マノン・レスコー
アヴェ・プレヴォ/鈴木豊訳
目 次
『ある貴人の手記』の作者の序文
シュヴァリエ・デ・グリューとマノン・レスコーの物語
第一部
第二部
解説
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『ある貴人の手記』の作者の序文
わたしは、わたしの「手記」のなかにシュヴァリエ・デ・グリューの恋物語を加えることにしたものの、ここにはとりたててなんの必然的な関連もないので、読者としてはこの二つを別々にお読みになったほうが、よりいっそう満足されるにちがいないと思う。それというのも、なにしろ長い物語なので、この二つを別々にしなければ、わたし自身の物語の筋道は、あまりにも永いあいだ中断されてしまいそうだからである。わたしに厳密な作家の資格がある、などと言いはるつもりはさらにないが、それにしても、物語というものは、その内容を重苦しく、しかも分かりにくくするようなよけいな細部の状況などは、省いてしまったほうがいいということぐらい判らないわけではない。このことはホラチウスの次のような教訓に照らしても明らかである。
[#ここから1字下げ]
言わねばならぬことは直《ただ》ちに述べよ、
細かいことはしばし省き、口を閉《とざ》すべし。
[#ここで字下げ終わり]
こんな単純きわまる真理を証明するには、なにもこうした大袈裟《おおげさ》な権威を持ち出すまでもあるまい。というのは、良識こそこうした法則の第一の根拠となるものであるから。
もし読者がわたしの身の上ばなしをお読みになって、なにか気持ちのよいもの、また興味のあるものをお感じになったとしたら、わたしは、ここにつけ加えた物語にも、それに劣らず満足していただけるものと、あえて約束しよう。シュヴァリエ・デ・グリューの素行をお読みになれば、読者はそこに、情熱の力がいかに恐るべきものかという好例をごらんになるだろう。わたしは、ギリギリの不幸のどん底までみずから進んで身を投じ、しあわせな生活を送ることを拒否して、恋に目のくらんだ青年の姿を描かねばならない。しかも彼は、輝くばかりの天分に恵まれた、あらゆる才能を身につけながら、幸運と自然の恩恵によるすべての利益を捨ててかえりみず、みずから選んで、陰惨な放浪の生涯の道を歩むのである。自分の不幸を予見しながら、しかもその不幸から逃れようともしない。その不幸を身をもって感じ、その重みに圧《お》しひしがれながら、しかもたえず自分に差し伸べられ、その不幸にいつでも終止符を打てる解決策を試みようとしない。
要するにわたしは、まったく矛盾した性格、美徳と悪徳の混り合い、りっぱな気持ちと悪行の永遠の相克《そうこく》、といったものを描き出さなければならない。わたしがごらんに入れる絵画《タブロオ》のバックとはこうしたものなのである。
良識をもった読者は、こうした種類の作品を、なんの役にもたたない仕事とはお考えにはならないだろう。読書の楽しみということは別にしても、読者は本書を読んで、風俗の矯正《きょうせい》に役立たないような事件はほとんど見出せないだろう。わたしの意見を述べさせていただければ、読者を楽しませながら教育することは、読者に対する大切なサービスになるものではあるまいか。
道徳上のいろいろな教訓をジックリと考えてみると、そうした教訓が、一方では尊重されていながら、同時にまた一方ではまったく無視されているのを見て一驚せずにはいられない。そしてまた、善や完美の観念を味わい楽しみながら、さてこれを実行に移そうとすると、なんとなく敬遠してしまう人間の心のいわれのない理屈を怪しまずにはいられない。もし、ある程度の思慮と礼節の持ち主が、ひとと会話を交えるとき、あるいは独り物思いにふけるときに、いちばん一般的な話題はなんだろうか、と注意深く考えたら、彼らの話題はほとんどつねに、なんらかの道徳的な問題にふれていることに容易に気づくにちがいない。彼らの生涯のうちでいちばん甘美な時といえば、独り考えにふけるにしろ、友人と同席の場合にしろ、美徳の魅力について、友情の優しさについて、しあわせをつかむ方法について、われわれをしあわせから遠ざける天性の弱さについて、そしてまたその弱さを救ってくれるいろいろな解決法について、胸襟《きょうきん》を開いて語り合い、考えて過ごした時間である。ホラチウスもボワローも、こうした会話を、彼らがしあわせな人生の情景を描く場合の、いちばん美しい表現法のひとつとして指摘している。ところが、みないともかんたんにこうした高尚な理論から身を落とし、てっとりばやく、ごくありきたりの人間の水準まで下落してしまうのはどうしたわけであろうか?
こうした疑問について、これからわたしが説明を加えようとする理由が、われわれの観念と行動との間の矛盾をりっぱに説明できないとしたら、もとよりそれは、わたしの不徳のいたすところである。いわばこれはすべての道徳的な教訓などというものは、ごく漠然とした一般的な主張にすぎないもので、わざわざこれをとり上げて、人の習慣や行動の細部にまでとくにこれを当てはめるのはきわめてむずかしい、ということである。ここでその一例をとり上げてみよう。
生まれつきりっぱな魂をもった人間は、穏やかな心とか、人間味に溢《あふ》れた心は愛すべき美徳であると感じ、またいつでもそれを実行に移すだけの性癖は身につけている。ところが、いざそれを実行しようという段になると、どっちつかずになって見送ってしまうことがしばしばある。実際、今こそ実行に移すチャンスだろうか? それにはどういう処置をとるべきか、はっきり分かっているのだろうか? 目的を間違ってはいないだろうか? などの山のような困難が降って湧いてくる。自分が慈悲深く、そしてまた寛大でありたいと思いながら、かえってみんごと欺《だま》されやしないかと気になる。あまりに人に優しく、また感じやすい態度をとったりして、気の弱い人間と思われはしないかと心配になる。
つまり一口で言えば、元来が義務などというものは、人間味とか、優しい心づかいとかいう一般的な概念のなかに、曖昧《あいまい》きわまる方法で閉じ込められているものであるが、この義務を期待以上に果たしているのではないか、あるいはまた、逆にじゅうぶん果たさなかったのではないか、などということが気にかかってくるのだ。こんな不安定なもののうちでは、人間の心の傾向を、理性をもって限定できるものといえば、ただ経験と実例以外にはないではないか。
ところがこの経験というものは、だれにでも自由に与えられる特典ではない。運命の力で、たまたま置かれたさまざまな境遇によってそれぞれ異なる。そうしてみれば、大多数のひとびとにとっては、美徳を実行に移すために原則として利用できるものは、実例以外にはないわけである。こうした作品がきわめて有効な作品となりうるのは、まさしくこうした種類の読者にとってであるが、ただ少なくとも、その作品が敬意に価いする良識の持ち主の手で書かれた場合でなければならない。ここに語られたひとつひとつの事実が、知識の一段階となり、また経験を補うひとつの訓戒となるであろう。ひとつひとつの事件が、自分の品性を作り上げるモデルとなるであろう。ただ、これに自分が現在いる立場を当てはめてみるだけで、こと足りるわけである。作品全体がひとつの道徳論になっているが、ただそれが、楽しい形をとって実習に移されたものである。
手きびしい読者は、わたしがこんな年配になって、再びペンを執って波瀾《はらん》にみちた恋物語など書くのをごらんになって、憤慨なさるかもしれない。けれども、いまわたしが述べてきた省察がもし信頼できるものとすれば、その省察こそわたしが正しいことを証明してくれるにちがいない。またそれにもし誤りありとすれば、その誤りがそのままわたしの弁解になってくれるだろう。
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シュヴァリエ・デ・グリューとマノン・レスコーの物語
第一部
わたしは、初めてシュヴァリエ・デ・グリューに出会った、わたしの生涯の一時期まで読者にさかのぼっていただかなければならない。あれはスペインへ出発する六カ月ばかり前のことであった。独り暮らしの住居から出かけることはごくたまにしかなかったが、自分の娘になにかと世話をやくことがあって、ときにはいろいろな小旅行をすることもあった。とはいえ、そんな旅行もできるだけ短くすますことにしていたものである。
その日はたまたま、ルーアンからの帰り途であった。娘のために、わたしの母方の祖父から承《う》け継いだいくらかの土地の相続権をもっていて、その問題でノルマンディの裁判所へ、訴訟がうまく行くように手続きをしてくれと娘に頼まれて出かけたところだった。ふたたびエヴルーへの道を続け、第一夜はこのエヴルーで過ごし、その翌日は、昼食をとろうとして、そこから五、六リュウ離れたパシイに立ち寄った。
この村へ入ったとたん、村人たちがみんな、なにか不安そうな様子をしているのを見て、わたしはびっくりしてしまった。自分たちの家からとび出すと、押しあいへし合いして、幌《ほろ》のかかった馬車が停まっているみすぼらしい宿屋の玄関のほうへ駆けつけるのである。馬はまだつながれたままになっていたが、疲れと暑さのためにぐったりした様子を見ただけで、この二台の馬車が、いかにもいま着いたばかりだ、ということを如実《にょじつ》に物語っていた。
わたしは、みんなどうしてこんなに大騒ぎをするのか訊《たず》ねようとして、ちょっと立ち停った。ところが、この物見高い群衆からは何の説明を聞き出すこともできなかった。こちらが訊ねることに見向きもしないで、ガヤガヤと大きな声で騒ぎながら、ひしめき合って、相変わらず宿屋のほうへ体を乗り出そうとしていた。
ようやく、弾薬帯を腹にしめ、火薬銃を肩にしたひとりの巡査が玄関のところに現われたので、わたしは手を振って、こちらへ来てくれないか、という身振りをした。この騒ぎはいったい何事ですか、お話し願えませんか、と巡査に頼んでみた。
「なあに、たいしたことじゃあありませんよ、ムッシュウ」、と巡査が言った。「一ダースばかり娼婦がいるんですよ、あたしはね、同僚といっしょに、ル・アーヴル・ド・グラースまで連れて行きましてね、そこでアメリカ行きの船へ連中を乗せるんですよ。なかにはちょっと気のきいた女もいましてね、この人の好い百姓どもが、物珍しそうに騒いでるのは、きっとその女どもが気になってるからですよ」
ひとりの老婆が肚《はら》立たしそうなわめき声をあげて、わたしの心を惹《ひ》かなかったら、この説明を聞いただけで素通りしてしまったにちがいない。老婆は両手を合わせて、まったく野蛮なことだわ、恐ろしいことだわ、ほんとうに可哀そうだ、などと叫びながら宿屋から出てきた。
「いったいどういうことかね、それは?」とわたしは老婆に訊ねた。
「ああ! ムッシュウ、とにかく入ってごらんなさい」と老婆が答えた。「あんなところを見て、心を痛めないでいられますか!」
好奇心に駆られて、わたしは馬から下りて、馬を馬丁にあずけた。群衆をかきわけてやっとのことで中へ入ってみると、なるほど、たしかに胸にこたえる光景に接した。一ダースばかりの女が、六人ずつ腹のあたりを鎖でしばられていたが、その中にひとり、その様子といい顔立ちといい、こんな姿にはまったくシックリしない、もしぜんぜん別の姿をしていたら、上流の令嬢とも見まごうくらいの娘がいた。彼女の様子といえば惨《みじ》めだったし、肌着も服装も汚れていたけれども、不潔な感じは少しもなく、それどころかその姿を見ていると、わたしの心に尊敬と同情を呼び起こさずにはいられなかった。それでも、彼女は物見高い見物人たちの視線から顔をそらそうとして、しばられた鎖の届くかぎり、体をよじろうとして一生懸命だった。体を隠そうとするその努力はごく自然で、いかにもそれは慎《つつ》ましやかな気持ちから出ているようにみえた。
この不幸なグループといっしょについてきた六人の巡査も、同じようにこの部屋にいたので、わたしはその一番の首株《かしらかぶ》を隅へ呼んで、この美しい少女の身の上を少し説明してくれないか、と頼んでみた。ところが、彼にはごく通りいっぺんの説明しかできなかった。
「あたしたちはね、オーピタル〔主として娼婦や不良少女を収容した施設〕からあの娘を連れてきたんですよ」と彼がわたしに言った。「もちろん警視総監の命令ですがね。どう見たって、あの娘がりっぱなことをしてあんなところにブチ込まれたとは思えませんやね。途中で何度か、あたしもあの娘に訊ねてみたんですがね、あいつときたら強情に口をつぐみっぱなしで、なにひとつ答えないんでさあ。べつだん、ほかの女どもよりマシな扱いをしろという命令を受けたわけじゃあないんですが、どこかほかの連中よりは気がきいているように見えるんでね、あの娘にはとくべつ目をかけてやらないわけでもなかったんですよ。ホラ、あそこに若い男がいるでしょ」、とその巡査がつけ加えた。「あの男なら、この娘がこんなに落ちぶれたいきさつを、あたしよりも詳しく話せるかもしれませんぜ。あの男ときたら、パリからあの娘につきっきりで、ほとんど泣きっぱなしに泣いていましたよ。きっと兄貴か色男にちがいありませんよ」
わたしはその青年が坐っている、部屋の隅のほうを向いてみた。深い物思いに沈んでいるように見えた。わたしは今までに、こんなにはげしい苦悩の姿を見たことはない。彼はしごくさりげない服装をしていたが、ひと目見ただけで、生まれもよい、教養のある男だとわかった。
わたしが彼のほうへ近寄ると、彼は立ち上がった。彼の両眼に、顔つきに、そしてすべての物腰のうちにとても繊細な、高貴な様子が見てとれたので、わたしはごく自然に彼に好意を抱けるような思いがした。
「ご迷惑かと思いますが」、とわたしは彼のそばへ腰を下ろしながら言った。「あの美しいお嬢さんの身の上を知りたいという、わたしの好奇心をみたしていただけませんかな? あのお嬢さんは、今のようなあんな惨《みじ》めな境遇には、いかにもふさわしくないように見えるのですが」
彼の返辞によれば、彼自身のことを知らなければ、彼女がどんな人間であるか知ることはできないし、またいろいろな理由があって、自分のことをあまり人に知られたくないのだ、ということだった。
「でも、あの下劣な男たちがうすうす感じてることぐらい、あなたにお話ししても差し支えありませんよ」と彼は巡査たちを指さしながら答えた。「つまりぼくは、とても激しい情熱をこめて、彼女を愛している、そしてその情熱のおかげでこの世の男のうちでもっとも惨めな男になってしまった、ということなのです。彼女を自由の身にするために、パリであらゆる手段をつくしてみました。裁判所に手を廻したり、計略を使ったり、暴力|汰沙《ざた》に訴えたりしましたが、みんなまったく役にたちませんでした。ぼくは、たとえ世界の果てまで行かなければならないとしても、彼女の後を追ってゆこう、と決心したんです。彼女といっしょに船にも乗りましょう。アメリカへも渡りましょう。けれど、なんといってもいちばん血も涙もない仕打ちといえば」、と巡査たちに話題を移して、彼はこうつけ加えた。
「あの卑劣なやつらが、彼女に近づこうとしても許してくれないんですよ。ぼくの計画では、パリから数リュウきたところで堂々と連中を襲撃することになっていたんです。四人の男を狩り集めましたが、その男たちは、莫大《ばくだい》な金額を要求するが、そのかわりにぼくに手を貸してくれると約束しました。裏切り者はぼく一人をおいてきぼりにして、金だけをふところにして逃げてしまいました。力ずくで襲っても見込みがないとなると、ぼくはもう武器を捨てました。巡査たちに、たっぷり袖の下を握らせて、その代わりにせめてみんなの後を追うのを許してくれ、と頼んでみました。いい鴨《かも》がきて、ガッポリ儲《もう》かりそうだと思うと、連中はウンと言いました。ところが連中は、ぼくに恋人と口をきいてもいい、という許可を与えるたびに、金を払えといって要求するんです。たちまちのうちにぼくの財布は空っぽになりました。そして今になって、一文なしになったとみるや、彼女のほうへ一歩足を踏み出すと、無慈悲にも、手荒くぼくを押しのけるんです。連中の脅しを無視してむりに近づこうとすると、たちまち無礼きわまる態度で、ぼくに向かって銃口を突きつけるんです。あの連中の欲深な気持ちを満足させ、たとえ歩いてでもこの先旅を続けようと思ったら、今ではもう、今まで乗馬として役にたっていた痩馬《やせうま》を、ここで売り払わなければならない始末なんですよ」
彼は、一見しごく平静にこの物語を話しているように見えたが、こう言って言葉を結びながら涙のしずくがしたたり落ちるのを禁じえなかった。この悲恋の物語はわたしにとっても、もっとも意想外のものであり、またもっとも心を打つものだった。
「べつに無理強いするわけではありませんが」とわたしは言った。「あなたの身に起こった事件の≪てんまつ≫を、お話しいただけませんかな、それに、わたしでも何かお役にたつことがあれば、喜んでお力ぞえをしたいと思いますので」
「ああ、情けないことですが!」と、彼が言葉をついだ。「ぼくの前途にはもう、少しの希望もないんですよ。苛酷な運命にそのまま従うよりしかたがないんです。ぼくはアメリカへ行くでしょう。少なくとも、アメリカへ行けば、ぼくの愛するものといっしょに自由を謳歌《おうか》できるでしょう。ぼくは友人のひとりに手紙を書いておきました。この友人が、ル・アーヴル・ド・グラースでぼくに援助の手を差し伸べてくれる手筈《てはず》になっています。ただ厄介なのは、ぼくがル・アーヴルまで行き、あの不幸な娘を」、と言って、彼は寂しそうに自分の恋人を見やりながらつけ加えた。「途中でどうにかして慰めてやることだけなんです」
「なるほどそうですか」、とわたしは言った。「あなたの面倒はわたしに解決できると思いますよ。ここにいくらかお金があります、どうか受け取ってください。ほかにお役にたてなくてまことに残念ですが」
わたしは巡査どもが気づかぬように、彼に四ルイの金貨を渡した。というのは、あの巡査どもに彼がこんな金を持っていると見抜かれたら、この青年が連中のお情にあずかろうとすれば、ずいぶん高い金をふんだくられそうだ、と思ったからである。わたしの心に、この青年が、ル・アーヴルまでずっと自由に恋人と話をしていくことができるように、巡査どもを篭絡《ろうらく》してやろう、という考えがうかんだ。わたしは連中の首株《かしらかぶ》の男に、こっちへ来ないかという合図をして、相手にこのことを申し入れてみた。
相手は、根はずうずうしいくせに、うわべはいかにも恥ずかしそうなふりをしてみせた。
「じつはね、ムッシュウ」、とほとほと困ったという様子を見せて、男が答えた。「べつにあの男がこの娘と喋《しゃべ》っちゃいけない、と禁じているわけでもないんですがね、なんたって、あいつは年がら年じゅう娘のそばにベッタリくっついていたがるんでね。それがあたしらにゃ困りもんなんで。あんな目障《めざわ》りなことをしたら、それ相応の銭《ぜに》を払うのも、しごく当然でさあね」
「なるほどね」とわたしが言った。「それじゃあどうすれば、その目障りなのが目障りでなくなるのかね」
あつかましくも、この男はわたしに二ルイ欲しいと言ってねだった。その場で、その金を払ってやった。
「しかしね」と、わたしは言った。「インチキなことはしないようにしてほしいね。というのは、あの青年にわたしの住所を教えておくからね、そんなことがあればわたしに知らせてくることもできるし、それに、こちらには君たちを処罰してもらうくらいの力があるっていうこと心得ておきたまえ」
結局、わたしにとっては六ルイばかりの≪ものいり≫になったわけだ。この未知の青年がわたしに示したお礼の気持ちや、激しい感謝の心が、彼がなかなかの家柄の出で、それだけにわたしが気前をよくしたのも無駄にはならない、と自分の心を納得させた。出かける前に、わたしは彼の恋人に二言三言《ふたことみこと》声をかけた。彼女がじつに優美で、また魅力に溢《あふ》れた親しみをこめてわたしに答えてくれたので、わたしはその家を出ながら、女性というもののまったく理解しがたい性格についていろいろ思いめぐらさずにはいられなかった。
さて、ふたたび独り暮らしに戻ってみると、わたしにはこの悲恋物語の結末がどうなったかまったくわからなかった。それから約二年ばかりたったが、この二年という歳月のうちに、この事件をすっかり忘れ去ってしまった。ところが偶然のことから、その後のいきさつの全貌を知る機会が再び降って湧いたのである。
わたしは、弟子の某《ぼう》侯爵を連れて、ロンドンからカレーへ着いた。わたしの記憶に間違いがなければ、わたしたちは「|黄金の獅子《リヨン・ドール》」というホテルに宿をとったが、いろいろ事情があって、その日一日と次の夜もここで過ごさなければならなかった。
午後になって街を歩いていると、むかしパシイで出会ったあの青年と思われる男を見かけたような気がした。いかにもみすぼらしい服装で、初めて彼に会ったときより、さらにいちだんと蒼《あお》ざめた顔をしていた。ひと目見ただけでも、いま町へ着いたばかりという様子で、腕には古ぼけた旅行用の衣裳かばんを抱えていた。ところがその容貌は、チラッと見ただけですぐにそれとわかるくらい美しかったので、わたしはただちに彼を思い出した。
「あの青年のそばへ行って、ちょっと話したいんですがね」、とわたしは侯爵に言った。青年のほうでわたしを思い出したとき、彼の激しい喜びようといったら、まるで形容する言葉もないくらいだった。
「ああ! ムッシュウ」と、彼はわたしの手に接吻しながら叫んだ。「これで、生涯忘れることのできない感謝の念を、もう一度あなたに申し上げることができるわけですね!」
わたしは、彼がどこから来たのかと訊ねてみた。彼は、海路、ル・アーヴル・ド・グラースから来たのだが、その少し前にアメリカからル・アーブルへ帰ったところだ、とわたしに答えた。
「どうやら、あまりお金をお持ちでないようにお見受けしますが」、とわたしは言った。「わたしが宿をとっているリヨン・ドールへおいでになりませんか。しばらくしたら、わたしも帰ってあなたにお会いしますよ」
事実、わたしは彼の不幸な身の上の細かい部分や、アメリカ旅行中のさまざまな物語を聞きたくて、心もそぞろに急いで宿へ帰った。わたしは、いろいろ彼の面倒をみてやり、なにひとつ不自由をかけないように、宿の者にも命じておいた。彼は、わたしに彼の身の上ばなしを催促《さいそく》されようなどとは、予期していなかったのである。
「ムッシュウ」と彼は言った。「あなたはぼくにほんとうに親切に目をかけてくださったので、どんなことでもあなたに隠しだてをしたのでは、下劣な恩知らずのような気がして心がとがめます。こうなったら、ぼくの不幸とか苦しみばかりでなく、ぼくがしでかした不始末から、顔向けもならないようにお恥ずかしい心の弱さまでも、洗いざらいお話ししましょう。きっと非難なさりながらも、ぼくの身の上を同情なさらないではいられないでしょう」
さてわたしは、ここで読者にお知らせしなければならない。というのは、わたしは彼のはなしを聞いたほとんど直後にこの物語を書きとったこと、したがって、この物語以上に正確でかつ忠実なものはない、と確信してくださってよい。またわたしは、この若い恋の冒険者が世にも優雅な口調で表現したさまざまな省察や、感情との関係に到るまで、忠実に語ったことをつけ加えよう。さて、これから彼の物語を紹介するが、わたしはここに、彼の口から出たもの以外は、最後の一行までただの一句たりともつけ加えたりしないだろう。
*
ぼくは十七才のときに、アミアンで哲学級〔中等教育の最高学級のクラス名〕の勉強を終えた。P…の名門の出のぼくの両親が、ぼくをここへ遊学させたのである。とても賢明に、規則正しい生活を送っていたので、先生方はぼくを学校の模範として推薦するほどだった。一生懸命にこんな努力を重ねたのは、べつにこんな賞讃にふさわしい者になろうと思ったわけではなく、生まれつき優しい、穏やかな性質の持ち主だったからである。ぼくは好んで勉強に精を出したし、ひとびとはぼくの美徳として、天性悪に反発を覚えるいろいろな長所を数えたてたものだった。生まれはよし、勉強にも申し分ない成績をあげ、顔つきにもどこか人好きのするところがあったので、町じゅうの名士たちがぼくのことを識《し》り、尊敬の目で見てくれた。
公開試験を終わったが、これがまた一同の賞讃の的《まと》となり、この試験に出席していた司教などは、ぜひとも僧職に入るように、とぼくに申し出るほどだった。司教の言うところでは、両親が予定しているようにマルタ修道会へ入るよりは、そのほうがまちがいなくずっと頭角を現わせるだろう、というのだ。両親はすでに、ぼくをシュヴァリエ・デ・グリューの名で呼び、十字章をつけさせていた。
休暇になると、ぼくは父のところへ帰る準備をはじめた。父はまもなくぼくをアカデミー〔貴族の子弟の学校で、主に剣術など軍人としての教育を施す〕へ入れてやる、と約束していた。アミアンを後にするにのぞんで、唯一の心残りといえば、ずっと仲良くつき合ってきたひとりの友人をここに残してゆくことだった。彼はぼくより何才か年上だった。ぼくらは机を並べて勉強したものだが、彼の家の財産はあまり余裕がなかったので、彼は余儀なく僧職につかねばならなかった。そしてここで僧侶になるためにふさわしい勉強を続けようと、ぼくが発《た》ってのちも、アミアンに残らなければならなかった。
彼はあり余るほどりっぱな性質を備えていた。ぼくの身の上話を続けてゆくうちに、あなたにも彼のりっぱな面がいろいろお分かりになるし、ことに古代のもっとも有名な例でさえも及びもつかないくらい激しい、そして寛大な友情を知れば、彼という人間を理解していただけるだろう。あのとき、もしぼくが彼の忠告に従っていたら、ぼくだってずっと賢明で、しあわせな生活を送れたにちがいない。せめて、ぼくの情熱のために引きずり込まれてあの危地に立ったとき、彼の非難の声に耳を傾けていたら、前途と評判をだいなしにしてしまったあの危機から、なにかいくらかでも助かることができたにちがいない。
ところが彼ときたらこれだけ心をつかいながら、せっかくの心づくしもなんの役にもたたないことを知り、また時には、嫌な顔をされたり、いかにもうるさそうに邪魔者扱いするような恩知らずなやり方で、手ひどいしっぺ返しを受けるのを見て悩む以外には、なにひとつ恩返しらしいこともしてもらわなかったのだ。
ぼくはすでに、アミアン出発の日を決めていた。ああ! どうして出発の日をもう一日早くしておかなかったのだろう! もう一日早ければ、まったく無垢《むく》な体のまま父のもとへ帰れただろうに。この町をあとにする予定の日の前日、チベルジュという名の友人といっしょに散歩をしていたとき、ぼくたちはアラスからの駅馬車が到着するのを見かけて、こうした馬車が停まる宿屋まで駅馬車についていった。理由といっても、好奇心以外には何もなかった。
数人の女性たちが駅馬車から降りて、すぐに宿の中へ引っ込んだ。ただ、まだずいぶん若いひとりの娘が残り、彼女の監督をしているらしい相当の年配の男が、熱心に荷物入れの篭《かご》から旅行用具をとり出しているあいだ、中庭に立ち停まっていた。今まで男女の違いなど意識したこともなく、またあまり注意深く女性など眺めたこともなかったぼくだが、それにあえていうが、みんなに賢明で慎しみ深いといって讃めものになっていたぼくが、あまりに魅力たっぷりな彼女の様子を見て、このぼくが、ひと目見ただけで夢中になるほど、情熱の焔《ほのお》を燃やしてしまった。ぼくには、極端なほど臆病で、かんたんに狼狽《ろうばい》し、ドギマギしてしまう欠点があった。ところがこのときは、こんな弱味にひかされて思いとどまるどころか、勢いこんでぼくの心の恋人のほうへ足を進めた。彼女のほうは、ぼくよりもまだ年下だったが、迷惑そうな様子も見せずに挨拶を受けた。
ぼくは彼女に向かって、どうしてアミアンにおいでになったのですか、ここにどなたか知人でもいらっしゃるんですか、と訊《たず》ねた。彼女は、ここで尼僧になるために、両親に送り出されたのです、とありのままに答えた。少し前からもうぼくの心には恋心が宿ったために、すでに知恵もついていたので、彼女が尼僧になるというこの計画は、ぼくの欲望にとってはまるで致命傷のような気がするのだった。
ぼくは、なるべくこちらの気持ちを理解してもらえるような態度で彼女に話しかけたが、それというのも、彼女のほうがぼくよりもずっと経験豊富だったからである。両親が彼女を修道院へ預けたのは、おそらく彼女の享楽ずきの性質を押えようというつもりからで、彼女の意志ではなかったのだが、この性質はその頃からもうはっきりと形に現われ、のちには彼女と、それにぼくのあらゆる不幸の原因となったのである。
ぼくはありったけの理屈を数えたてて、彼女の両親のこの残酷な計画を攻撃した。心に芽生えかけた愛情と、学校で習った雄弁術がぼくの心に暗示を与えてこうした理屈を教えてくれた。彼女はべつに、手きびしい態度も、軽蔑したような様子もみせなかった。しばらく黙っていたが、彼女は、前途が不幸になることは火を見るよりも明らかですけれども、あたしにはそんな不幸から逃れる術《すべ》はなにもないのですから、これもおそらく神のご意志でしょう、とぼくに言った。
彼女の眼差《まなざし》の優しさ、こんな返辞を口にするときの、愁いを含んだチャーミングな様子を見て、というよりはむしろ、のちにぼくを堕落の淵《ふち》におびき寄せた運命の星の力で、いっときの躊躇《ちゅうちょ》もなくぼくは返辞をしてしまった。もし彼女がぼくの名誉や、そしてすでにぼくの心に感じられるこの限りない愛情を信じてくれるならば、高飛車《たかびしゃ》な彼女の両親の態度から彼女を自由の身にし、彼女をしあわせにするためにぼくの生涯を賭けてもいい、と彼女に断言した。あのとき、どうしてあれほど大胆になり、またあれほど容易に自分の気持ちを説明できたのだろう。そのことを考えてみると、まったく何度驚いても足りないくらいだ。とはいえ、さまざまな奇跡が現われればこそ、われわれは恋を神聖なものにまでたかめることができるのだろう。
この美しい未知の娘は、ぼくの年齢ではひとを欺《だま》すことなどできないということをよく知っていた。彼女は、ぼくが彼女に自由な身の上を取り戻せるのぞみをなにか少しでも見出せたら、そのお礼に≪いのち≫よりもっと大切なものをぼくに返さなければならないと思う、とぼくに告白した。口をすっぱくして、ぼくにはすぐにどんなことでもやってみせるよう準備ができている、と彼女に繰り返したが、彼女のために尽力するといっても、すぐにそんな方法を思いつくだけの経験に乏しいので、こんな確信にしても、結局はごく漠然としたものに過ぎなかったし、だいいち確信といったところで、彼女にとってもぼくにとっても、おそらく大した助けにもなりはしなかったろう。
彼女の老|監督者《アルギュス》がぼくたちのところへきたときに、機転のきかないぼくの心を彼女のウイットでうまくとりつくろってくれなかったら、ぼくの希望は無残に打ち砕かれてしまうところだった。監督者がやってくると、彼女はぼくのことを従兄《いとこ》と呼び、少しもドギマギした態度を見せずに、偶然アミアンでお会いできたのはたいへん嬉しい、修道院へ入るのはあしたまで延期して、今夜はいっしょに晩餐《ばんさん》を楽しみましょう、と言ったときには、びっくりしてしまった。この計略の意味はよくわかった。ぼくは彼女に、ある宿屋に泊まるようにすすめた。この宿屋の主人は、永いあいだ父の御者《ぎょしゃ》として仕えてからアミアンに落ちついていたので、ぼくの命令ならなんでも忠実にきいてくれたからである。
ぼくは自分から先に立って彼女を宿屋へ案内してやった。いっぽう老監督者のほうは、なにかブツブツ不平を言っているように見えたし、この場のいきさつがぜんぜんわからない友人のチベルジュは、ひと言も言わずにぼくの後についてきた。ぼくが、美しい恋人と愛を囁《ささや》いているあいだに、彼はひとりで中庭をブラブラしていたので、彼にはぼくらの話し合いがまったく聞こえなかったのだ。
彼の頭の良さが恐ろしかったので、ぼくは彼にある用事を頼んで彼を追っ払ってしまった。こうして宿屋へ着くと、ぼくはぼくの心の女王と二人だけ差し向かいで言葉を交えて楽しむ機会をえた。
まもなくぼくは、自分が思いのほかウブでないことに気がついた。ぼくの心は、それまで思いついたこともないほどの、さまざまな享楽の感情に開かれ、体じゅうの血管に甘美な情熱が拡がっていった。一種有頂天な気分に浸って、しばし口をきく自由も奪われ、ただ目で自分の気持ちを訴えることしかできない有様だった。マドモワゼル・マノン・レスコーは……彼女のいうところでは、彼女はみんなにそう呼ばれているということだが……自分の魅力がこれほどの効果を与えたのにすこぶる満足している様子だった。
ぼくは、彼女がぼくに劣らず感動しているのがわかるような気がした。彼女は、ぼくがとっても優しいと思う、また彼女がぼくの尽力のおかげで自由になれたらほんとうに嬉しいだろう、と告白した。彼女はぼくがどういう身分の者か知りたがった。そして身分を知ると、彼女の愛情はさらに強くなっていった。というのは、なんの氏素姓《うじすじょう》もない庶民に生まれた彼女が、ぼくのような身分の男を恋人として手に入れたことが彼女の自尊心をくすぐったからである。
ぼくらだけで二人っきりになれる方法をいろいろと計画してみたが、さんざん考えに考えたあげくに、駆け落ちする以外には手段はないとわかった。ただの召使いにすぎないとはいえ、あの監督者はなかなか抜け目のない男だし、その警戒の目をくらまさなければならない。結局こんな手はずをつけた。つまり、夜のうちに、ぼくが二人乗りの馬車を準備させて、朝早く、まだあの男が目を覚まさないうちに宿屋へ帰ってくる。人目につかぬようにこっそりと逃げ出し、まっすぐにパリへ行き、着いたらすぐにそこで結婚しよう。それまでチビチビと倹約したおかげで、ぼくは五十エキュほどもっていたし、彼女のほうは、ほぼその二倍ばかりもっていた。まるで世間知らずの子どもみたいに、この金額はいくら使ってもけっしてなくならないもの、そしてまたぼくらが立てたいろいろな段どりも成功しないはずはない、と信じていた。
今までに味わったこともないほどの上々の気分で晩餐《ばんさん》を終わってから、ぼくは計画を実行に移すべく席を離れた。翌日は父の家へ帰るつもりだったから、さして多くもないぼくの旅行支度はもうすっかり整っていて、身の廻りを片づけるといってもしごく簡単なものだった。だからトランクを運ぶにしても、町の城門が開くはずの時刻の、朝の五時に馬車を用意させるにしても、まったくなんの苦もなく手筈がついた。ところが、ぼくがまったく気がつかなかった障害が待ち伏せしていて、あやうく計画を台なしにするところだった。
チベルジュは、年齢からいえばぼくよりわずか三つ年上なだけだったが、なかなか思慮深い、しっかりした生活態度をもった青年だった。彼はまれにみるような優しい友情でぼくを愛していた。マドモワゼル・マノンのような美しい女性に会い、心もそぞろに彼女の先に立って案内し、彼を遠ざけようとしたり、彼を追い払ったりしたぼくの心くばりを見て、ぼくの心に愛情の芽が芽生えたのではないか、という漠然とした疑問が彼の気持ちを捉《とら》えたのである。自分が宿屋へ帰ったらぼくが気を悪くするのではないかと心配して、ぼくをそこに残したまま、あえて宿屋まで戻ろうとはしなかった。けれども、ぼくの下宿で待っていたので、下宿へ帰ってみると、もう夜の十時だというのに、彼の姿を見出したのである。彼に会ってぼくはイライラした。彼がいるために、ぼくが苦境に立っているということを、彼はすぐに見抜いた。
「君が、なにかぼくには隠しておきたいような計画を考えていることはたしかだね」と彼が腹蔵《ふくぞう》ない調子で言った。「君の態度を見れば、ひと目でわかるよ」
ぼくの計画を何から何まで、君に知らせる必要なんかないよ、とぼくはうんと乱暴な調子で答えてやった。
「そんな必要はないさ」、と彼は言葉をついだ。「けれどもね、君は今までいつもぼくを友人として扱ってくれたじゃないか、そしてこの友人という資格はね、いくらかでも信頼と、率直さを前提とするものだよ」
彼があんまり一生懸命に、そして永いあいだ、秘密を打ち明けてくれるようにとせがんだので、今まで一度もなにひとつ彼に隠し立てしたことのなかったぼくは、とうとう自分の情熱を洗いざらい打ち明けてしまった。彼はいかにも心外だ、という態度で打ち明け話に耳を傾けていたが、その様子を見てぼくは身震いした。とりわけ駆け落ちの計画まで彼に打ち明けてしまった、自分の不用意な気持ちを後悔していた。彼の語るところでは、彼は心底からぼくのためを思う友人だから、全力を尽くしてこの計画に反対しようという。また、そんなぼくの気持ちを変えることができると思われる、あらゆることをまず最初に申しでてみて、それでもなおこのつまらない決心を変えないというのなら、確実にこの計画を断念させることのできる相手に知らせてやる、とまで言った。彼はこの問題について、十五分以上も真面目な議論を続け、そしてとうとう最後には、もしもっと賢明な、理性的な態度で行動すると彼に約束しなければ、どんなことをしてでもぼくのことをひとに知らせてやる、という脅迫的な言葉まで使って、この議論を打ちきった。
ぼくは、よりによってまずい時期に秘密を洩《も》らしてしまったので絶望してしまった。ところが二、三時間まえから、恋を知ったためにぼくの心には知恵の芽が芽生えたから、慎重に、計画はその翌日実行に移されるはずだ、ということは打ち明けないように用心していたし、そして彼の前ではどっちつかずに曖昧《あいまい》なことを言ってごまかしてやろうと決心した。
「ねえ、チベルジュ」、とぼくは言った。「ぼくは今日まで、君が親友だと信じていたんだよ、だからね、こんな告白をして君の気持ちを試してみようと思ったのさ。恋をしているのはほんとうだよ、君を欺《だま》そうなんていうつもりは毛頭ないよ。でもね、駆け落ちをするのどうのというのは、そうオイソレと実行できる計画じゃあないよ。あすの朝九時にぼくに会いにきてくれないか、できたら、君にもぼくの恋人に会ってもらうよ、そうすれば、彼女がぼくが苦労するだけの甲斐《かい》のある女性かどうか、君にもわかるだろうから」
彼はさんざん友情の誓いを並べたててから、ぼくを独り残して出ていった。身のまわりの整理に一晩じゅう費やし、そして夜明けがたにマドモワゼル・マノンの宿屋へ出かけて、ぼくを待ち受けていた彼女と落ちあった。ぼくの姿を見かけたらすぐ自分でドアを開けられるように、彼女は道に面した窓のところにいた。ぼくたちは、音をたてないように出発した。
彼女は、下着類のほかにはなにも荷物を持っていなかったので、ぼくがその荷物をもってやった。馬車はもう出かけるばかりになっていた。ぼくたちはすぐに町から遠ざかっていった。
みごとぼくのペテンにひっかかったと気づいたとき、チベルジュがどんな態度をとったかは、いずれのちほどお話しすることにしましょう。欺されたからといって、彼の友情が冷えきってしまったわけではありません。彼がどれほど激しく友情を燃えたたせたか、そしてまたこの友情のお返しに、ぼくがどんな仕打ちをとり続けたかを考えると、ぼくがどんなに涙を流したところでとうてい流しすぎるものでなかったことは、だんだんとお分かりになるでしょう。
ぼくたちは大急ぎで馬車を走らせたので、日が暮れる前にサン・ドニへ着いてしまった。ぼくは馬に乗り、馬車につきそって走っていた。だから、馬を換《か》えるときのほかは、ほとんど言葉を交わすこともできなかった。ところがパリのすぐ近くまでくると、つまりもうほとんど安全になってみると、ようやくひと息ついて、アミアンを出発してからなにひとつ口にしていなかったのに気がつくゆとりができてきた。ぼくはもうマノンを夢中になって愛していたが、マノンのほうでも、ぼくに劣らずぼくを愛しているのを納得させた。
愛撫し合うのを慎しみ深く我慢していることができなかったから、もう二人っきりになるのが待ちきれないくらいだった。馬車の御者も、宿屋の主人もあきれかえってぼくたちを眺めていた。ぼくたちぐらいの年配の二人の子どもが、こんなに夢中になって愛し合っている様子をみて連中がびっくりしているのがぼくにもよくわかった。サン・ドニへ着いたら結婚しようなどという計画も、きれいさっぱり忘れてしまった。教会の権利なんていうものはまったく無視して、そんなものは少しも気にかけずに夫婦気取りだった。もともとぼくは生まれつき優しかったし、しかも移り気ではなかったから、もしマノンがぼくに貞節をつくしてくれたら、生涯しあわせな生活を送れたことはまちがいないところだ。
彼女という女性を深く知れば知るほど、彼女のなかに愛すべき、新しい美点を見つけ出したものだった。彼女のウイット、心情、優しさ、美しさなどが、実にしっかりした、実に心を惹きつける鎖《くさり》となっていたので、ぼくは自分のしあわせのすべてを賭けてもこの鎖から抜け出したくないと思ったほどだった。なんと恐ろしい変わりようではないか! ぼくの絶望につながるものが、かえってこの上ないしあわせの原因《もと》になりえたのである。この誠実さが災いして、ぼくはすべての人間のうちでもっとも不幸な人間になるのである。この誠実さこそ、本来なら、あらゆる運命のうちでもっとも甘美な、愛情のもっとも完璧な報酬として期待してもよいものなのだ。
ぼくたちは、パリで家具つきの部屋《アパルトマン》を借りた。部屋はV街にあった。ところが不運なことに、この部屋は有名な徴税請負人のムッシュウ・ド・B…の邸宅のすぐ隣にあった。三週間が過ぎた、その間にもぼくの心は情熱にふくらんでいて、家族のことや、ぼくが失踪《しっそう》したために、父の心を乱したにちがいない苦悩のことなどほとんど考えてもみない有様だった。ところがぼくのしたことは、放蕩《ほうとう》などという言葉には当たらないものだし、マノンはマノンで、しごく控え目な生活をしていたので、こんな平穏な生活を続けていると、だんだんと自分の義務のことが念頭にうかぶようになってきた。
もしできたら父と仲直りしよう、と決心した。ぼくの恋人はあんなに可愛いらしいのだから、もし何らかの方法で父に彼女の利口さと美点を知ってもらえれば、父だって彼女が気に入らないはずはない。つまりひと言でいえば、父の承諾なしに結婚できるという希望などぜんぜん抱いていなかったのに、じつはひそかに、彼女と結婚する許しを父から得られるのではないかと期待していたのだ。
この考えをマノンに話した。そして、愛情だとか義務だとかいうものもたしかに動機になるが、お金の必要に迫られているのもまた多少は動機になるものだ、と言ってきかせた。それというのも、ぼくらの持ち金はもうギリギリのところまできていたし、ぼくとしても、金というものはいつまでもなくならないものだ、などという意見を改めて考えなおしていたからである。
こんな提案をしても、マノンは冷淡に聞いていた。ところが、ぼくとしては、彼女がこの提案に難色を示したのは、彼女の愛情そのものから出たものであり、また、もしこちらの隠れ家がわかったあとで、父がぼくの計画に賛成してくれなかったら、ぼくを失いはしないかという危惧《きぐ》から出ただけのことだとばかり信じこんでいた。だからだれかが手ぐすねひいて、ぼくに襲いかかろうとしている残酷な攻撃などには少しも疑いを抱いていなかった。金が必要だから、というのに反対して、手もとにはまだ数週間生活するぐらいのものはあるから、と彼女は言い、その金がなくなったら、田舎に何軒か親戚があるから、そちらに手紙を書いて泣言《なきごと》を言えばどうにか金蔓《かねづる》になる、という返辞をした。不承知とはいっても、いかにも優しい、しかも情熱をこめた愛撫をしながら和《なご》やかに言ったので、彼女の心の中にだけ生き続け、これっぽっちも彼女の心に不信の念を抱いていなかったぼくは、この返答やこの決心にすっかり賛成してしまう始末だった。
彼女に財布をすっかり任してあったし、また毎日の生活費を支払う世話も一任してあった。しばらくすると、ぼくらの食卓に前よりずっとりっぱなご馳走が並び、彼女もずいぶん金額のはる服装を身につけるようになった事に気づいた。ぼくにしても、手許にはもう十二ピストールか十五ピストールぐらいしか残っていない、ということを知らないわけではなかったから、一見して自分たちがだんだん豪勢な暮らしになってゆくのをみて、びっくりしていると彼女に話した。すると彼女は、なにも心配なさらないで、と笑いながら頼み、こんなことを言うのだった。
「金蔓《かねづる》ぐらい探してみせるって、あなたにお約束しなかったかしら?」
ぼくは、あまりに単純率直に彼女を愛していたから、おかしいななどという不安は少しも感じなかった。
ある日のこと、午後になってぼくは外出した。その日はふだんよりおそくなるからと彼女に話しておいたが、帰ってみると、ドアのところで二、三分待たされたのでけげんに思った。ぼくたちの家では、ほとんどぼくたちと同年配ぐらいの少女をひとり使っているだけだった。その召使いがドアを開けにきたので、どうしてこんなに待たせたんだい、と訊ねてみた。彼女はおずおずした様子で、ぼくがノックするのが聞こえなかったので、と返辞をした。ぼくはただ一回ノックしただけだったので、彼女にこう言ってやった。
「だけどおかしいじゃないか、ぼくのノックが聞こえなかったら、どうして開けにきたんだい?」
うまく口裏を合わせて答えるだけの才覚がなかったので、この質問にすっかり面くらって彼女はワッと泣き出した。そして、あたしの落度ではございません、奥様が、ムッシュウ・ド・B…が、居間に通じているもうひとつの階段から外へ出ておしまいになるまでは、ドアを開けてはいけないとおっしゃったからです、とはっきり言った。ぼくは頭が混乱してしまって、部屋へ入る力もなえて立ちつくした。用事を思い出したからと口実をつくって、もう一度外へ出ようと決心した。そうして召使いの少女には、ぼくがすぐ帰るように奥様に伝えておくように、けれどもお前がムッシュウ・ド・B…のはなしをしたということは内緒にしておくようにと命令しておいた。
ぼくの失望落胆は、まったく激しいものだったので、どんな感情でこうなるのかもわからず、階段を降りながら涙が流れてやまなかった。最初に目にとまったカッフェへ入った、そしてあとからあとから心に湧き上がってくる考えが広がるにまかせながら、テーブルの前に坐って、両手で頭をかかえていた。いま耳にしたばかりの言葉を、もう一度思い出す勇気がなかった。そんなものはただの幻にすぎない、と思いたかった。そしてそんなことはぜんぜん気づかなかったようなふりして家へ帰ろうと思って、二、三度立ちかけてみた。マノンがぼくを裏切るなんて、とうてい不可能に思えた。だから、彼女に少しでも疑いを抱くなんて、彼女を侮辱《ぶじょく》したことになりゃしなかと、心配するくらいだった。ぼくが夢中になって彼女を愛していたことはたしかだ。けれども、ぼくが彼女から受けた愛情のあかし以上のものを、こちらから与えたとも思えない。どうして彼女がぼくより誠実でないとか、ぼくよりも移り気だ、などと言って彼女を非難できるだろうか? 彼女には、ぼくを欺《あざむ》くどんな理由があるというのだ? 彼女がありったけの愛情をこめてぼくに愛撫を浴びせ、そしてまた有頂天になってぼくの愛撫を受けたのは、わずかに三時間ばかり前のことだった。ぼくは彼女の心よりも、いっそう自分の胸のうちがわからなくなってしまった。
「いや、ちがう」とぼくは考え直した。「マノンがぼくを裏切るなんて、そんなことがあるはずはない。ぼくにとっては彼女だけが生き甲斐だということを、彼女にしたって知らないはずはない。彼女に首ったけだということだって、じゅうぶん承知しているはずだ。ぼくを嫌う理由なんかなにもないじゃないか」
ところが、ムッシュウ・ド・B…が人目を忍んでコソコソ訪ねてきたり出ていったりするのは、相変わらずぼくにとっては苦痛のたねだった。それにまた、マノンがこまごまといろいろな買い物をしているのを思い出したが、ぼくの目からすると、ぼくたちの現在のふところ具合では及びもつかないものだった。どうみても、新しい恋人が気前よく買ってやっているような感じだった。そういえば、前に彼女は、金蔓がどうのこうのという打ち明けばなしをしたが、ぼくにはその正体が掴《つか》めなかったではないか!
