デーミアン
ヘルマン・ヘッセ/常木実訳
目 次
第一章 ふたつの世界
第二章 カイン
第三章 盗賊
第四章 べアトリーチェ
第五章 鳥は卵から出ようとしてもがく
第六章 ヤコブの戦い
第七章 エーヴァ夫人
第八章 終局の最初のきざし
解説
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デーミアン
――エミール・ジンクレールの青春物語
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ぼくはただ、ひとりでにぼくのなかから生まれ出ようとするものを、生きてみようと思っただけだ。それがどうしてこんなにもむずかしいものだったのだろうか。
[#ここで字下げ終わり]
ぼくの物語をお話しするには、ずっと以前のことからはじめなければならない。もしできれば、さらにもっとさかのぼって、ぼくの幼年時代のごく初期のころ、いや、さらにそれを越えて、ぼくの血すじの遠い過去にまでさかのぼらねばなるまい。
作家たちは小説を書くとき、まるで自分が神であって、ある人間の歴史をすみずみまで見たし、理解できるかのように、そしていかにも神が神自身に語り聞かせでもするかのように、何もかもあからさまに、どんな場所でも要点をのがさずに表現することができるかのような、そういう態度をとるのが常である。ぼくにはそんなまねはできない。作家たちだってご同様、そんなことはできるわけがない。しかしぼくの物語は、ある作家にとって彼の物語が重要である以上に、ぼくにとって重要なのだ。というのも、これはぼく自身の物語であり、ひとりの人間の物語であって――架空《かくう》の人物、実在しそうな人物、理想の人物、まあそのほかなんであろうと、とにかく実在しない人物の物語ではなくて、現実に存在した、ただ一度きりの、生きた人間の物語だからである。
それがどんなものか、現実に生きている人間とはなにか? ということは、たしかに今日《こんにち》では以前にくらべてわからなくなっている。だからこそ、人間はひとりひとりが、自然によって行なわれる一回かぎりの貴重な実験であるはずなのに、大量に射殺しあったりするのだ。もしもわれわれが一度きりの人間以上のものでないとすれば、つまりわれわれのひとりが、一発の弾丸《たま》でこの世からあとかたもなく葬《ほうむ》り去られるとすれば、物語をしてみたところで、もはやなんの意味もないことだろう。ところがどんな人間でも、その人間自身であるばかりではなくて、さらにまた一回かぎりの、まったく特別な、どんな場合でも重要な、注目すべき一点であり、しかもこの一点で世界のいろいろな現象が交錯《こうさく》しているが、それもただ一回かぎりであって、決して二度とくりかえされることはないのだ。だからどんな人間の物語でも、重要で不滅で神聖なのだ。
だからどんな人間でも、どうにか生きていて、自然の意志をみたしているかぎりでは、すばらしいものだし、注目にあたいするわけだ。どんな人間のなかでも、精神が形として現われているし、どんな人間のなかでも、生きる悩みがあるし、どんな人間のなかでも救世主が十字架にかけられるのだ。
今日《こんにち》では、人間とは何か? を知っている人は少ないが、それを感じている人は多い。だからわりあい楽な気持ちで死んでゆく。ぼくはこの物語を書きあげたら、わりあい楽な気持ちで死ねると思うが、ちょうどそれと同じだ。
ぼくは自分を、人間とは何か? を知る者だと呼ぶわけにはいかない。ぼくは道を求める人であったし、いまでもそうだが、しかしもはや、星や書物のなかに道を求めたりはしない。ぼくの血がぼくの体のなかで聞かせてくれる教えに、耳をかたむけはじめたのだ。ぼくの物語は読んで愉快なものではない。架空の物語のように甘くもないし、調和的でもない。それはもはや、自己をいつわるまいとするあらゆる人間の生活と同じように、不合理と混乱、狂気と夢想の味がするものなのだ。
どんな人間の生活も、自分自身への道であり、ひとつの道を試《こころ》みることであり、ひとつの小径《こみち》の暗示である。どんな人間でも、百パーセントその人自身になりきったというためしはない。そのくせだれもかれも、そうなりたいと努《つと》めている。ある者はぼんやりと、ある者はかなりはっきりと意識して、めいめいの力に応じて。だれもかれも、自分の出生《しゅつしょう》のなごりを、大むかしの世界の粘液《ねんえき》と卵のからを最後まで振りすてることはできない。とうとう人間になりきれず、カエルのままだったり、トカゲのままだったり、アリのままで終ってしまうものもいる。胸から上は人間だが、下のほうは魚というものもいる。しかしだれもかれも、自然が人間に向かって投げかけたものなのだ。われわれすべてのものにとって、生まれ出た根源、つまり母親たちは共通なのだ。われわれはみんな同じ深淵《しんえん》から出ているのだ。しかしこの深みから試みに投げ出されながらも、ひとりひとりが自分だけの目標を目ざして努力している。われわれはおたがいに理解しあうことはできるが、ひとりひとりが解明できるのは自分自身だけなのだ。
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第一章 ふたつの世界
ぼくが十歳で、ぼくたちの小さな町のラテン語学校〔古典語教育を主とした中・高等学校で、小学四年終了で入学できる〕へかよっていたころのある体験から、ぼくの物語をはじめよう。
あのころのいろいろなものが、いまでもぼくのところににおってくるし、苦痛と快い戦慄《せんりつ》で、ぼくは内側からゆさぶられる。うす暗い路地《ろじ》、明るい色の家や塔、時計のなる音や人の顔、ほんのりとしたあたたかさにつつまれた住みごこちのよい部屋、秘密とお化《ば》けの恐怖にみちた部屋など。むんむんするせま苦しさ、飼いウサギと女中、家庭薬とほしたくだもののにおいもする。そこでは、ふたつの世界が入りまじっていた。ふたつの極から昼と夜とが生まれてきた。
片方の世界はぼくの生まれた家だった。いやそれどころか、もっとせまいものだった。実をいうと、ぼくの両親を入れているにすぎなかった。この世界は大部分、ぼくにはおなじみであった。それは母と父、愛情と厳格、模範と訓練と呼ばれるものであった。おだやかな輝き、明るさと清らかさがこの世界のものであった。ここには、おだやかなやさしい言葉づかい、洗いきよめた手、こざっぱりした衣類、お行儀《ぎょうぎ》のよさが住みついていた。ここでは朝の讃美歌がうたわれ、クリスマスが祝われた。この世界には、未来に通じるまっすぐな線と道があった。義務と罪、良心のやましさとざんげ、ゆるしと善意、愛情と尊敬、聖書の言葉と知恵とがあった。明るい清らかな、美しくて秩序《ちつじょ》のある生活をするためには、あくまでこの世界の側に立たなければならなかった。
ところがもうひとつの世界は、すでにぼくたち自身の家のどまんなかではじまっていたが、まるっきり別のもので、においも違うし、言葉づかいも違っていた。約束や要求も違っていた。この第二の世界には、女中や職人の若いのがいた。お化《ば》けの話や人聞きの悪いうわさがあった。そこには無気味《ぶきみ》で、心をそそるような、恐ろしい謎めいたことがらの雑然とした流れがあった。屠殺《とさつ》場だの、刑務所だの、酔っぱらいだの、わめきたてる女だの、お産をするめ牛だの、倒れた馬だのといったようなものがあり、強盗や人殺しや自殺などの話もあった。これらすべての、すばらしくてぞっとするようなこと、荒っぽくて残忍なことが、そこらじゅうで、隣《となり》の路地や、すぐそばの家のなかで行なわれていた。警察と浮浪《ふろう》者が走りまわっていたし、酔っぱらいがかみさんをなぐったり、若い娘たちの群《む》れが、夕方ともなれば、工場からどっとはき出されるし、ばあさんたちは、人に魔法をかけたり、人を病気にしたりできたし、森には盗賊が住んでいたし、放火犯が憲兵につかまったりした。――どこへ行っても、この第二の、激しい世界がふき出して、臭気《しゅうき》を放っていた。どこへ行ってもそうであったが、ただ母と父のいる部屋だけは別であった。そしてこれは、非常にありがたいことだった。このぼくたちの家に、平和と秩序と安静があったということ、義務と良心とゆるしと愛情があったというのは、すばらしいことであった。――そして一方ではこれとまるで別なもの、騒々《そうぞう》しい、どぎつい、暗い暴力的なものがあったが、ひとまたぎすれば、そういうものから母のもとへ逃げて行けたのも、すばらしいことであった。
そして何よりも奇妙だったのは、このふたつの世界がなんと、隣あわせにピッタリくっついていたということである。たとえば、うちの女中のリーナにしても、夕方のお祈りのとき、居間のドアのそばに腰かけ、しわをのばした前掛けの上にきれいに洗った両手をのせて、かんだかい声でみんなといっしょにうたっているときには、完全に父母の側に、ぼくたちの側に、明るい正しい側に属していた。しかしそのすぐあとで、台所とか材木小屋でぼくに首のないこびとの話を聞かせてくれたり、あるいは、肉屋のせまい店さきで、近所の女たちと口げんかをしたりするときには、彼女はまるで人が変わって、別な世界の人となり、なぞにつつまれていた。
そしてすべてがこんな具合だったが、ぼく自身の場合がいちばん極端だった。たしかにぼくは明るい正しい世界に属していたし、ぼくの両親の子ではあったが、しかしどこへ目や耳を向けても、いたるところにあのもうひとつの世界があった。そこではよく、何か性《しょう》にあわない無気味な気持になったり、またそこではきまって良心がとがめたり、こわくなったりしたが、そのくせぼくはその世界にも住んでいたのである。それどころか、ときとすると、何よりも好んでこの禁じられた世界で暮らした。そして明るいところへもどるのが――ぜひとも必要なことであり、いいことであったとはいえ――まるでいっそう美しくないところへ、いっそう退屈で味気ないところへ、逆もどりするように思われたことも珍しくない。
しかし、ときとするとぼくにもよくわかっていた。つまり人生でのぼくの目標は、父や母と同じようになることだ。ああいうように明るく清く、ああいうようにどっしりかまえて、きちんとしていることだ。だがああなるまでの道は遠い。ああなるまでには、いろんな学校を出て、大学で勉強し、いろんなテストや試験を受けなければならない。しかもその道はいつだって、あのもうひとつの、いっそう暗い世界のそばを通りすぎたり、そのなかを突き抜けたりしている。だから、その暗い世界から抜け出せなくて身を持ちくずしてしまうことだって、決してないとはかぎらないのだ。そういう破目《はめ》におちこんだやくざ息子《むすこ》たちの話〔新約聖書、ルカによる福音書十五章十一節以下に,父のもとを離れて放蕩にふけったのち、本心にたちかえって父のもとに帰ってくる、やくざ息子の話がある〕もいろいろあった。ぼくはそういう話を夢中になって読んだものだ。それによるといつもきまって、父のもとへ、善のもとへ帰ってくるのが、救いになっており、すばらしいことだとされていた。これだけが正しくて、りっぱで、望ましいことだと、ぼくはしみじみ感じたのだが、そのくせ、そういう話のなかで、悪党ややくざ者たちの間でくりひろげられる部分のほうに、はるかに強く心をひかれた。そしてもしありのままに言ってもよいとすれば、やくざ息子が悔《く》いあらためて、ふたたび迎え入れられるなどというのが、ほんとうのところ、実に残念だと思われるときもあった。
だがだれも、そんなことは口にも出さず、また考えもしなかった。それはただなんとなく、ある予感と可能性という形で、感情のずっと底のほうに存在していたにすぎない。ぼくは悪魔というものを思い浮かべるたびに、変装しているにせよ、また正体《しょうたい》を現わしているにせよ,下のほうの往来とか、年の市《いち》とかレストランとかにいるところを、実にうまく想像できたが、ぼくの家のなかにいるところは、どうしても考えられなかった。
ぼくの姉たちもやはり、この明るい世界に属していた。姉たちのほうが、人がらからいって父母に近いと思うことがよくあった。ぼくよりも善良で、しつけがよくて、あやまちがなかった。姉たちにも欠点はあったし、お行儀の悪いところもあったが、そんなものはたいして根の深いものではないらしく、ぼくの場合とは違うものらしかった。ぼくの場合は、悪との接触が実に重苦しくなることがよくあり、あの暗い世界がずっと身近にあった。姉たちは両親と同じように、いたわられ、尊敬されることになっていた。だから姉たちとけんかしたあとでは、自分の良心からみて、いつでもこっちが悪者であり、けんかをしかけたほうであって、ゆるしを乞《こ》わねばならないほうであった。
というのは、姉たちを侮辱《ぶじょく》することは、とりもなおさず、両親を、善と権威を侮辱することだからである。ぼくには、姉たちにうち明けるよりも、どうにも手のつけられぬ浮浪児たちにうち明けるほうが、ずっといいような秘密がいくつかあった。良心のやましさもなく、明るいよい日には、姉たちと遊んで、いっしょにお行儀よくおとなしくして、自分の姿をりっぱな上品な光のなかに見ては、すばらしいなと、自分でもよく感じた。天使だったら、こうでなければならない。これが、ぼくたちの知るかぎりでは最高のことであった。そしてぼくたちは、クリスマスやら幸福そのもののように、明るいひびきや香気《こうき》につつまれて、天使になれるなんて、どんなに快い、すばらしいことだろうと、ひそかに思った。
ああ、しかし、そういう時間と日々は、めったに来てはくれなかった。よくぼくは遊んでいるとき、無邪気な、ゆるされた、よい遊びをしているうちに、ひどいかんしゃくを起こすことがあった。それが姉たちには目にあまるものになって、そのためにけんかになり、不幸を招いた。そんなときものすごく腹が立って、ぼくは手のつけられない子になり、ひどいことをしたり、また口に出したりした。そしてひどいことをしたり言ったりしているうちに、われながらそのひどさを身にしみて感じるほどであった。それからやがて後悔と痛恨《つうこん》の、やるせない陰気な幾時間かがやってくる。それがすむと、ぼくのほうからゆるしを乞う悲しい瞬間がくる。それからはまた、ひとすじの光明《こうみょう》が、争いのない、静かなありがたい幸福が、いくときか、またある瞬間訪れるのだ。
ぼくはラテン語学校にかよっていた。市長の息子と営林監督官の息子がぼくのクラスにいて、ときどきぼくの家へ来た。乱暴な男の子たちであったが、それでも上流の、まともな世界の一員であった。それなのにぼくは、近所の少年たち、つまり、ぼくたちがふだんばかにしている小学校の生徒たちと、仲よくつきあっていた。その仲間のひとりのことから、ぼくはこの物語をはじめなければならない。
授業のない、ある午後のこと――ぼくが十歳になって間《ま》もないころだったが――近所のふたりの少年とあちこち飛びまわっていた。するとそこへもっと大きい少年がひとり仲間入りした。十三ぐらいの、ごつい体つきの乱暴な子で、小学校にかよっていて〔ラテン語学校には小学四年修了で入学できるから、八年制の小学校の上級生のほうが、ラテン語学校の下級生より年上になる〕仕立屋のせがれだった。父親は飲んだくれて、家じゅう変なうわさを立てられていた。このフランツ・クローマーのことは、よく知っており、またこわかったから、こんなときに彼に出会って、いやな気がした。彼はもう一人前のおとなのようなそぶりをし、若い工員たちの歩きかたや口のききかたをまねていた。
彼の指図《さしず》どおりにぼくたちは、橋のたもとで河岸《かし》におりると、とっつきの橋げたに人目をさけて身をかくした。アーチ型の橋壁《きょうへき》と、ゆるく流れる水との間のせまい水ぎわは、せともののかけらや、がらくたや、さびついた針金のもつれた束《たば》や、そのほかいろいろなごみでいっぱいであった。ときにはまだ使える物もあった。ぼくたちはフランツ・クローマーの指揮のもとに、そのあたりをくまなく探しまわり、見つけたものを彼に見せなければならなかった。すると彼はそれをポケットに入れるか、または川のなかへ投げすてるかした。それから彼は、鉛か真鍮《しんちゅう》か、錫《すず》でできたものが、なかにまじっていないかどうか、よく気をつけるんだぞと命令した。そういうものがあると、彼はみんなポケットに入れた。古い角《つの》製のくしも入れた。
ぼくは彼といっしょにいると、何か胸がしめつけられる気がした。これは、もしぼくの父に知れたら、こんなつきあいは禁じられるのがわかっていたからではなくて、フランツそのものがこわいからなのであった。彼がほかの連中を相手にするのと同じように、ぼくを仲間として取りあつかってくれるのが、ぼくにはうれしかった。彼が命令すると、ぼくたちはいいなりになった。まるでそうするのが昔からのならわしみたいであった。そのくせ、ぼくが彼といっしょに遊んだのは、これがはじめてだったのだ。
しまいにぼくたちは地面に腰をおろした。フランツは水のなかへつばをはいたが、そのかっこうはおとなみたいだった。歯のすきまからつばをはいて、ねらいをつけたところへかならず命中させるのだ。おしゃべりがはじまった。そして少年たちは、いろいろな腕白《わんぱく》話やらいたずら話をして、得意げにえらぶってみせたりした。ぼくはだまっていたが、しかしだまっているためにかえって目だち、クローマーの怒りを招きはせぬかとびくびくしていた。ぼくのふたりの仲間は、はじめからぼくのことなぞそっちのけで、クローマーの肩を持っていたから、ぼくは彼らの仲間はずれであった。そしてぼくの身なりや振舞《ふるまい》が、彼らの反感をかっているのを感じた。
ラテン語学校の生徒であり、良家の坊ちゃんでもあるぼくを、フランツがすいてくれるはずはなかった。そして仲間のふたりは、いざとなったらぼくのことなんか知るもんかといって、見ごろしにしてしまうだろうということは、ぼくにもはっきり感じられた。
とうとうぼくも、ただもう不安なばかりに、話をはじめた。とてつもない泥棒の話を考えだして、自分をその主人公にしたてたのである。角《かど》の水車小屋のそばの果樹園で、相棒《あいぼう》とふたりで夜に、リンゴを袋いっぱい盗んでやった。それも、どこにでもあるようなやつではなく、レネットとかゴルトパルメーネとかいう、極上《ごくじょう》の品種ばかりだった、と話してやった。その場の危険をのがれようとしてぼくは、この物語をはじめたのだが、話を作りだして人に聞かせるのは、ぼくのお得意のものだった。すぐに話がおしまいになったり、ひょっとして、もっとやっかいなことにまきこまれたりしてはと、ぼくは腕によりをかけて話した。ぼくたちのうちのひとりは――とぼくは話をつづけた――相棒が木に登ってリンゴを投げおろしている間、ずっと見張りをしていなければならなかった。ところが袋がとても重くなったので、また袋をあけて、中身を半分もおいてこなければならなかったが、半時間もするとまた出かけて行って、おいてきた半分も取りかえしてやった、とこう話したのである。
話が終ったとき、ぼくは少しは喝采《かっさい》してくれるものと思った。ぼくはおしまいごろは夢中になってしまい、作り話に酔っていたのだ。小さいほうのふたりは、じっと黙ってなりゆきを見ていたが、フランツ・クローマーは目を少し細くして、突きさすよ、にぼュを見つめた。そしてこわいような声でこう言った。
「それ、ほんとうか」
「ほんとうだよ」とぼくは言った。
「じゃ、ほんとうにやったってんだな」
「うん、ほんとうにやったとも」とぼくは、内心、不安で息がつまりそうなのに、負けずにきっぱり言いきった。
「神さまに誓《ちか》えるか」
ぼくはぎくりとしたが、すぐに、うんと言った。
「じゃ、言ってみろ、天地|神明《しんめい》に誓って、とな」
ぼくは言った。
「天地神明に誓って」
「うん、よし」と彼は言うと、わきを向いた。
ぼくは、これでいいんだなと思った。だからまもなく彼が立ちあがって、家に帰りはじめたときには、ホッとした。橋の上に来たときぼくは、もう家へ帰らなくちゃと、こわごわ言いだした。
「何もそう急ぐことはねえだろう」とフランツは笑いながら言った。
「おれたちは同じ道なんだからな」
彼はぶらりぶらりと歩きつづけた。ぼくには思いきって逃げだす勇気がなかった。たしかに彼は、ぼくの家の方角に歩いていた。家について、玄関のドアや太い真鍮のハンドル、窓にさしている日光、母の部屋のカーテンを見たとき、ぼくはホッとして深く息をついた。ああ、帰れたぞ! ああ、楽しいわが家《や》へ無事に帰れたぞ! 明るい世界へ、平和の世界へ!
ぼくがそそくさとドアをあけ、するりとなかにはいり、ドアをしめようとすると、フランツ・クローマーもむりやりいっしょにはいってきた。中庭のほうからしか陽《ひ》のさしこまない、ひやっとするうす暗いタイル貼りの玄関で、彼はぼくに身をよせて、ぼくの腕をおさえると、小声でこう言った。
「そんなにあわてるなよ、おい」
びっくりしてぼくは彼をじっと見つめた。腕のおさえかたはまるで鉄のようにかたかった。何をしようてんだろう、ぼくをいじめようとでも思ってんのかな、とぼくは考えた。もしいま声を出してわめきちらしたら、だれかぼくを助けようと、上からすぐにでもかけおりてくれるだろうか、とぼくは思った。だがぼくは、大声を出すのはやめた。
「なんなの?」とぼくは聞いた。「なんの用なの?」
「たいしたことじゃないさ。ただなあ、もう少し聞いてみなくちゃならねえことがあるんだ。ほかのやつらにゃ聞かせることもねえがな」
「そう? だけど、このうえ何を聞かせろっての? ぼくは上へあがらなきゃならないんだよ」
「お前はちゃんと知ってるな」とフランツは小声で言った。
「あの角《かど》の水車小屋のわきにある果樹園、あれがだれのものだか」
「いや、知らないよ。水車小屋のおじさんのもんだろう」
フランツは片腕をぼくの体にかけて、ぐっとぼくをだきよせたので、いやでもおうでも、ぼくの鼻先に彼の顔が見えてきた。彼の目には悪意があった。彼は意地わるそうに笑った。その顔には残忍さと威力があふれていた。
「いいかい、坊や、あの果樹園がだれのものか、教えてやってもいいぜ。リンゴが盗まれるってことは、前からわかってたんだ。盗んだやつを教えてくれたら、だれにだって二マルクやるって、あそこのおやじが言ってたことも知ってんだぜ」
「そりゃいけない」とぼくは大声を出した。「でもまさか君は、あの人に何も言いつけたりしないだろうね」
ぼくは彼の徳義心に訴えてみたところで、どうにもなりはしないと感じた。彼は別の世界の人だ。裏切りなんてのも、彼には罪でもなんでもないのだ。ぼくはそれをはっきり感じた。こういうことにかけては、あの『別の』世界の連中は、ぼくたちとは違うのだ。
「何も言いつけないって?」とクローマーは笑った。「なあ、おい、いったいお前は、おれがにせがね作りで、二マルクぐらいの金なんざ自分で作れるとでも思ってんのか? おれは貧乏人なんだぜ。お前んとこみたいに金持ちのおやじはいないんだぜ。だから二マルクかせげるとなりゃあ、なんとしてもせしめるぜ。ひょっとすると、もう少しよけいにくれるかもしれねえな」
彼は急に、ぼくをつかんでいた手を離した。うちの玄関はもう、平和と安全のにおいがしなくなっていた。ぼくのまわりで、世界がくずれ落ちてきた。フランツはぼくを訴えるだろう。ぼくは犯人なのだ。そのことがおとうさんの耳にもはいるだろう。ことによると巡査までやってくるかもしれない。混乱から生まれるあらゆる恐ろしいことが、ぼくの目の前にせまってきた。あらゆるいまわしくて危険なことが、ぼくを敵として動員されたのだ。ぼくがまったく盗みなどしなかったことは、まるで問題にならなかった。おまけに誓いまで立ててしまった。ああ、どうしよう。どうしよう。
涙がこみあげてきた。何かくれてやって、話をつけるしか手がないと感じた。やけばちな気持ちになって、ポケットというポケットをさぐってみた。リンゴひとつも、ナイフ一本もない。なんにもない。そのとき、ふと時計のことが頭に浮んだ。古い銀時計で、動いてはいなかったが、『ただ、なんとなく』持っているものだった。それはうちのおばあさんの形見《かたみ》だった。ぼくは急いでそれをひっぱり出した。
「クローマー」とぼくは言った。
「ぼくのことを言いつけちゃいやだよ。そんなことをしたら、君、ひどいよ。さあ、ぼくの時計あげるからね、ほら、あいにく、ほかに何もないんでね。こいつを取っておいてくれよ。銀側だぜ。それに機械もいいんだ。ただ、ちょっとこわれたところがあるんで、なおさないとだめだけどね」
彼はにやりと笑うと、大きな手に時計をにぎった。ぼくはその手をじっと見つめながら、この手がどんなに乱暴で、ぼくに対してどんなにか深い敵意を持ち、この手がどんなにぼくの生活と平和をかき乱しているかを感じた。
「これ銀側だよ――」とぼくはおずおずと言った。
「銀側がなんでえ。こんな古くせえ時計がどうだって言うんでえ!」と彼は、まるっきりばかにしたような口調《くちょう》で言った。
「お前、自分でなおさせたらどうだ!」
「だけど、フランツ」とぼくは、彼がそのまま行ってしまいはせぬかと思うと気が気ではなく、ふるえながら叫んだ。
「ちょっと待ってくれよ、ねえ、頼むから、この時計取ってよ! ほんとうに銀側なんだよ。ほんとうに、うそじゃないんだ。それにぼくは、ほかには何もないんだもの」
彼は冷ややかに、ばかにしたような目でぼくを見つめた。
「それじゃお前、おれがだれのところへ行くか、わかってんだな。もしかすると警察へ行ってしゃべるかもしれないぜ。おまわりとは顔なじみだからな」
彼はくるりとうしろを向くと、行こうとした。ぼくは彼の袖口《そでぐち》をつかまえて、ひきとめた。そんなことをさせてなるものか。もしこのまま彼が行ってしまったら、どんなことになるか。そんなことを何もかも耐えしのべというのなら、死んでしまったほうがましだ。
「フランツ」とぼくは興奮のあまり声もかすれて哀願《あいがん》した。
「どうか、ばかなまねはしないでおくれ、ねえ、からかってるだけなんだろう」
「そうさ、からかってるのさ。だけどお前には高いものにつくかもしれないぜ」
「ぼくはどうすればいいのか、フランツ、教えておくれよ。なんだってするつもりだから」
彼は目を細めてぼくをじろじろながめると、また笑った。
「ばかなことを言うもんじゃない!」と彼は親切ごかしに言った。
「お前にはおれと同じように、よくわかっているはずだ。おれには二マルクのもうけ口があるんだ。そいつをあっさりすてられるほど、おれが金持ちじゃないってことは、お前も知ってるな。だけどお前は金持で、時計まで持っている。おれにその二マルクくれさえすりゃいいんだ。それでみんなすんじまうんだ」
その理屈はのみこめた。だが二マルクとは! それはぼくには大金だった。十マルク、百マルク、千マルクと同様、手の届かないものであった。ぼくにはお金がなかった。小さな貯金箱はあったが、おかあさんにあずけてあって、そのなかにはおじさんが来たときとか、まあそんなようなおりにもらった十ペニヒ〔一マルクは一○○ペニヒ〕玉とか五ペニヒ玉が幾つかはいっている。そのほかには一ペニヒだってなかった。おこずかいなど、あの年ごろのぼくは、まだひとつももらってなかった。
「ぼくにはなんにもないよ」とぼくは、しょんぼりして言った。
「お金はひとつもないんだ。だけど、ほかのものならなんでもあげるよ、インディアンのことを書いた本もあるし、おもちゃの兵隊もあるし、それにコンパスもあるよ。あっ、コンパスを取ってきてあげよう」
クローマーはふてぶてしい、意地わるそうな口もとをピクリと動かしただけであった。そして地面にぺっとつばをはいた。
「つべこべいうな!」と彼は頭ごなしに言った。
「そんながらくたなんか、自分で持ってりゃあいいんだ。コンパスだと! ふん、このうえおれを怒らせたり、しねえこったな! いいか、さあ、金を出せ!」
「だってないんだもの。お金なんかひとつももらってないんだよ。ほかにしようがないじゃないか!」
「それじゃあした、二マルク持ってくるんだぞ。学校がすんだら、あの下の市場《いちば》のところで待ってるからな。これで話はついたぜ。もし金を持ってこねえと、しょうちしねえぞ!」
「うん、だけどどこからもらってきたらいいんだい? 困っちゃうな。だって一ペニヒもないんだから――」
「金ならお前のうちにたんまりあるさ。それはおれの知ったことじゃあねえ。それじゃあ、あした、学校がすんだらな、はっきり言っとくが、もし持ってこねえと――」彼はこわい目つきでぼくをにらみつけると、もう一度ぺっとつばをはいて、まるで影のように消えてしまった。
ぼくは上へあがって行けなかった。ぼくの生活はめちゃめちゃにされてしまったのだ。ぼくは家出をして、もう二度とふたたびもどってこないか、それとも身投げでもしようかと考えた。だがそれもはっきり頭に浮んだことではなかった。ぼくは暗がりのなかで、玄関の階段のいちばん下のところに腰かけ、小さく体をちぢめたまま、不幸に身をまかせていた。そこで泣いているところを、籠《かご》をさげて薪《たきぎ》を取りにおりてきたリーナに見つけられた。
ぼくはリーナに、上へ行っても何も言わないでくれと頼んでから、あがって行った。ガラス戸のそばの衣類かけに、父の帽子と母の日がさがかけてあった。そうしたすべてのものから、わが家だという感じと情愛が、ぼくの胸にひたひたと流れてきた。ぼくの心はそれらのものに、ちょうどやくざ息子が昔ながらのふるさとの部屋を見て、そのにおいをかぐように、哀願と感謝の気持ちであいさつした。だが、こうしたすべてのものは、いまとなってはもはやぼくのものではなかった。これらはすべて明るい父の世界なのに、ぼくは罪を負って、見知らぬ流れの底ふかく沈み、冒険と罪にまきこまれて、敵におびやかされているのだ。そして危険と不安と汚辱《おじょく》が手ぐすねひいてぼくを待ちうけている。あの帽子と日がさ、上等の古い砂岩《さがん》の床《ゆか》、玄関の戸棚の上の大きな絵、そしてなかの居間から聞えてくる姉の声、それらすべてが、いまほどなつかしく、やさしく、貴重なものに思えたことはなかった。
しかしそれもいまとなっては、もはや慰めではなかった。頼りになる財宝でもなかった。すべてが非難であった。これらすべては、もはやぼくのものではなかった。ぼくはその晴れやかさと静けさに、あずかることはできないのだ。足がよごれていても、それをマットでこすりおとすこともできない。わが家の世界のあずかり知らぬ影が、ぼくにまつわりついて離れない。いままでにぼくは、どんなに多くの秘密を、どんなに多くの不安を持っていたことだろう。だがそんなものは、きょうぼくがこのわが家へ持ちこんだものにくらべれば、すべて遊びごとであり、冗談にすぎない。運命がぼくを追いまわし、ぼくをつかまえようと手をのばす。母でさえも、その手からぼくを守ることはできないし、その手のことは母に知らせるわけにもいかないのだ。ぼくの犯した罪が盗みであろうと、またはうそであろうと(ぼくは天地|神明《しんめい》に誓って、うその誓いを立ててしまったではないか)――そんなことはどうでもいい。ぼくの罪は、あれかこれかというものではない。ぼくの罪は、悪魔の手をにぎったことなのだ。なぜぼくは、いっしょについて行ってしまったんだろう。なぜぼくは、いままで父のいいつけに従ったどのときよりもおとなしく、クローマーのいいなりになってしまったのだろう。なぜぼくは、あんないいかげんな泥棒の話など作りあげてしまったのだろう。まるで英雄気どりで、犯罪の自慢などしたのだろう。これで悪魔に、ぼくは手をにぎられたのだ。こうなっては敵に、追いまわされるだけだ。
一瞬間ぼくは、もうあすへの恐怖を感じなくなっていた。何よりもまず気になったのは、これでいよいよ自分の道もくだり坂になって、暗闇に通じていくという、恐ろしい確実さであった。自分のあやまちからきっと新しいあやまちが生まれてくる、きょうだいたちのいるところに姿を見せても、父母にあいさつしたり接吻しても、それはごまかしだということ、自分は心に秘めた運命と秘密をになっているのだということ、こういうことをぼくははっきりと感じた。
父の帽子をつくづくとながめているうちに、ふと信頼と希望がぼくの胸にひらめいた。何もかも父に話してしまおう、父の裁《さば》きを受け、父の罰に服そう。父に事情を聞いてもらい、救い手になってもらおう。このくらいなら、いままでぼくが幾度か耐《た》えてきたような、罪のつぐないにすぎないだろう。重苦しい、つらいひととき、重苦しい、悔恨《かいこん》にみちた謝罪の願いにすぎぬだろう。
そのささやきはどんなにか甘く聞えたことだろう! それはどんなにか美しい誘いだったことだろう! しかしそれはどうにもならなかった。ぼくには、自分がそういうことをしないことがわかっていた。これで自分には秘密ができてしまった、たったひとりでしょいこまねばならない罪を犯してしまったということが、自分にはわかっていた。おそらくぼくはいま、別れ道に立っているのだろう。これからさきは永久に、いつでも、よくない人の仲間になり、悪人たちと共通の秘密を持ち、彼らに引きずられ、彼らの言いなりになって、彼らの一味となるより仕方がないだろう。ぼくはいっぱしおとなぶって英雄気どりで振舞《ふるま》ったのだ。だからいまとなっては、そこから生じてくるものはなんでも、しょいこまなければならないのだ。
ぼくの部屋にはいったとき、ぼくの靴がぬれていると父がぶつぶつ言ったのは、ありがたいことだった。そのため話がずれてしまい、父はもっと悪いことに気がつかなかった。ぼくはおとなしく父の小言《こごと》を聞いていながら、内心その小言をほかのことに結びつけた。すると妙に新しいある感情が心にひらめいた。逆針《さかばり》のいっぱいついた、たちの悪い、とげとげしい感情である。つまりぼくは、父に対して優越感を感じたのだ。ちょっとの間ではあるが、ぼくの父のうかつさに対し、ある種の軽蔑《けいべつ》を感じた。靴がぬれてるとぶつぶつ言うのは、ぼくにはくだらないことだと思えた。
「もしおとうさんが知ってればな」とぼくは思いながら、まるで自分が人殺しの罪を白状しなければならないのに、巻きパンひとつ盗んだぐらいで取り調べを受けている犯人のような気がした。それはいやらしい、ひねくれた感情であったが、しかし強烈で、しかもすごい魅力があった。そしてぼくを、ほかのどんな考えよりも強く、ぼくの秘密、ぼくの罪に結びつけてしまった。たぶん――とぼくは思った――クローマーのやつ、いまごろはもう警察へ行って、ぼくのことを訴えたろう。ここではぼくのことを、小さな子どもみたいに思っているが、ぼくの頭上には雷雨がせまっているのだ。
ここまで話してきたかぎりでは、この体験全体のうちで、この瞬間が、あとまで尾をひく重要なものであった。それは父の尊厳に、はじめてできた割れ目であり、ぼくの幼年生活をささえていた支柱に、はじめてできた切り口であった。そしてこの支柱は、どんな人でも、一人前の彼自身になりうる前に、破壊したに違いないものなのである。だれの目にもとまらないこうした体験から、われわれの運命の、ほんとうの重要な線ができあがるのである。こういう切り口や割れ目はまたふさがれるのだ。癒着《ゆちゃく》すると忘れられるのだ。しかしいちばん奥の小部屋のなかで、それは生きつづけ、血を流しつづけるのだ。
ぼく自身、すぐにこの新しい感情が恐ろしくなった。あのすぐあとで、できれば父の足に接吻して、ゆるしを乞《こ》いたいくらいだった。しかし本質的なことは、あやまればすむというものではない。このことはどんな子どもでも、すべての賢者と同様、十分に知りつくしている。
ぼくは自分の事件について反省し、こんごとるべき道をじっくり考える必要を感じたが、しかしそこまでいかなかった。その夜は一晩じゅう、うちの居間の変った空気になじむだけで精いっぱいであった。柱時計やテーブル、聖書や鏡、本棚や壁の絵などは、いわばぼくを見すててしまった。ぼくは、ぼくの世界が、ぼくの幸福な世界が過去のものになって、ぼくから離れていくのを、こおりつくような気持で、黙って見ているより仕方がなかった。自分が新しい、吸いつくような根で、そとの暗い未知の世界に、つなぎとめられて身動きもできないのを、感じないわけにはいかなかった。ぼくは生まれてはじめて死というものを味わったが、その味はにがかった。なぜなら死とは生まれることであり、恐ろしい革新《かくしん》に対する不安とおののきだからだ。
ようやく自分のベッドについて横になったとき、ぼくはうれしかった。
その前に、最後の試練として夕べの祈りが行なわれた。そしてぼくたちはそのとき歌をうたったが、それはぼくのいちばんすきな歌のひとつであった。ああ、しかし、ぼくはみんなといっしょにうたわなかった。歌のしらべひとつひとつが、ぼくには苦《にが》い毒汁《どくじゅう》であった。父が祝福の言葉をともなえたときも、ぼくはいっしょに祈らなかった。そして父が「――われらとともにあらんことを」と祈り終えたとき、ぼくはびくっとしていたたまれなくなり、このまどいから離れた。神の恵みは彼らすべてとともにあったが、もうぼくにはないのだ。体も冷えきり、ぐったり疲れて、ぼくはその場を去った。
ベッドについてしばらく横になり、ホッとした気持ちでベッドのぬくもりにやさしくつつまれていると、ぼくの心は不安のうちにもう一度さまよいもどって、すぎ去ったことのまわりをおどおどと動いた。母はいつものように、ぼくにおやすみを言いにきた。母の足音はまだ部屋のなかに、ひびきを残していた。母の持っていたローソクの光は、まだドアのすきまに輝いていた。いまだ!――とぼくは思った――おかあさんはもう一度、もどってくるぞ。――おかあさんは気がついてくれたのだ。ぼくにキスしてたずねてくれる。やさしく、いかにもたのもしげに、たずねてくれる。そうしたらぼくは泣けるのだ。そうしたらのどにつかえているものも、とれるのだ。そうしたらぼくは母にしがみついて、あれを話そう。そうなればもうだいじょうぶだ。そうなれば救われるのだ。――そうしてドアのすきまが、もう暗くなってしまったあとでも、ぼくはまだしばらく耳をすましていた。きっと、きっとそうなると思った。
それからぼくは現実に立ちかえって、ぼくの敵の目をまじまじと見た。彼の姿はありありと見えた。彼は片方の目をしかめ、口には、野卑《やひ》な笑いを浮べていた。じっと彼を見つめていると、もう逃げられないのだという感じが心に食いこんできて、彼はますます大きく、みにくいものになっていった。彼の意地わるそうな目は、悪魔のようにキラリと光った。ぼくが眠りこんでしまうまで、彼はぼくのそばを離れなかった。しかしそれからぼくの見た夢は、彼の夢ではなかった。きょうの夢でもなかった。ぼくの見たのは、ぼくたち、両親と姉たちとぼくがボートに乗っている夢で、休暇の一日の平和と輝きだけが、ぼくたちをつつんでいた。真夜中に目をさましたぼくは、まだその幸福のあと味を感じ、姉たちの白い夏服すがたが陽《ひ》をあびて輝くのを見た。するとこの楽園から、どうにもならぬ現実の世界へ突きもどされ、意地わるそうな目をした敵とまた顔を突きあわせた。
朝になって、母が急ぎ足でやってきて、もう遅いんだよ、なぜまだ寝ているのと大声で呼んだとき、ぼくの顔色は悪かった。そして、どこか具合でも悪いのと聞かれて、ぼくはもどしてしまった。
これで幾らか助かったようだ。ぼくはちょっとばかり病気になり、朝のひととき発汗《はっかん》剤を飲みながら寝ていられること、母が隣の部屋でかたづけものをしたり、リーナが向うの玄関先で肉屋を相手に話したりするのを、じっと聞いていること、これがとてもすきだった。学校のない午前というものには、何か心をとろかすような、おとぎ話みたいなものがあった。そんなとき陽《ひ》が部屋のなかへ射しこんできたが、それは、学校で緑色のカーテンをおろしてさえぎる日射しとは違っていた。だが、それさえもきょうは何かしら味気なく、調子も狂っていた。
そうだ。死んでしまえばよかったんだ。ところがちょっとかげんが悪いだけであった。こんなことはいままでにもよくあった。これだけじゃあどうにもならない。学校には行かなくてすむが、あのクローマーからはぼくを守ってはくれない。やつは十一時に市場でぼくを待つことになっている。母が何かと気をつかってくれても、こんどばかりは慰めにはならなかった。かえってうるさく、つらかった。やがてぼくはまた寝たふりをしながら、いろいろと考えた。どう考えてもだめだった。ぼくはどうしても、十一時には市場に着いていなければならないのだ。そこでぼくは十時にそっと起きあがって、気分がまたよくなったと言った。こういう場合はいつもそうだが、またベッドにもどるか、それとも昼から学校へ行くか、どっちかにしなさいと言われるのだった。ぼくは、学校へ行きたいと言った。ある計画ができていたのだ。
金を持たずに、クローマーのところへ行くわけにはいかなかった。ぼくは、自分のものになっているあの貯金箱を、どうしても手に入れなければならなかった。あのなかの金では足りない、とても足りっこないことは、わかっていた。だが、それでも幾らかにはなる。なんにも持たないよりは、幾らかでもあるほうがいいし、せめてクローマーをなだめておかなければと、ふとそんな気がした。
靴をぬいだままこっそり母の部屋へ忍びこんで、母の机のなかからぼくの貯金箱を取り出したとき、ぼくはいやな気がした。だがきのうの事件のときほどいやではなかった。胸がどきどきして、息がつまりそうだった。そして下の階段のところでまず調べてみて、その小箱にかぎがかかっていることがわかったとき、息苦しさはなおさらだった。小箱をこじあけるのはとてもかんたんで、うすっぺらなブリキ格子《ごうし》を引きちぎればよいのだが、しかし引きちぎったさけ目を見ると胸が痛んだ。これではじめてぼくは、盗みをはたらいたことになる。これまでは角砂糖とかくだものをつまみぐいしたくらいだった。ところがこんどは、自分の金とはいえ、とにかく盗んでしまったのだ。これでまたクローマーと、その世界に一歩近づき、ひと足ごとに見事《みごと》、ずるずると堕落《だらく》して行くのを感じた。ぼくはこれに抵抗してみた。たとえ悪魔にさらわれようとも、いまはもう引きかえすべき道もなかった。ぼくはびくびくしながら金をかぞえた。小箱のなかでは、ずいぶんたくさんはいっていそうな音がしていたのに、こうして手に取ってみると、情けないほど少なかった。六十五ペニヒしかなかった。小箱を下の玄関のところにかくすと、金はしっかりにぎりしめたまま家を出た。これまでこの門をくぐったときとは、違っていた。上でだれかがぼくを呼んだようだ。ぼくは足ばやに立ち去った。
まだだいぶ時間があった。ぼくはまわり道をして、いつもとはがらりとようすの変わった町の路地を通り抜け、見たこともない雲の下を歩きながら、ぼくをじろじろ見る家々のそばを、ぼくに疑いをかけている人たちのそばを、こそこそと歩いて行った。途中でふと、学友のひとりが、いつのことだったか、家畜市場で一ターラー〔三マルク〕拾ったことがあるのを思いだした。神さまが奇跡《きせき》を行なって、ぼくにもそういう拾いものをさせてくれるようにと、できれば祈りたいくらいだった。しかしぼくにはもう、祈る資格なんかない。それに、たとえ祈りが聞きとどけられても、あの小箱がもとどおりになるはずもなかった。
フランツ・クローマーは遠くからぼくの姿を見ていたのに、とてもゆっくりとぼくのほうへ近づいてきて、ぼくのことなぞ気にもとめてないふうだった。ぼくのそばへくると、あとからついてこいと命令するような目くばせをした。そしてただの一度も振り向かないで、ゆったりと歩きつづけ、シュトロー小路をくだると、小橋を渡り、ようやく町はずれに近い建築中の家の前でとまった。そこには職人の姿も見えず、壁にはドアも窓もなくて、殺風景《さっぷうけい》だった。クローマーはあたりを見まわし、入り口からはいって行った。ぼくはあとからつづいた。彼は壁のかげにまわると、目くばせでぼくに来いと言い、それからぐっと手を突き出した。
「持ってきたか」と彼は、ぶっきらぼうに言った。
ぼくはにぎりしめたままの手をポケットから出すと、彼の手のひらの上に金をあけた。彼は最後の五ペニヒ玉のチャリンという音が消えないうちに、もうかぞえあげていた。
「六十五ペニヒだな」と彼は言って、ぼくの顔をじっと見つめた。
「うん」とぼくがびくびくしながら言った。
「これだけしか、ぼくは持ってないんだ。少なすぎるけれど。そりゃあよくわかってるんだ。だけどこれ全部なんだよ。ほかにはもうないんだもの」
「お前、もうちっと利口《りこう》なやつだと思ってたがな」と彼は、わりあいおだやかな口調でしかってきた。
「ちゃんとした男同士のつきあいは、ちゃんとしてなくちゃいけねえ。おれはなにもお前から、理屈にあわねえものを、取りあげようってんじゃねえ。わかってるな。さあ取っとけ、こんな金なんか、ほら。あいつなら――だれのことかわかってるな――値切ろうなんて言わねえぜ。あいつなら、ちゃんと払ってくれるさ」
「だってぼく、これしか、これしかないんだよ。これ、ぼくの貯金だったんだよ」
「そんなこと、おれの知ったことか。だけどお前をふしあわせにしたくもねえ。お前まだおれに、一マルク三十五ペニヒ、借りがあるってわけだ。いつ、そいつをいただけるかな」
「ああ、きっとあげるよ、クローマー。いまはわからないけど――たぶん、近いうちにもっともらえるんだ。あしたか、あさってね。君だってちゃんとわかってるだろうが、おとうさんにこんなこと言えないからね」
「そりゃあ、おれには関係ないさ。おれはなにもお前を、困らせようってんじゃない。ほんとうならおれは、昼まえにだって、あの金をもらえるんだぜ。いいな、それにおれは貧乏ときてる。お前はきれいな服をきているし、昼飯だっておれよりいいものを食わしてもらってるんだ。だけどまあ、くどくは言わねえことにしょう。仕方《しかた》がねえから、ちょっと待ってやるか。あさって、口笛で、合図するからな。昼すぎだ。そのときちゃんとかたをつけろよ。おれの口笛知ってるな」
彼はぼくに口笛を吹いて見せた。なんども聞いたことのあるものだ。
「うん」とぼくは言った。「わかったよ」
彼はまるで、ぼくのことなんか知るもんかとでもいうようなそぶりで、立ち去った。ふたりの間で、ひとつの取り引きが行なわれたのであった。それだけのことである。
いまでもぼくは、クローマーの口笛が突然聞こえたら、さぞかしびっくりすることだろうと思う。あのときからというもの、ぼくは幾度もあの口笛を聞いた。のべつまくなしに、聞えてくるような気がした。どんなところにいても、どんな遊びをしていても、どんな勉強をしていても、どんな考えにふけっていようと、かならずそこへあの口笛がひびいてきて、ぼくを思いどおりに動かした。こうなるとそれはもうぼくの運命であった。ぼくはうちの小さな花園がとてもすきだったから、おだやかな色あざやかな秋の日の昼さがりには、よくこの花園にいた。するとなにか妙に、もっと幼いころの子どもっぼい遊びをしてみたい気になった。いわば、ぼくより年下の、まだ善良で自由で、無邪気で、こわがることを知らない子どもの身になっていた。しかしその最中《さいちゅう》にかならず、たえず予期してはいても,やはり心をかき乱し、不意を突くように、クローマーの口笛がどこからともなくひびいてきては、想念の糸をたち切り、空想をうちくだくのであった。そうなるとぼくは、出て行かぬわけにはいかなかった。ぼくを苦しめる者のあとについて、下品でいやらしい場所へ行くほかはなかった。彼に言いわけをしたり、金の催促《さいそく》を受けたりしなければならなかった。
こういう状態が、おそらく数週間はつづいたと思う。だがぼくには数年間も、いや、はてしもなくつづいたように思われた。ぼくはめったに金は持っていなかった。ときたま、五ペニヒ玉か一グロッシェン〔約十二ペニヒ〕あるくらいだった。それもリーナが買物かごを調理台の上におきっぱなしにしたとき、そこから盗んだものだった。会うたびごとにぼくは、クローマーに責《せ》めたてられ、あざけりの言葉を浴《あ》びせられた。彼をあざむき、彼に当然渡さねばならぬものを渡すまいとしたのは、ほかならぬぼくであった。ぼくこそ彼から金を盗み、彼を不幸にしたのだ。ぼくは生涯を通じてこのときほど、苦悩が胸にこたえたことはあまりなかった。このときほど大きな絶望、これほど大きな屈従を感じたことは、一度もなかった。
貯金箱には数とり札をつめて、またもとの場所へしまっておいた。だれも小箱のことなどきく者はいなかった。だがこの一件にしても、いつぼくの身にふりかかってくるか、わからないことだった。母がそっとぼくのそばへくるたびに、クローマーの荒っぽい口笛よりも、母のほうがこわいと思うことがよくあった。――あの小箱のことをきこうとして、やってきたのではないだろうか。
ぼくが金を持たずにあの悪魔のところに姿を見せることが度《たび》かさなると、彼はやり口を変えて、ぼくを苦しめ、利用しだした。ぼくは彼のかわりに働かされることになった。彼は、自分の父親のために使いに出かけなければならなかったのであるが、ぼくが彼のかわりに行かされたのだ。さもなければ彼は、何かむずかしいことをやってみろといいつけるのである。十分間、片足でちんちんしてみろとか、だれか通りがかりの人の上着に紙くずをつけてみろとかいうのであった。ぼくは幾夜となく夢のなかで、こういう苦行《くぎょう》をつづけた。そうして夢にうなされ、汗びっしょりになって寝ていたのだ。
しばらくの間、ぼくは病気になった。たびたびもどしたりして、すぐにさむ気がした。そのくせ夜になると、汗をかき熱にうなされて寝ているのだ。母は、どこかおかしいと感づいて、とてもよく気を使ってくれたが、それはぼくには苦痛だった。信頼の気持でそれにこたえられなかったからだ。
ある日の晩がた、ぼくがもうベッドについていたとき、母が小さなチョコレートを一枚持ってきてくれた。それは幼いころを思いださせるものであった。あのころのぼくは、一日おとなしくしていると、その晩寝る前によく、こうしたごほうびのお菓子をもらったものだ。
いま母は目の前に来て、ぼくにそのチョコレートの小片をさしだしている。ぼくはとても悲しくなって、ただ頭を横に振ることしかできなかった。母は、どこか悪いの、とたずねて、ぼくの髪の毛をなでた。ぼくはただ、「いらない、いらない、何もほしくないよ」と押しだすように叫ぶばかりだった。母はチョコレートを、まくらもとのテーブルの上において、出て行った。次の日、母がそのことを根ほり葉ほり聞こうとしたとき、ぼくは、そんなことはもうまるっきり覚えてないような顔をした。あるとき母は医者をつれてきた。医者はぼくを診察して、毎朝冷たい水で体をふくようにと言った。
あのころのぼくの容態《ようだい》は、一種の精神錯乱であった。わが家の整然とした平和のまっただなかで、ぼくはまるで幽霊みたいにおどおどと、苦しみ抜いて暮らしていた。ほかの人たちの生活にかかりあいになるでもなく、ただひとときだって、自分を忘れることなど、めったになかった。父はよく腹を立ててぼくを問いつめてきたが、この父にもぼくは、かたくなに口をとざし、冷ややかにかまえていた。
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第二章 カイン
ぼくの苦悩からの救いは、まったく思いもよらない方角から訪れた。そしてこの救いと同時に、新しいものがぼくの生活にはいってきて、それがいまにいたるまで作用しつづけている。
ぼくたちのラテン語学校に、その少し前、新しく生徒がひとりはいってきた。この子は、ぼくたちの町にひっこしてきたある金持ちの未亡人の息子で、腕に喪章《もしょう》をつけていた。ぼくよりも上のクラスにはいったが、年も幾つか上であった。しかし間《ま》もなくだれの目にもつくようになり、ぼくの目にもとまった。
このちょっと変ったところのある生徒は、見かけよりもだいぶ年上らしく、だれにも少年という印象は与えなかった。ぼくたちのような子どもっぽい生徒の間を、まるでおとなみたいに、いやむしろ紳士のように、よそよそしい、ませた態度で立ちまわっていた。人気はなかった。遊びには加わらなかったし、ましてけんかなんかには、近よりもしなかった。ただ教師に対して、自信にあふれた、きっぱりした態度をとった点だけは、ほかの連中に喜ばれた。彼はマックス・デーミアンという名であった。
ある日のこと、ぼくたちの学校ではときどきあることだが、何かの理由で、もうひとつ別のクラスの連中が、ぼくたちのとても大きな教室に入れられたことがあった。それはデーミアンのクラスだった。ぼくたち小さい連中は聖書物語の時間で、大きい連中は作文をやらされていた。ぼくたちがカインとアベルの物語をたたきこまれている間、ぼくはしきりにデーミアンのほうに目をやっていた〔アダムの長子カインは、弟アベルにくらべ、自分のささげ物が神にかえりみられなかったのをうらみ、弟を殺した。そのため神に追われ、地上の放浪者となったが、神は保護のため、ひとつのしるしを与えた〕。彼の顔が何か妙にぼくの心をとらえたのである。そしてぼくは、この頭のよさそうな、明るい、人なみはずれてきりっとした顔が、注意ぶかく、才気をみなぎらせながら、答案の上にうつむきかげんになっているのを見た。
彼は作文を書かされている生徒とは、どうしても見えず、自分の問題を研究している学者のように見えた。ほんとうのところ彼は、好感のもてる人ではなかった。それどころか、何かしら反感さえ覚えた。ぼくにはあまりにもえらそうで、冷たたすぎると思われた。その態度は何か、挑戦的なまでに自信にあふれすぎているし、その目はおとなの表情――これは絶対、子どもにすかれないものだが――があって、そのなかには幾らか悲しげに、人を小ばかにしたような影を宿していた。
ところがぼくは、彼が好ましいにせよ、いとわしいにせよ、たえず彼を見つめずにはいられなかった。しかし彼が何かのはずみでぼくのほうを見ると、ぼくは、はっとして視線をそらした。あの当時の彼が生徒としてどういうふうに見えたかを、いまよく考えてみると、次のように言うことができる。彼はすべての点でみんなと違っていた。どこまでも独特で個性的な特徴を持っていた。だから目立《めだ》ったのだ――しかし同時に彼は、目立たないように精いっぱいつとめていた。百姓の子どもたちにまじって、彼らと同じように見られようと、極力骨をおっている変装した王子のように、彼はそういう服装をし、またそう振舞っていたのである。
学校からの帰り道、彼はぼくのうしろを歩いていた。ほかの子どもたちが散りぢりになると、彼はぼくに追いついてあいさつをした。このあいさつも、ぼくたち生徒のあいさつをまねてはいたが、とてもおとならしくて、ていねいなものだった。
「少しいっしょに行かない?」と彼はやさしく聞いた。ぼくはうれしくなって、うなずいた。それから、ぼくの住んでるところを話した。
「ああ、あそこか」と彼はほほえんだ。
「あの家ならもう知ってるよ。玄関のドアの上に、何か妙なものがとりつけてあるね。あれを見たときすぐに、おもしろいものがあると思ったよ」
彼がなんのことを言ってるのか、すぐにはわからなかった。そして彼のほうがぼくよりも、ぼくの家のことをよく知っているようなので、びっくりした。おそらく要石《かなめいし》として、アーチ型の門の上のほうに、一種の紋章がついていたのだろうが、しかしそれは、時がたつうちにすりへってしまい、幾度もペンキでぬりつぶされていて、ぼくの知るかぎりでは、ぼくたちの家系とはなんのつながりもないものであった。
「あのことはぼくはなにも知らないよ」とぼくは、はにかみながら言った。「鳥かなんかだよ、あれは。とても古いものに違いないよ。あの家は昔、修道院の一部だったってさ」
「きっとそうかもしれない」と彼はうなずいた。
「いつかよく見てごらん。ああいうものは、実におもしろいなと思うことがよくあるよ。あれはハイタカだと思うな」
ぼくたちは歩きつづけた。ぼくはとてもぎこちない気持であった。と突然デーミアンは、何かおかしなことでも思いついたかのように笑いだした。
「そうそう、ぼくはさっき、君たちの時間にいっしょだったね」と彼は、声をはずませて言った。「額《ひたい》にしるしのあるカインの話だったね。あれ、おもしろいと思うかい?」
なんであろうと、ぼくたちが習《なら》わせられるものを、おもしろいと思うことなぞ、めったになかった。しかし、そうだとはっきり言えなかった。おとなと話しているみたいな気がしたからだ。ぼくは、あの話はとてもおもしろいと言った。
デーミアンは、ぼくの肩をぽんとたたいた。
「ぼくをごまかすことはないんだよ、君、でもね、あの話はとても変わってるね。授業に出てくる、たいていのほかの話より、ずっと変わっていると思うんだ。先生はなるほどあの話について、あまり話さなかったし、ただ神とか罪とかについて、ありふれたことを言っただけだ。だが、ぼくは思うね――」彼は中途で話をやめると、微笑を浮べてたずねた。「でも、こんな話、つまらなくない?」
「そうだ、ぼくはつまりこういうふうに思っているんだ」と彼は、言葉をつづけた。「このカインの話は、まったく別な解釈もできるんだ。ぼくたちの教わっているたいていの話は、たしかにほんとうで、まちがいのないことなんだが、しかしどんな話だって、先生がたとは違った見方もできるんだし、そうしたほうが、たいていはずっと深い意味を持ってくるんだ。たとえば、あのカインと、その額のしるしのことだって、ぼくたちが聞かされている説明のままじゃあ、やはりほんとうに満足できないしね。君もそう思わないかい? だれかがけんかをして、自分の弟をなぐり殺すなんて、たしかにありそうなことだし、殺したあとでこわくなって、弱気になってしまうことだって、ありそうなことさ。だけどね、そいつがその弱気のごほうびに勲章をもらったり、しかもその勲章がその男を守ってくれたり、そのうえ、その勲章がほかのすべての人をこわがらせるなんてことは、どう考えてもおかしな話だよ」
「むろんそうさ」とぼくもおもしろくなって言った。この話がぼくの心をひきつけはじめたわけだ。「だけど、この話を、ほかにどうやって説明したらいいの?」
彼はぼくの肩をぽんとたたいた。
「いたってかんたんさ。はじめっからあって、この話の糸口になっていたのは、あのしるしだったね。ある男がいて、そいつはほかの人たちをこわがらせるようなものを、顔につけていた。ほかの人たちは、その男に手出しする勇気がなかった。そいつはみんなにこわがられてもいたけど、うやまわれてもいたんだ。そいつも、その子孫もね。たぶん、いや、たしかに、その額に何かのしるしが、郵便のスタンプみたいなものが、ほんとうについていたわけじゃない。世のなかの行き方ってものは、たいていの場合、そんなに単純じゃないものね。むしろそれは、あまりはっきりとは目立たないくらいの、何か気味の悪いもの、たとえば目つきのなかに、みんなが見なれているよりは、少し多くの才気と不敵さが現われている、というわけなのさ。この男は権力を持っていた。この男を見ると、みんなしりごみした。彼が『しるし』をつけていたからだ。ところで『世間の人』というものは、いつだって自分に都合のいいもの、自分のほうが正しいのだと認めてくれるものを望むものなのだ。みんなはカインの子孫のことをこわがった。彼らには『しるし』がついてたからね。だからみんなは、そのしるしをありのままのもの、つまり、表彰《ひょうしょう》としてではなく、その逆のものとして説明したんだ。このしるしのついてる連中はうす気味悪いとみんなは言ったが、ほんとうにそのとおりだったんだ。勇気と個性のある人たちは、ほかの人たちにはいつだってとても無気味なものさ。こわいもの知らずの、うす気味悪い一族が、そこらをうろついているとなれば、とても具合が悪い。そこでみんなはこの連中に、あだ名をつけてみたり、作り話をくっつけてみたりして、彼らに仕返しをし、いままでさんざんこわい思いをさせられたことに対し、少しでもお返しをしようとしたわけだ。――わかるかい?」
「うん――というと、つまり――じゃあ、カインはちっとも悪い人じゃなかったんだね。そしてあの聖書に書いてある話は、ほんとうのところ、みんなうそばっかりってことだね」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。うんと古い大むかしの物語は、いつだってほんとうなんだが、しかしかならずしも正しく記録されているとはかぎらないし、かならずしも正しい説明がなされるとはいえないのだよ。つまり、ぼくが言いたいのはね、カインという男は、すばらしいやつだったんだが、みんなにこわがられていたばっかりに、こんな話を彼にくっつけたのさ。あの物語は、ただのうわさ話だったのさ。世間の人がしゃべりまわるような、そんな程度のものさ。が、カインとその子孫たちがほんとうに一種の『しるし』をつけていて、たいていの連中とは違っていたというかぎりでは、決してうそじゃなかったのさ」
ぼくはひどく驚いた。
「それじゃあ,君、あのなぐり殺したという話も、まるっきりうそだと思ってるの?」とぼくは、心を動かされて言った。
「いや、とんでもない。あれはたしかにほんとうだよ。強いやつが弱いのをなぐり殺したわけさ。それがほんとうに弟だったかどうかは、怪《あや》しいけどね。そんなことはたいしたことじゃないんだ。結局、人間はみんな兄弟なんだからね。つまり強いのが弱いのをなぐり殺したのさ。もしかすると、それは英雄的行為だったかもしれないし、あるいは、そうじゃないかもしれない。しかしいずれにしても、ほかの弱い連中は、もう心配で気が気ではない。さかんにこぼしたわけだ。そして『なぜお前たちもあいつをぶち殺さないんだ』と聞かれると、その連中は『おれたちには意気地《いくじ》がねえからさ』とは言わないで、『そんなことはできねえ。あいつにはしるしがついてる。あれは神さまがつけたんだ』と言うんだ。まあ、こんな具合にしてあの作り話ができたってことは、まちがいないよ。――やあ、すっかり引きとめちゃったね。じゃあ、失敬《しっけい》」
彼はぼくをひとり残すと、アルト小路にまがって行った。ぼくはこのときほど煙にまかれたことはなかった。彼がいなくなったとたん、彼の話したことが、何もかもまったく信じられないように思われた。カインがけだかい人間で、アベルが臆病者だなんて! カインのしるしが勲章だなんて! そんなことは理屈にあわない。神さまをばかにした、とんでもない話だ。それじゃあ神さまは、どこにいることになるのか。神さまはアベルの犠牲を受け入れたじゃないか。アベルを愛しておられたじゃないか。――いやまったく、ばかげた話だ。デーミアンはぼくをからかおうとしたのだろう、まんまといっぱい食わせるつもりだったのだろうと想像した。あいつはすごく頭のきれるやつだ、話もうまいし、だけど、あんなことは――いや、うそだ――
いずれにしてもぼくは、聖書の話やそのほかの物語について、こんなに深く考えたことは、ただの一度もなかった。それにずいぶん前から、フランツ・クローマーのことを、これほどすっかり、何時間もの間、一晩じゅう忘れていたなんてことは、まだ一度もなかったのである。ぼくはうちで、聖書に書かれているとおり、もう一度あの話を読みかえしてみた。短い話で、はっきりしていた。このなかから、何か特別な、かくれた意味をさぐり出すなんて、まったく正気の沙汰とは思えなかった。もしそうなら、人殺しはだれでも、神さまのお気に入りだと名乗ってもいいことになる。いや、そんなことはナンセンスだ。ただデーミアンがああいうことを話すときの、あの話し方はなかなかいいな。まるで何もかもわかりきったことであるみたいに、すらすらと見事に話す。それにあの目ときたら、どうだ!
