知と愛(ナルチスとゴルトムント)
ヘルマン・ヘッセ/永野藤夫訳
目 次
知と愛(ナルチスとゴルトムント)
解説
[#改ページ]
マリアブロン修道院の入口は、小さい二重の円柱に支えられたアーチになっていて、その前の道ばたに、カスターニエンの木が一本、ぽつんと立っている。昔、誰かがローマに巡礼したとき、はるばる南国から一本だけ移しうえたもので、がっしりした、立派なカスターニエンになっていた。そのまるい梢《こずえ》は、道の上にやさしくかかり、風の中で胸をふくらませて呼吸している。春になって、まわりのものがみな緑になり、修道院のくるみの木さえ、とうに赤みがかった若葉をつけても、まだなかなか芽も出さず、夏至《げし》の頃になると、むらがった葉のあいだから、やっとくすんだうす緑に輝く、見なれない花をさかせ、なにかいましめ、胸苦しくさせるように、にがっぽい香りをただよわせた。十月になって、果物やぶどうの収穫がすむと、黄ばんだ梢から、秋風につれて、とげのある実を落とした。実は毎年熟すわけではない。修道院附属学校の子供たちは、この実をけんかじかけでとりあい、イタリア人の副院長グレゴールは、私室の暖炉でそれを焼いてたべた。この美しい木が、梢を修道院の入口の上になびかせているさまは、異様で、物やさしげだった。心やさしく、寒がりやの、この異国からの客は、入口のほっそりした砂岩の二重の円柱や、上部のドーム形の窓、飾縁《かざりべり》、柱などの石で彫《きざ》んだ飾りに、どこか似ているところがあり、ラテン人の血を引くイタリア人たちには、いつくしまれ、土地の人々には、異国の木として、物珍らしがられた。
この異国の木の下を、すでに幾代もの生徒が往き来した。石盤を抱え、おしゃべりし、笑い、たわむれ、けんかをしながら。季節に応じて、あるいははだしで、あるいは靴で。花をくわえ、くるみをかみ、まるめた雪の玉をもって。たえず新しい生徒がやってきて、数年たつごとに、顔ぶれはすっかり変ったが、たいていは皆よく似ていた。ブロンドの巻き毛だ。かなりの生徒は修道院に残り、修練士になり、修道士になり、剃髪《ていはつ》を受け、修道服を身にまとい、書物に読みふけり、教壇に立ち、年老いて、死んでいった。他の生徒は、卒業すると、両親に迎えられ、お城へ、店へ、仕事場へもどり、世間に出て行き、遊び、働き、いつか修道院をたずねることもあった。父親になって、子供を入学させよう、と神父たちのところへつれて来て、ほほえみながら、感慨ぶかげに、しばしカスターニエンを仰ぎ見て、また姿をけした。修道院の私室と広間の間に、重々しい丸窓と赤い石造りのがっしりした列柱の間に、生活、教育、研究、管理、支配があった。種々の芸術と科学が、ここで行われ、幾世代ものあいだうけつがれた。聖俗、明暗、とりどりの学問である。本が書かれ、註釈がくわえられ、体系が考案され、古典が集められ、絵がかかれ、人々の信仰がつちかわれ、ほほえみをもって迎えられた。博学と信心、素朴と狡猾《こうかつ》、福音書の智とギリシア人の智、善悪の魔法、何でもここではたいてい行われており、あらゆる事をする余地があった。俗世をのがれ、罪をつぐなうこともできたし、社交と歓楽の生活を送ることもできた。その傾向のどちらが優勢になるかは、その時々の院長や世相次第だった。ある時は、悪魔に通じた祓魔《ふつま》師がいるために、ある時は、すばらしい音楽のために、ある時は、病気を治し、奇蹟を行う聖人のような神父のために、ある時は、≪だつ≫のスープや鹿のレバーのパイのために、修道院はそのつど有名になり、多くの人々を集めた。信心深かったりそうでなかったり、断食をしてやせていたりふとっていたりする、多くの修道士や生徒の間に、また修道院にやって来て、生活し、死んでいった多くの人々の中には、誰にでも愛されたり、こわがられたりする人、えらばれた者のように思える人、同時代の人々が忘れられてしまっても、長いことうわさされるような人、こういったふうの特別の人がきっとあった。
その頃もまた、マリアブロン修道院に、老若二人の特別な人物がいた。修道院の私室、聖堂、講堂にむらがる多くの人々の間に、誰にも知られ、注目されている者が二人あった。老修道院長ダーニエルと若い生徒ナルチスである。修練士になったばかりの若いナルチスは、特別の才能に恵まれていたので、前例をやぶって、特にギリシア語を教える教師にされていた。この院長と修練士は、修道院の名士で、人々に観察され、好奇心の対象となり、驚嘆され、ねたまれ、ひそかに中傷されもした。
院長はたいていの人に愛され、敵をもたず、善良、素朴、謙遜《けんそん》さながらの人物だった。だが、修道院の学問のある人々だけは、彼を愛しながらも、いくらか軽く見ていた。ダーニエル院長は聖人かもしれないが、決して学者ではなかったからだ。彼の特長は、賢明といえる素朴さだった。ラテン語はまあまあというところだが、ギリシア語は全然だめだった。
ときどき院長の単純さを笑う一部の人々は、それだけに神童ナルチスにひきつけられた。優雅なギリシア語をあやつり、騎士のように非のうち所のない態度を保ち、静かな鋭敏な哲人の眼と、薄いきっとむすばれた美しいくちびるをもった、この美しい若者にみせられた。彼がギリシア語の天才であるのを、学者たちは愛した。ノーブルでデリケートなのを、ほとんどすべての人々は愛し、彼にぞっこんほれこんでいる者も多かった。あまりにも物静かで自制し、宮廷式に典雅にふるまうのを、きらう者もかなりあった。
院長と修練士は、それぞれ選ばれた者の運命をにない、それぞれに支配し、悩んだ。二人は他の修道院の人々よりも、たがいに親しく、愛着しているのを感じた。それでも、二人はたがいにほんとに理解し、あたたかく愛しあうことができなかった。院長はこの弟子を、慎重に用心深くあつかい、まれに見る、デリケートな、早熟すぎるかもしれない、あぶなげにも思えるような兄弟として、彼のめんどうをみた。この弟子は院長の命令、忠告、賞賛はなんでも、申し分のない態度で受け容れ、決して反対しなかったし、気分を害することもなかった。院長のめがねに狂いはなく、弟子の唯一の欠点は高慢だったが、彼はこの欠点をたくみにかくすことができた。彼には非のうちどころがなく、完全な人間で、すべての人々にまさっていた。だが、学者以外に、彼の親友はほとんどなかった。彼は冷気のような気高さに、つつまれていた。
院長が告白の後でナルチスに話しかけた。
「ナルチス、実は、お前に手ひどいことを、言わなくちゃならんのだが……。お前が高慢に思えることが、よくある。あるいは見当ちがいかもしれん。お前はひとりぼっちだ、若い兄弟よ。たったひとりで、ほめてくれる人はあっても友達がない。時々お前をしかる折があったらと、よく思うくらいだ。が、そんな折はない。お前くらいの若者にありがちのように、よく無作法であってくれたら、と思うこともよくある。が、お前は決してそうじゃない。ナルチス、お前のことがいくらか心配になることが、時々あるのだよ」
弟子は黒い眼を見開いて、老院長をみた。
「院長様、わたしは御心配をおかけしないようにと、いつも念じています。院長様、多分わたしは高慢でしょう。お願いです、それを罰してください。自分で自分を罰しようかとさえ、時々思うくらいなのです。院長様、孤独な修道生活をさせてください、それとも、もっと下級の仕事をさせてください」
院長はいった。「兄弟よ、いずれにせよ、若すぎる。それに、お前は語学と思索に長じているのだよ。下級の仕事をさせるなら、神の与え給うた贈物を、いなむことになろう。どうも、お前は学問のある教師に向いてるようだが、自分でも希望しないかな」
「院長様、すみません、自分の希望がそんなにはっきりわかっていないのです。わたしはいつまでも向学心をもっているでしょう、きっとそうでしょう。でも、学問の虫になりきってしまおうとは思いません。人の運命や天職を決定するものは、必ずしも希望ではなく他のもの、あらかじめ決められた事であるかもしれませんから」
院長は真顔できいていた。それでも、老いの顔にほほえみをうかべながらいった。
「わたしが今迄経験した限りでは、わたしたちは誰でも、特に若い頃には、いくらか神のみ旨《むね》とわたしたちの希望を、とりちがえがちなのだ。だが、お前は自分の天職が、あらかじめわかるというのだがら、聞かせてもらおう。いったい何が天職なのかね?」
ナルチスは黒い眼を半ばとじ、眼は長い黒いまつげの下にかくれた。彼はだまっていた。
「どうだ、いってごらん」院長はしびれをきらしてうながした。低声《こごえ》で、うつむいたまま、ナルチスは話しだした。
「院長様、わたしは第一に、修道生活をするように決められている、と思います。わたしは修道士になり、司祭になり、副院長になり、あるいは院長になるかもしれない、と思います。そう希望するから、そう思うのではありません。地位をえよう、と希望しているのではありません。でも、そういう地位につかされるでしょう」
長いこと、二人は黙っていた。
老院長がためらいながらたずねた。「どうしてそう思うのかね。お前には学問があるが、その他にどんな特長があって、そんな信念を口にするのかね?」
ナルチスはゆっくり答えた。「それは、わたしが人の性質や天職を、それも、自分のものだけではなく、他人のものまでも感じうるという特長です。この特長のために、わたしは他人を支配することによって、他人に奉仕しないわけにはいかないのです。わたしは、生れつき修道生活に定められていないとすれば、裁判官か政治家に、ならなければいけないでしょう」
院長はうなずいた。「そうかもしれない。人やその運命を知る能力を、実際ためしたことがあるかね」
「ためしてみました」
「たとえば、どんなことかね、いってごらん」
「はい」
「よし。兄弟たちの秘密に、ことわりもなしに立ち入りたくはないから、わたしについて、お前の院長のこのダーニエルについて、知ってることを言うのなら、いいだろうが」
ナルチスは眼をあげて、院長の眼をのぞきこんだ。
「院長様、御命令ですか」
「そうだ」
「院長様、話しづらいです」
「しいて言わせるのは、わたしにもつらい。いってくれないか」
ナルチスはうなだれて、ささやくように話しだした。「院長様、あなたのことは、ごくわずかしか知りません。あなたは神の下僕《しもべ》で、大修道院を管理されるよりは、山羊を飼い、隠遁《いんとん》して鐘をつき、百姓たちの告白をききたい、と思っておられます。特に聖母を信心し、心から崇敬しておられます。この修道院で研究されているギリシアや他の学問が、あなたにゆだねられた人々の魂を迷わせたり、あやうくしたりしないように、と祈っておられることも、時々あるようです。時には、グレゴール副院長に腹をたてないように、と祈っておられます。時には、安らかな臨終のために、祈っておられます。祈願はききとどけられ、御臨終はきっと安らかであると信じます」
院長のせまい応接室は静かだった。とうとう老院長がいった。
老院長はおだやかにいった。「お前は空想家で、錯覚を起している。敬虔で好意のある眼だって、あてにはならないものだよ。お前もわたしのように、そんなものはあてにしないがよい。――空想家よ、わたしがこの事を心でどう考えているか、わかるかね」
「院長様、とても好意をもって考えておられるのが、わかります。あなたはこうお考えです。『この若い生徒はちょっとあぶない。錯覚を起している。考えすぎているのかもしらん。罰してやる方がいいかもしらん。害にはなるまい。だが、この男に課す罰を、自分でも受けよう』――あなたは今こう考えておられるのです」
院長は立ち上り、出て行くように、にこにこしながら修道士にめくばせした。
彼はいった。「よろしい。若い兄弟よ、眼の力をたのみすぎてはいけないよ。神様はわたしたちに、そんなこととは別な、たくさんのことを求められる。お前は一人の老人に向って、きっと安らかな御臨終ですと、うけあって、おべっかをつかったことにしよう。そして、老人はそれを聞いて、ちょっとよろこんだと、いうことにしよう。もうよい。あすの早ミサのあと、念珠《ロザリオ》の祈りをしなさい。へりくだって、心をこめて祈りなさい、口先だけではいけない。わたしもそうしよう。ナルチス、さあゆきなさい。とっくり話したからね」
ダーニエル院長はある時、教案のことで対立した一番若い教師の神父とナルチスの間を、調停せねばならなかった。ナルチスは十分な理由をあげて、授業をいくらか変えねばならない、と熱心に主張した。だが、ローレンツ神父は一種の嫉妬から、それに同意しようとはせず、議論がむしかえされるごとに、気まずい沈黙と不平不満の幾日かがつづいたが、ナルチスはある時、自分の主張が正しいと確信したので、また議論を始めた。とうとうローレンツ神父は、感情を害したらしく、こういった。「さて、ナルチス、口論はよそう。いいかね、決定権はぼくにあって、君にはないのだ。君はぼくの同僚ではなくて、助手だから、ぼくに従わねばならないのだ。だが、君は問題を重視しているし、ぼくは職権上は別だが、学問や才能では、君に及ばないのだから、自分で問題を解決しようとは思わない。院長様にお願いして、解決してもらおう」
二人は問題を持出し、ダーニエル院長は、この二人の学者の文法教育法の議論を、じっと親切にきいてやった。二人が理由をあげて、意見を詳しくのべる、と老院長は二人をうれしげに見やり、しらが頭をちょっとふって言った。
「兄弟たちよ、お前たちは、わたしがこの問題を、お前たちのようにわきまえている、とは思っていないだろう。ナルチスが学校のことをそんなに熱心に心にかけ、教案を改良しようと努力しているのは立派なことだ、が、上長者が意見をことにしている時は、黙って従わねばならない。学校がどんなに良くなっても、そのために修道院の規律と従順の掟《おきて》が破られるなら、うめあわせがつかないだろう。ナルチスが服従することを知らないのはいけない。お前たち若い学者に、お前たちより愚かな上長者がいてくれたらなあ、と思っている。高慢には一番よい薬になるからだ」
こんな気のいい冗談をいって、院長は二人を去らせた。だが、彼はしばらくの間は、二人の教師の間がうまくいっているかどうかを、忘れずに注意していた。
さて、多くの顔を送り迎えた修道院に、新顔が一つあらわれた。目立ちもせず、すぐにまた忘れられてしまうような顔ではなかった。それは、前もって父親が申しこんでいた少年で、ある春の一日、附属学校に入学するために、馬でやって来た。少年と父親は、カスターニエンに馬をつないだ。門番が玄関に出迎えた。
少年は冬がれの木を見上げて言った。「こんな木は始めてだ。きれいな変った木だなあ。なんていう木だろう」
心配性で、こころもちしかめ面の中年の父親は、少年の言葉にとんじゃくしなかった。が、すぐ少年が気にいった門番が、木の名を教えた。少年は親しげに礼を言い、握手していった。
「ゴルトムントです。この学校に入るんです」
門番は親しげに彼に向ってほほえみ、来客を案内して、玄関をぬけ、広い石段をのぼっていった。ゴルトムントはためらわずにここで出会った二つの物、木と門番は、自分の友達になったのだと思いながら、修道院に入っていった。
やって来た二人は、まず校長に迎えられ、夕方には、修道院長にも会った。そのつど、官吏の父親は息子のゴルトムントを紹介し、世話を願った。彼はしばらく修道院の客になるようにすすめられたが、一晩だけお世話になって、明日は帰らねばなりませんと答えた。彼は乗って来た馬の中の一頭を、修道院に寄附したいと申しでて、受納してもらった。神父たちとの話は、上品に、冷やかに進んだ。だが、院長も校長も、うやうやしく黙っているゴルトムントを、このましげに眺めていた。かれんな少年は、すぐおめがねにかなった。その翌日、父親が帰っていっても、彼らはいっこう平気で、息子が残ったのをよろこんだのだった。ゴルトムントは先生たちに紹介され、生徒の寝室にベッドを与えられた。彼はうやうやしく、顔をくもらせ、馬でもどってゆく父親に別れをつげ、その後姿が修道院の前庭のせまいアーチをぬけ、穀倉と水車場の間に見えなくなるまで、じっと見送っていた。彼がふりかえった時、長いブロンドのまつげに、一滴の涙が光っていた。その時すでに、門番が愛|撫《ぶ》するかのように彼の肩をたたいて、彼を迎えた。
門番はなぐさめ顔でいった。「若い生徒さん、べそをかいちゃいけないよ。たいてい始めのうちは、すこしホームシックにかかって、お父さんや、お母さんや、兄弟が恋しくなる。でも、ここだって住めば都、なかなか快適なのがすぐわかるよ」
少年は答えた。「ありがとう、門番さん。ぼく、兄弟もお母さんもないんです。お父さんだけなんです」
「そのかわりここには、友達も学問も音楽も、君の知らない新しい遊びもあるよ。みんなすぐにわかるさ。かわいがってくれる人がほしかったら、わたしん所へきたらいいよ」
ゴルトムントは、ほほえんでいった。「ありがとうございます。ぼくをよろこばせてくださるんでしたら、父のおいていった馬が、どこにいるか、すぐ教えてください。行ってどんなぐあいか、見てみたいんです」
門番はすぐ彼を穀倉のそばの厩《うまや》につれていった。そこのなまぬるいうすくらがりの中は、馬と馬糞と大麦のにおいがした。ゴルトムントは馬棚の一つに、昨日乗ってきた栗毛をみつけた。もう彼をみつけて、さしのべた馬の首を、両手で抱き白星のある広い額にほおずりをし、やさしくなぜながら、耳にささやいた。
「やあ、ペットのブレス、どうだい。やはりぼくがすきかい。餌はどうだい。お前もやはり家が恋しいかい。ブレス、ねえお前、お前が残ってくれて、うれしいよ。時々みにきてやるよ」彼は袖の折返しから、しまっておいた朝食のパン切れを取り出して、ちぎって馬にたべさせた。馬に別れた彼は門番について、一方に菩提《ぼだい》樹の繁っている大都会の広場のように広い中庭を通っていった。中の入口で、門番に礼をいって、握手したが、きのう教えられた教室へ行く道を忘れてしまったのに気づき、にっこりして顔を赤らめ、門番にまた案内してくれるようにたのんだ。門番はよろこんで案内してくれた。十二、三人の生徒が坐っている教室に入ると、助教のナルチスがふりむいた。
「新入生のゴルトムントです」と、彼はいった。
ナルチスはちょっと会釈し、にこりともせずに、うしろの席につくように命じ、すぐ授業をつづけた。
ゴルトムントは席についた。彼は、自分といくらも年のちがわない若い先生をみてびっくりし、この先生が美しく、ノーブルでまじめで、しかも魅力があり、人好きがするのをびっくりもしたし、ひどくうれしくも思った。門番はかわいがってくれるし、院長は親切にしてくれるし、おまけに、厩には故郷の一部ともいえるブレスがいる。そして、今ここにはびっくりするほど若い先生がいる。学者のようにまじめで、王子のように立派な先生が……。その声はおさえられ、冷たく、むだのない、人を信服させずにはおかない声だった。彼は何を教えているのか、すぐにはわからなかったが、よろこんできいていた。気持がよかった。良い、やさしい人たちの所へきたのだ、この人たちを好きになり、友達になってもらおうと彼は考えた。朝ベッドの中で眼をさますと、胸苦しかった。長い旅の疲れもまだ残っていた。父と別れるとき、べそをかきかけたのも、無理はなかった。だがもう今はいい。彼は満足していた。彼は長いことあかず、若い先生をみつめていた。その端正で、ほっそりした姿、冷たく光る眼、明確に一語一言話す、きゅっとひきしまったくちびる、抑揚にとんだつかれを知らぬ声をたのしんだ。
授業がすんで生徒たちががやがやと立ち上った時、ゴルトムントはびっくりし、かなり長いこと眠っていたのに気づいて、ちょっと赤くなった。彼だけがそれに気づいたのではなく、隣の子供たちも気づいて、次々に耳うちした。若い先生が教室を出てゆくと、仲間たちは方々からゴルトムントを押したり、ひっぱったりした。
「寝たりたかい?」と、一人が歯をむきだしてたずねた。
一人があざけった。「優等生だぞ! すごい神父さんになれるぜ。はなっから、ぐうぐうだからな!」
「チビめをねかせてやれ」と、一人が言いだし、皆で手どり足どり、大はしゃぎで彼をかついで行こうとした。
おどされたゴルトムントは、かっとなった。手当り次第になぐりつけ、身をもぎはなそうとしたがポカポカなぐられ、ついに投げだされたが、誰かにまだ足を一本つかまれていた。彼は強引に足をふりきると、出会いがしらに誰彼の区別なくとびかかり、たちまち大立回りを演じた。敵は強い奴で、皆は一騎うちをわくわくしながら見物した。ゴルトムントも負けてはいず、二三発すごいのをくわせると、誰一人名さえ知らない仲間の中に、もう味方がいくらかできた。ところが、突然、みなくもの子をちらすように逃げだした。誰もいなくなったと思うと、校長のマルティーン神父が入ってきて、ひとり残った少年の前に立った。彼はけげんそうに、少年の顔を見つめた。少年の青い眼は、散々になぐられてまっ赤にほてった顔から、おずおずとのぞいていた。
校長がたずねた。「うん、どうしたの。ゴルトムントだったね。怠け者どもが、どうかしたのかね?」
少年はいった。「いいえ、彼と話をつけたんです」
「誰とかね?」
「わかりません。まだ誰の名もしりません。誰かがぼくの相手です」
「そうか。相手が手をだしたのか?」
「わかりません。いや、ぼくの方からかと思います。みんなでからかったので、怒ったんです」
「そうかね、始めっからたいしたものだ。だが、いいかね、こんどこの教室でなぐりっこをしたら罰するぞ。さあ、おやつに行きなさい」
彼は、ゴルトムントが乱れた明るいブロンドの髪を指でむぞうさにかきあげながら、恥ずかしそうに走り去るのを、ほほえんで見送った。 ゴルトムントとて、修道院生活の始めにやったことが、ほんとに悪い、馬鹿げた事だと思っていた。彼はおやつの時仲間に会って、後悔の念を禁じえなかった。だが、彼は尊敬と友情をもって迎えられ、騎士らしく立派に敵と和解し、その時から、このグループに歓迎されるのを感じた。
[#改ページ]
彼はそのうち皆と仲良くなったが、親友はそうすぐにはみつからなかった。特に同類項で、心をひかれるようなのは、仲間の中には一人もなかった。彼らがびっくりしたことには、たのもしい乱暴者かしらんと思われたあの勇敢な闘士は、むしろ模範生の評判をえようとしているらしい、ひどくおとなしい生徒だった。
ゴルトムントが心をひかれ、好きになり、いつも想いつづけ、ほめそやし、愛し、尊敬した人が、修道院に二人あった。ダーニエル院長と助教のナルチスだった。彼は院長を聖人だと、思いがちだった。その単純さと善良さ、すんだ注意ぶかいまなざし、職務として謙遜に命令し管理するやりかた、立派で物静かな態度、すべてが彼をひどくひきつけた。彼はこの敬虔な院長の下僕になり、いつも身のまわりをまめやかに世話し、子供らしい帰依《きえ》献身の熱望をたえざる犠牲として彼に捧げ、清く気高い聖人のような生活を、彼から学びたかった。ゴルトムントは修道院附属学校を卒業するだけでなく、できることならずっと修道院に残って、生涯を神に捧げたいと、思っていたからだった。それは彼の考えでもあり、父の希望、命令でもあったし、神のみ旨でもあったろう。輝くばかりの美少年を見て、そうと思う者は誰一人いなかった。だが、彼は一つの重荷をせおっていた。生立ちの重荷、贖罪《しょくざい》と犠牲のひめられた運命である。ゴルトムントの父は、いくらかそれを院長にほのめかし、息子が永久に修道院にとどまってくれることをはっきり口に出して希望したのだったが、院長もはっきりそのことをのみこんでいたわけではなかった。ゴルトムントの出生には、何かうしろぐらい点があるらしかった。なんらかの秘密が贖罪を求めているらしかった。だが、院長は父親が好きになれなかったので、その話やもったいぶった態度にていねいにではあるが、冷ややかに対応し、彼がほのめかして言ったことに、たいした意味をみとめてなかった。
ゴルトムントの愛をめざめさせたもう一人の方は、もっと深く見ぬいて、もっと何物かを予感していたが出しゃばらなかった。どんなあいらしい金の鳥がとびこんできたか、ナルチスにはよくわかった。孤高な彼は、すぐにゴルトムントに近しさを感じた。あらゆる点で正反対のように思えるのに、ナルチスは陰うつでやせているのにゴルトムントは輝くばかりで、花咲けるが如くだった。ナルチスは思想家で分析家なのに、ゴルトムントは夢想家で、まだ童心をもっているらしかった。が、この対照には共通点があった。二人とも気高い人間であり、著しい才能と特長の点で衆にぬきんでており、運命の特別の警告をうけていた。
ナルチスはこの若い魂に身内がもえるような愛着を感じ、その性質と運命をすぐのみこんでしまった。ゴルトムントはその美しい、すごくできる先生を熱烈にたたえた。だが、ゴルトムントははにかみやだった。根《こん》かぎり勉強して注意ぶかく、よくできる生徒になりナルチスに気に入られるほか、どうしようもなかった。それは、はにかみやのせいばかりで、ひかえめにしていたのではなかった。ナルチスが自分には危険な存在である、と感じてもいたからだ。彼は人のよい謙遜な院長と、利口すぎて理智的な学者のナルチスを、同時に理想とし、模範とすることはできなかった。それでも、彼は一致しがたい二つの理想を求めて、若さの精根をかたむけた。このために苦しむことが時々あった。入学して一カ月の間は、ゴルトムントはよく心をみだされ去就にまよい、逃げだしたいとか、仲間と遊んで悩みと怒りのはけぐちを求めたいという、誘惑にかられた。人のよい彼は、ちょっとからかわれたり、乱暴をされたりすると、不意にかっとなることがよくあり、やっとそれをがまんし、眼をつむり、まっさおになって黙ってそっぽをむいた。そして、厩にブレスをたずね、その首に顔をよせ、キッスして泣いた。その苦しみは日ましにひどくなり、人眼につくようになった。ほおはこけ眼は光を失い、皆に愛された笑いはめったに見られなくなった。
彼自身は自分のことを知らなかった。自分ではけなげにも、良い生徒になり、すぐ修練士になり、やがて神父たちの敬虔で物静かな兄弟になりたいと思い希望していた。自分のすべての力と才能が、この敬虔でおちついた目的に向いていると、信じていた。彼はそれだけに熱中した。だから、このやさしい、美しい目的が高嶺の花だと思いしらされるのは、彼には納得がいかなかったし、情なくもあった。いやらしい傾向や状態があるのに気づいてがっかりしたり、不愉快になったりすることがよくあった。勉強中に気がちったり、いやけがさしたりした。授業中にかってな事を夢見たり、空想したり、ねむけがさしたりした。ラテン語の先生がいやで反発した。仲間を気にして、いらいらしたりした。ナルチスへの愛と院長への愛が、どうしてもしっくりいかないことが、一番心を乱すもとだった。それでも、ナルチスが愛してくれ、関心をもってくれ、期待してくれていると、はっきり感じられることがよくあった。
少年が予感していたよりもずっとナルチスは少年のことを思いつめていた。彼は愛くるしい明るい少年を友人にしたいと思い、この少年こそ自分に正反対な、自分を補って完全にしてくれる者だと予感し、できることなら、この少年のめんどうをみ、導き、啓蒙し、向上させ、花咲かせてやりたかった。だが、彼は遠慮していた。それにはいろいろ理由があり、自分でもおよそそのことは気づいていた。まず、生徒や修練士を溺愛《できあい》する先生や修道士が少くないのをきらう彼の気持が、彼をじゃましたのである。彼自身、中年の男たちの意味ありげな熱い視線を感じ、いやな思いをすることが多く、その親切や愛撫をだまって受けつけなかった。今は、彼らの気持が少しわかってきた――彼もまた、かわいらしいゴルトムントを愛し、あでやかに笑わせ、明るいブロンドの髪をやさしくなでてやりたい誘惑を感じていたのだから。だが、彼はそうはしないだろう、絶対に。それに、彼はなんの職権もない。名だけの助教として特に用心ぶかくすることになれていた。いくらも年のちがわない生徒に対して二十歳も年長者のようにふるまい、生徒には絶対にひいきをせず、いやな生徒でも、つとめて公平にめんどうをみることになれていた。彼が奉仕するのは精神であり、彼の厳しい生活は精神に捧げられており、誰にも見られていない時にだけひそかに、彼は自分の高慢、博識、多才を思いたのしんだ。いや、どんなにゴルトムントと友達になりたくとも、それは危険だった。友情を生命の中心にふれさせてはならないのだ。彼の生命の中心と意味は、精神への奉仕、神への奉仕である。まかされた生徒を――生徒だけに限らないが――平静に、超然と、私利私欲をはなれて、高い精神的な目的に導くことである。
ゴルトムントがマリアブロン修道院学校に入学してから、一年以上たった。彼はもう何度も、庭の菩提樹や美しいカスターニエンの下で仲間とかけくらをしたり、ボール遊びをしたり、泥棒ごっこをしたり、雪合戦をしたりした。春になっていた。が、ゴルトムントはつかれて気分がわるかった。よく頭がいたくて、学校で注意を集中しているのが骨だった。
その頃のある夕方、アードルフが彼に話しかけた。あの時、初対面からなぐりあい、この冬から、いっしょにユークリッド幾何をならいはじめていたあの生徒である。夕食後に廊下で遊んだり、生徒の部屋でおしゃべりをしたり、修道院のそと庭を散歩したりしてもよい休み時間だった。
彼はいっしょに階段を下りながらいった。「ゴルトムント、面白いことがあるんだが。でも、君は模範生で、いつかきっと司教様になるつもりなんだからな――まず、友情を守り先生に告げ口をしない、と約束しろ」
ゴルトムントはすぐ約束した。修道院の面目があれば、生徒の面目もあって、二つのものが時々一致しないのを彼は知っていた。世の習いとして不文律は成文法より強力だった。彼は生徒である限り学生の掟《おきて》と面目の観念から、まぬがれることはできなかっただろう。
アードルフはひそひそ話しながら、彼を玄関から木立の下へつれていった。アードルフには何人かの立派な勇ましい友人があって、それが先輩の遺風をつぎ、自分たちは修道士ではないというわけで、夜に修道院をぬけだして村へ行くことがちょいちょいある、というのである。いっぱしの奴なら、やらずにはいられない、しゃれた冒険で、夜があけないうちにもどってくるというわけである。
「でも、門がしまっているよ」と、ゴルトムントが口を入れた。
「もちろん、あたりまえさ、そこが面白いところさ。抜け道からそっと入れるんだ。始めてじゃないよ」
ゴルトムントは思い出した。「村へ行く」という言葉は、きいたことがあったが、それは、生徒たちが夜そっと抜け出て秘密の娯しみや冒険を色々やることで、修道院の規則では厳罰をもって禁じられていた。彼はびっくりした。「村へ」行くことは罪であり、禁じられていた。だが、だからこそ危険をおかすことが、「一人前の男」の間では生徒の名誉で、この冒険にさそわれることが、いわば栄誉であることを、彼はよく知っていた。
彼はいやだといって、走りもどって、ねたかった。彼はひどくつかれて、げっそりしていた。午後ずっと頭がいたかった。が、アードルフの手前が、ちょっと気はずかしかった。それに、村には冒険につきものの、なにかすばらしく珍らしいことがあって、頭痛や憂うつやどんな疲れでも、忘れさせてくれるかもしれないのだ。それは世界への門出で、禁じられているのにそっとやるので、そうほめたことではなくとも、一つの解放、体験かもしれない。彼はためらったが、アードルフは説きふせようとした。彼は不意に笑いだし同意した。
彼はアードルフといっしょに、もう暗くなっていた広い庭の菩提樹の間へ、そっと消えていった。庭の門は、もうその頃はしまっていた。友達は彼を修道院の水車小屋につれこんだ。そこは暗くて、たえず歯車がまわっていたから、誰にも気どられずにそこを抜けて行くのは何でもなかった。まっくらがりの中を窓をぬけ、しめってぬるぬるした板の積んである所へ下り、その中の一枚をぬきとり小川にかけて渡った。するとそこは、黒々と見えている森に通じる夜眼にも白い大道だった。万事が刺戟にとみ、神秘的で、大いに少年の気に入った。
森のはずれには、もう仲間のコンラートがいた。長いこと待ったあげく、もう一人、大きなエーバーハルトがばたばたやってきた。四人の若者は森を通っていった。頭上で夜の鳥がさわいだ。星が二つ三つ、静かな雲間に明るくうるんでひかっていた。コンラートがだべり、ふざけ、他の者が時々いっしょに笑った。それでも、不安でおごそかな夜気が皆の上にただよっていた。彼らの胸はどきどきしていた。
小一時間もあるくと、森の向うの村についた。もう村は寝しずまったようで、家の肋材《ろくざい》の見えている低い破風《はふ》が、夜眼にもほの白く見えており、燈火はどこにも見当らなかった。アードルフを先頭に、彼等はそっと黙って何軒かの家のまわりを廻り、生垣をこえ、とある庭に入り、やわらかい苗床にふみこみ、階段につまずき、一軒の家の壁に行きあたった。アードルフは雨戸をノックし、きき耳をたてていたが、またノックした家の内で物音がし、やがて燈火がぱっとついた。雨戸があいて、彼らは順に入っていった。そこは台所で、すすけた煙突があり、土間になっていた。かまどの上には小さな石油ランプがあり、細い芯がうすぐらく、ゆらゆらともえていた。そこにいたやせた百姓娘が、入って来た四人に手をさしだした。彼女のうしろの暗がりから長い黒いおさげの小娘が、もう一人でてきた。アードルフはおみやげに修道院の白パン半分と、何か紙のさいふに入れた物をもってきた。ぬすんだ香《こう》か、ろうそくのようなものらしいと、ゴルトムントは思った。お下げの小娘が、燈火も持たずに手さぐりで出ていって、しばらくすると、青い花模様のある灰色のつぼをもってきてコンラートにわたした。彼はそれを飲んで次にまわした。皆が飲んだ。強いりんご酒だった。
うす暗いランプの光りにてらされて、小さなかたい腰かけにかけた少女たちを中に、彼らは車座になって土間に腰をおろした。ひそひそ話し、あいまにりんご酒をのんだ。アードルフとコンラートが話をはこんだ。時々、誰かが立ち上って、やせた娘の髪やうなじをなで、何かささやいた。小さい方はそっとしておかれた。多分、大きい方が下女で、小さい美しい方が娘だろうと、ゴルトムントは考えた。彼とは無関係なのだから、とにかく、どうでもよかった。どうせ、もう二度とはこないだろうし。そっと抜けだして、夜の森をあるくのは、すばらしく、珍らしく、刺戟にとみ、神秘的で、とにかくあぶなくはなかった。禁制のことではあるが、禁を破りながら、あまりくよくよしなくともよかった。だが、夜ここに少女をたずねたことは、禁制以上で罪であると、彼は感じた。他の者には、このことだってちょっとした女出入りかもしれないが、彼にとっては、そうではなかった。修道生活をし、禁欲を守る決心の彼には、少女と遊ぶことは許されていない。いや、二度といっしょに来まい。だが、彼の胸は、みすぼらしい台所の吊りランプのうす暗い光りの下で、不安げにどきどきしていた。
彼の友達は娘たちの前で、えらぶったり、話にラテン語をまぜたりした。三人とも女中にすかれているらしく、時々彼女によりそって、ぎごちなくすこしずつ愛撫したが、せいぜいのところ、おずおずとキッスするのが、精いっぱいだった。ここで何をしていいのかを、彼らはわきまえているらしかった。そして、何でもひそひそ話さねばならなかったから、その光景たるや、ちょっとばかりこっけいだった。だが、ゴルトムントはそうは感じなかった。彼はじっと土間にうずくまって、一言もいわずに吊りランプのほのおを見つめていた。時々彼は、皆のかわすいちゃつきを、燃えるような眼でちらっと見やった。彼は空を凝視していた。お下げの少女だけを眺めていたかったのだが、決してそうはしなかった。だが、気がゆるんで、おとなしい、かわいらしい少女の顔の方へ眼がひとりでに向いてしまうと、彼女の黒い眼は魅せられたように、彼の顔にいつもじっと吸いつけられているのだった。
一時間もたったろうか――ゴルトムントはこんなに長い一時間を、知らなかった――生徒たちの話や愛撫もつき、ひっそりし、座がしらけた。エーバーハルトがあくびをした。その時、下女がもどるようにいった。皆たち上って、下女に別れのあいさつをした。ゴルトムントがしんがりだった。それからまず、コンラートが窓をこえ、エーバーハルトとアードルフがつづいた。ゴルトムントも窓をこえようとした時、肩先にひきとめられるのを感じた。はずみでどうしようもなかったので、地面に下りてから、おずおずふりかえった。お下げの少女が、窓からのりだしていた。
「ゴルトムント!」と彼女はささやいた。彼は立っていた。
「また来る?」と、彼女はたずねた。はく息のようにかすかな、はずかしそうな声だった。
ゴルトムントはかぶりをふった。彼女は両手をのばして、彼の頭をとらえた。こめかみにふれた小さな手が、あたたかかった。彼女の黒い瞳が彼の眼にくっつくほど、彼女はぐっとかがみこんだ。
「またいらっしゃい!」と、彼女はささやき、くちびるを彼のくちびるにふれて、子供っぽくキッスした。
彼は皆を追って走りだした。庭をぬけ、苗床につまずき、しめった土と肥料のにおいをかぎ、ばらの生垣を超える時、手をひっかき、村をぬけ森の方へかけていった。「もう決して!」と彼の意志が命じた。「あすまた」と、心がせきあげながら懇願した。
誰にも、夜遊び達は出くわさず、無事にマリアブロンへもどった。小川をこえ、水車小屋をぬけ、菩提樹のある広場をこえ、抜け道から庇《ひさし》をこえ、柱で区切られた窓から修道院に入り、そして寝室にもどった。
翌朝、のっぽのエーバーハルトは、たたき起さなければならぬほど、ぐっすりねむっていた。みんな早朝のミサ、朝食のスープ、授業にはおくれずにでた。が、ゴルトムントは顔色が悪かった。マルティーン神父が、病気じゃないか、とたずねるほどだった。アードルフが用心しろと、めくばせしたので、彼は何ともないと、答えた。ひる近くのギリシア語の時間に、ナルチスは彼から眼をはなさなかった。やはり、病気だなと思ったが、何もいわず、じっと様子をみていた。授業が終ると、彼はゴルトムントをよびつけた。そして、他の生徒にわからないように、用事をいいつけて図書館にやり、あとからそこへ行った。
彼はいった。「ゴルトムント、いいようにしてあげようか。苦しそうだね。病気なんだろう。そんなら、病室にやって、病人用のスープとぶどう酒をあげよう。きょうは、ギリシア語が頭に入らなかったね」
なかなか返事がなかった。青ざめた少年は、うろたえた眼つきで彼を見やり、うなだれたかと思うと、また顔をあげ、唇《くちびる》をひきつらせて、なにか話そうとしたが話せなかった。不意に彼はかがみこみ、そばの読書机をかこむようについている二つのかしわ材できざんだ天使の頭の間に、頭をもたせて、わっと泣きだしたのでナルチスは当惑して、しばらく眼をそらしていたが、やがて、泣きじゃくっている少年を助け起こした。
ゴルトムントがきいたこともないほどやさしく、ナルチスはいった。「そう、そう、ね、泣いたらいい。じきよくなるよ。さあ、かけ給え、なにもいわなくともいい。わかったよ、もういいから。君は午前中ずっとがんばって、ちゃんとして、ひとに気づかれないようにしてたんだね。立派だ。さあ、泣き給え、今の君には、一番の薬だからね。え? もういいの。もうしゃんとしたの? さあ、そんなら病室へ行こう。寝れば、夕方までには、きっとずっと良くなるよ。さあ、きたまえ!」
ナルチスはゴルトムントを、生徒の部屋をさけて病室へつれて行き、あいているベッドの一つを指示し、ゴルトムントがおとなしく服をぬぎだすと、彼の病気を校長に報告しに、出ていった。彼は約束どおり、スープと病人用のぶどう酒を一杯あつらえもした。修道院で行われている、この二つの恩恵《ベネフィチア》は、たいていの軽症患者に大いに歓迎された。
ゴルトムントは病床につきながら、平静になろうとした。一時間前なら、なんできょうは、こんなにひどくつかれたのか、何だって死ぬほど緊張して頭をからっぽにし、眼を光らせていたのかを、説明できたかもしれない。昨夜の事を忘れようと、たえずひどく骨折ってみても無駄なことだった――昨夜しまっている修道院を抜け出した馬鹿らしさと面白さ、森をさまよい歩き、黒い水車のかかった小川のすべすべした仮橋を渡ったこと、あるいは生垣をこえ、窓や廊下を通り抜けたことではなく、ただあの暗い台所の窓辺の一瞬、少女と息と言葉、つかんだ彼女の手、彼女の唇とキッスだけが、忘れられないのだ。
だがこんどは、さらに或るものが加わった。一つの新しい恐怖、新しい経験である。ナルチスが彼を世話してくれ、ナルチスが彼を愛し、ナルチスが彼の心をえようとつとめたのだ――うすい唇にあざけりの色をうかべながらのノーブルな秀才の彼が。それなのに、ゴルトムントは彼の前で、気ままにふるまい、恥ずかしがって口ごもり、そのあげく泣きわめいたのだ! ギリシア語、哲学、英雄的な精神、謹厳な修徳などの、いとも高貴な武器で、この優れた人を我物にするどころか、めめしくもみじめに彼の前にかがみこんだではないか。金輪際《こんりんざい》ゆるせないことだ。ナルチスには、顔向けがならないだろう。
だが、泣いたおかげで、ひどい緊張がとけた。ひっそりした部屋の気持よいベッドにねているせいか、絶望感も大分やわらいだ。小一時間もすると、サービス係の修道士が、麦粉スープと白パンと一杯の赤ぶどう酒をもってきた。赤ぶどう酒は祝日にだけ用いられるものだった。ゴルトムントは食事を始めた。半分たべて中休みをし、また考えつづけようとしたが、だめだった。彼はまた皿をひきよせては二口三口たべた。しばらくして、戸がそっとあきナルチスが病人を見舞にきた時には、彼は眠むっており、ほおにはもう血の気がさしていた。長いことナルチスは、愛情とさぐるような好奇心をもって、またいくらかねたましげに彼の顔を見つめていた。ゴルトムントは病気じゃなかった。あすはもうぶどう酒をやる必要はあるまい、と彼は思った。が、呪文がとけ、自分たちは友達になれたことを知った。きょうは、ゴルトムントは自分を必要としているだろう。世話ができるのだ。だがいつかは、彼が弱くなって援助と愛がいるだろう。いつかそういうことになったら、この少年からそれをえることができるだろう。
[#改ページ]
ナルチスとゴルトムントの間に芽生えた友情は、奇妙なものだった。たいていの人は、それに好感をもたなかったし、当人同志も、不快らしく思われることがよくあった。
まず、それが一番つらかったのは、思想家のナルチスだった。彼にとっては、精神が、愛もまた、すべてだった。無考えに愛着するなどは、考えも及ばぬことだった。彼がこの友情の導きてで、長いこと彼ひとりが、この友情の運命や実質や意味を意識していた。長いこと愛しながらも孤独だった。友がそれを認めるまで、導いてやるなら、友は始めてほんとうに自分のものになる、ということを知っていた。熱烈に燃ゆるが如く、たわむれるが如く、何もいわずにゴルトムントはこの新しい生活に身をゆだね、ナルチスはこの運命を意識し、その責任をとった。
ゴルトムントには、それはまず救いであり、治癒《ちゆ》だった。彼の幼い愛の渇《かわ》きは、かわいらしい少女の姿とキッスで、あやしくかきたてられたかと思うと、絶望的に抑えつけられてしまった。これまでのあらゆる人生の夢、信じていたすべての事、神のみ旨によって定められていたすべてが、あの窓辺のキッス、あの黒い眼のまなざしのために、完全にぐらついたのを彼は心の奥底で感じたからだった。彼は修道院に入るべく父に定められ、心から承知し、若い情熱のほのおをもやして、敬虔で英雄的な修徳の理想を、ひたむきにめざしていたのだが、かりそめの始めての出会いに、人生の官能に対する最初の呼びかけをきっかけに、女性の最初のあいさつを受けた瞬間に、ここに敵と悪魔がひそんでいるのを、女性こそ彼の危険であることを、思い知ったのだ。そして、その時、運命が救いの手をさしのべた。その時、この危機一髪の時に、この友情があらわれ、彼の要求に咲きみだれる花園を、畏敬の念に新しい祭壇を与えたのだ。ここでは、愛が許されて、身を捧げても罪にはならず、驚嘆すべき賢明な年上の友へ心を捧げて、官能の危険なほのおを貴い犠牲の火に変え、浄化してもなんの罪にもならないのだ。
だが、この友情が結ばれた最初の春に、もう彼は不思議な妨害に出くわした。思いがけぬ謎のような冷淡さ、おそろしい要求に出くわした。友を反対の物、対極と考えることは、彼には思いもよらなかったからだ。二つのものを一つにし、差別をなくし、対立を橋わたしするには、愛だけが、正しい献身だけがあればよい、と彼には思えた。だが、なんとこのナルチスはきびしく誠実で、明晰で厳格だったろう! 彼には無邪気に身を捧げ、友情の国を感謝しながらいっしょにさまようことは、未知であり、好ましくなかったらしい。あてのない道、夢見ごこちのさすらいは、知らず、我慢がならなかったらしい。ゴルトムントが病気らしかった時、彼は心配してくれ、学校や勉強のことで、熱心に相談にのってやり、教科書のめんどうな所を説明してやり、文法、論理、神学への眼もひらいてやった。それでも彼は、ついぞほんとに友に満足し、友の気心がわかったことはないらしかった。鼻先であしらい、まじめに相手にしていないように見えることがよくあった。これは先生かたぎのためではなく、また年上で頭がよいから勿体ぶっているためばかりでもない。何かもっと意味深長なものが、その背後にひそんでいるのは、ゴルトムントにもよく感じられた。が、それが何かはわからないので、彼の友情がやるせなくなることがよくあった。
ナルチスは友情の何たるかを、実によくわきまえていた。その花咲くような美しさに盲目ではなく、自然な生命力や花のようなゆたかさにも盲目ではなかった。燃えるような若い魂をギリシア語でやしない、無邪気な愛に論理をもって答えるような、教師では決してなかった。むしろ、彼はこのブロンドの少年を、愛しすぎるほど愛していた。それは彼に危険だった。彼にとって、愛することは自然の状態ではなく、一つの奇蹟だったからである。溺愛することは許されなかった。このかわいい眼を気持よげに見つめ、咲く花のように明るいブロンドに近づいて満足していることは、許されていなかった。この愛を受けいれてはならず、一瞬たりとも、官能にとどまってはならなかった。というのは、ゴルトムントは修道士になり、禁欲の生活を送り、聖性を求めて一生努力すべく定められている、と感じていたのに――ナルチスは実際そうすべく定められていたからである。唯一の、至高な愛だけが彼に許されていた。ゴルトムントが修道生活をすべく定められているとは、ナルチスは信じなかった。人並すぐれて人を見る眼をもっていた彼は、愛しているだけに、いっそう鋭く見抜くことができた。彼は自分とは正反対のものではあったが、ゴルトムントの性質をよく理解した。彼自身の性質の、失われた半分だからである。この性質が妄想、誤った育て方、父親の言葉という固い殻につつまれているのを彼は知っていた。この少年の、たいしたものではない秘密の全貌を、彼はとうに予感していた。彼は自分のつとめをわきまえていた。この秘密を当人に打ち明け、殻から解放し、ほんとの性質を返してやることである。それはめんどうだろうし、そのためにこの友を失うかもしれないのが一番苦しいのだ。
実にゆっくりと、彼は目標に近づいた。決心をかためて、二人が立ち入った話ができるようになるまで数カ月かかった。二人は固く友情にむすばれていたが、それでも、心のへだたりは遠く、二つの心には、長い橋がかかっていた。眼あきとめくらのように、二人は並行していた。めくらが眼の見えないのを、全然自覚していなかったのは、せめてもの慰めだった。
まず突破口をひらいたのは、ナルチスだった。なぜ少年があの時、情けなくなった時、感動して彼にたよったのか、という体験を彼はさぐろうとしたのだ。それは、思ったほどめんどうではなかった。とっくにゴルトムントは、あの晩の体験を告白せねばならない、と思っていた。十分に信頼できるのは、院長の他にはなく、院長は彼の聴罪司祭ではなかった。さて、ナルチスが折をみて、始めて親しくなった頃の話をし、それとなく秘密にふれた時、ゴルトムントはかくしだてせずにいった。「まだ先生は神父様でないので、告白をきいていただけないのは残念です。告白して、あの事を忘れたいんです。よろこんでつぐないをしたいんです。でも、告白をきいてくれる神父様には、いえなかったんです」
要心して、上手にナルチスはさぐっていった。およその見当はついた。彼はさぐりを入れた。「病気らしかった、あの朝のことを思い出し給え。忘れているはずはないね。あの時から友達になったのだから。あの時のことを、よく思い出さないわけにはいかなかったよ。君は気づかなかったろうが、ぼくはあの時、どうしていいかわからなかった」
ゴルトムントは、信じられないように叫んだ。「あなたがですって! どうしていいかわからなかったのは、ぼくの方です! つっ立ったまますすりあげ、一言もものがいえず、そのあげく子供のように泣きだしたのは、ぼくだったんです! 今思っても、あの時のことは恥ずかしいです。先生にあわせる顔がない、と思っていました。情けないざまを、見られたんですから」
さらに、ナルチスはさぐりをいれた。
彼は語った。「うん、そうか。不愉快だったろう。君はしっかりした立派な生徒なのに、他人、それも先生の前で泣き、実際君らしくもないことをしたのだから。そう、あの時は、ほんとうに病気かと思った。熱にうかされれば、アリストテレスだって、おかしいことをするからね。じゃ、病気でなんかなかったのだね。熱なんかなかったのだね。それで恥ずかしかったのだね。熱にまけるのは、誰だって恥ずかしくないからね。恥ずかしかったのは、何か別のことに負けたからで、何かにやっつけられたからだね。何か変った事があったのかね」
ゴルトムントはちょっとためらったが、静かに話しだした。「はい、ちょっとした事件があったんです。先生が聴罪司祭のつもりで話します。どうせいつかは、話さねばいけないですから」
うなだれて、彼はあの晩の話をした。
ほほえみながらナルチスは答えた。「そうか。『村へ行くこと』はほんとは禁制だ。でも、多くの禁制を犯しながら、笑ってすませたり、あるいは告白して、そんな事は忘れてしまうことがあるものだよ。大多数の生徒のように君だって、くだらんいたずらをしてはならん、という法はあるまい。いったい、それはそんなにいけないことなの?」
すると、ゴルトムントはひどくかっとなった。「それは先生口調です。何がどうかというくらい、先生だってよく御存知でしょう。修院の規則を馬鹿にして、学生のいたずらをいっしょにやるぐらい、大罪だとは思いません。まさか、そんな事は修道生活の予習には、絶対にならないでしょうが」
ナルチスが鋭くさけんだ。「まて。ねえ君、そういう予習が、多くの立派な神父達に必要だったのを君は知らないな。聖人になる最短コースの一つが、放蕩《ほうとう》生活でありうることを、ね」
ゴルトムントがこばんだ。「もう、いわないで。ぼくの言いたかったのは、ちょっとばかり言うことをきかなかったんで、心をいためているのじゃない、ということです。そんなものじゃないんです。女の子です。どう説明したらいいかわからない気持なんです。もしこの誘惑にまけ、ちょっとでも手をのばして、その少女にふれたら最後、もうもどれない大罪のために、二度と地獄から出られないだろう、という気持なんです。その時には、美しい夢も、徳も、神様と善に対する愛も、すべてがだめになってしまう、という気持なんです」
ナルチスはひどく慎重にうなずいた。
彼は一言一言考えながら、ゆっくり話した、「神への愛は必ずしも、善への愛と一致するものではない。そううまくはいかないのだよ。掟《おきて》の中に善があるのは、わかっている。だが、神は掟の中にだけいますのではない。いいね、掟は神のごく一部なのだ。君は掟を守っても、神から遠くはなれているかもしない」
「わかっていただけないでしょうか?」と、ゴルトムントは訴えた。
「よくわかっているよ。君が『世間』とか『罪』とよんでいるすべての物の中心は、女性や性だ、と君は感じているのだ。他のどんな罪も犯す気づかいはない、と君は思っている。あるいは、それを犯しても、そのために打ちひしがれはせず、告白してつぐなうことができる。だが、この罪だけは、と思っているらしい」
「そうです、そのとおりです」
「ねえ、君のことはわかっている。そう、君のいうことも、いくらか正しい。イブと蛇の話は、実際くだらん話ではないのだ。だが、ねえ君、君はまちがっている。もし君がダーニエル院長様なら、君の霊名の聖人、聖クリソストムスなら、もし司教か司祭なら、あるいはとるにたらぬ単純な修道士であるなら、君の言い分は正しいだろう。だが、君は聖職者ではないのだよ。君は一人の生徒で、たとえ、一生修院にとどまりたいと望み、あるいはお父さんが君にそう望んでいても、君はまだ誓願をたて、修道士になったわけでも、叙階《じょかい》されて、司祭になったわけでもない。きょう明日《あす》にも、かわいい少女に誘惑され、それにまけても、誓いを破ったことにも、誓願をきずつけたことにもなるまい」
ゴルトムントは、ひどく興奮して叫んだ。「書かれた誓願ではないんです! でも、書かれない胸の中の一番神聖な誓願なんです。他の多くの人に許されることが、ぼくには許されないことが、わかっていただけないのですか。先生だって、神父さんにもなってないし、誓願もたててないのに、決して女の人になぞふれないでしょう。ぼくの感ちがいですか。そうじゃない、とおっしゃるんですか。ぼくが考えてるとおりの人じゃないんですか。あなただって、誓いをたてなかったでしょうか。たとえ口に出して、上長の前で誓ったのでなくとも。ずっと心の中にもっていて、そのために永久に義務づけられている、と思ってないでしょうか。ぼくと同じじゃないですか?」
「そうだ、ゴルトムント。君と同じじゃない、君が思っているようにはね。ほんとに、ぼくだって、口に出して誓ったわけではない、君の言う通りだ。でも、君とは決して同じではない。いつか思い当るようなことを、きょういっておこう。ぼくらの友情の、唯一の目的と意義は、君とぼくがどんなに違うかを、君にわからせるということだ!」
びっくりして、ゴルトムントはたたずんでいた。こう語ったナルチスのまなざしと口調には、犯すべからざる何者かがあった。彼は口をつぐんだ。しかし、なぜナルチスはこんなことを言ったのだろう。なぜナルチスの不文の誓いは、彼のものより神聖なのだろう。ナルチスは子供を相手に、ふざけているだけなのだろうか。この奇妙な友情の混乱と悲哀が、新たに始った。
ナルチスは、ゴルトムントの秘密の真相が、はっきりのみこめた。その背後にあるものは、人類の母なるイブである。だが、こんなにかわいい、健康な、咲きにおう花のような少年にめざめた性は、どうして強敵に出会わねばならないのか。悪魔の仕業《しわざ》かもしれない。この姿の見えない敵が、このすばらしい人間を分裂させ、生れつきの衝動にそむかせるのに、成功したのだ。よし、悪魔の正体を見きわめ、祓魔をしてやらねばならない。そうすれば、悪魔をやっつけることができるだろう。
そのうち、ゴルトムントは仲間に次第にさけられるようになり、見捨てられた。いや、むしろ仲間が彼に見捨てられ、いくらか裏切られた形だった。誰も彼とナルチスの友情を、心よくは思わなかった。悪意のある人びとは、この友情を異常なものだと非難した。どちらかに愛着していた人々は、特にそういう態度をとった。そこには何のやましい点もあるはずがないのを、百も承知の人びとも、うたがわしげに頭をふった。この二人が愛し合うのを許す者は、誰もいなかった。二人は貴族らしく結ばれて、高慢にも、好感を持ってない人々を見くだしているらしい。それは同僚らしくなく、修道院生活にふさわしくなく、キリスト教的ではない、というわけである。
ダーニエル院長の耳にも、二人についてのとりどりのうわさや非難や中傷が、聞えてきた。彼は四十年以上の修道生活において、若者たちの交友を色々見てきた。それは修道院によくみられる情景で、ちょっとした附録だったが、時には、ざれごとや危険であることもあった。院長は控え目に、じっとようすをみてはいたが、干渉しはしなかった。こんなに熱烈で排他的な友情は、珍らしかった。しかし、それには少しも不純な点がなかったから、院長は成行きにまかせていた。例外的に、ナルチスとゴルトムントが師弟関係になかったら、院長はためらわずに、二人の間をはなすようにしただろう。ゴルトムントが仲間からはなれて、年上の先生とだけ交るのは、身のためではない。ナルチスは凡庸ではなく、才能に恵まれ、すべての教師たちから精神的に同等の者、いやより優れた者とみなされているのだから、彼が特権を与えられ、助教として働くのをさまたげ、教師の職を免じるのは、よいことだろうか。ナルチスが教師たるにふさわしくないなら、友情のために職責をおこたり、不公平になったのなら、院長は彼をすぐ首にしただろう。うわさや、他人の嫉妬深い邪推のほか、彼に不利なものは何もなかった。さらに、院長はナルチスの特に鋭い、いくらか大胆な、人を見抜く眼のことを意識していた。彼はこんな天賦の才を高くかっていたわけではなく、別の才能をこそ好ましい、と思っていた。でも、院長はナルチスが生徒のゴルトムントに、特異な点を認め、自分や他の者以上に生徒のことを知っているのだ、ということを疑わなかった。院長がゴルトムントの事で気づいていたのは、魅力のある優雅さ以外に、まだ彼が客分の生徒であるくせに、いくらか早熟な、いや、こざかしげな熱心さで、もう修道院の一員になり、修道士気どりでいるらしいことぐらいだった。ナルチスがこの感心だが、未熟な熱心さをつのらせ、かきたてる心配はあるまい、と院長は安心していた。むしろ、ゴルトムントにとって恐るべきことは、その友人の或る精神的高慢と学問的自負心が、伝染しはしないか、ということである。しかし、この危険はこの生徒にだけは、たいしたことはないように思われた。成行きにまかせてもよいだろう。人の上に立つ者にとっては、強大な性格の人を支配するより、平凡な人を支配する方が、どれだけ簡単で、無事で、楽だろうと考えると、彼は微苦笑を禁じえなかった。いや、彼は邪推病にかかってはならん、例外的な者が二人自分にゆだねられたのを感謝せずにいてはなるまい、と考えたのだった。
ナルチスは友人のことを色々考えた。彼は人間の性質や天職を見抜き感得する、特別の能力をもっていたから、ゴルトムントについては、とうに腹をきめていた。この若者の生命と輝きにみちたすべてが、いとも雄弁にこう物語っている。この少年には、才能と感受性にゆたかに恵まれた力強い人間のあらゆる徴候、あるいは芸術家のそれかもしれないが、とにかく、大きな愛の力をもった人間の徴候が、そなわっていた。こういう人間の天職と幸福は、燃えあがって、献身できるということである。さて、なぜこの愛の人間が、花の香、朝の太陽、馬、飛ぶ鳥、音楽をいとも深く味わい、愛することのできるこまやかでゆたかな感覚の持主が、なぜ禁欲的な精神の人になろうと、夢中になっているのだろう。ナルチスはこのことで頭を悩ました。ゴルトムントの父親がそうしむけたのは、わかっていた。が、そういう気持を起こさせることはできなかったろう。いったいどんな魔法で息子をしばり、こんな天職と義務を信じこませたのだろう。この父親はどういう人間なのか。ナルチスはよく故意に父親の話題を導き出し、ゴルトムントもよく父の話をしたが、ナルチスはその姿を思いうかべ、正体を見抜くことはできなかった。どうもおかしい、変ではないか。ゴルトムントが、子供の頃とった鱒《ます》の話をしたり、チョウチョウのことを事細かに話したり、小鳥の鳴き声をまねたり、遊び友達や犬やこじきの話をしたりすると、そのイメージが何か浮かんでくる。父の話をすると、何も浮かんでこない。いや、もしこの父がゴルトムントの生活で、実際に大切で強い支配的な人物であったなら、別な話し方をし、父の別の姿をはっきりさせられたのだろうに! ナルチスはこの父親を高くかってはいなかった。きらいだった。それどころか、ゴルトムントのほんとの父か、と疑うことがよくあった。父は中味のない偶像だった。しかし、その父親の力はどこから来るのか。どうして彼は、ゴルトムントの魂とは縁もゆかりもない夢で、その魂をみたすことができたのだろう。
ゴルトムントも色々考えてみた。彼は、友達が心から愛してくれるのを、はっきりと感じながら、まともに相手にはされず、いつもいくらか子供扱いされるという不快な気持を、いつも持っていた。友達のナルチスが、お前は自分と同じ人間ではないということを、くりかえしわからせようとするのは、どういうわけなのだろう。
しかし、ゴルトムントは毎日思い悩んでいたわけではない。考えつづけることはできなかった。一日中いそがしかった。よく仲良しの門番の所で油をうり、頼んだり、だましたりして、愛馬ブレスに一、二時間のるチャンスをつかんだ。修道院の周囲に住んでいる何人かの人々、特に粉屋は、彼をかわいがってくれた。彼は粉屋の小僧と、よく上等なプレラート小麦でパン菓子をつくったりした。ゴルトムントは眼をつぶっていても、沢山の麦の中から、香りでプレラート麦をえり出すことができるぐらいだった。ナルチスともよくいっしょにいた。以前からの習慣と喜びを、たのしむひまもあった。いろんな典礼も、たいていすきで、よろこんで生徒の聖歌隊に入って歌い、好みの祭壇の前でロザリオの祈りをするのも大好きだった。ミサのきれいで荘厳なラテン語をきき、たちこめる香煙の中で祭具や装飾がぴかぴか輝くのを見、動物をつれた福音史家や、帽子と巡礼の袋をつけたヤコブなどの物静かで尊い聖人たちの像が、列柱に立ちならんでいるのを見ているのも、すきだった。
彼はこの像に心をひかれていた。この木や石の像を、何か自分に秘密の関係があるもの、と考えるのが好きで、たとえば、自分を守り導いてくれる全智不死の代父である、とも考えた。同じように彼は、窓やドアの柱や柱頭、祭壇の飾り、美しく色どられている玉縁や軒蛇腹、石の柱からくっきりと、如実に印象深く咲き出ている花や、まつわるように伸びた葉に愛着を感じ、秘密のうれしい関係を見てとった。自然やその動植物の他に、なおこの第二の物いわぬ人工の自然が存在すること、すなわち、木や石の人間や動植物があることは、彼にとって値うちのある、ほんとの秘密のように思われた。彼は時折ひまな時には、この人物や動植物を模写し、花や馬や人の顔を写生することもよくあった。
聖歌はすきだったが、聖母の聖歌はとくにすきだった。この聖歌のしっかりした荘重なメロディーが、くりかえされる祈願や賛美がすきだった。その崇高な意味を、祈るような気持でたどることができた。あるいは、その意味を忘れ、歌詞のおごそかな調子だけを愛し、深く長いトーン、ゆたかにひびく母音、敬虔《けいけん》なくりかえしにひたりきることができた。文法や論理のような学問は、美点があるにはあったが、彼はほんとうはすきでなく、むしろ典礼の形と音の世界を好んだ。
彼は何度も、つかの間ではあるが、仲間との親しさを取りもどすことがあった。排斥と冷淡さに取りまかれているのが、彼には面白くなく、退屈になってきた。彼はよくむくれた隣りの生徒を笑わせ、むっとして口をきかない隣りのベッドの仲間に口をきかせた。一時間も骨折ってあいきょうをふりまき、ちょっとの間ではあるが、何人かの眼や顔や心をとりもどした。こうして親しくなろうとしている間に、二度もいっしょに「村へ行く」ことを要求されて、意外な結果にびっくりした。彼はぎょっとしてすぐしりごみした。いや、彼はもう村へは行かなかった。お下げの少女を忘れることに、二度と思い出さないことに、ほとんどもう決して想わないことに成功した。
[#改ページ]
ナルチスは包囲攻撃をするように、じわじわやろうと思っていたので、ゴルトムントの秘密をあばかずに、長いことそっとしておいた。彼の眼をさまし、秘密を告げる言葉を、彼に教えようとする長年の努力も、無駄のように思われた。
ゴルトムントが語る素姓や故郷は、ナルチスに何のイメージも与えなかった。眼前に浮び上るのは、影のようで姿がないが、それでも尊敬すべき父の姿だった。それから、もうとうの昔に姿をけすか、亡くなるかして、名も忘れられかけている、母親についてのうわさだった。人の心を読むのに通じていたナルチスは、彼の友人が人生の一部を失ってしまったような人間、何らかの苦悩か魔力に打ちひしがれて、過去の一部を忘れざるをえなくなった人間の一人であることを、次第にさとった。尋ねたり、教えたりするだけでは、この場合どうにもならないことを見抜いた。理性の力を過信し、無駄なおしゃべりをしたことに気づいた。
しかし、彼と友を結びつけた愛は、無駄だったわけではない。よくいっしょにいる習慣もそうだった。彼ら二人は、性格がまるで正反対なのに、色々と学びあった。二人の間には、理性の言葉の他に、魂の言葉や合図の言葉が次第に生れてきた。それはまるで、二軒の家の間に、車馬のとおる通りがある外に、沢山の細い散歩道、間道、抜け道が、たとえば、子供の通る細道、恋人たちの小路、犬猫のかよう気づかぬほどの抜け道が、できあがったようなものである。ゴルトムントの生き生きした想像力は、色々の魔法の道をとおって、ナルチスの思想とその言葉の中へと、次第に忍びこんでいった。ナルチスは一言も言葉をかわさずに、ゴルトムントの考えや流儀を理解し、共感することを学んだ。愛の光にてらされて、魂と魂の新しい結びつきが、次第に熟していった。その後《あと》から始めて、言葉がついてきた。そして、ある休日のこと、図書館で、期せずして二人は話し合うことになった――それは、二人を友情の意味深い核心にいたらせ、さらに新しい光明を投げかける会話だった。
二人は、修道院では禁制の天文学について話していた。天文学は種々の人間や、運命や、天職に、秩序と体系をあたえる試みである、とナルチスは語った。その時、ゴルトムントが口をさしはさんだ。「いつも先生は、相違相違とおっしゃいますが――ぼくは、それが先生の一番変ったくせなのが、だんだんわかってきました。たとえば、先生とぼくの大きな違いのことを、よくおっしゃいますが、変に違いを探そうとなさるから、そういうことになるのじゃないか、と思えてしかたがないのですが」
ナルチス「たしかにその通りだ。実際、君には相違など、たいしたことではない。でも、ぼくには一番大切なことに思える。ぼくは学者向きにできていて、ぼくの天職は学問だ。そして、学問とは、君の言い草ではないが、『変に違いを探そう探そう』とすることに、他ならないのだよ。この言い方は、そのものずばりだ。ぼくら学問の徒には、相違をはっきりさせることほど、大切なことはないのだ。学問とは区別の術のことだ。たとえば、めいめいの特長をみつけて、それぞれ区別することが、人を識るということなのだ」
ゴルトムント「それはそうです。百姓靴をはいて百姓である人もあるし、王冠をかぶって王様である人もいます。むろん、これも相違です。でも、これは子供にだってわかります。学問なんかいりません」
ナルチス「しかし、百姓と王様が同じなりをしていたら、もう子供には区別がつかないだろう」
ゴルトムント「学問があったって、だめでしょう」
ナルチス「それはそうだろう。学問だって子供より利口ではないのだからね。これは認めざるをえないね。でも、学問はしんぼうづよくて、大きな特長だけを、はっきりさせるだけではないのだよ」
ゴルトムント「利口な子供になら、わかります。眼つきや態度で王様だとわかるでしょう。つまり、あなた方学者は鼻が高く、他のぼくらを馬鹿だ、と思っているのです。いっこう学問がなくとも利口な人がいますよ」
ナルチス「君にそれがわかってきたのは、うれしいね。ぼくと君の違いというのは、馬鹿とか、利口とかいうことではないことが、じきにわかるようになるだろう。ぼくがいっているのは、君が利口だとか、馬鹿だとか、あるいは善良だとか、悪人だとかいうことではないのだからね。君は違った人間だ、とだけいっているのだよ」
ゴルトムント「よくわかりました。でも、先生のおっしゃるのは、特長の違いだけではなくて、運命や天職の違いのことがよくあります。たとえば、なぜ先生は、ぼくと違った天職をもたなくてはいけないのです。ぼくたちはキリスト教徒で、先生もぼくも、修道生活をしようと決心しています。先生もぼくも、天父の子であることには、変りありません。ぼくたち二人の目標は、同じ『永福』です。天職は、同じ『神への復帰』です」
ナルチス「その通りだ。教義神学では、もちろん、人間は全く平等だが、人生ではそうではない。救世主キリストの胸にもたれて休んだ、まな弟子ヨハネスとキリストを裏切った、あの別の弟子ユダとでは――多分同じ天職をもっていなかったのだろうと、思われるがね」
ゴルトムント「ナルチス先生、あなたは詭弁《きべん》家です! こんなふうでは、ぼくたちは近づけません」
ナルチス「どうしたって、近づくことなぞありはしない」
ゴルトムント「そうおっしゃらないで下さい!」
ナルチス「まじめに話しているのだよ。太陽と月、海と陸が近よらないように、お互いに近よらないのが、ぼくたちの使命なのだ。いいかね、ぼくたち二人は、太陽と月、海と陸だ。ぼくたちの目標は、お互い融《と》け合うことではなくて、お互い識り合い、お互いにありのままの姿を、お互い正反対で、足らざるを補い合うことをわきまえ、尊重し合うのを、学ぶことなのだよ」
当惑して、ゴルトムントはうなだれ、顔色をくもらせた。
ついに彼はいった。「だから先生は、ぼくの考えていることを、いつもまじめにとらないのですね」
ナルチスは返事するのを、ちょっとためらった。そして、明るいきびしい声でいった。「そうなのだ。ね、ゴルトムント、君自身のことだけはまじめに考えている、といつも思っていてほしい。ほんとにどんな君の声、態度、ほほえみでも、まじめにとっているのだから、しかし、君の考えは、それほど本気では相手にしない。ぼくは、本質的で必然的だと思うものを、まじめにとっている。君は他の沢山の才能に恵まれているのに、いったいどういうわけで、君の考えだけを特に尊重してもらいたいのかね?」
ゴルトムントは微苦笑した。「それ、そのことです。いつも子供あつかいなんですから!」
ナルチスはびくともしなかった。「君の考えの一部は子供の考えだ、と思っているのだ。思い出し給え、利口な子供は決して学者より馬鹿であるとは限らない。とさっき話し合ったろうが。だが、子供が学問の話をするのでは、学者がまじめにとるはずはない」
ゴルトムントは激しく叫んだ。「ぼくらが学問の話をしない時だって、先生は笑うでしょう。たとえば、先生はいつでも、ぼくのどんな信心だって、勉強ができるようになろうと努力することだって、修道士になりたい希望だって、子供くさいことだ、といわんばかりです!」
まじめな顔で、ナルチスは彼を見つめた。「君がうそいつわりのないゴルトムントである時は、ぼくは本気だ。しかし、君はいつもゴルトムントであるわけではない。ぼくが心から希望するのは、君がゴルトムントそのものになりきることだ。君は学者でもなければ、修道士でもない――そんなものには、もっとつまらない者でもなれる。君はぼくにくらべて学問がなさすぎる、理論家でなさすぎる、あるいは信心が薄すぎる、と信じこんでいる。とんでもない。君はぼくにとって、余りにも君自身でなさすぎるのだ」
ゴルトムントはこんなことを話し合った後で、当惑し、それどころか感情を害して、ひっこんでいたが、それでも、幾日もたたないうちに彼の方から話をつづけたいと望んだ。さてこんどは、ナルチスはじょうずに二人の性質の区別をはっきりさせることができたので、ゴルトムントも、前よりはよく納得できた。
ナルチスは熱心に話した。ゴルトムントがきょうは、彼の言葉を前よりは自由に、よろこんで聞きいれてくれるのを感じ、彼を自由にあしらえそうだと思った。ナルチスはうまくいったので、つい予定以上のことを話してしまった。彼は自分の言葉に酔った。
彼はいった。「ねえ、君。ぼくには、君に優れた点がただ一つある。ぼくはめざめているのに、君は半ばめざめており、時には全くねむっている点だ。ぼくのいうめざめている人とは、悟性と意識をもって自分自身、自分の非理性的な核心的な力、衝動、弱点を認識し、予期できる人のことだ。君がこのことを学ぶことが、君とぼくとの出会いが、君に対して有しうる意味なのだよ。ゴルトムント、君の精神と天性、意識と夢の世界は、ちぐはぐだ。君は自分の幼い頃を忘れているが、君の魂の奥底から、それは君を求めている。その叫び声をききとどけるまで、それは君を悩ませるだろう。――もうたくさんだ、やめよう。前にもいったように、めざめているという点では、ぼくは君より強い。この点で、ぼくは君に優っているから、ぼくは君の役に立つのだ。ねえ君、他のどんなことでも、ぼくは君に及ばない――君が君自身を発見すれば、そうなれるのだ、といった方がいいだろう」
ゴルトムントは眼をまるくして、話に聞き入っていたが、「君は自分の幼い頃を忘れている」といわれた時、矢にでも当ったようにびくっとした。しかし、ナルチスはそれに気づかなかった。彼は話す時のいつものくせで、そうすれば言葉がみつかりやすいかのように、時々眼を長いこと閉じたり、前方をじっとみつめたりしていたからだった。ゴルトムントの顔が突然ゆがみ、やつれていくのを、彼は見なかった。
「優っている――ぼくがあなたに」ただ何かを口に出していうために、ゴルトムントは口ごもりながらこういった。彼は不意にまひしてしまったようだった。
ナルチスは話しつづけた。「そうだ。君のような性質の人、強くて鋭い感覚をもった人、インスピレーションを受けた人。夢想家、詩人、愛の人は、ぼくたちのような精神の人よりは、たいてい優れている。君たちはお母さんの血筋だ。君たちはゆたかに生活し、愛と体験の力を与えられている。ぼくたち精神の人間は、よく君たちを導き、支配するように見えるが、ゆたかに生活してはいない。ぼくたちは無味乾燥な生活をしている。ゆたかな人生、みずみずしい果物、愛の園、芸術の美しい国は、君たちのものだ。君たちの故郷は大地で、ぼくたちのは理念だ。君たちの危険は、官能の世界に溺れることだが、ぼくたちのは、真空地帯で窒息することだ。君は芸術家で、ぼくは思想家だ。君は母の胸に眠り、ぼくは荒野にめざめている。ぼくは太陽にてらされ、君は月と星にてらされる。君の夢は少女の夢、ぼくの夢は少年の夢なのだ……」
ゴルトムントは眼を見張って、ナルチスが自分の名調子によった雄弁家のように語るのに、耳をかたむけていた。彼の言葉で、利剣のように身にこたえるものがかなりあった。最後の言葉をきいた時、彼はまっさおになり眼をとじた。ナルチスがそれに気づいて、びっくりしてたずねると、青ざめたゴルトムントは消え入るような声でいった。「ぼくはいつか先生の前で、情けなくなって、泣くようなはめになったことがあります。――お忘れでないでしょう。決してまたくりかえされてはなりません。そんなことはぼくに許されないでしょう。――あなたにもです。さあ、すぐいらして下さい。ぼくをひとりにして下さい。あなたは恐ろしいことを、おっしゃったのです」
ナルチスは当惑してしまった。言葉のはずみである。彼はいつもよりうまく話せる、と思っていた。何らかの言葉が友の心底をゆさぶり、生命の中心部のどこかに当ったのを知って、彼は愕然《がくぜん》とした。こんな時に、ゴルトムントをひとりにするのは、彼にはつらかった。彼がちょっとためらっていると、ゴルトムントが額にしわをよせて彼を促したので、彼は友に必要な孤独を与えるべく、あわてて走り去った。
こんどは、過度に緊張したゴルトムントの魂は、泣いてとけるものではなかった。友のメスで不意に胸をえぐられたような、深い絶望的な痛手を感じて、彼はあえぎながら死ぬほどの胸苦しさを感じ、まっさおになり、両手をだらりと下げて、じっと立っていた。あの時と同じようにみじめだった。こんどの方が、いくらかひどいようである。胸がしめつけられるようで、何か怖いもの、なにか怖くて我慢がならないものを、見た時の感じだ。こんどはどんなに泣いてみても、みじめな気持はなおらなかった。聖母マリア様、いったいどうしたのだろう。どうしたというのか。殺されたとでもいうのか。殺したとでもいうのか。どんな恐ろしいことがいわれたのか。
彼はあえいだ。毒をもられた人のように、体内にくいこんだ死毒を逃れようとして、五体をかきむしる思いだった。彼は泳ぐように部屋をとび出し、無意識に修道院の一番ひっそりして人気のない廊下や階段を、飛ぶように走りぬけて戸外へとび出した。修道院の一番奥深い隠れ家である、廻廊の間に入りこんでいた。緑の花壇の上には、明るい空が晴れ晴れとひろがっていた。冷え冷えとした、石のような地下室の空気の中を、バラの香りが甘くたゆとう糸のように、通りぬけていた。
ナルチスはいつの間にか、長いこと決行しようと思っていたことを、さきほどやりとげてしまった。友達についていた悪魔を、はっきりと呼び出したのだ。ゴルトムントの心の秘密は、彼の言葉のどれかにふれて、苦しさに狂気のようになり、本性を暴露したのだ。長いこと、ナルチスはゴルトムントを求めて修道院の中をさまよったが、その姿はどこにも見当らなかった。
ゴルトムントは、廊下から廻廊にかこまれた中庭に通じる、どっしりした石のアーチの下に立った。アーチの列柱からは、犬か狼だろう、石の三つの獣の首が、眼を光らせて彼を見下ろしていた。理性の光に達することのできない傷が、彼の身内を恐ろしくかきむしっていた。彼の不安がのどと腹をしめつけた。彼は機械的に、三つの獣の首のついた柱頭の一つを、仰いでいた。すると、それが荒々しく彼の臓腑《ぞうふ》の中で、眼をらんらんと光らせ、吠えたてるような気がした。「これでおしまいだ」彼はこう思うと、ぞっとした。すると、不安におののきながら、こう感じた。「いま気が狂う、いま獣にくわれるんだ」
彼はおののきながら柱の根もとに倒れた。苦しみが度はずれに大きかったのだ。彼は気を失った。彼はがっくりと、あこがれていた無の世界に沈んでいった。
その日はダーニエル院長にも、よい日ではなかった。二人の年輩の修道士が、前々からのつまらないねたみ事をむしかえし、興奮して口論しながら、院長に訴えてきたのだ。院長は二人の言い分を、とっくりと聞いてやった上で、さとしてはみたものの、無駄だったので、二人にきびしいつぐないを命じてもどしてやった。だが、それも無駄なように思えるのだった。つかれきった彼は、小礼拝堂になっている下の聖堂にひっこみ、ひざまずいて祈ったが、気が晴れないままに、また立ち上った。そして、かすかにただよってくるバラの香に誘われて、ひと息つくために、ちょっと廻廊に出てみた。すると、そこの鋪《しき》石の上に、生徒のゴルトムントが気を失って倒れていた。院長は悲し気に彼を見つめ、いつもはかわいらしく若い顔が、あおざめて生色もないのにびっくりした。きょうはよい日ではなかったが、またぞろこれだ。彼は少年を抱き起そうとしたが、手におえなかった。老院長はため息をついて立ち去り、少年をはこばせるように、若い修道士を二人よび、医術の心得のあるアンゼルム神父をあとからやり、同時にナルチスを呼ばせた。彼はすぐやって来た。
「もう知っているかね?」と、彼はきいた。
「ゴルトムントのことですか。知っています。院長様。病気か怪我かで、かついで行かれたのを、今きいたばかりです」
「そう、用もないはずの廻廊に、倒れていたのだ。怪我ではなく気絶したのだ。気にかかるね。お前が関係しているに違いない。それとも、何か知っているに違いない、と思うのだが。お前の親友だからね。それで呼んだのだが、どうかね」
ナルチスはいつものように、ひかえめな態度と話しぶりで、きょうゴルトムントと話したこと、その話が彼にひどいショックを与えたことを、手短かに語った。頭をふる院長の顔には、不快の色がないわけではなかった。
院長はつとめて平静にいった。「変な事を話したものだね。お前の話したようなことは、他人の魂に干渉することだ、といわれてもしかたあるまい。それは司牧者たる神父のすべき話ではないか。だが、お前はゴルトムントの指導司祭ではない。お前は神父ではないはずだ。叙階されてもいないのだから。神父だけのなすべきことを、忠告者顔で生徒に話したのは、どういうわけかな、どうだ、ひどいことになったではないか」
ナルチスはおだやかな口調だが、きっぱりといった。「院長様、結果はまだわかりません。わたくしも、ひどいショックには、少しびっくりしましたが、話の結果はゴルトムントにとってよいだろう、と確信しています」
「結果はいずれわかる。わたしのいっているのは、結果のことではない。お前のしたことだ。なぜゴルトムントと、そんな話をしたのかね?」
「御存知のように、彼はわたくしの友です。わたくしは彼を特に愛していて、彼のことはよくわかっているつもりです。彼に対する態度が神父のようだったとおっしゃいますが、決して司祭の権威をおかしはしません。彼が自分を知っている以上に、彼のことを知っている、と信じているだけです」
院長は肩をすくめた。
「そうか、それはお前の最も得意とするところだったね。それで悪いことにならねばいいが。――ゴルトムントは病気なの。どこか悪いのかね。衰弱しているの。眠れないの。食欲がないの。どこか痛むのかね」
「いいえ、きょうまでは元気でした。体は丈夫です」
「で、どこか別の所か」
「病んでいるのは魂なのです。御存知のように、性欲との戦いが始る年頃なのです」
「わかっている。十七だったね」
「十八です」
「十八か。そうか、ではおそすぎるぐらいだ。だが、この戦いはごく当りまえのことで、誰でも一度は経験せねばならない。だから、魂の病気とはいえないだろう」
「いいえ、院長様。ゴルトムントはずっと前から、魂の病気にかかっていたのです。だから、この戦いは彼には、他人にとってより、危険なのです。彼は過去の一部を忘れようとして、苦しんでいるのだ、とわたくしは思います」
「そうか。どんな部分をかね」
「彼の母親と、母親にかかわりのあるすべてです。このことは何も存じませんが、病源がそこにあることだけは存じています。つまり、ゴルトムントは、幼い頃母を失ったということ以外は、母のことは何も知らないようです。わたくしの受けた印象では、母親のことを恥ずかしく思っているようです。でも、彼は大部分の才能を、母親から受けついでいるに違いありません。と申しますのは、彼の話してくれる父親のことを、どんなに想像してみても、この父親が、あんなにかわいらしく、才能に恵まれた、独特な息子の親だとは、思われないからです。これはみんな他人に聞いたことではなく、色々の徴候から推察したのです」
院長は最初のうちは、生意気なことをいうわいと思い、ひそかに馬鹿にし、事件そのものをわずらわしく不快に思っていたが、次第に慎重になりだした。彼は、あのわざとらしく気取って、信頼できかねるような、ゴルトムントの父親のことを思い出して。そうしているうちに、あの時ゴルトムントの母親のことで耳にした、いくらかの言葉をも、不意に思い出した。父親の言うには、母親は彼の面目をつぶし、家出をしたので、彼は息子の母の思い出や、母から受けたかもしれない悪い性質を抑えつけてしまおうと努力した、というのである。それがうまくいって、子供は母親の犯した罪をつぐない、一生を神に捧げるつもりになった、というのだった。
院長はきょうほど、ナルチスがいやらしかったことはなかった。しかし、それにしても――なんとこのせんさく屋は、じょうずに言いあてたことか、ほんとにゴルトムントのことを、よく知っているのだ!
