TITLE : 大尉の娘
大尉の娘
プーシキン 著
中村 白葉 訳
目 次
大尉の娘
第一章 近衛軍曹
第二章 道案内
第三章 要塞
第四章 決闘
第五章 恋
第六章 プガチョーフの乱
第七章 急襲
第八章 招かぬ客
第九章 別離
第十章 街の包囲
第十一章 叛徒の本営
第十二章 孤児
第十三章 逮捕
第十四章 査問
第十三章に対する補遺
プーシキン小伝 中村白葉
一、幼年時代
二、リツェイ時代
三、首都時代
四、流謫時代(一)
五、流謫時代(二)
六、首都時代(再び)
七、家庭生活・死
若い時から名は大事
――俚 諺――
第一章 近衛軍曹
あれは明日にも近衛の大尉
「なんのそれには――勤めは普通の隊こそよけれさ。」
とはまたよくもいったもの! 泣くなら泣かせておくがよい……
…………………………………………………
あれの父とはそも何者?
――クニャジニーン
私の父、アンドレイ・ペトローヰ゛ッチ・グリニョーフは、若い時分はミーニフ伯爵の下で軍務についていたが、一七××年に、二等中佐で退職した。以来、父はシムビールスク県の持村に住み、そこで土地の貧乏貴族の娘アヴドーチヤ・ワシーリエヴナ・ユーを妻に迎えた。私達は九人きょうだいだった。が、私の兄弟や姉達はみんな幼いうちに死んでしまった。私は母がまだ私を懐妊中に、早くも、私達の近い親戚にあたる近衛少佐ベー公爵の好意によって、セミョーノフスキイ聯隊へ一軍曹として登録されていた。もしこれが空頼みとなり、母が女の子を生んでいたら、父はその筋へ、この世に現われなかった軍曹の死を届け出て、一切は事ずみとなっていたであろう。そこで私は、学業の終るまでは休暇ということになっていた。その時分の私達は、今日とは全然違った教育を受けたものであった。五歳の時から私は、実直な行状を買われて私の傅役を仰せつかった、猟僕サヴェーリイチの手に委ねられた。彼の監督の下に、十二の年には私はロシヤ語の読み書きを修得し、ボルゾイ犬の牡の特性を確実に鑑別出来るまでになった。恰もその頃、父は私のために、ムッシュー・ボープレというフランス人を傭ってくれたが、それは、葡萄酒やプロワンス油の一年分の仕込みと一緒に、モスクワから取寄せられたのであった。彼の到着はいたくサヴェーリイチの気に入らなかった。
『神様のおかげでよ、』と彼は、ひとりでよくぶつ〓〓小言を言っていた。『坊ちゃんはひと通り湯も使わせてありゃ、髪も梳かし、喰べ物もしっかり差上げてある。それを今更モッシューなんか傭って余計な金を使う必要がどこにあるのかね。まるでうちに人手が足りねえみてえにさ!』
ボープレは、その生国では理髪師だったが、その後プロシャで兵隊を勤め、それからPour etre outchitel(家庭教師でもしようと)この言葉の意味もよくはわからぬまゝに、ロシヤへやって来た男だった。結構いゝ人間ではあったのだが、極端に軽薄で、だらしがなかった。主な欠点は異性に対する情熱で、この優しい心根のためよく切ない思いをして、何昼夜も溜息をついていることがあった。その上、彼は(彼の表現に従えば)酒瓶の敵でなく、即ち(ロシヤ風にいえば)余計に一杯やることが好きであった。ところが、酒はうちでは正餐の時に出るだけで、それも小さいコップ一杯ずつ、おまけに先生は普通は抜きということになっていたので、私のボープレは忽ちロシヤの浸酒《ナストーイカ》に慣れてしまい、後には寧ろこの方を、胃のために比較にならぬほど有益だとて、自分の国の葡萄酒より珍重するようになってしまった。私達は早速仲よしになった。契約によると、彼は私にフランス語、ドイツ語、及び一切の学問を教える義務があったのに、そうしたことはそっちのけで、まず私からどうにかロシヤ語を操る術を覚え込み、その後は銘々思いおもいに、自分の好きなことばかりやっていた。私達はとても仲よく暮した。ほかの先生など、私は欲しいとも思わなかった。ところが間もなく運命は、私達を引離してしまった。それはこういうわけである。
ふとった痘痕娘の洗濯女パラーシカと、片眼の牛飼い女アクーリカとが、或る日揃って母の足許へ身を投げ出し、自分達の罪深い心得違いを告白しながら、彼女達の初心をつけ目に誘惑したモッシューのことを泣いて訴えた。母はこうした事柄を聞き流してしまえる方でなかったので、早速父の耳へ入れた。父の裁きは簡単だった。彼は即座に、フランス人の悪党を呼べと命じた。モッシューは今私に授業中である旨報告された。父は私の部屋へ出向いて来た。その時ボープレは、寝台の上で無邪気な睡りを貪っていた。私は自分の仕事で夢中だった。ちょっと断っておかねばならぬが、かねてうちには私のためにモスクワから地図が取寄せてあった。その地図はなんの役もせず壁にかゝったまゝ、大分前からその大きさと紙質のよさで私の誘惑になっていた。遂に私はそれで凧を作ることを決心し、ボープレの睡りを幸い早速仕事に取りかゝった。父がはいって来たのは、私が喜望峰のさきへほごした菩提樹皮の尻尾をつけている最中だった。私の地理の勉強振りを見ると、父は三度ばかり耳を引張ってから、ボープレの傍へ駈け寄り、ひどくぞんざいに呼び起して、叱責の言葉を浴せかけた。ボープレは大まごつき、頻りに起きようとするのだったが、出来なかった――不幸なフランス人は、死人のように酔払っていたのである。七つの悪事に報いは一つだ。父は襟髪つかんで寝台から引起すなり、扉の外へ突き出して、その日のうちに邸から追払ってしまった、いや、サヴェーリイチの喜ぶまいことか。私の教育はこれで打切りになったのである。
以来私は、鳩を追廻したり、屋敷附農奴の腕白ども相手に跳越遊びをしたりしながら、餓鬼大将としての日を送っていた。その間に私の十六歳も過ぎてしまった。そこで私の運命が一変した。
或る秋の日のこと、母は客間で蜂蜜のジャムを煮ていたし、私はその傍で、舌なめずりしながら、ぐつ〓〓煮える泡を眺めていた。父は窓際で毎年送ってくる「宮中年鑑」を読んでいた。この本は彼に対して常に強い影響力を持っていた――この本を彼は今日までついぞ一度も特別な関心なしに読んだことはなかったし、読めば必ずこの本は、彼の身うちに驚くべき癇癪をかき立てずにおかなかった。父の癖や習慣を余すところなく知りつくしていた母は、日頃この厄介な書物を出来るだけ眼につかぬ場所へ突込んでおく方針をとり、おかげで「宮中年鑑」は、時とすると幾月も彼の眼に触れずにいたものである。その代り、どうかしてそれを見つけた時には、父はもう何時間でも、手からはなさないでいるのだった。こういった次第で、父はその時「宮中年鑑」を時々肩をすくめたり、――「フン陸軍中将!……奴めおれの中隊じゃ軍曹だったに!……両ロシヤ勲章の帯勲者!……われ〓〓が別れてからもうそんなになるかなあ?……」小声でこんなことを繰返したりしながら、読んでいたわけである。遂に父は、「年鑑」を長椅子の上へほうりだし、決していゝことを予告しない深い物思いに沈んでしまった。
不意に、父は母の方へ顔を向けた――『アヴドーチヤ・ワシーリエヴナ、ペトルーシャは幾つだったかな?』
『そら、今月で十七になったところですわ。』と母は答えた。『ペトルーシャが生れたのは、ちょうどナスターシャ・ゲラーシモヴナ伯母さんが、片眼におなんなすった年だったし、それにまだ……』
『よろしい、』と父は遮った――『もう勤務に出していゝ時分じゃ。女部屋を走り廻ったり、鳩小舎へのぼくりあがったりするのはもう沢山じゃ。』
間もなく私を手離す時がくる――この思いにと胸を突かれて、母は鍋の中へ匙を取落し、涙が顔を流れ出した。これに反して私の歓喜は、筆紙に尽しがたいものであった。勤務につくという想念は、私の胸裡で、自由とかペテルブルグ生活とかいう想念とひとつに融け合ってしまった。私は、私の考えでは人生無上の幸福であった近衛将校としての自分を思い描いていたのだった。
父は、自分の思い立ちを変更することも、その実行を延ばすことも、好まない男だった。私の立つ日は定められた。その前夜父は私に、私の未来の長官に添書をしてやると言い出して、ペンと紙とを要求した。
『どうぞお忘れなくね、アンドレイ・ペトローヰ゛ッチ。』と母は言った。『わたくしからもベー公爵によろしくって。それからペトルーシャにお眼をかけて下さいますよう、わたくしからもお願いして居りますからって。』
『何をくど〓〓言ってるんじゃ!』と父は苦り切って答えた。『なんのためにおれがベー公爵へ手紙を書くんじゃ?』
『あら、だってあなた、今ペトルーシャの長官へ一筆書くって仰しゃったじゃありませんか。』
『うん、だからどうだと言うんじゃ?』
『だから、ペトルーシャの長官ていえば、ベー公爵のことでしょう。だって、ペトルーシャはセミョーノフ聯隊に籍があるんですもの。』
『籍がある! 籍があろうとあるまいとそれがおれになんの関係がある? ペトルーシャはペテルブルグへ行くんじゃない。ペテルブルグで勤務して、一たい何を習おうというんじゃ? 無駄づかいとわる遊びか? いゝやだめ〓〓、こいつは普通の隊へ入れて、苦しい仕事と煙硝のにおいで、一人まえの兵隊にならせるのじゃ。のらくら者にするんじゃないわい。近衛に籍があるだと! そんなことよりこれの身分証はどこにある? こゝへ持って来なさい。』
母は、私が洗礼を受けた時の肌着と一緒に手文庫にしまってあった私の身分証を捜し出して、顫える手で父に渡した。父は注意深くそれに眼を通し、自分の前の卓上に置くと、手紙を書きはじめた。
好奇心が私を悩ました。ペテルブルグでないとすると、どこへ遣るつもりなのだろう? 可なりゆっくり動いている父のペンから、私は眼をはなさなかった。遂に、父は書き終って、身分証も一緒に同封すると、眼鏡をはずし、私を傍へ呼び寄せて、こう言った――
『そら、これがアンドレイ・カールロヰ゛ッチ・エルへの手紙じゃ、おれの昔の同僚で友人じゃ。お前はオレンブルグへ行って、この人の下で勤めるのじゃ。』
こういうわけで、私の輝かしい希望は跡形もなく消えてしまった! 楽しいペテルブルグ生活の代りに、遠くはなれた淋しい片田舎の退屈が私を待ち受けていたのである。つい一分前まで有頂天になって考えていた軍隊勤務が、今では遣り切れない不幸のように思われはじめた。併しかれこれいってみても仕方がなかった! 翌朝になると、旅行用の幌馬車が玄関先の段々へ横づけにされ、トランクだの、茶道具入りの小櫃だの、わが家での甘やかしのお名残りともいうべき白パンや肉饅頭の包だのが、積み込まれた。両親は私を祝福してくれた。父は私に言った――『では、ピョートル、出発じゃ。一度宣誓した以上、その人に忠勤を励むんじゃぞ。上官の命令には服従せよ。だが、上官にへつらってはならん。勤務の強請はよろしくない。が、勤務を怠けてはならん。そこで、いゝか、次の諺を覚えておけ――おろしたてから着物は大事、若い時から名は大事。』
母は涙ながらに、私にはからだに気をつけよと命じ、サヴェーリイチには子供のことを頼むと言った。私は兎の皮衣を着せられ、その上から狐の毛裏外套をはおらされた。私はサヴェーリイチと一緒に幌馬車に乗り込み、涙に浸りつゝ旅にのぼった。
その夜のうちに私はシムビールスクに着いたが、そこで、これもサヴェーリイチの役目になっていた必要な品々を買い調えるため、一昼夜滞在しなければならなかった。私は旅宿に宿をとった。サヴェーリイチは朝から買物に出かけた。私は、窓から汚ない横丁を眺めることにも飽きると、ぶら〓〓宿の部屋々々を歩き廻った。撞球室へはいって行くと、年は三十五六、長い黒い口髭を蓄え、部屋着姿でキューを手に、パイプをくわえている背の高い紳士がいた。彼はゲーム取を相手に遊んでいたのだが、ゲーム取は勝つとウオーッカ一杯にありつき、負けると、四つん這いになって球台の下へ這い込まなければならなかった。私は二人の勝負を見物しはじめた。勝負が続くにつれて、四つん這いの散歩がますます頻繁になり、遂にゲーム取は球台の下でへたばってしまった。紳士は、弔詞の形で二言三言辛辣な言葉を彼に浴せてから、私にひと勝負と申し出た。私は出来ないからと断った。ところが、彼にはこれが頷けなかったらしい。哀れな奴という眼附で私を眺めたが、でもそれをきっかけに私達は話をはじめた。その話から私は、彼は名をイワン・イワーノヰ゛ッチ・ズーリンといゝ、××軽騎兵聯隊の大尉で、新兵受領のためシムビールスクへ来て、この旅宿に滞在中ということを知った。ズーリンは、何かあるもので兵隊式に午食を共にしようと私を招待した。私は喜んで同意した。私達は食卓に就いた。ズーリンは大いに飲み、君も軍務に馴れる必要があると言いながら、私にもすゝめた。彼は軍隊生活のさま〓〓な逸話を話してくれ、私は幾度も笑いころげんばかりになり、やがて食卓からはなれた時には、私達はすっかり友達になっていた。そこで彼は私に、撞球を教えてやろうと言い出した。
『これはねえ君。』と彼は言うのだった。『われ〓〓軍人社会には是非必要なことなんだ。例えばさ、行軍に出てちっぽけな田舎町へ着いたとする。何をしたらいゝのかね? まさか、のべつ猶太人を打ってもいられまいじゃないか。仕方がない、宿屋へ出かけて、球でも撞くかということになる。それには撞き方を知らなきゃならん!』
私はてもなく説得され、大した熱を以て稽古にとりかゝった。ズーリンは大声で私を励まし、私の早い上達に驚いて見せた上、数回の練習の後早くも、二カペイカずつの賭けで行こうと言い出した。尤も、これは勝って金を得ようというのではなく、彼の言葉によると最も顰蹙すべき習慣である只勝負を避けるためなのである。私はそれにも同意した。するとズーリンは、ポンス酒を出すことを命じ、君も軍務に馴れる必要があると繰返しながら、私にもやれと押しつけた。ポンスなくてなんの軍務ぞや! というのである。私はそれに従った。その間も、私達の勝負は続いていた。私は、コップの酒を啜るにつれて、段々勇敢になって来た。私の撞く球はのべつ縁を越えて飛び出した。私はのぼせあがり、怪しげな勘定の仕方をしているゲーム取を呶鳴りつけ、次第に賭金をふやして行った――要するに、急に自由を獲得した腕白小僧らしく振舞ったのである。一方、時間は知らぬ間に過ぎて行った。ズーリンは時計を見てキューをおき、私が百ルーブリ負けたことを宣告した。この一事は些か私を当惑させた。私の金はサヴェーリイチの手許にある。私は釈明をはじめた。ズーリンは私を遮った――
『常談でしょう! 心配は御無用御無用。僕はいつでもいゝんだから。それよりどうだい、アリーヌシカのところへでも繰出そうじゃないか。』
とう〓〓行くところまで行ってしまった! 振出しと同じだらしなさで私はその一日の幕を閉じた。私達はアリーヌシカの許で夜食をした。ズーリンは、軍務に馴れる必要があると繰返しながら、のべつ私の盃に酒を注いだ。食卓をはなれた時には、私は、立っているのも精一ぱいだった。夜なかにズーリンは私を旅宿へ連れて帰った。
サヴェーリイチは私達を入口の段々で迎えた。彼は、軍務に対する私の熱心のまごうかたない徴候を見て、あっと仰天した。
『まあ、坊ちゃんとしたことが、一たいどうなすったというので?』と彼は、情けない声を出した。『どこでそんなに召上ったんです? あゝ、やれ〓〓! いままでこんなことは一遍だってなかったのに!』
『黙れ、老いぼれめ!』と私は、言い淀みながら食ってかゝった。『貴様こそ確かに酔払ってるんだ。早く寝っちまえ……そしておれさまをお寝かし申せ。』
翌日、私は頭痛とともに眼をさまし、昨日の出来ごとをぼんやりと思い浮べた。私の追懐は、お茶を持ってはいって来たサヴェーリイチによって断ち切られた。
『早過ぎますよ。ピョートル・アンドレーイチ、』と彼はかぶりを振りながら言った。『今から道楽はちっと早過ぎますよ。一たいどなたにお似なすったんでしょうねえ? たしか、お父様もお祖父様も御酒は召上らなかったし、お母様の方は申すまでもありません――今日が日までクワス以外は一滴だって口へお入れなすったことはないんだから。一たい誰の罪ですかね? 何もかもあのいやなモッシューでさ。あの先生ときちゃ、間がな隙がなアンチピエーヴナのところへ押かけて、「マダム ジェ ヴー プリ ウォーツキ(奥さん、ウオーッカ下さい。)」をやらかしてたんですからね。そこで、お前様までがジェ ヴー プリだ! 何も言うこたありませんて――あの牝犬の小忰め、器用に仕込みやがったもんですよ。第一、あんな邪教徒をよくも傅役なんかに傭ったものでさあ! お邸に人手がないみたいに!』
私は恥かしかった。私は顔をそむけて、彼に言った――
『あっち行ってくれ。サヴェーリイチ。僕はお茶はほしくない。』
併しサヴェーリイチは、お説教をはじめたが最後、黙らせようのない男だった。
『それ御覧なさい、ピョートル・アンドレーイチ、酒という奴がどんなものかわかったでしょう。頭は重いし、食は進まずさ。酒飲みって奴は、全くなんの用にも立たぬ人間ですよ……胡瓜漬の塩水に蜜を入れて召上れ、それより一番いゝのは、浸酒をコップに半分も、迎え酒にやることでさ。ひとつ上ってみませんかね?』
その時男の子がはいって来て、イー・イー・ズーリンの手紙を私に差出した。私はそれを披いて、次の数行を読んだ――
『親愛なるピョートル・アンドレーヰ゛ッチ、どうかこの子供に、君が昨日負けた百ルーブリを持たせてくれ給え。僕は今とても金に窮しているのだ。早々。
イワン・ズーリン』
如何ともしようがなかった。私は平気な面を装い、金なら、下着なら、その他私の身辺一切の世話役であるサヴェーリイチに向って、この子供に百ルーブリ渡せといゝつけた。
『どういうわけで! なんのために?』度胆を抜かれたサヴェーリイチは訊いた。
『僕がそれだけ借金したんだ。』と私は、精一ぱいの冷かさで答えた。
『借金!』とサヴェーリイチは刻一刻、益々驚きの度を高めながら言い返した――『だが一たいいつの間に、お前さまはそんなに借金をお拵えなすったんです? なんだか話が腑に落ちませんね。そりゃまあお前さまの御勝手ですが、わしはお金は出しませんね。』
私は考えた、もし今この重大な瞬間に、頑固老爺をおさえつけておかなかったら、さき〓〓彼の目附から自由になる折はあるまいと。そこで、傲然と彼を見下して、こう言ったものである。
『おれは貴様の主人だぞ、貴様はおれの召使じゃないか。金はおれのものだ。おれがそれを負けたのは、おれがそうしたかったまでのことだ。お前に教えてやるが、お前は屁理窟なんか並べないで、いゝつけられた通りにすればいゝんだ。』
サヴェーリイチは私の一言に胆を潰し、両手をはたと打合せて、その場に立竦んでしまった。
『何をぼんやり突立ってるんだ?』と私は怒った調子で呶鳴りつけた。
サヴェーリイチは泣き出した。
『若旦那、ピョートル・アンドレーイチ、』と彼は、顫え声で言い出した。『わしにあんまり悲しい思いをさせないで下さいまし。ねえ、わしの大事な若旦那! この年寄りのいうことを聴いて、その泥棒野郎に、あれは常談だった、そんな大金は持合せがないと、書いておやりなされませ。百ルーブリ! まあなんて飛んでもない! 胡桃のほかの賭はならんと、両親に堅くかたくとめられてるって、そう書いておやりなされませ……』
『余計な口を利くな。』と私は頑として遮った――『こゝへ金を持ってこい、さもないと、頸根っこを掴んで追ん出すぞ。』
サヴェーリイチは深い悲しみの色を浮べて私を見、私の借金の金を取りに行った。私には可哀そうな老人がいじらしかった。が、ひと思いに自由を獲得したくもあり、自分がもう子供でないということを示したくもあったのである。金はズーリンに届けられた。サヴェーリイチは、この呪わしい旅宿から私を連れ出すことを急いだ。彼は馬の用意が出来たという知らせを以て現われた。私は、穏かならぬ良心と無言の悔恨を抱きながら、例の先生には別れも告げず、またいつか相見る折があろうなどとは考えもしないで、シムビールスクを後にした。
第二章 道案内
こゝも国かよ、ロシヤかよ
ても見覚えのないところ!
わしが自分で来たのでも、
駒にひかれて来たでものうて
気のいゝ若者このわしを
連れて来たのは若さの血気、
はやり心と酒の酔い。
――古 謡
私の旅次の黙想はあまり愉快なものではなかった。私の負けは、当時の価としては、馬鹿にならぬものであった。シムビールスクの旅宿における私の行状が愚かであったことは、私も心ひそかに認めざるを得ず、サヴェーリイチに対してはわるいことをしたと感じていた。こうしたことがすべて私の悩みの種であった。老人は苦り切って馭者台に腰掛け、私から顔をそむけて黙りこんで、時々咽喉を鳴らすだけであった。私はどうでも彼と仲直りしたくてならなかったのだが、どう切り出していゝかわからなかった。最後に、やっと私は言い出した――
『ねえ、おい、サヴェーリイチ! 沢山だよ、仲直りしようよ、僕がわるかったよ。自分でもわるかったと思ってるんだ。僕は昨日さんざ馬鹿をした挙句、無駄にお前の気までわるくさせちまった。僕、約束するよ、これからはもっと行いに気をつけ、お前のいうことも聴くようにする。さあ、もう怒らないで、仲直りしてくれよ。』
『えゝい、滅相もない、ピョートル・アンドレーイチ!』と彼は深い溜息と共に答えた。『わしが怒ってるのはね、このわが身のことですよ――わるいのはみんなこのわしです。第一わしとしたことが、お前様をひとりきり、よくも宿屋になんぞ残しておかれたものでさ! やくたいもない! 魔がさしたという奴でね――ふっと寺男の上さんちへ寄って、教母に会おうと思いついたんでさ。ところがそれ――いゝとこへ行ったつもりで牢へ行きってことになっちまった。いやもう飛んだ災難で! わしとしても、どの面さげて旦那様がたのお前へ出られましょう? 坊ちゃんが、お酒を飲んで賭事をなさるとお聞きになったら、おふたりはなんと仰しゃるでしょう!』
哀れなサヴェーリイチを宥めるために、私は、彼の同意なしには今後はもう一カペイカも自由にしないことを約束した。彼はなお依然として、時々頭を振りながら、――『百ルーブリ! なま易しい話ですかい!』とひとりでぶつ〓〓呟いていたが、それでも少しずつ落ちついて来た。
私は次第に目的地へ近づきつゝあった。周囲には、物悲しげな荒野が、丘や谷に断ち切られながら、ひろがっていた。すべては雪に蔽われていた。太陽は沈みつゝあった。幌馬車は狭い道を、というよりは寧ろ、百姓達の橇が残して行った跡を辿って、進んでいた。急に、馭者がわきの方を眺めはじめたが、やがて、帽子を脱ぎ、私の方を向いて言い出した――
『旦那、引返しちゃどうでしょう?』
『どうしてだね?』
『空模様が怪しいんでね――ちっとばかり風が出て来たでさ、そら、あんなに降りたての粉雪を飛ばしてまさ。』
『それがどうしたのだい?』
『じゃあ、向うに見えるのはなんですかね?』
馭者は鞭をあげて東を指した。
『おれにはなんにも見えないね、白い草原《ステツピ》と晴れた空きり!』
『いんや、その向う、もっと向うでさ――あのちっこい雲のことでさ!』
見ると、実際、空のはずれに、最初は遠い丘かと思ったちょっとした白い雲が出ていた。馭者は私に、あの雲は大吹雪の前兆だと説明した。
私はこの辺の吹雪の話も聞き、荷橇の長い列が残らず雪に埋められてしまうようなことのあるのも知っていた。サヴェーリイチは馭者の意見に賛成して、引返すことを勧めた。併し私には、風が強いとも思えなかったし、吹雪のくるまでには次の宿場へ行き着けるだろうという気がしたので、もっと馬を飛ばせろと命じた。
馭者は馬を追いはじめたが、のべつ東の方ばかり振返っていた。馬は足並そろえて駈けた。一方、風は漸くつよまって来た。小さい雲は白い雨雲に変り、それが重々しくのしあがり、成長して、次第に空を蔽いつくした。粉雪が降り出し――見る間に綿雪になって渦巻きはじめた。風が咆え出し、吹雪がはじまった。瞬く間に、暗い空が雪の海と溶け合った。一切が消えてしまった。
『さあ、旦那。』と馭者は叫び出した――『来ましたぜ、大吹雪だ!……』
私は幌の中からのぞいて見た――周囲は暗黒と渦巻だった。風は恰も生命を吹き込まれたように狂暴な勢いで咆えたけり、雪は私とサヴェーリイチを押包み、馬は並足で進んでいたが、間もなく立ちすくんでしまった。
『どうしてやらんのだ?』と私は苛って馭者に訊いた。
『これがやれますかね?』と彼は、馭者台から這い降りながら答えた――『今だってさっぱりわからねえ、どこへ迷い込んだのか――道はねえし、あたりは暗いし。』
私は彼を罵りはじめた。サヴェーリイチは彼の肩をもった。
『初めに向うのいうことを聴けばよかったのですよ。』と腹立たしげに彼は言った。『宿屋へ引返して、お茶でもたらふく飲み、朝までぐっすり寝て、嵐がやんでから立てばよかったんでさ。急いでどこへ行くんです? 婚礼にでも行くならともかく!』
サヴェーリイチは正しかった。だが、今更どうにもならなかった。雪はます〓〓降りしきる。馬車のまわりには雪堆が出来る。馬は頭を垂れて立ち竦み、時たまぶる〓〓と身顫いする。馭者は、手持ぶさたに馬具を直したりしながら、その辺を歩いている。サヴェーリイチはぶつ〓〓呟き、私は、せめて人家か道のしるしだけでも見当らぬものかと、八方へ眼を配ってみるが、濛々たる吹雪の旋回以外、何ひとつ見分けることは出来なかった。とつぜん、私は何やら黒いものを認めた。
『おい、馭者!』と私は叫び出した――『見ろ、ありゃなんだい、あすこに黒く見えるのは?』馭者はじっと眼を凝らした。
『さあなんですかね、旦那、』と彼は自分の席に坐り込みながら言った。『荷車かと思や荷車でもなし、樹かと思や樹でもなし、でも、どうやら動いちゃいるようだ。大方狼か人間か、そこいらのところに違えねえ。』
私はえたいの知れぬものの方へ馬を進めてみろと命じた。と、さきでもすぐにこちらへ向って動きはじめた。二分の後、私達はひとりの男と肩を並べた。
『おーい、そこの衆!』と、馭者がその男に声をかけた。『お前さん知らねえかね、どこが道だか?』
『道ならこゝさ。おらちゃんと堅い地面に立ってるよ。』と通行人は答えた。『それがどうしたんだい?』
『ねえ、お百姓、』と私は彼に声をかけた。『君はこの土地を御存じかね? どこか泊れるとこまで僕を連れてってくれないかい?』
『この土地はよく知ってるよ。』と通行人は答えた。『有難いことに、縦にも横にも、歩き廻り乗り廻したんでね。だが、天気がなにしろこの通りだ――手もなく迷っちまいまさあ。それよりゃこゝにとまっていて、待ってる方が上策だ――するうちにゃ吹雪も収まり、空も霽れてくるにきまってる、そこで星あかりで道を見つける。』
彼の冷静は私を励ました。私はそこで、一身を神のみ心に任せ、曠野の真中で一夜を明そうと決心した、その時不意に通行人が、素早く馭者台へ飛び乗って、馭者に向ってこう言った――
『やれ、有難いぞ、近くに人家があるらしい。右へ廻して、やってみな。』
『なんでおらが右へやるのだ?』と馭者は不機嫌そうに訊いた。『一たいどこに道があるんだね? ふん、さては、馬はひとのもの、頸圏《くびわ》もひとのもの、構うこたねえからふっ飛ばせって肚だな。』
馭者の言葉が私にはもっともに思われた。
『ほんとうに、』と私は言った。『どうして君は、人家が近いなんて思うんだね?』
『そいつはね、風が今向うからひと吹き吹いて、』と通行人は答えた。『煙の臭いがしたからさ、――つまり里が近いってわけでさ。』
彼の慧敏と感覚の鋭さが私を驚かした。私は馭者にやれと命じた。馬は重々しく深い雪を踏んで進む。幌馬車は雪堆へ乗り上げたり、窪みへ落ち込んだり、右に左にぐら〓〓揺れながら、静かにゆる〓〓と動いて行く。それはまさに、嵐の海を行く航海であった。サヴェーリイチは、のべつ私の横腹に打突かりながら、溜息ばかりついている。私は茣蓙をおろし、毛裏外套にくるまって、嵐の歌と静かな車行の動揺にあやされながら、うと〓〓とまどろみはじめた。
私は夢を見た。その夢のことはどうしても忘れられないし、また私の生涯のいろ〓〓不思議な出来事と思い合せる時、私はいまだにその中に一種予言めいたものを感じるのである。読者は私を許して下さるだろう、なぜなら、恐らく読者は、偏見に対する幾多の軽蔑にも拘らず、生れつき迷信に陥り易いのが人の常であることを、経験によって知っていられるであろうから。
私はその時、現実が幻想に屈しつゝ、寝入りばなの漠然とした幻視の中で互にまざり合うひと時の、あの感覚と心の状態にあった。私には、大風雪はまだ哮《たけ》り狂い、私達は依然として雪の曠野をさまよっている、こんなふうに思われていた……不意に、私は門を見かけた、そうしてわが家、地主邸の屋敷内へ乗込んだ。私の第一の想念は、私が心にもなく両親の膝下へ戻って来たことを父が怒りはしないだろうか、故意の横着と取りはしまいかという懸念であった。私は、不安な落ちつかぬ気持で、幌馬車から飛び降りた。そして見ると――深い悲しみの色を浮べて母が昇り段の上に出迎えている。『静かに。』と母は私に言う、『お父様が御病気で、もういけないの、それでお前に会いたがってらっしゃるの。』恐怖に打たれながら、私は母について寝室へ行く。見ると、部屋は仄明るく、寝台の傍には悲しそうな顔をした人々が立っている。私はそっと寝台へ近づく。母は帷をかゝげて言う――『アンドレイ・ペトローヰ゛ッチ、ペトルーシャが帰りましたよ。あなたの御病気を知って戻って参りましたの。どうぞ祝福してやって下さい。』私は突き膝をして、病人の顔に眼を凝らした。なんとしたことだ?……父の代りに寝台には、黒い顎鬚の百姓が、愉快そうな眼で私を見ながら、寝ているではないか。私は疑い惑いながら母を顧みてこう言った――『一たいどうしたことですか? これはお父さんじゃありません。なんのために、僕が百姓の祝福なんか受けるんです?』――『おんなじことですよ、ペトルーシャ。』と母は答えた。『この人はお前の仮親なんですもの。さ、この人の手に接吻して、祝福をお受けなさい……』私は肯んじなかった。その時百姓は寝台から飛びおり、背中から斧を抜き取ると、八方無尽に振廻しはじめた。私は逃げようとした……が、出来なかった。部屋は死屍に満たされ、私はそれに躓いたり、血溜りに滑ったりしたからである……恐しい百姓は優しく私に呼びかけた――『恐がることはない。こっちへ来て、わしの祝福を受けなさい。』……恐怖と疑惑が私をつかんだ……そして、その瞬間に私は眼ざめた。
馬車はとまっていた。サヴェーリイチが私の手をとりながら言っていた――
『お降りなさいまし、若旦那――着きましたよ。』
『どこへ着いたんだ?』と私は、眼をこすりながら訊いた。
『宿屋ですよ。神様のお助けで、こゝの垣根へまともに打突かったのです。さ、早くお降りなさいまし、若旦那、そしてお暖まりなさいまし。』
私は馬車から出た。幾分衰えてはいたが、吹雪はまだ続いていた。眼玉をえぐられてもわからぬほどの闇だった。亭主は裾で灯をかばいながら、門まで私達を出迎えて、狭いかわりにきれいなひと間へ私を案内した。松明がその中を照らしていた。壁には旋条銃と、つんぼり高いコザック帽とがかゝっていた。
亭主は、生れはヤイーク・コザックで、六十がらみの百姓だったが、まだ元気で矍鑠としていた。サヴェーリイチは私のあとから茶器櫃を運んで来て、お茶を淹れるために火を求めた。私もこの時ほどお茶を欲しいと思ったことはなかった。亭主は支度をしに出て行った。
『あの道案内はどこへ行ったい?』と私はサヴェーリイチに訊いた。
『こゝにいますよ、旦那。』と、上の方から返辞が聞えた。
私は天井に近い棚寝床を見上げて、真黒な顎鬚と、きら〓〓光るふたつの眼を認めた。
『どうした、兄弟、凍えたかね?』
『どうして凍えねえでいられますかよ、この薄い外套一枚でさ! 皮衣も一枚あったんだが、何を隠そう、昨夜酒場でかたに置いちまったんでさ――大した寒さもあるめえと思ったんでね。』
この時亭主がしゅん〓〓たぎっているサモワールを運んで来た。私はわが道案内にもお茶をすすめた。百姓は棚寝床から降りて来た。その風貌は、ひと眼で私に強い印象を与えた。年のころは四十前後、中背で、痩せ形の、肩の広い男だった。真黒な顎鬚には白髪がまじり、生きいきした大きな眼はのべつ生きいきと動いていた。顔は、感じはわるくないが、どこか気の許せぬ表情を持っていた。髪はまるく刈り込まれ、身にはぼろに近い百姓外套に、だぶ〓〓の韃靼ズボンをつけていた。私は、彼の前へお茶の茶碗を押しやった。彼はちょっと口をつけてみて、顔をしかめた。
『旦那、御親切ついでにその……酒を一杯いゝつけていたゞきてえもんで……お茶って奴ぁわしらコザックの飲みものじゃねえですよ。』
私は喜んで彼の願いを容れてやった。亭主は小棚から酒罎とコップを取出して、彼の傍へ近づいたが、ふと顔を見ると、
『おや。』と言った。『お前まだこの辺にいるのかい! 一てえ、どこから舞って来たんだい!』
私の道案内は、意味ありげに眼配せして、諺で返辞をした――
『野菜畠を飛んでさ、麻の実をつゝいてたと思え。婆あが石を投げおったが、的ははずれた。ところで、そっちの方はどうだえ?』
『こっちもどうもね!』と亭主は、譬え話を続けながら、答えた。『晩祷の鐘を鳴らそうとしたら、梵妻《だいこく》から文句が出た――坊主はお客に行ってるし、寺内に鬼がいたからさ。』
『黙んなよ、爺《とつ》さん。』とわが浮浪人は言い返した。『雨が降りゃ蕈も出るわな。蕈が出りゃ籠も出ようて。が、今んところは(こゝで彼はまた眼配せをした。)斧は背中へさしとくだ――森番の眼がうるせえからな。旦那、お前様の御健康を!』
こう言いながら彼はコップを取上げ、十字を切って、ひと息にあおった。それから私に会釈して、棚寝床へ戻って行った。
当時私は、この泥棒同士の話は何ひとつ理解出来なかったが、後になって初めて、それは、一七七二年の叛乱の後当時鎮圧されたばかりのヤイーク・コザック軍の話だったことが頷かれた。サヴェーリイチは、ひどく不満げな顔附でふたりの話を聞いていた。彼は胡散臭そうな眼で、亭主を見たり道案内を見たりしていた。この旅宿、或は土地の言葉でいえば草宿《ウミヨート》は、街道をそれた曠野の只中、人里遠い地にあって、いかさま泥棒の棲家に似ていた。併し今更どうしようもなかった。旅を続けることなど思いもよらなかった。サヴェーリイチの心配顔が、私にはいゝ気晴しになった。その間にも私は寝支度をして、ベンチの上に身を横たえた。サヴェーリイチは煖炉の上に寝ることにし、亭主は床の上に横になった。間もなく小屋じゅうが鼾をかき出し、私は死んだように寝入ってしまった。
翌朝、可なり遅く眼がさめてみると、嵐はやんで、太陽が輝いていた。雪は涯しない曠野に眩しい敷布をのべていた。馬は支度が出来ていた。私は亭主に勘定を払ったが、その勘定がいかにも穏当だったので、さすがのサヴェーリイチも、いつもの癖を出して口論したり値切ったりしなかったばかりか、前夜の疑いなどきれいに忘れてしまったほどであった。私は道案内を呼び、世話になった礼を述べて、サヴェーリイチに酒手を五十カペイカやれと命じた。サヴェーリイチは顔をしかめた。
『酒手に五十カペイカ!』と彼は言った。『なんのために? お前様があの男をこゝの家まで連れて来てやった礼にですかい? そりゃ、若旦那、お前様の御勝手ですがね――今わしの手許には、五十カペイカだって余分はありませんからね。誰彼なしに酒手をくれてた日にゃ、こっちの咽喉が乾上っちまいまさあ。』
私はサヴェーリイチと争うわけに行かなかった。私の約束により、金は完全に彼の支配下にあったからである。とはいえ、私にしてみれば、よし災厄とはいえないまでも、少くとも不愉快極まる状態から救い出してくれたこの男に礼の出来ないのは、いかにも心残りだった。
『よろしい。』と私はすまして言った。『どうでも五十カペイカ出してくれないなら、何かおれの着物を一枚出してやってくれ。あの男はいかにも薄着だ。そうだ、兎の皮衣をやってくれ。』
『とんでもない、若旦那、ピョートル・アンドレーイチ!』とサヴェーリイチは言った。『なんだってあんな男に兎の皮衣なぞやるんです? あんな犬野郎は、眼についた最初の酒場で酒にかえてしまいますよ。』
『そいつあ爺さん、お前の知ったことじゃなかろうぜ。』とわが浮浪人が口を出した。『おれが飲もうと飲むまいとよ。旦那は自分の外套をわざ〓〓脱いで、おいらに賜わろうと仰しゃるんだ、――それが旦那の思召だ、お前は召使じゃねえか、四の五のいわずに仰せを聴けとよ。』
『お前は神様を恐れねえんだな、追剥野郎め!』とサヴェーリイチは食ってかゝった。『見りゃわかるだろう、おれの坊ちゃんはまだなんにもわかっちゃいなさらねえんだ。それをお前は、坊ちゃんの無欲をいゝことに、捲き上げようって料簡だろ。旦那用の皮衣がなんでお前にいるんだよ? どうせそのでけえ肩にゃ着られねえにきまってる。』
『いゝから、理窟はやめてくれ。』と私はじいやに言った。『早く行って、皮衣をこゝへ持ってこい。』
『やれ〓〓、飛んだことになった!』と私のサヴェーリイチは唸った。『新らしいも同然の兎の皮衣を! 人もあろうに、こんな素寒貧の飲んだくれにくれてやるなんて!』
併し、兎の皮衣は持ってこられた。百姓は早速身体に合せはじめた。私にも窮屈になっていた皮衣は、果して、彼には少し小ぶりだった。が、彼は縫目を綻ばせて、どうにか無理々々着てしまった。サヴェーリイチは、糸の切れる音を耳にすると、危く咆えつかんばかりになった。浮浪人は、私の贈物にいたく満足そうであった。彼は、私を馬車まで送って来て、低いお辞儀をして言った――
『有難う、旦那! 旦那の御慈悲にいゝお報いがありますよう、お情けは一生忘れませんよ。』
彼は自分の志す方へ去り、私は、サヴェーリイチのいま〓〓しさなど気にもとめないで旅を続けた。そして間もなく、昨日の吹雪のことも、道案内のことも、兎の皮衣のことも、忘れてしまった。
オレンブルグへ着くと、私は真直ぐ将軍の住居へ乗りつけた。私の見たのは、背の高い、が、年のせいでもう腰のまがっているひとりの男だった。その長い頭髪はすっかり白かった。色のあせた古い軍服は、アンナ・ヨアーノヴナ時代の軍人を想い起させ、彼の言葉には強いドイツ訛りが目立った。私は彼に父の手紙を渡した。父の名を見ると、彼は素早く私を一瞥した。
