スペードの女王/大尉の娘
プーシキン/高橋包子訳
目 次
スペードの女王
大尉の娘
第一章 近衛軍曹
第二章 道案内
第三章 要塞
第四章 決闘
第五章 恋
第六章 プガチョーフの乱
第七章 敵の進撃
第八章 招かぬ客
第九章 別れ
第十章 市街の包囲
第十一章 反徒の本営
第十二章 孤児
第十三章 逮捕
第十四章 査問
【付録 補遺の章】
解説
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スペードの女王
スペードの女王は秘めた悪意を意味する。
……『最新の占い書』
一
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で、天気の悪い日には
彼らはいつも
集まった。
賭金《かけきん》を倍にして――神さまが彼らをお許しになるように
五十から百に、
そして勝ち負けを
チョークで書きこんだり。
天気の悪い日には、こんなふうにして彼らは「仕事」に
はげんでいた。
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あるとき、例によって近衛兵《このえへい》のナルーモフのところで、カードが行なわれた。長い冬の夜は、知らないうちにすぎていった。夜食は明け方の四時にだされた。儲《もう》けた連中は、猛烈な食欲で食べた。やられた連中は、ぼんやりしていてなにも皿にとろうとしないで腰をおろしていた。しかし、シャンパンがでると、ようやく会話が活気づいてきて、みんな話に加わった。
「君はどうだった、スーリン」と主人がきいた。
「やられたよ。毎度のことだがね。どうもつきに見放されてるんだなあ、ミランドリ〔最初の賭高をふやさぬ方法〕でだって頭に血のぼったことはないし、ペースを乱されることもなかったのに、いつも負けてばかりさ」
「じゃあ、熱くなったことは一度もなかったって言うのかい。ルテ賭け〔数枚のカードをつづけざまに切ってやる勝負〕もしなかったって言うんだね。君のお固いのには恐れいったよ」
「それにしても、どうだいゲルマンは」客のひとりが若い技術将校をさして言った。
「生まれてこのかた、カードにさわったこともなけりゃ、一度だってカードの端を折った〔倍賭け勝負のこと〕こともないんだ。だのに朝の五時までもわれわれにつきあって、勝負を見てるんだからな」
「賭事《かけごと》にすごくひかれてるんだ」とゲルマンは言った。「だけど、賭事に元手《もとで》がだせるような余裕がないんだよ」
「要するに、ゲルマンはドイツ人さ、計算高い、ただそれだけのことさ」とトムスキーが口をはさんだ。「ところで、気がしれないといえば、ぼくのお祖母《ばあ》さんのアンナ・フェードトヴナ伯爵夫人のことなんだがね」
「ええ、なんだって」と客たちがいっせいに口をひらいた。
「どうしても腑《ふ》におちないんだ」とトムスキーがつづけた。「賭事にはいっさい手をださなくなったんだよ」
「何をそんなに驚いてるんだい」とナルーモフが言った。「八十のばあさんが賭けに手を出さないからって」
「じゃ、君はお祖母さんのことを何も知らないんだな」
「知らないね、まるっきり」
「だろうな、じゃあ話そう。ぼくのお祖母さんが六十年前、パリにでかけて、あそこで大もてだったことは知ってるね。モスクワのヴィーナスをひと目見ようと、みんな彼女のもとに殺到したというんだから。お祖母さんが言うには、リシュリュー公〔ルイ十四世時代から三代に仕えた宮廷人〕でさえ、彼女のあとを追っかけまわし、彼女のつれない仕打ちに、ピストル自殺もしかねないほどだったそうだ。
当時のご婦人たちは、カードといってもファラオン〔カード遊びの一種〕専門だったらしいが、ある時、宮中で、彼女はオルレアン公に口張《くちば》り〔現金を場に出さず口先だけでかけること〕で大負けをしてしまった。家に帰ると、お祖母さんはつけ黒子《ぼくろ》をとり、スカートを広げるための|たが骨《ヽヽヽ》をはずしながら、お祖父《じい》さんにカードで負けたことを臆面もなく打ち明けて、その支払いを命じたというのだ。亡くなったお祖父さんは、私のおぼえているかぎりでは、まるでお祖母さんの執事といったところだった。日ごろ、お祖父さんは彼女を火のようにおそれていたが、この身の毛もよだつような負けのことをきくと、さすがに腹を立ててしまった.会計簿を持ち出して、この半年間に五十万ルーブリがところを使いはたしたこと、このパリの近くには、モスクワ近郊やサラトフにあるような持ち村はないことを言いはって、きっぱりと支払いを拒絶してしまったのさ。お祖母さんは彼の横っ面を張りとばすと、その晩はふきげんの証《あかし》として別の部屋で寝てしまった。
つぎの日、お祖母さんは昨夜のお仕置きがさぞや効《き》いただろうと、夫を呼んでみたところ、案に相違して彼はびくともしていなかった。生まれてはじめて、彼女は夫と議論をし、弁明したのだ。負債にもいろいろあること、王子と馬車製造人とのあいだには、大きな違いがあることを、彼女はおだやかに説明しながら、夫を納得させようと試みた。ところが、どうしてどうして、お祖父さんは癇癪《かんしゃく》を起こしてしまった。だめだ、の一点ばり、お祖母さんは手のほどこしようもなかった。
ところがここに、彼女と親しくつきあっていた大いに注目すべき人物がいた。サン・ジェルマン伯爵〔十八世紀末のフランスの錬金術師〕については、きいたことがあるだろう。あんなにいろいろとふしぎなことが言われているけど、たとえば、自分のことをさまよえるユダヤ人〔刑場にひかれるキリストを侮辱した罪で、死ねずに永遠に放浪するユダヤ人アハスエルスのこと〕、不老長寿水や仙丹等の発明者だなどと吹いていたことは、ご存じのとおりさ。彼のことはみんないかさま師だと笑っていたけど、カサノヴァ〔一七二五〜九八〕はその『回想録』のなかで、彼をスパイ呼ばわりしている。とはいえ、サン・ジェルマンは、どこか影のあるような素行にもかかわらず、外見は非常に立派で、社交界ではきわめて愛すべき男だったということだ。お祖母さんは、サン・ジェルマンを、今も変わらず敬愛しているから、彼のことを悪く言うとひどくおこるんだ。お祖母さんはサン・ジェルマンが大金を自由にできる身だということを知っていた。そこで彼女は彼にすがろうと決心して、彼に手紙をとどけて、即刻おこしくださるようにとたのんだわけだ。
すぐにやってきた老いたる奇人は、目もあてられないほどの彼女の悲嘆ぶりに出合った。彼女はたいへんな悪口雑言で夫の横暴を彼にならべたてたあげくに、今や望みの綱はあなたの友情と厚意しかないと語った。
サン・ジェルマンはひと思案の後、こう言ったという。『この全額をあなたにご用立てすることはできます。しかし、あなたが私にお返しくださるまでは、あなたも気が安まらないだろうと思いますし、私もあなたを新たな心配事に引き込みたくはない、こうしましょう。あなたに負けをとりかえさせて差し上げましょう。いかがですか』『でも伯爵さま』とお祖母さんは答えた。『申し上げましたとおり、もう私どもは一文なしなのです』『元手など必要はありません』とサン・ジェルマンがさえぎった。『私の言うとおりになさい』そこで、サン・ジェルマンは彼女に秘策を授けたんだ。それを教えてもらえるなら、われわれみんながどんな犠牲でも払おうというような……」
若い賭博者たちは、いろめきたった。トムスキーはパィプをつけてゆっくり一服すると、話をつづけた。
「ちょどその晩、お祖母さんはヴェルサイユの王妃主催のカードの会に姿を現わした。オルレアン公爵が胴元になった。お祖母さんは言訳にちょっとしたつくり事を言いながら、自分の借金を持参しなかったことをさりげなくわびると、彼のむこうをはって賭けはじめた。彼女は三枚のカードを選び、それを順々に賭けていった。三枚ともみんなソニカで勝った〔最初のカードであがる勝ち方〕ので、お祖母さんは完全に負けを取りもどしていた」
「まぐれだ」と客のひとりが言った。
「つくり話だよ」とゲルマンが言った。
「いかさまにちがいないよ」と三番目が引き取って言った。
「そうは思わないな」とトムスキーが真顔で答えた。
「なんていうことだ」とナルーモフが言った。「三枚のカードをつづけてあてたお祖母さんがいるというのに、これまで君は彼女のご利益にあずからなかったのかい」
「そうさ、そううまくゆくものか」とトムスキーが答えた。「お祖母さんには四人の息子がいて、そのひとりがぼくの父なんだ。四人そろってカード狂だが、彼女は息子のだれにも、その秘密を明かしてはくれなかった。カードの秘密をさずかるということは、父や叔父にとって悪いことではなかったはずだ。ましてぼくにとってはね。だがね、叔父のイヴァン・イリッチが話してくれたことがあるんだ。それは正真正銘の事実だと叔父は確信をもって、ぼくに言ったんだ。亡くなったチャブリッツキーは、百万すって貧乏のどん底であの世へ行った男だが、彼は若いころ、負けたんだ。そう、ゾーリチ〔エカテリーナ二世晩年の寵臣〕にだったか、約三十万ばかり。彼は途方にくれてしまった。お祖母さんは若い者たちの向こうみずにはきびしい人だったが、どういうわけかチャブリッツキーがかわいそうになったんだなあ。それで彼女は、順々に賭けるようにと例の三枚のカードを教えてやったんだ。今後絶対にカードはやらないと彼に誓わせたうえでね。チャブリッツキーは相手のところへ現われた。ふたりは勝負をはじめた。チャブリッツキーは最初のカードに五万賭けて、ソニカで勝った。倍賭けし、またその倍賭けしてついに負けをとりもどし、そのうえ大勝ちしてしまったそうだ」
「ところで、寝る時間だ。もう五時四十五分になってしまった」
実際、もう夜が明けてきた。若者たちは自分の杯《さかずき》をのみほすと、それぞれ散っていった。
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二
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「あなたはきっと侍女たちのほうが気にいっているのでしょう」
「しかたがありません、奥さま、あの娘たちは生きいきしてますから」
……「社交界の会話」
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年老いた伯爵夫人××は化粧室の鏡に向かっていた。三人の侍女が彼女をとりまいていた。ひとりは紅《べに》の壼を、もうひとりはヘアピンの小箱を、三人目は燃えるような色の、高い頭巾《ずきん》をささげていた。伯爵夫人はとっくに失ってしまった美しさに、少しも未練を残していなかったが、若いころの習慣はきちんとまもっていて、七〇年代〔極端なフランス心酔時代〕のファッションに厳格に従い、六十年前と同じように、長い時間をかけ、精魂こめて盛装するのだった。窓べでは、彼女の養女である令嬢が刺繍台に向かっていた。
「|こんにちは《ボン・ジュール》、|お祖母さま《グラン・ママン》」そう言いながら若い将校がはいってきた。「|こんにちは、リーザ《ボン・ジュール・マドモワゼール・リーザ》。お祖母さま、ぼくはあなたにお願いがありまして」
「なんなの、ポール?」
「あなたにぼくの友人をひとり紹介させてください、金曜日の舞踏会におつれしますから」
「じゃ、そのかたを舞踏会へ直接おつれしなさい。そこで私に引きあわせて。昨日《きのう》は××さまのところへお行きだったの」
「もちろんですよ。とても愉快でした。五時まで踊っていましたよ。エレッツカや夫人のなんて素晴らしかったことか」
「まあ、彼女のどこがお気に召したの。あの方のお祖母さまダーリャ・ペトローヴナ公爵夫人はそんなに美人だったかしら……。ところで、あの方もずいぶんのお年齢《とし》になられただろうね、ダーリヤ・ペトローヴナ公爵夫人も」
「なんですって、お年齢《とし》になられたですって」トムスキーはうっかり答えた。「あの人はもう七年ほど前に亡くなってるじゃありませんか」
令嬢は顔をあげて、青年に合図した。で、彼女と同年配の人たちの死は、伯爵夫人にはかくされていることを、彼は思い出して唇をかんだ。しかし、伯爵夫人は彼女にとっては新しいニュースを、しごく平静にききとった。
「亡くなられたって」と彼女は言った。「なのに私は知らなかったなんて。私たちはいっしょに女官にあがり、ふたりが御前に召されたとき、女帝陛下は……」
と伯爵法人は、きき手にとってはもう百回目にもなる自分の逸話《アネクドート》を語るのだった。
「さあ、ポール」とそのあとで彼女は言った。「今度は私をたたせておくれ。リーザンカ、私のタバコ入ればどこなの」
そして伯爵夫人は、自分の身づくろいをするために、侍女たちに手をひかれて屏風《びょうぶ》の向こうへ移った。トムスキーは令嬢と残った。
「あなたはどなたをご紹介なさりたいの」と小声でリザヴェータ・イヴァーノヴナがたずねた。
「ナルーモフですよ。あなたは彼をご存じですか」
「いいえ、そのかたは軍人ですか、文官ですか」
「軍人です」
「技術将校なの?」
「いや、騎兵です。でもどうして、あなたはその人のことを技術将校だと思ったのですか」
令嬢は笑い出した。そして何も言わなかった。
「ポール」と屏風の陰から伯爵夫人が呼んだ。「私に何か新しい小説を届けてちょうだい。ただし、お願いだから今|流行《はやり》じゃないのにしてね」
「今流行じゃないのっていうと、お祖母さま」
「だから、主人公が父や母を迫害するようなのや、溺死体なんかでてくるような小説のことよ。私は溺死人はこわくて身の毛がよだつんですよ」
「お祖母さんにお気に召すようなのは、このごろはありませんのよ。ロシアの小説じゃお気にいらないんでしょうね」
「でもほんとうにロシアの小説があるの。とにかく持ってきて見せて。きっと届けてちょうだいね」
「失礼します、お祖母さま、いそぎますから……。さようなら、リザヴェータ・イヴァノーヴナ、ナルーモフを技術将校だなんて、なぜあなたは考えたんだろうなあ」
やがて、トムスキーは化粧室から出ていった。
リザヴェータ・イヴァーノヴナはひとりになった。彼女は仕事をやめて、窓のそとを見はじめた。すると邸の角から街路のわきのほうに、若い将校が現われた。それを見た彼女の頬はポッと紅《あか》く染まった。彼女はふたたび仕事にとりかかり、顔が刺繍用のカンバスにふれるほどにうつむきこんだ。このとき、すっかり盛装した伯爵夫人がはいってきた。
「いいつけておくれ、リーザンカ」と彼女は言った。「馬車の用意を。さあ、散歩に出かけましょう」
リーザンカは刺繍台から立って、仕事を片づけにかかった。
「おまえときたら、まあ、つんぼなのかい」と伯爵夫人は叫んだ。「早く馬車のしたくを。そうお言い」
「ただ今」と令嬢は小声で答えると、控えの間に走り去った。
従僕がはいってきて、パーヴェル・アレクサンドロヴィチからの本を伯爵夫人に手わたした。
「すてき、ありがとう」伯爵夫人は言った。「リーザンカ、リーザンカ、いったいどこへかくれちゃったの」
「着替えをしなくては」
「まだ時間があることよ、おまえ。ここへおすわり、第一巻をひらいて、読んできかせておくれ……」
令嬢は本をとると、何行か読んだ。
「もっと大きな声を出して」と伯爵夫人が言った。「どうかしたのかえ、ねえ、声が出てやしないじゃないか。……待って、足台をもっと近くへ寄せておくれ。もっと。……ああそのくらいでいいわ」
リザヴェータ・イヴァーノヴナがさらに二ページ読んだとき、伯爵夫人はあくびをはじめた。
「もうたくさん、読むのやめて」と彼女は言った。「なんてばからしい。パーヴェル公爵にそれをお返しして、お礼を言っておきなさい。ところで、馬車はどうなっているの」
「馬車の用意はできております」とりリザヴェータ・イヴァーノヴナは、通りに目をやりながら答えた。
「どうしておまえは着替えをしなかったの」伯爵夫人は言った。「いつだつておまえには待たされるわね。これでは、ねえ、かなわないよ」
リーザは自分の部屋に駆け込んだ。二分とたたないうちに、伯爵夫人は力いっぱい鈴をならしはじめた。三人の侍女が一方の扉《とびら》に駆けつければ、従僕は別の扉からあわててはいってくる。
「おまえたちを呼びゃしないのに、どうしたんだえ」伯爵夫人は彼らに言った。「リザヴェータ・イヴァーノヴナに、私が待ってるからと、そうお言い」
リザヴェータ・イヴァーノヴナは、外出用マントをはおり、帽子をかぶってはいってきた。
「やっと、まあ」と伯爵夫人は言った。「なんておめかしだこと。どうしたことかえ、……だれの気を引こうっていうの。ところで、お天気はどうだい。風が出たらしいね」
「だいじょうぶでございます、奥さま。とてもおだやかでございます」と従僕が答えた。
「おまえたちはいつだってあてずっぼうをお言いだから。風窓をあけてごらん。ほら、思ったとおりだわ。風が出てきたじゃないの。それにとても寒いこと。馬車を片づけてちょうだい。リーザンカ、行くのはとりやめ、せっかくのおめかしもむだだったわね」
『ああ、私の人生はこれなんだから』とりリザヴェータ・イヴァーノヴナは思った。
実際、リザヴェータ・イヴァーノヴナはしあわせではなかった。他人のパンは苦《にが》いとはダンテの言葉〔『神曲』天国編第十七歌〕だが、他人の玄関の階段はのぼるのにつらく、高貴な老婆のあわれな養女でなくて、だれが忍従の悲哀を知ることができるだろうか。伯爵夫人××は、もちろん底意地の悪い人ではなかった。しかし、世の中に甘やかされた女性の常として、気まぐれで、けちんぼうで、老残のきわみにいたって愛の心を失い、現実と縁をたたれた老人のすべてがそうであるように、冷たいエゴイズムのなかに浸っていた。彼女は上流社会のあらゆるはかない俗事に顔を出し、舞踏会をうろつき、紅白粉《べにおしろい》をぬりたくって舞踏会場の広間の醜悪な、しかしなくてはならない装飾として、旧式のファッションで盛装し、隅の方に腰をおろしていた。来場する客たちは、おさだまりの順序として、丁重なおじぎをしながら彼女のところへ立ち寄りはするが、あとはもう、だれも彼女にかまうものはいなかった。彼女は作法どおり、きわめて厳格に、全市の紳士淑女に接見するのが常であったが、面と向かってはだれがだれやら判別できなくなっていた。彼女のたくさんの召使いたちは、彼女の控室や女中部屋でぬくぬくと肥《こ》え、髪も白くなって死につつある老婆のものを、先をあらそってかすめ取りながら、したい放題のことをしていた。リザヴェータ・イヴァーノヴナはこの邸宅の受難者だった。お茶をいれれば、砂糖を余計に使うと小言を言われ、小説を朗読すれば、作者の欠点の責任を全部おわされた。伯爵夫人の散歩のおともをおおせつかれば、天候や道路の悪さはすべて彼女のせいになった。払ってもらえるあてもないたまった未払分の給料が、彼女には定められていた。にもかかわらず、彼女はみんなと同じように、つまりごく少数の折目正しい婦人同様に、常にきちんとした身づくろいを整えているよう強要されていた。社交界では、彼女はもっとも残酷な役割を演じていた。みんな彼女を知っていたが、だれも彼女を同等に扱ってくれはしなかった。舞踏会では、彼女は|組合せ《ヴィザーヴィ》のたりないときだけ踊りに加えてもらえた。そして貴婦人たちは、自分の衣裳《いしょう》がどこかぐあいが悪くてなおさなければならないときに、きまって彼女の手をとって、化粧室へつれて行くのだった。しかし彼女は自尊心が強く、自分の境遇に敏感で、救い主の出現を待ち焦がれながら、自分の周囲に目を凝《こ》らしていた。けれども、軽薄な虚栄の海を泳いでいるうちに、打算的になった若い男たちは、彼女に見向きもしなかった。リザヴェータ・イヴァーノヴナのほうが、彼らがそのまわりをうろうろつきまとっている、生意気で冷酷な令嬢たちよりも百倍も可憐であったのに。はなやかな、しかし空虚なサロンをひそかに抜け出して、壁紙の貼られた衝立《ついたて》、整理ダンス、鏡台、塗料のぬられた寝台を、銅の燭台《しょくだい》のロウソクの光がほのぐらく照らしている彼女の貧しい部屋へ、何度泣きに走り込んだことだろう。
ある日のこと――この物語のはじめに書かれたあの晩から二日後、今、われわれが立ちどまっている場面から一週間前のことだが、その日のことである。リザヴェータ・イヴァーノヴナは窓べで刺繍台に向かっていた。ふと窓越しに見おろした路上に、じっと立ちつくして、こちらの窓に瞳《ひとみ》を凝らしている若い技術将校の姿があった。彼女は顔をふせてふたたび仕事にとりかかった。五分ほどたってそっと頭をめぐらすと、若い将校はやはり前と同じ場所に立っていた。通りすがりの将校たちに媚《こ》びる習慣などないので、彼女は通りを見るのをやめて、顔をふせて二時間ばかり刺繍をつづけた。食事の知らせがあったので、彼女はたち上がって刺繍台を片づけばじめたが、なんとはなしに通りを見やると、まだあの将校が立っていた。これは彼女にとっては、とても奇妙なことだった。昼食後、彼女は一種不安な気持を抱いて小窓に寄ってみたが、もう将校はいなかった――それっきり彼女は彼のことを忘れていた……。
二日後、伯爵夫人と馬車に乗ろうとすると、また彼がいた。獺《かわうそ》の襟《えり》で顔をかくして玄関ぎわに立ち、帽子の奥からは、彼の黒い目がきらきら光っていた。リザヴェータ・イヴァーノヴナは、なんとなくおそろしくなり、自分にも説明のつかないおののきにふるえながら、馬車に乗りこんだ。
帰宅してから、彼女は小窓へ駆け寄ってみた――将校はもとの場所にたたずんで、じっと彼女に目を向けていた。彼女は好奇心にかられ、生まれてはじめての感情にふるえながらそこをはなれた。
その日から、若い将校がきまった時刻にこの窓の下に現われぬ日はなくなった。彼と彼女のあいだには無言の関係ができあがった。彼女はいつもの場所で刺繍をしながら、彼が近づいてくるのが、勘でわかるようになった。そして、顔をあげて彼を見つめ、面映《おもはゆ》く彼にまなざしをなげかける時間も日ましに長くなった。青年はこのことを感謝しているふうに見えた。ふたりのまなざしが合うたびに、きまって彼の青白い頬《ほお》にさっと赤みのさすのを、若い女の敏感な瞳は見のがさなかった。一週間日には、彼女は彼にほほえみかけた……。
トムスキーが友人を伯爵夫人に紹介したいとたのんだとき、あわれな娘の胸は高鳴った。しかし、その友人ナルーモフが技術将校ではなく近衛騎兵だと知って、彼女はうかつな質問で、自分の秘密を軽薄なトムスキーにもらしてしまったことをくやんだ……。
ゲルマンは、彼にわずかの資産を残した帰化ドイツ人の息子だった。独立|不羈《ふき》を確信してやまないゲルマンは、利子などには目もくれず、俸給だけで生活し、いささかの気まぐれも自分に許さなかった。とはいえ、彼はひとに媚《こ》びるといったところはなく、功名心にあふれていたので、同僚たちも彼の度のすぎた倹約をあざ笑うということはめったになかった。彼は内に強烈な情熱と燃えるような空想を秘めていたが、堅固な意志か彼を若者にありがちな軽佻浮薄《けいちょうふはく》さから救っていた。だから、根っからの賭博好きでありながら、一度もカードを手にしたことがないのは、彼の資産は〔彼が言っているように〕「余分なお金を手に入れようとして、必要なお金を犠牲にする」ほどの愚はないと、自らいましめていたからである。そのくせ、夜どおしカードテーブルの前にすわりとおして、勝負の変転するさまを、熱にうかされたようにふるえながら追っているのだった。
三枚のカードのアネクドートは、彼の空想癖をひどく刺激し、一晩じゅう彼の脳裡《のうり》をはなれなかった。「どうだろう、もし」と彼は翌日の夕方ペテルブルグの街をぶらつきながら考えた。「伯爵夫人がおれに秘密を打ち明けてくれたら――せめてあの三枚の勝札をおれに教えてくれたら、そうしたらなんで運だめしせずにおくものか……自分で彼女に会いに行き、お情けにすがりついてみるか――いっそ情人《いろおとこ》になるか――しかし、こいつはいかにも時間がかかりすぎるなあ、なにしろ八十七の婆さんなんだぞ、相手は。――一週間後には死ぬかもしれない、――二日で死ぬかもしれない。それに、そもそもあの話なんだが、ほんとうなのかなあ、だめ、だめ。倹約、節制、勤勉、これこそおれの三枚の勝札だ。これこそおれの財産を三倍にもし、七倍にもしてくれて、おれに平安と独立を約束してくれるものなんだ」
このように思いめぐらしているうちに、気がついてみると、彼はペテルブルグのある大通りの古めかしい構えの邸宅の前に来ていた。前の通りは馬車のつらなりでふさがっていて、箱馬車がつぎからつぎへ燈火の輝く玄関口ヘと乗りつけてきた。馬車からは、若い美女のすらっとした脚《あし》や、かちゃかちゃと拍車を鳴らす乗馬靴や、縞《しま》模様の靴下や、外交官の短靴が、ひっきりなしに伸び出てきた。毛皮|外套《がいとう》やマントがいかめしく気どった門衛のわきをかすめすぎてゆく。ゲルマンはたちどまった。
「どなたの邸宅ですか」と彼は街角の交番巡査にきいた。
「××伯爵夫人のお邸《やしき》ですよ」と巡査は答えた。
ゲルマンはぶるぶるっとふるえた。あの驚くべき話が、またも頭にうかんできた。彼はこの邸の女主人のこと、ふしぎなその術のことを考えながら、邸のまわりをうろついていた。遅くなって、彼はつつましい自分の部屋に帰ってきた。長いあいだ彼は寝つくことができなかった。そして、やっと眠りに落ちると、彼はカード、緑色のテーブル、紙幣の束、金貨のうずたかい山の夢を見た。彼は一枚、一枚カードを張り、例外なくカードの端を折ってゆき、勝ちっぱなしで、金貨をかきあつめたり、紙幣をポケットにつっ込んだりしていた。翌日遅くなって目覚めると、彼は幻《まぼろし》の大金にため息をつき、また街をぶらつきに部屋を出た。足はひとりでに伯爵夫人の邸の前に向かっていた。まるで抵抗できない力が、彼をここへおびきよせているようだった。立ちどまって彼は、じっと窓を見上げた。その窓には、おそらく本か手仕事の上にかがみこんでいるらしい黒髪のかわいらしい頭が見えた。顔があげられた。ゲルマンはみずみずしい顔立ちと黒い瞳とを見た。この一瞬が彼の運命をきめた。
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三
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私の天使よ、私が読みおえるより早く、四枚の手紙を、私に書いてください。
……「ある手紙」
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リザヴェータ・イヴァーノヴナがそとからもどって、マントと帽子をようやくぬいだとき、またもや伯爵夫人の使いがやってきて、ふたたび馬車のしたくをするように伝えた。彼女たちが馬車に向かい、ふたりの従僕が老夫人を抱きかかえ、車の扉口からなかへ押し入れたちょうどそのとき、リザヴェータ・イヴァーノヴナは、例の技術将校が車輪に身をすりつけるようにして控えているのに気づいた。彼はさっと彼女の手を握りしめた。彼女は驚きのあまり、青年の立ち去ったのがわからないほどだった。彼女の掌《てのひら》には一通の手紙が残されていた。彼女はそれをとっさの思いつきで手袋の中にかくしたが、道々ずっと何も耳にはいらなければ、何も目にうつらなかった。伯爵夫人は、車中、例によってはてしのない質問をするのだった。「いま会ったのはどなた」「この橋の名は」「あそこの看板にはなんて書いてあるの」リザヴェータ・イヴァーノヴナは、あてずっぽうにとんちんかんな返答をして、伯爵夫人を怒らせてしまった。
「まあ、この人はどうかしてるよ、ふぬけにでもなってしまったのかえ。きこえないの、わからないの。ありがたいことに、私はまだ舌ももつれてはいないし、気も確かですよ」
リザヴェータ・イヴァーノヴナはうわのそらで、気もそぞろだった。邸に着くと、彼女は自分の部屋に駆けこみ、手袋のなかから手紙を取り出した。それは封がしてなかった。リザヴェータ・イヴァーノヴナは読んだ。手紙は全文が恋の告白だった。それは優しく、折り目正しいものだったが、一言一句ドイツの小説のまる写しだった。しかし、リザヴェータ・イヴァーノヴナはドイツ語がわかりはしなかったから、心の底から感動した。
けれども、彼女は受けとった手紙をどうしたものかと困りはてた。生まれてはじめて、若い男性とひそかな接触を持つことになったのである。彼女は男の大胆さがこわかった。彼女は自分の軽はずみを叱ってはみたものの、どうしていいのかわからなかった。もう窓辺にすわるのはやめて、若い将校の執心を無視して、相手の気持がさめるように仕向けようか――手紙を返してしまおうか、冷酷に、きっぱりと返事をしようかと思いあぐねた。彼女には相談相手になる友だちも、師とあおぐ人もなかったのである。リザヴェータ・イヴァーノヴナは、やっと返事を書くことにきめた。
小さな文机に向かってペンを手にとったが、彼女は考えこんでしまった。何回か書きはじめては、やぶりすてるのだった。言いまわしがあまりにていねいすぎたり、あまりに冷淡すぎたりした。ついに満足のゆく数行を書くことができた――。
『私は信じています』と彼女は書いた。『あなたが清らかなお心の持主であられ、あのような軽率な行ないで、私をはずかしめになるおつもりではなかったことを。でも、私どものおつきあいはこんなふうにはじまるはずもございません。お手紙はお返しいたしますので、このうえ、私のぶしつけがあなたのおうらみをつのらせることのいっさいありませぬよう、くれぐれもお願い申し上げます』
つぎの日、やってきたゲルマンを見つけると、リザヴェータ・イヴァーノヴナは刺繍台から立って、玄関へ出て風窓をあけ、通りへ向けて手紙をなげた、若い将校の目ざとさに期待して。ゲルマンは駆け寄ってそれを拾いあげると、カフェにはいった。封を切ると、自分の手紙とリザヴェータ・イヴァーノヴナの返事がはいっていた。彼はこの事態を予期していたので、善後策をあれこれ考えながら家に帰った。
それから三日ほどして、リザヴェータ・イヴァーノヴナのところへ、アクセサリー店から、目のぱっちりした少女が、一通の書きつけを届けてきた。リザヴェータ・イヴァーノヴナは、支払いの不足があるのだろうかと気になりながら、それをひらいてみたが、すぐにゲルマンの筆跡だとわかった。
「おまちがいでしょう」と彼女は言った。「この書きつけは私あてじゃなくてよ」
「いいえ、まちがいではありません」とその勇敢な少女は、ずるそうな笑いをかくそうともせずに答えた。「どうぞお読みください」
リザヴェータ・イヴァーノヴナは、書きつけに目を走らせた・ゲルマンは会って欲しいと言ってきていた。
「そんなはずはありません」リザヴェータ・イヴァーノヴナは、彼の要求の性急さと、そのやり口にあきれながら答えた。「どうしても人ちがいですわ」――と言って手紙をびりびりに引き裂いた。
「もしお人違いの手紙でしたら、なぜおやぶりになりましたの」と少女は言った。「私、お送りいただいたかたにお返しいたしましたのに」
「どうぞお願いですから」とリザヴェータは、彼女の抜け目ないその言葉に赤面しながら言った。
「もうけっしてこんなもの持ってこないでください。そしてあなたにたのんだおかたには、おつつしみあそばしませと申し上げて」
しかし、ゲルマンはあきらめなかった。毎日毎日手をかえ品をかえ、リザヴェータ・イヴァーノヴナに手紙を届けた。それはもうドイツ小説のまる写しではなかった。ゲルマンは情熱のとりことなって、心からあふれる思いを言葉にしてつづった。そこにはおそれを知らぬ彼の願いと、奔放《ほんぽう》な空想の混乱が現われていた。リザヴェータ・イヴァーノヴナは、もうそれを送り返そうとは思わなくなった。彼女はその手紙に酔いしれていた。そして、やがて返事を出すようになった。――返事は回を重ねるごとに長くなってゆき、情のこもったものとなっていった。ついに、彼女はつぎのようにしたためた手紙を、小窓から彼になげ与えた。
『今日、××大使のお邸で舞踏会が催されます。伯爵夫人もお出かけになります。私どもは二時ごろまであちらにいる予定です。ふたりきりでお会いできるまたとない機会でございます。伯爵夫人がお出かけになれば、召使いたちはすぐに引きさがってしまいます。玄関には門衛が残っておりますが、彼もいつもは自分の部屋にさがっております。十一時半におこしくださいませ。まっすぐ表の階段をおすすみください。もしだれかが控室におりましたら、伯爵夫人はご在宅かとおたずねください。不在だと申しましょうから、その折はもういたしかたございません。お引きとりくださいませ。でもおそらくだれにもお会いになることはないでしょう。小間使いたちは、みんなひとつの部屋に集まっております。控室から左へまっすぐおすすみください。奥さまの寝室がございます。寝室の衝立の陰に、ふたつの小さな扉があります。右の方は奥さまがついぞおはいりになったことのない書斎に出ます。左側は廊下に出ます。そこに狭い螺旋《らせん》階段があり、それをおのぼりになれば、私の部屋でございます』
予定の時刻を待ちながら、ゲルマンは虎のように身ぶるいをしていた。夜の十時に、彼はもう伯爵夫人の邸の前に立っていた。その夜はすさまじい荒模様だった。風がうなり、しめった綿雪が吹雪《ふぶ》いていた。街燈はおぼろに光を落とし、通りにはまったく人影がなかった。ときたま、行きおくれた乗客はいないかと物色しつつ、馭者が自分のやせ馬をはげまして通りすぎていった。ゲルマンはフロックコート一枚しかはおっていないのに、無感覚になってしまって、じっとたたずんでいた。やっと伯爵夫人の馬車がひきだされた。従僕たちが貂《てん》の外套にくるまった背のまがった老婦人をかつぎあげると、そのあとから薄いマントをはおって、頭には生花をあしらった養女がちらっと見えた。車の扉がばたんと閉められた。馬車はくだけやすい雪の上を、重々しく走り去った。門衛が扉を閉めた。窓がほの暗くなった。ゲルマンは人気の絶えた邸のまわりをゆきつもどりつしはじめた。街燈に寄って時計をのぞくと、十一時二十分だった。彼は街燈の下にたたずんだまま、残り時間をつぶすために時計の針の動きを見つめていた。十一時半ぴったりに、ゲルマンは伯爵夫人邸の表階段をのぼり、明るく照らされた玄関にはいっていった。門衛の姿はなかった。ゲルマンは階段を駆けのぼり、控室の扉をあけた。そこにはランプの下で従僕がひとり、古びて汚くなった肘掛椅子《ひじかけいす》をつなぎあわせて眠っていた。ゲルマンはしのび足で、落ち着きはらって彼のそばを通り抜けた。広間も客間も暗かった。控室からの灯《ひ》がそれらをうすぼんやりと照らしていた。ゲルマンは寝室にはいった。古びた聖者の画像がいっぱいはいっている聖像箱の前に、黄金の燈明が燃えていた。唐模様の壁紙の張られた壁ぎわに色あせた緞子《どんす》の肘掛椅子が、羽根毛のクッションつきの、金泥《きんでい》のはげたソファと、物悲しげに向かい合っていた。壁にはパリのルブラン夫人〔ロシアに亡命したフランス女流画家〕の筆になる肖像画が二枚かけられていた。一枚は四十歳ぐらいの赤ら顔のふとった男性を描いており、明るい緑の軍服に勲章がひかっている。もう一枚は、わし鼻の若い美女で額際《ひたいぎわ》をアップにし、打ち粉した髪にバラの花をさしている。部屋の四隅には、牧童の焼物や、名高いルロワ〔フランスの有名な時計職人〕の作った置時計や、小箱、ルーレット、扇子、前世紀未にモンゴルフィエの気球やメスメル〔ウィーンの医師〕の磁気といっしょに発明された、さまざまな貴婦人の遊び道具が雑然と置いてある。ゲルマンは衝立の向こうへまわった。そこには小さな鉄製の寝台があった。右側には夫人の書斎へ通ずる扉があり、左側のもうひとつは――廊下に通じていた。それをあけると、あわれな養女の部屋へゆける狭い螺旋階段が見えた……しかし彼は意外なことに、ここで暗い書斎へはいっていった。
時間はゆっくりすぎていった。あたり一面しんと静まりかえっていた。客間の時計が十二時を打つと、あちこちの部屋の時計がつぎつぎに十二時を打ち――そしてまた、ひっそりとなった。ゲルマンは火の気のない暖炉にもたれて、落ち着きはらっていた。彼の心臓の鼓動は、何か避けることのできない危険を覚悟した人のように平静だった。時計は一時を打ち、つづいて二時を打つと――、遠くで馬車の音がきこえた。ひとりでに胸さわぎがしてきた。馬車は近づいてきて、そしてとまった。踏台をおろす音がきこえた。とたんに邸中が騒然となる。召使いたちは足早に行きかい、大声をかわしあい、部屋部屋に燈《あか》りがともされた。三人の老女中が寝室に駆けこむと、伯爵夫人が生きた心地もなげなようすではいってきて、ヴォルテール椅子に深々と身を沈めた。ゲルマンは自分のそばを、リザヴェータ・イヴァーノヴナが通りすぎてゆくのを隙間から見ていた。狭い階段をせわしない足どりで彼女があがってゆくのをきいた。彼の心臓は、何か良心の痛みのようなものを訴えたが、それもつかの間ですぐ平静にもどった。彼の心は石と化していた。
伯爵夫人は鏡の前で衣裳をぬぎはじめた。バラの飾りのある帽子がはずされ、白髪のきちんと刈りこまれた頭から、髪粉をふりかけたかつらがぬがされた。ヘアピンが彼女のまわりに雨のように飛び散った。銀糸の縫い取りのある黄色い衣裳が、むくんだ足もとに落ちた。ゲルマンは彼女の化粧の嫌悪感《けんおかん》をもよおすような秘密を、子細に見せつけられたのである。やっと、伯爵夫人は寝巻とナイトキャップ姿になった。この格好のほうが、はるかに彼女の年齢に相応《ふさわ》しかったので、もうそんなにおそろしくも、醜くも見えなくなった。
一般に老人のほとんどがそうであるように、伯爵夫人も不眠に悩まされているようだった。着替えをすますと、彼女は窓ぎわの大椅子に腰をおろし、女中たちを引きとらせた。燭台も持ってゆかせたので、部屋はふたたびひとつの燈明だけで照らされている。伯爵夫人のまっ黄色な顔、ぴくぴくけいれんするゆるんだ唇、そしてからだ全体が左右にゆれ動いていた。どんよりした両眼は、完全な感情の欠如をものがたっている。彼女を見ていると、老婆のからだがゆれるのは、彼女の意志によるものではなく、秘密じかけの電気ショックにかけられているのではないかと思えるほどだった。
突然、その死人のような顔に、なんともいいようのない変化が起こった。唇が動かなくなり、目がいきいきしてきた。伯爵夫人の目の前に、見知らぬ男が立ったのだ。
「静かにしてください、お願いですから。そんなにびっくりしないでください」と彼は小声だがはっきり相手に告げた。「あなたに危害を加える気はありません、あなたにお願いがあってきたのです」
老婦人は黙って彼を見つめていた。どうも彼の言うことがきこえないようすである。ゲルマンは耳が遠いのかと思い、彼女の耳許にかがみこんで、もう一度同じことをくり返した。老婦人はやはり黙っていた。
「あなたは」とゲルマンはつづけた。「私の一生の幸福を作り出してくださることができるのです。そして、それはあなたにとっては簡単なことなのです。私はあなたが三枚のカードをつづけておあてになるということを知っているのです……」
ゲルマンは言葉を切った。伯爵夫人は彼の要求がなんであるかを理解したようだった。彼女は返事の言葉を探しているふうだった。
「あれは冗談だったのです」とやっと彼女は言った。「ほんとうに、冗談だったのです」
「あれが冗談ですって」とゲルマンはむっとして言い返した。「あなたが負けを救ってあげたチャプリッツキーをお忘れですか」
伯爵夫人はあきらかに当惑していた。彼女の顔は激しい心の動揺を現わしていたが、すぐにもとの無表情にもどった。
「私に」とゲルマンはつづけた。「その三枚の勝ちカードを教えていただけないでしょうか」
伯爵夫人は黙っていた。ゲルマンはつづけた。
「だれのために、あなたはこの秘密をまもりとおすおつもりなのですか。お孫さんたちのためですか。あのかたたちはそれがなくたって、充分金持です。それにあの人たちはお金の値打などわからぬかたたちです。道楽者に三枚のカードなどご無用です。親の遺産を喰いつぶすような者は、たとえどんな悪魔のお助けがあろうと、やつぱり貧乏神にとりつかれて死ぬのがおちです。私は道楽者ではありません。私はお金の値打を知っています。あなたの三枚のカードを私はけっしてむだにはいたしません。さあ」
彼はここで言うのをやめ、ふるえながら返事を待った。伯爵夫人は答えなかった。ゲルマンはひざまずいた。
「もしも今までに」と彼は言った。「あなたの胸が恋心を感じたことがあるなら、もし、あなたがその歓《よろこ》びを思い起こされるなら、もし赤ん坊の産声《うぶごえ》に一度でもほほえまれたことがあるなら、もしあなたの胸が人間らしい何かに感動したことが一度でもおありでしたら、あなたに奥方として、恋人として、母としての愛にかけて、この世のありとあらゆる聖なるものにかけて、どうぞ私のこの願いをおききいれになってください。秘密を教えてください。それがあなたになんでしょう。それは仮に、おそるべき罪と、永遠の幸福の破滅と、悪魔の契約とをともなっていようとですよ、考えてもみてください、あなたはご老体で、あなたのお命はもう長くはないのです。あなたの罪ならば、この私の魂がお引き受けいたします。どうかあの秘密を教えてください。考えてみてください。ひとりの男の幸せがあなたの手中にあるのですよ。そして、それは私だけではない、私の子ども、孫、ひ孫までもが、あなたの思い出に感謝し、聖体のようにあがめるでしょう……」
老婦人はひとことも答えなかった。
ゲルマンは不意にたちあがった。
「老いぼれ鬼婆め」と彼は歯ぎしりして言った。「それならいやでも言わせてやる」
この言葉とともに、彼はポケットからピストルを抜き出した。
ピストルが目にはいると、伯爵夫人は二度目の強い感情を現わした。彼女は銃弾から身をかばおうとでもするかのように、首をふり、片手をあげた。が、やがてあおむけに転がり落ちてそのまま動かなくなった。
「子どもじみたまねはやめてください」と彼女の手をとりながら、ゲルマンは言った。
「もう一度だけおたずねします。三枚のカードの秘密を私に教えてくださる気がおありなのか、それともないのか」
伯爵夫人は答えなかった。ゲルマンは彼女が死んでいることに気づいた。
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四
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一八××年五月七日
道徳規律をもちあわせていないような男には、高潔さなどありえない。
……「ある手紙」
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リザヴェータ・イヴァーノヴナは、まだ舞踏会の衣裳のままで、自分の部屋にすわって、もの思いにしずんでいた。邸に帰るとすぐ、彼女はお義理に自分の務めを申し出た寝ぼけ顔の少女に、着替えは自分でするからとさっさとさがらせ、ゲルマンが来ていてくれるようにとねがう一方では、いてくれませんようにと念じつつ、ふるえながら自分の部屋にはいっていった。彼がきていないことをひと目で知って、彼女はほっとし、この密会に邪魔のはいった幸運を感謝した。彼女は着替えもしないですわって、こんな短い間に、こんなにも深入りしてしまった事態のなりゆきを思い起こしていた。青年をはじめて小窓から見た日から、まだ三週間とたっていなかった。それなのにもう彼女は彼と手紙をかわし、夜ふけの逢引までも承諾してしまったとは。彼の名前だってその何通かの手紙の署名によって知っているだけだった。彼と話したこともなければ、声をきいたこともなく、その人については噂話《うわさばなし》にもきいたことがなかった……今夜このときまでは。その夜舞踏会でトムスキーは、公爵令嬢ポーリナ××がいつもとちがって他の男性と戯れるのを見ておかんむりになり、その腹いせをしてやろうと一見平静を装っていた。それで彼はリザヴェータ・イヴァーノヴナを呼びよせて、彼女とマズルカを踊りに踊りぬいた。そのあいだじゅう、彼は彼女の技術将校への御執心をからかい、まだだれにもバレていないとあなたは思っているだろうが、ぼくはいろいろな事情を知ってるんだぞと断言した。たしかに、彼の冗談のなかには、彼女の秘密が彼に知れてしまったのではないかと思えるほど、たびたび的を射たものがあったのである。
「そんなことどなたからおききになりましたの」と笑いながら彼女は答えた。
「あなたがご存じの友だちからさ」とトムスキーは答えた。「とても有名な人からさ」
「どなた、その有名なおかたというのは」
「その人の名はゲルマン」
リザヴェータ・イヴァーノヴナは、何も答えなかった。彼女の手足は凍りついてしまった。
「このゲルマンという男はね」とトムスキーはつづけた。「正真正銘のロマンチストでね、まあ言ってみれば横顔はナポレオンで、心はメフィストフェレスといったところさ。ぼくが見るところ、彼の良心はすくなくとも三つの悪に悩んでいるね。あれ、どうしたの、そんな青い顔して」
「頭痛がしますの。そのゲルマンさまとやらがなんとおっしゃいましたの」
「ゲルマンはその友だちのことでおもしろくないのさ。ぼくがあいつだったら、あんなふうにはやらないってね。どうもゲルマン自身があなたに気があるらしい。すくなくともその友だちのおのろけをきくたびに、やっこさん内心おおいに穏やかじゃないらしいんだよ」
「いったいどこでそのかた、私をご覧になったのでしょう」
「教会かな、それとも散歩でかな。それは神のみぞ知るさ。ことによったらあなたの部屋かもしれないぞ。あなたが眠っている間に……彼ならやりかねないからなあ……」
そのとき、三人の貴婦人が近づいてきて、「お忘れ、お心残り」〔マズルカを踊るときの組合せに使う言葉〕と彼に問いかけてきたので、リザヴェータ・イヴァーノヴナにとって悩ましくも気をそそられる話は中断してしまった。
トムスキーの踊りの相手にあたった淑女は、ほかならぬ××公爵令嬢だった。彼女は規定の回数より余計に踊りつづけ、また何度も自分の席の前まで来ては身をかわして踊りつづけながら、うまくとりいって彼のごきげんをなおしてしまった。自分の席にもどったトムスキーは、もうゲルマンのことも、リザヴェータ・イヴァーノヴナのこともきれいさっぱり忘れてしまっていた。彼女は中断された話のつづきがききたくてたまらなかったが、マズルカは終わってしまい、それから間もなく伯爵夫人のお帰りとなった。
トムスキーの言葉は、マズルカにつきもののほんの冗談にすぎなかったけれども、夢みがちな若い娘の胸には、そのひとことひとことが深くこたえた。トムスキーがさっと描いたその男のプロフィルは、彼女自身が胸に描いていたものと似ていないこともなかったし、最近の小説の影響をうけて通俗的にはなっていたが、そのイメージは彼女の空想力を刺激し、彼女をとりこにしていたのである。彼女はあらわな手を組み合わせて、飾り花のついた頭をはだけた胸に落としてすわっていた。と、突然扉があけられて当のゲルマンがはいってきた。彼女はぞくっと身をふるわせた。
「どこにいらしてたの」と彼女はおびえた咳《つぶや》き声でたずねた。
「伯爵夫人の寝室に」とゲルマンが答えた。「たったいま、そこからきました。夫人は亡くなりました」
「なんですって、なんておっしゃいました」
「それも」とゲルマンはつづけた。「ぼくのせいであの人は亡くなったらしい」
リザヴェータ・イヴァーノヴナは彼を見あげた。するとトムスキーの言葉が胸のなかで鳴りひびいた。『この男の心中にはすくなくとも三つの悪が存在するんだよ』。ゲルマンは彼女のそばの窓枠に腰をおろして、いっさいを物語った。
リザヴェータ・イヴァーノヴナはおそろしさにふるえながらじっときいていた。では、あの情熱的な手紙も、あの燃えるような要求も、あの大胆で、執拗《しつよう》なつけまわしも、みんな恋ゆえではなかったのか。お金――これこそがこの男の心を燃えたたせたものだったのだ。彼の望みをみたし、彼を幸せにしてやれたのは、私ではなかったのだ。……あわれな養女は、泥棒で、年老いた自分の恩人殺しに、おろかにも手をかしてやっていたのだ……彼女はとりかえしのつかない後悔にむせび泣いた。ゲルマンは黙ったまま彼女を見ていた。彼の心臓もまたひきちぎられる思いだった。しかし、彼の冷酷な心を震憾《しんかん》させたのは、あわれな娘の涙でもなく、その愁嘆ぶりの驚くべき美しさのためでもなかった。彼は死んだ老婆のことを思ってさえ、良心の呵責《かしゃく》は感じなかった。たったひとつのことが、彼を動転させていた。巨万の富を夢みさせたあの秘密が、今はもうかえらぬものとなってしまったことが。