最後にもう一度、ナルチスはきょうの出来事をたずねられて答えた。「きょうは、あんなにひどいショックをゴルトムントに、与えるつもりではありませんでした。わたくしは彼に、自分を知らないこと、幼年時代と母親を忘れていることを、思い出させたのです。わたくしの言葉のどれかが、彼に打撃をあたえ、わたくしが長いこと攻撃していた暗い点に、突入したのにちがいありません。彼はがっかりして、二人で向きあっているのも、わからなくなってしまったように、わたくしの顔を見つめていました。わたくしはよく彼に、君は眠っている、ほんとにめざめていないのだ、と申しました。こんどは、よび起されたのです。間違いありません」
彼はしかられはしなかったが、しばらく病人を見舞ってはならん、と言いわたされて部屋を出た。
一方、アンゼルム神父は気を失ったゴルトムントをねかせ、そのそばにすわった。無理に意識を回復させ、びっくりさせるのは、好ましく思えなかった。若者の顔色はひどく悪かった。しわくちゃの、善良そうな顔つきの老神父は、親切げに若者を見ていた。まず脈をしらべ、心音をうかがった。きっと、この若いのは何かとんでもない物を、どうせ一つかみのコミヤマカタバミか、馬鹿げた物を、食ったんだろう、きっとそうさ、と彼は考えた。舌をしらべることはできなかった。彼はゴルトムントが好きだったが、そのこましゃくれた先生には、我慢がならなかった。それ見たことか。この馬鹿げたことには、きっとナルチスが関係している。こんなにぴちぴちした明眸《めいぼう》の青年が、こんなにかわいい自然児が、なんだってえりにえって、あんな高慢な学者と掛り合わねばならんのか。この世のどんな生きものより、ギリシア語を大事にする、あんなうぬぼれた文学屋とだ!
長いことして、院長がドアをあけて入って来た時、アンゼルム神父はまだすわって、気を失った病人の顔を見つめていた。何とあいらしい、若々しい、無邪気な顔だろう。それなのに、ただぼんやりそばにすわっている。助けてやらねばならんのだが、どうもだめかもしらん。きっと、疝痛《せんつう》がもとだ。薬味を入れあたためたぶどう酒をたのもう、大黄《だいおう》がいいかもしらん。しかし、彼は緑青色のゆがんだ顔を、のぞきこんでいるうちに、次第に別の、もっと心配なことを考え始めた。アンゼルム神父には覚えがあった。長い一生の間に、度々気狂いをみたことがあった。彼はこの疑いを、口に出してつぶやいてみることさえためらった。少しようすをみてみよう。この若者がかわいそうにも、ほんとに気狂いにされたのなら、その犯人は手近かにいる。思いしらせてやるぞ、と彼はいきりたった。
院長が近づいて、病人をじっとみつめ、そっとうわまぶたをあげてみた。
「眼をさますことができるかね?」彼がたずねた。
「まった方がいいでしょう。心臓は大丈夫です。誰も入れてはいけません」
「あぶないようかね」
「大丈夫です。どこにも傷がないし、打撲傷のあとも見当りません。気を失ったのです。疝痛かもしれません。痛みがひどいと、気絶するものですから。中毒なら、熱が出るでしょう。いや、またすぐ気がつきます。大丈夫ですよ」
「気持のせいということはないかね?」
「そうでないとも言いきれません。事情がわからないのですか。ひどく驚いたとか、人の死んだしらせとか、ひどいけんか、侮辱とかですね。そんなら、納得できるのですか」
「それがわからないのだ。誰も入らぬように用心して下さい。くれぐれもお願いするが、眼をさますまで、ここについていて下さい。悪くなるようだったら、わたしを呼んで下さい。夜分でもかまわないから」
出て行く前に、老院長はもう一度病人の上にかがみこんだ。彼は少年の父親のことや、このかわいらしい朗かなブロンドの少年が、連れてこられた日のことを考えた。すぐ皆にかわいがられたいきさつを思いうかべた。彼も愛していた。この少年には、父親を思い出させるような所は全然ない。声はナルチスが言った通りだ。ああ、どこを向いても、心配ばかり、何をやってもへまばかりだ。この哀れな少年のことでも、何かへまをやらなかったか。この子には、適当な聴罪司祭があったかしら。ナルチスほどこの生徒のことをよく知っている者が、この修院にいないというようなことでいいのか。ナルチスはまだ修練士で、修道士でもなく、神父になってもいない。その思想や観察は、鼻もちならぬほど高慢で、いや敵意をさえ含んでいる。それなのに、いったい、彼はこの少年を教えるのか。いや、ナルチスも長いこと、まちがった扱いを受けていなかったか。服従の仮面のうしろに、よこしまなものをかくしてはいないか。異端《いたん》ではなかろうか。この若い二人が、将来どんな人間になるかは自分の責任なのだ。
ゴルトムントが我に返えった時は、もう暗かった。頭がからっぽになったようで、めまいがした。ベッドにねているようだが、それが何処かはわからなかった。そんなことは、考えてもみなかったし、どうでもよかった。だが、何処にいたのだろう。何処から、どんな変った体験から、きたのだろう。何処か、ずっと遠い所にいたのだ。何かを見た。何か異常ですばらしく、恐ろしくもあるが、忘れがたい物を見た。――だのに、忘れてしまった。あれは何処だったろう。何か大きく、いたましい、幸福のようなものが、彼の眼前にあらわれて、また消えうせたのだ。
彼は胸の奥底に耳をかたむけた。そこでは、きょう何かが始り、何かが起ったのだ。――あれは何だったろう。ひどくもつれあった色々な物が、次第に脳裏に浮んでくる。犬の頭、三匹の犬の頭をみたっけ、バラの香りをかいだっけ、ひどく苦しかった。彼は眼をとじた。何とひどい苦しみだったろう。彼はまた眠りこんだ。
彼は再びめをさましたとき、さっと消えうせる夢の世界の一隅に、あれをみた。あの像をまたみつけて、苦しい欲望にとらえられたようにぎくっとした。彼はみた。彼はみえるようになった。彼は母親を見たのだ。と同時に、「君は幼い頃を忘れている」という言葉をきいたように思った。いったい誰の声だろう。耳をすまし、考えてみて、わかった。ナルチスの声だ。ナルチスのか。一瞬にして、すべてがもと通りになった。彼は思い出して、わかった。ああ、お母さん、お母さん! 瓦礫《がれき》の山、忘却の海が消えうせた。見失っていた人、最愛の母が女王のような明るい青眼で、また彼を見つめた。
ベッドのそばの安楽いすで、まどろんでいたアンゼルム神父がめをさました。病人の動く気配を感じ、呼吸がきこえたのだ。彼はそっと身を起こした。
「どなたですか?」と、ゴルトムントがたずねた。
「わたしだ、心配しなくともよい。あかりをつけよう」
彼はつりランプに火をともした。彼のしわだらけの、親切そうな顔がてらし出された。
「ぼくは病気なんですか」と、若者がたずねた。
「そう、気絶していたのだよ。手を出しなさい。脈をみよう。気分はどうだい?」
「いいです。アンゼルム神父様、ありがとうございます。ごめいわくをかけました。もうなんともありません。だるいだけです」
「そりゃそうだろう。じきまたねむれるよ。その前に熱いぶどう酒を一口飲みなさい。用意してある。ねえお前、友情を祝して、いっしょに飲もうじゃないか」
彼は用心深く薬用ぶどう酒のコップを用意して、熱湯の入ったコップについだ。
医者は笑っていった。「じゃ、二人ともずっと眠っていたわけだね。めをさましていられないとは、立派な看護人様だ、と思うだろうが、まあ、わしらだって人間だよ。ねえ、この魔法の飲物を少し飲もうじゃないか、こうして夜こっそり酒盛りするのは、何といったってすばらしいからね。さあ、乾杯!」
ゴルトムントは笑って杯をうちあわせて飲んだ。あたたかいぶどう酒は、肉桂と丁子《ちょうじ》で調味してあり、砂糖で甘くしてあった。彼には始めてのものだった。前にも一度病気になり、ナルチスの世話になったことを思い出した。こんど親切にしてくれたのは、アンゼルム神父だ。ランプの光の中で横になり、夜中に老神父といっしょに、甘いあたたかいぶどう酒を飲むのは、彼の気に入った。ひどく愉快で、すばらしかった。
「お腹が痛い?」と、老人がたずねた。
「いいえ」
「そうか、ゴルトムント。てっきり疝痛かと思っていたのだが。それじゃ、そうじゃないんだね。舌を見せてごらん。よし、これもいい。このアンゼルムじいさんには、また何にもわからんというわけか。あしたもちゃんと寝ているのだよ。また来てみてあげるから。それから、ぶどう酒はのんでしまったかね。よし、よくきいてくれればいいがね。まだいくらか残ってないかな。正直にわけたら、半杯ずつのむくらいはあるね。――ゴルトムント、ほんにびっくりさせられたよ。廻廊の所で、死んだようになっていたのだからね。ほんとにお腹は痛くないね」
二人は笑って、残った薬用ぶどう酒を正直にわけあった。神父は冗談を言い、ゴルトムントは感謝して、再び明るくなった眼で、おかしそうに神父を見守った。やがて、老神父は寝にいった。
ゴルトムントはまだしばらく起きていた。色々の像がまたじょじょに、胸の底からあらわれて来た。友のナルチスの言葉が、また燃え上がった。彼の心の中には、またブロンドのまばゆい女性、母親があらわれた。烈しい春の山嵐のように、母の姿が彼の胸中を通り抜けた。命の雲、あたたかい雲、やさしい雲、熱心に警告する雲のように。ああ、お母さん。なんだってお母さんを忘れていたのだろう。
[#改ページ]
ゴルトムントはそれまで、母親のことはいくらか知っていたが、他人から聴いたことだけだった。母の顔かたちは、もう覚えていなかった。うろ覚えのこともいくらかはあったが、ナルチスにはたいてい黙っていた。母親はふれてはならないタブーだった。恥と思っていたのだ。彼女は踊り子であり、美しい野性的な女で、貴族の出だが、素姓のよくない異教徒だった。ゴルトムントの父は彼女を、貧苦と恥辱の中から拾いあげた。父はこういっている。彼女が異教徒かどうかわからないので、宗教教育と洗礼をうけさせた。彼は結婚して、彼女を立派な奥様にしたてた。ところが、彼女は結婚した当座二、三年の間は、しとやかでまじめな生活をしていたが、いつの間にか昔の芸事や習慣を思い出し、醜聞は流す、男は誘惑する、何日も何週間も家はあける、魔女だとさえ評判されるしまつで、何度もとび出しては、夫に連れもどされたあげくのはてに、とうとう姿を消してしまった。
彼女の悪い評判はすい星の尾のように、なおもしばらく残っていたが、やがて消えてしまった。彼女の夫は数年間の不安、恐怖、恥辱、妻の与えた永遠の驚きから、次第に立ち直っていった。そして、できそこないの妻の代りに、顔かたちが母親そっくりの息子を育てた。彼はやつれて、信仰にうちこみ、ゴルトムントが母親の罪をつぐなうために生涯を神に捧げねばならない、と信じこむようにしむけたのだった。
こういったようなことが、ゴルトムントの父が姿をくらました妻について、しぶしぶ語ったことである。彼はゴルトムントを頼んで行くとき、院長にもこのことをそれとなく語った。息子もこういったことを、恐ろしいうわさとして知っていた。つとめておしのけ、ほとんど忘れるほどになっていたのではあるが。しかし、彼は母親のほんとうの姿を、全く忘れはてていた。彼の覚えている母親は全く別のもので、父親と奉公人の話や、ひどく悪い評判をもとにしてつくりあげたものだった。自分自身の、ほんとうの身をもって経験した母親の思い出を、彼は忘れていた。さて今や、幼い頃の星というべきこの姿が、再びうかびあがってきたのだ。
彼は友に語った。「どうして忘れたのか、わけがわかりません。いままでに、お母さんほどかけねなしに熱烈に愛した人は、誰もいません。あんなに尊敬し、したった人はありません。お母さんはぼくの太陽であり、月でした。どうして、ぼくの胸の中の輝かしい面影がうすれて、お父さんやぼくが長年考えているような、性悪るで青ざめ、影も形もない魔女に変っていったのか、誰にもわかりません」
ナルチスは最近修練期をおえて、着衣して修道士になった。彼のゴルトムントに対する態度は、眼に見えて変ってきた。というのは、ゴルトムントは以前は友の忠告や警告を、わずらわしい知ったかぶり、ありがた迷惑と、よくこばんだものだが、あの大きな体験以来、友の賢明さを心から驚嘆していた。彼の多くの言葉は、いかに予言のように適中していたか、この不気味な友は、何と彼の心の奥底までも見抜いていたか、いかに正確に彼の生の秘密、かくされた傷を探り出したことか、何と巧みに彼をいやしたことだろう。
というのは、若者はいやされたように思えたからだ。あの気絶は悪影響を残さなかったばかりでなく、ゴルトムントの性格の中にあったいわば遊戯的な、早熟な、ほんとでない物も消えうせた。あのどこか早熟な修道者気質、神に献身する義務があるという信念は、あとかたもなく消えうせた。若者は自己を発見してから、若やいだようでもあり、年をとったようでもあった。すべてはナルチスのおかげだった。
しかし、ナルチスは少し前から、友に対して異常に用心深くなっていた。ゴルトムントは彼を驚嘆していたのに、彼はひかえめすぎるほどで、一段高い所に立って、教え諭すような態度はとらなかった。自分には縁もゆかりもない、神秘的な源泉からわきでる力で、ゴルトムントがはぐくまれているのを知ったのだった。この力を促すことはできたが、この力には全く無関係だった。友が自分の庇護《ひご》の手をはなれて独立するのを、よろこんで眺めていたが、さみしく思うこともあった。自分は、ふみこえられた階段で、ぬぎすてられた殻だ、と思った。自分には意味深かった、この友情の終りも近いだろうと思った。しかしそれでも、彼の方がゴルトムントのことを、ゴルトムント自身よりよく知っていた。ゴルトムントは自分の魂を再び発見し、その呼び声に従おうとはしていたものの、どこにつれてゆかれるかを全く知らなかったからだ。ナルチスはそれを予感していたが、どうしようもなかった。愛する友の道は、彼の行くことのない国々に通じているのだから。
ゴルトムントの向学心は、ひどくおとろえた。友達と議論する癖もなくなった。以前の談話を色々思い出しては、恥じ入るのだった。最近のナルチスはどうかといえば、修練期をおえたせいか、ゴルトムント体験のせいかはわからないが、とじこもって、心霊修業にはげまねばならないと考え、大斎《たいさい》(断食)を守ったり、長いこと祈ったり、たびたび告白したり、すすんで贖罪にはげんだりしだしていた。ゴルトムントはこの傾向がよくわかったし、それにあやかろうとさえした。いやされてからは、彼の本能は非常に鋭くなった。将来の目標は全然わからなかったが、彼の運命は準備されていて、無邪気で平和な保護時代といったものはもうすぎさって、彼に蔵されているすべての物は、緊張し、すでに準備がなっていることを、彼はありありと、時には恐ろしいほど克明に感じた。よくこの予感は、彼を無上に幸福にし、甘い恋愛のように、彼を夜中まで眠らせなかった。また、この予感は漠然とし、切ないほど苦しいこともよくあった。長いこと見失っていた母が、また彼の所へもどってきた。大きな幸福だ。だが、母の呼び声は、どこへいざなうのだろう。さだかでないものへ、混乱へ、貧困へ、恐らくは死へいざなうのだろう。静かで、平和で、安全な所へ、修道士の個室と一生の修道院生活へ、いざないはしない。母の呼び声は、彼が長いこと自分の希望だ、と思いこんでいたあの父の命令とは無関係だった。激しい肉感のように、ときどき強くなり、不安になり、燃え上がったこの感情で、ゴルトムントの信心はやしなわれた。彼は何度も長いこと聖母マリアに祈り、自分の母へひかれるあふれる気持を、放出させた。しかし、彼の祈りは、日頃よく経験する不思議なすばらしい夢に、よく変ってしまうのがおちだった。白日夢、五官にむすびついた母の夢に、変ってしまうのだった。その時には、かぐわしい母の世界が彼をかこみ、謎のまなざしが彼にそそがれ、海や楽園のように深いざわめきがきこえ、意味のない、いや意味にみちあふれた愛撫の声が甘美にひびいてき、甘酸っぱく、塩っからい味のする絹のような髪が、愛にうえた唇と眼をなでた。母の中にあるものは、あらゆる愛らしいもの、甘美な青いまなざし、幸福を約束するやさしいほほえみ、愛撫の慰めばかりではなかった。そのどこかには、優雅なベールにおおわれて、あらゆる恐ろしく暗いもの、情欲、不安、罪、悲しみ、生誕、必然的な死もひそんでいた。
この若者は、いきいきした感覚の、糸もあやなる織物のように、夢の中に深く沈潜した。その夢の中では、なつかしい過去が現出したばかりではない。少年時代と母性愛、黄金のように輝く人生のあけぼのだけが、立ち現われたのではない。夢の中では、おどし、約束し、いざなう、危険な未来も、ゆらめいていた。母と聖母と恋人がダブってしまうような夢を見ては、後になって、これは恐ろしい贖聖《とくせい》の罪だ、もう二度とつぐなえない大罪だ、と思うこともよくあった。またある時は、この夢の中に、救いと調和のすべてを見出した。人生は神秘的に彼を見つめた。さだかでない、わけのわからない世界、おとぎ話のような危険にみちた強情ないばらの森が、――それは母の秘密だった。母に由来し、母に結びつき、母の明るい眼の中の小さな黒点、おそろしい深淵だ。
忘れていた少年時代のいろんな事が、母の夢の中にあらわれてきた。底知れぬ深い忘却の中から、小さな思い出の花が咲きみだれた。体験や夢の思い出だろうか、少年時代の思い出がまばゆく、香ぐわしく、予感にみちてのぞいていた。魚の夢も時々みた。黒い魚や銀色の魚が彼の方へ泳いできて、冷たくなめらかに彼の体を通りぬけた。もっと美しい現実世界からの吉報をもたらす使者のように、泳いできては、尾をふりふり、影のように消えていった。吉報のかわりに新しい秘密をもたらしたのだ。泳いでいる魚や、飛んでいる鳥の夢もよくみた。どの魚も鳥も、彼の創ったもので、彼の呼吸のようにどうにでもできた。視線や思いのように、彼から出ていって、またもどってきた。庭の夢もよくみた。奇抜な木、途方もなく大きい花、深い青黒いほら穴のある魔法の園の夢である。草の間からは、名も知らない動物の、らんらんたる眼が光っていて、木の枝には、なめらかでたくましい蛇が、するすると這っていた。蔓草《つるくさ》や灌木の間には、巨大ないちごが雄大に、みずみずしく光っていた。このいちごは、摘みとろうとすると手の中でふくれあがり、血のようにあたたかいしるを出した。また、いちごには眼がついていて、悩ましげに、また毛が腋《わき》毛のように生えているのが、手ざわりでわかった。彼はあるとき、自分自身の夢をみた。あるいは、霊名の聖人の夢、といったらいいだろう。ゴルトムント〔「金口」の意のドイツ語〕の夢をみた。金の口をもっていて、その口で話すと、言葉は小鳥の群となって口からはたはたと飛び去ったという、あの聖クリソストムス〔「金口」の意のギリシア語〕の夢である。
ある時はこんな夢をみた。大人になっていたのに、子供のように地べたにすわり、粘土をこねて馬や牛や小さな男女をつくっていた。粘土をこねるのが、彼には面白かった。動物や人間に、おかしいほど大きい生殖器をつけたが、夢の中でもこれはいけると思った。やがて、遊びにあきて、立ち去ろうとすると、なにか大きい物が、そっと背後から近づく気配を感じてふりかえった。粘土でつくった小さなものが、大きな生物になって動いているのだった。彼はひどく驚き怖くなったが、うれしくないこともなかった。巨大な像はだまって彼のそばを通りぬけ、雄然と黙々と、塔のようにそびえて、次第にこの世の中へ出ていった。
彼は現実の世界よりは、夢の世界の中に住むようになった。教室、修道院の庭、図書館、寝室、礼拝堂などの現実世界は夢にみちて、超現実的な形象界の表面をおおっている薄くて震えている表皮にすぎなかった。この薄い皮に穴をあけるのは、なんでもないことだった。つまらない授業時間中の、ギリシア語の一語の響きに含まれる、何か予感にみちたもの、植物を採集しているアンゼルム神父の胴乱《どうらん》から波のようにただよってくる一つの香り、窓の柱に始まっている石の蔓への一べつ――こんな小さな刺戟さえあれば、現実の皮をつきやぶり、平和にひからびた現実の背後から、あの魂の形象界の、ごうごうとうなっている深淵、流れ、銀河を浮び上がらせるには十分だった。ラテン語の頭文字一つが、かぐわしい母の顔になった。「アベ・マリア」の祈りの長母音一つが天国の門になった。ギリシア語の字母一つが、走っている馬になり、鎌首をもたげた蛇になり、蛇は花の下にはいりこむ。と思うと、蛇の代りに、そこには文法のくそ面白くもない頁が、よこたわっていた。
彼はそんなことをめったに話さなかったが、ナルチスには幾度か、この夢の世界のことをほのめかせた。
彼はある時こう語った。「道の上の一枚の花びらか、一匹の小さな虫の方が、図書館の万巻の書より意味深いように思います。文字や言葉では、何も言いあらわせません。ぼくはよくギリシア語の字母を、テーターでもオメガでもいいのですが、書いてみるんですが、筆先をちょっとかえると字母に尾が生えて、魚になるんです。するとたちまち、世界中の小川や河を思い出すんです。あらゆる冷たいものや湿ったもの、ホメロスのえがいた大洋や、ペトロがその上を歩いたという湖を思い出すんです。あるいは、その字母は鳥に変じ、尾をはやし、羽をさかだて、ふくれあがり、笑って、飛びたつのです。――ねえ、ナルチス、こんな文字のことなど、なんとも思ってやしないでしょう。でも、そういうもので、神様はこの世をえがいているんですよ」
ナルチスはわびしげにいった。「ぼくだって大事だと思うよ。それは魔法の文字だ。どんな悪魔だってそれで呼び出せる。むろん、勉強するには、ちょっと具合がわるいがね。精神は固定した形のあるものを好む。自分の記号が信用されるのを求める。現にあるものを好み、生成するものをきらう。現実的なものを好み、可能性のあるものをきらうのだ。オメガが蛇や鳥になるのではがまんがならん。自然の中に精神は生きることができない。自然に|反して《ヽヽヽ》、自然の反対としてのみ生きることができるのだ。ゴルトムント、君は将来学者にはならない、といった意味がわかるね?」
そうだ、ゴルトムントはとうにわかっていた、納得していた。
彼は笑いかけて言った。「ぼくはあなたの精神にあやかろうなどと、もう努力していません。ぼくと精神、学問との関係は、ぼくと父の関係のようなものです。ぼくは父を愛し、父に似ていると信じ、父の言葉は何でも盲信していました。でも、母の面影が再びはっきりしたとたんに、愛の何たるかを始めて知り、母の姿とならんだ父の姿は突然小さくなり、不快で、ほとんど気持がわるいぐらいになったんです。それに今では、精神的なものは何でも父のもので、母のものではなく、母にさからうものだ、と考えるようになっています。いくらか軽蔑しがちです」
彼は面白おかしく話したが、ナルチスの悲しげな顔を明るくすることはできなかった。ナルチスは黙って彼の顔をみつめていた。そのまなざしは愛撫するようだった。やがて、彼はいった。
「君のいうことはよくわかる。ぼくたちはもう争う必要はないね。君はめざめた。今ではもう両親の素姓、魂と精神の違いがわかっている。だから今となっては、君の修道院生活や修道生活への努力がまちがっていたこと、君のお父さんが考え出したことだということを、すぐ理解できるだろう。君のお父さんはそんな細工をして、君のお母さんの思い出をきよめ、あるいはお母さんに復讐しようとしたのだろう。それとも君は、一生修道院にとどまるのを、君の天職なのだとまだ思いこんでいるのか?」
じっと考えこんで、ゴルトムントは友の上品な、きびしくもありやさしくもある、やせた白い手をみつめていた。この手はまごうかたなく修道者の手、学者の手である。
彼は少し前からの癖で、歌うような、いくらかためらいがちな、一語一語に長くとどまるような声で話した。「ぼくにはわかりません。ほんとにわからないんです。あなたの父の見方は少しきついようです。父はつらかったのです。でも、やはりおっしゃる通りでしょう。この学校にきて三年になりますが、父は一度もきてくれません。ぼくが永久にここにとどまるのを望んでいるのです。それが一番いいのでしょう。ぼくだっていつもそう望んでいたんですから。でも今では、そもそも自分で何を望み、希望しているのかわからないのです。以前はなんでもかんたんで、読書の文字のように、簡単でした。今は、もうなにもかんたんじゃなく、もう文字のようでもないのです。すべてに多くの意味がつけ加わったのです。自分がどんな人間になるか、わからないのです。今そんな事を考えてみることもできないのです」
ナルチスが答えた。「そんなことは考えるべきではない。君の道がどこへ通じるかは、いずれきっとわかるだろう。この道は、君をお母さんの所へつれもどそうとし始めたのだから、もっとお母さんに近づけてくれるだろう。しかし、君のお父さんのことは、ひどく言いすぎているつもりはない。君だってお父さんの所へ帰りたいかね?」
「いいえ、先生、とんでもない。そのつもりなら、学校を卒業したらすぐ、もどってるでしょう。今頃はとうにもどってるでしょう。ここで学者になるつもりじゃないのですから、ラテン語もギリシア語も数学も、もうたくさんです、いや、父の所へは決してもどりません……」
彼は思いつめて、じっと眼前を見つめていたが、突然叫ぶようにいった。「いったいなぜあなたはぼくの心の中を照し、ぼく自身にぼくのことをはっきりさせるような、言葉や質問をたえずくりかえすんですか。こんどだって、父の所へ帰るつもりかときかれたので、急に、帰りたくないことがわかったんですから。なぜおたずねになるんですか。何でも御存知のようです。聞いている時にはよくわからなくとも、後でとても大切な意味をもってくる言葉を、あなたやぼくについてたくさんおっしゃいました。ぼくが母の血をひいているとおっしゃったのは、あなたなんです。ぼくがある魔法にかかって、幼年時代を忘れていることを発見したのは、あなたです。どうして、そんなによく人間のことがおわかりですか。教えていただけるものでしょうか?」
ナルチスはほほえんで、頭をふった。
「いや、君にはできないよ。いろいろ学べる人もあるが、君はそういう人ではない。君は教師になぞならないだろう。いったい何のためにだね。そんなことは必要ない。君には別の才能がある。ぼくより才能に恵まれている。ぼくよりゆたかだが弱くもある。君の道はぼくの道よりきれいだが苦しいだろう。君はぼくの言うことをよく理解しようとしなかった。ときどき若駒のようにぼくにさからった。いつも容易なわけではなかった。だからぼくの方でも、ときどき君を苦しめざるをえなかったのだ。ぼくは君をめざめさせねばならなかった。君は眠っていたのだからね。君にお母さんを思い出させたのも、始めはつらかっただろう、苦しかったろう、廻廊に死んだように倒れていたのだったね。あれはあゝせざるをえなかったのだ。――いけない、髪をなぜてはいけない。やめ給え。いやなのだ」
「じゃ、何もならえないんですね。いつまでも馬鹿な子供でいるんですか?」
「君が学ぶべき先生は他にいるんだろう。ねえ君、ぼくが君に教えることは、もうなくなったのだよ」
ゴルトムントは叫んだ。「とんでもない! そのための友情じゃなかったはずです。しばらくすると行く所まで行って、あっさり解消するような友情なんて、いったい何でしょう。もうぼくがあきたんですか。きらいになったんですか?」
ナルチスはゆかをみながら激しく歩き廻った。やがて友の前に足をとめた。
彼はやさしくいった。「よし給え。きらっていないのはわかっているだろう」
彼は友の顔をうたがわしげにみつめていたが、すぐまた歩き廻り始め、また立ち止って、こわばったやせた顔でゴルトムントをじっとみつめた。低くではあるが、きっぱりといった。「ゴルトムント、いいかね。ぼくたちの友情は立派だった。目標をもっていて、それに到達した。君は眼をさましたのだ。友情がおしまいにならないようにとは、ぼくも望んでいる。もう一度、そして永久に生れ変って、新しい目標に到達してもらいたい。でも、今のところ目標はない。君の目標は漠然としていて、ぼくは君を導くことも、君について行くこともできない。君のお母さん、お母さんの面影にたずね給え、お母さんの言葉に従うのだね。しかし、ぼくの目標は漠然とはしていない。それはこの修道院にある。ぼくは絶えずこの目標に促されている。君の友であることは許されるが、君を愛人とすることは、許されないのだ。ぼくは修道士で、誓願をたてている。司祭に叙階される前に教職を一時やめさせてもらい、何週間もひきこもって、大斎を守り、黙想するだろう。その間は、世俗のことは何も話さないだろう、君とだって」
ゴルトムントは納得した。悲しげに彼は言った。「ではあなたは、ぼくが永久に修道会に入っていたら、やろうと思っていたことをなさるのですね。で、大斎や祈りや徹夜の心霊修業がすんだら――それからどうなさるのですか?」
「わかっているだろう」と、ナルチスがいった。
「そうですね。二、三年のうちに教頭になられるでしょう。きっと校長になっておられるかもしれません。教授法を改良し、図書館を拡張されるかもしれません。本を書かれるでしょう。え、ちがいますか。じゃ、あなたの目標はどこにあるんですか?」
ナルチスは弱々しくほほえんだ。「目標だって? ぼくは校長になって、死ぬかもしれない。院長か司教になって死ぬかもしれない。どうでもいいことだ。目標というのは、一番役に立てそうな所に、ぼくの性質や特長や才能が最もよく活動できる所に、いつも自分をおくことだ。この他に目標はないよ」
ゴルトムント「修道士には、別の目標がないのですか?」
ナルチス「いや、沢山あるよ。ヘブライ語を勉強したり、アリストテレスの注釈をしたり、修道院の聖堂を飾ったり、ひきこもったり黙想したり、修道士が生涯の目標とするものはいくらでもある。ぼくの目標はそんなことではない。修道院の財産をふやしたり、修道会や教会を改革したりしようとは思わない。ぼくは出来る範囲内で、ぼくのいわゆる精神に奉仕しようと思うので、他のどうということもない。こんなのは目標じゃないだろうかね」
長いことゴルトムントは答を考えていた。
彼は答えていった。「おっしゃる通りです。目標をめざしておられるあなたを、ぼくはひどくさまたげたでしょうか?」
「さまたげたって? とんでもない。君ほどぼくをはげましてくれた人はいないよ。君にはずいぶん困らされたが、困らされたぐらいは平気だ。困らされてかえって勉強になった。そんなことはいくらか征服してしまったよ」
ゴルトムントは半ば冗談のように口をさしはさんだ。「すてきに征服されましたね。ひとつうかがいたいんですが、あなたはぼくを助け、導き、解放し、ぼくの魂をいやして下すった。――それで、実際精神に奉仕したことになるんですか。熱心で善意の修練士を一人、修道院から奪い取ったんではないんですか。精神の敵を一人育てあげて、あなたがよいと思われる事と正反対のことをさせ、信じさせ、努力させたのではないでしょうか」
ナルチスはひどくまじめにいった。「どうして? ねえ君、君にはぼくのことが、そんなにもわかっていないのかね。ぼくは修道士になろうとする君を、だめにしてしまったかもしれないがその代り、君のために異常な運命への道をひらいてあげた。もし君が明日にも、この美しい修道院を焼き払い、あるいはなにか馬鹿げた邪教を世界にひろめたとしても、君を助成してそうさせたことを、ぼくはただのいっときも後悔しないだろう」
彼は親しげに両手を友の肩にかけた。
「ねえ、若いゴルトムント、こういうこともぼくの目標だよ。ぼくが教師であれ、院長であれ、聴罪司祭であれ、何であれ、強い値打のある特別な人間に出会いながら、この人間を理解できず、啓発できず、助成できないような|はめ《ヽヽ》には、ぼくは決しておちいりたくはない、ということなのだ。いいかね、君とぼくはどんなものになり、ぼくたちがどんな運命になろうと、君が真剣にぼくを呼び、ぼくを必要とする時は、いつ何時でもきっと、ぼくは君を心から迎えるよ。きっとだ」
この言葉は別離のひびきをもっていた。別離の予感をこめていた。ゴルトムントが友の前に立って、決意の色をうかべた顔、目標をめざすまなざしを見てとった時、二人がもう兄弟でも、仲間でも、同輩でもないこと、道は既に分かれていることをまざまざと感じた。眼前のこの人は夢想家ではなく、運命の何らかの呼びかけを持っているのでもない。修道士であり、誓願をたて、固い規律と義務を守っている。修道会、カトリック教会、精神の召使いであり、兵士なのだ。だが自分はきょうわかったのだが、ここの人間ではないし、故郷がない未知の世界が自分をまっている。母もいつかこういうめぐりあわせになったのだ。母は家屋敷、夫と子供、社会と秩序、義務と名誉を捨てて、あてもなく家出し、もうとうに人しれず死んだかもしれない。母には目標がなかったが自分もそうだ。目標をもつことは他人には許されても、自分には許されていないのだ。ナルチスはとうの昔から、こんなことはすっかり見ぬいていたのだ、いった通りじゃないか!
この日からいくばくもなく、ナルチスは消えてなくなったように、突然姿が見えなくなった。他の教師が彼の授業を受持ち、図書館の彼の席はいつも空だった。しかし、彼はまだいたのだ。全く姿を消したわけではない。廻廊を通る姿がときどき見かけられたし、礼拝堂の一つで、石の床にひざまずいて、低声《こごえ》で祈っているのがきかれた。彼は長い黙想を始め、大斎を守り、夜中に三度起きて、黙想しているのだった。彼はまだ修道院にいたのだが、別世界に移っていた。ごくまれにではあるが、彼を見かけることはあった。しかし、彼と交わったり、話をしたりすることはできなかった。ナルチスはまた姿をあらわし、勉強机や食堂のいすにすわってまた話すだろう。――だが、ありし日の面影は回復しないだろう、ナルチスはもう彼のものにはならないだろう。ゴルトムントには、これはよくわかっていた。こう考えてみると、ナルチス一人がいるために修道院と修道士、文法と論理、研究と精神が彼にとって大切で面白かったのだということが、今さらながらにはっきりしてきた。彼の模範がひきつけ、彼のような人間になるのを、ゴルトムントは理想としたのだった。なるほど院長もいた。院長も敬愛し、立派な模範だと思っていた。しかし先生方、学友、寝室、食堂、学校、練習、典礼、修道院全体、何であれ他のすべてのものは――ナルチスなしには、彼にとって無意味だった。まだここにいて、何をするのか。どこかの軒先か木の下に雨やどりをした旅人は、雨のあがるのを待つために、一時の客になったつもりで、あるいは他人の家ではろくな扱いもうけまいと思案して、よくぐずぐずしていつまでもつっ立っているものだが、ゴルトムントもそんなふうに修道院に雨やどりしていたのだ。
この頃のゴルトムントの生活は、さながらためらいそのものであり、別離だった。彼は好きな所や、記念すべきものとなった所を全部たずねてみた。いざとなると、別れがたいような人が案外すくないので彼は意外だった。ナルチスとダーニエル老院長以外では、人のよい愛すべきアンゼルム神父、親しい門番、愉快なとなりの粉屋ぐらいだ。――今ではこの人々だって、影がうすれている。彼らより別れがたく思うのは、礼拝堂の大きな石の聖母像、玄関の使徒たちの像だった。彼が長いことたたずんでいたのは、これらの像、きれいに彫刻された内陣のいす、廻廊の泉、三匹の獣の頭のついた列柱の前だった。庭の菩提樹やカスターニエンにも長いことよりかかっていた。これらすべてのものは、いつかは彼の思い出となり、胸の中の小さな絵本になるだろう。彼は現在まだそれらの物の真中に生きているのに、もうそれらの物は彼から遠ざかり、現実性を失い、幻のように、過去のものに変り始めていた。アンゼルム神父は彼をそばから離したがらなかった。彼は神父と薬草採集に行き、修道院の水車場のそばで粉屋の小僧に時々よばれて、ぶどう酒や焼魚をごちそうになった。これも縁の遠いものになり、半ば思い出になってしまった。むこうの聖堂のくらがりや贖罪にはげむ密室では、友のナルチスが日々の生活を送ってはいたが、彼にとっては影にすぎなかった。こんなふうに周囲のすべては現実性を失い、秋と無常の色をただよわせていた。
ただ現実に生きているのは、彼の内なる命、心臓の不安な鼓動、あこがれの鋭いとげ、夢幻の哀歓だけだった。彼はこれらのものの虜《とりこ》になり身をまかせていた。彼は勉強の最中に、仲間の真中で、心の中の流れと声にだけ身をゆだねて、ひとり思いふけり、すべてを忘れることができた。この流れと声は、はっきりしないメロディーにみちた深い泉の中へ、童話のような体験にみちた色あざやかな深淵の中へ、彼をらっし去ったが、そのメロディーのひびきは母の声のようにひびき、その体験のたくさんの眼はすべて母の眼だった。
[#改ページ]
ある日のこと、アンゼルム神父はゴルトムントを、薬局になっているこざっぱりした、いい香りのする薬草室へ呼んだ。ゴルトムントはこの部屋の勝手をよく知っていた。神父は紙の間にちゃんと保存してある押し花を彼に示して、この植物を知っているか、その生態をはっきりいえるか、とたずねた。勿論、ゴルトムントは知っていた。オトギリソウだった。彼ははっきりと、その特徴を全部のべねばならなかった。老神父は満足して、ひるからこの植物をたっぷり一束採集するように若い友にたのみ、その密生する場所を教えた。
「いいかね、その代り、ひるから休みにしてあげよう。どうだい、そんにもなるまい。自然の知識だって、やはり学問だからね。君たちの下らん文法だけが学問じゃないさ」
ゴルトムントは学校で勉強する代りに、二、三時間花をつむという頼みを大いに歓迎し感謝した。この喜びを完璧にするために愛馬ブレスをかしてくれ、と厩《うまや》係りにねだり、ひるごはんがすむと、姿を見ていななき迎える愛馬を厩からひきだしてとび乗ると、大まんぞくであたたかく明るい昼の中へ駆けこんでいった。小一時間か、あるいはそれ以上長く馬を乗りまわし、大気と野の香りを、いや何よりも乗馬そのものをたのしみ、やっと用事を思いだし、神父の教えてくれた場所をさがした。繁った楓《かえで》に馬をつなぎ、馬とだべったり、パンをたべさせたりしてから薬草採集にでかけた。二、三枚の畑が休ませてあった。そこには種々の雑草が生え繁っていた。哀れな小さいケシが、なごりの色さめた花と沢山の熟した種をつけて、ひからびたエンドウの蔓や、空色の花をつけたキクニガナや、色あせたニワヤナギの間にまじっていた。二枚の畑の間には、境の目印に二、三カ所石を積みあげた所があるが、そこにはトカゲが巣をつくっていて、もうオトギリソウがはつざきの黄色の花をさかせていた。ゴルトムントは摘みはじめた。手に持ちきれないほど摘むと、彼は石の上にかけて休んだ。暑かった。向うの森の縁が小暗くなっているのを望むと彼はたまらなくなったが、薬草や、そこからも見えていた馬から離れて、そんなに遠くまで、行こうとは思わなかった。畑のあたたかい小石の上にすわって、逃げたトカゲがまたもどってくるのをじっと待っていた。オトギリソウの香りをかいだり、その小さな葉を陽にかざして、針でついたような小さな孔が沢山あるのを、観察したりした。
無数の小さな葉は、すかして見ると刺しゅうのようにきれいに、星くずのような小さな空を無数にもっているようだ、と彼は考えて胸をときめかせた。トカゲも、植物も、石さえも、いやなにもかも、すばらしく、不可解だった。あんなに彼を愛しているアンゼルム神父は、もう自分ではオトギリソウをつめないのだ。足が悪くて、歩けなくなることがよくあった。自分の腕では、どうにもならなかったのだ。もう長くはないかもしれない。部屋の薬草は香りつづけても、老神父は、そこにいなくなるだろう。あるいは十年か二十年も、もっと永生きし、いつも変らぬ薄い、白髪《しらが》頭をし、あいかわらず眼のまわりに、おどけたしわをよせているかもしれない。しかし、このゴルトムントはその二十年の間に、どうなるだろう。すべてはうるわしくはあるが、不可解で、もともとかなしいものなのだ。何もわからない。人は生き、地上を走り廻り、馬を駆って森を通る。多くのもの――夕の星、青い釣鐘草、葦《あし》の緑に映える湖、人や牛の眼とか――が人を見つめて、はげまし、約束し、あこがれの心を起させる。見たことはないが、あこがれていたある物が、今すぐに起るにちがいない、と思えることがよくある。万物のベールが落ちる。しかし、それも過ぎ去り、何も起らない。謎はとけず、秘密の魔法もとけない。そして最後に年をとり、アンゼルム神父のようにずるくなり、ダーニエル院長のように賢くなる。恐らく、それでもまだ何もわからずに、あいかわらず期待し、耳をそばだてているのだ。
彼はからのカタツムリの殻を拾いあげた。それは石の間でかすかな音をたてており、日光にすっかりあたためられていた。殻の渦巻、刻み込まれた螺《ら》線、こっけいにとがった殻のてっぺん、内が真珠貝のように光っているからの洞《ほこら》を、彼は我を忘れて観察した。眼をとじて、指で形全体をさぐりあてようとした。昔からのよくやる遊びである。ゆるめた指の間で、殻をぐるぐる廻しながら、指に力を入れずにすべらして、その形を愛撫するようにさぐり、その形の驚異、形体の魔法に酔いしれた。すべては平らで、長さと幅しかないかのように考え、かつ表現するのが精神の傾向の一つらしい、こういうのが学校と学問の欠点の一つだ、と彼は夢見るように考えた。すべての悟性的存在の欠点と無価値を、どうにかこうして表現できそうな気がしたが、この考えをはっきりつかむことはできなかった。かたつむりが指の間からすべりおちた。だるくてねむかった。しおれかけて次第に香りだした薬草の上に、頭をのっけて、彼は陽に照らされながら眠り込んだ。靴の上を、トカゲがちょろちょろ走っていった。ひざの上では薬草がしおれた。楓の木の根元では、ブレスが持ちあぐねていた。
向うの森から誰かがやってきた。色のさめた青い服をつけ、赤い布で黒髪を巻き、夏の陽で陽やけした若い女だった。その女は小さい包みをもち、燃えるように赤い、小さなナデシコを一本口にくわえて近づいてきた。彼女は腰をおろしている男を見つけ、遠くの方からしばらくの間、物珍らしそうに、またうさんくさそうに眺めていたが、その男が眠っているのを知ると、とび色のむきだしの足で、そっと近よってゴルトムントのすぐ前に立ち、じっとその顔をみつめた。彼女の疑いはきえた。眠っている美しい若者は、危険な男には見えなかった。彼女は若者がひどく気に入った。――この人はなぜ休耕田になぞ来たのかな。彼女は花をつみにだと知ってほほえんだ。花はもうしぼんでるな。
ゴルトムントは、夢の森からもどって眼をひらいた。頭の下がやわらかかった。女のひざに眠っていたのだ。彼のねぼけてきょとんとした眼の中を、見知らぬあたたかい、茶色の眼が近々とのぞきこんだ。彼は驚かなかった。あぶなくはない。あたたかい、茶色の星は、親しげに光っていた。びっくりして見つめられると、女はほほえんだ。優しいほほえみだ。彼の顔も次第にほころびかけた。彼のほころんだくちびるへ、彼女の口がおりてきた。二人はやさしくキッスして、あいさつをかわした。そのとたん、ゴルトムントは村のあの夜のこと、お下げの少女のことを思い出さないわけにはいかなかった。だが、キッスはまだ終わらなかった。女の口は彼の口に重ねられたまま、たわむれつづけ、からかい、誘い、ついに彼のくちびるを乱暴に情欲的にとらえ、彼の血をさわがせ、奥底までわき立たせた。長いこと無言でたわむれながら、その褐色の女はゆっくり彼に教え、彼のなすがままにし、求めさせ、発見させ、燃え立たせ、情炎をしずめてやった。やさしく短い恋の歓喜が彼におおいかぶさり、金色に焼けてもえあがり、やがて火勢がおとろえてきた。眼をとじて、顔を女の胸にあてて、彼はよこたわっていた。二人は一言もいわなかった。女はじっとしていて、彼の髪をそっとなで、ゆっくり彼を我に返らせた。ついに彼は眼をあけた。
彼はいった。「ね、君は誰?」
「リーゼ」と、彼女はいった。
彼は名を味いながら、おうむ返しにいった。
「リーゼ、リーゼ、君が好きだ」
女は彼の耳に口をよせて、そっとささやいた。「あんた始めてか? 今まで好きな女いなかったの?」
彼はうなずいた。そして、突然立ち上って、あたりを見廻し、野づらを見やり、空を仰いだ。
彼はさけんだ。「大変だ。もう陽がだいぶ傾いたぞ。もどらなくちゃ」
「どこへもどる?」
「修道院のアルゼルム神父様のとこへだ」
「マリアブロンヘか? あすこの人か? もっとそばにいれないのか?」
「いたいさ」
「そんなら、いたら!」
「いや、だめだろう。まだ薬草をとらなくちゃいけないんだ」
「あんた修道院の人だね?」
「そう、生徒なんだ。でも、もう出るつもりなんだ。リーゼ、君の所へ行ってもいい? 家はどこ、どこにすんでるの?」
「ねえ、宿なしだよ。名前はなんていうの。――うん、ゴルトムントっていうの? さあ、ゴルトムントさん、もう一ぺんキッスしたら、行ってもいいよ」
「家なんかないの? じゃどこでねるの?」
「あんたまかせで、いっしょに森ん中だって、ほし草の上だってねる。こんやもくるかい」「行くよ。どこへさ? どこへ行ったら会える?」
「ふくろうのなき声できる?」
「やってみたことないよ」
「やってみなってば」
彼はやってみた。彼女は満足げに笑った。
「ほんじゃ、こんや修道院から出てきて、ふくろうみたいにないてくれない。すぐそばにいるから。ねえ、ゴルトムントさん、あたしが好き?」
「リーゼ、とってもすきだよ。きっと行くよ。元気でね、もう行かなくちゃいけないから」
汗まみれの馬にまがたって、ゴルトムントはたそがれの中を修道院にもどっていった。アンゼルム神父がひどくいそがしくしているのを見て、彼はほっとした。ある修道士がはだしで小川で遊んでいて、何かの破片を足にさしたのだった。
こんどはどうしても、ナルチスを探し出さねばならなかった。彼は、食堂で給仕している修道士の一人にたずねた。ナルチスは大斎(断食)をしていて、夕食にはこない、夜は徹夜の祈りをするから今頃はねているだろう、という返事だった。ゴルトムントは走っていった。友のナルチスが長い黙想期間中、寝室に使っているのは、修院の奥にある密室だった。前後のみさかいもなく、彼はそこへ走っていった。ドアの所で、中の気配をうかがったがひっそりしていた。彼はそっと入っていった。立ち入り禁止であることなぞ、今の彼には問題でなかった。
せまい木のベッドに、ナルチスはねていた。薄暗がりの中で見ると、手を胸の上で組んで、あおいほお骨の出た顔をした彼が、じっとねているさまは、まるで屍《しかばね》のように思われた。しかし、彼は眼をあいていた。眠っていたのではなかった。彼は黙ってゴルトムントをみつめた。非難の色はなかった。みじろぎもしないで、自己に沈潜しているようだった。別の時間と世界の中にいるようだった。そのために友の顔をみわけ、言葉の意味をとるのが、大変のようだった。
「ナルチス、許して下さい。おじゃましてすいません。気まぐれじゃないんです。今ぼくと話してなんかいけないのは、わかっています。でも、お願い、いっしょに話して下さい!」
ナルチスは、つとめてめざめようとするかのように、一瞬ひどくまばたいた。
「どうしても必要かね?」と、彼は消え入りそうな声でたずねた。
「はい、そうです。お別れにきたんです」
「では、しかたがないね。きてくれてよかった。さあ、そばにかけ給え。最初の祈りまで十五分あるから」
彼は起き上がって、むき出しの木のベッドの上に、やつれはててすわった。ゴルトムントはその側《そば》にすわった。
「ごめんなさい」自責の念にかられて彼はいった。小さな密室、むき出しの木のベッド、徹夜もつづけ過度に緊張したナルチスの顔、半ば放心したようなまなざし、何を見ても、彼がここにいるのが、めいわくであるのがわかった。
「いいよ、ぼくのことは心配しなくともいいよ。どこも何ともないんだから。お別れだそうだね。じゃ、出て行くのだね」
「きょう中にです。ああ、どう説明したらいいんでしょう。突然はっきりきまったんです」
「お父さんがいらしゃったの、それとも使いの人でも?」
「いいえ、何も。人生がひとりでやってきたんです。行くんです。お父さんにも報らせず、お許しももらわずに、あなたに恥をかかせるんですよ、脱走するんです」
ナルチスは長い白い指を、みつめていた。それは広い修道服のそで口から、細々と幽霊の指のようにのぞいていた。「ねえ君、わずかしか時間がないのだ。必要なことだけ言い給え、はっきりと手短にね。――。それともぼくが、君がどんな目にあったか、言わなくちゃいけないのかね」とナルチスがいった時、ほほえみが、きびしい、やつれはてた顔にではなく、その声の中に感じられた。
「おっしゃって下さい」と、ゴルトムントが願った。
「若い君は恋している。女を知ったのだ」
「それをまたどうして御存知ですか?」
「君のようすですぐわかる。ねえ君、君には、恋愛といわれる陶酔の、あらゆるきざしがあらわれている。さあ、話し給え」
ゴルトムントはおずおずと、友の肩に手をかけた。
「もういわれた通りです。でも、ナルチス、こんどは正確に言いあてませんでした。全然ちがいます。ぼくは野原へ行って、暑い盛りに眠ったんです。めをさますと、きれいな女の人がひざ枕《まくら》をしていたんです。とっさに、お母さんが迎えにきてくれたのか、と思いました。この女の人をお母さんだ、と思ったんじゃありません。眼はこい茶色で、髪は黒かったし、お母さんはぼくのようにブロンドで、ようすが全然別でしたから。でも、そのひとはお母さんで、お母さんの声で呼び、お母さんの使いでした。ぼくの心の夢から抜け出たかのように、不意に、きれいな見知らぬ女があらわれたのです。ぼくにひざ枕をさせ、花のようにほほえみかけたんです。ぼくを愛してくれました。始めてキッスされると、身内が苦しくなり、不思議に痛みました。これまで予感していたすべてのあこがれ、あらゆる夢、甘美な不安、胸の中に眠っていたすべての秘密がめざめ、すべては変り、魔法にかかり、すべてが意味深くなったのです。そのひとは女とは何であるか、女にはどんな秘密があるかを、教えてくれたんです。三十分の間に、ずっと年をとらせてくれたんです。もういろんな事がわかりました。修道院にはもういるべきではない、一日もとどまるべきではないということも、突然はっきりわかったんです。夜になったら、すぐ出て行きます」
ナルチスは、耳をかたむけてうなずいた。
彼はいった。「突然だね。でも、いくらか予期していたことだ。これから君のことを思うことがよくあるだろう。君はもういなくなってしまったのだね。なにかお役にたてるかい?」
「よろしかったら、ぼくを呪《のろ》わないようにと、院長様に一言おっしゃって下さい。修道院では、院長様とあなたの思惑だけが気がかりなんです。あの方とあなたの思惑が……」
「わかっている……他に気がかりなことは?」
「ええ、お願いが一つあります。後で思い出されたら、ぼくのために祈って下さい。それから……感謝します」
「何を? ゴルトムント」
「あなたの友情、忍耐、すべてのことをです。ぼくの話を無理してきいて下すったことをです。それに、ぼくをひき止めようと、なさらなかったことをです」
「どうしてひき止めなどしよう。どう思っているか、わかっているだろうが。――でも、ゴルトムント、どこへ行くつもりなの。あてはあるの。その女の人の所へ行くの?」
「はい、いっしょに行くんです。あてはありません。あのひとはよそ者で、宿無しです。ジプシーかもしれません」
「そうか。ところで、ねえ君、彼女とはすぐおしまいになるのは、わかっているね。信用しすぎては、いけないと思うね。彼女には、身寄りの者がいるだろう、夫があるかもしれない。どんな目にあうか、わからない」
ゴルトムントは友によりかかった。
彼はいった。「そんなことは、考えてもみませんでしたが、わかっています。先に話しましたように、あてはないのです。あんなにかわいがってくれたあのひとも、ぼくの目的じゃないんです。あのひとの所へ行くのは、あのひとのためじゃないんです。行かずにはいられないから、呼び声がきこえるから、行くんです」
彼はだまって、溜息をついた。二人はよりそって、悲しげにすわっていた。しかし、やぶりがたい友情を感じて幸福だった。やがて、ゴルトムントが言葉をついた。「目がくらんで、わけがわからなくなったのだ、と思ってはいけません。いや、喜びいさんで行くんです。行かなくてはいけない、と思うからです。きょうあんなすばらしい事を、経験したからです。でも、幸福と快楽だけの中へ、とびこむのだとは思いません。道はつらいだろう、と思います。それでも、幸福だろうと思います。一人の女のものになり、身をまかせるのは、すばらしいでしょう。ぼくの言うことが、下らなくきこえても、笑わないで下さい。でもねえ、一人の女を愛し、身をまかせ、一心同体になるのは、あなたが『ほれこむ』とひねくれるようなこととは、わけがちがうのです。あざけっていいものではありません。ぼくにとっては、人生への道、意味深い人生への道なんです。――ああ、ナルチス、お別れしなくちゃいけないんです。ナルチス、ぼくはあなたが好きです。短い睡眠時間を、きょうぼくのためにさいて下さって、ありがたいです。あなたから離れるのは、つらいです。ぼくをお忘れにならないでしょうね」
「しっかりし給え、ぼくだって悲しくなるじゃないか。決して忘れはしないよ。お願いだから、もどって来たまえ、待っている。具合が悪くなったら、もどって来てぼくを呼び給え。――では、ゴルトムント、元気でね、天主様がお守り下さるように!」
彼は立ち上がった。ゴルトムントは彼をかきいだいた。友が愛撫をさけているのを知って、接吻はせずに、ただ手をなでた。
夜になると、ナルチスは密室を出て聖堂の方へ渡って行った。サンダルが鋪《しき》石の上で、ぱたぱた音をたてた。彼のやせたうしろ姿がひたすらきびしい修業にせかれて、廊下の端で影のように消え、聖堂入口の闇に呑みこまれるまで、ゴルトムントはいとおしげに見送っていた。ああ、なんとすべては不可思議で、複雑怪奇なのだろう! 時もあろうに、友が精神に奉仕し、|神の御言葉の下僕《ミニステル・ベルビイ・デイビニイ》(司祭)になるために、黙想にふけり、大斎と徹夜の祈りに身をさいなみ、青春と情念と感覚を十字架に奉献し、厳格な服従の戒律に服している最中に、こうして、充ちあふれる思いと咲き乱れる愛の陶酔をいだいて、その友をたずねるとは、なんと奇しき運命だろう。恐るべき運命のいたずらだろう。ナルチスは死ぬほど疲れ、絶え入らんばかりにあおざめた顔をし、やせ細った手をして、まるで屍のように伏せていた。しかし、すぐ明るく親しげに、友を迎えてくれた。まだ女のうつり香の残っている恋する男に、耳をかしてくれ、心霊修業の間の、わずかばかりの休息時間を、犠牲にしてくれた。こんな無私の、全く霊化した愛が存在することは、すばらしいことだ、実に見事という他はない。陽のふりそそぐ野原での、きょうの我を忘れてよいしれた官能のたわむれにくらべて、この愛はなんと変っていることだろう。しかし、この二つとも愛であることには、変りはないのだ。ああ、ナルチスはこの最後の時に、二人が似ても似つかぬ、全く違った人間であることを、もう一度はっきりさせて、彼の前から姿をけしたのだ。ナルチスは黙想期間中、二時間以上の休息と睡眠を許されていなかったが、祈りと観想の一夜を送るべく、行いすまして今や疲れはてて祭壇の前に、ひざまずいていた。その頃、ゴルトムントは、どこかの木の下でリーゼを見つけ、あの甘美な、獣のようなたわむれをくりかえそうと、一目さんにとび出した。ナルチスはそのことで、言いたい事がないわけではなかった。しかし、彼ゴルトムントは、ナルチスではなかった。このうるわしくも恐るべき謎と混乱を見ぬき、それについて重大な予言をすることは、彼の義務ではない。ゴルトムントがあてもない、馬鹿げた自分の道を歩みつづけることは、なにも彼のせいではない。夜中聖堂で祈っている友も、彼を待っている美しくあたたかい若い女も、彼に身をゆだね、愛すればいい。みんな自由だ。
ゴルトムントは、ちぢに乱れる思いに興奮しながら、庭の菩提樹《ぼだいじゅ》の下をぬけ、水車小屋をぬけて脱出しようとした時、かつてコンラートといっしょに、同じ抜け道を通って修道院を脱出し、「村へ」行ったことを、ふと思い出して思わずにっこりした。あの時はひどく興奮して、おっかなびっくり禁制の遠征にでかけたものだが、きょうは、永久に禁制の危険な道にふみだすのだ。全然こわくはなかった。門番のことも、院長や先生のことも、かえりみなかった。
こんどは、川辺に板がなかった。板橋を使うわけにはいかない。彼は着物をぬいで向う岸に投げ、はだかで冷い水に胸までつかって、深い、流れの強い水を渡った。
岸辺で着物をきている時、彼はまたナルチスのことを考えた。ナルチスが予知し、導いてくれたとおりのことを、今やっているのをはっきり感じ、ひどく赤面した。あの聡明《そうめい》で、どこか人を茶化すような、ナルチスの面影を、ありありと思い出した。ナルチスは自分の馬鹿げた話にいつも耳をかたむけた。いつか大事な時には苦痛をこらえて、自分の眼をひらいてくれたのだ。あの時のナルチスの言葉のいくつかが、今やはっきり彼の耳に、きこえてきた。「君は母の胸に眠るが、ぼくは荒野にめざめているのだ。君は少女の夢を見るが、ぼくは少年の夢を見るのだ」
一瞬、彼の心はぎくっとした。愕然《がくぜん》として彼はただ一人夜の中に立っていた。背後の修道院は、彼の故郷にすぎないが、それでも住みなれた、なつかしい第二の故郷なのだ。
と同時に、彼は別のことを感じた。もうナルチスは、彼に忠告を与え、目先のきく案内人でも覚醒《かくせい》者でもないのを感じた。案内してくれるナルチスがいないので、自分で道をさがさねばならない国へ、きょうふみこんだことを感じた。こうわかると、彼はうれしかった。他人にたよっていたあの頃を思い出すと、心が重く、恥ずかしかった。もう眼が見える。子供ではない。生徒ではない。これがわかってうれしい。でも――別れるのは、何と切ないことか。向うの聖堂に、ナルチスがひざまずいているのがわかっていても、自分にはどうにもならない、何の役にもたたない、無意味なのだ。これから先長いこと、恐らくは永久に別れていて、何の音沙汰もなく、もう声もきこえず、気高い眼も見られないのだ。
彼は乱れる思いをふり切るようにして、石の小道をたどった。修道院の外壁から、百歩も行くと、立ち止って、息を大きく吸うと、できるだけ上手に、ふくろうのなき声をまねた。ずっと川下の方から、同じようなふくろうのなき声が答えた。
「獣のように呼び合っている」と彼は思って、午後の愛の一時《ひととき》を、思い出さずにはいられなかった。愛撫が終った後で、始めてリーゼと言葉をかわしたこと、つまらないことを少しばかり話し合ったことを、今始めて彼は意識した。ナルチスとは、なんと長いこと話し合ったろう。それなのに、言葉がかわされず、互いに梟《ふくろう》のなき声で誘い合い、言葉が無意味な世界へ、今ふみこんだような気がした。彼はこの気持を認めた。彼がきょう求めているのは、もう言葉や思想ではなく、リーゼだけだった。この無言の、盲目的な沈黙の感覚と攪乱《かくらん》だけだった。吐息をつきながら無我の境にとけこむことだけだった。
リーゼが姿をあらわした。森から迎えにきたのだ。彼は手をのばして、女にふれ、やさしく手さぐりしながら、女の頭、髪、首筋、ほっそりした体、強い腰をつかんだ。片腕で女を抱き、黙ってどこへともきかずに、彼はいっしょに歩いていった。女は夜の森を、平気で歩いていった。ついて行くのが骨だった。彼女は狐か貂《てん》のように、夜眼がきくらしくて、ぶつかったり、つまずいたりはしなかった。彼は夜の中へ、森の中へ、真暗な神秘の中へと、黙って、なんの考えもなく連れこまれた。もうなにも考えなかった。出てきた修道院も、ナルチスのことさえも、考えなかった。
二人は黙って暗い森の中を、あるいはやわらかいクッションのような苔の上を、あるいは固い肋骨のような木の根の上を走っていった。高い木のすいた梢の間から、明るい空が見えるかと思うと、まっ暗になってしまうこともあった。灌木《かんぼく》が彼の顔をうった。キイチゴの蔓が着物にまきついて、彼を動けなくした。女はどこでも勝手がわかっていて、ずんずん通りぬけ、立ち止ったり、ぐずぐずしたりすることは、ほとんどなかった。二人はしばらくして、まばらに松が生えている所にやってきた。青い夜空がずっとひらけていた。森がつきて、草の生えた谷が二人を迎えた。甘いほし草の香りがただよっていた。二人は音もなく流れている小川を渡った。広々とした谷の中は、森の中より静かだった。灌木もざわつかず、夜の動物もとびはねず、枯木も倒れたりはしなかった。
大きなほし草の山の所で、リーゼは立ち止まった。
「ここで休もうか」と、女がいった。
二人はほし草の中に腰を下ろし、やっとほっとして疲れを休めた。二人はいくらか疲れていた。二人は寝そべって、静けさに耳をかたむけていたが、額の汗がかわき、顔が次第に冷えていくのを感じた。ゴルトムントは快く疲れてうずくまり、たわむれに足をのばしたり、ちぢめたりした。夜気とほし草の香りを、胸いっぱいに吸いこんで、過去も未来も考えなかった。ただ、次第に恋人の体臭と体温にみせられ、ときどき女の手の愛撫に答え、女がそばで次第に燃え上り、体をすりよせてくるのを感じて、いい気持になった。ここでは、言葉も考えも必要ではなかった。女体の若い力と単純で健康な美しさ、上気と情欲とを、つまり大切で美しいもののすべてを、彼はありありと感じた。女が最初の時とはちがったふうに、愛してもらいたがっていることを、こんどは自分の方から誘ったり、教えたりせずに、彼が手を出し、求めてくれるのを、望んでいることを、はっきり感じた。彼は身内をつらぬく流れに、静かに身をまかせた。二人の胸の中に、いきいきと、音もなく、情炎のほのおがもえさかり、二人の小さな伏床《ふしど》を、沈黙する夜の息づき灼熱《しゃくねつ》する中心にするのを感じ、彼は幸福だった。
リーゼの顔の上に顔をよせて、暗がりの中で女のくちびるにキッスしようとした時、彼は眼と額が、突然やさしい光の中で光るのを見た。驚いてみやると、輝きがおぼろげだったのが、急に強くなってくるのだった。彼はうなずいて、ふりむいた。黒々と拡がっている森の端に、月が登ってきたのだ。白いやさしい光が、女の額とほおと円く明るい首の上に流れるのを、彼はいぶかしげに見ながら、低いうっとりした声でいった。「なんて君はきれいだろう!」
彼女は贈物をもらった時のように、ほほえんだ。彼は女の上半身を抱き起し、やさしく首から着物をぬぎとった。ついに、あらわな、ほの白い肩と胸が、冷たい月光の下にあらわれた。彼は見つめ、キッスしながら、眼とくちびるで可憐な影を吸いとった。女は魅せられたように、身じろぎもせず、眼を伏せ、おごそかな表情をしていた。自分の美しさがこの瞬間に始めて、自分自身にさえ、発見され、啓示されたかのように。
[#改ページ]
野面《のづら》は冷えてきて、月は刻一刻と高く上がっていったが、愛し合う二人は、月光にやさしくてらされた伏床にいこい、恋のたわむれに我を忘れ、共にまどろみ、眠り、さめてはまたさし向かい、互いに胸の火をもやし、新たにからみあっては、また眠りこんだ。最後の抱擁をかわすと、二人は精魂もつきはてて倒れた。リーゼはほし草の中に深く身をしずめて、あえいだ。ゴルトムントはじっと仰向けにねて、月光にほの白い空を、長いことじっと見つめていた。ふと二人の胸の中に、大きな悲しみがこみ上げてきた。二人はこの悲しみを逃れるために、眠った。絶望的な深い眠りだった。まるで最後の眠りのように、むさぼるように眠った。永遠の不眠を宣言され、この世のあらゆる眠りを、今のうちに心ゆくまでむさぼっておかねばならないかのように、眠りこけた。
ゴルトムントが目をさますと、リーゼは黒髪をいじっていた。彼はぼんやりと、半ばめざめたまま、しばらく女を眺めていた。
「もう起きていたの?」と、ついに彼はいった。
女ははっとしたように、|さっ《ヽヽ》とふりかえった。
女はいくらかどぎまぎしていった。「もう行かなくちゃ。起こさないつもりだったんだ」
「いま目をさましたんだ。ぼくらはもう行かなくちゃいけないの? 宿なしなのに」
リーゼはいった。「あたしは宿なしでも、あんたは修道院の人だ」
「もう修道院の人じゃないんだよ。君と同じで、ひとりぼっち、あてもない。むろん、いっしょに行くつもりなんだ」
女は眼をそらした。
「ゴルトムント、いっしょに行けない。亭主んとこへ行かなくちゃ。ゆうべ戻んなかったから、亭主になぐられるさ。道に迷ったって、いってやるかな。どうせ信用なんかしないが」
ゴルトムントはこの瞬間、ナルチスがこういうことを予言したのを思い出した。予言が当ったのだ。
彼は立ち上って、女に手をさし出した。
彼はいった。「ぼくはかんちがいしていた。ぼくらはいっしょに生活するのだ、と思っていたんだ。――でも、ぼくをねむらしたままで、黙って行っちまうつもりだったの?」
「怒って、なぐられると思ってた。ほんに、亭主はいつだってなぐるんだ。でも、あんたにはなぐられたくなかった」
彼は女の手を固くにぎった。
「リーゼ、なぐりはしないよ。きょうだって、これから先だってさ。もどったら、なぐられるんだから、いっしょに行かない」
女は激しく手をふりはなそうとした。
「だめだ、いやだ、いやだってば」と、女は泣き出しそうな声でさけんだ。女の心が自分から離れようとしており、自分に優しく言葉をかけてもらうより、他の男になぐられるのを、望んでいるのを知って、彼は手をはなした。すると、女は泣きだした。と同時に、女はかけだした。ぬれた眼に手をあてて、走り去った。彼はもう何もいわずに、後姿を見送っていた。なにか不明な、考えてみなければわからないような未知の力によばれ、ひかれて草かりのすんだ野原を走り去る女が、哀れに思われた。女が哀れだった。彼自身も少しなさけなかった。しまったと思った。おきざりにされて、ぽつねんとすわっているのは、なにかまがぬけているように思われた。しかし、彼はまだ疲れていて、ねむかった。こんなにげっそりしたのは、始めてだった。後悔するのは、後でもよい。彼はまた眠りこんでいた。ふたたび目をさました時には、もう高く上った太陽が、かんかん照らしていた。
疲れはもうぬけていた。すばやくとび起きると、小川へかけていって、顔を洗い、水を飲んだ。こんどは、色々な思い出がよみがえってきた。昨夜の恋の二人の、くさぐさの場面、うっとりするような気持が、身も知らぬ花の香りのように、そこはかとなく浮き上がってきた。思い出にふけっているうちに、彼は元気に歩き出していた。もう一度すべてを味わい、かぎ、さぐった。何度もくりかえして、あの見ず知らずの褐色の女は、なんと多くの夢を、彼に実現させてくれたろう。どんなに沢山の蕾《つぼみ》を、ひらかせたろう。なんと多くの好奇心とあこがれをいやし、新しくめざめさせたろう。
彼の行くてには、田畑や野原があり、かわいた休耕地と暗い森があった。その向うには、農家や水車小屋があるだろう。村も町もあるだろう。今や始めて、世界が彼の行くてにひろがった。彼を迎え、慰め、悲しませるべく、手をひらいて待ちかまえていた。もう、窓から世界を眺めている、生徒ではない。このさすらいは、いやでももどらざるをえない散歩では、もうないのだ。この大きな世界は、今や実世界となった。彼はその一部で、その中に、彼の運命がある。その空は彼の空で、その風雨は彼の風雨である。この大きな世界の中では、彼は小さく、兎やかぶと虫のように、青緑の無限の中を走りぬけている。そこでは、合図の鐘がなって、起床を告げ、聖務の開始を告げ、授業や昼食を知らせることはない。
彼はひもじかった。半斤のパン、一杯のミルク、麦粉スープ――それはなんと魅力のある思い出だろう。狼のように、彼の胃はめざめた。麦畑のそばを通った。穂は十分にはみのっていなかった。彼は指先と歯で籾殻《もみがら》をむき、なまの小さな麦粒をむさぼりくった。麦の穂を摘みとっては、ポケットにいっぱいつめこんだ。それから、まだ青いハシバミの実をみつけ、よろこんでぱりぱり音を立てながら、殻をかんだ。これもいくらかとっておいた。
また森にさしかかった。カシワとトネリコのまじった松林だ。|コケモモ《ヽヽヽヽ》が無限にあった。彼はそこで休み、食べ、おちついた。薄くて固い森の草の間に、青い釣鐘草がさいていた。陽気な褐色の蝶《ちょう》が飛び立ち、気まぐれにじぐざぐに飛んで、みえなくなった。こんな森に、あの聖ゲノベーバーは住んでいたのだ。彼はあの話がずっと好きだった。彼女に会いたいものだ。ひょっとすると、隠修士の庵《いおり》がここにあるかもしれない。ほら穴の中か、木の皮で造った小屋に、ひげのはえた老神父が住んでいるかもしれない。炭焼きも住んでいるかもしれない。出会って、あいさつしてみたいものだ。追いはぎだっているだろう。でも、なにも害は加えまい。誰でもいいから、人に会えたら、すばらしいだろう。しかし、彼はきょうも、明日も、これから先もずっと、誰にも出会わずに、森の旅をつづけるだろうということを、百も承知だった。そういう|めぐりあわせ《ヽヽヽヽヽヽ》なら、しかたもあるまい。くよくよしてはいけない、なるようにしかならないのだから。
彼はキツツキの音をきいて、そっと忍びよってつかまえようと思った。なかなか見つからなかったが、やっと見つけだし、キツツキが一羽さみしく、木の幹にへばりついて、くちばしで幹をこつこつやり、頭を気ぜわしげに動かしているのを、しばらく眺めていた。動物と話しができないのは、残念なことだ。キツツキに呼びかけ、なにか優しい言葉をかけてやり、森の中の生活や、仕事や、楽しみのことでもきけたら、きっとすばらしいだろう。人間も姿を変えられたら、いいのだが!
