささやく声がそのあとをつけて、一字一字読んだ。代弁者が大声で読みあげ、ラジオが国内と世界中へ伝える。第一幕の終りに、その幕を概括する法式を、名人が黒板に魔術のように書き現わし、優美な印象的な態度で冥想《めいそう》の規定を示し、硬筆をおいて、着席し、模範的な態度で冥想の姿勢に移ると、会場にいるものや、演戯村やカスターリエンのものばかりでなく、国境を越えて世界の方々の国で、ガラス玉演戯の信者はうやうやしくすわって、同じ冥想に移り、会場で名人が再び起きあがる瞬間まで、じっと冥想を続けた。すべて、たびたび行われたとおりであったが、すべて感動的で美しかった。演戯の抽象的な、一見没時間的な世界は、実に弾力性があったので、無数の色合いをもって、一つの人格の精神や声や気質や筆跡に反応した。この人格はきわめて偉大で洗練されていたので、彼の着想は、演戯本来の不可侵の法則より重要だと考えられた。助手や共演者をつとめる英才たちは、よく訓練された兵隊のように従ったが、しかも彼らのひとりびとりが、ともにお辞儀をするにすぎず、あるいは冥想する名人のまわりに幕を引く手伝いをするにすぎない場合でも、彼自身の霊感によって生きる彼自身の演戯を行なっているように見えた。そして、大きな人の群れの中から、会場とワルトツェル全体にあふれている集団の中から名人の跡について演戯の無限な多次元の表象界を通って空想的な超俗的な道を進んだ無数の人々の中から、祝典にとって基礎的な和音と深く震動する鐘の低音とが生じてきた。それは、この集団の幼稚な仲間にとっては、祝典中の最上の、ほとんど唯一の体験であった。しかし、英才中の海千山千の演戯巧者や批評家たちも、助祭や役人から上は指揮者、名人に至るまで、みな畏敬《いけい》に身を震わせながらそれを聞いた。
みごとな祝典であった。外国からの使節もそう感じ、そう証言した。新参者でこの数日間に永久にガラス玉演戯の信者になったものも少なくなかった。しかし、ヨーゼフ・クネヒトが十日にわたる祝典の終了後、友人テグラリウスに対して彼の体験を要約したことばは注目すべきひびきを持っている。「われわれは満足していいのだ」と彼は言った。「まったくカスターリエンとガラス玉演戯はすばらしいものだ。ほとんど完全なものだ。ただおそらくあまりにも完全で、あまりにも美しすぎる。非常に美しいので、はらはらせずには見ていられないくらいだ。これも他のすべてのもののように、いつかは消滅する定めだとは、考えたくない。しかし、そう考えずにはいられない」
われわれに伝えられているこのことばは、伝記筆者をいやおうなしに促して、彼の課題の最も微妙でかつ神秘的な部分に近づかせる。できることなら、なおしばらくその部分から離れていたいものである。そしてまず、疑義のない明白な状態を記述するものに与えられる快適さと安らかさをもって、クネヒトの成功と模範的な職務遂行と輝かしい生活の頂点とを最後まで報告したいものである。しかし、尊敬する名人の人となりと生活との中の二元性あるいは両極性が、テグラリウスを除いてだれにもまだ認められなかった段階ですでにこれを認識し、提示しようとしないのは、誤りであり、伝記の題目にふさわしくないように思われる。むしろ、クネヒトの心の中の分裂、あるいはより良く表現すれば、絶えず脈打っている両極性を、これから後は、尊敬する人の本性中の固有の特徴として本式に取りあげ、肯定することが、われわれの課題であるだろう。つまり、カスターリエンの名人の伝記をもっぱら聖者伝の意味で、カスターリエンのいやがうえにも大いなる栄光のために書くことを許されていると考える著者があるとしたら、ヨーゼフ・クネヒトの名人時代の報告を書くのに、その最後の短時間を唯一の例外とすれば、功労とか、義務の遂行とか、成功とかを数えたてて讃美する方法をとるのは、決して困難でないであろう。どのガラス玉演戯名人の生涯と職務遂行をとってみても、ワルトツェルで演戯を最も楽しんだ時期の名人ルートヴィヒ・ワッサーマーラーをも含めて、記録された事実だけを頼りとする歴史家の目には、クネヒト名人の生涯と職務遂行ほど、申しぶんなく、賞讃に値すると思われるものはないだろう。しかし、彼の職務遂行は、まったく異常な評判になるような、いや、一部の批評家たちには醜聞と感じられるような最後をとげた。しかもこの最後は、偶然とか、災難とかなどではなく、まったく必然的な結果であった。それで、その最後が、尊敬する名人の輝かしい、このうえない賞讃に値する業績や成功と、決して矛盾するものでないことを示すのは、われわれの課題の一つである。クネヒトは、高い職務の偉大な模範的な管理者であり、代表者であり、非の打ちどころのないガラス玉演戯名人であった。しかし、彼は、自分の仕えているカスターリエンの光輝を、危険に陥って消えゆく偉大さと見、かつ感じたのであった。彼は、同時代のカスターリエン人の大多数の人々のように、その光輝のなかにぼんやりとのんきに生きてはいなかった。彼はその由《よ》って来たところと歴史とを知り、その光輝を、時間に支配され、時間の仮借ない力に洗われゆすぶられる歴史的なものとして感じていた。歴史的経過を生き生きと感じるように目ざめ、自己の人格と活動を、生成変化の流れの中で共に流れ共に働いている細胞として感じるようになったのは、彼の歴史研究によって、また偉いヤコブス神父の感化によって培《つちか》われ、自覚されたものである。しかし、その素質と芽ばえはずっと前から存在していた。ヨーゼフ・クネヒトの人格にほんとに生き生きと触れたもの、この生活の特性と意味とをほんとにあとづけたものは、そういう素質と芽ばえを容易に見つけるであろう。