こうしたかずかずの謎に対して、ぼくが心の中で望んでいるような、都合のいい解釈を見つけだすのはとうていむずかしいはなしだった。
とはいえ一方、パリへ着いて以来、ぼくはほとんど彼女から目を離したことはない。家にいても、散歩や気晴らしをしているうちも、いつも二人連れでいた。ああ! ぼくたちは、たとえいっときなりとも別々にいるなんて耐えられない苦しみだった。二人はたえず、ぼくたちは愛し合っている、と言わずにはいられなかった。もしそうしなかったら、ぼくたちは不安にさいなまれて死んでしまったにちがいない。だから、ただのいっときも、マノンの心の中にぼく以外の男の面影が宿ることができるなんて、ぼくにはとうてい考えられなかった。
とうとう、この秘密を解く鍵を見つけたような気がした。ぼくは心の中でこんなことを言った。
「ムッシュウ・ド・B…はいろんな大事業を手がけている、あちこち顔の広い男なんだ。マノンの親戚の者が、マノンにいくらかのお金を渡すために、この男に使いを頼んだんだろう。彼女はきっと今までにも彼からお金を受け取っていたにちがいない。あの男は、今日もまた彼女にお金を渡しにきたのだ。彼女はおそらく、機嫌よくぼくをびっくりさせようとして、わざとふざけてそれを隠していたにちがいない。こんなところへきて、なにもわざわざひとりで胸を痛めたりしないで、いつもと同じ時間に家へ帰ったら、きっと彼女はそのことを話してくれたにちがいない。少なくともこちらからその話をきりだしたら、そんなことを隠したりはしないだろう」
こんな意見がぼくの心の中で勢力を占めてきたので、悲しみはだいぶ薄らいできた。ぼくはとるものもとりあえず家へ帰った。いつもと同じように優しくマノンを抱擁した。彼女はとても愛想よくぼくを迎えた。ぼくの推測は前よりもいっそう確実なような気がしたので、まず最初に彼女に話してみようと思ったが、彼女が先手をとって向こうから打ち明けるつもりになって、どんなことがあったかその事情を逐一《ちくいち》話してくれるんじゃあないかとひそかに願いながら、ひとまず思いとどまった。
夕食の支度ができた。うわべはすこぶる陽気なふりをしてテーブルについた。ところが、彼女とぼくとの間に置いてあったローソクの明りで、愛する恋人の表情や眼のうちに、なんとなく悲しげな≪かげ≫があるのに気がついた。そう考えると、ぼくの心までなにか悲しくなってきた。彼女の眼差《まなざし》が、いつもぼくに注がれるのとはちょっと違った様子でぼくのほうをじっと見つめているのがわかった。たしかにそれは甘美な、また悩ましげな感情から出たものにちがいないようにみえたものの、これははたして、愛情の表現か、それとも憐憫《れんびん》の気持ちから出ているものか、はっきり見分けることができなかった。
ぼくも彼女と同じように、じっと彼女を見つめた。おそらく彼女はそれほど手間もかからずにぼくの眼差から心の乱れを読みとれたにちがいない。二人とも口を訊《き》こうとも、食事に手をつけようとも思わなかった。とうとう、彼女の美しい目から涙がポトリと落ちるのが見えた。これこそまさに不実な涙だった!
「ああ、神よ!」とぼくは叫んだ。「ぼくの可愛いマノン、君は泣いているんだね。泣くほど悩んでいながら、その悩みについてひと言も打ち明けてくれないんだね」
彼女の返辞といえば、二、三度|溜息《ためいき》をついただけだったが、この溜息がまた、ぼくの心に不安を拡げた。ぼくは夢中になって、あらゆる愛の言葉を浴びせながら、彼女がどうしてそんなに泣くのか、その原因を打ち明けてくれ、と頼んでみた。彼女の涙を拭《ぬぐ》ってやりながら、ぼくまで涙が流れてきた。もう生きた心地もなく、息も絶えたような気分だった。ぼくの苦悩、不安な様子を見たら、野蛮人ですら心を痛めずにはいなかっただろう。
こうして、彼女のことを考え続けているうちに、数人の人間が階段を昇る騒がしい足音が聞こえてきた。だれかがドアをそっとノックした。マノンはぼくにキスをすると、ぼくの腕から身を逃れて大急ぎで居間へ入り、すぐにうしろ手にドアを閉めてしまった。少々取り乱しぎみだったので、ドアをノックした見知らぬ人間に見られないように、引っ込もうと思ったんだろうぐらいに、ぼくは考えていた。ぼくは自分でドアを開けにいった。ドアを開けるやいなや、三人の男に体をつかまえられてしまったが、連中の顔をみて父の下男だということがわかった。連中はぼくにべつだん乱暴なことはしなかった。連中のうちの二人がぼくの腕をつかまえ、三人目がポケットの中を探って小さなナイフをとりあげた。このナイフはぼくが身につけていた唯一の武器だった。
彼らは、やむをえずこんな失礼なことをして申し訳ありません、とあやまった。もちろん、これはみんな父の差し金でしていることですがと説明して、またぼくの兄が階下《した》で、馬車の中でお待ちになっております、と言った。ぼくは気持ちが混乱していたので、言われるままに、抵抗もせず、またひと言も答えもしないで連れてゆかれた。
たしかに、兄はぼくを待っていた。馬車の中へ連れ込まれて、兄のすぐ脇に坐らされると、御者は兄の命令でサン・ドニまで全速力でぼくたちを運んだ。兄はやさしくぼくを抱擁したが、ぼくに向かってひと言も口をきかなかった。自分の身に起きた不幸を考えるために、ぼくに必要な時間をたっぷり与えようという配慮だった。
最初のうちは、事件のなりゆきはまったく複雑をきわめていたから、ほんとうにささやかな推測にも曙光《しょこう》を見出すことはできなかった。手ひどく裏切られたのだ。けれども、はたして相手はだれだろうか? ぼくの心にまっ先に浮かんだのはチベルジュだった。
「裏切り者め!」とぼくは言った。「もしぼくの疑いが正しかったら、お前なんか生かしてはおかないぞ」
ところがよくよく考えてみると、彼はぼくの住居がどこにあるか知らなかったわけだし、してみれば彼の口から住居をつきとめることはできないことになる。じゃあマノンに罪を着せるか、いや、そんな罪なことをする勇気はぼくの心にはとうていない。見るからに苦悩に圧しひしがれたようにみえる、あのいつにない悲しそうな様子といい、あの溢れる涙といい、居間へ引っ込む前にぼくに浴びせかけた甘いキスの味といい、ぼくにはまったく謎としか思えなかった。しかしぼくの気持ちとしては、この謎をぼくたち二人に襲いかかる不幸の予感という言葉で説明をつけたかったし、彼女の手からぼくを奪い取ったこの事件に絶望落胆しているときですら、信じやすいぼくは、彼女のほうがぼくよりももっともっと嘆いているにちがいない、と考えるほど甘かった。さんざん考えあぐねた結果、自分の心にこう言いきかせた。つまり、パリの街を歩き廻っているうちに、だれかぼくの知り合いに見つかって、その知り合いが父に知らせたにちがいないと。
こう考えてみると、ぼくの気持ちはぐんと楽になった。父親の権威からいっても、当然ぼくの身にふりかかってくるさまざまな非難や冷遇を、甘んじて受けていれば、それで一切すむことじゃあないか、という気になっていた。少しでも早くパリへ戻り、可愛いいマノンに生き甲斐と楽しみをとり戻してやるためにも、自重してこうした冷遇にも耐え忍び、自分がどんなことを要求されても、なんでもハイハイと約束してやろう、と決心した。
アッという間に、ぼくたちはサン・ドニへ着いた。ぼくがムッツリしているのをけげんに思っていた兄は、きっとぼくが先のことを心配しているせいだろう、と思った。兄はぼくの気持ちを慰めようとして、ぼくが身持ちを改めて、おとなしく自分の本分にかえり、父がぼくに抱いている愛情に答えてやるようにすれば、厳格なお父さんだって少しも怖《こわ》がることはないよ、と請けあってくれた。
兄は、ぼくをその晩サン・ドニで泊まらせたが、万全の注意を払って、ぼくの部屋へ三人の下男をいっしょに寝かせるように取りはからった。アミアンからパリへ行く途中に、マノンといっしょに泊まったその同じ宿屋に、いま自分の姿を見出すということは、ぼくにとってはまったくやりきれない苦しみだった。宿の主人も使用人たちもぼくの顔を見おぼえていて、同時に恋愛事件の真相まで見透してしまった。宿の主人がこんなことを言うのが聞こえた。
「やあ! 六週間ばかり前に通った色男の≪だんな≫だね、可愛いお嬢さんといっしょだったが、そういやあ、だんなは首ったけだったな。ほんとに色っぽいお嬢さんだったな! あれだけ仲よくいちゃついていたのに、まったく可哀そうだよ! いやはや、あの二人を別々に引き離すなんて、殺生《せっしょう》なはなしだ」
ぼくはなんにも耳に人らないふりをしていたし、できるだけ自分の姿を見られないようにしていた。兄は、サン・ドニに二人用の馬車をもっていたので、この馬車で朝早くここを発《た》ち、翌日の夜家に着いた。
兄は、ぼくよりもまえに父に会ってくれ、ぼくがどれほどおとなしく言いなりになってあとについてきたかを前もって父に話してくれたので、そのおかげで、父は、こちらで予想していたよりずっとおうような態度でぼくを迎えてくれた。父は、父の許しを受けずに行方《ゆくえ》をくらましてしまった、ぼくの犯した過失について、ごく一般的なお説教をするだけで満足した。恋人については、父が言うところでは、どこのどいつともわからぬ女のもとへ走ったりしたのだから、ぼくの身にこんなことが起こっても当然の罰じゃないかというわけだ。それにまた、もっと身を慎しむようにと、りっぱな意見をつけ加え、このささやかなアヴァンチュールのおかげで、お前がもっと世間というものを知ってくれたらいいんだが、とも言った。
ぼくはこんなお説教を聞いていても、しごくこちらに都合のいいような意味に解釈しただけだった。父がぼくを大目に見てくれたことに感謝し、これからはもっと素直で、規則正しい生活をするようにしますから、と父に約束した。じつは心の底で勝鬨《かちどき》をあげていたのだ。というのは、こんな具合にことが運べば、今夜、夜が明ける前にも家を抜け出せる暇はじゅうぶんありそうなのは、火を見るより明らかだったからだ。
一同テーブルについて夕食が始まった。みんなが、ぼくのアミアンでの恋の勝利やら、あの≪貞節な≫愛人との逃避行を話題にして笑った。ぼくは上機嫌でそんな攻撃の矢面《やおもて》に立った。ぼくは、相変わらずぼくの心を占めている問題について自問自答できるので、むしろうっとりしていた。ところが、父の口からふと洩《も》れた二言三言に、ごく注意深く耳をそばだてた。父は不実がどうのこうのと話し、ムッシュウ・B…にうけたなにか意味あり気な親切のことを話したのだ。
父の口からこの名前が発音されるのを聞いてぼくはドギマギしてしまったが、それでもていねいに、もっと詳しく説明してくださいと父に頼んだ。父は兄のほうへ向き直り、お前はまだ事情をすっかり打ち明けてなかったのかね、と訊ねた。兄は、道中ぼくがとても落ち着いているように見え、ぼくの熱狂を癒《いや》すのに、そんな処置をとる必要があるとは思えませんでしたから、と父に答えた。ぼくの目には、父が事情をすっかり説明してしまっていいものかどうか迷っているのがはっきりわかった。しきりに、すっかり喋ってくださいと頼んだので、父はぼくの願いを聞き届けてはくれたが、それはむしろ、この世のもっとも恐ろしい物語で、見るも無残にぼくを痛めつけたというべきだろう。
父は、まず手はじめに、お前はまだ自分がその恋人とやらに愛されていたと信じ込むほどお人好しなのかね、とぼくに訊《たず》ねた。もちろん愛されていることは確かだし、第一これっぽっちも相手を疑ってみる証拠なんかありませんから、とぼくは自信あり気に答えた。
「ハッ! ハッ! ハッ!」と父は肚《はら》の底から笑いながら言った。「こいつはすばらしいぞ! お前ときたらまったくみごとにペテンにかけられたもんだな。そんな気持ちでいるお前の姿が、わしには可愛いくてしようがないんだよ。なあ、わしの哀れなシュヴァリエ、お前をマルタ修道会へ入らせようとしたのは、まったく残念しごくだよ、だってお前ときたら、辛抱づよい、お人好しの亭主族になる素質じゅうぶんだからな」
父はそのいきおいで、ぼくの間抜けぶりだとか、信じ易いお人好しぶりだとかをさんざんに嘲弄《ちょうろう》し、笑いものにした。ぼくがとうとう口をつぐんでしまったので、父はあとを続けてこんなことを言った。
つまり、指を折ってみると、ぼくがアミアンを出奔《しゅっぽん》してのち、マノンは十二日ばかりぼくを愛した、という勘定になる。
「というのはだな」、と父はつけ加えて言った。「わしの知るところでは、お前は先月の二十八日にアミアンを出発しておるわけだ。ところで今日は二十九日。ムッシュウ・B…がわしのところへ手紙をよこしてからもう十一日ばかりたつ。とすればこんな推理ができるわけじゃあないか。彼がお前の情婦と切っても切れない仲になるのに、八日ほどかかった。してみると、先月の二十八日から今月の二十九日までで三十二日、それから十一日と八日を引けば、どうだい、十二日ということになるじゃないか、まあ多少のズレはあるかも知れんがね」
こう言うと、またドッと笑い声があがった。ぼくは心が張りさけるような思いで聞いていたので、このみじめな喜劇を最後まで耐えていられるかどうか気がかりになるほどだった。すると、父はまた続けてこんなことを言った。
「どうやらお前はご存知ないらしいから、ムッシュウ・B…がお前のお姫さまの心を手に入れたいきさつを説明してやろうじゃないか、なんといったって、あの男はこのわしを愚弄《ぐろう》しおったからな。あの男は、わしに信じてもらおうと思って、お前からあのお姫さまを奪いとろうと思ったのも、わしへのサービスのつもりで、欲得はなれて一生懸命やったんだとさかんに主張するんだよ。あの男のことは知らんけれど、もちろん相手がああいう男でも、まあこうした高尚な感情も期待してやらなければいかんからな。あの男が、お前がわしの息子だと知ったのは、お前のお姫さまの口から聞いたんだよ、そしてしつっこいお前をお払い箱にしようと思って、お前がどこに住んでいるか、どんなにふしだらな生活をしているか、わしのところに手紙を書いてきたんだ、それに、お前を確実に捉《とら》えるには、助太刀《すけだち》が必要だ、とわしに言ってきたんでな。あの男が、簡単にお前の首根ッ子をつかまえる方法を教えてくれたし、お前の兄さんが、まんまとお前の不意をついて引っとらえるチャンスを利用することができたのも、あの男と、お前の情婦の口添えのおかげさ。さあ、こうなったら、お前の勝利の日がいく日続いたかお祝いをするがいいぞ。なあ、シュヴァリエ、なるほどお前は疾風迅雷《しっぷうじんらい》のごとく征服したが、その代わり、戦利品も永くとっておけなかったというわけだな」
こんなお説教をこれ以上耐えている気力もなかった。そのひと言ひと言がぼくの胸にグサリと突き刺さるのだ。テーブルを立った。食堂から出てゆこうとしたが、四歩も歩けずに床の上に倒れて意識を失ってしまった。手当てが手早かったので、意識をとり戻した。目を開いたが、涙が滝津瀬《たきつせ》のように溢れでて、世にもみじめな、ひとを感動させずにはおかない悲嘆の言葉が口をついて出た。父は、つねにぼくを優しい気持ちで愛してくれたから、あらゆる愛情を披瀝《ひれき》してぼくを慰めてくれた。父の言葉に聞きいってはいたものの、ぼくの耳にはひと言も意味がわからなかった。父の膝に身を投げかけて、あのB…のやつを刺し殺してやるから、パリへ帰らせてくれ、と両手を合わせて父に哀願する始末だった。
「とんでもない話です」、とぼくは言った。「あの男はマノンの心をとらえたんじゃあありませんよ、きっと力ずくでやったんです。きっと魔法か媚薬《びやく》を使って彼女を誘惑したんですよ。おそらく、腕ずくで犯したんでしょう。マノンはぼくを愛しています。ぼくにそれがわかからないというんですか? 彼女に、むりにもぼくのことを捨てさせようとして、短刀でも手にして脅迫したんです。ぼくの手からあんなかわいい恋人を奪うためなら、どんなことをするかわかるもんですか? ああ、神さま! 神さま! マノンがぼくを裏切るなんて、ぼくを愛さなくなるなんて、そんなことがあるでしょうか!」
ひっきりなしに、パリへ戻るんだと口走り、パリへ戻ろうとして何度も何度も立ち上がろうとするのを見て、こんな狂乱状態にあったのでは、どんなことをしてもとうてい引きとめることはできそうもないと、父にはよくわかった。父はぼくを階上《うえ》の部屋へ連れてゆき、ぼくといっしょに二人の召使いを見張りに残していった。もう自制する力もなかった。ただの十五分でもいいからパリへ帰れたら、千回いのちを捧げても悔いなかっただろう。こんなにはっきりと気持ちを打ち明けてしまったからには、そうやすやすとぼくを部屋から出してはくれまい、ということはぼくにもよくわかった。窓の高さを目測してみた。この抜け道から逃げ出すのはまったく可能性がなさそうに思えたので、ぼくは猫なで声を出して二人の召使いに話しかけた。もし逃げ出すのに手を貸してくれたら、いつかは金持ちにしてやるからと、何度も約束を繰り返して誘惑してみた。二人にせがんだり、お世辞をつかったり、脅迫してみたりした。
けれど相変わらず、こんな試みもなんの役にもたたなかった。そうなると、もうあらゆる希望は消えてしまった。それならよし、死んでやろう、と決心した。いのちのある限りここを離れないぞ、と心をきめてベッドに身を投げかけた。
こんな状態のまま、その夜が過ぎ、翌日も過ぎた。その翌日は運ばれた食事にも手をつけなかった。午後になって、父が会いにきた。父はまたとないような優しい慰めの言葉をかけて、ぼくの苦痛をやわらげてくれた。父は、何かを食べるように、と断固《だんこ》として命令したので、父の命令に対する尊敬の気持ちから、ぼくは食事に口をつけた。
数日が過ぎた。そのあいだ、父が目の前にいる時でなければなにひとつ口にしなかったが、これは、せめても父に服従する気持ちを見せようというつもりだった。父は相変わらず、ぼくの気持ちを本心に立ち帰らせ、あの不実なマノンについての軽蔑をぼくの心に植えつけるようなお説教をじゅんじゅんと続けたものだった。もちろん、ぼくにしてももう、彼女が誠実な女だ、などとは思ってもいなかった。あらゆる女のうちでももっとも移り気な、不実な女を、どうして誠実な女などと思ったりできるだろう? けれども、心の奥底にやきついた彼女の面影、彼女のひとを魅する表情は、いぜんとしてぼくの心の中に息吹きを続けていたのである。それを感じすぎるほど感じていた。ぼくはこんなことを言ったものだ。
「ぼくにだって死ねるぞ。あれだけの恥辱《ちじょく》と苦悩を味わわされたんだから、むしろ死ぬのが当たり前かもしれない。けれど、千回死んでも苦痛とは思わないが、あの恩知らずのマノンのことはとうてい忘れることはできそうもない」
ぼくがまだこれほど激しく心を傷つけられているのを知って、父はふしぎそうだった。父は、ぼくがもともと名誉を重んじる性《たち》だと知っていたし、それに彼女があんな裏切りをしたのだから、ぼくが彼女を軽蔑するのは疑う余地もないことだ、と思い込んでいたので、こんなに強情をはり続けるのは、とりたてて彼女への情熱からくるものではなく、むしろ女好きな、ごくありふれた性質からきているものにちがいないと考えた。父の頭にはこんな考えがこびりついて離れなかったので、自分の優しい愛情に照らしただけでこんな意見を考え出し、ある日、ぼくに向かってそれを打ち明けにきた。
「なあ、シュヴァリエ」、と父が話しかけた。「今までわしは、お前にマルタ十字章をつけさせようというつもりだったが、どうも見たところ、お前の性質からいって、そんな方面には向いてないような気がしてね。お前は可愛らしいご婦人に弱いんだな。だからここはひとつ、お前の気に入った嫁でも探してあげようという気になったんだよ。もちろん、これについてお前がどう考えているかも聞かしてもらいたいんだがね」
ぼくは、自分は女性について、べつにこれといった差別もしていないし、また先日来この身に振りかかった不幸のあとでは、女性はみんな平等に大嫌いだ、と父に答えてやった。すると父は、ほほ笑みながらこんな言葉を続けた。
「お前にね、マノンにそっくりで、しかももっとずっと誠実な女性を見つけてあげようじゃあないか」
「ああ! ぼくになにか好意でももってくださるんなら」、とぼくは言った。「返してほしいのは彼女なんです。ねえ、お父さん、信じてくだざい、彼女はぼくを裏切ったりしませんでしたよ。そんなあくどい、残酷な、卑劣なことを彼女にできるはずはありません。お父さんや、彼女やぼくを、ぼくたちみんなを陥《おと》しいれたのは、あの信用できないB…のやつなんですよ。彼女がどれほど優しく、どれほどまじめな女かわかったら、彼女の人柄を知ってくれたら、お父さんだって彼女が好きになりますよ」
「お前はまだ子どもなんだよ」、と父はまた言葉を続けた。「あの女のことは、お前にすっかり話してやったじゃないか、どうしてお前はそれほどまでに分からずやになったんだい? お前をね、兄さんに引き渡したのはあの女自身なんだよ。あんな女の名前も忘れちまわなければいけない、お前が利口なら、わしがお前を寛大な目で見てやっているのを、せいぜい利用しなければいけないんだよ」
父の言葉どおりだということは、わかりすぎるほどわかっていた。こんなふうに、心ならずもあの浮気女を受け入れるのは、自分でもどうにもならない力に動かされていたのだ。
「ああ!」と、しばらく沈黙したのちにぼくは再び語り出した。「ぼくが、あらゆる不実な女のうちでも、もっとも卑劣な女の餌食《えじき》になっているのは、どう見ても明らかです」
くやし涙を流しながら、ぼくは先を続けた。「そうですとも、ぼくは子どもです、そんなことは百も承知しています。人の好いぼくをペテンにかけることぐらい、連中には造作《ぞうさ》のないことだったんですよ。でも、ぼくだってどうやって復讐《ふくしゅう》すればいいかぐらいわかりますよ」
父はぼくがどんな計画を抱いているのか知りたがった。そこでぼくは、父にこう言ってやった。
「パリへ行くんです。B…のやつの邸に火をつけて、あの不実なマノンといっしょに、あの男を生きながら焼き殺してやるんです」
ぼくがこんなに逆上しているのを見て父は大笑いしたが、結局こんな逆上は、ぼくの牢獄を前よりいっそう厳重に見はらせるために役立っただけだった。
たっぷり六カ月間ここで過ごしたが、最初のうちは、ぼくの気持ちにはほとんど変化はなかった。ぼくの気持ちは、心の中に浮かんでくるマノンの面影しだいで、憎悪と愛情、希望と絶望が絶えまなく交代した。ある時は、彼女こそこの世の娘のうちで、いちばん愛らしい女性だと思い、もう一度彼女に会えたらというのぞみで、身もやつれるほど思いこがれた。ある時は、あんな女はまったく卑劣で不貞な恋人だと思い、今度探し出したら思う存分こらしめてやろうと、何度も何度も誓いをたてたものだった。
家の者が本を差し入れてくれたが、この本のおかげでぼくの心はやや安息をとり戻した。なじみの作家の本をすべて読み直して、いろいろ新しい知識をえた。勉強に対する無限の喜びを再びとり戻したのである。それがどれほどぼくのために役立ったかは、読者もいずれわかってくださるだろう。恋をしたおかげで知ったいろいろな知恵が、以前にはつかみどころのないように思われたホラチウスやウェルギリウスのさまざまな個所を、はっきりと理解させてくれた。ぼくは『アエネアス』〔ウェルギリウスの作品。トロイア戦争の敗将アエネアスは放浪の旅に出、カルタゴで女王ディドーと愛しあい、夢のような生活を送ったが、ユピテルの命により再び漂泊の旅に出、その別離を悲しんだディドーは自殺する〕の第四巻についての恋愛的な注釈を書いた。いつかそれを公表するつもりだが、これを公表したら世間はアッといって満足してくれるものと自負している。この一文を書きながら、こんなことを言ったものだ。
「ああ! あの貞節なディドーには、ぼくの心みたいな心が必要だったんだ」
ある日、チベルジュがぼくの牢獄まで会いにきてくれた。彼がぼくを抱きしめてくれたその激しい情熱に、ぼくはびっくりしてしまった。まだ彼のこんな愛情の証《あか》しを目のあたりにしたことはなかったし、この愛情は、ほとんど同じ年配の青年の間に芽生えるような、ありきたりな学校友達の友情とはまったく別物のようにぼくには思えた。彼と会わないで過ごしたこの五、六カ月のうちに彼はとても人が変わり、しっかりしてきたように見えたので、彼の顔つきを見ても、話を聞いていても、ぼくの心には尊敬の念が湧き上がってくるのを抑えきれなかった。彼は学校友達というよりは、むしろ賢明な忠告者のような口ぶりでぼくに話しかけた。ぼくが迷い込んだ無軌道な生活を嘆いたが、今ではもうすっかり目が覚めて、迷いを忘れたと言って祝福してくれた。そして最後には、青年にありがちな今度のまちがいを逆に利用して、享楽の空《むな》しさについて目を開くように心がけたらいいだろう、と言って激励してくれた。ぼくは驚いて彼を見つめた。彼はそれに気がついた。
「ねえ、シュヴァリエ」、と彼はぼくに語りかけた。「ぼくはね、まちがいなく真実だと確信できること以外は君に話さないよ、それにじっくり考えてみて、なるほどこれならたしかだ、と思ったこと以外はね。肉欲に弱い性質といえば、君よりもぼくのほうが強いくらいだ。けれどもね、神は同時に、美徳に対する好みもぼくに与えてくれたんだよ。ぼくはね、肉欲と美徳というこの二つの果実を、じっくりと比較するために、自分の理性の力をフルに活用してきたんだ、おかげでそれほど手間もかけずにその違いを見つけ出すことができたんだよ。神はぼくの思考に力を与えて、援助をしてくれた。ぼくは現世というものに対して軽蔑を抱くようになったが、それはほかの何ものとも較べられないものなんだよ」
こう言ってから、彼はさらにつけ加えた。
「ぼくをこの現世に引き留めているもの、ひたすら孤独の生活に走ろうとするのを阻止しているもの、それがなんだか君にわかるかい? それはただ、君に対する厚い友情だけなんだよ。ぼくは、君の心の、君の精神のすばらしさをよくわきまえている。どんなりっぱなことだって、君にかかってはできないことは何ひとつないんだ。享楽という毒が君をひとの道から遠ざけてしまったんだ。君の美徳にとっては、なんという損失だろう! 君がアミアンから失踪《しっそう》してしまったことは、ぼくにはまったく悩みの種だった。あれ以来、ただのいっときだって心楽しむ余裕はなかったくらいだよ。あの事件のおかげで、ぼくがどれほど奔走したか、わかってくれたまえ」
彼はぼくにこんなことを語った。つまり、ぼくが彼をペテンにかけて、恋人といっしょに出発してしまったことに気がつくと、彼は馬でぼくを追いかけた。ところが、ぼくのほうが彼よりも四時間か五時間早かったので、追いつくことはとうてい不可能だった。それでも、ぼくが発ってしまってから、半時間ばかりして、サン・ドニへ着いた。
パリに住んでいるのは確実だったから、六週間ばかり時間をかけてぼくを探したものの、結局はムダ骨折りに終わった。ぼくの姿を見かけそうだと期待できるような場所へは、くまなく行ってみた。とうとうある日、コメディー・フランセーズでぼくの恋人を見かけた。彼女は輝くばかり鮮かな衣裳に身を包まれていたから、これはてっきり新しい情夫を見つけてねだったものだなと思った。彼女の住居まで馬車のあとをつけてゆき、召使いの口から、気前よく金をつかうムッシュウ・B…のお妾になって囲われているんだ、という話を聞いた。
「ぼくはそんなことじゃあ肚《はら》の虫がおさまらなかったよ」、と彼は話を続けた。「彼女自身の口から、君はいったいどうなったのか聞きたくてね、その翌日また出かけて行ったんだよ。君の名前を口にするのを聞くとすぐに、彼女はにわかに席を立って向こうへ行ってしまったのでね、ほかのことはなんにもわからずじまいで、ぼくは田舎へ帰らなければならなかったってわけさ。田舎へ帰ってみると、ぼくは君の恋愛事件の≪てんまつ≫を知り、彼女のおかげで君がすこぶる逆上気味だという話を聞いたんだよ。でも、君に会いたいとは思わなかったんだ、もっと落ち着いて心をとり直すまではね」
「じゃあ、君はマノンに会ったんだね」、とぼくは溜息《ためいき》をつきながら答えた。「ああ! 君はぼくよりしあわせだよ、ぼくは罰を受けて、もうぜったいにマノンには会えないんだものね」
彼は、こんな溜息をつくぼくを非難したが、彼の目からすればこの溜息は、彼女のためにまだぼくが弱味をさらけ出しているように見えたのだろう。彼がぼくの性質の善良な点や愛情について、じつに言葉たくみに讃《ほ》めそやしたので、この最初の訪問から、彼と同じように、現世のすべての享楽を捨てて、僧職に身を捧げようという強い望みがぼくの心に芽生えてきた。
さてひとりになってみると、この思いつきがすっかり気に入ってしまって、もうほかのことは念頭にうかばない有様だった。いつかぼくに同じような忠告をしてくれたアミアンの司教様の話や、もしはっきり心を決めれば、ぼくのためにいろいろ都合のいいようにお膳立てをしてくれるという願ってもない憶測が頭にうかんだ。また同様に、ぼくの考えの中に信仰心が混り合ったことも事実だ。
「りっぱな、キリスト教徒としての生活を送ってやろう」と、ぼくは言った。「研究と宗教生活に打ち込んでやろう。この二つに没頭すれば、恋愛なんて危険な快楽に考えを及ぼす余裕はなくなるだろう。世の凡人どもが感嘆するものを逆に軽蔑してやろう。ぼくの心は、自分の気持ちでこれはりっぱだと評価するものしか欲しがらないことを、はっきり感じるくらいだから、欲望も不安もほとんど感じることはあるまい」
こうして、前もってぼくは、平穏で孤独な生活設計を立てておいた。庭の一隅に、小さな森と静かに流れる小川のある、人里離れた家に住む。選ばれた書物が並んだ書斎、行ないすました良識に富んだ少数の友人たち、清潔だが、質素で、ほどほどの食卓がほしい。パリに住んでいるある友人と文通をする。この友人は世間のいろいろなニュースをぼくに知らせてくれるが、それもぼくの好奇心を満足させるためではなく、俗人たちの狂気の沙汰からぼくの気持ちをそらせるためのものだ。
「そうなったら、ぼくはしあわせになるんじゃあなかろうか?」とぼくはつけ加えた。「ぼくの思うところは、これで全部果たされるんじゃあないかな?」
こんな計画を思いめぐらしてみると、たしかにそれはぼくの気質にピッタリかなったものだった。けれどもこれほどみごとに手はずをととのえても、なお最後には、自分の心がなにかあるものを期待しているような感じがした。もっとも心にかなった孤独のうちにいて、なにひとつ望むもののないようにと思えば、やっぱりどうしてもマノンがいなければはじまらない、という気がしたのである。
その間にも、チベルジュは、ぼくの心中に植えつけた計画のために、引きつづいてたびたびぼくを訪ねてくれたが、ぼくは機会をみて父に心中を打ち明けてみた。父の気持ちとしては、子どもが職業を選ぶのは子どもの自由に任せるし、ぼくがどんな方法で生活を立てようと、父親の権利としては、適切な助言を与えて援助する以外にはない、とはっきりと言った。たしかに父はきわめて賢明な助言をしてくれたから、ぼくとしては自分の計画が嫌になるどころか、はっきりその計画をおし進めていった。
新学期が再び近づいた。チベルジュと話し合って、二人いっしょにサン・シュルピイスの神学校へ入学することに決めた。彼のほうは神学研究はこれで卒業だが、ぼくは自分の勉強をこれから始めようというわけだ。彼の才能は、教区の司教にすでに前から認められていたので、ぼくたちが出発する前に、この司教が彼のために相当な奨学金をとっておいてくれたのだ。父は、ぼくがあの恋情からすっかり立ち直ったと信じていたから、家をあとにすると言ってもなにひとつ苦情を言わなかった。
ぼくらはパリへ着いた。僧服がマルタ十字章に変わり、僧侶《アベ》グリューの名前が騎士《シュヴァリエ》の名前にとって変わった。ぼくは非常に熱心に勉強に打ち込んだので、いく月もたたないうちに長足の進歩をとげた。夜の一部を勉強に当て、昼の時間は一瞬たりとも無駄に費やさなかった。ぼくの評判ときたらまったく輝かしいもので、いずれまちがいなく就《つ》く高位の僧職について、早くもみなぼくにお祝いの言葉を浴びせたものだった。べつだんこちらから申請したわけでもないのに、ぼくの名前は聖職録名簿に載った。信仰心をなおざりにするようなことはもちろんなかった。すべての学課に、夢中になって打ち込んだ。チベルジュは、これも彼の努力の甲斐があったものだと思って大いに気をよくして、彼流の呼び方に従えば、ぼくの≪改宗≫のことを口をきわめて讃めそやして、何度か彼の目に涙が溢《あふ》れるのを見たものだった。
人間の決心なんていうものは、しごく変わり易いものだということは、ぼくにとってはすでに別に驚くほどのことではなかった。ひとつの情熱は別の情熱を呼びさまし、またひとつの情熱が別の情熱を打ち砕くことができる。サン・シュルピイスまでぼくを導いてくれた情熱の清らかさ、その情熱を実行に移すことによって、神がぼくに味わわせてくれた心の内面の歓びのことを考えると、ぼくは、またなんとたわいなくそうした情熱を打ち砕いてしまったのかと、空《そら》怖ろしい気がする。もし神のご加護が、どんな場合でも、情熱の力に匹敵する力を持つものだとしたならば、ごくささやかな抵抗もできず、少しも後悔の念も感ぜず、まったく突然に、自分の義務から離れて遠くへ持ち去られるのは、どんな不吉な力によるものか、ひとつどなたかに説明していただきたいものだ。
恋愛についての弱味からはもうまったく自由になったとぼくは信じていた。あらゆる官能の快楽などよりも、サン・アウグスチヌスを一ページ読み、十五分ばかりキリスト教的な瞑想《めいそう》にふけるほうが、はるかに楽しいように思えた。もちろん、マノンによって与えられる快楽だって例外ではない、と思っていた。ところが、不幸な一瞬が、奈落のなかへぼくを投げ込んだ。そして今度の転落は、もうとりかえしのつかないほど致命的なもので、前にぼくが這《は》いあがってきた深さと同じくらいの深みに落ちこみ、ぼくがはまり込んだこの新しい放蕩生活は、さらに遠く深淵の底のほうへぼくをひきずり込んでしまった。
だれからもマノンについての噂を聞くでもなく、一年近くをパリで過ごした。はじめのうちは、こうして我慢しているのはずいぶんつらいことだった。けれどもチベルジュが相変わらず口をすっぱくして忠告してくれたのと、ぼく自身もじっくり考えたのが功を奏して、とうとうそれに打ち克つことができた。最後の数カ月はほんとうに平静な気持ちで過ごしたので、ぼくはもう、あの魅力をたたえていても、不実な女のことはほとんど忘れてしまったものと信じていた。
神学校での公開試験を受けなければならない時がきた。ぼくは数人の名士たちに、この試験にご臨席願いたいと頼んでまわった。ぼくの名前は、すでにこれほどパリの町じゅうで有名になっていたので、とうとうあの不貞な女の耳にまで届いた。彼女には僧侶《アベ》というタイトルを聞いてはっきりぼくだとは思えなかったが、いくぶんかの好奇心が、それとも、ぼくを裏切ったという≪うしろめたさ≫かしれないが(ぼくには、この二つの感情のうちのどちらに動かされたのかは、どうしてもはっきりしなかったが)、とにかく、ぼくの名前とそっくりだったのが彼女の興味を惹《ひ》いた。彼女は数人の婦人たちを誘ってソルボンヌへやって来た。ぼくの公開試験に立ちあった彼女は、苦もなくぼくだと判ったにちがいない。
マノンがきているということは、これっぽっちも知らなかった。ご存知のように、この会場には貴婦人用の特別席があって、婦人たちはこの席のよろい戸の向こう側に姿が見えないように控えている。ぼくは賞讃に包まれて、ひとびとの祝辞を浴びながらサン・シュルピイスへ帰った。
夕方の六時ごろのことだった。使いの者が、ご婦人がぼくに会いたいと申しております、とぼくのところへ知らせてきた。すぐに面会室まで出かけていった。ああ! この姿を見たときに、どれほど驚いただろうか! そこに、マノンの姿を見出したのだ。たしかに彼女にちがいなかった。けれども、前に会っていた頃よりいっそう愛くるしく、はなやかな彼女の姿だった。当時の彼女は十八才になっていた。彼女の魅力は、いかな言葉をつかってもとうてい表わせないほどすばらしかった。まったくたおやかな、優美な、男心をそそる風情《ふぜい》で、まさに愛の神の化身ともいえる風情だった。彼女の姿は、ぼくにとっては全身これ魅惑といってもよかった。
彼女の姿を一目見て、ぼくはすっかりドギマギしてしまい、どういうつもりで訪ねてきたのか、その意図も推測もつかないままに、目を伏せて、体をわななかせながら、彼女が口をきるのを待っていた。しばらくの間は、彼女もぼくと同じようにもじもじした様子だったが、ぼくが相変わらず黙りこくっていたので、目に手を当てて溢れ出る涙をかくそうとした。おずおずした調子で彼女はあんな不実なことをしたのだから、あなたに嫌われてもしかたがないと懺悔《ざんげ》いたしますが、それにしても、もしあなたがほんとうに、かつていくらかでもあたくしを愛してくださったならば、二年間もあたくしの身の上を聞きただそうともなさらずに放っておくなんて、ずいぶんつれないなさりかたです、それに、現在こうしてあなたの目の前にあたくしの姿を見ながら、ただのひとことも言葉をかけてくださらないなんて、いっそうつれないことではないでしょうか、とぼくに訴えた。こんな彼女の言葉を聞いていると、ぼくの心はもう筆舌《ひつぜつ》につくしがたいほど混乱しきってしまった。
彼女は坐っていた。ぼくは彼女の顔をまっすぐに見る勇気がなかったので、体半分むこうを向いて立っていた。何回か返辞をしようとしたが、しまいまで言いきれなかった。とうとうぼくは、力をふり絞《しぼ》って苦しそうな叫び声をあげた。
「浮気なマノン! ああ! 不貞な女め! 裏切り女め!」
彼女は熱い涙に頬を濡らして泣きながら、あたくしには、自分の不貞を言いくるめようなんていうつもりはありません、と何度も何度も繰りかえした。
「じゃあ、君はなんていうつもりなんだ?」と、ぼくはふたたび叫んだ。
「死にたいのです」と彼女が答えた。「もしあなたの愛情をとり戻せなければ、あなたの愛がなければ、あたくしはとうてい生きてゆけませんもの」
「それじゃあ、ぼくの命が欲しいというのか、裏切り女め!」とぼくまで涙にくれながら言葉をついだ。けんめいに涙をこらえていたが、とうとうその努力も空しかったのだ。「ぼくの命が欲しいのか、なにもかもお前の犠牲になって、今ではもうぼくに残っているただひとつのものを。だって、ぼくの心は一度だってきみから離れたことはないくらいだもの」
ぼくがこんな言葉を言い終わるやいなや、彼女は夢中になって立ち上がり、ぼくを抱きしめた。情熱的な愛撫の雨を降らせた。もっとも激しい思慕を表わそうとして、愛情が考え出しうる限りの呼び方でぼくの名前を呼んだ。ぼくは、ただ悩ましげな様子でいるしか、ほかに答えるすべを知らなかった。事実、今までのあの穏かな状況と、いまぼくの心に再び湧きあがるのを感じる騒々しい心の動きとは、なんという変わりようだろう! ぼくにはそんな心の動きが怖ろしかった。人里離れた野っ原に、夜中に立ったときに感じるような戦慄《せんりつ》におそわれた。周囲のものが新しい形をとり、その中に連れ込まれたような気がした。そこにいると、永いあいだ自分のまわりを見廻してからでなければ、気をとり直すことのできないような、ひそかな恐怖にとらわれるのである。
ぼくたちはたがいに身を寄りそうようにして坐った。ぼくの手の中に、彼女の手を包み込んだ。
「ああ! マノン」とぼくは、悲しげな目で彼女を見つめながら言った。「君がぼくの愛情に、あんな陰険な裏切りで報いるなんて、夢にも思わなかったよ。ぼくの心を欺《あざむ》くなんて、君にとってはしごく易しいことだったんだ、なにしろ、ぼくの心にとっては君は絶対至高の女《ひと》だったし、ただただ君を楽しませ、君の言いなりになるのが嬉しかったくらいだからね。さあ、今こそ話しておくれ、どうだい、君はぼくと同じように優しい、ぼくと同じように従順な相手を見つけたかね。いや、そんなことはない、造化の神はぼくと同じような性質の人間などほとんど作りゃあしない。せめて、時には君だってぼくの心がなつかしいと思った、と言っておくれ。ぼくの心を慰めるために、今日ここまで足を運んできた、こんな善意にたちかえった君を頼りにしてもいいものだろうか? 君がむかしよりいちだんとチャーミングになったのは、ぼくには分かりすぎるくらい分かるよ。でも、君のおかげで苦しんだ、すべてのぼくの苦悩のためにも、ねえ、マノン、君はこれからもっと忠実な女になってくれるかどうか言っておくれ」
彼女は、自分が後悔したということについて、ぼくの胸を激しく打つようなことをいろいろと言い、さんざん抗弁したり、誓いを立てたりして、今後は忠実に尽くしてくれる、と約束をしたので、ぼくの心は、言葉では表現できないくらい慰められた。ぼくは恋のささやきと、神学上の言葉をとりまぜて、不敬な口調で話し出した。
「かわいいマノン! 君は神がお作りになったものとしては、あまりにも申し分のない女性だ。ぼくの心は、勝ち誇った喜びに、まるで押しまくられるような気がするよ。サン・シュルピイスでの自由だなんて、ただの≪まぼろし≫じゃあないか。君のために、いずれぼくは幸運も評判も失うだろう、そんなことは分かりきっているんだ。ぼくには、君の目の中に自分の運命を読み取ることができるんだよ。けれど、君の愛情で慰められないどんな愛情があろうというのだ! 幸運の恩恵などは、ぼくの心を動かしはしない。栄光なんて、ただ一条の煙みたいなものさ。僧職について生涯を送るなんていうぼくの計画はすべて、きちがいじみた空想だったのさ。君といっしょに望む幸福とはべつの幸福なんて、軽蔑すべき幸福なんだ、だって、そんなしあわせなんて、君の一瞥《いちべつ》に会えば、ただのいっときだって、ぼくの心の中に落ち着いてはいられないんだからね」
彼女が犯した過ちなど、もうすっかり忘れてしまおうと約束はしたものの、それでも彼女がどんなふうにしてB…のやつに誘惑されたのかを話してもらいたいと思った。彼女が話したところによると、窓ぎわにいる彼女の姿を見て、あの男はすっかり情熱のとりこになり、いかにも収税人じみたやり方で恋の告白をしたという。つまり、彼女に手紙をよこして、愛情の深さに見合ってお金を払おうじゃあないかと言ってきたというのだ。
彼女ははじめからこの条件で妥協したけれども、ただ、自分たちが気楽な生活をするのに役立つような、相応のお金をこの男から捲《ま》き上げてやろう、という気持ちから妥協しただけのことだった。それにあの男は、彼女に向かっていろいろ豪勢な約束をして眩惑《げんわく》したものだから、彼女にしてもだんだん気持ちが動いてきたのだという。とはいえ、ぼくたち二人が仲を裂かれた直前の、良心の苛責に悩まされたあの姿を見たら察してやらなければなるまい、それはぼくに示したりっぱな証拠になるではないか。それに彼は彼女にずいぶんぜいたく三昧《ざんまい》の暮らしをさせてくれたけれども、あの男といっしょにいても、けっしてしあわせな気持ちを味わえなかった。彼女の言うところによれば、ただにあの男のうちに、ぼくのような感情の繊細さとか、魅力に富んだ立居振舞を見出せなかったためというばかりではなく、あの男が彼女のためにお膳立てしてくれたいろいろな楽しみに浸っている時でさえ、心の奥底にぼくの愛情の思い出と、自分が不実なことをしてしまった、という悔恨の情を秘めていたからだという。彼女はチベルジュのこと、そして彼が訪ねてきたときのはなはだしい困惑ぶりについてぼくに話した。
「心臓を剣でひと突きされても」と、彼女はつけ加えた。「あれほど血をかきたてることはなかったと思いますわ。あたくし、もう一瞬も彼と向かい合っているのが耐えられなくて、彼に背を向けてしまったのよ」
彼女はさらに言葉を続けて、ぼくのパリ滞在や、身分が変わったことや、ソルボンヌでの公開試験のことをどんなふうにして知ったかを話してくれた。
彼女は、討論のあいだまったく感きわまっていた、だから涙を抑えるだけでなく、嘆息や叫び声まで抑えるのに一生懸命で、一度ならずあぶなく抑えきれずに声をあげそうになってしまった、とまではっきり言った。最後に、彼女は自分の心の混乱を隠そうとして、いちばん最後に会場を出たが、もう自分の激しい欲望に従うよりほかはなく、その足でまっすぐに神学校まできてしまった、もしぼくに彼女を許そうという気がないというのなら、その場で死のうと決心を固めてきたのだ、とぼくに語った。
たとえ野蛮人とて、これほど激しい、これほど優しい悔悟《かいご》の念に心を打たれないものがどこにあろうか? この瞬間には、ぼくとしては、キリスト教会のどんな司教の位でも、マノンのためなら捧にふってもかまわない、という気がしたものだった。
ぼくらの当面の問題で、さし当たってどんな新しい方針をたてたらいいか、と彼女に訊ねた。彼女は、すぐこの場で神学校から出なければいけない、そしてもっと安全な場所に落ち着く手筈をしなければいけないと言った。ぼくは口答えひとつせず、彼女の言うままに承知してしまった。
彼女は馬車に乗って、ぼくが行くまで町角で待っていてくれた。ぼくは、門番にも見とがめられず、そのすぐ後にぬけ出した。彼女といっしょに馬車を駆って古着屋へいった。軍人用の腕章と剣をつけた。ぼくは一文なしだったので、マノンが代金を払ってくれた。サン・シュルピイスを出るときに、なにか面倒が起こってはと心配して、ぼくが自分のお金を取りに、ちょっと部屋へ帰ろうとしても、彼女はイヤだと言ったからだった。もっとも、財産などといったところで、しれたものだったし、彼女のほうはB…のやつの気前のよい金のつかいっぷりのおかげで金はじゅうぶんあったから、そんなものくらい眼中になく、見捨ててゆくように言ったのだ。
その古着屋にいるうち、今後どういう方針をとろうかという相談をした。ぼくのために、B…のやつを犠牲にしたことにさらにいちだんと光彩をそえるために、彼女はあの男になんかまったく思いやりをかけない、と心を決めた。
「あのひとの家具なんか、全部置いていってやるわ」と彼女は言った、「家具類はもともとあのひとのものですものね、でも、二年前からあのひとにもらった宝石類や、六万フランぐらいのお金は持っていってやるわ、だってそのくらいは当たり前でしょう。自分のことについては、あのひとになにひとつ権利を与えたわけじゃあないんですもの」
さらに彼女はつけ加えてこんなことを言った。「こうしてみれば、あたしたちがいっしょにしあわせな生活を送れる、住み心地のいい家を借りて、なんの心配も不安もなくパリに住めるわけでしょ」