彼はひまなとき、よく絵をかいたのを、思い出した。石筆で石盤に、花や葉や木や動物や人の顔をかいたのを、思い出した。よく長いこと絵をかいてあそび、小さな神様になったつもりで、自由に生物を創り、花に眼と口をかき、枝に叢生《そうせい》した若葉をいろいろな形にし、木のてっぺんに頭をつけたりした。よく一時間も、この遊びに楽しく熱中した。魔法使いのように、何でもできたし、やたらに線をひいたりした。そして、勝手にかき始めた絵が、木の葉や、魚の頭や、狐の尻尾《しっぽ》や、人の眉毛《まゆげ》になるのを見て、我ながらびっくりしたものだった。あの頃、たわむれに石盤にかいた線のように、人間も千変万化の力を、もっているべきだ、と彼はいま考えるのだった。その力があったら、ゴルトムントは一日の間、いや一カ月間も、キツツキになりたかった。木の梢にすみ、すべすべする幹の高い所を、走りまわり、強いくちばしで木の皮をつつき破り、尾羽で幹にからだを支え、キツツキの言葉を話し、木の皮からうまい物をついばむだろう。キツツキが幹をこつこつならす音が、快く、力強く、森の中にこだましてひびいた。
ゴルトムントは森の中を歩きながら、沢山の動物に出くわした。兎にはよく出会った。彼が近づくと、兎が藪から不意にとび出し、彼の方をじっと見つめると、くるっと後ろを向き、耳を伏せ、裏の白っぽい尾を立てて、跳び去った。間伐した空地に、長い蛇がいて、逃げようとしなかった。それは生きたのではなく、抜けがらだった。彼は取り上げて、眺めた。灰褐色のきれいな模様が、背筋にずっとくっついていて、陽の光をとおし、くもの巣のように薄かった。くちばしの黄色い黒ツグミにも、出くわした。不安げな黒い眼で、彼を見つめたかと思うと、地面すれすれに飛び去った。ムナアカとウソも沢山いた。森の一部にくぼ地があり、水たまりになって、緑色にねっとりした水がたまっていた。水面を、脚の長いアメンボウが何匹もせかせかと、気でも狂ったように、わけのわからない遊びに夢中になって、走りまわっていた。その上には、まっさおな羽のトンボが二、三匹とんでいた。そして、夕方になってから、彼は何かを見た――いや、木の葉がかさかさ動き、木の枝が折れ、しめった土がばらばらとけ散らされるのだけを見た、といった方がいいだろう。強くてなんだか大きな獣が、灌木の間を小枝をへし折りながら逃げ去るのが、見えたような気がした。鹿か、猪《いのしし》か、はわからなかった。長いこと彼は、びっくりして吐息をつきながら、立っていた。ひどく興奮して、獣の逃げたあとをうかがい、あたりがとうにひっそりしてしまっても、なお胸をどきつかせて、耳をそば立てていた。
彼は森から出られなかったので、森で夜を明かさねばならなかった。寝る場所をさがし、苔《こけ》の寝床をつくりながら、もう森から出られないで、永久に森に住まねばならないとしたら、どんなだろう、と彼は考えた。非常に不幸だろう、と思った。ノイチゴで生き、苔の上でねるのも、まあできるだろう。小屋を建てて、火を起すのも、きっとできるだろう。しかし、いつもひとりぽっちでいて、眠りつづける静かな木の間に住み、後姿ばかりみせて、話もできない獣の中に生活するのは、我慢がならないほど悲しいだろう。誰にも会わず、「こんにちは」も「お休み」もいわず、もう誰の顔も眼も見ることができず、少女にも女にも会えず、キッスのキの字もなしに、くちびるとからだのひそやかな愛のたわむれもかなわないことは、想像もできない。そんな運命なら、たとえ永遠の幸福をあきらめても、熊か鹿のような獣になった方がいい、と彼は思った。牡《おす》熊になって、牝《めす》熊を愛するのも悪くはないだろう。理性や言葉を後生大事にもっていて、ひとりさみしく、愛されもせずに生きて行くよりは、その方が少なくとも、ずっといいだろう。
こけの寝床で眼をあけたまま、彼は不安をまじえた好奇心で、多くのわけのわからぬ、なぞのような、森の夜の物音をきいていた。それが今の彼の仲間なのだ。いっしょに生き、なれ親しみ、いさかいをしたり、仲直りをしたりしなくてはいけないのだ。狐や鹿の友であり、樅《もみ》や松の友なのだ。いっしょに生き、空気や太陽をわかちあい、共に明日を待ち、共々にうえ、その客にならねばならないのだ。
やがて眠りこんで、動物と人間の夢を見た。彼は熊で、愛撫しているうちに、リーゼをくってしまった。真夜中に、ぎょっとしてめをさました。なぜかはしらないが、ひどく胸苦しくなって、長いこととつおいつ考えていた。昨日もきょうも、夜の祈りをしないで、ねたのを思い出し、寝床のそばにひざまずいて、昨日ときょうの分を、二回祈った。彼はすぐ眠った。
朝、目をさますと、彼はいぶかしげに、森の中をあちこち見廻した。どこにいるのか、忘れていたのだった。森に対する不安は、今やうすらぎ始め、また元気よく、森の生活に身をゆだね、ずんずん歩みつづけ、太陽で方向をたしかめた。ある時、彼は平らで、下草のない所へさしかかった。太い、まっすぐなドイツ|もみ《ヽヽ》の老木ばかりの森だった。立ち並ぶ列柱のようなドイツもみの間を、しばらく歩いていると、修道院の大聖堂の列柱を、思い出し始めた。友のナルチスがいつかその入口のくらがりに姿を消した、あの聖堂の列柱である――あれはいつだったろう。確かについ二日前のことだろうか。
二日二晩かかって、やっと彼は森から出た。人里の近い様子をみとめて、彼はうれしくなった。耕地、裸麦や燕麦《からすむぎ》の畑、小道がここかしこにずっと見えがくれしている草地が、近くに人の住んでいることを、示していた。ゴルトムントは裸麦をつんで、かじった。人手の加えられた土地が、彼を親しげに迎えた。荒涼たる森をずっと通ってきたあとでは、小道も山羊も盛りをすぎた白っぽいナデシコも、なにからなにまで、人間くさく、しゃばを思わせた。こんどは、人間の所へ行くだろう。小一時間もすると、へりに十字架の立っている、畑のそばにさしかかった。彼は十字架のもとにひざまずいて、祈った。つき出た丘の鼻をまわると、だしぬけに茂った菩提樹《ぼだいじゅ》につきあたった。泉のせせらぐメロディーに、うっとりと耳をかたむけた。その水は木管から、長い木の水槽にそそいでいた。彼は冷たいおいしい水をのんだ。もう熟した黒い実をつけたニワトコの梢ごしに、わら屋根が二つ三つ見えるのをみつけて、彼はよろこんだ。こんな気持のよいしるしより、彼の心を深く感動させたのは、歓迎のあいさつのように快く、あたたかく、住み心地よくひびいいてきた、牛のなき声だった。
牛の声のする小舎へ、彼はうかがいよった。入口の地べたに、赤毛で、明るい青眼の男の子がすわって、水のいっぱい入った土なべをそばにおき、水を泥でこねていたが、はだしの脚までもう泥まみれだった。両手でやわらかい泥を、楽しそうに、懸命にぎゅっとにぎりつぶし、泥が指の間から、にょろにょろ出てくるのを眺めたり、団子をこさえたりしていたが、こねたり丸めたりするのに、あごまでてつだわせる熱心さであった。
「やあ、坊や」ゴルトムントは大変やさしくいったつもりだったが、子供は見知らぬ男の顔を、ぽかんと見つめていたかと思うと、まるまるとふとった顔をゆがめ、わあわあ泣きながら、あたふたと四つんばいで、戸口に入っていった。ゴルトムントは後から台所へ入っていった。そこはひどく薄暗かったので、明るい真昼の戸外から中へ入った彼には、始めは何も見えなかった。ともかく、彼はていねいにあいさつしたが、返事はなかった。だが、おびえて泣きわめく声にまじって、なだめすかしている、か細い老婆の声が、次第に聞こえてきた。とうとう、小さな老婆が暗がりの中で立ち上り、近づいてきて、片手を目の上にかざして、見知らぬ男を見上げた。
ゴルトムントが大声でいった。「お婆さん、こんにちは。諸聖人があなたの親切なお顔を、祝福して下さいますように。三日間、人の顔をおめにかかってないんです」
「何用だべ?」と、老婆はうたがわしげにたずねた。
「お婆さん、あいさつしたいんです。ちょっと休ませてもらって、火を燃やす手伝いでもしたいんです。パンでも少しいただけるなら、ありがたいです。でも、すぐでなくともいいんです」
彼は壁ぎわにベンチが造りつけてあるのを見て、そこにかけたが、老婆は子供に、パンを切ってやった。子供は緊張して、物珍しげに、しかし、いつなんどきでも泣いたり、逃げたりできるように、身がまえながら、見知らぬ男の方をじっとみつめていた。老婆はまたパンを切って、ゴルトムントに持ってきた。
彼はいった。「ありがとうございます。天主様がおむくい下さるように」
「腹がぺこぺこか?」と、女がきいた。
「いや、コケモモでいっぱいです」
「んじゃ、くったらよかんべえ。どっからござらっしただ?」
「マリアブロン修道院からです」
「神父様か?」
「いや、生徒です。旅行してるんです」
老婆はさげすみと内気のまじった気持で彼をみつめ、やせてしわくちゃな首にのっかった頭を、かすかにふった。彼女は少しばかりパンを、ゴルトムントにやり、また子供をひなたに連れ出した。そして、物珍しげにもどってきて、たずねた。「何か変った事ねえか?」
「別に。アンゼルム神父様を知っていますか?」
「いや、神父様がどうしただ?」
「病気なんです」
「病気だ。死にそうかね?」
「わかりません。胸が悪いんです。よく歩けないんです」
「死にそうかね?」
「わかりません。そうかもしれません」
「んじゃ、死んだらいいだよ。おらスープつくんだから、木切っててつだってくんねえか」
老婆は炉ばたでよくかわいた樅の割木と、まき割りを彼に渡した。彼はいわれた通りに、まきを切り、老婆がそれを灰の中につっこみ、背をまるくしてかがみこみ、せわしげに火を吹きおこすのを眺めていた。樅と|ぶな《ヽヽ》を、なにか意味ありげに、入念にかさねてくべると、囲いのない炉の中で、ほのおが明るく輝いた。老婆は、すすけた鎖で煙突からぶらさがった、黒い大やかんを、ほのおを中へおしやった。
ゴルトムントはいいつけられるままに、泉で水をくみ、牛乳鉢からクリームをすくいとり、煙ったいうす暗がりの中にすわって、ほのおがゆらゆらゆれるのを見たり、その向うに、老婆の骨ばった、しわくちゃの顔が、ほのおの赤っぽい光に照らされて、みえがくれするのを、見たりしていた。板壁の向うで、牛がまぐさ台をごそごそさせる音がしていた。彼は御満悦だった。菩提樹、泉、やかんの下でゆらゆら燃える火、牛の鼻息や草をはむ音や壁にぶつかる鈍い音、テーブルとベンチのあるうす暗い部屋、小さな老婆のいそがしそうな様子、すべてがすばらしく、気持よかった。食物と平和、人間と暖かさ、故郷のにおいがした。山羊も二頭いた。老婆の話では、後ろの方に豚小屋もあるらしい。老婆は百姓の祖母で、子供の曾《そう》祖母だった。子供はクーノーという名だった。子供は時々入ってきては、黙って、いくらか心配そうに彼の方を眺めていたが、もう泣きはしなかった。
百姓夫婦がもどってきて、家で見知らぬ男に出くわして、ひどくびっくりした。百姓はもう今にもどなりそうな気配で、若者の腕をつかまえ、うさんくさそうに戸口にひっぱって行き、日の光で顔をのぞきこんだが、笑って、親切そうに肩をたたき、食事をいっしょにやろう、とさそった。皆は食卓につき、一つの牛乳鉢にパンをひたしてたべ、牛乳が残り少なになると、百姓が残りを飲みほしてしまった。
ゴルトムントは、こんばん一晩とめてもらえるかどうか、たずねた。亭主は、いや、ここはせまいからだめだが、戸外にはどこにだって、まだほし草がたんとあるから、自由に寝られるさと答えた。
女房は子供の世話をして、話には加わらなかった。だが、食事中も、その物好きな眼は、若いよそ者から離れなかった。彼の巻き毛とまなざしが、すぐ女に深い印象をあたえた。次に、美しい白い頸《くび》、上品ですべすべした手、その自由で美しい動きも、女の気にいった。非常に若い、上品でりっぱな人だわい。しかし、特に愛着を感じたのは、不思議に歌うような、あたたかくほとばしりで、やさしく愛撫を求めるかのようにひびく、若い男らしい声だった。女はこの声を、いつまでも聞いていたかった。
食事がすむと、百姓は厩で仕事があった。ゴルトムントはそとに出て、泉で手を洗い、低い泉のへりに腰をかけて涼み、水の音にききいった。彼は決心がつきかねかけていた。ここにはもう用はないが、それでも、またすぐ立ち去らねばならないのは、悲しかった。そこへ、手桶をもった女房がでてきて、噴き上げる泉をいっぱい汲んだ。女房は低い声でいった。「おめえ今夜まだこの近くにいんなら、食い物もってってやっぺ。あっちの長ひょろい大麦畑の後《うしろ》さ、あした取ってくるほし草があんだが、あすこで待ってっか?」
彼は女房のそばかすだらけの顔をのぞきこみ、たくましい腕が手桶を動かすのを見た。女の明るい大きな眼が、あたたかく見ていた。彼はほほえんで、うなずいたが、その時には、女はもういっぱいの手桶をさげて、戸口の闇の中に姿をかくしていた。彼は感謝して、ひどく満足げにすわって、流れる水の音に耳をかたむけていた。やがて、彼は家に入って行き、亭主をさがし、彼と老婆に手をさし出し、お礼をのべた。小屋の中は火とすすと牛乳のにおいがした。この小屋だって、雨露をしのぐ所であり、故郷だったが、もう縁のないものになったのだった。彼はあいさつして、出て行った。
小屋の向うに、礼拝堂があり、その附近に、一群のがんじょうなカシワの老木が、群がって立ち、その下には、短い草がはえていた。彼はそこの木の下にいることにして、太い幹の間をさまよい歩いた。女と恋というものは不思議なものだ、と彼は考えた。実際、言葉なぞいらない。女は男にあいびきの場所を告げるのに、一言いいさえすればよい。他のことに、言葉は使わない。では、何を使うのか。そうだ、眼だ、とぎれとぎれのかすれた声に含まれた、ある響きだ、それに他の何かだ。男女が求めあうとき、すぐそれとわかるように、皮膚からやさしくほのかに、発散する香りのようなものかもしれない。デリケートなひめごとのように、不思議なものだ。彼はこんなにもはやく、それを会得《えとく》したのだ。夕方になるのが、待ちきれなかった。好奇心にみちあふれていた。あの大きなブロンド女はどんなだろう。どんな眼と声、どんな体と動きとキッスを、もってるだろう――きっと、リーゼとは全然別だろう。こわい黒髪と褐色の皮膚をもち、短いため息をつくあのリーゼは、今どこにいるだろう。亭主になぐられたろうか。まだ自分のことを、想っているだろうか。こうしてきょう、新しい女を見つけたように、リーゼも新しい恋人を、見つけたろうか。なんと目まぐるしく、すべては過ぎ去ることだろう。どこにだって、幸福はごろごろしているではないか。幸福はなんとすばらしく、強烈ではないか。そして、なんと不思議にはかないのだろう。それは罪であり、姦通《かんつう》だ。少し前だったら、こんな大罪を犯すぐらいなら、殺された方がよかっただろうに。だのに、今待っているのは、もう二人目の女だ。そして、良心は平然としている。平静だとは、いえないかもしれない。しかし、良心がときどき不安になり、重苦しくなるのは、姦通や情欲のためではなかった。それはなにか別のもので、何と呼んでいいか、わからなかった。犯したものではなくて、持って生まれてきた、罪の感覚だった。神学で原罪と呼ばれるようなもの、であるかもしれない。多分原罪だろう。そうだ、生そのものの中に、罪のようなものが、ひめられているのだ――でなかったら、なぜナルチスのような、聖い学者が、大罪人のように、贖罪の苦業をするのか。なぜゴルトムント自身が、胸の奥底のどこかに、この罪を感じなくてはならないのか。自分はいったい幸福ではなかったか。若くて健康で、空の鳥のように、自由ではなかったか。女たちも愛してはくれなかったか。恋する者として、受けるのと同じ、深い快感を女に与えることができるのは、いい気持ではないのか。ああ、それなのに、なぜ幸福になりきれないのか。なぜ自分の幸福とナルチスの徳と智の中へ、この不思議な苦痛、かすかな不安、無常の響きが、たまに侵入してくるのか。思索するような人間では決してないのに、なぜこんなに度々思い悩まねばならないのか。
それでも、生きるということはすばらしい。彼は草の間から、小さなすみれ色の花を摘んで、眼にちかづけて、小さな狭いがくの中をのぞくと、脈が沢山あり、毛のように細かい器官が生きていた。女のひざや考える人の脳の中のように、そこには生命がゆれ、そこには快楽がふるえていた。ああ、なぜ人間はこんなにも、何も知らないのか。なぜこの花と話せないのか。でも、二人の人間でさえ、本当に話し合うことはできない。それにだって、確かにチャンスが、特別な友情と用意が必要なのだ。いや、恋に言葉がいらないのは、しあわせだ。でなかったら、恋には、誤解や馬鹿げた事がいつもつき物になるだろう。ああ、リーゼの眼よ! 半ばとじ、歓喜に酔いしれてかすみ、ぴくぴくするまぶたの切れ目に、白眼だけのぞかせたあの眼よ――どんなに多くの術語や詩の言葉をつかっても、あれは表現できないだろう。そもそも、なんだって表現なぞできない、考え出せるものではない――それなのに、人間は胸の中にいつも、話したいという烈しい要求、考えたいという永遠の衝動をもっている!
彼は、小さな植物の葉が茎のまわりに、かわいらしく、しかも利口そうに並んでついているのを、じっとみつめた。ウェルギリウスの詩はすばらしいから、彼はすきだった。その詩にだって、この小さな葉の渦巻型の配列にくらべて、半分も明りょうで利口ではなく、半分ほども美しくて意味深くはないものが、かなりある。こんな植物を一本でも創造できたら、どんなに楽しみだろう、幸福だろう、なんという魅力のある、気高い、意味深い仕事だろう。しかし、誰にもできない。英雄だろうと、皇帝だろうと、教皇だろうと、聖人だろうと、できない相談だ。
日が深くかたむくと、百姓の女房がいった場所を、探しにでかけた。そして、そこで待っていた。女が恋心だけをいだいて、こようとしているのを知りつつ、待っているのは、すばらしかった。
女房は麻布に、大きなパンの固まりと一切れのベーコンをつつんで持ってきた。包みをひらいて、それを彼の前においた。
女房はいった。「お前んだ。くったらよかんべ」
彼は答えた。「あとでね。パンはほしくない、あんたをたべたいんだ。どんないい物をもってきたか、見せて!」
いい物を沢山もってきていた。強く渇いたくちびる。丈夫なぴかぴか光る歯、たくましい腕だ。腕は赤く陽にやけていたが、着物にかくれた首から下は、白くてやわらかだった。口のききかたもよく知らなかったが、のどの中でやさしい、いざなうような音を出した。これまでさわられたことのないような、やわらかい、はだざわりのよい男の手を感じた時、女の皮膚はぞっとした。猫ののどのように、女ののどがごろごろなった。リーゼよりは、たわむれるすべを知らなかった。が、力はひどくあって、おしつけられた恋人の彼は、頸が折れそうだった。女の恋は子供っぽく貪欲《どんよく》で、単純で、烈しいのに、恥ずかしげだった。二人でいると、ゴルトムントはとても幸福だった。
やがて、女房は吐息をつき、いかにもつらそうに、ふりきって立ち去った。そうしているわけにはいかないのだ。
ひとりとり残されたゴルトムントは、幸福だったが、悲しくもあった。しばらくして、やっとパンとベーコンのことを思い出し、さみしい気持ちでたべだした。もう日はとっぷりと暮れていた。
[#改ページ]
もう長いこと、ゴルトムントはさすらっていたが、同じ所に二度泊まることは、めったになかった。どこでも女たちに求愛され、たのしまされた。すっかり陽にやけ、さすらいと乏しい食物のために、やせ細った。多くの女たちは朝早く、彼に別れを告げて立ち去った。泣く者も多かった。彼はそのつどこう考えた。「どうして誰も、ずっとぼくの所にいないのだろう。もうぼくを愛して、恋の一夜のために姦通してしまったのに――なぜすぐ夫のもとにもどるのだろう。どうせ、なぐられるぐらいがおちなのに」
一人も彼のそばにいたいとは、哀願しはしなかった。ただの一人も、連れていってくれと願い、愛ゆえに、彼とさすらいの苦悩をわかとうとする女は、いなかった。彼も自分からそうすすめたり、いざなったりはしなかった。胸にきいてみても、やはり自由がこのもしかった。恋人の思い出のために、次の女の腕にだかれるのが、いやになるようなことは、かつてなかった。それでも、女の恋と自分の恋が、いつでも実にはかないこと、熱しやすく、さめやすいことは、彼にとって、不思議でもあったし、悲しくないこともなかった。これでいいのか。いつ、どこでも、そうなのだろうか。それとも、女たちが彼を求めて、いい目をみながら、ほし草やこけの上にしばらく黙っていっしょにいたがるだけなのは、彼自身のせいだろうか、そういう運命なのだろうか。彼がさすらいの身の上であるせいだろうか。住家のある人は、故郷のない人の生活を、気味わるがるからだろうか。それとも、女たちが彼をかわいい人形のように、求めだきしめて、それがすむと、ぶたれるのも承知の上で、みんな夫のもとへ走りもどるのは、ただ彼のせいだろうか。彼には、わけがわからなかった。
女から学ぶことに、彼はうまなかった。彼が心をひかれ、烈しく愛着できたのは、むしろ乙女であり、まだ男を知らず、うぶな若い生娘だった。箱入り娘はたいてい高嶺の花だった。しかし、人妻からも、彼はよろこんで学んだ。どの女も彼に何かを残した。身ごなしやキッスのしかたや特別のたわむれかたや特別の身のまかせかたやこばみかたを、残していった。ゴルトムントはどんなことも受けいれ、子供のようにあきることもなく、すなおだった。どんな誘惑にも応じた。こういう所だけが、彼の大きな魅力でもあった。美貌《びぼう》だけで女を誘惑するのは、そんなにやさしくはなかったろう。それをやさしくしたのは、うぶなこと、あけっぱなしな点、情欲の物珍しげな無邪気さ、どんな女の熱烈な要求にも応じる態度だった。彼は無意識に、どんな恋人に対しても、あこがれ、夢にまで見ていた男になった。ある時には、やさしく受身であり、ある時には、情熱的で能動的であり、ある時には、はじめての少年のようにうぶであり、ある時には、通人のように技巧的だった。たわむれと攻めあい、ため息と笑い、はにかみとあつかましさに、調子を合わせた。女の望まないことやさそいの水を向けないことは、なにもしなかった。感覚の鋭い女たちが、すばやくかぎつけたのは、こういう点で、彼はこのために、女たちの寵児《ちょうじ》となった。
彼は学びつづけた。わずかの間に、いろんな恋と、恋の技巧を学び、多くの恋人の経験を重ねたばかりではない。十人十色の色をみ、感じ、ふれ、かぐことも学んだ。あらゆる種類の声を、微妙に聞きわけられるようになった。声をきいただけでも、その女の恋の力の種類と限度を、推量できるようになった。彼はいつも熱中して、千差万別の頭と頸のつながり具合、生えぎわ、ひざの皿の動き具合を観察した。くらがりで眼をとじていても、敏感な指先で、女の髪や皮膚やうぶ毛を、区別できるようになった。さすらいの意味は、この点にあるのかもしれない、この認識と区別の能力を、次第にこまやかに、多種多様に、深くして行くために、女から女へとかりたてられるのかもしれない、と彼はもう始めの頃から、気づきだしていた。多くの音楽家が一つの楽器ばかりでなく、三つ四つ、いや多くの楽器ができるように、千差万別の女と恋を、完全に識りつくすのが、天職なのかもしれない。これがなんの役にたつのか、どういう結果になるかは、わからなかった。ただ、その途中にあることは、感じられた。彼はラテン語と論理ができるだろうが、その特別な驚嘆すべき才能に恵まれていたわけではない――恋することと女とのたわむれ事にかけては、そうではない。苦もなく覚えられ、全然忘れず、経験はひとりでに整然と積みかさなった。
もう一、二年さすらいの旅をつづけたある日のこと、ゴルトムントは二人のきれいな若い娘をもった、裕福な騎士の屋敷をおとずれた。それは初秋の、夜寒《よさむ》を覚えだす頃だった。前の秋と冬に、思い知らされた彼は、やってくる月日のことを考えて、心を痛めないわけにはゆかなかった。冬の旅はつらいのだ。彼は食事を寝床をこうた。彼は丁重に招じ入れられ、主人は、旅の男が学問があり、ギリシア語ができるのを聞くと、召使いたちの食卓から自分の部屋に招き、自分と同じような待遇を与えた。二人の娘は眼を伏せていた。上の方が十八歳、下の方は十六歳になるかならずで、リューディアとユーリエという名だった。
その翌日、ゴルトムントはまた旅立とうとした。このきれいなブロンドの娘のどちらかを、ものにするあてはなかったし、彼をひきとめるような女も、他にはなかった。ところが、朝食がすむと、騎士は彼をよんで、特別な目的のためにしつらえた小部屋に、連れていった。老人は若者に、学問や本を好んでいることをつつましやかに語り、収集した文書のぎっしりつまった小さな長持と、あつらえて造らせた書き物机と、美しい紙や羊皮紙のたくわえを、見せてくれた。ゴルトムントはあとで、おいおい騎士の身の上を知った。この信心深い騎士は、若い頃学校にかよい、やがて、戦争や俗世の生活に没頭してしまったが、重病にかかった時、神のさとしをえて、巡礼に旅立ち、若い頃の罪をつぐなおうとした。彼はローマへ、それからコンスタンチノープルまでも行ったが、もどってから父を失い、家がからになったので、家におちつき、結婚し、妻を失い、娘たちを養育し、今老いの至らんとするとき、腰をおちつけて、昔の巡礼記をくわしく書こうと、していたのだった。彼はもう何章か書いたが、――若者に打ち明けたところでは――彼のラテン語はほんとに怪しくて、つかえてばかりいた。もしゴルトムントが、もうできた数章を訂正し、清書し、続稿を助けてくれるなら、新しい服と自由な宿を、提供しようというのだった。
もう秋である。秋がさすらい人に、何を意味するかを、ゴルトムントは知っていた。新しい服は、のどから手が出るほどほしかった。特に若者の気にいったのは、これから先長いこと、きれいな姉妹と同じ屋根の下に生活できるという、期待だった。彼は即座に承諾した。数日たつと、女中頭は布の入ったたんすを開けるように、命じられた。きれいな褐色の布がえらばれ、それでゴルトムントの服と帽子が作られた。騎士は黒の、博士の着るようなガウンを作らせたいと思ったが、客の方が納得せずに、騎士を説きふせたのだった。さて出来上がってみると、小姓服か猟服のような、こぎれいなもので、彼の顔によくうつった。
ラテン語の仕事も、かなりうまくいった。二人でこれまで書いた部分に眼を通し、ゴルトムントは不正確で不十分な単語をたくさん訂正したばかりでなく、散見する騎士の舌たらずの文章を書き換えて、しっかりした構文と一貫した時称をもった、すばらしいラテン語の双対文に改めた。騎士は大いに満足して、ほめるのにやぶさかではなかった。二人は毎日少なくとも二時間は、この仕事にいそしんだ。
お城では――いくらか防御施設がある、広い地主の屋敷だが――ゴルトムントは色々の遊びを見つけて、暇つぶしをした。猟について行って、漁師のヒンリヒに石弓《いしゆみ》をならい、猟犬と仲良しになり、勝手に馬にのることができた。彼が一人でいるのは、めったに見られなかった。彼はいつも犬か馬と話をしているか、ヒンリヒや、男のような声で、冗談をいっては笑うくせのある、でぶの女中頭レーア婆さんや、犬の番人の少年や、羊飼いなどといっしょにいた。となりに住んでいる粉屋の女房とは、くもなく関係できそうだったが、おとなしくして、うぶにふるまっていた。
騎士の娘二人には、彼は胸の火を燃やしていた。若い方がきれいだったが、ひどく気どりやだったので、ゴルトムントとはほとんど一言も話さなかった。彼は二人に対して、ひどく用心して、ていねいにふるまったが、二人は彼がそばにいると、いつも求愛されているような気がした。妹は自分の殻にとじこもって、はにかんでつんとしていた。姉のリューディアは、いっぷう変った調子で彼に対した。半ば尊敬し、半ば軽蔑《けいべつ》して、学問のある不思議な動物のように、彼をあつかい、もの珍らしげに色々質問し、修道院生活のことをたずねたりしたが、いつもどことはなしに、軽蔑の色や貴婦人らしい優越感を、彼に対してはっきり示した。彼はすっかりのみこんで、リューディアを貴婦人のように、ユーリエを小さな修道女のようにあつかい、夕食後何か話をして、二人をいつもより長くひきとめておくのに成功したり、中庭や庭園で、リューディアに話しかけられたり、からかわれたりすると、彼は満足し、してやったり、と思うのだった。
この秋は、中庭の高い|とねりこ《ヽヽヽヽ》の葉は、なかなか落ちず、庭園のえぞ菊とバラも、長くもっていた。ある日のこと、となりの地主夫婦が馬丁をつれて、馬でやってきた。あたたかい日にさそわれて、ついうっかり意外に遠出してしまい、こうしてやってきて、一夜の宿を乞うたのだった。一行は丁重に歓迎された。ゴルトムントのベッドは、すぐ客間から書斎へ移され、部屋は客のために用意され、鶏が何羽かしめられ、水車小屋に魚を買いに、使いの者がやらされた。ゴルトムントは大喜びで、お祭りさわぎに加わったが、客の貴婦人が自分に眼をうばわれているのに、すぐ気がついた。彼女の声や眼の色に、好意と欲望を認めるやいなや、リューディアの態度ががらっと変り、おし黙ってしまい、彼と貴婦人を見くらべているのにも気づいて、心がひきしまるのを覚えた。にぎやかな晩餐《ばんさん》のとき、貴婦人の足とゴルトムントの足が、食卓の下でたわむれ始めたとき、彼には、このたわむれだけが、魅力があったのではなく、好奇と情炎にきらめく眼で、それを見守っていた、リューディアの暗い沈黙の緊張の方が、ずっと魅力があった。ついに、彼はわざとナイフを床に落し、それを取ろうと下にかがみこみ、貴婦人の足と脚をやさしくなでて、リューディアが青くなり、くちびるをかむのを見ながら、修道院のエピソードを話しつづけた。が、彼は、未知の夫人が自分の話によりも、求愛するような声に耳をかたむけているのを感じた。他の人たちも耳をかたむけていた。パトロンの騎士は好意をもって、客は顔色一つ変えずに、若者の胸に燃えさかる情炎に、ふれられながら、耳をかたむけていた。彼がそんなふうに話すのを、リューディアは一度も聞いたことがなかった。彼は花咲くが如くで、情欲は空にとびちり、眼は輝き、その声の中では幸福がうたい、愛が哀願していた。三人の女性はめいめいちがった気持でそれをきいた。小さいユーリエは烈しい抵抗と拒絶をもって、騎士の夫人は輝くばかりの満足をもって、それをきいた。リューディアはいたましく胸を波打たせながら。熱烈にあこがれ、力なく抵抗し、烈しくねたんだためだった。この胸のあだ波は、彼女の顔をやつれさせ、眼を燃え立たせた。ゴルトムントはこの大波を、ありありと感じ、彼の求愛への答えのように、その波は彼に寄せ返し、また小鳥のように、恋情がその身辺を飛びめぐり、身をまかせあい、抵抗しあい、あらがいあうのを、実感した。
晩餐がすむと、ユーリエはひきとった。夜もかなりふけていた。彼女は陶器の燭台をもって、小さな修道女のように、冷やかに二階に去った。他の人々はそれから一時間もいた。二人の男たちは収穫や皇帝や司教の話をしていたが、リューディアは、ゴルトムントと貴婦人が、つまらないおしゃべりをだらだらしているのを熱心にきいていた。そのおしゃべりのゆるんだ糸の間には、やりとり、まなざし、アクセント、さりげない身ぶりの、厚い甘美な網が織りなされていた。そして、そのどれもが意味深長で、熱しきっていた。リューディアはいやらしくはあったが、むさぼるように、この雰囲気を吸いとった。ゴルトムントと夫人のひざが食卓の下でふれあうのを、見たり感じたりすると、わがことのように感じて、胸があつくなった。彼女は床に入っても、眠れずに、二人はきっと二人だけの時間をもつだろうと思って、胸をときめかせながら夜中すぎまで、耳をすませてうかがっていた。彼らには許されないことを、彼女は胸の中に思いえがいていた。二人が抱擁しあうのをみ、キッスしあう音をきき、おののきながら興奮した。と、ともに、裏切られた騎士が、愛しあっている二人をおそい、いやらしいゴルトムントの胸に短刀をつきさしはしないか、そうなってくれたらいいと、こいねがってみたりした。
その翌朝は曇って、しめっぽい風が吹いていた。客は、しきりにひきとめられたが、それを辞退し、あわただしく出発することにした。見送りに出たリューディアは、客たちが馬にのるとき、手をさしのべて、別れのあいさつをのべたが、全くうわの空だった。あらゆる感覚を眼に集中させて、夫人が乗馬するとき、ゴルトムントのさし出した手に足をかけ、彼の右手が靴がしっかりとにぎり、一瞬夫人の脚をぎゅっと抱いたのを、じっと見つめていた。
客たちは帰っていった。ゴルトムントは書斎に行って、仕事をしなければならなかった。三十分もすると、階下にリューディアの命じる声がし、馬がひき出される気配だった。主人は窓べによって見下ろし、ほほえみながらうなずいた。二人は、リューディアが中庭から乗り出す後姿を見送った。ラテン語の仕事は、きょうははかどらなかった。ゴルトムントはぼんやりしていた。主人は親切に、いつもより早く、彼をさがらせた。
ゴルトムントはそっと馬を中庭からひき出し、冷たい湿った秋風をついて、紅葉した野原に乗りいれた。彼はぐんぐんスピードをましながら、またがった馬が熱し、自分の血がわきたつのを覚えた。刈り田や休耕田をこえ、トクサやスゲの荒野と沼地を渡り、息をはずませながら灰色の昼の中を、小さなハンノキの谷やかびくさい松林をぬけ、さらに褐色をおびた広野をこえていった。
(明るい灰色の曇った空を背景に、くっきり浮かびでた高い丘の背に、すっきりした姿勢で馬をゆっくり進めている。リューディアの姿がみつかった。彼は彼女の方へ突進した。追跡されていると知るや、彼女は馬にひとむちくれて、逃げだした。髪をなびかせた彼女の姿が、見えがくれした。獲物でも追うように、彼は後をつけた。彼の心は悦びにおどり、馬を小声でやさしくはげました。馬をとばしながら、移りゆく土地の特徴を、うれしそうに眺めた。ちぢまったような野原、ハンノキの森、群がった楓《かえで》、水たまりの粘土の岸が、次々とすぎていった。しかし、逃げてゆく美しい目標に、視線をたえずもどすのを、忘れはしなかった。すぐに追いつくにちがいない。
リューディアは、彼が近づいたのを知ると、逃げるのをあきらめて、馬の速度をゆるめた。追跡者の方をふりむきはしなかった。彼女はどうでもよさそうなふうに、つんとして馬をすすめた。何事もなかったように、ひとりでいるかのように。彼は馬をならばせた。二頭の馬はぴったりとならんで、おちついて歩んでいたが、疾走した馬とゴルトムントは、熱くなっていた。
「リューディアさん!」と、彼は低い声でよんだ。
答えはなかった。
「リューディアさん!」
やはり答えはなかった。
「リューディアさん、遠くから見ると、あなたの騎乗姿はすてきでした。黄金の稲妻のように、あなたのおぐしがなびくんです。きれいでしたよ。ぼくから逃れようとしたお姿は、ほんとにすてきでした。それで、あなたがぼくを少し愛していらっしゃるのが、やっとわかったんです。ぼくは知りませんでした、昨晩はまだ疑っていたんです。あなたが逃げようとなすったので、突然それがわかったんです。あなたはおきれいですね、お疲れでしょう、おりましょう?」
彼がひらりと跳びおりると、彼女の手綱をとったので、こんどは、ふりきって逃げられなかった。ぬけるように白い、彼女の顔が見下ろした。彼に助けおこされると、彼女は泣きくずれた。彼は用心深く二、三歩彼女を導くと、枯草の中にすわらせ、そのそばにひざまずいた。そこにすわった彼女は、けんめいになきじゃくりをとめようとし、やっと自分にうちかった。
「あなたって、いけない方だわ!」口がきけるようになると、彼女は話し出した。とぎれとぎれの言葉だった。
「いけないですか?」
「ゴルトムント、あなたは女たらしよ。さっきおっしゃったこと、忘れさせてね。あつかましい言葉よ。あんなことわたしにおっしゃるなんて、あなたにふさわしくないわ。あなたを愛しているなんて、どうしておわかりなの? わたしたち、そんなこと忘れましょう。でも、いやでもゆうべ眼に入ったあのことは、どうしたら忘れられるの?」
「ゆうべですって? 何かごらんになったのですか?」
「ああ、そんなふうにおっしゃらないで、そんなにうそをつかないで! わたしの見てる前で、あの奥様にこびるなんて、いやらしい、恥しらずだわ。恥ずかしくなんかないの? それに、あの方の脚をなでたでしょう、テーブルの下で、わたしたちのテーブルの下でよ。わたしの、わたしの眼の前でよ。そして、あの方が行っておしまいになると、もうわたしを追いかけるんですもの。なにが恥なのか、ほんとうにあなたには、わからないのよ」
ゴルトムントは、彼女を馬から助け下ろす前に、彼女にいった言葉を、とっくに後悔していた。馬鹿なことをしたものだ、恋には言葉はいらない、黙っているべきだったのだ。
彼はもう何もいわなかった。彼女のそばにひざまずいていた。彼女がきれいな不幸そうなまなざしで、彼の顔をじっと見守っていると、その悩みが彼に伝わっていった。彼はいけない所もあった、と自分でも感じた。彼女はいろいろ言いながらも、その眼には愛があらわれているのを彼はみてとった。ひくひくするくちびるの上の苦痛も、やはり愛なのだ。彼は彼女の言葉より、くちびるを信じた。
彼女は答をまっていた。返事がないので、リューディアは、くちびるをひどくにがそうにゆがめ、少し泣きはらした眼を、彼に向け、くりかえした。「あなたはほんとに恥を知らないの?」
彼はすなおにいった。「ごめんなさい。ぼくたちはいってはいけない事を、話しています。ぼくが悪いのです。許して下さい。恥を知らないのか、とおっしゃるんですね。いいえ、知っています。でも、あなたが好きなのです。恋は恥なぞ知りません。おこらないで下さい!」
彼女はほとんど聞いていないようだった。すわったまま、口をにがそうにまげ、一人でいるかのように、はるか野末の方を眺めていた。彼はこんな目にあったのは、始めてだった。話したせいだ。
彼はそっと顔を、彼女のひざにのせた。触れ合う気持がなんともいえずこころよかった。でも、彼はちょっとどうしてよいかわからず、悲しかった。彼女もまだ悲しいらしく、じっと黙ってすわりこんだまま、遠くを見ていた。困ったことだ、なさけないことだ。しかし、ひざはすりつけるほおをやさしく受け入れ、こばみはしなかった。彼の顔は眼をとじたまま、彼女のひざの上によこたわり、その気高く長い形を、ゆっくり感じとった。この気高く若々しいひざの形が、彼女の長くきれいな、もり上って円味をおびた指の爪の形ににているのを、ゴルトムントは知って、喜び感動した。彼は感謝の気持で、ひざにまつわりつき、ほおとくちびるでひざと話しあった。
こんどは、彼女の手がおずおずと、小鳥のように軽く自分の髪の上におかれるのを、彼は感じた。あいらしい手がそっと、子供のように自分の髪をなでるのが、彼は気配と感じでわかった。彼は彼女の手を、よくじっと観察し、驚嘆したものだった。すんなりして、きれいに丸みをおび、ばら色の丘のような爪のある、ほっそりと長い指を、まるで自分の指のように、よく知っていた。いま、その長いやさしい指が、彼の巻き毛とはにかみながら話している。その言葉は子供っぽく、不安げだが、やはり恋だった。彼は感謝する気持で、頭を彼女の手の中にまといつかせ、うなじとほおで、彼女のたなごころを感じた。
その時、彼女がいった。「もう帰る時間だわ」
彼は顔をあげ、愛情をこめて彼女の顔をみつめ、彼女のほっそりした指に、やさしくキッスした。
「お願い、お立ちになって。お家へ帰らなくちゃ」と、彼女はいった。
彼はすぐ承知し、二人は立ち上がって、馬に乗り出発した。
ゴルトムントの胸は幸福でいっぱいだった。リューディアはなんときれいだろう、子供のように、なんと清くやさしいことだろう。まだキッスさえしないのに、こんなにゆたかに恵まれ、彼女のことで胸がいっぱいなのだ。二人は馬をとばせた。屋敷にもどって、もう中庭に入ろうとする時になってやっと、彼女はびっくりしていった。「いっしょにもどってはいけなかったのだわ。お馬鹿さんだこと」二人が下馬して、もう馬丁がかけつけるという、最後の一瞬に彼女は、いそいで熱烈に彼の耳にささやいた。「言って、ゆうべあの方のところへいらしったのかどうか?」彼は何度も頭をふりながら、馬に|はみ《ヽヽ》をはずしにかかった。
午後、彼女は父親が出かけると、書斎へ入ってきた。
「あれもほんとう?」彼女は入ってくるなり、情熱をこめていった。何のことか、彼にはすぐわかった。
「じゃ、どうしてあの方と、あんなにおふざけになったの、あんなにいやらしく? どうしてごきげんとりをしたの?」
「あなたのためです」と、彼はいった。「ほんとうなのです。あの方の脚より、ずっとあなたの脚を、なでたかったのです。でも、あなたの脚は一度だって、テーブルの下でぼくの方にきて、ぼくがあなたを愛しているかどうかを、たずねてくれなかったのです」
「ゴルトムント、わたしをほんとうに愛していて?」
「ええ、ほんとにです」
「でも、それがどうなること?」
「リューディアさん、ぼくにはわかりません。どうでもいいのです。あなたを愛していると、ぼくは幸福なのです――それがどういうことになるか、考えたりはしません。あなたの乗馬姿を拝見し、あなたの声をおききし、指で髪をなでていただければ、それでぼくはうれしいのです。キッスさせていただければ、ぼくうれしいんですが」
「ゴルトムント、キッスしていいのは許嫁だけよ。御存知ない?」
「ええ、知りません。知っているはずがないでしょう。ぼくたちが結婚できないのは、あなたもごぞんじでしょう」
「わかっててよ。あなたはわたしの夫になって、わたしのそばにいることは、おできにならないのですから、恋のなんのっておっしゃるのは、いけないことだわ。わたしが誘惑できて?」
「リューディアさん、できるとは信じませんし、考えてもいません。あなたがおっしゃるようなことは、全然考えていません。ただ、あなたに一度キッスしていただきたいだけなのです。ぼくたちはおしゃべりをしますね。恋人たちはおしゃべりなんかしません。きっと、あなたはぼくがお好きじゃないのですね?」
「けさは、あべこべの事をおっしゃったわ」
「そして、あなたはそのあべこべのことを、なすったのですね!」
「わたしがですって? それどういう意味?」
「まず、ぼくが行くのをごらんになって、馬でお逃げになった。それで、愛していらっしゃる、とぼくは思ったのです。それから、お泣きになったので、愛していらっしゃるもの、と思いました。それから、頭をあなたのおひざにのせ、あなたになでていただいたので、それは恋のしるしだ、と思いました。でも今は、愛していらっしゃるそぶりもありません」
「わたし、あなたがきのう脚をおなでになった奥様のような方とはちがいます。あなたはあんなお方ばかり、相手にしてらっしゃるのですわ」
「いや、とんでもない。あなたはあの方より、ずっとおきれいで、ごりっぱです」
「そんなことをいってはいません」
「いや、そうなのです。御自分がどんなにおきれいか、ごぞんじなのですか?」
「鏡がありますわ」
「リューディアさん、お顔を映してごらんになったことが、ございますか。それから、肩や指の爪やひざをね。そして、それがみんなどんなに似ているか、お互いにどんなに調和しているか、みんな長い、すんなりとしっかりした、同じ形なのを、ごらんになったことがおありですか。いかがですか」
「なんというおっしゃり方をなさるの。見たことなんかないけど、こうしておっしゃるのを、うかがっていると、その意味はわかってよ。よくって、あなたはやはり誘惑する方よ。こうして、わたしにうぬぼれさせよう、となすってらっしゃるのよ」
「わかっていただけなくて残念です。どうしてあなたをうぬぼれさせる必要があるのです。あなたはおきれいだ。ぼくがそれに感謝している気持を、わかっていただきたいのです。それを、こうして口を出していわせるようにしむけられる。口に出していわなければ、千倍もよく表現できたのに。言葉では、あなたに何もさしあげられません。言動では、お互いに何も学ぶことはできないでしょう」
「何をいったいあなたから学ぶのです?」
「リューディアさん、ぼくはあなたから、あなたはぼくからです。でも、あなたはそのつもりではないのです。あなたは、夫となる方だけを、愛するおつもりですね。あなたが何もごぞんじなく、キッスのし方さえ、ごぞんじないのを知ったから、その方は笑うでしょう」
「では、あなたは先生におなりになって、キッスのし方をわたしに、お教えになるおつもり?」
彼は彼女にほほえみかけた。彼女の言葉は不愉快だったが、そのいくらか烈しくて、みせかけの利口ぶった言い方のかげに、情欲にとらわれ、不安にあらがっている乙女心を、感じることができた。
彼はもう返事をしなかった。彼はほほえみかけ、自分の眼で彼女の不安げな眼を、しっかりとらえた。そして、彼女がそれにさからいながらも、彼の魔力に屈してゆく間に、彼は次第に顔を、彼女の顔へ近づけていった。ついに唇がふれあった。彼は彼女の口にそっとふれた。その口はかわいらしい子供のキッスで答え、彼がその口をはなさないので、驚いて苦しそうに開いた。やさしく求めながら、彼は逃げる口を追ったが、とうとう、その口はおずおずおし返してきて、魅せられた彼女に、難なくキッスのやりとりを、教えることができた。そのうちに、とうとう力つきて、彼女は顔を彼の肩におしつけた。彼はそっとしておいて、うっとりとふさふさしたブロンドの香りをかぎながら、甘いなだめるような声を、彼女の耳にささやいたが、その瞬間、以前うぶな生徒だった頃、ジプシー女のリーゼにこの秘密を、始めて教えられたのを思い出した。なんと彼女の髪が黒かったことよ、皮膚の褐色だったことよ、陽ざしが焼けつくようで、しおれたオトギリソウが、快くかおっていたことよ。それは遠い昔の思い出だ、稲妻のように浮かび上る遙かな思い出だ。なんとすべてのものは、まだ咲きもしないうちに、すぐしぼんでしまうのだろう!
リューディアがそっと立ち上がった。顔色が変っていた。彼女のあいらしい眼は、きっと大きく見開かれていた。
彼女はいった。「ゴルトムント、行かせてね。ここに長くいすぎたわ、ねえ。わたしのいとしい方!」
二人は毎日沈黙のいっときをもち、ゴルトムントは恋人のいいなりになり、この乙女の愛に、なんともいえぬほどよろこび、感動した。度々、彼女は愛のいっときのあいだ、ただ彼の手をじっとにぎり、眼をのぞきこみ、やがて子供っぽいキッスをして別れていった。ある時は、身をなげだし、あくこともなくキッスしたが、手でさわらせはしなかった。ある時、真っ赤になり、やっと思いきって、彼をうれしがらせようと、一方の乳房をみせた。彼女は恥ずかしげに、果実のように、小さな白い乳房を、胸をはだけ出した。彼がひざまづいて、それにキッスすると、彼女はまた大事そうにしまいこみ、いつまでも首まで真っ赤になっていた。二人はまた、別な話し方をした。最初の日のような話し方は、もうしなかった。お互いに別の名をつけあって、よく子供の頃のことや、夢や、遊びのことを語りあった。二人は結婚できないのだから、この恋は不純だとも、よく語りあった。二人は悲しげに、身をまかせあって、そう話しあい、黒いベールのような、この秘密の悲しみで二人の恋を飾った。
生まれて始めて、ゴルトムントは一人の女性に求められたばかりか、愛されたのだ。
リューディアはいつかこういった。「あなたはおきれいで、とても朗かそうですわ。でも、あなたの眼には、朗かさはなくて、悲しさばかりありますわ。あなたの眼は、幸福なんかなくて、美しいものや恋しいものは、何でもはかないことを、ごぞんじなんだわ。あなたの眼って、世の中で一番きれいで、一番悲しい。あなたは故郷がないからよ、きっと。あなたは森からいらしって、いつかはまた行っておしまいになり、こけの上におやすみになったり、さすらったりなさるんだわ。――でも|わたしの《ヽヽヽヽ》故郷はいったいどこなの? あなたが行っておしまいになったら、お父様と妹と、あなたのことを想うお部屋と窓辺が残るでしょう。でも、故郷はもうなくなるんだわ」
彼は話すにまかせ、度々ほほえんだり、顔をくもらせたりした。言葉では彼女をなぐさめず、ただやさしく髪をなで、頭を彼女の胸にもたせ、子供が泣くと、乳母がつぶやいて慰めるような、低い無意味な魔法のような言葉を、口の中でつぶやいた。ある時、リューディアがいった。
「ゴルトムント、将来あなたがどんな方になるか、知りたいわ。よく考えてみるのよ。あなたの生活は普通でも、容易でもないわ。おしあわせにおなりになると、いいんだけど。まぼろしや夢をもって、それをきれいにあらわせる詩人におなりになるに違いない、とよく思いますの。ねえ、あなたは世界中をさまよわれ、どんな女の方にも愛されるでしょうが、やはりひとりぼっちでしょう。よくおうわさになさる、修道院のお友達の所へ、おもどりになった方がいいわ。いつか森の中で、ひとりぼっちでお亡くなりになったりしないように、あなたのためにお祈りしますわ」
彼女はひどくまじめに、思い沈んだ眼つきで、こんなふうに語った。しかし、彼女はまた笑い興じながら、いっしょに晩秋の野を乗りまわし、なぞなぞ遊びをしたり、枯葉やつやつやしたどんぐりを、彼に投げつけたりした。
ある晩、ゴルトムントは部屋のベッドに入って、ねようとしていた。彼の心は重かった。快くいたむ重さだった。恋と悲痛と困惑にいっぱいになって、胸はうずいていた。十一月の風が屋根をゆすぶるのが、きこえていた。ずっと前から、いつも寝つきが悪くなっていた。夕方修道院でとなえるならわしだった、ラテン語の聖母賛歌を、彼は低く口ずさんだ。
こよなくうるわしきマリアよ
原罪のけがれなき御者よ
おんみはイスラエルのよろこび
おんみは罪人の代願者
やさしい調べで、この賛歌は彼の魂にしみこんでいったが、外では、風が不和とさすらい、森や秋や故郷のない者の生活の歌をうたっていた。彼はリューディアを想い、ナルチスと母を想った。おちつかない胸は、ふくらんで重苦しかった。
その時、彼はびっくりしてとび起き、いぶかしげに眼をこらした。部屋の戸があいて、くらがりの中を、長い白い下着の姿が入ってきた。リューディアが音もたてずはだしで、石の床をふんで入ってきて、そっとドアをしめ、彼のベッドに腰を下ろした。
彼はささやいた。「リューディアさん、ぼくの仔鹿、ぼくの白い花! リューディアさん、どうしたの?」
彼女はいった。「ちょっときてみただけなの。ねえ、わたしの|黄金のハート《ゴルトヘルツ》、わたしのゴルトムントがねてるのを、一度見たかったんですもの」
彼女は彼のそばに横になり、じっとしていたが、胸は重苦しく波うっていた。彼女はキッスを許し、彼が胸をとどろかせながら、四肢を愛撫するのを、黙っていたが、それ以上は許さなかった。ちょっとそうしていたかと思うと、音もなく立ち上がり、姿をけした。戸がぎいぎいなり、屋根の骨格がきしんだ。風が家全体をおしつぶしそうだった。すべてが魔法にでもかかったようで、秘密と不安と約束とおどしにみちていた。ゴルトムントは、何を思い、何をしているのかが、わからなかった。不安なまどろみからさめたとき、まくらは涙でぬれていた。
彼女は数日して、かわいらしい白い幽霊のように、またやってきて、前のように、彼のそばに十五分もねていた。彼の腕に抱かれて、彼の耳にささやいた。話と苦情が山ほどあった。彼はやさしくきいてやった。彼女は左腕に抱かれ、彼は右手で彼女のひざをなでた。彼女は彼のほおにぴったりよりそって、細々とした声でいった。
「ねえ、ゴルトムント、あなたのものになれなくて、とても悲しいの。わたしたちの小ちゃな幸福、秘密も、もう長いことはないと思うの。ユーリエはもう知ってるかもしれないの。すぐ白状させられるわ。お父様がお気づきになるかもしれないわ。あなたと寝ているのが見つかったら、|黄金の小鳥さん《ゴルトフォーゲル》、あなたのリューディアはひどい目にあうわ。眼を泣きはらして、恋人が木につるされて、さらし者にされるのを、見なくちゃならないでしょう。ねえ、お願い、逃げて、今すぐ逃げて、お父様にしばられて、木につるされないように。泥棒が木につるされたのを、一度見たことがあるの。あなたが木につるされるのなぞ、とても見てられやしないわ。ね、いっそのこと逃げて、わたしのことを忘れてね。ゴルトムント、死んじゃいやよ、あなたの青い眼が、鳥につつかれるなんていやだわ。でも、いけないわ、ねえ、行っちゃいやよ――ああ、おいて行かれたら、わたしどうなるの」
「リューディア、ぼくといっしょに行かない? いっしょに逃げよう、世界は広いんだよ!」
彼女は悲しそうに訴えた。「ああ、なんていいでしょう、あなたといっしょに世界をめぐり歩いたら。でも、森でねたり、宿なしになったり、髪に藁《わら》をくっつけたりするのは、わたしにはできないわ。お父様のお顔に泥をぬるなんて、わたしにはできない。――いいえ、黙ってちょうだい、そう思うだけじゃないわ。わたしにはできない相談だわ。きたないお皿でたべたり、癩《らい》病人のベッドでねたりできないように、そんな事はできないでしょう。ああ、よくて美しいものは何でも、わたしたちには禁じられてるんだわ。わたしたち二人は、苦しむために生まれてきたのよ。|黄金さん《ゲルトヒエン》、わたしのみじめな小さなゴルトムント、どうしても木につるされなくちゃいけないの。そしてわたしは、お部屋に閉じこめられて、修道院へやられるんだわ。ねえいとしい方、わたしを棄てて、ジプシーや百姓女とまたねなくちゃいけないんだわ。ああ、行って、つかまって、縛られないうちに行って、決して、わたしたちは幸福になれなくってよ、決して!」
彼はゆっくり彼女のひざをなで、そして、そっと下にさわって願った。「ねえ、ぼくのちっちゃな花さん、とても幸福になれるんだけど。いけない?」
彼女は怒りはしなかったが、ぐっと彼の手をどけ、少し身をひいた。
彼女はいった。「いけません、そんなことをしちゃ、いや。わたしそんなことはできないの。あなたのようなジプシーには、わからないのよ。わたしったらいけない、いけない子だわ。お家の人に恥をかかせるんだわ。でも、わたしの胸のどこかに、まだ誇りが残っています。そこへは誰も入らせないの。そっとしておいてね、でないと、もう二度とあなたの御部屋には、こられなくなるわ」
彼女に禁じられ、望まれ、指示されれば、彼はそれを無視したりはしなかったろう。彼は自分でも、彼女のいいなりになっているのを、いぶかしく思っていた。しかし、彼は悩んでいた。彼の官能はみたされず、彼の心は彼女への服従を、激しくこばむことがよくあった。彼は何度も服従から脱しようとした。彼はよく念入りなお世辞で、小さなユーリエにとりいったが、むろん、この重要人物と仲良くし、できることならだますことは、実際ぜひ必要なことだった。ひどくねんねかと思うと、ひどく物知り顔をしていることもある、このユーリエとの関係は、いっぷう変っていた。確かに、彼女はリューディアよりきれいで、まれにみる美貌の持主だった。彼女はその上、いくらかまかせた、子供っぽい無邪気さをもっていたから、ゴルトムントには、大きな魅力だった。彼はユーリエにひどく愛着を感じることが、よくあった。妹のユーリエが彼の官能に与えた刺激によって、彼は情欲と愛の区別を時々知って、びっくりすることがあった。始めは、姉妹を同一視して、二人とも愛し、ユーリエの方がきれいで、誘惑しがいがあると思い、差別なく二人の愛を求め、いつも二人を見守っていたのだった。しかし今では、リューディアの方が彼の心を支配している。今では、彼はリューディアを熱愛していたから、それだからこそ、彼女を完全に我物にすることも、あきらめているのだ。彼は彼女の魂をしり、愛するようになった。その魂の子供っぽい優しさ、悲しがる傾向は、彼自身の魂の性質に、似ているように思われた。余りにもこの魂が彼女のからだにふさわしいのを知って、よく彼は深く驚き、感動した。彼女が何かしたり、話したりし、希望をのべたり判断したりする時の、言葉や魂の状態は、そっくり、その眼の切れ方や指の形と同じようになるのだ。
彼女の本質、霊魂と肉体を支配する根本形式と法則を、発見したと思ったとたん、ゴルトムントはこの姿の面影を、はっきりと写しとりたい、と思うことが時々あった。そして、彼はかくしていた紙に、彼女の顔の輪郭や眉《まゆ》の線や手やひざを、そらで線がきしてみた。
ユーリエには、いくらかてこずった。どう見ても彼女は、姉がほんろうされている恋の大波に感づいているらしかった。そのかたくなな心は許しそうにもないのに、感覚は好奇心と情欲にもえて、この楽園に向けられていた。ゴルトムントに対しては、わざと冷淡にふるまい、嫌っているそぶりをみせた。そして、自分がないがしろにされていると思うと、驚きとみだらな好奇心をもって、彼を見守るのだった。彼女はリューディアには、度々ひどくやさしくし、よくベッドの中でもリューディアを求め、ひそかに情欲をもやしては、愛と性の国に侵入し、禁じられたあこがれの秘密にいさましくふれた。そうかと思うと、リューディアの秘密の罪を知って、けいべつしているようなそぶりをみせて、リューディアの感情を害しそうになることもあった。このきれいで、むら気な子供は、時々二人の恋人たちの間に入っては、刺激したり、じゃましたりし、情欲の夢にうなされては、二人の秘め事をかいまみ、何も知らないふりをするかと思うと、自分が危険な証人であることを、二人にわからせたりした。
こうして、子供だった彼女は、たちまちに一つの勢力に変った。食事の時以外には、ユーリエとめったに会わないゴルトムントよりは、リューディアの方がそれで悩まされた。ゴルトムントがユーリエにも、心をひかれているらしいことは、リューディアにもわからずにはいなかった。彼女はよく、彼の視線がユーリエの美を認め、たのしみつづけるのを見つけた。彼女は黙っていなければならなかった。すべてが困難で危険であり、特にユーリエのきげんを悪くした。怒らせたりしてはならなかった。いつなんどき、二人の秘密の恋が見つかり、切ない不安な幸福が、終りをつげるかもしれない、おそらくは恐ろしい終りをつげるかもしれないのだから。
ゴルトムントはよく、どうしてとうに立ち去らなかったのか、我ながらいぶかしかった。今のような生活は困難だ。こうして、愛されながらも、先の長い幸福を許されるみこみもなく、今迄のように、恋の望みを容易にみたされるあてもなく、永遠に刺戟され、渇望しながら、決して情欲をみたされもせず、そのうえ、絶えず危険にさらされているのだ。なぜこんな所にぐずぐずしていて、こんな複雑な関係や乱れた気持に、たえているのか。そんなものは、定住している者、まともな奴、ぬくぬくとおさまっている奴にとっての、経験や感情や意識の状態ではないのか。こんな優しい気持や複雑な関係をのがれ、あざわらうという、おとなしい放浪者の権利が、自分にはあるのではないのか。そうだ、自分にはこの権利がありながら、ここに故郷めいたものを求め、こんなに苦しみもだえて、それを我物にしようとするのは、自分はなんたる馬鹿者だ。ところが、自分はこうして悩んでいる。喜びでだ、おまけにひそかに幸福感をあじわっているのだ。こんなふうに生きることは、馬鹿げていて困難だ、複雑で努力がいる。しかし、すばらしいことだ。こういう恋の、謎のように美しい悲哀、おろかさと絶望は、すばらしい。憂いに沈んで眠れない夜は、すばらしい。これらのものはみんな、リューディアが恋と不安を語る時の、唇の苦悩の色、声の消えいりそうな献身的な響きのように、すばらしく貴重だ。
幾週間もたたないうちに、この苦悩の色はリューディアの若々しい顔にあらわれて、二度と消えなかった。その線をペンで写すことが、彼にはすてきで、大切な気がした。この数週間に、彼自身も人が変り、ずっとふけ、利口にはならなかったが、経験にはとみ、幸福にはならなかったが、魂はずっと成熟し、ゆたかになった。彼はもう少年ではなかった。
やさしい消えいりそうな声で、リューディアが彼にいった。「あなたは悲しんではいけないのよ、わたしのためにもね。わたしはあなたをたのしませ、あなたが幸福なのを見ていたい一心なんですよ。ごめんなさいね、悲しませたり、わたしの心配や悲しみを、あなたにうつしたりして。夜とっても変な夢を見るの。口ではいえないほど、大きくて暗い砂漠《さばく》の中をいつも歩くの。どんどん歩いて行って、あなたを探すんですけど、見つからないのよ。あなたを失ってしまい、いつもいつもこうして、ひとりで歩いて行かなくちゃいけないのは、わかっているの。そして、目がさめると、おお、すてきだわ、すばらしいわ、あの方はまだいらっしゃる、お会いできる、これから幾週間か幾日か、そんなことはどうでもいいわ、でも、まだいらっしゃる、と思うんですのよ」
ある朝、ゴルトムントは夜明けに目をさまし、考えこんでしばらく横になっていた。夢に見た色々な物が、ごたごたと彼をとりまいていた。母とナルチスの夢だったが、二人の姿はまだありありと、胸の中に残っていた。夢の糸から解放されたとき、ある不思議な光が彼の上に落ちていた。小さな窓から射しこんでいる、独特な明るい光だった。とび起きて、窓辺に走りよって見ると、初雪のつもった窓の飾縁《かざりべり》、厩の屋根、中庭の入口、向うの野原一帯が、青白く光っていた。心の中の不安と静かなあなたまかせの冬の世界の対照に、彼は深く感動した。なんと静かに、感動的に、敬虔に、畑と森、丘と荒野が、太陽と風と雨と乾燥と雪とにゆだねていることだろう。なんと美しく、そこはかとない悩みをもって、楓と|とねりこ《ヽヽヽヽ》が冬の重荷に、たえかねていることだろう。人間もあのようにはできないものか、それから何も学べないのか。想いに沈みながら、彼は中庭にでて、雪の中を歩き、雪にさわってみ、庭園の方へ行って、雪の降りつもった垣根ごしに、雪にたわんだバラの木を眺めた。
麦粉スープの朝食をとりながら、みんな初雪の話をした。みんな――少女たちも――もうそとに出てきていた。今年は雪がおそかった。もうすぐクリスマスなのだ。騎士は雪の降らない南の国の話をした。だが、ゴルトムントにこの初雪の日を忘れがたいものにした事件は、夜もふけてから始めて起った。
姉妹はその日けんかをしたが、ゴルトムントは知らなかった。夜になって、家中が寝しずまると、リューディアがいつものように、彼の所へ忍んできて、黙ってそばに横になり、彼の胸に頭をよせ、胸のときめきを聞き、身近かにいて慰めてもらおうとした。彼女は悲しくて不安だった。ユーリエの裏切りがこわかった。しかし、恋人にそれを打ち明けて、心配させる気には、どうしてもなれなかった。そんな気持で、彼女はじっと彼の胸によりそい、彼が時々もらす愛撫の言葉をきき、髪を愛撫する彼の手を感じていた。
だが突然――彼女はまだいくらもそうして横になっていなかった――彼女はぎくっとし、大きく眼を見張って起き上がった。部屋のドアがあいて、一つの人影が入ってくるのを見たとき、ゴルトムントも少からず驚いた。彼は驚きのあまり、それが誰かは、すぐにはわからなかった。その人影がベッドのそばに立ち、かがみこんだとき、やっと、それがユーリエなのを知って、はっとかたずをのんだ。彼女は、下着の上に羽おっていたマントを、すっぽり床に落した。リューディアは、短刀でぐっさりやられたように、悲鳴をあげてのけぞり、ゴルトムントにしがみついた。
小気味よさそうに、人を馬鹿にした口調だが、おぼつかなげに、ユーリエがいった。「ひとりぼっちで、お部屋にいたくなんかないわ。わたしもそこへ割りこませてくれるか、それとも、お父様を起しに行く?」
「じゃ、お入り」ゴルトムントはこういって、ふとんをめくった。「足が氷のようですね」ユーリエはもぐりこんだが、リューディアがふとんに顔をうずめて、みじろぎもしないので、狭いベッドの中で、ユーリエのために余地をつくるのは大変だった。ついに三人は、ゴルトムントを中に横になったが、そのとき、ゴルトムントは、ちょっと前までは、こうなってくれたら、と心から望んでいたのを、否定するわけにはいかなかった。奇妙に不安だったが、心ひそかによろこんで、彼はそばにユーリエの腰を感じた。
ユーリエはまだ話しだした。「お姉様のきたがってらっしゃる。あなたのベッドの寝心地が知りたかったの」
ゴルトムントは彼女をおちつかせるために、頬を彼女の髪にやさしくすりつけ、猫をかわいがる時のように、彼女の腰やひざをやさしく愛撫した。彼女は黙って、物珍しそうに、彼の愛撫の手に身をまかせ、逆らいもせずに、すなおに魔法のとりこになった。こうして魔法をかけながらも、リューディアの心をえようと、彼女の耳にいつものように愛の言葉をささやき、やっと顔をあげて、彼の方を向かせるのに成功した。彼は音のしないように、リューディアの口と眼にキッスしたが、同時に、彼の手は反対側の妹を呪縛《じゅばく》していた。こうして苦しい、不自然な状態をつづけていると、彼はたえがたくなってきた。それを思いしらせたのは、彼の左手だった。左手がおとなしく待っている美しい、ユーリエの四肢になじむと、彼はユーリエに対する、美しくも絶望的な恋ばかりか、愚かな恋をさえ、始めて感じたのだった。くちびるはリューディアに、手はユーリエにあたえながら、しいてリューディアに身を捧げさせるか、それともさすらいの旅をつづけるか、どちらかをえらばなければならないと、彼には思われた。愛しながら、あきらめるのは、無意味で、まちがってはいないのか。
彼はリューディアにささやいた。「ねえ、ぼくのいい人、ぼくたちは無駄に苦しんでるんだね。ぼくたち三人はみんな、ほんとに幸福になれるんだけど、血の求める通りにしようよ!」
その時、リューディアははっとして身をひいた。彼の情欲は反対側の妹に逃れた。彼に快く愛撫されたユーリエは、欲情のふるえる長い吐息で、それに答えた。
この吐息をきくと、リューディアの胸は嫉妬で苦しくなった。毒液でもしたたったように、不意に起きなおって、ふとんをはねのけると、彼女はベッドをとび下りて、叫んだ。「さ、ユーリエ、行きましょう」
ユーリエははっとした。すべてがばれてしまうような、不用意な、烈しい叫び声をきいただけで、あぶないことがわかった。彼女は無言で立ち上がった。
情欲をだいなしにされ、欺かれたゴルトムントは、起き上がるユーリエをつと抱きしめ、両方の乳房にキッスして、ささやいた。「あしたね、ユーリエ、あしたまた」
リューディアは下着のまま、はだしで立っていた。石の床をふんでいる彼女の足先は、冷たくてかじかんだ。彼女はユーリエのマントを床から拾い上げ、苦しげにではあるが、いたわりぶかく着せてやった。ユーリエは暗闇の中でも、それに気づき、それにほだされて、許す気持になった。姉妹は部屋から、足音をしのばせすっと消えていった。あらがう胸の想いを抱いて、ゴルトムントは後姿を見守り、ため息をついた。家の中は死んだように静かだった。
こうして、奇妙に不自然にだきあって伏せていた三人は、別れ別れになって、ひとりさみしく物思いにふけった。姉妹は寝室にもどってからも、それぞれわびしく、口をつぐんで強情にベッドの中でめざめていた。不幸と矛盾の精霊が、無意味と孤独と困惑の悪霊が、この家を占領してしまったようだった。夜中すぎになって、やっとゴルトムントは眠り、明け方になって、やっとユーリエは寝入った。リューディアは眠れずに苦しんでいるうちに、雪の朝がほのぼのと明けてきた。リューディアはすぐ起きて、身づくろいすると、小さな木の救世主像に、長いことひざまづいて祈った。そして、父の足音を階段にきくと、とんで行って父に相談した。彼女は、ユーリエの貞操への心配と自分の嫉妬心を、区別しようともしないで、この事件を解決しよう、と決心してのことだった。騎士がリューディアの告白をきき終った時、ゴルトムントもユーリエも、まだ眠っていた。彼女は、妹がこの情事に関係していることは黙っていた。
ゴルトムントがいつもの時間に、書斎に入って行くと、ふだんは上靴をはき、毛皮の上着をきて、熱心に書き物をしている騎士は、長靴をはき、胴着をつけ、剣をつっていた。ゴルトムントはすぐ事情がわかった。
騎士がいった。「帽子をかぶりたまえ、いっしょに出かけなければならんのだ」
ゴルトムントは帽子掛けから帽子をとり、主人について階段を下り、中庭を通って、門からそとへ出た。二人の靴底《くつぞこ》が、表面だけ氷った雪をふむと、きゅっきゅっと快くなった。朝焼けのなごりがまだ残っていた。騎士は黙って、先に立って歩いて行った。後からついて行く若者は、何度も邸の方をふりかえった。自分の部屋の窓や雪のつもった急斜面の屋根が、遠く向うに沈んで、見えなくなるまで、何度もふりかえった。この屋根と窓、書斎と寝室、二人の姉妹は、もう二度と見ることもあるまい。とうから、こうして突然分かれるだろうとは、予期してはいたが、心はしめつけられるように苦しかった。この別離は彼をひどく苦しませた。
二人はこうして、一時間もあるきつづけた。主人が先に立ち、一言も言葉をかわさずに。ゴルトムントは自分の運命を考えだした。騎士は武装している。殺すつもりかもしれない。しかし、殺したりはすまい。たいしたことはあるまい。逃げさえすればいいのだ。あの年では、剣を持っていたって、どうにもなるまい。命に別条はあるまい。名誉を傷つけられた厳めしい騎士の後に、黙ってついて行くこと、こうして黙って連れて行かれることは、次第に彼には苦しくなってきた。ついに、騎士は立ち止まった。
騎士は怒気をふくんでいった。「おい、ひとりであちらの方へ歩いて行け。今までどおりの浮浪者の生活をしろ。またぞろ邸の近くをうろついていたら、殺してしまうぞ。わしは仇をうとうとは思わん。わしが馬鹿だったのじゃから。こんな若僧を娘に近づけねばよかったのじゃ。二度ともどってこようものなら、命はないと思え。さらばじゃ。神がきさまの罪を許し給わんことを!」
彼はいつまでも立ち止まっていた。雪の朝の薄明かりの中に、彼の白いひげ面が、おぼろげに見えていた。彼は幽霊のようにつっ立ったまま、ゴルトムントの姿が、一番近い丘の背の後ろに消え失せるまで、そこを動かなかった。曇った空の赤みがかった微光は、いつの間にか消えていて、太陽は姿を現わさず、雪が次第に、ためらうが如くにちらちら降り始めた。
[#改ページ]
ゴルトムントは、何度も馬をのりまわしたことがあるので、地理には明るかった。凍った泥沼の向うに、騎士の納屋があり、その向うには、百姓屋も一軒あるのを、知っていた。そこで休み、夜をあかすこともできるだろう。明日は明日の風が吹くだろう。しばらく忘れていた、自由と異郷の気持が、また次第によみがえってきた。それも、この冷たくぶあいそうな冬の日には、このましくはない。異郷には、苦しみと飢えと貧困のにおいがひどくした。しかし、その広さ、大きさ、きびしさは、彼の甘やかされ、混乱した心を、なだめるとともに、慰めるといってもいいほどに、ひびくのだった。
彼は走りつかれた。もう馬にはのれないのだ、と彼は思った。ああ、世界はなんと広いのだ。雪はほとんど降っていず、はるか彼方では、森の背と雲が灰色に入りみだれていた。世界のはてまでも、無限に静寂がつづいていた。おどおどしたリューディアはかわいそうに、今頃どうしているだろう? 彼女がひどくかわいそうになった。彼は心から彼女のことを考えながら、空漠たる沼地の真中の、孤立した裸のトネリコの根元に、腰を下ろして休息した。が、ついに、彼は寒さに追いたてられて、こわばった足で立ち上り、そろそろ歩きだした。どんよりした日の薄明が、もううすれかけているようだった。空漠たる広野を長いことさまよっている間に、彼は物を考える気力を失った。よしんばどんなに甘美な事だろうと、今は考えたり、感じたりするばあいではない。今たいせつなのは、あたたかくしていて、いいあんばいに寝床にありつき、てんや狐のように、この寒い不気味な世界を切りぬけ、こんな荒野でなんとかすぐのたれ死にしたりしないようにすることだ。他のことはいっさいたいせつではないのだ。
彼は、遠くに馬蹄《てい》の音が聞えるような気がして、いぶかしげにあたりを見廻した。ひょっとすると、追跡されているのか? 彼はポケットの小さな木ざやの猟刀をにぎり、鯉口をきった。騎馬姿が見えてきた。遠目にも、騎士の厩の馬なのがわかった。しつように彼を追跡してくる。逃げても無駄だ。彼は立ち止って待った。全然怖ろしくはなかったが、いったい誰だろうとひどく緊張して、心臓ははや鐘をつくようだった。一瞬、彼の頭にひらめくものがあった。「この騎馬の男を殺せたら、馬が手に入るぞ、すりゃ、もうこっちのもんだ」しかし、それが若い馬丁のハンスだとわかると、彼は吹き出してしまった。それは眼球|水腫《すいしゅ》にかかった、明るい青眼と、人のよさそうな当惑したような子供っぽい顔をもった、ハンスだったのだ。この愛すべき好人物を殺すには、心を鬼にしなければなるまい。彼は親しげにハンスにあいさつし、馬のハンニバルにも、やさしくあいさつした。ハンニバルはすぐにゴルトムントを見わけて、あたたかい湿った首を、彼になすりつけた。