「あなたはおそろしい背徳漢です」やっとリザヴェータ・イヴァーノヴナは言った。
「殺す気はなかったのだ」とゲルマンが答えた。「弾丸《たま》もこめてなかった」
ふたりはまた黙った。
夜が明けてきた。リザヴェータ・イヴァーノヴナが、燃えつきそうなロウソクを消すと、白々とした未明の光が彼女の部屋に漂った。彼女は泣きはらした目をぬぐうと、ゲルマンを見あげた。彼はまだ腕組みし、険《けわ》しい形相をして窓枠に腰をおろしたままだった。そうしていると、彼の横顔はナポレオンに生写しであった。そのそっくりのところが、またリザヴェータ・イヴァーノヴナの胸をかきむしるのだった。
「どうやってお帰ししたらいいでしょう」と、やがてリザヴェータ・イヴアーノヴナが口を切った。「かくし梯子《ばしご》におつれするつもりでしたのに、あの寝室を通らなければならないのがこわくて……」
「そのかくし梯子のありかを教えてください。ひとりで出てゆきますから」
リザヴェータ・イヴァーノヴナはたちあがって、タンスから鍵を取り出すと、ゲルマンに手渡し、くわしい道順を教えた。ゲルマンは彼女の冷たい、応《こた》えのない片手を握り、うなだれた額に接吻して出ていった。
彼は、螺旋《らせん》階段をおりて、ふたたび伯爵夫人の寝室にはいっていった。死んだ老婆は、石のように腰をおろし、その面には深い安らぎをたたえていた。ゲルマンは彼女の前で立ちどまり、長いあいだ彼女を見つめていた。このおそるべき事実を見きわめようと希《ねが》うかのように。やがて、彼は書斎にはいり、壁紙にかくれたかくし扉をさぐりあてると、真っ暗な梯子段をおりはじめた。奇妙な感情に興奮させられながら。「この梯子をつたって」と彼は考えた。「たぶん、六十年前の昔に、この寝室に、この時刻に、縫取りのある|裾長の上衣《カフタン》を着て、王鳥まげ〔十八世紀に大流行の髪型〕に髪を結って、三角帽を胸にだきしめながら、若い果報者が侵入したことだろう。彼はとうの昔に墓場で朽ち果ててしまっただろうが、その恋人の心臓は、今日とまった――」
階段をおりると扉があった。それも同じ鍵であけると、ゲルマンは通りへ抜け出る廊下に出ていた。
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五
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その夜、故男爵夫人フォン・V××が私のもとに現われた。彼女は全身白装束で、私に言った。「ごきげんよう、顧問官どの」
……スウェーデンボルク
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運命のあの夜から三日たった朝の九時に、ゲルマンは××修道院へ出かけていった。伯爵夫人の葬儀はそこで行なわれるにちがいなかった。後悔はしていなかったが、やはり彼は自分に向かって、たえまなくくり返される、「おまえは老婆殺しだ」という良心の声を、まったく押しつぶすことはできなかった。とくに信仰心もないくせに、彼は迷信家だった。彼は亡くなった伯爵夫人が、彼の生涯に何か崇《たた》りをもたらしはしないかと思いこみ、彼女に許しを乞《こ》おうと葬式に出席する決心をしたのだった。
教会は人でいっぱいだった。ゲルマンはやっとのことで、人ごみのなかを通り抜けることができた。柩《ひつぎ》はビロードの天蓋《てんがい》の下の立派な台に安置されていた。故人はそのなかで、胸に合掌して、レースの頭巾《ずきん》に白繻子《しろしゅす》の服を着せられて横たわっていた。周囲には彼女の家の者たちが立っていた。黒の|裾長の上衣《カフタン》を着て、肩に紋章結びのリボンをつけた下男たちが、手に手にロウソクを捧げていた。一族の者――子、孫、ひ孫たちは大喪の礼服に身を包んでいた。だれひとり泣いてはいなかった。泣く者があるならば、それはわざとにちがいない。伯爵夫人は非常な老齢だったので、その死はだれにも衝撃を与えることなく、近親者にいたっては、もうずっと前から、彼女は長生きしすぎたと思っていたのである。若い司祭が柩《ひつぎ》を送る説教をはじめた。率直で、感動的な言葉で、長年にわたってキリスト信者としての終わりをまっとうしたいと望み、静かに、熱心に修行をつとめた故人の、安らかな昇天を祈念した。「死の天使は」と司祭は語った。「清らかな思いにみちて、天の花婿の出迎えを待つこの人に目をとめられたのであります」儀式はしめやかに終わりを告げた。近親者たちがまず別れを告げた。そのあとから、かつての空虚な遊興の相手だった女に、最後の別れを告げようとやってきたたくさんの会葬者がすすみ出た。最後に、故人と仲よしだった同い年の老貴族夫人が近づいた。ふたりの女中に両脇を支えられてすすんだ。彼女はひざまずいてお辞儀をする力ももはやなくなっていたが、会葬者中ただひとり、涙をはらいながら自分の友人の冷たくなった手に接吻したのだった。彼女のあとで、ゲルマンは決意して柩に向かっていった。彼は深々と一礼すると、樅《もみ》の若枝を敷きつめた冷たい床にひれふしたまま、二、三分動かなかった。やがてたちあがった彼は、故人同様の真っ青な顔をして安置台の階段をのぼってゆき、身をかがめた。……とその瞬間、彼は死者が片眼をしばたたいて、彼を嘲《あざけ》るように一瞥《いちべつ》したのを見てとった。ゲルマンはあわててあとずさりしたはずみに、足を踏みはずしあおむけざま床にひっくりかえった。彼が助け起こされたちょうどそのとき、リザヴェータ・イヴァーノヴナも気を失って、教会の入口の階段へと担ぎ出されていた。このエピソードは、おごそかな沈んだ空気を、しばらくのあいだかき乱した。会葬者のあいだに低いささやきが起こった。故人の近親者である痩身《そうしん》の侍従は、隣に立っているイギリス人に、あの若い将校は彼女の隠し子なのだと耳打ちし、それにたいしてイギリス人は、冷淡に「ほう」とだけ答えた。
その日一日、ゲルマンは錯乱状態がつづいた。さびれた居酒屋で食事をしながら、異例なことに、内心の動揺をしずめようとしてずいぶん酒を飲んだ。しかし、酒は彼の妄想をいやがうえにも募《つの》らせるのだった。家に帰ると、彼は着替えもしないまま、ベッドに身を投げ出し、ぐっすり寝こんでしまった。
夜半、ふと目をさますと、月光が部屋をみたしていた。時計を見ると三時十五分前だった。彼はベッドに腰かけ、老伯爵夫人の葬儀を思い出していた。
そのとき、だれかが通りから窓ごしに彼のほうを見たが、すぐさま通りすぎた。ゲルマンは気にもとめなかった。一分ほどして、彼は玄関の間の扉をだれかがあける音をきいた。ゲルマンは従卒がいつものでんで、酔っぱらって夜遊びから帰ってきたのだろうと思った。しかし、ききなれぬ足音がした。だれかが上履《うわば》きの音を忍ばせながら、こちらに歩いてくる。扉がひらいた。白い衣裳の婦人がはいってきた。ゲルマンは年老いた乳母だと思いこみ、こんな時刻に何しに来たのかと不審がった。しかし、白衣の婦人はすり抜けるようにして、パッと彼の前に現われた。驚いたことに、それは伯爵夫人だった。
「ここへ来たのは私の意志からではありません」彼女は重重しい口調で語った。「おまえの願いをかなえてやれと命じられたのです。『三』『七』『一』――とこの順で張ればおまえの勝ちです。しかし、一晩に一枚以上張ってはなりません、またそれ以後一生カードを手にしてはなりません。おまえが私の養女のリザヴェータ・イヴァーノヴナと結婚するならば、私を殺した罪は許してあげましょう……」
こう言いおわると、彼女はそっと向きをかえ、扉のほうへ行き、上履きの音とともに消えていった。ゲルマンは入口の扉がぱしゃんと閉まるのをきき、だれかがまた窓ごしに彼を見ていたのに気づいた。
ゲルマンは長いあいだ茫然としていた。彼はつぎの間へはいってみた。従卒は床で眠っていた。いつものとおり酔っぱらっていたので、彼からは何ひとつわけをきくことはできなかった。玄関の扉は閉まっていた。ゲルマンは自分の部屋にもどると、燈をともし、自分の見た夢を書きとめた。
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六
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「待った」
「よくもまあ、私に待ったがかけられたもの」
「閣下、私は『お待ちを』と申し上げましたので」
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精神界にふたつの固定観念が同時に存在しえないのは、ちょうど物質界にふたつの物体が同時に、同じ場所に存在しえないのと似ている。やがて、『三』『七』『一』のゲルマンの心のなかで占める位置が、亡くなった老婆の面影にとってかわった。『三』『七』『一』は、彼の頭のなかいっぱいになり、ひとりでに口ずさむまでになった。若い娘を見れば、「いい格好だなあ、まさしく『ハートの三《トロイカ》』だ」。「何時か」と問われれば、「『七《セミヨールカ》』に五分前」と答えた。腹の突き出た男に会えば、いつも『一《トウス》』を思いだした。『三』『七』『一』は、さまざまな形をとりながら、夢のなかにまで彼を追いかけてきた。『三』は華麗な大輪の花となって現われ、『七』はゴチック式の門に、『一』は女郎蜘蛛《じょろうぐも》になった。彼の思いはことごとくひとつの思いにこりかたまってしまった――このかけがえのない秘密をひとつ試してみたいということに。彼は休暇をとって旅行に出ようと計画をたてた。パリの公開賭博場へ出かけ、魅惑的な幸運の女神のもとで、この秘術を存分につかってみたかった。と、ある機会が、彼のこの計画を現実のものにしてくれた。
モスクワに裕福な賭博者たちのためのクラブがあった。それをとりしきるのは有名なチェカリンスキーで、カードのために生まれてきたようなこの人物は 勝てば手形で受け取り、負ければきれいに現金で払ううち、巨万の富を築きあげていた。長年の経験は会員の信望を得ていたし、気軽に出入りできる雰囲気、腕のよい料理人、愛想のよさと陽気さが、世間の尊敬すら得るまでになっていた。その彼がペテルブルグへきたのである。若者たちは、カードのために舞踏会を忘れ、婦人たちを追いかける情熱をファラオンの誘惑にのりかえて、彼のもとへ押し寄せた。ナルーモフがここヘゲルマンを案内した。
ふたりはいくつもの立派な部屋を通りぬけたが、どの部屋にも礼儀正しい給仕が控えていた。いく人かの将軍や顧問官たちがホイストを戦わせていたし、若い連中は緞子《どんす》のソファに寝そべりながらアイスクリームを食べたり、パイプをくゆらしてくつろいでいた。サロンの長いテーブルのまわりには、二十人ばかりの賭博者がぎっしりと居並び、主人も腰をおろして親をつとめていた。彼は六十歳ぐらいで、整った容貌をしていた。銀髪で、血色のよい丸顔は心根の善《よ》さを表わしていた。いつも微笑をたやさぬ眼差《まなざ》しは、溌剌《はつらつ》として輝いていた。ナルーモフは、彼にゲルマンを引きあわせた。チェカリンスキーは、親しみをこめて彼の手を握り、どうぞおらくになさってくださいというと、また親をつづけた。
ひと勝負つくまでにはずいぶん時間がかかった。テーブルの上には、三十枚以上のカードが載《の》っていた。チェカリンスキーは、一枚カードを投げるたびに間をおいた。勝負している連中に考えをまとめさせ、負け高を書きつけ、彼らの要求に丁重に耳を傾け、さらにいっそう丁重に、客たちの放心した手によって曲げられた『角余り』〔倍賭け勝負で、まちがって折られた折り目〕を伸ばしたりした。
やっとひと勝負ついた。チェカリンスキーは、カードを切ってあらたに配る用意をした。
「ぼくにもひとつ配ってください」とゲルマンが、やはり勝負に加わったふとった紳士のうしろから手を差し出して言った。チェカリンスキーはにっこりして、承諾のしるしに黙って一礼した。ナルーモフは笑いながら、ゲルマンが長年の禁断を破ったことを祝って幸運な前途を祈った。
「やるぞ」と持ち札の上に賭金をチョークで書きこむと、ゲルマンは言った。
「おいくらでございましょうか」と親は目を細めながらたずね、「失礼でございますが、見えませんので」と言った。
「四万七千です」とゲルマンは答えた。
それをきくとみんなの頭がいっせいに振り向いて、ゲルマンを見つめた。「やつ、気でも狂ったのか」とナルーモフは思った。
「念のため申させていただきますが」とチェカリンスキーはあいかわらず微笑をたたえながら言った。「あなたの賭額は大きすぎますようで。私どもではまだ二百七十五以上お賭けになったかたはございませんが……」
「いいんです」とゲルマンが言いかえした。「ぼくと勝負しますか、それとも」
チェカリンスキーは、もちろん異存はありませんと言ったふうに頭をさげた。
「ただ申しあげておきたいと存じますのは」と彼は言った。「お仲間の皆さまからご信頼をいただいております私といたしましては、現金でございませんと親がつとまりませんので。もとより私といたしましては、あなたのお言葉だけで充分なのでございますが、賭事のきまりや計算のつごうもありまして。おそれいりますが、カードに現金をのせておいていただけませんか」
ゲルマンはポケットから一枚の手形を取り出し、チェカリンスキーに渡した。彼はそれにざっと目をとおすと、ゲルマンのカードの上にそれをおいた。
彼はカードを配りだした。右手には『九』が、左手には『三』が出た。
「やった」とゲルマンは持ち札を示しながら言った。
客のあいだがら咳《つぶや》きがわき起こった。チェカリンスキーは、心持ち顔をしかめたがすぐに微笑が彼の顔にもどった。
「すぐお受け取りになりますか」
「どうかお願いいたします」
チェカリンスキーはポケットから数枚の手形を取り出し、さっさと支払った。ゲルマンはそれを受け取ると席をたった。ナルーモフは茫然としていた。ゲルマンはレモネードを一杯のむと家に向かった。
つぎの日の晩、彼はまたチェカリンスキーのところへ現われた。やはり主人が親をつとめていた。ゲルマンがテーブルに近づくと、賭手たちは即座に彼のために席をあけてくれた。チェカリンスキーは愛想よく彼にあいさつした。
ゲルマンは新しい勝負を待ってカードを張り、そのうえに四万七千と昨日の勝ち分をあわせてのせた。
チェカリンスキーがカードを配った。『ジャック』が右手に、『七』が左手に出た。
ゲルマンは『七』をひろげて見せた。
驚嘆のざわめきが潮のように起こった。チェカリンスキーは狼狽《ろうばい》の色をかくしきれなかった。彼は九万四千を勘定すると、ゲルマンに渡した。ゲルマンは平然とそれを受け取ると、さっさと退場した。
つぎの晩、ゲルマンはまたテーブルの前に現われた。みんな彼を待ち受けていた。将軍や顧問官は、かくも珍しい勝負をみのがす手はないとホイストをやめた。若い将校たちはソファからはね起き、給仕も残らずサロンにやってきた。みんなゲルマンをとりかこんだ。他の賭手たちは自分のカードを張ろうともしないで、かたずをのんで成行きを見まもっていた。ゲルマンはテーブルの脇に立っていた。顔面蒼白の、しかしあいかわらず微笑をたやさないチェカリンスキーと、一対一で勝負しようとして。おのおのがカードの封を切った。チェカリンスキーがカードを切った。ゲルマンが切りなおして、自分のカードを張り、その上に手形を山と積んだ。これはいかにも決闘に似ていた。深い沈黙があたりを支配していた。
チェカリンスキーがカードを配ったが、その手はふるえていた。右手に『女王』が、左手に『一』が出た。
「『一《トウス》』の勝ちだ」とゲルマンが言って、持ち札をひろげた。
「あなたの『女王《ダーマ》』の負けでございます」とチェカリンスキーがやさしく言ってのけた。
ゲルマンは愕然《がくぜん》とした。まさしく『一』のかわりに、テーブルにあったのはスペードの女王だったのである。彼は自分の目を疑った。どうしてカードを引きちがえたかわからなかったのだ。
そのとき、スペードの女王が目を細め、にんまりと唇をゆがめたかに見えた。その生写しの面影が彼を刺し貫いた。
「あの婆《ばばあ》だ」と彼は恐怖の絶頂で叫んだ。
チェカリンスキーは勝ちとった手形の山を自分のほうへかきよせた。ゲルマンはピクリともせぬ不動の姿勢で立ちつくしていた。彼がテーブルから去ったとき、さわがしい話し声がせきを切ったように起こった。「見事な勝負だった」賭博者たちは思い思いに感慨を述べたてた。チェカリンスキーはあらたにカードを切った。勝負は元どおりにつづけられた。
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結び
ゲルマンは発狂した。彼はオブホーフ精神病院の十七号室にいる。何をきかれても返事をせず、ただとてつもない早口で咳くだけである。「『三《トロイカ》』『七《セミヨールカ》』『一《トウス》』」「『三《トロイカ》』『七《セミヨールカ》』『女王《ダーマ》』」
リザヴェータ・イヴァーノヴナは、気立てのよいある青年のところへとついだ。その青年はどこかへ勤めていて、ちょっとした財産もあった。彼はあの老伯爵夫人の執事をしていた男の息子である。リザヴェータ・イヴァーノヴナは、貧しい親戚の娘を引き取って養女にした。
トムスキーは大尉に昇進して、ポーリナ公爵令嬢と結婚した。
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大尉の娘
若い時から名誉はたいせつにしなさい。
第一章 近衛軍曹
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その気になれば明日にも坊やは近衛《このえ》大尉さまだ――
「ならぬ、並《なみ》の師団でしごかれろ」
痛快極まるこのせりふ、泣くやつは泣くでほっておけ……
だけど気になるその親父、いったい何者だ
……クニャジニーン
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私の父、アンドレイ・ペトローヴィチ・グリニョーフは、若いころミーニフ伯爵のもとで軍務につき、一七××年に、二等中佐で退役した。以来ずっと、シンビールスク県の持ち村に落ち着き、そこで地元の貧乏貴族の娘アヴドーチャ・ヴァシーリエヴナ・ユー某を妻にした。私たちは九人きょうだいだったが、私の兄弟や姉妹はみんな幼いころに死んでしまった。
母のお腹《なか》にいるうちから、なんと私は早手回しにセミョーノフスキー連隊に一軍曹として籍を定められていた。これはごく近い親戚である近衛少佐|B《ヴェー》公爵の好意によるものだった。期待にこたえられず、母がもし女の子を産《う》んでいたら、ついに陽《ひ》の目を見なかった軍曹の死として、父はその筋へ届け出て、それでこの件は落着していただろう。私は学業をおえるまでは、賜暇《しか》という扱いにされていた。当時の教育は、現今のそれとはずい分ちがったものだった。五歳になると、私は馬丁《ばてい》のサヴェーリイチの手にまかせられた。彼はその実直な点をかわれて、私の守《も》り役をおおせつかったのである。彼の監督のもとで、私は十二歳でロシア語の読み書きを卒業、そのうえ、ボルゾイ犬の鑑別にかけてはちょっとした名手となった。父が私のために、ムッシュー・ボープレというフランス人をつけてくれたのもこのころのことで、彼はわが家の一年分のぶどう酒と、プロヴァンス産の油をモスクワから仕入れるついでに、取り寄せられたという人物だった。彼のご到来は、サヴェーリイチにはひどく気にいらなかった。
「ありがたいことにゃ」と彼はぶつくさひとりごちたものだ。「どうやら坊ちゃんは垢《あか》まみれということもなく、髪もちゃんととかしてある。栄養もたっぷりつけて差し上げているというのに、なんだってこのうえ、むだなお金をつかってモッスー〔ムッシューのこと〕なんかやとうんだい。まるでここには人手が足りないみたいだ」
ボープレは、生まれ故郷では理髪師をしていたが、のちにプロシャで兵隊となり、それから家庭教師《プール・エートル・ウチーテル》でもしようと、この言葉の意味もろくすっぽわからぬまま、ロシアヘやってきたのである。彼は悪い男ではなかったが、お調子者で、とことんだらしがなかった。彼の主なる欠点は女性にたいする情熱で、この優しい心情のおかげで、しょっちゅう肘鉄《ひじてつ》を喰《く》わされ、夜昼なく嘆息している始末だった。そのうえ、彼は〔彼一流の言い方によれば〕ボトルとも仲よしで、ということは〔ロシアふうに言えば〕大酒呑みでもあった。しかし、私の家では酒は夕飯のとき出るだけで、それも小さな杯に一杯ずつ、おまけに普段のときは先生には差し上げないことになっていたので、わがボープレ先生は、たちまちロシアの果実酒《ナストーイカ》になれてしまい、このほうが胃にはるかに有益だとか言って、母国産のぶどう酒よりもお気に召してしまったのである。
私たちはすぐに仲よしになった。契約によれば、彼は私にフランス語、ドイツ語、および全学課を教えなければならないことになっていたが、それより先に、私のほうからロシア語をどうにか自由にあやつることをおぼえてしまい、それからあとは、もうお互いにのびのびと好きなことをやっていた。つまり、私たちは意気投合してやっていたのだ。別の先生にかえて欲しいなんて思いもしなかった。しかし、間もなく運命がふたりを引き離すこととなった。まずは次のようなしだいである。
ふとっちょのそばかす娘、洗濯女のパラーシカと、片目の牛飼い女アクーリカが、あるとき、ふたりしていっしょに母の足もとにひれ伏して、自分たちにもすきがあっていけなかったと詫《わ》びながらも、彼女らの初心《うぶ》なのにつけこんで誘惑したムッシューのことを泣き泣き訴えた。母はこういつたことをいいかげんにしておける性質《たち》ではなかったので、さっそく父に伝えた。父の裁きは手っとり早かった。彼はフランス人の悪党を即刻呼んでこいと命じた。ムッシューはただいま坊ちゃまに授業中ですという報告を受けると、父は自ら私の部屋に乗り込んできた。そのとき、ボープレ先生は、寝台の上で無邪気に眠りこけていた。私は自分の仕事に夢中になっていた。ちょっと念のために言っておくと、私のために以前にモスクワから一枚の地図が取り寄せられていた。それは無用の長物然として壁に掛けられていたが、大分前から、私はその大きさと紙質の良さに目をつけていたのだ。私はいよいよそれで凧《たこ》を作る決心をし、ボープレの居眠りをこれ幸いと、作業に取りかかったのである。父がはいってきたのは、ちょうど、私が喜望峰の先へ菩提樹《ぼだいじゅ》皮をほぐした尻尾《しっぽ》をくっつけている最中だった。私の地理の勉強ぶりを見てとると、父は私の耳をむしりとらんばかりに引っ張ってから、ボープレのところへ駆け寄り、情け容赦もなく彼を叩き起こし、猛然と怒鳴《どなり》りつけた。ボープレはすっかり狼狽《ろうばい》してしまい、起き上がろうとしてむなしくもがいていた。哀れなフランス人はヘベれけだったのである。こうなれば罰はひとつだ。父は首っ玉をひっつかまえて彼を寝台から引きずり起こすと、扉の外へ突き出し、その日のうちに邸《やしき》からお払い箱にしてしまった。サヴェーリイチの喜びようときたらなかった。これで私の教育は終わりをつげたのである。
私は鳩《はと》を追ったり、屋敷内の農奴《のうど》の腕白《わんぱく》どもと跳び越し遊びをしたりして、気楽に少年時代を送っていた。そのうち私も十六歳をすぎたが、ここで私の運命に変化が生じた。
秋のある日、母は客間で蜂蜜のジャムを煮ていた。そばで私は舌なめずりをしながら、煮立つ泡を眺めていた。父は窓ぎわで、毎年送られてくる『宮中年鑑』を読んでいた。この本は、いつも父に強い影響を与えた。というのは、父はこれをただの一度も格別な関心なしに読み通したことはなく、読めば決まって周囲がはらはらするほどの癇癪《かんしゃく》を起こすのだった。父の癖や習慣をことごとく知りつくしていた母は、いつもこの煩《わずら》わしい本をできるだけ目につかないところへ押し込んでおくよう心がけていた。おかげで、この『宮中年鑑』はどうかすると、何カ月間も彼の目にふれないですむこともあった。そのかわり、何かの拍子にみつけようものなら、それはもう何時間も彼は手から離そうとしないのだった。そういうわけで、父はときどき肩をすくめたり、「陸軍中将だって。やつはおれの中隊じゃ軍曹だったのに……。今では二つのロシア勲章の帯勲者だなんて。そんなに昔のことじゃなかったのに。われわれが……」などとひとりごとをくり返しながら、『宮中年鑑』を読むのである。やがて、父は年鑑を長椅子の上にほうり投げると、決まってかんばしくない結果となる深いもの思いに沈んでしまった。
突然父は母に向かって口を開いた。
「アヴドーチャ・ヴァシーリェヴナ、ペトルーシャはいくつになったのかな」
「ちょうど十七になったところですよ」と母は答えた。「ペトルーシャは、ちょうどナスターシャ・ゲラーシモヴナ叔母《おば》さんが片目になんなすった年に、生まれたのですから。それにまだ……」
「よろしい」と父はさえぎった。「もう軍務につけてもよい年ごろじゃ。女中部屋を駆けずりまわったり、鳩小舎《はとごや》へよじ登ったりするのは、もうたくさんじゃ」
私と間もなく別れなければならなくなるという思いにつと襲われて、母は鍋のなかにスプーンをとり落とし、涙があふれ頬《ほお》を流れた。その反対に、私の歓喜は筆舌につくしがたいほどだった。軍務につくということは、私のなかで自由やペテルブルグでの充《み》たされた生活ということと融け合わされるのである。私は近衛将校になった自分を空想した。私の考えでは、これこそ人生の最高の幸福だったから。
父は自分のきめたことを変更したり、遅らせたりすることはきらいな性質《たち》だった。私の出発の日がさまった。その前夜、父は私の未来の長官にあてて一筆したためてやると言いだし、ペンと紙とを用意させた。
「お忘れにならないで、アンドレイ・ペトローヴィチ」と母が言った。「|B《ヴェー》公爵さまに私からもよろしくって。ペトルーシャに目をかけてくださるよう、私からもお願いしますって」
「ばかを言うな」と父はふきげんに答えた。
「なんだってB公爵に手紙を出すんだ」
「だって、あなたはペトルーシャの長官へお書きになるっておっしゃったではありませんか」
「そうだ。それがどうかしたか」
「ですからペトルーシャの長官って言えばB公爵さまですわ。ペトルーシャは、セミョーノフスキー連隊に籍があるんですもの」
「籍だと。あの子の籍がどうだろうと、わしの知ったこっちゃない。ペトルーシャはペテルプルグヘやるんじゃない。ペテルプルグへ勤務して、いったい何を習うっていうんだ。むだ遣いに放蕩《ほうとう》か、だめだ。こいつは普通《ただ》の隊へ勤務させて、重い綱を引っ張ったり、火薬の臭いをかいだりして、まともな兵隊にするのだ。のらくら者に仕立てるわけにはゆかない。ふん、近衛に籍があるだと。あれの居住証《パスポルト》はどこにある。ここへ持ってきなさい」
母は私が洗礼を受けたときの肌着といっしょに手文庫にしまってあった私の居住証を探し出すと、ふるえる手で父に渡した。父はそれに注意深く目を通し、自分の前の卓の上におくと手紙を書き出した。
私は好奇心からわくわくしていた。もしペテルブルグでないとするなら、いったいどこへ私は遣《や》られるのだろうか。私はかなりゆっくりと進んでゆく父のペンから、目を離さなかった。やっと、父は書きおえると、居住証を同封して手紙に封印し、眼鏡《めがね》をはずしてから私をそばへ呼び寄せて、こう言った。
「さあ、これがアンドレイ・カルローヴィチ・|R《エル》への手紙だ。わしの昔の同僚で友人だ。お前はオレンブルグへ行って、この人の下《もと》で勤務するのだ」
というわけで、私の輝かしい期待はみんな消えてしまった。楽しかるべきペテルブルグの生活のかわりに、私を待っていたものは、遠く離れたわびしい土地の退屈だったのである。私がつい一分前まで、あんなにも有頂天《うちょうてん》になって考えていた軍隊勤務が、今や耐えがたい不幸に思えてくるのだった。しかし、文句を言ったってはじまらない。翌朝には、旅行用幌馬車が玄関に用意され、そのなかにトランクだの、茶道具のはいった小櫃《こびつ》だの、わが家での甘い生活のお名残《なご》りともいうべき白パンや肉饅頭《にくまんじゅう》の包みだのが、積み込まれた。両親が私を祝福してくれた。父はこう言った。
「元気でな、ピョートル。いったん忠誠を誓ったら、その人に忠勤を励むんだぞ。上官の命にはよく服せ。上官におべっかを使うんじゃないぞ。出すぎたまねもするんじゃないぞ。勤務を怠けてはならんぞ。この諺《ことわざ》を覚えておけ。――着物はおろしたてから、名誉は若いときから大切に」母は涙ながらに私にはからだを大切にするように、サヴェーリイチには息子のめんどうをよくみてくれるようにと言い聞かせた。私は兎《うさぎ》の皮チョッキを着せられ、その上から狐《きつね》の毛皮の外套《がいとう》をはおらされた。私は幌馬車にサヴェーリイチと並んですわり、涙にかきくれながら出発した。
その夜のうちに私はシンビールスクヘ着いたが、そこで、入用な品を買い整えるために一昼夜滞在しなければならなかった。買物はサヴェーリイチの役目になっていた。私たちは旅館に泊まった。サヴェーリイチは朝から買物に出かけた。私は窓から汚い往来を眺めているのにもあきたので、宿の部屋をひとわたりぶらついてみることにした。ビリヤード室にはいると、背の高い、年のころは三十半ばと思える紳士が目にとまった。口ひげをたくわえ、部屋着をはおってキューを片手に、パイプをくわえている。彼は|ゲーム取り《マーカー》を相手に撞《つ》いていて、マーカーは勝つとウオッカを一杯おごられ、負けると四つん這《ば》いになって、ゲーム台の下へもぐりこまなければならなかった。私はその勝負を見物しはじめた。勝負がつづけばつづくほど、這いまわる回数が多くなってきて、とうとうマーカーはゲーム台の下でのびてしまった。紳士はふたことみことお悔《く》やみめいた辛辣《しんらつ》な言葉を彼にあびせてから、私に一番やらないかと申し込んできた。私はできないからと断わった。これはどうしても彼には納得のいかないこととみえ、哀れな奴《やつ》と言わんばかりに私を眺めていたが、そんなことから私たちは話しはじめた。彼は名をイヴァン・イヴァーノヴィチ・ズーリンと言い、××驃騎兵《ひょうきへい》連隊の大尉で、新兵受領のためにシンビールスクヘ来て、この旅館に滞在しているのだということがわかった。ズーリンは、ありあわせのもので兵隊式に昼飯をいっしょにしないかと私を誘った。私は喜んで承知し、ふたりは食卓についた。ズーリンはぐいぐい飲むかたわら、私にもついでくれた。彼は軍隊生活のいろいろなエピソードをきかせてくれ、そのおかしさに私は笑いころげんばかりだった。こうして食事をおえるころには、ふたりはもうすっかり友だちになっていた。そこで、彼は私にビリヤードのやり方を教えてやると言い出した。
「これはねえ」と彼は言った。「われわれ軍人仲間にはぜひとも必要なんだ。たとえば、行軍に出てちっぽけな田舎《いなか》町へ着いたとする。――何をしたらいいのかね。まさかのべつユダヤ人をひっぱたいてもいられまいからね。しようがない、旅館へ行って、ビリヤードでもやろうやということになる。で、そのためにゃ撞き方を知ってなきゃならん」
私はなるほどもっともな話だと思ったので、大張切りで稽古《けいこ》にとりかかった。ズーリンは大きな声で私を励まし、私の上達の早いのに驚いてみせた。それから五、六回稽古をしたあとで、一点二カペイカずつで賭《か》けてやろうと言い出した。これは金目あてではなく、彼の言葉によると、なによりも唾棄《だき》すべき習慣である|おあそび《ヽヽヽヽ》を避けるためだそうである。私はそれに同意した。ズーリンはポンス酒を持ってくるように命じ、君は軍務になれなければいかん、ポンスなくして何の勤務ぞ、とくり返しながら、私にも一杯やってごらんと説得した。それにも私は従った。一方、ゲームは続いていた。コップの酒をなめる度数がふえるにつれて、私はしだいに気が大きくなってきた。私の撞く球は縁《ふち》を飛び越えてばかりいた。私はかっかとなって、いいかげんな点付けをしているマーカーを怒鳴《どな》りつけ、どんどん賭け金をふやしていった。つまり、束縛から解き放された小僧っ子のように動きはじめたのである。やがて時間は知らぬうちに過ぎていった。ズーリンは時計を見るとキューをおき、君は百ルーブリの負けだよと宣告した。これには私は少々まごついた。金はいっさいサヴェーリイチが持っていたから。私は言い訳をはじめた。ズーリンはそれを押しとどめて、
「とんでもない。心配するなよ、待ってやるよ。ところでどうだい、今度はアリーヌシカのところへ行ってみないか」いったいどうなってしまったんだろう。はじまりと同様、その日の終わりもめちゃくちゃだった。私たちはアリーヌシカのところで夕食をした。ズーリンは軍務になれなきゃいかんとくり返しながら、のべつ私の盃《さかずき》に酒をついだ。で、私は食卓から腰をあげたときには、立っているのがやっとだった。ズーリンに介抱されながら宿にたどりついたときには、とうに夜中をまわっていた。
サヴェーリイチは私たちを玄関先まで出迎えていた。彼は軍務への私のこの疑うべくもない忠誠ぶりを見てとると、大いに驚いた。
「これはまあ、坊ちゃま、どうしたことでございます」と彼は悲痛な声をあげた。「どこでそんなにお飲みになったんです。ああ、やれやれ、今まで一度だってこんなことはなさらなかったのに」
「やかましい、老いぼれ」と私はもつれる舌でどなり返した。「おまえこそ、ほんものの酔っぱらいだ、行って寝てしまえ……いや、おれを寝かしつけろ」
翌日、私は頭痛といっしょに目を覚まし、昨日のできごとをおぼろげに思い起こした。私のもの思いは、お茶を持ってはいってきたサヴェーリイチによって中断された。
「早すぎますよ。ピョートル・アンドレーイチ」と彼は頭を振りながら言った。「もうお道楽をはじめなすって。いったいどなたにお似なすったんで。お父さまも、お祖父《じい》さまも、お酒のみじゃなかったはずでございます。お母さまのことは申すまでもありません。生まれてこのかた、クワス以外お口になさったこともありません。いったいこりゃだれのせいでしょうね。あのいまいましいモッスーにきまってます。しょっちゅうアンチピエーヴナさんのところへ駆け込んで行っては、『マダム、|ウオッカをください《ジェー・ヴー・プリ・ヴォトキ》』でしたからね。そこで今度は、おまえさまがジェー・ヴー・プリですかい。言うことありません、大した仕込みようですよ。あの犬っころめ。なんだってだんなさまは、邪教徒なんかお守《も》りにやとわなきやならなかったんでしょう。お邸に人手が足りないみたいにさ」
私は恥ずかしくなった。くるっと背を向けて彼に言った。
「あっちへ行ってくれ。サヴェーリイチ、お茶は欲しくないよ」
しかし、サヴェーリイチがお説教をはじめたら最後、とても途中でやめさせるのはできないことだった。
「それごらんなさい。ピョートル・アンドレーイチ、これが酒の正体ってもんですよ。頭はがんがんするし、なんにも食べたくないし。酒のみってやつは、何の役にも立たない人間ですよ……。きゅうり漬けの塩水に蜜を混ぜて飲みなされ、それよりいちばんいいのは、果汁酒のコップ半分も迎え酒におやりになることですよ。さあ、おやりになってごらんなさい」
そのとき男の子がはいってぎて、|I《イー》・|I《イー》・ズーリンからの書付けを私に手渡した。私はそれをひろげて、次の数行を読んだ。
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親愛なるピョートル・アンドレーイチ、どうかこの男の子に、昨日君が負けた百ルーブリを持たせてください。ぼくは今、とても金に困っているのです。草々。
イヴァン・ズーリン
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どうしようもなかった。私は平気をよそおって、|金から《ヽヽヽ》、|下着から《ヽヽヽヽ》、|その他一切の私の世話役《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であるサヴェーリイチに向かって、この子に百ルーブリ渡すように言った。
「なんですって、どういうわけです」呆気《あっけ》にとられて、サヴェーリイチがきいた。
「それだけぼくが借金したんだ」と精いっぱいの冷静さをよそおって、私は答えた。
「借金」サヴェーリイチはますますびっくりして、言い返した。「ですが、いったいいつの間におまえさまはそんな借金をこしらえなすったんですか。なんだかおかしな話だ。まあそりゃ、なにをするのも若さま、あなたのご勝手ですがね、わたしゃ、お金は出しませんよ」
私は考えた。もし今こののっぴきならぬ瞬間に、頑固な石頭を叩きつぶしておかなかったならば、もうこれからさき、彼のガードをつきくずすチャンスは二度とあるまいと。で、あくまで傲然《ごうぜん》と彼をにらみ据《す》えて私は言い放った。
「おれがおまえの主人だ。おまえはおれの召使いだ。金はおれのものだ。おれが負けたのは、負けたかったからだ。ちょうどいい機会だから、はっきり言っておく。つまらぬことをゴタゴタ言ってないで、ス令されたとおりにしろ」
サヴェーリイチは私のひと咆《ほ》えにびっくりぎょうてん、思わず両手を打ち合わせ、そのまま立ちすくんでしまった。
「なにをぼさっとつっ立ってんだ」と私はさらにまくしたてた。サヴェーリイチはおいおい泣き出した。
「若さま、ピョートル・アンドレーイチ」唇をわななかせて言った。「わしをあんまり悲しい目に合わせないでください。わしのだいじな若さま、この年寄りの言うことをきいて、その追はぎ野郎に書いておやりなさいまし、あれは冗談だった。そんな大金は持合せがないって、百ルーブリ……とんでもないこった。胡桃《くるみ》以外はいっさい賭けてはならんと、両親からきつく戒《いまし》められているって、そう書いておやりなさいまし……」
「つべこべ言うな」私は頑《がん》としてさえぎった。「ここへ金を持ってこい。さもないと、叩き出してしまうぞ」
サヴェーリイチは、ひどく悲しげな顔つきで私を見つめ、支払いの金を取りに行った。私は哀れな老人にすまないと心でわびた。が、このさいいっきょに束縛を断ち切りたくもあり、もうぼんぼんじゃないんだぞということを示したくもあったのだ。金はズーリンに届けられた。サヴェーリイチはこのいまいましい旅館から、私を急いで連れ出そうと、馬の用意ができたと知らせにきた。良心のうずきと、無言の悔恨《かいこん》を胸に、私はシンビールスクを発《た》った。くだんの先生には別れもつげず、また後になって相まみえるときがこようなどとは夢にも考えずに。
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第二章 道案内
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ここもロシアか、おいらの国か、
さても見知らぬわびしい土地よ。
好きで飛んできたわけではないわ、
馬《あお》に曳《ひ》かれてきたのでも。
気のいい若者このおれの
若気の至りの無分別
酒にのまれたそのためよ。
……古謡
[#ここで字下げ終わり]
その後の道みち、私は正直なところ愉快だとは言えない思いに滅入っていた。他ならぬ私の負けのことでだが、当時百ルーブリという金額はばかにならぬものだった。私は心中、シンビールスクの旅館でしでかしたことを愚行と認めないわけにはいかず、サヴェーリイチにもすまぬことをしたと感じていた。何もかもが私を責めさいなんだ。老人はにがりきって馭者台《ぎょしゃだい》に腰をおろし、そっぽを向いて、黙りこくったまま、ときどき咽喉《のど》を鳴らすだけだった。私はなんとしても仲なおりしたかったが、どう切り出してよいかわからなかった。とうとう私は彼にこう言った。
「ねえ、おい、サヴェーリイチ、もういい。仲なおりしよう。ぼくが悪かったよ、自分でも悪かったと認めているんだ。ぼくは昨日《きのう》ばかなことをしたうえ、おまえの心まで傷つけてしまった。誓うよ。これからもっとちゃんと行動し、おまえの言うことをきくよ。ねえ、怒らないでくれ。仲なおりしようよ」
「とんでもない。ピョートル・アンドレーイチ」と彼は深いため息をついて答えた。「わしはこの自分のことを怒ってるんですよ。なにもかもこのわしが悪いんです。わしとしたことが、なんでおまえさまを宿へひとり残しておいたんでしょう。どうする気だったんでしょう。魔がさしたんです。ふっと寺男の|かみ《ヽヽ》さんのところへ寄ってゆこうと思いたったんです。私の名付親だもんで。それがそれ、幸せ一転、災いとなるってやつですよ。まったくもって災難でした。どの面《つら》さげてだんなさまや奥さまの御前に出られましょう。坊ちゃんがお酒をのんだり、賭事をなさるのがお耳にはいったら、おふたりは何とおっしゃるでしょう」
かわいそうなサヴェーリイチをなだめるために、今後は彼の承諾なしにはただの一カペイカだって手をつけないと、私は彼に約束した。それでも彼はときどき、「百ルーブリ、なまやさしいこっちゃない」と頭をふりふりつぶやいていたが、ようやく落ち着いてきた。
私は目的地に近づいてきた。まわりには物悲しげな荒野が、丘や谷に区切られながら広がっていた。すべてが雪におおわれていた。陽は沈みかけていた。幌馬車は細い道を、というより正確には、百姓たちの橇《そり》がつけた跡をたどって進んでいた。突然、馭者《ぎょしゃ》が脇のほうに眼をこらしはじめたが、やがて帽子を脱いで私のほうに向いて言った。
「だんな、引き返したほうがよさそうですぜ」
「どうしてだい」
「空模様がおかしいんでさあ、ちょうど風も出てきました。ほら、あんなに降りたての粉雪を吹き飛ばしてまさ」
「なんだい、それくらい」
「じゃ向こうに何が見えますかね」馭者は鞭《むち》で東の方を指した。
「何も見えないね。白い広野と晴れた空だけだ」
「いや、その向こう、もっと向こうでさ。あのちっぽけな雲でさ」
見るとたしかに空の端に、小さな白い雲が出ていた。はじめは遠い丘に見まちがえたほどだった。馭者はあの雲は大吹雪の前兆だと説明した。
私はこの辺の吹雪についてはきいていたし、荷橇の列が、全部埋まってしまったことがあることも知っていた。サヴェーリイチは馭者の意見に賛成して、引き返すようにすすめた。しかし、風はそれほど強いとも思えなかったので、吹雪のくる前に、つぎの宿泊地まで行きおおせるだろうと思って、もっと早くやれと命じた。
馭者は飛ばしはじめたが、たえず東のほうに目をくばっていた。馬は足なみそろえて走った。一方、風のほうは刻一刻と強まってきた。小さな雲は白い雨雲にかわり、ゆっくりと立ち昇り、大きくなってやがて空をおおいつくした。ぱらぱら粉雪が降り出した。――と見るまに綿雪となって吹きつけてきた。風は唸《うな》り出し、吹雪となった。またたく間に、暗黒の空が雪の海に融け込んでいった。何も見えなくなった。
「さあ、だんな」と馭者が叫んだ。「やっかいなことになりましたぜ。大吹雪だ」
私は幌の間からのぞいて見た。まわり一面暗黒と竜巻だった。風は猛《たけ》り狂って咆《ほ》え、まるで生命を吹き込まれたような勢いだった。雪は私とサヴェーリイチをすっぽり包み、馬は並足で進んでいたが、――間もなく動かなくなった。
「どうしてやらないのだ」私はいらいらして馭者にたずねた。
「これで行けっていうのかね」と彼は馭者台から這《は》い降りながら答えた。「いったいどこへ乗り込んだのか、さっぱりわかりゃしねえ。道はねえし、あたりは闇だしさ」私は彼をどなりにかかった。サヴェーリイチは彼の味方をした。
「言うことをきかなかったからですよ」と彼は腹立たしげに言った。「宿へ引き返して、お茶でもたらふく飲んで、朝までぐっすり寝て、吹雪がやんでから発てばよかったんですよ。どこへ急ごうってんです。婚礼へ行くわけじゃあるまいし」
サヴェーリイチの言うとおりだった。だが今さらどうしようもなかった。雪はますます降りつのる。馬車のまわりには、みるみる雪の吹きだまりが盛りあがってゆく。馬は首を垂《た》れて立ちすくみ、ときたまぶるぶると身をふるわせる。馭者はあたりをぶらつき、所在なさげに馬具をなおしたりしている。サヴェーリイチは、ぶつぶつ言っていた。私は人家か道のしるしでも見えないものかと、四方に目をこらすけれども、重苦しげに吹雪が旋回しているだけで、何も見分けがつかない……と、このとき突然私は何か黒いものを見た。
「おい、馭者」と私は叫んだ。「見ろよ、あそこに黒く見えるのは何だい」馭者は目をこらしはじめた。
「なんだかさっぱりわかりませんや、だんな」と彼は自分の席にもどりながら答えた。「荷馬車のようでもなし、樹かと思やそうでもない、とにかく動いちゃいるようだ。きっと狼《おおかみ》か人間だろうよ」
私はその見当のつかない物体のほうへ進むよう命じた。すると向こうでもすぐにこちらへ向かって動いてきた。二分後に私たちはひとりの男と向かい合った。
「ああもし、そこの人」と馭者は彼に叫びかけた。「教えてくだせえ、道はどこなのか知らねえかねえ」
「道ならここよ。ちゃんと固い地面の上に立ってるよ」と通りすがりの男は答えた。「だが、それがどうしたっていうんだ」
「ねえ、お百姓」と私は彼に言った。「君はこの辺に明るいのでしょう。ぼくをどこか泊まれるところまで連れてってはもらえまいかね」
「この辺はよく知ってるよ」と男は答えた。「ありがたいことにゃ、縦横無尽、自由自在歩きまわり、乗りまわしたものよ。だがご覧のとおりのお天気だ。これじゃたちまち迷っちまうよ。まあここにとどまって、待ったほうが利口だね。そのうちにゃ吹雪もおさまり、空も晴れるだろうよ。そうなりゃ、星あかりで道も見つかるってもんだ」
彼の沈着さに私は元気が出てきた。そこで、私は運を天に任せて、広野のまんなかで一夜を明かそうと決心したとき、不意に男が馭者台に飛び乗り、馭者に向かってこう言った。
「やっ、こいつはありがたい、近くに人家があるぞ。右にまわしてみな」
「なんだって右へなんか行くんだ」と馭者は不服げにたずねた。「どこに道があるんだい。さては、馬は他人のもの、頸輪《くびわ》も自分のものじゃねえ。とまってるこたあねえ、ふっ飛ばせって肚《はら》だな」馭者の言うとおりだと私は思った。
「いったいぜんたい」と私は言った。「なぜ君は人家が近いって思うんだね」
「そりゃ、こうなんだよ、あっちのほうから風がさっと吹いてきたんだ」と通りすがりの男が答えた。「煙《けむり》の臭いがしたのよ」彼のすばらしい洞察力《どうさつりょく》と鋭い感覚に、私は驚き入った。私は馭者にやれと命じた。馬は重い足どりで深い雪を踏んで進んだ。馬車は雪だまりへ乗り上げたり、窪地へはまり込んだり、右に左によろめきながら、のろのろ進んでいった。それはさながら嵐の海をゆく舟だった。サヴェーリイチはのべつ私の脇腹にぶっつかりながら、ため息をついていた。私は幌をおろして、毛皮の外套にくるまり、暴風の歌と静かな車の揺れとにあやされているうちに、うとうとしはじめた。
私は夢を見た。それを私は死ぬまで忘れられないし、私の生涯に起こったさまざまなふしぎなできごとと思いあわせるとき、今もってその夢にはある種の予言的なものがあったような気がするのである。読者は私を許してくださるでしょう。なぜなら、人は偏見というものに軽蔑の念を強く抱くものだけれど、それでいて生まれつき、迷信じみたことのひとつやふたつは信じているということを、胸に手をあててみれば思いあたることがあるでしょうから。
私はそのとき、寝入りばなのぼんやりした幻覚のなかで、現実が夢想に席を譲りつつ、互いに入り組むといった、そんな朦朧《もうろう》とした状態にあった。猛吹雪はまだ猛り狂い、私たちは依然雪の広野をさまよっている……そんな気がしていた。突然、私は門を見かけて、わが家である地主邸の庭内に乗り入れた。最初に私が思いうかべたことは、私がやむをえず両親の膝下《ひざもと》に帰ってきたことを、父が怒りはしないだろうか、わざと父の意志にさからっていると取られないだろうか、というおそれだった。私は落ち着かない気持で幌馬車から飛び降りた。見ると母が深い悲しみの表情で、玄関の上り口に立って私を出迎えている。「静かに」と母は私に言う。「お父さまがご病気で、ご危篤《きとく》なの、それでおまえにお別れがしたいっておっしゃってるの」恐怖で胸をつまらせながら、私は母のあとから寝室へはいる。見ると部屋にはうす明りがともされ、寝台の脇には悲しげな顔をした人々がたたずんでいる。私はそっと寝台に近づく。母が帷《とばり》をかかげて言う。「アンドレイ・ペトローヴィチ、ペトルーシャがまいりましたよ。あなたのご病気のことを聞いて、もどってまいりましたの。祝福してやってくださいませ」私はひざまずき、病人にじっと目をそそぐ。なんとしたことだ……父のかわりに、寝台には黒ひげの百姓が横たわっていて、にこにこ私を見ているではないか。私は不審に思い、母をふりかえって言った。「これはいったいどうなっているんです。父上ではありませんよ。それにどうしてぼくが百姓に祝福してもらわなきやならないんですか」