言うまでもないことだが、ぼく自身、何か気持ちにしっくりしないものがあった。いや、それどころか、ひどい混乱があったのである。ぼくはそれまで、明るい清潔な世界に住んでいた。ぼく自身、一種のアベルだったわけだ。ところがいまでは、とても深く『別のもの』のなかにはまりこんでいる。とてもひどい落ちかたで、底まで沈んでしまったのだ。でもそれは、あながちぼくのせいばかりではない。ではどうして、こんなことになったのだろう。そうだ、と、そのときある思い出がぼくの胸にさっとひらめいて、一瞬、息もつまりそうだった。ぼくの現在の不幸がはじまったあのいやな晩のこと、あの、父との出会いがあった。あのときぼくは一瞬の間、父と、父の明るい世界と英知とを突然見やぶって、ばかにしたいような気持ちになったのだった。そうだ、あのときはぼく自身がカインで、しるしをつけてたわけだ。このしるしは恥ではない。勲章なのだ、自分の悪意と不幸によって、父よりも高いところに、善良で敬虔《けいけん》な人たちよりも一段高いところに立っているのだ、ときめこんでいたのである。
こういうはっきりした思考の形で、あのときのことを体験したわけではなかったが、しかしこういうものがすべて、そのなかにふくまれていた。だから、ぼくの心を悲しませながらも、誇りでみたしてくれたものは、いろいろな感情や奇妙な激情の燃えあがりにほかならなかった。
思いかえしてみると――デーミアンは、こわいもの知らずの連中と意気地なしどもについて、なんと奇妙な話し方をしたことだろう。カインの額についているしるしに、なんと珍しい解釈をくだしたことだろう。彼の目、彼の異様《いよう》な、おとなびた目が、あのときなんと怪しく光ったことか。するとこんなことが、ぼんやりと頭をかすめた――彼自身、デーミアン自身が、いわば一種のカインではなかろうか。自分がカインに似ていると感じていればこそ、カインをあんなに弁護したのではないか。どうして彼のまなざしには、あんな力がこもっているのだろう。なぜ『ほかの連中』のことを、あんなにばかにしたような口をきくのだろう。臆病者ではあるが、実は信心ぶかくて、神さまのお気に召す人たちであるのに。
こういうふうに考えていくと、はてしがなかった。石がひとつ、泉に投げこまれたのである。この泉とは、ぼくの若いたましいのことであった。そして長い、非常に長い時間にわたって、認識とか疑惑とか批評などを試みるときはいつでも、このカインと人殺し、そしてあのしるしの問題が、ぼくの出発点となったのである。
ほかの生徒たちも、やはりデーミアンのことをひどく問題にしていることに、ぼくは気がついた。ぼくは、あのカインの話のことはだれにも話さなかったけれど、デーミアンに対しては、ほかの連中もどうやら興味を感じているようだった。少なくともこの『新入り』の生徒については、いろんなうわさが流れていた。もしぼくがまだ、そういううわさのひとつひとつを覚えていれば、そのどれもが彼の人がらをはっきりと描きだしてくれるだろうし、どれにも意味をもたせて解釈がつけられるだろう。
しかしデーミアンの母親がとても金持ちだといううわさが、最初にひろまったことぐらいしか、いまのぼくには思いだせない。それに彼女は決して教会に行かないし、息子も行かない、といううわさも立った。あの親子はユダヤ人だ、と言いだす人までいたが、あるいは、こっそり回教を信じているのかもしれなかった。さらにマックス・デーミアンの体力についても、まるで作り話みたいなうわさまで流れた。まちがいのない話は、彼のクラスでいちばん腕っぶしの強いやつが、彼にけんかを売って、相手にされないので臆病者呼ばわりしたところ、こっぴどくやっつけられたことだ。その場に居《い》あわせた連中の話では、デーミアンがほんの片手で相手のえり首をつかまえ、ぎゅっとしめつけただけなのに、相手の子はまっさおになって、やがてこそこそ逃げだしたが、それから数日、腕がきかなかったという。
ひと晩だけだったが、その相手が死んだといううわさまで立った。しばらくの間は、あることないことまで主張され、信じこまれた。すべては興奮と驚異をまき起こすものであった。するとしばらくの間は、みんなも満足していた。しかしそれからまもなく、ぼくたち生徒の間に、新しいうわさが立ちはじめた。それによるとデーミアンは女の子たちと親しくつきあっていて、『なんでも知っている』ということであった。
その間にも、フランツ・クローマーとぼくとの問題は、抜きさしならぬ歩みをつづけていた。ぼくは彼からのがれられなかった。というのは、ときとすると数日間、ぼくをほうっておくこともあったが、それでもぼくはやはり、彼にしばりつけられていたからだ。ぼくの夢のなかで、彼はぼくの影法師みたいに、いっしょに生活していた。そして彼が、現実ではぼくに仕かけなかったことを、ぼくの空想は、こういう夢のなかで、彼にやらせるのであった。夢のなかではぼくは、一から十まで、彼の奴隷であった。現実に生きるよりも――ぼくはいつもよく夢を見たから――夢のなかで生きているほうが多かった。自分の力といのちを、これらの幻影のために失っていった。とりわけぼくは、クローマーがぼくをいじめたり、つばをはきかけたり、ひざでおさえつけたりする夢をたびたび見た。それからもっとひどいことは、ぼくをそそのかして凶悪な犯罪をさせたり――いや、そそのかすというより彼の強い影響力で、いやおうなしにやらせたりする夢をみた。
こういう夢のなかでいちばんこわかったのは、父を殺そうとしておそいかかるシーンで、さめたときぼくは半狂乱《はんきょうらん》であった。クローマーは短刀をといで、それをぼくの手に渡した。ふたりは並木道のこかげにかくれて、だれかを待ちぶせていた。だれを待ちぶせているのか、ぼくにはわからなかった。だが、だれかが近づいてくると、クローマーがぼくの腕をぐいと押して、さあ、あいつを殺すんだ、と言われてみると、それはぼくの父だった。ここまできてぼくは目をさました。
こういうことに関連して、ぼくはよくカインとアベルのことは考えたが、しかしデーミアンのことは、もうあまり考えなくなっていた。それから久しぶりで彼がまたぼくに近づいてきたが、奇妙なことに、やはり夢のなかであった。つまりぼくは、またいじめられたり、乱暴されたりする夢を見たのだが、しかしこんどは、ぼくをひざでおさえているのは、クローマーではなくて、デーミアンであった。そして、これはまったくはじめてのことであり、ぼくに深い印象を与えたのであるが、クローマーから苦悩と反抗のうちに受けたすべてのことを、ぼくはデーミアンからは喜んで受けたのである。しかも不安と同時に快感がまじりあった感情で、こういう夢をぼくは二度見た。それからはまたクローマーが、デーミアンにかわって現われた。
こういう夢のなかで体験したことと、現実に体験したことを、ぼくはもうずっと前から、はっきり区別できなくなっていた。しかしどっちみちクローマーとぼくとのくされ縁《えん》は、いままでどおりつづいていった。そしてぼくが、いろいろと小銭《こぜに》をちょろまかしては、この少年に借りを全部かえしたあとでも、縁は切れなかった。いやそれどころか、彼はもう、ぼくが金を盗むのを知っていたのである。なぜなら、どこから金を手に入れたかを、いつでもぼくにたずねたからだ。そうなるとぼくはいままで以上に、彼の手ににぎられていたわけだ。
幾度も彼は、ぼくの父に何もかもばらしてしまうぞと、おどかした。そんなときぼくの不安は、自分ではじめから父に話さなかったのをひどく後悔する気持ちほど、強くなかったようだ。ぼくはなるほどひどくみじめではあったが、それでも、何もかも後悔していたわけではない。少なくとも、いつも後悔していたわけではなかった。そしてときとすると、なにごともこうなるよりは仕方がないのだ。と感じられるような気がした。ひとつの宿命が、ぼくにのしかかっている。これを突きやぶろうとしたって、むだなことだ。
おそらく両親は、ぼくのこういう状態を見て、少なからず心を痛めたと思う。何か、えたいの知れない精霊《せいれい》が、ぼくに取りついたのだ。いままであれほどしっくりいっていたぼくたちの共同生活、狂わしい郷愁におそわれながら、失われた楽園を求めるように、しばしば求めてきたあの共同生活に、もはやぼくは調和しなくなった。ぼくは、とくに母親からは、悪者のようにではなく、むしろ病人のように取りあつかわれた。しかし、ほんとうはどんな事態になっていたかというと、これは、ふたりの姉の態度を見ればいちばんよくわかった。とても思いやりは深いが、そのくせぼくに、かぎりないみじめな思いをさせた姉たちの態度には、ぼくが何かに取りつかれた人間で、その状態は責めよりむしろ、あわれむべきであるが、しかしやはり悪がすっかり根をおろしているということが、はっきり読みとれた。みんながぼくのために、いつもとは違った祈りをしているのを、ぼくは感じた。そしてそういう祈りがむだなことも感じていた。心を軽くしたいという気持ち、正式にざんげしょうという気持ちが、しばしば燃えあがるのを感じた。そのくせ、父にも母にも、何もかもありのままに話して、説明することなどできっこないという気もしていたのである。ぼくにはわかっていた。もし話せば、みんなはぼくの言うことを、やさしく聞いてくれるだろう、ぼくをとてもいたわってくれるだろう、そればかりか、同情さえしてくれるだろう、しかし、ぼくの言うことを全部はわかってくれないだろう、そしてその全体は、どうみても運命であるのに、一種の脱線ぐらいにしかみてくれないだろう、と。
まだ十一にもならない子どもがこんなふうに感じることができるなどと、信じない人もかなりあると思う。そういう人たちに、ぼくの身のうえについて話しているのではない。人間というものをもっとよく知っている人たちに、ぼくは話しているのだ。おとなというものは、自分の感情の一部を思想に変えることを知っているので、そういう思想が子どもにないのを見てとると、こんどは、体験までもないものと思いこんでしまう。しかしぼくは生涯のうち、あの当時ほど深く体験し、深刻に悩んだことは、そう多くはないのである。
ある雨のふる日のこと、ぼくは例の迫害者から、お城前の広場へ来いと言われていた。そこでぼくは広場に出かけて、待ちながら、しずくのしたたる黒い木から、まだたえまなく落ちてくる、ぬれたクリの落ち葉を、足でかきおこしていた。お金は持っていなかったが、クローマーにせめて何かやろうと、お菓子をふたつこっそりとっておいたのを、ポケットにしのばせていた。こういうふうに、どこかのすみっこにたたずんで、彼を待つ、ときとすると非常に長い間待たされることに、ぼくはずっと前から慣れっこになっていた。そして人間がどうにもならないことをがまんするように、ぼくもじっとがまんしていた。
ようやくクローマーがやってきたが、きょうは長いこと、へばりついてはいなかった。二、三度ぼくの横腹をひじでこづいてから、彼は笑ってお菓子を取りあげた。そのうえしめったタバコを一本、ぼくにすすめたりした。しかし、ぼくはもらいはしなかった。彼はいつもより、愛想《あいそ》がよかった。
「そうそう」と彼は帰りぎわに言った。「忘れねえうちに言っとくが――この次には、姉さんを連れてきてもいいぜ、上のほうだぜ、名前はなんていったっけなあ」
ぼくはなんのことやら、全然わからなかった。それで返事もしなかった。ただあっけにとられて、彼を見つめるだけだった。
「わかんねえのかい、姉さんを連れてきなってんだ」
「うん、クローマー、だけど、そりゃあだめだよ。そんなわけにはいかないし、いっしょに来いったって、姉さんはきやしないもの」
こんどもまた難題をふっかけて、いいがかりの種にするのだな、とぼくは覚悟した。彼はよくこういう手を使った。何かできないことを持ちだして、ぼくの度肝《どぎも》を抜き、降参させておいてから、だんだん取り引きをはじめるのだ。そうなるとぼくは、幾らか金をやるか、品物をやるかして、かんべんしてもらうよりほかはなかった。
ところがこんどは、全然違っていた。ぼくがことわっても、彼はいっこうに怒らなかった。
「じゃあ、いいさ」と彼は、こともなげに言った。
「よく考えといてくれよ。お前の姉さんと知りあいになりてえのさ。きっとそのうち、うまくいくだろう。お前がちょっと散歩に連れだしてくれりゃいいんだ。そうしたら、おれがそこへ通りかかるって寸法《すんぽう》さ。あした口笛で呼ぶからな、そのときもう一度、この話をしよう」
彼が行ってしまったあとで、彼の欲望の意味するところが、ふとわかりかけてきた。ぼくはまだほんの子どもではあったが、それでも男の子と女の子は、すこし年が上になると、何か人にかくれて、いやらしい、禁じられていることを、いっしょにすることができるというくらいは、聞きかじっていた。そうか、じゃいま、ぼくにやれというのは――それがどんなに大変なことかが、ふと頭にひらめいた。絶対にやるもんか、というぼくの決意は、すぐに固まった。しかし、そうなったらどんなことになるか、クローマーがぼくにどんな仕返しをするか、これを考えるのはなんだかこわかった。またしてもぼくに対して、新しい責苦がはじまったのだ。これでもう十分、というわけではなかったのだ。
どうしてよいかわからずにぼくは、両手をポケットに入れたまま、人気《ひとけ》のない広場を横ぎって行った。新たな苦悩、新たな奴隷の身。
そのとき、元気のいい、低い声で、だれかがぼくの名を呼んだ。ぎょっとしてぼくはかけだした。だれかあとを追ってくる者があった。だれかの手が、うしろからぼくを、そっとつかんだ。それはマックス・デーミアンであった。
ぼくはさからわずにつかまった。
「君だったの?」とぼくはどぎまぎして言った。「とてもびっくりしちゃったよ」
彼はぼくの顔をじっと見つめていた。彼のまなざしがこのときほど、おとなの、一段とすぐれて、なにもかも見抜く人のまなざしだったことはなかった。ぼくたちが言葉を交わすのも、久しぶりのことだった。
「そりゃあ悪かったね」と彼は、持ちまえのていねいさで、そのくせきっぱりした口調で言った。「だが、ねえ君、そんなにびっくりするようじゃいけないな」
「そりゃそうだけど、でも、そういうことだってあるもの」
「そうらしいね。しかしだね。君に何もしたことのない人を見て、あんなにびっくりしたら、その人は小首をかしげるよ。不思議に思うし、好奇心を起こすよ。その人は、君が妙にこわがりだな、と考えるよ。それからだね、何か気がかりなことがあるときにかぎって、こうなるんだ、と考えるよ。臆病者なら、気になることがたえないけど、しかし、君はもともと臆病者じゃないと思うよ。そうだろう。ああ、もちろん英雄でもないがね。何か、君のこわがっているものがあるんだね。また、だれかこわがっている人がいるんだね。そんなものは、決してあってはいけないと思うよ。そうだよ。人間なんか、まちがってもこわがってはいけないと思うな。君まさか、ぼくのことをこわがっちゃあいないだろうね。それとも?」
「こわかないよ、ちっとも」
「やっぱりそうだね。でも、君のこわがってる人はいるんだね」
「ぼくは知らない……頼むから、ほっといて! ぼくに何か用でもあるの」
彼はぼくと歩調をあわせた。――ぼくは逃げだそうと思って、足を早めていた――そして横あいから彼の視線を感じた。
「まあ、かりにだね」と彼はまた言いはじめた。
「ぼくが君に好意を持っている、と考えてごらん。ともかく君は、ぼくをこわがることなんかないんだよ。ぼくは君に対し、ひとつ実験をやってみたいんだ。おもしろいよ。それに、君は、とても役に立つことをひとつ覚えられるんだよ。よく気をつけていたまえ――つまりぼくはね、読心術といわれている術を、ときどきやってるんだ。魔術なんかじゃないぜ。だけどからくりを知らない人には、とても奇妙にみえるのさ。これで人をうんと驚かすこともできるんだよ。――さあ、ひとつやってみようか。いいかい、ぼくは君がすきだ。いや、君に興味を持っているでもいい。だから、君の心のなかがどういうふうになっているか、さぐり出してみたいわけさ。実験の第一歩は、もうふみ出してるんだよ。ぼくは君をびっくりさせたね。君は驚きやすいというわけだ。言いかえれば君は、こわがっている物や人があるわけだ。どうしてそういうことになるか。ぼくたちはだれもこわがる必要なんかないんだ。だれかをこわがるとすれば、その原因は、そのだれかに、自分を支配する力をゆずり渡してしまったからだ。たとえば、何か悪いことをしてしまった。相手はそれを知っている。――そうすると、相手が君を支配する力をにぎることになるんだ。わかるね、はっきりしてるだろう、ね」
ぼくはどうしてよいかわからなくなって、彼の顔をじっと見つめた。その顔はいつものように、まじめで利口そうで、親切そうでもあったが、甘いところはひとつもなかった。むしろきびしいくらいであった。そこには正義、もしくはそれに似たようなものが、こもっていた。ぼくは自分がどうなっているものやら、自分でもわからなかった。彼は魔術師のように、ぼくの前に立っていた。
「わかったかい」と彼は、もう一度たずねた。
ぼくはこくりとうなずいたが、ひとことも口はきけなかった。
「さっきも言ったけど、読心術ってのは、見た目にはちょっとおかしいけど、行き方はとても自然なんだよ。たとえば、いつか君にカインとアベルの話をしたね。あのとき君がぼくのことをどう思ったか、言おうと思えば、いまでもかなりくわしく言えるんだよ。いやその話は、いまはよそう。君がいつかぼくの夢を見たというのも、ぼくはありそうなことだと思うよ。だけど、この話もよそう。君は頭のいい子だ。たいていのやつは、てんでばかだけど。ぼくはときどき、頭のいい子で、信用のできる子と、話がしてみたくなるんだ。君まさか迷惑じゃないだろうね」
「うん、いいよ。たださっぱりわかんないけど――」
「さっきの、おもしろい実験の話をつづけよう。つまり、ぼくたちにわかったことはだね、S少年は驚きやすいということ――だれかをこわがっている――どうやら、自分にとても具合の悪い秘密を、そのだれかににぎられている、ということだ。これでだいたいあってるかい?」
夢でも見てるようにぼくは、彼の声、彼の影響力に、すっかり押さえられていた。ぼくはただ、こくりとうなずいた。そこで語っているのは、ぼく自身の心のなかからしか出てこないような声ではなかろうか。すべてを知りつくしている声、ぼく自身よりも、何もかもはっきり知っている声ではないだろうか。
デーミアンは、力をこめてぼくの肩をたたいた。
「それじゃあ、当たっているんだね。そうだろうと思ったよ。そこで、もうひとつだけ聞くけど、さっき向こうに行った男の子ね、あれなんていう名か知ってるの?」
ぼくはひどく驚いた。さわられたぼくの秘密が、苦しそうにのたうちまわりながら、心の奥へ逃げこんだ。明るみへ出ようとはしないのだ。
「男の子って、どんな子? 男の子なんていなかったよ。ぼくだけだよ」
彼は笑った。
「言っちまえよ」と彼は笑った。「あの子はなんて名だい?」
ぼくは、つぶやくように言った。「あのフランツ・クローマーのことかい?」
満足気に彼は、ぼくにうなずいてみせた。
「よく言った! 君はものわかりのいい人だ。ぼくたちこれから仲良しになろうね。だがここでひとつ、君に言っておかなければならないことがある。それはだね、あのクローマーとかなんとかいうのは、悪いやつなんだよ。顔を見ただけで、あいつが悪党だってことはわかる。君はどう思う?」
「ああ、そうだとも」とぼくはため息をついた。
「あいつは不良だ。あいつは悪魔みたいなやつだ。でも、あいつには、何も知らせちゃいけない。ごしょうだから、やつに何も知らせちゃいけない。君、あいつのこと知ってるの。あいつは君のこと知ってるの?」
「まあ、落ちつけよ。あいつは行っちまったんだし、ぼくのことを知ってもいないし、――いまのところは、まだね。しかしぼくは、ぜひやつと知りあいになりたいね。あいつ、小学校へ行ってるんだろう」
「うん」
「何年生だい」
「五年生だよ――でも、あいつに何も言わないでね、お願いだから、何も言わないでね」
「安心したまえ。君に迷惑なんか、かかりっこないんだから。あのクローマーのことを、もう少し話してくれる気はなさそうだね」
「できないんだよ。だめだよ。ほっといてよ!」
彼はしばらく口をつぐんでいた。
「残念だな」と彼は、それから言った。
「あの実験をもっとつづけていけるところだったのになあ。だけど君を苦しめるのはいやだし。でもねえ、君にはちゃんとわかってるね、あいつをこわがるのはまちがいだってことが。あんなふうにこわがってばかりいると、体がだめになってしまうんだ。そんなものは棄ててしまわなきゃあ。君がりっぱな人間になろうというんなら、そんなものは棄ててしまわなきゃあいけない。わかるかい?」
「わかるとも。まったく君の言うとおりだよ。……だけど、まずいんだ。君は知らないけど……」
「君にはわかったと思うんだけど、ぼくはいろんなことを知っている。君が考えている以上にね。――君、あいつに金でも借りてんの?」
「うん、そういうこともあるけど、でもそんなのは肝心なことじゃないんだよ。ぼくには言えないことだよ。言えないんだ」
「それじゃ、君があいつに借りてる金を、君にあげたって、どうにもならないってわけか。――そんなもの、いつだってあげられるけどね」
「いや、違う。そんなことじゃないんだ。お願いだから、そんなことだれにも言わないでね。ひとこともね。でないとぼくは、ひどい目にあうんだから」
「ぼくを信頼したまえ、ジンクレール。君たちの間の秘密ってのは、そのうちいつか教えてくれるだろうが――」
「教えるもんか、絶対に」とぼくは、むきになって大声を出した。
「万事、君のすきなようにしたまえ。ぼくが言うのはね、ひょっとしたらそのうちいつか、もっと話してくれるだろうってことさ。ただ、君のほうからすすんでだぜ、言うまでもないけど。君はまさか、ぼくがあのクローマーなんかと同じことをやるなんて、思ってはいないだろうね」
「ああ、そんなことはないよ。――でも君は、そんなこと全然知らないはずだけど」
「全然知らないよ。ただそのことについて、じっくり考えてみるだけさ。それにぼくは、決してクローマーみたいな真似はしないよ。信じてくれるね。君はぼくに、借りなんかひとつもないんだから」
ぼくたちは長いこと黙っていた。するとぼくは、気が静まってきた。しかしデーミアンが知っているということが、ぼくにはますます不思議に思われてきた。
「さあ、うちへ帰るよ」と彼は言うと、雨のなかでレインコートのバンドをぎゅっとしめた。
「どうせここまで話しあったんだから、もうひとことだけ、ちょっと言っておきたいけど――あいつとは縁を切ることだね。ほかにどうしても手がないっていうんなら、あんなやつ、ぶち殺しちまうんだ! もし君がぶち殺せたら、君はみあげた男だよ。うれしくなるね、ぼくは。なんなら手をかしてもいいんだぜ」
ぼくは、またしても不安にかられた。カインの物語が、ふとまた心に浮かんだのである。ぼくは気味が悪くなってきた。そこでしくしく泣きだした。身のまわりに、気味の悪いことばかり多すぎたからだ。
「まあ、いいさ」とマックス・デーミアンは微笑した。
「いいからうちへ帰りたまえ。きっとうまく片をつけよう。ほんとうならぶち殺すのがいちばんかんたんなんだけどね。こういうことになると、いちばんかんたんなことが、いつだっていちばんいいことなんだ。君、クローマーなんかにひっかかっていると、ろくなことはないぜ」
ぼくは家へ帰ったが、まるで一年間もるすにしていたような気がした。何もかもようすが変わって見えた。自分とクローマーとの間には、何か将来のようなもの、何か希望みたいなものが見えた。ぼくはもうひとりではないのだ。いまになってはじめてぼくは、あの秘密をいだいたまま、何週間も何週間も、やりきれないほどひとりぼっちであったことをさとった。するとすぐに、それまで幾度か考え抜いたことが頭に浮かんできた。つまり両親の前でざんげすれば、気持ちは楽になるだろうが、だからといって、それですっかり救われるわけでもないだろう、ということだった。いまのぼくは、ざんげしたようなものだ。相手は他人であるが、だが、これで救われるという予感が、強いかおりのように、ぼくに向かって吹きつけてくる。
それにしてもぼくの不安は、まだなかなか克服されはしなかったし、それからもぼくは、自分の敵との長い、恐ろしい対決を覚悟していた。それだけに万事がこうも静かに、まるっきりだれにもさとられないで、おだやかにすぎてゆくのが、ぼくにはいよいよ奇妙に思えた。
ぼくのうちの前で吹くクローマーの口笛は、聞えなくなった。一日、二日、三日、一週間もの間、聞えなかった。ぼくはとてもそれを信じる気になれなかった。だからやつが不意に、よもやと思っているときに、また姿を現わすのではないかと、ひそかに用心していた。しかし彼は、まるっきり姿を見せなかった。この新しい自由を疑っていたから、相変わらず本気でそれを信じなかった。ところが、とうとうあるとき、フランツ・クローマーにばったり出くわした。彼はザイラー小路をくだって、まっすぐぼくのほうへ近づいてきた。ぼくの姿を見るとぎくりとして、ひどいしかめっつらになったが、ぼくをまともに見るのがいやらしく、そのままくるりと引きかえしてしまった。
ぼくにとっては一度も味わったことのない瞬間であった。ぼくの敵が、ぼくを見て逃げだすとは! ぼくの悪魔が、ぼくをこわがったのだから。喜びとともに意外だという感じが、ぼくの全身をつらぬいて走った。
その数日の間に、一度、デーミアンがまた姿を見せた。学校の前でぼくを待っていたのだ。
「こんにちは」とぼくは言った。
「おはよう、ジンクレール。君がどんなようすかちょっと聞きたくてね。あのクローマーのやつ、もう君になんにもしないだろうね」
「君がやってくれたのか。だけど、どういうふうにやったの。どういうふうにさ。ぼくにはちっともわからないんだ。やつは全然よりつかないよ」
「そりゃあよかった。いつかまた出てくるようなことでもあったら――そんなことはないと思うけど、やっぱりずうずうしいからね――もし来たら、こう言ってやれよ、デーミアンのことを忘れるなってね」
「だけど、こりゃあ、どういうことになってんだい。君、あいつとけんかでもはじめて、ぶちのめしてやったのかい」
「いや、ぼくはそういうことはあんまりすきじゃないんだ。ぼくはただ、君とも話したように、あいつと話しあっただけさ。そのときにね、君をそっとしておくほうが、あいつ自身のためだって、はっきりわからせてやったのさ」
「ほう、でも君はまさかあいつに、金なんかやったんじゃないだろうね」
「やるもんか、君。そのほうは、君がもう実験ずみじゃないか」
ぼくは彼の口から、もっといろいろと聞きだそうとしたが、彼はうまくかわしてしまった。そしてぼくは、彼に対する前からの重苦しい気持ちをいだいたまま、ひとり、とり残された。感謝と気おくれ、驚嘆と不安、敬慕と内心の抵抗、といったようなものが、奇妙にまじりあった気持ちだった。
ぼくは、近いうちにまた彼に会おうと決心した。そしてそのときには彼といろいろなことについて、あのカインの問題についても話しあおうと思った。
ところが、そうはならなかった。
感謝の気持ちというのは、ぼくが信じているような美徳では決してない。これを子どもに求めたりすれば、まちがいだと思う。だからぼくは、マックス・デーミアンに対して示した、ぼく自身の完全な忘恩《ぼうおん》を、たいして怪しむ気持ちになれない。ぼくが生涯にわたって、不健全で身を持ちくずした人間にならないですんだのも、デーミアンがぼくをクローマーの毒牙から救いだしてくれたおかげだと、いまでもはっきり思いこんでいる。ぼくはあの当時すでに、この救済がぼくの若いいのちの最大の体験だと感じていた。――ところが、この救い手自身のことは、彼がこの奇蹟をなしとげたとたんに、気にもとめなくなっていたのである。
恩を忘れるということは、いまも言ったとおり、ぼくには不思議ではない。ただ奇妙なのは、ぼくが少しも好奇心を起こさなかったという点だけだ。ぼくをデーミアンに結びつけるもとになったあの秘密を、もっとくわしく知ろうとしないで、どうしてぼくはただの一日でも、のんきに生きつづけることができたのだろう。カインのことやクローマーのこと、また読心術のことをもっと聞いてみたいという欲望を、どうしてぼくは押さえることができたのだろう。
それは理解に苦しむことであるが、しかしそのとおりなのである。ぼくは突然、自分が悪魔の網の目のなかから、抜けだしているのを感じた。世界がふたたび明るく楽しげに、ぼくの目の前にひろがっていた。もはやぼくは、突然、不安に襲われることもなく、胸苦しい心臓のときめきに負けてしまうこともなかった。のろいの魔力はとけた。ぼくはもう、罪におちて責めさいなまれる人ではなかった。いつものような生徒にかえったのだ。
ぼくの本性《ほんしょう》は、できるだけ早くバランスと平静を取りもどそうとした。そのためには何よりもまず、多くのいやらしいものやこわいものを、身のまわりから遠ざけ、それを忘れてしまうことに力をつくした。驚くばかりの早さで、ぼくの罪とおののきの長い物語はすべて、見たところ、なんの傷あとも印象も残さずに、ぼくの記憶から消え去っていった。
その反面ぼくが、ぼくの救い主でもある恩人を、同じように早く忘れ去ろうとしたのも、いまから思えばわかることだ。のろわれて罪におちた涙の谷〔この世のこと。旧約聖書〕から、つまりクローマーに奴隷のごとくあしらわれた恐ろしい境涯《きょうがい》から、ぼくは以前、なに不足なく幸福に暮らしていたところへ、傷ついた魂のありとあらゆる衝動《しょうどう》と力をふりしぼって、逃げこんだのである。一度は失われたが、ふたたび開かれた楽園のなかへ、明るい父と母の世界へ、姉たちのもとへ、清純のかおりへ、神に愛されているアベルの心境へ。
デーミアンとちょっと話しあった翌日、自由を取りもどしたことをようやく確信し、もう逆もどりの心配もなくなったとき、早くもぼくは、前からたびたび、こがれるように待ち望んでいたことを実行した――ざんげをしたのだ。ぼくは母のところへ行き、錠前がこわされ、お金のかわりに点数札のつめてある例の貯金箱を、母に見せた。そして自分がどんなに長い間、自分のおかした罪で、たちの悪い迫害者の手に、にぎられていたかを話して聞かせた。母はすべてを理解したわけではなかったが、しかし小箱に目をとめ、いままでとは違ったぼくのまなざしを見て、またいままでとは違ったぼくの声を聞いて、ぼくの病気がなおり、ふたたび母の手にもどったことを感じてくれた。
そこでいよいよぼくは、いそいそと胸はずませて、自分の復帰を祝い、やくざ息子の帰郷を祝った。母はぼくを父のところへ連れて行ってくれた。話がもう一度くりかえされ、質問やら驚きの声が次から次へと、飛びだした。両親はぼくの頭をなでてくれ、長い間の息苦しさもとけて、ほっと息をついた。何もかもすばらしかった。何もかも小説みたいであった。何もかも溶《と》けこんで、不思議な調和をかもしだした。
この調和のなかへ、いまやぼくは真の情熱をいだいて逃げこんだのだ。自分の平和と両親の信頼を取りもどしたということは、どんなに喜んでも喜びきれぬほどであった。ぼくは家庭的な模範少年になった。前よりもよく姉たちと遊び、お祈りのときには、救われて改心した人の気持ちで、昔なつかしい歌を、みんなといっしょにうたった。それは心から出たことであった。ここには、いつわりはなかった。
だがしかし、これで片がついたというわけではなかった。そしてここにこそ、デーミアンに対するぼくの忘れっぽさを、ほんとうに説明してくれる点がある。本来ならば、彼にざんげすべきであったのだ。そうすればこのざんげは、父母にしたときほどはでやかでもなく、感動的なものでもなかったろうが、しかしぼくには、もっと実りゆたかなものになっていたはずだ。いまぼくは、ありとあらゆる根をのばして、ぼくのかつての、楽園のような世界にしがみついていた。ぼくは家に帰り、あたたかく迎え入れられた。だがデーミアンは、決してこの世界の人ではなかった。この世界にはあわなかった。彼もまた、クローマーとは違っていたが、それでもやはり、誘惑者であった。彼だってぼくをよこしまな、悪い、もうひとつの世界に結びつけたのだ。ところがこの世界とは、こんご永久に縁を切りたいと思っている。いまのぼくはアベルを見すててカインをほめちぎる手伝いなどは、できもしないし、する気もない。ぼく自身が、アベルの境地に立ちもどったばかりなのだから。
外面的ないきさつは、こんな具合であった。内面的ないきさつはというと、次のとおりである。ぼくはクローマーという悪魔の手から救いだされはしたものの、それはぼく自身の力と働きによるものではなかった。ぼくは前に、世のなかの小道を歩こうとしたことがあったが、その小道はぼくには、足を取られてすべりやすいものだった。ところが、親切に手をさしのべてくれた人のおかげで助けられたいまとなっては、ぼくはもうわき目もふらずに、母のふところへ、風のあたらない、むじゃきな子どもらしさのもつ安らかな世界へかけもどったのである。ぼくはわざと、実際よりももっと幼く、もっと甘えて、もっと子どもらしく振舞ってみた。クローマーへの従属《じゅうぞく》を、別の従属に切りかえざるをえなかった。なぜなら、ひとり歩きはできなかったからだ。
こうしてぼくは、盲《めくら》めっぽうに、父と母への従属、昔なつかしい『明るい世界』への従属をえらんだわけだ。もっとも、これが唯一の世界でないことは、ぼくにもすでにわかっていた。もしぼくがこうしなかったとすれば、ぼくはデーミアンに頼り、心をうち明けなければならなかったろう。そうしなかったのは、彼の妙な考え方に対して、当然、不信の気持ちをいだいたからだと、当時のぼくは思っていた。が、実は、それは不安以外の何ものでもなかったのである。と言うのは、デーミアンならば、両親が要求したよりも多くのことを、はるかに多くのことをぼくに要求したはずだし、刺激と警告、嘲笑と皮肉でもって、ぼくをもっと自主独立の人間にしょうと試みたはずだから。ああ、いまにしてぼくは知った。人間にとって、自分自身への道を歩くほどいやなことは、この世にはないと。
それでもなおぼくは、半年ほどたってから、ためしに聞いてみようという気持ちに負けて、散歩のおりに父にたずねた。カインのほうがアベルよりもいいと言いきる人もいるけど、これはどう考えたらよいか、と。父は非常に驚いたが、それは別に耳新しくもない解釈だと、説明してくれた。
父の話では、そういう解釈は、すでに原始キリスト教時代にも現われていたもので、そう教えている宗派もあった。そのひとつは『カイン派』と名乗っていた。だが言うまでもなくこのきちがいじみた教義は、われわれの信仰を破壊しようという悪魔の仕わざにほかならない。なぜなら、もしカインが正しくて、アベルが正しくないと信じたりすれば、その結論として、神がまちがいをなされたことになり、したがって、聖書の神は正しい唯一の神ではなくて、にせものだということになるからだ。実際カイン派の連中は、そういうようなことを教えもし、説教もしたのだ。しかしこういう邪教が人類の間から消えてから、もうずいぶんになる。だからお前の学友のなかに、どうしてそんなことを聞きかじったやつがいるのか、不思議でならない。それはともかく、そういう考え方をしないよう厳重にいましめておく、ということだった。
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第三章 盗賊
ぼくの幼年時代のこと、父や母のそばで安穏《あんのん》な日々を送ったことや、子どもらしい愛情のこと、おだやかでやさしく、明るい環境のなかで、楽しく遊ぶのんきな生活について語るとすれば、美しく、やさしく、愛すべき話の種が、幾らでもあるだろう。しかしぼくの興味をひくのは、ぼくが自分自身に到達しようとして、これまでの人生において歩いてきた道だけである。すべての心地よい休息の場、幸福の島々や楽園などの魅力は、知らないわけではないが、ぼくは、はるかかなたの栄光のなかに、そのままにしておこう。そういう場所にもう一度足をふみ入れてみようとは、思わないのだ。
だからぼくは、このまま少年時代の話をつづけるかぎり、ぼくの身のうえに起きた新しいもの、ぼくを前方へかりたてたもの、ぼくを引きさらって行ったもの、そういうものについてだけ話そう。
いつでもこの衝撃は『別の世界』からやってきた。これにはいつでもかならず、不安と強制と良心のやましさがつきまとっていた。いつでも革命的で、できることならこのまま住みついていたいと思うぼくの平和を、おびやかすのであった。
ゆるされた明るい世界では、こそこそと逃げかくれしなければならないような、原始的本能が、ぼく自身のなかに生きているということを、あらためて、いやおうなしに思い知らされたのであるが、そういう歳月が訪れたのである。すべての人間と同じように、ぼくにもまた、除々に目ざめてくる性の感情が、敵として、破壊者として、禁断のものとして、また誘惑として、罪悪として、襲いかかってきたのである。ぼくの好奇心が求めたもの、ぼくに夢と欲望と不安をかもしだしたもの、つまり、思春期の大きな秘密は、ぼくの子どもらしい平和で安穏な幸福とは、まるで調和しなかった。
ぼくはみんなと同じやりかたをした。子どもではあるが、しかしもう子どもではないという二重生活を送っていたのである。ぼくの意識は、家庭的なゆるされた世界に生きていた。ぼくの意識は、ほのぼのと明けてくる新しい世界を否定していた。しかし同時にぼくは、潜在《せんざい》的な夢や衝動や願望のなかに生きていて、これらのものの上に、あの意識的な生活が、いよいよ危《あぶな》げな橋をかけた。というのは、ぼくのなかの子どもの世界が、くずれ落ちたからだ。ほとんどどこの親もそういうものだが、ぼくの両親も、口に出して言えない生命衝動の目ざめを、どうすることもできなかった。
両親はただ、つきることのない心づかいで、ぼくの絶望的な試み、つまり、現実的なものを否定し、ますます非現実的な、でたらめなものになってゆく子どもの世界に、住みつづけようとするぼくの絶望的な試みに、手をかしてくれただけだ。こういう場合に親がしてやれることが、どれだけ多くあるものやら、ぼくにはわからない。だからぼくの両親を非難したりはしない。自分の始末をつけ、自分の道を見つけだすことは、ぼく自身のなすべきことであった。そしてぼくは、しつけのよい子がたいていそうであるように、自分のなすべきことを、手ぎわよくやれなかった。
どんな人間でも、こういう困難を切り抜けてくるものだ。ふつうの人間の場合、これが生涯のうちで、彼自身の生活の要求が周囲の世界といちばん激しくぶつかりあい、前進するためにはいちばん激しい闘争で、その道を切りひらいて行かなければならない時期である。多くの人は、われわれの運命である死と新生を、生涯でただこの一度だけ体験する。つまり幼年時代が腐って、しだいにくずれ落ちてゆくとき、いとしいものすべてがわれわれを見すてようとするので、われわれが突然、宇宙のさびしさと死のような冷たさを、身のまわりに感じるときだけである。そして非常に多くの人々が、永久にこの絶壁にぶらさがったまま、生涯の間痛ましい気持ちで、取りかえすよしもない過去にしがみつき、すべての夢のうちでもっともたちが悪く、もっとも残忍な夢である失われた楽園の夢に、しがみついているのである。
ではぼくの物語にもどることにしよう。幼年時代の終結を告げた感情や夢想は、語るほどの重要さもない。重要なのは、あの『暗い世界』『別な世界』が、ふたたび現われたということだ。かつてフランツ・クローマーであったものが、こんどはぼく自身のなかに、ひそんでいた。そのためこんどは外部からも、『別な世界』がふたたびぼくを支配するようになった。
クローマーとのことがあってから、幾年かたっていた。ぼくの生涯の、あの劇的な罪ぶかい時期は、当時のぼくからは、はるかかなたに遠ざかり、つかのまの悪夢のように消えさったように思われた。フランツ・クローマーはとうの昔にぼくの生活から姿を消していたから、ひょっこり彼に出くわしたときでも、ほとんど気にもとめなかった。しかしぼくの悲劇のもうひとつの重要人物、マックス・デーミアンは、もはやぼくの周囲から、すっかり姿をかき消すことはなかった。しかし彼は長い間、遠いすみのほうに離れていて、姿こそ見るが、働きかけてはこなかった。やがて彼はまた少しずつ近づいてきて、ふたたび力と影響を及ぼしはじめたのである。
あのころのデーミアンについて覚えていることを、思いだしてみよう。一年、あるいはそれ以上もぼくは、ただの一度も彼と言葉を交わさなかったかもしれない。ぼくは彼を避けていたし、彼のほうでも決してむりに近づいてはこなかった。ときたまふと出くわしたりすると、彼はぼくに、うなずいてみせた。するとときおり、彼の好意のなかには、あざけりとか、あるいは皮肉な非難が、かすかにまじっているような気がした。しかしそれはぼくの思いすごしだったかもしれない。彼とともに体験した事件や、あの当時彼から受けた奇妙な感化は、彼のほうでもぼくのほうでも、忘れてしまったようであった。
ぼくは彼の姿をさがし求める。こうして彼の上に思いを馳せていると、やはり彼はすぐ近くにいて、ぼくの注意をひいていたのがわかる。彼がひとりで、あるいはほかの上級生たちにまじって、学校へ行く姿が見える。ちょっと風変わりで、さびしそうに黙ったまま、みんなの間を大きな星のように歩いているのが見える。自分だけの空気に取りつかれ、自分だけの法則のもとに生きている姿だ。だれひとり彼を愛さなかったし、だれひとり彼と親しくならなかったが、ただ母親だけは別であった。その母親との間も、親子のようではなく、おとな同士のようであった。
教師たちは、なるべく彼にかまわないようにしていた。彼はいい生徒であったが、どの教師にも取り入ろうとはしなかった。そしてときおりぼくたちは、彼が先生に向かって文句をつけたとか、やりこめたとか、言いかえしたとかいう、うわさを耳にした。それは容赦《ようしゃ》のない挑戦、もしくはいやみという点で、まったく申しぶんのないものであった。
目をとじて思いかえしてみると、彼の面影が浮んでくる。あれはどこのことだったろう。そうだ、するとまたそれも浮んでくる。ぼくたちの家の前の小路、あのときのことだ。ある日のことそこに彼が、メモ帳を手にしてたたずんでいる姿を見かけた。なにかスケッチしていた。彼は、うちの玄関のドアの上にある、鳥のついた古い紋章をスケッチしていた。そこでぼくは窓ぎわのカーテンのかげにかくれたまま、彼のようすを見守っていた。そして彼の注意ぶかい、冷静な、明るい顔が、じっと紋章に向けられているのを見て、深い驚きを覚えた。それはおとなの顔であった。学者の、あるいは芸術家の顔であった。利口そうな目をした、なんだかえらそうで、意欲をたぎらせ、異様に明るく冷静な顔であった。
そしてふたたび彼の姿を見る。それは少しあとのこと、往来でのことであった。ぼくたちはみんな学校の帰りがけで、たおれた馬のまわりにかたまっていた。馬はまだかじ棒につながれたまま、農夫の馬車の前にころがって、何かほしがるように、哀れにも、鼻のあなをふくらませ、荒い息づかいをしていた。どこか見えないところを怪我したらしく、血が流れて、わき腹のあたる道路の白い砂ぼこりが、しだいに黒くにじんでいった。ぼくは気持ちが悪くなって、その光景から顔をそむけると、デーミアンの顔が見えた。
彼は前のほうへ、むりに出たりしてはいなかった。いちばんうしろのほうで、いかにもデーミアンらしく、ゆったりと、なかなかお上品なようすであった。彼の視線は馬の頭に向けられていたようで、このときも、あの深い静かな、何かに憑《つ》かれたようであるが、そのくせ情に動かされない注意ぶかさをただよわせていた。ぼくは思わず、長いこと彼を見つめた。そしてそのとき、意識されるにはまだ遠かったが、何か非常に独特なものを感じた。ぼくはデーミアンの顔を見た。すると彼が少年の顔ではなくて、一人前のおとなの顔を持っているのがわかった。いや、それ以上のことがわかった。つまり、それはただのおとなの顔でもなく、何かもっと別なものであることを、見たような、あるいは、感じたような気がしたのである。