「やあ、どこへ行くんだい、ハンス?」と、彼がたずねた。
「あんたん所さ」若者は白い歯を見せて笑った。「随分すっとんできたんですね。ね、ぐずぐずしてはいられないんだ。ちょっとあいさつをとりついで、これを渡せば、用はないんだ」
「誰のあいさつだい?」
「お嬢様のリューディア様のだよ。ね、ゴルトムント先生、おれたちゃあきょうは、ひどいめにあわされましたぜ。こうしてちょっとばかり姿を消していられるのは、しあわせなぐらいですぜ。用事をたのまれて、出てきたのが、御主人にわかりでもしたら、さっそく首の問題さ。さあ、これでさあ!」
彼は小さな包みをさしだした。ゴルトムントはそれを受け取った。
「ねえ、ハンス、パンか何かもっていない? あったら、くれ給え」
「パンだって? パンくずならあるかもしらんて」彼はポケットをさぐって、黒パンを一切れ取り出した。そして、彼はひきかえそうとした。
「御嬢様はどうかね?」ゴルトムントはたずねた。「何もことづてはなかったの? 手紙はないの?」
「何もないよ。お嬢様はちょっとお見かけしただけよ。家の中で大荒れさ、ねえ先生。御主人はサウル王みたいに、かけまわっているしさ。まあ、これさえ渡せば、おれは用ずみさ。もどらにゃ」
「まあ、ちょっと待った。ハンス、その猟刀をゆずってくれないかね。ぼくは小さいのしかないんだ。狼にでも出あったら、また――しっかりした物が手元にあれば、きっといいだろうと思ってさ」
しかし、ハンスはどうしても言うことをきかなかった。ゴルトムント先生に何か起れば、お気の毒には思うが、猟刀だけは決して手放せない。売るのもいやだし、交換するのもいやだ、とんでもない。聖ゲノベーバー様がおたのみになってもだ、というわけだった。ハンスは帰りをいそいで、別れをつげた。ゴルトムントはわびしかった。
二人は握手しあい、ハンスは馬首をめぐらせた。後姿を見送るゴルトムントの心は、変に苦しかった。やがて彼は包みをあけたが、しばりひもに使った上等な牛皮を見て、うれしかった。中には灰色の毛糸で編んだチョッキが入っていた。たしかに、リューディアが彼のために手編みした物だ。その中には、まだ何か固いものが、うまくくるんであった。ハムだった。その小さな切れ目には、ピカピカ光る一ドゥカーテン金貨が、はめこんであった。リューディアの贈物をもって、彼は雪の中に、ぐずぐずして立っていたが、やがて上衣をぬいで、チョッキを着こんだ。快適で暖かった。彼はすばやく上衣をきて、金貨を一番安全なポケットにしまい、革帯をしめると、野を横切って走りだした。休む場所に行きたくはなかった。そこへ行けば、あたたかいだろうし、牛乳もあったろうが、おしゃべりをしたり、根掘り葉掘りあれこれ聞かれたくはなかった。彼は納屋に一夜をあかすと、早朝から、厳寒と烈風をついて歩みつづけ、寒さに追われては足をはやめた。騎士やその剣や姉妹の夢を、いく晩もみた。いく日もの間、孤独と憂うつが彼の心を重苦しくした。
それから間もないある晩のこと、彼はとある寒村に泊ったが、百姓たちは貧しいのでパンもくえずに、|きび《ヽヽ》スープをすすっている有様だった。新しい体験がここで彼を待っていた。彼を泊めてくれた百姓女が、その夜お産をしたのだ。ゴルトムントは、ねていたわらの中からひっぱり出されて、手伝わされたが、結局、産婆が働いている間、燈火を持っていただけだった。お産は始めての彼は、びっくりして眼を輝かせながら、産婦の顔を見守っていた。突然、新しい体験が一つふえたのだ。産婦の顔に認めたものは、彼には少くとも注目すべきものに思えた。松明《たいまつ》をかざして、陣痛にもだえる産婦の顔を、非常な好奇心で見つめている間に、ある思いもかけぬ事が、ふと彼の頭にうかんできた。泣きわめく産婦のゆがんだ顔の線は、愛の陶酔の極に、他の女たちの顔にあらわれるものと、ほとんどちがわないのだ。大きな苦痛の表情は、大きな歓喜のそれよりは、さらに激しく、ゆがんではいても、――結局、別のものではない。いずれも同じく、歯をむきだして身をちぢめ、燃え上り、消える。わけはわからなかったが、苦痛と歓喜が瓜《うり》二つであるのを見ぬいて、彼はひどくびっくりした。
彼はこの村で、もう一つの事を体験した。お産のあったその翌朝、彼は近所の女房を見かけ、流し目をつかうと、すぐ手答があったので、その晩もそこに泊り、女房を有頂天にさせた。実にしばらくぶりで、ここ数週間の恋愛沙汰で、刺激されては欺かれてばかりいたあげくに、情欲がやっとみたされたからだった。また、こうして一日よけいに泊ったおかげで、新しい体験をすることになったのだった。ぼやぼやしていたおかげで、二日目にこの村で、一人の仲間に出会ったのだ。それはビクトルという、向う見ずなのっぽで、半分神父、半分追いはぎといった風態で、ゴルトムントにインチキなラテン語であいさつし、もうとうにそんな年でもないのに、遍歴学生〔中世・近世に多かった旅の学生で、大学をめぐるのが本来の目的だが、ビクトルのようにこれを生業とする者も多く、大道芸人のような生活もした〕だと名乗った。
このとんがりひげの男は、ある誠実さと放浪者のユーモアをもって、ゴルトムントにあいさつし、さっそくこの若い仲間の心をとらえた。どこで勉強して、どこへ行くのか、ときかれると、この不思議な兄弟はまくしたてた。
「ぼくの霊魂にかけて誓うが、最高学府で研鑽《けんさん》をつみ、ケルンとパリに進学したよ。レバーソーセージの形而上学について述べればだね、ライデンで物した小生の学位論文以上に、内容の充実したものは、まあちょっとないだろう。友《アミーチェ》よ、哀れな豚の番犬の如く、測り知るべからざる飢えと渇きに心を悩まされながら、ドイツ帝国をあまねく走り廻った。人よんで百姓のダニだが、若い女どもにラテン語を教授するのを、商売としている。魔法をつかって、煙突の中のソーセージを自分の腹中に納めるのも、なりわいの一つさ。小生の目標は、市長夫人のベッドであり、事前に烏に屍をつつかれなければだが、気は進まんが、大司教ぐらいにはならずばなるまい。ねえ、若い同学の士よ、手から口への、その日暮しの方が、その逆よりは上等だね。結局、兎の焼肉の一番快適な納り場所は、小生の胃袋というわけ。ボヘミア王は兄弟分で、兄弟ともぼくらの父なる神に、やしなわれているのさ。だが、ベストをつくしてそれを完遂《かんすい》するのが、ぼくにまかされた仕事なのだ。おやじは世のおやじの如く無情で、飢え死にしそうな狼を救うべく、このぼくを奴に喰わせようとするしまつ。そやつをなぐり殺していなかったら、ねえ君、君はこの快適なめぐりあいをうる光栄には、浴さなかったろうさ。|世々にいたる《イン・セクラ・セクロールム》まで、アーメン」
ゴルトムントは、この種のならず者のだじゃれや遍歴学生のラテン語に、縁がなかったから、もじゃもじゃ髪の、のっぽの無作法者と、洒落をとばす時の、気味の悪い哄笑が、いくらか不気味でないこともなかったが、すれっからしの宿無しのどこかが気に入り、いっしょに旅をしようという相談に、すぐに乗った。狼をなぐり殺したというのが、ほらであろうとなかろうと、とにかく、二人連れの方が力にもなるし、恐くもないからだった。いっしょに出かける前に、兄弟のビクトルは、百姓とラテン語を話すというわけで、ある百姓の小屋に泊った。彼のやり方というのは、ゴルトムントが旅の途中で、農家や村の客になる時とは、全く別で、軒なみにおしかけ、どの女ともおしゃべりをし、厩だろうと台所だろうと、どこへでも鼻をつっこみ、何か恵んでくれないうちは、決して立ち去らないといったふうの、強引なものだった。彼は百姓たちに、イタリアの戦争の話をきかせ、炉ばたでパピア会戦の唄をうたい、婆さんたちには関節炎の薬や、歯が抜けた時の薬をすすめた。何でも知っているし、どこへでも行ったことが、あるらしいようすだった。そして、シャツのバンドの上のところがはち切れるほど、貰い物のパン切れやくるみや梨のかけらをつめこんだ。ゴルトムントが驚嘆したことには、ビクトルは疲れも知らずに、一軒一軒攻撃してまわり、おどしたりすかしたりし、いばってはびっくりさせ、片言交りのラテン語を話して、学者ぶるかと思うと、大胆な隠語でまくし立て、相手を煙にまいたが、物語ったり、学者ぶったりしている間にも、鋭い油断のならない眼つきで、皆の顔色、あいている机のひきだし、皿やパンを、よくにらんで飲みこんでおいた。こういう事をするのが、ずるいすれっからしの宿無しだ。見聞や経験にとみ、何度も飢えや寒さに悩み、みじめで危ない生活と戦っている間に、利口で心臓の強くなった男なのだ、ということが彼にはわかった。つまり、これが長い放浪のむくいなのだ。自分もいつかはこうなるのか。
その翌日、二人は出発した。二人旅の味は、ゴルトムントには始めてだった。二人は三日旅をつづけたが、ゴルトムントはビクトルに学ぶことが多かった。生命の安全をはかり、寝床を見つけ、食料を調達するという、放浪者の三大要件に、すべてのことを結びつける、第二の本能になっている習慣は、この長年さすらっている男に、多くの事を教えていた。冬でも夜でも、どんなにささいなきざしからでも、人家が近いことをしり、森や野原のどんな所でも、休んだり寝たりするのに適するかどうかを正確に調べたり、部屋に入ると、主人の暮し向きや、親切、好奇心、恐怖の程度を、かぎわけること――これが、ビクトルの身につけていた腕前だった。彼はいろいろ役に立つことを、若い仲間に話してくれた。ゴルトムントがあるとき彼に向って、自分はわざとそんなてで人に近づきたくはない、そんなては何も知らないが、ねんごろに頼んで、ことわられた例はほとんどない、と話すと、のっぽのビクトルは笑って、親切にいった。
「そりゃそうだ、ゴルトムント、君ならうまくいくさ。なにしろ、若くて美男、無邪気だときてる。それが立派な宿泊券だ。女どもには好かれるし、男だって、おや、この人なら大丈夫だ、悪いことはすまい、と思うだろうて。だがね、兄弟、いいか、人間も年をとると、童顔にもひげが生え、しわもできる、ズボンもぼろになり、いつのまにか嫌らしい、有難くもねえ野郎になっちまうんだ。眼からは、若さと無邪気さが消え、飢えの色だけが現われるんだ。すりゃ、いやでもすれっからしになり世の中のこともいくらかは知らなくちゃならんようになる。でなきゃ、すぐのたれ死にし、犬に小便ひっかけられるのがおちさ。そりゃあそうと、君の放浪もまだ長くはないらしいね。手はきれいだし、巻き毛もかわいい。きっとまた、どっかかわいい別嬪さんの、ぬくぬくとしたベッドとか、こぎれいで金持の修道院とか、ぽかぽかあっためた書斎とか、快適に暮らせる所へ、もぐりこむんだろうさ。身なりだってなかなかいい、若殿ぐらいには見えるぜ」
彼はあいかわらず笑いながら、ゴルトムントの服をなでまわした。その手があらゆるポケットや縫い目をさぐっているのを感じ、ゴルトムントは一ドゥカーテン金貨のことを思い出して、身を引いた。彼は、騎士の家にやっかいになり、ラテン語の書き物をして、きれいな服をもらったのだと話した。しかし、ビクトルは、寒い冬のさなかに、あったかい巣をすててきたわけを知りたがったので、うそをつくことの下手なゴルトムントは、騎士の二人娘の話を少しばかりした。その時、二人の仲間は始めてけんかをした。お城とお姫様をほっぽりだして、黙って逃げてきたとは、ゴルトムントも二人とない馬鹿者だ、とビクトルがきめつけたのだ。そりゃ面目のたつようにせにゃならん、おれにまかせろ。二人でお城へおしかけよう、もちろん、君はかくれてなくちゃいかん、そこはおれにまかせるんだ。君はリューディアに、かようしかじかの手紙を書かにゃならん。そいつをもってこのビクトル様が、お城におしかけ、救世主の御傷にかけて誓っておくが、金か物か何か手に入れずには、こんりんざい彼女の所からもどらないぞ、などというのがビクトルの言い分だった。ゴルトムントはそれをことわり、とうとう怒り出してしまった。彼はこの事で何もいってもらいたくない、騎士の名も城への道もいいたくない、とつっぱねた。
ゴルトムントが腹をたてると、ビクトルはまた笑いだして、人のよさそうな顔つきをしていった。「おい、そう歯をむいて怒るなよ。ねえ君、いい鴨《かも》を逃がしたな、といっただけだぜ。君としたことが、それじゃ親切気も友達がいもない、というもんじゃないか。じゃ、君はいやなんだな。紳士ぶってるよ、馬でお城へもどって、お姫さんと結婚できるだろうにな。君は若いな、お上品な馬鹿げたことで、頭がいっぱいなんだな。じゃよしと、爪先が凍傷でくさるまで、こうして歩いて行こうや」
ゴルトムントは気を悪くして、夕方まで口をきかなかった。しかし、その日は、人家はおろか人影にさえお目にかからなかったので、ビクトルが寝る場所をえらび、森はずれの二本の木の間に、風よけをつくり、樅《もみ》の枝をふんだんに使って、寝床をつくってくれると、ゴルトムントは感謝せずにはいられなかった。二人は、ビクトルのポケットをふくらませていた、パンとチーズをたべた。ゴルトムントは腹をたてたのを恥じ、親切にてつだい、夜の間毛のチョッキを、仲間にかしてやった。二人は相談の上で、交代で野獣の見張りをすることになった。まず、ゴルトムントが見張り番になり、ビクトルは樅の枝の上にねた。ゴルトムントは、仲間の寝つくのをじゃましないように、長いことじっと一本の松によりかかって立っていた。彼は寒くなったので、あちこち歩き始めた。彼は次第に歩きまわる幅を広くしながら、とがった樅のこずえが青白い空をつきさしているのを、眺めて、冬の夜の静寂を厳粛で、どことなく不安だと思い、自分のあたたかい心臓が、冷たい返事のない静寂の中で、鼓動しているのを感じ、そっともどって、仲間の寝息をうかがった。自分と大きな不安の間に、家とか城とか修道院とかいう壁を、めぐらさずに、冷ややか嘲笑的な星、忍びよる獣、じっと動かない木のような、気味の悪い敵意のある世界の間を、ただひとりさまよい歩く宿無しの気持が、いつもよりひどく彼の胸にこたえた。
いや、よしんば一生放浪の旅をつづけようと、決してビクトルのような人間にはなるまい、と彼は考えた。恐怖に対して身を護る方法は、覚えられないだろう。ずるい泥棒のような身すぎもできまい。にぎやかで大胆に馬鹿のまねもできまい、ほら吹きになって、巧みなよたをとばすのもできまい。この利口で厚かましい男の、言う通りかもしれない。このゴルトムントは、決して彼のようにはなるまい、決して遍歴学生にはならんだろう、いつかどこかの壁の中へ、這いこむだろう。それでも、故郷も目標も、持つことはないだろう。ほんとに身を護られて、安全だとは、決して想わないだろう。この世界はいつも、謎《なぞ》のように美しく、謎のように不気味に、自分をとりまくだろう。その真中で、心臓が不安げに、はかなく鼓動しているこの静寂に、くりかえし耳をかたむけるだろう。星はほとんど見えなかった。無風状態だったが、空の高い所では、雲が動いているようだった。
長いことして、ビクトルは目をさまして――ゴルトムントは呼び起したくなかったのだが――ゴルトムントを呼んだ。
「おい、君が寝る番だ、寝ないと明日だめになるぞ」と彼が叫んだ。
ゴルトムントは言われるままに、身を横たえて眼をつむったが、疲れきっているのに、眠れなかった。物思いにせかれてなのだが、その他に、仲間に抱いていた不安と疑いの気持のためにも、彼は眠れなかった。あんなけしからん、げらげら笑ってばかりいる男に、だじゃればかりとばしている、厚かましい乞食めに、なんだってリューディアの話なぞできたものか、今になって考えてみると、彼にはわけがわからなかった。ビクトルと自分自身に、腹がたった。そこで、奴に別れる一番いい方法とチャンスを思いめぐらした。
しかし、彼はうとうととしたらしい。ビクトルの手がからだをまさぐり、用心深く着物をまさぐっているのに気づいて、はっとしてめをさました。一方のポケットにはナイフが、別の方には金貨が入っている。ビクトルは、みつけたら、きっと盗むだろう。彼は寝たふりをして、ねぼけたように、あちこちと寝返りをうち、手を動かしたので、ビクトルが身をひいた。ゴルトムントはひどく腹をたて、明日は別れよう、と決心した。
小一時間もたったろうか。ビクトルがまたかがみこんで、さぐり始めたので、ゴルトムントはかっとなった。彼はじっとしたまま、眼をあいて、さげすんでいった。「行ってくれ、盗む物なんか持ってないんだ」
このどなり声に驚いて、泥棒はゴルトムントにおそいかかり、両手で首をおさえつけた。ゴルトムントが抵抗すると、敵はぐいぐい締めつけると同時に、ひざで胸をしめつけた。ゴルトムントは息がつけなくなって、激しく全身を動かし、身をもぎはなそうともがいた。いくらもがいても、無駄だった。とその時、彼は死の恐怖が突然身内をつらぬくのを覚えたが、そのために、頭がはっきりして、物を考える余裕ができた。敵が首をしめつづけている間に、手をポケットにつっこむと、小さい猟刀をつかみ出し、突然めちゃくちゃに何度か、のしかかっている敵を突きたてた。と思うと、ビクトルの手がゆるみ、楽になり、ゴルトムントは深く激しく息を吸いこんで、からくも助かった命を味わった。さて、彼が立ち上がろうとすると、のっぽの仲間が恐ろしい呻き声をあげて、ぐったりと彼の上に倒れかかってきて、ゴルトムントの顔に、血が流れかかっった。彼はやっと立ち上がることができた。灰色の夜のうす明りの中に、のっぽの仲間がのびていた。屍をつかもうと思うと、血のりの中に手をつっこんだ。頭を持ちあげると、袋のように重くぐったりとたれた。胸と首からは、たえず血が滴りつづけ、乱れた呻きが次第に弱まったと思うと、ビクトルの命はその口から流れ去った。
「これで人を一人殺したのか」こうゴルトムントは考えた。死んで行く仲間の上にかがみこんで、顔が次第に蒼白《そうはく》になっていくのを眺めながら、くりかえしくりかえし考えた。「聖母マリア様、今わたしは殺しました」自分がこういっているのを、彼は耳にした。
突然、彼はそこにいるのが、たえがたくなった。猟刀を拾いあげ、ビクトルが着ていた、リューディアが恋人のために編んだ、毛のチョッキで血のりをぬぐった。それを木のさやに納めて、ポケットにしまうと、彼は一目散に逃げだした。
愉快な遍歴学生の死は、彼の心に重くのしかかった。夜が明けると、彼は自分で流した血を、身ぶるいしながら雪できよめ、一昼夜の間、不安にあてもなくさまよった。ついに彼をはげまし、不安な後悔にけりをつけてくれたのは、肉体の苦痛だった。
雪のつもった広野をさまよい、泊る所も道も食物もなく、ほとんど寝さえせずにいる中に、ゴルトムントは疲れはててしまい、飢えが身内で野獣のようにほえたて、力つきては、何度も野原の直中にぶっ倒れ、観念して眼をつむり、雪の中で眠ったまま死んでしまいたい、とひたすら望んだ。しかし、そのつど何かにかりたてられ、絶望的にあくこともなく生を求めて走りまわった。疲労困憊《ひろうこんぱい》の極にあって、彼を元気づけ酔わせたのは、死んではなるものかという、狂気のような荒々しい力であり、赤裸々の生の本能の、異常な力だった。彼はかじかんだ青白い手で、杜松《ねず》の茂みから小さなひからびた実を拾い、このもろい苦い実を樅の針葉にまぜてかじった。それは苦くて舌を刺した。渇けば、雪をすくってはくった。かじかんだ手を息であたためながら、気息えんえんとして、彼はとある丘の上で、しばらく休んだ。どんなに眼をこらしてあたりをうかがっても、広野と森の他は何も見えず、人の足跡さえどこにも見当らなかった。頭上を鳥が二、三羽飛んで行った。彼は腹立たしげに、それを見送った。畜生め、奴らに喰われてたまるか、足が動く限り、血が少しでもあったかい限りは、喰われはせんぞ。彼は立ち上って、死との仮借ない烈しい競争を、また始めた。彼は走りに走った。熱にうかされたように、消耗した力をふるって、最後にあがきつづけている間に、不思議な空想にとらわれた。彼は、あるいはつぶやくように、あるいは大声で、ひとりで馬鹿げた会話を始めた。刺し殺したビクトルと話した。彼はビクトルにそっけなく、あざけっていった。「おい、ずるい兄貴、どうだい。おい、どてっ腹に風穴があいて、お月さんが透いて見えないかい。狐めに耳をかじられんかね。狼を一匹やっつけたそうだね。のどにでもかみついたのか、尻尾でもひっこ抜いたのかい、え? もうろうくした弁当袋め、ぼくの金貨をぬすむつもりだったのか。ところがね、このゴルトムントさんには、ちょっとばかり驚いたろう、どうだい、もうろくおやじめ、肋骨が少しくすぐったかろうが! ところで、袋にゃまだパンやソーセージやチーズが、いっぱいつまってんだろう、この豚め、大食いめ!」こんなふざけた事を、彼はひとりでせきこんでつまったり、大声でわめいたりした。死人をののしり、凱歌を奏し、とんまなほら吹きめが、やっつけられてしまったのを大笑いした。
しかし、やがて彼の空想と独白は、もう哀れなのっぽのビクトルとは、無関係になった。こんどはユーリエの姿が、あの晩出て行った、かわいい小さいユーリエの姿が、彼の眼前にあらわれてきた。彼は彼女に無数の愛撫の言葉をささやき、狂気のようなみだらな愛撫で、彼女をおびきよせ、下着をぬがせ、いっしょに天国へ行こう、といざなった。死を寸前にひかえ、いつなんどきみじめにのたれ死にするかもしれないのに。願ったり求めたりしながら、彼はそのむっちりした、かわいい乳房や、脚や、ブロンドのちぢれた腋毛とかたらった。
そしてまた、彼はこわばったよろめく足で、雪におおわれた荒野の枯草の上にかけながら、苦痛のとりこになり、燃え上る生命欲に凱歌を奏しつつ、ささやき出した。こんどの話相手はナルチスだった。彼はナルチスに、自分の新しい思いつき、分別、冗談を語った。
ゴルトムントはナルチスに話しかけた。「ナルチス、御心配ですか、こわいのですか、何か気づかれたんですか? そうですね、敬愛する先生、世の中は死神でいっぱいです。どこの垣根の上にも、どの木の後ろにもいるんです。壁を造っても、寝室や礼拝堂や聖堂を建てても、なんの役にもたたないんです。死神は窓からのぞきこんで、笑っています。あなた方の名を呼んだりするのが、聞こえるでしょうが。さあ、詩篇をとなえ、祭壇にきれいにろうそくをおつけなさい。朝課や晩課をおとなえなさい。薬局に薬草を、図書館に本をお集めなさい。友よ、大斎はなさいますか? 徹夜はなさいますか? 奴が、死神《ハイン》がきっとあなたを助けますよ。あなたのものをみんな奪い取りますよ。骨までも。さあ、大事な方、走って、速く走るんですよ。野原のあそこを、おそろしいハイラッササが行く。走るんですよ、いつも骨を大事にしまっておくんですよ。骨がばらばらになりそうです。ぼくたちの骨がなくなっちまいますよ。ああ、ぼくたちの哀れな骨、哀れなのどと胃、されこうべの中の、哀れなちっちゃな脳よ。みんな消えてなくなる、いっさいが駄目になる。木に烏《からす》がとまっている、黒い坊主めが」
迷いさまよっているゴルトムントはもうとうに、方角も位置も、言っていることも、寝ているのか立っているのかさえ、わからなくなっていた。藪《やぶ》に倒れかかり、木にぶつかり、倒れては、雪と茨の中に手をつっこんだ。だが、身内の衝動は強く、絶えず彼をかりたて、めくらめっぽうに逃げ行く彼を、絶えず追いたてた。彼が最後にぶっ倒れて、動けなくなったのは、数日前遍歴学生に出会い、夜中産婦のために松明《たいまつ》をかざしてやった、あの寒村だった。彼は倒れていた。人々が走ってきて、彼を取り巻き、何かべちゃくちゃしゃべっていたが、彼にはもう何もきこえなかった。あの時彼をたのしませた女が、彼と知って、ただならぬ様子に驚き、哀れに思って、亭主に小言をいわれながらも、仮死状態の彼を厩《うまや》にひっぱっていった。
ほどなく、ゴルトムントはまた元気になって、旅を続けることができるようになった。厩の暖かさと睡眠と女のくれた山羊の乳で、彼はもとの元気なからだになった。ただ、つい最近の体験がうすらいで、もう長い年月がたったように思われた。ビクトルとの旅、樅の下ですごした寒い不安な冬の夜、寝床の上の恐ろしい格闘、仲間の身の毛もよだつような死、凍えながら飢えてさまよった日夜、これはすべて遠い昔のことで、すんでのことで忘れてしまいそうだった。忘れたのではなくて、ただ切りぬけたのだ。ただすぎさったのだ。口にはいえない何物かが残っていた。何か恐るべき、しかもねうちのある物、何か沈んでしまったが、決して忘れられない物、体験、舌ざわり、胸のまわりの輪が残っていた。二年とたたないうちに、彼は放浪生活の苦楽を、底の底まで知りつくした。それは孤独、自由、森と野獣の気配をうかがうこと、ふらついた非情の恋、命にかかわるひどい貧困である。彼は数日、夏野の客となり、数日数週を森ですごし、数日雪に降られ、死の不安を抱き、死を身近に感じて数日を送った。中でも一番強く、一番不思議だったのは、死を防ぎ、自分が小さく、みじめで、危険にさらされているのを自覚しながら、死との最後の絶望的な戦いの中で、生命のすばらしい、恐るべき力と強さとを、身内に感じたことだった。このことは余韻をひき、産む者と死ぬ者に共通な、歓楽の態度と表情のように、彼の心に焼きつけられていた。なんと先日の産婦はひどく叫び、顔をひきつらせ、なんと先日のビクトルはくずれおちて、血は静かにまたたく間に流れつきたことか! そして、ああ、彼自身は、飢餓線上をさまよった数日の間に、死が四方からねらっているのを、ひしひしと身に感じ、飢えはなんと苦しかったか、またなんと凍えたことか。いかに戦い、いかに死と正面切って戦ったことか、どんな死の不安と兇暴な歓喜をもって、身を護ったことか。どう考えても、経験すべきことは、これ以上はもうないようだった。ナルチスとなら、この話ができるだろうが、余人とではだめだ。
ゴルトムントが厩のわらの床で、始めてほんとに我にかえった時、ポケットの金貨はなくなっていた。ここ数日飢えにさいなまれながら、半ば正気を失って、恐ろしくもよろめき歩きつづけた間に、紛失したのだろうか。彼は長いこと色々考えてみた。金貨はおしかった。なくしたくなかった。金のねうちをしらなかったから、金そのものは何でもなかった。しかし、二つの理由で、金貨は大切な物だった。リューディアの編んだ毛のチョッキは、ビクトルの身につけられたまま、森の中で血に染んでいたから、彼女の贈物で残っていたのは、この金貨だけだったからである。それから、何より金貨を盗られたくない一心で、ビクトルに反抗して、仕方なしに殺したからである。今金貨がなくなったら、あの恐怖の一夜の体験はすべて、いわば馬鹿げた、無意味なことになるであろう。とつおいつ考えたあげく、彼は百姓の女房に心配を打ち明けた。
彼はささやくようにきいた。「クリスチーネ、金貨を一つポケットに入れたんだが、見つからないんだよ」
「うん、気づいたか?」女はひどくかわいらしいが、ずるそうでもあるほほえみをうかべて答えたが、彼はそのほほえみにみせられ、消耗していたのに、女を抱いた。
女はやさしくいった。「なんてまあ変った若えのだべ。ほんなに利口で、めんこい、ほんでて馬鹿くさえだからな。口のあいたポケットさ裸の金貨つっこんで、うろつきまあるって、なんちゅうことだべ。かわい子供だな、なんてめんごいあほうだべな。わらさねせでやった時、おらあの金貨をみつけただよ」
「持ってんの。どこにさ?」
「さがしてみろ」と、女は笑って、ほんとにしばらく探させたあげく、それを縫いこんだ着物の場所を、教えてくれた。彼女はそのことで、いろいろ母親のように親切に注意してくれたが、彼はすぐ忘れてしまった。しかし、その親切さと、百姓らしい顔にうかべた、ずるそうで人のよい笑いは、決して忘れなかった。彼はつとめて感謝の意を示し、ほどなく旅ができるぐらい元気になり、出発しようとすると、女房は彼をひきとめた。数日すると、月が替って、もっとあたたかくなるのが、わかっているからというのだった。そのとおりだった。彼が出発した時は、雪が灰色になって、とけかかっており、空気は湿って重く、空高く、氷雪をとかす春の風が、うなっていた。
[#改ページ]
再び、河は氷をおし流し、くさった木の葉の下から、スミレが香り、ゴルトムントはまた、けんらんたる季節を走りぬけ、あくことを知らぬ眼で森や山や雲を吸収し、家から家へ、村から村へ、女から女へと渡りあるき、涼しい夕べには窓の下に、重苦しくうらがなしい心を抱いてすわった。窓の向うには、燈火があかあかともえ、その赤い光の中からは、この世の幸福、故郷、平和であるように思えるすべての物が、彼に向ってやさしく、及びがたく輝いていた。彼がもう知りつくしているすべての物が、くりかえし現われてきた。すべては回帰したが、そのたび様子はちがっていた。畑や荒野をこえ、石道をたどる長いさすらい、森にむすんだ夏の夢、手に手をつないでほし草まぜやホップ摘みからもどる、若い女たちの尻を追ってぶらついた村の小道、秋の初時雨《はつしぐれ》、意地の悪い初霜――すべてがくりかえされる。一度、二度、そしてはてしなく、眼もあやなる帯が彼の眼前を走りすぎた。
ゴルトムントは、度々雨と雪に出会ったが、ある日のこと、すきとおってはいるが、もう薄緑の芽を吹きだしているぶなの林を、爪先上りに登って行った。頂上につくと、新しい風景が眼前にひらけて、彼の眼をたのしませ、洪水のような予感と欲望と希望を、心の中にかきたてた。数日らい、この地方の近いのを知り、心待ちにしていたのだが、真昼間それに出くわして、びっくりしたのだった。見た時の第一印象は、期待を裏書きした。灰色の幹と静かにゆれる枝の間に、褐色と緑の谷が見下ろせ、谷の真中には、大きな河が青いガラスのように光っていた。さてこれで、道なき道をたどり、荒野と森と孤独ばかりの地帯をさすらい、農家や寒村に出くわすのもまれというような旅には、当分お別れだわい、と彼は思った。
足下の河ぞいには、帝国でもきれいで有名な街道の一つが、通じている。そこには、ゆたかな地方のひろがり、筏《いかだ》や小舟がかよい、街道はきれいな村、城、修道院、富んだ町々に通じていて、好きなだけ幾日も幾週間も、旅をつづけることができた。哀れな田舎道のように、この街道が森の中か、湿った沼地の中へ、突然に消えうせはしないか、と心配する必要はない。何か新しいものがやってくるのだ。彼はその期待に、胸をふくらませた。
その日の夕方には、彼はある美しい村へ入った。その村は河と赤いぶどう山にはさまれ、大道にそっていて、破風造りのきれいな木組が、赤くぬってあり、アーチ型の入口と石段道が通じていて、鍛冶《かじ》屋は赤いほのおとすんだかなしきの響きを、通りへ投げかけていた。やってきたよそ者のゴルトムントは、物珍らしげに小路のすみずみまでかけめぐってみ、穴蔵の入口では、たるとぶどう酒の香りをかぎ、河辺では、冷やっとする生臭い水の香をかぎ、教会と墓地を見物し、ついでに、夜もぐりこんで寝るのに具合のよい納屋を、探しておくのも忘れなかった。彼はあらかじめ司祭館をたずねて、食べ物をもらおうと思った。そこにはふとっちょの赤毛の神父がいて、根掘り葉掘りたずねるので、ゴルトムントはいくらかはしょったり、でまかせをいったりして、これまでの話をした。彼は心よく招じ入れられ、上等の食事とぶどう酒をごちそうになり、その晩はおそくまで神父の相手をしなければならなかった。その翌日、彼は河ぞいの街道を下っていった。筏や荷舟が通るのが見え、馬車を何台も追いこした。しばらくそれに乗せてもらうこともあった。春の日はあわただしく、にぎやかに走りさった。村や小さい町が彼を迎え入れ、女たちは庭の垣根のうしろでほほえみ、茶色の地面にひざまずいて、草花を植えており、たそがれの村の小路では、娘たちがうたっていた。
彼はある水車場の下女が好きになって、二日間その附近にとまって、そのあとをつけまわした。彼女はよく笑い、彼とよろこんでおしゃべりした。水車場の小僧になって、ここにいついたら、どんなにいいだろう、と彼は思った。彼は漁師とおしゃべりをし、御者《ぎょしゃ》をてつだい、馬にかいばをやり、ブラシをかけたりして、パンや肉にありつき、乗せてもらったりした。長い孤独の後でにぎやかな旅の世界、長いことくよくよ過ごした後でのおしゃべりに満足した人々との明るい交わり、長いこと飢えた後での日毎の飽食は、彼にはこころよかった。彼は喜こんで、この日毎の愉快な流れの波に、もてあそばれた。こうして、司祭座のある大きな町に近づくにつれて、街道はますますにぎやかで、明るくなってきた。
ある村の夕まぐれに、彼は水際の、もう葉の出そろった木の下を、散歩していた。河は静かな急流だった。流れは木の根下でせせらぎ、ため息をついていた。丘の上に月がのぼり、河をてらし、木の下に影を投げた。すると、一人の乙女がすわって、泣いているのがわかった。恋人とけんかをし、置きざりにされたのだ。ゴルトムントは彼女のそばに腰を下ろし、その訴えをきき、手をなでてやり、森や小鹿の話をして少し慰めてやると、彼女はにっこりしてキッスを許した。ところが、恋人が彼女を探しに、もどってきた。のぼせたのがなおると、けんかしたのを後悔したのだ。彼は、ゴルトムントが恋人のそばにいるのを見ると、すぐにとびかかって、両手でなぐった。不意をつかれてたじろいだゴルトムントは、何とか押し返して、敵の若者をやっつけて、村の方へ追い払ったが、乙女の姿はとうに見えなくなっていた。ゴルトムントは、ぼやぼやしていられまいと思い、泊るのをあきらめて、さらに半夜ばかり月光の下を、銀色の沈黙の世界を、みちたりた気持で足の丈夫なのを喜びながら、歩きつづけたが、夜露で靴の白いほこりが洗い落とされる頃、急にねむくなって、もよりの木の下に横になり、眠りこんでしまった。
顔をくすぐられて目をさました時は、もうとうに昼になっていた。眠くてたまらなかったので、顔の上からくすぐる何かを払いのけると、また眠りこんだが、すぐまたくすぐられて、目をさましてしまった。そばに百姓娘が立って、彼を眺めながら柳の枝の先で顔をくすぐっていたのだった。彼はよろよろと立ち上り、二人はほほえんでうなずきあい、娘は彼を、寝心地のよい納屋につれていった。二人はそこでならんで、しばらく眠った。やがて、娘はかけていって、まだ牛の体温の残っている、なまあたたかい牛乳を、手桶にいっぱい汲んできてくれた。彼は、この間小路でひろって、取っておいた、青いリボンを娘にやった。二人はキッスして別れた。娘の名はフランチスカだった。娘に別れるのはつらかった。
その日の夕方、彼は修道院の客となり、朝のミサにもあずかった。不思議にも色々の追憶に、彼の胸は波立ち、石の円天井のひんやりした空気は、故郷のにおいがし、彼の心をかきむしった。石だたみの廊下を行くサンダルの音が、彼の耳にひびいてきた。ミサがすんで、聖堂の中がしんと静まりかえっても、ゴルトムントはひざまずいていた。心はひどく動揺していた。夜夢をみることが多かった。何とか過去をのがれ、生活を変えたい、と彼は望んでいた。なぜかは、わからなかった。その心を動かしたのは、マリアブロンと敬虔だった少年時代の追憶だったかもしれない。どうしても告白して、聖い身になりたい、という気になった。告白すべき小罪は、沢山あったが、どんな罪より彼を苦しめたのは、ビクトルを殺したことだった。彼は神父にたのんで告白し、数ある罪の中でも、特にビクトルの首や背を刺した大罪を告白した。ずいぶん久しぶりの告白だ。罪の数と重さは、相当のもののように思えた。十分なつぐないをはたすつもりだった。しかし、告白をきいてくれた神父は、浮浪人の生活には通じているらしく、驚きもせず、おちついて告白をきき、まじめに親切に、非難し警告してはくれたが、罪の赦免《ゆるし》を与えないなどということは、考えてもいないらしかった。
ゴルトムントはほっとして立ち上り、神父の命じたつぐないをはたすべく、祭壇で祈ってから、聖堂を立ち去ろうとした時、一条の光線が一つの窓から射しこんでいるのに気づいた。それをたどって行くと、そばの礼拝堂に聖像が一つ安置されているのが、眼に入った。彼はその聖像に、語りかけられ、魅《ひ》きつけられるのを感じたので、愛のまなざしでその方を向き、深く感動して敬虔にみつめた。それはやさしくそっと身をかがめた、聖母の木像だった。青いマントをほっそりした肩からたらし、やさしい処女の手をのばし、眼がいたましげな口の上にのぞき、やさしい額が丸みを帯びているさまは、すべてが、それまで見たこともないと思われるほど、いきいきとして、美しく、優しくて、生ある者の如くだった。その口、首の愛らしいいきいきとした動きは、いくら眺めてもあくことがなかった。夢と予感の中で、度々みて、あこがれていた像が、今そこに立っているかのように、思われるのだった。彼は何度か立ち去ろうとしては、その聖母像にひきもどされた。
ついに思いきって立ち去ろうとすると、さっき告白をきいてくれた神父が、背後に立っていた。
「きれいだと思いますか?」と、彼はやさしくたずねた。
「口ではいえないぐらい、きれいです」とゴルトムントが答えた。
神父は語った。「みなさんがそういわれる。が、またある方は、あれは本当の聖母様じゃない、あんまり新式で俗っぽい、何もかも誇張されていて本当じゃない、といわれる。口論のたねに、よくなるのですよ。じゃ、あなたは気にいったのですね、わたしもうれしいです。この聖堂に安置されてから、まだやっと一年そこそこですが、この修道院のさる方が、寄附されたものですよ。ニークラウス師匠の作です」
「ニークラウス師匠ですって? どこの、どなたなのですか? 御存知ですか。すみませんが、その方のことを教えて下さい。すばらしい恩寵《おんちょう》に恵まれた方にちがいないでしょう。こんな立派なものが、できるのですから」
「詳しいことは知らないが、なんでも、ここから一日ほどかかる、司教座のある町の彫刻師で、立派な腕前だという評判ですよ。芸術家はとかく聖人ではないものだが、多分彼もそうでしょう。でも、才能のある気高い人には、ちがいないでしょう。よく会いますが……」
「お会いになられたのですか。どんな様子の方でしょうか?」
「おや、もうすっかり、彼にひきつけられてしまったようですね。じゃ、たずねて行って、このボニファチウス神父がよろしくいっていた、と伝えて下さい」
ゴルトムントはやたらに礼をのべた。神父はほほえみえを浮べて、立ち去ったが、彼はその神秘的な聖像の前に、長いこと佇《たたず》んでいた。御像の胸は息づくかに見え、顔には色々の苦痛と甘美さがいっしょにあらわれていたから、彼の胸はしめつけられるようだった。
まるで別人になって、彼は聖堂から出てきた。その歩む世界は、一変したかのようだった。あの魅力のある木の聖像の前に立った瞬間から、ゴルトムントは、以前は持っていなかったある物、他人が持っているのを見て、よくさげすんだり、ねたんだりしたある物をもつようになった。一つの目標をである。彼には目標ができた。いつかは到達するだろう。そして、その混乱した全生涯は、高い意味と価値をもつだろう。歓喜と恐怖をもって、この新しい気持が彼をつらぬき、彼の歩みを速めた。彼が今歩いている、美しい明るい街道は、昨日までのような、お祭りさわぎの運動場でも、気持のよい滞在地でもない。ただの街道にすぎず、町への道、師匠への道だ。彼はいらいらして走っていった。日暮れ前に、もう彼は町についた。町をかこむ壁の向うには、塔が見事にそびえ、町の門の上には、紋章がほってあり、楯《たて》が描いてあった。彼は胸をどきどきさせながら、門を通りぬけた。小路のそうぞうしさやにぎわしさ、騎士の馬蹄《ばてい》の音、荷車や馬車の騒音には、ほとんど気づかなかった。騎士も車も、町も司教も、彼には何もできなかった。門のところで最初に出会った男に、ニークラウス親方の家をたずねたが、その男は何も知らなかったので、彼はがっかりした。
彼は堂々たる屋敷の立ちならんだ、広場へやってきた。多くは画や彫刻で飾られていた。ある家の戸口の上には、豪傑笑いをうかべた傭兵《ようへい》の立像が、ふんぞりかえっていた。それは修道院聖堂の聖母像ほどは、すばらしくなかったが、あるポーズをとって、ふくらはぎをふくらませ、ひげのはえたあごをぐっと突き出していたから、ゴルトムントは、この作も同一人の手になったものかと思った。彼はその家に入り、ドアをノックして、階段を上ると、毛皮縁のビロード服の男に出会った。ニークラウス親方の住いをたずねると、何用かと聞き返されたので、やっと気をしずめて、注文するものがあるのだ、と手短かに答えた。その男は親方の住んでいる、小路を教えてくれた。
ゴルトムントがそこをたずね当てた時には、もう夜になっていた。親方の家の前に立つと、胸苦しくなったが、ひどく幸福でもあった。窓を見上げていると、今にもかけ込みたいような気がした。しかし、もう時刻もおそいし、その日の旅で汗とほこりにまみれていることに、気づいたので、やっとのことで明日を待つことにした。それでも、彼はなお長いこと、家の前にたたずんでいた。一つの窓が明るくなった。彼がもどろうとすると、人影が窓辺によるのが見えた。非常にきれいなブロンドの乙女で、その髪をすかして、なごやかなつりランプの光が流れた。
翌朝、町がめざめて活気づいた頃、ゴルトムントは、一夜の客となった修道院で、顔と手を洗い、服と靴のちりをはらい、あの小路をまたたずねて玄関の戸をたたいた。ばあやが出てきて、なかなかとりつごうとしなかったが、やっとなだめすかして、案内してもらった。仕事場になっている小さい部屋に、仕事着姿の親方が立っていたが、年の頃は四、五十ぐらいのように見える、ひげ面の大男だった。見知らぬ若者を、うす青い鋭い眼つきで見つめて、簡単に用向きをたずねた。ゴルトムントはボニファチウス神父のあいさつを伝えた。
「それだけか?」
ゴルトムントは息苦しそうにいった。「親方さん、わたしはあそこの修道院で、御作の聖母像を拝見しました。そんなふうに、ぶあいそうにごらんにならないで下さい。こうして参りましたのも、あなたを敬愛する一心からですから。わたくしはこわい物知らずです。長いこと旅をつづけ、森の味も、雪の味も、飢えの味も知っています。怖い人間は、誰もいません。でも、あなたは怖いです。ああ、わたしには、望みがたった一つあるのです。この望みで、わたしの胸はいっぱいで、今にも張りさけそうです」
「いったいどういう望みかね?」
「弟子入りして、やってみたいのです」
「そりゃ、お前さん、そういう気になったのあ、お前さん一人じゃねえ。しかし、弟子はいらん。それに若えのも二人いるしな。いったいどこの生れで、親ごさんは?」
「両親もなければ、故郷もないんです。ある修道院学校の生徒で、ラテン語とギリシア語を勉強していたのですが、逃げだして、きょうまで何年も旅をつづけていました」
「それで、なんだって彫刻師になんなくちゃならん、と思っているのかね。前にそんなことをやってたのかね。描いた絵でも持ってるのかね」
「沢山かくにはかいたのですが、一枚も持ってはいません。なぜ彫刻をやってみたいかは、説明できるかと思います。わたしは色々な事を空想してみ、いろんな顔や姿を見て、後でそれをよく考えてみましたが、頭にえがいたいくつかの想像は、くりかえしわたしを苦しめ、不安にさせました。そのうち、わたしは、こんな事に気づきました。ある像では、一定の形、一定の線が、いたるところで反復していることです。たとえば、額と膝、肩と腰が一致していて、結局、こういった物はすべて、そういう膝や肩や額の持主の性質や気持と、全く同じものだ、ということです。それから、こんな事にも気がつきました。たまたまお産の手伝いをさせられた夜、見たことなのですが、最大の苦痛と歓喜が、全く似た表現をもっているのが、わかったのです」
親方は見知らぬ男を、穴のあくほど見つめた。「そりゃたわごとかい?」
「いあ、親方さん。あなたの聖母像を見つけて、わたしが驚嘆し、狂喜したのは、実にこの事だったのです。だからこそ、こうしてまいったのです。ああ、聖母のきれいな、やさしい顔には、ひどい苦しみがあらわれていたのですが、と同時に、すべての苦しみは、全くの幸福とほほえみになっていたのです。それを見ると身内がかっとなり、わたしの永年の想像と夢が、みんな証明されたように思いました。突然、役にたつものになりました。なすべきこと、行くべき所が、すぐわかりました。ニークラウス親方さん、お願いです。弟子入りさせて下さい!」
ニークラウスはにこりともせず、じっと聴いていた。彼はいった。「お若えの、芸術談義はなかなかてえしたもんだ。お前さんぐれえの年輩で、喜びとか悲しみとかに、そんなに通じてるたあ、全く耳を疑ぐるぐれえだ。いつかお前さんと一杯やりながら、一晩そんな事をしゃべったら面白いだろうな。だが、いいかね、いっしょに上品ぶった事をだべるのと、二、三年いっしょに修業するのたあ、話は別だぜ。ここは仕事場で、仕事をする所で、だべる所じゃねえ。ここで大事なのあ、考えたり、言ったりすることじゃねえ、自分の手で造る事だけだ。お前さんは本気らしいから、むげにもことわれめえ。お前さんに何ができるか、見てみることにするか。粘土か蝋《ろう》で、何か造ってみたことがあるのかね?」
ゴルトムントはすぐ、ずっと前に見た夢を思い出した。粘土で小さな人形をこねあげると、それが立ち上がって、巨人になったのだった。しかし、彼はそれを口には出さず、そんな事はやってみたことがない、と返事した。
「そうか。じゃ、何か描いてみな。あすこに机があるな、紙も木炭もある。あすこで描くんだ、じっくりやるんだ。昼までかかってもいいし、なんなら、夕方まででもいい。そうすりゃあ、お前さんが何に向いてるか、わかるだろうからな。さて、話はこれぐれえにしてだ、わしは仕事にかかるから、あんたも始めな」
さて、ゴルトムントは、ニークラウスの指さしたいすにかけ、描き始めた。いそぐ仕事ではなかった。始めのうちは、不安げな生徒のように、ちゃんと静かにすわっていたが、半ば後向きに、粘土で小さな像を造っていた親方の方を、好奇の眼を光らせながら、ゆかしげに見つめた。いかめしいが、もう白髪《しらが》まじりの頭と、きびしいが、上品でいきいきとした職人らしい手に、あんな魔力をひめている男を、しげしげと見つめた。ゴルトムントが想像していたのとは、全く別なようすだった。ふけていて、物腰がやわらかで、冷静で、ずっと平凡で愛嬌《あいきょう》がなく、幸福ではなさそうだった。その探るような、ひどくどぎついまなざしは、仕事にそそがれていたから、ゴルトムントはそれにわずらわされずに、注意ぶかく親方の全貌をうかがうことができた。この男なら、学者にもなれたろう、と彼は思った。多くの先輩からひきついで、いつか後輩に伝えねばならないような学問、いく世代もの努力と献身がつぎこまれている、きわめがたい、生命の長い、決して解決されない学問に没頭するような、物静かで厳しい研究家にでも、なれたかもしれない。親方の容貌をうかがった彼は、少なくともこう考えたのだった。多くの忍耐、修業と熟慮、謙遜《けんそん》とあらゆる人間の仕事の価値に対する疑念が、そこにはまさしく書いてあった。それから、自分の使命に対する信念も、ありありとあらわれていた。しかし、その手の語る言葉は、それとは異なっていた。手と頭は矛盾していた。その手はしっかりしているが、非常に敏感な指で粘土をこねた。恋人の手が身をゆだねた相手を、愛撫するように、彼の手は粘土を愛撫した。それは、うっとりして、かすかにふるえる感情に胸せまり、情熱的に、受けることと与えることの区別もなく、情欲的であると共に敬虔で、本能的に古く深い体験によるように、確かで巧妙である。うっとりと驚きの眼を見張りながら、ゴルトムントはこの恩寵に恵まれた手を眺めていた。親方の姿を写してみたかったが、顔と手の矛盾のために、ゴルトムントの手は、描く力を失ってしまった。
彼は親方の秘密をさぐりたい一心で、熱心に働きつづける彼を、一時間も眺めつづけている間に、心の中に、別の像が次第に次第に形づくられて、心眼にもはっきり見えてきた。それは、彼が一番熟知しており、心から敬愛し、驚嘆いていた人の姿であり、この姿は多くの特長をもち、種々の戦いを思い出させはしたが、矛盾や分裂をひめてはいなかった。それは友のナルチスの像だった。それは次第に凝固して、完全にまとまった姿になり、この愛すべき人物の内的法則が、その姿の中に次第にはっきりしてき、気高い頭は精神によって形成され、きれいな自制した口とどこかもの悲しげな眼は、精神への奉仕によって緊張させられ、気高くされ、やせた肩、長い首、きゃしゃな手は、霊化のための戦いによって、生命を与えられている。修道院に別れを告げたあの時から、彼がこんなにはっきり友の姿をみ、こんなにありありと思い浮かべたことは、絶えてなかった。
夢の中でのように、意志を働かせず、しかし十分な用意と必然性をもって、ゴルトムントは注意深く描き始め、胸に宿っている姿を、愛の手でうやうやしく写し、親方のことも、自分自身も、いる場所をも忘れた。部屋の中の日ざしがうつろうのも、親方が何度も自分の方をふりかえったのも、気づかなかった。身にあたえられ、自分の心が課したこの使命を、ミサの犠牲《いけにえ》のように遂行した。きょう自分の魂にやどっている友の姿を、取り出して、画面に定着する使命を。よく考えてみたわけではないが、こうすることが贖罪《しょくざい》であり、感謝であるように思われた。
ニークラウスが、机に近よっていった。「ひるだ。めしにするが、いっしょにやったらどうだね。どら――何か描けたな?」
彼はゴルトムントの背後にいって、大版の紙を見つめていたが、ゴルトムントをどけて、なれた手つきで紙を用心深く取り上げた。ゴルトムントは夢からさめて、不安な期待をもって、親方の顔をうかがった。親方は両手で絵をもって、つっ立ったまま、いかめしいうす青い眼をきっとみすえて、入念に眺めた。
「これあ誰のことを描いたのかな?」と、ニークラウスはしばらくしてたずねた。
「わたしの友達です。若い修道士で学者です」
「そうかい。手を洗いな。あすこの中庭に井戸がある。それからめしにするか。若えのは仕事に出てて、いねえんだ」
ゴルトムントはいわれた通り、中庭の井戸を探して、手を洗ったが、親方の思惑が気になって仕方がなかった。もどってみると、親方の姿は見えず、となりで何かがたごとやっていた。出てきた時には、手を洗い、前掛けをはずして、立派ならしゃ服をきていたが、堂々として立派な風采だった。彼が先に立って、上っていった。階段の手すりの柱は、くるみ材でできていて、彫った小さな天使の頭がついていた。古いのや新しいのや彫刻がいっぱい置いてある。廊下を通って、きれいな部屋に入ったが、そこの床も壁も天井も、硬材でできていた。窓辺に食事の用意ができていた。一人の娘がかけ込んできた。ゴルトムントには見覚えのある、昨晩のきれいな少女だった。
親方がいった。「リースベト、もう一人前たのむよ、お客さんだから。この方あ――こいつあ、うっかりして名前をきいてなかったな」
ゴルトムントは名のった。
「そう、ゴルトムントだよ。始めてもいいかね」
「お父さん、ちょっと待って」
彼女は皿を一枚もってくると、かけ出していって、豚肉と扁豆《ひらたまめ》と白パンの食事を、下女にはこばせてきた。食事をしながら、父親と娘はよもやまの話をしたが、ゴルトムントは黙って、少ししかたべなかった。不安で胸苦しかった。彼は娘が気にいった。きれいな大柄の娘で、身長も父親といくらもちがわないぐらいだが、行儀よくすわっているさまは、ガラスの向うにでもいるように、近よりがたく思われた。彼女はゴルトムントに話しかけず、見向きさえしなかった。
食事がすむと、親方がいった。「三十分ばかり休むから、仕事場に行くなり、そとを歩き廻るなりしたらいい。話はそれからのことにするから」
一礼して、ゴルトムントは出ていった。親方が絵を見てから、一時間か、それ以上にもなるが、絵のことは一言もいわない。もう三十分も待たねばならないのか。それも仕方あるまい。彼は待つことにした。仕事場には行かなかった。また自分の絵を見る気には、なれなかったのだ。彼は中庭にいって、井戸|槽《ぶね》に腰かけ、たえず樋《とい》ら深い石盤へ流れ落る、糸のような水を眺めていた。水は流れ落ちては、さざ波を立て、いつも空気を少し水中に持ち込んでいたが、その空気は白い真珠のような水泡になって、また浮び上がってくるのだった。ゴルトムントは、黒い井戸水の水面に映った自分の姿を見て、水の中からこっちを見ているこのゴルトムントは、もうとうに修道院のゴルトムントでも、リューディアのゴルトムントでもない、もはや森のゴルトムントでもないのだと思った。自分だって、誰だって、人間は流れ流れて、たえず変化し、ついに消えてなくなる。ところが、芸術家の手になった像は、常に変ることなく、永遠に残るのだ、と彼は考えた。
恐らく、死の恐怖が、あらゆる芸術の基礎であり、あらゆる精神の基礎でもあるだろう、と彼は考えた。われわれは死を恐れ、はかなさに身の毛がよだち、花がしぼみ、木の葉が散るのを見ては、悲しくなり、われわれもはかないもので、すぐ死んで行くことを、思い知るのだ。われわれが芸術家として像をつくり、思想家として法則を求め、思想を形成するのは、何物かをさかんな死の舞踏から救い、われわれよりも生命の長い何物かを、さらにつけ加えようとするからである。親方があのすばらしい聖母像《マドンナ》のモデルにした女は、もう年老いているかもしれない。いや、死んだかもしれない。親方もすぐ亡くなり、他の人がこの家に住み、他人が親方の食卓で、食事をするだろう――だが、彼の作品は残り、静かな修道院聖堂で何百年も、いやもっと長く、かすかに光り、変ることなくきれいで、はなやかで物悲しげでもある口で、いつもほほえんでいるだろう。
親方が階段を下りて、仕事場に入る足音がきこえてきた。ニークラウス親方はいったり来たりしながら、何度もゴルトムントの絵を眺めていたが、とうとう窓辺に立ち止って、いつものようにいくらか口ごもりながら、ぶっきらぼうにいった。「わしらの規則では、弟子は少くとも四年間年期奉公をし、父親が礼金を払うことになっているのだ」
親方はそこで言葉を切ったので、ゴルトムントは、礼金をもらえないのを心配しているのだな、と思った。彼はとっさにポケットからナイフを出し、縫い込んでおいた金貨を取り出した。ゴルトムントが金貨を、親方に差し出すと、親方はあっけにとられ、彼の顔を見つめていたが、大声で笑いだした。
彼は笑っていった。「なんだ、そうとったのか。いや、お若えの、金貨は取っておきねえ。いいかい、今いった事あ、わしらの組合の弟子についての規則だ。だが、わしもただの親方じゃないし、お前さんだってただの弟子じゃねえ。つまりだな、たいていは十三、四、せいぜい十五で弟子入りして、年期の半分は、仕事のてつだいをし、へまもやるものさ。ところが、お前さんはもういい若え衆だし、年からいえば職人、いや親方になってもいいぐれえだ。わしらの組合じゃ、ひげの生えた弟子なぞ、いたためしがねえ。それに、先にもいったが、家にゃ弟子は置きたくねえ。お前さんだって、命令されて走り使いをさせられるような、人柄でもねえようだ」
ゴルトムントのあせりは極度になった。親方のあいまいな一語一語が、彼を拷問のようにさいなみ、恐ろしく退屈で、教師口調のように思われた。彼は激しくさけんだ。「弟子にして下さらないのなら、なぜそうくどくどおっしゃるんです?」
親方は平気で、あいかわらずの口調で話しつづけた。「わしはお前のことを、一時間も考えたんだから、お前さんにも、少し辛抱してきいて貰えてえんだ。お前さんの絵を見てみた。気にくわねえ所もあるが、なかなかてえしたもんだ。でなきゃあ、半グルテンもやって、追っ払い、それっきりさ。絵のこたあ、これ以上いうめえ。及ばずながら、彫刻師になれるように、手をかしてあげあしょう。お前さんはそうなる運命《さだめ》なんだろうから。だが、その年じゃ、もう弟子にはなれめえ。弟子入りして、年期奉公しなくちゃ、わしらの組合であ、職人にも親方にもなれねえんだ。今からちゃんといっとくがね。まあ、やって見るんだな。しばらくこの町にいられたら、わしん所にかよって、やってみるんだな。別にどうして貰えてえというわけでもねえし、誓約もいりあしねえ。いつなんどき、出ていってもいい。ここでのみの二、三本折ったって、丸太をちっとばかり駄目にしたって、かまうこたあねえ。木彫に向かねえとわかったら、他の所へ行くんだな、それでどうかな?」
恥じ入り、感動して、ゴルトムントはきいていた。彼はさけんだ。「ほんとうにありがとうございます。わたしは宿なしですから、この町だって、森の中のようになんとかしのげます。あなたは弟子のように心配したり、責任を持ったりなさらない、とおっしゃいましたが、よくわかりました。あなたの所で修業できるのは、とてもしあわせです。そうさせていただけるのを、心から感謝いたします」
[#改ページ]
十一
新しい光景が、この町に住みついたゴルトムントをとり巻いた。ゴルトムントの新しい生活が始まった。この土地と町は明るく、魅惑的に、にぎやかに彼を迎えたが、この新しい生活は喜びと多くの約束を、彼にもたらした。彼の胸底深くひめられた悲哀と智は、そのまま触れられずにいたが、その表面には、人生の種々相がちらちら映った。ゴルトムントの生涯でも、一番楽しくて自由な時代が、今や始まったのだ。そからは、豊かな司教座の都があらゆる芸術と女性、色々なたのしい遊びと光景をもって彼を迎え、うちからは、彼のめざめた芸術家の魂が、新しい感覚と経験をあたえた。彼は親方の世話で、|魚 河 岸《フィシュ・マルクト》の鍍金《メッキ》師の家に身をよせ、親方と鍍金師について、木や石膏《せっこう》、色具やニスや金箔《きんぱく》の扱い方をならった。
ゆたかな天分に恵まれながら、それを十分に発揮できない、不幸な芸術家がいるものだが、ゴルトムントはそんな型の芸術家ではなかった。実際、この世の美を深く強く感じ、魂の中に気高い像《イメージ》をえがく才能に恵まれながら、このイメージを再現し、他人に伝えて喜ばせる方法を知らない人が、多いものである。ゴルトムントには、こんな欠点はなかった。手をつかって、手職のこつをおぼえるのは、彼にはなんでもない、たやすい事だった。仕事が終ってから、仲間にラウテ(ギターの一種)のひき方をならったり、日曜日に村の踊り場で、踊りをならったりするようなものだった。覚えがはやく、進歩もはやかった。むろん、木彫にたえずけんめいに努力し、困難や失望に出会い、時にはりっぱな木材をだめにし、指にひどい怪我をすることもよくあったが、すぐ初心者の域を脱して熟練した腕前になった。それでも、親方はよく彼に不満で、こんなふうにいったものである。
「ゴルトムント、お前がわしの弟子でも、職人でもねえんで、いいあんべえだ。お前が街道や森をほっつき廻ってた宿無しで、いつかあもとの宿無しにもどっちまうだろう、と覚悟していたんだから、いいわけだが。お前が町の職人じゃなくて、宿無しののらくらモノだ、と知らねえ者なら、親方が弟子にいうような、小言の一つ二つあ言いたくなるぜ。気が向きゃあ、いい職人だが、先週なんざあ、二日も油をうってたじゃねえか。昨日だって、御殿の仕事場で、天使を二|体《たい》みがかにゃならんのに、半日も寝ちまったじゃねえか」
親方の小言はもっともだったから、ゴルトムントも弁解はせず、おとなしくきいていた。彼とて、自分が信用できる熱心な男でないぐらいは、百も承知だった。仕事が面白かったり、めんどうな事に出会ったり、腕前のほどがわかって、うれしくなるような時には、熱心に仕事にはげんだ。めんどうな仕事はすかなかった。彼のやっていた仕事には、めんどうではないが、時間と根気のいるものが多く、まめにしんぼうづよくやる必要があったが、こんな仕事に我慢がならなくなることが、よくあるのだった。それは、自分でも不思議に思えることが、よくあった。何年か放浪生活をしたので、こんなにぐうたらで、信用のおけない人間になりはてたのか。母から受けついだ性質が、次第にはっきり現われてきたためか。それとも、いったい何のためか。勤勉な優等生だったあの学校時代の始めの頃が、想い出されてならなかった。なぜあの頃は、あんなにしんぼうづよかったのに、今ではすっかりだめになったのか。なぜあの頃は、実際どうでもいいと思っていた、ラテン語の文章論に一心に没頭でき、ギリシア語の不定過去を全部覚えこんだりできたのか。彼は何度もこんなことを考えてみた。あの頃彼を鍛え、彼を鼓舞したのは、つまり愛だったのだ。つまり、彼の勉強はナルチスに対する熱烈な求愛だったので、ナルチスに愛してもらうには、注目され、一目おかれるほか方法がなかったのだ。彼はあの頃、大好きな先生にちょっとでも認めてもらうためには、何時間でも、何日間でも、努力することが出来た。やがて念願がかなって、ナルチスの友になると、面白いことには、余人ならぬこの学者のナルチスが、彼の学問に向いていないことを教え、失っていた母の面影を、その胸によみがえらせてくれたのだ。学問、修道生活、徳に代って、彼を支配するようになったのは、性、女性の愛、独立、放浪の衝動のような、彼の本質の強大な原衝動だった。ところが、彼はニークラウス親方のマリア像を見て、自分が芸術家であるのを自覚し、新しい道へふみこんで再び定住することになった。ところが、今はどうなのだ。前途はどうなのか。何がじゃまなのか。
始めのうちは、わけがわからなかった。ただわかっていたのは、自分はニークラウス親方に驚嘆こそすれ、あの頃ナルチスを愛したようには、決して愛していないどころか、親方をがっかりさせたり、怒らせたりするのが、面白いことさえよくある、ということだった。それは、親方の気質に見られる矛盾に、関係がありそうだった。ニークラウス作の像は、少なくともその中の傑作は、ゴルトムントにとって立派な手本だったが、親方自身は手本ではなかった。
あの口元がいとも痛ましげで、美しい聖母像をきざんだ芸術家、深い体験と予感を魔法のように造形して、眼にみえる像に仕上げることのできる預言者・賢者の他に、第二の者がニークラウス親方の中に住んでいた。それはどこか厳格で、苦労性の父親・組合の親方である。娘とみにくい下女といっしょに、ひっそりした家の中で、目立たない、卑屈なぐらいの生活をしている男やもめであり、平穏無事で、分相応のまともな生活になれ親しんでいたので、ゴルトムントの烈しい衝動に対して、ひどく反撥している男である。
ゴルトムントは親方を尊敬し、決して他人に親方のことをたずねたり、特に親方を批判したりはしなかったが、それでも一年後には、ニークラウスについてわかる事は、どんな細かい点までも、知りぬいていた。この親方は彼にとって大切だった。彼は親方を愛したが、同時に憎みもした。彼は親方を、決してそっとしてはおかず、この生徒は愛と疑い、衰えを知らぬ好奇心をもって、親方の性質と生活の秘密の中へ忍び込んでいった。彼の知った所では、ニークラウスは家が広いのに、弟子も職人もおいていなかった。外出することもごくまれだったし、客を招くこともほとんどなかった。よく注意してみると、親方はきれいな娘を、涙ぐましいほど愛しねたみ、誰にも見せまいとしているらしかった。この男やもめのきびしい、早くからの禁欲生活にも、いきいきした衝動がちらちら顔を現わすことがあり、よそからの注文で、何日か旅に出るようなことがあると、びっくりするほど若返ってもどってくることがよくあるのを、ゴルトムントは知っていた。いつかは、よその町で説教台の彫刻をたのまれたとき、ニークラウスはある晩、ひそかに遊女をかい、それから数日の間、いらいらして不機嫌だったのも、ゴルトムントはよく知っていた。
そのうちに、この好奇心の他に、ゴルトムントを親方の家にひきとめ、その心をわずらわすある物が、現われてきた。美しい娘リースベトが、ひどく好きになったからだった。彼女は決して仕事場へは顔を出さなかったから、姿をみかけることさえめったになかった。彼女の内気さと男嫌いが、父親におしつけられたものに過ぎないのか、それとも生れつきなのか、ゴルトムントには判断がつかなかった。親方が彼を二度と食事によばず、娘に会わせまいとしていることは、見落とせない事実だった。どうみても、リースベトは箱入り娘で、結婚ぬきの恋などは、思いも及ばぬようだった。彼女と結婚しようと思う者は、まず良家の子弟で、もっとよい組合の一員でなければならない。多分、財産も家も持っていなければならないだろう。
ジプシーのような女や百姓女とは一種変った、リースベトの美しさは、もうあの最初の日から、ゴルトムントの眼をひきつけた。彼女には、彼がまだ知らない何物かがあって、この何か変わった点に彼はひどくひきつけられると同時に、疑いをいだいた、いや腹さえたてた。それは非常な落ち着きとあどけなさ、しつけと清らかさ、しかも子供っぽさではなく、行儀作法の仮面をかむった冷淡、高慢だったから、そのあどけなさのために、彼の心は動かされ、無力にされたのではなく(彼とて子供は誘惑できなかったろう)、刺戟され、挑発されたのだった。彼女の姿が次第に彼の胸の中のイメージとなって、親しいものとなってくると、彼はいつのまにか彼女の像を刻んでみたい、と思うようになったが、それも現在の姿そのままの、かわいい乙女としてではなく、めざめた、肉感的な、悩んでいる、いわばマリア・マグダレナとしてだった。この表情の変化にとぼしい、美しい顔が、いつか歓喜にほころび、あるいは苦痛にゆがみ、その秘密をばくろするのを見たいものだ、と彼はよく考えた。
このほかにもう一つ、彼の魂の中に住みながら、彼の物になりきっていない顔があった。彼はいつかこれをとらえて、芸術家として表現してみたい、と熱望していたが、それはいつも彼の手をすりぬけて、消え失せてしまうのだった。それは母親の顔だった。この顔はもうとうに、いつかナルチスと話した後で、忘却の淵から浮び上がってきたままの顔ではなかった。さすらいの日々、恋の夜な夜な、あこがれの時、生命の危機と瀕死の時がたつにつれ、母親の顔は次第に変化し、ゆたかになり、深刻になり、複雑になっていった。それはもはや自分の母の姿ではなく、その線と色は次第に変って、超個性的な母の像が、いわば人類の母イブの像が、できあがっていった。ニークラウス親方がいくつかのマドンナ像で、ゴルトムントには及びもつかない完璧さと力強さをもって、いたましい聖母を表現したように、ゴルトムントもいつか成熟して、腕に自信ができたら、この世の母、すなわちイブ=母の像を、最古最愛の聖なるものとして彼の胸にひめられている通りの姿に、表現したいと念じていた。しかし、始めは母と彼女への愛との追憶の像にすぎなかった、この心の像は、絶えず変化し、成長していった。ジプシー女リーゼや騎士の娘リューディアの面影、その他もろもろの女たちの顔が、最初の像に入りまじっていった。恋を知る女たちの顔だけが、この原像を変えていったのではなく、あらゆる感動、経験、体験がそれに影響し、それぞれ特徴をあたえたのだった。もしいつか、彼がこの姿を眼に見えるものにすることができたら、それは特定の女性を示すものではなく、人生そのものを原母〔母の原形である本原的な母〕として、示すものでなければならないからである。彼はたびたびそれをみたように思い、何度も夢でそれをみた。しかし、彼はイブの顔とその然るべき表情について、その生の歓喜は苦痛と死に酷似したものとして表現されるべきだ、としかいうことができなかった。
一年の間に、ゴルトムントは多くのことをまなんだ。絵は急にしっかりしてきて、ニークラウスに教えられるままに、木彫のほかに、時には塑像《そぞう》も試みてみた。彼の最初の成功作は、たっぷり四十センチ以上はある塑像で、リューディアの妹の、小さいユーリエの蠱惑的《こわくてき》な像だった。親方はこの労作をほめはしたが、ゴルトムントがそれを鋳《い》たいと願っても、許さなかった。その像は余りにもみだらで、俗っぽいから、代父〔洗礼立会人、ここは鋳造を洗礼にたとえた〕になって、ブロンズを鋳させるわけにはいかない、というのだった。次にゴルトムントはナルチスの像にかかったが、こんどは木彫で、使徒ヨハネにしたてるつもりだった。ニークラウスは磔刑《たっけい》の群像を注文されていて、二人の助手はずっと前からそれにかかりきりで、最後の仕上げは親方がすることになっていたが、ヨハネ像がうまくできたら、親方はそれをこの群像の中へ、加えようと思ったからだった。
ゴルトムントは深い愛情をもって、ナルチスの像にとりかかった。この仕事をしながらも、時には脱線して、情事、舞踏会、仲間との痛飲、とばく、よくあるけんか口論などに気をうばわれ、仕事場には、一日中、いや数日も姿を見せず、仕事もほったらかしで、ぼんやりと不機嫌そうにしていることもあったが、そのあげくのはてはまた仕事にかかって、そこに自己自身、自己の芸術性と魂を、見い出すのだった。使徒ヨハネの愛すべき瞑想的《めいそうてき》な姿は、木塊から次第に清らかに浮かび上がってきたが、彼は気が向いた時にだけ、献身的にへりくだった気持で、この仕事にいそしんだ。そんな時には、うれしくも、悲しくもなく、生の享楽もはかなさも考えなかった。かつて友へ献身し、その導きを喜んだ頃の、あのうやうやしい、明るくて純な気持が、再び彼の胸によみがえってきた。実際仕事にかかり、自分の意志で像を作っているのは、ゴルトムントではなく、むしろ別人だった。それはナルチスで、芸術家ゴルトムントの手をかりて、はかない人生から脱出し、自己の本質の純粋な像を、出現させようとしていたのだ。
こうして真の作品はでき上るのだ、とゴルトムントは思って、ぞっとすることがよくあった。彼があれから何度も日曜日に、修道院に訪れたところの、あの忘れえない親方のマドンナ像も、やはりこうしてできたのだ。こうした神秘的で神聖な方法で、親方が二階の廊下においておく、あの古い像の中の傑作も、できたのだ。こういうふうに、いつかはあの像も、あの別の像、さらに神秘的で尊敬すべき、あの唯一の像も、すなわち人類の母の像も、できあがるだろう。ああ、人間の手が作るものが、ただこんな芸術作品、こんな神聖で必然的な、どんな意志や虚勢心にも汚れない像だけなら、なんとすばらしいだろう。だが、そうはいかないのを、彼はとうに承知していた。別の像を創《つく》ることもできる。実は巧妙に創った、きれいで魅惑的なもの、芸術愛好家をよろこばせるもの、聖堂や議事堂を飾るもの――きれいではあるが、聖でも真でもない魂の像も、創ることはできる。彼は、ニークラウスやその他の親方の作品の中にも、非常に優美な工夫や入念な仕事にもかかわらず、遊びごとにすぎないような作品が多いことを、知っていたばかりではない。芸術家が自分の腕のよいのにまかせ、野心から、あるいは面白半分に、そんなみた眼ばかりきれいな作品を、世に発表することもある、ということを知っていた。そのことはもう自分の胸にも、自分の腕にも、思い当たるふしがあっただけに、恥ずかしく思い、情けなかった。
始めてこの事実を知った時、彼は死ぬほど悲しかった。ああ、こぎれいな天使や下らんものを創るのでは、たとえそれがどんなにきれいでも、芸術家であるかいはないだろう。他の人なら、職人や町人、平和な心の満ちたりた人なら、それでもいいだろうが、自分は不満だ。太陽のように燃え、嵐のような威力をもたず、ただ快感なもの、わずかな幸福感をもたらすにすぎない芸術と芸術家気質は、少くとも彼にとっては無意味だった。彼は別のものを求めていた。レース細工のようにきれいなマリアの冠に、ぴかぴか光る金箔《きんぱく》を張りつけるようなのは、いくら金になっても、彼には仕事でも何でもなかった。なぜニークラウス親方はこんな注文を、何でも引き受けるのか。なぜ若い衆を二人も使っているのか。玄関や説教台を注文にきた、議員や主任司祭の話を、物指をもって何時間でもきいているのは、なぜだろう。彼がそうするには、二つの理由、しかもけちくさい二つの理由があった。まず、注文の殺到である。有名な師匠になりたいのだ。それから、金がためたかったのだ。仕事を手広くしたり、娯楽に使うための金ではなく、もうとうに金持になっているはずの娘のしたく金が、ほしかったのだ。レースえりや錦らんの服、高価なふとんや麻の夜具のいっぱいついた、くるみ材の新婚の床を用意する金が、ためたかったのだ。きれいな娘なら、どんなほし草の寝床でだって、同じように恋を味うことができるのに!
