漂泊の人(クヌルプ)
ヘルマン・ヘッセ/芳賀檀訳
目 次
早春
クヌルプへの私の思い出
終焉
訳者あとがき
[#改ページ]
早春
一八九〇年代の始めごろ、僕らの友人クヌルプは数週間にわたって病院に寝ていなければならなかった。さて、彼が退院したのは二月の半ばのことで、ひどい天気つづきと来ている。そこで、彼はたった二三日放浪の旅をやってみただけで、またすぐ熱を出してしまった。どこか屋根の下に宿泊する算段をしなければならない。彼のことだから友人にことは欠くまい。この辺りのどんな小さな町に行ったって、快く彼を迎えてくれる所はどこにでもあったろう。
しかし、こういう点については彼はふしぎなくらい気位が高かった。その|見しき《ヽヽヽ》は大したもので、したがって、もし彼が誰か友人から何がしかの|もの《ヽヽ》を受けとった、とでもいうことになると、それは非常な光栄とみなされねばならぬほどだった。
さて、このたび、その光栄をになうことになったのはレヒシュテッテンの皮なめし匠エミール・ロートフゥスだった。クヌルプはこの男のいたことを思い出したのだ。もう閉じられていた皮なめし匠の家の扉《と》を、たたいたのは、雨が降って、西風がひどく吹きつける夜のことだった。皮なめし匠は二階の窓枠を細目にあけて、真っ暗な下の通りに向って怒鳴りつけた。「誰だい、今ごろ、外《そと》にまごまごしている奴は? まだ夜が明けるにゃ間があらあ?」
クヌルプはこの昔なつかしい友人の声をきくと、くたくたに疲れ切っていたのが、急に元気をとり戻したような気がした。彼は数年以前エミール・ロートフゥスと一緒に四週間ほどさすらいの旅をつづけたことがあった。そのとき彼が作った詩の一句をふと思い出したのだった。とっさに彼はその歌の文句を二階に向けて歌いあげたものだ。
[#ここから1字下げ]
一宿一飯にありついたのは、
疲れた遍路の旅の人。
何をかくそう|こやつ《ヽヽヽ》こそ、
あの失われた蕩児です。
[#ここで字下げ終わり]
皮なめし匠はあわてて窓の扉《と》を押しあけると、窓からぐっと身《からだ》をのり出すようにして、そとをうかがった。
「はてな。そういう声はクヌルプらしいが? それともクヌルプの幽靈が迷ってでも出てきたか?」
「僕だよ!」とクヌルプは叫んだ。「まあ階段づたいに下へ降りて来いよ。それとも窓からとび降りて来ようってのかい?」
友人はうれしさのあまり、あわててとび降りてきた。窓の扉をあけると小さなくすぶっている石油ランプの灯《ひ》を、来訪者の顔につきつけた。クヌルプはまぶしそうに眼をまたたいた。
「まあ、いいから、はいんなよ!」友人は興奮して叫ぶと、彼を家の中へ引っぱり込んだ。「話はあとできく。まだ何か晩飯ののこりものぐらいはあるだろうし、それにベッドだって用意がある。どうしてやって来られたのかね。このひどい天気に! あいかわらずよっぽど上等の長靴でもはいていると見えるなあ。お前のことだから?」
クヌルプは友人の矢つぎ早やの質問やら、嘆声やらを頭の上にきき流しながら、入口の段の上で捲きあげていたズボンのひだを丹念に降し、それから暗い階段を勝手知った様子で上へあがって行った。もう四年間もこの家の閾《しきい》をまたいだことは一度もなかったのだが。
上の廊下のところ、部屋の扉の前で、クヌルプはちょっと立ち止り、中へ招じ入れようとする友人の手をとって引き止めた。
「ねえ、君」とクヌルプは囁いた。「君は今はもう奥さんがあるんだろう?」
「そうだよ、女房はもらったよ」
「だからさ。――解ってるだろう。君の奥さんは僕という人間をご存知ないのだし。奥さんが迷惑だと思われるか知れないよ。お邪魔になるのは僕もいやだから」
「ああ、何が邪魔なものか!」
ロートフゥスは笑って扉をいっぱいに引きあけると、明るい部屋の中にクヌルプを押し込んだ。そこには大きな食卓の上に、大型の石油ランプが三本の鎖で釣り下げられてあった。軽い煙草の煙が漂っていたが、淡い筋《すじ》になって、熱せられたランプの|ほや《ヽヽ》の方に押し流され、そこで急に渦巻きになって天井の方に昇ってゆき、どこともなく消えて行くのだった。テーブルの上には新聞がおかれてあり、煙草をいっぱいにつめた豚の膀胱《ふくろ》がころがされてある。横手の壁ぎわに寄せられた細長い長椅子からは、うたた寝の邪魔をされたが、それを気ぶりに悟られまいとするかのように、ものうい、恥ずかしそうな快活さをもって、若いおかみさんがとび起きたところだった。クヌルプはまるではげしい光りに照されたときのようにちょっと眩しそうに目をまたたいたが、奥さんの淡い灰色の眼の中をじっとのぞき込むと、鄭重なあいさつの辞をのべながら握手の手をさし出した。
「つまり、これがうちの女房さ」と親方は笑った。「そして、これはクヌルプ。友人のクヌルプ。ねえ、お前も知っているはずだ。前にもたびたび話したことがある有名なクヌルプ。もちろんクヌルプは我々のお客としておいでになったのだよ。あの徒弟用のベッドに寝ていただくことにしよう。今ちょうど空いているところだしな。まあ、それは、とにかく、一緒に林檎酒《モスト》を一杯やってからのことだ。それにクヌルプに何か食べられるものをあげてほしいね。まだ肝臓腸詰《レバー・ウルスト》が一本残っていたはずじゃないか?」
おかみさんは部屋をとび出して行った。クヌルプは彼女の後を目で追っていた。
「どうも、えらくお邪魔しちゃったらしいな」クヌルプは低い声でささやいた。が、ロートフゥスはそんなことは相手にもしない。
「まだ赤ちゃんはできないの?」クヌルプは訊いた。
そこへ彼女は戻ってきた。錫《すず》の皿の上に腸詰を並べ、その傍にパンを入れた盆を置いた。盆の中には大きな黒パンの片半分が盛られてあり、その盆はすぐ下へ置かれたが、盆のまわりを取り巻いて、うやうやしい題銘が書かれてあった。『今日もまた、われらに、その日の糧《かて》を与えたまえ』
「リース、いまクヌルプが僕になんてきいたか、解るかね?」
「やめたまえよ君!」クヌルプは親方の言葉をさえぎって、笑いながら奥さんの方にむき直った。
「では、僕は遠慮なく頂戴いたします。親方の奥さん」
しかし、ロートフゥスは勘弁しなかった。
「まだ赤ん坊ができないのか、って訊くんだよ」
「あら、ひどいわ!」奥さんは叫ぶと、すぐにまた逃げ出して行ってしまった。
「ね、まだできないんだろう?」彼女が出て行ってしまうと、クヌルプはきいた。
「まださ。今のところは、急がなくてもいいっていうんだよ、彼女《あれ》が。まあ、結婚して最初の年は結局その方がありがたいこともある。さあ、手を出して取りたまえ、遠慮なく。鱈腹《たらふく》詰めこんでほしいな」
そこへおかみさんが灰色に青のうわぐすりのかかった陶磁製の林檎酒《モスト》の瓶をたずさえて来て、盃を三つテーブルの上に並べ、それになみなみと酒を注《つ》いだ。その注ぎ方がなかなかあざやかなので、クヌルプは彼女の手つきに見惚れながら、ほほえんだ。
「君の健康を祝して、先ず飲もう!」と親方は言い、クヌルプの方に盃をさしあげた。クヌルプはしかし婦人に封する慇懃さを失わず、こう言った。「先ず、ご婦人に対する礼儀を守らなくっちゃ。貴女《あなた》のご健康を祈ります。親方の奥さん! それから親方の番だ! プロジッド」
みんなは盃をぶっつけ合い、そして酒をのみほした。ロートフゥスは喜びのあまり顔を上気させ、自分の友達が何という素晴しい礼儀を心得ているか見てくれという合図に、妻の方に向って目をつぶってみせた。
が、おかみさんの方はとうにそんなことには気がついていた。
「ごらんなさいよ」と彼女は言った。「クヌルプさんはあなたなんかより、よっぽど礼儀を心得てらしてよ。こういうときの、|しきたり《ヽヽヽヽ》や作法をちゃんとご存知なんですもの」
「いや、どういたしまして」と客はてれた。「しきたりという奴は、誰でも自分の修業してきた通りのことをやってのけるものですからね。礼儀ということになると、僕なぞ、とてもあなたの足許にだってよりつけやしません。奥さん。あなたの至れりつくせりのおもてなしぶりと言ったら、先ず第一級のホテル並みというところですからね!」
「そうだ、見通しだな」親方は笑った、「その礼儀という奴も女房は年期を入れて修業してきたって訳ですよ」
「へえ、修業されたんですって? どこで? では奥さんのお父上はどこか旅館のご主人ででもおありなさったの?」
「いいえ、父はもうとうに地の中に眠っていますわ。私はもうほとんど父をおぼえていないくらいですもの。ただ私は二三年『オックセン』で女給に出ていましたの。『オックセン』ってご存知かしら」
「『オックセン』にですって? あすこなら昔はレヒシュテッテン切っての第一流の粋《いき》な料理屋だったじゃありませんか」クヌルプはほめた。
「今だって一流ですわ。ねえ、エミール? ほとんど泊る方ったら商用で出張の方か、遊覽旅行の方々ばかりですもの」
「おっしゃる通りですよ。奥さん、それなら、まあ、さぞ面白い目にもいろいろお会いになったろうし、だいぶ貯金もおできになったという訳でしょうね! しかし、やはり自分の家庭となると、愉しさはまた格別というものでしょう? どうです、奥さん。図星でしよう?」
ゆったりと、味覚を娯しんでいるかのように、彼はやわらかな肝臓《レバー》の腸詰をパンの上に丹念になすり、手ぎわよくむしった腸詰の皮を皿のふちに並べ、そしてときどき芳醇で黄金色の林檎酒《モスト》をちびりちびりとなめていた。いかに彼は細っそりした華奢な手つきで、しなければならぬ日常の茶飯事を、垢抜けた、遊びごとのようにやってのけたことか。親方は娯しみとも尊敬ともつかぬ気持でその様子をほれぼれと見惚れていた。おかみさんがそれを憎からず眺めていたことはもちろんだった。
「とび切り健康そのものという様子にも見えないな、お前は」とエミール・ロートフゥスはそろそろクヌルプにからみはじめた。そこでクヌルプも近ごろは体の調子が面白くなかったこと、病院に寝ていなければならなかったことなどを白状せざるをえなかった。が本当に自分で心配していることは何一つ洩らしはしなかった。そして友達がこれからの身のふり方をいったいどうするつもりかと訊き、食べることと寝ることぐらいならちっとも心配は要らない、いつまでもごろごろしていてくれ、と心から親切気を出して言ってくれたとき、これこそ正にクヌルプにとって実は待ちもうけたことで、あてにしていた渡りの船だった。
クヌルプはまるで恥ずかしくって卒倒でもしそうな様子で辞退し、ぽっつりと申し訳にお礼を言っただけで、この話の相談は明日にしてくれ、と打ち切ってしまった。
「そういう話なら、明日でも、明後日でもまだゆっくり相談する暇はありますよ」と彼はものうさそうにつけ加えた、「ありがたいことに、月日は種切れになりはしまいし。それに、いずれにしてもここ当分の間は、ご迷惑でも、ご厄介になりますよ」
彼は長期間にわたる計画を立てたり、相談をしたりすることは不得手だった。明日《あした》はまた明日の風が吹くという野放図な身のふり方で生きて行けないとなると、やるせなく佗《わび》しいのだった。
「本当にここしばらくご厄介になる、とことが決まった場合」と彼はまた言い出した、「僕をあなたの徒弟ということにして、申告しておいて下さい」
「お望みとならば、それもよかろうさ!」と親方は声を立てて笑った。「君が俺の徒弟とはよかったな! ところで君には全然皮なめし工の素養はなかったはずだがね」
「かまうものですか、そんなことは。お解りにならないでしょうか、僕のねらいが? 僕にはもちろん皮なめし工の素質なんてありませんよ。そりゃ皮なめし工は立派な手工業には違いない。しかしおよそ労働ということに対する僕の素質ときたら、全然成っていないんです。しかし、そういうことを書き入れておくと、それが僕の渡り職人の免状に箔《はく》をつけてくれることになるっていう訳なんです。そうすれば、僕の疾病《しっぺい》保険も保証されることになります」
「一つ拝見させて、いただこうかな、君の職人免状ってやつを?」
クヌルプは彼のほとんどおろし立てのように新しい洋服の内ポケットを探ってノートをとり出した。それは小綺麗に蝋《ろう》引きの布の中に丁寧につつまれてあった。皮なめし匠はそれを調べながら、笑い出した。
「君のやることときたら、いつもながら一点も|そつ《ヽヽ》がないな! 人はこう思うだろう。まるで君はたったきのうの朝、かあさんの膝元を離れてきたばかりだって」
それから彼はノートの書き込みやら、スタンプなどを詳しく調べていたが、やがて大いに感嘆した面持《おももち》で頭をふった。
「いや、はや、一点の非の打ちどころなしという見上げた経歴だな! 何もかもお上品にとりすましておくのが、君の流儀なのだからな」
遍歴免状にこのように申し分なく経歴をつけておくことは、クヌルプのやみつきの癖の一つだった。それが一点の非難の打ちどころもなくできている、ということは、実はクヌルプがでっちあげた気の利いたうそっぱち、と言って悪ければ罪のない創作なのであり、その書き込みをみても、どれもみな|れっき《ヽヽヽ》とした堅気な渡世をやってきたという栄誉に充ちた職場の経歴ばかりだった。ただ強いて難をつければ、しょっちゅう落ちつきなく居場所を換えているという点で、放浪癖のあることが目につくだけだった。この役所の免状《パス》の中で証明されている渡世といえば、実はクヌルプがでっちあげたうそなのだ。彼はあらゆる秘策を練って、しばしば化《ばけ》の皮をはがれそうになる糸をたぐりながら、このいつわりの存在をなんとかごまかして来ている。
が実際においては彼は何一つ法を犯すような真似は仕出かしたりしてはいないのだ。ただ無職で、浮浪者としての非合法的な、蔑《さげす》まれた渡世を営んで来ているにすぎない。しかしもし巡警らがみんなあんな人のよい連中ぞろいでなかったとしたら、さすがの彼にしたってこの面白いつくりごとを、こんなに易々《やすやす》とやることはできなかったに違いない。彼らはクヌルプの精神的な優越さや、その折りにふれての真摯《しんし》さを尊敬していたので、この陽気で、話の面白い人物は、できるだけまあ大目に見逃すことにしていた。
彼には前科は先ずないと言ってよかった。窃盗や乞食をしていた、という確証はないし、到るところに尊敬に値する友人をもっていた。こういう訳で世間は彼をそっとしてほっておくのだった。ほとんど、どこかの家で、美しい猫が人間の共同生活の中に割り込んでいるのを許されているように。誰でもまあ猫は、お慈悲でかって置いてやるのだと思っている。ところが猫の方では、そんなことは一向にお構いなしで、多忙で、苦難の絶えまのない人間どもの生活の間に立ちまわって、その日その日のなんの屈託もない、粋《いき》で、華麗で、貴族的な、仕事に追われることもない生活を送っているのだ。
「しかし、僕がお邪魔しなかったとしたら、もうとうに今夜はベッドに入って休んでおられるところでしたね」クヌルプは自分のノートをまたふところにしまいながら言った。クヌルプは立ち上りそして奥さんに「お寝みなさい」を言った。
「じゃ、ロートフゥス。僕のベッドがどこだか、一つご案内を頼むよ」親方は灯りをとって狹い階段を屋根裏部屋へ上り、徒弟用の部屋にクヌルプを案内していった。そこには空いた鉄製のベッドが壁によせておかれてあり、その他になお寝具をのせた木製のベッドがそれに添うようにして並べられてあった。
「湯たんぽでも入れてあげようかね?」この家の主人は親爺めいた心遣いをもって訊いた。
「このうえ欲を言ったら先ず湯たんぽぐらいかな」クヌルプは笑った。「師匠はねえ、そんなものは要らないだろうよ。あんなに綺麗で、可愛らしいおかみさんの添い寝がありさえすればね」
「おおさ、だから言わないことじゃない」ロートフゥスは大真面目になって口説きにかかった。「見たまえ。お前はこうして屋根裏部屋の冷たい徒弟用のベッドなどにもぐり込まなければならないことになるんだよ。もっとひどい目に会うことだってたびたびあるだろうし、時には宿《やど》にありつけないことだっていくらもあるのだ。そして藁《わら》にもぐって寝なけりゃならない。ところが俺達ときたら、こうして一軒家も構えていればちゃんとした仕事もある。ちょいとした小ぎれいな女房もあるという次第なのさ。いいかい。お前だってもうとうに人の頭に立つ師匠ぐらいの身分にもなれたんだし、俺なんかよりもずっと立派な腕前にもなれたんだよ。ただお前の心掛け次第で、やろうという気持にさえなっていたらなあ」
そう言っている内にクヌルプは大急ぎで服を脱ぎ捨てると、寒さに慄《ふる》えながら凍えきった寝具の中へもぐり込んでいた。
「もっとお読教をきかせてくれてもいいよ」とクヌルプはせがんだ、「こりゃ気持よい寝具合だな。いくらでもお説教ぐらいきいてあげるから」
「俺は真面目で言っているのだぞ。クヌルプ」
「僕だって真面目にきいてますよ。だけど、結婚というものは、君の考え出した気の利いた見つけものだなんていうのはおかしいよ。では、お寝み!」
*
翌日はクヌルプはベッドに寝たままで起きなかった。まだ体の衰弱がとれず、ひどい天気でもあったので、家から出かけるなどということは到底考えられなかった。午前中彼の容態を覗きにきた皮なめし匠に、どうかこのままそっとして、ねかせておいてほしい。ただ昼にはスープを一皿届けてくれないかと頼んだ。
こうして彼はそのうす暗い屋根裏部屋に、一日中じっとして、静かな充ち足りた気持で横になっていた。体の冷えこみや、遍歴の疲れが脱けてゆくのを感じ、暖かく囲われているという快感に、ぞくぞくするような喜びをもって身を任せていた。しきりに屋根をたたく雨の音に耳を傾けたり、気ぜわしく、やさしく、時にはまたあのフェーンのように気まぐれな吹きぶりになったりする風の音をきいたりしていた。その間に、時には半時間ほどうつらうつらねむりに誘い込まれたり、自分の遍歴図書を、引きずり出して、夕闇で文字が見えなくなるまで、拾いよみしたりしていた。彼の遍歴図書というのは、自分で詩や箴言《しんげん》を書きつけた原稿紙と新聞の切り抜きの小さな束から成っていた。その間には二三の写真もはさまっていた。それらは彼が週報の中で見つけて、切り抜いておいたものだった。中でも二枚だけは彼の大の気に入りで、あまりたびたび引きずり出して見るので、もう破れかかり、ぼろぼろの地《じ》が出ていた。その一つは女優エレオノーラ・デューゼの写真で、もう一枚は強風を孕《はら》んで大洋を航行する一艘の帆船を写したものだった。北方と海とに対して、クヌルプは幼年時代から強い憧れを抱いていた。実際彼は訪ねてゆこうとしてその方角に向って歩き出したことも一度や二度ではなかった。一度なぞはブラウンシュヴィクあたりまで|のし《ヽヽ》たこともあったほどだ。しかし、いつも旅から旅へと渡り歩き、どんな場所にも腰を落ち着けているということができないこの渡り鳥は、いつもきまってふしぎな不安と郷愁にかられて、とぶようにまた南ドイツへ引き戻されて来るのだった。それは誰一人彼を知る者とてもない外国などへ行って、彼の伝説めいた遍歴免状をもって、何とかごまかして歩くこともできそうにない、しかも外国語しか通用しない異邦の風習の国に行ったら、自分の生来の天衣無縫もけしとんでしまうだろう、という怖れからだったかも知れない。
昼食のとき、皮なめし匠はスープとパンとを運んで来てくれた。彼は足音をしのばせてそっと入ってきて、怖る怖る囁くような声で話しかけた。なぜなら彼はクヌルプが病気で寝ているのだと思い、自分は幼年のころに病気をしたことがあるが、それ以来、堂々たる白昼に、ベッドにねていたという覚えは一度もなかったからだ。すっかり元気をとり戻していたクヌルプは、訳を説明して話すのにも別に苦痛を感じなかった。そして明日はきっと起き上って、元気になれるから、と約束するのだった。
午後、夕方近くなってから、部屋の扉を叩くものがあつた。クヌルプはうつらうつら眠っているときだったので、返事をしないでいると、皮なめし匠の奥さんが気を使いながらそっと入って来て、空になっていたスープ皿を下げ、その代わりにミルク入りのコーヒーを一皿、ベッドわきの小テーブルに置いて行った。
彼女が入って来るのを充分に意識していたクヌルプは、疲れのせいか、それともでき心からか、目を閉じたままじっと寝ていて、目が醒めているのだということは、気ぶりにも見せなかった。親方の奥さんはあいた皿を手にもちながら、眠っている者の上に一瞥《いちべつ》を投げかけた。彼は青い縞模様のシャツの袖に半分までかくされた腕の上に頭をのせたまま眠っていた。黒っぽい髪の毛の細かいやわらかさや、あどけない顔だちのほとんど子供じみた美しさに気をとられて、彼女はしばらくそこに立ちすくんでしまった。そして親方からかねていろいろふしぎな噂をきかされているこの美しい若者に見惚れていた。閉じられた眼の上には、やさしそうな、晴れやかな額にかけて、濃くくっきりした眉がかかり、細面の、褐色に日にやけた頬、繊細な濡れたつややかな紅い唇。それに華奢なすっきりした首すじ。何もかも彼女には惚れ惚れする美しいものばかりだった。ふと彼女は『オックセン』の女給となっていたころ、春のときめくきまぐれから時々はこういう未知の綺麗な若い男の恋の愛撫に身を任せていたときのことなどへ思い耽ってゆくのだった。
こうして彼女が夢見心地で、いくらか興奮にかられ、寝ている男の顔全体をまともにのぞき込もうとして少し体が前のめりになったとき、錫《すず》の匙《さじ》が皿からすべり落ちて床の上にころがった。この物音で彼女はやっとこの部屋を領している静けさと、ばつの悪い、内緒ごとじみた気分にぎくりとするほど驚かされたのだった。
ようやくクヌルプも眼をあけた。ぐっすりと眠りこんでいたかのように、ゆっくりと何にも気付かなかったように、やおら顔をふり向けて、しばらく手で目を押さえていたが、ほほえみながらいうのだった。
「おや、これは、師匠の奥さんがおいでだったのですか! しかも僕にコーヒーをもってきて下さったのですね! 素晴しい熱いコーヒーですね。ちょうど僕は今こういうコーヒーの夢を見ていたところだったんです。ほんとに、ありがとう。ロートフゥスの奥さん! いったい今いつごろでしょうか?」
「四時ですわ」彼女は急いでつけ加えた。「さあ、さめないうちにコーヒーをお飲みになって。あとで容器は私がいただきに来ますから」
そう言ったきりで、彼女はこの部屋をとび出して行ってしまった。忙がしくてもう一分だって無駄をいう暇がないというような恰好で。クヌルプは彼女の後ろ姿を見送り、それから急いで階段をかけ降りて、下へ消えてゆく彼女の足音に耳を澄ませていた。彼は物思わしげな眼付きになり、二三度頭をふってから、低い小鳥の鳴き声のような細い音で口笛を鳴らした。それからコーヒーをすすろうと手を出した。
暗くなってから、一時間もたつと、そろそろ彼は退屈になってきた。ぞくぞくするくらい気持がよく、体も休まって、元気一杯だし、少し人中に出て見たいむほん気も起こって来る。たのしい気持で起き出すと、服を着け、暗闇の中を足音をしのばせて、そっとまるでイタチのように階段を降り、誰にも気付かれずに戸外へぬけ出した。風はまだかなり重く、湿《しめ》っぽく南西の方から吹きつけていた。が、雨はもう止んでいる。空には爛とした大きな星の斑点が明るく、澄んだ光りをふりまいていた。
クヌルプはくんくん鼻を鳴らしながら、夜の街から街、人影の絶えた市場の広場などをぶらぶら嗅ぎ歩き、やがてとある蹄鉄工場の明け放された戸口のところに立ちはだかった。徒弟らが仕事の後片づけにかかっている様子を眺めていたが、いつかその仲間の連中を相手に口を利くようになり、冷えた両手を鍛冶場の炉の黒く赤く消えかかった火の上にかざして暖ためた。そうしながら、彼はお座なりにこの町の大勢の知人たちの様子を訊ね、死亡した人や結婚した人達のうわさなどをききこんだ。が、この蹄鉄工からはすっかり鉄工の同僚だと思いこまれてしまった。なぜならどんな手工業であれ、彼が知らないでいる徒弟の符牒や言葉など、あるわけのものではなかったから。
その間ロートフゥス夫人は晩のスープを火にかけ、小さな炉の鉄輪をがちゃつかせ、馬鈴薯の皮をむいていた。その仕事も終って、スープがうまく|とろ《ヽヽ》火の上で煮つまってゆくのを見ると、彼女は台所のランプをとって、居間の方へ戻り、鏡の前に腰を据えた。鏡の中には、彼女が探し求めている注文通りの女の姿が映っていた。豊満な、新鮮な頬をした顔立ちと蒼ざめた灰色がかった眼。髪の形ちでいくらか気に入らぬところは、彼女は器用な指先でたちまちなでつけた。それから洗ったばかりの手をもう一度前掛けできれいに拭きとり、ランプを手にとって、足早やに屋根裏部屋めがけて上って行った。
そっと彼女は徒弟部屋の扉をノックしてみた。それからもう一度。今度はいくらか強めに。それでもなおなんの返事もしないので、彼女は灯りを床の上に置くと、両手で、きしんだりしないように注意して扉をあけた。それからつま先立って部屋の中に入り、一歩中へふみ込んでから、ベッドのわきの椅子を手さぐりにさぐった。
「ねていらっしゃるの?」彼女は声を低めてきいた。そして、もう一度。「ねていらっしゃるの? 私はただ容器《いれもの》を下げさせていただこうと思ってきましたのよ」
なんと言つてみてもひっそりしずまりかえっているし、人の息づかいすらきこえて来ないので、彼女は手をベッドの方へのばしてまさぐろうとした。が何だか不気味な気持に襲われてあわてて手を引っこめると、ランプの明かりの方へかけ戻った。部屋はも抜けの空《から》になっているし、ベッドは丹念に直されてある。枕や羽根蒲団も申し分なくきちんとたたんであるのを見出したとき、彼女はすっかりまごついてしまい、心配とも落胆ともつかぬ気持で、台所に戻ってきた。
半時間の後、皮なめし匠が夕食のために下から上って来て、さて、食卓の用意もでき上ってみると、奥さんもあれこれと、いろいろ思い惑わずにはいられなくなってきた。といってまた、屋根裏部屋を訪ねて行ったことを皮なめし匠に打ち明けて話してみるだけの勇気も見出せないのだった。するとそのとき、階段の下で戸が開く音がして、軽い足音が鋪装された廊下を曲がりくねった階段をふんで上ってくるのがきこえた。そしてクヌルプが入ってきた。きれいな褐色のソフトをとって、「今晩は」と挨拶するのだった。
「おや、どこからのご帰館なのだい?」親方は仰天して叫んだ。「体が悪いっていうのに、こんな夜をほっつき歩いているなんて! 死に神にとっつかれても知らないぞ」
「仰せの通りですよ」とクヌルプは言った。「今晩は、ロートフゥスの奥さん。うまいところに帰ってきたもんですね。奥さんのお手製の素晴しいスープの香りときたら、市場の広場あたりまで、もうぷんぷん匂っていましたからね。これにさえありつければ、死に神なぞ向うから退散してしまいますよ」
揃って食卓に向った。この家の主人は口数が多くなって、自分の世帯ぶりや、師匠としての地位を自慢し始めるのだった。客を相手にからかってみたり、そうかと思うと今度は真面目くさって、もういい加減にそのとめどない放浪と無職渡世とをやめなけりゃいかんと口説くのだった。
クヌルプは温《おとな》しくお説教をきいていた、が、ほとんど返答はしなかった。親方のおかみさんの方は黙りこくって一言も物を言わなかった。彼女は世なれた礼儀を身につけた、きれいなクヌルプと並べてみると、いかにも粗野に見える夫に対して、腹立たしく思っているのだった。そして何くれとクヌルプを親切にもてなすことによって、客に対してどんなに自分が好意をもっているか、ということをほのめかそうとした。十時が鳴ったとき、クヌルプは「お寝み」を言い、皮なめし匠に剃刀を借してくれるようにいった。
「きれいになっているじゃないか」剃刀を渡してやりながら、ロートフゥスはほめた。「ちょっとでもあごがざらつくと、すぐにもうきれいに当らなけりゃ、承知しないんだな。ではお寝み! 体に気をつけて、大事にしなけりゃいけないぜ!」
クヌルプは自分の部屋に引き込む前に、屋根裏への階段の上の小さな窓によりかかって、外を眺めていた。もう一度ちょっと天気模様と、この近所の様子を見ておこうと思ったのである。風はもうほとんど落ちてひっそりしている。家の屋根と屋根との間に、暗澹とした夜の天の一角が引っかかっていて、澄んで、うるんだような星がその中できらきら燃えていた。
彼が正に首を引っ込め、窓を閉めようとしたときだった。ほとんど彼と向い合せになっている隣りの家の小さな窓が急にぱっと明るくなった。見るとそれは彼の部屋とよく似た天井の低い小部屋で、その扉があくと若い女中が一人入ってきた。真鍮の燭台にともした蝋燭の灯りを手にもち、左手には大きな水を入れた壼をかかえていた。彼女はその壼を床の上に置いた。それから蝋燭の灯りで、幅の狹い女のベッドを照らし出した。つましく、きちんと整頓されたベッドに、大きな赤い毛布の蓋《おお》いがかけられているのが、いかにも寝心地よさそうに安眠へ人を招いているようだ。彼女は燭台をどこかへおいたが、どこであるかは、ここからは見えない。それから、女中なら誰でもみなもっている背の低い緑色に塗られたトランクを台にしてその上に腰を下した。
クヌルプは、この思いがけない場面が向う側で上演され始めたとたんに、自分の方の灯りはふき消してしまった。こちら側が見られないためなのだ。それからじっと、待ち伏せるときのように屋根窓から体をのり出すようにして待っていた。
向う側の若い娘は、クヌルプの好きなタイプの娘だった。たぶん十八か、十九でもあろうか。そう大して大柄という娘《こ》ではないが、褐色の人のよさそうな顔だちと、栗色の目とをもっていて髪は黒くふさふさしていた。ところがこの静かな美しい顔は、決して愉《たの》しそうな様子をしていないのだ。すっかりふさいで、悲しそうに、その固い緑のトランクの上にぐったり腰掛けたままでいる。世間の味を知り、女の子をも知りつくしているクヌルプは、その若い娘はそのトランクを下げて見知らぬこの土地に出て来てから、まだいくらも経っていないのだ、そして郷愁にとりつかれているのだろう、ということを充分に察することができた。彼女はその痩せた鳶《とび》色の手を膝において、寝る前のしばらくの間を、自分の小さな全財産の上に腰かけて、故郷の自分の部屋のことを思い出したりして、はかない慰めを見つけようとしているのだろう。