生涯の最も輝かしい日に、みずから行なった第一回の祝典演戯の終りに、カスターリエンの精神の発揚に異常な成功を収め、感銘を与えた後で、「カスターリエンとガラス玉演戯がいつかは消滅する定めだとは、考えたくない。しかし、そう考えずにはいられない」と言ったこの人は、初めから、まだ歴史を深くきわめないずっと前から、生成したものはすべて無常であり、人間精神によって作られたいっさいのものは問題をはらんでいることを熟知する世界感情をいだいていたのである。彼の少年時代、生徒時代にさかのぼると、エシュホルツで同級生が先生の期待にそわず、英才学校から普通の学校へ送り返されたというので、行くえをくらますことがあるたびごとに、彼は深い胸苦しさと不安とを感じた、という報告にぶつかる。そういうふうに退校させられたものの中には、若いクネヒトと個人的に親しかったものは、ひとりもなかった、と伝えられている。彼の、心を乱し、不安に満ちた苦しみで悩ましたのは、人を失ったこと、人が遠ざけられていなくなったことではなかった。この苦痛を与えたのは、カスターリエンの秩序と完全さはびくともしないものだと思っていた子どもらしい信頼が、軽くゆすぶられたためであった。州の英才学校へ採用されるという幸運と恩恵にあずかったのに、この恩恵をあたら失い、放棄する青少年がいた。自分の天職をきわめて神聖に真剣に考えていたクネヒトにとっては、そこに何か心をゆるがすものが、カスターリエン的でない世界の力の存在を示すものがあった。そういう事件が――証明はできないが――少年の心に、それまで教育庁は絶対に正しいと思っていた観念に、最初の疑いを呼びさましたかもしれない。教育庁は、しばらくたってから処分しなければならぬような生徒を時々カスターリエンに連れてきたからである。同時にこういう考え、つまり権威に対する批判の心が早くもこのとき働いていたかどうかはともかくとして、英才学校生徒の脱線と送還とを、少年は不幸と感じたばかりでなく、不当なこと、醜い汚点と感じた。ごまかせないこういう汚点の存在すること自体がすでに、一つの非難であり、カスターリエン全体に責任を負わせるものであった。生徒クネヒトがそういう機会に心をゆすぶられ乱された根拠はその点にあるのだ、とわれわれは信じる。州の境界の外に、カスターリエンとその法則とに相容れない世界と人間生活が存在していた。それはカスターリエンの秩序や計算の中に溶けこまず、それによって制御もされず、純化もされなかった。もちろん彼はその世界が自分自身の心の中にも存在することを知っていた。彼の上にある法則に逆らう本能や空想や欲望も、彼は持っていた。その本能を抑制することは、徐々にできはしたものの、容易ならぬ骨が折れた。生徒によっては、その本能が非常に強くなり、どんな警告や罰をも突破した。本能のとりこになったものをカスターリエンの英才の世界から、しつけや精神の訓練によってではなく、自然の本能に支配されている別の世界へ送り返すようにしてしまうことも、少なくなかった。その世界は、カスターリエン的な美徳を求めて努力しているものにとっては、あるいは邪悪な地獄のように、あるいは、誘惑的な遊戯場や盛り場のように思われたに違いない。良心的な若いものの多くが、こういうカスターリエン的な形で、罪の観念を知った。そして多年の後、彼は成人して、歴史を愛好するようになってから、歴史は利己主義や本能生活の罪の世界を材料とし動力とするのでなければ、成立しえないということ、カスターリエン宗団のような崇高な組織も、この濁った流れから生れ、いつかはまたそれに飲みこまれるということを、詳しく知るようになった。したがってカスターリエンという問題は、クネヒトの一生の強い動きや努力や感動のすべての根底にある問題であった。しかしそれは彼にとって決して単に思索上の問題ではなく、他のどの問題とも比較にならないほど彼の深い内心に関係を持っていた。そして彼はそれに共同の責任を感じていた。ある人々は、自分の愛し信じる思想や、愛する祖国や共同体が痛み、苦悩するのを見ると、みずから病み衰え、死ぬことさえある。彼はそういう人間のひとりであった。
この糸をたぐりつづけていくと、クネヒトの最初のワルトツェル時代にぶつかる。生徒時代の最後で、聴講生デシニョリと意義深い衝突をしたころである。そのことはその個所ですでに詳しく述べた。カスターリエン的理想の熱烈な信奉者と、世俗の子プリニオとの出会いは、生徒クネヒトにとって、はげしい、長く影響を及ぼした体験であるばかりでなく、深い重要さを持つ、比喩《ひゆ》的な意味のある体験であった。その当時、彼はきわめて重要であるとともに骨の折れる役目を背負わされたのである。その役目は一見偶然に振りかかってきたようであるが、彼の人となり全体にまったく打ってつけだったので、彼のその後の生活は、この役目を取りあげ、いよいよ完全にそれに溶けこむことにほかならなかった、と言いたいくらいである。つまり、カスターリエンの擁護者となり代表者となる役目で、十年ほど後にはヤコブス神父に対し改めてそれを演じなければならなかったし、ガラス玉演戯名人としては最後まで演じ通したのであった。宗団とその法則との擁護者となり代表者となる役目であるが、いつでも反対者から学び、カスターリエンを封じこめ窮屈に孤立させるのではなく、外界との活発な交流と対決とを促進させる、熱心な用意があり、そのため努力もした。デシニョリと精神上の雄弁上の競争をした際には、まだ部分的に遊戯にすぎなかったものが、後に、有力な敵であり友であるヤコブスを相手にしたときには、深刻に真剣なものになっていた。ふたりの敵に対し、彼は自己の真価を発揮し、ふたりの敵によって成長し、彼らから学び、戦いと交換において受け入れるに劣らず、与えた。相手に打ち勝つことが初めから戦いの目標ではなかったから、二度とも相手に打ち勝ちはしなかったが、自分の人格と自分が代表する原理や理想の光栄ある承認を相手に強《し》いることはできた。博学なベネディクト派神父との論議は、カスターリエンの半公式代表をローマ法王庁に設けるというあの実際的な結果を直接招来しはしなかったとしても、カスターリエンの多数のものが考えていたより、ずっと高い価値のものであったろう。
プリニオ・デシニョリとの、また賢い老神父との論争者としての友情によって、クネヒトは、カスターリエン以外の世界について、知識、というよりはほかの観念を得た。そういうものを持っている人はカスターリエンには確かにまれであった。彼とても、そのほかにはカスターリエン以外の世界と密接な関係をまったく持たなかった。マリアフェルス滞在も、ほんとうの世俗生活に親しませることができたわけではないけれど、これを除けば、クネヒトが世俗生活を見、かつ、その生活を共にしたのは、幼年時代だけであった。しかし、デシニョリとヤコブスと歴史研究のおかげで、現実に対するほのかな観念が目ざめた。大部分は直観的に生じた、ごくわずかな経験しか伴わない観念であったが、この観念のため、役人をも含めたカスターリエンの同胞の多数より、彼は物知りとなり、俗世に理解を持つようになった。彼は終始かわらず正真正銘の忠実なカスターリエン人であったが、カスターリエンは、どんなに価値があり、愛する部分であろうとも、世界の一部、小さい一部にすぎないことを、彼は決して忘れなかった。