こんなことを考えこんでいると、ゴルトムントに流れている母の血が、財産をもって定住している者への、宿無しの誇りと軽蔑が、ひどくかりたてられるのだった。仕事と親方が筋っぽい豆のように、嫌になることが時にあり、逃げ出そうかと思うことも、よくあった。
親方の方でも、よく我慢しきれなくなるような、こんな手に負えない、信用できない若者を弟子にしたのを、もう何度もひどく後悔していた。親方はゴルトムントの品行、金銭財産に対する淡泊さ、浪費癖《ろうひへき》、度々の女出入り、毎度のけんかのうわさをきいても、気持はなごまなかった。ジプシーを、信用のおけない職人を引き受けたのだ。この宿無しが娘のリースベトを見つめる時の眼つきも、彼は見逃さなかった。それでも我慢に我慢をかさねていたのは、義理や臆病のためではなく、ゴルトムントが作りかけていた、使徒ヨハネ像のためだった。この森からころがりこんだジプシーが、あの時あんなに印象深く、すばらしくはあるが、ひどく不細工な絵をかいたので、親方は身柄を引き受けたのだが、その彼が今では、次第に気まぐれではあるが、ねばり強くしっかりと、その絵によって使徒の木彫を仕上げてゆくさまを、親方は愛情をもって、どこか心の持ち方が似ていると思いながら、見守っていた。だが、自分ではこんな気持をそのまま認めているわけではなかった。ひどく気まぐれで、根気のない仕事ぶりだったが、この仕事はいつかは完成するだろう、と親方は信じて疑わなかった。この像が完成したら、どんな職人にもできないような、立派な親方にだってそうたやすくはできないような、優れたものになるだろう、と信じて疑わなかった。親方はこの弟子が気にくわなくて、小言をいったり、憤慨したりすることもよくあったが――ヨハネ像については、いっさい口をつぐんでいた。
ゴルトムントには、どこか青年の快適さと少年の無邪気さが残っていたので、誰にでもすかれたのだが、そういう所はこの数年間に、次第に消えうせた。彼はたくましい美男子になり、女たちにはすかれ、男たちには嫌われた。彼の心の表情ともいうべき気持も、ナルチスによって修道院時代の快い眠りからさまされてから、世間と放浪の辛酸《しんさん》をなめたあげく、まるで変ってしまった。かつてはかわいらしくておとなしく、誰からもすかれ、信心深くて勤勉だった修道院時代の生徒も、もうとうに別人のようになっていた。彼はナルチスに目をさまされ、女たちに教えられ、放浪のために大人になりきった。友だちはなく、心は女たちのものだった。女たちはながし眼一つで、あっさり彼を物にすることができた。彼はどうしても女にさからえず、そのどんなちょっとした誘惑にもこたえた。美に対して繊細な感覚をもっていて、青春の香りをただよわせたごく若い乙女が、いつも一番すきだったが、いっこう美しくもない、もう若くもない女たちにも、心をひかれ、誘惑された。時には舞踏場で、相手のないふけて元気のない娘の尻を、追いまわした。同情してなのだが、そればかりでなく、あくことのない好奇心のためでもあった。一人の女に夢中になると――何週間だろうと、何時間だろうと――彼にとって相手は美人で、血道をあげるにふさわしかった。経験によって知ったことは、どんな女でもきれいで、相手を幸福にできること、男に見はなされた目立たない女が、珍しい情熱と献身の力をもち、うば桜でも母親以上の、悲しくも甘い優しさの持主であること、どんな女にも秘密と魔力がひそんでいて、それが現われれば、相手がこの上もなく幸せになる、ということだった。こう考えると、どの女も同じだった。ただ、誰でも同じぐらい長く、彼を魅了していることはできなかった。美しくない女に対してよりも、非常に若くて美しい女に対して、決してより多く愛情を示したり、感謝したりしたわけではない。彼は決していいかげんな恋をしなかった。三晩の密会や十晩の密会の後で、やっと彼を物にした女もあれば、一回だけで味わいつくされ、忘れられる女もあった。
彼にとっては、恋の歓喜こそ人生をほんとにあたため、値打のあるものにする唯一のものだと思われた。彼は名誉心を知らなかった。彼には、司教も乞食も同じだった。利益も財産も彼を束縛できなかった。彼はそんなものを軽蔑し、そのためにどんな小さな犠牲も、払いたくはなかったから、よくふんだんに金をもうけても、湯水のようにそれを使った。女の愛と性の遊びが、彼には最上のもので、悲しくなったり、不快になったりしがちだったのは、欲望のはかなさを体験したからだった。急激にうっとりと燃えあがる愛欲のほのお、そのつかの間のあこがれの燃焼、そのあわただしい消滅――彼には、これはあらゆる体験の核心を含んでいるように思われ、これは人生のありとあらゆる歓喜と苦悩の象徴だった。彼はこの悲しみと無常感に、恋に対すると同じような献身の心をもって、身にゆだねられた。そして、この憂愁も恋であり、欲情だった。最高潮に達した、感きわまる緊張の一瞬の、愛の歓喜が、次の呼吸とともに消えて、再びなくなってしまわざるをえないように、いとも深く孤独と、憂愁への沈潜もまた、人生の明るい面へ改めて沈入しようとする望みによって、突然呑みこまれてしまう。死と欲情は一つのものだった。生命の母は、愛とか欲情とかよばれるが、墓と腐敗とよばれてもよい。この母の名はイブ、幸福の泉であり、死の泉である。永遠に生み、永遠に殺す。彼女にあっては、愛と残酷は一つであり、その姿は、彼が胸にひめているにつれて、次第に比喩となり、神聖な象徴となった。
彼は自分の道が母へ通じ、欲情と死へ通じていることを、言葉や意識をもってではないが、血にひめられた知恵によって、知っていた。生命の父からうけた半面である精神と意志は、彼の故郷ではなかった。そこにはナルチスが住んでいた。今や始めて、ゴルトムントは友ナルチスの言葉を、明確に理解し、ナルチスが自分と正反対の人間であるのがわかり、それをヨハネ像にも、はっきりあらわした。ナルチスにあこがれて、涙ぐむことはあり、不思議なナルチスの夢を、見ることはあっても――ナルチスにまで到達し、ナルチスのようになることは、できない相談だった。
ゴルトムントはある神秘な感覚をもって、自分の芸術家気質の秘密、芸術への熱烈な愛と時折感じる激しい憎悪の秘密をも、予感していた。彼は思想としてではなく、感情的に、いろいろな比喩として予感したのだった。芸術は父の世界と母の世界、精神と血の結合である。最も感覚的なものに始まり、最も象徴的なものに終るものである。あるいは、純粋な理念の世界に始まり、最も血のにおいのこい肉に終るものである。たとえば、あの親方の聖母像などのように、真に崇高で、見せかけだけのにせ物ではなく、永遠の神秘をたたえた、あらゆる芸術作品、だんこたる真の芸術作品には、男性的な面と女性的な面、衝動と純粋精神の並存といったような、なんでもなさそうでいて危険な二面が、そなわっている。いつかイブ・母の像が完成したら、それはこの二面性を、最も端的に示すことになるだろう。
ゴルトムントは、芸術にたずさわり、芸術家になることによって、自分の深刻な対立をなくすことができ、あるいは、自分の天性の矛盾に対する、一つのすばらしい、いつも新鮮な比喩を、発見できると思っていた。しかし、芸術は単なる贈物として、他から与えられるものではなく、決してただで手に入るものでもなく、非常に高価なもので、犠牲を要求する。ゴルトムントは三年あまりの間、彼にとっては恋の快楽の次に、必要欠くべからざる大切なもの、すなわち、自由を犠牲にしたのだった。自由な生活、とめどもない放浪、好き勝手な旅の生活、孤独、独立を、彼は放棄した。彼がときどき仕事場と仕事を、憤然とすててかえりみないのを、他人は気まぐれで、反抗的で、気ままだと思ったかもしれない――が、彼の身になって考えてみれば、こういうことは奴隷の生活で、耐えがたいまでに苦しくなることがよくあった。彼が服従せぬばならなかったのは、親方ではなく、未来でも、困難でもなかった――それは芸術そのものだった。一見ひどく精神的な女神である芸術は、つまらない物を沢山必要とした。頭上の屋根、道具、木材、粘土、色具、金が必要で、労力と忍耐も必要だった。彼は芸術のために、森の野蛮な自由、遠い彼方への陶酔、危険のにがい喜び、艱難辛苦《かんなんしんく》に耐える誇りを捧げ、歯を食いしばって、絶えず新しい犠牲を捧げねばならなかった。
犠牲の一部は、取り戻すことができた。恋には、ある冒険と恋仇とのけんかがつきものだが、彼はこの女出入りによって、現代奴隷のような、まともな定住者の生活をせねばならない憂さを、わずかに晴らしたのだった。閉じこめられた野性、おさえつけられた本能の力は、みんなこのはけ口から跳び出したから、彼は札つきのよた者になってしまった。娘の所へ通う時や、ダンスからもどる時、突然暗い小路で待ち伏せをかけられ、棒でいくらかなぐりつけられると、電光石火の早業でひらりと体をかわし、守勢から攻勢に転じ、息を切らせている敵を、あえぎながらもぐっと引きよせ、あごへ一発くらわせ、髪をつかんで引きずりまわし、あるいは首をぐいぐい締めつけるのは、彼には胸のすくように気持よく、ふさぎの虫もしばらくはなりをひそめた。また、それは女たちのお気にも召したようだった。
彼の日々はこうした事の連続だったが、使徒ヨハネ像の仕事がつづいている間は、こういう事にも何か意味はあった。仕事はながびき、顔と手の細かい最後の仕上げは、おごそかで、忍耐そのものだった。職人の仕事場のうしろの小さな木小屋で、彼は作品を完成した。像が完成したのは朝だった。ゴルトムントはほうきをとって、小屋を入念にそうじし、ヨハネの髪から最後のけずり屑を刷毛《はけ》でそっと払い落して、一時間以上もその前にたたずんでいたが、一生にもう一度くりかえされるかもしれないような、いや、決して二度とはないかもしれない、不思議な大きい体験の感情にみたされ、厳粛な気分にひたっていた。結婚式当日の新郎、騎士に叙任される日の剣士、初産のあとの母親なら、同じ気持になれるかもしれない。それは深い感激、真剣さそのものであると同時に、この高い一回限りの物が体験され、過ぎ去り、きちんと整頓され、平凡な日常生活に呑みこまれてしまう瞬間に対する、ひそかな不安だった。
彼は立ちつくして、若かりし日の導きてだった、友ナルチスの像を見つめた。その立像は何かをうかがうように顔を上げ、美男の愛弟子《まなでし》ヨハネの扮装《ふんそう》をし、その容姿はつぼみのようなほほえみをたたえ、静寂と献身と信心を現わしていた。そのきれいで、敬虔で理知的な顔、ほっそりして軽々としたからだ、優雅にうやうやしくあげた長い手は、若さと心の音楽にあふれていたが、苦悩と死を知らせなかったわけではない。しかし、絶望、混乱、反抗は知らなかった。この気高い表情のかげの心は、たのしかろうと悲しかろうと、純で、不協和になやまされはしなかった。
ゴルトムントは立って、自分の作品に眺め入っていた。その観察は、最初の青春と友情の記念碑に対する、敬虔な想いをもって始ったが、嵐のような不安と憂慮に終った。さて、ここに作品はある。美しい使徒像はいつまでも残り、可憐な花は決して散りはしないだろう。しかし、それを作った自分は、今自分の作品に別れを告げねばならない。あすはもう、それは自分のものではない。もう自分の手を要しない。手塩にかけても、成長し花咲くものではない。自分にとって、それはもう人生の避難所でも、慰めでも、意味でもない。自分はぼんやり置きざりにされるのだ。きょう、このヨハネ像に別れをつげるばかりでなく、同時に親方と町と芸術にも、別れを告げるのが、一番いいように彼には思われた。この町には、もう用がなかった。モデルになりそうな像も、彼の胸には一つもなかった。あのあこがれていた最上の像である人類の母の姿は、なかなか手におえそうもなかった。またぞろ天使の像をみがいたり、飾りを飾ったりするとでもいうのか。
彼はふり切るように、親方の仕事場の方へ出ていった。そっと入って、ニークラウスが彼に気がついて、声をかけるまで、戸口に立ち止まっていた。
「何だ、ゴルトムント」
「完成したのです。食事の前に、ちょっと来てみていただきたいのですが」
「よしきた、すぐ行こうや」
二人はいっしょに行って、明るいように、戸をあけたままにしておいた。ニークラウスはもうしばらく像を見ずに、ゴルトムントに自由に仕事をさせていた。さて、彼は黙ってじっと作をみつめていたが、気むずかしげな顔が晴れやかになり、ゴルトムントはそのいかつい青い眼が、よろこばしげに輝いて行くのをみた。
親方がいった。「よし、すばらしい。ゴルトムント、これあ、お前の免状をとるための作品だぜ。これで、見習も卒業だ。こいつを組合の連中に見せて、親方の免状がもれえるように、してやろう。それだけの腕前がある」
ゴルトムントは組合のことは何とも思っていなかったが、親方の言葉がどんな賞賛を意味するかを、知っていたので、うれしかった。
ニークラウスはもう一度、ヨハネ像のまわりをゆっくり廻り、吐息をついていった。「こりゃあ信心深げで、曇りがねえ。まじめで、幸福と平和がみなぎっとる。心の明るくて、晴れやかな人が作ったものだ、と誰だって思うだろうて」
ゴルトムントはほほえんだ。
「ごぞんじのように、この像にかたどったのは、このわたくしではなく、一番の親友です。この像に明るさと平和をあたえたのは、友達なんで、わたしではないんです。実際、この像を作ったのは、このわたしではなくて、友達がこの像を、わたしの魂へ入れてくれたんです」
ニークラウスがいった。「そうかも知らん。こんな像ができあがる次第は、不思議なもんだからな。わしゃあ自信のねえ方じゃねえが、本音をはきゃあ、腕や注意にかけちゃ話は別だが、真実《まこと》にかけちゃ、お前のこの像に劣ったやつをたんと作っている。どうだ、こんな物あ二度とできんこったあ、お前にだってよくわかっとるな。全くげせんことだ」
ゴルトムントがいった。「その通りです。わたしはこれができ上った時、つくづく眺めて、こんな物は二度とできんぞ、とひとりで考えました。ですから、親方さん、すぐにおいとまごいして、また旅に出ようと思うんです」
びっくりして不快げに、ニークラウスは彼をみつめたが、眼はまたいかつくなっていた。
「そいつぁ後できこう。お前の仕事あやっとこれからという所だろうて。今逃げ出しちゃ、話にも何もならん。きょうはお前さんのお祝いだ、昼食によばれてくれ」
昼食には、ゴルトムントは髪にくしを入れ、からだを洗って、晴着でやってきた。親方から食事に招かれるのが、どんなにたいしたことか、どんなに珍らしい好意かを、こんどは彼にはよくわかった。彫刻を並べたてた廊下に通じる階段を上っていった時、彼の心はかつて胸をどきどきさせながらこの美しい静かな部屋に入っていった時のようには、畏敬の念と不安な喜びに、みちてはいなかった。
リースベトも化粧して、宝石のついた首飾りをつけていた。鯉とぶどう酒のごちそうの他に、もう一つ思いがけぬ物が出た。親方がゴルトムントに、ヨハネ像の御礼の二枚の金貨の入った革の財布を贈ったのだ。
こんどはゴルトムントも、親娘《おやこ》が話している間、だまってはいなかった。二人は彼に話しかけ、杯が打ち合わされた。ゴルトムントの眼はいっときもじっとはしていず、折を見ては、上品でどこかつんとした顔の、きれいな娘をくわしく観察し、彼女がどんなに気にいったかを、見逃しはしなかった。彼女はやさしくしてくれたが、顔もあからめねば、あつくもならなかったので、彼はがっかりした。しかし、その反面では、何とかしてこのきれいで、動きのない顔に話させ、その秘密をばくろさせたいものだ、と熱望するのだった。
食事がすむと、彼は御礼をのべ、しばらく廊下の彫刻を眺めていたが、午後は、手持ちぶさたな不精者のていよろしく、未練がましく町をぶらつきあるいた。意外にも親方にひどくほめられたのに、なぜうれしくないのか、なぜこんなに名誉をえたのに、晴れがましい気持になれないのか。
ふと思いたって、彼は馬を借り、かつて初めて親方の作品をみ、その名を耳にした、あの修道院へでかけた。あれは数年前のことなのに、思い出せないほど遠い昔のことのように思えた。彼は修道院聖堂に、聖母像をおとずれ、じっと観察した。きょうもまた、この像は彼を魅惑し、圧倒した。それは彼のヨハネ像よりすばらしく、誠実さと神秘の点では、同等だが、技巧と自由な軽快さの点では、優っていた。こんどはいかにも玄人《くろうと》らしく、像の細かい所を観察した。かすかなやさしい衣の動き、長い指と手を作った大胆さ、自然の木地を敏感に利用している点――これらすべての美しさは、全体、幻想の単純さと誠実さにくらべれば、実際何でもなかったが、とにかくそうした美点があり、はなはだすばらしかった。それはどんな天分に恵まれた者でも、仕事を徹底的に理解しないことには、不可能なことである。これだけの物を作るには、像を魂の中に抱いているばかりでなく、眼と手のいうにいわれぬ修練をつまねばならない。だがしかし、体験し、熟視し、親しみを覚えるばかりでなく、円熟した腕を最後の一点まで仕上げたような、なにかすばらしい傑作を、いつかうみだすためにだけ、苦労して一生を芸術に捧げ、自由と大きな体験を、犠牲にするだけの価値は、いったいあるものか。これは大きな問題だ。
ゴルトムントは夜もふけてから、疲れた馬をかって町へもどった。料理屋がまだ一軒開いていたので、彼は入って食事をして一杯やり、魚河岸の部屋へもどったが、気持はしっくりせず、頭の中は問題と疑問でいっぱいだった。
[#改ページ]
十二
その翌日、ゴルトムントは仕事へ行く気になれなかった。気がくさくさする時にはいつもやるように、町をぶらつきまわった。女房や下女が市場へでかけるのを眺め、特に魚河岸の井戸のそばに足をとめて、魚屋と気性の荒い女房たちが大騒ぎで魚を売りたてたり、ひんやりする銀色の魚を桶からつかみだして、さし出したりするのを眺めていたが、魚は苦しげに口をあけ、不安げに金色の眼をみすえて、じっと死に身をゆだねたり、じたばたして最後の抵抗を試みたりした。
彼はよくこんな生物に同情し、人間がいやになって、情なくなるのだった。なぜ人間は鈍感で、手荒くて、考えられないぐらい馬鹿で能なしなのだろう。なぜ魚屋も女房も値切っている客たちも、みんな何もみえないのか。この口つき、断末魔の眼、ばたばたはねまわる尾、身の毛もよだつ無駄な絶望の戦いが、なぜみえないのか。このすばらしい生物がみる影もない姿に変りはて、最後にかすかに皮をひくつかせて死に、ぐったりとのび、無残な切り身となって食いしんぼうのごちそうになるのが、なぜわからないのか。この人間どもには、何もみえない、知りもしないし、わかりもしない。彼らには、なにも訴えないのだ。かわいい生物が眼の前で、無残な死にかたをしても、巨匠が聖人の表情に、人生の希望、気高さ、苦悩、暗く胸ぐるしい不安のすべてを、ぞっとするほど刻銘に表現しようと、彼らにはどうでもいいのだ。――彼らには、何もみえず、何もわからないのだ。みんな満足し、あるいはいそがしがり、もったいぶり、あわて、さけび、笑い、おくびをし合い、騒いだり、しゃれをとばしたり、二ペニッヒのことでどなったりし、それでしあわせで、万事こうつごうで、自分にも世間にも満足しきっている。みんな豚だ、いや豚以上のひどい奴らだ。
ところが、自分はどうだというのだ。よく彼らとつきあい、いい気になって同類気取りで、娘の尻を追いまわし、笑いながら平気で焼魚をくったではないか。しかし、不意に魔法にかかったように、喜びと落着きを失うことがよくあった。こんな脂ぎった妄想、自己満足、事大主義、よどんだ魂の平安が、なくなってしまうことがよくあった。心ならずも孤独におちいり、せんさくし、放浪へ、あらゆる行動の苦悩と死と疑いの考察へと、深淵の凝視へとかりたてられた。そうかと思うと、絶望的にひたすら、無意味で恐るべき物をみつめている中に、ふと激しい恋、情欲、きれいな歌をうたい、描こうとする喜びが、湧きでてきた。また、花の香をかぎ、猫とたわむれている中に、人生との無邪気な和解が、もどってくることがよくあった。きょうも、明日も、明後日も、もどってくるだろう。世界はまたすばらしい物になるだろう。しかし、別の物になってもどってくるまでは、悲哀、瞑想、瀕死《ひんし》の魚やしぼむ花への絶望的な胸苦しい愛があり、人間が愚鈍な豚のように、ぼんやりと何もわからない生活をすることへの、恐怖だけがあるのだ。
彼はそんな時はきっと、むかし短刀で胸をさし、血まみれの屍を樅の枝の上に置きざりにした。あの遍歴学生ビクトルのことを、苦しい好奇心とひどい胸苦しさをもって、思い出すのだった。そして、あのビクトルの屍はもうどうなったろう。獣が喰ってしまったろうか、何か残っているだろうか、と考えないわけにはいかなかった。そう、骨ぐらいは残っているだろうし、ひょっとすると、毛むくじゃらな腕も残っているかもしらん。そして、その骨は――どうなるだろう。形をうしなって、土に帰るには、どれぐらいかかるだろう、数十年か、それともわずか数年か。
きょうもまた、彼は魚に同情し、市場の人々にいやけがさし、世間と自分自身に対して、不安な重い気持とひどい敵意を抱いているうちに、ビクトルを思い起すのだった。屍はみつかって、葬られたろうか。そうだとすれば――今はもう、肉はみんな骨から落ち、くさり、うじ虫の餌食になってしまったろうか。されこうべに髪が残り、眼窩《がんか》の上に眉毛が残っているだろうか。ビクトルの一生は冒険と物語にとみ、すばらしい冗談と嘘の空想的なたわむれの連続だったが、――この一生から、何が残っているか。尋常一様ではないこの男の一生から、殺した自分が持ちつづけている。とぎれとぎれのいくつかの思い出のほかに、何が残っているだろう。むかし愛したことのある女は、まだ彼の夢を見るだろうか。ああ、すべては流れる水のように、流れ去ったことだろう。すべてはそうした運命なのだ。花はあわただしく咲いて、あわただしく散り、その上に雪が降るのだ。数年前、芸術への熱望にもえ、ニークラウス親方に対する不安な深い尊敬の念にかりたてられ、この町へやってきた時には、胸は咲く花のようにはなやかだった。そのなごりがどこかに残っているか。何もない。あの哀れな、のっぽの追いはぎビクトルのこと以上は、何も残ってはいない。もしあの頃、誰かが彼に向って、ニークラウスはいつかはお前を同等の者と認め、組合に免状を申請してくれるだろう、といってくれたとしたら、世界中の幸福をひとりじめしたように、思ったことだったろう。しかし今では、それもひからびて、あじけない、凋《しぼ》んだ花にすぎないのだ。
こんなふうに考えていた時、ゴルトムントはふと一つの顔を、思いうかべた。それはほんの一瞬で電光のようなひらめきだった。原母《げんぼ》の顔が人生の深淵をのぞき、ほほえみのあとを残しながら、美しくもすさまじく眺めているのを、彼はみたのだった。それが生れた者、死んだ者、花、さやぐ秋の草葉、芸術、腐敗へ向ってほほえみかけているのを、みたのだった。
この原母にとって、すべては同じだった。彼女のほほえみは月のように、すべての物をてらした。彼女にとって、思い悩むゴルトムントは、魚河岸の鋪石《しきいし》の上で死んでゆく鯉と同様にいとしかった。つんとして冷たい娘リースベトも、むかし彼の金貨をむすもうとした、あのビクトルの森に散った骨のように、いとしかった。
たちまちにして、稲妻は消え、神秘な母の顔はうせた。だが、かすかな光はゴルトムントの胸底深く、なおもひらめきつづけていた。生命と苦痛と胸苦しいあこがれの大波が、彼の胸をさわがせながら、流れぬけていった。いや、とんでもない、魚を買う客、町人、商人のような他の人々の、幸福の満足は、おれはほしくない。そんなものは糞くらえだ。ああ、この燃え上る青白い顔、水々しくはちきれんばかりの、晩夏を思わせる口よ。この重苦しい唇の上を、名状しがたい死のほほえみが、風や月光のように走り去ったのだ。
ゴルトムントは親方の家へ行った。昼ごろだった。ニークラウスが内で仕事をやめ、手を洗うまで、待っていた。
「親方さん、ちょっときいていただきたいことがあるんですが、手を洗い、上着を着られる間にすむことなんです。どうしても打ち明けた話をしたいんですが、今なら話せます。後ではだめでしょう。わたしは誰かと話をしないでは、いられないんですが、あなたにだけはわかっていただけそうな気がするんです。有名な仕事場と立派な家を持ち、弟子を二人もかかえて、方々の町や修道院から、名誉ある注文が殺到するようなお方としてのあなたに、お話するのじゃありません。わたしの知っている中でも、一番きれいな、あの修道院の聖母像を作られた親方さんに、お話したいんです。わたしはこういうお方として、あなたを敬愛して、あなたのようになるのが、この世で最上の目標のように思っていました。わたしは今あのヨハネ像を作りましたが、貴方の聖母像のように、完全にはまいりませんでした。でも、どうしようもありません。別の像を作る必要はありません。作りたい像も、どうしても作らずにはいられない像も、もうありません。いや、一つだけあるんですが、手の及ばない遠くにある、神聖な像なんです。いつかは作らねば、と思うんですが、今はとても手におえません。それができるまでには、まだまだ経験と体験をつまねばならないでしょう。三、四年かかるかもしれません。いや、十年以上かかっても、だめかもしれません。それとも出来ない相談なのかもしれません。ですが、親方さん、それまでは、仕事をしたり、像にラックをぬったり、説教台に彫刻をしたり、仕事場で職人の生活をしたり、金をもうけたり、ほかの職人のようになりたくはないんです。もってのほかです。わたしは放浪の生活をし、夏と冬を身をもって味わい、世間の実相をみ、その美しさと恐ろしさを知りたいんです。飢えと渇きを忍び、あなたの所で修業して見につけたものを、みんな忘れてしまい、それから逃れたいんです。あなたの聖母像のような、人の心をうつ美しいものを、いつかは作ってみたいんですが――あなたのようになりたくも、生きたくもないんです」
親方は手を洗ってふくと、ふりかえって、ゴルトムントの顔をみつめた。その顔はいかめしかったが、怒ってはいなかった。
親方はいった。「話はきいた、ということにしておこう。仕事あたんとあるが、お前をあてにあしていねえ。わしゃあお前を、若え者のようにあ思っちゃあいねえ、お前にあ自由がいる。なあ、ゴルトムント、お前にあ相談してえことも、色々あるが、今じゃあねえ、二、三日たったらの事にしよう。それまで勝手にひまつぶしをしてたらいいさ。いいか、わしゃあお前よりずっと年をとってるし、経験もつんでるさ。それで、お前と考えはちがうが、お前の気持と話あわかるつもりだよ。二、三日中にゃあ、呼びにやらせるからな。お前のこれからの身のふり方を、相談しようぜ、いろいろ計画もあるしな。それまであしんぼうしてくれよ。気にかかる仕事ができた時の気持あ、身につまされるな。心がからっぽになるこたあ、身に覚えがあるさ。だが、それもつかの間さ。わかったな」
不満な気持で、ゴルトムントはひきさがった。親方は親切にしてくれるが、いったいどうしてくれるつもりだろう。
彼は、川の一部が浅くて、がらくたやごみが沈んでいる所を知っていた。郊外の魚屋どもがそこにいろいろなごみを捨てるのだった。彼はそこへ行って、岸の石垣に腰かけ、川をのぞいた。彼は水がすきで、どんな水にも心をひかれた。その場所から、水晶の糸のように流れる水をすかして、暗いぼんやりした川底を見おろすと、あちこちで何かがいぶし金のように光り、人の心をひくようにきらめいた。わけのわからない物だが、それは古い皿のかけらだろうか。まがって使えなくなった鎌だろうか。つるつるして光る石かもしれないし、ガラスのようなかわらかもしれない。あるいはまた、シュランムフィッシュ〔両肺魚の一種〕やまるまるした大口魚のアカハラのこともあるが、魚は水の底で身をひるがえし、明るい腹びれやうろこで、一瞬光を反射して光るらしかった――いったい何が正体なのかは、決してはっきりはしなかったが、暗い水底に沈んだ黄金の宝が、ちらちら鈍く光るのは、魔法のようにきれいで魅力があった。すべての本当の秘密、魂の正真正銘の像は、この小さな水の秘密であるように、彼には思われた。それには輪郭も形もなく、輪郭と形は遙かな美しい可能性として、予感されるだけだ。像はベールでかくされ、曖昧模糊としている。うす暗い青い水底で、名状しがたい金色や銀色のもの、つまらないが幸福この上もない約束にみちたものが、時折ぴかぴか光るように、ある人の忘れた横顔も、半ばうしろから眺めると、どこかとめどもなく美しいもの、あるいは、この上なく悲しいものを、よく示すものである。あるいはまた、よる荷車の下にカンテラをさげると、動く車輻《や》の巨大な影が、壁にうつるように、この影のたわむれは一瞬の間、ウェルギリウス〔古代ローマの有名な詩人〕の全作品にもくらべられるほどの、場面と事件と物語にみちていることがある。同じ非現実的で魔法のような材料で、夜になると、夢が織りなされた。世界のあらゆる像をひめた無が、あらゆる人間や動物や天使や悪魔の形を含んだ結晶からなる水が、それで織りなされた。
彼はきょうもまた、このたわむれにふけり、流れる川をぼうぜんと見つめ、形のない輝きが水底でふるえるのをみ、王冠とあらわな女の肩を、おぼろげに感じた。かつてマリアブロンで、ラテン語とギリシア語の文字をみて、同じような夢をみ、変化の妙にみせられたことがあるのを思い出した。あの時は、その話をナルチスにしたものだった。ああ、あれはいつのことだったろう。何百年前のことだろうか。ああ、ナルチス! 彼に会い、一時間もいっしょに話し、手をにぎり、静かでさとい声がきけるものなら、金貨を二枚やってもいい。
水底の黄金の光、この影と予感、このすべて非現実的で、妖精のような仮象は、いったいなぜ美しいのか――なぜ形容しがたいほど美しく、魅惑的なのか。それは芸術のつくれる美と、正反対のものなのに。というのは、この名もない物の美は、全く形をもたず、全く秘密だけからなっているのに、芸術作品の場合は、全くあべこべで、それは全然形だけで、その訴える所は、どこまでも明快だ。絵や木彫の頭や口の線ほど、あくまで明確なものはない。彼はその気さえあれば、ニークラウスのマリア像の、下くちびるや眼ぶたを、正確に、寸分たがわず模写することができただろう。そこにはぼんやりした点、ごまかし、ぼかしたようような所がなにもなかった。
ゴルトムントは我を忘れて、そのことを追求した。これ以上ないほど確定的で、形を与えられた物が、最もつかみ所のない、形のない物と全く同じように、魂に働きかけることがありうるのか、彼にははっきりしなかった。しかし、こうしてとつおいつ考えているうちに、はっきりしてきたことが一つあった。それは、非のうち所のない、巧みにできた多くの芸術作品が、なぜすっかり気にいらず、確かに美しいのだが、退屈になりあきてしまい、いやらしくさえ思えてくるのか、ということである。仕事場も聖堂も宮殿も、そんな致命的な作品でいっぱいだ。そのいくつかは、彼もてつだったのだ。そういう作が人をがっかりさせるのは、それが至高な物への要求を、めざめせるのに、それに満足できないからだ。それには、一番大事なものである神秘が、欠けているからだ。夢と最高の芸術作品に共通なのは、実にこの神秘なのだ。
ゴルトムントは考えつづけた。自分が愛し、追及しているのは、この神秘だ。そのひらめきはしばしば見ている。できることならいつか、芸術家として表現し、語らせたいのは、実にこの神秘なのだ。それは偉大な産婦、原母《げんぼ》の姿である。この姿の神秘は他の像のそれのように、特にふとっているとかやせているとか、粗野であるとかきれいだとか、力強いとかやさしいとかいう、色々な特徴にあるのではなく、ほかでは一致しない、世界最大の対立、すなわち、誕生と死、善と残忍、生と破滅が、この姿の中で平和に共存していることにあるのだ。たとえ自分がこの姿を考え出したにせよ、たとえこの姿が自分の思想のたわむれにすぎず、野心満々たる芸術家の希望であるにすぎなくとも、この姿にとっては、どうでもいいことだ。自分はその欠点を見ぬいて、忘れることができるだろう。しかし、この原母は空想ではない。考え出したのではなく、眼で見たのだから。それは胸の中で生きていて、自分は度々それに出会っている。ある村で、ある冬の夜、産婦の床をてらしてやった時、始めてこの姿を予感した。その時から、この像はこの胸の中に住みついた。この像は長いこと、ぼんやりかすんで、姿をけすこともよくあったが、きょうのように、不意に姿を現わすのだ。かつては最愛のものだった自分の母の像は、全くこの新しい像にかわってしまい、それはサクランボの核《たね》のように、自分の胸の中の中心にあるのだ。
彼は今や自分の現状、決意する前の不安を、はっきりと感じた。かつてナルチスと修道院に別れを告げた時と同じように、母をさがし求める大切な途上にあるのだ。恐らくいつかは、この母の眼に見える、姿をもった像が、彼の手によって作られるだろう。恐らく、それが彼の目標で、そこにこそ彼の生きる意味がひめられているのだろう。恐らくそうだろうが、彼にははっきりしなかった。しかし、一つの事だけはわかっていた。母のあとについて行き、母をたずね、母にひかれ、呼ばれることは、彼にとってはよいことで、生きることである、ということである。彼はその像を、永遠に作ることができず、母は常に夢、予感、誘惑、神聖な神秘の金色のひらめきにとどまるかもしれない。しかし、とにかく、母をしたい、運命を母の手にゆだねなければならない。母は運命の星なのだ。
さて、今こそ決心すべき時だ。すべては明白になったのだ。芸術はすばらしいものだが、神でも目標でもない。少くとも彼にとってはそうではない。芸術にではなく、母の呼び声に従うべきなのだ。腕をみがいてなにになるのか。その結果どうなるかは、ニークラウス親方がいい見本だ。評判が高くなって、金をもうけ、一定の所で安楽な生活はできるだろうが、あの神秘に達しうる唯一の道である内的感覚は、枯れしぼんでしまうだろう。きれいで高価なおもちゃ、いろんな立派な祭壇や説教台、聖セバスティアーンやかわいい巻き毛の天使の頭など、四ターレルもする物を、作るようになるだろう。ああ、こんな芸術作品でいっぱいの広間より、一匹の鯉の眼の金色や蝶の羽のへりのかれんな薄い銀の綿毛の方が、ずっと美しく、いきいきとしていて、珍重すべきだ。
子供が歌をうたいながら、川沿いの道を下って来たが、その歌声は時々とだえた。もっている大きな白パンにかぶりつくからだ。それを見たゴルトムントは、パンを少しばかりもらい、二本の指でやわらかいパンをちぎり、まるめて小さな玉をつくり、胸壁から身をのびだして、ゆっくり次々にパンの玉を水の中へ投げこんだ。白い玉が暗い水中へ沈んで行くのを、見つめていると、そのまわりに魚の頭がひしめきあい、パンの玉がどの口の中へか消えてなくなるのがわかった。パン玉が次々に沈んで消えうせるのを、彼は満足げに眺めていた。やがて、空腹を覚えた彼は、「ソーセージとハムの女王」とよんでいた恋人の一人、肉屋の下女をたずねた。例の口笛で、下女を台所の窓口にさそいよせ、食物を色々せしめ、ポケットにつっこむと、川向うのぶどう山へそれを食べに出かけた。そこの肥えた赤土は、濃いぶどうと葉の下で、力強く輝き、春のいぶきの中に、かわいい青いヒヤシンスが咲いて、核果《くだもの》のような淡い香りをただよわせていた。
しかし、きょうこそは判断し、決定すべき時のように、思われた。カタリーネが窓辺に現われて、そのしっかりして、どことなく野卑な顔がほほえみかけ、彼がちょうど手をのばして、例の合図をしようとした時、彼はふと、いつもここにこうして立って、待っていたことを、思い出さずにはいられなかった。そして、次に起こるべきことを、とっさにありありと予感して、退屈なやりきれない気持になった。彼女は合図をのみこんで、ひっこみ、燻製《くんせい》か何かをもって、すぐ裏の戸口にあらわれ、彼はそれを受け取ると、彼女の望み通りに、すこし愛撫して抱いてやる――そして、なんども機械的にくりかえした体験を思い出し、きょうもまた、こうしてソーセージを受け取り、たくましい胸が迫ってくるのを感じ、お礼のしるしのように、それをちょっと抱きしめてやるいつものお芝居をするのかと思うと、それは突然ひどく馬鹿げて、いやらしく思われた。彼はふと、彼女の人のいい野卑な顔の中に、生命を失った習慣の相を、やさしいほほえみの中に、なにか余りにもしばしば起こったもの、なにか機械的で神秘さを失ったもの、なにか彼にふさわしくないものを、みたように思った。彼は例の合図を、どうしてもできず、ほほえみが顔の上で凍りついた。いったいまだこの女が好きなのか、ほんとにこの女がほしいのか。いや、ここには余り来すぎ、いつも変わらないほほえみをみすぎ、心にもなくそれにこたえていた。昨日なら、まだ無考えにできたかもしれないことでも、きょうはもう、不意にできなくなってしまった。下女がまだ立って、見送っているのに、彼はもうふりかえりもせずに、二度とやってこない決心で、小路から姿をけした。別の男があの乳房をいじるだろう。あのうまいソーセージを食うだろう。いったい、この脂ぎった歓楽の町では、どれほどの物が毎日たいらげられていることか。この肥っちょの町人どもは、なんとなまけもので、わがままで、気取りやだろう。奴らのために毎日、たくさんの豚と仔牛がほふられ、きれいな魚が哀れにも川からひき上げられるのだろう。そして、この自分はどうだ――自分だってわがままで、だらしなく、いまいましくて胸がむかつくほど、この肥っちょの町人どもに似てきたではないか。さすらいの雪の広野で味わう、干しあんずや古いパンの皮の方が、ここでぬくぬくと食っている組合のごちそうより、ずっとおいしい。おお、さすらいよ、自由よ、月光にてらされた荒野よ、灰色にしめった朝の草むらの、それとわからぬほどかすかな獣の跡よ。この町に住んでいる人々の間では、何でもとうりいっぺんで、味がない。恋だってそうだ。彼は不意にいやな気持になって、つばをはいた。ここの生活は無意味になったのだ。髄《ずい》のない骨だ。親方が手本で、リースベトが女王である間は、そこはすばらしくて、意味があった。ヨハネ像を製作している間は、がまんもできた。しかし、今ではおしまいだ。香りはうせ、花はしぼんでしまった。彼をしばしばさいなみ、陶酔させた無常観が、激しい波のようにとらえた。すべてはあわただしくしぼみ、あらゆる快楽はあわただしく燃えつき、骨とごみ以外は何も残らないのだ。だが、ただ一つ残ったのは、永遠の母である。最も古くて、しかも永遠に若い母、ぞっとするような、悲しげな愛の微笑をたたえた母である。彼はまたちらっと母をみた。髪に星をいただき、夢見るように世界の縁にすわった巨人のような彼女は、無心な手で、花と生命を次々につんでは、底なしの深淵へゆっくりと投げ込んでいた。
こうして幾日かの間、ゴルトムントは、しぼんだ一片の人生が背後で色あせるのを眺めて、悲しい別れの気持によいしれ、親しんでいた土地をあちこちさまよっていたが、一方ニークラウス親方は、彼の将来を心配し、この落着かない客を永久に定住させようと、懸命に努力していた。彼は組合にすすめて、ゴルトムントに親方の免許状を下附させたが、いろいろ案をねって、ゴルトムントを弟子にするのではなく、協力者にして、自分の所にとめおき、大きい注文は何でも二人で相談し、いっしょに製作し、収入もわけてやろうと思った。これは無謀かもしれない。リースベトのためにもだ。結婚すれば、この若造は当然すぐ義理の息子になるのだから。ニークラウスがこれまでやとった助手の中で、一番腕のいい者にだって、あのヨハネ像のような立派なものは、とうていできまい。彼自身も年をとり、工夫や製作力がおとろえているし、自分の有名な仕事場が、ありふれたくだらない仕事場に落ちぶれるのを、見ていたくはなかった。あのゴルトムントには手をやくかもしれないが、一か八かやってみねばなるまい。
親方は慎重に考えてみた。ゴルトムントのために、うしろの仕事場を修繕し、拡張させ、屋根裏部屋をあけてやり、組合に加入させる時には、立派な服も新調してやろう。昼食をともにしたあの日から、いくらかは予測していたリースベトに、用心して意見をきいてもみた。ところが、リースベトにも異存はなく、彼が住みついて、親方になるなら、それでいいというのだった。この点は、問題ではない。また、ニークラウス親方と仕事が、どうしてもこのジプシーを手なずけることができなくとも、リースベトがきっとうまくやってくれるだろう。
万事こういうふうにはこばれて、餌は鳥のわなの後ろにうまくつるされた。そしてある日のこと、あれから姿を見せないゴルトムントが呼ばれて、また食事に招かれた。彼はまた服にブラシをかけ、髪にくしをいれてやってきて、きれいな、どこかいかめしすぎる部屋にすわり、また親方や娘と杯をあわせたが、娘が立って行くと、親方は大きな計画と申し出を持ち出した。
彼は意外なことをうちあけた後で、つけ加えていった。「わかったな。今さら言うこたああるめえが、若え者が定めの年期もつとめあげずに、こんなにはやく親方になっちまって、ぬくぬくと巣に納るなんてこたあ、恐らく決してあるめえ。ゴルトムント、お前は果報ものだぜ」 びっくりして重苦しい気持で、ゴルトムントは親方の顔をみつめ、前においてあった飲みかけの杯をおしやった。ほんとのところ、彼は何日か油をうっていたから、いくらかニークラウスに怒られ、助手になってとどまらないか、とすすめられるかもしれない、と思っていたのである。ところがこういうわけである。親方とむきあっているのが、彼にはなさけなくて、どうしていいかわからない気持になった。どう返事したものか、とっさには思いつかなかった。
親方は、名誉ある申し出がさっそく二つ返事で承諾されないとみるや、いくらか緊張し、がっかりしたような顔つきで、立ち上がっていった。「そうか、わしの申し出が意外なのか。これからとっくり考えてみるつもりか。お前をうんと喜ばせようとやったことだから、ちったあ気にさわらんこともねえが、まあ、なんなら考えるさ」
ゴルトムントは言葉をさぐり求めながら、答えていった。「親方さん、かんべんして下さい。あなたの御厚意に心から感謝し、がまんして弟子の修業をさせて下さったことに対しては、それ以上に御礼を申し上げねばなりません。御恩のほどは、決して忘れません。でも、考えるひまをいただく必要はありません。とうに決心はきまっていますから」
「どういう決心だ?」
「あなたに招かれ、あなたの名誉あるお申し出に気づく前から、わたしの決心はきまっていました。わたしはこれ以上この土地にいないで、旅に出ます」
顔色を失って、ニークラウスは不機嫌そうに彼をにらみつけた。
ゴルトムントは懇願した。「親方さん、決していやみを申し上げたのではありません。決心のほどを申し上げたのです。もう決心をかえるわけにはまいりません。わたしは行かねばなりません、旅立たねばなりません。自由の中へ行かねばなりません。改めて、心からお礼をさせて下さい。気持よくお別れをさせて下さい」
彼は手をさし出したが、涙がこぼれそうだった。ニークラウスはその手をとらず、まっさおになって、部屋の中をあちこちやたらに歩き廻りだしたが、ふんがいした胸のうちは次第に高まる足音にききとられた。ゴルトムントは親方のそういう態度を、みたことがなかった。
やがて、親方は不意に立ち止まると、やっとのことで我をおさえ、ゴルトムントの方を見ずに、歯の間から吐き出すようにいった。「よし、さあ行ってくれ。今すぐだ。二度と面《つら》をあわせずにすむようにな。おれが、後悔せにゃならんような事を、やったりいったりせんでも、すむようにな。出てうせろ!」
ゴルトムントはもう一度、彼に手をさしのべた。親方はさしのべられた手に、つばきを吐きかけんばかりの顔つきをした。それで、ゴルトムントもまっさおになって、くるりと後を向くと、そっと部屋を出て、帽子をかぶり、手すりの天使の頭の上に手をすべらせながら、音のしないように階段をかけおり、うしろの庭にある小さな仕事場に入り、ヨハネ像の前にたたずんで、しばしの別れを惜しんだが、やがて、悲痛な気持で家をあとにした。かつて騎士の屋敷と哀れなリューディアに、別れを告げた時よりもひどく、彼の胸はうずいていた。
少くとも早くけりがついた。少くとも、無駄なことは何もいわなかった。これはせめてもの慰めだと思いながら、ゴルトムントは門を出ると、眼にうつる小路も町も、不意に変って、眼新らしく思われた。見なれた物でも、いざ心がそれに別れを告げるとなると、そうみえるものなのだ。彼は戸口をふりかえった――その戸はもう、彼にはとざされた、見知らぬ家の戸になっていた。
ゴルトムントは部屋にもどって、旅じたくを始めた。むろん、したくというほどのものではなかった。別れを告げるだけのことである。彼のかいたやさしいマドンナが一枚、壁にかかっており、あたりには、持物がぶらさげられたり、置いたりしてあった。よそ行きの帽子、踊りの靴、一巻の絵、小さいラウテ、いくつかの自作の塑像、恋人の贈物の造花の花環、紅色のルビーの杯、古くてこちこちになったハート形の蜜菓子、といったふうのがらくただが、そのどれにも、意味があり、いわれがあり、彼にはいとしい物だったが、どれも持って行けないから、もう煩わしいがらくたなのだ。彼はルビーの杯だけは、家主の丈夫ないい猟刀と交換し、庭の砥石でといだ。蜜菓子はくだいて、近所の鶏にやり、マドンナの絵はおかみさんにやり、そのお礼に、役にたつ古い革の旅行|鞄《かばん》とたくさんの食料をもらった。鞄には、持っていたいくらかの下着と、ほうきの柄に巻いた数枚の小さな絵をつめ、食料も入れた。他のがらくたは、おいていかねばならなかった。
別れを惜しみにいった方がよさそうな女たちも、町には何人かあった。その中の一人の所には、昨晩とまったのだが、きょうの計画のことはおくびにも出さなかった。実際、いざ旅立つとなると、誰かはきっとすがりつくものだ。相手にしてはいけないのだ。彼は宿の人達にだけ、別れをつげた。早朝出発するつもりで、前の晩に別れをつげたのだった。
それなのに、朝になって、彼がそっと家をぬけ出そうとすると、誰かが起きていて、台所で牛乳スープを飲んでいくように、と呼んでくれた。それは十五になる宿の娘だった。眼もとの涼しい、物静かな、病身の娘で、腰の関節の具合が悪くて、ちんばだった。マリーという名だった。一晩ねなかったせいか、青ざめていたが、念入りに身づくろいをし、髪もきれいにしていた。彼女は台所で、彼に熱い牛乳とパンをもてなしたが、彼が旅立つのを、ひどく悲しんでいるようすだった。彼はお礼をのべ、お別れのしるしに、彼女の弱々しげな口もとへ同情の念をこめてキッスした。彼女はうやうやしく、眼をつむって、そのキッスをうけた。
[#改ページ]
十三
新しい旅路についた当初《とうしょ》は、まず取り戻したあくことのない自由の陶酔にひたりながらも、ゴルトムントは改めて、さすらい者の家も時間もない生活を、学びなおさねばならなかった。誰にも従うことなく、ただ天候と季節のまにまに、前途の目的もなく、やどるべき屋根もなく、無一物で、偶然の運命にもてあそばれながら、放浪者は子供のように勇ましく、みじめながらもたくましい生活を送る。楽園を追われた、アダムの子供たちだ。無邪気な獣の兄弟だ。天の手から刻々と与えられる物を、太陽、雨、霧、雪、寒暖、苦楽をうけとる。彼らには、時間も歴史も努力もなく、定住している人が絶望のあげく信じる、あの発展進歩という、奇妙な偶像もない。放浪者と一口にいっても、実は千差万別で、やさしかったり荒々しかったり、ぬけめがなかったり愚鈍だったり、大胆だったり臆病だったりだが、心が子供であることには変りなく、彼らは世界史が始まる前の、最初の日に、常に生きているのだ。その生活がいかにもろく、はかないか、あらゆる生物がいかにみじめに、不安げに、わずかばかりの暖かい血を、氷のような冷たい現世で守りぬこうとしているかを、強く胆《きも》に銘じている。あるいは、放浪者はまるで子供のようにがつがつと、哀れな胃袋の命令に従うものだ――財産をもち家をもっている者の、常に、敵役であり、不倶戴天《ふぐたいてん》の仇である。こういう人間は、あらゆるはかない生命、生者必衰の相、身辺の天地の万物をみたす、仮借なき氷のような死などを、一切思い出させてはもらいたくないから、放浪者を憎み、軽蔑し、恐れているのだ。
放浪者の生活の子供らしさ、母の血筋、法則と精神への反抗、頼りなさ、絶え間ない死の恐怖は、はやくからゴルトムントの魂をとらえて、深い印象を与えていた。それでも、精神と意志が彼の胸にやどり、彼は芸術家だっただけに、彼の生活をゆたかにも、困難にもした。実際、どんな生活も、分裂と矛盾によって、始めてゆたかになり、花咲くのだ。陶酔を知らない理性と冷静とは、いったい何か、背後に死のひそんでいない官能の欲望とは、いったい何か、性の永遠の相克のない愛とは、いったい何か。
夏と秋はすぎ、ゴルトムントは乏しい数カ月を、なんとかきりぬけ、甘い香りにみちた春を陶然とさまよい、四季はあわただしくうつろい、真夏の太陽はくりかえしあわただしく沈んだ。一年また一年とすぎてゆき、現世には、飢えと恋と静かな不気味に流れる四季だけがあるのではないことを、ゴルトムントは忘れはてたかのようだった。彼は母の本能的な原世界《げんせかい》の中へ、没し去ったかのようだった。しかし、どんな夢を見ていても、花咲きまたは枯れゆく谷を眺めて、物思いにふけりながらいつ休んでいても、彼はひたすら観照した。芸術家だった。無意味に流れる水のような愛すべき人世を、精神の呪文によって呼び止め、意味あるものに変えたいという、激しいあこがれになやんだ。
彼はビクトルと死闘を演じてからは、もう道づれを作らなかったが、ある日のこと一人の仲間にであった。この男はいつの間にか彼についてきて、しばらくはどうしても離れなかった。しかし、それはビクトルのような男ではなく、司祭のような服装をし、巡礼帽をかぶった若いローマ巡礼の男で、名はローベルト、住いはボーデン湖畔だった。職人の息子で、しばらくザンクト・ガレン修道院学校にかよったことのあるこの男は、もう子供の頃から、ローマに巡礼してみたいと思っていたが、なんとか念願をはたすべき最初の機会をつかんで、旅立ったのだった。機会というのは、彼が指物師《さしものし》として、いっしょに働いていた、父の死だった。年よりの葬式がすむや、ローベルトは母と妹に、どうしても念願をはたしたいから、自分と父の罪をつぐなうために、ローマへ巡礼する、ときっぱり申し渡した。女どもが泣いても、わめいても、無駄だった。彼はがんとしていうことをきかず、二人の女を養うどころか、母の祝福もうけず、妹にはさんざん毒づかれ、旅に出たのだった。彼を駆りたてたのは、放浪欲だったが、それには一種の上っ面だけの信心も加わっていた。というのは、彼ももともと、教会施設や宗教儀式に近づくのが好きで、典礼、洗礼、葬式、ミサ、香煙、ろうそくのほのおなどが、気持よかったのだった。ラテン語もいくらかはできたが、彼の子供っぽい心があこがれたのは、学問ではなく、聖堂のドームの蔭での瞑想《めいそう》と、静かな夢想だった。彼は子供の頃、ひどく熱心にミサの侍者をつとめたものだった。
ゴルトムントはいいあんばいに扱ったが、嫌な男ではなく、本能的に無性に放浪と未知の物にあこがれる点では、いくらか自分に似ている、と思うのだった。さて、ローベルトは満足して旅立ち、ローマまでも巡礼した。方々に数知れぬ修道院や司祭館で、手厚いもてなしをあじわって、山々と南国を眺め、ローマでは、あらゆる聖堂や宗教施設の雰囲気にたんのうし、沢山のミサを拝聴し、高名な場所や聖地に参り、聖体を拝領し、若い自分の小罪や父の罪をつぐなうのに、必要以上の香煙を吸いこんだのだった。彼は一年以上も旅に出ていて、あげくのはてにまた家に舞いもどったが、放蕩息子《ほうとうむすこ》〔ルカ福音書十五・十一〜三十二〕のように歓迎されるどころか、妹はその間に、家政と家の権利を我物にし、働き者の指物職人を雇って、それと夫婦になり、家と仕事場のきりもりも立派にやっていたから、彼は家にもどって、しばらく落着いてはいたものの、居ても居なくてもいい身だと知ると、またぞろ旅に出たいと言い出したのだが、こんどは誰もひきとめはしなかった。彼は平気で、母親にへそくりをいくらかもらい、また巡礼服をきると、あてもない回国巡礼の旅に出て、坊主くさい放浪者になった。有名な巡礼地の記念メダルと祝別した念珠《ロザリオ》が、からだ中にぶらさがって、ちゃらちゃらしていた。
そうして、彼がゴルトムントに出会い、一日いっしょに歩いて、旅の思い出を語りあったが、次の町で姿を消し、後であっちこっちでまためぐりあい、ついに旅の道づれになってしまったが、道づれとしては、人づきの好い世話好きな男だった。彼はゴルトムントがひどく気に入り、ちょっとした心づかいで、その歓心を得ようとし、その頭や勇気や気力に感心し、健康と力と正直を愛した。ゴルトムントもおとなしくて人づきあいがよかったから、二人はなれ親しんだ。ところが、一つのことだけは、おりあえなかった。それというのは、ゴルトムントは、一度悲しみにとらわれたり、思案しだしたりすると、黙りこくって、そばに人無きが如き態度をとるのだが、そういう時は、話しかけても、たずねても、慰めてもならず、勝手に黙らせておくより仕方がなかった。
そういうことを、ローベルトはすぐのみこんでしまった。ゴルトムントは、沢山のラテン語の詩歌を暗記していて、大聖堂の玄関前で石像の説明をしたり、よりかかって休んだ白壁に、赤土をもってさっと大胆なタッチで、等身大の像をかいたりしたが、これを見聞したローベルトは、彼を神の寵児《ちょうじ》とみなし、魔法つかいとさえ思った。彼が女たちの寵児でもあり、ちょっとしたウィンクや微笑で、女たちを物にすることも、ローベルトは知った。気にくわなかったが、驚嘆の的でもあった。
ある時、二人の旅は意外なことで、じゃまされてしまった。ある日のこと、二人がとある村の近くまでくると、こん棒や竿やから竿をかまえた一群の百姓が待ちかまえていた。大将株の男が二人に向って、とっとと帰れ、畜生め、二度ときやがるな、でなきゃ、なぐり殺すぞ、とわめいた。ゴルトムントは立ち止って、いったいどうしたのかきこうとすると、もう石が一つ胸にとんできた。ふりかえってみると、ローベルトは気違いのように逃げ出していた。百姓たちはおどしながら進んできたから、ゴルトムントは逃げて行く仲間の後に、ゆっくりついて行くよりほかに、どうしようもなかった。ローベルトは野中の十字架につけられたキリスト像の下で、ふるえながら彼を待っていた。
ゴルトムントは笑いながらいった。「勇ましくつっ走ったね。どん百姓め、強情に何を考えてやがるんだ。戦争かな? 武装して見張りをしやがり、誰も入れないっていう寸法か。どういうわけか、不思議だわい」
二人ともわけがわからなかった。その翌朝になり、一軒家の農家でえた体験によって、始めてその謎がとけかけた。この百姓屋は、小屋と厩《うまや》と納屋からなり、緑の農場の周囲には長い草が生えており、沢山の果樹がうわっていたが、変にひっそりしていて、眠っているようだった。人声も足音も子供の叫び声も、鎌をとぐ音も何もきこえず、農場では牝牛が草の中で唸っており、もうしぼってやらねばならないほど、乳房がはっていた。家に近づいて戸を叩いても、返事はなかった。厩に行って見ると、戸は開いていて、からっぽだった。納屋に行ってみても、わら屋根のうす緑のこけが陽の光に光っているだけで、人影はなかった。この農家に人影がないのをいぶかりながら、二人はもどって、もう一度戸をどんどん叩いてみたが、やはり返事はなかった。ゴルトムントが戸を開けようとすると、驚いたことには、鍵がかかっていなかった。戸を内側におし開けて、暗い部屋に入った。
「こんにちは、どなたもいませんか?」と彼は大声で叫んだが、あたりはひっそりとしていた。ローベルトは戸口で待っていた。好奇心にかられて、ゴルトムントは侵入して行った。小屋の中は、いやな臭いがした。変なたまらない臭いだった。炉は灰でいっぱいで、吹いてみると、うずもれて灰になった割り木から、かすかな火花がとびちった。その時、かまどの後ろの暗がりに、誰かがすわっているのが見えた。老婆らしい人が、いすにかけて、眠っているのだ。叫んでみても、返事はなかった。家は魔法にかかったようだった。腰かけている女の肩を、愛想よく叩いてみたが、身動きもしない。その時、女がくもの巣だらけで、その糸の端が髪とひざにくっついているのが、わかった。「死んでいるな」と思うと、ちょっと寒気がした。ようすを確かめようとして、火をおこし、かき立てたり、吹いたりして、やっと燃え立たせて、長い木切れに火をつけた。それですわっている女の顔を照らしてみた。白髪の下に、青黒い死顔が見えたが、一方の眼は開いて、うつろに鉛のように光っていた。老婆は腰かけたままで死んでいた。これでは、手の施しようもなかった。
燃えている木切れをかかげて、さらにゴルトムントは探し廻ると、同じ部屋の、奧の間に通じる敷居の上に、もう一つ屍がころがっていた。八、九歳ぐらいの子供で、顔はふくれあがってゆがんでおり、シャツだけ着ていた。屍は敷居の木の上に伏せて、両手を固くにぎりしめていた。これで二人だ、とゴルトムントは思った。悪夢を見ているような気持で、奧の間に入って行くと、雨戸が開いていて、陽の光が明るくさしこんでいた。用心深く木切れの火を消して、床に落ちた火の粉をふみけした。
奧の間には、ベッドが三台あった。一つは空で、粗い灰色の敷布の下から、わらがはみ出していた。二番目のには、ひげ面の男があごとひげをつき出して、仰向けにのけぞって死んでいた。百姓にちがいない。くぼんだ顔には、不気味な死色があらわれて、かすかに光っていた。一方の手は床までたれていて、そこには、空の土びんがころがっており、こぼれた水はまだ床にしみこんでしまってはいなかった。水はくぼみに流れこんで、まだ小さな水たまりになっていた。次のベッドには、麻布と毛布にすっぽりくるまって、大きくてがんじょうな女が横たわっていたが、顔はベッドにめりこんでいて、粗いわらのようなブロンドが、明るい光をうけて輝いていた。まだ成長しきっていない少女が、かき乱された麻布でしばられ、絞め殺されたかのように、女にしがみついて、こときれていた。少女の髪も同じ色で、死顔には灰青色の斑点があらわれていた。ゴルトムントは屍の顔を見くらべた。少女の顔はひどく相好が変っていたが、絶望的な死の恐怖がまだ残っていた。深く荒々しくベッドへめりこんだ、母親のうなじと髪には、怒りと不安、逃がれようとする激しい気持が、読みとられた。特に、抑えがたい髪は、あくまで死に屈することができないようだった。百姓の顔には、頑固さと烈しい苦痛があった。苦しみながらも、男らしい最期をとげたらしい。そのひげ面は、戦場にたおれた戦士のそれのように、毅然と空《くう》につき出ていた。その静かに不敵にのびて、どこかむっとしたような様子は、すばらしいものだった。死をこんなふうに迎えた男なら、恐らくつまらん臆病者ではあるまい。敷居に伏せている少年の小さな屍は、ひとしお哀れだった。その顔は何も語ってはいないが、かわいい小さな手をにぎりしめて、敷居の上に倒れている様子は、どうしていいかわからない苦しみ、始めての苦痛に対する絶望的な抵抗などを、色々物語っていた。少年の頭のすぐそばの戸に、猫の通る穴があいていた。ゴルトムントは入念にあたりを観察した。確かに、この小屋はぞっとするが、また屍臭もひどいが、それでも、すべてはゴルトムントにとって、ひどく魅力があった。すべては偉大さと運命にみちびいて、うそいつわりのない本物で、何かこういう点が彼の愛をひきつけ、彼の心の中に侵入したのだった。
そのうちに、そとで待ちくたびれて、心配になったローベルトが、大声で呼びだした。ゴルトムントはローベルトが好きだったが、それでも今の気持としては、そもそも生きた人間の、不安や好奇心やあらゆる子供っぽさは、死んだ人間にくらべて、どんなにつまらないかを、考えざるをえなかった。彼はローベルトに返事しなかった。芸術家特有の、あの心からの共感と冷徹な観察の、奇妙に入りまじった複雑な気持で、彼は我を忘れて、屍に見入っていた。横たわったり、すわったりした姿態、頭、手、硬直した身の動きを、念入りに観察した。魔法にかかったような家の中は、なんとひっそりしていることだろう。なんと異様な、身の毛のよだつような臭いだろう。炉の火がまだ残っていて、亡霊のように悲しげに輝き、屍が住み、至る所死にみちたこの人間の住む小屋は、いったいなんとしたことだろう。やがて、この静かな屍のほおの肉はおち、鼠がその指をかじるだろう。ほかの人々が棺や墓の、隠れて見えない所でやることを、最後の最もいたましいことである解体と腐敗を、この家の五人の人びとは、自分の部屋の中で、日光の下に雨戸を開けたままで、むとんじゃくに、恥じも外聞もなく、投げだされたままで、なしとげるのだ。ゴルトムントは何度も屍をみたことがあるが、死神の仮借《かしゃく》ない業を、これほどありありとまじかにみたことはなかった。彼はこの光景を、心に深く刻みこんだ。
とうとう、表のローベルトの呼び声に我にかえって、彼は出ていった。仲間は心配げに彼の顔をみつけた。
「どうなんです?」と、彼は低い声でこわごわたずねた。「誰もいないんですか? ああ、なんてこわい眼つきをするんです。いったいどうしたんですか?」
ゴルトムントは冷やかに彼を見やった。
「入って、見てくるんだな。変な家だ。それからあっちの牝牛の乳をしぼろう。さあ!」
ローベルトはためらいながら家に入り、まっすぐ炉ばたの方へ行ったが、腰かけている老婆を見つけ、それが死んでいるのを知るや、わっと叫んで、びっくり仰天してとび出してきた。
「大変だ! あすこの炉ばたで、女がすわったまま死んでいる。どうしたんだ。なぜ誰もついてないんだ。どうして葬ってやらんのか? もうにおってるのにさ」
ゴルトムントはほほえんだ。
「ローベルト、たいした勇士だな。はやく戻りすぎたよ。死んだ婆さんが腰かけてるのは、変ったようすだね。だが、もう二、三歩いったら、もっと変ったものが見られたよ。ローベルト、五人なんだ。ベッドに三人、ちょうど敷居の所に子供が一人、死んでるんだ。一家全滅さ。だから、乳をしぼる人もなかったわけさ」
ローベルトはびっくりして、彼の顔をじっと見つめていたと思うと、不意に息のつまりそうな声で叫んだ。「ああそうか、百姓どもが昨日村に入れてくれなかったわけが、これでわかった。ああ、これで納得がいった。ペストだ。ゴルトムント、きっとペストだ。あんたは家の中に長いこといたし、屍にさわったかもしらん、行ってくれ、近よるな、きっとペストがうつっているぞ! ゴルトムント、すまないが、別れなくちゃ。いっしょにはいられないよ」
彼はかけ出しそうとしたが、すそをつかんでひき止められた。ゴルトムントは非難の眼つきで、黙って彼をにらめつけ、ふりきろうともがいても、いっかな離そうとはしなかった。
ゴルトムントは優しい、非難するような口調でいった。「ねえ、君はみかけによらん利口者だ。君の言うとおりかもしれないね。とにかく、次の家か村へ行ったら、はっきりするよ。どうも、この地方にペストがはやっているらしい。無事にきりぬけられるかどうか、やってみようじゃないか。ローベルト、しかしだ、君をひとりでやっちまうわけにはいかんよ。いいかい、ぼくはなさけぶかくて、情にもろいんだ。君は家に入って、もう伝染してるかもしらんから、君をひとりで行かせたら、どこか野原のまんなかで、ひとりでのたれ死して、眼をつぶらせてくれる者もなければ、墓を掘って、土をかけてくれる者もないしまつになるかもしれない――ねえ、こう思うと、ぼくはせつないんだ。いいか、だから言うことを、よくきいてくれ給え、二度とはくりかえさんからね。ぼくら二人は同じ危険に出くわしたんだ。どっちが参るか、わかりゃあしない。だから、いっしょにいて、この業病《ごうびょう》とたたかい、助かるも死ぬも、運命をともにしよう。君が病気になって死んだら、きっと葬ってやる。ぼくが死ぬ番なら、好きなようにして、葬るなり、ほっぽりなげて逃げるなりしたらいい。ぼくはどうでもいい。いいか、それまではこっそりずらかったりしちゃいかん。わかったね。今は何もいわずにいてくれ、文句はききたくない。さあ、厩かどこかで手桶をさがしてきてくれ、乳をしぼるんだから」
こうしてこの時から、ゴルトムントが命令し、ローベルトがそれに従うことになったが、二人には好都合だった。ローベルトはもう逃げようとはしなかった。彼はなだめるようにいった。「あんたがちょっとこわかったんです。死人の家から出てきた時は、おっかない顔をしてましたからね。ペストをもってきたか、と思いましたよ。ペストでなくたって、あんたの顔色は変ってましたよ。家の中のようすは、そんなにひどいんですか?」
ゴルトムントはためらいながら答えた。「ひどくはないよ。ペストにかからなくたって、君もぼくも誰だって、一度はそうなるようすを、家の中でみただけの話さ」
旅をつづける中に、二人は至る所で、その地方に流行していたペストに出あった。よそ者を入れない村も多かったが、自由に歩き廻ってもいい村もあった。多くの農家が荒廃しており、葬られない屍が野にも家にも、くさってころがっていた。牛小舎には、乳のはった牛や、飢えた牛がうなっていたし、家畜が野原を狂暴にかけまわっていた。彼らは牛や山羊の乳をしぼり、餌をやったりした。森はずれで仔山羊や仔豚をほふっては、焼いてたべ、主のなくなった地下の蔵から、ぶどう酒や果実酒を持ち出しては、飲んだりもした。ありあまるほどの、すばらしい生活だった。しかし、その味は半分ぐらいしかわかりはしなかった。ローベルトはいつもペストにくよくよしていて、屍をみると、気持が悪くなり、こわさの余り、気が変になってしまうことも、よくあった。何度もペストになったと思って、長いことたき火の煙の中に、頭と手をつっこんでいた(そうすればなおるというのだが)。それどころか、寝ながらも、手足や肩の下にはれものができていないかと、なでまわすさわぎだった。
ゴルトムントは彼をよくしかったり、散々毒づいたりした。いっしょに恐れることも、気持を悪くすることもなかった。そして、偉大な死の姿にぞっとするほどひきつけられ、大いなる秋を魂にたたえ、刈る鎌の唄に心も重く、張りつめた気持で、憂うつそうに、死の国をさまよっていった。またしても永遠の母の像が、メドゥーサ〔ギリシャ神話の蛇髪の女怪三人の中の一人〕の眼をもった巨大な蒼白の顔が、苦悩と死の重苦しい微笑をたたえながら、いくども彼の眼前にあらわれるのだった。
ある時、二人は小さな町についた。厳重に防備されていて、家の高さぐらいの壁の上の通路は、門の所に始まって、町の周囲の城壁の上に、ぐるっと通じていた。しかし、その上に番人は立っていず、開いたままの門にも、人影は見えなかった。ローベルトは町に入るのをこばみ、仲間にも入らぬように懇願した。その時、鎌の音がひびきわたり、十字架を捧げた司祭が一人、門から出てきたが、その後ろに荷車が三台つづいていた。二台は馬に、一台は牛にひかれていたが、車には屍が山盛りつんであった。奇妙なマントをきて、頭巾をまぶかにかぶった人夫が数人、車につきそって牛馬を追いたてていた。
ローベルトは青ざめるまもなく、気を失ったが、ゴルトムントは少し間をおいて、死の車についていった。数百歩も行くと、墓地というわけではないが、荒野のまんなかに、広間のような形に三鋤《みす》きほど掘った穴があった。ゴルトムントは立って見つめていた。人夫が棒や鉤棒で、屍を車からひきずり下して、穴の中に積みあげると、司祭は何かぶつぶつとなえながら、十字架をふりまわして、行ってしまった。人夫は平たい墓穴の方々から、火をつけたまま、誰一人土をかけようともせずに、黙って町へかけもどって行った。よくのぞいてみると、屍の数は五十以上もあろうか。投げかさねられていて、たいていははだかだった。あちこちに腕や足が、にょきっと、訴えるが如く、つき出ていた。シャツが風でひらひらしていた。
もどってみると、ローベルトは三拝九拝のていで、すぐ立ち去るように願った。懇願したのもむりからぬことだった。ゴルトムントの放心したまなざしには、もう十分承知していた熱中と凝視、恐ろしい物へのいちずな関心、恐るべき好奇心が、現われていたからだった。しかし、友をひき止めはできなかった。ゴルトムントはひとりで、町へ入っていった。
彼は番人もいない門をくぐっていった。舗道《ほどう》にひびく足音をきいているうちに、それまでにそんなふうに通ったことのある、多くの町や門を思い出した。子供の叫び声、少年の遊び、女どものけんか、鍛冶屋の|かなしき《ヽヽヽヽ》のきれいなひびき、車の騒音、その他の沢山のひびきに迎えられたことを思い出した。かすかなひびきとひどい雑音も、思い出したが、これが網のように織りなされて、多種多様な人間の仕事、喜び、施設、社会生活を示していた。ところが、この町のうつろな門とからっぽの通りには、何の物音もきこえず、笑い声もわめき声もない。すべてのものは硬直して、死の沈黙の中によこたわっている。ただその中で、あふれる泉のささやくようなメロディーが、余りにも高く、うるさいほどにまでひびいていた。一つの開いた窓から、パン屋がパンにかこまれて、立っているのが見えた。ゴルトムントがパンを指さすと、パン屋は用心深く、パン焼きに使う長いへらにパンをのせて、さしだし、それに金をのっけてくれるのを待っていたが、この見知らぬ男が金も払わずに、パンをかじりながら行ってしまうと、むっとして窓をバタンとしめたが、別にわめきたてたりはしなかった。一軒のこぎれいな家の窓の前に、粘土の植木鉢がならべてあった。前には花が咲いていたのだろうが、今ではひからびた葉が、からの欠けた鉢からたれさがっていた。別の家からは、子供のすすり泣きと嘆き悲しむ声がきこえてきた。次の町に入ると、ゴルトムントはとある二階の窓辺で、かわいらしい娘が、髪をすいているのを見かけた。じっと彼女を見つめていると、彼女は視線を感じて、見下ろし、赤くなって彼をみつめかえし、彼がやさしくほほえみかけると、彼女の赤らんだ顔にも、次第に弱々しくほほえみが現われてきた。
「すぐすむの?」と、彼は二階へ呼びかけた。彼女は明るい顔を、ほほえみながら窓からのぞかせた。
「病気になってないの?」と、彼がたずねると、彼女はうなずいた。「じゃ、いっしょにこの死の町から出て行って、森で楽しく暮らそうよ」
彼女はけげんな顔をした。
ゴルトムントは大声で話しかけた。「思案しなくともいいよ、まじめなんだから。両親の家なの、それとも奉公しているの。――奉公なの? じゃ、おいでよ。年よりなんか、かってに死なせたらいいさ。ぼくらは若くて、元気なんだから、もうしばらく楽しくやろうよ。ね、浅黒い髪の娘さん、本気でいってるんだよ」
彼女はためらいながらも、びっくりして、彼をじろじろみつめた。彼はゆっくり立ち去って、人気のない町を、二つぶらついて、ゆっくりもどってきた。ところが、娘はまだ窓辺に立って、彼がもどってくると、よろこんでからだをのり出した。手招きされても、彼はゆっくり歩いていった。娘はまもなく彼のあとを追い、門の前で追いついたが、小さい包みを持ち、赤い布をかぶっていた。
「なんて名なの?」と、彼がたずねた。
「レーネ。いっしょに行くわ。この町ったら、そりゃ大変なの。ばたばた死ぬのよ。さ、行きましょうよ」
ローベルトは門際に、気分を悪くしてうずくまっていた。ゴルトムントはもどってくると、彼はとび起き、娘の姿を見ると、眼を見張った。こんどは、彼はなかなかいうことをきかず、泣いたり、わめいたり、大変なけんまくだった。ペストの巣窟《そうくつ》から一人つれてきて、がまんして道づれにしろとは気違い沙汰だ、神を試みるというもんだ、もういっしょになぞ行ってたまるか、堪忍袋の緒がきれた、というわけである。
ゴルトムントはわめいたり、ののしったりさせておいて、それがおさまると、話しだした。「さてと、それだけ歌えば沢山だろう。さあ、いっしょに行こう。こんなきれいな道づれができて、喜んでもらわなくちゃ。レーネさんが道づれになるんだぜ。さて、ローベルト、こんどは君もよろこばせてあげよう。こんどは、しばらく落ち着いた、元気な生活をして、ペストをさけようじゃないか。どこかいい場所に、あいた家をさがすか、新しいのを建てよう。そして、ぼくとレーネが夫婦で、君はぼくらの友人で、いっしょに暮すということにしよう。こんどは、うまいぐあいに仲良くやろうね。いいね」
ローベルトは二つ返事で承知した。レーネと手をにぎったり、着物にさわったりすることを、要求されなければ――
ゴルトムントはいった。「むろん、そんなことはいわん。いや、レーネに指一本ふれることも厳禁だ。そんなことを、考えてもいかんぞ」
三人は旅をつづけた。始めは黙りこくっていたが、やがて次第に娘は、また空や木や牧場を見るのが、どんなにうれしいか、ペストの町の中がどんなに、口にはいえないほど恐ろしいかを、ぼつぼつ話し始めた。ぼつぼつ話し始めたのは、見ないわけにはいかなかった、悲しくもいやらしい光景を、忘れてしまいたいからだった。いやな話が多かったが、それによれば、あの小さな町はさながら地獄だった。二人の医者の中、一人は死に、生き残った方は金持の所へばかり出入りし、引き取り人がいないので、多くの家には屍がころがっていて、腐っていたが、他の家では、死体を扱う人夫どもが盗んだり、奪ったり、強姦したりし、まだ息のある病人を、屍といっしょにベッドからひきずりおろし、車に積みあげ、屍といっしょくたに穴に投げ込むこともよくあった。娘は色々の惨事を語った。誰も話には口を入れず、ローベルトはびっくりして、一心に耳をかたむけ、ゴルトムントは冷静そのもので、黙って悲惨な話をしまいまでさせ、何も言葉をさしはさまなかった。いったい何をいうことがあろう。レーネはついに語りつかれ、流れるような話が涸《か》れ、言葉は語りつくされた。すると、ゴルトムントはゆっくり歩き出し、ふしのめんどうな歌を、ぐっと低い声でうたい始めた。彼の声は一節ごとに、ゆたかになっていった。レーネはほほえみかけ、ローベルトはうっとりと聴きほれた。――ゴルトムントが歌うのを、きいたことがなかったからだ。このゴルトムントという男は、何でもできる。こうして歩きながら、歌うことができるのだ。上手できれいだし、それにさびた声だ。レーネは二節目から、低声《こごえ》でついていったが、まもなく大きな声でせいいっぱい合唱した。日が傾くと、はるか荒野の向うには、森が黒々と横たわっていて、その後ろには、青い低い山脈が見えていたが、その山々はふところの中から、次第に青みを増してゆくようだった。彼らの歌は、あるいは楽しく、あるいはおごそかに、歩みと歩調をあわせてひびいた。
「きょうはひどくうきうきしてますね」と、ローベルトがいった。
「そうともさ、勿論、きょうはうかれてるさ。なにしろこんなかわいい恋人が、見つかったんだからね。ねえ、レーネ、死体人夫がお前をぼくに残しておいてくれたんで、ごきげんだよ。明日は、小さな家をみつけて、愉快に楽しくやろう。ぼくらの肉と骨は、まだこうして立派にくっついてるんだからね。レーネ、秋の森で、かたつむりの好物の、でっかいキノコを見たことがある? 人間だって食えるやつだよ」
彼女は笑って答えた。「ええ、何度もみたことがあるわ」
「ちょうどお前の髪のような色だよ、レーネ。香りもいいんだ。もう一つ歌おうか。それとも、お腹がすいた? 鞄にまだ何かいい物があるよ」
彼らはその翌日、さがしていた物をみつけた。小さい白樺の森の中に、木こりか猟師の建てたらしい粗木《あらき》造りの小屋《ヒュッテ》があった。あき屋だから、戸はすぐにこじあけられた。ローベルトも、いい小屋で、健康な土地だ、と思った。彼らは途中で、飼い主もなくかけ廻っている山羊に出くわし、きれいな牝を一匹つれてきていた。
ゴルトムントがいった。「さて、ローベルト、君は大工じゃなかったが、前には指物師だったわけだね。ここに住むとしよう。部屋が二つとれるように、このお城に仕切りを造ってくれ給え。一つはレーネとぼく、一つは君と山羊のだ。もう食物も沢山はないから、たりようとたりまいと、きょうは山羊の乳でがまんしなくちゃならん。じゃ、仕切りを造ってくれ給え、ぼくらは皆の寝床を用意するから。明日は、ぼくは食い物をさがしに行こう」
一同はすぐ仕事にかかった。ゴルトムントとレーネは、寝床のためにわらやしだやこけをさがしに行き、ローベルトは、仕切りを造る木を伐るために、そこいらでみつけた石でナイフをといだが、一日ではできなかったので夜はそとで寝た。ゴルトムントは、レーネが愛らしい遊び相手で、うぶでおどおどしているが、愛情がこまやかなのを知ったのだった。彼女がとうに疲れきり、満足しきって、眠りこんでしまってからも、彼女を胸にひきよせ、長いこと眼ざめていて、彼女の心臓の鼓動に耳をすませていた。その浅黒い髪の香りをかぎ、身体をからみあわせていたが、と同時に、変装した悪魔が車に山と積んだ屍を、次から次へと投げ込んだ、あの大きな浅い穴を思い出した。人生はうるわしく、幸福はすばらしく、またはかなく、青春はうるわしく、そしてあわただしく衰えて行くのだ。