小部屋にじっとしている娘と同じようにクヌルプも自分の窓枠に寄ったまま身動きすらしないでじっとしていた。そしてふしぎな切ない気持で、向い側のその小さな見知らぬ人間の生命を見守っていた。それはあまりにも無邪気に自分のしみじみとした悲しみを蝋燭の灯りの中に滲ませているのだった。そしてそれを見守っている者がいるということは夢にも考えていはしない。その栗色の、気の好さそうなひとみが、ときには人見知りもせずこっちの方に、じっとくろぐろ向くかと思うと、ときにはまたその長いまつげの下にかくされたりするのが見える。その鳶色の、子供っぽい頬の上に、赤い灯《ひ》の光りが静かにゆらいでいるのも見え、また細っそりした若々しい手つきも目につく。それはぐったりするほど疲れているのだ。――だから服を着がえるというほんのちょっとの一番|終《しま》いの仕事さえ、もう少し先へのばしておかなければならないほどなのだ。そういう訳で彼女の手はまだ濃い藍色の木綿の服の上におかれたままでいるのだった。
結局その娘は嘆息と一緒に重そうなお下げを束髪に結った頭をもたげて、思い余ったように、しかし、やはり悲しそうに、ぼんやり空を見つめていた。が、やがて靴の止め金を外すために深く身を屈めた。
クヌルプは、今その場を外して立ち去らなければならなかったとしたら、残念なことだったに違いない。しかしその可哀想な少女が服を脱ぐところを見ていたりすることは彼には不正なことであり、ほとんど残酷なことだという気がするのだった。もし彼女に声をかけて呼んでやることができたら、どんなによかったろう。少しおしゃべりの相手になってやり、何か冗談の一つも言ってやって、少しばかり気を引き立ててやって、ベッドに送り込んでやることができたとしたら。しかし、それは彼女をびっくりさせるかも知れない、ということを怖れなければならなかった。向うへ妙な声などかけたら、すぐ灯りを吹き消してしまうかも知れない。
それに代わる方法として、彼はいろいろ身につけているちょっとした芸の一つを用いてみることにした。彼はどこか遠くからでもひびいてくるように、かぎりなくうつくしく、やさしく、口笛を吹き始めたのである。しかも彼はあの「どこか涼しい木のかげに、水車の車がまわっていた」という唄を吹いたのだ。彼はその歌を実にうつくしく、やさしく歌ってやった。すると少女はしばらくの間じっとそれにききほれてきいているのだった。いったいその妙音がどこから来るのかということも、はっきり解らなかったらしい。が、やっと第三節目になったとき、彼女はそっと体を起こし、立ち上り、そして耳を傾けながら、窓のところに歩み倚ってきた。
クヌルプがなお低く口笛を吹きつづけている間、彼女は窓から頭をつき出して、その歌をきいていた。そしてその旋律に合せて、頭をかるくゆすりながら二三節調子をとっていた。が、突然上を見上げると、音楽がどこから来るのか、ついに出所をつきとめたらしい。
「どなたか、そちらにいらっしゃいますの?」声をひくめて彼女はきいた。
「いますとも。皮なめし匠の徒弟仲間の者なんです」同じように低い答えがかえってきた。「お寝みのところをお邪魔して申し訳ありませんでしたね。実はいささか僕も郷愁ってやつにとりつかれて、気が滅入っていたものですから、ちょっと唄でもうたって気をまぎらそうと思ったんです。僕はもっと愉快な唄だって吹けますよ。――あなただってこの土地には、はじめてなんでしょう、お嬢さん?」
「私の故郷はシュヴァルツヴァルトなのよ」
「ええ、シュヴァルツヴァルトですって! なら僕の故郷も同じ所ですよ。すると僕たちは同郷人っていうことになりますね。どう、レヒシュテッテンはお気に召しましたか? 僕は一向好きになれませんがね」
「あら、私はまだなんとも言えませんわ。まだここへ来てから一週間にしかならないんですもの。でも私にもやはりそう好きになれそうにもありませんわ。あなたはもっと永くここにいらしったのでしょう?」
「いいえ。来てからまだ三日目なんです。しかし同郷人同士なら、お互いにうちとけて『お前』と言い合ったっていい訳じゃありませんか?」
「だめよ、いけませんわ。私達お互いにまだ何にも知らない仲なんですもの」
「『現《いま》もたざるものは、未来において求むることをえん』ですよ。山と谷とでもいうなら、どうにも気が合うことはむずかしいでしょうが、お互いに僕らは人間同士ですからね。あなたの住んでいた町はなんていうところですか。お嬢さん?」
「言ったって、ご存知ないわよ」
「わかるもんですか、それともそれは秘密で、めったに人には明かされぬという訳ですか?」
「アハトハウゼンですわ。ほんのちっぽけな村なのよ」
「小さいが、実に美しい村ですね。正面に向ってゆくと角のところに教会が立っていますね。それに、そこには水車だってまわっているし。それともあれは製材所だったかな。あそこで大きな赤いベルンハルディナー種の犬を飼っていましたね。どうです。当ったでしょう。それとも、当りませんでしたか?」
「あら、それはベロだわ。まあ、なんでもご存知なのね!」
相手が自分の故郷のことをよく知っていて、本当にそこにいたことがあるらしいことがわかってくると、彼女の抱いていた不信と、気づまりの大部分がふっとんでしまった。彼女はすっかり乗り気になってきた。
「ではあなたはそこのアンドレス・フリックという人をご存知?」彼女は急いできいた。
「知らないなあ。僕はあすこには誰も知り合いの人はないのです。だけれど、それはあなたのお父さんなんでしょう?」
「ええ」
「そうですか。なるほど。ではあなたはご令嬢フリックという訳ですね。そこでもし、なおその上にあなたの名前を教えていただけたら、あなたに葉書ぐらい書いてあげることだってできるのですがね。もう一度僕がアハトハウゼンに立ち寄る折りがあったとき」
「ではもうこの土地から行っておしまいになるの?」
「いいえ。行ってしまいたいなんて思っていません。僕が今願っているのは、あなたの名前を知りたいっていうことだけなんです。フリックご令嬢」
「ずるいわ。私だってあなたの名前を知らないのですもの」
「いや、これは失礼。しかし、そんなことはすぐにもとりかえしがつくことですよ。僕の名前はカール・エバーハルトというんです。これでもし僕らが昼間どこかでお目にかかったようなとき、もう、僕をなんて呼んだらよいか、お解りになったでしょう。さて、そのとき僕は、あなたをいったいなんていう名前でお呼びしたらいいんです?」
「バルバーラよ」
「いい名ですね。どうもありがたう。しかし、なかなかむずかしくて舌がまわりませんね――あなたの名前は。一つ賭けましょうか。おうちではあなたのことをベルベーレって呼んでいるでしょう」
「ええ、そうも呼ぶわ。だけど、何もかもみんなご存知のくせに。なぜそんなにいろいろお訊きになるの。しかし、もうお寝《やす》みにしましょうよ。おやすみ、なめし工さん!」
「おやすみ、ベルベーレ嬢。ぐっすりお寝みなさい。そして、お寝みになるなら、もう一曲僕は特にあなたのために、口笛をおきかせしましょう。逃げ出さなくたっていいですよ。この演奏は無料ですからね」
すぐに彼は吹き始めた。がそれは秘術をつくしたヨーデルめいた一節で、二重音で、しかもトレモロを加えたものだった。したがってそれはまるで舞踊曲のように華麗にきらめいた。彼女は驚嘆の念をもってこの名人芸的な演奏にききほれていた。が、やがてその音楽も消えてゆくにつれて、彼女はしずかに窓の戸をひいてぴったりと閉めてしまった。クヌルプの方は灯りもつけずに、なお自分の部屋にうずくまったままでいたのに。
*
次の朝クヌルプは今度は早々と起き出して、皮なめし匠の剃刀を使い出した。皮なめし匠は数年前から顔中鬚だらけにしている。そこで剃刀もひどくほったらかしたままになっていたので、クヌルプはたっぷり半時間というもの、自分のズボンの吊り皮の上で研《と》ぎをかけねばならなかった。それでどうやら床屋の役に立てることができるようになった。剃刀がすむと、上衣を着け、長靴を手にもって台所に降りて行った。台所はもうむっと温かで、ぷんぷんするコーヒーの匂いを立てていた。彼は親方の奥さんに長靴を磨くのだから、ブラシと靴墨を借して下さいと言った。
「あら、冗談じゃないわ!」と彼女は叫んだ。
「そんなことは男のすることじゃありませんわ。私が磨いてあげますわよ」
しかしクヌルプはどうしても承知しなかった。とうとう奥さんも我《が》を折って、しょざいなく笑い出しながら、靴磨き道具一式を彼の前に押しやった。するとクヌルプはすみからすみまで、塵一つ残さぬように、きれいに磨きをやってのけた。しかもその仕事は遊び半分といった調子で。ただ時たま気まぐれにしか仕事はやらないが、一旦やるとなると、丹念に、愉しみをもってそのことをやってのけずにはいない男の流儀はそうしたものだが。
「まあ、感心しちゃうわ」と奥さんはほめあげ、彼をしげしげと見直した、「何もかも、|りう《ヽヽ》としたおめかしようね。これからすぐ恋人のところへでもお出かけになろうって言わんばかりのご様子ねえ」
「先ず、それだったら、何より嬉しいですがね」
「ご馳走さま。どうせどこかに美しいひとがおありでしょうね」奥さんはまた押しつけがましく笑った。「たぶん恋人はおひとりだけじゃないのでしょう?」
「いや、多情多恨はいけませんよ」クヌルプはうれしそうに異議を唱えた。「なんなら僕の本当の恋人の写真をごらんに入れましょうか」
奥さんは物ほしそうに体をすりよせてきた。その間にクヌルプは内かくしを探って蝋びきの小さな折り鞄《かばん》を引き出し、あの女優デューゼの写真をとり出してみせた。奥さんはその写真を興味をもって熱心に検討し始めた。
「なかなかきれいな女《ひと》だわ、この人」彼女はそれでも控え目にほめた。「これは本格的な貴婦人といってもいい人らしいわね。ただ、もちろん、やせているけれど。体の方は丈夫なのかしら?」
「丈夫ですとも。僕の知っている範囲ではね。さて。ところでご主人のところへ行ってみなくちゃ。部屋で呼んでいる声がしていますよ」
クヌルプはそっちの部屋に出て行って、皮なめし匠に挨拶した。居間はきれいに掃除ができていたし、明るい壁板張りで、時計もあるし、鏡もあるし、壁にいくつもの写真がかかげてあって、なつかしく、しっくりした気持が漂っていた。こういう気のきいた部屋をもっているということは、冬には悪くはないな、とクヌルプは考えた。しかし、そのために結婚するなんてことは、土台、引き合わぬ話さ。彼は親方の奥さんが彼に示した好意をちっともうれしいと思っていないのだった。
ミルク入りのコーヒーをのんだ後で親方のロートフゥスの後について裏庭や倉庫に行き、皮なめし工場をすっかり見せてもらった。どんな手工業であれ彼が知らぬというものはない。あまり専門的に玄人じみた質問をするので、友人の方がびっくりしてしまった。
「どこでいったい、そういう知恵を仕込まれたのかね?」彼はまじめになって訊いた。「実際これじゃ君は本当に皮なめし工の仲間か、もしくは以前そういう年季を入れた徒弟だと思われたって仕方がないな」
「旅をすれば、いろいろなことをおぼえますよ」クヌルプは謙遜に言った、「その上、皮なめし工の仕事にかけては、あなた自身が僕の師匠になって仕込んでくれたんですよ。覚えていませんか? 六年か、七年前一緒に僕らが遍歴修行をやったとき、こういうことをあなたがみんな話してきかせてくれたんです」
「あのときのことをみんな覚えているってのかい?」
「いや、ほんの一部分しか覚えていませんがね、ロートフゥス。しかし、もうあなたの仕事のお邪魔をしていちゃ悪い。少しあなたの仕事の手助けぐらいできるといいんだが。残念ですね。しかし、下のあの工場ときたらひどく湿《し》っけていて、悪く空気が澱んでいるでしょう。それにまだ僕はひどくせきが出るもんですからね。では、さようなら。少し町の中をぶらついて来ますよ。雨が落ちて来ないうちに、一走り」
クヌルプが家をとび出して、その褐色のソフト帽を心もちあみだにかぶり、ぶらりぶらりと皮なめし工通りを町の中心の方に向ってやってゆくのを、ロートフゥスは戸口に出て、うしろ姿を見送っていた。すっきりとブラシをかけた服を着こなして、水溜りを丁寧によけながら、何と軽快に享楽的な足どりで消えてゆくことだろう。
「結局、うまくやってやがるんだな」ちょっとした嫉妬をおぼえながら、皮なめし匠は考えるのだった。自分の穴ぐらの工場へ引き返しながら、彼はこの友人について、この変わり者についてしみじみ考えさせられずにはいられなかった。彼は人生を、傍観しているばかりで、何一つ欲望しようとはしないのだ。いったいこれは甚だしい贅沢というべきか、それとも愼《つつ》ましさなのか、彼には判断が下せなかった。あくせくと働いて、何とか世の中に出ようとする者は、無論多くの点で彼よりすぐれてはいるだろう。しかし決してあのような優美な、きれいな手をもつことはできないし、あんなに屈託《くったく》のない粋《いき》な恰好でうろついて過ごすことは、永久にできない相談なのだ。いや、クヌルプもまんざら、馬鹿じゃない。自分の人間の本質にのっとってふさわしく、多くの人間に真似ができないようなことをやってのけているのだから。ああして、まるで子供のように無邪気に誰かれの見境いもなく話しかけ、自分のものにしてしまう。どんな娘にも、婦人たちにも気の利いたことを言ってやって、その日その日を祭日のようにたのしく暮らしている。まあ、これまで通りに、したい放題に、ほっておいてやるのがいいのだろう。あれでやってゆけなくなって、どこかにかくまってもらわねばならぬような破目になったところで、彼を家に引きとってやることは喜びでもあり、名誉なことだとして通っているのだ。いや、むしろ人はそれをありがたいことだと、感謝もしかねない始末なのだ。というのはクヌルプが来てくれると家の中が愉しく、明るくなるからなのだ。
その間に客の方は町の中を物珍らしげに、愉しげにぶらぶらやってゆくのだった。歯の間から軍隊行進曲を吹き鳴らしながら。そして別に急ぐ様子もなく、以前からなじみのある場所や友人をぶらぶら訪ねてゆくのだった。先ず彼は急に険しい坂になっている郊外の方に足を向けた。そこには貧しい「つくろい仕立屋」が住んでいるはずだった。
大体この男ともあろう者が、はき古したスボンの穴ふさぎのような仕事ばかりあてがわれて、ついぞ新しい洋服の仕立ての注文を受けたことがない、というのは気の毒な話だった。なぜなら、職人としての彼の腕はたしかなもので、かつては立身出世の希望もあったし、評判のよい職場で働いていた経歴をもっていたのだから。しかし、彼は早目に結婚して、今ではもう二三人子供ができていた。その上、そのおかみさんというのが家計のことについては全く才能のない女だったのだ。
この仕立屋シュロッテルベルクを、クヌルプは訪ねて行った。彼は郊外の家の裏側の四階に住んでいるのを見つけた。その小さな仕事場は、まるで小鳥の巣のように、奈落の上にのぞみ、大空の中につき出してぶら下っていた。なぜならその家は谷側に面して建てられてあり、もし窓から垂直に下を見下そうものなら、四階の高さが目の下に見下されるばかりではない。すぐ家の下から山が、みすぼらしい急傾斜の畑やら、雜草の生えた険しい丘などになって、目まいがするほど急に切り立ったように落ち込んでいた。その行き詰った所は裏家の出っぱり、鶏小屋、山羊や兎の小屋などが、ごちゃごちゃに灰色になって霞み、真上から見下す一番手前の家の屋根は、この荒れ放題な丘地のはるか彼方に、谷の中に深く沈んで豆つぶのように小さく見えるのだった。その代わり、この仕立屋の仕事場は、日当りと風通しのよいことにかけては無類だった。そしてこの勤勉なシュロッテルベルクは窓によせた幅の広い仕事机の上にかがみこみ、まるで燈台の中の燈台守のように明るく高々と世間から超越しながら、せっせと働き続けているのだった。
「今日は、シュロッテルベルク」部屋の中に入るなり、クヌルプはあいさつした。仕立屋の親爺は、明かりのために目が眩んで、目をしかめ、扉の方をうかがった。
「おお、こりゃ。クヌルプかい!」まるでとび上るように叫ぶと、クヌルプの方に手をさし出した。「またこの土地に舞い戻って来なすったかね? こんな高い所まで、上って来て下さるっていうのは、何かお役に立つことでもありますのかい?」
クヌルプは三脚の椅子を引きつけて、その上に腰を下した。「針と糸を借しておくれよ。それも褐色のだよ。一番上等の奴でなくちゃいけない。僕は服装検閲をやるのだから」そう言いながら彼は上衣とチョッキとを脱ぎ、撚《よ》り糸をえらび出し、針に糸を通し、探るような目付で服全部を点検して行った。服はまだちっともいたんでいないばかりか、ほとんど|おろし《ヽヽヽ》立てのものと言ってもよかった。それをちょっとでもたるみのきたところとか、糸のほぐれとか、いくらか宙ぶらりになりかかったボタンだとか、たちまちその器用な指を働かせてきちっと元通りに直してしまった。
「どうですね、一般の景気は?」シュロッテルベルクはきいた。「このごろの時節といったらどうもあまりありがたいとは言えないね。しかし、結局、まああなたのように体が達者で、家の者を食べさせてゆく必要もなけりゃ――」
クヌルプは論争を買って出るときのようにせきばらいをした。
「そうだよ、そうだよ」彼はうるさそうにつっぱねた。「『主は正しき者の上にも邪《よこしま》なる者の上にも恵みの雨をふらせたもう』さ。しかるにひとり仕立屋ばかりはあごが乾上っている、というのだろう。あいかわらずの不平屋だな、お前は、シュロッテルベルク?」
「とんでもないこった。クヌルプ、冗談じゃありませんぜ。餓鬼どもがああして隣りで泣き喚いているのが、きこえるでしよう。今じゃ五匹もかかえているのですからね。これじゃ、いくら仕事机にかじりついていたって、どんなに夜晩くまであくせく働いてみたところで、とても食うどころの算段じゃない。それに、お前ときたら、おめかしでお出歩き以外には、何一つ働かないで済むご身分なのだからな!」
「とんでもない当りそこねだよ。お前は。僕はこれでノイシュタットで四週間か、五週間、病院に寝たきりだった。ところが、あすこじゃ、よっぽど危篤の病気ででもなくちゃ、それ以上永くは置いてくれないと来ているんだよ。誰もまたそれ以上あんな所にいようとも思いはしないがね。『いみじきものは主の導きの道なり』か、シュロッテルベルク」
「やめて下さいよ。そういう聖書の中の文句めいた言葉は。後生だから!」
「いつからお前は、信者でなくなったのかね。ええ? 僕は今こそ信者になろうと思って、そのために、お前に相談にきたところなのだけれど。信仰の方はどうなったんだよ。部屋ん中のほっつき歩きの親爺さん?」
「信仰の話はやめて下さいよ! 病院にねていたって、お前さんが? それは、まあ、お気の毒なことでしたね」
「気の毒がられる必要はないよ。もう済んだことなんだから。ところで、お前の話をきいておきたいんだがね。どういうことなんです。あの『ジラッハの書』と『啓示』とは? ね、ごらんなさい。病院では暇があるもんだからね。あすこには聖書も備えつけのがあるんだ。そういう訳で僕は聖書をほとんどすみからすみまでよんでしまった。だからあなたともこれまでよりはずっとよく話し合えるだろうと思っていますよ。ふしぎな書物ですね。聖書というものは」
「実際、その通りでね。ふしぎな代物ですよ、あれは。しかもあの半分は嘘言《うそ》ばかり並べてあるに違いないよ。なぜなら、どれもこれもいうことが食い違っているのだからね。そんなことはあなたの方がもっと詳しく知っているはずだ。何しろ一度はラテン語学校に通っていたことがあるひとなんだから」
「いやもう何一つ覚えてはいませんよ」
「ごらんよ、クヌルプ――」仕立屋は開いている窓からその谷の深みへ向って、|べっ《ヽヽ》とつばをとばし、眼をむいて、憤どおろしい顔を歪めながらいうのだった。「いいかい、クヌルプ。信仰なんてつまらぬものさ。実に下らぬこった。わたしはそんなものは真っ平なのさ。ああ、いくらでもいう。真っ平ごめん蒙りたいってね!」
放浪者は考え深げに彼の顔色をうかがった。
「そうかよ、そうかよ。しかし、それはお前、少々言いすぎじゃないのかね。おやじさん。聖書の中には、なかなかありがたいことが書いてあると、僕は思っているがなあ」
「ところが、その先をもう少しめくってよんでごらん。必ずどこかに、そのさかさまのことが出て来ますぜ。いや、わたしはもうこりごりだ。誰が何と言おうが、金輪際おことわりだ」
クヌルプは立ち上って、アイロンをとり上げた。
「炭を少しこの中へかしてもらえませんかね」彼は親方に頼むように言った。
「何をやらかそうってのかね?」
「ちょっと、チョッキに|こて《ヽヽ》をあてておきたいのさ。ねえ、そうでしょう。それに散々雨にうたれた後だから、帽子にもかけておいてやった方がいいし」
「あいかわらずのおめかしかね!」少々|癇《かん》にさわったらしく、シュロッテルベルクはいった。「何だってまたそう伯爵様でもあるまいし、めかし込まなけりゃならないんだね。その実お前だって、飲まず、食わずの与太者の切れっ端のくせに?」
クヌルプはおとなしく、ただ笑っていた。「その方が様子がよく見えるからさ。そして、僕にはそれが嬉しいからだよ。もしお前が、信仰から、そういう親切をするのがいやだっていうのなら、ただお前という人の、親切心からでも、昔なじみの友達がいからでも、そのくらいのことはしてくれたってよかろうじゃないか。ねえ、そうだろう?」
仕立屋は扉から外へ出て行ったが、すぐまたアイロンを熱くして、戻ってきた。
「やはりえらいな」クヌルプはほめた。「どうもありがとう!」
彼は自分のソフト帽のふちを注意深くこてで|のし《ヽヽ》はじめた。が、この仕事は縫い物をするときのように器用にはいかなかった。仕立屋はアイロンを彼の手からとりあげ、自分からこてをあててやった。
「ほんとに済まないなあ」クヌルプは感謝した。「これでまた祭日用の帽子ができ上った。しかし、いいかい、仕立屋さん。聖書についてはお前は、あまり無理なことを要求しすぎるんだよ。真理とは何か、ということ、人生というものは、本当にはどういう仕組みにできているか、ということは、人は誰でも自分自身で考えつめてゆかなければならないことだ。本なぞをよんでおそわろうなんて思ったら大きな間違いなんだよ。これが僕の考えさ。聖書は古い書物だよ。そして昔は今日の誰でもがよく知っているさまざまな事柄だって、なんにも知らないでいた。しかし、その代わり、聖書の中には美しい、正しいことがたくさん書かれてあるし、真理だって、うんと書かれてあるんだよ。ところどころ、あれは僕には、美しい絵の本であるような気がするね。例えばあのルースという少女が野に出て、落ち穂を拾うところがあるだろう。美しいじゃないか、あれは。何とも言えぬ、美しい、暖かい夏だっていうことがあの中にひしひしと感じられるような気がする。それから、例えばまた救世主が幼い子供らの中に坐って、こう考えている。『お前達の方が、あの傲慢な心をもった大人達全部ひっくるめたよりも、どんなに私にとってなつかしいものであるか、わかりはしない』って! 僕にだって、これは本当の気持だったろうと思うな。こういう点でキリストから教えられることはたくさんありますよ」
「それは、まあ、そうしたものだけれど」シュロッテルベルクは賛成した。が、それでもなお彼がいうことを正しいとは認めようとしないのだった。「しかし、他人の子供のことをただ口の上でいうのだったら、容易《たやす》い訳ですよ。ところで、実際自分で五人もの子供をかかえて、どうして食わして行ったらいいかわからない、となると話はまた別だ」
仕立屋はまたすっかりふさいで、不機嫌になってしまった。クヌルプはもう見ていられない気がした。何とか別れてゆく前に、慰めになるようなことでも言ってやりたい気がした。彼はしばらく考えていた。それから仕立屋の方にかがみ込むようにし、その明るい眼で彼の顔をじっと、真面目に見つめながら、静かな声でこういうのだった。「そうか。じゃ、お前は愛していないっていうの、お前の子供たちを?」
びっくりしたように、仕立屋は目を見張った。
「いや、もちろん愛していますよ。おかしなことは言わないで下さいよ。もちろん、子供らを愛していればこそですよ。ことに一番上のが、一番可愛いいんです」
クヌルプはひどく真面目にうなずくのだった。
「じゃ、これで僕はお別れとしましょう。シュロッテルベルク。どうもいろいろとありがたう。これでこのチョッキも二倍の値打ちが出てきたというものだ。――それから、子供たちを可愛がって、愉しく暮らして下さいよ。そうすれば、もう半分、食べさせたり、飲ましてやっているのと同じことなのだから。いいですか。あなたにだけは、誰一人知らないことを打ちあけてお話ししておこう。しかし、これは内緒にして、他の誰にも言わないで下さいよ」
仕立屋の親方は気をのまれて、なにごとだろうと彼の澄んだ眼の中を見つめていた。その眼は真劍そのもののような色を湛《たた》えていた。クヌルプの話す声は今ひどく低くなったので、仕立屋はクヌルプが何を言っているのか、ききとろうとして一生懸命にきき耳を立てなければならなかった。
「僕の顔を見てごらん! 君は僕を羨《うらやま》しがって、こう考えている。こいつは世の中の苦労知らずだ。背負っている家もなければ、食う心配もない! と。しかし、それは大間違いなのだよ。僕にも一人の子供がある。まあ、考えてごらん。二つになる小さな男の子なんです。今は知らない人にもらわれて養育されている。父親が誰だか解らないし、母親は出産のとき死んでしまったものだから。その子がどこの町にいるかなんてことは、あなたは知る必要はないことだよ。しかし、僕はその町を知っているんだ。そして、時にその町へゆくと、僕はその子の住んでいる家のまわりを、こっそりとうろつきまわるんです。そして垣のところに佇《たたず》んで、待っている。もし運がよくて、その小さな坊主を見ることができたって、僕には握手をしてやることもできなければ接吻してやることだって許されていはしない。せいぜいその前を通りすぎながら、口笛でも吹いてやるくらいのことしかできないのさ。――ねえ、こうしたものなのですよ、世の中は。ではさようなら。幸福だと思いなさいよ。あなたにはれっきとした子供があるってことを!」
*
クヌルプは町の中をぶらぶら歩きつづけて行った。彼はしばらくある旋盤工の鍛冶場の窓によりかかって無駄口をたたき、ぐるぐる捲いてゆく削り屑《くず》の目まぐるしいたわむれに見とれていた。その途中でまた警官に挨拶したが、警官は彼に親切で、白樺でつくった煙草入れを出して、彼に嗅ぎ煙草をつまませた。到るところで彼は他人の家庭や商売の噂などを、大小となくききこみ、市庁会計の奥さんが若くして死んだこと、市長の堕落した息子のことなどをきいた。その代わり彼の方からは他の土地の新しいできことを話してやり、この土地に定住している人や、名士たちの生活と、自分を彼らの知人として、友人として、立ち会い人として、とにかく何らかの意味で結び合わしている、頼りない、きまぐれな因縁のつながりを愉しむのだった。その日は土曜日だったので、ある醸造所の入口で、酒蔵の番人から、今晩と明日はどこでダンスがあるかということをきき出してきた。
ダンスは四、五カ所で開かれることになっていた。しかし、その中で一番高級なのは、半時間ほど郊外のゲルテルフィンゲンの『ライオン』で開かれるダンスだという。彼は隣りの若いベルベーレ嬢をそこへつれて行く決心をした。
間もなく昼餐の時刻だった。クヌルプがロートフゥス家の階段を上ってゆくと、台所の方からは美味《うま》そうな脂ぎった香りがぷんと鼻をついた。彼は立ち止って、まるで子供のようなうれしがりようと、食い意地とをもって鼻をぴくぴく鳴らしながら、この美味そうな匂いを腹いっぱいに吸い込んだ。彼はできるだけこっそりしのび足で帰ってきたのだが、やはり足音をききつけられてしまった。親方の奥さんが台所の扉をすかさず開け、にこやかに明るい戸口に立ちはだかっていた。料理から立ち上る蒸気のくもにかこまれながら。
「お帰りなさい、クヌルプさん」奥さんは愛想よく迎えた。「うれしいわね。ちゃんといい時刻に帰って来て下さるなんて。今日は、ほんとうは、レバー添えの|雀焼き《シュパッツェン》うどんのご馳走があるの。だから、私レバーを一切れ、あなたのために特別やいてあげようか、と思っていたところなのよ。もしあなたがそうしてほしいってお望みならば。いかがですの、あなたは?」
クヌルプは鬚をひねりながら、うやうやしく騎士の真似をして身を屈《かが》めた。
「はて。なぜ僕だけが、特別のご恩寵にあずかる光栄をになうのでございましょうか。せめてスープの一皿にでもありつけば、もう果報至極なのですが」
「あら、意地悪ね。病気をしていらしったっていうのだから、できるだけ大切にしてあげるのが当り前じゃないの。でなかったら体《からだ》の力が回復のしようがないじゃありませんか? それともあなたは肝臓《レバー》料理がおきらいかしら? たまにはそういう人もいますわ」
クヌルプはおとなしく笑った。
「どういたしまして。僕はそんな変物でありませんよ。お皿に山盛りのレバー添え|雀焼き《シュパッツェン》うどんなんていうのは、祝祭日のご馳走ですよ。もしそんなご馳走を生涯日曜ごとに食べられる身分だったら、このうえ望むところは何もありませんがね」
「なんでもあなたのお望み通りにしてさしあげるわよ、うちでは。そのために私、お料理を習ったんですもの! だけれど、ほんとうにおっしゃってよ。レバーが一切れ余《あま》っていますの。あなたのためと思って、私が特別とっておいたのですもの。体のためにいいと思って」
彼女は体をすり寄せてきて、彼の心をそそるように顔をみつめてほほえむのだ。クヌルプにも奥さんの気持がわからない訳ではない。それに彼女はなかなか綺麗な女《ひと》でもあった。それでも彼は何一つ通じないようなけぶりをよそおった。彼はあの可哀想な仕立屋がアイロンをかけてくれたきれいなソフト帽を手でいじくりながら、そっぽを向いていた。