『さても〓〓!』と彼は言い出した。『アンドレイ・ペトローヰ゛ッチが君ぐらいの年配だったのは、そう昔のことだろうか、これが今じゃもうこんな大きな息子持じゃ! あゝ、時じゃ、時じゃ!』
手紙の封を切ると、彼は時々自分の文句を挿入しながら、小声でそれを読み出した――
『アンドレイ・カールロヰ゛ッチ貴下、願わくば閣下…… これはなんちう他人行儀じゃ? ふう、よくも恥かしくないもんじゃて! 勿論軍紀は第一じゃ、じゃが昔の同僚にこんな書き方をする奴があるじゃろうか?…… 閣下にはお忘れもなきことと…… フム…… 而して……当時……故元帥ミン…… 行軍に…… 同様また……カロリンカを…… おや〓〓、兄弟! してみると奴さんまだ昔のいたずらを覚えちょるのか? さて卒爾ながらと…… お手許まで豚児……フム……〓《はりねずみ》の手袋もて御扱い…… 〓の手袋とは一たい何じゃ? はゝーん、こりゃロシヤの諺に違いないな……なんじゃね、この〓の手袋もて御扱いちうのは?』彼は私に向って繰返した。
『それは、ですね、』と私は出来るだけ罪のない顔を作って答えた。『つまりその、あまり厳格でなく、その、優しく扱う、なるべく自由にさせとく、つまりその、〓の手袋で扱うということになるんです。』
『フム、なるほど…… 而して自由は仮にもお与えなく…… いや、少々怪しくなって来たぞ、〓の手袋ちうのはそんな意味ではないらしいて…… えゝと、こゝに彼の身分証同封……どこにある、それは? あゝ、これじゃ……セミョーノフ聯隊へ御通報…… よろしい、引受けた――万事ぬかりなくやってやるわい…… 今は官位をよそにして貴下を抱擁……古き友とし同僚として…… あゝ! やっとわかった! 云々云々と……さて、君、』と彼は、手紙を読み終え、私の身分証をわきへおいたところで、言い出した。『万事ぬかりなくやって進ぜる――君は将校として×××聯隊へ転任するんじゃ。そこで、時間を空費せんためにじゃ、早速明日にもベロゴールスク要塞へ出発するがえゝ。そこで君は、ミローノフ大尉の指揮下にはいるんじゃ。これは正直なえゝ男じゃ。そこで君は実地の勤務において、軍紀ちうものを習うんじゃ。このオレンブルグにゃ君のすることはなんにもない。暇は若い者には有害じゃ。じゃがまあ今日は、うちで食事をして行ってもらおうか。』
『どうも、益々わるくなる一方だ!』と私はひとり考えた。『おれは、まだお袋の腹の中にいるうちから近衛の軍曹だったということだが、それが一たいなんの役に立ったんだ? これはぜんたいどうしたことだ? ×××聯隊行き、キルギス・カイサーツク草原の国境にある辺鄙極まる要塞行きか!……』
私はアンドレイ・カールロヰ゛ッチの許で、彼の老副官と三人で食事をした。厳格なドイツ式経済は、彼の食卓にも君臨していた。そこで私は考えた。恐らくそのやもめ暮しの食卓へ、時には余計な客を迎えなければなるまいという杞憂が、急遽私を守備隊へ追いやる一部の原因だったのではあるまいかと。翌日、私は将軍に別れて、自分の任地へと出発した。
第三章 要塞
われらは要塞守備ぐらし
パンと水にてしのげども
ひと度猛き敵の勢
ピローグ眼がけ寄せ来なば、
客にうたげを振舞わん、
砲に霰弾弾丸《た ま》こめん。
――兵隊の歌
旧式な人達でございますわ、あなた
――「未成年者」
ベロゴールスクの要塞は、オレンブルグから四十露里の地点にあった。道はヤイーク河の急な河岸に沿うて走っていた。河はまだ凍結していず、その鉛色した波は、真白な雪に蔽われた単調な両岸に挟まれて、暗澹として黝んでいた。その向うには、キルギスの草原がひろがっていた。私は、主として悲しい追憶に沈みがちであった。守備隊生活は、私にとって殆ど魅力を持たなかった。私は、未来の長官ミローノフ大尉をいろ〓〓に想像してみた。そしてとにかくその人を、勤務以外にはなんにも知らず、事毎に人をパンと水だけの営倉へ打込もうとしている、厳しい、怒りっぽい老人のように想像した。するうちに、黄昏が迫って来た。私達は可なりの速力で走っていた。
『要塞まではまだ遠いのかい?』と私は自分の馭者に尋ねた。
『なあにじきでさ。』と彼は答えた。『ほら、もう見えてまさ。』
私は八方へ眼を凝らした、物々しい稜堡や、櫓や、堡塁などが見えるものと期待したのだが、丸太の柵に囲まれた貧弱な村以外には、何ひとつ眼にはいらなかった。一方には、乾草の堆《やま》が三つ四つ、半ば雪に埋もれて立って居り、いま一方には、軒の傾いた風車小屋が樹の皮作りの翼をぐたりと垂れて立っている。
『一たい要塞はどこなんだい?』と私は驚いて尋ねた。
『それ、あれがそうでさ。』と馭者は村を指しながら答えたが、その言葉とともに私達は村へ乗入った。
村の門際で、私は古い鋳鉄の大砲を見かけた。往来は狭く、曲りくねっていた。百姓家は低く、大部分藁葺だった。私はまっすぐ司令官の住居へ行けと命じた。と、間もなく馬車は、木造の教会に近く、小高い場所に建っている同じ木造の小さい家の前にとまった。
誰も私を出迎えなかった。私は玄関へ踏み込んで、控室の扉をあけた。老人の廃兵がひとり、卓に腰掛けて、青い軍服の肘に紺色の補布《つ ぎ》をあてていた。私は、その男に取次を命じた。
『まあおはいり、どうぞ、』と廃兵は答えた。『みなさんおうちですよ。』
私は、昔ふうに飾りつけられた小ざっぱりした部屋へ通った。一隅に食器戸棚が立って居り、壁には硝子入りの額縁にはいった将校任官辞令がかゝっている。その周囲には、クリストリンやオチャコフ(プロシャとトルコの要塞)の占領だの、嫁選みだの、猫の埋葬だのを現わした安っぽい版画が美を誇っていた。窓際には、百姓女の着る胴着を着て頭布《プラトーク》をかぶったひとりの老婆が掛けていた。彼女は、将校の軍服を着た片眼の老人が両手にかけて支えている糸を捲き取っていた。
『あなたの御用向きというのは?』と彼女は、自分の仕事を続けながら訊いた。
私は、自分が勤務に来た者であること、それで義務として大尉殿へ申告に出た旨を答え、その言葉と共に、彼を司令官だと考えて、片眼の老人の方へ向き返ろうとした。ところが主婦は、私が暗記して来た口上を遮った。
『イワン・クジミーチはるすですの。』と彼女は言った。『ゲラーシム神父さんのところへお客に行きましたの。でも、構いませんよ、あなた、――わたしがこの家の主婦なんですもの。どうぞよろしく願います。まあ掛けなさい、あなた。』
彼女は少女を呼び、下士を呼んでくることを命じた。老人はその片眼で物珍しそうに、時々私を見ていた。
『失礼ですが、』と、彼は私に話しかけた。『あなたはどこの聯隊に勤務して居られましたんですか?』
私は彼の好寄心を満たしてやった。
『では、失礼ですが、』と彼は続けた。『どうしてまた近衛から守備隊なんぞへ移ってこられましたんですか?』
私は、それは上官の意志だと答えた。
『すると、なんですな、何か近衛将校にふさわしくない行いでもがあったというような?』と、疲れを知らぬ質問者は続けた。
『下らないお喋りはいゝ加減になさいよ。』と大尉夫人が彼に言った。『お前だってわかるだろうに、この若い方が旅でお疲れなことは。この人はお前どころじゃないんだよ……そら手をもっと真直ぐにして…… ときにあなた。』と彼女は私の方を向いて続けた。『こんな辺鄙な土地へ追われて来たって、ちっとも悲観することはありませんよ。あなたが最初でもなきゃ最後でもないんですからね。我慢すりゃ好きになれる、ですわ。シワーブリン――アレクセイ・イワーヌイチにしたって、人殺しのかどでこの土地へ転勤になってから、もうこれ五年ですものね。一たいどんな魔がさしたものやら、それはわからないけれど、まあ聞いて下さい、こうなんですよ。あの人は、どこかの中尉と市外へ乗出しましてね、お互に剣をひっこぬいて、突き合ったというんですよ。そこでアレクセイ・イワーヌイチは中尉を刺し殺しちまいました。おまけにふたりも立会人のいる前でね! こうなったら百年目ですわ! 人間に過ちはつきものですがね。』
ちょうどこの時、ひとりの下士がはいって来た。若い堂々たるコザックである。
『マクシームイチ!』と大尉夫人は彼に言った。『この将校さんを宿舎へ御案内しなさい、なるべくきれいなところへね。』
『畏りました、ワシリーサ・エゴーロヴナ。』と下士は答えた。『将校殿をイワン・ポレジャーエフのところへお入れしては如何でしょう?』
『いやだわ、マクシームイチ。』と大尉夫人は言った。『ポレジャーエフのところは、今だっていい加減窮屈じゃないか。それにあの人は、わたしからいえば教父だし、わたし達が上官だということを心得てる人だからね。この将校さんはね……あゝお名前と御父称はなんて仰しゃるの、あなた?』
『ピョートル・アンドレーイチです。』
『じゃあピョートル・アンドレーイチはね、セミョーン・クーゾフのところへお連れしなさい。あの横着者め、自分の馬をうちの野菜畠へ放したりしてさ。で、どうなの、マクシームイチ、別に変ったことはないの?』
『はい、おかげで万事平穏であります。』とコザックは答えた。『たゞプローホロフ伍長が風呂屋で、お湯ひと桶のことからウスチーニヤ・ネグリーナとなぐり合っただけであります。』
『イワン・イグナーチイチ!』と、大尉夫人は片眼の老人に言った。『プローホロフとウスチーニヤを調べなさい。どっちがよくてどっちがわるいか。そして両方とも成敗しておやりなさい。じゃ、マクシームイチ、お前はおいで。ピョートル・アンドレーイチ、マクシームイチがお宿へ御案内します。』
私は暇を告げた。下士は私を、要塞の一番はずれの高い河岸の上に立っている百姓家へ案内した。小屋の半分はセミョーン・クーゾフ一家に占領されていたので、私にはあとの半分が当てがわれた。そこはひと間きりだったが、割合きれいで、板仕切でふたつに仕切られていた。サヴェーリイチは早速部屋の整頓にかゝり、私は狭い窓から外を眺めはじめた。私の前には淋しい草原がひろがっている。斜め向うには数軒の百姓家が立並び、往来には鶏が四五羽うろついている。槽を抱えた婆さんが入口の段々に立って豚を呼べば、豚どもはそれに答えて人なつこい唸り声を出している。つまりこれが、私のわが青春を送るべく運命づけられた土地なのである! 憂愁が私をとらえた。私は窓からはなれると、サヴェーリイチの諫言をしりぞけて、夜食もとらずに寝てしまった。彼は傷心の態で繰返していた――
『あゝ、やれ〓〓! なんにも欲しくないと仰しゃる! 坊ちゃんに病気にでもなられた日にゃ奥様がなんと仰しゃることだろう?』
翌日、朝早く、私がやっと着更えをはじめたばかりのところへ、扉があいて、背の低い若い士官がはいって来た。顔は浅黒く、ふた目とは見られぬ醜男だが、いかにも生気溌剌としている。
『失礼だが、』と彼はフランス語で言い出した。『儀礼抜きでお近づきにあがりました。僕は昨日君のこられたことを知ったのですが、やっと人間らしい顔を見られるかと思うと、とても堪らなくなっちゃったのです。君も暫くこゝにいられたら、この気持もわかりますよ。』
私はそこで、決闘のために近衛から追われて来た将校というのがこれだなと察した。私達は早速懇意になった。シワーブリンは非常に頭のいゝ男だった。彼の話は機智縦横で面白かった。彼は頗る陽気な調子で、司令官の家庭のことや、彼の交際仲間のことや、運命が私を連れて来たこの地方のことについて話して聞かせた。私が他愛なく哄笑していたところへ、昨日司令官の控室で軍服の繕いをしていた当の廃兵がはいって来て、ワシリーサ・エゴーロヴナの名で私を午餐に招待した。シワーブリンも一緒に行こうと言い出した。
司令官の家の傍までくると、そこの広場に、長い辮髪を垂らし三角帽をかぶった年寄りの廃兵が二十人ばかり集まっていた。彼等は横隊に整列していた。そしてその前に司令官が、――室内帽に支那ふうの部屋着をつけた背の高い元気そうな老人が立っていた。私達を見ると、彼は傍へ寄って来て、私に二言三言打とけた言葉をかけ、再び指揮をとりはじめた。私達がそのまゝ残って教練を見ようとしかけると、彼は、自分もすぐ後から行くと約束して、私達に、さきにワシリーサ・エゴーロヴナの方へ行っていてくれと頼むように言った。
『君達はこゝにいたって』と彼は言い足した。『別に見るものはないよ。』
ワシリーサ・エゴーロヴナは、遠慮のない態度で私達を迎え、まるで百年の知己のように親身に私を遇してくれた。廃兵とパラーシカとが食卓の用意をしていた。
『うちのイワン・クジミーチったら、今日はまたどうしてこんなに勉強なんでしょう?』と司令官夫人は言った。『パラーシカや、旦那さまをお食事にお呼びしておいで。それからマーシャはどこにいるの?』
そこへ、年は十八ばかり、薔薇色した丸顔の娘がひとりはいって来た。淡亜麻色の髪の毛は、耳のうしろにぴったりと梳きつけていたが、その耳は燃えるように赤かった。最初ひと眼見た時には、私はさして興味も持たなかった。それというのも、私が先入見を抱いて彼女を見ていたからで――つまりシワーブリンが私に、マーシャ――この大尉の娘のことを、全くの低能のように話して聞かしたからである。マーリヤ・イワーノヴナは片隅に腰をおろして、刺繍をはじめた。そのうちシチューが運ばれた。ワシリーサ・エゴーロヴナは、夫の姿が見えないので、重ねてパラーシカを迎いに出した。
『旦那さまに言いなさい――お客さまはお待兼だし、シチューは冷めてしまいますよって。有難いことに教練は逃げてきやしないから、喚くことはいつでも出来ますよって。』
大尉は間もなく、片眼の老人を引具して現われた。
『どうなすったの、あなた?』と夫人は彼に言った。『お料理は疾くの昔に出来てるのに、あなたはお帰りにならないんですもの。』
『だってなあ、お前、ワシリーサ・エゴーロヴナ。』とイワン・クジミーチは答えた。『わしは勤務に追われているんだよ――兵隊を教えていたのだよ。』
『もう沢山ですよ!』大尉夫人はやり返した。『兵隊を教えるなんて、無駄骨ですわ――相手もまともな勤務の出来る柄じゃなし、あなたにしたって勤務がなんだかわかっちゃいないんですもの。それより家に坐って、お祈りでもしてた方がましですわよ。さ、お客さまがた、どうぞ席へおつきになって。』
私達は食卓についた。ワシリーサ・エゴーロヴナは一分間も黙らないで、私を質問ぜめにした――両親はどんな人か、ふたりとも達者か、どこに住み、財産はどうか? 父が三百人の農奴を所有していることを知ると、
『へえ、驚いた!』と彼女は言った。『世間には大したお金持もあるものね! ところが、うちじゃあなた、女中のパラーシカがたったひとりきりですよ。でも有難いことに、どうにか暮していますわ。たゞひとつ困るのは――マーシャがもう年ごろだというのに、お嫁入りの支度が一向にねえ。歯のこまかい櫛が一挺、風呂箒が一本、それからお湯銭にやっと三カペイカ銀貨ひとつ(神様お許し下さい。)それきりですもの。なんとかしていゝ人が見つかってくれればいゝけれど、さもないと、あの子は生涯ひとり身で暮さなけりゃなりませんわ。』
私はマーリヤ・イワーノヴナの方をちらりと見やった、――彼女は真赤になり、涙さえぽたりぽたりと皿の上へ滴らせていた。私は彼女が気の毒になり、急いで話題を変えた。
『僕はちょっと聞いたんですが、』と私は可なり見当違いなことを言い出した。『バシキール人がこの要塞を攻撃しようとしてるとかって、ほんとうでしょうか?』
『誰から君、そんな話を聞かされたのかね?』とイワン・クジミーチが訊いた。
『オレンブルグで、そんなふうのことを言っていました。』と私は答えた。
『馬鹿話だよ。』と司令官は言った。『こゝじゃもう、いつにもそんな話は聞かんね。バシキールどもはこれまでに相当へこましてあるし、キルギス人どもにしろ、十分懲らしめてあるのでな。なんの、とても押しかけてなんぞ来はせんよ。またたとえ来たにしたところでじゃ、わしが十年ぐらいはぐうの音も出ないような痛い目を見せてやるわい。』
『では、あなたも別に恐いともお思いにならないですか。』と私は、大尉夫人に向って言葉を続けた。『こんな危険に曝されている要塞においでになって?』
『慣れですわよ、あなた。』と彼女は答えた。『二十年ばかり前、聯隊からこちらへ移って来た頃には、今思っても気色が悪いほど、あの呪わしい異教徒どもが恐しかったものですわ! 時々あの山猫皮の帽子を見かけたり、金切声を聞いたりした時には、ほんとうに、心臓も何もとまってしまうようなことがありましたよ! それが、此頃じゃすっかり慣れてしまって、悪党どもが要塞の近くを駈け廻って居りますなんて報告を受けても、椅子から動きもしませんですよ。』
『ワシリーサ・エゴーロヴナは最も勇敢な御婦人です。』とシワーブリンが勿体振った調子で口を入れた。『それはイワン・クジミーチが証明される筈です。』
『左様、まあね、』とイワン・クジミーチは言った。『まあ、臆病な方じゃないな。』
『では、マーリヤ・イワーノヴナは?』と私は訊いた。『やっぱりあなたのように勇敢ですか?』
『マーシャが勇敢ですって?』と彼女の母は答えた。『いゝえ、マーシャは弱虫ですわ、いまだに鉄砲の音が聞いていられないんですもの――すぐ顫え出すんですもの。二年ほど前のことですけど、わたしの名の日にイワン・クジミーチがうちの大砲を撃とうとしましたら、この子はおびえて、もうちょっとで、この世におさらばをするところでしたの、それ以来、あのいやな大砲は、一切撃たないことにしてるんですわ。』
私達は食卓をはなれた。大尉と夫人とは、休息に自室へ引取り、私はシワーブリンの宿へ廻って、一夜を彼とともに送った。
第四章 決闘
――いざ用意、身構えをして立ち給え。
行くぞ胴中、みごとひと突き。
――クニャジニーン
数週間たった。その間に、ベロゴールスク要塞での私の生活は、私にとって我慢がなるどころか、寧ろ愉快なものにすらなってしまった。司令官の家では、私は身内の者同様の扱いを受けていた。この夫妻はともに最も尊敬すべき人物であった。一兵卒から将校に経あがったイワン・クジミーチは、教育のない単純な人だったが、その代りいかにも誠実で善良だった。で、普段はすっかり妻に引廻されていたが、それがまた彼の暢気さによく調和していた。ワシリーサ・エゴーロヴナは、軍務のことをも家事同然に心得ていて、要塞内をも、わが家も全く同じに切り廻していた。マーリヤ・イワーノヴナも間もなく私に対する羞かみを捨てた。私達は親しくなった。私は彼女が思慮の深い、感情の豊かな乙女であることを知った。いつともなく、私はこの善良な家族ばかりでなく、片眼の守備隊中尉イワン・イグナーチイチにまで愛着を覚えるようになった。
私は将校に昇進した。軍務は一向に辛くはなかった。神の加護あるこの要塞には、検閲も、教練も、衛兵勤務もなかった。司令官は自分の好みで、時々兵隊を訓練していたが、まだ彼等の全員が右左を弁えるまでには至っていなかった。彼等の多くはこの点を間違えぬよう、廻る前には一々自分の胸に十字を切るくらいにしていたのだが。シワーブリンのところには、フランスの書物が数冊あった。私はそれを読み出した。と、私の心には文学趣味が眼をさました。午前中を私は大体読書に費し、翻訳の練習や時には詩作を試みることもあったが、午食は殆ど毎日司令官の家で認め、その後の時間は、多くそこで送るのだった。そこへはまた時々、晩に神父ゲラーシムが、界隈切ってのお喋りやである妻のアクリーナ・パンフィーロヴナ同伴でやって来た。アレクセイ・イワーヌイチ・シワーブリンとは、勿論毎日顔を合せていたが、日がたつにつれて彼の話は、段々愉快でなくなって来た。司令官一家に関する相も変らぬ彼の悪〓、特にマーリヤ・イワーノヴナについての辛辣な批判が、私には甚だ気にくわなかった。要塞内にはこれ以外の交際はなかったが、私はほかの交際を欲しいとも思わなかった。
将軍の予言にも拘らず、バシキール人は叛乱を起さなかった。平穏がわが要塞の周辺に君臨していた。だが平和は、思い設けぬ内輪喧嘩によって破られた。
私が文学をやっていたことは前に述べた通りである。私の試作は当時としては相当なもので、数年後にアレクサンドル・ペトローヰ゛ッチ・スマローコフ(十八世紀に人気のあった劇作家詩人。一七一七――一七七七。)から激賞されたほどであった。或る時、私に一篇の歌が出来たが、私はそれに頗る満足であった。作者というものが、時々助言を求めるという形で、好意ある聴き手を物色することは、周知の事実である。そこで私も、自作の歌を浄書すると、早速それを、要塞じゅうで詩人の作品を鑑賞し得る唯一人の人シワーブリンの許へ持参した。些かの前置きの後、私はポケットから手帳を取出し、次のような詩句を読みあげた――
恋の思いを追い退けながら、
美わしの人忘れんと努め、
あわれマーシャをも避けながら、
自由を得めとわれは希う!
されど、われを捕えし瞳は、
須臾もわが前を去らず
わが胸を攪き乱して
わが平安を打砕けり。
あゝ、マーシャよ、君もしわが不幸を知らば、
われを憐れみたまえ
この厳しき土地にありて
君がとりことなりしわれを見なば。
『どうかね、これは?』必ず捧げられる貢物としての褒辞を期待しながら、私はシワーブリンにこう訊いた。ところが、心外千万にも、日頃は寛大なシワーブリンが、この歌は拙作だと敢然として宣告した。
『どうしてかね?』と私は不服を抑えながら訊いた。
『どうしてだって?』と彼は答えた。『そういう詩は、僕の先生のワシーリイ・キリールイチ・トレヂヤコーフスキイ(エリザヴエータ王朝に活躍した詩人。一七〇三――一七六九。)の独擅場で、あまりにも先生の恋愛詩に彷彿たるものがあるからさ。』
そして彼は私の手から手帳を取ると、飽くまで皮肉な態度で私を揶揄しながら、一句一語を容赦なく検討しはじめた。私は堪りかね、彼の手から手帳をひったくると、今後もう断じて彼には作品は見せないと言い放った。シワーブリンはこの威しをも一笑に附した。
『まあ、それはその時になってみなくちゃ。』と彼は言った。『君に果してその言葉が守れるかどうかさ――詩人に聴き手が必要なのは、イワン・クジミーチに食前のウオーッカ一本が必要なのと同じだからね。それはそうと、このマーシャなるものは一たい誰のことかね、君が頻りに優しい情熱だの恋だの不幸だのと訴えている相手は? まさか、マーリヤ・イワーノヴナのことじゃあるまいね?』
『それこそ余計なお世話だよ。』と私は眉を顰めながら答えた。『このマーシャが何ぴとだろうと、君の意見も、君の推測も、僕は要求してはいないからね。』
『おや〓〓! 思いあがれる詩人にして慎しみ深き恋人よ! か。』とシワーブリンはます〓〓以て私の焦躁をかきたてながら続けた。『併し友人の忠告も聴くがいゝ――もし女に成功したいと思うのだったら、そんな歌なんか作っていないで、直接行動に出なきゃ駄目だね。』
『それはどういう意味かね、君? 是非伺いたいもんですね?』
『いゝとも、それはね、つまり、そんな生ぬるい詩なんかよして、耳環の一対も贈れということさ。』
私は血の沸き立つのを覚えた。
『一たいどんな理由があって、君はあの人に対してそんな意見を持っているんだ?』と私は、懸命に忿怒を抑えながら訊いた。
『理由か、』と彼は、地獄のような嘲笑を浮べながら答えた。『自身の体験から彼女の性質習慣を知っているからさ。』
『嘘をつけ、卑劣漢!』と私はわれを忘れて叫んだ。『恥じを知らぬもほどがあるぞ。』
シワーブリンは顔色を変えた。
『その一言は聞き捨てならんぞ。』と彼はむずと私の手を掴んで言った。『君は僕の決闘申込みに応ずべき義務がある。』
『どうぞ、いつでも!』と私は嬉しくなって答えた。
その時こそ、徹底的にこいつを八つ裂きにしてくれる――私はこう思っていた。
私はすぐさま、イワン・イグナーチイチのところへ行った。そして、彼が針を手にして何かしているところへ行き合せた――彼は司令官夫人の頼みで、冬の蓄えに乾す茸を糸に通していたのである。
『おや、ピョートル・アンドレーイチ!』と彼は私を見ながら言った。『よくお出ででした! だが、どうした風の吹き廻しですかね? 急に何か用でも、失礼ですが?』
私はかいつまんで、アレクセイ・イワーヌイチとの喧嘩の経緯と、彼イワン・イグナーチイチに自分の介添人を頼みに来た旨を述べた。イワン・イグナーチイチは、ひとつしかない眼をまるくして私の顔に見入りながら、注意深く私の言葉を聞いていた。
『すると、なんですな、』と彼は私に言った。『あなたはアレクセイ・イワーノヰ゛ッチをちょいとひと突きやっちまいたい、それでわたしに立会人になれと、こう仰しゃるわけですな? そうでしょう? 失礼ですが。』
『そうです、その通り。』
『飛んでもない、ピョートル・アンドレーイチ! なんということを思いつかれたんですか! あなたがアレクセイ・イワーヌイチと喧嘩をされた? それがなんですか、なんでもないこっちゃありませんか! 悪口なんか気にするもなありませんよ。向うがあなたの悪口をついたら、こっちも言い返してやるまでだし、さきが鼻面へがんと来たら、こっちゃ耳を張り返す、右へ来たら左、左へ来たら右、――そして別れちまやいゝんでさ。あとはわたし達がうまく仲にはいって上げますよ。そうでなくて、それが一たいいゝことでしょうか――自分の近しいものをぐさりとひと突きやるなんて? 失礼ですが、それも、必ずあなたの方であの男をぐさりと行くなら、結構です。アレクセイ・イワーヌイチよ、左様ならでも済みますさ――わたしだってあの男は虫が好かんですからな。だが、万一あちらさまであなたに風穴をあけたらどうなります? 一たい何事が出来あがります? 馬鹿を見るのは誰ですか、失礼ですが?』
思慮深い中尉の心遣いも、私を動かすには至らなかった。私は自分の決意を固執した。
『では、まあ、』とイワン・イグナーチイチは言った。『気の済むようになさったら、よろしいです。それはいゝとして、なんでわたしに立会人になる必要があるでしょう? なんのために? 人が決闘をする――これがそれほど珍しいことでしょうか? 失礼ですが。おかげでわたしは、スエーデン戦役にも、トルコ戦役にも従軍しましたからね――そんな観物はもう沢山ですよ。』
私は覚束ないながら、介添人の役目について一応の説明を試みたが、イワン・イグナーチイチはどうしても私の言葉を理解しなかった。
『まあどうでも御勝手に。』と彼は言った。『が、万一わたしがその仕事に首を突込むとなりゃ、私は前以てイワン・クジミーチに、自分の職責上、要塞内でお上の利益に反する悪事が目論まれているということを報告しなけりゃなりませんね――司令官殿には然るべき手段を講ずるがよいとお考えでありましょうかって工合にね……』
私は愕然となり、司令官には内密でとイワン・イグナーチイチに嘆願して、やっとのことで彼を説き伏せた。彼が約束してくれたので、私も彼のことは諦めることに決心した。
晩は、例によって司令官の家で送った。私はできるだけ平気を装い、快活に振舞うように努力した。ちょっとでも疑念を起させて、煩さく問い糺されたりしないために。併し、実のところ、私は、同じ立場に身を置く人々の殆ど全部がきまって誇るあの冷静を持合せていなかった。その晩の私はともすれば、弱々しい感傷的な気分に陥いりがちであった。マーリヤ・イワーノヴナが私には格別いゝ娘に思われた。或はこれが最後になるかも知れない。――この想念が彼女の姿に一種感動的な色を添えて見せたのだった。そこへシワーブリンがはいって来た。私は彼をわきの方へ連れて行き、イワン・イグナーチイチとの交渉を逐一知らせた。
『われ〓〓に介添人の必要がどこにあるんだ?』と彼は乾いた調子で言った。『そんなものなくたって結構やれるよ。』
私達は、要塞の近くにある乾草堆のかげで闘うこと、明朝六時にそこへ出向くことに条件をきめた。私達がよそ目にはいかにも親しげに話合っていたので、イワン・イグナーチイチは嬉しくなって、こう呟いたくらいだった――
『疾うからそうなくちゃならなかったんでさ。』と彼は、満足げな顔附で私に言った。『わるい平和も善《よ》い喧嘩よりましだし、正直よりゃまず達者、ですからね。』
『なに、なあに、イワン・イグナーチイチ?』と、隅の方でカルタ占いをしていた司令官夫人が言った。『よく聞いてなかったから。』
イワン・イグナーチイチは、私の顔に不満の色を読み取り、例の約束を思い出すと、戸惑いして、返辞につまった。シワーブリンが早速助け船を出した。
『イワン・イグナーチイチはね、』と、彼は言った。『わたし達の仲直りを褒めてくれてるんですよ。』
『じゃ、一たいあなたは誰と喧嘩をなすったの?』
『ピョートル・アンドレーイチと相当な大喧嘩をやったのです。』
『どうしてまた?』
『いや、とてもお話にならんことですよ――じつは歌のことでしてね、ワシリーサ・エゴーロヴナ。』
『へえ、大した喧嘩の種があったものね! 歌だなんて!…… で、どうしてそんなことになったの?』
『こうなんですよ――ピョートル・アンドレーイチが最近に歌を作りましてね。今日僕の前でうたい出したんです。そこで、僕も、自分の好きな
大尉の娘よ
夜のそゞろ歩きはやめたまえ
というのをうたい出しました。喧嘩のもとはこれなんです。ピョートル・アンドレーイチは一度は怒りかけてみたものの、やがて思い直しました。誰だって好きな歌をうたうのは自由に違いありませんからね。それでけりがついたというわけなんです。』
シワーブリンの図ぶとさは、危く私を狂気させんばかりだったが、私以外には誰ひとり、この無礼なあてこすりを理解した者はなかった――少くとも誰ひとり、それに注意を向けた者はなかった。歌から話題は詩人の上に移り、司令官は、詩人というものはみな放埒な大酒飲みぞろいだと指摘した上、詩作は軍務に反するばかりでなく、碌なことは教えないものだからやめる方がよいと、親切に私に忠告してくれた。
シワーブリンの同席が私には我慢出来なかった。私は間もなく司令官はじめ家族の人々に別れを告げて、宿舎へ帰り、帯剣をしらべてその切先を試してから、六時に起すようサヴェーリイチにいゝつけて、寝に就いた。
翌日、約束の時刻には、私は早くも乾草堆の蔭に立ち、敵手のくるのを待受けていた。ほどなく彼も姿を見せた。
『どうも見つけられそうだよ。』と彼は言った。『急いでやる必要がある。』
私達は軍服を脱ぎ、チョッキ一枚になって剣を抜いた。と、その瞬間、乾草堆の蔭から突如として、イワン・イグナーチイチと五人ばかりの廃兵が現われた。彼は私達に司令官への同行を求めた。私達は残念ながらそれに従わざるを得なかった。兵が私達を取囲んだ。私達はイワン・イグナーチイチについて歩き出した。彼は、呆れるほど勿体振った歩き方をしながら、意気揚々と私達を連行した。
私達は司令官の家へはいった。イワン・イグナーチイチは扉をあけると、荘重な口調で報告した――
『連れてまいりました!』
私達を迎えたのは、ワシリーサ・エゴーロヴナであった。
『まあ、あなた方ったら! 一たいどうしたというんです? どうなの? 何事なの? この要塞で人殺しをしようなんて! イワン・クジミーチ、今すぐこの人達を営倉へお入れなさい! ピョートル・アンドレーイチ! アレクセイ・イワーヌイチ! 剣をこちらへお出しなさい。お出しなさい。お出しなさい。パラーシカ、この刃物を物置へ入れておしまい。ピョートル・アンドレーイチ! わたしまさか、あなたがこんな真似をなさろうとは思いませんでしたよ、よくも恥かしくありませんね? アレクセイ・イワーヌイチはよござんす――どうせ人殺しをして近衛から追ん出されて来た人だし、第一神様を信じていない人なんだから。でも、あなたはなんですか? なんと思ってこんな真似を?』
イワン・クジミーチは、徹頭徹尾妻の意見に賛成で、こう言い渡した――
『いや、なんじゃよ、ワシリーサ・エゴーロヴナのいうのがほんとうじゃ。決闘ちう奴は軍人服務規程によってちゃんと禁じられているからな。』
その間にパラーシカは、私達から軍刀を取上げて、物置へ持って行ってしまった。私は吹き出さないではいられなかった。シワーブリンは例によって、昂然としていた。
『僕はあくまで奥さんを尊敬しては居りますが。』と彼は冷然たる口調で彼女に言った。『でも、これだけは申上げずにいられません。われ〓〓を御自身お裁きになるなどは、全くいらざるお骨折です。こんなことこそ、イワン・クジミーチにお任せなさるべきですよ――これは司令官の任務ですからね。』
『まあ、何を仰しゃるの!』と司令官夫人は言い返した。『夫婦は一心同体じゃありませんか? イワン・クジミーチ、あなた何をぼんやりしてるんです? さっさとこのふたりをパンと水だけで別々に営倉に入れておしまいなさい、二度と馬鹿な真似をしないように。そして、ゲラーシム神父を呼んで、贖罪の苦行をさせるのです。神様にお許しを祈るように、みんなの前で悔い改めるように。』
イワン・クジミーチはどう処置したものかわからなかった。マーリヤ・イワーノヴナは真蒼な顔をしていた。やがて次第に嵐は静まり、司令官夫人も落ちついて来て、私達ふたりを接吻させた。パラーシカは私達の軍刀を持って来た。私達は、表面和解したものとして、司令官の家を出た。イワン・イグナーチイチが私達を送って来た。
『よく気が咎めないもんですね。』と私は中ッ腹で彼に言った。『あんなに約束しておきながら、司令官に報告するなんて?』
『いや、誓って申します、わたしはイワン・クジミーチに言ったのではありません。』と彼は答えた。『ワシリーサ・エゴーロヴナが、すっかりわたしから嗅ぎ出してしまったんです。何もかもあの人が、司令官殿には知らせずに、ひとりで手配されたんです。でもまあよかったですよ。何もかも無事に済んで!』
この言葉とともに、彼は自分の家の方へ曲って行き、あとはシワーブリンと私だけになった。
『われ〓〓の問題はこのまゝじゃ済まないね。』と私は彼に言った。
『勿論だ。』とシワーブリンは答えた。『君は君の無礼に対して、自分の血を以て僕に答えるべきだ。だが、こゝ暫くはお互いに監視されるだろう。二三日はおとなしくしてなくちゃなるまいて。じゃ、また。』
そして私達は、何事もなかったように別れた。
司令官の家へ引返すと、私は、いつもの通りマーリヤ・イワーノヴナの傍に腰をおろした。イワン・クジミーチは不在だったし、ワシリーサ・エゴーロヴナは家事に逐われていた。私達は小声で話し合った。マーリヤ・イワーノヴナは、私とシワーブリンの喧嘩のおかげで、みんながどんなに気を揉んだかと優しく私を叱責した。
『あたしほんとに死にそうでしたわ。』と彼女は言った。『あなた方が決闘なさるって知らされた時には。男の方っておかしいのね! 一週間も過ぎれば忘れてしまうにきまっているようなひと言のために、斬合いをして、命ばかりか良心まで、その上、あの、どこかの人達の幸福まで犠牲になさろうというんですもの…… でも、あたしはちゃんと知ってましてよ、あなたが喧嘩の発頭人でないことは。わるいのは、アレクセイ・イワーヌイチにきまってますわ。』
『だが、どうしてそう思われるんです。マーリヤ・イワーノヴナ?』
『だって、そりゃ……あの人とても意地わるなんですもの! あたし、アレクセイ・イワーヌイチはきらいよ。あの人、あたしにはとてもいやな人だわ。それでいておかしいのよ。――あたしあの人に、こっちであの人を思っているようにいやな娘だとは、やっぱり思われたくないんですの。そうなったら、あたしとても心配だろうと思うの。』
『では、あなたはどうお考えですか、マーリヤ・イワーノヴナ、あなたは、あの男に好かれているかいないか、どちらでしょう?』
マーリヤ・イワーノヴナは口籠って、赧くなった。
『そうね、あたしには、』と彼女は言った。『あたし、好かれていると思っていますわ。』
『どうしてそう思われるんです?』
『だって、あの人あたしに申込みをしたんですもの。』
『申込みを! あいつがあなたに申込みを? それは一たい、いつのことです?』
『去年、あなたのいらっしゃるふた月ほど前。』
『で、あなたは承知されなかったんですね?』
『御覧の通りね。そりゃね、アレクセイ・イワーヌイチは、賢い方ですわ、家柄もいいし、財産もおありですわ。だけどあたし、お式の時に皆さんの前であの人と接吻するんだと思うと……とてもいやでしたの! どんな幸福がこようと、いやですわ!』
マーリヤ・イワーノヴナの言葉は私の眼を開け、私に多くのことを説明してくれた。私は、シワーブリンが彼女を追跡してやまぬ飽くなき悪口に合点がいった。恐らく彼は、私達が好意を持ち合っているのを見て、その離間策を講じたわけだったのだろう。私達の喧嘩の動機になった言葉も、その中に私が無礼無作法な嘲笑の代りに計画的中傷を見る今となっては、なおさら輪をかけて醜悪なものに思われて来た。あの厚顔無恥な誹謗者をひと思いに懲らしめたい、この思いが一層募って、私は胸を灼くような焦躁にさいなまされ、たゞもうその便宜な機会を待つ気持に追い込まれてしまった。
私は長く待つに及ばなかった。翌日、哀歌《エレジー》を作ろうと机に向い、ペンを噛みつゝ韻の浮ぶのを待っていた時、シワーブリンが窓の下を叩いた。私はペンを擱き、軍刀を取って、彼の方へ出て行った。
『延ばすことはないものな。』とシワーブリンは言った。『われ〓〓は見張られちゃいないらしい。河へ行こう。あすこなら邪魔する奴もないだろう。』
私達は黙って出かけた。急な小径を降り、流れのすぐへりに立ちどまると、私たちは剣を抜いた。シワーブリンは技に長けていたが、私は力と勇気において優っていた。――昔兵隊だったモッシュー・ボープレが、剣術も少しは教えてくれていたので、私はその手も使ってみた。シワーブリンは、私というものにかくも危険な敵手を見出そうとは意外だったに違いない。暫くの間、私達は、お互いにかすり傷ひとつ負わせることは出来なかった。遂に、シワーブリンが疲れて来たのを見てとると、私はこゝぞと勢いよく攻撃に出、彼を河ぷち一ぱいまで追いつめた。突然、私は私の名を呼ぶ大声を耳にした。私は振返って、高い小径を駈け降りてくるサヴェーリイチの姿を認めた……ちょうどこの時、私は右肩の少し下、胸のあたりに強い突きを食って、倒れたまま気を失った。
第五章 恋
おいよ娘御、きれいな娘!