さてフリッツ・テグラリウスとの友情はどうであったろうか。この気むずかしい、問題をはらんだ人物、ガラス玉演戯の崇高な技巧家、甘やかされた、神経質なカスターリエン一点張りの男との友情は? マリアフェルスに短い訪問をしたとき、無骨なベネディクト派修道僧たちのあいだにいるのが、ひどく不快にみじめになって、こんなところには一週間も辛抱していられないと言いきり、二年もいい気持ちですごしてきた友人に感嘆してやまなかった男である。われわれはこの友情についていろいろと考えてみた。捨て去らなければならない考えも少なくなかったが、いくつかは批判に耐えるように思われた。それらの考えはすべて、この長年にわたる友情の根と意味とはいったい何であったか、という問いに向けられた。とりわけ、せいぜいベネディクト派の神父との友情を除いて、クネヒトの友情のどれについてみても、彼のほうが友を探し、愛を求め、相手を必要とした側ではなかったということを忘れてはならない。ただただ彼の高貴な人となりのゆえに、彼は人を引きつけ、驚嘆され、うらやまれ、愛されたのである。彼の「目ざめ」のある段階から後、彼もこの天与の素質を自覚した。それで、すでに大学生時代の初期に、テグラリウスから讃嘆され、愛を求められたが、クネヒトは常に相手とのあいだに一定の間隔を保っていた。それにしてもなお、彼がこの友人に実際に好意を寄せていたことを示す証拠は、いくらもある。クネヒトにとって魅力があったのは、テグラリウスの非凡な天分や、たゆまぬ、特にガラス玉演戯のあらゆる問題に対処する天才的な素質だけではなかった、とわれわれは考える。クネヒトの強い持続的な興味は、友人の大きな天分に向けられたばかりでなく、同様に、その欠点、虚弱さに向けられていた。まさしく、他のワルトツェル人にとっては妨げになり、しばしば耐えがたく思われたテグラリウスの性質に、クネヒトの興味は向けられたのである。 この奇妙な人間は極度にカスターリエン人であった。彼の暮し方全体は、カスターリエン州の外では、考えることさえできなかっただろう。それほどカスターリエンの雰囲気《ふんいき》と教養の高さを前提としていたので、彼の気むずかしさと奇妙さとがなかったら、彼をこそ大カスターリエン人と呼ぶことができただろう。ところが、この大カスターリエン人は、仲間と折り合いが悪く、仲間のあいだでも、上司や役人のあいだでもさっぱり好かれず、絶えず人の邪魔をし、年中衝突を起した。それで、もし勇敢で賢明なクネヒトという友人の保護と導きがなかったら、おそらく早く破滅してしまっただろう。彼の病気と呼ばれたものは、結局、背徳、反抗性、性格の欠陥であった。つまり、心底では非聖職制度的な、完全に個人主義的な考え方と暮し方であった。彼が既存の秩序に順応したのは、宗団の中に入れられるのに必要な範囲にとどまったのである。多面的な、学問においても、ガラス玉演戯術においても、うまず飽かず熱心に努める精神であった、という範囲で、彼はすぐれた、いや、輝かしいカスターリエン人であった。しかし、性格の点、聖職制度と宗団道徳に対する態度の点では、ごく平凡な、いや、劣ったカスターリエン人であった。彼の最大の悪徳は、冥想をいつも軽視し、怠ることであった。冥想の意義は、個人を秩序の中に置く点にある。良心的に冥想にいそしめば、彼の神経病を十分|癒《いや》すことができただろう。よくない行状をしたり、いらいらした、あるいは憂鬱《ゆううつ》な態度をとったりした時期のあとでは、上司が罰として、厳格な冥想修業を、監視のもとに強制的に行わせたが、そのたびごとに、小規模ながら神経病は一つ一つ癒されたのである。好意的で、思いやりのあるクネヒトも、たびたびこの手段をとらざるをえなかった。いや、テグラリウスはわがままで、むら気で、本気に秩序に従う気のない性格であって、いつも生き生きした精神を持っており、彼の厭世《えんせい》的な才知が火花を散らし、彼の着想の大胆さと往々にして陰気なすばらしさがすべてのものを引きつけるような、興奮したときには、魅惑的でさえあった。しかし、彼は根本的に不治の病にかかっていた。なぜなら彼はなおることをまったく欲しなかったからである。彼は、調和や秩序を眼中におかず、自分の自由といつまでも変えぬ大学生気質だけを愛した。そして、聖職制度の一員になる道をとって、平和に達するよりは、終生苦悩するもの、律しがたい人間、強情な独行者、天才的な愚かもの、虚無主義者であることのほうを選んだ。平和などを重んぜず、聖職制度を眼中におかず、非難や孤立をなんとも思わなかった。だから、調和と秩序を理想とする共同社会においては、極度に不都合な、こなしにくい成員であった! しかし、この手に負えない、こなしにくいところがあったればこそ、彼は、整然と清められた小さい世界のただ中にあって、絶えず事を起す治安妨害、非難、戒め、警告となった。また、新しい大胆な、禁じられた、大それた思想の発起者、羊の群れの中の強情な行儀の悪い羊となった。問題が多かったにもかかわらず、彼がこの友を得たのは、まさにこの点であった、とわれわれは考える。確かに彼に対するクネヒトの関係においては、常に同情も、ある役割を演じていた。また彼が危険にさらされており、たいていの場合不幸でいることが、友人の騎士的な感情に訴えていた。しかし、それだけでは、クネヒトが名人位にのぼって後も、仕事と義務と責任を山のように背負わされたただ中にあっても、この友情の生命を引き続き保たせるのに、足りなかっただろう。クネヒトの生涯においてこのテグラリウスは、デシニョリとマリアフェルスの神父とに劣らず、必要であり重要であった、とわれわれは考える。あの両者と同様に、目ざめを促す要素として、新しい展望への開かれた小窓として、必要であり重要であった。思うに、クネヒトは、この風変りな友の中に、一つの型の代表者を感知し、時がたつにつれ意識的に認めさえしたのである。