「恐縮ですね、奥さん。ご親切ほんとうにありがとうございます。だけど、僕にはほんとうに、|雀焼き《シュパッツェン》うどんの方がありがたいんです。それでなくてさえ、あなたのところでは、いい加減もう我がままを言わせていただいているのですからね」
彼女はほほえみながら、人差し指をあげて叱るときのような恰好をした。
「駄目よ、そんな、遠慮深そうな様子をつくったって。いくらおっしゃったってどうせ信じませんから。では、まあ、|雀焼き《シュパッツェン》うどんだけにしておきましょう! それにたっぷり玉葱《たまねぎ》を添えて、でしょう?」
「では、お言葉に甘えて。お断りもできませんからね」
奥さんは料理のことを気にして炉の方へかけ戻って行った。クヌルプはもう食卓の用意が並べられている部屋に行って腰を下ろした。昨日の週報などをひっくりかえして見ているうちに、親方が入って来てスープが運び込まれた。食事となり、食卓が片づいてから、三人で、十五分ばかりトランプをして遊んだ。ついでにクヌルプは二三、新しい、思い切った、あざやかなトランプの技術をやってみせて、奥さんを驚嘆せしめた。それからまた遊び人らしい鷹揚さをもってカードを切ったり、目にもとまらぬ迅《はや》さで、それを配ったりする技術《て》を心得ていた。粋《いき》な手つきで自分の札《トランプ》をテーブルの上に投げ出したり、時には親指でカードのふちを押さえたりした。親方はそういう手を感嘆と憐愍《れんびん》の情とをもって眺めているのだった。とかく、労働者や、市民達は、その日その日のかせぎに関係のない技術には愛着を感じるものなのだが。奥さんの方は玄人《くろうと》じみた関心をもって、この世界人的な物なれた世渡り術の秘法に見惚れているのだった。彼女の眼は彼のすんなりして、華奢で、重い労働で損われていない手の上にじっと注がれたまま動かなかった。
小さな窓ガラスを透《すか》して、うすら寒い、おぼつかない冬の陽の光が部屋の中にさしこみ、テーブルの上に、カードの上に流れていた。弱々しい影を投げかけ、きまぐれに、たよりなげに揺らめき、青く塗られた部屋の天井に当って、まわりながらふるえていた。目をまたたきながら、クヌルプは、これら全てのことを見逃してはいなかった。二月の陽《ひ》の揺らめき。この家の静かな和らぎ。友達の真面目くさった、働き盛りの、職人らしい顔つき。きれいな奥さんの謎めいた眼差し。彼にとっては大の苦が手なのだ、およそこういうものが。彼にとってこれは人生の幸福でもなければ、目的でもなんでもない。体さえ達者だったら――と彼は考えた。そして、これが夏の時候でさえあったら。誰が一時間だってこんな家に、まごまごなんかしているものか。
「少し日なたぼっこでもして来ましょう」
ロートフゥスがカードをたたみ、時計を仰ぎ見たときクヌルプはそう言った。彼は親方と一緒に階段を降りてゆき、そこで乾燥場の皮仕事にとりかかる親方にわかれ、荒れ放題になっている狭い雜草の生えた庭に下りて行った。庭は樹皮液を流す溝で中断されていたが、小川の方にまでだらだらと下りて行っている。小川の上に皮なめし匠は生皮をさらすために、小さな板の橋を渡していた。その橋の上にクヌルプは腰かけて、静かに、しかし、早く流れている小川の水に、すれすれに靴の底をふれさせて、その下をすいすいと水を切って泳いでゆく、すばやい、黒い魚を面白そうに目で追っていた。そうしながら、そのあたりの地勢を物珍らしそうに研究しはじめるのだった。彼は向うの家の小間使の娘と口を利く機会をねらっていたのだから。
庭と庭とは破れ放題になっている垣根を距ててくっつき合っていた。川の畔《ほと》りでは、垣根の杭など、ぼろぼろに朽ちて、跡かたもなくなっているので、どちらの庭からでも自由に隣りの庭へ侵入することができるようになっていた。隣りの庭はほったらかしの皮なめし匠の庭と違って丹念に手入れが届いているように見えた。そこには四列の畝《うね》が起こされているのが見える。冬がれで、草に埋もれ、つぶれたようになってはいたが、チシャと冬越しのホウレンソウとがさみしく二つの畑に残されている。大きな樹になった薔薇が地面にまで傾き、頭を土の中にまで突っ込んでいる。そのうしろには見事な樅《もみ》の樹が二三本立っていて、家をすっかりかくしてしまっていた。
隣りの庭を、じっくりと観察したあげく、クヌルプは足音をしのばせて、その樅の樹のところまでしのんで行った。するとそこからは樹の間に、家が見えてきた。台所が家のうしろ向きについているのである。しばらく待っているうちに、彼は台所で例の少女が袖をまくりあげてせっせと働いているのを見つけた。その家の奥さんが、そばについていて、やかましく物を言いつけたり、教えたりしているのが見える。あまり物識りな女中を雇うことをきらう奥さん達にかぎって、いつもそうしたものなのだが。年ごとに教え児を入れ代えて雇って、女中達が暇をとって家を出てゆくや否や、出て行った児をいくらほめてもほめ足りぬくらい、ほめぬくのだ。しかしその奥さんの指し図や小言は別に悪意のこもったような調子はどこにもなかった。少女の方ももうそれになれっこになっているらしい。なぜなら彼女はちっともまごついたりせず、平気な顔で仕事をつづけていたからである。
侵入者は樹の幹に寄りかかったまま待っていた。まるで一人の狩人のように、期待と緊張とで首をのばしながら、そして暇な時間はいくらでもあるし、人生をただ傍観者として、傍聴者として見ることをおぼえた人間らしく、愉しい忍耐をもって、耳をすまして話をきいていた。少女の様子が窓を通して見えるときは、見ているだけで結構うれしかったし、奥さんの物の言い方から、この女は決してレヒシュテッテン生まれの人ではなく、ここから二三時間山へ入った谷の地方がその故郷なのだろうと推定した。じっとして彼は話し声をききながら、香りのきつい樅《もみ》の枝を半時間も、いや、たっぷり一時間というもの、噛み噛みしていた。そのうち、やがて奥さんの姿は引っ込んでしまって、台所の中はひっそりしてきた。
それでもなお彼はしばらくじっと待っていた。それからやっと用心深く出て来て、枯れた小枝をとって台所の窓をほとほととたたいた。娘はそれでもまだ一向気づこうとしない。彼はもう一度ノックし直さなければならなかった。やっと娘は半びらきの窓のところに出て来て、窓をいっぱいに開け、戸外《おもて》を見まわした。
「あら、あなたはそこで何をしていらっしゃるの?」彼女は声をひそめて叫ぶように言った。「びっくりするじゃないの」
「たかが僕ですからね。びっくりなさる手はありませんよ!」とクヌルプはたしなめて笑った。「僕はただこんにちわ、を言いたかっただけなんですよ。そして、どうしていらっしゃるかと思って。それに、今日は土曜日ですからね。明日の午後はちょっと散歩につき合って下さるお暇はないかと思って、お訊ねしたかったんです」
彼女は彼の顔を見ながら首をふった。しかし彼があまり情けなく、悲しそうな顔をするので、彼女もすっかり気の毒になってしまった。
「駄目なのよ」と彼女はやさしく言った、「明日は出られませんの。ただ午前中だけ、教会に行くけれど」
「そうか、そうか」クヌルプは口の中でぶつぶつつぶやいた。「よろしい。じゃ、今晩なら大丈夫、つき合って下さるでしょうね」
「今晩ですって? ええ、空いていることは、空いているのよ。けれど手紙を一本書こうと思っていたところなの。故郷《うち》の人達に」
「ああ、そんな手紙なら一時間あとで書いたって間に合いますよ。どうせ今夜、手紙を出す訳には行かないのですからね。ねえ、察して下さいよ。僕はまたあなたと少しお話ができると思って、どんなに愉しみにしていたかわからないんです。そして今晩ならどら猫でも空から降って来ない以上、どんな美しい散歩だってできると思っています。ねえ、いいじゃないの。僕を怖がったりなどなさる必要はちっともありませんよ!」
「ちっとも怖がったりなんかしていやしないわよ。ことにあなたなんですもの。けれど、どうしても駄目。もし私が男の方と散歩でもしているところを、人に見られでもしたら、それこそ――」
「冗談じゃありませんよ。ベルベーレ。この土地であなたを知っている人なんて誰もいやしません。それに男と一緒に散歩したからって、別に罪悪を犯した訳ではなし、誰に迷惑を及ぼす訳でもありませんよ。あなただって、もう小学校の生徒じゃあるまいし。そうでしょう? じゃ忘れちゃいやですよ。僕は晩の八時に、下のあの体操会館のところで待っていますから。家畜市場のために柵ができている所で。それとも、時間はもっと早い方がいい? なんとでもあなたのご都合のいいように、どうにでも都合します」
「駄目よ、駄目よ。それより早かったら。本当を言えば、私、――あなたはいらしったりしてはいけないわ。私、駄目なのですもの。いけないことなのですもの――」
またクヌルプは子供っぽい、悲しそうな顔になった。
「仕方がありません。あなたがどうしても、いやだっておっしゃるんだったら!」悲しそうに彼は言った。「僕はただあなたがこの知らない土地にいて、ひとりぽっちだから時々は故郷が恋しくもなるだろう、と思ったのです。僕だって同じことなんです。だからそういうとき、お互いに少し話し合うことでもできたらどんなにいいことじゃないかって。本当は僕もっとアハトハウゼンの話をきかせてもらいたかったんです。僕も一度はあすこにいたことがあるのですからね。ええ、もちろん、無理を申しあげているのではありません。どうぞ悪くお取りにならないように」
「あら、悪くなんて、とりっこないわ。だけれどできないことは仕方ないでしょ」
「今晩は暇があるって、言ったじゃないの。ベルベーレ。ただあなたは出かけたくないだけなんですよ。けれど、できたら、もう一度考え直してくれない? 僕はもう行かなくちゃ。今晩、とにかく、僕はあの体操会館のところに行って、お待ちしています。そして、もし誰も来てくれなければ、僕一人で散歩にゆくでしょう。そしてあなたのことを思い、あなたは今アハトハウゼンに手紙を書いているのだ、と考えるでしょう。ではさようなら。どうぞ、悪く思いにならぬように!」
あっさりうなずくと、彼はもうさっさと行ってしまった。彼女が何か言おうとしているひまもないうちに。彼女は彼の姿が樹のうしろに見えなくなるまで見送っていた。そして切ない顔つきをした。それからまた仕事にとりかかるのだった。が、突然彼女は、仕事の手を働かせながら大きな綺麗な声でうたい始めるのだった。――奥さんは出かけて行ってしまったのである。
もちろん、クヌルプは彼女が歌い出したのをきき洩らしはしなかった。彼はまた皮なめし匠のかけた橋の上に腰かけて、食事のとき、ふところにしのばせてきたパンのかけらをちぎって、丸めては、小さな玉をつくった。そのパン玉を彼はそっと水の中へ落してやった。後から、後からと一つずつ。そしてそれが水の中へ沈んでゆき、少し流れに押し流され、それから川底の黒い地面の上について、静かな、妖精のような魚につつかれ吸い込まれてゆくのを、じっと考えに沈みながら、見守っていた。
*
「ときに」と皮なめし匠は晩の食事のとき言った、「今日は土曜の晩だな。一週間というもの、みっちり働いた後では、土曜日がどんなにありがたいものかってことは、あんたなぞには想像もつかないのも無理はないさ」
「いや、僕にだって想像ぐらいはできますよ」クヌルプは笑った。奥さんも一緒になってほほえみ、いたずらそうにクヌルプの顔を見た。
「今日の晩は、ひとつ」ロートフゥスはもったいぶった調子でつづけた、「今晩はひとつ、ゆっくりビールを一緒に飲もうじゃないか。女房がじき下からとって来てくれますよ。どうです? そして明日は天気がよかったら、三人揃って遠足に繰り出すということにしよう。あなたのご意見をうかがいたいね?」
クヌルプは強く彼の肩をたたいた。
「あなたのところでは実に何でも行き届いたもてなしをして下さるので、ほんとに済まなく思ってます。遠足に出かけるのなんかもうれしいですね。しかし、今晩だけはちょっと用事があるのです。僕のある友人がここに来ていましてね。会う約束をしてしまったんです。上の鍛冶屋に働いていた男なのですが、明日|発《た》ってゆく、というものですから――そう。実に残念ですが。けれど明日はまる一日おつき合いができるじゃありませんか。でなかったら、僕はあんな約束はしなかったでしょう」
「そんなことを言って、今夜そこらを遊び歩こうっていうのじゃないだろうね。まだ君は体が本当に治っていないのだから注意しなけりゃいけない」
「大丈夫ですよ。あまり体を大事にしすぎる|て《ヽ》もありませんからね。早目に帰って来ますよ。家の鍵をどこへかけておいてくれます? 帰ったときあけて入れないと困るから?」
「依怙地《いこじ》だな、君は。クヌルプ。じゃ、まあ、行って来たまえ。鍵は地下室の扉のうしろにおいておくよ。どこだかってことは、解ってるね?」
「解っています。では行って来ます。みなさんもなるべく早くお寝みなさいよ! では、お寝み。お寝みなさい、奥さん」
彼は出かけた。そして彼がもう下の戸口の所まで来たとき、奥さんが急いでうしろから追いかけてきた。傘をもって来てくれたのである。否応なしに持ってゆかなければいけないという。
「体を大事にしなければ駄目よ、クヌルプ」彼女は叱った。「そして、あとで鍵をどこへおいておくか、教えておいてあげますわ」
暗闇の中で奥さんは彼の手をとると、彼をひっぱって家の角をまわり、木の鎧戸が閉っている小窓の前へ来ると立ち止った。
「この鎧戸のうしろに鍵をおくことになっていますの」奥さんは興奮して、囁くように教えると、クヌルプの手をとって撫でさすった。「そのときは、この切り込みの穴から探って頂戴な。窓枠の上にあるでしょう」
「解りました。どうもありがとう」クヌルプはどうしていいか、まごついて、手を引っ込めた。
「ビールを一本とっておいてあげましょうか。帰っていらしたとき飲むように?」彼女はまた言い始めた。そしてそっと彼の方に体をすりよせてきた。「いいえ、結構ですよ。僕はあまり飲まないたちですから。ではお寝みなさい、ロートフゥスの奥さん。いろいろ、済みませんでした」
「まあ、そんなにお急ぎなの?」彼女はやさしく囁くと、彼の腕をつねった。奥さんの顔は頬と頬がふれ合わんばかりに、ぴったり寄せられていた。どうしていいかわからないこの沈黙の中で、無理に腕づくで彼女をつき離すこともできないのだ。仕方なく彼は手で彼女の髪を撫でてやった。「さ、もう行かなくちゃ」彼は突然大きな声でいうと、体をうしろへひいた。
彼女は唇を半ば開けたまま、彼に向ってほほえみかけていた。闇の中でも、彼女の白い歯が光るのが見えた。彼女はできるだけ声をしのんで、ささやくのだった。「では、家へ帰っていらっしゃるまで、私、お待ちしていますわ。あなたが私好きなのですもの」
やっと彼は真っ暗な街の闇の中へ足早にまぎれ込んで行った。もらった傘を小脇にかかえて。次の街角まで来ると、彼はその阿呆くさい当惑さをふり捨てようとして、口笛を吹きはじめるのだった。その唄というのが、
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お前と結婚するとでも、
思っているとは、いい気なものさ。
失礼ながら、お前なぞ、
夢にも思ったことはない。
私はお前が恥ずかしいのさ。
一緒の席に坐るのさえ。
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というのだった。
風はなま暖かかった。時々星が暗澹たる空から光をのぞかせていた。ある居酒屋の中では若い衆たちが、明日の日曜まで飲み明かす心算《つもり》で騒いでいた。新しくできたボーリング場の窓越しに、「孔雀亭」をのぞいて見ると、上流の紳士の会員らが、シャツの袖をまくしあげ、ボーリングの球《ボール》の重さを手で測りながら、葉巻をくわえたままひしめいていた。
体操館のところで、クヌルプは立ち止って、その周囲を見まわした。湿めった風が、裸のマロニエの樹の枝をゆすりながら、かすかな歌を歌っている。川は深く暗々と澱みながら、音もなく流れていた。そして灯りに輝いている家の窓が二つ三つ、さかさまの影をにじませている。暖かな夜の快感は放浪者である彼の体の細胞のすみずみにまでぞくぞくと沁み渡って行った。彼はうずくような気持で深く息を吸い込み、しみじみともう春が来たことを感じるのだった。暖かさを、乾いた街を、さすらいの旅を。彼の無限の追憶にとっては、この町など手にとるように見|透《すか》せると言ってよかった。川のある谷も、このあたり一帯の地方も。彼にとっては、どこといって知らぬ所はなかった。街も、さすらいの路も、村も、町も、さてはどんな農家の庭も、なじんだ夜の宿りも。くっきりとそれらを思い描きながら、彼は次のさすらいの旅はどの方面にするかという計画を立てるのだった。なぜなら、所詮このレヒシュテッテンに永く足をとめていることは、もうできない破目になってきていたから。彼はただあの奥さんさえあまりしつこくしないようなら、彼の友人への好意のために、せいぜいこの日曜くらいまではいてやってもいい、と思っているのだった。
ことによったら、彼は皮なめし匠にほのめかしておいた方がよかったのではないか、とも考えられるのだった。つまり、奥さんのことについて。――しかし、彼は他人の心配などに余計なお節介をやいたりすることはきらいだった。他人を善くしてやろうとか、利口にしてやろうなどということは大それた話だと思っていた。ただ、こんなことになってきたことは、何としても彼にとって不愉快なことだった。そして以前の「オックセン」の女給の思い出も、彼にとって決して嬉しいものではなかった。しかし彼はまた皮なめし匠がもったいぶって家庭の事情だとか、結婚の幸福などについて説教めいたことを言っているのを考えると、いささか嘲笑的な気にもさそわれるのだった。そんなことは彼にとっては見透しだったのだ。人が自分の幸福について、自分の道徳的なことなぞについて大ぼらをふいたり、偉そうな口をたたいていたりしたって、多くの場合そんなものは、なんの足しになるものじゃないのだ。あのつくろい仕立屋の信仰だって、以前は同じようなことを言っていたのだ。人のやっていることの馬鹿らしさを、はたから見ていることはできるし、他人《ひと》を笑ったり、同情したりすることはできるかも知れない。しかし、所詮人はそれぞれの勝手な道を行かせるより他にどうにもしようがないではないか。
思い悩んだ溜息と一緒にこういうくよくよした心配をさらりと彼ははきすててしまった。彼は橋に向って、マロニエの老木の洞《ほこら》になった所に寄りかかっていた。そしてこれから先の自分のさすらいの旅をどうするか考えつづけてゆくのだった。彼はあのシュヴァルツヴァルトを斜めに道をとってたどってゆくことができたら、と思うのだった。しかし、あの山の上は今はまだ寒さが厳しいし、たぶんひどく雪が積もっていることだろう。それでは長靴を台なしにしてしまうし、夜の寝床にありつくにも、ずい分かけ離れた所を歩かなくてはならない。いや、これは、とても駄目だ。谷に添うてゆくより他に仕方がない、町から町へ道をとってゆくに限るのだ。四時間ばかり、この川に添うて降ってゆくと、ヒルシェンミューレに出る。これこそ、差し当り先ずとっつきの安全な休養地なのだ。あすこなら、いざ天気が悪いという場合、一日や二日くらい泊めてくれる所はいくらでもあるだろう。
こうして彼はすっかり考えに沈んで、ほとんどもう、人を待っている身だということをうっかり忘れてしまっていたとき、夜の暗さと、吹いて来る風にあおられでもしたかのように、橋の上にほっそりした、物|臆《お》じたような女《ひと》の姿が現れて、ためらいがちに、近よってきた。ひと目で彼女であることがわかる。彼はうれしさに有頂天になって、感謝したい気持で、とんでゆき、うやうやしく帽子を脱いだ。
「うれしいな。よく来てくれましたね。ベルベーレ。もう実は来て下さらないだろうと思っていたところです」
彼は彼女の左手にまわって、並木道《アレー》を川上の方へ上って行った。彼女はためらい、はにかんでいた。
「やはり、いけないことですわ」何度もくり返し彼女はいうのだった。「誰にも、ひとに見られなければいいけれど!」
クヌルプは立てつづけに、さまざまなことを訊いてやった。そのうちに少女の歩き方も落ち着いてきて、平均した歩調をとるようになってきた。終いには彼女はうちとけてまるで彼の仲間であるかのように、軽快に、元気に彼と肩を並べてついてくるようになった。そして彼の浴びせる質問や、反論につり込まれて、夢中になり、懸命に、熱心に、故郷について、父や母のこと、兄弟や祖母について、アヒルや鶏、雹《ひょう》の降ったときのことや、病気、結婚のこと、教会の建立の祭典などについて次々に話すのだった。彼女の体験の小さな宝の庫《くら》を洗いざらいぶちまけた訳だ。が、それは彼女自身が思っていたよりも、はるかに豊富なものだった。最後に話は彼女の雇用関係、故郷を後にとび出してきたこと、今の女中奉公の仕事、彼女の主人の世帯などを話す番となった。
二人はとうに町を外れて、郊外に出ていた。ベルベーレがどの道を来たのか、など、気付かないでいるうちに。いつか彼女はこれまでの見知らぬ土地での、沈黙と忍耐の永い悲しい何週間から、おしゃべりへと解放され、すっかり打ちとけてしまっていた。
「けれど、私たち、どこまで来たのでしょう?」突然彼女はいぶかしがってきいた。「どこへ行こうとなさるの?」
「もしよかったら、ゲルテルフィンゲンまで行って見ませんか。もうすぐそこです」
「ゲルテルフィンゲンですって? そこでどうなさろうっていうの? それより、もう引き返しましょうよ。晩《おそ》くなるといけないから」
「じゃ、あなたは何時までに家へ帰らなくちゃならないの、ベルベーレ?」
「十時までよ。もうそろそろ時間だわ。ほんとに気持のいい散歩でしたわ」
「まだ十時までには間《ま》がありますよ」クヌルプは言った。「その時間までに家に帰れるように、大丈夫僕が気を付けてあげます。しかし、僕らは今の若さでお目にかかることは二度とないのだから、今日は思い切って冒険をやりましょう。ダンスを踊ろうじゃありませんか。それともダンスはきらい?」
彼女は緊張したふしぎな面持ちで彼を眺めた。
「ええ、ダンスならいつだって好きですわ。だけど、どこで? まさかこの夜中に戸外で踊る訳にも行かないでしょう?」
「じゃ、教えてあげましょうか。もうすぐそこがゲルテルフィンゲンです。あすこの『ライオン』に行けばダンス音楽があります。そこへ行って踊ろうじゃないの。ほんの一度だけ、踊って、それから家へ帰りましょう。そうすればまあ、愉しい晩だった、ということができるでしょう」
ベルベーレは迷って、立ち止った。
「それは面白そうね」彼女はゆっくり言った。「けれど、ひとは私達を何と思うでしよう? 私はそんな女だと思われたくないのよ。それにまた私達二人はもう決まっている仲だ、なんて思われるのも厭なのよ」
それから急に彼女は蓮葉《はすっぱ》に笑うと、こういうのだった。「つまり、私、いつか恋人をもつようになっても、皮なめし工の職人だけはいやよ。あなたを侮辱する訳じゃないけれど。皮なめし工は仕事が穢《きたな》いんですもの」
「あなたの言われる通りかも知れませんね」クヌルプは人が好さそうにつけ加えた。「それに何も私と結婚して下さる必要なんかありません。私が皮なめし工だっていうことも、あなたがそんなに気位が高いってことも、誰一人知っている者はありませんよ。それに僕は両手をきれいに洗って来ました。もしあなたが僕なんかでも、相手にして踊ってやろうとお思いになるのだったら僕は喜んであなたを招待します。そうでなかったら、引き返しましょう」
夜だったけれど、もう色褪せた破風《はふ》をもった村の一番とっつきの家が、茂みの向うに見えてきた。するとクヌルプは突然「叱《し》っ!」と指を立てて、彼女を押さえるようにした。村の方からダンスの音楽が流れて来るのだった。アコーディオンと、それにヴァイオリンが一つ、からむようにひびいてきた。
「もうしょうがないわ!」少女は笑った。そこで二人は足を早めて歩き出した。
「ライオン」へ行ってみると、踊っているのは四組か、五組しかなかった。みなクヌルプの知らない、若い人達ばかりだった。静かに上品な踊り場で、次のダンスの番組から踊りはじめた知らない一組に、いやな思いをさせる者は誰もいなかった。二人は「レンドラー」と「ポルカ」を一番ずつ踊った。それから「ワルツ」となったが、ベルベーレはついて来られなかった。人々の踊るのを眺めながら、一盃ずつのビールをあけた。それ以上はクヌルプの懐ろ具合では手が出せなかったのだ。
ベルベーレは、ダンスをしたので、体も暖たまったし、目を輝やかしながら、小さなダンス場の中を見まわしていた。
「さて、そろそろご帰館の時刻ですね」九時半になったとき、クヌルプは注意した。
彼女は立ち上ったが、いささか悲し気な顔になった。
「あら、残念だわね!」彼女はひくい声でささやいた。
「もっといたっていいことよ」
「いや、僕は家の門限で帰らなくちゃ。なかなか愉しい晩でしたね」
二人は踊り場を出た。しかし出口の所で少女はふと思い出したように言った。「楽師たちに私達なんにもあげなかったのじゃない」
「ええ、やらなかったんです」クヌルプもいささか閉口して言った。「二〇銭玉一つぐらいやった方がよかったかも知れません。ところが、遺憾ながら僕の懐ろ具合が空っぽときているので、二〇銭玉一つないという始末なんですよ」
彼女は熱心に手提げを探して中からかわいい編んだ財布を引き出した。
「それならそれで、なぜもっと早くおっしゃらないの? これ二〇銭玉だわ。あげて頂戴!」
彼はその銀貨を受け取り、楽師たちのところへ持って行った。それから二人は出かけたが、あまり夜が真っ暗なので、しばらく出口に立ち止ったままでいた。そのうちやっと道が見えてくるのだった。
風が強く吹きつけて、ポツポツ雨も落ちてきた。
「傘をひらきましょうか?」クヌルプはきいた。
「駄目よ、この風ですもの。そんなことしたら歩かれやしませんわ。きれいだったわね、あの踊り場。あなたはまるでダンスの教師みたいにお上手ね。皮なめし屋さん」
彼女は嬉しそうにしゃべりつづけていた。ところが友人の方は黙り込んでしまっていた。たぶん疲れていたせいだったのだろう。あるいは、もうじき別れなければならないことが悲しかったのかも知れない。
すると彼女はふいに歌い始めた。「時にはネッカーの草を刈り、時にはラインの草を刈る」というのだ。彼女の声はふっくらと暖か味をおびて、澄んでいた。第二節目からは、クヌルプもそれに合わせて歌ったが、低音部の方を、危なげなところは少しもなく、実に、低く、美しく歌うので、彼女は思わずきき惚れてしまうほどだった。
「さあ、これであなたのホームシックも消えましたね?」おしまいに、彼はそんなことを訊ねた。
「ええ、どこかへ消えちゃったわ」彼女は明るい声で笑った。「また近くこういう散歩をしましょうよ」
「ほんとに残念ですが」と彼は低く答えた。「これが僕らの最後の散歩となるかも知れませんね」
彼女は立ち止った。彼の言った言葉をはっきりときいてはいなかったが、彼の悲しそうな言葉の調子が気になったのだ。
「あら、どうなさったの?」彼女は軽く驚いて訊ねた。「何か私、お気に障るようなことでもしたかしら?」
「とんでもない。ベルベーレ。実は僕、明日はもうここを発《た》ってしまうのです。そういうふうに、話をつけてきたのですから」
「いやよ、そんなことをおっしゃっちゃ! 本当なの、そのこと? だったら、本当に私、悲しいわ」
「僕のためになんか、悲しまないで下さいよ。どうせ僕は永くはここにいられない人間なんです。それに僕はただのつまらぬ皮なめし工でしかありません。じきあなたには恋人はできますよ。僕なんかと違った本当に美しい恋人が。そうなれば、ホームシックなんかもうどこかへけしとんでしまいますよ。見ていてごらんなさい」
「ああ、そんなことをおっしゃらないでよ! 解って下さるかしら。私、ほんとうにあなたが好きになってしまったのよ。そりゃあなたは私の恋人ではないかも知れないけれど」
二人は黙って歩いていた。風が激しく、まともに二人の顔に吹きつけた。クヌルプは足をゆるめた。もうあの橋のすぐ手前まで来ていた。とうとう彼は歩くのを止めて立ち止った。
「では、ここでお別れにしましょう。ここからは、もうすぐそこだから、一人でいらした方がいいでしょう」
ベルベーレは今度こそ無性《むしょう》に心から悲しくなり、クヌルプの顔をじっと見つめた。
「ではやはり、本当にお別れなの? それなら、私、あなたに、心からお礼を申しあげますわ。私は今日のことは決して忘れません。どうぞご機嫌よう!」
クヌルプは彼女の手をとって、体を抱きよせた。彼女が不安げに、ふしぎそうにじっと彼の眼の中を見つめているのを、彼は、雨でしっとり濡れた捲き髪ごと、彼女の顔を両手でつかんで引きよせ、ささやいた。
「では、さようなら、ベルベーレ。お別れに、あなたに接吻を許して下さる? 僕をいつまでも忘れないで覚えていてくれるように」
彼女は体をふるわせて、もがいて、うしろへ退ろうとした。が、見下している彼の眼差しはなつかしく、悲しそうであった。彼がどんなに美しい眼をしているかを、彼女は今はじめて気がついたのだった。目をあけて、見つめたままで、彼女はひたむきに、彼の接吻を受けた。そうしておいて、彼はただ淋しく、たよりなげに微笑んだまま、ためらっているので、彼女の目には涙が浮かんできた。そして心から、あつく、彼に接吻をし返すのだった。
それから彼女は走るように別れて行ったが、橋の上まで来たとき、突然ふり返ると、また戻ってきた。クヌルプはまだ同じ場所に立ったままでいた。
「どうしたの、ベルベーレ?」彼は訊いた。「家へ帰らなくちゃいけませんよ」
「ええ、もちろん、家へ帰りますわよ。私のこと悪くお思いになってはいやよ!」
「何で悪くなぞ、思うものですか」.