若うて嫁には行かぬもの。
まず問うてみな、娘さん
父さん、母さん、身内の衆。
そして蓄めなよ智慧分別。
智慧分別こそ持参金
――民 謡
忘れなさんせ、美《よ》い娘《こ》を見たら、
思い出しやんせ、しこめを見たら。
――同じく
気がついてからも、私は数時間われに返ることが出来ず、自分がどうしたのか、わからなかった。私は見知らぬ部屋の寝台に寝て、ひどい衰弱を感じていた。私の前にはサヴェーリイチが蝋燭を持って立っている。誰かが注意深く、私の胸と肩とを巻いている繃帯を解いている。いくらかずつ私の思考もはっきりして来た。私は決闘のことを思い出し、さては負傷したのだなと察した。ちょうどその時、扉が軋んだ。
『どう? どんな御様子?』こういう囁き声がした。それを聞くと私は顫えはじめた。
『やっぱりどうも相変らずで。』とサヴェーリイチが溜息まじりに答えた。『まだ性がつきませんわい、もう五日にもなるというのに。』
私は寝返ろうとしたが、出来なかった。
『こゝはどこだ? 誰だ、そこにいるのは?』私はやっとの思いでこう言った。
マーリヤ・イワーノヴナが寝台の傍へ来て、私の上へ屈み込んだ。
『いかが、御気分は?』と彼女は言った。
『ありがとう。』と私は力ない声で答えた。『あゝあなたですね、マーリヤ・イワーノヴナ? どうぞ話して……』私は続ける力がなくて口をつぐんだ。
サヴェーリイチはあゝと声をあげた。その顔には喜びの色が浮んだ。
『お気がついた! お気がついた!』と彼は繰返した。『有難うございます、神様! ねえ坊ちゃん、ピョートル・アンドレーイチ、随分びっくらいたしましたよ! これが平気でいられますかね? もう五昼夜になりますよ!……』
マーリヤ・イワーノヴナが彼を遮った。
『あんまりお話しちゃいけないわ、サヴェーリイチ、』と彼女は言った。『まだ疲れてらっしゃるから。』
彼女は部屋を出て、そっと扉をしめた。私は胸が騒ぎはじめた。してみると、私は司令官の家にいたのだ――そしてマーリヤ・イワーノヴナが時々見舞ってくれたのだ。私はサヴェーリイチに何かと問いかけてみたが、老人はかぶりを振り耳をふさいでしまった。私は已むなく眼を閉じると、いつしか睡りに落ちて行った。
眼がさめて、私がサヴェーリイチを呼ぶと、彼の代りに姿を見せたのは、マーリヤ・イワーノヴナであった。そして彼女の天使のような声が、私に挨拶の言葉を述べた。その瞬間に私を捕えた甘美な感情、それは私にはとても表現出来ない。私は彼女の手を取ると、感動の涙に泣き濡れながら、それに脣を押しあてた。マーシャは手をひかなかった……と、不意に、彼女の脣が私の頬に触れ、私はその熱い新鮮な接吻を感じた。火が私の身うちを馳せ通った。
『親切な、優しいマーリヤ・イワーノヴナ、』と私は彼女に言った。『僕の妻になって下さい、僕の幸福を保証して下さい。』
彼女ははっとわれにかえった。
『後生だから落ちついて頂戴。』と彼女は自分の手を引込めながら言った。『まだ安心出来ませんのよ――傷口が開くかも知れませんからね。あたしのためにも大事にして下さらなければ。』
この言葉と一緒に、彼女は、私を歓喜の陶酔裡に残して、行ってしまった。幸福が私を甦えらせた。彼女は私のものになるのだ! 彼女は私を愛しているのだ! この思いが私の全幅を満たしてしまった。
それ以来、私はめき〓〓と快方に向った。私を治療してくれたのは、聯隊附の理髪師だった。要塞にはほかに医者がいなかったからだが、仕合せなことに、この男は利口振って余計な真似をしなかった。若さと自然とが私の恢復を早めたのである。司令官一家は、みんなで私の世話をしてくれた。マーリヤ・イワーノヴナは殊に私につききりだった。勿論、私は最初の好機会に、言いさしになっていた告白を続け、マーリヤ・イワーノヴナも前より落ちついて聴いてくれた。彼女は些かの気取りけもなく、心からの愛を私に打明け、彼女の両親は勿論彼女の幸福を喜んでくれるだろうと言った。
『だけど、よくお考えになって頂戴ね。』と彼女は言い足した。『あなたの御両親の方から故障が出やしませんかしら?』
私は考え込んだ。母の優しさを私は疑わなかったが、父の性癖や見解を知っているだけに、私の恋にしても、あまり父の心を動かしそうにないこと、父はそれを若い男の出来心程度に片づけるだろうということを感じないではいられなかった。私は、この点を正直にマーリヤ・イワーノヴナに打明けて、とにかく父に宛ててできるだけ雄弁な手紙を書き、親としての祝福を乞おうと決心した。私はその手紙をマーリヤ・イワーノヴナに見せた。彼女はそれを、いかにも情理を尽した感動的な手紙と見て、その成功を疑わず、若さと恋につきものの信じ易さを傾けて、優しい自分の心の動きに容易く身を任せてしまった。
シワーブリンとは、恢復直後の一二日間に仲直りをした。イワン・クジミーチは決闘の小言を言いながら、こんなふうに言った。
『おい、ピョートル・アンドレーイチ、君は営倉へはいるべきだったのだが、その暇もないうちに早いとこ罰を食っちまったでなあ。アレクセイ・イワーヌイチはうちの穀倉に番兵つきで打込まれてるし、軍刀はワシリーサ・エゴーロヴナの手許に錠をおろして保管してある。あの男には十分反省して罪を悔悟させる必要があるでな。』
私はその時、怨恨の情など持っているにはあまりに幸福であった。そしてシワーブリンのために赦免を乞うたので、善良な司令官は夫人の同意を得て、彼の放免を決定したのである。シワーブリンは私を訪ねて来た。彼は、ふたりの間に生じた事態につき深い遺憾の意を表し、全面的に自分の非を認めて、過去のことは水に流してくれと申し出た。元来が単純な私は、例の喧嘩の経緯も、そのために受けた傷のことも、心から彼に許した。例の中傷問題にしても、私は、謂わば辱しめられた自尊心、拒否された恋の恨みと見ていたので、寛大に、この哀れむべき競争者を赦してやったのである。
間もなく、私は全快して、自分の宿に移ることが出来た。堪えがたい思いで、敢て希望をかけもせず、努めて悲しい予感を打消しながら、私は出した手紙の返事を待ち侘びていた。ワシリーサ・エゴーロヴナにも、その夫にも、私はまだ打明けはしなかったが、私の申込みは彼等を驚かす筈はなかったのである。私にしても、マーリヤ・イワーノヴナにしても、自分達の感情をふたりの前に隠そうとはせず、私達ふたりは初めから彼等の同意を信じて疑わなかった。
遂に、或る朝、サヴェーリイチが手紙を持って私の部屋へはいって来た。私は胸とゞろかせてそれを受取った。宛名は父の手で書かれてあった。この一事は、何か容易ならぬものに対する心構えを私に強要するものであった。普通私への手紙は母が書き、父は終りに四五行書き添えるのが常だったからである。私は、暫くは封も切らず、荘重な表書き――「オレンブルグ県ベロゴールスク要塞内、わが子ピョートル・アンドレーヰ゛ッチ・グリニョーフへ」とあるのを読返してばかりいた。私はその筆蹟により、手紙を書いたときの父の心的状態を判じようとしていたのである。遂に、心を決して封を切った――そして最初の数行を読んだだけで、もう一切が絶望であることを直感した。手紙の内容は、次のようであった――
『わが子ピョートルよ! お前の書面、お前がミローノフの娘マーリヤ・イワーノヴナとの結婚に対し、われら両親の祝福と同意を願って居る書面は、本月十五日たしかに落掌した。だがわしは、祝福や同意はさておき、お前を罰してやろうとさえ考えて居るのじゃ。将校の官位がなんじゃ、わしはその辺の悪たれ同様、お前の悪戯を懲らしめてやろうと考えて居る。何故なら、お前は、自分がまだ剣を吊る資格のない人間であることを自ら証明して見せたからじゃ。剣は祖国を守るために授けられたものであって、お前と同じような無法者と決闘するためではない。わしは早速アンドレイ・カールロヰ゛ッチに書面を送って、お前をベロゴールスク要塞よりもっと離れた、お前の馬鹿の直るような土地へ転任させてもらう所存じゃ。お前の母は、お前の決闘のこと、負傷のことを聞き、悲歎のあまり病みついて、今は寝て居る。将来、お前はどんな人間になることじゃろう? 神の大いなるみ恵みは望めぬまでも、せめてお前の性根が直るようと、わしは神様に祈るのみじゃ。
お前の父 アー・ゲー』
この手紙の一読は、私の心にさま〓〓な感慨を喚び起した。父が仮借なく用いた厳格な文言は極度に私を侮辱した。父がマーリヤ・イワーノヴナについて書いている侮辱の調子が、私には不作法であると同時に、理不尽であると思われた。ベロゴールスク要塞からほかへやられるという想念は私をぞっとさせたが、なんにもまして辛かったのは、母の病気という一条であった。決闘一件が両親に知れた経路を、てっきりサヴェーリイチと睨んで疑わなかった私は、彼に対して大いに憤慨した。私は狭い部屋の中を前後に歩きながら、彼の前に立ちはだかると、きっと睨みつけてこう言った――
『お前はなんだな、おれがお前のおかげで怪我をして、まるひと月も棺桶のふちにいたのに、それでもまだ不足なんだな――この上まだお母さんまで殺そうと思ってるんだな。』
サヴェーリイチは雷に打たれたように驚いた。
『滅相もない、坊ちゃん。』と彼は泣き出さんばかりになって言った。『なんてことを仰しゃるんです? わたしがあなたのお怪我のもとですと? 神様が御存じです、わたしが駈けつけたのは、この胸でアレクセイ・イワーヌイチの剣からあなたを守ろうと思ったればこそですよ。たゞ口惜しい老年が邪魔をしただけでございます。一たいわたしがお母さまに何をしました?』
『何をしたかって?』と、私は答えた。『誰がお前に、おれのことを告げ口しろって頼んだか? それともお前は、間諜としておれにつけられてるのか?』
『わたしがあなたのことを告げ口したですと?』サヴェーリイチは涙を流しながら答えた。『あゝ、神様! ではどうぞ、大旦那さまからわたしに来たお手紙を読んで下さいまし――わたしが告げ口をしたかどうかおわかりになりますよ。』
そこで、彼はポケットから手紙を抜き出し、次のように読んだ――
『恥じを知れ、ぼけ犬め、お前はわしの厳重な命令にも拘らず、忰ピョートル・アンドレーヰ゛ッチの不心得を告げてよこさず、他人が見兼ねて忰の不埒を知らせてよこしたぞ。お前はそれで己れの義務、主人の命令を守っている料簡か? ぼけ犬め、わしはお前を、真実を隠して若い者を甘やかしおった罰に、豚番にしてくれるぞ。この書面着次第、人の書面には最早恢復とのことながら、目下の忰の容態はどうか、折返し知らすべし、なお、負傷の個所はどこか、傷はよく癒えたかどうか、この点も併せ知らすべし。』
これで見ると、サヴェーリイチは私に対して罪はなく、私の叱責や嫌疑が徒らに彼を侮辱したものであることが明らかだった。私は彼に許しを乞うたが、老人の心は解けなかった。
『やれ〓〓、わしも飛んだ長生きをしましたよ。』と、彼は口説くのだった。『御主人がたからこんなお情けを頂戴するまで勤め上げたんですからね! 私がぼけ犬で、豚番で、おまけにあなたのお怪我のもとだとは? いゝえ、坊ちゃん、ピョートル・アンドレーイチ! わるいのはわたしじゃありません。何事もあの忌々しいモッシューの罪でさあ――あいつがあなたに鉄串で突き刺したり足拍子を取ったりすることを仕込んだんですからね、まるで突き刺したり足踏みしたりさえすりゃ、悪者が防げでもするように! いやもう、モッシューを傭って余計な金をつかった甲斐がありましたて!』
だが、それにしては、私の行状を父に知らせる労を執ったのは何者だろう? 将軍だろうか? 併し将軍は、私のことなどさして気にかけていたとも思えないし、第一イワン・クジミーチが、私の決闘を将軍に報告する必要を認めていなかった。私は判断に苦しんだ。私の疑念は、結局シワーブリンの上に落ちた。密告の結果私が要塞から遠ざけられ、司令官一家と別れることになれば、得をするのは彼ひとりだったからである。私はマーリヤ・イワーノヴナに一部始終を打明けようと思って出かけた。彼女は入口の段々で私を迎えた。
『まあ、どうなすったの?』と彼女は私を見ると言った。『そんな蒼い顔をして!』
『何もかもおしまいです!』こう答えて、私は父の手紙を渡した。
今度は彼女が顔色を変えた。読み終ると、顫える手で手紙を返し、顫え声でこう言った――
『やっぱりあたしは運がありませんのね…… 御両親はあたしを家庭へ入れるのがおいやなんですわ。何事も神様の思召です! あたし達の取るべき道は、神様がよく御存じですわ。仕方がありません、ピョートル・アンドレーイチ、せめてあなただけでも幸福になって頂戴……』
『そんな、馬鹿な!』と私は彼女の手を掴んで叫んだ。『あなたは僕を愛していて下さる、僕にはどんなことでもする覚悟があります。行きましょう、あなたの御両親の足許へひれ伏しましょう。おふたりともさっぱりした方です、残酷な傲慢な人じゃありません…… きっと僕等を祝福して下さるでしょう。僕等は式を挙げましょう……それからだって、時のたつうちには、きっと父の気を柔らげることも出来ますよ。母は、無論私達の肩を持ってくれるでしょうし、父だって許してくれますよ……』
『いゝえ、ピョートル・アンドレーイチ。』とマーシャは答えた。『あなたの御両親の祝福を頂かないでは、あたしあなたのところへはまいれませんわ。御両親の祝福がなくては、あなたの御幸福になりませんもの。やっぱり神様の御心に従いましょう。もし神様のおきめになった方があなたに出来たら、ほかにお好きな方が出来たら――どうぞ仕合せにお暮し下さい、ね、ピョートル・アンドレーイチ、あたしはおふたりのために……』
そこで彼女は泣き出して、うちへはいってしまった。私はそのあとから部屋へ通ろうとしかけたが、自分が制御出来るかどうか、われながら心許なかったので、そのまゝ宿へ引返した。
私は思いあまって椅子に掛けていた。と、不意にサヴェーリイチが私の沈思を破った。
『さあ、若旦那』と彼は、べた一面に字を書き込んだ紙きれを差出しながら言った。『ひとつ、わたしが自分の主人の告げ口をするような人間かどうか、父子の仲をさこうとしてるかどうか、御覧になっていたゞきましょう。』
私は彼の手から紙片をとった、――それは、父の手紙に対するサヴェーリイチの返事だった。次に掲げるのが、一字一句ありのまゝのその手紙である――
『アンドレイ・ペトローヰ゛ッチ旦那様、お恵み深きお父上様!
『お恵み深き御書面確かに頂戴仕りました。主人の命令を守らんで恥じを知れとてこの奴隷めにいかい御立腹でござりまするが、手前事はぼけ犬にてはこれなく、あなた様の忠実なる下僕でござりました。御主人様の御命令はよく守り、日頃心からあなた様にお仕え申し、この白髪になるまで生き延びて来たものにござります。ピョートル・アンドレーイチのお怪我につき私めが何も申上げませんでしたのは、たゞたゞ無駄にお驚かせ申すも如何かと存じましたからで。承りますれば奥様、母上様アヴドーチヤ・ワシーリエヴナには、お驚きのあまり御病臥中とやら、私めはたゞひとえに御本復をお祈り申すほかござりません。さて、ピョートル・アンドレーイチのお怪我は右肩の下、骨のすぐ下の胸部でござりまして、深さは約二寸、河岸よりお運びいたせし司令官様お宅にてお手当、治療には、当地の理髪師ステパン・パラモーノフがあたりまして、有難いことに只今では最早御快癒。ピョートル・アンドレーイチ様につきましては、吉報以外何もお知らせ致すことはござりません。司令官方のお気受けもよろしきようにて、殊にワシリーサ・エゴーロヴナには生みの子同然の寵愛を受けていらせられます。あのような出来事がござりましたとて、既往は咎めず、――馬は四つ足でも躓くの譬えもござります。また、私めを豚番にとの仰せ、これは旦那様のお心任せに願い上げます。さればこれにて、頓首敬白。
あなた様の忠実なる奴僕
アルヒープ・サヴェーリイチ』
律儀一途な老人のこの手紙を読みながら、私は幾度も微笑を禁じ得なかった。私にはとても父に返事を書く気力がなかったが、母を安心させるには、サヴェーリイチの手紙だけで十分だと思われた。
その時以来、私の立場は一変した。マーリヤ・イワーノヴナは私とは殆ど口を利かず、努めて私を避けるようにしていた。司令官の家は、私にとり厭わしいものになった。自然私は、次第に自分の部屋での独居に慣れた。ワシリーサ・エゴーロヴナは、初めのうちこそそうした私を咎めたが、私の頑くなを見抜くと、そのまゝそっとしておいてくれた。イワン・クジミーチとは勤務が要求する場合だけ顔をあわせ、シワーブリンとはたまに、それもしぶ〓〓会うに過ぎなかった。ましてや、彼のうちに私に対する隠された敵意を見、そのため例の疑念が一層確かめられるに及んで、私の彼を避ける気持は、益々募る一方であった。生活は私にとって堪えがたいものになった。私は孤独と無為とに育くまれた陰鬱な物思いに落ち込んだ。私の恋心は、淋しい生活の中で却て燃えさかり、刻一刻と私に辛い重荷になった。私は読書と文学への趣味もなくしてしまった。私は元気を失った。私は、自分が発狂するか放蕩に身を持ち崩すかと、それを恐れるまでになった。この時、私の生涯に重大な影響を齎した、思いもかけぬ一事件が突発して、私の心に強い幸福な衝撃を与えたのである。
第六章 プガチョーフの乱
のう、若い衆よ、聞いてくれ、
わしら年寄りの昔語りを。
――歌 謡
私が目撃者であった奇怪な事件の叙述にはいる前に、私は数言を一七七三年末におけるオレンブルグ県の状態について費さなければならない。
この広大且つ豊穣な県には、やっと最近になってロシヤ皇帝の主権を認めるに至った半野蛮の民族が多く居住していた。打続く彼等の叛乱、法律や公民生活に対する不慣れ、無知で残忍な性質などは、彼等の服従を維持するため、当局の側から不断の監視を要求していた。適当と認められた個所につぎ〓〓要塞が築造され、それらの要塞には大部分、その昔ヤイーク河畔を領有していたコザックが屯ろしていた。併しこの地方の安寧秩序を守るべき役目を帯びていたヤイーク・コザックなるものが、いつの頃からか自身当局にとって油断のならぬ危険な臣民となっていたのである。一七七二年には、彼等の首都に叛乱が起った。その動機となったのは、麾下の軍隊を服従せしめんがために、トラウベンベルグ少将によって取られた苛酷な手段であった。そして、その結果として現われたのが、トラウベンベルグの虐殺、司令部の恣まゝな更迭、最後に霰弾と残酷な処刑による一揆の鎮圧であった。
以上は、私のベロゴールスク要塞到着の少し前に起った事実であった。私が着いた頃には、すべては平静に帰していた。或は平静であるかのように見えていた。当局は、狡猾な暴徒等の佯りの恭順をあまりに軽信したのだった。彼等はひそかに寝刃《ねたば》を合せて、騒擾再挙の好機を窺っていたのである。
さて、私は物語の本筋へ戻ろう。
或る晩、(それは一七七三年十月初旬のことであった。)私は、秋風の長嘯に耳を貸し、月をよぎって走る雨雲を窓に眺めつゝ、ひとり宿に坐っていた。そこへ使の者が司令官の名で私を迎えに来た。私は時を移さず出向いた。司令官の家には、シワーブリンと、イワン・イグナーチイチと、コザックの下士とがいた。部屋にはワシリーサ・エゴーロヴナも、マーリヤ・イワーノヴナも見えなかった。司令官は、不安そうな面持で私と挨拶した。彼は扉を閉ざし、戸口に立っていた下士のほか一同を座につかせ、ポケットから一枚の紙を取出して、私達に言った――
『将校諸君、重大事件じゃ! まあ聴きたまえ、将軍からこういって来たよ。』
そこで眼鏡をかけて、次のように読み上げた――
『ベロゴールスク要塞司令官ミローノフ大尉殿
要 秘
『通達致候事。監禁中を脱走せるドン・コザックにして分離派教徒たるエメリヤン・プガチョーフなる者、故ピョートル三世の御名を僭するの大不敬を敢てし、暴徒を糾合してヤイークの諸村に蜂起し、随所に掠奪殺人を行いつゝ、既に数カ所の要塞を占拠破壊せり。右により、大尉殿には、本状入手次第、即刻上記の皇位僭称者なる逆徒撃攘の然るべき方策を講じ、なお能うべくんば、右の者貴官の管理に委任されある要塞に襲来する場合を期し、これを完全に殲滅するの方途に出でらるべし。』
『然るべき方策を講じ、とある!』司令官は眼鏡をはずし、紙を畳みながら言った。『いや、言うは易しじゃて。その逆徒めはなか〓〓の強《したゝ》か者らしい。ところが、こっちはやっと百三十人じゃ、勿論、コザックは抜きにしての話だが、あれらは大して当てにはならんて、尤も、これはお前の事を言ってるんじゃないぞ、マクシームイチ。(下士はにやりと笑った。)だが、どうも致方がない、なあ将校諸君! ひとつしっかり頼んますぞ、まず哨兵を立て、夜間巡視を置くことじゃ。そして襲撃を受けた場合には、門をしめて兵を集結する。それからお前はなマクシームイチ、部下のコザックをしっかり見張っていてくれ。それから、砲を検査してよく掃除して置く。が、一番肝腎なことは、一切を厳秘にして、いざという時まで、要塞内の誰にも知られんようにすることじゃ。』
以上の指令を与えると、イワン・クジミーチは私達を解散させた。私は今聞いたことをいろいろに思い廻らしながら、シワーブリンと一緒にそこを出た。
『ねえ君、こいつはどう収まりがつくだろう?』と私は彼に訊いた。
『わからんねえ。』と彼は答えた。『まあ見ていようよ。さしあたりまだ大したことはなさそうだ。だが、もし……』
そこで彼は考え込み、放心したように、口笛でフランスの小唄を吹き出した。
私達の細心な注意にも拘らず、プガチョーフ出現の噂は要塞じゅうにひろがってしまった。イワン・クジミーチは、日頃いたく夫人を尊敬はしていたが、職務上彼に託された秘密だけは、どう間違っても彼女に洩らすようなことはしなかった。将軍からの手紙を受取ると、彼は可なり巧妙なやり方で、というのは、神父ゲラーシムがオレンブルグから何か珍しい知らせを受取りながら、それをひた隠しに隠していると告げて、ワシリーサ・エゴーロヴナを外へ出してしまった。ワシリーサ・エゴーロヴナは、早速梵妻のところへ客に行くことを思い立ち、イワン・クジミーチの忠言に従って、マーシャがひとりで淋しがらないように、彼女も一緒に連れて出かけたのである。
イワン・クジミーチは、こうして完全な主人になりすますと、早速私達を呼びに使を出し、立聞きなどされぬように、パラーシカは物置へ閉じ籠めてしまった。
ワシリーサ・エゴーロヴナは、梵妻からは何ひとつ聞き出し得ずに帰って来たが、彼女の留守中にイワン・クジミーチが会議を開いたこと、パラーシカが閉じ籠められたことは忽ち知ってしまった。彼女は夫にだしぬかれたことを察し、詰問を以て迫った。併しイワン・クジミーチの方にも、攻撃に対する準備に怠りはなかった。彼は少しも騒がず、平然として、穿鑿好きな同棲者の問いに答えた――
『いや、それはなお母さん、村の女どもが煖炉に藁を焚き出したのさ。ところが、こいつは危険だからね、今後藁を焚くことは罷り成らん、焚くなら粗朶か枯枝にしろと、女どもに厳重な命令を出したのじゃ。』
『じゃなぜ、パラーシカを閉じ籠めたりなすったの?』と司令官夫人は訊いた。『可哀そうに、なんのためにあの娘は、わたし達の留守中物置なんかに入れられていたんです?』
イワン・クジミーチは、こうした質問には用意がなかった。彼はとちって、えらく要領を得ないことを呟いた。ワシリーサ・エゴーロヴナは、夫の策略を見抜きはしたものの、この様子では夫の口からはとても聞き出せそうにないことを察したので、質問は打切りにして、話を、アクリーナ・パンフィーロヴナが独自な方法で漬けたという胡瓜の塩漬の方へ持って行った。その夜ワシリーサ・エゴーロヴナは一睡もしなかったが、併し夫の胸にあるのが何か、彼女の知り得なかったことは何か、どうしても見当がつかなかった。
翌日、礼拝式からの帰途彼女は、イワン・イグナーチイチが大砲の中から、悪たれどもが突込んだぼろきれ、石ころ、木ぎれ、小骨、その他いろんなごみくたを、ひっぱり出しているのを見かけた。
『まあどうしたというのだろう、こんな戦さの支度みたいなことをして?』と司令官夫人は考えた。『キルギス人の襲撃でも待ってるんじゃないかしら? でも、そんなつまらないことだったら、イワン・クジミーチがわたしに隠す筈もないし。』
そこで彼女は、昨日以来彼女の女らしい好奇心を悩ましている秘密を、この男から聞き出してやろうと堅く決心して、イワン・イグナーチイチに声をかけた。
ワシリーサ・エゴーロヴナはまず、家政に関することで二三の注意を彼に与えた。ちょうど、枝葉の問題から審問をはじめて、被告の警戒心を鈍らせようとする裁判官のように。それから、暫く黙っていて、深い溜息をつき、頭を振りながらこう言った――
『あゝ、ほんとうにもう! なんてことが起ったものだろうかねえ! このさきどうなることかしら?』
『なあに、お母さん!』とイワン・イグナーチイチは答えた。『神様は御恵み深くおいでですよ。こゝにゃ兵隊は大勢いるし、火薬だって十分だし、大砲はわたしが掃除しときましたからね。プガチョーフなんか一撃で撥ね返してやりまさあ。神様が守って下さるうちゃ、ちっとも心配ありませんや!』
『そのプガチョーフって一たい何なの?』と司令官夫人は訊いた。
イワン・イグナーチイチは、うっかり口をすべらしたことに気がついて、急に黙った。が、遅かった。ワシリーサ・エゴーロヴナは、決して誰にも喋らないからと約束して、彼に白状させてしまった。
ワシリーサ・エゴーロヴナはこの約束を守って、誰にも一言も喋らなかった。例の梵妻以外には。それもたゞ、梵妻の牝牛が草原に放したまゝだったので、暴徒に取られはしまいかと案じたからのことであった。
間もなく誰も彼もがプガチョーフのことを話しはじめた。噂はまち〓〓であった。司令官は下士を派遣して、近隣の村々や要塞の状況を逐一捜索させた。下士は二日たって戻って来、要塞から六十露里さきの草原《ステツピ》に見かけた夥しい火光のことと、バシキール人の口から聞知したえたいの知れぬ軍隊の行動について、報告した。併し彼は、何ひとつ確かなことは言えなかった、それ以上進むのが恐かったので。
要塞内のコザックのあいだにたゞならぬ動揺の色が見えはじめた。――彼等は、到るところの往来にかたまって、より〓〓ひそ〓〓話をしているが、龍騎兵や守備兵の姿を見かけると、忽ち散ってしまうのだった。彼等にはひそかに間諜がつけられた。するうち、ユライという基督教徒のカルムイク人が司令官に重大な報告を齎した。ユライの言葉によると、下士の報告は悉く出鱈目であった――あの狡猾なコザックは、例の偵察から帰るとすぐ、仲間のコザック達を集めて、自分は暴徒の中へ行って来た、その首領は自分に面接を許し、長いこと話をしたと告げたのである。司令官は即刻下士を監禁して、ユライをその地位に据えた。この報知はコザック達に、あらわな不満を以て受取られた。彼等は轟々と不平を鳴らし、司令官の命令代行者であるイワン・イグナーチイチも、『今に見ろ、守備隊の鼠め!』こういう彼等の言葉を自分の耳で聞いて来た。司令官は、その日のうちにも囚人を訊問しようと考えていたが、下士は逸早く逃亡してしまった。恐らく一味の助けがあったのであろう。
そこへ、新たに生じた事態がまた、司令官の不安を募らせることになった。煽動文を携えたバシキール人が捕まったのである。この機会に司令官は、再び将校会議の開催を思い立ち、そのため何か口実を設けて、もう一度ワシリーサ・エゴーロヴナを遠ざけようと考えた。併しイワン・クジミーチは、正直一途な人物だったので、既に一度用いたあの手以外には、恰好な智恵が浮ばなかった。
『なあおい、ワシリーサ・エゴーロヴナ、』と彼は咳をしながら言った。『噂によると、ゲラーシム神父が街からな……』
『嘘はもう沢山、イワン・クジミーチ。』と司令官夫人は遮った。『わかってますよ。あなたはまた会議を開く肚なんでしょう。わたしのいないところで、エメリヤン・プガチョーフのことを相談する気なんでしょう。そう〓〓うまくは騙されませんよ。』
イワン・クジミーチは眼をむいた。
『そんならお母さんや。』と彼は言った。『お前がそんなに何もかも知っとるんなら、出て行かんでもいゝわい。こっちもお前のいるところで相談しようさ。』
『それ〓〓、そこなんですよ、お父さん。』と彼女は答えた。『人をだしぬくなんてあなたの柄じゃありませんわ。じゃあ将校達を呼びにおやりなさいな。』
私達は再び集合した。イワン・クジミーチは夫人の面前で、明らかに半文盲のコザックの手で書かれたらしいプガチョーフの檄文を私達に読んで聞かせた。賊徒は遠からずわが要塞を襲撃するという計画について揚言し、コザックや兵隊には徒党への参加を勧め、将校には抵抗の無意味を説得して、さもない場合の厳刑を強調していた。檄文は、粗野ではあるが力強い表現で綴られてあり、単純な人間の頭には、確かに危険な印象を与えるに違いないものであった。
『なんという悪者でしょう!』と、司令官夫人は叫んだ。『まだその上わたし達に註文を出すなんて! お迎えに出て、そいつの足許へ軍旗を倒せですって…… ほんとに呆れた人非人だわ! 一たいそいつは知らないんでしょうか、あたし達がもう四十年も軍隊勤めをして、おかげで何もかも見飽きるほど見て来ているということを? 泥棒ずれのいうことなんぞ、おいそれと聴く司令官がどこかにあったでしょうか?』
『まさか、ある筈はないがね。』とイワン・クジミーチは答えた。『ところが、悪党めは大分方々の要塞を占領したという噂もあるからね。』
『とにかく、相当手強い奴じゃあるようですね。』とシワーブリンが口を出した。
『だからさ、今すぐ、奴のほんとうの手並を見ようよ。』と司令官は言った。『ワシリーサ・エゴーロヴナ、納屋の鍵を出してくれんか。イワン・イグナーチイチ、バシキール人をこゝへ連れて来てくれ。それからユライに鞭を持ってこいと言ってくれ。』
『ちょっと待って下さい、イワン・クジミーチ。』と司令官夫人は立ちあがりながら言った。『今すぐマーシャをどこかへ連れ出しますから。うっかり悲鳴でも聞かそうものなら、あの子は怯えてしまいますわ。わたしにしたって、正直のところ、拷問は好きじゃありませんからね。じゃみなさん、御ゆっくり。』
拷問なるものは、往昔裁判手続きの慣わしの中であまりに深く根を張り過ぎてしまったため、それを廃止すべき慈悲深い勅令が出てからも、長い間なんの効力も示さなかったほどであった。つまり当時は、犯罪の完全なる立証として犯人の自白が不可欠のものと考えられていたわけであるが、この思想は、たゞに根拠がないばかりでなく、むしろ法律の常識に反するものでさえあるのだ。その理由は、被告の否認が無罪の証明として認められない以上、その自白が有罪の証明たり得る率も、益々低下する筈だからである。今日でもまだ、時々私は、この野蛮な習慣の廃止を惜しむ老法官の話を耳にすることがある。ましてや私達の時代には、拷問の必要を疑うものは誰ひとりなかったのである、――裁判官にしても被告にしても。こんなわけだから、この司令官の命令も、私達一同を少しも驚かせも騒がせもしなかった。イワン・イグナーチイチは、司令官夫人の鍵で納屋に監禁されているバシキール人を引出しに行き、間もなく囚人は控室まで連れてこられた。司令官は彼を自分の面前へ引出せと命じた。
バシキール人はやっとのことで閾をまたぎ、(足枷をはめられていたので、)背の高い帽子を脱いで、戸口に立ちどまった。私は彼を見て戦慄した。この男のことは、恐らくいつの日にも忘れることはあるまいと思う。年は七十を越しているかと思われた。顔には鼻も耳もなかった。頭は剃りこぼたれ、顎鬚の代りに、白髪が五六本突き出ていた。それは小男で、痩せさらばえた上に腰がまがっていたが、細い両眼だけは、まだ火のように光っていた。
『や、こいつめ!』と司令官は、その物凄い形相で彼を一七四一年に処刑された暴徒の一人と見てとって言った。『ふん、貴様はてっきり、前にもわれ〓〓の罠にかゝった古狼だな。その通りのっぺらぼうな顔をしとるからには、貴様が初めての謀叛でないことは確かだ。もっと前へ出ろ。貴様をこゝへもぐり込ませたのは何者か? まずそれを言え。』
老バシキールは押し黙ったまゝ、飽くまで無表情な顔附で司令官を眺めていた。
『なぜ黙っておる?』とイワン・クジミーチは続けた。『それとも、ロシヤ語がわからんのか? ユライ、お前の言葉でこいつに訊いてみろ、こいつをこの要塞へもぐり込ませたのは何者か?』
ユライは韃靼語で、イワン・クジミーチの質問を繰返した。が、バシキール人は依然たる表情で彼を眺めていて、一言も答えなかった。
『ようし、』と司令官は言った。『今おれが言わせてやるわい。さあみんな! そいつの馬鹿げた縞の着物を脱がせて、背中へぴしりとくらわせろ。いゝか、ユライ、しっかりやるんだぞ!』
ふたりの廃兵がバシキールの着物を剥ぎはじめた。哀れな男の顔は不安の色を現わした。彼は子供達に捕えられた小さな獣のようにあたりを見廻していた。が、廃兵のひとりが彼の両手をとり、それを自分の頸にかけて背負い上げ、ユライが鞭をとって振り上げると、バシキール人は、力ない、祈るような声で唸り出し、頭を上下に動かしながら、口を開けた。口の中には、舌の代りに短い木片が動いていた。
これが私の生涯に起った事実であり、自分が今日アレクサンドル皇帝の平和な御代まで生き長らえて来たことを思うと、私は文明の急速な進歩と博愛主義の普及とに驚かざるを得ないのである。若人よ! もし私の手記が君の手にはいるようなことがあったら、思い出されよ、よりよき而して最も鞏固な変革は、一切の暴力的戦慄を伴わぬ習慣の改善からのみ生ずるものにほかならないことを。
一同は度胆をぬかれた。
『うゝん。』と司令官は言った。『これじゃいくら責めてみたって無駄じゃ。ユライ、このバシキールを納屋へ連れ戻せ。では諸君、われ〓〓はとにかく相談をしよう。』
私達が現下の情勢について論議をはじめたところへ、不意にワシリーサ・エゴーロヴナが、息を切らし、たゞならぬ驚愕の色を浮べて部屋へはいって来た。
『どうしたんじゃ、お前?』と驚かされた司令官は訊いた。
『あなた、大変ですよ!』とワシリーサ・エゴーロヴナは答えた。『ニジネオジョールナヤ要塞が今朝陥落したんですって。ゲラーシム神父の下男がたった今そこから帰って来たんです。その男が、占領された時の様子を見て来たんですよ。司令官と将校とは全部絞殺。兵隊はみんな捕虜にされてしまったそうです。愚図々々してると、悪者は、いまにこゝへも押し懸けて来ますよ。』
思いもよらぬこの知らせは、いたく私を驚かした。ニジネオジョールナヤ要塞の司令官は、温厚謙遜な青年で、私とも知合いだった――ふた月ほど前、オレンブルグから赴任の途次、若い細君同伴でこゝへ立寄り、イワン・クジミーチの家に一泊して行ったからである。ニジネオジョールナヤはわが要塞から約二十五露里の地点にあった。私達は刻一刻とプガチョーフの来襲を待受けなければならなかった。私には、マーリヤ・イワーノヴナの運命がまざ〓〓と想い描かれ、それだけでも私の心臓はとまりそうであった。
『申上げます、イワン・クジミーチ!』と私は司令官に言った。『われ〓〓の義務は命のあらん限りこの要塞を死守するにあります。これは申すまでもないことです。併し、婦人の安全は考慮すべきだと思います。もし途中の心配がなかったら、オレンブルグへ送られたら如何でしょう、それとも、どこかもっと遠方の、暴徒どもの手の届きそうにない安全な要塞へでも送られたら?』
イワン・クジミーチは妻の方を向いて言った――
『どうだな、お母さん、ほんとうにさ、わし等が暴徒の処置をつけるまでのところ、お前方をどこか遠くへ送っておいたら?』
『まあ、あほらしい!』と司令官夫人は言った。『鉄砲玉の飛んでこないような、そんな要塞がどこかにありますかね? 一たいベロゴールスク要塞のどこが頼みにならないんですの? 神様のおかげで、わたし達がこゝに住むのももう二十二年ですよ。バシキール人もキルギス人も見て来ました――プガチョーフだって大丈夫きっと防ぎ通せますよ!』
『ではな、お母さんや、』とイワン・クジミーチは言い返した。『お前がうちの要塞を大丈夫と思うんなら、こゝにいるもよかろうがだ。あのマーシャはどうしたものかな? 防ぎ終せるなり、援兵がくるまで支えられりゃ結構じゃが、万一要塞が暴徒に占領されたら?』
『さあ、そうなったら……』
ワシリーサ・エゴーロヴナはこゝで口籠り、烈しい動揺の色を見せて、黙ってしまった。
『いや、なんだよ、ワシリーサ・エゴーロヴナ。』と司令官は、恐らく生涯に初めてのことだったであろうが、自分の言葉の効果を認めて、こう続けた。『マーシャをこゝに置くのはつまらんことだよ。あの子はやっぱりオレンブルグへ、あれの教母のところへ遣るとしようよ――あすこにゃ軍隊も大砲も十分だし、城壁も石で出来ている。それで、わしは、お前もあれと一緒に行くがいゝと思うのさ。お婆さんだからって、安心はならんぞ。まあ考えてごらんよ、万一要塞が敵の急襲で落ちるようなことがあったら、お前はいったいどうなるか。』
『じゃ、よござんす。』と司令官夫人は言った。『仕方がありません、マーシャは遣りましょう。けれどわたしには、夢にもそんなこと仰しゃらないで下さいまし――わたしはまいりませんから。この年になってあなたと別れて、見知らぬ土地でひとりぼっちの墓穴なんぞ捜す気にどうしてなれます。生きるのも一緒なら死ぬのも一緒ですよ。』
『なるほどな。』と司令官は言った。『じゃ、ぐず〓〓していることはない。すぐ行ってマーシャに旅の支度をさせなさい。明日夜明けに立たせよう。こゝには余分の人間はないが、護衛もひとりつけてやるわい。それはそうと、マーシャはどこにいるのかな?』
『アクーリナ・パンフィーロヴナのとこにいますわ。』と司令官夫人は答えた。『ニジネオジョールナヤの陥落を聞いて、気分がわるくなったんですよ。病気にでもならなきゃいゝがと案じてますの。あゝ神様なんという世の中になったものでしょうねえ!』
ワシリーサ・エゴーロヴナは娘の旅支度をしに出て行った。司令官を囲んでの協議は続いていたが、私はもう口も出さず、何も聴いていなかった。マーリヤ・イワーノヴナは泣きはらした蒼白な顔をして、夜食の席へ現われた。私達は黙々と夜食をすますと、いつもより早く食卓をはなれ、家族の人々に挨拶して、各々家路についた。が、私はわざと佩剣を忘れて、それを取りに引返した――マーリヤ・イワーノヴナひとりに会えそうな予感があったからである。案の定、彼女は戸口で私を迎えて、剣を手渡ししてくれた。
『左様ならピョートル・アンドレーイチ!』と彼女は涙にくれながら言った。『あたしオレンブルグへ遣られますのよ。どうぞ御機嫌よう、お仕合せに。神様さえお守り下されば、またお眼にかゝれるかも知れませんわね。でも、もし、駄目でしたら……』
こう言って彼女は泣き出した。私は彼女をかき抱いた。
『さようなら、僕の天使。』と私は言った。『さようなら、僕の可愛い大事な人! たとえ僕の身はどうなろうと、僕の最後の祈りはあなたのことだと信じて下さい!』
マーシャは私の胸に取縋って泣いた。私は、熱烈に彼女を接吻し、急いでその部屋を出た。
第七章 急襲
わしの頭よ、よい頭、
よくも勤めたこの頭!
