郷愁
ヘルマン・ヘッセ/佐藤晃一訳
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
解説
初めて『郷愁』を読んだころ
あとがき
[#改ページ]
第一章
はじめに神話があった。偉大な神は、かつてはインド人やギリシア人やゲルマン人の魂に宿って、詩を作りながら表現を求めたが、いまでもすべての子どもたちの魂に宿って、日ごとに詩を作っている。
故郷の湖や山や小川の名は、わたしはまだ知らなかった。しかしわたしは、青みどりの色のなめらかな水面に無数の小さな光を浮かべている湖や、それをきっちりと取りまいている切り立った山々を見た。山々の最も高い割れ目が、きらきらと輝く雪渓になったり、小さな、ちっぽけな滝になったりしているのを見た。山々のふもとの、傾斜した明るい草地に点在する果樹や、小屋や、灰色のアルプス牛などを見た。そして、わたしのあわれな小さな魂はいかにも空《から》っぽで、ひっそりとして、何かを待っているばかりだったから、湖の精や山々の精が、その美しい大胆な行為のかずかずをわたしの魂に書きつけたのだった。
不動の岩壁や絶壁は、古い時代の息子《むすこ》で、それらの時代の傷跡をとどめているのだが、反抗的に、同時に畏敬《いけい》の念をこめて、それらの時代のことを語った。大地がひび割れ、反《そ》り曲がって、生成の苦悩にうめきながら、いためつけられた胎内から絶頂や山の背を生み出した当時のことを語った。岩山が吠《ほ》えはためきながら盛りあがっていってついには目標を失い、折れて、絶頂をかたちづくった。ふたごの山と山とが絶望的に苦しみながら居場所を争い合い、ついには一方が勝って、高まって、他方をわきへ投げとばし、へし折ってしまった。いまでもまだ、あちこちの高い山峡に、むかしの時代の折れた山頂や、押しのけられて割られた岩がひっかかっていた、そして、雪どけのたびに急流が、家ほども大きな岩のかたまりを下へ押し流しながら、ガラスのように紛みじんにしたり、力強い打撃を加えて、やわらかな草地に深くめりこませたりするのだった。
これらの岩山はいつも同じことを言っていた。かれらの言うことは、切り立った岩壁を見ると、造作もなくわかった。どの岩壁の層もすべて折れたり、ねじ曲がったり、割れたりして、ぽっかりとあいた傷だらけになっていたのである。「おれたちは恐ろしい苦しみをなめてきた」と、かれらは言った、「そして今でも苦しんでいる」しかし、かれらは頑健《がんけん》な老戦士のように、誇らかな、きびしい、頑固《がんこ》な口調でそう言うのだった。
いかにも、これらの岩山は戦士だった。わたしは、アルプスおろしのはげしい南風《フエーン》がかれらの年老いた頭のまわりで咆《ほ》えたて、急流がかれらの横腹から新しい、生《なま》の岩塊をひきちぎる、早春の恐ろしい夜に、かれらが水やあらしと戦うのを見た。かれらは、こういう夜には反抗的に岩根を張り、暗い顔をして、息を切らしながら、頑強に立ちはだかり、あらしに対抗して割れた岩壁や岩角を突き出し、反抗的に頭をかがめながら、あるかぎりの力を集中し、緊張させるのだった。そして傷を負うたびに、ごろごろという、憤怒や不安のぞっとするような音を鳴りひびかせ、どれほど遠方にある激流にもすべて、かれらの恐ろしいうめき声が、とだえとだえに、腹立たしげに反響するのだった。
また、わたしは、草地や、山腹や、土のつもった岩の裂け目が、さまざまな草や花や羊歯《しだ》や苔《こけ》におおわれているのを見たが、それらの植物は、古くからの俗語によって、何かと予感をそそるような奇妙な名をつけられていた。かれらは山の子どもたち、孫たちで、それぞれの場所で色美しく無邪気に生きていた。わたしはかれらを手でさわったり、ながめたり、匂《にお》いをかいだり、名をおぼえたりした。
もっと真剣に、もっと深くわたしの心を動かしたのは、木々の姿だった。わたしは、どの木もそれぞれ孤独な生活を送り、特別な形や樹冠をかたちづくり、独特な影を投げるのを見た。木々は、隠遁者《いんとんしゃ》であり戦士であって、山々と近い血縁関係があるように思われた、というのも、どの木もすべて、とくに山の高いところに立っている木々は、存続して成長するために、風や雷雨や岩石を相手にして、黙々とねばり強く戦っていたからである。どの木も重荷を背負いながら、しっかりとしがみついていなければならなかった、そして、そのためにどの木も独自な姿になり、特別な傷を負っていた。あらしに妨げられてたった一つの方向にしか枝をのばせないでいる赤松があったし、赤い幹を蛇《へび》のように曲げて突き出した岩にからみつきながら、木と岩とがたがいに身を押しつけて支えあっているというような赤松があった。そういう赤松はまるで戦士のようにわたしを見すえて、わたしの心に畏怖《いふ》や畏敬《いけい》の気持ちを呼びおこすのだった。
ところで、わたしたちの村の男や女はそういう赤松に似ていて、ぶあいそうで、きびしいしわをきざみ、あまりものを言わなかったが、いちばんいい人間がいちばん無口だった。そこでわたしは人間を木や岩と同じ扱いでながめながら、人間についてさまざまなことを考え、人間を尊敬するにも、愛するにも、黙々としている赤松を尊敬したり、愛したりするのと同じあしらいにするようになった。
わたしたちの小さなニミコン村は、山の二つの突出部にはさまれた、湖ぞいの、三角形の斜面にある。一本の道が近くの修道院へ通じていて、もう一本の道が四時間半の道のりにへだてられた隣村へ通じているが、湖に面したその他の村々へ行くには水路を使う。村の家々は、古い木造形式の建物で、どのくらい古いのか、はっきりしない。新しい家が建てられることはほとんどなくて、古い小さな家々が、今年は床、別の年には屋根の一部というふうに、必要に応じて部分的に修繕されるのである、そして、前にはたとえば部屋の坂壁の一部だったというような、半分に切られた多くの角材やこわり板が、こんどは屋根の垂木《たるき》になる。そして、垂木の役にはもう立たないが、燃やすにはまだもったいないというような角材やこわり板は、つぎのときには家畜小屋か干し草|棚《だな》の修繕に、あるいは玄関の戸の横張り坂に使われるのである。
そういう家に住んでいる人びとも家と似たようなもので、めいめいが、できるかぎりはみんなといっしょに自分の役割を演じていて、やがてはためらいがちに役に立たない連中の仲間にはいり、ついには、別に大騒ぎもされずに闇《やみ》のなかへ姿を消す。何年も外国で暮らしてから村へ帰ってきても、古かった屋根がいくつか新しくなり、新しかった屋根がいくつか古くなっているほかには、なんの変化も見られない。かつての老人たちはいなくなっているが、しかし、別の連中が老人になっていて、同じあばら家に住み、同じ名を名乗り、同じ黒い髪の子どもたちの守りをし、顔だちも身ぶりも、先に死んでいった老人たちとほとんど違いがない。
わたしたちの村には、外部からしげしげと新鮮な血や生命を輸入するということがなかった。住民はまあまあ強健な種族だが、ほとんどみんなが、たがいにきわめて密接な親戚《しんせき》関係になっていて、住民のたっぷり四分の三はカーメンツィント姓を名乗っている。この姓は教会記録簿を何ページにもわたって満たしているし、教会墓地の十字架に書きしるされているし、家々の戸口に、人目に立つようなふうにペンキで書かれたり、無骨に彫り刻まれたりしているし、馬車屋の車にも、家畜小屋のおけにも、ボートにも書きつけてある。わたしの家の戸口にも、上のほうに、「この家を建てしはヨースト・カーメンツィントとその妻フランツィスカなり」とべンキで書いてあった。しかし、これはわたしの父のことではなくて、父の祖父、わたしの曾祖父のことだった。わたしはいずれは子どもを残さずに死ぬということになるかもしれないが、それでも、もしこの家がそのときまで屋根をいただいて立っているものとすれば、まただれかカーメンツィント姓を名乗る者がやってきて、この古巣に住むようになるのは確実なことである。
外見は信心深そうに見えるにもかかわらず、村人たちのなかには、やはり悪人と善人、家柄の高い人と低い人、声望のある人と下賎《げせん》な人とがいて、かしこい人の多いかたわらに、白痴は全然数に入れないで、少数のおかしな間抜け者の連中がいた。それは、いずことも同じく、大きな世間の小さな模写だったのだ、そして、大者と小者、抜け目のないのと間抜けとが解きほぐしがたい親戚縁者の関係になっているので、ひどいうぬぼれと愚かな軽はずみとが、しばしば同じ屋根の下でたがいに感情をそこない合っていたから、村の生活は、人間性の深さやおかしみにじゅうぶんな活動の余地を提供していたのである。
ただ、ひそかな、あるいは無意識の気鬱《きうつ》が、永遠のヴェールのように村の生活をおおっていた。自然の諸力に左右されていることと、仕事の多い生活の貧しさとが、時のたつうちに、それでなくても老衰しつつあるこの村の人びとに、憂鬱《ゆううつ》になる傾向を吹きこんでいて、この憂鬱さは村の人びとの鋭い、そっけない顔によく似合いはしたものの、そのほかにはなんの収穫も生みださなかった、すくなくとも喜ばしい収穫は何も生みださなかった。それだからこそ人びとは数人の間抜け者をおもしろがったわけで、この間抜け者たちはたいへんおとなしくてまじめだったのだが、それでも大笑いや、ひやかしなどの種になる色どりや機会をいくらか持ちこんだのである。
彼らの一人の新しい愚行が評判になると、ニミコンの村人たちの、しわの寄った褐色《かっしょく》の顔に、うれしげな光が稲光のようにひらめく、そして、慰みそのものを喜ぶ気持ちに、自分ならこんな脱線や失敗などするものではないと感じながら、満足のあまりに舌を鳴らす自分の優越さを喜ぶ気持ちが、微妙なパリサイ主義的〔偽善的〕な薬味として付け加わる。正しい人と罪人との中間に立っていて、その両方の好ましいところを、みんなといっしょに楽しもうとする多数者のなかには、わたしの父もはいっていた。どんな愚行にしろ、それが熟してくるときにはかならず、わたしの父の心を幸福なわくわくとする気持ちで満たした。そうなると父は、愚行の張本人に対する思いやりのある賛嘆の気持ちと、自分には非の打ちどころがないという、でっぷりした意識とのあいだを、あちこちおかしげに揺れ動くのだった。
間抜け者たちの一人はわたしの伯父《おじ》のコンラートだったが、それだからといって、伯父はたとえばわたしの父やその他の立役者たちにくらべて分別がいくらか劣っていたわけではない。むしろ伯父は抜け目のない人間で、他の人びとからじゅうぶんうらやまれてもよいほどの、休むことを知らない発明の才にかり立てられていたのだ。しかし、もちろん彼は何一つ成功はしなかった。成功しないからといって彼は、うなだれて、何もしないで思いにふけるというかわりに、いつもまた新しいことをやりはじめて、しかも、自分のいろいろな企ての悲喜劇的な性格を驚くほど生き生きと感じとっていたのである。そのことはたしかに一つの長所だったのだが、しかし、彼のおかしげな風変わりなところと思われ、そのおかげで彼は村の無給の道化者の一人に数えられたのである。
伯父《おじ》に対するわたしの父の態度は、いつまでも賛嘆と軽蔑《けいべつ》とのあいだを揺れ動いていた。義兄が新しく何か計画するたびに、父ははげしい好奇心に駆られて興奮し、それを下心のある皮肉な問いや当てこすりのかげに隠そうとむなしく努めるのだった。それから伯父が成功疑いなしと思いこんで、すばらしい人間のふりをしはじめると、父はいつでもわれを忘れさせられ、天才的な伯父の仲間になって、いっしょに親しく投機をするが、結果はかならず失敗に終わり、伯父は肩をすくめるだけだが、父のほうはかんかんになって伯父に嘲笑《ちょうしょう》や侮辱をあびせかけ、幾月ものあいだ叔父には目もくれなければ、ことばもかけなくなるのだった。
わたしたちの村が初めて帆かけ舟を見たのは、コンラートのおかげで、わたしの父の小舟がそのしりぬぐいをさせられた。帆具や綱具は、伯父がカレンダーの木版画をまねて、手ぎわよく仕上げた。そして、うちの小舟が帆かけ舟にするには細長すぎる作りだったことは、結局コンラートの責任ではなかったのである。準備の期間が幾月にもわたって、わたしの父は緊張や期待や不安のあまりに、すっかり落ちつきがなくなった、そして、そのほかの村人たちもコンラート・カーメンツィントの最新の企てをいちばんの話題にした。その舟は晩夏の、風のある朝、初めて湖に出ることになったが、その日は、わたしたちにとって記念すべき日だった。父は悲惨な結果に終わるかもしれないと予想して、びくびくしながら、現場には近づかず、いっしょに乗ってゆくことを禁じて、わたしをひどくがっかりさせた。
パン屋の息子《むすこ》のフュースリ一人が、帆かけ舟を走らせるコンラート伯父《おじ》に同行した。しかし、村じゅうの人びとが、うちの砂利場や小さな菜園に立って、この前代未聞《ぜんだいみもん》の見ものに立ち合ったのである。湖の下手へ向かって東風がそよそよと吹いていた。初めのうちはパン屋の息子が漕《こ》がなければならなかったが、やがてボートは微風に乗り、帆をふくらませて、誇らしげに走っていった。わたしたちは、ボートがいちばん近い山の鼻を回って消えてゆくのを、感心しながら見ていた、そして、この抜け目のない伯父が帰ってきたら、彼を勝利者として歓迎し、わたしたちが嘲笑《ちょうしょう》しながら伯父に対して持ったいたらぬ考えを恥じる心がまえになった。ところが、夜になってボートが帰ってきたとき、帆はもうなくなっていて、乗っていた二人は、生きているというよりは死んでいた、そして、パン屋の息子は咳《せき》をしながら、「あんたたちはでっかい楽しみをふいにしたよ、もうちょっとのところで、日曜日には葬式のあとのふるまいが、二つあるところだったのだからな」と言った。
わたしの父は二枚の新しい船板で小舟の繕《つくろ》いをしなければならなかった、そして、それ以来、帆かけ舟の帆が湖の青い水面に影をうつしたことはない。
コンラートはその後長らく、何か急ぐことがあるたびに、うしろから「帆をかけろよ、コンラート!」という声をかけられた。父は怒りをかみ殺した、そして、長いあいだ、義兄に会うたびにわきを向いて言うに言えない軽蔑《けいべつ》のしるしに、唾《つば》を大きな弧の形に吐きだすのだった。そういう状態が長いあいだつづいて、とうとうコンラートが耐火パン焼き窯《がま》の計画を持ってわたしの父のもとに立ち寄った。そしてこの計画は、発明者にはかぎりない嘲笑《ちょうしょう》を背負いこませ、わたしの父には四ターラーの現金を犠牲にさせた。父にあえてこの四ターラーの一件を思い出させた者は、わざわいなるかな! ずっとあとで、またしても家計のやりくりが苦しくなったとき、母が何かのついでに、もしいまあの罪深い仕方でかき集めた金がまだあるのだったら、ほんとに助かるのだが、と言った。父は首まで真赤になったが、自分を抑えて、「それを日曜日一日だけで飲んでしまっていたら、よかっただろうよ」と言っただけだった。
冬の終わりにはいつも、暖かい南風《フェーン》が低いどよめきの音とともにやってきた。アルプスの山地に住む人間は、このどよめきを恐れて身ぶるいしながら聞くが、異郷にいるときには、それを聞きたがって、身も細るような郷愁にかられる。
南風が近くなると、何時間も前から男も女も、山々も、野獣も家畜もそれを感じる。南風が来るのに先立ってほとんどいつも、ひえびえとした向かい風が吹く、そして、暖かい、低いざわめきが南風の到来を告げる。青緑いろの湖は、数瞬のうちに、インキのように黒くなって、突然、せかせかとした白い波頭を立てる。それから間もなく、数秒前までは音もなくのどかに横たわっていた湖が、ごうごうと海のように怒涛《どとう》を岸辺に打ち寄せる。それと同時に、あたりの風景がすべて、おどおどと近く寄り合う。いつもは夢見るような遠方にわだかまっていた山々の頂《いただき》の岩の数が、いまは数えられるようになるし、いつも褐色のしみ《ヽヽ》のように遠く横たわっていた村々の、屋根や破風《はふ》や窓が、いまはそれぞれ区別できるようになる。山々も、草地も、家々も、すべてがおじ気づいた家畜のように近く寄り合う。それから、とどろくようなざわめきの音と、地中の振動とが始まる。荒れ狂った湖の波は、かなりの長さにわたってしぶきになりながら、空中を吹きとばされる、そして、絶え間もなく、ことに夜のあいだはひっきりなしに、あらしと山々との絶望的な戦いの音が聞こえてくる。それからしばらくすると、あちこちの小川が土砂に埋められた、家が打ち砕かれた、小舟がこわされた、父や兄弟がゆくえ不明になった、という知らせが村々に伝わってくる。
子どものころ、わたしは南風《フェーン》を恐れたばかりでなく、憎みさえもした。しかし、少年期の荒々しさが目ざめるとともに、わたしは南風が好きになった。この反逆者、永遠の若者、春を連れてくるあつかましい戦士が好きになった。生命とあふれるばかりの力と希望とに満ちた南風が、吹きすさび、笑い、うめきながら、その荒々しい戦いを始めるさま、吠《ほ》え立てながら峡谷を抜けて突進し、山々の雪をくらい、ねばり強い赤松の古木を手荒にへし曲げては、ため息をつかせるさま、それはいかにもすばらしかった。のちにわたしは自分の愛を深めて、南風のなかに感じ取られる甘美な、美しい、豊かな上にも豊かな南国を歓迎した。
南国からはくり返しくり返し歓楽と熱情と美との流れがほとばしり出て、山々に突き当たりながら砕け、ついには浅薄でひややかな北国で疲れて、血を出して死ぬ。南風の吹く時期に山国の人間、とくに婦人を襲って、眠りを奪い、五感をなでさすりながら興奮させる、あの甘美な南国熱ほど特異なすばらしいものはない。それは、くり返して絶えず熱烈に燃えあがりながら、自分よりも貧弱な、とりすました北国の胸に身を投げかけ、いま間近いイタリアの紫色の湖畔では、もうまたサクラソウやスイセンやハタンキョウの花が咲いているということを、雪にうもれたアルプスの村々に告げ知らせる南風《フェーン》なのである。
それから、南風が吹きすぎ、よごれた最後のなだれが溶け去ってしまうと、つぎには最も美しいものがくる。そうなると、花を咲かせて黄色みを帯びた草地が、四方八方から山の上のほうへ伸び広がってゆき、雪をいただいた山頂や氷河が高いところに、清らかに、喜びにあふれて立ちはだかり、湖は青くなるとともにぬるんできて、太陽やうつろう雲の姿をうつす。
こういうすべてのことは、幼年時代はいうまでもなく、人の一生をもどうにか満たすことができる。というのも、こういうすべてのことは、人間の唇《くちびる》からはついぞ出たためしのない神のことばを、声高に朗々と語るからである。そのことばをこうして幼年時代に聞いた者の耳には、生涯にわたってそのことばが甘美に、強く、恐ろしく聞こえつづける。彼はそのことばの呪縛《じゅばく》からけっして逃げることはできない。山地に生まれた人間でも、何年間か哲学なり博物学なりを研究して、古い神を片づけてしまうようなことがあるかもしれないが――しかし、いつかまた南風を感じたり、あるいは、木を引き裂くなだれの音を聞いたりすると、胸のなかの心臓がふるえて、神のことや、死ぬということを考えるものなのだ。
父の小さな家に境を接して、垣をめぐらしたちっぽけな菜園があった。そこには、にがいサラダ菜や、カブラや、キャベツがよく育った。そのうえに母は、菜園のふちに、いじらしいほど狭くて見すぼらしい花壇をこしらえていて、そこには二本のコウシンバラと、一株のダリアと、モクセイソウ属の植物がわずかばかり、希望もなく貧弱に、やつれた姿を見せていた。菜園の隣はさらに小さな、砂利をしいた場所になって、湖までつづいていた。その砂利場には二つのこわれたおけ、二、三枚の板や二、三木の杭《くい》があり、下の湖にはうちの小舟がつないであった。この小舟は当時はまだ二、三年ごとに、新しく修繕してタールを塗ったものである。
小舟を手入れをした日々のことは、いまでもはっきりと記憶に残っている。それはいつも初夏の暖かい午後だったが、小さな菜園の上には、硫黄《いおう》色のヤマキチョウが日の光を浴びながらひらひらと舞い、湖は油のようになめらかで、青く、静かで、ほのかに輝き、山の頂は薄いもやにつつまれ、小さな砂利場にはピッチとぺンキとのひどい匂《にお》いがした。そのあとでも小舟は夏のあいだじゅうタールの匂いがした。その後何年もたってから、どこかの海辺で、水の匂いとタールの匂いとの独特なまざり方をしたあの匂いをかぐたびに、わたしの目のまえには、すぐさま、うちの湖畔のあの砂利場が思い浮かんで、わたしの目には、上着をぬいでブラシをあやつっている父の姿や、彼のパイプから小さな雲のように静かな夏の大気のなかへ立ちのぼってゆくうす青い煙や、不安定な、びくびくしたような飛び方をする、きらめくような黄色いチョウがふたたび見えてくるのだった。こんな日には父はいつもにないなごやかな機嫌《きげん》を見せて、口笛で非常にたくみにできる顫音《せんおん》を出したばかりか、さらに、短いヨーデルをいくつか歌っていたかもしれない、ただし、ヨーデルのほうは低い声でだけ歌ったのである。そうなると母は夕食のために何かうまい料理をこしらえるのだった。いまにして思うと、母はひそかに、夫のカーメンツィントはこん晩は飲み屋へ出かけないだろうと期待しながら、そうしたのである。しかし夫はやはり出かけるのだった。
両親がわたしの幼い情操の発達を特別にうながしたとか、妨げたとかいうことは、わたしには言えない。母はいつも両手にいっぱいの仕事をかかえていたし、父がこの世のことのうちで最も相手にしなかったのは、たしかに教育の問題だった。父にはじゅうぶんに仕事があって、二、三本の果樹のめんどうをどうにか見てゆくとか、小さなジャガイモ畑の世話をするとか、干し草に気をつけるとかしなけれはならなかったのである。しかし、ほぼ二、三週間ごとに、父は、晩に外出するまえにわたしの手を取って、黙ったまま、家畜小屋の上にある干し草|棚《だな》のなかにわたしを連れてはいっていった。それからそこで、奇妙な処刑あるいは償罪の行為がおこなわれた。つまり、何のためなのか、父もわたし自身もたしかには知らないままに、わたしがさんざんにぶんなぐられたのである。
それは復讐《ふくしゅう》の女神ネメジスの祭壇にささげる無言の犠牲だった、そして、父が叱《しか》るでもなく、わたしがわめくでもなく、当然の貢物《みつぎもの》として、ある神秘的な力にささげられたのだった。後年、「盲目の」運命という話を聞くたびに、わたしはいつもこの神秘的な場面を思い出した、そして、それが盲目の運命という観念の非常に具体的な演出のように思われたものである。善良な父は、わたしをぶんなぐりながら、それとは知らずに、人生そのものがわたしたちにほどこすのを常とするあの率直な教育法に従っていたのだ。人生はときどきわたしたちに晴天の霹靂《へきれき》とでもいうような打撃を加えるが、そもそもわたしたちはどんな悪行をはたらいて天上の神々を挑発することになったのか、それをよく考えてみることは、わたしたちにまかされている。
残念なことに、こういう反省は、わたしの場合にはけっしてなかったか、あるいはまれにしかなかった。むしろ、わたしはあの分割払いの体罰を、望ましい自己反省などはしないで、平然と、あるいはまた反抗的な態度で受け取り、ぶんなぐられた晩にはいつも、これでまた自分の貢物《みつぎもの》を納めたのだ、このつぎになぐられるのは二、三週間先のことだ、と考えて喜んだものである。そして、わたしに仕事の手ほどきをしようとするおやじの試みに対しては、なぐられるときよりもはるかに自主的に反抗した。不可解な、浪費好きの自然は、わたしのなかに、両立しない二つの天分、つまり、異常な体力と、残念ながらわずかなものではない仕事ぎらいの傾向とを結び合わせていた。父はわたしを役に立つ息子《むすこ》兼助手にしようとして、骨折れるかぎり骨折ったのだが、わたしはあらんかぎりの策略を弄《ろう》して、自分に命ぜられた仕事をずるけたものである、そして、高等学校の生徒のときでもわたしは、古代の英雄のうちではへラクレスにいちばん同情をおぼえた。ヘラクレスがあの有名な厄介《やつかい》な仕事をしいられたからである。さしあたり、わたしは、岩や草地の上か、あるいは湖のほとりを、のらくらとぶらつく以上に楽しいことは何も知らずにいたのである。
山々、湖、あらし、太陽は、わたしの友だちで、いろいろな話を聞かせてわたしを育ててくれた、そして、長いあいだ、どんな人間や人間の運命にもまして好ましいわたしの知り合いだった。しかし、わたしが輝く湖や悲しげな赤松や日なたの岩よりも愛した、わたしの気に入りは、雲だったのだ。
広い世のなかに、わたしよりも雲をよく知っていて、わたし以上雲を愛している男がいたら、その男を見せてもらいたい! あるいは、世のなかに雲よりも美しい物があったら、それを見せてもらいたい! 雲はたわむれであって目の慰み、祝福であって神の賜物《たまもの》、怒りであって、死の力である。雲はみどりごの魂のようにやさしく、やわらかく、おだやかであり、善い天使のように美しく、豊かで、物惜しみがなく、死神の使いのように暗く、のがれがたく、仮借するところがない。雲は銀色の薄い層になって浮かび、金色の縁をとった白帆のように楽しげに飛び、青、赤、淡青の色にそまりながら、立ちどまってはやすらう。雲は殺人者のように、陰険に、のろのろと忍び足で歩き、驀進《ばくしん》する騎手のように、ざわざわと猛烈ないきおいで疾駆し、憂鬱《ゆううつ》な隠者のように、悲しく夢見るような風情で、色あせた空の高みにかかっている。雲は至福の島のような形になり、祝福する天使のような形になり、脅迫する手に似たり、はためく帆に似たり、空を渡るツルに似たりする。雲は神のいます天と哀れな地とのあいだに浮かんで、天と地との両方に属し、人間のあらゆるあこがれの美しい比喩《ひゆ》になり――地の夢にもなるが、そういう夢のなかで地はそのよごれた魂を清らかな天にすり寄せる。雲はいっさいの放浪、探求、熱望、懐郷の永遠の象徴である。そして、雲が天と地とのあいだにおずおずと、あこがれながら、反抗しながらかかっているように、人間の魂も現在と永遠とのあいだにおずおずと、あこがれながら、反抗しながらかかっているのである。
ああ、雲よ、美しい、浮かびただよう、休むことのない雲よ! わたしは何も知らない子どもで雲を愛し、雲を見つめていたが、自分もまた雲になって――さまよいながら、どこへ行っても異邦人で、現在と永遠とのあいだに浮かびただよいながら、人生を渡ってゆくことになるだろう、ということは知らずにいた。幼いころから雲はわたしの愛する女友だちであり、女のきょうだいだったのである。わたしが通りを歩いてゆくときには、わたしたちはかならず、たがいにうなずき合って、挨拶《あいさつ》をかわし、一瞬のあいだ目と目を見合わす。また、わたしは、当時雲から学んだこと、すなわち、雲の形、色、去来、たわむれ、輪舞、踊り、休息を忘れなかったし、また、奇妙に地上的でも天上的でもある雲のいくつもの話を忘れなかった。
とりわけ忘れなかったのは、雪の王女の話である。この話の舞台は中くらいの山脈で、初冬の、暖かい風が地面の近くを吹くころ。雪の王女が、非常に高いところから、少数のお供を連れてやってきて、山のなかのゆったりとした盆地か広い円頂に、休息の場所を選び出す。腹黒い北東風が、無邪気な王女の横たわるさまをねたましげに見ていて、ひそかに渇望しながら、山をなめて上のほうへのぼってくると、出しぬけに荒れ狂って、王女に襲いかかる。北東風は美しい王女に向かって、ずたずたに裂けた黒雲の切れはしを投げつけ、王女をあざけり、があがあというような声を浴びせて、王女を追い払おうとする。しばらくは王女も落ちつきを失って、がまんしながら待っている、そして、ときには頭をふりながら、そっと、あざけるように、降りてきた高みへまた立ちのぼってしまう。しかし、ときには王女は突然、おびえているお供の女たちをまわりに集めて、目もくらむばかりな品位のある顔をあらわし、ひややかな手ぶりで、妖怪《ようかい》に引きさがれと命ずる。妖怪はぐずぐずして、吠《ほ》えて、逃げてゆく。すると王女は静かに身を横たえて、休み場を中心にしたあたりの一帯を、広びろと青白い霧につつむ、そして、その霧が晴れると、盆地も円頂も清らかなやわらかい新雪におおわれて、明るく光りかがやいている。
この話には何か高貴なおもむき、美の魂、美の勝利とでもいうものがこもっていて、それがわたしをうっとりとさせ、何かうれしい秘密のように、わたしの幼い心を感動させた。
間もなく、わたしが雲に近づき、雲のあいだに歩みいり、雲の群れの多くを上からながめることのできる時もきた。十歳になっていたが、わたしは初めての山頂、そのふもとにわたしたちのニミコン村があるゼンアルプシュトックに登ったのである。そのときわたしは初めて山の恐ろしさや美しさを見た。氷や雪どけの水のあふれる深く裂けた峡谷、緑色のガラスのような氷河、氷河のためにできた気味の悪い堆石《たいせき》、そして、こうしたすべてのものの上には空が高く、まるく、つり鐘のようにかぶさっていた。十年間も山と湖とのあいだにはさまれて、周囲を間近の高い山々にぎっしりとかこまれながら生きてきた人間なら、頭の上に大きな広い空を、目の前に際限のない地平線を、初めて見た日のことを忘れるものではない。すでに登りながらわたしは、下からながめてよく知っていた断崖《だんがい》や岩壁の圧倒的な大きさを見て、びっくりした。そしていま山頂に立って、すっかりその瞬間のとりこになったまま、突然途方もない広がりがわたしのなかへ侵入してくるのを、不安をまじえた歓喜の気持ちで見たのである。それでは世界というものは、こうもすばらしく大きなものだったのか! わたしたちの村はそっくり、ずっと下のほうに、あるかなきかに横たわっていて、いまは小さな明るい点にすぎなかった。谷間から見あげながら、狭苦しくくっつき合っていると思っていた山々の頂は、何時間もかかる道のりほど遠くへだたり合っていた。
そこでわたしは、自分はいま初めて世界を細目にかいま見ただけで、まだしっかりと見すえたわけではないということ、外部の世界では山々がそびえ立ったり、倒れたりして、大きな事件が起こりうるのだが、そういう事件のほんのかすかな知らせさえ、世間から引き離されたわたしたちの山村には伝わってこないということを感づきはじめた。しかし、それと同時に、わたしのなかの何かが羅針儀の指針のようにふるえて、無意識のうちに努力しながら、力強く、あの大いなる遠方をさし示した。そして、このとき初めて、わたしは雲の美しさや憂鬱《ゆううつ》を残りなく理解することができた。雲のさすらってゆく無限の遠方というものを見たからである。
わたしの連れの二人のおとなは、わたしの巧みな登り方をほめてくれて、氷のように冷たい頂上でしばらく休息しながら、わたしの|はめ《ヽヽ》をはずした喜び方を笑った。わたしは、最初の大きな驚きがおさまったあとで、歓喜や興奮のあまりに、明るく澄んだ大気のなかへ、大きく、牡牛のようなうなり声をひびかせてやった。それは美に寄せたわたしの、最初の、ことばにならない歌だったのである。わたしはとどろくようなこだまが返ってくるだろうと期待していたのだが、しかし、わたしの叫びは静まりかえった高い山々に吸いこまれて、かよわい鳥の鳴き声のように、跡形もなく消えてしまった。そこでわたしは大いに恥じ入って、おとなしくしていた。
この日はわたしの人生において何かの端緒が開かれたのだった。というのも、このときから事件がつぎつぎに起こったからである。まず、わたしはしばしば山登りに連れていってもらった。かなり難儀な山登りにも連れていってもらった、そして、わたしは妙に胸苦しいような歓喜を感じながら、高い山々の大いなる神秘のなかへはいりこんでいった。それから、わたしは山羊《やぎ》の番人にしてもらった。わたしがいつもたいてい自分にまかされた山羊どもを連れてゆく盆地の一つに、風の当たらない片隅があって、コバルト色の青いリンドウや淡紅色のユキノシタが繁茂《はんも》していたが、そこは世のなかでいちばんわたしの好きな場所だった。村はそこからでは見えなかった、そして、湖も岩越しにきらきらと光る細長い帯になって見えるばかりだったが、そのかわりに花々が笑うようにほがらかな、新鮮な色どりで燃えていたし、青空は、雪をいただいてとがっている山頂のうえに、テントの屋根のようにかかっていたし、山羊《やぎ》の首につけた鈴のきれいな音にまじって、ひっきりなしに、程遠からぬ滝の音が響いてくるのだった。その暖かい盆地にわたしは横になって、小さな白雲のうつろいを感心しながら見送ったり、低い声でひとりヨーデルを歌つてみたりしていると、しまいには山羊どもが番人のわたしのなまけぷりに気がついて、禁じられているさまざまないたずらや慰みをやらかそうとするのだった。
そんなぐあいで、最初の数週間が過ぎると、すぐさま、なんの心配もないわたしのすばらしいのらくら生活にきびしい裂け目ができて、わたしは群れからはぐれた一頭の山羊もろとも渓谷にころげ落ちた。その山羊は死んだし、わたしは頭蓋《ずがい》を痛めたうえに、さんざんぶんなぐられて、両親のもとから逃げだし、哀願するやら泣訴《きゆうそ》するやらして、ふたたび家へ入れてもらった。
これらの冒険は容易にわたしの最初で最後の冒険になればなりえたものだった。そうなっていたら、この小さな本も書かれなかっただろうし、その他多くの骨折りや愚行もなされずにいたことだろう。わたしはたぶん、だれか親戚《しんせき》の女と結婚していたか、あるいは、どこかの氷河の水にはまって凍死していたことだろう。それも悪くはなかったと思う。しかし万事が別になったのである、そして、起こったことを起こらなかったことと比較するのは、わたしのしてよいことではない。
わたしの父はときどきヴェルスドルフの修道院でささやかな奉仕をしていた。ところが、あるとき父は病気になって、わたしに修道院へ行って父が行かれないということを伝えてこいと命じた。しかし、わたしはそうはしないで、隣人から紙やインキを借りると、修道士たちにあてて一通の礼儀正しい手紙を書き、それを使い走りの女に頼んで、自分は勝手に山に登った。
つぎの週のある日、わたしが家へ帰ってみると、一人の神父が腰をおろして、あの見事な手紙を書いた当人のくるのを待っていた。わたしはいささか不安になったが、神父はわたしをほめて、わたしを彼のもとで勉強させるように、おやじを説得しようと試みた。コンラート伯父《おじ》はそのころちょうどまた父の覚えがめでたくなっていたので、父から相談された。もちろん伯父はすぐさま夢中になって、わたしが勉強してやがては大学に学び、りっぱな学者になるべきだ、と主張した。父は納得した。そういうわけで、わたしの未来も、あの耐火パン焼き窯《がま》や、帆かけ舟や、その他多くの似たような奇想と同じように、伯父の危険な計画の一つになったのである。
すぐさま猛烈な勉強、とくにラテン語、聖書物語、植物学、地理学の勉強がはじまった。わたしにはどれもみな非常におもしろかった、そして、わたしは、こんな異国ふうなもののために故郷や美しい歳月を犠牲にするようになるかもしれないなどということは、考えもしなかった。そうなるには、ラテン語だけではもちろんじゅうぶんでなかった。わたしの父は、たとえわたしが名家名将伝をぜんぶ自由自在に暗誦できるようになっていたとしても、わたしを百姓にしていたことだろう。しかし賢明な父は、わたしの本質の根底を見てとったのであって、そこにはわたしの無敵の怠惰が、重心として、基本的欠点として宿っていたのである。わたしは、できさえすれは仕事から逃げだして、仕事をするかわりに山や湖のほうへ行ったり、山腹の人目につかないところにこっそりと寝そべったりして、本を読み、夢想にふけり、のらくらと時を過ごしていた。そういうわたしの本質を見抜いたので、父はついにわたしを手放したのだった。
この機会に、両親のことをすこし言っておく。母はかつては美しかったのだが、その名残りは、引きしまったまっすぐな体つきと上品な黒い目とだけになっていた。背丈が高くて、非常にがっしりしていて、勤勉で、もの静かで、父には負けないほど賢明で、体力にかけては父をしのいでいたが、それでも母は家庭の支配者にはならずに、統治を夫にまかせていた。父は中背で、ほっそりとした、きゃしゃと言ってもいいくらいの手足と、頑固《がんこ》で抜け目のない頭との持ち主で、明るい色の顔には一面に小さな、非常によく動くしわがきざまれていた。そのうえ額にはさら一本の短い垂直のしわがあって、そのしわは、父が眉《まゆ》を動かすたびに深くなって、父を気むずかしい悩ましげな様子に見せた。そんなときの父は、何か非常に重大なことを思いだそうとしていながら、しかも父自身にもいつかそれを思いだせる当てはないとでもいうような様子に見えるのだった。
父には一種のメランコリーがあって、だれでもそれを認めることができたと思われるのに、それに注意を払う者はいなかった、というのも、この地方の住民はほとんどすべて気持ちがいつもすこしふさいでいるからで、その原因は冬が長いこと、さまざまな危険があること、暮らしを立ててゆくのが非常にむずかしいこと、世間の生活から隔離されていることなどである。
この両親からわたしは自分の本質の重要な部分を受けついでいる。母からはわずかな世渡りの才能と、何ほどかの信仰心と、もの静かな、口数のすくない性質をゆずり受け、それに引きかえて、父からは、堅く決心してしまうことを不安がる傾向、金をうまく使えない性質、思慮を失わずに大酒を飲む|こつ《ヽヽ》をゆずり受けたのである。しかし、大酒飲みの能力は、当時の幼いわたしにはまだ現われなかった。外貌《がいぼう》の点では、わたしは父からは目と口、母からは重々しい、長続きのする歩き方と体格、ねばり強い筋力などを受けついでいる。父や一般に村の種族から、わたしは生まれながらに百姓ふうの抜け目のない分別をもらい受けたが、しかしまたそれといっしょに、ふさぎの気質や理由もなく憂鬱《ゆううつ》になる傾向をももらい受けた。わたしは長らく故郷を離れて異郷をうろつきまわる運命になっていたのだから、ふさぎの気質や憂鬱になる傾向のかわりに、何ほどかの活発さや陽気な軽率さを持って生まれたほうが、きっとよかったろうと思う。
そういう生まれつきに新しい服を一着もらって、わたしは人生への旅にふみだした。両親からゆずり受けた天分は役に立つことがわかった、というのも、それ以来わたしは独力で世渡りをしたからである。それにしても何か欠けたものがあったにちがいなくて、学問も世間的な生活もけっしてそれをもたらしてはくれなかった。というのも、わたしは、こんにちでも昔に変わりなく、山を征服することができるし、十時間も行軍したり舟を漕《こ》いだりすることができて、いざという時には男の一人くらい素手で打ち殺すことができるが、世渡りのじょうずな人間になるにしては、当時と同じようにこんにちでも、わたしにはいくつも欠けたところがあるのである。
幼少のころ、もっぱら大地や大地の動植物とばかり付き合っていたために、わたしには社会的な能力があまり育たなかった、そして、いまでもわたしの見る夢は、残念ながらわたしがどれほど純然たる動物的な生活に心を寄せているかということの奇妙な証拠になる。すなわち、わたしは非常にしばしば、動物になって、たいていはアザラシになって、浜辺に寝そべっている夢を見ながら、非常に大きな快感をおぼえるので、目がさめて自分が人間の品位を失わずにいることを認めると、けっしてうれしい気持ちや誇らしい気持ちにはならずに、ひたすら残念な気持ちになるのである。
わたしは普通のやり方で学費や食費を免除してもらいながら、とあるギムナージウムで教育され、文献学者になるものと決められていた。その理由はだれにもわからない。文献学ほど無益で退屈な専門はないし、また、これほどわたしに縁遠かった専門もない。
わたしが生徒だった年月はさっさと過ぎていった。なぐり合いと授業とのあいだには、郷愁にかられる幾時間、あつかましい未来の夢にふける幾時間、学問というものをうやうやしく崇拝する幾時間がはさまった。ときどきは、ここでもまた、わたしの生まれながらの怠惰が頭をもたげてきて、そのためにわたしは、いろいろと不快な目に会ったり、罰をくらわせられたりしたが、やがては何か新しい感激が生じて、怠惰は頭をひっこめるのだった。
「べーター・カーメンツィント」とわたしのギリシア語の先生は言った、「きみはつむじ曲がりの変人だが、強情を張っていると、いつかはひどい目に会うだろう」わたしは目がねをかけたそのふとっちょの男を見つめて、彼の言うことに耳をかたむけながら、奇妙なやつだなと思った。
「べーター・カーメンツィント」と数学の先生は言った、「きみはなまけることの天才だ。わたしは、成績証明に零点以下の点数がないのを残念に思うよ。きみのきょうの成績はマイナス二点五分だからね」わたしは彼を見つめていて、彼の斜視を気の毒がり、彼を非常に退屈なやつだと思った。
「ペーター・カーメンツィント」と、あるとき歴史の教授が言った、「きみはりっぱな生徒ではないが、それでもきみはいずれ、りっぱな歴史家になるだろう。きみはなまけ者だが、しかし、大と小との区別はできるからね」
これもわたしには特別に重要なことではなかった。それにもかかわらず、わたしは先生たちを尊敬していた、というのも、わたしは、先生たちは学問を持っていると思ったし、学問に対して漠然《ばくぜん》とした非常に大きな畏敬《いけい》の気持ちを感じていたからである。そして、わたしがなまけ者だということは、ぜんぶの先生たちの一致した意見だったが、それでもわたしは進級したし、平均以上の成績を取っていた。学校や学校でやる学問などというものが不充分な継ぎはぎ細工だということは、わたしにはよくわかっていた。しかし、わたしはそのあとに来るものを待っていたのである。こういう準備や知ったかぶりのうしろにこそ、純粋に精神的なものがあるのだろう、真実についての疑いのない確実な学問があるのだろう、とわたしは想像した。そこへ行けば、歴史のはっきりしない混乱や、諸民族の闘争や、個々の人間の魂に浮かぶ不安な問いの意味がわかるのだろう、とわたしは想像したのだった。
それよりももっと強くて生き生きとした別のあこがれが、わたしの心にわいていた。わたしはひとりの友人を得たいと思ったのである。
わたしより二つ年上で、カスパル・ハウリという、褐色の髪をした、まじめな少年がいた。彼は歩くときにも立ちどまっているときにも、確実なもの静かな作法を見せて、頭を男らしくしっかりと、まじめにかまえ、仲間の少年たちともあまり話をしなかった。わたしは幾月ものあいだ、非常な尊敬の念をもって彼をあおぎ見たし、街路では彼のあとからついていって、彼に気づいてもらいたいものだと思いこがれた。わたしは、彼が挨拶《あいさつ》をするどの俗物に対しても、また、彼がはいっていったり出てきたりするところを見たどの家に対しても、嫉妬《しっと》した。しかし、わたしは彼よりも二級遅れていたし、彼はどうやら同級生に対しても優越感を持っているらしかった。彼とわたしとのあいだには、ついに一語もかわされなかつたのである。彼のかわりに、ひとりの小さな病弱な少年が、わたしのほうから手を出したというのではなくて、わたしにくっついてきた。彼はわたしよりも年下で、内気で無能だったが、目や顔だちは美しくて、悩ましげだった。彼は虚弱で、すこしねこぜだったから、自分のクラスでいじめられることが多く、強くて勢力のあったわたしに保護を求めたのだった。やがて彼は病気が重くなって、学校にもかよえなくなった。彼がいなくなってもわたしはなんとも思わなかったし、彼のことはじきに忘れてしまった。
ところで、わたしたちのクラスに金髪の腕白がいて、音楽をやる、物まねをやる、道化役をやるという多芸の少年だった。わたしは苦労して彼の友情を獲得したが、わたしと同じ年のこの小柄ではしこい少年は、わたしに対していつもいくらかパトロンぶった態度を取った。いずれにしろ、わたしにはいまやひとりの友人ができたのである。わたしは彼の小さな部屋をおとずれて、彼といっしょに数冊の本を読み、彼のためにギリシア語の宿題をしてやり、そのかわりに、彼に計算問題を手つだってもらった。また、わたしたちはときどき連れ立って散歩をしたが、そんなときのわたしたちは熊とイタチのように見えたにちがいない。彼はいつも愉快な、機智のある、けっして当惑することのない話し手だったし、わたしは聞き手であり、笑い役であって、こんな快活な友人のあることを喜んでいた。
しかし、ある日の午後、わたしは思いがけなく、このほら吹き少年が校舎の廊下で数人の同級生に、彼の人気のある滑稽《こっけい》な物まねの一つをして見せているところにぶつかった。それまである先生のまねをしていた彼は、こんどは、「これがだれだか、当ててみたまえ!」と叫んで、ホメーロスの詩句を二つ三つ大声で読みはじめた。そうしながら彼は、わたしのうろたえた態度、おずおずとした読み方、山地の人間の粗野な発音ぶり、また、注意をこらすときのわたしの癖になっている身ぶり、左の目をぱちぱちさせたり閉じたりする癖などを、非常に正確にまねた。それは見るからにたいへん滑稽で、できるだけおかしく、そして冷酷にやってのけられた。
彼が本をとじて、当然な喝采《かっさい》をさらったとき、わたしはうしろから歩みよって彼に復讐《ふくしゅう》した。ことばにすることはできなかったが、わたしはありったけの憤激、恥辱感、憤怒をただ一つの大きなびんたにこめて、簡潔に表現した。その直後に授業がはじまった、そして、先生は、わたしのかつての友人で、おまけに先生のお気に入りであるほら吹きが頬《ほほ》を片方赤くはらして、しくしく泣いているのに気がついた。
「だれがきみをそんな目に会わせたのだ?」
「カーメンツィントです」
「カーメンツィント、前へ出て! きみがしたというのは、ほんとうか?」
「はい」
「なぜ彼をなぐつたのだ?」
わたしは答えなかった。
「なぐる理由はなかったのだな?」
「はい」
そういうわけで、わたしはしこたま罰を受けながら、禁欲主義者のように、罪なくして責めさいなまれる者の喜びに酔った。しかし、実際にはわたしは禁欲主義者でも聖者でもなくて、学校の生徒にすぎなかったのだから、罰を受けたあとで、敵に向かって舌を、出せるだけ長く出してやった。先生は驚いてわたしにくってかかった。
「恥ずかしいとは思わないのか? それはどういう意味なんだ?」
「あいつがいやしいやつで、わたしが彼を軽蔑《けいべつ》しているという意味です。おまけに彼は臆病者《おくびょうもの》です」
こうして、わたしと物まね少年との友情は終わった。彼のあと継ぎは見つからなかった。わたしは少年の成熟期の数年を友人なしで過ごさなければならなかった。しかし、わたしの人生観や人間観がそのときから幾度か変化はしたものの、それでもわたしはあのびんたを思い出すたびに、かならず深い満足をおぼえる。おそらくはあの金髪の腕白もそれを忘れてはいないだろう。
十七歳でわたしはある弁護士の娘に恋をした。彼女は美しかった、そして、わたしは、生涯のあいだいつも非常に美しい婦人にしか恋をしなかったことを、誇らしく思う。彼女のために、また、他の女たちのために、わたしが悩んだことは、別のときの話にしよう。彼女はレージー・ギルタナーといったが、こんにちでもまだ、わたしとは全然違う男たちからも愛されるねうちがある。
その当時、わたしのからだには隅々まで、使われない青春の力がわきたぎっていた。わたしは級友たちを相手に気違いじみたなぐり合いをやり、最も優秀なレスラー、球戯者、競走者、漕《こ》ぎ手であることに誇りを感じていたが、それでいながら、いつも憂鬱《ゆううつ》だった。それは恋愛事件とはほとんど関係のないことで、単に青春の初期の甘い憂鬱にすぎなかったのだが、わたしは他の連中よりもはげしくそれにとらえられたので、そのために何かと悲しいことを思い描いたり、死を考えたり、厭世的《えんせいてき》な考えを持ったりすることに喜びをおぼえた。
もちろん仲間もいて、わたしに廉価版のハイネの『歌の本』を読ませてくれた。それは実際にはもう読むなどということではなかった――わたしは空虚な詩句に自分の心をそっくり注ぎこんで、ともに悩み、ともに詩作し、抒情的熱狂の状態にはまりこんだが、それはおそらくわたしには似合わないことで、子豚にシャツの胸当てを着せたようなものだったろうと思う。そのときまで、わたしは「美文学」のことはいっさい何も知らずにいた。いまやハイネにレーナウがつづき、シラーがつづき、それからゲーテやシェイクスピアがつづいた、そして突然、文学という青白い幻影がわたしにとっては何か偉大な神になったのだった。
甘美な戦慄《せんりつ》をおぼえながら、わたしは、これらの書物から一つの生命の、かぐわしい、ひえびえとする気息がわたしのほうへ流れてくるのを感じた。その生命はこの地上にはついぞなかったものだが、しかし真実なもので、いまやわたしの感動した心のなかでその波を打ち、その運命を体験しようとしていたのである。屋根裏部屋の片隅にあるわたしの読書室には、近くの塔の時計台の時刻を告げる音と、その横に巣くっているコウノトリの、がらがらというようなそっけない鳴き声とだけしか聞こえてこなかったが、そこヘゲーテやシェイクスピアの描いた人物たちが出はいりしたのだった。いっさいの人間の崇高なところや滑稽《こっけい》なところが、わたしにはわかってきた。すなわち、分裂していて制御しがたいわたしたちの心の謎《なぞ》、世界史の深い実体、わたしたちの短い日々を明るく照らし、認識の力によってわたしたちのちっぽけな存在を必然と永遠との領域へ高めてくれる精神の大いなる奇跡、それがわたしにはわかってきたのである。
狭い明かり窓から頭を突き出すたびに、わたしは、太陽が家々の屋根や狭い小路を照らしているのを見たし、労働や日常生活の小さな物音が入り乱れてざわざわと上のほうへ響いてくるのを、不思議な思いで聞いたし、偉大な精神の持ち主たちがいっぱいに詰めかけてきている、わたしの屋根裏部屋の片隅の孤独な神秘な気はいが、異常に美しい童話《メールヘン》のように、わたしを取りかこんでいるのを感じるのだった。
そしてしだいしだいに、本を多く読めば読むほど、また、家々の屋根や小路や日常の生活を見おろすときの感動が、不思議な異様なものになればなるほど、わたしの心はしばしば、おそらくはわたしも予言者なのであって、わたしの前にひろがっている世界は、わたしがその世界の宝物の一部を掘り出して、それをおおっている偶然と卑賤《ひせん》とのヴェールを取りはずし、見つけた宝物を詩人の力によって滅亡から救い出して、不朽のものにするのを待っているのだ、というような感じが、ためらいがちに、胸苦しい思いで浮かびあがってくるのだった。