なるほど彼女にとっては危ないことはないにしても、ぼくにはずいぶんと危険があり、おそかれ早かれひとに見つけられずにはいないし、すでに前に経験したような、ああいう不幸な事態にしょっちゅう身をさらしていなければいけないんだから、とぼくは彼女に説明した。彼女は、パリを離れるのは残念だ、とさかんにぼくを口説きたてるのだった。ぼくとすれば彼女の悲嘆をみるのが心配だったので、彼女の気に入るというなら、危険なんかなんとも思っていなかった。ところが、ぼくたちはすこぶる合理的な妥協策を見つけた。つまり、遊びや用事でパリへ出かけなければならない時には、しごく気楽に行けるような、パリ近郊のどこかの村に家を一軒借りようというわけである。
パリからほど遠からぬシャイヨを選んだ。マノンはすぐに家へ帰った。ぼくはチュルリイ庭園の小門のところへいって、彼女がくるのを待っていた。
一時間ほどたって、彼女は貸馬車でやってきた。召使いの少女もいっしょに、衣類や、彼女が大事にしていたものがいっぱいつまったいくつかのトランクを積んでやってきた。
ぼくたちは間もなくシャイヨに着いた。最初の夜は、一戸建ての家か、せめて居心地のよい部屋を探す暇をかせぐつもりで、宿屋に泊まった。その翌日、ぼくらの趣味にピッタリの家を見つけた。
はじめのうちは、ぼくの幸福な生活は、こゆるぎもしないで根を生やしたように思えた。マノンは申し分ない優しさ、親切さをみせてくれた。彼女はじつに細かい心づかいでぼくの身の回りに気を配ってくれたので、ぼくは今までの苦労はすべて、これでたっぷり完全に報われたような気がした。二人ともいくらか経験を積んできたせいで、自分たちの財産をガッチリ守ることについて、いろいろと頭を悩ました。ぼくらの財産の基本となるのは六万フランであるが、永い一生をずっと生活できるほどの金額ではない。ぼくたちは、もちろん浪費を極度に切リつめようなんていう気にはとてもなれなかった。経済観念が強いというのは、マノンの長所でもなければ、ぼくの美点でもなかった。そこで、ぼくはこんな生活プランを提案した。
「六万フランあれば、十年間は生活を支えることができるよ」とぼくは言った。「これからもずっとシャイヨに住んでいれば、毎年二千エキュあればじゅうぶんだよ。シャイヨにいれば、それほどケチにしなくても、まあかなりな生活ができるからね。出費といえば、馬車の維持費と芝居見物に出かけるぐらいのものだからね。生活にもケジメをつけよう。君はオペラが好きだから、週に二回ぐらいは出かけようじゃあないか。レジャーのほうも、費用は二ピストール以上出ないように抑えようじゃあないか。十年もたつうちには、ぼくの家族のほうに、なにか変化が起こらないとは思えないしね。なにしろ父はもう相当の年配だから、いずれ亡くなるかもしれない。ぼくにも財産が入ってくるだろうし、そうなりゃぼくらの心配なんてきれいさっぱりなくなるからね」
もしほんとうに賢明に身を処して、変わりなくこの方針通りにしていたら、こんな処世にしてもぼくの生涯のうちでもっともバカげたものにはならなかったはずだ。ところが決心は、わずか一カ月も続かなかった。マノンといえば、快楽には目がないほうだった。ぼくも彼女のために夢中になった。ぼくたちには、しょっちゅう新しく物いりがかさむ機会が生まれた。彼女が時にみさかいなく使うお金を惜しいと思うどころか、ぼくのほうから先にたって、彼女にピッタリ気に入りそうなものを、なんでも買ってやった。
シャイヨの住居さえ、彼女にとっては重荷になり始めた。冬がだんだん近づいてきたので、みな町へ帰り、田舎には人気《ひとけ》がなくなってきた。彼女は、またパリに一軒家を持ちたい、という話を切り出した。ぼくはこの申し出にはぜったい賛成しなかった。でも、ある点まで彼女の気持ちを満足させてやるつもりで、パリに家具つきの部屋を借りればいいじゃないか、ぼくたちが週に数回出かけているパーティーから、あまりおそくなって帰るようなことがあったときには、そこでひと晩過ごすこともできるじゃないか、とぼくは彼女に言った。それというのも、シャイヨまであまり遅くに帰るのは不便だからというのが、彼女がここを出るために持ち出した口実になっていたからである。
こうしてぼくらは、町に一軒、そして田舎に一軒と、二軒の住居を持つことになってしまった。こうした生活の変化で、まもなく生活がすっかり乱脈になってしまった。つまり、これがついにはぼくらの破滅の原因となった二大事件をひきおこしてしまったのである。
マノンには、近衛兵《このえへい》の兄がひとりいた。因果《いんが》なことに、彼はパリのぼくたちの部屋と同じ町に住居をかまえていた。毎朝、窓のそばに坐っていたマノンの姿を眺めるうちに、それが自分の妹だと気づいた。さっそく、彼はぼくたちの部屋へ駆けつけた。粗暴で、名誉心などカケラもない男だった。恐ろしい勢いで、口ぎたなくののしりながら、ぼくらの部屋へ入ってきた。そして、妹の恋愛事件のいきさつを小耳にはさんでいたので、彼女に非難と|悪 口 雑 言《あっこうぞうごん》を浴びせたてた。ぼくはちょっと前に外出していたが、彼にとっても、また恥辱《ちじょく》を我慢する気にはとてもなれないぼくにとっても、恐らくそのほうがしあわせだったにちがいない。
部屋へ帰ったのは、ようやく彼が出ていった後だった。マノンの悲し気な様子で、彼女になにかただならぬことが持ち上がったんだな、と察しをつけた。彼女は、今しがた自分の身にふりかかった痛ましい情景と、兄の乱暴な脅迫の言葉をぼくに語って聞かせた。これを聞くと、もし彼女が涙ながらに止めなかったら、その場で駆けつけて仇を討ってやろうと思ったほど、ぼくは肚《はら》をたてた。
彼女を相手にこの事件のいきさつを話しているあいだに、近衛兵はなんの前ぶれもなく、ぼくたちのいる部屋にふたたび乗り込んできた。もし、ぼくが前からこの兄を知っていたら、これほど≪いんぎん≫な態度で彼を迎えたりはしなかったろう。しかし彼は、いかにも微笑《ほほえ》ましい様子でぼくらに挨拶をしながら、余裕あり気に、ついカッとしてしまったので謝りにきたのだ、とマノンに言った。
彼の言うところによると、マノンがじだらくな生活をしているとばかり思い込んでしまい、こう考えると彼の怒りに火を注いだようになったのだが、ぼくらの召使いのひとりにぼくの身許を訊《たず》ね、ぼくについていろいろ有利な情報を聞きとったので、それを聞いてみると、彼もぼくらが二人で生活するのはむしろ望ましいと思うようになった、ということだった。
彼がうちの召使いのひとりから聞いたこの情報というのは、なんだか少々|得体《えたい》の知れない、気にさわるものであったにせよ、ぼくはしごく丁重《ていちょう》に彼の挨拶を受けた。こうすればマノンの気に入るだろうと思ったからである。彼女は、兄が仲直りする気になったのを見て、とても気をよくしたように見えた。ぼくら二人は彼を昼食にひきとめた。しばらくすると、彼はすっかり気兼ねがなくなってしまって、ぼくらがシャイヨへ帰ると話しているのを耳にすると、ぜひともいっしょに行きたい、などと言いはる始末だった。
彼のために、ぼくらの馬車に座席を一つしつらえなければならなかったが、これはまさに占有権といってもよいものだった。というのは、まもなく彼はわがもの顔に振舞うことに慣れてしまい、ぼくらの家を自分の家のようにし、ぼくらの持ち物はなんでも、いわば思い通りにして主人|面《づら》をするようになったからだ。彼はぼくのことを「弟」と呼び、そして兄弟の仲だからいいだろうなどと口実をつけて、だんだん幅をきかすようにお膳立てをしてしまった。シャイヨのぼくらの家に彼の友だちを残らず連れ込み、ぼくらの費用で連中をもてなすようなことまでするほどになった。ぼくたちの≪ふところ≫を当てにしてぜいたくな服を作らせ、そればかりか自分の借金をぼくらに払わせるようなことまでした。
ぼくはマノンの気をそこねまいとして、こうした横暴なやりくちをすべて見て見ぬふりをしていた。そのうえ彼女から、ときどき相当な金額をせびりとるのにも、知って知らないようなふりをしていたのである。なるほど、たしかに彼はたいへんなばくち打ちではあったが、ばくちの運の≪つき≫が回ってきたときには、その一部を彼女に返すぐらいの義理固いところがあったのも事実である。それにしても、永いあいだ際限ない浪費の面倒をみてやるには、ぼくらの財産はあまりにも見すぼらしいものだった。彼のしつっこい無心をピシャリとはねつけようとして、ちょうど手強く談判してやろうと思っていたやさき、ある災難が起こってその必要がなくなったが、じつはこの災難が、ついにはぼくらを無一文の生活に投げ込んでしまうような、べつのもうひとつの災難の原因となったのである。
ある日、その夜はこちらに泊まるつもりで、ぼくらはパリの部屋にいた。こういうことは、しばしばあったのである。そんな場合には、シャイヨの家に、女中がただひとりで留守をすることになっていた。その女中が、朝ぼくのところへ来てこんなことを知らせた。夜中に、ぼくの家から出火して、その火を消すのにみな大わらわだった、と。ぼくらの家具がなにか被害を受けたかどうか、女中に訊ねてみた。女中の返辞では、消火を助けに集まった≪やじ馬≫が山のようにいて、≪てんやわんや≫の大騒ぎだった、そして、確実なことは何もわからないということだった。
小さな箱に入れてあったぼくらのお金のことが心配になったので、大急ぎでシャイヨへ出かけた。急いだところで無駄だった。箱はすでになくなっていた。その時、ぼくは人間というものは、べつに守銭奴《しゅせんど》でなくても、お金というものに愛着を感じるものだ、という気持ちがわかった。このお金がなくなったので、ぼくは激しい苦悩におそわれて、そのために理性を失ってしまうのではないか、と思ったほどである。とつぜん、この先どんな新しい不幸に自分がさらされているかがはっきりわかった。貧乏なんていうことは大したことではない。けれども、ぼくはマノンという女を知っている。≪ふところ≫具合のいいときには、たとえどんなにぼくに忠実であり、愛情を注いでくれたとしても、いったん惨めな生活になったら、当てにはできないということを、すでにぼくは知りすぎるくらい経験していたのだ。あまりにもぜいたく三昧の生活や享楽が好きだから、ぼくのためにそうしたものを犠牲にするのはとうていむりなのだ。
「いずれ彼女を失うにちがいない」、とぼくは叫んだ。「哀れなシュヴァリエよ、さらにお前は、自分の愛しているものすべてを失うはめになるだろう!」
こうした考えは、ぼくを恐ろしい苦悩のなかに投げ込み、こうしたすべての不幸から逃れるには、ひと思いに死んでしまったほうがましではないか、としばらく途方にくれるほどだった。ところが、ぼくにも相応の才覚が残っていたので、その前にとにかく、ぼくの手元にはもうなにひとつ方法はないものかどうか、もう一度|検《しら》べて見ようという気になった。神はひとつの思いつきを与えてくれたが、これがぼくの絶望にピリオドを打った。無一文になったことを、マノンに隠しておくのだってべつに不可能というわけではないし、ぼくだって、なんとか彼女に窮屈な思いを感じさせないようにするのに、なにかペテンを用いるか、偶然のチャンスを利用するかして、相応の生活費を稼ぎ出すことぐらいできるのではないか、という気になったのである。ぼく自身の気持ちを慰めようとして、ぼくはこんなことを言った。
「ぼくの計算によると、二万エキュあれば、十年間はじゅうぶん生活できるはずだった。十年という月日が流れ、家族のなかに、ぼくの望み通りのことがなにも起こらなかったと仮定してみよう。そうなったらぼくはどんな決心をすればいいんだ? あんまりはっきりわからないが、ただ、その時になってすることを、今してはいけないなどと言うものはあるまい? パリにはぼくだけの才気も、生まれつきの美点もない人間が、どのくらい生活しているだろう。ところがみんな、自分なりの才覚でその生活費を稼ぎ出しているじゃあないか?」
人生のさまざまな情景を思いうかべながら、こんなことをつけ加えた。
「神の摂理は、物事をじつにたくみに整理しているんじゃあなかったかな? 世の中の高位高官、金持ちなどといわれる連中はみんな間抜けだ。少しでも世間のことを知っている者には、それは自明のことだ。ところが、その中に驚嘆すべき公平さというものがあるんだ。もし彼らにして、財産に加えてさらに才気にまで富んでいたとしたら、あまりにしあわせに過ぎるというものだし、残りの人間たちは、逆にあまりにも惨めすぎるというものではないか。悲惨な生活や貧困から抜け出る方法として、こうした連中には肉体と魂の美点が備わっているのだ。ある連中は、権力者の享楽に手を借すことによって、彼らの富の分け前をいただく。つまり、権力者たちは連中の食いものになるわけだ。またべつの連中は、権力者たちの教育に手を貸し、権力者たちを紳士に仕立て上げる義務がある。実際のところ、紳士にするなんていっても、成功するのはすこぶる珍しいが、しかしそれもつまりは神のみ心にかなう目的がそこにないからだ。彼らはつねに自分たちが心を砕いただけの収穫は手に入れている、自分たちが教育している相手の費用で生活する、ということがつまりは彼らの収穫になるわけだ。金持ちや権力者が愚かだということは、たとえどんなやり方をしたところで、貧民にとっては、その所得のすばらしい源泉になるのだ」
こんなことを考えると、ぼくは勇気も理性もややとり戻した。まずマノンの兄のムッシュウ・レスコーのところへ相談にいってみよう、という気になった。彼ときたらパリのことならすみからすみまで知りつくしているし、それにぼくも、いろいろな機会があって、彼のいちばんはっきりした収入にしても、彼の財産や国王の給料から出ているのではないことを、じゅうぶん知っていたからである。さいわい、ぼくのポケットに二十ピストールばかり入っていて、ようやくこれだけがぼくの手もとに残っていた。そこで自分の不幸な事件や心配などを彼に打ち明けて、ぼくの財布を見せ、飢えのために死ぬか、絶望のどん底で頭を打ち割るか、ぼくにとってはどちらの決心をとるべきかを彼に訊ねてみた。彼の返辞では、頭を打ち割るなんて≪とんま≫のやり方だ、また飢えて死ぬなんていうのは、才能を抱きながらその才能をうまく利用したいと思わない多くの才人たちが、よくそんな窮境《きゅうきょう》におちいるものだ、ということだった。そして、自分に何ができるかと考えるのは、ぼく自身のなすべきことであり、ぼくがなにか計画でも思いついたら、どんなことでも手を貸すし、忠告もしてあげよう、という返辞だった。
「なんだかあんまりはっきりしない返辞じゃないか、ムッシュウ・レスコー」とぼくは彼に言った。「いま目の前で必要なのは、どんな対策を講じたらいいかっていうことなんだよ。だいいち、ここでマノンに何と言えばいいと君は思うんだい?」
「マノンのことで、いったい何が困ることがあるのかね、君に?」と彼が反問した。「彼女《あれ》といっしょにいたら、君がその気になれば、いつでもそんな心配にピリオドを打ってくれる術《て》を持っていることにならんかね? ああいった種類の女はね、君や、自分や、それにオレまでも、生活の面倒を見る義務があるっていうもんだよ」
この無作法な言葉にふさわしい返答をかえしてやろうと思ったぼくをさえぎって、彼は言葉を続けて、もしぼくが彼の忠告に従えば、夕方までにはぼくら二人のあいだで一千エキュを分配できるようにしてお目にかけることは請け合いだ、などと言うのだった。さらに、彼はこと放蕩にかけては実に気前のよい貴族を知っていて、マノンのような女性の寵《ちょう》を得るためならば、その貴族にとってはたしかに一千エキュぐらいはただの≪はした金≫でしかない、などと言うのだった。ぼくは彼の言葉をさえぎった。
「どうもぼくは、君のことをあんまり買いかぶり過ぎていたみたいだな。今まで君がぼくに示してくれた友情の動機は、いま君が抱いている感情とはまったく反対の感情だとばっかり思っていたんだよ」
彼は、いつも同じような考えを抱いていたというのだ。そしてふてぶてしい顔でこんなことを白状するのだった。つまり自分の妹がひとたび女の貞操をけがしたからには、たとえ最愛の男のためを思ってのことであったにしろ、彼女のふしだらな生活を利用してうまいおこぼれにでもありつける目当てでもない限りは、妹と仲直りしようなんていうつもりは毛頭なかった、というのだ。その時まで、ぼくらがさんざん彼のなぶり者になっていた、ということはしごく容易にわかった。この打ち明けばなしが、ぼくの心にどんな感情を呼び起こしたにしても、とにかくぼくには彼という男が必要だったから、笑顔をつくりながら、彼の忠告はぼくにとっては最後の手段で、ギリギリの窮境に追いつめられるまではとっておかなければならない、と返辞をしておいた。
ぼくは、なにかべつの道が開けないものだろうか、と頼んでみた。彼は、ぼくの若さと、天性与えられた、恵まれた美貌を利用して、だれか気前のよい老婦人と関係をつけたらどうだい、と申し出た。マノンに対して自分の誠実を欠くような、こんな方針にもまた気が進まなかった。
この際いちばんてっとり早い、そして今のぼくの立場にはいちばん向いている方法として、≪ばくち≫のことを話してみた。彼の意見では、なるほど≪ばくち≫もひとつの方法にはちがいない、けれどもそれには、≪ばくち≫というものの初歩を心得ておくのが必要だ、それに、単にありふれた期待をかけて≪ばくち≫に手を出そうなんて考えるのは、それこそぼくの無一文に輪をかけるようなやり方だ、という。
さらに彼が言うには、だれもバック・アップする者もなく、たったひとりで≪ばくち≫に手を出す、いわばその道の巧者が自分の運の≪ツキ≫を変えるのによく試みるような小細工は、職業としてはあまりにも危険すぎる。ただ三番目の道がある、それは賭博師たちの仲間になる方法だが、ただぼくがまだ余り若すぎるので、イカサマの仲間たちが組織に入るにはまだ腕がなまくらで不向きだ、と判断するんじゃないか、彼はそれを心配しているんだ、ということだった。それでも彼は、その連中にぼくを紹介する労をとってやろう、と約束してくれた。それに、ぼくにとってはまったく期待していなかったのは、ぼくがどうしても必要に迫られた場合には、いくらかの金ぐらい都合をつけよう、と言いだしたことだった。いまこんな立場になってみると、ぼくが彼に頼んだ唯一の願いといえば、ぼくがこんなふうに無一文になってしまったことと、ぼくと彼とのあいだで交した会話の内容を、マノンにはひと言も喋ってくれるな、ということだった。
彼の家を出たものの、ここへ入ってきたときよりいっそう不機嫌な気分になっていた。自分の秘密をすっかり彼に打ち明けてしまったのを、後悔すらしていた。今まで、彼はぼくのために何ひとつしてはくれなかったし、たとえこんな打ち明けばなしをしたところで、彼からはなにひとつうることができなかったのは、同じことだったろう。それにぼくは、マノンにはひと言も洩《も》らさないと言った彼が約束を破りはしないかと、それが死ぬほど不安であった。彼の本心を打ち明けられてみると、彼はぼくの手からマノンを奪いとり、少なくともぼくと別れて、どこかのもっと金持ちでもっと恵まれた恋人にくっつけと彼女に忠告し、つまり彼自身の口から出た言葉を使っていえば、女から甘い汁を吸いとる計画を抱いているんじゃないか、と思われるだけの理由がぼくにはあった。
この問題についていろいろと考えてみたが、考えれば考えるほど、結局はぼくの悩みを増し、ぼくがその朝抱いていた絶望を新たにするだけのことだった。父に手紙を書いて、もう一度改心したふりをして、いくらかでも父から金銭的な援助を仰《あお》いでみようか、という考えが何度か心にうかんだ。ところがすぐに、父はいかにも人が良いけれども、ぼくが最初の間違いを犯したときに、狭っ苦しい牢獄の中に六カ月も閉じこめたではないか、ということを思い起こすのだった。サン・シュルピイスから姿を消したために、あれほどのスキャンダルの種になった今では、前よりもっとずっと酷《きび》しくぼくを扱うことはぜったいまちがいなかった。
こうして思い乱れた末にとうとう、ぼくの心にとつぜん平静をとり戻させてくれるようなひとつの考えが浮かんだが、どうしてもっと早く思いつかなかったかとわれながら驚く始末だった。つまり友人のチベルジュに助けを求めに行くことである。
彼に手を差しのべれば、いつに変わらぬ熱情と友情をもってぼくを迎えてくれることはまちがいなかった。その誠実な心を知り尽くしている人間に信頼を求めるほどすばらしいことはないし、またこれほど美徳に名誉を与えることはあるまい。これならまったく危ない橋を渡らずにすむし、平静な気分でいられるというものである。たとえその信頼を求めた相手が、つねに必ずしも援助の手を差し延べられるような状態になかったとしても、少なくとも相手の善意と同情をえられることは疑うべくもない。ほかの人間たちの前ではいろいろと気を使って胸襟《きょうきん》を開けなくても、彼らといっしょにいるときには、ごく自然に胸のうちを明かせる。それはあたかも、一輪の花が陽光を受けて開花するようなもので、その花は陽ざしのなかに、ただ優しい感化のみを期待しているのである。
こんな都合のよいときにチベルジュのことを思い出すなんて、まったく神のご加護の賜物《たまもの》だとぼくは思った。そして日が暮れるまでに、なんとしてでも彼と会える方法を講じてみようと決心した。
彼に短い手紙を書き、ぼくらの相談に都合のいい場所を彼に知らせようと、その足で住居へ帰った。こんな事件でぼくのような立場にたってみると、彼がぼくにできるいちばん重要な努《つと》めのひとつは、沈黙を守って、慎重に振舞ってもらうことだ、と彼の注意をうながしておいた。彼に会えるんだという希望がぼくの心を快活な気分にしてくれたので、マノンがきっと気がついたに違いない苦しみの影をぼくの表情から消してくれた。ぼくは彼女に、シャイヨでのぼくらの不幸な火災のことを、なんの気もつかう必要もないつまらない事件のように話しておいた。パリは彼女にとってはこの上ない楽しみに満ちた世界一の場所だから、シャイヨの家の火災で受けた軽い被害の修理が終わるまで、パリに住むのもちょうど都合がいいじゃあないか、とぼくが話すのを聞いても、彼女はべつに不満な様子を見せなかった。
一時間ほどして、チベルジュの返辞を受けとったが、彼は指定した場所へ出かけよう、と約束してきた。それでも友だちの目の前へ姿を現わすのに、なんとない気おくれを感じた。ただ彼が前にいるというだけで、自分の不身持ちを非難されているような気がしそうだったから。しかし彼は善良な心の持ち主だからと思って気をとり直し、これもマノンのためだからと考えて、すこぶる厚かましくふるまった。
彼にパレ・ロワイヤルの庭園まできてくれ、と頼んでおいた。ぼくの姿に気がつくと、すぐに近寄ってきてぼくを抱擁した。彼は腕の中にずいぶん永くぼくを抱きしめ、ぼくは顔が彼の涙で濡れるのを感じた。彼に会って、ただもう恥ずかしくてオロオロするばかりで、心中、自分の忘恩の振舞いをはげしく侮《くや》む感情でいっぱいだ、ということを彼に語った。そしてぼくとしては、彼に懇願する第一のことといえば、彼の尊敬や愛情を失ってもまったくしかたのないことをしでかした今でも、なおぼくを大目にみて友人として扱ってくれるかどうか教えてもらいたい、ということだ、と言った。
彼はこの上なく優しい口調で、たとえどんなことがあっても友情というこの美徳を捨てさせることはできるものではない、と答えた。それにぼくの不幸そのものが、またこう言ってよければ、ぼくが犯した過失、ぼくの≪じだらく≫な生活がかえってぼくに対する彼の愛情を倍加してくれるが、ただその愛情は、たとえばもう援助の手を差し延べることのできないような堕落《だらく》の淵《ふち》に身を落とした親しい人間に対して感じるような、激しい苦悩をまじえた愛情だとも語った。
ぼくらはベンチに坐った。
「ああ!」とぼくは、心の底から湧きあがる溜息をつきながら言った。「ねえ、チベルジュ、君の同情がぼくの苦痛と同じくらいだ、と言いたいんなら、おそらくそれは言い過ぎだよ。君にぼくの悩ましげな姿を見せるのは恥ずかしいくらいだ。だってね、その悩みの原因たるや、みっともいいものではないし、そりゃあ正直、君がぼくの苦痛を和らげようとして努力してくれるのはありがたいけれども、その結果たるやまったく惨めなもので、ぼくを愛してくれ、などととうてい言えたものじゃあないくらいだからね」
彼は、友情のしるしとして、サン・シュルピイスを逃げ出してからのち、ぼくの身の上に起こった事件を包み隠さず話してくれ、とぼくに頼んだ。
ぼくは言われた通りにした。事実をごまかしたり、少しでも弁解できる口実を見出そうとして自分の過ちを過小に語ったりするどころか、自分の情熱をありのままに語ったが、その情熱がぼくの心にあらゆる力を喚《よ》び起こし、気持を元気づけてくれた。それは運命の特異ないたずらのひとつなんだ、といって彼に説明した。弱いものはそのために堕落の淵へ落ち込み、いかな叡智《えいち》をもってしても、それを予知することは不可能だし、また同様にどんな美徳をもってしてもそれを避けることはできないものだ、といって説明した。彼と会う二時間前に自分が抱いていた焦燥の気持ちと、不安と絶望とを、真に迫った調子で彼に描いてみせた。また、もしぼくが運命に見放されたと同じように、無慈悲にも友だちにまで見捨てられていたら、やはり同じような気持ちに落ち込んでいたにちがいない。ぼくは、とうとう人の好いチベルジュの心をすっかり感動させてしまった。だから彼がぼくに同情し、ぼくが苦しみ悩んで悲しんでいるのと同じように、苦悩しているのがわかったくらいだった。
彼はあくことなくぼくを抱擁しつづけ、勇気をふるって気を楽にもちたまえ、と励ましてくれた。しかし彼は相変わらず、ぼくをマノンの手から引き離さなければならないと思っていたので、ぼくは彼に向かってはっきりとこう言ってやった。つまり、彼女と手を切ることこそ、ぼくにとっては不幸のうちでも最大の不幸と思えるものだし、あらゆる災難がいっしょに襲いかかってきたよりも、もっと耐え難いそんな荒療治《あらりょうじ》を受けるくらいなら、その前に目も当てられぬような惨めな境涯に落ち込むことはおろか、もっとも残酷な死だって我慢してもいいくらいの気持ちだと。
「とにかく、それじゃあはっきり説明してくれたまえ」、と彼が言った。「ぼくのほうの申し出を全部いやだと言うんなら、いったい君にどんな種類の援助をすればいいんだね?」
ぼくとしても、いま必要なのは彼の財布だ、などとはっきり言い出すだけの勇気はなかった。それでも、最後には彼にもそれがわかった。そして、なるほど君の言うことは信用するけれど、と打ち明けながらも、なおしばらくの間は、ちょうど右にしようか左にしようか躊躇《ちゅうちょ》しているような態度で、心を決めかねていた。
「ぼくがこんなに考え込んでいるのは、べつに熱情や友情がさめたからだとは思わないでくれたまえ」と、彼がふたたび口をきった。「けれど、君はぼくを、なんという困った決心の岐路《きろ》に立たせてくれたんだい? 君が頼む頼むといっている唯一の援助を断らなければならないのか、それともまた君の言いなりになって、ぼくの義務を傷つけなければいけないのか? だってそうじゃないか、あくまで君がしたいっていうようにさせておくのは、君の放蕩に手を貸すのと同じことじゃないか? それにねえ」としばらく考えてから、彼は言葉を続けた。「ぼくはねえ、君はおそらくあまり貧乏になったので、自暴自棄《じぼうじき》の状態になっているんで、そんな気持ちでいたら最上の分別をつけようたってむりだと思うよ。叡智とか美徳というものをじっくり味わうには、まず精神を平静にしなければいけないんだよ。君にいくらか金を調達する方法ぐらい、ぼくにだって見つかるよ。ねえ、シュヴァリエ」と彼はぼくを抱擁しながらつけ加えた。「ただひとつだけ条件をつけるのを許してくれたまえ。というのはね、君が今住んでいる場所をぼくに教えてくれること、それに、せめて君がりっぱな生活に立ちかえるようにぼくが力を貸すことなんだ。ぼくにはよくわかっているが、君はもともとまともな生活を愛しているし、ほかでもないその君の激しい情熱だけが、そういう生活から君を遠ざけているんだ」
誠意をもって、すべて彼の望み通りにしよう、と約束した。そして、こんなりっぱな心をもった友人の忠告を、悪い方に利用したりする、ぼくの呪《のろ》われた運命を悲しんでくれたまえ、と彼に頼んだ。
彼はその足で、彼の知人の金貸しのところへ連れていってくれた。その金貸しは彼の手形で、ぼくに百ピストールを差し出した。前にすでに話したように彼は金持ちではなかった。僧職としての彼の給与は百エキュに相当するものだった。ただその年は彼がその給与にありつける最初の年だったので、彼はその取り分にまだぜんぜん手をつけていなかったのである。つまり彼がぼくのためにこの前借りをしたのは、いずれ現金になる収人を抵当《かた》にしてくれたわけだった。
彼の寛大な気持ちのありがたさが身にしみた。あらゆる義務をメチャメチャに踏みにじってしまった、ぼくの盲目的な宿命の恋まで悲しくなるくらい、彼の気持ちに感動した。しばらくのあいだは美徳が力をえて、心の中でぼくの情熱に反抗して争うほどだったし、少なくともこの光明が差していたあいだは、自分の運命の≪きずな≫の恥ずかしさ、下劣さを身にしみて感じるくらいだった。
けれどもこうした戦いもただの小ぜり合いに終わり、たいして続きはしなかった。マノンをひと目見たら、恐らくぼくは九天《きゅうてん》の高みより投げ出されたことだろう。それだから、ひとたびマノンのそばへ身を落ちつけてしまうと、こんな目のさめるような女性に対するしごく当然な愛情を、たとえ一瞬にしろ恥ずべきものとして扱った自分の心に驚く始末だった。
マノンはまれに見る性格の持ち主だった。彼女ほど金銭に対して恬淡《てんたん》とした女性はまずないだろう。そのくせにして、金がなくなるのが心配で心配でたまらず、いっときだって落ち着いていられなかった。彼女にとってどうしても必要なのは、享楽と気晴らしだった。もし一銭も金を使わない気晴らしができたなら、彼女はぜったいにただの一銭だって欲しがりはしなかったにちがいない。彼女は、その日が楽しく過ごせさえすれば、ぼくたちの金がどこから出ているのか、それすらもうるさくきこうとはしなかった。
そんな具合だから、遊びに極端にうつつを抜かしたり、見せかけだけ豪勢に金を使うのを見て眩惑《げんわく》されるようなことはなかったけれども、毎日彼女の趣味にかなった娯楽を提供してやれば、彼女の気持ちを満足させることぐらいは、まったくやさしいことだった。
けれども、とにかくこうして享楽に没頭することが彼女にとってはなによりも必要であったから、それができなければ彼女の気質だの性格だのはほんの少しも当てにできなかった。たしかに彼女はぼくを優しく愛してくれたし、また彼女も喜んでそれを認めているように、ぼくこそ彼女に恋の甘さを申しぶんなく味わわせることのできる唯一の男ではあった。それにしてもある種の不安を前にしては、彼女の愛情など足許から崩れ去る、ということはほとんど確実だった。少しばかりの財産とくらべたら、彼女はこの全世界を受けとるよりもぼくのほうを選んだにちがいない。ところが、もうぼくの手の中に彼女に提供するものといえば変わらぬ真心と誠実さしかなくなったときには、彼女がぼくを捨ててまたどこかの新しいB…のもとへ走ることは、まったく疑う余地のないことだった。そこでぼくは、彼女の浪費にいつでも応じられるように、自分の費用をうんと制限した。余分な費用を切りつめたりするよりは、むしろいろいろな必要な費用をぼくのほうで節約してやろうと決心した。ほかのどんなことより馬車のことが頭を悩ました。というのは、馬や御者を雇うだけの費用は見たところどうしても捻出《ねんしゅつ》できそうもなかったからだ。
ぼくは自分の苦衷《くちゅう》をムッシュウ・レスコーに打ち明けた。ぼくは彼に、ある友人から百ピストールばかり用立ててもらったことを隠しはしなかった。彼は、もし≪ばくち≫で運試しをしてみたいと思ったら、気持ちよく百フランばかり奮発して、彼の≪ばくち≫の相棒をおごればいい。そうすれば彼が仲に立って、イカサマばくちの仲間に入れてもらえる希望もないわけではない、と繰り返し繰り返しぼくに言った。人をペテンにかけるなんてなんだか気が進まなかったけれど、恐ろしいほど金の必要に迫られていたので、彼の言いなりになってしまった。
ムッシュウ・レスコーは、その晩すぐに、彼の親戚のひとりだと言ってぼくを紹介してくれた。彼はつけ加えて、ぼくにはどうしても幸運の最大の恩恵をこうむる必要があるくらいだから、それだけにりっぱに成功する素質じゅうぶんだ、と言った。しかし一方ぼくが貧乏だとはいっても、べつに素寒貧《すかんぴん》というほどでもないことを知っていただくために、ぼくがご一同を夕食にご招待するつもりでいる、と彼らに言った。こちらの申し出は受け入れられて、ぼくは一同を豪勢にもてなした。一同は永いあいだ、ぼくの顔つきの上品さや恵まれた才能について話し合っていたが、そのうちに、ぼくがなかなか末の見込みがある、などと言いはじめた。つまり、いかにも紳士らしい顔つきで、どこか品位があるとなったら、だれひとりぼくのイカサマに気づきゃあしないだろう、というわけである。最後に一同は、ぼくのような才能有望な≪見習いとばく師≫を仲間うちに加えてくれたことをムッシュウ・レスコーに対して感謝し、数日間必要な手ほどきをほどこす役目を、仲間の≪シュヴァリエ≫のひとりに依頼した。
われわれの仕事の主な舞台は、オテル・ド・トランシルヴァニアにきまっていた。ここの広間にはファラオン賭博のテーブルが一脚あり、廊下にはそのほかいろいろな種類のトランプやサイコロがあった。この賭博場はその当時クラニイに住んでいたR…公子の≪ふところ≫を肥やすために開かれたもので、公子のとりまきの大部分はぼくらの身内だった。恥をしのんで、打ち明けなければいけないのだろうか? ぼくは師匠格の男の手ほどきをアッという間にマスターしてしまった。とりわけ、手持ちの札をごまかし、札を隠すのを実に器用にやってのけ、両方の長い飾り袖をたくみに利用してかるがると目をくらましたから、その道ではいちばんの≪もさ≫といわれている連中の目をごまかし、何気ないふりをして多くのりっぱな賭博者たちをスッテンテンにしてやったものだった。
こうした異常なくらいの早業《はやわざ》は、すごいいきおいでぼくの財産をふやしていったので、当然の義理からいっても仲間同志で分配しなければならない金額はべつにしても、何週間もしないうちに、ぼくは莫大な金額を手にする身になった。
こうなれば、例のシャイヨで無一文になったことなど、マノンに打ち明けたってべつにもう心配しなかった。彼女を慰めようとして、あの痛ましい事件を打ち明けるとともに、家具つきの家を一軒借りて、ぜいたくな、そしていかにも安定した様子でここに身を落ちつけた。
その間にも、チベルジュは足|繁《しげ》くぼくの家を訪ねてくるのを忘れなかった。彼のお説教は相変わらずとめどがなかった。たえずぼくが自分の良心や、幸福や、運命を損っていることを口説《くど》きはじめるのだった。ぼくは友だちらしい心づかいで彼の意見に耳を傾けた。そして、内心はそんな意見の通りにしようなどという気持ちはさらになかったが、その情熱がどこから出ているかをよく知っていたから、彼の情熱には心から感謝していた。ときにはマノンがいる前で機嫌よく彼をからかってやることもあった。そして、そんなにして何も多くの司教やほかの坊主たち以上に心配することなんかないよ、といって彼の気を引いたりした。というのは、司教や僧侶たちだって、その僧職での収入《みいり》でもって妾を囲って、よろしくやっていたからである。
「よく見たまえよ」、とぼくは、自分の恋人の目を指さしながら彼に言った。「こんなすばらしい大義名分があるんだぜ、これなら、どんな間違いをしでかしたってなるほどと思えるだろう、どうだい、なんとか言ってみてくれないかね」
彼はじっと我慢していた。あまりにも我慢しすぎたのだ。けれども、ぼくの≪ふところ≫がどんどんふくらみ、彼に借りた百ピストールを返しただけでなく、新しい家を借りたり、以前の倍も浪費したりして、前よりまして快楽の中に身を浸らせてゆくのを見たときには、彼もついにはまったく口調も、態度も変えた。ぼくがなおも頑固《がんこ》に強情をはっているのを彼は悲しんでいた。いずれ天罰が下るぞ、と言ってぼくを脅し、遠からずぼくの身の上に、いろいろな不幸のうちのひとつが起こるにちがいない、と予言までした。
「君の放蕩を支えてくれるその富がね」と彼は言った。「正当な道をへて君の手に入っているとはとうてい考えられないよ。なにか不正な方法で手に入れているに決まっているんだ。その金が君の魂まで堕落させてしまうだろう。君に平然とその金をつかわせておくのが、つまりはもっとも恐ろしい天罰になるだろうな。ぼくの忠告もすべてむだだった」と言ってから、彼はさらにつけ加えた。
「ぼくの忠告がね、君にはいずれしつっこいと思われるようになる、というのがわかりすぎるくらいわかるんだよ。さようなら、恩知らずで心弱い友よ。君の罪深い快楽が、影のように消え去らんことを願うよ! 君の財産や君のお金が一文なしになり、たったひとり裸になって放り出されて、狂ったように君を有頂天にさせている財産なんていうものが、どんなに虚《むな》しいものか、君が感じてくれるようにと祈るよ! 君がぼくに、君を愛してくれれば、援助の手を差し延べてくれればという気になるのはその時なんだ。しかし、今は君とのすべての交渉を断つよ。ぼくは君のような生活態度が大きらいなんだ」
彼が、このまるでキリストの使徒じみたお談議をしたのは、ぼくの部屋で、マノンの目の前だった。彼は帰ろうとして立ち上がった。ぼくは彼をひきとめようとしたが、マノンがぼくをとめた。彼女が言うには、あのひとは頭がおかしいから、勝手に帰したほうがいいというのだ。
さすがにこのお説教は、ぼくの心にある種の印象を残さずにはおかなかった。こうして、自分の心が善心に立ちかえる機会が何回かあったことを気づいている。というのは、ぼくの生涯でその後にいちばんふしあわせな立場に立った時でも、自分の力の一部でもふるい起こせたのは、何といってもこの時の思い出に負っていることが大きいからだ。しかし、ぼくの心をかき乱したこの場の苦しみは、たちまちマノンの愛撫によって忘れられた。
ぼくたちは相変わらず享楽と恋が大部分を占めるような生活を続けていた。ぼくのふところが暖かくなったので、ぼくらの愛情は倍加した。愛の神ヴィーナスも福の神も、これ以上幸福な、これ以上愛情にみちた奴隷は持たなかったろう。ああ、神々よ! なぜ、この世を≪苦の世界≫などという名で呼ぶのだろう? というのは、この世でもこれほど魅惑にみちた恍惚境《こうこつきょう》を味わうことができるではないか。しかし、ああ、なんと残念なことだろう! この世の楽園も、ごくわずかの間しか続かない、という弱味があるのだ。もしこれが永遠に続く、という性質のものであったならば、ほかにどんな幸福を望むであろうか? ぼくたちの恍惚境といえども、ごく当たり前の運命通りだった、ということは、すなわちほとんど永続きせず、その後に苦い悔恨が残る、という道を歩んだのである。
≪ばくち≫で相当な金額を稼いだので、ぼくの金の一部をべつにとっておこうという気になった。家の召使いたちだって、ぼくの成功を知らないわけではない。とくに部屋づきの下男と、マノンの小間使いはそうだったが、ぼくたちはこの二人の前では気を許して語り合っていたからである。
この小間使いは可愛いい娘だった。そこでぼくの下男がこの娘に首ったけになった、というわけである。二人は、いかにもたわいなく、コロリと欺《だま》されそうにみえる若くてだらしのない主人に目をつけた。そこで二人はその計画を練り、ぼくらにとってはまったく不幸な計画を実行に移した。そしてそれが、ぼくらをもうとうてい再起できないような状態にしてしまったのである。
ある日、ムッシュウ・レスコーがぼくらを夕食に招待してくれたので、住居へ帰ったのは夜中の十二時頃だった。ぼくは下男を呼び、マノンは小間使いを呼んだが、どちらも姿を現わさなかった。話によると、二人は八時過ぎには家には見えなかったし、それにぼくに言いつけられたからといって、いくつかの箱を運ばせてから二人とも出ていった、ということだった。ぼくは真相の一部を予感した。あるいはと疑ってはみたが、実際に部屋へ入って、この目で見てみると、予想よりはるかにひどいものだった。箪笥《たんす》の錠は力づくではずされ、ぼくの金はおろか、衣類まで洗いざらい盗まれていた。
この事件について、ひとりであれこれ思いめぐらしているうちに、げっそりしきった様子でマノンが入ってきて、彼女の部屋も同じように荒らされてしまった、とぼくに知らせた。この盗難はぼくにとってはじつに痛烈な傷手だったので、大声で叫び、泣き出すのを我慢するのに、異常なほどの理性の努力をはらわなければならなかった。ぼくのこんな絶望的な気分を、マノンにまで伝染させては大変だと心配になったので、ぼくはいかにも平然とした顔つきをよそおっていた。彼女にふざけた調子で、なあに、いずれまたオテル・ド・トランシルヴァニアでどこかの間抜けでもつかまえて、江戸の敵《かたき》を長崎で討ってやるよ、などと言った。ところが、見たところ、この不幸に彼女は深く傷つけられたらしかった。だから、彼女の見るも悲しげな様子を見ると、彼女があまりうちしおれないように、こちらが表面いかにも快活そうなふりをしなければならなかった。そしてまた、むしろそれ以上に、ぼく自身まで悲しみにうちひしがれないように努力しなければならなかった。
「あたしたち、もうすっかりだめだわ!」
彼女が、目に涙をたたえながら言った。愛撫を続けて、彼女を慰めようとしても徒労《とろう》だった。心ならずも、ぼく自身まで絶望し、茫然自失して涙を流す始末だった。事実、ぼくたちの手にはシャツ一枚残らないほど、まったくみるも無残な姿になってしまったのだ。
すぐにムッシュウ・レスコーを呼びにやろう、とぼくは決心した。彼は、時を移さず警視総監と、パリ司法長官のところへ出頭したまえ、とぼくに忠告してくれた。さっそく出かけた、ところがこれがぼくの最大の不幸になったのである。というのは、こうした奔走《ほんそう》をしても、また司法関係の二つの役所をかけ回っても、まったくなんの効果もなかった上に、ぼくの留守の間にレスコーが妹と話し合い、妹の心の中に恐ろしい決心を吹き込むすきを与えてしまったからである。
彼はマノンに、女|漁《あさ》りのためなら金に糸目をつけない好色な老人、ムッシュウ・ド・G…M…のことを話した。そしてずいぶんといろいろうまい汁にありつけるから、その男に囲われたほうがいいと甘言をもって彼女に説きつけたので、ちょうど不運に見舞われてげっそりしていた彼女は、とうとう彼が口説き落とそうと思っていた計画に、まんまとはめ込まれてしまったのであった。この名誉ある取り引きは、ぼくが帰宅する前に取り決められていたが、実際の段どりはその翌日、レスコーがムッシュウ・ド・G…M…氏に話をつける後まで延ばされた。
家に帰ると彼はぼくを待っていた。ところがマノンのほうは部屋に横になっていて、ちょっとやすみたいから、今夜はひとりにしてほしいとぼくに頼んでくれという伝言を下男に残してあった。レスコーはぼくに何ピストールか差し出してから帰ったが、ぼくはその金を受け取った。自分の財政を建て直す方法を考えて、それからまた永いあいだそれに没頭していたので、ベッドについたのは朝の四時近かった。ねむりついたのがこんなに遅かったので、翌朝は十一時か正午頃になってようやく目がさめた。
起きるとすぐに、ぼくはマノンの健康はどんな具合かと訊ねに出かけた。ところが彼女は、貸馬車に乗って迎えにきた兄といっしょに、一時間ばかり前に外出した、という話だった。レスコーといっしょに、こんなふうにして出かけたのは、いかにもふしぎな気がしたけれども、強いて自分の気持ちを抑えて、疑いを晴らそうとした。読書で暇をつぶし、何時間かを過ごした。とうとう、不安が抑えきれなくなって、大股《おおまた》で家の中をあちらこちらと歩き回った。
マノンの部屋で、テーブルの上にのっている封をした手紙を見つけた。宛名《あてな》はぼくあてであり、書体はマノンの筆跡《て》だった。背筋をゾクゾクさせて、死ぬ思いで手紙を開いてみた。手紙はこんな文面だった。
[#ここから1字下げ]
「愛するシュヴァリエ、あなたはあたしの心の偶像です、そして、あたしがあなたを愛するような愛し方で愛せるひとは、この世にはあなたひとりしかいない、とあたしは誓います。けれども、あたしの哀れな、そしていとしい方よ、いまのあたしたちのような状態では、貞節だなんてばかばかしい美徳だとはお思いになりませんか? その日のパンにもこと欠くようなときに、甘い恋を語るなんて、できることだとお思いになって? 飢えが原因《もと》になって、あたしの心には避けられない軽蔑まで生まれてくるかもしれません。自分では恋の吐息をつくつもりでいながら、いずれ恐らく最後の吐息をつくことになるのではないでしょうか。
あたしはあなたを熱愛しております、これだけは信じてください。でも、あたしたちのお金になんとか目鼻をつけますから、しばらくのあいだ見逃しておいてちょうだい。あたしのワナにかかってくる者こそ、不運な男だわ! あたしのシュヴァリエをお金持ちにし、しあわせにするために働くんです。兄があなたのマノンの消息を、そして心ならずもあなたと別れなければならなくて、あたしが涙にぬれた有様を、あなたに伝えてくれるでしょう」
[#ここで字下げ終わり]
この手紙を読んだあと、ぼくはとうてい語りつくせないような気分におち込んでしまった。というのは、今日でも、その当時ぼくの心の中にどんな種類の感情が動いていたかわからないくらいだから。これはまったく独持な情況のひとつで、これに以た経験などだれも味わったこともあるまい。こんな情況といっても、まったく掴《つか》みどころのない観念で、だからこれを他人に説明するのはとうていできない相談だろう。なにしろほかにはまったく類のないものだから、記憶の中で結びつくものが何もなく、はっきりした感情と比較するすべはまったくないくらいだから、それ自体をしっかりとはっきり見分けにくい始末である。とにかく、ぼくの気持ちがどんなものであったにしろ、確かに言えることは、そこには苦悩と怨恨《えんこん》と、嫉妬と恥辱の気持ちが混じっていたにちがいない。もしそこに、さらにいっそう強い恋愛感情が混じっていなかったら、なんとしあわせだっただろう!