「それから、あのことどうなさるつもりなの? 皮なめし屋さん! さっきおっしゃったでしょう、もうお金はびた一文なしだって? もちろん、あの工場をやめてたつときは、賃金ぐらいおもらいになるのでしょう?」
「いいえ、賃金なんか、もうびた一文だってもらえやしませんよ。しかし、そんなことはどうでもいい。何とかやってゆきますよ。心配なさらないで下さいよ、そんなことをあなたは」
「駄目、駄目。いくらかでもリュックの中に入っていなかったら、しようがないじゃないの、ほら、これをもってらしてよ!」
彼女は彼の手の中に一個の大きな銀貨を握らせた。それが一ターレルであることを、手ざわりで彼は知っていた。
「いつかあとで返して下さるか、送って下さればいいわよ」
彼は彼女の手をとって引き戻した。
「いけませんよ。そんなことをしてあなたのお小遣いを無駄にしてしまっては! これは大|枚《まい》一ターレルじゃありませんか。とっておおきなさい、これは! 駄目。とっておかなくては! そう、それでよろしい。馬鹿な真似をしてはいけませんよ。もし、あなたが、もっと小さな持ち合せがあったら。例えば五〇銭玉とか、そのくらいの。それなら、よろこんでお借りしましょう。なぜなら、僕はいま文無しですからね。しかし、それ以上だったら、いやですよ」
二人はまだ争っていた。ベルベーレは財布をはたいて見せなければならなかった。なぜなら彼女は、一ターレル以外になんにも持ち合わせがないと言い張ったからだ。しかし、本当はそれは嘘で、そのほかに一マルクもあれば、そのころまだ通用していた二〇銭玉の小さな銀貨もあった。それなら彼はいただこう、と言った。が彼女はそれでは余り少なすぎるという。それでは彼はなんにも要らない、と言って、行ってしまおうとする。しかし、結局彼はその一マルクを握らされ、彼女は小走りに家へ戻って行った。
みちみち彼女はなぜ彼があのときもう一度接吻してくれなかったのか、しきりにわびしく考えさせられるのだった。ひどい人だ、とも思うけれど、またこれこそ本当の親切で礼儀なのだとも思われるのだった。結局彼女はいいほうに考えることにした。
それからたっぷり一時間ほどたって、クヌルプは家へ帰ってきた。上の居間には、まだ灯りが点いているのが見える。さては、奥さんはまだ起きて、彼を待っているのだろう。腹立たしげに、べっと彼は唾をとばして、そのまますぐ闇にまぎれて、逃げ出して行ってしまいたい気もするのだった。しかし、さすがに疲れていたし、雨も降って来るに違いない。それに皮なめし匠の顔をつぶすような真似もしたくなかった。その上、その夜はまだ何かちょっとしたあまりあくどくないいたずらくらいならやってのけてもよい、気まぐれな気持も動いているのだった。
そこで彼は家の鍵をかくし場所から引き出して、まるで盗人のように、用心深くこっそりと入口の扉をあけた。そっと戸をうしろに閉めると、唇をかみしめながら、ことりとも物音をさせず錠を下ろし、また鍵を元あった場所に注意して戻しておいた。それから、靴を手にもって、靴下はだしになり、階段を上って行った。半開きになった扉《と》の隙間からのぞくと灯りが見え、彼を待ちくたびれてそのまま居眠ってしまった奥さんが、居間の長椅子の上にねそびれて、長いいびきをかいているのが聞える。そこで彼は足音をしのんでこっそり自分の部屋に上ってゆき、内からぴったり扉に鍵を下してしまった。そしてベッドにもぐり込んだのである。どうでも明日は、ここから発《た》ってしまおう、と決心しながら。
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クヌルプへの私の思い出
それはまだあの愉しい青春時代のただなかのころであり、クヌルプもまだ生きていたころのことだ。僕達は当時さすらいの旅をつづけていたものだ。彼と僕と。赫灼《かくしゃく》とした盛夏の候を、豊饒な恵まれた土地から土地へ渡って。なんのわずらわしい物思いもなく。ひねもす僕達は黄に熟れた麦の畑に沿うて、ぶらぶらと足を運び、あるいは涼しい胡栗《くるみ》の樹の下や森の外れにねころんだりしていた。
夜になれば、私はクヌルプが農夫らに、さまざまな講釈を語ってきかせるのに耳を傾け、子供らのために影芝居を演《や》り、少女らのためには、彼の無限に貯えのある唄を歌ってきかせるのをきいていた。私は心から愉しくその歌をきき、少しも嫉妬がましい気持なぞ念頭に浮かばなかった。ただ彼が少女たちに取りかこまれ、その日やけした鳶色の顔を幸福に輝かし、乙女たちからずいぶん笑われたり、嘲《から》かわれたりしながらも、なお目じろぎもせず、みなの目をひきつけてしまっている――そういう時には、時としてただ彼こそ、実際この世にも珍らしい幸せ者であり、僕の方はその正反対の貧乏性なのだ、という気がするのだった。そういう時には僕はいつものけ者になって、ただそばについて見ているのも手持ち無沙汰なので、よくその場を彼にまかせたままにして、ずらかって行った。そして牧師などをその居間に訪ねて行って、一席の有益な晩の説法をさせたり、一夜の宿《とま》りを願ってみたり、時にはまた料理屋に出かけて、静かに一盃の葡萄酒を傾けたりした。
ある午後のこと、僕はまだよく憶えているが、僕達はとある教会の墓地のそばを通りかかったことがある。墓地はその小さな教会と一緒に、村からはるかに離れた畑の中にぽっつりと淋しくほったらかしたように置かれてあった。そしてその壁の屋根の上には、鬱蒼《うっそう》と茂みが掩いかぶさっていて、暑気にうだっているこのあたりの中に、いかにも静かに和やかで、故郷のようになつかしく思われるのだった。入口の鉄柵の上に二本の大きなマロニエの樹がかぶさっていたが、柵は閉じられていた。僕は、何気なく通りすぎて行こうとしたのである。ところがクヌルプは行こうとしないのだ。彼は器用にするすると壁の上によじ登ってしまった。
「また、仕事休みってことにするの?」僕は訊いた。
「もちろん、そうさ。そうでもしなかった日には、もうすぐ靴底を傷めてしまう」
「それはいいが、何もよりによって、墓地に寝る術《て》もないだろうに?」
「いや、墓地に限るのさ。まあ、入って来てごらんよ。百姓たちはあまり奢《おご》った真似はしないさ。それは僕だってよく知っているよ。が、彼らだって、土の下に入ってからは、やはり安楽がしたいと見えてね。そのために一生懸命汗水たらして、墓の上や、その傍《そば》にだけはなかなか|しゃれ《ヽヽヽ》たものを植え込んでいるのだよ」
そこで僕も一緒になって壁を越えて中へ入って行ったが、全く彼のいう通りだったことに気がついた。なるほど、壁によじ上ってみる価値はあるのだ。庭の中には、まっすぐな列をなして、また曲がった列になって、いくつもの墓がびっしりと並んでおかれていた。多くの墓には白い木の十字架が立てられていた。が、その上に、それを掩うようにして、新緑の樹、とりどりの絢爛な花がかぶさっていた。そこには歓喜に燃えるようなヒルガオや、ゼラニウムが咲きほこり、深く暗い樹蔭にもなお咲き遅れたニオウアラセイトウがとり残され、薔薇の垣の茂みという茂みはみな薔薇の花でいっぱいだったし、ライラックやニワトコの樹はみな大樹になり、こんもりと枝をひろげていた。
僕達はいくらかこういうあたりのものを見まわしてから、草の中に腰を下ろした。草は所によってはずいぶん深く、また花が咲き乱れていた。それから存分に疲れを休め、涼しくもなったし、落ちついた愉しい気分にひたっていた。
クヌルプは一番手近にあった十字架の上に書かれていた名前を呼びあげて、こう言った。
「この人は、エンゲルベルト・アウエルという名で、六十歳以上まで生きたんだね。そのお蔭でいま彼はモクセイグサの下に眠っているのさ。モクセイグサは美しい花で、どんなに静かに眠れるだろう。いずれは僕もいつかこの花の下で往生することにしたいね。今日はまあここにある花を一つ頂戴することで我慢しておこう」
僕は言った。「止めときなよ。摘むなら他の花にしなさいよ。モクセイグサはすぐしおれてしまう花だもの」
それでもやはり彼はいうことをきかないで、モクセイグサを手折り、側の草の中にほうり出されていた帽子にさした。
「何て、ここは静かで美しいのだろう!」と僕は言った。すると彼はいうのだ。
「ああ、ほんとに。これでもう少し静かだったら、この地面の下にいる人達の話し声だって聞えるだろうにね」
「それは駄目さ。あの人達はみんな言いたいことは、洗いざらい言いつくした人達だもの」
「誰がそんなことわかるものか? 人はいつでもいうだろう。『死は眠り』なんだって。眠っていて、ずいぶんうわ言をいう奴もいれば、中には歌を歌う奴だっているよ」
「お前なら、やりかねない」
「そうさ。歌わないでどうする。でも、もし僕が死んだら、僕は日曜日になって、女の子たちが揃ってやってきて、墓場をとりまいて、お墓の花を一本摘んでくれるまで待っているよ。そうなったとき、僕はかすかな、低い声で歌を歌い始めるのさ」
「それで、何を歌うの?」
「何って? どれでも、いい歌をさ」
彼は地面にながながとのびてねころんでいた。目を閉じていたが、やがて間もなく静かな子供っぽい声で歌い始めた。
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子供で死んだ、僕だから
歌って下さい、乙女たち。
かなしい葬いの別れの調《ふし》を。
再びこの世に来るときは、
再びこの世に来るときは、
眉目《みめ》よい男の児に生まれます。
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僕はふき出さずにはいられなかった。歌そのものは、なかなか僕の気にいったのだが。彼は美しい、やさしい声で歌った。言葉は全くいい加減な意味としかとれぬものだったろう。が、その旋律《メロディ》はきれいで、言葉まで美しくなったような気がした。
「クヌルプ」と僕は言った、「あまりお嬢さん達に大袈裟な約束なんかしない方がいいよ。でないと、じきもうみんな誰もお前のいうことなんか、信用しないようになってしまうから。再びこの世に生まれて来るというのは、まあ、いいとして、誰一人それが確かなことか、どうか、知っている者はいないしね。ことにそのとき、お前が美しい少年となって生まれて来るか、どうか、甚だ疑問だからね」
「確かなことじゃないさ。お前のいう通り。だから、もしそうなれたら嬉しい、という話なのだよ。覚えている? おととい、僕たちが道をきいた、牛をひいている男の児のこと? 僕は来世はもう一度ああいう児になって生まれかわってみたいね。君はどう?」
「いや、僕はごめんだね。僕は昔ある老人を知っていた。七十歳以上の人だった。その人の目付ったら、本当に静かで、親切なんだよ。ああいう人になったら、何もかも善いことだらけで、何もかも賢い、静かなことばかしだろうと思ったね。それ以来僕はああいう人になれたらどんなによかろうと、ときどき思うのさ」
「なるほど。だけれど、君がそうなるまでにはまだだいぶ間があるね。それに大体僕らの願いそのものがおかしいのだよ。たとえば、もし僕が今この瞬間に、ちょっとうなずきさえすれば、すぐもう可愛い男の児になることができるとする。君もまたちょっとうなずくだけで、すぐもう立派な、やさしい年寄りになれるとしたら。僕らは誰も本当にうなずいたりなんかするだろうか。やはり僕らは今のままの僕らでいられた方が、どんなにありがたいか知れやしないよ」
「それも本当だなあ」
「もちろんさ。その他にまた、こういうこともあるんだよ、いいかい。よく僕はこんなことを考えるんだよ。およそ世の中に存在するものの中で最も美しく、最も麗《うるわ》しいものは、ブロンドの髪をした細っそりした体つきの若い乙女だ、って。ところが、実際はそうじゃないんだ。なぜって、よく見かけることだが、黒い髪をした少女の方がもっと美しいと思われることだってあるからね。それから、また僕には、こんなふうに考えられることがある。およそ一切のものの中で、最も美しく最も素晴しいものは、美しい小鳥だろう、って。実に自由自在に高い空をとんでゆくのを見ていると。ある時はまた蝶ほどふしぎな美しいものはない、という気がするときもある。例えば羽に赤い眼のついたあの白い蝶なぞ。ある時はまた雲に輝いている夕やけの日の光ほど壮麗なものはないと思うね。全てのものが|あかね《ヽヽヽ》色に夕映えて、しかも眩惑するようなところはなく、その光の下ではあらゆるものが幸福で、清浄なものに見えるとき」
「その通りさ。クヌルプ。どんなものだって、みな美しいのだよ。その本当の姿をしている時をつかまえて見さえすれば」
「そうなんだ。だが、僕が今考えているのは他のことなんだよ。つまり、僕は、最も美しいもの、というのは、いつも愉しみの他に、何かある悲しみとか、不安とかを、一緒に感じないではいられないものだ、と思っているのだよ」
「うん。どうして、そうなるの?」
「訳をいうとこうなるんだ。どんな美しい乙女だって、それほど美しくは感ぜられなくなるのではないか、と思うのだよ。もし人が、その乙女の生命の美しさは儚《はか》ないもので、その美しさが終れば、やがて老いぼれ、死んで行かねばならぬ、ということを考えなかったとしたら。もしある美しいものが、永遠にわたって、いつも同じ美しさを保っているものだとしたら、もちろん僕はそれを美しいとは思うだろう。けれど、一方には僕はそれをもっと冷淡に見るだろうし、またこうも考えるだろうよ。『この美しさは、いつだって見られるのだ。何も今日見なくたって、よかろう』って。これに較べると、儚《はか》なく、いつも同じ美しさを保っていられないものとなると、どうしてもたった今見なくてはならないし、そして、ただ美しいというだけではない、同情と言ったような気持が加わってくるのだよ」
「そうかも知れないね」
「だからこそ僕は、どこかで夜、花火をあげたりするのを見ていると、あんな美しいものはないと思うのだ。青だの、緑だの、花火の仕かけ玉が、まっくらな空へするするとのぼってゆく。そして、なんて美しいのだろうと思っている、とたんに、それはちょっとした弧を空に描いて、そしてぱっと消えてしまう。あれを見ていると、美しいと思うと同時に、不安に襲われるのだよ。『すぐにそれはもう、消えて行ってしまう』という不安に。つまり、美と不安の二つは互いに結びついていて、分ち難いもので、もっと永く消えないでいたりするより、どれほど美しいか解りはしない。そうじゃない?」
「なるほど。その通りだよ。だけれど、それをまた万事に当てはめる訳には行かないよ」
「どうして、いけないの?」
「例えばだね。恋人たちが互いに愛し合っていて、結婚しようと思う。あるいは二人の友人が互いに友情を誓い合うとする。こういう場合はそれがいつまでも永く続いていて、すぐにお終いになってしまうようなことはない。だからこそ、それは美しいのではないだろうか」
クヌルプは用心深く僕の顔色をうかがった。それから彼の長い黒い睫毛をまたたかせ、考えに耽りながらいうのだった。
「それは僕も賛成だな。ところが、それにだってやはり『終り』というものがあるのだよ。全て他のものと同じように。友情をぶちこわすものにもいろいろあるからね。愛にしたって、同じことさ」
「そうかも知れない。しかし、それは来てみない以上は、誰もそうなるとは思っていないよ」
「さあ、それはどうかね。――僕は、これまで生涯に二度、恋をしたことがある。本ものの恋だったのですよ。二度とも僕は、これこそ永遠の恋であり、死以外にはこの恋を止めることはできないと思っていた。ところが、二度とも恋はお終いになってしまった。が僕は一向死にもしなかったのですからね。――また僕は一人親友を持っていたことがある。故郷の、僕たちの町でなのだけれど。そして僕ら二人はこうしてこの世に生きている間に、仲違いをするなんてことがありえようなどとは、夢にも思ってはいなかった。ところが、僕たちはやはり別れるようなことになってしまったのです。もうずっと以前のことですが」
彼はぽっつり言葉を喊《つぐ》んでしまった。僕はどう言ったらよいか、わからなかった。人と人との間のあらゆる関係の中にもしのび込んで来る、痛ましいできことについては、僕はまだなんの体験も持ち合せてはいなかった。そしてまた、人間と人間の間には、いつもそこにある深淵が大きな口をあけているのだ。それはただ愛のみが、橋を架けることができるのであり、それもまたただしばらく一|時《とき》の間《ま》を、間に合わせの架橋で、ごまかすことができるだけなのだ、ということについて何一つ知ってはいなかったのだ。僕は友達が先に言った言葉について、いろいろな思いに耽っていた。中でも、僕にはあの花火玉の美しいという説が一番気に入った。なぜなら僕自身、同じことを、もう何度となく感じていたからだ。音もなく人の心を魅了してしまうあの華麗な光の尾。暗黒の空にすっと上ってゆくかと思うと、あまりにも他愛なくたちまちその闇の中に吸い込まれて消えて行ってしまう。これこそ僕にはあらゆる人間の歓楽の象徴であるかのように思われた。美しくあればあるほど、いよいよ充溢をかちうることも少なく、いよいよはかなく消え去って行ってしまわなければならないのだ!
そのことを僕はクヌルプにも言った。
しかし彼はその話にはもうとり合おうとしなかった。
「ああ、そうさ」と言ったきりだった。と思うと、ずいぶん間をおいてから、重々しい口調でこんなこともいうのだった。「くよくよ考えたり、思案をめぐらせたりすることはなんの役にも立ちはしないよ。どうせ人間というものは、考えた通りを実行するなんてことができるものじゃないのだ。本当は、一歩ごとに、なんでも自分の情熱の欲するがままを、まるで深く考えてみもせずに仕出かしてしまう。しかし友情や、恋については、僕が言った通りなのですよ。結局人は誰でも自分自身というものを、全く自分のためにだけ大事につかんでいて、ちょっとでも他の人にもそれを頒《わか》とうなんて気持は持っていないのだよ。誰か人が死んだりしたとき、そのことははっきり解るでしょう。もちろん、人はそういうとき泣いたり、悲しんだりはするでしょう。一日か、あるいは一月か、あるいはせいぜい一年くらいの間はね。しかし、それからは、死んだものはもう死んだ者として、それでお終いになってしまうのさ。たとえその棺の中にどこの馬の骨だか解らない、見ず知らずの出稼ぎの兄さんが入っていたところで、構うことはありはしないのさ」
「いや、そういう君の説はちょっとおかしいね、クヌルプ。僕らはいつも話し合ったじゃないの。人生は結局ある高い意味をもったものでなければならない。人間が悪党で、敵意を抱いているよりは、善良で、親切な方が貴いのだって。だけれど、もし人間が今お前が言った通りだとすれば、何をやっても同じことになってしまう。盗みを働こうが、人を殴り殺そうが。勝手次第さ」
「そんなことができるものか、君。できると思うなら、手当り次第、行き当りばったりの人間を二三人ぶち殺して見たまえ! でなければ、黄色い蝶に向って、青い蝶になれと要求してごらん。せいぜい物笑いの種になるのがおちさ」
「僕がいうのは、そういう意味でもないのだよ。しかし、何をやってもみな同じことだ、ということになれば、善良で、正直な人になろうとすることも、まるで意味がないことになりますね。もし青が黄であっても一向差し支えがなく、悪が善と同じように通用する、ということになれば、誰一人善人になろうなんて思う人はいないでしょう。そうなれば、みんな人間は森の中の野獣に返ってしまい、それぞれ自分のもって生まれた自然のままに得手勝手なことを振舞い、どんな善いことをしたって、悪いことをしたって、同じだということになりますね」
クヌルプは溜息をついた。
「ああ、それをなんと言ったらいいのか、たぶんそれは、君がいう通りなのだよ。だから人はおよそ『人間の意志なんてものは三文の価値だってありはしない。一切は、僕らに全く関係なしに、その行くべき道を驀進してゆくのだ』ということを感じて、よく馬鹿らしくふさぎ込んだりしているのですよ。と言ったって、やはり罪というものは存在していますよ。たとえ人は悪党でしかあり得ない場合であるとしたって。なぜなら、そういう人間は人間なりに、悪いということは自分の心の中に感じているのだもの。だから、善というものは、やはり正義でなければならないのだよ。なぜなら、人はそれで満足を感じ、良心にちっとも疾《やま》しいところはないというのだったらね」
もうこんな話はたくさんだ、ということは、彼の顔にありありと書いてあった。いつでも彼はそうなのだが。哲学の問題を論じ始め、命題を提示する。――と、それを肯定し、それを否定する。かと思うと、突然それを投げ出してしまうのだ。以前はそれは僕の解答や反論の未熟さに、嫌気がさしてしまうからだろうと思っていた。しかし、実際はそうではなかった。彼は自分の思索への好みが、彼の知識の弁証法の及びがたい境地に引っぱり込んでゆくことを感じていたからだった。なぜなら、もちろん彼はずいぶん多くのものを読んではいたけれど。ことにトルストイ等。彼は正しい推論と、欺瞞的な推論とを必ずしも常に正確に判別する能力がなく、そのことを自分でも感じていたらしかった。彼は哲学者を論じるときは、まるで才能のある子供が大人について論じるような論じ方をした。つまり彼らの方が自分よりも、より多くの権力と手段とをもっていることを認めざるをえなかった。しかしやはり彼らを軽蔑していることには変わりはないのだ。というのは、彼らはえらく学識があるくせに、ろくな仕事をやってのけない、あらゆる賢明な手段方法を持ち合わせながら、何一つ神秘の謎を解くことができないでいる、というのだった。
さて、彼は両手で頭を支え、くろぐろ茂ったニワトコの葉の間から、暑い青空を仰ぎながら、ライン地方の古い民謡をぼんやりと歌っていた。僕はまだその最後の節をおぼえている。
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昔は真紅の上衣も着たが
今じゃ、悲しい、喪《も》の黒い服。
六年、七年、恋人の
骸《むくろ》が朽ちて、土となるまで
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夕方も晩《おそ》くなってから、僕達は真暗なあるる森の外れに坐り込んでいた。それぞれ大きな黒パンの塊りと、シュッツェン腸詰《ウルスト》の半分をかかえこみながら。そしてパンを噛りつつ、次第に夜が深くなってゆくのを見守っていた。ほんの二三秒前までは、丘はまだ暮れ残った空の黄色い夕映えに輝かされ、綿毛ににじむような夕やけの光の中にとけ込んでいた。それが今はもう黒々とし、くっきりと輪郭を描いていて、その樹々や、丘の背や、茂みなどを、空に黒く浮き立たせていた。空にはまだどこかにほの明るい昼間の青さが残っていた。が、しかし、はるばると今はもう濃く深い夜の蒼さが拡がって来ていた。
まだ明るさが残っている間は、僕らは交る交る小さな冊子をひらいて、おかしな話なぞを朗読し合ったりしていた。その小冊子は「ドイツの竪琴の美しい調べ」というのであり、小さな木版画入りで、馬鹿々々しく滑稽な、いかさまの唄ばかり集めてあったものだ。その朗読ももう、日が暮れると共に、お終いになってしまった。食べることもお終いになった後で、クヌルプは、何か音楽を一曲聞かせてほしい、と言い出した。そこで僕はポケットからハーモニカをとり出した。が、パンの屑がいっぱいにつまっていたので、先ずそれを掃除しなければならなかった。それからいつもきき馴れている流行の唄を二つ三つ吹き鳴らした。しばらく前からもう僕たちが坐り込んでいてなれっこになってきた暗闇は、今はもう僕らの目の前に、見る見るはるかに、さまざまに穹窿《きゅうりゅう》形をなした丘の上に拡がってゆき、空ももうその蒼ざめたほのかな光を失って、暗黒となってゆく。それにつれて、静かに一つずつ、星のきらめきの数が冴え増してくるのだった。僕達のハーモニカの唄は軽快に、頼りなげに、広い野づらの中に吸い込まれてゆき、すぐ果てしない空の中に消えてゆくのだった。
「でもまだすぐ眠るには早すぎるよ」と僕はクヌルプに言った。「何かお噺でも聞かせてくれない。本当の話でなくたっていいよ。それとも、お伽噺か何かでもいい」
クヌルプは考え込んでいた。「そうだな」と彼は言った、「話でもあるが、お伽噺でもある。両方がごっちゃになったもの。つまりある夢なのだけれど。去年の秋、僕はそんな夢を見たのですよ。それから二度もそれにそっくりな夢を見ている。それを一つ君に話しておこう。
どこかの町の街路だった。ほとんど、僕の故郷の町にそっくりな。どの家並もみんなその破風を街路に面した側に向って突き出している。しかもそれはいつも見かけるようなのとは違って、もっと高くそびえ立っているのだ。その街の中を僕は歩いてゆくのです。が、それはまるで僕が永い永い年月の後に、やっとまた故郷に戻ってきた、と言ったような気持で。そのくせ、何となく、僕はしらじらしく、そぐわぬ気持だった。というのは、どこかに納得しがたいものがあるのです。そして僕にも、ことによったら場所を間違えたのじゃあるまいか、故郷とは似ても似つかぬ町に来たのじゃあるまいか、ということさえはっきりとは解らないのです。どの街角に来ても、それは僕の見覚えのある所だし、一目ですぐ、どこにいるということがわかった。が多くの家は見覚えのない家ばかりで、とりつきようがない。そのうえ橋らしいものが一向見当らないし、市場の広場へ出る道がどうしても見つからない。そして広場へ出る代わりに、見たこともない庭園や、教会の前を通りすぎてゆく。その教会にはほとんどケルンのドームや、バーゼルの教会のように、二つの巨きな尖塔がそびえている。ところが僕の故郷の教会には尖塔がなかったはずだ。ただ間に合わせの屋根をとりつけた、ずんぐりした低い円錐形《シュトンペン》の塔が立っていただけなのです。なぜなら、それは昔建て方を誤って、尖塔を完成するに至っていなかったからです。
人間もまた同様なのです。遠くから見た多くの人は、みな僕のよく知った人達ばかりで、その名前だって解っていたし、呼びかけようかと思って、もうその人の名前が口から出かかっていたくらいなのです。と思っているうちに、ある者はどこかの家の中へ入って行ってしまうし、ある人はどこかの横町へ曲がって行って、見えなくなってしまう。そしてその中のある者が僕に近よってきて、傍を通りすぎてゆくのを見ると、まるで人が変わっていて、見も知らぬ他人になっているのです。ところが、その人が通りすぎて行って、また遠くに離れて行ってしまうと、そのうしろ姿を見送りながら、僕はやはりあの人に相違なかったと思い、どうしても知っている人だったという気がするのです。またある店の前に女の人が二三人立っているのも見かけました。が、その一人など、僕の死んだ叔母に相違ないのです。ところがその人達のいるところへ寄って行ってみると、まるで知らない人達ばかりで、しかも全然きいたこともない外国の言葉を話しているのです。何を言っているのか、まるで、見当もつきはしない。
終いには、僕も考えこんでしまいました。何とかしてこの町から外へ脱け出してしまおう。故郷の町には違いない。が、どうもその町でもないらしい。しかし、そう言っても、やはり見覚えのある家にぶつかるし、よく知った人の顔にも行き合うのです。そしてみんなはそのたびに僕をからかっているように思われます。そんな目に会わされながらも、僕は別に腹が立ったり、憤慨したりはしませんでした。が、ただむやみに悲しく、不安でいたたまれなくなって来るのです。何か祈祷の言葉でも唱えようと思って、一生懸命に力をふりしぼってみます。が、口に出てくるものといったら、ただ実にやくにも立たぬ、下らぬ紋切形の切り口上ばかりなのです。――例えば、『拝啓、尊敬すべき貴殿におかれましては』とか『事情かくのごとく、重々ご推察下されたく』――等々と。それを僕はただやみくもに混乱した、悲しい気持でぶつぶつつぶやいているばかりなのです。
こんなことが、二三時間もぶっとおして続いていたような気がした。ついにはすっかり僕ものぼせてしまい、疲労困憊し切ってしまって、ただあてもなくぶらぶら歩いてゆくよりほかに仕方ない始末となりました。もう夜になってきたので、僕は誰でもいい、今度ぶつかった人があったら、夜泊めてくれる所をきくか、道を訊ねよう、と決心したのでした。が、どうしても人に話しかけることができない。みんなは、僕がまるでただの空気ででもあるかのように、目の前を素通りして行ってしまうのです。終いには疲れたのと、絶望とで、今にも泣き出さんばかりになってしまいました。
するとそのとき、突然ある街角を曲がってゆくと、僕らのなつかしい昔の街が、ずっと目の前にのびているではありませんか。どこか造りものらしい所もあり、わざときれいに飾られたような所もあった。が、なんで今そんなことが気になりましょう。僕は夢中でそこへかけつけ、夢の中でとりとめない変形をしていたにもかかわらず、はっきり、一軒一軒、昔からなじみのなつかしい家だってあることを見つけたのです。終に僕の古めかしい先祖代々の家をも見つけることができました。それもまた他の家と同様、不自然に屋根が高かったような気がした。が、その他の点では昔とちっとも変わった所はない。嬉しさと興奮とが、まるで恐怖のように僕の背すじを走るのでした。