恥ずかしい思いをしながら、わたしはすこしばかり創作をはじめた、そしてしだいしだいに、数冊のノートが詩句や草案や短い物語でうずめられた。そういうものはこれまでになくなってしまったし、おそらくはあまり価値のないものだったのだろうが、しかし、じゅうぶんにわたしの心をときめかして、ひそかな歓喜を味わわしてくれた。そういう試みにつづいて、非常にゆっくりと、批評や自己検討がはじまり、最終学年になって初めて、必然的な、最初の大きな幻滅が生じた。わたしはすでに自分の書きはじめの詩を片づけはじめていたし、自分の創作なるものをすべて不信の目で見はじめていたのだが、そのときたまたまゴットフリート・ケラーの作品が二、三冊手にはいって、それをすぐさま立てつづけに、二度三度とくり返して読んだのである。
すると突然、認識の目がひらけて、自分の未熟な夢想が純粋な、きびしい、本物の芸術とははるかにかけ離れたものだったことがわかり、わたしは自分の詩や短編小説を焼き捨てて、苦しい二日酔いの感じをかみしめながら、興ざめた悲しい思いで世間をながめたのだった。
[#改ページ]
第二章
恋愛の話をするが――恋愛ということではわたしはいつまでも少年の域を脱しない。わたしにとって、女性に対する愛はいつも心を清めてくれる崇拝ということ、つまり、わたしの憂鬱《ゆううつ》な心が祈りの手を青空に高くさしのべながら、まっすぐな炎になって燃えあがることだった。
母の影響でもあるし、また、自分のはっきりしない感情からでもあるが、わたしは女性というものをおしなべて、異質の、美しい、謎めいた種族として尊敬した。女性という種族は、生まれながらに美しくて調和のとれた本質によってわたしたち男性をしのいでいる、そして、星や青霞《あおがす》む山のようにわたしたちからは遠い存在だが、わたしたちよりも神に近い存在らしいから、わたしたちはこの種族を神聖なものにしておかなければならない、とわたしは思ったのである。しかし、がさつな人生が|からし《ヽヽヽ》をたっぷりと添えてくれたために、女性に対する愛はわたしに甘さと同じだけの苦《にが》さをなめさせた。女性たちはいつまでも高い台座の上に祭りあげられてはいたものの、わたしにとっては、女性を崇拝する司祭というおごそかな役割が、とかく、ばかにされた間抜けという悩ましい滑稽《こっけい》な役割に変わるのだった。
レージー・ギルタナーにはわたしはほとんど毎日、食事にゆくたびに出会った。彼女は十七歳の、引き締まった、しなやかなからだつきのおとめだった。いくらか褐色がかった感じのすがすがしいおもながの顔は、もの静かな生き生きとした美しさをたたえていたが、この美しさは彼女の母がそのときまだ持っていた美しさで、母より前には祖母や曾祖母が持っていたものだった。この古い、高貴な、祝福された家からは、代々、多くの美人が出ていて、そのどれもが、もの静かで、上品で、すがすがしくて、気高くて、欠点のない美しさをそなえていた。無名の巨匠の筆になるフッガー一族のむすめたちの絵があるが、十六世紀に描かれたもので、わたしが見たことのある最も見事な絵の一つである。ギルタナー家の婦人たちはこの絵にたいへんよく似ていて、レージーもまたそうだった。
これはすべて、当時のわたしのもちろん知らなかったことである。わたしはただ、彼女がもの静かな明るい気品をたたえながら歩いているのを見たり、彼女の飾り気のない人柄の気高さを感じたりしただけだった。それからわたしは夕方の薄明のなかに思いをこらしながらすわっていて、ついには、彼女の姿をはっきり、まざまざと思いうかべることができるようになった、すると、わたしの少年らしい魂を、甘美なひそかな戦慄《せんりつ》が横ぎるのだった。しかし間もなく、この歓喜の数瞬間が曇って、はげしい苦痛を感じさせるようになった。わたしは突然、彼女がわたしには緑の遠い存在で、わたしのことを知りもしなけれは、気にかけもしないし、わたしの思いうかべる美しい姿は、彼女という幸福な存在から盗み取っているようなものだと感じたのである。そして、そのことを非常に鋭く、苦しく感じるときにこそ、いつも彼女の姿が数瞬間いかにもまざまざと、息づかいがわかるほど生き生きと目のまえに見えてきたから、暗い熱い波がわたしの心臓にあふれて、血管のすみずみまで奇妙な痛みをおぼえるのだった。
この波は、昼間も授業の最中や、猛烈ななぐり合いの最中に、ふたたび見舞ってくることがあった。そうなると、わたしは目をつぶり、手をたらして、気持ちのよい深い淵のなかへすべり落ちてゆくような感じになり、ついには教師に呼びかけられるか、級友のこぶしになぐられるかして、目がさめるのだった。わたしはその場から離れて、戸外へ走り出ると、奇妙な夢想にふけりながら世界を驚きの目でながめた。そして突然、あらゆるものの美しい色どり、いっさいの事物を貫流する光や息吹き、川の明るい緑色、家々の屋根の赤い色、山々の青い色を見たのである。
しかし、わたしは周囲のこの美しさに気をまぎらせられたのではなくて、それを静かに悲しい気持ちでながめたのだった。何もかにも、美しければ美しいほど、ますますわたしには縁遠いものに思われて、わたしはすべてに何のかかわりもなく、その外部に立っていたのである。そうしているうちにわたしの重苦しい思いはレージーのもとへ帰る道を見つけ出す。わたしは、もしいまわたしが死ぬとしても、彼女はそれを知らないだろうし、気にもかけないだろうし、そのために悲しむこともないだろう! などと思うのだった。
それなのに、わたしは、彼女に気づいてもらいたいとは望まなかった。わたしは彼女のために何か例もないようなことをしてやるか、あるいは、だれからきたとも知れないようにして、彼女に贈り物をしたいと思ったのである。
そして実際わたしは彼女のためにいろいろなことをした。ちょうど短期間の休暇になって、わたしは故郷の家へ帰された。家ではわたしは毎日いろいろな離れ業をやってのけたが、自分のつもりではすべてレージーのためにしたのである。登りにくい山頂にわたしは最もけわしい側から登ったし、湖に小舟を出して、短い時間で遠い距離を渡るというような、極端な漕《こ》ぎ方をした。そんな漕ぎ方をしたあとのこと、日に焼けて、空腹をかかえて帰ってきたわたしは、晩になるまで飲みも食いもしないでいることにしようと思いついたこともあった。すべてレージー・ギルタナーのためだったのである。わたしは彼女の名や彼女をほめたたえることはを、遠くへだたった山の背や一度も行ったことのなかった峡谷へたずさえていった。
レージーのための離れ業は、それと同時に、教室のなかにうずくまっていたわたしの青春が、その欲望を満たすことにもなった。わたしの肩が左右にたくましく広がるとともに、顔や首すじは褐色に日焼けし、からだじゅうの筋肉が延びて盛りあがったのである。
休暇の終わる二日まえに、わたしは非常な困難をおかして、恋人に花の犠牲をささげた。わたしは、あちこちの誘惑的な斜面の、帯のような狭い地域に、ウスユキソウが咲いていることは知っていたが、香《かお》りも色もないこの病気にかかったような銀色の花をいつも魂のない、あまり美しくないものに思っていた。そのかわりにわたしは、二、三本の孤立したシャクナゲの茂みがはらはらするような断崖《だんがい》の岩ひだにはえているのを知っていたが、遅咲きの誘惑的なその花は、手に入れにくかった。しかし、どうしても手に入れなければならなかったのだ。そこで、若さと恋には不可能なことはないのだから、わたしは両手の皮はずたずたにむけて、足にはけいれんを起こしながらも、とうとう目標に到達したのだった。そういう不安な姿勢ではわたしは歓呼の声をあげるわけにいかなかったが、しかし、折りにくい枝を注意しながら切り取って、獲物を手につかんだとき、わたしの心は歓喜のあまりにヨーデルを歌って騒ぎ立てた。引き返すときには、花を口にくわえて、あとすざりをしながら断崖をおりなけれはならなかったが、向こう見ずな少年だったわたしがどうして無事に岩壁のふもとにたどりついたか、それを知っているのは神だけである。山のどこでもシャクナゲの花どきはとっくに過ぎていたのに、わたしはその年の最後のつぼみのあえかに咲き出た枝を手に入れたのだった。
翌日わたしは五時間の旅のあいだじゅう、その花を手に持っていた。最初のうちわたしの心は美しいレージーのいる町に向かってはげしくときめいていた。しかし、高い山のつらなりが遠ざかるのにつれて、わたしはますます強く故郷への愛に引きもどされるのだった。わたしはいまでもあのときの鉄道の旅をまざまざとおぼえている! ゼンアルプシュトックはもうとっくに見えなくなっていたが、こんどはのこぎり歯のようにとがったその前山がつぎつぎに姿を消して、どの山もこまやかな悲哀感をたたえながら、わたしの心から離れていった。やがて故郷の山はすべて目のまえから姿を消して、広々とした低地のうす緑の風景がせせり出てきた。こんなことは、最初の旅のときには全然わたしの心を動かさなかったことである。しかし、こんどのわたしは、ますます平《たいら》になってくる低地へ旅をつづけてゆくように、そして故郷の山々や故郷に住む市民権を取り返しのつかない形で失ってしまうようにという判決でも受けているかのように、動揺や不安や悲哀に心をとらえられたのだった。それと同時にわたしは目のまえに絶えずレージーの美しい、おもながの顔を見ていた。その顔は非常にあえかで、縁遠くて、ひややかで、わたしのことなど気にかけてはいなかったから、わたしは腹立たしさと苦しさのあまりに息もとまる思いだった。
列車の窓のまえを、つぎつぎに、細長い塔と白い破風《はふ》とのある楽しげな、清潔な部落がすべるように通り過ぎていって、人びとが乗ったり降りたり、話したり、挨拶したり、笑ったり、たばこをのんだり、冗談を言ったりした――それはみな快活な低地の住民で、器用な、率直な、洗練された人びとだった――、そして高地の重苦しい若者であるわたしは、そういう低地の人びとのなかに、黙って、悄然《しょうぜん》と、気むずかしい顔をして腰かけていた。わたしは、自分はもう故郷にはいないのだと感じた。自分は故郷の山々から永久に引き離されてしまったが、しかし低地の人間のようにはけっしてなれないだろう、こんなに陽気に、器用に、円転滑脱《えんてんかつだつ》で自信があるようにはけっしてなれないだろうと感じた。こんな連中みたいなだれかが、いつもわたしを笑いものにするだろう、そして、いずれはギルタナー家の娘と結婚するだろう、そして、いつもわたしのじゃまをして、いつもわたしの一歩先に出ていることだろう。
そんなことを思いながら、わたしは町へもどってきた。そこでわたしは、最初の挨拶のあとで屋根裏部屋へのぼり、荷箱をあけて、大判の紙を一枚取りだした。それは極上質の紙ではなかった、そして、その紙で例のシャクナゲを巻き包んで、その包みを特別に家から持ってきたひもでしばったのだが、とても愛の贈り物とは見えなかった。わたしはまじめな気持ちでそれを弁護士ギルタナーが住んでいる町へ持っていって、いい時だと思った最初の瞬間に、開けはなしの門からはいりこみ、たそがれどきの薄暗い玄関のなかをちょっと見まわして、持ちこんだぶかっこうな包みを、広い堂々とした階段の上に置いた。
わたしはだれにも見られなかった、そして、レージーがわたしの挨拶を見てくれたものかどうか、ついに知ることができなかった。しかし、わたしはシャクナゲの枝を一つ彼女の家の階段の上に置くために、生命がけで断崖をよじ登ったのだった。そのことには何か甘美な、もの悲しくて同時にうれしい、詩的なところがあって、それがわたしにはいい気持ちだったのだし、いまでもわたしはそれを感じることができる。ただ、ときどき、神を信じられない気持ちになるときにだけ、あのシャクナゲの冒険も、その後のわたしの恋愛事件のすべてと同じように、ドン・キホーテ的な愚行だったように思えてくる。
わたしのこの初恋はついに結末を見ることがなく、救われないまま、もの問いたげに、わたしの青春の歳月のなかへしだいに薄れてゆきながら、その後のわたしの恋愛のかたわらに、もの静かな姉のようにともないつづけた。いまでもわたしは、あの生まれのよい、もの静かな目つきをした素封家《そほうか》の若い娘よりも高貴で、清らかで、美しいものを思い描くことはできない。そして何年もたってから、ミュンヘンのある歴史的な展覧会で、フッガー家の娘を描いたあの作者不明の、謎めいた愛らしさのある肖像画を見たとき、わたしは、目のまえにわたしの夢想的でもの悲しかった青春がそっくりそのまま立っていて、底の知れないようなまなざしでふかぶかと、じっと、わたしを見つめているような気がした。
そのあいだにもわたしはのろのろとゆっくり脱皮をつづけて、しだいにすっかり青年になっていった。そのころうつしたわたしの写真を見ると、粗末な学生服を着た、骨の太い、背の高い百姓の若者がうつっている。すこしかすんだような目をして、未熟な粗野な手足をつけているが、ただ顔だけは早熟の、しつかりしたおもむきがある。一種の驚きをおぼえながら、わたしは自分が少年時代の行儀を捨ててゆくのを見た、そして、漠然《ばくぜん》とした喜びを感じながら、やがてくる大学時代を待ちうけていた。
わたしはチューリヒの大学にはいることになっていた、そして、わたしの後援者たちは、成績が特別によい場合には研究旅行もさせてもらえるだろうと言った。そういうことはすべて、わたしには、美しい古典的な絵のように思われた、つまり、ホメーロスとプラトンとの胸像を置いた、まじめな感じの居心地のよい園亭にわたしが腰をかけて、二つ折り判の大形の書物の上に身をかがめている、そして、四方には町や、湖や、山々や、美しい遠方を見はるかす広大な明るい眺望が開けているという絵である。わたしの態度は前よりも冷静になっていたが、しかし前よりも感激的になっていた、そして、わたしは未来の幸福を、それにふさわしいものと見てもらえることを確信しながら、待っていた。
最後の学年になってから、わたしはイタリア語の勉強と、古い時代の短編小説の作家たちを初めて読むことに夢中になったが、この短編小説の作家たちともっと徹底的に知り合うことは、チューリヒで過ごす数学期の最初にする楽しい仕事として取っておいた。それからいよいよ別れの日がきて、わたしは先生たちや下宿の主人にさよならを言い、小さな荷箱に荷物を詰めて釘《くぎ》を打ち、気持ちのよい悲哀感を抱いて別れを告げながらレージーの家のまわりを歩きまわった。
別れの日につづいた休暇の時期は、わたしに人生のにがい味を味わわせて、わたしの美しい夢の翼を、さっさと、乱暴に引き裂いてしまった。まずわたしは母が病気なのを知った。母はベッドに横たわっていて、ほとんど何も言わず、わたしの帰省したのを見ても何ひとつ騒ぎ立ててはくれなかった。わたしはぐちを言いたいとは思わなかったが、それにしても、自分の喜びや若い誇りに対してなんの反響も見いだせないのは悲しいことだった。それから父がわたしにはっきりこう言った。おまえが大学へゆくと言うのなら、自分はそれに反対はしないが、しかし、自分はおまえに学資をやることはできない。もしあのささやかな奨学金で間に合わないなら、おまえは必要なだけは自力でがせぐようにしなけれはならない。おまえぐらいの年のときは自分はもうとっくに独立の生計を立てていたのだ等々。
徒歩旅行や、舟|漕《こ》ぎや、山登りも、このたびはあまりやらなかった。家でも畑でもいっしょに仕事をしなければならなかったからである。そして、半日が自分の自由になる日にも何をする気もなく、本を読む気さえ起こらなかった。いやしい日々の生活が大きな口をあいてその権利を要求し、わたしの持ってきていた充溢《じゅういつ》と自負とをすっかり食い平げてしまうのを見て、わたしは腹が立ったし、うんざりもしたのである。とにかく父は、金の問題を心からおろしてしまうと、持ち前のまま荒けずりでそっけなくはあったものの、わたしに対して不親切ではなかったのだが、しかし、わたしはそれをうれしいとは思わなかった。わたしの学校教育や書物が父にひそかな、半ば軽蔑のまじった尊敬の念を吹きこんだことも、わたしにはわずらわしいことで、残念に思った。それからまたわたしはしばしばレージーのことを思って、自分は百姓だから、「世間」ではいつまでも自信のあるはしこい人間になどなれはしないのだという、頑固《がんこ》な不快感をくり返すのだった。それどころかわたしは、故郷にとどまっていて、ラテン語やいろいろな希望を、みじめな故郷の生活の執拗《しつよう》な陰気な強制のなかで忘れるほうがよくはないだろうかと、何日ものあいだ思案したのだった。
悩ましい、むしゃくしゃした気持ちでわたしは歩きまわった。そして、病気の母のベッドのそばでさえ慰めも落ちつきも見いだせなかった。ホメーロスの胸像を置いたあの夢の園亭の光景が、あざけるようにふたたび現われた。わたしはその光景を破壊して、さんざんに悩まされたわたしという存在のいっさいの怨《うら》みや敵意をその上に注ぎかけた。この数週間は耐えがたいほど長いものになった。腹立たしくて思いの乱れるこの絶望的な時期のために、自分の青春がすっかり失われてしまうようにも思われるのだった。
それまでわたしは、人生がわたしの幸福な夢想をさっさと徹底的に破壊するのを見て、驚きもし憤慨もしていたのだが、こんどは、現在の悩みに対してもそれを克服するものが突然に力強く生じてくるのを見て、驚く立場になった。人生はそれまで灰色の仕事日の側面を見せていたのだったが、こんどは突然その永遠の深さを示しながら、わたしの偏見にとらわれた目のまえに進み出てきて、わたしの青春に、ひとつの単純な力強い経験を背負わせたのだった。
ある暑い夏の日の朝早く、わたしはベッドのなかで喉《のど》がかわき、起きあがって、いつも清水を入れたおけの置いてある台所へ行こうとした。そこへ行くには両親の寝室を通り抜けなければならなかったが、わたしは母が奇妙なうめき声を立てているのに注意を引かれた。母のベッドに歩みよると、母はわたしを見もしなければ返事もせずに、ひとりで、かわいたような不安でたまらないようなうめき声を立てながら、まぶたをひくひくさせていて、青ざめた顔には色つやがなくなっていた。その様子にわたしはいくらか不安になりはしたものの、特に驚きはしなかった。しかし、それからわたしは母の両手が静かに、眠っているきょうだいとでもいうように、敷布の上にのせられているのを見た。その両手を見て、わたしは母の死にかけているのがわかった。その両手がもう妙に死ぬほど疲れきっていて、なんの意志も持たず、生きた人間の手ではなくなっていたからである。わたしは喉《のど》のかわきを忘れて、寝床のそばにひざまずき、病人の額に手を当てて、そのまなざしをとらえようとした。
わたしを見たそのまなざしはやさしくて、苦しみの色もなかったが、しかし、もうどんよりとなりかけていた。かたわらで父が荒い息づかいをしながら眠っていたが、その父を起こさなければならないということは、わたしは思いつかなかった。そんなわけでわたしはほぼ二時間ばかりひざまずいて、母の死んでゆくのを見ていた。母はその持ち前にふさわしく、静かに、まじめに、毅然《きぜん》として死を迎えた、そして、わたしにりっぱな手本を示したのである。
その小部屋はひっそりとしていて、すこしずつ、明けてくる朝の明るみに満たされてきた。家も村もじっと眠っていた。わたしはしばらくのあいだ、心のなかで、死んでゆく人の魂につきそいながら、家や村や湖や雪をいただいた山頂を越えて、清らかな早朝の空のひんやりとする自由の境地へはいっていくことができた。苦痛はあまり感じなかったが、それは、ひとつの大きな謎が解けて、ひとつの生命の輪がかすかにふるえながら閉じるところを見ていることのできたわたしが、驚嘆と畏敬《いけい》との気持ちでいっぱいになっていたからである。それにまた、死んでゆく母の泣きごとを言わない毅然とした態度がいかにも崇高なものだったので、そのきびしい栄光から、さわやかな明るい光がひとすじ、わたしの魂のなかへもさしこんできたのだった。父がかたわらに眠っていること、牧師がそこにいないこと、天に帰る魂を清めながら送ってゆく聖餐《せいさん》も祈祷もないこと、それをわたしは感じなかった。わたしはただ、永遠のそくそくたる息吹きが、しだいに明るくなる部屋のなかにみなぎってきて、わたしの本質とまざり合うのを感じるばかりだった。
いまわのきわに、目はすでにどんよりとなっていたが、わたしは生まれてはじめて、母のつめたい、しぼんだ口に接吻した。すると、その接触の異様なつめたさのために、わたしは突然、恐怖の戦慄をおぼえた。わたしはベッドの端に腰をかけて、大粒の涙がゆっくりとためらいがちに、ひとつまたひとつと頬《ほほ》から顎《あご》、顎から手へつたい落ちるのを感じた。
それから間もなく父が目をさまして、わたしがそこに腰かけているのを見ると、ねぼけた声で、どうしたのかと呼びかけた。わたしは返事をしようとしたが、何も言うことができずに、その部屋から出て、夢でも見ているようなぐあいに自分の部屋へもどり、ゆっくりと無意識のうちに服を身につけた。間もなく父がわたしの部屋に現われた。
「お母さんが死んでる」と彼は言った。「おまえそれを知っていたのか?」
わたしはうなずいた。
「なぜわしを起こさなんだ? それに司祭さんもおらんかったじゃないか! おまえみたいなやつは」父はひどい呪《のろ》いのことばをはいた。
すると、血管が破裂でもしたように、わたしの頭のなかの何かが痛くなつた。わたしは父のほうへ歩みよって、その両手をぎゅうと握りしめた――強さにかけては父はわたしにくらべると子どもみたいなものだった――そして父の顔を見つめた。わたしは何も言えなかったが、しかし、父は静かになり、不安そうな様子になった、そして、それからふたりで母のところへ行くと、父も死の力にとらえられて、その顔が見慣れない、いかめしい表情になった。それから父は死んだ母の上に身をかがめて、ほそぼそと子どものようになげきはじめた。そのかん高くて弱い調子は、ほとんど何かの鳥を思わせた。わたしはその場を離れて、近所の人たちに母の死を知らせた。彼らはわたしのことばを聞いて、何も尋ねずに、わたしと握手をし、主婦をなくしたわたしたちの世帯を手伝うと言ってくれた。ひとりの男が神父を迎えに修道院を目ざして走ってゆき、わたしが家へ引き返すとすでに近所の女がひとり、うちの家畜小屋にはいって雌牛の世話をしていた。
神父がやってきた、そして、村の女たちがほとんど全部やってきた。万事がてきぱきと手抜かりなく、おのずからのようにおこなわれていって、棺さえもわたしたちが何もしないでいるうちに用意された。そして、わたしは、困難な境遇におちいったときには、故郷にいて、小さいながら信頼のできる共同体に属しているのがどんなにいいことか、それを初めてはっきりと理解することができた。翌日わたしはこのことをもっと深く考えてみるべきだったのだろう。
それというのも、棺が祝福を受けて地下に葬られ、悲しいほど古風で毛ばだったシルクハットの奇妙な群れが、わたしの老父のそれも、それぞれ帽子箱や戸棚にしまいこまれたとき、気の毒な父が弱気に襲われたからである。父は突然自分自身に同情しはじめて、自分のみじめさを、大部分は聖書ふうの言い回しの奇妙な言い方でわたしにこぼしたのだが、自分は、妻が葬られたいま、息子までも失って、息子が異郷へ出かけていくのを見なければならない、と言うのである。
父のことばはいつまでも終わらなかった。わたしは驚いてそれに耳をかたむけながら、故郷にとどまることを父に約束しようという気持ちになりかけていた。
その瞬間、もう返事をしかけていたのだが、わたしの心に不思議なことが起こった。わたしには突然、自分が幼いときから考え、願い、あこがれながら希望したことのすべてが、ほんの一瞬のあいだ、突然ひらいた心の目のまえにひしめきながら出てきたように思われた。わたしはいくつもの大きなすはらしい仕事、読むべき本や書くべき本がわたしを待ちかまえているのを見た。わたしは南風《フェーン》の吹いてゆく音を聞き、遠くの幸福な湖や岸辺が、南国の色彩につつまれて、光り輝いているのを見た。わたしはかしこそうな精神的な顔をした人びとや、美しい品のよい婦人たちがしずしずと歩いているのを見たし、道路が走り、山道がアルプスを超えて走り、鉄道が国々を駆け抜けるのを見た。いっさいを同時に、しかもひとつひとつをはっきりと見た、そして、いっさいの背後に明るい地平線が流れてゆく雲にたち切られながら、無限に遠くひろがっているのを見た。学ぶ、創造する、眺《なが》める、旅をする――人生の豊かさがすべて、束の間の太陽の輝きを浴びながら、わたしの目のまえで光り輝いた、そして、子どものころと同じように、いままたわたしの心のなかの何かが、無意識の力強い強制を受けて、世界の大きな広がりの方向をさしながらふるえた。
わたしは黙っていて、父の語るにまかせ、頭を横にふるだけにして、父の激情の疲れるのを待った。晩になってやっと父はしずまった。そこでわたしは父に、大学で勉強をして、自分の将来の故郷を精神の国に求めるが、しかし父には援助を頼まないというわたしの堅い決心をはっきりと告げた。父もそれ以上はもうせがまないで、ただ悲しそうに頭をふりながら、わたしを見つめていた。わたしがこれからは自分の道を歩いていって、父の生活とはみるみるうちにすっかり縁の遠い存在になるだろうということ、それが父にもわかったからである。きょう、こうして書きながらあの日のことを思い出したとき、わたしの目には、あの晩窓辺の椅子《いす》にすわっていた父の様子が思いうかんだ。あのとき、父の鋭くてかしこい百姓ふうの顔は、細い首の上でじっと動かずにいた。短い髪は白くなりはじめていた。そして、ぶあいそうできびしいその表情を見ると、悲しみと急にはじまった老年とが、しんの強い男らしさと戦っているのがわかるのだった。
父のことや、父の家に滞在したそのときのことについては、もう一つのささやかな、しかし重大な事件を物語らなければならない。わたしが旅立つまえの最後の週のこと、ある晩、父が縁なし帽をかぶって、戸の取っ手をつかんだ。「どこへ行くんですか?」とわたしは尋ねた。――「おまえになんの関係がある?」と父は言った。――「悪くないことなら、ぼくにも言ってくれていいでしょう」とわたしは言った。すると父は笑って、「おまえもいっしょに来ていいよ、もうチビっ子じゃないんだからな」と叫んだ。そこでわたしはいっしょに出かけた。飲み屋へ。そこには、二、三人の百姓がハラウ・ブドウ酒の徳利の前に陣取り、よそ者の車力が二人アブサン酒をかたむけ、若者たちが一つのテーブルをぎっしりとかこんで、ヤス〔スイスのカルタ遊び〕をしながら、わいわいと騒ぎたてていた。
わたしは、ときどきコップ一杯のブドウ酒を飲むことには慣れていたが、必要もないのに飲み屋へはいったのは、このときがはじめてのことだった。父があっぱれな酒飲みだということは、わたしはうわさに聞いて知っていた。父は酒量が多くて、見事な飲みっぷりだったのである。そのために父の家政は、酒以外のことを父がはなはだしくおろそかにしているというわけではないのに、いつも絶望的な貧困にはまりこんでいたものだった。父が飲み屋の主人や客たちからおおいに敬意をはらわれるのが、わたしの注意を引いた。父はヴァートラント・ブドウ酒を一リットル持ってこさせて、わたしに酌をしろと命じながら、注ぎ方を教えてくれた。初めはびんを低くさげて注ぎ、つぎには、びんを適当に高く持ちあげて、びんの口から流れ出るブドウ酒のすじを長くし、最後にはまたびんをできるだけ低くさげるようにする、ということだった。
それから父は、彼の知っているもので、町へ出るとか外国へ行くとかする稀《まれ》な機会にいつも味わうことにしていた、いろいろなブドウ酒の話をしはじめた。父はまじめな敬意をはらいながら、深紅色のヴェルトリーン・ブドウ酒の話をして、これには三種類の区別があると言った。それから声を低めて熱心に、幾種類かの、びん詰めのヴァートラント・ブドウ酒の話をしはじめた。最後に父は、おとぎばなしを物語る人のような顔つきになって、ほとんどささやくような声を出しながら、ヌーシャテルのブドウ酒のことを話した。このブドウ酒には、生産の年度によって、注ぐときに泡《あわ》がコップのなかで星形になるものがある。そう言いながら父は人さし指をぬらして、テーブルの上にその星形を描いた。それから父はシャンパン酒の性質や風味について途方もない臆測《おくそく》にふけった。父はシャンパンを飲んだことは一度もなかったが、シャンパンはひとびんで二人の男をヘベれけに酔っぱらわせてしまう、と信じていたのである。
口をつぐむと、父は思いにふけるような様子になって、パイプに火をつけた。そうしながら父は、わたしにたばこがないことに気がつくと、十ラッペンのたばこ代をくれた。それからわたしたちはさし向かいにすわって、たばこの煙をおたがいの顔へ吹きかけ合い、ゆっくりと味わいながら最初の一リットルを飲みほした。黄色くてぴりっとするヴァートラント・ブドウ酒は、わたしにはとてもうまかった。だんだんと隣のテーブルの百姓たちが話の仲間にはいってきて、ついには一人また一人と、咳《せき》ばらいをしながら、慎重な物腰でわたしたちのテーブルへ移ってきた。
間もなくわたしのことが話の中心になって、登山家としてのわたしの評判のまだ忘れられていないことがわかった。いろいろな大胆不敵な登りや、途方もない墜落が、神話の霧につつまれた形で物語られ、否定されたり弁護されたりした。そうしているあいだにわたしたちはすでに二リットル目をほとんど飲みほしかけていた、そして、わたしの目は充血してざわめいていた。わたしの性には全然合わないことだったが、わたしは大声で自慢をしはじめて、向こう見ずにゼンアルブシュトックの奥の絶壁によじ登ったことも話して聞かせた。そこはわたしがレージー・ギルタナーのためにシャクナゲを取りにいったところである。
みんなはわたしの話を信じなかった。わたしはほんとうのことだと断言した。みんなは笑った。わたしは腹を立てた。わたしの話を信じない者にはだれにでも、わたしはレスリングをしようといどんで、なんならみんなを束《たば》にして降参させてやるつもりだとほのめかした。すると、ひとりの年取った猫背《ねこぜ》の百姓がスタンドのなかへはいっていって、大きな陶製のジョッキを持ち出し、それを横にしてテーブルの上に置いた。
「おまえさんに言いたいことがある」と彼は笑いながら言った。「もしそんなに強いのだったら、このジョッキをげんこで割ってみな。割れたら、それにはいるだけの酒の代金をおれたちが払う。割れなかったら、おまえさんが酒代を払うさ」
父はすぐに同意した。そこでわたしは立ちあがると、手にハンカチを巻きつけて、打った。最初の二度は打っても全然きき目がなかった。三度目にジョッキは割れた。
「勘定だ!」と父は叫んで、うれしさのあまりに顔を輝かした。年取った百姓は承知したらしかった。「よし」と披は言った、「そのジョッキにはいるだけの酒の代金を払うよ。しかし、たいしたことでないらしい」もちろん割れ残りのジョッキにはもう四分の一リットルもはいらなかった。わたしは腕を痛くしたうえに、嘲笑《ちょうしょう》を浴びせられた。こんどは父もわたしをからかった。
「そうか、そんならおまえさんの勝ちだ」とわたしは叫んで、割れ残りのジョッキにこちらのびんからブドウ酒をなみなみと注《つ》ぎ、それを年取った百姓の頭からあびせかけてやった。そこでわたしたちのほうがまた勝ちになって、客人たちの喝采《かっさい》を浴びた。
そういうひどい冗談がまだいくつか続けられた。それから父がわたしを引きずって家へ連れ帰った、そして、わたしたちは、母の棺が置かれていたときからまだ三週間とたたない部屋のなかを、酔ったいきおいで乱暴にそうぞうしい音を立てながら、通り抜けた。わたしは死んだように眠ったが、翌朝はすっかり参ってだめになっていた。父はあざけった。彼は元気で、ほがらかで、明らかに自分の優越を喜んでいた。わたしはひそかに、もう二度と大酒は飲まないぞと誓って、旅立ちの日を待ちこがれていた。
その日がきて、わたしは旅立ったが、例の誓いはずっと守らずにいる。あれからわたしは黄色いヴァートラント・ブドウ酒や、深紅色のヴェルトリーン・ブドウ酒や、ヌーシャテルの星ブドウ酒や、その他多くのブドウ酒と知り合いになって、仲のよい友だち付き合いをしてきている。
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第三章
故郷の味気ない重苦しい空気から抜けだしてきたわたしは、歓喜の、そして自由の、大きな羽ばたきをした。人生のその他の点ではわたしはこれまでいつも損をしているが、しかし、青年時代の独特な、熱狂的な歓喜というものは豊かに純粋に味わってきたのである。花ざかりの森のふちでいこいを取る若い戦士のように、わたしは、たたかいとたわむれとのあいだの幸福ないらだちのなかで生きていた、そして、予感に満ちた予言者のように、暗い深淵のふちに立って、大きな流れやあらしのどよめきに耳をすまし、魂の用意をととのえて、事物の和合や生きとし生けるものの調和のひびきを聞きとろうとしていた。
わたしは青春のあふれるばかりな杯《さかずき》から、幸福な思いでふかぶかと飲み、おずおずと敬意をささげた美しい婦人たちのための甘美な悩みをひそかに耐えしのび、男性的な意味で楽しい、純粋な友情という、青春の最も高貴な幸福を味わったのだった。
新調の鹿皮の服を着て、書物やその他の持ち物をぎっしり詰めこんだ小さな荷箱を一つたずさえたわたしは、列車でチューリヒに到着したが、世界の一部を征服して、故郷のがさつな連中に、わたしがほかのカーメンツィントどもとはたちが違うということを、できるだけ早く証明してやろうと心に決めていたのである。すばらしい三年のあいだ、わたしは、遠くまで見はらしがきいて、風のよく当たる、同じ屋根裏部屋に住みつづけて、勉強し、詩作し、あこがれながら、自分が地上のいっさいの美に暖かく親密にとりかこまれているのを感じた。わたしは毎日暖かい食事をすることができたわけではなかったが、しかし、わたしの心は昼も夜もいつでも、はげしい喜びにあふれて、歌い、笑い、泣いて、この人生を熱烈に渇望しながら抱きしめていたのだった。
チューリヒは、青二才のペーターであるわたしが見ることのできた最初の大都会だった。そして、二、三週間ばかり、わたしは絶えず驚きの目を見はっていた。都会の生活を正直に賛美するとかうらやむとかいうことは思いもよらなかったが――その点ではわたしはまさに百姓だったのだ――しかし、わたしは町も家も人間も多種多様なのを喜んだのである。
わたしは車でにぎわっている街路や、舟着き場や、広場や、庭園や、はなやかな建物や、教会をいくつもながめた。勤勉な人たちが群れをなして仕事に出かけるところや、大学生たちが浮かれ歩いているところや、上流の人びとが乗物で出かけるところや、しゃれ者たちがいばっているところや外国人がぶらぶら歩きまわっているところを見た。流行のエレガントな身なりをした金持ちのうぬぼれた女どもは、わたしには養鶏場の孔雀《くじゃく》のように、きれいで、いばっていて、いささか滑稽に思われた。わたしはもともと内気ではなくて、ただ、頑固《がんこ》で反抗的だっただけである。そして、自分こそは都会の活動的な生活を徹底的に知りつくして、ゆくゆくは自分でそこに確実な地歩を占めることのできる男なのだということを、わたしは疑わなかった。
青春は美しい青年の姿になってわたしに歩みよってきたが、この青年は同じチューリヒの大学に学び、わたしと同じ家の二階にきれいな部屋を二つ借りていた。毎日わたしは彼が階下でピアノを弾いているのを聞いた、そして、聞きながらはじめて音楽という最も女性的な、最も甘美な芸術の魅力をいくらか感じとった。それからわたしは、このきれいな青年が左手に本か楽譜を持ち、右手には巻きたばこを持って家から出かけるのを見た。たばこの煙が彼のしなやかなすらりとした足どりのうしろで渦《うず》を巻いていた。わたしは彼に対する内気な愛に引かれたが、しかし、孤独を守って彼には近づかず、彼のような人間と交際することを恐れていた。軽快な、自由な、裕福な態度の彼の横に出ると、自分の貧しさや礼儀作法の欠陥のために、自分が屈辱を感ずるだけのことになりそうだったからである。
すると彼のほうがわたしのところへやってきた。ある晩わたしの部屋のドアがノックされた。わたしはすこしぎょっとした。まだ一度も自分の部屋に客を迎えたことがなかったからである。例の美しい大学生がはいってきて、わたしと握手をし、自分の名を告げると、まるで旧知の仲のように、自由に快活にふるまった。
「ぼくといっしょにすこし音楽をなさる気はないかどうか、それをお尋ねしようと思いましてね」と、彼はあいそうよく言った。
しかし、わたしはそれまでまだ一度も楽器に手をふれたことがなかった。わたしは彼にそう言って、ヨーデルを歌うほかにはなんの芸もないが、下から響いてくる彼のピアノの演奏はたびたび美しい魅惑的なものと思いながら聞いた、とつけ加えた。
「とんでもない思い違いでした!」と彼は愉快そうに叫んだ。「あなたの外見から判断するのでしたら、ぼくは、あなたは音楽家だと断言していたでしょうよ。じつに不思議だ! しかし、ヨーデルはおできになるんですね? ああ、どうかひとつヨーデルを歌ってみてください! どうしても聞きたいんです」
わたしはすっかり当惑して、彼に、注文に応じて部屋のなかでヨーデルを歌うなどということは、とうていできるものではない、山の上か、すくなくとも戸外で、まったく自分でその気になってやらないとだめなのだ、と説明してやった。
「それなら山の上で歌ってください! あすではどうでしょう? どうかお願いします。たとえば夕方にでも、いっしょに出かけられるでしょう。ぶらぶら歩きながら、すこしおしゃべりをして、上に着いたらあなたがヨーデルを歌う、そのあと、どこかの村で夕食を食べましょう。暇はおありでしょうね?」
もちろん、暇はじゅうぶんにあった。わたしは急いで承諾した。それからわたしは、何か演奏を聞かせてもらいたいと頼んで、いっしょに彼の美しい大きな住まいへおりていった。モダンな額縁に入れた二、三枚の絵、ピアノ、一種の上品な乱雑さ、かすかな巻きたばこの香《かお》り、そうしたものがきれいな部屋のなかに一種の自由な快適な優雅さと住みごこちのよい気分とを生み出していたが、それはわたしにはまったく目新しいものだった。リヒァルトはピアノに向かって腰をおろすと、二、三小節弾いた。
「これは、ご存じでしょうね?」と彼はこちらへうなずきかけたが、演奏の手をとめて、感じのいい顔をこちらへかしげながら、はればれとわたしを見つめる様子は、魅惑的に見えた。
「いや」とわたしは言った、「何も知らないんですよ。」
「ヴァーグナーです」と彼は叫び返すと、「マイスタージンガーですよ」と言って、弾きつづけた。その響きは軽快で力強く、あこがれをはらんで、ほがらかだった、そして、わたしは人を興奮させる、なまぬるい湯にひたっているような気がした。同時にわたしはひそかな歓喜をおぼえながら、演奏するリヒァルトのすらりとしたうなじや背中や、音楽家らしい白い手をながめていた、すると、わたしは以前あの黒い髪の高校生をながめたときに感じたのと同じ、愛情と尊敬とのまじった、内気な賛美の感情におそわれるとともに、この美しい高貴な人間はひょっとすると、ほんとうにわたしの友だちになって、こういう友だちを持ちたいものだと願ったわたしの、以前の、まだ忘れていない願望をかなえてくれるかもしれないという、おずおずとした予感にもおそわれるのだった。
その翌日わたしは彼を誘いに行った。わたしたちはおしゃべりをしながら、ゆっくりと小高い丘に登って、町や湖やあちこちの庭園を見おろし、たそがれ前の満ち足りた美を味わった。
「さあ、ヨーデルを歌ってください!」とリヒァルトが叫んだ。「まだ恥ずかしいのなら、ぼくに背を向けてもいい。しかし、どうか大声で願います!」
彼は満足することができた。わたしは猛烈ないきおいで歓声をあげながら、バラ色の夕ベのひろがりのなかへ、ヨーデルのありとあらゆる音調や節回しをひびかせてやった。わたしが歌いやめたとき、彼は何か言おうとしたが、すぐにやめて、聞き耳を立てながら山のつらなりを指さした。遠くの山から、かすかに、長く尾を引いた返事が、ふくらみながら聞こえてきた。羊飼いか旅人かの挨拶である。わたしたちは何も言わずに、喜んでそれに耳をかたむけていた。そうやって、いっしょに立って耳をすましているあいだ、わたしは気持ちのよい(戦慄《せんりつ》をおぼえながら、はじめて一人の友だちのそばに立って、こうして二人でバラ色の雲におおわれた、美しい人生のひろがりをながめているのだ、という感情にひたっていた。
夕方の湖がやわらかな色彩のたわむれをはじめた、そして、日没のすこし前にわたしは、くずれながら流れてゆくもやのなかから、反抗的な、ぎざぎざと気むずかしげにとがったアルプスの山頂が二つ三つ現われてくるのを見た。
「あすこがぼくの故郷です」とわたしは言った。「まんなかの断崖が赤絶壁、右がガイスホルン、左のずっと離れたのが、まるいゼンアルプシュトック。はじめてあの広いまるい頂に立ったとき、ぼくは十歳と三週間でしたよ」
南寄りの山頂がどれか一つ見えはしないかと、わたしは目をこらした。しばらくしてリヒァルトが何か言ったが、わたしにはわからなかった。
「なんと言われましたか?」とわたしは尋ねた。
「あなたがどんな芸術にたずさわる人だか、いまそれがわかった、と言ったのです」
「いったいどんな芸術?」
「あなたは詩人です」
そう言われたわたしは顔を赤くして、腹立たしくなったか、それと同時に、どうして彼がそれを言い当てたものかと、驚きもした。
「違います」とわたしは叫んだ、「ぼくは、詩人なんかではありません。学校では詩を作りはしましたが、その後はもう長らく一つも作りません」
「その詩をいつか見せていただけますか?」
「焼き捨てましたよ。しかし、まだ持っていたにしても、お見せするわけにはいきません」「きっと非常にモダンなもので、ニーチェを多く取り入れてあったでしょう?」
「それはなんのことです?」
「ニーチェですか? おやおや、ニーチェを知らないのですか?」
「知りませんね。どうして知るわけがあるでしょう?」
わたしがニーチェを知らないということで、彼は有頂天になった。しかし、わたしは腹立たしくなって、氷河をいくつ越えたことがあるかと彼に尋ねた。彼が一つも越えたことがないと答えると、わたしはそれに対して、さっき彼がわたしにして見せたのと同じように、あざけるような驚きぶりを見せてやった。すると、彼はわたしの腕に片手をかけながら、すっかりまじめな調子でこう言った、「あなたは感じやすいんですね。しかし、あなたは、あなたがうらやましいほどすれていない人間で、そういう人間はじつにすくないということを、ご自分では全然知らずにいらっしゃる。いまに、一年か二年もすると、あなたはニーチェやいろんながらくたのことがわかるようになりますよ。ぼくよりもはるかによくです。あなたのほうがぼくよりも徹底的で、もの分かりがいいですからね。しかし、いまのままのあなたをこそ、ぼくは好きなんです。あなたはニーチェを知らないし、ヴァーグナーも知らない、しかし、あなたは万年雪をいただいた山に何度も登ったことがあるし、高地の人のがっしりとした顔をしていらっしゃる。それにまた、たしかに、あなたは詩人です。あなたの目つきや額を見ればわかりますよ」
彼がそれほど率直に遠慮なくわたしを観察して、自分の意見をありのままに述べたことも、わたしをびっくりさせたし、普通にはないことのように思われた。
しかし、それよりもはるかにびっくりさせられるとともに、幸福な気持ちにもなったことだったが、一週間後に彼は、あるにぎやかなビヤガーデンで、わたしと兄弟の杯《さかずき》をくみかわし、みんなの見ているまえで跳びあがって、わたしに接吻し、わたしを抱いて、いっしょにテーブルのまわりを気が狂ったみたいに踊りまわったのだった。
「みんながどう思うだろうかね?」と、わたしははにかみながら彼をいましめた。
「みんなは、あの二人は度はずれて幸福なんだとか、あるいは、まったく度はずれた酔っぱらいかたをしているんだとか思うだろう。しかし、たいていの連中は全然なんとも思いはしないよ」
とにかくリヒァルトは、わたしよりも年上で、賢明で、よい教育を受けていて、万事に通じているうえに洗練もされてはいたものの、それでもしばしば、わたしにくらべるとまったくの子どものように思われるのだった。街上では彼は、もったいぶった嘲笑的な態度で、まだ大人になりきらない女学生のごきげんを取ったし、まったくの子どもじみた洒落《しゃれ》をとばすために、非常にまじめなピアノ曲を不意に中断したし、また、わたしたちがおもしろ半分に教会へはいっていったときなどは、彼は説教の最中に突然、物思わしげな大事そうな口調でわたしに、「きみ、あの牧師は老いぼれうさぎみたいだとは思わないか?」と言ったものだった。その比較は当たっていたが、わたしは、そんなことはあとで言ったっていいことだったろうと思ったので、そう彼に言った。
「うまく言い当てたんじゃないか!」と彼はふくれつらをした。「あとまで待ったら、たぶんまた忘れてしまっただろうよ」
彼の洒落は、かならずしもいつも才気煥発《さいきかんぱつ》なものとはいかないどころか、ブッシュの詩の引用にすぎないことも多かったのだが、それはわたしをも他の人びとをもわずらわしはしなかった。というのも、わたしたちが愛したり賛美したりしたのは、彼の洒落や才気ではなく、彼の明るい子どもらしい人がらの、抑えようにも抑えられないほがらかさだったのだからで、そのほがらかさはいつでもあふれ出てきて、彼を軽快な陽気な雰囲気のなかに包みこむのだった。そのほがらかさは何かの身ぶりにも、かすかな笑いにも、陽気なまなざしにも現われることのできるものだったが、長くかくれていることはできなかった。彼は眠っているあいだにもときどき笑ったり、ほがらかな身ぶりをしたにちがいない、とわたしは確信している。
リヒァルトはわたしをしばしば他の若い連中、大学生だの、音楽家だの、画家だの、文士だの、いろんな外国人だのといっしょにならせた、というのも、この町のなかをうろついている、おもしろい、芸術好きな、風変わりな人物はみな、彼と付き合うことになったからである。そのなかには哲学者だの、美学者だの、社会主義者だの、まじめな、猛烈に努力している人びとがいくらもいた、そして、多くの人びとからわたしは大いに学ぶことができた。非常にさまぎまな領域の知識が断片的にわたしのものになったが、そのかたわら、わたしはそれを補いながら大いに本を読んだ。そして、そういうやり方でわたしはしだいに、現代の明敏な人びとを悩ましたり魅惑したりしているものが漠然《ばくぜん》とわかるようになり、精神のインターナショナルというものをのぞいて、有益な刺激を受けた。
精神のインターナショナルの願望、予感、仕事、理想は、わたしには興味のある、理解できるものだったが、自分のなかの強い衝動に強いられて、賛否を明らかにしながら、自分もいっしょになって戦うということにはならなかった。大多数の人びとは、思想や情熱のエネルギーをすべて社会や国家や科学や芸術や教授法の現状や制度に向けていたが、外的な目的を持たずに自分を作りあげることを仕事にし、自分個人と時間や永遠との関係を明らかにしたいという欲求を知っているのは、ごく少数の人びとのように思われた。わたし自身のなかでもこの衝動は、まだたいてい、うたたねの状態にあったのである。
わたしは、このほかにはもう友人関係を作らなかった。もっぱらリヒァルトだけを、嫉妬《しっと》するほどに愛していたからである。彼がしげしげと親しく付き合っていた婦人たちからも、わたしは彼を引き離そうとした。
彼とかわした約束は、どんな小さなものでも、わたしはすこぶるきちょうめんに守って、彼に待たされるといらいらするのだった。あるとき彼は、決めた時刻にボート漕ぎに連れ出してもらいたい、とわたしに頼んだ。迎えにいってみると、彼は家にいなくて、わたしは三時間もむなしく彼のくるのを待たされた。翌日わたしは彼に向かって、そのなげやりをはげしく非難した。
「いったいきみは、なぜさっさと自分ひとりで漕ぎにいかなかったんだ?」と、彼はあきれた顔で笑った。「ぼくはすっかり忘れていたんだ。しかし、結局これは不幸なんていうもんじゃないよ」
「ぼくは約束はきちんと守る習慣なんだ」と、わたしははげしい口調で答えた。「しかし、もちろん、ぼくは、きみがぼくをどこかに待たせておきながら、それを大して気にかけないことにも慣れている。きみのように友だちが多いとそうなるだろうさ!」
彼は途方もなく驚きながら、わたしを見つめた。「いや、きみはつまらないことまで、いちいちそうまじめに取るのか?」
「ぼくの友情は、ぼくにはつまらないことではない」
[#ここから1字下げ]
そのことば肺腑《はいふ》をつらぬきたれば、
彼たちどころに改心を誓いぬ……
[#ここで字下げ終わり]
とリヒァルトはもったいぶった口調で詩句を引用して、わたしの頭を抱き、東洋的な愛情の示し方をまねながら、彼の鼻先をわたしの鼻先にこすりつけて、わたしを愛撫《あいぶ》したから、とうとうわたしは腹立たしくなって、笑いながら彼から身を引き離した。しかし友情はもう回復していた。
わたしの屋根裏部屋には、借り物ではあったが、近代の哲学者や詩人や批評家の、往々にして高価な本があったし、ドイツやフランスの文学雑誌、新作の戯曲、パリの文芸新聞、ヴィーンの流行の唯美主義者の本などがあったし、こういうものはさっさと読んでしまったが、もっとまじめに、愛情をこめてたずさわったのは、例の昔のイタリアの短編小説作家の研究と、歴史の研究とであった。わたしの願いは、できるだけ早く文献学を片づけて、ひたすら歴史を研究することだったのである。一般史や歴史の方法に関する著書のほかに、わたしはとくにイタリアやフランスの中世後期の時代に関する文献や論文を読んだ。その際にわたしは、人間のなかでもとくにわたしの好きな人あらゆる聖者のなかで最も天福にあずかった最も神々しい聖者、アシジの聖フランシスのことを、初めて、かなりくわしく知ることができた。かつてわたしは豊かに満ちた人生や精神の世界が目のまえにひらけている夢を見たものだったが、その夢がこうして日ごとにほんとうのことになっていって、わたしの心を野心や喜びや若気のうぬぼれで熱くしてくれるのだった。