それは、この唯一の先駆者以外にはまだ存在していない型、つまり、カスターリエンの生命が新たなものに出会い、新たな刺激を受けて、若返り、鍛えられることがなければ、いつかはそうなるかもしれないカスターリエン人の型であった。テグラリウスは、大多数の孤独な天才がそうであるように、先駆者であった。実際彼は、まだ存在しないが、あすは存在するかもしれないカスターリエンに、生きていた。俗世に向ってはますます門戸を閉ざし、内面的には老衰と冥想的な宗団道徳のゆるみのため堕落していくカスターリエン、すなわち、最も高い精神の飛躍と、高い価値に対する最も深い献身とは、依然として可能であったけれど、高く発達し、自由に戯れる精神が、高度にしつけられた能力をみずから楽しむという以外、もはや目標を持たない世界に、テグラリウスは生きていたのだ。彼はクネヒトにとって、最高のカスターリエンの能力の化身と同時に、その堕落と没落とを警告する前兆を意味していた。このフリッツのような人物の存在するのは、驚嘆すべきこと、すばらしいことであった。しかし、テグラリウス流の人物ばかりの住む夢想国にカスターリエンが解体してしまうことは、阻止しなければならなかった。そうなる危険はまだ遠かったが、すでに存在していた。クネヒトの知っているカスターリエンは、高貴な孤立の城壁をなおもう少し高くしさえすれば、あるいは、宗団の規律の衰退と聖職制度の道徳の低下が加わってきさえすれば、もうテグラリウスは、風変りな一個の存在ではもはやなくなって、堕落し滅亡していくカスターリエンの代表者となるだろう。この未来のカスターリエン人がクネヒトのそばに生きていなかったら、そしてクネヒトによって詳細に知られていなかったら、そういう衰退がすでに始まっている、あるいはそういう傾向が存在しているという可能性、名人クネヒトのこの最も重要な認識と憂慮とは、おそらくずっと遅れて生じたか、あるいはついに生ぜずにしまったかもしれない。ちょうどまだ知られていない病気にかかった最初の患者が賢明な医者にとってそうであるように、この未来のカスターリエン人はクネヒトの目ざめた心にとって、一つの徴候であり、警告であった。フリッツは実際、平凡な人間ではなく、貴族であり、高度の天分の持ち主であった。先駆者テグラリウスに初めて現われた、まだ知られていない病気が、いつかはびこって、カスターリエン人の姿を変え、この州と宗団とがいつか堕落した病める形をとるようになったら、この未来のカスターリエン人はテグラリウスの徒だけでなくなるだろう。彼らは、テグラリウスのすぐれた天分や、憂鬱な天才性や、燃えあがる技巧家の情熱を持たず、その多数はただテグラリウスの頼りにならない点、気まぐれな傾向、しつけや公共心の欠乏などだけを持つだろう。不安に満ちたときには、クネヒトはそういう暗い幻影と予感とをいだいたことだろう。あるいは沈潜によって、あるいは活動を強化することによって、それを克服するには、きっと多くの力をさかねばならなかったろう。
テグラリウスの場合はまた、クネヒトが、彼の出くわす問題的なもの、むずかしいもの、病的なものに当面したとき、それを回避せずに、どんなふうに克服しようと努力したか、その仕方について特に美しい教訓に富んだ実例をわれわれに示している。彼の警戒、配慮、教育的な指導等がなかったら、危険にさらされていた友人テグラリウスは、たぶん早く破滅したばかりでなく、そのおかげで疑いもなく、演戯者村に障害や不利が際限もなく生じただろう。テグラリウスが演戯者の英才の仲間に加わって以来、そういう障害はすでにまぎれもなく存在していたのである。名人がこの友をどうにか軌道にのせておいたばかりでなく、その天分をガラス玉演戯に役だたせ、高貴な業績に昇華させた手腕、また友人のむら気と常軌を逸した言行を忍び、その人となりの中にひそむ価値のあるものに根気よく訴えることによって、それを克服した周到さと忍耐とは、人間のあしらい方の傑作として、われわれの讃嘆せずにはいられないところである。それはそうと、クネヒトの在職時代の演戯の様式上の特性を詳細に研究し、その分析を示すことは、楽しい、おそらく思い設けぬ認識に達する課題であろう――それをガラス玉演戯の歴史家のひとりに真剣にすすめたい。それは品位があって、しかも実に楽しい着想と表現にきらめいている、輝かしい、リズムの点できわめて独創的で、しかもいい気になっている名人気質とはおよそ遠い演戯であって、その根本的な案と構成ならびに冥想序列の処理は、もっぱらクネヒトの精神的な所産であるが、みがきをかける仕上げや演戯技術上の小さな仕事は大部分、協力者テグラリウスの手に成るものであった。たとえそれらの演戯がなくなり、忘れられることがあっても、そのためクネヒトの生活や活動が後世の人にとってはなはだしく魅力と模範の力を失うことはないだろう。幸い、それらはなくならず、いっさいの公式演戯と同じく、記録され保存されている。それはただ記録所に死蔵されているのではなく、今日でも伝統の中に生き続け、若い学生たちに研究され、多くの演戯講習や演習にお手本として好んで用いられている。その中に、あの協力者テグラリウスも生き続けている。そういうことがなかったら、彼は忘れられてしまうか、あるいはせいぜい奇妙な、さまざまの逸話の中に幽霊のように出てくる過去の人物となってしまっただろう。こうしてクネヒトは、組織の中に入れにくい友人フリッツに、一つの席と働く場所を指示することができ、ワルトツェルの精神上の財産と歴史に貴重なあるものを加え、同時にまたこの友人の姿と思い出に、ある期間の生命を確保してやった。それとともに、友人のために骨を折ってやるのに際し、この偉大な教育家は、そういう教育的な感化を及ぼす最も重要な手段を完全に自覚していたことを、われわれは想起する。その手段は友人の愛と讃嘆であった。この讃嘆と愛、クネヒトの強い、しかも調和的な人格と支配者気質に対するこの心酔、それを寄せているのはフリッツだけでなく、同志や弟子のあいだにもおおぜいいることを、名人はよく知っていた。そして絶えず、彼の高い官職よりも、そういう讃嘆や愛の上に、より多く権威と勢力とを築いていった。やさしくて融和的な人となりであるにもかかわらず、彼はきわめて多くの人々に権威と勢力とを及ぼした。親切なことばで話しかけたり、ほめたりすることが、またそっぽを向いて知らぬ顔をすることが、どんな効果を及ぼすかを、彼は正確に感じていた。彼の最も熱心な生徒のひとりがずっと後に語ったことがある。クネヒトは一週間にわたって講習でも演習でも一言も彼と口をきかず、彼を見さえしないらしく、まるで空気のようにあしらったが、彼の生徒時代全体を通じ、それほど厳しい、身にしみる罰は味わったことがない、と。