「彼女はぼくを愛している。ぼくはそれを信じたい」、とぼくは叫んだ。「よほど残酷な女でない限り、ぼくを裏切るなんてできるはずがないじゃあないか。ぼくが彼女の心にもっている権利を、今までだれがぼくの心の中にもったためしがあったろうか? 彼女のためにすべてを犠牲に捧げてしまったいま、ぼくの手には、彼女のためにすることが、いったいなにが残っているだろうか? ところが、彼女はぼくを見捨ててしまった! そのくせに、あの恩知らずの女は、まだ相変わらずぼくを愛し続けているなどと言って、ぼくの非難をごまかせると思っているんだ! 彼女は飢えが恐ろしいんだ。ああ、愛の神よ! なんという下品な感情だろう! ぼくのデリケイトな愛情にはとても答えられるものじゃあないじゃあないか! ぼくは飢えなんか恐れなかった、ぼくは自分の幸運も、父親の家に包まれた優しい空気も見捨てて、飢えに身をさらしたんだ。ぼくは、彼女の取るに足りない不機嫌や気まぐれを満足させようとして、必要なものまで節約し、きりつめてきたじゃないか。
ぼくを愛している、と彼女は言う。この恩知らずの女め、お前がだれに入れ知恵されたかぐらいは、こちらだって百も承知なんだ。だいいち、もしぼくを熱愛していたら、少なくとも、ぼくにひと言の別れの挨拶もしないで、ぼくのもとを去るなんていうことがあるはずがないじゃないか。自分が心から愛しているものと別れるときに、どれほどきびしい苦悩を味わわなければならないか、このぼくに訊ねてみろ。正気を失っていなければ、とうてい自分からそんな苦悩に身を委せようという気になどなれるはずはないじゃあないか」
ぼくの悲嘆は思いがけない訪問によって中断された。レスコーが訪ねてきたのである。
「冷血漢め!」、とぼくは手に剣を握りながら叫んだ。「マノンはどこへ行った? きさまは彼女をどうしたんだ?」
ぼくのこんな逆上ぶりを見て、彼はすっかり恐れをなしてしまった。そして彼にできる限りの、最大級の助力のつもりで情報を知らせにきたのに、そんなふうに自分を迎えるなら、さっさと退散してもうこの家には足を踏み入れない、などと返辞をした。ぼくはドアのところへ駆け寄って、注意深くドアをしめた。もう一度彼のほうに向き直りながら、こう言ってやった。
「口から出まかせを言って欺《だま》し、この上ぼくを笑い者にできると思っているのか? さあ、覚悟するがいい、そうでなければ、もう一度マノンに会わせろ」
「おやおや! ずいぶん手きびしいな!」と彼が言った。「ちょうどその話があったから、オレはここへ来たんだよ。オレはね、君が考えてもみなかった幸運を知らせにきたんだぜ。一部始終がわかったら、君はきっとオレに感謝感激っていうことになるぜ」
ぼくは、すぐに事の次第をはっきりさせろと迫った。
彼が語ったところによると、マノンは貧乏が心配になって耐えられず、とりわけ、いっぺんに馬車も傭《やと》えない身分に落ちぶれてしまうと思ったので、気前のいい男として知られている、ムッシュウ・ド・G…M…を紹介してくれ、と彼に頼んだのだという。ところが彼は、彼女の頭にそんなことを吹き込み、その男のところへ連れてゆく前に、いろいろと渡りをつけたのは自分だ、ということはぼくには喋ろうとはしなかった。
「オレはね、彼女《あれ》を今朝その男のところへ連れていったんだよ」と彼は続けた。「あの正直な大将ときたら、彼女《あれ》の器量を見てすっかりのぼせ上がっちまってね、しょっぱなから、別荘へご一緒に参りませんかって彼女《あれ》を誘ったっていう次第さ、そっちで幾日かご滞在ってしゃれこもうってわけさね。オレはね」、と彼はつけ加えた。「いっぺんで、こいつは君のためにえらいご利益《りやく》にありつけそうだと見抜いたもんだからね、ここを先途《せんど》と話し上手ぶりを発揮して、マノンは先だってたいへんな損害をこうむったんだ、って大将に話してやったのさ。それにね、何ったって気前のいいお方だからとかなんとか、口をきわめておだてあげたもんだからね、大将もとうとう、マノンに二百ピストール、プレゼントしようと言い出す始末さ。オレは大将にこう言ってやったのさ、なるほどプレゼントとしてはそれもりっぱなもんですが、これから先、なにしろ妹のために物要りがかさむんですよ、ってね。それに≪おやじ≫も≪おふくろ≫も亡くなって、われわれの腕の中に残された弟の面倒をみるのも、もちろん彼女《あれ》の負担になるんだから、もし彼女《あれ》が大将の≪おめがね≫にかなったら、彼女が自分の半身とも思っているくらいのこの哀れな弟のことで、彼女が悩むのを黙って見ている≪テ≫はないでしょう、ってね。このお涙物語は、大将を感動させずにはおかなかったね。大将は、君とマノンのために気のきいた家を一軒借りる約束をしてくれたよ、というわけはだ、その両親のない哀れな弟ってのが、ほかならぬ君だってわけさ。さっそく大将は君のために家具を買いととのえ、毎月たっぷり四百リーヴルばかり援助しようと約束したよ、こいつはオレの計算によると、毎年年末になれば四千八百がとこ、君のふところに転がりこもうっていう勘定になるぜ。別荘へ出かける前に、大将は、執事に、家を一軒探しておいて、帰るまでにチャンとお膳立てしておくように命令していたよ。帰ってきたら、君はまたマノンに会えらあね、それにマノンのやつ、自分の代わりに君を千回も抱擁し、今までよりもっともっと君を愛していると伝えて君を安心させてくれ、とオレに頼んでいったよ」
ぼくは、自分の運命の奇妙なめぐり合わせに思いを馳《は》せながら、腰をおろした。ぼくの感情は一種の分裂状態にあった。したがって正体を見きわめることも困難な不安に襲われて、レスコーがぼくに向かって次から次へと放つ質問の矢にも、永いあいだ答えることもできない有様だった。ぼくの名誉心と美徳がふたたび悔恨のうずきを感じさせ、ぼくの目が、嘆息まじりに、アミアンのかたへ、父の家のかたへ、サン・シュルピイスのかたへ、無垢《むく》な気持ちのままぼくが生きてきたあらゆる場所へと投げかけられたのは、まさにこの瞬間だった。
こうした幸福な生活から、何と遠く離れてしまったのだろうか! もはやぼくは、遠くからそれを眺めているだけなのだ。それはあたかも、いまだにぼくの悔恨の、欲望の種にはなっても、もうぼくの努力をうながすには、あまりにも力の弱い影のようなものだった。
「なんの因果《いんが》で、こんなに罪深い男になってしまったんだろう?」とぼくは言った。「愛情というのは罪のない情熱なのに、ぼくにとってそれが悲惨と放蕩の原因となってしまったのは、いったいどうしてだろうか? マノンといっしょに平穏な、りっぱな生活をするのを妨げるのは、いったい何者なんだろう? 少しでも彼女の愛情を手に入れる前に、なぜ彼女と結婚できなかったんだろうか? あれぼど優しくぼくを愛してくれた父は、たとえぼくがちゃんと法律的な手続きをふんで父にそれを頼んでも、結婚を承諾してくれなかったろうか? ああ! 父のほうから進んで、自分の息子の妻にはりっぱすぎる、可愛いい娘としてマノンを愛してくれていたら、いまごろは、マノンの愛情と、父の愛と、紳士たちの尊敬と、財産と、美徳によって味わう平穏な気持ちを満喫《まんきつ》して、ぼくはしあわせに酔っていたにちがいない。なんという不吉な運命のしっぺ返しだろう! わざわざぼくのところへやってきて、なんと恥ずべき人間になるようにすすめるんだろう? なんだって! ぼくにもその仲間に入ろうというのか……しかし、これを取りきめたのが当のマノンなら、またぼくが喜んでこれを受け入れなければマノンを失ってしまうというなら、何をためらう必要があるだろうか?」
「ムッシュウ・レスコー」、とこんな悲痛な考えから逃れようとして、ぼくは叫んだ。「もし君がぼくの面倒をみてくれるというんなら、恩に着るよ。君だって、もっと筋の通ったやり方をしようと思えば、おそらくできただろうけれど、でももうすんだことじゃあしょうがないな、そうだろう? これからはもう、せっかくの君の心づかいを無にしないで、君の計画をみごとにやりとげることだけを考えようじゃあないか」
レスコーは、ぼくが一度は肚をたて、次にずいぶん永い間黙りこくっていたのに困惑していたので、ぼくがこんな決心をすると、とたんにご機嫌になった。この決心は、おそらく彼が考えていたのとは全くあてが外れていたのだろう。結局のところ、彼にしてもお人好しというほかはないのだ。これから、そのりっぱな証拠をいろいろとご紹介しよう。
「そうとも、そうとも」と彼はせきこんで答えた。「オレがやったのは、君にとっちゃありっぱな助太刀《すけだち》になるんだぜ、それに成り行きをごろうじろだ、君が期待しているよりずっとガッポリ稼げるぜ」
ぼくらは、ムッシュウ・ド・G…M…がぼくとマノンが姉弟《きょうだい》だということに、不信の念を起こさないようにするにはどうすればいいかを検討した。それというのも、ぼくを見ればちょっと背が高すぎると思うだろうし、おそらく、思っていたよりもちょっと年をとりすぎていると気にするだろうから。結局ぼくらは、ぼくがうんと粗末で、田舎っぺえの様子で彼の前に現われ、いずれは僧職に身を置くつもりで、今はそのために毎日学校へ通っている、と思わせようという以外には、これといって名案が思いうかばなかった。それにまた、ぼくが彼にはじめて挨拶をさせていただける光栄に浴するときには、うんとみっともない身なりをしてやろうということに定めた。
三日か四日のちに、彼は田舎から帰ってきた。彼の執事が入念に手を入れて準備しておいた家に、彼みずからの手でマノンを案内した。彼女はすぐに、レスコーに自分が帰ったことを知らせ、そしてレスコーがぼくに知らせてきたので、ぼくらは二人で彼女の家へ出かけた。年とった色男はもうすでに外出していた。
マノンの気持ちにはもう逆《さから》うまいと諦めていたのに、いざ彼女の顔を見ると心中の不平を抑えることができなかった。彼女の目からすれば、ぼくはいかにも悲しげで、悲嘆の極にあった。彼女に再び会えたという喜びも、彼女の不貞から受けた苦悩を完全に抑えることはできなかった。反対に、彼女のほうはぼくに再会した喜びにこおどりしていた。彼女は、ぼくが冷淡だといって非難した。ぼくは何度も何度も溜息をつきながら、裏切り者だとか、不貞な女だとかいう言葉を浴びせずにはいられなかった。
はじめのうちは、彼女はぼくの純情なところをからかっていたが、相変わらず悲し気に彼女に吸いついているぼくの眼差《まなざし》に合い、ぼくの気分や欲望とはまったく正反対なこの変わり方に我慢がならずに悩んでいる様子をみると、ひとりで自分の部屋へ入ってしまった。しばらくのちにぼくは彼女のあとを追った。彼女は涙に濡れて泣いていたので、なんの理由があってそんなに泣くんだい、と訊ねた。
「よくわかるでしょ」、と彼女が言った。「たとえこうしてお目にかかれたからって、あなたみたいに陰気な、悲しそうな顔つきをしていたんじゃあ、いったいあたしはどうやって生きていったらいいの? ここへみえてから、ただの一度もあたしを抱こうともなさらないし、あたしが抱いてあげようとしても、ハレムにいるトルコの王様みたいに妙に勿体《もったい》ぶった様子をしているんですもの」
「ねえ、マノン、よく聞いておくれ」、とぼくは彼女を抱擁しながら言った。「ぼくはね、苦しくて胸がはりさけんばかりなんだ、それを隠しきれないんだよ。君が予告もなしに姿をくらまして、ぼくをどんなに仰天させたか、ぼくとベッドを別にして一夜を過ごしてから、慰めの言葉も言わずにぼくを捨てて逃げてしまったのが、どれほど残忍な所業《しょぎょう》だったかということは今は言うまい。君の姿に会えたという喜びだけで、そんなものはすっかり忘れてしまうよ」
涙のしずくに顔を濡らし、ぼくはさらに続けた。「けれどもね、君のお望み通りに、ぼくがこの家で淋しい、不幸な生活を送ることを考えたら、溜息ももらさず、涙も流さずにいられると思うのかね? 名門の生まれだとか、ぼくの名誉がどうのこうのという話はこの際やめよう。そんなものは、この胸で燃えている恋の≪ほむら≫と張り合わなければならないとしても、理由としては弱すぎるからね。ところがその愛情自体に、まったく酬《むく》われるところは少ないし、いや、というより恩知らずな、無情な恋人にみるも無惨な扱いをうけて嘆かないでいられると思うのかい?……」
彼女がぼくの言葉をさえぎって言った。
「ねえ、あたしのシュヴァリエ、そんなあたしの心を傷つけるような非難の言葉を浴びせてあたしを苦しめても無駄だわ、だって、もとはといえばあなたが原因なんですもの。わかってるわ、そんな言葉はかえってあなたを傷つけるだけなのよ。あたしたちの家計を、ちょっと建て直すために、あたしが立てた計画をあなたがウンといってくださればよかったのよ。あなたの手を借りないであたしが計画を実行に移したのは、あなたの繊細な気持を考えてのことだったのよ。でも、あなたにはそれが判ってもらえないんですもの、あたしはもう諦《あきら》めたわ」
彼女はつけ加えて、今日はこれからもう機嫌を直してほしい、と言った。もうお年寄りの色男から二百ピストールを受け取った、それに彼女に今晩ほかのいろいろな宝石類といっしょに、美しい真珠の首飾りを持ってきてくれるし、その上、前に約束したように、年金の半分まで持ってくると言ったという。
「あのひとのプレゼントを受けとるまででいいから、待ってちょうだい」と彼女が言った。「あのひと、あたしを手に入れたなんていって、いい気になっていばってみせるわけにはいかないのよ。だってね、町へ帰るまで待ってと言って、今日までそれを延ばしてきたんですもの。たしかに、あのひと千回以上もあたしの手に接吻したわよ。キスのお楽しみにだって、お金を払うのは当たり前でしょ、それにあのひとの財産や年配相応に値段をつり上げれば、五、六千フランといったって、ちっとも高すぎる金額じゃあないわよ」
彼女がこんな決心をしてくれたのは、五千リーヴルもらえるという希望よりも、ずっと気分をよくした。ぼくは、自分の心がまだ名誉という感情をまったく失ったわけではない、ということを改めて思い知らされた。というのは、恥知らずなことをしないでもすむと思っただけで、こんなに嬉しくなったからである。ところが、ぼくという男は、楽しみはアッという間に過ぎ、苦痛はいつまでも続くというふうに生まれついていたのだ。運命の神がぼくをひとつの深淵から自由にしてくれるのは、もうひとつのべつの奈落《ならく》に落ちこませるためにすぎなかったのだ。
彼女が決心を変えてどれほど幸福に思っているかを、尽きることのない愛撫によってマノンに知らせたとき、二人の方針が一致して運べるように、ムッシュウ・レスコーにこのことを知らせておかなければいけないね、と彼女に言った。彼もはじめのうちはブツブツ不平を並べていた。ところが、四、五千リーヴルの現金がふところに入ると知ると、彼も大喜びでぼくらの計画に賛成してくれた。
そこで彼は、ぼくらがみんないっしょに、ムッシュウ・ド・G…M…と夕食をするように手配したが、実はこれには二つの理由があった。一つには、ぼくをマノンの弟の、一学生というふれ込みで通そうというお楽しみであり、もう一つには、あの助平じじいが、ずいぶん気前よく前払いをしたので、ぼくの恋人を手に入れる権利をもっていると思っているらしいから、ぼくの恋人を相手に、あんまりしたい放題のことをするのを邪魔してやろうという楽しみだった。
あの男が、夜を過ごすつもりでいる部屋へ上っていったら、ぼくたち、つまりレスコーとぼくは退散する手筈であった。そしてマノンは、あの男のあとに従うかわりに、部屋を出て、ぼくといっしょに夜を過ごしにくる、という約束だった。レスコーが、ちょうどいい時間を見はからって、玄関の前に馬車をとめておくよう手配する役目を引きうけた。
夕食の時間がくると、ムッシュウ・ド・G…M…は永くは待たせなかった。レスコーは妹といっしょに客間にいた。老人の最初の挨拶は、美しい恋人に首飾りとブラスレットと、真珠のペンダントを差し出すことだったが、このペンダントは安く見積もっても一千エキュぐらいはするものだった。老人はついで、すばらしいルイ金貨で二千四百リーヴルを支払ったが、これは年金の半分に当たる額だった。彼はさらに、大時代な宮廷風の大げさな趣味でさんざん甘い言葉を並べたてて、彼のプレゼントに色彩をそえた。彼が何回かキスをしたがるのを、マノンは断わることができなかった。老人が彼女の手に渡したお金に彼女が手をつけたからには、それは権利同然のものだった。ぼくは、レスコーがなかに入ってもよいと知らせるのを今か今かと待ちながら、ドアのところで、耳をそばだてていた。
マノンがお金と宝石を蔵《しま》うとすぐに、レスコーがきてぼくの手をとり、ムッシュウ・ド・G…M…のほうへ連れていき、彼にご挨拶申しあげろと言った。ぼくは、二度か三度深々と頭を下げた。
「お許しください、ムッシュウ」、とレスコーが彼に言った。「なにしろまだほんとうに世間知らずの子どもでして。ごらんのように、この子はパリの空気とはまったく縁がうすいんでしてね。でもまあ、少しばかり行儀作法を仕込んでやれば、いずれ慣れるだろうと思っているんですよ」
彼はぼくのほうへ向き直りながら、こんなことをつけ加えた。「ここでたびたびムッシュウに会っていただいて、お前の手本になっていただくようにせいぜい心掛けるんだよ」
老人の色男は、ぼくに会ってとてもご機嫌な様子だった。ぼくの頬を二、三回ピシャピシャとたたいて、とても可愛いい男の子だ、でもパリでは若い者はすぐに放蕩に身を持ち崩《くず》しやすいから、身持ちに注意していなければいけないよと言った。レスコーは、ぼくは生まれつきなかなか賢く、口を開けば神父さんになることばかり話しているし、楽しみといえば、小さな礼拝堂を造って遊ぶことぐらいだから、そのほうは大丈夫ですよと言って保証した。
「そういえば、この子はマノンに似た感じだな」と老人は、片手でぼくのあごを持ち上げながら言った。ぼくは、世間知らずな様子で、こんな返辞をした。
「ムッシュウ、つまりそれは、ぼくたちの肉体がピッタリくっついているからです。ですからぼくは、姉のマノンをぼく自身の半身みたいに愛しているんです」
「どうだい、わかったかね?」と老人がレスコーに言った。「この子はなかなか機転に富んでいるじゃあないか。こんな子どもが、社交界の礼儀作法をあんまり心得ていないなんて、まったく残念しごくだよ」
「ああ、ムッシュウ」、とぼくは言葉を続けた。「ぼくだって、教会でたくさんのひとを見てきましたよ。それにぼくは思うんですが、パリにだって、ぼくよりもっと間が抜けた連中がウヨウヨいますよ」
「どうだい」、と彼が言葉を引きとった。「ポット出の田舎者の子どもにしちゃあ、なかなか気のきいた≪せりふ≫じゃないか」
ぼくらの会話は、夕食のあいだ中ずっとこんな調子で続いた。ひょうきんなことの好きなマノンは、何回かふき出しそうになって、あやうく計画を台なしにするところだった。ぼくはこの夕食のあいだに、機会をとらえて、老人の身の上話を織り込みながら、いま老人の身の上にどんな災難がふりかかっているかを当の老人に話してやった。レスコーとマノンは、この話をしているうち恐怖に身を慄《ふる》わせていたが、ぼくが老人の身の上をありのままに語ったときには、とくに恐ろしそうだった。とはいえ、老人にしても自尊心というものがあったから、これを認めようなんていう気にはとうていなれなかったし、それになにしろ、ぼくがじつにうまく話につじつまをつけたので、老人が先にたって、こいつは全く面白い話だと言い出す始末だった。
ぼくがわざわざこんなふざけた一幕を展開したのも、理由がないわけではないということは、あなたにもおわかりになるだろう。ようやく寝る時間がくると、老人は愛だの、忍耐だのという話をした。レスコーとぼくは退散した。老人は部屋へ案内されたが、マノンは、ちょっと用事があるのでと口実をつくって部屋を出て、玄関のところでぼくたちに追いついた。三、四軒向こうに待たせてあった馬車がぼくらを迎えにきた。ぼくらはアッという間にこの町を遠ざかっていった。
ぼくの目から見ても、この行為はまちがいないペテンであったけれども、自分の心を責めなければならないほど、それほどひどい不正行為とは思わなかった。むしろ自分が≪ばくち≫で稼いだ金のほうが気にかかっていた。ところがぼくたちは、そのどちらのお金もあんまり役立てることはできなかった。神は、二つの不正行為のうち、軽いほうにもっとも酷《きび》しい罰を与えるべきだと、お認めになったのである。
ムッシュウ・ド・G…M…が、ペテンにかけられたと気がつくまでに、そう永い時間はかからなかった。老人が、すぐその晩からぼくたちを見つけ出すために、何かの処置を講じたかどうかは知らないが、とにかく相当に羽振りがよかったから、永い間手を束《つか》ねていたわけではなかったし、ぼくたちにしても軽卒で、パリの広さ、それに彼の住居と自分たちの住んでいる町が離れていることをあんまり当てにしすぎていた。彼はぼくたちがどこに住んでいるか、現在なにをしているかということに通じていたばかりでなく、ぼくがほんとうは何者か、パリでそれまでどんな暮らしをしていたか、マノンとB…の昔の情事、彼女がB…のやつを欺《だま》したことなど、つまり一口でいえば、ぼくらの身の上の、スキャンダルの種になるような事実をすみずみまで知りつくしていたのである。
そこで彼は、ぼくたちを逮捕させようと決心した。そして、罪人としてよりは、むしろ名うての悪党としてぼくたちを扱ってやろうと肚《はら》を決めたのである。
警部が六人ばかりの部下を連れてぼくたちの部屋へ入ってきたとき、まだベッドについていた。彼らはまずぼくたちの、というよりは、ムッシュウ・ド・G…M…のお金をつかむと、乱暴にぼくたちを起こして玄関のところまで連れ出し、ここで二台の馬車に押し込まれた。哀れなマノンは、なんの説明もなくそのうちの一台にぶち込まれ、ぼくはもう一台の馬車でサン・ラザール〔一種の感化院〕に連行された。こうした絶望のつらい味を知るには、絶望の原因になっているこんな失敗による憂き目を味わってみなければわかるまい。
逮捕にきた警官はとても頑固《がんこ》で、マノンを抱擁することも、ひとこと声をかけることも許してくれなかった。彼女がその後どうなったか、ぼくは永いこと知らなかった。おそらく最初のうちはそんなことは知らないほうが、ぼくにとってはしあわせだったに違いない、というのは、もしそれを知ったならば、ぼくはほんとうに恐ろしい破局に見舞われて、意識を失ったかもしれないし、いや、きっと生命まで危険にさらされたかもしれないからである。
こうして、不幸なぼくの恋人は、ぼくの目の前で連れ去られ、口にするだに恐ろしい隠れ家へ連行されてしまった。もし世の男という男が、ぼくと同じような目を、同じような心を持っていたら、この世の最高の王座にものぼれるまったく魅力あふれる女性にとっては、何という悲しい運命であろうかと嘆かずにはいられまい。彼女はべつに野蛮な扱いを受けたわけではない。けれども、ただ独り狭苦しい独房に閉じ込められて、いくばくかのムカムカするような食糧を手に入れるための必要条件として、毎日毎日、ある種の労働を強制されるという刑を課されていた。
ぼくは、この悲しい一部始終を、ずっと後になってようやく知ることができた。つまり、ぼく自身、つらい砂を噛むような罰を受けてから後に知ったのである。ぼくの警官は、その監督命令がどこから出ているか、ということも知らせてくれなかったので、自分がこの先どんな運命をたどるのか、サン・ラザールの門前へくるまで知らなかった。もし知っていたら、自分がこれから落ち込もうとする生活を続けるよりは、その場で死を選んだにちがいない。ぼくはこの建物について恐ろしい観念を抱いていた。
看守たちが入ってきて、ぼくには武器も、身を守る手段も何も残されていない、ということを検《しら》べるために、二度もポケットを探ったときには、恐怖はますますふくれ上がったものだ。そのとき院長が姿を現わした。ぼくが着くことを院長は前もって報告を受けていたのだ。彼はきわめて穏やかな態度でぼくを迎えた。
「神父さま」とぼくは言った。「侮辱されるのはごめんですよ。一度でも侮辱を受けるくらいなら、千回死んだってかまわないと思っているくらいですからね」
「いやいや、そうじゃないよ、君」、と彼はぼくに答えた。「君がおとなしくしていてくれれば、わしらはお互いに満足できるよ」
彼は、階上《うえ》の部屋まできてくれとぼくに頼んだ。ぼくはおとなしく彼のあとに続いた。警官が部屋のドアのところまでついてきたが、院長はぼくといっしょに部屋へ入ると、彼らに退《さが》るようにと合図をした。
「さて、いよいよぼくはあなたの囚人ですね!」、とぼくは彼に言った。「さあて、神父さま、いったいぼくをどうなさろうというんです?」
彼によれば、ぼくが筋の通った言葉を喋るのを聞いて、彼はすっかり気をよくしてしまったという。彼の仕事は、ぼくの胸中に美徳と宗教に対する愛を目ざめさせるように努力することであり、ぼくの義務は、彼のお説教やら忠告やらを身にしみて利用することだという。たとえいくらかでも彼がぼくに抱いている関心に答えようというつもりがあれば、たとえ孤独の中にいても、見出すものは喜びだけであろうということだった。
「ああ! よろこびですって」と、ぼくは言った。「神父さま、あなたはご存知ないんですよ。ぼくが喜びを味わえるものは、たった一つのことしかないんです!」
「わしにはよくわかっているよ」と彼が言葉を続けた。「でね、なんとか君の気持ちが変わってくれたらと願っているんだよ」
彼の返辞を聞いて、院長は前からぼくの恋愛事件のいきさつを知っているな、いや、もしかしたらぼくの本名も知っているかもしれない、ということがわかった。はっきり話してくださいと彼に頼んだ。もちろん彼は、前もって一部始終の報告を受けていると答えた。
彼がすべてを知りつくしていると聞いたことは、ぼくにとっては、刑罰のうちでも一番つらいものであった。恐ろしい絶望のあらゆる言葉を口走りながら、とめどなく涙を流しはじめた。自分の知り合いのすべての人々の噂ばなしの種になり、また家族の恥ともなるこんな恥辱を洗い流すことはとうていできなかった。
自分の恥辱のことを考える以外には何ひとつ聞くことも話すこともできずに、すっかり意気銷沈《いきしょうちん》して一週間ほど過ごした。マノンの思い出さえ、ぼくの苦悩には何の≪たし≫にもならなかった。マノンの思い出は、少なくとも、それより以前に味わっていた感情で、それに新しい苦悩が結びついたに過ぎなかったのである。そのときぼくの魂を支配した感情は、恥辱と混乱の二つであった。心の中に生まれた、こうした独特な動きの力を知ることのできる人物はごく僅《わず》かしかいない。一般の人間が感じるのは、わずかに五つか六つの情熱だけで、彼らの人生はこの情熱の枠《わく》の中で春秋を迎え、彼らのすべての不安はこの中に限られている。彼らから愛と憎しみを、楽しみと苦しみを、希望と不安とを取り去ってみたまえ。あとにはもうなにも残りはしないのだ。ところがさらにいちだんと高貴な性格を備えた人物は、べつのさまざまな方法で感動させることができる。そうした人物は五感以上のものを持ち、自然の、当たり前の限界からハミ出した感覚を受けとめることができるように思える。月並みな男たちより、はるか高くまで自分たちを昂《たか》めてくれるこうした偉大な感情をもっているから、それ以外のものにはなにひとつとして愛着をもたないのだ。彼らが実に辛抱強く軽蔑や嘲笑《ちょうしょう》に耐え、恥辱が彼らのもっとも激しい情熱のひとつとなるのはそのためである。
サン・ラザールではぼくは、この悲しい長所を身につけていた。院長の目にはぼくの悲しみが極端なように見えたので、その後に何か悪いことでも起こりはしないかと恐れて、ぼくをうんと寛大に、優しく扱わなければなるまいと思った。
彼は一日に二、三回見舞ってくれた。たびたびぼくを連れ出して、庭内をひと回りしたが、彼の熱情はつきることなく、いろいろ有益な訓辞や意見を与えてくれるのだった。ぼくは穏やかに、そうしたお説教に耳を傾け、彼に対して感謝の気持ちまで表わしたものだった。その様子を見て、彼はぼくを改心させられるかもしれないという希望を抱いた。
「きみは生まれつき、とても穏やかで、優しい性質なんだよ」、とある日彼は言った。「わしには、きみがみんなに非難されているような、ふしだらな生活をしていたなんてとても理解できないね。びっくりしてることが二つあるんだよ。ひとつは、これほどすばらしい美点を備えていながら、どうして君があんなとてつもない放蕩に身を持ち崩すことができたかということだよ。もうひとつ、もっと驚くべきことは、数年間もふしだらな習慣に身を染めていながら、どうして君がこんなに喜んで、わしの忠告や訓戒を守ってくれるかということなんだよ。もしこれが悔悟の結果とすれば、君こそ神さまのお慈悲を身をもって現わしたよい例だね。またもしこの善意が生まれつきのものだとしたら、少なくとも君の性格には、実にずばぬけてりっぱな土台が備わっているわけだね。こんなりっぱな土台があるからには、君をもとの非の打ちどころのない、規則的な性格に戻すために、そんなに永く君をここに閉じこめておかなくてもいいんじゃないかという気がするんだがね」
彼がぼくをこんな好意的な目で見ているのがわかったので、ぼくは嬉しかった。彼を文句ないほど満足させるような態度をとって、この意見をさらに固めてやろうと決心した。それがもっとも確実に、ぼくの牢獄生活を短くしてくれる手段だと信じたからである。
彼に、本が読みたいといって頼んだ。読みたい本の選択をぼくに任せてくれたので、数冊のまじめな本に決めると彼はびっくりしてしまった。実に熱心に勉強にうち込んでいるようなふりをした。こうしてあらゆる機会をとらえては、彼が望んでいる改心の証《あかし》を彼に見せたものであった。
ところが、そんなことも実は≪うわべ≫だけに過ぎなかった。恥を打ち明けなければならないが、サン・ラザールでは偽善者の役を演じていたのだ。独りになると勉強する代わりに、自分の運命について我を忘れて不平を言うだけだった。自分の牢獄を、こんなところに閉じこめておく抗《あがら》いがたい力に呪いの言葉を投げつづけた。事の真相がわからぬ、というこんな苦しみを味わうことを思えば、恋の悩みのほうがむしろ心にくつろぎを与えるくらいだ。マノンはいないし、彼女の運命がどうなっているかもわからない、それに一生彼女と会えないのではないかという危惧《きぐ》が、いつもぼくの悲しい考えの唯一の種になるのだった。
G…M…のやつの腕に抱かれている彼女の姿を思い描いた。というのは、それははじめからぼくの頭にあった情景だったからだ。そしてあの男が彼女を閉じこめて、ぼくと同じように扱っているとは思いもせずに、実はあの男がだれのチョッカイも受けないで彼女を手にしておくことができるように、それだけが目的でぼくを遠ざけたにちがいない、と信じきってしまった。
こうして日を夜を過ごしたものだが、その日々が、夜々が、ぼくにはまるで永遠のように永く思えるのだった。ぼくにとっては、自分の偽善者の役がうまくゆくようにというのが唯一の望みであった。院長がぼくのことをどう思っているかを確かめようとして、彼の顔つきや話し方を注意深く観察した。そして彼に喜んでもらおうと、まるで運命からの避難所へ逃げ込むように、勉強に打ち込むふりをしたものだった。完全に彼の≪おめがね≫にかなった、ということは造作なくわかった。彼がぼくに手を貸してやろう、という気になっていることはもはや疑いの余地もなかった。
ある日、大胆にもぼくの釈放は院長の気持ちひとつでどうにでもなるのではないかと彼に訊ねてみた。彼の言うところでは、釈放については院長が絶対的な権限をもっているわけではないが、しかし、パリ警視総監にぼくの投獄を要請したムッシュウ・ド・G…M…も、院長の保証があればぼくを自由の身にすることも、たぶん承諾してくれるだろうと思うということだった。
「ぼくはもう二カ月も牢獄暮らしをしたんですから」、とぼくは言った。「あのひとにしても、もう罪ほろぼしはじゅうぶんだと思うだろう、と期待してもいいでしょうか?」
院長は、もし望みとあれば、G…M…にひとつ話してみよう、と約束してくれた。ぼくは、ぜひ調定役をつとめてくれるようにと、彼にしきりに頼んだ。
二日後に、院長がぼくに話したところによると、G…M…はぼくが善良になったと聞いてとても感動し、自由にしてやろうという計画をたてたばかりでなく、今までよりもっと個人的にぼくという人間を知ってみたいという気になって、わざわざ牢獄まで訪ねたいと言いだしたということだった。ぼくにとっては、この男と顔を会わせたっていい気持ちがするはずがなかったが、この会見を自由へ一歩近づいたものとみなした。
事実、この言葉通りに彼はサン・ラザールへやってきた。ぼくには、彼がマノンの家で会ったときよりもずっと堂々としており、またずっと間抜けたところがないようにみえた。彼は、ぼくのふしだらな生活についてなかなか気のきいたお説教を二、三|披露《ひろう》した。そして、表面だけでも彼自身の放蕩に理屈をつけようとして、人間というものには弱点があるのだから、自然が要求するある種の享楽に手を出すぐらいのことは許されているが、詐欺《さぎ》や恥ずべきペテンなどは、当然罰を受けてしかるべきだ、とつけ加えて言った。
ぼくが従順な態度で彼の言葉を傾聴していたので、彼はご満悦のていであった。レスコーやマノンとぼくが兄弟だと言ったことや、例の小さな礼拝堂について彼が嘲弄《ちょうろう》的な言葉を洩《も》らすのを聞いても、べつに肚《はら》をたてなかった。彼は、ぼくは礼拝堂を建てるというこの神聖な仕事が大好きなくらいだから、サン・ラザールでさぞかしたくさんの礼拝堂を建てたにちがいないと思っているよ、などとぼくに言った。ところが彼にとっても、またぼくにとっても不幸なことだったが、彼はうっかり、マノンもきっとオーピタルの中にとてもきれいな礼拝堂を造っているだろうな、などと洩らしてしまった。オーピタルという言葉を聞いて、ぼくは全身が慄《ふる》えてしまったけれども、ぼくにはまだ、穏やかな口調で、それはどういう意味か説明してほしいと頼むだけの気力は残っていた。
「ふん、いいとも」、と彼は言葉を続けた。「二カ月前から、彼女《あれ》はオーピタル・ジェネラルで貞淑というものを身につけようとしているのさ。君がサン・ラザールで見せたくらい、あの娘《こ》もあそこで成果をあげてくれればいいんだけれどね」
たとえ無期|懲役《ちょうえき》になろうと、あるいは目の前に死そのものが現われようとも、この恐ろしい知らせを耳にしてぼくは逆上を抑えることはとうていできなかった。ものすごく猛《たけ》り狂って彼にとびかかっていったので、そのために体力の半分も失ってしまうくらいだった。それでもぼくにはまだ、彼を床にたたきつけ、彼の首にとびかかるだけの力があった。
彼の首を絞めつけた。そして彼が床に倒れる音と、わずかに彼の口から洩れたかん高い悲鳴を聞きつけて、院長と数人の修道僧たちが部屋にかけつけて、ぼくの手から彼の体をふりほどいた。ぼく自身もほとんど体力を消耗しつくして、息もつけない有様だった。
「ああ、神よ!」、とぼくはハアハアと絶え間なく溜息《ためいき》をつきながら叫んだ。「正義の神よ! こんな恥辱を受けてのち、なお一瞬でも生きてゆかなければいけないのでしょうか?」
再びぼくを殺そうとしたこの野蛮人にとびかかろうとしたが、とり押えられてしまった。ぼくの絶望、絶叫、あふれ出る涙は、どんなに想像を逞《たくま》しくしても、はるかに及ばないものだった。ぼくがしたことは、その理由を知らずにそこに集まった一同をびっくりさせて、みなお互いに、驚きとも恐怖ともつかない気持ちで顔を見合わせていた。その間に、ムッシュウ・ド・G…M…は乱れた≪かつら≫とネクタイを直し、こんなひどい扱いを受けた怨《うら》みを綿々と述べながら、今後は今まで以上に酷《きび》しくぼくを幽閉《ゆうへい》し、世にサン・ラザール独特のものと言われる、あらゆる罰を課してぼくを懲罰するようにと院長に命令した。
「いや、いけません、ムッシュウ」、と院長は彼に言った。「そんな方法を用いるのは、ムッシュウ・ル・シュヴァリエのような生まれの人物に対してはふさわしくありませんな。もともと彼は実に穏やかで、正直な人柄ですから、なにかよほどの理由でもない限りは、そうした極端な処置を受けなければならないとはとうてい考えられませんよ」
この返辞を聞いて、ムッシュウ・ド・G…M…はすっかり面くらってしまった。彼は帰りがけに、院長にしろぼくにしろ、とにかくあえて彼の意に逆らう者はだれでも、みな彼の前に膝を屈するようにしてやるといきまいていた。
院長はムッシュウをご案内しなさい、と修道僧たちに命令してから、ぼくと二人だけで部屋に残った。院長は、いったいどうしてあんな騒ぎがもち上がったのか、すぐに話してくれとぼくに頼んだ。そこでぼくは、まるで子どものように泣きながら、こんな話をした。
「ああ、神父さま! ご想像ください、この世でもっとも残酷なことなのです、考えてもみてください、あのあつかましいG…M…が卑怯にも手を下したのは、あらゆる野蛮なことのうちでも、いちばん卑劣なことなんです。ああ! あの男はぼくの心を引き裂いてしまいました。もうとうてい立ち直る見込みはありません。残らずあなたにお話ししたいと思うんです」、とぼくはすすり泣きながら、つけ加えた。「あなたは優しいお方です、それにきっとぼくに同情してくださるでしょう」
ぼくは次のような事情を、院長にかいつまんで話をした。つまり、マノンに対する、永い、そして打ち勝ちがたい情熱、ぼくたちが使っていた召使いのおかげで無一文になってしまったが、その前にはぼくたちも豪奢な生活をしていたこと、G…M…がぼくの恋人にいろいろな贈り物をしたこと、彼らのあいだで協定が結ばれ、そして彼がみごとに約束を破られたいきさつなどを語った。実のところ、ぼくらにとって都合のいい面ばかり院長に話して聞かせたのである。さらに話を続けた。
「ムッシュウ・ド・G…M…が、やっきになってぼくを改心させようとしている理由がどこにあるか、これでおわかりでしょう。あの男は羽振りがよくて、ぼくをここへ閉じ込めさせることもできますが、ほんとうの動機はぼくに復讐《ふくしゅう》がしたかったんですよ。そのことなら許してやりましょう。でも神父さま、それだけじゃあないんです。あの男は、残酷にもぼくが自分の半身のように愛している女性まで、ぼくの手から取り上げさせてしまったんです。恥知らずにも、彼女をオーピタルに送らせたんです。そして今日、ついうっかり自分の口からそれを話してしまったんです。オーピタルへですよ! 神父さま! ああ、神よ! ぼくの愛する恋人が、ぼくのいとしい女王がオーピタルにいるんです、まるでこの世の女性のうちでも、もっとも不名誉な女と同じ扱いを受けて! ぼくは苦しみと恥辱のために死にそうです、これに耐える力を見つけるには、どこへ行けばいいんでしょう?」
善良な神父は、悲嘆に追いつめられているぼくを見て、慰めようとした。彼は、ぼくの恋愛事件の真相がぼくが語ったようなものだとは、今まで知らなかったと言った。それにふしだらな生活を送っていたのはたしかに知っていたが、ムッシュウ・ド・G…M…がぼくの生活に余儀なく関心を抱くにいたった事情は、ぼくの家族を尊敬するとか、友情を抱くとか、なにかそんな関係があったためだと思っていた。この間の事情について、院長はこうした立場から説明を受けていただけだったが、ぼくの口からいま聞いたことから察すると、事情はだいぶ変わってくるだろう。それに院長は、パリの警視総監殿に、この話をそっくりそのまま話すつもりだから、ぼくが自由の身になるためにも、きっと力になれることはまず疑いのないところだろうと言った。
さらに院長は、べつに家族の者がぼくの監禁に手を貸したわけでもないのに、どうして自分の身の上を家族の者に知らせる気にならなかったのか、と訊ねた。ぼくは、そんなことを知らせれば父親の苦痛の種になる惧《おそ》れもあり、それにぼく自身でも恥ずかしいと思っているくらいだから、とかいろいろの理屈を並べてお茶を濁《にご》すだけにしておいた。
とうとう彼は、その足で警視総監のところへ行こう、と約束してくれた。つまりムッシュウ・ド・G…M…は、心中はなはだ面白からぬ様子でこの建物を出ていったし、なかなかの勢力家で恐るべき影響力をもっているから、あちらから先になにか悪いことを伝える前に先手を打っておいたほうがいいから、と彼はつけ加えた。
ぼくは、いまにも刑の宣告を受ける不幸な囚人のように、たえずイライラしながら神父の帰りを待っていた。マノンがオーピタルにいるなんて考えるだけでも、ぼくにとっては言い難い苦痛であった。そんなところにいるという不名誉は別にしても、彼女がそこでどんな待遇を受けているか皆目《かいもく》わからなかったし、それにこの恐ろしい建物について、今までに耳にした特別な噂を思い出すだけでも、刻一刻とぼくの興奮が新たになってくるのだった。たとえどんな犠牲を払っても、できる限りの策を尽くして彼女を救い出してやろうと決心していた。だから、もしほかにここから出る手だてがないならば、サン・ラザールに放火してもかまやしない、と思ったくらいだった。
そこで、もし警視総監がぼくの気持ちを無視して、この先なおここに閉じ込めておこうなどということになったら、どんな手段をとったらいいかと考えてみた。とにかくあらゆる方法を当たってみようというつもりだった。可能性のあることはすべて考えてみた。確実に逃け出せるという確かな方法は、なにひとつ考えつかなかったし、それにもし間が悪くてこの試みに失敗したら、今までよりもっと厳重に閉じ込められるという心配もあった。援助を期待できそうな数人の友人の名前も思い出した。しかし、いったいどうやって、彼らにぼくの立場を知らせればいいのだろうか?