わしの頭の勤めたは、
まるっと三十三年間。
あゝ、勤めた褒美にもろうたは、
自分の得でも喜びでも
またいたわりの言葉でも、
高い身分や位でも
のうて、いとしやわが頭、
たった二本の高柱、
楓の横木と、その上に
おまけに絹のくゝり縄。
――民 謡
この夜、私は一睡もせず服も脱がなかった。夜が明けてきたら、要塞の門まで行き、そこから出て行く筈のマーリヤ・イワーノヴナに、最後の別れを告げるつもりだったのである。私は自分の心に大きな変化を感じていた。精神の動揺興奮は、まだ最近まで陥っていたあの憂悶に比べれば、私にとって遥かに凌ぎよいものであった。私の胸中では、差迫った別離の悲哀に、定かではないが甘い希望や、危険を予期する焦躁や、崇高な名誉心がまざり合った。夜はいつの間にか過ぎ去った。私がもう出かけようとしている矢先へ、部屋の扉があいて、ひとりの伍長がはいって来、夜のうちにコザック達が無理やりユライを引連れて要塞から抜け出したこと、怪しげなやからが要塞の周囲を乗廻していることなどを報告した。マーリヤ・イワーノヴナの脱出は困難だなという考えが私をぎょっとさせた。私は伍長に、急ぎ二三の注意を与えて、時を移さず司令官の家へ駈けつけた。
もう明けはじめていた。往来を飛んで行くと、私を呼ぶ声がきこえた。私は立ちどまった。
『どこへおいでです?』とイワン・イグナーチイチが追って来ながら言った。『イワン・クジミーチは堡塁に居られますよ。その使でわたしはあなたを呼びに来たのです。プガーチュ(大みゝずくの意。)がやって来たですよ。』
『マーリヤ・イワーノヴナは立ちましたか?』と私は戦く心で訊いた。
『駄目でした。』とイワン・イグナーチイチは答えた。『オレンブルグへの道は断たれました。要塞は包囲されたのです。困ったですな、ピョートル・アンドレーイチ!』
私達は堡塁、とは名ばかり、たゞ柵をめぐらしただけの自然の高地へ行った。そこにはもう要塞の全住民が集まっていた。守備隊は銃をとって立っていた。大砲は前夜のうちにそこまで曳出されていた。司令官は貧弱な隊列の前を歩き廻っていた。危険の切迫は老軍人に異常な勇気を吹き込んでいた。草原には、要塞からあまり遠くない距離に、二十人ほどの騎者が馬を乗廻していた。大たいコザックらしく見えたが、中にはバシキール人達もまじって居り、それは山猫の帽子や箙で容易く見分けがつくのだった。司令官は全隊列を一巡した、次のように言いながら――
『さあみんな、今日は国母陛下のためにしっかり働いて、おれ達の勇気と忠誠を全世界に見せてやるんだぞ!』
兵達は喊声をあげて熱誠を表明した。シワーブリンは私の傍に立って、じっと敵を見つめていた。草原を乗廻していた徒輩は、要塞内の動きを気どると、一団になって相談をはじめた。司令官はイワン・イグナーチイチに命じて、大砲をその上に照準させ、自分で火縄をつけた。砲弾は唸りながら彼等の頭上を飛び越え、なんの損害をも与えなかった。騎者の群は八方へ散りながら、忽ち視界から消え去り、草原は空虚になった。
その時、ワシリーサ・エゴーロヴナが、いやがって傍をはなれないマーシャと一緒に堡塁へ出て来た。
『ねえ、どんなですの?』と司令官夫人は言った。『戦さの模様は? 敵はどこにいますの?』
『ついそこにいるよ。』とイワン・クジミーチは答えた。『なあに、神様がちゃんとよくして下さるわい。どうだ、マーシャ怖いかな?』
『いゝえ、お父さま。』とマーリヤ・イワーノヴナは答えた。『うちにひとりでいる方が怖いわ。』
そこで私の方をちらと見て、彼女は無理に微笑んだ。私は、前夜彼女の手から佩剣を受取ったことを思い出し、愛する者を守護するような気持で思わず剣把を握りしめた。私の胸は燃えていた。私は彼女の騎士になったような感じだった。私は一途に、自分が彼女の信頼に価する人間なることを示したい要求から、じり〓〓しながらいざという瞬間を待ちはじめた。
この時、要塞から半露里ほどはなれた小丘のかげから、新手の騎馬の一団が現われたと思う間もなく、忽ち草原一帯に槍や弓矢で武装した多人数がばらまかれた。その中に、白馬に跨がり、抜身の剣をひっさげて、真紅の長衣をまとった男がひとりいた――それが当のプガチョーフであった。彼が馬をとめると、賊徒がそれを取囲み、やがて彼の命令を受けたらしく、四人の男が群をはなれて、驀地に要塞真下まで乗りつけた。私達はそれに自分達の裏切者を認めた。そのうちの一人は、帽子の上に一枚の紙を振りかざしていた。いま一人は槍先にユライの首を刺していたが、ひと振り振ると柵越しに私達の方へ投げ込んだ。可哀そうなカルムイク人の首は、司令官の足許へころがった。裏切者達は口々に叫んだ――
『射っちゃなんねえぞ。陛下の御前へ出てくるんだ。陛下はこゝにおいでだぞ。』
『何を、馬鹿者!』とイワン・クジミーチは叫び出した。『一同、射てっ!』
兵達は一斉射撃をした。紙片をかざしていたコザックは、よろ〓〓となって馬から落ちた。残りの者はさっと逃げ出した。私はマーリヤ・イワーノヴナを顧みた。血まみれのユライの首に胆を消し、一斉射撃に耳をつんざかれた彼女は、まるで正気の失せた人のようであった。司令官は伍長を呼び、倒れたコザックの手から紙片を取ってこいと命じた。伍長は野へ出て行き、倒れた男の馬の轡をひいて戻って来た。彼は司令官に紙片を渡した。イワン・クジミーチはそれをひとりで読んで、ずた〓〓に引裂いてしまった。その間に兇徒は、明らかに行動を起す準備をしていた。やがて、銃丸が私達の耳許で唸りはじめ、数本の矢があたりの地面や柵に突き立った。
『ワシリーサ・エゴーロヴナ!』と司令官は言った。『こゝは女子の居るところじゃない、マーシャを連れてあっちへおいで――見なさい、この子は生きた色もないじゃないか。』
弾丸の下ですっかりおとなしくなったワシリーサ・エゴーロヴナは、歴然と大動乱の起っている草原の方を一瞥し、それから天の方を向いて言った――
『イワン・クジミーチ、生きるも死ぬもみんな神様のお心ですわ――マーシャを祝福してやって下さい。マーシャ、お父さまのお側へおいで。』
マーシャは、蒼白な顔をして顫え戦きながら、イワン・クジミーチの傍へ行き、跪いて地面へつくほど頭を垂れた。老司令官は、娘に三度十字を切ってやり、それから立たせて接吻すると、改まった声で彼女に言った――
『ではマーシャ、仕合せに暮すがいゝ。たゞたゞ神様にお祈り申すのじゃ――神様はお前をお見棄てにゃならんからの。もしいゝ人が見つかったら、どうか神様の恩寵と御助言がありますように。お前も、わしがワシリーサ・エゴーロヴナと暮して来たように暮すのじゃ。じゃ、さようなら、マーシャ。ワシリーサ・エゴーロヴナ、早くこの子を連れてってくれ。』
マーシャは父の頸に取縋って泣き出した。
『わたし達も接吻しましょう。』と司令官夫人も涙の中から言った。『さよなら、イワン・クジミーチ。何かお気にさわったことがありましたら、どうぞお許し下さいまし!』
『さよなら、さよなら、お母さん!』と司令官は、老妻を抱きしめて言った。『さあ、これでいい! 行きなさい、家へ行きなさい。もし出来たらマーシャにはサラファン(袖無し長衣。ロシヤ婦人の晴着で死装束にもなるもの。)を着せておやり。』
司令官夫人は娘を連れて歩き出した。私はマーリヤ・イワーノヴナのあとを見送った。彼女は振返って私に会釈をした。ふたりを去らせてしまうと、イワン・クジミーチは私達の方へ向き直った。そして彼の全注意は、敵の方へ集中された。首領のまわりに集結しつゝあった暴徒どもは急に馬からおりはじめた。
『さあ、しっかり頑張るんだぞ。』と司令官は言った。『突撃してくるぞ……』
その時、凄まじい喊声が響き渡った。兇徒が要塞目がけて突進してくるのだった。わが砲には霰弾が装填されていた。司令官は敵を最短距離に引寄せて、再び矢庭に発砲した。霰弾は集団の真只中に落下した。暴徒はさっと両側に別れて後退しはじめた。首領は単身前方に踏みとゞまった…… 彼は剣を振りかざして、懸命に部下を説いている様子に見えた……一とき途絶えた喊声が、忽ち勢いを盛り返した。
『さあ、みんな、』と司令官は言った。『今度は門を開け、太鼓を打て。一同! 前へ、出撃にい、つゞけえ!』
司令官と、イワン・イグナーチイチと私とは、忽ち堡塁の外へ躍り出したが、怖気づいた守備隊は動かなかった。
『こら、貴様らなぜ立っとるんだ?』とイワン・クジミーチは呶号した。『死ぬんじゃ、死ぬんじゃ、御奉公じゃぞ!』
一刹那、暴徒は私達に襲いかゝり、要塞内へなだれ込んだ。太鼓はやみ、守備隊は銃を投げすてた。私も突き倒されるところだったが、立ち直ると、暴徒にまじって要塞内へ駈け戻った。頭部に負傷した司令官は、賊徒の一団に取りまかれ、降伏を強要されていた。私は助けに飛び出しかけたが、忽ち岩乗なコザック数人につかまり、『陛下に刃向う奴はこれだぞ!』とばかり帯革でしばり上げられてしまった。
私達は往来を引廻され、住民は手に手にパンと塩(貴人を迎える歓迎のしるし)を持って家から出て来た。鐘の音が響いていた。突如、群衆の中で、皇帝は広場で捕虜を待ち、一同の宣誓を受けていられると叫び出した者がある。人々はどっと広場へ押出し、私達もそこへ追われて行った。
プガチョーフは、司令官の家のあがり段の上に、肘掛椅子に掛けていた。彼は、金モールの縁飾りのある真紅のコザック長衣をつけていた。金の総のさがった背の高い黒貂の帽子が、鋭く光る眼の上にかぶさっていた。その顔は、私にはどこかに見覚えがあるような気がした。コザックの隊長連が彼を取巻いていた。真蒼になって顫えているゲラーシム神父は、十字架を手にしてあがり段の下に立ち、いまにも現われる犠牲のために無言の祈りを捧げているように見えた。広場には、急拵えの絞首台が立てられた。私達が近づくと、バシキール達が群衆を追い退けて、私達をプガチョーフの面前へ引据えた。鐘の音はやみ、深い静寂があたりを領した。
『どれが司令官か?』と僭称者は訊いた。
私達の下士が群衆の中から進み出て、イワン・クジミーチを指した。プガチョーフは凄い眼で老人を一瞥して、声をかけた――
『お前はよくもこのわしに――お前達の皇帝に刃向ったな?』
司令官は負傷に弱りながらも、最後の力を絞って、たしかな声で答えた――
『貴様がなんでおれの皇帝か。貴様は泥棒じゃい、僭称者じゃい、わかったか!』
プガチョーフは暗鬱な顰め面をして、白いハンケチを振った。数人のコザックが老大尉を押えて絞首台の方へしょびいて行った。見ると、その横木の上に馬乗りになっているのは、前日私達が訊問した片輪のバシキール人であった。彼は片手に縄を握って居り、一分後には私は、宙に吊るされている気の毒なイワン・クジミーチを見出したのである。続いてイワン・イグナーチイチがプガチョーフの前へ引据えられた。
『宣誓をせい。』とプガチョーフは彼に言った。『皇帝ピョートル・フェオドロヰ゛ッチに宣誓をせい!』
『貴様がなんでおれ達の皇帝か。』とイワン・イグナーチイチは老大尉の言葉を反覆しながら答えた。『お前なんかな、おっさん、泥棒じゃよ、僭称者じゃよ!』
プガチョーフは再びハンケチを振り、善良な中尉は、その老いたる老長官の傍に吊るされた。
今度は私の番だった。私は、従容たるわが同僚たちの返答を繰返す覚悟で、敢然とプガチョーフを凝視していた。その時私は、兇徒の隊長連のあいだに、頭をまるく刈り上げてコザックふうの長衣を着たシワーブリンの姿を認めて、声も出ぬほどの驚愕に打たれた。彼はプガチョーフの傍へ歩み寄って、二言三言その耳に囁いた。
『そいつも懸けろ!』とプガチョーフは、もう私の方へは眼もくれないで言った。
私の頸に輪索がかけられた。私は心に祈祷をとなえはじめ、犯した罪の一切を心底《しんそこ》神の前に懺悔して、わが身に近いすべての人々の救いを祈った。私は絞首台の下へひかれて行った。
『怖かないよ、怖かないよ、』と殺戮者どもは繰返したが、これはほんとうに私を励ますつもりだったかも知れない。突然、私は叫び声を耳にした――
『待て、悪党ども! 待ってくれ!……』
刑手達は停止した。見ると――サヴェーリイチが、プガチョーフの足許にひれ伏しているのだった。
『生みの親父様!』と哀れな傅役《じいや》は口説き立てていた。『貴族の忰ひとり殺してお前様になんの得がゆきましょう? どうぞ放免して下さいまし! その代り、身代金は御意のまゝです。みせしめや威しのためなら、このわしを、老いぼれを懸けて下され!』
プガチョーフは合図をした。と、私はすぐ縄を解かれて自由にされた。
『陛下がお前をお憐れみなされたのだ。』と近くにいた者が言った。
この時の私は、自分が助かったことを喜んだとも言いかねるし、それかとて助かったのが心外だったとも言い切れない。私の感情はあまりに混沌たるものであった。私は改めて僭称者の前に引出され、その前に跪かされた。プガチョーフはその筋張った手を私の方へ差延べた。
『お手に接吻するんだ、お手に接吻するんだ!』とまわりの者が言った。
併し私は、そんな卑劣な屈辱を忍ぶほどなら、どんな残忍な刑罰も甘んじて受けようと決心した。
『坊ちゃん、ピョートル・アンドレーイチ!』とサヴェーリイチは、私の背後に立って私をこづきながら囁いた。『強情を張らんで! なんでもないじゃありませんか? ひとつ唾を吐いて、その悪……(しっ!)その人の手に接吻しておやんなさい。』
私は身動きもしなかった。プガチョーフは手をおろし、冷笑を浮べて言った――
『この大将は、嬉しさに腑抜けにでもなったのだろう。立たせてやれ!』
私は立たされ、自由にされた。私は恐るべき喜劇の続きを注視しはじめた。
住民達の宣誓がはじまった。彼等はひとり〓〓進み出て、磔刑像に接吻し、それから僭称者を拝礼した。守備隊の兵達もそこに立っていた。中隊の裁縫師がなまくら鋏を持って、彼等の辮髪を切って廻った。彼等は、毛を振い落しながら、プガチョーフの手に近づき、プガチョーフは彼等の赦免を宣して、徒党への参加を許すのだった。こうした儀礼が三時間ばかり続いた。遂にプガチョーフは椅子をはなれ、隊長達を随えて段を下った。豪奢な馬具に飾られた白馬が曳いてこられた。ふたりのコザックが、舁ぎあげるように彼を鞍に乗せた。彼はゲラーシム神父に、昼食は彼の家でとるぞと告げた。折しも、女の悲鳴が聞えた。数人の兇徒が、髪を振乱し素裸かに着物を剥がれたワシリーサ・エゴーロヴナを、あがり段の上へしょびいて来た。そのうちのひとりは、早速もう、彼女の綿入れチョッキを着込んでいた。他の連中も、羽根蒲団、櫃、茶器、肌着など、あらゆる家財を運び出して来た。
『あゝ、みなさん!』と哀れな老婆は叫んでいた。『どうぞ懺悔だけはさせて下さい。ねえみなさん、私をイワン・クジミーチの傍へ連れてって下さい!』
ふと、彼女は絞首台へ眼をやって、そこに夫の姿を認めた。
『悪者めが!』と彼女は狂乱のていで叫び出した。『あの人になんということをしたのだ? あゝ、わたしの大事なイワン・クジミーチ、あなたは立派な軍人でした! プロシャの銃剣も、トルコの弾丸も、あなたをよけて通りました。それが、名誉の戦争ででもあることか、むざ〓〓こんな牢破りの手にかゝるなんて!』
『その鬼婆を黙らせろ!』とプガチョーフが言った。
若いコザックの剣が彼女の頭上に一閃すると、彼女は骸となって、あがり段の上に倒れた。プガチョーフは馬を進めた。人々はその後を追った。
第八章 招かぬ客
招かぬ客は韃靼人よりわるい。
――俚 謡
広場は空になった。私はずっと同じ場所に佇立したまゝ、あまりの恐しい印象に攪き乱された想念を整えかねていた。
マーリヤ・イワーノヴナの安否の不明が、何より私には堪えがたかった。彼女はどこにいるのだろう? どうしただろう? うまく隠れ終せただろうか? 隠れ家は大丈夫だっただろうか?…… 不安な思いに満たされて、私は司令官の家へはいって行った…… 中は空っぽになっていた。椅子も、卓も、箱類もみなきれいに叩き壊され、食器類は砕かれ、その他のものは全部盗み出されていた。私は、奥のきれいな部屋へ導く小さい階段を駈けあがって、生れて初めてマーリヤ・イワーノヴナの部屋へはいった。私は兇徒の手で掻き廻された彼女の寝床を見た。衣裳戸棚は打ちこわされ、中身は掠奪されていた。燈明だけはまだ、空になった聖像龕の前にともっていた。窓間壁にかゝっていた小鏡も無事であった…… だが、このつゝましい乙女の庵の女主人はどこにいるのだろう? 恐しい想念が私の心に閃いた――私は暴徒どもの手に落ちた彼女を想像してみた…… 私の心臓はしめつけられた……私は烈しく手放しで泣き出しながら、大声に愛する者の名を呼んだ…… その時、かすかな物音が聞えて、戸棚のかげから、蒼ざめ顫えているパラーシャが顔を出した。
『あゝ、ピョートル・アンドレーイチ!』と彼女は両手を打合せて言った。『なんというわるい日でしょう! なんという恐しいことでしょう!……』
『だが、マーリヤ・イワーノヴナは?』と私は、咬みつくような勢いで訊いた。『マーリヤ・イワーノヴナはどうした?』
『お嬢様は御無事です。』とパラーシャは答えた。『アクリーナ・パンフィーロヴナのところに隠れていらっしゃいます。』
『梵妻のとこに!』と私はぎょっとして叫んだ。『あゝ大変だ! プガチョーフもそこにいるんだ!……』
私は部屋を飛び出すと、一瞬の間に往来へ出、一切無我夢中で、真逆さまになって司祭の家へ駈けつけた。そこは、喚声、哄笑、歌声の坩堝だった……プガチョーフが仲間を集めて酒宴を開いていたのである……パラーシャも続いて駈けつけて来た。私は彼女をこっそり、アクリーナ・パンフィーロヴナを呼び出しに忍び込ませた。ほどなく梵妻は、空の酒瓶を両手に抱いて、私のいる玄関へ現われた。
『後生です! マーリヤ・イワーノヴナはどこですか?』と私は、言いがたい心の動乱を覚えながら訊いた。
『あの子はね、わたしの寝台に休んでいますよ、あの仕切り壁の向うで。』と梵妻は答えた。『それがね、ピョートル・アンドレーイチ、もう少しで、取返しのつかぬことになるところでしたのよ、仕合せと万事無事に済みましたけれどね。――あの悪者が食事の席につきますとね、その時可哀そうに、あのお子がまたちょうど気がついて、唸り出したじゃありませんか……わたしゃもう生きた空はありませんでしたよ。あの男は聞きとがめましてね。「誰だい〓〓、お前の家で唸ってるのは、婆さん?」って訊くじゃありませんか。わたしは、泥棒の帯のへんまで頭をさげましてね――「わたくしの姪でござります、陛下さま、わずらいつきまして、それでもう二週間やすんでいるのでございます。」――「お前の姪というのは若いのか?」――「はい、若うございます、陛下さま。」――「じゃあな婆さん、わしにひとつその姪を見せてくれんか。」こうじゃありませんか。わたしゃどきっとしたけれど、どうにも仕様がありません。「どうぞ御覧下さいまし、陛下さま。たゞあの子は自分で起きて御前へ出ることは出来ませんので。」――「なに構わんよ、婆さん、わしが自分で見に行こう。」こう申してね、あの人鬼め、しきりの向うへはいって行くじゃありませんか、そしてどうでしょう! 帷をこう引きのけて、あの大鷹のような眼でのぞき込んだんですからね――でも、何事もなく無事に済みました……全く神様のお助けですわね! ほんとになんですよ、わたしもあるじも、いざとなったら身代りになって死ぬ覚悟までしたんでしたがね。仕合せなことに、あのお子は、悪者の顔がわからなかったんですわ。あゝ神様、ほんとになんということが起ったものでしょうねえ! 言ってみようもありませんわ! お気の毒なイワン・クジミーチ! あんなことにおなりなさるなんて!…… それにまたワシリーサ・エゴーロヴナだってもねえ! それからイワン・イグナーチイチ! 一たいあの人になんの罪があるでしょう?…… それにしてもあなたはよくのがれられましたわね? そこへ行くとあのシワーブリン――アレクセイ・イワーヌイチはどうでしょう? あんなに頭をまるく刈り上げて、今もあちらでみんなと一緒に酒盛りの最中なんですよ! はしっこいっちゃありませんわね、ほんとうに! あいつったらね、わたしが姪が病んでって言い出すと、まるで、匕首ででも刺すように、ぎょろりとわたしを睨めつけましたがね。でも、素っ破抜きだけはやりませんでしたよ。これだけは恩にきてもいゝと思ってますのよ。』
この時、客達の酔っただみ声と、ゲラーシム神父の声が聞えた。客が酒を求め、主人が妻を呼んだのだった。梵妻はあたふたし出した。
『早くお家へお帰んなさいよ、ピョートル・アンドレーイチ。』と彼女は言った。『わたし今はあなたに構っていられませんからね――悪者どもが酒盛り最中ですから。飲んだくれに捕まったらそれこそ百年目ですよ。じゃ、御免下さい、ピョートル・アンドレーイチ。どうせ何事も成行に任せるほかありませんわ。でも、神様は必ず見ていて下さいますよ。』
梵妻は引込んだ。幾らか心も落ちついて、私は宿舎へ帰りかけた。広場の傍を通りかゝると、数人のバシキール人が絞首台のまわりにひしめいて、ぶらさがっている屍体から長靴を抜き取ろうとしていた。私は、むら〓〓と起る憤りを、干渉の無益を思うことでやっと抑えた。要塞内には泥棒どもが横行して、将校の家を荒していた。行くさき〓〓で、酔払った兇徒どもの喚き声が聞えていた。私は宿へ帰った。サヴェーリイチが閾際で私を迎えた。
『あゝ、有難い!』と私を見ると、彼は叫んだ。『わたしは、あなたはまた悪者どもに捕まんなすったかと案じてましたよ。それはそうと、ピョートル・アンドレーイチ! うちのものはみんな持って行かれてしまいましたよ。悪者どもにね――着物から、肌着から、道具から、皿小鉢まで、――もう何ひとつ残っちゃ居りませんよ。だが、まあそんなことはどうでもいゝでさ! 有難いことに、あなたが無事にお帰りですものね! ときに若旦那、あの首領に気がおつきでございましたかね?』
『いや、気がつかなかった。あれは一たい何者だい?』
『へえ、そりゃまた、どうして? お前様はもう、それあの宿屋で、お前様から皮衣をかたり取ったあの飲んだくれをお忘れですか? まる〓〓新しいも同然の皮衣をですよ。あのけだものめ、無理むり着おって、びり〓〓綻ばしてたじゃありませんか!』
私は驚いた。そういえば、あの道案内とプガチョーフの似方は大したものであった。私は、プガチョーフと彼とが同一人物であることを認めるに及んで、私に与えられた赦免の理由をもはじめて会得することが出来た。私は、奇しき事情の連鎖《つながり》に驚嘆しないではいられなかった、――つまり浮浪人にくれてやった少年時代の皮衣が絞め縄から私を救い、田舎を渡り歩いていた酒くらいが、諸要塞を攻略して国家を震撼させていたのである!
『何かおあがりになりませんか?』いつもの癖でサヴェーリイチはこう訊いた。『家にゃなんにもありませんが、どこかへ行って目つけて来ましょう。そして何か拵えましょう。』
ひとりになると、私は考えに沈んでしまった。自分はどうしたらいゝのだろう? 悪徒の手に落ちた要塞にとゞまること、或はその徒党に加わることは、将校として不面目である。義務の観念は私に、この艱難な時にこそ、私の奉公が祖国の役に立ち得る場所へ赴くことを要求する……併し恋心は、マーリヤ・イワーノヴナの傍に踏みとゞまって、彼女の守護者となり庇護者となることをひたすらに勧めてやまない。私も、この情勢は近い将来に疑いなく一変することを予見してはいたものの、併し彼女の立場の危険を思うと、依然として戦慄を禁じえなかった。
私の物思いは、コザックがひとりはいって来たことによって破られた。それは、「大帝陛下のお召しであります。」という知らせを持って駈けつけて来たのであった。
『向うはどこにいるんだ?』と、私は行く気にだけはなって訊いた。
『司令官のお宅に。』とコザックは答えた。『食事のあとで陛下は入浴に行かれましたが、只今は御休息中であります。いや、なんであります。少尉殿、あの方が貴人であられることは、何かにつけてわかりますですな――食事の時に仔豚の丸焼を二匹もあがられましたし、えらく熱い蒸風呂にはいられまして、あんまり熱いのでタラス・クローチキンも参りまして、浴用はたきをフョームカ・ビクバーエフに渡した上、とう〓〓冷たい水をかぶったくらいでありました。争えぬもので――為さることが一々お立派でいられます。またこれは噂でありますが、風呂場では、胸につけてある皇帝の印をお見せになったとやら申すことで――なんでも片側には、五カペイカ玉ほどの双頭の鷲がついていて、別の側には、御自分のお顔がついていたということで。』
私は、コザックの意見を反駁する必要も認めなかったので、彼について司令官の家へ向った。行くみち〓〓、プガチョーフとの会見を心に描き、それがどんな結果に終るかを予想しようと努めながら。かくして、私が完全に冷静でなかったことは、読者も容易に想像されるところであろう。
私が司令官の家へ着いた時には、黄昏が迫っていた。犠牲を吊るさげたまゝの絞首台は、陰々として黒ずんでいた。気の毒な司令官夫人の亡骸は、まだ上り段の下にころがったまゝで、段の傍にはコザックがふたり衛兵に立っていた。私を連れて来たコザックは、取次ぎに奥へはいったが、すぐ引返して来て、前夜私がマーリヤ・イワーノヴナと優しく別れを告げたあの部屋へ案内した。
異様な光景が、私の前にひろげられた。酒瓶やコップの並んだ、卓布に蔽われた食卓には、プガチョーフを初め十人ばかりのコザック隊長が、帽子をかぶり色模様のルバーシカを着て、酒気に燃える真紅な顔に眼を光らせながら、居並んでいた。彼等のなかには、シワーブリンも、私達の下士も、新らしい裏切者達の顔も見えなかった。
『やあ大将!』とプガチョーフは私を見て言った。『ようこそお越し下された。まあお掛け願おうか。』
一座は席をつめた。私は黙って卓の端に腰をおろした。隣り合せになった、すらりとした好男子の若いコザックが、私にたゞの葡萄酒を注いでくれたが、私はそれには手を触れなかった。好奇心を以て、私は一座を注視しはじめた。プガチョーフは卓に両肘をつき、大きな拳で真黒な顎鬚を支えながら、正席に構えていた。彼の顔立は端正で、可なり感じがよく、兇暴らしい様子は少しもなかった。席上、彼はよく五十年配の男に話しかけていたが、その男を、時には伯爵と呼び時にはチモフェーイチと言い、また時には伯父さんと崇めたりしていた。一同はお互いに仲間づきあいで、首領に対しても特別扱いにするふうは一向なかった。談話は朝の突撃のこと、叛乱の成功のこと、今後の行動のこと等について進んでいた。各自功名を誇り、意見を述べ、プガチョーフにも無遠慮に反駁していた。そして、この奇妙な軍事会議で、オレンブルグヘの進軍が決定された――これは、洵に不敵な行動であるが、しかもそれは、すんでのことに惨澹たる成功を見るところだったのである。進軍は明日ということに宣言された。
『さあ、兄弟達。』とプガチョーフは言った。『寝る前にひとつ例のおれの好きな唄をうたおうじゃないか。チュマコーフ(ヤイーク・コザック。プガチョーフの砲兵隊長。後、彼を裏切り、政府に売る。)! はじめてくれ!』
私の隣席にいた男が、細い声で、哀調を帯びた曳舟唄をうたい出すと、一同がそれについて合唱した――
騒ぐな、母なる緑の森よ、
みだすな、若者おいらが心。
明日はおいらが白洲へ出る日、
怖い役人、帝《みかど》の前へ。
帝はおいらに尋ねらりよ――
申せ、小忰、百姓の子よ、
盗人追剥仲間は誰ぞ、
ほかにも大勢あったのか?
申上げます、正教の君、
包み隠さずまことをすべて。
わしの仲間は四人《よつたり》でした、――
ひとりの仲間は――暗い夜、
つぎの仲間は――鋼《はがね》の小柄《こづか》。
三の仲間は――可愛いの駒で
第四の仲間は――張った弓――
ほかに、使いが――鋼の矢じり。
正教の帝の仰せには――
でかした小忰、百姓の子よ、
よくも盗んだ、また答えた、
褒美におれが取らせるは、
野面に高い木の館――
横木わたした二本の柱。
いずれは絞首台にのぼる運命の人々によって、大間な節廻しでうたわれたこの絞首台の俗謡が私にどんな感銘を与えたか、〓に述べることは不可能である。陰惨な彼等の形相、よく揃った歌声、一語々々に加えられた哀切な抑揚、たゞでさえ十分印象的だったその文句――すべてこれらは、一種詩的な恐怖となって、私の胸を揺すぶったのである。
客達は更に一杯ずつあおって食卓をはなれ、プガチョーフと挨拶を交した。私も彼等に続こうとしたが、プガチョーフは私に言った――
『まあそのまゝ〓〓。わしはお前に話があるんだ。』
私達は差向いになった。
数分間は、双方の沈黙のうちに過ぎた。プガチョーフは、じっと私を見つめていたが、時折、驚くべき狡猾と嘲笑の表情を浮べて、左の眼を細めるのだった。遂に、彼は笑い出したが、それがいかにも佯りならぬ明るい笑いだったので、私も、彼を見ているうちに、誘われて笑い出してしまった。
『どうだね、大将?』と彼は私に言った。『白状しなさい。わしの若い奴らがさっき君の頸へ縄をかけた時には、あまりいゝ気持はしなかったろう? きっと、大空が羊の毛皮ぐらいに見えたほど怖かったに違いないて…… あの君の家来がいなかったら、今頃は宙にぶらさがっていたところさ。わしはひと眼であの老いぼれがわかったんだ。ところで、どうだね大将、驚いたろう、君を草宿へ案内した男が大帝自身だったとは、まさか思いがけなかったろうからね?』こゝで彼は、勿体振った神秘的な顔をした。『君はわしに対して大罪を犯している。』と彼は続けた。『だがわしは、君の善根に対して、わしが余儀なく敵から身を隠していた時に尽してくれた親切に対して、君を赦してやったのだ。いや、まだこれだけでほっちゃおかん! わしが自分の帝国を取戻したら、もっと〓〓お礼はするつもりだ! どうだ、わしに忠誠を誓わんかね?』
この騙児《かたり》の質問と不敵さとが、いかにも興ふかく思われたので、私はつい笑ってしまった。
『何がおかしい?』と彼は顔を曇らせて訊いた。『それともお前は、おれが大帝であることを信じないのかね? まっすぐ答えろ。』
私は困惑した。一浮浪漢を皇帝と認めることは私には出来なかった――それは許すまじき卑劣だと思われた。それかとて、彼をその面前で騙児《かたり》呼ばわりすることは、みす〓〓わが身を滅ぼすことであった。さいぜん絞首台の下に立ち、全住民を前にした憤怒の最初の爆発と共に自分が言おうとした言葉は、今となっては無益な壮語としか思えなかった。私は躊躇した。プガチョーフは暗い顔をして、私の返辞を待っていた。遂に(私は今でもこの瞬間を、自己満足を以て思い出す。)私の心では、義務感が人間の弱さに打勝った。私はプガチョーフに答えた――
『じゃ聴いてくれたまえ、僕は君に真実を言おう。まず君自身で考えてもらいたい。僕が君を皇帝と思えるかどうか? 君は利口な人だから、僕が心にもないことを言ったってちゃんと見抜いてしまっただろう。』
『じゃ、おれは一たい何者かね、君の見るところでは。』
『そいつはわからない。併し君が何者であろうとも、危い橋を渡ってることは事実だ。』
プガチョーフは素早く私を一瞥した。
『すると、君は信じないんだね。』と彼は言った。『おれが皇帝ピョートル・フェオドロヰ゛ッチだということを? では、よろしい。だが、大胆な者に成功がないだろうか? 昔、グリーシカ・オトレーピエフ(ヨアン雷帝の亡子ドミートリイ皇太子の名を僭して、一六〇五年一時モスクワの帝位に登った一修道僧を指す。)は帝位につかなかっただろうか? おれをどう思おうと君の勝手だが、おれの傍は離れないがいゝぞ。君にしたって人のことなんかどうでもいゝじゃないか? 坊主でなけりゃ和尚だからな(どちらでも同じの意。)。おれにさえ忠実に仕えれば、おれは君を元帥にもしようし、公爵にもしてやろうじゃないか。どう思うね?』
『いや、』と私は言下に答えた。『僕は生れながらの貴族だ。僕は、女帝陛下に忠誠を誓った者だ――君に仕えるわけにはゆかない。もし君が真実僕の幸福を思ってくれるなら、僕をオレンブルグへ行かしてくれたまえ。』
プガチョーフは考え込んだ。
『じゃあ、どうかね、放してやっても、』と彼は言った。『おれに弓を引かんだけの約束は出来るかね?』
『どうしてそんな約束が出来るかね?』と私は答えた。『君だってわかるだろう、それが僕の自由でないことは――君に向って進めと命ぜられたら、僕は進む、已むを得んさ。君は現在長官だ――そして部下に服従を要求している。もし僕が、僕の勤務が必要の場合にそれを拒否したらどうなるだろう? いま僕の生命は君の手中にある――放して貰えれば――有難いと思う。処刑されれば、神が君を裁くだろう。さあ、これが僕の君に言い得る真実だ。』
私の誠実はプガチョーフを打った。
『なるほどな。』と彼は私の肩を叩きながら言った。『処刑する者は、処刑する、赦す者は赦すのだ。よし君は好きなところへ行き、したいことをするがいゝ。明日もう一度おれのところへお別れにくることにして、今は帰って寝てくれ。おれも睡くなって来た。』
私はプガチョーフを残して、往来へ出た。静かな、凍るような夜であった。月と星とが明るく輝いて、広場と絞首台を照らしていた。要塞内はすべてがひっそりとして、暗かった。たゞ居酒屋だけに灯が見えて、帰りを忘れた酔漢どもの喚き声が聞えていた。私は司祭の家を見た。鎧戸も門もしまっていた。家の中は寝静まっているように思われた。
私は宿へ帰りついて、私の不在に胸をいためていたサヴェーリイチを見出した。私が放免されたという知らせは、言おうようなく彼を喜ばせた。
『神様、有難いことでござります!』と、彼は十字を切りながら言った。『夜が明けたら要塞を出て、眼の向く方へ行きましょう。何か彼か召上り物を支度しておきました――お上りになりませんか、若旦那、それから朝までぐっすりお寝みなさいまし、キリスト様の懐ろに抱かれた気で。』
私は彼の勧めに従い、異常な食欲を以て夜食をとると、心身ともに疲れ果てて、じかに床の上で睡ってしまった。
第九章 別離
楽しかったよ、知合うのは
なあ、美しい人、お前とさ。
辛いよ、辛いよ、別れるのは、
魂と別れるように辛いよ。
――ヘラースコフ
朝早く、太鼓の響が私を呼びさました。私は集合場所へ出かけた。そこにはもう、プガチョーフの軍隊が、まだ昨日の犠牲のぶらさがっている絞首台の附近に整列していた。コザック達は馬に跨がり、兵達は銃を担っていた。幾流もの旗が風に飜っていた。数門の砲が、中には私達の大砲もあったが、行軍用の砲架に載せてあった。住民は総出で、僭称者を待受けていた。司令官の家のあがり段の下には、ひとりのコザックがキルギス産の美しい白馬の轡を抑えていた。私は眼で司令官夫人の亡骸を捜した。それは少しわきの方へ片寄せて、菰がかぶせてあった。遂に、プガチョーフが玄関へ現われた。住民は脱帽した。プガチョーフは、段の上に足をとめて挨拶を返した。隊長のひとりが銅貨のはいった嚢を渡すと、彼はそれを掴んでは投げはじめた。群衆は声をあげ、さきを争って拾いはじめ、怪我人も出る騒ぎになった。プガチョーフは、一味の頭分に取巻かれていた。その中にシワーブリンもまじっていた。私達の視線があうと、彼は私の眼眸に侮蔑の色を読んだらしく、心底からの憎悪と附焼刃の嘲笑の表情で、顔をそむけてしまった。プガチョーフは、群衆の中に私を認めると、頭をうなずかせて、傍へ呼んだ。
『じゃあね、』と彼は私に言った。『君はこれからすぐオレンブルグへ行くがいゝ、そして知事や将軍達に、一週間したらおれが行くから待っているように伝えてくれ。赤子の愛と恭順を以ておれを迎えるようにってな。さもないと、厳罰を免れんぞと、言いきかせてやってくれ。じゃ、気をつけて行きたまえ、大将!』
それから彼は民衆に向い、シワーブリンを指しながら言った――
『一同の者、これがお前達の新らしい司令官だ。今後は万事この人の指図に従うのだ、この人はおれに対してお前達と要塞の責任を背負って行くのだからな。』
私は、冷水を浴びたような気持でこの言葉を聴いた――シワーブリンがこの要塞を支配する。マーリヤ・イワーノヴナは彼の手中に陥るわけだ! あゝ、あの人はどうなる運命だろう? プガチョーフは段をおりた。馬が曳かれた。彼は、助け乗せようとしていたコザック達を待たずにひらりと鞍に跨がった。
この時、群衆の中からサヴェーリイチが進み出て、プガチョーフに近づくと、彼に紙片を差出した。私は、何がはじまるのか、てんで見当もつかなかった。
『これはなんじゃ?』プガチョーフは尊大な調子で訊いた。
『お読み下さればわかります。』とサヴェーリイチは答えた。
プガチョーフは紙片を取上げ、鹿爪らしい顔をしてじいっと見つめていた。
『馬鹿に読みにくい字を書く奴だな!』と彼は遂に言った。『わしの明らかな眼にも、とんと読めんぞ。書記官長はどこに居る?』
伍長の軍服をつけた若者が、素早くプガチョーフの前へ罷り出た。
『読み上げえ。』と僭称者は、彼に紙片を渡しながら言った。
私は、私の傅役が何をプガチョーフに書いたのかと、いたく好奇心を唆られた。書記官長は声張り上げ、綴を拾ってたど〓〓しく、次のように読み出した――
『キャラコ部屋着、縞絹布部屋着、二枚、六ルーブリ。』
『なんのことだ、一たい?』とプガチョーフは眉を顰めて言った。
『先をお読ませなすって下さい。』とサヴェーリイチはすまして答えた。
書記官長は続けた――
『緑色薄地羅紗軍服、七ルーブリ。
『白羅紗ズボン、五ルーブリ。
『オランダ麻カフス附ワイシャツ十二枚、十ルーブリ。
『茶器入り小櫃、二ルーブリ半……』
『寝言もいゝ加減にしろ。』とプガチョーフは遮った。『小櫃だのカフス附ズボンだのがおれになんの関係がある?』
サヴェーリイチはひとつ咽喉を鳴らして、説明をはじめた。
『これはでござりますな、あなた様、御覧の通り、悪者どもに掻払われました若旦那の財産目録で……』
『どんな悪者か?』とプガチョーフは威丈高になって言った。
『これはどうも、言い違えました。』とサヴェーリイチは答えた。『悪者と申しましても、一概に悪者ではございません。あなた様の兵隊がその、家捜しをして持ち出したのでございます。お腹立ちでは困ります――馬は四つ足でも躓くとやら。どうぞしまいまでお読ませを願います。』
『しまいまで読め。』とプガチョーフは言った。書記は続けた――
『更紗夜具一枚、木綿琥珀織夜具一枚、――四ルーブリ。
『赤地ちゞれ織羅紗張り狐毛皮外套、四十ルーブリ。
『ほかに、宿屋にて進上の兎皮衣、十五ルーブリ。』
『おのれ、書きおったな!』とプガチョーフは、火のような眼をむきながら呶鳴った。
実のところ、私は、哀れな傅役の身を思ってひやりとした。彼は再び弁じ出そうとしたが、プガチョーフがそれを遮った――
『よくも貴様、そんな埒もないことでおれの面前へ出おったな!』こう言いざま、彼は書記の手から紙片をひったくると、それをサヴェーリイチの顔へ投げつけた。『愚か者の老いぼれめ! ものを取られたぐらいがなんじゃ! それより貴様は、貴様や貴様の主人があの謀叛人どもと一緒にこゝにぶら下らなかったのを感謝して、おれやおれの兵隊のために生涯お祈りを上げなきゃならんのだぞ、老いぼれめ……それを、兎の皮衣だと! ようし、おれが貴様に兎の皮衣をくれてやろう! だが、覚えてろ、貴様の身から生きた皮を剥がせて、それを皮衣にするんだぞ!』
『へ、なんとでも御勝手に、』とサヴェーリイチは答えた。『なにせ、わたしは家来でござります、御主人の持物をなくしては済みません。』
プガチョーフは、その時多分寛大の発作にでもかゝっていたのであろう。馬首を回らすと、それ以上一語も言わずに行ってしまった。シワーブリンと隊長たちはそれに続いた。一味は隊伍を組んで要塞を出発した。民衆は、プガチョーフを見送りに行った。私とサヴェーリイチだけが広場に残った。私の傅役は例の目録を手にしたまゝ、さも無念そうにそれを見つめていた。
プガチョーフと私との間がうまく行っているのを見て、彼はそれを利用しようとしたのだったが、折角の思いつきも画餠に帰したわけだった。私は彼の的はずれの忠義立てを叱りつけようとしかけたが、どうにも笑い出さずにはいられなかった。
『さあ〓〓たんとお笑いなさいまし、若旦那。』とサヴェーリイチは答えた。『いくらでもいゝだけお笑いなさいまし。ですが、いまにまた家を持つ段になると、笑いごとかどうかがわかりますよ。』
私は、マーリヤ・イワーノヴナに会おうと司祭の家へ急いだ。梵妻は悲しい知らせを以て私を迎えた。夜中にマーリヤ・イワーノヴナは高熱を出した。そして今は、正体もなく譫言を言いながら、寝ているというのである。梵妻は私を彼女の部屋へ案内した。私は静かに彼女の寝台へ近寄った。彼女の変り果てた顔附が私の胸を痛くした。病人は私がわからなかった。私は暫時その前に立ちつくした。神父ゲラーシムとその善良な梵妻とは、言葉をつくして私を慰めてくれたらしいが、私の耳には一言もはいらなかった。暗い思いが私の胸を掻き乱していた。兇悪無残な暴徒どもの只中に取残されたいたましく頼りない孤児の身の上と、私自身の無力さとが、私の思いを真暗にしていたのである。シワーブリン、何より一番シワーブリンが、私の胸を掻きむしるのだった。僭称者から権力を与えられ、不幸な娘――彼の怨恨の罪なき対象の残されている要塞を支配する彼は、どんなことでも出来るのである。それに比べて、私には何が出来るだろう? どうしたら彼女を助けてやれるだろう? どうしたら悪党の手から救い出せるだろう? 残された手段はひとつだった――私は、ベロゴールスク要塞の奪還を督促し、自分も出来るだけそれに協力するため、即刻オレンブルグへ向う決心を堅めた。私は、司祭とアクリーナ・パンフィーロヴナに別れを告げ、彼女には殊更、既に自分の妻も同様なマーシャのことを繰返し頼んだ。私はいたましい娘の手を取り、涙で濡らしつゝそれに接吻した。
『左様なら。』と梵妻は、私を送り出しながら言った。『御機嫌よう、ピョートル・アンドレーイチ。きっと、時節が来てまたお眼にかゝれますわ。どうぞわたしどもをお忘れなくね、なるべく度々おたよりを願いますよ。可哀そうなマーリヤ・イワーノヴナは、今ではもうあなたのほかには慰めも頼りもないのですからね。』
広場へ出ると、私はちょっと歩みをとめ、絞首台を仰いで一礼して、要塞をあとに、オレンブルグ街道を歩き出した。常に私から離れないサヴェーリイチを従えながら。
私が物思いに沈みながら歩いていると、急に背後から馬蹄の響が聞えて来た。振返ってみると要塞から一人のコザックが、バシキール馬の手綱をひき、遠くから私に合図をしながら、馬を飛ばしてくるのだった。私は立ちどまり、間もなく例の下士を認めた。彼は追いつくと、馬から飛びおり、私に他の一頭の手綱を渡しながら言った――
『少尉殿! 陛下があなたにこの馬と御着用の毛裏外套を賜わりました。(鞍に羊の皮衣が結びつけてあった。)それからまだ、』と口籠りながら下士は言い足した。『陛下はあなたに……お金を半ルーブリ賜わりましたのですが……それはわたしが途中でなくしてしまいました。あしからずお許しを願います。』
サヴェーリイチは横眼に彼を見て、呟いた――
『途中でなくしたと! じゃあ、お前のその、ふところでちゃら〓〓鳴ってるのはなんじゃい? この恥じ知らずめが!』
『おれのふところでちゃら〓〓鳴ってるのはなんだってかい?』と下士は、けろりとした面持で言い返した。『しっかりしてくれよ、お爺《とつ》さん! こりゃ轡の音じゃないか、半ルーブリなんかじゃありゃしねえよ。』
『よろしい、』と私は口喧嘩を遮りながら言った。『君をよこした人によく礼を言っといてくれ。なくなった半ルーブリは帰り途でよく捜すといゝ。そして見つかったら酒手に収めといてくれ。』
『有難うございます、少尉殿、』と彼は馬首を返しながら答えた。『あなたのことは一生涯神様にお祈りします。』
言いながら彼は、片手でふところを抑えて、もと来た方へ駈け出した。一分の後、その姿は視界から消えてしまった。
私は皮衣を着、うしろにサヴェーリイチを乗せて、馬上の人となった。
『それ、どうです、若旦那、』と老人は言った。『わたしがあの悪党に頼んだのもまんざら無駄じゃなかったでしょう――泥棒め、さすがに気が咎めたんでさ。尤もこんなひょろ長いバシキールの痩せ馬と羊の皮衣じゃ、あいつらが掻払って行った品物や、お前様がくれておやりになったものの半分の値打もありませんが、とにかく役にゃ立ちますからね。野良犬からもせめて毛をひと房って奴でさあ。』
第十章 街の包囲
草地と丘を占領し
高地から彼は鷲の如く街を見下した。
陣地のうしろに砲座を築き、
その中に砲をひそめて、
夜陰に城下へ曳けと命じた。
――ヘラースコフ
オレンブルグに近づくに従い、私達は、頭を剃られ、刑吏の焼鏝で顔を醜くされた囚人達の群れを見た。彼等は、守備隊の廃兵達の監視を受けつゝ、堡塁のまわりで働いていた。或る者は壕を埋めた塵埃を手押車で運び出し、或る者はシャベルで土を掘り、土塁の上では石工達が、煉瓦を運んで城壁を修築していた。城門では、衛兵が私達を止めて、身分証を要求した。軍曹は、私がベロゴールスク要塞から来たことを聞くとすぐ、まっすぐ将軍の住居へ私を案内した。
私は将軍が庭にいるところへ行き合せた。彼は、秋の息吹に葉をふるった林檎の樹を見廻り、老園丁に手伝わせながら、暖い藁で念入りに幹を巻いてやっていた。彼の顔は平安と、健康と、性質の温厚を現わしていた。彼は私を歓迎し、私が目撃者であった恐しい出来事についていろいろと尋ねはじめた。私は一切を彼に物語った。老人は注意深くそれに聴き入りながら、枯枝を剪り払っていた。
『気の毒なミローノフ!』こう彼は、私が悲惨な物語を終った時に言った。『惜しいことをした――立派な将校じゃったのに。ミローノフ夫人もよく出来た婦人じゃった、それに蕈の塩漬の名人でな! ところで、マーシャはどうしたね、あの大尉の娘は?』
私は、彼女は要塞に、司祭の梵妻の許に残っている旨を答えた。
『うゝ、うゝ、うゝ!』と将軍は、不満らしく唸った。『そいつはいかん、大いにいかん。暴徒どもの軍紀なんか、とても信頼出来るもんじゃない。あの可哀そうな娘はどうなるじゃろ?』
私は、その返事に、ベロゴールスク要塞は距離も近いこと故、閣下は多分、不幸な住民救出のための軍隊派遣を躊躇されないであろうという意見を述べてみた。将軍は自信がないといった面持で、かぶりを振った。
『まあ、も少し様子を見よう、様子を見よう。』と彼は言った。『そのことは、まだ〓〓相談の余地がある。あとでひとつ君もお茶に来てくれたまえ――今日うちで軍事会議を開くことになっているから。君はわれ〓〓に、そのプガチョーフなるごろつきや奴の軍隊について、確実な情報を提出してくれるじゃろう。まあそれまで宿へ帰って休息したまえ。』
私は、もうサヴェーリイチが片づけものなどしていた自分にあてがわれた宿舎へ行き、そこでいら〓〓しながら指定の時刻を待ちはじめた。自分の運命に重大な影響を持つに違いないこの会議に出席するのに私が如何に几帳面であったかは、読者の容易に想像されるところであろうと思う。指定の時刻には、私はもうちゃんと将軍の家へ行っていた。
私はそこで、たしか税関長だったと記憶するが、街の役人の一人である、ふとった赧ら顔の、無地錦襴の長衣を着けた老人と落ち合った。その人は、イワン・クジミーチのことを教父と呼んで、その運命についていろ〓〓と尋ねはじめた。そして、補足的な質問やら教訓めいた意見やらでのべつ私の話の腰を折るのだったが、しかもそれらの言葉は、彼が戦術に明るい人物ではないまでも、少くとも生れつき聡明な、眼はしの利く人であることを物語るのだった。そのうちに、追々他の列席者も集まった。一同が着席してお茶が配られると、将軍は当面の問題に関して、至極明瞭でしかも冗漫な説明を加えた。
『さて諸君、』と彼は言葉を続けた。『今やわれ〓〓は、この暴徒に対して如何に行動するか――即ち攻勢をとるか守勢をとるかを決定しなければならんのじゃ。この両者はいずれも、それ〓〓の得失を持っておる。攻勢的行動は、急速な敵の掃滅により多くの希望を与えるものじゃし、守勢的行動は、より多く確実且つ安全である…… よってこれから、法規の定める順序に従い、つまり官等の若い方からはじめて、各位の意見を徴することにする。少尉補君!』と彼は私の方を向いて続けた。『まず君の意見を聞かしてもらおう。』
私は立ちあがると、一応手短かにプガチョーフとその一味について述べてから、僭称者には正規軍に対抗するだけの力はないと断言した。
私の意見は役人達に、あからさまな不満を以て受取られた。彼等はそれを、青年の衒気と向うみずと見たのである。不満の呟きがそちこちに起り、その中に私は、誰かの口から小声に言われた「乳臭い」という言葉をはっきりと聞いた。将軍は私に向って、微笑を浮べながら言った――
『いや少尉補君! 軍事会議ではどこでも、最初の意見はまず攻勢の支持ときまったものじゃよ。まあ、これが定石というものじゃ。では、続いて徴します。六等官君! 今度は君の意見をひとつ。』
錦襴の長衣を着けた老人は、相当ラム酒を割った三杯目のお茶を急いで飲み乾して、将軍に答えた――
『閣下、わたくしはこう考えます、攻勢も守勢もともに執るべきではないと。』
『それはまたどういう意味じゃね、六等官君?』と驚かされた将軍は言い返した。『戦術にはそれ以外の方法はないのじゃがね――守勢か、然らずんば攻勢か……』
『閣下、此際はひとつ買収戦とお出まし下さい。』
『ほゝう、これはどうも! あんたの意見もなるほど妙じゃな。買収戦なるものも戦術として許されることじゃからのう、いやあんたの忠言も精々利用することにしましょう。あのごろつきの首に……七十か、或は百ルーブリも賭けてもよかろう……機密費だからな……』
『いや、そこでですな、』と税関長は遮った。『万一あの泥棒どもが、首領を手枷足枷で私達に引渡さなかったら、私はもう、コレージスキイ・ソヱ゛ートニク(六等官。)でなく、キルギーズスキイ・バラーン(キルギスの羊)で結構でございますよ。』
『その点は、なおよく考慮し協議することにしましょう。併し、いずれにせよ、軍事的行動も取らんわけには行かん。諸君、どうか定則通り、どし〓〓意見を出して下さい。』
すべての意見は、私のそれに反対であった。役人達は口を揃えて、軍隊の頼みにならぬこと、成功の覚束ないこと、用心に如くはないこと、こうした意見を述べ立てた。一同は、無防備な野戦で武運を試すより、堅固な石の城壁のかげで大砲の掩護のもとに戦う方が賢明だという意見だったのである。一同の意見を聴き終ると、遂に将軍は、パイプの灰をはたきおとして、次のような見解を述べた――
『諸君! わたしは、わたしの立場としては少尉補君の意見に全面的に賛成であることを、申上げなけりゃなりません。なんとなれば、この意見は、健全な戦術のあらゆる法則に立脚するものだからであります。蓋し戦術は、殆んど常に、攻勢を守勢にまされりとするものだからであります。』
そこで言葉を切って、彼はパイプを填めはじめた。私の自尊心は凱歌を奏した。私は傲然と役人達を眺め廻した。彼等は不満と不安の面持で、ひそ〓〓と囁き交わしていた。
『ではあるがです、諸君、』と彼は、深い太息と共に煙草の煙の濃い流れを吐き出しながら続けた。『問題が、畏くもわが至仁なる女帝陛下よりわたくしに委ねられて居る地方の安寧にかゝわることとなると、わたくしにはとてもそれだけの大きな責任は負いきれぬのであります。という次第で、わたくしは、街に籠城して敵の包囲を待ち、敵の攻撃には砲兵力を以て対抗し、そして可能の場合、機を見て出撃、敵を撃攘するというのを、最も賢明且安全な方策と決せられた大多数の御意見に、賛成する者であります。』
今度は役人達が私に嘲笑の眼を向けた。会議は終った。自己の信念を偽り、無知無経験な徒輩の意見に追随する決意をしたこの尊敬すべき老軍人の弱腰を、私は歯痒く思わないではいられなかった。
この注目すべき会議の後数日して、私達は、自分の約束に忠実なプガチョーフが、オレンブルグに接近して来たことを知った。私は城壁の高所から、暴徒の軍隊を視察した。私にはその兵数が、私が目撃者であった最後の急襲の時から見ると、十倍にもなっているように思われた。敵軍には、プガチョーフが征服した諸所の小要塞で獲得した幾門かの大砲もあった。会議の決議を思い出して、私は今後相当長期にわたるオレンブルグ城壁内の籠城を予見し、口惜しさに泣きたい思いをした。
オレンブルグの包囲についてこゝに述べることは差控えよう。それは歴史に属することで、家庭の記録には関わりがないからである。たゞ簡単に、この包囲戦は、土地の官憲の不注意により、饑餓とあらゆる災厄に堪えなければならなかった住民にとって、真に致命的なものであったことを言うにとゞめよう。オレンブルグの生活が如何に艱難を極めたものであったかは、容易に想像がつくであろう。全住民は、全く暗澹たる気持で自己の運命の決定を待ち、誰も彼もが物価高を歎く有様だったが、それは事実恐しいばかりの高値だったのである。住民は、彼等の庭先にまで飛来する砲弾にも慣れ、時々行われるプガチョーフの急襲にすら好奇心を動かされないまでになってしまった。私は退屈から死にそうだった。時はのろ〓〓と過ぎて行った。ベロゴールスク要塞からは、なんの消息も聞えなかった。道という道が悉く遮断されてしまったからである。マーリヤ・イワーノヴナと別れていることが、私には堪えがたいものになって来た。彼女の安否のわからぬことが私を苦しめ悩ました。私のたゞひとつの気散じは、乗馬出撃であった。プガチョーフの好意で私には駿馬があり、その馬と乏しい食糧をわかちながら、私は毎日城外へ乗出しては、プガチョーフの遊撃兵と交射するのだった。この種の銃戦では普通、腹がくちくて酒気があり、おまけにいゝ馬を持っていた暴徒方に勝目があった。痩せさらばえた街方の騎兵隊では、到底彼等に歯が立たなかった。時には、味方の饑えた歩兵が出撃を試みることもあったが、深い雪は、散らばっている敵騎に対する効果ある行動を妨げた。砲兵は、塁の高みから空しく砲声を轟かすばかりで、平地では馬の疲労がひどいので、泥濘へはまって足掻きがつかなかった。私達の軍事行動は、大体こんなざまであった! そしてこれこそ、オレンブルグの役人どもが慎重とか賢明とか呼んでいたものなのである!