「おなじことなのよ。ペトルーシャ」と母は答える。「その人はおまえの仮親なんですもの。この人の手に接吻《せっぷん》して、祝福しておもらいなさい……」私は承知しなかった。このとき不意に百姓は跳び出して、背中から斧《おの》を抜き取ると、あたりかまわずふりまわしはじめた。私は逃げようとしたができなかった。部屋は死骸《しがい》でいっぱいで、私は死骸につまずいたり、血だまりにすべりこけたりした……。兇暴《きょうぼう》な百姓は優しく私に語りかけてくる。「怖がることはないのだよ。ここへ来て、わしの祝福を受けなさい」私は恐怖と疑惑のとりことなった……。とその瞬間、私は目が醒《さ》めたのである。馬はとまっていた。サヴェーリイチが私の手をとって言った。
「お降りなさいまし、若さま。着きましたよ」
「どこへ着いたんだ」目をこすりながら私はたずねた。
「宿にですよ、神さまのお助けで、ここの垣根にまともにぶっつかったんですよ。さあはやく降りて、若さまのからだを暖めなさいまし」
私は馬車を降りた。吹雪はいくらか勢力が弱まっていたが、まだつづいていた。目玉をくりぬかれてもわからぬほどの闇だった。亭主は着物の裾《すそ》で灯をおおいながら、門まで私たちを出迎え、狭いがわりとさっぱりした一部屋へ私を案内した。松明《たいまつ》が部屋の内を照らしていた。壁には旋条銃《ライフル》と山高のコザック帽が掛けてあった。
亭主は、ヤイーク・コザックの生まれで、六十がらみの百姓だったが、まだ元気でかくしゃくとしていた。サヴェーリイチは私のあとから茶道具箱を持ち込んできて、お茶をいれるために火を求めた。私もこのときほどお茶が飲みたいと思ったことはなかった。亭主はしたくをしに出ていった。
「あの道案内はどこへ行ったの」と私はサヴェーリイチにたずねた。
「ここにいるよ、だんな」と上のほうから返事が返ってきた。私は棚床《たなどこ》を見上げた。黒ひげとふたつのぎらぎらする眼玉が見えた。
「どうした、兄弟。凍《こご》えきっちまったのかね」
「凍えずにいられるわけがねえだろう。このうすっペらの外套一枚でよ。皮チョッキもあったんだがね、かくしたってはじまらねえ、昨夜《ゆうべ》酒屋の親父のところへ抵当《かた》においてきちまったのよ。たいした寒さでもあるめえと思ったもんで」
このとき亭主が音高く煮えたぎったサモワールを持ってはいってきた。私はわれらが道案内にもお茶をすすめた。男は棚床から降りてきた。彼の風貌《ふうぼう》は第一印象からして格別のものがあった。彼は年のころ四十歳。中背、やせ形で、肩幅が広かった。真っ黒なひげには白いものがまじっていた。いきいきとした大きな目はよく動いた。顔だちはそう悪い感じではなかったが、油断できないところがあった。頭髪は丸く刈りあげている。ぼろぼろの外套に、だぶだぶの韃靼《ダッタン》ズボンをはいている。私は茶碗を差し出した。彼はひと口、口をつけてみて、顔をしかめた。
「だんな、申しわけねえが、酒を一杯いいつけておくんなさいよ。お茶はどうもわしらコザックの飲物じゃねえんで……」
私は喜んで彼の望みをかなえてやった。亭主は戸棚から酒びんとコップを取り出し、彼のところへやってきて、ふとその顔を見た。
「やあ」と彼は言った。「おまえさん、またこの土地へやってきたのかい。どこからやってきたんだい」
わが道案内は意味ありげに目くばせして、たとえ話で答えた。
「野菜畑を飛んでな、麻の実つっついていたのさ。婆《ばば》あが石を投げてきたが、的《まと》はずれよ。ところで、そっちはどうだい?」
「どうもこうもねえさ」と亭主もたとえ話で受けた。「晩のお勤めの鐘をつこうとしたら、坊主の|かみさん《ヽヽヽヽ》からとめられた。坊主はお客に出かけるし、寺内にゃ悪魔どもがいたし」
「もういいよ、父っつぁん」とこちらの浮浪人はさえぎった。「雨が降りゃ茸《きのこ》もはえようさ。まあ今のところは〔ここで目くばせをして〕、斧を背中にさしてんだよ。森番がうろうろしてるからな。だんな、ご健康を祝います」こう言って彼はコップを取り上げ、十字を切ると一息にあおった。それから私に会釈《えしゃく》して棚床へもどった。
そのときは、私はこの泥棒同士の話は何ひとつわからなかった。が、あとになってはじめて、それが一七七二年〔この本のテーマであるプガチョーフの乱の前年〕の反乱後鎮圧されたばかりの、ヤイーク・コザック軍の話だということがわかった。サヴェーリイチは大いに不満げに彼らの話をきいていた。彼はうたがわしげに亭主を見たり、道案内を見たりしていた。その宿、あるいは土地の言葉で言う草宿《ウミヨート》は、街道をはずれた、まったく人里離黷ス広野の真ん中にあって、いかにも泥棒の棲家《すみか》といった感じだった。しかし、今さらどうしようもなかった。泊まることをやめて、旅をつづけることなど思いもよらなかった。、サヴェーリイチの不安気な思案顔が、私にはかえって滑稽《こっけい》だった。そのうち私は寝じたくをし、長椅子に横になった。サヴェーリイチはペチカの上に寝ることにし、亭主は床《ゆか》の上に寝た。やがて小屋じゅうが鼾《いびき》をかきはじめ、私は死んだように寝入ってしまった。
翌朝、かなり遅くなってから起き出してみると、吹雪はもうおさまっていて、太陽が輝いていた。雪は無限の広野に目くるめくシーツをひろげていた。馬車のしたくはすでに終わっていた。私は亭主に勘定を払ったが、それがあまりに控え目な額だったので、さすがのサヴェーリイチもいつもの調子で言い合ったり値切ったりもせず、昨日の疑いなどさっぱり彼の頭から消え去ってしまったほどだった。私は道案内を呼び、世話になったお礼を言い、サヴェーリイチに酒手に半ルーブリやれと命じた。サヴェーリイチはとたんに不機嫌になった。
「酒手に半ルーブリですって」と彼は言った。「なんのためです。おまえさまがあいつをこの宿まで連れてきてやったお礼にですかい。そりゃ若さまのご勝手ですが、わしらには余分な半ルーブリはありませんよ。だれにでもウオッカをふるまっていた日にゃ、早晩自分の口が干上がってしまいまさあ」
私はサヴェーリイチとは言い合いはできぬ立場にあることを思い出した。金は私の約束どおり、全部彼の手中にあったから。しかし、私にしてみれば窮地とは言えぬまでも、すくなくとも不愉快きわまる状況から救い出してくれたこの男に、お礼ができないことは、なんともやり切れないことだった。
「よし」と私は落ち着きはらって言った。「どうしても半ルーブリやってくれないのなら、私の着物から何か一枚出してやってくれ。あの男はすごい薄着だ。そうだ、兎の皮チョッキを出してやれ」
「とんでもない。若さま、ピョートル・アンドレーイチ」とサヴェーリイチが言った。「なんだってあいつに兎の皮チョッキを。あの犬野郎はとっつきの酒場で、それを呑んじまいますよ」
「そいつはじいさんよ、おまえの知ったこっちゃなかろうぜ」とわが浮浪人は言った。「おれが呑んでしまおうと呑むまいとな。だんなが自分の外套をわざわざ脱いでおれにくださるというんだ。これはだんなのお考えだ。おまえのような下僕がつべこべ言うことじゃねえ。言われたとおりにしな」
「おまえは神さまが怖くねえのか。追《おい》はぎ野郎め」サヴェーリイチは腹を立てて彼に答えた。
「おまえにだってわかろうが、坊ちゃんはまだ、なにもわかっちゃいなさらんのだ。それをおまえは、坊ちゃんの無邪気をいいことにして、捲《ま》き上げようって腹なんだろう。だんなの皮チョッキなんかがなんでおまえにいるんだい。どうせその薄汚い肩にゃ合やしねえよ」
「あんまり偉そうに言うなよ」と私はじいやに言った。「早くここへ皮チョッキを持ってこい」
「ああ、なんてこった」と私のサヴェーリイチは唸《うな》った。
「あの兎の皮チョッキは新品同然なのに。やるにことかいてこんな乞食《こじき》野郎の呑んだくれにさ」
ともかく兎の皮チョッキは持ってこられた。百姓はさっそくそれをからだにあててみた。じつのところ、その皮チョッキは私にも小さくなっていたので、やっぱり彼には少々窮屈だった。しかし、彼はどうにか工夫して、それを着た。縫目はほころびてしまったけれど。サヴェーリイチは糸の切れる音を耳にすると、今にも吠《ほ》えつかんばかりになった。浮浪人は私の贈物に大いに満足げであった。彼は私を馬車のところまで送ってきて、ていねいなおじぎをしてこう言った。
「ありがとう、だんな。あなたのお慈悲によい報いがありますように。ご恩は一生忘れませんよ」
黒ひげはそれから自分の目指す方向へ去り、私もサヴェーリイチの腹立ちのことなど意に介せず、ふたたび旅へと出発した。そしてすぐに昨日の吹雪のことも、道案内のことも、兎の皮チョッキのことも忘れてしまった。
オレンブルグに着くと、私はまっすぐ将軍のところへ出向いた。将軍は背が高いが、年のせいでもう腰が曲がっていた。彼の長髪はすっかり白かった。色あせた古い軍服は、アンナ・ヨアーノヴナ時代〔一七三〇〜四〇年。ピョートル大帝の姪の統治時代〕の軍人を思い起こさせた。彼の言葉はひどいドイツ語|訛《なま》りがあった。私は父からの手紙を手渡した。父の名を見ると、彼は素早く一瞥《いちべつ》をくれた。
「これは驚いた」と彼は言った。「アンドレイ・ペトローヴィチが君くらいの年だったのは、ついこの間のことのように思えるのになあ。それが今じゃ、もうこんな立派な息子があるなんて。ああ、時じゃ、時じゃ」彼は手紙を開くと、ときどき自分の言葉をはさみながら、小声で読みはじめた。
「アンドレイ・カルローヴィチ貴下。閣下にお願いの段……なんたる他人行儀じゃ、ふっ、よくもまあ恥ずかしくないもんじゃて。もとより軍紀は第一じゃ。じゃが昔の同僚にこんな書き方があるものか、閣下にはお忘れもなきことと……ふむ、しかして……当時……故元師ミン……は行軍に……しかしてまた……カロリンカを……ははあ、兄弟《ブルーデル》。昔のわしらの悪ふざけをまだ覚えてるのかい。さてさっそくながら、お手許に豚児を……ふむ。ハリネズミの手袋もてお扱いくだされたく……なんじゃ、このハリネズミの手袋というのは。こりやロシアの諺《ことわざ》にちがいない……このハリネズミの手袋もてお扱いというのはなんだね」彼は私に向かってくり返した。
「これはですね」と私はできるかぎりさりげない顔をして答えた。「あまり厳格でなく、優しく扱う、なるべく自由にさせておく、つまり、ハリネズミの手袋をもって扱うということです」
「ふむ、そういうことか……しかして放任は禁物にて……いや違うぞ、ハリネズミの手袋で扱うというのは、そうじゃないらしいわい……ここにせがれの居住証同封いたし……どこにある、それは。ああこれか……セミョーノフスキー連隊へご通報のほどを……よろしい、よろしい。万事引き受けた……今は官位を度外視して、昔の同僚として、友として閣下を抱擁《ほうよう》……ああ、やっとわかった。しかじか、しかじかと……。さて、君」と彼は手紙を読みおえ、私の居住証を脇におくと言った。「万事わしが引き受けた。君は将校として××連隊に転任することになる。して時間をむだにせんためにもじゃ、あしたベロゴールスク要塞《ようさい》へ出発したまえ。そこで君はミローノフ大尉の指揮下にはいる。これは正直で優秀な士官じゃ。そこで君は実地の勤務につき、軍務を学ぶのじゃ。オレンブルグには、君のすることはなにもない。放任は若い者には毒じゃ、だがまあ今日は、うちで食事をしていってくれたまえ」
「やれやれ、どんどん状況が悪くなってゆくぞ」と私は心のなかで思った。「まだお母さんの腹のなかにいるうちから、はやばや近衛の軍曹だったということだが、そいつがいったい何の役に立ったっていうんだ。おれはいったいどこへやられるんだろう。××連隊へ。キルギス・カイサーツク草原の国境にある辺ぴな要塞へか」
私はアンドレイ・カルローヴィチのところで、彼の老副官と三人で食事をした。厳しいドイツ式経済が彼の食卓にも君臨していた。自分のやもめ暮らしの食卓に、ときに余計な客を迎えなければならなくなるというおそれが、私をこんなに大急ぎで守備隊へ追いやることになった原因の一部分にちがいない、と私は推察したのであった。翌日、私は将軍に別れを告げ、任地へと出発した。
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第三章 要塞
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おれたちゃ要塞守備隊暮らし
パンと水で命をつなぐ。
来るなら来てみろ敵兵め
饅頭《ピローグ》目あてに来襲したら、
大盤振舞いしてやるぜ、
大砲に霰弾《さんだん》山と込め。
……兵士の唄
時代遅れな方たちですわね、あなた。
……『未成年者』
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ぺロゴールスク要塞は、オレンブルグから四十露里〔一露里は一〇六六メートル〕の地点にあった。道はヤイーク川のそそりたった断崖に沿って走っていた。川はまだ凍結しておらず、その鉛色の波は白い雪におおわれた単調な両岸の間で、どんよりと黒ずんでいた。岸の向こうにはキルギス草原《ステップ》が広がっていた。考えれば考えるほど、私はだんだん悲観的になってゆくのだった。守備隊生活には、まず興味が持てそうもなかった。私はこれからの長官ミローノフ大尉について努めて想像してみた。そして、勤務以外には何も知らない、ちょっとした些細《ささい》なことにも私をパンと水だけの営倉にいれようとする、厳格で気の短い老人を胸に描いた。そうこうしているうちに、あたりはたそがれてきた。私たちはかなり速く走っていた。
「要塞まではまだ遠いのかい」と私は馭者にたずねた。
「もうじきでさあ」と彼は答えた。「ほら、もう見えてきやした」
私はものものしい稜堡《りょうほ》や櫓《やぐら》や堡塁《ほうるい》だのが見えるものと思ってあたり四方を見まわしたが、丸太の柵に囲われた貧弱な村以外には、何ひとつ見えなかった。一方には半ば雪に埋もれた乾草の堆《やま》が、三つ四つ立っていた。もう一方には、軒の傾いた風車小屋が、樹皮製の羽根をだらりと垂らしていた。
「いったい、要塞はどこなんだい」と私はいぶかってきいた。
「ほれ、あれでさあ」と村を指しながら馭者が答えたかと思う間もなく、私たちはそこへ乗り入れていた。村の門のところに、古ぼけた鋳物《いもの》の大砲を見かけた。道路は狭くるしく曲がりくねっていた。百姓家は屋根が低くほとんどわらぶきだった。私は司令官のところへ乗りつけろと命じ、一分後には馬車は木造の教会のそばの一段と高くなった地面に建てられた、やはり木造の小さな家の前にとまった。
私を出迎える者は誰もいなかった。私は玄関に入り込んで控室の扉をあけた。年寄りの傷病兵がひとり、テーブルに腰をかけて、緑色の軍服の肘《ひじ》のところに青い補布《つぎ》を当《あ》てていた。私は彼に取次ぎを命じた。
「どうぞおはいりくだされ」と傷病兵は答えた。「みなさんご在宅ですよ」
私は昔ふうに飾りつけのしてある小ざっぱりした部屋にはいった。片隅には食器戸棚が、壁にはガラスの嵌《は》まった額に士官任官辞令が収められている。そのまわりには、キストリン〔ロシア軍が占領したことがある、プロシャの要塞〕やオチャコフ〔ロシア軍が占領したトルコの要塞〕の占領とか、嫁選びとか、猫の埋葬だとかを描いた安っぽい木版画がれいれいしく空間を占めている。窓ぎわには、綿入れの胴着に頭巾《プラトーク》をかぶった初老の婦人がすわっている。彼女は将校服を着た片目の老人が両手で張っている糸を、糸巻きにとっているところだった。
「ご用はなんでしよう。あなた」と彼女は仕事をつづけながらたずねた。
私は勤務につくためにやってきた者であり、自分の義務として大尉殿のところへ出頭した旨を答え、そう言いながら司令官だと思って、その片眼の老人のほうへ向きなおろうとした。ところが女主人は、私が|そら《ヽヽ》で覚えておいた口上をさえぎった。
「イヴァン・クージミチは留守ですの」と彼女は答えた。「ゲラーシム司祭さんのところへお客に招《よ》ばれたんですのよ。でもまあ同じことですわ、あなた。私が家内ですもの。どうぞ、よろしくお願いね。おかけなさいな、あなた」
彼女は女中に声をかけ、下士官を呼ぶようにいいつけた。老人はその片目でもの珍しげに私のほうを見ていたが、
「失礼ですが、今までどこの連隊に勤務しておられたのですか」とたずねた。
私は彼の好寄心をみたしてやった。
「では失礼ですが」と彼はつづけた。「なぜあなたは近衛から守備隊へ移ってこられたのですか」
私はそれは上官の意志だからと答えた。
「察するところ、なにか近衛将校にあるまじき行ないをなされたというわけで……」と質問者が倦《う》むことなく質問をつづけかけると、
「くだらないおしゃべりはもうおよしよ」と大尉夫人が彼をたしなめた。「おまえだってわかるでしよう。こちらの若いおかたは旅でお疲れだってことぐらい、おまえさんのお相手どころじゃないのだよ……手をまっすぐにして……ところであなた」と彼女は私のほうに向き、つづけた。
「こんな辺鄙《へんぴ》な土地へ追われてきなさったからって、悲観することはないのよ。何もあなたがはじめてというわけでもなければ、あなたで最後というわけでもありません。我慢してるうちには好きになれるっていうものですよ。あのシヴァーブリン、アレクセイ・イヴァーノヴィチだって、殺人の科《とが》でこちらへ転任になってから、もう足かけ五年ですものね。あの人にどんな魔がさしたものやら、それはわかりませんけどね。まあ聞いてください。あの人はある中尉さんと郊外まで馬で乗り出していき、お互いに剣を引き抜くが早いか、突き合ったというんですよ。でアレクセイ・イヴァーノヴィチのほうが、中尉さんを刺してしまったんですよ。しかもふたりも立会人のいる前でね。もうこうなったらおしまいですわ。どんな偉いかただって過ちはありますものね」
ちょうどそのとぎ、ひとりの下士官がはいってきた。若くてすらっとしたコザックである。
「マクシームイチ」と大尉夫人が彼に言った。「この将校さんを宿舎へご案内しなさい。念のためにお掃除をしてからね」
「承知しました。ヴァシリーサ・エゴーロヴナ」と下士官は答えた。「将校殿をイヴブン・ポレジャーエフのところへおいれしてはいけませんか」
「なにをお言いだい。マクシームイチ」と大尉夫人が言った。「ポレジャーエフのところは、今でもあんなに狭っくるしいのに。それにあの人は私にとっては名付親だし、私たちが上官だということを心得ている人ですからね。この将校さんをね……お名前とお父さまはなんておっしゃるの、あなた。ピョートル・アンドレーイチとおっしゃるの。ピョートル・アンドレーイチをセミョーン・クーゾフのところへお連れしなさい。あのならず者は、自分の馬をうちの野菜畑に放したりして。ところで、どうなの、マクシームイチ、別に変わったことはないのかい」
「ありがたいことに、万事平穏です」とコザックは答えた。「ただ、プローホロフ伍長《ごちょう》が風呂屋で湯桶《ゆおけ》のことからウスチーニャ・ネグリーナとつかみ合いをしただけです」
「イヴァン・イグナーチイチ」と大尉夫人は片目の老人に言った。「プローホロフとウスチーニャを取り調べて、白黒をつけなさい。そして両方とも、罰してやりなさい。じゃ、マクシームイチ、お行きなさい。ピョトール・アンドレーイチ、マクシームイチがお住まいへご案内いたします」
私はこの家を辞した。下士官は要塞のいちばんはずれの高い川岸の上に立っている百姓家へ、私を案内した。家の半分は、セミョーン・クーゾフの家族がはいっており、残りの半分が私にあてがわれた。といってもそれはわりと小ぎれいではあったが、一間っきりで、仕切板でふたつに区切ってあった。サヴェーリイチは住まいづくりにとりかかり、私は狭い窓から外を眺めはじめた。目の前には淋《さび》しい草原《ステップ》が広がっていた。はす向かいには何軒かの小さな百姓家が立っていた。通りには鶏が五、六羽うろついていた。桶を抱えて玄関口に立っている老婆が豚を呼ぶと、豚どもは人なつっこげにそれに応えて鼻を鳴らした。まさにこれが、否応なく私の青春を送ることとなった土地なのであった……憂愁が私をしめつけた。私は窓辺をはなれ、サヴェーリイチがいさめるのもふり切って、夜食もとらずに寝てしまった。彼は嘆かわしげにくり返して言った。
「ああ、なんてこった、何も食べないとおっしゃる。坊ちゃんが病気にでもなられたら、奥さまはなんておっしゃることだろう」
翌朝、私が着替えをはじめたばかりのところへ扉があいて、背の低い将校がはいってきた。顔は浅黒く、驚くほどの醜男《ぶおとこ》なのだが、生気はあふれんばかりである。
「失礼します」と彼はフランス語で言った。「固苦しいことは抜きにして、お近づきにうかがいました。昨日《きのう》ぼくは君のいらっしゃったことを知ってたのです、やっと人間らしい顔を見られるのかと思うと、もう矢も楯《たて》もたまらなくなってしまったのです。君だってしばらくここで生活してごらんになったら、この気持がおわかりになりますよ」
私はこれが決闘ざたで近衛兵から除籍された件《くだん》の将校だなと推察した。私たちはすぐに仲よくなった。シヴァーブリンはとても頭のいい男だった。彼の話は機知に富んでいておもしろかった。彼は非常に愉快げに司令官の家族のことや、彼のつきあっている連中のことや、運命が私を引きつけたこの土地のことを、私に話してくれた。私が心底笑いこけているところへ、司令官の控室で軍服の繕《つくろ》いをしていた例の傷病兵がやってきて、ヴァシリーサ・エゴーロヴナさまが昼食に私を招待する旨伝えた。シヴァーブリンはいっしょに行こうと言い出した。
司令官の家が近くなると、そこの広場に長い辮髪《べんぱつ》を垂らして三角帽をかぶった年配の傷病兵が、二十人ほど集まっていた。彼らは横隊に整列していた。その前に司令官が立っていた。背の高い元気な老人で、室内帽をかぶって南京《なんきん》木綿の部屋着を着ている。私たちを認めると、彼は近づいてきて、私にふたことみこと優しい言葉をかけ、また指揮をはじめた。私たちはそのまま残って教練を見学しようとした。が、彼はあとからすぐ行くから、ヴァシリーサ・エゴーロヴナのところへ行っていてくれとたのんだ。
「ここにいたって」と彼は言い出した。「君たちは何も見るものはないよ」
ヴァシリーサ・エゴーロヴナは、打ちとけた家庭的な態度で私たちを迎え、まるで百年の知己に対するように私をいたわってくれた。傷病兵とパラーシカが食卓を整えていた。
「うちのイヴァン・クージミチったら、今日はまたなんで教練に打ち込んでるんでしよう」と司令官夫人は言った。「パラーシカ、だんなさまにお食事ですと申し上げといで。それにマーシャはどこにいるのかしら」
そこへ年のころは十八ほどの、ばら色をした丸顔の娘がはいってきた。うすい亜麻《あま》色の髪を燃えるように赤い耳のうしろで、キリッとなでつけている。ひと目見たとき、私はそれほど気に入ったわけではなかった。私は先入観のメガネで、彼女を見ていたためである。それというのが、私はシヴァーブリンから、大尉の娘のマーシャはまったくの低能だときかされていたからである。マリヤ・イヴァーノヴナは片隅に腰をおろして、刺繍をはじめた。そのうちシチューが食卓にのった。ヴァシリーサ・エゴーロヴナは、夫がまだ姿を見せないので、もう一度パラーシカに迎えにゆかせた。
「だんなさまにこうお言い、お客さまはお待ちかねですし、シチューはさめてしまいますって。ありがたいことに、教練は逃げていきゃしないし、この先あきるほど喚《わめ》くことができるのにねえ」
大尉は間もなく片目の老人をともなって現われた。
「どうなすったんです、あなた」と妻が彼に言った。「お食事はもうとっくにできてますのに、いくら呼んでもお帰りにならないんですもの」
「まあ、まあ、ヴァシリーサ・エゴーロヴナ」とイヴァン・クージミチは答えた。「わしは勤務で忙しかったのじゃよ。兵隊どもを教練していたのだよ」
「ああ、たくさんだわ」と大尉夫人はやり返した。「兵隊に教練するなんて骨折り損てものですよ。あの人たちは勤務ができる連中じゃなし、それにあなただって勤務のなんたるかが、わかっちゃいないのですからね。それよりも、家に落ち着いて、お祈りでもしていたほうが、よほどましですよ。さ、皆さん、なにとぞお席におつきくださいまし」
私たちは食卓についた。ヴァシリーサ・エゴーロヴナはちょっとの間も黙っていず、私に質問をあびせかけてくるのだった。ご両親はどんなかたか、おふたりともご健在か、どこにお住まいで、どのくらい資産がおありかとか。父が三百人の農奴を所有しているときくと、
「たいしたもんねえ」と彼女は言った。「世の中にはたいしたお金持もあるものねえ。うちなんか、あなた、下女のパラーシカひとりきりなんですよ。でもおかげさまで、細細ながらも暮らしていますわ。ただかわいそうなのは、このマーシャですわ。もう年ごろですのになんの嫁入り仕度もなくて。歯の細い櫛《くし》が一本、ほうきが一本、それにお湯銭に三カペイカ銅貨がひとつ〔神さま、お許しください〕、それきりなんですからね。なんとかいい人が見つかってくれるとよいのだけど。そうでなけりゃ、この子は一生売残りってことになりそうですわ」
私はマリヤ・イヴァーノヴナのほうをちらっと見た。彼女は真っ赤になって、皿の上にぽたぽた涙さえ落とした。私は彼女がかわいそうになってきて、急いで話題を変えてしまった。
「きくところによりますと」と私はかなり突飛なことを言った。「こちらの要塞はバシキール人〔ウラル河沿岸に住む民族〕に狙われてるそうですが」
「君はだれからそれをきかされたのかね」とイヴァン・クージミチがきいた。
「私はオレンブルグでその噂をききました」と私は答えた。
「作り話だよ」と司令官は答えた。「ここではもうついぞ、そんな話はきかないよ。バシキール人どもは、ふるえあがらせてあるし、キルギス人どもも、こらしめてあるんでとても攻めてなんかきやせんよ。よしんば攻めてきたところで、このわしが十年ぐらいは手も足も出ないほどへっこましてやるわい」
「で、あなたは怖くないのですか」と私は大尉夫人に向かって言葉をつづけた。「こんな危ない目にさらされている要塞に起居なさってて」
「慣れですよ、あなた」と夫人は答えた。「二十年も前に連隊からここへ移ってきましたころには、今思い出しても身ぶるいするほど、あのいやらしい異教徒たちが怖かったものですわ。ときどきあの山猫《やまねこ》皮の帽子を見かけたり、あの者たちの金切《かなきり》声をきいたりしますと、心臓もなにもとまってしまうほどでしたわ。でも、今じゃ慣れっこになってしまって、悪党たちが要塞のあたりを走りまわっているって言ってこられたって、お尻をあげようともしませんものね」
「ヴァシリーサ・エゴーロヴナは、たいした女傑ですよ」とシヴァーブリンがもっともらしく口をはさんだ。「イヴァン・クージミチがその生証人ですよ」
「まったく、そのとおりなんでね」とイヴァン・クージミチが言った。「家内は臆病者じゃないね」
「じゃ、マリヤ・イヴァーノヴナは」と私はきいた。「やはり、奥さまと同じに勇敢ですか」
「マーシャが勇敢ですって」と母が答えた。「いいえ、マーシャは気が小さいんですよ。いまだに鉄砲の音がきいてられないんですの。すぐにちぢみあがってしまいます。二年前のことですが、イヴァン・クージミチが私の命名の日に、大砲を撃たせましたの。するとどうでしよう、この子ときたら、おそろしさのあまり、すんでのところであの世行きだったのですよ。それからというもの、あのいまいましい大砲なんかいっさい撃たなくなりましたの」
私たちは食卓から立ち上がった。大尉と夫人は食後のひと休みをとることになり、私はシヴァーブリンの宿舎へ行って、そこで一晩じゅう彼といっしょに過ごした。
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第四章 決闘
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さあ、いくぞ、身構えて立ちたまえ。
ほれ、君の胴腹、ぐさり一突き。
……クニャジニーン
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何週間かが過ぎたが、私のベロゴールスクでの生活は、我慢ならないどころか、反対に愉快でさえあった。司令官の家では、私を身内のように扱ってくれた。夫妻は最も尊敬に値する人たちだった。一兵士からたたきあげて将校となったイヴアン・クージミチは、教育のない単純な人だったが、そのかわりに非常に誠実で善良だった。彼の妻は彼を自分の意のままに操縦していたが、それがまた彼ののんきさに似合っていた。ヴァシリーサ・エゴーロヴナは勤務を自分の家事同然に見ており、要塞内をわが家とまったく同じようにとり仕切っていた。マリヤ・イヴァーノヴナは間もなく私に恥じらいを示さなくなった。私たちは親しくなった。彼女は思慮深く、感受性の豊かな娘であることがわかった。知らずしらずのうちに、私はこの善良な家庭に愛着をおぼえ、あの片目の守備隊|中尉《ちゅうい》イヴァン・イグナーチイチさえ好きになった。彼はヴァシリーサ・エゴーロヴナとは許しがたい関係を結んでるらしいなどと、まるででたらめをシヴァーブリンは言っていたが、そのようなことは影さえも見えなかった。もとよりシヴァーブリンは言うだけ言って、自分の発言に責任を持つような気質ではなかった。
私は将校に昇進した。勤務はつらくはなかった。神のご加護のあるこの要塞《ようさい》には、検閲も、教練も、哨兵《しょうへい》勤務もなかった。司令官は気が向くと、ときどき兵隊に教練をしていたが、彼ら全員が右と左をよくわきまえるには至っていなかった。彼らの多くはまわる前にはいちいち自分の胸に十字を切って、しくじらないようにしていた。シヴァーブリンのところには、フランス語の本が何冊かあった。私は借りて読んでるうちに、文学への興味が湧《わ》いてきた。午前中私は読書をしたり、翻訳の稽古《けいこ》をしたり、ときには詩作さえした。昼食はほとんどいつも司令官のところで食べ、残りの半日はだいたいそこで過ごした。ここには晩になると、よくゲラーシム司祭がこの界隈《かいわい》きってのおしゃべりの妻を連れて訪れた。アレクセイ・イヴァーヌイチ・シヴァーブリンとは、もちろん毎日会っていた。が、ときがたつにつれて、彼の話はだんだん愉快でなくなってきた。司令官一家に関する彼の倦むことを知らぬ冗談口、とくにマリヤ・イヴアーノヴナについての棘《とげ》を含んだ見解が、私にはとても気にいらなくなった。要塞内にはこれ以外の交際といっては別に求めようもなかったが、私もそれ以外に欲しいとも思わなかった。
それらしき前兆が、ちらほらあるにはあったが、バシキール人は反乱を起こさなかった。平穏無事がわが要塞を支配していた。しかし、平和は思いがけない内輪喧嘩《うちわげんか》によって破れた。
私が文学をやっていることはもう話した。私の習作は当時としてはなかなかのできで、アレクサンドル・ペトローヴィチ・スマローコフ〔一七一八〜七七。ロシア古典派の劇作家、詩人〕は数年後、激賞してくれたほどである。あるとき、私は自分でも満足のゆく歌一編を書き上げた。作者というものは、ときどききたんのない批評をいただくという形で、その実は厚意的な聴き手を探しているということは、周知のとおりである。そこで私も自作の歌を清書すると、要塞中で詩人の作品を鑑賞しうるただひとりの人である、シヴァーブリンのところへ持っていった。二、三前置きをしたあとで、私はポケットから手帳を取り出し、つぎのような詩句を読み上げた。
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恋しさをおしころして、
ひたすらに麗《うる》わしい君を忘れようとする。
ああ、わたしはマーシャをのがれて
自由を得ようとあこがれねがう。
けれど、わたしをとらえた瞳《ひとみ》は
胸に灼《や》きついてかたときもはなれず、
わたしの心は乱れ乱れて
やすらぎは破られる。
君よ、わたしの不幸がわかったなら
マーシャよ、わたしに憐れみをください。
この異郷にあって、
君に心をうばわれたわたしに気づいたなら。
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「どう思う、これは」とかならず私に捧げられるであろう贈物としての賞讃を期待して、私はシヴァーブリンにたずねた。ところが残念至極なことに、いつもは寛大なシヴァーブリンが、この歌は不出来だねと、きっぱり言ってのけたのである。
「どうしてだい」と私は口惜《くや》しさをおしかくしながら彼にきいた。
「どうしてかというと」と彼は答えた。「こういう詩はぼくの師たるヴァシーリー・キリールイチ・トレジャコーフスキー〔ロシア十八世紀の擬古典学者、言語学者〕にこそふさわしいものであって、どうも先生の恋の詩にそっくりなんだよね」
そこで彼は私の手から手帳を取ると、最も辛辣《しんらつ》なやり口で私をからかいながら、詩の一言一句を容赦なく解剖しはじめた。私はたえられなくなって、彼の手から手帳をひったくると、もう今後はけっして自分の作品を彼には見せないぞと言った。シヴァーブリンはこの威《おど》しをも笑い飛ばした。
「まあ見ていようよ」と彼は言った。「はたしてこの約束が守れるかどうか。詩人には聴き手というやつが必要なのは、イヴァン・クージミチに、食前のウオッカの小びん一本が必要なのと同じさ。ところで、君が優しい情熱だの恋の不幸だのと訴えているこのマーシャというのは、いったいだれなの。まさかマリヤ・イヴァーノヴナのことじゃないだろうね」
「君の知ったこっちゃないよ」と私は眉《まゆ》をしかめて答えた。「このマーシャがだれであろうとね。君の意見も、推測もご無用に願いたいね」
「さても、自尊心の強い詩人にして、謙譲なる恋人よ、だ」とシヴァーブリンはますます私をいらいらさせながら、言葉をつづけた。「でも友人の忠告はきくものだよ。もし君がうまくやるつもりなら、言っとくけど、詩なんかじゃ効き目がないね」
「君、それはどういう意味だね。教えてもらいたいね」
「いいとも。これはね、たそがれ時ともなれば、マーシャ・ミローノヴナに君の許《もと》へ忍んできてもらいたいとお望みならば、こんな甘っちょろい詩なんかやめてイヤリングの一対でも贈れということさ」
私の血は沸《わ》き立った。
「いったいどういうわけで、君はあの娘《ひと》のことをそういうふうに考えるのだ」私はやっとの思いで癇癪《かんしゃく》を抑えてたずねた。
「それはだな」と彼は地獄の笑いをうかべて答えた。「自分の体験で、あの娘の性質も習慣も知ってるからさ」
「うそつけ。卑劣漢《ひれつかん》」と私はかっとなってどなりつけた。「そんな恥知らずのうそを、よくまあしゃあしゃあと抜かせたものだ」
シヴァーブリンは顔色を変えた。
「今の言葉は、ただじゃすまさないぞ」と彼はギュッと私の手をつかんで言った。「決闘の申込みを受けてもらおう」
「いいとも。いつでも」と私はうれしくなって答えた。この瞬間に、私は彼をずたずたにする覚悟ができた。
私はさっそくイヴァン・イグナーチイチのところへ出かけて行った。彼はちょうど針を手にしてなにかしていた。大尉夫人にたのまれて、冬の蓄えに乾す茸《きのこ》を糸に通していたのである。
「やあ、ピョートル・アンドレーイチ」と彼は私を見かけるとあいさつした。「ようこそお出かけになりました。どうした風の吹きまわしです。失礼ですが、何のご用で」
私は簡単にアレクセイ・イヴァーヌイチとの喧嘩《けんか》のいきさつをのべ、イヴァン・イグナーチイチにぼくの介添人《かいぞえにん》になってくれるようたのんだ。イヴァン・イグナーチイチはそのひとつしかない目をまるくして、私を見つめながら、熱心に私の言うことをきいていた。
「つまり……こうですな」と彼は私に言った。「あなたはアレクセイ・イヴァーヌイチをぐさりとやってしまいたい、ついてはこの私に介添人になってくれ、とこうおっしゃるんですね。そうですね、失礼ですけど」
「そのとおりです」
「とんでもないこってすよ。ピョートル・アンドレーイチ。なんてことを思いつかれたんです。あなたとアレクセイ・イヴァーヌイチが喧嘩をなさった、それがなんになりますか。たいしたことないじゃありませんか。悪口なんぞ気にしなさんな。向こうで悪口言ったら、こっちも言い返してやるまでですよ。向こうが鼻面へこつんときたら、こっちは耳を張り返す、敵さんがこうきたら、ああやり返す、それで別れちまえばいいんですよ。あとは私たちが仲なおりさせてあげますよ。それともですよ、失礼ですが、自分の親しい人をぐさりとやることが、正しいことですかね。それもあなたがあの人をぐさりとやっちまえばいいですよ。アレクセイ・イヴァーヌイチよ、さようならですよ。私だってあの人のことはどうも虫が好かないんですよ。ところが逆に向こうがあなたのどてっ腹に穴をあけたら、どうなさるんです。え? いったいどういうことになるのです。失礼ですが、ぱかをみるのはだれですか」
思慮深い中尉の諌《いさ》めの言葉にも、私は動じなかった。私の決心は変わらなかった。
「じゃ、お好きに」とイヴァン・イグナーチイチは言った。「思いどおりになさったらいいでしよう。だがまたどうしてこの私が介添人にならなきゃいけないんです。どういうわけですか。人が斬合《きりあ》いをする、言わせてもらいますけどね、なんの珍しいことがありますか。お陰さまで、私はスウェーデン戦役にもトルコ戦役にも、従軍してきましたからね。そんなのはもうあきるほど見てきましたよ」
私はどうにかこうにか介添人の役割を説明してみたものの、イヴァン・イグナーチイチはどうしても私の言うことがわからなかった。
「どうぞご勝手に」と彼は言った。「仮に私がこの事件に介入するとなると、私はイヴァン・クージミチの許へ行って、この要塞内で国家利益に反する悪だくみが行なわれている旨、職責上報告しなければなりませんね。司令官殿にはしかるべき処置をお取りになるほうがよいとお考えでありますか、ってね」
私はびっくりぎょうてんし、司令官には何もしゃべらないでくれと、イヴアン・イグナーチイチに頼んで、やっとのことで彼にうんと言わせた。それを約束してくれたので、私も彼のことはあきらめることにきめた。
その晩は例によって司令官の家で過ごした。私はちょっとでも疑われれば、しつこい質問から逃れられなくなるので、つとめて快活に平然と振るまっていた。しかし、正直に言ってしまうが、私と同じ状態を経験した人たちの十人が十人口をそろえたように誇らしげに自慢するあの冷静さを、私は持ち得なかった。その晩、私は優しい感傷的な気分になっていた。マリヤ・イヴァーノヴナが、いつもよりずっと好もしく思えた。あるいはこれが彼女を見る最後になるかもしれないという思いが、彼女の姿にある感動的なものをそえて見せたのかもしれない。そこヘシヴァーブリンがやってきた。私は彼をすみのほうへ連れて行って、イヴァン・イグナーチイチとの話の模様を彼に知らせた。
「介添人の必要なんかないさ」と彼はそっけなく言った。「そんなものなくったってうまくやれるよ」
私たちは要塞のそばの乾草の山のかげで決闘を行なうこと、明朝七時にそこで落ち合うことをきめた。私たちは一見仲よく話し合っているように見えたので、イヴァン・イグナーチイチはうれしくなってつぶやいたものだ。
「とっくにそうなればよかったんですよ」彼は満足げに言った。「悪い平和はよい喧嘩よりもましですからね。不正直でも達者なのがいいですからね」
「なに、なに、イヴァン・イグナーチイチ」と部屋のすみでカード占いをしていた司令官夫人が言った。「私はよく聞こえなかったわ」
イヴァン・イグナーチイチは私の不満そうな顔色を見てとると、自分の約束を思い出し、すっかり困惑して返事に窮してしまった。シヴァーブリンがすぐに助け舟を出した。
「イヴァン・イグナーチイチは」と彼は言った。「私たちの仲なおりを讃《ほ》めてくれてるんですよ」
「というと、あなた、いったいだれと喧嘩なさったの」
「ピョートル・アンドレーイチとかなりの大喧嘩をやったんですよ」
「どうしてそんなことを」
「じつにつまらんことです。歌のことでね。ヴァシリーサ・エゴーロヴナ」
「へえ、たいした喧嘩の種だこと。歌のことでね。でそれはどんなふうにして起こったの」
「こうなんです。ピョートル・アンドレーイチが最近歌をつくりましてね。今日私にそれを読んでくれたのです。それで私も日ごろの愛唱歌をうたったわけですよ。
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大尉の娘さん
夜半のそぞろ歩きはおやめなさい。
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そしたら喧嘩になったのです。ピョートル・アンドレーイチは腹をたててはみたものの、あとでだれだってどんな歌をうたおうと自由だと思いなおしたんですね。それでけりがついたのです」
シヴァーブリンの厚かましさに、私は危うく気も狂わんばかりだったが、私以外にはだれもこのあくどいあてこすりをわかる者はなかった。すくなくともそれに気をとめた者はいなかった。歌のおかげで話題は詩人のこととなった。そして司令官はあの連中はみんな道楽者の大酒のみであり、詩作は軍務に反することでもあり、何もよい結果はもたらさないからやめるほうがよいと、私に親切に忠告してくれた。
私はシヴァーブリンと同席していることがたえられなくなった。私は間もなく司令官と彼の家族に別れを告げた。宿舎へ帰るとサーベルをしらべ、その切先《きっさき》を試してみて、サヴェーリイチに明朝は六時に起こすよう命じて床についた。
つぎの日、約束の時刻には敵手の来るのを待ち受けて、もう乾草山を背にして立っていた。ほどなく彼もやってきた。
「見つかりそうだよ」と彼は私に言った。
「いそいでやらなくちゃあ」
私たちは軍服をぬいで、チョッキだけになりサーベルを抜いた。そのとたん乾草山のかげから、突如としてイヴァン・イグナーチイチと数人の傷病兵が姿をあらわした。彼は私たちに司令官のところへご同行願いたいと言った。私たちは無念であったがそれに従った。兵士にとりかこまれながら、私たちはイヴァン・イグナーチイチのあとから要塞に向かった。彼は呆《あき》れ返るほどのもったいぶった歩き方をしながら、意気揚々と私たちを連行した。
私たちは司令官の家にはいった。イヴァン・イグナーチイチが扉を開けて、荘重な口調で報告した。
「連行いたしました」
私たちを出迎えたのはヴァシリーサ・エゴーロヴナだった。
「まあ、あなたがたったら、いったい何事ですか。どうしたことなの、これは。この要塞で人殺しをなさろうなんて。イヴァン・クージミチ、すぐにこのふたりを逮捕なさい。ピョートル・アンドレーイチ。アレクセイ・イヴァーヌイチ。こっちへその剣をお渡しなさい。さあ、お出しなさい。パラーシカ、この剣を物置へ持っていってしまいなさい。ピョートル・アンドレーイチ。あなたがよもやこんなことなさろうとはね。よくまあ恥ずかしくないこと。アレクセイ・イヴァーヌイチはいいですよ。なにしろあの人は人殺しをして、近衛《このえ》から追放された人なんですから。あの人は神さまだって信じちゃいない人なんだから。でもあなたまでなんですか。どういうおつもりだったの」
イヴァン・クージミチは完全に自分の妻に賛成で、こう言い渡した。
「なあ君、ヴァシリーサ・エゴーロヴナの言うとおりだよ。決闘は軍人服務規定によって、ちゃんと禁じられているんだからね」
その間にパラーシカが私たちから軍刀を取り上げて、物置へ持っていった。私は思わず吹き出してしまった。シヴァーブリンはずっとまじめくさった顔をしていた。
「ぼくは大変奥さんを尊敬していますが」と彼は冷やかに彼女に言ってのけた。「われわれをご自身で裁かれるなどは、よけいなお骨折りであると申し上げずにはいられません。今度のことは、イヴァン・クージミチにおまかせになるべきです。これは司令官殿のお仕事です」
「まあ、この人ったら」と司令官夫人は言い返した。「夫婦は一心同体じゃありませんか。イヴァン・クージミチ、なにを,ほんやりしてらっしゃるの。今すぐにこのふたりを別々の営倉にいれて、パンと水だけにしてやるのです。もう二度とこんなばかをしないように。それからゲラーシム司祭を呼んで、贖罪《しょくざい》の苦行をさせるのです。神さまに許しを乞《こ》い、みんなの前で悔い改めるように」
イヴァン・クージミチはどう処分すべきか迷っていた。マリヤ・イヴァーノヴナはまっさおな顔をしていた。しだいに嵐も静まり、司令官夫人も落ち着いてきて、私たちをお互いに接吻させた。パラーシカは私たちの剣を持ってきた。私たちは仲なおりした格好で司令官宅を出た。イヴァン・イグナーチイチが私たちを送って出た。
「よく平気でいられるね」と私は彼に怒って言った。「あれほどぼくに約束しておきながら、司令官に言いつけるなんて」
「いや、誓って私はイヴァン・クージミチに言いはしませんでした。ヴァシリーサ・エゴーロヴナが、私からすっかり嗅《か》ぎ出しちまったんです。あの人はそれを司令官に知らせず、テキパキとご自分でこのように処置なされたのです。でもまあ、よかったですね。無事にすんで」
こう言うと彼は自分の家のほうへ曲がっていき、シヴァーブリンと私だけになった。
「これで問題が片づいたわけじゃないね」と私は彼に言った。
「もちろんだよ」とシヴァーブリンが答えた。「君は自分の非礼にたいして、君の血であがなわなくちゃならんよ。だがふたりとも監視されることになるだろうな。まあ、二、三日は仲のいいふりをしてなくちゃならないな。じゃまた」
そして、私たちは何事もなかったように別れた。
司令官の家へ引き返すと、私はいつものようにマリヤ・イヴァーノヴナのそばに腰をおろした。イヴァン・クージミチは留守だった。ヴァシリーサ・エゴーロヴナは家事に忙殺されていた。私たちは小声で話し合った。マリヤ・イヴァーノヴナは私がシヴァーブリンと喧嘩したことで、みんなにどんなに心配をかけたかわからないと、私を優しく叱責した。
「あたしはすんでのことで気絶するところでしたわ」と彼女は言った。「あなたがたが刀で斬合いをなさるってきかされたときには。男のかたっておかしいのね。一週間もたてば忘れてしまうにちがいないようなひとことのために、斬合いをしたり、命ばかりか良心までもほうり出しておしまいになるのね。それに、どこかの人たちの幸福までも……でも、私はあなたのほうから喧嘩を仕掛けたのではないことが、ちゃんとわかっていましたわ。悪いのはアレクセイ・イヴァーヌイチにきまってますわ」
「なぜそう思ったのです。マリヤ・イヴァーノヴナ」
「それは……あの人はとっても意地悪なの。私はアレクセイ・イヴァーヌイチを好きじゃありませんわ。とてもいやな人ですわ。だけどおかしいんです。あの人に嫌われたくないの。もし嫌われたら、とても不安になるだろうと思いますの」
「どうしてそう思うのですか。マリヤ・イヴァーノヴナ。彼はあなたのことを好きなんですか。それとも嫌いなんですか」
マリヤ・イヴァーノヴナは、口ごもって顔を赤らめた。
「それは、嫌いじゃないと思いますわ」
「なぜあなたはそう思うのです」
「あの人は私に結婚の申込みをしましたもの」
「結婚の申込み……彼があなたに申込みを。いつのことです」
「去年ですわ。あなたがおいでになる二ヵ月くらい前ですわ」
「で、あなたはおことわりになったのですね」
「ご覧のとおりですわ。アレクセイ・イヴァーヌイチは頭のいいかたですわ。家柄もいいし財産もおありだし。でも、結婚式のときみなさんのいらっしゃる前で、あのかたと接吻しなきやならないと思うと……とてもだめですわ。どんなに幸福になれるとしても」