こういう考察と回顧が必要だと考えたのは、この伝記的な試みの読者に、クネヒトの人格の中の二つの、正反対に作用している根本的傾向を、ここで理解してもらい、クネヒトの一生の頂点までこの記述をたどってきた読者に、彼の豊かな履歴の最後の局面を迎える用意をしてもらうためである。この生活の二つの根本的傾向、あるいは両極、陰陽は、すなわち一方では、保持する傾向、聖職制度へ誠実をつくし、没我的に奉仕する傾向、他方では「目ざめ」前進し現実をとらえ理解しようとする傾向である。信仰の篤い、奉仕をいとわぬヨーゼフ・クネヒトにとっては、宗団、カスターリエン、ガラス玉演戯は、神聖なもの、無条件に価値あるものであった。目ざめる、未来を見る、前進するクネヒトにとっては、それらのものは、価値はあるとしても、できあがったもの、戦いとられたもの、生存の形式を変えるもの、老衰し、実を結ばなくなり、崩壊する危険にさらされている形成物であった。その理念は常に神聖不可侵だとしても、その時々の状態は、一時的なもので、批判を必要とすることを、彼は認識していた。彼は精神的な共同体に奉仕しており、その力と意味とを讃嘆していたが、この共同体がみずからだけを純粋な目的と見、国や世界の全体に対する使命や協力を忘れ、ついには、生命の全体から分裂して、みごとではあるが、ますます創造力を失っていく傾向を持っている点に、危険を認めていた。この危険を彼は若い時代、ガラス玉演戯に身をささげきることを再三ためらい、不安をいだいたころ、すでに予感していた。修道僧たちと、特にヤコブス神父と討論したとき、彼はすこぶる勇敢にカスターリエンを弁護したけれど、その危険はますます切実に意識された。再びワルトツェルで暮すようになり、演戯名人となってからは、それが絶えず明白な徴候によって認められた。つまり、多くの役所や直属の役人たちの、忠実ではあるが、世間にうとい、まったく形式的な仕事ぶりや、ワルトツェルの復習教師たちの、才気には富んでいるが、高慢な専門家気質や、それにも増して、感動的であると同様に恐ろしくもあるテグラリウスという人物を見ると、危険が明らかに認められた。就任後の困難な最初の一年間、彼は、時間も私生活もまったく犠牲にしなければならなかったが、それを終えると、歴史研究にもどった。そして初めて目を開いて、カスターリエンの歴史に没頭しているうちに、この州が自負しているような状題にはないこと、特に、外界に対する関係、国の生活や政治や教養と州とのあいだの相互関係が、数十年来退歩しつつあることを、確信した。もちろん教育庁は学校や教養の制度について、連邦議会でなお発言権を行使し、州は国に依然として良い教師を供給し、学問のあらゆる問題について権威を発揮していた。しかし、そういういっさいのことが、習慣と、からくりの性格を帯びてしまった。カスターリエンの各方面の英才の中から、自発的に州外の学校勤務に志願する青年は、いよいよ少なくなり、熱心さも減ってきた。国の官庁や個人で、カスターリエンに助言を求めるものは、ますますまれになった。昔は、たとえば重要な裁判所の審理においてさえ、カスターリエンの声が徴せられ、聞かれたものである。カスターリエンの教養の水準を国の水準と比較すると、互いに接近するどころか、むしろ救いがたく離れ合っていくのがわかった。カスターリエンの精神的な性質がいよいよ行きとどいた、分化した、過度にしつけられたものになるにつれ、世間はますます、州を州にしておく傾向を示し、州を必要なもの、日々のパンとは考えず、古風な貴重品でも自慢するように、いくらか自慢にする珍品と考えるようになっていた。さしずめ捨ててしまい、なくて済まそうとは決して思わないが、できるなら遠ざけておきたいものだった。そして、詳しくは心得ていないが、現実の活動的な生活にはもはや適応しなくなった心性、道徳、自己感情だ、と認めた。教育州の生活に対する同胞の興味、州の制度、特にガラス玉演戯に対する同胞の関心は、国の生活や運命に寄せるカスターリエン人の関心と同様に、後退していた。ここに誤りのあることは、彼にはもうとっくから明らかになっていた。ガラス玉演戯名人として演戯者村でカスターリエン人と専門家だけを相手にすることは、彼にとって苦痛であった。そこから、ますます初心者講習に献身しようという努力、できるだけ若い生徒を持とうという願いが、生じた。若ければ若いほど、彼らはまだ世界と生活の全体とに結びついており、訓練され、専門化される度合いが少なかった。しばしば彼は、俗世や人間や素朴な生活に対し燃えるような欲望を感じた。――外界の未知のところに、まだ素朴な生活がある、と仮定してのことであるが。こういうあこがれや、空虚感、あまりに希薄な空気の中の生活だという感じを、われわれの大多数のものは時々ある程度感じてきた。教育庁もこの難点を知り、少なくとも絶えず折りにふれて対策を求め、体操や遊戯の実施を強化すること、たとえばいろいろな工作や園芸などの試みをすることによって、欠陥を調整しようと努めた。われわれの観察が正しいとすれば、近ごろは宗団本部でも、学問研究の方面であまり人工的すぎると感じられる専門部門を整理し、冥想修業の強化に資そうとする傾向がある。ヨーゼフ・クネヒトがわれわれよりずっと前にすでに、われわれの共和国の複雑敏感な機構を、老衰しつつある、種々の点で革新を必要とする有機体だと認めたのを、もっともだと言うものがあったとしても、その人が懐疑家、悲観論者、劣等な宗団員だとはかぎらない。