とうとう三人がかりで、小屋の仕切りは立派にできあがった。ローベルトは腕のほどが示したくて、かんなかけ台でも、道具でも、巻尺でも、釘さえあれば、何でも造ってみたい、とせきこんでまくしたてた。しかし、使えるのはナイフと手だけだったので、白樺を十本ばかり伐って、それで小屋の土間に、しっかりしたがさつな垣を造るだけで満足した。そして、その垣にエニシダを編みこんで、すけてみえないようにしなくちゃいかん、と彼はさしずした。それは手間のかかる仕事だったが、みんなでかかって、気持よくきれいにできあがった。あいまあいまに、レーネはいちごを探しに行ったり、山羊の世話をしたりしなければならなかったし、ゴルトムントはその辺一帯を歩き廻って、食料をあさり、近在を偵察しては、何か獲物をもちかえった。その附近一帯には、人影がなかったから、伝染する心配も、いがみ合ったりする心配もないというので、ローベルトは大満悦だった。しかし、食料が少いという欠点はあった。近くにからの農家があったが、こんどは屍がなかったので、ゴルトムントは、丸太小屋をすてて、そこへ移り住もうと提案したが、ローベルトはぞっとして反対し、ゴルトムントが空家に入ったのをよろこばず、そこから持ってきた物は何でも、火にかけ水で洗ってからでなければ、手をふれなかった。ゴルトムントがそこでみつけてきたものは、多くはなかったが、それでも腰掛が二つ、牛乳桶が一つ、陶器がいくらか、斧が一本あった。また、ある日のこと、彼は野原に逃げだしていた鶏を、二羽つかまえた。レーネは恋し、幸福だったし、三人は小さな住いに手を加えて、日増しにいくらずつきれいにするのが面白くて仕方なかった。パンがなかったので、その代り、山羊をもう一匹飼った。かぶ畑もみつかった。日がたつにつれて、編んだ壁もできあがり、寝床が改良され、かまどさえ造られた。小川も遠くはなく、水はきれいで、おいしかった。鼻歌まじりで働くようなこともよくあった。
ある日のこと、三人が山羊の乳を飲みながら、家に住む幸福を話しあっていると、不意にレーネが、夢見るような口調でいった。「でも、冬になったら、どうなるの?」
誰も返事をしなかった。ローベルトは笑い、ゴルトムントは変な顔をして、眼前を見つめていた。誰も冬のことなぞ考えていず、まじめに同じ所にじっとしていようなぞとは、考えてはいないのだ。故郷も仮のものにすぎず、自分は宿無しといっしょに暮らしているのだということが、レーネにも次第にわかってきた。レーネはうなだれた。
それを見たゴルトムントは、子供にでも話すように、おどけて元気づけるかのようにいった。「お前は百姓娘だよ、レーネ、だから先々のことまで、くよくよするんだね。心配しなくたっていいよ。ペストが終ったら、きっと家へ戻れるよ。ペストがいつまでもはやっているわけでもあるまいしさ。そしたら、親元か奉公先に行くか、それとも町にもどって奉公し、身の立つようにするんだね。でも、まだ夏だし、そこいら中に、人が死んでるんだ。ここは住み心地がいいし、うまい具合にいってるじゃないか。だから、いいかげん好きなだけ、ここにいようじゃないか」
レーネははげしく叫んだ。「じゃ、それから? それっだけなの? あんたは行っちまうの? このあたしはどうなるのよ」
ゴルトムントは彼女の頭をすばやくとらえ、やさしくひきよせていった。
「小ちゃなお馬鹿さん。死体人夫をもう忘れたの。死に絶えた家や、火の燃えている、あの町の門の前の大穴を、忘れたんだね。あの穴にころがって、死に装束を雨にぬらさずにすんだのを、ありがたく思わなくちゃいけないよ。うまく逃げたぜ、かわいい命をちゃんともっていられ、また笑ったり歌ったりできるのを、忘れちゃいけないよ」
彼女はそれでも満足しなかった。
彼女は訴えた。「でも、また行っちまいたくないの。あんたを放しやしないわ、きっとよ。すぐまた、みんなおしまいになって、すんでしまうものなんだって、知ってたって、誰だって楽しくなんかなれないわ」
ゴルトムントはまた答えたが、声はやさしくとも、おどすようなひびきがこもっていた。
「ねえ、レーネ、そんなことはとうの昔に、聖人君子が頭を悩ましたことだよ。長つづきする幸福なんて、ありゃあしないよ。でも、今の暮しが不満で、楽しくないのなら、今すぐに小屋に火をつけて、みんな別れようじゃないか。レーネ、まあいいさ、こんな話はもうたくさんだ」
この話はそれきりになり、彼女は納得したが、その喜びには、一つ影がさした。
[#改ページ]
十四
まだ夏がすぎてしまわないうちに、小屋の生活は意外にも、彼らの期待を裏切って、終りをつげることになった。ある日のこと、食料が底をつきそうなので、ゴルトムントは|しゃこ《ヽヽヽ》か何か獲物でもせしめようと、石弓をもって、附近を長いことかけ廻っていた。レーネは近くで、イチゴをつんでいた。彼は何度も彼女のいる附近を通り、(藪)やぶ)の向うに、麻のブラウスからつき出た、陽やけした頸にのっかった頭を、見かけ、その歌声をききもした。一度はそばに行って、イチゴをつまんで、また出かけ、しばらくは姿を見かけなかった。彼は彼女のことを想ったが、かわいくもあり、しゃくにもさわった。彼女はまたぞろ、秋とか将来とかいってくどき、妊娠したらしいとか、もう放しはしないとかいった。彼はひそかに考えた。これじゃ、もうすぐおしまいだ、すぐあきてしまうだろう。また旅に出よう、ローベルトもおいて、たったひとりで。冬までに、またあの大きな町の、ニークラウス親方の所へ行きたいものだ。冬中そこにいて、春になったら、新しい靴を買って、とび出し、途中をいそいで、あのマリアブロン修道院へ行き、ナルチスに会おう。別れてから、もう十年にはなろう。たとえ一日でも、二日でも、ナルチスに会わなくてはならん。
異様な叫び声に、彼の夢は破られたが、ふと気がついてみると、とつおいつ考えたり、望んだりしているうちに、いつの間には遠く離れてしまい、先の場所にはもういなかった。きき耳をたてると、不安な叫び声がまたきこえた。レーネの声らしいと思って、呼ばれるのはいまいましかったが、声のする方へ歩いて行った。すぐ間近かまできた――たしかにレーネの声だ。進退きわまって、彼の名を呼んでいるのだ。まだ少々いまいましかったが、足を速めて走った。しかし、何度も名を呼ばれるうちに、同情と不安の念がこみあげてきた。やっと見える所までくると、彼女は荒野の真中で、ブラウスをずたずたに引き裂かれ、組んずほぐれつ、わめきながら、暴行しようとする男と、争っていた。ゴルトムントは大股にとんでいったが、胸の中の怒りと不安と悲しみが、狂気のような怒りとなって、見知らぬ暴漢に向って爆発した。レーネをねじ伏せようとしている男に、不意に襲いかかった。彼女のあらわな胸には、血が流れていた。欲情にかられた男は、彼女にしがみついていた。ゴルトムントはとびかかって、彼の首を激しく絞めつけたが、やせて筋ばった手ざわりの首には、やわらかいひげがはえていた。ゴルトムントはうっとりとして、なおも締めつけていると、男は女をはなして、ぐったりと彼の手にもたれかかった。彼はなおも手の力をぬかずに、力つきて半ば死にかけた男を、近くの地面からつき出た、灰色の石の所へ、ひきずっていった。そして、重かったけれども、参った男を二、三度もち上げてはとがった石に頭をぶっつけた。頸をくだいて放り出しても、彼の怒りはまだおさまらなかった。もっとひどい目にあわせてやりたいぐらいだった。
眼を輝かせながら、レーネはそれを見守っていた。胸からは血が流れ、まだ全身がふるえていて、はあはああえいでいたが、すぐしゃんとなって、喜びと驚嘆の念をこめた。うっとりしたまなざして、強い恋人が暴漢をひきずって行き、首をしめ、頸をくだき、屍を投げすてるさまを、眺めていた。なぐり殺された蛇のように、屍はぐったりところがっており、ひげだらけのくせに、哀れなほど髪のうすい、青白い顔がなさけなく、がっくりと後ろにたおれていた。レーネは歓声をあげた立ち上がり、ゴルトムントの胸にとびこんだが、不意に青くなった。恐怖がまだからだ中に残っていたのだ。彼女は気分がわるくなって、コケモモの中へぐったりと倒れた。しかし、すぐ元気になって、ゴルトムントと小屋にもどることができた。ゴルトムントはひっかかれた胸を洗ってやったが、一方の乳房には、悪魔の歯型が残っていた。
ローベルトはこの活劇に、すっかり興奮して、熱中して戦いの様子を、根ほり葉ほりたずねた。「頸をくだいたって、そうか、すごいぞ。ゴルトムント、天下無敵だね」
しかし、ゴルトムントはそれ以上話したくなかった。もう冷静になっていた。屍を見すててくる時、あの哀れな追いはぎのビクトルを、思い出さずにはいられなかった。そしてこれで二人殺してしまった、と思わずにはいられなかった。彼はローベルトの顔を見ないですむように、こういった。
「さあ、こんどは君にも仕事ができたよ。あそこへ行って、屍をかたづけるんだ。穴を掘るのがめんどうなら、葦の沼へかついで行くなり、石や土をかけてやらなくちゃ」
しかし、この無理な注文ははねつけられた。ペスト菌がついているかどうか、わかったものではないとかいって、ローベルトは屍には、かかりあわなかった。
レーネは小屋に寝ていた。かまれた乳房がうずいたが、すぐまた気分がよくなって、起き上がると、火を起して、夕食に山羊の乳をあたためた。上機嫌だったが、早く寝かされた。ゴルトムントに感心してしまっていた彼女は、おとなしくいうことをきいた。ゴルトムントは黙って、陰気な顔をしていたが、ローベルトはまたかと思って、ほっておいた。ゴルトムントはおそくなって寝床に行くと、かがみこんでレーネの寝息をうかがった。彼女は眠っていた。彼は気持が落着かず、ビクトルを思い出し、不安と旅情を感じた。ままごと遊びのような家庭生活も、もうおしまいだ、という気がした。特に忘れられないことが、一つあった。死んだ奴を振り廻して、投げとばしたとき、彼を見つめていた、レーネの眼つきが、脳裏にやきついていた。それはなんともいえないものだった。決して忘れられないだろう、と彼は思った。驚きと喜びに見開いた眼からは、誇りと勝利の光がほとばしり、まだ女の顔にみたことも、予感したこともないような、復讐と殺人に対する、激しい情熱的な、共犯者の喜びが、輝いていた。このまなざしがなかったら、年月がたつうちには、いつかレーネの顔を忘れてしまうだろう、と思った。このまなざしのために、百姓娘の顔は大いに美化され、恐るべきものとなっていた「これはぜひかいておかなくちゃならん」と思った。心の躍るような物を、彼の眼はもう数カ月も見ていなかった。このまなざしを見て、彼は一種の恐怖を感じはしたが、ぜひかきたいという望みが、胸をときめかすのを、感じたのだった。
寝つかれないので、とうとう彼は起き上がり、小屋のそとへ出た。涼しくて、白樺の葉が風にそよいでいた。闇の中を歩き廻っていたが、石の上に腰をおろして、物思いと深い悲しみに沈んでいった。ビクトルがかわいそうに思えた。きょう殺した男が、哀れだった。自分の魂が子供らしい無邪気さを失ったのが、残念だった。こうしてこんな荒野に伏し、逃げ出した家畜を待ち伏せしたり、あのかわいそうな男を石に投げつけて、殺したりするために――そんなつもりで、修道院を逃れ、ナルチスに別れ、ニークラウス親方をおこらせ、きれいなリースベトをあきらめたのか。こんなことはみんな意味があるのか、生きる値打があるのか。馬鹿らしくて、自分がいやになり、胸苦しくなって、地べたに大の字になり、青白い夜の雲に見入ったが、見つめているうちに、頭がぼおっとしてきた。空の雲を眺めているのか、心の中の陰鬱《いんうつ》な世界を眺めているのか、自分でもわからなくなってきた。石の上でとろっとした瞬間、飛ぶようにはやい雲間に光る稲妻のように、不意に、大きなイブの顔が青白く現われた。そして、陰鬱におおいかぶさるように、見下ろしたかと思うと、欲情と殺意をたたえたつぶらな眼を、突然きっと見開いた。ゴルトムントは夜露にしっとりぬれて、眠った。
その翌日、レーネは病気で、寝かされていた。仕事が山ほどあった。ローベルトは朝、森の中で、羊を二頭みつけたが、すぐ見失ってしまった。彼はゴルトムントに応援してもらって、半日以上も追いまわしたあげく、やっと一頭だけつかまえた。二人は夕方へとへとになって、羊をひいてもどってきた。レーネはひどく気分が悪かった。ゴルトムントがよくからだをさぐってみると、ペストのはれものができていた。彼はかくしていたが、ローベルトは、レーネがまだぐあいが悪いときくと、疑いだし、もう小屋にはいなかった。そとに寝床をさがし、山羊も伝染するかもしれないから、つれて行く、と彼はいった。
ゴルトムントはひどいけんまくで、彼にどなった。「くたばっちめえ。お前の面はもうみたくねえ」彼は山羊をとっつかまえると、エニシダの壁の後ろへひいていった。ローベルトはそっと、山羊も連れずに姿を消した。彼は気持が悪くなるほど心配で、ペストもゴルトムントも、淋しさも夜も、こわかった。彼は小屋の附近で夜を明かした。
ゴルトムントがレーネにいった。「ついててあげるから、心配しなくともいいよ。きっとまたよくなるからね」
彼女はかぶりをふった。
「ねえ、あんたも病気にならないように、気をつけてね。もうそんなにそばへよっちゃ、いけないわ。慰めてもらわなくたっていいの。どうせ、あたしは死ぬんだから。でも、いつか眼をさましてみたら、寝床が空になっていて、もう見すてられているなんてよりは、死んだ方がましだわ。毎朝そう思って、心配してたの。どうしても、死ぬ方がましだわ」
朝には、もう容態は変っていた。ゴルトムントはときどき水をやりながら、一時間ばかり眠った。空がしらみ始める頃には、彼女のやつれはてた顔に、死相が感じられた。彼はしばらく小屋から出て、伸びをしながら、空を仰いだ。森はずれの、数本の曲った赤松の幹は、もう朝日に輝いていた。空気は新鮮でおいしかった。かなたの丘はまだ朝の群雲につつまれて、見えなかった。彼は少し歩いて、疲れた手足を伸ばし、深呼吸をした。このかなしい朝の自然は、うるわしかった。さあ、すぐ旅立つのだ。別れるべき時だ。
森の方から、ローベルトが声をかけた。具合は良くなったか。ペストでなければ、ここにいるんだが。ゴルトムント、怒らないでくれないか。羊の番をしてたんだから、というわけである。
ゴルトムントは彼に向ってどなった。「羊と心中して、くたばれ! レーネは死にそうだ。おれもうつっているぞ!」
最後の言葉はうそだが、そういったのは、ローベルトと別れたいからだった。このローベルトは気だてのよい男だったが、ゴルトムントは彼がもう嫌になっていた。臆病でくよくよしすぎるように、思えたのだ。運命と動乱の時代に、いっしょにやって行くには、どうみてもぐあいの悪い男だ。ローベルトは姿を消して、二度と現われなかった。太陽があかあかと上ってきた。 もどってみると、レーネは眠っていた。彼もまた眠りこむと、昔の愛馬ブレスと修道院のカスターニエンの木の夢をみた。はてしないかなたの広野から、失った美しい故郷を、ふり返って眺めるような気持だった。眼をさますと、ブロンドのひげのはえたほおに、涙が流れていた。弱々しい声で、レーネが話しているのが、きこえた。彼は呼んでいるのかと思って、むっくり起き上ったが、彼女は誰に話しているのでもなく、愛撫の言葉や悪口を、口ごもりながらうわごとに言っているのだった。少し笑ったかと思うと、すぐに溜息をついたり、ごくりとつばを飲みこんだりしだし、しだいに静かになっていった。ゴルトムントは立ち上がり、もう相好《そうごう》の変った顔の上へかがみこみ、死のこげくさい息吹によって、みじめにゆがめ乱された表情を、あくなき好奇心をもって、じっとみすえた。かわいいレーネ、いい娘、もうぼくを見捨てるのか、もうあきてしまったのか、と彼の心はさけんだ。
彼はとび出したかった。旅だ、さすらいだ、大気を吸い、疲れ、新しい風景をみるのだ。きっと気持がいいだろう、ふさぎきった胸も晴れるだろう。しかし、そうはできなかった。娘をここにおきざりにして、ひとりぼっちで死なせることは、どうしてもできなかった。時々ちょっとそとへ出て、新鮮な空気を吸うことさえ、彼にはできなかった。レーネはもう乳も受けつけなかったので、彼はたらふく飲めた。他に食べ物とてなかったからだ。山羊も時々ひき出して、草と水をやり、運動をさせた。それから、またレーネの床のそばに立って、やさしく慰めてやり、彼女の顔をじっと見守り、暗然として、しかし注意深く、死んで行くのを眺めていた。まだ意識はあって、ときどき眠り、めざめると、眼を半眼に開いた。まぶたは疲れ衰えていた。若い娘の眼と鼻のあたりが、刻一刻と年よりじみてきて、みずみずしい若い首にのった顔は、みるみる老婆の顔のように、しぼんでいった。彼女がたまに口にするのは、「ゴルトムント」とか「あんた」とかいう言葉だった。そして、青くはれあがったくちびるを、舌でしめそうとした。すると、彼は水を二、三滴あたえた。
その次の晩、彼女は死んだ。安らかな最後だった。ちょっとけいれんしたかと思うと、息をひきとった。いぶきのようなものが肌の上をかすめた。それをみた彼の胸は、大きく波打ち、魚河岸でよく見かけて同情した、あの死にかけた魚を、ふと思い出した。魚もこれと同じように、ぴくっとけいれんすると、皮膚の上を走り、輝きと生命を持ちさる、あのかすかな苦しい戦りつとともに、死んでしまうのだ。彼はしばらくそばにひざまずいていたが、そとへ出て、ヒースの草むらに腰をおろした。ふと山羊のことを思い出して、また小屋へ入ってひいてきた。山羊はちょっとあたりをかぎ廻っていたが、ねそべった。彼はそばにねて、山羊の横腹を枕に、明るくなるまで眠った。さて、彼は見納めに小屋にもどり、編んだ壁の後ろの哀れな死顔に別れをつげた。屍をそのままにはしておきたくなかったので、枯木やかわいた灌木《かんぼく》をいっぱい抱えてきて、小屋に投げ込んで、火をかけた。小屋からは、火打石のほか何も持ち出さなかった。かわいたエニシダの壁は、たちまちぱっと燃え上った。彼はそとにたたずみ、顔をほてらせながら、小屋が火につつまれてしまい、第一の梁《はり》が焼け落ちるまで、じっと眺めていた。山羊は不安げにないてとびはねた。今こそ山羊をほふり、焼肉をたべて、旅の英気を養うべき時だ、とは思ったものの、どうしてもだめだった。彼は山羊を荒野に放して、出発した。燃えている小屋の煙は、森の中までも彼を追ってきた。こんな暗然たる気持で旅立ったことは、始めてだった。
それに、今彼を待ちうけていた運命は、予想外にひどかった。最初の農家と村に始まって、事態はひどくなるばかりだった。そのあたりいちめん、いや国中が死の雲、恐怖と不安と陰気なベールにおおわれていた。一番ひどいのは、死にたえた家、鎖につながれたまま餓死し腐っている犬、葬られない屍、乞食になった子供たち、町の前の共同墓地ではなかった。一番ひどいのは、恐怖と死の不安に打ちひしがれて、眼もくらみ、喪心したような、生ける人々だった。不思議な事や恐ろしい事を、旅のゴルトムントは至る所で見聞した。病気になると、親は子を、夫は妻を見すてた。ペスト係の人夫や看護人夫は、刑吏のように我物顔にふるまい、死にたえた家をかすめ、勝手に屍をほったらかし、まだ息のある病人をベッドからひきずりおろして、運搬車にのせたりした。不安な逃亡者はちりぢりに逃げまどい、狂暴になり、人と交ることをさけ、死の恐怖にかりたてられていた。ある人々はこわさのあまりやけくそになり、寄り集り、大いに飲んではさわぎ、恋と踊りの饗宴を張ったが、バイオリンで伴奏するのは、死神だった。ある人々は一人投げだされ、悲しみ呪いながら、あらぬ眼つきで、墓の前や人無き家の前に、うずくまっていた。そして、なにより悪いことには、このたえがたい不幸の張本人を誰もがさがしていて、疫病の本元で意地悪の張本人である痴者《しれもの》を知っている、と主張していたことだった。悪魔のような人間どもは、ペストで死んだ者の屍から毒をとり、壁や戸のとってにぬり、井戸に投げこみ、家畜に伝染させている、というのである。
この惨事の下手人だと疑われたら最後、そっと教えられて、逃げてしまわない限り、きっと殺されるのがおちだった。裁判か私刑かで、かならず殺された。さらに、金持は貧乏人に、貧乏人は金持に、罪をなすりつけ、あるいはユダヤ人か、イタリア人か、医者かが、犯人だとうわさされた。ある町でゴルトムントは、ユダヤ人町が火に包まれ、周囲には民衆がわめきたてており、泣き叫びながら逃げだしてくるユダヤ人たちを、武器をつきつけて火の中へ追いかえすさまをみて、ひどくふんがいした。不安と憤激に気の狂った人々は、至る所で罪のない人々をなぐり殺し、焼き殺し、責め殺した。ゴルトムントはそれをみて、ふんがいし、いまいましがった。世界中が破壊され、毒をもられたようだった。この世にはもうどんな喜びも、清らかさも、愛も、なくなってしまったようだった。彼はよく生の喜びを謳歌する、狂気のような祝宴に逃れたが、至るところで死神のバイオリンがひびいており、彼はすぐその調子を覚えこみ、よくやけ酒をあおる人々の群に加わり、瀝青《れきせい》の松明《たいまつ》の下で、ともにラウテをかなで、踊っては、熱に浮かれたような幾夜かをすごした。
彼は恐くなかった。あの冬の夜、樅の木の下で、ビクトルに首をしめられた時、あるいはまた、雪と飢えに行き悩んだ、つらいさすらいの日々に、彼はもう死の不安を経験していたからだった。あの時の敵は死で、防ぐこともできたから、手足がふるえ、胃袋が裂けんばかりで、からだじゅうの力はつきはてていたが、防戦し、打ち勝ち、逃れることができた。しかし、このペストの死とは、戦うすべもない。暴れ放題に暴れさせておいて、降参するほかないのだ。ゴルトムントはとうに降参していた。彼には恐怖がなかった。レーネを燃える小屋に残して、くる日もくる日も、ペストで荒廃した地方を旅してからは、人生に未練はもうないように思われた。しかし、とほうもない好奇心に、彼はかりたてられ、眼をさまされていた。彼はうむこともなく、大鎌をふるう死神の姿を見つめ、無常の歌をきき、いつ何時《なんどき》でもたじろがず、何事によらずそこに居あわせ、眼を見開いて、地獄の旅をつづけたいという、同じ静かな情熱に、至るところでとらえられた。死にたえた家の、かびの生えたパンを喰い、乱痴気騒ぎの大酒盛りに加わっては、いっしょに歌い、いっしょに飲み、たちまちにしぼむ快楽の花を摘み、女たちのとろんとした眼をのぞき、酔っぱらいのすわった眼をみ、死んで行く人々の曇って行く眼をみつめ、すてばちで熱病やみのような女を愛し、屍をはこびだしては、一杯のスープにありつき、二グロッシェンのはした金で、裸の屍に土をかけてやった。世界は暗くて、荒れはてていた。死神は死の歌をがなりたて、ゴルトムントはそれに耳をかたむけ、情熱をもやして聴き入った。
彼のめざすのは、ニークラウス親方の住む町だったが、心の声にひかれて、彼はそこへと急いだ。道は遠く、死神と衰亡と死にみちていた。悲しい気持で道を急ぐ彼は、死の歌に酔いしれ、世界の苦しみの叫びに沈潜し、悲しみながらも燃えながら、五官をそばたてていた。
ある修道院に新しい壁画があったが、彼は眼を見張らずにはいられなかった。それは死の舞踏の壁画で、青白い骨ばった死神が踊りながら、王侯、司教、修道院長、伯爵、騎士、医者、百姓、傭兵《ようへい》を生の世界から連れさり、骸骨の楽師がうつろな髑髏《どくろ》の上で演奏していた。ゴルトムントの貪欲《どんよく》な眼はその画面を、深く胸の中へ吸いとった。その時、一人の見知らぬ修道士がペストの体験談をして、一場の教えを説き、かしゃくない生者必滅《しょうじゃひつめつ》の説教を試みて、人々の耳と胸に訴えた。絵もよければ、説教もよかった。この見知らぬ修道士の眼のつけ所も、表現も悪くはなかった。人骨と恐怖の荒々しい場面の話は、実に生彩にとんでいた。しかし、それはゴルトムント自身の見聞とは、違っていた。ここにえがかれているのは、きびしくかしゃくない生者必滅の相だった。しかし、ゴルトムントが希望していたのは、別の絵だった。死神のすさんだ歌も、彼には全く別にひびき、骨ばったきびしいものではなく、むしろ甘美で魅惑的な、郷愁をさそう、母性的なものだった。死神が人生へ手を伸ばすときには、それは強烈で戦闘的にひびくばかりでなく、深く優しく、秋のようにみちたりたようにも、ひびくものだ。生命の燈火は死に近づくと、明るさと親しみをますものである。死神は他の人々にとっては、戦士であり、裁判官か刑吏であり、きびしい父であるかも知れないが――彼にとっては、母や恋人よりも、その叫びは恋の誘いであり、その接触は恋のおののきだった。ゴルトムントは、死の舞踏の壁画をみ、旅をつづけながら、改めて力強く親方と創作へひきつけられた。
しかし、彼は至る所で足をとどめ、新しい光景にふれて、体験をかさね、鼻をうごめかして死臭をかぎ、至る所で同情や好奇心のために、一時間、または一日ひまをつぶした。彼は五つか六つぐらいの、餓死しかかって、泣いてばかりいる百姓の小僧を、三日も連れあるいて、何時間もおぶってやったりしたが、散々手をやいたあげく、やっとやく払いすることができた。とうとう、亭主に死なれた炭焼きの女房が、なにか生き物を身近かにおきたいというので、この子をひきとってくれたのだった。飼主を失った犬が、何日もついてきて、彼の手から食べ物をくい、寝る時は彼をあたためてくれたが、ある朝、姿を消していた。彼はがっかりした。犬と話すくせがついていたからだ。三十分も犬にくどくどと話しかけ、人間の性悪るさ、神の存在、芸術、若い頃知った、ユーリエという若い騎士の娘の胸や腰について、語ったのだった。むろん、ゴルトムントとて、死のさすらいをつづける間に、少し気が変になっていたし、ペスト地帯の人は誰でも、多少とも気がふれており、ほんものの気違いになる者も、多かったからである。若いユダヤ娘のレベッカも、いくらか気がへんだったらしい。それは燃えるような眼をもった、色の浅黒いきれいな娘で、いっしょにうかうかと二日もひまつぶしをしてしまった。
彼女に出会ったのは、ある小さな町の前の野原だった。彼女は、黒こげの材木につかみかさなった、焼けあとにうずくまり、泣き叫び、顔を打ち、黒髪をかきむしっていた。彼は黒髪に心をひかれて同情した。美しい黒髪だった。彼は荒れ狂う手をしっかりとって、話しかけたが、みれば、顔も姿もずばぬけてきれいだった。泣きながら訴えるのをきけば、父親は十四人のユダヤ人といっしょに、お上の命令で焼き殺され、彼女は逃げはしたものの、こうしてがっかりしてもどってみれば、いっしょに焼き殺されなかったのが、かえってくやまれる、というのだった。彼はしんぼう強く、そのふるえる手をにぎりしめながら、やさしく慰め、思いやり深くかばいながら、優しい言葉をかけ、なんとかしてあげたいと語った。彼女は父を葬るのをてつだってくれるように願い、二人はまだ熱い灰から骨をひろい、野原の片隅へもって行き、土をかけて葬った。そうしている間に、夜になったので、ゴルトムントは寝床を求め、槲《かしわ》の森の中に娘の寝床を作ってやり、番をしてやることを約束した。彼女は横になっても泣きじゃくっていたが、とうとう寝入った。それから、彼も少し眠り、朝になると、彼女の愛をえようとし始めた。
彼はこんなふうに話した。あんたはそんなに一人ではいられない。ユダヤ人だとわかったら、なぐり殺されるし、すさんだ浮浪人に会ったら、どんなことをされるか、わかったもんではない。森には、狼とジプシーがいる。かわいそうだから、いっしょに連れていって、狼と人間から守ってあげよう。自分には見る眼があり、美というものをよく知っているからこそ、あんたにこんなに親切にしてあげるんだ。このかわいい利口そうなまぶたとやさしい肩が、獣の餌食になったり、火刑の積み重ねた薪《まき》の上にのせられたりするのは、とうていがまんができないのだ。彼がこう語るのを、顔を曇らせてきいていたが、彼女はとび上って、逃げだした。彼は追いかけて、なんとかつかまえた。
彼はいった。「ねえ、レベッカ、ぜったい悪いようにはしないよ。あんたはふさいでいる。お父さんのことを思っている、今は恋どころじゃないね。でも、明日かあさって、それとももっと後になったら、もう一度あんたにきいてみよう。それまでは、あんたを守り、食べ物の世話をし、指一本あんたには触れまい。心ゆくまで、悲しんだらいい。ぼくのそばで、悲しむなり、喜ぶなり、いつも好きなようにさせてあげよう」
しかし、いくらいっても無駄だった。彼女がおこって猛り立っていうには、楽しいことは何もしたくない、悲しいことだけしたい、もう喜びなぞはどうでもいい、一刻も早く狼にくわれてしまった方がいい。あなたはもう行って下さい、いていただいても、仕方ないし、おっしゃることは、もう聞きあきた、というのだった。
彼はいった。「ねえ、どこにだって死神がいるじゃないか、どの家でも町でも、人がばたばた死んでいる。みんな悲嘆にくれているじゃないか。馬鹿な奴らがふんがいして、あんたのお父さんを焼き殺したのも、もとをただせば、困って苦しんでいるからだ。ふんがいするのも、苦しみが余りひどすぎるからだ。ねえ、ぼくらもすぐ死神にさらわれて、野原で腐ってしまって、骨はもぐらの慰み物になるんだよ。それまでは、生きて愛し合おうじゃない。ああ、その白い首と小ちゃな足が、いとしくてたまらないんだ。かわいい娘さん、いっしょにおいで、触りはしない、そっと見るだけで、世話をしてあげるよ」
彼は長いことしきりに願ったが、言葉や理屈で心をえようとするのが、どんなに無駄なことかを、ふと感じた。彼は口をつぐんで、悲し気に彼女の顔をみつめた。その誇らかで王妃のような顔は、仮面のように動かず、とりつくしまもなかった。
とうとう彼女は、憎しみと軽蔑に満ちた声でいった。「それでもやはり、あなた方はキリスト教徒なのね。まず、あなたは娘にてつだって、父親を葬ってやる。その父親だって、あなたの仲間が殺したんだわ。あなたなんかお父さんの爪のあかほどの値打もない。それなのに、その娘は、こんどは、あなたの物になり、媚《こび》を売るというわけなの。あなた方って、そういう連中よ! はじめ、あなたはいい方だろうと思っていたけど、どういたしまして。あなた方は、ほんとに豚だわ」
彼女が話している間に、ゴルトムントは、彼女の眼にたたえられた憎悪のかげに、何か彼を感動させ、はずかしめ、胸にこたえる物が、燃えているのをみた。その眼の中に、死を見た。それは必然の死ではなく、死ぬ意志、死の選択、母なる大地の呼び声に対する、静かな服従と献身だった。
彼は低くいった。「レベッカ、あんたの言うとおりかもしれない。親切なつもりだったけど、ぼくはいい人間じゃない。ごめんね。あんたというものが、ぼくには今やっとわかったよ」
彼は帽子をとり、女王様にでもするように、ていねいにおじぎをし、心も重く立ちさった。彼女が破滅するのを、黙って見ていなければならないのだ。彼は長いことふさぎこんでいて、誰とも口をききたくなかった。この誇らかな哀れなユダヤ娘には、顔かたちはいっこうに似ていないが、どこかあの騎士の娘リューディアを思わせるものがあった。こんな女を愛することは、悩みのたねだ。しかし、しばらくの間彼には、かわいそうな内気なリューディアと臆病できついユダヤ娘の二人の他は、誰にも恋したことがないように、思われるのだった。
それから幾日もの間、彼はこの黒い熱烈な娘を、思いつづけ、花咲く幸福を約束されているように思われるのに、すでに死に捧げられている、彼女のほっそりして、燃えるようにきれいな女体を、幾晩も夢にみた。ああ、あの唇と乳房は「豚ども」の餌食となり、野に朽ちはてねばならないのだ。あの高価な花を救うべき力、魔法はないのか。いや、そんな魔法は一つある。あの花は彼の魂の中に生きつづけ、彼に形成され、保存されるだろう。彼は、自分の魂がもろもろの像でいっぱいになり、死の国の長い旅路に、多くの姿を胸にたたみこんだことを思って、恐怖と恍惚《こうこつ》の念におそわれた。ああ、この胸にあふれた物が、なんと緊張し、彼をあこがれ求めて、静かに考えられ、流露させられ、永遠の像に変えられることを、望んでいることか! 彼は胸の思いをこがしながら、旅をつづけた。なおも眼を見開き、あくなき五官をそばだてながら。ただひたすら紙と筆、粘土と木、仕事場と仕事をあこがれながら。
夏はすぎた。秋になったら、いや、おそくとも冬の始めには、疫病はやむだろう、と多くの人々はうけあった。秋は楽しくはなかった。ゴルトムントが通った地方では、果物を摘む人がいないので、果物は落ちて、草の中で腐っていた。また他の所では、町から流れ込んだ暴民どもが、略奪をほしいままにし、何でもやたらに浪費した。
ゴルトムントは一歩一歩、目標に近づいて行ったが、このいよいよという時になって、行きつかないうちにペストにかかり、どこかの厩《うまや》で死ぬのではないか、と恐ろしくなることがよくあった。彼は今となって、もう一度仕事場で仕事に専念する幸福をあじわうまでは、もう死にたくはなかった。彼は生まれて始めて、世界は広すぎ、ドイツ帝国が大きすぎることを思い知った。どんな立派な町も、彼の足をとどめることはできず、どんなきれいな百姓娘も、一晩以上は彼をひきとめなかった。
ある時、彼は一つの聖堂の前を通りすぎたが、その玄関の飾り柱に支えられた、深い壁龕《へきがん》の中に、それまで似たのをよく見たことのある、天使や使徒や殉教者の古い沢山の石像が、安置してあった。あの彼がいたことのあるマリアブロン修道院にも、そんな像が沢山あった。むかし若い頃、よくそれを眺めたものだったが、別に情熱を感じはしなかった。きれいでいかめしいとは思ったものの、少し荘厳すぎて、どこかぎこちなく、古風に思えた。その後、かなりたって、最初の大きな旅の終りに、ニークラウス親方の優美で物悲しげな聖母像に、ひどく感銘し魅せられてからも、こういう古風ないかめしい石像は、あまりにも重苦しく、こわばっていて、なじめなかった。彼は一種の自負心をもって、この像を眺め、師匠の新しい手法の方がずっといきいきとし、誠実で、生命にみちている、と思った。ところがきょう、こうして多くの像でいっぱいになり、ひどい冒険と体験の傷跡を魂に残し、思索と新しい創作へのいたましいあこがれに、胸をふくらませて、広い世界からもどってみると、この太古のいかめしい像が不意に、超人的な力で、彼の心をとらえたのだった。崇高な像の前に、彼は敬虔に立っていたが、その像の中には、とうに過ぎ去った時代の心が、まだ生きつづけており、むかしみまかった人々の不安と歓喜が、数世紀後の今なお石像に化して、人生の無常にさからっていた。彼のすさんだ胸にも、畏敬の念と、いたずらにすごし燃焼させた生活への恐怖が、敬虔にまた空恐ろしく、湧いてきた。彼は、もう長いことおこたっていたことをすべく、告白室に入って告白し、つぐないをしようと思った。
しかし、聖堂に告白室はいくらかあったが、どこにも司祭はいなかった。司祭たちは亡くなり、病院に入っており、逃げ出し、伝染を恐れていた。聖堂はがらんとして人影もなく、ゴルトムントの足音が石の円天井に、うつろにひびいた。彼はからの告白室に入ってひざまずき、眼をつむり、境の小さい格子〔この向うに、司祭は横向きにすわって、告白をきく〕に向って、小声で告白した。「ああ、主よ、わたしはこんな男になりました。世間からもどったわたしは、役にもたたない悪者です。わたしは自分の青春を、放蕩者《ほうとうもの》のように浪費しました。余命はいくらもないでしょう。わたしは殺し、盗み、姦淫《かんいん》し、怠け、他人のパンを食いつくしました。天主様、なぜあなたはわたしたちを、こんなふうにおつくりになったのです。なぜこんな道へお導きになるのです。わたしたちはあなたの子供ではありませんか。あなたの御一人子イエズスは、わたしたちのために御命をすてられたのではありませんか。わたしたちをお導き下さる、聖人も天使もないのですか。それとも、それはみんな子供だましのうまい話で、神父様方はそんなものを笑っているのでしょうか。天父よ、わたしはあなたのことがわからなくなりました。あなたは世界を創りそこね、その秩序を保ってはおられません。家や通りは、死人でみちあふれ、金持は家にたてこもり、あるいは逃げ出し、貧乏人は兄弟が死んでも、葬らず、人々は互いに疑いの眼をもってうかがいあい、ユダヤ人を家畜のようになぐり殺すのを、わたしはこの眼でみました。多くの真人間が苦しみ、死んで行くのに、多くの悪人どもが浮かれて、ぜいたくにふけっているのを、みました。いったい、あなたはわたしたちを、全くお忘れになり、お見すてになられたのですか。御自分でお創りになったものが、お嫌やになったのですか。わたしたちを一人残らず、滅亡させるおつもりなのですか?」
ため息をつきながら、彼は高い玄関をぬけて、そとへ出たが、眼に入った黙々とした天使と聖人の石像は、ひだのこわばった衣をまとって、ほっそりと高く立っていた。みじろぎもせず、及びがたく、超人的な像だが、これとて人間の精神が考え、人間の手が造ったものである。高い狭い所に、毅然と黙々と立っている像は、願いにも問いにも、耳をかしそうにはなかったが、この像が堂々と美しく立っていて、絶えず死に近づきつつある人間の幾世代を、生きのびてきているさまは、一つの限りない慰めであり、死と絶望に対する、一つの凱歌《がいか》である。ああ、この像の中に、哀れなユダヤ人の美女レベッカ、小屋といっしょに焼かれた、哀れなレーネ、やさしいリューディア、ニークラウス親方もまじっていたらいいのだが! いや、いつかは彼らもこうなって、永生をうるのだ。自分がその像を作ってみせる。いま自分にとって愛と悩み、不安と情熱を意味する彼らの姿は、いつか後世の人々の前に、名前も身の上も忘れられて、人生のひそやかな黙然たる象徴として、立つことになるだろう。
[#改ページ]
十五
ゴルトムントはついに目的をたっし、かつて何年も前に、親方をたずねるために、始めてくぐったあの同じ門をくぐって、待ちこがれていた町に足をふみ入れた。彼は町も近くなった頃、すでにこの司教座の都からの報せを、いろいろ耳にしていた。そこでもペストがはやったことがあったが、まだはやっているかも知れない。暴動と一揆《いっき》が起り、皇帝の代官が乗り込んで、治安を保ち、緊急令をだして、市民の生命財産を保護した、といううわさだった。というのは、ペストが発生するとすぐ、司教は町をすてて、遠い田舎の別邸の一つへ移ったからだった。旅人のゴルトムントは、こんなうわさをいっこう気にかけなかった。働こうと思っていた仕事場と、町さえ残っていれば、問題はなかったのだ。他のことはみんなどうでもよかった。彼が到着したときには、ペストはなくなっていた。人々は司教の還御《かんぎょ》をまちわび、代官がひき上げ、またもとの平和な生活がもどってくるのを、心待ちにしていた。
ゴルトムントが町に再会したとき、まだ一度も体験したことのない、再会と故郷の情が、彼の胸をさっとかすめた。自分の心を押さえつけようと、よそ行きのきまじめな顔つきをしてみた。おお、みんな昔のままだ。町の門、きれいな泉、司教座聖堂の古いずんぐりした塔、マリア教会のすらりとした新しい塔、聖ローレンツ教会のすんだ鐘の音、大きな放射状の広場、みんな昔のままだ。ああ、うれしい、みんな待っていてくれたのだ。途中でいつか変な夢を見たではないか。来てみれば、すっかり様子は変っていて、こなごなに破壊されたり、新しい建物や変な不快なようすのために、昔の面影をなくしたりしている夢だ。一軒一軒昔の家をなつかしみながら、通りを歩いて行くと、彼は泣けてきそうだった。きれいなくつろぐことのできる家に住み、市民の生活に満足し、故郷をもっているという気持、部屋や仕事場に妻子や召使いや隣人たちと、いっしょに住んでいるという気持に、はげましなだめられている定住者は、結局うらやむべき存在はなかろうか。
午後もおそかった。通りの日のあたる側の家々に、料理屋と組合の看板、彫刻のあるドア、植木鉢が、あたたかく輝いていて、この町でも死神が荒れ狂い、人々が不安のあまり気違いのように狂い迷ったことを思わせるものは、何も見当らなかった。どよめくアーチ型の橋の下を、明るい水が冷え冷えと、あるいは薄緑にあるいは薄青く、勢いよく流れていた。ゴルトムントは岸辺の壁の上に、しばし腰をおろした。下の緑色の水晶のような水の中には、今なお暗い影のような魚が滑るように泳いでいた。あるいは、鼻先を流れにさからわせて、じっとしている魚もあった。今なお暗い河底のあちこちから、多くのものを約束し、多くの夢想をさそう、あのかすかな金色の輝きが、立ち上っていた。そんなものは他の川にもあり、他の橋も町もみた眼はきれいだったが、彼はもう長いことそんなものを見たことがなく、似たような気持になったことがないような気がした。
肉屋の若者が二人、笑いさざめきながら仔牛をおい立てて、そばをとおりすぎたが、二人は頭上の軒先で、洗濯物をとりこんでいる女中と、眼まぜして、冗談をとばした。なんとすべてはあわただしく過ぎ去ることか。つい最近まではまだ、ここにもペストの業火《ごうか》が燃えていて、いやらしい病院の人夫どもが横行していたのに、今はまた、もとの生活にもどっていて、人々は笑い、冗談をいっている。彼とて例外ではない。こうしてここにすわり、再会に酔いしれ、感謝の念をいだき、惨めさも死も、レーネもユダヤの王女も、存在しなかったかのように、定住している人々の気持にもなってみているのだ。
彼はにっこりと立ち上って、歩き出したが、ニークラウス親方の町に近づき、むかし何年かの間、毎日仕事にかよった道にさしかかると、胸はせまり、そわそわしてきた。足をはやめた。きょう中にも親方の家によって、ようすが知りたかった。もうすぐずぐずしてはいられなかった。明日までまつことは、とうていできない相談のようだった。親方はまだ怒っているだろうか。もう昔のことだ。もうたいしたこともあるまい。そうでなくたって、まあなんとかなるだろう。親方さえいてくれたら、親方と仕事場があれば、文句のありようはずがない。最後になってなにか手ぬかりをしやしないか、というような気持で、彼は見知った家へ急いで歩みより、ドアのとってに手をかけたが、鍵がかかっているので、ぎくっとした。悪いことでなければいいが。まっ昼間、戸に鍵がかかっていることは、前にはなかったことだった。彼は来客をつげる鎚《つち》を激しくならして、待った。不意にひどい胸さわぎにおそわれた。
むかし始めてたずねたとき、案内してくれた老いた下女が出てきた。下女はみにくくはなっていなかったが、年をとり、無愛想になっていて、ゴルトムントを見覚えていなかった。彼はおろおろ声で、親方の安否をたずねた。下女はかすんだ眼で、うさんくさそうに、彼の顔をみつめた。
「親方さんかね。ここにゃそんな者いないよ。帰んなさい。誰も入れやしないんだからね」
彼女は彼を戸口から、おし出そうとした。彼はその腕をとって、大声で話しかけた。
「ねえ、マルグリット、お願いだ。ゴルトムントだ。わからないの。ニークラウス親方さんにお会いしたいんだよ」
遠視で、半ばかすんだ眼には、歓迎の明るい光はあらわれなかった。下女はこばんでいった。
「ニークラウス親方さんはもういないよ。亡くなられた。お帰りったら。こうやってしゃべってるわけにゃ、いかないんだから」
心の中がめちゃめちゃになったゴルトムントは、老婆をおしのけ、わめきながら追いかけてくるのもかまわずに、暗い廊下をぬけて、仕事場へいそいだ。そこはしまっていた。ののしりわめく老婆をしりめに、彼は階段をかけ上り、ニークラウスの集めた像が、暗い見覚えのある場所においてあるのをみた。彼は大声で娘のリースベトをよんだ。
部屋の戸があいて、リースベトが現われた。彼は二度見なおして、やっとリースベトだとわかったとき、はっとかたずをのんだ。戸口がしまっているので、びっくりした瞬間から、すでにこの家中が幽霊のようで、魔法にでもかけられたようで、悪夢の世界のように思われたが、リースベトをみたとたん、背筋がぞっとした。かつてのきれいな誇らかなリースベトは、おずおずした猫背の娘に変りはてていた。顔は黄色くて、病人のようにやつれていて、着ている物は黒くて、飾りがなく、眼には落ち着きがなく、態度はおどおどしていた。
彼はいった。「ごめんなさい、どうしても、マルグリットが入れてくれないもんですから。おわかりになりませんか。ゴルトムントですよ。ああ、ほんとうですか、お父さんは亡くなったのですか?」
彼は彼女の眼つきで、彼女が今やっと彼に気づいたことがわかったが、同時にまた、彼がこの家でよく思われていなかったことも、わかったのだ。
「そう、ゴルトムントさんなの」という彼女の声には、以前の誇らかな口調が、いくらか残っていた。「せっかくいらしったのに、お気の毒です。父は亡くなりましたの」
「それで、仕事場は?」と、彼は思わず口ばしった。
「仕事場ですって。しまっています。お仕事でしたら、よそへいらしって、探して下さい」
彼は気をとりなおそうと思った。
彼はやさしくいった。「リースベトさん、わたしは仕事をさがしているのではなくて、親方さんとあなたに、ごあいさつしたかっただけです。こんなことをうかがわなくちゃいけないとは、なさけないです。随分お困りのごようすですが、あなたのお父さんの御恩を忘れぬこの弟子に、何か出来ますことがありましたら、何なりとおっしゃって下さい。よろこんでいたします。ああ、リースベトさん、わたしの胸は張り裂けそうです。あなたがこんなにも――お苦しみになっていようとは」彼女は戸口へひきさがった。
彼女はためらいながらいった。「ありがとう。もう父には何もしていただけないでしょう、このわたしにもです。マルグリットがそとへ案内するでしょう」
彼女の声はいやらしく、半ば意地悪く、半ば不安気だった。元気さえあったら、彼女は自分をののしって、追い出したろう、と彼は感じた。
彼が下りて行くや、老婆は玄関の戸をぴしゃりとしめて、閂《かんぬき》をさした。二つの閂の冷たい音は、彼の耳の底に長いこと残り、棺のふたを閉じる音のようにひびいた。
彼はまたゆっくり川岸の壁の所へもどり、流れのつき出た、昔なじみの場所に腰をおろした。日はもう沈み、もやが冷たく立ちのぼり、尻の下の石はひんやりした。川沿いの道はひっそりしていて、橋の脚に流れがざわめいており、水底は暗く、もう金色の輝きはみえなかった。ああ、今ここから身をおどらせて、水底の藻屑《もくず》ときえたら、と彼は思った。再び、世界は死にみちた。一時間たつと、たそがれは暗い夜になっていた。とうとう、彼は泣けてきた。すわったまま泣いていると、手とひざの上へ、あたたかい涙が落ちた。死んだ親方のために泣き、リースベトの失せた色香をいたみ、レーネとローベルトとユダヤ娘に涙をそそぎ、自分のしぼんでいった、むだにすごした青春をなげいた。
彼は夜もふけてから、むかし仲間とよく飲んだ酒屋へ行った。おかみは彼を覚えていて、パンをたのむと、親切に一杯のぶどう酒さえ、つけてくれた。パンもぶどう酒ものどをとおらなかった。彼はそこのベンチで夜をあかした。翌朝おかみに起されて、礼をのべてその家を出て、歩きながらパンをかじった。
彼は魚河岸へいってみると、前に間借りしていた家があった。泉のそばでは、数人の猟師の女房どもが生きた魚を売っていた。彼は桶の中の美しい光る魚をじっとのぞきこんだ。彼は昔よくそうしたものだったが、よく魚に同情し、売っている女どもや客に腹をたてたことを思い出した。一度はある朝、やはりここを散歩して、魚に驚嘆し、同情して、ひどく心を痛めたことを思い出した。あれから長い年月がたち、沢山の川の水が流れた。ひどく心を痛めたことは、覚えていたが、そのわけはもう忘れていた。そういうものなのだ。悲しみも、苦痛と絶望も、また喜びもすぎさり、色あせ、その深さと値打を失い、ついには、なぜそんなに悲しかったのかさえ、もう思い出せない時が、やってくるのだ。苦痛も次第にやわらぎ、消えてしまう。自分のきょうの苦痛も、いつかはうすらぎ、無意味になるのだろうか? 親方は亡くなった。しかも、自分に腹をたてながら亡くなった。創作の幸福を味わい、魂の重荷になっている像が、魂からそとへころがりでる仕事場も、自分には開かれていない。こういう絶望感もうすらぎ、無意味になるだろうか? そうだ、きっとこの苦痛も、このひどい苦難も古くなり、うすれ、自分はそれも忘れるだろう。長つづきするものは何もない、苦しみもそうだ。
彼は、魚をみつめて、こんな思いにふけっていると、そっと優しく名をよばれるのを、耳にした。
「ゴルトムントさん」おずおずした呼び声だった。ふりかえると、どこか優しい、病身らしい若い娘が立っていたが、黒い眼がきれいなこの娘が、呼びかけたのだった。彼は見覚えがなかった。
おずおずした声がいった。「ゴルトムントさん? やはりあなたなのね! いつこの町へもどったの。もうおわかりにならないの? マリーですよ」
しかし、彼には誰だかわからなかった。彼女は、彼がもと下宿した家の娘で、彼が朝早く旅立つとき、台所で牛乳をわかしてやったことを、話さねばならなかったが、話しながら、顔を赤らめるのだった。
そうだ、マリーだ。あの時あんなに愛情をこめて、おどおどと世話してくれた、腰の悪い貧相な子供だ。彼は今やすべてを思い出した。彼女はあの冷え冷えとした朝、起きて待っていてくれ、出発をひどく悲しんでくれた。牛乳をわかしてくれ、キッスされると、聖体でも拝領するように、じっとおごそかにそれを受けた。彼女のことは、あれから思い出したこともない。あの頃は、彼女はまだ子供だったのだから。その子供が今では大きくなって、ひどくきれいな眼つきをしていたが、やはりびっこをひいていて、どこかやつれていた。彼は手をさしのべた。とにかく、この町の誰かが覚えていてくれて、愛してくれるのを、彼は心からよろこんだ。
マリーが彼をさそうと、彼はむげにもことわれなかった。彼は彼女の両親たちと、昼食を共にせねばならなかった。その部屋の壁には、彼の絵がまだかかっていて、暖炉の上の棚《たな》には、彼の赤いルビー色の杯がのっていた。彼は二、三日とどまるようにさそわれた。みんなと旧交をあたためたら、というわけである。彼はここで、親方の家の出来事もきいた。ニークラウスはペストで死んだのではなく、ペストにかかったのは、きれいなリースベトの方で死の床にふせると、父親は看護につとめたが、彼女がなおってしまわないうちに、死んでしまったのだった。彼女は助かったが、その色香はうせてしまった。
主人がいった。「仕事場はあいているし、腕のいい彫刻師にはうってつけの家ですよ。金もあるしね。ゴルトムントさん、ここが思案のしどころですよ。あの娘さんだって、嫌とはいいますまい。えり好みなんかできないわけだからね」
彼はペストがはやった頃の話も、いろいろきいた。暴民はまず病院に火をつけ、後で何軒かの金持の家をおそって、略奪をほしいままにし、司教が逃げだしたので、町の治安はしばらくなくなってしまった。そこで、近くにいた皇帝が代官ハインリヒ伯をつかわされた。ところが、伯爵はきびしい人で、数名の騎馬武者と兵隊で、町の秩序を回復した。しかし、もう伯爵の統治は終わってもいい頃で、人々は司教の還御を待っていた。伯爵は市民に無理な注文をするし、そばめのアグネスというのがなかなかの悪党で、みんなこりごりしていた。まあ、彼らはすぐひきあげるだろう。皇帝の寵臣《ちょうしん》で、王侯のように、いつも使節や代表者をひきつれてくる宮廷人兼軍人を、あの親切な司教の代りに背負いこむことには、もうとうに市民の方がまいっている、というのだった。
こんどは、客のゴルトムントが体験をたずねられた。彼は悲し気に語った。「ああ、とても話せません。ただ旅をつづけたんですが、どこもペストで、死体がごろごろしていて、どこの人も心配の余り気が変になり、意地が悪くなっていました。わたしは生き残りましたが、いつかはみんなきれいさっぱりと、忘れてしまうことでしょう。こうしてもどってみますと、親方は死んでいました。二、三日ここのおいて、休ませて下さい。そしたら、また旅に出ますから」
彼がとどまったのは、休むためではなかった。がっかりして、どうしていいかわからなかったからだった。楽しかった頃を思い出して、町がみすてがたくなり、かわいそうなマリーの愛がいとしかったからだ。彼はそれに答えられなかった。親切と同情をもって、答えるほかなかった。しかし、彼女の静かでひかえめな崇拝で、彼の心はあたためられた。だが、これらすべての物にもまして、彼をここにしっかりとひきとめたのは、たとえ仕事場はなく、ありあわせの物で間にあわせようと、また芸術家になってみたいという、燃えるような欲求だった。
ゴルトムントは数日の間、絵ばかりかいていた。マリーが紙とペンをつごうしてくれたので、彼は自分の部屋にこもって、何時間も絵をかき、大いそぎで描きなぐったり、優にやさしい像をかいたりして、大きな紙をうずめた。胸にあふれる絵本を、紙の上へ移行させたのだった。あの浮浪者が殺された時の、満足と愛と殺意にみちたレーネの顔、最後の晩、すでに形なき物にとけこみ始めていて、土にもどろうとしていた、あのレーネの顔を何度もかいてみた。両親のそばの敷居の上に、両手をぎゅっとにぎりしめて、倒れて死んでいた、あの小さな百姓の子供もかいてみた。三頭の駑馬《どば》がよたよたとひっぱっている、屍をいっぱいつんだ車、長い棒をかかえこみ、黒いペスト・マスクの切れ目から、陰惨な眼をひからせている皮はぎ人夫の姿を、かいてみた。レベッカもくりかえしかいてみた。すらっとした眼の黒いユダヤ娘、細い誇らかなくちびる、苦痛と憤怒にみちた顔、恋にはあつらえむきのような、かわいい若々しい姿、高慢でにがにがしい口元をかいてみた。旅人、恋の人、死神の鎌を逃れる者、生にうえた人々のペストの饗宴で踊る人としての、自分の姿もかいてみた。彼は我を忘れて、白い紙にかがみこんで、前に見ておいたリースベトの高慢なつんとした顔、老婢マルグリットのしかめ面、ニークラウス親方の、したいつつも忘れていた顔をスケッチした。彼は何度も、細い予感的な線で、手をひざにおいてすわり、顔には憂いをおびた眼の下に一|抹《まつ》のほほえみをたたえた、大地の母なる大きな女性の姿の輪郭を描いた。この流露、描く手の感じ、幻影の支配は、彼にはたとえようもなく快かった。マリーがつごうしてくれた紙は、わずか数日のうちにかきつぶしてしまった。彼は最後の一枚の一部を切りとって、それにつつましい筆致で、明眸《めいぼう》で、あきらめの色を口元にうかべた、マリーの顔をかいて、彼女に贈った。
彼は描くことによって、魂の重苦しい、いっぱいつめこまれたような感じから、解放されてほっとした。かいている間、どこにいるのかさえ、わからなかった。その世界は、机と白い紙と夕べの燈火からだけ、なりたっていた。ふと我にかえった彼は、最近の体験を思い出し、新しい旅を眼前に冷やかにのぞみ、再会と別離の不思議に分裂した気持で、町をさまよい始めた。
こうしてさまよっていたとき、彼は一人の女に出会ったが、彼女を眺めていると、混乱した気持に、新しい中心が与えられるのだった。それは馬にのった、大柄な淡いブロンドの女性で、青い眼は好奇心にもえ、どこか冷たいところがあり、身体はしっかりとひきしまっていて、はなやかな顔には、享楽欲と権勢欲、自負心と敏感な肉感があふれていた。栗毛にまたがったようすには、人に命令することになれた、尊大さが現われているようだったが、それとてうちとけない、すげないものではなく、どこか冷たい眼の下には、うごめく鼻がどんな世間の臭いも、かぎ落すまいとしていて、大きなしまりのない口元は、受けたり与えたりする最高の能力を、もっているように思われた。ゴルトムントは、彼女をみたとたん、完全に我にかえると同時に、この高慢な女性と力くらべをしてみたい欲望が、むらむらとわいてくるのを覚えた。この女性を征服するのは立派な目的で、彼女を手に入れる途中で死のうと、決して犬死ではないように、彼には思われた。このブロンドの牝獅子は自分の同類で、感覚や情がゆたかで、どんな激情でも受けつけ、荒々しいと同時にやさしく、古くから受けついだ血の体験で、どんな情熱でも知っていることを、彼はすぐ感じた。
彼女はとおりすぎ、彼は後姿を見送った。縮れた金髪と青いビロードのえりの間にのびた、しっかりした頸は、強く誇らかでゆたかだったが、子供のような肌《はだ》だった。これまで会った中で一番きれいな女だ、と彼は思わざるをえなかった。この頸をしっかりだき、眼から青い冷やかな秘密を奪いたい、と彼は思った。それが誰かは、すぐわかった。それは城に住む、代官の愛人アグネスだった。彼はいっこう驚かなかった。王妃だって、かまいはしなかった。彼は泉のそばに立って、自分の顔を水鏡にうつした。姿はブロンドの女の兄弟のようだったが、ただひどく荒れていた。彼はすぐ知合いの床屋をたずねて、うまくたのみこみ、髪をかり、ひげをそり、きれいな顔にもどった。
彼は二日つけまわした。アグネスが城から出ると、見知らないブロンドの男が、もう城内に立っていた。感嘆して彼女の眼を見つめた。アグネスが防壁の周囲を馬で行くと、この見知らない男が榛《はんのき》のかげから現われた。アグネスは金細工師をたずね、仕事場から出ようとすると、この見知らない男に出会った。彼女はつんとした眼つきで、ちらっと彼を見やったが、そのとき、彼女の小鼻あたりが、かすかに動いた。その翌朝、彼女が馬で出かけようとすると、その男はもう立っていた。彼女は彼にほほえみかけていどんだ。彼は代官の伯爵も見かけたが、堂々として勇ましい男で、馬鹿にはできなかった。しかし、髪にはもう白いものがまじり、顔には苦労のしわができていたから、ゴルトムントは優越感をいだいた。
この二日で、彼は幸福になり、青春をとりもどして、若さにかがやいた。この女性の前に姿を現わし、戦いをいどむのは、すばらしい。この美女のために、自分の自由を犠牲にするのはすばらしい。命がけでいちかばちかやってみる気持は、すばらしく刺激にとんでいた。
三日目の朝、アグネスは騎馬で、馬にのった従者を一人つれ、城門から出てきた。すぐに彼女の眼は、闘志にもえながらも、いくらか不安げに、追跡者を期待して求めた。正に、彼はもう立っていた。彼女は用事をいいつけて、従者をもどすと、ひとりでゆっくり馬を進め、下手の橋門から出て、橋を渡って出て行った。彼女は一度だけふりかえった。そして、見知らない男がついてくるのをみた。その頃はさびれていた巡礼地の、聖ファイト教会へ通じる道の所で、彼女はまっていた。彼女は三十分もまたねばならなかった。見知らぬ男はゆっくり歩いて行った。息せききって走りたくはなかったのだ。彼はみずみずしく、ほほえみながら、うす赤い野ばらの実のついた小枝を、口にくわえてやってきた。彼女は馬を下りて、馬をつなぎ、けわしい土どめ壁のきずたによって、後をつけまわす男を迎えた。男は眼を見かわせながら立ち止って、帽子をぬいだ。
彼女がたずねた。「なぜあとをつけるの。何がほしいというの?」
彼は答えた。「ああ、いただくどころか、さしあげたいのです。きれいな奥方様、わたしをさしあげたいのです。お好きなようになすって下さい」
「いいわ、なんの役にたつか、みてみるわ。でも、こんな外でなら、安心して花が摘めると思ったら、あてがはずれますよ。いざとなれば、命も投げだせる殿方だけが、わたしは好きになれるのよ」
「何でもお申しつけ下さい」
彼女は細い金の首飾をゆっくりはずして、彼にさしだした。
「なんという名?」
「ゴルトムント」
「ゴルトムントだって、すばらしいこと。あんたの口がどんな金でできているか、味をみましょう。よくって、この首飾りを夕方お城にもってきて、ひろったというのよ。それを誰かにわたしてはだめよ。わたしは自分であんたから受け取りたいんだから。そんななりできたら、乞食かと思われますよ。召使にどなられても、平気でいるのよ。いっておくけど、お城で信用できるのは、馬丁のマックスと侍女のベルタだけよ。二人のうちの誰かに会って、わたしの所へ連れてきてもらうんですよ。お城の他の人には、誰にも、伯爵もそうだけど、用心するのよ。みんな敵なんだから。あんたの命にかかわるのですよ」
彼女が手をさしのべると、彼はにっこりとその手をとり、やさしくキッスすると、そっと自分のほおにすりつけた。それから首飾りをしまって、山を下って川と町の方へ行った。ぶどう山はもう裸で、黄色い葉が次から次へと舞いおちていた。ゴルトムントは町を見下ろして、余りにも気持よく愛らしい町なので、うなずきながらほほえんだ。数日前にはひどく悲しく、困難や悩みでさえはかないことを、嘆き悲しんだ。それなのに今日は困難と悩みは黄金の葉のように、ほんとに散りはててしまった。この女性のように、愛を放射した女は、これまでいなかったように彼には思われた。そのすらっとした姿とブロンドの笑うが如き生の充実は、彼が少年の頃マリアブロンで、胸に抱いていた、あの母の姿を思い出させた。世界がもう一度にこやかに彼の眼をのぞきこみ、生と喜びと青春の流れが、こんなにゆたかに、勢いよく、彼の血の中をみなぎり流れるのを、感じようなどとは、一昨日の彼には、とうてい想像もつかなかったろう。まだ生きながらえて、このすさまじい数カ月の間、死神が見逃してくれたことは、なんとしあわせだろう。
彼は夕方城の中に入った。庭は活気をおびていた。馬の鞍《くら》をおろす者もいたし、使いに走る者もあり、司祭と高位聖職者の小さな列は、召使たちにみちびかれて、内門をぬけ、階段を上って行くところだった。ゴルトムントがその後からついて行こうとすると、門番にとめられた。彼は金の首飾りを取り出して、奥方様御自身か、侍女以外の人には、誰にもお渡ししないように、言いつけられているのだ、と述べた。彼は召使を一人つけられて、長いこと廊下でまたされた。とうとう一人のかわいらしくて、はしっこそうな女が現われて、彼のそばをとおりながら、「ゴルトムントさんなの?」と低くたずね、ついてくるように目くばせした。彼女は一つのドアの中に姿を消したが、しばらくしてまた出てきて、彼に入るように合図した。
彼の入った小さな部屋は、毛皮と甘い香水の強い香りにみちていて、周囲には、衣装や外套《がいとう》がいっぱいかけてあり、木釘には、婦人帽がかけてあり、開いている長持には、色々の履物《はきもの》が入っていた。彼はここで半時間も待ったろうか、香りのよい衣装の香りをかいだり、毛皮をなぜたり、まわりにかかっている。色々なかわいらしい物を、物珍らしげににこにこ見廻したりしていた。
ついに内側のドアが開くと、侍女ではなくて、えりに白い毛皮のついた、うす青い衣装をつけたアグネス自身が現われた。彼女は一歩一歩静かに、待っていたゴルトムントに近づいたが、その冷やかな碧眼《へきがん》はきっと彼にむけられていた。
彼女が低くいった。「待たせたわね。もう大丈夫のようよ。教会の代表が伯爵のところへ見えて、いっしょにお食事中だし、相談は長びくでしょう。神父様との会議は、いつも長いんだから。今はあんたとわたしの時間よ。ゴルトムント、ようこそ」
彼女は彼にむかって身をかがめた。その求める唇が彼の唇に近づき、二人は最初の口づけで、黙ってあいさつをかわした。彼はゆっくりと彼女の首をだいた。彼女は彼をみちびいて戸口をとおり、天上が高くて、燈火もまばゆい寝室へ案内した。食卓には、食事の用意ができていた。席につくと、彼女は気をくばって、彼にパンやバターや肉をすすめ、きれいな青い杯に白いぶどう酒をついでくれた。二人はたべ、青い杯でいっしょに飲み、二人の手はためすかのように、たわむれあった。
彼女がたずねた。「わたしのかわいい小鳥さん、どこから飛んできたのよ。兵隊さんの、旅の楽師さん、それとも、ただの哀れな浮浪人なの?」
彼は低く笑っていった。「お望みのままの者ですよ。ぼくは心からあなたのものです。お望みなら、ぼくは旅の楽師、あなたはぼくの大事なラウテです。お首に指をからませ、あなたをかなでたら、天使の歌がきこえますよ。さあ、いい方、おいしいお菓子や白ぶどう酒がほしくてきたのじゃないのです。あなただけがほしくて、きたんですよ」
彼はそっと彼女の首から、白い毛皮をはずし、甘い言葉をささやきながら、衣装を脱がせた。寝室の外で、廷臣と神父が相談していようと、召使たちがしのびやかにとおろうと、細い三日月が木々のむこうに沈んで、みえなくなろうと、愛し合う二人はおかまいなかった。二人の楽園は花咲き、二人は抱きあい、からみあって、かぐわしい楽園の夜の中へ没入し、楽園の白い花の秘密が、ほのかに姿を現わすのをみ、やさしい感謝にみちた手で、楽園のあこがれの果実を手折った。楽師はこれほどの名器を、かなでたことはなかったし、ラウテはこれほど強い優れた指に、かなでられたことはなかった。
彼女は燃えて彼の耳にささやいた。「ゴルトムント、ああ、あんたはなんて魔法使いなの。かわいい金魚さん、あんたの子供がほしいわ。いいえ、あんたのそばで死んだ方がいいわ。わたしを飲んでしまって、ねえ、とかして、殺してちょうだい」
彼女の冷ややかな眼から、無情の光がうすれ、消えてゆくのをみると、彼ののどの底で、幸福の調べがかすかにひびいた。かすかなおののきと死のように、戦慄が彼女の眼の底をさっとかすめて、死んで行く魚の皮を走る銀色の戦慄のように、消えていったが、それは川底のあの魔法の輝きのように、うすい黄金色をしていた。人間の経験できる限りの幸福が、この瞬間の中へ流れこんだように、彼には感じられた。
それからすぐ、彼女は眼をとじてふるえながらよこたわっていたが、彼はそっと起き上って、さっと服を着た。ため息をついて、彼は彼女の耳にそっとささやいた。「ねえ、ぼくのかわいい人、ごきげんよう。ぼくは死にたくない。伯爵になぐり殺されるのはいやだよ。とにかく、もう一度きょうみたいに、ぼくとあんたを幸福にしたいんだ。もう一度ね、いや何度もだ!」
彼が服をきてしまうまで、彼女は黙って横になっていた。さて、彼は彼女の身体にそっとふとんをかけてやり、その眼にキッスした。
彼女は鐘のひもをひいた。衣装部屋の戸口で侍女が彼を迎えて、城のそとへ連れ出してくれた。彼は心づけをやりたかったが、そのとたん、自分が貧しいのを恥ずかしく思った。
彼はま夜中ごろ、魚河岸の宿のそばに立って、空を見上げた。もう遅くて、誰も起きていないだろうから、そとで夜明かしせねばならないだろう。ところが、驚いたことには、玄関の戸が開いていた。彼はそっと忍びこんで、うしろ手に戸をしめた。部屋へ行くには、台所を通らねばならなかった。台所には燈火がついていた。小さいランプをともして、マリーは食卓にもたれていた。二、三時間待ったあげく、居眠りを始めたところだった。彼が入って行くと、彼女はびっくりして、とび起きた。
「おお、マリー、まだ起きてたの?」と 彼はいった。
彼女は答えた。「起きてたわ、あなたが閉め出されないように」
「マリー、待たせてすまなかったね。こんなにおそくなって、怒らないでね」
「ゴルトムント、怒りやしないわ。少し悲しいだけなの」
「いけないね。どうしてなの?」
「ねえ、ゴルトムント、わたし元気で、きれいで、丈夫だと、いいんだけど。だったら、あなたはよそへ行って、よその女の人をかわいがらなくともいいでしょうし、一度ぐらいは家にいて、わたしをかわいがってくれるわね」
そのやさしい声の響きには、希望も皮肉もなく、悲しさだけがあった。彼は当惑して、彼女のそばに立っていた。彼女がかわいそうでならなかった。彼は何もいえなかった。彼は彼女の頭を心をこめて抱き、髪をなでた。彼女はじっと立って、髪をなでる彼の手を感じながら、おののいていたが、少しなきじゃくると、気をとりなおして、おずおずといった。「さあ、ゴルトムント、お休みなさい。つまんないことをいったわね。とっても眠いの。おやすみなさい」
[#改ページ]
十六
ゴルトムントは丘の上で、幸せだが、じれったい一日を送った。馬があったら、きょうのような日には、あの修道院へ馬を走らせ、親方のきれいなマドンナを、おとずれたいものだった。それに、昨晩ニークラウス親方の夢を見たような気がした。まあ、とりかえしがつくだろう。アグネスとの恋の幸福も長くはつづかず、ひどいことになるかもしれないが――今がさかりだ、ぼんやりしてはいられないのだ。彼はきょうは、誰とも会いたくなく、気を散らしたくはなかったので、おだやかな秋の一日を、野外の木と雲の下ですごそうと思った。彼はマリーに、野原を歩いてみたいから帰りはおそくなるだろう、べんとうに大きなパンをもらいたい、夜は待っていないでほしい、といった。彼女は黙って、パンとりんごをポケットいっぱい入れ、最初の日にもうつくろっておいた、着古しの上衣にブラシをかけて、彼を送り出した。
彼は川を渡り、人気ないぶどう山のけわしい段々道を登り、上の森の中に入りこんだが、ずんずん登っていって、ついに頂上にたどりついた。そこは、裸になった木々の枝をとおして、日がなまぬるく射し込んでいて、足音におどろいたツグミが、草むらの中にかくれ、臆病そうにちぢこまり、茂みから黒びかりする眼を、のぞかせた。はるか下の方では、青く弓なりに川が流れていて、町はおもちゃのように小さく見えていた。そして、そこからは、祈りの時刻を告げる鐘の音のほかは、何の物音もきこえてこなかった。
この頂上には、砦《とりで》か墓とおぼしい古い異教時代からの、小さい草むした城壁と土まんじゅうがあった。この土まんじゅうの一つに腰かけると、かわいた秋草がぱりぱり音をたてた。そこから広い谷が見わたせ、川の向うには、丘と山が鎖のようにつらなり、その果ては、山々と空が見わけもつかぬほどに、青くぼうっと融けあっていた。この国をくまなく、眼のとどかぬかなたまでも、彼の足は歩き廻ったのだ。今は昔の思い出となってしまったこの地方も、かつては身近かに見たのだ。この森で、彼は何度も旅の夢をむすび、木の実をたべ、飢え、こごえた。この山のいただきと荒野をさまよい、喜び、悲しみ、疲れては元気になった。はるかかなたの眼にみえないどこかに、かわいいレーネの焼けた遺骨がよこたわっている。ペストにかからなければ、仲間のローベルトもどこかを、まだうろついているだろう。はるかどこかに、死んだビクトルがよこたわっている。またどこか遠くには、魔法にかかったように、幼い頃いた修道院があり、きれいな娘たちのいる騎士の邸があり、あのレベッカは哀れにも、追い立てられるか、あるいは死んでいるのだ。これらの多くの、かなたこなたの場所、荒野と森、町と村、城と修道院、生死もわからぬ人々はすべて、彼の胸の中、愛と後悔とあこがれの中に生きて、結びついている。しかし、死神が明日彼を拉《らっ》しさるなら、これらすべてのものは、女と恋、夏の朝と冬の夜にあふれる絵本は、ばらばらになって消えうせるのだ。おお、今こそ、後世に残るべき何かをなし、何かをつくるべき時だ。
この生活、このさすらい、旅立ってからの長い年月の収穫は、きょうまでなんと少ないことか。収穫といえば、かつて仕事場で作った二、三の像、特にヨハネ像で、それにこの絵本、この頭の中の仮象の世界、このうるわしくもいたましい、追憶の絵の世界くらいだ。この内なる世界から、何か外へ救い出すことが、いったいできるだろうか。それとも、いつまでもこの調子で、たえず新しい町、新しい風景、新しい女、新しい体験、新しい像が次々に重なっていくだけで、この不安で、苦しくも美しい、あふれこぼれる胸以外は、何も残らないのか。
人が人生にもてあそばれるさまは、全く異様で、泣き笑いの人生とは、よくいったものである。ある人は官能のまにまに生き、太古のパイプ=母の乳房に吸いつく――その時は、多くの深い歓喜は味わえても、世のはかなさにさからうことはできない。森のきのこのように、きょう美しい色を誇っても、明日はくさってしまうだろう。また、ある者ははかなさにさからい、仕事場にこもって、はかない人生に記念碑を建てようとする――その時は、人生をあきらめねばならず、単なる道具と化して、うつろわぬ永遠の物に奉仕はできるが、そのままひからび、自由でゆたかで歓喜にみちた人生を、失ってしまうのだ。たとえば、ニークラウス親方の運命はそうだった。
ああ、全人生は、この二つの道がいっしょにえられたとき、人生がこの無味乾燥な二者|択一《たくいつ》のために、分裂していない時のみ、一つの意味をもつのだ。人生を犠牲にしないで、創造すること。気高い創造をあきらめずに、生きること。これはいったい不可能なのか。
これをなしえた人間は、恐らくいるだろう。身の清さを守って、しかも官能の喜びを失わない、夫にして父なる人が、恐らくいるだろう。自由で危険をおかさずとも、心をひからびさせなかった定住者が、恐らくいるだろう。あるいはいるだろう。彼は一度も出会ったことがないのだが。
すべての存在は二元性、対立にもとづいているようだ。人は男か女、浮浪人か町人、知的か感情的だ――どんなばあいにも、すう息とはく息、自由と秩序、衝動と精神を、同時に体験することはできない。一方をうるためには、必ず他方を犠牲にせねばならない。しかも、どちらも同様に重要で、望ましいものなのだ。女はこのばあい、恐らくかんたんにゆくだろう。女はもともと、情欲が自然に実を結び、恋の幸福から、子供が産まれるように、できている。男にはこの単純な結実《みのり》の代りに、永遠のあこがれが与えられている。万物をこんなふうに創造した神は、いったい意地悪なのか、敵意をもっているのか、自己の創造した物が苦しんでいるのを、いい気味だと笑っているのか。いや、神はノロジカや鹿、魚や鳥、森、花、四季を創ったのだから、意地悪であろうはずがない。しかし、その創造物には、ひびがわれている。それが失敗作で、きず物であるせいなのか、神が特別のみ旨《むね》で、この人間存在のすき間とあこがれをつくったせいなのか、これが敵のまく種《たね》である原罪であるせいなのかはともかくも、ひびが入っているのだ。しかし、なぜこのあこがれと不満は、いったい罪なのか。人間が創造し、感謝の犠牲として神に捧げた、あらゆる美しく聖なる物は、このあこがれと不満から生まれたものではないか。
物思いに心も重く、彼は視線を町へ向け、広場と魚河岸、橋と教会と市役所を探し求めた。お城と呼ばれている、今はハインリヒ伯が居をかまえている、あの堂々たる司教館も見つかった。あの塔や長い屋根の下には、ひどくつんとしているくせに、恋しては我を忘れて献身できる、きれいで王妃のような恋人アグネスが住んでいる。彼は心もうきうきと、彼女を思い、喜びと感謝の念をもって、昨晩を思い出した。昨晩の幸福を体験するために、あのすばらしい女性をこの上なく幸福にするために、これまでの全生活が必要だったのだ。女たちによるあらゆる練習、すべての放浪と困難、さまよい歩いたすべての雪の夜、あらゆる動物、花、木、水、魚、蝶との親しい交りが、そのためには必要だった。欲情と危険にみがかれた感覚、故郷をもたないこと、長年にわたって胸の中に積み重ねられた絵の世界が、それには必要だった。アグネスのような妖花の咲きほこる花園に住む限り、嘆いてはならないのだ。
彼は秋の丘の上で、さまよい、いこい、パンをたべ、アグネスとの一夜を思い、一日を送った。夕闇せまる頃おいには、また町にもどり、お城に近づいた。空気は冷え冷えとしてきて、家々の赤い眼のような窓は、またたいていて、彼が出会った歌をうたっている子供たちの群れは、蕪《かぶ》をくりぬいて、人の顔をきざみ、中にろうそくをともしたのを、棒の先につけてかかげていた。小さな仮想行列の群れは冬のにおいをはこんできた。ゴルトムントはにこにこして見送った。彼は長いこと城の前をうろついた。教会の使節一行はまだいて、あちこちの窓辺に、神父が立っているのが見えた。彼はなんとか城内に忍びこんで、侍女のベルタに会うことができた。こんどもまた、アグネスがやってきて、やさしく部屋に案内してくれるまで、衣装部屋にかくされた。やさしく迎えた彼女の顔は、美しかったが、晴れやかではなかった。悲しそうで、不安気にくよくよしていた。彼は彼女の心を明るくしようと、色々やってみなければならなかった。彼女はキッスやむつごとで、次第に自信をえてきた。
彼女は感謝していった。「とてもやさしいのね。ねえ、わたしの小鳥さん、あんたがやさしくして、鳩のようにお話なさるとき、のどの奧がなんともいえない音を出すのね。ゴルトムント、わたしあんたが好き。わたしたち、ここから遠い所にいるのなら、いいんだけど。もうここがいやなの。そうでなくたって、もうじきおしまいよ。伯爵は呼びもどされているし、もうじき、あのお人よしの司教様が、おもどりになるのだそうよ。伯爵はきょうごきげんななめなの。神父たちに苦しめられたからよ。あんた、見つからなけりゃいいんだけど。すぐ殺されるわ。なんだか、胸さわぎがしてならないのよ」
彼の思い出の中に、半ば消えうせたひびきが浮び上ってきた――この歌はもう前に一度、ききはしなかったか。昔、リューディアもこんなふうに、愛しながらも不安気に、やさしくも悲しく、ささやいたものだ。夜、彼女はこんなふうに、愛に燃え不安におののき、恐ろしい光景を胸に描きながら、部屋へ忍んできたのだ。秘密のない恋がなんだというのだ。危険のない恋なんてなんだ!