或る日、相当敵の密集部隊を駈け散らし追い払うことが出来た時、私は逃げ遅れたひとりのコザックに襲いかゝった。私が半月刀を振って既に斬りつけようとした時、相手は急に帽をとって叫び出した――
『今日は、ピョートル・アンドレーイチ。その後お変りありませんか?』
見ると、それは例のわが下士であった。私は彼に会ったのが堪らなく嬉しかった。
『やあ、御機嫌よう、マクシームイチ。』と私は言った『いつベロゴールスクを出て来たね?』
『つい近頃ですよ、ピョートル・アンドレーイチ――昨日帰って来たばかりです。あなたに手紙をことづかって来ました。』
『手紙を、どこに?』と私は、全身燃えあがるような気持で叫んだ。
『こゝにあります。』とマクシームイチは、片手を胸に当てて答えた。『なんとかしてあなたにお渡しするとパラーシャに約束して来たんです。』
こう言って私に畳んだ紙片を渡すと、彼はすぐ馬を蹴って駈け去った。私はそれをひろげ、胸轟かせて次の数行を読んだ――
『神様のみ心で、私は急に父と母を失い、今はもうこの地に身寄りも頼りもございません。あなた様はいつも私の幸福をお祈り下さいましたし、また日頃人を助けることのお好きなのを存じ上げて居りますので、ひとえにあなた様にお縋り申上げます。この手紙がどうかしてお手許に届きますよう、祈って居ります! マクシームイチは必ずあなたにお渡しすると約束してくれました。これはパラーシャがマクシームイチから聞いたことでございますが、出撃の折にあの人はよく遠くからあなた様をお見かけいたします由、あなた様には少しも御身大切に遊ばされず、あなた様の御無事を涙とともにお祈り申上げている者のことなど一向念頭になき御様子の由。私は長らく病気で臥り居りましたが、やっと快くなりますと今度は、――亡き父に代ってこゝの司令官を致し居りますアレクセイ・イワーノヰ゛ッチが、プガチョーフの名でゲラーシム神父を威しつけ、私を引取ってしまいました。で、只今私は、もとのわが家に監視されながら暮しているわけでございます。アレクセイ・イワーノヰ゛ッチは私に結婚を強いて居ります。彼は、私の命の親だと申すのでございますが、それは、アクリーナ・パンフィーロヴナが暴徒の前で私を姪だと申しました時、その嘘をかばってやったからだと申すのでございます。私は、アレクセイ・イワーノヰ゛ッチのような人の妻になるくらいなら、死んだ方がましでございます。彼は私をそれは〓〓むごく取扱い、私が思い返して納得いたさねば、私を悪者の陣営へ引立てて、リザヴェータ・ハールロワ(ニジネオジヨールナヤ要塞司令官ハールロフの妻。夫の絞殺後プガチョーフの側室とされ、後、殺害さる。)の二の舞いをさせてやるなどと威すのでございます。私はアレクセイ・イワーノヰ゛ッチに暫く考えさせてくれと頼みました。彼は三日だけ待つことを承知してくれましたが、もし三日たっても彼の心に従わねば、最早決して容赦をせぬと申して居ります。あゝピョートル・アンドレーイチ! 頼るはあなた様だけでございます。どうぞ哀れな私をお助け下さいまし。将軍はじめ指揮官の方々に、一時も早く援軍をお送り下さるようお願い遊ばして下さいませ。そして出来ますことなら、どうぞ、あなた様御自身でこちらへお出向き下さいませ。
あなた様に従順なる哀れなる孤児
マーリヤ・ミローノワ』
この手紙を一読すると、私は今にも気が狂いそうになった。私は哀れな馬に容赦なく拍車をかけながら、街の方へ駈け戻った。途中、私は不幸な娘を救い出す手段を何かと思い廻らしたが、これという思案も浮ばなかった。街へ乗りつけるなり、私は真直ぐ将軍の住居を指して、驀地に彼の許へ駈け込んだ。
将軍は、海泡石のパイプを燻らしながら、部屋の中を前後に歩いていた。私を見ると、彼は立ちどまった。多分、私の気色が彼を驚かしたのであろう――彼は気遣わしげに私の慌たゞしい来訪の仔細を尋ねた。
『閣下、』と私は彼に言った。『自分は生みの親に縋るように閣下にお縋りに駈けつけたのです。どうか、自分の願いを御聴許下さい――生涯の幸福に関する問題であります。』
『何事じゃね、君?』と驚かされた老人は訊いた。『君のためにわしに何が出来るというのじゃね? まあ言ってみたまえ。』
『閣下。自分に兵一個中隊とコザックを五十名お貸し下さい、そしてベロゴールスク要塞の掃蕩をお命じ下さい。』
将軍はじっと私を見つめていた。恐らく私は気が狂ったとでも思ったのであろう。(そう思ってもまず不思議はなかったが。)
『なんじゃと――ベロゴールスク要塞を掃蕩するのじゃと?』と彼は遂に言った。
『誓って成功いたします。』と私は懸命に答えた。『とにかく自分をお遣り下さい。』
『いや、君、』と彼は頭を振りながら言った。『あれだけ長い距離があると、敵としては、君等と戦略主点との連絡を絶つのは実に易々たるものになるのじゃ。従って君等を完全に敗ってしまうのも朝飯前じゃ。そも〓〓連絡を絶たれるということは……』
私は、戦術論に夢中になり出した彼を見て大いに驚き、急いで彼を遮った。
『実はミローノフ大尉の娘が、』と私は言い出した。『自分に手紙をよこしまして、救いを求めて来ましたのです――シワーブリンが、無理に結婚を迫っているということで!』
『ほんとうか、それは? おゝ、あのシワーブリンという奴は、怪しからぬSchelm《シコルム》(悪党)じゃのう、万一あいつがわしの手に落ちたら、二十四時間内に断罪を命じ、要塞の胸壁の上で銃殺に処してやるわい! じゃが、今のところはまず辛抱が肝要じゃて……』
『辛抱ですって!』と私は思わず口走った。『そんなことをしていたら、そのうちに奴は、マーリヤ・イワーノヴナと結婚してしまいますよ。』
『なあに!』と将軍は言い返した。『そんなことはまだなんでもありゃせん――あの娘はさしづめシワーブリンの女房になっとる方が安心さ。あいつは、今のところあの娘の保護には打ってつけじゃからのう。そして奴が銃殺になりゃ、その時はまたその時で、神様がいゝ婿がねを見つけて下さろうというもんじゃ。可愛らしい若後家が、いつまでひとりでいられるもんか。というのは、つまり、若後家が亭主を見つけるのは、生娘より早いという意味さ。』
『あの人をシワーブリンに譲るくらいなら、』と私は逆上したようになって言った。『自分は寧ろ死を選びます!』
『や、や、や、や!』と老人は言った。『それで読めたぞ――いや、君はあのマーリヤ・イワーノヴナに惚れとるんじゃな。おゝ、それなら話は別じゃ! 可哀そうな若者よ! だが、それにしろ、わしは君に兵一箇中隊とコザック五十名を貸してやるわけには行かんな。だって、この遠征は少々無謀に類するでな。わしにしても責任を負いかねるよ。』
私は項垂れた。絶望が私を掴んだのである。ふと、ひとつの考えが私の脳裡に閃いた――それがどんな考えかは、昔の作者のいう通り、読者は次の章において見られるであろう。
第十一章 叛徒の本営
その時獅子は満腹だったのだ、
彼は生れつき猛獣なのだが。
「何御用でわしの洞へはおいで下さいましたな?」
彼は優しく訊いたのだった。
――アー・スマローコフ
私は将軍に別れて、自分の宿舎へ急いだ。サヴェーリイチは、相も変らぬ諫言で私を迎えた。
『物好きですね、若旦那も、あんな大酒くらいの泥棒ずれに、いつまでもかゝり合っているなんて! それが貴族のなさることですかよ? いつどんなことが起るかわかりません――みす〓〓命を失うようなことになったらどうします。それも、相手がトルコとかスエーデンとかならまだしもですが、あんな奴等のこと、口にするも汚れですよ。』
私は彼の言葉を次の問いで遮った――私の金は今いくらあるか?
『十分ございます。』と彼はちょっと得意そうな顔で答えた。『悪党どもは随分捜しましたが、わたしがうまく隠しましたからね。』
こう言いながら、彼はポケットから、銀貨の一ぱいはいった長い編み財布を取出した。
『ねえ、サヴェーリイチ。』と私は言った。『それを今半分だけおれにくれないか。そして残りはお前取っておくがいゝ。おれはちょっとベロゴールスク要塞へ行くんだ。』
『あゝピョートル・アンドレーイチ!』と人のいゝ傅役は顫え声で言った。『ちっとは神様を恐れなさいまし! どうして今日《きよう》日《び》旅へなど出られますか、悪党どものために道という道は塞がれているというのに? 御自分の身は惜しくないまでも、せめて御両親に済まんぐらい考えてお上げなさいまし。一たいあなたにどこへ行くことがおありです? 何用あって? もうちょっと我慢なさいまし――いまに軍隊がくりゃ、悪党どもなんか根こそぎ平らげてしまいまさ。それからどこへなり、好きなところへお出かけなさるでさ。』
併し、私の決心は容易に動くものではなかった。
『もう考えてる時じゃないんだ。』と私は老人に答えた。『おれは行かなきゃならんのだ。行かずにはいられないんだ。心配するな、サヴェーリイチ――神様はお慈悲深いから、きっとまた会えるよ! いゝかね、遠慮もいらんし、けち〓〓もするな。なんでも、入用なものは買っちまえ、値が三倍しようと構わんからな。その金はお前にやるんだ。もし、三日たってもおれが帰らなかったら……』
『えゝ、まあ何を仰しゃるんです、若旦那?』とサヴェーリイチは私を遮った。『わたしがあなたをひとりお放しするとお思いですか! 飛んでもない、あなたがどうでも行くと仰しゃるなら、わたしは歩いてでもついて行きます。決して離れるこっちゃありません。あなたを離れてわしがこんな石壁の中に安閑と坐ってるとお思いですか? 一たいわたしは気でも違ったんでしょうか? さ、若旦那、あなたはお好きなようになさいまし、わたしはあなたから離れませんから。』
私はサヴェーリイチと争うことの無益を知っていたので、彼にも旅支度を許した。半時間後には、私は自分の逸物に跨がり、サヴェーリイチは跛の痩せ馬――飼料がないので街の住民がたゞで彼にくれた駑馬に乗っていた。城門でも、衛兵がことなく通してくれたので、私達はオレンブルグを後にした。
黄昏が迫って来た。私の道は、プガチョーフの隠れ家のあるベルダという大きな村に沿うて進んでいた。真直ぐな道路は雪に蔽われていたが、草原には一面に、毎日新らしくつけられる馬蹄の跡が見えていた。私は伸張速度で馬を飛ばした。サヴェーリイチは、ずっと遅れながらやっとのことでついて来て、のべつ私に頼むのだった――
『もう少しゆっくり、若旦那、後生ですから少しゆっくりやって下さい! この哀れな痩せ馬では、とてもあなたの脚長の悪魔にゃ叶いっこありませんや。一たいどこへそんなに急ぐんですねえ? 宴会へでも行くんなら文句はないが、まかり違や、どんな眼に会うか知れないじゃありませんか…… ねえ、ピョートル・アンドレーイチ…… ピョートル・アンドレーイチ!…… あゝ、やれ〓〓、大事の坊ちゃんの身の破滅だ!』
ほどなく、ベルダの村の灯影が見えて来た。私達は、村にとって天然の要害をなしている谷間へ近づいた。サヴェーリイチはのべつ哀願の言葉を口にしながら、私から離れなかった。私は、これならまず無事に村の迂回も出来るぞと思った。途端に、自分の真正面の夕闇に、棍棒で武装した四五人の百姓の姿が眼にとまった――これはプガチョーフの隠れ家の前哨だったのである。私達は誰何された。合言葉を知らないので、私は無言でその傍を通り抜けようとしたが、彼等は忽ち私を取りまいて、ひとりが乗馬の轡を抑えてしまった。私は剣を引抜きざま、百姓の頭に斬りつけた。帽子が彼を救いはしたが、彼はよろ〓〓となり、轡をはなした。残りの者は逃げ腰になった。私はその隙に乗じ、馬に拍車を加えて一さんに飛ばした。
迫りくる夜の闇はすべての危険から私を救ってくれそうだったが、ふと振返って見るとサヴェーリイチが見えなかった。跛馬に乗った哀れな老人は、泥棒どもから逃げ終せなかったのだ。どうしたらよかろう? 暫く待ってみて、いよ〓〓捕まったと確認すると、私は馬をかえして、彼の救出に赴いた。
谷間へ近づくにつれ、私は遠くから、物音や叫び声、サヴェーリイチの声などを聞きつけた。私は馬を急がせて、間もなく、先刻私をとめた見張りの百姓達の間にわが身を見出した。サヴェーリイチは彼等に取りまかれていた。彼等は、老人を痩せ馬から引きおろして、縛り上げようとしていた。私の引返して来たことは彼等を喜ばせた。彼等はどっと私に襲いかゝって、忽ち馬からひきずりおろした。一見して頭と見える中のひとりが、私達に、すぐ陛下の御前へ突出す旨を言い渡した。
『そうすりゃ陛下が、』と彼は言い足した。『すぐにも吊るさげろと仰しゃるか、それとも夜明けまで待てと仰しゃるか、お好きなようになさるわけだ。』私は反抗しなかった。サヴェーリイチも私にならったので、哨兵どもは意気揚々と私達を引立てた。
私達は谷を越えて、村へはいった。どの百姓家にも灯がともっていた。どこもかしこも騒音と喚き声であった。往来では、大勢の村人に行き会ったが、暗いので誰ひとり私達に注意する者もなく、私をオレンブルグの将校と見知る者もなかった。私達は真直ぐ、四辻の角に立っていた百姓家へ引立てられた。門際には、数本の酒樽と、二門の大砲が据えてあった。
『これが宮殿だ。』と百姓のひとりが言った。『早速お前達のことを申上げてくる。』
彼は百姓家へはいって行った。私はサヴェーリイチを顧みた――老人は祈りの言葉を唱えながら、十字を切っていた。私達は随分待たされたが、やがて百姓が戻って来て、私に言った――
『はいれ、陛下は将校を連れてこいと仰せられた。』
私はその百姓家、つまり百姓達の謂ゆる宮殿へはいって行った。内部は二本の獣脂蝋燭に照らされ、壁には金紙が貼り廻してあった。尤も、腰掛、卓、縄で吊した手洗鉢、釘にかけたタオル、片隅の鉄火箸、壺の並んでいる広い煖炉《ペーチカ》の前棚――こうしたものはすべて、普通の百姓家と同じであった。プガチョーフは、真紅の長衣と高い帽子をかぶり、仰山らしく腰に両手をあてながら、聖像の下に腰掛けていた。その周りには、仲間のうちの頭だった連中が数人、見えすいた卑屈を装って立っていた。オレンブルグから将校が来たという知らせが暴徒達の胸に強い好奇心を呼びさましたこと、彼等が荘重な威厳を保って私を迎えようとしていたことが、明瞭であった。プガチョーフはひと眼で私を認めた。彼のわざとらしい威容は忽ち消えてしまった。
『やあ、大将か!』と彼は元気一ぱいな声で私に言った。『その後どうだね? 今度はどうした御入来かね?』
私は、私用で通りかゝったこと、見張りに止められたことを答えた。
『で、その私用というのは?』と彼は尋ねた。
私は答える言葉を知らなかった。プガチョーフは、私が人前では言い兼ねるとでも察してか、仲間に向って部屋を出ることを命じた。一同は命に従ったが、ふたりだけはその場を動こうともしなかった。
『このふたりには構わず話したまえ。』とプガチョーフは私に言った。『おれもこの連中にはなんにも隠さんのだから。』
私は横眼でちらと、僭称者の寵臣達を窺った。一人は、腰のまがったひ弱そうな、白い顎鬚の老人で、灰色した百姓外套の肩から斜めにかけた空色の綬のほかには、なんの変った様子も見られなかった。併しもう一人の男のことは、私は一生忘れることはあるまいと思う。それは背の高い、肩幅の広い、でっぷりと太った男で、年配は四十五六に見えた。濃く赤い顎鬚、ぎろりと光る灰色の眼、鼻孔のない鼻、額や両頬の赤みがかった斑点などが、その幅の広い痘痕面に、名状しがたい表情を与えていた。彼は、赤いルバーシカにキルギスふうの部屋着、コザックのだぶだぶズボンといういでたちであった。第一の男(これは後に知ったことだが)は、脱走兵の伍長ベロボロードフ(プガチョーフの片腕だった男。)で、第二の男アファナーシイ・ソーコロフ(綽名フロプーシャ)(叛乱勃発当時の徒刑囚。オレンブルグ知事により、勧降使としてプガチョーフの許へ送られ、そのまま叛徒の一員となった人物。)は、三度もシベリヤの鉱山を脱走した追放囚であった。当時私の胸には取分けいろんな感情が湧き立っていたにも拘らず、自分がゆくりなくも足を踏み込んだこの社会は、いたく私の想像力を刺戟した。併し、プガチョーフがその時、次の質問で私をわれに返らせた――
『さあ言ってごらん、君は何用あってオレンブルグを出て来たのか?』
奇妙な考えが私の頭に浮んだ――私には、重ねて私をプガチョーフの前へ引出した神意は、私の計画を実現する機会を与えてくれるものだという気がしたのである。私はこの機会を掴むことに心をきめ、その決心を思い返してみる間もないうちに、プガチョーフの問いに答えていた――
『僕は、或る孤児を救いにベロゴールスク要塞へ出向いて来たのです。その子があちらでむごい目に会っているので。』
プガチョーフの眼は光り出した。
『どいつだ、おれの部下で孤児なんかいびる奴は?』と彼は叫び出した。『そんな奴はどれほど器用に立廻ろうと、おれの裁きは逃れられんぞ、さあ言え、誰がわるいんだ?』
『シワーブリンがわるいんです。』と私は答えた。『あなたが梵妻のところで御覧になった病気の娘を、あの男は監禁して、無法にも妻にしようとしているのです。』
『ようし、おれがシワーブリンをとっちめてくれる!』と、プガチョーフは凄まじい剣幕で言った。『おれの下で自儘を働いたり人民をいじめたりすることがどういうものか、いまに思い知らせてくれる。絞り首にしてくれよう。』
『恐れ入りますが、ちょっと一言。』と、フロプーシャが嗄れ声で言い出した。『シワーブリンの要塞司令官任命も早過ぎたが、今度の絞り首も早過ぎますな。あなたは、前には貴族を隊長にしてコザックの気をわるくされました。今また、たった一度の訴えで貴族を処刑して、彼等を怯えさせるのはよくありませんよ。』
『いや、貴族なんか哀れむことも目をかけることもありません!』と空色の綬をかけた老人が言った。『シワーブリンを処刑することは構わんが、この将校さんだって何の用でこゝへこられたのか、正式に取調べるのもわるくないでしょう。もしこの人があなたを皇帝と認めないなら、処分に手間はかゝらんが、もし認めるというなら、今日まで敵方に廻ってオレンブルグにとゞまっていたことが問題になる。いかゞです、この人を裁判所へ連行して、あすこに灯をともすように命ぜられては――どうもわたしには、この人はオレンブルグの隊長連から潜かにこちらへ派遣されて来たような気がしますがね。』
老悪党の論理は至極もっともだと私にも思われた。自分が誰の手中にあるかを思うと、ぞっとするものが私の全身を走った。プガチョーフは私の困惑を認めた。
『どうかね、大将?』と、彼は眼配せしながら私に言った。『おれの元帥の言葉はどうやら図星らしいね。君はどう思うね?』
プガチョーフの冷笑は私に勇気を取戻させた。私は昂然として、自分は彼の手中にあるのだから、どうでも好きにしてくれと答えた。
『よし、』とプガチョーフは言った。『では訊くが、君の街の状態はどんなかね?』
『おかげで、』と私は答えた――『至極無事平穏です。』
『無事平穏だ?』とプガチョーフは繰返した。『だって人民は餓死してるじゃないか?』
僭称者の言葉は真実だったが、私は宣誓の義務に従って、それはみな空しい噂に過ぎないこと、オレンブルグには物資の貯蔵が十分であることを証言しはじめた。
『いかゞです。』と老人が引取って言った。『この男は眼の前であなたを騙そうとしてるじゃありませんか。脱走者はみな口を揃えて、オレンブルグは饑餓と疫病だ、屍骸まで食って、それでも有難がっていると申立てているのに、この男ときたら、何もかも十分だなどと言っている。もしシワーブリンを絞めたいと言われるなら、この若い男も同じ絞首台へお懸けになるんですね、片手落ちにならないように。』
この呪わしい老人の言葉は、プガチョーフを動かしたらしかった。幸いに、フロプーシャが反対意見を述べはじめた。
『いゝじゃないか、もう、ナウームイチ。』と彼は言った。『君は一にも二にも絞めたり斬ったりだ。どうも驚いた豪傑だよ。見かけは、これでよく生きてると思うくらいだのにさ。自分は墓穴をのぞいていながら、のべつ人を殺したがってるんだから始末がわるいよ。君の良心にゃほんとに血が少いからね?』
『そういうお前はまた飛んだ聖人だよ。』とべロボロードフは言い返した。『一たいどこからそんな人情を拾って来たんだ?』
『勿論、』とフロプーシャは答えた。『おれだって罪は深いさ、この手なんかも(こゝで骨ばった拳をかため、袖をまくって毛だらけの腕を出して見せた。)この手なんかも、キリスト教徒の血を浴びた罪はある。だが、おれが殺したのは敵で、客人じゃないよ。自由な四辻や暗い森の中ではやったが、家の中で煖炉にあたりながらやったことはない。投擲《からみ》錘《だま》や斧の峯などではやったが、女のように口先でやったことはないからね。』
老人はそっぽを向いて、呟いた――
『鼻っかけめが!……』
『何をぶつ〓〓ほざいてるんだい。ぼけなすめ!』とフロプーシャは叫んだ。『お前も鼻っかけにして貰いてえか。待ってろ、いまにお前の番もくるから――おっつけお前も焼鏝の臭いが嗅げらあな…… まあそれまでは、おれにその鬚を〓られねえように用心するがいゝ!』
『これ、将軍達!』とプガチョーフが改まった声を出した。『喧嘩は沢山だ。オレンブルグの犬どもが一本の横木にぶらさがって足をひく〓〓やるのは構わんが、うちの狂犬が噛み合うのは困るよ。いゝ加減に仲直りするんだな!』
フロプーシャとベロボロードフとはもう口を利かず、暗い眼で睨み合っていた。私は、私にとって非常に不利な結末を告げるかも知れぬこの話題を、どうでも一変する必要を痛感して、プガチョーフに向い、明るい顔を装って言った――
『あゝ、そう〓〓! 僕はあなたに馬と皮衣のお礼を言うのを忘れていた。あなたの御親切がなかったら、街へも行きつけず、途中で凍えてしまったでしょう。』
私の思わくは成功した。プガチョーフは上機嫌になった。
『世の中は相見互いさ。』と彼は、細めた眼を瞬かせながら言った。『それはそうと、わしにひとつ話したまえ、シワーブリンにいびられてるという娘は、君にどんな関係があるのかね? 若い男の恋心って奴じゃないのかね、えゝ?』
『あれは僕の許嫁です。』と私は、空模様の好転に、真実を隠す必要もあるまいと、プガチョーフにこう答えた。
『君の許嫁!』とプガチョーフは叫んだ。『なぜそれを早く言わんのだ? そんならおれが仲人をしてやろうじゃないか、そして婚礼祝いの酒盛りでも開こうよ!』それからベロボロードフの方を向きながら――『なあ、元帥! おれはこの大将とは古い友達なのさ。これから一緒に夜食をやろうじゃないか――朝は晩より智恵が出るっていうからね。この男の処置は、明日になって考えることにしようよ。』
私は、この押しつけられた光栄を辞退出来たら嬉しかったのだが、どうするわけにも行かなかった。この百姓家の主人《あるじ》の娘である二人の若いコザック女が、白い卓布で卓を蔽い、パンや魚汁、葡萄酒やビールの瓶を運んでくるに及んで、私はまたしてもプガチョーフやその恐しい一味の者と、同じ食卓を囲むことになったのである。
私が心ならずも列席者となったその躁宴は、深更まで続いた。遂に酔いが一座を征服しはじめた。プガチョーフが椅子に掛けたまゝ船を漕ぎ出すと、仲間の者は立ちあがって、私にも部屋を出よという合図をした。私は彼等についてそこを出た。フロプーシャの指図で、番兵が裁判所になっている百姓家へ私を連れて行き、そこで私はサヴェーリイチに会い、ふたり一緒にそのまゝそこへ監禁されてしまった。傅役は、矢継早に起る出来事にすっかり度胆を抜かれて、私に一言の問いもかけなかった。彼は暗がりに身を横たえ、長いこと溜息ついたり呻いたりしていたが、やがて鼾をかき出した。が私は、次から次と襲いくる物思いに、遂に一睡もとれなかった。
朝になると、プガチョーフの名で私を呼びに来た。
私は彼の許へ出向いた。門際に、韃靼馬を三頭つけた幌橇が立っていた。往来には民衆が群がっていた。私は玄関口でプガチョーフに会ったが、彼は毛裏外套にキルギス帽をかぶり、すっかり旅支度を整えていた。昨夜の連中が彼を取囲んで、奴隷的卑下の様子を取りつくろっていたが、それは、私が前夜目にしたすべての有様とは、凡そかけはなれたものであった。プガチョーフは晴やかな顔で私に朝の挨拶を言い、一緒に橇に乗れと命じた。
私達は乗込んだ。
『ベロゴールスク要塞へ!』とプガチョーフは、立ったまゝ三頭の馬を御していた肩幅の広い韃靼人に言った。私は胸がどき〓〓して来た。馬は動き出し、小鈴が鳴って、橇はすべり出しはじめた……
『待て! 待ってくれえ!』私にはあまりに聞き覚えのある声が響いて、私は、向うから駈けてくるサヴェーリイチを認めた。プガチョーフは止まれと命じた。
『やれ〓〓、ピョートル・アンドレーイチ!』と傅役は呼んだ。『この年寄りを棄てて行っちゃいけませんね。それもこんな悪……』
『やあ、老いぼれか!』とプガチョーフが彼に言った。『また会えたな。さあ、馭者台へ乗るがいゝ。』
『有難うございます、陛下、有難うございます、父上様。』とサヴェーリイチは乗込みながら言った。『この年寄りに眼をかけて安心させて下すった御返礼に、百年の寿命をお保ちなさいますよう、あなた様のことは生涯神様にお祈りいたしますし、兎の皮衣のことも決して申しません。』
この兎の皮云々は、今度こそプガチョーフを本気に怒らせたかも知れなかった。幸いに、僭称者は聞き洩らしたか、或は時宜に適せぬ皮肉など歯牙にもかけなかったか、どちらかである。馬は走り出し、民衆は路上に立ちどまって、帯のあたりまで頭をさげた。プガチョーフは両側へ会釈を返しつゝ進んだ。一分後には、私達は村を出て、坦々たる路上を疾走していた。
この時私が何を感じていたか、それは容易に想像されるであろう。数時間後には私は、最早私にとって失われたものと諦めていたその女性と相見ることが出来る筈である。私は私達の再会の瞬間を心に描いてみた…… 私はまた、私の運命を握っている男、奇妙な行きがかりで私と神秘なつながりを持っている男のことをも考えていた。私は、私の恋人の救い手たることをわれから買って出たこの男の、性急な残忍性や血に饑えた習性を思い出していたのである! プガチョーフは、彼女がミローノフ大尉の娘だとは知らなかった。怒らされたシワーブリンが一切を彼の前にぶちまけるくらいは、大いにあり得ることである。また、プガチョーフの方で、別の方面から真相を嗅ぎつけることも考えられぬことではない……そうなったら、マーリヤ・イワーノヴナはどうなるだろう? 悪寒が私の全身を走り、髪も逆立つ思いであった……
突然、プガチョーフが問いかけて私の沈思を破った――
『大将、何をそんなにお考え遊ばしていらっしゃるんだね?』
『どうして考えないでいられますか。』と私は答えた。『僕は将校で貴族です。昨日まであなたを敵として戦っていたのに、今日はあなたとひとつ橇に同乗している。しかも、僕の生涯の幸福はあなたの胸ひとつにあるんですからね。』
『それがどうしたんだ?』とプガチョーフは訊いた。『君は怖がってるのかね?』
私は、既にひと度彼の助命を受けた以上、彼の憐憫ばかりでなく、助力をすら期待している旨を答えた。
『いや、君の言う通りだ。まったく君の言う通りだ!』と僭称者は言った。『君も気がついたろうが、おれの部下の者は君を白い眼で見ていたんだ。殊にあの老人なんか、今日も、君は間諜だから拷問にかけて絞めてしまえと言い張ったのだが、おれは聞き入れなかった。』こゝで彼は、サヴェーリイチと韃靼人を憚かるように、声をおとして言い足した――『これも、君の一杯の酒と兎の皮衣を忘れないからさ。どうだい、これで君にも、おれが君達仲間の言うほど残忍非道でもないことがわかるだろう。』
私はベロゴールスク要塞の占領当時を思い出したが、彼と争う必要も認めなかったので、一言も答えなかった。
『オレンブルグじゃ、おれのことをなんと言ってるかね?』とプガチョーフは、暫く黙っていてから訊いた。
『なか〓〓容易ならぬ相手だと言っています。――いうまでもなく、あなたは大いに真価を発揮されたわけですからね。』
僭称者の顔は、満足げな自負の色を浮べた。
『そうよ。』と彼は愉快そうな顔附で言った。『おれは向うところ敵なしだからね。オレンブルグじゃあのユゼーエワ(プガチョーフ軍と政府軍の初期に属する一激戦。賊軍大捷す。)の戦のことを知ってるかね? 四十人の将軍が戦死し、四つの軍隊が捕虜になったんだぜ。君はどう思うかね――プロシャ王はおれと太刀打出来るだろうか?』
泥棒の自慢が、私には興あることに思われた。
『あなたこそどうお考えです?』と私は言った。『フレデリックに勝てるとお思いですか?』
『あのフョードル・フョードロヰ゛ッチにかね? どうして勝てんことがある。君の方の将軍達にはおれはもう勝ってるじゃないか、ところが、その将軍達は彼を負かしたんだからね。今日までおれの武運は目出度かった。乞う、時を貸せさ、おれがモスクワへ攻めのぼる時にも、やっぱりそう行くかどうかだ!』
『あなたはモスクワまで行くつもりですか?』
僭称者はちょっと考えてから、小声で言った。
『そいつはわからんて。おれの行く道は狭いからな。存外自由が利かんのだよ。部下の奴等は一ぱし屁理窟こきでね、曲者揃いだ。おれはのべつ耳をひっ立ててなけりゃならん。なにしろ、一度旗色がわるくなったが最後、奴等はおれの首で自分の首を購おうとするにきまってるからね。』
『そこなんですよ!』と私はプガチョーフに言った。『そうならないうちに、早くこっちで見切りをつけて、女帝陛下の御仁慈に縋られた方がよくないですか?』
プガチョーフは苦い笑いを洩らした。
『いや、』と彼は答えた。『後悔はもう遅いよ。おれが赦される筈はないからね。はじめたことだ。行くところまで行くさ。なに、わかるものかね。ひょっとしたらうまく行くかも知れんさ! グリーシカ・オトレーピエフは一時モスクワを統治したじゃないか。』
『ですが、御存じですか、あの男の末路を? 窓からほうり出され、ずた〓〓に斬り裂かれて焼かれた上、灰まで大砲につめて発射されたというんですよ!』
『まあ聞け。』とプガチョーフは、一種殺伐な興奮に駆られた態で、言い出した。『ひとつ君にお伽噺を話して聞かそう。おれが子供のころにカルムイクの婆さんから聞いた話だがね。或る時鷲が鴉に尋ねた――「ねえ、鴉君、君はこの世に三百年も生きるというのに、おれはたった三十三年きり生きられない、これは一たいどうしたわけかね?」――「そりゃお父さん、」と鴉は答えた。「お前さんは生き血を吸うが、わしは屍骸を喰べるからさ。」そこで鷲は考えた。「成程な、じゃあひとつ、おれも同じものを食ってみよう。よかろう。」というわけで鷲と鴉は飛んで行った。やがて、斃れた馬が見つかったので、早速舞いおりて、それにとまった。鴉はうまがって啄きはじめた。が、鷲はひと啄きふた啄きしただけで、羽搏きすると、鴉に言った。「やっぱり駄目だね。鴉君、――三百年も腐り肉を食うよりは、一度でも腹一ぱい生血を吸う方がいゝ。あとのことはあとのことだ!」とね。どうかね、このカルムイクのお伽噺は?』
『面白いですね。』と私は答えた。『ですが、人殺しや掠奪をして生きて行くのは、僕にいわせれば、屍骸を啄くのと変りませんね。』
プガチョーフは意外そうな眼で私を見て、なんとも答えなかった。私達ふたりは、銘々の物思いに沈んで、黙ってしまった。韃靼人は悲しげな歌をうたいはじめた。サヴェーリイチはうとうとしながら、馭者台で揺れていた。幌橇は平坦な冬道を飛ぶように走っていた…… 突然、ヤイーク河の嶮しい岸の上に、小村の姿が見えてきた、柵も鐘楼も見えてきた――そして十五分後には、私達はベロゴールスク要塞へ乗込んだ。
第十二章 孤児
わたし達の林檎の木に
梢も若芽もないように、
わたし達の嫁御寮には、
父さん母さんありませぬ。
嫁入り支度の世話やき手、
祝福のし手もありませぬ。
――婚 礼 唄
幌橇は司令官の家のあがり段へ乗りつけた。民衆はプガチョーフの鈴の音をそれと知ると、群がって私達のあとを追って来た。シワーブリンは段々で僭称者を迎えた。彼はコザックの服装をして顎鬚を蓄えていた。裏切者は、卑劣な言葉附で喜びと忠誠を表しながら、プガチョーフの橇から降りるのを助けた。私を見ると、彼はちょっと戸惑ったが、すぐ立直って、私の前へ手を出しながら、言った――
『君もわが党になったのか? 疾っくにそうすべきだったのだ!』