すでに述べたように、彼は在職二年めから再び歴史研究に向った。しかも、カスターリエンの歴史のほかに、主として、ヤコブス神父がベネディクト宗団について現わした大小の研究をのこらず読んだ。デュボア氏や、役所の会議の際いつも書記官として出席していたコイパーハイムの言語学者と対談して、歴史の興味を高めたり、新しく刺激を受ける機会を見いだしたりした。それは彼にとっていつも心をさわやかにし楽します好ましいものであった。もちろん、そういう機会は彼の日常接触する身辺にはなかった。そして、およそ歴史研究なんかに対する彼の身辺の不満は、友人フリッツという人物に具体的な形をとって現われた。とりわけ、われわれは、そういう談話の手記されている一葉のメモを発見した。その談話でテグラリウスは、歴史はカスターリエン人にとって、まったく研究に値しない事柄だ、と熱情こめて論じている。確かに、才気に富んだ、おもしろいやり方で、必要な場合には、感激的なやり方で、歴史解釈、歴史哲学を行うことはできる。それは他の哲学と同様に一つのなぐさみ事だ。それをおもしろがるものがあっても、自分はなんとも言わない。だが、その事柄自体、このなぐさみ事の対象、つまり歴史は、きわめて醜悪なもの、同時に陳腐で悪魔的なもの、鼻持ちならぬ退屈なもので、どうしてそんなものに携わる人がいるのか、わからない。歴史の内容は、人間の利己主義と、永遠に変らぬ、永遠に自分を買いかぶり、自己|礼讃《らいさん》をする権力闘争、物質的な、残忍な動物的な権力、つまり、カスターリエン人の考える世界には現われない、現われても全然価値を持たない事物のための闘争である。世界歴史は、弱肉強食に関する、はてしない、精神もなければおもしろみもない報告である。本来の真実の歴史、つまり、時間を超越した精神の歴史を、権力を求める野心家や、日のあたる場所を求める努力家の、世界とともに古い、ばかばかしいなぐり合いに結びつけるのは、あるいはそれによって説明しようとするのは、すでに精神に対する裏切りであって、十九世紀または二十世紀にはびこった一宗派を思い出させる。その宗派の話をあるとききいたことがあるが、それは大まじめで次のように信じていたという。古い民族が神々にささげた犠牲は、神々や神殿や神話とともに、すべての他の美しいものと等しく、食物と労働の計算しうる過不足の結果、労賃とパンの価格から算定される緊張の結果である。芸術や宗教は、空腹と暴食とにかまけている人類の上にある見せかけの正面、いわゆるイデオロギーである、と。クネヒトはこの話をおもしろがって、いったい精神や文化や芸術の歴史も、歴史ではないか、どっちみち他の歴史といくらかの関連があるのではないかと、それとなく尋ねてみた。いや、まさにその点を否定するのだ、と友人は叫んだ。世界歴史は時間の中の競争だ、利益や権力や財宝を得るための競争だ。そこでいつも問題になるのは、だれが時機を逸しないだけの力と幸運、あるいは俗悪さを持っているか、ということだ。これに反し、精神の行為、文化の行為、芸術の行為は、まさに正反対で、そのつど時間への隷従から脱出すること、人間が本能や惰性の泥沼の中から別な平面へ、時間のない所へ時間から解放されたところへ、神の世界へ、まったく非歴史的な反歴史的な境へすべりこんでいくことである、と。クネヒトはおもしろそうに耳を傾け、さらに相手を刺激して、なかなか機知に富むことばを吐かせた。それから落ちつきはらって次のような文句で対話を結んだ。「精神とその行為に対する君の愛に心から敬意を表するよ! ただ精神的な創造は、多くの人が思っているように、われわれが本当の関係を持つことはできないものなのだよ。プラトンの対話や、ハインリヒ・イザーク〔イタリアのオルガン奏者。ドイツ、スイスでも活躍した。すぐれたミサ、モテットを作曲した〕の合唱の楽章、また精神の行為あるいは芸術品あるいは客観化された精神と呼ばれているものは、浄化と解放を求める戦いの最後の結果、最終の帰結なのだ。君の呼ぶように、時間の中から時間のない所への脱出だと言ってもよい。たいていの場合、作品に先行する戦いや努力をまったく感づかせないような作品が、最も完全な作品なのだ。そういう作品をわれわれが持っていることは、大きな幸福だ。われわれカスターリエン人は、ほとんどまったくそういう作品で生きている。われわれはもはや再生産のときでなければ、創造的になれない。われわれはずっと、時間も戦いもない彼岸《ひがん》の境に生きているが、それはそういう作品から成り立っており、そういう作品がなかったら、知られないだろう。われわれは、精神化を、あるいは君が抽象化と言いたければ、抽象化をますます進めていく。つまり、ガラス玉演戯で、われわれは賢者や芸術家の作品を部分に分解し、そこから様式の法則や、形式の規範や、純化された解釈を引き出し、建築用の石材ででもあるように、この抽象で操作する。さて、それはみな非常に美しい。それにだれも異論は唱えない。しかし、だれもが一生涯、抽象だけで呼吸し、飲食することはできない。ワルトツェルの復習教師が興味を持つに値すると感じていることに対して、歴史は一つの長所、つまり現実を相手にしているという長所を持っている。抽象は魅惑的だ。しかしぼくは、人は空気も吸い、パンも食べなければならない、ということを支持する」
時々クネヒトは都合をつけて、老前名人のもとへ短い訪問をした。尊敬すべき老人は、もう目に見えて力が衰え、話をする習慣をとっくにすっかり失っていたが、最後まで朗らかな精神集中の状態を保ち続けた。病気ではなく、その死は、ほんとうは死滅ではなく、だんだん物質から離脱し、肉体的な物体と機能が消える一方、生命はいよいよもっぱらまなざしと、くぼんでいく老人の顔の静かな輝きとの中に集中していくことであった。モンテポルトの大多数の住民にとっては、それはおなじみの、尊敬の念をもって迎えられる姿であった。しかし、少数ながら、クネヒトやフェロモンテや若いペトルスなどにだけは、純枠な没我的な生命のこの夕照と最後の輝きとに一種の共感を寄せることが許された。これら少数の人たちは、前名人がひじかけいすにこしかけている小さいへやに、心がまえをし、心を集中してはいると、消滅のなごやかな輝きに浴し、無言になった完成を共に感じることができた。さながら目に見えぬ光のさす中にでもいるように、この魂の透きとおった領界で、この世ならぬ音楽に恵まれて、幸福ないく瞬間かをすこした。それから、清められ強められた心をいだいて、高い山の頂からでも帰るように、日常生活に帰った。ついにある日クネヒトはこの人の死の知らせを受け取った。彼は急いで旅立っていき、穏やかに永眠した人が床に横たわっているのを見いだした。小さい顔はやせ衰え、くぼんで、静かな神秘的な古代のルーネ文字〔ゲルマン人の最古の文字。紀元前二世紀ごろ発達した。松葉を組み合せたような形で、プリミティヴなアルファベット〕、アラビヤ模様、魔術的な形となって、もはや読みとるよしもなかったが、微笑と完成された幸福とを語ってでもいるようだった。墓べで、音楽名人とフェロモンテに次いで、クネヒトもあいさつをした。音楽の道に明るい賢者のことではなく、偉大な教師のことでもなく、最高官庁の親切に思慮のある最古参の同僚のことでもなく、彼はただ、この人の老いと死とが恵みを受けていたことについて、晩年の友たちにとってこの人の中に、精神の不滅な美しさが示現したことについて、述べた。