戸口に行ってみると、そこにヘンリエットという僕の初恋の女が立っているのです。いくらか彼女は背がすらりとして、丈高くなったように思われ、どこか昔とは違った様子もしていた。が、以前よりはもっとずっと美しくなっているのです。近よって行ってみると、驚いたことには、彼女の美しさはまるで奇蹟のような美しさで、本当に天使のような崇高な美しさなのです。さて、気がついてみると、彼女の髪は明るいブロンドになっていて、以前のヘンリエットのようにブリュネットではありません。しかし、まさしく彼女であることには間違いないのです。一層ただ清く美しくなった彼女ではあったけれど。
「ヘンリエット!」僕は呼びかけて、うやうやしく帽子をとりました。なぜなら、彼女はあまりにも綺麗な人になっているので、まだ僕のことを覚えていてくれるか、どうか、心配でたまらなかったからです。
彼女はくるりとこっちへ向き直って、僕の眼の中をじっと見つめました。しかし、こうして、じっと眼の中を見つめられてみると、はじめて僕はびっくりもし、恥ずかしい思いもしなければなりませんでした。というのは、彼女は、僕が話しかけようと思ったヘンリエットではなくて、実は僕の第二の恋人であるリザベートだったからです。しかも僕とは永い間の恋仲であった女《ひと》なのです。
「リザベート!」今度は僕はそう呼び直して、彼女の方に握手の手を差しのべました。
彼女はじっと僕の方を見返しました。が、それはまるで僕の心を貫くように鋭かった。まるで神がある人間を見|透《すか》されでもするときのように。それも決してきびしくとか、傲《おご》り高ぶって、とかいうのではないのです。むしろ実にただ静かに、澄んだ目付をしているのです。それは余りにも気高く精神的で、優越しているので、僕自身の方はまるで野良犬にでもなったかのような気がするのでした。彼女は僕をそうしてじっと見ているうちに、きびしく、また悲しそうな様子になって来ました。そして出すぎた厚かましい問いにでも答えるかのように頭をふりました。差し出した僕の手をとろうともせず。そのまま家の中に引っ込んで行って、静かに扉をひいて、うしろにその戸をぴったりと閉ざしてしまった。そのパチンとかかる鍵の音を、今もなお僕は耳の底に痛々しくきいているような気がするのです。
そこで僕も踵《くびす》をかえしてその場を立ち去るよりほかに仕方がありませんでした。涙に暮れ、悲しみに心もふたがれて、何を見ているかさえ確かではなかったのですが。それでもなおふしぎだと思ったのは、この町の様子がまたすっかり変わってしまったことなのです。というのは、全ての街、全ての家、あらゆるものの立たずまいが昔とちっとも違わなくなったのです。そしてさっきのふしぎな様子は跡方もなく消え去ってしまいました。破風はもうそれほど高く聳《そび》えてもいないし、古びたにぶ色になっていました。行き会う人達も本当に知った人達ばかりだったし、出会ったとき、僕だということがわかると、喜んだり、驚いたりしてくれました。また多くの人は僕の名前をさえ呼んでくれるのです。それなのに僕はその人達に返事一つすることもできず、また立ち止ることさえできないのです。いや、それどころか、僕は全力をあげて、橋を渡ってゆくあの馴染み深い道を、一気に郊外にまで走り出してしまったのです。ただそれら全てのことは堪えがたい心の悲しみから、泣き濡れた眼にぼんやりと映っただけなのです。なぜか、という理由は解りません。ただ故郷のあらゆるものが、もう僕には永久に失われてしまった、という気持がして、うちひしがれていたのです。そして夢中で侮蔑《ぶべつ》を負わされて、逃げ出して行かねばならないと。
さて、やっと町の郊外まで脱け出して、ポプラの樹の下まで落ちのびてきて、ほっと一息つこうと足をとめたとき、はじめて思い浮かべたのは、僕は故郷に帰り、僕の家の前まで行っていたということなのです。しかも僕は父や母や、兄弟や友人らや、全てそういう肉親らのことを、何一つ思い浮かべなかった、ということなのです。これまでかつて感じたことがなかったような混乱と悲しみと、恥じらいとを、僕は心の底に感ぜざるをえなかったのでした。と言って、僕は今どうして、もう一度とって返して、全ての償いをつけることができましょう。なぜなら、そのときもう夢はお終いになり、目が覚めてしまったからなのです」
*
クヌルプはまたこんなことも言った。
「全ての人間は、みなそれぞれ魂というものをもっています。これだけは決して他の人の魂と交ぜ合わせることはできないのです。二人の人間同士は、互いになつかしみ合い、互いに打ちとけて話し合い、添いとげ合うことだってできるでしょう。しかし、彼らの魂だけは、みなそれぞれ自分の場所にしっかり根を下ろして咲いた花のようなものです。決して一つの花が、他の花のところにより添って一緒になることはできるものではありません。もしそんなことをやろうとしたら、自分の根を置き去りにして来なければならないでしょう。そんなことはどうしたってできる相談じゃない。花は美しい香りを放ったり、花粉を送ったりするでしょう。というのはみんな互いに一緒に交りたいからなのです。しかし、その一粒の花粉をその求める場所に送ってやることは、花自身の方からは何一つ、どうすることもできないことなのです。全ては風のたよりに待つより他に仕方がないのです。ところが吹く風ばかりは気まぐれです。吹くかと思えば、やんでしまう。どんな風が、どこへ吹くやら。こいつばかりは、てんであてになりませんね」
しばらくしてクヌルプはまたこんなふうにも言った。
「僕がいま君に話した夢の話も、結局同じことを意味しているのですよ。僕はヘンリエットにも、リザベートにも、意識して、何一つ悪いことをした覚えはありません。しかし、僕が二人とも好きで恋をして、二人とも僕のものにしてしまおうと思ったりした。そういうことがあったために、この二人の女《ひと》は、僕にとって、ああいう夢の中の姿となって現われてきたのです。すなわち、二人の女《ひと》はほんとうにそっくりなほど似ているのです。けれども、その実、少しも似たところはないのですね。その人の姿はもちろん僕のものです。しかしそれはもう血の通う生きた姿ではなくなっているのですからね。ときどき僕は両親についても、これと同じようなことを考えなければならなかったのですよ。両親は、僕は彼らの子供で、僕も両親たちと同じものだと思っているでしょう。ところが、僕は両親を愛してはいますけれど、僕は両親らに対しては、やはり一個の未知の人間で、僕を理解するなんてことができるはずのものではないのです。そしてことに僕にとっては最も重大なこと、そして恐らく僕の魂であるものを、両親らはどうでもよいものだと考え、それは僕が若いからだとか、気まぐれからなのだ、とかいうことにして片づけてしまう。しかも両親は僕を愛していて、僕のためなら、どんなことでもやってくれるに違いないのです。父親は自分の子供に、鼻や、眼や、時には悟性すらも、遺産として贈ることはできるでしょう。しかし、魂だけは決して贈ってやることはできません。魂は全ての人に、新しく贈られるものなのだから」
僕はこういう説に対しては、何一つまだ物をいう資格をもつに到っていなかった。あの当時の僕はまだこのような考え方をしてみたことはなかったし、少なくとも自分の必要に迫られて、そういうふうな考えについて行ったことはなかったから。僕はこういう思弁の分析をききながら、ひどく心愉しかったのだ。というのは、それは何も僕の本心をゆるがすようなものではなかったからだ。それゆえ僕はクヌルプにとってもむしろそれは真摯《しんし》な人生の戦いであるよりは、思考の上の遊びなのだろうと勝手に推測していたからだった。それはとにかく、こうして二人きりで、乾いた草の中にねころんで、夜が次第に更け、眠くなるのを待ちながら、宵の星の輝いてくるのを見ているのは、何とも言えず静かで美しいことだった。
僕は言った。「クヌルプ、大変な思索家だね君は。大学の教授にでもなればよかったんだね」
彼は笑いながら、頭をふった。
「冗談じゃない。むしろ救世軍にでも、もう一度入った方が、僕にとってはうってつけだったろうよ」考え込みながら、彼はいうのだった。
この言葉は、僕にとってはあまりにも痛々しく聞えた。「ねえ君」と僕は言った、「僕にはそんな心にもないことを言ったりしないでいいんだよ! 君は本当は聖者にでもなろうと思っているんじゃないの?」
「もちろん、そうですよ。なれたら聖者にだってなりたいと思っていますよ。どんな人だって、みな本当は聖者なのだから。もしその人が自分の思想や行為を本当に真剣に実行していさえすれば。何か自分で正しいと思うことがあったら、どうにでもやり抜いて行かなければいけない。もし僕にとって救世軍に入ることが正しいことだと考えられたとすれば、できるなら僕はそれを実行するだけの勇気をもちたいと思いますね」
「また救世軍なんていう!」
「ああ、いくらでも言いますよ。なぜかっていう訳を、君に言っておこう。僕はこれまでどんなに多くの人達と話をし、どんなにたびたび講演だってきいたか知れやしない。僕は牧師や、学校の教師や、市長や、社会デモクラシー主義者や、自由主義者らの演説するのをきいた。ところが、一人として僕は心の底まで真剣で言っていると思うような人にぶつかったことがない。またいざとなった場合、自分の教えのために自分自身の生命を投げ出すことを惜しまぬと信頼できるような人は、一人だって見たことがないのです。ところが救世軍の人の中には、あの|じんた《ヽヽヽ》やら、どんちゃん騒ぎやらはやってはいるが、本当に真剣だと思われる人を見かけたことがあるし、その人のいうことをきいたことも三度か、四度はあるのです」
「どうしてそんなことが解るのさ?」
「見れば解るさ。例えばその中の一人なんか、ある村で説教をしていた。日曜日のことで、野外だし、塵埃は浴びるし、うだるようなひどい暑さだったし、たちまち先生、声が嗄《か》れてしまったのです。それでなくてさえこの人はあまり丈夫そうな体をしているようには見えなかったもの。もう声がかすれて一言も物が言えなくなってしまった。すると、三人の同僚に言いつけて讃美歌を一節歌わせ、その暇《ひま》に水を一口のんで喉をうるおすのだった。村中の半分も出てきたかと思う弥次馬が彼を取り巻いて見ていたが、子供たちやら、大人やら、みんな彼を阿呆もの扱いにし、評判はめちゃくちゃだった。うしろの方に、若い農夫が一人、調練用の笞《むち》を持って立っていた。が、その説教者をわざと怒らせようという下心で、ほどよい折りを見てはその笞を振ってパーンという物凄い音を立てる。そのたびごとに見物らは、どっという笑い声をあげて喜ぶ。ところがその気の毒な男は別に怒り出しもしない。決して彼は馬鹿どころじゃないのだろうが。そしてその頼りなげなかぼそい声を無理に張りあげて、ともかくも、この見世物の中で、勇敢に戦い抜こうとしていた。そして他の者だったら、がなり立てたり、呪誼《じゅそ》を浴びせたりするところを、この男は静かに微笑んでいるのです。ごらんなさい。こういう真似は単なる食いぶちのためや、なまなかの娯しみのためなどでできる仕事じゃないのだ。このような人間こそ内心に大きな光明と確信とをもっているに違いないのですよ」
「まあ、そうだ、ということにしておこう。だけれど、この一例をもってして、全てがそうだと決める訳には行かないよ。それに大体もし君のようにちゃんとした感受性の強い人間だったら、そういう馬鹿騒ぎに一役買うなどということはしなかったろうがね」
「いや、どうして。やったかも知れないよ。もしその人はそういう立派さだとか、感受性の強さなどいうものよりも、ずっとすぐれたものを知っていて、また心の中に抱いていたとしたら。もちろん、一つの例が万事に通じるという訳には行かないでしょう。しかしもし真理だったら、あらゆる場合にだって通じるだろうじゃありませんか」
「ああ、何が真理なものか! 第一あの『ハレルヤ』をお題目に唱えている連中が、真理を体現しているなんて、どうして解るのさ」
「それは解らないさ。君のいう通り。だから僕はただこう言っているだけなのですよ。もしあれが真理だということが解ったときには、僕は唯々《いい》としてそれにしたがって行こうと」
「そう、もし真理だっていうことが解った場合にはね! だけれど、君は、毎日別な真理の道をかつぎ出して、次の日になるともう絶対にそんなものを認めようとしないのだからね」
彼は困った顔をして、僕の方を見つめていた。
「ひどいことをいうね、君は」
僕は謝ろうと思ったが、彼は僕の言葉を遮ったまま、何も言わせようとしない。二人とも黙ってしまった。それからじき彼は低い声で「お寝み」をいうと、静かに横になったらしかった。しかし彼は本当に眠てしまったのだとはどうしても僕には思えなかった。僕の方もまだ目が冴えていて眠られず、それからまだたっぷり一時間余りというもの肘をついて横になったまま起きていた。そして夜の更けてゆくあたりの光景を眺めていたのだった。
*
次の朝、僕はすぐ、今日はクヌルプはご機嫌だな、と気が付いた。そのことを彼に言ってやると、彼はその子供っぽい目を輝かせて、僕を見ながら、こういうのだった。「正に図星だね。ところで、人間がそんなにご機嫌になれるっていうのは、どういう理由から来るのか、君には解るの?」
「解らないよ。どこから来るのさ?」
「それはね、先ず、夜はぐっすりよく眠れて、素晴しく美しい夢を見た、ってところから来るのさ。だけれど、なんの夢を見たかって、いうことは、知っていちゃいけないんだよ。今日の僕は正にそれなんだ。僕は実に華麗絢爛を極めたものと欲楽三昧とを、遺憾なく夢の中で味わいつくした。しかし、そのくせ何一つもう覚えてはいないのだ。僕が覚えているのは、ただそれが素晴しく美しかったっていうことだけなのですよ」
さて、僕達がすぐ隣りの村へ出かけ、そこで朝の牛乳を胃袋に注ぎ込む前に、彼はもうその暖か味のある、軽快な、のびのびした声を張りあげて、できたてほやほやという唄を、三つも四つも、清純な朝の大気の中へ歌いはなつのだった。その歌を書き写して、印刷にしてみたところで、大した意味のあるものではなかったろう。クヌルプは偉大な詩人ではなかった。とは言っても、やはり彼もまた群小詩人のはしくれではあったのだ。彼がそうして自ら歌っているのをきいていると、彼の創った詩は他の最も美しい詩にくらべても、その美しい姉妹であるかのように思われるのだった。僕が今でもまだおぼえているその詩の二、三の節や句は、本当に美しいものであったし、今でもまだ僕にとってはなつかしいものとなっている。その中の一つとして書き残されているものはない。が、彼の詩は、例えばそよそよと吹く春の風のように、なんのこだわりもなく、なんのわだかまりもなく、そこはかとなく訪れて来て、詩となって歌われ、またいつか消え去ってゆくようなものだった。しかしそれはただ僕や彼ばかりではない、他の多くの人達、子供たちや、老人たちに、どんなにたびたび美しく、なつかしい四半時くらいの時を与えてやったか知れないのだ。
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目もさめる祭日の晴れ衣《ぎ》きて
門の戸を出《い》ずる乙女のよう
けざやかに、またにおいほこらかに
樅《もみ》の森の梢の上に日はのぼりくる――
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これが、その日の朝、太陽を讃えてうたった彼の歌だった。およそ彼の詩には、いつもよく太陽が歌われ、讃めたたえる癖があったのだが。対話となるといつも七面倒な思索にからまってどうにもあがきがとれない彼が、詩を創るとなると、まるで軽快な夏の衣裳をつけた美しい女の子たちがかるくとび歩くように、奔放に無邪気に歌いあげるのは、おかしな話だった。時にはまた無意味で、滑稽で、ただそのときどきの慷慨《こうがい》の気をほとばしらせるにすぎないようなものもあったりしたが。
その日は僕もすっかり彼の気まぐれな気分に引っ張り込まれてしまっていたらしい。僕たちは、およそ道で行き会う人達なら、誰彼のけじめなく挨拶したり、からかったりした。そこで僕たちのゆくうしろから笑いを浴びせる者もあれば、悪罵を吐きかける者もいた。このようにして、その日一日はまるでお祭り騒ぎで陽気にすぎて行った。僕達は互いに学校時代のいたずらやら、冗談などを話し合い、通りすがりの百姓や、時には彼らの牽いてくる馬や牛にまで渾名《あだな》を進呈し、人目につかぬひとの畑の垣にかくれては、スグリの実をあきるまで盗んで食べた。そしてほとんど一時間ごとにあちらこちらで休んでは、体を休め、靴底をいたわるのだった。
クヌルプとつき合うようになってから、まだいくらにもなっていないが、こんなにやさしく、愛すべく、愉しいクヌルプを見たことは初めてだと言ってよい。僕は今日から本当にクヌルプとの共同生活や、遍歴の旅や、愉しい享楽が始まるのだろうと思って内心嬉しくて堪らなくなるのだった。
昼はむしむし暑かった。そこで僕達は歩くというよりも、むしろ草の中にねそべっている方が多いくらいだった。が、夕立が来る気配が濃くなり、すさまじい嵐の空模様になってきたので、今晩はどこか屋根の下で泊る所を探そう、ということに合議は一決したのだった。
ところがクヌルプはいつか口数が少なくなり、押しだまって、いくらか疲れが出てきたように見えた。が僕の方はほとんどそれに気付かないでいた。というのは、彼はあいかわらず心から愉快そうな調子を合わせて笑い声を立てていたし、僕の歌う唄に声を合わせて歌ったりしていたからだ。僕の方はいよいよ面白くてたまらなくなり、歓喜の焔《ほのお》があとからあとからと止め度なく燃えひろがってくるのだった。恐らくそれはクヌルプの場合は逆だったに違いない。彼の心の中ではもうあの祝祭的な青春の火は消えくすぶり始めているのだった。あのころの僕ときたら、いつもそうだったのだが、何か嬉しいことのあった日には夜になるにつれて、いよいようれしさがこみあげてきて、たまらなくなり、止め度がないのだ。いや、何か愉しいことでもあって興が乗ったとなると、僕は夜ひとりきりで家をとび出して、他の者らがもうとうに疲れて、寝てしまっているのに、いつまでも町の中をうろつきまわっていることも、しばしばだったのだ。
この「夜の歓喜の熱病」が、そのときもほとんど僕を襲ってきたところだった。そこで僕達が谷ぞいの道をとって、なかなか豪壮な村に行き着いたとき、これは愉快な晩になりそうだと思って、僕は嬉しくなってしまった。先ず僕達は道を外れて立っている出入りに容易な農家の納屋をみつけて、今夜のねぐらにしようと決めた。それから二人で村にくり込んで行って、とあるきれいなレストランの庭に入って行った。なぜなら僕は今日はクヌルプを僕の賓客として招待したところだったし、卵の料理と二三本のビールを奢ろうと思っていたからだった。今日は僕達にとって歓びの日であったから。
クヌルプはこの招待をよろこんで受け入れた。が、さて、僕達が美しいプラタナスの樹の下の、庭園風のテーブルに腰を据えたときになって、彼は半ば迷惑そうにいうのだった。
「ねえ、君。今日はあまり『底抜け』というやつは止めることにしようよ。ビール一本くらいならよろこんでおつき合いをするがね。――体にもいいし、愉快にもなれるし。――けれどそれ以上は今日はとてもつき合えそうにないんだ」
僕はそれもよかろうと思い、またこうも考えていた。どうせ僕らは飲み出したとなれば、多かれ、少なかれ、興のわくままに飲みぬくことになるんだからな、と。僕達は熱い卵料理に舌鼓をうち、それにうまそうな焼きたての褐色の裸麦のパンを食べた。何は措いても僕はたちまち二本目のビールをもって来させた。が、クヌルプの方はまだ一本目を半分も残していた。僕はこうしてまた贅沢に、上流の紳士然としてご馳走を前に坐っているのが、無性にうれしくてたまらず、今夜は少し、はめを外してやれ、とひそかに心に決めていたのだった。
クヌルプは一本空けた後では、どんなに僕がすすめてみても、どうしても二本目をとりよせようとしない。そしてこれから少し村の中をぶらついて、それから早目に寝ることにしようと提案するのだ。これでは全くはじめの約束と話が違う。しかし僕もむやみにまっ向から反対する気にもなれなかった。ところが、僕の瓶にはまだビールが残っているので、一足先に彼が出かけることにするということに対しては異議はないのだった。どうせ後でまた落ち合うことになるのだから。
そういう訳で彼は一足先に出かけて行った。僕は彼がいかにも品のよい、愉しそうな祭日らしく気取った足どりで、一輪のエゾギクを耳のうしろに伊達《だて》にはさみ、二三歩石段を降り、広い街に出、それからゆっくり村の方に向ってぶらぶら歩いてゆくのを見送っていた。もう一本僕と一緒にビールをつき合ってくれなかったことは、いかにも残念なことだった。が、彼のうしろ姿を見送っていると、やはりうれしく、なつかしい気がして、「ああ、可愛い奴が!」と思うのであった。
そのうちに、陽はもうとうに落ちていた。が、蒸し暑さはいよいよひどくなってきた。こういう蒸し暑い晩には、僕は落着いた気持で清涼な夜の酒をちびちびのむのが好きだった。そこで僕はせっかく坐ったテーブルだから、もう少しここに腰を据えて飲もうと決心したのだ。ところが客というのはほとんど僕一人きりだったので、女の給仕は僕を相手にむだ口をたたく暇がたっぷりあった訳だ。僕は女給さんに言いつけて、なお葉巻を二本とりよせた。その中の一本ははじめはクヌルプにとっておいてやる心算《つもり》でいた。が、後ではそのことを忘れて、自分ひとりでふかしてしまったのだが。
一度、一時間くらいたってからだろうか、クヌルプがまた現われてきて僕をそこから連れ出そうとした。が僕の方ではすっかりみこしを据えて飲んでいたところだったし、彼の方は疲れて、眠りたがっていたので、先ずクヌルプが先に寝場所《ねぐら》に行って、眠ったら、ということに話は決まった。そこで彼は一人で出かけて行ったのだ。が、給仕女はすぐに僕をつかまえて、彼のことを根ほり、葉ほり訊き出そうとするのだった。なぜならクヌルプはどんな女の子にもすぐ目につくたちだったから。僕も別に悪い気はしなかった。彼は僕の親友ではあるし、彼女は僕の恋人という訳でもないのだから。むしろ僕は彼のことを大いにほめ上げて吹聴したものだ。なぜなら僕は得意でいい気持だったし、みんなのためにもその方が良いと思ったからだ。
夜も更けて、やっと僕がそこから腰をもちあげた時には、ようやく雷が鳴り始め、プラタナスの樹が静かに騒ぎ始めていた。僕は勘定を済ませ、女の子に十ペニヒをチップに渡し、別に急ぐことはない、ゆっくりとねぐらに向って行った。歩いてみて、さすがにどうも一本だけ余計に飲みすぎたらしいことが解った。近ごろの僕は強い酒をのむ習慣からはしばらく遠ざかっていたのだから。それだけに僕は一層ご機嫌だった。飲むことにかけては僕もなかなかの強《したた》か者だったし、いい気持で僕は夜のやどりに来るまで、道々ずっと歌い通しに歌いながらやってきたのだ。
寝所へきて、僕は足音をしのばせて、こっそり上へあがって行った。みると、まさしくクヌルプはぐっすり寝込んでいた。様子をうかがうと、彼は褐色の上衣をひろげてその上にシャツの腕をまくしあげたまま横になり、規則正しい寝息を立てていた。彼の額と、むき出しになった首すじと、うんとばかり突き出した彼の一方の手とが、その鈍いうすくらやみの中で、仄《ほの》かに白く光っているのが見えた。
それから僕は服を着たままでそこへごろ寝をしてしまった。が興奮していたのと、頭がのぼせたのとで、眠ろうとして、なかなか寝つかれないのだ。そろそろ戸外が白らんで来るころになって、やっと僕は死んだように、深く、重苦しく眠込んで行った。それは前後不覚の深い眠りだった。が、あまり快い眠りだとは言えなかった。僕は胸苦しく、いささか酒に悪酔いしてしまっていて、訳のわからない苦しい夢にうなされつづけていた。
朝になって、目を醒《さま》したのは、もうよほどおそくなってからなのであろう。日も高々と上っていた。その明るい光は僕の目にしみて痛かった。頭の中は空虚で、どんより重苦しく、手足はだるかった。僕は長々とあくびをし、目を擦《こす》り、そして、うんとのびをして腕をのばすと、関節がぽきぽきと鳴った。参ってはいたが、僕はまだ昨日の大変なご機嫌の名残りと、余韻とがどこかに残っているのを感じていた。そこで僕は近くのきれいな流れにでも出かけて、この軽い二日酔いを洗い落として来ようなどと考えているのだった。
が、事実は意外なことになってきた。身の周りを見まわして見ると、クヌルプの姿がどこにも見当らない。僕は大声で叫んでみたり、合図の口笛を鳴らして彼を呼んだりした。しかも始めのうちは、まだ呑気に考えながら。が、いくら叫んでも、どんなに口笛を鳴らしても、どこを探してみても、無駄だということがわかったとき、突然彼は僕を置き去りにして行ってしまったのだ、という考えが浮かんできたのだった。そうだ、彼は行ってしまったのだ。こっそり、僕に知れないようにして行ってしまったのだ。これ以上、僕と一緒にいる気がしなくなったに違いない。ことによったら、昨日の僕の飲みっぷりに嫌気がさしたのかも知れない。いや、ことによったら、今日になって彼自身の昨日のふざけぶりが恥ずかしくなったのかも知れない。それとも、それは彼のほんのでき心からなのだろうか。いや、恐らく、僕と一緒に連れだって歩くことが、もう気にいらなくなったのだろう。それともまた、突然孤独でいたい、という願いが目覚めてきたのでもあろうか。いずれにしても僕が酒をのんだことが原因になっていることは間違いないように思われる。
これまでの歓びも酔いも、一時にふっとんでしまった味気ない気持だった。悔恨と悲しみとで、僕の心はもういっぱいだった。友達は今ごろはどこに、どうしていることだろうか? 僕は彼がああいう意見をのべてはいたけれど、心の中では彼の心をいささか理解もしているし、彼の心の中に深く立ち入ってもいる、と自惚《うぬぼ》れていたのだった。ところが事実、彼はもう行ってしまったのだった。僕はひとりぼっちで、うらぶれた気持で立ちつくしているばかりだった。そしてこうなったとはいえ、彼を責める理由もなく、ただ自分自身を責めるより他に仕方ないのだ。クヌルプの考えによると、全ての人はあの人間の寂蓼《せきりょう》の中に生きているのだという。そして僕はその淋しさを、決して心から信じたくない、と思ったのだが。いま僕はその淋しさを、自分自身の身の上に引きくらべて、しみじみと噛みしめてみなければならなくなったのだ。その寂蓼の味は苦かった。それは決してただその初めての日に、苦い味がしたばかりではない。その日以来、ときどきその淋しさは、いくぶん明るさをとり戻したことはあったかも知れない。が、あの日以来すっかり僕から離れて行った、ということは一度もないのである。
[#改ページ]
終焉
明るい十月の日のことであった。軽やかな、陽の光をいっぱいに吸った大気は、気まぐれに吹く気短かなそよ風のまにまに、揺れるともなく揺れ、野や畑からは、うすい、ためらいがちないくつもの筋をなして野を焼く秋の火の白っぽい青い煙が立ちのぼっていた。そして燃やされた雜草や緑の木の強く甘ったるい香りは、この明るい風景の中をいっぱいに充たしていた。村の庭々には、色もあざやかなエゾギクが真盛りであり、咲きおくれた、色あせた薔薇やダリヤなどが残り、垣の下にはもう弱々しく、白々と秋の日に輝いている雜草にまじって、火焔のような金蓮花がそこにも、ここにも火を点《とも》していた。
ブルラッハヘ行く街道を、ドクトル・マヒョルドの一頭立ての馬車がゆるゆると走っていた。道は山へかかってゆるやかな登りになり、左手には刈り込みの終わった畑があり、まだ収穫中の馬鈴薯畑になっていた。右手は息苦しいほど密生した若い細長いエゾマツの森で、びっしりと押し合った幹や、枯れた枝などが褐色の壁をつくり、枯れた針葉が厚く落ち敷いて地の色も見えないほど、どこもかも同じように乾からびた褐色になっていた。道は真っすぐにそのやさしい青い秋の空の中へ導いてゆくかと思われる。まるでそこがこの世界の限界であるかのように。
ドクトルは手綱をゆるくたるませて、その老いぼれた馬の歩むがままにまかせていた。彼はたった今、ある女の患者の臨終を看《み》とってきたところだった。彼女はもうどうにも助ける手がないところまで来ていた。が、なお執拗にその最後の瞬間まで、生命に執着して戦い抜いたのであった。そういう訳で彼もいま疲れ切っていた。この美しい秋の日のなかで、やっと静かに馬車を駆れるのを娯しんでいるのだった。
彼の頭の中はまるで居眠りでもしているかのように、うつらうつらしていて、軽くしびれたようにぼんやりと、野火の煙の中から漂って来る心を誘う呼びかけにさそわれてゆくのだった。そして、いつか愉しい、もうおぼろげにぼやけてしまった学校時代の秋祭りの日の思い出、それからもっと遡っては、余韻に充ちた、しかしはっきりとまだ物の形をなしていない幼年時代のかすかな追憶にまで引きずり込まれてゆくのだった。なぜなら彼も子供の時代を田舎で育ってきたのだったから。したがって彼の感覚はいつもそういう田舎の季節、季節のうつり変わりのできごとやら営みなどに、深く馴らされていて、それらをなつかしむことができるのだった。