私は顔をそむけて、答えなかった。馴染の深い部屋へはいった時、私の胸は疼きはじめた。壁には、故司令官の任官辞令が、在りし日の悲しい墓碑銘のように、まだかゝったまゝであった。プガチョーフは、以前よくイワン・クジミーチが夫人の口小言にあやされながら居睡りをしていたあの長椅子に、腰をおろした。シワーブリンは自分で彼にウオーッカを運んで来た。プガチョーフは一杯飲み乾すと、私の方をしゃくって彼に言った――
『この人にも注いであげたまえ。』
シワーブリンは盆を持って私の傍へ来たが、私はまたしても彼から顔をそむけた。彼は気が気でない様子だった。日頃眼はしの利く方だけに、彼は勿論プガチョーフが彼に不機嫌でいることを見抜いていたのである。彼は、プガチョーフの前に戦々兢々として、時々私の方を探るように窺っていた。プガチョーフは要塞の近状や、敵軍の動静に関する噂などについて尋ねていたが、突然だしぬけにこう訊いた――
『ねえ君、君はどんな娘を監禁してるのかね? ひとつわしに見せてくれんか。』
シワーブリンは死人のように蒼白になった。
『陛下、――監禁ではございません……病気なのでございます……奥の間にやすんで居ります。』
『じゃあそこへ案内してもらおう。』と僭称者は、立ちあがりながら言った。
言いのがれは不可能だった。シワーブリンはプガチョーフを、マーリヤ・イワーノヴナの部屋へ案内した。私はその後に従った。
シワーブリンは階段の上で立ちどまった。
『陛下!』と彼は言った。『陛下、わたくしから何を要求されましょうと御自由ですが、余人がわたくしの妻の寝室へはいりますことは、お許し願いとうございます。』
私はわな〓〓顫え出した。
『君はもう結婚したのか!』と私は、咬みつくような勢いで言った。
『静かに!』とプガチョーフが私を遮った。『君の出る幕じゃない。ところで君は、』と彼はシワーブリンに向って言葉を続けた。『屁理窟や気取はやめにするがいゝ――その女が君の妻であろうとなかろうと、わしは自分の欲する者を連れて行くのだ。さあ大将、わしについて来たまえ。』
奥部屋の戸口でシワーブリンはまた足をとめ、かすれ声で言い出した――
『陛下、予じめお断りいたして置きますが、女は高熱に浮かされて居りまして、今日で三日、のべつ譫言ばかり申して居りますので。』
『あけろ!』とプガチョーフは言った。
シワーブリンはポケットを捜しはじめて、鍵を持っていないと言い出した。プガチョーフが足を揚げて扉を蹴ると、錠がはずれて扉が開いたので、私達は中へはいった。
私はひとめ見て――茫然となった。床の上に髪振り乱したマーリヤ・イワーノヴナが、ちぎれちぎれの百姓着物を着、生きた色もなく痩せ衰えて、坐っていた。彼女の前には水壺がおいてあり、その上にパンのかけらが載っていた。私を見ると、彼女は身顫いして、あっと叫んだ。その時私はどうしたか――今ではまるで覚えがない。
プガチョーフはシワーブリンを見て、苦笑とともに言った――
『君の病院はなか〓〓行届いたもんだねえ!』それからマーリヤ・イワーノヴナのそばへ歩み寄り、『ねえ娘さん、お前の夫はなんだってお前にこんな罰を与えたのかね? お前は夫に対してどんな罪を犯したのかね?』
『わたくしの夫!』と彼女は繰返した。『あの人はわたくしの夫ではございません。わたくしは死んでもあの人の妻になんかなりませんわ! わたくしは、もう助けて貰えなかったら、死んでしまうつもりでした。えゝ、死んでみせますとも。』
プガチョーフはシワーブリンに、ぎろりと凄い一瞥をくれた――
『よくも、このおれを騙したな!』と彼は言った。『横着者め、この罪の報いを知ってるか?』
シワーブリンははっと跪いた……この瞬間、侮蔑の念が私の胸で、憎悪や憤りと一切の感情を圧倒した。私は嫌悪に満ちた眼で、脱走コザックの足下にひれ伏している貴族を見つめていた。プガチョーフはやゝ機嫌を直した。
『一度だけは赦しておこう。』と彼はシワーブリンに言った。『だが、重ねて罪を犯したら、今度のも一緒に思い出すから、そう思え。』
それから彼は、マーリヤ・イワーノヴナを顧みて、声音を柔らげてこう言った――
『さあこゝを出ておいで、きれいな娘さん、わしがお前を自由にしてあげる。わしは皇帝だよ。』
マーリヤ・イワーノヴナは素早く彼を一瞥して、今眼の前にいるのが両親の仇であることをさとった。彼女は両手で顔を蔽った、同時に気を失って倒れてしまった。私はその方へ駈け寄ったが、その時、古馴染のパラーシャが勇敢に部屋へ飛び込んで来て、大事なお嬢様の看護にかゝった。プガチョーフが部屋を出たので、私達三人は客間へおりた。
『どうかね。大将?』とプガチョーフは笑いながら言った。『ふたりしてきれいな娘を救いだしたじゃないか! どうだね、早速ひとつ坊さんを迎いにやって、姪の婚礼をやらせようじゃないか? おれが仮親になり、シワーブリンに附添人を頼めばよかろう。それから大いに盛宴を張って、お開きと行こうじゃないか!』
私の危懼していたことが遂に来たのである。シワーブリンはプガチョーフの提案を聞くと、忽ちかっと逆上した。
『陛下!』と彼はわれを忘れて叫び出した。『わたくしが悪うございました――陛下に偽りを申しました。併し、このグリニョーフも陛下を欺いて居ります。あの娘はこゝの坊主の姪ではございません。――あれは、この要塞占領と同時に処刑されたイワン・ミローノフの娘です。』
プガチョーフは火のような眼を私に凝らした。
『これはまたどうしたことか?』と彼は、惑うような調子で訊いた。
『シワーブリンの言った通りです。』と私は、毅然たる態度で答えた。
『君はそれをおれに言わなかったぞ。』プガチョーフは言った。暗い顔附になっていた。
『併しそこは考えて下さい。』と私は答えた。『あなたの部下のいる前で、ミローノフの娘が生きてるなどと言えるかどうか。あの人達は、それこそあの娘を咬み殺してしまったでしょう。どのみち命はありませんよ。』
『それもそうだな。』とプガチョーフは笑いながら言った。『あの酔いどれどもが可哀そうな娘を容赦する筈はないからな。梵妻の小母さん、うまく一ぱいはめおってよかったというわけか。』
『どうか聴いて下さい。』と私は彼の機嫌のいゝのを見て、言葉を続けた。『あなたをどうお呼びしていゝか、――僕は知りません、また知ろうとも思いません……ですが、神様は御存じです、あなたが僕のためにして下さったことに対しては、僕は喜んで生命でも差出す覚悟でいます。たゞどうか、僕の名誉やキリスト教徒としての良心に反することだけは、僕に要求しないで下さい。あなたは僕の恩人です。こゝまでして下さったのですから、どうか最後までお助け下さい――僕とあの哀れな孤児とを放免して、神の示し給う道へ行かせて下さい。私達は、あなたがどこにおいでだろうと、またあなたの身に何事が起ろうと、罪深いあなたの魂の救いを毎日神様にお祈りします……』
プガチョーフの粗剛な魂も、さすがに感動したようだった。
『よろしい、君の好きなようにしたまえ!』と彼は言った。『処刑するなら処刑する、赦すなら赦す――これがおれの流儀だ。君はあの別嬪を連れて、どこへなりと行くがいゝ、おれは神の愛と忠告が君達の上にあることを祈るよ!』
そこで彼はシワーブリンを顧みて、彼の権下にあるすべての関所や要塞の通行証を私に与えるように命じた。シワーブリンはまるで骨抜きになったような恰好で、麻痺したように突立っていた。プガチョーフは要塞の見廻りに赴いた。シワーブリンはそれに随行したが、私は出立の支度を口実にあとに残った。
私は奥の間へ駈けつけた。扉はしまっていた。私はノックした。
『どなた?』とパラーシャが訊いた。
私は名乗った。と、マーリヤ・イワーノヴナの可憐な声が扉の中から聞えた。
『ちょっとお待ち下さいまし、ピョートル・アンドレーイチ。あたし今着更えをして居りますのよ。アクリーナ・パンフィーロヴナのところへいらしてて下さいましな――すぐあとから参りますから。』
言われるまゝに、私は神父ゲラーシムの家へ赴いた。彼も梵妻も、私を迎いに飛び出して来た――サヴェーリイチが前触れしていたのである。
『御機嫌よう、ピョートル・アンドレーイチ。』と、梵妻は言った。『おかげでまたお眼にかゝれましたわね。その後如何でいらっしゃいます? こちらでは毎日のようにお噂して居りましたんですよ。それにマーリヤ・イワーノヴナはね、あなたのいらっしゃらない間に、随分いろんな眼に会いましたのよ、可哀そうに…… それはそうと、あなた、あなたはどうしてあのプガチョーフとこんなに仲よくおなりでしたの? あの男はどうしてあなたを殺さなかったのでしょう? でも、よござんしたわね! これだけでもわたしあの悪党にお礼を言いますわ。』
『もういゝよ、婆さんや、』と神父ゲラーシムが遮った。『そう何もかも喋り立てるもんじゃないよ。多弁に救いはないというからな。さあピョートル・アンドレーイチ! どうぞずっとお通り下さい。随分久し振りですなあ。」
梵妻は、有合せのもので私をもてなしはじめたが、その間ものべつ喋っていた。彼女は私に、シワーブリンがマーリヤ・イワーノヴナの引渡しを強要した時の遣り口、マーリヤ・イワーノヴナが泣いて別れをいやがった様子、その後のマーリヤ・イワーノヴナはパラーシカ(これは本当に胆のすわったはしこい娘で、例の下士をも思うように踊らせていたのだった。)の手を通して彼女との連絡を保っていたこと、マーリヤ・イワーノヴナに勧めて私に手紙を書かせたのも彼女だったことなど、いろ〓〓と話して聞かせた。私の方でも、自分の身に起ったことを手短かに物語った。彼等の偽りがプガチョーフに知れたと聞いた時には、坊さんも梵妻も十字を切った。
『わたし達には神様がついていて下さいますわ!』とアクリーナ・パンフィーロヴナは言った。『神様、どうぞ黒雲をお払い下さいまし。それはそうと、あのアレクセイ・イワーヌイチって、ほんとうにいやな奴ですわ!』
ちょうどこの時扉があいて、マーリヤ・イワーノヴナが、蒼白な顔に微笑を浮べながらはいって来た。彼女は百姓着物を脱いで、昔通りさっぱりした可憐な身なりをしていた。
私は彼女の手を掴んだなり、暫くは口が利けなかった。ふたりとも胸がいっぱいで声も出なかったのである。主人夫婦は、私達が彼等どころでないのを察して、座をはずしてくれた。私達はふたりだけになった。一切が忘れられた。私達は話したが、いくら話しても話し尽せなかった。マーリヤ・イワーノヴナは私に、要塞陥落のそも〓〓から彼女の身に起った一切を、細大洩らさず物語り、彼女の立場の全恐怖、卑劣なシワーブリンが彼女に加えた憂目などについて、こまごまと話して聞かせた。私達は過ぎた幸福な時代を想い起した…… 私達はふたりとも泣いていた…… 遂に、私は、自分の決意を彼女に説明しはじめた。プガチョーフの権下にあってシワーブリンの支配を受けているこの要塞にとゞまることは、彼女には出来ない相談であった。さりとてオレンブルグは問題にならなかった。私は彼女に、私の両親の村へ行くことを提議した。彼女は初めは躊躇していた――彼女も承知の私の父の不興が、彼女を怯えさせていたのである。私は彼女を宥めた。私は父が、祖国のために倒れた功績ある軍人の娘を引取るのを、自分の幸福とも義務とも考えるであろうことを知っていたから。
『ねえ、僕の大事なマーリヤ・イワーノヴナ。』と私は最後に言った――『僕はあんたを自分の妻と思っているんです。不思議な運命から、僕達は固く〓〓結ばれてしまいました――もうどんなことがあっても、ふたりを引離すことは出来ないのです。』
マーリヤ・イワーノヴナは、わざとらしい含羞や余計な遠慮などしないで、単純に私の言葉を聴いてくれた。彼女とても、彼女の運命が私のそれと結びついていることは感じていたのである。併し彼女は、私の両親の承諾なしには私の妻になれないことを、幾度も繰返した。私もそれに逆らわなかった。私達は心からの熱い接吻を交わした――こうしてふたりの間のことは、すべてはっきりときまったのである。
一時間ばかりすると下士が、プガチョーフの悪筆で署名された通行証を届けに来て、彼の名で私を招いた。私が行った時、彼はもうすっかり旅装束であった。私一人を除くすべての人々にとって暴君であり悪党であるこの恐しい人間との別れに際して、私の抱いた感懐を明らかに述べることは不可能である。一たいどうして真実を語ってならないことがあろう? 実はその瞬間、私はまったく強い同情によって、彼の方へ惹きつけられたのであった。私は、どうかして彼を、その統率している悪党仲間から引離し、少しでも望みのあるうちに彼の首を救ってやりたいと、火のような気持で願ったのだった。が、シワーブリンをはじめ私達のまわりに群がっていた人々が、私の胸に溢れるこの思いを口に出させなかったのである。
私達は友達同士のように別れた。プガチョーフは群集の中にアクリーナ・パンフィーロヴナを認めると、指を立てて威し、意味ありげな瞬きをして見せてから、幌橇に乗込んで、ベルダへやれと命じた。そして馬が動きはじめた時、もう一度橇から乗出して、私に叫んだ――
『さよなら、大将! きっとまたいつか会えようぜ。』
いかにも、私達はもう一度会えた、――だが、その時はどんな有様だったろう!
プガチョーフは出発した。私は長いこと、彼のトロイカが疾走して行く真白な草原を眺めていた。民衆は四散した。シワーブリンも姿を消した。私は司祭の家へ引返した。私達の出発の用意はすっかり出来ていたし、私もこの上ひまどる気はしなかった。私達の荷物は全部、古ぼけた司令官の馬車に積み込んであった。馭者達は手早くそれに馬をつけた。マーリヤ・イワーノヴナは、教会の裏手に葬られていた両親の墓へお別れに行った。私は送って行こうとしたが、彼女はひとりで行かせてくれと願った。数分の後、彼女は言葉もなく、静かな涙に濡れながら戻って来た。馬車が廻された。神父ゲラーシムとその妻とは、あがり段へ出て来た。私達三人――マーリヤ・イワーノヴナとパラーシャと私とは幌橇に乗込み、サヴェーリイチは馭者台へ這いあがった。
『御機嫌よう、マーリヤ・イワーノヴナ、わたしの可愛い人! 御機嫌よう、ピョートル・アンドレーイチ、わたくし達の大好きな鷹!』と人のいゝ梵妻は言った。『道中気をつけてね、おふたりともお仕合せで!』
私達は乗出した。司令官の家の窓際に、私はシワーブリンの立ち姿を認めた。彼の顔には暗鬱な怒りの色が浮んでいた。私は打挫がれた敵に勝ち誇る気はなかったので、眼をあらぬ方へそらした。遂に、私達は要塞の門を出て、永久にベロゴールスクを後にした。
第十三章 逮捕
怒り給うな、――貴下よ、余は余の義務により
貴下を即時牢へ送らねばならぬ。
――いうにや及ぶ、覚悟の前也。さりながら、
事のいきさつひと通り、聴いてお貰い申したい。
――クニャジニーン
まだこの朝まであれほど案じ煩らっていた愛する乙女と、ゆくりなくも一緒になることの出来た私は、われとわが身が信じられず、自分に起ったことがみな、空しい夢のような気がするのだった。マーリヤ・イワーノヴナは、或は私を、或は道路を、物思わしげに眺めやりながら、茫然としてわれに返れないでいる様子だった。私達は黙っていた。私達の心はあまりに疲れはてていた。過ぎるともなく二時間ばかり過ぎた頃、私達はこれもプガチョーフの手中にあった次の要塞に到着した。そこで私達は馬をかえた。その馬のつけ方の早さや、プガチョーフの手で司令官に任命されていた鬚面のコザックの気ぜわしなげな奉仕振りから見て、私は、私達を運んで来た馭者のお喋りのおかげで、彼等が私をプガチョーフ朝廷の寵臣ととっているらしいのを察した。
私たちは更にさきへ進んだ。日が暮れかけて来た。私達は小さい町へ近づいたが、そこには、鬚面の司令官の言葉によると、僭称者に合流すべく行進中の有力な部隊がいるということであった。私達は哨兵に呼び止められた。
『誰か?』という問いに、馭者は大声で答えた――
『皇帝陛下の御親友とその奥方です。』
と、俄然、一隊の軽騎兵が恐しい罵声と共に、忽ち私達を取巻いた。
『出ろ、悪魔の親友め!』と口髭のある騎兵曹長が私に言った。『いまに貴様にも奥方にも辛い目を見せてくれるぞ!』
私は橇から出て、隊長の許へ案内せよと要求した。私が将校なのを見ると、兵隊どもは罵言をやめた。曹長は私を少佐の許へ連行した。サヴェーリイチは私の傍をはなれず、ひとりでぶつぶつ口説いていた――
『それ御覧なさい、陛下の親友だなんて! 火を逃れて焔の中とはこれですよ…… あゝ神様! このさきどうなることでしょう?』
橇は並足で、私達のあとからついて来た。
五分後に私達は、明るく灯のついた小さい家へ着いた。曹長は私を衛兵の許に残して、私のことを報告に行った。彼はすぐ戻って来て、少佐殿は私に会っている暇を持たぬ、私は牢へ打ち込み、奥さんだけ連れてこいと命じたと告げた。
『それはどういう意味だ?』と私は、かっとなって叫び出した。『少佐は気が違ったんじゃないか?』
『それはわかりません、少尉殿、』と曹長は答えた。『たゞ少佐殿は、少尉殿を牢へ入れ、奥さんを少佐殿のところへ連れてこいと命令されただけであります、少尉殿!』
私は段々を駈けあがった。衛兵達がとめだてしなかったので、私はそのまゝ部屋の中へ飛び込んだ。と、そこには、六人ばかりの軽騎兵将校が銀行をやっていた。少佐は親をやっていた。その男をひと眼見て、それをイワン・イワーヌイチ・ズーリン――いつかシムビールスクの宿屋で私から金を捲き上げた男と知った時の私の驚きは、どんなだったろう!
『おゝ、こりゃどうだ?』と私は叫んだ。『イワン・イワーヌイチ! 君じゃないか?』
『や、や、や、ピョートル・アンドレーイチ! どうしためぐり合せで? どこから来たんだ? いや御機嫌よう、兄弟。どうだい、君もひとつ?』
『いや有難う。だが、それより宿へ案内させてくれないかね。』
『なんで宿がいるんだ? おれんとこへ泊ればいゝさ。』
『それが困るんだ。ひとりでないから。』
『じゃ、その仲間もこゝへ連れてくるさ。』
『仲間じゃないんだ、僕は……婦人づれなんだ。』
『婦人づれ! どこで手に入れたんだ、一たい! えゝ、兄弟!』
こう言う下から、ズーリンはいかにも意味ありげに口笛を吹き出したので、一同はどっと笑った。私はひどくまごついた。
『じゃ、』とズーリンは続けた。『仕方がない。宿を世話してやるよ。だが、残念だなあ……ひとつ昔風に宴会でもやるんだのになあ…… おゝい、兵隊! 一たいそのプガチョーフの親友の奥方とやらはどうした。なぜ連れてこんのか? それとも? さきでおむずかりかね? ちっとも恐がることはないと、そう言うんだ。旦那は御立派な方であらっしゃる――決してあこぎな真似はなさらないってな。――上手に頸根っこを押えてくるんだ。』
『おい〓〓、何を言ってるんだい、君は?』と私はズーリンに言った。『プガチョーフの親友の奥方だなんて? あれは故ミローノフ大尉の娘さんだよ。虜になってたのを僕が救い出して、今僕の親父の村まで送って行く途中なんだ、そこに預けようと思ってさ。』
『なんだって! じゃ今報告して来たのは君のことだったのか? 驚いたね、どうも! 一たいどうしたっていうんだい?』
『あとですっかり話すよ。だが今は、どうかあの可哀そうな娘を落ちつかせてやってくれたまえ。君の軽騎兵たちにすっかり威かされてしまったからね。』
ズーリンはすぐ手配をしてくれた。彼は自ら外まで出向き、思わぬ粗忽をマーリヤ・イワーノヴナに詫びて、彼女を町で一番いゝ宿舎へ案内するよう、曹長に命じた。私は残って、彼のところに泊ることにした。
私達は一緒に夜食をとり、やがてふたり差向いになると、私は彼に自分の冒険を話して聞かせた。ズーリンは注意深く私の話に聴き入った。私が話し終ると、彼は頭を振って言った――
『その話はまあいゝがね――だが、ひとつ感心しないことがあるよ――なんだってまた結婚なんかする気になったんだい? 僕は名誉ある将校だ、決して君を欺くようなことはしないよ。まあ僕のいうことを信じたまえ、結婚は愚劣だよ。第一、なんのために細君の機嫌をとったり、赤坊の守りをしたりすることがあるんだい? えい、やめちまえ〓〓。それよりも僕のいうことを聴きたまえ――大尉の娘なんかおっぽり出しちまうのさ。シムビールスクまでの道は僕がきれいに浚っといたから心配ない。あの娘はひとりで明日にも君の両親のところへ立たせてさ、君は僕の部隊に残り給え。今更オレンブルグへなんか帰って行く手はないよ。もう一度暴徒につかまってみろ、そう〓〓うまく脱れられるとは限らんぞ。そこでさ、ちょっとまあこんな工合にすりゃ、恋の虫も自然に収まり、万事うまく行こうってもんだ。』
私は、一概に彼の意見に賛成ではなかったけれども、このまゝ女帝陛下の軍隊にとゞまることを要求する軍人の義務を、感じないではいられなかった。私はズーリンの忠告に従って――マーリヤ・イワーノヴナを村へ送り、自分は彼の部隊に残る決心をした。
ちょうど、サヴェーリイチが私の着更えを手伝うためにやって来た。私は彼に、明日は彼だけでマーリヤ・イワーノヴナを送って行く用意をしておけと申渡した。彼は、素直に聴こうとはしなかった。
『なんですって、若旦那? どうして私があなたをおいて行けましょう? このさき誰があなたのお世話をするのです? 御両親様がなんと仰しゃるでしょう?』
傅役の頑固はわかっていたから、私は優しく誠実に彼を説得しようとかゝった。
『なあ、じいや。アルヒープ・サヴェーリイチ!』と私は彼に言った。『頼むから、いやだなんて言わんで、僕の恩人になっておくれよ。僕はもう誰に世話して貰わなくとも困らないし、もしお前をつけずにマーリヤ・イワーノヴナを立たせてやったら、とても安心していられないよ。あの人に仕えてくれることは、僕に仕えてくれるのもおんなじだよ。だって僕は、事情さえ許せば今すぐにもあの人と結婚する堅い決心でいるんだからね。』
するとサヴェーリイチは、名状しがたい驚きを顔に現わして、はたと両手を打合せた。
『結婚なさる!』と彼は鸚鵡返しに言った。『坊ちゃんが結婚なさる! あゝ、お父様はなんと仰しゃるでしょう、お母様はどうお思いになるでしょう?』
『承知してくれるよ。きっと承知してくれるよ、』と私は答えた。『マーリヤ・イワーノヴナの気心さえよくわかればね。その点で、僕はまたお前も頼みにしてるんだよ。親父もお袋もお前を信用しているからね。お前だって僕達の味方になってくれるだろう、そうだろう?』
老人は感動した。
『あゝ若旦那、ピョートル・アンドレーイチ!』と彼は答えた。『お嫁さん沙汰はまだちと早過ぎますけれど、その代り、マーリヤ・イワーノヴナがあの通り申分のないお嬢様だから、この機《おり》をのがすのも勿体のうございましょうでな。よろしゅうございます、お考え通りになされませ! わたくしはあの天使のような方をお送りして、精一ぱい御両親におとりなしいたしましょう、このような花嫁さまには、支度などそう〓〓入りませんとね。』
私はサヴェーリイチに礼を述べ、ズーリンと同じ部屋で睡りに就いた。激動興奮していた私は無暗に喋った。ズーリンもはじめは機嫌よく相手をしていてくれたが、次第に受け答えが少くなり、とりとめがなくなって、やがて私への返事の代りに、笛のような鼾の声を立てはじめた。私も黙り、やがて彼の顰《ひそ》みに倣った。
翌朝、私はマーリヤ・イワーノヴナの許へ出向いた。そして、彼女に自分の考えを告げた。彼女は私の意を正しく酌んで、一も二もなく同意してくれた。ズーリンの部隊はその日のうちに町から出動しなければならなかった。またぐず〓〓している要もなかった。で、私は時を移さず、マーリヤ・イワーノヴナをサヴェーリイチに託し、彼女に両親への手紙をことづけて、別れを告げた。マーリヤ・イワーノヴナは泣き出した。
『御機嫌よう、ピョートル・アンドレーイチ、』と彼女は小さい声で言った。『もう一度お眼にかかれるかどうか、――これは神様だけが御存じですけれど、あたしあなたのことは一生忘れませんわ。お墓へはいる日まであたしの胸に残るのは、あなたお一人だけですわ。』
私は一言の返辞も出来なかった。人々は私達を取巻いていた。私は彼等の前で、私の心を攪き乱している感情に溺れる気にはならなかった。遂に、彼女は立ってしまった。私は悄然と黙り込んで、ズーリンの許へ戻った。彼は私の気を引立てようとしてくれたし、私も沈んでいるのはいやだったので、私達はその日一日を馬鹿騒ぎに送り、日が落ちてから行進を起した。
それは二月も末のことであった。軍事行動を妨げていた冬の退去につれて、わが将軍達は協力作戦に移る準備をしていた。プガチョーフは依然、オレンブルグ城下に屯ろしていた。が、その間に彼の周囲では、わが方の諸部隊が連繋を保って、八方から賊徒の本拠へ肉迫しつゝあった。叛乱にくみした村々は、わが方の軍隊と見ると忽ち降服し、賊徒の一味は到るところで敗走また敗走、万般の情勢は、速かにして光輝ある終局を予言していた。
幾ばくもなくゴリーツィン公爵がタチーシチェヴォ要塞附近でプガチョーフを撃破、その兵力を追い散らしてオレンブルグの囲みを解き、叛乱に最後の決定的打撃を与えたように思われた。ズーリンは当時、蜂起したバシキール人の一味討伐のため派遣されたのだったが、彼等は私達が彼等の姿を見ない前に早くも散りぢりになっていた。春は私達を、或る韃靼部落に釘づけにしてしまった。河川が氾濫し、道が通れなくなったからである。私達は、泥棒や野蛮人相手の愚劣で退屈な戦争ももうじき終るだろうと考えて、辛くも無聊を慰めていた。
ところが、プガチョーフは捕まらなかった。彼はシベリヤの工場地帯へ現われて、そこで新らしい一味を集め、再び無道を働きはじめた。彼の成功についての噂が、改めてまたひろがり出した。私達は相つぐシベリヤ諸要塞の壊滅を知った。間もなく、カザンの陥落と、僭称者のモスクワ進撃の報が、暴徒をみくびり、その無力を恃んで不覚な微睡を貪っていた司令官達の夢を破った。ズーリンは、ヴォルガを渡河して前進せよとの命令に接した。(巻末第十三章に対する補遺の一節は、こゝに挿入されるべきもの。)
私達の行軍や戦争の終結を記述することは差控える。たゞ簡単に、惨状は極度に達していたとだけ述べておこう。到るところ政治は停頓し、地主達は森林に身を潜めていた。暴徒の一味は、行くさき〓〓で暴行を恣まゝにし、諸部隊の隊長は独断で処刑したり赦したり、火の手の猖獗を極めた広大な地方一帯の状況は、言語に絶するものであった…… 神よ希くば、二度と再びかゝる不条理且つ無慈悲なロシヤの暴動を見せ給うな!
プガチョーフは、イワン・イワーノヰ゛ッチ・ミヘリソン(プガチョーフ鎮定に功のある古将軍。)に追躡されながら遁走していた。間もなく私達は、完全な彼の撃砕を知った。遂に、ズーリンは僭称者就縛の報と、同時に停止命令を受取った。戦乱は終ったのである。あゝ、遂に私も両親の膝下へ帰ることが出来るようになった! 両親を抱き、またあれ以来なんの消息にも接しないマーリヤ・イワーノヴナに会えるのだという考えが、歓喜で私を有頂天にした。私は子供のように跳ね踊った。ズーリンは笑って、肩をすくめながら言うのだった――
『いゝや、駄目々々! 君はきっとひどい目にあうぞ! 結婚なんかしてみろ――碌なことはないにきまってる!』
しかも、一方では、奇態な感情が私の喜びを蝕ばんでいた――あれほどの無辜の犠牲の血を浴びた悪人のこと、また、彼を待受けている極刑のことが、つい私の心を攪き乱すのだった。
『エメーリャ、エメーリャ(プガチョーフの愛称。)!』と私は、口惜しさに歯がみをしながら考えた。『なぜ君は銃剣に胸を貫かせなかったのだ、なぜ霰弾の前に身をさらさなかったのだ? どう考えたって、君にはそれ以上の道はなかった筈だ。』
読者は私を責められるだろうか! だが私にとって、彼についての想念は、私の生涯の最も恐しい瞬間のひとつに彼によって与えられた赦免の記憶、また私の許嫁を卑劣なシワーブリンの手から救い出してくれた記憶と、到底わかちがたいものだったのである。
ズーリンは私に休暇をくれた。数日後には、私は再びわが家庭の一員であり、再びわがマーリヤ・イワーノヴナを見得る筈であった…… その時突如として、思いもよらぬ落雷が私を打挫いでしまった。
出発と定められてあったその日、私がもう出立するばかりになっていたその時に、一片の紙きれを持ち、ひどく心配そうな顔をしたズーリンが、私の宿舎へはいって来た。何かが私の胸をぐさと刺した。私は、自ら知らずしてぎょっとなった。彼は、私の従卒を外へ出してから、私に用があって来た旨を告げた。
『なんですか?』と私は、不安を覚えながら訊いた。
『ちょっと面倒なことが起ってね、』と、彼は紙きれを渡しながら答えた。『読んでみたまえ、今受取ったばかりだ。』
私は読みはじめた――それは、見当り次第私を逮捕して、プガチョーフ事件のためカザンに設置された査問委員会へ即刻護送すべしという、各部隊長宛の秘密命令であった。
紙片は危く私の手からすべり落ちるところであった。
『仕方がない!』とズーリンは言った。『僕の義務は命令に服することだ。多分なんだろう、君がプガチョーフと親しく旅行した噂でもが、何かのことで政府の耳にはいったんだろう。僕は併し信じてるよ。事件は大したことにはならず、君は委員会で十分釈明出来るものとな、まあ悲観しないで、出かけて行くさ。』
私の良心は清浄だったので、私は査問を恐れなかった。併し、喜ばしい邂逅の瞬間が恐らくは数カ月さきへ延びるだろうことを思うと――私は胸つぶるる思いであった。荷馬車の用意は出来ていた。ズーリンは、友人として私に別れを告げてくれた。私は馬車に乗せられた。私は、抜刀した二名の軽騎兵に附添われて、大街道を乗出した。
第十四章 査問
浮世の噂は――
海の波。
――俚 諺
私は、自分に罪があるとすれば、それはたゞ無断でオレンブルグをはなれた行為にあるものと信じていた。それなら弁明は容易である――出撃は決して禁じられていなかったばかりでなく、寧ろ極力奨励されていたのだから。或は、血気に過ぎた点の咎めはあるかも知れぬが、命令違反はない筈である。併しプガチョーフとの友情関係は、或は多くの目撃者によって証言されるかも知れず、その点は、少くとも大いに不審がらるべき要素を持っている。途中ずっと私は、私を待受けている訊問について検討し、それに対する答弁を考慮した挙句、法廷では、ともかくありのまゝの真実を申し立てようと決心した。結局、それが最も簡明な、同時に最も有望な弁明であると思ったので。
私は、荒涼たる焼野原のカザンへ着いた。街路には家々のかわりに炭の堆積が横たわり、屋根も窓もない煤けた壁が突立っていた。これは、プガチョーフによって残された足跡であった! 私は焼けた街の中央に、そこだけ無事に残っていた要塞へ、連れて行かれた。軽騎兵達は私を衛兵将校に引渡した。将校は鍛冶屋を呼べと命じた。そして私の両足に鎖をつけ、それを堅くとめさせた。それから私は牢へ送られ、たゞ一人、鉄格子のはまった小窓と裸壁とに囲まれた狭い暗い独房へ打込まれた。
こうした振出しは、決していゝことを予報する筈はなかった。だが私は、勇気も希望も失わなかった。私はあらゆる受難者達を思ってその慰めに縋り、清くはあるが引裂かれた胸の奥から迸る祈りの甘美さをはじめて味わいつゝ、身の成行など思い煩らうことなしに、平静な心で睡りについた。
翌日、委員会が出頭を求めているという知らせを以て、看守が私を呼び起した。ふたりの兵隊が、中庭を通って私を司令官の家へ導き、自分達は控室に残って、私だけを奥へ通らせた。
私は、かなり広い広間へはいった。書類で埋まった卓の前に、ふたりの男が坐っていた。――厳しく冷たい顔をした年配の将軍と、二十七八の若い近衛大尉とで、この方は、非常に感じのいい顔をした、態度の練れた濶達な人物だった。窓際の別の卓には、耳にペンをはさんだひとりの書記が、私の供述を書き取るべく、紙の上に屈み込んで掛けていた。訊問がはじまった。私は姓名と身分を問われた。すると、もしやアンドレイ・ペトローヰ゛ッチ・グリニョーフの息子ではないかと、将軍は訊いた。そして私の返答に対し、烈しい語調で言い返した――
『あの尊敬すべき人物にこんな不肖の子があろうとは、実に気の毒ともなんとも!』
私は落ちついた態度で、私の受けている嫌疑がたとえどのようなものであろうと、それは真実の率直な説明によって霽れるものと確信していると答えた。私の自信は彼の気に入らなかった。
『ほう、貴様はなか〓〓の強か者じゃな、』と彼は渋面を作りながら私に言った――『併しこっちは、それくらいには驚かんて!』
その時若い方が私に尋ねた――どういう機会に、またいつ頃から、私はプガチョーフの配下にはいったか、そしてどんな役目についていたか?