講堂でのわたしは、まじめな、すこしきびしくて、すこし退屈になるときもある学問に注意を奪われた。下宿の部屋ではわたしは、中世の、親しい感じのする敬虔《けいけん》な話や恐ろしい話、あるいは、快適な昔の短編小説作家たちの作品に立ち寄ったり(その美しい快適な世界は、まるで童話の世界の、影のある薄明の片隅のようにわたしを取りかこむのだった)、あるいは、近代の理想や情熱の荒々しい波がわたしの頭上をうねってゆくのを感じたりした。その合い間にはわたしは音楽を聞き、リヒァルトといっしょに笑い、彼の友人たちの会合に参加し、フランス人やドイツ人やロシア人と付き合い、奇妙なモダンな作品の朗読を聞き、あちこちの画家のアトリエにはいったり、興奮した、正体の知れない青年が大勢現われて、彼らに取りかこまれると、幻想的な謝肉祭のまんなかにいるような感じになる夜会に出たりした。
ある日曜日に、リヒァルトはわたしといっしょに新しい絵画の小展覧会を見にいった。彼は、山羊《やぎ》が何頭かいる高山の牧場を描いた絵のまえに立ちどまった。それは丹念に小ぎれいに描いた絵だったが、いささか古くさくて、正直のところ、ほんとうの芸術的な核心を持っていなかった。こういう小ぎれいな、あまり意味のない絵は、どこのサロンででも、いくらもお目にかかれるものである。とにかく、その絵は故郷を思わせるようなアルプスの牧場のかなり忠実な描写として、わたしを喜ばせてくれた。わたしはリヒァルトに、いったいこの絵のどこに引かれるのか、と尋ねてみた。
「これだよ」と言って、彼は絵の隅にある画家の名をさし示した。その赤褐色の文字は、わたしには読み取れなかった。「この絵は」とリヒァルトは言った、「何もりっぱな出来のものじゃない。もっと美しいのがある。しかし、この絵を描いたひとよりも美しい女流画家はいないよ。彼女はエルミニア・アリエッティというのだが、きみさえよければ、ぼくたちは、あす、彼女のところへ行って、彼女に、あなたは偉大な画家ですと言ってやれるんだよ」
「彼女を知っているのか?」
「そうとも。もし彼女の絵が彼女自身と同じように美しいなら、彼女はもうとっくに金持ちになっていて、絵など描きはしないだろうよ。というのも、彼女は描く気がなくて描いているのだし、生計を立てるのに、たまたま絵を描くことのほかには何も学はなかったから、絵を描いているというだけのことなんだ」
リヒァルトはこのこともまた忘れてしまって、二、三週間後になってやっと思い出した。
「ぼくはきのうあのアリエッティに会ったよ。ほんとうは、ぼくたち、このあいだ彼女をたずねようとしたのだった。だから行こうじゃないか! きみのカラーはきれいなんだろうね? というのも、彼女はそれを気にするんだよ」
カラーはきれいだった。そこで、わたしたちはいっしょにアリエッティのところへ行った。わたしは内心いくらか抵抗を感じていたが、それは、リヒァルトや彼の仲間と女流画家や女子学生との自由な、いささか放縦《ほうしょう》な付き合い方が、わたしにはついぞ気に入らなかったからである。その付き合いでは、男たちはかなり無遠慮で、粗野だったり、皮肉だったりしたし、女たちは実際的で、狡猾《こうかつ》で、すれっからしだった。そして、わたしが婦人にはそういう香気があってほしいと思い、そういう香気につつんで婦人を尊敬していたあの神々しい香気などは、どこにも感じられなかった。
いくらか当惑を感じながら、わたしはアトリエにはいっていった。画家の仕事場の空気にはよくなじんでいたものの、女流画家のアトリエにはいるのは、これがはじめてだったのだ。そのアトリエは非常に殺風景で、きちんと片づいているように見えた。三枚か四枚の完成した絵が額縁に入れてかけてあって、まだ下塗りもすんでいないらしい一枚が画架に立てかけてあった。アトリエの壁の残りは、鉛筆描きの非常に念入りな、魅惑的に見える数枚のスケッチと、半ば|から《ヽヽ》の本棚とにおおわれていた。女流画家はわたしたちの挨拶をひややかな態度で受けた。彼女は画筆をわきへ置いて、仕事用の前掛けをしたまま本棚にもたれかかったが、その様子は、わたしたちのためにあまり時間を取られたくないと思っているように見えた。
リヒァルトは、展覧会に出した絵のことで彼女に途方もないお世辞を言った。彼女は彼をからかいながら、お世辞は願いさげだと言った。
「しかし、ぼくはあの絵を買おうと思ったほどですからね。とにかく、あの絵の雌牛は本物そっくりですよ――」
「あれは雌|山羊《やぎ》ですわ」と彼女は落ち着きはらって言った。
「雌山羊ですって? もちろん雌山羊です! 大したご研究で、びっくりさせられましたよ。あれは生きているとおりの雌山羊で、いかにも雌山羊らしく描けています。ぼくの友だちの、このカーメンツィントに尋ねてごらんなさい。彼はほんとうの山の子なんですから。彼ならぼくの言うとおりだと言ってくれるでしょうよ」
わたしは、当惑もし、おもしろがりもしながら、このおしゃべりを聞いていたのだが、このとき、女流画家がわたしにまなざしを向けて、わたしを吟味しているのを感じた。彼女は長いこと、遠慮なしにわたしを見つめていた。
「あなたは高地のかたですか?」
「そうです」
「わかりますわ。それで、わたしの雌|山羊《やぎ》をどうお思いになります?」
「ええ、たしかに、なかなかよく描けています。すくなくともぼくは、リヒァルトみたいにそれを雌牛だなどとは思いませんでした」
「それはご親切さま。あなたは音楽家ですの?」
「いいえ、学生です」
それ以上彼女はわたしとひとことも口をきかなかった。そこでわたしには彼女を観察する余裕ができた。彼女の姿は長い前掛けにおおわれて、ぶかっこうになっていたし、顔は、わたしには美しいとは思われなかった。目鼻だちは鋭くて狭苦しく、目はいくらかきびしい感じ、髪は豊かで、黒くて、やわらかだった。不愉快な感じ、ほとんどいとわしい感じを持たせたのは、彼女の顔の色だった。その色はわたしに断然ゴルゴンツォーラ産のチーズを思い出させたのだが、彼女の顔のなかに緑色のひびが見つかったとしても、わたしは驚きはしなかったろうと思う。
それまでわたしはこういうイタリア的な青白さを見たことがなかったのである、そして、このとき、午前のアトリエの条件の悪い光のなかで見ると、その色は、はっとするほど石のような感じに見えた――大理石のような感じではなくて、風化してゆく非常に色あせた石のような感じに見えたのだった。それにまたわたしは、婦人の顔の目鼻だちを吟味することにはまだ慣れていなくて、いつも、いくらか子どもらしいやり方で、目鼻だちよりはむしろ若々しさ、バラ色の色つや、愛らしさなどを求めていたのである。
リヒァルトもこの日の訪問にはきげんをそこねていた。それだけにわたしは、しばらくして彼から、アリエッティがわたしを描かしてもらえればうれしいと言っていることを伝えられたとき、驚いた、というよりも、じつは、たまげた。彼女は二、三枚スケッチしたいだけで、わたしの顔を描く必要はないが、わたしの胸幅の広い姿に典型的なところがあると言っている、ということだった。
この問題が進行しないでいるうちに、もう一つ別のちょっとした事件が起こって、それがわたしの生活をすっかり変えてしまい、何年にもわたってわたしの将来を決定することになった。ある朝、目がさめてみると、わたしは作家になっていたのである。
リヒァルトのたってのすすめで、わたしは、もっぱら文体の練習をするつもりで、ときどき、わたしたちの仲間のいろいろなタイプの人間や、ちょっとした体験や、会話や、その他のことをスケッチふうに、できるだけ忠実に描写したり、また、文学や歴史に関するエッセーもいくつか書いたりしていた。
ところで、ある朝、わたしはまだベッドに寝ていたのだが、リヒァルトがわたしの部屋へはいってきて、掛けぶとんの上に三十五フランの金を置いた。
「それはきみのものだ」と、彼は事務的な口調で言った。どういうわけなのかと尋ねるわたしの臆測《おくそく》が種切れになったとき、彼はとうとうポケットから新聞紙を取り出して、それにわたしの短編小説が一つ印刷されているのを見せた。彼はわたしの原稿をいくつか書きうつして、彼の親しくしている編集者のところへ持ってゆき、こっそりとわたしのために売ってくれたのだった。そういうわけで、わたしは印刷された最初の作品とその報酬とを手にしていたのである。
わたしはこれほど奇妙な気持ちになったことはなかった。じつはわたしは、リヒァルトのやり方に腹を立てたのだが、しかし、作者になったという初めての甘い誇りや、ありがたい金や、ひょっとするとささやかながら作家としての名声を得ることができるかもしれないという考えのほうがやはり強くて、ついには勝ちを占めた。
リヒァルトはあるカフェで、わたしを彼の親しい編集者と会わせた。その編集者は、わたしにリヒァルトから見せてもらったほかの作品をあずからしておいてほしいと頼んで、新しい作品ができたら、いつでも送ってよこすようにとすすめた。わたしの書くものには独自の調子がある、とくに歴史物がそうだが、こういう歴史物をもっとほしい、それには相当の報酬を出すつもりだ、というのである。
ここではじめてわたしは事の重大さを悟った。わたしは毎日食事らしい食事をして、ささやかな借金を支払うことができるばかりでなく、強制された勉強を投げ出して、じきに、自分の好きな分野で仕事をしながら、すっかり自分の収入だけで暮らせるようになるかもしれないのだ。
さしあたってわたしは、あの編集者からひとたばねの新刊書を家へ送ってもらって、それを批評することになった。わたしはなんとか読み進めながら、何週間もその仕事にかかっていた。しかし、報酬はやっと三か月後に支払われることになっていたのに、わたしは報酬を当てにしていつもよりましな生活をしていたから、ある日一文なしになってしまい、またしても断食療法をはじめなけれはならないはめ《ヽヽ》になった。
二、三日のあいだ、わたしはパンとコーヒーとだけで自分の部屋にがんばっていたが、それから空腹にかられて、とある食堂にはいった。飲食代の担保としてその店に置いてくるために、わたしは批評用の本を三冊持っていった。その前に、それを古本屋に売りこもうとしたが、ものにならなかったのである。食事はすばらしかったが、ブラック・コーヒーを飲むころには、わたしは心臓のあたりがいくらか不安になってきた。わたしは給仕の女におずおずと白状して、金の持ち合わせがないのだが、担保としてこの三冊の本を置いてゆきたい、と言った。彼女はそのうちの一冊、詩集を手に取ると、珍しそうにあちこちめくってみて、読んでもかまわないかと尋ねた。読むことはとても好きだが、なかなか本を買えない、というのである。わたしは助かったと感じて、彼女に、三冊の本を食事代のかわりに取ってくれないかと提案した。彼女はそれに応じて、十五フラン分だけ食事代がわりに本を取ってくれた。わたしはたとえば数冊の小型の詩集に対してはパンとチーズ、数冊の長編小説に対してはパンとチーズとブドウ酒を要求したが、短編小説の一冊はパンとコーヒーとにしかならなかった。
わたしのおぼえているかぎりではそれらの作品はたいてい、ひどくモダンなスタイルで書かれたつまらないものだったが、あの親切な給仕女は、現代ドイツ文学から奇妙な印象を受けたことだろう。わたしはいま、額に汗を流しながら大急ぎでもう一冊を読み終えると、その批評を二、三行ほど書いたあのころの午前を、愉快な気持ちで思い出す。昼食時までに一冊片づけると、それを担保にして何か食べものを手に入れることができたのである。リヒァルトに対しては、わたしは金に困っていることを注意深くかくしておくようにしたが、それは、わたしが金の欠乏を不必要に恥ずかしがって、彼の援助を受けるのも、よくよくの場合のことにして、いつもごく短期間だけにかぎろうと思ったからだった。
わたしは自分を詩人だなどとは思っていなかった。わたしがときどき書いたものは、新聞の文芸欄用の読物で、文学作品ではなかった。しかし、わたしはひそかに、いつの日にか文学作品を創造することができるだろう、あこがれと人生とを扱った、偉大な大胆な歌を創造することができるだろうという、だれにも言わない希望を抱いていたのだった。
わたしの魂の陽気で明るい鏡は、ときどき一種の憂鬱《ゆううつ》の影を宿したが、しかし、さしあたり重大な妨げを受けることはなかった。その憂鬱はときどき一日か一夜のあいだ、夢みるような、孤独な悲哀として現われて、ふたたび跡形もなく消え、数週間か数か月後にまたぶり返してくるのだった。わたしは親しい女友だちにでも慣れるように、しだいにこの憂鬱に慣れていって、それを悩ましいものとは思わずに、独特な甘さのある不安な疲れとしてだけ感じるようになった。夜この憂鬱におそわれると、わたしは眠らずに何時間も窓辺に横たわって、黒々とした湖や、青白い空に描かれた山々のシルエットや、その上のほうの美しい星くずをながめていた。すると、わたしはしばしばこういう夜の美しさがすべて当然な非難をこめてわたしを見つめているとでもいうような、不安で甘美な、はげしい感情にとらえられるのだった。星くずや山々や湖は、その美しさや、その無言の存在としての悩みを、理解して言いあらわしてくれるひとりの人間にあこがれているように思われたし、わたしこそそういう人間で、文学作品によつて無言の自然を表現することがわたしの真の天職のように思われたのである。
どうすればそうできるようになるのか、そのことはわたしは一度も考えずに、ただ、美しい厳粛な夜が無言の要求をかかげてわたしを待ちこがれているのを感じているばかりだった。それにわたしは、こういう気分のときにはけっして何も書かなかった。しかし、わたしはこれらのおぼろげな声に対して一種の責任感をおぼえ、こういう夜を過ごしたあとでは、たいてい、何日かにわたる孤独な徒歩旅行に出たものだった。わたしは、そういうふうにすれば、わたしに無言の切願を寄せている大地に対していくらかでも愛情を示すことができると思ったのだが、そのあとではまたそんな考えを自分で笑いものにしたのである。
とにかく、こういう徒歩旅行はわたしのその後の生活のひとつの基礎になった。その後の年月の大部分を、わたしは旅人としていくつもの国を通り抜けながら、幾週幾月もにわたる旅すがらに過ごしたのである。わたしはわずかな金と一片のパンとをポケットに入れて、遠くまで歩いてゆき、何日も孤独な旅をつづけ、しばしば野外で夜を過ごすことに慣れたのだった。
あの女流画家のことは、わたしは文筆の仕事にかまけてすっかり忘れていた。そこへ彼女から、「男や女のお友だちが数人、木曜日に、わたしのところのお茶の会に集まります。どうかあなたもおいでください、そして、あなたのお友だちをお連れになってください」という案内の紙片が届いた。
行ってみると、芸術家たちの小さな部落ができていた。集まったのはほとんど有名でない者、忘れられた者、成功していない者ばかりで、みんなすっかり満足そうに、愉快そうに見えたが、そこにはわたしにとって何かほろりとさせられるものがあった。お茶とバター・パンとハムとサラダとが出された。その集まりにはわたしの知り合いは見あたらなかったし、それでなくてもわたしは話し好きではなかったので、ほかの連中がまだ茶をすするだけでおしゃベりをしているあいだに、わたしは空腹にまかせて、ほぼ半時間のあいだ黙々と続けざまに食っていた。そして、ほかの連中が一人また一人と手を出して、いくらか食べようとしたとき、用意されていたハムをわたしがほとんどぜんぶ、ひとりで平らげていたことがわかった。
わたしは、すくなくともまだ二つ目の皿《さら》が準備してあるのだろうと、当てにならないことを信じていたのである。さて、みんながくすくす笑って、二、三こちらへ皮肉な視線を浴びせる者もいたので、わたしはひどく怒って、イタリアの女流画家とそのハムとを呪《のろ》った。わたしは立ちあがると、彼女に簡単なわびごとを言い、こんどまたおじゃまするときには自分で自分の夕食を持ってきますよと言明して、帽子をつかんだ。
するとアリエッティはわたしの手から帽子を取って、驚きながらも落ちついた態度でわたしを見つめながら、まじめな口調で、まだ帰らないでくださいと頼むのだった。彼女の顔には、紗《さ》の笠《かさ》でやわらげられた床スタンドの光がさしていた、そして、そのとき、わたしは怒りのただなかにいながら、急に理解のとどくようになった目で、この女性の成熟したすばらしい美しさを見たのだった。すると突然、自分で自分のことが非常に無作法な愚か者に思われたので、わたしは罰を受けた生徒のように、部屋の離れた片隅に席を取った。その片隅にすわりつづけて、わたしはコモ湖のアルバムをめくっていた。ほかの連中は茶を飲んだり、行きつ戻りつしたり、入り乱れて笑ったり話したりしていたが、どこか部屋の奥のほうでヴァイオリンやセロの調子を合わせる音が聞こえた。
幕が開けられると、四人の若い人たちがにわか作りの譜面台に向かって腰をかけ、弦楽四重奏をやるかまえでいるのが見えた。この瞬間に女流画家がわたしのところへやってきて、わたしの前の小さなテーブルに紅茶を置くと、あいそうよくうなずきかけながら、わたしの横にすわった。四重奏がはじまって、長くつづいたが、わたしはそれを何も聞かずに、すらりとした、上品な、美しく着飾ったこの婦人を、驚いて目をまるくしながら見つめていた。わたしは前にこの婦人の美しさを疑ったり、彼女の用意した食事を平らげたりしていたのである。
うれしさに不安のまじった気持ちでわたしは、彼女がわたしを描きたがっていたことを思い出した。それからわたしはレージー・ギルタナーのこと、シャクナゲの咲いている岩壁に登ったこと、雪の女王の話のことを思い出したが、そういうことは、いまはすべて、きょうのこの瞬間の準備にすぎなかったように思われるのだった。
音楽が終わったとき、女流画家は、わたしが心配していたように立ち去ってしまうということはしないで、落ちついてすわりつづけながら、わたしと話をしはじめた。彼女は、わたしの短編小説が新聞に掲載されているのを見たと言って、おめでとうと祝ってくれた。そして、二、三人の若い娘にかこまれて、ときどきほかの声をすべて圧倒するような、屈托《くったく》のない笑い声を響かせているリヒァルトのことをひやかした。それから彼女は、わたしを描かせてもらいたいという願いをくり返すのだった。そのときわたしはある思いつきをした。だしぬけに会話をイタリア語でつづけていったのである、そして、その代償として、彼女の南国人らしい生き生きとした目の、うれしそうな驚きのまなざしを向けてもらったばかりでなく、彼女が彼女の言語、彼女の口や目や容姿にふさわしい言語、つまり、テッシーン〔イタリア国境に近いスイスの州〕なまりを軽やかに魅力的にまじえた、響きのよい、エレガントな、すらすらと流れるようなトスカナ語を話すところを聞くという、すばらしい楽しみにもあずかった。
わたし自身の話し方は、美しくもなければ、すらすらともいかなかったが、それはわたしのじゃまにはならなかった。わたしは翌日またここへ来て、彼女に描いてもらうことになった。
「それではまた」とわたしは別れぎわに言って、できるだけ低く頭をさげた。
「あした、また」と彼女はほほえみながら、うなずいた。
彼女の家を出てから、わたしは先へ先へと歩いていったが、道はついにとある丘の背にたどり着いて、目のまえに、突然、美しい夜のすがたで安らっている暗い平地が見えた。赤い灯をつけたボートが一つ、湖の上を進みながら、ちらちらとゆらめく灯影《ほかげ》を二すじ三すじ黒い水の上に投げかけ、黒い水は、その深紅の灯影のほかには、あちこちに、薄い銀灰色のふちをつけた細長い波頭を見せるばかりだった。近くの庭園からマンドリンの演奏や笑い声が聞こえてきた。空はほとんど半ば雲におおわれて、丘の上は強い暖かい風が吹きぬけていた。
そして、風が果樹の枝やカスタニエン〔栗の木の一種〕の黒い梢を愛撫《あいぶ》したり、襲撃してたわめたりするのにつれて、枝や梢がうめいたり、笑ったり、ふるえたりするのと同じように、わたしは情熱にもてあそばれていた。わたしは丘の背でひざまずいたり、地面に身を横たえたり、跳びおきてうめいたり、じだんだをふんだり、帽子を投げあげたり、顔で草のなかをかき回したり、木の幹をゆすぶったり、泣いたり、笑ったり、しゃくりあげたり、荒れ狂ったり、恥じたりしながら、幸福で、死ぬほど胸苦しかった。一時間たつと、わたしの内部の緊張はすっかりゆるんで、憂鬱《ゆううつ》な胸苦しさのなかに消えてしまった。わたしは何も考えず、何も決めず、何も感じなかった。わたしは夢遊病者のようなかっこうでその丘をおりると、町の半ばをさまよい歩き、とあるへんぴな通りにまだ一つ小さな飲み屋が遅くまで開いているのを見て、ふらふらとはいりこみ、ヴァートラント・ブドウ酒を二リットル飲んで、朝がた、ものすごく酔っぱらって家へ帰った。
その日の午後、わたしが行くと、アリエッティ嬢はたまげてしまった。
「どうなさったんですの? ご病気ですか? すっかりめちゃめちゃになったというご様子ですわ」
「大したことじゃありません」とわたしは言った。ゆうべひどく酔っぱらったようです、それだけのことですよ。どうかはじめてください!」
わたしは椅子にすわらされて、じっとしているように、と頼まれた。事実わたしはじっとしていた、というのもじきに眠りこんで、その日の午後じゅうアトリエで眠ってすごしたからである。たぶん画家の仕事場のテレビン油の匂《にお》いのせいだったと思うが、わたしは故郷の家の小舟が塗りかえられる夢を見た。わたしは砂利場の小舟のそばに寝そべって、父がペンキつぼや刷毛《はけ》を扱うのを見ていた。母もそこにいて、わたしが、お母さんは死んだのじゃないかと尋ねると、低い声で、「ちがいますよ、わたしがいないことには、おまえもけっきょくパパと同じようなやくざな人間になるでしょうからね」と言った。
目をさましたとき、わたしは椅子からころげ落ちたが、自分がエルミニア・アリエッティの仕事場にいることがわかってびっくりした。彼女の姿は見えなかったが、隣の小部屋で彼女が皿や食事用具をかちゃかちゃいわせているのを聞いて、夕食時にちがいないと判断した。
「おめざめになりまして?」と彼女が隣の小部屋から叫んだ。
「ええ。長いこと眠っていましたか?」
「四時間ですわ。恥ずかしいとはお思いになりません?」
「思いますとも。しかし、すばらしい夢を見ましたよ」
「その話をしてくださいな!」
「ええ、そこから出てきて、ぼくを許してくだされば」
彼女は出てきたが、しかし、わたしが夢の話をしてしまうまでは許すことをお預けにする、と言うのだった。そこでわたしは話しはじめたが、夢の話をしているうちに、忘れていた幼年時代に深入りしていった、そして、あたりがすっかり暗くなって、わたしが口をつぐんだときには、彼女にも自分自身にも幼年時代のことをすっかり話してしまっていた。彼女はわたしと握手をして、わたしの上着をなでながら、そのしわをのばすと、あすまた来てモデルになってもらいたい、と誘ってくれた。わたしは、彼女がわたしのきょうの無作法をも理解して、許してくれたことを感じた。
その後数日のあいだ、わたしは何時間も彼女のモデルになった。仕事のあいだはほとんど何も話されなかった。わたしは魔法でもかけられたように、じつとすわるか立つかしていた、そして、写生用の木炭の走るやわらかな音を聞き、油絵の具のかすかな匂《にお》いを吸いながら、自分はいま自分の愛する女性のそばにいて、彼女のまなざしが絶えず自分に注がれているのを知っているのだ、と思うほかには何も感じなかった。アトリエの白い光は部屋の壁をつたって流れ、二、三匹の蝿《はえ》が窓ガラスにとまったままぶんぶんいい、隣の小部屋ではアルコールの湯わかし器が歌っていた、というのも、モデルになったあとでは、わたしはいつもコーヒーを一杯ふるまってもらったからである。
下宿でもわたしはしばしばエルミニアのことを考えた。彼女の芸術を尊敬することはできなかったが、それはわたしの情熱には何も関係がなかった、というかあるいは、わたしの情熱をすこしも減らしはしなかった。彼女そのひとが非常に美しくて、親切で、明るくて、信頼できたのである、だから、彼女の描く絵などわたしになんの関係があるだろうか? むしろわたしは、彼女の勤勉な仕事ぶりを何か英雄的なもののように思った。彼女は生きるために戦う女性、もの静かに耐え忍ぶ勇敢な女英雄だった。それはそうと、自分の愛するだれかのことをあれこれ思いめぐらすほどむだなことはない。そんな思いはある種の民謡か軍歌みたいなもので、いろんなことが出てきはするものの、同じリフレインが、全然そぐわないところでも、しつこくくり返されるのだ。
そんなわけで、わたしの記憶にあるこの美しいイタリア女の像も、はっきりしないというわけではないが、しかし、わたしたちが身近な人びとによりは知らない他人のほうにしばしばはるかによく見てとることのある、いろいろなこまかな線や特色をそなえていない。わたしは、彼女がどんな髪型をしていたか、どんな服装をしていたか等々をもはやおぼえていないし、そもそも彼女は背の高いほうだったか、低いほうだったかということさえ、おぼえていないのだ。いま彼女のことを思うと、黒い髪をした、上品な形の頭、青白いながらに生き生きとした顔、鋭いが、あまり大きくはない二つの目、完全に美しい弓形を見せながら、きびしい成熟味をたたえている、細い口などが思いうかぶ。彼女に恋着していたあのころのことを全体として考えてみると、思い出されるのは、いつも、暖かい風が湖のおもてに波を立てて、わたしが泣き、歓呼し、荒れ狂った、あの丘の上の晩のことだけである。それに加えて、もう一つ別の晩のことも思い出されるが、これからその晩のことを話してみよう。
わたしにはっきりわかったことは、なんとかして女流画家に心を打ち明けなければならない、彼女の愛を求めなければならない、ということだった。彼女がわたしから遠いところにいたのだったら、わたしは静かな気持ちで彼女を尊敬しつづけ、彼女ゆえの、口には出さない悩みを悩みつづけたことだったろう。しかし、ほとんど毎日のように彼女に会って、話をし、握手をし、その家に足をふみ入れながら、心のなかにはいつも恋の棘《とげ》を感じているということ、それは長いあいだ耐えられることではなかった。
芸術家たちとその友人たちとの、ささやかな夏の祭りが催された。場所は湖のほとりの、とある感じのよい庭園で、夏の盛りの、熟れたような、やわらかな感じのなまあたたかい晩のことだった。わたしたちはブドウ酒や冷水を飲んで、音楽に耳をかたむけたり、木々のあいだにつるされて、長い花飾りのようになっている赤い提灯《ちょうちん》をながめたりした。おしゃべり、からかい、笑いがあって、ついには歌になった。ひとりの汚《きたな》い青年画家がロマンティックな人間の役を演じて、思いきったかっこうの、つばのない平たい帽子をかぶり、欄干にもたれながらあおむけに長々と身を伸ばして、首の長いギターをもてあそんでいた。二、三人のかなり著名な芸術家たちは、出てこないか、あるいは、人目につかないように、先輩たちの仲間にまじってすわっていた。女性たちのなかの二、三の若い人たちは、明るい色の夏服を着て出ていたが、そのほかはいつものぞんざいな服装で歩きまわっていた。とくに一人の、かなり年を取った、醜い女子学生がいやらしい感じでわたしの目についたが、彼女は断髪の頭に男物の麦わら帽子をかぶって、葉巻を吸い、ブドウ酒をがぶがぶ飲みながら、大声でしゃべりまくっていた。リヒァルトは例によって若い娘たちのそばにいた。わたしはひどく興奮していたものの、冷静で、あまり飲まずに、この日わたしにボートに乗せてもらうという約束だったアリエッティを待っていた。彼女はほんとうにやってきて、わたしに二、三本の花をくれて、わたしといっしょに小舟に乗りこんだ。
湖は油のようになめらかで、暗くて、色がなかった。わたしは軽い小舟を、静かな広い湖の遠くのほうへさっさと漕ぎ出していって、さし向かいには、ほっそりとした婦人が楽々と満足して舵手席《だしゅせき》にもたれているのを、絶えず見つづけていた。空の高いところはまだ青くて、そこへ二つまた一つと、光のうすい星がゆるゆる現われてくる。岸辺ではあちこちで音楽が演奏され、園遊会が催されていた。ものうげな水は、オールに切られて、うがいでもするような、かすかな音を立てる。ほかのボートがいくつか、静かな水面のそちこちに、目にはほとんど見えないくらいのおぼろな影になって浮かんでいたが、わたしはそれにはあまり注意をはらわずに、舵手席の婦人から目をそらさずにいた、そして、愛の告白をするつもりでいたから、それがわたしの不安な胸を重い鉄の輪のようにしめつけていた。
美しくて詩的なこの宵の風景のすべて、舟遊び、星くず、なまあたたかい静かな湖など、すべてがわたしを不安にした、というのも、それが芝居の美しい書割《かきわり》で、自分はそのまんなかでセンチメンタルな一場面を演じなけれはならないのだ、と思われたからである。不安な思いで、そして、わたしたち二人が黙っているための深い静けさに胸苦しくなりながら、わたしは力いっぱい、まっしぐらに漕《こ》ぎ進めた。
「ずいぶんがっしりしていらっしゃること!」と、女流画家が物思いにふけるような調子で言った。
「ふとっている、とおっしゃるんですか?」とわたしは尋ねた。
「いいえ、筋肉のことですわ」と彼女は笑った。
「ええ、たしかにぼくはがっしりしています」
これは始まりとしては適当なものでなかった。悲しい腹立たしい気持ちでわたしは漕ぎつづけた。しばらくしてわたしは、何か経験談を聞かせてもらいたいと彼女に頼んだ。
「いったい何をお聞きになりたいのでしょう?」
「何もかにもです」とわたしは言った。「いちばんお聞きしたいのは、恋愛の話です。それを聞かせてくださったら、ぼくもあとで自分の恋愛の話、ぼくのたった一つの恋愛の話をお聞かせします。それは非常に短くて、美しくて、あなたをおもしろがらせるだろうと思います」
「まあ、おっしゃいますこと! どうかお聞かせください!」
「いや、まずあなたからですよ! それでなくても、あなたは、ぼくがあなたのことを知っているよりもはるかに多く、わたしのことをご存じなんですから。ぼくは、あなたがこれまでほんとうに恋愛なさったことがあるかどうか、それとも、ぼくの心配どおりに、恋愛なんかするにしてはあまりにもかしこくて、うぬぼれすぎているのかどうか、それが知りたいのです」
エルミニアはしばらく思いをこらしていた。
「この夜の黒い水の上で女性に物語をさせようなんて、またしてもあなたのロマンティックな思いつきの一つですわ」と彼女は言った、「しかし、残念ですけれど、あたしにはそんなことはできません。あなたたち詩人のくせは、感じのいいことなら何にでも、それを表現することばを見つけ出すこと、そして、自分の感情をあまり語らない人びとに対しては、すぐに、情味がないと信じてしまうことです。あなたはわたしを見そこなわれました、といいますのも、わたしは、わたしほどはげしく強く愛することのできる人はいないと思っていますもの。わたしは、ほかのある女の人と結ばれているある男を愛していて、彼も同じようにわたしを愛しています、しかし、わたしたちが将来いっしょになれるようになるのかどうか、わたしたちのどちらにも、わかりません。わたしたちは手紙のやりとりをして、ときには会ってもいます……」
「その恋愛があなたを幸福にしているのか、それとも、みじめにしているのか、あるいは、その両方なのか、お尋ねしてもいいでしょうか?」
「まあ、そんなことを! 恋愛はわたしたちを幸福にするためにあるというものではありませんわ。わたしは、恋愛というものはわたしたちがどのくらい悩んで耐える力があるか、それをわたしたちに示すためにあるのだと思っています」
彼女の言うことをわたしは理解した、そして、自分の口から、返事のかわりに、かすかなうめき声のようなものがもれるのを禁じえなかった。
それを彼女は聞きつけた。
「まあ」と彼女は言った、「あなたももうこういうことをご存じなのですか? まだそんなにお若いのに! それでは、あなたもわたしに告白なさいませんか? ですけれど、ただ、あなたがほんとうにそうなさりたければの話ですわ――」
「たぶんまたのときにしましょう、アリエッティさん。きょうのぼくの気持ちはもともと頼りにならないようです、残念ながら、ぼくはあなたのご気分まで濁らせたのではないかと思います。もどりましょうか?」
「ご自由に。いったい、どのくらい遠くへ来たのでしょう?」
わたしはもう返事をしないで、ざざっとオールで水をせきながら、ボートの向きを変えると、北東風がつのってくるとでもいうように、漕ぎはじめた。ボートは水面をすみやかにすべった、そして、身内に沸き立つ嘆きと恥との渦巻《うずまき》のただなかで、わたしは、大粒の汗がぼろぼろと顔をつたうのを感じると同時に、ぞくぞくと寒けがした。そのうえ、自分がすんでのことに、ひざまずいて愛を求めながら、母親にでもあやされるように、あいそうよくはねつけられてしまう男の役を演ずるところだったことを思うと、骨のずいまで戦慄が走るのだった。すくなくとも、そんな役を演ずることだけはまぬがれたが、しかし、これからそのほかの嘆きをやわらげなければならない。わたしは帰路を物につかれたように漕《こ》いだ。
岸につくと、わたしは簡単に別れの挨拶をして、美しい娘をひとりあとに残した。彼女はいくらかいぶかしげな顔をしていた。
湖はなめらか、音楽は楽しげ、提灯《ちょうちん》ははなやかに赤くて、さっきのとおりだったが、しかし、いまはそのすべてがわたしにはばかげた、滑稽なものに思われた。とくに音楽が。あいかわらずギターをこれ見よがしに幅広い網ひもでつるしている、あのビロードの上着を着た男など、わたしはできれば打ちのめしてやりたかった。そして花火はまだこれからというところで、なんともおろかなことだった。
リヒァルトから二、三フランの金を借りると、帽子をあみだかぶりにして、歩きはじめた、そして、郊外へ出て、さらに何時間も歩きつづけて、ついには眠くなった。とある草地に身を横たえたが、一時間後には露にぬれて、からだがこわばり、ぞくぞくと寒けをおぼえながら目をさまして、すぐ近くの村へはいっていった。朝まだきのころだった。草を刈る人たちがほこりだらけの路地を通ってゆき、作男たちが家畜小屋の戸口から寝ぼけたまなこを見はり、農民の夏の勤勉さがいたるところに見えてきた。おまえは百姓でいるべきだったろうにと、わたしは自分で自分に言って、恥ずかしい思いをしながらその村を通り抜けると、疲れたまま歩きつづけて、ついには太陽の最初の暖かみに休息させてもらった。若いぶなの木立ちのはずれでわたしは畦《あぜ》の枯れた草のなかに身を投げ出すと、暖かい日ざしを浴びながら、午後も遅くなるまで眠りこんだ。頭は草地の香《かお》りにひたり、手足は、神の大地に長らく寝ころんだあとだけそうなるように、気持ちよく重たくなって、目をさましたときには、あの祝いや舟遊びやすべてのことが、幾月もまえに読んだ小説のように、遠くにある、もの悲しい、半ばぼやけたもののように思われた。
わたしは三日のあいだ宿に帰らずに、毛皮の服を焼きつくような太陽にじりじりと照らされていた、そして、このまま一気に故郷目ざして歩いていって、父の二番刈りの干し草刈りを手伝うべきではないかと、とっくり考えてみた。
もちろんそれでも苦痛は長いあいだ片づかなかった。市《まち》に帰ってからわたしは最初のうち、あの女流画家の姿をペストのように避けたが、しかし、いつまでもそうしていることはできなかった。そして、その後彼女から見つめられたり話しかけられたりするたびに、わたしの喉《のど》にはみじめな思いがこみあげてくるのだった。
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第四章
以前わたしの父にうまくできなかったことが、いまこのみじめな恋愛にはうまくできた。それはわたしを教育して酒飲みにしてくれたのである。
わたしの人生や本質にとって、これは、いままでわたしが物語ってきたことのどれよりも大事なことだった。あの強い、甘美な神がわたしの忠実な友だちになったのであって、いまでもまだそうなのである。彼ほど力強い者がいるだろうか? 彼ほど美しくて、空想的で、熱狂的で、陽気で、憂鬱《ゆううつ》な者がいるだろうか? 彼は英雄で、魔術師である。誘惑者で、恋愛の神エロスの兄弟である。彼は不可能を可能にすることができる。人間の貧しい心を彼は美しい不可思議な文芸作品によって満たす。彼は、隠者で百姓であるわたしを、王にし、詩人にし、賢者にしてくれた。空虚になった生の小舟に彼は新しい運命を積みこみ、海岸に打ちあげられた人間を、大いなる生のすみやかな流れに突きもどしてやる。
ブドウ酒とはそういうものなのだ。しかし、ブドウ酒もいっさいの貴重な賜物《たまもの》や芸術と同じことで、愛され、求められ、理解され、骨を折って獲得されることを欲する。そうすることのできる人間は多くはない、そして、彼は幾千もの人間を殺す。彼は人びとを老いさせたり、殺したり、あるいは人びとの精神の炎を消してしまう。しかし、彼は自分の寵児《ちょうじ》たちを祝祭へ招待し、寵児たちのために幸福な島々へ渡る虹《にじ》の橋をかけてくれる。寵児たちが疲れると、その頭の下に彼は枕《まくら》を当てがってくれるし、悲哀のとりこになると、友だちのように、また、慰める母親のように、そっと慈悲深く抱きかかえてくれる。彼は人生の混乱を偉大な神話に変え、力強い竪琴《たてごと》で創造の歌をかなでる。
そして彼はまた子どもで、長い絹のような巻き毛と、ほっそりした肩と、品のよい手足とを持っている。彼はこちらの胸にもたれて、その細面《ほそおもて》の顔をこちらの顔のほうへもたげ、愛らしい大きな目で驚いたように、夢でも見ているようにこちらを見つめるのだが、その目の底には、楽園の思い出と、神の子であるという失われていない身分とが、森のなかの新生の泉のようにしっとりと輝きながら波打っている。
それからまたこの甘美な神は、ふかぶかとざわめきながら春の夜をさすらってゆく流れに似ている。また、太陽やあらしをひんやりとした大波に乗せてゆすぶる海に似ている。
彼がその寵児たちと語るときには、神秘や回想や文学や予感の荒れ狂う海が身ぶるいして、滔々《とうとう》と流れながら寵児たちの頭上を流れてゆく。既知《きち》の世界は小さくなり、失われてゆく、そして、魂は不安な喜びを感じながら、道もない未知のひろがりに身を投ずる、そこではいっさいが、見知らぬものでありながら慣れ親しんだもので、音楽と詩人と夢との言語が話されるのである。
さて、わたしはまず物語らなけれはならない。わたしは何時間も自分を忘れてほがらかにしていることができたし、研究し、ものを書き、リヒァルトの音楽に耳をかたむけた。しかし、一日としてすこしの悩みもなしに過ぎるという日はなかった。ときどきわたしは夜のベッドのなかで悩みに襲われて、うめき、もだえ、夜ふけて涙ながらに寝ついた。あるいはまた、アリエッティに会うと、そのたびに悩みもよみがえってきた。しかし、たいていは午後も遅く、美しい、なまぬるい、ぐったりとさせる夏の宵がはじまるころに悩みがきざすのだった。そうなるとわたしは湖畔へ出て、ボートに乗り、くたくたになるまで猛烈に漕ぎまくる。それでも家へ帰ることはできないとわかる。そこで居酒屋かビヤガーデンヘはいる。そして、わたしはいろいろなブドウ酒を試して、飲んで、思いにふけっていて、ときどき翌日は半病人の状態になった。
幾度となくわたしはそんなときには身の毛もよだつようなみじめさと嫌悪感《けんおかん》とに襲われて、二度ともう飲むまいと決心した。それでいてわたしはまた出かけていって飲んだ。だんだんとわたしはいろいろなブドウ酒やその利《き》き目の区別ができるようになり、一種の意識をもってブドウ酒を味わうようになったが、全体としてはもちろんまだ大いにうぶで未熟な飲み方だった。ついにはわたしは深紅のヴェルトリーン・ブドウ酒に拠《よ》りどころを見いだした。このブドウ酒は最初の一杯は酸っぱい刺激的な味がしたが、そのあとわたしの思想にヴェールをかぶせて、もの静かな、絶え間のない夢想にし、やがては魔法を使い、創造し、みずから詩作しはじめるのだった。
そうなるとわたしには、それまでにわたしの気に入ったいっさいの風景がすばらしい照明を浴びながらわたしをとりかこんでいるのが見えて、わたし自身そのなかをさすらって、歌って、夢を見て、一段と高い暖かい生命がわたしの内部を循環しているのを感じるのだった。そういう状態は非常に気持ちのよい悲哀感とともに終わるのだったが、わたしは、ヴァイオリンでかなでられる民謡を聞いているような、どこかに自分がそのそばを素通りして、とらえそびれた大きな幸福があることを知っているような気がするのだった。
自然にそんなふうになったのだが、わたしはしだいにひとりぼっちで飲むことがまれになって、いろんな仲間ができてきた。人間にとりかこまれると、ブドウ酒の利《き》き目もすぐさま別なものになった。わたしはおしゃべりになったが、興奮したわけではなくて、ひややかな奇妙な熱中を感じたのだった。わたしの本質の、自分でもそれまではほとんど知らずにいた側面が、思いがけなく現われ出たのだが、しかし、その側面は、庭に咲かせた観賞用の花というよりは、アザミとかイラクサのたぐいに属するものだった。というのも、能弁と同時に鋭い冷静な精神が頭をもたげてきて、わたしに自信や優越感を持たせ、批評をさせたり、冗談をとばさせたりしたからである。
わたしのじゃまになるような連中が居合わせると、彼らは、あるいは上品に狡猾《こうかつ》に、あるいは粗野に拗拗《しつよう》に、嘲弄《ちょうろう》されたり憤慨させられたりして、ついには出ていってしまうのだった。人間などというものは、わたしにとってはじつに子どものときから、特別に好ましいものでもなければ、いないと困るものでもなかったのだが、いまやわたしは人びとを批判的に皮肉に観察しはじめたのである。わたしは特に好んで、人間どうしの関係が冷酷に、見たところ客観的な態度で諷刺的《ふうしてき》に描かれ、痛烈に嘲笑《ちょうしょう》されるという小さなスケールの話をいくつも工夫して物語った。この軽蔑的な調子がどこからわたしのところへきたものか、わたし自身にもわからなかった。それは、わたしの本質から化膿《かのう》したはれもののように突然現われてきた、そして、わたしはその後何年ものあいだ、そのはれものから解放されずにいたのである。
そんな状態の合い間に、ある晩ひとりぼっちでいることになると、わたしはふたたび山や、星や、もの悲しい音楽のことを夢みるのだった。
この幾週かのあいだ、わたしは現代の社会、文化、芸術についての一連の考察、つまり、毒気のある一小冊子を書いたが、それはわたしのビヤホールでの談話から生まれたものだった。わたしがかなり熱心に続けていた歴史の研究から取ったいろいろな歴史的な材料がそれに加わって、わたしの諷刺《ふうし》の一種の手堅い背景になった。
この仕事が根拠になって、わたしはかなり大きな新聞のレギュラーの寄稿家の地位を得たが、それでおおよそ食ってゆくことができた。その後間もなく、あの幾編かのスケッチも一本立ちの小冊子として出版されて、なにほどかの成功を博した。そこでわたしは文献学をすっかり投げ出してしまった。わたしはすでに修業した学期数の多いほうの学生だったし、ドイツの諸新聞との関係がつながり合って、わたしを、これまでの隠遁的《いんとんてき》なみじめな境遇から世間に認められた人びとの仲間へ引きあげてくれた。わたしは自分で自分のパンをかせいで、わずらわしい奨学金を放棄し、満帆に風をはらみながら、ささやかな職業文士の軽蔑すべき生活へ向かって進んでいった。
そして成功や自分のうぬぼれにもかかわらず、また、諷刺や自分の愛の悩みもかかわらず、わたしの頭上には楽しいときにも憂鬱《ゆううつ》なときにも、青春の暖かい光輝がかかっていた。どんなに皮肉を言っても、また、ちょっとした、無邪気な倦怠《けんたい》におちいっても、わたしはやはり夢のなかではいつも目のまえに目標を、幸福を、完成を見ていたのである。それがどういうものかはわからなかった。わたしはただ、人生がいつかはわたしの足さきに、特別に楽しい幸福をもたらしてくれるにちがいない、名声を、ひょっとすると愛を、わたしのあこがれの充足を、わたしの本質の向上をもたらしてくれるにちがいない、と感じていただけだった。わたしはまだ小姓の身で、貴婦人や刀礼《とうれい》〔騎士の位をあたえる儀式〕や大いなる名誉の夢を見ていたのである。
わたしは向上に努める人生行路の端緒に立っているものとばかり思っていた。わたしは、これまでに体験したことはすべて偶然にすぎなくて、わたしの本質的な生き方にはまだ深い独自の基調が欠けていることを知らずにいた。わたしは、自分が愛も名声も限界や充実にはならないあるあこがれに悩んでいることを、まだ知らずにいたのだった。そういうわけでわたしは自分のささやかな、いくらか酸っぱい味のする名声を、青春のあらんかぎりの喜びを感じながら味わっていた。上等のブドウ酒をまえにして賢明な精神的な人びとのあいだにすわり、自分が話しはじめるたびに、彼らが好奇心をもって注意深くわたしのほうへ顔を向けるのを見るのが、わたしにはいい気持ちだったのである。
ときどきわたしは、現代のこういう人びとの魂のなかには非常に大きなあこがれがあって、それが救いを求めていて、人びとになんとも奇妙な道を歩かせていることに気がついた。神を信じることは愚かなこと、ほとんど下品なこととみなされたが、それを別とすると、いろいろな教えや名前、ショーペンハウアー、仏陀《ぶっだ》、ツァラトゥストラ、その他多くのものが信じられた。趣味の豊かな住居に住んで、彫像や絵画をおごそかに礼拝している、若い、無名の詩人たちがいた。彼らは神に頭をさげることは恥じただろうが、オトリコリのジュピター像〔古代都市オトリクルムで発見された彫刻〕に対してはひざまずいた。節制して自分を苦しめながら、がまんのならないような身なりをしている禁欲者たちがいた。彼らの神はトルストイとか仏陀とかいう名だった。熟慮を経た、調子を合わせた壁紙、音楽、食物、ブドウ酒、香水、葉巻などによって特殊な気分を起こさせる芸術家たちがいた。彼らは流暢《りゅうちょう》に、自明のことのように見せかけながら、音楽的な線だの、色彩の和音だの、それに似たようなことを言って、いつでも「個人的な調子」を出そうとねらっていたが、その個人的な調子なるものは、たいてい、何かつまらない無邪気な自己|欺瞞《ぎまん》か、とつぴな振舞いなのだった。けっきょくこの物狂おしい喜劇の全体は、わたしにはおもしろい滑稽なものだったが、それでもわたしはしばしば、幾多のまじめなあこがれや真の精神力がこの喜劇のなかで燃えあがっては焼けうせてしまうのを感じて、異常な戦慄に襲われるのだった。
わたしが当時驚きながら、また、おもしろがりながら知り合いになった、これらの空想的に大またに歩いてきた新流行の詩人や芸術家や哲学者たち全部のなかで、有力な存在になったというような者をわたしは一人も知らない。彼らのなかに一人、わたしと同じ年齢の北ドイツ人がいた。人好きのする風采《ふうさい》の、やさしい、おとなしい人間で、芸術に関することならどんなことでも、デリケートで敏感だった。彼は未来の偉大な詩人の一人と見なされていた、そして、わたしは二、三度彼の詩の朗読を聞いたことがあるが、それらの詩はいまでも何か非常にかぐわしいもの、魂のこもった美しいものとしてわたしの記憶に浮かぶ。おそらく彼は、わたしたちみんなのなかでただ一人、ほんとうの詩人になればなりえた人間だったかもしれない。偶然わたしはあとで彼の短い身の上話を聞いた。文学上のある失敗をして愕然《がくぜん》とした、この過度に敏感な人間は、世間からすっかり遠ざかって、あるやくざなパトロンの手におちいり、このパトロンは彼をはげまして理性的にならせるかわりに、たちまちのうちにすっかり破滅させてしまった。この金持ちのパトロンのいくつかの別荘で、彼は、パトロンが集める神経質な婦人たちを相手に、陳腐な唯美主義的なほらばなしをやり、自分は誤解された英雄なのだと思いあがって、みじめにも誤った指導に乗せられ、もっぱらショパンの音楽やラファエル前派〔一八四八年、ロセッティらがつくったロマン主義的なグループ〕的な忘我によって、組織的に自分の正気をほろぼしたのだった。
奇妙な服装や髪型をした詩人たちや、美しい魂の持ち主たちなどという、この一本立ちのできない連中のことを思い出すと、わたしはかならず恐怖と同情とをおぼえずにはいられないが、それはわたしが遅ればせながらやっと、この連中とのつき合いの危険なことを見て取ったからだった。そして、わたしを守って、このよろめきに参加しないようにしてくれたのは、わたしの山地人的な百姓気質だった。
しかし、名声やブドウ酒や恋愛や英知よりも高貴で、幸福をもたらしてくれるものは、わたしの友情だった。わたしの生まれつきの鈍重な生き方を助けて、わたしの青春の歳月を、汚れにそまない、曙光のように清新なものにしておいてくれたのは、けっきょくのところ友情だけだったのである。わたしは、こんにちでも、この世のなかに男どうしの誠実な頼もしい友情にもまして貴重なものがあるとは思わない、そして、物思わしげになる日々にわたしは青春に対する郷愁とでもいうものにかられることがあるが、それはひたすら自分の大学生のときの友情をなつかしがるのである。
エルミニアに恋着してからというもの、わたしはリヒァルトのことをすこしないがしろにしていた。最初は無意識のうちにそうなったのだが、二、三週間たってからわたしは良心に責められた。
わたしは彼に告白した。彼はわたしに、自分はこの不幸が生じて、つのってゆくのを、終始気の毒に思いながら見守っていたのだと打ち明けた、そして、わたしは改めて心から、嫉妬《しつと》の気持ちも持って、彼に結びついていった。わたしは当時明るくてこだわりのない、ささやかな処世術をいくつか身につけたが、それはすべて彼のおかげである。彼は身も心も美しくて明るかった、そして、人生は彼にとってはすこしの影もないように見えた。時代の情熱や錯誤を彼は賢明な活発な人間として当然知ってはいたが、しかし、そういうものは彼からすべり落ちてなんの損害も与えなかった。歩き方といい、話し方といい、彼の態度の全体がしなやかで、調子がよくて、愛すべきものだった。ああ、彼のすばらしい笑い方!