彼はほとんど眠り込んでしまおうとしていた。そのとき、ふと馬車が止ったらしいので目が覚めたのだった。水を流している溝が道を横切って引かれている。前輪の一つがそれにはまり込んで止められてしまったのだった。馬はそれをいいことにして、うれしそうに立ち止ってしまい、頭を下げて、もう休むつもりになってしばらくの憩いをたのしんでいるのだ。
マヒョルドは突然馬車が停ってしまったので、急に我に返った。思わず手綱を引きしめ、ふと眠り込んでしまった不覚の二三分の後にも、森や空が以前とちっとも変わらずくっきりと明るい陽を浴びているのをみて微笑むのだった。それからいつもやる調子で舌を鳴らして馬を叱り、坂道を上らせて行った。それから彼は座席の上にしっかりと坐り直した。昼間うとうと眠るなどということは彼の性分としては好きな方ではなかったのだ。そこで葉巻を出して火を点けた。馬車はとろとろした足どりで先へ進んで行った。いっぱいに詰め込まれた馬鈴薯袋を並べた長い列のうしろから、日除けのついた帽子をかぶった百姓女が二人、畑の中に立って彼に向って挨拶していた。
もう丘の頂上はすぐ間近であった。馬はこれさえこせばすぐもう自分の村の丘陵の長い鞍部をずっとかけ降りてゆけるのだ、という期待に元気づけられて、頭をもたげるのだった。するとそのとき、もう間近に迫った陽に輝いている明るい山の背を、向うから一人の男が降りて来た。遍歴の旅人だ。輝やかしい空の蒼さにつつまれて、一瞬浮かび上ったように、背が高く見えた。が、丘を降りてくるにつれて、灰色に、小さくなってしまった。近づいて来るのを見ると痩せさらばえた男で、見すぼらしい服を着て小さな髭を生やしている。明らかにこの街道を通って故郷へ急いでいるものらしい。疲れ切って、苦しそうな様子だった。それでもなお丁寧に帽子をとって「今日は」と挨拶した。
「今日は」ドクトル・マヒョルドは挨拶を返した。が、もう行き違って行ったその未知の男の後ろ姿を見送っていた。すると突然彼は馬を引き止めて、立ち上りざまに、ぎしぎしいう革張りの馬車の幌《ほろ》ごしにふり返って喚《よ》んだ。
「おうい、君! ちょっとここまで戻って来てくれませんか!」
砂ぼこりにまみれたこの遍歴の旅人は立ち止ると、うしろをふり返った。弱々しそうに、口許にうす笑いを浮かべていたが、またうしろを向くと、そのまま先へ歩き出そうとするような恰好をした。しかし彼は思い直したらしく、おとなしく、引き返してきた。
男は背の低い馬車の傍に歩み寄ってきて、帽子を手にしながら立っていた。
「どこまで行こうというのです。もしお訊ねしてよろしければ?」マヒョルド医師は訊いた。
「この街道を、ベルヒトールドエッグまで|のそう《ヽヽヽ》っていうんです」
「どこかで僕らは会ったことがあるような気がするんですがね? 僕はただお名前をど忘れしちゃったんです。あなたの方は僕をご存知らしいが?」
「あなたは、マヒョルド先生らしく思われますが」
「ほら、見たまえ? ご存知だな。ところであなたの方はと? お名前は誰でしたっけね?」
「先生だって僕をご存知なはずですよ。僕らは学校のプロッヒェル先生のところで、机が隣り同士だったことがありますよ、先生。あのころあなたはラテン語の宿題をよく僕のところへ書き写しにやって来られたものだ」
マヒョルドは急いで馬車からとび出すと、その男の顔をじっとのぞき込んだ。それから彼は大声で笑い出しながら男の肩をたたいた。
「そのものずばり、だな!」彼は笑った、「君は高名かくれもないクヌルプ君さ。そして我々は学校友達じゃないか。それじゃ一つ握手をさせていただこう。こりゃ、なつかしい! たしかもう一昔《ひとむかし》もあれからお目にかかっていませんね。まだあいかわらず遍歴の旅の癖が忘れられないかね?」
「いや、病みつきですよ。昔身についた癖からはなかなか足が抜けないでね。年をとるにつれてなおさらですよ」
「いや、君のいう通りさ。ところで、今度の旅はどこまでゆくの? また一度故郷へ舞い戻りかね?」
「図星ですよ。ゲルベルスアウまで行く途中なんです。ちょっとあすこに片付けておきたい用事があるのでしてね」
「なるほど。なるほど。まだ君のご家族の誰かが、あすこに生きておられるのですか?」
「いいや、もう、誰もいません」
「君も、もう、そう若々しいとは見えないなあ、クヌルプ。争われないものだ。僕らもお互いにもう四十の声をきくものなあ。僕ら二人とも。だけれど君、あんなに知らん顔をして、僕の傍を通りすぎようとしたりなんかするのは、甚だもってけしからんよ。――いいかね。君は、一度医者に診てもらった方がよいのじゃないかと僕は思うが、どうだろう」
「ご冗談でしょ。僕にはどこも悪いところなんかありませんよ。またたとえどこかに悪いところがあったとしたって、それはどんな名医だって癒せるような代物じゃないんですよ」
「どうだかね。真偽のほどはあとでお目にかけるとして。まあ、ここへ一緒に乗りたまえ。そして僕のところへ行こうじゃないか。その方がゆっくり相談もできるし」
クヌルプは少し後退りし、帽子をまたかぶり直した。そして医者が彼を助けて馬車にのせてやろうとすると、彼は当惑そうな顔をしながら、逃げようとした。
「いや、ご相談のためなら、何もお宅まで伺わなくたって。ここで立ち話をしていれば馬はまさか逃げ出しもしますまいよ」
と言っているうちに、彼は咳《せき》の発作に襲われた。そんなことだろうと思っていた医者は、手早く彼をつかまえて、馬車の中へ引きずり込んでしまった。
「さあ、これでよし」また馬車を走らせながら医者は言った、「すぐもう峠の頂上だ。それから並足でかけさせると、半時間もたてば家に着いてしまう。だいぶ咳がひどいから、余り話をしない方がいいよ。家に着いてからゆっくりいくらでも話ができるから。――何?――いかんよ、それは。もうそれは思い切ってあきらめるんだな。病人はやはりベッドにおとなしくしていなくちゃいけない。街道をうろついたりしていては大変。解ったかね。昔は君がラテン語で、ずいぶん僕を助けてくれたから、今度は僕が君のお役に立つ番なのだよ」
二人は山の背を越え、ブレーキを軋ませながら長い尾根をだらだらと降りて行った。向うにはもうブルラッハの家の屋根が果樹の梢ごしに見えてきた。マヒョルドは手綱を引き締め、下りに注意している。クヌルプは疲れて、半ば気持よさそうに、馬車に揺られてゆく、そしてこの強引な歓待をうけることの愉しさに身を任せていた。明日は、いや、おそくとも明後日になったら、この筋骨がばらばらになってしまわぬ限り、どうでもまたゲルベルスアウに向ってぶらぶら出かけることにしなくては、と彼は考えていた。今の彼はもう、年や月日を遠慮なくむだ費いできるような血気の若者の身ではなかったのだ。今の彼はもう年老い、病いに悩んでいる一人の男にすぎず、せめて自分の終焉の前に、もう一目だけ故郷を見ておきたい、という以外にはなんの願いも持ってはいないのだった。
ブルラッハに着くと友人は先ずクヌルプを居間に迎え人れて、ミルクを飲ませ、ハム付きのパンをあてがった。そうして雜談し合っているうちに、次第にまた昔の親しさを取り戻して来るのだった。すっかりくつろいだところで、医師はようやくクヌルプに病状を訊ね始めた。それに対して病人は機嫌よく、しかしいくらか自分自身を嘲笑するかのように話してきかすのだった。
「君のどこが悪いかっていうことは、自分でも解っているんだろうね?」
診察が終ったとき、マヒョルドは訊いた。医者がそれを何気ない調子で少しも仰山な言い方をしないで言ったので、クヌルプはそれをありがたいことに思った。
「ええ、解っていますとも、マヒョルド。僕は肺が悪いのでしょう。もうあまり永くは保《も》たないだろうってことも、覚悟していますよ」
「いや、そんなことは解らないさ! しかしそこまで解っているなら、君はベッドに安静にして、看護を受けなければいけない身《からだ》だってことも解ってもらわなくては困る。しばらくはこの家に、僕のところに居たまえ。その間に近くの病院にベッドがとれるかどうか、当たって見ましょう。実際君のやることは狂気沙汰だよ。いいですか、しっかり気をもたなくちゃいけない。何とか、もう一度ここを切り抜ける工夫をやってみなくちゃ」
クヌルプはまた上衣を着た。彼はその痩せこけた蒼白い顔に、いたずらっ児みたいな表情を浮かべながら医者の方を向いて、機嫌よく言った。「いろいろご心配をかけて済みません。マヒョルド。では、お世話になるとしましょうか。しかし、もう僕にはあまり大した期待はかけないで下さいよ」
「まあ、何とか、やってみることにしましょう。今はせいぜい日光浴でもしていていただくことにするかな、庭に日が当たっている限りは。うちのリーナが君にお客用のベッドをつくってくれるでしょう。実際、君には目を離されんからね。大きな子供で。一生を日光と大気の中で過ごした君のような人間が、よりによってまた、肺を犯されるなんていうのは、よほどどうかしているんだよ」
そう言って、医師は部屋を出て行った。
家政婦のリーナは一向よろこばなかった。そして大体こういう浮浪者を客間に泊めてやるなどということに対して反対だった。が医師は彼女の言葉を遮って言った。
「まあ、勘弁して下さい、リーナ。どうせあの男はもう永いことはないのです。せめて僕のところで、いくらか親切にしてやろうじゃありませんか。あれで身なりだけはいつもさっぱりした恰好をしてる男だったんですがね。寝床にねかす前に、風呂に入れてきれいにしてやりますかね。僕の寝巻を一枚、出してやって下さい。それに僕の冬用のスリッパを。それから、これは忘れないでいていただきたい。あの男は僕の親しい友人だっていうことを」
*
クヌルプは十一時間ぶっとうしに眠りつづけて、靄《もや》のかかった次の朝を、まだベッドの中でうつらうつらしていた。そのうちにやっと次第に思い出してくるのであった。誰のところにねているのだったかしら、と。太陽が輝き出すようになってから、マヒョルドは彼に起き出すことを許した。
二人は食後の一杯の赤葡萄酒を引きつけながら、日の当たるバルコニーに坐っていた。クヌルプは良い食事と、半盃の葡萄酒とで、元気を同復し、口数多くなっていた。医師はわざわざ一時間だけ暇をつくって、このふしぎな学校友達と話をし、できるならこの非凡な人間の生涯について何か訊き出したいものだ、と思っていた。
「じゃ、君は、君のやってきた通りで、生涯満足だった、というのだね?」彼は微笑みながら言った。「それだったら、何もいうことはないのだよ。ただ、もし君が満足してなかった場合には、僕はやはり、君のような立派な人間としては、惜しむべき人生だった、と言いたかったのだ。いや、何も君に牧師になれとか、学校の先生になった方がよい、とか言っている訳じゃないのだ。しかし君は立派な自然科学者や、大詩人に、なろうと思えば、なれたのじゃなかったろうか。果たして君の天才を生かし、それを立派なものに磨きあげたか、どうかは、問題だろうと思う。しかし君は惜しむべき才能を、自分一人のために浪費してしまった、とは言えないだろうか? どうだろう?」
クヌルプはうすい口髯の生えた頤《あご》を、空《うつ》ろな掌《てのひら》に支えながら、葡萄酒の盃のうしろの、日の当たっているテーブル掛けの上に、ちらちら動いている紅い日光の反射を、じっと見つめていた。
「僕は自分を自分だけのために勝手にむだ遣いをしてしまった、というだけでもないと思うのですがね」と彼は静かに言った。「あなたが言われる僕の才能なんてものは、決してそんな大それたものじゃないのです。僕のできることといったら、せいぜい、いくらか、手のこんだ口笛を吹くとか、手風琴を鳴らすとか、時にはちょっとした詩の一つもつくるとか、いうぐらいのものにすぎません。これでも昔は、なかなかランニングの選手として鳴らしたものだし、ダンスだってうまかった。しかし、これが僕の才能の全てですよ。そして、もちろん僕自身でそれを愉しんだのはいうまでもありません。が、そういうときにも、多くの場合、誰か相手になってくれるものがいました。若い女の子なり、あるいは子供たちなり。そしてこの連中も一緒になって僕の才能を娯しんでくれたのです。時には僕にそれを感謝する者だっていたのです。それはそれで、いいではありませんか。それで満足させていただく訳には行きませんかね」
「よろしい」と医師は言った。「それはなかなか立派なことだ。ところでもう一つ、君に訊いておきたいことがあるのだ。あのとき君は僕と一緒にラテン語学校の第五学級まで行ったじゃないか。僕は今でもなおそのことははっきりと覚えている。そして君は決して模範生とは言えないまでも、なかなか立派な生徒だった。すると突然、君はどっかへ居なくなってしまった。なんでも君は国民学校に転校してしまった、という噂だった。あれから、僕たちは別れ別れになってしまったのだよ。僕はラテン語学校の生徒として、国民学校に行く生徒と友達つき合いをする訳には行かなかったからね。どうして、あんなことになったのだね? 後年、僕は君のことをきくたびに、いつもこう考えずにはいられなかった。もしあの時、君が僕らの学校にずっと一緒に留っていてくれたら、何もかも事情は変わっていたのじゃなかったか、って。ねえ、どうしてまたああいうことになったのです? 君の方で学校が嫌いにでもなったのかね? それとも君の親爺が学校の月謝を払ってくれない、というようなことにでもなったのかね。それとも何か他の理由でもあったのですか?」
患者はその日にやけた、痩せ細った手に葡萄酒の盃をとり上げた。が、飲み乾そうとするのでもなく、赤い葡萄の酒の光を通して、緑に映える庭の光を透かし見ていた。それから注意深くその盃をテーブルの上に置き直した。黙って彼は目を閉じたまま、深く考えに沈んでいる様子だった。
「その話をするのは厭なのかね?」友人は訊いた。「厭だったら無理に聞かないでもいいんだよ」
そういうとクヌルプは眼をあげ、長い間探るように彼の顔を見つめていた。
「いや、やはり」と彼はなおためらいながら言った、「話しておかなければならないことだと思います。というのは、僕はまだこの話を誰にも話したことがないのです。しかしもうこうなった以上は、誰かに打ち明けておいた方がよいのじゃないかと思う。なに、話せばほんの他愛ない子供の話でしてね。しかし、私にとっては重大なできことであり、永い間そのために悩まされてきたものなんです。ふしぎですね。しかし、あなたがその話を訊こうとされるなんて!」
「何がふしぎ?」
「このごろになってしきりにそのことが気になって仕方がなかったのです。そのために僕はまたゲルベルスアウまで出かけて見る気にさえなったんです」
「そうか。じゃ、話してごらん」
「ねえ、マヒョルド。僕らはあのころずいぶん仲よしの友達だったでしょう。少くとも、第三学級か、第四学級までは。その後は僕らは余り一緒になる機会がありませんでしたね。そしてあなたはたびたび僕の家の前で、無駄に口笛を鳴らして僕を呼んでいたっけ」
「驚いたね。なるほど、その通りだ! 僕はもうこの二十年来、そんなことは考えてみたこともなかったがね。何という図抜けた記憶をもっているのだろう、君は! さて、それから?」
「どうしてそうなったか、ということは今だからこそあなたにも話せるのです。実はみな女の子のせいだったのです。僕はかなり早熟で、女の子を好奇の眼をもって見るようになりました。あなたなんかがまだコウノトリだの、『子供の生れる泉』の話などを信じているころ、僕はもう男の子と女の子のからだがどんなふうにできているか、ということをかなり詳しく知っていたのです。あのころの僕にとっては、それはもう大変な重大事件だったのですからね。だから君たちの『インディアンごっこ』のときでも、いつも仲間外れになっていたというのは、そんな訳からだったのです」
「あのとき、たしか君は十二歳ぐらいじゃなかったな?」
「いや、ほとんど十三歳になっていました。僕はあなたよりも一つだけ年上ですから。一度僕が病気をして、ベッドに寝ていたとき、ある親戚の女の子がお客になって泊りに来ていたことがあります。その子は僕よりも三つか、四つ年上でした。そしてこの子がいつか僕と一緒に遊ぶようになったのです。病気が治って、ベッドを離れてからですが、僕はある夜、彼女の部屋にしのんで行きました。そのとき、僕は女の体《からだ》がどんなふうになっているのか、すっかり知ってしまったのです。僕はもうたまげるほどびっくりしてしまって、ほうほうの体《てい》で逃げ出して来ました。その親戚の女の子とはそれ以来一言も口を利かなくなってしまいました。見るのさえ、いやだったのです。そのうえ彼女を見ると心配でたまらなくなりました。しかし、あのことだけは頭の底にどうにもこびりついてしまったのです。そのとき以来、僕はもうしばらくというもの、女の子の後ばかり追いかけていました。あの皮なめし工のハージスのところに、僕と同年配の女の子が二人いました。そこへはまたその近所の他の女の子も遊びに来るのです。そして僕らはみんなで暗い屋根裏の物置で『かくれん坊』をしたりして遊んでいました。が、いつもきまってくすくす内緒笑いをしたり、くすぐり合ったり、いろんな『秘密ごっこ』ばかりしていたのです。大抵はこの女の子の仲間になって遊ぶ男の子といえば、僕ひとりだけでした。だから自然いつも女の子の「お下げ」を結ってやったり、他の女の子が僕に接吻したり、するようなことになってしまったのですね。僕らはお互いにまだ大人になり切っていませんでした。だから本当の深いところまでわかるはずもなかったのです。が、それでもやはり心から好きになったり、恋のようなものを感じていたりしたのです。水浴びに行ったりするときは、僕は茂みの中にかくれて女の子のからだをぬすみ見ていました。――そこへある日、他の女の子が現われて来ました。郊外から遊びにやってくる子だったのですが、何でも親爺《おやじ》は縫い物の職人だと言っていました。彼女はフランチスカという名前でした。僕は一目みたときから、もうその女の子がすっかり好きになってしまったのです」
医師はそのとき言葉をさしはさんだ。「その女の子の親爺の名前はなんていうのかね? ことによったら僕も知っているかも知れない」
「それだけは勘弁して下さい。あなたにはそのことは言わない方がいいと思っています、マヒョルド。それはこの話に関係のないことですからね。彼女について、そういうことを他の人に洩らすこともよくないことですから。――さて、話に戻りましょう! 彼女は僕よりも背も大きければ身体も強かった。僕らは一緒にあっちこっちで、よく喧嘩し合ったり、つかみ合いをやったりしたものです。そういうとき、僕は苦しくなるくらい、ぎゅっと彼女に抱きしめられてしまうことがありました。抱きしめられると、僕は何だか頭の中がくらくら目まいがするようで、まるで陶醉でもしたかのように、なんとも言えず、いい気持になるのです。この女《こ》に、僕は惚れてしまったのです。その女《こ》は二つ僕より年上だったし、今にもすぐ恋人をもちたいようなことを言ってきかせるのです。だから、何とかして彼女の恋人になりたいと思うようになりました。これがあのころの僕の唯一の願いだったのです。――ある日のこと、彼女はたったひとりきりで、川沿いの皮なめし工の庭にうずくまって、足を水の中にひたしていました。水浴びをしたばかりのところで、ほんの下着だけの裸なのです。そこへ僕が近寄って行って、彼女のそばに腰を下しました。すると僕は急に勇気が出て、彼女にこう言いました。「僕はあなたの恋人になりたい。どうしても恋人になるんだから」って。すると、彼女はその鳶《とび》色の眼で気の毒そうに、僕をじっと見て、こういうのです。「お前なんか、まだちっぽけな子供で半ズボンをはいているじゃないの。生意気に恋人だとか、恋だとか言って、何を知ってんのさ?」「知ってるとも」と僕は言いました。「何もかも、みんな知っているよ。そしてもし、お前が僕の恋人になってくれなければ、僕はお前を水の中へ投げ込んで、僕も一緒にとび込んで死ぬから」と。すると彼女は僕をためすような目付で、しげしげと見つめるのです。その目付はもう成熟し切った女の目付でした。そしてこういうのです。「じゃ、ためしてあげるわ。例えばあなたは接吻だってできる?」僕は「できるさ」と言って、急いで彼女の唇に接吻しました。そして、これでもう立派に及第した心算《つもり》で得意でした。すると彼女はいきなり僕の顔を両手でつかんで、しっかり引きつけると、まるで大人《おとな》の女のするように、本気で接吻するのです。それで僕は耳も聞えなくなってしまうし、目もくらんでしまいました。すると彼女はその低い男のような声で笑って、こういうのです。「あんた、恋人にしてあげてもいいわよ。だけど、やはり駄目なのよ。だってラテン語学校に行っている恋人なんて、しようがないもの。それじゃ、本当の恋人同士になれないんですもの。私は本当に男らしい人を恋人にほしいのよ。例えば、職人とか、労働者とか、そういう人をさ。学問をする人なんか、おかしくって。だから駄目。お断りよ」ところが、そう言いながら彼女は僕を両膝の間にはさんで引きつけるのです。そうして、彼女を腕に抱擁してみると、その締めつける暖か味がなんとも言えず、美味で気持がいいので、彼女から自分をもぎ離すなんていうことが、とても考えられることでなくなってしまいました。そこで僕はフランチスカに、もう決してラテン語学校なんかには行かない。そして職人になるから、と約束しました。フランチスカは僕を嘲笑しました。が、言い出した以上、僕も利かぬ気だ。とうとう彼女は僕をもう一度接吻して、それから約束してくれたのです。もし僕がラテン語学校の生徒であることを止めたら、僕の恋人になってあげるし、どんなにでもして可愛がってあげるからって」
クヌルプは話を止めて、しばらくのあいだ咳きこんだ。友人は心配そうにその様子を見守っていた。こうして二人はしばらくだまったままで坐っていた。すると、やがてクヌルプはまた話し始めるのだった。
「さて、話というのは、実は、こういう訳だったのです。しかし、事実は僕が考えていたほど、簡単には行かなかったのです。僕は親爺に、もうどうしてもラテン語学校に行くのは厭だ。どうしたって行かないから、と言ったら、親爺から|びんた《ヽヽヽ》を二つ三つもらいました。しばらくのあいだ僕はどうしたものかと途方に暮れていました。学校に放火して、焼いてしまおうか、とさえ決心したことも一度や二度ではないのです。これはまあ途方もない子供の無分別ですが、その肝心《かんじん》の問題については、僕は本当に試験にそう思っていたのです。が、とうとう僕は唯一の逃げ路を思いつくことができました。つまりできるだけ学校をずるけることだ、と思ったんです。そのことはもう憶えておいでにならないでしょうか?」
「ほんとに。そう言えば、僕もやっと思い出しましたよ。君はあのころしばらくというもの、毎日のように罰で学校に残されていたね」
「そうなんです。僕は授業時間をずらかったり、わざと間違った返答をしたりした。宿題はやって来ないし、学校のノートは失くしてしまうし。何かへまをやらかさぬ日といったらなかったんですからね。終いには怠けることが面白くなってきて、とにかく、あのころは先生達に散々迷惑をかけたものでした。ラテン語とか学校の成績とか、そんなものは僕にとってはもうどうでもいいものになってしまったのです。僕はいつも物を嗅ぎつける抜け目のない鼻をもっていたことはあなたもご存知でしょう。そして、一旦何か目新らしいことを嗅ぎつけたとなると、しばらくの間はもう、世界中にそのことだけしかないくらい、夢中になってしまうのです。例えば運動だってそうだったし、それから鱒釣りもそうだった。また植物学でもそうだったんです。ほとんど同じように、あのころは女の子に僕は夢中だったんです。いずれにしても、まあいい加減やってみたあげく、正気に返るか、身に沁みて懲りるか、するまでは、それよりほかに何一つ手につかぬという始末なのです。実際、ばかげた話ですよ。学校の机にかじりついて、ラテン語の動詞の変化を練習しなけりゃならない生徒の分際で、その実こっそりと昨日の晩、女の子の水浴びするのを盗み見してきたことを考えて、気も心もまるで上気したようになっていたのですからね。――まあ、それはとにかく! 教師らも僕のそういう事情をかぎつけたらしいのですね。大体教師たちは僕に好意をもっていてくれたものですから、できるだけまあ大目に見ることにしていてくれたらしいのです。これでは僕のせっかくの計画もまんまと裏をかかれることになってしまったかも知れません。ところが僕はその上にフランチスカの弟とつき合い始めることになりました。国民学校の一番上の級に行っている子で悪い奴でした。僕はまあ、あらゆることを教わったものです。が、何一つろくなことは覚えはしません。その上ずいぶんひどい目にも会わされました。こんなふうで半年ほどかかった上、やっと僕は始めの目的を貫徹することができました。僕は親爺には死ぬほど殴られました。が、そのおかげであの学校から退校でき、フランチスカの弟と同じ国民学校の教室に坐ることができたのです」
「そこで彼女は? 女の子はどうなったんです?」マヒョルドは訊いた。
「いや、それがえらい失敗だったのです。約束だったのに僕の恋人になってくれないのですよ。彼女の弟と一緒に学校から帰ってくるようになってから、僕に対する彼女の仕うちといったら、前よりもずっとひどいものになりました。まるで僕が以前よりはずっと見下げはてたものにでもなったかのように。そして国民学校に入ってから二カ月もたって、夜こっそり家から脱け出すこつを覚えるようになってから、やっとことの真相をつかむことができました。ある夜、晩くなってから僕はリーダーの森をうろついていたことがあります。これまでもたびたびやったことなのだけれど、ベンチにいる恋人同士のすることをぬすみ見てやろうと思ったのです。結局もっと近くへしのんで行ってみると、それはフランチスカと機械工の徒弟の一人なのです。二人は全然僕の来たことなぞ感づきません。男の方はフランチスカの首を抱き、片手には巻き煙草をつまんでいました。そして彼女のブラウスははだけたままになっている。――つまりありていに言えば、実にひどい恰好だったのです。こういう訳で、何もかも、おじゃんになってしまった、という訳なのです」
マヒョルドは友人の肩をたたいてなぐさめようとした。「いや、それがかえって君にとって、一番よいことだったかも知れないじゃないか」
が、クヌルプはその痩せた顔を激しく横にふった。
「いや、違う。全然それは違います。僕は今だってなお僕の右手をそのためにならくれてやったっていいと思っています。もし、あのときあの事実が、逆になってくれたのだったら。まあ、フランチスカについては何も言わないでおいて下さい。僕はあの女を責めることは何もないと思っています。もしあのときのことさえうまく行っていたなら、僕はどんなに美しい、幸福な恋愛を知るようになれたか知れません。そして恐らく、その幸福が身の助けとなって、国民学校のことにしろ、父とのことにしろ、うまくすらすらと折り合うようになったのじゃなかったか、とも思ってます。なぜなら、――どう言ったら、いいのか?――そうです。あれから僕はどんなに大勢の友人や、知人や、仲間や、また恋人だってできたか知れません。しかし、そのとき以来、僕はもう決して一人の人間の言葉を信じたり、また自分自身をある約束によって束縛するなどということはできなくなってしまいました。ああ、永久にできなくなってしまったのです。僕は、自分自身にとってふさわしい生涯を送ったと思っています。またそれは私なりに、自由で、美しいできことだって、なかったとは言えません。しかし、僕はいつもそれからはひとりぽっちでいなければなりませんでした」
彼は盃をつかんだ。そして最後にわずかばかり残った酒を静かにのみほすと、立ち上った。
「もし許して下さるなら、少し横にさせていただけませんか。もう二度とこの話にふれたくはありません。あなただってまだこれからお仕事がおありでしょうし」
医師はうなずいた。
「もう一つ言っておきたいことがあります! 僕は今日病院に君のベッドをとるよう、手紙を書くつもりです。病院なんて、実際君にとって、お気の毒なところだとは思っています。しかし、どうも今度だけは他に仕方がありませんからね。一刻も早く療養するようにしなかったら、君の体が参ってしまう」
「何を、馬鹿な」クヌルプはいつにない激しさをもって叫んだ、「それなら、それでよろしい。僕が死ぬまでほっておいて下さいよ! そんなことをしたって、どうせもうなんの役にも立ちはしない。そんなことはあなた自身がご存知なはずだ。それを、今になってからこの上に、なんで病院なぞに閉じこめられるような目に会わねばならんのです?」
「そんなふうに考えては困るよ、クヌルプ。まあ、考えて見てごらん! そんな体で君を街頭にほったらかしておかねばならんようだったら、僕は医師として、何というみじめな存在になるだろう! オーバーシュテッテンの病院に行けば大丈夫、君のベッドを見つけることができると思う。僕は特に君のために手紙を書いてつけてあげますから。そして一週間たったら、僕自身で出かけて行って、一つ君の容態を拝見することにしよう。必ずそれはお約束しましょう」