私は憤然として、自分は将校且つ貴族として、プガチョーフの配下につける者でもなければ、彼からどんな役目も受ける筈がないと答えた。
『では如何なる理由で。』と訊問者は反駁して来た。『貴族であり将校である人間が、同僚の悉くが虐殺された中でたゞひとり、僭称者から助命されたか? また、如何なる理由で、将校であり貴族であるその者が、親しく暴徒どもと酒宴を共にしたり、首魁から毛皮外套や、馬や、半ルーブリの金銭を贈与されたりしたのか? かゝる奇怪な友情が、果して裏切りによるものでなく、また、少くとも忌むべく犯罪的な怯懦によるものでないとしたら、抑々何によって生じたものであるか?』
私は、近衛将校のこの一言に、甚しい侮辱を感じたので、憤然として釈明に取りかゝった。私は、プガチョーフと自分の関係が、大風雪の草原で初めて結ばれた時のことから、ベロゴールスク要塞の占領に際し、彼が私と知って助命してくれた時の経緯を物語った。なお私は、自分が僭称者から皮衣や馬を受けて格別恥じとしなかったことは事実であるが、併し、ベロゴールスク要塞は、賊徒に対し最後の瞬間まで死守したものであることを述べた。最後に私は、悲惨なオレンブルグ包囲戦における私の忠誠を証言し得る人物として、例の将軍の名を挙げた。
すると厳酷な老人は、卓上から開いてある手紙を取上げて、読み上げはじめた――
『軍律に悖り宣誓の義務に背いて現下の叛乱に与《くみ》しその首魁と誼しみを通じたる疑いある少尉補グリニョーフに関する閣下の御照会に対し、〓に答申の光栄を有す――右少尉補グリニョーフは昨一七七三年十月初めより本年二月二十四日までオレンブルグに在勤せるも、同日市を離去、爾来小官の指揮下に無き者に有之侯。然るところ、投降者より聞知せるところによれば、彼は一時プガチョーフ本営にあり、後首魁と同乗して以前勤務せるベロゴールスク要塞へ赴きたる由にて、彼の行状に関しては、小官はたゞ……』
こゝで彼は朗読を中止して、峻厳な語気で私に言った――
『どうだ、これでもまだ弁解するつもりか?』
私は一たん切り出した釈明を続けようとして、それまでと同じ真率さで、マーリヤ・イワーノヴナとの関係に言及しようとしかけたが、その時突如として、打克ちがたい嫌悪感が私を襲った。というのは、もしこゝで彼女の名を出したら、委員会は必ず彼女の喚問を要求するであろうという考えが頭に浮んだからである。そしてこの、彼女の名を悪党どもの醜悪な讒謗の中へ捲き込むばかりか、彼女自身を彼等との対決に引出すという想念――この恐しい想念が、あまりに強く私を打ったので、私はつい戸惑いしてしまった。
私の審問者達は、それまで私の答弁を幾分好意的に聴きはじめていたらしかったが、私の混乱を目撃すると、再び私に不利な心証を抱いてしまった。近衛将校は、私と主告発者との対審を要求した。将軍は、昨日の逆徒を呼び出せと命じた。私は、素早く戸口の方へ顔を向けて、自分の告発者の出現を待った。暫くすると、鉄鎖の音が聞えはじめて、扉が開き、はいって来たのはシワーブリンであった。私は彼の変り方に驚いた。彼はひどく痩せて、真蒼な顔をしていた。この間まで漆のように黒かった髪は真白で、長い顎鬚はいたく乱れていた。彼は弱々しい、併し臆面のない声で、自分の告訴を繰返した。彼の言葉によると、私は間諜としてプガチョーフからオレンブルグへ派遣された者で、毎日小競合いに乗出したのは、街の状況を認めた密書を渡すためであり、後には、公然と僭称者側へ移って、首魁とともに要塞を乗廻し、各種の術策を弄して同じ裏切仲間を滅ぼそうと努力したが、それは、自分が彼等の後釜にすわって、僭称者から分けられる褒美にありつこうための野心からであった。
私は黙って彼の言葉を聴き終り、たゞひとつのことに満足した――マーリヤ・イワーノヴナの名が卑しい逆徒の口にのぼらなかったことである。それは、軽蔑を以て彼を拒み通した女のことを考えるとさすがに自尊心が傷んだせいか、或は彼の心にも、私の口を封じたと同じ感情の火花が秘められていたからか。それはともあれ、ベロゴールスク要塞司令官の娘の名は、委員会の法廷では発音されなかった。私はます〓〓決意を堅くし、審問者達が、何を以てシワーブリンの陳述を覆えし得るかと尋ねた時にも、最初の自分の説明を固執する以外、なんの弁明も出来ないと答えた。将軍は私達の退去を命じた。私達は一緒に法廷を出た。私は平然とシワーブリンを見やったが、言葉はかけなかった。彼は、にやりと毒を持った薄笑いを洩らし、自分の鎖を持ち上げると、私を追い越して足を早めた。私はまた牢へ打込まれ、それからは最早訊問にも呼び出されなかった。
***
さて、私にはなお読者に伝うべきことが残っているが、それはすべて私自身が目撃したことではない。けれども、その話は実によく聞かされたので、私の頭には微細な点まではっきりと刻みつけられて、まるで自分が人知れずその場に居合せたような気がしているくらいなのである。
マーリヤ・イワーノヴナは私の両親から、旧時代の人々に特有なあの心からなる真実みを以て迎えられた。彼等は、哀れな孤児をかくまいいつくしむ機会を持ったことに神の恵みを見たのである。間もなく、彼等は彼女に、心からの愛着を覚えるようになった。つまり、彼女を知っては愛さずにいられなかったからである。こうして私の愛は、最早父にも、単なる浮気心とは思われず、母に至っては、たゞもう彼女のペトルーシャが、可憐な大尉の娘と結婚することばかりを願うようになってしまった。
私が逮捕されたという噂は、家内一同を驚倒させた。マーリヤ・イワーノヴナは両親に私とプガチョーフとの奇妙な交渉を話して聞かせたが、その話し振りがいかにも単純だったので、それはふたりを心配させるどころか、却て幾度も心から笑いこけさせたほどであった。父は、私が帝位の顛覆と貴族の絶滅を目的とする忌わしい一揆に加担し得るなどとは、頭から信じようともしなかった。彼は厳しくサヴェーリイチを取調べた。傅役は、主人がエメリヤン・プガチョーフの許へ客に行ったことも、逆徒が主人に対して好意を持っていたことも隠さなかったが、裏切りなどということは聞いたこともないと誓った。老父母はそれで安心し、千秋の思いで吉報の至るのを待ちはじめた。マーリヤ・イワーノヴナも烈しく心を攪き乱されたが、生れつき非常に慎ましい考え深い質だったので、何事も口には出さなかった。
何週間かたった…… 突然父がペテルブルグから、親戚であるベー公爵の手紙を受取った。公爵は私のことを書いていた。まず型通りの前書きの後、彼は、私が暴徒の陰謀に参画したという嫌疑は不幸にしてあまりにも確定的であることが判明し、当然見せしめのための極刑に処せられるべき筈のところ、女帝陛下には、父親の功績と頽齢とを思召し、罪ある子の減刑を決せられ、恥ずべき死刑を免じてシベリヤの辺境への終身流刑にとゞむべき旨命ぜられたと、認めていたのである。
この思いもかけぬ打撃は、危く父を殺してしまうところであった。彼は日頃の剛毅を失い、その哀傷(平素は口に出さなかった)は、痛ましい泣き言となって流れ出した。
『あゝ、なんたることだ!』と彼はわれを忘れて繰返すのだった。『わしの忰がプガチョーフの陰謀に参画したとは! やれ〓〓、おれも飛んだ長生きをしてしまったものだ! 女帝陛下は忰に死刑だけはお許し下された! それで果してわしの心は安まるだろうか? わしは死刑が恐しいのではない――わしの高祖父の父は、良心が神聖と信じたことを貫き通して刑場に散り、わしの父はウォルィンスキイやフルーシチェフ(いずれも政治家。共に専制政治に抗し、叛逆罪にて刑死。)と苦難を共にした人だ。だが、貴族が己れの宣誓を破り、無頼の徒や人殺し、脱走した奴隷どもと共謀するとは何事か!…… 一族の恥辱だ、面汚しだ!』
父の絶望振りに気を呑まれた母は、父の前では泣きもならず、世間の噂のあてにならぬこと、人の口の変り易いことを言って、只管父に元気を取戻させようと努めた。併し父は楽しまなかった。
マーリヤ・イワーノヴナは、誰にもまして切ない思いをしていた。私がちょっと彼女の名を出す気にさえなれば、いつでも弁明の出来ることを信じて疑わなかっただけに。彼女は事の真相を推測して、自分自身をこそ私の不幸の原因だと考えていたのである。彼女は誰の前にもその涙と苦しみを隠してはいたけれども、その一方では、絶えず私を救い出す方法を考えていたのである。
或る晩のこと、父は長椅子に掛けて「宮中年鑑」の頁を繰っていたが、心が遠くへ行っていたので、この読書も彼の上にいつもの作用を起さなかった。彼は昔の行進曲を口笛に吹いていた。母は黙々と毛糸の胴着を編んでいたが、涙が時折その手仕事の上に滴っていた。と、不意に、これもそこで針仕事をしていたマーリヤ・イワーノヴナが、自分はどうでもペテルブルグへ行かなければならない、ついては出発の出来るように計らって頂きたいと言い出した。母はと胸を突かれる思いで、
『何しにペテルブルグなんぞへ?』と言って訊いた。『ねえ、マーリヤ・イワーノヴナ、あなたまでがわたし達を見棄てようとなさるのですか?』
マーリヤ・イワーノヴナは母に答えて、彼女の将来の運命は一つにこの旅行にかゝっていることを言い、祖国の要塞のために身を捧げた者の娘として、有力な人々の保護と助力を求めに行くのだと話した。
父は頭を垂れた。息子の寃罪を思い出させる一切の言葉は、彼には苦痛であり、皮肉な叱責のように響くのだった。
『では行って来なさい!』と、彼は溜息とともに彼女に言った。『わしらはあんたの仕合せの邪魔をする気はないからね。わしはな、どうぞあんたに、あんな謀叛人の悪名をきせられた男でない、立派なお婿さんの見つかるのを祈りますよ。』
父は立って、部屋から出て行った。
マーリヤ・イワーノヴナは、母と二人きりになると、自分の思立ちの一部を母に打明けた。母は涙を流して彼女を抱きしめ、思立ちの首尾よい結果を神に祈った。マーリヤ・イワーノヴナの旅支度は調えられ、数日の後彼女は、忠実なパラーシャと、忠実なサヴェーリイチのふたりを供に出立した。無理やり私から引離されたサヴェーリイチにしてみれば、せめても私の許嫁に仕えるという思いだけでも、心が慰められたのである。
マーリヤ・イワーノヴナは無事ソフイヤ(皇帝村に南接する地。)に到着し、当時宮廷はツァールスコエ・セロー(皇帝村の意。)に在ることを知ると、そこに滞留することに心を決めた。彼女には仕切りの向うの小部屋があてがわれた。駅長の妻は早速彼女と話をはじめて、自分が宮廷の煖炉焚きの姪であることから、宮廷生活のあらゆる秘事を話して聞かせた。彼女は、女帝は普通何時にお眼ざめになり、何時に珈琲を召上り、何時に散歩をされ、当時陛下の側近にはどんな貴族達が侍っているかということから、昨日の食卓ではどんな話をされ、晩には誰をお召しになったかということまで話した。つまり、一言でいえば、アンナ・ヴラーシエヴナの話は、優に歴史的記録の数頁に値いし、後世にとって得がたい資料だったといえる。マーリヤ・イワーノヴナは、その話を注意深く傾聴した。それから、彼女達は公園へ出かけた。アンナ・ヴラーシエヴナは、行くさき〓〓の並木路や、ひとつ〓〓の小橋の歴史を物語り、やがて散歩に堪能すると、ふたりはお互いに心から満足し合って、駅逓へ戻って来た。
翌日、朝早く、マーリヤ・イワーノヴナは眼をさますとすぐ着更えをして、ひそかに公園へ出かけて行った。美しい朝で、太陽は、秋の冷たい息吹きに早くも黄ばみそめていた菩提樹の頂きを照らしていた。見渡す限りの湖水は、凝然として光っていた。眼をさました白鳥達は、岸辺を影にしている繁みの下から、誇らしげな様子で泳ぎ出て来た。マーリヤ・イワーノヴナは、伯爵ピョートル・アレクサンドロヰ゛ッチ・ルミャンツェフ(第十八世紀のロシヤ名将。対トルコ戦の総司令官。元帥。)の最近の戦勝をたたえる記念碑が建てられたばかりの、眼のさめるような草地のほとりを歩いて行った。不意に、イギリス種の白い犬が吠え出して、彼女の方へ駈けて来た。マーリヤ・イワーノヴナは怯えて立ちすくんだ。ちょうどその時、気持のいゝ女の声があたりに響いた――
『恐いことはありませんよ、咬みはしませんから。』
そこでマーリヤ・イワーノヴナは、記念碑の前のベンチに掛けているひとりの貴婦人を見出した。マーリヤ・イワーノヴナは、ベンチの別の端へ腰をおろした。貴婦人はじっと彼女を見ていたし、マーリヤ・イワーノヴナの方でも、幾度もちら〓〓と横眼を使って、相手の足から頭まで見てしまった。婦人は純白な朝着に夜帽をかぶり、綿入れチョッキをつけていた。年は四十そこそこと見えた。色艶のいゝふくよかな顔は、威厳と落ちつきを現わし、空色の眼とかすかな微笑は言い知れぬ魅力を漂わせていた。貴婦人の方からさきに、沈黙を破った。
『あなたはこの土地の方ではありませんね?』と彼女は言った。
『はい、左様でございます――昨日田舎からまいりましたばかりで。』
『親御さんと御一緒にでも?』
『いゝえ、わたくしひとりでまいりましたの。』
『おひとりで! よくねえ、そんなにお若いのに。』
『わたくし、父も母もございませんので。』
『では何か、この土地に御用がおありなのでしょうね?』
『はい、左様でございます。わたくし、陛下にお願いがあってまいりましたのでございます。』
『あなたは孤児《みなしご》だと仰しゃったわね――するときっと、何か不当な恥辱でもお訴えになろうというのでしょうね?』
『いゝえ、そうではございませんの。わたくしは、陛下のお情けにお縋りにまいりましたので、お裁きをお願いに出たのではございませんの。』
『では、失礼ですけど、あなたの御身分は?』
『わたくしはミローノフ大尉の娘でございます。』
『ミローノフ大尉の! ではなんですか、オレンブルグ県の要塞で司令官をしていたあの方の?』
『左様でございます。』
貴婦人は心を動かされたように見えた。
『御免なさいね、』と彼女は、一層優しい声になって言った。『もしかするとわたし、人様のことにあまり差出がましいかも知れないけれど、わたしは宮中へもよくお出入りするものですから、あなたのお願いの筋によっては、少しはお力になって上げられるかも知れないと思いますのよ。』
マーリヤ・イワーノヴナは立上ると、慇懃に礼を述べた。未知の貴婦人の一切が知らず識らず心を惹きつけ、信頼の念を起させたからであった。マーリヤ・イワーノヴナは、ポケットから畳んだ紙を取出して、それをこの初対面の保護者に渡した。婦人は黙ってそれを読みはじめた。
初めのうち彼女は、注意深い好意ある面持で読んでいたが、俄かにその顔色が変ってしまった――彼女の素振りをじっと見守っていたマーリヤ・イワーノヴナは、一分前にはあれほど明るく穏かだったその顔の厳しい表情に怯えを感じた。
『あなたは、グリニョーフのことでお願いなさるのね?』と、婦人は冷やかな顔附で言った。『女帝さまもあの人だけはお赦しになりませんよ。あれは僭称者に味方した者です、それも無知や軽率からでなく、不道徳な有害な悪者としてですからね。』
『あら、違いますわ!』とマーリヤ・イワーノヴナは叫んだ。
『どう違います?』と婦人は語気を強めて言い返した。
『違いますわ。ほんとうに、違いますわ! わたくし何もかも存じておりますの、何もかもあなたさまに申上げます。あの方はわたくしひとりのために、今あのような目に会っているのでございます。もしあの方がお裁きを受けながら身の明しをお立てにならなかったとすれば、それもやはりこのわたくしを庇おうとなすったからこそでございます。』
そこで彼女は熱心に、すでに読者は御承知の一部始終を物語った。
婦人は注意深くそれを聴き終った。
『あなたのお宿はどちらですの?』彼女はやがてこう尋ねた。そしてアンナ・ヴラーシエヴナのところという返辞を聞くと、笑顔になって言った。『あゝそう! 知っていますよ。では、左様なら。こゝで会ったことは誰にも言ってはなりませんよ。このあなたのお手紙の御返事は、そう暇どらないでもいたゞけることと思いますから。』こう言いながら腰を上げると、彼女は蔽いかぶさった並木路へ姿を消した。マーリヤ・イワーノヴナは、喜ばしい期待に胸をふくらまして、アンナ・ヴラーシエヴナの家へ帰った。
主婦は、その言い草によると若い娘の健康に害のある秋の早朝の散歩をしたというので、少しばかり彼女に小言を言った。彼女はサモワールを運んで来、一杯のお茶のあいだにも、例のはてしない宮中話を持ち出しかけたが、その時突然、宮廷馬車が家の前にとまり、ミローノワ嬢お召しという女帝陛下からのお達しを持って、宮内雑掌長がはいって来た。
アンナ・ヴラーシエヴナは胆をつぶして、あたふたし出した。
『まあどうしましょう!』と彼女は叫んだ。『女帝さまがあんたを宮中へお召しですとさ。どうしてあんたのことをお知りになったんでしょうねえ? それはともかく、あんたはどうして御前へ出るつもり? 多分あんたは宮中の歩き方も御存じないでしょう…… わたしが送って行って上げましょうか? わたしでもついていれば、ねえ、また何かと気をつけて上げられるでしょう。それに、その旅装束でどうしてお目通りへ出られます? 産婆さんのところへ黄ろいロブローン(寛い襞のある古風な婦人服)でも借りにやりましょうか?』
すると雑掌長が、陛下にはマーリヤ・イワーノヴナひとりで、服装もそのまゝで参内せよとの思召である由を告げた。それならもう文句はなかった――マーリヤ・イワーノヴナは馬車に乗り、アンナ・ヴラーシエヴナの忠言と祝福とに送られて、宮廷へ向った。
マーリヤ・イワーノヴナは私達ふたりの運命の決定を予感し、心臓が烈しく躍って、いまにもとまりそうであった。数分の後、馬車は宮殿の前にとまった。マーリヤ・イワーノヴナは、胸とどろかせて階段をあがった。彼女の前の扉がさっと左右に開いた。彼女は人影のない壮麗な部屋の長い列を通り抜けた。雑掌長が案内してくれたのである。遂に、ぴったりと閉まった扉の前へくると、彼はすぐ取次ぐ旨を言い置いて、彼女をひとり残して去った。いよ〓〓陛下のお目通りへ出るのだという考えがあまりに空恐しかったので、彼女は立っているのもやっとなくらいであった。ほどなく扉があいて、彼女は女帝のお化粧の間へ通された。
女帝は、化粧台の前に掛けて居られた。数人の廷臣が女帝をとりまいていたが、慇懃にマーリヤ・イワーノヴナに道をあけた。女帝は優しく彼女を見返られ、マーリヤ・イワーノヴナはそのお顔に、つい先程自分があんなにもむきつけに打明け話をした当の貴婦人を認めた。女帝は彼女を身近く招き寄せて、にこやかにこう言われた――
『わたくしは、約束を守ってあなたの願いをかなえて上げられるのを嬉しく思います。あなたの御用は済みました。わたくしはあなたの許嫁の潔白を信じます。それからこゝに手紙がありますからね。これは、あなたの手で未来の舅御にお渡しなさい。』
マーリヤ・イワーノヴナはわなゝく手で手紙を受けると、泣き出しながら、陛下の足許へひれ伏した。陛下は彼女を立たせて、接吻を与えられた。それから彼女相手に、四方山の物語を遊ばされた。
『わたくしはあなたが豊かでないことを知っています。』と陛下は言われた。『けれどわたくしには、ミローノフ大尉の娘さんにお返しするものがあります。将来のことは心配することはありませんよ。入用なものだけはあなたにつけてあげますからね。』
哀れな孤児をいたわり慰めた上、女帝は彼女を退らせられた。マーリヤ・イワーノヴナは同じ宮廷馬車に送られて帰った。頸を長くして彼女の帰りを待っていたアンナ・ヴラーシエヴナは、顔を見るなり質問の雨を浴せかけたが、マーリヤ・イワーノヴナはいゝ加減にあしらって済ませた。アンナ・ヴラーシエヴナは彼女の忘れ方の早さに不服そうだったが、それも人慣れない田舎者の内気のせいと、寛大に許してくれた。そしてマーリヤ・イワーノヴナは、その日のうちに村への帰途についてしまった。ひと眼ペテルブルグを見ようという好奇心も起さないで!……
***
ピョートル・アンドレーイチ・グリニョーフの手記はこゝで終っている。その家の言伝えによると、彼は一七七四年の末勅令によって禁錮を解かれ、プガチョーフ処刑の場にも居合せたが、プガチョーフは群衆の中に彼を見出すと、一分後には死んで血塗れになり曝し物にされるその首を頷いて見せたということである。その後間もなく、ピョートル・アンドレーイチはマーリヤ・イワーノヴナと結婚した。彼等の子孫は現にシムビールスク県で幸福に暮している。×××から三十露里ほどの地域に、十人の地主に属しているひと村がある。その地主邸のはなれのひとつに、硝子入の額縁に収められたエカテリーナ二世の直筆の書簡がかゝっている。それは、ピョートル・アンドレーイチの父に宛てて書かれたもので、彼の息子の赦免と、ミローノフ大尉の娘の才智と心情に対する褒辞を内容としている。
なお、ピョートル・アンドレーイチ・グリニョーフの手記は、その孫の一人によって、私達がちょうどその祖父の描いている時代に関する著述に従っているというので、私達に提供されたものである。私達は、一族の人々の許可を得て、別冊として〓に刊行することにしたのであって、各章のはじめに適当な題詞を附し、若干の固有名詞を変更したことは、いずれも私達の独断によるのである。
一八三六年十月十九日刊 行 者
第十三章に対する補遺
ズーリンは、ヴォルガを渡ってシムビールスクへ急行すべしとの命令を受けた。その街で既に火事の焔が燃えさかっていたのである。うまく行ったら郷里の村へ立寄れて、両親を抱き、マーリヤ・イワーノヴナにも会えるかも知れないという考えが、私を喜びで勇み立たせた。私は子供のように跳ね踊り、ズーリンを抱きしめながら繰返した――
『シムビールスクへ! シムビールスクへ!』
するとズーリンは溜息をつき、肩をすくめながら言うのだった――
『いゝや、駄目々々、君はきっとひどい目に会うぞ。結婚なんかしてみろ、碌なことはないにきまってる!……』
私達はヴォルガの岸へ近づきつゝあった。私達の聯隊は××村へはいり、そこに宿営すべく軍をとめた。翌朝、私達はいよ〓〓渡河しなければならなかった。村老は私に、対岸の村は悉く暴動を起し、到るところにプガチョーフの一味がうろついていると告げた。
この情報はいたく私の心を騒がせた。
焦躁が私をとらえて、落着きを与えなかった。父の村は対岸三十露里の地点にあった。私は渡船夫はいないかと訊いてみた。この辺の百姓はみな漁師だし、小舟は多かった。私はズーリンのところへ行き、彼に自分の意中を打明けた。
『軽はずみはよせ、』と彼は言った。『ひとりで行くのは無謀だ。朝まで待て。僕等が真先きに河を渡って、君の家へ客に行こう、万一の用心に軽騎兵の五十も連れてさ。』
私は我意を張り通した。小舟は用意された。私はふたりの漕手とともに乗込んだ。彼等は舫《もや》いを解いて漕ぎ出した。
空は明るかった。月が輝いていた。天気は静かだった。ヴォルガは波なく穏かに流れていた。小舟は軽快に揺れながら、暗い川波の面を滑って行った。半時間ばかりたった。私は、さま〓〓の思いに耽り出した。――自然の静けさ、政治上の恐怖、恋等々。私達はやがて中流へ出た……急に、漕手達がお互いのあいだで囁きはじめた。
『どうしたんだ?』と私は、われに返って尋ねた。
『それがどうも、とんと見当がつかないんで。』と、漕手達は一方を見ながら答えた。
私の眼も同じ方角へ向けられた。そして私は薄闇の中に、ヴォルガを河下へ流れ漂って行く何物かを認めた。その見慣れぬ物影は、次第に近づいて来た。私は漕手に、舟をとめて待てと命じた。月は雲に隠れた。漂っている幻は一層暗くぼやけてしまった。もうすぐ近くまで来ているのだが、依然として正体はつかめなかった。
『はてな、なんだろ?』と漕手達は言い合った。『帆かと思や帆でもねえし、檣かと思や檣でもねえ。』
不意に月が雲をはなれて、恐しい観物《みもの》を照らし出した。私達の方へ流れてくるのは、筏の上にしかと立てられた絞首台だったのである。三つの屍体がその横木に吊るさがっていた。病的な好奇心が私をとらえた。私は絞刑者の顔をひと眼見たいと思った。私の命令で漕手達が鉤竿を筏にひっかけたので、小舟は漂う絞首台に衝きあたった。私は筏へ飛び移って、恐しい柱の間に立った。満月が、不幸な人々の醜くされた顔を照らしていた。一人は年老いたチュワーシ人(ウグロ・フイン族の一派。カザン、シンビールスク地方に住む半異教徒)で、いまひとりはロシヤ農民、逞しく岩乗そうな二十歳ばかりの若者だった。三人をひと眼見た瞬間、私は極度の驚きに打たれて、――悲痛な叫びを抑えることが出来なかった――それはワーニカだった。愚かな生れつき故にプガチョーフに味方した、あの哀れなワーニカだったのである。彼等の上には黒い板が打ちつけてあり、それには大きい白い文字で――「泥棒と暴徒」と書いてあった。漕手達は気にもとめぬ様子で、鉤竿で筏をとめたまゝ私を待っていた。私は再び小舟に戻った。筏は川下へ漂って行った。絞首台はなお暫く、闇の中に黒く見えていた。が、やがてそれも消えたころ、小舟は高く嶮しい岸に着いた。
私は漕手達に十分礼を与えた。と、そのひとりが私を、渡船場の近くにある村の名主の許へ案内してくれた。私は彼について一軒の百姓家へはいった。名主は、私が馬を求めていると聞くと、かなり無愛想な態度を見せかけたが、私の案内者が二言三言その耳に囁くと、そのぶあしらいは忽ち、性急なもてなし振りに変った。一分でトロイカの用意が整った。私は荷馬車に乗込んで、父の村へやることを命じた。
私は大街道沿いに、睡っている村々をかすめて馬車を急がせた。私はひとつのことを懸念していた――途中で阻止されることであった。ヴォルガ河上でのあの夜の邂逅が暴徒の存在を証明するものとすれば、同時にそれはまた、政府側の強力な対抗を物語るものでもあったからである。万一に備えて私は、プガチョーフのくれた通行証と、ズーリン大佐の命令書とをポケットに用意していた。併し私は、誰に会うこともなく、明け方には、父の村がその向うにある一条の川と樅林とを遠くに望んだ。馭者は馬に鞭を加え、十五分後に私は××村へ乗込んだ。地主邸は村の向うの端にあった。馬は全速力で走っていた。急に往来の真中で、馭者が手綱を控えはじめた。
『どうかしたのか?』と私は苛々して訊いた。
『関所ですよ。旦那。』と馭者は、きおい立っている馬をやっとのことで止めながら答えた。
実際、そこには柵があり、棒を手にした番人が立っていた。百姓は私の方へやって来て、身分証をと言いながら帽子をとった。
『どうしたというのだ一たい?』と私は彼に訊いた。『なぜこんなとこに柵を作ったんだ? お前は誰を見張ってるんだ?』
『実は、旦那、わしらあむほんを起してるんで。』と彼は頭を掻きながら答えた。
『じゃあ、お前達の御主人方はどこにいるんだ?』と私は、胸騒ぎを覚えながら訊いた。
『わしらの御主人はどこにいるってかね?』と百姓は応じた。『わしらの御主人さまあ穀倉にはいってるだよ。』
『どうして穀倉なんかに?』
『村書記のアンドリューシカが打込んだでさ。おまけに足枷まではめてね。陛下んとこへ引立ててこてんでさ。』
『えゝい! 馬鹿め、柵をあけろ。何をぼや〓〓してるんだ?』
番人はしりごみした。私は馬車から飛びおりると、彼の耳をひとつくらわして、(済まなかった。)自分で柵を押しのけた。百姓は間抜けな困惑の表情で私を眺めていた。私は再び車上の人となり、地主屋敷へ急げと命じた。穀倉は屋敷内にあった。閉めきった扉の前には、棒を持った百姓がふたり立っていた。馬車はいきなり彼等の鼻先にとまった。私は飛びおりざま彼等の前へ突進した。
『扉をあけろ!』と私は彼等に言った。恐らく私の剣幕が凄かったのであろう、ふたりは棒を投げ出して、逃げ去った。私は扉の錠前を、はずそうとしたり壊そうとしてみたりした。が、扉は樫だし、大きな錠前は動こうともしなかった。この時、下男小屋から若い百姓がひとり出て来て、権柄づくに、なぜ乱暴するのかと咎めた。
『書記のアンドリューシカはどこにいる?』と私は咬みつくように言った。『そいつをこゝへ呼んでこい。』
『アンドレイ・アファナーシエヰ゛ッチならわしだがね、アンドリューシカ(アンドレイの卑称)じゃないんでね。』と彼は、えらそうに両手を腰にあてながら答えた……『何か用かね?』
返辞の代りに私は、彼の襟髪掴んで穀倉の扉の前へしょびいて行き、開けろと命じた。書記は強情を張りそうにしたが、親父流の仕置はこいつにもききめがあった。彼は鍵を取出して穀倉の扉をあけた。私はひと息に中へ飛び込んだ――と、天井にあけてある細い明りとりから僅かに光のさし込んでいる暗い片隅に、母と父の姿が見えた。ふたりとも両手を縛られ、足には足枷がつけられていた。私は飛びついてふたりを抱きしめたが、一言も口は利けなかった。ふたりは眼をまるくして私を見ていた――軍隊生活の三年は、父母にも見分けがつかぬほどに、私を変えてしまったのである。
突如、私は耳慣れた可憐な声を聞きつけた。
『ピョートル・アンドレーイチ! あなたですね?』
私は振返った――そして別の隅に同じように縛られているマーリヤ・イワーノヴナを見出した。私は棒立ちになってしまった。父は、われとわが身が信じられない様子で、言葉もなく私を見つめていた。その顔には喜びの色が輝いていた。
『おゝ、おゝ、ペトルーシャ!』と父は、私を胸に抱きしめながら言った。『なんという有難いことか、生きてお前に会えようとは!』
母はあゝとばかり、あとはたゞ涙であった。
『ペトルーシャ、わたしの大事なペトルーシャ!』と母は言うのだった。『どうして帰ってこられたの? 達者かえお前?』
私は急ぎ剣をぬいて彼等の縄目を切り、三人を幽閉から連れ出そうとした。ところが、戸口へ近づいて見ると、扉がまたもと通り閉っていた。
『アンドリューシカ!』と私は叫んだ。『開けろ!』
『へん、いやなこった!』と扉の外から書記が答えた。『お前もそこに坐ってるだよ! 乱暴を働いたり、陛下のお役人の頸根っこを掴んで引きずりまわしたり、そのお礼はいまにたんとしてやるでな!』
私は、なんとか脱け出す工作はあるまいかと、穀倉の中を見廻しはじめた。
『そう気を揉むな。』と父は私に言った。『わしは泥棒みたいにこそ〓〓自分の穀倉へ出入出来るような主人じゃないよ。』
母は、私の出現に喜ばされたのも一時で、私までが一家の非運をわかたねばならぬ羽目に落ちたのを見ると、絶望に沈んでしまった。併し私は、両親やマーリヤ・イワーノヴナと落ち合ってからは、前より落ちついて来た。私には剣と二挺のピストルがある――まだ包囲を支えるだけのことは出来よう。夕方までにはズーリンがやって来て、私達を救い出してくれるだろう。私は一部始終を両親に告げて、母とマーリヤ・イワーノヴナを落ちつかせることが出来た。そこで初めてふたりは、再会の喜びに浸りはじめた。そしてその後の数時間は、相互のいたわりや尽きぬ物語の間に、いつともなく過ぎてしまった。
『さてピョートル、』と父は私に言った。『お前がいろ〓〓わがまゝを働いたので、おれも実はいいかげん腹に据えかねていた。だが、済んだことは言ってもはじまらん。これからはお前も性根を入れかえて、真面目になってくれるじゃろう。お前が名誉ある将校として、立派に勤務したことはわしもよく知っとる。いや有難う、お前はこの老人をよく慰めてくれた。なおこの上お前に助けて貰えるようだったら、わしの生活は倍も楽しいものになるじゃろう。』
私は涙を流して父の手に接吻し、マーリヤ・イワーノヴナをじっと見たが、彼女は私の一緒にいることがよく〓〓嬉しい様子で、完全に幸福で落ちついているらしかった。
午頃、私達はたゞならぬ物音や叫び声を聞きつけた。
『なんだろう?』と父は言った。『お前の言った大佐がもう来てくれたんじゃなかろうか?』
『いや、そんな筈はありません。』と私は答えた。『夕方前にはこない筈ですから。』
騒ぎは大きくなった。警鐘を打ち出した。屋敷内を騎馬の人々が駈け廻った。この時、壁にあいている細い隙間から、サヴェーリイチの白髪頭がのぞいた。そして私の可哀そうな傅役は、悲痛な声で言った――
『アンドレイ・ペトローヰ゛ッチ! ねえもし、若旦那、ピョートル・アンドレーイチ! マーリヤ・イワーノヴナ! 大変なことになりました! 悪者どもが村へ乗込んで来ました。それもどうでしょう、ピョートル・アンドレーイチ、誰が連れて来たとお思いですか? シワーブリンですよ、あのアレクセイ・イワーヌイチですよ、ほんとにあの畜生め!』
この呪わしい名を聞くと、マーリヤ・イワーノヴナは両手を打合せたまゝ、釘づけになってしまった。
『おい!』と私はサヴェーリイチに言った。『誰かを馬で渡場までやれ、軽騎兵聯隊を迎いに。そしておれ達の危急を大佐に知らせるんだ。』
『だって若旦那、誰をやればいゝんです? 小忰どもは全部謀叛方だし、馬はみんな取られてますよ。あゝ! もうお屋敷内へはいって来ました! 穀倉の方へやって来ます。』
この時、扉の外で数人の人声がした。私は母とマーリヤ・イワーノヴナに、片隅へ退っているように合図をすると、軍刀引抜き、戸口際の壁に身を寄せた。父はピストルを両手に握り、二挺とも撃鉄をあげて、私の横に立った。錠前ががちゃりと鳴り、扉が開いて書記の頭が現われた。私がそれを目がけて一撃すると、彼は倒れて、入口をふさいでしまった。同時に、父は戸口めがけてピストルを発射した。私達を包囲していた群集は、呪咀の声を挙げて逃げ散った。私は負傷者を閾からひきずりのけて、扉をあけた。
屋敷内は、武装した人間で一ぱいだった。その中に私はシワーブリンの姿を見つけた。
『恐がることはありませんよ。』と私は女達に言った。『安心していらっしゃい。それからお父さん、もう射たないようにして下さい。最後の弾丸だから大事にしましょう。』
母は黙ってお祈りを上げていた。マーリヤ・イワーノヴナは天使のような安らかさで、自分の運命の決定を待ちながら、その傍に立っていた。扉の外では、威嚇や、罵言や、呪咀の声が響いていた。私はもとの位置に立って、真先に飛び込んでくる無法者を叩き斬ろうと身構えていた。急に、悪党どもは鳴りをひそめた。私は、私の名を呼ぶシワーブリンの声を聞いた。
『おれはこゝだ。何か用か?』
『降服しろ、グリニョーフ――反抗は無益だ。年寄り達を気の毒と思え。強情はお前を救うものではないぞ。いまに痛い眼を見ねばならんぞ!』
『やってみろ、裏切者め!』
『おれは愚にもつかんことに頭を突込むような馬鹿はせん。また部下を浪費することもせんのだ。それよりこの穀倉に火をかけさせて、そこで貴様がどうするか高見の見物としゃれてやる。なあ、ベロゴールスクのドン・キホーテ! だが、ちょうど食事時だ。そのあいだ坐ってよく考えとけ、暇なうちにな。じゃ、またくるぞ! それからマーリヤ・イワーノヴナ、あなたにお詫びは言いませんよ――暗がりでも騎士と一緒にいりゃ淋しいこともあるまいからねえ。』
シワーブリンは、穀倉の前に見張を残して立去った。私達は黙っていた。誰もみな自分の考えを人に伝えるだけの気力はなく、自分だけで思案しているのだった。私は、怨恨に燃えるシワーブリンが意趣返しにやる一切のことを心に描いてみた。わが身のことなぞ私は殆ど気にかけなかった。本音を吐こうか? 私の両親の運命すら、マーリヤ・イワーノヴナのそれほどには、私を戦慄させはしなかったのである。私は、母が百姓達や屋敷の者達に立てられていることを知っていた。父も、その厳格さにも拘らず、もと〓〓公平で、自分に隷属する村人の真の窮乏を知っていたため、やはりみんなから愛されていた。彼等の暴発は過誤であり、一時の酔いであって、彼等の憤慨の現われではなかった。自然赦免ということも或る程度考えられた。そこへ行くと、マーリヤ・イワーノヴナは? あの破廉恥な痴漢は彼女にどんな運命を用意しているだろう? 私は、この恐しい想念に長くとゞまってはいられなかったので、再び彼女を残虐な敵の手中に見る前に、いっそひと思いに(神よ、赦したまえ!)殺してしまおうと覚悟した。
また一時間ばかり過ぎた。村の方では、酔払いどもの歌声が聞えていた。私達の見張どもはそれが羨しくなり、私達を憎らしがって、罵ったり、拷問と死を以て威したりした。私達はシワーブリンの威嚇の結末を待っていた。遂に、屋敷内がひどく騒がしくなり、私達は再びシワーブリンの声を聞きつけた。
『どうだ、決心がついたかね? 進んでおれに降参するかね?』
誰も答えなかった。
暫く待ってから、シワーブリンは藁を運ばせた。数分すると、ぱっと火が燃えあがって、暗い穀倉を明るく照らした。煙が閾の隙間から流れ込みはじめた。
その時、マーリヤ・イワーノヴナが私のそばへ来て、私の手をとると、静かに言い出した――
『もう沢山ですわ、ピョートル・アンドレーイチ! わたしのために御自分と御両親を犠牲になさることはおやめになって下さいまし。シワーブリンだって、わたしの言うことは聴いてくれましょう。わたしを出して下さいまし!』
『何を言うんです!』と私はかっとなって叫んだ。『あなたを待っているものがなんだか知ってるんですか?』
『恥じを受けたら生きては居りませんわ。』と彼女は従容として答えた。『けれど、ひょっとするとわたしは、自分の命の親であるあなたと、みじめな孤児をこんなにも御親切に養って下さいました御一家をお救い申すことが出来るかも知れません。御機嫌よう、アンドレイ・ぺトローヰ゛ッチ! 御機嫌よう、アヴドーチヤ・ワシーリエヴナ! おふた方はわたくしにとって恩人以上の方でございます。わたくしを祝福して下さいまし。では、あなたも、御機嫌よろしう、ピョートル・アンドレーイチ。どうぞこれだけは信じていて下さいましね、あの……あの……』
そこで彼女は泣き出して、両手で顔を蔽ってしまった…… 私はもう狂人だった。母は泣いていた。
『わかった、わかった、マーリヤ・イワーノヴナ、』と父は言った。『誰があんたをひとり泥棒の中へ出してやるものかね? さ、もうなんにも言わんでこゝに坐っておいで。なあに、死なば諸共さ。や、お聴き! 何かまだ言ってるぞ?』
『降参はどうだ?』とシワーブリンは叫んだ。『見ろ、五分もすりゃみんな黒焦げだぞ。』
『誰が降参するか、悪党め!』と父がしっかりした声で彼に答えた。雛深い父の元気な顔は、不思議なほど生きいきしていた。双の眼は、白い眉毛の下からきら〓〓光っていた。私の方を向くと、彼は言った――
『さあ、今だ!』
彼は扉を開けた。火はどっと流れ入り、乾いた苔で隙間をつめてある丸太を這って燃えあがった。父は、一発ぶっ放すと、燃えている閾を跨ぎ越して、叫んだ――
『おれにつゞけ!』
私は母とマーリヤ・イワーノヴナの手をとり、素早く外へ連れ出した。閾際には、父の衰えた手で射たれたシワーブリンが倒れていた。賊徒の群は、予期せぬ私達の出撃に一たんは逃げ出したものの、すぐ勢いを盛返して、私達を取巻きはじめた。私はなお二三人には斬りつけたが、敵の投げた煉瓦が小癪にもまともに私の胸を打った。私は倒れて、一瞬間気を失い、その間に敵に囲まれて、武器を奪われてしまった。気がついて見ると、血に染まった草の上にシワーブリンが坐っていて、その前に私達一家が引据えられていた。
私は両手をしめ上げられていた。百姓、コザック、バシキール人などの一団が私達を取囲んでいた。シワーブリンはひどく蒼白な顔をしていた。彼は片手で傷ついた脇腹をおさえていた。その顔は苦痛と憎悪を現わしていた。彼はのろ〓〓と頭を上げ、じろりとひと眼私を見ると、消え入るような不明瞭な声で言った――
『こいつを絞めろ…… ほかの奴等も……娘のほかは……』
群衆は忽ち私達を取巻き、門の方へしょびいて行った。ところが、俄かに私達を棄てて、われがちに逃げ出した。――恰もよし門内へ、抜刀した騎兵中隊を提げて、ズーリンが乗込んで来たのだった。
賊徒どもは乱離忽敗《らんりこつぱい》に逃げ散った。軽騎兵達は追いすがり、斬り倒したり生捕にしたりした。ズーリンは馬から飛びおりると、父と母に会釈して、私の手を強く握った。
『ちょうど、間に合いました!』と彼は私達に言った。『や! 君の花嫁さんも御一緒だね!』
マーリヤ・イワーノヴナは耳まで赤くなった。父は、彼の傍へ近づいて、感動はしていたが落ちついた様子で、彼に謝辞を述べた。母は彼を救いの天使と呼んで抱きしめた。
『どうかわたしどもへおいで下さい。』父は彼にこう言って、家の方へ案内した。
シワーブリンの傍を通りかゝると、ズーリンは足を止めた。
『これは誰です?』と彼は負傷者を見ながら訊いた。
『こいつが一揆の隊長でしてな。』と、父は老軍人特有の或る誇らしさを以て答えた。『神様がわしの衰えた手を助けて、この若い悪党を罰せられ、序でに忰の流した血の復讎をさせて下すったわけですて。』
『こいつだよ、シワーブリンは。』と私はズーリンに言った。
『シワーブリン! そいつは大手柄だ。おいみんな、こいつを連れて行け! それから軍医に言うんだぞ、傷をよく繃帯して、大事に扱ってくれってな。シワーブリンはどうしてもカザンの秘密委員会へ突出さなくちゃならん奴だ。こいつは主犯のひとりだから、その陳述は重要な筈だからな!』
シワーブリンは朦朧とした眼を開いた。その顔には、肉体の苦痛以外、何も現われていなかった。軽騎兵等は彼をマントに載せて運び去った。
私達は家へはいった。私は、自分の幼年時代を思い出しながら、胸躍らせてあたりを眺めた。家の中は何ひとつ変っていないで、すべてが元のまゝであった――シワーブリンも堕落はしながら、不面目な貪欲を忌む心だけは、さすがに失わなかったものか、家財の掠奪は許さなかったのであった。
召使達が控室へ出て来た。彼等は一揆に加わっていなかったので、心から私達の救われたのを喜んでいた。サヴェーリイチは大得意だった。そのいきさつはこうである、賊徒の来襲によって惹起された騒乱の只中に彼はへ駈けつけ、そこに繋がれていたシワーブリンの馬に鞍をおき、こっそり引出すと、折柄の混乱に乗じて、うまく渡場まで駈けつけた。こうして彼は、聯隊が既にヴォルガのこちら側で休息しているところへ行きあわせた。ズーリンは、彼から私達の危急を知ると、即時乗馬を命じて、進め、駈歩! の号令とともに、幸いにも危機一髪の際に乗りつけてくれたのだった。
ズーリンは、村書記の首を数時間居酒屋のそばの竿に曝すようにと主張した。
軽騎兵達は、数人の捕虜をひいて追撃から帰ってきた。捕虜どもは、私達があの記念すべき包囲を支え通した同じ穀倉へ閉じ籠められた。私達は銘々の部屋へ引取った。老人達には休息が必要だったからである。ひと晩一睡もしなかった私は、寝床の上へ身を投げると、死んだように寝入ってしまった。ズーリンは隊の指図に出て行った。
その晩、私達は客間のサモワールを囲んで、過ぎ去った危難のことを楽しく語り合った。マーリヤ・イワーノヴナはお茶の給仕を勤めた。私はその傍に座をしめて、彼女ひとりに心を占められていた。両親はふたりの睦じさを、好意の眼で眺めていたようだった。この晩のことは、今なお私の記憶に生きている。私は幸福だった、完全に幸福だった。みじめな人間の生涯に、このような瞬間がそう度々あるであろうか?
翌日、百姓達が屋敷へお詫びに来ていると、取次が父に知らせて来た。父はあがり段の上まで出て行った。父の姿を見ると、百姓達は跪いた。
『ふん、どうしたというのだ、馬鹿者めが?』と父は彼等に言った。『なんだとてまた謀叛など起す気になりおったのか?』
『済みません、御主人さま。』と彼等は声を揃えて答えた。
『全くもって相済まんことだぞ! さんざわる騒ぎをしおって、自分達も嬉しくないんじゃろうが! 神様が、忰ピョートル・アンドレーイチにお引合せ下された喜びに免じて、今度だけは大目に見てくれる。よし、もうよいわ――悔悟した首は剣も切れんというでな。』
『わるうございました。ほんとにわるうごぜえました!』
『おかげでこゝんとこお天気続きじゃ。乾草集めにゃこの上ない時だに、馬鹿者めが、お前達ゃまる三日何をして暮していたのか? 村老! ひとり残らず草刈に出動じゃ。そして気をつけろ、赤毛の悪魔め、イワン様の日(六月二十四日)までにゃ、うちの乾草を全部積み上げるんだぞ! よし、引取れ!』
百姓達はひとつお辞儀をすると、何事もなかったような顔をして、賦役仕事に出て行った。
シワーブリンの負傷は致命的のものではなかった。彼はカザンへ護送された。私は窓から彼が馬車に乗せられるところを見ていた。私達の視線が合った。彼は面を伏せ、私は急いで窓をはなれた――敵の屈辱と不幸に対して勝ち誇るような顔を見せるのが好ましくなかったからである。
ズーリンは更に前進しなければならなかった。私は、なお数日を家族と共に送りたいは山々だったが、やはり彼に従って進発することにきめた。出発の前夜、私は両親の許へ行き、当時の習慣通り彼等の足下にひれ伏して、マーリヤ・イワーノヴナとの結婚に対する祝福を乞うた。老人達は私を抱き起し、嬉し涙にくれながら、同意を表明してくれた。私は、蒼くなって顫えているマーリヤ・イワーノヴナを両親の前へ連れて行った。こうして私達は祝福を受けた。その時私が何を感じたか、それを書くことは差控えよう。よし書かずとも、私の立場に身を置いたことのある人には、わたしの気持はわかってもらえるだろう。またそうした経験のない人に私として出来ることは、たゞいかにもお気の毒なことだと思い、そして時機の去らぬうちに早く恋をして、両親の祝福を受けられるよう忠告することだけである。
翌日聯隊は集結した。ズーリンは私達一家に別れを告げた。私達一同は軍事行動が間もなく終るであろうことを信じていた。ひと月もすれば、私は式が挙げられるものと期待していた。マーリヤ・イワーノヴナは、別れにあたってみんなの前で私に接吻してくれた。私は馬車に乗った。サヴェーリイチはまた私について来た。聯隊は出発した。私は再び後に見棄てて来た村の屋敷をいつまでも、遠く見かえりながら進んだ。不吉な予感が私の胸を騒がせていた。何者かが私の耳に、私にとって不幸はまだ全部去ったわけではないと囁くのだった。胸は新らしい嵐を予感していた。
私達の行軍や、プガチョーフ戦争の終結を記述することは差控える。私達は、プガチョーフに荒らされた村々を通り、貧しい住民達から賊徒の掠め残したものを本意ならずも徴発した。
住民達は誰に従うべきかを知らなかった。到るところで政治は停頓していた。地主達は森林に身を潜めていた。賊徒の一味は、行くさき〓〓で悪事を働いていた。当時既にアストラハンを指して遁走しつゝあったプガチョーフ追撃に派遣された諸部隊の隊長達は、独断で、罪ある者罪なき者を処刑していた。火の手の荒るるに任せた地方一帯の惨状は、全く言語に絶するものであった。神よ、希くば、二度と再びかゝる不条理且つ無慈悲なるロシヤの暴動を見せしめ給うな! わが国で不可能な変革を企てている人々は、若くしてわが国民を知らない人々か、或は己が首は一カペイカ、他人の首は四分の一カペイカくらいに心得ている、残忍な徒輩ばかりである。
『大尉の娘』は、散文小説中の代表作として、韻文小説『ヱヴゲーニイ・オネーギン』と対立するプーシキン芸術の最高峰である。この作者としては晩年に近い一八三三年(わが天保五年、プーシキン三十五歳)の一月に起稿され、翌三四年に一応は書き上げられたらしいが、その後幾度もの改竄彫琢を経て、同三六年十月に至り漸く最後の完成を見たもので、量(邦訳にして、三百余枚)に比して脱稿に意外な長年月を要している点でも、『オネーギン』と揆を一つにしている。最初の発表は一八三六年末、雑誌「現代人」の第四号においてであって、その時は無署名のまゝだったと伝えられているが、元来この雑誌はプーシキンによって創刊されたもので、その存生中の発行はこの第四号を以て最後とするけれども、その死後も長く続いて(約三十年)ロシヤ知識層の間に進歩的指導的役割を果した大雑誌である。
『大尉の娘』は一口にいえば歴史小説である。作者が少時から抱き、日と共に強化された歴史的関心の齎した所産である。何れの国の文学史で見ても、歴史小説、殊に成功した歴史小説はあまり多くは数えられない。ロシヤ文学にあってもこの事情に変りはないが、併しロシヤには、プーシキンのこの作以後、ちょっと考えただけでも、ゴーゴリの名作『タラス・ブーリバ』と、トルストイの大作『戦争と平和』との二つの作品がすぐ思い浮べられる。そして『大尉の娘』は、謂わばこの二篇の先駆であり先蹤であって、一般的には実にロシヤの歴史小説に一つのすぐれた型を与えたものといえるのである。即ちゴーゴリは、小ロシヤの歴史の最も興味深い第十五世紀の一時期を背景として当時のコザック生活を描き、トルストイは、ナポレオンのロシヤ侵入なる近世の大事件と並行に、十九世紀初頭のロシヤ生活の活画図を与えているのであるが、両者ともにその作品としての成功の秘訣を歴史的要素と家庭記録的な要素との渾然たる融合のうちに見せている点、プーシキンが『大尉の娘』において試みて成功した足跡を踏襲しているものといえるのである。これは殆どすべての評家の一致せる意見であって、由来尨大な作品によって特色づけられているロシヤ文学において、量的には渺たるこの一中篇小説が、一個独立せる作品としての価値もさることながら、文学史的に異常ともいうべき評価を与えられている稀有な現象を説明するものである。
『ロシヤ帝国史』十二巻の著者として有名な詩人カラムジン(一七六六――一八二六)は、プーシキンの父とほゞ同時代人であり、且つ彼と親交があった。自然プーシキンは、少年時代から個人的にこの大家に親しみ、学習院《リツエイ》時代の後期(十七八歳の頃)には絶えずカラムジンを訪問してその薫陶を受けたりした。この伝記上の事実がどの程度プーシキンの歴史への興味の眼ざめに影響しているか、その辺は詳かでないが、一八一八年(二十歳)にその第一巻を上梓した『ロシヤ帝国史』がそれに大なる役割を果したことは、プーシキン自身の日記その他によって明らかである。
それはともあれ、プーシキンの歴史への関心は年と共に深まり、その最後の結実が一八三三年の『プガチョーフ史』(後、三五年の初めに『プガチョーフ叛乱史』と改題して公刊)の脱稿となり、それと並んで本書『大尉の娘』の執筆となったのである。だから、これこそは実に、彼の歴史研究の余録であり、歴史家プーシキンとの合作的成果とも見らるべきものであるだけそれだけ、本書をよりよく理解するためには、一応歴史――プガチョーフ叛乱の事蹟を知っておく必要があるのである。
プガチョーフの叛乱は、有名なエカテリーナ二世(大女帝)の治世に起った大不祥事件である。エカテリーナ二世はドイツ人であり、フリードリッヒ大王の同時代人であったが、ピョートル大帝の孫ピョートル三世の妃となるや、極端なドイツ心酔による夫ピョートルの不人気を利用してそれを追い、退位を余儀なくせしめて帝都に近いロプシヤ城に幽閉した上、自身その後を襲って帝位に即いた野心的な女性である。それは一七六二年六月のことであったが、廃帝ピョートル三世は、幽閉の後数日にして、なんの原因もなく急死してしまった。実は、エカテリーナの腹心アレクセイ・オルロフ伯を中心とする一味によって弑殺されたものであるが、この事件にエカテリーナが直接関係があったかどうか確実なことはわかっていない。併しこの崩御に絡まる神秘の暗雲が、後十年余を経た一七七三年にプガチョーフをして、われこそ身を以て免れたピョートル三世であると大胆不敵な声明を敢てせしめる機縁を作ったことは確実で、歴史探究の途上はしなくプーシキンがこの怪人物の上に特殊な興味を見出したのも、亦故なしとしないのである。では、プガチョーフとは抑も何者か?