その顔は、どことなく女の顔みたいなものもあるようであった。とくにこの顔は、ほんの一瞬の間だけだが、男性的でも子どもらしくもなく、ふけているでもなく、若くもなくて、なんだか千年もたっているような、時間を超越したような、われわれが生きているとは違う時代の刻印が押されているように思えた。けものなどは、あるいは樹木や星なら、こんなふうに見えるかもしれない。
――いまのぼくがおとなになって言っていることを、そのころのぼくは知らなかったし、また、そのとおりのことを感じたわけでもない。だが、それに似たようなことは感じたのである。おそらく彼は美しかったろう。おそらくぼくの気に入ったかもしれない。あるいは、気にくわなかったかもしれない。それさえ当時は、どちらともきめることはできなかった。ぼくにわかっていたのは、デーミアンはぼくたちとは違っている、けもののようでもあるし、また精霊のようでもある、あるいはまた、影像のようでもある、ということだけだった。彼がどんなふうであったか、ぼくにはわからないが、彼はぼくたちみんなとは違っていた。ちょっと想像もつかないほど違っていたのである。
記憶は、これ以上のことは語ってくれない。ひょっとすると、いま述べたことも、後年の印象から作りあげられたものかもしれない。
それからまた幾年かたって、ようやくぼくは、彼とまたかなり親しくつきあうようになった。デーミアンは、世間のしきたりの型やぶりであるが、同期の連中といっしょに、教会で堅信礼《けんしんれい》〔キリスト教ではふつう幼児洗礼を受けた者が、成人してその信仰を告白して、教会員となる儀式で、成人式のような意味を持っている〕を受けたりしなかった。それにもまたすぐにうわさが結びついた。学校ではまた、彼は、実はユダヤ人なのだとか、いや、違う、異教徒なんだとか言われた。また彼は、母親も同じだが、まったくの無宗教だとか、なんだかとてつもない、ひどい宗派に属しているとか、したり顔に言う者もあった。これと関連して、彼は恋人と暮らすみたいに、母親と暮らしているらしいと勘ぐる声も、聞いたような気がする。おそらくこれは、彼がいままで信仰なしで育てられてきており、そのために、これからの彼の将来に、なにかと不利益を招くおそれがある、ということなのであろう。それはともかく、彼の母親はいまごろになって、というのは、同期の連中より二年もおくれて、やはり息子に堅信礼を受けさせることを決心した。そのため彼は数か月間、堅信礼準備の授業のとき、ぼくの仲間になることになったのである。
しばらくの間、ぼくは彼からすっかり身を引いていた。彼とはかかわりあいを持ちたくなかった。ぼくの目から見ると、彼はあまりにもいろいろな、うわさや秘密のヴェールにつつまれていたのである。しかしとくにぼくの気持ちをさまたげたのは、あのクローマーとの一件以来、ぼくの心に引っかかっていたあの義務感である。それにちょうどそのころは、ぼく自身の秘密のことで、とてもわずらわされていたからである。ぼくにとっては、堅信礼準備のための授業と、性の問題を決定的に解明する時期とが、ぶつかったのである。ずいぶん努力したのだが、宗教上の教えに対するぼくの関心は、そのためひどくそこなわれた。牧師の語ることは、ぼくから遠く離れて、静かな神聖な、非現実の世界にあった。おそらく、実に美しい、貴重なものであったろうが、決して現実味のある、心をたかぶらせるようなものではなかった。それにひきかえ、もうひとつの別のことがらは、この上なく現実味があり、心をたかぶらせるものがあった。
ところでこういう状態のために、ぼくが授業に対して冷淡になればなるほど、ぼくの関心はますます、またマックス・デーミアンに近づいていった。何かぼくたちを結びつけるものがあるようであった。ぼくはこの糸を、できるだけ正確にたぐってゆかなければならない。ぼくの思いだせるかぎりでは、ことの起こりは、ある早朝の授業時間のことで、教室にはまだ明かりがついていた。ぼくたちの宗教の先生が、ちょうどカインとアベルの物語を話しだしたときである。ぼくは先生の話にはほとんど注意していなかった。眠かったしほとんど聞いてもいなかったのである。そのうちに牧師は一段と声をはりあげ、熱をこめて、カインのしるしのことを話しはじめた。その瞬間ぼくは、何か一種の接触、または警告のようなものを感じて、目をあげてみると、前列のベンチのほうから、デーミアンの顔がこちらを振り向いている。
明るい、何か話しかけるような目で、あざけりとも、まじめともとれる表情があった。彼がぼくを見つめたのは、ほんの一瞬のことであったが、ぼくは急に気をひきしめて、牧師の言葉に耳をかたむけ、カインとそのしるしについて語るのを聞いていた。そして事実は先生が教えているのとは違う、それには別の見方だってできるし、批判することだってできるんだ、そんなことは、ぼくにはちゃんとわかってるんだ、と心の奥で感じた。
この瞬間とともに、デーミアンとぼくとの間に、ふたたびつながりが生まれた。そして奇妙なことに――一種の連帯感が心のなかにめばえてきたが、そのとたんこの感情がまるで魔術のように、空間的なものにも伝わっていくのを、ぼくは見たのである。
彼が自分でそう仕組んだものか、あるいはまったく偶然だったのか、ぼくにはわからないが――そのころはまだ偶然だと思いこんでいた――二、三日もするとデーミアンは宗教の時間に、突然、席をかえて、ぼくのすぐ前にすわったのである。(ぼくはいまでも覚えている。ぎっしりつまった朝の教室の、みじめな救貧院《きゅうひんいん》のような空気につつまれて、デーミアンの首すじから、ほのかに、さわやかに伝わってくる石鹸のにおいを吸いこむのは、どんなに気持ちのいいことであったか!)それからまた二、三日もすると、彼はまた席をかえて、こんどはぼくの隣にすわった。冬の間ずーっと、そして春もずーっと。
朝の授業時間は様相が一変した。もう眠くもなく、退屈でもなくなったのだ。その時間が楽しくて、心待ちしたものだ。ときとするとぼくたちはふたりとも、注意力を集中して、牧師の話に耳をかたむけた。隣の席からちらっと見られると、それだけでもうぼくは、奇妙な物語や珍しい金言に注意を向けた。また彼から、これとは違うある種の視線を受けると、それだけでもうぼくは警告を感じ、胸のなかに批判と疑惑をよび起こすのであった。
ところがぼくたちは悪い生徒で、授業なぞまるで聞いてないことがよくあった。デーミアンは先生や学友に対しては、いつもていねいだった。彼が、生徒たちのよくやるばかな真似をしているのを、見たことなど一度もなかったし、大声で笑ったり、しゃべったりするのを聞いたことも一度もなかった。先生から小言を言われたためしもないのだ。しかしとてもこっそりと、つまり言葉に出してささやくというよりは、むしろ合図と目くばせで、彼は自分の関心をひく問題にぼくをさそいこむのがうまかった。こういう問題には、全部ではないにしても妙なものがあった。
たとえばデーミアンは、生徒のうちのだれとだれに興味をひかれているかとか、またどんなふうに、そういう生徒たちを研究しているかとか、ぼくに話してくれた。かなりたくさんの生徒のことを、彼は非常にくわしく知っていた。授業のはじまる前、ぼくにこう言ったことがある。
「親指で君に合図をするからね。そしたらこれこれのやつが、ぼくたちのほうを振り向くよ。さもなきゃ首のところを掻くよ」などというのだ。それから授業になって、ぼくがもうそんなことは、ほとんど忘れてしまったころ、突然マックスがはっきりしたしぐさで、親指をぼくのほうに向けた。ぼくは急いでそのマークした生徒のほうを見た。するとそいつは、まるで針金であやつられてでもいるように、注文どおりのしぐさをするのだ。ぼくはマックスに、いつかそれを先生にもやってくれとしつこく頼んでみたが、どうしても彼はやろうとはしなかった。だがあるとき、ぼくが授業に出て、きょうは宿題をやってこなかったから、牧師がぼくに、なんにも聞かないでくれりゃとてもありがたいんだがと言うと、ぼくに助け舟を出してくれた。牧師は教理問答の一節を暗誦させるつもりで、だれに当てようかとさがしていた。彼の目はあちこち見まわしていたが、こまりきったぼくの顔の上に、ピタリととまった。ゆっくりと彼は近づいてくると、ぼくのほうに指を突きだして、いまにもぼくの名を呼びそうになった。――と、突然、彼は気がちったのか、それともそわそわしだしたというのか、カラーにちょっと手をやると、じっと彼の顔をにらんでいるデーミアンのほうへ近づいてゆき、なにか質問しようと思ったようであるが、不意にまた向きを変えて、こんどはしばらくせきばらいなどしてから、ほかの生徒に当てた。
こんないたずらを大いにおもしろがっているうちに、この友だちがぼくにも同じいたずらをやっているのだと、やっと少しずつわかってきた。学校へ行く途中ふとぼくは、少しあとからデーミアンがついてくるような気のすることがあった。そして振りかえってみると、はたして彼がいるのだった。
「君はいったい、君の思いどおりのことを、ほかの人も考えずにはいられないように、仕向けることができるの?」とぼくは彼に聞いた。
彼は喜んで説明してくれた。落ちついて、要領よく、例のおとなびた調子で。
「いや」とデーミアンは言った。
「そんなことはできないさ。つまりさ、自由意志なんてものは、だれにもないのさ。牧師はあるように言うけどね。相手も自分の思いどおりのことを考えることはできないし、ぼくも、自分の思いどおりのことを、相手に考えさせるわけにはゆかないんだ。だけどね、だれかをじっくり観察することならできるんだ。そうすれば、その人が何を考えているか、何を感じているか、かなり正確に言えることがよくあるよ。そうなるとその人が、次の瞬間に何をするかってことも、たいてい見当がつくのさ。実にかんたんなことで、ただみんなが知らないだけさ。もちろん、それには練習がいるよ。たとえばだね、チョウ類のなかにはメスのほうがオスよりずっと少ないような、そういう種類のガがいるけど、このガはね、ほかの動物ともまったく同じ繁殖の仕方をするんだ。つまりオスがメスに受精させる、するとメスが卵を産むわけだ。それでね、もし君がこういうガのメスを一匹持っているとすると――これは自然科学者が幾度か実験したことなんだがね――そうすると、夜このメスのところへ、オスのガが飛んでくるわけだが、それもだよ、何時間もかかるところからだぜ。何時間もだよ、君、いいかい。何キロも離れているのに、このオスどもはのこらず、そのあたり一帯でたった一匹しかいないメスをかぎつけるわけだ。みんなはそれをなんとか説明しようとするが、なかなかうまくいかないんだ。これが一種の嗅覚とかなんとかいうものであることは、まちがいない。まあ、たとえばいい猟犬が、ひと目にはわからないような足あとを見つけて、それをつけて行くことができるのと同じわけさ。わかるね、君。こういうことってのは、そういうものなんだ。自然はこういうことでいっぱいなのさ。ところがだれもこれを説明できないんだ。そこでぼくが言いたいのはね、もしもこのガの場合だね、メスもオスと同じくらいたくさんいるとすれば、オスどもはとてもあんなに鋭敏な鼻なんか持つはずはないだろうよ。鋭敏な鼻を持ってるのは、そうなるように、自分で自分を仕込んだからにすぎないのさ。動物でも人間でも、あるひとつのことに全神経を集中し、すべての意志を向けていれば、そうすればちゃんとそれをはたせるのさ。それだけの話さ。君の考えてることだって、これとまったく同じわけさ。だれかあるひとりの人間を、じっくり観察してごらん。そうすれば君はその人のことを、ご本人以上にわかるようになるよ」
もう少しで、『読心術《どくしんじゅつ》』という言葉を口に出して、いまは遠い過去のものとなった、あのクローマーとのいざこざを、デーミアンに思いださせるところであった。ところがこれもぼくたちふたりの間の妙なことがらなのであるが、どんなときでも彼もぼくも、彼が幾年か前に一度、ぼくの生活にあれほど重大なかかわりあいを持ったことを露ほどもにおわせたようなことは、ただの一度もなかったのである。それはまるでぼくたちの間に、以前何ごともなかったかのようであったし、それともまた、ぼくたちのうちどちらも、相手はそんなことを忘れてしまったものと、思いこんでいるかのようでもあった。一度か二度、ぼくたちがいっしょに通りを歩いていて、ばったりフランツ・クローマーに出会ったことさえあったが、ぼくたちはおたがいに目くばせもせず、やつのことなぞ、ひとことも口に出さなかった。
「だけど、それじゃ意志のほうはどうなのさ?」とぼくはたずねた。
「だれにも自由意志なんかない、と君は言うけど、そうかと思うと君はまた、自分の意志をあるひとつのことにじっと向けていさえすれば、目的をはたせるなんて言うし、それじゃ話があわないじゃないか。もしぼくが自分の意志を思いのままにできないなら、そんなら勝手に自分の意志を、あっちこっちに向けることだってできっこないよ」
デーミアンはぼくの肩をぽんとたたいた。ぼくの言ったことが気に入ると、いつも彼はそうするのだった。
「ありがたいね、質問してくれて」と彼は笑いながら言った。「常に質問し、常に疑ってみなけりゃいけないよ。だけど、この問題は実にかんたんさ。たとえばさ、さっきのようなガがいくら星やなんかに意志を向けようとしたって、そいつはできないだろうね。ただね――ガはそんなことはやりっこないんだ。ガが求めるところはただひとつ、自分にとって意義と価値のあるもの、自分の必要とするもの、どうしてもなくちゃ困るもの、それだけだ。そうして、そんな場合にこそ、とても信じられないことまでうまくゆくんだ――ガは、ほかのどんな動物にもないような、不思議な第六感を働かせるのさ。ぼくたち人間はたしかに、動物なんかよりも広い活動範囲を持っているし、もっと多くの利害関係を持っている。しかしぼくたちだってわりかしね、ほんとうにせまい枠のなかにしばられていて、そこから外へ飛びだすこともできない。なるほどあれやこれやと想像することはできる。たとえば、どうしても北極へ行ってやろう、とかなんとか胸に描くことはできるさ。だけどね、それを実行に移し、十分に強く望んだりできるのは、そういう願いが百パーセントぼく自身の心のなかにあるとき、つまりぼくという人間がそういう願いですっかりみたされていなくちゃならないのだ。ほんとうにこうなった場合だよ、君が心の奥から命じられたことをやってみれば、たちどころにうまくゆくんだ。そうなれば君は自分の意志を、よく言うことをきく馬みたいに、使いこなせるだろう。たとえばあの牧師先生がこれからさき、もうめがねをかけないように、ひとつ仕向けてやろうなんて、いまぼくがたくらんでみても、そりゃだめさ。そんなのはただのいたずらだもの。だけど、あの秋のころ、前列にあったぼくの席から、どこかほかの席へ移してもらおうとして、がっちり意志をかためたときには、とてもうまくいったものね。あのときね、アルファベット順でいくとぼくより前の子が、それまで病気だったんだけど、急に出てきてね、それでだれかその子に席をゆずらなきゃならなかったんだけど、むろんゆずったのはぼくさ、だってぼくの意志は、チャンスがあればすぐにもつかまえる用意ができてたものね」
「そうだったね」とぼくは言った。
「ぼくもあのときは、とてもおかしいなあと思ったよ。ぼくたちがおたがいに興味を持ちあったときから君はだんだんぼくの近くに席をかえてきたね。あれはどういうことだったの? たしか初めのうちは、すぐぼくの隣にこないでさ、まず、二、三度、ぼくの前のほうの席にすわっただろう。そうだね。どうしてあんなことになったの?」
「それはこういうわけさ。つまり最初の席から移りたいと思ったときはね、どこへ移りたいのか、自分でもよくわからなかったんだ。わかってたのは、もっとうしろの席にすわろうと思ってたことだけさ。君のそばへ行こうというのは、ぼくの意志だったんだけど、まだぼくには意識されてなかったのさ。それと同時に、君自身の意志もいっしょに動いて、ぼくに力をかしてくれたんだ。それから君の前の席にすわってみて、はじめてぼくは、自分の願いがようやく半分だけみたされたのだと、気がついたのだ。――実は、君と並んですわることだけしか望んでなかったのに、気がついたのさ」
「だけどあのときはべつに新しくはいってきた生徒なんかいなかったよ」
「そうだよ。だけどあのときぼくは、自分の思ってたとおりのことを、さっさとやってしまい、いきなり君の隣にすわってしまったんだ。ぼくと席を入れ替わった子は、ただきょとんとしてるだけで、何も言わなかったものね。それから牧師は、何かあたりのようすが変ったことに、一度は気づいたのだけど、だいたいあの牧師はぼくが相手となるといつでも、内心なんとなく気が重くなるようで、というのは、ぼくの名がデーミアンで、名前にDのつくぼくが、ずーっとうしろのほうのSのあとにすわっているのは変だ、ということは、彼にはわかってるんだが、だけどそのことが彼の意識にまでのぼっていかないんだ。なぜかというと、ぼくの意志が逆に動いていて、牧師が意識しそうになると幾度もじゃまするからだ。牧師は、これはどこか変だぞともう幾度も気づいて、ぼくをじっと見つめては考えこむんだよ、人がいいんだな。だけどぼくはこうなると、かんたんな手を使うんだ。つまり牧師が考えこむたびに、ぼくは相手の目を思いきりぐっとにらんでやるのさ。そうするとたいていの人は、たじたじとなるね。みんな、そわそわしだすんだよ。君がだれかに何かしてもらおうと思ったら、その人の目をだしぬけにぐっとにらむことだ。それでも相手が全然平気だったら、そのときはあきらめるんだね。その人には何もしてもらえないね。決してね。だけど、そういうことはめったにない。正直なところ、ぼくの手におえない人間なんてたったひとりしか知らないからね」
「だれなの、それは?」とぼくは、すかさず聞いた。
デーミアンはぼくをじっと見つめていた。考えこむときのくせで、いくらか目を細めて。やがて目をそらして、何も返事してくれなかった。ぼくは激しい好奇心にかられたけれど、同じ質問をむしかえすことはできなかった。
しかしあのときデーミアンは、自分の母親のことを言ったのだと、ぼくは思う。――母親との仲は、とてもうまくいっているらしかったが、ぼくには、一度も母親のことは話さなかったし、ぼくをうちに連れて行ってくれたことも、一度もなかった。彼の母親がどんな顔の人かも、ほとんど知らなかったのである。
そのころよくぼくは、デーミアンを真似て、何かあることに意志を集中して、かならずそれをものにしようと試みたものだ。ぜがひでもと思われる願いが、幾つもあったからだ。だが、なんにもならなかったし、うまくいかなかった。そのことを、思いきってデーミアンに話す気にもなれなかった。ぼくが何を望んでいたかは、彼に告白するわけにはいかなかったと思う。また彼のほうでも聞いてはこなかった。
宗教の問題についてのぼくの敬虔《けいけん》な気持ちには、とかくするうちに、かなり穴があいてしまっていた。それでもぼくは、すっかりデーミアンの感化を受けた考え方をしていたので、完全な無信仰を得意がるような同級生たちの考え方とは、ずいぶん違っていた。そういう連中は数人いた。彼らはときおり、こんなことを平気でしゃべっていた。つまり、神を信じるなんて、ばかげたことだし、人間として恥になることだ。三位《さんみ》一体〔神・キリスト・聖霊を一体と見る説〕だとか、イエスの無垢《むく》なる誕生〔処女懐胎〕だとかいう物語は、ただのばか話にすぎない、きょうびまだ、そんなでたらめを売り物にしているなんて恥さらしだ、というのである。
ぼくは決してそんなふうには考えなかった。疑いをいだく場合でも、やはりぼくは、ぼくの幼年時代の経験全体から、たとえば、ぼくの両親が送っていたような信心ぶかい生活は現実にあるのだ、そしてこれは、人間にふさわしくないことでも偽善《ぎぜん》ぶることでもない、ということを知っていた。むしろぼくは宗教的なものに対して、相変わらず、非常に深い畏敬《いけい》の念を持っていた。ただデーミアンのおかげで、物語や教義をもっと自由に、もっと個性的にゆとりをもって、もっと空想を働かせて観察したり、解釈したりするくせがついただけだ。少なくともぼくは、彼が手ほどきしてくれた解釈に、いつもすすんで、楽しい気持ちで従った。もちろんぼくには、あまりにもどぎついと思われることが、いろいろあった。たとえばカインの問題などがそうだった。そうしてあるとき、堅信礼準備の授業中に彼は、おそらくもっと大胆と思われる解釈でぼくの度肝《どきも》を抜いたことがある。
それは教師がゴルゴタ〔キリストがはりつけにされた丘〕の話をしていたときのことだ。救世主の受難と死について聖書に書いてあることは、ぼくがまだほんとうに幼いころから、ぼくに深い感銘を与えていた。小さな少年のころ、たとえばキリスト受難日などに、父が受難の物語を読んでくれたあとで、ぼくはよく深い感動を受けて、この息苦しいまでに美しい、青ざめて気味の悪い、そのくせとてつもなく生き生きとした世界に、つまり、ゲッセマネの園〔キリストが捕えられたところ〕やゴルゴタの丘の上に生きた思いもした。そしてバッハのマタイ受難曲にじっと聞き入っていると、この秘密にみちた世界の陰うつなまでに力強い苦悩の輝きが、あらゆる神秘的な身ぶるいをもって、ぼくの心をひたひたとみたすのであった。ぼくは今日《こんにち》でもなおこの音楽が、この『悲劇的行為』がすべての詩歌《しいか》、すべての芸術的表現の真髄《しんずい》だと思っている。
ところでデーミアンは、その授業時間の終わりに、考えこむようにしながら、ぼくに向かってこう言った。
「あの話にね、ジンクレール、ぼくの気にくわないところがあるんだ。まあ一度あの話を読みかえしてごらん。そうして舌のさきでよく味わってみたまえ。どこか気の抜けたところがあるよ。つまりふたりの盗賊〔キリストとともに、はりつけに処せられた盗賊〕のことなんだがね。丘の上に三本、例の十字架が立ってるところなんかは実にすごいと思うんだが、あのばか正直なほうの盗賊の話、あのセンチメンタルなお説教くさい物語ときたら、どうだい! あの男ははじめのうちは悪党で、どれだけ悪事を重ねたかわからないほどなのに、こんどはすっかりふぬけみたいになって、悔い改めのあわれっぽい儀式と相《あい》なるんだからね。墓場の二歩てまえで、こんな後悔をしたところで、なんの意味があるんだろう。どうだい、君、これだってまた、ほろりとさせる感傷性と、えらく教訓的な背景のある、いかにも坊主が考えだしそうな話じゃないか。甘ったるくて、うそっぱちだものねえ。もし君がきょう、このふたりの盗賊のうちどちらかを、友だちにえらばなけりゃならないとしたら、あるいは、ふたりのうちどちらが信用できるか、考えてみなけりゃならないとしたら、それはあの哀れっぽい転向ぐみのほうじゃないことはたしかだ。そうじゃなくて、もうひとりのほうだ。そいつはいっぱしのやつで、根性もある。改宗なんか屁《へ》のかっぱだ。やつの立場から見れば、改宗なんかは、ちょっとていさいのいいお題目にすぎないからね。やつは最後までわが道を行く。最後のどたん場になって、それまで手をかしてもらわねばならなかった悪魔と、ひきょうにも手を切ったりなんかしないよ。やつは根性があるからね。ところが根性のある連中は、聖書の物語のなかじゃ、とかく損な役ばかりあてがわれるね。ことによると、そいつもカインの子孫かもしれないぜ。君、そう思わないかい」
ぼくはひどく面《めん》くらった。このキリストはりつけの物語は、何もかもおなじみのつもりでいたのに、いまはじめて自分が、いかにも非個性的に、想像力や空想をあまり働かせないで、この話を聞いたり読んだりしていたことか、と思い知らされたのである。とはいえデーミアンの新しい考えは、ぼくにとって不吉なひびきがこもっていたし、ぼくの頭にある概念は、ぼくが守り抜かなければと思っていた概念をいまにもくつがえそうとした。いやそうはいうものの、何もかも、もっとも神聖なものまでも、あんなふうに勝手にひねくりまわすのはよくないことだ。
デーミアンはいつものとおり、ぼくが何も言わないうちに、すぐぼくの抵抗に気づいた。
「もうわかってるよ」と彼は、あきらめたようすで言った。
「珍しくもない話だよ。まあ、むきにならないでくれたまえ。だけど君に言っておきたいことがあるよ。――つまりこれがこの宗教の欠陥を実にはっきり示している点のひとつなのさ。問題なのはね、旧約と新約のあの完全な神というのは、なるほど大したものには違いないけど、しかし本来それが表現すべき姿を示していないということだ。その神は、善なるもの、尊いもの、父親のようなもの、美しくまたけだかいもの、感性のゆたかなものだ――まったくそのとおりさ。しかし世界は、そのほかのものからもなりたっている。そうしてそういうものは、みんな、あっさりと悪魔のせいにされてしまう。すると、世界のこの部分全体が、つまり、この世界のまるまる半分がそっくり、ひたかくしにされ黙殺されるわけだ。たとえばみんなは、あらゆる生命の父だといって神を礼讃《らいさん》するくせに、生命の土台になっている性生活というものをすべて、あっさりと黙殺し、まかりまちがえば悪魔の仕わざとか、罪ぶかいことだとか公言したりするんだ。ぼくは、みんながこのヤハウエの神をあがめることに異議はない。少しも異議はないよ。だけどね。ぼくの考えでは、ぼくたちはすべてのものをあがめ、重んじるべきだと思うんだよ。世界全体をだよ。この人工的に切り離された、公認の半分の世界だけじゃなくてね。だからそうなるとぼくたちは、神の礼拝とともに悪魔の礼拝もしなければならなくなる。そうするのが当然だとぼくは思うけどね。そうでなければ、悪魔までもひっくるめたような神さまを作りだすしか手がないだろう。こういう神さまの前でなら、世のなかでいちばん自然なことが行なわれるときに、わざわざ目をつぶらなくてもいいわけさ」
デーミアンはいつもの調子とは違って、興奮せんばかりになっていたが、しかし、そのあとすぐにまた微笑にもどり、それ以上ぼくに突っこんではこなかった。
しかしぼくの内心では、これらの言葉は、ぼくの少年時代を通じての謎をずばりと言いあてたものであった。ぼくがたえず胸にいだきつづけながらも、まだひとこともだれにも言わずにいた謎である。デーミアンが神と悪魔について公認の神の世界と、黙殺された悪魔の世界について語ったことは、ぼく自身の考えとそっくり同じであり、ぼく自身の神話であった。つまりふたつの世界、あるいは半分ずつの世界――明るい世界と暗い世界という考え方と同じであった。ぼくの問題がすべての人間の問題であり、すべての生命と思考の問題だというさとりは、突然、神聖な影のように、ぼくの上におおいかぶさってきた。そしてぼくのいちばん奥底にある個人的な生活と意見が、大きな理念の永遠の流れに、どんなにか深いつながりがあるかを見てとり、またふとそれを感じたとき、不安と畏敬の気持ちがぼくに襲いかかってきた。
このさとりは、なんとなくぼくを勇気づけ、幸福を感じさせてくれはしたが、楽しいものではなかった。それは厳しいもので、舌ざわりの悪いものであった。なぜなら、そこには責任感のひびき、つまり、もう子どもでいてはならぬ、ひとり立ちになるのだというひびきが、こもっていたからだ。
これほど深い秘密をうち明けるのは、生まれてはじめてのことであったが、ぼくはあの『ふたつの世界』について、ぼくがほんとうに幼なかったころから持ちつづけてきた見解を、この友だちに話して聞かせた。すると、彼はすぐさま、これでぼくの心の奥底の感じ方が、彼に賛成し、彼を是認《ぜにん》していることを見てとった。ところが、デーミアンは、そんなことにつけこんだりする人間ではなかった。彼は、いままでぼくに示したよりももっと深い注意を払って、耳をかたむけてきた。そして穴のあくほどぼくの目を見つめていた。それでしまいには、ぼくのほうで視線をそらさずにはいられなくなった。というのは、ぼくは彼のまなざしのなかに、またしてもあの異様な、動物的な超時間性、あの想像もつかないような年齢を認めたからだ。
「そのことはまたいつか、もっと話しあおう」とデーミアンは、いたわるように言った。
「わかるよ。君は人に話しきれないほど、いろいろ考えているんだね。それでだ、もしそうだとすると、君は考えたことを百パーセントそのまま生活してきたわけじゃないということも、自分でわかってるね。ところが、それはいいことじゃないんだよ。ぼくたちの考えはね、生活に生かしてみてはじめて価値をもつんだよ。君の言う『ゆるされた世界』とは、世界の半分にすぎないことは、君もわかったね。そして残りの半分は、牧師や教師がやるように、そっとかくしておこうとしたんだね。そりゃあうまく行きっこないぜ。一度でも考えることをはじめた人には、うまく行きっこないんだよ」
その言葉はぐさりとぼくの胸をさした。
「だって」とぼくは叫ぶような声で言った。
「どうにもならないことなんだよ、ほんとうに、禁じられたいやらしいことが,この世のなかにちゃんとあるってのはね。君だってまさか、そんなものはないとは言えないだろう。そういうものは禁じられていて、どうにもならないんだよ。だからぼくたちは、そんなものあきらめるしかないんだよ。人殺しだとか、その他ありとあらゆる悪事が世のなかにあることは、ぼくだって知ってるよ。だけどね、そんなものがあるからといって、それだけで、のこのこ出かけて行って、犯罪者になれってのかい?」
「きょう、その話のけりをつけるのはむりだろうな」とマックスはなだめるように言った。
「たしかに君は、人をなぐり殺したり、娘さんを手ごめにして殺したりしてはいけない。そりゃいかん。だけどね、君はまだ『ゆるされている』とかいうのが、はたしてどういうことなのか、ほんとうにわかるところまでは来ていないのだ。君はやっと真理の一部をかぎつけただけなのだ。残りはいずれやってくるよ。当てにしていたまえ! たとえば、いま君は、一年ぐらい前からかな、ほかのどんな欲望よりも強い欲望を心に感じている。そうしてこの欲望は『禁じられた』ものと、みなされているのだ。ギリシア人とかそのほか多くの民族は、これとは反対に、この欲望を神聖なものに祭りあげて、盛大な儀式でこれを崇拝したものだ。だから『禁じられている』というのは、永久のことじゃないのだ。変ってもいいのさ。だれでも女のひとと牧師のところへ行って、結婚しさえすればね、きょうじゅうにだって、その女のひとといっしょに寝てもいいんだぜ、すぐにでもだよ。ほかの民族となると、話が違ってくるんだ。現代でもまだね。だからぼくたちはめいめい、何がゆるされているか、何が禁じられているか――とくに自分には何が禁じられているかを、自分ひとりで見つけださなければならないのだ。禁じられたことを一度もしないような人が、すごい悪党だということもある。その逆の場合だってある。――もともとそれは、楽がしたいかどうかの問題にすぎない、自分で考えたり、自分で自分を裁くのをおっくうがるような人は、だれでも、このどっしりと構えた禁制におとなしく従うわけだ。そういう人は楽なもんさ。そうでない連中は、掟というものを胸のなかに感じている。この連中には、れっきとした紳士が毎日やっているようなことが、禁じられているし、かと思うと、ふだんはかたく禁じられているようなことが、その連中にゆるされたりする。人間だれしも、自分の足だけで立たなければならないのさ」
デーミアンは突然、こんなにしゃべってしまったことを後悔したらしく、急に口をつぐんだ。もうその当時のぼくは、彼がそのとき何を感じていたかを、気持ちの上ではある程度、理解することができた。というのは、彼は自分の思いつきを、いかにも気持ちよさそうに、また、ちょっと見たところ、いかにもさりげなく話してみせるのが常であったけれども、『ただおしゃべりのための』おしゃべりなんてことは、いつかも彼が言っていたように、死ぬほどきらいだったのである。ところがぼくには、ほんとうの興味のほかに、お遊びが多すぎる、また気のきいたおしゃべりに対する喜びといったようなものも多すぎる、要するに、完全な真剣味がかけているということを、彼は感づいていた。
いま書いたばかりの言葉――『完全な真剣味』――を読みかえしていると、また別な場面が、ふと心によみがえってくる。それはぼくがマックス・デーミアンといっしょに、まだ半分子どもだったころ体験したもっとも心をうつ場面であった。
ぼくたちの堅信礼が近づいていて、宗教の授業の最後の数時間は、聖餐《せいさん》の話であった。牧師にしてみれば大事なことだったので、彼はいっしょうけんめいだった。何かしら神聖さとか雰囲気とかいったようなものが、この時間には、十分感じとれた。ところが、ちょうどこの最後の聖書購読の数時間に、ぼくの考えは他のことにしばりつけられていた。しかも、ぼくの友だちの人がらにである。堅信礼は教会という共同体へのおごそかな入門だと、言い聞かされていたが、この堅信礼を待ち受けているうちに、この約半年にわたる宗教の授業の価値は、ぼくにとっては、ここで習ったことにあるのではなくて、むしろデーミアンと親しくなって、その感化を受けた点にあるのだ、という考えが、ぼくの胸にもりあがってきて、どうにもおさえようがなかった。ぼくはそのとき教会へではなく、何かまるで違ったもの、思想と人格の教団へ受け入れられる心がまえをしていたのだ。そういう教団はなんらかの形で、この世に存在しているに違いなかった。またぼくはこの友だちを、そういう教団の代表もしくは使徒だと感じていた。
ぼくはこういう考えを胸に押しもどそうとした。何はともあれ堅信礼の儀式だけは、ある程度おごそかに受けてみようと、真剣に考えていた。だがこの儀式は、こんどの新しい考えとは、あまりしっくりあわないような気がした。しかしどんなことをしてみても、この考えはどっしりかまえていて、近づく教会の儀式に対する考えと、しだいに結びついていった。ぼくはこの儀式を、ほかの連中とは違うやり方で受けようと胆《はら》にきめた。つまり、デーミアンのなかで知りえたような思想の世界へ、ひとつぼくも受け入れてもらおう、ぼくにとってはこの儀式は、そんなつもりであった。
あのころのことだった。ぼくはまたデーミアンと活発に議論したものだ。ちょうどある聖書購読の授業のはじまる前のことであった。ぼくの友だちはむっつりしていた。どうやらかなり生意気で、もったいぶったぼくの話しぶりを、快く思っていなかったのだ。
「ぼくたちは口数が多すぎるよ」と彼は、いつになく真剣な口調で言った。
「利口そうなおしゃべりなんて、まるっきり価値がないんだよ。まるっきりね。自分自身から離れていくだけさ。自分自身から離れてしまったら、罪だぜ。カメの子みたいに、自分自身のなかへすっぽりもぐりこめなくちゃいけないんだ」
そのあとすぐにぼくたちは教室へはいった。授業がはじまった。ぼくはつとめて注意を向けていた。デーミアンもそのじゃまはしなかった。しばらくすると隣にすわっている彼の側から、何かしら異様なものが感じられてきた。空虚とか冷ややかさとかそんなふうなものだったが、まるでその席が、不意にからになってしまったようなそんな感じであった。そういう気持ちで胸苦しくなりはじめたとき、ぼくはそのほうを振り向いた。
見るとぼくの友だちがちゃんとすわっている。いつものようにぐっと胸をはって、きちんとした姿勢で。しかしそれでも彼は、いつもとはまるで違ったようにみえた。何かぼくの知らないものが彼から発散して、彼をつつんでいた。彼は目をつむっているんだなと思ったが、見ると、目はちゃんとあけている。しかしその目は何も見てはいなかった。何かすわった目つきでじっとしたままで、心のなかか、あるいはどこか遠いところへ向けられていた。デーミアンはまったく身動きもせずすわったままで、呼吸もしてないようであった。その口は、木か石で刻まれているようだった。顔は青白く、まるで石みたいで、どこにも血の気がなかった。そして褐色の髪の毛が、彼の体のもっとも生き生きしているものだった。両手は前の椅子の上におかれていたが、石かくだものみたいな静物のようで、生気《せいき》もなくじっとしていた。血の気もなく、びくりともしなかったが、そのくせ、だらりとしているわけでもなく、うちに秘めた、強い生命をつつむ、かたい上質の外皮のようであった。
この光景にぼくは身ぶるいした。彼は死んでいる! と思った。あやうく大声で、そう言いかけた。だが、彼が死んでいないことは、ぼくにはわかっていた。ぼくは視線を釘づけにされたようにして、彼の顔を、あの青白い、石のようなマスクを見つめ、これがデーミアンなのだと感じた。ふだん、ぼくといっしょに歩いたり話しあったりするときの彼は、デーミアンの半身にすぎない、一時的にある役割を演じて、相手と調子をあわせ、好意から片棒かついでくれるだけの話だ。しかし本物のデーミアンは、こんなふうなのだ。いまここにいる人と同じなのだ。こんなふうに石で作られていて、ものすごく古くて、動物的で、岩のようで、美しく冷たく、死んでいて、しかもひそかに、まだ一度もなかったほどの生命にみちあふれている。そして彼の周囲にあるものは、この静かな空虚、このエーテルと輝く星空、この孤独な死なのだ。
いまこの人は、すっかり自己のなかに没入している、とぼくは感じて身ぶるいした。ぼくはこのときほど孤独になったことは、まだ一度もなかった。ぼくは彼とは、つながりがないのだ。彼はぼくの手のとどかないところにいる。かりに彼がこの世の果ての島にいるとしても、いまほど遠くはないはずだ。
ぼくのほかには、だれもこれに気づかないというのは、ぼくにはちょっと理解できなかった。みんなこっちを見るのが当然だ。みんなぞっとするに違いないぞ。だが、だれひとりとして彼に気をとめる者はなかった。彼は彫像のようにすわっていた。ふと、そう思わずにはいられなかったのであるが、偶像のようにどっかとすわっていた。ハエが一匹、彼の額にとまり、ゆっくりと、彼の鼻と唇の上を移動して行った。――彼はびくりともしなかった。
どこに、彼はいまどこにいるのだろう。何を考え、何を感じているのかしら。彼はどこかの天国にでもいるのだろうか、どこかの地獄にでもいるのかしら。
彼にそれを聞くことは、ぼくにはできなかった。授業が終わって、彼が生きかえり、また息をするのを見たとき、彼のまなざしがぼくのまなざしに出会ったとき、彼はもとのデーミアンにもどっていた。彼はどこから来たのだろう。どこへ行ってたのかしら。疲れているようだ。彼の顔は生気をとりもどし、彼の手はまた動きだしたが、褐色の髪の毛にはもうつやもなく、ぐったりしているようであった。
その後数日の間ぼくは自分の寝室で、幾度か新しいトレーニングに没頭した。つまり、椅子にじっと腰かけて、ぐっと目をすえ、少しも身動きなどしないでいた。そしてどのくらい我慢ができるか、またそのとき何を感じるだろうか、心待ちしていた。ところがただ疲れるばかりで、まぶたがやけにかゆくなってきた。
それから間もなく堅信礼が行なわれたが、これについてはたいした思い出も残っていない。
これで何もかも変わってしまった。幼年時代がぼくのまわりでくずれ落ちた。両親は何かしら困ったようすで、ぼくをながめていた。姉たちは、ぼくとはすっかり縁遠いものになってしまった。一種のめざめが、ぼくのなじんでいた感情や喜びを、いつわりのものとし、色あせたものにしてしまった。花園にかおりもなく、森も心をさそわない。世界はぼくを取りまいて、がらくた道具の大安売りよろしく、味もそっけもないままだ。書物は紙きれで、音楽は騒音《そうおん》だった。秋になると木のまわりに落ち葉が散っても、木はそれを感じないが、これと同じだ。雨水が幹をつたわって、したたり落ちる。あるいは陽が射し、霜がおりる。すると木の内部では、生命がしだいに、いちばん奥のせまいところへ引きこもってしまう。木は死にはしない。待っているのだ。
ぼくは休暇が終ったらほかの学校へ移るので、生まれてはじめてのことだが、家を離れることに話がきまっていた。ときおり母親は、特別の愛情をこめてぼくに近づいてきた。前もって別れを告げながら、ぼくの心のなかへ、愛情と郷愁と忘られぬ思いを、魔術のようにしのびこませようとつとめた。デーミアンは旅に出ていた。ぼくはひとりぼっちであった。
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第四章 べアトリーチェ
ぼくの友だちにはそれきり会わずじまいで、休暇の終わりにぼくはS市へ旅立った。両親はふたりともついてきて、なにくれとなく心をくばってくれ、ぼくをあるギムナージウムの教師が監督している、少年寄宿寮にあずけた。もし両親がそのときぼくを、どんな環境へはいりこませたか知ったとすれば、驚きのあまり体がすくんでしまったことだろう。
時の移るとともに、ぼくがいい息子になるだろうか、役に立つ市民になれるかどうか、それともぼくの天性は、ほかの道へ突き進んでゆくのだろうか、それは依然として疑問だった。父の家と父の精神に見守られながら幸福に暮らそう、というぼくの最後の試みは、長い間つづけられたし、ときにはうまくゆきそうになったこともあるが、やはり結局は、完全に失敗した。
堅信礼のあとの休暇中に、ぼくがはじめて感じるようになった奇妙な空虚と孤独感は(ぼくはその後もいやというほど味わわされたのであるが、この空虚と稀薄な空気は)そう急には消えなかった。故郷との別れは不思議なほど楽にすんだ。もっと悲しくならないのが、実は恥ずかしいくらいだった。姉たちはとめどもなく泣いた。ぼくは泣けなかった。自分ながらあきれる思いであった。それまではいつもぼくは、感じやすい子どもだった。根はかなりいい子だったのである。それがいまではすっかり変わっていた。ぼくは外部の世界に対しては、まるで無関心に振舞い、幾日もの間、自分の心にじっと耳をかたむけて、心の底ふかく音をたてる、禁じられた暗い流れを聞くことにばかり、気をとられていた。
ついこの半年ばかりの間に、ぼくは非常に早い成長をとげた。だからひょろ長くやせていて、未成熟のままで世のなかをながめていた。少年らしいかわいらしさは、ぼくからすっかりなくなっていた。自分でも、これでは人にかわいがられるわけはない、と感じていたし、自分でも少しも自分がかわいくなかった。マックス・デーミアンには、ぜひ会いたいと思うことがよくあった。そのくせ、彼がきらいになることもあった。そうして、いやな病気をしょいこむみたいに、ぼくがしょいこんでしまった生活のみじめさは、彼のせいだと思うことも珍しくなかった。
ぼくたちの寄宿寮で、ぼくははじめのうち愛されも尊敬されもしなかった。みんなは最初ぼくをばかにしてからかったが、やがてぼくから手を引いて、ぼくのことを陰険なやつ、感じの悪い変わり者だと思いこんだ。ぼくのほうではこの役割を得意がって、さらに輪をかけて振舞ってやった。そうして、うらめしそうな気持ちで、孤独のなかへもぐりこんだ。この孤独は、外に対してはいつもきわめて男らしく、世間をなめきったようには見えても、そのくせぼくは内心では、悲しみと絶望の食い入るような発作に、しばしば負けていたのである。学校のほうは、郷里でたくわえた知識を食いつなぎながら、なんとかやっていけた。こんどのクラスは、前のクラスにくらべると、幾らか遅れていたからだ。そこでぼくは、自分とおない年の連中を少しばかにして、子どもあつかいするくせがついてしまった。
一年あまりが、こんなふうにしてすぎていった。はじめのうちは休暇に幾度か帰省しても、別に新しいひびきに接することはなかった。ぼくは喜んでまた旅立って、もどるのであった。
十一月のはじめのことだった。ぼくはどんな天気のときでも、もの思いにふけりながら、ちょっと散歩してみるくせがついていた。その途中でよくぼくは、一種の快感を味わうのだった。憂うつと世間|軽侮《けいぶ》と自己軽侮の気分にあふれた快感であった。そういうわけでぼくはある夕方、しめっぽい、霧のかかったうす暗いなかで、町の近郊をぶらついていた。公園の広い並木道には人影ひとつなく、ぼくの心をさそってきた。道には落ち葉が厚くつもっていて、ぼくは暗い快感に身をまかせながら、それを足でかきまわした。しめっぽい、刺すようなにおいがした。遠くの木々が、化け物のように大きく、まぼろしのように霧のなかから浮んできた。
並木道のはずれまで来て、どうしようかと迷いながら立ちどまると、黒い葉のしげみをじっと見つめ、風化と死滅のしめっぽいにおいを、むさぼるように吸いこんでみた。ぼくのなかには、何かしらこのにおいに答え、それを迎え入れるものがあったのだ。ああ、人生の、なんと味気ないことか!