わたしのブドウ酒研究は彼にはあまり理解してもらえなかった。彼はときどきいっしょに飲みにいったが、しかし、二杯飲むともうたくさんで、わたしの本質的に量の多い飲みっぷりを無邪気に驚嘆しながらながめていた。しかし、わたしが悩んで、どうしようもなく憂鬱に負けているのを見ると、そのたびに彼は音楽を聞かせてくれたり、何か読んでくれたり、散歩に連れ出してくれたりするのだった。いっしょにちょっとした遠足をするときのわたしたちは、しばしば二人の少年みたいに|はめ《ヽヽ》をはずした。あるときわたしたちは暖かい昼どきの休みに、ある森の谷間に横たわり、もみの毯果《きゅうか》を投げつけ合ったり、『信心深いへレーネ』の詩句を多感なメロディーに乗せて歌ったりした。流れの急な、澄んだ小川がいつまでも、ひえびえとする誘惑的な水音をわたしたちの耳に響かせるので、わたしたちはとうとう裸になって冷たい水のなかに身を横たえた。すると彼はお芝居をすることを思いついた。彼は苔《こけ》むした岩にのぼってローレライになり、わたしは船頭になって、その岩の下を小舟に乗って通り過ぎるのである。その際に彼がいかにも処女らしく恥ずかしそうな様子をして顔をしかめたので、はげしい悲嘆のさまを演ずることになっていたわたしは、笑い出さずにはいられないほどになった。
突然何人かの人声がして、団体旅行の一行が歩道に現われた、そして、裸になっていたわたしたちは大急ぎで、水の流れにえぐられて突き出ている岸のくぼみの下に身を隠さなければならなかった。何も知らないその一行がわたしたちのそばを通り過ぎてゆくとき、リヒァルトは、ぶうぶうとか、きいきいとか、しゅうしゅうとか、さまざまな奇妙な音を出した。一行の人びとはびっくりして立ちどまると、あたりを見まわしたり、水のなかを見つめたりして、いまにもわたしたちを見つけそうになった。するとわたしの友だちは隠れ場から上半身だけあらわして、憤慨している一行をじっと見ながら、低い声に牧師めいた身ぶりを添えて、「安らかに行きたまえ!」と言った。そう言うなり彼はすぐまた姿を隠し、わたしの腕をつねって、「あれもひとつのなぞなぞだったよ」と言った。
「どんな?」とわたしは尋ねた。
「牧羊神《パン》が数人の羊飼いを驚かすというわけさ」と彼は笑った。「しかし残念ながら女たちがいっしょだったよ」
わたしの歴史研究には彼はあまり気をつけなかった。しかし、アシジの型フランシスに対するわたしの、ほとんど惚《ほ》れこんだとも言える偏愛は、間もなく彼もわたしと共にするようになった。とはいうものの、彼はときどきフランシスについても、わたしを怒らせるような冗談をとばしはしたのである。わたしたちは、この天福にあずかった受苦者が彼の神を喜び、あらゆる人間に対する謙遜《けんそん》な愛に満ちて、大きな子どものようにあいそうよく感激しながら、ほがらかに、ウンブリア地方をさすらう姿を見た。わたしたちはフランシスの不朽の太陽賛歌をいっしょに読んで、それをほとんど暗記した。あるとき、わたしたちが船遊びの帰りに小蒸気船で湖を渡る途中、夕風が金色の水を動かしていたとき、彼は低い声で、「ねえ、聖フランシスはここでどう言うかね?」と尋ねた。
そしてわたしは太陽賛歌を引用して、Laudato si, misignore, per frate vento e per aere e nubilo e sereno et onne tempo!〔主よ、讃えられよ、はらからなる風によりて、空気によりて、雲によりて、晴れたる空によりて、あらゆる天候によりて!〕とそらんじた。
わたしたちがけんかをして、おたがいに軽蔑のことばを言い合うとき、彼はいつも半ば冗談に、小学生か中学生のやり方で、わたしにたくさんのおどけたあだ名を浴びせかけるのだったが、そのためにわたしはじきに笑わせられて、憤激の棘《とげ》を抜かれてしまうのだった。わたしの友だちが比較的にまじめになるのは、好きな音楽家の作品を聞いたり弾いたりするときだけだった。そんなときにも彼は中途でやめて、何か冗談をとばすことができた。それでも彼の芸術に対する愛は純粋な心からの献身に満ちていたし、本物で重要なものを感じとる彼の感覚はわたしには確かなものに思われた。
彼の友だちのだれかが困っているとき、彼は慰めたり、同情してそのそばにいたり、あるいは気持ちを晴れやかにしてやったりする、こまやかなやさしい術《すべ》を彼は驚くほどよく心得ていた。わたしがふきげんでいるのを見ると、彼はグロテスクな妙味のある逸話的な小話をいくつもいくつも聞かせてくれることができたし、そういうときの彼の口調には気持ちを落ちつかせて晴れやかにしてくれるところがあって、その口調にはめったにさからえなかった。
彼はわたしをすこし尊敬していたが、それはわたしが彼よりもまじめだったからである。それにもまして彼を感嘆させたのはわたしの体力だった。他人に対して彼はわたしの体力の話でほらを吹き、彼を片手で圧し殺すこともできるような友だちを持っていることを誇りにしていた。彼はからだの能力や器用さを尊重して、わたしにテニスを教え、わたしといっしょに舟を漕いだり泳いだりし、わたしを乗馬に連れ出し、わたしが彼自身とほとんど同じくらいにうまく玉を突けるようになるまでは、落ちつかなかった。玉突きは彼の好きな遊びだったが、彼はそれを芸術的に名人的にやったばかりでなく、玉突きのときにはいつも特別に生き生きとし、冗談をとばし、楽しげにしていた。しばしば彼は三つの玉にわたしたちの知り合っている人びとの名をつけて、ひと突きするたびに玉の位置や近づき方や離れ方から、機知や当てこすりや戯画化する比較に満ちた小説を組み立てるのだった。それでいて彼は冷静で軽快な、非常にエレガントな突き方をしたし、そういう彼をながめているのは楽しいことだった。
わたしの著述を彼はわたし自身が買う以上に高くは買わなかった。あるとき彼はわたしにこう言った、「ねえ、ぼくはきみをいつも詩人だと思っていたし、いまでもそう思っているが、しかし、それはきみの書く読み物のためではなくて、ぼくが、きみの心のなかには何か美しくて深いものが生きていて、それが早晩いつか突然現われてくるだろうと感じるからなんだよ。そういうものが現われてきたら、ほんとうの文学作品だと思う」
そうしているあいだに大学の学期はわたしたちの指のあいだから小銭のようにいくつもすべり落ちていった、そして、思いもかけず、リヒァルトが故郷へ帰ることを考えなければならない時がきた。いくらか不自然なふざけ方でわたしたちは消えうせてゆく幾週かを楽しんだが、ついには、つらい別れのまえにもう一つの何かすばらしい、祝祭のようなことを企てて、それでこの美しい数年間をほがらかに希望をもってしめくくることにしようということに意見が一致した。わたしはベルンのアルプスに休暇旅行をすることを提案したが、しかし、もちろんまだ早春のことで、山登りをするには実際あまりにも早すぎた。わたしが何かほかの提案はないものかと頭を悩ましているあいだに、リヒァルトは自分の父に手紙を書いて、こっそりと、大きなうれしい不意打ちを用意してくれた。ある日彼は多額の為替《かわせ》を持って押しかけてきて、彼をリーダーにしていっしょに上部イタリアヘ行かないかと誘ってくれた。
わたしの心臓は不安と歓声をあげたいほどの喜びとに高鳴った。少年のときから抱いていて、何度も何度も夢に見た、あこがれの大事な願いがかなえられるというのである。熱にうかされたような気持ちでわたしは自分のささやかな準備をととのえ、わたしの友だちにもふたことみことイタリア語を教えてやり、最後の日まで、どうせこれは水の泡《あわ》になることかもしれない、と心配していた。
荷物を先に発送して、わたしたちは車に乗った。緑の野や丘がゆれながらあとへしりぞいてゆくウーリー湖を過ぎ、ゴットハルト峠を越える、それからテッシーン州の山塊や小川や丸石のころがっている山腹や雪をいただいた山頂、それから平らなブドウ畑のなかにある最初の黒ずんだ石造の家々、そして、いくつもの湖のほとりを過ぎ、肥沃《ひよく》なロンバルディア平原を通って、そうぞうしくてにぎやかな、妙に引きつけながら寄せつけないミラノに向かってゆく期待に満ちた旅。
リヒァルトはミラノの大聖堂《ドーム》がどんなものか一度も想像してみたことがなくて、ただ有名な大建築物ということしか知らずにいた。彼の憤然として幻滅する様子は、見るからにおかしかった。最初の驚きをおさえて、いつもの気分を取りもどしたとき、彼は自分のほうから、屋根にのぼって、そこにすこぶる乱雑にのせてある石像のあいだを歩きまわってみようと提案した。わたしたちは、ゴシック式小|尖塔《せんとう》の上にあげられた何百という不幸な聖徒像がそれほど気の毒がるにはおよばないことを確かめて、いくらか安心した。というのも、聖徒像の多くは、すくなくとも新しいほうの像は全部ありふれた工場製品と知れたからである。わたしたちはほとんど二時間ばかり傾斜した広い大理石坂の上に寝そべっていたが、その大理石坂は晴れた四月の日ざしでほんのりと熱くなっていた。リヒァルトはくつろいだ調子でわたしにこう告白した。
「ねえ、きみ、この妙ちきりんなドームに幻滅したのと同じような幻滅は、これからもっと味わわされても、けっきょくのところぼくは何も文句は言わない。ここまでくる旅のあいだじゅう、ぼくは、堂々としたものばかり見物して、窒息させられるのじゃないかと、いささか不安がっていたんだからね。ところがこの見物の始まり方はなんともあいそうがよくて、人間的で滑稽じゃないか!」
それから、わたしたちがそのまんなかに横たわった、乱雑に置いてあるたくさんの石像に刺激された彼は、ひどく誇張したさまざまな空想をくりひろげた。
「たぶん」と彼は言った、「あそこの内陣《ないじん》の上の塔は、いちばん高い尖塔だから、最高のいちばん高貴な聖徒があの上に立つのだろう。ところで、あの上がった小さな塔の上で永遠に石造りの綱渡り師になってバランスを取っているのは、けっして楽しいことではないにちがいないから、ときどきその最上級の聖徒が救われて、天上へ移されるのが、公正というものだよ。そこでひとつ考えてみたまえ、最上級の聖徒を移すたびにどんな見ものになることか! というのも、もちろんそのほかの聖徒たちも全部ちゃんと順位どおりに一段ずつ上の席へ進むわけで、どの聖徒も大急ぎで、まだ自分の前にいることになるすべての聖徒をねたみながら、大きく一跳びして先輩のいた小|尖塔《せんとう》の上へとび移らなけれはならないからだよ」
それ以来わたしはミラノを通過するたびに、あの午後のことを心に思い浮かべた、そして、憂鬱に笑いながら、幾百もの大理石の聖徒たちが思いきった跳躍をするのを見た。
ジェノアでわたしは一つの大きな愛情を覚えてその分だけ心が豊かになった。それはある晴れた風のある日の、正午を過ぎて間もなくのことだった。わたしは両腕を幅広い胸壁についていた。わたしの背後には多彩なジェノアがあり、わたしの足下には大きな青い水のひろがり、海がふくらんで動いていた。永遠不変のものがうつろに立ち騒いで、理解されない熱望を持ちながら、わたしのほうへ突進してきた、そして、わたしは、自分のなかの何かがこの青い、泡《あわ》立つ水のひろがりと生死をかけたまじわりを結ぶのを感じた。
同じように力強くわたしは海の広大な水平線に心をとらえられた。子どものころと同じようにわたしはまたしても、かぐわしく青い遠方が開けはなした門のようにわたしを待っているのを見た。
そしてまたしてもわたしは、自分は人びととともに都市の住居に定住して暮らすのではなくて、異郷をさすらい海上をさまようように生まれついているのだという感じにとらえられた。はっきりしない衝動が動いて、わたしの心のなかに、神の胸に身を投げだし、時間を超越した無限のものに自分のささやかな人生を親しく結びつけたいという、昔から持っていて、悲しい感じを呼びおこす熱望が頭をもたげてきた。
ラバロでわたしは泳ぎながら、はじめて海の水のひろがりと格闘して、からい塩水を味わい、大波の力を感じた。まわりにあるものは青い明るい波、黄褐色の浜辺の岩、深い静かな空、永遠の、大いなるざわめき。絶えず新たにわたしの心をとらえるものは、遠くをすべってゆく船や、黒いマストや、まっ白い帆のながめ、あるいは、ずっと遠くを進んでゆく蒸気船の煙のたなびき。わたしの大好きな、あの休むことを知らない雲に次ぐ、あこがれとさすらいとの美しいまじめな姿といえば、はるかな遠方を進んでいって、小さくなり、開けっぱなしの水平線のなかへ消えてゆくこういう船のほかにはないと思う。
そしてわたしたちはフィレンツェへやってきた。この市《まち》のたたずまいは、多くの絵やたくさんの夢で見てわたしが知っていたとおり――明るくて、広くて、客あしらいがよくて、橋のかかった緑色の流れに貫かれ、晴ればれとした丘また丘にとり巻かれていた。パラッツォ・ヴェッキオの大胆な塔は勇敢に明るい空を突き刺し、その高みに美しいフィエゾーレが白く、暖かそうに日を浴びて横たわり、丘はすべて満開の果樹の花の白い色やバラの紅色につつまれていた。軽快で喜々とした、無邪気なトスカナの生活が奇跡のようにくりひろがって、わたしは間もなく故郷で感じたことのあるよりも以上に居心地のよい思いがするようになった。昼は教会や広場や街路や歩廊や市場などをぶらついて過ごし、晩はすでにレモンが熟《う》れている丘の果樹園で夢うつつに過ごすか、あるいは、キァンティ・ブドウ酒を飲ませる小さな、飾りつけのない居酒屋で飲んだり、しやべったりして過ごした。そのあいだには美術館や博物館や修道院や図書館や聖物納室での幸福な思いのする豊かな幾時かがはさまり、フィエゾーレやサン・ミニアートやセティニャーノやプラートで過ごす午後がはさまった。
すでにチューリヒでしておいた申し合わせに従って、わたしはここでリヒァルトを一週間ひとりきりにしておいて、豊かな、緑のウンブリアの丘陵地帯を通りながら、わたしの青春時代のいちばんりっぱな、いちばんすばらしい徒歩旅行を楽しんだ。わたしは聖フランシスが歩いた道から道をたどりながら、しばしば、聖フランシスがその心に測り知れない愛をみなぎらせ、どの鳥、どの泉、どの野ばらのやぶにも感謝と喜びとをもって挨拶しながら、わたしと並んで歩いてゆくのを感じた。わたしは日ざしを浴びて光り輝いている斜面でレモンをもいで食べ、夜は小さな村々に泊まり、心のなかで歌ったり詩を作ったりし、復活祭をアシジで、聖フランシスの教会で祝った。
わたしにはいつも、ウンブリアをさすらったこの一週間がわたしの青春時代の頂点でもあり美しい夕ばえでもあったような気がする。来る日も来る日もわたしの心に泉がほとばしり、わたしは明るい、はなやかな春の風景に、あたかも神の慈愛の目をのぞきこむようにして見入ったのだった。
ウンブリアではわたしは「神の楽人」聖フランシスを敬慕しながら、その跡をたどった。フィレンツェでは十五世紀の生活の不変の観念を味わった。わたしは実際すでに故郷でわたしたちの現代生活の諸形式に対する諷刺《ふうし》を書いていた。しかしフィレンツェで初めてわたしは現代文化のまったくくだらない滑稽さを感じた。フィレンツェでわたしは初めて、自分は現代の社会では永遠に異邦人であるだろうという予感に襲われたし、わたしの心にそこで初めて、このさき自分の人生をこの社会の外で、そしてできれば南国で送りたいという願望が目ざめた。ここではわたしは人びととつき合うことができたし、ここではわたしはいたるところで率直な自然な生き方を楽しんだのだが、古典的な文化と歴史との伝統がこの自然さの上置きになっていて、それを高尚な洗練されたものにしていた。
この美しい数週間は光り輝いてわたしたちを幸福にしながら、ゆるやかに過ぎていった。リヒァルトも、それまでわたしが見たことのないほど熱狂して有頂天になっていた。大いにはしゃいで喜びながら、わたしたちは美と享楽との杯《さかずき》を飲みほした。わたしたちは離れたところにある、日ざしの暑い、丘の上やふもとの村々まで歩いていって、宿屋の主人たちや、修道士たちや、田舎娘たちや、低い身分で満足している村の牧師たちと親しくつき合ったり、素朴なセレナーデに耳をかたむけたり、いくらか褐色を帯びたかわいらしい子どもたちにパンや果物を食べさせたり、日当たりのよい山の上から、トスカナ地方が春の光輝につつまれていて、遠くにはリグリアの海がほのかに光っているのを見たりした。そしてわたしたちはどちらも、自分たちの幸福にふさわしく、豊かな新生活に向かって進んでいくのだという力強い感情を持った。
仕事と闘争と享楽と名声とがわたしたちの前に近々と光り輝いて確実に横たわっていたから、わたしたちはあわてずにいまの幸福な日々を楽しんでいた。間近い別れも容易な一時的なものに思えた、というのも、わたしたちは以前にもまして、わたしたちがめいめい相手をぜひとも必要としているし、どちらも相手は一生自分のものだと確信していることを、はっきり知っていたからである。
以上がわたしの青春の話である。つらつら考えてみると、それは夏の夜のように短いものだったように思える。すこしばかりの音楽、すこしばかりの精神、すこしばかりの恋愛、すこしばかりのうぬぼれ――しかし、それはエレウシスの祭典〔エレウシスでおこなわれる農業の神デメーテルの祭典〕のように美しく、豊かで、多彩だったのだ。
そして風のなかのともし火のように、すみやかに、みじめに消えてしまった。
チューリヒでわたしはリヒァルトと別れた。彼は二度も列車の車室からおりてきてわたしに接吻し、おたがいの姿が見えるあいだは車室の窓から、わたしに向かってやさしくうなずきかけていた。
二週間後に彼は南ドイツの、おかしなほど小さな川で泳いでいるときに、溺《おぼ》れて死んだ。別れてからわたしは彼に会っていなかったし、彼が葬られたときも立ち会ったのではなかった。わたしが彼の溺死のいきさつを聞いたのは二、三日後のことで、彼はすでに棺に入れられて地下に横たわっていた。わたしは自分の小さな部屋の床に身を投げ出して、いやしい、きたならしい悪態をつきながら神や人生を呪《のろ》い、泣いて、荒れ狂った。そのときまでわたしは、その数年間の自分のただ一つの確実な所有物が自分の友情だったということなど、一度も考えたことがなかったのである。それがこのとき無くなったのだった。
毎日たくさんの思い出がつきまとってきて息苦しくなるチューリヒにいることには、わたしはもう耐えられなかつた。何がこようと、わたしにはどうでもよかった。わたしは魂の中心が病気になって、生き生きとしたものは何を見ても身の毛がよだった。さしあたりのところ、破壊されたわたしの本質が元気をとりもどして、新たに帆をふくらませながら、これまでよりもきびしい壮年の幸福を目ざして進んでゆくという見込みは、ほとんどないように思われた。神の思召《おぼしめし》は、わたしが自分の本質の最善の部分を純粋な楽しい友情にささげるということだったのだ。わたしたちは舟足の早い二つの小舟のようにいっしょに前進していた、リヒァルトの小舟は多彩な、軽快な、幸福な、わたしの好きな小舟で、わたしはその小舟から目を離さずにいて、それがわたしをともどもに美しい目標へ連れていってくれるものと信じていた。ところが、それが短い叫び声をあげて沈んでしまい、わたしは舵《かじ》をなくして、突然くらやみになった水の上にただよっているのだった。
この苛酷《かこく》な試練に耐え、星を見て方向を定め、新たに舟を乗り出していって人生の月桂冠を得るために努力し、迷うのが、わたしのすべきことだったのだろう。わたしは友情を、婦人への愛を、青春を信じてきたのだった。それがいま、ひとつまたひとつとわたしを見捨てたのだから、わたしはなぜ神を信じて、自分を神のもっと力強い手にあずけなかったのだろう? しかし、わたしは生涯子どものように内気で反抗的で、いつも、ほんとうの生活があらしになってわたしに襲いかかってきて、わたしを物わかりのよい豊かな人間にしながら、大きな翼に乗せて成熟した幸福のほうへ運んでいってくれるのを待っていたのだった。
しかし賢明で倹約な人生は何も言わずに、わたしを勝手に動かしておいた。人生はわたしにあらしも星も送ってよこさずに、わたしがふたたび卑下して辛抱強くなり、わたしの反抗心が折れるまで待っていた。人生はわたしに自負と知ったかぶりとの喜劇を演じさせながら、それを放任しておいて、道に迷った子どもがふたたび母親を見いだすようになるまで待っていた。
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第五章
こんどは、わたしのこれまでの生活よりも波乱に富んだ多彩なものに見えて、ささやかな流行小説と呼んでもよさそうな一時期のことになる。わたしの物語らなければならないのは、わたしがドイツのある新聞の編集者の職についたこと。わたしが自分の筆や自分の口の悪さにあまりにも多くの自由を与えて、そのためにいやがらせをされたり、説教をされたりしたこと。それから大酒飲みの評判を取って、ついには、幾度かひどいけんかをしたのちに、編集者の職を辞任して、通信員としてパリへ派遣してもらったこと。わたしがこのパリという呪《のろ》われた巣のなかでジプシーのような生活をして、時間や金を浪費し、さまざまな領域でひどくはめ《ヽヽ》をはずしたことなどである。
わたしはわたしの読者のなかにあるいはいるかもしれない猥雑《わいざつ》な連中に一杯食わして、この短い時期を省くことにするが、それは臆病からではない。白状するが、わたしは迷路から迷路へとまよいこんで、いろいろと不潔なものを見たし、そのなかにはまりこみもしたのだ。それ以来、わたしには放縦《ほうしょう》な生活のロマン主義を喜ぶ趣味などなくなっている。そして、読者諸君に許してもらうが、わたしは自分の人生にもやはりあった清潔な良いものを支えにして、あの失われた時期は失われて片づいたものということにする。
ある晩わたしはひとりで森《ボワ》に腰をおろして、パリだけを見捨てるべきか、それとも、むしろすぐさま人生全体を見捨てるべきか、つくづく考えていた。そのときわたしは、久しぶりに初めて、頭のなかで自分の人生をずっと検討していって、自分の人生には失われるものなど多くはないと評価した。
しかしそのとき突然わたしは、とっくに過ぎ去って忘れていたある日のことを目の前にまざまざと思い出した――夏の早朝のこと、山のなかの故郷でのことで、ベッドのそばにひざまずいている自分の姿が目にうかんだが、ベッドの上にはわたしの母が横たわっていて、死を迎えていた。
わたしは愕然《がくぜん》として、長らくあの朝のことをすっかり忘れてしまっていたのを恥じた。愚かな自殺の考えはもうなくなっていた。というのも、思うに、まじめで、完全に脱線してしまっているというのでない人間なら、もう一度健全な善良な人間の生命が消えてゆくのを見たことがあるとすると、自殺することなどできるものではないからである。わたしはふたたび母が死んでゆくのを見た。わたしは母の顔を気高くする死の静かな真剣な仕事を、ふたたび母の涙の上に見た。死は、きびしいように見えたが、しかし、道に迷った子どもを家へ連れ帰る慎重な父親もさながらに、力強くて慈悲深くもあるように見えた。
わたしにはまたしても突然、死は正しい時刻を知っていて、わたしたちが信頼して待っていることのできる、わたしたちの賢明な親切な兄弟だということがわかった。そしてわたしはまた、悩みや幻滅や憂鬱は、わたしたちを気むずかしい、無価値な、品位のないものにするためにあるのではなくて、わたしたちを成熟させ、明るくするためにあるということをも理解しはじめた。
一週間後にわたしはいくつかのトランクをバーゼルへ向けて発送しておいてから、徒歩で南フランスの美しい一画をさすらってゆき、毎日、思い出が悪臭のようにつきまとってくる不吉なパリ時代の日ごとに色あせて霧になってゆくのを感じた。わたしは恋愛裁判に出席した。大きな邸宅や、水車小屋や、納屋に泊まり、髪の黒い話し好きな若者たちを相手にして、彼らの飲む暖かい日にあたったブドウ酒を飲んだ。
服はぼろぼろになり、からだは痩《や》せて、褐色に日焼けして、心境は変化して、わたしは二か月後にバーゼルヘ着いた。それはわたしの最初の非常に長距離な徒歩旅行で、多くの徒歩旅行の最初のものだった。ロカルノとヴェローナとのあいだ、バーゼルとブリークとのあいだ、フィレンツェとペルージアとのあいだで、わたしが二度か三度か埃《ちり》まみれの長靴《ながぐつ》をはいてさすらわなかった場所はほとんどない――夢また夢を追ってさすらったのだが、それらの夢はまだ一つも実現していない。
バーゼルでわたしは郊外に部屋を借り、トランクから持ち物を出して、仕事をしはじめた。わたしを知っている者のいない静かな都会で生活するのは、わたしにはうれしかった。二、三の新聞や雑誌との関係がまだつづいていて、わたしは仕事をして生計を立てなければならなかった。最初の数週間はぐあいがよくて、落ちついていた。それから、しだいに昔ながらの悲哀感がまた生じてきて、何日も何週間もいすわり、仕事のあいだも消えさらなかった。憂鬱とはどんなものだか、自分で感じてみたことのない者には、こういうことはわからない。それをどんなふうに書きあらわしたらいいだろうか?
わたしはぞっとするような孤独感を持った。わたしと、人びとや町の生活、広場や家々や街路でいとなまれる生活とのあいだには、絶えず幅広い割れ目があった。何か大きな不幸が起こったり、新聞に重大な記事が出たりしても、わたしにはなんの関係もなかった。祝祭が祝われ、死者が葬られ、市場が開かれ、音楽会が催される、なんのために? 何に対して? わたしは戸外へ走り出て、森のなかや、丘の上や、国道づたいにぶらつき歩く、そして、わたしの周囲には草地や木々や田畑が泣きごとを言わない悲哀につつまれて黙りこくり、無言のままに嘆願でもするような風情でわたしを見つめながら、わたしに何か言いたい、わたしの気持ちにそいたい、わたしを歓迎したいと願っている。しかし彼らはそこに横たわったまま何も言うことができなかった、そして、わたしは彼らの悩みを理解して、その悩みを共にした。彼らを救ってやれなかったからである。
わたしはある医者のところへ行った。わたしはくわしい手記を書いて持っていったが、医者にわたしの悩みを書きあらわして見せようとしたのだった。医者はわたしの手記を読んで、質問をして、わたしを診察した。
「あなたはうらやましいほど健康です」と彼はわたしをほめた、「肉体的にはあなたはどこにも悪いところはありません。本を読むとか音楽を聞くとかして気を晴らすようにしてごらんなさい」
「職業がらわたしは毎日たくさんの新刊書を読んでいます」
「とにかくあなたはいくらか戸外で運動なさるといいでしょう」
「わたしは毎日三時間か四時間くらい歩きます、休暇のときにはすくなくともその倍は歩きます」
「それからあなたは無理にでも人なかへ出なくちゃいけません。あなたには、ひどい交際ぎらいになる危険がありますからね」
「それは重要なことでしょうか?」
「重要なことですよ。いまあなたの交際ぎらいが大きければ大きいほど、ますますあなたは無理にでも人びとにお会いにならなくちゃいけません。あなたの状態は、いまはまだ病気ではないし、わたしには危険なものとも思われません。しかし、もしあなたがそういう消極的な態度でぶらぶらしていることをおやめにならないと、ついにはいずれバランスを失いかねませんよ」
その医者は物わかりのよい親切な男だった。彼はわたしのことを気の毒に思った。彼はわたしをある学者に紹介してくれたが、その学者の家にはいろいろ人が出はいりしていて、一種の精神的な文学的な生活があるということだった。わたしはそこへ行った。そこの人たちはわたしの名を知っていて、親切で、思いやりがあると言ってもよかった。わたしはしばしばそこへ出かけていった。
あるときわたしは晩秋のひえびえとする晩にそこへ行った。若い歴史家と非常にすらりとした黒髪の娘とがいるだけで、ほかには客がいなかった。その娘は湯わかし器のめんどうをみて、さかんにものを言い、歴史家に対して皮肉な態度を取った。あとで彼女はすこしピアノを弾いた。それから彼女はわたしに、わたしの諷刺《ふうし》の文章を読んだが、全然おもしろくなかった、と言った。わたしには、彼女は利口だが、しかし、すこし利口すぎるように思われた。そして、間もなくわたしは家へ帰った。
そうこうしているあいだに、わたしがしげしげと飲み屋にかよっていることや、わたしがじつはひそかな大酒飲みだということが、しだいにわかってしまった。わたしは格別驚きもしなかったが、それは、大学関係の社会においてこそ、男女のあいだに、うわさ話がいちばん盛んに栄えていたからだった。この恥ずかしい露見はわたしの交際のさしつかえには全然ならなくて、むしろわたしは交際を多く求められるようになったが、それはみんながまさに禁酒ということに熱狂していて、紳士淑女諸君は禁酒会の委員会に所属し、どんな罪人であれ彼らの手中におちいってくることを喜んでいたからである。あの日、最初のいんぎんな攻撃がおこなわれた。わたしはビヤホール通いの恥ずかしさ、飲酒癖の呪《のろ》い等々のことを、衛生上の、倫理上の、社会上の立場から考えてみるようにとすすめられた、そして、禁酒会の儀式に出席するようにと招待された。
わたしはひどく驚いたが、禁酒のための会だの努力だのいうことは、それまでほとんど知らずにいたからである。禁酒会の集会は、音楽つきで宗教的な色合いもあったが、なんとも滑稽なもので、わたしはそういう印象を隠しはしなかった。何週間もわたしは執拗な好意を押しつけられた、このことはわたしには非常に退屈になった。そして、ある晩のこと、みんながまたしても同じことをくり返して、わたしの改悛《かいしゅん》を待ちこがれているというので、わたしはやけくそになって、はげしい勢いで、そんなにやいやい言われるのはごめんこうむりたいと言った。例の若い娘がまた同席していた。彼女はわたしの言うことを注意深く聞いていたが、ほんとうに心から、「まあ、すてき!」と言った。しかし、わたしはひどくふきげんになっていたから、それには気をとめなかった。
それだけにわたしは、禁酒主義者たちの大がかりな祝宴の際に起こった、小さな、おかしげな不幸を、大いに喜びながら見ていたのである。その大きな禁酒会は無数の客を加えて、その会館で会食し会議をした、演説がおこなわれ、友情が結ばれ、合唱があり、大事業の進捗《しんちょく》が高らかな歓呼の叫びをもって祝われた。旗持ちとして雇われた一人の使い走りの男にとってアルコール抜きの演説があまりにも長く続いたので、彼はこっそりと近くの飲み屋へずらかった、そして、街路をねってゆく晴れがましい祭典兼示威の行進が始まったとき、意地悪の罪人たちは、熱狂した人びとの群れの先頭で、きげんよく酔っぱらった引率者がよろめき、彼の腕に抱かれた青十字の旗が難破した船のマストみたいにゆらゆら揺れているのを見るという、おかしな見物を楽しんだのだった。
泥酔したその使い走りの男は遠ざけられた、しかし、きわめて人間的な虚栄心や嫉妬心《しっとしん》や陰謀などのひしめき合いは遠ざけられなかった。そういうひしめき合いがたがいに競争し合っている個々の禁酒会や委員たちのあいだに前からもちあがっていて、それがうれしいことにますます盛んになっていったのだ。禁酒運動は分裂した。二、三の野心家がいっさいの手柄《てがら》を独占しようとして、彼らの名において改俊《かいしゅん》したのではない大酒飲みをいちいちすべてののしった。高潔な私欲のない会員もいたのだが、そういう会員たちは無礼にも悪用された、そして、間もなく、禁酒運動に近い立場にいた人びとは、ここでも理想的なレッテルのもとでいろいろと不潔な人間的弱点が悪臭天をつくの観を呈するのを見る機会を持った。
こういう喜劇をすべてわたしは第三者を通してついでに聞き知り、ひそかにそれを楽しみにして、酒を飲みに出て夜家へ帰る途中でしばしば、それ見ろ、われわれ野蛮人のほうがやはりましな人間なんだ、と思ったものだった。
ライン川に臨む高い、自由な位置にある自分の小さな部屋でわたしはおおいに研究し、おおいに思い悩んだ。人生はわたしの心にふれてこなくて、わたしの心を奪って押し流していってくれる強い流れはないし、わたしを熱中させて、うつろな夢から引き離してくれるはげしい情熱も同感もおよそなかったから、わたしは怏々《おうおう》として楽しまなかった。毎日どうしてもしなければならない仕事のかたわらに、わたしは、フランシスコ教団の最初の修道土たちの生活を描くつもりの作品の準備を進めてはいたが、しかし、それは創造の仕事ではなくて、絶え間のないつつましやかな資料集めにすぎなくて、わたしのあこがれの衝動を満たしてはくれなかった。
わたしは、チューリヒやベルリンやパリのことを思い出しながら、同時代の人びとの本質的な願望や情熱や理想をはっきりつかむことをやりはじめた。ある者は従来の家具や璧紙や服装を廃止して、人びとをもっと自由で美しい環境に慣れさせる仕事をしていた。別の者はへッケルの一元論を通俗的な著書や講演によって普及させることに努めていた。他の人びとは永遠の世界平和を招来することが努力する価値のあることと見なしていた。さらにまたある者は食うに困っている下層階級のために戦うとか、あるいほ、大衆のための劇場や博物館を建造開設するために募金や講演をしていた。そして、わたしがいるバーゼルには禁酒運動があった。
そういうさまざまな努力には活気や動力や運動があった。しかし、そのどれひとつとしてわたしには重要でも必須でもなかった、そして、もしそういう目標がすべてこんにち達成されているとしても、それはわたしやわたしの生活にふれることはなかったであろう。絶望的になってわたしは椅子にどっかりともたれかかり、書物や用紙を押しのけて、思案に思案を重ねた。それからわたしは窓のまえをライン川の流れてゆく音や風のざわめく音を聞き、いたるところに待ち伏せしている大きな憂鬱やあこがれのこの言語に、感動しながら耳をすました。わたしは、青白い夜の雲がいくつもの大きなかたまりになって、おびえた鳥のように空を飛んでゆくのを見たり、ライン川のさすらってゆく音を聞いたり、わたしの母の死のことや、聖フランシスのことや、雪をいただいた山々のあいだにあるわたしの故郷のことや、溺《おぼ》れて死んだリヒァルトのことを考えたりした。わたしは、レージー・ギルタナーにやるシャクナゲを折り取るために岩壁をよじのぼってゆく自分の姿、チューリヒで書物や音楽や議論に興奮させられている自分の姿、アリエッティと夜の湖でボートに乗っている自分の姿、リヒァルトの死に絶望し、旅に出ては帰ってきて、回復してはまたみじめになる自分の姿を見た。なんのために? 何に対して? ああ、こういうことはすべてただ遊び、偶然、描かれた絵にすぎなかったのだろうか? わたしは努力して、精神や友情や、美や真理や愛を熱望するための悩みに耐えてきたのではなかったのか? いまでもまだわたしの心のなかではあこがれと愛とが不安な波のようにふくらんでくるのではないのか? それなのにこのすべてが何の役にも立たず、わたしの悩みになるばかりで、だれの楽しみにもならないとは!