エメリヤン・プガチョーフ(一七四四――七五)はもとドン・コザックの貧農の出身で、目に一丁字なきたゞのコザックであり、ステーピ(草原地方)の盗賊の一頭目にすぎない。勿論、容貌においても主張においても、ピョートル三世とは似ても似つかぬ存在であったのだが、七年戦争・トルコ戦争等に従軍した経歴を持ち、人に長たるの資質を具えていたと見え、農奴制の桎梏から農民を解放し地主貴族を一掃するを名として蹶起するや、忽ち、丁度百年前のステンカ・ラージン(コザックの頭目一揆の首領)の周囲に被圧迫階級の大衆が集まったように、多くの集団が傘下に集まって、一時各地に猛威を振い、上下を震撼せしめるに至ったのである。一七七三年九月十七日の蜂起以来、この大動乱は約二年続いたのであるが、やがて将軍スヴォーロフの率いる有力な政府軍の追跡に会うや、徒党内に内訌を生じ、事の遂に成るべからざるを覚った一部の部下によってプガチョーフは政府側に引渡され、モスクワに護送されて、一七七五年四つ裂きの極刑に行われた――というのが事件のあらましであるが、併し彼が真にピョートル三世であったという信念は、その後も長くロシヤ国民の間に生きていたといわれている。
ロシヤ史を繙いて注意を特にこの事件に吸い寄せられた時、プーシキンの取った態度は史家としても作家としてもまことに良心的であったということが出来よう。即ち、かねて出入を許されていた文書保管所において、当時の困難な事情をも顧みず、特にプガチョーフ鎮圧に大功のあったスヴォーロフ将軍の事蹟探究を名として、この動乱関係の史料閲覧を願い出で、許されるや勇躍してその研究に没頭する一方、同じ秋にはこの叛乱の舞台であったニジニノーヴゴロド――カザン――シムビールスク――オレンブルグ等を歴訪して親しく現地調査を行いつゝ、その年の十一月には早くも『プガチョーフ史』を脱稿するという熱心振りであった。『大尉の娘』がこの研究著述の完成と並行的に、一八八三年一月から着手されたことは、前に述べた通りである。
歴史小説である以上、史上実在の人物が作中人物として重要な位置を与えられていることは当然で、この方面への一瞥も、この小説の興味を深める上に必要であろう。第一に、本篇の主人公であるグリニョーフなる姓は、マンスーロフ将軍麾下の一隊長として対プガチョーフ戦に参加した一中佐の帯びていたものであり、いま一人のグリニョーフは、一度は僣称者に加担せりとの嫌疑の下に監禁されたが、一七七五年の判決により無罪を認められて釈放された退職少尉である。またシワーブリンは、最初の腹案ではシワンヰ゛ッチなる姓を与えられて居り、これは「宣誓の義務を忘れて賊徒の一味に投じ、名誉ある死よりも卑劣な生を選んで僣称者の命に盲従した罪に対し」一七七五年の判決により処刑された史上実在の貴族ミハイル・シワンヰ゛ッチ少尉を原型とするものであった。なお、小説の主人公は初めバシャーリン(兵達の命乞いによりプガチョーフに赦免されたイリインスカヤ要塞の司令官の姓による。)と名づけられていたが、後ブラーニンと改められ、最後の仕上げで本書の如くグリニョーフと決定されたものである。
この小説に無上の生彩を与えている生活記録的要素を成す二つの家族の一つ、グリニョーフ家(主人公側)の史的考察は以上で尽きるが、いまひとつの家族(女主人公側)ミローノフ家の実在性には、今のところちょっと調査の手がかりがない。現に、時の検閲官P・A・コルサコーフが『大尉の娘』に関しプーシキンに与えた書簡(一八三六年十月十八日附)で、『大尉の娘』が何等非難さるべき点のない旨を通告した上、併しやはり「ミローノワ嬢(マーシャ)は実在せる人物なりや、また彼女が故女帝に拝謁せるは事実なりや否や」を通報されたしと乞うている一事から見ても、その固定的実在性は否定の方へ傾きがちで、寧ろこの一家――老大尉ミローノフ夫妻とその娘マーシャ、及び主人公の傅役サヴェーリイチの性格は、この作者の民族精神に向けられた興味の結晶であり、詩人の犀利な眼に映じた第十八世紀末葉のロシヤ精神の一般的具象化として、この作者のすぐれた創造と見るべきであろう。尤も、「オレンブルグ地方によく知られている一挿話」をもとにしてこの作の構想を得たとは作者自身の言であるから、そうした伝説的事蹟の幾分が実在したことには、多少の根拠があったかも知れないのである。
当時のロシヤ文学には外国文学の影響――就中英国文学の影響が一般的にも著しいが、プーシキンには別して明瞭にその径路があとづけられる。即ち『オネーギン』(一八二三――三二)にはバイロン、史劇『ボリス・ゴドゥーノフ』(一八二五年)にはシェクスピヤと、プーシキン自身の成長を裏づける文学上の師がまぎれもなく指摘されると同程度に、歴史小説『大尉の娘』にはウォルター・スコットの影響の大きいことが、なんとしても見のがせない。殊に、本篇十四章におけるマーリヤ・イワーノヴナの状況と、スコットの『エヂンバラの牢獄』の女主人公ジェンニイとの相似の如き、その顕著なるものである。(ジェンニイは子供殺しの嫌疑により死罪を宣告された姉の赦免運動をアルガイリ公に願うべく徒歩でロンドンへ赴く。)併し、これはあくまでも単なる影響であり、示唆であって、作家としてのプーシキンの本質的価値に何等の割引を強要するものでないことは言を俟たない。殊に、冗漫、単調、重複など、スコット芸術の弱点がプーシキンに全然ない一事に徴しても、これは自明の理といわなければならぬ。
『大尉の娘』一篇が、その構成において手法において如何にすぐれたものであるかは、本書自身が雄弁にそれを語っている。或る評家は、これを以て散文芸術の極致として、近代写実小説の源流とたゝえ、或る評家は、プーシキンはこの小説において「最高の完成を達成した、――自然そのものの素朴単純に到達した」と言い、殊に有名な大批評家ベリンスキイの如き、『大尉の娘』を散文の『オネーギン』と名づけて「大部分の情景が、内容の真と記述の技法から見て、完成の奇蹟である」とまで激賞している。その外、この一篇が、そのすぐれた生活記録的面において、その後の洋々たるロシヤ・リアリズム文学の発展に及ぼした静かな広い影響等、この作の価値について説くべきことは多々あるが、これらはすべて本全集第一巻に附加される「プーシキンの散文」なる小論との重複を慮って、こゝでは触れない。さもあれ、この一篇を読了して「調和の詩人」と呼ばれるプーシキンの本質を全的に感得しない読者は恐らくあるまいと考える。
最後に、第十三章の補遺について一言する。これは、その註記にも記した通り、最後の仕上げに当ってプーシキン自身の手で削除された個所であり、モスクワ博物館に保存されている最初の原稿から後人によって収録されたものであるから、これを棄て去った作者の正しい意志を尊重すればもとより、作品全体から見ても無くもがなのものであることは、読者のひとしく認められるところであろうと思う。併し、芸術家プーシキンの透徹した鑑識を窺う上に興味深い点もあるので、本訳書でも敢て原書編纂者の顰みに倣ったわけである。
中 村 白 葉
昭和二十二年秋
プーシキン小伝 中村白葉
一、幼年時代
二、リツェイ時代
三、首都時代
四、流謫時代(一)
五、流謫時代(二)
六、首都時代(再び)
七、家庭生活・死
一 幼年時代
ロシヤ文学の輝かしい太陽――アレクサンドル・セルゲーヰ゛ッチ・プーシキンは、一七九九年の耶蘇昇天祭の日(露暦五月二十六日)モスクワに生れた。父は古いロシヤ貴族であり、母は「ピョートル大帝の黒人」として有名なイブラヒーム・ペトローヰ゛ッチ・ハンニバルの孫で、麗名一世に高かったナデージタ・オーシポヴナ・ハンニバルであった。このアフリカの黒人は、もとアビシニヤの生れであったが、幼少のころ人質としてコンスタンチノープルへ送られ、後ロシヤ大使の手に渡り、ピョートル大帝への贈物として露都へ伴われ、大帝の忠僕となり将官となってその事業を助けた人物で、後にプーシキンが自作の散文小説中でその数奇な生涯を不滅にしたことは周知の事実である。プーシキンのロシヤ式ならぬ風貌(縮れた頭髪、突出した頬骨、やゝ茶褐色を帯びた顔)と熱し易い性情とは、まぎれもないかゝる母系の遺伝と見るべきであろう。とはいえ、父系の血統も決して看過されるべきでなく、十三世紀以来六百年の歴史を持つ由緒ある家柄の伝統は、彼の血脈に深い痕跡を残して生活の多くの契機を支配したといわれ、彼の作品に窺われる国史に対する深い愛と理解も亦それに基づくものと観られている。殊に父セルゲイ・プーシキンは、当時としては優良な教育を受け、文学に趣味を有し、自身詩作なども試みる底の人で、その客間へは常に当代文界の代表的な人々――カラムジン、ドミートリエフ、ジュコーフスキイ等が出入したというから、詩人の豊かな趣味性には、多くこの面からの遺伝もあったと観なければならぬ。
併し、この両親はともに子女の教育にはあまり意を用いなかったらしい。前に述べた通り、母は美貌を謳われた社交夫人の常として家庭を顧みること少く、父も劣らず派手好きで暢気な性質から、専ら社交界の逸楽に身を委ねて、子女の教育に関心を持つ遑がなかったというのが、実情らしく思われる。殊にプーシキンは幼年時代妙に寡黙鈍重な子供であった点もひとつの原因で、両親の愛を受けること薄く、淋しい日々を送らねばならなかった。彼には、一人の姉と一人の弟とがあったが、この姉弟のことは、弟レフが兄を凌いで両親の寵児であったという以外、殆んど何事も伝わっていない。それはともあれ、かゝる事情の下に家庭的に不幸であったプーシキンの幼時は、余儀なく他の人々の感化の下に過ぎたのだったが、結果から見るとこの事実は、殊にロシヤ文学の面に於いて、将来の文豪を生むに寧ろ重要な契機の一つとなったのである。蓋し「プーシキンの保姆」として文学史上に有名な保姆アリーナ・ロヂオノーヴナの登場も、この事情に促がされた一つの現象で、この保姆の存在は、生粋のロシヤ婦人である母方の祖母マリヤ・アレクセーエヴナ(父同様プーシキン家の出であった。)と共に、プーシキンの幼少時代とは全く不可分な関係にあり、当時の上流社会一般の例に洩れず、全然フランス式であったプーシキンの教育に、ロシヤ的要素となってフランスの影響とバランスを保つ重要な役割を担ったからに外ならない。即ち、後に新らしいロシヤ文学語の制定者と呼ばれたプーシキンに初めてロシヤ文字を教え、自らの記憶に残るピョートル大帝時代のくさ〓〓を語り聞かせて、祖国の歴史や祖先の閲歴に対する興味の眼ざめを与えたものは、祖母マリヤ・アレクセーエヴナで、冬の吹雪の夜など、仄暗い燈火の下、自身は編物などをしながら、記憶に蔵するロシヤ国民芸術の無限の宝庫――民謡・民話・伝説・俚謡などを面白おかしく話し聞かせて少年の慰安者とも遊び相手ともなり、無意識のうちにロシヤ国民精神に対する直覚を眼ざめさせたものは、保姆のアリーナであった。彼女は善良な、純ロシヤ型の婦人であったが、この単純な婦人のプーシキンに及ぼした影響は、恐らく彼が父の書庫で読んだフランス物のそれより一層深く、バイロンの影響よりも一層永続性に富んだものであったといわれ、一農婦の身を以て祖母マリヤにもましてプーシキンの名と共に永くその名を記念せらるるに至ったのである。
以上のほか、好人物の素人詩人で、モスクワ社交界の愛嬌者であった叔父(父の弟)ワシーリイ・リヴォーヰ゛ッチも亦、年の行かぬ甥を文学仲間へ引入れて幼な心に芸術に対する興味を眼ざめさせた功労者の一人である。併しなんといっても、それらは皆他よりの影響で、プーシキンをしてプーシキンたらしめた素因は、彼自身の持って生れた天稟であること言を俟たない。
彼は、初めはまる〓〓と太った気分の平らかな少年であったが、やがて反対に癇癖の強い、熱し易い腕白者に変った。そして八歳の頃から、当時の習慣通りフランス人の家庭教師をつけられて、一応の教育を与えられたことにはなっているが、幾人も変ったその教師がどれも皆凡庸浅学の徒で、フランス語の習熟以上には何の感化をも与え得なかった点『大尉の娘』『ドブローフスキイ』『オネーギン』などに書かれたフランス人家庭教師と揆を一つにしている。しかもプーシキンは、十二歳にして早くも父の蔵書により第十八世紀フランス文学を古典からデカダン的内容を有するものまで読破しつくし、殊に十二歳の時には、家庭劇の台本として、モリエールを模倣したフランス語の脚本L'Escamoteur(かたり。)を書いたといわれている。一説には、彼の最初の詩作は九歳の頃であったと伝えられるが、いずれにしろ彼の天稟が尋常一様のものでなかったことを保証する点には変りはない。(因みに、未来の大国民詩人の少年期の試作が、専らフランス語で書かれているということは興味深い事実である。)
かくしてプーシキンの幼時は、祖母マリヤ、保姆アリーナ、フランス人の家庭教師、当代知名の文人及びフランスの影響から成立っているのであるが、やがて一八一一年一家のペテルブルグ移住と共に彼の生活も一変して、所謂リツェイ時代にはいる。即ち同年十月十九日、彼は父の友人A・ツルゲーネフの斡旋により、当時ツァールスコエ・セローに新設されたアレクサンドル・リツェイと称する貴族学校(学習院)へ入学せしめられるのである。時に年十三歳、プーシキンの幼・少年期は、こゝに截然たる一時期を劃する。
二 リツェイ時代
プーシキンのリツェイ時代は、単なる伝記的挿話たるにとゞまらず、ロシヤ文学史上極めて重要な一節を、即ち近代ロシヤ詩の輝かしい天真爛漫な揺籃時代を意味することは、一文学史家の喝破するところであるが、全くこの六年間(一八一一――一八一七)は、文豪の発達にとり文字通り極めて意義深い時期であったのである。
ツァールスコエ・セロー(皇帝の村)はペテルブルグの郊外にあり、エカテリーナ二世(大女帝)がヴェルサイユ宮を模して創設した離宮の所在地で、豪華な建築とそれを囲繞する林泉の美により名勝として知られている別荘地である。リツェイはこの離宮の一部、エカテリーナ時代は内親王の住居であったという四階建の内に設けられ、一階には事務所及び教職員の住居、二階には食堂、医務室、会議室、三階に教室、実験室、図書室、閲覧室、四階に学生の居室が置かれるという整頓振りであった。しかも、三十名の学生に対する室数は五十余もあったので、学生は各々一室を与えられ、プーシキンは第十四号室にいたと伝えられる。
皇室の保護の下に置かれたリツェイは、かくして万全の外的設備を持ったばかりでなく、教授陣にも当時の一流を網羅し、学生は文化の代表者たる上流貴族の子弟ばかりだったから、内容的にも野蛮な前時代の圧制的教育を一掃して、自由解放の精神に充ちた最も進歩的な(当時生徒に体刑の課せられなかった唯一の)学校であったといえる。即ち、プーシキンの発達に極めて有意義であったといわれる所以であるが、但しそれは、教師の感化や学校そのものの教育法よりも、さゝやかな同志の集まりに負う方が寧ろ多いとなす観方が正しいようである。人望のあった教授ガリチの如きすら、常に貴族学生の相手を勤めたと伝えられているくらいで、彼等学生は可なり不覊な生活を与えられ、詩作、雑誌発行、談話会、家庭演劇等の実際的活動にも相当活溌なものがあったらしい。自然文学趣味を同じくした同志も多かったが、中でもデルヰ゛ック男爵、コルサコフ、キューヘンベッケル、マリノーフキイ、プーシチンなどとは特に親交があった。彼等はいずれも詩作に長じ、プーシキンもこの時代から愈々その文学的傾向を顕著にして来て、彼等と競って詩作に従事した。尤も、当時はまだ多く模倣時代で、バルニー、ヴォルテール、オッシアン等の余風を受けた幾分軽浮なアナクレオン振りの詩や、書簡詩や、才気走った寸鉄詩等ではあったが、しかもいずれも軽快優美な点で驚くべきものあり、学生の詩につきもののぎこちなさなどは些かも見られなかったといわれ、殊に彼が十四歳の時に作った二三の詩は、当時の鬱然たる大家バーチュシコフ(一七八七――一八五一)の作品と、殆ど区別がつかなかったほどだといわれる。そして一八一四年(十六歳)六月には一流の公刊雑誌に彼の詩が登載されて、一部の人々の間に才能ある詩人として注目されるに至ったのである。併し、それだけではまだ断然儕輩を抜いたことにはならなかったが、その後半年ならずして遂にその時は来、そしてそれこそ、プーシキンの伝記中特筆に価いする事件であった。
一八一五年一月上旬、リツェイでは公開進級試験が行われた。当時アレクサンドル一世はウヰンにあり、親しく臨御はされなかったが、試験場にはなお多数の顕官、学者、文人が新設学校の教育成績を観るべく綺羅星の如く居流れて、場内の空気を荘重にしていた。その試験中、ロシヤ文学の部において、プーシキンは自作の詩――「ツァールスコエ・セローの思い出」を読んだのである。彼は後年或る手記の中で、この時の感激を次のように書いている――
『デルジャーヰ゛ン(一七四三――一八一六)は厳めしい礼装をしていたが、試験は非常に翁を疲らせたようであった。翁は手で頭を抑えて俯向いていた。つまり、ロシヤ文学の試験のはじまるまでは居睡りをしていたのである。併し、文学の試験がはじまると、翁は急に活気づき、まるで別人のような緊張を見せて来た。勿論、翁の詩を読む者もあり、それを解釈する者もあったのだ。こうして遂に私が呼び出された。私は、デルジャーヰ゛ンから二歩ばかりのところに立って朗読をはじめた。私はその時の自分の心持を語ることは出来ない。デルジャーヰ゛ンの名を挙げた一節まで読んだ時、私の子供らしい声は顫え、心臓は歓喜のために烈しく鼓動しはじめた…… 私は自分がどんな工合に朗読を終り、どこへ逃げ出して行ったか、覚えていない。デルジャーヰ゛ンはいたく感動して、私を抱きたいから捜してほしいと申出た……で、みんなは私を捜したが、遂に見出さなかった。』
当時デルジャーヰ゛ンはロシヤ詩壇の元老で、年も既に七十余歳であったが、伝えられるところによると、その時「もう私の時代は去った」と長大息を洩らした彼は、一年後の易簀を前にしてプーシキンを祝福し、謂わば塗油礼をとって年少の彼をロシヤ詩壇の王位にのぼせたのだと言われている。
この公開試験は、かくして一躍プーシキンの声名を高め、その将来に華々しいものを約束するに至ったが、有名な詩人ジュコーフスキイ(一七八三――一八五二)との特別の結びつきもこの頃からで、当時既に三十余歳、パーチュシコフと共に詩壇の最高位を占めていた彼が、自作の詩の発表に先だち、十六歳の少年プーシキンにいつもそれを読み聞かせて、彼に印象を残さなかったような作品は、全然破棄するか改作するかしたという事実の伝えられているのも、若きプーシキンの光栄を裏書きするものでなければならない。
この時期までのプーシキンの詩作は、専ら匿名で発表されていたのだが、「ツァールスコエ・セローの思い出」に至って初めて、完全なる署名の下に「ロッシースキイ・ムゼウム」誌上に掲載され、彼の名は一挙にして江湖に喧伝されることになった。プーシキン自身また自己の天分に対する信念を深くして、生涯をこの道に献げる決心を得たと伝えられるのもこの頃からで、なおこの時期以後彼には自己の体験外なる他人の世界観を理解する才能の萌芽がはじまり、主観的な抒情詩から次第に客観的な叙事詩に移り行く傾向が見えはじめた。彼がヴォルテールに私淑したのもこの時期であり、ヰ゛ヤーゼムスキイ、シーシコフ、ドミートリエフ、カラムジンの先輩詩人等と直接の交渉を持ちはじめたのもこの時期で、殊にカラムジンは、この夏ツァールスコエ・セローに居住したため、プーシキンは屡々その別荘に出入して、厚遇を受けたことが伝えられている。この外面的の目ざましい発達と歩調を合せて、内面的の成長にも亦見事なものがあった。ロシヤ古典の研究を志してそれに対する自家の意見を書き、仏訳を通してではあったが、ドイツの文学にも親しんで、漸く浪漫主義の領域へ進んだのも、この時期以後のことに属する。するうち間もなく、六年の歳月は流れて卒業期が来た。一八一七年六月、プーシキンは思い出多いリツェイの門を出て、十九歳にして初めて社会へ乗出すのである。
三 首都時代
リツェイ卒業と共に、プーシキンは外務省へはいって、ペテルブルグに居を定めた。(そこにはグリボエードフ(一七九五――一八二九智慧の悲しみの作者。)も少壮官吏として勤めていた。)蓋し彼の一生は、天才と暗愚で暴虐な周囲との闘争の痛ましいドラマであったといわれる生活が、これからそろ〓〓はじまるのである。
若く明るい希望を抱いて世に乗出した彼の前途に横たわる障碍は、まず第一に、彼に対する周囲の無理解であった。元来プーシキンは、自由を重んじる高潔な芸術家的気質と共に、一方強い世間的名誉心をも持っていたので、世に出るや早速外務省官吏の地位と父の勢力とを利用して、首都に於ける上流貴族の客間へ出入し、名門の子弟と共にカルタや舞踏に夜を明かし、酒と遊蕩に身を委ねた。併しこうした生活――『エヴゲーニイ・オネーギン』の冒頭に描写されたオネーギンの生活そのまゝの首都生活は、到底彼の資力以上であって、常に財政上の悩みを齎すとともに、少からぬ精神的苦痛にも値いしたのである。ほかでもない、一流の名士や貴族はとかく、まだ位階も官等もない白面の一青年を軽くあしらいがちで、彼の高い自尊心を傷つけることが多かったからである。次に挙ぐべきは、官憲の圧迫である。しかもこの方は、直接鷲の自由な高翔を妨げた点で、一層大きな意義を持つものかも知れない。当時プーシキンと親交があったのは若い知識階級中の自由主義者達で、矛盾と不合理に満ちた社会組織や政治状態に不満を抱き、理想のために殉じた十二月党(アレキサンドル一世時代、当時の進歩的知識層(貴族・将校)の一部が中心となり専制君主制の覆滅と農奴制の廃止を目的として結成された革命的秘密結社。ニコライ一世の即位当日(一八二五年十二月十四日)を期して蜂起せるも鎮圧さる)の人々であった。正義感に燃える若いプーシキンは、無論彼等の革新的風潮に煽られ、真実の確信からというよりロマンチックな冒険心に動かされて、秘密の政治的会合に参加したり、「国家に危険を及ぼす」諷刺詩や峻烈な寸鉄詩を幾つも書いたりした。しかもそれらの詩は、忽ち無数の筆写となって手から手へ渡り、ロシヤ全国で読まないものはないくらいに流布された。こうした状態がいつまでも秘密であり得る筈はなかった。やがてこの一事が、為政者をして彼に危険な自由思想の詩人なるレッテルを貼らせる機縁となり、彼をして無理解な保安課の役人や暴虐な検閲官の迫害と戦うべき一生の運命を担わせる原因となったのである。するうち、寧ろ極めて穏健な「自由」と題する頌詩が、皇帝アレクサンドル一世の眼にとまった。皇帝はこの若い政治犯人を、初めはシベリヤへ送り、次にはソロヴェーツキイ修道院に監禁しようと考えたが、その天才を惜しむチャーダエフ、カラムジン等先輩友人の奔走もあったので、結局南方僻遠の地へ追放することで満足した。即ち、南ロシヤのエカテリノスラフへ転任、南部殖民地総督インゾフ将軍の下に勤務せしめられることになったので、一八二〇年五月二十六日、彼の生涯に意義深き感ある耶蘇昇天祭の日に、彼は首都を去って南へ赴いたのである。
四 流謫時代(一)
南ロシヤにおけるプーシキンの生活は、それから一八二四年まで続くが、彼は、任地到着後日ならずしてチフスに罹り、一時生死の関頭を彷徨する。が、この苦い経験が逆に幸いして、彼はその予後をコーカサスとクリミヤの勝地に養い、そこで生涯中最も楽しかったといわれる数週を送ったのである。彼が初めてバイロンに接したのもこの時で、環境の変化は極めて好ましい効果を齎し、雄大なコーカサスの風光とイギリスの天才詩人の影響とは、彼の創作力に新らしい衝動を与えた。叙事詩「コーカサスの捕虜」(一八八二年)は、この頃の印象や感激を伝えたものとして有名である。
病気恢復後、彼はインゾフ将軍の転任に伴われて、ペッサラビヤのキシニョフへ移った。キシニョフは、欧洲文明とアジヤの半文明が雑然と入れまじったような辺境の一都市であった。プーシキンの生活はこゝでまた、首都時代(酒とカルタと女)の繰返しとなり、相当放縦な色調を帯びるに至る。即ち、彼の傑作叙事詩「ジプシイの群」(一八二七年)は当時幾日かキシニョフから姿を消してジプシイと流浪生活をともにしたという彼の体験の結晶であり、短篇「その一発」(ベールキン物語――一八三〇年)中に描かれた決闘の場で、相手の銃口を前に平然と桜んぼを噛む勇者は、当年の作家自身であるといわれている。併し、彼は決して一介の蕩児ではなかった。不検束な生活の一方、常に真摯なる努力を忘れず、インゾフ将軍の豊富な書庫を利用して自己完成に努めたことも事実で、その間に、『コーカサスの捕虜』『盗賊の兄弟』『バフチサライの泉』等の諸作を得たばかりでなく、主要作『エヴゲーニイ・オネーギン』も茲に起稿され、『ジプシイの群』も構想せられたのである。
一八二三年七月、プーシキンはオデッサ総督庁へ転勤を命ぜられ、ベッサラビヤの太守ウオロンツォフの下に勤務することとなったが、この新長官は官僚主義の権化ともいうべき一箇の専制君主だったので、プーシキンは遂に彼と折合わず、彼の迫害に対して辛辣な寸鉄詩を書いてそれに酬いたりした。その結果、総督のプーシキン他県転出の請訓となり、それと、折柄友人へ宛てた彼の書簡が官憲のため開封されて、その中の一節――「僕は聖書を読んでいるが、どうかすると、精霊が気に食わないことがある。僕はそれより寧ろゲーテとシェクスピヤをとるね。目下思い切った無神論の勉強中」とある箇所が当局の忌諱に触れたため、プーシキンは遂に官位を剥奪され、両首都お構いの上、一八二四年七月、母の荘園であった中部ロシヤのブスコフ県ミハイロフスコエ邑へ蟄居を命ぜられ、僧俗両官憲監視の下に置かれることになった。
プーシキンの南露生活はまる四年であった。その間に彼は、エカテリノスラフ、ピャチゴールスク(コーカサスの温泉場。)、シムフェローポリ、キシニョフ、カーメンカ、オデッサの各地を廻り、それらの土地でペテルブルグにはあまりいないような人間を見た。ジプシイを、ユダヤ人を、それから多くの東洋ふうの冒険家を。そしてこゝで眼ざめたバイロンへの熱愛は、それまでのフランスの影響を一掃し、それらがこぞって、次期の彼の文学活動に大きな実を結ぶのである。
五 流謫時代(二)
プーシキンの両親が彼に対して愛の薄かったことは前に述べた。幼時において既にそうであった。危険思想の故に恥ずべき懲罰を受けて故国に帰った不肖の子は、勿論両親の喜ぶところでなかった。両親はわが子が南方から帰ると早々首都へ引揚げ、プーシキンは再び幼年時代の昔に帰って、古馴染の保姆アリーナ一人を相手に、淋しい朝夕を送り迎えることになった。しかも運命は皮肉である。この度の流謫も、第一のそれに劣らず、彼に好ましい効果を齎した。即ち、閑寂な田園の生活は、都会生活と勤務生活に荒んだ詩人の心に落着きと内省の機会を与えて、その創作動機に良好な影響を持ったばかりでなく、第一にそれは、十二月党事件の渦中に飛び込むことから彼を救ったし、第二には、この村居においてロシヤの民衆及び国土の風物を親しく知る機会を得たのであった。夏の日永冬の夜長に孤独な彼を慰める話相手は、依然として、彼のためにロシヤ民族精神の涸れることなき泉であった老年の保姆アリーナであり、シェクスピヤ、ロシヤの年代記、カラムジンの「ロシヤ帝国史」などの繙読であった。彼が最初の師バイロンと訣別してその痕跡を払拭し、一切の夾雑物を去って本来のプーシキンにまで成熟したのは、実にこの故山屏居の賜で、一般にはこの時期――プーシキンが国民的ロシヤ的なものに立帰った時期を指して、彼の創作の第二期と呼んでいる。この時期に彼は『オネーギン』の稿を進め、その他数々の詩作以外に、史劇『ボリス・ゴドゥーノフ』(一八三〇年発表)を書き上げている。これはまぎれもなくシェクスピヤの影響下に成ったものであるが、併しプーシキンの歴史的教養と、過去の時代への奇蹟的な観照にその真価を認められる作品であり、名手プーシキンにあってさえとりわけ美しいとまでその言語の美を讃えられている劇詩である。
こうして、客観的には芸術上の実り多く各方面に効験多き二カ年であったとはいえ、プーシキン自身にしてみれば、この屏居生活は時に堪えがたいものであったというのも、まことに無理からぬことである。彼は幽閉二年目の一八二五年初頭から早くも、動脈瘤の治療を名として、時に外国旅行、時に上京の許可を乞うたが、そうした願いは遂に許されるところとならなかった。プーシキンがかの十二月党事件の報に接し、幾多の親友の絞刑や流刑を知ったのは、まさにこの空しい努力の最中であった。彼の感慨は察するにあまりあるといわなければならぬ。が、満二カ年の終り近く、治世の転換を機として、彼は勢力ある知人の斡旋により、直接皇帝に宛てて、衷心より悔悟の意を表し、今後現存の秩序制度に反するが如き行為は一切これを為すまじき旨の屈辱的誓約を入れて、漸く首都帰還を許された。この時新帝ニコライ一世は、彼を幽閉先から直接宮中へ招致して、向後彼の作品は一切皇帝自身検閲する旨を伝えられた。かくして、ともかくもプーシキンは、前後九年の追放の後に懐しい首都へ帰ったのである。時に一八二六年八月、プーシキンは早くも二十八歳になっていた。
六 首都時代(再び)
プーシキンは晴れて帝都へ帰った。しかも詩人としての活動上、皇帝の特別の保護に浴することになったのである。彼の喜びも当然といわなければならぬ。併し、その喜びも束の間で、彼の作品はその後も、皇帝の検閲に附せられる前に、芸術になんの理解も持たぬ時の憲兵総監ベンゲンドルフの下検閲を受けなければならなかった。つまり新帝の好意も、新進の知識階級に対する官辺の圧迫は緩和するによしなく、結局彼は捕えられた鷲で、この度は帝自身の手でいつも翼を切り縮められる羽目になったのである。九年間懐しんで漸く帰り得た首都は、彼にとりやはり十年前の首都であった。プーシキンは愉しまなかった。自然、生活も最初の首都生活当時と似たものに荒んで行き、好ましからぬ轍を踏む形となった。併し、その中にあっても、彼の詩魂は常に活動を続け、幾度も絶望の淵に沈みながらも、これに続く五年の間に、その最も美しい詩の数々を書いたことになっている。この時期がプーシキン創作の第三期と名づけられる。
一方、一八二八年の終り頃から、未来の妻ナターリヤ・ゴンチャローワに対する恋が始まったが、彼の求婚は、ナターリヤ自身の無理解と母親の強い虚栄心のため容易に容れられなかった。こうした事情も手伝い、遂に断然生活状態を一変する必要を感ずるに及んで、彼は再度療養のための外国旅行を願い出て許されず、また当時勃発した露土戦争への従軍を志願してこれまた許されなかったので、遂に無断でコーカサスの戦場へ赴き、弾丸雨飛の下に死所を求めたが、この時も幾程もなく召還されて、却てベンゲンドルフの手痛い譴責を受けなければならなかった。まさしくこの時期――一八二八、二九、三〇年の交は、プーシキン生涯中の危機ともいうべきものであり、彼の動きには常にいたましい影がつきまとっていた。併し、一八三〇年五月、過去一年半にわたり幾度か断念を余儀なくされかゝったナターリヤとの婚約が成立するに及んで、彼の気分も頓みに明るさを取戻し、その秋をモスクワ近郷の小邑ボルヂノに送った時には、コレラ流行のため籠居を余儀なくされた事情にも助けられて、僅か三カ月の短期間ではあったが、少からぬ詩作、就中、短篇五篇より成る『ベールキン物語』その他の散文作を書いている。『べールキン物語』は、今日なお少しも変らぬ興味を以て読み得る最初のロシヤ小説といわれる逸品である。
七 家庭生活・死
ナターリヤ・ゴンチャローワとの結婚は、翌三一年二月、プーシキン三十三歳の春であった。新夫人ナターリヤは美貌の誉れこそ一世に高かったが、平凡無理解な心の持主であったばかりでなく、寧ろ浮気な社交夫人で、到底プーシキンに値いしない女であった。この結婚は、プーシキンにしてみれば、三年越の熱い恋が実を結んだものであったが、それが彼の幸福とならず却て怏いとなったのは、まことに運命の悲劇であった。
一八三一年から三七年に至るプーシキンの家庭生活は、かくして短い蜜月を経過すると共に、速かに破綻の域にはいったのである。しかもその間、彼の芸術的天分は益々円熟の境に進み、文学方面の労作は可なり多産であったといえる。十年前コーカサスで起筆以来時に応じて書きついで来た韻文小説の代表作『エヴゲーニイ・オネーギン』(一八三二年)の完結を見たのもこの時期なら、三つの劇詩『モツアルトとサリヱーリ』(一八三二年)『吝嗇な騎士』(一八三六年)『プガチョーフ叛乱史』(一八三四年)散文作品中の重要作『ドブローフスキイ』(一八三三年)『スペードの女王』(一八三三年)及び散文小説の代表作『大尉の娘』その他幾多の名篇が遺されたのもこの時期であり、彼の文名はあがるばかりであったが、併し一方の外面的生活は、逆に愈々破局へのテムポを早めつゝあったのである。
プーシキンはその前から宮中の歴史編纂係を命ぜられていたが、一八三四年『プガチョーフ叛乱史』を書いた功により、皇帝から侍従に取立てられた。併し、この宮内官としての地位は、妻の親戚達を喜ばした以外、彼自身にはむしろ、物質的にも精神的にも、高価な代償を払わせたにすぎなかった。一八三四年宮中に召されて以来、宮廷舞踏界の花形であったナターリヤ夫人は、常に周囲の注目を集めることのみに腐心していたので、プーシキンは、嘗ては芸術の自由を叫んだ身が、今は美しい妻の装身具のため、その金を得るために筆を執らねばならぬ羽目に陥った。のみならず、無理解な検閲から受ける不愉快は、緩和されるどころか募るばかりだったのであるから、プーシキンが事毎に苛立って、とかく神経的な興奮状態に置かれがちだったのも、自然の数といわなければならぬ。直接の動機はともあれ、プーシキンをして冷静正常な判断を失わしめ遂に最後のカタストロフに駆り立てたものは、まさしくこの興奮状態だったのである。
一八三六年も終らんとする頃には、プーシキンの心の苛立ちは頂点に達していた。物質的圧迫の日々に加わるばかりでなく、周囲の社会の俗悪に対して深い憎悪と侮蔑を感じながら、なお且つそれに依存せざるを得ない腑甲斐なさの自覚は、感じ易い彼の心を攪き乱し、更に加えて、妻ナターリヤに関する不愉快極まるスキャンダルが、漸く抜差しならぬものになって来たからであった。
ジョルジ・ダンテス・ヘッケレン――これは当時ペテルブルグに駐在したオランダ公使男爵ヘッケレンの養子で、一八三三年十月ロシヤに来て、以来、ニコライ帝の寵を得てロシヤの近衛将校になっていた男である。この男が二年越しプーシキン夫人に特別の注意を払って絶えず後を追い廻していた。尤も、これだけならまだなんでもなく、当時のロシヤならずとも、社交界には有りがちのロマンスにすぎなかった。だが、事実はそれに、日頃プーシキンに敵意を抱く人々の卑劣な陰謀が加わったのである。彼等は元来、プーシキンの人となりをも、彼がロシヤ文化の発達に寄与しつゝある功績をも理解することなく、一面には彼の率直な批判や諷刺を喜ばず、他面には彼に対するニコライ一世の寵遇を嫉妬しつゝあった上流社会の金棒曳き達で、ダンテスのプーシキン夫人に対する言い寄りを嗅ぎつけると同時に、誇張した様々の風説を放ったり、プーシキンに向って針を含むあてこすりを言ったりして、只管彼の名誉心と自尊心とを傷つけることに努めたのである。つまり、プーシキン夫人は既に夫に背いている、彼女はダンテスに欺かれている――こう言った類いの風説が盛んに流布されたばかりでなく、匿名の手紙が頻々としてプーシキンを脅かすことも、この頃になって特に甚しくなったのである。尤もこれは、噂にばかり罪があるわけではなく、夫プーシキンの絶えざる訓戒にも拘らずその軽躁な振舞をやめなかった――つまりそうした浮説を打砕くに足るはっきりした態度を見せなかった夫人にこそ重大な責任があるというべきで、ナターリヤに対するダンテスの行動の責めらるべきはもとよりであるが、夫人がそれを如何に受けたかについても、多くの証拠は、彼女がこの美貌で快活な若い軽薄児に対して全く無関心でなく、彼の執拗な附きまといを峻拒しないまでも、無効ならしめるだけの態度に出なかったことを指摘している。醜聞の事実の程度如何は、この際問う必要はないであろう。
この事件にはもっと遙かに複雑した且つ興味深い経緯があるが、茲にはそれを述べているだけの余裕はない。ともかく、右の事情の結果、プーシキンは遂にダンテスに対し決闘を申込まざるを得ざる羽目に追い込まれた。そして一八三七年一月二十七日、敵弾のために致命傷を受け、越えて二日、永久にその悩み多い、併し意義深い生涯の幕を閉じたのである。その決闘の場面は丁度、彼が嘗て『オネーギン』の中に描写した決闘を地で行ったもので、彼がレーンスキイをオネーギンに殺させた情景を彷彿させるものであったと伝えられる。
こゝに奇怪なのは、警察はこの決闘を中止させることも出来たのに、上からの命令でその挙に出なかったという一事である。ともあれ、プーシキンの死に対して本質的に責任を負うべきは決闘における偶然の相手よりも、官憲の大部とペテルブルグの上流社会全体であるといわれる事実は、抑も何を示唆するものであろうか。
世に出ると間もなく進歩の敵のために迫害され、生涯を祖国のバーバリズムとの戦いに捧げ通したプーシキンは、死後も官辺から生前と同じ待遇を受けたといわれる。即ち、彼の死の報告が社会の各方面に喚び起した異常な反響を恐れて、極力世人の動揺を抑える方針をとった当局は、その葬儀にまで無法な干渉を敢てして、彼を普通には葬らせなかった。即ち、ベレケンドルフの命により、遺骸は夜中ひそかに一隊の憲兵立会いの下に密葬に附され、後同じく深夜に教会から運び出されて辻橇に乗せられ、憲兵一人が同乗して故郷ブスコフ県へ送られたというのである。
ロシヤ文学の太陽はかくて没した。
プーシキンはその時、日本流に数えてやっと三十九歳の若さだったのである。
この作品は昭和二十九年八月新潮文庫版が刊行された。
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大尉の娘 −プーシキン小説全集V−
発行 2000年11月3日
著者 プーシキン(中村 白葉 訳)
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
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ISBN4-10-861038-5 C0897
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