放浪者はまた自分の椅子に崩れるように体を沈めてしまった。それから今にも泣き出さんばかりの様子に見えた。そしてやせ細った両手を、まるで寒さに凍えた人でもあるかのように、しきりにもんでいた。それから彼は切ない嘆願でもするときのように、子供っぽい目をして、医師の顔をじっと見つめるのだった。
「では、仕方がない。よろしくお願いしますか」彼はほとんどききとれないような低い声でつぶやいた。「何と言ったらよいか、ほんとに申し訳がありません。こんなにまで僕のために、いろいろ親切にして下さって。こんな赤葡萄酒までおもてなしにあずかって。――何もかもあまりに結構づくめで、ありがたいことばかりで、僕なんかにはもったいないくらいなんです。しかし、どうか怒ったりなぞなさらないで下さいよ。実は僕あなたに、もう一つ、大きなお願いがあるのですが」
マヒョルドは慰めるように彼の肩をたたいてやった。
「しっかりしなさい君! 誰も君の首を締めようなんて言っているのじゃないんだから。何です、君の願いというのは?」
「僕に腹を立てているんじゃないでしょうね?」
「何で君に腹なんか立てるものか。また腹を立てる理由もないしね?」
「それじゃ、僕のお願いを言わせてもらいます、マヒョルド。どうぞ、僕の勝手な願いを、きき入れて下さいよ。僕を、どうか、オーバーシュテッテンに送らないで下さい! どうしてもそういう病院に入らなくてはいけない、というなら、せめてゲルベルスアウにやって下さい。あすこなら、僕を知っている者もいるし、あすこは僕の生まれ故郷でもあります。貧民施療の手つづきにしたって、あすこの方が都合がよいでしょう。僕はあすこで生まれた者なんですからね。それに、――」
彼の眼は熱烈に物を乞う人のように、憐れっぽかった。興奮のあまり、ほとんど言いたいことも喉につまって、言えなかった。
熱があるんだな、とマヒョルドは考えた。そこで彼は静かに言いきかせた。
「何だ、君の大変なお願いというのが、そんなことだったのか。――それならご希望通りにしてあげるのに、なんの雜作もありませんよ。なるほど、君の言われる通りだ。では僕の方からゲルベルスアウへ手紙を書いてあげよう。だから、まあ今のところは部屋へ戻って、おとなしく寝ていて下さい。君は疲れたんだし、それに少々話をしすぎたしね」
よろめくようにして家の中へ消えてゆくクヌルプの後ろ姿を、医師は見送っていた。すると、彼は「鱒|漁《と》り」のやり方を彼から教わったあの夏のことをふと思い出すのであった。同僚たちをあごで指揮している彼の利口そうな、颯爽たる態度。純潔な美しい十二歳の少年の紅顔のほてりを。
「可哀想な奴だ」と彼は思わず感動してそう考えたが、何かじーんと熱いものがこみあげて来るのだった。それから思い出したように、急いで立ち上ると、仕事にかかるために出ていった。
*
次の日の朝は深い霧だった。クヌルプは一日中ベッドの中に横になっていた。医師は二三冊の書物をもっていってやった。が、彼はほとんどそれに手をふれようともしなかった。彼は憂鬱で、打ちひしがれたように物悲しかったのだ。というのは、こうして行き届いた扱いや、看護をされ、贅沢なベッドにねかされ柔らかい食事などをあてがわれてみると、いよいよ自分の死期も近づいたのだなということが、以前よりもはっきり身に沁みて感じられるからだった。
もうしばらく、こんなことをして寝ていたら、もう二度と起き上ることなんかできないようになってしまう、と考えると彼はいたたまれない気持にかられるのだった。もう人生などには大して未練もなく、近来、街道筋にも、めっきり魅力を失ってしまった彼だった。しかし彼はもう一度ゲルベルスアウを訪れ、いろいろ人知れぬ別れを故郷に告げるまでは、どうしても死にたくない、と思うのだった。あの川にも、橋にも市場のある広場にも。以前父のものであった庭にも。さてはまたあのフランチスカにも。その後の彼のいくつもの恋は忘れられてしまっていた。――彼の永い永い年月にわたるいくつものさすらいの旅も、今はもうつまらぬ取るに足らぬものになったと思われるのと同様に。それに反して少年のころのあの神秘に充ちた時代は、さらに新しい輝きと、魅力とをもって訪れて来るように思われるのだった。
物珍らし気に彼はこの簡素な医者の客間をしげしげと見まわしてみた。もう永い年月、彼はこんな立派な部屋に寝たことがないのだった。商売人じみた目付をしたり、指でそっとふれてみたりして、彼はベッドの敷布の織り目や、やわらかい無地の毛布、目の細かい枕カバーなどを調べてみた。また堅い木質で張った床も彼の興味をひいた。それから壁にかかっている写真など。それはヴェネチアの総督官邸を撮ったもので、ガラス製のモザイクの額縁がはまっていた。
それから彼は永い間、眼を開けたまま寝ていた。何一つ見ようとする元気もなく、疲れ切って。ただ静かに病み果てた体の中に蝕《むし》ばんでゆくものととり組みながら。すると突然、彼はむっくりベッドに起き上ると、あわててベッドから体を曲げるようにのり出させ、ひったくるような手つきで自分の長靴をひき寄せた。そして、その長靴をすみからすみまで専門家じみた目付で調べ始めるのだった。もう長靴もさすがにくたびれたものになっていた。しかしまだ十月だ。初雪が降ってくるころまではなんとか持ち堪えられるだろう。さて、それから後はもう、何もかもおしまいだ。が、マヒョルドに頼んではき古しの靴を二三足もらえたら、という考えがふと浮かんできた。いや、それは駄目だ。それはマヒョルドをいよいよ怪しませるに役立つだけだ。病院に入るのに、靴など要るはずがないではないか。注意深く彼は上皮の破れた箇所を手で撫でさすっていた。よくこれに脂さえ塗っておけば、少くともまだ一月ぐらいは保《も》つだろう。なに、心配することはない。ことによったら、この一足の古びたぼろ靴の方が長生きで、まだまだ役に立ちそうだ。たとえ彼自身の方がが参ってしまって街道から姿を消すようなことになったところで。
彼は長靴を下へ落とすと、深く息を吸ってみようと試みた。すると、とたんに彼は胸が苦しくなり、咳こんでしまった。そこで彼はじっと寝たまま、落ちつくのを待っていた。忙《せわ》しなく短い息をして喘《あえ》いでいたが、次第に不安はつのって来るのだった。自分の最後の願いを果たさないうちに、もう取り返しのつかぬことになってしまうのではあるまいか。彼はこれまでもたびたびそうだったように、死について考えてみようと思った。しかし、そうしているうちに頭が疲れてきて、うつらうつらと仮睡の中に落ちて行った。一時間ほどたって目がさめたとき、彼は一日中眠ていたのではないかと思い、すっかり元気になり、気持も落ちついてきた。彼はマヒョルドのことを考えた。そしてここから逃げ出すなら、何か感謝のしるしを残して行かなければいけない、と思いつくのだった。自分の詩の一篇でも、書き残しておきたいと思った。なぜなら、昨日医師は詩のことを訊いていたからである。しかし、彼はどれといって完全に思い出せるものは何一つなかったし、どれもこれも気にいらぬものばかりだった。窓から見ていると、近くの森に霧がかかっている。それをいつまでもじっと見つめているうちに、ふとある詩想が浮かび上ってきた。昨日家の中で見つけて、ふところにしのばせておいた鉛筆の切れっ端《ぱし》をとり出すと、ベッドわきの小机の抽斗《ひきだし》につまっていたきれいな白い紙をひき出して二三行の詩を書きつけて行った。
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狹霧《さぎり》ふれば
野の花はみな
凋《し》お枯るる
人もまた
秋くれば、みまかりて
奥つきの中に葬《ほうむ》る
人の児もまた花なれば
やよい春、訪《と》いくれば
また咲き出でんもの
咲くときは美しさまさりて
罪汚れ、あとをとどめじ
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彼は書く手を止めて、書いたものをよみ返してみた。本当の詩にはなっていないし、韻も欠けていた。それでも彼が言いたかったことは、何とか言い表わされているような気がした。そこで、彼は鉛筆を唇でなめると、その詩の下に、次のように書き記した。「謹んで、ドクトル・マヒョルド先生に贈る。感謝にたえぬ一人の友、Kより」
それから彼はその紙片を小さな抽斗の中へしまった。
次の日、霧はなお一層深くなっていた。しかし大気は、きびしく、寒かったので、昼ごろになったら陽が出るだろうと思われた。医師はクヌルプがあまり懸命に願うので、仕方なしにベッドから起きることを許してやった。それから、ゲルベルスアウの病院に彼のベッドがとれたこと、病院では彼を待っていることを話した。
「では昼食が済んだら、早速足に物を言わせて、そこまで出かけることにしましょう」とクヌルプはいった、「なに、せいぜい、四時間くらいで歩けますよ。それとも五時間くらいかかるかな」
「歩いてゆくなんて、もってのほかだ!」マヒョルドは笑った。「もう、君の今の体《からだ》じゃ、徒歩旅行なんて無理をしちゃいけない。もし他に馬車の便がなかったら、僕が馬車で君を送って行ってあげる。まあ、村長のところへ一つ使いをやってみましょう。ことによったら、果物とか、馬鈴薯なんかを積んで町へ出かけてゆく便があるかも知れない。どうせ、もう一日や二日を争う問題でもないのだからね」
客もその言葉に従うことになった。そして明日は村長の下男が子牛を二頭引いてゲルベルスアウへ馬車を出すことがわかると、クヌルプもその男と一緒にゆくということに手はずは決まった。
「もう少し暖かい上衣を着る方がいいんだがな」とマヒョルドは言った、「君には僕の上衣は着られないかな? それとも少しだぶつくかな?」
クヌルプも今度は辞退しなかった。上着がもってこられた。着てみると、しっくりとよく似合った。クヌルプは、上着は地《じ》もいいものだし、よく保存されていたものであるのを見てとると、あいかわらず子供っぽい虚栄心を出して、たちまちボタンのつけ換えを始めるのだった。医者は愉しそうに、その様子を見守っていた。が、上着の他になおカラーも一つ贈呈した。
その午後、クヌルプは誰にも知れぬようにこっそり彼の新しい服を着てみて、ためつすがめつした。さて、これで、彼もいささか以前の面影をとり戻して、まんざらでもない男ぶりであることがわかった。こうなってくると、近ごろだいぶ久しい間、剃刀を当てたことがないのが、気になって仕方がない。といって、家政婦に頼んで医師《ドクトール》の使う剃刀道具を借りるのも気がひける。しかし彼はこの村の鍛冶屋の親爺を知っていたので、そこへ出かけて行って借りてみようと思った。
鍛冶屋の家を見つけ出すのは、なんの雜作もなかった。彼はずっと仕事場の中へ入って行って、古風な徒弟仲間の仁義を切った。「よそもんの鍛冶でござんすが、仕事を助けさせておくんなさい」
親方は彼を冷淡に、じろじろと探るような目付で見ていた。
「お前は鍛冶のもんじゃあるまいよ」彼はそっけなく言った、「俺の目にゃ、狂いはないからな」
「図星だな」この浮浪者は笑った。「あいかわらず、目が高いな、親方。そのくせこの僕が誰だかってことがお解りにならないのかね。よくごろうじろ。僕は昔はこれで音楽師だったのさ。そしてあなたはハイターバッハで、僕の手風琴に合わせて、土曜日の晩というと、さんざっぱら踊ってたものさ」
鍛冶屋は眉をひそめ、なお二三度|鑢《やすり》を使う手を休めなかったが、やがてクヌルプを明るいところへ引っ張ってゆくと、念を入れて彼を見直した。
「いや、やっと解ったよ」彼は短い笑い声を立てた、「お前は、クヌルプじゃないか。こんなに永い間会わずにいれば、老《ふ》けるのも無理はない。ところでブルラッハにゃ、今度はなんの用でご入来かね? 十銭玉とか、林檎酒《モスト》の一盃ぐらいなら、いつでもことは欠かさないぜ」
「ご好意ありがたう。お爺《と》っさん。それはお言葉だけで結構。しかし、今日は他のお願いがあるんですよ。どうでしょう、君の剃刀を十五分ばかり貸していただけませんかね。今晩実は、ダンスに出かけようと思っているんでね」
親方は彼を脅すように人差し指をあげた。
「ほらを吹くのも、休み休みにしなよ。どうやら、お前の様子じゃ、ダンスに行くっていう恰好じゃないな」
クヌルプはうれしがって、くすくす笑った。
「いやに目が利くじゃないか。警察の旦那にならなかったのは、あったらもんだな。お言葉通り、実は明日病院に入るところなのでね。マヒョルド先生が入らなければいかんていうもんだからね。そこで君も解ってくれるだろう。まるで毛長熊よろしくの恰好で病院に乗り込むのも、気が利かないしね。剃刀を貸して下さいよ。三十分もたてばお返しするから」
「本当かね? 剃刀をもって、どこへずらかろうってんだ?」
「向うのお医者のところだよ。あすこで厄介になっているんでね。ねえ、貸してくれるんだろうな?」
この話は鍛冶屋には、どうも眉つばものだと思われた。彼はまだ信用しなかった。
「そりゃ、貸してはやるがね。しかし、いいかい。こりゃ、あたりまえの剃刀とは|もの《ヽヽ》が違うんだ。ゾリンゲンの本場もの、しかも中凹みの剃刀だからな。渡したきり返って来ないじゃ、困るんだよ」
「絶対に保証するよ」
「じゃ、まあ貸すがね。お前、上等な上着を着てるじゃないか。髯を剃るにゃ、そいつに用はなかろう。物は相談だ。一つ、そいつを脱いで、おいて行ってもらおうか。もしお前が剃刀を返しにきたら、その上着を返してやらあ」
放浪者は顔をしかめた。
「じゃそういうことにしようか。あまりお前も柄《がら》がいい方でもないな、お爺《と》っさん。しかし、まあお前がそういうなら、それでもいいよ」
そこで鍛冶屋は剃刀をもってきた。クヌルプはそのかたに上着を脱いだ。が、煤だらけな鍛冶屋の手に上着を触らせるようなことはさせなかった。それから半時間もするとクヌルプは剃刀を返しにきた。もじゃもじゃした頤《あご》鬚がすっかりきれいにとれて、見違えるような男になっていた。
「それで耳のうしろに伊達に石竹《せきちく》の花でもさせば、女の子がだまって、ほっておかないぜ」鍛冶屋はクヌルプの男ぶりに感心した。
しかし、クヌルプの方はもう冗談なんか言い合う気持にはならなかった。上着を着込むと、ぽっつりと礼を言って店をとび出してしまった。
帰る途中、家の前まで来ると、医者にぶつかった。医者はびっくりして彼を引き止めた。
「どこをいったいほっつき歩いているんだ君は? はてな。君の人相が変わったぞ。――なるほど、鬚を剃ったのだな! どうも。あいかわらずのおめかし屋さんだな!」
がそれは医師の気に人った。クヌルプはその晩もまた赤葡萄酒をもらった。二人の学校友達にとっては、お別れを祝う酒だった。二人ともすっかり羽目を外して上機嫌になった。少しでも気になるようなことは、二人とも、気ぶりにも見せまいとしていた。
翌朝、村長の下男は時間通り馬車を家の前につけた。馬車の上には板囲いになって、子牛が二頭乗っていた。子牛らは膝をがたつかせ、寒い朝を眩しそうに、ぼんやりと見つめていた。はじめて、この朝牧場にも真白に霜が降りたのだ。クヌルプは下男と並んで馭者台に腰かけ、膝には毛布をかけられた。医師はお別れに彼の手を握り、下男には半マルクを握らせた。馬車はがたがたゆれながら、森の方に向って走り始めた。下男はパイプを出して火を点け、クヌルプは寝呆け眼《まなこ》で、朝の明るく寒々とした蒼空を仰ぎみていた。
しかし、その後では陽が上ってきた。そして昼はかなり暖かな日になってきた。馭者台の二人はすっかり意気投合してしまった。二人がゲルベルスアウに着いたとき、下男は馬車で、子牛を引いたままどうしても回り道をして、病院の前までクヌルプを送り届けなければならない、と言い張った。しかし、クヌルプはじき下男を説得して、二人は町の入口にきた所で仲よく別れることにした。クヌルプはそこで立ち止って馬車がゆくのを見送っていた。家畜市場の楓の下に、だんだん小さくなって消えてゆくのを。
彼の顔には微笑が浮かんできた。それから彼は土地の者だけしか知らない庭と庭との間の生け垣の細い道づたいにまぎれ込んで行った。これでまた自由の身になれた! 病院でどんなに彼を待っていようと、こっちの知ったことじゃない。
*
帰郷者はもう一度故郷の光と香気を、さまざまな音や香りを味わい、故郷にひたっていることの心をときめかすなつかしさと、充ち足りた和やかさとを噛みしめるのであった。家畜市場にひしめき合う農夫や市民達の雜沓。栗色に枯れたマロニエが日をいっぱいに浴びている陰影。町の城壁にひらひら舞っているたよりない黒い秋の蝶の、悲しい葬《とむら》いのような舞踊。四方に秋の水をほとばしらせている町の噴水の響き。葡萄酒の香りと、酒樽屋の親方の穹窿形をなした弛下室の入口から聞えてくる、空ろな樽の|たが《ヽヽ》を叩く槌《つち》の音。あまりにもなつかしい街々の名。そのどれもが、居たたまれない胸もふさがるような切ない多くの思い出でいっぱいになっているのである。今、この故郷を失った男は、こうして家に帰りついていること、全ての街の角々、全ての道の敷石の一つ一つまで、みななつかしく、みな知りつくしていて、全て思い出でないものはなく、全てなつかしい友人でないものはない――この限りない豊かな魅惑を、あらゆる官能という官能を傾けて、心の底まで吸い込むのであった。
ぶらぶらと疲れることを知らぬ者のように、彼はその日の午後いっぱいを、あらゆる街から街へと歩きまわっていた。川端に出て研《と》ぎ師の刀物を研ぐ音をきいたり、仕事場の窓から轆轤《ろくろ》工の仕事ぶりに見とれ、新しく塗られた看板の上に、昔から深い馴染みである家族らの古い名前を見つけたりした。彼はまた市場の噴水の石の水盤の中へ手を浸してみた。しかし渇《かつ》をいやしたのは町の下手にある修道院長の家にある小さな泉からであった。この泉はおよそ時代のついた古い建物の地階に湧いていて、多くの年月を流し去った以前の昔と少しも違わず、今もなおふしぎな勢いをもって沸々《ふつふつ》と湧き、その泉水をかこんでいるふしぎな明るさをもった薄明の中に、石畳の間を貫いて潺湲《せんかん》と流れているのであった。
川の畔りに立って、彼は永い間たたずんでいた。そして木の橋げたに寄りかかって、流れてゆく水を眺めていた。川底には黒い水草がその長い髪の毛をゆるがせ、ちらちらゆらいでいる小石の上には、魚の細い背が、黒く、じっと沈んでいるのが見えた。彼は古い板橋の上を渡って行ったが、橋の真中へ来ると膝を曲げてふんで橋を撓《しな》わせ、まるで子供が面白がるように、その小刻みな、びくびくとして弾力のある橋の反撥力をためしてみようとするのだった。
急ぐことなく彼はなおぶらぶら歩きつづけて行った。何一つ忘れているものはないのだ。小さな芝生にかこまれて立っている教会の菩提樹。それから丘の上の水車小屋のそばにある川の堰《せき》も。ここは昔、彼の最も愛していた水浴場なのだった。彼はまた以前、父が住まっていた小さな家の前にもしばらく立ちつくしていた。そしてその古ぼけた入口の扉にやさしく背をもたせかけて、いつまでもじっと寄りかかっていた。庭の方にもまわってみたが、そっけなく張りめぐらされた真新しい針金の垣根越しに、このごろ植えたばかりのものらしい植え込みをのぞき見したばかりだった。――しかし、雨水で打たれて角《かど》のとれた石の階段や、戸口の傍に立っている円形のつやつやしたマルメロの樹などは、昔とちっとも違っていない。ここでクヌルプは昔、彼の最も幸福な日々を過ごしたのだ。まだ彼がラテン語学校から放校される以前の時代のことだ。ここで彼はかつての完全な幸福を、何一つ思い残すことのない充溢を、苦渋の一かけの雑じり気すらない無上の幸いを味わったのであった。盗み食いのし放題であったサクランボの実り豊かな夏。またあの草花を育てながら味わった、はかない栽培者の幸せ。今はもうとりもどす術もないが。心からいとしいニオイアラセイトウ。陽気でおかしい朝鮮アサガオ。やさしくあまい天鵞絨《びろうど》のパンジー。家兎の小屋と細工場と箱庭の竜の洞窟。ニワトコの樹の幹の芯《しん》をくり抜いて管に使った筧《かけい》の水。木舞《こま》いの板で造り、羽根をつけた糸巻き製の水車。どこの屋根はどんな猫のなわ張りだったか、知らぬ所はないし、どこの庭の果樹も、彼がつまんで味を試してみなかった果樹は一本もない。およそ彼がよじ上った覚えがないという樹はないし、そのこんもりしたてっぺんの茂みの中に、緑の夢の巣の本拠を営まなかったという樹は、一つもない。
この一握りの世界こそ、彼のものだったのだ。芯の底まで知りつくし、熱愛した世界なのだ。ここでは一つの灌木も、どんな庭の生け垣も、みな彼にとっては深い意味と心と、歴史をもっていないものはないのだ。どんな雨が降ろうが、どんな雪が降って来ようが、それらはみなそれぞれの、別の意味のある言葉で話しかけるのだった。ここではどんな空の動きも、地の匂いも、彼の夢と願いと一緒になって息づいていたし、それらの問いに答え、それらの生命と共に生きてきたのであった。いや今だってそうだ、とクヌルプは思うのだった。ここらあたりにいる家屋の住人や、庭園の持ち主にしたって、これら全てのものを、僕以上に深く所有し、僕よりももっと深くその貴さを知っている者は誰もいはしないのだ。これらからより多くの言葉の意味をききとり、多くの答えを得、より多くの追憶を呼び覚される者は、誰もいはしないのだ。
くっつき合った人家の屋根の間から、みすぼらしい家の灰色の破風が、高く鋭くそのとがった頭を突き出していた。むかしここにあの皮なめし工ハージスが住んでいたのだ。ここはクヌルプの子供じみた遊びや少年の日の歓喜が、少女との初めての秘めごとや、やさしいたわむれにふれて失われて行ったところだった。昔彼はあすこからどんなに恋の欲楽のうずくような予感を抱きながら、何度暗い街を、家に向って帰って行ったことだろうか。あの皮なめし工の娘たちのお下げ髪をばらばらにといてしまったり、美しいフランチスカの接吻の下で酔いしれた目まいを感じたのもあの家でのことだったのだ。彼はあの家へ行ってみようと思った。夜晩くなってから。いや、たぶん、明日になったら。しかし、この思い出は今の彼の心をちっとも愉しくしてくれるものではなかった。彼はそれよりなお以前の、少年の日のたった一時間の思い出のためになら、こんな思い出はみな一緒くたにひっくるめてくれてやってしまってもいい、とさえ思うのだった。
たっぷり一時間も、あるいはもっとそれ以上も、彼は庭の垣根のたもとにたたずんで、いつまでも庭の中を見つめているのであった。彼が今見ているものは、決して、そこにほったらかしになっている庭、まだ若い木苺の茂みが生えているが、すっかり荒涼として、秋らしく、さむざむとしている見なれない他人《ひと》の庭ではなかった。彼は父のものであったころの庭を思い描いているのだった。小さな花壇に子供のとき植えた草花などを。あの復活祭の日曜日に植えた桜草《アウリカ》や、ガラス細工のような鳳仙花。そして小さな石を並べて築き上げた小さな岩山の連峰。その山に彼は何百ぺんとなく、つかまえてきた蜥蜴《とかげ》を放してやったのだ。が、残念なことに、一匹としてそこに居ついて、巣をかまえ、彼の子飼いの動物になろうとはしないのだった。それでもなお、新しいのをつかまえて来るごとに、今度こそはという期待と希望とをもって見守っていたのだったが。たとえ今となって、世界中のどんな家や庭園をもらったところで、どんな草花や蜥蜴や小鳥を贈られてみたところで、そんなものはあのころ彼の小さな花壇の中に生長し、蕾の中から可憐な花弁を静かに一つ一つ開いて行ったたった一本のあの夏の花の魅惑に溢れた輝きに比べたら、まるで無でしかありはしない。そしてまたあのころはアカスグリの茂みも生えていたものだ。その木の一つ一つを、彼は今でもなおはっきりと思い出すことができた。それはもうみんなどこかへいなくなってしまった。これらのものは永遠でもなければ、永劫の存在でもありはしなかった。誰か知らぬ男の手が、それを引き抜き、根を掘り起こし、焚火にでもくべてしまったのだろう。枝も、根も、枯れた葉もみんなたきつけにして燃やしてしまったのだ。そして、誰一人それを悲しむものもいはしない。
そうだ。この庭でよくあのマヒョルドと一緒に遊んだものだった。彼はいま医者になり、名士となり、一頭立ての馬車などを乗りまわして、患者達を見舞って歩いている。そして実際彼は昔からちっとも変らない善良な正廉な男として生長してきたのだ。しかし、彼にしたってそうだ。この賢明で堅実な男にしたって。あの当時の彼に比べたら、あの敬虔で、素直で、心から人を信頼していたあのころのおっとりした優しい少年に比べたら、いったい何者になった、というのだ? ここでクヌルプはあのころ、蝿とり籠をどうして造るか、バッタを入れる折板《へぎいた》の塔の作り方などを伝授してやったものだった。クヌルプはあのころはマヒョルドの師匠であり、彼の偉大で、賢明で崇拝しておかぬ友人でもあったのだが。
隣りの家に生えていたライラックの樹は老木になったし、苔むしたうえに、もう枯れかかっていた。また別の庭の木造家屋は破れ果てていた。その跡へ人はどんな立派な家を建てるか知れない。が、たとえ何を建てたところで、以前の日のように美しく、幸福で、ぴったりしたものができる気づかいは絶対にありはしないのだ。
ようやくたそがれがしのび寄ってきて、夕方は冷えこんできた。そこでクヌルプはやっと草の生えた庭の小径をふんで、立ち去る気になるのだった。この町の姿を変えてしまった新しい教会の塔からは、ききなれぬ新しい鐘の音が殷々として鳴りひびいてきた。
彼は皮なめし工場の門から、こっそりとその庭へしのび込んで行った。祭日の夜のことで、あたりに人影はない。彼はぽっかりと大きな口をあけている穴に沿うて、製革用のやわらかな地面の上を、足音をしのばせて通って行った。穴の中にはなめし皮が灰汁に浸けてあるのだ。すると低い垣のところに出たが、そこにはもう夕ぐれの川が暗々と苔のためにぬめらかに青くなった石の上を流れていた。この川の畔こそ、いつか彼がフランチスカと素足で河水をばしゃばしゃはねながら二人きりで夕方坐り込んでいた所だったのだ。
もし、あのとき彼女が僕を、いたずらに裏切るようなことをしなかったら、とクヌルプは考え耽るのだった。何もかも事情はまるで変わったものになっていたに違いない。たとえラテン語学校や学業の方はおろそかにされたかも知れないにしても。それでも何とかひとかどの者になるくらいの実力もあれば気力だって持っていたのだ。そうなったら僕の生涯は、なんと単純で、明るいものとなったことだろう! それをあのとき、自分自身をすっかり投げてしまって、あらゆるものから絶交してしまったのだ。すると世間というものはそれにつけ込んで、彼をほったらかしてしまったままにしておくのだった。彼は世間からつまり閉め出しを喰わされたようなものだった。遊蕩児として、枠外の傍観者として。幸福な少年のころにはみんなから愛されたものだが、老《ふ》け込んで、病み疲れた今となっては、誰一人かまってくれる者もありはしないのだ。
彼は堪えがたい疲労に襲われて、その垣の上に腰を下ろした。川の暗いせせらぎの音は、心をも不安にゆするようであった。すると、頭の上の窓に、急に明るく灯がともった。もう時間も遅くなったのではないかと、咎められるような気にかき立てられた。ここで見つけられてはまずいことになる。彼は製革場からこっそりとまたしのび足で、門から脱け出した。上着のボタンをしっかりとかき合わせ、さて寝る場所をどこにするか、考えなければならなかった。懐ろに金はいくらかもっていた。あの医師が恵んでくれたものだった。少しばかり思いまどった挙げ句、彼は木賃宿の中に姿を消して行った。彼は『エンゲル・ホテル』とか、『スワン・ホテル』にも、泊ろうと思えば泊れただろう。そこに行けば知った人もいたし、友達も見つかったかも知れない。しかし、今の彼はちっともそんな所に出てゆく気がしないのだった。
この町もあれからずいぶん変わってきたものだ。一昔前だったら、一々その微細なことまでクヌルプの興味をかき立てることばかりだったかも知れない。しかし、今の彼はただ以前のままの姿であるもの以外には、なに一つ見たくもなければ、聞きたくもないのであった。そしてゆきずりにきいてみたところによると、あのフランチスカも、もう亡くなっている、ということだった。とたんに彼にとってはもう故郷の全てが、味気なく蒼ざめたものになってしまったような気がした。思えば、はるばるとここまで訪ねてきたのも、ただ彼女に会いたいためだけであったような気もする。いや、こうして街をぶらついたり、庭の間をうろついたりしていて、知った人に会い、気の毒そうな冗談の一つも浴びせられてみたところで、いったいなんの役に立つというのだ。そして偶然とはいえ、狹い郵便横丁で、地方病院長にぶつかってしまったとき、突然念頭に浮かんだのは、向うの病院ではやはり彼を待っているだろう、ということだった。そして彼を探させているに違いない。ぐずぐずしている訳に行かないのだ。彼はパン屋で、上等の白パンを二個買い込んだ。それを上着のポケットに押し込むと、もう昼前には町を出はずれて、険しい山路にかかった。