彼はやさしくアグネスをひきよせて、愛撫し、手をにぎって、愛のささやきを耳に送り、眉《まゆ》にキッスした。彼女がこんなにも心配してくれるかと思うと、彼はうっとりするほど感動した。彼女は感謝して彼の愛撫をうけたが、その態度は謙遜といってもいいほどだった。彼女はあふれんばかりの愛にもえて、彼にいどんだが、心は晴れなかった。
不意に、彼女はびくっとした。近くの戸が閉まる音がきこえ性急な足音が部屋に近づいてきた。
彼女は絶望して叫んだ。「大変よ、あの人だわ! 伯爵よ。早く、この部屋から逃げて! 早く。わたしのことは黙ってて!」
まだ言いおわらないうちに、彼女は彼を衣装部屋におしこんだ。彼は一人おどおどと、手さぐりしながら闇の中を進んだ。となりの部屋で、伯爵が高い声でアグネスと話しているのが、きこえていた。彼は音をたてぬように、一歩一歩、衣装の間をさぐりながら、戸口の方へ進んだ。やっとのことで廊下に向いた戸口について、そっと開けようとした。と、これはどういうことだろう。ドアはそとから鍵がかかっていた。彼の心臓は早鐘を打つように、苦しげにどきどきした。偶然にも運悪く、彼が入ってから、誰かがしめたのかもしれない。だが、彼はそうは思わなかった。一杯くったのだ。もうだめだ。ここへ忍び込むのを、誰かに見られたに違いない。首がとぶだろう。闇の中でふるえながら、とっさに彼はアグネスの最後の言葉を思い出した。「わたしのことは黙ってて!」とんでもない、裏切るものか。胸はあえいでいたが、決心すると落ち着き、なにくそと思って、歯をくいしばった。
すべてはほんの一瞬の出来事だった。今や向うのドアが開いて、アグネスの部屋から、左手に燈火をかかげ、右手に抜き身をひっさげて、伯爵が入ってきた。そのとたん、ゴルトムントはまわりにかけてある衣装と外套を、手当り次第かかえこんだ。泥棒と思われたら、なんとか助かるかもしれない。
伯爵はすぐに彼の姿を見つけて、ゆっくり近づいてきた。
「誰だ? ここで何をしているか。答えぬと、殺すぞ!」
ゴルトムントはささやくように答えた。「御|容赦《ようしゃ》のほどを。貧乏な男でございます。あなた様はこんなにお金持でいらっしゃる。だんなさま、とった物はみんなお返しいたします」
彼は外套などを床においた。
「じゃ、泥棒だな。命をかけて古外套一枚とは、馬鹿な奴だ。町人か?」
「いいえ、だんなさま。宿無しで。御慈悲をもちまして――」
「うるさいわ。とどのつまりは、奥方にけしからんことをしなかったかどうか、知りたいのだ。まあ、どうせ首をつられるのだから、せんさくするまでもあるまい。盗んだだけで十分だ」
閉まっているドアを激しく叩いて、彼は叫んだ。「誰かおらぬか、開けろ!」
ドアが外から開くと、抜剣した兵卒が三人立っていた。
伯爵は嘲笑と尊大さをこめた、だみ声で叫んだ。「こ奴をしばれ。泥棒しおった浮浪人だ。牢《ろう》にぶちこんでおいて、明朝早くこの悪党を絞首台にかけろ」
ゴルトムントはおとなしくしばられた。カンテラをもった召使を先頭に、ゴルトムントは長い廊下をとおり、何度か廊下を下り、中庭をとおっていった。鉄棒のはまったまるい地下室の門の前にくると、彼らは何かがやがやののしりあった。鍵がなかったのだ。召使は兵卒にカンテラをわたし、鍵をとりに、走り去った。そこで三人の兵卒としばられたゴルトムントは、入口の前でまっていた。カンテラをもっていた兵卒が、物珍らしげに彼の顔を間近かに照らしてみた。そのとき、お城に滞在中の神父が二人、城内の礼拝堂からもどってきたのが、連中の前に立ち止り、この異様な夜の場面に、じっと眼をそそいだ。三人の兵卒としばられた一人の男が、そこに立ってまっていたのだから、不思議に思うのも当然だった。
ゴルトムントは神父たちも番人どもも、みえなかった。カンテラをつきつけられて、眼がくらんだので、ちらちらゆれるほのおの光しかみえなかったのだった。そして、光の後ろの恐ろしい暗がりの中には、何か形のない、大きな、幽霊のような物がみえた。深淵を、最後を、死をみたのだった。見も聞きもせず、まじろぎもせずに、彼は立ちつくしていた。神父の一人は熱心にひそひそ兵卒にささやいた。彼は、この男は泥棒で、私刑になるのだ、と聞くと、この男に聴罪司祭があるかどうか、とたずねた。いや、現場をおさえられたのだ、という答えだった。
その神父はいった。「では、わたしが明朝の御ミサの前に、御聖体をもってきて、この男の告白をきいてあげよう。あなた方が責任をもって、この男がその前に連れていかれないようにして下さいよ。伯爵様とは、きょう中に話をつけておこう。たとえこの男が泥棒でも、キリスト教徒として、聴罪司祭と聖体を要求する権利はありますからね」
兵卒たちはあえて反対しなかった。彼らは、この神父が使節団の一人であるのを、知っていたし、よく伯爵と食事をしているのも、みかけていた。それに、この浮浪人に告白させない法もないのだ。
神父たちはいってしまった。ゴルトムントはじっと立っていた。とうとう、召使が鍵をもってきて、入口をあけた。囚人は円天井になった地下室に入るとき、つまずいて二、三段ふみはずした。よりかかりのない三脚いすが二つ三つ、それにテーブルが一つあった。そこは酒倉の入口だった。彼らはテーブルの所へいすをおしやって、すわれといった。
「あした早く神父がくるから、告白はできるぜ」と、兵卒の一人がいった。それから、彼らは出ていって、用心深く重い戸をしめた。
「お願いだ、カンテラを置いていってくれないか」とゴルトムントは願った。
「兄弟、だめだぜ。とんでもねえことをやらかされちゃ、一大事だ。そのつもりなんだろうて。あきらめた方が利口だぜ。それに、このカンテラがいつまでもつってんだ。一時間もすりゃ、消えちまわあ。あばよ」
さて、ひとりとり残された彼は、腰かけたまま、頭をテーブルにもたせた。そうしているのはつらくて、手首にくいこんだ縄《なわ》がいたかったが、それを感じたのは、後になってからだった。始めのうちは、ただぼんやりすわって、頭を断頭台にでものせるように、テーブルにもたせていた。彼は精魂をかたむけて、今自分の心に課られた事をしようという、衝動にかりたてられた。のっぴきならない死の運命に、いさぎよく従おうという、衝動にかりたてられた。彼はいつまでもつらい前かがみの状態で、腰をおろしながら、与えられた運命をうけいれ、わが物にし、納得し、それになりきろうとつとめた。もう夜もふけて、ま夜中に近かった。この夜の終りは彼にも、命の終りをもたらすのだ。彼はこのことをはっきりさせようとした。明日はもう生きていないのだ。首をくくられて、物になってしまい、鳥にたかられてつつかれるのだ。ニークラウス親方と同じ物、小屋もろともに焼けたレーネと同じ物、死に絶えた家と屍の満載された車にみたすべてと同じ物になるのだ。それをみきわめ、それになりきるのは、容易ではなかった。みきわめるのは全く不可能だった。執着のある物、別れをつげていない物が、余りにも多かった。今夜の何時間かは、別離のために与えられたのだ。
彼は美女アグネスに別れを告げねばならなかった。その大柄なからだ、明るく光る髪、冷い青い眼を、二度と見ることはあるまい。高慢な眼の色がうすれ、ふるえるのを、二度とはみまい。もう二度とは、ふくよかなはだの快い金のうぶ毛を、みはしないだろう。さらば、青い眼よ、ごきげんよう、うるみふるえるくちびるよ。口づけに未練を残すくちびるよ。ああ、晩秋の陽の降りそそぐ丘の上で、彼女を思い、耳をかたむけ、あこがれたのは、まだきょうのことではないか。彼は丘や太陽や白雲の浮んだ青い空にも、別れをつげ、木と森、さすらいの旅、朝夕と四季にも、別れをつげねばならなかった。あの気の毒なマリー、親切でやさしい眼つきで、びっこをひくマリーは、まだすわって待っているだろう。台所で寝こんで、まためをさますだろう。しかし、ゴルトムントは二度とはもどらないのだ。
ああ、紙と鉛筆よ、作ろうと思っていた、あらゆる像への希望よ。もうだめだ。ナルチスとの再会、まな弟子ヨハネとの再会の希望も、すてねばならないのだ。
自分の手、眼、飢えと渇き、食物と飲物、恋、ラウテ、寝起き、すべてに別れを告げねばならないのだ。明日になって、鳥が空を飛ぼうと、このゴルトムントはみえないのだ。窓辺で娘が歌っても、もうきこえないのだ。川が流れ、黒っぽい魚が黙々と泳ぎ、風が吹き、地面の黄色い木の葉を吹きとばし、太陽が輝き、星空が光り、若い人々が舞踏場へ行き、かなたの山に初雪が降る――そして、すべては移り、すべての木々は影をおとし、あらゆる人々のいきいきした眼が、あるいはよろこび、あるいは悲しみ、犬は吠え、牛は村々の小屋でなく。すべてはこのゴルトムントに無関係だ。なにも自分にはつながらない。自分はすべてからもぎ離されるのだ。
彼は荒野の朝の香をかぎ、甘い新酒をあじわい、未熟の固いくるみを味わい、思い出が、多彩な世界のまばゆい照りかえりが、その重苦しい胸をかすめ、きれいで複雑な全生涯が、五官をつらぬき、きらめきながら沈殿し、別れをつげた。急につらくなって、彼は身体をちぢめると、涙が次々と眼からほとばしり出るのを感じた。すすりあげながら、この激情の大波に身をゆだね、激しく涙を流しながら、身も世もあらず、はてしない悲観にくれるのだった。おお、谷としげった山よ、緑の赤楊《はんのき》の林の中にせせらぐ谷川よ、乙女たちよ、橋上の月夜よ、おお、うるわしくも輝かしい絵の世界よ、どうしてお前と別れたものか。彼はやるせ無く、涙にくれてテーブルに顔をふせていた。悲痛な心から、ため息と切々たる悲嘆の声が、つき上げてきた。「おお、お母さん、お母さん!」
彼がこの呪文《じゅもん》のような言葉を、叫びつづけていると、追憶の深みから一つの像が、あの母の像が、答えてくれた。それは空想と芸術家の夢が生み出した、母の姿ではなかった。修道院時代この方、絶えて見ることのなかった、うるわしくもいきいきとした、まぎれもない母の像だった。彼はこの母へ訴え、死なねばならない運命のたえがたい苦悶《くもん》を愁訴《しゅうそ》した。母に身をゆだね、その慈母の手に森と太陽と眼と手をかえし、自分の全身と命《いのち》とをかえした。
彼は泣きぬれて、眠りこんでしまった。疲れと眠りが慈母のように、やさしく彼を抱きとってくれた。一、二時間も寝たろうか、彼のみじめな気持は晴れていた。
また眼をさますと、彼はひどい痛みを覚えた。縄にくいこんだ手首が、燃えるようにうずき、ひきつるような疼痛《とうつう》が、背筋と首にはしった。彼はやっとのことで起きなおり、我にかえって、また境遇を意識した。あたりはまっくらだった。どれぐらい眠ったのか、まだどれぐらい生きられるのか、見当がつかなかった。もうすぐひき立てられて、刑場へひかれるかもしれない。そのとき彼は、神父がくることになっているのを、思い起した。神父のもってくる聖体が、そう役にたとうとは、思いはしなかった。完全に罪の放免をえても、天国へ行けるかどうかは、わからなかった。天国と天父、神の審判と永遠が存在するかどうか、知らなかった。彼はとうにこんなものを、確信することはできなくなっていた。
しかし、永遠があろうと、なかろうと、彼はそんなものはほしくはなかった。ほしかったのは、この定めない、はかない人生、この呼吸、こうして生きていることであり、生きることだけだった。彼はくるおしく立ち上って、暗がりのなかをよろめきながら、壁へさぐりより、まっすぐによりかかって、考えこんだ。助かる道はきっとあるにちがいない。神父が救ってくれるかもしれない。自分の無実を信じてくれ、とりなしてくれるか、それとも処刑をのばしてくれるだろう。いや、逃がしてくれるかもしれない。彼は何度もこの考えをせんさくしてみた。そうはいかないとしても、あきらめてなるものか。絶対絶命ではないだろう。まず、神父を味方にしよう。どんなことをしても、神父をひきつけ、うまく心をとらえ、確信させ、おもねってやろう。この神父がたった一枚の切り札だ。他の機会はみんな夢だ。とにかく、偶然と神の摂理《せつり》がある。刑吏が疝痛《しゃく》を起すかもしれない。絞首台がこわれるかもしれない。前には考えもつかないような逃亡の機会が、生じるかもしれない。ゴルトムントはともかくも死にたくなかった。運命を受け入れて、服従しようとしたが、駄目だった。どうしてもできなかった。反抗し、できるだけたたかおう。番人の小またをすくい、刑吏に体当りをくれて、ぶっ倒そう。最後の一瞬まで、精魂をかたむけて命を守ろう。――ああ、神父にこの手を自由にさせることが、できさえすればいいのだ。そしたら、どんなことでもやってみせるのだが。
そうこうするうちに、彼は痛いのをがまんして、縄をかみ切ろうとしてみた。狂気のような努力を、恐ろしいほど長い間つづけたが、縄がいくらかゆるんだようだった。彼は地下牢の闇の中に、あえぎながら立っていたが、はれた腕と手がひどくうずいた。いくらか落ち着いてくると、壁を手探りしながら進み、一歩一歩と用心深く、湿った地下室の壁をさぐって、突き出た角がありはしないかどうかを、しらべてみた。そのとき彼は、この地下牢に入れられる時つまづいた、あの階段のことを思い出した。探してみると、それがみつかった。彼はひざまずいて、石段の角に縄をこすりつけようとした。なかなか困難だった。縄の代りに、指の骨がたえず石に当って、火のように痛み、血の流れるのが、感じられた。それでも、へこたれなかった。もう戸と敷居のすき間から、灰色の朝の光がかすかにみえる頃に、彼はやっと目的をたっした。縄はすり切れ、彼は縄をのがれ、手が自由になった。しかし、指は一本も動かず、手ははれて、死んだようになっていたし、腕はつけ根まで、しびれて硬直していた。彼は手と腕をならし、また血が通うように、強いて動かさねばならなかった。今や、いい計画が思い浮んだからだった。
まんいち神父に助けてもらえぬ場合には、ちょっとでも神父と二人だけにされたすきに、神父を殺さなくてはならない。いすでやれるだろう。手にも腕にもそれだけの力はないから、締めることはできない。なぐり殺したら、すばやく神父の服をきて、逃げるのだ。屍がみつかるまでに、城のそとへ出て、逃げなくてはならん。マリーがかくまってくれるだろう。やってみなくちゃ。きっとうまくいく。
ゴルトムントは生れてこのかた、今ほど夜明けに注目し、待ちこがれ、しかも恐れたことは、一度もなかった。緊張と決意におののきながらも、猟師のような鋭い眼つきで、戸の下のすき間からかすかにもれる一条の光が、次第に明るくなってゆくのを、うかがっていた。彼はテーブルの所へもどって、手が自由になったのが、すぐばれないように、手をひざの間にはさんで、いすにうずくまっている練習をした。手が自由になってからは、死ぬことはもう考えはしなかった。よしんば世界がそのために粉みじんになろうと、逃れようと決心した。どんなことをしても、生きようと決心した。その鼻は自由と生を求めて、うごめいていた。外部からの救助だって、あてにならないものでもない。アグネスは女で、それだけの力もあるまい。勇気もあるまい。もうあきらめているだろう。しかし、愛しているから、何かしてくれるかもしれない。侍女のベルタがそとに忍んできているかもしれない――それに、彼女があてにできるといった、馬丁が一人いるではないか。だから、もし誰かあらわれて、合図をしてくれなければ、計画を実行するだけだ。失敗したら、いすで番人を二人でも三人でも、何人こようとなぐり殺すのだ。こっちは有利な点が一つある。眼が暗い地下室になれたから、今では闇の中でも、ぼんやりながら物の形ぐらいは、なんとかみえるが、他の者はここに入ったら、まずめくらも同然だろう。
こんどは熱にでもうかされたように、彼はテーブルのそばにうずくまって、神父を抱きこむには、なんともちかけたものかを、とっくり考えてみた。第一の計画だからだ。そう考えながらも、すき間からもれる光が次第に明るくなってゆくのを、鋭い眼つきでうかがった。数時間前には恐れおののいていた瞬間が、今では待ち遠しくなり、じっとまっていられなくなった。この恐ろしいほどの緊張は、もう長くはたえられないだろう。それに、力や集中力や決断力や注意力も、次第におとろえるだろう。この緊張した覚悟、助かりたい一心が、まだ絶頂にある間に、番人が神父を連れてくる必要がある。
ついに、外界はめざめた。とうとう、敵は近づいてきた。中庭の敷石に足音がした。鍵がさしこまれて、まわされた。その物音はどれも、長い死の沈黙の後で、雷のように物凄くひびいた。
そして、今や重い戸がゆっくりと少しあいて、ちょうつがいがきしった。一人の神父が従者も番人もつれずに、ろうそくの二本ともった燭台《しょくだい》をもって、入ってきた。とらわれの男は、すっかりあてがはずれてしまった。
ところが、誰かが再びとじた戸口から入ってきた神父が、あの見なれた、マリアブロン修道院の修道服をつけているとは、なんと不思議で、はっと胸にこたえたことか。あのダーニエル院長やアンゼルム神父やマルティーン神父が着ていた、なつかしい修道服だ。
彼はそれをみて、名状しがたい気持で、はっとかたずをのんだ。眼をそむけざるをえなかった。この修道服が現われたのは、うれしい事がある吉兆かもしれない。しかし殺して血路をひらくより、仕方はあるまい。彼は歯をくいしばった。この修道司祭を殺すのは、とても困難だろう。
[#改ページ]
十七
神父は「イエズス・キリストはほめられよかし」ととなえて、燭台《しょくだい》をテーブルに置いた。ゴルトムントはじっとうつむきながら、つぶやくように応答した。
神父は黙っていた。ゴルトムントが不安になって、前に立っている男にさぐるように眼をむけるまで、彼はだまってそこに立っていた。
すると、彼がとまどったことには、その神父の着ているのは、マリアブロンの修道服だったばかりか、院長のしるしもつけていた。
彼はこんどは院長の顔をみつめた。それは彫りの深い、やせた顔で、くちびるは細かった。見覚えのある顔だ。ゴルトムントはみせられた者のように、この精神と意志からだけできているような顔を、じっと見守った。彼はおぼつかない手つきで、燭台をとって、この見知らぬ人の顔へ近づけた。眼をみるためだった。眼をみて、燭台をもとにもどした彼の手は、わなわなとふるえていた。
「ナルチス!」彼はききとれないほどの声でささやいた。まわりの物がみんなぐるぐる廻り始めた。
「そう、ゴルトムント、前にはナルチスだったが、ずっと前から、その名はやめている。忘れたのだろう。誓願をたててから、ヨハネといっているのだ」
ゴルトムントは心の底まで、ゆり動かされた。不意に、全世界は変り、異常に張りつめた心が、急にがっくりしたので、彼の息の根はとまりそうだった。がたがたふるえ、眼がくらんで、頭はからっぽな泡《あわ》のように感じられ、胸がぎゅっとちじんだようだった。眼の底に、迫ってくるすすり泣きのようなものが燃えた。すすり泣き、倒れ、涙にくれ、気を失うこと――この瞬間に、彼の心のすべてが望んだのは、このことだった。
しかし、ナルチスを見て思い浮べた、幼なかりし頃の思い出の深みから、一つの警告が立ち上ってきた。自分は子供の頃、このきれいなきびしい顔の前で、さとい黒眼の前で、我を忘れて泣いたことがある。またくりかえしてはならない。さて、今この命のせとぎわに、このナルチスが幽霊のように、再び現われた。多分、救ってくれるために――それなのに、また彼の前ですすり上げたり、気を失ったりしてもいいものか。いや、とんでもない。彼は自制した。心をおさえつけ、胸をなだめ、頭からめまいを追い払った。今は弱みをみせるべき時ではないのだ。
わざと抑えつけた声で、彼はやっと話すことができた。「でも、やはりナルチスと呼んでもいいでしょうか」
「それはいいよ。手をさし出してはくれないの?」
ゴルトムントはまた自分を抑えた。よく学生時代に使ったような、子供っぽいぶっきらぼうで、ちょっと人を馬鹿にしたような口調で、彼は返事を口にした。
彼は冷淡に、いくらか感が鈍いようにいった。「ナルチス、ごめんなさい。院長におなりのようですが、わたしはあいかわらずの浮浪人です。それに、こうしてお話しするのは、うれしいですが、長びいてはいけないんです。ねえ、ナルチス、わたしは死刑になり、一時間したら、いや、もっと早く、首をつられるでしょう。事情を説明するのに、ちょっと申し上げておくのですが」
ナルチスは顔色一つ変えなかった。友の態度に現われている、どこか子供っぽくて、乱暴者らしい所が、とても面白くて、ぐっと胸にこたえもした。ゴルトムントの心の底にあって、自分の胸にもたれて泣くのを禁じている誇りを、彼は理解して、もっともだと思った。ほんとは、彼も再会を別のように考えていたのだが、この小さな喜劇にも、心から同感した。ゴルトムントはこうして、すばやく自分の心に甘えるほか、もっとうまくやることは、できないだろうから。
ナルチスもやはり落ち着いているようなふりをしていった。「ああ、そう。とにかく、絞首台のことは心配しなくともいい。御|赦免《しゃめん》だよ。申し渡して、連れて行くようにいわれているのだよ。君はこの町から追放になったのだからね。つもる話をするひまは、十分あるわけだね。ところで、どう、手をさし出してくれる?」
二人は手をにぎりあって、長いこと力をこめたあいさつをかわし、心は激しく感動していたが、言葉のうえでは、とぼけた喜劇が、なおもしばらくつづいた。
「では、ナルチス、この名誉でもない宿を、出ることにしましょう。お供に加えていただきましょう。マリアブロンへおかえりになるんですか? そうですか。すばらしいです。どうして、馬でですか。それはいいですね。それじゃ、馬をくめんしなくちゃ」
「ねえ、それは手に入れよう。もう二時間たったら、出発だよ。おや、ひどい手だね。これはしたり、赤むくれで、はれあがり、血まみれだね。ゴルトムント、随分ひどい目にあったんだね」
「ナルチス、なんでもないです。ひとりでこんなにしたんです。しばられたのを、とこうとしたんです。そりゃ、大変でした。とにかく、あなたとしたことが、供も連れずにひとりでいらっしゃるとは、全く大胆ですね」
「どうして大胆なの? なんともないじゃないか」
「大ありです。なぐり殺される危険性がちょっとばかりね。思案のあげく、神父がくるそうだから、それを殺して、服をかえて逃げるつもりだったんです。いい計画でしょうが」
「それじゃ、死にたくなかったの? 反抗するつもりだったの?」
「そりゃそうですよ。ところが、神父があなただろうとは、さすがのわたしも、全然考えてませんでした」
ナルチスはためらいながらいった。
「とにかく、それはあんまりひどい計画だね。告白をききにくる神父を、ほんとになぐり殺せたろうかね?」
「ナルチス、あなたなら、とてもだめです。マリアブロンの修道服をきた神父たちなら、多分だめでしょうね。でも、よその人なら、きっとやりました」
彼の声は、悲しげに暗くなった。
「殺すのは始めてじゃないんです」
二人は黙って、胸が痛んだ。
ナルチスは冷静にいった。「じゃ、そんなことはあと廻しにしよう。よかったら、いつかわたしに告白しなさい。ほかの生活の話でも、色々きかせなさい。わたしにも、話が沢山たまっているからね。楽しみにしているよ。――行こうじゃないか」
「ナルチス、ちょっと待って。今思い出したことがあるんです。実は、前にあなたにヨハネという名をつけたことがあるんですが」
「どういうこと?」
「おわかりにならないのも、あたりまえです。なにもごぞんじないんだから。もうずっと前のことですが、あなたにヨハネという名を、おつけしたんですが、それは永久に残るでしょう。というのは、わたしは以前彫刻師だったので、もう一度やってみたい、と思っているんです。その頃の一番できのいい作は、等身大の使徒の木像で、あなたを写したものでしたが、ナルチスではなく、ヨハネと名づけました。十字架の下の使徒ヨハネなんです」
彼は立ち上って、戸口の方へ行った。
「じゃ、このわたしを覚えていたのですね?」と、ナルチスは低くたずねた。
ゴルトムントも同じように低く答えた。「ナルチス、あたりまえです。いつも、いつも、思っていたんです」
彼が重い戸をぱっとおしあけると、朝の薄明が射しこんだ。二人はもう話さなかった。ナルチスは彼を客間に連れていった。供の若い修道士がそこで、旅装をととのえにかかっていた。ゴルトムントは食事をもらい、手を洗い、包帯をしてもらった。そうするうちに早くも、馬がひかれてきた。
一同が馬上の人になると、ゴルトムントはいった。「もう一つお願いがあるんですが。魚河岸を通っていただけませんか。そこにちょっと用があるんです」
一行は出発した。ゴルトムントは城の窓を全部眺めて、アグネスの姿がみえはしないか、とさがしてみた。その姿はもうみえはしなかった。魚河岸にさしかかると、マリーは彼の身の上を、ひどく案じていた。彼は彼女と両親に別れをつげ、何度もお礼をのべ、再会の約束をして、立ち去った。騎馬の一行の後姿がみえなくなるまで、マリーは戸口に立ちつくしていた。それから、彼女はびっこをひきながら、ゆっくり家の中へひきかえした。
一行はナルチス、ゴルトムント、若い修道士、それに武装した馬丁の四人だった。
ゴルトムントがたずねた。「あの修院の厩にいたわたしの愛馬ブレスを、まだ覚えておられますか?」
「はっきりね。あてにはしていないだろうが、もういないよ。殺してから、もう七、八年になろうか」
「覚えておられたんですか?」
「そう、覚えているとも」
ゴルトムントはブレスの死が悲しくなかった。ナルチスは馬のことなどは気にもかけず、他に飼っている馬の名などは、きっと知らないだろう。このナルチスがブレスのことを、よく覚えていてくれたのが、彼にはうれしかった。
彼はまた話しだした。「吹き出したくなるでしょうね。修院中で最初におたずねするのが、なにしろ馬ときてるんですから。すみません。他のことをなんでも、特にダーニエル院長様のことを、おたずねしよう、と思ってたんでしたが、意外にも、院長様は亡くなられて、あなたがあとをつがれたのですね。でも、さしあたり、死ぬ話ばかりしないことにしましょう。なにしろ、死ぬ思いで一晩すごし、ペストもいやというほど、見せつけられたんです。今死ぬ話しをするのは、どうも具合が悪いですから。でも、もう過ぎたことですし、なんとも致し方ないことです。ダーニエル院長様は、いつどんなふうに、亡くなられたんですか。わたしは心から尊敬していたのですが。アンゼルム神父様とマルティーン神父様は、まだ御存命でしょうか。どんな御返事でも、覚悟はしています。とにかく、あなたがペストをまぬがれたのですから、わたしはとても満足です。あなたが亡くなられたなんて、考えたこともなく、きっとおめにかかれる、と信じこんでいました。それでも、残念ながら、経験から推しても、信じていても、あてがはずれるものです。たとえば、彫刻師のニークラウス親方だって、亡くなろうとは思いもせず、会って、働かせてもらえるものとばかり思いこんで、もどったんです。ところが、もう亡くなっていたんです」
ナルチスはいった。「かいつまんで話しましょう。ダーニエル院長様はもう八年前に、亡くなられた。御病気というわけでもないし、別にお苦しみになられたわけでもない。わたしはそのあとつぎではなくて、院長になって、まだ一年です。あとをついだマルティーン神父様は、前の院長先生だが、七十にもならないお年で、昨年亡くなられた。アンゼルム神父様ももうおられない。あの方は君が好きで、よく君のうわさをしておられたよ。晩年は全く足がきかなくなられて、寝ておられるのも、大変の御様子だったが、水腫《すいしゅ》で亡くなられた。そう、わたしどもの所もペストにやられ、沢山亡くなった。そんな話はよそう。何かもっとたずねたいことがあるの?」
「むろん、山ほどあります。第一に、なぜ司教座の町の代官の所へ、いらしったんですか?」
「話せばながいことで、君には退屈でしょう。政治上の問題なのだから。伯爵は皇帝の寵臣で、色々の問題の全権をゆだねられておられる。目下、皇帝とわたしたちの修道会の間に、調停を要する問題が、色々起っているのだがね。それで、伯爵と交渉するための、修道会の代表にえらばれたわけなのだよ。成功したとはいえないが」
彼は口をつぐみ、ゴルトムントもそれ以上きこうとはしなかった。ナルチスが昨晩ゴルトムントの命乞いをしたとき、代償としてきびしい伯爵に、何らかの点で譲歩せねばならなかったろうことは、今さらききだすまでもなかった。
彼らは馬をすすめた。ゴルトムントはすぐ疲れを覚え、馬にのっているのがやっとだった。ずっと後になって、ナルチスがたずねた。「君が盗みのためにつかまったというのは、ほんとなの? 城の中の部屋へ忍びこんで、盗みを働いた、と伯爵は主張しておられたが」
ゴルトムントは笑っていった。「ところが、泥棒というのは、実はうわべだけなんです。伯爵の愛人とあいびきしたのです。きっと、伯爵だって、知ってますよ。追放ぐらいですんだんで、びっくりしているんです」
「まあ、話せる方だね」
一行は予定の日程をおえられなかった。ゴルトムントは疲れ切って、もう手綱をにぎっていられなかった。一行はある村に宿をとり、彼は寝かされたが、少し熱を出し、その翌日も寝ていねばならなかった。彼はやがて旅はできるようになった。すぐに手がなおると、馬の旅がうれしくなってきた。なんと長いこと馬にのらなかったろう。彼は生きかえったように、若やいで元気になった。よく馬丁と競走し、気がむくと、友のナルチスに無邪気な質問を、矢つびばやにしかけて、びっくりさせた。ナルチスは落ち着いて、しかもうれしそうに、それに答えた。彼はまたゴルトムントにみせられて、友の自分の心と頭に全幅の信頼をよせている、そのせっかちで、子供っぽい質問を愛した。
「ナルチス、一つおききしたいんですが、あなたもユダヤ人を焼き殺したことが、おありですか?」
「ユダヤ人を焼き殺すだって? どうしてそんなことが。わたしどもの所には、ユダヤ人は一人もいないからね」
「そうですか。でも、ユダヤ人を焼き殺せますか。ひょっとすると、そんなことがあるかもしれない、と思われますか?」
「いや、どうしてそんなことができるの。わたしがそんな狂信の徒だ、と思うの」
「いいですか、ナルチス、わたしがおききしたいのは、なにかのばあいに、ユダヤ人を殺す命令を出されたり、それに同意なさる気になるかどうか、ということなんです。実際、多くの殿様や市長や司教や他のお役所が、そんな命令を出してるんですよ」
「そんな命令は出さないだろう。でも、そんなむごたらしいことを、黙ってみていなければならない場合は、あるかもしれないね」
「じゃ、黙って見てるんですか?」
「そう、わたしにそれをとめる力がなければ。――ゴルトムント、君はユダヤ人が焼き殺されるのを、みたことがあるのですね」
「ええ」
「それで、とめたの? ――とめなかったって? ――それみなさい」
ゴルトムントはくわしくレベッカの話をしたが、話しながら興奮した。
彼は激しい言葉で話を結んだ。「さて、わたしどもが生きてゆかねばならないこの世は、なんとひどいものでしょう。地獄じゃないですか。いまいましくて、ぞっとしませんか?」
「そう、この世とはそうしたものだ」
ゴルトムントはむっとして叫んだ。「そうですか。あなたは昔、何度も教えられませんでしたか。この世は神々しく、創造主の玉座を中心とした一大調和で、存在するものは善だなどとね。アリストテレスにあるとか、聖トマスにあるとか、おっしゃった。矛盾の御説明がききたいもんです」
ナルチスは笑った。
「びっくりするほど、よく覚えていますね。少し違っているようだが、わたしはいつも創造主を、完全な御者《おんもの》として尊敬しましたが、被造物がそうだ、といったためしはないでしょう。ねえ君、地上の生活が調和的で、正しいとか、人間は善であるとか、真の思想家は誰もそんなことは、言っていないのだよ。むしろ、人の心が考え、望むことは悪だと、聖書にもはっきり書いてあるし、わたしどもも毎日、この眼でそれを見きわめているでしょうが」
「その通りです。今こそ、あなた方学者のおっしゃることが、のみこめました。それはこうなんですね。人間は悪者で、地上の生活はいやしくてけがれている、ということは認められる。でも、その後ろのどこか、あなた方の思想や教科書には、正義と完全さがあるんです。きっとあります。証明できますが、それを使うことはできないんですね」
「おやおや、わたしたち神学者に、ずいぶん含む所があるのですね。でも、君はまだうまく考えられないようだね。みんなごちゃごちゃだよ。少し勉強しなくちゃいけないね。しかし、なぜ君は、わたしたちが正義の理念を、いっこう活用していないというのですか。いつ何時《なんどき》でも、活用している。たとえば、わたしは修道院長で、修道院を治めねばならない。そこだって外界のように、完全ではなく、罪がないわけでもない。それでも、わたしたちは常に繰り返し、原罪に正義の理念を対立させ、それによって、わたしたちの不完全な生活をはかり、悪を矯《た》め、わたしたちの生活をいつも神に結びつけておこう、としているのだよ」
「ああ、ナルチス。あなたのことじゃないです。あなたが悪い院長様だなんて、いってるんじゃないんです。わたしの考えているのは、レベッカです。焼き殺されたユダヤ人です。莫大な共同墓地です。あのものすごい死です。ペストの屍がころがり、におっている町と家です。あの身の毛もよだつ混乱です。投げだされ、一人ぽっちになった子供です。鎖につながれたまま餓死した犬です。――こんなのを考え、そのさまを思いうかべると、胸がいたむんです。母たちがわたしどもを、絶望的に恐ろしい、悪魔のような世界へ産みおとした。産まなければよかったのに! 神はこんな恐ろしい世界を、創造せねばよかったろうに、また、救世主も無益にこの世の奴らを救われんがために十字架につけられたりなさらなければよかったろうに! わたしには、こう思えてしかたがないんです」
ナルチスは親しげに友にうなずいた。彼は情をこめていった。「君の言う通りです。包みかくさず、何でも話しなさい。しかし、君は自分のいうことを、思想だと勘ちがいしている。この点で、君は大変なへまをやっているのだよ。それは感情なのだよ。恐るべき現実に直面した人間の感情だよ。でも、いいかね、この悲しい絶望的な感情に対立する、全く別の感情のあることを、忘れてはいけないよ。君がいい気持で馬にのり、きれいな地方を旅するとき、向う見ずにも、夜お城へ忍びこみ、伯爵の愛人に求愛するときには、君には、この世は面目一新というところだろうね。どんなペストの家も焼き殺されたユダヤ人も、君が楽しみを求めるのを、さまたげはしないね。そうだろうが」
「たしかに、そうです。この世がどこも死と恐怖だらけだから、わたしはくりかえし胸を慰め、この地獄のただなかに咲き出た美しい花を、手折ろうとするのです。喜びがあれば、恐ろしさはつかのま忘れられます。でも、それで恐ろしさがへるわけじゃないんですが」
「うまく理屈をつけましたね。でも、この世では死と恐怖にかこまれているから、快楽へ逃避するのですね。しかし、快楽は長つづきしないから、君をまた荒野に残して行くだろう」
「ええ、そうですね」
「たいていの人はそうですよ。それを君のように、強烈に感じないだけですよ。こんな感情を意識する必要のある人は、ごく少いのです。しかし、ねえ君、この快楽と恐怖の間の絶望的な動揺、生命欲と死の感情の間の右往左往のほかに――君はそのほか何か別の道を、探してはみなかったの?」
「ええ、もちろん。芸術を頼りにしてみたんです。前にお話したように、特に芸術家になったんです。この俗世に出ておよそ三年、ほとんどたえず旅をしていたんですが、ある日のこと、ある修道院の聖堂で、聖母の木像を拝見しました。それは大変すばらしくて、強く心をひかれたので、それを作った親方のことをたずね、その仕事場へ行きました。行ってみると、有名な親方でした。わたしは弟子になって、そこで数年修業しました」
「その話は、後でくわしくきかせて下さい。しかしですね、芸術が君にもたらし、意味したものは、何でした?」
「はかなさの征服です。人生の愚行と死の舞踏から、何物かが、つまり、芸術作品が後世に残ることをわたしは知りました。実際、それとていつかは滅び、焼かれ、破壊され、うちくだかれるかもしれません。しかし、とにかく、それは幾世代か生きのび、刹那《せつな》の彼岸に、清い形象の静かな国を築くでしょう。それに協力することは、わたしには快い慰めのようでした。それはいわば、無常な物を永遠化することだからです」
「ゴルトムント、それはいい。すばらしい作品をもっと沢山作ってもらいたいね。君の技倆を大いに期待しているよ。ずっとマリアブロンのお客になって下さいよ。仕事場も造ってあげよう。もうずっと前から、修道院に芸術家がいないのだから。しかし、今君がのべた定義で、芸術の神秘はまだつくされていない、と思うのだが。芸術の本質は、石や木や色具をもって、存在はするが、いつかは滅ぶべき物を、死の手から奪い、かなり長い生命を与えることには、ないように思うのだが。わたしは多くの聖人や聖母の御像のような、芸術作品を沢山拝見しているが、それが、かつて生きていた誰かを、忠実に模写したものだとも、芸術家がその人間の形や色を保存したのだとも、思ってはいないのだが」
ゴルトムントは真剣に叫んだ。「おっしゃる通りです。あなたが芸術をこんなにも理解しておられようとは、全く意外です。優れた芸術作品の原像は、本当の生きた姿ではないんです。たとえそれが作品成立のきっかけだとしてもです。原像は肉と血をもっていず、精神的なものです。それは、芸術家の魂の中に故郷をもつ像です。ナルチス、わたしの内にも、いつか彫んで、あなたにおめにかけたい、そんな像が生きているんです」
「それはすばらしい! ねえ君、君はもう、知らず知らずのうちに、哲学の中に入りこみ、その神秘の一つを口にしたのだよ」
「からかわないでください」
「いや、とんでもない。君は今『原像』と言いましたね。すなわち、創造的な精神の中にだけ存在し、質料《しつりょう》(物質)となって現実化され、可見的なものとなる像がある、といったのですね。芸術的な姿は、眼にみえ、現実性をうるずっと前から、芸術家の魂の像として、存在しているわけですね。ところが、この像こそ、この『原像』こそ、古代哲学者たちが『理念《イデー》』と呼んだものと、全く一致するのです」
「そうですか、そんなところかもしれませんね」
「そらいいかね、君は理念を信じ、原像を信じることによって、精神の世界、いわゆるわたしたちの哲学者の神学者の世界へ、入りこみ、この人生の混乱したいたましい戦場の中にも、肉身の官能的な無限の死の舞踏の中にも、創造者の精神が存在することを、認めたのですね。ねえ、君の内のこの精神に、わたしは前から、幼い君がわたしの所へやってきた時から、いつも眼を向けていたのだよ。この精神は思想家の精神ではなくて、芸術家の精神なのだ。それは精神なので、君の道標となって、感覚世界の憂鬱《ゆううつ》な混乱から、快楽と絶望の間の永遠の動揺から、君を救い出してくれるのだよ。ああ、君のこの告白をきいて、わたしはほんとにうれしいよ。それを待っていたのだよ――君が先生のこのナルチスをすてて、きっぱりと君自身たろうとした、あの時から。さあ、わたしたちは改めて友達になれるね」
ゴルトムントはこのとき、自分の一生が一つの意味をもったように思われた。自分の一生を上から見下ろして、その三大段階をはっきりみたように思った。ナルチスへの依存と解放――自由と放浪の時代――帰還、内省、成熟と収穫の開始、この三段階が、ありありとみえるような気がした。
幻影はまた消えた。しかし、彼は今やナルチスに対する、然るべき関係を見い出した。それはもはや依存関係ではなく、自由と対照の関係である。彼はもうひけめを感じないで、優れた精神の持主の客となれる。自分は同等の者と見られ、創造する物とみなされたからだ。自分自身を彼に示すこと、自分の内面世界を作品として彼に示すことへのあこがれが、旅をつづける間に次第につのり、その心は喜びにあふれた。しかし、ためらいを感じることがよくあった。
彼は用心させようと思っていった。「ナルチス、いったいどんな男を修道院につれていらっしゃるのか、ごぞんじないようですね。わたしは修道士ではないし、これからそうなろうとも思いません。むろん、三大誓願のことはしっています。清貧は喜んでみとめますが、貞潔《ていけつ》も従順もきらいです。この二つの徳は、ほんとに男らしくないように、思われるんです。それに、わたしの信仰はもうあとかたもありません。もう何年も、告白も祈りも聖体拝領もしていません」
ナルチスは落ち着いていた。「異端になったようだね。でも、そんなことで驚くものですか。君の罪をならべ立てて、自慢しなくたっていいよ。あたり前の俗人の生活をして、あの放蕩《ほうとう》息子のように、豚飼いをしていたのだよ。掟《おきて》と秩序の意味を、とうに忘れているのだよ。その気になったって、どうせ君は立派な修道士になぞなれやしない。修道会に入れなどとは、決してすすめやしないから、安心してもいいよ。ただお客になって、仕事場を建ててもらいたいのだ。わたしたちが若かった頃、君の眠りをさまし、君を俗世にとび出させたのが、余人ならぬこのわたしであるということ、この一つのことだけは、忘れないで下さい。君が善人になろうと、悪人になろうと、君自身についで、このわたしが、その責任者なのです。君がどんな男になったか、わたしはみてみたい。言葉や生活や作品で、それを見せて下さいよ。君がそうしてみて、修道院が君のいるべき所でないとわかったら、第一にこのわたしが、出て行くようにいいましょう」
ゴルトムントは、友がこう語るにつけ、修道院長になった友が、落ち着いて俗人や俗世を軽くいなすにつけ、驚嘆の眼を見張るばかりだった。ナルチスが立派な一人の男になっているのを知ったからである。精神の教会の人であり、手はやさしく、顔は秀でた学者のそれだが、確信と勇気の人、指導者、責任を帯びた人だった。このナルチスはもう昔の若者ではなく、やさしい熱烈な使徒ヨハネでもなかった。この新しいナルチス、男らしい騎士のようなナルチスを、彼は自分の手で写してみたいと思った。多くの姿が待っている。ナルチス、ダーニエル院長、アンゼルム神父、ニークラウス親方、美しいレベッカ、きれいなアグネス、その他多くの友や敵、生きている人や死んだ人の姿が、待っているのだ。いや、修道士にはなるまい。敬虔な修道士にも、篤学な修道士にもなるまい。製作しよう。幼かりし日の故郷が、作品の故郷になるかと思うと、彼は幸福だった。
一行は冷え冷えとした晩秋の馬の旅をつづけて行くうちに、ある日、裸の木々が霧氷に厚くおおわれた朝、荒涼たる赤みをおびた沼沢地帯の、波状の起伏のつらなる地方にさしかかった。長い丘の線には、奇妙に何かを思い出させ、なつかしがらせるふしがあった。次第に高いトネリコの森、小川の流れ、古い納屋が見えてきた。それを眺めたゴルトムントの胸は、楽しいながらも、不安にいたんだ。丘には見覚えがある。騎士の娘リューディアとかつて馬を走らせた丘だ。見覚えのある荒野は、彼がかつて追放され、沈みきった気持で、小雪のちらつく中を、立ち去ったあの荒野だ。群れているはんのき、水車場、城も次第に眼前に浮び上ってきた。かつて、伝説のような青春時代に、騎士の語る巡礼物語をきき、そのラテン語を訂正してやった、あの書斎の窓を認めて、彼はなんともいえぬ悲痛な気持におそわれた。一行は屋敷に入った。予定の宿だった。ゴルトムントは院長に、ここでは自分の名を口にせず、馬丁といっしょに、召使たちの所で食事をさせてくれと願った。院長はその通りにしてやった。老騎士もリューディアも、もう姿は見えなかった。恐らく、何人かの猟師と召使も、死んでしまったことだろう。家をきりもりしていたのは、ひどくきれいで、ほこらかで、堂々とした貴婦人ユーリエと、その夫だった。彼女はまだおどろくほどきれいで、きれいだが、どこか意地悪そうだった。ゴルトムントは彼女にも召使にも、気どられなかった。彼は軽い食事をすますと、夕闇の中を庭の方へ忍んで行き、生垣ごしにもう冬めいた花壇を見やり、厩に忍びより、馬をのぞきこんだ。彼は馬丁といっしょにわらの上に寝たが、思い出にうなされて、何度も眼をさました。
ああ、これまでの生涯は、なんとふみにじられ、不毛だったろう。立派な像にはみちているが、何の価値もなく、愛にとぼしいのだ。翌朝出発するとき、ユーリエの顔がもう一度みられないかと思って、彼は落ち着かない気持で、窓を見上げた。ちょっと前にも、司教館の窓を、アグネスの姿がまたみえはしないかとふりかえってみたものだった。アグネスは出てこなかったが、ユーリエも姿を見せなかった。彼は、自分の生涯もこうなのだ、と思った。別離、遁走、忘却、空手で心も凍って立っていること、これが自分の生涯なのだと、彼には思われた。一日中、彼はこんな思いに追われ、一言も話さなかった。憂鬱そうに馬をあゆませていた。ナルチスは黙ってそうさせておいた。
さて、一行は目的地に近づき、数日して、ついに到着した。修道院の塔と屋根が、見え始めるすこし前に、一行はあの石ころだらけの休耕地に、さしかかった。ああ、何年前のことだろう。ゴルトムントがアンゼルム神父にたのまれて、おとぎり草を採集し、ジプシー女のリーゼに、始めて男にしてもらった、あの思い出の場所だ。一行はマリアブロンの門をぬけ、イタリア産のカスターニエンの木の下で馬を下りた。ゴルトムントはやさしくその幹をなで、茶色になり枯れて地面に落ちている、はじけた棘《とげ》のある毬《いが》を、かがんでひろった。
[#改ページ]
十八
ゴルトムントは始めの何日かは、修道院内の客間に住んでいたが、やがて、自分からたのんで、大きな中庭を広場のようにかこんでいる、いろんな工場の一つに、鍛冶《かじ》場と向かいあって、住むことになった。
自分でもよく驚くほどの、激しい魔力をもって、彼は再会の情にとらえられた。ここで彼を知っているのは院長だけだった。彼の人となりを知っている者は、誰もいなかった。院内の人々は、修道士も平信徒も、規則正しく、仕事にいそしんでいたが、誰も彼に干渉しなかった。しかし、庭の木々、玄関と窓、水車場と水車、廊下の鋪石《しきいし》、廻廊のしぼんだバラのやぶ、穀倉と食堂の屋根の上のコウノトリの巣は、彼を見知っていた。どの片隅からも、彼の過去がかおってきた。最初の少年時代が甘く、感傷的にかおってきた。愛情にかられて、すべての物に再会し、すべての物音を再びきこうとした。晩課の鐘の音、日曜日の鐘の音、こけむした狭い石垣の間を流れる暗い水車の小川のせせらぎ、鋪石の上のサンダルのひびき。夕べの戸じまりにいそぐ門番の修道士の鍵束の音に、彼は耳をかたむけた。信者食堂の屋根から落る雨水を受ける、石の樋《とい》のそばには、依然として同じ小さな薬草やフウロやオオバコが、はびこっていて、鍛冶場の庭の古いりんごの木は、昔ながらのひろがった枝を、くねらせていた。しかし、小さな学校の鐘がきこえ、休み時間に、生徒たちがみんなどやどやと階段を下りて、庭へ出てくるたびに、彼は一番深い感動におそわれた。子供たちの顔は、なんと幼く、空とぼけて、かわいらしいだろう――本当に自分も、かつてはこんなに幼く、やんちゃで、かわいく、子供っぽかったのだろうか。
このみなれた修道院のほかに、彼はほとんど知らない新しい修道院をみつけた。もどってきた時から、これは彼の眼についていたが、段々大切なものになり、次第に旧知の修道院と、結びついていった。というのは、別に増築されたわけではなく、すべては学生時代のままで、いや百年以上も前からの、そのままの姿だったが、それを見る眼は、学生時代の眼ではなかったのだ。彼はこの建物のつりあい、聖堂の円天井、古い絵画、祭壇や玄関の石像と木像を新しく眺め、感じた。前にはその場所になかった物を、何もみたわけではないが、今始めて、これらの物の美と、それを創造した者の精神をみたのだった。奧の礼拝堂にある、古い石の聖母像もみた。子供の頃からそれが好きで模写したこともあったが、今始めて、めざめた眼でそれをみなおし、それが立派な傑作で、どんなに全力をつくしてうまくやっても、自分には及びもつかないものであることが、はっきりわかった。しかも、こんな傑作は沢山あって、偶然によせあつめたものではなくて、すべてが同じ精神から生れ、古い壁や柱や円天井の間をその自然の故郷として、安置されていた。数百年の間に、ここで建てられ、彫られ、描かれ、生活され、考えられ、教えられたものは、一本の幹、一つの精神のうんだもので、一本の木の枝のように、互に適合し調和し合っている。
さて、ゴルトムントは、この静かで強大な統一の世界の真中で、自分の卑小さを痛感した。そして、彼のナルチスが院長ヨハネとして、この強力だが静かにやさしい秩序の中で、管理し支配するのをみる時ほど、自分の卑小さを、痛切に思い知ることはなかった。博学でくちびるの細いヨハネ院長と、単純素朴なダーニエル院長との人格の相違は、けだし相当のものだろうが、二人とも同じ統一、思想、秩序に奉仕し、それによって品位をえ、それに自己自身を犠牲にしている。だからこそ、この二人は身にまとっている修道服のように、互いに似ているのだ。
ナルチスは親しい友、主人としてもてなしてはくれるのだが、この彼の修道院の中では、彼はゴルトムントの眼に、不気味なほど偉大に映じた。ゴルトムントはまもなく、彼をあなたとか、「ナルチス」とか、呼べなくなってしまった。
彼はある時ナルチスにいった。「ヨハネ院長様、わたしは段々あなたの新しい御名前に、なれなければなりません。大変おもてなしいただいて、お礼を申し上げます。総告白をし、罪のつぐないをはたしたら、平《ひら》修士〔修道誓願をたてる前の見習修練士〕にでも、していただきたいぐらいの気持です。でも、そうなれば、わたしたちの友情はおしまいになりますね。院長と平修士の関係になるんですから。でも、こんなにあなたのおそばでぼんやりして、お仕事をみているだけで、なんの役にも立たず、何もしないのは、もうがまんがなりません。わたしも仕事をして、腕のほどをみていただき、わたしを絞首台から助けられただけのかいがあるかどうかを、ごらんになっていただきたいのですが」
「それはうれしいね」こういったナルチスの口調は、いつもよりすっきりしていた。「いつからでもけっこう、仕事場を建て始めて下さい。君の指図に従うように、鍛冶《かじ》屋と大工にすぐそういっておこう。材料で院内にある物は、何を使ってもいいです。院外へ注文して、運送係りにはこばせる物は、表にして下さい。それから、君の身柄と仕事の目的のことですが、しばらく考えてから、申し上げたい。わたしは学者だから、よく頭で熟慮した上で、君に申し上げよう。そうするより仕方ないのだから。だから、昔よくしんぼう強くそうしたように、こんどもわたしの言うことをきいて下さいよ」
「従いましょう。おっしゃって下さい」
「わたしが学校時代に、君は芸術家だと思う、といったのを思い出しなさい。あの頃は、君は詩人になるだろう、と思われました。君は読み書きするとき、概念的なものや抽象的なものに、一種の憎しみをもっていた。言葉の中で好んでいたのは、感覚的で詩的な要素をふくんだ言葉と響きで、つまり、何かを象徴させることのできる言葉だった」
ゴルトムントがさえぎった。「ちょっと、すみませんが、あなたが特におっしゃる概念と抽象は、やっぱり表象・像じゃないんですか? それとも、あなたはお考えになるとき、なにも表象させないような言葉を、ほんとに使われ、好まれるんですか。いったい、なにも表象せずに、考えられるもんでしょうか」
「すばらしい質問だね。しかし、たしかに表象なしに、考えることはできるものだ。思索と表象はなんの関係もない。思索は像においてではなくて、概念と形式でだけ行われる。正に像の終るところに、哲学が始るわけです。実際このことでは、わたしたちは若い頃、ずいぶん論争したね。君の世界は像から成り立ち、わたしの世界は概念から成り立っている。君は思想家には向かない、とよくいったね。その代り、君は像の世界を支配するのだから、それは欠点ではない、ともいったね。いいですか、説明してあげよう。君があのとき、世界へとび出さないで、思想家になったら、とんでもないことをしでかしたでしょう。神秘主義者になっていたでしょう。神秘主義者というのは、要するに、少しひどい言葉をつかえば、表象をまぬがれない思想家のことで、だから全然思想家でなぞないわけだね。それは隠れた芸術家で、詩を書かない詩人、絵筆のない画家、音のない音楽家です。その中には、天分ゆたかな人も、気高い精神を抱いた人も、いるにはいるでしょうが、みんな例外なしに不幸です。君もそんな人になるところでしたね。幸いにも、君はそうはならず、芸術家になり、像の世界を征服し、そこで創造者・支配者となって、思想家などになって、いつまでも中途半端でうろうろしなくても、いいわけなのですね」
ゴルトムントはいった。「表象なしに考えるという、あなたの思索の世界は、結局、わたしにはわからないのじゃないかと思います」
「いや、すぐのみこめるよ。いいですか、思想家は世界の本質を、論理によって認識し、表現しようとします。彼は、わたしたちの悟性と道具である論理が、不完全な器具であることを知っています――それはたとえていえば、利口な芸術家が、自分の絵筆やのみが、天使や聖人の輝かしい本質を、決して十分には表現できないのを、よくわきまえているようなものです。そうなのに、思想家と芸術家は、それぞれの方法でやっているのです。どうにも他に仕方がないし、あってもいけないのです。というのは、人間は天性の賜物で、自己を表現して、自分のできる最高の物、唯一の意味ある事を、なすからです。だからこそ、わたしは昔なんどもくりかえして、君にいったろう。思想家や修徳者のまねをするな、自分自身であれ、自分自身を実現するように、努力しなさいって!」
「半分ぐらいは、のみこめたようです。でも、自分自身を実現するって、いったいどういうことですか?」
「それは哲学上の概念で、ほかに説明のしようがありませんね。アリストテレスと聖トマスの流れをくむわたしたちにとって、概念中の最高の概念は、完全な存在(有)です。完全な存在とは神のことです。存在する他のものはすべて、半分にすぎず、部分的で未完成であり、不純で、蓋然《がいぜん》性から成り立っています。しかし、神は不純ではなく、一|者《しゃ》であり、蓋然性をもたず、完全な実在です。しかし、わたしたちははかなく、生成する未完成なもので、蓋然性があり、わたしたちには完全さも、完全な存在もないのです。しかし、能力から行動へ、可能性から実現へ進むばあい、わたしたちは真の存在にあずかり、完全な者・神なる者に、あるいていど近づき、似るでしょう。これが、自分自身を実現する、ということです。君はこの過程を、自分の体験で知らねばならない。君は芸術家だから、沢山の像を彫りましたね。傑作に成功したばあい、君がある人間の像を、偶然性から解放し、純粋な形に仕上げたばあい――その時、君は芸術家として、この人間の像を実現したわけです」
「わかりました」
「ねえ、ゴルトムント君。わたしは自分の天性にいくらかふさわしく、たやすく自分を実現できる、場所と職務についているわけですね。ごらんのように、わたしは伝統的な修道会に属していますが、それはわたくしの性に合っていて、ためにもなるのです。修道院は天国などではなく、不完全さにみちみちていますが、それでも、身にふさわしい修道院生活は、わたしのような人間には、世俗の生活よりはずっと有利なのです。道徳の話をしようというのじゃないのです。でも、わたしは思索し、教えるのが務めですが、この思索にしてからが、俗世に対するある防禦を、すでに実際問題として要求するのです。だから、わたしはこの修道院で、君よりもずっとかんたんに、自分を実現できたのです。それなのに、君は一つの道をみつけて、芸術家になったのだから、わたしは驚嘆するわけです。君の方がずっと大変だったから」
ゴルトムントはほめられ、どぎまぎして赤くなったが、うれしくもあったからだ。彼は話題をかえるために、友の話をさえぎった。「おっしゃろうとなさっていることは、たいていわかりました。でも、どうしても納得できないことが、一つあります。あなたのいわれる『純粋な思索』ということ、すなわち、いわゆる像を思いうかべずに考えること、何も表象できない言葉を使って、考えるということです」
「では、例をあげたら、納得できるでしょう。まあ、数学を考えてみなさい。数にどんな表象がありますか。あるいは、プラスやマイナスという記号に、方程式にどんな像がふくまれていますか。何もないでしょうが。算数や代数の問題をとくばあい、表象などは役に立たず、ならった考え方の範囲内で、形式的な問題をとくのですね」
「ナルチス、それはそうです。数や記号をならべたてられたわけですが、そんなものでしたら全然表象なしに、かたづけられます。プラスとマイナス、自乗、括弧《かっこ》なんかを、全然表象なしに使えます。そして問題もとけます。それは――昔はとけましたが、今ではとても歯が立ちません、ということなんですが。でも、こんな形式的な問題をとくことは、生徒の頭の練習に役立つ以外に、どんな価値をもっているとも、わたくしには思えません。計算をならうのは、たしかにいいことです。でも、一生こんな計算問題にかかりきって、永遠に紙を数字でうずめたりするのは、馬鹿げた、子供の遊びみたいだと思いますが」
「ゴルトムント、考え違いだよ。そんな熱心な数学者は、先生の出す問題ばかりいつもといている、と君は考えているようだが、自分にだって問題を出すことができます。問題がやむにやまれぬ力となって、頭の中に浮んでくることもあるのです。人々は思想家として、空間の問題を取り上げる前に、多くの実際の空間と仮定の空間を、数学的に計算し、測定せねばならなかったのです」
「そうですねえ。でも、全く考えるだけの問題としての空間の問題は、実際一人の人間が一生取り組むに値するような、対象にはどうしても思えません。『空間』という言葉は、わたしにとっては、それで実際天空というような空間を、表象して考えてみないことには、無意味で、考えるねうちもないのです。むろん、天空なんかでしたら、観測するのも、意味のない問題とは思えませんが」
ナルチスはにっこりして、言葉をさしはさんだ。「思索は認めないけれど、それを実際の世界と眼にみえる世界に応用することは、認めるというわけですね。ところが、わたしたちの思索を応用する機会と意志は、わたしたちにも決して欠けてはいない、といえます。たとえば、この思想家ナルチスは思索の結果を、友人のゴルトムントにも、ここのすべての修道士にも、何度も応用しましたし、現に今でもいつも応用しています。でも、あらかじめ習得し、練習していなかったら、何かを『応用する』ことができますか。だから、芸術家だって眼と想像力を、たえず訓練します。そして、訓練の結果がいくらかの現実の作品となって現われるとき、わたしたちはその訓練のほどを知るわけです。思索そのものはすてて、その『応用』は認めるなどということは、できないことです。明らかに矛盾です。だから、わたしにはじっと考えさせておいて、その結果でわたしの思索を判断しなさい。わたしが君の芸術性を、君の作品で判断するようにですね。君と君の作品の間に、まだじゃま物があるから、君は今不安で興奮していますね。それをとりのぞき、仕事場を探すか、建てるかして、仕事にかかりなさい。そうしたら、いろんな問題も自然にとけるでしょうから」
ゴルトムントには、願ったりかなったりだった。
彼は中庭の門ぎわに、仕事場にはうってつけの空地をみつけた。仕事机と他の道具類は、自分でちゃんと図をひいて、大工に注文した。おいおいにもよりの町から、修道院の運送係に運んでもらいたい物は、長い表に書きこんだ。大工の仕事場と森へ行って、とってあった材木を全部しらべ、たくさんえり出して、仕事場のうしろの草原に運んで行き、自分でその上に屋根をかけて、乾燥させた。鍛冶屋にも注文が沢山あったが、その若い夢の多い息子が、すっかり気にいって、てつだってもらうことにした。この若者といっしょに、炉、かなしき、冷却糟、砥石《といし》のそばに半日もいて、木工には必要のない曲った彫刻用小刀、まっすぐな彫刻刀小刀、のみ、きり、削り刀などを作った。この二十歳ぐらいの鍛冶屋の息子エーリヒは、ゴルトムントと仲良くなり、非常な関心と好奇心を示し、どこへでも行って、てつだってくれた。ゴルトムントはせがまれて、彼にラウテを教える約束をし、彫刻の手ほどきをしてやることになった。ゴルトムントは、修道院のナルチスのそばにいて、自分がつまらなくなり、やりきれなくなると、はにかみながらも自分を愛し、ひどく尊敬してくれるエーリヒの所へ行って、息ぬきをした。彼はよくニークラウス親方や、司教座都市の話をせがまれ、喜んでそれに応じることも多かったが、本当の生活がやっとこれからだというのに、こうしてのんびりと、老人じみて昔の旅や行状の話しをしているのが、われながらふといぶかられるのだった。
彼がここしばらくの間にひどく変って、年以上にふけてしまったのには、誰も気づかなかった。誰も昔の彼を知らないからだ。ひどい流浪と定めない生活のために、彼のからだは早くからむしばまれていたのだろう。それから、恐怖の連続だったあのペスト時代と、最後に伯爵に捕えられておくった、あの地下牢の恐怖の一夜が、彼を心の底まで揺り動かしたのだろう。そのなごりがどこかに刻みこまれて、残っていた。ブロンドのひげにまじったしらが、顔に刻まれた浅いしわ、不眠、時折感じる気疲れ、欲望と好奇心の衰退、恐ろしいなまぬるい飽満感がそうだった。仕事の用意にかかったり、エーリヒとしゃべったり、鍛冶屋や大工の所へ、用事で出かけたりする時などには、彼は機嫌がよくなり、元気に若やいで、みんなをびっくりさせ、みんなにすかれていたが、そうかと思うと、三十分も一時間も、ぐったりして、ほほえみながら、夢見心地で、じっとすわって、放心したようにぼんやりしていることも、まれではなかった。
何から始めるかが、彼には大変な問題だった。修道院の歓待にむくいるために、ここで最初に作るべき作品は、好奇心の対象となるような、ありふれた物ではなく、ここの古い作品のように、修道院の建築と生活にしっくりして、その一部になるような物であるべきである。祭壇か説教台を作ってみたかったが、その必要もなかったし、余地もなかった。そのかわり、いいあんばいに別の物がみつかった。修道士の食堂に高い壁のくぼみがあって、そこで食事中に、若い修道士が聖人物語を読むことになっていた。そこには何の飾りもなかった。そこで、ゴルトムントは階段とそこの書見台に、木の装飾を施そうと思った。説教台と同じように、浮彫りをし、さらに丸彫りに近い像を二、三つけようと思った。院長に相談すると、よろこんで同意した。
さて、用意万端がととのうと――雪がつもって、聖誕祭《クリスマス》もとうにすんでいたが――ゴルトムントの生活は一変した。修道院には全く姿を現わさず、誰も彼の姿をみかけなかった。彼はもう授業がすんで、生徒の群れが出てくるのを、待ってもいなかったし、森の中をうろついたり、廻廊を歩き廻ったりもしなかった。食事は水車場でしていた――学校時代に親しくしていた主人は、もういなかった。仕事場へは、助手のエーリヒのほか、誰も入れなかった。このエーリヒにしてからが、彼の話すのをきかない日が多かった。この朗読者席を飾る、最初の仕事のために、彼はゆっくりと想をねった。二つの部分からなるその一方は、俗世を、他方は神の言葉を示すようにした。その下部をなす、たくましい槲《かしわ》の幹にはじまり、そのまわりをめぐっている階段には、天地創造、自然界と太祖のそぼくな生活をうつす。上部をなす胸壁には、四人の福音史家の像をうつそう。その一人には、故ダーニエル院長の姿を、もう一人には、そのあとつぎの故マルティーン師の姿を与え、ルカの像には、ニークラウス親方の姿を与えて、記念しよう、と彼は思った。
彼は大きな困難にでくわした。意外にも大きな困難だった。それで心配したが、あまい心配で、すげない女の愛を求めるように、夢中になってまた絶望的に仕事にかかった。釣師《つりし》が大きな|だつ《ヽヽ》と戦うように、いらだったりやさしくなったりしながら仕事と苦闘した。仕事につまずくたびに、彼は教えられ、感覚が鋭くなった。他の物はすべて忘れ、修道院を忘れ、ナルチスさえも忘れんばかりだった。ナルチスは何度かたずねたが、下絵だけみてもどるしまつだった。
かえってある日のこと、ゴルトムントに告白をきいてくれと願われて、ナルチスはびっくりしてしまった。
ゴルトムントはつつみかくさずにいった。「今迄どうしても告白する気になれなかったんです。自分が余りつまらなく思えたんです。あなたにはもういやというほど、ひけめを感じてきました。でも、こうして仕事を始めましてからは、ずいぶん楽な気持になりました。もう下らない者ではありません。それで、またこうして修院で生活しているのですから、秩序に従いたいんです」
彼は今が潮時だと思ったので、もう待てなかったのだ。ここへきた最初の数週間、反省の生活を送るうちに、再会と幼い思い出にふけっているうちに、エーリヒにせがまれ、いろんな話をしているうちに、生涯の回想の整理が、はっきりしたのだった。
ナルチスは気軽に告白をきいてくれた。告白は二時間もかかった。院長は淡々と友の恋愛遊びと悩みと罪をきき、度々ききかえしたが、告白を中断させないで、神の義と善への信仰がうせたという告白も、平然ときいていた。彼は多くの告白に感動し、どんなにゴルトムントが心をゆすぶられ、おどろかされたかを、いかに度々破滅の淵にのぞんだかを、知った。そして、友があいかわらず無邪気なのに、ほほえむとともに、感動もした。というのは、彼自身の懐疑や思想の深淵にくらべれば、物の数でもない不信の思いに、友が悩み後悔しているのを、知ったからだった。
ゴルトムントがいぶかりもし、がっかりもしたことには、聴罪師は彼の罪と思っていたものを、たいしたこととは思わず、祈りと告白と聖体拝領をおろそかにしたことを、きびしくとがめ罰した。彼はつぐないとして、聖体拝領の準備に、四週間の然るべき清い生活を送り、毎朝最初のミサにあずかり、毎夕主の祈りを三回、天使祝詞〔アベ・マリアに始まる祈り〕を一回となえることを命じた。
さらに、ナルチスはつけ加えた。「このつぐないをあだやおろそかには思わないように。ミサ典文を覚えているかどうかは、知りません。でも、一語一語よくその意味をとって、よく考えてみるのですね。きょうもいっしょに、主の祈りと天使祝詞をとなえて、特にどの言葉、どの意味に注意すべきかを、教えてあげよう。人の言葉のように、神の御言葉を話したり、きいたりしては、ならないのです。意外にもよくあることだろうが、御言葉を機械的にとなえているのに気がついたら、そのつど、この今のわたしのいましめを、思い出して下さい。始めからとなえなおして、わたしが今から教えてあげる通りに、御言葉をとなえ、心に銘記するのですね」
さて、すばらしい偶然なのか、院長の霊的指導が成功したのかはともかくも、この告白とつぐないの結果、ゴルトムントは非常に幸福な充実して平和な一時期を、もつことができた。緊張と不安と満足のみなぎった仕事に、没頭しながらも、彼は朝に夕に、単純だが、心をこめた心霊修業にはげむことで、一日の興奮から解放され、創作する者の危険な孤独から、彼をまぬかれさせ、子供のように神の国へ遊ばせてくれる、あのより高い秩序に、身も心もゆだねた。全くひとりぼっちで、作品のために戦いにたえ、そのために感覚と魂の全情熱を、かたむけねばならなかった。が、信心の業にひたる一時《いっとき》には、いつももとの無邪気さにもどるのだった。よく腹を立てたり、じれったがったり、身も心も陶然とするようなことの多い仕事の途中で、信心業に没頭するのは、思いあがった興奮や絶望を、洗い落としてくれる冷水の中へ、深くくぐるようなものだった。
いつもうまくいったわけではなかった。熱烈な仕事の後、夜になっても、じっとして落ち着けないことが多かった。信心業を忘れたことも、何度かあった。祈りに没頭しようとしても、祈るということは結局のところ、全く在りもしない神、または役にも立たない神を求める、児戯にすぎないのではないかと思うと、それがさまたげになり、悩みのたねになった。彼はそれを友に訴えた。
ナルチスはいった。「祈りをつづけなさい。約束したから、守らねばなりません。神が君の祈りをききとどけて下さるかどうか、君の考えているような神が、いったい存在するものかどうかは、考えてみる必要はないのです。君の努力がつまらないかどうかも、考えてみる必要はありません。わたしたちが祈りを捧げる御者にくらべたら、わたしたちの行動はすべてつまらない。お祈りの時には、この馬鹿げた乳くさい考えは、きっぱりと追い出してしまいなさい。たとえば、歌をうたったり、ラウテをひいたりする時は、立派な思想や瞑想《めいそう》を求めたりせずに、一つの音、指のタッチ一つを、できるだけ純粋に、完全に次々に心がけるでしょうが、そういうふうに主の祈りも天使祝詞もとなえ、その一語一語に没頭し、それにひたりきるべきです。歌う時には、歌が役にたつとかたたないとかは、問題にせず、ただ歌うものです。そういうふうに、祈ればいいのです」
すると、またうまく祈れるようになった。彼の緊張したあくなき自我は、また大空のような秩序の中へ没し去り、尊い御言葉はまた星のように、彼の頭上をかすめ、彼の胸をつらぬいた。
ゴルトムントは、贖罪《しょくざい》の期間をすまし、聖体を拝領してからも、何週間も何カ月も、ずっと日々の信心業にいそしんだが、院長はそれをみて、心から満足した。
そうこうしているうちに、彼の仕事ははかどった。太い螺旋《らせん》階段の親柱は、変じて植物や動物や人物の渦巻く、小さな世界となり、この小世界の中心には、太祖ノアがぶどうの花と房にかこまれていた。それは、自由奔放ではあるが、秘められた秩序と規律にみちびかれた、被造物とその美の絵巻であり、賛美だった。製作中の数カ月間に、それをみたのはエーリヒだけだった。助手をつとめたエーリヒは、芸術家になるのを、唯一の希望としていた。この彼とて、何日も仕事場へ入れられなかった。そうかと思うと、ゴルトムントは彼の手をとって教え、試作をさせ、自分を信じてくれる弟子をえたことを、よろこぶふうだった。この仕事が見事に完成したら、彼の父の許しをえて、彼をちゃんとした弟子にしてやろう、とゴルトムントは考えた。
すべてがしっくりして、懐疑の雲もない、一番コンディションのいい日に、彼は福音史家たちの像にかかった。ダーニエル院長の姿をうつした像が、一番うまくいったような気がした。それがひどく気にいった。その顔からは、清さと善良さがほとばしっていた。エーリヒはニークラウス親方を写した像に、一番関心していたが、彼にはそれほど気にいらなかった。この像には、分裂と憂いが現われていて、気高い創造者の計画にあふれていると同時に、創造の無を知る絶望にみちていて、失われた統一と清浄さへの憂いにみちていた。
ダーニエル院長を写した像が完成すると、彼はエーリヒに命じて、仕事場をそうじさせた。ほかの作品には布をかけ、この像だけがみえるようにした。それからナルチスのもとへ行ったが、いそがしいというので、翌日までしんぼうせねばならなかった。彼は翌日のひる、友を仕事場の像の前へ案内した。