マリヤ・イヴァーノヴナの言葉は、私に目を開かせ、たくさんのことで合点がいった。私はシヴァーブリンが、彼女に執拗《しつよう》な悪口雑言を浴びせつづける理由がのみこめた。おそらく、彼は私たちふたりが好意を抱き合っていることに気づき、水をさしてやろうと思ったのであろう。喧嘩の原因となったあの言葉は、今になってみれば、無礼極まる下品な嘲笑《ちょうしょう》というよりも、たくらまれた中傷だということがわかって、ますます醜悪なものに思えてくるのだった。あの厚かましい毒舌屋をやっつけてやりたいという気持は、私のなかでいよいよ強烈となり、私はじりじりしながらよい機会を狙っていた。
それはほどなくやってきた。つぎの日、私が机《つくえ》に向かってエレジーにとりかかり、韻律のうかぶのを待っていたとき、シヴァーブリンが窓の下をたたいた。私はペンをおいて剣をとると、彼のところへ出ていった。
「遅らせる理由なんかないよ」とシヴァーブリンは私に言った。「もう見張られちゃいないさ。川へ行こう。あそこならだれも邪魔しないよ」
私たちは黙って出かけた。急な小路を降りて流れのすぐへりに立ちどまると、互いに剣を抜き放った。シヴァーブリンは私より腕は上だったが、私のほうが力があり度胸もあった。かつて兵隊だったこともあるボープレ先生から、フェンシングの手ほどきを受けたことがあり、今こそこれが役立ったというわけである。シヴァーブリンは私をこんな手強《てごわ》い相手とは見こんでいなかった。どっちもお互いにかすり傷ひとつ負わないまま、長い時間が経過したが、やっとシヴァーブリンが弱ってきたのを認めるや、私は勢い込んで彼を攻め、ほとんど川っぷちまで追い込んだ。と、突然、私の名を大声で呼んでいるのがきこえた。ふりむくと、サヴェーリイチが土手の小路を私のほうに向かって駆け降りてくるのが見えた……と同時に私は右肩のすぐ下の胸をぐさりと一突きされて倒れ、そのまま気を失ってしまった。
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第五章 恋
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ああ、君、娘さん、きれいな娘さん
あまり早くお嫁にゆきなさんなよ、
物をたずねなさい。父さんに、母さんに、
父さんに、母さんに、身内の人に。
貯めなさい、娘さん、知恵分別を
知恵分別こそ持参金。
……民謡
私よりきれいな娘《こ》みたら、忘れてよ、
私より器量の悪い娘《こ》みたら、想い出してよ。
……民謡
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気がついたとき、私はしばらくの間はわれにかえることができず、私の身に何が起こったか思い出せなかった。私は見なれない部屋の寝台に横たわっており、ひどくからだが弱っているのを感じた。私の前には、両手に燭台を持ってサヴェーリイチが立っていた。だれかがそっと気をつかいながら、私の胸から肩へかけて巻いてある包帯をといていた。だんだんと意識がはっきりしてきた。私は自分が決闘をしたことを思い出し、さては負傷したんだなと合点がいった。そのとき扉が軋《きし》んだ。
「どう、いかがです」と囁《ささや》く声がした。それを聞いて私は身ぶるいした。
「ずっと同じです」とサヴェーリイチがため息まじりに答えた。「もうこれで五日も意識不明です」
私は寝返りをうとうとしたができなかった。
「ここはどこだ。そこにいるのはだれだ」と私はやっとのことでしゃべった。
マリヤ・イヴァーノヴナが寝台のそばへやってきて、私の上にかがみこんだ。
「いかが、ご気分は」と彼女は言った。
「おかげさまで」と私は弱々しい声で言った。「あなたはマリヤ・イヴァーノヴナですね。どうぞ話して……」私はつづける力がなくてやめてしまった。
サヴェーリイチが、おお、と声をあげた。喜びが彼の顔にうかんだ。
「お気が付かれた、お気が付かれた」と彼はくり返した。「ありがとうございます、神さま。おお、若さま、ピョートル・アンドレーイチ。ほんとうにおどかさないでくださいよ。じょうだんじゃありませんよ。五日目ですからね……」
マリヤ・イヴァーノヴナが彼の言葉をさえぎった。
「あまりたくさんお話ししないで、サヴェーリイチ」と彼女は言った。「まだ弱ってらっしゃるから」
彼女は部屋から出ていって、そっと扉を閉めた。私は感情がたかぶってきた。それでは私は司令官の家にいるのだ。そして、マリヤ・イヴァーノヴナがときどき見舞ってくれているのだ。私は二、三サヴェーリイチにたずねたいと思ったが、老人は頭を振り、自分の耳をふさいでしまった。私は無念だが目を閉じ、やがてまた眠りにおちた。
目が覚めて、私がサヴェーリイチを呼ぶと、彼のかわりにマリヤ・イヴァーノヴナがあらわれて、天使のような声で私にあいさつした。この瞬間、私をとらえた甘美な感情はなんと表現してよいかわからない。私は彼女の手を取ると、感激の涙にむせびながら、それに唇《くちびる》を押し当てた。マーシャは手をひっこめなかった。そして、突然、彼女の唇が私の頬《ほお》にふれ、私は熱い、さわやかな口づけを感じた。炎が私のからだじゅうを走りすぎた。
「いとしい、優しいマリヤ・イヴァーノヴナ」と私は彼女に言った。「ぼくの妻になってください。ぼくに幸せを約束してください」
彼女ははっとわれにかえった。
「お願いだから落ち着いてちょうだい」と彼女は手をひっこめながら言った。「あなたはまだ危険なのです。傷口が開くかもしれなくてよ。私のためにも大事にしてくださらなくては」
そう言うと、彼女は私を歓喜の絶頂に残したまま出て行った。幸福が私をよみがえらせた。彼女はぼくのものになるのだ。彼女はぼくを愛しているのだ。この思いが私の全身全霊をみたした。
このときから、私はめきめき回復していった。私を治療してくれたのは、連隊付きの理髪師であった。要塞にはほかに医者はいなかったからであるが、ありがたいことに、彼は利口ぶって傷口をこじらせたりはしなかった。若さと自然とが私の回復を早めてくれた。司令官の家族はこぞって私の世話をしてくれた。マリヤ・イヴァーノヴナは私につきっきりだった。最初の好機をとらえて、言いかけになっていた話を、私が切り出したのはもちろんのことである。マリヤ・イヴァーノヴナは今度は落ち着いて聞いてくれた。彼女はいささかのてらいもなしに、私を心から愛していること、彼女の両親もきっと、この彼女の幸せを喜んでくれるだろうということを語った。
「よくお考えになって」と彼女はつけ加えた。「あなたのご両親のほうには異存がないかしら」
私は考え込んだ。母の優しさには疑いはなかった。しかし、父の気性や物の考え方を知っているだけに、私の恋愛について父はたいした関心を示さないだろう。父はこれを若い者にありがちな、一時の熱病だとみなすだろうと予測できた。私はこのことを率直にマリヤ・イヴァーノヴナに打ち明けて、とにかく、できるだけ雄弁な手紙を父に書いて、両親の祝福を乞うことにした。私は彼女にその手紙を見せた。彼女はその手紙があまりに説得力のある感銘深いものだったので、成功疑いなしと思い、若さと恋につきものの信じやすさで、優しい自分の心のおもむくままに幸福感にひたっていた。
シヴァーブリンとは、私が回復して一日二日のうちに仲なおりした。イヴァン・クージミチは決闘のことで小言を言いながら、こう言った。
「なあ、ピョートル・アンドレーイチ、君は営倉にはいらなきやならんところだったんだが、そうしなくても、もう罰は食ったよな。アレクセイ・イヴァーヌイチは、うちの穀倉に番兵つきでぶちこまれているし、彼の軍刀はヴァシリーサ・エゴーロヴナが鍵をかけて保管している。彼にはよく考えて、反省してもらうさ」
私はとても幸福だったので、いつまでもうらみがましく思ってはいなかった。私はシヴァーブリンのことを許してやってくださいと頼み、好人物の司令官は妻の同意を得て、彼を釈放することにしたのだった。シヴァーブリンがやってきた。彼はふたりの間に起こったことに深い遺憾《いかん》の意をあらわし、全面的に自分の非を認めて、過去のことは忘れてくれるよう私に頼んだ。根が単純にできている私は、あの喧嘩のことも、そのために彼から受けた傷のことも、心から許してやった。彼の中傷も、自尊心を傷つけられ、失恋したことへの恨みだったとわかってみると、この不幸な競争者を寛大に許してやる気になったのである。
ほどなくすっかり元気になり、私は自分の宿舎に移ることができた。私は父に送った手紙の返事を、あえて希望も抱かず、つとめて悲しい予感を打ち消しながら、じっと待ちこがれていた。ヴァシリーサ・エゴーロヴナにも、彼女の夫にも、私はまだ打ち明けないでいたのだったが、私の申込みはふたりを驚かせるはずはなかった。私もマリヤ・イヴァーノヴナも彼らに自分たちの気持をかくそうとはしなかったし、私たちはとっくに彼らの承諾を確信していた。
ついにある朝、サヴェーリイチが手紙を持って私の部屋にはいってきた。私は胸をとどろかせながらそれを受け取った。あて名は父の手で書かれていた。このことは何か容易ならぬ事態の予感を私に伝えた。というのは、いつも私あての手紙は母が書き、父は終わりの二、三行をつけ加えるだけだったのである。私は長いこと封を切らず、「オレンブルグ県、ベロゴールスク要塞内、ピョートル・アンドレーイチ・グリニョーフ殿」と書かれてある荘重な表書きを読み返すばかりだった。私は筆跡からこの手紙を書いたときの、父の精神状態を推量しようとしていた。ついに意をけっして封を切った。そして、最初の数行読んだだけで、まったく事は絶望的であることがわかった。手紙はつぎのような内容だった。
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わが子ピョートルよ。おまえの手紙、すなわち、ミローノフの娘マリヤ・イヴァーノヴナとの結婚にたいして、わしら両親の祝福と承諾を願い出た手紙は、本月十五日受け取った。わしは祝福も承諾も与えようとは思わぬ。それよりおまえの悪ふざけに対し、将校の地位がなんだろうと、小わっぱ同然に懲《こ》らしめてやろうと考えている。おまえはまだ剣をさげる資格のないことを証明した。剣というものは祖国を守るために授けられたものであり、おまえと同じ暴れん坊と決闘するためのものではない。わしはさっそくアンドレイ・カルローヴィチに手紙を書いて、ベロゴールスク要塞から、おまえをどこかもっと遠い、おまえのばかがなおるようなところへ転勤させてもらうつもりだ。お母さんはおまえが決闘をして負傷したことを知ると、悲しみのあまり病気になり、今も床につかれたままだ。おまえはこの先どんな人間になるつもりだ。神さまの大きな恵みは望みえぬまでも、せめておまえがまっとうな人間になるよう、わしは神にお祈りしている。
お前の父、|A《アー》・|G《ゲー》
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この手紙を読んで、さまざまな感慨が湧《わ》いてきた。父の歯に衣を着せない厳しい口調に、私はひどく侮辱を感じた。父がマリヤ・イヴァーノヴナの名を侮蔑的に呼ぶくだり〔正式名で呼ばず判決文形式にミローノフの娘……と呼んでいる〕は、私には無礼で、偏見にみちていると思われた。ベロゴールスク要塞から他へ転勤させられると考えただけで、私はふるえおののいた。しかし、なによりも私を悲しくさせたのは、母の病気についての知らせだった。私の決闘ざたは、サヴェーリイチめが両親に知らせたにちがいないとすぐに思いつき、大いに憤慨した。狭い私の部屋をゆきつもどりつしながら、彼の前に立つと、にらみつけながらこう言った。
「おまえはまだ不足とみえるねえ、おまえのおかげで、ぼくは傷を負ってまる一カ月も生死の境をさ迷《まよ》っていたというのに、今度は母までも死なせたいというのかい」
サヴェーリイチは雷にでも打たれたような衝動を受けた。
「めっそうもない、若さま」と彼は泣き出さんばかりに言った。「なんてことをおっしゃるんです。この私があなたのお怪我のもとだなんて……私があなたをアレクセイ・イヴァーヌイチの剣から、この胸でかばおうとして駆けつけたことは神さまがご存じですよ。いまいましいこの老体が邪魔したんですよ。でいったい、わたしがあなたのお母さまに何をしたってんです」
「何をしたって」と私は答えた。「だれがおまえにおれのことを告げ口しろとたのんだ。まさかおまえは、おれのスパイ役をおおせつかっていたわけではないだろう」
「この私が、あなたのことをつげ口したですって」とサヴェーリイチは涙を流しながら答えた。「神もご照覧あれですよ。だんなさまからわたしめに寄こしなすった手紙を、どうぞ読んでみてください。わたしがあなたをつげ口をしたかどうかわかりますよ」
そこで、彼はポケットから手紙を取り出した。私が読んだのはつぎのようなものだった。
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おまえは恥ずかしくないのか。老いぼれ犬めが。わしの厳重な命令を無視して、息子ピョートル・アンドレーヴィチのことについて報告を怠り、他人さまからやつのいたずらを知らせてもらうような羽目になったことを。これでもおまえは義務をはたし、主人の命令を守っているというのか。わしはおまえを、この老いぼれ犬めが、ほんとうのことをかくし、若い者を甘やかした罰に豚番にしてくれようぞ。この手紙を読みしだい、やつのからだのぐあいが今どんなか――私に知らせてくれた人は回復したと書いていたが――それから、息子がからだのどこに傷を負い、その治療はゆきとどいているかどうか、書いてくるよう命令する。
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サヴェーリイチが悪かったのではなく、私がいたずらに彼を叱りとばし、嫌疑をかけて彼を侮辱していたということになる。私は彼にあやまったけど、老人は気分がおさまらないふうだった。
「長生きすりゃろくなことはありませんよ」と彼はくり返した。「長年勤めて、ご主人からいただくごほうびがこれですかい。私は老いぼれ犬で、豚番で、おまけにあなたのおけがのもとですかい。誓いますよ、若さま、ピョートル・アンドレーイチ。私じゃなくて、悪いのはみんなあのいまいましいモッスーですよ。あいつがあなたに、鉄の焼串でぐさりとやることを教えたからですよ。突いたり、足踏みしたりさえすりゃまるで悪党が防げでもするように。まったく、モッスーをやとって余計な金をつかった甲斐《かい》があったというもんですよ」
とすれば、だれが私の行動をわざわざ父に知らせたのだろうか。将軍か、しかし彼は私のことなんか、たいして気にもしてないふうだった。またイヴァン・クージミチは私の決闘のことを上司に報告する必要を認めていなかった。どうしてもわからなかった。私の疑いはシヴァーブリンのところでとまった。密告して得をするのは、彼ひとりだけである、そうすることによって、私を要塞から遠ざけ、司令官の家族と切り離すことができるのだから。私はすっかりマリヤ・イヴァーノヴナに報告することにした。彼女は玄関の入口で私を迎えた。
「まあ、どうなさいましたの」と彼女は私を見て驚いて言った。「お顔の色がまっさおよ」
「みんなもうだめになってしまいましたよ」と私は答えて彼女に父の手紙を渡した。今度は彼女がまっさおになる番だった。読みおえると、彼女は震える手で手紙を返して、震え声で言った。
「やっぱり私には運がないのですわ……あなたのご両親は私を家族に迎えたくないのですわ。なにごとも神さまの思召《おぼしめ》しですわ。私たちのゆくべき道は神さまのほうがよくご存じですわ。しかたがありませんわ、ピョートル・アンドレーイチ、あなただけはお幸せになってくださいね……」
「そんなばかなことが」と私は彼女の手を取って叫んだ。「君はぼくを愛してくれている。ぼくはすっかり覚悟ができてるんです。行きましょう。君のご両親の前にひざまずきましょう。おふたりともさっぱりしたかたで、薄情な傲慢《ごうまん》なかたじゃありません。私たちを祝福してくださるでしょう。ぼくらは結婚式をあげましょう。そのうち時がたつにつれて、きっと父も気持がほぐれてくるにちがいありません。母は私たちの味方になってくれるでしょう。父だって許してくれますよ……」
「いいえ、ピョートル・アンドレーイチ」と彼女は答えた。「あなたのご両親の祝福なしではまいれませんわ。神さまのみ心に従いましょう。もしあなたにさだめられたよいかたが見つかったら、もし他のかたをお好きになられたら――どうぞお幸せにおなりになって、ピョートル・アンドレーイチ。私はおふたりのために……」
そこまで言うと、彼女は泣き出して私から去って行った。私は彼女につづいて部屋にはいろうとしたが、自制心がなくなっている自分を感じたので家へ帰った。
私はすわって深い物思いに沈んでいた。突然、サヴェーリイチがそれをやぶった。
「さあ、若さま」とぎっしり書き込んだ紙切れを私に差し出しながら言った。「見てくださいませ。私が自分の主人のつげ口屋かどうか、父と息子の仲を引き裂こうとしているかどうかを」
私は彼の手から手紙を取った。それは父への彼の返事だった。ここに一言一句たがわず掲げてみよう。
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アンドレイ・ペトローヴィチだんなさま。お恵み深きご主人さま。お恵み深きお手紙拝受いたしました。お手紙によりますと、主人の命令を守らないで恥を知れと、あなたさまの奴隷《どれい》めにたいそうご立腹のようすにございますが、私は老いぼれ犬などではなく、忠実な召使いでございます。私はご主人さまの命令はよくきき、いつも心からだんなさまにおつかえいたし、白髪になるまでも勤めさせていただきました。ピョートル・アンドレーイチの傷につきましては、無用なご心配をおかけしてはいけないと思い、お手紙しなかったしだいでございます。うけたまわりますれば、奥さま、われらが母上さまのアヴドーチャ・ヴァシーリェヴナには、お驚きのあまり病の床におつきになりましたよし、ご全快のほどお祈り申してやみません。さて、ピョートル・アンドレーイチのおけがは、右肩の下、骨のすぐ下のお胸のところ、深さ七センチたらずでございまして、川岸よりお運びいたした司令官宅でそのまま床につかれ、治療には当地の理髪師ステパン・パラモーノフがあたりました。そして今はおかげさまで、ピョートル・アンドレーイチは全快なされて、若さまについては、吉報以外何もお知らせすることはございません。上官方のおぼえもめでたきようで、ことにヴァシリーサ・エゴーロヴナさまには、わが子も同然にかわいがっておもらいになっております。あのようなできごとが起こりましたとて、若いかたをおとがめになることはないと存じます。馬は四つ足でも躓《つまず》くのたとえもございます。またこの私を豚番にするとのおおせでございますが、それはだんなさまのご存分にお願いいたします。
あなたさまの忠実なる奴僕《ぬぼく》
アルヒーブ・サヴェーリイチ
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私はこの人のよい老人の手紙を読みながら、幾度も微笑を禁じえなかった。私は父に返事を出せる精神状態ではなかった。また母を安堵《あんど》させるには、サヴェーリイチのこの手紙で充分だと思った。
このときから、私の立場は一変した。マリヤ・イヴァーノヴナはほとんど私と口をきかなくなり、ことごとに私を避けるようになった。司令官の家は私にとって厭《いと》わしいものになった。しだいに私は自分の部屋にひとりこもっているのに慣れた。ヴァシリーサ・エゴーロヴナははじめのうちこそ私に文句を言っていたが、私のかたくなさを見てとると、ほっておいてくれるようになった。イヴァン・クージミチとは、勤務上の必要のとき以外は会わなかった。シヴァーブリンとはたまには会ったが、それもしょうことなしに会っていた。彼のなかにかくされた悪意があることに気づき、私の疑いが確実なものとなった以上、彼に会うのがますますいやになった。私の毎日はたえがたいものになってきた。私は孤独と無為がもたらす暗い物思いに沈んでいた。私の恋心は淋《さび》しい生活のなかで燃えさかり、刻一刻心に重くのしかかってきた。私は読書にも文学にも興味がなくなった。私はすっかり意気消沈していた。このままでは私は発狂するか、放蕩《ほうとう》に身をもちくずすしかなく、われながら怖ろしくなった。このときであった。私の生涯に重大な影響をもたらした予期せぬ事件が突如起こったのは。この事件は私の心に強烈な、しかもありがたい衝撃を与えたのである。
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第六章 プガチョーフの乱
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あんたがた、若いおかたよ、まあききなされ、
わしら、年寄りの昔話を
……民謡
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私が実際に遭遇《そうぐう》したふしぎな事件を記述する前に、一七七三年の終わりのころのオレンブルグ県のおかれていた状態について、少し説明しておかなければならない。
広大にして肥沃《ひよく》の地であるこの県には、ここ最近ロシア皇帝の統治権を認めるようになった未教化の氏族が多く住んでいた。絶え間なく起きる彼らの反乱、法律と公民生活への不慣れ、無理解と残忍さが政府の側にとっては頭痛の種子で、彼らを順応させておくために常時監視が必要だった。適当だと思われる個所に要塞が築かれた。その要塞には、ヤイーク河岸の以前からの領有者であるコザックが大部分定住していた。しかし、この地方の安寧秩序をまもる役目を担当しているはずの、このヤイーク・コザックは、いつのころからか政府にとって物騒で油断ならぬ存在となっていたのである。一七七二年には、彼らの主要な要塞で反乱が起こった。原因は部下の兵士を服従させようとして、トラウベンベルグ少将が強硬手段を行使したからである。結果はトラウベンペルグ少将が虐殺《ぎゃくさつ》され、指揮系統の勝手な変更がなされ、結局反乱の鎮圧は、霰弾《さんだん》と残酷な処刑によってけりがつけられた。
これは私がベロゴールスク要塞に到着する少し前に起こったことであった。今はすっかり平穏にもどっていた。いや、表面的には平穏無事に見えた。軍当局は狡猾《こうかつ》な暴徒たちのみせかけの悔悛《かいしゅん》を、軽率にも信用してしまったのだった。彼らは裏では、ひそかに復讐心を燃やし、新たな反乱の好機を虎視《こし》たんたんとしてねらっていたのである。
そこで物語のほうへもどろう。
ある晩〔一七七三年十月はじめのことだったが〕、私は部屋にひとりいて、秋の風のざわめきに耳を澄まし、月をかすめて動いてゆく雨雲を窓辺で眺めていた。すると司令官の名で使いの者が私を呼びに来た。私は即座に出むいた。司令官宅には、シヴァーブリンとイヴァン・イグナーチイチとコザックの下士官がいた。部屋にはヴァシリーサ・エゴーロヴナもマリヤ・イヴァーノヴナもいなかった。司令官は屈託ありげなようすで、私にあいさつした。彼は扉を閉め、戸口に立っている下士官の他はみんな椅子につかせ、ポケットから一枚の紙を取り出して、こう言った。
「将校諸君、重大事態が発生した。将軍からの報せがある。ききたまえ」そこで彼は眼鏡《めがね》をかけ、つぎのような文を読みあげた。
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ペロゴールスク要塞司令官ミローノフ大尉殿(要秘)
監禁中に脱走したドン・コザックにして分離派教徒〔一六六七年のロシア正教会分裂のさい生まれた旧信派。ひげをたくわえ、昔風のカフタンを着ている。農民、商人、コザックが大部分〕であるエメリヤン・プガチョーフなる者、故ピョートル三世〔エカテリーナ大帝の夫〕の名を僭称《せんしょう》するという許すべからざる不遜の行為をしでかし、暴徒を糾合《きゅうごう》してヤイーク河近辺の諸村で蜂起《ほうき》し、いたるところで略奪、殺人を行ないつつ、すでに数カ所の要塞を占拠爆破している。これがため大尉殿には、本状を受け取りしだい、即刻前述の暴徒かつ僭称者を撃退すべくしかるべき方策を講じ、またその者が貴官の監督下にある要塞に襲来することあるときは、できればこれを完全に殲滅《せんめつ》せられたし。
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「しかるべき方策を講ぜよとある」と司令官は眼鏡をはずし、手紙をたたみながら言った。
「お聞きのとおり、言うは易《やす》しじゃ。その悪党め、なかなか強いとみえる。こちとらは全部で百三十人だからな。コザックはあてにはならぬから勘定にはいれないとしてだ。いや、おまえのことを言ってるんじゃないからね、マクシームイチ〔下士官はにやっと笑った〕。だが今さらどうしょうもない。将校諸君、しっかりたのみますぞ。哨兵をたて、夜間の巡邏《じゅんら》も怠らないように。そして襲来とならば門を閉じて兵を集結する。マクシームイチ、おまえは部下のコザックを厳重に見張っていてくれ。それから大砲を点検してよく掃除しておく。が何より大事なことは、いざというときまで要塞内のだれにも洩《も》れないよう、この秘密の万全を期すことだ」
このように指令をくだすと、イヴァン・クージミチは私たちを解散させた。私は今きいたことをあれこれ考えながら、シヴァーブリンといっしょにそとへ出た。
「これはどんな結末になるだろうね。君」と私は彼にたずねた。
「さっぱりわからんね」と彼は答えた。「成行きを静観するよりしかたないな。今のところはまだ何も重大なきざしも見えないしね。ただもし……」そこで彼は考えこみ、うわの空でフランスの小唄《アリア》を口笛で吹きはじめた。
あらゆる用心をしていたにもかかわらず、プガチョーフ出現のニュースは要塞内に知れわたってしまった。イヴァン・クージミチは自分の妻をとても尊敬してはいたが、職務上彼に託された秘密だけは、決して洩らしはしなかった。将軍からの書面を受け取ると、彼はゲラーシム司祭がオレンブルグから、なにやらおかしな報らせを受け取っていて、それを後生大事に秘密にしているとかなんとか言って、ヴァシリーサ・エゴーロヴナをかなりうまいやり口で追い出してしまった。ヴァシリーサ・エゴーロヴナは、さっそく司祭の|かみさん《ヽヽヽヽ》のところへ客に行くことを思い立ち、マリヤを残していっては淋しがるだろうという、イヴアン・クージミチの忠告をいれて、彼女も連れて出かけた。
イヴァン・クージミチはこれで完全な主人になりきって、即刻われわれを呼びにやり、立聞きなどされないように、下女のパラーシカを物置に閉じ込めてしまった。
ヴァシリーサ・エゴーロヴナは司祭の|かみさん《ヽヽヽヽ》から何ひとつニュースを聞き出せないで帰ってきて、イヴァン・クージミチが会議を開いたこと、パラーシカが閉じ込められたことを知った。彼女は亭主に計られたことに気づくと、詰問攻めにしはじめた。しかし、イヴァン・クージミチのほうでも、この攻撃の準備はしていたのである。彼はいささかも動ずることなく、好奇心のかたまりのつれあいにそらぞらしくこう答えたものだ。
「いやそれはな、母さん、村の女どもが暖炉で藁《わら》を燃やしはじめたのだよ。これはあぶないのでね。ころばぬ先の杖《つえ》に女どもに今後いっさい藁は燃やさぬこと、かわりに粗朶《そだ》か枯枝にするよう、厳重な命令を出したのだよ」
「じゃなぜ、パラーシカを閉じ込めたりなどなさったの」と司令官夫人はたずねた。
「なんのために、あの娘をかわいそうに物置へ押し込めたのです。私たちのるすの間に」
イヴァン・クージミチはこの質問にまでは、準備ができていなかった。彼はしどろもどろになり、なにかてんで不得要領なことを口走った。ヴァシリーサ・エゴーロヴナは夫の詭計《きけい》を見抜いてしまったが、彼からは何も聞き出せないことがわかると、質問をやめてしまい、アクリーナ・パンフィーロヴナが自己流で漬けたきゅうりの塩漬けのほうへ話をもっていった。一晩中ヴァシリーサ・エゴーロヴナは目がさえて眠れなかったが、夫の心の中に今何があり、何について考えているのかということを、どうしても思いつくことができなかった。
つぎの日、弥撒《みさ》から帰ってくる途中で、彼女はイヴァン・イグナーチイチが大砲のなかからいたずらっ子どもが押しこんだぼろ切れや、石ころや、木切れ、小骨〔子どもたちが、羊や牛の小骨を、日本のおはじきや石けりのように遊びに使う〕その他いろんなごみを引っぱり出しているのを目にとめた。
(この戦さの準備はなにごとなのかしら)と司令官夫人は思った。(キルギス人たちが間もなく襲《や》ってくるのかしら。それだとしたら、イヴァン・クージミチがそんなつまらないことを私にかくすはずもないのにねえ)
ここで彼女は、女性特有の好奇心をかりたてているその秘密を、なにがなんでも聞きだしてやろうと、イヴァン・イグナーチイチを呼び寄せた。
ヴァシリーサ・エゴーロヴナは、まず彼に家政上の注意を二、三与えた。ちょうど被告の警戒心をそらすために、本題とは関係のない質問からはじめる裁判官よろしく。つぎに二、三分だまっていたあとで、彼女は深いため息をついて、頭をふりふり言った。
「ああ、もうどうしよう。なんてことが起こったんだろうね。いったいどうなるんだろうね」
「ああ、奥さん」とイヴァン・イグナーチイチは答えた。「神さまはお慈悲深くていらっしゃる。こちとらには兵隊はたっぷりいるし、火薬もたくさんあるし、大砲は私が掃除しときましたしね。プガチョーフなんて一撃のもとにやっちまいまさあ。心配いりませんや、万事うまくゆきますよ」
「そのプガチョーフとやらは何者なの」と司令官夫人がきいた。
そこでイヴァン・イグナーチイチは、つい乗せられてしゃべってしまったことに気づいて、だまりこくってしまった。しかし、もう手遅れだった。ヴァシリーサ・エゴーロヴナはこのことは絶対他言しないと約束して、洗いざらい彼にしゃべらせてしまった。
ヴァシリーサ・エゴーロヴナは約束をちゃんとまもり、司祭の|かみさん《ヽヽヽヽ》以外にはだれにも一言ももらさなかった。司祭の家では、まだ草原に牝牛を放飼いにしていたので、暴徒たちに盗まれる心配があったからである。
間もなくプガチョーフについて、みんながしゃべりはじめた。噂はまちまちだった。司令官は下士を派遣して、近隣の村々や要塞のようすを逐一探索させた。下士は二日して帰ってきて、この要塞から約六十露里の草原にたくさんの火が見えたこと、得体の知れぬ軍勢がやって来つつあるということを、バシキール人たちから聞いたと報告した。しかし、彼は怖ろしさからつっこんだ探索をせずにもどったので、何ひとつ確実なことは報告できなかった。
要塞内のコザックたちの間には、異常な興奮がはっきりとあらわれてきた。彼らはいたるところの通りにたむろしては、互いにひそひそ話をかわし、竜騎兵《りゅうきへい》や守備兵を見るとすぐに散ってゆくのだった。彼らにはこっそり間諜《かんちょう》がつけられた。正教に改宗した〔分離派教徒からロシア国教に改宗した〕カルムイク人のユライが、重要な報告を司令官にもたらした。ユライの言うところによると、下士の報告はうそで、あのずるいコザツクは偵察から帰ってくると、自分の仲間には、おれは暴徒たちのところへ行った。その首領に自己紹介をして面会を許され、彼と長時間話し合ったのだといっていたと言うのである。司令官はさっそく下士を監禁して、ユライを彼のあと釜にすえた。この通告を受けると、コザックたちははっきりと不満を示した。彼らは大声で不平を鳴らし、司令官の命令代行者であるイヴァン・イグナーチイチは、彼らが「今に見てろよ、守備隊の鼠《ねずみ》め」といっているのを自分の耳で聞いてきた。司令官はその日のうちに囚人を訊問《じんもん》しようとしたが、下士はたぶん彼の一味の者が助けたのだろう、すでに脱走したあとだった。
そこへまた新事態が発生して、司令官の不安をつのらせた。煽動文《せんどうぶん》を持ったバシキール人が捕えられたのである。この機会に司令官はふたたび将校たちに召集をかけようと思い立ち、そのためにまたうまい口実をもうけて、ヴァシリーサ・エゴーロヴナを遠ざけようと思った。しかし、イヴァン・クージミチは真正直で、誠実な人間だったので、もう前に使った手以外には考え出せなかった。
「あのなあ、ヴァシリーサ・エゴーロヴナ」と彼はせきばらいしながら言った。「ゲラーシム司祭がもらったそう、だよ。なんでも町から……」
「うそはもうたくさんですよ。イヴァン・クージミチ」と司令官夫人がさえぎった。「わかってますよ。あなたは会議を開いて、私のいないところでエメリヤン・プガチョーフについて相談するつもりでしよう。もうだまされませんから」
イヴァン・クージミチは目をまるくした。
「それなら、母さんや」と彼は言った。「なにもかももう知ってるんなら、出かけなくてもいいよ。おまえの目の前で相談することにしよう」
「それそれ、そうでなくちゃあ、お父さん」と彼女は答えた。「ごまかすなんてだめですわ。さあ、将校さんたちを呼びにおやりなさいな」
私たちはふたたび集まった。イヴァン・クージミチは妻のいる前で、どうやら半文盲のコザックの書いたらしいプガチョーフの激文《げきぶん》を読みあげた。暴徒はただちに私たちの要塞に向けて進撃する旨公言していて、コザックや兵たちには自分の徒党へ参加を呼びかけ、さもなくば絞首刑に処すると威嚇《いかく》しながら、将校たちにも抵抗しないよう訓戒していた。激文は粗野ではあるが力強い表現で書かれてあり、単純な人間の頭には危険な感動を呼び起こしたにちがいない。
「なんという悪党でしよう」と司令官夫人が叫んだ。「このうえまだ私たちに命令しようってんですからね。お迎えに出て、あいつの足元に軍旗を置けですって。ああなんという人でなしでしよう。あいつらは知らないのかしらね、私どもがもう四十年も軍務についていて、おかげで何もかも見あきるほど見てきたってことを。そうやすやすと悪党の言うとおりになる司令官がいるとでも思ってるのかしら」
「そりゃ、いるはずないさ」とイヴァン・クージミチが答えた。「が悪党めはかなりの数の要塞を占領したそうだ」
「たしかに手強《てごわ》いやつらしいですな」とシヴァーブリンが口を出した。
「だがもうすぐやつの実力がわかるよ」と司令官が言った。「ヴァシリーサ・エゴーロヴナ、納屋の鍵をくれ。イヴァン・イグナーチイチ、あのバシキール人を連れて来てくれ。それからユライに鞭《むち》を持って来いとね」
「ちょっとお待ちになって、イヴァン・クージミチ」と席から立ちながら司令官夫人が言った。「家からどこかヘマーシャを連れ出しますわ。悲鳴を聞いたら、あの娘《こ》は震えあがりますわ。私にしたって、ほんとうのところ、拷問《ごうもん》は好きじゃありませんからね。じゃみなさん、ごゆっくり」
拷問は、昔の裁判の習慣のなかであまりに定着してしまったので、それを廃止する慈悲深い勅令〔一八〇一年、アレクサンドル一世が発布した拷問廃止令〕が出てからも、その習慣は長い間効力を持続しつづけた。犯人の自白というものが、犯罪の完全な立証の上で不可欠であると考えられていたわけだが――この考えは根拠がないのみならず、法律の常識とまったく反するものでさえある。なぜならば、もし被告の否認が無実の証拠として認められないとするならば、彼の自白は有罪の証拠としては、よりいっそう信憑性《しんぴょうせい》が薄くなるからである。今日でさえ、ときたまこの野蛮な習慣の廃止を残念がる老裁判官のことを耳にする。当時の私たちが若かった時代においては、裁判官も被告も拷問の不可欠性をうたがう者などひとりもいなかったのである。だから司令官の命令に私たちはだれも驚かなかったし、動揺もしなかった。イヴァン・イグナーチイチは、司令官夫人の持っている鍵で、納屋に閉じこめておいたバシキール人を連れ出しに行き、二、三分後に囚人は控室に連れてこられた。司令官は自分の面前に連れてくるよう命じた。
バシキール人はやっとのことで閾《しきい》をまたいだ〔足枷《あしかせ》をはめられていたため〕。そして、高い帽子をぬぐと、扉口で立ちどまった。私は彼を一目見るなり、思わずぞっとした。私はこの男を一生忘れることはできまい。年は七十歳ぐらいで、その顔には鼻も耳もなかったのである。頭はまる坊主に剃《そ》りあげられ、あごひげのかわりに白髪が二、三本突き出ていた。彼は痩《や》せた小男で腰がまがっていたが、細い両眼はまだ炎のようにぎらぎらしていた。
「あっ、このやろう」と、一七四一年に処罰した暴徒たちのうちのひとりだということを、そのおそろしい形相によって見てとると、司令官は言った。「きさまは前にもわしらの|わな《ヽヽ》にかかったことのある古狼《ふるおおかみ》にちがいないな。きさまの謀反《むほん》ははじめてじゃないな、のっべらぼうの頭をしてるところを見ると。もっとこっちへ来い。だれがお前をここへ送り込んだのだ。言ってみろ」
年老いたバシキール人は、黙りこくってまったくの無表情で司令官を見ていた。
「なぜ黙っているのだ」とイヴァン・クージミチはつづけた。「それともロシア語がチンプンカンプンなのかな。ユライ、君らの言葉でやつにきいてみろ。だれがやつをこの要塞にもぐりこませたのか」
ユライはタタール語でイヴァン・クージミチの質問をくり返した。しかし、バシキール人はやはり表情ひとつ変えないで彼を見つめ、ひと言もしゃべらなかった。
「ようし」と司令官は言った。「じゃおれのほうで言わせてやる。さあみんな、そいつのあほらしい縞《しま》の着物をひっぱがして、背中へぴしゃりとくらわせろ。いいか、ユライ。しっかりやれ」
ふたりの傷病兵がバシキール人を脱がせにかかった。哀れなこの男の顔に不安の色がうかんだ。彼は子どもたちに捕えられた小さな獣のように、あたりを見まわしていた。傷病兵のひとりが彼の両手をとって、それを自分の首にかけ彼を背負いあげ、ユライが鞭をとって振り上げると、バシキール人は弱々しい哀願するような声でうめきはじめたかと思うと、頭を振りながら口を開いた。そこには舌のかわりに短い木切れのようなものが動いていたのである。
これが私の生涯に起こったことであり、その私がアレクサンドル一世の平安な御世《みよ》までも、今もこうして生きていることを思い合わせるとき、文明の急速な進歩と博愛主義の普及とに驚かないではいられない。若者よ、もし私のこの手記が君の手に渡るようなことがあったら、最善の、そして最も堅固な改革は、いかなる暴力的な震撼もともなわない習俗の改革から生まれるものであることを銘記されたい。
みんな愕然《がくぜん》となった。
「うーん」と司令官は言った。「これじゃ何も聞き出せぬはずじゃわい。ユライ、バシキール人を納屋へ連れてゆけ。じゃ、諸君、われわれはとにかく相談しよう」
私たちが目下の状況について討議しはじめたとき、突然ヴアシリーサ・エゴーロヴナが息せききって、ひどく狼狽《ろうばい》して部屋にはいってきた。
「どうしたんだ、おまえ」と驚いて司令官がきいた。
「あなた、たいへんです」とヴァシリーサ・エゴーロヴナは答えた。「ニジネオジョールナヤ要塞が今陥落したそうです。ゲラーシム司祭の下男が、今そこから帰ってまいりましたの。陥落するところを見てきたんですって。司令官と将校はすべて絞り首、兵隊はみんな捕虜になったそうですわ。じきに悪党どもはここへもやって来ますよ」
思いもよらない報《しら》せに私はたいへんショックを受けた。ニジネオジョールナヤ要塞の司令官は、静かな、謙虚な青年で私はよく知っていた。今から二ヵ月ほど前に、オレンブルグから赴任の途次、若い妻といっしょにイヴァン・クージミチのところへ寄って、泊まっていったのだ。ニジネオジョールナヤは私たちの要塞から約二十五露里のところにあった。刻一刻と私たちはプガチョーフの襲来を待ち受けねばならなかった。マリヤ・イヴァーノヴナの運命が、ありありと脳裡《のうり》にうかびあがってきて、私の心臓は今にもとまりそうだった。
「申しあげます。イヴァン・クージミチ」と私は司令官に言った。「われわれの義務はこの要塞を死守することにあります。これは申すまでもありません。しかし、ご婦人がたの安全については考慮されなければなりません。もし道路がまだ安全でしたら、オレンブルグへ送られてはいかがでしよう。それとも遠く離れた、悪党どもがとてもやって来られそうにもない、もっと安全な要塞へ送られるか……」
イヴァン・クージミチは妻のほうへ向かってこう言った。
「どうだな、母さん。実際のところ、われわれが暴徒どもをやっつけるまでは、おまえたちにちょっと離れたところへ行っててもらおうかな」
「まあ、おろかなことを」と司令官夫人は言った。「鉄砲玉の飛んでこないような、そんな要塞がどこにありますか。なんでベロゴールスク要塞が安全じゃないの。おかげさまでここに二十二年も暮らしてきたんですよ。バシキール人だってキルギス人だって見てきましたわ。きっとプガチョーフからだってまもりおおせますわ」
「じゃあな、母さん」とイヴァン・クージミチがさえぎった。「おまえがわしらの要塞に太鼓判《たいこばん》をおすんなら、ここに残るのもいいだろう。だがマーシャのことはどうしたもんだろう。まもりおおせるなり、援軍が来るなりするまで持ちこたえりゃけっこうなんだが、万一要塞が悪党どもに占領されたら」
「さあ、そうなったら……」ヴァシリーサ・エゴーロヴナは口ごもって、はげしい動揺をかくし切れず黙ってしまった。
「いや、ヴァシリーサ・エゴーロヴナ」と司令官はおそらく彼の生涯ではじめて、自分の言ったことが効力を発したのに気づいてつづけた。「マーシャをここに残すのはよくないよ。あの娘はオレンブルグのあれの名付親のところへやることにしよう。あそこなら軍隊も大砲も十分だし、城壁も石だからな。それでわしは、おまえもあの娘といっしょに発《た》つほうがいいと思うのだ。お婆さんだからって、決して安心してはいられまい。考えてもごらん、万一要塞が敵の急襲にあって陥《お》ちでもしたら」
「よござんす」と司令官夫人は言った。「しかたがありません、マーシャはやることにしましょう。だけど私のことは夢にもそんなことおっしゃらないでください。私はまいりませんから。この年齢《とし》になって、あなたと離ればなれになって、見知らぬ土地でひとりぼっちの墓穴なんかさがす気にどうしてなれますか。生きるのもいっしょなら、死ぬのもいっしょですわ」
「そうだな」と司令官は言った。「じゃあぐずぐずしてる手はない。マーシャの出発の準備をしておやり。明日の夜明けに発たせることにしょう。護衛をひとりつけてやろう。ここには余分な人間はひとりもいないんだが。ところでマーシャはどこにいるんだ」
「アクリーナ・パンフィーロヴナのところですわ」と司令官夫人が答えた。「ニジネオジョールナヤが陥ちたことをきいて、気持が悪くなりましたの。病気になってくれなきゃいいけど。ああ神さま、なんてことになったんでしょう」
ヴァシリーサ・エゴーロヴナは、娘の出発のしたくをみてやるために出ていった。司令官をかこんで話はつづいていたが、私はもうその話には口出しもしなければ、何もきいてもいなかった。マリヤ・イヴァーノヴナは、青ざめて泣きはらした顔を夕食のときに見せた。私たちは黙りこくって食事をおえると、いつもより早く食卓を離れ、家族のみんなにあいさつし、それぞれ宿舎にもどった。しかし、私はわざと自分の軍刀を忘れ、それを取りにもどってきた。私はマリヤ・イヴァーノヴナとふたりっきりで会える予感がしていた。予感どおり彼女は扉口まで私を迎え、軍刀を渡してくれた。
「さようなら、ピョートル・アンドレーイチ」と彼女は涙ながらに言った。「私はオレンブルグへ遣《や》られますの。お元気でおしあわせにね。神さまのお導きでまたお会いできるかもしれませんわ。でももしだめでしたら……」ここまで言って彼女は泣き出してしまった。私は彼女を抱きしめた。
「さようなち、ぼくの天使」と私は言った。「ごきげんよう、ぼくの愛《いと》しい大切な人。ぼくの身にどんなことがあろうと、ぼくの最後の思い、最後の祈りは、あなたのことだと信じてください」
マーシャは私の胸に顔を埋めて咽《むせ》び泣いた。私は熱烈に彼女に接吻《くちづけ》すると、急いで部屋を出た。
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第七章 敵の進撃
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わしの頭よ、いとしい頭、
おれさまに忠勤はげんだこの頭、
まるまる三十三年間も。
自分の得にも、喜びにも、
心慰むことばにも、
高い身分や位にも
無縁でつとめたこの頭。
はげんだ褒美《ほうび》にもろうたものは、
高い二本の柱、
それに渡した楓《かえで》の横木、
もひとつ絹のくくり縄だけ。
……民謡
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その夜私は一睡もせず、着替えもしなかった。私は夜が明けたら、マリヤ・イヴァーノヴナがそこから発つにちがいない要塞の門のところまで行って、そこで彼女と最後の別れをしようと思った。私は自分が心機一転したのを感じていた。この興奮はつい最近まで陥っていたあの憂悶《ゆうもん》に較べれば、はるかに耐えやすかった。別離の悲嘆は私のなかで、漠然《ばくぜん》とした、しかし甘い希望や危険を待ちわびる気持、崇高《すうこう》な名誉心とまじり合っていた。夜は知らぬ間に明けていった。私がもう出かけようとしているところへ、部屋の扉が開き、伍長《ごちょう》が夜のうちにコザックたちが要塞を抜け出し、むりやりユライをさらっていったこと、要塞のまわりを正体不明の輩《やから》どもが馬を乗りまわしているということを報告に来た。マリヤ・イヴァーノヴナの脱出は、もはや不可能だという考えに、私はぞっとした。私はいそいで伍長に二、三指示を与えると、そのまま司令官宅へ走った。
もう明るくなりはじめた。往来を飛ぶように駆けてゆくと、私を呼ぶ声がした。私は立ちどまった。
「どこへ行かれるのですか」と私に追いつきながら、イヴァン・イグナーチイチが言った。「イヴァン・クージミチは堡塁《ほうるい》におられます。あなたを呼んでくるよう言われたのです。|大みみずく《ブガーチ》がやってきましたよ」
「マリヤ・イヴァーノヴナは発ちましたか」と私は心をおののかせながらきいた。
「出発できませんでした」とイヴァン・イグナーチイチは答えた。「オレンブルグへ行く道は断たれてしまいました。要塞はかこまれています。まずいことになりましたわい。ピョートル・アンドレーイチ」
私たちは堡塁へ出かけた。それは自然の盛土でできており、柵《さく》をめぐらしてあるだけだった。そこにはもう要塞じゅうの人々がみんな集まっていた。守備隊は銃を持って並んでいた。大砲は昨夜のうちにここへ曳《ひ》き出してあった。司令官は人数もまばらな隊列の前を歩きまわっていた。危険が間近に迫っているということが、老軍人に異常な勇気を吹き込んでいた。要塞からさほど遠くない草原《ステップ》に、二十人ほどの者が馬を乗りまわしている。彼らはコザックらしかったが、そのなかにはバシキール人もいる。山猫帽子《やまねこぼうし》や|えびら《ヽヽヽ》によってすぐに見分けがつく。司令官は全隊列を一巡しながら、兵士たちに言った。
「さあ、みんな、今日は国母陛下のために一歩たりとも退かず、われらが勇猛と忠誠を全世界に示してやろう」兵士たちは喊声《かんせい》をあげて熱誠を示した。シヴァーブリンは私のそばに立って、じっと敵のほうを見つめていた。草原を乗りまわしていた暴徒は、要塞の動きに気づくと、ひとかたまりになって相談をはじめた。司令官はイヴァン・イグナーチイチに、大砲の的をその一団に定めるように命じて、自分で火縄をつけた。砲弾はビューンと唸《うな》って彼らの頭上を飛んでゆき、何の損害も与えなかった。馬に乗った群はばらばらに散って、たちまちのうちに視界から没し、草原はしんとなった。
そこヘヴァシリーサ・エゴーロヴナが、かたときも彼女と離れたがらないマーシャといっしょに堡塁へ現われた。
「ねえ、どんなです」と司令官夫人が言った。「戦さのようすは。敵はどこにいますの」
「ついそこにいるよ」とイヴァン・クージミチが答えた。
「神さまが万事うまく導いてくださるよ。どうだ、マーシャ、こわいか」
「いいえ、お父さま」とマリヤ・イヴァーノヴナは答えた。「家でひとりっきりでいるほうがこわいわ」