そこまでくるとわたしは飲み屋へ出かけずにはいられない気持ちになるのだった。わたしはランプを吹き消し、傾斜の急な古い回り階段を手さぐりでおりていって、ヴェルトリーン・ブドウ酒のホールかヴァートラント・ブドウ洒を飲む部屋に現われる。そういう場所ではわたしはたいてい反抗的で、ときにはひどく粗野になったが、上客の扱いで尊敬をもって迎えられた。わたしは、読むたびにしゃくにさわるジンプリツィシムス〔ハイネによって創刊されたユーモア・諷刺誌〕を読みながら、ブドウ酒を飲んで、それがわたしを慰めてくれるのを待っている。するとあの甘美な神が女性のようにやわらかな手でわたしに触れてきて、わたしの手足を気持ちよく疲れさせながら、わたしの迷った魂を美しい夢の国へ招待してくれるのだった。
ときどき自分でもそれを不思議がったのだが、わたしは人びとをひどくぶあいそうにあしらって、彼らをどなりつけてやることに一種の慰みをおぼえた。わたしがしばしば出かけた何軒かの料理屋では、給仕の女たちがわたしのことを、武骨な田舎者で、永遠に不服を並べ立てる気むずかし屋として恐れをなし、忌《い》みきらった。ほかの客たちと話し合うことになると、わたしは嘲笑的なぞんざいな口をきいたが、もちろん相手もそれに応じてきた。それにもかかわらず、二、三わずかなビヤホール友だちが出来て、いずれもすでに老いぼれかけた不治の罪人だったが、彼らを相手にわたしはときどき一晩じゅう腰をすえて、どうにかがまんのできる付き合いをした。彼らのなかに、とくに一人のやや年を取った乱暴者がいて、職業は図案家だったが、女ぎらいで、だらしがなくて、酒のことに明るい第一級の飲み手だった。わたしが晩にどこかの飲み屋で、ひとりでいる彼に出会うと、いつもひどい痛飲がはじまるのだった。
まずおしゃべりをして、冗談を飛ばしながら赤ブドウ酒の小びんを飲む、それからしだいに飲むことが主になってきて、会話はとだえてしまう、そして、わたしたちはたがいに黙りこくってさし向かいにうずくまったまま、めいめい自分のブリッサーゴのブドウ酒をすすり、それぞれひとりで自分の酒びんをあけてゆく。そうしながらどちらも相手に負けない好敵手で、わたしたちはいつも同時に酒びんにブドウ酒を詰めかえさせながら、相手に対する尊敬と意地の悪い喜びとが半々にまじった気持ちで、たがいに観察し合っていたのである。晩秋の、新酒の季節に、わたしたちは一度いっしょにマルクグレーフラー〔ライン上流域産のブドウ酒〕を作るいくつかの村を歩いた、そして、キルヘンの部屋で、この老いぼれはわたしに身上話をして聞かせた。
わたしは、彼の身上話をおもしろい独特なものだったと思っているが、しかし、残念なことにすっかり忘れてしまった。覚えているのは、彼がもうかなり年を取ってからの、ある酒飲みの話だけである。それはどこか田舎の村の宴会のときのことだった。客として名士連の席についた彼は牧師と村長とを誘惑してまだ早すぎる時期にしたたかに酔わせてしまった。しかし牧師はそれから演説をしなければならなかったのだ。やっとのことで演壇へ引きあげられた牧師は、そこで途方もないことを言ったもので、連れ去られる仕儀になったが、こんどは村長が演壇の空《あ》き間の埋め役になった。彼は猛烈な勢いで即席の演説をはじめたものの、はげしい興奮のために突然気分が悪くなり、その挨拶のことばを並みはずれた無作法な仕方で結んだ。
あとでわたしはこの話やその他の話をもう一度聞かせてもらいたいと思った。しかし、ある射撃競技会の晩に、わたしたちのあいだに和解のできないけんかがもちあがり、わたしたちはたがいにひげをむしり合って、腹を立てたまま別れてしまった。その後二、三度、わたしたちはたがいに敵として同時にブドウ酒を飲む部屋に、もちろんめいめい別のテーブルにいたことがある。しかし、前からの習慣でわたしたちは黙ったまま観察し合い、同じテンポで飲みながら腰をすえつづけ、とっくに最後の客になって、しまいには引きあげてもらいたいと言われた。和解することにはついにならなかった。
わたしは自分の物悲しさや生きる能力のないことの原因を、あれかこれかと考えたが、いつまで考えても効果はなくて、疲れるばかりだった。自分はもうおしまいになって使いものにならないのだという感じは全然なくて、はっきりしない促しに満ちていたし、いずれ適当な時がくれば何か深みのあるりっぱなものを創造し、冷淡な人生からすくなくともひとつかみの幸福を奪い取ることはできるだろうと信じていた。しかし、その適当な時というのがいつかくるだろうか? わたしはにがにがしい思いであのモダンな、神経過敏な人びとのことを考えた。彼らはさまざまな人工的な刺激を使って芸術的な仕事をしようとしているのに、わたしの内部にはたくましい力がいくつも使われないままで、じっとしているのだ。そしてわたしはまたしても、いったいどんな妨害あるいは悪魔がわたしのはち切れそうにたくましいからだのなかでわたしの魂をよどませ、ますます重苦しくならせるのだろうかと思い悩んだ。それと同時にまたわたしは奇妙な考え方をして、自分は非凡でありながら、どうにかして損をしている人間で、自分の悩みはだれも知らないし、理解してくれないし、共にしてくれないのだとも思った。憂鬱には悪魔的なところがあって、人を病的にするばかりではなく、うぬぼれさせて近視的にする、いや、ほとんど高慢にする。
憂鬱のとりこになった人間は、世のなかの苦痛や謎のすべてをひとりで背負っているあのハイネの無趣味なアトラスのような気になって、同じ悩みに耐え、同じ迷宮のなかをさまよっている人間がほかにもたくさんいることを考えないようになる。自分の特性や癖の過半数が自分のものというよりはむしろカーメンツィント一族の世襲財産ないし病気だということも、ひとりぼっちで故郷から離れているわたしは、すっかり忘れていた。
二、三週間おきにわたしはあの客あしらいのよい学者の家をおとずれた。しだいにわたしはそこに出入りする人びとのほぼ全部と知り合った。たいていはわたしより若い大学生で、ドイツ人が多数まじり、あらゆる学部にわたっていたが、そのほかに二、三人の画家、数人の音楽家、さらに、夫人や娘を同伴した二、三人の市民がいた。彼らは、わたしを珍しい客として歓迎してくれたし、わたしは彼らが毎週たがいに何回か会っていることを知っていたのだが、わたしはしばしば彼らを驚きの目でながめた。いったい彼らはいつもたがいに何を話し、何をするのだろうか? たいていの人びとが社会的人間という同一の、型にはまった外形を持っていた。そして、わたしから見ると、彼らはみなたがいにいくらか血縁関係があるように思われたが、それは社交的な、平均化する精神によることで、わたしだけがその精神を持っていなかった。しかしまた洗練されたすぐれた人びともまじっていて、彼らは永遠に社交をつづけても、明らかに、自分の元気や個人的な力をすこしも、あるいは、あまり奪われなかった。
彼らのひとりひとりが相手なら、わたしは長いあいだ興味をもって話し合うことができた。しかし、ひとりから他のひとりへ移っていって、だれのところにもちょっと立ちどまること、婦人に対しては運を天にまかせてお世辞を言うこと、自分の注意をお茶と、二つの会話と、一つのピアノ曲とに同時に向けながら、活気のある愉快そうな様子をしていること、そんなことはわたしにはできなかった。文学や芸術の話をさせられるのは、わたしには恐ろしいことだった。わたしは、この分野のことでは非常にわずかしか考えられないのに、非常に多くの嘘《うそ》がつかれる、いずれにしろ、なんとも言えないほど多くのおしゃべりがされるのを見た。そこでわたしもいっしょになって嘘をついたが、それはすこしもおもしろいことではなくて、なんの役にも立たない多くのおしゃべりを、退屈な不面目なことだと思った。それよりもわたしはだれか婦人が自分の子どもたちの話をするのを聞いたり、自分で流行の話とか、日常のささやかな体験その他の実際にあることの話をするほうがはるかに好きだった。そういう話ならわたしはときどき、打ち解けてほとんど満足した気持ちになれたのである。しかし、たいていの場合、わたしはこういう社交の夕ベのしめくくりにはさらにブドウ酒の店をたずねて、喉《のど》の渇きやくだらない退屈をヴェルトリーン・ブドウ酒で洗い流すのだった。
こういう夜会のおりに、わたしはあるときあの髪の黒い若い娘にめぐり会った。おおぜいの人びとが集まっていて、音楽を奏したり、いつもの大騒ぎをしていた、そして、わたしはアルバムを持ってランプのある離れた片隅に腰かけていた。アルバムはトスカナの風景画集だったが、何度となく見たことのある、ありふれた、これ見よがしの絵ではなくて、親しみの持てる、親しく忠実にスケッチした風景画で、たいていはこの家の主人の旅仲間や友人たちからの贈り物だった。わたしはサン・クレメンテの淋《さび》しい谷のなかの一軒の石造りの、窓の狭い、小さな家の絵を見つけだした。
それがサン・クレメンテの谷だとわかったというのは、わたしがそこを何度も散歩したことがあったからである。その谷はフィエゾーレのすぐ近くにあるが、古代の遺物など何もないところなので、旅行者はたいていそこをおとずれない。それはきびしい、珍しい美しさを見せている谷だが、かわききっていて、ほとんど住む人がなく、高い、禿《は》げた、いかめしい山々のあいだにはさまれて、世間からは離れた、憂鬱な、人の踏みこまないところである。
その谷の絵を見ているところへ、あの娘が歩みよってきて、わたしの肩越しにその絵を見た。
「どうしていつもそうひとりきりですわっていらっしゃるのですの、カーメンツィントさん?」
わたしはしゃくにさわった。彼女は男性からかまってもらえないのを感じて、それでわたしのところへやって来たのだ、とわたしは思った。
「で、ご返事をいただけないのでしょうか?」
「ごめんなさい、お嬢さん。しかし、どうご返事したらいいでしょう? ひとりですわっているのがおもしろいから、そうしているのですよ」
「それではわたしはおじゃまをしていることになりますわね?」
「おかしな方ですね、あなたは」
「ありがとう、でも、まったくおたがいさまですわ」
そう言って彼女は腰をかけた。わたしは辛抱強くサン・クレメンテの谷の絵を指で持っていた。
「あなたはどうしても高地の方ですわね」と彼女は言った。「あなたに高地のお話を聞かせていただきたいと思いますわ。わたしの兄が言っておりましたけれども、あなたの村には家族名が一つきりしかなくて、みんなカーメンツィントだって。ほんとうですの?」
「ほとんど」とわたしはうなるような言い方をした。「しかし、フュスリというパン屋もいます。それから、ニデガーという名の料理屋の主人がいます」
「そのほかは全部カーメンツィントなんですね! そして、カーメンツィントたちはみんな縁つづきなんですか?」
「多かれ少なかれ、そうです」
わたしは絵を彼女のほうへさし出した。彼女はそれをしっかりと持ったが、わたしは、彼女がそういうものの正しい持ち方を知っているのに気がついた。それをわたしは彼女に言った。
「ほめてくださいますのね」と彼女は笑った。「でも、学校の先生みたいに」
「その絵をごらんになったらどうです?」とわたしはぞんざいに尋ねた。「ごらんにならないのなら、もとの場所にもどします」
「いったい何の絵でしょう?」
「サン・クレメンテです」
「どこですか?」
「フィエゾーレの近くです」
「そこへいらしたことがありますの?」
「ええ、たびたび」
「この谷の様子はどんなでしょう? この絵は一部分だけですもの」
わたしはじっと思いをこらした。あの重々しい、きびしい美しさを見せている風景が目のまえに浮かんできた、そして、それをしっかりととらえるために、わたしは半ば目をとじた。わたしが話しはじめるまでには、しばらく間があったが、そのあいだ彼女がじっとして待っているのが、わたしにはうれしかった。
彼女にはわたしが思いをこらしているのがわかったのだ。それからわたしは夏の午後の燃えるような日ざしを浴びながら黙々としてひからびている、すばらしいサン・クレメンテの風光を語った。隣り合ったフィエゾーレでは工業がいとなまれ、人びとは麦わら帽子や籠を編み、記念品やオレンジを売り、旅行者をだましたり、旅行者に施しを請うたりしている。ずっと下のほうにはフィレンツェがあって、古い生活や新しい生活の大波を抱えている。しかしクレメンテからはフィエゾーレもフィレンツェも見えない。クレメンテで仕事をした画家はないし、クレメンテにはローマ人の建造物はない。歴史はこの貧しい谷を忘れていた。しかし、そこでは太陽と雨とが大地と戦っている、そこでは曲がった松の木がかろうじて生きのびている、そして二、三本の糸杉がやせた梢を空中に突き出して、敵であるあらしが近づいているのではないかどうかを探っている。あらしは糸杉が水を求める根でしがみついている乏しい生命をちぢめるのだ。ときどき、近くにある大きな農場の牛車がそばを通り過ぎたり、百姓の一家族がフィエゾーレのほうへ歩いていったりするが、しかしそれは偶然の客にすぎない、そして、よそでなら非常にいきな浮かれたものに見える百姓の女房たちの赤いスカートは、ここではじゃまになって、そんなものは見えないほうがいいと思われる。
それからわたしは、自分が若いときに一人の友だちとそこを歩いて、糸杉の根もとに横になったり、やせた幹にもたれたりしたことや、この珍しい谷のもの悲しい美しさをたたえた静寂境の魅力がわたしに故郷の峡谷を思い出させたことを物語った。
わたしたちはしばらく黙っていた。
「あなたは詩人ですわ」と相手の娘が言った。
わたしは顔をしかめた。
「わたしの言うのは別の意味です」と彼女は言いつづけた。「あなたが短編小説やそういうものをお書きになるからではありません。そうではなくて、あなたが自然を理解して、愛していらっしゃるからです。木がざわめくとか、山が日ざしを浴びて燃えるとかいうことは、ほかの人たちにはどんな意味があるでしょうか? しかし、あなたにとってはそこに生命があって、その生命をあなたはいっしょになって生きることがおできになるのですわ」
わたしは答えて、だれも「自然を理解している」者はいない、われわれがどんなに捜し求めたり理解しようと思ったりしても、謎が見つかるばかりで、悲しくなる。日ざしを浴びて立っている木、風化してゆく石、動物、山――そういうものには生命があり、歴史があって、そういうものは生き、悩み、反抗し、享楽し、死んでゆくのだが、われわれにはそれが理解できないのだ、と言った。
わたしは話をして、彼女が辛抱強く黙ったまま聞いているのをうれしく思いながら、彼女を観察しはじめた。彼女のまなざしはわたしの顔にそそがれていて、わたしの顔から離れなかった。彼女の顔はまったく静かで、わたしの話に没頭し、注意をこらしているためにすこし緊張していた。子どもがわたしの話に注意深く耳をかたむけているとでもいうようだった。いや、そうではなくて、おとなが注意深く耳をかたむけているうちにわれを忘れて、それとは知らずに、目が子どもの目になったとでもいうようだった。そして観察しているうちにわたしはだんだんと、彼女が非常に美しいのを発見して、素朴な発見者の喜びをおぼえた。
わたしが話しやめたときも、その娘は黙っていた。それから驚いてとびあがって、ランプの明かりを見ながらまばたきをしていた。
「お名前はいったいどうおっしゃるのですか、お嬢さん?」とわたしは尋ねたが、別に大した考えはなかったのだった。
「エリーザベトです」
彼女はその場から離れていったが、間もなく無理にピアノを弾かされた。彼女の弾き方はうまかった。しかし、そちらへ歩いていったわたしの目には、彼女はもうそれほど美しくは見えなかった。
家へ帰るために、気持ちのいい古風な階段をおりていったとき、わたしは、玄関でマントを着ながら話し合っていた二人の画家のことばをすこし耳にはさんだ。
「そうだね、彼はひと晩じゅう、かわいらしいリスべット〔エリーザベトの愛称〕にかまけていたよ」と一人が言って笑った。「無口な人の心底は知りがたい!」と他の一人が言った。「彼はいちばんまずいのを選んだわけじゃない」
そんなふうに、もう愚者どもが噂をしているのだった。わたしは突然、自分がほとんど心ならずも、この見知らぬ若い娘に親密な思い出や自分の心の生活をすっかり打ち明けてしまったことに気がついた。どうしてそんなことになったのだろう? そして早くも口の悪い人びと――うるさがた!
わたしは立ち去って、その後は幾月もその家に足をふみいれなかった。街頭でわたしにそのわけをたずねた最初の人は、偶然にもまさに例の二人の画家の一人だった。
「いったいあなたはなぜ、もうあそこへお出かけにならないのですか?」
「あのいまいましい陰口ががまんならないからですよ」とわたしは言った。
「そう、あのご婦人がたですね!」と言って、そいつは笑った。
「違います」とわたしは答えた、「わたしの言うのは男たちのこと、とくに画家諸氏のことです」
この幾月かのあいだわたしはエリーザべトにほんのときたま街中で会っただけで、一度はある商店で、一度は美術館でのことだった。ふだんのときの彼女はかわいらしくはあったが、美しくはなかった。彼女の並みはずれてすらりとした容姿の動きには非凡なところがあって、それが彼女の飾りになり、彼女をきわ立たせたが、しかし、ときにはそれがいくらか誇張した、にせもののように見えかねなかった。その当時わたしが美術館で見た彼女は美しかった。非常に美しかった。彼女のほうではわたしを見なかった。わたしはかたわらに腰をおろして休みながら、カタログをめくっていた。彼女はわたしの近くにあるセガンティーニ〔山岳風景で知られるイタリアの画家〕の大きな絵の前に立って、その絵にすっかり没頭しきっていた。それは痩せた草地で働いている二、三人の百姓娘を描いたもので、背景には、シュトックホルンの群峰を思わせる、のこぎりの歯のように切り立った山々をあしらい、その上の、ひえびえとした感じの明るい空に、なんとも言いようのないほど独創的な描き方をした象牙色の雲が一つ浮かんでいる。その雲は、奇妙にもつれねじれてからみ合ったかたまり方が、ひと目で見る人の注意を引くのだが、たったいま風に丸められこねあげられたばかりで、これから上昇していって、ゆるゆると飛び去ろうとしているところのように見える。明らかにエリーザべトはこの雲を理解したのだ、というのも、彼女はひたすら見ることに没頭しきっていたからである。そしてまたしても、いつもは隠れている彼女の魂が顔に出てきて、大きく見ひらかれた目のなかから笑い、細すぎる口に無邪気なやわらかい感じをただよわせ、眉《まゆ》と眉とのあいだにきざまれた、かしこぶった、きびしい感じのしわを平らにのばしていた。偉大な芸術作品の美と真実性とに強いられて、彼女の魂は自分自身を美しく、真実に、包み隠さずに示していたのだった。
わたしはそのかたわらにじっとすわったまま、セガンティーニの美しい雲と、その雲に魅惑された美しい娘とをながめていた。それからわたしは、彼女がふり向いて、わたしを見て、話しかけて、その美しさをふたたび失うかもしれないと心配になってきて、急ぎ足にそっと、その広間を去った。
その時期に、無言の自然に寄せるわたしの喜びや、わたしと無言の自然との関係が変化しはじめた。わたしはバーゼル市のすばらしい周囲を幾度も歩きまわり、とくに好んでジュラ山脈にわけ入った。わたしは幾度も、森や山や牧場や果樹や薮《やぶ》がじっと何かを待っているのを見た。おそらくわたしを待っているのかもしれないが、いずれにしても愛を待っているのだった。
そんなわけでわたしはこれらのものを愛しはじめた。わたしの内部には、これらのものの無言の美に対する、強い、渇くような熱望が生じた。わたしの内部でも深い生命とあこがれとがおぼろげに表面へ押し進んできて、意識されることを求め、理解されることを求め、愛を求めた。
「自然を愛する」という人は多い。それは、彼らがときどき、自然の見せてくれる魅力を受容するのがきらいではないという意味のことなのだ。彼らは戸外へ出かけていって、大地の美しさを喜び、草地をふみ荒らし、ついにはたくさんの花や枝を折り取り、それをじきにまた投げ捨てたり、家へ持って帰って枯らしたりしてしまう。そんなやり方で彼らは自然を愛するのである。彼らは日曜日に、天気がよいと、この愛を思い出して、自分たちの善良な心に感動する。彼らは感動する必要などありはしないのだ、というのも「人間は自然の精華」だからである。いかにも、たいした精華だ!
そういうわけでわたしはますます熱望の度を高めながら事物の深淵に目をそそいだ。わたしは風が樹木の梢で幾色もの音を響かせるのを聞き、小川が峡谷をざわめき流れる音や、大きな川が静かに平地を流れてゆく音を聞いた。そして、わたしには、これらの音響が神の言語であるということ、このおぼろげな、根源的な美しさを持つ言語を理解するのはパラダイスをふたたび見いだすことになるということがわかった。書物にはこういうことはほとんど書いてない、ただ聖書にだけ、生きとし生けるものの「名状しがたい呻吟」という驚くべきことばがある。しかしながらわたしは、あらゆる時代に人びとは、わたしと同じようにこの理解されないものに心をとらえられ、毎日の仕事を捨てて、静寂の地をおとずれ、創造の歌に耳をすまし、雲のうつろいをながめ、絶え間のないあこがれにかられながら永遠なる者のほうへ崇拝の腕をさしのべたこと、隠遁者《いんとんしゃ》、懺悔《ざんげ》者、聖者がそういう人びとであることをおぼろげに感じた。
きみはまだピサのカンポサント〔ピサにある墓所〕に行ったことがないのだろうか? そこの四壁に、過ぎ去った世紀の、色のうすれた絵が飾ってあって、それらの絵の一つに、テーベの砂漠の隠遁者たちの生活を描いたものがある。その素朴な絵は、こんにちでも、うすれた色彩ながらに、いかにも天上の幸福にあずかったような平和の魅力を感じさせるので、きみは突然の悲しみをおぼえ、どこか世間から離れた神聖な場所で泣いてきみのいくつもの罪や不純さをきみの身から払い去り、二度と世間へ戻らない、ようにしたくてたまらなくなる。そのように、これまで無数の芸術家たちが、自分の郷愁を天上の幸福にあずかった絵のなかで言いあらわそうと試みてきたのであって、ルートヴィヒ・リヒターの、子どもを描いたどれか小さな、好ましい絵は、ピサのフレスコ画と同じ歌を歌っているのである。現在的肉体的なものを好むティツィアーノは、彼の明るい具象的な絵に、なぜ、ときどき、あの非常に甘美な遠方の青色を持つ背景を添えているのだろうか? それは一|刷毛《はけ》の、濃青色の、暖かい感じの色にすぎない、そして、その一刷毛が遠い山脈のつもりなのか、それとも無限の空間を意味するものなのか、見分けはつかない。リアリストだったティツィアーノは自分でもそのことを知らなかった。彼は、美術史家が主張するように、色彩の調和という理由からそうしたのではない。
それは、陽気な幸福なティツィアーノの魂のなかにも隠れて生きていた静めることのできないものに対するティツィアーノの貢物《みつぎもの》だったのだ。わたしの見るところ、芸術はどの時代にあっても、われわれの内部に宿っている神的なものの無言の要求に物を言わせてやろうと努力していたように思われるのだった。
そのことを、聖フランシスはもっと熟した、もっと美しい、しかしはるかに無邪気な言い方で言っていた。彼のことをわたしは当時はじめて完全に理解したのである。彼は、大地のすべて、植物、星々、動物、風、水などを神に対する自分の愛に含めながら、中世やダンテさえも追い越して、時間を超越した人間的なものの言語を見いだした。彼は自然のあらゆる力や現象を自分の愛する兄弟姉妹と呼んでいる。晩年に医者たちから額を灼熱《しゃくねつ》した鉄で焼かせなけれはならないという宣告をくだされたとき、彼は、はげしい苦痛に責めさいなまれる重病人の不安のただなかにいながら、この恐ろしい鉄のなかにいる「自分の愛する兄弟火」を歓迎したのだった。
こうしてわたしは自然を親しく個人的に愛しはじめ、自然をいわば外国語を話す仲間で旅の道連れと見立てて、自然の語ることばに耳をすましはじめたが、そのためにわたしの憂鬱は治癒されはしなかったものの、浄化され純化された。わたしの耳や目は鋭くなり、わたしは細かな色合いや区別を理解するようになった、そして、あらゆる生命の心臓の鼓動をますます近くから、ますますはっきり聞くようになりたいものだ、そして、おそらくはいつかその鼓動を理解したいものだ、そして、おそらくはいつかそれを詩人のことばで表現して、他の人びとにもそれに近づき、理解を深めながらあらゆる元気回復や純化や無邪気さの源泉をおとずれるようにならせる才能を持つようになりたいものだとあこがれたのだった。さしあたり、それは願望であり、夢であった――この願望、この夢がいつかかなえられるものかどうか、わたしにはわからなかった、そして、わたしは、最も身近なものを頼りにしながら、目に見えるいっさいのものに愛をささげて、どんなものにしろ、どうでもいいものだとか軽蔑すべきものだとかいうようには思わない習慣を身につけた。
このことがわたしの暗くされた生活に働きかけて、どのように更新し慰めてくれたか、わたしには言えない! この世の中には無言の、不断の、冷静な愛にもまして高貴なもの、幸福にするものは何もない。そして、わたしがいちばん心から願うことは、わたしの文章を読む人びとの数人に、あるいは二人ないし一人だけにでも、わたしのうながしによって、この純粋な至福な術を学びはじめてもらいたいということである。
多くの人びとは生まれながらにこの術《すべ》を持っていて、一生のあいだ無意識のうちにこの術をおこなう、そういう人びとは神のお気に入りで、人間のなかの善人や子どもたちである。多くの人びとは、重い苦悩のなかで、この術を学びおぼえてしまう――諸君は、かたわ者や悲惨な人びとのなかに、優越した、もの静かな、輝く目をした人びとを見たことはないか? もし諸君がわたしの言う貧弱なことばを聞きたくないのなら、諸君はそういう人びとのところへ行きたまえ。彼らは無欲の愛によって苦悩に打ち勝ち、それを明るいものにした人びとなのだ。
そういう完成の境地をわたしは多くの気の毒な受難者たちに認めて、それを尊敬してきたが、わたし自身はこんにちでもまだそういう完成の境地から情けないほど遠いところにいる。しかしこの数年を通じてわたしは、完成の境地に達する正しい道を知っているのだという、慰めになるこの信念をめったになくしたことはなかった。
わたしはまた、自分がこの正しい道をいつも歩いてきたというふうにも言うわけにいかない、むしろ、わたしは途中にあるあらゆるベンチに腰をかけていたし、多くの悪い回り道もした。利己的な力強い二つの性癖がわたしの内部でこの真の愛と戦っていた。つまり、わたしは酒飲みで、交際ぎらいだったのだ。わたしは自分の飲むブドウ酒の量を相当に減らしはしたものの、二、三週間ごとにはお世辞を言う神に説き伏せられて、その神の腕の中に身を投ずるのだった。わたしがたとえば路上に寝ころがっているとか、その他似たような夜の酔態を演ずることは、たしかにほとんど起こったためしがなかった。というのも、ブドウ酒はわたしを愛して誘惑しはしたものの、ブドウ酒の精霊とわたし自身の精神とが親しく語り合うところまでにすぎなかったからである。
とにかくわたしは長いあいだ、酒を飲んだあとではいつも、良心のやましい思いにつきまとわれた。しかしけっきょくのところわたしは、ブドウ酒に対する自分の愛をなくすることはどうしてもできなかった。ブドウ酒に対してこそは、わたしはそれを愛する強い性癖を父から遺伝的にゆずり受けていたのである。何年間となくわたしはこの遺伝を慎重に敬虔《けいけん》に養い育てて、徹底的に自分のものにしたのだった。そこでわたしは自衛策を講じて、本能と良心とのあいだに、半ばまじめな、半ば冗談の契約を結んだ。わたしはアシジの聖者をたたえる賛歌のなかへ、「わたしの愛する兄弟、ブドウ酒」をもいっしょに取り入れたのだった。
[#改ページ]
第六章
わたしのもう一つの悪癖は、もっと始末の悪いものだった。わたしは人間に対してあまり喜びを持たずに、隠遁者《いんとんしゃ》として暮らし、人間に関する事柄に対しては、いつも嘲笑や軽蔑を持ち合わせていた。
わたしは、新しい生活を始めた当初は、まだこの悪癖のことは全然考えなかった。わたしは、人間は人間どうしにまかせておいて、わたしの愛情や献身や同情をひたすら自然の無言の生命にささげるのが正しいことだと思っていた。それにまた自然も最初のうちはわたしの心をすっかり満たしてくれたのである。
夜、寝ようとするときに、わたしは突然、長らくたずねてみなかった丘だの、森のふちだの、一本立ちの好きな木だちのことを思い浮かべる。あの木はいま夜中に風に吹かれて立っている、夢を見ている、あるいはまどろんでいる、うめいて枝を動かしている。どんな様子をしているだろうか? わたしは家を出て、その木をおとずれ、闇の中にその木がおぼろげな姿で立っているのを見て驚きと愛情とのまじった気持ちでその木をながめ、心の中にその木のぼんやりとした姿を写し取って、それを持ち去る。
諸君はこんなことは笑うだろう。おそらくこの愛は迷った愛だったかもしれないが、愛の浪費ではなかった。しかし、こんな状態からわたしはどんなふうにして人間愛へ導く道を見いだせばよかったろう?
ところで、何か端緒ができると、そのあとからいつも最善のことがおのずと続いてくるものである。自分の偉大な文学作品という考えがわたしの念頭にますます身近な、可能な姿を取りながら浮かんできた。もしもわたしが自分の好みに導かれていって、いつか詩人として森や川のことばを語れるようになったら、それはいったいだれのためになされるのだろうか? わたしの気に入りのものたちのためだけではなくて、何よりもまず、わたしが愛の指導者になり教師になってやりたいと思う人間たちのためにである。ところが、この人間たちに対してわたしはぶあいそうで、嘲笑的で、愛情がなかった。わたしは分裂を感じ、ぶあいそうなよそよそしさを克服して人間たちにも兄弟のような親密さを見せなければならないという強制を感じた。
そして、人間たちに親しさを見せるのは困難なことだった、というのも、孤独と運命とによってわたしは、まさにこの点においてこそ冷酷になり、意地悪になっていたからである。わたしは家でもビヤホールでも、あまりぶあいそうな態度を取らないように努力したし、途中で行き会う人にはあいそうよくうなずきかけたが、それでは十分でなかった。とにかくわたしはすでにここでも、自分が人間たちとの関係を徹底的にぶちこわしていたことに気がついた。というのも、わたしがあいそうよくしようと試みると、人びとはそれに対して信用しない冷淡な態度を見せるか、あるいはそれを嘲弄《ちょうろう》と取ったからである。いちはん始末の悪かったことは、わたしがあの学者の家、わたしの知っている唯一の家をほとんど一年間も避けていたことだった。そして、わたしは、自分が何よりもまずあの家をまた訪問して、この地の社交の仕方にはいってゆく何らかの道を捜さなけれはならないことを理解した。
ところで、この場合に、わたし自身の嘲笑された人間的な弱さがわたしを大いに助けてくれた。あの家のことをまた考えてみると、すぐさまわたしは心のなかにエリーザべトの姿、セガンティーニの雲のまえに立っていたときの美しい姿を思い浮かべた。そして、突然わたしは彼女がわたしのあこがれや憂鬱に非常にかかわりがあったことに気がついた。そしてわたしは初めて真剣に女性に求婚することを考えることになった。それまでのわたしは、自分には結婚する資格など全然ありはしないと確信しきっていたのである。
わたしは詩人で、放浪者で、酒飲みで、一匹狼なのだ! と思っていたのである。このときのわたしは、自分の運命が恋愛結婚の可能性という形でわたしと人間の世界とのあいだに橋をかけてくれようとしているのがわかると思った。いっさいが非常に誘惑的で確実に見えた! エリーザべトがわたしに関心を持っていることも、また、彼女が敏感な高貴な人柄であることも、わたしは感じもしたし見てもいた。わたしは、サン・クレメンテについておしゃべりをしたときや、またセガンティーニの絵のまえで彼女の美しさが生き生きと現われてきたことを考えた。わたしはというと、何年もかかって、芸術や自然から会得《えとく》したものを心の中に豊かに集めていた。
彼女はわたしから、いたるところに眠っている美を見ることを学ぶだろう、そして、わたしは彼女の周囲を多くの美と真とで取りかこんでやるだろう、そうすれば、彼女の顔や魂はいっさいの濁りを忘れて、彼女の持っているいろいろな能力が開花するように発展することができるだろう。妙なことに、わたしは自分の突然の変化の滑稽さをまったく感じなかった。孤独な恋人であるわたしが、一夜にして、結婚の幸福や自分の世帯の設備を夢みる、恋におちいったにやけ者になっていたのだった。
そこでわたしは大急ぎであの客あしらいのよい家をおとずれ、あいそうのよい非難を浴びながら迎え入れてもらった。わたしは幾度かその家へ出かけたが、二、三度訪問したのちにそこでエリーザべトに再会した。ああ、彼女は楽しかった! 彼女はわたしが自分の恋人として思い描いたとおりに、つまり、美しくて幸福そうに見えた。そしてわたしは一時間ばかり、目のまえにいる彼女の快活な美しさを楽しんだ。彼女はわたしにあいそうよく、それどころか、心から、友だちのような親しみをこめて挨拶した。彼女の親しげな態度がわたしを幸福にしてくれた。
諸君は、湖にボートを浮かべた晩のこと、赤い提灯《ちょうちん》がつるされ、音楽がかなでられ、わたしの恋の告白が芽生えのうちに息の根をとめられた晩のことを、まだ覚えているだろうか? あれは恋におちいった少年の悲しくておかしな話だった。
もっとおかしくて――もっと悲しいのは、恋におちいったペーター・カーメンツィントという男の話である。
わたしは、ついでながらに、エリーザべトが最近婚約したということを知った。わたしは彼女におめでとうと言い、彼女を迎えにきた婚約者と知り合いになって、彼にもおめでとうと言った。その晩のあいだじゅう、わたしの顔には好意をこめた後援者の微笑が浮かんでいたが、わたし自身にとっては、それは仮面のようにわずらわしいものだった。そのあとでわたしは森の中へもゆかず、ビヤホールにもはいらずに、自分のベッドに腰をかけたまま、ランプを見やっていたが、しまいにはランプがいやな臭いを出して消えたから、わたしは驚いて、びっくりして、とうとう自分の意識を回復した。するともう一度、苦痛と絶望とがその黒い翼をひろげて、わたしをおおったから、わたしは小さくなり、気弱になり、ぺしゃんこになって、横になったまま少年のようにすすり泣いた。
それからわたしはリュックサックを荷作りして、朝になると停車場へゆき、わが家へ向かって旅立った。わたしは、またゼンアルプシュトックによじ登ってみょう、自分の幼いころのことを考えてみよう、父がまだ生きているかどうか確かめてみようと、矢も楯《たて》もたまらなくなったのだった。
父とわたしとはたがいに縁遠くなっていた。父はすっかりしらがになり、すこし腰が曲がり、すこし見すぼらしくなったように見えた。彼はわたしをおだやかに遠慮しながら扱って、何も尋ねず、彼のベッドをわたしにゆずろうとし、わたしの訪れを見て驚いたというよりは当惑しているように見えた。彼は自分の小さな家をまだ所有していたが、牧場や家畜は売りはらってしまい、ささやかな利子を受け取り、あちこちでいくらか軽い労働をしていた。
彼がわたしをひとりきりにしたとき、わたしは、前に母のベッドがすえてあった場所に歩みよった、すると、過ぎ去ったことが広い静かな河のように、わたしのそばを流れていった。わたしはもはや青年ではなかった、そして、歳月はすみやかに移ってゆくだろう、やがてはわたしも腰の曲がったしらがのじいさんになって、つらい死の床につくことだろうと考えた。わたしが幼いころにいて、ラテン語を学んだ、そして、母の死を見たころからほとんど変わっていない、貧相な、古い部屋の中でそういうことを考えると、それらの考えには心を安らかにしてくれる自然さがあつた。わたしは感謝しながら自分の幼いころのあらゆる豊かさを思い起こしたが、そのとき、フィレンツェでおぼえたロレンツォ・メディチの詩句が心に浮かんだ。
[#ここから1字下げ]
あな美《うるわ》しの青春よ、
されどそは、はかなく消えゆく。
楽しきを願わん者は、今こそ楽しめ、
あすの日は、定かならねば。
[#ここで字下げ終わり]
それと同時にわたしは、イタリアの回想と歴史の回想と精神の広大な国の回想とを故郷のこの古い部屋へ持ち込んだことにびっくりした。
それからわたしは父にいくらか金をやった。晩にはわたしたちはビヤホールへ行った。そこではすべてが当時のままで、違うところは、ただ、こんどはわたしがブドウ酒代を払い、父は星ブドウ酒やシャンパンの話をするときに、わたしを証人として引き合いに出し、こんどはわたしのほうが老父よりも多く飲めるということだけだった。わたしは、当時わたしがはげ頭にブドウ酒を注ぎかけてやったあの小さな老百姓のことを尋ねた。彼はとんち家で策略の天才だったが、もうとっくに死んで、彼の冗談は忘れられかけていた。わたしはヴァートラント・ブドウ酒を飲み、人びとの会話に耳をかたむけ、自分でもすこし話をした。そして、父といっしょに月光を浴びながら家へ帰る途中で父が酔っぱらって話をつづけ、身ぶりを添えたので、わたしは、それまでにはなかったほど奇妙に魅惑されたような気持ちがした。わたしは絶えずコンラート伯父《おじ》や、レージー・ギルタナーや、母や、リヒァルトや、アリエッティなど、それまでの時期のおもかげに取り巻かれていた。そして、わたしはそれらのおもかげを美しい絵本でも見るようにして見ていたが、美しい絵本を見るときには、わたしたちは、あらゆる事物が現実の中ではその半分も貴重ではないのに、絵本の中ではいかにも美しく好ましい状態に見えるのを不思議に思うものである。それらのすべてはわたしのそばをざわめきながら通り過ぎていって、過ぎ去ったものになり、ほとんど忘れられていたのだったが、それなのにこのときはわたしの心の中にはっきりと清らかに描かれて立っていたのである、つまり、わたしの半生が、わたしの意志とは無関係に記憶の中に保たれていたのだった。
家へ帰って、父が夜ふけに口をつぐんで眠りこんだとき、わたしはまたエリーザべトのことを考えた。彼女がわたしに挨拶して、わたしが彼女を賛美し、彼女の婚約者に祝詞を述べたのは、ついきのうのことだったのだ。わたしにはそれから長い時が過ぎ去っているように思われた。しかし苦痛がよみがえって、かき立てられたかずかずの思い出の波とまざり合い、南風《フェーン》ががたがたになってふるえている牧場の小屋をゆすぶるように、わたしの利己的な、世話のゆきとどかない心をゆすぶった。わたしは家のなかにいたたまれなくなった。わたしは低い窓から外へおりて、小さな菜園を抜けて湖のそばへ行き、うっちゃらかしてあった小舟をもやいから解きはなして、そっと漕ぎながら青白い夜の湖へ乗り出した。
もちろん、湖の周囲の、銀色のもやにつつまれた山々は沈黙していた。満月に近い月が青みがかった夜空にかかっていて、シュヴァルツェンシュトックの山頂がいまにもその月に届きそうだった。あたりがいかにも静かだったから、わたしは遠くのゼンアルプシュトックの滝のかすかなとどろきを聞くことができた。故郷の精霊たちとわたしの幼少時代の精霊たちとが青白い翼でわたしに舳れて、わたしの小舟を満たし、嘆願でもするように両手を差し出して、せつなそうな不可解な身ぶりをしてみせるのだった。
いったい、わたしの人生にはなんの意味があったのだろう、そして、なぜ、こうも多くの喜びや苦痛がわたしのなかを通り過ぎていったのだろう? いまでもまだ渇望する人間であるわたしは、これまでなぜ真や美を渇望してきたのだろう? なぜわたしは反抗して涙を流しながら、あの望ましい婦人たちのために愛や苦痛に耐えてきたのだろう――そのわたしは、いままた、悲しい恋のために頭をたれているではないか? 理解しがたい神は、わたしに孤独であまり愛されない人間の生活をさせることに決めておきながら、なぜ、わたしの心に愛に対する燃えるような郷愁の念を植えつけておいたのか?
水は舳《へさき》にうつろな音を立てて、オールから銀色のしずくをしたたらせ、山々はまわりに近々と立って、沈黙し、峡谷の霧の上をひややかな月の光がうつろってゆく。そしてわたしの幼少時代の精霊たちがわたしのまわりに黙々と立って、深い目の底からわたしを見つめながら無言の問いをかける。わたしは、精霊たちのなかにあの美しいエリーザべトの姿も見えるような気がして、もしわたしが適当な時に現われていたなら、彼女はわたしを愛してわたしのものになっていただろうにと思った。
わたしはまた、自分はそっと青白い湖のなかへ沈むのがいちはんいいので、わたしのことなど気にかける者はないだろう、という気がした。それにもかかわらず、粗末な古ぼけた小舟に水がもってくるのに気がついたとき、わたしは漕ぎ方を早めた。わたしは突然寒けがした、わたしは急いで家へ帰り、急いでベッドにはいることにした。
家へもどったわたしは疲れたからだを横にして、眠らずに、自分の人生について思いをめぐらし、もっと幸福な真実な生き方をして、存在の核心にもっと近づくために自分が持たなけれはならないもの、自分に必要なものを見いだそうと努めた。なるほどわたしは、いっさいの好意や喜びの核心は愛で、エリーザべトゆえのまだなまなましい苦痛にもかかわらず人間を本気で愛しはじめなければならないということは知っていた。しかし、どんなふうにして? そして、だれを愛するのか?