横合いの道から、えりのついたオーバーをなびかせて、だれかひとりやってきた。ぼくがそのまま立ち去ろうとすると、その人はぼくに声をかけた。
「おい、ジンクレール」
その人は近よってきた。ぼくたちの寄宿寮でいちばん年上のアルフォンス・ベックであった。ぼくはいつも彼に会うのがすきだったし、彼が年下の連中みんなに対するのと同じように、ぼくに対してもいつも皮肉でおじさんぶる点をのぞけば、別に彼に対して文句はなかったのである。彼はクマのように強いといわれていた。ぼくたちの寮主任も彼には一目おいているというし、ギムナージウムの生徒仲間のいろいろなうわさ話の中心人物であった。
「こんなところで何してんだい?」と彼は、大きな声であいそよく言った。年上の連中がときたまぼくたちのだれかに、下手《したで》に出てみせるときの調子であった。
「どうだ、ひとつかけをしてみようか。詩を作ってたんだろう?」
「とんでもない」とぼくは、ぶっきらぼうに言って、相手にしなかった。
彼は大声で笑うと、ぼくとならんで歩きながらしゃべった。こんなことはぼくとしては、もうたえて久しくなかったことだ。
「ねえ、ジンクレール、ぼくにはそんなことはわからないんじゃないかと、心配するには及ばないよ。こうやって夕方、霧のなかをだな、こうやって秋の思いにふけりながら歩くっていうのは、ちょっとした気分だぜ。こうやっているとつい詩を作りたくもなるよ。ちゃんとわかってるよ。むろん、滅びゆく自然だとか、それから、それに似たようなやつで、失われた青春だとか、ハインリヒ・ハイネを見よ! だね」
「ぼくはそんなおセンチじゃないよ」とぼくは抗議した。
「まあ、どうでもいいや。だけどな、こういう天気のときには、一杯のブドウ酒かなんかがある静かな場所をさがすのがいいと思うな。ちょっといっしょに来ないか。ちょうどぼくはいまひとりぼっちなんでね。――それともいやかな。君を誘惑する役なんかごめんだからね。ねえ君、もし君が、模範生になれって言われてるんならね」
それから間もなくぼくたちは、場末《ばすえ》の小さな飲み屋に腰をおろして、怪しげなブドウ酒を飲みながら、ぶ厚いグラスをかちあわせていた。ぼくは、はじめのうちあまり気乗りがしなかったが、とにかくこれはいままでにないことだった。しかし間もなくぼくは、ブドウ酒を飲みつけないせいか、とても口が軽くなった。何か心のなかで、窓がさっと押しひらかれたような気がした。世界の光が射しこんできた――どんなにか長い間、恐ろしいほど長い間ぼくは、何ひとつ心をうち明けて語らなかったことだろう。ぼくは口からでまかせにしゃべりまくった。しかも話の最中に、カインとアベルの物語まで持ち出したのである。
ベックはおもしろそうに聞いていた。――ぼくから何かを受け取ってくれる人に、ようやくめぐり会えたのだ。彼はぼくの肩をぽんとたたいて、ぼくのことを、えらいやつだと言ってくれた。するとぼくの心はうれしさのあまり、ぐーっとふくれあがった。だれかに話したい、うち明けたいという欲求がせきとめられていたのを、思いきり流してみて、人に認められ、しかも年上の人にいっぱしのやつだといわれて、うれしかったからだ。彼がぼくのことを天才的なやくざと呼んだとき、その言葉は甘い強いブドウ酒のように、ぼくの心にしみわたった。世界が新しい色どりを見せて燃えあがった。いろいろな思いが数多くの力強い泉から、ぼくのほうへ湧き出てきた。精神と情熱がぼくの胸のなかで、炎々と燃えあがった。
ぼくたちは教師のことや仲間たちのことを話しあった。そしてふたりがすごく気があっていると、ぼくには思われた。ぼくたちはギリシア人のことや異教徒について語りあった。するとベックはぼくに、どうしても恋愛体験の告白をしろと言ってきかなかった。こうなるともう、ぼくの出る幕ではなかった。何ひとつ経験もないし、語るに足るものもなかった。ぼくが心のなかで感じ、組み立てて空想したものは、なるほど心のなかで燃えてはいたが、ブドウ酒の勢いをかりても解き放たれないし、人に話せるほどになっていなかった。女の子のことは、ベックのほうがはるかに多く知っていた。ぼくはその話を夢中になって聞いた。信じられないことを、そのときぼくは聞かされた。絶対にありえないと思われることが、平凡な現実となり、あたりまえのことのように思われた。
アルフォンス・ベックは十八そこそこのくせに、もういろんな経験をつんでいた。とりわけ、女の子なんてどいつもみな同じようなもんだ、ちやほやされたり、きげんをとられることぐらいしかあてにしてないのだと、経験を語った。ところで、それも大いにけっこうだが、しかしやはり本物じゃあない。そこへゆくと、一人前の女を相手にするほうが、成功の望みがある。そういう女のほうが、ずっと話せるんだ。たとえば、学校用のノートや鉛筆を売る店のヤッゲルトのかみさんね。あいつは話せるぜ。あの店のカウンターのかげでこれまで起こったことなど、ひとつだって本には書けないことだぜ、と言うのであった。
ぼくはすっかり心を奪われて、頭がぼうっとなってしまった。たしかに、ヤッゲルトのかみさんがすきになるなんてことは、できない相談だった。――しかしいずれにしてもこれは、聞いたこともない話だった。そこには、少なくとも年上の連中にとっては、ぼくが一度も夢見たこともないような泉が、流れているらしかった。そこにはたしかに調子の狂ったひびきがまじっていた。すべては、ぼくの考えている恋愛の味よりも、もっと低級な、俗っぽい味がした――しかし、それはともかくとして、これは現実であった。それは人生であり、冒険であった。その味を知り、それをあたりまえのことだと思っている男が、ぼくの隣にすわっているのだ。
ぼくたちの会話は少し低いほうへさがって、何かしら精彩を欠いていた。ぼくはもはや、天才的なちび助ではなかった。いまではもう、おとなの話に耳をかたむける少年というだけのことだ。しかしこんなふうでも――幾月も、幾月も前からぼくの生活になっていたものにくらべれば、これはすばらしいものだった。楽園に遊ぶ思いだ。おまけにこれは、ようやく少しずつわかりかけてきたことだが、禁じられたことなのだ。飲み屋に腰をすえることから、ぼくたちの話しあったことまで、かたく禁じられていることなのだ。それはともかく、ぼくはこういう点に、精神を味わい、革命を味わっていた。
あの夜のことは、ありありと思い出せる。ぼくたちふたりが夜ふけてから、ぼんやりとともるガス灯のそばをすぎて、冷たいじめじめした夜気にうたれながら、家路についたとき、ぼくは生まれてはじめて酔っていた。いいものではなかった。とても苦しかった。それでもやはり何かがあった。何かしら魅力があり、甘さがあった。反逆があり、乱行があった。生命と精神があった。ベックはぼくのことを、ずぶの素人だとさんざん悪口を言ったが、それでもかいがいしくぼくの介抱をしてくれた。そして半ばかかえるようにして、ぼくを家まで連れてきて、あけっぱなしの廊下の窓から、だれにも気づかれずに、うまくふたりとももぐりこんだ。
ほんの短い間、死んだように眠ったあと、苦しくなって目がさめ、酔いがさめてくるにつれて、何やらわからない悲しい気持ちに襲われた。ぼくはベッドの上に起きなおった。まだシャツを着たままだった。服と靴は床に散らばっていて、たばこと、吐いたもののにおいがした。頭痛と吐き気と、気の狂いそうなのどのかわきの合い間に、ふとある光景が胸に浮んできた。ぼくがもう長いこと、まともに見られなくなっていたものだ。
故郷と両親の家、父と母、姉たちと庭が見えた。自分の静かな、なつかしい寝室が見えた。学校と市場が見えた。デーミアンと堅信礼準備の授業が見えた。――そうしてこれらはすべて明るかった。何もかも輝きにつつまれていた。何もかもすばらしく、神々しく清らかであった。そうしてすべては、何もかもが――ぼくはそのとき気がついたのだが――ついきのうまで、つい数時間前まで、ぼくのものだったし、ぼくを待っていてくれたのだ。それなのにいまは、ついいましがた、姿を消して、のろわれたものとなり、もはやぼくのものではなく、ぼくを追い出し、あいそをつかしてぼくをにらんでいる。はるか遠い昔の輝くばかりの幼年時代の花園にまでさかのぼり、ぼくが両親から受けてきたすべてのなつかしい、やさしいもの、母の接吻のひとつひとつ、毎年のクリスマス、わが家でおくった信心ぶかい明るい毎日曜日の朝、お庭の花ひとつひとつ――これらすべてのものが、すべて荒れはててしまった。
すべてをぼくは足でふみにじってしまったのだ。もしいま捕り手がやってきて、ぼくになわをかけ、人間のくずだ、神殿をけがす者だといって、ぼくを絞首台に引きずって行ったとしても、ぼくは文句ひとつ言わなかったろう。喜んで連れて行かれたろうし、それを正しい、当然のことだと思ったであろう。
要するにぼくの心のなかは、こんな具合だったのである。あちこちうろつきまわっては世間をばかにしていたぼく。精神ではプライドを持ち、デーミアンの思想をともにいだいていたぼくなのに。そのぼくが、このざまだ。人間のくずで、ずぼらで、酔っぱらいで、うすぎたなく、胸くそが悪くて、下劣であり、あさましい欲情の不意打ちに負けた、心のすさんだ人でなしなのだ。ぼくはそんなふうだったのだ。清純と栄光とやさしい愛情であふれんばかりの、あの花園から出てきたぼくなのに! バッハの音楽と美しい詩を愛していたぼくなのに! ぼくは胸がむかむかすると同時に、われながら腹立たしい気持ちで、自分自身の笑い声を、いまなお耳に聞く思いがした。酔っぱらって、だらしのない笑い声、爆発的に、まるでばかみたいに飛び出す笑い声だ。それがぼくだったのだ。
だが、そうはいっても、こういう苦しみを耐えしのぶのは、一種の楽しみといってよかった。とても長い間ぼくは目も見えず、感覚も失って、はいまわっていたのだし、とても長い間ぼくの心は、黙りこくったまま、あわれにも片隅に小さくなっていたのだから、この自己非難、この恐怖、このいとうべきすべての感情さえも、魂にとってはありがたいことであった。そこにはなんといっても、感情があり、炎が燃えあがっていたし、なんといったって、心臓が動いていたからだ。とまどいしながらぼくは、このみじめさに取りまかれながらも、なにかしら解放と春のようなものを感じた。
しかし外から見れば、ぼくはごろごろくだり坂をころがっていた。はじめて酒に酔いしれたことは、やがて、はじめてのことではなくなった。ぼくたちの学校の連中は、さかんに飲み屋に出入りして、ばか騒ぎをやった。ぼくはそういう連中のなかでは、いちばん年下のひとりだった。そのうちにぼくは、お情けで仲間入りさせてもらっているちび助ではなくなり、リーダー格になり、スターになった。名の売れた、向こう見ずな、飲み屋の常連になった。こうしてぼくはまたしても、すっかり暗い世界に、つまり悪魔に仲間入りしてしまった。そうしてこの世界では、すげえやつと言われていた。
そのくせぼくは情けない気持ちだった。身を持ちくずしてしまうような乱痴気さわぎをやりながら暮らしていたわけだが、仲間のものに親分だとか、すげえやつとか、えらく生きのいい頭のきれる兄さんだとか言われていながらも、胸の奥では不安にみちた魂が、ただおどおどしていたのである。ぼくはいまでも覚えているが、ある日曜日の午前のこと、どこかの飲み屋から出てくると、往来で子どもたちが明るい顔で楽しそうに遊んでいる。見ると日曜日の晴着をきて、髪にくしを入れたばかりの姿だ。ふとぼくの目に涙がこみあげてきた。がらの悪い飲み屋のうすぎたないテーブルに向かって、あたりにビールをこぼしながら、とてつもない毒舌で仲間をきゃあきゃあ言わせたり、ときにはびくつかせたりしてはいたものの、一方ではぼくは、自分がばかにしているすべてのものに対して、心ひそかに畏敬の気持ちをいだいていた。そうして内心では、自分の魂の前に、自分の過去の前に、自分の母の前に、神の前に、泣きながらひざまずいていたのである。
ぼくについてくる仲間たちと、ぼくが一度もとけあわず、彼らの間にいながらいつも孤独で、そのためひどく悩むようになったのには、それなりの理由があった。ぼくは、いちばん荒っぽい連中にさえ気に入られるような飲み屋の英雄であり、毒舌家であった。ぼくは才気のあるところを見せたし、教師や学校、両親とか教会などについての考えやら話のなかでは、勇気のあるところをお目にかけた。――猥談《わいだん》だって平気で聞いたし、ときには自分のほうから聞かせてやったこともある。――しかし相棒たちが女の子のところへ出かけるときには、一度もいっしょに行ったことはなかった。ぼくはひとりきりになった。そうしてぼくの話ぶりからすれば、ぼくは恥知らずの遊蕩児《ゆうとうじ》であったはずなのに、恋を求める熱烈なあこがれ、見込みのないあこがれで、胸はいっぱいであった。だれも、ぼくほど傷つきやすい人はいなかった。ぼくほど恥ずかしがりやはいなかった。ときどき若い町娘たちが、きれいな、こざっぱりした姿で、明るくしとやかに、目の前を歩いて行くのを見ると、ぼくにとって彼女たちは、すばらしい清らかな夢であった。ぼくにとっては高嶺《たかね》の花で、清純すぎたのだ。当分の間ぼくは、ヤッゲルトのかみさんの文房具屋へも行けなかった。かみさんの顔を見ると、アルフォンス・ベックに聞かされた話を思いだして、顔が赤くなったからだ。
ところで、新しい仲間の間でも自分がいつもひとりぼっちで、ほかの人と違っていることを知れば知るほど、ぼくはますますその仲間から離れにくくなった。大酒を飲んだり、ほらを吹いたりするのが、あのころのぼくにはほんとうに楽しいものであったのかどうか、事実いまではもう覚えていない。それに飲み癖というものも身につかなかったので、飲んだあとではいつも苦しい思いをするのであった。何もかも強制されているようであった。ぼくは、どうしてもやらずにいられないことをやった。そうしなければ、自分で自分をどうしたらよいか、さっぱりわからなかったからだ。ぼくは長いことひとりだけでいるのが、こわかった。たえず自分の気持ちがそちらにかたむくのを感じていただけに、いろいろな、情にもろいはにかみがちな、心の奥の動きに、ふとさそわれるのがこわかった。しばしばぼくの心を見舞ってくるやさしい愛の思いに、不安を覚えたのだ。
ぼくにもっとも欠けているものが、ひとつあった。――友だちである。会うととてもうれしいような学友も、二、三人いたが、しかし彼らはまじめな連中であった。そしてぼくの身持ちが悪いことは、もうずっと前からだれにも知れわたっていたので、向うのほうでぼくを避けていた。ぼくはみんなから、足もとの土台がぐらついている、さきの見込みのない遊び人だと思われていた。教師たちはぼくのことを、いろいろと知っていた。ぼくは幾度も厳しい罰をくった。結局、学校を追い出されるというのが、みんなのあてにしていることだった。ぼくだってそんなことは、自分でもわかっていた。ぼくはもうとっくに善良な生徒ではなくなっていて、このぶんじゃもう長くはつづかないと感じながらも、どうにかこうにかごまかしながら、やっと切りぬけてきたのであった。
神がぼくたちをひとりっきりにして、ぼくたち自身に立ちもどらせる道は、たくさんある。神があのころぼくといっしょに歩いてくれたのは、こういう道のひとつであったのだ。それは悪夢にも似たものであった。きたならしい、ねばねばしたところを乗りこえ、こわれたビールのコップと毒舌で語り明かした幾夜かを乗りこえて、魔法にかけられた夢想家であるぼくの姿が、きたない不潔な道を、せかせかと苦しみながら、はうように歩いてゆくのが、いまでも目に浮かぶ。お姫さまのところへ行く途中、泥水のたまったところとか、悪臭と汚物だらけの路地にはいりこんで、どうにも動きがとれない、というような夢があるものだが、ぼくもこんな具合だった。こういうあまり品のよくない行き方で、ぼくは孤独の身になった。そして金ぴかのいかめしい番人たちのいる楽園のとざされた門で、自分と幼年時代との間がくぎられるという運命に見舞われたのである。それが発端《ほったん》であった。ぼく自身への郷愁の目ざめであった。
寮主任の手紙で警告を受けた父がS市にやってきて、突然ぼくの目の前に現われた。最初のときにはまだぼくもはっとして、体がガクガクした。しかし父がその冬の終わりごろ、二度目にやってきたときには、ぼくはもうかたくなで、やけぎみになっていた。父が叱ったり、頼んだり、母親のことを思えといっても、平気で聞き流していた。父はしまいにものすごく怒って、もし心を改めないなら、不面目《ふめんぼく》きわまりない話だが、放校処分にしてもらい、感化院へ入れてしまうぞ、と言った。したけりゃすればよかったんだ。父が立ち去ったあと、ぼくはすまない気がした。だが父は何ひとつ得るところはなかった。それきりもう、ぼくに通ずる道を見出せなかったのだ。そしてしばらくの間ぼくは、父にはあれでいいのだ、と感じていた。――
自分がこの先どうなろうと、ぼくにはどうでもよかった。例の風変わりな、あまり品のよくない行き方で、飲み屋に腰をすえて、えらそうにごたくをならべては世間とたたかっていた。それがぼくなりの抗議形式であったのだ。そうしているうちに、ぼくは身を持ちくずして行った。ときおりぼくには、事情はまずこんなところだろうと思われた。つまり、世間がぼくみたいな人間には用がないと言って、そういう人間には、もっといいポストやもっと高尚な使命もくれないと言うのなら、ぼくみたいな人間は、どうしたって身を持ちくずしてしまう。それで世間が損をするようなら、損をしたらどうだ、と。
その年のクリスマス休暇はてんでおもしろくなかった。母はぼくを見てびっくりした。ぼくは前よりもずっと大きくなっていた。頬のこけた顔は灰色で、すさんで見えた。表情はたるんでいるし、目のふちは赤くただれていた。生えはじめた口ひげと、少し前からかけているめがねのせいで、ぼくは母の目には、いよいよなじみにくいものになっていた。姉たちはぼくを見るとあとずさりして、くすくす笑った。何もかもおもしろくないことばかりであった。父の書斎で交わしたふたりだけの話しあいも、不愉快で、苦々しかった。数人の親類の連中のあいさつも、おもしろくなかった。クリスマス・イヴはとくにおもしろくなかった。この日は、ぼくが生まれてからというもの、ぼくの家では大事な日になっていた。祝祭と愛情と感謝の夕べ、両親とぼくとの間のきずなが、年ごとに新たにされる夕べであった。
それがこんどは、何もかも重苦しくて、気まずいことばかりであった。いままでのときと同じように父は、『かしこにて羊の群れを見張りせし』野の羊飼い〔キリスト・イエスのこと〕についての福音書を読みあげた。いままでのときと同じように姉たちは、顔を輝かせながら、クリスマスの贈り物を乗せたテーブルの前に立っていた。だが父の声は不快そうに聞えたし、その顔は老けて、なんだか苦しそうに見えた。母は悲しそうだった。そうしてぼくはすべてのものが、贈り物も祝いの言葉も、福音書も、ローソクのともったクリスマス・ツリーも、みな一様にわずらわしい、迷惑なものに思われた。コショウ菓子は甘いにおいをただよわせながら、さらに甘い思い出の濃い雲を立ちのぼらせた。モミの木は芳香を放ちながら、いまではもうすぎ去ったことどもについて、語りかけてきた。ぼくはこの夕べとクリスマスの祝日が、早く終ってくれればと願った。
その冬じゅうずっとこんなふうだった。ほんの少し前にぼくは、評議員会から厳しい戒告を受け、除名処分にするぞとおどかされた。このぶんではもう長いこともなかろう、まあ、どうとでもなれだ。
マックス・デーミアンに対してぼくは、特別なうらみをいだいていた。やつにはもうずいぶん長いこと会ってない。S市の学校に入学したばかりのころ、二度も手紙を出したが、返事はもらえなかった。だから休暇になっても、訪ねて行かなかったのである。
秋にアルフォンス・ベックと出会ったのと同じ公園で、春のはじめ、ちょうどイバラの生けがきが緑になりはじめたころ、ある少女が、ふとぼくの目にとまった。ぼくは、いやらしい考えや心配ごとで頭をいっぱいにしながら、ひとり散歩していた。というのは、ぼくは健康を害していたし、おまけにしじゅう金に困っていたからだ。仲間には借金をしていたし、うちからまた幾らかせしめるためには、なんとか必要な支出の口実をひねり出さなければならなかった。そして何軒かの店に、葉巻きだのなんだかんだの勘定がだんだんたまっていった。別段こういう心配ごとが、ひどく深刻になったというわけでもないが――かりにいつか近いうちに、ぼくの当地遊学が終わりを告げ、ぼくが川に飛びこむなり、感化院にあずけられるなりすれば、そうなればこんなけちなことのふたつやみっつは、てんで問題になるわけでもないのだ。しかしぼくは、こういうおもしろくもないことと、しじゅうにらめっこで暮らしていたから、それでくさくさしていた。
あの春の日に公園でふと出会った若い女性は、強くぼくの心をひいた。彼女は背が高くすらりとしていて、上品な服装で、頭のよさそうな少年らしい顔だちであった。ひと目でぼくの気に入ってしまった。彼女はぼくのすきなタイプの人で、ぼくの空想をとりこにしはじめた。おそらくぼくよりあまり年上とも思えないが、しかしぼくよりずっと成熟していて、上品で輪郭も美しく、もう一人前の淑女と言ってもよかった。しかも顔にほのかにただよう気ぐらいの高さと、少年らしい風情《ふぜい》、これがぼくはたまらなくすきであった。
これまでのぼくは、自分がすきになった少女に、うまく近づいたためしがなかった。そしてこの女性の場合も、うまくいかなかった。しかしこのときの印象は、前のどの印象よりも深かった。そしてこの恋慕の情がぼくの生活に与えた影響は、強大なものであった。
突然ぼくはまた、ひとつの像を、けだかい、したわしい像を、たえず目の前に描く身となった。――ああ、ぼくの心のなかでどんな欲求もどんな衝動も、畏敬と崇拝を願う気持ちほど、深くも激しくもなかった。ぼくは彼女にベアトリーチェ〔ダンテに愛され、理想化された女性〕という名をつけた。というのはダンテは読んだことはなかったが、ベアトリーチェのことは、大事にしまってあるイギリスの絵の複製で知っていたからだ。そこに描かれているのは、イギリスのラファエル前派ふうの少女像で、手足がとても長くて、すらりとした体つき、おもながでいかにも理知的な手や表情をしていた。ぼくの若くて美しい少女は、ベアトリーチェと瓜ふたつというわけではなかった。しかし彼女も、ぼくのすきなすらりとした少年のような体つきで、顔だちにもなんとなく理知的な、魂のこもったところがあった。
ぼくはベアトリーチェとは、ただのひとことも言葉を交わしてことはなかった。けれども彼女は当時のぼくに、実に深刻な影響を与えたのである。彼女はぼくの目の前に、自分の姿をすえ、ぼくのためにひとつの聖域をひらいてくれた。彼女はぼくを神殿で祈る者に変えてくれた。日一日とぼくは飲み歩きを忘れ、夜のさすらいから遠ざかった。ぼくはふたたび孤独に耐えられるようになり、また読書に親しみ、散歩を好むようになった。
こうして急に行状を改めたので、ずいぶんみんなに冷やかされた。しかしこれでぼくには、何か愛するもの、崇拝するものができた。これでまた理想が生まれた。生活はふたたび、予感と色とりどりの謎を秘めた薄明《うすあか》りとにみちあふれた――これがぼくの支えになった。ぼくは、あるしたわしい像の奴隷であり、しもべにすぎなかったとはいえ、ふたたび、自分自身に立ちもどったのである。
当時のことを思うと、ぼくはある種の感動を押さえることができない。ふたたびぼくは、くずれ落ちた人生の一時期の廃墟のなかから、自分のために『明るい世界』をきずきあげようとして、ひたむきな努力をかさねたのである。ふたたびぼくは、心にひそむ暗い邪悪なものを振り切って、いつまでも明るいもののなかにだけに住もうという、ただひとつの願いをこめて、神々の前にひざまずきながら日を送っていた。
いずれにせよ、こんどのこの『明るい世界』は、ある程度までは、ぼくが自分で作りあげたものだった。それはもはや、母のふところへ、責任のない安泰へ逃げかえって、そこにもぐりこむことではなかった。それは、ぼく自身の創意と要求から生まれた新しい奉仕で、責任と自制をともなっていた。性欲はぼくの悩みの種で、これを恐れてぼくはいつも逃げ腰になっていたが、こんどはこれを、聖火で清め、精神と礼拝に変えようというわけだ。もはや何ひとつ暗いもの、何ひとつみにくいものがあってはならない。うめきながら明かした夜、みだらな絵を前にしての胸のときめき、禁制の戸口での盗み聞き、猥せつな振舞い、そんなものは、どれもあってはならないのだ。これらすべてにかわるものとして、ぼくはベアトリーチェの像をかざって祭壇を設けた。そうしてこの女性に身をささげることを通じて、精神と神々に奉仕し、暗闇の勢力から奪い取った生活の興味を、明るい勢力にささげるいけにえとした。快楽ではなくて純潔が、幸福ではなくて美と知性が、ぼくの目ざすものであった。
このベアトリーチェ礼拝で、ぼくの生活はがらりと変わった。ついきのうまでは、ませた毒舌家であったぼくが、いまでは、聖者になろうと、志ざす司祭であった。ぼくは、いままでなじんできた悪の生活から足を洗ったばかりではなく、何もかも変えようとした。純潔と高貴と気品を、すべてのものに盛りこもうとした。飲み食いや言葉づかい、服装の点でも、そのことは考えた。朝はまず冷水まさつをはじめた。最初のうちは、ずいぶんむりをしなければならなかった。ぼくは態度や振舞いも、まじめで重々しいものにし、ちゃんと胸をはって、歩き方まで、いままでよりもゆったりとした、威厳のあるものにした。他人の目には、あるいはこっけいだったかもしれない――しかしぼくのつもりでは、これがすべて礼拝だったのである。
ぼくが、自分の新しい心構えを示すためにやってみたすべての新しい訓練のなかで、ぼくにとって大きな意義を持つことになったものがひとつある。それは絵をかきはじめたことだ。ぼくの持っていた、例のイギリス人のかいたベアトリーチェ像が,あの少女に十分似ていない、というのが、そのきっかけだった。ぼくは彼女を、自分なりにかいてみようと思ったのである。まったく新たな喜びと希望を胸にして、ぼくは自分の部屋で――少し前から個室をもらっていた――きれいな紙や、絵の具や絵筆をそろえた。パレット、水さし、陶器皿、鉛筆も用意した。自分で買って来た小さなチューブ入りの、上等なテンペラ絵の具が、ぼくをすっかり有頂天にした。そのなかには、目のさめるような酸化クロームの緑もあったが、それが白い小皿のなかで、はじめてぱっと光り輝いたときのことは、いまでもまだ目に見えるようだ。
ぼくは慎重にかきはじめた。顔をかくのはむずかしかったので、ぼくはまず、ほかのものでためしてみようと思った。図案、花、ちょっとした想像の風景、礼拝堂のそばの立ち木、糸杉のあるローマふうの橋などをかいた。ときとするとぼくは、この遊び半分の仕事にすっかり夢中になって、絵の具箱をもらった子どものように幸福になることもあった。だがとうとう、ベアトリーチェをかきはじめた。
二、三枚は全然だめで、すててしまった。ときたま往来で見かけるあの少女の顔を思い浮かべてみようとすればするほど、ますますうまくいかなかった。とうとうそれはあきらめて、空想のおもむくままに、またいままでにかいた部分や、絵の具と鉛筆から自然に湧き出てくる筆さばきに従って、ともかくひとつの顔をかきはじめた。こうしてできあがったのは、夢に見た顔であった。そしてぼくは、それに不満ではなかった。しかしそのあとすぐに、また試みをつづけてゆくと、一枚ごとにどことなくはっきりしてきて、決して実物に似てきたわけではないが、それでも例のタイプにだんだん近づいてきた。
ぼくは夢見ごこちで絵筆を動かしては、線を引いたり、画面を塗りたくることに、だんだん慣れていったが、それらは別にお手本があるわけでもなく、ただ遊び半分の手さぐりと無意識の境地から生まれてくるものだった。ついにある日のこと、ほとんど無意識のうちにひとつの顔をかきあげたが、それはこれまでにかいたどの顔よりも、強くぼくの心に訴えるものがあった。それはあの少女の顔ではなかった。事実またそういう顔をかく必要も、ずっと前からなくなっていた。それは何か別のもの、非現実的なものであったが、だからといって価値の劣るものではなかった。それは少女の顔というよりもむしろ、青年の顔のように見えた。髪は、あのきれいな少女のような明るいブロンドではなく、ほのかな赤味のおびた褐色で、あごは力強くひきしまっているが、口はまっかな花のようであった。全般的に幾らかこわばっていて、仮面のようなおもむきがあったが、印象は強烈で、ひそかな生命にみちていた。
できあがった絵を前にしてすわっていると、何か奇妙な印象を受けた。ぼくにはその絵が、何か神の像か神聖な仮面のように思われた。半ば男性、半ば女性、年齢というものがなく、強い意志をあらわすと同時に夢想的であり、こわばっていると同時に、ひそかに生気をただよわせていたからだ。この顔はぼくに何か語りたげであった。これはぼくの一部であり、ぼくにいろいろな要求を出していた。そしてだれかに似ていた。それがだれであるか、ぼくにはわからなかった。
さてこの画像はしばらくの間、ぼくのあらゆる想念につきまとい、ぼくと生活を分けあった。ぼくはこれを引き出しのなかに隠しておいた。だれかに見つかって取りあげられ、冷やかしの種にされてはたまらない、と思ったからだ。しかし、自分の小部屋でひとりきりになるとすぐに、その絵を取りだしては話し相手にした。晩になると、ベッドの足のほうの壁紙にピンでとめて、寝つくまでながめたし、朝になると、まっさきに見るのはその絵であった。
ちょうどそのころぼくは、子どものじぶんいつもそうだったように、またしきりに夢を見はじめた。もう何年もの間、夢など見たこともないような気がしていた。それがいまもどってきたのである。まったく新しい種類の映像であった。あの絵の人物もしじゅう現われた。生きていて話もしたし、好意を見せたり、敵意を示したり、ときにはしかめ面になるほど顔をゆがめてみたり、ときにはまた、かぎりなく美しく、なごやかで、気品があった。
そしてある朝のこと、この種の夢からさめたとき、突然ぼくは、この絵の人物がだれだかわかった。その画像は不思議なほどなれなれしく、ぼくの顔を見つめて、ぼくの名を呼んでいるように思われた。まるで母親が息子のことを知っているように、ぼくのことを知っているらしく、ずっと昔からぼくのほうに顔を向けているらしかった。ぼくは胸をどきどきさせながら、その絵に目をこらした。ふさふさした褐色の髪、半ば女性的な口、奇妙な明るさを帯びた広い額を(絵の具の乾き具合で自然にそうなっていた)見つめていた。するとぼくは心のなかで、この人物には見覚えがある、前に会ったことがある、この人物のことは知っているぞと、しだいに強く感じてきた。
ぼくはベッドからぱっと飛び起きると、その顔の前に身をよせて、真近からじっと見つめた。ぐっと見ひらき緑色がかった動かない目を、まともに見つめた。右目のほうが、左目よりいくぶん高くなっていた。と、突然、その右目が、ぴくりと動いた。ほんのかすかではあるが、まぎれもなく動いた。そして、このびっくりした目の動きで、ぼくはこの絵の正体を知ったのである……
こんなに手まどってから、やっと思いつくなんて、どうしたわけだろう。それは、デーミアンの顔であった。
あとになってぼくはこの絵を、自分の記憶に残っているデーミアンのほんとうの表情と、なんども比較してみた。似てはいたが、同じではなかった。しかしやはりデーミアンに違いなかった。
初夏のある夕暮れのこと、ぼくの部屋の西側の窓から、太陽がななめに赤く射しこんでいた。部屋のなかは薄暗くなってきた。そのとき、ふと思いついてぼくは、ベアトリーチェの、つまりデーミアンの画像を、窓の十字の桟《さん》にピンでとめ、夕日にすかしてながめてみた。顔の輪郭《りんかく》はぼやけてしまったが、うす赤くふちどられた両方の目、額の明るい色、それにまっかな口が、ぎらぎら輝きながら画面から浮きあがった。長いことぼくは、この絵と向かいあってすわっていた。もうそれが消えてしまってからでも。
するとしだいに、これはベアトリーチェでもなければ、デーミアンでもない、そうではなくて――ぼく自身の顔だ、という感じがしてきた。この絵はぼくに似ていなかったし――似ているはずもないと思ったが――しかしこれこそ、ぼくの生活を作りあげているものだった。それはぼくの内面、ぼくの運命、またはぼくの魔神だった。いつかまた友だちを見つけるようなことがあるとしたら、その友はこんな顔をしているだろう。いつか恋人ができるようなことでもあれば、その女性はこんな顔をしていることだろう。ぼくの生も死も、こんなふうなのだろう。これがぼくの運命の調べであり、リズムなのだ。その幾週間かのうちに、ぼくはある本を読みはじめ、それまでに読んだどんな本よりも、深い感銘を受けた。後年になっても、これほどしみじみと味わいながら本を読んだことは、まずなかったろう。あればせいぜい、ニーチェ〔ドイツの哲学者〕ぐらいのものだ。それはノヴァーリス〔ドイツロマン派の詩人〕の一巻で、書簡と箴言《しんげん》がのっていた。なかにはぼくのわからないところもたくさんあったが、しかしどれもこれも、なんとも言えない魅力でぼくをとりこにしてしまった。その箴言のひとつが、そのときふとぼくの頭に浮んだ。ぼくはそれを、肖像画の下へペンで書き入れた。――『運命と心情とは、同一の概念をあらわすふたつの名である』と。この言葉の意味が、いまのみこめたのである。
ぼくがベアトリーチェと名づけていた少女は、その後もよく見かけた。そんなときぼくはもうなんの感動も覚えなかったが、しかしいつでも、あるなごやかなとけあい、感情的な予感を覚えた。つまり、君はぼくと結ばれている。でも君自身ではなくて、君の肖像画だけの話だ。君は、ぼくの運命の一部なのだ、と。
マックス・デーミアンに会いたいという気持ちが、ふたたび強くなってきた。彼の消息は何ひとつ知らなかった。ここ数年来何ひとつ知らなかった。たった一度、休暇中に出会ったことがあった。そのときのちょっとした出会いのことを、この手記のなかでふれないでいたことに、ぼくはいま気がついた。そして、それが恥ずかしさと虚栄心のせいだったことにも、いま気づいた。ぼくはその補《おぎな》いをつけねばならない。
休暇中のあるときのこと、飲み屋に入りびたったころの興ざめした、いつも疲れぎみの顔をして、散歩用のステッキを振りまわしながら、故郷の町をぶらつき、俗物どものいつに変わらぬ間抜け面をながめていると、この以前の友だちが向うのほうからやってきたわけだ。彼の姿を見かけたとたん、ぼくははっと体がすくんだ。そしてとっさに、フランツ・クローマーのことを思いださずにはいられなかった。どうかデーミアンが、あの事件をほんとうに忘れてしまっていればいいのに。デーミアンに対してあの恩義を感じることは、実に不愉快であった。――実際は、ばかばかしい子どものころの話にすぎないのだが、それでも恩義を受けていることに変わりはないわけだ……
彼は、ぼくのほうからあいさつする気があるかなと思って、心待ちしているようだった。そこでぼくができるだけ平気な顔をしてあいさつすると、手をさし出してきた。例のとおりの握手であった。ぎゅっと強く、あたたかく、そのくせさばさばしていて、男らしいものだった。
デーミアンはぼくの顔を注意ぶかく見つめながら、こう言った。
「大きくなったねえ、ジンクレール」彼自身は、ちっとも変わったようには見えず、相変わらず若くもあれば、ふけているようにも見えた。
彼のほうで、ぼくについてくることになった。ぼくたちはぶらぶら歩きながら、どうでもいいようなことばかりしゃべって、あのころのことには何ひとつふれなかった。ぼくは、前に何度か手紙を出したのに、返事がもらえなかったことを、ふと思いだした。ああ、どうかあのことも忘れてしまっていてくれればいいのに、あのばかばかしい手紙のことなんか。デーミアンはそのことは、ひとことも口にしなかった。
あのころはまだベアトリーチェもいなければ、画像もなかった。ぼくがまだ、すさみきっていた時期だ。町はずれのところでぼくは、いっしょに飲み屋へはいろうとさそった。彼はついてきた。ぼくは得意になってブドウ酒を一本注文し、それをついで彼とグラスをあわせ、学生流の飲み方におなじみのところを見せつけた。最初の一杯も、ぐっとひと息で飲みほして見せた。
「飲み屋へはちょいちょい行くんだね」と彼はぼくに聞いた。
「もちろんだよ」とぼくは、口をきくのもおっくうそうに言った。
「ほかに何をやれってんだい。なんといったって、結局こいつがいちばんおもしろいからね」
「そう思うかい。たしかにそうかもしれない。何かとてもいいところがあるものね。――酔っぱらってみたり、どんちゃん騒ぎをしたりね。だがね、飲み屋に入りびたりの連中となると、たいてい、そういういいところがなくなっていると思うよ。ぼくの考えでは、飲み屋に出入りすることこそ、ほんとうの俗物根性だという気がするんだ。そりゃね、たまにひと晩ぐらい、ずうっとたいまつを燃やしながら酒を飲んで、心から楽しく酔っぱらう、ふらふらになるのも、いいことだ。でも、あんなふうにしょっちゅう、たてつづけにグラスをあけるなんて、まさかほんとうじゃないだろうね。たとえばだね、毎晩毎晩、行きつけの飲み屋でとぐろをまいているファウスト〔中世の錬金術師。ファウスト伝説およびゲーテの戯曲「ファウスト」の主人公〕の図なんて、想像できるかい、君」
ぼくは飲みながら、敵意をこめた目で彼をじっとにらみつけた。
「うん、だれもかれも、ファウストみたいな人間じゃないからな」とぼくは、ぽつりと言った。
デーミアンはいくらかあきれたような顔で、ぼくを見つめた。
それから、昔のままの元気な、自信たっぷりな調子で笑いだした。
「まあ、こんなことで議論したって、はじまらない。どっちみち、飲み助や道楽者の生活のほうが、品行方正な市民の生活なんかよりは、活気があるだろうからね。それに――前に読んだことがあるんだけど――道楽者の生活というのは、あとで神秘主義者になるためには、いちばんいい準備になるんだよ。聖アウグスティヌス〔古代キリスト教の教父・神学者。はじめマニ教を学び、懐疑主義、新プラトン主義を経て、ついにミラノで洗礼を受け、北アフリカの司教になった〕のように、あとで予言者になるのは、いつでもそういう連中なんだ。聖アウグスティヌスだって、聖人になる前は、享楽主義者で放蕩児だったんだからね」
ぼくは、はらのなかでは疑っていた。デーミアンなんかに言いくるめられてたまるもんか、と思っていた。だからそっけなくこう言った。
「うん、だれにもそれぞれ、好みがあるからな。ぼくなんか正直なところ、予言者とかなんとか、そんなものになる気はちっともないよ」
デーミアンはちょっと目を細めて、わかっているよとでも言いたげに、ぼくをじろりと見た。
「ねえ、ジンクレール」と彼は、ゆっくり口をきった。
「君に不愉快なことを言うつもりはなかったんだよ。それはそうと――なんの目的で、君がいま酒を飲んでいるのか、ぼくたちふたりには、わかってないんだ。ところが、君のなかにあって、君の生活を作りあげているものには、それがちゃんとわかっているんだ。こういうことを心得ていると、とても都合がいいぜ。つまりだね、ぼくたちの心のなかには、だれかがいて、そのだれかはなんでも知っているんだ、なんでもしようと思うし、なんでも、ぼくたちよりうまくやってのけるのさ――じゃ失敬! もう帰らなくちゃ」
ぼくたちはかんたんに別れを告げた。ぼくはとてもふきげんになって、そのまま腰をあげずに、飲み残しの一本をすっかりあけて帰ろうとすると、勘定はもうデーミアンが払ったあとだった。それでますますむしゃくしゃしてきた。
ぼくのもの思いは、いままた、このささやかな出来事に引っかかってしまった。頭はデーミアンのことでいっぱいだった。デーミアンがあの町はずれの飲み屋でしゃべった言葉が、ぼくの記憶に、妙にあざやかに、ひとつ残らず、よみがえってきた。――「こういうことを心得ていると、とても都合がいいぜ。つまりだね、ぼくたちの心のなかには、だれかがいて、そのだれかはなんでも知っているんだ」
ぼくはあの画像を見あげた。窓にとめてあって、すっかり色あせていた。しかしその目がまだ燃えるように輝いているのを、ぼくは見た。それは、デーミアンのまなざしであった。さもなければ、ぼくの心のなかにいるあいつであった。なんでも知っているあいつであった。
ぼくはどんなにかデーミアンに会いたいと思ったことか。デーミアンの消息は何もわからなかった。彼はぼくの手のとどかないところにいた。ぼくにわかっていたのは、彼がたぶんどこかの大学で勉強しているだろうということ、ギムナージウムを出たあと、彼の母親はぼくたちの町を去った、ということだけだった。
ぼくは、クローマーとの一件にまでさかのぼって、マックス・デーミアンの思い出をひとつ残らず、心のなかからさがしだした。すると、彼がかつてぼくに話した実にいろいろなことが、ふたたび聞えてきたが、それらの言葉はすべて、いまでも意味を持ち、切実で、ぼくにかかわりがあった。そして、実におもしろくもなかったあの最後の出会いのときに、道楽者と聖者について彼が語ったことも、突然はっきりと、ぼくの心の前に現われてきた。ぼくがたどった道も、あのデーミアンの言葉どおりではなかったか。酩酊《めいてい》と汚れ、麻痺《まひ》と堕落《だらく》の生活をおくったあと、それと正反対のもの、つまり、純潔への欲求と、神聖なものへの憧れが、新しい生活衝動によってぼくのなかに、よみがえったのではなかったか。
このようにしてぼくは、なおも思い出にふけりつづけた。とっくに夜になっていて、外では雨が降っていた。ぼくの思い出のなかでも、やはり雨の音が聞えた。それはかつてデーミアンが、フランツ・クローマーのことを根掘り葉掘り聞き、ぼくのはじめての秘密を言い当てた、あのクリの木立ちの下のひとときであった。思い出は次々とよみがえってくる。登校途中での会話、堅信礼準備の授業など、そして最後に思いだしたのが、マックス・デーミアンといちばん最初に出会ったときのことだった。あのとき話したのはなんだったかしら。すぐには思いつかなかった。そこでゆっくり時間をかけて、あのときのことばかり考えた。するとやがてそのことも、よみがえってきた。デーミアンがぼくにカインについて意見を述べたあと、ふたりはぼくの家の前に立ったのだ。そのとき彼は、消えかかった古い紋章のことを話した。その紋章は、末広がりになった要石《かなめいし》に刻まれて、玄関の上のほうにかかっていた。あれはおもしろい、ああいうものには注意しなくちゃ、と彼は言ったのだ。
その夜デーミアンとその紋章の夢を見た。紋章の形はたえず変わっていった。デーミアンが両手でかかえていたが、小さくて灰色かと思うと、ものすごく大きくて色とりどりになったりした。しかしデーミアンの説明では、いつでもまったく同一だというのだ、ところがしまいには彼は、どうでもこれを食ってみろというのだ。飲みくだしてみると、その紋章の鳥がぼくのおなかのなかで生きていて、ぼくの体いっぱいに広がり、内側からぼくをむしゃむしゃ食いはじめたことに気がついて、びっくり仰天した。死ぬほどの恐怖に襲われて、飛びあがったと思ったら、目がさめた。
寝そびれてしまった。真夜中で、部屋に雨の吹きこむ音がした。窓をしめようと起きあがったが、そのとき、床に落ちている何か白いものをふんづけた。朝になって、それがぼくのかいた絵だとわかった。ぬれて床に落ち、反《そ》って丸まっていた。ぼくは乾かそうと、しわをのばして吸い取り紙にはさみ、重たい本の間に入れた。次の日、どうかなと思って取り出して見ると、乾いてはいたが、ようすが変わっていた。赤かった口は色あせ、いくらか細目になっていた。こうなると完全にデーミアンの口であった。
さてぼくは、新しい絵、例の紋章にある鳥をかきはじめた。その鳥がいったいどんなふうだったか、もうはっきりとは覚えてなかった。古いもので、何度もあとからペンキを塗ってあったから、ぼくの覚えているかぎりでは、ある部分は近くで見ても、はっきり見わけられなくなっていた。その鳥は何かの上に、おそらく花か、かごか、または巣か、それともこずえの上に、立つか、またはうずくまっていた。ぼくはそんなことは気にしないで、はっきり覚えているところから手をつけた。何かぼんやりした欲求にかられて、ぼくはいきなり強い色を使ったが、鳥の頭は、ぼくの絵では金色だった。気がのるままにかきつづけ、数日間で仕上げてしまった。
できあがって見ると、それは猛禽《もうきん》で、ハイタカのような、たけだけしい不敵な面がまえであった。その鳥は青い大空を背景にして、体の半分を黒い地球のなかにうずめ、巨大な卵から抜け出すかのように、そこからはい出ようともがいていた。その絵を長く見つめていればいるほど、これはまるで、ぼくの夢に出てきたあのきれいな色の紋章のようだ、という感じが、いよいよ強くなってきた。
デーミアンに手紙を書くことなど、かりに送り先がわかっていたにしろ、ぼくには不可能だっただろう。だがぼくは、その当時何をするにつけてもそうだったのだが、夢のような予感にさそわれて、そのハイタカの絵をデーミアンに送ろうと決心した。それが彼の手もとにとどこうがとどくまいが、かまわないと思いながら、絵には何ひとつ、こちらの名前さえも書きそえなかった。絵のふちをていねいに切り取り、大型の封筒を買って来て、それに友だちのもとの住所を書いた。それから発送した。
試験が近づいた。それでぼくはふだんよりよけいに学校の勉強をしなければならなかった。ぼくが突然、見さげはてた生活態度を改めて以来、先生がたはぼくに目をかけてくれるようになっていた。そのころでもいい生徒とまでは言えなかったろうが、ぼく自身にせよ、ほかのだれかにせよ、半年前にはぼくの退学処分を、だれでもがありそうなことだと思っていたことなどは、もう考えもしなかったのである。
ぼくの父はそのころまた、非難やらおどし文句のはいらない、どちらかといえば以前のような調子で、手紙をよこすようになった。それでもぼくは、自分の変わりかたがどんなふうに行なわれたかを、父に対しても、あるいはほかのだれに対しても、説明する気はなかった。この変化が、ぼくの両親や先生がたの念願と一致したのは、偶然であった。
こうして人が変わっても、ぼくはほかの連中に仲間入りしたわけでもなく、近づいたわけでもなく、ぼくの孤独は、ますますつのるばかりであった。この変化は、どこかにねらいをつけていた。デーミアンか、それとも遠い運命かに。ぼくは自分でもそれがわからなかった。変化のまっただなかにいたからだ。きっかけを与えてくれたのはベアトリーチェだったが、しばらく前からぼくは、自分の絵だとかデーミアンに対する物思いだとかを相手に、まるで現実離れのした世界に生きていたので、ベアトリーチェの姿さえ完全に見失い、きれいに忘れていた。ぼくの夢、ぼくの期待、ぼくの内面的変化については、だれにも、ひとことも話すことはできなかったであろう。たとえばぼくがそれを望んだとしても、だめだったろう。
だが、それを望むことなぞ、どうしてぼくにできたであろうか?