とうとう、これならきっと成功しそうだという名案を思いついたような気がした。しかし院長が帰ってきて、彼の奔走《ほんそう》も甲斐《かい》なく、この名案が必要になったら、その時こそもっとよくこの案を練り直すように、それまでとにかく延期しておいた。院長が帰るまでにはそう手間どらなかった。彼の顔つきには、吉報をもたらした時の、あの嬉しそうな表情が見えなかった。
「わしはね、警視総監殿にお話したんだよ」、と彼は言った。「ところが、わしの話も少々手おくれだったんだ。ムッシュウ・ド・G…M…は、ここを出るとその足で総監に会いにゆき、君のことをさんざん悪口を言ってね、そんなわけで総監は、ちょうどわしのところへ、君をもっと酷《きび》しく監禁するように、新しい命令を使いに持たせようとしていたところだったんだよ。
ところがね、わしが君の事件の真相を明かすと、総監もだいぶ心を和らげたような様子でね、ムッシュウ・ド・G…M…という老人の色恋沙汰を笑いながら、それにしても、あちらの顔をたてるためにも、六カ月ばかりは君にここにいてもらわねばなるまいという話なんだよ。ここにいるのが、君にとってもまんざら役に立たないわけでもないんだから、まあそれくらいのことでいかがでしょう、と総監は言っていたがね。総監は、とにかく君を丁重に扱ってくれとのことだったし、わしとしても、君が不平を言う種なんかないように請け合うからね」
善良な院長のこの説明はずいぶん永々と続いたから、じっくり考えるだけの時間はじゅうぶんにあった。あんまり急いで自由になりたいなどというそぶりを見せたら、ぼくの計画はすっかり台無しになる惧《おそ》れがあるかもしれないと思った。そこでぼくは本心とはまったく反対に、ここにいる必要があったとしても、院長がなにかと気を配ってくだされば、ぼくにとっては心の慰めになるくらいです、などと言って自分の気持ちを伝えた。その後にごくさり気ない調子で、ほかの方には何でもないことですが、心を鎮《しず》めるためにはたいへん役に立つご配慮をひとつお願いしたいのですが、と彼に頼んでみた。ご配慮というのはほかでもないが、友人のひとり、サン・シュルピイスにいて、すでにりっぱな聖職者になっている友人に、ぼくがサン・ラザールにいることを知らせ、ときおり彼の訪問を受けるのを許していただくことです、と。
この願いは、なんの躊躇《ちゅうちょ》もなく受け容れられた。問題の友人というのはチベルジュのことだった。自分が自由の身になるために必要な援助を彼に頼もうとは思わなかったが、彼のほうで、それすらわからないうちに、彼に、いわば間接的な道具になってもらいたかったのだ。
ひと口に言えば、ぼくの計画とはこんな具合である。ぼくはレスコーに手紙を届けるのだ、そして彼とわれわれの共通の友人に頼んで、ぼくの脱走の手助けをしてもらいたかったのである。第一の難関は、彼にぼくの手紙を手渡すことである。これがチベルジュの役割になるはずだった。ところがチベルジュのほうでは、レスコーがマノンの兄だということを知っているから、ぼくの仲介をするのはいい顔をしないのではないかという心配があった。ぼくの計画というのは、レスコーあての手紙を、ぼくの知り合いの素姓の正しい男にあてたべつの手紙の中に同封し、第一の手紙を直ちにレスコーの住所へ届けてもらうように頼むのである。ぼくらの方針についての意見をまとめるために、ぼくはどうしてもレスコーと会わなければならなかった。
そこで、ぼくの事件の一部始終を知りたくて、急拠《きゅうきょ》パリへ駆けつけてきたぼくの兄だと名前を偽って、サン・ラザールまでぼくに会いにきてくれ、とレスコーに指示するつもりだった。彼と顔をつき合わせて、ぼくらにとっていちばん手っとり早い、いちばん確実な方法を考えてやろうと思った。
院長の神父は、ぼくが話し合いをしたがっている、とチベルジュに連絡をとってくれた。この誠実な友人は、ぼくが行方不明になってしまったので、事件のことは知らなかった。彼はぼくがサン・ラザールにいると知り、この不名誉なことを聞いても、なんとかぼくを本心に立ち帰らせることができると思って、おそらく肚を立てなかったにちがいない。彼はとるものもとりあえずぼくの部屋へやってきた。
ぼくたちの話し合いは友情にみち溢《あふ》れていた。彼はぼくの心境を聞きたがった。ぼくは胸中を包み隠さず打ち明けたが、例の脱出計画だけはべつだった。
「君の目の前ではねえ、君」、とぼくは言った。「ぼくはね、心にもないような顔をして見せようとは思わないんだ。君がここで、欲望を抑えた賢明な友だち、神の与えた懲罰《ちょうばつ》によって目ざめた蕩児《とうじ》、つまり端的に言えば、愛情から解放され、マノンの魅力からも心をとり戻した男を見つけたなんて思ったら、それこそぼくをひいき目に見すぎているんだよ。君はね、四カ月前に君が見放したときのまま変わらないぼくに会っているというわけさ。女にひっかかり易いところも相変わらずなら、飽きもせずに自分の幸福を求めてやまないあの宿命的な愛情のために、不幸な思いに悩まされているところも相変わらずなんだよ」
彼はこんなことを答えた。ぼくが打ち明けた告白には、まったく弁解の余地もない。世間には、悪の仮面をかぶった偽りの幸福に酔いしれて、美徳による気高い幸福を見捨ててしまうような罪深い人間はたくさんにいるものだ。けれども、彼らが必死にしがみついているのは、少なくとも幸福の幻影に過ぎないものだし、つまりは≪うわべ≫に欺《だま》されているだけなのだ。しかし、ぼくがちょうどそれに当てはまるわけだが、自分がしがみついている相手が、ただ自分を不幸な、そして罪深いものにするだけだと知りながら、なおその不幸と、罪悪の中に喜んで飛び込んでゆくのをやめないというのは、まさに思想と行動との矛盾ともいうべきもので、ぼくの理性にとっては、けっして名誉となるものではないというのだった。
「チベルジュ」、とぼくは言葉をついだ。「君の武器に対して、相手がまったく立ち向かおうとしないんだから、相手をやっつけるのは簡単しごくだろ。今度はぼくのほうが理屈を言わせてもらうぜ。君がね、美徳の幸福だ、なんて呼んでいるものは、苦痛や、妨害や、不安には縁がないって主張できるかい? 牢獄や、十字架や、苛責《かしゃく》や、暴君の拷問《ごうもん》に君はどんな名前をつけようっていうんだね? 神秘主義者流に肉体を責めさいなむことは、人間の魂にとっては幸福だなどと言うのかい? まさかそんなことを言うほど勇気はないだろうね。その逆説は、とうてい納得しかねるよ。君がさかんに褒《ほ》めあげるその幸福というやつは、いろんな苦しみと混じり合っているんだ、いや、もっと正確に言えば、そんなものは不幸という糸で織り上げた布地に過ぎないんだよ。つまりその不幸という糸を通って、ようやく幸福に達するものなのさ。
ところが、もし想像力を駆使すれば、不幸そのものの中にも快楽を見出せる、つまり、不幸がわれわれの望む幸福の極《きわ》みまで導いてくれるからだ。とまあこんな論法でいくと、ぼくの生活態度はまったく似たような傾向にあるのに、君はどうしてやれ矛盾だの無意味だのときめつけるんだい? ぼくはマノンを愛しているよ。あり余るほどの苦痛を味わっても、彼女のそばで、しあわせに、平穏に生きていこうと思っている。
ぼくが辿る道は険《けわ》しい道だよ。けれどもね、自分が目ざすところへ到着できるという望みがあればこそ、その道にはいつもしあわせが拡がっているんだ。それにね、しあわせを掴《つか》むためにあらゆる辛酸《しんさん》をなめ尽くしたところで、一瞬でも彼女といっしょに過ごせたら、ぼくはもうじゅうぶん酬われたと思うだろうね。だからね、君から見ても、ぼくから見ても、どっちみちすべて同じことじゃあないか。
それにもし、いくらかでも違いがあるとすれば、まだぼくの見方のほうにいくらか分《ぶ》があるよ、だって、ぼくが望んでいるしあわせは身近なものだが、君のはすこぶる遠い。ぼくのしあわせはその性質からいっても、苦痛を味わうもの、つまり肉体に感じられるものだが、君のいうしあわせというやつは、その性質だって≪えたい≫が知れないし、信仰をもって、はじめて確実になるものだからね」
この議論を聞いて、チベルジュは恐怖におそわれたような様子だった。これ以上ないという真面目な様子で二歩ばかりあとずさりすると、こんなことを言った。
ぼくがいま口に出したことはただに良識を傷つけるばかりではない、不道徳と無宗教を表明する不幸な詭弁《きべん》である。
「というのはだね」、と彼はつけ加えた。「君の苦痛の結果と宗教によって生まれる結果とを比較するのは、奔放《ほんぽう》きわまるけしからぬ考えだよ」
「この考えが正当ではないということは認めよう」、とぼくはさらに言葉を続けた。「けれどもね、君も注意してくれたまえ。ぼくの議論の論点は、その考えではないんだよ。ぼくはね、この堅忍不抜《けんにんふばつ》な不幸な恋について、君には矛盾と思えることを説明してあげようと思っているんだ。それにね、たとえ矛盾があったとしてもだね、君だってぼく以上にその矛盾から逃れられはしないということは、じゅうぶん説明できると思うね。ぼくが平等なものとして議論してきたのは、ただこの意味での平等のことなんだ、それに今でもまだまだ平等だと主張したいね。美徳という言葉が恋という言葉よりもずっと優れている、と君は答えるだろうかね? だれがそれに反対するだろう?
けれどもね、問題はいったい何だい? 美徳にしろ恋にしろ、苦痛を忍ぶだけの力が問題なんじゃあないかい? 結果を見て判断しようじゃあないか。この世には、厳格な美徳を見捨てて逃げ出した者がどのくらいいるだろう、ところが、愛を見捨てた者はほとんどいないじゃあないか。それにまた、たとえ善行に手を染めれば苦痛が伴うものだとしても、その苦痛は確実なものでもなければ必要不可欠なものでもない、などと答えられるかい? もうこの世には暴君もいなければ十字架もない、美徳に酔った多くの人々が、平穏で安心立命の生活を送っているなんて答えられるかい? そればかりじゃあない、この世の中には平和で幸福な恋だってあるんだと言いたいね。それに、ぼくにとってはきわめて有利になるひとつ相違があるんだが、愛というものは、なるほど実にしばしばひとを欺くことがあるけれども、少なくとも心みち足りた思いと快楽を約束するだけだよ、ところがこれとは反対に、宗教というやつは、われわれに悲しい難行苦行を期待させるだけだ、とつけ加えて言おうじゃあないか」
彼の顔が熱をおびて、いまにも悲痛な叫び声をあげそうになるのを見ながら、ぼくはさらに言葉を続けた。
「なにもそう心配することはないよ。つまりぼくは、ただひとつ、これだけのことを結論的に言いたいんだよ。相手にだね、恋とはいやなものだと思い知らせたかったら、恋の歓びなぞつまらんもんだときめつけたり、美徳を実践すればよりいっそう幸福が味わえるなどと約束するほどへたな作戦はない、ということだよ。ぼくらのような生活態度から考えてみれば、われわれのしあわせが快楽のなかにあるのは、まず間違いのないところだよ。それ以外の考えがあるなんて、ぼくにはとうてい思えないね。
ところが、あらゆる快楽のうちで、恋の快楽こそこの上なく甘美なものだということを納得させるには、なにもそう永く首をひねって考える必要はないじゃないか。いくら相手に、いやいやもっと魅力に富んだものはほかにもあるなんて約束したところで、それが嘘《うそ》だぐらいのことは、まもなく見破られてしまうんだよ。それにそんな嘘をつくから、もっとも確実な約束にまでつい眉に≪ツバ≫をつけて聞こうという気にさせてしまうわけなのさ。ぼくを美徳にみちた生活に導こうという説教家のみなさん、美徳は必要不可欠なものとおっしゃってもけっこうですよ。
ただねえ、美徳とは厳格で辛《つら》いものだっていうことを、ごまかしてはいけませんよ。恋の至福なぞ、うたかたのごとくはかないもの、恋の至福は禁断の木の実、恋の至福には永遠の苦しみが伴うということを確証してみていただけませんかな。
それに、恋が甘く魅力に富めば富むほど、こんな大きな代償を払ってくれた神はさらにいっそうすばらしいものだという確証があれば、ぼくの心はきっといっそう強い感銘を受けるにちがいないと思うんだけれどね。とにかくはっきり白状してもらおうじゃあないか、ぼくらみたいな心の持ち主にとっては、恋こそこの世でもっとも完全な幸福だとね」
ぼくの議論のこの最後のひと言にチベルジュも気をよくした。ぼくの考えのなかにも、いくらかもっともな面もあると認めてくれた。たったひとつだけ、彼がつけ加えた反論といえば、ぼくがこれほどりっぱな考えを持ち、神の報酬を期待していながら、恋をそのために犠牲にして、どうして少なくともぼく本来の生活方針にかえらないのかと訊ねることだった。
「ああ、君」、とぼくは答えた。「それこそ、ぼくが自分の悲惨な生活や、弱味を知っているからなのさ。ほんとうに残念だよ! そう、その通りさ、ぼくがしなければならないのは、議論の通りに実行することだよ! けれどねえ、ぼくの力でその通り実行できるかねえ? ぼくにマノンの魅力を忘れさせるには、いったいどんな援助が必要なんだろうね?」
「神も君を許してくれるよ」、とチベルジュが続けた。「ここになお、われわれジャンセニストがひとりいると思うんだ」
「ぼくには、自分で自分がわからないんだよ」、とぼくが言葉をついだ。「どうあるべきかということが、あまりはっきりわからないんだよ。しかし、彼らジャンセニストの言う本質は、じゅうぶんわかっているつもりなんだけれどね」
二人の話し合いは、少なくともぼくの友の心の中に再び憐憫《れんびん》の情を誘う役にはたった。ぼくの放蕩生活もべつに悪意から出たものではなく、それ以上にぼくの弱さが原因であることを彼はわかってくれた。おかげで、彼の友情はその後にぼくに援助の手を差しのべてやろうという気になったのだが、もしこの援助がなければ、ぼくは悲惨な気持ちに落ち込むのを避けられなかっただろう。
しかしぼくは、自分のサン・ラザールからの脱走計画についてはたったのひと言も洩らさなかった。ただ手紙を届けてくれないか、と彼に頼んだだけだった。彼が到着する前に、手回しよく手紙を書いておいたのだが、ぼくが手紙を書かなければならない理由をごまかすためなら、口実にはこと欠かなかった。忠実な彼は確かに手紙を届けてくれた。そしてレスコーは、その日が暮れないうちに彼あての手紙を受け取ったのである。
その翌日、レスコーはぼくに会いにやってきた。ぼくの兄という名前をつかって、都合よく門を通った。部屋にいる彼を見て、ぼくは欣喜雀躍《きんきじゃくやく》した。注意深くドアを閉めた。
「一刻も猶予はできないんだ」、とぼくは言った。「まずマノンの消息を教えてくれないか。それからぼくの鉄の鎖を解く知恵を貸してくれたまえ」
彼は、ぼくが投獄された前日から一度も妹と会っていないし、さんざんあちこち聞いて回って骨を折ったあげくに、ようやく妹とぼくの運命を知ったとはっきり言った。それに、二、三回オーピタルへ出かけて行ったが、妹と話をする許可は得られなかったということだった。
「ちきしょう、G…M…のやつめ!」とぼくは叫んだ。「いずれたっぷり仕返しをしてやるぞ!」
「君を救い出す問題だけれどね」、とレスコーが続けた。「計画は君が考えてるほど簡単じゃないぜ。実はオレたち、友だち二人ばかりとオレとで、ゆうべこの建物の外まわりをずっと検《しら》べて回ったんだよ。君が教えてくれたように、君の部屋の窓は建物に囲まれた中庭に向かっているし、オレたちの見たところじゃあ、君をここから連れ出すのはなかなかむずかしいぜ。だいいち君の部屋は四階だろ、ここへ綱を渡そうったって、ハシゴを掛けようたって、オレたちにゃあできない相談だよ。外側から手を打とうにも、方法は皆無《かいむ》というところだよ。なにか策を練らなければならないとしたら、建物の内側からだね」
「いや、ぼくはすっかり検べてみたんだよ」、とぼくは言った。「とくに、院長の好意で監禁がずっと楽になってからね。今じゃあもう部屋のドアには鍵はかかっていないんだ、だから修道僧たちの廊下の中ならぼくは自由に散歩もできるんだよ。けれど階段という階段は全部厚いドアでさえぎられているしね、ご念の入ったことには、夜も昼も閉めっ放しだから、どんなにうまい手をつかっても脱走するのはまず不可能だね」
「待ってくれたまえ」と、ちょっと考えてから言葉を続けた。すばらしいと思われるアイデアが浮かんだのだ。「ピストルを届けられるかい」
「簡単なはなしだよ」とレスコーが言った。「でもだれかを殺《ばら》そうっていうのかい?」
ぼくは、人を殺すつもりなんか毛頭ないから、ピストルには弾丸《たま》を込める必要もないくらいだと言って彼を安心させてやった。
「あした持ってきてくれよ」、とぼくはつけ加えた。「忘れないように、きっと夜の十一時に、この建物の門のそばで待っていてくれたまえ、友だちを二、三人連れてね。門のところで君と落ち合いたいんだ」
彼はもっと詳しく教えてくれといってぼくを≪せっついた≫が無駄だった。ぼくが考えているような計画は、首尾よくいってからでなければもっともと思えないからだ、と言ってやった。今日の面会は短くきり上げてくれと彼に頼んだ。そのほうが、あした会いに来ても簡単に通れるからである。
翌日、彼は第一回目と同じように、苦もなく面会を許された。彼の態度はなかなかまじめだったし、彼を≪いっぱし≫の人物と思わない者などひとりとしていなかった。
ぼくを自由の身にしてくれる手掛りを与えてくれる武器を手中にすると、自分の計画は成功したことをほとんどもう疑わなかった。なるほどこの計画はとっぴょうしもない思いきったものだったが、ぼくの気持ちをひき立たせてくれる動機がある以上、ぼくにできないわけがあろうか? 自由に部屋を出て、廊下を歩き回ってもよいという許しをえてから気づいたことだが、毎日夕方になると門番がすべての部屋のドアの鍵を院長のところへ持ってゆき、その後には建物の中を深い沈黙が支配する、この沈黙こそみんなが部屋へ引きこもったというしるしなのだ。そうなれば何の障害もなく、通路になっている廊下を通って、ぼくの部屋から例の神父の部屋まで行くことができるわけだ。ぼくの決心というのは、院長がもしなんだかんだと言って難色を示して渡すまいとしたら、ピストルで脅してもかまわないから、とにかく彼の手から鍵をとり上げて、この鍵を使って道へ出てやろうというつもりだった。
じりじりしながら決行の時間の来るのを待った。門番はいつもの通りの時間にやってきた、つまり九時ちょっと後である。それからなお一時間、手を束《つか》ねて過ごしたが、これは修道僧や使用人たちがみんな寝ついたということを確かめるためだった。
ついに、武器と明りのついたローソクを手にして部屋を出た。神父の部屋のドアを、はじめは静かにたたいた。さわぎを起こさずに彼の目をさますためだった。二度目に、彼にはぼくのノックの音が聞こえた。そしておそらく、病気になって助けを求めにきた修道僧だと思ったにちがいない、起き上がってドアを開いてくれた。それでも彼はドアごしに、いったいだれかね、用事は何かね、と訊ねるだけの用心は怠《おこた》らなかった。やむをえず、ぼくは名前を名乗らなければならなかったが、体の具合が良くないと彼に思わせようと思って、苦痛のためにうめくような調子をよそおった。
「ああ! 君かね、わしの息子よ」と彼はドアを開きながら言った。「どうしてまたこんなにおそくにやってきたんだね?」
彼の部屋へ入り、彼をドアとは反対側の隅のほうへ引っぱってゆき、彼に向かってはっきりとこう言ってやった。
ぼくはもうこれ以上永くサン・ラザールにとどまるのはごめんこうむる。だれにも見とがめられずにここを出るには、夜こそ絶好の時間だ。ぼくは彼の好意を期待しているから、こころよくイエスと言ってぼくのために門を開いてほしい、でなければぼく自身の手で門を開けるように、彼の鍵をぼくに貸してほしい、と。
こんな口上に、彼は仰天したにちがいない。しばらくのあいだ、返辞もしないでマジマジとぼくを見つめたままだった。一分も無駄に過ごすことはできないので、再び彼に言葉をかけてこう言った。
あなたの好意には非常に感謝しているけれども、自由というものはすべての財産のうちでももっとも貴重なものである。不当に自由を奪われたぼくにとってはことさらに貴重である。たとえどんな犠牲を払ってでも、今夜のうちに自由を取り戻そうと決心した、と。 そして、助けを呼ぼうとして大声を出そうなんて気を起こされては大変だと思ったので、沈黙を買うりっぱな理由になる武器を上着の下から取り出して彼に見せつけてやった。
「ピストルだね!」と彼は言った。「いったいどうしたんだい! わしの息子よ、わしの命をとろうというのかね、君にあれだけ目をかけてやったそのお返しが、これかね?」
「とんでもない話ですよ」、とぼくは返辞をした。「あなたはとても考え深いし、理屈もじゅうぶわきまえたお方だから、こんなものが必要になるはずがありませんよ。とにかくぼくは自由になりたいんです、そこできっぱり覚悟をきめたんですよ、ですからね、もしぼくの計画が、あなたがヘマをしたおかげで失敗するようなことになったら、あなたは絶対に無事じゃあすみません」
「それにしてもわしの息子よ」と彼は、蒼白な恐ろしげな表情で言葉を続けた。「わしがいったい君に何をしたというんだね? わしに死んでほしいというのは、いったいどんな理由があってのことだね」
「いや、ちがいますよ」、とぼくはイライラして言葉を返した。「死にたくない、というんならあなたを殺そうなんていうつもりは毛頭ありませんよ。ぼくのためにドアを開いてください、そうすれば、ぼくはあなたのいちばんの親友になりますよ」
テーブルの上にある鍵にぼくは気がついていた。鍵をとり上げると、できるだけ音をたてないようにしてぼくの後についてきてください、と彼に頼んだ。
彼も結局は言われた通りにせざるをえなかった。進むごとに、そしてドアひとつ開くごとに、溜息まじりにこんなことを繰り返すのだった。
「ああ! わしの息子よ、まったくこんなことになるなんて、一体だれが思っだろうね?」
「声を立てないでください」
ぼくのほうでも、そのたびごとにこう繰り返した。とうとう道に向かって開いている大きなドアの前の、一種の柵《さく》のようなところまできた。もう自由になったとぼくは思った。そして、片手にローソクを、もう一方の手にピストルをもちながら、神父のうしろに立った。彼があわててドアを開けているうちに、となりの小部屋に寝ていた使用人が、≪かけ金≫のガチャガチャいう音を聞きつけて起き上がり、ドアのところへ頭をのぞかせた。お人好しの神父は明らかにぼくを逮捕できる、と信じた。不用意に使用人に向かって、こっちへきて助けてくれと命令した。なにしろ相手は力自慢のしたたか者だったので、躊躇《ちゅうちょ》せずぼくに向かってとびかかってきた。ぼくは容赦などしなかった。ヤツの胸のどまん中へ一発ブッ放してやった。
「神父さま、これはみんなあなたのせいですよ」と得意満面で自分の案内人に言った。「けれどとにかく、仕事は終わりまで片付けてもらいましょう」と彼をドアのうしろに押しつけながらつけ加えた。彼にはドアを開くのを拒むだけの勇気はなかった。
首尾よく外へ出ると、門から四歩ばかりのところに、約束通り友人を二人連れてぼくを待ちうけていたレスコーがいた。
ぼくらは遠ざかっていった。レスコーは、なんだかピストルを射った音が聞こえたようだが、とぼくに訊ねた。
「君がいけないんだぜ」、とぼくが言った。「どうして弾丸《たま》をこめたピストルなんか持ってきたんだい?」
けれどもこの配慮に感謝もしていた。この配慮を忘れたら、ぼくはおそらく永久にサン・ラザール暮らしをしていたはずだ。ぼくらは飲食店へ行ってその夜を過ごした。この店で、ぼくは三カ月前から続けていた粗食を、すこし取り返すことができた。それでもぼくは手放しで喜ぶ気にはなれなかった。マノンのことを考えると、死ぬ思いで悩んだ。
「どうしても彼女を自由の身にしてやらなくちゃあ」、とぼくは三人の仲間に言った。「この目的があったからこそ、ひたすら自由になりたかったんだ。うまい計略を考えて助けてくれないか。ぼくとしては、そのためなら命を捨ててもかまわないよ」
レスコーは、機知にかけても用心深さにかけても、不足のない男だったから、それには手綱《たづな》をしめてかからなけりゃあダメだよ、と注意してくれた。彼の言うところでは、ぼくのサン・ラザール脱走と、脱走中ぼくの身に起こった不幸な事件は、まちがいなく大評判になっているはずだ。警視総監はぼくを探索させるだろうし、それに彼の守備範囲は広い。だから、もしサン・ラザールの幽閉生活よりもっと不運な事態にならないようにしたかったら、ここいく日かは隠れて身をひそめ、人の噂《うわさ》が消えるのを待って、ほとぼりをさますにこしたことはない、と。
彼の忠告は賢明だったが、その忠告に従うには、たしかにこちらも賢明にならなければなるまい。ただぼくの情熱はこんなに悠長に、こんなに慎重に身を処するのを許さなかった。いくらぼくが譲歩しても、それじゃあ翌日一日寝て過ごそうというのがせいいっぱいのところだった。彼はぼくを彼の部屋に隠し、ぼくはそこで夕方まで過ごした。
そのあいだマノンを救い出す計画や冒険を思いめぐらして過ごした。彼女の牢獄は、ぼくの牢屋以上にもっと浸入するのがむずかしい、とぼくは確信していた。力ずくや暴力で事を運ぶなど問題外だ。どうしても計略に頼らなければならなかった。ところが、発明の女神ですら、どこから手をつけたらいいかわからないだろう。ぼくにもまったく目算《もくさん》がなかったので、オーピタルの内部の配置についてのいろいろな情報を手に入れてから、もっとよく情況を考えてみようということにした。
夜のとばりが落ちて、自由の身になるとすぐに、ぼくはレスコーにいっしょにきてくれと頼んだ。ぼくらは門番のひとりと話をはじめたが、この門番はなかなか物わかりのよさそうな男だった。ぼくはオーピタル・ジェネラルや、所内で守られている秩序についての好評を耳にした外国人の風をよそおった。門番相手に内部のもっとも細かいところまで質問したが、話がそれからそれと進むうちに、話題は管理人の話に移ったので、管理人の名前や身分を教えてほしいと頼んだ。この最後の質問に答えた彼の返辞のおかげで、われながらすばらしいと思われる名案が浮かび、時を移さず実行にとりかかった。ぼくは、その管理人のかたがたにはお子さんはおありですか、と訊ねてみたが、実はこれがぼくの計画の根本になるものだった。彼の話では、たしかなことはお知らせできないが、お偉方のひとりのムッシュウ・ド・Tにはちょうど結婚適令期の息子さんがいて、お父上といっしょに何度かオーピタルへみえたことがあるということだった。この確証をつかんだだけで、もうじゅうぶんだった。すぐに門番との話をうち切って、帰りがけに頭に浮かんだ計画をレスコーに打ち明けた。
「ぼくの考えではね」とぼくは彼に言った。「ムッシュウ・ド・T…の息子のほうはね、金もたっぷりあり良家の出だから、きっと遊び好きだよ、そら、あの年頃の若い連中はほとんど大部分がそうじゃあないか。おそらく女嫌いでもないだろうし、ひとの恋愛事件の橋渡しをするのを断わるほど≪やぼ≫じゃあないだろうな。マノンを自由の身にするのに、この男の気を惹《ひ》いてやったらという計画を思いついたんだよ。もし彼が気のいい男で、それにおとこ気があったら、肚《はら》の大きいところをみせて彼女の救出に手を貸してくれるよ。たとえばだね、こんな動機ではこの男の≪おみこし≫をあげさせることができないとしても、少なくとも可愛いい娘のためならばなにか一肌《ひとはだ》脱いでくれるよ、相手のお嬢さんのご好意にあずかりたい、という希望からだけでもね」
「明日より先まで、彼に会うのを延ばそうなんていう気はないよ」とぼくはつけ加えた。
上々吉の予感がして、この計画でぼくは大いに気が楽になった。レスコーも、ぼくのこのアイデアにはなかなかもっともらしいところもあるし、この方法でやれば希望が持てそうだと言って賛成してくれた。おかげでその夜はあまり悲しくなかった。
朝になるとぼくは、その時の貧乏にしてはできる限り小ざっぱりした服装をした。そしてムッシュウ・ド・T…の家へ辻馬車で行った。ぜんぜん知らない客の訪問を受けて、彼はびっくりした。ぼくは彼に向かってなにひとつ隠さずに打ち明け、彼の自然な感情をかき立てようとして、自分の情熱の激しさとぼくの恋人のすばらしい美点を、この二つのものがいずれも優劣をつけがたいりっぱなものだと彼に話して聞かせた。彼の言うところでは、今までにマノンの顔は見たことはないけれども、彼女の噂は耳にしたことがある、少なくとも、それはG…M…老人の情婦だった女性の話ではなかろうかということだった。
これを聞いて、彼はぼくがこの事件に関係していることを聞いているのはまちがいない、と思ったので、徐々に彼の心をこっちのものにしようとした。つまり、彼にいかにも全幅の信頼をかけているような様子を見せびらかして、マノンとぼくの身の上に起こった事件を洗いざらい彼に喋ってしまった。
「おわかりでしょう、ムッシュウ」、とぼくは続けた。「ぼくの人生の利害と、心の利害は、今ではすっかりあなたの手のうちに握られているんです。ぼくにとっては、どちらも同じように貴重なものです。ぼくは、あなたには警戒心なんか持っていません、というのはあなたが抱擁力のあるかただということを聞いておりますし、それにぼくらの年配も同じくらいですから、ぼくらの考え方の中には、何か似たものがあるんじゃないかという望みがあるからなんですよ」
彼は、こうして卒直に、肚を割った態度に接して大いに感激した様子だった。彼の返辞は、いかにも物わかりのいい≪おとこ気≫のある人間の返答だった。こんな返辞は世間にはそうざらにあるものではないし、たとえあってもこうした返辞はしばしば空《から》約束に終わるものである。彼の言うところはこうだった。
彼としては、ぼくが彼を訪ねたのを幸運の列に加えたいくらいだ、ぼくの友情は彼が手に入れたもののうちでも、もっとも幸福なもののひとつと思えるほどだし、彼としては一生懸命に援助してこの友情に報いるように努力しよう、と。
彼はマノンをぼくの手に返そうとは約束しなかった、それというのも、彼の言うところでは、彼には大した勢力もないし、保証の限りではないからだというのだった。しかし彼女を会わせてぼくの喜ぶ顔を見るようにし、それにぼくの腕の中にもう一度彼女を抱けるように、力の及ぶかぎりやってみましょう、と言ってくれた。彼が自分の勢力はそれほど確かなものでないからと言ってくれたほうが、あなたの望むことなら何でもかなえてあげましょう、などと大見得《おおみえ》きって保証してくれるよりは、ぼくとしては嬉しかった。彼のこんな控え目な申し出が卒直な気持ちの表われに見えて、ぼくの心を惹いたのである。つまり一口でいえば、彼の親切な申し出に全面的に期待をかけたわけである。ぼくをマノンに会わせてくれるという約束だけで、彼のためならなんでもしてやろうという気になったにちがいない。ぼくのほうも、自分のこうした気持ちの一面を、ぼくも天性悪い性質ではないと信じさせるような態度で彼に示した。ぼくたちは心をこめて抱擁した、そしてぼくらは友だちになったが、その友情にはぼくらの心の善意が、自分に似た別の男を愛そうとする、気の優しい心の広いひとりの男が持つ単純な心理以外には、なにも別の理由はなかった。
彼のぼくに対する敬意はもっともっと明らかだった。というのは、ぼくの恋愛事件から推測しても、サン・ラザールを出たということから考えても、ぼくの生活はあんまり楽とはいえないはずだから、といってぼくに自分の財布を差し出して、どうしてもこれを受け取ってくれ、といってきかなかったからだ。ぼくはこう言って、それを受け取らなかった。
「それじゃあ、あんまり申し訳ありません、ムッシュウ。もしご好意と友情のしるしに、可愛いいマノンに会わせていただけたらぼくは一生涯恩に着ますよ。もしあの可愛いい女をほんとうにぼくの手に返してくださったら、あなたのご親切に対して、借りを払いきれないくらいですよ」
もう一度会見する時間と場所を定めてから、ようやくぼくらは別れた。彼はとても好意をもってくれたので、その日の午後よりおそくまで引き延ばさなかった。一軒のカッフェで待っていると、彼は四時頃にやってきてぼくと落ち合い、ぼくらはいっしょにオーピタルへの道をたどった。中庭を横切るとき、ぼくの膝はガクガクと震えた。
「恋のちからよ!」とぼくは言った。「ぼくの心の偶像に、あれほど涙を流し、不安におののいた相手に会えるんだ! 神よ! せめて彼女のところへ行きつくまでは、ぼくの命をお守りください、その後なら、ぼくの運命も余生も、どうぞみ心のままにしてください。もうそれ以外にあなたにおすがりすることはありません」
ムッシュウ・ド・T…は何人かの建物の守衛に話しかけた。彼らは争って、彼の意を迎えるために、自分たちにできることならなんなりといたしましょう、と彼に申し出るのだった。彼が、マノンのいる部屋はどこかと教えてもらうと、彼女の部屋のドアを開けるのに使うおそろしく大きな鍵を手にして、相手はぼくらをそちらのほうへ案内してくれた。案内してくれた看守に向かって、彼女の世話を任されている男はだれか、この建物の中で彼女はどんなふうに時を過ごしているか、と訊ねた。看守はこんなことを話してくれた。
あのひとは、まったく天使のように優しい方です。あのひとから荒い言葉をかけられたことなど、一度もございません。ここへ着いたばかりは、六週間ほど、たえず涙を流しておりましたが、先だってからは我慢づよく不幸に耐えていられる様子で、朝から晩まで針仕事に熱中し、何時間かは読書の時間に当てております、と。
ぼくはさらに、彼に向かって、彼女は相応の生活を許されていたかどうかと訊ねた。彼は、少なくとも彼女に必要なものは、なにひとつ不自由はございません、とはっきり答えた。
ぼくらは彼女の部屋のドアへ近づいた。心が激しく高鳴った。ぼくはムッシュウ・ド・T…に言った。
「あなたおひとりでお入りになって、ぼくが面会にきたことを彼女に知らせていただけませんか、突然にぼくの姿を見て、彼女《あれ》があんまり驚きはしないか心配なので」
ぼくらの前にドアが開かれた。ぼくは廊下に残っていた。それでもぼくの耳には二人の話し声が聞こえてきた。彼は彼女にこんなことを話していた。彼女の心の慰めになるものを持ってきた、彼はぼくの友だちで、ぼくらの幸福には多大の関心を抱いているのだ、と。彼女は矢も楯《たて》もたまらぬような調子で、ぼくの身の上がどうなったか、彼の口から聞けるのではないかと訊ねた。彼は彼女に向かって、彼女のお望み通り優しく忠実なままのぼくを彼女の足許へ連れてきてあげますよ、と約束した。
「それはいつのことですの?」、と彼女が言葉を続けた。
「今日すぐにですよ」、と彼が言った。「こんなにしあわせな瞬間を一分だって延ばすわけにはゆかないでしょう。お望みとあれば、今すぐにでも彼が姿を現わしますよ」
彼女もようやく、ぼくがドアのところにいるとわかった。ぼくが部屋へ入ると、彼女はすばやく走り寄ってきた。ぼくらは、ほとばしるような愛情をこめて抱きあったが、三カ月も別れ別れに暮らしていた別離の日々のおかげで、一分のすきもない恋人同志の心にこんなに甘美な愛情を味わわせてくれたのである。ぼくたちの溜息、せき止められたような嘆声、二人の口からあえぎあえぎ繰り返される愛の言葉のかずかずは十五分も続いて、ムッシュウ・ド・T…の心を感動させずにおかない情景をひろげた。
「お二人がつくづく羨《うらや》ましいですよ」と彼が、ぼくたちを坐らせながら言った。「ぼくは名誉ある運命よりは、こんなに美しく、こんなに情熱を燃やした恋人を選ばずにはいられませんね」
「ですからぼくは」とぼくは彼に答えた。「彼女に愛されているというしあわせをはっきり確かめられるなら、世界じゅうの国々を征服することだってバカバカしく思えるんでしょうね」
これほど望んでいたのだから、その後の会話が、当然こよなく甘いものにならないはずはなかった。哀れなマノンはぼくに彼女の身の上を語り、ぼくは彼女に自分の身の上を話した。ぼくたちは、彼女のいまの有様を、そしてようやく抜け出してきたぼくの現状とを語り合って、苦い涙を流して泣いた。
ムッシュウ・ド・T…は、ぼくらの悲惨な境遇にピリオドを打つために一生懸命手を尽くすから、と新たに約束してぼくらを慰めてくれた。彼はぼくらに、この第一回の面会をあまり永くしないほうがいい、そのほうが後にまた面会するのが容易になるから、と言って忠告してくれた。ぼくらにこの忠告の意味を納得させるのがまたひと苦労だった。とくにマノンのほうは、なかなかぼくをそのまま出て行かせる決心がつなかった。ぼくを百回も椅子に坐り直させた。服や手をとってぼくを引きとめた。
「ああ! なんていうところにあなたはあたしを置き去りにしてしまうの」と彼女は言った。「あなたにもう一度会えるなんて、だれが確実に約束できるでしょう?」
ムッシュウ・ド・T…は、ぼくを連れてしばしば彼女に会いに来る、と約束した。
「この場所をね」、と彼は気持ちよさそうにつけ加えた。「もうオーピタルなんて呼ぶべきではありませんね。あらゆる人々の心に君臨してもいいほどの女性がここに閉じ込められてからは、ヴェルサイユになったんですよ」
部屋を出ながら、ぼくは彼女の世話をしている看守にいくらかのチップをはずんで、心をこめて彼女の面倒をみるように約束させた。この看守は見かけより下劣でも、強情な心の持ち主でもなかった。彼はぼくらの面会に立ち合っているあいだ、この優しい光景を見てすっかり心を動かされた様子だった。彼にはずんでやった一ルイの金貨が彼の気持ちをしっかりとぼくに結びつけてしまった。中庭のほうへ降りながら、彼はぼくをわきに呼んでこんなことを言った。
「ねえ、ムッシュウ、あたしがいまここでやっている仕事を首になっても、代わりにムッシュウがあたしを傭《やと》ってくださるか、たんまり報酬をはずんでくださって損害を補償してくだされば、マノンお嬢さんを逃がすことぐらい造作ないような気がするんですけれどねえ」
それはまったく耳よりな話だった。そして、ぼくは無一文の身の上だったけれど、彼の希望をずっと上回る約束をしてやった。こういう手合いに報酬を払うぐらいのことなら、いつだってしごく簡単だという肚づもりだった。
「安心するがいいよ」とぼくは言った。「君のために、何にもしないなんて訳がないじゃあないか、君だってぼくと同じくらい運がツイてるぜ」
ぼくは、彼がいったいどんな≪て≫を用いるのか知りたかった。
「なあに、ほかでもねえんですがね」と彼が言った。「夜になったらあのひとの部屋のドアを開けましてね、道に面している門のところまであのひとをご案内しますからね、そこで旦那が準備万端ととのえて迎えにきている、って算段ですよ」
でも廊下や中庭を横切るときに見とがめられる惧《おそ》れはないかな、と彼に訊ねてみた。彼は、たしかにいくらかの危険はつきものだ、でも少々の危険はやっぱり犯さなければ、とはっきり言った。彼がこんなにキッパリ覚悟をしているのを見て、すっかり嬉しくなったけれど、一応はムッシュウ・ド・T…を呼んで、この計画と、この計画が危っかしく思える唯一の理由を話してみた。彼はぼく以上に、そりゃむずかしそうだと難色《なんしょく》を示した。彼も、そんな方法なら、なるほど彼女もきっとうまく脱走できそうだ、ということは認めながらも、こんなことをつけ加えた。
「でもねえ、もし見とがめられたら、逃げようとしてもし捉《つかま》ったら、おそらくあのひとには永久に浮かぶ瀬はありませんよ。もちろんうまくいっても、あなた方はその足でパリを出なきゃあならないでしょうね。だってね、捜索から逃れて隠れおおせる道はぜったいにないでしょうからね。今度はあのひととあなたといっしょですから、捜索もきっと倍になりますよ。たしかに男一匹なら逃げるのもたやすい話ですが、美人を連れての道行きで見つからないですまそうなんて、不可能な話ですよ」
この理屈は、たしかに筋が通っているように思えたけれども、ぼくの心の中に、マノンを自由にできるという希望がこんなに間近に迫っている限り、ぼくを説き伏せることはできなかった。ぼくはそのとおりムッシュウ・ド・T…に話し、愛情にかけても、少しばかりの不用心や無鉄砲なことは大目に見てくれ、と彼に頼んだ。さらにつけ加えて、ぼくの計画は、やっぱりパリを離れて、前にもやったようにどこか郊外の村にでも足場をつくるつもりだ、と言った。
そこでぼくらは、看守と、この計画はさっそくその翌日には実行に移そうということにとり決めた。そして、とにかくできる限りこの計画を確実にするために、男の服を持ってくることに決めたが、つまりこれは脱走を容易に成功させる目的からだった。男の服を内部へ持ち込むことはそう簡単には片づかなかったが、ぼくにしても、その方法を考え出すくらいの発明の才がないわけでもなかった。ムッシュウ・ド・T…には、ただ翌日薄いジャケット二枚重ねて着てきて欲しい、と頼んだだけだった、そしてそのほかの手はずは全部ぼくが引き受けることにした。
その翌朝、再びオーピタルへとってかえした。マノンのために肌着や、靴下その他のものを持ってきたが、上着の上に外套を着てきたから、ポケットがひどくふくらんでいても、見とがめられずにすんだ。
ぼくらは彼女の部屋にはちょっとしかいなかった。ムッシュウ・ド・T…が彼女のところへ二枚のジャケットのうちの一枚を置き、ぼくは上衣を置いてきた。外へ出るには、外套だけ着ていればじゅうぶんごまかせたからだ。ぼくがうっかりして忘れてきた半ズボンを別にすれば、彼女が服装をととのえるのに足りないものは何ひとつなかった。べつの場合で、もっと深刻でない状況で、これほど大事なものを忘れてきたら、笑いばなしの種になったにちがいない。こうしたたぐいのつまらないことでも、ぼくらの計画にストップをかけるんじゃあないかと、ぼくはガックリと力を落としてしまった。しかし、それならぼくが半ズボンをはかずに出ていってやろう、と覚悟をきめて、自分の半ズボンをマノンのところへ置いてきた。外套の丈はとても長い、そこで、門を通るのにみっともなくないように、数本のピンを使って直してしまった。
その日ののちの時間は、もう我慢ならないほど永いような気がした。ようやく夜になると、ぼくたちは馬車でオーピタルのちょっと上のほうまで行った。案内者といっしょにマノンが姿を現わすまでには、そう永い時間はかからなかった。馬車のドアは開けてあったので、二人ともアッという間に乗り込んだ。ぼくは可愛いい恋人を両腕で受けとめた。彼女はまるで木の葉のように身を震わせていた。御者《ぎょしゃ》がぼくにどこまで行きましょうかと訊《き》いた。
「この世の果てまでやってくれ」とぼくは御者に言った。「どこでもいい、マノンとぜったいに離れなくてもいいところまで連れてってくれ」
ぼくにはこの昂奮《こうふん》が抑えきれなかったので、あぶなくぬきさしならぬ難問の種をまくところだった。ぼくの言葉を聞いて御者はすっかり考え込み、つぎに、ぼくが送ってもらいたい町の名前を告げると、御者はこんなことを答えるのだった。つまり、彼としてはなんだか危い橋を渡っているようで心配だ、彼には、マノンと呼ばれたこの美青年は、ぼくがオーピタルから拐《さら》ってきた娘だということは万事お見通しだ、ひとの色恋のために自分の生涯を賭ける気にはとてもなれないというのだ。
このやくざ者の妙に大事をとったような態度も、その実もっと高い馬車賃を払ってもらいたいだけのことだった。ぼくらはあまりにもオーピタルの近くにいすぎたから、どうでも相手の言いなりにならないわけにはいかなかった。
「いいから黙れ」とぼくは彼に言った。「お前にとっては一ルイの儲《もう》け仕事なんだぞ」
こう聞いたからには、この御者はオーピタルそのものに火をつけると言っても、手を貸してくれたにちがいない。ぼくらはレスコーが住んでいる家へ行った。もう時間がおそかったので、ムッシュウ・ド・T…は、翌日の再会を約して、途中でぼくたちと別れた。看守だけがいっしょについてきた。
ぼくはマノンを両腕に固く抱きしめていたので、馬車の中ではひとり分の席しかいらないくらいだった。彼女は喜びのあまり泣き、涙がぼくの頬を濡らすのを感じた。ところが、レスコーの家へ入ろうとして馬車から降りなければならなくなった時、御者を相手にまたトラブルを起こしてしまった。これが後になって禍《わざわ》いのもとになったのだ。御者に一ルイやるなどと約束したのを後悔した。というのは、ただ心づけが法外だったというばかりではなく、もっと大きな理由は、それを支払うことができなかったからである。
レスコーを呼んでもらった。彼は部屋から降りて、ドアのところまできた。自分がいまどんな苦境に立っているか、彼の耳にささやいた。彼はもとより乱暴で、辻馬車の御者|風情《ふぜい》と穏やかに話をつけることなど、あまり慣れていない男だったので、そんな野郎は相手にするなと答えた。
「一ルイ金貨だって!」と彼はつけ加えた。「そんな≪ならず者≫にか、じょうだんじゃない、二十回も杖でひっぱたいてやれよ!」
いくら穏やかに、そんなことをしたらぼくらは身の破滅だ、と繰り返しても無駄だった。彼はぼくの手からステッキをひったくり、御者になぐりかかりそうな様子をした。御者のほうは、おそらく今までに何度か近衛兵か銃士かの手にかかって、危い目に会ったことがあったのだろう、怖気《おじけ》づいて馬車を駆って逃げ出したが、逃げながら、ちきしょう、一杯くわせやがったな、いまに見ていろ、と大声にわめきたてた。止まれ、止まれと繰り返しても無駄だった。御者が逃げてしまってから、ぼくはひどく不安になった。御者のやつ、きっと警察へ駆け込み訴えをするにちがいないとぼくは思った。
「君のおかげでぼくらは破滅だよ」とぼくはレスコーに言った。「君の家ももうきっと安全とはいえないな。すぐにも遠くへ逃げなけりゃあ」
ぼくはマノンが歩けるように手を貸した、そして大急ぎで危険なこの街を出た。レスコーもぼくらといっしょについてきた。事件につぐ事件と、神がつぎつぎに舞台を進行させるやり方には、実におそるべきものがある。ぼくたちが五、六メートル進むか進まないうちに、顔を隠したひとりの男がレスコーを見つけた。この男は、きっと何か良からぬ企みを実行に移すつもりで、レスコーの家の近所を探し回っていたのだろう。
「レスコーのやつだぞ」と言いながら、彼はレスコーに向けてピストルを一発ぶっ放した。「どうだい、ざまあみろ、今夜は天使とイスを並べて夕食としゃれこめるぜ」
アッという間に男は逃げてしまった。レスコーはばったり倒れて、まったく身動きもしなかった。ぼくは、早く逃げよう、とマノンをせきたてた。というのは、いくらぼくらが手当てをしても、死骸《しがい》になってしまったものには役にはたたないし、遠からずやってくる夜警《やけい》に捕まえられやしないか、と心配したからである。 彼女と下男を連れて、最初の狭い十字路にまぎれ込んだ。彼女はすっかりグッタリしてしまって、支えて歩くのもやっとという有様だった。
その街のはずれで、とうとう一台の辻馬車を見つけた。さっそくその馬車に乗り込んだが、御者がどこまでやりましょう、と訊ねたとき、ぼくは返答に窮した。安心して救いを求められるような確実な隠れ家も、信頼できる友人もなかった。金もない、懐中わずか半ピストール余りしかなかった。恐怖と疲労がマノンをクタクタにしてしまって、ぼくのそばで半分気を失っていた。ぼくの心は、もちろんレスコーが殺されたことでいっぱいだったが、夜警についても心配がないわけではなかった。さて、どう覚悟をきめたらいいか?