そのときわたしの年老いた父のことが心に浮かんだ、そして、わたしは初めて、自分がいままで父を当然な仕方で愛していなかったことに気がついた。少年のときにわたしは父にさんざんつらい思いをさせた、それからわたしは家を離れた、そして、母の死後も父をひとりぼっちにしておいて、しばしば父のことで腹を立て、ついには父をほとんどまったく忘れていた。わたしは、父が死の床に横たわり、わたしがそのかたわらにひとりぼっちの孤児になってたたずみ、わたしにとってはいつも縁遠いもので、その愛を得ようと努力したことなどなかった父の魂が抜け出てゆくところを見ている光景を思い描かずにはいられなかった。
そういうわけでわたしは、あのむずかしくて楽しい術《すべ》を、美しくてすばらしい恋人について学ぶかわりに、年老いた無作法な酒飲みについて学びはじめた。わたしは父に乱暴な返事をしないようにして、できるだけ彼の相手になり、暦物語を読んで聞かせたり、フランスやイタリアで産して飲まれるいろいろなブドウ酒の話をしてやったりした。父のわずかな労働をわたしは父から取りあげるわけにはいかなかった。そういうことでもないと父がすっかりだらけてしまうからである。また、わたしは父に、晩酌を居酒屋で飲まないで、家でわたしといっしょに飲む習慣をつけさせようとしたが、うまくいかなかった。
二晩か三晩わたしたちは晩酌を家で飲むことを試みた。わたしはブドウ酒や葉巻きを買ってきて、老父の退屈をまぎらしてやろうと骨折った。四日目か五日目の晩に父は何も言わずに反抗的な態度を取っていたが、わたしがどこか悪いのかと尋ねたとき、とうとう彼は不平そうに、「おれは、お前が父親を二度とビヤホールヘやらないつもりでいるんだと思う」と言った。
「そんなことはありませんよ」とわたしは言った、「あなたは父で、わたしは息子ですから、どうやったらいいか、それを決めるのはあなたですよ」
彼は目を細くしてわたしを吟味するように見ていたが、やがて満足そうに縁なし帽を手に取った、そして、わたしたちは二人でビヤホールヘ出かけた。
父はそのことを何も言いはしなかったが、わたしといっしょの生活が長びくのをいやがっている様子がはっきりと見て取れた。わたしのほうでもしきりに、どこか外国へ行って自分の分裂した状態が落ちつくのを待ちたいという気がした。
「近いうちにまた旅立ちたいのですが、どうお考えでしょう!」とわたしは老父に尋ねた。彼は頭をかいて、細くなった肩をすくめ、ずるそうな期待の微笑をもらしながら、「いつでも、お前のいいように!」と言った。
旅立つまえに、わたしは二、三の隣人や修道僧たちをたずねて、父に気をつけていてもらいたいと頼んだ。また、わたしはもう一日晴れた日を利用して、ゼンアルプシュトックに登った。そこの半円形の広い山頂から、わたしは山々や緑の谷、きらきらと光る流れ、はるかな都市のもやなどを見わたした。そういうすべてのものは、まだ少年だったわたしの心をはげしい熱望で満たしたのだった。わたしは美しい広い世界を征服するために故郷から出ていったのだった、そして、いままた、その世界はあい変わらず美しくよそよそしく、わたしの目のまえにひろがっていた、そして、わたしは、あらためて出かけていって、もう一度幸福の国を捜すつもりになっていた。
自分の研究のために、わたしは前々から、一度かなり長い期間にわたってアシジへ行くことに決めていた。そこでわたしはまずバーゼルへ戻って、ぜひとも必要なことの手回しをし、自分の二、三の持ち物を荷作りして、自分よりも先にそれをペルージアヘ送ってやった。わたし自身はフィレンツェまで汽車に乗っていって、そこからゆっくり、のんびり、南をさして徒歩の旅をつづけた。そのあたりでは、民衆と仲よく付き合うのに、なんの技巧も心得ている必要はない。ここの人びとの生活はいつも表面だけにとどまっていて、非常に単純で、自由で、素朴だから、小さな町から町へと渡り歩いてゆきながら、たくさんの人びとと無邪気に親しく付き合えるのである。わたしはふたたび故郷にいるような安全な気持ちがして、あとでバーゼルへ戻ってからも、人間らしい生活の暖かな親密さを、上流社会にではなくて、単純な民衆のあいだに求めることにしようと決心した。
ペルージアやアシジで、わたしの歴史研究はふたたび興味をそそられ、活気づいた。そこでは日常の生活もまた楽しいものだったから、傷ついていたわたしの性向も間もなく回復しはじめ、人生への新たな仮橋をかけはじめた。アシジでわたしが部屋を借りた家の主婦は、話し好きで信心深い青物商だったが、聖フランシスについての若干の会話に基づいて、わたしと心からの友情を結び、わたしが厳格なカトリック教徒であるという評判を立ててくれた。
この名誉は、わたしに対してはいかにも不当なものだったが、しかし、人びとといっそう親密に付き合えるという利益をもたらしてくれた。というのも、そのおかげでわたしは、ふつうならすべての外国人にかけられる異教徒の嫌疑をまぬがれたからである。
この婦人はアヌンツィアータ・ナルディーニといって、三十四歳の寡婦《かふ》だったが、巨大なヴォリュームのからだつきで、礼儀作法を非常に良く心得ていた。日曜日になると、彼女は花模様のついた、楽しげな色どりの服を着て、休日の化身のように見えるのだったが、そのときの彼女は耳輪のほかに金の鎖を胸につるし、その鎖には金箔《きんぱく》をかぶせたいくつものメダルがついていて、音を立てたり光ったりした。またそのときの彼女は、銀金具つきの重い日読祈祷書と、銀鎖のついた黒白二色の美しいじゅずとを、まるで引きずるようにして持ちまわっていたが、その祈祷書を使うのは彼女にとっておそらくむずかしいことだったろうが、それだけに、じゅずのほうはなかなか器用に扱うことができた。それから教会まいりのあいだには彼女は歩廊に腰をおろして、驚嘆している近所の婦人たちに、その場にいない女友だちたちの罪を数えあげて聞かせるのだったが、そのときの彼女の、まるい、信心深そうな顔には、神と和解している魂の感動的な表情が浮かんでいた。
人びとがわたしの名をうまく発音できなかったので、わたしは単にピエトロさんということになっていた。金色に輝くとでもいうような美しい晩には、わたしたちは、近所の人たちや子どもたちや猫どももいっしょになって、小さな仕切り部屋か、あるいは店の、果物や野菜籠や種子箱やつるした燻製《くんせい》のソーセージなどのあいだに腰をかけて、おたがいの体験を語り合い、収穫の見込みを論じ合い、葉巻きをくゆらしたり、あるいはめいめいがメロンの一切れをすすったりした。わたしは聖フランシスのことや、ポルティウンクラ〔アシジの礼拝堂〕や聖フランシス教会の話や、聖クラーラや最初の修道僧たちのことを話した。みんなはまじめに耳をかたむけて、こまごまとした質問をいくつも持ち出し、聖フランシスをほめたたえるのだったが、それから近頃のセンセーショナルな事件の話や討論に移る。そういう事件のなかでは盗賊の事件と政治的な不和の事件とがとくに人気があった。わたしたちのあいだでは猫どもや子どもたちや小犬どもが遊んだり、けんかをしたりしていた。自分でもおもしろかったし、また、自分の良い評判を維持するために、わたしは教化的な感動的な話を求めて聖徒物語をくまなく捜しまわり、少数のほかの本といっしょにアルノルドの『族長やその他の敬虔《けいけん》な人びとの生涯』を持ってきていたことを喜び、この本に盛られた誠実な逸話をすこし変えながら日常のイタリア語に翻訳して話した。
通りすがりの人びとがしばらく立ちどまって、耳をかたむけ、雑談の仲間入りをした。そんなふうにして、集まりの顔ぶれは一晩のあいだに三度も四度も変わったが、ナルディーニ夫人とわたしとだけはいつもその場にいて、欠けることはなかった。わたしはフィアスコー〔胴をわらでつつんだ徳利〕入りの愛用の赤ブドウ酒をそばに立てておいて、飲む量の多いことで控え目な暮らし方をしている貧しい人びとに感嘆の念を起こさせた。近隣の内気な娘たちもしだいになれなれしくなってきて、閾《しきい》に立ったまま談話に参加し、絵はがきなどを贈り物に受け取り、わたしが聖人だということを信じはじめた。というのも、わたしはあつかましい冗談など言わなかったし、また、彼女たちを打ち解けさせようとして努力するようにも見えなかったからである。
彼女たちのなかに二、三人、目の大きい、幻想にふけっているような美人がいて、ペルジーノの絵の系統を引いているように思われた。わたしは彼女たちがみんな好きで、気だてがよくていたずら好きな彼女たちがいてくれることをうれしく思ったが、しかし、そのなかの一人に惚《ほ》れるということはけっしてなかった。というのも、彼女たちのなかの美人はおたがいに非常によく似ていたから、彼女たちの美しさがわたしにはいつもただ種族の美しさに見えて、けっして個人的な長所とは思われなかったからである。
マッテーオ・スピネリという若者もよくやってきたが、彼はパン屋の親方の息子で、すれっからしのおどけたやつだった。彼はたくさんの動物のまねをすることができ、スキャンダルというスキャンダルに精通し、あつかましくてずるいたくらみがはち切れるほどいっぱいつまっていた。わたしが聖徒の物語をすると、彼はいつもくらべもののないような一種の敬虔《けいけん》な謙遜な態度で耳をかたむけていたが、しかし、そのあとで、無邪気な様子で持ち出す意地の悪い質問や比較や推測などで聖なる神父たちをからかったから、ナルディーニ夫人はびっくり仰天するし、たいていの聞き手たちはあけすけに、夢中になって喜ぶのだった。
わたしはまたしばしば一人だけでナルディーニ夫人のそばにすわって、彼女の教化的な話を傾聴し、彼女のおびただしい人間的な弱点に世俗的な喜びを感じた。彼女は隣人たちの欠点や悪習はいっさい見のがさずに、あらかじめ綿密に査定しながら隣人たちが煉獄《れんごく》において占める席を指定するのだった。しかし、わたしのことは彼女は心から好いてくれて、どんなに些細《ささい》な体験や観察でもあからさまに、くわしく打ち明けてくれた。彼女はわたしがちょつとした買い物をしてもいちいち、代金をいくら払ったかと尋ねて、わたしがだまされないように監視してくれた。彼女はわたしに聖者たちの人生行路を物語らせて、そのかわりに、果物の売買や野菜の取引や料理などの秘密を知らせてくれた。
ある晩わたしたちは、ぐらぐらゆれるような広間にすわっていた。わたしはスイスの歌を歌い、ヨーデルを歌って、子どもたちや娘たちを熱狂させた。彼らはおもしろがって身をよじったり、外国語の響きをまねたりして、ヨーデルを歌うときにわたしの喉頭《こうとう》がいかにも滑稽にあがったりさがったりしたといって、そのありさまを見せてくれた。そのときだれかが恋愛の話をしはじめた。娘たちはくすくす笑い、ナルディーニ夫人は白目をむき出してセンチメンタルなため息をもらし、ついにはわたしが、自分の恋愛の話をするようにとせがまれた。
わたしはエリーザべトのことは言わずにおいて、アリエッティといっしょにボートに乗ったことや、わたしの恋の告白が失敗に終わったことを物語った。リヒァルトのほかにはそれまでだれにも一言ももらしたことのなかったこの話を、そのとき、南国ふうに狭い石だたみの路地や、赤みがかった金色の夕ベがにおうようにおおっている丘のつらなりを見ながら、物好きなウンブリアの人びとに話して聞かせるのは、妙な気持ちのすることだった。わたしはあまり考えまわさずに、古い短編小説《ノヴェレ》の流儀で物語ったが、それでも心にはかけていたので、聞いている人びとが笑ってわたしをからかうのではないかと、ひそかに心配していた。
しかし、わたしが語り終えたとき、みんなの目は思いやりを見せながら悲しそうにじっとわたしにそそがれていた。
「こんなに美しいかたなのに――」と娘たちの一人がはげしく叫んだ。「こんなに美しいかたなのに、失恋なさるなんて!」
ナルディーニ夫人はというと、やわらかな、まるまるとした手でそっとわたしの髪をなでながら「おかわいそうに――」と言った。
もう一人の娘はわたしに大きな梨の実を一つくれた。そして、わたしが彼女に、最初のひとかじりをしてもらいたいと頼むと、彼女はそうしながらまじめな顔でわたしを見つめた。しかし、わたしがほかの人びとにもかじらせようとすると、彼女はそれを許さなかった。「いけません、ご自分でおあがりなさい! あなたがわたしたちにご自分の不幸な話をしてくださったから、わたしはそれをあなたにさしあげたのです」
「しかしあなたは、こんどはきっと別のひとを愛するだろうと思います」と、日焼けしたブドウ作りの男が言った。
「そうはなりません」とわたしは言った。
「ああ、あなたはいまでもこの不良のエルミニアを愛しているのですか?」
「わたしはいま聖フランシスを愛しています、そして、聖フランシスはわたしに、すべての人間を愛するように、あなたたちやペルージアの人たちや、また、ここにいるすべての子どもたちや、さらにはエルミニアの恋人までも愛するようにと教えてくれました」
この牧歌的な生活に一種の混乱や危険がおとずれたのは、善良なナルディーニ夫人が、わたしにこの地にとどまって彼女と結婚してもらいたいというあこがれの願望に心をはずませているということをわたしが発見したときだった。このささやかな事件はわたしを狡猾《こうかつ》な外交家に仕立てた。というのも、この夢を破りながら、これまでの調和はそこなわずにおき、なごやかな友情も失わずにおくというのは、けっして容易なことではなかったからである。それにまたわたしは帰旅を考えなければならなかった。自分にいずれ文学作品を書くという夢がなく、また、懐《ふところ》がひどくさびしくなっているのでなかったなら、わたしはそこにとどまっていたことだろう。また、懐がさびしいからこそ、ナルディーニと結婚していたかもしれない。しかし、わたしを支えてくれたものは、エリーザべトゆえのまだ癒合していない傷の痛みと、彼女に再会したいという熱望とであった。
まるまるとした寡婦《かふ》は、予期に反して、どうにかこうにか、やむをえぬ運命に従い、わたしに失望の仕返しをするなどということはしなかった。旅立つことになったとき、別れのつらさは彼女よりもわたしのほうがはるかに大きかったかもしれない。わたしは、それまで故郷を去るときに見捨てたものよりもはるかに多くのものを見捨てたし、旅立つときにこのときほど心をこめて、こうも多くの愛する人びとから握手してもらったことはなかった。人びとは果物や、ブドウ酒や、甘いブランデーや、パンやソーセージをわたしの車室へ持ちこんでくれた。そして、わたしは、わたしが去ろうととどまろうとどうでもいいとは思っていない友人たちに別れるという、異常な感じを持った。アヌンツィアータ・ナルディーニ夫人は別れしなにわたしの両頬にキスをして、目には涙を浮かべていた。
それより以前にはわたしは、自分では愛さずにいて愛されるということは、特別な楽しみにちがいないとばかり思っていた。このときわたしは、こちらで愛し返すことのできないこういう差し出される愛の耐えがたさというものを知ったのだった。それでいながらわたしは、外国の女から愛されて、その夫にと望まれたことをいささか得意に思った。
このささやかなうぬぼれがすでに、わたしにとってはいくらかの回復を意味していた。わたしは、ナルディーニ夫人のことは気の毒に思ったが、しかし、彼女とのことが起こらなければよかったのにとは思わなかった。またわたしはだんだんと、幸福というものは外面的な願望の実現とはあまり関係のないもので、恋におちいった青年の悩みは、どんなに耐えがたいものであるにしろ、悲劇的なところは何も持たないものだということをますますよく理解するようになった。エリーザべトを自分のものにすることができなかったのは、わたしにはつらいことだった。しかし、わたしの生活、わたしの自由、仕事、考え方はそのためにすこしもそこなわれはしなかった、そして、わたしは彼女を遠くから、前と同じように、自分の好きなだけ愛することができたのだった。こういう考え方や、また、それにもましてウンブリアに滞在した数か月間のわたしの生活の素朴なほがらかさが、わたしにとっては非常に有益なものだったのである。もともとわたしは、おかしなおどけたことならどんなことにでも目がきいていたのだが、ただ、その楽しみを自分で、皮肉によって台なしにしていた。ところが、わたしはだんだんと、人生のユーモアというものがわかるようになってきた、そして、自分の運命と和解してこのさき人生の食卓からごちそうを一口か二口自分の口に入れることも、ますます、可能なことでもあるし容易なことでもあると思われるようになってきた。
もちろん、イタリアから帰郷すると、いつもこんなぐあいになる。原則だの偏見だのを軽蔑し、おおように微笑を浮かべ、両手をズボンのポケットに突っこんで、自分は抜け目のない世渡りじょうずだと思うのである。しばらくのあいだ南国の快適な、心のこもった民衆生活のなかでいっしょに泳いでいたというわけで、故郷でも同じ調子でつづけていけるにちがいない、と思う。わたしもイタリアから帰ってくるたびにそんなふうだったが、当時は最もそうだった。バーゼルへもどってきて、そこで昔ながらのかたくるしい生活が若返りもしない不変の姿でいるのを見たとき、わたしはいくじなしになって、しかし、むしゃくしゃしながら、自分のほがらかさの高みから一段また一段とおりていった。しかし、獲得したもののいくぶんかは、やはり育っていった、そして、それ以来わたしの乗っている小舟は澄んだ水路を行くにしろ濁った水路を行くにしろ、かならず、すくなくとも小さな多彩な三角形の旗を、あつかましく、しかし、人なつこい感じに、ひらひらさせるようになった。
その他の点でもわたしの意見は徐々に変わってきていた。わたしはそれほど残念とも思わずに、自分が青春の時期を過ぎて、そのつぎの時期へむかって成熟してゆくのを感じた。青春のつぎの時期にはいれば、自分の一生を一つの短い道程と見なすようになり、自分自身を、どんな歩き方をしていて、ついには姿を消しても、世間をおおいに騒がしたり夢中にならせたりするようなことなどない旅人と見なすようになるものである。人生の目標、いつも見る夢を忘れはしないが、けっして自分をなくてはならない人間だなどとは思わずに、途中でしばしば休みを取って、良心のやましさなど感じないで一日分の道程をさぼり、草むらに寝そべって、何かの詩句を口笛で吹き、なんの底意《そこい》も持たずに楽しい現在を喜ぶ。それまでのわたしは、ツァラトゥストラに祈ったことなどありはしなかったが、それでも実際には君主的人間だったのであって、おのれを崇拝してもいたし、つまらない連中を軽蔑してもいたのだった。
このときからわたしはしだいしだいに、君主的人間とそうでない人間とのあいだの確固とした境界などありはしないし、平凡な、しいたげられた、貧しい人びとの社会の生活も、恵まれた華やかな人びとの生活と同じように多種多様であるばかりでなく、たいていの場合もっと情味や真実味があって、もっと模範的であるということが、ますますよくわかるようになっていった。
それはそうと、わたしはちょうどよい時にバーゼルへ帰ってきたので、そのあいだに結婚していたエリーザべトの家での最初の夜会に参加することができた。わたしは旅から帰ったばかりで、日焼けして、満足していたし、たくさんのおもしろい、こまごまとした思い出をたずさえてきていた。美しいエリーザべトは品のよい親密な態度を見せながらわたしを特別扱いにしてくれた、そして、わたしはその晩のあいだずっと、前に時期遅れの求婚という恥さらしをわたしに免じてくれた幸福を享受していた。それというのも、イタリアでの経験があったにもかかわらず、わたしは依然として、女性に対して、女性は自分に惚《ほ》れた男性の絶望的な苦悩を見て残酷な喜びを感ずるのにちがいないという、かすかな不信の念をいだいていたからだった。
こういう不面目な耐えがたい状態の非常にあざやかな例証として役に立ったのは、わたしがあるとき五歳になる少年の口から聞いた幼稚園生活のちょっとした話だった。この少年がかよっていた幼稚園には、つぎのような珍しい象徴的なしきたりが保たれていた。だれか男の子があまりにもひどいいたずらをして、そのためにしりをひっぱたかれることになると、六人の女の子が、反抗するその少年を、しり打ちの体罰のために必要な耐えがたい姿勢にしてベンチの上におさえつけておくようにと命令される。このしっかりおさえつけておく役になることは非常に楽しいことで大きな名誉と見なされていたから、そのときどきに、六人のいちばん行儀のよい少女たち、つまり、そのときそのときの美徳の模範ともいうべき少女たちだけが、この残酷な楽しみにあずかるのだった。子どもの世界のこのおかしな話は、わたしに考える材料を与えたうえに、二、三度わたしの夢のなかへも忍びこんできたから、すくなくとも夢で見た経験として、わたしは、こんな状態におちいった人間の気持ちがどんなにみじめなものかということを知っているのだ。
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第七章
自分の著述に対しては、わたしはあい変わらず自分でなんの敬意も持たなかった。わたしは自分の仕事で生活し、すこしばかり貯蓄をし、ときどき父にもいくらか金を送ることができた。父はその金を喜んでビヤホールへ持っていって、そこでことばを尽くしてわたしをほめちぎったばかりか、わたしにお返しをしようと考えた。というのも、わたしがあるとき父に、自分は新聞に記事を書いて生計を立てている、と言ったことがあったからである。
父はわたしのことを、田舎新聞にいるような編集者か探訪記者だと思って、わたし宛てに三度、父らしい手紙を口述筆記させて、父が重要なものと見て、わたしの材料になり、金にもなるだろうと思いこんだ出来事を、わたしに報告してくれた。一度目は納屋の火事、二度目は二人の山岳旅行者の墜落、三度目は村長選挙の結果だった。これらの報告はすでにグロテスクな調子の新聞記事スタイルで書かれていて、わたしをほんとうに喜ばせてくれた。というのも、それはなんといっても父とわたしとのあいだの親密なつながりのしるしだったし、数年このかたの、故郷からとどいた最初の手紙でもあったからだった。
それらの手紙はまたわたしの著述を故意でなしに嘲弄《ちょうろう》するものにもなって、わたしを元気づけてくれた。というのも、わたしは来る月も来る月も多くの本を批評していたのだが、それらの本の出版は、重要さにおいてもなりゆきにおいても、あの田舎の出来事よりはるかに劣っていたからである。
ちょうどその当時のこと、二冊の本が出版されたが、わたしはその著者たちを、前に常規を逸した文学青年としてチューリヒにいたときに見知っていた。一人は当時べルリンに住んでいて、この大都会のカフェや娼家に取材したきたない話をたくさん書くことができた。もう一人はミュンヘンの近辺に、ぜいたくな隠棲所《いんせいじょ》を建てて、神経衰弱症的な自己観照と心霊論の刺激とのあいだを軽蔑的に絶望的にあっちへよろめき、こっちへよろめきしていた。わたしは彼らの本を批評しなけれはならなかったので、もちろん、悪意なしにどちらをもお笑い草にした。神経衰弱患者からはほんとうに堂々とした文体の、軽蔑いっぱいの手紙がきただけだったが、ベルリンの住人はある雑誌で騒ぎ立てて、自分のまじめな意図が誤解されたものと見なし、ゾラを拠りどころにしながら、わたしの無理解な批評について、わたしのみならず、スイス人一般のうぬぼれた散文的な精神を非難した。この男にとっては、チューリヒにいた当時がおそらく彼の作家生活の唯一の、かなり健全で品位のある時期だったらしかった。
ところで、わたしはけっして特別な愛国者などではなかったのだが、相手のベルリンっ子気取りがいささかひどすぎるように思われたので、不平を言う相手に答える長文の信書を書き、高慢ちきな大都会のモダン派など軽蔑しているということをはっきり言ってやった。
このけんかは愉快なものだったが、わたしはまたこのけんかにすすめられて、もう一度、現代の文化生活についての自分の見解を反省してみた。この仕事は骨の折れる長びくもので、元気づけになるような成果はあまりもたらしてくれなかった。わたしのこの小冊子は、わたしさえ黙っていれば何も失いはしない。
しかし、それと同時にわたしはこれらの考察に強いられて、わたし自身のことやわたしが長らく計画しているライフワークのことを、もっと徹底的に熟考した。
読者もご承知のとおり、わたしはかなり大がかりな作品によって、こんにちの人びとに、自然のおおような、無言の生活を近づけて愛させたいという願望を持っていた。わたしはこんにちの人びとに、大地の心臓の鼓動を聞き、全体の生活に参加し、自分たちのささやかな運命に忙殺《ぼうさつ》されて、わたしたちが神々でもなく、自分で自分を作り出したのでもなくて、大地や宇宙の全体の子どもであり部分であることを忘れないように教えてやりたいと思っていた。わたしは、詩人の歌やわたしたちの夜の夢と同じように、川や、海や、移りゆく雲やあらしも、天と地とのあいだに翼を張りながら、生きとし生けるものの市民権や不死性をなんの疑いもなく確信する境地に到達しようとするあこがれの象徽であり、そういうあこがれの担い手であることを思い出させてやりたいと思っていた。すべての生物の最も内なる核心はこれらの権利を確信していて、神の子であり、不安もなしに永遠のふところにいだかれている。それにひきかえて、わたしたちが内部にいだいているいっさいの悪いもの、病的なもの、不潔なものは否定して、死を信じているのである。
しかし、わたしはまた、自然に対する兄弟のような愛のなかに生活の喜びや流れの源泉を見いだすことを人びとに教えてやりたいと思っていた。わたしは眺める術《すべ》、さすらう術、楽しむ術、現在を喜ぶ気持ちを説き聞かせたいと思っていた。わたしは山や海や緑の島に誘惑的な力強いことばで諸君に語らせたいと思っていた、そして、諸君に強いて、諸君の家や都市の外で、毎日、際限もなく多種多様な、活動的な生のいとなみが花咲き満ちあふれる光景を見せてやりたいと思っていた。わたしは、諸君が外国の戦争や流行や、うわさ話や、文学や、もろもろの芸術のことのほうを、諸君の都市の郊外で奔放《ほんぽう》な活動をくりひろげる春のことや、諸君の橋の下を流れてゆく川のことや、諸君の鉄道が貫き走っている森やすばらしい草地のことよりも多く知っていることを、諸君に恥じさせてやりたいと思っていた。わたしは諸君に、孤独で生きることの下手《へた》なわたしがこの世界のなかで黄金の鎖につるしたとでもいうようないくつもの忘れがたい楽しみを見いだしたことを物語ってやりたいと思っていた。そして、わたしよりもおそらくは幸福で快活な諸君が、わたしよりももっと大きな喜びをもってこの世界を発見することを欲していたのだった。
そしてわたしは何よりも愛という美しい神秘を諸君の心のなかに入れてやろうと欲したのだった。わたしは諸君に、生きているいっさいのもののほんとうの兄弟になり、心を愛で満たして、苦悩や死が諸君のところへ来たなら、それを恐れずに、まじめな同胞としてまじめに同胞らしい態度で迎えるようになることを教えたいと思ったのだった。
そういうすべてのことをわたしは賛美歌や雅歌の形式でではなく、単純に、真実に、具体的に、旅から帰郷した者が仲間の人びとに外国の話をして聞かせるときのように、まじめと冗談とをまぜながら描き出したいと思ったのだった。
わたしは欲した――わたしは願った――わたしは思った――という言い方はもちろん滑稽に聞こえる。こういう多くの意欲が実行の構想や輪廓を持つようになる日の来るのをわたしはあい変わらず待っていたのだった。しかしわたしはそれまでにすくなくとも多くの資料を集めておいた。頭のなかだけではなくて、たくさんの細長いノートブックに。そういうノートブックをわたしは旅行や遠足のときにポケットに入れて持ちあるいたのだが、二、三週間ごとに一冊がいっぱいになった。そういうノートブックにわたしは短く簡潔に、世のなかで目に見えるいっさいのものについて、反省するとか組み合わせを作るとかいうことはせずに、心覚えを書きつけておいたのである。
それは画家のそれのようなスケッチブックで、内容は、短い文章で現実にあることばかりを言いあらわしたものだった、すなわち、路地や国道の情景、山脈や都市の影像、百姓や職人や市場の物売り女などの会話を聞き取ったもの、さらに、天気の占《うらな》い方や、明暗の配置、風、雨、岩石、植物、動物、鳥の飛翔《ひしょう》、波の形、海の色彩の変化、雲の形などについての心覚えだった。わたしはまたときどき、そういう心覚えから短い話を作りあげて、自然や旅のスケッチとして発表したが、しかし、どれも人事とは関係のないものだった。わたしには木の話、動物の生活、あるいは雲の旅など、人間関係の添え物がなくてもじゅうぶんにおもしろいものだったのである。
かなり大がかりなもので、しかも人間が全然出てこないという文学作品は不可能なものだろうということは、わたしもすでにたびたび考えはしたが、それでもわたしは何年となくこの理想に執着しながら、ひょっとするといつか大きな霊感がわいてきてこの不可能を克服してくれるかもしれないという、漠然《ばくぜん》とした希望をいだいていた。しかし、このときわたしは、自分は自分の描く美しい風景のなかに人間を住まわせなければならない、そして、人間もどれほど自然に、どれほど忠実に描いても描きたりないものだということを決定的に理解したのだった。そこでとうとう、これまでしないでいた多くのことを取りもどさなけれはならなくなった、そして、こんにちでもわたしはこの取りもどしの仕事をつづけている。そのときまでは人間は全部いっしょに一つの全体をなしているもので、けっきょくのところわたしには縁のないものだった。しかし、そのころのわたしには、抽象的な人類というもののかわりに個々の人間を知って研究することが非常にやりがいがあるということがわかって、わたしの小型のノートブックもわたしの記憶も、まったく新しい光景でいっぱいになった。
こういう研究の最初はまったく楽しいものだった。わたしは自分の素朴な無関心の態度から出ていって、いろいろな人びとに興味を持った。わたしは、自分がそれまでたくさんの自明なことを知らず過ごしてきたことがわかったが、また、しばしば旅をして物を見てきたせいで自分の目が開いて鋭くなっていることもわかった。そして、わたしは、もともと一種の偏愛によって子どもたちに引きつけられていたから、とくに好んで、たびたび子どもたちと付き合った。
それにしても雲や波を観察するほうが人間研究よりも楽しかった。わたしは、人間がその他の被造物と違う点は、何よりもまず、人間が嘘というつるつるした膠《にかわ》につつまれて身を守っていることに気がついて、びっくりした。間もなくわたしは知り合いのすべての人びとに同じ現象があるのを見てとった! それは、人間のひとりひとりが一個の人格、一個の明確な人物像を示さなけれはならないのに、だれひとりとして自分の最も固有な本質を知っている者がいない、という状況の結果だった。いろいろと妙な感じにおそわれながらわたしは自分もやはり同じことなのを確かめたので、ひとりひとりの人間を核心までつきとめようとすることはやめた。たいていの人びとが自分自身よりも膠のほうをはるかに大事にしていた。わたしはいたるところですでに子どもたちもこの膠につつまれているのに気がついたが、子どもたちは意識的にしろ無意識的にしろ、いつも、自分の正体をすこしも包みかくさないで本能的にさらけ出すよりは、むしろ何かの役割を演ずるものである。
しばらくすると、わたしは、自分がいっこうに進歩しないで、道楽めいた細かいことに夢中になっているように思われてきた。さしあたりわたしは自分自身に欠点があるのだろうと思って捜したが、しかし間もなく、自分が幻滅を感じていることや、わたしの環境がわたしの求めている人間をわたしに与えてくれないということを、自分に隠しておくことができなくなった。わたしに必要なのはおもしろい人間ではなくて、典型的な人間だったのだ。それは大学関係の人びとも社交界の人びともわたしに提供してくれなかった。わたしはあこがれながら、イタリアのことを思った、あこがれながら、わたしの頻繁な徒歩旅行の唯一の友だちであり道連れだった職人の徒弟たちのことを思った。そういう人たちといっしょにわたしはしばしば徒歩の旅をして、彼らのなかにすばらしい者が大勢いることを知っていたのだった。
故郷の安宿や二、三の木賃宿を尋ねるのは、むだなことだった。大勢の無作法な放浪者はわたしの役には立たなかった。そこでわたしはまたしばらくのあいだ途方に暮れて、子どもたちを拠りどころにしたり、あちこちの飲み屋でいろいろと研究したりしたが、もちろん飲み屋では何の収穫もなかった。もの悲しい日々が二、三週間つづいて、わたしは自分を疑ったり、自分の希望や願望を滑稽な誇張だと思ったり、しばしば戸外を歩きまわったり、またまた幾夜も半ばはブドウ酒を飲みながら思いにふけったりした。
そのころ、わたしの机の上にはまたしても二つ三つ本の山が積み重なっていた。わたしはそれらの本を古本屋にやらずに、手もとに取っておきたかったが、しかし、わたしの本箱にはもうそれを入れるだけの余地がなかった。とうとう(凌凌《しのしの》ぎをつけるために、わたしは小さな指物《さしもの》の店を捜して、親方に、書棚《しょだな》の寸法を取りにわたしの住まいへ来てもらいたいと頼んだ。
親方は動作の慎重な、ゆっくりとした小男だったが、やってきて、部屋の広さを測り、床にひざまずいて、メートル尺の棒を天井へ伸ばし、すこし膠《にかわ》のにおいをさせながら、測った数を一つまた一つと慎重に、非常に大きな数字で控え帳に書きこんだ。偶然の出来事だったが、彼は測りながら、本を何冊ものせた安楽椅子にぶつかった。本が二、三冊下へ落ちたので、親方はかがんで、それを拾いあげた。そのなかに職人の徒弟の使うことばの小型辞典があった。この厚紙表紙の小型本は、職人の徒弟たちが泊まるドイツの木賃宿ならほとんどどこにでも見当たるもので、よく出来たおもしろい小型本である。
指物師《さしものし》は自分のよく知っているその小型本を見たとき、半ばおもしろがり、半ば疑うという様子で、わたしのほうへ不思議そうなまなざしを向けた。
「どうしたんです?」とわたしは尋ねた。
「失礼ですが、この本はわたしも知っているものですから。あなたはほんとうにこれをご研究なさったんですか?」
「わたしの研究したのは国道を歩いている浮浪人の隠語ですが」とわたしは答えた、「しかし、よく何かの言い方を引いてみることがありますよ」
「まったく――」と彼は叫んだ。「きっとご自分でも職人のする遍歴の旅をなすったことがおありですね?」
「お考えどおりの旅ではありませんがね。しかし、わたしはもう十分に旅をしましたし、いろんな木賃宿に泊まったことがあります」
そんな話をかわしているあいだに彼は本を元のように積み重ねて、立ち去ろうとした。
「あなたは昔どこを歩いたのですか?」とわたしは彼に尋ねた。
「ここからコブレンツまで、そして、そのあとでジュネーブのほうへくだりました。わたしの最悪の時期ではありませんでしたよ」
「二、三度牢屋にもはいりましたか?」
「一度だけ、ドゥルラッハで」
「よかったら、もっと話を聞かせてもらいたいですね。いつか飲み屋でお会いしましょうか?」
「それは困ります、だんな。しかし、もしあなたがいつか仕事じまいのあとでわたしのところへ来てくださって、どうだい? どうしてる? ってお聞きくだされば、それでわたしのほうは結構です。お手やわらかにお願いします」
数日後のこと、それはエリーザべトの家へ自由に出かけていっていい晩だったが、わたしは街頭に立ちどまって、むしろあの指物師《さしものし》のところへゆくほうがよくはないかと思案した。そしてわたしは後もどりをして、フロックコートを家に脱ぎすてて、指物師をたずねた。
仕事場はもう閉まって暗くなっていた。わたしはよろめきながら暗い玄関と狭い中庭とを通り抜け、後屋の階段をのぼったり、おりたりして、ついに、あるドアに親方の名を書いた表札が出ているのを見つけた。そのドアからはいったところはすぐに、非常に小さな台所になっていて、痩《や》せた女がひとり、夕食の用意をしながら、それと同時に三人の子どもの監督をしていたが、子どもたちはその狭い部屋を活気や相当な騒がしい音で満たしていた。この細君は不審そうな顔でわたしをすぐ次の部屋へ案内したが、指物師は新聞を手にして、その部屋の薄暗い窓辺に腰をかけていた。暗がりに立ったわたしをしっこい客だと思ったので、指物師はいぶかしげにぶつぶつこぼしたが、やがてわたしがだれだかわかって、わたしと握手をかわした。
彼が驚いて当惑しているので、わたしは子どもたちのほうへ向いた。彼らはわたしから逃げて台所へもどった。わたしはそのあとを追っていった。台所では主婦が米の料理をこしらえていたが、それを見たわたしの心にはわたしのウンブリアの下宿の主婦の台所の思い出がよみがえった。そして、わたしは料理に参加した。わが国ではたいてい、おいしい米が恥じ知らずにも煮すぎて一種の糊にされてしまい、その糊は全然なんの味もしないし、食べるといやにねばねばする。ここでもその不幸がすでに起こりかけていた、そして、わたしは、深なべと網杓子《あみしゃくし》とをつかみ、大急ぎで仕上げを引き受けて、やっと料理を救うことができた。主婦はわたしのするがままにまかせながら、驚いていた。米はどうにかうまく出来た。わたしたちはその米を食卓にのせて、ランプをつけた、そして、わたしも皿をもらった。
この晩は指物師のおかみさんが料理のいろいろな問題についてわたしを非常に立ち入った話に引きこんだので、亭主のほうはほとんどまったく口をきく折りがなく、わたしたちは彼の旅の冒険談を別の機会に延ばさざるをえなかった。とにかく、この夫婦はじきに、わたしがただ外見だけ紳士なのであって、実際は百姓の息子《むすこ》、貧しい平民の子であることを感づいたが、そういうわけでわたしたちはもう最初の晩に親しい、気のおけない仲になった。というのも、彼らがわたしを自分たちと同じ身分の者と認めたように、わたしも彼らの見すぼらしい世帯に貧しい人びとの故郷の空気をかぎつけたからだった。 ここの人びとは上品ぶったり、気取ったり、お芝居をしたりする暇はなかった、彼らにとっては、きびしくて貧しい生活が、教養だの高尚な関心だので飾らなくても好ましい、結構すぎるほどのもので、それに美辞麗句の壁紙を張る必要などなかったのである。
わたしはしだいにしげしげと指物師をおとずれるようになり、彼のところでくだらない社交界のがらくたを忘れたばかりでなく、自分の悲哀や苦悩をも忘れた。わたしは、ここには幼年時代の一部がわたしのために保存されていて、自分がここで、かつて神父たちがわたしを学校へあげたときに中断したあの生活をつづけているような気がした。
裂け目のついた、汗で黄ばんだ旧式の地図の上へかがみこんで、指物師はわたしといっしょに彼の旅路やわたしの旅路をたどった、そして、わたしたちは、二人のどちらも知っている都市の門や路地があると、それをいちいち喜び、職人の徒弟たちがよく言う冗談をあれこれと新たに思い出したばかりか、一度などは永遠に若い職人歌をいくつか歌いさえした。わたしたちは職業上の心配事や、家政のことや、子どもたちのことや、都会のさまざまなことを話題にした、そして、しだいしだいに、親方の役割とわたしの役割とが徐々に取り換えられていって、わたしは感謝する側になり、親方は与えて教える側になった。わたしはよみがえるような思いで、ここでわたしを取りかこんでいるのは社交室の音響ではなくて具体的な事実なのだと感じた。
彼の子どもたちのなかでは五歳になる女の子が、やさしい特別な性質で目立った。彼女はアグネスという名だったが、みんなはアーギと呼んでいた。アーギは金髪で、青白くて、痩《や》せほそっていて、大きな目にはおずおずとした色をたたえ、物腰にはしとやかなはにかみがあった。ある日曜日わたしがこの家族を散歩に連れ出そうとしたとき、アーギは病気だった。母親がアーギのそばに残って、わたしたちそのほかの者はゆっくりとした足どりで郊外へ出かけていった。ザンクト・マルガレーテンのうしろでわたしたちはべンチに腰をおろした、子どもたちは石や花やかぶとむしを取りに走っていった、指物師とわたしとは夏らしい草地や、ビニンゲンの墓地や、ジュラ山脈の美しい青みがかったつらなりを見わたした。指物師は疲れて、ふさぎこんで、活気がなくて、心配事があるらしかった。
「どうかしましたか、親方?」と、わたしは、子どもたちがじゅうぶん遠く離れたときに、そう尋ねた。彼はあきらめたような悲しげな様子で、わたしの顔を見た。
「おわかりにならないのでしょうか?」と彼は言いはじめた。「アーギが死にかけています。わたしにはもう前からわかっていて、驚いていたのですが、あの子はひどくふけてしまいました。そうです、あの子の目にはいつも死が宿っていたのです。しかし、いまは、わたしたちはそれをほんとのことだと思わないわけにはいきません」
わたしは相手を慰めはじめたが、しかし、じきにそれを自分からやめてしまった。
「そうでしょう」と言って彼は悲しそうに笑った。「あなたはまた、あの子が切り抜けるというふうにもお思いにならないでしょう。わたしは信心深いたちではありませんからね、そして教会に行くのも非常にたまさかですが、しかし、いまは主なる神がひとことわたしと話そうとしておられるのがはっきり感じられます。たかが子どものことで、あれはついぞ丈夫だったことはありませんが、しかし、ほんとに、わたしにはあの子がほかの子どもたち全部よりもかわいかったのです」
歓声をあげながら、無数の小さな質問をかかえて、子どもたちが駆けよってきて、わたしのまわりに押しかけ、わたしに花や草の名を言わせて、しまいには話をしてもらいたがった。そこでわたしは彼らに花や木や茂みの話をして、そういうものも子どもたちと同じように、ひとつひとつが魂や天使を持っているのだと言い聞かした。子どもたちの父親も話に耳をかたむけて、微笑しながら、ときどき小声で、わたしの話のとおりなのだと言ってくれた。山々の青くなってゆくのが見えて、晩鐘が聞こえてきたので、わたしたちは家路についた。
草地の上には薄赤い夕もやがただよい、遠方にある大寺院の尖塔《せんとう》が暖かい大気のなかに小さなほっそりとした姿をそびえさせ、空の夏らしい青い色が美しい緑がかった金色に変わってゆき、木々は長い影を引いていた。子どもたちは疲れてものを言わなくなっていた。彼らは、シロゲシや、ナデシコや、フウリンソウの天使のことを思い、わたしたちおとなはおさないアーギのことを思っていたが、アーギの魂はすでに、死の翼をむかえて、気が気でない思いをしている小人数のわたしたちのところから去ってゆこうとしていたのだった。
その後の二週間は無事に過ぎた。アーギはよくなってゆくように思われて、数時間ならベッドから出ることができ、ひんやりとしたふとんにくるまった姿はこれまでよりもきれいに、楽しげに見えた。それから二晩か三晩アーギは熱を出した。そして、わたしたちは、もう口に出さなかったものの、この子がわたしたちの客になっている期間は、あと数週間か数日間にすぎないだろう、と思った。ただ一度だけ、彼女の父親がそのことにふれた。仕事場でのことだった。わたしは彼が板の予備品のなかからあれこれ選んでいるのを見て、おのずから、彼が子ども用の棺を作る板を捜し集めにかかったことがわかった。
「もうじきそうなるにちがいありません」と彼は言った、「ですから、わたしは仕事じまいのあとで、自分だけで作ろうと思います」
彼が鉋《かんな》かけ台で仕事をしているあいだ、わたしはもう一つの鉋かけ台に腰をかけていた。板が何枚か鉋できれいにけずられたとき、彼はそれを一種の得意そうな様子でわたしに見せた。それは見事な、すくすくと育った、欠点のないもみ材だった。
「釘は一本も打たずに、どの部分もぴったりと合わさるようにして、りっぱな、長持ちのするものにしようと思います。しかし、きょうはこれだけにして、ごいっしょに家内のところへまいりましょう」
暑くてすばらしい盛夏の日が幾日か過ぎていった。わたしは毎日、一時間か二時間、おさないアーギのそばにすわって、美しい草地や森の話をしてやり、彼女の軽くてほっそりとした小さな手をわたしの大きな手のなかに取って、自分の精魂をこめながら、最後の日まで彼女の身辺にただよっていた愛らしい、明るい美しさを吸いこんだ。
それからわたしたちは、気が気でない、悲しい思いで彼女をかこみながら、小さな痩せたからだがもう一度力をふりしぼって、力強い死と戦うありさまを見ていたが、死はたちまちのうちに、やすやすと彼女を圧倒してしまった。母親は何も言わずに、しっかりしていた。父親は寝台の上に身を乗り出して、何度も何度も別れを告げ、金髪をなでさすり、死んだいとし子を愛撫《あいぶ》するのだった。
簡素な短時間の、埋葬の式がおこなわれた。そして、幾晩か胸苦しい晩がつづいて、子どもたちは隣室のベッドで泣いていた。わたしたちは幾度か墓地へ行ったが、好もしいお参りで、ま新しい墓に草木を植えてやり、無言のまま、涼しい緑地のベンチに並んで腰をおろし、アーギのことを思い、みんなの大好きな子が埋められている大地、その上にはえている木々と芝生、ひっそりとした墓地に何の妨げもなく楽しそうにさえずりの音をひびかせている鳥どもを、いつもとは違った目でながめるのだった。
それと同時に、きびしい仕事日がその歩みをつづけていって、子どもたちはふたたび歌ったり、つかみ合いをしたり、笑ったり、お話を聞きたがったりするようになり、わたしたちはみんな、アーギの姿を見ることができなくなったかわりに、美しい小さな天使を天上に持つことにひそかに、慣れていった。
こういうことにかまけて、わたしは例の教授の夜会にはその後全然出なかったし、エリーザべトの家も数度しかおとずれていなかった。そして、おとずれたときには会話のなまぬるい流れのなかで妙に途方に暮れた胸苦しい気持ちになったものだった。このときわたしは両方の家を訪問したが、どちらも戸が閉めてあった。だれもがとっくに田舎へ出かけていたからである。いまにしてはじめてわたしは、自分が指物師の家との友情や幼いアーギの病気にかまけて、暑い季節になったことや休暇を取ることをすっかり忘れていたのに気がついて、びっくりした。以前なら、七月や八月に都会から離れないでいることなど、わたしにはまったく不可能なことだったろう。
わたしは短期間都会に別れを告げて、シュヴァルツヴァルトやベルクシュトラーセやオーデンの森を抜けてゆく徒歩旅行を試みた。途中でわたしのめったにない楽しみになったのは、バーゼルの指物師の子どもたちに景色の美しい土地土地から絵はがきを送ってやって、いたるところで、あとで子どもたちやその父に旅の話をどんなふうに聞かせてやろうかと想像することだった。
フランクフルトでわたしはもう二、三日旅をつづけることに決めた。アシャフェンブルクやニュルンベルクやミュンヘンやウルムでわたしは古い芸術の作品を新たな喜びをもって味わい、そしてついには、ごく無邪気な気持ちでチューリヒにも一体止した。それまでは何年ものあいだ、わたしはこの都市を墓のように避けていた。
このときわたしは前から知っている町並みをぶらぶらと歩き、昔なじみの酒場や庭園をふたたび捜し出し、過ぎ去った美しい歳月のことを、苦痛を感じないで考えることができた。あの女流画家アリエッティはすでに結婚していた、そして、わたしは彼女のアドレスを教えてもらった。夕方わたしは出かけていって、その家の戸口に彼女の夫の名が出ているのを読み、いくつかの窓を見あげて、はいることをためらっていた。するとあの昔の時代がわたしの心によみがえりはじめて、わたしの若きの日の恋が、かすかな苦痛をともなって、半ばその眠りから目ざめた。
わたしはあと戻りをして、愛するイタリア婦人の美しいおもかげを無益な再会によって台なしにすることはしなかった。ぶらぶら歩きをつづけていってわたしは、あのころ芸術家たちが夏の夜の祭りをやったあの湖畔の庭園をおとずれた。また、三年という短い、良い歳月のあいだわたしが住んでいた屋根裏部屋のあるあの小さな家をも見あげた。そして、いろいろな思い出にふけっていると、ゆくりなくもエリーザべトという名がわたしの唇からもれた。しかしながら新しい愛のほうが昔の愛よりも強かった。それにまた新しい愛のほうが物静かで、控え目で、やりがいがあった。
気分の良い状態をつづけるために、わたしはボートを借りて、気持ちよくのんびりと、暖かい明るい湖心へ漕いでいった。夕方になりかけていて、空には美しい雪のように白い雲がただ一つ浮かんでいた。わたしはその雲から絶えず目を離さずにいて、その雲にうなずきかけながら、自分が子どものときに雲を愛したことを思い、エリーザべトのことを思い、また、わたしがいつかエリーザべトが非常に美しい打ち込んだ姿でその前に立っているのを見た、あのセガンティーニの絵の雲のことをも思った。彼女に寄せる、ことばや不純な欲求のために濁らされていない愛を、わたしはこのときほど幸福を与えて浄化してくれるものと感じたことはなかった。そのときわたしは、雪のように白い雲を見ながら、おだやかな感謝の気持ちで自分の人生のあらゆる善いことを見わたし、以前の混乱や情熱のかわりにひたすら少年時代のなつかしいあこがれだけを心に感じていた――そのあこがれも、より成熟した静かなものになっていたのである。
昔からわたしは、オールを漕ぐおだやかな拍子に合わせて何か口ずさむなり歌うなりする癖があった。このときもわたしは何か漠然《ばくぜん》と低い声で歌っていたが、歌いながらやっと、それが詩句なことに気がついた。その詩句はわたしの記憶に残った。そして、帰宅してからわたしは、チューリヒ湖の美しい夕ベに対する記念として、その詩句を書きとめた。
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空高くかかる
白き雲のごと、
白く、美しく、はるかなる、
いまし、エリーザべトよ。
うつろうに、雲に、いまし
気をとめることなし、
されど、暗き夜に、その雲
いましの夢をよぎる。
夢をよぎりて銀色にかがやけば、
その後絶え間もなく、
いまし、その白き雲に
甘き郷愁を寄す。
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バーゼルにもどると、アシジからの手紙が一通わたしを待っていた。それはアヌンツィアータ・ナルディーニからのもので、うれしい知らせをいっぱい盛ってあった。彼女はやはりもう第二の夫をさがし当てていた! とにかく、彼女の手紙をそのまま伝えるほうがいい。
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敬愛するぺーター様!
お許しを願って一筆啓上させていただきます。神さまのおぼしめしで、わたくしは大きな幸福をさずかりました、そして、わたしはあなたさまを十月十二日のわたくしの結婚式におまねきしたいと存じます。夫はメノッティという名で、金はあまりありませんが、わたくしを非常に愛していて、もう前々から果物をあきなっております。感じのいい男ですが、しかし、ぺーター様、あなたさまのように背の高い美男子ではありません。夫が広場で果物を売り、わたくしが店に残ることになると思います。近所の美しいマリエッタも結婚しますが、しかし、相手は外国の左官にすぎません。
わたくしは毎日あなたさまのことを思いましたし、たくさんの人びとにあなたさまのことをお話ししました。わたくしはあなたさまや、また、あの聖者さまのことがたいへん好きで、あの聖者さまにわたくしはあなたさまの記念のためにろうそくを四本寄進いたしました。もしあなたさまが結婚式においでくだされば、メノッティもたいへん喜ぶことと存じます。もし彼があなたさまに対してそっけない態度でも取りましたなら、わたくしが彼にそんなことをしてはいけないと申しましょう。残念ながら、あのマッテーオ・スピネリ少年は、わたくしがいつも申しておりましたとおり、ほんとうに悪者なことがわかりました。彼はたびたびわたくしのレモンを盗んだことがあります。いまは彼は連れていかれておりますが、それは彼がパン屋をしている父親から十二リラ盗んだから、そして、乞食のジャンジャコーモの犬を毒殺したからです。
あなたさまが神さまやあの聖者さまの祝福をお受けになりますように。あなたさまに対して大きなあこがれの念を抱きつつ。
あなたさまの忠実な友だち
アヌンツィアータ・ナルディーニ
追伸
今年の収穫はまあまあというところでした。ブドウは非常に悪く、ナシもじゅうぶんではありませんでしたが、レモンはどっさり取れました、ただ、わたくしたちはそれをたいへん安く売らなければならなかったのです。スべロで恐ろしい不祥事が起こりました。ある若者が自分の兄弟を熊手でたたき殺したのです、どうしてそんなことをしたのかわかりませんが、しかし、彼はたしかに、自分の兄弟なのにもかかわらず、相手に嫉妬《しっと》していたのです。
[#ここで字下げ終わり]
残念ながらわたしはこの誘惑的な招待に応ずることができなかった。わたしはお祝いのことばを書いて、翌年の春にはおたずねすると約束した。それからわたしはその手紙と、子どもたちのためにニュルンべルクから持ってきた贈り物とを持って、親しい指物師の親方のところへ行った。
そこでわたしは思いもかけなかった大きな変化を見た。テーブルから離れて、窓のほうへ向いて一つのグロテスクな、ねじれた人間の姿が椅子のなかにうずくまっていた。その椅子は子ども用の椅子のように胸台がつけてあった。それは親方の妻の兄弟でボッピという気の毒な、半ば麻痺《まひ》したせむしで、最近彼の老母が死んだあと、どこにも身の置きどころがなくなっていたのだった。指物師はしぶしぶボッピを当分ということで引き取った、そして、病気のかたわ者がいつもそこにいることが何か恐ろしいもののように、邪魔をされた世帯の上に横たわっていた。みんなはまだボッピに慣れていなかった。子どもたちは彼を気味悪がっていたし、母親は彼に同情して、当惑し、重苦しい気分になっていたし、父親はあきらかにふきげんになっていた。
ボッピは、首なしの醜い二つの隆肉の上に大きな、強い作りの頭をいただき、額は広く、鼻は太く、口は美しくて悩ましげなところがあった。目は明るく澄んでいたが、もの静かで、いくらかおびえたような感じがあり、珍しいほど小さくてかわいらしい両手は、いつも白く、そっと、狭い胸台の上に置かれていた。わたしもこの気の毒な侵入者に当惑して気分をそこなわれたが、それと同時にわたしは、指物師がこの病人の短い身の上ばなしをするのを聞いているのがつらかった。その身の上ばなしのあいだ、病人はそのかたわらに腰をかけて、だれからも話しかけられずに、自分の手を見ていた。彼は生まれつきのかたわ者だったが、しかし小学校を卒業していて、数年間わら細工をしていくらか役に立つことができたが、ついに痛風の発作が再発してからだが部分的に麻痺したのだった。もう何年となく彼はベッドに横たわっているか、あるいは、彼用の奇妙な椅子に腰かけて、クッションのあいだにはさまれている。
指物師の細君は、病人が以前はよく一人で上手に歌を歌っていたと主張したが、しかし、もう何年も彼の歌を聞いたことがない、そして、この家にきてから彼はまだ一度も歌ったことがない、と言った。そしてこういう話がすべて物語られ論じられるあいだ、彼はそこに腰かけたまま、目のまえを見ていた。その際わたしはいい気持ちはしなかった、そして、わたしは間もなくまたそこを去って、その後数日間は指物師の家から遠のいていた。
わたしはそれまでずっと丈夫で健康だった。一度も重い病気にかかったことがなかった。そして病人を、とくにかたわ者を、同情しながらではあるが、いささか軽蔑をまじえて見ていた。いま、指物師の家庭における自分の快適でほがらかな生活がこのかたわ者というみじめな存在の不快な重荷によって妨げられるのを見るのは、わたしの気にくわなかった。そこでわたしは二度目の訪問を一日延ばしに延ばしながら、手足のきかないボッピをみんなのために厄介《やっかい》ばらいする方法はないものかと、いろいろ考えたが、むだだった。わずかな費用で彼を病院なり慈善病院なりにはいらせる何らかの可能性が見いだされなけれはならなかった。何度もわたしは指物師をおとずれて、彼といっしょにこのことを相談したいと思ったが、しかし、わたしは、求められもしないでそういうことを始めるのをためらった。そして、あの病人と会うことには子どもじみた恐怖をおぼえた。いつも彼に会って、握手をしなければならないというのは、わたしにはいやなことだった。
そんなわけでわたしはある日曜日を無為に過ごした。二度目の日曜日には、わたしはすでに早朝の列車でジュラ山脈へ遠足に出かけようとしていたのだが、それでも自分の臆病を恥じて、家にとどまり、食後に指物師のところへ行った。
わたしはしぶしぷボッピと握手をした。指物師は腹を立てていて、散歩に出ようと言った。彼の告げたとおり、彼はこの永遠の不孝にうんざりしていたのだった。そしてわたしは、彼がわたしの提案に応じそうなのを知って喜んだ。主婦は家に残ろうとした、するとかたわ者が主婦に頼んで、どうかいっしょに散歩にいってもらいたい、自分は結構ひとりで残れるから、手近に一冊の本とコップ一杯の水とがありさえすれば、みんなは自分を部屋のなかに閉じこめて、心配しないであとに残していつていいのだ、と言った。
そこでわたしたち、そろいもそろって自分のことをまったくがまんのできる情けぶかい人間だと思っているわたしたちは、ボッピを閉じこめて散歩に出かけたのだった! そしてわたしたちは愉快になって子どもたちをからかい、美しい金色の秋の陽を楽しんで、自分たちが手足のきかない人間をひとりぼっちにしてうっちゃってきたことを恥じたり、そのために胸がどきどきしたりするという者もいなかった! わたしたちはむしろ、かたわ者からしばらく解放されたことを喜び、ほっとして、陽《ひ》にあたためられた澄んだ空気を吸い、見たところ、神の日曜日を分別と感謝とをもって楽しんでいる感謝を忘れない正直な一家族という様子をしていた。
わたしたちはグレンツアッハのへルンリでレストランに立ち寄ってブドウ酒を一杯飲むことになり、レストランの庭でテーブルをかこんだが、そのとき初めて父親がボッピのことを話題にした。彼はわずらわしい客のことで不平をこぼして、家政が圧迫されることについてため息をつき、結びとして笑いながらこう言った、「まあまあ、この戸外ではすくなくとももう一時間、彼に邪魔をされないで、愉快にしていられるわけだ」
この無思慮なことばを聞いたとき、わたしの目の前に突然あの手足のきかない気の毒な男の姿、哀願し、苦しんでいる姿が見えた。わたしたちに愛されない彼、わたしたちがまぬがれようと努める彼、いまはわたしたちから見すてられ、家に閉じこめられて、暗くなってくる部屋のなかにひとりぼっちで悲しそうにすわっている彼の姿が目の前にありありと見えた。わたしは、間もなく暗くなりはじめるにちがいないが、彼は明かりをつけることも、窓へ近づくこともできないだろうと思った。だから彼は本をわきに置いて、薄闇のなかに話し相手も気晴らしにするものもなく、ひとりぼっちですわっていなければならないだろう、その一方わたしたちはここでブドウ酒を飲み、笑い、楽しんでいるのだ。それからわたしは、自分がアシジで近所の人びとに聖フランシスの話をして聞かせたこと、聖フランシスはわたしに、あらゆる人間を好きになるようにと教えてくれたというほらを吹いたことが思い浮かんだ。わたしがそのことを知っていてその男を慰めてやれるのに、あの気の毒な、よるべのない人間がほったらかされて苦しまなければならないとしたら、わたしはなんのために聖フランシスの生涯を研究し、彼のすばらしい愛の歌を暗記し、彼の足跡をウンブリアの丘陵に捜したことになるのだろうか?