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第五章 鳥は卵から出ようとしてもがく
ぼくのかいた夢の鳥は旅路《たびじ》について、ぼくの友だちをさがしていた。返事は、世にも不思議な方法で舞いこんだ。
あるとき教室の自分の席にいたぼくは、授業と授業の間の休み時間のあとで、一枚の紙きれがぼくの本にはさんであるのを見つけた。その紙きれはクラス仲間がときどき授業中に、こっそりメモをやりとりするときよくやる手だが、その方式どおり、きちんとたたんであった。ただ不思議なのは、だれがこんな紙きれをよこしたかということで、ぼくはクラス仲間のだれとも、こんなやりとりはしてなかったのである。どうせ何か生徒らしい、いたずらの仲間にはいれというんだろうが、お仲間入りなんかごめんだ、とぼくは考えて、その紙きれは読みもしないで、本のはじめのページに、はさんでしまった。授業中になってはじめて、それがまたふと、ぼくの手にふれた。
ぼくはその紙きれをもてあそびながら、なにげなく広げて見ると、いくつかの言葉が書きこまれてあるのが目にはいった。ぼくはそれをちらっと見たが、ぼくの目はあるひとつの言葉に釘づけにされた。はっとしてぼくは、運命を前にして、心臓が厳しい寒さに出会ったかのように、ぎゅっとしめつけられるのを感じながら、読んでみた。
「鳥は卵から出ようとしてもがく。卵は世界だ。生まれ出ようとする者は、ひとつの世界を破壊しなければならぬ。鳥は神のもとへ飛んで行く。その神の名は、アブラクサス」
ぼくはこの数行を何度か読みかえしてから、深い瞑想《めいそう》にふけった。疑う余地もなく、デーミアンからの返事だ。ぼくとデーミアン以外、だれもあの鳥のことを知っているはずがない。彼はあの絵を受け取ったのだ。彼には絵の意味がわかって、絵の解釈に手を貸してくれたのだ。しかし、全体のつながりはどうなっているのだろう。そして――これが何よりもぼくを悩ましたのだが――アブラクサスとはどういう意味なのか。こんな言葉は一度だって、読んだことも聞いたこともない。――「その神の名は、アブラクサス」
授業など耳にはいらないうちに、その時間は終ってしまった。次の時間がはじまった。午前の最後の時間だ。受け持ちは若い助教師だったが、大学を出たばかりで、とても若いうえ、ぼくたちにことさらえらぶったふうを見せなかったので、それだけでもうぼくたちには人気があった。
ぼくたちはこのドクター・フォレンの指導のもとに、ヘロドトス〔紀元前五〇〇年ごろのギリシアの歴史家。「歴史の父」とも呼ばれる〕を読んでいた。この購読は、ぼくが興味をもった数少ない科目のひとつであったが、しかしこのときは、身を入れてなかった。機械的に本をひろげてはいたものの、訳読についていかないで、ずっと自分の考えにふけっていた。それはともかく、デーミアンが以前、宗教の時間に話してくれたことが、いかに正しいかという経験をすでに幾度か重ねていた。つまり、なんでも十分強く望むことは、うまくいくものだ。授業中でも一心不乱に自分の考えにふけっていれば、先生もほうっておいてくれるんだと、安心していられた。
そのとおりだ。ぼやっとしたり眠そうな顔をしていると、だしぬけに先生がやってくる。いままでに、ぼくにもそういう覚えがあった。ところがほんとうに考えごとをしていたり、ほんとうに没頭したりしている場合には、安全だった。それに、じっと相手に視線をすえることも、実験してみて、きき目はたしかだとわかっていた。デーミアンのいたあのころはうまくいかなかったが、このごろでは視線と思考とで、とてもいろいろなことがやりとげられる、と感じることがよくあった。
このときぼくは、そういう気持ちですわったまま、ヘロドトスからも学校からも、遠くかけ離れていた。ところがそこへだしぬけに、先生の声がまるで稲妻のように、ぼくの意識のなかへ飛びこんできたのである。ぼくはぎょっとして、われにかえった。先生の声も聞こえたし、ぼくのすぐそばに立っていたから、てっきり、名前を呼ばれたものと思った。しかし先生はぼくの顔なぞ見てはいなかった。ぼくはホッとした。
そのとき、また先生の声が聞こえた。大きな声で『アブラクサス』と言ったのだ。
説明のはじめのほうは聞き落としてしまったが、ドクター・フォレンは話しつづけた。
「われわれは、古代の諸宗派や神秘的結社の考え方を、われわれの合理主義的観察の立場から判断して、きわめて素朴なものであると考えてはいけません。われわれのいう意味の科学は、古代には、全然知られていなかったのです。そのかわり、哲学的・神秘主義的な真理の探究というものがあって、これは非常に高度の発達をとげていたのです。部分的には、そこから魔法と遊戯が発生して、その結果、詐欺や犯罪を生んだこともしばしばありました、しかしこの魔法にしても、高貴な起源と深い思想を持っていたのです。たとえば、さきほど例にあげたアブラクサスの教義などがそうです。この名は、ギリシアの呪文と関連して論じられるために、いまでも未開民族などに見られる、妖魔《ようま》の名前だと考えられることが多いのです。しかしアブラクサスというのは、はるかに多くの意味を持っているようです。つまりこの名前は、神的なものと悪魔的なものとを結合するという、象徴的な使命を持った神の名と考えてもいいでしょう」
この小柄で博識の男は、うまい話術で熱心に話しつづけた。だれもあまり注意して聞いている者はなかった。それにアブラクサスの名もそれきり出てこなかったので、ぼくの注意もやがてまた、ぼく自身のなかへもどってしまった。
「神的なものと悪魔的なものを結合する」という声が、ぼくの耳に残っていた。ここに手がかりがありそうだ。これは、まだデーミアンとつき合っていたいちばん最後のころ、彼と交わした会話以来、ぼくにはなじみ深いものだったからだ。あのときデーミアンはこう言った。ぼくたちはなるほど、あがめる神を持っているが、しかしこういう神は、世界の勝手に切り離された半分を表わしているにすぎない(それが公認の、ゆるされた『明るい』世界だ)。ところが、全世界をあがめることができる、と言うのでなければならないんだ。つまりぼくたちは、神であると同時に悪魔でもあるものを持つか、さもなければ、神の礼拝のほかに悪魔の礼拝も行なわなければならない、と。――ところが、アブラクサスというのが、神でもあれば悪魔でもあるというその神だったわけだ。
しばらくのあいだ、ぼくは大変な意気ごみで、これを探究しつづけたが、しかし一歩も前進できなかった。アブラクサスを求めて図書館じゅう引っかきまわしてみたが、だめだった。しかもこういう直接的な意識的な探究方法は、ぼくの性分《しょうぶん》にあまりあわなかった。こういう探究の場合には、はじめのうちは、手に取って見れば石ころにすぎないような真理を見つけるぐらいのものだ。
ある一時期を通じてあれほどまでに心をうちこんでいたベアトリーチェの姿は、しだいに沈んでいった。いや、むしろ、ゆっくりぼくから離れて行き、だんだん地平線に近づくとともに、一段と影のような、遠い、色あせたものになっていった。その姿はもうぼくのたましいを満足させてはくれなかった。
まるで夢遊病者のように、妙に自分の殻だけにとじこもる生活を送っていたが、いまやこの生活に新しい形成が現われはじめた。生へのあこがれが、ぼくの心のなかで花をひらいたのだ。いや、むしろ、愛へのあこがれと、しばらくの間はベアトリーチェ崇拝という形に解消されていた性の衝動とが、新しい映像と目標を要求したわけだ。相変わらずぼくには要求がみたされなかったが、このあこがれをごまかしたり、ぼくの仲間たちが幸福を求めていたような、女の子から何かを期待することは、これまでよりもいっそう不可能になった。ぼくはまたさかんに夢を見るようになったが、しかもこんどは、夜よりも昼間見るほうが多かった。観念とか映像とか願望などが、ぼくの心のなかにわき起こっては、ぼくを外部の世界から引き離したので、ぼくは心のなかのこれらの映像や夢や影を相手にして、現実の環境に対するよりも、もっと現実的に、もっと活発に交わりながら暮らしていた。
ある特定の夢、あるいは、幾度もくりかえされる空想のたわむれが、ぼくにとり重大な意味を持つことになった。この夢は、これまでに見たなかでいちばん重要であり、もっとも持続的であったが、だいたい次のようなものであった。――ぼくは父の家へもどってきた――玄関の門の上部には、例の紋章の鳥が、青をバックにして黄色に輝いていた。――家では母が出迎えてくれた――ところが、なかへはいってだきしめようとすると、それは母親ではなくて、一度も見たことのない人だ。大柄で、がっしりしていて、マックス・デーミアンにも、ぼくのかいた絵の女にも似ているが、それでもどこか違っている。がっしりした体つきなのに、百パーセント女性的なのだ。この人がぼくを引きよせて、身のひきしまるような深い愛情をこめて、ぼくをだきしめてくれたのだ。
大きな喜びと恐怖が入りまじっていた。この抱擁は礼拝であると同時に、犯罪でもあった。母の思い出とぼくの友デーミアンの思い出とが、ぼくをだきしめるこの姿のなかに、あまりにも強く浮かび出ていた。この人の抱擁は、あらゆる畏敬の念にそむくことでありながら、しかも、無上の幸福であった。ぼくがこの夢からさめたときには、深い幸福感にひたることもあったが、ときにはまた、恐ろしい罪からはっと目ざめるように、死ぬほどの不安と良心の呵責《かしゃく》を感じることもあった。
このまったく内面的な映像と、さがし求めるべき神について外部から与えられた合図との間に、実にゆっくりと、そして無意識のうちに、連絡がつきはじめた。しかし一度連絡がついてしまうと、だんだん緊密《きんみつ》なものになってきた。そしてぼくは、自分がこの予言的な夢のなかで叫びかけていたのは、アブラクサスだったのだと、感じはじめた。大きな喜びと恐怖、男と女が入り乱れていて、きわめて神聖なものときわめて醜悪《しゅうあく》なものとがからみあい、この上なくあどけない純潔さのなかで、深い罪がうごめく――というのが、ぼくの描く愛のまぼろしであり、またアブラクサスもそうであった。
愛はもはや、ぼくがはじめのうち不安げに感じたような、動物的に暗い衝動ではなかったし、また、ベアトリーチェの画像にささげたような、敬虔《けいけん》さのあまり精神化してしまった崇拝でもなかった。それは両方であり、いやそれ以上のものであった。それは天使の姿と悪魔が、男と女がひとつになったもの、人間とけだものであり、最高の善でもあれば、最低の悪でもあった。これを生きることがぼくの宿命であり、これを味わうことが、ぼくの運命であるように思われた。ぼくはこの運命にあこがれながら、同時にまたこれを恐れた。しかし運命のほうはいつも身近にあり、いつもぼくを見おろしていた。
その次の年の春には、ギムナージウムを出て、大学に進むことになっていた。どこの大学で、何の勉強をするかは、まだわからなかった。唇の上あたりには、わずかながらひげも生えてきた。もうすっかりおとなだったが、そのくせ、まったく頼りなく、これというあてもなかった。はっきりしていたのは、ただひとつ、ぼくの心の声、あのまぼろしだけであった。この導き手に目をつむってついて行くという使命を、ぼくは感じていた。しかしそれはむずかしいことで、毎日のようにぼくは反抗した。ひょっとしたら自分は気が狂っているのではないか、ほかの人たちとは違っているのではないかしら、と考えたことも、一度や二度ではなかった。しかしぼくは、ほかの連中のやれることならやれたし、またなんでも同じようにできたのだ。ちょっと勉強し、ちょっと努力すれば、プラトン〔古代ギリシアの哲学者。ソクラテスの弟子のひとり〕も読めたし、三角法の問題をといたり、化学分析についていくこともできた。
ただひとつ、ぼくにできないことがあった、それは心のなかにぼんやり隠れている目標を、ほかの連中がやっていたように、引きずり出してみて、とにかく目の前に描いてみるということだった。ほかの連中は教授とか裁判官とか、医者とか芸術家とか、自分のなりたいものについて、そのためにはどのくらい時間がかかるか、またそうなればどんな利益があるか、ということを、くわしく知っていた。ところがぼくには、それができなかった。ことによったらぼくだって、いつかはそんなことができるかもしれない。しかしそんなことは、どうやって覚えろというのだ。あるいはまた何年もの間、自分の目標をさがしにさがしつづけたあげく、ろくなものにもなれず、目標には達しないかもしれない。あるいはまた、目標に達することがあるかもしれない。しかしそれは、悪い、危険な、恐ろしい目標なのだ。
ぼくはただ、ひとりでにぼくのなかから生まれ出ようとするものを、生きてみようと思っただけだ。それがどうしてこんなにもむずかしいものだったのだろうか。
ぼくはしばしば、ぼくの夢に出てくる、あのがっしりした体つきの愛の面影を、絵にかいてみようとした。しかし一度もうまくいかなかった。もしうまくかけたら、その絵をデーミアンに送ったことだろう。デーミアンはどこにいたのだろうか。ぼくにはわからなかった。ぼくにわかっていたのは、自分がデーミアンに結ばれているということだけだった。いつになったら、彼にまた会えることだろう。
ベアトリーチェ時代のあの幾週幾月にもわたる快い落ちつきは、とっくになくなっていた。あのころのぼくは、ある島に着いて、平和を見出したいと思っていた。ところがいつもそうなのだが――ある状態が好ましくなり、ある夢がぼくを喜ばせたかと思うと、そのとたん、それはもうしぼんでしまい、ぼやけてしまうのだ。あとからくやみ嘆いてみても、どうにもならないことだ。ぼくはいま、みたされない欲望と、はりつめた期待との火中に生きていた。そのためにぼくはすさみきってしまい、荒れ狂ったこともよくあった。あの夢のなかの恋人の姿が、現実以上にはっきりと、自分の手を見るよりもずっとはっきりと、目の前に現われるのを幾度も見た。これと言葉を交わし、その前で泣き、それをののしりもした。この女を母と呼び、涙にむせびながら、その前にひざまずくこともあれば、恋人と呼んで、すべてをみたしてくれるその成熟した接吻を、おぼろげに感じたりした。あるいはまた、悪魔、娼婦と呼び、妖婦、人殺しと呼ぶこともあった。この女にさそわれて、世にもあどけない愛の夢を見ることもあれば、すさみきった恥《はじ》知らずの行為にふけることもあった。この女にとっては良すぎるものや尊すぎるものもなかったかわり、悪すぎるものや、いやしすぎるものもなかった。
その冬じゅうぼくは、筆には書きつくせないほどの内心の嵐のなかですごした。孤独にはとっくに慣れていたから、さみしさに苦しむことはなかった。ぼくはデーミアンや、あのハイタカや、さらに、ぼくの運命であり恋人でもあった夢のなかのあの大柄な女性とともに暮らしていたのだ。生きていくためには、これだけで十分であった。なぜなら、すべては大きな広いものを目ざしていたし、アブラクサスを指さしていたからだ。だが、これらの夢やぼくの考えは、どれひとつとしてぼくの意のままにならなかった。ぼくはどれひとつとして、呼び出すことはできなかった。どれひとつとして、ぼくの好みで勝手に色づけすることができなかった。つまり、向うからやってきて、ぼくを捕えたのである。ぼくはそれらによって支配され、それらによって生きていたのである。
外部に対しては、ぼくはよく守られていた。人間など少しもこわいとも思わなかった。このことはクラス仲間も覚えてくれて、ひそかにぼくを尊敬してくれたので、ぼくはよくほほえましい気持ちになった。その気にさえなれば、ぼくは彼らの大多数の心を手にとるように見抜いて、ときにはそれでみんなをびっくりさせることもできた。でも、そういう気になることはめったになかった、いや、一度もなかった。ぼくはいつも自分のこと、自分自身のことだけで手いっぱいであった。そうしてしきりに、これでいよいよ自分も、少しはほんとうの生活がしてみたい、自分のほうから世間へ何かを与えてみたい、世間と交渉をもち、世間を相手に戦ってみたいと思った。
ときおり晩がた街を歩きまわり、気分が落ちつかぬまま、真夜中になっても家へ帰れなかったときなど、さあこんどこそぼくの恋人に行きあうぞ、次の角を通りかかるにきまってる、次の窓からきっとぼくの名を呼ぶぞ、などと思ったものだ。ときにはまたこれらすべてのことが、耐えられないほど苦痛と感じられることもあった。そしていつかは自殺してやろうと、心にきめていた。
そのころぼくは、ある風変りな避難所を見つけたが――それはいわゆる『偶然』のおかげであった。しかしこういう偶然などというものは、ないものなのだ。もしどうしても何かが必要だと言う人が、自分に必要なその何かを見つけるとすれば、それをその人に与えるものは偶然ではなくて、その人自身の欲求と必然とが、その人をそこへ連れて行くだけのことだ。
前に町を散歩しているとき、場末にある比較的小さな教会のなかから、オルガンがひびいてくるのを二、三度聞いたことがあるが、そのときは別に足もとめなかった。次に通りかかったとき、またオルガンが聞えてきた。そしてバッハをひいていることがわかった。門のところまで行ってみると、門はしまっていた。そのせまい通りにはほとんど人影もなかったので、ぼくは教会のそばの縁石《へりいし》に腰をおろし、オーバーのえりを立てて耳をすませた。大きなものではなかったが、いいオルガンで、ひき方もすばらしかった。意志とねばり強さが、きわめて個性的に独特に表現されていて、それが祈りのようにひびくのであった。ぼくはこんなことを感じた。つまり、あそこでひいている男は、この音楽のなかに、ある宝物《ほうもつ》が秘められているのを知っている。そして自分の生命を求めるように、その宝物を手に入れようとして、たたきつづけ、苦心しているのだ、と。ぼくは、テクニックという意味では、音楽のことはあまりわからないのだが、この演奏のような魂の表現なら子どものころから本能的に理解していたし、音楽的なものを、何か自分のなかの自明なこととして感じていたのである。
音楽家はそのあと何か現代のものもひいた。レーガー〔ドイツの作曲家〕の作品かもしれなかった。教会のなかは、ほとんどまっくらで、手近な窓から、ごく細い明りがもれてるだけだった。ぼくは音楽が終るまで待ったあと、そのあたりをぶらぶらしていると、そのオルガン奏者が出てくるのが見えた。まだ若い人だったが、それでもぼくより年上で、肩幅の広いずんぐりした体格であった。そして力強い、怒っているといってもいいような足どりで、急いで立ち去った。
そのとき以来ぼくは幾度か夕暮れどきに、この教会の前に腰をおろしたり、あちこちぶらついたりした。あるときなど門があいていたので、オルガン奏者が上のほうで、かすかなガス灯の光をたよりに演奏をつづける間、寒さにふるえながらも幸福な気持ちで、半時間も教会の席に腰かけていた。彼のかなでる音楽のなかから、ぼくが聞きとったものは、彼自身だけではなかった。ぼくには、彼が演奏するものはみなたがいに似かよっていて、ひそかなつながりがある、と思われたのである。彼の演奏するものはみな、信心ぶかく、献身的で、敬虔なものだったが、その敬虔さも、教会もうでの信者や牧師なみのものとは違って、中世の巡礼や門《かど》づけ〔人家の門口に立って音曲を奏し、銭などをもらう人〕のような敬虔さであり、あらゆる宗派を超越した世界感情ともいうべきものに対する、ひたむきな献身をともなうものであった。
バッハ以前の巨匠たちがさかんに演奏された。また古いイタリアの作曲家たちも。そしてみんな同じことを語りかけてきた。みんなが、この演奏者の魂にも宿っていることを語っていた。つまり、あこがれ、世界のもっとも深い把握、世界からのもっとも激しい決別、自分自身の暗い魂の声に、燃えるような思いをこめて耳をすますこと、献身の陶酔、不可思議なものへの深い好奇心とである。
あるとき、オルガン奏者が教会から出たあとを、そっとつけて行って見ると、町をずっと出はずれたところで、とある小さな酒場へはいった。自分の気持ちを押えきれなくなってぼくもあとからはいった。ここではじめて、はっきり彼をながめた。彼はその小さな部屋の片隅で、黒いフェルト帽をかぶったまま、一杯のブドウ酒を前にして、テーブルについていた。彼の顔つきは予想どおりであった。みにくくて、いくらかすさんだところがあり、求道的で、かたくなで、いかにもがんこそうで、意欲的だが、そのくせ、口もとはやさしく、子どもっぽかった。男性的なたくましさは、全部、目と額《ひたい》に集まっていて、顔のなかほどから下は、未成熟であどけなく、しまったところがなくて、どこかひよわそうであった。にえきらない感じのあごは子どもっぽくて、額や目つきと対照的であった。感じがいいと思われたのは、自尊心と敵意にあふれた暗褐色の目であった。
ぼくは黙ったまま彼の向かいに腰をおろした。酒場には、ほかにだれもいなかった。彼はじゃま者を追っぱらおうとでもするように、ぼくをぐっとにらんだ。でもそんなことにはへこたれず、じっと見つめてやると、とうとう彼は、いまいましそうにつぶやいた。
「なんだって君、そうじろじろ見るんだい。何か用でもあるのかい?」
「あなたに用なんか、何もありません」とぼくは言った。「でもこれまであなたから、いろいろ教えてもらいました」
彼は、額にしわをよせた。
「あ、そうか、君は音楽ファンなのかい。音楽に熱をあげるなんて、胸くそが悪くなるな」
ぼくは、おどしにのらなかった。
「いままでなんども、あなたの演奏を聞きました。ほら、あそこの教会でね」とぼくは言った。
「でも、お邪魔をするつもりはありません。あなたとごいっしょにいれば、もしかすると、何かが見つかるかもしれない、と思ったんです。なんだかよくわからないけど、何か特別のものがです。でもぼくの言うことなんか、みんな聞き流してくれるほうがいいんです。ぼくは、教会へ行けば、あなたの演奏が聞けるんですから」
「だけど、いつだって鍵をかけてるぜ」
「この間は、かけるのを忘れましたね。だからぼくは、なかへはいって腰をおろしてたんです。いつもは外に立っているか、縁石《へりいし》に腰かけるかしてるんです」
「そうか。この次からははいってきてもいいよ。なかのほうがあたたかいからね。そのときはね、ノックだけはしてくれよ。ただし強くだぜ。それにぼくがひいてる間は、だめだよ。さあ、話したまえ――君は何を話すつもりだったの? ずいぶん若いんだなあ。たぶんギムナージウムか大学へ行ってるんだろう。君、音楽家かい?」
「いいえ、音楽を聞くのがすきなんです。でも、あなたが演奏なさるようなものだけです。まったく制約を受けない音楽、それを聞いていると、人間が天国と地獄をゆさぶっているのが感じられるような、そういう音楽だけですけど、音楽は、ぼくは大すきなんですが、それは音楽には、道徳的なところがほとんどないからだと思います。音楽以外のものは、みんな道徳的ですよ。ぼくは、そうでないものをさがしているんです。道徳的なものには、いつも苦しめられどおしでしたからね。どうもうまく言えないんですが、――あなたは、神であると同時に悪魔でもあるような神が、かならず存在するということをご存知ですか。そういう神がいたということですよ。そんな話をぼくは聞きましたが」
音楽家は幅の広い帽子を少しあみだにかぶりなおすと、頭をふって、広い額にたれている黒い髪をばっと振りはらった。それと同時に刺すような目でじっとぼくを見つめ、テーブルごしに、ぼくのほうへ顔をかたむけてきた。
緊張した小さな声で彼はたずねた。
「君がいま言った神の名は、なんというんだい」
「あいにくぼくは、その神のことはほとんど知らないんです。実は名前だけしか知らないんです。名前はアブラクサスです」
音楽家は、まるでだれかに盗み聞きでもされてるみたいに、うさんくさそうにあたりを見まわした。それからぐっとぼくのほうへ体をよせて、ささやくような声でこう言った。
「そうだろうと思ってたよ。君はだれなんだい?」
「ギムナージウムの生徒です」
「アブラクサスのことは、どこから聞いたの?」
「偶然ですよ」
彼はテーブルをどんとたたいた。はずみで、彼のグラスからブドウ酒がこぼれた。
「偶然だって! いいかげんなことを言うもんじゃあないぜ、君、アブラクサスなんてのは、偶然にわかるようなもんじゃないぜ。こいつは、覚えておくといいな。この神のことは、もっといろいろ話してあげるよ。ちょっとばかり知ってるからね」
彼は口をつぐむと、椅子をあとへずらせた。ぼくが期待に胸をはずませながら、じっと彼を見つめると、彼は顔をしかめた。
「ここじゃだめだ。いつかまただ。――さあ、これをあげるよ」
そう言いながら彼は、着たままでいた外套のポケットに手を突っこむと、焼き栗を幾つか取り出して、ぼくのほうへ投げてよこした。
ぼくはなんにも言わずに、それを取って口に入れたが、とても気をよくした。
「さて、それでは」と彼は、しばらくするとささやくような声で言った。「どこから聞いたんだい。――あれのこと?」
ぼくはためらわずに言った。
「ぼくはひとりぼっちで、どうしたらいいか迷っていたんです」とぼくは話した。
「すると以前の友だちのことが、ふと頭に浮かんだのです。この友だちは、大変なもの知りだと思ってますが、その前にぼくは、ある絵をかきました。地球から抜け出そうとしている鳥の絵です。それを、その友だちのところへ送ったんです。しばらくして、もうそんなことなんか忘れかけてたころ、ぼくは一枚の紙きれを受け取ったんですが、そこには『鳥は卵から出ようとしてもがく。卵は世界だ。生まれ出ようとする者は、ひとつの世界を破壊しなければならぬ。鳥は神のもとへ飛んで行く。その神の名は、アブラクサス』と書いてあったんです」
彼はひとことも答えなかった。ぼくたちは栗の皮をむいて、それをさかなにブドウ酒を飲んだ。
「もう一杯飲もうか」と彼がたずねた。
「いいえ、結構です。ぼく、飲むのはすきじゃないんです」
彼は、ちょっとがっかりしたようすで、笑った。
「君のすきなようにね。ぼくは別だ。もう少しここにいるからね。君はもう帰りたまえ」
その次に、オルガンを聞いたあとで、彼といっしょに歩いたときには、彼はあまり口をきかなかった。彼は先に立って古い小路《こうじ》にはいると、古いどっしりした家の階段をのぼり、いくらか陰気くさい、取り散らかした大きな部屋へはいった。そこには一台のピアノ以外、音楽に関係のありそうなものは何ひとつなかったかわりに、大きな書棚と机があって、なんだか学者の部屋のような感じがした。
「ずいぶんたくさん本があるんですねえ」とぼくは、敬服して言った。
「このなかの一部は、おやじの蔵書の借りものさ。おやじといっしょに住んでいるんでね。――そうだよ、君。ぼくは父母といっしょのうちにいるけどね、君を父母に紹介もできないんだよ。ぼくのつきあってる連中は、このうちじゃ大事にされないんでね。ぼくは放蕩息子ってわけだ。おやじときたら、ものすごくえらい男でね。この町の有力な牧師でもあり、説教師でもあるのさ。ところがぼくはというと、手っとりばやく言っちまうとね、このおやじの天分ゆたかな、前途有望な御曹司というわけだが、ちょっと脱線してね、少し頭がおかしくなってしまったんだ。ぼくは大学で神学を勉強してたんだが、国家試験の直前に、この地道な学部をやめてしまったのさ。もっとも、個人研究という点からいえば、いまでもこの専門はすててないけどね。人々がどういう神々を、そのとき、そのときに応じて考え出してきたか? これはぼくにとっては、いまでも非常に重要な、興味のあることなんだ。それはそうと、ぼくはいま音楽家なんだが、どうやら近いうちに、ちょっとしたオルガンひきの口にありつけそうなんだ。そうなればまた教会にもどるわけさ」
ぼくは書物の背表紙を手にとって、ざっと見渡したが、小さい卓上ランプの弱い光で見わけたかぎりでは、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語の標題が読み取れた。その間に、ぼくの知りあったこの男は、うす暗がりのなかで、壁ぎわの床の上に寝ころびながら、しきりに何かごそごそやっていた。
「来てごらん!」と、しばらくすると彼は大声で言った。
「さあこれから少し、哲学のおさらいをしようや。つまりだな、口をむすんで、腹ばいになったまま考えるんだ」
彼はマッチをこすると、自分が寝ころんでいる前のストーブの紙とたき木に火をつけた。火がぱっと燃えあがると、実に念入りに火をかきおこし、さらにたき木を入れた。ぼくは彼と並んで、すりきれたじゅうたんの上に寝ころんだ。彼はじっと火を見つめていた。火はぼくの心までとらえた。こうしてぼくたちは、おそらく一時間ぐらい、めらめら燃えるたき木の前で、無言で腹ばいになったまま、その火が音をたてて燃えあがり、やがておとろえて小さくなり、ほのかにゆらめいたかと思うと、またぱっときらめいて、ついには、静かな赤い残り火となって、底のほうでじっと動かなくなっていくのをながめていた。
「火の崇拝というのは、いままで発明されたもののなかで、いちばんばかげたものというわけじゃないね」と彼は、ぶつぶつひとりごとを言った。それ以外は、ふたりともひとことも口をきかなかった。じっと目をすえたまま火を見つめながら、夢と静けさのなかへ沈んで、煙や灰のなかに姿や映像を見た。ふとぼくは、ぎくりとした。ぼくの友だちが樹脂をひとかけら、燃える火のなかへ投げこんだのである。小さい細長い炎が、ぱっと燃えあがった。その炎のなかに、黄色いハイタカの頭をしたあの鳥が見えたのだ。消えかかっているストーブの火のなかで、金色に燃える糸がより集まって、網の目になった。文字や映像が現われてきた。人の顔や動物や植物、虫だとか、ヘビなどの思い出が浮んできた。はっとして相手のほうを見ると、彼は両方のこぶしにあごを乗せたまま、われを忘れ、何かに魅いられたように、灰のなかを見つめていた。
「ぼくもう帰らなけりゃ」とぼくは小声で言った。
「そう、そんなら帰りたまえ。さよなら」
彼は起きあがらなかった。ランプが消してあったから、ぼくは手さぐりで暗い部屋、暗い廊下と暗い階段を通り抜け、ようやくの思いでこの古ぼけた化け物屋敷から外へ出た。街へ出たところで立ちどまり、この古ぼけた家を見あげた。どの部屋の窓にも明りはついてなかった。シンチュウの小さな標札が、戸口のガス灯に照らされて光っていた。
「主任牧師 ピストーリウス」と読まれた。
寮に帰って夕食をすませ、小さい自分の部屋でひとりになったとき、ようやくぼくは、ピストーリウスからは、アブラクサスについても、そのほかのことについても、何ひとつ話してもらわなかったこと、だいたいぼくたちは十口《とくち》とは言葉を交わさなかったことに、気がついた。しかし彼を訪ねたことについては、大いに気をよくした。それに、この次にはと言って彼は、古いオルガン音楽のとびきりすばらしい曲、ブクステフーデ〔スウェーデンの作曲家、オルガン奏者〕のパッサカーリアを聞かせてやると、約束してくれたのだ。
ぼくは自分では気がつかなかったが、オンガン奏者ピストーリウスは、ぼくたちがいっしょに、あの隠者の住家《すみか》のような陰気な部屋で、ストーブを前にして床に寝そべっていたとき、ぼくに最初の教えをさずけてくれたのである。火をじっと見つめていたのが、ぼくのためにはよかったのだ。それは、ぼくがいつもいだいていながら、そのくせほんとうに育てあげたことのないいろいろな性向《せいこう》を、力づけてくれ、確かめてくれたからだ。それがぼくにも少しずつ、だんだんわかってきた。
すでに小さな子どものころから、ときおりぼくは、自然界の奇怪な形態にじっと目をそそぐくせがあった。それも観察するわけではなく、その独特の魅力、そのこみいった深い言葉に、われを忘れてしまうのであった。堅くなった長い木の根、岩石についている色とりどりの条紋《じょうもん》、水に浮かぶ油の斑点、ガラスにできたひび――こういうようなものはみな、ときとするとぼくには大変な魅力だった。とりわけ、水と火、煙、雲、ほこり、なかでもまたとくに、目を閉じると見える、ぐるぐるまわる色の斑点が魅力だった。
ピストーリウスを初めて訪ねてから数日間というもの、このことがまたぼくの心に浮かびはじめた。というのもぼくは、あの訪問以来ぼくが感じている、何かしら強くなったような、うれしい気持ち、自己感情の高まりなどを感じるのは、ひとえに、あのむきだしの火を長いこと見つめていたおかげだ、と気がついたからである。ああやっていると、妙に気分がよくなり、心がゆたかになるのだった。
ぼくがいままでに、ぼくの本来の人生目標に向かう途上で見出した数少ない経験に、この新しい経験が加わったのである。こういう形象を観察し、自然界の非合理な、こみいった不思議な形態にわれを忘れていると、ぼくたちの心は、これらの形象を作りだした自然の意志と一致しているのだという感情が、ぼくたちのなかに生まれてくる――やがてぼくたちは、こういう形象はぼくたち自身の気まぐれであり、ぼくたち自身が作ったものだと思いたくなってくる――ぼくたちと自然界との間の境界が、ゆれ動いて消えてゆくのが見える。そしてぼくたちの網膜にうつる映像が、はたして外部の印象から出てくるものか、それとも内部の印象によるものか、どちらともわからなくなってしまうような気分を味わうようになる。この訓練こそ、自分たちがどれだけ創造主であるのか、世界のたえざる創造に、ふだんどれだけ参与しているかということを、ぼくたちにいちばん手っとりばやく、いちばんかんたんに教えてくれる。いやむしろ、こう言うほうがよいかもしれない。つまり、ぼくたちのなかで働いているものと、自然のなかで活動しているものとは、同一の神であって、このふたつを分けて考えることはできないのだ、と。だから、たとえこの外部の世界が滅びてしまうとしても、ぼくたちのうちだれかが、それを再建することができるだろう。というのは、山や川、樹木や葉、根や花など、自然界の形成したものはすべて、ぼくたちのなかに原型を持っているし、魂から発しているからだ。この魂の本質は永遠そのものであって、ぼくたちにはわからないものだが、愛の力と創造の力として、たいていの場合、ぼくたちにもそれとなく感じられるものなのだ。
それから何年かしてようやくぼくは、この観察がある本で裏書きされているのを知った。それはレオナルド・ダ・ヴィンチの著作だったが、その本のある個所で、たくさんの人に唾《つば》をはきかけられた壁をじっと見つめることが、いかに有益であり深い興味を与えるものであるかを語っている。壁に残る唾のしみを前にしてダ・ヴィンチは、ピストーリウスとぼくが火を前にして感じたのと、同じものを感じたわけだ。
次にまた会ったとき、このオルガン奏者はある説明をしてくれた。
「ぼくたちはいつも、ぼくたちの人格の限界というものを、あまりにせまく考えすぎるんだ。つまりぼくたちはいつも、個人的に区別されて、ほかの人と違っていると認められたものしか、自分の人格の一部に数えようとはしない。ところがぼくたちは、世界の全構成要素から成り立っているんだ。ぼくたちのひとりひとりがだよ。そしてぼくたちの肉体が、魚まで、いやもっと昔までさかのぼる進化の系譜《けいふ》を内にふくんでいるのと同じ理屈で、ぼくたちは魂のなかに、これまで人間の魂が体験したものを、ひとつ残らず持っているのだ。かつて存在したことのある神々や悪魔たちはひとつ残らず、ギリシア人の場合であろうと、中国人の場合であろうと、ツールカッファー族〔南アフリカの原住民〕の場合であろうと、ぼくたちのなかに、可能性として、念願として、抜け道として、存在するのだ。かりに人類がすっかり死にたえて、たいした才能もない子どもがたったひとり、なんの教育も受けないまま生き残ったとすれば、その子どもは万物の全過程をもう一度やりなおし、神々、悪霊、楽園、戒律と禁令、旧約聖書と新約聖書など、何もかも、もう一度作りなおすことができるだろう」
「そりゃそうかもしれないけど」とぼくは異議をはさんだ。
「でも、そうなると個人の価値は、どこにあるんでしょう? 何もかもぼくたちのなかに、ちゃんと備わっているとしたら、なんだってぼくたちは、このうえ努力なんかするんでしょう?」
「ちょっと待った!」とピストーリウスは、激しい口調で大声を出した。「世界を自分のなかに持っているだけというのと、そのことをさらに意識しているというのとでは大変な違いだぜ。きちがいだって、プラトンに負けないくらいの思想を生み出すことがあるし、ヘルンフート派〔ツィンツェンドルフの創立した敬虔主義の宗教団体〕の神学校にいる、小さな信心深い学童が、グノーシス派〔異端キリスト教徒〕かゾロアスター派〔古代ペルシアの国教〕の連中の考えるような深い神話的なつながりを、自分の力だけで思索することだってあるのだ。だが、それについては何ひとつわかってないんだ。わかってないかぎりでは、木か石と同じで、よくてもせいぜい動物と同じだ。しかしだね、それから、こういう認識の最初の火花が、かすかに光はじめると、そのとき人間になるわけだ。そのへんの往来を歩いている二本足の動物をだね、まっすぐ立って歩くし、九カ月の間みごもるからというだけの理由で、君はまさか人間だなどと思いはしないだろう。君にもわかってるはずだが、ああいう連中のなかには、魚かヒツジ、虫けらかヒルにもひとしいのが、どんなにたくさんいるか、アリやミツバチにひとしいのが、どんなに大ぜいいるか、ということがね。ところがこういう連中のひとりひとりに、人間になる可能性があるんだ。だがこの可能性がその人のものになるには、まずこの可能性をおぼろげながらも感じ、それを幾らかでも意識にのぼせることを覚えなければだめなのだ」
ぼくたちの対話は、だいたいこんな調子だった。こういう対話からまったく新しいこと、まったく予想外なことが出てくることは、まずなかった。しかしこの対話はすべて、どんなに平凡な対話でも、ぼくの心のなかの同じ個所を、静かにたえずたたきつづけ、すべてがぼくの自己形成に手をかしてくれた。すべてがぼくの脱皮に役立ち、卵の殻を破るのを手つだってくれた。そしてこういう対話のたびにぼくは、頭を少しずつ高く、また自由にもたげていき、ついにぼくの黄色い鳥は、あの美しい猛禽の頭を、こなごなになった世界の殻のなかから突き出したのである。
たびたびぼくたちは、自分たちの見た夢を語りあったものだ。ピストーリウスは夢判断がうまかったが、奇妙な例がひとつ、ちょうどいま思いだされる。ぼくは、自分が飛べるようになった夢を見たが、でもその飛び方は、いわば大きな振動によって空中に投げとばされたようなもので、自分の力で自由に飛びまわったものではなかった。この飛行の感じは心の高まる思いであったが、そのうちに、むやみと恐ろしい高さに引きあげられるのに気がついて、こわくなってきた。が、そのときぼくは、息をとめたり、はいたりすれば、上昇も下降も思いのままだと知ってホッとしたものだ。
これについてピストーリウスはこう言った。
「君を飛ばせてくれる振動というのはね、それは、だれでもが持っている人類の大きな財産なのだ。こいつはすべての力の根源とつながりがあるという感じなのだが、この感じが起こると、やがて不安になってくるのだ。とても危険なものなんだがね。だからたいていの連中は、飛ぶなんてのはさっさとあきらめて、法律の規定どおりに歩道を歩くほうがいいと思うのさ。でも君は違う。君はしっかりした青年にふさわしく飛びつづける。すると、どうだろう。そのうち君は不思議なことを発見する。つまり君は、だんだん思いのままに飛べるようになるということ、君を飛ばせている大きな普遍的な力に、あるデリケートな、小さな、独自の力が加わるということ、ある器官、ある舵が加わるということをだ。こいつはすばらしいことなんだ。もしこいつがなければ、むやみと空中に飛ばされることになるだろう。たとえば、きちがいなんかそうやっているんだ。きちがいには、歩道を歩いている連中よりも、もっと深い予感がさずけられているんだ。でもきちがいには、この予感をとくかぎもなければ、それをあやつる舵もない。だから底なしの沼に落ちこんでしまうのだ。しかし君は、ジンクレール、君はうまくやってるよ。それも見事にね。たぶん自分では、まだちっとも気がついてないんじゃないの。君はね、新しい器官でね、呼吸調節器のようなものでやってるわけだ。
これでわかるだろう、君の魂だって、つきつめたところ、いかに『個人的』でないかということがね。つまりだね、君の魂が、この調節器を発明するわけじゃないんだ。この調節器はべつに新しいものじゃなくて、よそからの借りものなんだ。何千年も前からあったもので、魚の平衡器官、つまり浮き袋なんだ。それに事実いまでも、浮き袋が同時に一種の肺になっていて、場合によっては、ちゃんと呼吸器の役目をはたすような、そういう奇妙な古くさい魚が少しばかりいるんだぜ。こうなると君が夢のなかで飛行の浮き袋に使う肺と、そっくり同じってわけだ」
ピストーリウスは、わざわざ動物学の本まで持ち出して、その旧式な魚の名前とさし絵を見せてくれた。そしてぼくは自分のなかに、進化過程の初期から伝わる機能をまざまざと感じて、一種異様な戦慄を覚えた。
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第六章 ヤコブの戦い
ぼくが風変わりな音楽家ピストーリウスから、アブラクサスについて聞き知ったことは、ここで手みじかにくりかえすわけにはいかない。しかしぼくが彼のもとで学んだいちばんたいせつなことは、ぼく自身への道で、さらに一歩前進したことである。そのころのぼくは十八歳になるかならずで、多くの点で早熟であったが、また別ないろいろな点では非常におくれていて、どうしていいか途方《とほう》に暮れた異常な若者であった。
ときおり自分をほかの連中とくらべては、自信を深め、うぬぼれることもあったが、逆にふさぎこんでしょげてしまうこともよくあった。ときには自分は天才なんだと思ったり、また自分は、半分きちがいなんだと思ったりしたこともよくあった。同年輩の連中と楽しみや生活をともにするのは、どうもうまくいかず、自分が彼らから絶望的に切り離されており、自分には人生が閉ざされてでもいるような気がして、ぼくはよく非難と憂慮に身も細る思いであった。
彼自身りっぱな変わり者であったピストーリウスは、ぼくに、勇気と自尊心を失わないことを教えてくれた。ぼくの言葉、ぼくの夢、ぼくの空想や考えのなかから、いつも何かしら貴重なものを見出しては、それをいつもまじめに受け取り、真剣に論じてくれ、このことによって、ぼくによいお手本を示してくれたのである。
「君はぼくに話してくれたことがあるね」と彼は言った。
「音楽は道徳的じゃないからすきなんだとね。そりゃどうでもいいけど、でも、君自身だって、やはり道徳家になってはいけないんだよ。自分をほかの連中とくらべたりしちゃいけない。自然が君をコウモリとして造ったのなら、ダチョウになろうなんて気は起こさないことだ。君はときどき自分は変わり者だなんて思いこんだり、たいていの人とは違った道を行くのだと、自分で自分を責めたりするね。そんなくせはやめなけりゃいけないよ。火を見つめるんだよ! 雲を見つめることだ! そしていろんな予感がわいてきたり、君の魂の声が聞こえはじめたら、すぐにそういうものに身をまかせてしまうことだ。それがはたして先生方や君のおとうさんや、どこかの神さまなんぞの心にかなうとか、お気に召すかなんてことは、わざわざ聞かないことだね。そんなことをしたら、わが身を滅ぼすことになる。そんなことをしたら、歩道を歩くようになって、化石みたいな人間になるよ。ねえ、ジンクレール。ぼくたちの神はアブラクサスという名で、神であると同時に悪魔でもあって、自分のなかに『明るい』世界と『暗い』世界をふくんでいるのだ。アブラクサスは、君の考えや夢のどれひとつにだって、文句なんかつけやしないぜ。このことを決して忘れないことだ。だけど、もし君が非の打ちどころのない、ありきたりの人間になってしまったら、アブラクサスは君を見すてるね。そうなれば、君を見すてたアブラクサスは、自分の思想を煮たたせるために、新しい鍋をさがすというわけだ」
ぼくの見たあらゆる夢のなかでは、例の暗い恋の夢がいちばん変わらないものだった。ぼくはもう幾度となくこの夢を見た。紋章の鳥の下を通りぬけて、古いわが家へはいり、母をだきよせようとしたが、いざだきしめてみると母ではなくて、あの大柄な、男でもあれば女でもあるような女性で、ぼくはこの女のひとがこわかったくせに、燃えるような欲情でひきつけられてしまうのだった。そしてこの夢のことは、どうしてもぼくの友だちに話せなかった。ほかのことは何もかもうち明けたときでも、この夢だけは言い残してしまった。この夢は、ぼくのかくれ場であり、ぼくの秘密であり、避難所であった。
気の重いときにはピストーリウスに、どうかブクステフーデの古いパッサカーリアをひいてくれるようにと頼んだ。そんなときぼくは、夕暮れの暗い教会のなかに腰をおろし、この不思議な、せつない、自分自身のなかへ沈みこんで、自分自身の声に耳をすますような音楽に、うっとりとしたものだ。この音楽は聞くたびにぼくの心を楽しませ、魂の声を正しいと認めるぼくの気がまえを、さらに強めてくれた。
ときとしてぼくたちは、オルガンの音がすでに消えてしまったあとも、しばらく教会のなかに腰をおろしたままでいることがあった。そしてあわい光が、先のとがった高い窓から射しこみ、やがてうすれていくのを見ていた。
「おかしいと思うだろう」とピストーリウスが言った。
「ぼくが神学を勉強していて、もうちょっとで牧師になるところだったなんて。でもね、この場合ぼくが犯したのは、ただの形式上の誤りにすぎないのだ。司祭になるのが、ぼくの天職であり、目的なのだ。ただしぼくはあまりにも早く満足しすぎて、まだアブラクサスを知らないうちから、ヤハウェに仕えてしまったのさ。ああまったく宗教というものは、どれもみないいものだなあ。宗教は魂だよ。キリスト教の聖餐式〔イエスの血と肉を象徴するパンとブドウ酒を会衆に分かつ儀式〕を受けようが、またはメッカへ巡礼に行こうが、そんなことは無関係さ」
「それだったら、あなたは」とぼくは言った。「やはり牧師になってもよかったんじゃないですか」
「違うよ、ジンクレール、そうじゃないんだ。だって、そんなことをしたらぼくは、うそつきにならざるをえなかったろうね。ぼくたちの宗教のやり方は、まるで宗教じゃないみたいだ。まるで合理的な事業みたいなやり方だよ。カトリックにならぼくは、どうにかこうにかなれるかもしれないけど、しかしプロテスタントの牧師には――とてもだめだ。ほんとうに信心深い数人の人たちは――ぼくはそういう連中を知ってるけど――文字どおりの解釈を信じたがるものだ。だからこういう連中に向かって、たとえばだね、ぼくの目から見るとキリストは人間ではなくて、半神であり、神話であり、巨大な影絵であって、人類は自分の姿がこの影絵となって、永遠という壁に描かれているのを見てるのだなんて、まさか言えないだろう。それからほかの連中ね。気のきいた言葉を聞こうとか、義務をはたそうとか、何ひとつサボったりしないようにとか、なんとかいうような目的で教会にくる連中、こういう人たちには、なんと言ったらいいんだい。この人たちを改宗させろって言うのかい。しかしぼくには、そんなつもりは全然ないね。司祭というものは、改宗させようとはしないもんだ。ただ信者たちの間で、同類の人たちの間で暮らそうと思ってるだけだ。ぼくたちが自分の神々を作るときの原動力になる感情、この感情のにない手になり、現われになろうとするだけだよ」
彼はここで言葉を切ったが、やがてまた、次のように話しつづけた。
「ぼくたちの新しい信仰はね、これからアブラクサスという名で呼ぼうと思うんだが、この信仰は美しいもんだぜ、君。ぼくたちの持ってるもののなかじゃ、最高のものだよ。だけどまだ赤ちゃんだな。羽根もまだ生えてないんだ。ああ、孤独な宗教か! そんなものはまだ本物じゃない。宗教は共通のものにならなければだめだ。礼拝と陶酔、祭典と秘法を持たなくちゃだめだ……」
彼はここでじっと考えこんでしまった。
「その秘法ってのは、ひとりでも、またごく少数のサ―クルでも、行なえるんじゃないんですか」とぼくは、おそるおそるたずねた。
「できるともさ」と彼はうなずいた。
「ぼくなんかもう前からやってるよ。人に知れたら、何年も刑務所にぶちこまれるに違いないような、そういう礼拝をやったことがあるんだ。でも、ぼくにはわかってるんだが、これじゃまだ本物じゃないね」
突然彼はぼくの肩を、どんとたたいた。それでぼくはびっくりして、身をすくめた。
「ねえ、君」と彼は力をこめて言った。
「君だって、秘法を持ってるんだぜ。ぼくにはわかってるんだ。君はぼくに言わない夢を見ているに違いないね。べつにそれを知りたいとは、思わないけどね。しかし、はっきり言っておくけど、その夢を生きることだ! その夢の人物になりきることだ! その夢のために、祭壇を建てることだ! これはまだ完全なものじゃないが、それでもひとつの道だ。ぼくたちが、君とぼく、それにほかの何人かが、いつかこの世界を改造するかどうか、それはいまにわかるだろう。しかしぼくたちの心のなかでは、毎日、世界を改造しなければならない。さもないと、ぼくたちの価値はゼロということになる。ここをよく考えることだ! 君は十八だね、ジンクレール。君は街の女なんか買ったりしない。君は恋の夢、恋の願いを持っているに違いない。たぶん、君をこわがらせるような、そういうたぐいのものだろう。こわがっちゃいけないよ。そいつは君の持っているもののなかじゃ、最高のものなんだからね。ほんとうにそうなんだよ。ぼくはね、君ぐらいの年配のころ、恋の夢をむりに押えつけて、とても損をしたよ。そういうことは、するもんじゃないね。アブラクサスのことを知った以上、もうそんなことはゆるされないのだ。ぼくたちの魂が望むことなら、何ひとつこわがってはならないし、禁じられているなどと思ってもいけないのだ」
びっくりしてぼくは異議をはさんだ。
「でもまさか、思いついたことをなんでもやっていいなんて、そんなことはないでしょう。気にくわないからといって、まさか人を殺していいわけじゃないでしょう」
彼はぼくのほうへ、ひざを乗りだしてきた。
「場合によっては、それもかまわないんだぜ。ただね、たいていの場合は思い違いなんでね。それにぼくだって何も、思いついたことならなんでも平気でやってしまえなんて、言ったわけじゃない。そうじゃないのさ。だがね、こういう思いつきは、それなりにりっぱな持ち味があるんだから、これを追っぱらったり、道徳的にああだこうだとけちをつけて、有害なものにしてはいけないんだ。自分なり、またはほかのだれかを十字架にかけるかわりに、おごそかな思想のはいったさかずきでブドウ酒を飲みながら、いけにえの秘法を考えることだってできるのだ。それに、それほどまでしなくても、自分の本能や、いわゆる誘惑というものを、ていねいにやさしく取りあつかうことだってできるのだ。そうすればこういうものは、それぞれの持ち味を見せてくれるんだ。みんな持ち味があるんだからね。――もし、いつかまた、とてもきちがいじみたことや罪深いことを思いついたらね、ジンクレール、だれかを殺したくなるとか、何かとてつもなくみだらなことをしてみたくなるとしたらね、そういうときは、ちょっと考えてみるんだね。おれの心のなかで、こんな空想をしているのは、アブラクサスなんだ、とね。だって、君が殺したいと思う人間は、決して何の何がし氏というのではなくて、かならず仮装の人物にすぎないんだから。ぼくたちがある人間を憎むということは、その人間の像を通じて、ぼくたち自身のなかに巣くっている何かを憎むことなんだ。ぼくたちのなかにないものが、ぼくたちを興奮させたりするわけはないものね」
いままでピストーリウスが話してくれた言葉のなかで、これほど深く、ぼくの心の奥底を突いたものはなかった。ぼくは返事もできなかった。しかし、ぼくをもっとも強くまた異様に感動させたのは、ぼくが何年も前から心に秘めていたデーミアンの言葉と、このピストーリウスの激励の言葉とが、ぴったり一致していたことだ。ふたりはおたがいに何ひとつ知らないのに、ぼくには同じことを言い聞かせたのである。