都合よく、シャイヨの宿屋のことを思い出した、この村へ住もうと思って出かけたときに、マノンといっしょに数日を過ごした家だ。ここならば安全であるばかりでなく、急いで勘定を払わないでも、しばらくは生活できるのではないかと期待をつないだのである。
「シャイヨへやってくれ」、とぼくは御者に言った。
こんなに遅くには、一ピストール以下じゃあごめんだね、と言って御者は断わった。一難去って、また一難だ。結局は六フラン払う、ということで話がついた。ぼくの財布に残っていた全財産である。
馬車を急がせながら、ぼくはマノンを慰めた。ところが実は心の底は、まったくやりきれない気持ちだった。もしぼくの両腕に、ぼくを命の綱にくいとめているたったひとつの財産がなかったならば、とっくに自殺していただろう。ただこう考えることだけで、気持ちは落ちついていられるのだ。
「少なくとも、ぼくの手の中にはマノンがいる」とぼくは言った。「彼女はぼくを愛している。そして彼女はぼくのものだ。チベルジュがいくら、そんなものは幸福の幻影だ、なんて言ったってどうにもなるものか。たとえ全世界が危機に見舞われようが、ぼくはそんなものに関心がないのだから、平気で見ていられるだろう。それはいったいなぜだろう? ほかのものにはもう愛情が湧かないからだ」
この気持ちは正しかった。ところが、この世の財宝をこんなに軽んじている時でも、せめてそんな財宝のいく分かは必要になるだろうという気がした。堂々と胸を張って、そのほかのものを軽蔑するには、なおさらのはなしである。どんな豊かな富よりも、金銀財宝よりも愛情のほうがずっと強い、しかしその愛情にしてもやっぱり財宝の助けが必要なのだ。繊細な心情をもった恋する男にとっては、この世でもっとも下劣な人間たちの俗悪さと、心ならずも同列に身を置くこと、これ以上やりきれないものはないのだ。
シャイヨへ着いたのは十一時だった。この宿屋ではぼくらは旧知のように迎えられた。マノンが男装をしているのを見ても、みんな驚きもしなかった。というのは、パリやその近郊ではあらゆる服装をしている女を見慣れていたからである。ぼくらが全盛時代だったときと同じように、彼女を待遇してくれと頼んだので、彼女にはぼくが懐中無一文だということはわからなかった。ぼくは彼女にはお金のことはひと言も洩らさないように気を使っていた。というのは、翌日もう一度パリへ引っ返して、この困った金欠病に、なにかの治療法を探し出してこようと心を決めていたからである。
夕食を口にしている彼女は、顔色が蒼ざめて、痩せたように見えた。ぼくが彼女と面会した部屋は薄暗かったので、オーピタルではそんなことに気がつかなかった。
兄さんが殺されるのを目《ま》のあたりに見て、まだ怖ろしくてそんなふうじゃあないのかい、と彼女に訊ねてみた。彼女は、あの事件で動顛《どうてん》したことはしたけれども、顔色が蒼いのは、三カ月もぼくと別れ別れに暮らしていたためにこうなっただけだ、とはっきりと答えた。
「じゃあ、ぼくをとても愛してくれるんだね」とぼくは訊ねた。
「口で言うより千倍も愛しているわ」と彼女が言った。
「じゃあ、もうぜったいにぼくのそばから離れないね?」とぼくはつづけた。
「ええ、ぜったい離れないわ」と彼女が答えた。
そして、愛撫と誓いの言葉を何度も何度も繰り返してこの約束を固めてくれたので、彼女がこののちこの約束を忘れることなど、ほんとうにとてもありそうもないようにぼくには思えた。彼女は誠実な女性だ、と相変わらず信じきっていた。いったいどんな理由があって、彼女はこれほどまで自分の姿を偽ったのだろうか? しかし彼女は思った以上に浮気だった、というより浮気女以外の何者でもなかった。贅沢《ぜいたく》な暮らしをしている女たちの目の前で、自分が貧乏でその日暮らしの生活をしているとなると、自分自身がわからなくなってしまうのだった。ぼくはほかのどんな証拠よりもはっきりした抜き差しならぬ証拠を、まさにつかもうとしていたのだが、これが、ぼくのような生まれの、ぼくのような境遇の男の身にこれまで振りかかったものとしては、およそ奇妙な事件の原因となった。
こんな彼女の気分がよくわかっていたので、その翌日急いでパリへ出かけた。彼女の兄の死と、彼女とぼくの下着や服装をととのえなければならない、というとてもりっぱな理由があったから、とりたてて口実をつける必要はなかった。宿屋を出て、マノンにも宿の主人にも、貸馬車を傭《やと》おうと思っていると言ったが、これはただの虚勢だった。どうしても歩いて行かなければならなかったので、クール・ラ・レーヌ〔セーヌ河沿いの並木道〕まで大急ぎで歩いた。ここでしばらく休むつもりでいた。これからパリですることの手筈をととのえたり、前もって考えたりするためには、独りで静かに考える時間が必要だった。
草の上に腰を下ろした。そして深い物思いに沈んだが、その物思いがだんだんと形をなして、三つの主要な点に固まっていった。目の前にある数限りない必要をみたすためには、さしせまってどうしても救援が欲しい。少なくとも未来に向かって希望を開いてくれるような、何らかの方法を見つけ出さなければならない。そして最後に、これに劣らず重要なのは、マノンの安全とぼく自身の安全のためにいろいろな情報も知り、その対策を講じなければならない。
この三つの問題について、さんざん計画や策略を考えて精魂《せいこん》尽きたかたちで、ついには最後の二つの項目については削ってもかまわないだろうと思った。シャイヨの部屋は隠れ家としては悪くないし、将来なにか必要なことができたところで、それはそれで現在当面している問題に満足な結果が出てからでも、考える時間はじゅうぶんあるだろうと思われた。
ところで、いま差し迫っているのはぼくの財布をいっぱいにする問題である。ムッシュウ・ド・T…は気前よく彼の財布をぼくにやろうと言ってくれたが、こんな問題で彼のお情けにあずかるのはどうあってもごめんこうむる。見知らぬ男に自分の惨めな生活をさらし、相手の財産のおすそ分けにあずかりたいと頼むなんて、だれがするもんか! そんなことができるのは、そんなみっともないことにも平気でいられる下劣な根性の持ち主で、卑怯な人間か、でなければそんな恥辱もすっかり超越してしまった寛大きわまる心を持った、謙虚なキリスト教徒ぐらいのものだろう。ぼくは卑怯な男でもなければ、りっぱなキリスト教徒でもない。こんな恥ずかしめを受けないですむなら、体の血の半分をくれてやってもいいくらいだ。
「チベルジュだ!」とぼくは言った。「あの親切なチベルジュは、ぼくに援助の手を差し延べるのを断るだろうか? いや、彼はぼくの惨めな姿に感動するだろう。けれど、また例の道徳を持ち出してぼくを悩ますだろうな。彼の非難や、お説教や、脅しの言葉は甘んじて受けなければなるまい。彼の助力はとても高いものにつく勘定だから、ぼくを苦境に立たせ、後悔のほぞを噛むような困った立場に身をさらすよりは、むしろ自分の血の一部を彼にやったほうがよほどましだろう」
「よしきた!」とぼくは言葉を続けた。「それじゃあ、望みなんてあっさり諦めるべきだな。なんといったってもうほかに方法はなし、二つの方法のどちらをとるか、とうてい決めかねているくらいだから、その一つをとるくらいなら喜んで自分の血を半分流したってかまわない。ということは、つまりはその両方をとるよりは、むしろ血をすっかり流してもいい、という訳になるじゃあないか?」
「そうだ、ぼくの体中の血をすっかり流すんだ」としばらく考えてからぼくはつけ加えた。「結局は惨《みじ》めに哀願をしなければならないくらいなら、おそらく喜んで体中の血をすっかりくれてやるだろうな。けれども、ここで問題なのはぼくのいのちの話だぞ! つまり、それはとりもなおさずマノンのいのちと生活の話になる、彼女の愛情と貞操の問題なんだ。ぼくには、彼女に釣り合うようなものが、何かあるだろうか? 今までは、釣り合うものなどぜんぜんなかった。ぼくにとって、彼女は名誉の、しあわせの、幸福の代わりだった。それを手に入れるために、またはそれから逃れようとして命がけになるということは、おそらくこの世にはずいぶんあるだろう。しかし自分の命よりも、ある一つのことを大事にしているからといっても、それをマノンと同じように大事にする理由にはならない」
ここまで考えが決まると、もう自分の肚をきめるまでにそう時間はかからなかった。まずチベルジュのところへ、次にムッシュウ・ド・T…の家へ行こうと覚悟を決めて、ぼくは歩き出した。
パリ市内に入ると、支払う金もないくせに辻馬車に乗った。これから頼みに行く援助を当てにしていたのだ。まずリュクサンブールまでやってもらい、ここから彼を待っているという手紙を届けてもらった。
彼はとるものもとりあえずやってきたので、待ちかねていたぼくも嬉しかった。単刀直入に、いまの窮状を彼に話した。彼は、いつかぼくが彼に返した百ピストールで足りるかと訊ね、面倒なことは一切言わずにすぐに金を取りに行ってくれた。それはすっかり心を許した態度であり、友情と真の愛情によらなければとうてい理解できないくらいの、人にものを施すときのあの楽しさに溢れた様子だった。
ぼくの頼みが、しごく簡単に聞き届けられるだろうと、はじめから疑ってはいなかったけれども、こんなにすなおに、相変わらず悪の道から足を洗っていないことについて、文句のひとつも言われずに頼みが聞き届けられたので、ぼくはびっくりしてしまった。けれども、ぜんぜん非難を浴びずにすむ、などと思ったのは間違いだった。というのは、ぼくのためにお金を勘定し終わり、そろそろ彼と別れようと思ったときに、どうだい、いっしょに公園をひと回りしてくれないか、と彼が言いだしたからだ。
彼にはマノンの話をしていなかった。彼女が自由の身になったことは、彼は知らなかった。だから彼のお説教は、もっぱらサン・ラザールからの無鉄砲な脱走と、前にさんざん聞かされたあの賢明なご講義をそのとおり実行するかわりに、相変わらず≪じだらく≫な生活を続けているんじゃあないか、という心配にばかり向けられた。
彼がぼくに話したのはこんなことだった。ぼくが脱獄した翌日、面会しようと思って、サン・ラザールへ行って、ぼくがどんな方法でそこを脱走したかを聞いたときには、何と言っていいか、言葉では表わせないほどびっくりした。その問題について、院長と話し合ってみたが、あの善良な神父はまだ恐怖から立ち直っていなかった。それでも院長は寛大な態度で、ぼくが脱走したときの情況を警視総監のほうへはうまくとりつくろっておいてくれ、例の門番が死んだことは外に洩れないように禁じておいた。だからそちらの問題ではべつになにもビクビクすることはないけれども、ぼくに一片の思慮分別が残っていたら、神がぼくの事件のためにお膳立てしていてくれた、この願ってもないなりゆきを利用してしかるべきではないか。それにはまず手始めに父に手紙を書いて、父と仲直りしなければいけない。そして、もう一度父の意見に従うつもりがあったら、彼の意見としては、パリを出て、家族の≪ふところ≫へ帰ったほうがいい、と。
ぼくは最後までこのご高説を拝聴した。話の中には満足すべき点も多々あった。第一に、サン・ラザールの問題ではもうなにも心配しなくていい、というのは嬉しかった。パリの街々は、ぼくにとってはふたたび自由の天地になったのだ。第二番目には、チベルジュがマノンが自由の身になり、彼女とぼくが元の鞘《さや》におさまったこともぜんぜん知らないのを喜んだ。彼がぼくに意見するにも、彼女に触れるのを避けようとさえしているのがぼくにはわかった。その問題はそっとしておいたから、もう彼女なんかあまりぼくの心にかかっていない、と思ったにちがいない。
家へ帰るということは別として、少なくとも彼の忠告通りに父に手紙を書き、ぼくが父の命令や意志のままに従順になろうという誠意を持っているということを、父に示そうと心を決めた。ぼくの希望といえば、アカデミーで勉強をするからという口実をつくって、こちらへお金を送るように父に約束してもらうことだった。というのは、いくら元の僧職にかえりたいという気持ちだといったところで、とうてい父には信じてもらえまいと見てとったからである。それにほんとうのところは、父に約束しようとしたこととぼくの気持ちはそう懸隔《けんかく》があったわけではない。反対に、この計画がぼくの愛情とうまく≪つじつま≫が合いさえすれば、なにかりっぱな筋の通ったことに打ち込むことは、ぼくにとっては願ってもないしあわせだったのだ。恋人と同棲を続け、かたわら勉強をするつもりだった。これは実にみごとに両立するではないか。
こうした思いにすっかり気を良くしていたので、その日のうちにも父親に当てて手紙を出そうとチベルジュに約束した。彼と別れるとほんとうに代書屋へ入り、実に優しいすなおな調子で手紙を書いたので、自分の手紙を読み返してみて、これなら父親の心から何かしら得るところがあるにちがいない、と己惚《うぬぼ》れたくらいだった。
チベルジュと別れてから、ぼくのふところ具合なら、辻馬車に乗って金を払うこともできたが、大いに気をよくしたので、意気|軒昂《けんこう》とムッシュウ・ド・T…の家まで歩いていった。ぼくにとっては、こうやって自分の自由を身をもって主張することが嬉しくてしかたがなかった、何といっても、ぼくの友だちがそのことならぜんぜん心配はいらないと言って保証してくれたではないか。
ところがとつぜんぼくの心中に、この保証も実はサン・ラザールだけのことで、そのほかにぼくの身には例のオーピタル事件があるし、そのほかにもレスコーの死亡事件があって、この方では、少なくともぼくは目撃者として関係しているじゃないか、という心配がふたたび湧き上がった。こう思い出してみると激しい恐怖の念にとらえられて、はじめに目についた道にまぎれ込んで、ここから馬車を呼んでもらった。
まっすぐにムッシュウ・ド・T…の家までいってもらったが、行ってみるとこんな恐怖もお笑いぐさだった。彼に、オーピタルの件も、レスコーの件も、まったく恐れるには当たらないと聞かされたときには、ビクビクしていた自分がみっともなく思えたくらいだった。彼のはなしはこうである。
マノンの誘拐事件に関しては、彼自身が疑われていやしないかと思って、朝になってからオーピタルへ出かけた。何が起こったかぜんぜん知らないふりをして、彼女に面会したいと頼んでみた。みんなぼくたち、つまり彼やぼくに罪を着せるどころか、まったく反対に、不可解なニュースとしてせき込んだ調子でこの事件を彼に話してくれた。つまりマノンみたいな可愛いい娘が、看守風情と手に手をとって駆け落ちしようと決心するなんて、恐れ入ったはなしだという。そこで彼は、そんなことはそうふしぎに思うには当たらない、自由を得るためなら、どんなことでもやってのけるものだよ、とそっけなく返辞をするだけでやめておいた、ということだった。
彼はさらにこんな話を続けた。そこを出てから、すばらしい恋人といっしょにいるぼくに会えるのではないかと期待しながら、レスコーの家へ行った。馬車製造業の看板を掲げているこの家の主人は、マノンにもぼくにも会わなかった、けれどもぼくらがそこへ行く手筈《てはず》になっていたのが、もしレスコーに会うためだったとすれば、ぼくらが彼の家へ姿を現わさなかったとしてもなにもそう驚くには当たらない、それというのも、ぼくらはきっとほとんど同時に、殺されたのを知ったにちがいないからだと答えた、ということだった。
この事件について、亭主はレスコーが死んだ原因や事情について知っていることをすすんで説明してくれた。約二時間ばかり前に、レスコーの友だちのひとりの近衛兵が彼に会いにきて、イッチョウいくかと言い出して≪ばくち≫を始めた。レスコーはまたたく間に稼いで、相手は一時間足らずのうちに百エキュほど、つまり有り金残らず≪いかれて≫しまった。一文無しになったこの哀れな相手は、すった金額のせめて半分でもいいから貸してくれないかとレスコーに頼み、それやこれやでなにかイザコザが起こって、相手がひどく興奮して口喧嘩を始めた。外へ出ろ、決闘だ、と言うのにレスコーがごめんこうむると断ったので、相手のほうは、その首をへし折ってやるぞ、と捨てぜりふを残して別れていった。つまりその晩のうちに相手が手を下したわけだ、という。
ムッシュウ・ド・T…は親切に、彼はぼくらの身をとても心配している、これから先も相変わらずご援助しましょう、という言葉をそえた。自分たちの隠れ家の場所を彼に教えようか教えまいか、と迷ったが、彼のほうでぼくたちといっしょに夕食ができたら嬉しいんだがいかがでしょうか、とぼくに申し出た。
あと、ぼくに残っている仕事といえば、マノンの下着や服をととのえることだけだったので、ぼくといっしょに数軒の商人のところへ寄ってもお差しつかえなければ、すぐに出かけてもかまいません、とぼくは言った。ぼくがこんなことを申し出たのは、彼の気前の良さを当てにしていると彼が思ったか、それとも単なる親切心の表われかどうかはわからないが、「いいですとも」と言ってすぐに出かけると、彼は彼の家の出入りの商人のところへ案内してくれた。
彼は、ぼくが買うつもりだったものよりずっと高価な生地を何枚か選ばせ、ぼくが金を払うそぶりをすると、ぼくからは一文も受け取ってはいけないと店の者にきつく禁じた。その洗練された物腰がいかにも水ぎわ立っていたので、ぼくはちっとも恥ずかしい思いもしないで、好意を受け入れることができるような気がした。いっしょに一路シャイヨへ向かったが、出かけた時に比べれば、ほとんど不安もなく家へ着いた。
シュヴァリエ・デ・グリューはこの話をするのに一時間以上も費したので、わたしは彼に、ちょっと休憩して夕食をごいっしょに願いたい、と頼んだ。わたしたちが注意深そうな様子をしていたので、喜んで彼の話に耳を傾けていると彼は察した。彼はわたしたちに向かって、彼の身の上のこのあとのほうがもっとおもしろいと思うだろうと断言し、わたしたちが夕食をすますとすぐにまた話を続けた。
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第二部
ぼくがそばにいたし、それにムッシュウ・ド・T…の態度は丁重をきわめたから、マノンの心にわだかまっていた悲しみの影は跡方もなく消え去った。
「過ぎたことをビクビクするのはやめよう」と、家へ着くや、ぼくは言った。「前よりもいっそうしあわせに暮らそうじゃあないか。いずれにしても恋は良き主人だよ。恋はぼくらに楽しみを味わわせてくれる、運命だって恋が味わわせてくれるほどの苦しみの種になるわけじゃあないからね」
ぼくたちの晩餐《ばんさん》は、実に歓喜にみちた情景だった。マノンと百ピストールをかかえて両手に花のぼくは、ザクザクと金銀財宝を貯めこんだパリ第一の金持ちの両替屋よりも自信にみちて、心ゆたかだった。富というものを計るには、ひとの欲望を満足させる方法でもって計るべきである。ぼくには、満足させたいと思う欲望はひとつだになかった。未来ですらほとんど苦にならなかった。パリで体面を保って生活してゆくだけのものを、父もそうイヤな顔もせずぼくに譲ってくれることは、ほとんどまちがいなかった。というのは、二十才になれば、ぼくにも母の財産の一部を要求する権利ができるからだ。自分の財産が百ピストールしかないことを、マノンに隠さなかった。当然の財産相続権によるにしろ、≪ばくち≫で手に入れるにしろ、ぼくにとって不足なさそうにみえる幸運が転がり込んでくるのを、ただ落ち着いて待っているだけでよかったからである。
こうして最初の数週間は、ただ現在の生活を楽しむことだけしか考えなかった。体面もあったし、また警察に対しても慎重にする必要もあったので、オテル・ド・T…の≪ばくち≫仲間と手を組むのは一日延ばしに延ばしていて、あれほど評判の悪くないいくつかのグループと賭けをすることにきめていたが、運がついていたので、≪やりくり≫に|東 奔 西 走《とうほんせいそう》する屈辱を味わわなくてもすんだ。午後からはパリの町へ出かけて過ごし、しょっちゅうムッシュウ・ド・T…を連れてシャイヨへ夕食に戻ったが、彼とのあいだの友情は日ましに厚くなるばかりだった。マノンのほうでも、適当に退屈しのぎをする種を見つけた。春になったので郊外へ戻ってきた幾人かの若い連中と近所|交際《づきあい》をするようになった。散歩やら、女のちょっとした賭博《いたずら》を、代わる代わるに仕事にしていた。もっとも賭博といっても、賭け金の限度を定めていて、ひと勝負をしては貸馬車の代金に当てていた。
彼女らはブーローニュの森へ散歩に出かけたものだが、夕方になってぼくが家へ帰ると、昔よりいっそう美しく満ち足りた様子で、はるかに情熱的なマノンを見出したものだった。
それでも暗雲がたれこめて、ぼくの幸福の足場を揺るがすような気になることもあった。けれどもそんな暗雲もきれいさっぱりと吹きとばされて、マノンのひょうきんな性質のおかげで、とんだこっけいな幕切れで終わり、彼女の優しさや、気持ちよい機智の思い出に浸ると、今でもなお心がなごむ思いがする。
ぼくらが使っている召使いは、下男が一人いるだけだったが、ある日その下男がぼくをわきへ呼んで、いかにも困りきった様子で、あなたにお知らせしたい重大な秘密の話がございます、と言った。なんでも隠さず話してくれと言って彼を元気づけてやった。
回りくどい話をつけ加えながら彼が語ったところによると、ある外国の貴族が、マドモワゼル・マノンにだいぶ血道をあげているらしい、ということだった。ぼくの血が、体じゅうの血管を駆けめぐるのがわかるような気がした。
「彼女のほうも相手に気があるのか?」
事の真相を知りたくて、つい慎しみを忘れ、ひどくぞんざいな口調で彼の言葉をさえぎった。あんまり短気な様子だったので、彼はすっかり怖気《おじけ》づいてしまった。おずおずした態度でこんな返辞をした。
彼もそれほど深く見きわめたわけではないが、数日前から、この外国人が熱心にブーローニュの森へ通いつめているのに気がついた。そこで馬車を降りると、彼はたったひとりで脇道へ入り、いっしょうけんめいマドモワゼルの姿が見える、またバッタリと出会えるチャンスを狙《ねら》っているような様子だった。そこで、その貴族の下男たちと近づきになって、主人の名前を聞きただしてやろう、という名案がうかんだ。下男たちはその貴族をイタリヤの公爵とか言っていて、彼らも、ご主人さまはどうやら忍ぶ恋路に思いをやつしているらしいなと推測していた。さらに下男は、震えながらこんなことをつけ加えた。結局彼もこれ以上の情報はつかめなかった、というのは例のプリンスが森から出てきてなれなれしい態度で近づき、彼にお前のご主人の名前はと訊ねたからで、相手はどうやら彼がぼくらに使われている身分だと判ったらしく、その後に、世界一の美女に仕えるなんてしあわせな男だなといって彼を祝福してくれた、ということだった。
ぼくはイライラしながら、この話の続きを待っていたが、結局は、彼は臆病そうに弁解するだけだった。つまり、ぼくが不用意にあまり興奮したせいだった。ありのままにもっと話を続けてくれ、と言って彼をうながしたが無駄だった。彼は、それ以上はなにも知らない、それにいま話したことは実はその前日のことで、以後公爵の下男たちとは会っていないので、と主張した。ぼくは、ただうんと讃《ほ》めてやっただけでなく、たっぷり褒美の金をやって彼を安心させ、彼の手前マノンにはこれっぽっちも不信の念など持っていない、という態度で、その外国人の動静をくまなく見張っていてくれと、しごく穏やかな調子で彼に申しつけた。
実のところ、この下男のオドオドした態度は、ぼくの心に激しい疑惑を残した。そんな態度をとって彼が真相の一部を隠す、ということもじゅうぶんあるはずだ。けれども、いろいろ思案したすえ、そんな心配は無用だと心を取り直し、自分の弱味を表面にさらけ出したことを後悔するのだった。ひとに愛されたからといって、マノンに罪を着せることはできなかった。彼女が相手の男を征服しているのを、自分でも知らないことも大いにありそうだった。そう簡単にいちいち心を嫉妬の渦《うず》に任せていたら、これからどうやって生活してゆけばいいんだ?
翌日ぼくはパリへ帰ったが、心には、もしちょっとでも不安の種が湧いたら、いつでもシャイヨを出ることができるように、もっと大きな≪ばくち≫を打って、急いで財産をふやしておこうという計画しかなかった。
夜になってもぼくの安息をかきみだす種はなにも耳にしなかった。例の外国人はふたたびブーローニュの森に姿を現わし、前日起こったことを口実にしてぼくの相談役の下男に近づき、自分の恋を打ち明けたが、その口裏から察したところ、どうやらマノンとはまだ何も示し合わせたことはないらしかった。彼は下男に根ほり葉ほり訊ねた。で、結局相手は、莫大な褒美の金を約束して下男の関心を惹こうとし、用意してあった手紙をポケットから引っぱり出して、女主人にその手紙を渡すお礼にと何枚かのルイ金貨を差し出したが、これは無駄金になったわけである。
二日ばかりは、とりたてて何の事件も起こらずにすんだ。三日目はだいぶ荒れ模様だった。ずいぶんおそくに町から帰ると、ぼくはこんなことを耳にした。
散歩のあいだマノンがしばらく仲間から離れ離れになると、ほとんど間をおかずに彼女のあとを尾行していた例の外国人が、彼女の合図を見て彼女に近寄ると、彼女は相手に一通の手紙を渡し、相手はとび上がらんばかりに喜んでその手紙を受け取った。彼女はすぐに逃げ去ったので、相手はその喜びを表わす暇もなく、仕方なく手紙の字にほれぼれと接吻した。ところがその後一日じゅう、彼女はふだんと違ってはしゃぎ回っていたが、住居へ帰ってもそんな上機嫌な様子が続いていたという話だった。このひと言ひと言を耳にして、おそらくぼくは身を震わせていたのであろう。
「ほんとうのことかい」とぼくは悲しげに下男に言った。「よもやお前の見違いじゃあなかろうね?」
彼は絶対に間違いない、と神かけて誓った。もしマノンが、ぼくが帰ったのを聞き、待ちきれない様子で、帰りがおそいのをなじりながらぼくの前へ姿を現わさなかったら、ぼくは心の憤懣《ふんまん》のやるかたがなかっただろう。彼女は返辞を待たずにぼくに愛撫を浴びせかけ、二人っきりになると、ぼくにこんなに遅く帰るような癖がついてしまったことを激しく非難するのだった。ぼくが黙っているので、彼女は非難を続け、こんなことを言った。三週間も前から、ぼくは一日じゅう彼女といっしょに過ごしたことはなかった。もうこんなに永く留守にしたらとうてい我慢できない。せめてたまに一日ぐらいは、彼女といっしょにいて欲しい。明朝から晩までぼくを自分のそばに置いておきたい、と。
「その通りにするから、安心しておくれ」とぼくは乱暴な調子で答えた。彼女はぼくの苦悩にほとんど注意を払っていないように見える、そしてぼくから見ると、実際ふしぎなほど生き生きとうつる楽しそうな昂奮状態で、その日一日をどんなふうにして面白おかしく過ごしたかをこまごまと話すのだった。
「まったく奇妙な女だ!」とぼくはひとりごとを言った。「これが前奏曲になって、あとは果たしてどんなことが起こるだろうか?」
ぼくの心に、ぼくらの最初の別離の事件が思いうかんだが、彼女の喜びや愛撫の底に、外見と変わりない真実な様子が見えるような気がした。
夕食のあいだ中、悲しい心を抱き、とうていこれを防ぎきれるものではなかったが、しかしこの悲しみを≪ばくち≫で負けた損失のほうへ転嫁してごまかしてしまうのはそうむずかしいことではなかった。ぼくとしては、翌日はシャイヨを出ないでくれという、彼女のほうから言い出した考えが、またとないしあわせに思えた。つまり、ぼくはいろいろじっくり考える時間を稼いだことになるわけだ。ぼくが家にいれば、翌日起こりそうなあらゆる心配の種が少なくなるし、またもしぼくの発見をわざわざ表だって大騒ぎする必要はなにもなくなるとしても、その翌々日には住居をパリの町へ、つまり公爵連中などと袖すり合わす必要のぜんぜんない町内へでも移してしまおう、とすでに心を決めていた。
こうして考えがまとまったので、一晩ずっと落ちついた気分で過ごしたが、それでもまだ、また新しい苦しみにおびやかされるのではないかという悩みを捨てることはできなかった。
朝になって目がさめると、マノンは、今日一日はぼくらの家で過ごしてくれ、それにそのためにはそんなだらしない格好をしていないで欲しい、ぼくの髪を彼女自身で手入れをしたい、などとぼくに告げた。ぼくの髪はとても美しかった。今までにも何度か、ぼくの髪の手入れをするのが彼女の楽しみになっていた。けれども彼女は、今までになかったほど注意深く手入れをした。彼女の言いなりになって、彼女の化粧台の前に坐り、ぼくの髪を飾ろうとして彼女が考え出したあらゆるこまごました思いつきを我慢してやらなければならなかった。
この仕事にかかっているうち、彼女はしばしば彼女のほうへ顔を向かせ、両手をぼくの肩へ置いて、喰いいるようにしげしげとぼくを見つめるのだった。それから、いかにも満足したというしるしに二、三回キスをしてから、またぼくを元通りの姿勢にかえし、そしてふたたび仕事を続けるのだった。
昼食までこんなつまらぬ仕事にかかりっきりだった。こんなことに彼女が趣味を持つのも、ぼくの目にはごく当たり前のように思えたし、彼女のいかにも楽しそうな姿には、とってつけたようなぎこちなさが少しも感じられなかったので、こんなふだんと変わらない外見を見ては、陰険な裏切りの計画と結びつけることはできなかった。だから、何度も自分の気持ちを話してしまって、ぼくの心にのしかかり、重荷になりはじめた疑惑から逃れようと思った。しかしそのたびに、いずれ彼女のほうから打ち明けてくれるだろうと己惚《うぬぼ》れ、前もって甘美な勝利の気分に酔ったものだった。
ぼくらは彼女の居間に戻った。彼女はぼくの髪をきちんと直しはじめ、ぼくのほうもすっかり気を良くして彼女が言うとおりにしていたが、そのとき下男が、…公爵が彼女に会いたいと言っている、と知らせにきた。この名前を聞いて、ぼくはカッとして逆上してしまった。
「何だって?」、と彼女を押しのけながら叫んだ。「だれだ? 何公爵だ?」
彼女はぼくの問いにひと言も返辞をしなかった。
「お通しして」と下男に冷淡な調子で言うと、ぼくのほうを向き直り、「ねえあなた、大好きなあなた」と心をとろかすような調子で言った。「しばらくおとなしくしてくださらない、しばらくでいいの、ほんのちょっとの間なのよ。その後にはあたし、今までの千倍もあなたを愛するようになるわ。そうしてくだされば、生涯恩に着ますわ」
激怒と驚愕《きょうがく》のあまり、ぼくの舌は引きつってしまった。彼女はしきりにこの願いを繰り返し、ぼくはつれなくそんな願いをはねつけてやろうと言葉を探した。 ところが、次の間のドアが開く音が聞こえると、彼女は肩に波打っていたぼくの髪の毛を片手でつかみ、もう一方の手には自分の化粧鏡を持って、こんな姿勢のまま居間のドアのところまで力いっぱいぼくを引きずっていった。そこで膝でドアを開けると、物音を聞いて部屋のまん中に立ち止まっていたらしい外国人に、この光景を見せつけた。この光景を見て、彼は少なからず驚いたにちがいない。実にりっぱな身なりをした男が見えたが、顔はなんとも不器量だった。こんなシーンを見て、いかにも迷惑そうだったが、深々と頭を下げて挨拶するのは忘れなかった。マノンは彼に口を開くすきを与えなかった。彼のほうへ自分の鏡をつきつけて、こう言った。
「おわかりになって、ムッシュウ。つらつらごらんになって、あたくしが申すことも認めていただきたいものですわ。あなたはあたくしの愛が欲しいとおっしゃいました。これがあたくしが愛する方ですの、あたくしが生涯愛を誓った方ですの。あなたとよおくお比べになってください。あたくしの愛情を得ようと、この方と争おうとお思いになるんなら、なにを根拠にそんなことをおっしゃるか教えていただきたいものですわ。だってはっきり申し上げますけれど、あなたのとても謙虚な下女の目から見れば、イタリアの公爵全部を集めても、あたくしがにぎっているこの髪の毛ひと筋《すじ》にも及びもつかないからですの」
どうやら前々から考えておいたらしい、このばかげたお談議のあいだ、ぼくは一生懸命身を振りほどこうとしたが無駄だった。そしてりっぱな地位のある相手の男に憐れをもよおして、せめてぼくが≪いんぎん≫な礼を尽くして、この小さな恥辱をそそいでやろうという気になった。ところが相手はすぐに気を取り直してこんな返辞をしたが、この返辞は少しばかり品を欠いているように思えたので、ぼくのほうでもそんな心づかいをする気をなくしてしまった。
「マドモワゼル、マドモワゼル」と彼は作り笑いをうかべながら言った。「ほんとうにわたしも目が開きましたよ、お見受けしたところ、あなたは思ったほどウブなお方ではないようですな」
彼は彼女には目もくれずにすぐに引き返したが、ごく低い声で、フランスの女も、べつにイタリア女より上等というわけでもないな、とつけ加えた。ぼくはこの機会に、彼の心にもっとりっぱな女性観を植えつけてやろうという気にはぜんぜんならなかった。
マノンはぼくの髪の毛を離して、肱掛椅子に体を投げ出し、部屋いっぱいに、こだまするような永い笑い声をあげた。ぼくとしては、ただ愛情にのみ帰しうる犠牲に心の奥底まで感動した、というその時の気持ちをいつわるつもりはないだろう。ところが、この冗談もぼくにはちょっと度が過ぎるような気がした。そのことでぼくはマノンを非難した。
彼女が語ったところでは、ぼくのライバルは、いく日かのあいだブーローニュの森でしつっこく彼女の尻を追い回した。彼女はしかめっ面を見せて自分の気持ちをわかってもらおうとしたが、彼のほうはとうとう人前もかまわず彼女に思いのたけを打ち明けようと肚《はら》をきめた。そこで、一通の手紙に自分の名前と、いろいろな肩書きをすべて書きつらね、いつも仲間と連れ立っているとき、彼女の馬車を走らせてくれる御者に頼んでその手紙を彼女の手に渡した。この手紙で、アルプスの山々を越えたら、輝かしい財産と永遠の讃美を捧げましょう、と彼女に約束していた。
彼女は、この事件をぼくに打ち明けるつもりでシャイヨへ帰ったけれども、これでぼくらのお楽しみの種がひとつできたと思うと、この考えにどうしても逆らいきれなかった。そこでいかにも気を惹くような手紙を書き、イタリアの公爵に、どうぞご自由に家まで会いにお出掛けくださいと申し出た。彼女とすれば、ぼくにはこれっぽっちも疑いを起こさせないで、自分のプランにぼくまで引っぱり込んだのが第二の楽しみになったのだ、という。ぼくは、すでにべつの方法で情報を仕入れていたということは、彼女にはひと言も言わなかった。そして恋の勝利に酔いしれて、すべてを大目に見てしまった。
ぼくは、もっとも酷《きび》しい罰を加えて打ちのめすために、神はいつもぼくのしあわせがいちばん確固不動なものになったように見えた時をお選びになっていた、ということに気づいた。ムッシュウ・ド・T…の友情とマノンの愛情によって、この上ない幸福感を味わっていたから、なにか新しい不幸がふりかかるのを心配しなればならない、などとはとうてい理解できなかったにちがいない。ところが、また実に致命的な不幸が準備されていて、結局はパッシイであなたがごらんになったような姿にまで身を落とし、徐々に、嘘いつわりのないぼくの話まで、ほとんど信じられぬような痛ましいどん底生活まで落ちてしまった。
ある日、ぼくたちがムッシュウ・ド・T…といっしょに夕食をしていると、宿の玄関に停まる四輪馬車の音が聞こえた。ぼくらは、こんな時間に、いったいだれがやってきたのか知りたい、という好奇心にとらわれた。下男が言うには、G…M…の若旦那、つまりぼくをサン・ラザールへ、マノンをオーピタルへ送り込んだぼくらのいちばん残酷な敵、あのおいぼれ放蕩者の息子だという。彼の名前を聞いて、ぼくの顔はまっ赤になった。
「神があいつをぼくのところへお導きになったんだ」とぼくはムッシュウ・ド・T…に言った。「卑怯な父親の代わりにあいつに罰を加えてやれ、といってね。あいつはとても逃げられないぞ、ぼくの剣にものを言わせてやるから」
ムッシュウ・ド・T…はこの男の知り合いで、親友と呼んでもいいくらいだったから、一生懸命に彼に対するぼくの気持ちを変えさせようとした。彼は、あの男はなかなか愛すべき青年ですよ、とうてい父親の行動に手を貸すことのできるような男ではありませんよ、ですから、ひと目でも彼に会ったら、彼がりっぱな男だと認めないではいられませんし、また彼にもりっぱなひとだ、と認めてほしいと思わないではいられないくらいですよ、と言って保証した。
彼のいいところをさんざん並べたてたあげくに、ムッシュウ・ド・T…は、とにかく彼にこちらへ来てぼくらと同席し、夕食の後半をくつろいで過ごすように申し出るのを同意してくれ、とぼくに頼むのだった。ムッシュウ・ド・T…は、ぼくたちの敵の息子に住居を知られるのは、マノンを危険にさらすことになるというぼくの抗議を見越したように、彼がぼくらと知り合いになってくれれば、ぼくらにはこれ以上強力な後ろ楯《だて》はないだろう、と自分の名誉にかけて誓った。
これほどムッシュウ・ド・T…が保証してくれたので、これ以上ぼくももう何も難癖《なんくせ》をつけられなかった。ムッシュウ・ド・T…はしばらく時間をかけて、ぼくらがだれであるかを相手によく話して聞かせたのちに、ようやく彼を案内してきた。彼は、なるほどぼくらにいかにも好感をもたせるような様子で入ってきた。彼はぼくを抱擁し、ぼくらは坐った。彼はマノンを、ぼくを、ぼくらが持っているものをすべて讃めたたえ、夕食に敬意を表するようにモリモリと食べた。
テーブルが片づけられると、話はいっそう深刻なものになった。彼は目を伏せて、父親がぼくらにしたことはいかにも度が過ぎていると言い、この上なく素直な調子で弁解した。
「そのはなしは切り上げましょう」と彼は言った。「思い出を新たにするのはごめんですよ、なにしろ、わたしにとっては恥ずかしくってたまりませんからね」
はじめから彼の弁解は神妙な様子だったが、後になると彼はいっそう深刻の度を加えて弁解をはじめた。というのは、この会話を始めて三十分もたたないうちに、マノンの魅力が彼の心に及ぼした影響をぼくは読みとったからである。彼の眼差《まなざし》や物腰はだんだんと柔和になった。それでも、彼は話のうちにそれと気づかれるような不注意なことをしなかったが、ぼくはもうじゅうぶん愛の経験をつんでいたので、べつに嫉妬心にあおられなくても、これがもとになってどんなことが起こるか、はっきりわかった。夜のいっときぼくらの相手をして過ごし、ぼくらと近づきになって嬉しい、ときどき再訪してなにかお世話させていただきたいと許しを乞うてから、ようやくいとまを告げた。朝になってムッシュウ・ド・T…といっしょに出かけたが、ムッシュウ・ド・T…もいっしょに彼の馬車に乗って帰った。
今も言ったように、ぼくは嫉妬などは少しも感じなかった。ぼくは、マノンの気持ちについては、以前よりもずっと信じ易くなっていた。この魅力あふれる女性は、ぼくの魂にとっては絶対的な≪あるじ≫であったから、尊敬や愛とは違った感情はどんな小さなものでも許せなかったのだ。青年G…M…の気に入ったからといって、彼女をとがめるどころか、彼女の魅力がこれほどの効果を与えたことを喜び、だれでも一目見て可愛らしいと思うような≪おとめ≫に愛されている自分に、すっかり己惚《うぬぼ》れたものだった。自分の推測を彼女に話すのが、当を得たものかどうかぼくにはわからなかった。
数日間は服の整理に気をつかったり、だれにも見とがめられずにコメディー・フランセーズへ出掛けることができるかどうかなどの思案を当面の仕事として日を過ごした。ムッシュウ・ド・T…が、その週が終わらぬうちに再びぼくらに会いにきた。コメディ・フランセーズへ行ってもいいかどうかを彼に相談した。マノンを喜ばすためにも、当然「ウイ」と言わなければならない、ということが彼はよくわかっていた。ぼくたちは、その晩すぐにも出かけてみようと決心した。
ところがこの決心は実行に移せなかった、というのは、来るとすぐにぼくを別室に呼んで、彼がこんなことを言ったからである。
「この前あなたにお会いしてから、ぼくはまったく苦しい立場に立っているんですよ。今日あなたをお訪ねしたのも実はそのためなんです。G…M…がね、あなたの恋人を愛しているんです。ぼくにそのことを打ち明けたんですよ。ぼくと彼とは心を許した親友ですから、どんなことでも彼の面倒を見てやりたいという気持ちなんですがね。しかし、あなたにしたってそれに劣らぬ親友ですしね。ぼくに言わせれば、彼の気持ちは正しいものではないと思いますし、ですから、そんな気持ちを持ってはいけないといって非難してやったんですよ。同じとり入るにしても、彼の計画がごく当たり前のやり方でやってみようというだけのことなら、ぼくだって何も彼の秘密は守ってやったと思うんですがね、ところが、彼はマノンの気性を心得ているんですよ。どこから聞き込んできたのかは知りませんが、あの女《ひと》が贅沢と享楽には目がない、ということを聞いてきたんですよ、それに彼はもう相当な財産を握っていますから、まず手始めにうんとみごとなプレゼントをして、一万リーヴルの年金を差し出してあの女《ひと》の気持ちを小当たりに当たってみようなんて公言する始末なんです、ほかのことだって同じですが、こんなことで彼を裏切るなんて、ぼくとしては主義にそむくことでしょうけれど、あなたのためには正義と友情が一致した、というわけですよ。彼の情熱を、こんなふうに不注意にあおりたてた元兇《げんきょう》もぼくですし、彼をここへ案内したのもぼくなんですから、自分のために起こったこうした不幸の結果を、事前にお知らせするのは当然な話ですものね」
ぼくは、こんな大任を引き受けてくれたことをムッシュウ・ド・T…に感謝し、すっかり彼を信用して、なるほどマノンの性格はG…M…が考えている通りだ、つまり、彼女は貧乏という名前を聞くだけでも我慢ができないのだと打ち明けた。
「でも、問題が財産の多いか少ないかということだけでしたら」、とぼくは言った。「彼女《あれ》だって、ほかに男が現われたからといって、ぼくを見捨てることができるとは思いませんね。ぼくは今、彼女に何ひとつ不自由ない生活をさせていますし、財産は日に日に増えているつもりですからね」
さらにぼくはこうつけ加えた。「ただぼくが惧《おそ》れていることがひとつだけあるんですよ、というのはG…M…がですね、ぼくらの住居を知っているのをいいことにして、ぼくらに何か悪事でも企《たくら》みゃあしないか、ということなんです」
ムッシュウ・ド・T…は、そのことならなにも心配するに及ばない、G…M…はなるほど恋のために心が狂うようなことはあるかもしれないが、卑劣なことをするような男ではない、それにもしG…M…がひとつでも卑劣なことでもしたら、いま話をしている彼が第一番にG…M…を罰してやるし、G…M…にそんなことをするチャンスを作ったのはほかならぬ自分なんだから、自分が先に立ってその悪事の尻拭いをしてやる、とキッパリと言いきった。
「そのお気持ちはほんとうにありがたいんですが」とぼくは言葉をついだ。「悪事というやつは一度手をつけちまったら、前後策を講じても、はなはだ≪アヤフヤ≫なものですからね。ですから今とるべきもっとも賢明な決心といえば、まず相手の先手を打ってシャイヨを出て、ほかの住居へ引っ越すことでしょうね」
「なるほどその通りですよ」とムッシュウ・ド・T…が言った。「でもねえ、急場しのぎにはとうてい無理でしょうな、だってねえ、G…M…は今日の正午にはこちらへ伺うはずですよ。昨日ぼくにそう言っていたんですが、こんなに朝早くお邪魔して、ぼくの考えをお伝えしたのもそのためなんですよ。こんなことを言っているうちにも、もう来るかもれませんよ」
ことがこんなに差し迫っているので、ぼくとしてもこの問題を、まじめな目で見つめなければならなかった。G…M…の訪問を避け、そしてまたG…M…がマノンに向かってその気持ちを打ち明けるのを邪魔するのはとうてい不可能なように思われたので、いっそぼくの口から、この新しいライヴァルがどんな下心を持っているか、彼女に前もって知らせておこうと心を決めた。相手が申し出ようとしている提案をぼくが心得ていることを知り、またぼくの目の前でそんな提案を受けるからには、彼女にしたってその申し出をふり捨てるぐらいの力はあるだろう、と思っていた。
この考えをムッシュウ・ド・T…に打ち明けると、彼はそれはちょっと微妙すぎる問題だ、と答えた。
「たしかにそう思うんですがね」、とぼくは言った。「ぼくにしたって、ひとりの恋人の心をしっかりとにぎっているだけの理由があるんですよ、こうした理由を考えれば、ぼくだって自分の恋人の愛情を当てにしますよ。彼女を眩惑《げんわく》できるものといえば、ただその贈り物がすばらしくりっぱだということだけなんです、それに前にもあなたに話したでしょう、彼女は、利害にはほんとうに≪うとい≫んですよ。たしかに気侭《きまま》な生活が好きですけれどね、でも一方ぼくを愛してもいるんですよ、それに当面の問題では、まさかぼくを捨てて、彼女をオーピタルにぶち込んだ男の息子を選ぶとは、とうてい信じられないんですがね」
一口で言えば、ぼくは自分のもくろみを押し通すことを主張し、マノンといっしょに別間へ引っこんで、いま耳にしたばかりのことをすべて洗いざらい話して聞かせた。
彼女は、ぼくが彼女に好意的な意見を持っていたことを感謝し、もう二度と彼にそんな気を起こさせないようなやり方で、相手の申し出を受けてやろうと約束した。
「いや、それは困るんだ」とぼくは言った。「あんまりすげない態度をして、相手を怒らせてもいけないんだよ。そんなことをしたらあいつはぼくらを破滅させちまうからね」
「でも君ときたら、いたずらっ子だから」とぼくは笑いながらつけ加えた。「気分の悪い恋人だの、目ざわりな恋人を厄介ばらいする方法ぐらい、じゅうぶん知っているよね」
しばらく物思いにふけってから、彼女がまたこんなことを言い出した。
「すばらしいプランを思いついたわ」と彼女は大声をあげた。「あたしって、ほんとにすばらしい発明の才能があるのね。G…M…っていえば、あたしたちのいちばん癪《しゃく》にさわる敵の息子でしょう。≪おやじ≫の仇《あだ》をとらなければいけないわ、それも息子を相手にするんじゃなくて、財布で仇をとるのよ。≪あいつ≫の言うことをきいてやってね、いただくものはいただくの、その上でうんと笑ってやろうっていう作戦よ」
「その筋書きはなかなかみごとだよ」とぼくは言った。「でもねえ君、そう思わないかな、そんなことをしたらそれこそぼくらをまっすぐにオーピタルへ送り込む道になっちまうぜ」
こんな計画が危険だと、口をすっぱくして説いても無駄だった。問題は手ぎわよくやることだけだと言い、ぼくがいくら反対しても、みんなどうのこうのと答えてしまうのだった。熱愛する恋人がどんな気紛れを起こそうとも、ただ盲目的に従っていかない恋人がいたら見せていただきたいものだ。ぼくにしたところで、こんなにたわいなく相手の言うままになった非は自分にあることは、認めなければならないだろう。G…M…のやつを欺《だま》してやろう、ということではなしは決まった、そしてぼくの運命の奇妙なめぐり合わせのおかげで、逆にこちらが相手に欺される、という結果になったのである。
十一時頃になって、彼の四輪馬車が現われるのが見えた。彼は、ぼくらといっしょに昼食をとりにきた失礼を、すこぶるキザな態度であやまった。彼もまた家へ来ることを、前の日に約束してあったくらいだから、ムッシュウ・ド・T…を見てもべつに驚かなかったが、ムッシュウ・ド・T…のほうはいろいろ用事があったので、同じ馬車で来れなかったふりをした。ぼくたちのうちには、心中裏切りの心を抱いていないものは、ただひとりとしてなかったわけだが、一同はいかにも信頼しきった、そして友情にあふれた態度でテーブルについた。
G…M…はいとも簡単に、マノンに向かって思いのたけを打ち明けるチャンスをつかんだ。ぼくは、べつに彼にとって邪魔者に思われるはずはなかった。というのは、わざと数分間席を外してやったからである。帰ってみると、彼が手きびしくはねつけられてしょげかえっている様子がないのに気づいた。彼はこれ以上ないくらい上々の機嫌だった。ぼくもまた上機嫌のふりをした。心の中では、彼は彼でぼくの単純さを笑い、ぼくはぼくで彼のことを笑っていた。ぼくたちは、午後いっぱい、お互いにすこぶる気持ちのよいシーンを展開したものだった。
彼がいとまを告げる前に、もう一度ぼくは、彼がマノンと膝つき合わせて話し合える時間をお膳立てしてやった。いわば、ご馳走にも満足したように、ぼくの親切にも喜ぶようにしむけたわけである。
彼がムッシュウ・ド・T…といっしょに馬車に乗り込むやいなや、マノンは両手を拡げてぼくのほうへ駆け寄り、笑いくずれながらぼくを抱きしめた。彼女はひとことも言葉をたがえずに、彼の口説《くど》き文句や申し出を繰り返した。これを要約すれば、こんな話である。
彼は彼女を熱愛している。彼は、いますでに自分が手に握っている四万リーヴルの年金を彼女と半分ずつ分けたいと思っている、これは父親の死後彼のふところに入ってくるはずのものは勘定に入れないでの話である。彼女はいずれ、彼の心と彼の財産の女主人となるはずだが、彼の親切の保証として、四輪馬車一台、家具つきの邸宅、小間使いの女中一人、三人の召使い、それに料理人一人を彼女に贈るつもりでいま準備している。
「なるほどねえ」、とぼくはマノンに言った。「親父とちがってずいぶん金離れのいい息子じゃあないか」
さらにぼくはこうつけ加えた。「正直に話そうじゃあないか。どうだい、そんな贈り物を申し出されて、君はぜんぜん気を惹《ひ》かれなかったかい?」
「あたしが?」と彼女は答えたが、その言葉はラシーヌ〔コルネイユ、モリエールと並ぶ古典派の三大劇作家〕の二行の詩句を、自分の考えに合わせて言い替えたものである。
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げにわれを! ふたごころありと疑いたもうや?