目に見えない力強い者の手がわたしの心臓の上に置かれて、心臓を圧《お》しつけ、多くの恥と苦痛とをもって満たしたので、わたしは身をふるわせて屈服した。わたしは神がいまわたしとひとこと話そうとしているのがわかった。
「なんじ詩人よ!」と神は言った、「なんじウンブリアの人の弟子よ、人びとに愛を教えて幸福にしてやろうとするなんじ予言者よ! 風や水のなかにわが声を聞こうとするなんじ夢想家よ!」
「なんじはある家を愛し」と神は言った、「その家の人びとの親切を受け、その家にて愉快な時を過ごしている! そして、わたしがこの家に立ち寄る日に、なんじはそこから走り去って、わたしを追い払うたくらみをしている! なんじ聖者よ! なんじ予言者よ! なんじ詩人よ!」
わたしは清らかな、誤ることのない鏡の前に立たされたのとそっくり同じ気がした、そして鏡にうつる自分の姿は嘘《うそ》つき、ほら吹き、約束破りの腰抜けだった。それは苦痛だった、つらかった、苦しくて恐ろしかった。しかし、この瞬間わたしの内部でこわれたもの、苦痛を受けたもの、逆らって負傷したもの、それは、こわれて崩壊するにふさわしいものだった。
無理やりに、そして急いでわたしは別れを告げ、ブドウ酒をグラスに注いだまま、ちぎりかけたパンをテーブルの上に置いたまま、市内へ引き返した。興奮していたわたしはもう何か不幸が起こっているかもしれないという、耐えがたい不安に苦しめられた。火事が起こっているかもしれなかった、助け手のないボッピは椅子から落ちて、苦しみながら、あるいは死んで、床に横たわっているかもしれなかった。わたしは彼の横たわっている姿を見た、そして、自分はそのかたわらに立って、かたわ者のまなざしにこもる無言の非難を見なければならないのだと思った。
息を切らしてわたしは市内に帰り、指物師の家に着いて、階段を駆けのぼった。そしてこのとき初めて、自分が閉ざされたドアの前に立っていて、鍵を持っていないことに気がついた。しかし、わたしの不安はすぐにしずまった。台所のドアに行きつかないうちに、そのなかの歌声が聞こえたからである。それは奇妙な一瞬間だった。心臓をどきどきさせながら、すっかり息を切らして、わたしは階段の暗い踊り場に立って、そろそろとまた落ちつきを取りもどしながら、とじこめられたかたわ者の歌いぶりに耳をすました。彼は低い、やわらかな、いくらか訴えるような調子の声で、通俗的な恋の歌、「白い花と赤い花」を歌っていた。わたしは彼が長らく歌わないでいたことを知っていたが、いまわたしは、彼がこの静かなひとときを利用して、彼なりにすこし楽しもうとしているのに聞き耳を立ててうかがいながら、そのことに感動させられるのだった。
人生はまじめな出来事や深い感動の横に、滑稽なことを置くのが好きなのである。そんなわけでわたしもすぐに自分の状態がおかしな恥ずかしいものであるのを感じた。突然の不安にかられてわたしは一時間ばかりの道のりを、野良を横ぎって、ここまで走ってきたが、鍵を持たずに台所の入り口の前に立つ結果になった。わたしはまた立ち去るか、あるいは、手足のきかない男にわたしの親切な意図を、しめてある二つのドア越しに叫んで聞かせるかしなければならなかった。わたしは、気の毒な男を慰めてやろう、彼に思いやりを見せて、おもしろく時を過ごさせてやろうという意図を持って階段に立っていた。そして、彼は何も知らずに部屋のなかにいて歌を歌っていたのだが、もしわたしが叫ぶなりノックするなりしてわたしのそこにいることを知らせたなら、彼はきっと、ただびっくりするばかりだったことだろう。
わたしはまた立ち去るよりほかに仕方がなかった。日曜日らしくにぎやかな街路を一時間ばかりぶらついてから行って見ると、指物師の家族が帰宅していた。ボッピと握手するのに、こんどはなんら自制の必要がなかった。わたしは彼の横に腰をおろして、彼と話をはじめ、これまでどんなものを読んだかと尋ねた。彼に何か書物を持ってきてやろうというのは、ごく自然なことで、彼はそれを感謝した。わたしが彼にイェレミーアス・ゴットヘルフ〔スイスの詩人〕をすすめたとき、彼がゴットヘルフの著作をほとんど全部知っていることがわかった。それでも彼はゴットフリート・ケラーはまだ知らなかった、わたしは彼にケラーの作品を貸してやろうと約束した。
翌日、約束の書物を持っていったとき、たまたま指物師の細君が外出しようとし、亭主の指物師が仕事場にいたので、わたしはボッピと二人だけになる機会を得た。そこでわたしは彼に告白して、きのう彼をひとりぼっちにしておいたことを非常に恥じている、ときどき彼の横にすわらせてもらって、彼の友だちにしてもらえるなら、うれしく思うと言った。
小さなかたわ者はその大きな頭をわずかばかりわたしのほうへ向けて、わたしを見つめながら、「どうもありがとう」と言った。それだけだった。しかしこの頭を向けることは彼には骨の折れることで、健康な人間の十回の抱擁と同じ価値があった、そして彼のまなざしはたいへん明るくて、子どものように美しかったから、わたしは恥ずかしさのあまりに顔が赤くなった。
もう一つ、指物師と話をするという、もっとむずかしいことが残っていた。彼にわたしのきのうの不安と恥ずかしさをあけすけに告白するのがいちばんいいように思われた。残念ながら彼にはわたしの言うことがわからなかった、それでも彼はその話の相手になってくれた。彼が病人をわたしとの共同の客として留めておくことを認めたので、わたしたちは病人を扶養《ふよう》するわずかな費用を分担し、わたしは随意にボッピのところへ出入りして彼を自分の兄弟と見なすことを許された。
その秋は異常に長いあいだ天気が良くて暖かだった。だから、わたしがボッピのためにしてやった第一のことは、患者用の移動椅子を手に入れて、彼を毎日、たいてい子どもたちをお供にして、戸外に連れ出すことだった。
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第八章
人生や自分の友だちから、こちらで与えることのできるよりもずっと多くのものをもらうというのは、いつもわたしの運命だった。リヒァルトに対しても、エリーザべトに対しても、ナルディーニ夫人に対しても、指物師に対してもそういうなりゆきになった。そしてこんどはわたしは、自分が男盛りの年齢になって十分に自己評価をしていたにもかかわらず、みじめなせむし男の弟子になって驚嘆し感謝する定めになっていたことを体験したのである。
いつかほんとうに、わたしがとっくに開始したあの作品を完成して手離すことになるとすると、その作品に盛られた善いことはほとんど全部わたしがボッピから学んだものになるだろう。わたしにとって良い、うれしい時期がはじまったのだが、この時期はわたしの一生のあいだ豊かな糧《かて》を与えてくれるだろうと思う。わたしは、病気も孤独も貧困も虐待もただ軽いちぎれた雲のようにその上をかすめて飛び去った、すばらしい人間の魂をはっきりと深く見せてもらったのだった。
わたしたちが美しい短い人生をぶちこわして台なしにする|もとで《ヽヽヽ》の、ありとあらゆる小さな悪習、怒りだとか、短気だとか、邪推だとか、嘘《うそ》だとか――そうしたわたしたちをゆがめるいっさいのきたないべとべとするはれものを、この人間の長年の徹底的な病苦が苦痛のもとで焼き取っていた。彼は賢者でも天使でもなかったが、しかし理解と献身とに満ちた人間で、大きな恐ろしい苦悩と欠乏とにせめられながら、恥じずに自分を弱いものと感じ、自分を神の手にゆだねることを学んでいた。
あるときわたしは彼に、痛んでいる無力なからだといつもどんなふうにしてうまく折り合いをつけるのかと尋ねた。
「それは非常に簡単なことですよ」と、彼はあいそうよく笑った。「わたしと病気とのあいだにはまさに、永遠の戦争があります。わたしはあるときは戦闘に勝ち、あるときは負けますが、そんなふうにしてわたしたちはつかみ合いをつづけます。そしてときどきわたしたちはどちらもじっとしています、休戦条約を結び、おたがいに相手を見張り、待ち伏せしていますが、ついにはどちらかがまたぞろあつかましくなって、戦争が再発するのです」
それまでわたしはいつも、自分は確実な目の持ち主で優秀な観察者だと思いこんでいた。しかしボッピはこの点でもわたしの感心する先生になった。彼が自然や、とくに動物を非常に喜ぶので、わたしは彼をしばしば動物園へ連れていった。そこでわたしたちは何時間もじつに楽しく過ごした。ボッピは間もなく動物をいちいち覚えた、そして、わたしたちがいつもパンと砂糖とを持っていったので、多くの動物がわたしたちを見おぼえた、そして、わたしたちはいろいろな友情を結んだ。わたしたちはとくに好んでバクをひいきにしたが、そのバクの唯一の美徳は、バクの種族に普通には見られないきれい好きである。とにかくわたしたちにはバクがうぬぼれで、あまり聡明《そうめい》ではなく、ぶあいそうで、恩知らずで、大食いなのがわかった。ほかの動物ども、とりわけ象、のろじかやかもしか、無作法な野牛でさえも、もらった砂糖に対していつもある種の謝意を示して、親しげな目つきでわたしたちを見るとか、あるいは、わたしがなでさするのを喜んでがまんするとかした。バクにはそんなところはすこしもなかった。わたしたちが彼の近くにゆくと、彼はすぐさま敏速に格子のところに現われて、わたしたちからもらうものをゆっくりと徹底的に食いたいらげ、彼の手にはいるものはもう何もないと見てとると、静かにまたひっこんでしまうのだった。わたしたちはそういう出方を自負と性格とのしるしだと見なした、そして、彼が彼に与えられることになったものを、ほしいと乞いもしないし、感謝しもしないで、わかりきった貢物《みつぎもの》のようにいかにもあいそうよく受け取ったので、わたしたちは彼を収税吏《しゅうぜいり》と呼んだ。
ボッピが動物どもにたいていは自分で餌をやることができなかったから、ときどき、バクはもう満足しているのか、それとも彼にもう一個やらなけれはならないのかということについて論争が起こった。わたしたちは、それがあたかも国家的な事件ででもあるかのように、一種の客観性と精密な調査とをもってそのことを吟味した。あるときわたしたちはバクのところを通り過ぎていたが、ボッピが、どうしてもバクに砂糖をもう一個よけいに与えるべきだった、と言った。そこでわたしたちは後もどりをした、しかし、そのあいだにわら床へもどっていたバクは高慢な態度でこちらを細目《ほそめ》で見るばかりで、格子のところへは来なかった。
「どうかお許しください、収税吏さん」とボッピはバクに呼びかけた、「しかし、わたしは、わたしたちが砂糖の数を一つ間違ったように思います」それからわたしたちは象のところへ進んだが、象はもう期待に満ちてよちよちとあちこちへ歩き、その暖かいよく動く長鼻をわたしたちのほうへ伸ばした。象ならボッピは自分で餌をやることができた、そして、彼は、巨大な象がしなやかな長鼻を彼のほうへ曲げてよこして、彼の手のひらからパンを取りあげ、陽気な、ちいさな目でまばたきをしながら、ずるそうに、そして好意をもってわたしたちのほうを見るのを、子どものように大喜びしながら見るのだった。
わたしは一人の番人と折り合いをつけて、わたしがボッピのそばにいる時間がないときには、ボッピを移動椅子に乗せたまま動物園のなかに残しておいてよいことにしてもらったので、彼はわたしに時間がない日にも、日なたにいて動物どもを見ていることができた。あとで彼はわたしに、彼が見たあらゆることを話して聞かせた。とくに彼が感心したのは、雄のライオンがその妻である雌のライオンを非常に礼儀正しく扱う光景だった。雌のライオンが横になって休息しはじめると、すぐさま、雄のライオンは休む間もなく行きつ戻りつしながら、その歩行に一定の方向を与えて、歩きながら雌のライオンに触れもしなければ、邪魔もしないし、その上をまたいで歩くということもなかった。ボッピがいちばんおもしろがった相手は川うそだった。彼は飽きもしないで、よく動く川うそのしなやかな遊泳術や体操術を観察し、それを心から楽しんでいたが、その間彼自身はじっと動かずに移動椅子に乗ったまま、頭や腕を動かすたびに苦労しなけれはならなかったのである。
わたしがボッピにわたしの二つの恋愛事件を話して聞かせたのは、あの秋の最も美しい日のことだった。わたしたちはたがいに非常に親密になっていたので、わたしはこの楽しくもなければ自慢にもならない体験をももはや言わないでおくことはできなかったのだ。彼は何も言わずに、好意のある、まじめな態度で聞いていた。しかし、あとになってから彼は、一度エリーザべトと白い雲とを見たいものだという願望を告白して、わたしたちがいつか街上でエリーザべトに会うようなことがあったら、きっと自分の願いのことを考えてもらいたいとわたしに頼むのだった。
街上でエリーザべトに会うということがいっこうに起こりそうになくて、時候もうすら寒くなりはじめたので、わたしはエリーザべトのところへ行って、気の毒なせむし男に望みの喜びを与えてもらいたいと願った。彼女は親切で、わたしの思いどおりにしてくれた、そして、定めの日にわたしは彼女を迎えに行って、ボッピが移動椅子に乗って待っている動物園へ連れてきた。美しい、よい身なりをした、上品な婦人がかたわ者と握手をして、いくらか彼のほうへかがんだとき、そして、気の毒なボッピが喜びのあまりに輝く顔の大きな善良な目でありがたそうに、ほとんど愛情をこめて彼女を見あげたとき、わたしは、二人のうちのどちらがこの瞬間により美しくてわたしの心により近いか、決めようとしても決めかねたことだったろう。婦人は二言三言あいそうのいいことばをかけた、かたわ者は婦人から輝くまなざしを離さなかった、そして、わたしはそのかたわらに立って、わたしの最も好きな二人の人間、人生が広い割れ目によってたがいに引き離している二人の人間が一瞬間手を取り合っている姿を目のまえに見て驚いていた。
ボッピはその午後じゅうエリーザべトのことばかり話して、彼女の美しさ上品さ、親切さ、服装、黄色い手袋、緑色の鞭《むち》、歩き方、まなざし、声、美しい帽子をほめたたえた。その一方わたしには、恋人がわたしの親友に施し物を与えるさまを見ていたことが、せつなく、そして滑稽に思われるのだった。
そうこうしているあいだにボッピは『緑のハインリヒ』や『ゼルトヴィーラの人びと』〔ともにケラーの作品〕を読みあげて、これらの無比の作品の世界とすっかりなじみになったので、わたしたちはふくれっつらのパンクラーツや、アルベルトゥス・ツヴィーハンや、正義漢の櫛《くし》作りたちを共通の親しい友だちにすることになった。しばらくのあいだわたしは彼にコンラート・フェルディナント・マイアーの作品も何か与えようかどうかと迷ったが、しかし、マイアーのあまりにも圧縮された言語のほとんどラテン語のような簡潔さは多分ボッピの口には合わないだろうと思われたし、またわたしはこのほがらかで静かな目のまえに歴史の深淵を開くことにもためらいをおぼえた。そのかわりにわたしは彼に聖フランシスの話をしてやり、メーリケの小説を読ませた。彼は、もしあれほどしばしば川うその水槽のそばに立ち寄って、いろいろと途方もない水の幻想にふけるということをしていなかったとしたら、自分には美しいラウの話〔メーリケの『美しいラウの話』に出てくる水の精〕は大部分おもしろく思えなかっただろうと言ったが、この告白はわたしには奇妙なものに思われた。
そうしてわたしたちはしだいに「きみぼく」付き合いの間柄になっていったが、そのなりゆきはおもしろかった。わたしのほうから彼にそういう間柄になろうと申し出たことは一度もなかった。申し出たとしても、彼はそれを受けはしなかっただろう。しかし、まったく自然にわたしたちはたがいにしだいに頻繁《ひんぱん》に「きみぼく」付き合いをするようになっていった。そして、ある日そのことに気がついたとき、わたしたちは笑わずにはいなかった、そしてそれは、永久にそのままということにしたのである。
冬の初めになって移動椅子で外出することができなくなり、わたしもまた幾晩もボッピの義兄の居間に長時間すわるようになったとき、わたしはおそまきながら、わたしの新しい友人関係がまったく何の犠牲もともなわずにころがりこんできたわけではないということに気がついた。つまり、指物師が絶えず不きげんで、ぶあいそうで、むっつりしていたのである。
長いあいだには役に立たない居そうろうがいてわずらわしいということだけでなく、ボッピとわたしとの関係も同じように指物師をうんざりさせた。わたしがひと晩じゅう愉快に手足のきかないボッピとおしゃべりしているかたわらで、家の主人が腹だたしそうな様子で新聞を相手にしている、というようなことがあった。指物師は、いつもは並みはずれて忍耐強い細君とも仲たがいをした。細君がこのたびは堅く自分の意志を主張して、ボッピがどこか別の場所へやられることは絶対に許そうとしなかったからである。わたしは幾度か、指物師をもっと和解的な気分にしようとしてみたり、あるいは彼に新しい提案をしてみようとしたが、彼はどうにもしようがなかった。さらに彼はしんらつになりはじめて、かたわのボッピとわたしとの友情をからかったり、ボッピその人の生活を不愉快なものにしたりしはじめた。
もちろん病人は、毎日彼のそばにすわりがちなわたしもろとも、もともと狭苦しいこの世帯にはやっかいな重荷だったのだが、それでもわたしはあい変わらず、指物師がわたしたちの仲間になって病人を好きになってくれるかもしれない、と期待していた。わたしにとってはけっきょく、何かをするにしろ、しないにしろ、かならず指物師の感情を害するか、あるいはボッピに損害を与えることになるのだった。わたしは急いだ無理な決定がすべてきらいなので――すでにあのチューリヒ時代にリヒァルトがわたしにペトルス・クンクタトル〔優柔不断なペトルスの意〕と名づけたことがあった――、わたしは幾週間もじっと待ちながら、二人のうちの一人の友情か、あるいはひょっとすると二人ともの友情を失うかもしれないという恐怖に絶えずさいなまれていた。
この混乱した関係の不愉快さがつのるのにかられて、わたしはまたぞろしげしげと飲み屋に出入りした。ある晩、この不快な事件のためにまたしても特別に腹を立てさせられたあとで、わたしはヴァートラント・ブドウ酒を飲ませる小さな居酒屋へ行って、何リットルも飲みながらこの不幸を攻めたてた。二年以来初めてわたしはまた、まっすぐに立って家へ帰るのに苦労した。その翌日わたしは、したたかに飲んだあとではいつもそうだが、気持ちのよい冷静な気分になっていて、勇気をふるい起こして、この喜劇をついに終わらせるために、指物師をたずねた。わたしは彼に提案して、ボッピをすっかりわたしにまかせてもらいたいと言った、そして、彼はその気になれないという様子ではなかったが、何日か熟考の時間を取ったあとでほんとうに承諾した。
その後間もなくわたしは気の毒なせむし男とともに新しく借りた住まいに引越した。わたしには自分が結婚でもしたように思われた、これまで慣れていた独身者下宿のかわりに本格的な二人暮らしの小世帯をはじめることになったからだった。しかし、最初のうちはわたしが多くの不幸な家政上の実験をしたとはいえ、この生活はうまいぐあいにいった。整理整頓や洗濯のためには走り使いの少女が来てくれた、食事はわたしたちは家へ運ばせた、そして間もなくわたしたち二人にとってこの共同生活はまったく心のあたたまる気持ちのよいものになった。自分ののんきな大小の徒歩旅行を将来はあきらめなければならないという強制には、さしあたりのところわたしはおどされなかった。書きものをするときには、わたしは友だちが無言のまま近くにいることを心を落ちつかせる有利なことと感じさえした。こまごまとした看病の仕事はわたしには新規なことで最初はあまり気持ちよいことではなかった。とくに服を脱がせたり着せたりすることがそうだった。しかし、わたしの友だちが非常に辛抱強くて、また、感謝もしたから、わたしは恥じて、彼を念入りに看護するように努力した。
あの教授のところへはわたしはあまり行かなくなっていたが、エリーザべトのところへはしばしば行った。彼女の家はいろいろなことがあったにもかかわらず、いつも魅力をもってわたしを引きつけたのだった。そこへ行くとわたしは腰をおろして、茶か一杯のブドウ酒を飲み、彼女が女主人の役を演ずるのを見ながら、ときにはセンチメンタルな気持ちに襲われたが、ただし、自分の心に起こりうるかもしれないいっさいのウェルテル的〔ゲーテの『若きウェルテルの悩み』の主人公〕な感情に対しては不変の嘲笑をもって対抗していた。
柔弱な、幼稚な愛のエゴイズムは確かに決定的にわたしから去っていた。そういうわけで気持ちのよい親密な戦時状態がわたしたちのあいだでは正しい関係だった。そして、わたしたちは実際、会えばほとんどいともむつまじく口論するのだった。かしこいエリーザべトの軽快な、婦人流儀にすこし甘やかされた悟性がわたしの惚《ほ》れていると同時に無作法な態度とぶつかる光景は悪くはなかった。そして、わたしたちは、実際にはどちらもたがいに尊敬し合っていたのだから、それだけいっそう精力的に貧弱なつまらないことのいちいちについて戦うことができた。わたしには、独身者という身分を彼女に対して――つい最近までわたしが生命にかけても結婚したいと思っていた女性に対して弁護するのが、とくに滑稽に思われた。それどころか、わたしは彼女の夫といっしょになって彼女をからかうことさえあえてした。彼女の夫はいいやつで、才気換発《さいきかんぱつ》な妻のことを誇りにしていた。
昔の恋はわたしの心のなかでひそかに燃えつづけていたが、それはもはや以前の要求がましい花火ではなくて、なつかしい、長持ちのするおき火だった。そういうおき火は心を若く保ってくれるし、希望のない独身者が冬の晩などにときどき指をあたためることのできるおき火である。さらにボッピがわたしと親密になって、不変の、誠実な愛されているということについてのすばらしい知識をもってかこんでくれてからは、わたしは自分の愛を危険なしに一つの青春と詩として自分の内部に生かしておくことができた。
それはそれとしてエリーザべトはときどき彼女のまことに女らしい意地悪によって、わたしが冷静になって自分の独身者という身分を心から楽しむ機会を与えてくれた。
気の毒なボッピが同居するようになってから、わたしはエリーザべトの家をたずねることをもますます怠《おこた》るようになった。ボッピを相手にわたしは本を読んだり、旅のアルバムや日記のページをめくったり、ドミノ遊びをしたりした。わたしたちは気晴らしのためにむく犬を一匹手に入れ、窓から冬の始まりを観察し、毎日たくさんの賢明な会話やばかげた会話をした。病人は優越的な世界観を獲得していた。温和なユーモアに暖められた、人生の客観的な考察を獲得していて、その考察によってわたしは毎日のように教えられた。はげしい雪がはじまって、冬が窓のまえにその清らかな美しさをくりひろげたとき、わたしたちは子どものように大喜びしながら、暖炉のそはで、うち解けた室内田園生活のなかへ引きこもった。
わたしはもう長いあいだ世態人情の知識を得る術《すべ》を求めてむだに走りまわっていたが、この機会にわたしはその術を片手間に学びおぼえた。というのも、ボッピは静かな鋭い傍観者として、彼の以前の環境の生活の光景をたくさん覚えていて、いったん話しはじめると、すばらしい話ぶりをすることができたからである。かたわの彼はその生涯に三ダースくらいの数の人間としか知り合いにならなかったし、一度も大きな流れのなかで人びとにまじって泳いだことはなかったのだが、それにもかかわらず彼はわたしよりもはるかによく人生を知っていた。というのも、彼は、どんなに小さなものでも目にとめ、どの人間のなかにも体験と喜びと認識との泉を見いだすことがならいになっていたからである。
わたしたちの好きな楽しみは依然として動物界に寄せる喜びだった。そこでわたしたちは、もうおとずれることのできなくなった動物園の動物たちについて、いろいろな物語や寓話《ぐうわ》を作った。そういう物語や寓話をわたしたちはたいてい物語らずに、即席に、対話として口に出して言った。たとえば二羽のオウムの恋の打ち明け、野牛たちの家庭不和、イノシシの晩の楽しみなど。
「テンさん、ごきげんいかがですか?」
「ありがとう、キツネさん、どうにか無事に暮らしています。ご存じのように、わたしは、つかまえられたときに、わたしの妻を失いました。前にお知らせいたしましたように、妻はピンゼルシュヴァンツ〔絵筆のしっぽの意〕といいました。真珠でしたよ、請け合いますが、真――」
「いやはや、古くさい話はおやめなさい、お隣さん、真珠だとかいうそのお話は、わたしの間違いでなければ、もう幾度もなさいましたよ。ほんとうに、愛するのは結局一度きりのことですからね、そのわずかな楽しみをまだ台なしにしてはいけませんよ」
「どういたしまして、キツネさん、家内をご存じだったのなら、わたしの言うことをもっとよく理解してくださるでしょうよ」
「いや、たしかに、たしかに。奥さんはピンゼルシュヴァンツというお名前でしたね? 美しいお名前です、なでさすりたくなるような感じです! しかし、わたしがそもそも申しあげようとしたことは――あなたもお気づきでしょうが、やっかいな雀の苦労がまたたいへんふえてきましたね? わたしにちょっとした計画があるんですがね」
「雀のための?」
「雀のためのです。さあ、わたしの考えたのはこうです、つまり、格子の前にパンをすこし置く、わたしたちは悠々と横になって、やつらの来るのを待つ。わたしたちがこんな畜生を捕えることができないのなら、それは悪魔につかれているのに違いない。どうお思いですか?」
「すばらしいお考えですよ、お隣さん」
「それではどうかパンをすこし置いてください。――そう、結構です! しかしパンをもうすこし右のほうへずらしてはどうでしょう、そうすれはわたしたちのどちらにも役に立ちます。というのも、わたしは目下残念ながら無一物でしてね。それでよろしい。では、気をつけて! こんどはわたしたちが横になって、目を閉じます――しっ、もう二羽飛んできましたよ」(中休み)
「さて、キツネさん、まだ何も取れませんか?」
「なんてあんたは性急なんでしょう! まるで初めて猟をするみたいじゃありませんか! 猟師というものは待てなければならない、待ちに待たなけれはならないのです。では、もう一度!」
「いや、パンはいったいどこへ行ったんでしょう?」
「なんですって?」
「パンがなくなっています」
「ありえないことです! パンが? ほんとに――消えてなくなってしまった! いまいましい! もちろんまたあの呪われた風のしわざですよ」
「そう、わたしもそんなふうに考えました。しかし、さっきわたしはあなたが何か食べている音を聞いたような気がしました」
「なんですって! わたしがなにか食べていた? いったい何を?」
「たぶんパンを」
「テンさん、あなたの推測は侮辱的なほどはっきりしていますよ。お隣さんたちのおっしゃることはもちろんがまんできなけれはなりませんが、しかし、いまのは度が過ぎます。いまのは度が過ぎますよ、ほんとに。わたしの言うことがおわかりですか?――まあ、わたしがパンを食べたとしておきましょう! いったいあなたはなんと思っていらっしやるんです? まずわたしはあなたの真珠についての愚にもつかない話を千回目だかに聞かされた、それからわたしがいい思いつきをした、わたしたちはパンを格子の外へ置いた――」
「わたしでしたよ、それは! わたしがバンを出したのです」
「――わたしたちはパンを格子の外へ出した、わたしは横になって見張っていた、万事うまくいっていた、するとあなたがくだらぬおしゃべりで邪魔をした! 雀たちはもちろん逃げていった、猟は台なしになった、しかも、かてて加えてわたしがパンを食いたいらげたそうな! いやはや、しばらく待っていただいて、それからまたお付き合いすることにしますよ」
そんなふうにして午後と晩とが楽々とすみやかに過ぎていった。わたしは最高のきげんで、欣然《きんぜん》として速やかに仕事をし、以前の自分がたいへん怠惰で無精で厭世的《えんせいてき》だったのを不思議に思った。リヒァルトといっしょに暮らした最善の時期でも、戸外に雪ひらが舞い、わたしたち二人がむく犬といっしょに暖炉のそばで愉快に過ごしたこれらの静かな、ほがらかな日々よりも美しくはなかったのだった。
ところがわたしの愛するボッピが、彼の最初にして最後の愚行を演ずるはめになってしまった! わたしは満足していたから、もちろん、めくらになっていて、彼がいつもより多く苦しんでいるのが見えなかった。しかし彼は、ひたすら控え目な性質と愛の気持ちとからいつもより愉快そうなふりをして、苦情を言わなかったし、わたしに喫煙を禁ずることさえしなかった。そして、そのあとで夜横になると彼は苦しんで、咳をして、かすかに呻《うめ》くのだった。まったく偶然に、わたしがあるとき彼の隣の部屋で夜おそくまで書きものをしていて、彼はわたしがとっくにベッドについたものとばかり思っていたとき、わたしは彼の呻《うめ》くのを聞いた。わたしが突然ランプを持って彼の寝室へはいっていったとき、気の毒な彼はすっかりびっくり仰天した。わたしは明かりをわきへ置くと、彼のそばの、ベッドの上に腰をおろして、尋問した。長いあいだ彼はこっそり逃げ去ろうと試みたが、それでもとうとう秘密がばれた。
「それほど困ったことじゃないんだよ」と彼はおずおずと言った。「ただ、いろいろと動くときに心臓がけいれんするような感じがするし、ときにはまた呼吸のときにそんな感じがするというだけなんだよ」
彼はまさに、彼の病勢の進んだことが犯罪ででもあるかのように、わびを言うのだった。朝になると、わたしはある医者のところへ行った。よく晴れた厳寒の清らかな日だった。途中でわたしの胸苦しい不安や心配がやわらいだ、それどころかわたしはクリスマスのことを思って、しきりに、何でボッピを喜ばせてやることができるだろうかと考えた。医者はまだ家にいて、わたしの切なる願いに応じていっしょに来てくれた。わたしたちは医者の快適な車に乗っていった。階段をのぼって、ボッピの寝ている部屋にはいった。触診、打診、聴診がはじまった。そして、医者はほんのわずかまじめになり、彼の声がすこし親切さをましてくるあいだに、わたしの心のなかでは浮き浮きとした気分がすっかりくずれて、なくなってしまった。
痛風、心臓衰弱、重症――わたしは耳を傾けていて、すべてを記録したが、医者がボッピを病院へ運ぶようにと命じたとき、自分がそれに対してまったく抵抗しないことに自分で驚いていた。
午後になって患者運搬車がきた、そして、病院から帰ってきたとき、むく犬がわたしにからだをすり寄せてきて、病人の大きな椅子がわきに寄せられ、隣の部屋は空《から》になっているという住まいのなかが、わたしには恐ろしい気持ちがした。
好きであるということはいつもこうした事情のことなのだ。好きであるということは苦痛をもたらす、そして、わたしはこれに続く時期にそれらの苦痛の多くに耐えた。しかし、苦痛に耐えるか耐えないかというのは、かんじんなことではない! 強くいっしょに生きて、生きとし生けるものがわたしたちにかかわるよすがにする狭い、生き生きとしたきずなが感じられさえすれば、そして愛が冷淡にさえならなければいいのだ! あの時期にそうだったように、もしもう一度最も神聖なものをのぞきこむことが許されるのなら、そのかわりにわたしは、これまでに生きたすべてのほがらかな日々を、すべての恋着もろとも、また、わたしの創作のかずかずのプランもろともくれてやっていい。それは目にも心にもはげしい苦痛を与える、そして、りっぱな自負もうぬぼれもその悪質な針を取り去る、しかし、そのあとでは人は非常にもの静かで控え目になっているし、以前よりもはるかに成熟して、心の奥底から以前よりも生き生きしているのだ!
あの当時、すでにあの幼い金髪のアーギとともに、わたしの古くからの態度の一片が死んでしまっていた。いまわたしは、自分のまったき愛をささげて、自分の全生活を分け合ってきた愛するせむしのボッピが苦しんで、ゆっくり、ゆっくりと死んでゆくのを見て、毎日苦しみを共にし、死ぬということのあらゆる恐ろしさや神聖さにあずかった。わたしはまだ愛する術《すべ》における新米だったのに、すぐさま死ぬ術の第一章を始めなければならなかった。わたしはパリのことには口をつぐんできたが、この時期のことには口をつぐみはしない。この時期のことをわたしは、人妻が花嫁のころのことを、年老いた男が少年時代のことを語るように、大声で語るつもりだ。
わたしは、一生が苦悩と愛とにすぎなかった一人の人間の死んでゆくのを見た。わたしは、彼が体内に死の仕事を感じながら子どものようにおどけるのを聞いた。わたしは、重い苦痛のなかから彼のまなざしがわたしを捜すのを見たが、それは、わたしに何かをねだるためではなくて、わたしをはげまし、けいれんや病苦があっても彼の内部の最善のものが無傷のままに残っていることをわたしに見せるためだった。そういうときには彼の目は大きくなっていた、そして、彼の衰えてゆく顔は見えなくなって、彼の大きな目のかがやきだけが見えるのだった。
「何かしてやろうか、ボッピ?」
「話をしてもらいたい。ぼくの話でも」
わたしはぼくの話をした、彼は目を閉じた、そして、わたしはいつもどおりの話し方をしようと努力した、というのも、たえず泣きだしかけたからである。そして、彼がもう聞いていないか、あるいは眠っていると思われるたびに、わたしはすぐさま口をつぐんだ。すると彼はまた目をあけるのだった。
「――それから?」
そしてわたしは、ぼくのこと、むく犬のこと、わたしの父のこと、不良少年のマッテーオ・スピネリのこと、エリーザべトのことを話しつづけた。
「そうだ、彼女はばか者と結婚したよ。そういうもんなんだ、ぺーター!」彼はよく突然、死ぬことについて語りはじめた。
「これは冗談じゃないよ、ぺーター。どんなにむずかしい仕事でも死ぬことほどむずかしくはない。それでも、やりとげるさ」
あるいは、「この骨の折れる仕事を切り抜けてしまえば、わたしはきっと笑えるだろう。わたしだと死にがいがあるというもんだよ、わたしは、せむしと、短い足と、萎《な》えた腰からまぬがれる。きみだと、広い肩や美しい丈夫な脚を持ってるんだから、死ぬのは気の毒だ」
そして、最後の日々のあるとき、彼は短いまどろみから目ざめて、非常な大声でこう言った。
「牧師が言うような天国なんか全然ありはしない。天国はもっともっと美しいよ。もっともっと美しいよ」
指物師の妻はたびたびやってきて、かしこいやり方で思いやりや人助けを好む人柄を示した。指物師は全然やってこなくて、わたしは非常に残念に思った。
「きみはどう思う」と、わたしはついでのときに、ボッピに尋ねた、「天国にはバクもいるだろうか?」
「いるとも」と、彼は言ったうえにうなずきもした。「天国にはありとあらゆる種類の動物がいるよ、カモシカもね」
クリスマスの季節になった、わたしたちは彼のベッドのそばでささやかな祝いをした。きびしい寒さが襲ってきた、そしてまた雪が解けた。そしてつるつるする氷の上に新雪が降った、しかし、わたしはそういうことに何ひとつ気がつかなかった。わたしはエリーザべトが男の子を生んだという噂《うわさ》を聞いた、そして、それをまた忘れてしまった。ナルディーニ夫人からおかしげな手紙が届いた、わたしはそれをそそくさと読んで、わきへ置いた。
わたしは自分の書きものの仕事を、仕事のための時間はすべて自分や病人から盗んでいるものだといつも意識しながら、大急ぎで片づけた。それからわたしはあわただしくせかせかと病院へ駆けこむ。そこにはほがらかな静けさがあった、そして、わたしは夢のような深い平和に取りかこまれて、半日をボッピのベッドのそばにすわっているのだった。
彼は死ぬ直前に二、三日、いつもより加減がよかった。そのときは奇妙なことに、過ぎ去ったばかりの時期が彼の記憶のなかで消えてしまったようなふうで、彼はまったく、ずっと若かった時期にだけ生きていた。二日間というもの彼は自分の母親のことばかり話した。もちろん彼は長いあいだ話しつづけることはできなかったが、しかし、何時間も休んでいるときにも彼が母親のことを考えているのが見て取れた。
「わたしはきみにあまりにも母の話をしなさすぎた」と彼は嘆いた、「きみはわたしの母に関係のあることは何ひとつ忘れちゃいけないよ、そうでないと、わたしの母のことを知っていて母に感謝している人間が間もなくだれもいなくなってしまう。すべての人びとがああいう母を持っていたら、いいだろうなあと思うよ、ぺーター。わたしが二度ともう働けないようになったとき、母はわたしを救貧院へは入れなかったのだからね」
彼は横になったまま、ひどく苦しそうに息をした。一時間たつと、彼はふたたび話しはじめた。
「母は自分の子どもたち全部のなかでわたしをいちばん愛して、死ぬまでわたしを自分のそばから離さなかった。男のきょうだいたちは外国へ移住し、女のきょうだいは指物師と結婚した、しかし、わたしは家に引きこもっていた、そして、母はたいへん貧しかったが、わたしにその仕返しをするというようなことは一度もしなかった。ぺーター、きみはわたしの母を忘れてはいけないよ。彼女はとても小さかった、おそらくわたしよりももっと小さかった。わたしと握手するときには、いつも、まるで非常にちっぽけな鳥が手の上にとまるような感じだった。母が死んだとき、隣のリューティマンが、母には子ども用の棺があれば間に合う、と言ったよ」
ボッピにとってもほとんど子ども用の棺で足りたことだったろう。彼は病院の清潔なべッドのなかに、いかにも影の薄い小さな姿を横たえていた。そして彼の手は、長く、細く、白く、すこしねじれていて、病気の女の手のように見えた。彼が自分の母の夢を見ることをやめたとき、彼の夢の対象はわたしの番になった。彼はわたしのことを、まるでその場にいない者のように話した。
「彼は、もちろん、運の悪い男だが、しかし彼にはそれでかまわなかったのだ。彼の母はあまりにも早く死にすぎた」
「まだわたしがわかるかい、ボッピ」とわたしは尋ねた。
「わかりますとも、カーメンツィントさん」と彼はふざけた言い方をして、そっと忍び笑いをした。
そのすぐあとで彼は「歌えたらいいんだが」と言った。
最後の日にも彼はこんなことを尋ねた、「きみ、この病院は金がたくさんかかるのかい? とても高くなるかもしれないね」
しかし彼は返事を期待したのではなかった。彼の白い顔に美しい赤らみがさしてきて、彼は目をつぶった。そして、しばらくは非常に幸福な人間のように見えた。
「もうおしまいです」と看護婦が言った。
しかし彼はもう一度目を開けて、いたずらっぽい目でわたしを見つめ、わたしにうなずきかけるとでもいうように眉《まゆ》を動かした。わたしは立ちあがって、片手を彼の左肩の下に入れ、そっと彼をほんのすこし持ちあげた、こうすると彼はいつも喜んだものである。そうやってわたしの片手に持ちあげられたまま、彼はもう一度短時間の苦痛に唇をゆがめ、それから頭をすこしまげて、突然寒けをおぼえるとでもいうように身ぶるいした。それは救いだった。
「ぐあいはいいかい、ボッピ」とわたしはなおも尋ねた。しかし彼はすでにその苦悩をまぬがれて、わたしの手のなかで冷たくなっていった。それは一月十七日、午後一時だった。
夕方わたしたちは万端の準備をした。小さなせむしの身体は平和に清潔に、それ以上にはゆがめられずに、そこに横たわり、持ち出されて葬られる時のくるのを待っていた。この二日のあいだわたしは絶えず自分がとくに悲しくもないし、途方に暮れもしなくて、泣くことさえしなくていいのを不思議に思っていた。わたしは別離や告別を病気のあいだに徹底的に深く感じてしまっていたので、いまはその残りがわずかしかなく、わたしの苦痛の一定しない表面は徐々に軽快にふたたび高みへ登っていった。
それにもかかわらずわたしにはいまが、この町からこっそりと去って、どこかで、たぶん南国で休養して、自分の作品の手はじめに大ざっばに構想を立てた織り物をひとつまじめに織機にかける潮時のように思われた。わたしはわずかばかり金を残していたので、文筆上の義務を見捨てて、春の最初の始まりとともに荷物をまとめて出発するように準備した。
まず、あの青物商の女がわたしの訪れを待ちかまえているアシジヘ、それから大いに仕事をするために、どこかできるだけ静かな山村へ行こう。わたしには自分がもう十分なだけ生と死とを見たから、他の人びとに対して、自分が生や死についていささか理屈をこねるのを聞いてもらいたい、と要求してもかまわないように思われた。気持ちよくいらいらしながら、わたしは三月になるのを待ち、予感しながらすでに耳にはイタリアの力強いことばを満たし、鼻にはリゾットやオレンジやキアンティ産のブドウ酒のくすぐったいようなかぐわしい香りをかいでいた。
この計画は非の打ちどころのないもので、それを熟考すればするほど、ますますわたしを満足させた。しかし、わたしはあらかじめキアンティを楽しんでいいことをした、というのも万事がまるきり別になったからである。
旅館の主人ニューデガーの軽快な、空想的なスタイルの手紙が、二月にわたしに、雪が非常にたくさん積もっていて、村では人畜のすべてが秩序整然としているわけでなく、とくにお父上の状態に気づかわしいものがあるから、要するに貴殿が金を送ってよこすなり、ご自分で来るなりするのがいいと思うと、知らせてくれた。送金がわたしにはふさわしいことでなくて、老父のことがほんとうに心配になったから、わたしは旅立つほかになかった。
あるぶあいそうな日にわたしは故郷に着いた。降雪と風とのために山々も家々も見えなかった。そして、目をつぶっても歩けるほど道を知っていることがわたしの役に立った。老カーメンツィントはわたしの予想と違って、ベッドに寝ているのではなく、みすぼらしい、しょんぼりとしたかっこうで暖炉のすみに腰をかけ、近所の女の一人に攻撃されていた。彼女は彼にミルクを持ってきてやって、ちょうど、彼のよろしくない行状について徹底的に、根気強くお説教をしているところだったが、わたしがはいっていっても彼女はお説教をやめなかった。
「ルエク、べーターが帰ってきたよ」としらがの罪人は言って、わたしに左の目でまばたきをした。
しかし近所の女は迷わずに説教をつづけた。わたしは椅子に腰かけて、彼女の隣人愛の尽きるのを待っていたが、彼女の講話のなかにわたしが聞いても害にはならない訓戒を二、三見いだした。それと同時にわたしは、マントや長靴の雪が解けて、わたしがすわった椅子のまわりに、まず、ぬれた点を、それから、静かな池を作るさまをながめていた。近所の女が説教を終えたときにはじめて、老父とわたしとの公認の再会がおこなわれ、これには近所の女がいかにもあいそうよく参加した。
父の体力は非常に衰えていた。自分が前に短期間、父の世話をしようと試みたことが思い出された。それでは、あのときわたしが出発したことは何の役にも立たなかったのだ。そして、わたしはいま、もちろん前よりも必要になっていたのだから、当然の結果を忍ぶことができた。
その現在よりもましな時期においても徳行の模範ではなかった。ずんぐりした老農夫に、老人病にかかっている日々におだやかになれ、子としての情愛の芝居に立ち会って感動してもらいたい、と要求することはけっきょくできるものではない。事実わたしの父は息子の愛の芝居に感動するなどということは全然なくて、病気が重くなればなるほど、ますます憎たらしくなり、以前にわたしが父を苦しめる材料にしたすべてを、利子をつけてではないにしろ、きっぱりと、よく計測して、わたしに返済してしっペい返しをした。
もちろん父はわたしに対してことばをかけることに控え目で、ことばづかいに慎重だったが、しかし、父はことばを使わないで、不平不満であったり、にがにがしくしたり、粗野にしたりする思い切った手段をたくさん使いこなせたのである。わたしはときどき、自分もいつか年寄るとあんないやな、気むずかしいやつになるのだろうかと怪しんだ。飲酒は彼にとってもう終わったようなものだった。そして、わたしが彼に毎日二回注いでやる上等の南国産のブドウ酒のグラスを彼はひたすら意地の悪い表情をしたまま味わっていたが、それは、わたしがブドウ酒のびんをいつもすぐまた空っぽな地下室へ運び返して、地下室の鍵をけっして彼にまかせないからだった。
二月の終わりごろになって初めて、高山系の冬をいかにもすばらしいものにするあの晴れた幾週間がおとずれてきた。雪におおわれた高い断崖絶壁がヤグルマギク色の青い空にくっきりとそびえ立ち、透明な大気のなかで、ありそうもないほど近いように見えた。草地や丘は雪に――山の冬の雪におおわれていた。これほど白くて、水晶のように透明で、きびしい香りのする雪は谷合いの土地ではけっして見られない。小さな土のもりあがったところでは日の光が正午に光り輝く祭典を祝い、盆地や傾斜面には満ち足りた青い影が横たわり、何週間も雪が降ったあとの空気はすっかり清められているから、日なたで息をすると、ひと息ひと息が享楽である。小さめの丘では若い人たちが橇《そり》を走らせることに夢中になっている。そして、正午すぎにはしばらく老人たちが通りに立って太陽を楽しむ姿が見えるが、夜になると屋根|桁《けた》がきびしい寒さのなかで音を立ててきしむ。白い雪原のまんなかに、けっして凍ることのない湖が静かに青く、夏のあいだのどんな美しい姿よりも美しい姿で横たわっている。
毎日昼食前にわたしは父に手つだって家の前に出してやり、父がその褐色になった、節くれだって曲がった指を太陽の気持ちのよい暖かさのなかへ伸ばしてやるところをながめた。それからしばらくすると父は咳《せき》をしはじめ、冷えびえするとこぼしはじめるのだった。それはわたしからブランデーをせしめるための父の無邪気な手管《てくだ》の一つだった。というのも、咳も冷気もまじめに取るべきものではなかったからである。そういうわけで、父はコップ一杯のリンドウ・ブランデーか、小さなコップ一杯のアブサン酒をもらい、巧妙に転調しながら咳をすることをやめ、わたしにいっぱいくわせたことをひそかに喜ぶのだった。
食後には、わたしは父をひとりぼっちにして、ゲートルを巻きつけ、二、三時間のあいだ、山の上へ出られるだけ出て、帰り道は、持っていった果物袋に乗って、傾斜した雪原を滑り落ちながら戻った。
わたしがアシジへでも旅行するつもりでいた時がきたとき、雪はまだ数メートルも深く積もっていた。四月になってやっと春は動きはじめた、そして、何年となく見たこともないような、意地の悪い急速な雪解けが、わたしたちの村を襲った。昼も夜も南風《フェーン》のほえる音、遠方のなだれの走る音、急流のはげしいざわめきの音が聞こえたが、急流は大きな岩塊や引き裂かれた木を運んできて、わたしたちの貧しい、狭い田畑や果物畑に投げ出した。南風の熱のためにわたしは眠られなかった。夜々わたしはあらしが嘆き、なだれの音がとどろき、荒れ狂う湖が岸辺にどよめくのを、感動しながら不安でたまらない思いで聞いていた。春の恐ろしい闘争がくりひろげられるこの熱にうかされているような季節にわたしはもう一度、克服した恋わずらいに非常にはげしく襲われたので、わたしは夜起きあがって、戸の上の窓に横たわり、つらい苦痛を感じながらエリーザべトに寄せる愛のことばを戸外の絶え間のないどよめきのなかへ叫び込んだ。
わたしがイタリアの女流画家の家を見おろす丘の上で愛のあまりに荒れ狂った、あのチューリヒの生あたたかい夜からこのかた、情熱がそれほど恐ろしく、抵抗しがたくわたしを支配したことは二度となかった。わたしはしばしば、あの美しい婦人が目の前のすぐ近く立っていて、わたしにほほえみかけるが、しかし、わたしの彼女に近づく一歩ごとに、あとずさりするような気がした。わたしのさまざまな考えは、どこから来た考えであろうと、かならずこの光景に立ち帰った、そして、わたしは負傷した人間のように、むずがゆい潰瘍《かいよう》をくり返しくり返し掻《か》きむしるのをやめることができなかった。わたしは自分の前に出ることを恥ずかしく思ったが、そう思うのは苦しくもあるし無益なことでもあった。わたしは南風《フェーン》を呪《のろ》って、あらゆる苦痛を感じながらも、きれいなレージーのことを思って、生ぬるい暗い波にひたされていた少年時代とそっくり同じように、ひそかに、口に出さない暖かい快感をおぼえていた。
わたしはこの恋わずらいという病気をいやす薬はないことを悟って、すくなくともすこし仕事をしてみようと試みた。わたしは自分の作品の構成に取りかかって、二、三の試作を書いたが、間もなく、いまはまだその時でないことがわかった。そうこうしているあいだに、いたるところから南風の悪い知らせが届いた、そして、村自体にも難儀が増大した。川の堤防がいくつも半ばこわれてしまい、多くの家、納屋、家畜小屋がはなはだしい損害を受け、よその村から何人もの救済を要する宿なしが到着し、いたるところに悲嘆と難儀とがあり、金はどこにもなかった。このころのことだったが、さいわいにも村長がわたしを彼の小さな会議室に迎えによこして、一般の苦境を救済するための委員会に参加する気があるかどうかと尋ねた。わたしなら、村の問題を州《カントン》に対して主張して、とくに諸新聞を通じて動かすことによって国に関心を持たせ補助金を出させることができるだろうと思う、ということだった。
ちょうどいま自分の無益な特殊な苦悩を、もっと真剣でりっぱな問題のために忘れることができるのは、わたしには好都合だった。そしてわたしは死にもの狂いになって突進した。手紙を通してわたしはバーゼルにたちまち数人の募金者を獲得した。州は、わたしたちがあらかじめ承知していたように、金がなくて、ただ二、三人の助手を派遣することができただけだった。そこでわたしは諸新聞に呼びかけていろいろな報告を寄せた。手紙や寄付や問い合わせが続々と来た。わたしは書く仕事のかたわらさらに石頭の百姓どもを相手に村会の喧嘩を戦い抜かなければならなかった。
二、三週間のきびしい、避けられない仕事はわたしのためになった。事態がしだいに規則的な軌道に乗せられるとともに、わたしのそこにいる必要度が前よりも少なくなったときには、周囲《あたり》の草地は青々となり、湖は無邪気に日ざしを浴びながら、雪から解放された山腹のほうへ青い顔をあげていた。父はまあがまんのできる日々を過ごしていたし、わたしの愛の苦悩は汚《きたな》いなだれの残りのように解け去り消え去っていた。この時期には以前は父が小舟にワニスを塗り、母が菜園からそれを見物し、わたしは老父の仕事ぶりや、彼のパイプから出るけむりの雲や、黄色い蝶《ちょう》をながめたものだった。このときはもうワニスを塗る小舟はなく、母はとっくに死んでいて、父はおもしろくなさそうな様子で、ほったらかされた家のあちこちにうずくまっていた。