「ぼくたちの目にはいる事物は」と、ピストーリウスは小声で言った。
「ぼくたちの心のなかにあるものと同じものなんだよ。ぼくたちが心のなかに持っているもの以外には、現実なんてありはしないのさ。たいていの人間は外部の映像を現実だと思いこんで、心のなかにある自分自身の世界には、少しも発言させてやらないのだ。だからあんなに非現実的な生き方をするわけだ。そんなふうにしていても、幸福になることぐらいはできるさ。でもね、一度もうひとつの世界を知ってしまうと、大多数の人の道をたどる気にはもうなれないのだ。ジンクレール、大多数の人の道は楽だが、ぼくたちの道はつらいぜ。――でも、行こうじゃないか」
それから数日後、二度も待ちぼうけをくわされたあとで、ぼくは晩おそく往来で彼を見かけた。彼がひとりで冷たい夜風に吹かれながら、角をまがってくるところだった。足もとがふらついて、ぐでんぐでんに酔っていた。ぼくは声をかける気になれなかった。ぼくとは気づかずに、すれちがって行ったが、まるで未知の世界からの暗い呼び声にこたえるかのように、燃えるようなさびしい目つきで、じっと前方を見つめていた。ぼくはその通りの端まで彼について行った。彼は目に見えない針金で引っぱられているみたいに、ふらふらと歩いて行った。何かに憑《つ》かれたような、そのくせだらだらした足取りで、ゆうれいのようだった。悲しくなってぼくは寮へ、救いのないあの夢のもとへ帰った。
「ああやってあの人は、いま、心のなかの世界を改造しているのだ」とぼくは考えたが、すぐまたそのあとで、そんなふうに考えるのは、いやしい道徳的な考え方だと感じた。彼の夢について、ぼくは何を知っているだろうか。彼はあんなに酔っぱらってはいても、ぼくがびくびくしながらたどっているよりも、もっと確実な道を歩いているのかもしれないからだ。
授業のあいまの休み時間に、ぼくがそれまで気にもとめなかったある同級生が、しきりにぼくに近づこうとしているのが、ときどき目についた。小柄で、いかにもひ弱そうな、やせこけた少年で、髪は赤味がかったブロンドでうすく、目つきと態度にちょっと変わったところがあった。ある晩ぼくが帰ってくると、彼はその横町で待ちかまえていたのだが、ぼくをやりすごしてからまた追いかけて来て、寮の玄関の前で立ちどまった。
「何かぼくに用かい?」とぼくは聞いた。
「君とちょっと話がしたいだけだよ」と彼は、おずおずしながら言った。
「すまないけど、少しいっしょに歩いてくれない?」
ぼくは彼について歩きながら、彼がひどく興奮していて、期待に胸をふくらませているのを感じた。彼の手はふるえていた。
「君は心霊論者〔物質界の奇怪な現象を、心霊によって説明する人〕かい?」と彼は、やぶから棒にたずねてきた。
「違うよ。クナウアー」と、ぼくは笑いながら言った。「全然、お門《かど》違いだ。どうしてそんなことを聞くんだい」
「でも、神知論者《しんちろんじゃ》〔神秘的霊知によって、直接に神を見ることができると考える人〕なんだろう」
「それも違うよ」
「ねえ、そんなに隠さないでくれよ。君にはどこかしら変わったところがあるのが、とてもよくわかるんだもの。君の目がそうなんだ。君が精霊と交わっていることは、まちがいないと思うよ。――好奇心で聞いてるんじゃないよ、ジンクレール、そうじゃないんだ。ぼく自身、道を求めている人間なんだ。いいかい、ぼくはほんとに、ひとりぼっちなんだ」
「まあ、話してごらん」とぼくは励してやった。
「ぼくは精霊のことなんか何ひとつ知らないけれど、自分の夢のなかで生きているんだよ。だから、それが君にわかったんだね。ほかの連中だって、やっぱり夢のなかで生きているんだけど、その夢は、自分たちの夢じゃないんだ。そこのところが違うのさ」
「うん、そうかもしれない」と彼はささやくような声で言った。「問題は、どういう種類の夢のなかで生きるか、ということだけだね。――君はいままで白魔術〔善神の助けをかりて行なう無害な妖術〕のことを聞いたことがあるかい?」
ぼくは、ないとしか答えられなかった。
「それはね、覚えれば、自分で自分を思いどおりにできる術なんだ。死なずにすんだり、妖術も使えるようになるんだ。君はそういう訓練をやったことなんか、一度もないの?」
その訓練について、もの珍しそうに聞いてみたら、はじめはもったいぶっていた彼も、しまいにぼくが背を向けて帰りかけると、べらべらとしゃべりだした。
「たとえばね、寝つこうと思ったり、精神を統一しようと思うときに、ぼくはそういう訓練をやるのさ。まず何かを、たとえば、ある言葉だとか、名前だとか、幾何の図形だとかを、頭のなかに描いてみる。それから、そういうものを、できるだけ強く考えて、心のなかへ押しこむようにするんだ。つまり、ちゃんとはいったなと感じるまで、自分の頭のなかで一心に描いてみるんだ。それができたらこんどは、のどのなかへ押しこむ、というようにだんだん押しこんでいって、しまいにはぼくの体が、そいつで一杯になってしまうようにする。そうなるともうぼくは、どっしりかまえができて、どんなことがあってもびくともしないようになるのさ」
ぼくには、彼の言うことがある程度わかった。だが、このほかにも何かぼくに話したがっているのが、はっきり読みとれた。妙に興奮し、そわそわしていたからだ。ぼくは彼が、気らくにたずねられるようにしてやった。すると間もなく、気にかかっているいちばん大事な問題を持ち出してきた。
「君だってもちろん、禁欲してるんだろうね」と彼は、おずおずしながら聞いてきた。
「それ、どういう意味? 性的なことを言ってるの?」
「うん、そうだよ。ぼくはもう二年も前から禁欲しているんだ。あの教えを知って以来だよ。その前は、ある悪習にふけったものさ。そういえば、君にもわかるだろう。――じゃ君まだ、女を知らないんだね」
「うん」とぼくは言った。「まともなのが見つからなかったからね」
「でも、これならと思うまともなのが見つかったら、そのときは、その女といっしょに寝るかい?」
「うん、もちろんだとも。――相手がいやと言わなければね」とぼくは、冷やかし気味に言った。
「ほう、そうだとすると君は、邪道におちいってることになるね。内的な力というものは、完全な禁欲をつづけないと、りっぱに育たないんだぜ。ぼくはそれをやってみたんだ、二年もね。二年一か月と少しだ。とてもむずかしいよ。もう我慢できないと思うことも、ときどきあるよ」
「いいかい、クナウアー、ぼくは禁欲なんて、そんなにものすごく大事なことだとは思わないね」
「わかってるよ」と彼はさえぎった。
「みんなそんなことを言うんだ。でも、君までそういうとは思わなかったよ。一段高い、精神的な道を行こうと思う者は、だれだって純潔のままでいなくちゃいけない。絶対にそうだよ」
「そうか、じゃそうしたまえ。しかしぼくにはわからないんだが、自分の性を押えつけてる人のほうが、ほかのだれよりもどうして純潔だなんてことになるのかな。それとも君は性的なことを、あらゆる考えや夢からまでも、しめ出せるのかい?」
クナウアーは絶望的な目つきで、ぼくを見つめた。
「いや、まるでだめなんだ。いやになっちゃうよ。でも、ぜひともそうしなくちゃいけないんだ。ぼくは夜になると、自分にさえ話せないような夢を見てしまうんだ。恐ろしい夢なんだよ、君」
ぼくは、ピストーリウスが話してくれたことを思い出した。しかし、いかにもピストーリウスの言うとおりだと十分感じてはいたものの、またこれを受け売りすることはできなかった。自分の経験にもとづかない忠告、自分でもまだ守れそうに思えない忠告を、人に与えるわけにはいかなかった。ぼくは口数が少なくなった。そして、いま自分に忠告を求めている人がいるのに、なんの忠告も与えてやれないことに、屈辱を感じた。
「ぼくはなんでもやってみたんだ」と、そばでクナウアーは嘆いた。「できることはなんでもやってみたんだ。冷たい水だとか雪だとかを使ったり、体操もやりランニングもしたよ。だけど、どれも効果なしだ。毎晩ぼくは、決して考えてはいけないような夢で、目をさます。それに恐ろしいのはね、そんなことにまぎれて、ぼくが精神面で身をつけたことが、どれもこれもだんだんなくなっていくことなんだ。精神を統一したり、うまく寝ついたりすることなんか、いまじゃもうほとんどできなくなってしまったんだ。一晩じゅう寝つかれないことも、よくあるのさ。こんなことは、とてもいつまでも我慢できっこないよ。しまいに、この戦いをやり抜くことが、どうしてもできなくなってだね、降参してしまい、また純潔をけがすようになればだよ、そうすればぼくは、一度も戦ったことのないほかの連中のだれよりも、もっと悪い人間になってしまうんだ。君にはよくわかるだろうね」
ぼくはうなずいてみせたが、それにはなんにも言えなかった。彼の話に退屈しかけてきたし、それに、彼が明らかに悩み絶望しているのを見ても、それ以上深く心を動かされないことに、われながら驚いた。ぼくはただ、君を助けることはできないね、と感じただけであった。
「じゃ君は、なんにも言ってくれないんだね」と彼は、しまいに疲れきって、悲しげに言った。「まるっきりなんにもないの? 何か方法があるはずじゃないか。いったい君は、どんなふうにやってるの?」
「ぼくはなんにも教えてあげられないんだ、クナウアー。こういう場合、おたがいに助けあうことなんかできないのさ。ぼくだって、だれにも助けてなんかもらわなかったぜ。君は自分で自分のことを、じっくり考えるより仕方ないね。そのうえで、ほんとうに君の本性から出てくることを、実行するしかないよ。それ以外に手はないよ。自分を見つけることができないようなら、精霊を見つけることだって、できるわけはないと思うな」
がっかりして、急に口をつぐんだこの少年は、ぼくの顔をじっと見つめていた。やがて彼のまなざしは突然にくしみに燃えあがり、ぼくに顔をしかめて見せると、憤然として叫んだ。
「ふんだ! 大した聖人だよ、君は、君だって変なことをやってんだろう。わかってるよ。なんでも知ってるような顔をしているけど、陰じゃ不潔なことにふけってるんだ。ぼくやみんなと同じにね。君はブタだよ。ぼくと同じにブタなんだ。みんなブタなんだ、ぼくたちは!」
ぼくは彼にかまわず、ひとりでその場を去った。彼は二、三歩ぼくのあとについてきたが、立ちどまったかと思うと、くるりと向きをかえて走り去った。ぼくは同情と嫌悪の気持ちで、胸がむかむかしてきた。寮に帰り自分の小さな部屋で、自作の絵を二、三枚まわりにならべ、恋こがれる思いをこめて、ぼく自身の夢にひたるまで、このいやな気持ちから抜けられなかった。それからすぐに、また、家の門や紋章、母と例の見知らぬ女性の夢が現われた。そしてその女性の顔立ちが実にはっきりと見えたので、ぼくはその晩のうちに、この女性の肖像画をかきはじめた。
夢見ごこちの短いひとときを幾度か利用して、ほとんど無意識のうちにかきなぐったが、二、三日してできあがると、ぼくは日暮れどきその絵を自室の壁にかけ、卓上ランプをその前においた。そして勝負がつくまで相手にして戦わねばならない精霊に向かいあうように、その絵の前に立ちつくした。それは、前にかいたのに似た顔で、あの友デーミアンに似ていたが、また表情のどこかしら、ぼく自身にも似た顔であった。片方の目が、もうひとつの目にくらべて、ずっと上のほうについていて、そのまなざしはうっとりと何かを見つめたまま、運命をはらみながら、ぼくの頭上をこえてはるかかなたにそそがれていた。
ぼくはこの前に立ちつくしていると、内心の緊張のために、胸の奥まで冷たくなってきた。ぼくはこの画像に問いかけてみた。それを責め、それを愛撫し、またそれに祈ってもみた。それを母と呼び、恋人と呼び、女郎《じょろう》、娼婦と呼び、アブラクサスと呼んだ。そのうちにピストーリウスの――それともデーミアンのかしら――言葉が、ふと胸に浮かんだ。いつ聞いた言葉だったか、思いだせなかったが、その言葉がまた聞えてくるような気がした。それはヤコブと神の天使との戦いについての言葉であり、「なんじわれを祝福せずば、去らしめず」というのであった。
ランプのほかげに照らされたその画像の顔は、呼びかける名前の変わるたびに、顔立ちを変えた。輝くように明るくなるかと思うと、黒ずんで陰気になり、生気のない目に土気色のまぶたがかぶさるかと思うと、ふたたびまぶたをひらいては、燃えるような視線をきらめかせた。それは女にもなり、男にもなった。少女にも幼女にもなったし、動物にもなった。ぼやけてしみのようになるかと思えば、また大きく、あざやかになったりした。しまいにぼくは、強い内心の叫びに従って目をとじた。ところがこうして自分の内側から見ると、この画像は、いままでよりももっと強くたくましく思われた。ぼくはその前にひざまずこうとしたが、それがすっかりぼくの内部におさまっているため、まるで完全にぼく自身になりきったかのようで、もうぼくから切り離すことはできなかった。
そのときのことだ。春の嵐の立てるような暗い重苦しいとどろきが聞えてきて、ぼくは、不安と体験の言うに言われぬ新しい感情に、身をふるわせたものだ。星がいくつか目の前で、ぱっと光っては消えた。すっかり忘れ去られた幼年時代の最初のころの思い出、それどころか生まれる前の、生成《せいせい》の初期の段階にまでさかのぼる記憶が、押しあいへしあいしながら、ぼくのそばを流れていった。しかしぼくの全生涯を、もっとも秘密の部分にいたるまでくりかえしてみせるように思われたそれらの追憶は、きのうときょうだけでは終わらず、引きつづいて未来までもうつし出し、ぼくをきょうという時点から連れ出して、新しい生活形式のなかへ導きいれた。この新しい生活形式の映像はものすごく明るくて、目もくらむほどであったが、あとになってみると、そのうちのどれひとつとして、はっきり思いだせるものはなかった。
夜中に深い眠りから目をさますと、着がえもせずに、ななめにベッドの上に寝ていた。明りをつけてみた。何か大事なことを思いださなければという気がしたが、しかし数時間前のことも、もうすっかり忘れていた。ぼくは明りをつけた。すると記憶がしだいによみがえってきた。画像をさがしてみたが、もう壁にはかかってなく、テーブルの上にもなかった。すると、あの絵を自分で燃してしまったのではないかと、ぼんやり覚えているような気がしてきた。それともあの絵を両手に持ったまま燃やして、その灰を食べてしまったというのは、夢のなかのことだったのだろうか。
大きな、ずきずきするような不安にかりたてられてぼくは、帽子をかぶると、むりやり連れ出されたように、家と小路の間を抜け、嵐に吹きまくられる思いで、大道りや広場をいくつか走り抜けると、あの友だちの教会の前でじっと耳をすまし、暗い衝動にうながされて、何をさがすともわからぬままに、ひたすらさがし求めた。
郊外の娼家の立ちならぶあたりにさしかかった。ここには、あちこちにまだ灯《ひ》があった。もっと先のほうには、新築中の家屋や煉瓦の山があって、その一部は灰色の雪でおおわれていた。見知らぬ圧力に負けた夢遊病者のように、この砂漠をさまよい歩くうちに、ふと、故郷の町の新築中の家のことが胸に浮かんできた。昔ぼくをいじめぬいたクローマーが、はじめて話しあいをつけるために、ぼくを引っぱりこんだあの新築中の家だ。あれと似たような家が灰色の夜につつまれて、いまぼくの目の前に横たわり、ドアの黒い穴がぼくに口をあけていた。何かに引きずりこまれるように、ぼくはなかにはいった。逃げ出そうとしたが、砂とがらくたに足を取られた。衝動のほうが強かったので、そのままなかへはいらずにはいられなかった。
板ぎれやこわれた煉瓦をふみ越えて、ぼくはよろよろとその殺風景な部屋に足をふみ入れた。しめっぽい冷たさと石のにおいがよどんでいた。砂が盛りあげてあって、そこだけが白っぽい灰色の山になっていたが、ほかは一面の闇であった。
すると、びっくりしたような声がぼくの名を呼んだ。
「こりゃ驚いたな。ジンクレール、どこからやってきたんだい?」
すぐそばの闇のなかからひとりの人間が、小柄な、やせこけた少年が、まるで幽霊のように身を起こした。そしてぼくは、髪の毛がさかだつほどおじけながらも、学友のクナウアーだなとわかった。
「どうやってここへ来たんだい?」と彼は、興奮のあまりしどろもどろになって聞いてきた。「どうしてぼくを見つけることができたの?」
ぼくにはわけがわからなかった。
「君をさがしてたんじゃないんだ」とぼくはぼんやりした気持ちで言った。口をきくのもおっくうだった。一語一語が、生気のない、重たい、氷ついたような唇から、やっとのことで出てきた。
クナウアーはぼくの顔をじっと見つめた。
「さがしてたんじゃないって?」
「そうだよ。何かに引きつけられて来てしまったんだ。君、ぼくの名を呼んだかい? 呼んだに違いないね。こんなところで、何してるんだい? 夜中じゃないか」
クナウアーは細い両腕をぴくぴく動かせながら、ぼくをだきかかえた。
「うん、夜中だ。もうじき朝になるはずだ。おお、ジンクレール、ぼくを忘れずにいてくれたとは! じゃ君、ぼくをゆるしてくれるかい?」
「だって、何をさ」
「ああ、ぼくはほんとにいやなやつだったなあ」
このときになってはじめてぼくは、ぼくたちの対話のことを思い出した。あれは四、五日前のことだったろうか。あのとき以来、一生涯がすぎ去ってしまったように思えた。ところがそのとき突然、何もかもわかった。ぼくたちの間で起こったことばかりではなく、なぜぼくがこんなところへ来たのか、またクナウアーがこんな町はずれで、何をするつもりだったのか、ということまでも。
「じゃ君は、自殺するつもりだったんだね、クナウアー」
彼は寒さと不安のあまり、身をふるわせた。
「うん、そのつもりだった。できたかどうか、それはわからないが、ぼくは待つつもりだったんだ、朝になるまでね」
ぼくは彼を外へ引っぱりだした。
朝の最初の、水平に射してくる光のしまが、いかにも寒々と、また味気なく、灰色の大気のなかで、ほのかな光を放っていた。
ぼくは少しばかりのところを、この少年の腕を取って歩いた。ぼくの胸のなかから、こういう声が聞こえてきた。
「さあ、これから君、うちへ帰るんだ。そしてだれにも何も言うんじゃないよ。君はまちがった道を歩いていたんだ。まちがった道をね。ぼくたちだって、君が言うみたいなブタなんかじゃないんだ。ぼくたちは人間なんだ。ぼくたちは神々を作って、それを相手に戦うんだ。そうすれば神々はぼくたちを祝福してくれるんだ」
ぼくたちは黙って歩きつづけたあと、別れた。寮に帰ったときには、もう夜が明けていた。
S市のあの時期からその後ぼくの受けた最上のものは、オルガンのそばで、あるいは暖炉の火を前にして、ピストーリウスとともにすごした幾時間かであった。ぼくたちは、アブラクサスについてのギリシア語の文献をいっしょに読んだ。また彼がヴェーダ〔バラモン教の聖典〕の翻訳を幾度か読んでくれたり、神聖な『オーム』〔バラモン教の神聖な祈り言葉〕の唱え方を教えてくれたりした。とはいうものの、ぼくを内面的に成長させたものは、こういう博識ではなく、むしろそれとは反対のものだった。ぼくを喜ばせてくれたものは、ぼく自身のなかに前進のあとを認めたことであり、ぼく自身の夢や考えや予感に対する自信が増したことであり、ぼくが内に秘めている力について、知識がふえたことであった。
ピストーリウスとは、ぼくはあらゆる方法で心を通じあった。ただ一心に彼のことを考えさえすれば、かならず自分で来てくれるか、さもなければ伝言がとどくと思ってよかった。デーミアンの場合とまったく同様に、彼自身がその場にいなくても、彼に何かをたずねることができた。つまりピストーリウスの姿を頭にはっきり描いて、ぼくの質問を強力な思考内容として、相手に突きつけさえすればよかった。そうすると、この質問にふきこまれたすべての精神力が、返事になって、ぼくの心のなかへもどってくるのである。ただしその場合ぼくが頭に描くのは、ピストーリウスという人物でもなければ、マックス・デーミアンという人物でもなく、それはぼくが夢に見て、絵にかいたあの像、ぼくの魔神の両性をそなえた幻像で、ぼくはこの幻像に呼びかけずにはいられなかったのである。それはもうこのころになると、ぼくの夢のなかや紙にかかれた絵のなかに生きていただけではなく、ぼくのなかにも、理想像として、高められたぼく自身の姿として生きていたのである。
自殺未遂者クナウアーがぼくと結ぶようになった関係は、一種異様なもので、ときとすると、こっけいなものがあった。ぼくが何かに引きずられて彼のところへ行かされたあの晩からというもの、彼は忠実な召使いか犬のようにぼくをしたい、自分の生活とぼくの生活を結びつけようとして、盲目的にぼくのあとを追うようになった。実に突拍子もない質問やら願いごとを持ちこんだり、精霊が見たいとか、カバラ〔ユダヤの神秘説〕を習いたいとか言った。そしてぼくが、そんなことは全然わからないのだと、きっぱり言ってやっても、信じてくれなかった。彼は、ぼくにはどんな力もあると思いこんでいたのだ。
だが不思議なことに、彼がたびたび奇妙なばかばかしい質問を持ちこんでくるときには、ちょうどぼくのほうでも、何か解決すべき難問をかかえているときであり、クナウアーの気まぐれな思いつきや切実な願いごとが、しばしばぼくの難問を解決する糸口やきっかけになったことである。相手になるのがめんどうになって、高飛車に追いかえしたことも度々あったが、それでもやはりこう感じた。クナウアーだって何かに導かれて、ぼくのところへ来たのだ。ぼくが彼に与えたものは、彼からも倍になって、ぼくのなかにもどってくる。クナウアーだって、ぼくには指導者なんだ、いや、少なくともひとつの道なんだと。彼がぼくのところへ持ちこんできたとんでもない本や書きものは――彼はそこに救いを求めていたのだが――ぼくがその瞬間には思いもつかなかったことを、ぼくに教えてくれたのである。
このクナウアーは、その後いつとはなしに、ぼくの道から姿を消してしまった。彼とは対決をせまられる必要もなかったのだ。ところがピストーリウスとはどうやら、その必要があった。この友だちといっしょにぼくはS市の学校時代の終りごろ、またある異様なことを体験したのである。
おとなしい人でも生涯に一度やそこいら、敬神とか感謝とかいうような美徳と衝突することは、まず避けられないであろう。だれでも一度は、父親や先生たちから離れるような行動をとらざるをえないし、だれでも孤独のつらさをいくらか味わわざるをえないものだ。もっともたいていの人は、ほとんどそれに我慢できなくなって、すぐにまたもとのところへもぐりこんでしまうけれども。
――ぼくの両親と彼らの世界、ぼくの楽しかった幼年時代の『明るい』世界から、ぼくは激しい闘争をして別れてきたわけではなく、ゆっくりと、ほとんど目だたないくらいに、しだいに離れていき、縁遠くなっていったのである。ぼくはそれをすまないと思った。だから帰省《きせい》するたびに、そのことでにがい思いをするときがよくあった。しかしそれは胸をつくほどのものではなく、辛抱できるものだった。
しかしぼくたちが習慣からではなく、胸の底から出た衝動にかられて愛と畏敬をささげたような場合、つまりほんとうの自分の気持ちから弟子となり友となった場合、そういう場合には――ぼくたちの心の大きな流れが、いままで愛してきたものから離れようとしているのにふと気づいたりすると、それは、つらい恐ろしい瞬間になる。そういうときには、友だちや先生をしりぞける考えのひとつひとつが、毒矢となってぼくたち自身の胸を突きさすのであり、自分を守るために相手に加える一撃一撃が、自分自身の顔をうつことになる。自分ではひとかどの道徳を胸に持っているつもりでも『裏切り』とか『恩知らず』とかいう名前が、恥さらしな呼びかけや烙印《らくいん》のように、目の前に浮かびあがってくる。そうなるとおびえきった心は、幼年時代の美徳というなつかしい谷間へ、おどおどと逃げもどってしまい、これほどまでに絶縁が行なわれねばならぬとか、あれほどのきずなでさえ断ちきられねばならぬとかいうことが、信じられなくなる。
時とともに、ぼくのなかのある感情が、友人ピストーリウスをこれほど無条件に指導者と仰ぐことに、少しずつ反抗しはじめていた。少年時代のもっとも重要な数か月の間に、ぼくが体験したことは、ピストーリウスの友情であり、その忠告となぐさめであり、彼を身近に感じることであった。彼のなかから、神がぼくに語りかけたのである。ぼくの夢も彼の口を通じて、解明され判断もされて、ぼくのところへもどってきたのだった。ピストーリウスはぼくに、ぼく自身への勇気をさずけてくれたのだ――それなのにぼくは、彼に対する反感がだんだん強くなっていくのを感じた。彼の言うことのなかには、あまりにも教訓めいたことが多すぎた。彼には、ぼくのほんの一部分しかわかっちゃいないのだ、という気がした。
ぼくたちの間には、言い争いもけんかもなく、絶交はもとより、話の途中でそっぽを向いたことさえなかった。ぼくはただ彼にたったひとこと、ふつうならべつに悪気もない言葉を、言っただけだった。ところがちょうど間がわるく、その瞬間に、ぼくたちの間のある幻想が色美しい破片となって、くだけ散ってしまったのである。
しばらく前から、そんなことになるのではないかという予感がして、気が重かったが、それがはっきりした感情になったのは、ある日曜日、ピストーリウスの古ぼけた書斎でのことだった。ぼくたちは火を前にして、床に寝そべっていた。そして彼は、秘法やら宗教形態のことを話していた。彼はこういうものを研究したり、考察したり、その将来の可能性に強い関心をいだいたりしていたのである。しかしそんなものはみな、ぼくの目からみれば、死活問題というよりはむしろ、ただ珍しくておもしろいだけのことで、そこには博識のくさみが感じられ、昔の世界の残骸のなかを苦労してさがしまわる気配)が感じられた。すると突然ぼくは、こういう種類のことすべてに対して、神話崇拝とか因習的な信仰形式のモザイク遊びに対して、反感を覚えたのである。
「ピストーリウス」とぼくはだしぬけに、われながら意外と思われるほど恐ろしい勢いで、悪意をほとばしらせながら言った。
「いつかみたいにまた夢の話をしてくれないかなあ。あなたがゆうべ見たほんとうの夢の話をね。いまあなたが話しているようなことは、まったく――とてつもないくらい古くさいんでね」
ぼくがこんな口のきき方をするのを、彼は一度だって聞いたことはなかった。そしてぼく自身、言い終わったとたん、彼を目がけてはなち彼の心臓に命中した矢は、彼自身の武器庫からの借りものだということを、電光のようにすばやく感じて、恥ずかしくもあり、驚きもした。――自分は、ときおり彼が皮肉な調子で自嘲する言葉を覚えていて、それをいま意地悪く、もっとするどい形で、彼に投げつけたのだと感じた。
彼もたちまちそれを感じた。そしてすぐ口をつぐんでしまった。ぼくは心に不安を覚えながら、彼をじっと見つめた。そして彼の顔がものすごく青ざめていくのを見た。
長い重苦しい沈黙のあとで、彼は火に新しいたき木をのせ、静かにこう言った。
「まったく君の言うとおりだよ、ジンクレール。君は頭のいい人だ。もう古くさい話なんかで、君を悩ましたりしないよ」
とても落ちついた話ぶりだったが、ぼくには、傷ついた心の痛みがはっきりと読み取れた。ぼくはなんということをしてしまったのだろう。
ぼくはいまにも涙がこぼれそうになった。心をこめて彼のほうに向きなおり、ゆるしを乞い、ぼくの愛情、ぼくの心からの感謝の気持ちを、はっきり伝えようとした。感動的な言葉が頭に浮かんできた――でも、口に出しては言えなかった。ぼくは寝ころがったまま、じっと火を見つめ、口をきかなかった。彼もだまっていた。ぼくたちがこうして寝そべっているうちに、火は弱まってきて、燃えおちた。炎がぼーっと消えてゆくたびに、ぼくはもう二度と帰ってくることのない、美しい、近しいものが、燃えつき飛び去ってしまう思いがした。
「ぼくの言ったことを誤解してるんじゃないかと思いますが」とぼくは、しまいにすっかりしょげて、かさかさしたしゃがれ声で言った。このばかげた無意味な言葉は、新聞小説でも朗読するように、ぼくの唇から、まるで機械のように出てきた。
「ちっとも誤解なんかしてないさ」とピストーリウスは、小さな声で言った。「君の言うほうが正しいんだもの」彼は間をおいてから、ゆっくりと言葉をつづけた。
「およそひとりの人間が、ほかの人間に対して正しいと認められるかぎりではね」
「違う、違う」とぼくの心のなかで、叫び声がした。「ぼくがまちがっているんだ」――でも、口に出してはひとことも言えなかった。ぼくには、あの小さなたったひとつの言葉によって、彼の本質的な弱点、彼の悩みと傷口を指摘したことがわかっていた。ぼくは、相手が自信の持てない点にふれてしまったのだ。彼の理想は『古くさい』ものだった。彼は過去を振りかえり求める人であり、ロマン主義者なのだ。するとぼくは突然しみじみと感じた。ピストーリウスは、ぼくのためになっていてくれたものに、彼自身ではなれなかったのだ、また、ぼくに与えてくれたものを、彼自身には与えられなかったのだ、と。ピストーリウスはぼくを導いてひとつの道を進んできたのだが、その道は、導き手である彼まで乗りこえて、しかも彼を見すてなければならない道だったのだ。
どうしてあんな言葉が出てくるのか、まったくわからない。ぼくには決して悪気はなかったし、破局を招くなんて夢にも思わなかった。ぼくは、あることを口に出したけれど、口に出した瞬間のぼくには、何を口に出したのか全然わからなかったのだ。ちょっとばかり気のきいた、いくらか悪意のある小さな思いつきに従っただけなのに、それが運命になってしまったのである。小さな不注意な無礼をはたらいただけなのに、それが彼にとっては、ひとつの審判になってしまったのである。
ああ、あのときのぼくは、ピストーリウスが腹を立ててくれればいい、弁明してくれればいい、ぼくをどなりつけてくれればいいのにと、どんなにか望んだことだろう。彼は何ひとつ、そんなことはしてくれなかった。そういうことはみんな、ぼくが心のなかで、自分でしなければならなかった。彼にもしそういうことができたら、微笑したことだろう。それができなかったのを見れば、彼がぼくの言葉でどんなに痛手を受けたかが、いちばんはっきりわかるのだ。
そしてピストーリウスは、生意気で恩知らずの弟子であるぼくの一撃を、あれほどおとなしく甘受し、黙ってぼくの言いぶんを認め、ぼくの言葉を運命として承認したことで、ぼくに自己嫌悪の気持ちをおこさせ、ぼくの軽挙《けいきょ》を千倍にも大きくしたのである。こぶしを振りあげたときのぼくは、相手が強くて戦闘力のある人だと思っていた――ところがそれは、おとなしくて我慢づよい人であった。何も言わずに降参してしまう無抵抗の人であった。
長い間ぼくたちは、燃えつきようとする火を前にして寝そべったままでいたが、その火が描きだす形のひとつひとつ、灰になってねじられてゆく棒のひとつひとつが、ぼくに、幸福で楽しい、ゆたかな幾ときを思い起こさせながら、ピストーリウスから受けた恩義《おんぎ》の負担を、しだいに大きく積み重ねていった。しまいにぼくはもう我慢しきれなくなった。ぼくは立ちあがるとその場を去った。長いことドアの前に、さらにそとに出て家の前に立ちつくしていた。ひょっとしたら彼が出てきて、あとを追ってくるのではないかと心待ちにしながら。それからぼくは歩きだした。何時間も何時間もの間、町や郊外、公園や森を、晩になるまで歩きまわった。そしてこの時はじめてぼくは、自分の額にカインのしるしを感じたのである。
ほんの少しずつではあるが、落ちついて考えられるようになってきた。ぼくの考えはどれもこれも、自分を告発し、ピストーリウスを弁護するという意図を持っていた。ところがどれもこれも、逆の結果に終わった。ぼくは幾度となく、軽率だった自分の言葉を後悔し、取り消そうと心に決めたのだが――しかしあの言葉は、やはりうそではなかったのだ。いまにしてはじめてぼくは、ピストーリウスを理解し、ピストーリウスの夢の全貌を目の前に築きあげることができた。その夢とは、司祭になること、新しい宗教を公布すること、向上と愛と崇拝の新しい形式を与え、新しい象徴をうちたてることであった。しかしこれは、彼の力でできることではなく、また彼の任務でもなかった。彼はあまりにもぬくぬくと過去に安住し、昔のことをあまりにもくわしく知りすぎている。エジプトのこと、インドのこと、ミートラス〔ペルシャの太陽神〕のこと、アブラクサスのことを、あまりにもいろいろと知りすぎている。彼の愛は、これまで地球上に存在したことのある映像に、縛りつけられている。そのくせ彼は、新しいものには、古いものとは違った新しさがなければならないし、新しいものはかならず新鮮な土壌からわき出るはずで、収集品や図書館のなかから汲みとられてはならないということを、心の奥では百も承知しているのだ。彼の任務とは、おそらく、ぼくにもくれたように、自分自身を目ざしている人々に手をかすことであろう。人々に、いままでなかったもの、新しい神々を与えるのは、彼の任務ではなかったのだ。
このとき突然激しい炎のように、次のような悟りがぼくの心をじりじりと焼いた――だれにも何かしら『任務』というものがあるが、自分でえらんだり、限定したり、すき勝手に管理したりしていいような任務は、だれのためにも存在しない。新しい神々をほしがるのはまちがいだ。世界に何かを与えようとするのは、とんでもないまちがいだ。目ざめた人間にとっては、自分自身をさがし求めること、自分の心がまえを固めること、どこへ通じていようとも気にしないで、自分自身の道を手さぐりで進んで行くこと、これ以外には絶対に、どんな義務もあるわけはないのだ。――こう悟ってぼくは、深い感動を覚えた。そうしてこの悟りこそぼくにとって、この体験からえた成果であった。
これまでのぼくは、未来の映像をもてあそび、自分に振り向けられそうな役割を、あれこれ夢想することが多かった。あるいは詩人として、または予言者として、または画家として、そのほかまたなんらかのものとして。こんなものはすべてナンセンスだ。ぼくが存在しているのは、詩を作るためでも、説教をするためでも、絵をかくためでもない。ぼくにしろ、ほかの人間にしろ、そんなことのために存在しているのではない。そんなことはすべて、ついでに出てきただけのことだ。だれにとってもほんとうの天職はただひとつ、自分自身に到達することだけだ。その人が詩人として、あるいはきちがいとして、予言者として、あるいは犯罪者として世を終ろうと――それは本人には関係のないことで、それどころか、結局はどうでもいいことだ。彼のなすべきことは、任意な運命ではなくて、自分だけの独自の運命を見つけだし、この運命を自分のなかで百パーセント、とことんまで生き抜いてみることだ。これ以外のことはすべて、中途半端なことであり、逃げようという試みであり、大衆の理想のなかへ退却することだ。うまく調子を合わせることであり、自己の内心をおそれることだ。
恐ろしくもまた神聖な姿で、この新しい映像がぼくの目の前に浮かんできた。それはこれまでに幾度となく予感したものであり、おそらくはすでに度々口に出したものであろうが、しかしいまはじめて体験された映像であった。ぼくは自然の手で投げ出されたものだ。新しいものへ向かってか、あるいは無に向かってか、とにかく不確実なものへと投げ出されたのであって、この原初の深淵からの一投《いっとう》を思いきり働かせ、この一投の意志を自己のうちに感じ、それをすべて自分の意志にしてしまうこと、これだけがぼくの天職なのだ。これだけが!
ぼくはこれまで多くの孤独を味わってきた。いまぼくは、もっと深い孤独があること、そしてこの孤独からはのがれられないことを、おぼろげながら感じた。
ぼくはピストーリウスとの仲を、もとへもどしてみようとは思わなかった。ぼくたちはやはり友だちではあったが、その間柄は変わってしまった。たった一度だけだが、ぼくたちはこの件について話したことがある。といっても実は、話したのは彼だけであった。彼はこう言った。
「ぼくは牧師になるのが望みだが、それは君も知ってるね。できれば、ぼくたちがいろいろと想像している、あの新しい宗教の牧師になりたくて、仕方がないんだよ。絶対にだめだろうけれどね。――ぼくにはわかっているし、はっきり認めたわけではないが、もう前からわかってたのさ。ぼくはきっと別の聖職につくことになるだろう。まあオルガンをひくとか、または何かほかの仕方でね。でもぼくは、何か美しく神聖だなと思われるものに、しじゅう取りまかれていないとだめなんだ。オルガン音楽だとか神秘だとか、象徴だとか神話だとかいうものにね。ぼくにはこういうものが必要だし、またこういうものから離れたくないんだ。――こいつがぼくの弱点さ。だってね、ぼくにはときどきわかることがあるんだけれど、ねえ、ジンクレール、ときたまわかるんだけれど、つまりね、こんな望みは持ってはいかん、そんなのはぜいたくだ、弱さだ、ということがね。もしぼくが、しごくあっさりと、なんにも文句なんか言わないで運命の命じるままになるとしたら、そのほうが偉いし、また正しいとも思うよ。だけどそんなことはできない。これだけがぼくにできないことなんだ。君ならたぶんいつかはできるだろうが、これはむずかしいことだ。この世のなかでほんとうにむずかしいことといえば、これだけだよ。ねえ君。ぼくはよくそれを空想したものだ。だが、ぼくにはできない。こわくてぞっとしてしまうんだ。それほどまでに、まるはだかになって、ひとりぼっちでいるなんて、ぼくにはできないのだ。ぼくだってやはりあわれな弱虫な犬なんだな。あたたかい場所や餌も少しは欲しいし、ときには仲間の近くにいたいほうなんだ。ほんとうに自分の運命以外には何も望まない人なら、もはや仲間なんていうものもいなくなるし、完全なひとりぼっちで、まわりにあるのは冷たい宇宙だけということになる。いいかい、ゲッセマネの園のイエスがそれだったのさ。進んで十字架にかけられた殉教者は、何人もいたさ。しかしそういう殉教者だって、英雄じゃなかったし、解放されてはいなかったのさ。こういう人たちも、自分たちが慣れ親しんでいるものを欲しがった。お手本や理想を持っていたのだ。ところが、運命のほかには何も欲しがらないような人には、もうお手本も理想もない。いとしいものや慰めになるようなものは、何ひとつ持ってないんだ。そしてほんとうのことを言えば、こういう道を歩かなければならないわけだ。むろんぼくや君のような人間は、とても孤独には違いないけれど、それでもぼくたちはまだ、おたがいに友だち同士だ。ほかの連中とは違っているんだ、とか、反抗したり並みはずれなことを望んだりする秘かな楽しみもある。そんなことだって、もしだれかが、どこまでも例の道を歩くつもりなら、あきらめなければならないんだ。そういう人は革命家とかお手本とか、殉教者とかになってやろうという気も起こしてはいけないのだ。いちいち考えきれないくらいだよ――」
そうだ、いちいち考えきれないことだった。でもそれを夢想し、予感し、おぼろげながら感じることはできた。ほんとうに静かなひとときを見い出すたびに、ぼくは二、三度、それらしいものを感じたことがあった。そういうときぼくは、自分の心のなかに目を向けて、ぼくの運命の像の、じっとひらいたまま動かない目をのぞきこんだものだ。その目は英知にみちていることもあれば、狂気にあふれていることもあり、愛とか深い悪意をほとばしらせていることもあったが、そんなことはどうでもよかった。そのうちのどれか一つをえらぶことも、望むこともゆるされなかったからだ。自分だけしか、自分の運命だけしか、望んではならなかった。ここまでくるのにピストーリウスは、ある道のりだけ、ぼくの案内役をつとめてくれたわけだ。
その数日間ぼくはまるで盲のように、あちこちうろつきまわった。嵐が心のなかで吹きすさんでいた。一歩一歩が危険であった。目の前には、いままでの道をひとつ残らずのみこんでいる奈落の暗闇しか見えなかった。そして心のなかには、デーミアンによく似た指導者、そしてその目のなかにぼくの運命をはらんでいる指導者の姿が見えた。
ぼくは一枚の紙きれにこう書いた。
「ある指導者がぼくを見すてた。ぼくは暗闇のまっただなかにいる。ひとりでは一歩も歩けない。助けてくれ!」
これはデーミアンに送るつもりだった。だがやめにした。そうしようと思うたびに、なんだかばかくさくて、無意味なことのように思われたからだ。しかしぼくは、このささやかな祈りの言葉を暗記していて、たびたび自分の心に唱えてみせたものだ。この祈りはどんなときでも、ぼくの道づれになった。ぼくには、祈りとは何であるかが、ぼんやりわかりかけてきたのだ。
ぼくの高校時代は終った。父が考えてくれたことだが、ぼくは休暇旅行をすることになっており、そのあとで大学に進むはずだった。どの学部へはいるのかは、わからなかった。一学期間だけ哲学をやることがゆるされた。しかしほかに何をやることになっても、ぼくは同じように満足したことだろう。
[#改ページ]
第七章 エーヴァ夫人
休暇中に一度ぼくは、もう何年も前、マックス・デーミアンが母親といっしょに住んでいた家へ行ってみた。老婦人がひとり庭を散歩していた。その人に話しかけてみると、その婦人がこの家の持ち主だとわかった。ぼくはデーミアンの家族のことを聞いてみた。彼女はよく覚えていたが、それでもいまどこに住んでいるかまでは知らなかった。彼女はぼくの関心を見てとると、ぼくを家のなかへ招じ入れ、皮表紙のアルバムをさがしだしてきて、デーミアンの母親の写真を見せてくれた。ぼくはもうほとんど彼女の記憶はなかったが、いま、その小さな写真を見たとき、ぼくの心臓の鼓動はとまった。
――これこそぼくが、夢のなかで見た像だったのである。息子に似ていて、大柄で、ほとんど男性かと見まごうばかりの女性像、母親らしい表情と同時に、きびしい表情と深い情熱を秘めた面ざしで、美しくて誘惑的な、美しくて近よりにくい、魔神であるとともに母親でもあり、運命であるとともに恋人でもあるあの像は、彼女だったのだ。あれは彼女だったのである。
このようにしてぼくの夢に見た像が、この地上に生きていることを知ったとき、荒々しい奇蹟のようなものが、ぼくの全身をつらぬく思いがした。ああいう顔をした女性、ぼくの運命と同じ表情の女性が、現実にいるのだ。どこにいるのかしら、どこに?――しかもそれが、デーミアンの母なのだ。
その後まもなくしてぼくは旅に出た。奇妙な旅だった。ぼくはあわただしく町から町へと、思いつくままに、たえずあの女性を求めて旅をつづけた。そのうちに、彼女を思い出させるような女性、彼女の面影をしのばせるような女性、彼女によく似た女性ばかりが目につき、ぼくはその影を慕って、もつれあった夢のなかのように見知らぬ町々の小路《こうじ》を抜け、駅を抜けて列車のなかへさそいこまれる日もあれば、こうしてさがしまわるのがどんなに無駄であるかを思い知らされる日もあった。そんな日には何もしないで、どこかの公園か、ホテルの庭、あるいは待合室などに腰をおろしたまま、自分の心をじっと見つめては、胸のなかのあの像に、いのちを吹きこもうとつとめた。
しかしその像もいまではおどおどして、逃げ腰になっていた。ぼくは少しも眠れなかった。ただ列車の窓から初めて見る風景をながめながら、ほんの小半時《こはんとき》、うとうとするだけだった。あるときチューリヒで、ある女にあとをつけられた。きれいだが、少しずうずうしいところのある女だった。ぼくは相手が空気ででもあるように考えて、ほとんど見向きもしないで、歩きつづけた。たとえ一時間でもほかの女に興味を持つくらいなら、その場で死んでしまったほうがましだ、と思ったからだ。
ぼくは自分の運命に引きよせられるのを感じた。願いがかなえられるのも間近だと感じた。それに対して何ひとつ手だしのできないもどかしさに、気も狂いそうだった。あるとき、たしかインスブルック〔オーストリアのチロールの町〕だったと思うが、駅で、ちょうど発車したばかりの列車の窓に、彼女を思わせる姿を見かけた。その後の数日間、ぼくはみじめだった。ところが突然、その姿がふたたび夜の夢に現われた。ぼくは彼女をさがしまわることのばからしさを恥じ、味気ない気持ちで目をさました。そしてそのまま、まっすぐ家へもどってきた。
それから数週間後ぼくはH大学に入学した。すべてが幻滅だった。ぼくが聞いた哲学史の講義は、若い大学生たちがやっていることとまったく同じで、内容もなければ特色もなかった。万事が型にはまっていて、だれもが同じことをやっていた。子どもじみた顔をした大学生たちののぼせ気味の陽気さは、実に情けなくなるほど空虚で、既製品みたいであった。
だがぼくは自由だった。一日じゅうがぼくのものだった。ぼくは町はずれの古ぼけた家のなかで静かに快適に暮らしていた。そしてぼくの机の上には、数冊のニーチェがおいてあった。ぼくはニーチェとともに生き、彼の魂の孤独を感じ、彼をたえず駆りたててやまなかった運命をかぎつけ、彼とともに悩んだ。そして、これほど頑迷に自分の道を歩きとおした人間が、この世にいたのかと思うと、うれしくて胸がわくわくした。
ある晩おそく、秋風に吹かれながら町をぶらついていると、ビヤホールのなかから学生組合の連中の歌声が聞えてきた。あけっぱなしの窓から、たばこの煙がもくもくとわき出ていた。歌声は盛りあがるようにかん高く、強くひびいていたが、そのくせ、のびのびしたところがなく、一本調子で精彩がなかった。
ぼくは、とある町かどに立ったまま、耳をかたむけていた。二軒の酒場から、青年たちの型どおり仕込まれた陽気なざわめきが、夜の闇にひびいてきた。どちらを見ても集団があり、どちらを見ても会合があった。どちらを見ても運命の放棄と、あたたかい大衆の身辺への逃避があった。
ぼくのうしろを、ふたりの男がゆっくりと通りすぎて行った。ふたりの会話の断片が、ふとぼくの耳に聞こえた。
「これじゃ黒人部落の青年寮そっくりじゃあないですか」とひとりが言った。
「何もかもそっくりですよ。入れ墨《ずみ》まではやっているんですからねえ。これが若きヨーロッパというやつですよ」
その声には、奇妙に何かを思いださせるものがあり――聞き覚えがあった。ぼくはふたりのあとについて、暗い小路を歩いた。そのひとりは小柄で品のよい日本人であった。街灯のほかげで彼の黄色い微笑した顔が、ぱっと照らし出されるのが見えた。
そのとき相手の男が、また口をきった。
「ところで、お国の日本でも事情は同じでしょうね。大衆のあとを追わないような人は、どこへ行ってもわずかなもんですよ。ここにもいくらかはいますがね」
一語一語が、うれしい驚きで、ぼくの全身にしみわたっていった。ぼくはこの話し手を知っていた。それはデーミアンだったのである。
風の強い夜だったが、ぼくは彼とその日本人のあとについて、暗い小路を幾つか通り抜けながら、ふたりの対話に耳をすまし、デーミアンの声のひびきをしみじみ味わっていた。その声には昔の調子があった。昔ながらの見事な自信と落ちつきがあった。そしてぼくを支配する力があった。これで何もかもよかった。ぼくはデーミアンを見つけ出したのだ。
町はずれの通りの端までくると、その日本人は別れを告げて、とある表口の鍵をあけた。デーミアンは、もと来た道を引きかえした。ぼくは立ちどまって、道のまんなかで彼を待ち受けた。ぼくは心をときめかせながら、デーミアンが胸を張って、はずんだ足どりで、こちらへ歩いてくるのを見た。彼は茶色のレインコートを着て、細身のステッキを小脇にかかえていた。彼は整然とした足どりをくずさずに、ぼくのすぐ前までくると、帽子をぬいで、口もとのきりっとした、広い額に独特の明るさのただよう、昔ながらの明るい顔を見せた
「デーミアン」と、ぼくは叫んだ。
彼はぼくに手をさしのべてきた。
「やっぱり、やってきたね、ジンクレール。待っていたんだよ」
「ぼくがこの土地にいるのを、知ってたのかい?」
「そういうわけじゃないけど、かならずそうなるだろうと思っていたよ。君に会ったのは今晩がはじめてだけど、君はずっとぼくたちのあとをつけていたじゃないか」
「じゃ、ぼくだってこと、すぐわかったんだね」
「もちろんだよ。なるほど君は変わったけど、でも君には、例のしるしがついてるからね」
「しるしって、何のしるしだい?」
「ぼくたちが昔、カインのしるしって呼んでたあれさ。まだ覚えてるかな。それがぼくたちのしるしだよ。君にはいつもこのしるしがついていた。だからこそぼくは、君の友だちになったんだよ。だけどいま見ると、それが一段とはっきりしてきたね」
「自分じゃわからなかったよ。それとも、ほんとうはわかっていたのかな。前にいつか君の似顔をかいたことがあるんだけど、デーミアン、それがぼくにも似ていたんで、びっくりしたよ。あれがしるしだったのかな」
「そうだとも。うれしいね、こうして君が来てくれてさ。ぼくの母も喜ぶだろう」
ぼくはぎくりとした。
「君のおかあさんだって? この土地にいるのかい? おかあさんはぼくのことなど、全然知らないじゃないか」
「いいや、君のことは知ってるんだ。君がだれだか、ぼくから言わなくたって、母には見わけがつくだろう。――君、長いこと音沙汰なしだったね」
「いや、なんどか手紙を書こうと思ったんだけど、そうはいかなかったのさ。しばらく前からね、もうじきかならず君にめぐり会えるという気がしてたんだよ。毎日それを待ってたわけさ」
彼は、ぼくの腕をくんで、いっしょに歩きだした。落ちついた気分が彼からにじみ出てきて、ぼくの胸のなかへしみこんできた。やがてぼくたちは、昔どおりしゃべりあった。学校時代のこと、堅信礼の授業のこと、それからあのころ、休暇中に顔をあわせて気まずい思いをしたことも語りあった。――ただぼくたちの間のいちばん古い、またいちばん深い因縁、あのフランツ・クローマーの一件だけは、このときも話題にのぼらなかった。
いつのまにかぼくたちは、奇妙な、胸さわぎのするような話に夢中になっていた。つまりデーミアンと日本人とのあの対話のことを思いだしながら、学生生活の話をしているうちに、それとはずっとかけ離れているように見える別の話に移っていたのである。けれどもそれはデーミアンの言葉で語られると、緊密に結びついてひとつにまとまるのであった。
彼はヨーロッパの精神について語り、時代の特徴について語った。いたるところに連合があり、大衆の組織があるが、しかし自由と愛はどこにもない、と彼は言うのだ。大学生の組合や合唱団から国家にいたるまで、これらの団体はすべて強制されてできたものであり、不安や恐怖やとまどいから生まれた共同体であって、中身は古く、くさっていて、いまや崩壊寸前である、というのだ。
「団体というのは」とデーミアンは言った。
「結構なものだよ。しかし現在いたるところで咲き乱れているようなものは、ちっとも結構じゃないな。団体とは個人同士がたがいに理解しあうことから新しく生まれてくるだろうし、しばらくの間は世界を改革することもあるだろうが、現在そのへんにころがっているような団体というものは、ただの衆愚《しゅうぐ》の集まりにすぎない。人間はおたがいに相手がこわいものだから、おたがいに寄り集まるわけだ。――紳士は紳士同士、労働者は労働者同士、学者は学者同士でね。じゃ、なぜ彼らは不安を持っているのか。人というものは、自分自身と一致していないときにかぎって、不安を持つものなのだ。彼らが不安なのは、自分の立場というものを一度も認めたことがないからだよ。自分のなかにある未知のものをこわがるような、そういう人間ばかりが団体を作っているわけだ。彼らはみんな、自分たちの生活のおきてはもう現代にはあわないのだ、自分たちは昔ながらの目標に従って生きているのだ、自分たちの宗教も道徳も、何ひとつとして、ぼくたちの必要とするものにマッチしていないことを感じているのだ。ここ百年以上というもの、ヨーロッパはむやみやたらに、研究と工場の建設ばかりやってきた。彼らは、人間ひとりを殺すには何グラムの火薬がいるかということは、正確に知っている。しかしどうやって神に祈るかということは、ご存知ないのだ。どうすればただの一時間でも満足していられるかということさえ、ご存知ないのだ。まあ一度、ああいう大学生クラブをのぞいて見たまえ! それとも金持ち連中が押しかける娯楽場でもいいよ。まったくどうしようもないぜ!