すると、街道が最後に大きくうねって曲がっている山の頂上に近い森の外れに、うず高く積まれた石ころの上に腰を下して、長い柄のついたハンマーで灰青色の貝殻石灰岩をしきりに砕いている埃だらけの男がいた。
クヌルプはその男を見ていたが、挨拶をすると足を停めた。
「お天気だね」とその男は挨拶した。石を割りつづけていて、頭をあげて、こちらを見ようともしない。
「どうも、お天気も永くは保つまい、と思いますがね」クヌルプは小当りに当たってみた。
「そんなことだろうよ」石割りはそうつぶやくと、ちょっとばかり目をあげた。明るい街道に当ってはね返る真昼の秋の日を眩しがりながら。「どこまで行こうってのかね?」
「ローマへ行って、法王に拝謁《はいえつ》して来ようっていうところさ」とクヌルプは言った。「まだ道のりはよっぽどあるかね?」
「まあ、今日中には無理か知れねえよ。第一お前みたいに、そう、やたらに道草を食ってからに、他人様《ひとさま》の仕事に半畳《はんじょう》をいれてるようじゃ、年内にゃ行き着けまいよ」
「そうかね。ご挨拶だな。なあにね。大して急ぎの用事でもないのさ。ありがたいことに。なかなかご精が出ますね。アンドレス・シャイブルさん」
石割り工は眼の上に手をかざして、遍歴の旅人をじろじろと目で探った。
「こちとらをご存知らしいが」と彼は疑い深そうに言った、「してみると、俺の方でも、お前をどこかでお見かけしたような気がする。ただどうにも名前を|ど忘れ《ヽヽヽ》しちまって」
「僕の名前ならあの蟹《かに》売り屋の親爺にきいてみて下さいよ。あすこで僕らは一八九〇年に集会を開いたことがあったっけ。しかしあすこの親爺も、とうにもう生きていやしますまいがね」
「とうに亡くなったよ。しかし、これでやっと分かってきたよ。知らないどころじゃない、お前はクヌルプだな。まあ、そこへ腰でも下ろしなよ。ずいぶん、久しぶりだったな!」
クヌルプは腰を下ろした。あまり急いで山を登ってきたので、ひどく呼吸がつまって苦しかった。今やっと気がついて見ると、町は下界の方に何と美しく、沈んだように見えていることであろう。青く輝いている川。赤く褐色にかたまり合って見える人家の屋根。その間に小島のように点綴《てんてい》している緑の木立。
「こうして山の上で暮らすのも、なかなか乙なものじゃないか」やっと呼吸《いき》がおさまったところで彼はそう言った。
「まあ、こうしたものさ。こぼしてみたところで始まらないし。そこで、お前の方はどうなのだね? 昔だったらこんな山をかけ登るに、なんの雜作も要らなかったお前だが。ええ? 今じゃ、ひどいへたばりようだな、クヌルプ。またしても、故郷忘じがたしってやつかね?」
「そうですよ、シャイブル。これがまあ、故郷の見納めになるかも知れないからな」
「そりゃ、またどうしたって訳だね?」
「というのは、肺の方がすっかり駄目になっちゃっているんでね。なんとか、術《て》はないものかな?」
「生まれた家にじっくり腰を落ちつけてさ、なあ。人なみの堅気の仕事をもって、ちゃんとした女房、子供をこしらえて、毎晩寝床にねていりゃ、こんなことにもならずに済んだことだろうがね。いや、このことについちゃ、昔から散々俺がお前に意見した通りなのさ。もう、今となっちゃ、どうにもしようがあるまいよ。そんなに、ひどく悪いのかね?」
「そんなことがこの僕に解るものか。――いや、やはり僕にはよく解っているんだ。まあ、山をかけ下りるときのようなものさ。毎日毎日、自分の落ちる速度がだんだん早くなってくるのがわかる。こうなってみると、独身で係累《けいるい》がなくて、誰一人迷惑をかけないで済むというのも、結局仕合せだな」
「物は考えようだな。それも、つまりはお前のことで、俺の知ったことじゃない。しかし、気の毒たあ思っているよ」
「気の毒がるには及ばないよ。誰だって一度は死ぬんだからな。石割り工のお前さんだって、いずれは墓の下へ入るのさ。なあ、爺《と》っさんよ。僕らこうしてお互いに道端に腰を下ろしている仲なんだぜ。余り大それた口は利けないって、いうことなのさ。お前だって、昔はもうちっと|まし《ヽヽ》な夢を見ていたんじゃなかったかね。あのころお前は鉄道畑で、一旗挙げようって、もがいていたんじゃなかったかね?」
「なにね、あんなことはとうの昔の話さ」
「どうだい。子供さん達は達者かね?」
「達者なことは達者だがね。ヤコブの奴はもうひとりで稼ぐようになったよ」
「そうなったかな? やれやれ、年月の経つのは早いものだな。さて、ぼつぼつ出かけてみることにでもするか」
「まあ、そう急がないでもいいじゃないか。こうして、お互いにずいぶん久しぶりに会えたんだからな! なあ、クヌルプ。何かこの俺にできることがあったら、言ってくれないか。たんとは今、持ち合わせはないがね。半マルクくらいだったら何とかなるが」
「そりゃ、お前も要るんだから、とっときなよ。爺《と》っさん。ありがとう。ほんとに、僕はいいんだから」
彼はなお何か言おうとしたが、ひどく胸苦しくなったので黙っていた。石工は自分の林檎酒《モスト》を瓶ごと渡して飲ませてくれた。しばらく二人はそうして町を見下ろしていた。水車用の運河は真昼の日が当たって、きらきらと照り反していた。石橋の上をゆるやかに荷車が通ってゆくのが見える。堤防の下には真白なアヒルの艦隊が物うげに遊泳していた。
「さあ、これで体も休まった。どれ先を急ごう」とクヌルプはまた言い出した。
石工は考えに沈んでいたが、頭をふった。
「まあ、ききなよ、クヌルプ。お前もそんな宿なしの慘めったらしい浮浪者にならなくたって、もっとちゃんとした者になれたんだがな」彼は静かにそう言った。「実際、お前はしようのない罰《ばち》当たりだぜ。いいか、おい、クヌルプ。俺は信心家でもなんでもないがね。しかし、聖書に書いてあることだけは信じているのさ。聖書だけはお前も信じなくちゃいけないぜ。お前も、あの世で自分がやったことだけの責任は取らなけりゃなるまいからね。それが、なかなかきびしいお調べと来ているのでね。お前は人並すぐれた才能のお恵みにあずかっていたのだから。しかもお前はそれを台なしにしてしまったって訳さ。俺がまあ、そういうことを言ったからって、腹を立てられちゃ困るんだがね」
するとクヌルプは微笑んだ。昔ながらの罪のないいたずらっ児らしい輝やきが目の中に浮かんできた。彼はうれしそうに相手の腕をたたくと、立ち上った。
「どういうお裁きを受けるか、いずれは解るだろうよ、シャイブル。神様はたぶん僕にはこんなことはお訊ねにはなるまいよ。なぜお前は裁判所の判事にならなかったのか? って。たぶん神様はこうおっしゃるだけだろうよ。『また帰ってきたのか、お前は? いつまでも、いたずら小僧だな、お前は』って。そしてたぶん僕には天国では、幼稚園の子守り役か何か、そういうたやすい仕事をあてがって下さることだろうよ」
アンドレス・シャイブルは青と白の市松模様のシャツを着ている肩をそびやかした。
「お前とは真面目な話ができないな。クヌルプが天国へ行けば、神様はお前に冗談ばかしおっしゃるものだと思っていたら、おめでたい話だぞ」
「いや、そうじゃないよ。しかし、そんなことだって、あるかも知れない、って思ったのさ。そう思わないかね?」
「そんなふうな物の言い方をするなよ!」
二人は手を握り合った。そのとき石工は、こっそり自分のズボンのポケットから引き出した小さな銀貨をクヌルプの手に握らせた。クヌルプはそれを受けとり、相手の好意を無にしまいとして今度は強いて抗《あらが》わなかった。
彼はもう一度なつかしい故郷の谷間に向って一瞥《いちべつ》をなげ、もう一度アンドレス・シャイブルにふり返ってうなずいた。それから咳《せき》こみ始めたが、足を早めて遠ざかって行った。間もなく彼の姿は丘の上の森のかげに見えなくなった。
*
霧がかかった冷たい日が続く。かと思うと、この合間には咲き後れた釣鐘草や、冷たく熟れた浅間|ぶどう《ヽヽヽ》などの美しい、秋晴れの日もあった。が、二週間もたつと、突然に冬が訪れてきた。きびしい霜がびっしりと降りた。そういう日が三日もつづいた後で、いくらかきびしさがゆるんだと思うと、いつか激しい雪になり、かなり厚く降り積った。
クヌルプはこの永い冬中、絶えず歩きつづけていた。どこというあてもない。ただ故郷の周りをぐるぐるさまよい歩いていたのである。それから彼は二度もすぐ間近から、森の中にかくれて、石割り工のシャイブルの姿を眺め、見守っていた。もう二度と声をかけようとはしないで。彼にとっては、余りにも思い出すことが多すぎたのだ。その果てしのない、苦しい、そしてなんの役にも立たないさすらいの旅をつづけて歩いていると、まるで茨の藪に、がんじからめにからめとられでもしたかのように、自分の|ぐれた《ヽヽヽ》生涯の混み入った煩悩の中に、いよいよ深く落ち込んでゆくのであった。しかもそこになんの意味も、なんの慰めをも見出すことはできないで。そのうえ、また病気が新しい勢いをぶり返してきた。そこで彼はある日など、すんでのことに、これまでのどんないきさつも忘れて、とにかくゲルベルスアウに出頭し、病院の扉をたたこうとするところだった。しかし何日もそうしてひとりきりでさまよった末に、再びまた町の姿を目の下に見下ろして見ると、何もかもが自分にとっては由縁《ゆかり》のない、敵意をもったもののように思われて来るのだった。そして自分はやはりあすこの世界の人間じゃない、ということがはっきりして来るのだった。時たま彼は村へ出てパンを買い入れることもあった。が、野山にはまだ榛《はん》の実がいくらでも実っていた。夜は樵《きこり》の丸太小屋や、畑の中の積み藁の中にもぐり込んで寝た。
今、彼はひどく吹雪く雪の中をヴォルフスベルクから、谷の水車小屋の方角に向って歩いて行くところだった。衰弱し、死ぬほど疲れ切っていた。それでもなお彼は足に委せて歩きつづけることを止めないのであった。まるで自分の生涯のもういくらものこっていない生命を、できるだけ思う存分に使い果たして、あらゆる森の果《はて》から果、あらゆる森の中の小径という小径を、歩いて歩いて、歩きぬかねばやまぬかのように。これほど病み果て、困憊し切っているのに、眼と鼻だけは、昔ながらの鋭敏さを失わないでいた。まるで感のよい猟犬のように、眼を働かせ、鼻を鳴らしながら、これぞという決まった目的物は彼にはもう何にもないくせに、あらゆる土地の傾斜、どんな風が吹いているか、あらゆる獣の痕跡などを嗅ぎ分けるのであった。もう歩こうと思って自分の意志で歩いているのではない。ただ足の方がひとりでに動いて、先へ先へと彼を運んでゆくのだった。
この二三日以来絶えずそうだったのだが、心の中で、彼は今もまた神様の前に出て、絶えず神を相手に問答しているのだった。別に恐怖というものは感じなかった。神は人間に何一つ危害を加えられはしないということを知っていたのだ。そして互いに話し合っていたのだった。神と、クヌルプと。クヌルプの生涯の無益無能さについて。どうすればもっと生き甲斐あるものにすることができただろうか。そして、あれもこれも、どうしてあんなことになってしまったのだろう。どうにもその他になりようがなかったのだろうか、などということについて。
「あのときが間違いの元《もと》でした」とクヌルプは強情に言い張るのだった、「私が十四歳になったとき、フランチスカが私を捨てて行ったときでした。あの当時の私だったら、まだどんな立派な人間にだって、なれたでありましょう。あれから後、私の何かしらが内部で壊れてしまったのです。あるいは駄目になってしまったのです。あれから後というもの、すっかり私も|ぐれて《ヽヽヽ》やくざなものに落ちぶれてしまいました。――いや、冗談じゃありません。要するにあなたが私を十四歳のとき、死なせて下さらなかったことが間違いの元なんです。そうして下されば、私の生涯は、熟れた林檎と同じように、ほんとに美しく、完全なものであったでありましょう」
神様はしかし、いつもただ微笑んできいておられるだけだった。時にはそういう神の顔は吹雪の中にかき消されてしまうこともあった。
「どうだかね、クヌルプ」神はたしなめるように言うのだった。「では、お前の青春のあの若々しい日のことを考えてごらん。あのオーヴァーヴァルトでの夏のことを。またレヒシュテッテンの時代のことを。お前はあのころまるで小鹿のように美しく踊ってはいなかったろうか? そして美しい生命がお前の体のすみずみにまでぴくぴくするほど溢れているのを感じてはいなかったろうか? お前はまた、女の子たちがみんな涙ぐんでしまうほど上手に、歌を歌うこともできたし、アコーディオンを弾くこともできたではないか? お前は、バウエルスヴィルでの日曜日のことを覚えているだろうか? そしてお前の初恋のあの美しいへンリエットを忘れてしまったとでもいうのかね? それでもなおお前は、これら全てのことは無であった、と言いたいのかね?」
クヌルプは思い直してみなければならなかった。すると彼の青春の日の歓喜はまるで遠い山の狼火《のろし》でもあるかのように、暗澹とした美しさの中に燃え輝き、酒と蜜とのように沈鬱で甘美な香を漂わせ、早春のなま温かいそよ風のように、低い深い音に鳴りひびくのであった。ああ、何と美しいことであったであろう。悦びも美しかったが、悲しみさえもまた美しかったではないか。あのころの一日一日だって、もし私に与えられなかったとしたら、どんなに惜しむべく残念なことであったか知れはしない。
「おお、そうですとも。あれは美しい時でした」クヌルプは神の言葉を肯定はした。が、まだ疲れてすねている小児のように思いきり泣き出したい気持と、抗《あらが》いたい気持とでいっぱいになっているのだった。「ほんとにあのころは美しい時でした。もちろん、罪とか、悲しみとかも添え物としてなかったとはいえません。けれど、おっしゃることは本当です。本当に、私の幸福な時代だったのです。あのころの私が心ゆくまでたのしんだように、あれほど恵まれた歓楽の美酒の盃をのみほし、あんなにまで舞踊を楽しみ、あれほど恋に酔い痴《し》れた多くの夜を送った人はあまり多くはいないかも知れません。しかし、ではなぜ、あの時、あの時、なぜもうあすこで、全てをお終いにしては下さらなかったのでしょうか! もうあの時ですら、あの幸福の中に災いの毒針がかくされていたのです。今でもそれは、はっきりと覚えています。あれから後というものは、もう二度と決して、ああいう美しい時代は返って来ませんでした。いいえ、もう二度と返っては来なかったのです」
神の姿はそのときどこへ行ったか、もうすっかり吹雪のつむじ風の中にかき消されてしまっていた。が、クヌルプが少し息をつこうと思って、雪の中に、小さな血痰の二つ三つを吐こうとして立ちどまっていると、神は思いがけなく、また姿を現わして、クヌルプの言葉に応えるのだった。
「クヌルプ。お前はそういうことをいうが、それではお前の方が、いくらか恩知らずではないのかね? お前はあんまり忘れっぽくなったので、つい笑いたくなってしまうよ! 私たちはお前がダンス場の王者であった時のことを思い出していたではないか。そしてお前の美しいヘンリエットのことを。そしてお前だって、さっきまで認めていたのではなかったのかね。あれは幸福で美しい時代だった。あれはほんとに恵まれた日で、生きるだけの意味もあったって。もしそれをお前が、そんなふうに恩知らずにヘンリエットのことを考えるのだったら、いったい、お前はあのリザベートのことをなんと考えているのだろう? そうだ。お前はあの娘《こ》のことを、すっかり忘れてしまっていいとでも思っているのかね?」
すると再び過ぎ去った昔の日の一片が、まるで遥かに見える山脈のように、クヌルプの目の前に浮かび上ってくるのだった。そして、それは先の思い出ほどに愉しく、悦ばしいものではなかった。が、その代わり、それは、まるで女達が涙を流しながら、微笑んでいるときのように、はるかにずっと秘密に充ちた、なつかしく深い輝きを帯びたものであった。これまで永い間、ちっとも考えても見なかった以前の日や、なつかしいときが、その墓の中から立ち現われて来た。その思い出のただなかに、リザベートが立っていた。美しい、悲し気な目をして、腕には小さな男の子を抱いていた。
「何という、僕は悪党であったことでしょう!」クヌルプはまた訴え嘆き始めるのだった。
「そうです。あのリザベートが死んだとき、僕ももう死んでしまった方がどんなによかったか知れません」
しかし、神様はクヌルプが、その先を言おうとする言葉をさえぎってしまわれた。明るい眼でじっとクヌルプの心の底を見透されるように、見つめながら、つづけて言われるのだった。
「いい加減にしないか、クヌルプ! お前はリザベートを、どんなに苦しめたか知れはしない。それはどうにも仕方ないことだった。しかし、彼女はお前から、そういう悪いことよりは、むしろもっと多くの優しいことや、美しいことを受け取っているのだ。そういうことは、お前だってよく知っているはずなのだ。またリザベートにしても、一瞬だってお前に対して、恨むような気持になったことはなかったのだよ。これら全ての、お前の生涯の意味するものが何であるか、まだお前には解らないのだろうか。何という子供なのだ、お前は。お前が行く到るところに、ちょっとした子供っぽいいたずらと、無邪気な笑いとをまきちらすために、お前はああいう軽はずみな道化もの、ああいう無頼の漂泊者にならなければならなかったことが、解らないのだろうか? そして行く先々の、到るところで、人々はお前をどうしても、どこか愛さずにはおられない、いくらかからかってみたい気にもなるのだ。しかしやはり、なぜかお前に感謝せずにはいられない。そういうことのためであったことがどうしてお前にはわからないのだろうか?」
「結局、それは本当だったかも知れません」しばらく沈黙していた後で、クヌルプは小声で神の言われたことを承認した。「しかし、そういうことはみなずっと昔のことでした。私もまだ若かったころのことなのです。なぜしかし私はそれら全てのことをやってきたのに、何一つ本当のためになることを身につけることもできなかったのでしょうか。そして、どうして私は真っとうな人間になることができなかったのでしょう? それだけの年月は充分にあったはずなのに」
このときふりしきっていた雪もしばらくのあいだ途絶えた。クヌルプはまたちょっと立ちどまって、帽子や服に積もった厚い雪を払い落とそうとした。が、どうしても払い落とすことができない。彼はもう気が遠くなりかかるほど、疲れていた。そして神は今はもうすぐ目の前に近々と寄って立っておられた。その明るい眼は大きく、爛々として開かれていて、まるで太陽のように眩しく輝いていた。
「さあ、満ち足りた気持になってごらん」と神は戒められた、「嘆いて訴えてみたところで、なんにもなりはしない。何もかもそれでよかったのだ。全ては、それで正しかったのだ。何一つ変更されてはならなかったのだ。――お前にはそのことがどうしてまだ本当にわからないのだろう? それともお前は今どこかの名士か、職人の親方にでもなり、妻や子供をかかえ、晩には新聞の週報でもひっくり返して見ているような身分になりたいとでもいうのかね? もし、そんなことにでもなれば、お前はすぐ逃げ出して行ってしまっただろう。そしてあいかわらず森の中で狐と一緒に寝たり、小鳥をつかまえるわなを仕かけてみたり、蜥蜴《とかげ》を飼い馴らそうとしてみたりしているだろうじゃないか?」
クヌルプはまた歩き始めた。彼は疲れ果てて、ふらふらと、よろめくように歩いていた。が、自分ではそのことを少しも感じていないのだった。むしろ彼はずっと愉しく、快い気持になっていった。そして神がいま彼に言われることには、何もかもありがたい感謝の気持ちをもって、うなずきたい気がするのだった。
「いいかね」と神は言われた、「私は、あるがままのお前としてしか、お前の使い途はなかったのだよ。私の名において、お前はさすらいの旅をつづけた。そして居すわったままいい気になっている人々に、いつも何かしら自由に対する郷愁のようなものを注ぎ込んでやったのだ。私の名において、お前は阿呆じみた真似をやらかし、人々から嘲《あざけ》り笑われるようなこともやってのけた。お前において嘲られたのは、実は、私自身だったのだ。またお前において、人から愛せられたものは、やはり私自身だったのだよ。お前は私の愛児であり、私の弟であり、いや、私の体の一部分だった。およそお前が味わい、お前が悩んだことで、私もお前と一緒に味わい、悩まなかったものは、何一つとしてありはしないのだよ」
「そうですとも」とクヌルプは言った。そして大儀そうに、こっくりと頭でうなずいた。「そうですとも。ほんとに、そうだったのです。本当を言えば、私はいつだって、そうだということは、心の底で、わかっていたのです」
彼は雪の中にぐったりと倒れて動かなかった。しかし彼の疲れ切っていた手足は、いつか浮き上るように軽くなっていた。
彼の燃えるような眼も、やさしく微笑んでいるようであった。そして、少し眠ろうと思って、自分の眼を閉じたときでも、なお彼は神が話されている声を耳許にきいていた。そしていつまでもその明るい神の目の中をじっと仰いでいるような気がしていた。
「ではもう何も悲しむことはない、というのだね?」と神の声は訊ねるのであった。
「もう、何も悲しむことはありません」とクヌルプはうなずいて、おとなしく笑った。
「そして、何もかも、それでよかったのだね? 何もかも、お前の望み通りであったのだね?」
「はい、そうでした」と彼はうなずいた。「何もかも、私の希《ねが》いの通りにしていただいたのです」
神の声は次第に、かすかに低くなっていった。それはときには彼の母の声のようにもきこえ、時にはヘンリエットの声のようにもひびき、時にはまたあの親切でやさしいリザベートの声になってきこえるのだった。
もう一度クヌルプが目をあけて見たとき、太陽がさんさんと輝いていて、余りにぎらぎらと眩しいので、すぐまた彼は瞼《まぶた》を閉じねばならなかった。彼は手の上に重く雪が降り積もってくるのを感じ、それを払いのけようとした。しかしそのときはもうただ眠りたいという欲望の方が、他のどんな意志をも圧して、どうにも仕方なく強大なものとなってきていた。(完)
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訳者あとがき
「クヌルプ」という名前は、この小説が書かれた日以来、ヨーロッパの多くの人の心に、なつかしい故郷を与え、静かな青春の歌を贈った。「クヌルプ」は、ある意味で現代の私達の運命にすらなった。――近代の退化と混乱の中を、果てしなくさまよって行かねばならぬ私達にとって。燃えたぎる青春の美しい火を心の中に感じている人、小さな自分の居間にいつまでも自分を閉じこめておけない人にとって。あるいはまたどのような限界にも、止まることができない芸術の使命をになっている人にとって。
「クヌルプ」はさまよう私達の道づれであり、私達はなんに向って行くかを語っている。それ故に「クヌルプ」は、このように私達の心に近くいる。故郷を永久に失った私達にとって、心に沁み入る、痛ましく悲しい歌であり、青春に贈る悲しい永い別れでもある。それ故「クヌルプ」は、多くの人にとって、日常でない、深いできごとであった。晩い五月のように、美のために重くうなだれた花束を人に贈ることは、決して無意味なことではない。全て美しいものを贈ることは、美しい生命を生み、生命を贈ることであり、最も貴い人間の行為なのだから。
もちろんこの小説には、晩く秋に熟れたリルケや、晩年のベートーヴェンのような深味はないかも知れない。しかしここには完全に美しい一連の春の花束がある。限りなく、無限に美から美を開き、生みつづけてゆく豊かな母胎があり、そしてその背後に、澄み切った美しい人の心がある。例えば、「クヌルプ」という人は、永久に漂泊して止まぬやくざな蕩児《とうじ》であって、肩書や虚栄心などが物をいう市民の生活から見たら、「無頼《ぶらい》」に等しい人間であるかも知れない。しかし誰が果たして、「クヌルプ」よりももっと勇敢に生き、献身することができるであろう。誰が彼のように美の運命に堪え、漂泊の道に徹することができるだろう? その心は、東洋の偉大な漂泊の詩人に――例えば、芭蕉や杜甫に、李白に似通うものすらもっている。
「クヌルプ」は一介のつまらぬ男であったかも知れない。しかし、彼の子供らしい純真な心は、何かしら美しいことを仕出かそう、何か人をたのしませようという気持でいっぱいになっているのだ。その興奮にまかせて彼は刹那、刹那を生き抜いてゆく。彼の眼の後ろには一点の汚れた心なく、彼の手には一点の貪婪《どんらん》のしみもない。「クヌルプ」とは、人に美と悦びとを贈るために一生を献げた人の名前であり、運命であり、文学であった。それ故に、神すら、彼のしたことを、最後の問答の中で「それでよいのだ」と肯定しているのだ。
ゲーテも、ヴァレリーも、「蜜蜂」に対して、特に深い愛と関心とをもっていた。――というのは、蜜蜂は、あらゆる美の上に舞って、全ての美を知悉《ちしつ》して、美を集約する生きものであるから。彼こそ最も完全な美の贈与者であり、最も自由な美の漂泊者であるから。「クヌルプ」は、そういう漂泊者の中の一人である。
「クヌルプ」の中の三つの作品は、どれも珠玉のような、輝く完璧の「小説」だ。しかし、ヘッセは、ゲーテや、ケラーのように、最も至純な「告白」であるというドイツ文学の伝統を継ぐ者であることはいうまでもない。ヘッセは、美しい、堅実なドイツの神学の名家に育ち、きびしい神学の教育を受けてきた。彼に欠けているものは、何一つないように思われる。しかし、彼の本当の心は、別のところに生い育っていた。それは牧場の野の花のように、うだるほど日の光を吸い、静かに美しい自然の神の生命をかたどりながら開花しようとしていた。彼はもっと大きな、美のために生育しようと思い、夢見てみた。彼の心は「以上」の人であり、「以上」のものになろうと叫んでいた。こういう人にとっては、周辺の世界は、いつもきまって偏狭な桎梏《しっこく》でしかありえない。彼は絶えずそこから逃亡しなければならぬ人であり、俗世の側《わき》に立つ人であるよりほかに仕方ない。彼の求めるものは、彼自身の完成なのであり、自分の課題を果たすことなのだから。彼の謎は彼自身の手によって啓《ひら》くよりほかに仕方ないのだ。こういう理由から、何度か彼は学校や、家庭から脱出した。あるときは、帽子も、マントも、金もなく、野の中の藁の中に倒れてねていた。彼にとってはどんな秩序も、「家」という殻さえ、新しい生命を育くむためには邪魔ものであった。
彼自身が美しいボーデンゼーの湖畔に家を構えるようになってからも同じことだった。湖畔の美しい家も、庭園も、静かな居間の部厚い樫のテーブルも、真鍮のランプも、湖水での帆走や釣りも、詩人の心を引き留めることはできなかった。彼の心はただ漂泊と遍歴の思いでいっぱいだったし、ふと遍歴者などが訪ねて来ると、詩人は、まるで王者でも訪ねて来たかのような羨望をもって見送るのだった。「遍歴と異郷とは、何と美味なことか、それは郷愁や、窮乏や、不安に虐《さいな》まれてはいるだろうけれども。それでもなお、――何という甘美な味がすることか」そのふしぎな追憶と憧憬と決意とは、いっそう彼の心の中に募《つの》り、限りなく彼の心の中をかき乱し、重苦しい熱をもたせるのだった。「この生命の声がどうしても僕を呼び、僕を叱責してやまない」と詩人は書いている。「そして、それが僕を、これまで見たこともない未知未聞の、もっと淋しい、もっと暗い、静かな道へ、導いてゆくのだ」
ヨーロッパと、チロルと、ボーデン湖畔とは彼の望む全てのものを与え得たに違いない。――しかもなお、彼は一九一一年、全てを措いて、印度へ向って旅立つのであった。フロベールや、ジッドがアフリカに旅立たないではいられなかったように。彼の「シッダールタ」はこのようにして生まれたのである。
*
第一次世界大戦の殺戮は詩人からも多くのものを奪い去った。彼はもう精神的に、破滅の一歩手前まで来ていた。しかも、この絶望の中から、彼は、悲しい人々を慰めようとして、次のような詩を書いている。
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さすらいの旅のために(クヌルプの思い出)
哭《な》くな人よ。やがて夜
待つ間もなく訪れんもの
夜くれば、蒼ざめし丘の上に
冷やかに、月じろの光も上り
ひそやかに、傾きて
笑みかけるべし
やがて、人、みな手をとりて
憩わん時も来んもの
哭くな人よ。待てしばし
やがて、我も人も
ともどもに墓場に眠る
時も来んもの
冴え月の明きに映えて路の辺《べ》に
わが白き十字の墓の肩並べ
居並ぶ時もやがて来るべし
時雨《しぐれ》ては、また雪降りて
嵐しては、また晴れもゆく
わが墓の上に
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ヘッセの評伝を書いたフーゴー・バルは、このヘッセの詩をゲーテの有名な「全て木ずえの上に、休みあり」の詩と比較して、決してゲーテに劣るものではない、と言っている。
*
私はただ自分の訳文の拙なさを嘆くだけである。翻訳という仕事は音楽の演奏と同じように再現芸術であり、演奏芸術だ。この意味から言って、私の仕事はいくらかの意味をもちうるものだと信じている。
一九五○年五月五日