コンラート伯父《おじ》もわたしに昔のことを思い出させた。わたしはしばしば、父に見られないようにしながら、伯父を連れてブドウ酒を飲みにゆき、伯父が話をして自分の多くの計画を、思いやりの笑いを浴びせながら、しかし得意そうに思い出す話に耳をかたむけていた。新しい計画は伯父は目下のところもう何もしていなかった、そして老年のしるしが彼にはその他の点でもはっきりと出ていた。にもかかわらず彼の表情や、とくに彼の笑い方には少年あるいは青年らしいところがあって、それがわたしを喜ばせた。家で老父のそばではどうにもがまんができないというときには、伯父はしばしばわたしを慰めて気を晴らしてくれた。彼をブドウ酒を飲みに連れてゆくことになると、彼はわたしの横をせかせかと早足で歩いてきて、彼の曲がった痩《や》せた脚をわたしの脚と同じ歩調にしておこうと、心配そうに努力するのだった。
「帆をかけなくちゃ、コンラート伯父さん」と、わたしは彼を元気づけた、そして、帆のことからわたしたちはいつも家の古い小舟のことを話すようになるのだったが、その小舟はもうなくなっていて、それを伯父は愛する故人のことのように嘆くのだった。その古い舟はわたしも愛したもので、そして今はなくなっていたのだから、わたしたちはその舟のことや、その舟で起こったあらゆる事件を微細な点まで思い出すのだった。
湖は以前と同じように青かった、太陽も昔に変わらず祭日のようにはなやかで暖かだった。そして、若年寄りのわたしはしばしば黄色い蝶をながめて、当時からこのかたけっきょくのところあまり変わっていなくて、自分もまた昔のように草原に横たわって少年の夢を案出することができるというような感じを持った。そういうわけではなくて、わたしが自分の歳月のかなりの部分をすでに永久に使いはたしていることをわたしは毎日洗面のときに、錆《さ》びたブリキのたらいから厚い鼻と老嬢のような口をつけた自分の顔がわたしにほほえみかけるときに見ることができた。老カーメンツィントは、わたしが時代の変化を見そこなわないように、いっそうよく配慮してくれた。そして、わたしがすっかり現在のなかへはいりこんでいたいと思う場合には、わたしは自分の部屋のなかの机の開《あ》けにくい引き出しを開けさえすればよかった。引き出しのなかには、古くさくなった小品文の包み一つと、四つ折り判の紙に書いた六つか七つの草案とからなるわたしの未来の作品が横たわって眠っていた。しかしわたしはこの引き出しをめったに開けない。
老父の世話のかたわら、わたしたちのおちぶれた家の手入れがわたしにたくさんの仕事を与えた。床板には深い穴があいていた、暖炉やかまどはこわれていて、煙を出したり悪臭を発したりした、ドアがいくつも閉まらなかった。そして、父の飼育のかつての舞台だったあの干し草置き場へのぼるはしご階段は、生命の危険があった。これらをどうにかするためには、まずそのまえに斧《おの》を研《と》ぎ、鋸《のこ》を修繕しなければならなかった。ハンマーを借り、釘《くぎ》を捜し集めなければならなかった、それから、以前の木材のたくわえの腐敗しつつある残りからまだ使えるものをこしらえなければならなかった。
いろいろな道具や古い砥石の修繕のときにはコンラート叔父がすこしわたしを助けてくれた。しかし、彼はあまりにも年老いていたので、多くの役には立たなかった。そこでわたしは自分のやわらかい文筆家の手を強情な木材にあてて引き裂き、ぐらぐらする砥石をふみ、いたるところ密でなくなった屋根のあちこちによじ登り、釘を打ち、槌《つち》で打ち、屋根板で葺《ふ》き、切り刻んだ。その際わたしのいくらか肥満してきたからだは多くの汗の粒を流した。ときどきわたしはまた、とくにやっかいな屋根の修繕のときに、槌《つち》打ちのまっ最中に仕事をやめ、まっすぐな姿勢ですわり、半ば消えた葉巻きをふたたび吸いはじめ、深い青空をながめ、いまは父はけっしてわたしを激励することも叱責することもできないといううれしい意識で自分の怠惰を享楽した。それから近隣の人たち、おかみさんたち、老人たち、学童たちがそばを通りすぎてゆくと、わたしは自分の無為を美化するために、彼らと親しい会話をはじめて、しだいに、物のわかった話をすることのできる男という評判が立つようになった。
「きょうは暑いのだろうか、リスべートさん?」
「どっちみち暑いのよ、ぺーター。なんの仕事だね?」
「屋根のつくろいだ」
「かまわないじゃないの、どっちみちもう前から必要だったことだもの」
「たしかに、たしかに」
「年寄りは何をしてる? 造作もなく七十歳になるだろう」
「八十だよ、リスべートさん、八十だよ。もしわたしたちがあんなに年取ったら、どんなことになるだろう? 冗談じゃないからね」
「たしかにそうだよ、ぺーター、ところでわたしはもう行かんといかん、うちの人が食事をするからね。そのあいだにうまくやってちょうだい!」
「さよなら、リスベートさん」
そして彼女が小さな布片にくるんだ鉢《はち》を持って先へ歩いてゆく一方で、わたしは空中にたばこの煙の雲を吹き、彼女を見送り、すべての人びとがいかにも勤勉にめいめいの仕事にいそしんでいるのに、わたしはもうまるまる二日間同じこわり板のぐるりに釘を打っているなどということがどうして起こるのかと、つらつら考えてみた。しかし、それでもついに屋根のつくろいが終わった。父は例外として屋根のつくろいに興味を持った。そして、父を屋根の上へ引きずりあげるわけにはいかなかったから、わたしは彼にくわしく口で描写して、半分のこわり板についてもいちいち報告しなければならなかったが、その際二、三のほらがまじったことは、わたしには問題にはならなかった。
「これでいい」と彼は認めるのだった、「これでいい、しかし、お前が今年のうちに仕上げるなんて、思いもよらなかったよ」
ところで、自分の遍歴や人生実験を吟味熟考してみると、魚は水に属するもの、百姓は土地に属するもので、ニミコン生まれのカーメンツィントはどんな手管《てくだ》を使ったところで都会人や社交家にはなれない、という昔からの経験を自分についても体験したことになるのだが、それはわたしを喜ばせもするし怒らせもする。わたしは、それでこそ秩序が取れているのだと見ることに慣れつつあるし、世間の幸福を追うわたしの不器用な狩りが、わたしの意に反して、わたしを湖と山々とのあいだにはさまった昔ながらの片隅へ連れもどってくれたことを喜んでいる。わたしはこの片隅に属しているのだし、ここではわたしの美徳も悪徳も、しかし、とくに悪徳が普通な、ありきたりのことなのである。故郷の外では、わたしは故郷を忘れてしまい、自分で自分のことが一種の稀《まれ》な珍しい植物だと思われるようになりかけていた。いまのわたしには、自分の内部に出没して故郷以外の世界の慣習に従えなかったものはニミコンの精神にすぎなかった、ということがわかりつつある。ここでは、わたしを恋人と見ようなどということはだれも思いつかない、そして、自分の年老いた父やコンラート伯父を観察するたびに、わたしには自分が父のりっぱな出来ばえの息子であり、伯父のりっばな出来ばえの甥《おい》であるように思われる。
精神やいわゆる教養の国におけるわたしの二、三の電光形の飛躍など、伯父のあの有名な帆走と比較されるのがちょうどよいくらいのものだが、ただ金と苦労と美しい歳月との点でわたしには高いものについた。外から見てもわたしは、従兄弟《いとこ》のクオーニがわたしのひげを切りちぢめてから、そして、わたしがまた帯つきのズボンをはくようになり、上着なしで歩きまわるようになってから、ふたたびすっかりこの土地の者になったし、やがてしらがの老人になったら、だれにも気づかれないでこの村の生活におけるわたしの父の地位とささやかな役割とを引きつぐことになるだろう。人びとはただ、わたしが数年のあいだ外国にいたということを知っているだけである、そしてわたしは自分が外国でどんなにみじめな仕事をし、どんなに多くの水たまりにはまりこんだかということは言わないようにじゅうぶん用心している。さもないとわたしはじきに笑われて、あだ名をつけられるだろう。ドイツの、イタリアの、あるいはパリの話をするたびに、わたしはすこし自分をふくらませる、そして、最も正直なくだりにおいてさえ、ときどき、自分自身の誠実さがいささか疑わしくなる。
さて、こうも多くの迷い歩きをかさねて年月を使い尽くしたあげく、いったいどんな結果になったのだろう? わたしの愛して、そして今だに愛している女はバーゼルで彼女の生んだ二人のかわいらしい子どもを育てている。わたしを好きになったもう一人の女はあきらめて、果物や野菜や種子を商いつづけている。わたしは父のために故郷の古巣へもどってきたのだが、その父は死にもしなければ回復もしなくて、わたしと向かい合ってその小さな寝椅子にすわり、わたしを見つめ、わたしが地下室の鍵を持っているのをうらやんでいる。
しかし、それがすべてというわけではない。わたしにとっては、母や溺れ死んだ青年時代の友のほかに、金髪のアーギと小さなせむしのボッピとが天使になって天国に住んでいる。そしてわたしは、村で数軒の家がまた修繕され、二つの石堤がまた築かれているのを見た。もしその気があれば、わたしも村会の議員になれるだろう。しかし村会にはもうじゅうぶんカーメンツィントたちがいる。
ところでわたしに最近もう一つ別の見込みが開けた。わたしの父やわたしが何リットルものヴェルトリーン・ブドウ酒、ヴァリス・ブドウ酒、ヴアートラント・ブドウ酒を飲んだ飲み屋の持ち主であるニューデガーが、けわしい下り坂になりはじめて、自分の商売に対する喜びをなくしている。彼は近ごろわたしに自分の不幸を訴えた。この件でいちばん困ることは、そうするという土地の人がだれも出てこなければ、外国の醸造所がニューデガーの屋敷を買う、そうなればもうだめになってしまって、ニミコンには快適な飲み屋がないことになる。
だれかよその賃借り人が入れられるだろうが、その男はもちろんブドウ酒よりはビールの量《はか》り売りをして、その男のもとではニューデガーのりっぱな地下室はだいなしにされ、だめにされてしまう。そのことを知ってからというもの、わたしは落ちつけない。バーゼルにはまだわたしの金がすこし銀行にあずけてあるし、老ニューデガーはわたしを最悪の後継者とは思わないだろう。
このことでの難点は、わたしが父の生存中には旅館の主人になりたくないという点だけである。それというのも、一つにはわたしが年老いた父を栓《せん》でふさぐことからけっして遠ざけることができないし、その上に父は、わたしがラテン語やその他の勉強をしたにもかかわらずニミコンの居酒屋の主人までしか出世しなかったことについて、その勝利を得るだろうからである。そうなってはいけない、そこで、わたしはしだいに老父の死ぬのをいささか待ちはじめた、性急にではなく、ただ善い事のために。
コンラート伯父は、長年のあいだ静かにぼんやりと暮らしていたが、最近ふたたび興奮して活動欲を起こしている、それはわたしの気に入らない。彼はたえず人さし指を口に入れて、額には一本の考えるしわを寄せ、部屋のなかをせかせかと小刻みに歩きまわり、晴天のときにはしばしば湖を見わたしている。
「わたしゃいつも思うんだけど、うちの人はまた小舟を作りたいんじゃよ」と老妻のツェンツィーネが言った。そして伯父は実際この数年来なかったほど生き生きとして大胆に見える。こんどはどんなふうにしなければならないのか、それをいま正確に知っているとでもいうような、抜け目のない、優越した表情を顔に浮かべている。しかしわたしは、これは何にもなりはしない、これは彼の疲れた魂が、間もなくわが家に行き着くために、いま翼を欲しがっていることだ、と思っている。
帆をかけなくちゃならないよ、年老いた伯父さん! しかし、もしも伯父がいよいよのことになったら、そのときにはニミコンのお歴々は聞いたためしもないようなことを聞くことになるだろう。というのもわたしは、彼の墓辺で神父に次いでいささかものを言ってやろうと決心しているからだが、神父につづいてだれかが何か言うなどということはこの土地ではまだ一度も起こったことがない。わたしは伯父のことを天国に行った、神の寵児《ちょうじ》であると言うだろう。そしてこの信心を起こさせるような部分に次いで、愛する喪中の人びとに対する手ごろな量の塩とこしょうとをつづかせるつもりだが、人びとはそれをわたしに対してそうすぐには忘れも許しもしないだろう。おそらくは父もこれを見聞きするかもしれない。
そして引き出しのなかにはわたしの大がかりな作品の初めの部分がはいっている。『わが生涯の仕事』と言えば言えるだろう。しかし、それではあまりにも壮重に聞こえる。そしてわたしはむしろそうは言わない、というのも、白状しなければならないが、この作品の進行も完成もか弱い脚の上に立っているからだ。ひょっとするともう一度、わたしが新たに始め、続け、完成する時がくるかもしれない。そうなればわたしの若い日のあこがれは正しかったわけで、わたしはやはり詩人だったことになる。
それはわたしにとって村会や石堤と同じように、あるいは、それ以上に価値のあることだろう。しかし、わたしの生涯の過ぎ去りはしたが失われなかった部分は、すらりとしたレージー・ギルタナーから気の毒なボッピにいたるすペての愛する人びとの姿とともに、それと引き換えにはなるまい。 (完)
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解説
人と文学
ドイツの文学は、他のヨーロッパの国々、とくにフランスの文学が「社会的」であるのに対して、一般に「内面的」であるといわれている。この内面性がどのようにして形成されてきたのか、それはさまざまに説明されているが、いずれにもせよ、この内面的性格はドイツ文学の宿命といえよう。
もちろんそのドイツの詩人、作家のうちにも、このような宿命の克服を意図したひとびとは存在する。しかしへルマン・ヘッセは、ドイツ文学の宿命的な内面性をいわば一身に具現しているひとりではないだろうか。しかもへッセは、無自覚に宿命のとりこになっていたのでもなく、外界とのかかわりを絶つところに生ずる無風の温室的空間に安住する|ひよわ《ヽヽヽ》な存在でもなかった。たしかにその神経は繊細鋭敏で傷つきやすかった。にもかかわらずへッセは、たじろぐことなくけわしい「内面への道」を歩みつづけ、内面への強烈な意志によって繊細な神経の破綻《はたん》を克服し、終生、求道者的な姿勢を失うことがなかったのである。
ヘッセの作品は、非ドイツ語圏のうちでは日本においてもっとも多くの読者を見出しているといわれているが、それはおそらく、ヘッセのこの求道者的な姿勢に日本人の共感を誘うものがあるからであろう。
ここでへッセの生涯と作品について、かんたんに触れてみよう。
〔出生〕ヘルマン・ヘッセは、一八七七年七月二日、西南ドイツの小さな、美しい町カルヴに生まれた。「詩人となったわたしが、森や川、谷間の牧草地、カスタニエンの木蔭やモミの木の香を語るとき、わたしの脳裏にあるのは、カルヴをとりまく森であり、カルヴを流れるナーゴルト川であり、カルヴのモミ、カルヴのカスタニエンである」とへッセが書いているように、シュヴァルツヴァルト(黒森)北辺の、人口一万に足らないカルヴの町をとりまく自然は、詩人の魂の形成に大きな役割を果たしたのだった。
しかしへッセはただたんに、このシュヴァーべン地方の田舎町の、世間知らずの自然児であったのではない。へッセの家庭環境は、幼い少年の心の糧《かて》に、いわば世界を提供できるような環境であった。
父親ヨハネス・ヘッセは、バルト海沿岸のエストニア出身で、若いころスイス伝道団に加わってインドに赴《おもむ》き、三年のあいだ布教活動に従事したが、その体質がインドの風土に耐えられなかったので、一八七三年ヨーロッパに戻り、カルヴで研究・出版活動をしていたインド学者へルマン・グンデルト博士の助手となった。グンデルト博士は、きわめて個性的な人柄で、学生時代は汎神《はんしん》論者であったといわれ、シュヴァーべンの詩人へルダーリンを思わせる詩を書くようなこともあったが、「回心」を体験して、インドに赴き、布教をおこなうとともに、インドの言語の研究にも成果をあげた。そしてフランス系スイス人の女性と結婚し、やがてカルヴに戻ってきたのだが、ヨハネス・ヘッセが伝道団の指示でグンデルト博士の助手となったころには、その娘マリーが最初の夫に先立たれ、二児をともない父のもとに暮らしていたのである。ヨハネス・ヘッセは一八七四年秋このマリーと結婚したのだが、孤独な性格で求道者の風格をそなえていたといわれる。そして、妻をふくめてすべてのひとびとがシュヴァーベンの方言をしゃべっていたなかで、標準ドイツ語しかしゃべらなかったこの父親は、幼いへルマン・ヘッセに驚嘆の念を呼びおこしたのであった。
幼いヘッセの周囲のひとびとはそれぞれの性格によってその心に影響を及ぼしたが、ヘッセがついに会うことのなかった父方の祖父からも、ヘッセは深い感銘を受けていた。祖父カール・へルマン・ヘッセは、エストニアのヴァイセンシュタインの医師で、町の有力者であり、息子のヨハネスとは違って強壮で明朗な性格の人物であった。この祖父のことを父親からいろいろと聞かされたヘッセは、かえって直接に会った以上の強い印象を与えられた。
いわば「多くの世界がこの家のなかで光を交錯させていた」のである。
〔少年時代〕一八八一年、ヨハネスの仕事の関係で一家はスイスのバーゼルに移るが、ここでへッセの学校生活がはじまる。この時期の思い出は『ヘルマン・ラウシャー』(一九〇一年)の「わが少年時代」の章などに描かれているが、このころの母親の日記にも、ヘッセの面目をしのばせるエピソードが盛られている。――いたずらの罰に客間にとじこめられたへッセは、あとで「あんなところにぼくをとじこめてもだめさ。窓から外を眺めて楽しむことがぼくにはできるもの」と言ったという。
また父親もある手紙のなかで、「いろいろな方面に才能をもっているらしい。月や雲を眺めていることがよくあるし、飽きもせずにオルガンを弾くし、鉛筆やペンでまったく見事な画を描くし、その気になれはきちんと歌も歌う……」と書いている。
一八八六年一家はふたたびカルヴに戻る。父親がグンデルトの後継者として仕事を引きつぐことになったからである。へッセはここでラテン語学校に通うが、そのへッセにとってカルヴの町は「ブレーメンとナポリ、ヴィーンとシンガポールのあいだのもっとも美しい町」となり、ヘッセの作品の多くに、ゲルバースアウという名を与えられて登場することになる。
もっとも学校生活は好もしいものではなかった。学校はへッセにとつて敵対的な力であり、これと戦うためとあれば、いかなる手段に訴えることも許されるものであった。そしてへッセはギリシア語に没頭し、生活上の利便とはかかわりなしにひとつの言葉を覚えることにひそかな誇りを覚えるのだった。
詩人になろうと心にきめたのもこのころであった。「十三歳のころからわたしにただひとつはっきりわかっていたのは、詩人になるか、さもなけれは何にもなりたくない、ということであった」と後年へッセは記している。しかしこの反抗的な少年を宗教家にしようと考えていた両親は一八九〇年、ヘッセをゲッピンゲンのラテン語学校に入学させた。神学校入学資格取得者を輩出させることで定評のあったこの学校での生活はわずか一年半であったが、ヘッセは校長オトー・バウァーの影響もあって、もっとも神妙な学校生活をおくることになる。
へッセは首尾よく試験に合格してマウルブロンの神学校に入学したが、この神学校は、宗教改革時代以来ヴュルテンベルク州に設けられていた神学準備教育のための学校のひとつで、この州特有の学校制度の声望は、ドイツ全土に及んでいた。そしてマウルブロンの神学校の規律は厳格なものではあったが、ヘッセにとってはけっして耐えがたいものではなく、両親あての手紙などからすると、むしろ一年もたたないうちに脱走事件をおこすことなど想像もつかないくらいである。教師たちもこれを唐突な事件として形式的な罰を課するにとどめ、重大視するようなことはなかったのだが、ヘッセはこの事件を契機として深刻な精神的危機に見舞われることになり、数年のあいだその重苦しい影響から逃れられなくなってしまったのである。
「四年以上というもの、何をやっても、すべてがどうしてもおかしな工合になり、どこの学校もわたしをとどめておこうとしなかったし、どんな職業にも根がつづかなかった。わたしを使いものになる人間に仕立てあげようとする試みは、すべて不成功に終わった」事実、神学者ブルームハルトのもとにあずけられ精神療法をうけていたへッセは、自殺を企《くわだ》てて見はなされるし、精神薄弱児施設で働いたあと入学した、カンシュタットのギムナージウムにも一年しか在学しなかった。エスリンゲンのマイヤー書店の見習い店員になったが、ここは三日で逃げだし、ついに両親の家からカルヴの時計工場の見習いとして通うことになる。この機械工としての生活がどうやらへッセの精神に安定をもたらし、十四か月後にはどうやら「実際的人間」として生活する自信が湧いてくる。そこでへッセは両親の了解をえて、大学町テュービンゲンのへッケンハウアー書店に三年契約で見習い店員となった。一八九五年、十八歳のときである。
〔青年時代〕この時期のへッセは書店員としての業務に打ちこみ、しかもなおわずかに残った余暇を、一日の仕事の疲労にもめげず、むさぼるような読書に費すといった生活ぶりであった。その読書の中心はゲーテであり、やがてロマン派の詩人たちもへッセの関心をとらえることになったが、とくにノヴァーリスに対する傾倒は顕著であった。一八九八年に見習い期間を了《お》えて正式店員になったへッセが、翌年自費出版した『ロマン的な歌』の巻頭には、ノヴァーリスの詩が掲げられている。さらにおなじ年、散文集『真夜中すぎの一時間』が公刊され、発行部数こそ少なかった(六〇〇部)が、リルケはこれをある書評中で取りあげ、その「畏敬《いけい》は誠実で深い。その愛は大きく、盛られた感情はすべて敬虔《けいけん》である」として推賞した。
この一八九九年八月、ヘッセはへッケンハウアー書店を止めてバーゼルのライヒ書店に移る。当時のあたらしい文学生活の中心であったベルリンやミュンヘンではなく、古い歴史、高い文化のバーゼルにへッセが心をひかれたということは、ヘッセの資質を物語るものといえよう。そして古書店員としての実務のかたわら、哲学者ニーチェや歴史家ヤーコプ・ブルクハルトの間接的な、しかし強い影響を受けるとともに、歴史家ヴァッカーナーゲルや美術史家ヴェルフリーン、ニーチェ研究者ヨエルなどの知己をえて、交友範囲をひろめるとともに、美術の世界に対する目が大きく開かれ、とりわけバーゼル生まれのアルノルト・べックリーンの画に耽溺《たんでき》した。この間に現実に対するへッセのあたらしい関係が形成されてゆき、ヘッセはしだいに自身に対して自信をもつようになってくる。それとともに自然に対するあたらしい関係もはじまり、ヘッセは美しいスイスの各地を歩きまわり、湖上にボートを浮かべて一日を過ごすようなこともあった。
ヘッセの最初のイタリア旅行は一九〇一年の早春におこなわれたが、この年、ヘッセが友人の遺稿の編纂者という形で書いた『ヘルマン・ラウシャーの遺稿と詩』(これはさらに「ルールー」「眠られぬ夜」の章を加えて一九〇七年『ヘルマン・ラウシャー』と改題、出版される)が刊行される。「世界と現実の一片を征服してわがものとするとともに、世界に対して内気でしかも傲慢《ごうまん》な孤立化という危険から逃れんとする試み」であったこの作品は、スイスの作家パウル・イルクの示唆《しさ》でベルリンのフィッシャー書店の注目を呼び、それがきっかけとなって『郷愁《ペーター・カーメンツィント》』が生まれることになる。へッセは、書店主サムエル・フィッシャーあての手紙に、「わたしの書くものは純粋に個人的な試みですから、本として成功するとは思えません」と書いていたが、しかし一九〇四年『郷愁』が刊行されると、これは爆発的な反響を呼び、無名の詩人へッセは一夜にして有名になったのである。
〔ガイエンホーフェン時代〕この直後、つまり一九〇四年の夏、ヘッセはバーゼルの学者の家系出身のマリーア・ベルヌイと結婚する。ヘッセは九歳年長のマリーアと、一九〇三年二度目のイタリア旅行のおりに知り合ったのである。テュービンゲン以来の書店づとめをやめて、ひとり立ちの作家となったへッセほ、妻とともに、ラスキンやトルストイのそれとおなじような生活理想にみちびかれ、ボーデン湖畔の村ガイエンホーフェンに居を定める。
ガイエンホーフェンの生活は一九一二年まで八年つづくが、この時期の作品中もっとも多数の読者を見出したのは『車輪の下』である。これは、ガイエンホーフェンに移り住むまえ、故郷カルヴに滞在していたときに大半書きためられたのであるが、ここには少年時代の思い出が美しく描きだされている。さらに『この岸』『隣人』『迂路』などの短編集がつづくが、これらの作品よりも重要なものに『春の嵐』(原題『ゲルトルート』)がある。これはへッセがみずから小説《ロマン》と銘打っている唯一《ゆいいつ》の作品であるが、諦念《ていねん》と孤独の世界をえがいたこの小説に対する評価はまちまちであった。
いずれにしても一応安定したかに見えるへッセの生活ではあったが、一方ではこの湖畔の生活をあき足らなく思う気持ちがしだいにつのってきた。たび重ねてのヨーロッパ旅行は、その気持ちのあらわれのひとつであったろうが、一九一一年にはついに、画家のハンス・シュトゥルツェンエガーとともに東方旅行に赴《おもむ》く。健康上の理由もあってへッセは目的のインドそのものには触れることがなかったが、セイロン、スマトラ、マレー各地の旅行を了《お》えて、アジアにヨーロッパからの救済をもとめることの非を悟り、真のヨーロッパ像、アジア像をつくりあげようという決意を抱く。そしてこの姿勢は、その後の苦悩、動揺、戦争、絶望の年月維持されて、ヘッセの心の支えになったという。
〔第一次大戦――ベルン時代〕インド旅行の翌年、もはやガイエンホーフェンの生活に耐えられなくなったヘッセは、友人の画家ヴェルティが死去して空いた、ベルン郊外メルヘンビュールヴェークの家に家族とともに移り住む。一九一四年に刊行され、ヘッセ自身の結婚生活の危機を反映している『ロスハルデ』(邦訳『湖畔の家』)は、この家を舞台としており、第一次大戦後刊行された『クヌルプ』(邦訳『漂泊の魂』)もガイエンホーフェン時代から第一次大戦前のベルン時代にかけて書かれたものである。
第一次大戦の勃発《ぼっぱつ》にあたって兵役に志願し、体格検査ではねられたへッセは、ベルンのドイツ大使館で捕虜救援活動に従事するよう命ぜられた。しかし交戦国の大部分の詩人たちが相互に憎悪の言葉を投げ合っているのを目にしたへッセは一九一四年十一月三日「新チューリヒ新聞」に有名な「おお友よ、そのような調べはやめよう」という文章を発表した。愛国主義的な迷妄《めいもう》に逆らい、人間愛と理性とに訴えたのである。
へッセの訴えは、ドイツ国内に激しい憎悪を呼びおこし、のちの西独大統領テオドール・ホイスのようにへッセを支持した者は少数派にすぎなかった。スイスヘ亡命していたルネ・シッケレやレオンハルト・フランクなどと交渉のなかった「裏切り者」ヘッセにとっては、『ジャン・クリストフ』の作家ロマン・ロランの支持が強いはげましであった。この時期に書かれた文章は、第二次大戦後の一九四六年『戦争と平和』にまとめられ刊行された。
戦争はへッセの内面に大きな激動をもたらしたが、そのうえ末の息子の重病、一九一六年の父の死、結婚生活の危機、そして妻の精神病の発病などといった家庭内の事情も加わって、ヘッセは捕虜救援活動を中断しなければならないほどの憂鬱症におちいってしまった。しばらく転地療養がつづけられたが、その間に知り合った、精神病医ラングやその師のC・G・ユングの助力もあり、自身でもフロイトやユングの著作にしたしむうち、ヘッセはしだいに内的危機を克服することができた。この精神病理学の世界との触れ合いは、ヘッセの文学に新生面をひらき、『デーミアン』となって結実した。ヘルダーリンの友人エミール・ジンクレールの名を借りて一九一九年に発表されたこの作品は、第一次大戦後の世代に「電撃的な効果」(トーマス・マン)を与えたという。自身のデーモンであるマックス・デーミアンとのめぐり合いから自身の幼年時代を脱し、自身の内面の無限の世界を発見する、少年ジンクレールの物語に対し、フォンターネ賞が与えられることになったが、作者不詳であった。しかしやがてエードアルト・コロディが文体から作者をへッセと推論するに及んで、ついにへッセは名乗りをあげたが、フォンターネ賞は固辞した。
〔テッシーン時代〕妻の療養生活がひきつづいて共同生活はもはや不可能であったため、ヘッセは子供たちを知人や寄宿に委《ゆだ》ねて、単身南スイス、テッシーン州のモンタニョーラに移り住んだ。一九一九年五月である。
この前後には『ツァラトゥストラの再来』『クラインとヴァーグナー』『クリングゾールの最後の夏』などを書きあげているが、リヒャルト・ヴォルターエックと協力して一九二三年まで刊行した雑誌「ヴィヴォス・ヴォコ」の第一号も、この年の十月に刊行されている。『シッダールタ』が書きはじめられたのもまたこの冬であった。この仏教的とも老荘的ともいえる、内面的遍歴の作品が発表されたのは一九二二年であるが、翌年の夏へッセはマリーアと正式に離婚する。おなじ年にへッセはスイス国籍を取得し、翌二四年にはスイスの女流作家の娘ルート・ヴェンガーと結婚するが、これは永続きせず、二七年には正式に解消する。この間坐骨神経痛に悩まされてしばしばバーデンヘ湯治に出掛けた経験から直接生まれたのが『湯治客』であり(一九二五年刊)ユーモラスな筆使いで、生の両極性の問題が描かれている。
さらに一九二七年に発表された『荒野の狼』においては、主人公ハリ・ハラーの物語がへッセ自身の遠慮会釈ない自画像として呈示され、ヘッセ自身の世代の神経症的状況が暴露されている。主人公ハラーは、自己自身のうちにある分裂、そして自身と世界のあいだの分裂を理解しようと試みるが、ついに最終的な解決は見出されない。
しかしこの年にはまったくこれとは対蹠《たいしょ》的な、精神とエロスとのあいだの和解を描く作品『ナルチスとゴルトムント』が書きはじめられている(一九三〇年刊。邦訳『知と愛』)。
一九三一年には、二七年から共同生活を送っていたオーストリアの女流美術史家ニノン・ドルビンと正式に結婚する。このニノン夫人がへッセの終生の伴侶となったのである。
〔『ガラス玉演戯』の時代〕ニノン夫人との結婚の年には、それまで住んでいたモンタニョーラにあたらしくカサ・ヘッセを建てて移り住んだが、内的にも外的にも不安定な放浪をつづけたへッセがようやく安住の家を見出したとき、世界は逆に混沌《こんとん》のうちに落ちこもうとしていた。一九三三年にドイツではヒトラーが政権を握り、ヨーロッパを野蛮の支配下におく足がかりをこしらえたのである。第一次大戦以来の立場からへッセは当然ヒトラー・ドイツに対して否定的であったが、しかしもはや公然とその態度を表明することはしなかった。そのためヒトラー・ドイツの側は、その声価をも慮《おもんばか》ってへッセを味方の陣営に引き入れようと努めたが、その努力が実らぬと見るや、おきまりの悪罵《あくば》、中傷を浴びせた。しかしそうしたなかにあってもへッセの作品はついに焚書《ふんしょ》に加えられることなく済んだのであった。
このようにへッセ自身の周囲の喧騒《けんそう》、そしてまた世界大戦の混乱のなかで、ヘッセは十年の歳月をかけて一種の未来小説『ガラス玉演戯』の完成に没頭したのであった。この作品はしかしながら、時代の苦悩に背を向けたところから生じたものではなく、むしろ時代の病患を見すえて、その治癒の方向を暗示したものである。亡命地アメリカにあって『ファウスト博士』を執筆して、時代の病患に対してするどいメスを入れていたトーマス・マンは、たまたまこの作品を読んで、両者の有する問題性の相似に驚いたが、それはトーマス・マンがこの作中の人物に自身の似姿を見出したためばかりではないのである。
一九四二年完成したこの作品をドイツで出版しようという試みは失敗して、スイスで刊行されたが、戦後の一九四六年にはドイツでも刊行され、強い反響を呼び、「ガラス玉演戯」や理想郷「カスターリエン」といった概念は作品そのものからはなれて、精神的現実と化したのである。
〔晩年〕戦後のへッセは、眼病のためもあってであろう、もはや大作に取り組むこともなく、旅行好きではあったが、夏期のシールス・マリーア滞在を別とすれは、ほとんどカサ・ヘッセをはなれることがなかった。
しかしそれにもかかわらず、ヘッセと世界とを結ぶきずなはけっして断ち切られはしなかった。それはまず手紙であった。八十五歳の誕生日を祝った翌日には、九百通におよぶ誕生祝いに朝の七時半から取り組みはじめたというエピソードに見られるように、ヘッセは世界中から寄せられる、それもほとんど未知の読者からの手紙に対し、ほとんど返書をしたためたという。さらにまた世界は、訪問客の形で、スイスの山村とのきずなを保った。トーマス・マンやハンス・カロッサや、ユダヤ人の偉大な哲学者マルチン・ブーバーやアンドレ・ジードなどの訪れを、ヘッセはことのほか喜んだのだった。
一九六一年クリスマスにニノン夫人は、ヘッセから贈られた詩の一節に
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鳥の翼を拡げて飛び立ちたい
わたしを取りまく束縛をはなれて
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とあるのを見て愕然《がくぜん》とする。この詩に死への憧れがうかがわれたからである。そして一九六二年八月八日の晩、ヘッセはモーツァルトのピアノ・ソナタを聞き、いつものように夫人に朗読をしてもらったが、その翌朝、眠ったまま脳溢血により、天寿を全《まつと》うした。八月十一日へッセはサン・アボンディオの墓地に埋葬されたが、弔辞《ちょうじ》をささげたなかには、七十年前マウルブロンの神学校でともに学んだ友人フェルターがいた。
『郷愁』について
〔成立の背景〕『ロマン的な歌』『真夜中すぎの一時間』そして『ヘルマン・ラウシャー』とあいついで発表したへルマン・ヘッセは、ようやく一部の識者にその存在を認められるようになってきた。『真夜中すぎの一時間』に対するリルケの称揚などがその例であるし、カール・ブッセが『あたらしいドイツの抒情詩人』シリーズを編纂して、第三巻をへッセ集としたのも、その現われといえよう。一九〇二年に刊行されたこの『詩集』の序文のなかでブッセは、現代文学の新ロマン主義的傾向はへッセというもっとも強烈で独得な才能を獲得した、レーナウやヴェルレーヌに似たような作品が見出されるかもしれないが、このへッセという詩人はなお詩人としての特異性を失ってはいない、と述べている。
おそらくこうした評価に力づけられ、詩人としての自信をえたのであろう、ヘッセは、ライプツィヒの書籍博物館から助手にならないかという誘いをことわったばかりでなく、いっそう執筆のための時間をつくるため、ライヒ書店をやめて、他の古書店に移ったのであった。こうしてあたらしい作品に取り組んでいたへッセではあるが、それにしても、サムエル・フィッシャーからの依頼は思いがけない話であった。フィッシャーに『ヘルマン・ラウシャー』の詩人の存在を知らせたパウル・イルクとへッセは面識がなかったし、何よりもへッセは無名に近い存在だったからである。ヘッセはさしあたって完成した作品を送ることはできなかったが、執筆中の散文作品を完成次第送ると約束したのであった。これが『郷愁』であり、ヘッセの作家的な地位を確立させた作品である。
ちなみに、フィッシャー書店は同時代文学作品の刊行に力を入れ、新人の発掘に熱心であって、一九〇一年にはへッセより二歳年長のトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』を冒険的に出版して成功をおさめていた。
〔構成〕この作品は、世間との妥協を排しながら、自己自身のうちなる「詩人」を育てあげてゆこうとする主人公ペーター・カーメンツィントが青春時代の終わりに、それまでの生涯をかきつづった自伝形式の小説である。
スイスのある美しい湖のほとりの村ニミコンに生まれた、百姓の息子べーター・カーメンツィントは、百姓らしい身体と体力の持ち主であったが、およそ百姓仕事はきらいな性格で、それよりもむしろ自然と対話しながら時を過ごすのが好きであった。しかしある修道士に、閉鎖的な山村には珍しい知能を発見されたペーターは上級の学校へ通うことにり、ついにはチューリヒの大学の学生になる。
べーターはここでおなじ大学の学生リヒァルトと友人になる。リヒァルトは、都会的、社交的な青年で、いわば野人のペーターはそのひきまわしによってこの都会のサロンに出入りするようになるばかりか、文筆の才能を利用して収入を得る方法すら教えられる。
女流画家アリエッティに対する恋がはかなく終わり、飲酒にうさばらしをすることを覚えたペーターは、友人リヒァルトの好意によって、いっしょにイタリア旅行を試み、「神の楽人」聖フランシスに敬慕《けいぼ》をおぼえ、古い文化にふれて現代文化のくだらない滑稽さを感じる。しかしこの旅の直後リヒァルトは溺死してしまう。
ペーターは、この数年間の唯一の確実な所有であった友情を奪われ、人生を呪《のろ》ってチューリヒを去る。パリでの通信員としての生活、放縦な一時期のすえ、バーゼルに腰をすえて、ふたたび新聞、雑誌の寄稿で生活を立てることになる。このころ芽生えた、ひとりの女性エリーザべトヘの愛も、それを告白しようとした矢先、エリーザべトの婚約で実らなかったが、しかしペーターは、その後、故郷へ戻り、さらにまたイタリアヘと旅をして、素朴なひとびとに対する愛を覚えるようになる。
ところが、ふとしたところから指物師の親方とつき合うようになったペーターは、ある日親方の家にひきとられてきたその義弟ボッピを見て、生理的な嫌悪《けんお》を覚える。ボッピがせむしで醜かったからである。しかしその醜い肉体の奥底に清らかな魂がひそんでいるのに気がついたペーターは、自分を恥じ、ボッピを引きとって献身的な愛情をそそぐ。
ボッピの死後ペーターは、故郷に戻り、ここで生活しながら自分の詩人としての仕事をつづけようと決心する。
〔文学史上の位置〕十九世紀のヨーロッパを支えていた市民社会は、ようやく一九一四年の第一次世界大戦の勃発によってはじめて大きく動揺し、変貌をとげることになる。言いかえれば第一次大戦勃発までのヨーロッパ市民社会は、確固たる地盤のうえに立って爛熟《らんじゅく》を謳歌《おうか》しているかに見えていたのだった。
しかし文化の爛熟は安定感を生み出すと同時に焦躁《しょうそう》感をも醸成《じょうせい》する。たとえばニーチェが市民社会の俗物性を攻撃して超人の思想を説き、またそれが当時の青年の心を大きくつかんだのも、こうした焦燥感のあらわれであろう。しかも一方では、科学の発展、産業の近代化がいちじるしく、それにつれて都市労働者層が増大して社会構造の実質的な変化が進行していた。当時のベルリン、ミュンヘンを中心とする大都市文化はこのような変化の過程から生まれてきたのである。
当時、すなわち十九世紀末に盛んになった自然主義運動は、このような社会の恥部《ちぶ》にするどいメスを入れて、腐敗的な社会に警告を与えたのである。自然主義の作家たちの目がこうして外界に向けられていたとき、ヘッセは自己自身に目を向け、その存在理由を問おうとした。しかもその自己自身は、全体に対する個という形で普遍化しうるものではなく、あくまでも個別的な存在なのであった。したがってへッセにとって、個に対立する全体としての社会は、詩人の本質の一部と化しているかの観がある「自然」とくらべると、付随《ふずい》的な意味しかもたなかったのである。
この姿勢をおなじころに『トーニオ・クレーガー』を発表したトーマス・マンと比較すると、その特長が明らかになるかもしれない。トーマス・マンの場合は、市民的な精神と芸術の要請との尖鋭《せんえい》な対立を克服することによって芸術観を深化させる主人公が描かれている。これに反してへッセの『郷愁』においては、主人公の詩人としての資質ははじめから内在しており、問題は、それがいかにして掘りおこされ磨きあげられるか、なのである。このような作品がややもすればおちいりがちな、ひとりよがりの平板さが見られないのは、その「内面への道」の追求がきびしいものであるからであろう。
事実へッセは、やがて内面的な危機を経験することになり、それを契機として親しんだ精神病理学によって、さらに意識下の世界に踏み入ってゆくのである。
〔作品鑑賞〕アルプスの自然を愛情こめて語ったあとで、ペーターは「(人間の唇からはついぞ出たためしのない神の)ことばをこうして幼年時代に聞いた者の耳には、生涯にわたってそのことばが甘美に、強く、恐ろしく聞こえつづける。彼はそのことばの呪縛《じゅばく》からけっして逃げることはできない」と言っているが、これはへッセの幼年時代のエピソードからも知れるように、自然のなかで自身の世界をきずきあげることのできたへッセの自己告白であり、またその詩的世界の特質を物語るものであろう。ヘッセにとってこんにちの人びとが問題になるのは、「かなり大がかりな作品によって、こんにちの人びとに、自然のおおような、無言の生活を近づけて愛させたいという願望を持っていた」からにすぎないのであって、その詩的世界と「こんにちの人びと」とは本質的なかかわりがないのである。
したがって主人公ペーターは、「現代の明敏な人びと」をとらえている問題に理解を寄せ、刺激をうけはしたものの、「自分のなかの強い衝動に強いられて……いっしょになって戦うということにはならなかった」むしろ「星くずや山々や湖は、その美しさや、その無言の存在としての悩みを、理解して言いあらわしてくれるひとりの人間にあこがれているように思われたし、わたしこそそういう人間で、文学作品によって無言の自然を表現することがわたしの真の天職のように思われたのである」
『郷愁』をつらぬくこの基本的姿勢についての議論はさておき、皮相な観察からはとうてい生みだしえないその自然描写の深みは無条件でたのしめるものであろう。たとえば「雲」の描写や「雪の女王」の物語などは、自然への深い参入なしには考えられない文章であろう。これは、カルヴ時代の幼いへッセの心をとらえた印象を土台にしているのであろうか。もちろん主人公の故郷はカルヴではなく、スイスの山村ニミコンと設定されている。おそらくこれは、主人公を精神的伝統とはかかわりなく、自然のなかから生まれた詩人として呈示するのに必要な設定であったのだろう。そしてこのニミコンという山村は仮空の村だと思われるが、しかしけっして作者の空想が生みだしたものではなく、おそらくバーゼル時代のへッセがたびたぴ試みているスイス旅行からの結晶であろう、まことにスイスの山村らしい山村と言える。
ともあれ、いやおうなく自然から切りはなされてゆく現代の生活のなかで、あらためて自然のもつ意味を教えてくれる作品、おそらくこのようなものとしてとらえるところから『郷愁』の理解は可能なのであろう。(森川俊夫)
[#改ページ]
初めて『郷愁』を読んだころ――尾崎喜八《おざききはち》
私は日本で広く『郷愁』の名で知られているへルマン・ヘッセの小説『ベーター・カーメンツィント』を、今ではもう四十年以上にもなる昔に初めてドイツ語の原書で読んだ。しかし、「読んだ」と言うのははたして正しいだろうか。いや、そうではなく、むしろ「その原書に初めてまみえた」と言ったほうが適切である。しかも貧しい語学力でおずおずと、初恋の若者のような胸のときめきと恥じらいとをもってである。そしてその第一章の最初のページから、たちまち目もくらむような言葉と文体の美に圧倒された。それは三十五歳になるその日まで、いまだかつて日本のどんな小説からも経験したことのないような鮮烈な感銘であった。時は大正年代の終わり、昭和の初めだった。
旧制の中等商業学校を出ただけの私は、詩作を主とした文学の仕事をするようになってからも、基本的な学問上の知識を必要とすることはすべて独学でやらなければならなかった。語学もその一つだった。ただ英語にだけは早くから自信めいたものを持っていて、まずトルストイ、ドストエフスキー、ついでロマン・ロランなどの大小の作の英訳をほとんど読みこなしていたが、フランス語とドイツ語とは生活の仕事のかたわら一人で勉強しなければならなかった。私はまずそのフランス語を、好きなロマン・ロランやヴェルハーレンを原書で読んでみたいばかりに、英語で書かれたフランス文法の本と訳語にとぼしいそのころの仏和辞書とをたよりに、二、三年がかりでようやく自分のものにした。その成果は、初めのころのものとしては昭和二年に出版されたロランのフランス革命劇『花の復活祭』と、その翌年に出たシャルル・ヴィルドラックの『選詩集』である。
つぎに来たドイツ語の場合はもう少し恵まれていた。当時三十三歳、私はその前年に東京郊外の上高井戸の田舎に小さい家を新築して結婚したばかりだった。まだ古い武蔵野のおもかげの残っている畑の中の小屋へは幾人かの親しい友だちもよく訪ねて来たが、その一人に今は亡い片山敏彦がいた。私はその片山から初めてへルマン・ヘッセの名を知り、彼が一、二編翻訳したへッセの詩というものを見せられたりして、このドイツの詩人のロマンティックであると同時に東洋風で諦観《ていかん》的な精神に深い親近感を覚えた。私はそのへッセをどうかして原語で読みたかった。そこでまず片山から『|回り道《ウムヴェーク》』という一冊の詩集を借り、近くに住んでいた友人で上智大学を出た中村吉雄に発音や文法の手ほどきをしてもらった。そこへまた同じ上智大学出で山登りの仲間でもある今は故人の荒井道太郎が東京から助勢の声を上げて、有益な手引き書や、非常に便利な強変化と不規則変化の動詞表や、各種の品詞や構文の変化の実例が手に取るようにわかる表などを送ってくれた。私はこうした友情に鼓舞《こぶ》され、ヘッセへのいよいよ深まる愛に推進されながら、一年後には『回り道』や彼の最初の『詩集《ゲテイヒデ》』(後に『青春詩集《ユーゲント・ゲテイヒテ》』と改題)の中の比較的やさしい詩ならは楽に読めるようになった。そしてそれから四十年を経て、自分の手になるへッセの詩や文章の訳書も何種類か持つに至った今日、若い日の友人たちの無私の助力や、純粋にひたむきだった自分自身をふりかえる時、今は遥《はる》かとなった青春への郷愁と感謝の思いに打たれざるを得ないのである。
「山や湖や嵐や太陽が私の友だちだった。彼らは私に話をしてくれ、私を教育し、私にとっては永い間どんな人間の運命よりももっと好ましく、なじみであった。しかし、きらきら輝く湖よりも、悲しげな銀松よりも、日の当たった岩よりも、ずっと好きなのは雲であった」私は今自分の手もとにあいにく原書を持っていないので石中象治氏の訳を拝借して引用しているが、四十年前『郷愁』を原書で読んでここまで来た時、思わず息を呑《の》んだのだった。なぜならば私は幼い時から自然が好きで、おとなになってからもその観察や研究を怠らなかった。私もまた主人公のペーター同様山や湖や太陽が好きだった。星も好きならば植物も好き、小鳥も魚も虫もすべて愛した。そしてさらにうれしいことには、私もまたペーター同様、何にも増して大空に浮かぶ雲を愛した。その愛が嵩《こう》じて、やがては『雲』という写真図版入りの気象学的な著書を出すに至ったほどにも。
その雲をペーターが、ヘッセが、自然の中の何よりも好きだと言うのである。私がまだ貧弱な自力のドイツ語でこのくだりを読んだ時の驚きと喜びとは、わかる人にはきっとわかってもらえることと思う。しかも私にも、『郷愁』を初めて読んだ時以前に、すでに早く雲への愛や讃美を歌った自分の詩の数編があった。
ゆがめられた教養や浅薄な文化から脱却して、純粋な豊かな自然から直接なみなみと詩心の泉を汲《く》もうとしていた私は、それゆえカーメンツィントが文学によって沈黙の自然に表現を与えることを自分の天職だと感じ、「大作によって今日の人間に自然の大規模で無言な生命と親しませ、それを愛するようにさせたい。大地の鼓動に耳をすませ、全体の生命にあずかることを教えたい。自然に対する兄弟のような愛の中に、喜びの泉と生の流れとを見出すことを教えたい。見る術《すべ》を、さすらう術を、楽しむ術を、目前に在るものに対する喜びを説きたい」と言っているくだりを読んだ時、私はこの世でただ一人真の心の友にめぐり合ったような気がした。
その後私はほとんどすべてのへッセの作品を読んで、彼の他のいろいろな面をも知ってますますこの巨匠への敬慕の念を深めるようになったが、老年の今、たまたま遠い過去に思いをはせてなつかしむのは、やはり昔の空に浮かんで私の魂を引きよせた雲、高めた雲、若き日のペーター・カーメンツィント、実にこの『郷愁』の一巻にほかならない。
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あとがき
本書の訳者である佐藤|晃一《こういち》先生が世を去られたのは、昨夏のある午後、まったく突然のことでした。そのことから先生の弟子のひとりであった私が、本書の校正にあたり、「解説」を書くことになりましたが、学生時代以来へッセにはほとんどご無沙汰していた私ですから、こうした仕事には不適任だったかもしれません。しかし、それはともかくとして、本書の核心である『郷愁』そのものの翻訳は佐藤先生ご自身の手によるものです。おそらく先生の最後のお仕事のひとつではないでしょうか。
しかし日本におけるもっともすぐれたトーマス・マン研究者である先生の最後のお仕事が『郷愁』であったこと、これは意外といえばいえるかもしれません。もしかすると、資質の点で大きな違いのあるトーマス・マンとへルマン・ヘッセとがその晩年にそれぞれ親近性を確認し合ったように、先生もいつしかへッセの世界に共感を覚えられるようになったのかもしれません。
いわば先生の手ほどきを受けてトーマス・マンの世界に没入していった私も、今ふたたびへッセの作品をじっくり味わう機会を与えられて、たとえばこの作品にとくに色濃く描かれている「自然の原体験」とでも名付けるべきものにあらためて心を惹《ひ》かれます。へッセがそなえていて、マンに欠けているものといえは、おそらくこれではないでしょうか。
ともあれ、先生の最後のお仕事の刊行にあたって、お手伝いするようすすめてくださった常木実先生と、その機会を与えてくださった旺文社に対して、この場所を借りて心からお礼を申しあげたいと思います。