げにわれが! いぶせき顔に耐えうると、
思いたもうや?
かの顔こそ、明け暮れに、
わが目にオーピタルを思い起こさしむ。
[#ここで字下げ終わり]
「そうじゃないよ」と今度はぼくが替え詩《うた》であとを続けた。
マダムよ、げにわれは、オーピタルこそ、愛の神が、
汝《な》が魂に打ち込みし、矢なりとは思いあたわざるに
「だけどね、家具つきの邸宅というのは魅力だぜ、おまけに四輪馬車に三人の召使いまで付録がついているんだからね。いかに愛の神だって、これほど強力な武器は持っていないからね」
彼女は、あたしの心は永遠にあなたのものだわ、あなた以外にだれからも、恋の矢なんて受けません、と言って反対した。「あのひとがあたしにした約束っていうのは」と彼女は言った。「恋の矢というより、むしろ復讐の針と言ったほうがいいのよ」
邸宅や馬車を受けとるつもりかどうか彼女に訊ねてみた。彼女の返辞では、ただあいつのお金を絞ってやりたいばかりに、そんなものも欲しいだけだということだった。片方は要らないと言って、お金だけ手に入れるのはむずかしかった。ぼくらは、ひとまず、彼女あてに書くと約束した相手の手紙を見て、G…M…のプランの全貌がはっきりするまで待とうということに決めた。
その翌日、彼女はほんとうに手紙を受け取った。手紙を持ってきたのはひとりの下男だったが、お仕着せも着ていなかったし、またじつに巧妙に人目につかずに彼女に手紙を渡すチャンスをつかんだ。彼女はその下男に、返辞を書くから待っているように言いつけ、さっそくその手紙をぼくのところへ持ってきた。ぼくらはいっしょに手紙を開いてみた。定石《じょうせき》通りの恋の口説きのほかに、この手紙にはぼくのライヴァルの約束をこまごまと記してあった。金に糸目はつけてはなかった。邸宅を持たせてくれるのといっしょに、彼女のために一万フランを当て、この金額が減ってきたらいつでも目の前に現金が並べられるように補充しよう、と約束をしていた。邸宅の落成の日にしても、そうむやみに先に延びるわけではなかった。設備のために手入れをするのに、二日ばかりあればいいということだった。それに邸宅の名前と街まではっきりと書き、もし彼女がぼくの手を逃れて来れたら、二日目の午後にそこで彼女を待っているから、と約束していた。ただ一点だけ、こんな不安を味わわせないでくれ、と彼女に懇願しているところがあった。それ以外はすべて順調にゆくように彼には思えるが、けれども彼女の予想では、もしぼくの目をかすめるのがとてもむずかしいということなら、簡単に逃げ出せる方法を見つけたから、とつけ加えていた。
G…M…のほうが親父よりもずっと手がこんでいる。金を払う前に獲物を手に入れようというわけだ。ぼくらは、マノンの身の振り方をじっくり考えてみた。ぼくは彼女の頭からこんな計画を追い払おうとして、もう一度努力してみた。実にあらゆる危険にさらされるからと説明してみたが、どうしても彼女の決心をゆるがすことはできなかった。
彼女はG…M…に短い返辞を書いて、指定の日にパリへ出かけるのはそうむずかしくないと思うし、彼女を待っていても大丈夫まちがいないはずだ、と彼を安心させた。次にぼくらは話し合って、その後にすぐにぼくが出掛けてパリの向こう側のどこかの村に新しく住居を借りる、それといっしょに、ぼくらのちょっとした身の回りの荷物を運んでおく、向こうで定めてきた翌日の午後、彼女は朝早くパリへ出かける、G…M…のプレゼントを頂戴してから、彼女が彼にコメディー・フランセーズへ連れていってくれとせがむ、頂いた金額のうちで、持てるだけのものは彼女が身につけて持ち出し、余りは彼女がいっしょに連れてゆくつもりの下男に持たせる、という手筈をととのえた。
この下男というのは、彼女がオーピタルから逃げるときに手を貸してくれたあの同じ下男で、すでに実によくぼくらになついていた。ぼくは辻馬車を傭《やと》って、サン・タンドレ・デ・ザール街にいて、馬車を七時頃までここに停めておき、たそがれの薄闇にまぎれてコメディー・フランセーズの玄関まで行こう、という手筈だった。マノンは何か口実をかまえてちょっと≪さじき席≫を起ち、その間を利用して下へ降り、ぼくと落ち合おうという約束だった。その後はごく容易に実行できる。すぐにぼくの辻馬車に乗り、サン・タントワーヌ郊外を通ってパリを出る、サン・タントワーヌはぼくらの新居への通り道であった。
このプランは、実に無鉄砲きわまるものであったが、ぼくらの目からすれば細工はりゅうりゅう、首尾よくゆきそうに思えた。ところが、事実は途方もなく不用心なところがあった、というのは、この上ない幸運に恵まれて計画が成功すれば、その後に起こるいろいろな問題もうまく隠しおおせる、などと考えていたことである。ところがぼくらは、まったくずぶとい確信を抱いて、危険に身をさらしていたのだ。マノンがマルセルを連れて出掛けた。これは例の下男の名前であった。ぼくは悩ましげに彼女の出発を見送った。彼女を抱擁しながら言った。
「マノン、欺《だま》しゃあしないだろうね。ぼくを捨てやしないだろうね?」
彼女は優しい調子で、ぼくの不信をなじり、もう一度、ありとあらゆる誓いの言葉を浴びせるのだった。
彼女のつもりでは、三時にパリへ着くことになっていた。ぼくは彼女の後から家を出た。その日の午後の残った時間、ぼくはサン・ミッシェル橋のほとりの、カッフェ・ド・フェレで待ちくたびれることになるだろう。夜までここに腰をすえていた。夜になるとカッフェを出て、辻馬車をひろい、計画通りに、サン・タンドレ・デ・ザール街の入り口の辻に馬車を待たせておいた。続いて、コメディー・フランセーズの玄関まで歩いていった。待ち合わせているはずのマルセルの姿がそこに見えないので、びっくりしてしまった。ぼくは召使いたちの群れにまじって、一時間ばかりイライラして、通りすがりのひと一人一人に目をこらしていた。
ついに七時が鳴った。とうとうぼくらの計画に関係ある者をだれひとり見つけることができなかったので、平土間〔一階のいわゆる大衆席〕の切符を買い、マノンとG…M…がさじき席にいるのを見つけられるのではないかと思って見に行った。二人とも見当たらなかった。ふたたび玄関へ引きかえし、不安と焦燥《しょうそう》でジリジリしながら、なお十五分ほど過ごした。とうとうだれの姿も見えなかったので、この先どうしたらよいか、ぜんぜん心も決まらぬままに辻馬車のところへ戻った。
御者はぼくの姿を見かけると、ぼくのほうへ二、三歩歩み寄り、ふしぎそうな様子で、きれいなお嬢さんが一時間ばかり前から、馬車の中でぼくを待っております、御者もよく心得ている合図をして、ぼくに会いたいと言ったので、いずれぼくは戻ってくるはずだからと知らせると、それでは落ちついてぼくを待ちましょうと言ったというのだ。すぐにてっきりマノンにちがいないと思った。近づいてみた。ところがマノンの顔とはちがう、きれいな小じんまりした顔が見えた。知らない少女だったが、彼女はまず、ムッシュウ・ル・シュヴァリエ・デ・グリューとお話ししてもよろしいでしょうか、とぼくに訊ねた。それはぼくの名ですが、と言うと、彼女はこんなことを続けた。
「あたくし、あなたにお渡しする手紙を持参いたしましたの、それをお読みになればあたくしが何でここへ参ったか、どんな関係であなたのお名前を存じ上げているか、お分かりになるでしょう」
どこか近くの酒場で、この手紙を読む時間をいただけないだろうか、と彼女に頼んだ。彼女もぼくといっしょに行きたいと言い、べつにひと部屋おとりになったらいかがでしょう、とすすめた。
「この手紙はどなたからですか?」と部屋へ上がりながらぼくが訊ねると、彼女は、ともかくその手紙をお読みください、とぼくに頼んだ。
ぼくにはマノンの筆跡だ、と分かった。手紙で言ってきたことは、およそ次のようなことである。
G…M…は考えていたよりもはるかに礼儀正しく、また豪勢に彼女を迎えてくれた。彼は彼女を贈り物ぜめにした。彼女はさながら女王の運命にめぐり合わせた思いがした。それでも彼女は、こんな新しい栄誉に包まれてもぼくのことは忘れない、とキッパリと書いていた。けれども、今夜彼女をコメディー・フランセーズに連れていってもらうのをどうしてもG…M…に承諾してもらえなかったので、ぼくと会う楽しみは他日に延期する、けれどもこんな報らせを聞いたら、ぼくの苦しみの種になるのはじゅうぶん予想がつくので、その苦しみを和らげるために、パリ中でもっともきれいな少女のひとりをあなたにとりもつ方法を見つけた、この手紙を届ける女性が、その当人である。……〈サイン〉あなたの貞節な恋人、マノン・レスコー。
この手紙の中には、ぼくにとって、なにか実に残酷で軽蔑的なものがあったので、ぼくの心はしばらくの間、怒りと苦悩のあいだを漂っていたが、とうとうぼくは、あの恩知らずな、誓いを踏みにじった恋人のことなど、未来永劫に忘れるよう努力しよう、という気になった。ぼくの前にいる少女に目をやった。彼女はとても美しかったし、今度はぼくのほうで、愛の誓いなど踏みにじり、不実の限りを尽くせるほどこの少女が美しければいいんだが、と望んでいた。ところがこの少女を見ても、ぼくには、あの繊細な、愁いを含んだ眼差、神々しいほどの容姿、愛の神の手になるあの肌の色、つまり、造花の神があの不実なマノンに惜し気もなく注ぎ込んだ、汲《く》めども尽きぬあの魅力の泉を見出すことはできなかった。
「いやいや、だめですよ」、とぼくは少女に言った。「あなたをここへよこしたあの恩知らずな女はね、あなたがいかに足掻《あが》いたところで、なんの役にもたたない、ということをじゅうぶん承知の上なんですよ。彼女《あれ》のところへお帰りなさい、そしてぼくからの≪ことづけ≫だと言って、こう伝えてください。自分の罪を大いに楽しむがいい、できるならなんの後悔も感じずに罪を楽しむがいいとね。ぼくは永久にあの女とは手を切りますよ、と同時に、女という女はスッパリ諦《あきら》めますよ、女性なんてみんな、あの女ほど可愛いくないくせに、それでいておそらく、同じくらい卑怯で嘘つきなんですからね」
その時、ぼくはもうそれ以上マノンについてぐずぐず言うつもりはなく、下へ降りて出てゆこうとしていたところだった。そしてぼくの心を千々《ちぢ》に砕き、死ぬほど苦しめた嫉妬も、一見、物憂《ものう》くどんよりした落ちつきをとり戻したように見えたので、自分の心も近々に元通りに癒《なお》るのではないかと思った。それほど、今までに同じような苦境に立ったとき、心に渦巻いた激しい感動をまったく感じなかったのである。ところがああ! 自分ではG…M…とマノンに欺されていると思っていたのが、実は同じように、ぼくは愛情そのものの陥穽《かんせい》にはまっていたのだ。
ぼくのところへ手紙を持ってきた少女は、ぼくが段を降りようとしているのを見ると、それではムッシュウ・ド・G…M…や、ごいっしょだったご婦人に、なんと報告したらいいと思っていらっしゃるんですか、とぼくに訊ねた。こう訊《き》かれたのでぼくは引きかえした。そして、激しい情熱を感じたことのない人々には、とうてい信じられぬような気分の変化を見せて、それまで平静だと思っていた気持ちから、とつぜん憤怒の恐ろしい激情に身を任せてしまった。
「行くんだ」、とぼくは少女に言った。「あの裏切り者のG…M…のやつと彼の不貞な情婦に、お前が持ってきた呪われた手紙のおかげで、ぼくは絶望の底に沈んでいると報告するんだ。しかし、やつらだってこのことをそう永く笑ってはいられないぞ、この手で二人とも刺し殺してやると伝えてくれ」
ぼくは椅子の上に身を投げかけた。帽子とステッキが両側へ落ちた。苦い涙がふた筋の流れになって両眼からしたたり始めた。いま感じたばかりの憤怒《ふんぬ》の発作が、今度は深い苦悩に変わった。もうただむせび声をあげ、溜息をつきながら泣くよりほかになすすべもなかった。
「こっちへ来たまえ、君、こっちへ来たまえ」とぼくは少女に大声で話しかけた。「こっちへ来るんだ、だって、君をここへよこしたのは、ぼくを慰めるためだものね。憤怒や絶望に対して、この世に生きる値打ちもないような二人の不実な男女を殺してから、自分でも自殺してしまいたいというやむにやまれぬ気持ちに対して、もし君がなにか慰める術《すべ》を心得ていたら、教えておくれ」
「そうだ、こっちへ来たまえ」と、おずおずした、落ちつきのない足どりで、二、三歩ぼくのほうへ近寄る少女を見ながらぼくは続けた。「こっちへ来て涙を拭ってくれたまえ、ぼくの心に平和をとり戻してくれたまえ、あの不貞な女以外の女性からも愛されることに慣れるように、ぼくを愛すると言ってくれたまえ。君はきれいだ、おそらくぼくの方からも君を愛することができるだろう」
この哀れな少女はせいぜい十六か十七にしかならないようで、こんな社会のほかの女たちよりはずっと純情そうに見えたが、この奇妙な情景を目《ま》のあたりにしてすっかり驚いていた。それでも彼女は、ちょっとぼくを愛撫しようとして近寄ってきたが、ぼくは両手で彼女を押しやって、すばやく身を引いた。
「君はいったいぼくをどうしようというんだ」とぼくは少女に言った。「ああ! 君だって女だ、ぼくが大嫌いな、もうとうてい我慢できない女なんだ。君のその優しそうな顔つきが、またなにか裏切りをしそうで恐ろしいんだ。向こうへ行け、そしてここへぼくを独りにしておいてくれ」
彼女はひと言も言う元気もなく、おじぎをすると、背を向けて出てゆこうとした。ぼくは、待ってくれ、と叫んだ。
「でも、せめてこれだけは教えてくれたまえ」、とぼくは言葉を続けた。「なぜ、どうやって、どんなつもりで君はここへよこされたんだい。どうやって、ぼくの名前や、ぼくがいる場所を知ったんだい?」
彼女の話では、彼女はずいぶん以前からムッシュウ・ド・G…M…とは知り合いだったという。九時に彼のところから呼び出しがかかり、彼女を迎えにきた下男のあとについて、一軒の大邸宅へ行き、ここでひとりのきれいなご婦人を相手にピケの勝負をしている彼に会った。するとご婦人のほうが、サン・タンドレ街のはずれに停まっている馬車の中にぼくがいるからと教えてくれたのちに、彼女がぼくに届けてきた手紙を渡すようにと二人で頼んだのだという。二人はそれ以外なにも彼女に話さなかったかと訊ねてみた。顔を赤らめながらの彼女の返辞では、二人はいかにも気をもたせるような調子で、ぼくが彼女のお相手をしてくれるだろうと言ったということだった。
「あいつらは君を欺《だま》したんだよ」とぼくは言った。「かわいそうに、君は欺されたんだよ。君は女だ、だから君には男が必要だ。でもね、君に必要なのは金をたっぷり持ったしあわせ者なんだ。ここでは、君はそんなしあわせ者にはお目にかかれないよ。戻りたまえ、ムッシュウ・ド・G…M…のところへ戻るんだな。あの男なら美人に愛されるのに必要なものは何から何まで備わっているよ。美女にやろうと思えば、家具つきの邸宅だって、お供の下男たちもいる。ところがぼくには、捧げるものといえば愛情と、いつも変わらぬ誠意だけなのさ、そんなくらいだから、女たちはぼくの貧乏を軽蔑し、ぼくの純情をおもちゃにするんだよ」
心に荒れ狂う情熱が、あるいは退いたり、あるいは優勢になったりするに従って、あるいは悲しげに、あるいは荒々しく、つきぬ繰り言をしゃべり続けた。ところがこうしてさんざん思い悩んだあげくに、興奮はだんだん静まり、いろいろな物思いにふけり始めた。今のこの不幸を、すでに以前に同じような情況の時に味わった不幸と比較してみたが、すると、前の不幸よりずっと絶望的だとは思えなかった。マノンという女の気質はのみ込んでいた。それならどうしてこの不幸をそんなに思い悩むのか、もともとすでに予想できた不幸ではないか? それならどうして懸命にその対策を立てようとしないのか? まだまだ時間はある。自分のなげやりな気持ちから、自分自身の悩みに手を貸したという自責の念にかられるのがいやならば、少なくとも入念な配慮をおこたるべきではあるまい。そこでぼくは、希望に通じる道を開くことができそうな、ありとあらゆる方法を考えはじめた。
腕ずくでG…M…の手からマノンを奪いとろうなどという企みは、わが身の破滅にはまさにもってこいのまったく自暴自棄の決心だし、どうみても一縷《いちる》の成功の望みもなさそうだった。けれども、一分でも彼女と話すチャンスをとらえることができれば、まちがいなく彼女の心から何かをつかみとることができそうに思えた。
彼女の心の感じ易い点ならすみずみまで、じゅうぶん心得ていた! 彼女から愛されていることには絶対確信があった! ぼくを慰めようとして、ぼくのところへ可愛いい少女をよこそうなどという奇妙な思いつきでさえ、彼女が考え出したことであり、ぼくの悩みに同情したあげくだ、ということは賭けてもいいくらいだ。どんな計略を用いても、彼女と会ってやろうと覚悟をきめた。ひとつひとつ入念に考え出したさまざまな方法のうちから、ぼくはこんなのを選んだ。
ムッシュウ・ド・T…は実に思いやりをこめてぼくに援助をしはじめていたから、彼の誠実と熱心さにはこれっぽっちも疑いをはさむ必要はない。この足で彼のところへ行こう、そして重要な用件にかこつけて、G…M…を呼んでもらうように彼に頼んでみようと思った。マノンに話をするには三十分もあればじゅうぶんだ。ぼくのプランは彼女自身の部屋へ入ることであり、G…M…の留守中ならぼくにとってはこれもしごく容易だろう、と思った。
いったんこんな決心がつくと、気持ちがずっと落ちついたので、まだぼくといっしょにいたあの少女に気前よく金を払ってやり、彼女をぼくのところへよこした二人のところへ戻ろうなんていう気を起こさないように彼女の住居を書きとめて、その夜は彼女といっしょに過ごすことになるだろう、と気をもたせておいた。
辻馬車に乗って、大急ぎでムッシュウ・ド・T…の家までやってもらった。彼に会えたのはほんとうに幸運だった。彼の家へ向かう途中、彼に会えるかどうかを心配していたのだ。ひとこと言っただけで、彼はぼくの悩みと、わざわざ彼に頼みにやってきた助力の意味をわかってくれた。G…M…は、まんまとマノンを誘惑できたときくと仰天して、実はこの不幸な事件にぼく自身も一役買っていることを知らないものだから、鷹揚《おうよう》にぼくのために彼の友人を全部集めて、恋人を救い出すために友人たちの腕を借り、剣に物言わせてもらおう、と申し出てくれるほどだった。そんなことをして事を荒立てたら、マノンにとってもぼくにとってもためにならない、といってぼくは彼を説得した。
「ああ、頭を冷やして過激なことはやめようじゃあないか」とぼくは言った。「もっと穏便《おんびん》なやり方を考えているんだよ、それにこの方法なら、成功疑いなしだと思うんだがね」
ぼくが彼に頼んだことなら何といわず、どんなことでもやってみせるから、と彼は約束した。話があるといってG…M…を呼んできてもらうこと、G…M…を二、三時間外へ引き留めておく、問題はそれだけだとさんざん繰り返すと、彼はぼくの望み通りにするために、いっしょに外へ出た。
ぼくらは、どんな対策を講じたら、相手をそんなに永く引き留めておけるか、ということについていろいろ思案した。まずある酒場から、とサインして、相手に簡単な手紙を書いたら、と彼にすすめた。つまりこの手紙で、一刻も猶予できない重大な用件があるので、すぐにもその酒場まで来てほしいとG…M…に頼むのである。
「ぼくはね、あいつが出かけるのを見張ってるわけだよ」とぼくはつけ加えた。「なにしろ顔見知りといえば、マノンとぼくの下男のマルセルしかいないんだから、家の中へ入るんだってなんの苦もないよ。君のほうは、そのあいだG…M…のやつといっしょにいて、あいつに話したい重要な用件というのは金が要り用なんだとあいつに言ってもらいたいんだ。つまりね、賭けごとで、お金をすっちゃった、もっと運の悪いことには口約束だけで大金を賭けた、と言うんだよ。そうすりゃあ、あいつが君を金庫に案内するのに時間がかかるからね、それだけ暇があれば、ぼくのプランを実行に移すにはじゅうぶんだよ」
ムッシュウ・ド・T…はいちいちこの手筈《てはず》どおりに動いてくれた。彼を酒場に残し、ここで彼はさっそく手紙を書いた。ぼくはマノンの家から数歩のところまで行って、ここを見張り場所にした。手紙を持った使いの者が来たそのすぐ後で、下男をひとり連れたG…M…が歩いて出てゆくのが見えた。街から遠ざかってゆく時期を見はからって、ぼくはぼくの不貞な恋人の家の玄関のほうに進んだが、心は怒りで煮えかえっているのに、まるで神殿にたたずんだような敬虔《けいけん》な気持でドアをノックした。
さいわいドアを開けにきたのはマルセルだった。彼に口をきくな、という合図をした。べつにほかの召使いなど怖がるには当たらないのだが、低声《こごえ》で、見とがめられずにマノンのいる部屋へ通れるかどうか訊ねた。静かに大階段を昇れば、そんなことは簡単だ、と彼は言った。
「じゃあ急いで行こう」、とぼくは言った。
「階上《うえ》にいるうちは、だれも階上へ上げないように気をつけてくれ」
なんの邪魔もなく部屋へ忍び込んだ。
マノンは一生懸命本を読んでいた。こんなところを見ると、ぼくがこのふしぎな女の性質に、舌をまかずにはいられないのも当然だろう。ぼくに気がついて怖《こわ》がったり、ビクビクした様子を見せるどころか、彼女は、遠く離れた土地にいると思った人物に会ったときの、抑えきれない驚きを、ちょっと見せただけだった。
「あら! あなたなの」と、彼女は近寄り、ごくさりげなく優しさをこめてぼくを抱擁しようとした。「あらあら! あなたって度胸があるのね! 今日、こんなところであなに会えるなんて、だれが思ったでしょう?」
ぼくは彼女の腕から身を逃れた。彼女の愛撫に答えるどころか、軽蔑をこめた態度で彼女を押しやり、二、三歩うしろへさがって、彼女から離れた。こんな動作を見て、さすがの彼女もあわてずにはいられなかった。しばらくそのままの姿勢でじっとしたまま、顔色を変えてぼくを見つめた。心の底では彼女に会えたのがとても嬉しかったので、ほんとうなら肚を立ててもいい理由がこんなにあるのに、ぼくには、口を開いて彼女をなじる力もほとんどないくらいだった。ところが、ぼくの心は、彼女に与えられたあのむごい侮辱にうずいていた。ありありとあの記憶を喚《よ》び起こし、ぼくの怨《うら》みに拍車をかけ、一生懸命、恋の焔《ほのお》とは違ったべつの焔をぼくの両眼に燃え上がらせてやろうとした。ぼくがしばらく口を閉ざしたままで、心が荒れ狂っているのに気づいたために、彼女が慄えるのが目に入った。もちろん、怖ろしくなって慄えたのだ。
こんな光景に、ぼくはもう我慢できなかった。
「ああ! マノン」、とぼくは優しい調子で言った。「不貞な、誓いを守らないマノン。ぼくの嘆きを、どこからどうやって始めたらいいんだ? ぼくには、蒼ざめて、おののいている君が見える、ところが今でもなお、ぼくの非難の言葉が君をあまり苦しめすぎやしないかと心配になるほど、君のささいな苦しみにも不安を感じてしまうんだ。けれどもマノン、いいかい、ぼくの心は君の裏切りのために、苦悩ではり裂けそうなんだ。自分が死んでやろうという覚悟でもしない限り、とうてい恋人にこんな打撃を与えることはできるもんじゃあない。これでもう三回目だよ、マノン、ぼくはよく覚えているんだ、忘れようとしたって忘れられるものじゃあない。どう決心したらいいか、今こそじっくり考えるべきだよ。だって、ぼくの心はもうこれほど残酷な扱いを受けたら、こんな試練には耐えられないからね。心は力なく萎《な》え、苦痛のために今にもはりさけそうな気持だよ」ぼくは椅子に腰を下ろしながらつけ加えた。「もう耐えられない、しゃべる力も持ちこたえる力もないんだ」
彼女はひと言も答えなかった。けれども、ぼくが腰を下ろすと、跪《ひざまず》いてぼくの膝に頭をあずけ、ぼくの両手で顔を隠すようにした。一瞬、ぼくの両手が涙で濡れるのを感じた。神よ! ぼくの心はなんという感動に洗われたことだろう!
「ああ! マノン、マノン」、と溜息まじりに言葉を続けた。「ひとを死ぬほど悩ませておいて、今になって涙を流してももう手遅れだよ。君は心にもない悲しみをよそおっているんだ。君の不幸のうちいちばん大きなものは、おそらくぼくがいるということだろう、ぼくがいるのでいつも君の楽しみの邪魔をしてきたんだ。目を開けたまえ、ぼくが何者かよく見てくれ。自分が裏切り、惨めにほうり出した不幸な相手にそんな優しい涙を流すものじゃあないよ」
彼女は元のままの姿勢で、ぼくの両手にキスをした。
「浮気なマノン」とふたたび言葉を続けた。「恩知らずで、嘘つきな女め、君の約束や誓いはどこへいったんだ? ほんとうに気の変わり易い、むごい恋人よ、あの愛情を君はいったいどうしたんだ? 今もなお、ぼくの前に誓って見せてくれるだろうあの愛情をどうしたんだ?」
「正義の神よ」とぼくはつけ加えた。「前にはあれほど神聖な証人としてあなたを選びながら、ひとりの不貞な女がこうしてあなたを嘲笑《あざわら》ってもよいものでしょうか? それでは神が嘉《よみ》したもうのは、偽りの誓いなのですか! 絶望し見捨てられることが、変わらぬ誠意に対する酬《むく》いなんですね」
こうした言葉のあとに苦い反省が続き、そのためにわれにもあらず涙の流れるのを禁じえなかった。マノンはぼくの声の調子が変わったのに気づいて、とうとう沈黙を破った。
「たしかにあたしは罰を受けてもいい女ですわ」と彼女は悲しそうにつぶやいた。「だって、あなたをそんなに苦しめ悩ましたんですもの。でも、あたしが自分からそうしたり、そうなりたいと思ったのでしたら、神さま、どうぞあたしを罰してください!」
この言葉はまったく意味もなければ、真心もないように思えたので、激しい怒りを押えることができなかった。
「恐ろしい虚偽《きょぎ》だ!」とぼくは叫んだ。「君がただの嘘つきで、不貞な女でしかないということは、前よりもよくわかっているんだ。今こそ、ぼくには君の憐れな性質がのみ込めたよ」
「さようなら、卑劣な女よ」とぼくは立ち上がりながら続けた。「今後君と少しでも関係をもつくらいなら、千回死んだってそのほうがましだよ。これから先ほんの少しでも君を尊敬の目で見るようなことがあったら、神よ、どうかぼくのほうを罰したまえ! 君の新しい恋人と同棲するがいい、あいつを可愛がってやるがいい、ぼくをうんと嫌ってくれ、名誉も良識も捨てるがいい。ぼくはあざ笑ってやる、ぼくにはもうどうでもいいんだ」
彼女はぼくのこんな興奮した様子がとても恐ろしかったのだろう、ぼくが立ち上がった椅子のそばにそのまま跪《ひざまず》き、息もできぬ有様でおののきながらぼくを見つめていた。ぼくは頭を巡《めぐ》らし、彼女に目を注いだままドアのほうへさらに一、二歩踏み出した。ところが、これほど魅力あふれる姿を前にして、なおかたくなに心を閉じているためには、人間の感情をすべて失くしてしまわなければならなかっただろう。ぼくにはとうていそんな野蛮な力を持つことはできなかったから、とつぜん正反対に意見を変えて、彼女のほうへ向き直った、というより何も考えずにそちらへ体を投げかけたというほうが当たっていた。彼女を両腕に抱きしめ、甘いキスの雨を限りなく浴びせかけた。自分のあんな逆上の許しを乞い、自分が乱暴だった、彼女のような女性に愛される資格はない、などと懺悔《ざんげ》するのだった。彼女を坐らせ、今度はぼくが跪いて、そのままの姿勢でぼくの話を聞いてくれ、と彼女に懇願した。相手に屈伏し、そして情熱に燃えた恋人に考えうる限りの尊敬と愛情をこめて、言葉少なに弁明した。お願いだからぼくを許すと言ってくれ、と頼んだ。
彼女はぼくのうなじのところに両手を置いたまま、ぼくの苦悩はもとはといえば彼女のためなので、その苦悩を忘れてもらうために、彼女のほうこそぼくの優しい気持ちが必要なのだ、と言った。そして彼女の言うには、当然のことながら、自分の身の証しを立てようとして彼女が話さねばならないことに、ぼくが耳をかしてくれないのではないかという心配が生まれはじめたのだ、という。
「ぼくがだって!」と、ぼくはすぐに遮《さえぎ》った。「ああ! 身の証しを立ててくれなんて頼んでいるんじゃあないんだ。君がしたことはなんでも認めるよ。君がどうしてあんなことをしでかしたか、その理由を訊ねる資格なんかぼくにはないんだ。ぼくの可愛いいマノンが、心からぼくを愛してくれればそれでじゅうぶん、ぼくの心は満ち足りるし、しあわせすぎるくらいなんだよ」
「しかしね」と自分の運命のなりゆきについて思いをはせながら、ぼくは続けた。「全能のマノンよ! 君はすでにぼくの屈辱と悔恨のしるしを見て満足したことだろう、ぼくの喜びも苦しみも心のままにできるんだから、ぼくの悲しみを、ぼくの悩みを君に語るのを許してくれないだろうか? 今日ぼくはどうすればいいのか、君は今夜ぼくのライヴァルといっしょに過ごし、ぼくに死の烙印《らくいん》を押すのはこの先ずっとなのかどうか、君の口から教えてもらえないものだろうか?」
彼女はしばらく時間をかけて、返辞の言葉を吟味し、それから落ちつきを取り戻した様子でぼくに言った。
「あたしのシュヴァリエ、もしあなたがはじめからそういうふうにはっきり説明してくだされば、あなただってあんな苦しみを味わわなくてすんだし、あたしもこんな心を痛めるような光景を見ないでもよかったのよ。だって、あなたの苦しみも、もとはといえばみんなご自分の嫉妬からきたものにすぎないんですもの。あたし、いまこの足で世界の果てまでもあなたのお供をして、あなたの苦しみを癒《いや》してあげますわよ。でもね、あたしは、あなたの悩みのもとは、ムッシュウ・ド・G…M…の目の前であたしがあなたあてに書いた手紙と、あたしたちがあなたのところへ行くように頼んだあの女のひとだ、とばっかり考えていたのよ。あたし、こう考えたのよ、あなたはきっとあの手紙を、あなたを笑いものにしているととったにちがいない、それにあの女のひとのことをね、あたしがG…M…を好きになったのであなたを捨てるんだ、という宣言代わりに、あたしが頼んであなたに会いに行かせた、と思えば思えないことはないって。こんなことを考えたので、急にボーッとしちゃったのよ、だってあたしがどれほど潔白だったにしろ、こう考えてみると、見た目にはあたしにはいかにも都合が悪く見えるんですもの。でもねえ」と、彼女は続けた。「あたしが事件の真相をすっかり説明してから、その上であなたに判断していただきたいのよ」
そこで彼女は、G…M…に会って以来のことを、逐一《ちくいち》語ったが、そのG…M…は、いまぼくらがいるこの場所で、彼女を待っていたのである。彼はほんとうに、まるで世界第一のプリンセスでも迎えるように彼女を迎えた。邸《やしき》じゅうをくまなく彼女に見せてくれたが、邸は驚嘆を禁じえないような優雅な趣味で飾られていた。自分の居間で、彼女に一万リーブル払ってくれたし、おまけにいくつかの宝石類まで彼女にプレゼントした。その宝石類の中には、ずっと以前すでに彼女が彼の父親にもらった首飾りや真珠のブラスレットも入っていた。そこから彼女を、今まで見たこともないような客間に案内したが、そこには目のさめるような≪おやつ≫が用意してあった。彼女の世話は、わざわざ彼女のために傭った新しい召使いにさせることにしてあったが、彼は召使いたちに、今後はこの方を女主人としてお仕えするように、と命令してあった。最後に馬車や馬やそのほかのプレゼントを全部彼女に見せ、その後に、夕食になるまでトランプをひと勝負しよう、と言い出した。
「白状しますとね」、と彼女が続けた。「あんまり豪勢なのを見て、胸がときめいてしまったわ。そのときあたしはこんなことを考えたのよ。一万フランと宝石類を持ち出すだけで満足し、いっぺんにこれだけの大変な財産を諦めるなんて大損だわ、それにこの財産もすべて、あなたとあたしのためにお膳立てしてもらったものだし、あたしたち、G…M…のふところを当てにして快適な生活ができるはずだわ、って。そこでコメデイ・フラセーズへ出かけましょう、と誘い出す代わりに、あなたの計画どおりに、あのひとの気持ちを験《ため》してやろう、という気持ちになったのよ。つまり、それというのも、あたしの計画通りに実行するとしたら、どのくらい容易にできるか、ひとつ瀬踏《せぶ》みをしようというわけだったの。
あのひとの性質ときたら、とても御《ぎょ》し易いように見えたわ。あのひと、あたしがあなたのことをどう思っているか、あなたと手を切ってなんとなく後悔しているんじゃあないか、なんて訊ねたわ。あたしこう答えてやったわ、あなたってとても優しいかたで、あたしにはいつも変わらず親切に振舞ってくださったし、当たり前なら、そんなあなたを嫌うなんてあたしにはとうていできないことだって。あのひとも、あなたってとてもりっぱなかたで、ぜひあなたのお友だちになりたいと思っていたんだ、って打ち明けたわ。あのひとはね、あたしの見たところ、あたしの家出についてあなたがどう考えているか、とくにあたしがあのひとのものになったと知ったとき、あなたがどう考えるか、っていうことを知りたがっていたわ。
そこであたしこんな返辞をしてやったの。あたしたちの恋愛ももうずいぶん≪とう≫が立っているから、少々下火になりかかっているし、あなたにしても、もちろんそりゃそう気持ちがいいというわけにはゆかないでしょうけれど、おそらくあたしを失っても、それほど大した不幸とも思わないのじゃあないかしら、だって、あなただって、あなたの腕にはちょっと重荷になっていたお荷物を、厄介払いできるわけですもの、って。それにあたし、あなたってかたは、何をするにも穏やかなことが好きな≪たち≫だということぐらいすっかり知りつくしているから、あたしが、ちょっと用事があってパリまで出掛ける、と言ったところで≪とやこう≫おっしゃるわけではなし、それを承知なさったばかりか、ご自分で進んで賛成されたくらいだから、あたしがあなたとお別れした時でも、心配そうな様子はちっともなさらなかった、とつけ加えておいたのよ。あのひとね、『もし彼のほうでぼくとうまくやってゆく気があれば、ぼくだって真先に彼に敬意を表わし、なにか彼の面倒を見てやるんだがね』、なんてあたしに言うのよ。
あたしはこう言って、あのひとを安心させてやったわ、あたしはあなたってかたをよく知っているけれど、あなたの性格からすれば、あのひとの好意にりっぱに酬《むく》いてくれることは絶対にまちがいないって、それにあなたの家族と折り合いが悪くなってからとてもこじれてきたいろんな問題で、あのひとがあなたの面倒を見れば、とくに好意を持つだろう、って言ってやったの。あのひとあたしの言葉を遮《さえぎ》って、自分にできることなら、どんなことでも援助しよう、それにもしほかの恋愛に乗り換える気がありさえすれば、あのひとがあたしといっしょになるために手を切った、きれいな恋人をひとり、あなたに世話をしてやろうなんて言い張るのよ」
マノンはさらにつけ加えた。
「あたし、その思いつきはすばらしいわ、って褒《ほ》めてやったのよ。あのひとが抱いている疑いを完全に一掃して、先手をとってやろうと思ったわけなの。それに、だんだんあたしのプランに確信がついてきたので、望みといえばなんとかしてこのことを、あなたに知らせる方法を見つけたい、とそればっかり。だってあたし、待ち合わせの場所で、あなたがあたしに会えなかったら、とても驚きゃあしないか心配だったんですもの。あなたあてに手紙を書くチャンスをつかもうと思って、今夜のうちにもその新しい恋人にあなたのところへ行ってもらおう、とあのひとに言い出したのも、こんなつもりだったからなの。なんとかして、ちょっとでもいいからあのひとの目を盗んで自由になりたい、とそればかり望んでいたので、こんな計略に頼らなければならなかった、っていうわけなのよ。
この申し出を聞いて、あのひと笑ったわ。下男を呼んで、前の恋人をすぐ見つけられるかどうか訊ねて、あっちこっちへその女のひとを探しにやったわ。あのひとったら、その女のひとをあなたに会いに行かせるのは、シャイヨのはずだと思っていたので、あなたと別れときに、コメディ・フランセーズであなたと落ち合う約束をしておいた、それに、もしあたしにそこへ行けないような事情ができたら、サン・タンドレ街のはずれに馬車を停めて、その中であたしを待つという約束だった、とあたしは言ったの。だから、ひと晩中あなたをそこで寒さに震えさせないように、と考えただけでも、あなたの新しい恋人に、そこへ行ってもらったほうがいい、と言ってやったの。
この恋人交換のことを知らせるためにも、なにかひとことあなたに手紙を書いておいたほういい、そうでもしなければ、あなたにしたって、きっと理解に苦しむんじゃあないかしら、とも言っておいたわ。あのひと、それもそうだと言って承諾はしたけれど、あたしはあのひとの目の前で手紙を書かなければならなかったでしょ、だから手紙の中にあんまり立ち入った説明をしないように気をつけたのよ」
「さあ、これでどんな事情だったかおわかりでしょ」とマノンがつけ加えた。「あたしがどうしたかっていうことも、どんなつもりだったかっていうことも、ぜんぜんごまかしたりしていないわ。例の娘さんがやってきたわ、あたしの見たところ、とってもきれいな女の子だったし、それにあたしがいなくて、きっとあなたも淋しがってるにちがいないと思ったので、この女の子が、しばらくの間でも、あなたの淋しさをまぎらわしてくれれば、とあたし≪しん≫からそう思っていたのよ。だって、誠実といっても、あたしがあなたに望んでいるのは、心の貞操なんですもの。もちろん、あなたのところへマルセルを使いにやることができれば嬉しかったんだけれど、あなたに知らせたいと思っていることを、マルセルに納得させるだけの暇をどうしてもつくることができなかったのよ」
彼女はやっとこの物語を話しおえたが、なお、G…M…がムッシュウ・ド・T…の手紙を受けとったときの、迷惑そうな様子をぼくに語った。
「あのひとね」と彼女が言った。「あたしを置いて行かなければいけないかどうか、決心がつきかねていたけれど、帰りはぜったい遅くならないからって、あたしを安心させて出かけたわ。そんなわけですもの、ここであなたとお会いしていても心配が絶えないし、あなたがいらしった時、あたしがびっくりして見せたのもそのためなのよ」
ぼくは我慢に我慢を重ねてこの話を聞いていた。ぼくはこの話の中に、たしかに、ぼくにとっては残忍きわまる、屈辱的なたくさんの表現を見出した、というのは彼女が不貞なことをしようというつもりだったことは、それを何とかとり繕《つくろ》う必要すらないくらい明々白々《めいめいはくはく》だったからである。彼女にしても、G…M…が彼女を神殿の巫女《みこ》みたいに、ひと晩じゅう手もつけずに放っておくことなどは望まなかったはずだ。とすれば、彼女がその夜ひと晩いっしょに過ごしたかった相手はあいつということになる。恋人にとって、これはなんという告白だろう!