そこで彼女は私のほうをちらと見て、むりに、ほほえんで見せた。私は前夜彼女の手から軍刀を受けとったことを思い出して、恋する人をまもりでもするように、思わず剣把《けんば》をぎゅっと握った。私の胸は燃えていた。私は自分が彼女の騎士になったような気がした。私は自分が彼女の信頼にふさわしい人間であることを示したくてたまらず、じりじりしながらいざという瞬間を待ち受けていた。
このとき、要塞から半露里ばかりの丘のかげから、新たな騎馬の一団が現われるや、たちまち草原は槍《やり》や弓矢で武装した大軍で埋まった。そのなかに白馬にまたがり、赤い長衣《カフタン》を着て、抜身のサーベルを片手にかざした男がいた。それがプガチョーフその人だった。彼が馬をとめると、部下が彼をとりかこんだ。あきらかに彼の命令によって、四人の男が集団から離れ、まっしぐらに要塞の下まで乗りつけて来た。そのなかにここから脱出した裏切者がいた。そのうちのひとりが帽子の上に一枚の紙を掲げていた。もうひとりは槍先にユライの首を突きさしていたが、それを柵越しにわれわれに向かってぽいとほうり投げてよこした。哀れなカルムイク人の首は、司令官の足元へ落ちた。裏切者たちが口々に叫んだ。
「射つな、陛下の御前へ出て来なさい。陛下のおなりです」
「なにをぬかす」とイヴァン・クージミチが叫んだ。「みんな、射て」兵士たちがいっせいに射撃した。手紙をかざしていたコザックは、よろよろとなって馬から落ちた。残りのやつらは後へ逃げ帰った。私はマリヤ・イヴァーノヴナをふりかえった。血まみれのユライの首を見せつけられて気が転倒し、いっせい射撃に耳をつんざかれた彼女は、まるで正気の人のようではなかった。司令官は伍長を呼び、倒れているコザックの手から紙切れを取ってくるよう彼に命じた。伍長は野原へ出てゆき、倒れた男の馬の|くつわ《ヽヽヽ》をひきながらもどってきた。彼は司令官に手紙を手渡した。イヴァン・クージミチはひとりでそれを読むと、ズタズタに引きさいた。一方、暴徒のほうはもう疑うべくもなく実戦態勢にはいっていた。やがて弾丸が私たちの耳元で唸りはじめ、数本の矢がそばの地面や柵に突きささった。
「ヴァシリーサ・エゴーロヴナ」と司令官が言った。「ここは女子どもの出る幕じゃない。マーシャを連れてゆきなさい。ほら、この娘《こ》は生きた心地もないじゃないか」
弾丸の下ですっかり|しゅん《ヽヽヽ》となってしまったヴァシリーサ・エゴーロヴナは、どう見ても、大動乱となっている草原にきっと目をやりながら、彼に言った。
「イヴァン・クージミチ、死ぬも生きるも神さまのみ心のままですわ。マーシャを祝福してやってくださいまし。マーシャ、お父さまのところへお行きなさい」
マーシャは青ざめてふるえながらイヴァン・クージミチの許へ行き、ひざまずいて地面につくほど頭を垂れた。老司令官は娘に三度十字を切った。それから起《た》ち上がらせて接吻すると、あらたまった口調で言った。
「さあ、マーシャ。幸せにお暮らし。神さまにお祈りしなさい。けっしておまえを見殺しにはなさらないからな。もしいい人が見つかったら、どうか神さまのご恩寵《おんちょう》とご助言がありますように。わしがヴァシリーサ・エゴーロヴナと暮らしたようにお暮らし。じゃ、達者でなマーシャ。ヴァシリーサ・エゴーロヴナ、この娘を早くつれてっておくれ」
マーシャは父の頸《くび》にとりすがって泣き出した。
「私たちもお別れの接吻をしましよう」と司令官夫人が泣ぎ出しながら言った。「ごきげんよう、イヴァン・クージミチ、今まで何か私のことでお気にさわったことがあったら、どうぞ許してくださいまし」
「ごきげんよう。達者でな、母さん」と老妻をかき抱きながら司令官が言った。「さあ、もういい、お帰り。家へお帰り。もしできたらマーシャにサラファン〔そでなしのワンピース、ロシア夫人の晴れ着で、死装束にもなる〕を着せておやり」
司令官夫人は娘をつれて去っていった。私はマリヤ・イヴァーノヴナのあとを目で追っていた。彼女はふり返って私にうなずいて見せた。そこでイヴァン・クージミチは私たちのほうへ向いた。今や彼の全注意力は敵に集中された。暴徒どもは首領のまわりに集まっていたが、急に馬からおりはじめた。
「さあ、しっかり踏んばれよ」と司令官が言った。「進撃してくるぞ……」という間もなく凄《すさ》まじい喊声が響きわたった。暴徒の群れが要塞めがけて突進してきたのだ。味方の砲には霰弾がこめられていた。司令官は敵どもをできるだけ近くに引き寄せておいて、あっという間にまた発射した。霰弾は群れのどまんなかに落下した。暴徒はたちまち両脇へ散って後退しはじめた。首領はひとり前方に踏みとどまった。彼はサーベルを振り上げた。必死になって彼らを叱咤《しった》激励している様子だった。一刻静まっていた喊声が、すぐさま勢いづいてとどろきわたった。
「さあ、みんな」と司令官が言った。「今度は門を開け、太鼓を打て。みんな前へ進め。出撃、わしにつづけ」
司令官、イヴァン・イグナーチイチと私は瞬時にして堡塁の外へおどり出たが、おじ気づいた守備兵たちはその場に立ちすくんでしまって、動かなかった。
「どうした、きさまら。なぜ進まんのか」とイヴァン・クージミチは叫んだ。「死ぬんだ、死ぬんだぞ。ご奉公だ」
この瞬間、暴徒たちは私たちに襲いかかり、要塞内になだれこんだ。太鼓はやみ、守備隊は銃を投げ出した。私は突きとばされたが起《た》ち上がって、暴徒たちにまじって要塞内に駆けもどった。頭に負傷した司令官は、逆賊の一団にとりかこまれて降伏を強要されていた。私は彼を助けに飛び出そうとしたが、たちまち頑丈な数人のコザックにつかまえられ、「陛下に手むかうやつは、これこのとおりだ」と言うや革帯で私をしばりあげてしまった。
私たちは往来を引きまわされた。住民たちは手に手にパンと塩を持って〔皇帝、貴人を迎えるときの恭順、歓迎のしるし〕家から出てきた。鐘の音が鳴りひびいていた。突然、群集のなかから、陛下が広場で捕虜を待っておられる、そして宣誓も受けておられるという叫び声が起こった。民衆はどっと広場へ押し寄せ、私たちもそこへ追いたてられた。
プガチョーフは司令官邸の上り段のところで、肘掛椅子にかけていた。彼は金モールの縁飾りのついた真紅《しんく》の長衣《カフタン》をまとっていた。金房のさがった高い黒貂《くろてん》の帽子を目深にかぶっているが、その下から両眼がぎらついていた。私はどこかで見たような顔だと思った。コザックの隊長連が彼をとりかこんでいた。ゲラーシム司祭がまっさおな顔をしてふるえながら、十字架を手にして上り段の脇に立ち、やがてくる犠牲者のために、心の中で命乞いをしているように見えた。広場には急ごしらえの絞首台が立てられた。私たちが近づくと、バシキール人たちが群集をはらいのけ、私たちをプガチョーフの面前へ引き出した。鐘の音は止み、深い静けさがたちこめた。
「司令官はどれだ」と僭称者《せんしょうしゃ》がきいた。あの脱走した下士官が、群集をかきわけて進み出て、イヴァン・クージミチをさした。プガチョーフは凄《すさ》まじい形相で老人を睨みつけて言った。
「よくもよくもおまえは、おまえたちの陛下のこのわしに手むかいしたな」
司令官は負傷で弱り果てながらも、最後の力をふりしぼって、しっかりした声でこう言った。
「おまえはわしの陛下ではない。おまえはただの泥棒で、僭称者だ。どうだ」
プガチョーフは陰険なしかめ面になり、白いハンカチを振った。コザックが三、四人で老司令官を押えて、絞首台のほうへ引いていった。見るとその横木の上には、昨夜私たちが取り調べたあの片輪のバシキール人が馬乗りになっていた。彼は片手に綱を握っており、一分の後には、宙づりになった気の毒なイヴァン・クージミチの姿が、そこにあった。つづいてイヴァン・イグナーチイチが、プガチョーフのところへ連れて来られた。
「宣誓せい」とプガチョーフが彼に言った。「ピョートル・フヨードロヴィチ皇帝ぞ」
「おまえがわしらの皇帝なものか」と自分の司令官の言葉をくり返しながら、イヴァン・イグナーチイチが答えた。
「おまえなんか、おっさんよ、泥棒の|かたり《ヽヽヽ》だ」
プガチョーフはふたたびハンカチを振り、人のよい中尉は老いた自分の長官のかたわらにつるされた。
今度は私の番だった。私はあっぱれなわが同僚の返答をくり返してやる覚悟で、堂々とプガチョーフを見すえてやった。と、そのとき、筆舌につくせぬほど驚いた。兇徒《きょうと》たちの隊長連の間に頭を丸く刈りあげ、コザックの長衣《カフタン》を着たシヴァーブリンを見たのである。彼はプガチョーフのそばへ行くと、ふたことみことその耳元でささやいた。
「やつもくびってしまえ」と私のほうへは目もくれないで、プガチョーフが言った。
私の頸に輪縄がかけられた。私は心でお祈りをとなえ、神に対して私のあらゆる罪科《とが》に心からの懺悔《ざんげ》をし、身近な人々すべての救いを祈った。私は絞首台の下へひかれていった。
「こわがることはない。こわがることはないぞ」と執行人たちが私にくり返した。ほんとうに、私を元気づけようとしてのことだったのかもしれない。と突如私は叫び声を聞いた。
「待ってくれ、罰あたりめらが。待ってくれ」執行人どもはふみとどまった。見ればサヴェーリイチが、プガチョーフの足元に身を投げ出しているではないか。
「親父さま」じいやが口説《くど》いていた。「貴族の子息ひとり殺したとてなんになります。放してやってくださいましよ。その代わり身代金を出します。見せしめや威《おど》しのためなら、この年寄りのわしをつるしてくだされ」
プガチョーフは合図した。私はすぐに縄をとかれて放された。
「陛下がおまえにお慈悲をかけてくださったぞ」と近くにいた男が言った。
この瞬間、私は自分が助かったことを喜んだともいいきれないし、とは言ってもそれを残念だったともいえない。私の感情はひどく混乱していた。私はあらためて僭称者の前へつれ出され、その前にひざまずかされた。プガチョーフはその節くれだった手を、私にさしのべた。
「接吻するんだ。お手に、接吻するんだ」とまわりの者たちが言っていた。
しかし、私はこんな卑劣な屈辱を受けるくらいなら、どんな残忍な極刑も甘んじて受けようと決心した。
「若さま、ピョートル・アンドレーイチ」とサヴェーリイチが私の後に立って、私を突っつきながらささやいた。
「強情はらないで。なんだってんです。ペッと唾かけて、その悪《あく》〔しっ!〕、この人の手に接吻してやんなさいまし」
私は微動だにしなかった。プガチョーフは手をおろすと、冷笑をうかべてこう言った。
「この若殿はうれしくて頭がおかしくなったらしい。起こしてやれ」
私は起こされ、放免された。私はおそろしい喜劇のつづぎをふたたび眺めはじめた。
住民たちの宣誓がはじまった。彼らは順々に進み出て磔刑《たっけい》像に接吻し、そのあとで僭称者に最敬礼をした。守備隊の兵士たちもそこに立っていた。中隊の裁縫士が切れ味のよくない鋏《はさみ》で兵士の辮髪を切っていた。彼らは毛をふるい落としながらプガチョーフの手に接吻するために近づき、プガチョーフは彼らの赦免を宣言して、自分の徒党への参加を許してやるのである。このような光景が三時間近くもつづいた。やがてプガチョーフは椅子から起ち上がり、隊長たちを従えて階段をおりた。豪奢《ごうしゃ》な馬具で飾られた白馬がひかれてきた。ふたりのコザックが彼をかつぎあげて鞍の上に乗せた。彼は昼飯はおまえのところですると、ゲラーシム司祭に告げた。このときである。女の叫びが響きわたった。何人かの暴徒が、髪をふり乱し、着物を脱がされ、まるはだかにされたヴァシリーサ・エゴーロヴナを、上り段の上にしょっぴいてきたのである。そのうちのひとりは、もうちゃっかり彼女の綿入れ胴着を着込んでいた。他の連中も羽根布団だの、櫃《ひつ》だの、茶器だの、肌着などあらゆる家財道具を引っぱり出してきていた。
「ああ、みなさん」あわれな婦人は叫んだ。「私に懺悔《ざんげ》の暇だけはくださいまし。どうかみなさん、私をイヴァン・クージミチのところへ連れてってください」言いおわってふと彼女は絞首台に目をやり、そこに夫の姿を認めた。
「悪党めが……」と彼女は気が狂ったように叫んだ。「あの人になんてことしたの。ああ、いとしいイヴァン・クージミチ。あなたは軍人の鑑《かがみ》でした。プロシャ軍の銃剣も、トルコ軍の弾丸もみんなあなたをよけて通りました。なのにあなたは名誉の戦死でならいざ知らず、こともあろうにこんな脱獄犯の手にかかるなんて」
「あの鬼婆《おにばば》を黙らせろ」とプガチョーフは言った。
とっさに若いコザックが彼女の頭に剣を一振りすると、彼女は死骸となって上り段の上に倒れた。馬に鞭《むち》をあててプガチョーフは去った。民衆はそのあとを追っていった。
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第八章 招かぬ客
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招かぬ客はタタール人より始末が悪い。
……諺
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広場はからっぽになった。私は依然として同じ場所にたたずんだまま、あまりにおそろしい印象に混乱していて支離滅裂の状態にあった。
マリヤ・イヴァーノヴナの運命のわからぬことが、なによりも私を苦しめた。彼女はどこにいるのだろう。どうなったろう。うまくかくれおおせたか、かくれ家は安全だろうか……不安な思いでいっぱいになり、私は司令官の家へはいった。なかはがらんどうになっていた。椅子も机もトランクの類も完全に破壊され、どの食器も打ち砕かれ、そのほか目ぼしいものはみなかすめとられていた。私は奥の小部屋へつうじる小さな階段をのぼってゆき、はじめてマリヤ・イヴァーノヴナの部屋にはいっていった。私は暴徒によってかきまわされた彼女の寝床を見た。衣裳戸棚はこわされ、なかのものは略奪されていた。燈明だけはまだからになった聖像箱の前に灯《とも》っていた。窓と窓の間の壁にかかっていた小さな鏡はそのまま残っていた……それにしても、いったいこのつつましい乙女の部屋の住人はどこへ行ってしまったのだろう。おそろしい思いが私の脳裡《のうり》をかすめた。私は暴徒どもに手ごめにされた彼女を想像した、…心臓がキューッとしめつけられた……私は慟哭《どうこく》の涙にむせび、大声で愛する人の名を呼んだ……そのときかすかな物音がして戸棚のかげから、パラーシャがまっさおな顔で、ふるえながら出てきた。
「ああ、ピョートル・アンドレーイチ」と彼女は両手を打ち合わせて言った。「なんという悪い日でしよう。なんというおそろしい日でしよう」
「で、マリヤ・イヴァーノヴナは」と私はじりじりしながらきいた。「マリヤ・イヴブーノヴナはどうした」
「お嬢さまはご無事です」とパラーシャが答えた。「アクリーナ・パンフィーロヴナさまのところに潜んでいらっしゃいます」
「司祭のところにか」と私はおそろしさのあまり叫んだ。「ああ一大事だ。あそこにはプガチョーフが行ったんだ」
私は部屋から飛び出すと一目散に通りへ出て、あとはもう無我夢中で司祭の家へ駆けつけた。家のなかには歓声や哄笑《こうしょう》や歌声が響きわたっていた……。プガチョーフは仲間どもと酒宴をくりひろげていた。パラーシャも私のあとから駆けつけてきた。私はこっそりアクリーナ・パンフィーロヴナを呼び出すように、彼女を忍びこませた。すぐに司祭の妻はからっぽの酒びんを両手にかかえて、私のいる玄関に出てきた。
「お願いです。マリヤ・イヴァーノヴナはどこです」と私はなんともいえない不安にかられながらたずねた。
「あの娘《こ》は寝こんでますわ、あの仕切りの向こうの私の寝台で」と司祭の妻は答えた。「でも、ピョートル・アンドレーイチ、もうちょっとでとんだことになるところでしたわ。まあ、いいあんばいに何事もなくすみましたけど。あの人でなしが食卓に腰をおろしたとたんに、かわいそうなあの娘《こ》がちょうど気がついて呻《うめ》きはじめたんですよ。私はもう生きた心地もありませんでしたわ。あの男がききつけましてね、『だれだね、あの唸《うな》ってるのは。婆さん』ってきくじゃありませんか。私は泥棒の帯のあたりまでも平身低頭して言ったんですよ。『私の姪《めい》でございます、陛下。病気になってしまってもう二週間も寝たきりなんでございます』『で、おまえの姪ってのは若いのかね』『若うございます。陛下』『じゃ、ちょっくら見せてくれ、婆さん。おまえたちの姪っ娘《こ》を』私はほんとうに胸がどきんとしたけれど、どうしようもありませんわ、『どうぞ、陛下。ただあの娘はとても起き上がって御前へ出ることはかないませんわ』『かまわんよ、婆さん。おれのほうで見にゆくよ』とそう言いましてね、あの人でなしめが仕切りの向こうへはいっていったじゃありませんか。そしてあなた、どうでしょう。寝台のカーテンを持ち上げて、あの大鷹《おおたか》のような目でのぞきこんだのですよ――でも何事もありませんでしたわ。神さまのお助けがあったのですわ。ほんとうの話、私も主人もまさかのときには身代りになって死ぬ覚悟をしてたんですの。しあわせなことに、あの娘《こ》はあの男の顔がわかりませんでしたの。ああ神さま、なんてことになったんでしょうね。いくら嘆いてもしようのないことでしょうけど。お気の毒なイヴァン・クージミチ。あんなことにおなりになるなんて……。それにヴァシリーサ・エゴーロヴナだってねえ。それからあのイヴァン・イグナーチイチ……いったいあの人が何をしたっていうんでしよう。あなたはどうして許してくれましたの。それにしてもあのシヴァーブリン、アレクセイ・イヴァーノヴィチったらなんて人でしようね。あんなに頭を丸く刈りあげて、いま家であいつらといっしょに酒盛りしてるんですよ。抜け目がないっていうのか、あきれかえって物も言えませんよ。あの男ときたら、私が姪が病気で……って言いだしたとたん、まるでナイフでえぐるみたいにぎょろりと私をにらみましたのよ。でもまあ、ばらしたりはしませんでしたわ。そのことでは感謝してますけど……」
そのとき、客たちの酔いどれた喚《わめ》き声とゲラーシム司祭の声がきこえてきた。客が酒を要求したので、主人が妻を呼んだのである。司祭の妻はあわてだした。
「早くお家へお帰んなさいな。ピョートル・アンドレーイチ」と彼女は言った。「悪いけどもうあなたのお相手をしてられないわ。悪党どもが酒盛りの最中ですからね。あののんだくれの手にかかった日には、それこそもうお手上げですよ。さようなら、ピョートル・アンドレーイチ。なるようにしかなりませんわ。きっと神さまが助けてくださいますよ」
司祭の妻は家のなかへはいっていった。いくらか安心したので、私は宿舎へ帰ることにした。広場のそばを通り抜けるとき、何人かのバシキール人を見かけた。彼らは絞首台のまわりにかたまって、ぶらさがっている死体から長靴を抜きとりにかかっていた。私は怒りがこみあげてきたが、何を言ったところで今はどうしようもないと思いなおして、やっとのことで我慢した。要塞内は強盗《ごうとう》が横行して、片っぱしから将校の家を荒らしていた。至るところで、ぐでんぐでんに酔っぱらった暴徒たちの喚き声がきこえていた。私は宿舎に着いた。サヴェーリイチがあがりはなで私を待っていた。
「ああ、ありがたい」と彼は私を見るなり叫んだ。「私はおまえさまがまたあの悪党どもにとっつかまってしまわれたんじゃないかと、気がもめて、気がもめて……まあ若さま、ピョートル・アンドレーイチ、どうでしょう、家のものはみんなきれいさっぱり、かっさらわれてしまいましたよ。あの|かたり《ヽヽヽ》やろうどもに。着物も下着も道具も皿小鉢までも、――なんにも残しちゃいませんや。でもまあそれがどうしたというんです、ありがたいことにゃ、あなたさまがご無事でお帰りになった。ところで若さま、あの頭目にお気づきじゃなかったですか」
「いや、なにも気づかなかったよ。やつがいったいだれだというんだい」
「これは、驚きました。おまえさまはあののんだくれをもうお忘れですか。あの宿屋でおまえさまから皮チョッキをちょろまかした……兎の皮チョッキはまったくの|さら《ヽヽ》だったのに、あん畜生めがむりして着込んで、ほころばしおった」
私は驚いた。なるほどいわれてみれば、プガチョーフとあのときの道案内はじつによく似ていた。私はプガチョーフと彼が同一人物であるとさとった。そしてはじめて、私が許された理由がのみこめた。私はふしぎな事態の連結にびっくりしないではいられなかった。一浮浪人にくれてやった少年時代の皮チヨツキが、私を縛り首から救い、田舎の安宿を渡り歩いていたのんだくれが、要塞を片っぱしから攻略して、国家を震撼《しんかん》させているのだから。
「何か召しあがりませんか」といつもの伝でサヴェーリイチがきいた。「家には何もありませんけど、ちょっと出て何か見つけてきましよう。何かこしらえますよ」
ひとりになると私は物思いに沈んだ。私はどうしたらよいのか。暴徒が占領した要塞にとどまっていることや、その一味になりさがることは将校にあるまじきことである。義務感は私に艱難辛苦《かんなんしんく》のときにこそ、私の勤務が国家に役立ちうるような、そんな場所へ赴くことを求めてやまないのだ……。しかし、恋心は私にマリヤ・イヴァーノヴナのそばにとどまって、彼女の守護者とも、庇護《ひご》者ともなるべしと強くすすめるのだった。私はこの情勢が近いうちにまちがいなく一変することを予想していたものの、彼女の身辺の危険を思うと、やはり心の動揺を禁じえないのだった。
私の物思いはコザックがひとりはいってきて中断された。彼は「大帝陛下がお召しであります」と告げるために、駆けつけてきたのである。
「どこだね」と私は行くつもりになってきいた。
「司令官宅です」とコザックが答えた。「食事をおえられまして、陛下はお風呂に出かけられましたが、ただ今はご休息中であります。いや将校殿、あのおかたが高貴の出であられることは、何からでもわかります。食事のとき白豚の丸焼きを二頭もめしあがりましたし、それからえらく熱い蒸風呂にはいられました。あんまり熱いのでタラス・クローチキンも耐えられなくなって、三助役《さんすけやく》をフォームカ・ビクバーエフにかわってもらい、冷たい水をかぶってやっと息をついたほどです。言うまでもないことですが、なさることがすべて堂にいってるんですな。またお風呂では胸にあるお印をお見せになったそうです。片側には五カペイカ銅貨ほどの双頭の鷲《わし》が、もう片っぽうにはご自身のお顔がついてたそうですよ」
私はコザックの言っていることに反駁してみてもはじまらないと思い、そのままいっしょに司令官の家へ向かった。道すがら、私はプガチョーフとの会見をあらかじめ想像し、どんな結末になるだろうかと予想をたててみようとした。読者は私がすくなからず冷静さを欠いていたことを、容易にお察しくださるだろう。
私が司令官の家に着いたころには、もうたそがれだしていた。絞首台はそのいけにえをぶらさげたまま、不気味に黒ずんでいた。気の毒な司令官夫人の死体は、まだ上り段の下に転がしたままだった。そこにはふたりのコザックが衛兵に立っていた。私を案内したコザックは私のことを取次ぎに行ったが、すぐ戻ってきて、昨夜私がマリヤ・イヴァーノヴナと優しい別れの言葉をかわしたあの部屋に私を案内した。
異様な光景を私はまのあたりにした。卓布のかかったテーブルには、酒びんやコップが並んでおり、プガチョーフと、帽子をかぶり柄物のルバーシカを着た十人ばかりのコザックの隊長連が、酒でかっかと上気したまっ赤な顔面に目をぎらつかせてすわっていた。そこにはシヴァーブリンも、例の下士も、新参の裏切者も姿を見せていない。
「やあ、若殿」と私を見かけるとプガチョーフが言った。「ようこそお成りだ。まずはおかけくだされ」一座の者たちが席をつめてくれた。私は黙ったままテーブルの端に腰をおろした。私の隣りはすらっとしてなかなか美男の若いコザックで、私にウオッカをついでくれたが、私は手もふれなかった。私は好奇心にかられてこの一座を観察しはじめた。プガチョーフは上座を占め、テーブルに両肘《りょうひじ》をついてまつ黒なあごひげを大きな拳《こぶし》に乗せていた。その顔立ちは端正であり、けっこう好感が持ててそのどこにも兇暴な影は見えなかった。彼はしょっちゅう、伯爵と呼んだり、チモフェーイチと呼んだり、ときには伯父《おじ》さんなどと敬意を表しながら、そばの五十がらみの男に話しかけていた。一同は互いに仲間づきあいで、首領にたいしても特別扱いするようすは全然なかった。話題は今朝の進撃のことや、反乱の成功、今後の行動についてであった。各自が自分のことを自慢し意見をのべ、何のきがねもなしにプガチョーフに反駁していた。そして、この奇妙な軍事会議で、オレンブルグ進撃が決議された。これはずいぶん人を喰った行動であるが、しかもそれが、われわれにとっては悲惨な事態になったであろう成功を、すんでのことで収めるところであった。進撃は明日ということにきまった。
「さあ、兄弟たち」とプガチョーフが言った。「寝しなにひとつ、あのおれの好きな唄《うた》を歌おうじゃないか。チュマーコフ〔ヤイーク・コザック。プガチョーフの寵臣、砲兵隊長。プガチョーフは彼の裏切りでとらえられる〕はじめてくれ」
私の隣席にいた大男が、高い声で哀調をおびた曳船唄を歌い出し、みんなもそれについて唱和した。
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しずまれ、母なる緑のかしの森よ、
みだすな、好漢の若者、おいらがおもう思いを、
あしたは、好漢の若者、おいらが取調べに出る日よ。
おそろしい裁判官たる帝の前へ
帝はおいらにおたずねになろう。
やい、申せ、申してみろ。百姓の小せがれよ、
おまえの夜盗、追剥ぎ仲間は誰々じゃ、
仲間は他にも大勢いたのか。
申し上げます、正教の帝よ、
まことのことを包みかくさず。
おいらの仲間は全部で四人。
第一番目は夜の闇、
第二番目は鋼《はがね》の小柄《こづか》、
第三番目は愛《いと》しの馬《あお》よ、
第四番目は張った弓、
こいつの使いが鋼《はがね》の矢。
正教の帝のおおせには、
あっばれじゃ、百姓の小せがれ。
たいした肝っ玉、よくも盗んだ、よくぞ答えた。
おまえに褒美《ほうび》をとらせるぞ。
野っ原の高殿に、
横木渡した二本の門柱。
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いずれは絞首台にのぼる運命にある者たちが、悠揚《ゆうよう》迫らぬ節まわしで歌うこの絞首台の俗謡が、私の胸にどんなにしみいったか、今ここで述べることは不可能である。彼らのものすごい顔つき、調子のそろった歌声、ただでさえ腹にしみわたる文句の一語一語に、彼らがつけた沈鬱《ちんうつ》な節まわし――このすべてが一種霊的な恐怖となって私の心をふるわせたのである。
客たちは最後に一杯ずつのみほしてテーブルを立ち、プガチョーフに別れを告げた。私も彼らに従おうと思ったが、プガチョーフが私に言った。
「そのままで。君と話したいんだよ」
私たちは差向かいになった。
しばらくはふたりとも黙ったままだった。プガチョーフはじっと私を見つめていたが、その間にもときおり狡猾《こうかつ》な冷笑をうかべて左目を細め、私をはっとさせるのだった。ついに彼は笑い出してしまったが、それがあまりに心底からの陽気なものだったので、私も彼を見ているうちにつりこまれて笑ってしまった。
「どうだね、若殿」と彼は私に言った。「正直いって、おれの若いやつらが君の首に縄をかけたときには、怖《お》じ気づいただろう。いやもうきっと、こわくてこわくて目がくらくらしたにちがいないて。あの君の従僕がいなかったら、君も横木にぶらさがるところだったぜ。おれは一目であのじいさんがわかったからな。で、どうだね、若殿、君を草宿《ウミヨート》へ案内した男が大帝陛下ご自身だったとは、夢にも思わなかっただろう〔と、ここで、彼はもったいぶって、あたりをはらうような格好をした〕。君はおれに対して大罪を犯したことになるんだぞ」と彼はつづけた。「しかし、おれは君のその人間のよさに免じて許してやったんだ。なにしろ、君はおれが敵から身をかくしてなきゃならないとき、親切にしてくれたからなあ。まあ見ててくれ。今におれが自分の帝国をものにしたときには、君にはもっとお返しをするつもりだ。どうだい、おれに忠誠を誓うかね」
この|かたり《ヽヽヽ》の質問と図太さが、あまり滑稽だったので私はつい笑い出してしまった。
「何がおかしいんだ」と彼はふきげんになってきいた。「それとも君は信じないのかね、わしが皇帝だということを。はっきり言いたまえ」
私ははたと困惑した。一浮浪人を皇帝だと認めることは、もとより私にはできなかった。これは許すべからざる卑劣だと思った。だからと言って、目の前で|かたり《ヽヽヽ》よばわりするのは、みすみすわが身をほろぼすようなものだった。公衆の面前で絞首台の下に立ったとき、最初の憤怒の発作にかられて言わんとしたことは、今となってはなんにもならない空威張《からいば》りとしか思えなくなった。進退きわまった。プガチョーフは暗い顔をして私の返事を待っていた。ついに〔私は今でもこの瞬間を思い出すたびに、自己満足をおぼえるのだが〕、義務の観念が、私のなかの人間的弱さに打ちかった。私はプガチョーフに答えた。
「じゃ聞いてくれたまえ。あんたに本心を言うことにする。ぼくがあんたを皇帝だと思えるかどうか、あんたに判断してもらいたい。あんたは利口な人なんだから。ぼくがその場をごまかすようなことを言ったって、すぐ見抜くだろう」
「じゃ君の見るところでは、わしはいったい何者だね」
「それは知らない。しかし、あんたが何者であろうと、危ない猿芝居を打ってることだけはたしかだ」
プガチョーフはちらと私を見かえした。
「つまり、君は信じないってわけだ。このわしがピョートル・フョードロヴィチ皇帝〔フリードリヒ大王のこと。一七四〇〜八六年まで在位〕だということを。じゃ、よい。だが大胆な者が成功しないわけがない。昔グリーンカ・オートレピェフ〔偽ドミトリ一世のこと〕が帝位についたではないか。わしのことをどう思おうと君の勝手だ。が、わしのそばからは離れるなよな。他人の思惑なんか気にかけるなよ。人間にさしたる変わりはないじゃないか。わしに忠誠を誓いさえすりゃ、わしは君を元帥にも公爵にも取り立てようぜ。どうだい」
「だめだ」と私はきっぱりと言った。「ぼくは生まれながらの貴族だ。ぼくは女帝陛下に宣誓した身だ。あんたにつかえるわけにはゆかない。もしあんたがほんとうにぼくによくしてくれるつもりなら、ぼくをオレンブルグへ行かせてくれたまえ」
プガチョーフは考えこんだ。
「で、放免してやるとしてだよ、すくなくともわしに敵対行為だけはしないと約束できるかね」
「どうしてそんな約束ができますか」と私は答えた。「ぼくの勝手にはゆかぬことぐらい、あんたにはわかるでしょう。あんたにむかって行けと命ぜられれば、ぼくはむかって行く、しかたないだろう。あんたは現に最高司令官だ。そして部下の服従を求めている。もしぼくが勤務を求められて、それを拒んだならいったいどういうことになるだろう。ぼくの首はあんたの手中にある。放してもらえれば、ありがたいと思う。死刑にするなら、神さまがあんたをお裁きになるだろう。さあ、これがぼくの本心です」
私の真実がプガチョーフの心を打った。
「じゃ、まあ」と彼は私の肩を叩きながら言った。「死刑にするときは死刑にする。ゆるすときはゆるす。どこへなりと君の好きなところへ行って、好きなことをするがいい。明日、さようならをしにわしのところへくるとして、今はもう帰って寝てくれ。わしももう眠くなってきた」
私はプガチョーフを残して往来へ出た。夜は静かに凍りついていた。月と星が明るく輝いて広場と絞首台を照らしていた。要塞内はすみずみまでひっそりとして暗かった。ただ居酒屋の灯だけはあかあかとともって、居すわりをきめこんだ酔いどれどもの喚き声がきこえていた。私は司祭の家を見た。よろい戸も門も閉っていた。家のなかはみんな寝しずまっているように見えた。
宿舎へ帰ってみると、サヴェーリイチが私のいなくなったことに胸をふさいでいた。私が放免されたことを知ると、こおどりして喜んでくれた。
「神さま、ありがとうございます」と彼は十字を切りながら言った。「夜が明けたら、要塞を出て目のむくほうに出発しましよう。みつくろって食事の用意をしておきましたから、めしあがりなさいませ、若さま。それから朝までぐっすりお寝《やす》みなされ、キリストさまのお胸に抱かれた気持で」
私は彼のすすめに従って、大いに食欲をだして夕食を食べおわると、身も心もくたくたになって、じかに床の上で寝入ってしまった。
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第九章 別れ
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美しい人よ
あなたと過ごしたひとときは
甘くたのしかった。
別れがつらい、とてもとても。
ああ、魂との別れのように。
……ヘラスコーフ
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朝早く私は太鼓《たいこ》の音で目が覚めた。私は集会の場所へ出かけた。そこにはもうプガチョーフの軍隊が、まだ昨日のいけにえをぶらさげたままの絞首台のそばで整列している。コザックたちは馬に乗り、兵士たちは銃をかついでいる。隊伍のあちこちに旗がひるがえっている。数門の大砲、そのなかには私たちのもあるが、行軍用の砲架にのせてある。住民たちは総出で僭称者を待ちうけている。司令官の家の入口には、ひとりのコザックがキルギス産の見事な白馬の|くつわ《ヽヽヽ》を押えている。私は司令官夫人の遺体はどうなったかと目を走らせた。それはいくらか脇のほうへ片寄せられてむしろがかぶせられていた。ようやくプガチョーフが玄関口へ姿をみせた。住民たちは脱帽した。プガチョーフは段上で足をとめ、あいさつにこたえた。隊長のひとりが銅銭のはいった袋をわたすと、彼はそれを手ですくってはばらまきはじめた。群衆はわっと押し寄せて拾いはじめ、怪我人さえ出る始末だった。プガチョーフは一味の隊長たちに取り巻かれていた。彼らのなかにシヴァーブリンも立っていた。私たちの目が合った。彼は私のまなざしに軽蔑の色を見てとると、心の底からの憎悪とわざとらしい冷笑をうかべて顔をそむけてしまった。プガチョーフは群衆のなかに私の姿を見つけると、うなずいて私を呼び寄せた。
「じゃあな」と彼は私に言った。「君はこれからすぐオレンブルグへ行って、一週間したらおれが行くから待ってるよう、知事や将軍どもに伝えてくれ。赤子《せきし》の愛と恭順をもっておれを迎えるよう教えてやってくれ。でないと厳罰を食うぞとな。では気をつけて行きたまえ、若殿」
それから彼は群衆のほうに向いて、シヴァーブリンをさしながら言った。
「さあ、みんな、これがおまえらの新しい長官だ。今後はどんなことでもこの人に従うのだ。この人がおれにかわっておまえたちと要塞の責任を負うことになった」身の毛のよだつおそろしさで、私はこの言葉を聞いた。シヴァーブリンがこの要塞の長官になったのだ。マリヤ・イヴァーノヴナは彼の思いのままになる……ああ、彼女はどうなるだろう。プガチョーフは段を降りた。馬がひかれた。彼は乗るのを助けようとしたコザックたちの手を待つまでもなく、ひらりと鞍にまたがった。
このとき、群衆のなかから、見れば私のサヴェーリイチが飛び出してきて、プガチョーフに近寄ると、彼に紙片を差し出した。私はどういうことになっているのか、まるっきり見当がつかなかった。
「これはなんだ」とプガチョーフはもったいぶった口調でたずねた。
「読んでくださればわかります」とサヴェーリイチは答えた。プガチョーフは紙片を取り上げると、しかつめらしい顔をして長い間見入っていた。
「なんてわかりにくい字を書くやつじゃ」と、やがて彼が言った。「わしの明らけき目をもってしても、全然読めんわい。書記官長はどこだ」伍長の軍服を着た若者が、さっとプガチョーフの前へ駆けつけた。
「読みあげろ」と僭称者は彼に紙片を手渡して言った。いったい私のじいやが、何をプガチョーフに書く気になったのか、私ははげしい好奇心にかられた。書記官長は声を張り上げて、たどたどしげにつぎのように読み出した。
「キャラコ部屋着、縞《しま》本絹部屋着、合わせて二枚、六ルーブリ」
「なんのことだ、それは」とプガチョーフは顔をしかめて言った。
「先を読ませなすってください」とサヴェーリイチがしゃあしゃあとして言った。
書記官長はつづけた。――
「薄地緑|羅紗《ラシャ》軍服一着、七ルーブリ」
「白羅紗ズボン一本、五ルーブリ」
「オランダ麻、カフス付きワイシャツ十二枚、十ルーブリ」
「茶器入り小櫃《こびつ》、二ルーブリ半……」
「寝言か」とプガチョーフはさえぎった。「小櫃だの、カフス付きズボンだのと、おれに何の関係がある」
サヴェーリイチはここぞとばかり咽喉《のど》を鳴らして、説明をはじめた。
「これはでございますな、あなたさま、ご覧のとおり、悪者どもにさらわれました若さまの財産目録で……」
「悪者とはだれのことか」とプガチョーフが頭ごなしにきいた。
「これは失礼、言いまちがえました」とサヴェーリイチが言った。「その悪者は悪者じゃありませんので。あなたさまの兵隊が家捜しして持ち去ったのでございます。お腹立ちにならないでください。馬は四つ足でも躓《つまず》くとやら。どうぞ、しまいまでお読み願います」
「しまいまで読め」とプガチョーフが言った。書記官長はつづけた。
「更紗《さらさ》掛布団一枚、木綿|琥珀《こはく》織掛布団一枚、四ルーブリ」
「赤地ちぢれ織|羅紗《らしゃ》裏付き狐《きつね》皮外とう一着、四十ルーブリ」
「ほかに、宿屋にて進上の兎《うさぎ》の皮チョッキ一着、十五ルーブリ」
「それまで書きおったな」とプガチョーフは火のような目玉をらんらんと輝かせながらどなった。
正直言って、私は哀れなじいやの身の上を思って、ひどく狼狽《ろうばい》した。彼はまた申立てをしようとしたが、プガチョーフがさえぎった。
「よくもまあ、そんなたわけをぬかしにこのわしの前へ出おったな」と彼はどなると、書記官長の手から紙片をひったくり、サヴェーリイチの顔へたたきつけた。
「ぬけさくの老いぼれめが。それぐらい盗られたからって何じゃ。それどころか、おまえは、おまえとおまえの主人があの謀反人どもといっしょに、ここにぶらさがらなかったことをありがたく思って、わしやわしの兵隊たちのために一生お祈りを捧げるのが本筋なんだぞ。このくたばりぞこないめが。兎の皮チョッキだと、よし、兎の皮チョッキをくれてやるわ、だがわかってるだろうな、おまえの生《なま》っ皮ひっぱがして、そいつを皮チョッキにしてやるぞ」
「どうぞご存分に」とサヴェーリイチは答えた。「なにせ私はお仕えする身ですから、ご主人の身上《しんしょう》をつぶしては申し訳が立ちません」
プガチョーフは、このとき寛大の発作にでもかかったとしか考えられない。馬首の向きをかえると、彼はそれ以上何も言わずに行ってしまった。シヴァーブリンと隊長連もそれにつづいた。一味は隊伍をととのえて要塞を出発した。群衆はプガチョーフを見送ってあとにつづき、広場には私とサヴェーリイチだけが残っていた。じいやは例の目録を手にしたまま、なんとも無念そうにそれに見いっていた。
私とプガチョーフが|うま《ヽヽ》があってるらしいと見てとり、彼はそれにつけいろうとしたのである。だがそうは問屋がおろさなかったのだ。私は彼のとてつもない忠義立てをとがめようと思ったが、どうしても笑い出さずにはいられなかった。
「笑いなさいまし、若さま」とサヴェーリイチは答えた。「いくらでも笑いなさいまし。だけど今にまた、家財道具からしてすっかり買い整えねばならない段になると、笑いごとかどうかがわかりますよ」
私はマリヤ・イヴァーノヴナに会いに、司祭の家へ急いだ。司祭の妻君は悲しい報せで私を迎えた。夜中にマリヤ・イヴァーノヴナがひどい熱を出した。今はうわごとを言いながら昏睡状態にあるというのである。司祭の妻君は私を彼女の部屋へ案内した。私はそっと彼女の枕もとへ近寄った。彼女の顔つきのかわりように私は胸をふさがれた。病人は私がわからなかった。私は長い間彼女の前に立ちつくしていた。かたわらでゲラーシム司祭や親切な妻が私を慰めてくれたらしかったが、何も耳にはいらなかった。暗い思いが私の心をかき乱していた。極悪非道の暴徒のただなかに残された、あわれな、たよる人とてない孤児の身の上を思い、私自身の無力さを思い、私は暗澹《あんたん》となった。シヴァーブリン、なによりもあのシヴァーブリンが私の思いをかきむしるのだった。今や僭称者から権力を与えられ、彼の怨恨のいわれのない罪の対象である、不幸な娘が残されている要塞を支配する身の彼は、どんなことでも思いのままである。私はどうずればいいのだ。どうしたら彼女を助けてやれるのか。悪党の手から救い出すすべはないのか。残された手段はただひとつだった。私はただちにオレンブルグへ出発し、ベロゴールスク要塞の奪還を急ぎ要請し、自分も全力をあげてそれに協力することだ。私は決意した。私は司祭とアクリーナ・パンフィーロヴナに別れを告げ、今ではもう自分の妻とも思っている彼女のことをくれぐれもたのんだ。私はかわいそうな娘の手を取って、涙でぬらしながら接吻した。
「さようなら」司祭の妻が私を送りがてら言った。「ご無事でね。ピョートル・アンドレーイチ、よい時節がめぐってきましたら、またお会いできますわ、私たちのことお忘れなくね、できるだけお便りくださいね。かわいそうなマリヤ・イヴァーノヴナは、あなたよりほかに、もう慰める人もたよりになる人もないのですからね」
広場へ出ると、私はちょっと立ちどまり、絞首台をあおいで一礼した。それから要塞を出て、片時も私から離れないサヴェーリイチとともに、オレンブルグ街道を歩いて行った。
私はさまざまな思いをめぐらせて歩いていた。突然、うしろから馬の蹄《ひづめ》の音がきこえた。ふり返って見ると、要塞からひとりのコザックがバシキール種の馬にまたがって、遠くから私に合図をしながら飛ばしてくるのだった。私は立ちどまり、間もなくそれが例の下士であることがわかった。彼は追いつくと、馬から飛びおりて、ひいてきた馬の手綱《たづな》を私に渡しながら言った。
「少尉殿、陛下が貴官にこの馬とご着用の毛皮外套〔鞍《くら》には羊の皮チョッキがくくりつけてあった〕をご下賜《かし》あそばされました。それからまだ……」と口ごもりながら下士がつけ加えた。「陛下はあなたに……半ルーブリのお金をご下賜になりましたが……どうも道中で落としてしまいました。どうぞごかんべん願います」
サヴェーリイチは彼を横目でにらみながらつぶやいた。
「途中で落としただと。じぁおまえのその懐でじゃらじゃら鳴っているのは何だね。恥知らずめ」
「おれの懐でじゃらじゃら鳴ってるのが何かってかい」と下士は顔色ひとつかえないで言い返した。「じょうだんじゃないぜ、じいさん。これは|くつわ《ヽヽヽ》の鳴る音じゃねえか、半ルーブリなんかじゃねえよ」
「もういい」と私は口喧嘩をさえぎりながら言った。「君をよこしてくれた人によくお礼を言ってくれたまえ。それから落とした半ルーブリは帰りみちでよくさがしてごらん。見つかったら酒手にとっといてくれ」
「どうもありがとうございます。少尉殿、ご親切は一生忘れません」
そういうと、彼は片手で懐をおさえながらもと来た道へ馬を鞭打ち、間もなく姿が見えなくなった。
私は皮チョッキを着ると、馬にまたがり、サヴェーリイチはうしろに乗せた。
「ほれ、ご覧なさい、若さま」と老人が言った。「私があの悪党に頭を下げたのはむだじゃなかったってわけですよ。泥棒だって恥ずかしくなったんですよ。そりゃこんなやくざなバシキールのひょろひょろ馬と羊の皮チョッキじゃ、あのペテン野郎がかっさらっていった物や、おまえさまがくれておやりになった物の半分の値打ちもありませんけど、とにかく役には立ちますもの。野良犬からでも毛の一房ってやつですよ」
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第十章 市街の包囲
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……草地と丘を占領して
高地から鷲《わし》のように彼は市《まち》を見おろした。
陣地の奥に砲架を築き、
そこに大砲をかくして
夜陰に乗じて城下に曳き出せと命じた。
……ヘラスコーフ
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オレンブルグに近づくと、私たちは頭を剃られ、刑吏の焼鏝《やきごて》で顔をめちゃめちゃにされた囚人の群を見た。彼らは守備の傷病兵たちの監視のもとに、堡塁《ほうるい》の周囲で働いていた。ある者たちは濠を埋めている塵埃《じんあい》を手押車で運び出し、ある者たちはシャベルで土を掘っている。堡塁の上では石工たちが煉瓦《れんが》を運んで城壁を修築している。城門で衛兵が私たちを止め、居住証《パスポート》を求めた。軍曹は私がベロゴールスク要塞から来たときくが早いか、私をまっすぐ将軍の家へ案内した。
将軍は庭に出ていた。彼は秋風に葉をふるい落とされたリンゴの樹を点検しながら、老園丁に手伝わせて暖かい|わら《ヽヽ》で大事に幹を巻いてやっていた。健康な顔には落着きと善意があふれていた。彼は私を歓迎し、私が目撃したおぞましき事件をいろいろとたずねはじめた。私は一切をつぶさに語った。老人は真剣に私の話をきく一方で、枯れ枝に鋏《はさみ》をいれていた。
「気の毒にな、ミローノフは」と私の悲惨な物語がおわると彼は言った。「惜しい男だった。立派な将校だった。ミローノフ夫人もいい人だった。それに茸《きのこ》の塩漬の名人でな。ところでマーシャはどうしたかね。あの大尉の娘は」
私は彼女は司祭の妻君があずかって、要塞に残っていると答えた。
「ああ、ああ、ああ」と将軍は不満げに言った。「それはいかん、大いにいかん。暴徒どもの軍紀なんて、ないも同然だからな、あのかわいそうな娘はどうなるだろう」
私はそれにたいして、ベロゴールスク要塞は遠くないのだから、閣下はそこの不幸な住民たちを救出するために、ただちに軍隊を派遣されてはいかがでしょうと、自分の考えを言った。将軍は自信がないといったふうに頭を振った。
「まあ、もう少しようすを見てみよう」と彼は言った。「そのことはまだ今からでも相談できるよ。あとでお茶に来てくれたまえ。ちょうど今日はうちで軍事会議があるんでね。君はわれわれにプガチョーフのごろつき野郎や、やつの軍隊のことについて、確実な情報を提供できる人だからな。まあそれまでは宿舎へ帰ってひと休みしてくれたまえ」
私は自分にあてがわれた宿舎へ行ったが、もうサヴェーリイチは所帯づくりをはじめていた。私はじりじりしながら指定された時刻を待ちはじめた。私の運命に重大な影響を持つにちがいないこの会議に、私がおさおさおこたりなく出席したことは読者の容易に想像されるところである。指定の時刻には、私はもう将軍宅にいたのである。
私はそこで、たしか税関長だったと思うが、無地金襴の長衣《カフタン》をまとった、ふとったあから顔の老人と出会った。彼はイヴァン・クージミチのことを名付親と呼んで、彼の身に起こったできごとをつぎからつぎへと私にたずねはじめた。彼は私の話を枝葉のような質問や、説教じみた意見でしょっちゅう中断するのだったが、それはともかく、戦術に明るい人ではないまでも、先見の明のある、生まれつき賢い人であることがわかった。そのうち他の列席者も集まってきた。その人たちは、将軍を除いてはだれひとり軍人ではなかった。一同が着席してお茶がくばられると、将軍は当面する問題に関して、わかりやすく、長々と説明した。
「今や、諸君」と彼はつづけた。「われわれはこの暴徒に対抗していかに行動するか、すなわち|攻勢に出るか《ヽヽヽヽヽヽ》、|守勢をとるか《ヽヽヽヽヽヽ》を決定せねばならんのであります。このいずれの方法もそれぞれ得失を持っておる。攻勢的行動はより急速に敵の殲滅《せんめつ》を期することができ、守勢的態勢はより多く確実かつ安全である……よってこれから法規の順序にのっとり、つまり官等の若いほうからはじめて、おのおのがたの意見を伺《うかが》うことにする。少尉補君」と彼は私に向かってつづけて言った。「まず、君の意見をきかせてもらおう」
私は起ち上がると、まず手短にプガチョーフとその一味について述べてから、僭称者には正規軍に対抗するだけの力はないと断言した。