この前名人の伝記を書きたいと願っていたことを、彼はいくどももらしているが、職務はそういう仕事をする暇を彼に与えなかった。彼は自分のいろいろな願いをかなえる余地のもはやあまりないことを学んでいた。復習教師のひとりに彼はあるときこう言った。「君たち学生があり余るぜいたくな生活をしながら、それをほんとに知らないのは、残念だ。だが、私だって学生だったときは、同様だった。研究し仕事をする。のらくらはしない。勤勉だと自任してよいと思う――だが、そういう自由を利用すれば、どんなにいろいろなことをし、いろいろなものを作ることができるか、ということは、ほとんど感じない。やがて突然役所から呼出しが来て、そこで使われ、教授の依嘱、使命、官職を与えられる。それからより高い職にのぼり、思いがけず、任務や義務の網にとらえられているのを知る。もがけばもがくほど、網は窮屈に身動きできなくなる。それ自身は小さい任務ばかりだが、一つ一つをきまったときにかたづけなければならない。職務の一日は、時間より任務のほうがずっと多い。それはそれでよい。変えてはならない。しかし、教室、記録所、事務室、応接室、会議、出張などのあいだで、かつて持っていたが失ってしまった自由、命令されない仕事をし、限定されない広範囲の研究をする自由を、一瞬思い出すことがあると、ひとしきり強くその自由にあこがれ、もう一度あの自由を得たら、その喜びと可能性を徹底的に味わうだろう、と想像する」
生徒や役人が聖職制度に奉仕するのに適しているかどうかということに対して、彼は非常に鋭敏な感覚をもっていた。どんな依嘱にも任命にも、彼は慎重に人を選んだ。その人々について彼が記録をしていた成績報告や人物評論は、判断が非常に確実だったことを示している。彼の判断は常に第一に人間的な点と性格を重視していた。むずかしい性格の判定や取扱いをしなければならない場合には、人は好んで彼の助言を求めた。たとえば、前音楽名人の最後の愛弟子ペトルス学生がそうだった。静かな狂信家の種類のひとりであるこの青年は、尊師のお相手役、看護人、崇拝する弟子としての独特な役目を最後までりっぱにつとめはたした。しかし、前名人の死とともに、その役目が自然に終ると、彼はまず憂鬱《ゆううつ》症と悲哀に陥ったが、皆はそれももっともだと思い、しばらくは大目に見た。しかしその徴候はまもなく当時のモンテポルトの主人、音楽名人ルートヴィヒを真剣に憂慮させた。というのは、ペトルスは、故人が隠居していた例の離れ屋に住み続けたい、と言いはり、その小さな家の番人となり、調度や配置を気詰りなくらい寸分たがえず以前のとおりの状態にしていた。特に、ひじかけいすと死んだときの寝床とチェンバロのある、臨終のへやとなった居間を、自分の守るべき、犯すべからざる霊場と見なした。これらの神聖な遺品を痛々しいくらいに大切にするほかには、心を使う義務はただ一つあるきりだった。それは、愛する名人の眠る墓所の手入れであった。この思い出の地で故人の礼拝にいつまでも一身をささげ、ここを霊場として神官のように守り、おそらくは巡礼地となるのを見るのを、自分の天職と思った。埋葬の後、数日間彼はいっさい食物をとらなかった。それから、名人が最後のころそれで満足していた程度の、わずかなときたまの食事に限った。そういうふうにして尊師の後を追い、死んでいくことを意図しているかのような観があった。しかし長くはそうしてもいられなかったので、家と墓所の管理人として、記念の地の永遠の監視人としての資格を得るような態度に移った。そんないろいろなことから、この青年は、それでなくても我意が強くて、久しい前から自分に魅力のある特別な地位を楽しんでいたが、この特別な地位を是が非でも固守し、普通の勤めにはもう決してもどらない、そんな勤めにはもはや耐えないと感じていることが、はっきりとわかった。「それはそうと、故前名人に付き添っていた例のペトルスは、気が触れました」と、フェロモンテの手紙に短く冷たく記されている。
もちろんこのモンテポルトの音楽学生のことは、ワルトツェルの名人に何のかかわりもなかった。彼は学生に対し責任はなかったし、モンテポルトの事柄に介入して、自分の仕事をふやす必要など感じていなかったことも、明らかである。しかし、離れ屋から強権で立ちのきを強いられた不幸なペトルスは、心乱れて、悲しさと物狂わしさのうちに、孤立と現実離反の状態にいよいよ深く陥った。そういう状態では、規則違反に対する通常の処置をもってのぞむわけにいかなかった。彼の上司は、クネヒトが彼に対し好意的な関係にあることを知っていたので、音楽名人の事務局からクネヒトへあてて、助言と介入を求めた。一方、服従を拒む男は、さしずめ病気だということで、病舎の独房へ入れられて、監視のもとにおかれた。クネヒトは、このめんどうな事件に立ち入りたくはなかったが、一度熟考して、救ってやろうと決意した後は、力強く問題を取りあげた。ペトルスをまったく健康な人として扱い、ひとりで旅行させるという条件のもとに、試みにペトルスを自分の所に引き取ろう、と申し出た。青年あての簡単な親切な招待を同封し、もしからだがあいていたら、短いあいだ自分のところへ来てほしい、と言い、前音楽名人の最後のころのことを説明してもらいたい旨を、ほのめかした。モンテポルトの医者はためらいながらもそれに同意し、学生にクネヒトの招待状を渡した。