――ねえ、ジンクレール、こんなところから、明朗なものが生まれてくるわけはないさ。あんなふうにびくびくしながら寄り集まっている連中の胸は、不安と悪意でいっぱいなんだ。おたがいに相手が信用できないんだ。彼らは、いまとなってはもう理想ではない理想にしがみついて、新しい理想をかかげる者があると、だれでもかまわず石を投げつけるんだ。ぼくの感じでは、決着をつけるときがくるだろう。そのうち決着がつけられるよ。もうじきにね。もちろん、それで世界が『改良』されるわけじゃないだろう。労働者が工場主をなぐり殺そうと、あるいは、ロシアとドイツがたがいに射ちあいをやろうと、ただ所有主が入れかわるだけのことだ。でも、それだってむだじゃないかもしれない。そのおかげで、現代の理想というものがいかに無価値であるかが明らかにされるだろうし、石器時代の神々も一掃されるだろうから。今日《こんにち》あるような世界は、死の一歩手前だ。滅亡寸前だ。そして事実滅びるだろう」
「じゃそうなると、ぼくたちはどうなるんだい」とぼくは聞いた。
「ぼくたちだって? さあ、たぶんいっしょに滅びるだろうな。なぐり殺されるなんてことも、あるかもしれないよ。ただしだね、ぼくたちはそんなことぐらいで、片づけられたりしないんだ。ぼくたちがあとに残していくものや、ぼくたちのうちで生き残るものを中心として、未来の意志が集まることになるだろう。人類の意志が姿を見せるだろう。われわれのヨーロッパが技術と科学の年《とし》の市《いち》で、このところしばらくの間わめきたてていたおかげで、この意志は鳴りをひそめていたけどね。そうなればこの人類の意志というものが、いつ、いかなるところでも、現在のいろいろな共同体、国家や民族、組合や教会などの意志とは、断じて等しくないことがはっきりわかるだろう。つまりだ、自然が人間を使って実現しようとすることは、君だのぼくだのという個人個人のなかに、りっぱに書いてあるんだ。それはイエスのなかにあったし、ニーチェのなかにもあった。重要なただひとつのものであるこれらの潮流――もちろんこれは毎日のように違った様相《ようそう》を見せるかもしれないけど、これらの潮流には、現代のいろいろな団体が崩壊すれば、自由な活動の余地が生まれるだろう」
ぼくたちが川ぞいのある庭園の前で足をとめたときには、夜もふけていた。
「ここにぼくたちは住んでいる」とデーミアンが言った。「近いうちに来たまえ、ぼくたち楽しみにしてるよ」
ぼくはすっかりうれしくなって、涼しくなった夜気《やき》のなかを、遠い家路についた。町のあちこちで家に帰る大学生が、ちどり足で騒いだりしていた。ぼくはよく彼らの奇妙なはしゃぎぶりと、自分の孤独な生活とのコントラストを感じて、あるときにはもの足りなく感じたり、またあるときには彼らをばかにしたい気持ちになったりした。しかしこういうことが、自分とはいかに無関係であるか、ああいう世界が自分にはいかに縁遠い、忘れ去られたものであるかを、きょうほど平然とした気持ちで、またひそかな力強さで感じたことは、これまでに一度もなかった。
ぼくは故郷の町の役人たちのことを思い浮かべた。堂々とした老紳士たちで、酒場ですごした大学時代の幾学期かの思い出を、さながら幸福きわまりない楽園の記憶ででもあるかのように、後生《ごしょう》大事にしていた。そして彼らの消えうせた大学時代の『自由』に対して、ほかにはおそらく詩人か、あるいはまた別のロマンチストたちが幼年時代に捧げるような礼拝を、行なっていたのだ。いずこも同じだ! どこへ行っても彼らは、『自由』と『幸福』を、どこか自分の過去に求めていたが、それというのも、自分自身の責任を思い知らされたり、自分自身の道を歩けと言われたりせぬかという、不安から出たことにすぎないのだ。学生時代の数年間は酒をあびるほど飲んで大騒ぎをし、そのあとはおとなしくへいつくばって、しかつめらしい役人になる。まったくくさりきっている。ぼくたちの仲間はくさりきっている。もっとも大学生たちのこういう愚劣《ぐれつ》さは、ほかの数多くの愚劣さにくらべて、さらにひどいとか、さらにたちが悪いとかいうわけでもなかった。
だがしかし、遠く離れた自分の住居にたどりついて、ベッドにはいろうとしたとき、こういう考えごとはみんなあとかたもなく消えて、ぼくの心はただひとつ、きょうという日が与えてくれたあの重大な約束に向けられていた。その気になればぼくはもうあすにでも、デーミアンの母に会えるわけだ。大学生どもが酒盛りをひらこうと、顔に入れ墨をしようと、世界がくさりきっていて滅亡寸前であろうと、――そんなことは、ぼくとは無関係だ。ぼくが待ち望んでいることはただひとつ、ぼくの運命が新しい姿をとって、ぼくを出迎えてくれることだけだ。
ぼくは翌朝おそくまで、ぐっすりと眠った。この新しい一日はぼくにとって、少年時代のクリスマスのお祝い以来、ついぞ味わったことのないようなおごそかな祭日として始まった。ぼくはなんだかとてもそわそわした気持ちになっていたが、それでも不安などは少しもなかった。自分にとって重要な一日が明けたのだ、とぼくは感じた。周囲の世界が変わってしまい、深い関心を持っておごそかに待ちかまえているのを、見もし感じもしたが、しとしとと降る秋雨《あきさめ》までも美しく静かで、いかにも祭日らしく、厳粛なうちにも楽しげな音楽にあふれていた。そとの世界がぼくの内部の世界と清らかにとけあってひびいたのは、これが初めてのことだった。
――これでこそ魂の祝日だ。これでこそ生きがいがあるというものだ。どの家も、どのショーウィンドーも、小路で見かけるどの顔も、ぼくの心を乱しはしなかった。すべてはいつに変わらぬあるがままの姿であったが、そのくせつね日ごろ見なれた空虚な表情はなく、すべてが待機している自然であり、うやうやしく運命を待ちかまえていた。
ぼくは小さい子どもだったころ、クリスマスや復活祭などの大きな祭日の朝には、世界がこんなふうにみえたものだが、しかしこの世界が、この年になってもこれほど美しいものであろうとは知らなかった。ぼくは自分の内部に引きこもって生活することに慣れていたし、外部にあるものに対する感覚がすっかり消えうせてしまい、輝くばかりの色彩の消失は、幼年時代の消失と結びついていてどうにもならないものだということ、魂の自由と男らしさを得るためには、この外界の好ましい輝きはある程度あきらめなければならないということ、こういうことに甘んじるのにも慣れていた。ところがいまぼくは、これらすべてはただ埋もれて闇にかくされていただけで、自由になった者、幼年の幸福をあきらめた人間でも、光り輝く世界を見ることができるし、子どもの目で世界を見たときと変わらない心からのおののきを味わえるのだと悟って、この上ない喜びにひたった。
昨夜マックス・デーミアンと別れた場所に近い、あの町はずれの庭園がふたたび見えてくる時刻が訪れた。雨にくすんだ高い木立ちのかげにかくれて、明るい感じの住みごこちのよさそうな小さな家が立っていた。大きなガラス間仕切りの奥には、背の高い花のしげみが見え、きらきら光る窓の向こうには、暗い壁が見えて絵がかかっており、書物が並んでいた。表口のドアは、暖房のきいた小さなロビーにそのまま通じていた。黒いみなりで白いエプロンをかけた無口の老女中が、ぼくをなかへ案内して外套を受け取ってくれた。
女中はぼくをロビーにひとり残したまま、引っこんだ。ぼくはあたりを見まわした。するとたちまち、いつもの夢のまっただなかにひたっていた。戸口の上の黒っぽい板かべのところに、おなじみの絵が一枚かかっていたのである。それはガラスのはまった黒い額ぶちにおさまっていた。こがね色のハイタカの頭をしたぼくの鳥が、世界の殻からもがき出る絵だ。心をうたれてぼくはその場に立ちつくした。――まるでこの瞬間、かつてぼくのしたこと、体験したことすべてが、答えとなり実現されたものとなって、自分のところへもどってきたような感じで、ぼくはうれしいような、また悲しいような気持ちになった。
稲妻のような早さで無数の映像が、ぼくの魂のそばを駆け抜けるのが見えた。門のアーチの上のほうに古い石の紋章のついたふるさとの生家、その紋章をスケッチしていた少年デーミアン、あの仇敵クローマーの魔力にからみつかれて、びくびくしていた少年時代のぼく自身、せまい勉強部屋で静かに机に向かい、例のあこがれの鳥を描きながら、自分の魂がくり出す糸の網にまきつかれていた高校時代のぼく自身――そしてすべてのものが、この瞬間にいたるまでのすべてのものが、再びぼくの心のなかにひびきわたり、ぼくの心のなかで肯定され、答えを与えられ、是認されたのだ。
涙にうるむ目でぼくは、自分のかいたこの絵をじっと見つめ、ぼく自身の心のなかを読んだ。そのときだった。ぼくの視線がさがると、鳥の絵の下のひらかれたドアのところに、黒っぽい服装の大柄な婦人が立っていた。それが彼女だった。
ぼくはひとことも口がきけなかった。息子の顔と同じように、時間も年齢もなく、生き生きした意志にあふれた顔のなかから、その美しい、気品のある婦人は、ぼくにやさしくほほえみかけていた。彼女のまなざしは夢の実現であり、彼女のあいさつは帰郷を意味していた。ぼくは黙ったまま彼女に両手をさしのべた。夫人はあたたかい手でしっかりとぼくの両手をにぎった。
「ジンクレールさんね。すぐわかりましたわ。よく来てくださいましたね」
彼女の声は低くて、あたたかみがあった。ぼくはそれを甘いブドウ酒のようにのみこんだ。それからぼくは目をあげて、彼女の落ちついた顔、黒い、はかり知れぬ瞳、みずみずしいゆたかな口もと、あのしるしのある、気品のある広い額をじっと見つめた。
「どんなにうれしいかわかりません」とぼくは夫人に言って、その両手に接吻した。
「なんだかぼくは、生まれてからいままでずっと旅先にいたような気がします――それがいま、ふるさとへ帰ってきたわけです」
夫人は母親のように微笑した。
「ふるさとへ帰るなんて、決してないことなのよ」と彼女は、やさしい口調で言った。
「でもね、仲よしの道がいっしょになったときには、しばらくの間、世界じゅうがふるさとのように見えるのよ」
彼女の言ったことは、ぼくが夫人のところへくる道すがら感じていたことだった。彼女の声ばかりか言葉づかいまでも、息子のによく似ていたが、それでいて全然違ったものだった。すべてがもっと成熟していて、もっとあたたかみがあり、もっと自明であった。しかしマックスが昔、だれにも少年らしい印象を与えなかったのと同じように、マックスの母もまた、一人前になった息子の母親などとはとても見えなかった。その顔と髪にただよう気配は、それほどまでに若々しくて甘く、その金色の肌は、それほどまでにぴんと張りきってしわひとつなかった。口もとは豊満そのものだった。いま目の前にいる姿は、ぼくの夢に出てきたときよりもさらに堂々たるものがあって、彼女がそばにいてくれることは、恋の幸福であり、そのまなざしは夢の実現であった。
これがつまり、ぼくの運命を表わす新しい姿なのだ。それはもはや厳しくもなく、孤独をつのらせるものでもなく、いやむしろ、成熟した、快楽にみちたものであった。ぼくは別になんの決意もかためなかった。誓いも立てもしなかった。――ぼくはひとつの目標に到達していたのだが、それは道の途中の峠のようなもので、そこからながめると、約束の国々へと通じるその道のつづきが、間近な幸福の木立ちのかげにおおわれ、やがて訪ずれるあらゆる快楽の花園からそよぐ涼風を受けながら、はるか遠く見事にひらけている。たとえこの身がどうなろうとも、この女性がこの世にいると知り、その声をのみ、その身辺の気配を呼吸するのは、このうえない幸福だった。彼女がぼくにとって、母親になろうと、恋人になろうと、女神になろうと――それはかまわない。彼女がそこにいてくれさえすればいいのだ。ぼくの道が彼女の道に近くさえあれば、それでいいのだ。
夫人は、ぼくのかいたハイタカの絵を下から指さした。
「あなたのこの絵ほど、うちのマックスを喜ばせてくれたものはありません」と彼女は、もの思いに沈みながら言った。
「それにわたくしも喜びましたわ。わたくしたちはあなたをお待ちしていました。そしてこの絵がついたときには、あなたがいまわたくしたちのところへおいでになる途中だと、わかっていましたのよ。あなたが小さい坊ちゃんのころですけど、ジンクレールさん、ある日うちの子が学校から帰ってきて、こう言いましたの。男の子がいてね、その子は額にあのしるしがついてるんだ、きっとぼくの仲よしになるよ、って。それがあなたでしたのよ。あなたは苦しい思いをなさいましたね。でもわたくしたちは、あなたならと信頼しておりましたわ。休暇で帰っていらしたとき、もう一度マックスとお会いになりましたね。そうね、あなたが十六ぐらいのときでしたか。マックスがそのときのことを話してくれましたが――」
ぼくは口をはさんだ。
「マックス君がそんな話までしたとは! あれはぼくのいちばんみじめな時期でした」
「ええ、マックスはわたくしにこう申しましたのよ。――いまジンクレールはいちばんつらい壁にぶつかっている。あの男はもう一度、集団のなかへ逃げこもうとしている。飲み屋の常連にさえなってしまった。でも、どうせ失敗するだろう。隠れてはいるけど例のしるしは、知らぬ間にあの男を燃やしているんだから、って。――そのとおりだったのじゃなくって?」
「ええ、そうですとも、そのとおりでした。それからベアトリーチェが見つかり、その後ようやくまた指導者が現われたんです。その人はピストーリウスという名でした。そのころになってやっとぼくは、なぜぼくの少年時代があれほどまでにマックス君に結びつけられていたのか、なぜぼくはマックス君から離れられなかったのかが、わかってきたのです。奥さん――いや、おかあさん、あのころはよく、自殺するしかないと思いましたよ。いったいだれにとっても、道はこんなにつらいものなのでしょうか?」
彼女は片手でぼくの髪をなでた。まるで空気のように軽い手ざわりで。
「生まれるということは、いつでもつらいことですわ。ご存知でしょう。鳥は卵から出るのに苦労しますわね。いままでのことを振りかえって、たずねてごらんなさい。いったい自分の道はそんなにつらかったか。ただつらいだけだったか。すばらしいところもあったのじゃないか、とね。もっとすばらしい、もっと楽な道があったはずだ、とでもおっしゃるの?」
ぼくは頭を振った。
「つらかったんです」とぼくは、まるで夢でも見ているように言った。
「つらかったんです、――あの夢を見るようになるまでは」
夫人はうなずくと、突きさすような目でぼくを見つめた。
「そう。自分の夢を見つけなくてはいけません。そうすれば、道は楽になりますね。でもね、いつまでもつづく夢なんてものはないのよ。どんな夢だって、新しい夢がくると交替させられるし、また、どんな夢だって、むりに引きとめてはいけないのですよ」
ぼくは心の底から驚いた。これはもう、ひとつの警告なのだろうか。これはもう防衛なのだろうか。しかし、そんなことはどうでもよい。ぼくは自分から進んでこの人に導いてもらうつもりだし、目的地のことなど聞くまいと心に決めていたのだ。
「いまの夢がどれくらいつづくことになるか」と、ぼくは言った。
「わからないんです。でも、いつまでもつづいてくれれば、と思っています。あの鳥の絵の下で、ぼくの運命は、母親のように、また恋人のように、ぼくを迎え入れてくれました。ぼくはこの運命のものであって、ほかのだれのものでもありません」
「その夢があなたの運命である間は、その運命にそむいてはいけません」と夫人はおごそかな口調で、ぼくの言葉を認めてくれた。
ある悲しさがぼくをとらえた。そして魔法にでもかけられているような、いまのこのひとときに、いっそ死んでしまいたいという激しい願いが、ぼくをとらえた。ぼくは涙が――なんとはてしもなく長い間、ぼくは泣くことを忘れていたことか――とめどなくこみあげてきて、自分を圧倒していくのを感じた。ぼくは彼女からさっと身をひるがえして、窓辺に歩みよると、涙にくもる目で鉢植えの花ごしに、窓外《そうがい》を見やった。
うしろで夫人の声が聞こえた。そのひびきには落ちつきがあり、しかも、なみなみとついだブドウ酒のさかずきのように、愛情にみちあふれた声だった。
「ジンクレールさん、あなたは子どもよ。あなたの運命は、あなたを愛しているじゃないの。あなたがいまのまま忠実であれば、この運命はあなたの夢に出てくるとおり、いますっかりあなたのものになるでしょう」
ぼくは自分の気持ちを押えて、ふたたび夫人のほうに顔を向けた。彼女はぼくに手をさしのべた。
「わたくし、お友だちが数人おりますの」と夫人は、微笑しながら言った。
「数人の、ごくわずかですが、とても親しいお友だちです。その方たちはわたくしのことを、エーヴァ夫人と呼びますのよ。あなたも、もしよろしければ、そう呼んでくださいね」
夫人はぼくをドアのところまで連れて行くと、ドアをあけて庭を指さした。
「マックスはそとにおりますの」
高い木立ちの下に、ぼくはしびれたように、心をうたれてたたずんでいた。いままでよりも目がさめているのか、それとも夢見ごこちなのか、わからなかった。雨のしずくが、しとしとと小枝から落ちていた。遠く川岸にそって続いている庭園のなかへ、ぼくはゆっくりとはいって行った。やっとデーミアンの姿が目についた。彼はあけっぱなしの小さなあずまやのなかに、上半身はだかになって、天井からつるしたサンド・バックの前でボクシングの練習をしていた。
ぼくはびっくりして立ちどまった。デーミアンはすばらしい体格であった。広い胸、がっしりした男性的な頭部、ぐっとあげた両腕は筋肉がぴんとしまって、いかにも強くたくましかった。腰や肩や腕の関節から流れ出る動きは、さながら噴水のたわむれにも似ていた。
「デーミアン」とぼくは叫んだ。
「いったいそんなところで、何してんだい」
彼は快活に笑った。
「練習してるのさ。あの小さな日本人とレスリングの約束をしたのさ。あの男はネコみたいにすばしこいんだ。それにむろんネコみたいに抜け目もないんだ。でも、ぼくには勝てないだろうな。ちょっとばかりへこまされて、借りがあるんだけどね」
彼はシャツと上着をつけた。
「もう母に会っただろうね」と彼はたずねた。
「うん、君にはなんてすばらしいおかあさんがいるんだろう。エーヴァ夫人か! この名前はおかあさんに、ぴったりじゃないか。おかあさんは万物の母みたいだなあ」
彼は一瞬考えこむようにして、ぼくの顔をじっと見つめた。
「もうその名前、知ってんだね。君は自慢してもいいぜ、ジンクレール、初対面でいきなり母からそれを聞かされたのは、君がはじめてだよ」
この日以来ぼくは、息子のように、また兄弟のように、この家に出入りしたが、しかしまた恋人のような気持ちもあった。小門をくぐってうしろ手にしめるたびに、いや、遠くから庭の高い木立が見えてくるたびに、もうぼくはゆたかな、幸福な気持ちになった。
そとには『現実』があった。そとには街路と家々、人間といろいろな施設、図書館と講堂があった。――しかしこの内側には、愛と魂があった。ここには童話と夢が生きていた。とはいえぼくたちは決して世間から、かけ離れて生活していたわけではなく、頭のなかや対話のなかでは、世間のまっただなかで暮らしたこともよくあった。ただし別な分野に生きていたのである。
ぼくたちは大多数の人々と境界線で仕切られていたわけではなく、ただ物の見方で分けられていたのだ。ぼくたちの使命は、この世のなかでひとつの島、いや、もしかするとひとつの模範を示すことであったが、それはともかく、別な生き方の可能性を告げ知らすことだった。長い間孤独にされていたぼくは、完全な孤立を味わった人間同士の間で可能な、共同体というものを学びとったのである。ぼくはもはや、幸福な人たちの食卓や陽気な連中の宴会へもどる気はなかったし、ほかの連中が寄り集まっているのを見ても、もはや羨望《せんぼう》や郷愁におそわれることもなかった。そして徐々にではあるが、しるしを身につけている人々の秘密がのみこめるようになってきた。
しるしのついたぼくたちが、世間の目には奇妙だと映《うつ》り、それどころか、狂っている、危険だ、と思われたのも当然だったかもしれない。ぼくたちは目ざめた者、あるいは目ざめつつある者であって、ぼくたちの努力は、完全な目ざめにますます近づこうというものであったが、一方、ほかの連中の努力と幸福探究は、彼らの意見なり、彼らの理想や義務、彼らの生活と幸福などを、大衆のそれにますます密着させることを目指していたのだ。そこにも努力はあったし、そこにも力と偉大さはあったが、しかしぼくたちの見るところでは、ぼくたちのようにしるしをつけた者たちが、新しいもの、個別的なもの、来るべきものを目指す自然の意思を表わしているのに反し、ほかの連中は現状維持の意志のなかに生きていた。彼らにとって人類は――彼らもぼくたちに劣らず人類を愛していたが――すでにできあがったものであって、維持され保護される必要のあるものだった。ぼくたちにとっては、この人類というものはひとつの遠い未来であって、ぼくたちはみんなこれを目指して歩きつづけていたのだ。その映像はだれひとり見た者はなく、その法則はどこにも書かれてはいなかった。
エーヴァ夫人とマックスとぼくのほかにも、多種多様な探究者たちが、親しさの程度は違うにしても、かなり多くぼくたちのサークルに属していた。そのうちかなりの人たちが特殊な道を進んでいて、まるっきり別な目標を立てていたし、風変わりな意見や義務に執着していた。彼らのなかには占星師《せんせいし》やヘブライ神秘主義者もいれば、トルストイ伯の心酔者もおり、それにあらゆる種類の敏感な、内気な、傷つきやすい人たち、新興宗教の信者、インド式修業をやる人、菜食主義者などがいた。こういうすべての人たちとぼくたちの間には、実をいうと、たがいに他人のひそかな生活の夢によせる尊敬以外には、何ひとつ精神的共通点もなかった。
このほかに、もっとぼくたちに近しい人たちもいたが、それは神々や新しい理想像を求める人類の努力を、過去のなかにあとづけようとする人たちで、彼らの研究はぼくに、あのピストーリウスの研究を思いださせることがよくあった。この人たちはいろいろな本を持ってきて、古代語のテキストを翻訳してくれたり、古代の象徴や儀式のさし絵を見せては、ぼくたちに、いままでの人類がいだいていた理想はすべて、無意識な魂が見た夢から――人類が手さぐりで、未来の可能性をおぼろげに感じながら見た夢から――できていることを、よく納得させてくれた。おかげでぼくたちは、古代世界の不思議な多頭の神々がむらがるなかを通り抜けて、キリスト教的転向のあけぼのにまで達したのだ。孤独な信心深い人たちの告白と、さらに民族から民族への宗教の変転も、知るようになった。
そしてぼくたちが集めたすべてのものから、ぼくたちの時代と現在のヨーロッパ批判が生まれてきた。現在のヨーロッパは、とほうもない努力をかたむけて、人類の強力な新兵器を作りだしはしたものの、そのあげくついには、深刻な、だれの目にも明らかな精神的荒廃におちいってしまったのだ。というのは、全世界を掌中におさめながら、そのためにかえってヨーロッパは、自分の魂を失ってしまったからだ。
ここにもやはり、特定の希望や救済論を信奉する人たちがいた。ヨーロッパを改宗させようとする仏教信者もあれば、トルストイ帰依者もおり、その他の宗派もあった。ぼくたちの比較的小さいサークルの人々は、耳こそかたむけはしたが、こういう教義のどれひとつも、象徴としてしか受け取らなかった。ぼくたちしるしづけられた者には、未来作りに頭を悩ます義務はなかった。ぼくたちの目から見れば、どんな宗派もどんな救済論も、はじめから生命のない無用のものだった。そしてぼくたちがただひとつ、義務であり運命であると感じたのは、ぼくたちめいめいが、百パーセント自分自身になりきり、自分のなかで働いている自然の萌芽《ほうが》に百パーセント順応し、その意志どおりに生きる結果、あやふやな未来がぼくたちの前に何を持ちだしてこようと、そのすべてを受け入れる覚悟ができている、ということであった。
なぜなら、口に出そうと出すまいと、現在というものの崩壊と、ある新生とが近づいていて、もう感じられるまでになっていることが、ぼくたちみんなの気持ちのなかで、はっきりしていたからだ。ときおりデーミアンはぼくにこう言った。
「これから何が起こるかは予断をゆるさない。ヨーロッパの魂は、はてしもなく長い間くさりにつながれていた獣みたいなものだ。これが自由の身になれば、その最初の動きは、きわめて好ましいものとは言えないだろう。だが、あんなに遠い昔から、もう幾度となくごまかされ、だまされてきた魂のほんとうの悩みが、明るみに出さえすれば、そのためにどんな道をとろうと、まわり道をしようと、かまわないのだ。そうなれば、ぼくたちの日がくるだろう。そうなれば、ぼくたちを必要とするようになるだろう。――指導者とか新しい立法者としてではなく――新しい法律を、ぼくたちはもう体験することはないからね――むしろ自ら進んでやる人間としてだ。つまり喜んで行《こう》をともにし、運命が招くところへならどこへでも出かけていく心がまえのある人間としてだ。
ねえ、いいかい。どんな人間でも、自分の理想がおびやかされると、信じられないようなことを、平気でやってのけるもんだ。しかし何か新しい理想、何か新しい、ひょっとすると危険で無気味な成長の動きが訪れてくると、だれひとり出てこないのだ。こういう場合、そこに出てきて行《こう》をともにする少数の人間というのが、ぼくたちだろうね。ぼくたちにしるしがついているのも、そのためなんだ。――ちょうどカインが恐怖と憎しみを起こさせて、当時の人間をせまい牧歌的な生活から、危険をはらむ広い世界へ追いたてるために、しるしをつけられていたのと同じさ。人類の歩みに影響を与えたすべての人たちが、みな例外なくそういう素質と能力に恵まれていたのは、ただひとつ、彼らが自分の運命に対して覚悟ができていたからだ。これはモーゼにも仏陀《ぶっだ》にも、いえることだし、ナポレオンにもビスマルクにもあてはまることだ。どういう波に身をまかせるか、どちらの極から支配を受けるかということは、自分で勝手にえらべないんだ。かりにビスマルクが社会民主主義者を理解して、それにピントを合わせたとしたら、彼は策士《さくし》ということになっただろうが、しかし運命の男にはならなかったはずだ。ナポレオンもシーザーもロヨーラ〔イエズス会の創立者〕も、そのほかだれにしたって、みんな同じさ。
このことはいつでも、生物学的に、また進化論的に考えなくちゃあいけないのだ。地球の表面に起こった大変革のために、水棲《すいせい》動物が陸へ追いあげられ、陸棲動物が水中へほうりこまれたとき、前例のない新しいことを成しとげて、新しい適応によって自分の種族を生きのびさせることができたのは、運命に対して覚悟ができていた連中だ。これが以前その種族のなかで、保守的、現状維持派として頭角《とうかく》を現わしていたのと同じ連中か、あるいはむしろ変わり種の革命派であったか、それはわからない。彼らには覚悟ができていた。だからこそ自分たちの種族を生きのびさせて、新しい発展に進ませることができたのだ。それはわかっている。だからこそぼくたちも覚悟をきめておこうじゃないか」
こういう対話のときにはエーヴァ夫人もよく居あわせたが、それでも自分からこんな調子で話に加わることはなかった。夫人は、ぼくたちのどちらが考えを述べているときでも、信頼感にあふれ、理解にみちた聞き手であり、こだまであった。ぼくたちの考えることはすべて、彼女から出てきて、彼女のところへもどってゆくかのようであった。夫人の近くに腰をおろして、ときおりその声を聞きながら、彼女をとりまく成熟と魂の雰囲気をともにするのは、ぼくにとってしあわせであった。
夫人はぼくのなかになんらかの変化、曇り、あるいは革新が起こってくると、すぐさまそれを感じるのであった。ぼくは、自分が眠っているとき見る夢は、彼女からくる暗示のように思われた。ぼくは幾度か、そういう夢の話を彼女に物語ったが、それらは彼女にとっては、よく意味のわかる、あたりまえのものであって、どんなに変わった夢でも、夫人のすみきった感覚でとらえられないようなものはなかった。しばらくの間ぼくは、昼間ぼくたちが交わした対話の模写《もしゃ》のような夢をよく見たことがあった。全世界が動乱にまきこまれて、ぼくがひとりでか、あるいはデーミアンといっしょに、緊張して大きな運命を待っているという夢だ。運命はヴェールにかくされたままであったが、しかしどことなくエーヴァ夫人の面影を宿していた。――夫人にえらび出されるか、それとも拒否されるか、それが運命だったのである。
時とすると夫人は微笑を浮かべながら,こう言った。
「あなたの夢には足りないところがあるわ、ジンクレールさん。あなたはいちばんたいせつなことを忘れていらっしゃる――」そう言われてみると、思いあたるふしがあって、なぜそんなことを忘れていたのか、自分にもわからないこともあった。
ときおりぼくは欲求不満におちいり、欲情に悩まされた。彼女をかたわらに見ながら、わが胸にひしとだきしめないでいるのが、もう耐えきれない気がした。これにも彼女はすぐ気づいた。あるとき、数日遠ざかっていたら気が狂いそうになって、また出かけて行くと、彼女はぼくをわきへ連れて行ってこう言った。
「あなたはね、自分の信じていないような願いに、引きずられてはいけませんよ。あなたが何を願っていらっしゃるか、わたくしにはわかっています。あなたはそういう願いごとを、あきらめることができるようでないといけません。でなかったら、それを徹底的に、正しく願わなければなりません。自分でも、この願いはかならず実現するというくらいに強く願うことができれば、もうそのときはかなえられているものなのよ。ところであなたは望んではまた後悔《こうかい》なさるし、同時に不安になってしまうのです。そんなことは、すっかり克服してしまわなければいけないのよ。ひとつおとぎ話をしてあげましょう」
そう言って夫人は、星に恋した若者の話をしてくれた。その若者は海辺に立って、両手をのばしては星をあがめた。彼はその星を夢に見た。そうして心の思いを、その星に馳《は》せた。しかし彼は、人間は星をだきしめるわけにはいかないことを、知っていた。いや、知っているつもりだった。願いのかなう見込みもないのに星を愛するというのが、自分の運命なのだと考えた。そうして彼はこの考えをもとにして、あきらめと、自分を高め清めてくれるはずの、無言の忠実な悩みとについて、りっぱな生活文学を作りあげた。しかし彼の夢はすべて、あの星に向けられていた。あるとき彼は、またしても夜ふけに海辺の高い断崖に立って、あの星をながめ、恋慕の火に身を焼いた。そして慕情のきわまった一瞬、身をおどらせて虚空へ飛びあがった。星を目がけて。しかし飛びあがった瞬間、やっぱりだめだ! と、稲妻のように頭にひらめいた。そのとたん、下の波うちぎわに、五体はみじんにくだけていた。この若者は、恋するすべを知らなかったのだ。もし飛びあがった瞬間に、願いはかならずかなえられると固く信じるだけの念力があったら、その若者は空高く舞いあがって、その星と結ばれたのに。
「愛情は願ってはいけません」と夫人は言った。
「要求してもいけないのですよ。愛情はそれ自身のなかで、確信に達するだけの力を持たなければいけないのです。そうなれば愛情はもう、引きつけられるものではなくて、引きつけるものになります。ジンクレールさん、あなたの愛情は、わたくしに引きつけられていますね。いつかわたくしを引きつけるようになれば、そうすれば、わたくしのほうから参りますわ。わたくしのほうから、贈りものなぞする気持ちはありません。ご自分の力でわたくしを手に入れてもらいたいのです」
しかしまた別のときに、夫人は別なおとぎ話をしてくれた。あるとき、見込みのない恋をしている男があった。すっかり自分の魂のなかへとじこもって、こがれ死《じ》にしてしまいはせぬかと思った。彼から見れば、この世界は失われたもので、青い空も緑の森も、もはや彼の目には映らなかった。小川のせせらぎも、竪琴《ハープ》のひびきも耳にはいらず、何もかも没し去って、彼はあわれにも、またみじめであった。しかし彼の恋心はつのるばかりで、自分の恋するその美しい女性を手に入れるのをあきらめるくらいなら、いっそのこと死んでしまうほうがはるかにましだ、と思った。すると彼は、自分の恋が心のなかのほかのすべてを焼きつくしてしまったのを感じた。するとその愛情は力が強まり、しきりに相手を引きつけた。するとその美しい女性はついてこないではいられなくなり、自分のほうから来た。彼は両腕をひろげて、彼女をだきしめようとしていたが、さて、いま目の前に立った彼女を見ると、すっかりようすが変わっていた。彼は、失われた全世界を自分のところへ引き寄せたのを悟《さと》り、身ぶるいを感じた。相手は彼の前に立って、彼に身をまかせた。すると空も森も小川も、何もかも新しい色にそまって、みずみずしく、すばらしく、彼のほうに歩みよって、彼のものになり、彼の言葉を語った。そして、たったひとりの女を手に入れるかわりに、彼は全世界を胸にいだいていた。空にかかるどの星も彼のなかで輝き、彼の魂に快感の火花を散らせた。――彼は恋をした。そして同時に自分自身を見出したのであった。しかしたいていの人は、恋をするとともに、自分を見失ってしまうのだ。
エーヴァ夫人に対するぼくの愛情は、自分の生活の唯一の内容だ、とぼくには思われた。しかし夫人は日毎《ひごと》に違った様相を示した。ときとすると、自分が全身をうちこんで追い求めているのは、夫人その人ではなくて、夫人はぼくの内心の象徴にすぎず、ぼくをさらに深くぼく自身のなかへ導こうとしているだけなのだ、ということが、はっきり感じられるような気がした。ぼくはよく夫人の口からいろいろな言葉を聞いたが、それらはぼくの心をとらえている切実な疑問に対して、ぼく自身の無意識が与えた解答のように聞えるのであった。さらにまた彼女のかたわらで、官能の欲情に燃えながら、彼女の手がふれたものに接吻するような瞬間もあった。そしてしだいに、官能的な愛と非官能的な愛とが、現実と象徴とが、たがいに重なりあうようになっていった。
そんなときぼくは、家の自分の部屋で、しんみりと心から彼女のことを思い、自分の手のなかに彼女の手を、また、自分の唇の上に彼女の唇を感じるような気がした。あるいはまた夫人のところにいて、婦人の顔を見つめ、夫人と話を交《か》わし、夫人の声を聞いていながらも、彼女がはたして夢ではなくて、現実の人なのかどうか、わからなくなることもあった。ぼくはどうしたら恋を、永久不変のものとして所有できるかが、ぼんやりわかりかけてきた。何かある本を読んで新しい認識を得ることがあるが、それはエーヴァ夫人に接吻してもらうのと同じ感じであった。彼女がぼくの髪をなでてくれ、例の成熟した、におうばかりのあたたかみを、ほほえみながらただよわせると、ぼくは自分の心のなかで、何かある進歩をとげたときと同じ感じがするのであった。ぼくにとって重要であり、運命であったものはすべて、彼女の姿をとるのであった。彼女は、ぼくの考えるすべてのことに変身することができたし、ぼくが考えるすべてのことは、彼女に姿を変えてしまうことができた。
両親のもとですごすクリスマス休暇のことを思うと、ぼくはこわかった。二週間もエーヴァ夫人から離れて暮らすのは、苦痛に違いないと思ったからだ。ところが、苦痛ではなかった。うちにいて彼女のことを思うのは、すばらしいことだった。ぼくはH市にもどってきてからも、なお二日間は、彼女の家に寄りつかなかった。それは、この安定感と、彼女を官能的に身近に感じることからの解放感を味わうためだった。それにぼくはまた、彼女との結びつきが、新しい比喩《ひゆ》的な方法でりっぱに行なわれる夢を見たのだ。彼女は海で、そのなかへぼくが、川になって注《そそ》ぐわけだ。また彼女は星で、ぼく自身も星になって、彼女を目指《めざ》して進んでいた。そしてふたりは出会い、たがいに引きつけられるのを感じると、そのままいっしょにいて、このうえない幸福な気持ちで、近くよりそい、円を描いて合奏しながら、永遠に、おたがいのまわりを巡るのだった。
その後はじめて夫人を訪《たず》ねたとき、この夢の話をした。
「美しい夢ね」と彼女は静かに言った。
「それを正夢《まさゆめ》にしなさいよ」
早春のころ、ぼくがついぞ忘れたことのない一日が訪《おとず》れた。ぼくはロビーに足をふみ入れた。窓がひとつあいていて、生《なま》あたたかい風が流れこみ、ヒヤシンスの重いかおりを部屋じゅうにただよわせていた。だれも見えなかったのでぼくは階段をあがって、マックス・デーミアンの書斎へ行った。軽くノックしてから、いつものとおり、返事も待たずになかへはいった。
部屋は暗かった。カーテンが全部しまっていた。隣の小さな部屋に通じるドアがあけはなしになってたが、それはマックスが化学の実験室に使っているものだった。雨雲《あまぐも》の間から洩《も》れる春の日ざしの明るい、白い光が、そこから射しこんでいた。ぼくは、だれもいないものと思って、カーテンのひとつをあけた。
すると、カーテンのかかった窓に近い椅子に、マックス・デーミアンが、うずくまるようにして、何か妙に別人のような姿で、すわっているのが目についた。そのとき稲妻のように、ぼくの頭にひらめいたのは、前にも一度見たことがあるぞ! という感情であった。両腕をだらりとさげたまま、両手はひざの上におき、幾らか前かがみになって、目をひらいたままの顔には、輝きもなく生気もなかった。瞳孔には一条の小さな鋭い反射光が、ガラスのかけらのように、にぶく光っていた。青ざめた顔はじっともの思いに沈んでいて、ものすごくこわばっているという以外には、なんの表情もなかった。まるでどこかの寺院の玄関にでもある太古の動物の面《めん》のようであった。彼は、息もついていないようであった。
思いだすにつれてぼくは、全身わなわなとふるえた。――このとおり、これとそっくりな姿を、ぼくは何年か前、まだぼくが小さな子どもであったころ、一度見た覚えがある。このとおり、目は自分の心のなかを見つめ、このとおり、両手を死んだようにそろえていた。ハエが一匹、彼の顔の上をはっていた。たぶん六年前のことだが、当時のデーミアンもちょうどいまぐらいの年《とし》ごろに見えたし、いまと同じように、時間とは無関係にみえた。顔のしわひとつにしても、いまと変わりがなかった。
なんだかこわくなってきて、ぼくはそっと部屋を抜けだし、階段をおりて行った。ロビーでエーヴァ夫人に出会った。夫人は青白い顔をして、疲れているようすだった。こんなことは、彼女にはないことだった。ひとつの影が窓をかすめてとんだ。ぎらぎら輝いていた太陽が、突然消えた。
「ぼくはマックス君のところへ行ってきました」とぼくは、早口でささやくように言った。
「何かあったのですか。眠っているのか、それとも物思いに沈んでいるのか、ぼくにはわかりませんが、前にも一度、ああいうふうにしているのを見たことがあります」
「あなたまさか、起こしたりしなかったでしょうね」と夫人は、せきこんでたずねた。
「ええ、ぼくのいるのが気がつかなかったんです。ぼくもすぐに出てきたんですが。奥さん、おっしゃってください。マックス君はどうしたんですか」
夫人は手の甲《こう》で自分の額《ひたい》をさすった。
「大丈夫ですよ、ジンクレールさん、あの子なんともないのよ。引きこもってしまったんです。長くはかからないでしょう」
彼女は立ちあがると、あいにく雨が降りだしたところなのに、庭へ出て行った。ぼくは、ついて行ってはいけないな、と感じた。そこでロビーをあちこち歩きまわり、うっとりさせるようなヒヤシンスのにおいをかいだり、ドアの上のほうにかかっているぼくのかいた鳥の絵を見つめたりしながら、今朝この家にみなぎる妙な暗い影を、胸苦しい思いで呼吸したりしていた。これはどういうことか? 何が起こったのだろう?