私の意見にたいし、役人たちは明らかに不満であった。彼らはそれを青年の勇み肌と向こう見ずと見てとったのである。不満のつぶやきが起こり、だれかが小声で、「乳臭い」というのを私ははっきりと耳にした。将軍は私に向かって、微笑をうかべながら言った。
「いや少尉補君、どこの軍事会議でも、最初の意見はまず攻撃の支持と、相場がきまってるもんじゃ。これが定石でな。ではつづいて意見をお願いします。六等官君、君の意見をどうぞ」
金襴の長衣を着たあの老人が、かなりのラム酒で割った三杯目のお茶を急いで飲みほし、将軍にこう答えた。
「閣下、私は攻勢も守勢もともにすべきではない、とかように考えます」
「それはまたどういうことかね、六等官君」と驚いた将軍が言い返した。「戦術にはこのふたつ以外にはないんだがね。守勢か、しからずんば攻勢か……」
「閣下、買収戦術とお行きください」
「ほほう、これはどうも。なかなかの思案ですわい。買収戦も戦術とし通用しましょうからな。あんたのその意見も利用してみることにしよう。あの人非人の首に……七十か、もっと百ルーブリぐらいは賭けてもいいな……機密費からね……」
「いや、それでですね」と税関長がさえぎった。「もしあの泥棒野郎どもが手枷足枷《てかせあしかせ》して自分の頭目を私たちにわたさなかったなら、私はもう六等官《コレジスキー・レヴェートニク》じゃなくて、|キルギスの羊《キルギーズスキー・バラーン》だと罵《ののし》られても甘んじて受けますよ」
「その点はなお考慮し、討議をつくすことにしましょう」と将軍が答えた。「しかしいずれにせよ、軍事行動は取らなくちゃならん。みなさん、法規の順序に基づいてどしどし意見を出してください」
どの意見もみな、私の意見とは異なるものだった。役人たちは口をそろえて、軍隊はたのみにならぬ、成功は信じられない、用心が一番などと言った意見を述べたてた。大勢は防衛力の稀薄になる野戦に武運を賭けるよりは、堅固な石の城壁のかげで大砲の掩護《えんご》の下に籠城《ろうじょう》するほうが賢明だという意見だった。やがて一同の意見をききおえると、将軍はパイプから灰をはたき落として、つぎのように一席ぶった。
「諸君、私は私の立場としては少尉補君の意見にまったく同感であると、申し上げなければなりません。なぜならぱ、この意見は戦術はほとんどすべての場合、攻勢は守勢にまさるという、あの健全なる戦術の法則に立脚しているからであります」
そこで言葉を切って、彼はパイプをつめはじめた。私の自尊心は凱歌《がいか》をあげた。私は傲然《ごうぜん》と役人どもを眺めまわした。彼らは不満と不安の面持ちで、なにやら互いにつぶやきあっていた。
「ではあるが、諸君」と将軍は深い吐息とともに濃い一条の煙草の煙を吐き出しながらつづけた。「問題が、かしこくも、いと仁慈なる女帝陛下より私に委ねられたるこの地方の安寧にかかわることとなると、とてもかような大責任はあえて負いきれぬのであります。したがって私は、市内に立てこもって敵の包囲を待ち、いったん敵の来襲あるときは砲兵力をもって対抗し、もし可能とあらばこれを迎撃し、撃退する――のを、最も賢明かつ安全な方策と決せられた大多数の意見に賛成する者であります」
今度は役人たちが嘲笑の目差しを私に向ける番だった。会議は終わった。自己の信念にそむき、素人《しろうと》で経験もない人々の意見に屈してしまったこの尊敬すべき軍人の怯懦《きょうだ》に、私は歯ぎしりしないではいられなかった。
この注目すべき会議から数日して、私たちはプガチョーフが約束にたがわず、オレンブルグに接近して来たことを知った。私は城壁の上から暴徒の軍勢を視察した。その兵数は私が目撃したあの最後の急襲のときからすると、十倍にもふくれあがっているように思えた。彼らは、プガチョーフによってすでに征服されたあちこちの小さな要塞から分捕った、幾門かの大砲も保有していた。会議の決定を思い出して、私はこれから先、長期間にわたって、このオレンブルグ要塞に籠城を余儀なくされるのかと思うと、くやしさに泣きたいほどだった。
オレンブルグの包囲についてここで述べるのは差し控えよう。それは歴史の領域であって、わが家の記録には縁がないことだ。ただ簡単に言っておくと、この包囲戦で、住民たちは市当局の不手ぎわから、飢餓《きが》やありとあらゆる災厄を耐えしのばなくてはならない羽目におちいったのである。オレンブルグの籠城戦は辛酸をなめつくしたものであったことは、容易に想像がつくであろう。全住民は暗澹たる気持で、自分の運命《さだめ》を待っていた。だれもが口々に物価の高騰を嘆いていたが、それは事実おそろしいほどあがっていたのである。住民は彼らの庭先に飛んでくる弾丸には平気になり、時々しかけてくるプガチョーフの急襲にたいしても、好奇心すら起こさないまでになった。私は退屈で死にそうだった。時は過ぎていった。ベロゴールスク要塞からは、なんの音|沙汰《さた》もなかった。道路という道路が遮断されていたのである。マリヤ・イヴァーノヴナと離ればなれでいることが、私には耐えられなくなってきた。彼女の安否の不明が私を悩まし苦しめた。私の唯一の憂さ晴らしは乗馬出撃だった。プガチョーフの好意で、私にはけっこうな馬があり、その馬と乏しい食糧をわかち合いながら、毎日城壁の外へ乗り出しては、プガチョーフの遊撃兵とわたり合った。こうした交戦では、たいていは腹がいっぱいで酒っ気があり、そのうえいい馬に乗っている暴徒のほうに勝目があった。やせこけた市《いち》側の騎兵はとうてい彼らの敵ではなかった。ときにはわが軍の飢えた歩兵が出撃することもあったが、深い雪が邪魔して、散開して駆けめぐる敵の騎兵にたいして効果的な行動はとれなかった。砲兵は堡塁の高みからむなしく砲声をとどろかすばかりで、草原へ進出しても馬が消耗しているため、ぬかるみにはまって動きがとれなかった。わがほうの軍事行動はこの|ていたらく《ヽヽヽヽヽ》だったのである。そしてまさにこれこそが、オレンブルグの役人どもが用心だの賢明だのと呼んでいたところのものなのである。
ある日のこと、私たちは敵のかなりの密集部隊をどうにか追い散らすことができた。そのとき私は仲間から逃げ遅れたひとりのコザックに襲いかかり、まさに半月刀を振るってすぐに斬りつけようとしたときであった。相手は帽子をとって叫んだ。
「こんにちは、ピョートル・アンドレーイチ、おかわりありませんか」
それはなんと例の私たちの下士だった。私は彼に会えていいようもなくうれしかった。
「やあ、マクシームイチ」と私は言った。「ベロゴールスクからはだいぶ前に来たのかい」
「つい最近です。ピョートル・アンドレーイチのだんな、昨夜帰ってきたばっかりです。じつはあなたに手紙をたのまれてるんですよ」
「それはどこにあるんだ」と私は全身がカーッとなって叫んだ。
「ここに持ってますよ」とマクシームイチは懐に手をあてて答えた。「なんとか工夫してあなたにお渡ししますと、パラーシャに約束して来たんです」
そういうと彼は私にたたんだ紙片をわたし、すぐさま馬を飛ばして遠ざかっていった。私はそれを拡《ひろ》げ、胸をときめかせてつぎの文を読んだ。
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神さまの思召《おぼしめ》しで、私は突然父も母も失ってしまいました。もはやこの世に身寄りもたよりになる人もございません。あなたはいつも私のしあわせを祈ってくださいましたし、まただれにでも救いの手をのべて差し上げるかただと存じますので、このうえはあなたにおすがり申し上げます。この手紙がなんとしてもお手元に届きますよう、ひとえにお祈り申します。マクシームイチがかならずあなたにお届けすると約束してくれました。またパラーシャがマクシームイチから聞いてきたことですが、出撃のおり遠くからあなたをよくお見かけする。あなたはすこしもわが身を大切になさらず、あなたのご無事を涙ながらに神さまにお祈りしている者たちのことなど、まったく念頭にないごようすだそうですね。私は長らく病の床についておりましたが、やっとよくなりましたら今度は、亡き父のかわりにここの司令官になりましたアレクセイ・イヴァーノヴィチが、プガチョーフの名をちらつかせて、ゲラーシム司祭をおどしつけ、むりやり私を自分のところに引き取ってしまいました。私は今、自宅で見張りをつけられて暮らしております。アレクセイ・イヴァーノヴィチは私に結婚を強制しています。彼はアクリーナ・パンフィーロヴナが、悪者に私のことを姪だなどと嘘を言っていたのを、見逃してやったので、私の命の恩人だと申すのです。アレクセイ・イヴァーノヴィチのような人の妻になるくらいなら、いっそ死んだほうがましでございます。彼は私にとてもひどい仕打ちをし、私が考えなおさず、承諾しないならば、私を悪者どきもの陣営へ引き立て、あのリザヴェータ・ハールロヴァ〔ニジネオジョールナヤ要塞司令官夫人。夫ハールロフが殺害された後、プガチョーフの側室になり、のち殺される〕と同様の目にあわせてやるぞとおどかすのです。私はアレクセイ・イヴァーノヴィチにしばらく考えさせて欲しいとたのみました。彼は、ではあと三日だけ待ってやるが、もし三日たっても彼の言いなりにならないならば、いっさい容赦はせぬと申しています。ピョートル・アンドレーイチさま、あなただけがたよりなのです、どうぞ哀れな私をお救いくださいまし。将軍はじめ指揮官のかたがたに、一刻も早く援軍をお送りくださいますよう、お願いしてくださいまし。それから、できますことなら、あなたご自身でおいでくださいますように。
あなたの従順な哀れな孤児
マリヤ・ミローノヴァ
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この手紙を読みおえると、私は今にも気が狂いそうになった。私は哀れな馬に容赦なく拍車をかげながら、市へ駆けもどった。道々私はかわいそうな娘を救い出す方法をあれこれ思いめぐらしてみたが、何ひとつ名案はうかんでこなかった。もどり着くなり、私はまっしぐらに将軍宅へ飛び込んだ。
将軍は海泡石《かいほうせき》のパイプをくゆらしながら、部屋の中を行きつもどりつしていたが、私を見ると、立ちどまった。多分私の顔色に驚いたのだろう。彼は心配そうに私のただならぬ来訪のわけをたずねた。
「閣下」と私は言った。「あなたを生みの父上とも思いおすがりにまいりました。どうか私のたのみをお聞きいれください。生涯の幸福にかかわる問題なのです」
「いったいどうしたっていうんだね、君」と驚いて老人がたずねた。「君のためにわしが何かできるというのかね。話してみたまえ」
「閣下、私に兵一個中隊と、コザック五十名をお貸し願います。そしてベロゴールスク要塞の掃蕩《そうとう》をお命じください」
将軍は、多分私が気でも狂ったと思ったのであろう〔事実、それに近かったのだから〕、私をじっと見つめていた。
「なんだって、ペロゴールスク要塞を掃蕩するのだと」と彼はようやく口を開いた。
「かならずやりとげて見せます」と私は必死に答えた。「とにかく私を遣《や》ってください」
「だめだよ、君」と彼は頭をふりながら言った。「これほど距離がへだたってると、敵は簡単に君らと戦略主点との連絡を断ってしまい、君らが潰滅《かいめつ》するのは火を見るよりも明らかだ。連絡を断たれるということはだね……」
私は戦術論を展開しはじめた彼を見てびっくりし、あわててさえぎった。
「ミローノフ大尉の娘さんが」と私は言った。「私に手紙を寄こしました。助けを求めているのです。シヴァーブリンがあの人にむりやり結婚を迫っているのです」
「ほんとうか、それは。ああ、あのシヴァーブリンというやつはたいした悪党《シェルム》だ。よし、もしひっ捕えたあかつきには、二十四時間以内に断罪を命じて、要塞の胸壁の上でバンバーンとやってくれるぞ。だが今のところは辛抱せねば……」
「辛抱せいですって」と私はわれを忘れて叫んだ。「そんなことをしているうちに、やつがマリヤ・イヴァーノヴナと結婚してしまいます……」
「いや」と将軍はさえぎった。「別にたいしたことじゃないよ。今のところはシヴァーブリンの嫁さんになってるほうがよかろう。今のところやつはその人を保護できるわけだからな。やつが銃殺になってしまえば、そのときはまたそのときで、神さまが別の聟殿《むこどの》を見つけてくださるさ。かわいい若後家がじっとしてるものか。つまりさ、若後家は生娘《きむすめ》より早く聟さんを見つけるもんだというわけだよ」
「いっそ死んだほうがましです」と私は逆上して言った。「あの人をシヴァーブリンの野郎にわたすくらいなら」
「や、や、や、や」と老人が言った。「それで読めたわい。君はそのマリヤ・イヴァーノヴナに惚《ほ》れてるってわけだ。それなら話は別だ。きのどくにな。だがやっぱり、わしは君に兵一個中隊とコザック五十名を貸してやるわけにはいかん。なんせこの遠征は無茶だよ。わしは責任をおいかねるよ」
私はしゅんとなってしまった。もう絶望だった。と不意に、ある考えが頭にひらめいた。
それがどんな考えだったかは、昔の物語作者の言うとおり、読者よ、乞う次章にご期待をである。
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第十一章 反徒の本営
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そのとき獅子は満腹だった、
生まれついての猛獣なのに。
「何のご用で私の洞《ほこら》までおいでになった」
と彼は優しくたずねるのだった。
……アー・スマローコフ
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私は将軍と別れて、自分の宿舎へ急いだ。サヴェーリイチは私を迎えいれると、いつもの伝で諌《いさ》めるのだった。
「物好きがすぎますよ、若さま。いつまでのんだくれの悪者どもにかかわりあってるんです。それが貴族のなさることですか。いつなんどき、なにが起きるかわかったもんじゃありません、あたら命を失《な》くすようなことになったらどうなさいます。それも相手がトルコ軍やスウェーデン軍というならまだしも、あんな口に出すのも汚らわしいやつを相手じゃね」
私は彼の言葉をさえぎって、今私の金は全部でいくらあるかときいた。
「充分ございますよ」と彼は満足げに答えた。「悪党どもがあちこちくまなくさがしましたが、ちゃんとかくしおおせましたよ」
そう言うと彼はポケットから長い編み財布を取り出して見せた。それには銀貨がいっぱい詰まっていた。
「ねえ、サヴェーリイチ」と私は彼に言った。「今、これを半分ぼくにくれないか。残りはおまえがもらってくれ。ぼくはベロゴールスク要塞へ行くんだ」
「ああ、ピョートル・アンドレーイチ」と人の善いじいやがふるえる声で言った。「神さまを恐れなさいまし。どうして今どき旅へなど出られましょう。道という道が悪党どもにふさがれてしまってるというのに。ご自分の身は惜しくないとしても、ご両親のことをいとおしんでおあげなさいまし。どこへ行くことがあります。何しにです。もうちょっと我慢なさいまし。今に軍隊が来て、悪党どもなんかひとり残らずやっつけちまいまさあ。そしたらどこへなりともお好きなところへおいでなさいまし」
だが私の決意は固かった。
「もう考えてる暇はないんだ」と私は老人に言った。「ぼくは行かなきゃならないんだ。行かないわけにはいかないんだよ。悲しまないでくれ、サヴェーリイチ。神さまはお慈悲深いから、またきっと会えるよ。いいかい、遠慮したり、けちけちしたりするなよ。なんでもいる物があったら買っちまえ、値段が三倍したってかまうものか。その金はおまえにやったんだからな、もし三日たってもぼくがもどってこなかったら……」
「それは何のことです、若さま」とサヴェーリイチが私をさえぎった。「私がおまえさまをおひとりにするとでもお思いですか。夢にもそんな……。おまえさまがどうでも行く気なら、私は歩いてでもお供してまいります。なんの離れるもんですか。おまえさまもいらっしゃらないのに、なんで私がのんびりこの石の壁のなかにへたりこんでおられましょう。私が気が狂ったとでもお思いですか、いいですとも、若さま。せっかくですが私はおまえさまから離れませんからね」
私はサヴェーリイチとやりあうのはむだだと知っていたから、彼にも旅じたくをするように言った。半時間後には私は元気な愛馬に、そしてサヴェーリイチのほうは跛《びっこ》のやせ馬に乗っていた。これはもう飼い葉もなくて養えず、町のある人が無料《ただ》で彼にくれたのだった。城門にさしかかった私たちを、衛兵はすんなり通してくれた。私たちはオレンブルグを後にした。
日暮れになった。私はプガチョーフの本営となっているベルダという大きな村に沿って進んでいた。まっすぐな道は雪に埋もれていたが、草原《ステップ》一面に、毎日新しくつけられる馬の足跡が見られた。私は伸張速歩《ラウンド・トロット》で飛ばして行った。サヴェーリイチはずっと遅れてやっとのことでついてきていて悲鳴をあげつづけた。
「もっとゆっくり、若さま。お願いだからもっとゆっくり。このいまいましいやせ馬じゃ、とてもおまえさまの脚長の悪魔にゃ追っついてけませんや。どこへそんなに急ぐんです。酒盛りにでも行くんならけっこうですよ。だがどうやら首をちょん切られに行くっていうのに……ピョートル・アンドレーイチ……若さま、ばかはおやめなさいまし……ああ神さま、若さまが殺されそうです」
やがてベルダ村の灯がちらほら見えてきた。私たちはこの村の天然の要塞となっている谷間へ近づいていった。サヴェーリイチは絶え間なしに哀願しながらも、私から離れようとはしなかった。私はどうやら無事に村を迂回できそうだと思っていた。と突然目の前の暗闇のなかに棍棒《こんぼう》で武装した五人ばかりの百姓の姿が現われた。これはプガチョーフのかくれ家の前哨《ぜんしょう》だったのだ。私たちは誰何《すいか》された。合言葉を知らないので、私は黙って彼らのそばを通り抜けようとした。が彼らはたちまち私を取り巻いて、そのうちのひとりが私の馬の|くつわ《ヽヽヽ》をつかんでしまった。私は剣を引き抜くと、その男の頭に斬りつけた。彼は帽子のおかげで助かったが、よろめいて|くつわ《ヽヽヽ》を手放した。残りのやつらは浮き足だって逃げ出した。私はこのすきに馬に拍車を加えて、一目散に飛ばして行った。
迫り来る夜の闇がどんな危険からも私を救ってくれるかに思えた。が、ふと気がついて見まわすと、サヴェーリイチがいないのだった。跛《びっこ》のやせ馬に乗っていた哀れな老人は、悪党どもから逃げおおせなかったのだ。どうしたものだろう。しばらく待ってみたが、どうやら捕まってしまったらしいので、私は馬首をかえして彼の奪還に向かった。
谷間に近づくにつれて、物音や叫び声やサヴェーリイチの声がかすかにきこえてきた。私は馬を速め、間もなく、ちょっと前に私をとめた見張りの百姓たちの間に、ふたたび割り込んでいった。サヴェーリイチはやつらにとり囲まれていた。彼らは老人をやせ馬から引きずりおろして、縛りあげようとしていた。私がもどってきたのでやつらは喜んだ。喚声《かんせい》をあげながら私に襲いかかり、あっという間に馬から引きずりおろしてしまった。そのなかの頭《かしら》と思えるひとりが、これからすぐ陛下の御前へ突き出してやると私たちに言い渡した。
「そうすりゃ陛下は」と彼はつけたした。「お好きに指図なさるのよ。今すぐぶらさげろとか、それとも夜明けまで待てとかおっしゃってな」私は抵抗しなかった。サヴェーリイチも私にならった。哨兵どもは意気揚々と私たちを引き立てた。
私たちは谷を越えて村へはいった。どの百姓家にも灯が燃えていた。あっちでもこっちでも騒音と喚声が響きわたっていた。往来では大勢の村人たちと出会ったが、暗いのでだれも私たちに気をとめる者はなく、私がオレンブルグの将校だとわかる者もなかった。私たちは十字路の一角にある百姓家へまっすぐに引っ立てられた。門の脇には酒樽が四、五本と、大砲が二門すえてあった。
「これが宮殿だ」と百姓のひとりが言った。「今、おまえたちのことを申し上げてくる」
彼はそこへはいっていった。私はサヴェーリイチをふり返って見た。老人はお祈りを唱えながら十字を切っていた。私たちは長い間待たされた。やっと百姓がもどってきて、私にいった。
「はいれ。陛下は将校を連行せよとおおせられた」
私はその百姓家、つまり百姓たちのいわゆる宮殿へはいっていった。内部は二本の牛蝋に照らされ、壁には金紙が貼りめぐらしてあった。しかし、椅子、テーブル、縄でつった手洗い器、釘《くぎ》にかけたタオル、隅にある鉄火箸、壼の並べてある広いペチカの前棚等々、いずれも普通の百姓家とかわりはなかった。プガチョーフは真紅《しんく》の長衣をまとい、高い帽子をかぶり、もったいをつけて身をそらし、両手を腰にあてて、聖像の下に腰かけていた。そのまわりには彼の主だった仲間が四、五人、とってつけたうやうやしさを装って立っていた。オレンブルグから将校が来たというニュースは、暴徒たちの強い好奇心をそそって、彼らが威風堂々と私に接見しょうと身構えていたことがはっきり見てとれた。プガチョーフは一目で私だと知るや、彼のとりつくろった尊大ぶりはたちまち消えてしまった。
「やあ、若殿」と彼は元気な声で言った。「その後はどうだね。今度はまたなんでこんなところへ来たんだね」
私は私用でここを通っていたら、番兵に足どめされたのだと答えた。
「で、その私用とやらは何かね」と彼はたずねた。私はなんと返事してよいかわからなかった。プガチョーフはみんなのいるところでは話しにくいのかと察して、仲間に向かって座をはずすよう命じた。一同は命に従ったが、なかのふたりだけはその場を動こうとしなかった。
「このふたりは平気だよ、話してごらん」とプガチョーフが言った。「わしはこの連中には隠しごとはしないんだ」
私は僭称者のお気にいりたちを横目で見た。そのひとりは貧相な腰の曲がった|ひげ《ヽヽ》の白い老人で、灰色の百姓外套の肩から斜めにかけた空色の綬《じゅ》のほかには、なんらきわ立ったところもなかった。しかしもうひとりのほうは一生忘れはしないだろう。背は高くでっぷりしていて肩幅が広く、四十五くらいの年齢《とし》に見えた。濃い赤い|ひげ《ヽヽ》、とび色をしたぎらつく目、鼻孔のない鼻、額《ひたい》や頬《ほお》のぽつぽつの赤みがかった斑点《はんてん》など、こういったものが彼の平べったい痘痕面《あばたづら》をなんとも言いようのない風貌に仕立てあげていた。彼は赤いルバーシカの上にキルギスふうの部屋着をはおり、コザックのだぶだぶズボンをはいていた。第一の男は〔あとで知ったのだが〕脱走兵の伍長ベロボロードフ〔プガチョーフの片腕として有名〕で、第二の男はアファナシイ・ソーコロフ〔もとウラル鉱山の奴隷。脱走の常習犯で鼻裂きの刑にあう。反乱時徒刑中だったが、オレンブルグ州知事の命によりプガチョーフの勧降使者となる。が、そのままプガチョーフに寝返る。あだなはフロプーシャ〕といって、三度もシベリアの鉱山から脱走した追放囚だった。そのとき私は非常に複雑な気持で高ぶっていたにもかかわらず、はからずも足を踏み込んでしまったこの集団に、はげしい好奇心を注がずにはいられなかった。しかし、プガチョーフがつぎのようにきいて私をわれに返らせた。
「話したまえ。どんな用で君はオレンブルグから出てきたのかね」
と、奇妙な考えが頭にうかんできた。ふたたびこうして私をプガチョーフの前へ引き出した神意は、私の計画を実現させる絶好の機会を与えてくれたような気がしてきたのである。私はこの機会を逃がすまいと思い、自分の決心をチェックしなおすゆとりもなく、プガチョーフの問いに答えていた。
「ぼくはある孤児を救い出すために、ベロゴールスク要塞まで行くところだったんです。その子はあそこでひどい目にあってるんです」
プガチョーフの目がぎらぎらしてきた。
「どいつだ、わしの手下で孤児なんかいじめるやつは」と彼はどなった。「そいつがどんなにうまく取りつくろったって、わしの裁きは逃れられんぞ。言ってみろ、どいつが悪いんだ」
「シヴァーブリンが悪いんです」と私は答えた。「あんたがこのまえ司祭のところで見たあの病気だった娘を、あの男は監禁して、むりやりやつの妻にしようとしているのです」
「ようし、シヴァーブリンめ、このわしがこらしめてくれる」とプガチョーフが声を荒げて言った。「わしの下で勝手放題をしたり、人民をいじめたりしたら、どういうことになるかやつに思い知らせてくれる。縛り首だ」
「失礼ですが、ちょっと一言」とフロプーシャが嗄《しゃが》れ声で言った。「シヴァーブリンを要塞司令官にしたのも早過ぎましたが、今度はやつを、縛り首にするというのも早過ぎますな。あなたは貴族を隊長にして、もうコザックの恨みをかわれてるんですよ。今また一度の訴えぐらいで貴族を処刑して、彼らを怯《おび》えさせないでください」
「いや、貴族なんか憐れんだり、目をかけてやったりするにはおよばねえ」と空色の綬の老人が言った。「シヴァーブリンを処刑したってかまわん。がこの将校殿だって、ほんとうのところここへ何しにおいでになったのか、正式に取り調べてみるのも悪くない。もしこの人があなたを皇帝と認めないなら、処分に手間暇はいらねえ。もし認めるなら、なぜ今日までも敵方といっしょにオレンブルグにぐずぐずしてたのかが問題だ。この人を裁判所へ連行して、あそこに灯《ひ》をともすよう命ぜられてはどうです。どうもわしには、この人がオレンブルグの隊長連からこっそりこっちへ差しまわされてきたように思えるのだがな」
老悪党の論理は私にもおおいにうなずけた。自分が今だれの手中にあるかと思うと、私は全身に悪寒《おかん》の走るのを覚えた。プガチョーフは私の不安そうなようすを見てとると、「どうだね、若殿」と目配せしながら言った。「わしの元帥の言葉は図星のようだな。君はどう思うね」
プガチョーフのからかうような言い草が、私に元気を取りもどさせた。私は落ち着いて、自分は彼の手中にあるのだから、どうとも気のすむようにやってくれと答えた。
「よし」とプガチョーフは言った。「じゃきくが、君の市《まち》はどんな状態かね」
「おかげさまで」と私は答えた。「すべて平穏無事です」
「平穏無事だと」とプガチョーフがくり返した。「だが、人民は餓死してるじゃないか」
僭称者の言葉はほんとうだった。しかし私は宣誓の義務に従って、それはみな根も葉もない噂であり、オレンブルグには充分あらゆる物資が貯蔵されていると断言した。
「それご覧なさい」と老人が引き取って言った。「この男はあなたの目の前で、しゃあしゃあと嘘をついていますよ。脱走者はみんな口をそろえて、オレンブルグは飢餓と疫病の生き地獄だ。死骸まで食って、それでもありつけりゃあ、ありがたきしあわせだと申し立ててるんですからね。それをこの人ときたら、何もかも充分あるなどと言ってる。もし、シヴァーブリンを絞めるつもりなら、この若者も同じ絞首台へぶらさげるこってすよ。恨みっこなしにね」
縁起でもない老人のこの言葉は、プガチョーフを動かしたらしかった。が幸いなことに、フロプーシャが彼の反対意見を述べはじめた。
「もういい。ナウームイチ」と彼は言った。「君はいつだつて絞めたり、斬ったりしてりゃいいんだ。たいした英雄だよ。ちょっと見にゃあ、よくそれで生きてられると思えるのになあ。自分が棺桶《かんおけ》へ片足つっ込んでながら、他人を殺そうてんだ。君の良心には血も涙もないのかね」
「そういうおまえはまたなんて聖人だ」とべロボロードフが言い返した。「いったいどこからそんな人情を借りてきたのだ」
「もちろん」とフロプーシャが答えた。「おれだって、罪深い男さ。この手だって〔とそこで彼は骨ばったてのひらを握りしめ、袖をまくって毛むくじゃらの腕をあらわにしてみせた〕この手だってキリスト教徒の血を浴びた罪はある。だがおれが殺《や》ったのは敵で、客人じゃないもんな。天下御免の四辻や暗い森のなかでならやったことはあるが、家のなかで暖炉《ペチカ》にあたりながらやったことはねえ。投擲錘《からみだま》や斧《おの》ではやったが、女のような悪口雑言でやったことはねえ」
老人は顔をそむけて、つぶやいた。
「鼻っかけめが」
「何をぶつくさぬかしてるんだ。くたばりぞこないめが」とフロプーシャがどなった。「おまえも鼻っかけにしてくれるぞ。待ってな。今におまえの番が来るからな。請け合うぜ、そのうちおまえも焼鏝《やきごて》の臭いが嗅げらあなあ……今んところは、おれにそのちょび|ひげ《ヽヽ》をひんむしられねえように用心しな」
「まあ、将軍たち」とプガチョーフがまじめくさって言った。「喧嘩はもうそれくらいにしとけ。オレンブルグの駄犬どもが、みんなそろって同じ横木にぶらさがりばたばたやるんならかまわんが、うちの大事な名犬たちが噛《か》みつき合ってちゃ困るじゃないか。もう、仲なおりせえ」
フロプーシャもベロボロードフもひとことも口をきかないで、陰険な目でにらみあっていた。私は私にとってきわめて不利な結末をもたらすかもしれないこの話題を、ぜひともかえなくてはならないと思い、プガチョーフに向かい、笑顔をつくって言った。
「ああ、そうそう。ぼくはあなたに馬と皮チョッキのお礼を言うのを忘れてました。あなたの親切がなかったら、ぼくは市《まち》へも行きつけず、途中で凍え死んでしまったでしょう」
私の思いつきは成功した。プガチョーフはきげんが直った。
「世の中は相見互いさ」と彼は目をまたたかせたり細めたりしながら言った。「ところで話してごらんよ。シヴァーブリンにいじめられているという娘は君とどんな関係があるんだい。若い男の恋心ってやつだろう、ええ」
「あれはぼくの許嫁《いいなずけ》なんです」と私はお天気が回復したのを見て、もうほんとうのことをかくす必要はないと思って、プガチョーフにそう答えた。
「君の許嫁だと」プガチョーフは叫んだ。「どうしてそれを先に言わなかったんだい。よしおれが仲人《なこうど》をしてやろう。そして結婚祝いの酒盛りをやろう」それからベロボロードフのほうを向きながら、
「なあ、元帥、おれとこの若殿とは古い友達なのさ。これからみんなで夜食にしょう。一晩寝ればいい知恵もうかぶよ。彼氏の処分は明日また考えようよ」
私はこの押しつけがましい光栄を辞退できればうれしかったのだが、どうにもしょうがなかった。この百姓家の主人の娘である若いコザック娘がふたり出てきて、白い卓布でテーブルをおおい、パンや魚汁、ぶどう酒やビールのびんを運んできた。そして私はふたたび、プガチョーフやそのおそろしい一味の者どもと同じ食卓をかこむこととなったのである。
私が不本意ながら列席していたその酒宴は、夜ふけまでもつづいた。やがてすっかり酔いつぶれてしまった。プガチョーフが、座席にすわったままうとうとしはじめると、彼の仲間たちは起ち上がって、私にも部屋を出るように合図した。私は彼らについてそこを出た。フロプーシャの指図で、番兵が私を裁判所になっている百姓家へ連れていった。そこにサヴェーリイチもいて、ふたりいっしょにそのままそこへ監禁されてしまった。じいやはめまぐるしいほど色々のできごとに遭遇し、度胆《どぎも》を抜かれて、私に問いの言葉ひとつ発することもできなくなっていた。彼は暗がりのなかで横になって、長い間溜息をついたり呻《うめ》いたりしていたが、やがて鼾《いびき》をかきだした。が私はいろんな考えがつぎからつぎにうかんできて、とうとう朝まで一睡もしなかった。
朝になると、プガチョーフの名で私を呼びに来た。私は彼のところへ行った。門のところにタタールの馬を三頭つけた幌橇《ほろぞり》がとまっていた。往来には住民が群がっていた。私は玄関でプガチョーフに出会った。彼は毛皮外套を着、キルギスの毛皮帽をかぶって、旅装を整えていた。昨夜の連中が彼を取り巻いていたが、その奴隷的屈従のありさまは、昨夜私が見かけた光景とはうってかわったものだった。プガチョーフは上きげんで私に朝のあいさつを言い、いっしょに橇に乗るよう命じた。
私たちは乗り込んだ。
「ベロゴールスク要塞へやれ」とプガチョーフは、立ったまま三頭の馬を馭していた肩幅の広いタタール人に言った。胸中の動悸《どうき》がはげしく打っていた。馬は動きだし、頸の小鈴が鳴って、橇は飛ぶように走り出した。
「とまれ、とまってくれ」ききなれた声が響きわたって、見るとサヴェーリイチが向こうから駆けてくるのだった。プガチョーフがとまれと命じた。
「若さま、ピョートル・アンドレーイチ」とじいやは叫んだ。「この年寄りを置いてきぼりになさるなんて、こともあろうにこんな悪……」
「やや、老いぼれか」とプガチョーフが彼に言った。「また会えたな。さあ馭者台へ乗るがいい」
「ありがとうございます、陛下。ありがとうございます。父上さま」とサヴェーリイチは乗り込みながら言っていた。「この年寄りを拾って乗せてくださり、安心させてくださいました御報いに百年も長生きなされますように。あなたのことは生涯神さまにお祈りいたしますし、もう二度と兎の皮チョッキのことは申しません」
この兎の皮チョッキのことは、今度こそプガチョーフを本気で怒らせたかもしれなかった。幸運にも、僭称者は聞きもらしたか、あるいはこの突拍子もないあてこすりに取り合う気もなかったのか、どっちかである。馬はふたたび走り出し、住民たちは往来に並んで深々と頭をさげた。プガチョーフは両側へ会釈しつづけた。たちまち私たちは村を出て、坦々とした路上を疾駆していった。
このとき私が何を感じていたか、読者は容易に想像がつくことだろう。数時間後には、私は一度はもう失ったものとあきらめていたその人とあいまみえることができるはずである。私はふたりの出会いの瞬間を心に描いてみた……私はまた私の運命を手中に握っている男、そのときそのときの状況の奇妙な行きがかりで、私とふしぎな縁でつながっている男――のことも考えた。私は、私の恋人を救い出してやろうと自ら名乗りをあげてくれたこの男の途方もない残忍性や、血に飢えた習性を思い出していたのである。プガチョーフは、彼女がミローノフ大尉の娘だとは知っていない。恨めしさのあまり、シヴァーブリンが、何もかも彼にぶちまけてしまうかもしれない。プガチョーフが別の形で真相を嗅ぎ出してくるかもしれない。そうなったらマリヤ・イヴァーノヴナはどうなるだろう。悪寒が私の全身をつらぬき、髪の毛も逆立つ思いだった……。
突然プガチョーフが問いかけてきたので、私の物思いはやぶられた。
「若殿、何をそんなに考えていらっしゃるんだね」
「どうして考えないでいられますか」と私は彼に答えた。「私は将校で貴族です、昨日まではあなたを敵にまわして戦っていたのに、今日はあなたとひとつ橇に乗っている。しかもぼくの一生の幸福はあなたにかかってるんですからね」
「それがどうしたんだ」とプガチョーフはきいた。「こわくなったのかい」
私はいったん彼に命を助けてもらった以上は、彼が同情してくれるだけでなく、力になってさえくれるものと思っていると答えた。
「そうさ、君の言うとおりだ、まったく君の言うとおりだよ」と僭称者は答えた。「君も知ってるだろうが、おれの手下どもは君を白い目で見ていたんだ。あの爺《じい》さんときたら、今日になっても君はスパイだ、拷問にかけて絞り首にしちまえと言い張ってたんだからな。わしはききいれなかったがね」そこで、サヴェーリイチやタタール人にきかれないように、声を低めて言いたした。「それというのも、君のいっぱいの酒と兎の皮チョッキのことを忘れてないからさ。どうだい、これでわしが、君らの連中が言うほど残忍非道な男じゃないことがわかるだろう」
私はベロゴールスク要塞が占領されたときのことを思い出したが、彼にあえてさからうこともないと思ったので、返事しないで黙っていた。
「オレンブルグじゃわしのことを何と言ってる」としばらく黙っていたプガチョーフがたずねた。
「なかなか手強《てごわ》い相手だと言ってますよ。言うまでもなく、あんたは立派にお手並みを見せたわけですからね」
僭称者の顔には満面に自負の色がうかんだ。
「そうよ」と彼はうれしそうに言った。「向かうところ敵なしだからな。オレンブルグじゃあのユゼーエヴァの戦い〔プガチョーフの軍隊が、政府軍に大勝した初期の激戦〕のことを知ってるかね。四十人の将軍が戦死し、四軍団も捕虜になったんだぜ。君はどう思う。プロシャ王はわしの相手になれるかね」
悪党の大風呂敷《おおぶろしき》が私にはおもしろかった。
「あんたのほうこそどう思います」と私は言った。「フレデリックに勝てると思いますか」
「あのピョートル・フョードロヴィチにかね。勝てんことがあるものかね。君らの将軍たちにはわしはもう勝ったじゃないか。ところが、将軍たちは彼を負かしたんだからな。今日までわしの武運には|つき《ヽヽ》があった。見ててくれよ、わしがモスクワへ攻めのぼるときにも、やっぱりそういくかどうかをな」
「あんたはモスクワまでも攻めていくつもりですか」
僭称者は少し考えていたが、小声で言った。「そいつはわからんて。わしの行く道は狭いからな。案外自由がないんだ。手下どもは庇理屈《へりくつ》をこきよるでな。やつらは曲者《くせもの》だよ。わしはしょっちゅう聞き耳を立ててなきゃならないんだ。いったん敗けがこんできたら最後、やつらはわしの首で自分たちの首をつなごうとするにきまってるからな」
「そこですよ」と私はプガチョーフに言った。「そういうことにならないうちに、あなたのほうからやつらを見捨てて、女帝陛下のご仁慈にすがったほうがよくはないのですか」
プガチョーフは苦笑した。
「だめだ」と彼は答えた。「今さら後悔したってはじまらない。このわしが赦《ゆる》されるわけがない。毒食わば皿までよ。なにわかるもんか。うまくいくかもしれないぜ。グリーシカ・オートレピエフだってモスクワの帝位についたじゃないか」
「で、あの男の末路を知ってますか。窓からほうり出されて、ずたずたに斬り裂かれ、焼かれたうえに、その灰を大砲につめて、ずどんとぶっ放されたんですよ」
「なあ君」とプガチョーフははげしい気魄《きはく》をこめて言った。
「一つ君におとぎばなしをして進ぜよう。わしが子どもの時分、カルムイクの婆さんからきいた話だがね。あるとき鷲《わし》が鴉《からす》にたずねた。『ねえ、鴉君、君がこの世に三百年も長生きするというのに、なんでこのおれはたったの三十三年しか生きられないんだろうね』『それは、父っつあん』と鴉が答えた。『あんたは生き血を吸うが、わしは死骸《しがい》を食べるからさ』そこで鷲は考えた。『わかった。じゃひとつおれも君と同じものを食ってみるか』というわけで、鷲と鴉は飛んでった。すると斃《たお》れた馬が目にはいった。さっそく舞いおりて、それにとまった。鴉はうまいうまいと啄《つつ》きはじめた。ところが鷲はひと啄きふた啄きしただけで、羽ばたきしながら鴉に言った。『やっぱりごめんだ、鴉君。三百年生きて腐り肉を食うよりは、一度でいいさ、腹いっぱい生き血を吸うよ。あとは野となれ山となれさ』とね。どうだね、このカルムィクのおとぎばなしは」
「趣向をこらしたもんですね」と私は彼に答えた。「ですが、殺人や略奪をして生きてゆくことは、ぼくからみれば、死骸を啄くのと同じですね」
プガチョーフは、意外だといわんばかりに私を見て、なんとも答えなかった。ふたりはめいめいの物思いに沈んで、黙りこんでしまった。タタール人は哀しげな歌をうたいはじめた。サヴェーリイチはとろとろしながら、馭者台で揺れていた。幌橇は坦々とした冬の道を飛ぶように滑っていた……突然のように、ヤイーク河のけわしい岸辺の上に小さな村があらわれた。柵も鐘楼も見えてきた……そして十五分もすると、私たちはベロゴールスク要塞に乗り込んだ。
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第十二章 孤児
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わしらの家のリンゴの木にゃ
上枝《ほつえ》も若芽もないように、
わしらの家の花嫁御寮にゃ
父さんも母さんもありませぬ、
嫁入りじたくの世話のやき手も、
祝福をやさしく与える人たちも
……婚礼の唄
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幌橇《ほろぞり》は司令官の家の上り段へ乗りつけた。住民はプガチョーフの鈴の音を聞きつけると、群がって私たちのあとについてきた。シヴァーブリンが玄関口まで僭称者《せんしょうしゃ》を出迎えた。彼はコザックふうの|なり《ヽヽ》をして|ひげ《ヽヽ》をはやしていた。裏切者は卑屈な口ぶりで喜びと忠誠の情を現わしながら、プガチョーフを橇から助け降ろした。私の姿を見ると、一瞬|狼狽《ろうばい》したが、すぐもとにかえって、私に手を差し出しながら言った。
「君も味方になったのか。とっくにそうすりゃよかったのさ」私は顔をそむけて何も答えなかった。なつかしい部屋にはいったとき、私の胸は疼《うず》きはじめた。壁には今は亡き司令官の辞令が、過ぎし日々の悲しい墓碑銘のように、まだ壁にかかっていた。プガチョーフが腰をおろした安楽椅子には、夫人の小言にあやされながら、イヴァン・クージミチがよく居眠りをしていたものだった。シヴァーブリンが自らウオッカを運んできた。プガチョーフは一杯飲みほすと、私のほうをさして言った。
「この人にもついであげたまえ」
シヴァーブリンはお盆を持って私に近づいてきたが、私はまたしても顔をそむけた。彼は気もそぞろらしかった。日ごろから敏感なだけに、彼はもちろん、プガチョーフがおかんむりだということを見てとった。彼はプガチョーフの前に小さくなって、ときどき私に向かってさぐるような目つきをした。プガチョーフは要塞の近況や、敵軍の動勢についての情報などをたずねていたが、いきなりこう言った。
「おい君、君はどんな娘を監禁しとるのかね。わしに見せてくれんか」
シヴァーブリンは死人のようにまっさおになった。
「陛下」と彼は声をわななかせて言った。「陛下、監禁ではございません……病気なのでございまして……奥の間に寝《やす》んでおります」
「じゃそこへ連れてってもらおう」と僭称者は起ち上がりながら言った。弁解無用の態だ。シヴァーブリンはプガチョーフをマリヤ・イヴァーノヴナの部屋に案内した。私はそのあとについていった。
シヴァーブリンが階段の上で立ちどまった。
「陛下」と彼は言った、「陛下が私に何をおおせつけられようと異存などございません。しかし余人が私の妻の寝室へはいりますことだけは、ご容赦願います」
私はわなわなふるえだした。
「じゃ、君は結婚したのか」と私は噛みつかんばかりの剣幕で、シヴァーブリンに言った。
「落ち着け」とプガチョーフが私を遮った。「君は黙ってな。ところで君は」とシヴァーブリンに向かって言葉をつづけた。「生意気言ったり、もったいぶったりするんじゃないよ。その女が君の妻であろうとなかろうと、わしは自分が欲しけりゃ連れてくだけさ。さあ若殿、ついておいで」
奥の部屋の扉口で、シヴァーブリンはまた足をとめ、とぎれがちに言った。
「陛下、あらかじめ申し上げておきますが、あの女はひどい熱にうかされておりまして、もう三日もうわごとばかり申しております」
「開けろ」とプガチョーフが言った。
シヴァーブリンはポケットをさがしはじめ、鍵を持っていないと言いだした。プガチョーフが足をあげて扉を一突きすると、錠がはずれて扉が開いた。私たちははいった。
私は一目見ると、気が遠くなってしまった。床の上に、百姓の着るぼろぼろの着物を着て、髪振り乱したマリヤ・イヴァーノヴナが、青ざめやせさらばえてすわっていた。彼女の前には水の壼があり、その上にパンのかけらがのっていた。私に気づくと、彼女は身震いして、叫び声をたてた。それから私がどうしたか、まるで覚えがない。
プガチョーフはシヴァーブリンを見つめて、にがりきった薄笑いをうかべながら言った。
「君の病院はどうして立派なもんだな」それからマリヤ・イヴァーノヴナのそばへ行き、「ねえ、娘さん、あんたの夫はなんだってあんたにこんな罰を食わせたんだね。あんたは夫にどんな悪いことをしたのかね」
「私の夫ですって」と彼女は|おうむ《ヽヽヽ》返しに言って、「あの人は私の夫なんかじゃありません。死んだってあの人の妻になんかなりませんわ。私はもし助けてもらえなかったら死のうと決心してましたの、ええ、死んでみせますとも」
プガチョーフは凄い目でシヴァーブリンをにらんだ。
「よくもこのわしをだましたな」と彼は言った。「このろくでなしめが。どんな目にあうかわかってるだろうな」
シヴァーブリンははたとひざまずいてしまった……その瞬間侮蔑の念が、私のなかの憎悪や憤怒の感情のいっさいを圧しつぶしてしまった。私は嫌悪に満ちた目で、脱走コザックの足下にはいつくばっている貴族を見つめていた。プガチョーフは少し気持をやわらげて、シヴァーブリンに言った。
「今度だけは勘弁してやる。だが、この先また何かやらかしたら、今度のもいっしょに思い出すから、そう思え」
それから彼は、マリヤ・イヴァーノヴナを顧みて、優しく言った。
「さあ、ここを出なさい。べっぴんさん。わしが自由にしてあげよう。わしは皇帝だ」
マリヤ・イヴァーノヴナはちらと彼を見上げると、前にいるのが自分の両親を殺した男だと覚った。彼女は両手で顔をおおうと、そのまま気を失って倒れてしまった。私は彼女に駆け寄ったが、そのとき私の古なじみのパラーシャがけなげにも部屋に飛びこんできて、だいじなお嬢さまの介抱にとりかかった。プガチョーフが部屋を出たので、私たちは三人で客間に降りた。
「どうだい、若殿」と笑いながらプガチョーフが言った。「ふたりしてかわいい娘を救い出したなあ。どうだね、さっそくあの坊さんを迎えにやって、姪の結婚式をやらせようじゃないか。わしが仮親になり、シヴァーブリンには付添人になってもらおう。それから祝いの大盤振舞いやって、めでためでたでお開きといこうじゃないか」
私があれほど危惧していたことがついに来た。シヴァーブリンはプガチョーフの提案を聞くと、かっとなった。
「陛下」とわれを忘れて叫んだ。「私が悪うございました。陛下に嘘を申し上げました。しかし、このグリニョーフも陛下を欺《あざむ》いております。あの娘はここの坊さんの姪なんかじゃありません。あれはこの要塞を占領したおり処刑にした、イヴァン・ミローノフの娘です」
プガチョーフは火のような目を私にそそいだ。
「これはまたどういうことだ」と彼はけげんな面持でたずねた。
「シヴァーブリンの言ったとおりです」と私は毅然として答えた。
「君はそのことは言わなかったぞ」とプガチョーフは言った。彼の顔は険悪になっていた。
「しかしよく考えてみてください」と私は彼に答えた。「あなたの部下のいる前で、ミローノフの娘が生きてるなどと言えるかどうか。それこそあの人たちに噛み殺されてしまったでしょう。あの娘を助ける|すべ《ヽヽ》はなにもなかったのです」
「まったくそのとおりだよな」とプガチョーフは笑いながら答えた。「あの酔いどれどもがかわいそうな娘に手加減するはずはないからな。坊主のかみさんめらがいっぱいくわしよって、上出来だったというわけか」
「どうかきいてください」と私は彼の上きげんなのを見てつづけた。「あなたをなんと呼んでよいかぼくは知りません。また知りたいとも思いません……でもあなたが労をいとわずぼくにつくしてくださったことに対しては、ぼくはよろこんで命を投げだす覚悟です。このことは神さまもご存知です。ただぼくの名誉や、キリスト教徒としての良心にもとることだけは要求しないでください。あなたはぼくの恩人です。ここまでしてくださったのですから、どうか最後まで力を貸してください。ぼくとあのいたいけな孤児とを放免にして、神さまの示される道へ行かせてください。私たちは、あなたがどこにおられようとも、またあなたの身にどんなことが起ころうとも、罪深いあなたの魂の救いを毎日神さまにお祈りします……」
プガチョーフの獰猛《どうもう》な魂も、さすがに感動したらしかった。
「よし、君のいいようにしたまえ」と彼は言った。「死刑にするなら死刑にする、赦《ゆる》すなら赦す、これがわしのやり方だ。さあ君のべっぴんさんをつれて、どこへなりと行くがいい。神さまの愛と忠告が君たちの上にあるように祈ってるよ」
そこで彼はシヴァーブリンをかえりみて、彼らが握っているすべての哨所や要塞の通行証を私に与えるように命じた。すっかり打ちのめされたシヴァーブリンは、棒立ちになったままだった。プガチョーフは要塞の視察に出かけていった。シヴァーブリンはそれに随行した。が私は出発のしたくがあるからと言って、残った。
私は奥の間へ駆けつけた。扉は閉っていた。私がノックすると、