ナルチスは立ったまま、じっとみつめていた。長いことじっと立ちつくして、学者らしい注意深さと細心さで、その像をながめていた。ゴルトムントは黙って、その背後に立っていたが、胸の内に荒れ狂う嵐を、しずめようと努力せねばならなかった。彼は考えた。「ああ、もし今我々二人のどちらかが、見事及第しなかったら、大変だ。もしこの作品が完璧《かんぺき》なものでないか、それとも、彼がそれを理解できないとしたら、この仕事はみんな値打のないものになってしまうのだ。まだその時期ではなかったのだろうか」
一秒が一時間にも思われた。彼は、ニークラウス親方が自分の最初の絵を、手にした時のことを思い出し、緊張の余りにぎりしめた両手は、じっとり汗ばんでいた。
ナルチスがふりかえった瞬間、彼ははっとした。友のやせた顔に、少年時代から絶えてほほえみかけたことのないある物が、花咲くのを、見たからだった。微笑、精神と意志にあふれたこの顔の、つつましいともいえるほどの微笑、愛と献身の微笑、あたかもこの顔の孤独と誇りが一瞬影をひそめ、その中から、愛にあふれた心だけが、輝き出たかと思われる、一つのかすかな輝きが、現われたよに思われたからだった。
ナルチスはごく低く、こんどもまた一語一語吟味するかのように語った。「ゴルトムント、わたしが不意に芸術のわかる人間になれるとは、まさか思わないでしょうね。わたしはだめなのだよ。君の芸術のことは、なにも言いますまい。どうせいったって、笑われるだけですからね。でも、このこと一つだけは、言わせて下さい。わたしはひと目みて、この福音史家がダーニエル院長様だとわかりました。それだけではなくて、院長様が生前身を以てわたしどもにお示し下すったすべてのもの、品位と善良さと素朴さが、すぐみてとれました。若いわたしたちの畏敬の的だった、あのダーニエル院長様が、まるで生きかえられたようです。あの頃わたしたちに聖《きよ》く思われ、当時を忘れがたいものにしている、あらゆる要素が、この像にそなわっています。ねえ、君はこれを見せてくれて、わたしにすばらしい贈物をしてくれました。あのダーニエル院長様を、よみがえらせてくれただけでなく、始めて、わたしに君自身をはっきりわからせてくれたのです。わたしは今始めて、君がどういう人なのか、わかりました。おお、ゴルトムント、その時がとうとうやってきたのですね!」
大きな部屋はひっそりしていた。友の胸が波打つのを、ゴルトムントはみた。当惑して、息苦しかった。
彼はさりげなくいった。「はい。わたしもうれしいです。でも、そろそろ御食事の時間でしょう」
[#改ページ]
十九
ゴルトムントはこの仕事に二年かかり、二年目から、エーリヒを本当の弟子にした。彼は階段の彫刻には、小さな天国を構想し、たのしい気持で、やさしくもつれあった木や葉や草を彫り、枝には小鳥を配し、至る所に動物の胸や頭を浮び上らせた。この平和に芽をふいている太古の園に、彼は太祖たちの生活の、二、三の場面を展開させた。
この熱心な仕事が中断されることは、めったになかった。仕事ができない日、不安や倦怠《けんたい》のために仕事がはかどらない日は、めったになかった。しかし、たまにそんなことがあると、弟子に仕事をさせておいて、野外へ走り出たり、騎《の》り出したりし、森に入っては、自由と放浪者の忘れえぬ空気を味わい、そこかしこに百姓娘をもとめ、猟に出ては、緑なす草の中に伏し、円天井《ドーム》のようになった森の梢を凝視し、からみあって繁っているしだやえにしだを、じっとのぞいてみた。しかし、一日か二日以上は、仕事場をあけなかった。もどると、新たな情熱をもって仕事にかかり、心たのしく、雑草のように生いしげる植物をきざみ、ゆっくりとやさしい手つきで、人の頭を浮きぼりにし、力強いのみさばきで、口や眼やしわのあるひげ面をほっていった。
エーリヒのほかは、ナルチスしかこの仕事を知らなかった。彼はよくやってきた。仕事場は彼にとって、時には修道院内で一番気に入りの場所になった。喜びと驚きをもって、彼は眺めた。彼の友が不安な、反抗的な、子供らしい胸に抱いていた物が、今や作品となって花咲くのだ。成長して、花を咲かせるのだ。これは一つの創造、湧き出る世界だ。遊戯にすぎないかもしれないが、たしかに、論理や文法や神学の遊戯に、決して劣るものではない。
彼はある時まじめにいった。「ゴルトムント、君にはいろんな事を教えられている。芸術というものが、わかりかけたようです。前には思想と学問にくらべて、芸術はたいしたものではない、と思っていたのです。こんなふうに考えていたのです。結局、人間は精神と物質のあいまいな混合で、精神が人間に永遠を認識させ、物質が人間を堕落させて、はかない物にしがみつかせるのだから、人間は感覚的なものをすてて、精神的なものに至るようにつとめて、その生活を高め、異議あらしめなくてはならない、というようにね。実は、わたしは習慣的に、芸術を尊重するようなふりはしていましたが、高慢にも軽蔑していたわけです。ところが、わたくしは今始めて、認識への道がたくさんあり、精神の道が唯一のものではなく、恐らく最上のものでもあるまいということが、わかったのです。それはわたしの道です。まちがいはない。わたしはそれをたどりつづけるでしょう。しかし、わたしの見るところでは、君は反対の道、感覚による道をたどりながら、たいていの思想家と同じように、生の秘密を深く理解し、さらにいきいきと表現しているのです」
ゴルトムントがいった。「では、表象ぬきの思索がどんなものか、わたしにわからないわけが、おわかりになったのですね」
「とうからわかっています。わたしたちの思索はたえず抽象し、感覚的なものから眼をそらし、純粋な精神界を建設しようとします。しかし、君は正にこの最もはかない、死すべきものを、胸に刻みこみ、正にこのはかないものの中に、世界の意味を告げ知らせる。君はそれから眼をそらさず、それに身をゆだねる。すると、君の献身によって、それは最高のもの、永遠の比喩《ひゆ》となるのです。わたしたち思想家は、世界を神から抽象することによって、神に近づこうとします。ところが、神は、神の被造物を愛し、それを自分の手で再び創造することによって、神に近づこうとするのです。両方とも人間の仕業で、いたらないものですが、芸術の方がより清らかです」
「ナルチス、わたしにはわかりません。でも、あなたがた思想家と神学者の方が、この世をすてたり、絶望を防いだりするのは、やさしいようです。ねえ、わたしはもうとうから、あなたの学問をうらやましい、とは思っていませんが、あなたの落ち着き、平静さ、平和は、うらやましいんです」
「ゴルトムント、うらやむことはありません。平和といっても、君の考えているものではないのです。平和はあるにはあるのですが、いつもわたしの胸にやどって、決して去らないようなものではないのです。たえず戦いをうまずくりかえして、毎日新しく戦いとらねばならない平和が、あるだけなのですよ。君には、わたくしの戦いがわからない、わたしの研究の戦いも、祈りの戦いもわからないのです。知らなくて幸いです。わたしが君より気まぐれでないというので、それだけで、わたしが平和だ、と思っているのです。でも、それは戦いです。あらゆる正しい生活のように、君自身の生活のように、戦いであり、犠牲なのです」
「言い合いはよしましょう。あなたにも、わたしの戦いが全部わかっているわけじゃありません。この作品がもうすぐ完成する、と思う時の気持は、わかっていただけるかどうか、わかりません。完成すると、運んでいって、すえつけられ、いくらかはほめられる。そして、からっぽの仕事部屋にもどってくる。あなた方には誰にもわからなくとも、失敗した所を、あれこれ気にやみ、仕事場のように、心はからっぽで、なにもないのです」
ナルチスがいった。「そうかもしれない。誰だってこういうことは、十分にはわからないものです。でも、わたしたちの仕事はつまりは恥さらしだ。わたしたちはいつも新しくやりなおさねばならない。何度も犠牲を捧げなおさねばならない、ということだけは、善意の人なら誰にでも、よくわかるものです」
それから数週間して、ゴルトムントの大作は完成して、すえつけられた。彼がとうにあじわっていた経験が、くりかえされた。作品は他人のものとなり、眺められ、批評され、ほめられた。人びとは彼をたたえ、名誉をあたえた。しかし、その心も仕事部屋もからで、作品があれだけの犠牲にふさわしいものかどうか、彼にはもうわからなかった。除幕式には、彼は神父たちの宴席に招かれた。祝宴には、修道院の一番古い美酒が出た。ゴルトムントは上等な魚や肉をごちそうになった。しかし、古い美酒よりも彼の心をあたためたものは、ナルチスが彼の作品とほまれに示した、関心と喜びだった。
院長の希望と注文による新しい仕事が、すぐ計画された。マリアブロンの神父が主任司祭をつとめている、この修道院の新しい分院のマリア礼拝堂に、祭壇をしつらえる仕事だった。ゴルトムントはこの祭壇のために、マリア像をつくり、それに、あの青春時代の忘れがたい人々の一人、きれいな憂いをおびた騎士の娘、リューディアの面影を写し、永遠なものにしようと思った。とにかく、彼はこの注文を、たいしたものとは思わず、エーリヒの職人試験の試作にうってつけだ、と考えていた。うまくやりおおせて、腕のほどをしめしてくれたら、エーリヒはこれから先ずっと、いい協力者になり、自分の代りをしてくれるだろうし、それで自分も、気がかりでならなかったあの仕事を、するひまができるだろう、と考えていた。さて、彼はエーリヒと祭壇の用材をさがし、それを準備させた。ゴルトムントはよくエーリヒを残して、また森の中を長いことさまようことが、よくあった。ある時は、彼が何日ももどらないので、エーリヒはそのことを院長に報告し、院長も少し心配になり、彼はもうこのままもどらないかもしれない、と思ったりした。ところが、彼はいつの間にかもどってきて、一週間もリューディアの像にかかっていたかと思うと、またうろつき歩き始めた。
彼は不安だった。大作を完成してから、彼の生活は乱れ、朝のミサもなまけ、ひどく不安で、不満だった。今や、彼はよくニークラウス親方を思い出し、自分もまた親方のように、勤勉で実直で腕はいいが、不自由で若さを失ってしまうのではなかろうか、とよく思いわずらうのだった。最近ちょっとした事件があったのがきっかけで、彼はふさぎこんでしまったのだった。ふらつき廻っているうちに、若い百姓娘のフランチスカをみつけ、ひどく気にいったので、腕に覚えの手練手管《てれんてくだ》で、娘の歓心をえようとつとめた。娘は彼のおしゃべりをよろこび、洒落《しゃれ》にききほれて笑いはしたが、求愛はきっぱりはねつけたので、彼は始めて、自分が若い女には老人に見えることを、さとったのだった。彼はそれっきり出かけなかったが、それを忘れたわけではなかった。フランチェスカの態度は納得できる。彼は見違えるようになっていて、自分でもそれに気づいていた。しかし、変ったといっても、いくらかの若じらがと眼のふちのいくらかのしわの問題ではなく、それ以上の何かが彼の性格、気持の中にあった。彼は年をとったと思い、ニークラウス親方に不気味なほど似てきたのに気づいた。自分の姿をみつめていると、不愉快になり、当惑した。自由を失い、定住したのだ。もう鷲《わし》でも野兎でもなく、家畜になったのだ。彼はそとをうろつき廻って、新しい放浪と新しい自由以上に、過去の香り、かつてのさすらいの追憶を求め、消えた獣のにおいを求める猟犬のように、あこがれつつも疑い深く、それを求めた。
ところが、一日か二日、外へ出て、ぼんやり歩き廻ると、彼は矢も楯もたまらなくなって、もどってきた。良心がとがめるのだった。仕事中の祭壇、準備した用材、助手のエーリヒに対して、責任を感じた。もう自由でも若くもないのだ。リューディアを写したマリア像が完成したら、旅に出て、もう一度さすらいの生活をしてみよう、と彼は固く決心した。こんなに長いこと修道院で男たちとばかり暮らすのは、どうもよくない。修道士は話はできる。男たちは芸術もわかる。ところが、他のおしゃべり、愛撫、遊び、恋、頭なぞ使わないたのしみ――これは男たちの中では、かなわぬことで、それには女と旅とさすらいといつも新しい像が、必要なのだ。ここの身近は、すこし灰色でまじめで、いくらか重苦しくて男くさい。自分でもいくらかそれに染んだらしい。自分の血の中にまでしみこんだらしい。
旅を思うと、彼はなぐさめられた。仕事にいそしんで、できるだけ早く自由になりたい、と思った。ところが、リューディアの姿が次第に木地から、浮び上ってきて、その気高いひざにきちんとした衣のひだを刻む頃になると、彼は心からのいたましい喜びに、うっとりするのだった。美しいはにかみやの乙女の姿、あの頃の思い出、初恋、始めての旅、青春を、うら悲しくもしたって、うっとりするのだった。彼は敬虔な気持で、やさしい像を彫りつづけ、それが心の中で、最上のもの、青春、いともやさしい思い出と、一つに溶け合うのを感じた。そのかしげた首、やさしげに憂いをふくんだ口、あでやかな手、長い指、きれいに盛り上ってふっくらした指の爪を、次々にきざんでゆくのは、たのしいことだった。エーリヒも驚嘆したり、ほれぼれとした尊敬の念をもったりして、できるだけ度々、この像を見守った。
この像がほとんど完成すると、彼は院長にみせた。ナルチスはいった。「ねえ君、これは君の最大傑作です。この修道院には、これにくらべられるものはありません。打ち明けて言いますが、この数カ月間、何度か君のことを心配しましたよ。落ち着かないで、苦しいようでしたね。君が見えなくなって、一日以上も帰ってこないと、もうこれきり帰らないかもしれない、とよく心配したものです。それなのに、今君はこの傑作を完成しました。うれしいです。君を誇りとしています」
ゴルトムントはいった。「ええ、成功しました。でも、ナルチス、お察し下さい。この像が成功するには、わたしの青春のすべてが、さすらいと恋と多くの女への求愛が、必要だったんです。これがわたしの創造の泉です。この泉がもうすぐ涸《か》れそうなんです。胸の中がかさかさになりそうなんです。このマリア様の御像ができましたら、しばらくおひまをいただきたいんです。期間はわたしにもわかりませんが、わたしの青春と、前に愛したすべてのものを、また探してみたいんです。その意味がおわかりですか。――それはそうと、たしかにわたしはあなたの客ですね。そして、仕事のお礼をいただきませんでしたね……」
「何度もそういったのに」と、ナルチスは口を入れた。
「そうです。こんどはいただきたいんです。服を新しくつくらせ、それができたら、馬一頭とお金を数ターレルいただきたいんです。旅へ出ます。ナルチス、何にもおっしゃらないで下さい、御心配なさらないで下さい。ここがもういやになったからじゃありません。ここほど住みよい所はないんですから。別のわけがあるんです。希望をかなえていただけますか」
この話はこれだけだった。ゴルトムントはあっさりした乗馬服と長靴をつくらせた。夏が近づくと、彼はマリア像を完成し、それが最後の作であるかのように、愛情こめた入念さで、その手や顔や髪に、最後の仕上げをほどこした。彼は出発をためらい、この手のこんだ、最後の仕上げにかかずらって、何度もその日を少しずつのばすのを、むしろよろこんでいるようにさえ、思われるのだった。日は一日一日とすぎて行ったが、彼はあいからわずあちこちに手を加えていた。ナルチスは、ま近かに迫った別れを、思いわずらったものの、ゴルトムントがこのマリア像に愛着を覚え、立ち去りがたい気持でいるさまをみると、思わずほほえむことがよくあった。
ところが、ゴルトムントはある日のこと、不意に別れをつげに行って、彼をびっくりさせた。一晩考えたあげくの決心だった。彼は新しい服と帽子に身をかためて、ナルチスに別れのあいさつに行ったのだった。少し前にもう告白して、聖体を拝領していたから、こんどは、別れのあいさつをして、別れの祝福をいただくように、行ったのだった。二人には、別れはつからった。ゴルトムントはうわべだけは、元気で平気そうなふりをした。
「きっと帰ってくるでしょうね」と、ナルチスがたずねた。
「きっとです。いただいたかわいい馬に、この首を折られなかったら、きっともどります。首の根っこでも折られたら、もうここには、あいかわらずナルチスなんて話しかけ、あなたに御心配をかけるような人間は、なくなっちまうわけなんですがね。御心配なく。きっと、あのエーリヒに目をかけてあげて下さい。それから、誰もあの像にさわらせないで下さい。前に申し上げたように、わたしの部屋にあります。鍵はしっかりおあずかり願います」
「旅に出ると思うと、うれしいでしょうね」
ゴルトムントは目をぱちぱちさせた。
「まあ、前には楽しみにしていました。ほんとにね。でも、こんどは、いざ出発となると、思いのほかうれしくないんです。笑われるかもしれませんが、お別れするのがつらいんです。こんなに執着するのは、いやなんですが。若い人や丈夫な人のかからない病気ですね。ニークラウス親方もそうでした。おや、つまらないおしゃべりは、よしましょう。お願いです。出発しますから、祝福して下さい」
彼は馬で旅立った。
ナルチスは友のことで胸がいっぱいだった。彼の身を案じ、彼のことがゆかしかった。あの籠《かご》から逃れたのん気者は、ほんとに帰ってくるだろうか。今、あの不思議な愛すべき人間は、またもや、あなたまかせの、いいかげんな道を進んでいる。熱望と好奇心にもえて、世の中をさまよっている。強烈で暗い衝動のまにまに、嵐のように、あくこともなく、大きな子供だ。主よ、彼とともにあり、つつがなく彼を帰らしめ給え。今また、彼は蝶のように、あちこちと飛びかい、罪をかさね、女性を誘惑し、情欲のまにまに動き、恐らくはまた人を殺し、危い目にあって、捕われ、一命をおとすかもしれない。年をとるのを嘆き、子供っぽい眼で物をみる。このブロンドの子供は、人をどんなに心配させることだろう。こんなわけなのに、ナルチスは彼のことを想うと、ほんとにたのしいのだった。あの手に負えぬ子供が、こんなにいうことをきかず、乱暴で気まぐれなのが、またこうして不意に現われてみると、おとなしくなっているのが、彼にはひどくうれしかった。
院長は毎日いつかは、友の身を思いやるのだった。愛し、あこがれ、感謝し、心配し、時にはまた、ためらっては、自分をせめるのだった。どんなに彼を愛し、彼がありのままの彼であることを望み、彼とその芸術でどんなに自分がゆたかになったかを、もっとはっきり友に語るべきでは、なかったろうか。自分はそのことをほとんど言わなかった。恐らく余りにも――彼をひき止められたかもしれないのに。
しかし、彼はゴルトムントによって、ゆたかになったばかりでなく、貧しくもなった。貧しくも弱くなったから、このことを友に示さなかったのは、なんといってもよいことだった。彼が故郷として住んでいる世界、彼の世界、修道生活、職務、学問、美しく組み立てられた思想の殿堂は、友によって度々強くゆさぶられ、不安なものになった。疑いもなく、修道院側からみれば、理性と倫理の立場からすれば、彼自身の生活の方が優れている。正しく、しっかりしていて、規則的で、模範的である。秩序と厳格な奉仕の生活、絶えざる犠牲、明るさと正義の不断の追求である。芸術家、浮浪者、女たらしの生活より、ずっと清く、立派だ。だが、上からみれば、神の眼からするなら――模範的な生活の秩序と規律、俗世と官能の喜びの放棄、汚れと血との絶縁、哲学と信心への没頭は、ゴルトムントの生活よりほんとに優れているのか。人間はほんとに、規則的な生活をして、祈りを告げる鐘によって時間と仕事をきめられているように、つくられているのか。もともと、アリストテレスとトマス・アクィナスを学び、ギリシア語をあやつり、感覚を殺して、俗世を逃れるように、つくられているのか。人間は感覚と本能、血なまぐさい暗さ、罪と歓楽と絶望への性向を、神に与えられているのではないだろうか。院長がその友の身の上に思いをはせるとき、その思いはいつもこの問題をめぐるのだった。
たしかに、ゴルトムントのような生活をすることの方が、恐らく単に子供のように無邪気で、人間的だというのではない。恐らく、とどのつまりは、恐ろしい流れと混乱に身をゆだね、罪を犯し、その報いとしてひどく苦しむ方が、浮世をはなれ、手を汚さずに、清い生活をし、調和にみちた美しい思想の園を設け、その手入れした花壇の間を、罪の汚れもなくさまようよりは、ずっと勇ましく、偉大なのだ。やぶれ靴《ぐつ》をひきずって、森や街道をさまよい、太陽と雨、飢えと困難にたえ、官能の喜びにふけっては、苦悩でそれをつぐなう方が、恐らく困難で、勇敢で、貴いだろう。
とにかく、ゴルトムントが身をもって彼に示したことは、気高い運命をになった人間は、人生の血なまぐさい、酔いしれたような混乱の底におちいり、ほこりと血にまみれはてても、卑小な人間にはならず、胸の中の神々しいものを、なくすことはない、ということである。深い混迷の中を、さまよい歩こうと、その魂の聖所には、神の燈明と想像力がつきることはない、ということである。ナルチスは友の乱れた生活を深く洞察したが、友への愛情も尊敬の念も、少しも減じはしなかった。いや、そればかりではない。彼は、ゴルトムントの汚れた手から、あのすばらしく静かに生き生きとした、内なる形式と秩序に光り輝く像が、次々に生み出されるのをみた。彼は、あの魂に輝く熱烈な顔、無邪気な草花、哀願するような手や恩寵にみちた手が、勇ましい、やさしい、誇らかな、聖い、人間のあらゆる態度が、次々に生み出されるのをみた。それからというものは彼は、この定めない芸術家の女たらしの胸にも、ゆたかな光明と神の恩寵《おんちょう》がやどっているのを、さとるようになったのだった。
友と話をするとき、自分が優れていることを示したり、友の情熱に自分の規律と整然たる思想を対立させることは、彼にはたやすいことだった。しかし、ゴルトムントの像のどんな小さな態度も、どんな眼や口、どんなひげや衣のひだも、思想家のなしうるすべてより、優っていて、現実的で、いきいきした、かけがえのないものではないのか。反逆と困難に胸のあふれた芸術家は、現在や未来の無数の人びとのために、その困難と努力の象徴たる像を、うち立てるのではないのか。そして、無数の人々はその像に、崇敬と畏敬、苦悩とあこがれをささげ、その中に慰めと保証とはげましをみつけるのではないのか。
ナルチスは、友を導き教えたあらゆる場面を、幼かった昔から始めて、次々に回想しては、にっこりほほえんだり、顔をくもらせたりした。友は感謝して忠告に従い、いつもいつも自分の優越と指導を認めてくれた。そして、やがていつのまにか、そのかりたてられた生活の嵐と苦悩から生れた大作を残した。それは言葉でも、教えでも、啓蒙でも、警告でもなく、真の高められた生活である。これに反して、この自分には、学問と修道院の規律と討論術があるのに、なんとみすぼらしいのか!
これが彼の思いめぐらしていた問題だった。彼はかつて若いゴルトムントの心をゆさぶり、警告を与え、その生活に干渉したが、それと同じように、こんどは友がもどってくると、友が彼をわずらわし、心をゆさぶり、懐疑と自己批判へとかりたてた。両方とも対等なのだ。ナルチスは彼に与えて、何倍かにして受け取らないものは、何もなかった。
旅立った友は、彼に考えるひまもあたえた。幾週間かすぎた。カスターニエンの木はとうに花をつけ、牛乳のようにうす緑のぶなの葉は、とうに濃く、固くしっかりしていて、コウノトリはもうとうに、門の塔の上で雛《ひな》をかえし、それに飛び方を教えていた。ゴルトムントが旅立ってから、日がたつにつれて、ナルチスは次第に、彼が自分に対してもつ意味が、わかってきた。この修道院には、何人かの学問のある修道司祭がいて、プラトン学者、優れた文法家、一、二の洗練された神学者がいた。修道士の中には、忠実で、誠実で、まじめな者も、何人かあった。しかし、ゴルトムントのような人間、まじめにくらべられるような者は、一人もいなかった。ゴルトムントだけが、このかけがえのない贈物を、自分に与えたのだ。今またそれを失わねばならないのは、彼にはつらかった。彼は遠く旅の空の人を、あこがれの思いで回想するのだった。
彼は度々仕事場へ行って、助手のエーリヒをはげました。エーリヒは祭壇の仕事をつづけながら、親方の帰りを一日千秋の思いで、待ちこがれていた。院長はよくゴルトムントの部屋の鍵をあけ、マリア像をたずね、そっとおおいをとって、そのそばに立ちつくしていた。彼はその由来については、何も知らなかった。ゴルトムントはリューディアの話を、一度もしたことがなかったのだ。しかし、ナルチスはすべてを感じ、この乙女の姿が長いこと友の胸に生きていたのを、知ったのだった。彼は恐らくこの乙女を誘惑し、欺《あざむ》き、すてたのだろう。しかし、その姿を魂に刻みこみ、最良の夫よりも忠実に、それを保ち育て、何年も会わずにすぎた後で、ついにこうして、この美しい、感銘深い乙女の姿をきざみ、その顔、みごなし、手の中に、愛する者の優しさと驚嘆とあこがれのすべてを、封じこめたのだ。
食堂の朗読壇のいくつかの像の中にも、友の歴史の断片を、読みとることができた。それは本能的な放浪者、誠のない宿無しの歴史だが、この歴史からここに残されたものは、すべて善良で誠実であり、血のかよった愛にみちみちていた。この人生はなんと神秘にみちているだろう。その流れはなんとにごり、なんと速く流れることか。そして、その産み出したものは、なんと気高く、明るいことか!
ナルチスは戦った。彼は克服し、自分の道にそむかず、きびしい信心業をゆるがせにしなかった。しかし、彼は友を失ったことをいたみ、神と職務にのみささげるべき自分の心が、余りにも友の上へ向くのを知って、苦しむのだった。
[#改ページ]
二十
夏はすぎ、ケシと矢車菊、麦ナデシコとエゾギクはしぼんで消えうせ、池のかわずの声もしずまりかえり、コウノトリは空高く舞い上って、南へ旅立つ用意をしていた。その頃おい、ゴルトムントは帰ってきた。
彼が帰ってきたのは、雨のそぼ降る午後のことだった。彼は修道院へは入らずに、門からまっすぐ仕事場へ行った。徒歩だった。馬ではなかった。
エーリヒは、彼が入ってきたのをみて、びっくりした。エーリヒは一眼で彼とわかり、胸を高鳴らせたが、そこへもどってきた彼の姿は、まるで他人のようにかわりはてていた。にせのゴルトムントだった。ずっと老いこんで、顔は半ば光を失い、ちりまみれで、灰色だった。表情はくずれ、病人のようにいたいたしかったが、そこには苦痛のあともなく、むしろほほえみが、人のよい、老人じみたしんぼう強いほほえみが、あらわれていた。彼は足をひきずって、やっと歩いていた。病気で、疲れきっているようすだった。
他人のようにかわりはてたゴルトムントは、若い助手の眼を不思議そうにのぞきこんだ。彼は旅からもどったのに、となりの部屋からでも出てきたように、あっさりしたようすで、手をさし出し、黙っていて、あいさつも質問も話もしなかった。ただ「眠らなくちゃいかん」といったきりだった。
彼はひどく疲れているらしかった。彼はエーリヒを去らせると、仕事部屋のとなりの自分の部屋へ入った。帽子をぬぐと、そのまま床にすて、靴をぬぎ、ベッドの方へ行った。部屋のうしろの方に、自作のマリア像がおおいをかけられて、置いてあったが、ちょっとその方へ向ってうなずいただけで、行っておおいをとり、あいさつがわりに眺めようともしなかった。その代り小窓の所へ忍びより、そとでエーリヒが当惑して立っているのをみつけると、彼に向って、叫んだ。「エーリヒ、わたしがもどったって、誰にもいわなくたっていいよ。とても疲れてるんだ。明日までには間がある」
それから、彼は着がえもせずに寝た。しばらくそうしていても、眠れないので、起き上って、だるそうに小さい鏡のかかっている壁の方へ行って、顔を映してみた。彼は鏡の中からのぞいているゴルトムントを、じっとみつめた。疲れて、年をとり、しなびてしまって、ひげがひどく白くなったゴルトムントを、じっとみつめた。小さい曇った鏡に映っていたのは、どことなくすさんだ老人で、昔ながらの顔だったが、ひどく変っていて、この世のものとは思えず、自分には縁もゆかりもない者のように思われた。彼はそれを見ていると、昔見たことのある顔が、あれこれと思い出された。いくらかニークラウス親方に似ている所もあり、昔小姓服を作ってくれた老騎士に、似ているふしもあり、教会に安置してある聖ヤーコブ、巡礼服の下の顔は古色蒼然としているが、もともと朗らかで善良そうな、あのひげの老ヤーコブを思わせるふしもあった。
彼は鏡に映った自分の姿を、たんねんにしらべたが、それはまるで、どうしても他人の顔を思い出さねばならない、といったようすだった。鏡の中の姿にうなずいてみると、相手もうなずいた。確かに自分にちがいない、自分の感情のままに動くではないか。一人の疲れきった、いくらかもうろくした老人が、ここへ旅からもどってきたのだ。別に変ったところのない男だ。別にどうということはない。自分はその男に別に異存はない。それどころか、かえって気にいった。その男の顔にはどこか、昔のかわいらしいゴルトムントにはなかった物があった。疲れきり、痛めつけられた顔には、満足の色、あるいは落ち着きの色があった。彼がひとりほほえむと、鏡に映った男もいっしょにほほえんだ。すばらしい奴を旅から連れもどったもんだわい。奴はげっそりして、ひどく陽にやけてもどってきた。馬と旅行かばんとお金をなくしただけではなく、他のものも失ったのだ。青春、健康、自信、赤いほお、眼の力もなくしたのだ。それでも、彼はこの男が気にいった。鏡に映った貧相な老人の方が、長年の自分であるゴルトムントよりは、ずっとこのましかった。この男は昔よりふけて、弱くなり、衰えていたが、悪意がなく、満足している。この男となら、うまくやれるだろう。ゴルトムントは笑いながら、たるんだ一方の下まぶたをひっぱって、また寝床に横になって、こんどは眠りこんだ。
その翌日、彼は部屋の机にかがみこんで、少し下絵を描いてみようとしていると、ナルチスがたずねてきた。彼は戸口の所にたたずんでいった。「帰ってきたときいたものだから。とてもよろこんでいるよ。君がたずねてこないから、わたしの方からきたのですよ。仕事中なの?」
彼が歩みよると、ゴルトムントは紙をおいて立ち上り、手をさし出した。エーリヒから話はきいていたものの、彼は友の顔をみて、はっとかたずをのんだ。友はにっこりほほえみかけた。「はい、またもどってきました。ナルチス、ようこそ。しばらくぶりですね。こちらからおたずねするところを、すみません」
ナルチスは友の眼をじっとみつめた。彼もまた、いたましくも衰え、どんよりした顔を見ただけではなく、別のものを、落ち着き、いや無関心の不思議に快い相を、献身と善良な老境の不思議に快い相をもみたのだった。彼は、人相をみるのになれていただけに、この変りはてたゴルトムントが、もはやこの世の人ではないこと、その魂はもう遠く地上をはなれて、夢路をたどっているか、それともすでに来世の門前にたたずんでいることも、すぐみてとった。
「病気なの?」と、彼は用心していった。
「ええ、病気なことも病気なんですが。もう旅の始めから、最初の日からもう、具合が悪かったんです。でもねえ、すぐもどりたくもなかったんで。すぐ舞いもどって、旅の長靴をぬいだりしたら、それこそ物笑いのたねだったでしょうね。とにかく、そんなわけで、旅をつづけ、少しばかり歩き廻りました。お恥ずかしい次第ですが、旅は失敗でした。ちょっと大きな口をききすぎました。全く、いい恥さらしです。それはそうと、あなたにはこの気持も、わかっていただけますね。物わかりのいい方ですから。すみません、何かおたずねでしたか。ほんとに変なんですが、いったい何の話をしているのか、ど忘れすることがよくあるんです。でも、わたしの母のことは、おっしゃるとおりでした。ほんとにつらかったんですが……」
彼のつぶやくような声は、ほほえみにまぎらされた。
「ゴルトムント、またもとのからだにしてあげましょう。どんなことでもしてあげよう。それにしても、具合が悪かったら、どうしてすぐもどらなかったの? なにも恥ずかしいことなぞ、ないのにね。すぐもどるとよかったのに」
ゴルトムントは笑った。
「そう、今になってみると、馬鹿なことをしたものだと思います。とても恥ずかしくて、すぐまたどうしてももどれなかったんです。でも、こうしてもどりました。もうまた具合がよくなりました」
「ずいぶんひどいめにあったの?」
「ひどいめですって? ええ、いやになるくらい。でも、わたしには楽になりました。おかげで、物がわかるようになったんですから。もうこんどは恥ずかしくありません。あなたにだって、あなたがあの時、わたしを助けに、地下牢にいらしった時は、あなたに恥ずかしくて、歯をくいしばらずには、いられませんでした。もう昔のことですが」
ナルチスが彼の腕に手をかけると、彼は口をつぐんでほほえみ眼をとじた。彼は安らかに眠りこんでいた。院長はあたふたと走っていって、病人をみてもらうように、修道院の医者アントーン師を連れてきた。もどってみると、ゴルトムントはあいかわらず、机にもたれて眠っていた。二人は彼をベッドにうつし、医者が看病に残った。
ゴルトムントは重態だった。病人は病室へうつされ、エーリヒがつききりで看病することになった。
この最後の旅のもようは、とうとうわからずにしまった。彼はぽつりぽつり話したが、いろんなことが推測された。彼はよく放心状態にあったと思うと、熱をだして、うわ言を言い、また意識をとりもどし、その度にナルチスが呼ばれた。ナルチスにとっては、ゴルトムントとの最後の話は、非常に大切だった。
ゴルトムントのきれぎれの話と告白を、いくらかナルチスは伝えている。助手のエーリヒが補った部分もある。
「いつから苦しくなったのか、とおっしゃるんですか? 旅立ってすぐです。森の中で馬もろとも倒れて、小川に落ち、一晩中冷たい水の中に倒れていたんです。肋骨が折れて、ここの所がそれ以来痛むんです。その時、まだここからそう遠く行ってなかったんですが、もどりたくなかったんです。子供っぽいけど、変に思われるだろう、という気になったんです。それで、また馬の旅をつづけたんですがひどく痛んで、馬にのれなくなったので、馬を売り、長いこと病院にねていました。ナルチス、もうこんどはここにいます。馬にはのれないし、旅もできません。踊りも女も、もういけません。でなかったら、もっと、何年も、もどらなかったでしょう。でも、しゃばへ行っても、もう何もたのしめないと思い知ると、あの世へ行く前に、まだ少し描いたり、彫ったりしてみたい気持になったんです。人には何か喜びがいるものですね」
ナルチスは彼にいった。「君が帰ってきてうれしいよ。君がいないと、淋しくて仕方がなくて、毎日君のことを考え、君がもう帰らないのじゃないか、と心配したことがよくあるのです」
ゴルトムントはかぶりをふった。「そうだとしても、たいしたことはなかったでしょうが」 悲しさといとしさに胸迫ったナルチスは、静かに身をかがめて、長年親しくまじわりながら、一度もそうしたことがなかったのに、今始めて、ゴルトムントの髪と顔に、くちびるをふれた。ゴルトムントも始めはけげんそうな顔をしていたが、そうと知ると、こみあげてくるものを感じた。
友はゴルトムントの耳にささやいた。「ゴルトムント、今頃こんなことをいって、許して下さい。司教座の都で、君を地下牢にたずねた時でも、君の最初の像をみた時でも、いつでもいいから、君にそうすべきだったのです。きょうそれを君にいわせて下さい。わたしは君がほんとにすきだ、いつも大切な存在だった。どんなに君はわたしの生活をゆたかにしてくれたことだろう。君は愛されることになれていて、愛されても、別になんとも思わないでしょう。沢山の女の人に愛されて、甘やかされているから。でも、わたしは別です。わたしの生活は愛情にとぼしかった。大事なものが欠けていたのです。あのダーニエル院長様にいつか、思い上っている、といわれたのですが、多分そうでしょう。わたしは誰にも、まちがった事はせず、誰に対しても、正しくしんぼう強くしようと努力したのです。でも、愛したことはないのです。修道院に学者が二人いたら、学問のある方がこのもしいのです。弱点はあっても、劣った方の学者を愛することはなかったのです。それでも、愛というものがわかったのは、君のおかげなのです。君だけが愛せたのです。この世で君だけが。この意味は、君にはわからないでしょう。それは沙漠《さばく》のオアシスです。荒野に花咲く一本の木です。君あればこそ、わたしの胸はかれず、神の恩寵が及びうる一つの点が、わたしの胸の中に残ったのです」
ゴルトムントはうれしそうだが、いくらか当惑してほほえんだ。意識のはっきりした時の、低い落ち着いた声で、彼は話した。「あのとき絞首台から助けていただき、いっしょに馬で帰る途中、愛馬ブレスのことをおたずねしたら、ちゃんと御返事して下さったんです。わたしはあのとき、いつもは馬など見わけがつかないはずのあなたが、ブレスのことは頭においていて下さったことが、わかりました。それもわたしのためかと思うと、うれしくてしようがありませんでした。やっぱりそうで、わたしを愛しておられたのが、こんどははっきりしました。ナルチス、わたしもあなたがいつもすきだったんです。わたしの半生は、あなたの愛を求めることでした。あなたも愛していて下さるのは、わかっていましたが、誇りの高いあなたのことですから、いつか打ち明けて下さるとは、思いもかけませんでした。今、それをおっしゃったんです。今こうして、すべてを失い、旅にも自由にも、世間にも女にも、見すてられてしまった時になって。あなたの愛をいただきます。ありがとうございます」
部屋にあったリューディアを写したマリア像が、二人を眺めていた。
「死ぬことばかり考えているの?」ナルチスがたずねた。
「はい、それを考え、わたしの一生がどうなったかも、考えています。まだあなたに教えていただいていた子供の頃、わたしはあなたのように、精神の人になりたい、と望んでいました。ところが、あなたは、わたしが生れつきそんな人には向かないことを、示して下さったんです。それから、わたしは人生の反面である官能へ向って突進し、女たちに教えられて、やすやすとそこに歓楽をみつけました。女たちは自由になり、あくことを知りませんでした。でも、わたしには、女たちを馬鹿にしたり、欲情をあざわらったりする気は、もうとうないのです。わたしはよく幸福に酔いしれたのですから。そして、わたしは幸せにも、欲情が魂を吹きこまれることがあるのを経験したんです。ここから、芸術は生れるのです。でも、今ではこの二つのほのおも、消えうせました。今では、獣のような幸福な情欲もありません――今、女たちに後を追われても、そんな情欲はもてないでしょう。もう芸術作品を作りたい、とも思いません。もう十分刻みました。数はどうでもいいことですが。ですから、もう死んでもいい時なんです。喜んで死にます。興味さえあるんです」
「どうして興味があるの?」ナルチスがたずねた。
「そう、どっかおかしくきこえるでしょうね。でも、本当に興味があるんです。ナルチス、あの世にではありません。そんなものはほとんど考えません。打ち明けて申しますと、わたしはもうそんなものを、信じてはいません。あの世なぞありはしません。木は枯れれば、それっきりです。凍えた鳥は生きかえりはしません。人間だって、死ねば同じことです。死ねば、しばらくは思い出してくれる人もいるでしょうが、それだって長つづきはしません。いいえ、わたしが死に興味をもっていますのは、わたしが母を探す途中であるということを、今もって信じ、あるいは夢見ているからなのです。死は大きな幸福で、始めてみたされた恋のように、大きな幸福だと思っています。わたしを再び受けいれ、無と清浄の中へ連れもどしてくれるのは、大鎌をたずさえた死神ではなくて、わたしの母だろうという考えを、どうしてもすてきれないんです」
ゴルトムントがもう口をきかなくなってから、何日かたって、ナルチスが何度目かにたずねると、彼は意識をとりもどしていて、おしゃべりをした。
「時々ひどく苦しいに違いない、とアントーン師がいっていました。ゴルトムント、どうしてそんなにじっと我慢していられるの。君はもう心の平安をみつけたようですね」
「神の平安ですか。いや、みつけません。神の平安なんかいりません。神はこの世をつくりそこねました。この世をほめたたえる必要はないんです。わたしが神をたたえようと、たたえまいと、神は平気でしょう。神はこの世をつくりそこねたんです。でも、わたしの胸の苦痛と、わたしは仲なおりしました。それはほんとうです。前には苦痛が我慢できませんでした。よく、死ぬのは平気だろう、とは思っていたんですが、全然考えちがいしていたわけです。いよいよというどたん場になって、あのハインリヒ伯の地下牢の夜、それがはっきりしたんです。そうやすやすと死ねるものではない、まだ意気と力にあふれている。ちょっとやそっとで死んでたまるものか、という気になりました。でも、今は別です」
語りつかれた彼の声は、かすれてきた。ナルチスは用心するように願った。
彼は語った。「いいえ、お話したいんです。以前はとても恥ずかしくて、お話できなかったんですが。こんなお話をしたら、きっとお笑いになるでしょうね。あの時、馬でここを旅立ったのは、いくらかあてがあってのことなんです。ハインリヒ伯がまたこの国にみえていて、愛人のアグネスもいっしょだ、といううわさを耳にしたからなんです。むろん、あなたにはどうでもいいことでしょうし、今のわたしにも、そうなんです。でも、そのうわさをきいて、わたしの胸は燃え立ちました。アグネスのことで頭がいっぱいでした。彼女はわたしが知り、愛した女の中で、一番きれいでした。彼女ともう一度会って、いっしょに幸福を味わいたい、と思ったのでした。旅に出て一週間目に、彼女に会えました。その時、その場で、わたしは変りました。アグネスに会ってみると、あいかわらずきれいでした。そして、会って話す機会をみつけました。ところが、ナルチス、どうでしょう。見向きもしてくれないんです。わたしは年をとりすぎて、もうきれいでも、満足のいく代物《しろもの》でもない、と思ったのでしょう、もうわたしのことなぞ、どうでもよかったのです。ほんとうはそれで、わたしの旅は終ったんです。それでも、わたしは旅をつづけました。幻滅の悲哀にうちのめされ、道化者のようなかっこうで、あなたの所へもどりたくはなかったんです。そして、旅をつづけるうちに、わたしの力と若さと分別は、全くなくなってしまいました。馬もろとも谷におっこちて、谷川にはまり、肋骨を折って、水につかっていたからです。そのとき始めて、わたしはほんとうの苦痛を知りました。落馬するとすぐ、胸の中で何か折れるように感じましたが、折れてうれしかったんです。その音が気持よく思え、みちたりた気持になったんです、水につかりながら、死ぬんだなと思いましたが、地下牢の時の気持とは、全然違った気持でした。いっこう反抗しませんでした。死ぬのもいやには思えませんでした。痛みはひどくて、それからも度々悩まされました。わたしはそこに夢をえがき、あなたのいわゆる幻影をえがきました。わたしは倒れていましたが、胸は焼けるように痛みました。身をもがいて、わめいているとき、一つの笑い声がきこえました――子供の頃から絶えて久しくきくことのなかった、一つの声でした。それはわたしの母の声でした。歓楽と愛にみちた、深みのある女の声でした。見ると、それはたしかに母で、母はよりそって、わたしをひざに抱きあげるのです。そしてわたしの胸をはだけ、指をわたしの肋骨の間にぐっとつっこみ、わたしの心臓をつかみ取ろうとするのです。そうとわかると、わたしはもう痛みを感じまんでした。今こうしていても、痛みがおそうことがありますが、それは痛みでも、敵でもありません。わたしの心臓をつかみ出そうとする母の指です。母は懸命です。何度も指をつっこんでは、感きわまったようにうめき、何度も笑っては、愛撫の言葉をつぶやき、何度もわたしのそばをはなれて、天空の雲間に、大きな雲のように、その顔をのぞかせます。母は雲間にただよい、さみしげにほほえみ、このさみしげなほほえみはわたくしに吸いつき、胸から心臓を吸い出そうとするんです」
彼は何度もくりかえし母の話をした。
彼は最後も近いある日のこと、こうたずねた。「まだ覚えておられますか? わたしは一度母のことを、忘れてしまったんですが、あなたがまた呼び覚して下すったんです。あの時も、獣に腹わたをくわれるような、痛みを感じました。わたしたちはあの頃、まだ若くて、かわいい少年でした。でも、母はわたしに呼びかけ、わたしはその声にしたがわないわけにはいきませんでした。母はどこにもいました。母はジプシー女のリーゼでした。ニークラウス親方のきれいなマドンナでした。生命、恋、情欲でした。不安、飢え、衝動でもありました。こんどは、母は死です。わたしの胸に指をつっこんでいるんです」
「そんなにしゃべってはいけないよ。明日まで待ちなさい」と、ナルチスは願った。
ゴルトムントは、旅からもちかえった、あの新しいほほえみを浮べて、ナルチスの顔を見守った。そのほほえみはひどく老人じみて、弱々しそうで、いくらか愚鈍そうにみえることも、よくあったが、善良さと賢明さだけにあふれていることも、よくあった。
彼はささやくようにいった。「ねえ、明日までは待てはしません。もうお別れしなくてはいけないんです。そして、お別れにあらいざらいお話したいんです。もうちょっとおきき下さい。母の話がしたいんです。母が胸を抱いていてくれる話です。母の像をつくるのが、長年の一番すきで、神秘的な夢でした。それはわたしにとって、あらゆる像の中で一番神聖なものでした。わたしはいつも、この愛と神秘にみちた姿を、持ちまわっていました。少し前のわたしでしたら、その像をつくらずに死ぬかもしれないと考えると、たえがたかったでしょう。わたしの生涯が何の役にも立たなかったことに、なるからなんです。ところが、母とわたしの関係は、まるで変になったんです。わたしの手が母の姿を形成するどころか、わたしを形成しているのが、実は母なんです。母はわたしの心臓をつかんでつかみ出し、わたしの胸をうつろにするんです。母がわたしを死へ誘い、わたしといっしょに、わたしの夢、あのきれいな像、大いなるイブ・母の像も死んで行くのです。今でもその像は、この眼に見えます。手に力さえあれば、それが彫れるんですが。でも母はそれをすかないんです。自分の秘密があらわれることを、いやがるんです。むしろ、わたしが死ぬのを、母は望んでいるんです。わたしはよろこんで死にます。母がやすらかに死なせてくれるんです」
ナルチスは度を失って、その言葉に耳をかたむけていた。それをはっきりききわけるには、友の顔の上にふかぶかとかがみこまねばならなかった。はっきりきこえない言葉も多かった。ききとれても、意味のわからないことも多かった。
さて、病人はもう一度眼を見開いて、長いことじっと友の顔をみつめていた。彼は眼で友に別れを告げたのだ。彼はうなずこうとでもするかのように、ちょっとみじろぎして、ささやいた。
「ナルチス、お母さんというものがなかったら、いったいどうして死ぬおつもりですか。母がなかったら、愛すことはできません。母がなかったら、死ぬことはできません」
彼は何かまだつぶやいたが、もう意味はわからなかった。最後の二日間は、夜も昼も、ナルチスは病床につききりで、彼の命が消えて行くのを、じっと見守っていた。ゴルトムントの最後の言葉は、ほのおのように、彼の胸の中で燃えつづけていた。(完)
[#改ページ]
解説
一 ヘルマン・ヘッセの人と作品
[血筋]
ヘルマン・ヘッセ(一八七七〜一九六二)の父ヨハネスは、エストニアの医者でロシアの枢密顧問官《すうみつこもんかん》だったカルル・ヘルマン・ヘッセの息子で、立派な新教の宣教師としてインドで数年布教したが、病気で帰国し、「聖書のグンデルト」として有名なインド学者・神学者ヘルマン・グンデルトの助手となって、カルヴの出版組合で働いた。そこで結ばれたマリー・グンデルトは、インドで生まれ、フランス・スイス系の母の性格をうけ、小柄だが、善良で活発、父ににて信仰のあつい人だった。つまり、ヘルマン・ヘッセの父は、バルト海地方のなまりのドイツ語を話し、母は音楽ずきで明るかった。かれは生まれながらに、対称的な南北の二つの血筋をうけていたのだった。
母の日記によれば、ヘッセは空想的な元気のある少年で、両親や祖先からちがった精神をうけついでいた。その上、早熟な子供は「大変な強さ、意志の力」ももっていた。両極的で対称的な血をうけついだ子供が、宗教的な空気の中でそういう性格をそなえるようになったことを、ヘッセは自覚していて、一九四六年の妹アデーレ宛ての手紙に、「おじいさんの善良な分別、ぼくらのお母さんのとめどもない空想の愛と力、ぼくらのお父さんのきよらかな悩む力と感情ゆたかな良心、こういうものがぼくらを育ててくれたのです」とかいている。この手紙によれば、当時のヘッセ家は、信仰と東洋の学問、音楽と交際の場所であり、「いかにもドイツのプロテスタントらしい……一つにまとまった。清らかで、健康な世界」だった。この血筋と家庭こそ、分裂した自我の統一をめざすヘッセ文学の故郷である。
[生きる悩み]
生きる悩みは誰にもさけがたい。しかし、それこそ立派な人間をつくりだすことは、周知のことである。「艱難《かんなん》汝を玉にす」と格言にもある通りである。詩人のばあいもそうである。
ヘッセは野人のように――学者のようながっしりしたトーマス・マンにくらべて――やせぎすで頑健だったからこそ、八十五歳までなが生きしたのだろうが、かれの尊敬する八十三歳まで生きたゲーテのように、自殺未遂だったことは、注目すべきことである。二人とも詩作によって生きる悩みを征服し、体験としての文学の金字塔をうちたてたのである。このゲーテも、父母から対称的な矛盾する素質をうけついでいることは、――それは正に「二つの魂」なのだが――その自伝「詩と真実」にある通りである。
人は誰でも努力して生きる悩みにうちかち、人生をまっとうするのだが、すぐれた詩人は詩作によってそれを征服する。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」やヘッセの「車輪の下」は、そのみごとな証拠である。
十三歳の少年ヘッセは父の意志に従って、マウルブロン神学校に入学しながら、やがて寄宿を脱走、神経衰弱でくるしみ、失恋のあげく自殺未遂をし、どこにつとめても三日とつとまらず、故郷の町の機械工場で働いているうちに、いくらかおちついて、やがて書店につとめ、読書と詩作にはげみ、詩人となる。この間の事情は、名作「車輪の下」(一九〇六年)と「ヘルマン・ラウシャーの遺稿と詩」(一九〇一年)に、あますことなくえがかれている。どんな少年や青年にもみられる生きる悩みが、いかに乗り越えられたかが、みごとに文学化されている。ここに、ヘッセ文学が多くの若い読者をたえずひきつける秘密が、ひそんでいる。ヘッセ文学が「青春の文学」だといわれるのは、そういう意味なので、それは決して単なる「甘美なロマンチックな青春文学」ではない。
七十四歳の老ヘッセは、「車輪の下」の愛読者で、自殺をあこがれる生徒に宛てた手紙で、神学生のとき自殺しなかったのは、別に理由はないが、芸術家の喜びと好奇心のせいで、死より生がこのもしいと思われたからである、とかいている。「あなたの内なる天分や力」があなたの救いとなってほしい、というのがヘッセの願いだった。この考えは、自殺を罪悪視するキリスト教思想から生まれたとしても、かれの本質的な生の力としての芸術観を、はっきり示している。こんなわけで、ヘッセ文学が「魂の伝記」とか、「前進的自我文学」(秋山英夫氏)とよばれるのは、当然だろう。ヘッセは次々に生きる悩みを詩作によって乗り越えたからである。その文学はまた、若い読者にとっては、生きるためにはげましにもなる。
[生きる支え]
ヘッセの生と文学を支えたのは、いったい何だったのか。最初の少年の悩みを切りぬけさせ、やがて第二回(三十九歳)の精神の危機を征服させたのは、何だったのだろうか。それは「母の日記」にあった「意志の力」であり、エッセー「わがまま」(一九一九年)にのべられている「わがまま」であり「略伝」(一九二四年)にある「ただ詩人だけになりたい」という、十三歳の少年のいだいた覚悟である。どんな職業にも、「それへの道」はあるのに、詩人にだけは、それがない。自己とこのはるかな目的の間には、深淵《しんえん》しか存在していない。この自覚は十三歳の少年にとっては、それこそ無限の悩みだった。しかし、この悩みが最初の少年の悩みを克服させたとは、正に生の神秘だろう。いくたの心戦を詩人として戦いぬいて、八十五歳の天寿をまっとうしたヘッセは、いわゆる|しん《ヽヽ》の強い人だった。
生まれつき空想的だったヘッセは、反市民的で、他からの強制をきらい、孤独と自由を愛し、病的に内向的だったが、やがて|しん《ヽヽ》の強さで「自然への復帰」をはかった。「ペーター・カーメンチント」(「郷愁」)(一九〇四年)は、そのみごとな心戦の記録である。この作は、ニーチェやワグナーやフロイトの影響下に台頭しつつあった新ロマン派にのって、ヘッセを有名にした。
「車輪の下」と「郷愁」がわが国の読者にも愛読されているのは、「青春の生きる悩み」をまじめに、しかも抒情的にえがいているからだが、主人公たちの|しん《ヽヽ》の強さが、共感をよぶからでもある。その詩的な文章は、論理的にみごとに構成されたトーマス・マンのそれと、ドイツ詩文の二つの流れを示しているようである。天性の相違によるのだろうが、この二つを、モーツァルトとワグナーの音楽になぞらえたら、どうだろうか。
[戦争と平和]
他からの強制をきらい、わがままに徹することによって自由を求め、心の平和を念じていたヘッセにとって、第一次世界大戦は大きな試練だった。非政治的なかれの行動は年譜にある通りだが、かれは「新チューリヒ新聞」に寄稿し、ゲーテの例をあげてスイスの人々に平和を訴えた。どんな反撃をうけたかは、かれが生活にさえ困るようになったことによっても、わかるだろう。それでも節を屈しなかったのは、自己のさながらの心に忠実であることを念じていたためである。「真の勇者は孤立したときもっとも強い」といわれる通りである。しかし「徳は孤ならず」であり、ヘッセはフランスの心の友ロマン・ロランをえたのだった。
戦時中から戦後にかけて、年譜にもあるように、ヘッセは第二の危機におそわれた。父の死と末子の重病だけでも、孤独なかれにはたえがたかったのに、妻の精神病の悪化という悪条件さえ加わったのである。大学の数学の教授の娘で神経質なピアニストだったマリー夫人の病気は、まるで共鳴現象のように、ヘッセをくるしめた。かれ自身の自殺未遂や弟ハンスの自殺(一九三六年)を考えあわせても、南北の血をうけついだかれには、そういう精神的な弱点があったように思われる。かれは、こんどは精神分析医ラングの治療をうけ、フロイトやユングの書にしたしみ、やがて「デーミアン」(一九一九年)をかいて、この難局をきりぬける。この作のオルガン演奏者ピストーリウスは、ラングがモデルだとされているように、この作は精神分析的手法を用いた最初の作品である。
フロイトの精神分析は方々の国にひろまり、独自の発展をとげたが、スイスではユングが、すべてを性欲に帰せんとする暗いフロイトとは別に、普遍的無意識――個人の経験ばかりでなく祖先の体験も無意識内に入りこむ――を取り入れ、未来や目的による前向きの解釈を行って、チューリヒ派を形成した。この実存分析派のラングは、きっとヘッセに未来への展望と希望を与えたことだろう。
精神分析は、精神病の治療法の一つで、催眠術、暗示、対話、自由連想などいろいろの方法を用い、患者の無意識の深層心理にひそむものを自覚させること、すなわち意識化することによって、精神障害をとりのぞこうとする方法である。数十回の面接による分析の効果は不明だが、ヘッセはこの作品でみごとにこの方法の明るい見通しをえがいている。デーミアンの母「エーヴァ夫人」(楽園のイヴと同名)の面影は、ユングのいう普遍的無意識にひそむ人類の元型をつたえ、精神分析には現われがちなものだが、ヘッセが「詩集」(改題「青春詩集」)を捧げてもいる母へのコンプレックスの投影なのかもしれない。とにかく、この面影が「知と愛」のゴルトムントの「母なるもの」にもつながっていることに、注目しておきたい。
精神分析者になるには、みずから分析をうけねばならない、という原則があるようだが、自然(本性)と精神の戦いに通じた心戦の勇者ヘッセは、今やラングの精神分析をうけることによって、自己を救ったばかりでなく、その過程を精神分析的にえがくことによって、多くの人々に「魂の伝記」としてのみごとな青春の書を贈ったのである。「デーミアン」は、精神分析によって自己への道をたずねたみごとな作品である。
[愛の重さ]
病妻と別れてひとりモンタニョーラに移ったヘッセは、絵筆にしたしみ、詩と絵のみごとな「画家の詩」(一九二〇年)をかいた。かれのインド旅行は、家庭における愛の重さにたえかねた傷つきやすい心のあこがれのためだったようだが、この旅行とかねてからの東洋への関心は、やがて「シッダールタ」(一九二二年)を生みだす。ヘッセは東洋の英知の書ともいうべきこの作で、「世界を達観し、解釈し、けいべつするのは、大思想家の仕事だろう。だが、わたしの唯一の問題は、世界が愛せること、世界をけいべつせず、世界と自分をにくまず、世界と自分と万物を愛と賛美と畏敬をもってみつめることができることである」とのべ、この作品に調和的な結果を与えている。愛の重みにたえかねたかれは、心の願いをこのような作に結晶させ、生きる悩みを乗り越えようと試みたのだろう。
マリー夫人と離婚したヘッセは、その翌年ルート・ヴェンガーと再婚するが、新しい生活も完全なものではなかったらしい。当時のかれの手紙には、「もうお手紙をかかないで下さい。ノーマルなみちたりた市民生活を拝見するのは、今のところがまんできません」とあるが、世界や自己がかれにとってまたおぞましいものとなったのである。五十歳のヘッセは、再びハリー・ハラーの姿をかりて自我像をようしゃなく分析する。精神病的理想主義者ハラーの空想としての「荒野の狼」(一九二七年)は、ヘッセたちの世代のノイローゼの診断と治療の書なのだが、「魔的な自我の無意識」に立ち入ることによって、失われた自我の統一を回復する過程を示している。あこがれ求める別の現実が、自己の内にだけ見い出される、という認識は、自己との出会いという死の体験をともなう程の苦行によってのみえられる、これがこの作の内容である。
「荒野の狼」に苦吟するヘッセは、新妻との愛の重さにたえることができなかった。二人は別れるほかなかった。かれの心はおだやかではなかった。ここに「知と愛」(一九三〇年)誕生の秘密があるようである。それは、あいよる二つの魂――あるいは、分裂した自我――が愛に結ばれる「友情の物語」だからである。
[モンタニョーラの山荘]
新しい山荘に移ったヘッセは、ニノン・ドルビンと結婚した。愛に結ばれる可能性を、愛し理解し援助してくれる彼女に見つけたからだろう。二人は生涯をともにすることになる。当時は、ヒットラーが現われ、ナチス時代が始まろうとしていた時でもある。トーマス・マンは外国に亡命し、カロッサは国内にとどまる。ヘッセは十年の歳月をかけて、時代批判の未来小説「ガラス玉遊戯」(一九四三年)を完成、スイスの書店から出版する。この長編小説は、二三〇〇年代の人間が、とぼしい資料で二一〇〇年代の人間の伝記をかく、という形式のもので、精神の世界をすてて世界に奉仕せんとする、自己の理想をえがくことで、きびしく同時代を批判したものである。このような心のゆとりは、賢明なニノン夫人の内助のたまものである。
戦後ゲーテ賞とノーベル文学賞をうけたヘッセは、山荘にこもり、静かに落葉をたき、絵筆をとり、詩集をあみ、小説をかきつづけた。わが国の巨匠のように、ゆうゆう自適の晩年を、ほとんど無為にすごすことはなかった。ヘッセは完全に病める魂を征服し、すこやかな晩年に恵まれたのだろうか。そうではあるまい。若い頃「霧のなか」(「詩集」一九〇二年)で、
[#ここから1字下げ]
霧のなかをさすらうことのふしぎさ!
生きることとは孤独であるということだ。
どのひとも他人を知らず、
みなそれぞれにただひとり。(登張正実氏訳)[#ここで字下げ終わり]
とうたった詩人は、山荘の入口に「訪問おことわり」(ビッテ・カイネ・ベズーヘ)と貼り出している。かれの傷つきやすい、夢みるような、内向的な、孤独な魂は、そのままだった。しかし、しんの強さと詩作によって生きる悩みを乗り越えのりこえしてき、自己実現につとめ、いつの間にかよりよく生きて詩作する「わが道」とマイ・ペースを体得したのである。それはみごとな克服であり、みごとな人間の一生であり、みごとな詩人の道である。トーマス・マンのいうヘッセの「|ひとりゆく者の歩み《アンツエルゲンゲライ》」(「チューリヒ新報」一九四七年)とか、優れた思想家マルチン・ブーバーの「|ヒューマンな人《ホモ・フーマーヌス》」(「新ドイツ・ノート」一九五七年)とかいう評語は、そういう意味で、詩人の真の姿をみごとにとらえている。
二「知と愛」
[マウルブロン修道院]
十二世紀末から建てられ始めたシトー会のこの修道院は、現存する中世の修道院の代表的なもので、今ではプロテスタントの高校などのあるみごとなその建物は、多くの拝観者をひきつけている。
ある夏の夕ぐれ、ヘッセの故郷の町カルヴからマウルブロン村にたどりついたわたしは、門前のホテル「修道院」に旅装をとくと、修道院の菩提樹のそびえる庭にかけこんだ。想像していたよりみごとな修道院だった。夏にしては冷え冷えとした夕方だったが、団体の拝観者からはなれてひとりで方々あるいてみた。「車輪の下」や「知と愛」の数々の場面が、次々に回想され、なつかしい胸苦しさにさえおそわれた。案内人には、不思議な日本人客だったろう。静かな村の周囲を散歩しながら、ホテルの部屋の窓から修道院の周囲の森のたたずまいを眺めながら、ぼくはヘッセへの思いと旅情にかられたものである。
ヘッセの最初の小説「車輪の下」の重要な舞台の一つは、「森の丘と小さい静かないくつかの湖との間」にあるマウルブロン修道院である。そして、最後の物語――未来小説「ガラス玉遊戯」をのぞいて――「知と愛」が、マリアブロン(マウルブロン)修道院に始まり、そこの一隅に終わることは、象徴的な意味をもっている。詩人ヘッセの魂の故郷は、この修道院であるという意味である。詩人の分裂したいたましい魂は、ナルチスとゴルトムントのように求めあい、さすらい、はげしい心の戦いをたたかい、平安を求め、ぎりぎりの時になって和解し、合一する。知と愛がとけあい一つのものになる場面は、信じ望み愛しあうことに命をかける「修道院」であるべきなのである。
「知と愛」では地名は、マリアブロン以外はすべて不明である。時代も場所も不明だが、――中世末期のシュワルツワルト(黒森)地帯か――このマリアブロン(「聖母マリアの泉」)という地名だけが明記されていることは、作者のそこへの関心の強さとともに、この地名のもつ象徴的な意味を、暗示しているようである。
[魂の伝記]
「荒野の狼」を出版し、愛の重さにたえかねて二度目の離婚をし、心身ともにつかれはてたヘッセは、|しん《ヽヽ》の強さでまた立ちなおり、こんどは精神(知としてのロゴス)と愛(自然にひそむエロス)の対立と合一に思いいたした。ゲーテの「二つの魂」のような精神と愛は、はたして結びつくものだろうか。別々に存在しうるものなのか。この問いが、ニノン・ドルビンに結ばれるまでの、かれの魂の戦いと成長を物語る「知と愛」となって結晶する。
ヘッセは当時の小品「仕事の一夜」で次のようにのべている――「新しい創作がわたしにとって生まれ始めるのは、しばらくの間わたしの体験や思想や問題のシンボルと担い手になれる人物の姿が、わたしに見えてくる瞬間である。こういう人物(ペーター・カーメンチント、クヌルプ、デーミアン、シッダールタ、ハリー・ハラーなど)の出現は、すべての源である創造的瞬間である。わたしの書いたほとんどすべての散文作品は、魂の伝記で、すべての作品で大切なのはフィクション、葛藤《かっとう》、緊張ではなく、作品はつまりは独白で、この独白においては、たった一人の人物、正にあの主人公の世界や自我との関係が、考察されるのである」
「車輪の下」や「デーミアン」でもわかるように、ヘッセの作品は、いわゆる大衆小説や週刊誌になれた読者には、面白くなくてにがてである。ヘッセもいうように、それは独白に近い魂の伝記だからだが、散文詩のようにみごとにえがかれた独自の作品のわからない人が、はたして文学のわかる読者といえるだろうか。面白おかしくひまつぶしに読みすてていいものと、読みかえすたびに新たに胸にこたえるものと、いったいどれが真の文学なのだろうか。それにしても、この「知と愛」の物語は珍しくロマネスクな小説である。しかし、多くの批評家や読者が、この物語の叙事的手法の成功を指摘し、ヘッセのもっとも詩情ゆたかな傑作であると賛美したのに対し、かれは皮肉に友人あての手紙にこう書いている――「『ゴルトムント』が大いにうけている。実際、それは『荒野の狼』と同じできで、この作とてテーマがもっとすっきりしていて、奏鳴曲《ソナタ》のように構成されている。だが、『ゴルトムント』をよむとき、ドイツの読者はパイプをすい、中世を思い、人生の哀歌を見い出したりでき、自分や自分の人生、仕事、戦い、『文化』などを考える必要がない。そこでまた気ままに別の本をみつけるだろう。まあ、どうでもいい、どうせわずかのいい読者だけが問題なのだから……」このように、ヘッセは大衆小説のように読みとばされるのを、きらっていたのである。
[友情の物語]
「ナルチスとゴルトムント」(一九三〇)が雑誌に連載されたとき、副題に「友情の物語」とあり、教えられること多かった最初の訳書(芦田弘夫氏訳、昭和十一年、建設社)の表題でもそうである。だが、前にもふれたように、この物語は「知と愛」とよぶにもふさわしい。なぜなら、この物語の主人公であるナルチスとゴルトムントは、知《ロゴス》と愛《エロス》、師と弟、父の原理と母の原理、聖職者と俗人、学者と芸術家であり、お互いに求めあい、反発しあい、いつも緊張関係にあるが、結局は別れるのではなく、両極的に結びつき合一するからである。ゴルトムントの官能的な愛は、母なるものによって、浄化され、やがて友や救いに向う純粋な愛となり、知の人である修道司祭ナルチスをも人間的な愛にめざめさせて、真のキリスト教的な血のかよった聖なる人にかえる。そして、二人はめいめいの完成に至り、二人の友情は全きものとなるからである。
「知と愛」という表題になじまない読者には、「友情の物語」の方がわかりやすいし、近よりやすいだろう。マリアブロン修道院での二人の出会いに始まり、そこの一隅での感動的な愛と死に終わる物語は、友情の初めと完成の物語にほかならない。ロゴスとエロス、知と愛の対立は、とけて結ばれて友情となる。ナルチスとゴルトムントのいささか趣《おもむき》を異にした物語は、単なるフィクションにとむ中世のロマンではなくて、「知と愛」という新しいテーマをもつ「友情の物語」なのである。
[母なるもの]
人の心を読むのに通じたナルチスは、したいよるゴルトムントにまず二人の違いを示し、その胸の奥底に母のまぼろしをめざめさせる。衝撃をうけた少年が回廊で倒れ、大さわぎになる場面は、ヘッセの精神分析者としての達見を示している。衝撃的な死の体験と爆発的な感情の解放によって、二人は別れてわが道を歩み始めるからである。二つの道は遠くけわしくとも、いつかは出会うはずである。
ナルチスはきびしい修道にあけくれ、ゴルトムントは修道院を脱走して、人生と女性の愛を知る。さすらい、愛され、愛し、女性への愛ゆえにさすらいの運命にたえる。初めて恋の手ほどきをしてくれたジプシー女、百姓女、町人の娘、武家の娘、代官の愛人……ゴルトムントをめぐる女人像は、多種多様でみごとというほかはない。ダーニエル神父にせよ、ビクトルにせよ、ニークラウス親方にせよ、よくえがかれているが、彼女たちにはかなわない。山荘にひきこもる孤独な詩人は、苦渋にみちた家庭生活のせいもあろうが、人の心ばかりでなく、女性の心もよく見ぬいていたのだろう。
ゴルトムントは女性の愛の遍歴をつづけるうちに、聖母像の聖なる美を通じて、別の愛の存在に気づく。それは、母なるもの、人類の母なるイヴへの断ちがたい愛である。それは、かつてナルチスによって呼びさまされた「胸のなかの母の呼び声」につながるさらに深い愛である。聖ヨハネ像にナルチスの面影《おもかげ》をきざみこんだゴルトムントは、やがて老いた病身を修道院によこたえる。最後の仕事は、かれの存在の源であり、救いの手である原母《ウールムッター》の面影を、聖母像にきざむことである。
愛するにも、死ぬるにも、母が必要なのだ――キリスト教の埒外《らちがい》にあるような臨終のゴルトムントが、うわごとのように語る告白は、修道司教のナルチスの胸を打つ。ナルチスは母の必要なこと、聖母に象徴される真の愛が必要なことを、初めてさそったからである。そこで、かれは始めて死の床にあるゴルトムントを、心友として胸にだくことができるのである。
ヘッセは珍しく官能的な愛をえがきながら、みごとにゴルトムントにおいてそれを浄化している。母なるもの(原母)の愛の救いは、きびしくいえば非キリスト教的だが、「教会のそとにも救いがある」というカトリック的立場からすれば、悟りをえたナルチスの感動によってもわかるように、やはり広い意味ではキリスト教的である。ヘッセは「無常」という詩で――
[#ここから1字下げ]
きょうはまだ燃えさかるものも、
たちまちに消えしずむ。
ぼくの土色の墓の上
やがて風が鳴りわたり、
おさなごの上に
母親がかがみこむ。
その母のまなこをまた見たいのだ。
彼女のまなざしはぼくの星、
他はすべて去りゆきて、散りうせるがよい、
すべては死にゆく、死にゆくをよろこんで。
ただひとり、ぼくらを生んだ永遠の母のみのこる。
彼女のたわむれの指はしるすのだ。
はかない風にぼくたちの名を。(登張正美氏訳)
[#ここで字下げ終わり]
とうたっているが、「永遠の母」とは原母のことである。
ゲーテが名作「ファウスト」の最後の場面で、贖罪《しょくざい》の女性である天上の「永遠に女性なるもの」にファウストの霊を救わせているのは、すばらしい手法だが、汎神論《はんしんろん》的な老ゲーテは、ここでは、「聖母による救い」というカトリック的な手法を用いている、といわれている。ゴルトムントの魂を案じ、ナルチスを真の悟りにみちびき、二人の友情を完成させようとしたヘッセは、常に敬愛していたゲーテのあの場面を、思い出していなかっただろうか。前にふれたように、ヘッセの原母は、ユングの普遍的無意識にひそむ元型の一つである「大母《グレート・マザー》」(個人の体験を越え人類に共通する一つの型)にも、関係があるようだが、やはりゲーテにまでつながるキリスト教的伝統の下で考えられるべきだろう。とにかく、「母なるものと人間の救い」というテーマは、古くて新しい永遠のものである。(永野藤夫)