エーヴァ夫人は、やがてもどってきた。雨のしずくが、彼女の黒い髪にかかっていた。彼女はいつものひじかけ椅子に腰をおろした。疲労の色が彼女におおいかぶさっていた。ぼくはそばに歩み寄ると、彼女の上に身をかがめ、髪にかかるしずくを吸いとった。彼女の眼は明るく落ちつきもあったが、そのしずくには、涙のような味があった。
「マックス君のようすを見てきましょうか」とぼくは、ささやくような声できいた。
夫人は弱々しくほほえんだ。
「小さな坊やみたいな真似はしないでね、ジンクレールさん」と彼女は、自分自身の心のなかの呪縛《じゅばく》を解《と》こうとでもするかのように、大きな声でぼくをたしなめた。
「いまはこのままお帰りになって、あとでまたいらっしゃい。いまあなたとお話するわけにはいきませんの」
ぼくはそとへ出ると、家並《やな》みと町から走り去って山のほうへ向かった。ななめに吹きつける霧雨がぼくの顔にあたった。雲は重くおさえられて、低くおびえたように流れすぎて行った。下のほうはほとんど風もないのに、上のほうは嵐になっているらしかった。幾度か、ちょっとの間だけ、はがねのような灰色の雲のなかから、日光が青白くぎらぎらと洩れてきた。
そのとき空をよぎって、ふんわりした黄色い雲が流れてきた。それが灰色の雲の壁でせきとめられると、風の流れでほんの数秒間のうちに、その黄色と青からひとつの形が作り出された。それはものすごく大きな鳥の姿で、鳥は青い混沌からぐっと抜け出すと、大きく羽ばたきしながら、空高く消えて行った。それから嵐の音が聞えはじめ、あられまじりの雨がパラパラと落ちてきた。まるでうそのような激しい音をたてて、短い雷鳴が雨にうたれる風景の上に鳴りひびいたが、すぐにまた一条の陽光がさっと洩れてきた。そして近くの山々には、褐色の森の向こうに、青白い雪が、にぶく、まぼろしのように輝いていた。
雨にぬれ、風に吹きまくられて数時間後もどってくると、デーミアンが自分で玄関のドアをあけてくれた。
彼はぼくを連れて、自分の部屋へあがって行った。実験室にはガスの炎が燃え、紙が散らばっていた。どうやら実験をしていたらしかった。
「すわりたまえ!」とデーミアンはすすめた。「疲れてるだろう。ひどい天気だったからね。君はよくそとにいたと思うよ。すぐお茶がくるよ」
「きょうは何か起こるな」とぼくは、ためらいながら言いはじめた。「あんな、ちょっとした嵐ぐらいじゃ、すみそうもないね」
彼はさぐるような目つきでぼくを見つめた。
「何か見たのかい?」
「うん、雲のなかに、ちょっとの間だけど、はっきり姿が見えたんだ」
「どんな姿が?」
「鳥だよ」
「ハイタカかな? そうだった? 君が夢で見た鳥だろう?」
「うん、ぼくのハイタカだったよ。黄色くて、ものすごくでかくてね。青黒い空へ舞いあがって行ったよ」
デーミアンは深いため息をもらした。
ノックの音がした。例の老女中がお茶をはこんで来た。
「さあ、飲みたまえ、ジンクレール、どうぞ。――君がその鳥を見たのは、偶然じゃないと思うな」
「偶然だって? あんなもの、偶然に見ることがあるかしら?」
「そりゃないよ。あの鳥には何か意味があるんだ。なんだかわかるかい?」
「わからないな。ただね、激しいショックという意味、運命のなかの一歩だという意味があることは、感じるね」
彼は激しい勢いであちこち歩きまわった。
「運命のなかの一歩か?」と彼は大きな声で叫んだ。
「それと同じことを、ゆうべ夢で見たんだ。それに母はきのう、なにか予感がしたんだが、母も同じことを言ってたよ――ぼくの見た夢はね、はしごをのぼって行ったんだ。木の幹だったか、それとも塔にだれかかけてあるはしごをね。のぼりきって見ると、大平原がひらけているんだが、それがね、見わたすかぎり、町も村もみんな燃えているんだ。まだ全部は話せないけどね。ぼくにもまだすっかりわかってるわけじゃないからね」
「君、その夢を、君自身に結びつけて判断するのかい?」とぼくはきいた。
「ぼくにかい? もちろんさ。だれだって、自分に関係のない夢なんか見ないもの。だけどねえ、関係があるのは、ぼくだけじゃないんだよ。そりゃ君の言うとおりだ。ぼくはね、自分の魂のなかの動きを示してくれる夢と、めったにないことなんだが、人類全体の運命が暗示される夢とを、かなり厳密に区別しているんだ。あとのほうの夢は、めったに見たことがないし、それに、これは一種の予言だ、そのとおりになった、なんて言いきれるような夢は、一度も見たことがないんだ。夢判断なんて、あまり当てにならないよ。しかしぼくにはっきりわかっていることは、ぼくがゆうべ見た夢が、ぼくにだけ関係しているんじゃないということだ。つまりだね、この夢は、ぼくが前に見たほかのいろいろな夢の一部なんだ。つづきってわけさ。ねえ、ジンクレール、ぼくが前に君に話したいろんな予感は、こういう夢がもとになってるんだよ。ぼくたちの世界がくさりきってるのは、わかっているが、でも、それだけではまだ、世界の滅亡とかなんとかを予言する理由にはならないだろう。しかしぼくは、ここ数年来見てきた夢から推定する、いや、感じる、まあ、どうでもいいが、とにかく感じるんだが、ひとつの古い世界が破滅に近づきつつあるね。最初は、ごく弱い、ぼんやりした予感だったんだが、だんだん強い、はっきりしたものになってきたんだ。何かぼくにも関係がある、重大な恐ろしいことが近づきつつある、ということだけしか、まだわかってないけどね。ジンクレール、ぼくたちがよく話しあってきたことを、いまに体験するだろうよ。世界の改革がはじまろうとしている。死のにおいがする。死なくしては、新しいものは何ひとつ生まれてこないんだ。――ぼくが考えていたよりも、恐ろしいことだね」
愕然《がくぜん》としてぼくは、彼を見つめた。
「君の夢の残りを話してもらえないかな?」とぼくは、おずおずと頼んだ。
彼は頭を振った。
「だめだ」
ドアがあいて、エーヴァ夫人がはいってきた。
「まあ、あなたたち、いっしょなのね。まさか悲しんでいるわけじゃないんでしょうね」
夫人は生き生きとしていて、もはや疲労の色など少しも見えなかった。デーミアンがほほえみかけると、まるでおびえた子どもたちに近づく母親のように、ぼくたちに歩み寄った。
「ぼくたち、悲しんでなんかいませんよ、おかあさん。ただちょっとね。この新しいいろんな徴候のね、謎ときをしてたんですよ。だけど、そんなのまったく意味ないですね。どうしても起こることなら、突然やってくるでしょうし、そうなればぼくたちだって、知る必要のあることは、ちゃんと耳にするでしょうからね」
しかしぼくはいやな気持ちだった。別れを告げて、ひとりでロビーを通って行くと、ヒヤシンスのにおいが衰え、気が抜けて、死臭《ししゅう》を放っているように感じられた。暗い影がぼくたちの頭上におおいかぶさっていたのである。
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第八章 終局の最初のきざし
ぼくは自分の意志を押しとおして、夏学期もH市に、そのままいられるようにした。ぼくたちは屋内にこもるかわりに、たいていは川ぞいの庭ですごした。ついでに言うと、レスリングで文句なく負けた例の日本人は立ち去り、トルストイ信者もいなくなっていた。デーミアンは馬を一頭飼っていて、毎日のように根気よく乗りまわしていた。ぼくはデーミアンの母親とふたりきりでいることが多かった。
ときおりぼくは、自分の生活が無事平穏なのを不思議に思うことがあった。ぼくはずいぶん長い間、孤独に慣れ、あきらめることに慣れ、自分の苦悩を相手に苦しい戦いをつづけることにも慣れていたので、H市でのこの数ヵ月は、なんだか夢の島にでもいるような気がした。この島でぼくは気らくに、魔法にでもかけられたように、美しくて、快いものや感情だけに取りまかれて、暮らしていればよかったからだ。これこそぼくたちの考えた、あの新しい高度の共同体の前ぶれなのだ、とおぼろげに感じた。しかしときどきぼくは、この幸福の行く末を考えては、深い悲しみにおそわれた。というのも、この幸福が長つづきしないものであることが、よくわかっていたからだ。ぼくはみちたりた気らくな生活を送るようには、生まれついていなかったのである。ぼくには苦悩と追求が必要だったのである。いつかそのうちぼくは、この美しい愛のまぼろしから目ざめて、ふたたび孤立してしまうだろう。自分にとっては、孤独か闘争かいずれかがあるだけで、平和も共存もないような、冷たい他人の世界に、ひとりぼっちでたたずむことになるだろう、と感じていた。
そういうときぼくは、いままでの倍もの愛情を感じながら、エーヴァ夫人の身辺につきまとうのであった。そして自分の運命がいまだにこの美しい、おだやかな面影《おもかげ》を見せているのを知って、ホッとしたものだ。
夏の数週間はあっけなくさっさとすぎていき、夏学期もすでに終ろうとしていた。別離も間近にせまっていたが、ぼくはそれを考えてはならなかったし、また事実、考えもしなかった。そして蜜の多い花にとまったチョウのように、この美しい日々にしがみついていた。ここまではぼくの幸福な時間であった。ぼくの生活目標がはじめて達成され、盟約《めいやく》に加わることがゆるされたのであった。このあとには何が来るだろうか。ぼくはまた戦いながら血路《けつろ》をひらき、あこがれに悩み、夢をいだいて孤独になるだろう。
そのころのある日、こうした予感にあまりにも強くおそわれたので、エーヴァ夫人に対する愛慕《あいぼ》の念が、突然せつないほど燃えあがった。ああ、どうしたらいいだろう。もうじきぼくは彼女に会えなくなる。家のなかを歩きまわる彼女の、しっかりした、快い足音も聞かれなくなる。ぼくのテーブルの上に、彼女から贈られた花を見ることもできなくなるのだ。それなのに、ぼくの得たものはなんだったろうか。彼女を自分のものにするかわりに、彼女を求めて戦うかわりに、彼女を永久に奪いとるかわりに、ぼくはただ夢を見て、いい気持ちになっていただけじゃないか。彼女がほんとうの愛というものについて、これまで語り聞かせてくれたすべてのことが記憶によみがえってきた。数多くのデリケートな、いましめの言葉、数多くのひそかなさそい、ひょっとすると、愛の約束もあった。――それらをぼくは、どういう形でものにしたろうか? 何ひとつ、何ひとつとして、ものにしなかったのだ。
ぼくは自分の部屋のまんなかに、足をふまえて立ったまま、全意識を集中して、エーヴァのことを考えた。彼女にぼくの愛情を感じさせ、彼女をぼくのほうに引き寄せるために、ぼくの魂の総力を結集してみよう。彼女はかならず来る。そしてぼくの抱擁を熱望するに違いない。そしてぼくの口づけは、彼女の成熟した愛の唇を、あくことなくむさぼるに違いない、と思った。
ぼくはぐっと立ったまま、指先や足のほうから冷たくなってくるまで、体を緊張させた。力が抜けていくのが感じられた。ほんのちょっとの間、心のなかで何かきつく、ぎゅっと引きしまるものが感じられた。何か明るくて冷たいものだった。一瞬、胸のなかに水晶をいだいている感じだった。ぼくは悟った。これはぼくの自我なのだと。冷気《れいき》が胸もとまでのぼってきた。
この恐ろしい緊張からさめたとき、何かが近づいてくるな、と感じた。死ぬほど疲れてはいたが、それでも、エーヴァが部屋にはいってくるのが、いまに見えるぞと、うっとりして、燃えるような思いで待ちかまえていた。
そのとき、ひづめの音が長い大通りを、かつかつと近づいてきて、すぐそばで鋭くひびいたかと思うと、不意にやんだ。ぼくは大急ぎで窓辺へ寄った。下ではデーミアンが、馬からおりるところだった。ぼくは階段をかけおりた。
「どうしたんだい、デーミアン? まさか君のおかあさんに、何かあったんじゃないだろうね」
デーミアンは、ぼくの言葉など聞いていなかった。顔はまっ青で、額《ひたい》から両頬をつたって汗が流れていた。興奮ぎみの馬の手綱を庭の垣根につなぐと、ぼくの腕をとったまま、いっしょに大通りをくだって行った。
「もう何か聞いたかい?」
ぼくは何も聞いてなかった。
デーミアンはぼくの腕をぎゅっとにぎると、ぼくのほうへ顔を向けた。暗い、あわれむような、異様なまなざしであった。
「いいかい、君、いよいよはじまったんだ。ロシアとの関係が非常に緊迫していたことは、むろん知ってただろうね――」
「なんだって? 戦争が起こるのかい? 考えてもみなかったよ」
デーミアンは、近くに人影はなかったのに小声で話した。
「まだ宣戦布告はされていないが、しかし戦争になるんだ。ほんとうなんだぜ。ぼくはあのとき以来、この問題で君を悩ますのはやめていたけど、あのとき以来三度も、新しい兆候《ちょうこう》を見たんだ。つまりね、世界が滅亡するわけでもないし、地震にも革命にもならないが、戦争になるんだ。どんなことになるのか、いまに君にもわかるぜ。世間の連中はとても喜ぶだろうな。もういまからみんな、戦闘開始を楽しみにしてるんだからな。それくらいみんな、人生に退屈してるんだ。――だけどね、ジンクレール、いまにわかるだろうが、こいつはほんの序の口だ。たぶん大きな戦争になるだろうな。とても大きな戦争にだよ。しかし、それだってまだ序の口さ。新しいものがはじまるんだ。この新しいものは、古いものにしがみついている連中には、とても恐ろしいだろうね。君はこれからどうするつもり?」
ぼくはあわてた。ぼくにはまだすべてのことが、ひとごとのようで、ありそうもないことに聞えたからだ。
「わからないな――で、君は?」
彼は肩をすくめた。
「動員令がくだったら、すぐに入隊するよ。ぼくは少尉なんだ」
「君がかい? そんなことひとことも言わなかったぜ」
「うん、こいつはぼくの環境適応のひとつだったのさ。君も知ってるだろうが、ぼくは人目につくような派手なことはきらいで、いつでもきちんとしていようと、むしろやりすぎるぐらいに心がけてきたんだ。一週間もしたら、ぼくはもう戦場に出ていると思うね――」
「とんでもない――」
「なあに、君、センチメンタルに考えちゃいけないよ。もちろん、生きてる人間めがけて、撃て! なんて命令するのは、実際ぼくだっておもしろくもないだろうさ。でもそんなことは、たいした問題じゃないだろう。こうなればぼくたちはみんな、大きな車輪にまきこまれるわけだろう。君もだぜ。君もそのうち、きっと召集されるよ」
「で、君のおかあさんは、デーミアン?」
このときになってやっとぼくは、つい十五分前までのことを思い出した。世界がなんと変わってしまったことか。ぼくは総力を結集して、世にもいとしい姿を呼び出そうとしていたのに、いまでは運命が突如《とっじょ》として変わり、ぞっとするような恐ろしい仮面をかぶって、ぼくをじいっと見つめている。
「ぼくの母かい? なあに、母のことなら、ぼくたち何も心配しなくていいんだ。しっかりしてるからね。きょうこの世界のなかで、うちの母ほどしっかりしている人はいないよ。――君は母を、とても愛しているんだね」
「君、知ってたんだね。デーミアン」――彼は明るく、いかにも気が楽になったように笑った。
「お坊ちゃんだよ、君は。もちろんぼくは知ってたさ。母を愛さないで、母に向かってエーヴァ夫人と呼びかけた人は、いままでなかったもの。ところで、さっきはどうだったんだい。君はきょう、母かぼくのことを呼んだんだろう、そうだね?」
「うん、呼んだよ――エーヴァ夫人に呼びかけたんだ」
「母にはそれがわかったんだ。いきなり、君のところへ行けって言うんだもの。ちょうど母に、ロシア関係のニュースを話してやってたところだったんだ」
ぼくたちは引きかえした。もうあまり話はしなかった。彼は手綱をほどくと馬に飛び乗った。
自分の部屋にあがってきてはじめてぼくは、くたくたに疲れていることに気がついた。それはデーミアンの知らせのせいでもあったが、なおそれ以上に、さきほどの緊張のせいだった。しかしエーヴァ夫人には、ぼくの心の声が聞えたのだ。ぼくは胸にいだいた考えで、彼女に到達したのだ。彼女が、自分からやってきたはずだ――もしも……ならば。これらすべては、なんと奇妙なことだろう。また結局は、なんと美しいことだろう。これで、いよいよ戦争になるはずだ。これで、ぼくたちが幾度となく話したことが、ほんとうに起こりはじめるはずだ。そしてデーミアンは、こういうことを実によく予知していたのだ。いまではもう世界の流れが、どこかぼくたちのそばを素通《すどお》りするのではなく、――いま突如として、ぼくたちの心臓のまっただなかを突き抜けてゆくとは、なんという不思議なめぐりあわせだろう。冒険と荒々しい運命がぼくたちに呼びかけてくるとは、また、世界がぼくたちを必要とする瞬間、世界が変貌《へんぼう》しようとする瞬間が、たったいま、あるいは間もなく訪れるというのは、なんと不思議なことだろう。デーミアンの言うとおり、センチメンタルに考えてはいけないことだ。ただ注目すべきは、ぼくがこれで『運命』というきわめて孤独なものを、こんなにも多くの人々、いや全世界の人々といっしょに体験する羽目《はめ》になったことだ。まあ、それもよかろう。
覚悟はできていた。夕方、町を歩いていくと、どこもかしこも大きな興奮でわきかえっていた。いたるところで『戦争』という言葉が聞かれた。
ぼくはエーヴァ夫人の家に行った。ぼくたちは小さなあずまやで、夕食をとった。客はぼくひとりで、だれも戦争のことは、ひとことも口にしなかった。ただあとになって、ぼくが帰りかけたころ、エーヴァ夫人はこう言った。
「ジンクレールさん、きょうあなたは、わたくしを呼んでくださいましたね。わたくしがなぜ自分で伺わなかったのか、おわかりですね。でも、忘れてはいけませんよ。あなたはこれで、呼び方がおわかりになったんですから、もしだれか、あのしるしを持った人が必要なときには、いつでもまたお呼びくださいね」
夫人は立ちあがると、たそがれの庭を先に立って歩いた。この神秘的な女性は、おおらかに、堂々と、物言わぬ木立《こだ》ちをぬって歩をはこんだ。その頭上には無数の星が、小さく、またやさしくまばたいていた。
ぼくの物語りも終わりに近づいた。情勢は急速なテンポで進んだ。やがて戦争になった。そしてデーミアンは、銀ねずみ色の外套《がいとう》に軍服という妙によそよそしい姿で、あわただしく出発した。ぼくは彼の母を家まで送って行った。やがてぼくも夫人に別れを告げた。彼女はぼくの口に接吻し、一瞬ぼくを胸にだきしめてくれた。そして彼女の大きな目は、間近でじっと燃えるように、ぼくの目を見つめていた。
すべての人々は、きょうだいになったかのようであった。みんな祖国と名誉のことを考えた。しかしみんなが一瞬その素顔をまともに見たものは、運命だったのだ。若い男たちが兵営から出てきては、列車に乗りこんだ。そして多くの顔に、ぼくはあるしるしを認めた。――ぼくたちのしるしではなく――愛と死を意味する美しくて威厳のあるしるしであった。ぼくも、これまでに会ったこともない人たちからだきつかれたが、それもあたりまえだと思い、喜んでだきかえした。彼らがそうしたのは陶酔《とうすい》していたからで、運命の意志からではなかったが、しかしその陶酔は神聖なものだった。それは彼らすべてが、瞬時ではあるが、運命の目をまともに見つめて心をゆり動かされたことに由来していたのである。
ぼくが戦場に来たときは、もうかれこれ冬であった。
はじめのうちぼくは、たえまのない射ち合いの目ざましさにもかかわらず、すべてに幻滅《げんめつ》を感じた。以前ぼくは、理想のために生きることのできる人間が、どうしてこんなにも少ないのだろうかと、ずいぶん頭をひねったことがある。いまぼくは、多くの、いや、すべての人間が、理想のために死ぬことができるのを見た。ただしそれは、個人的な、自由な、えらばれた理想であってはいけなかった。それはひきつがれた、共通な理想でなければならなかったのである。
しかしときがたつにつれてぼくには、自分が人間を過小評価していたことがわかってきた。勤務と共通の危険のために、彼らはきわめて画一的なものになっていたとはいえ、それでもぼくは、多くの人たちが、生き残る人たちも死んでゆく人たちも、運命の意志に花々しく近づいてゆくのを見た。多くの、実に多くの人たちが、攻撃のときばかりではなく、どんなときでも、じっと見つめる、はるかな、いくらか物に憑《つ》かれたような目つきをしていた。目的などということはまるで知らず、巨大なものに身も心もうちこんでしまったような目つきである。この人たちは思いのままのことを、何を信じようと、また考えようと、それはかまわないのだ。彼らは覚悟ができているし、役にも立つし、彼らをもとにして、未来は形成されうるだろうから。そして世界がますますかたくなに、戦争とか武勇とか、名誉とかその他の古くさい理想にしがみつくかに見えれば見えるほど、また、うわべだけの人間性の声という声が、ますます遠のいて、うそらしく聞えれば聞えるほど、それらはすべて表面的なものにすぎなくなった。それはちょうど、戦争というものの外面的・政治的目標を云々《うんぬん》することが、うわっつらだけのことに終ったのに、そっくりであった。底のほうでは、何かが、何か新しい人間性とでもいうようなものが、生まれかけていた。なぜならぼくは、多くの人たちを見ることができたが――彼らのなかには、ぼくのすぐそばで死んで行った者も少なくなかった――彼らは、憎悪と憤怒《ふんぬ》、殺害と破壊が、当面の相手に結びつけられてはいないということを、感情的に見抜いていたのである。そうだ。相手も、戦争目的と同じく、まったく偶然的なものであった。人間の心の奥底にある感情は、どんなに荒々しいものでも、敵を目ざしているものではなかった。その感情の血なまぐさい働きは、心の内部の、つまり自己分裂を起こした魂の放射にすぎなかった。魂は新しく生まれかわるために、荒れ狂い、人を殺し、破壊し、死のうとしていたのだ。巨大な鳥が身をもがきながら、卵から抜け出ようとしていた。その卵とは世界であった。世界はくずれ去るほかはなかったのである。
占領した農家の前に、ぼくは早春の一夜、歩哨に立っていた。弱い風がときおり気まぐれに、吹いていた。フランドル〔ベルギー・オランダ・フランスに属する北海沿岸地方〕の高い空に、雲の群れが走った。月はどこか雲のかげに隠れているらしかった。その日はもう朝からずっと、気が落ちつかなかった。わけのわからない不安に、心は乱れていた。こうしていま、暗い哨所《しょうしょ》に立ちながらぼくは、これまでのぼくの人生のさまざまな映像、エーヴァ夫人のことやデーミアンのことを、しみじみと思い浮かべた。ポプラの木にもたれて、あわただしい空の動きに見入っていると、ひそかにゆらめく空の明るいあたりが、やがて大きな映像となって、次々とわき出てきた。ぼくは自分の脈拍が不思議なほど弱く、自分の肌《はだ》が風や雨に対して鈍感になっているのに、心のなかはきらめくばかり目がさえていることから、ある指導者が身近にいるな、と感じた。
雲のなかに大きな都市が見えた。そこから何百万という人間が流れ出てきて、群れをなして広大な地域に散らばっていった。彼らのまっただなかへ、力強い神の姿をしたものが、きらめく星を髪飾りにして、山脈のように大きく、エーヴァ夫人さながらの顔立ちで現われた。すると人々の行列はその姿のなかへ、大きな洞穴《ほらあな》に吸いこまれでもするかのように、消えてゆき、見えなくなった。女神は大地にうずくまった。その額《ひたい》のほくろが、明るくかすかな光を放っていた。女神は何か夢に憑かれているらしく、目はとじたままであった。そして女神の大きな顔は、苦痛にゆがんでいた。突然、女神はかん高い叫び声をあげた。するとその額から星が飛び散った。何千というきらめく星だ。これらの星がすばらしい弧《こ》や半円を描きながら、暗い空一面に舞いあがった。
その星のひとつが、かん高いひびきをたてながら、まっすぐぼくを目がけて突進してきた。ぼくをさがし求めているようだった。――と思うと、その星はうなり声をあげ、無数の火花となってぱっと飛び散った。ぼくをグーンと空高くはねあげたかと思うと、また地面にたたきつけた。世界がすさまじい音をたてて、ぼくの頭上にくずれ落ちてきた。
ぼくはポプラの木の近くで、土をかぶった傷だらけの姿で発見された。
ぼくはある地下室に寝かされていた。大砲が頭の上でうなり声をたてていた。ぼくは馬車のなかに寝かされ、何もない野原をガタガタとゆられていった。たいていは眠っているか、意識を失っているかであった。しかし眠りが深ければ深いほど、自分が何ものかに引き寄せられ、自分を支配する力のままになっていることを、ますます激しく感じるのであった。
ぼくはどこか家畜小屋のわらの上に寝かされていた。そこは暗かった。だれかがぼくの手をふんだ。しかしぼくの心は、もっと先へ進みたがっていた。もっと強い力で、ぼくを引っぱるものがあったのである。ふたたび馬車に乗せられ、それから担架《たんか》かはしごだかに乗せられたが、どこかへ行け! と命じられていることを、ますます強く感じ、もういいかげんにそこへ行きつきたい、という衝動のほかは、何ひとつ感じなかった。
そのうち目的地に着いた。夜だった。意識はすっかりもどっていた。ちょうど心のなかに引力と衝動を力強く感じたばかりだった。このときは、ある広間の床の上に寝かされていた。すると、呼びよせられたところに来ているんだな、と感じた。あたりを見まわすと、ぼくのマットレスのすぐ隣に、もうひとつマットレスがあって、その上にだれかが寝かされていた。その男が体を乗りだすようにして、ぼくをじいっと見つめた。その額《ひたい》にしるしがついていた。マックス・デーミアンであった。
ぼくは言葉が出てこなかった。彼も同じだった。それとも彼は、口をきく気がなかったのかもしれない。ただぼくをじいっと見つめるばかりだった。彼の枕もとの壁にかかっている吊りランプの灯かげが、彼の顔を照らしていた。彼はぼくにほほえみかけた。
はてしもなく長い間、彼はたえまなくぼくの目を見つづけていた。彼はそろそろとぼくのほうへ顔を近づけてきたので、しまいに顔がふれあうばかりになった。
「ジンクレール」と彼は、ささやくような声で言った。
ぼくは目つきで、彼の言うことがわかるよ、と合図した。
デーミアンはまたほほえんだ。ほとんどあわれむかのように。
「おい、坊や」と彼は、ほほえみながら言った。
彼の口は、もうぼくの口にふれんばかりであった。小さな声で彼は話しつづけた。
「君、フランツ・クローマーのこと、いまでも覚えてるかい?」と彼は聞いた。
ぼくは、まばたきをして見せた。ぼくのほうも、ほほえむことができた。
「ねえ、ジンクレール、よく聞くんだぜ。ぼくはそのうちここを出なきゃならないだろう。君はおそらく、いつかまたぼくを必要とすることがあるだろうな、クローマーとか、またほかのだれかに対してね。そのときにはぼくを呼んだって、そう手軽に、馬に乗ったり、汽車に乗ったりして、来てあげられないよ。そんなときにはね、君自身の心の声に耳をすまさなければいけないよ。そうしたら、君の心のなかにぼくがいるのに気がつくはずだ。わかるかい?――それにもうひとつ。エーヴァ夫人のことづてなんだが、君がいつか困るようなことがあったら、そのときは、かわりに君にキスしてあげるように言われてるんだ。そのキスは、夫人からあずかってきているわけだ……さあ、目をつぶって! ジンクレール」
ぼくは言われるままに目をつぶった。かすかな口づけを唇に感じた。ぼくの唇には血が少しずつ、ひっきりなしに出ていて、なかなか止まりそうもなかった。それからぼくは眠りに落ちた。
朝になってぼくは起こされた。包帯をしてやるというのだ。やっとほんとうに目がさめたとき、急いで隣のマットレスのほうへ向きなおった。そこに寝ていたのは、一度も見たことのない赤の他人であった。
包帯するのは痛かった。あれ以来ぼくの身に起こったことは、何もかも痛かった。しかしときおり鍵を見つけて、完全に自分の心のなかへ、つまり、暗い鏡のなかに運命の映像がまどろんでいるところへおりていけば、あとはただ、その黒い鏡の上に体をかがめるだけで、ぼく自身の映像が見られるのだ。それはいまでは彼に、ぼくの友であり指導者でもある彼に、まったく生きうつしの姿だ。(完)
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解説
人と文学
わが国で全集や単行本として公刊されるドイツ作家のなかで、ゲーテにつぐものはヘッセであろう。また日本の高校生の愛読書としては、現代ドイツ作家ではヘッセが群を抜いて多く読まれるという。ヘッセがこれほどまでに、とくに若い読者層に愛され親しまれるのは、どうしてだろう? なるほどヘッセの作品には、いかにも若い人ごのみの愛だとか、夢だとか、また孤独だとか苦悩だとかいう言葉がよく出てくる。しかしこれだけであれほどまでに強く読者の心に食い入ることができるだろうか? この謎を解くためにわたくしたちはまず詩人の生い立ちから『デーミアン』にいたるまでの歩みをたどってみよう。
[出生]ヘルマン・ヘッセは一八七七年七月二日、南ドイツ、シュヴァーベン地方の小さな町カルヴに生まれた。後年ヘッセの作品の舞台としてしばしば描かれたこのシュヴァルツヴァルト――黒い森――のナーゴルト河畔《かはん》の町は、現在でも人口一万ほどの田舎町であるが、色とりどりのロマンチックな木骨《もっこつ》家屋が多く、カワマスの遊ぶ小川にかかる橋、クリの木のしげる山腹に連なる草原など、いかにもシュヴァーベンの典型的な雰囲気につつまれた美しい町である。
父ヨハネス・ヘッセの祖先はリューベック市の出であるが、いつの代からか旧ロシア領エストニアに移住し、ヨハネスも国籍はロシア人であった。彼は少年時代、実母と継母を相ついで失ったためもあろうが、信仰に生きる決心をし、十八歳のときエストニアを去って、スイスの伝道団に加わった。やがてインド布教に従事したが健康を害して帰国、伝道団の指示でカルヴに赴《おもむ》き、詩人の祖父、博学なインド学者ヘルマン・グンデルトの助手になった。
母マリー・グンデルトは『聖書のグンデルト』と呼ばれたシュヴァーベンの名門の出で、インドで布教活動をしていた父ヘルマン・グンデルトと、フランス系スイス人ジュリー・デュボアとの間に生まれ、父とともに帰国後ドイツ系イギリス人宣教師と婚約、インドに渡って結婚して二児を得たが、夫に先立たれて、二八歳の若い未亡人の身でカルヴの父のもとに帰り、父の宗教出版の手伝いをしていた。やがて三年後ヨハネス・ヘッセと相知り、翌年結婚したのであるが、当時ヨハネスは二七歳、マリーは三二歳であった。詩人の父は長身で、頭のいい善良な人物であったが、孤独で憂うつな求道者的性格で、母は音楽好きで、ゆたかな感情に恵まれていたようである。この二人の間に六人の子どもが生まれたが(二児は早逝《そうせい》)、ヘッセは三番目の子であった。
この家系を見てもわかるように、ヘッセの世界市民的素質は血統にもとづくものであり、またおもしろいと思ったのは、詩人の祖父ヘルマンよりも、祖母デュボアが五つ年上、また前述のとおり、詩人の父より母が五つ年上、しかも詩人自身、最初の夫人マリーアは九歳も年上という、俗にいう『姉さん女房』だということである。それはともかく、詩人が布教師一家という敬虔主義的な雰囲気、重苦しい、ときには陰うつな家庭的環境に育ったことは、後年、詩人の作風にも大きな影響を及ぼしている。
幼年のヘッセは利発な、おませであったが、負けん気の強いところもあったようで、母の日記には「ヘルマンは幼稚園に通っている。はげしい気質がわたしたちの悩みの種」と記されている。またこのころすでに「詩らしいもの」が口をついて出たという。
[少年時代]幼いヘッセは、父の仕事の関係で一時スイスのバーゼルに移ったが、九歳のとき、一家は再びカルヴにもどった。そして十三歳までカルヴのラテン語学校に通うわけだが、この四年間の生活は『デーミアン』の初めの部分や『車輪の下』『ゲルバースアウ』などにも扱われている。やがて少年は父母のもとを離れて、ゲッピンゲンのラテン語学校に転じるが、それは、この学校が州試験の合格率がよいので定評があったからで、また州試験合格者は名門校であるマウルブロンの神学校へ、給費生として入学を許可されていたから、いわば『越境入学』のようなものである。もちろんこれは父の意志によるもので、父としては息子に神学をやらせたかったのであろうが、当時早くも少年の胸には、詩人への道を進む気持ちが動いている。
一八九一年七月、十四歳のとき目的のマウルブロン神学校に入学しながら、一年もたたない翌年三月、ひそかに神学校を脱走して行方をくらましたのは、少年ヘッセの内面の苦悩を物語る事件として、詩人の生涯では有名なものであり、後年『車輪の下』の素材ともなったものである。詩人的性格の強い少年にとって、神学校の重苦しい空気は、ついに耐えきれないものであった。当時少年は空想にふけり、詩作に心を奪われて、勉強は手につかなかったといわれる。
脱走の翌日、寒気にふるえながら森をさまようところを警官に発見され、学校に連れもどされたが罰則を食い、教師ににらまれ、同級生には白い目で見られた少年は、ここに初めて孤独を味わう。ほぼこの事件を境として、少年の生活は大きな変化を受け、精神の危機が訪れるのである。休暇で帰省しても家人は、はれものにさわるように彼を取り扱う。おもしろくもない毎日がつづく。このあたりは『デーミアン』の第四章の描写と比較して、興味のつきないところである。
やがて新学期がめぐってきたが、痛めつけられた少年の神経はとうてい学業に耐えられない。救う道はひとつ、休学だけである。そこで精神障害の治療で名のある神学者ブルームハルトのもとにあずけられるが、ここでも少年は自殺を企てたりする。驚いた母親が駆けつけても、少年はかたくなに黙りこくって返事もしない。
翌年、表面的にはどうやら平静をとりもどした少年は、カンシュタットの高等学校に編入されたが、反抗的態度が目立ち、一年後には退学という破目になる。息子の学業に見きりをつけた両親は、息子をエスリンゲンの本屋の見習いにするが、ここも三日後には逃げ出してしまう。その後しばらくは両親のもとで、家業を手伝ったり、書庫にこもって読書にふける生活がつづくが、やがて一八九四年、自発的にカルヴの機械工場で働くことになる。学業にもつかず、将来の見込みもないまま両親を悩ませているのがつらかったのであろうが、少年の精神の危機も、しだいに遠のいていったようである。
[青年時代]翌年、十八歳になったヘッセは工場をやめて、テュービンゲンのヘッケンハウアー書店の見習いとなるが、ここでもよい店員ではなかった。というのも、読書と創作に心を奪われていたからだ。彼はとくに、ゲーテとロマン派の作家たちに親しみ、二二歳のとき処女詩集『ロマン的な歌』を自費出版し、ついで散文集『真夜中すぎの一時間』を公刊したが、売れ行きは発行部数(六〇〇部)の一割にもみたず、やがて彼の勤務ぶりに愛想《あいそ》をつかした書店主とも衝突して、この書店も去ることになる。しかしともかく三年もの間、まがりなりにも見習いの仕事を勤めあげたのは、彼なりの活動の場を見出せたと言ってよく、さらに売れ行きこそ悪かったが『真夜中すぎの一時間』が、リルケやショルツに認められたことは、作家としての将来に、ひそかな自信を芽生えさせることになる。
この年の秋ヘッセは、バーゼルのライヒ書店に移るが、このときから詩人の生涯において、実りゆたかな時期となったバーゼル時代が始まる。この町に来てヘッセはにわかに交友範囲が広まり、歴史家のヴァッケルナーゲル、美術史家ヴェルフリーン、さらにニーチェ研究家ヨエルなどの知己《ちき》を得て、教えられるところが多く、また牧師ラ・ロッシュの家庭を知り、一九〇一年に、テュービンゲン時代から書き始めていた『ヘルマン・ラウシャー』が、書店主の好意でライヒ書店から出版される。ロマン派的な色彩の濃い作品で、自虐《じぎゃく》的なまでの自己分析と、分析の結果生まれる重苦しい憂うつな夢想と憧憬《どうけい》のにじみ出たものであるが、ベルリンの大出版社フィッシャーは、スイスの作家パウル・イルクのすすめでこの作品に目をつけ、ヘッセに新作を依頼する。こうして一九〇四年、最初の「文学的成功」といわれる『ペーター・カーメンツィント』〔邦訳名『郷愁《きょうしゅう》』または『青春彷徨』〕が現われ、ヘッセの文壇的地位はここに確立する。西欧の都市文明に失望して故郷に帰る自然児ペーターは、雲と山水を友として自己の道を求める。真の人間愛の探求と現代文化に対する批判は、美しい自然描写と相《あい》まって、嵐のような喝采を浴びるのである。
[ガイエンホーフェン時代]この『郷愁』の成功はヘッセの生活にも一時期を画することになり、一九〇四年マリーア・ベルヌイと結婚するとともに、ボーデン湖畔の漁村ガイエンホーフェンに移り住んで、創作に専念する。妻マリーアは、ヘッセが前年イタリア旅行で知り合ったバーゼルの有名な数学者の娘で、すぐれたピアニストであったが、前述のようにヘッセより九歳も年上、しかも神経質な人であった。
ガイエンホーフェンの生活は八年つづくが、その間詩人は欧州の各地に旅行し、多くの雑誌に寄稿し、比較的順調に執筆活動も進む。この時期の作品には中短編が多く、回顧的な傾向が強いが、最大の収穫は『車輪の下』である。神学校を脱走したころの体験にもとづく自伝小説で、親や教師の無理解によって子どもの無意識の魂が押しつぶされる物語であるが、教育制度に対する鋭い批判によって大きな反響を呼んだ。また『ゲルトルート』(邦訳名『春の嵐』)は、青春のあやまちと諦念《ていねん》による幸福を描いたもので、数年後発表された『ロスハルデ』(邦訳名『湖畔の家』)と同様、芸術家小説である。
[第一次大戦]一九一一年夏、友人の画家と東南アジア旅行を企てたのは、一応安定したかに見えるガイエンホーフェンの生活からの逃走であり、西欧文化からの逃避であった。マリーア夫人との生活が順調であったのは、わずか数年にすぎなかった。前記の画家小説『ロスハルデ』は、詩人自身の夫婦生活の破局を反映する不幸な芸術家夫婦の物語であるが、そのようなきざしはすでに、この旅行の前から見られたのであろう。帰国後の翌一二年ヘッセは家族とともにベルン郊外に移住する。やがて一四年第一次世界大戦勃発とともに、捕虜慰問に専念、ひかえ目に与えた短い警告文のために、非国民呼ばわりされ、ドイツ出版界からもボイコットされ、経済的にも苦境におちいる。このときヘッセを支持したものに、のちの西独大統領ホイスと、ロマン・ロランがいた。若きジャーナリスト、ホイスは激しい論調でヘッセを擁護し、ロマン・ロランは「この悪魔的な戦争のさなかにあって、真にゲーテ的態度を保持した人」と賛嘆した。
一九一五年、放浪の散文詩ともいうべき『クヌルプ』(邦訳名『漂泊《ひょうはく》の魂』)が刊行される。抒情的な哀調に富む前期ヘッセ文学の極致《きょくち》である。しかし戦争の深刻化とともに、詩人一家も恐ろしい嵐にまきこまれる。一六年には父の死、ついで末子の重患、加えて妻の精神病は年ごとに悪化の一路をたどり、詩人自身も前述の捕虜慰問文庫の編集事務による過労と、戦争との思想的対決を迫られて、激しい神経障害に悩み、転地療養をつづけながら精神病医ラングの治療を受けることになるが、これがヘッセのその後の生活と文学に、いままでにない大きな転機をもたらすことになる。すなわち、詩人はこれによってフロイト派の精神分析を知り、この体験と魂の試練から、詩人の作家活動で新たな時期を画し、後期ヘッセの第一作といわれる『デーミアン』が生まれるのである。
『デーミアン』
[成立の背景]『デーミアン』――ある青春の物語 エーミール・ジンクレール作――が、第一次世界大戦が終った翌年、つまり一九一九年、フィッシャー書店より刊行されると、多大の反響をまき起こし、ことに青年層に爆発的な人気を呼び、シュペングラーの『西洋の没落』とならんで、ドイツ青少年にむさぼり読まれたという。トーマス・マンも『デーミアン』のアメリカ版の序文(一九四七年)で、「ジンクレールの『デーミアン』が招いた電撃的効果は、忘れることができない。……『デーミアン』はドイツでは、かつての『ヴェルテル』の効果を思わせる」と述べている。またすぐれた文芸評論家クルティウスは、『デーミアン』の出現を、『魔法の一撃』と呼んでいる。
『デーミアン』は戦時中の一九一七年に書き始められたが、前述のようにヘッセ自身が精神分析による治療を受けたことが、大きな影響を与えている。それは文字どおり大きな影響で、詩人自身の潜在意識の探索の書とさえ言われている。事実ヘッセ自身、一九一六年五月から翌年一一月までの間に、七〇回以上も――一回の治療時間は約三時間――精神分析治療を受けている。さらにヘッセ伝作者フーゴー・バルによれば、ヘッセの神経症の主治医ラングのすすめでその師ユング、またフロイトはもとよりブロイラーやシュテーケル――いずれも指導的な精神分析学者――の著述に親しんだという。ユング教授はフロイトから出発して、のちにその影響を脱し、フロイトの個人主義的無意識のほかに、集合的無意識を想定したスイスの心理学者・精神病医で、彼の説はコンプレックスの心理学、または深層心理学と呼ばれているが、彼が一六年に非売品として印刷し、友人知己に贈ったといわれる小冊子には、アブラクサスについて詳細な記述があり、また主治医ラングの治療法には、『デーミアン』の孤独な音楽家ピストーリウスが、少年ジンクレールに試みた方式を思わせるものがあるばかりか、ピストーリウスはラングの面影をそのまま伝えているという事実――もっともラングは音楽好きではなく、絵画に強く惹かれていたというが――これらの事実を考え合わせると、精神分析による治療の体験が、『デーミアン』の成立に与えた影響がいかに大きいものであるか、改めて言うまでもあるまい。なお『童話集《メールヒエン》』(一九一九年)にも、主治医ラングとの談話は、部分的に素材を提供しているという。
そして前述のように、この体験と魂の試練から生まれたものが『デーミアン』だとすれば、魂の試練とは、はたしてなんであろうか? 戦争によって投げかけられた大きな影、社会的圧迫、生活の窮乏化、さらに『ロスハルデ』に見られる夫婦生活の危機、意識と無意識の相克《そうこく》、このような物心両面の行きづまりから、詩人はそれまで足をふみ入れたことのなかった自身の暗い内面を知り、フロイト派の精神分析の体験から、さらに無意識の内面世界に導かれたのである。『デーミアン』は、年長の友の指導によって、こういう自己の姿に目ざめて行くジンクレールを描き、『選ばれた人々』を表わすカインのしるし、既成《きせい》道徳に支配されぬアブラクサスの世界、ハイタカに象徴されるリビドー、精神的荒廃からの再生、万人共通の母・永遠の恋人の象徴であるエーヴァ夫人による救いを描いたものである。
『デーミアン』については、出版にまつわる有名なエピソードがある。この本は初めジンクレールという無名作家のものとして刊行された。ところが前述のように爆発的な人気を呼び、この新進作家に「フォンターネ」賞が授けられる騒ぎになった。しかしこの作品がヘッセのものだと見抜いた人がいて、詩人自身も翌年これを認めたが、文学賞はかたく辞退したという。
[構成]この小説は第一次世界大戦に従軍、重傷を負った一青年エーミール・ジンクレールの回想という形式になっている。健康的で経済的にも恵まれた良家の子弟として育ったジンクレールは、幼いころから、両親や姉たちの住む『明るい世界』のほかに、『暗い世界』のあることを、おぼろげながらも感じ、ときとするとこの悪の花咲く世界に心をひかれる。やがてこの十歳のラテン語学校生は、子供っぽい英雄気取りで、ふと、うそをついたことから、不良少年フランツ・クローマーの手におちいり、悪の道に引きずりこまれてしまう。いくらもがいても逃げきれない苦しみから彼を救ってくれたのは、たまたまこの学校に転校して来たマックス・デーミアンであった。ジンクレールより少し年上であるが、すでにおとなびた顔立ちのデーミアンは、カインの子孫のしるしを額《ひたい》につけた、超感覚的で異常な精神力の持ち主で、裕福な未亡人である母親とは、母子《おやこ》というよりも恋人同士のようだといわれるほど、神秘の謎につつまれた少年である。それからというもの二少年の間には深いつながりが生まれ、デーミアンは年少の友ジンクレールの良き導き手となる。
やがてジンクレールは、原始的な本能が自分自身のなかにも生きていることを知らされる年ごろになる。彼の周囲で幼年時代はすでに、音をたててくずれ落ちていた。宗教の時間に聞いた聖書の説明に、別な解釈も成り立つことを知って悩むのも、また堅信礼《けんしんれい》準備のための授業と、性の悩みが重なり合って苦しむのもこの時期であるが、教えを乞うべきデーミアンはすでに姿を消していて、少年は一人おもい悩む。高校時代には寮の先輩アルフォンス・ベックに誘われて、恋の火遊びを語り、性の冒険を聞き、酒を飲むことを覚えて、自堕落《じだらく》な生活に身を持ちくずし、放校の一歩手前まで行くが、ひそかに純愛を捧げる少女ベアトリーチェの出現によって、自己への道に引きもどされる。その少女の肖像をかいて見ると、デーミアンに似ていることに気づく。また卵の殻を破って抜け出ようとするハイタカの絵に、異常な感銘を覚えて、その絵をデーミアンに送る。世にも不思議な方法でデーミアンから返事が舞いこむが、これによってジンクレールは、神と悪魔の両面を備え、欲情をも否定しない神、明暗ふたつの世界を統合する異教の神アブラクサスを知るようになる。この神は、孤独で風変わりな音楽家ピストーリウスとの出会いで、さらに彼に身近なものとなり、人間的にも大きく前進するが、やがてこの音楽家とも決別して再び自己の道にもどる。
高校を卒《お》えて大学に進むこととなったジンクレールは、休暇中のある日、デーミアンが以前母とふたりだけで住んでいた家を訪れ、新しい家人からデーミアンの母のアルバムを見せられて驚く。それはいままで幾度となく夢に見た母と呼ぶ愛人の姿であった。この母の似姿を求めて、あてどもない旅に出る。やがて大学に入学したジンクレールが、ひそかに期待していたデーミアンとの再会の日が訪れる。夢のなかで恋い慕っていた母なる恋人にも親しく迎えられ、『愛する』とはどういうことかを教えられる。彼らはヨーロッパ文化の荒廃とともに、新しい世界の誕生が近づきつつあることを予感する。生まれ出ようとするものが卵の殻を破らなければならないように、いまや世界が新しく生まれ変わるために崩壊していくのを感じる。デーミアンのあとを追うように出征したジンクレールは、重傷を負い野戦病院で奇《く》しくもデーミアンに再会する。翌朝、ジンクレールの隣のベッドには、もはやデーミアンの姿はなかった。しかしジンクレールは、いまにして初めて自分の姿こそ、よき友にして導き手であったデーミアンその人の姿と同じものであり、自己を導くものは、自分自身にほかならないことを悟る。この作品の最後の章に示された古いヨーロッパ文化の崩壊と、新しい世界の誕生は、当時第一次世界大戦後のドイツ青年層に、空前の感激をもって迎えられたという。
[文学史上の位置]若くして世を去ったすぐれたヘッセ伝作者フーゴー・バルは、ヘッセを評して「ロマン派の輝かしい隊列の最後の騎士」と呼んでいるが、たしかにヘッセは一時、「新ロマン派」の作家と呼ばれたことがある。しかし彼の本質は、かんたんに一流一派に数えられるようなものではない。彼の作風は第一次大戦のころを境として、かなりの変化を見せている。初期の作品『ヘルマン・ラウシャー』から出世作『ペーター・カーメンツィント(郷愁)』『車輪の下』『ゲルトルート(春の嵐)』『ロスハルデ』を経て、『クヌルプ(漂泊の魂)』にいたるまでは、憧憬と抒情の領域にとどまり、美と愛に陶酔するロマン派的色彩の濃い作風であった。しかし『デーミアン』になると、積極的に潜在意識の深みに足をふみ入れ、自己を見つめ、運命を求めて、ジンクレールの夢はさまよいながら、ついには真の人間の姿に目ざめて行く。『デーミアン』が後期ヘッセの第一作といわれるのはこのためである。さらに前期の作品とくらべてこの小説は、全体的に暗い、ときには陰うつな感じを与えることさえあるが、しかしこの暗さは決してそのまま終らず、ほのかな光明《こうみょう》をたたえて、読む人の心をなごやかにし、やがて澄みわたった大空への窓を開いてくれる。この大空への窓は、そのまま新しい創作活動の窓を開いたものとして、作風ばかりではなく、文学史的に見ても、独特な地位を占めるものといえよう。なお、この作品に幾度となく現われる夢の話や夢判断、読心術《どくしんじゅつ》や精神分析などは、フロイト派の大きな影響の実りであり、ヘッセの思想、新しい領域を知る上に、見のがすことのできない重要性を持つものである。第二次世界大戦後欧米のヘッセ翻訳には、『デーミアン』以降の作品が多いという。この傾向にも注目すべきであると思う。
『デーミアン』は、近代ヨーロッパ文化に対する鋭い批判の書として、またヘッセが精神的文化人として、時代の現実にまっこうから挑《いど》んだ作品として、まことに重大な意義を持つものである。この意味では、ヘッセは若き日のロマン主義から、現実の世界に舞いもどったリアリストとも言うことができよう。たしかに彼の文明批判は、二度の大戦を経た現在でも通用するほど深い価値を持つものであるが、しかしこの面をあまり重視して、一種の傾向文学と見るとすれば、それはまったく当を失《しっ》したものといえよう。ヘッセの求めたのは、あくまで人間性の本質の探究であり、魂のいつわらざる記録だからである。
[作品の鑑賞]一般にヘッセの作品は、物語の筋の展開よりも、物語に登場する人物の発言に、深く心を打たれ、大きな魅力を感じることが多いといわれる。『デーミアン』もこの例外ではないから、その点に心して読むべきであろう。――もっとも『デーミアン』では、筋の展開そのものも見事で、読む人の心をぐいぐいと引きずって行くが――この作品の扉に次のような言葉がある。
「ぼくはただ、ひとりでにぼくのなかから生まれ出ようとするものを、生きてみようと思っただけだ。それがどうしてこんなにもむずかしいものだったのだろうか」
この沈痛な叫びに読者はまず胸をしめつけられるであろう。さらに冒頭の言葉に注目すべきものがいくつかある。この物語は「現実に存在した、ただ一度きりの、生きた人間の物語」という言葉で、ヘッセの作品が絶えず読者に親しまれ愛される秘密は、ここにあるのではないだろうか。つまり彼の作品には、しいたげられた生活のひとこま、ひとこまが、架空の物語ではなくて、生きた人間の体験として語られているからであろう。また「どんな人間の生活も、自分自身の道であり、ひとつの道を試みることであり、ひとつの小径《こみち》の暗示である。どんな人間でも、百パーセントその人自身になりきったというためしはない」。これは、人生を自分自身への道だとするヘッセの人生観をよく表わすもので、混迷《こんめい》のなかでつねに自己を再発見し、自分自身への道に帰ろうとするジンクレールの姿が、そのまま詩人の姿なのである。
ヘッセの文体の美しさには定評がある。ドイツ有数の文体論学者ルートヴィヒ・ライナースも、二十世紀のドイツ作家としては筆頭に挙げて、シュニッツラー、シュトラウス、フーフ、ザイデルと五指に数えて、典型的なものと激賞している。昔は、流れるようなリズミカルなひびきに魅せられて、ヘッセを原文で愛読した学生も多かった。
前にも触れたように『デーミアン』に示された詩人の文明批判を、あまりに重視することはつつしまなければならないが、しかし二度の大戦を経験した現在でも、わたくしたちの胸を強く打つ言葉、「現在のヨーロッパは、とほうもない努力をかたむけて、人類の強力な新兵器をつくりだしはしたものの、そのあげくついには、深刻な、だれの目にも明らかな精神的荒廃におちいってしまったのだ。というのは、全世界を掌中におさめながら、そのためにかえってヨーロッパは、自分の魂を失ってしまったからだ」……「魂は新しく生まれかわるために、荒れ狂い、人を殺し、破壊し、死のうとしていたのだ。巨大な鳥が身をもがきながら、卵から抜け出ようとしていた。その卵とは世界であった。世界はくずれ去るほかはなかったのである」
この詩人の言葉が、時代の予言者そのままに、『デーミアン』公刊以来五〇年を経たいまでも通用するとは、なんという悲しい現実であろう。(訳者)