クネヒトの予想にたがわず、不幸な境遇に行き詰っていた青年には、難渋している土地をすみやかに離れることは、何よりも好ましく、身のためにもよかったので、ペトルスはすぐに旅行に同意を表明し、拒まずに本式の食事をとり、旅行証明書をもらって、出発した。ワルトツェルに着いたときは、まずどうにかという状態であった。不安定な落ちつきのない点は、ここではクネヒトのさしずで無視し、記録所の客たちのところへ泊らせた。罪人扱いも、病人扱いもされず、その他、なみでない扱いはされなかった。実際さして病気でもなかったので、この快い雰囲気《ふんいき》をありがたがり、人生へ復帰するよう示された道を利用した。もっとも幾週間にもわたる滞在中、名人にはずいぶんめんどうをかけた。名人は彼に、音楽名人の最後の音楽練習や研究に関する記録を書くようにと、表向きの仕事をさせ、絶えず、監督したが、こうして課題をあてがう一方、記録所で計画的にささやかな助手の勤務を続けさせた。時間があるなら、少し手をかしてほしい、ちょうどひどくせわしく、助手が欠乏しているのだ、と彼に頼んだ。要するに、脱線した男を助けて常道に帰らせたのである。落ちついてきて、人なみになろうという心持ちにはっきりなると、クネヒトは簡単な対談で、直接教育的な感化を与え始めた。そして故人に偶像崇拝を行うのは神聖なことだとか、カスターリエンでも可能なことだとかいう妄想《もうそう》を、一掃しにかかった。それでも彼は、モンテポルトに帰ることに対する恐怖に打ち克《か》つことができなかったので、常態になったと思われたころ、音楽教師の助手としてある下級英才学校に行くよう命令された。そこで彼は尊敬されるように振る舞った。
クネヒトの教育家としての、魂の医者としての働きの実例は、まだいくらもあげられるであろう。かつてクネヒト自身が音楽名人によってそうなったように、若い研究者で彼の人格の柔和な力によって、ペトルスと同様に、一生涯真にカスターリエン的精神の信奉者になったものは、乏しくない。そういう実例はすべて、演戯名人が何か問題的な性格であることを示してはいない。それはすべて健康と均衡とを証明している。ただ、ペトルスあるいはテグラリウスのような、不安定な、危険にさらされている性格のために、名人が愛情こめてめんどうみたことは、カスターリエン的人間のかかるそういう病気や発作に対し、特別な注意深さと敏感さを示しているように思われる。カスターリエンの生活そのものに内在している問題や危険に対する注意は、最初に目ざめてからのち、二度と静まらず、眠りこんでしまうことがなかったのである。われわれの同胞の大部分は、のんきに容易に、この危険を見ようとしないが、クネヒトのはっきりした勇敢な人となりには、そういうことは思いもよらなかった。官庁の同僚の大多数はこの危険の存在を知りながら、原則的に存在しないものとして取り扱っているのであるが、彼らのその戦術はおそらく決して彼の戦術とはならなかっただろう。彼はその危険を、あるいは危険の多くを知っていた。彼は、カスターリエンの初期の歴史をよく知っていたので、この危険のただ中にある生活を戦いと見なし、危険の中にあるこの生活を肯定し愛したのであるが、非常に多くのカスターリエン人は、彼らの共同社会とその中の生活を単に牧歌と解している。ベネディクト宗団に関するヤコブス神父の著作からも、宗団を戦闘的共同体と考え、敬虔《けいけん》を戦闘的態度と考えることを、クネヒトは学んだ。あるとき彼はこう言った。「悪魔と魔神とを知らず、それらに対して絶えず戦うことをしないような、高貴な高められた生活はない」
最も高い職についている人々のあいだに、まぎれもない友情が成立することは、きわめてまれである。したがって、クネヒトが就任後の数年間そういう関係を同僚のだれとも結ばなかったとしても、驚くにあたらない。コイパーハイムの古代語学者に対し大きな共感を寄せ、宗団首脳部に対し深い尊敬をいだいていたが、その領域では個人的なもの私的なものがほとんどまったく除外され、客観化されていたので、公職上の協力以上に、真剣に接近したりしたしんだりすることは、ありえなかった。しかし彼はそれも体験することになった。
教育庁の秘密文書を利用することはできないから、クネヒトが教育庁の会議や投票のとき、どういう態度をとり、どういう活動をしたかについては、折りにふれて友人に語ったことばから推量されることしか、わからない。名人時代の当初そういう会議で沈黙がちであったのを、必ずしもいつも固執していたらしくはないが、彼自身が発起者であり、動議提出者であったときを除いては、雄弁を振るったことは、ごくまれなようである。われわれの聖職制度の最上層部を支配している伝統的な会話の調子を彼が身につけた早さ、また、その方式を実際に使うときに示した上品さ、着想の豊かさ、遊戯的な楽しさなどについては、明白な証拠がある。周知のとおり、われわれの聖職制度の先頭に立つ人々、すなわち名人や宗団の首脳者は、交際するとき、互いに儀礼の様式を入念に守るばかりでなく、いつのころからとは言えないが、発表する意見の相違が大きく、論争の問題が重要であればあるほど、いっそう厳格に周到に磨《みが》きをかけられた礼法を用いるという傾向、あるいは、秘密な規定、あるいは遊戯の規則が彼らのあいだを支配している。おそらく、昔から伝わっているこの礼法は、他の作用をも持っているのであるが、何よりも予防措置の作用を持っている。すなわち、論議の際極度に丁重な調子をとると、論議している個人が激情的になってしまうのを防止するとともに、彼らが完全な態度を保つのを助けることになる。さらに、宗団と官庁の品位そのものを防ぎ保護することになる。その調子は宗団と官庁の品位に、いわば儀式の僧服と神聖さのヴェールを着せるのである。したがって、学生たちからしばしば嘲笑《ちょうしょう》された儀礼術も、それなりによい意味を持っているのである。クネヒトの時代の前には、彼の前任者トーマス・フォン・デア・トラーフェ名人が、この術の大家として特に讃嘆されていた。その点クネヒトを厳密に彼の後継者と呼ぶことはできない。模倣者と呼ぶことはなおさらできない。彼はより多くシナ人の弟子であった。彼の流儀のいんぎんさは、それほど極端に走っておらず、皮肉をまじえていた。しかし、儀礼にかけてもならびないものと、同僚のあいだでも認められていた。