「どなた」とパラーシャがきいた。私は名を告げた。すると、マリヤ・イヴァーノヴナのなつかしい声が扉のなかから聞こえてきた。
「お待ちになって、ピョートル・アンドレーイチ、今着替えをしてますの。アクリーナ・パンフィーロヴナのところへいらしてて。私もすぐあとからまいりますから」
私はいわれた通り、ゲラーシム司祭の家へ行った。司祭も妻君も私を迎えに飛び出してきた。サヴェーリイチが先触れしていたのである。
「ごきげんよう、ピョートル・アンドレーイチ」と妻君は言った。「またお会いできてうれしいわ。お元気でしたか。私ども毎日のようにあなたのお噂をしてましたのよ。あのマリヤ・イヴァーノヴナは、あなたが出発なさってから、ずいぶんいろんなつらい目に会いましたのよ、かわいそうに……そうそう、あなた、あなたはあのプガチョーフとどうしてあんなに仲よくおなりになったの。どうしてあの男はあなたを殺さなかったのでしょう。よかったこと、このことにはあの悪党に感謝しなくてはね」
「もういいよ、婆さんや」とゲラーシム司祭がさえぎった。「そう洗いざらいいっぺんにしゃべるもんじゃないよ。口は禍いのもとだよ。さあ、ピョートル・アンドレーイチ。どうぞおあがりください。どうぞ、どうぞ。ずいぶん久しぶりですな」
妻君はありあわせのもので私をもてなしはじめたが、その間もずっとしゃべっていた。彼女は私に、シヴァーブリンがマリヤ・イヴァーノヴナをわたせと迫ったときの模様や、そのときマリヤ・イヴァーノヴナが泣いて彼らと別れるのをいやがったようすや、マリヤ・イヴァーノヴナがパラーシカ〔これはほんとうに目はしのきく娘で、例の下士も彼女の意のままだった〕を通じて、彼女と連絡を絶やさないでいたことや、彼女がマリヤ・イヴァーノヴナにすすめて私に手紙を書かせたことなどを話してくれたのである。私のほうでも、わが身にふりかかったことを手短に話してきかせた。彼らがついた嘘がプガチョーフにばれてしまったときくと、ふたりして十字を切った。
「私どもには神さまがついていてくださいますわ」とアクリーナ・パンフィーロヴナが言った。「神さま、どうぞ暗雲をおはらいくださいまし。それにしても、あのアレクセイ・イヴァーノヴィチって男はなんていやらしいやつなんでしょう」
このとき扉があいて、マリヤ・イヴァーノヴナがあおじろい顔に微笑をうかべてはいってきた。彼女はあの百姓服を脱いで、以前のようにこざっぱりと可憐な身なりをしていた。
私は彼女の手を握りしめたまま、長いこと口をきくことができなかった。ふたりとも胸がいっぱいで物が言えなかったのである。主人夫婦は私たちが彼らどころではないと感づいて、席をはずしてくれた。私たちはふたりっきりになれた。ふたりだけのことしか頭になかった。私たちはいくら話しても話がつきなかった。マリヤ・イヴァーノヴナは私に、要塞が陥落したそもそもから、彼女の身にふりかかったことを細大もらさず話してくれた。彼女はまた毎日が針の|むしろ《ヽヽヽ》の上のようだったことや、卑劣漢シヴァーブリンによってなめさせられた憂《う》いつらいの数々を、つぎからつぎへと語るのだった。私たちはありし日の幸せをおもいおこした……。ふたりとも泣いていた……。やがて私は自分の心づもりを彼女に説明しはじめた。プガチョーフの権力下にあり、シヴァーブリンが掌握しているこの要塞に、彼女をおいておくことはできない。さりとて籠城《ろうじょう》の惨禍の極みにあるオレンブルグへ行くこともはじめから考えられない。彼女にはこの世にたったひとりの縁者もないのだ。私は彼女に私の両親の村へ行くことをすすめた。彼女ははじめのうちは躊躇《ちゅうちょ》していた。私の父が彼女をよく思っていないことを知っていたので、おそれたのである。私は彼女をなだめた。祖国のために斃《たお》れた誉れの軍人の遺児を引き取ることを、父は光栄なことでかつ義務であると考えるだろうと私にはわかっていたからである。
「愛《いと》しいマリヤ・イヴァーノヴナ」とやがて私は言った。
「ぼくはあなたを最良の伴侶だと思っています。不思議な運命によって、ぼくたちは固く固く結ばれてしまいました。もうどんなことがあっても、ふたりを引き離すことはできないのです」
マリヤ・イヴァーノヴナはわざとらしい含羞《はにかみ》も見せず、空遠慮もしないで、素直に私のいうことをきいてくれた。が彼女は、私の両親の承諾がないかぎりはどうしても私とは結婚できないと、念を押した。私は彼女の言葉にさからわなかった。私たちは心からの熱い接吻《くちづけ》をかわした。こうしてふたりの間のことはすっかりきまった。
一時間ほどして、下士がプガチョーフの下手《へた》くそな署名をした通行証を届けにきて、彼が私を呼んでいると告げた。行ってみると、彼はもう出発寸前のところだった。私を除いては他のあらゆる人々にとっておそろしい存在であり、暴君であり、悪党であるこの人間と別れるにあたって、私のいだいた感慨を述べることは不可能である。いや、やはりほんとうのところを語ろう。じつはその瞬間、私は彼に対する激しい同情の念にとらわれたのである。私は彼をその率いている悪党仲間から引き離し、今のうちになんとかして彼の首を救ってやりたいという、炎のような願いにかられたのだった。しかし、ふたりのまわりにはシヴァーブリンをはじめ、おおぜいの人々が群がっていて、私の胸をいっぱいにしたこの思いを、とうとう言えずじまいだったのである。
私たちは友だちのように別れた。プガチョーフは群衆のなかにアクリーナ・パンフィーロヴナの姿を見つけると、指を立てておどし、意味ありげにまばたきをして見せた。それから幌橇に乗り込んで、ベルダヘやれと命令した。そして、橇が動き出すと、彼はもう一度橇から身を乗り出して、私に大声で言った。
「さようなら、若殿。縁があったらまた会おうぜ」
まさにそのとおり、私たちはもう一度会うことになる。だがそのおりは、なんというありさまだったろう……。
プガチョーフは去った。私は彼のトロイカが疾走してゆくまつ白な広野を、長い間ながめていた。群衆は散っていった。シヴァーブリンも姿を消した。私は司祭の家へ引き返した。出発の準備はすっかり整っていた。私はこれ以上ここで時間をつぶしたくなかった。私たちの荷物は全部司令官の古馬車に積みこんであった。馭者たちはさっさとそれに馬をつけた。マリヤ・イヴァーノヴナは、教会の裏手に葬られている両親のお墓にお別れをしに行った。私がついて行こうとしたら、彼女はひとりで行かせてくれとたのんだ。少したってから、彼女は黙って静かな涙にぬれながらもどってきた。馬車が玄関に差し向けられた。ゲラーシム司祭と妻君は、戸口へ出てきた。私たち三人、マリヤ・イヴァーノヴナとパラーシャと私とは幌橇に乗り込み、サヴェーリイチは馭者台にあがった。
「ごきげんよう、マリヤ・イヴァーノヴナ、私のかわいい人、さようなら、ピョートル・アンドレーイチ、勇ましい鷹さん」と親切な妻君が言った。「道中ご無事でね。おふたりともお幸せにね」
私たちは出発した。司令官の家の窓際に、シヴァーブリンの立っているのが見えた。その顔には陰険な憎悪の色がうかんでいた。私は打ちのめされた敵にこれみよがしはしたくなかったので、目をそらした。私たちは要塞の門を出て、ついにペロゴールスク要塞を永久にあとにした。
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第十三章 逮捕
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「殿下、おゆるしください。職責により、あなたをただちに監獄へ送らねばなりません」
「存分に。覚悟の上だ。だがその前に、事のいきさつひととおり、話しておきたい」
……クニャジニーン
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ついその朝まで、あれほどに安否を気づかい苦しい思いをさせられた愛する少女と、今こうして手を取り合っている私が、まったく信じられなかった。つぎつぎに起こった事件はみんな白昼夢ではなかったかとさえ思えてくるのだった。彼女もやはりまだ茫然《ぼうぜん》と夢見心地らしく、じっと私をみつめたり、橇《そり》の行手に眸《ひとみ》をこらしたり、物思わしげなようすだった。私たちは黙っていた。私たちの心はあまりにも疲れはてていた。知らぬ間に二時間ばかり過ぎたころ、私たちはこれもプガチョーフの掌握下にある、つぎの要塞に到着していた。そこで私たちは馬をかえた。馬のつけ方の早いことや、プガチョーフの任命したひげづらのコザックの司令官の面倒見のよいことから、私は、私たちを乗せてきた馭者のおしゃべりのおかげで、プガチョーフ朝廷の寵臣《ちょうしん》にまちがえられているということに気がついた。
私たちはさらに先を目指して出発した。日が暮れてきた。私たちは小さな市《まち》へ近づいていたが、そこはあのひげの司令官によれば、僭称者の陣に降るために行進中の有力部隊がいるということであった。私たちは哨兵に呼びとめられた。「だれだ」ときかれたとき馭者が大声を返した。
「皇帝陛下のご親友とその奥方です」
と驃騎兵《ひょうきへい》の一団がすごい罵声《ばせい》をあげながら、あっという間に私たちをとり巻いてしまった。
「悪魔の親友とやら、出てこい」と口ひげをはやした曹長が私にどなった。「きさまとその奥方さまとやらを、ここできりきりしめあげてやる!」
私は橇から出て、隊長の許へ案内するよう求めた。将校だとわかると、兵士たちは罵るのをやめた。曹長は私を少佐の許へ連行した。サヴェーリイチはぴったり私にくっついていて、ぶつぶつひとりごとを言っていた。
「なんてこってす、陛下のご親友だなんて。『虎を防いで狼《おおかみ》にあう』ですよ……。ああ神さま、お先まっくらです」橇は並足で私たちのあとからついてきた。
五分後に私たちは明るい灯のともった小さな家に着いた。曹長は私を衛兵にたのんで、私のことを報告に行った。彼はすぐもどってきて、少佐殿は私などに会ってる暇はない、私は牢へぶちこんでおけ、奥さんだけ連れてこいと命令したと言った。
「それはどういうことだ」私はかっとなって叫んだ。「少佐は気でもちがってるんじゃないかね」
「存じません、少尉殿」と曹長は答えた。「ただ少佐殿は少尉殿を牢へ連れていき、少尉殿夫人は少佐殿のところへ連れてこいと命令されただけであります。少尉殿」
私は入口の上り段を駆けあがった。衛兵たちは私を取り押えようとはしなかったので、まっすぐ部屋のなかへ飛び込んだ。そこでは六人ばかりの驃騎兵将校がカードをやっていた。少佐が親だった。その男を一目見て、それがあのシンビールスクの宿屋で私から大金をまきあげていった、イヴァン・イヴァーヌイチ・ズーリンであることがわかったときの、いや驚いたこと。
「こんなことってあるか」と私は叫んだ。「イヴァン・イヴーヌイチ、そうだろう」
「やあ、やあ、やあ、ピョートル・アンドレーイチ。どういう風の吹きまわしかね。どこから来たんだい。いやあ元気かい、兄弟。どうだい、君も一枚加わらんかね」
「ありがとう、それより宿屋をつごうしてもらいたいんだ」
「なんだって宿屋なんか。おれんとこへ泊まれよ」
「それがだめなんだ。連れがあるもんで」
「じゃその友だちもここへ連れてこいよ」
「友だちじゃないんだよ。ぼくは……婦人連れなんだよ」
「婦人連れだって。いったいどこでうまいことやったんだい。お安くないぜ、兄弟」
こういったかと思うと、ズーリンは意味深長な口笛を吹ぎだしたので、一同はどっと笑い崩れた。私はすっかりてれてしまった。
「じゃ」とズーリンがつづけた。「まあしかたがない。宿屋を世話してやるよ。それにしても残念だな……旧交を温めて一杯やりたかったのになあ……おおい。当番、どうしてそのプガチョーフの親友の奥方とやらを、ここへ連れてこんのだ。それとも駄々《だだ》をおこねあそばしているのか。ちっともこわがることはないとそう言ってやれ。だんなは紳士でいらっしゃる、けっして悪いことはなさらないってな。うまく首っ玉つかまえて連れてこい」
「君は何を言ってるんだ」と私はズーリンに言った。「プガチョーフの親友の奥方だなんて。あれは亡くなったミローノフ大尉の娘さんだよ。捕えられてたのをぼくが救い出して今父の村まで送ってゆく途中なんだよ。そこへ預けようと思ってね」
「なに。じゃ今さっき報告してきたのは君のことだったのかい。たまげたね。いったいどういうことなんだい」
「あとでみんな話すよ。今はとにかく、たのむからあの人を安心させてやってくれたまえ。君の騎兵にすっかりおどされてしまったからね」
ズーリンはすぐ手配してくれた。彼は自分で表へ出てきて、とんだ誤解をしてしまったことをマリヤ・イヴァーノヴナにわびて、彼女を町でいちばん上等の宿屋へ案内するよう曹長に言いつけた。私は彼のところで泊まることにした。
私たちはみんなそろって夜食をとり、そのあとふたりきりになると、私は彼に自分の冒険談を話してきかせた。ズーリンは熱心にきいていた。私が話しおえると、彼は首を横に振りながらこう言った。
「いゃあ君、おもしろかった。だがひとつだけ気にくわないことがある。なにが悲しくって君は結婚なんかする気になったんだい。ぼくは名誉ある将校だ、君にいい加減なことはいわないつもりだ。ぼくの言うことを信じたまえ。結婚は愚の骨頂だよ。なんだって妻君のごきげんをとり結んだり、赤ん坊のお守りまでしなきゃならないんだい。ちぇっ、くだらないぜ。ぼくの言うとおりにしたまえ。大尉の娘とは別れてしまえよ。シンビールスクヘの道なら、おれが掃除しといたからだいじょうぶだよ。あの娘は明日にもひとりで君の両親の許へ発《た》たせてはどうだい。そして君はぼくの部隊へ残りたまえ。今さらオレンブルグヘもどったってはじまらないよ。また暴徒の手にかかりでもしたら、今度ばかりは、そうそううまくのがれられるかどうかね。そうこうしてりゃ恋の虫もおさまって、万事うまくゆくさ」
私はかならずしも彼の言うことに納得がいったわけではなかったが、軍人の本分が、女帝陛下の軍隊にとどまることを求めているのを感ぜずにはいられなかった。私はズーリンの忠告に従って、マリヤ・イヴァーノヴナを村へやり、自分は彼の部隊へ残る決心をした。
そこヘサヴェーリイチが、私に着替えをさせるためにやってきた。私は彼に、明日彼だけでマリヤ・イヴァーノヴナを連れて発つ準備をしておくよう言いつけた。彼はすぐにはうんといってくれなかった。
「なにをおっしゃいます、若さま。どうして私があなたのようなかたをおひとりにしておけます。だれがあなたのお世話するのですか。ご両親さまはなんとおっしゃるでしょう」
じいやの頑固なことは百も承知だったから、私は彼を情理をつくして説得しようと思った。
「なあじいや、アルヒーブ・サヴェーリイチ」と私は彼に言った。「一生恩にきるからたのまれておくれよ。ぼくはここではだれの世話にならないでもやってゆけるんだよ。だがマリヤ・イヴァーノヴナはおまえを付けずにやるとなると、それこそおちおちしてられないんだ。あの人につくしてくれることは、ぼくにつくしてくれることも同じなんだよ。事情がよくなったら、ぼくはあの人と結婚することを固く誓ってるんだ」
するとサヴェーリイチは、言いようのない驚きの色をうかべてはたと両手を打ち合わせた。
「結婚なさる」と彼はおうむ返しに言った。「坊ちゃまがねえ、結婚なさる、お父さまはなんとおっしゃいますでしょう。お母さまだってなんとお思いになるでしょう」
「許してくださるよ、きっと許してくださるよ」と私は彼に答えた。「マリヤ・イヴァーノヴナの人柄を知ってくだされば。だからこそおまえがたよりなんだよ。父も母もおまえを信用してるんだ。ね、ここはひとつ気張ってくれないか」
老人は感動した。
「ああ若さま。私のピョートル・アンドレーイチ」と彼は答えた。「ご結婚はちと早かろうかと思いますが、マリヤ・イヴァーノヴナのようなご立派なお嬢さまとなら、この機をのがすってほうもありませんや。お考えどおりになさいませ。天使のようなあのかたのおともをしてまいって、精いっぱいご両親におとりなしをいたしましょう。このような花嫁さまには嫁入り仕度《じかく》などいりませんとね」
私はサヴェーリイチに礼を言い、ズーリンと同じ部屋で床についた。感情がたかぶっていた私は、盛んにおしゃべりをした。ズーリンははじめのうちこそ、あいづちをうって話相手になっていたが、しだいに口数が少なくなり、とりとめがなくなって、やがて私への返事のかわりに笛のような鼾《いびき》をたてはじめた。私も黙り、やがて彼のあとを追った。
つぎの日の朝、私はマリヤ・イヴァーノヴナのところへ出かけていった。私は彼女に自分の考えを伝えた。彼女はそれを賢明なことだと認め、すぐに同意してくれた。ズーリンの部隊はその日のうちに市《まち》から出動しなければならなかった。また滞在を長びかせる理由もなかった。私はその場で、マリヤ・イヴァーノヴナをサヴェーリイチに託し、両親あての手紙を彼女にことづけて、別れをつげた。マリヤ・イヴァーノヴナは泣き出した。
「ごきげんよう、ピョートル・アンドレーイチ」と彼女は小さな声で言った。「もう一度お会いできるかどうか、神さまだけがご存知です。でも私は一生あなたのことは忘れません。私が死ぬ日まで、あなたのことはこの胸に抱きしめてまいります」私は何も答えてやることができなかった。まわりには大勢いたし、私はその人たちのいる前で、胸をかき乱している感情に溺《おぼ》れたくはなかったのである。とうとう彼女は発《た》っていった。私はズーリンのところへもどったが、気分が滅入って黙りこくっていた。彼は私の気持をうき立たせようとし、私も気晴らしがしたかった。で私たちは一日じゅう乱痴気騒ぎで過ごし、夜にはいってから発進した。
二月も終わりかけていた。軍事行動を妨げていた冬は去りつつあり、味方の将軍たちは共同作戦にはいる準備に万全を期していた。プガチョーフは依然としてオレンブルグの城下にとどまっていた。その隙《すき》に彼の周囲では、味方の諸部隊が連携を保って賊軍の本拠へ迫りつつあった。反乱に加担した村々は、わがほうの軍隊を見るやつぎつぎに降伏していった。賊軍の一味はわが軍と接触するやいたるところで敗走を重ね、全状況は祝福すべき、急速な反乱の終息を予告していたのである。
ほどなく、ゴリーツィン公爵〔カザン・オレンブルグ地方の討伐総司令官〕が、タチーシチェヴォ要塞付近でプガチョーフを撃破、その兵力を駆逐し、オレンブルグを解放した。これは反乱に最後の決定的打撃を与えたように見えた。ズーリンは当時、蜂起したバシキール人の一味撃破のために派遣されたのだが、敵軍は私たちがその姿を見ない前に四散していた。春は私たちをタタール部落に足どめさせてしまった。雪解けで河川が氾濫し、道が通れなくなったからである。私たちは盗賊や野蛮人相手の退屈でくだらぬ戦争に近々終止符が打たれるだろうと考えて、いささか無聊《ぶりょう》の慰めにしていた。
ところがプガチョーフは捕まらなかった。彼はシベリアの工場地帯へ姿を現わし、そこで新たに一味を結集し、またしても非道を働きはじめた。彼の所々方々での成功の噂は、ふたたび蔓延《まんえん》しはじめた。私たちはシベリアの諸要塞が相ついで落ちたことを知った。それから間もなく、今度はカザンの占領と僭称者のモスクワ進撃のニュースが、たかが暴徒と彼らの実力をみくびり、偸安《とうあん》の惰眠をむさぼっていた司令官たちをふるえあがらせたのである。ズーリンはヴォルガを渡って前進せよとの命令を受けた。〔付録の十三章への「補遺の章」の一節はここに挿入される〕
私たちの行軍の模様や、戦争の結末について記述することはやめにする。ただひとこと、惨状はその極に達していたとだけ言っておこう。暴徒に荒らされた村々を通過しながら、私たちは不本意ながら疲幣しきった住民から、彼らが暴徒からかろうじてかくしおおせたわずかな物資を徴発するのだった。いたるところすべて無政府状態だった。地主たちは森林に身を潜めていた。暴徒の一味は行く先ざきで悪事のかぎりをつくし、諸部隊の隊長は、好き勝手に処刑したり放免したりしていた。広大な地方一帯をなめつくした大火事は、天をも焦がす凄さであった……神よ、二度とふたたび、祖国ロシアに不条理にして無慈悲きわまる暴動を起こさせ給うな。
プガチョーフは、イヴァン・イヴァーノヴィチ・ミヘリソン〔プガチョーフの乱鎮定に功があった将軍〕の追撃を受けて逃走を重ねていた。間もなく彼が完全に撃破されたことを、私たちは知った。やがてズーリンは僭称者捕縛の報と、同時に停戦命令を受け取った。戦乱はついにおわったのだ。ついに私は両親の許へ行くことができるのだ。両親を抱きしめ、一別以来何の音沙汰もないマリヤ・イヴァーノヴナとも会えるのだと思うと、嬉しさで天にものぼる心地だった。私は子どものように跳ねまわった。ズーリンは笑って、肩をすくめながら言うのだった。
「いいや、君はろくなことにはならんぞ。結婚してみろ、人生の墓場だぜ」
が一方では、奇妙な感情が私の歓喜を毒すのだった。あれほど多くの無辜《むこ》の犠牲者の血を浴びた悪人のこと、その彼を待ち受けている刑罰のことを思うと、どうしょうもなく胸騒ぎがしてくるのだ。『エメーリャ、エメーリャよ』と私は無念に歯がみしながら考えた。『なぜ君は銃剣に胸を貫かせなかったのだ。なぜ霰弾の下に身をさらさなかったのだ。君だってそれ以上の策は考えつかなかっただろうに』万事休す。彼について想うとき、彼がときに残忍さをむきだしにする兇悪な発作に駆られている最中《さなか》に、それでもなお私を容赦してくれたこと、あの卑劣なシヴァーブリンの手から私の許嫁を救い出してくれたことの記憶をわかちがたいのである。
ズーリンは私に休暇をくれた。数日後には私はふたたび家族にとりかこまれ、マリヤ・イヴァーノヴナとも再会できるはずだった……そのとき突如として思いもかけない事態が落雷のように私を打ちくだいた。
帰郷と決めていたその日、出発すればいいばかりになっていたとき、ズーリンが紙きれを手にして、とても心配そうな面持ちで私の宿舎へはいってきた。私はどきりとした。われ知らず胸の動悸がはげしくなった。彼は私の従卒を外へ出して、私に用があってきたと告げた。
「なんですか」と私は不安な気持でたずねた。
「ちょっと困ったことになってね」と彼はその紙きれを私にわたしながら言った。「読んでみたまえ。今受け取ったところだ」私はそれを読みはじめた。それは各部隊の隊長にあてた秘密命令書で、所在のいかんを問わず見つけしだい私を逮捕し、プガチョーフ事件のため設置されたカザンの査問委員会へ即刻護送すべしとあった。
私はあわやその紙をとり落とすところだった。
「やむをえんな」とズーリンが私に言った。「命令に服従することがぼくの務めだ。たぶん、君がプガチョーフと仲よさそうに旅行したとでも言う噂が、どうかして政府の耳にはいったんだろう。君が委員会で身の証《あかし》をたて、なんでもなかったということになるよう、ぼくは祈ってるよ。あまり悲観しないで、出かけてゆくさ」
私にはなんら良心に恥ずるところはなかった。査問はこわくなかった。しかしあの楽しい再会の瞬間は、もう数カ月も先に延びるだろうと思うと私は悲しみに胸が張りさける思いだった。馬車の用意はできていた。ズーリンは友情厚く私に別れを告げてくれた。私は馬車に乗せられ、抜刀したふたりの驃騎兵につきそわれて、街道を進んでいった。
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第十四章 査問
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世間の噂は
海の波
……諺
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私の嫌疑は、私が無断でオレンブルグから抜け出したことにあると私は信じていた。弁明なら容易にできる――出撃は禁じられていなかったばかりか、大いに奨励されていたのだから。血気にはやり過ぎたという非難は受けるかもしれないが、命令違反はしていないはずである。だが私がプガチョーフと親しくしていた事実は、多くの目撃者によって証言されるかもしれない、その点は大いに疑わしいとしてにらまれるにちがいない。道中ずっと私は、待ち受けている訊問について思いをこらし、それに対する答弁も考えてはみたが、結局、法廷ではありのままを述べようと決心した。これが最も簡明で、同時に最も有望な弁明の方法であると考えるに至ったからである。
私は荒涼たる焼野原と化したカザンに到着した。通りには人家のかわりに燃えかすの山がならび、屋根も窓も吹っ飛んだすすけた壁だけが突ったっていた。これがまあ、プガチョーフの残していった爪跡だったのである。やがて私は、焼けただれた市《まち》の中央にそこだけ無傷で残った要塞へ連行された。護送兵は私を衛兵将校に引きわたした。将校は鍛冶屋を呼べと大声で命じた。私は両足に鎖をつけられ、それをしっかり接《つな》ぎ合わせられた。それから私は牢へ送られ、ぐるりが荒壁で鉄格子のはまった小窓がひとつあるだけの狭くて暗い独房へほうり込まれた。しょっぱなからこれでは、お先まっくらだと思った。しかし私は元気も希望も失ってはいなかった。私はあらゆる受難者の苦しみを想像して自分を慰め、清らかな、しかし千々に引き裂かれた胸の底から湧き出てくる祈りの甘美さをはじめて味わいつつ、もはや前途を思いわずらうことなく安らかな眠りについた。
翌日、看守が私を起こしに来て、委員会が出頭を求めていると告げた。ふたりの兵隊が中庭を通って私を司令官邸へ連れてゆき、自分たちは控室へとどまって、私だけを奥へ通らせた。
私はかなり広い部屋にはいった。書類でおおわれた机の向こうにふたりの男が腰をおろしていた。冷厳な風貌の老将軍と、もうひとりは二十七、八歳ぐらいの若い近衛大尉で、彼はとても好感のもてる顔立をしていて、きびきびした態度のなかにもどこか親しみのある人物だった。窓際のテーブルには、ペンを耳にはさんだ書記がすわって、私の供述に備えて、紙の上にかがみ込んでいた。訊問がはじまった。私は姓名と階級をきかれた。ひょっとして君はアンドレイ・ペトローヴィチ・グリニョーフの息子ではないかと将軍がたずねた。そして、私が返事をすると、きびしい口調で、
「あの尊敬すべき人物がこのような不肖《ふしょう》の息子を持ったとは、実に気の毒じゃ」と言い返した。私は落ち着きはらって、私の身にどのような嫌疑がかかっていようと、率直に真実を申し述べることによって、疑いを晴らすことができると思うと答えた。私の自信は彼の気にいらなかった。
「なかなかぬかりのないやつじゃ」と彼は渋面をつくりながら言った。「だが、こっちもそんなのには慣れておるんでな」
そこで青年将校が訊問をはじめた。どういう機会に、またいつから私がプガチョーフの配下にはいったか、そしてどのような役割をはたしていたかと。
私は憤慨して、自分はいやしくも将校であり、貴族である。プガチョーフの配下にはいって、何らかの役割をはたすなど、できようはずがないと答えた。
「ではいかなる理由で」と訊問者が問い返した。「その同僚のことごとくが虐殺されたなかで、貴族であり将校である者がひとりだけ僭称者に助命されたのか。いかなる理由で、将校であり貴族である者が、暴徒どもと膝つきあわせて酒席に連なり、首領から毛皮外套や馬や半ルーブリまで与えられたのか。この奇態な友誼が、裏切りによるものではなく、またすくなくとも醜悪きわまる許すべからざる怯懦《きょうだ》によるものではないとするなら、そもそもそれは何により生じたものか」
私はこの近衛将校の言葉に激しい侮辱を感じたので、憤激して弁明しはじめた。私は草原《ステップ》で大吹雪に見舞われたとき、はじめてプガチョーフと知合いになったこと、ベロゴールスク要塞占領の際に彼は私に気づいて助命してくれたことを物語った。また、私は毛皮外套や馬を僭称者からもらって、別に不名誉なこととも思わなかったことは事実であるが、ペロゴールスク要塞は最後の最後まで死守したことを述べた。おわりに私は、悲惨なオレンブルグ籠城戦の際、私が示した忠誠を証言しうる人物として、例の将軍の名をあげた。
すると、厳格な老将軍は机から、ひろげられてある手紙を取りあげ、読みはじめた。
「軍律を侮り、宣誓の義務に違反して現下の反乱に加担し、かつその首領とよしみを通じたる嫌疑のある少尉補グリニョーフに関する閣下のご下問に対し、小官はここに答申の光栄を有すしだいであります。右少尉補グリニョーフは昨一七七三年十月初めより本年二月二十四日までオレンブルグに勤務しておりましたところ、同日市を脱出いたし、爾来《じらい》小官の統率下になき者であります。しかるに投降者より聞き及ぶところにより、彼は一時プガチョーフ本営にあり、後、首領と同乗して以前勤務せるベロゴールスク要塞へ赴きたる由判明いたしました。彼の行状に関しましては、小官が申し上げられ……」
ここで彼は読むのをやめて、語気も荒々しく、
「どうだ、これでもまだ抗弁するつもりか」
私はかわらぬ率直さで引きつづき弁明をはじめ、マリヤ・イヴァーノヴナとの関係に言及しょうとしかけたが、そのとたん打ちかちがたい嫌悪感に見舞われた。もしここで彼女の名前を出したら、委員会はかならず彼女を喚問するにちがいないという思いがうかんできたのである。彼女の名前を悪党どもの醜悪な讒謗《ざんぼう》の文句のなかに引合いに出すのみか、彼女自身を彼らとの対決のために出頭させる――このおぞましき想念に私は打ちのめされて、急に口ごもってしまった。
訊問者たちが私の答弁をいくらか好意的にききはじめたと思われた矢先、私が混乱してしまったので、私はふたたび不利な心証を抱かれてしまった。近衛将校は私を主告発人と対審させるよう求めた。将軍は|昨日の反徒《ヽヽヽヽヽ》を呼び出せと命じた。私はすばやく扉口へ顔を向けて、自分の告発人の現われるのを待った。二、三分すると鉄鎖の鳴る音が聞こえだし、扉があけられてはいってきたのは、シヴァーブリンだった。私は彼のあまりのかわりように仰天した。やせさらばえてまっさおだった。ついこの間までの漆黒《しっこく》の髪はまっ白で、長いあごひげはぐしゃぐしゃにもつれていた。彼は弱々しいが臆面もない声で自分の告訴をくり返した。彼によれば、私はプガチョーフの命で、スパイとしてオレンブルグへ派遣されたのだというのである。私が毎日遊撃に出たのは、市《まち》の状況を記した密書を敵にわたすためである。そしてついには平気で僭称者の軍門にくだり、彼とともに要塞から要塞へと乗りまわし、いろいろと手段を講じて同じ裏切者仲間を滅ぼそうと躍気になっていた。それは自分が彼らの後釜にすわって、僭称者の恩賞にありつこうとしたからである……。
私はじっと彼の言葉を終わりまできいた。そしてたったひとつ満足だったのは、マリヤ・イヴァーノヴナの名前が忌むべき悪党の口にのぼらなかったことである。それは軽蔑して彼をこばみ通した女のことを思うと、さすがに自尊心を傷つけられるからか、それとも彼の胸にも私を黙らせたと同じあの感情の閃きがかくされていたからだろうか。それはともあれ、ベロゴールスク要塞の娘の名前は、委員会の席上で出なかったのである。私はなおさら決意をかため、審問者たちが今のシヴァーブリンの証言を弁駁《べんぱく》できるだけの何かがあるのかとたずねたとき、私は一番最初に述べた釈明を固守するものであり、それ以外何も弁明することはできないと言った。将軍はふたりを退場させろと命じた。私たちはいっしょに出た。私は穏やかにシヴァーブリンの顔を見たが、ひとことも口はきかなかった。彼は意地悪そうな薄笑いをもらし、自分の鉄鎖を持ち上げると足早に私を追い越していった。私はまた牢につながれ、それからはもう二度と訊問に呼びだされることはなかった。
私にはまだ読者にお伝えすることが残っているが、それはどれもみんな私が直接目にしてきたことではない。しかし私はこの話をあまりたびたび聞かされたので、その話のこまかいところまでも私の記憶に刻みこまれ、まるで私自身その場にいあわせたかのように思えてくるのである。
マリヤ・イヴァーノヴナは、私の両親から、旧時代の人人特有のあの心からのいたわりで迎えられた。両親はかわいそうな孤児を保護し、愛情をそそぎかける機会を得たことを神のお与えになった恵みと受けとったのである。間もなく両親は彼女に心からの愛着をおぼえるにいたった。彼女の人柄がわかってくるにつれて、愛さずにはいられなくなったというわけである。私の恋は、もはや父にもかりそめのでき心とは思われなくなった。母にいたっては、この愛くるしい大尉の娘を息子のペトルーシャの妻に迎えてやりたい一心だったのである。
私が逮捕されたという噂は、家中の者を動転させた。マリヤ・イヴァーノヴナは両親に私とプガチョーフのふしぎな因縁を話してきかせたが、その話しぶりがいかにも率直だったので、ふたりはそれを心配するどころか、腹の底から笑い出してしまったのである。父は私が、帝位の顛覆《てんぷく》と貴族階層の根絶を目的とした忌むべき暴動に加担しうるなど頭から信じようともしなかった。彼は厳重にサヴェーリイチに問いただした。じいやは若さまがプガチョーフのところへお客に招ばれたことも、悪党に気にいられていたこともかくさず話したが、裏切りなどということは誓ってきいたこともないと言った。老父母はそれで安心し、吉報を今や遅しと待ちこがれるようになった。マリヤ・イヴァーノヴナはたいへんな衝撃を受けたけれども生来控え目で慎重な質《たち》だったので黙って耐えていた。
何週間かたった……突然父にペテルブルグから、親戚|B《ヴェー》××公爵の手紙が届いた。公爵は私のことを書いてよこしたのである。型どおりのあいさつののち、彼は私が暴徒の陰謀に参画していたという嫌疑は不幸にしてあまりにも明確な事実であることが判明し、見せしめのため当然極刑に処されるべきところ、女帝陛下には父親の勲功と老齢を酌量あそばされ、その子の罪一等を減じ給い、不名誉な死刑を免じてシベリア辺境への終身流刑にとどむべしとの判決がくだったと述べていた。
青天の霹靂《へきれき》ともいうべきこの一撃は父の命を奪いかねないほどのものであった。彼は日ごろの剛直さを失い、その悲嘆〔平生はその気配さえ見せなかった〕は、痛ましい嘆きの言葉となってあふれだした。
「何たることだ」と父はわれを忘れてくり返すのだった。「わしの息子がプガチョーフの陰謀に加わっていたなんて。この年になって何という憂き目を見なきゃならんのだ。女帝陛下が死刑だけは免じてくださった! それでこのわしの気持が軽くなるというのか。死刑など恐れてはいない。わしの高祖父の父は自分の汚れなき良心の命ずるがままに、信念をつらぬき通して刑場の露と消えいったのじゃ。わしの父はヴォルインスキーやフルーシチェフと苦難をともにした人だ。なのに貴族でいながら宣誓に背いて追剥《おいはぎ》、人殺し、逃亡奴隷の徒どもと共謀するとはなにごとだ、一門の名折れだ、面汚しが」
父の絶望のありさまに狼狽《ろうばい》した母は、父の前では泣くこともできず、世間の噂など根も葉もない、人の口ほどかわりやすいものはないなどと言って、必死に彼に元気をとりもどさせようとした。しかし父の気が晴れるはずもなかった。
マリヤ・イヴァーノヴナはだれにもまして苦しんでいた。私がちょっと彼女に言及しさえすれば、いつでも身の潔白を証明できると信じていたので、彼女はいわれない私の不幸はみんな彼女のせいだと思っていたのである。彼女は涙や苦痛をだれにも見せはしなかったけれど、その一方では絶えず私を救いだす方法を考えていた。
ある晩のこと、父は長椅子にかけて『宮中年鑑』をめくっていたが、心ここにあらずだったので、この読書もいつもながらの作用を彼におよぼさなかった。彼は昔の行進曲を口笛で吹いていた。母は黙々と毛糸のセーターを編んでいたが、涙がときおりその手仕事の上にしたたった。突然、やはりそこで針仕事をしていたマリヤ・イヴァーノヴナが、どうしてもペテルブルグへ行かなければならなくなった、それでなんとか出発のご面倒を見てはいただけないだろうかと言いだした。それをきいて母はすっかり悲観してしまった。
「なんでまたペテルブルグヘなぞ」と彼女は言った。「ねえ、マリヤ・イヴァーノヴナ、あなたまで私どもを見捨てようとなさるのですか」
マリヤ・イヴァーノヴナは母に、自分の将来の運命はひとえにこの旅行にかかっているのだと答え、自己の忠節に殉じた人の娘として、有力なかたがたの庇護と助力を求めに行くのだと話した。
父はうなだれた。息子の冤罪《えんざい》を思い出させるどんな言葉も、彼には苦痛であり辛辣《しんらつ》な非難のように響くのだった。
「では行ってきなさい」と彼はため息まじりに彼女に言った。「わしらはあんたのしあわせの邪魔だてをしょうとは思わないからね。どうぞあんたにあんな謀反人の汚名を着せられた男でなしに、立派な婿《むこ》さんが見つかりますように」
父は起ちあがって部屋を出ていった。
マリヤ・イヴァーノヴナは母とふたりきりになると、自分の決心の一部を母に話した。母は涙ながらに彼女を抱きしめ、その計画がうまくいくよう神に祈った。マリヤ・イヴァーノヴナの旅仕度は整えられ、数日後彼女は忠実なバラーシャと忠実なサヴェーリイチに付き添われて旅立っていった。サヴェーリイチはといえば、むりやり私から引き離されてせめても私の許嫁《いいなずけ》につかえたいと願っていたのである。
マリヤ・イヴァーノヴナは無事ソフィヤ〔ペテルブクグ南部の皇帝村の隣接地〕に到着し、当時宮廷は皇帝村《ツァールスコエ・セロー》にあることを知ると、そのままそこに逗留《とうりゅう》することにきめた。彼女は駅逓の宿では仕切りのうしろの小部屋があてがわれた。駅逓長の妻君はすぐに話しかけてきて、自分は宮廷の暖炉|焚《た》きの姪であることをつげ、宮廷生活のあらゆる秘事を彼女にきかせてやった。彼女はいつも女帝が何時にお目覚めになり、何時にコーヒーを召しあがり、何時に散歩にお出かけになるかということ、当時陛下の側近にはどういうかたたちが侍《はべ》っていたか、昨日陪食の折にはどんな話をなされ、晩にはだれを接見なさったかということまで話してくれた。いってみれば、彼女のたわいもないおしゃべりは、優に歴史的記録の数ぺージに迫り、後世にとっては貴重な資料だったのである。マリヤ・イヴァーノヴナは夢中できいていた。それからふたりは公園に出かけていった。アンナ・ヴラーシェヴナは行く先々のあの並木この小橋のいわれをひとつひとつ話してくれるのだった。やがて散歩に堪能したふたりは、たがいに心から満ちたりた思いで宿場へもどった。
翌朝はやく、マリヤ・イヴブーノヴナは目をさますと、着替えをすましてそっと公園へ出かけていった。美しい朝で、太陽は秋の冷たい息吹きにもう黄ばんでいる菩提樹の梢の葉先を金色にそめていた。広い湖は微動だにせず輝いていた。目をさました白鳥の群れは、岸辺に影を落としている茂みの奥から誇らしげに泳ぎ出してきた。マリヤ・イヴァーノヴナは美しい草地のほとりを歩いていた。そこにはピョートル・アレクサンドロヴィチ・ルミャンツェフ伯爵〔十八世紀ロシアの名将、元帥〕の最近の戦勝をたたえる記念碑が建てられたばかりだった。そこへ突然、イギリス種の白い小犬が現われて、吠えながらとんできた。マリヤ・イヴァーノヴナはおびえて、立ちどまった。ちょうどそのとき、気持のよい女性の声が響いた。
「だいじょうぶですよ。咬《か》みはしませんから」そしてマリヤ・イヴァーノヴナは、記念碑の向かいのベンチに掛けているひとりの貴婦人に気がついた。マリヤ・イヴァーノヴナはベンチの反対の端に腰をおろした。貴婦人はじっと彼女を見つめた。マリヤ・イヴァーノヴナのほうでもいく度か横目づかいに、婦人の足の先から頭のてっぺんまで見てとってしまった。その人は純白のガウンをまとい、ナイトキャップをかぶり、綿入れチョッキをつけていた。年ごろは四十歳ぐらいだった。艶やかで、ふくよかな顔には威厳と落着きが備わっており、空色の目とほのかな微笑にえもいわれぬ魅力があった。婦人のほうから声をかけてきた。
「あなたはこの土地の人ではありませんね」
「はい、昨日|田舎《いなか》から出てきたばかりでございます」
「ご両親とごいっしょにいらしたの」
「そうではございません、ひとりでまいりました」
「おひとりで……そんなにお若いのによくねえ」
「私には父も母もございませんの」
「じゃきっと、こちらにご用がおありなのね」
「そのとおりでございます。私は女帝さまにお願いがあってまいりましたの」
「あなたは|みなし《ヽヽヽ》児だっておっしゃったわね、すると何か不当なこととか、恥辱とかを訴えにいらしたのかしら」
「いいえ、そんなことではございません。私は陛下のご恩情を賜わりたくてまいりましたので、裁判をお願いしにまいったのではございません」
「失礼ですが、あなたはどういうかたですの」
「ミローノフ大尉の娘でございます」
「まあ、ミローノフ大尉の。オレンブルグ県の要塞で司令官だったあのかたの」
「さようでございます」
貴婦人は心を打たれたらしかった。
「ごめんなさいね」とその人は前にもまして優しい声で言った。「差し出がましいようでしたら。でも私は宮中によく出入りするものですから、あなたのお願いの内容によっては、お力になれるかもしれませんわ」
マリヤ・イヴァーノヴナは立ちあがって、ていねいにお礼を述べた。未知のこの貴婦人がかもしだす一切のものが、思わず知らず彼女の心を惹きつけ、信頼の念を起こさせたからである。マリヤ・イヴァーノヴナはポケットからたたんだ紙を取り出し、見知らぬこの庇護者にわたした。婦人は黙読しはじめた。
はじめのうち彼女は、熱心に好感を抱いて読んでいるふうだったが、にわかに顔色がかわった。――彼女の素振りを目で追っていたマリヤ・イヴァーノヴナは今の今まであんなに気持のよいおだやかだった婦人の顔付きが、きっとけわしい表情にかわったのを見て、ぎくりとした。
「あなたはグリニョーフのことでお願いにいらしたのね」と婦人は冷やかなようすで言った。「女帝陛下はあの人をお許しになるはずはありません、あれは僭称者に加担した者です。それも無知や軽率からでなく、非道徳きわまる卑劣漢としてですからね」
「ああ、それはちがいます」とマリヤ・イヴァーノヴナは叫んだ。
「どうちがいますの」と婦人は語気を荒らげて言い返した。
「ちがいますわ、ほんとうにちがうのです。私はなにもかも存じております。なにもかもあなたさまに申し上げます。あの人はみんなこの私ひとりのために、今あんな憂き目にあっていらっしゃるのです。もしあの人がお取調べの席で身の証をおたてにならなかったとすれば、それもやはりこの私を巻きぞえになさりたくなかったからにほかなりません」
そこで彼女は熱心に、すでに読者がご存知の一部始終を物語った。
貴婦人はじっと終わりまできいていた。
「どこにお宿をとっていらっしゃるの」と彼女はやがてきいた。そしてアンナ・ヴラーシェヴナのところだという返事をきくと、にっこりして言った。「ああ、そう、知っていますよ。ではさようなら。今日お会いしたことは、だれにもおしゃべりしないでね。あなたのお手紙の返事は、そんなに先へいかないうちにあると思います」
こう言うと彼女はベンチをたって、樹々のおおいかぶさった並木道へ姿を消した。マリヤ・イヴァーノヴナは喜ばしい期待にみちあふれて、アンナ・ヴラーシェヴナのところへもどった。
おかみさんは、秋の朝早く散歩するなんて若い娘のからだには毒なんですよと自説を披露しながらちょっぴりこごとを言った。彼女はサモワールを運んできて、一杯のお茶の間にもまたもはてしない宮中物語にひと花咲かせようとした矢先、宮廷馬車が玄関先にとまり、宮中雑掌長が家にはいってきて、陛下にはミローノヴナ嬢をお召しですとつげた。
アンナ・ヴラーシェヴナはあわてふためきだした。
「まあ、どうしましょう」と彼女は叫んだ。「陛下があんたを宮中へお召しですとさ。どうしてあんたのことをお知りになったんでしょうね。それにしても、あんたはどうやって御前に出るおつもりなの。たぶんあんたは宮中の歩き方の作法も知らないでしょう……いっそ付き添ってあげましょうか、私でも何かしら注意してあげられるかもしれませんもの。それにその旅行衣装ではお目どおりはかないませんよ。産婆さんのところで黄色いローブロンド〔十八世紀の骨輪で広げたスカート。パレード用衣装〕を借りて来させましょうか」
すると雑掌長が、陛下にはマリヤ・イヴァーノヴナひとりで、服装《みなり》もそのままで参内するようにとのおおせです、とつげた。それならばしかたがない。マリヤ・イヴァーノヴナは馬車に乗り、アンナ・ヴラーシェヴナの忠言と祝福に送られながら宮廷へ向かった。
マリヤ・イヴァーノヴナはいよいよ私たちふたりの運命がきまるのだという予感に胸が高鳴り、今にも息がとまりそうだった。数分後に馬車は宮殿の前に止まった。マリヤ・イヴァーノヴナは胸をふるわせて階段をのぼっていった。目の前の扉が左右にさっと開いた。彼女は雑掌長に導かれて、人影のない壮麗な部屋をいくつもいくつも通り抜けていった。ついに閉ざされた扉の前に出たとき、雑掌長はただ今お取次ぎいたしますからと、彼女をひとりおいて去った。
いよいよ陛下にご拝謁をたまわるのだと思うとそらおそろしくなり、彼女は立っているのもやっとだった。ほどなく扉が開いて、彼女は女帝の化粧の間へ通された。
女帝は化粧台に向かっておられた。そのまわりには数人の廷臣がかしずいていたが、ていねいに道をあけた。
女帝はやさしく彼女をふり返られた。だれあろうそのおかたは、ついさっき自分があんなになにもかも打明け話をした当の貴婦人だったのである。陛下は彼女を身近に呼び寄せて、にこやかにこう申された。
「私はお約束どおり、あなたのお願いをかなえてあげられて、とてもうれしいと思います。これでもうあなたの悩みは解決しました。私はあなたの許婚《いいなずけ》の潔白を信じて疑いません。それからこの手紙は、あなたの手から未来の舅《しゅうと》さんにおわたしなさい」
マリヤ・イヴァーノヴナはふるえる手で手紙を受けとると、泣き出しながら陛下の足元にひれ伏した。陛下は彼女をおこして接吻をされた。それから彼女と四方山《よもやま》話をなさった。
「あなたが裕福でないことは知っています」と陛下は言われた。「けれど私にはミローノフ大尉の娘さんにはお返ししなければならないものがあるのですよ。行く末を案じることはありませんよ。私がちゃんと身の立つようにしてさしあげますから」
哀れな孤児をいたわり励まして、陛下は彼女を退《さが》らせた。マリヤ・イヴァーノヴナはまた宮廷馬車に送られて帰ってきた。アンナ・ヴラーシェヴナは、今や遅しと彼女を待ち受けていたが、その顔を見るなり質問の雨を降らせるのだった。マリヤ・イヴァーノヴナは、それをかわすのに骨が折れた。アンナ・ヴラシェーヴナは彼女のもの忘れの早さに不満げであったが、それも田舎娘の内気のせいと思いなおして、鷹揚《おうよう》に許してやることにした。マリヤ・イヴァーノヴナはついでのことにペテルブルグを見物して行こうなんて好奇心も起こさず、その日のうちに村へと発《た》っていった。
*
ここで、ピョートル・アンドレーヴィチ・グリニョーフの手記はおわっている。その子孫の言い伝えによれば、彼は一七七四年の終わりに勅命によって釈放された。また彼はプガチョーフの処刑の場に居合わせたそうで、プガチョーフは群衆のなかに彼を認めると、一分後にはこの世のものではなくなり血まみれになってさらされるその頭で、うなずいて見せたということである。その後間もなくピョートル・アンドレーヴィチとマリヤ・イヴァーノヴナは晴れて結婚した。その子孫は今もシンビールスク県下で繁栄をつづけている。××から三十露里ほど離れたところに、十人の地主たちの所有になる大きな村がそれである。その地主屋敷の離れのひとつに、エカテリーナ二世ご直筆の手紙が、ガラス張りの額におさめられ、掲げてあるのが見える。それはピョートル・アンドレーヴィチの父にあてられたもので、その息子の潔白を証明し、ミローノフ大尉の娘の知恵と情愛とをほめたたえている。
ピョートル・アンドレーヴィチ・グリニョーフのこの手記は、彼の孫のひとりが、われわれがちょうどその祖父を描いている時代に関して著述していることを知り、提供してくれたものによっている。われわれはその一族のゆるしを得て、これだけ別に刊行することにしたものである。なおわれわれは各章のはじめに適当な題詞《エピグラフ》をつけ、また固有名詞を若干変更したことをおことわりしておく。
一八三六年十月十九日
刊行者
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【付録 補遺の章】
この章は『大尉の娘」決定版にいれられないで、原稿のままのこされた。十三章の注のあとに挿入されるはずであった。
私たちはヴォルガの岸辺へ近づいていた。部隊は××村へはいって、そこで一泊することになった。村長は私に、対岸の村々はこぞって暴動を起こして、プガチョーフの一味がいたるところで出没していると教えてくれた。このニュースは私をひどく不安にさせた。翌朝には私たちはいよいよ渡河しなければならない。私は焦躁《しょうそう》にとりつかれていた。父の村は対岸から三十露里の地点にあった。私は渡し船の船頭はいないかとたずねてみた。ここの百姓はみん漁夫だし、小舟もたくさんあるとの答えだった。私はズーリンのところへ行って、計画を打ち明けた。
「無茶いうなよ」と彼は言った。「ひとりで行くのは危険だよ。朝まで待ちたまえ。われわれが明朝一番で河を渡って、君のご両親のところのお客になりに行くことにするよ。まさかの用心に驃騎兵を五十人ほど連れてさ」
私は考えどおりにすると言い張った。小舟がまわされた。私はふたりの漕ぎ手といっしょに乗り込んだ。彼らは纜《ともづな》を解いて漕ぎ出した。
空は晴れていた。月が照っていた。おだやかな天気だった。ヴォルガの流れは洋々としておだやかだった。小舟は心地よく揺れながら暗い波間をすいすいと滑っていった。私は夢想に浸っていた。半時間ほどたった。そのとき私たちは河のなかほどにさしかかっていた。……突然漕ぎ手がひそひそ話をはじめた。
「どうかしたのか」と私はわれに返ってたずねた。
「それがどうもわからないんでさあ、さっぱり」と一方を見やりながら漕ぎ手たちが答えた。その方向へ目を凝らしてみると、私にも夕闇にまぎれて何かがヴォルガを川下へ漂《ただよ》ってゆくのが見えた。正体不明の物影はだんだんに近づいてきた。私は漕ぎ手に舟をとめて待っててみるように命じた。月は雲間に隠れた。水面に漂う幻はいっそうぼやけてしまった。もうすぐ近くまで来ているのに、それは正体がつかめなかった。
「いったいなんだろうな」と漕ぎ手たちはいぶかしんだ。「帆かと思や帆でもねえし、マストかと思やマストでもねえ……」
突然雲が切れて月が顔をみせた。戦慄《せんりつ》すべき光景が照らし出された。こちらに向かって流れてくるのは筏《いかだ》の上にしっかと立てられた絞首台だったのである。横木には三つの死体がぶらさがっていた。病的な好奇心が私をとらえた。その受刑者の顔が見たくなったのである。
私の命令で漕ぎ手たちは鉤竿《かぎざお》を筏にひっかけたので、小舟は漂う絞首台にずしんと突きあたった。私は跳び移っておそろしい二本の柱の間に立った。澄んだ月が薄幸の人たちの醜くゆがんだ顔面を照らしていた。ひとりは老いたチコヴァーシ人〔カザン、シンビールスクなどに住むウグロ・フィン族一派で未教化民族〕で、もうひとりはロシア人の百姓で屈強そうなじょうぶな二十歳ほどの若者だった。しかし三人目に目をやったとき、私は深い衝撃をうけて思わず悲痛な叫びをあげてしまった。それはヴァニカだった。愚かさゆえにプガチョーフの味方についた、あの哀れなヴァニカだったのである。彼らの上には黒い板がうちつけてあって、そこに大きな白い文字で、「泥棒と暴徒」と書いてあった。漕ぎ手たちは驚いたふうもなく、鉤竿で筏を押えたまま私を待っていた。私はふたたび小舟にもどった。筏は川下へ漂い去った。絞首台はしばらくの間、闇の中に黒いシルエットをとどめていた。やがてそれも見えなくなって、小舟は切り立ったけわしい岸辺に着いた……。
私は漕ぎ手にたっぷり礼を払った。そのひとりが私を船着場の近くにある村長のところまで案内してくれた。私は彼といっしょにとある百姓家にはいった。村長は私が馬の用意を懇願すると、ひどくつっけんどんな返答をしたが、私の案内人が何かふたことみことその耳につぶやくが早いか掌を返したようにかいがいしく世話してくれだした。たちまちトロイカの用意ができて、私はそれに乗り込むと父の村へやるように命じた。私は眠りこけている村々をかすめて、街道沿いにひた走った。今は途中で阻止されはしないかと、それだけが心配だった。ヴォルガ河上でのあの夜の邂逅が、暴徒の存在を物語るものであるとすれば、それは一面では政府軍の猛烈な反撃を証明するものでもあった。万一に備えて、私はポケットにプガチョーフが出してくれた通行証と、ズーリン大佐の命令書をしのばせていた。しかし、私はどちらにも出会わず、明け方には一条の小川と樅《もみ》の林を目にしたのである。父の村はその林の向こうにあるのだ。馭者が一鞭くれると、十五分後には××村に乗り入れた。
地主屋敷は村のもう一方のはずれにあった。馬車はまっしぐらにその方向を目ざした。と、急に往来のまんなかで、馭者が手綱を制しはじめた。
「どうしたんだね」と私はいらいらしながらたずねた。
「番所ですよ。だんな」と馭者はいきりたつ馬をおさえるのにてこずりながら言った。
たしかにそこには柵があり、棍棒《こんぼう》を手にした番人が立っていた……百姓が私のところへ寄ってきて、居住証《パスポート》を要求しながら帽子をとった。
「どういうことだい、それは」と私は彼にきいた。「なぜこんなとこへ柵を作ったんだい。おまえはいったいだれの見張りをしてるんだ」
「じつは、だんな、わしらは謀反《むほん》を起こしてるんで」と彼は頭をかきかき答えた。
「じゃ、おまえらのご主人たちはどこなんだね」と私は胸さわぎをおぼえながらたずねた。
「わしらの主人がどこかって」百姓がきき返した。「わしらのご主人は穀物倉にはいってるよ」
「なんだって穀物倉なんかに」
「そりゃ、村の書記のアンドリュースがぶっ込んだんでさあ、おまけに足枷《あしかせ》まではめて、陛下のところへ引き立てようってわけでさ」
「たいへんだ。柵をはずせ、ばかやろうが。何ぼやぼやしてるんだ」
見張番はぐずぐずしていた。私は馬車から跳び降りると、そいつの耳のところへ一発くらわせて〔わるかったなあ〕、自分で柵を押しやった。百姓はわけがわからんといったふうで私をぽかんと見あげていた。私はまた馬車に乗って、地主屋敷へ急がせた。穀物倉は屋敷内にあった。錠をおろした扉口のところに、これも棍棒《こんぼう》を持ったふたりの百姓が立っていた。馬車は彼らのまん前にとまった。
「扉を開けろ」と私は彼らに言った。きっと私の形相がものすごかったのだろう、大変だとばかり、ふたりは棍棒をほうり出して逃げてしまった。私は扉の鍵をこじあけようとした。ぶっ壊そうとした。が扉は樫《かし》の板だし、大きな鍵はびくともしなかった。そのとき、下男小屋から若い百姓が出てきて、横柄な態度で、なぜそんな乱暴を働くのかとたずねた。
「書記のアンドリューシカはどこにいる」と私はどなった。「やつをここへ連れて来い」
「おれさまがアンドレィ・アファーナシェヴィチだがね、アンドリューシカなんかじゃねえよ」と彼は大きな顔して両手を腰に当てながら答えた。「何か用か」
返事のかわりに私はやつの襟首をつかんで、穀物倉の扉口へ引きずっていき、開けろと命令した。書記はまだ強情を張ろうとしたが、|父ゆずり《ヽヽヽヽ》の仕置きはこいつにも効いた。彼は鍵を取り出し、倉の扉を開けた。私は閾《しきい》をひとまたぎに中へ飛び込むと、天井の細い明り採《と》りからわずかに光の差し込んでいる暗い片隅に、父と母の姿があった。ふたりとも両手をしばられ、足には足枷をはめられていた。私はかけ寄《よ》ってふたりを抱きしめたが、ひとことも口がきけなかった。ふたりはあっけにとられて私を見ていた。――三年の軍隊生活は、父母にも即座には見分けがつかぬほどに私をかえていたのである。母はああといったきり、あとは涙にむせんでいた。
s意に私はなつかしく優しい声を耳にした。
「ピョートル・アンドレーイチ、あなたでしょう」私がはっとして振りかえると、別の隅っこにやはりしばられたマリヤ・イヴァーノヴナがいたのである。
父はわが目が信じられないといったようすで、黙って私を見つめていた。その顔にはよろこびの色が輝いていた。私はいそいで剣を抜くと彼らの縄を断ち切った。
「達者だったか、よかったな、ペトルーシャ」と父は私を胸に抱きしめながら言った。「ありがたい、会いたかったぞ」
「ペトルーシャ。愛《いと》しいペトルーシャ」と母は言っていた。「よく帰ってこられたね、元気だったの、おまえ」
私はみんなをここから連れ出そうと気ばかりあせった。ところが戸口へ近づいてみると、また鍵をかけられているではないか。
「アンドリューシカ」と私はどなった。「ここを開けろ」
「へん、そうはいかねえ」と扉の向こうで書記が答えた。「おまえもそこにおすわりしてな。乱暴したり、陛下のお役人の首っ玉つかまえて引きずりまわしたお返しは、たんまりさせてもらうよ」
私はなんとか脱出する手がかりはないものかと、穀物倉を見まわしはじめた。
「まあ、そんなに気づかいするな」と父は私に言った。「わしは泥棒の抜け穴みたいなそんなところから、自分の穀物倉へ出入りするような主人じゃないのだ」
母は私の出現に大よろこびしたのも束の間、私までも一家と破滅をともにしなければならないのを見て、絶望の底におちてしまった。しかし、私は今両親やマリヤ・イヴァーノヴナといっしょにいられるということで、はるかに気持が落ち着いてきた。この軍刀とピストル二|梃《ちょう》あればまだ包囲にたえることはできる。ク方までにはズーリンがやってきて、私たちを救い出してくれるにちがいないのだ。私はその手はずのととのっていることを両親に教えて、母を落ち着かせることができた。そこではじめて、彼らは心ゆくまで再会のよろこびにひたったのである。
「なあ、ピョートル」と父は私に言った。「おまえがいろいろとむちゃくちゃやるので、わしは大いに腹を立てておったのだ。だがもう過ぎたことは言ってもはじまらん。これからは心をいれかえて、まじめにやってもらいたいものだ。おまえが名誉ある将校の本分にたがわず勤務したことは知っとる。いやありがとう。それが老人のわしの慰めだったからな。もし今度おまえのおかげで助かることになったら、わしの生活は倍もたのしいものになるじゃろう」
私は涙を流して父の手に接吻して、マリヤ・イヴァーノヴナをじっと見つめた。彼女は私がいてくれることがなににもましてうれしいらしく、落ち着いた幸せそうな顔をほころばしていた。
正午ごろに、私たちはただならぬ物音や喚声を耳にした。
「なんだろう」と父が言った。「おまえのその大佐がもうきてくださったのかな」
「そんなはずはありません」と私は答えた。「あの人は夕方でないとこられないでしょう」
騒ぎはますます大きくなった。警鐘が鳴りだした。屋敷内を馬に乗った男たちが駆けまわっていた。とそのとき、壁にあいている細いすき間から、サヴェーリイチのしらが頭がみえたがわいそうなじいやは悲痛な叫びをふりしぼっていた。
「アンドレイ・ペトローヴィチ、アヴドーチャ・ヴァシーリエヴナ、若さま、ピョートル・アンドレーイチ、マリヤ・イヴァーノヴナ、たいへんです。悪党どもが村へ乗り込んできました。それにどうです、ピョートル・アンドレーイチ、だれがやつらを率いてきたと思われますか、シヴァーブリンですよ、あのアレクセイ・イヴァーヌイチですよ。あん畜生め」
この忌わしい名前をききつけるや、マリヤ・イヴァーノヴナは両手を打ち合わせたまま、釘《くぎ》づけになってしまった。
「おいきけ」と私はサヴェーリイチに言った。「だれかを馬で××渡船場までやれ、驃騎兵連隊がくる。そしておれたちが危ないと大佐殿に知らせるんだ」
「でもだれをやればいいんです、若さま、若いやつらはみんな謀反してますし、馬だってみんな巻き上げられてしまいました。ああ、もうお屋敷へはいってきました……穀物倉へ向けてやってきます」
するとこのとき、扉の外でがやがや騒がしくなった。私は母とマリヤ・イヴァーノヴナに隅へさがるように目で合図すると、刀を抜いて扉口の壁にぴったり身をつけた。父は両手にピストルを握りしめ、二梃とも撃鉄をあげて私の横に立った。鍵を開ける音がして、扉が開いたかと思うと、書記の頭がぬっと出た。私がその頭にさっとひと太刀《たち》くれると、彼はたまらず倒れて入口をふさいだ。同時に父が入口めがけてピストルを発射した。私たちを包囲していた群衆は、大声でわめき毒づきながら逃げ散った。私は負傷者を閾《しきい》の外へ引きずり出すと、扉を閉めて内側の錠をかけた。屋敷内は武装した者どもでいっぱいだった。彼らのなかにシヴァーブリンもいた。
「こわくなんかありませんよ」と私は母とマリヤ・イヴァーノヴナに言った。「だいじょうぶです。それから、お父さん、もう撃たないようにしてください。最後の弾丸は大事にしておいてください」
母は神に黙祷を捧げていた。マリヤ・イヴァーノヴナは、母のそばにたたずんで、天使のような安らかさで私たちの運命の裁断を待っていた。扉の外では威嚇《いかく》や罵詈《ばり》や呪詛《じゅそ》の声が響いていた。私は元の場所にもどって、まっ先に飛び込んで来る剛の者を叩き斬ろうと身がまえていた。突然悪党どもが静かになった。私の名を呼ぶシヴァーブリンの声がきこえてきた。
「ここにいるぞ、何の用だ」
「降参しろ。グリニョーフ。手向かったってむだだ。年寄りを哀れと思え。強情張ってると命がないぞ。今にひどい目にあわせてやるからな」
「やってみろ、裏切者め」
「おれは犬死はごめんだ。それにおれの部下だってみすみす失いたくはないからな。おれはこの穀物倉に火をかけさせてやる、そのおり、おまえがどうするか、ちょっと見物《みもの》だせ。なあベロゴールスクのドン・キホーテよ。今はともかく昼飯だ。その間にうずくまってよく考えとけよな。じゃまた来るぜ。それからマリヤ・イヴァーノヴナ、あんたにおわびは言いませんよ。暗がりでもあんたの騎士がいっしょなら、淋《さび》しくなんかないでしょうからね」
シヴァーブリンは穀物倉に見張りをたたせて去っていつた。私たちは黙っていた。みんな自分で思案するばかりで、互いに胸のうちを伝える気力も失せていた。私は恨みに燃えるシヴァーブリンがどんな仕返しをしてくるかいろいろに想像してみるのだった。わが身のことなどほとんど気にならなかった。正直に告白すると、両親の運命すらも、マリヤ・イヴァーノヴナのそれほどには私を戦慄《せんりつ》させはしなかった。私は母が百姓たちや屋敷内の者たちから敬愛されていることを知っていたし、また父にしたって厳しいには厳しかったが、公平で、村内《むらうち》の者たちがほんとうに困窮していることに理解があったので、やはり愛されていたのである。彼らの謀反は過ちであり、一時の迷いであって、彼らの本心からの憤怒の爆発というようなものではないのだ。だから両親の命は助かるかもしれない。だがマリヤ・イヴァーノヴナはどうなるだろう。あのふしだらきわまる破廉恥漢は、彼女にどんな報復を加えるだろうか。私はこのそらおそろしい想念にふみとどまっていられなくて、彼女が残忍な敵の手に奪われる憂き目を見るくらいなら、いつそひとおもいに私の手で殺してしまおうと覚悟をきめた。
また一時間ほどたった。村では酔いどれの歌声が響いていた。私たちの見張りは彼らをうらやましがって私たちにあたりちらしてののり、やれ拷問だの殺すだのと言っておどした。私たちはシヴァーブリンの脅迫の結末を待っていた。やがて屋敷内がひどく騒々しくなって、ふたたびシヴァーブリンの声がした。
「どうだ、とっくり考えたか。さからわないでおれに降参するか」
だれも答えなかった。しばらく待っていたが、シヴァーブリンは|わら《ヽヽ》を運べと命令した。それから二、三分すると、ぱっと炎があがり、暗い穀物倉があかるくなった。煙が閾《しきい》の隙間から忍びこんできた。するとマリヤ・イヴァーノヴナが私のそばへ寄ってきて、私の手を取りながら小声で言った。
「もうたくさんですわ、ピョートル・アンドレーイチ。私のためにご自分やご両親を犠牲になさらないでくださいまし。私を行かせてください、シヴァーブリンも私のいうことならきいてくれますわ」
「何を言うんです」と私は思わずかっとなって叫んだ。「どんな目にあうかわかってるんですか」
「辱しめを受けたら生きていませんわ」と彼女は落ち着いて答えた。「でもたぶん、私は命の恩人のあなたと、このあわれな孤児《みなしご》をあんなにも大切にしてくださったご両親をお救いすることができるかもしれませんわ。ごきげんよう、アンドレィ・ペトローヴィチ。ごきげんよう、アヴドーチャ・ヴァシーリエヴナ。おふたりは私にとっては恩人以上のかたでございますわ。私を祝福してくださいまし。じゃあなたも、ピョートル・アンドレーイチ、ごきげんよう。これだけは信じてくださいまし、あの、私が……」ここまで言うと彼女は泣き出してしまい、両手で顔をおおった。……私はもはや狂人だった。母は泣いていた。
「わかった、わかった。マリヤ・イヴァーノヴナ」と父が言った。「だれがあんたひとりをあの追剥《おいはぎ》どものところへ出してやれますか。さ、もう黙ってそこにじっとしてなさい。死ぬときはみんないっしょだ。あっ、また何か言ってるぞ」
「降参せんか」とシヴァーブリンが叫んだ。「わかってるのか、五分もすればおまえたちはみんなまっ黒焦げだぞ」
「降参せんぞ。悪党が」と父が毅然とした声で言った。
しわくちゃの父の顔は驚くほどの精桿《せいかん》さで生きいきしていた。白い眉毛の下では目がらんらんと輝いていた。そして私に向かって言った。「さあ、今だぞ」
父は扉を開けた。火焔《かえん》はどっと闖入《ちんにゅう》し、乾燥苔で隙間を塞《ふさ》いである丸太をつたって、めらめらと燃えあがった。父はどんと一発放って閾《しきい》をまたぐと叫んだ。「わしにつづけ」私は母とマリヤ・イヴァーノヴナの手をとって、すばやく外へ連れだした。閾の脇には、父の老いの手で射たれたシヴァーブリンが倒れていた。私たちの不意の出撃に一時はあわてふためいて逃げだした暴徒の群れは、すぐに勢いを取りもどして私たちを取りかこみだした。私はもう四、五人も斬りつけてやったが、敵の投げた煉瓦《れんが》が、私の胸にまともに命中した。私は倒れて気を失ってしまった。気がついて見ると、血に染まった草の上にシヴァーブリンがすわっていて、やつの前に私たちの家族が集められていた。私は羽がいじめにされていた。百姓、コザック、バシキール人の群れが私たちを取り巻いていた。シヴァーブリンは見るもおそろしいほどまっさおだった。片方の手で彼はやられた脇腹を押えていた。彼の顔には苦痛と憎しみの色がまざまざとうかんでいた。彼はそっと頭をもたげて私を見ると、弱々しいはっきりしない声で言った。
「やつを絞めろ……残りのやつも……あの娘をのぞいて……」
すぐさま暴徒の群れが私たちを取り巻いて、どよめきをあげながら門のほうへ引きずっていった。しかし急に彼らは私たちを置きざりにして四散した。ちょうど門のなかへ、ズーリンが抜刀した騎兵中隊をひきいて乗り込んできたのである。
***
暴徒の一味はくもの子を散らすように、逃げまどった。驃騎兵は追いすがりざま斬り倒したり、生け捕りにしたりした。ズーリンは馬から跳び降りると、父と母に会釈して私の手を握りしめた。
「ちょうどうまく間にあいましたな」と彼は私たちに言った。「ああ、これはこれは、許嫁《いいなづけ》の君もごいっしょで……」マリヤ・イヴァーノヴナは耳まで真っ赤になった。父は彼のところへ歩み寄り、落ち着いたしかし感にたえぬ面持で礼を言った。母は彼を救いの天使と呼んで抱きしめた。
「どうぞこちらへおはいりください」と父は彼に言って、わが家へと案内した。
シヴァーブリンのそばを通りかかって、ズーリンはっと足をとめた。
「これはだれだね」と負傷者を見おろしながらたずねた。
「やつが一味の頭《かしら》でしてな」と父は老軍人の気骨を見せていささか誇らしげに答えた。「神さまがわしの老いぼれた手に力をお貸しくだされて、この若い悪党を懲罰させてくださいましたのじゃ、同時に息子の流した血の仕返しもな」
「こいつだよ、シヴァーブリンは」と私はズーリンに言った。
「シヴァーブリンだって。こいつはありがたい。おいみんな、やつを引ったてろ。それから軍医に、傷をよく包帯してやって、特別大事に看護するように伝えてくれ。シヴァーブリンは、絶対にカザンの秘密委員会へ突き出さねばならんのだ。やつは主犯格のひとりだからな。やつの供述は重要なはずだ」
シヴァーブリンは生気を失った目を開いた。その顔には肉体的苦痛以外は何も現われていなかった。驃騎兵たちは彼をマントにのせて運び去った。
私たちは家にはいった。私は自分の幼年時代を思い出しながら、胸をときめかせてあたりを眺めた。家のなかは何ひとつ変わってはいず、なにもかも元どおりだった。さすがのシヴァーブリンも、堕落しきった心の片隅に恥ずべき貧欲をはばかる気持だけは残しておいたと見え、家財の略奪は許さなかったのである。
召使たちが控室へ出てきた。彼らは謀反には加わらなかったので、私たちが救われたことを心からよろこんだ。サヴェーリイチは誇らしげだった。それはこういうわけだ。暴徒の来襲で惹き起こされた騒乱の最中《さなか》、彼は厩舎《きゅうしゃ》へ駆けつけ、そこにつないであったシヴァーブリンの馬をちょいと拝借、鞍をつけてこっそりひき出すと、おりからのどさくさにまぎれて渡船場までまっしぐら……というしだい。おかげで彼は連隊がすでにヴォルガのこちら岸で休息してるところへ行き合わせた。ズーリンは彼から私たちの危険を知ると、ただちに乗馬を命じて、進め、駆足と号令一下、幸いにも危機一髪のところに間に合ったのである。
ズーリンは村書記の首を数時間、居酒屋の脇の竿《さお》先へ曝《さら》しておくよう主張した。
驃騎兵たちは数人の捕虜を連れて追撃から帰ってきた。捕虜たちは私たちがあの記念すべき包囲をもちこたえた穀物倉へほうり込んだ。
私たちは各自の部屋に落ち着いた。老夫婦には休息が必要だったのである。前夜一睡もしなかった私は、ベッドに身を投げ出すや、ぐっすり寝入ってしまった。ズーリンは隊の指揮をするために出ていった。
夕方になると、私たちは客間に集まってサモワールをかこみ、今は過ぎ去った危難のことをたのしく語り合った。マリヤ・イヴァーノヴナがみんなにお茶をいれてくれた。私は彼女のかたわらにすわって、彼女とばかり話していた。両親は私たちの仲むつまじさを好ましげに眺めていた。この晩のことは、いまもなお私の記憶に新しい。私はしあわせだった。まったくしあわせだった。人間の哀しい生涯のなかで、このようなひとときがそうたびたびあるものだろうか。
翌日、百姓たちがわびをいれに屋敷の庭先へ集まっていると、従僕が父に知らせた。父は昇降段の上まで出ていった。父の姿が現われると、百姓たちはひざまずいた。
「ふん、どうしたことか、ばか者どもが」と父は彼らに言った。「何を血迷って謀反など起こす気になったのだ」
「悪うございました。だんなさま」と彼らはいっせいに答えた。
「悪いにきまっとる。さんざん悪ふざけをしおって、それで自分たちもちっともおもしろくないんだからのう、合わん話だ。まあ、神さまが息子のピョートル・アンドレーイチにめぐり合わせてくださったよろこびに免じて、今度だけは勘弁してやる。もうよいわ、悔い改めた首は剣もこれを切らずって言うからな」
「悪うございました。ほんとうに悪うございました」
「いいあんばいにお天気つづきだ。乾草集めにゃもってこいのときだ。だのにおまえらときたら、ばかどもが、まるまる三日間何しおったか。名主、ひとり残らず草刈りに出せ。忘れるなよ。赤毛の悪党め、イヴァンの祭日〔六月二十四日。夏祭りの日〕までには、うちの乾草を全部積み上げるんだぞ。よし、もうさがれ」
百姓たちはおじぎをして、昨日のことは嘘のような顔をして賦役仕事に出かけていった。
シヴァーブリンの傷は致命傷にいたらなかった。彼はカザンへ護送されていった。彼が馬車に乗せられるところを私は窓から見ていた。視線が合うと、彼はうなだれた。私は急いで窓辺を離れた。敵の不幸や屈辱にしたり顔をしてならぬと私は自らを戒めたのである。
ズーリンはさらに兵を進めなければならなかった。私はあと四、五日は家族と過ごしたかったけれど、ズーリンと行を共にすることにした。出発の前夜、私は両親のところへ行き、当時のならわしによって、ふたりの前にひざまずくと、マリヤ・イヴァーノヴナとの結婚に祝福を与えてくださいとお願いした。老いた両親は私を抱き起こして、うれし涙をこぼしながら承諾を与えてくれた。私は青ざめてふるえているマリヤ・イヴァーノヴナを両親のもとへ連れていった。ふたりは祝福を受けた……そのときの私の気持は、ここに書ききれるものではない。私と同じ立場に身をおいたことのある人ならば、書かなくても私の気持をわかってくださるだろう。またそういう経験のない人に私のできることは、お気の毒千万と申しあげるだけである。時機を失わぬうちに早く恋をして、両親の祝福を受けられるよう忠告するものである。
翌日連隊は集結した。ズーリンは私の家族と別れをかわした。私たちはだれもが、この戦いは間もなくおわるだろうと信じていた。だから一カ月後には結婚式があげられるだろうと思っていた。マリヤ・イヴァーノヴナは、私との別れに臨んで、みんなの前で接吻してくれた。私は馬車に乗った。サヴェーリイチがまたしても私に従ってきた。連隊は出発した。
私はふたたび後にすることになった村の屋敷が遠ざかってゆくのを、いつまでもふり返っては見ていた。不吉な予感が私の胸を騒がしていた。何者かが私の耳もとで、おまえの不幸は全部去ったわけではないとつぶやくのだった。私の胸は新しい嵐の到来を感じていた。
私たちの行軍やプガチョーフの乱の結末については書かないことにする。私たちはプガチョーフに荒らされた村々を通過して行きながら、やっと貧しい村人が賊徒からかくしおおせたわずかの物資を、心ならずも徴発せねばならなかった。
住民たちはだれについてよいかわからなかった。いたるところ無政府状態だった。地主たちは森の中へ潜んでいた。賊徒の一味は落ち行く先々で悪事を働いていた。当時すでにアストラハンを指して逃走しつづけていたプカチョーフ追撃に派遣された諸部隊の隊長たちは、独断で罪人や無実の人の区別なしに処刑していた……大火になめつくされたこの地方の惨状はまさにこの世の地獄であった。神よ、二度とふたたび不条理かつ無慈悲な暴動を、母国ロシアに起こさせ給うな。わが国において不可能な変革を企てている人たちは、われわれの国民を知らない向こう見ずの青年か、あるいは自分の首は一カペイカに、他人の首は四分の一カペイカぐらいにしか心得ていない、残忍な連中なのである。
プガチョーフは、イヴァン・イヴァーノヴィチ・ミヘリソンの追撃を受けつつ逃走していた。間もなく私たちは完全に彼が撃破されたことを知らされた。ついにズーリンは直属の将軍から僭称者の捕縛と、同時に停戦命令を受け取った。やっと私はわが家へ帰れるのだ。私は有頂天になった。だがその一方奇妙な感情が私の喜びを暗くかげらせるのだった。
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解説
アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキンは、近代ロシア文章語の創始者であり、ロシア文化の遺産を継承統合し、その価値と偉大さとに目覚めた国民詩人である。また、彼の古今東西の外国文化の摂取とそのロシアヘの同化の類いまれな才能と努力は、一地域的、ロシア的文学を、一躍普遍的、世界的文学の水準に引きあげた。プーシキンのロシア文化への影響は、はかりしれないひろがりで音楽、絵画、彫刻などにまでおよび、ロシアのあらゆる芸術家が、いまもなお無視して通過しえぬほどに、根元的であり、多面的であり、巨視的である。
彼の真骨頂は韻文作品にある。その詩は典雅な音の響きをたたえて、率直に明晰に人間のささいな日常を、激しい感情を、深い思想にうたいあげる。彼の詩はいかなるときも現実に根づいたものであるが、同時に深遠にして宇宙的である。彼の詩は無駄な饒舌、意味のあいまいさ、不自然なリズム、不確かなイメージとはまったく無縁であり、内容と形式が完璧に均衡、調和を保っている。なかでも彼の叙情詩のあるもの、および韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』、叙事詩『青銅の騎士』は最高の傑作である。その詩情を失わないで彼の詩を翻訳することは、いかなる外国語でも不可能である。彼の詩の特質と美しさは、原語をとおしてのみ理解することができ、ロシア語なればこそなしえた至芸である。世界的詩人プーシキンは、一面かくもロシアそのものなのである。
また十九世紀初頭の暗い帝政時代に生きた詩人プーシキンは、革命的な詩を書いたかどで、再度流刑に処せられたり、絶え間のない政府の監視のもとでなお、その生き方は、自由を求めてやまず、そのための抵抗をやめなかった。そして三十七歳にして、決闘によって迎えた死は、多くの人々に心の痛みをいまもなおもたらしつづけている。ここに訳出した二編は、散文ではあるが、いずれもプーシキン文学の特質をよくあらわした代表作である。すなわち『スペードの女王』は、その内容の問題性とともに構成の見事さを、『大尉の娘』は、史実から取材した歴史ロマンで彼の文学の多面性をあらわしている。
『スペードの女王』について
この作品は、『青銅の騎士』(一八三三)につづいて書かれた。両者には共通のテーマがある。「青銅の騎士」とは、ピョートル大帝のことであるが、この物語はピョートル時代のことではなく、一八二四年十一月七日のペテルブルグの大洪水のことから発している。主人公エヴゲーニイ・エゼルスキーは、かつては名門大貴族の子孫であったが、いまは落魄して十四等官の貧乏小役人になっている。しかし、エヴゲーニイはその分に安じており、給料があがったら、これも同じ貧しい家庭の娘である相愛のパラーシャと結婚して、つつましやかな幸せを築こうと夢みるおとなしい青年である。ところが洪水は街の片隅の古びた小家もろとも、パラーシャ母子をひとのみにしてしまう。人間はかたときも希望なしでは生きてゆけない生き物なのであろう。文字どおりあとかたもなく望みを奪われてしまった彼は、狂人になる。狂人になったとき、彼の本能は眠りから覚め、かつての貴族の誇り、不屈の精神が蘇ってくる。洪水はピョートルがネヴァ川の沼沢を無理に開拓して、都を建設したために生じたものである。狂人は「青銅の騎士」(ネヴァ河畔にある馬にまたがる巨大な銅像、エカテリーナ二世からピョートル一世に捧げられた)に、「えい、悪魔のような建設者め」「いまに見ておれ……」と捨てぜりふして、銅像のわきを駆けぬける……すると「青銅の騎士」が静かにふりむいたかと思うと、蹄の音たかく彼を追ってきた……逃げても、逃げても追ってくる……。強大な権力を前にしては、はむかうどころかそのポーズを見せただけでも、たちまち押しつぶされてしまう民衆の弱さをプーシキンはえがいた。エヴゲーニイのなかには、デカブリストたちの姿も二重写しになっている。
『スペードの女王』は、やはり門地門閥のない一帰化ドイツ人の息子ゲルマンを主人公にしているが、エヴゲーニイとは正反対に野心に満ちみちた男である。「倹約」と「勤勉」こそが自分の野望へのいちばんの近道と心得て生きてきた男が、その秩序を破り、金銭のとりことなって、都会の欲望の渦のなかに吸いこまれてしまう。プーシキンは早くも台頭する資本主義社会の矛盾をえがき出した。前者においては狂気が本能を目覚めさせるのと対照的に、後者においては、抑圧されていた本能が狂気を導く。本能と理性の対立命題もまた、プーシキンの追求したテーマであった。プーシキンは人間の潜在意識の問題と正面からとりくもうとした、ロシア最初の作家であったが、その下敷きにしばしば夢を使った。
この作品の構成の見事さは、狂気のゲルマンの破滅の過程が、リザヴェータの純粋でけなげな正気の恋心との交錯において描かれている点である。全編にただよう幻想のリアリティはここから生まれている。このテーマの系譜は、ゴーゴリの『外套』や、ドストエフスキーの『罪と罰』などに受けつがれてゆく。時代がかった上流社会の優雅な日常描写を背景にしたこの物語の筋の運びの巧みさは、プロットである「三」「七」「一」のカードの矛盾もカバーしてしまう。実際にこのカードはどのようにして張られ、どうしてそれが勝ちを制するのだろうかと、気になる向きもあるにちがいない。にもかかわらず賭場の情景は活気にあふれてリアルであり、しかも親近感がある。それは、そこに生涯何度か賭博に熱中し、何万ルーブリもの負けの穴埋めに奔走したプーシキンの姿を彷彿とさせるからであろうか。伯爵夫人の部屋へ忍びこみ、かくし梯子からそっと、しかし「奇妙な感慨」にふける余裕をもって抜け出してゆくゲルマンは、かつての遊蕩児プーシキンが体験したことの再現だともいわれる。
最後の「結び」に注目しよう。プーシキンは六章で終わりにしなかった。リザヴェータが気だての優しい青年と結婚し、貧しい縁者を養女にもらって幸せに暮らしていると、読者に報告しないではいられなかった。この短い文章のなかに、優しい、ヒューマンなプーシキンの本質が素顔をのぞかせている。
『大尉の娘』について
『大尉の娘』は、韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』(一八二三〜三〇)に対比される、プーシキンの散文中完結をみた唯一の長編小説である。一八三三年一月に書きはじめられ、三六年十月に脱稿した。この時期についてはのちほど述べるが、詩人が内憂外患、疲労困憊の極みに達していた時期であり、彼がその後四カ月たって亡くなっていることからしても、この完結には一種の執念が感じとられる。プーシキンはこの作品に着手する前には、盗賊物語『ドゥブロフスキー』を執筆していた。これは彼の友人ナシチョーキンから聞いた実話をもとにして書かれたものである。あまり豊かでない小貴族の退職近衛中尉ドゥブロフスキーが、隣人の大地主の気まぐれな侮辱に抵抗したため、しくまれた領地争いに巻きこまれて自分の領地をとりあげられ、追いたてられる。誇り高いドゥブロフスキーは復讐鬼となって、みずから自己の階級を放棄して農民側にくみし、村にとどまって略奪をはじめるというものである。
たしかにこのテーマは、彼が若いころから興味をもっていたアウトローものであり、そこには人生の後半において彼の創作の最大のテーマとなった、支配階級と民衆の対立の問題が提起されていた。彼のこの作品にたいする構想はかなり大きなものであったが、その執筆の途中、彼はプガチョーフ反乱の際、みずからプガチョーフの陣営に降り、プガチョーフに協力したというシヴァンヴィチなる実在の人物のことを耳にした。そのとき彼のなかに、積極的に人民の側についた近衛兵が、完全に新しいロマンの主人公として浮かびあがってきて、『ドゥブロフスキー』をさらに進めた人物をえがこうという創作意欲にかられた。そこで彼は三三年一月三十一日にはもう『大尉の娘』を書きはじめ、二月六日に『ドゥブロフスキー』の第十九をきりのよい最終章として書きおえると、翌七日には陸軍大臣にプガチョーフ裁判関係の古記録閲覧の許可を求めている。
彼は史実的裏付けがほしくて、プガチョーフ反乱の鎮圧者のひとりスヴォーロフ伯の事績を調べるという名目のもとに、閲覧を願い出た。が、彼はそのぼう大な資料をひもといてゆくうちに、書きかけた歴史ロマンを一時中止しても、プガチョーフの反乱史そのものを先に書こうと思うようになった。実際この裁判関係文書は多くの矛盾にみちていた。文書では、蜂起は不幸な偶然の出来事であり、蜂起の一味を人非人の泥棒集団としており、蜂起のもようを記述したものも、多くは主観的想像や、外国人の作家、外交官、歴史家などによって、非常に歪められていた。証言にしても、エカテリーナ政府の軍司令官、予審判事たちのものは、当然のことながら体制的であり、査問委員会での民衆の証言は、ときには拷問、鞭、威嚇のもとになされたものであってみれば、おもねり、自己弁護が強く、これらには真実が書かれていないとプーシキンは判断するにいたったのである。プーシキンはすでに二五年、歴史悲劇『ボリス・ゴドゥノーフ』を書いて、このような動乱における歴史的客観性――支配層と民衆の動向を立派に立証ずみであった。彼はプガチョーフの反乱を別の角度から考察する絶対的必要性にかられて、三三年八月中旬から九月いっぱい、当時の現地で取材調査にあたった。彼はカザン、シンビールスク、オレンブルグとまわりながら、反乱に加担したといわれる村や、反乱側に占領された要塞などを精力的に見聞し、プガチョーフが本営としていたビョールダの地も視察し、暴動発生の地ウラリスクにも足を運んでいる。彼は動乱を体験して生きのびている老人の口から、じかに民衆の声を聞いた。あらためてオレンブルグの包囲、カザン占領の様子や、どの民族のどの階層がどの程度この反乱に加担したかなど、聞きだせるかぎり聞きだした。彼はこの旅行の成果を次のように言っている。「死せる記録を、老い果ててしまいはしたが、いまなお生存している目撃者の言葉によって検証することができた。そしてそのよぼよぼの記憶を、今度は歴史的批評眼で検証する。……」プガチョーフなど個人の伝説についても、それがえがたい貴重なものであればあるほど、厳重な裏付けが必要であるとしている。
彼の『プガチョーフ史』はその実証である。プガチョーフは「人非人」ではなく、ただのコザックであり、動乱は「不幸な偶然の出来事」などではなく、農民戦争の様相を呈した歴史的必然であり、プガチョーフは不遜にもピョートル三世を僭称して人民をたぶらかしたのではなく、仲間から選ばれて専制者に対抗するための道化役を買ってでた男であったという結論を得たプーシキンは「歴史家の良心と義務にしたがい、あらんかぎり真実を探求し、力にも支配的考え方にもへつらうことなく、事実を歪めることなく叙述した」(プーシキンの言葉)。ときの文部大臣ウヴァーロフは、これを「煽動の書」だとして憤慨したといわれるが、為政者の側からすれば当然であろう。これはロシアの将来に警告する「予言の書」だったのである。彼は調査旅行の帰途、領地ボルジノに逗留して、この『プガチョーフ史』を、十一月はじめのほんの短時日で書きあげた。が一方、最初の企図であった『大尉の娘』の執筆は、なかなかはかどらなかった。それはかなりの紆余曲折をへて、最初の意気込みとはおよそ異なる家庭小説となって、やっと三年後に完成した。作品そのものの解説についてはあとにゆずることにする。
プーシキンのプガチョーフヘの興味はつとに早く、一八二〇年ごろといわれているが、それ以上に彼が惹きつけられつづけた人物にピョートル一世がある。神をも自然をも怖れることなく上からの改革をなしとげて、ロシアに近代国家の礎を築いたこの人物の強烈な個性と偉業が、たしかに彼の創作欲をかきたてたのであったが、彼の歴史家としての冷徹な眼は、その結果がもたらしたさまざまな国家的、社会的相克と矛盾の現象をけっして見逃しはしなかった。彼は二七年には「私は必ずピョートル一世史を書く」と友人に宣伝している。ピョートルは一生の課題だった。彼が『十八世紀ロシア史メモ』(二二年)にはじまって、『スタンスイ』(二六年)、『ピョートル大帝の黒奴』(二七年)、『青銅の騎士』(三三年)、『ピョートル大帝の酒宴』(三五年)と、同一人物を書きついでいることに注目しなければならない。プーシキンは三一年になってやっと『ピョートル一世史』を執筆する状況を整え、資料閲覧のための文書局入庫の許可願いを出した。がそれは前述のとおり、プガチョーフ反乱の資料を調べることのほうが先になり、ふたたび中断されてしまった。
本格的にピョートル資料にとりくむのは三四年も末になってからであるが、ここに見過ごせない事件が一つある。この年の六月下旬、プーシキンには妻あての私信を秘かに開封され、その一通が不敬の手紙として皇帝にさしだされるということが起こり、激怒した彼は、前年暮れ任命された不本意な年少侍従の役の辞退願いを出したのである。そのおりの返答は、辞職願いはいれてやるが、今後いっさい歴史文献の利用を禁ずるというものであった。『プガチョーフ史』を書きおえて、歴史家としての自覚と意欲の高まりのなかで、やっと念願のピョートルに着手したばかりのプーシキンにとって、これは冷酷無惨な仕打ちだった。彼は詫び状を書いて辞職を撤回する。不羈《ふき》独立で生きぬいてきたプーシキンの心中は察してあまりあるが、この屈辱をはねかえして『ピョートル一世史』に向かった彼の烈々たる作家魂に深い感動を禁じえない。翌三五年いっぱい、ほとんどこやみなく彼は資料ノート作りに精を出す。これが現存の、かなり大部の『ピョートル一世史』(準備ノート)である。その後一年あまりしてやってくる彼の死が、この大作を未完のままで終わらせたが、三七年の死の三週間ほど前に作者が語ったところによれば、これを整理、補充したのち、一年ぐらいのあいだに完成する予定だったという。
ここでわれわれの興味をそそることは、プガチョーフのときも、ピョートルのときも、その「歴史」を書く時を同じくして、どちらがその正副といいがたいほどに、作者が彼らを主人公として「創作」をはじめているということである。『大尉の娘』と『プガチョーフ史』の関係はすでに述べたとおりであるが、プーシキンは必ずピョートル史を書くと言いきった一八二七年に、最初の散文小説『ピョートル大帝の黒奴』(未完)を書いているのである。この小説は彼の母方の曾祖父を主人公のひとりに加えた、ピョートル大帝の時代の一大歴史ロマンになる予定であった。それは三章ほどで中断されているが、そこまで読んできた読者は必ずその中断を口惜しく思い、その余情にしばらくはひたってしまう。この断片のかもしだす雰囲気は、それがロシアの小説であることを忘れさせ、世界文学の一大傑作を読んでいる気にさせる。恋愛心理の見事な分析、時代風俗の自由闊達な描出は、スタンダールの『赤と黒』に匹敵するといわれている。それだけにその中断を惜しんで、その理由を詮索した論文は、ベリンスキーの昔から今もあとをたたない。ピョートルやプガチョーフのような強烈な個性は、とても「歴史」だけの枠にはまりきるものではなく、そのはみだした部分が作家プーシキンのイマジネーションをしきりに招くのである。一時的にはウォルター・スコットを好敵手とにらみ、歴史主義に立って現実と創作のあいだをみつめるようになっていたプーシキンにとって、これほどの好材料があれば、一大歴史ロマンを企図するのは当然である。がプーシキンは、純然たる創作においてすら、状況の嘘、修辞の嘘に潔癖であり、歴史物語における史実への忠実はその最大条件とさえしていた。ところが、『ピョートル大帝の黒奴』では、早くも登場人物などにおいて、年代に史実との相違があらわれるなど、歴史小説につきものの矛盾が見えてきたのである。虚構を柱とするロマンの形式をとった以上、やむをえない矛盾でもあったのだが、彼はそれをいさぎよしとしなかったのであろう、それをいったん放棄して、「歴史」のほうにまた立ち返ったのである。
だが彼はこの思いを棄ててしまったわけではない。愛する年子の二人娘ともいうべきこの「歴史」と「創作」の両達成は、彼の願いであったにちがいない。『プガチョーフ史』の姉妹『大尉の娘』は、『ピョートル大帝の黒奴』と比べればはるかに小さなものであったが、この作品がぶつかった矛盾を巧みに避けて結実した。彼はこの歴史小説を、家庭の記録と銘うって一人称形式で記述することにより、多少の主観を交える余地をえて、歴史的客観性を重んじる史実の場に臨んでは、グリニョーフの口を借りて「家庭の記録」だからと言わせて、その詳述を回避した。
さて、『大尉の娘』の内容についてであるが、読者はまずプーシキンがいかにすぐれたエンターテイナーの一面をもっていたかを感じられるであろう。実際、二年余にわたってロシア帝国を震撼させた動乱の物語を、よくこんなにおもしろく書けたものである。われわれは何度も哄笑喚笑を禁じえないし、物語の筋にだけ追われがちであるが、作品の中身は深遠な人間心理の内奥に鋭く迫っている。そしてまた調和の天才プーシキンの最後の作品にふさわしく、独特の均衡を保っている。第七章の最後のミローノフ夫人の死の場面や、第八章の夕闇せまる広場の絞首台の情景などは、プーシキンにしては、異常にリアルで陰惨である。つづいての曳船人夫の歌の場面は、ロシアの大地から沁み出てくるような哀愁をつたえる。また第十一章の終わりで、プガチョーフが語るカルムイク婆さんのお伽噺の場面は、深く実存的である。これらの短調の沈んだ流れは、四カ月後に迫る作者の非業な死の行進に共鳴しているが、プーシキンの本質は生の肯定にある。生の肯定とはただ生きることではあるまい。この作品のなかの笑いがそれを象徴する。この十八世紀末のロシアの村里に真実と誠意を貫いて生きている人々の笑いは、いつでも深い憂愁や憤りの涙に代わりうる笑いではあるが、この笑いのなんと生命力にあふれていることか。笑いの長調の流れは澄んで、はずんでよどみない。『大尉の娘』に流れるメロディは一八三五年の名詩『……わたしはふたたび訪れた』のなかでもきこえてくる(ちなみに、『エヴゲーニイ・オネーギン』や『スペードの女王』を作曲したチャイコフスキーは、『大尉の娘』の作曲も考えたことがあった)
この作品の各章のはじめに民謡、諺などをおいた形式は、ウォルター・スコット流だといわれているが、それは問題にならない。だいたいプーシキンほどそもそものはじめから、幾多の作家の影響、模倣を云々されつづけた作家も珍しい。たしかに彼は自分の磁石に吸いつくものは、それが古典作家のものであろうと、一農民の言葉であろうと、心おきなくこれを利用、借用している。が彼の場合は断じて模倣ではない。たんに利用し、借用したにすぎず、彼の本質にはその痕跡すらとどめていない。
さてこの各章の出だしの民謡であるが、二、五、六、七章および四章のグリニョーフの恋の詩ならびに八章の曳船人夫の歌は、一七八○年刊行のチュルコフの『新ロシア民謡大全』からの抜粋である。これはスコット流の題詞的なものではない。フォークロアを通じて、プーシキンは自分のロマンの主要課題の一つ――農民戦争の主役たちの声を表現した。特に注目に値するのは、八章の曳船人夫の歌である。これはチュルコフの民謡大全においては、「泥棒の唄」となっているのである。プーシキンは、これを政府の側からは人非人の泥棒集団と呼ばれているプガチョーフたちに、「曳船人夫の唄」として歌わせている。曳船人夫は、シンビールスク、サラトフ、サマルスカ、ヤロスラーフスカ、リャザン、タンボフ、ウラジミーロフカ諸地方に多い出稼ぎ農民から成っている。「俺の大好きな唄」を命じるプガチョーフは、悪党の頭目ではなくて、農民一揆の先導者となる。全編を通じて見られるプガチョーフのヒューマンな形象は、ここに裏付けがあったのである。
プガチョーフの形象に関してもう一つ述べたい。それは第十三章でのグリニョーフの想念のくだりである。「……彼がときに残忍さをむきだしにする凶悪な発作に駆られている最中《さなか》に……」ここにあらわれたプガチョーフのこの気質にこそ、「結局ロシア人はわからない」と世界中の人々に言わせるあのなにかがあるのではないか。当人さえもどうすることもできない、爆発的な霊的な力のようなものが……。あきらかにロシア的でありながら不可解なこの気質を、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』のなかのドミートリーの形象において深化させてゆく。
最後にこの小説が、十八世紀の地方色濃い、しかも辺境の未教化民族なども登場している作品であるにもかかわらず、プーシキン自らが達成した近代文章語で書きとおされたことに注目しよう。このことは、プーシキンの言語意識の高さと、彼の母国語にたいする誇りと貢献をあらためてわれわれに示してくれるものである。
以上の二つのプーシキンの傑作はいずれも彼の最晩年の作品である。プーシキンがこれを書いた年は、妻の浪費とスキャンダル、父の財政破綻、母の死、質屋通いなど、枚挙にいとまがないほどの出来事にふりまわされて、家庭も自分も破滅寸前のような状態が連綿とつづいていたのである。それなのに一八三三年は「第二のボルジノの秋」といわれるほど、創作活動が盛んである。死の予感が霊感の残り火を燃えあがらせたのであろうか。それは、モーツァルトがまさに同じような状況のもとに、あの「三十九」「四十」「四十一」の交響曲を作曲したことを思い出させずにはおかない。強い意志がこの苦境に打ち克ったという向きもあるが、ひょっとしたら、これらの天才が創作するときは、意志とか努力とかを超越した別人になるのかもしれない。そうでない限りどうしてこれだけの作品が生み出せるだろうか。天才とはやはり不思議な存在である。(訳者)