ところが、よく考えてみると、彼女の過失の責任の一端はぼくにあった。最初にG…M…が彼女に対して抱いていた感情を彼女に知らせたのもぼくだし、彼女の冒険の向こう見ずなプランに目をつぶって飛び込み、悦に入っていたのもぼくだったのだ。その上、これはぼく特有の天性によるものだろうが、彼女のはなしの天真爛漫《てんしんらんまん》さや、ぼくにとってはこの上ない侮辱と思える情況まで、当人がぼくに語るその善良な、明けっぴろげな態度にぼくは感動してしまったのである。
「彼女はべつに悪意なく、罪を犯しているのだ」、とぼくは心の中で言った。「彼女は≪おっちょこちょい≫で、不用意な女だけれど、根はまっ正直で真面目なんだ」
さらにつけ加えて言えば、彼女が犯したすべての過失にぼくが目をつむるには、ただ愛情だけあればそれでじゅうぶんなんだ。その夜のうちに、自分のライヴァルの手から彼女を奪いとると考えただけで、もうこころ満ち足りていた。それでもぼくは彼女にこう訊ねてみた。
「で、今晩のことだがね、君はいったい、だれといっしょにひと晩過ごすつもりだったんだい?」
ぼくが悲し気に問いかけたこの質問は、彼女をドギマギさせた。とぎれとぎれに、「でも」だとか、「もしも」だとか返辞をするだけだった。彼女の苦しそうな様子が哀れになって、ぼくはこの話を打ち切り、はっきりと、彼女が今すぐにぼくといっしょに出かけて欲しいんだが、と言ってやった。
「もちろん、あたしもそうしたいわ」と彼女が言った。「でも、あたしの計画には賛成なさらないの?」
「ああ!」とぼくは言葉を続けた。「君が今までしてきたことに全部賛成してやったんだよ、それだけでじゅうぶんじゃあないのかい?」
「なんておっしゃったの! あの一万フランも持って行かない、っておっしゃるの?」と彼女が言った。「あのひと、あのお金をあたしにくれたのよ。あのお金はあたしのものなのよ」
そんなものは全部置いて行こう、今はもう一刻も早くここから離れることだけを考えよう、と彼女に忠告した。というのは、ぼくが彼女のところへ来てからまだやっと半時間ほどたったばかりだったけれども、ぼくとしてはG…M…が戻って来やしないか不安でならなかったのだ。ところが彼女は、手ぶらで出て行くなんてそんな法はない、とぼくを口説き落とそうとして、しつっこく懇願するので、とうとうぼくも、今までさんざん彼女に無理押しをしたあとだし、このくらいは言いなりになるのがほんとうかも知れない、と思うようになった。
逃げ出そうと準備をしている時に、道に面したドアをノックする音が聞こえた。G…M…にちがいない、と思い、そう考えるとぼくは狼狽《ろうばい》して、もしあいつが姿を現わしたら殺してやるぞ、とマノンに言った。ほんとうに、もしあいつの姿を見たら、自分の気持ちを押えきれないくらいまだ逆上していて、興奮からさめていなかったのだ。
マルセルが玄関でぼくあての手紙を受けとって、ぼくのところへ届けてきたので、悩みもおさまった。手紙はムッンュウ・ド・T…からのものだった。ムッシュウ・ド・T…はこんなことを書いてきた。
G…M…はムッシュウ・ド・T…のために、自分の家までお金をとりに行ったので、G…M…のいない間を利用してじつに愉快な思いつきをぼくに知らせてきた。ムッシュウ・ド・T…の思うには、これ以上ないという愉快なやり方で、ぼくがライヴァルに仇討ちをできるように思う、というのは、今夜、G…M…の晩餐をぼくが食べ、G…M…が自分の恋人と二人で占領しようと思っていたベッドにぼくが寝ることである。もしぼくに路上でG…M…を捉《とら》えるだけの勇気があり、明日まであいつを見張ってくれるくらい信用のおける男を三人か四人確保できれば、このプランもしごく容易なように思える。ムッシュウ・ド・T…としては、少なくともこれから先一時間ほどは、あいつが帰ってきても、前々から用意していた口実をもうけてあいつを引きとめておく、と約束できるというのだ。
ぼくはこの手紙をマノンに見せ、どんなトリックを用いて、ぼくが堂々と彼女の家へ入り込んだかを教えてやった。ぼくの思いつきも、ムッシュウ・ド・T…の考えも、彼女にはすばらしいものに思えた。ぼくらはしばらくのあいだ上機嫌で笑った。ところが、冗談にまぎらわして今のムッシュウ・ド・T…のプランを彼女に喋ると、このアイデアがまるで彼女の心を奪ってしまったかのように、まじめな顔で、ぜひそのプランを実行に移しましょうよ、などと言いはるので、ぼくのほうでびっくりしてしまった。だいいち、こんなに突然G…M…を捉え、忠実に見張るなんていう役目にうってつけの男をどこから探してくるんだい、と彼女に訊ねたところで無駄だった。せめてとにかくやってみるだけやったらいいじゃないの、だってムッシュウ・ド・T…にしても、まだ一時間は大丈夫だと保証してくれるんだから、と言うのだった。そしてぼくが何やかやと反対すると、それに答えて、ぼくのことを暴君だとか、彼女に対する思いやりがない、などと言うのだった。彼女にとっては、このプラン以上に愉快なものはないように思えたのである。
「あなたがあのひとの食器を使って晩餐をなさるのよ」と彼女は繰り返した。「あのひとのシーツにくるまって寝るのよ、そして明日の朝早くに、あのひとの恋人とお金を頂戴しようっていう寸法なのよ。これでみんごと父親にも息子にも仇討ができるというものじゃあないの」
ひそかに胸騒ぎを感じていたのだが、彼女の言う通りに譲歩した。この胸騒ぎは、ぼくには不幸な結末の前兆のように思えたのである。
レスコーが以前にぼくに引き合わせてくれた二、三人の近衛兵に、G…M…を捉える手筈を頼むつもりで家を出た。家にいたのは一人だけだったが、これががむしゃらな男で、話の本筋がどうなっているかもわからないうちに、よしきた大丈夫だ、などと引き受ける始末だった。彼はたったの十ピストールしか欲しがらなかったが、これは、彼が傭《やと》おうと決心し、自分でその首領株になるつもりの三人の番兵の報酬に当てるためのものだった。時間を無駄にしないでくれ、と頼むと、彼は十五分もかからないうちに連中を集めてきた。彼の家で待っていたが、彼が仲間といっしょに帰ってくると、ぼくは自分から先に立って、G…M…がマノンの住んでいる街へ帰るには、どうしても通らなければならない街の一隅に彼を案内した。
G…M…を手荒く扱わないで、ただ明日の朝の七時まで、G…M…が彼の手から逃れられないと安心できる程度に、しっかりと見張ってもらうように彼に頼んだ。彼の話では、自分の部屋へG…M…を連れてゆき無理に服を脱がせてしまうか、そうでなければ自分のベッドへ寝かせてしまうかして、そのあいだ彼と三人の悪党どもは夜明かしで酒を飲むか、≪ばくち≫を打つつもりだ、ということだった。ぼくは、G…M…が姿を現わすまで連中といっしょにいたが、彼が現われると、この普通ではなかなかお目にかかれない光景をこの目で見てやろうと、数歩離れた暗い場所に身をひそめた。
近衛兵はピストルを手にしてG…M…に近づき、礼儀正しく、自分はいのちを欲しいというわけでも、金をとろうというわけでもない、ただし自分についてきていただくが、もし少しでも難色を示したり、どんな小さな声でも叫んだりしたら、あなたの脳天にいっぱつぶちかましますぞ、と言って説明した。
G…M…は相手が三人の兵隊をお伴に連れているのを見て、それにおそらく火薬だけしか詰めていないピストルが怖かったのだろう、なんの抵抗もしなかった。ぼくはG…M…が羊のようにおとなしく引かれて行くのを眺めていた。
ぼくは直ちにマノンのところへ引っ返した、そして、召使いたちに少しでも疑いを抱かせないように、家へ入るとマノンに向かって、ムッシュウ・ド・G…M…のために晩餐《ばんさん》を待つ必要はない、彼には突然用件ができて心ならずも引きとめられてしまったので、自分の代わりに謝罪してもらおうと、ぼくにこの家へ行き、彼女といっしょに夕食をするように頼んだのだ、こんな美しいご婦人の傍で食事できるなど、まったくこの上ない光栄と思います、などと言った。
彼女は実にうまくぼくの計画をとりつくろってくれた。ぼくたちは食卓についた。召使いたちが食事のサービスのために部屋にいるうちは、ぼくらはきまじめな様子をしていたが、とうとう召使いたちが出ていってしまうと、ぼくらは生涯のうちで最良の一夜を過ごした。ぼくはマルセルに、辻馬車を深し、明朝六時前に玄関のところへ停めておくように伝えておいてくれ、とそっと命令した。ぼくは真夜中ごろ、マノンと別れたふりをしたが、マルセルの手引きで静かに戻り、ちょうど食卓で彼の席へ坐ったと同じように、G…M…のベッドを占領する準備をした。
そのあいだに、悪魔はぼくたちを破滅させる仕事にとりかかっていたのだ。ぼくらは快楽に酔い痴《し》れたが、ぼくらの頭上には短剣が落ちかかっていたのだ。短剣を吊っていた糸は、今まさに切れようとしていた。しかし、ぼくらがどんなふうにして破滅への道を辿《たど》ったか、その情況をすっかりわかってもらうには、まずその原因から明らかにしなければなるまい。
G…M…は、近衛兵の手で捉えられたとき、一人の下男を供に連れていた。この少年は自分の主人の災難にすっかり怖じ気づいて、すぐその足で逃げ帰ったが、主人を救おうとして少年がとった最初の処置は、G…M…老人に、いま起こった事件を知らせに行くことだった。こんなとんでもない知らせを聞いて、老人が大あわてにあわてないはずはなかった。老人には、息子といえば一人しかいなかったし、それに老人は老いてますます矍鑠《かくしゃく》としていた。老人はまずこの下男の口から、息子が今日の午後なにをしたかを根ほり葉ほり聞き、だれかと喧嘩口論をしなかったか、だれか他人のいざこざに掛り合いにならなかったか、怪しげな家へ出入りしなかったかどうか、などを聞き出そうとした。下男のほうは、自分の主人が絶体絶命のピンチにあると信じていたし、また主人に救いを求めるには、もう何ひとつ遠慮するべきことはないと思っていたので、マノンに対する主人の恋について知る限りのこと、主人が彼女のためにした大散財、夜の九時頃まで、彼女の家でどんなふうに午後を過ごしたか、主人が家を出て、そしてその帰り路にふりかかった危難の一部始終を打ち明けた。
これだけ話を聞けば、息子の事件は恋の鞘当《さやあ》てだ、ということを老人に推察させるにじゅうぶんだった。少なくとも、もう夜の十時半になっていたのに、彼は躊躇《ちゅうちょ》せず、ただちに警視総監のところへ出かけた。老人は総監に、全夜警隊に特別命令を発するように頼み、それから自分といっしょについてきてくれるように一隊の夜警を貸してほしいと頼み、老人みずから息子が捉えられた街へ駆けつけた。老人は、町の中の息子を見つけられる希望のありそうな場所はくまなく訪ねて回り、息子が行った形跡を見つけられなかったので、最後には息子の恋人の家に案内させた。つまりもう息子は戻っているかも知れない、と思ったわけである。
老人が着いたとき、ぼくはちょうどこれからベッドへ入ろうとしていた。部屋のドアが閉めてあったので、道に面した玄関のドアをノックする音が聞こえなかったのだ。
ところが老人は二人の巡査を連れて入ってきた、そして息子の消息を知ろうとしても無駄だとわかるや、老人はなにか手掛りをつかもうと思って、息子の恋人に会ってみようという気になった。老人は相変わらず巡査を連れたまま、部屋へ上がってきた。ぼくらはまさにベッドへ入ろうとしていた。彼がドアを開けた。彼の姿を見て、ぼくらは血が凍るような思いだった。
「ああ、神よ! G…M…の老いぼれじゃないか」とぼくはマノンに言った。
剣のほうにとんで行ったが、不運なことに剣がバンドにからまっていた。ぼくの動作を見てとった巡査どもが、すぐに近寄ってきてぼくから剣を取り上げた。シャツ一枚の男が抵抗しようとしても無益だ。巡査どもは、身を守る手段をすべてぼくから取り上げてしまった。G…M…はこの光景を目のあたりにして不安そうな様子だったが、すぐにぼくに気がついた。老人は、マノンの顔にはさらに容易に気づいた。
「おやおや、これは≪まぼろし≫かな?」と老人がもったいぶった調子でぼくらに言った。「シュヴァリエ・デ・グリューとマノン・レスコーではありませんかな?」
ぼくは屈辱と苦悩のためにいきり立っていたので、相手に返辞もできない有様だった。老人は、しばらくのあいだ頭の中でいろいろな物思いにふけっているふうだったが、とつぜん怒りに火をつけたように、ぼくに向かって大声で叫びかけた。
「ああ! 悪党め、きさまはわしの息子を殺したに違いない!」
この罵詈雑言《ばりぞうごん》はぼくの心にはげしく突き刺さった。
「老いぼれのならず者め!」、ぼくは横柄な口調で彼に答えた。「もしお前の家族のだれかを殺さなければならないとしたら、まず血祭りにあげるのはお前からだ」
「こいつをしっかり押えていてくださいよ」と老人は巡査に言った。「とにかくわしの息子の消息を白状させなければならんのでな。せがれをどうしたか、すぐに白状しなければ、明日にでも絞首刑にしてもらうわい」
「ぼくを絞首刑にしてもらうだって?」とぼくは言った。「恥知らずめ! 絞首台へ行かなければならないのは、お前みたいなやつだ。いいか、よく覚えておけ、ぼくの血筋はな、お前なんかよりずっと高貴で、純粋なんだ〔当時は貴族の刑は斬首、他は絞首刑だった。シュヴァリエは貴族の資格があるので、もし死罪を宣告されても斬首、金持ちでも町人のG…M…は絞首刑になる〕」
「そうとも」とぼくはつけ加えた。「お前のせがれがどうなったか知っているさ、もしこれ以上ぼくを怒らせたりしたら、明日までにあいつの首を絞めるように言ってやるぞ。その後には、お前まで同じ目に会うと約束してやるぞ」
息子がどこにいるか知っていると打ち明けてしまったのは、ぼくの不注意《ミス》だった。憤怒のあまり、ぼくはこんな無分別なことを言ったのだ。老人はさっそくドアのところに待機していた五、六人の巡査を呼び、家の召使いたち全部を逮捕するように命令した。
「ははあ! なるほどシュヴァリエさん」と、彼は嘲弄《ちょうろう》的な口調で言った。「あんたはうちのせがれの居所をご存知だ。それにせがれを絞め殺すように言う、そうおっしゃいましたな? なあに、そちらのほうならうまく始末しますから、まあ仕上げをごろうじろ」
ぼくはすぐに、自分がつまらぬ≪ヘマ≫をしでかしたことに気づいた。老人は、泣きながらベッドに坐っていたマノンのほうに近づいた。彼は、彼女が父親と息子を手玉にとったこと、そしてその手練手管《てれんてくだ》について二言三言皮肉なお世辞を言った。この淫乱《いんらん》のおいぼれ怪物は、彼女にどこかなれなれしい態度をとりたがっていた。
「その女《ひと》に触るな!」とぼくは叫んだ。「そんなことをしたら、ぼくの手で殺してやるぞ」
彼は部屋に三人の巡査を残し、すぐにぼくらに服を着せるように命令して、部屋を出ていった。ぼくには、その時彼がぼくらをどうするつもりか判らなかった。息子の居所を彼に教えてやったら、おそらく自由になれたかもしれない。服を着ながら、これがいちばんいい策《て》じゃあないかな、と考えていた。ところが、部屋を出ていった時には彼もそのつもりだったかもしれないが、帰ってきた時にはまったく気持ちが変わっていた。巡査たちが捕えておいた、マノンの召使いたちを訊問《じんもん》にでかけたのだ。彼女が彼の息子につけてもらった召使いたちからはひと言も聞き出すことができなかったが、マルセルが以前からぼくらに仕えていたことを知るや、脅し言葉を並べたてて彼を怖じ気づかせ、彼に話させてやろうと決心した。
マルセルは信頼はできるが、頭も弱く気のきかない若者だった。マノンを逃がそうとしてオーピタルでやった悪事の思い出と、G…M…が彼の心のうちにかき立てた恐怖が結びついて、彼の弱い頭に強い印象を与え、とうとう自分が絞首台か車裂きの刑場へ引いて行かれるんじゃあないか、などと思い込んでしまった。彼は、もし自分のいのちを助けてもらえるんなら、知っている限り、事件の全貌を白状しよう、と約束した。
G…M…はそこで、この事件には、彼がそれまで思ってもみなかったほど重大な、犯罪につながる何かがあると確信した。彼はマルセルに、もし白状したらいのちを助けるどころか、褒美《ほうび》もやろうと申し出た。
この憐れな若者は、老人にぼくらのプランの一部を打ち明けてしまった。ぼくらとすれば、マルセルにしても、いずれぼくらの片棒を担《かつ》いでもらうはずだと思っていたので、この男の前では何の差し障りもなくお喋りをしていたのである。実際は、マルセルにしたって、ぼくらがパリで計画を変更したことまで、一部始終を知っている訳ではない。けれども、シャイヨを出た時の計画の内容だとか、自分が引き受ける役割を教え込まれていた。そこで彼は老人に、ぼくらの目的は彼の息子をペテンにかけることであり、マノンは一万フランをこれからもらうはずか、あるいはすでにもう受け取っているはずで、ぼくらの計画によれば、この一万フランはぜったいG…M…家の相続人の手許には戻らないだろう、などと喋ってしまった。
こうして一切合財《いっさいがっさい》明るみに出てしまうと、激昂した老人は荒々しくぼくら部屋へ上がってきた。口も訊《き》かずに居間へ通り、ここで苦もなく例の金額と宝石類を見つけ出した。顔を真赤にしてぼくらのところへ戻り、彼のお気に入りの呼びかたで、ぼくらの≪戦利品≫と名づけたものを見せびらかしながら、聞くにたえない非難の言葉をぼくらに浴びせた。彼はすぐそばで、マノンに真珠の首飾りやブラスレットを見せつけた。
「こいつはよくご存知のはずだね?」と彼はバカにしたようなうす笑いを浮かべながら彼女に言った。「お前さんがこいつにお目にかかったのは、これが初めてっていうわけじゃあないよ。まちがいなく同じものさ。どうやら、こいつはお前さんのご趣味にピッタリらしいね、え、ベッピンさん。なあに、そんなことは、造作なくわかりますわい」
「まったく可哀そうな子どもたちだよ!」と彼はつけ加えた。「たしかに、二人ともなかなか愛嬌《あいきょう》のある子だがね、どうもちょっといたずらが過ぎるんでね」
こんな屈辱的な言辞を聞いて、ぼくの心は憤怒のためにはり裂けそうだった。ただの一瞬でも自由の身になれたら、ぼくはどんなことでもやってのけたにちがいない……ああ、正義の神よ! どうしてぼくはやらなかったのでしょう! とうとうぼくは、自制心、とは言ってもただ怒りを押し殺しただけのことだが、自分の感情を抑えてこんなことを言った。
「ムッシュウ、もうそんな尊大な嘲弄《ちょうろう》はやめにしようじゃあありませんか。いったい、問題は何です? どうです、ぼくたちをどうしようっていうんですか?」
「問題はだね、シュヴァリエさんよ」と彼が答えた。「この足でシャトレまでご足労願うことさね。そろそろ夜も明けることだし、この事件ももっとはっきり判ろうというもんだよ、それにこちらの希望としては、ご好意ついでに最後にひとつ、せがれの居所をわしに教えていただけないものかね」
それほど考えなくても、ぼくらがもう一度シャトレへ監禁されたら、どんな恐ろしい結果になるかは、よく判った。身を震わせながらその結果起こってくるあらゆる危険が身に迫る予感がした。いかにぼくの自尊心が強くても、相手に屈伏してなにかを得ようと思ったら、自分の運命の重荷に身を屈《かが》めて、自分のもっとも残忍な敵にもお世辞を使わなければならないということは認めざるをえなかった。ぼくは丁重な口調で、しばらくぼくの言うことを聞いていただきたい、と彼に頼んだ。
「ぼくが悪かったことは認めましょう、ムッシュウ」、とぼくは彼に言った。「打ち明けて申しますと、若気の過ちから大それた間違いをしてしまいました。あなたもそれだけ心を痛められたのだから、お嘆きになるのもごもっともだと思います。しかし、もしあなたが恋の力というものをご存知ならば、自分が愛するものをすべて奪いとられたみじめな若者がどんなに苦しむかがお判りになれば、ぼくがちょっとばかり復讐をして快哉《かいさい》を叫ぼうとしても、大目に見てやろうと、おそらく思ってくださるでしょう。そうでなくとも、せめていまぼくが受けた恥辱だけで、もう罰はじゅうぶんだとお考えくださるでしょう。あなたのご子息がどこにいるか白状をさせようとぼくを強制なさるにしても、べつに牢獄も拷問も必要ありませんよ。ご子息は安全です。ぼくには、べつにご子息に害を加えようとか、あなたに恥をかかせようなんていうつもりはありません。もしあなたがぼくらを自由にしてやろう、というご好意をお持ちなら、今すぐに、ご子息が静かに夜を過ごしておられる場所を教えてさし上げますよ」
この虎みたいなおいぼれは、ぼくの哀願に心を動かされるどころか、笑いながら背を向けた。彼はただ二言、三言吐き出すように言ったが、その言葉を聞くと、彼はぼくらの計画など、その大もとまで知っているのがぼくにもわかった。彼の息子についての話なら、ぼくが息子を殺してはいないのだから、いずれどこかで見つかるだろうと彼はつけ加えた。
「この連中をプティ・シャトレへ連れてゆけ」と彼は巡査に言った。「シュヴァリエのやつが逃げないように、見張っていてくれ。こいつは抜け目のない奴でな、前にサン・ラザールから逃《ず》らかったことがあるくらいだからな」
彼は出ていき、ぼくはそこに残っていたが、その姿はあなたにもご想像がつくだろう。
「ああ、神よ!」とぼくは叫んだ。「ぼくはあなたの手から受けるなら、どんな不幸でも甘んじて受けるでしょう、でもあの不届きなならず者が、こんなに横暴にぼくを扱う権力を持っているなんて、まったく絶望するほかはありません」
巡査どもは、もうこれ以上待たせられるのはごめんだと言った。玄関には四輪馬車が停めてあった。階段を下りるとき、ぼくはマノンに手を差し出した。
「さあ、おいで、ぼくの大事な女王さま」とぼくは彼女に言った。「こちらへ来て、あらゆる苛酷なぼくらの運命に従うんだ。おそらく神様のご好意から、いつかはぼくらも幸福になれるだろうからね」
ぼくらは同じ馬車で出発した。彼女はぼくの腕の中に抱かれていた。彼女はG…M…がやってきたはじめから、ひと言も口をきいていなかった。ところがぼくと二人だけになると、ぼくの不幸を招いてしまったと言って自分を責めながら、絶え間なく愛の繰りごとを口にするのだった。ぼくは、彼女が変わりなくぼくを愛し続けてくれる限りは、自分の運命などけっして嘆いたりはしない、と言って彼女を慰さめてやった。
「自分が憐れだなんて、ぼくは思やしないよ」、とぼくは言葉を続けた。「数カ月の牢獄生活なんて、ちっとも怖くはないよ。サン・ラザールよりもシャトレのほうがずっとましさ。でもねえ君、ぼくが気掛かりでならないのは君のことなんだ。これほどチャーミングな女性にとって、なんという運命なんだろう! 神よ、あなたの手になる傑作のうちでも、もっとも完璧《かんぺき》なものに、どうしてこんなにつらくお当たりになるんです? ぼくたちはなぜ、二人とも、ぼくらの悲惨な運命に似つかわしい身分に生まれてこなかったんでしょう? 知性も、趣味も、情操も備えている。それなのに、ああ! そんな長所をなんとつまらないものに使っているんだろう、ところが一方ではぼくらの不運にふさわしいような、卑劣なやつらが、好運のあらゆる恩恵を謳歌《おうか》しているんですよ!」
こんなことを考えると、ぼくの悩みはいやましに深まっていった。しかしそんな悩みも、未来に横たわる苦悩に較べればものの数ではなかった。というのは、マノンの身の上が心配で心配で、心も涸《か》れる思いだったからだ。彼女はすでに一度オーピタルの味を知った身だ、大手を振ってここの門を出てきたところで、こんなふうにしてふたたびここに足を踏み込めば、はかり知れない危険な結果が待ちかまえていることはぼくもよく知っていた。ぼくは、ぼくの心配の内容を彼女に説明してやろうと思ったが、あまり大きな影響を与えすぎても、と心配だった。彼女にその危険を知らせてやる勇気もなく、彼女のために慄《ふる》えおののいていた。そして、せめてぼくの愛情で包んでやるだけでも、彼女を安心させようとして、溜息まじりに彼女を抱擁した。いまぼくに表現できるのは、愛情こそが唯一の感情だったのだ。
「マノン」とぼくは言った。「まじめに話しておくれ。君は変わらずにぼくを愛してくれるね?」
彼女は、ぼくがそんなことを疑うなんてとっても悲しい、とぼくに答えた。
「いいとも!」とぼくは言った。「もう疑ったりするもんか、それに、そう確信できれば、ぼくだってどんな敵を相手にしても勇敢に戦いたくなるよ。ぼくの家の者を利用して、シャトレから出る手筈をつけよう。もしぼくが自由の身になってすぐに、君をあそこから出せなければ、もう自分のいのちなんかどうなろうがかまわないよ」
牢獄へ到着した。ぼくらはそれぞれ、べつべつの場所へ入れられることになった。すでに前から予想していたので、こんな扱いを受けてもそれほど苦にしなかった。自分はこれでも≪ひとかど≫の男だからと門衛に告げ、相当な報酬を払うからと約束して、マノンを門衛に紹介した。彼女と別れる前に、大切な恋人を抱擁した。ぼくがこの世にある限りは、そんなに深く悲しむ必要もないし、なにも心配することはない、と彼女に言って聞かせた。ぼくには金がないわけではなかった。その一部を彼女に分けてやり、残りの金は彼女とぼくの一カ月分の≪お目こぼし料≫の袖の下として、門衛に与えた。
ぼくが与えた金はじつに好結果を生んだ。なかなか気のきいた家具つきの部屋へ入れられ、マノンの部屋も同じようだと保証された。ただちに、急いで自由の身になる方法を考えるのに没頭した。ぼくの事件には完全な犯罪とみなされるものはまったくないのは明白だし、それにマルセルの供述によって、ぼくらが持ち逃げしようというプランが証明されたと仮定したところで、単に犯罪の意志だけでは罪におとすことはできないことはよくわかっていた。さっそく父に手紙を書いて、父みずからパリへ出てきてもらうように頼もうと決心した。前にも言ったように、ぼくにとってはサン・ラザールにいるよりも、シャトレにいるほうがずっと恥ずかしいとは思わなかったのだ。もとより父親の権威に対して抱くべき尊敬心はちゃんと持ってはいたけれども、臆病な気持ちがずっと薄らいでいたのは年令と経験のたまものだろう。そこでぼくは手紙を書いた。それに、シャトレでは、自分の手紙を出してもらうといっても、べつにむずかしいことはなかった。しかし、父がその翌日パリへ着くはずだともし知っていたら、こんな苦労をしなくてもすんだのだが。
父は一週間ばかり前にぼくが書いた手紙を受け取っていた。この手紙を見て非常に喜んだが、ぼくが心を改めたことを喜んでいくらかの希望を抱きながらも、ぼくの前途について、手ばなしでこれを信ずるべきだとは思わなかった。自分の目でぼくの変貌《へんぼう》ぶりを確かめにきて、ぼくの悔悟がほんとうに真面目なものかどうかその目で見て、それからその態度を決めようと決心した。父はぼくが投獄された翌日到着した。ぼくは返辞はチベルジュあてに出すように頼んであったので、父が最初に訪ねたのはチベルジュのところだった。
ところが父は、チベルジュの口からぼくの住所も現在どんな状態でいるかも聞き出すことができなかった。父が知ることのできたのは、ただ、サン・シュルピイスを逃亡して後に、ぼくの身にふりかかった主な事件だけだった。チベルジュは、ぼくらが最後に会った時に、善について示したぼくの心理状態を、じつにうまく取りつくろって父に話してくれた。チベルジュは、もうぼくはマノンとは完全に手を切ったと思うとつけ加えたものの、それでも、もう一週間も前からぼくが自分の消息を彼に伝えていないので意外に思っている、とも言いそえた。
ぼくの父は欺《だま》されなかった。父はチベルジュが嘆いている、ぼくから何の消息もないという言葉の裏には、チベルジュの炯眼《けいがん》をもってしても見抜けない何かがあることに感づいた。そこでぼくの消息をつきとめようと万全の配慮を惜しまなかったので、パリ到着の二日目には、ぼくがシャトレに投獄されたことを知った。
こんなに早くやってくるとは、ぜんぜん考えてもみなかった父親の訪問を受ける前に、ぼくは警視総監の訪問を受けた、というよりも、彼ら流の呼び方をもってすれば、訊問を受けたのである。総監はぼくに少しばかり非難めいた言葉を述べたが、それでもそのお説教は酷《きび》しいものでも、また不愉快なものでもなかった。彼は優しくこんなことを言った。
彼としては、ぼくの不身持ちを遺憾《いかん》に思う。ムッシュウ・ド・G…M…氏のような男を敵にまわすなんて賢明なやり方とはいえない。事実、ぼくの事件は、悪意からというよりは不謹慎《ふきんしん》や軽卒さから起こったということは一目瞭然《いちもくりょうぜん》である。それにしても、彼の法廷でぼくが問題になったのは、これで二度目であるし、サン・ラザールで二、三カ月の教護をすでに受けたのだから、もっと利口になってほしかったのだ、と。
物わかりのよい裁判官が係りになったのに気をよくして、ぼくはしごく敬意をこめた、慎重な態度で弁解につとめたから、彼のほうもぼくの返答にすこぶる満足した様子だった。彼は、あんまり悲しむ必要はない、ぼくの家柄の正しいことと若さを考慮にいれて、ぼくのためになるようにはからうつもりだ、と言った。
ぼくは勇を鼓《こ》して、総監にマノンのことを切り出し、彼女の優しさ、天性の善良さを褒《ほ》めそやしてやった。彼は笑いながら、まだその女性に会ったことはないが、ひとの話では危険な人物だと聞いている、という返辞だった。この言葉に愛情を激しく刺激されて、ぼくは千万言の情熱に溢れる言葉を費して哀れな恋人を弁護し、そして二粒三粒《ふたつぶみつぶ》涙が頬を伝うのを禁じえなかった。彼はぼくを部屋に連れ帰るように命令した。
「恋よ! 恋よ!」ぼくが出てゆくのを見ながら、この謹厳《きんげん》な裁判官が言った。「なんじはどうしても、叡智《えいち》と手を結ぶことができないのだろうか?」
ぼくは淋しくもの思いにふけり、警視総監と交わした会話を反省していたが、その時、部屋のドアが開く音が聞こえた。父だった。いずれ数日後にこうなるだろうと待ちうけていたから、この面会になかば心の準備ができているはずだったのに、ぼくは激しく心を打たれずにいなかった。だからもし足許の大地が口を開いていたならば、みずから大地の底まで飛び込んだにちがいない。ひどい狼狽《ろうばい》を隠しきれないで、父のほうへ進み抱擁した。父もぼくもまだ口を開かぬままに、父は腰を下ろした。
ぼくが目を伏せたまま、帽子もかぶらず立ちつくしていたので、父は重々しい調子で言った。
「お前の放蕩と詐欺《さぎ》がスキャンダルになったおかげで、お前の居所を見つけ出せたよ。お前みたいな男の取り柄《え》は、人目には姿を隠しおおせぬというところにあるらしいな。お前は絶対確実な道を通って、今に有名になるよ。その道はいずれグレーヴ広場〔現在のパリ市庁前広場で、むかしは処刑場だった〕に行きつき、世間の人々の驚嘆の的《まと》になって、ほんとうに美名を残せば結構だ」
ぼくはひと言も答えなかった。すると父はさらにこう続けた。「さんざん目をかけて息子を可愛がってやり、りっぱな人間に仕立てようと思って、かゆいところに手を届くようにして面倒を見てやったのに、その息子が最後に父親の顔に泥を塗るようなただのペテン師になってしまったら、父親はまったく情ないもんだな! 不幸な運命というやつは何とか慰めもつく。時がたてば不幸も忘れられるし、苦悩も薄らぐというものだ。しかしな、すべての名誉心を失ってしまった手に負えない息子の不行跡みたいに、日ごとに大きくなる不幸に対してはいったいどんな対策があるんだね?」
「お前は何も言わないんだな、情けないやつめ」と、彼はつけ加えた。「その上っつらだけの控え目な態度、その偽善者然をした優しそうな様子を見てみろ。だれが見ても、生まれのいい、世にもりっぱな男と間違えそうじゃあないか?」
こうした汚辱の言葉も、その一部はたしかにぼくには当たり前だ、と認めないわけにはゆかなかったが、それにしてもその言葉はちょっと極端すぎるように、ぼくには思えた。ぼくは、自分の気持ちを隠さず説明してもかまわないだろう、と思った。
「はっきり申しましよう、お父さん」とぼくは言った。「いまあなたの前で、ぼくがとっている控え目な態度には、少しも嘘いつわりはありません。父親を、ことに立腹している父親を限りなく愛している、素性《すじょう》卑しからぬ息子のごく自然な態度なのです。それにまた、ぼくたちのような家柄の、もっとも≪しつけ≫のいい男と見られよう、などと言い張るつもりもありません。たしかに自分があなたの非難に価する人間だと思っていますが、でもお願いですから、もう少し優しい気持ちを持って、ぼくを男のうちでもっとも恥ずべき男として扱うのはやめてください。ぼくをそんな酷《きび》しい名前で呼ぶのはどうかと思います。
ご承知のように、ぼくのすべての過ちの原因となったのは、恋なんです。なんと宿命的な情熱でしょう! ああ! 残念ながら、お父さんは恋の力をご存知ないんです。それに、ぼくの血の源《みなもと》であるお父さんの血が、この同じ情熱を感じないなんていうことがありうるでしょうか? 恋の力が、実に魅力溢れる恋人の欲望に対してあまりにもぼくを優しくし、あまりにも情熱的にし、あまりにも忠実にし、それにもしかしたら、あまりにも迎合《げいごう》しすぎたのかもしれません。これがぼくが犯した罪なのです! これを見て、あなたの顔に泥を塗《ぬ》った男に見えるでしょうか?」
「さあ、お父さん」、とぼくは優しくつけ加えた。「お父さんに対して、つねに溢れるような尊敬と愛情を抱き続けている息子に、いささかでも憐みをかけてください。お父さんも考えていらっしゃるように、息子は名誉も義務も捨ててはおりません、お父さんが想像していらっしゃるよりも、千倍も嘆き悲しんでいるのです」
この言葉を言い終わって、ぼくはいく雫《しずく》かの涙をハラハラと流した。
父親の心情というものは、造化の神の傑作である。神はいわば、喜んで父の心を支配し、神みずから、父の心のあらゆる≪原動力≫を支配しているのだ。ぼくの父は、これに加えてさらに知性と趣味を兼備していたので、ぼくが弁解するのに用いた巧みな言葉にひどく感動して、自分の心の変化を隠しおおせることができなかった。
「おいで、可哀そうなシュヴァリエ」と父は言った。「こちらへ来て、わしを抱いておくれ。考えてみれば、お前も憐れなやつだな」
ぼくは父を抱擁した。父もぼくをしっかりと抱きしめたが、その抱きかたで、父の心にどんな変化が起こったか、よく感じとることができた。
「さて、ここからお前を出すとして」と父が言葉を続けた。「わしらはどんな方法をとったらいいかな? お前の事件を、なにひとつ隠さずにわしに説明しておくれ」
ともあれ、ぼくの行状といったところでその大半は、少なくともある種の社会の青年の行状と較べてみても、まったくひとに顔向けならないものはぜんぜんなかったし、恋人の一人ぐらい持っていたって、≪ばくち≫で少々いかさまをやって金を稼いだからといって、現代のご時世では破廉恥《はれんち》というほどのものでもなかったから、自分のこれまでの生活のすみずみまで、正直に父に話してやった。自分の恥を少しでも少なくしようと、告白してゆくひとつひとつの事実に、有名なほかの実例を挙げて結びつけるのを忘れなかった。
「なるほど、結婚式も挙げずに恋人と同棲しました」、とぼくは父に言った。「でも、…侯爵が二人の情婦を囲っていることは、パリの上流人士のだれ知らぬものもない事実ですし、その一人との仲はもう十年前から続き、侯爵は妻にめとるつもりはぜんぜんなく、しかも誠心その女性を愛しております。フランスの紳士の三分の二は、情婦を持つことを名誉と心得ているのです。なるほどぼくは≪ばくち≫でいかさまやりました。ところで…侯爵にしても、…伯爵にしても、いかさま≪ばくち≫以外には何の収入もありません。プリンス…や…伯爵もいかさま≪ばくち≫会の組織の首領です」
G…M…親子の≪ふところ≫を狙ったぼくの計画についても、証拠だてようと思えばいとも簡単で、モデルにはこと欠かなかった。とはいえ、ぼくにはまだじゅうぶん名誉心が残っていたから、そんな実例ばかり持ち出しはしたが、自分は知らん顔をしてノウノウとしているわけにもゆかず、そこでぼくを駆り立てた二つの激しい情熱、つまり復讐と愛欲に免じて、こちらのほうの弱味は大目に見てもらうように、父に頼んだ。
父はぼくに、ぼくが自由放免の身になり、世間で噂になるのを避けられるいちばん適切な方法を、もしぼくが知っていて打ち明けられるものなら、打ち明けてもらえるかな、と訊ねた。ぼくは、警視総監がぼくに対して、とっても好感をもってくれるので、と父に話した。
「たとえなにか面倒な問題があっても」とぼくは言った。「それはね、ただG…M…親子のほうから持ち出しただけのはずですよ。ですからこの際、お父さんがあの二人に会わしてくれ、とお願いになるのが当をえた処置だと思いますよ」
父はそうしてみよう、と約束してくれた。さすがのぼくも、マノンのために奔走してくれとは頼みかねた。これはぼくにその度胸がなかったためではない、こんなことを申し出たら却って父の反発を買い、父の胸中に彼女に対しても、またぼくに対しても、不吉な意図を抱かせはしないかと心配した結果であった。
こんな心配が、父の気持ちに憐れをそそる妨げとなり、また父の心にぼくの不幸な恋人に好意を抱かせる妨げとなって、ぼくの最大の不幸の原因にならなかったかどうか、今でも知りたいと思っているくらいだ。おそらく、もう一度、父の憐憫《れんびん》に訴えるべきだったのかも知れない。父に対して、G…M…老人に会ったとき、あまり安易に相手を信じ過ぎないように警告すべきだったのだろう。しかし、ぼくにどうしてそれがわかるだろう? ぼくの不幸な宿命は、どんなに努力したところで、その努力に打ち勝ったにちがいあるまい。たとえ自分の不幸を弾劾《だんがい》したところで、ぼくの手には不幸な宿命しか、少なくとも、残酷きわまるぼくの敵しか残らなかったにちがいない。
ぼくと別れると、父はムッシュウ・ド・G…M…を訪ねていった。父は息子といっしょにいるG…M…に会ったが、あの近衛兵は言いつけた通りに息子を放免していたのである。彼らのあいだでどんな会話が交わされたか、その要点までは判らなかったが、その致命的な結果から見れば、ごく造作なく判断できた。二人、というのは二人の父親のことだが、二人はいっしょに警視総監のところへ面談に出かけて、総監に二つの恩典を願った。その一つは、即刻ぼくをシャトレから出所させること。もう一つは、マノンを生涯監禁しておくか、そうでなければアメリカに護送することである。その当時ちょうど、たくさんの浮浪者たちをミシシッピイに向けて船で送り始めていたのだ。警視総監はマノンを最初の船便で出発させよう、と彼らに約束した。
ムッシュウ・ド・G…M…と父はその足でいっしょにぼくのところへきて、ぼくが自由の身になった、というニュースを伝えてくれた。ムッシュウ・ド・G…M…は、今までのことについて礼儀正しく挨拶をし、ぼくがこんなりっぱな父親をもったしあわせを祝福し、今後はせいぜい父親を見習って、その教えを守るようにしなさい、とお説教をした。
いっぽうぼくの父は父で、ぼくが彼の家族に及ぼした、いわば悪業について彼に謝罪し、ぼくの放免について父といっしょに奔走してくれたことを感謝するように命令した。ぼくらは、ぼくの恋人の話はひと言も口にせずに、連れだって牢獄を出た。二人がいる前では、門衛に向かっても彼女のことを口に出す勇気さえなかった。
ああ! まえに門衛に悲痛な気持ちで彼女のことを頼んだのも、まったく役にたたなかったのだ! ぼくの自由放免の命令と同時に、残酷な命令が下されていたのだ。この不運な女性は、一時間後にはオーピタルへ護送されて、彼女と同じ運命を受けるべく宣告された憐れな女たちの仲間入りをしたのだ。
父は、父が逗留《とうりゅう》している家まで強引にぼくを連れていったので、父の目を逃れてシャトレへ引き返す時間をようやく見つけ出した時は、すでにほとんど夜の九時近くになっていた。ぼくのつもりでは、ただマノンに何か栄養のある食物を持っていってやり、門衛に彼女の面倒を見てくれるように頼もう、と思っていただけだった。というのは、彼女に面会させてくれなどと頼んだところで、とうてい自由にそんなことは許されなかったからである。それにまた、彼女を逃がす方法を考える時間もなかった。
ぼくは、門衛に、ちょっと話したいことがあるんだが、と頼んだ。彼は、気前よく袖の下をはずんだのと、おとなしそうな様子に気をよくしたせいで、ぼくのためにひと肌脱いでやろうという気になっていた。そしてマノンの運命のことをぼくに話したが、そんな話をするとぼくを悲しませることになるので、彼としてもマノンのふしあわせはまったく気の毒に思っている、と言った。ぼくにはこの言葉の意味が皆目《かいもく》わからなかった。ぼくらはしばらくのあいだ、双方意味のわからぬままに話を続けた。とうとう彼も、どうやらぼくに説明する必要を感じて、事情を打ち明けてくれたが、それはすでにあなたにお話ししたような、聞くだに恐ろしいような内容で、これを繰り返している今なお恐ろしくなるくらいの話だった。
どんな激しい卒中の発作でも、これ以上急激な、これ以上恐ろしい結果を引き起こすことはなかっただろう。心臓が激しく動悸《どうき》を打って倒れてしまったが、その猛烈な苦しみで意識を失ったその瞬間には、もう永遠にこの世から解放されると思ったくらいだった。意識を取り戻した時にも、頭にはいくらかこんな考えが残っていた。苦の世界に生きるという不幸な資格をまだ持っているかどうか確かめようとして、部屋中のいろいろな部分、自分の体の上に目を投げかけてみた。ただ自分の苦悩から解放されるように努力するという自然の感情に従っているだけだったが、絶望と茫然自失のこの瞬間には、ぼくには死より以上甘美なものは何ひとつないような気がした。この世に生を受けて以来、宗教でさえ、ぼくを苦しめたこの残酷な激動以上に、耐えがたいものに直面させたものはなにものもなかった。
ところが、恋にふさわしい奇跡によって、間もなく再びじゅうぶんに力を取り戻したので、神に意識と理性を返していたただいたことを感謝した。ぼくが死んだところで、自分のために役立つだけだ。マノンを自由にし、マノンを救い出し、マノンの復讐をするためには、マノンにはぼくのいのちが必要なんだ。そのために、ぼくはしゃにむに努力を重ねてみようと誓った。
門衛はあらゆる援助を惜しまなかったが、それは、ぼくにとっては友人のうちでも、いちばんの親友に期待できるようなものだった。心から感謝して、彼の尽力を受けた。
「ああ!」とぼくは彼に言った。「それじゃあ、あなたはぼくの苦しみに心を打たれたんですね? 今ではみんながぼくを見捨ててしまった。ぼくの父にしたって、おそらくもっとも残酷な迫害者のひとりになっているんですよ。だれひとり憐みの目で見てくれない。こんな酷しさと野蛮な気持ちがはびこるなかで、ただあなただけが、あなたひとりが、この世の男のうちでもっともみじめな男に同情してくれるんです!」
彼は、ぼくが今のような動揺から少し平静に帰らないうちは、街に姿を現わさないほうがいい、と忠告してくれた。
「放っておいてください、放っておいてください」とぼくは門を出ながら言った。「あなたが思っているよりも、ずっと早くあなたにお会いするようになりますよ。独房のうちで、いちばん暗い部屋をぼくに用意しておいてください。その値打ちだけの働きはしてみせますから」
結局、最初にぼくが心にきめた覚悟というのは、ほかでもない、ただ、G…M…父子と警視総監を殺《や》っつけて、次には、ぼくのこの喧嘩沙汰《けんかざた》に手を貸すことのできる連中を全部引っぱって、武器を手にしてオーピタルを襲撃してやろう、ということ以外にはなかった。ぼくの父にしたところで、ぼくの目からすれば、正義のために起つように見えたこの復讐の計画の中では、ほとんど無視されていた、というのは、門衛は、ぼくの今の苦境に手を下したのは、ほかならぬ父とG…M…だったことを、ぼくに隠さず打ち明けたからである。
ところが何歩か町へさまよい出て、外気がぼくの血と気分を冷やしてくれると、怒りもだんだんともう少し分別のある感情に変わっていった。ぼくらの敵が死んだところで、マノンのためには大して役にたちゃあしないし、おそらく、敵が死んだら、かえって、マノンを救い出す手段《てだて》をすべて失う破目《はめ》になるだろう。もとより、そんな暗殺などという卑劣な手段に訴える必要があろうか? ぼくは、まず最初にマノンの解放に尽くすために、ぼくの全力、全精神を傾注して、この重大な計画が成功するその後まで、そのほかのことは延期することにした。
ぼくの手には、もうほとんど金が残っていなかった。それにしても必要なのは資金であり、事を始めるには、まずその資金が必要だった。期待できるのは、わずかに三人の人物しかいなかった。すなわち、ムッシュウ・ド・T…、ぼくの父、それにチベルジュである。最後の二人から何かを手に入れるのはほとんど無理なようだし、もう一人の相手に、しつっこく頼んでゲッソリさせるのも恥ずかしかった。けれども、絶望の中にあっては、手心など加えてはいられない。自分の正体を見破られやしないかなどという心配もかなぐり捨てて、その足でサン・シュルピイス神学校へ出かけた。チベルジュを呼んでもらった。
彼がはじめて口をきった言葉で、彼がぼくの最近の事件をまだ知らないことがわかった。そこで、今まで考えていた、うんと同情を惹いて、彼の気分を和らげてやろう、という計画を変えた。ごく当たり前の調子で父と再会できた喜びを語り、次に、パリを出発する前にひとに知られたくないちょっとした借金を払いたいから、という口実を作って、いくらか金を貸してもらえないか、と彼に頼んでみた。彼はすぐに自分の財布を差し出した。ぼくは、財布にあった六百フランのうちから、五百フランを手に取った。彼に借用書を差し出したが、彼は実に寛大だったから、それを受け取ろうとしなかった。
そこからムッシュウ・ド・T…のところへ回った。彼に向かっては、何ひとつ隠さないで自分の不幸と苦悩を説明した。彼はG…M…の息子の事件を注意深く見守っていたので、すでに事件のごく些細《ささい》な状況まで知りつくしていた。それでも彼は、ぼくの話に耳を傾け、ぼくのことを非常に気の毒がってくれた。ぼくが彼に、マノンを救い出す方法はないか知恵を借りたい、と言って頼むと、彼は悲しそうに、救い出せる見込みはほとんどない、神の特別なご加護でもない限りは、そんな望みは捨てるべきだ、彼女がふたたび監禁されてから、わざわざオーピタルまで足を運んでみたけれども、彼でさえ自由に彼女に会う許しはえられなかったくらいだ、と答えた。
それに彼の話すところによれば、警視総監の命令はもっとも厳重なもので、最大の不幸といえば、彼女が入れられた不幸な女たちの一隊は、彼とぼくが会っていた日の翌々日には出発する予定になっていた、ということだった。
この話を聞いて、ほんとうに狼狽してしまったので、彼の話を遮《さえぎ》ろうという気にもならなかったから、彼は一時間も喋り続けることができたくらいだった。彼はさらに続けてこんなことを話した。シャトレへぼくに面会に行かなかったのは、みんなにぼくとは何の関係もないと思わせておけば、ぼくの面倒を見るにしてもずっと仕事がし易いと思ったからだった。数時間前にぼくがシャトレを出獄してしまったので、彼はぼくがどこへ姿を隠してしまったのか、その場所がわからなくてがっかりしていた。彼としては一刻も早くぼくに会って、ぼくにマノンの運命を変えることができそうに見える唯一の助言をしようと思っていたが、ただこの助言はすこぶる危険なので、彼がこれに一枚加わったことは、永久に隠しておいてほしい、といってぼくに頼んだ。つまり、マノンを護送する巡査たちが、彼女といっしょにパリを発つおりに、連中を襲うくらい度胸の坐った、腕の立つ男を数人探し出してくるのである。彼には、ぼくが無一文だなどと話すまでのこともなかった。
「ここに百ピストールある」、と彼は財布を差し出しながら言った。「なにか君の役に立つだろう。運が向いてきて君の身の回りが落ちついてから返してくれればけっこうだ」
彼はつけ加えて、もし自分の家名を気にしないで、ぼくの恋人を助け出す企てに彼みずから乗り出せたら、ぼくのために剣を執《と》って、腕力に訴えることもあえて辞さないのだが、と言った。
こうした並みはずれた寛大さを見せつけられると、ぼくは涙を流すほど感動してしまった。ずいぶん悲嘆にうちしおれていたけれども、まだいくらかぼくの心に残っていた力をすべてふり絞《しぼ》って、彼に感謝の念を表した。警視総監に取りなしを頼む方法は、もうぜんぜん望みがないものかどうか、彼に訊ねてみた。彼の話では、彼もそれを考えてみないではなかったが、そんなことをしても無駄だろうと思う、というのは、この種の恩典はなんの理由もなく願い出るわけにはゆかないし、勢力のある重要人物を仲介者に頼んだところで、それを願い出る何の理由も見当たらない。もしこの方面でなにか望みがあるとすれば、ムッシュウ・ド・G…M…とぼくの父の気持ちを変えて、二人が自分で警視総監に判決の取り消しを願い出るように二人に約束してもらうよりほかに方法がない、ということだった。
ぼくらの事件で、G…M…の息子が、彼のことを怪しいとなにか疑いを抱いていて、G…M…の息子との仲が若干《じゃっかん》冷たくなったような気もするけれども、なんとかあの男を味方に引き入れるようできるだけの努力を払って、ぼくのため尽力しよう、と彼は言ってくれた。そして、ぼくのほうからは、父の気持ちをなだめるために、できることは何でもやってみたほうがいい、と勧めてくれた。
これはぼくにとっては、なまやさしい仕事ではなかった。ただ父を説得する時に、当然起こるべき難関だけでこう言っているのではなく、ほかにももうひとつ理由があって、この理由だけでも、父に近づくのが恐ろしくなるのだった。というのは、ぼくは父の命令に背いて、父の宿を脱け出してきたし、マノンの憐れな運命を知って以来、そこへは帰るまいと固い決心をしていたのだ。ぼくには、父がぼくの意向などおかまいなく、ぼくを引き留め、同じように強引に田舎へ連れて帰るんじゃあないか、という心配があった。現に、むかし兄がこの方法を用いていた。なるほど、たしかにぼくは今ではずっと年をとっているが、しかし年齢などというものは、こうした力に対しては頼りない理由にしかならない。
ところが、この危機から逃れる方法をひとつ見つけた。それは、公の場所へ父を呼び出し、べつの名前を使って、父に会いたいと告げることである。直ちにやってみよう、と決心した。ムッシュウ・ド・T…は、G…M…の家へ行き、ぼくはリュクサンブールへ出かけて、そこからひとをやって、父の部下の貴族が父を待っている、と父に伝えてもらった。日が暮れかかっていたので、父がここへ来るのを≪しぶる≫のではないかと心配したが、それでも父は、下男を連れてすぐに姿を現わした。二人だけになれる小径へ入りませんか、と父に頼んだ。ぼくたちは口も訊かず、少なくとも百歩ばかり歩いた。おそらく父は、これだけ準備万端備えているからにはなにか重要な計画がないはずはない、と睨《にら》んでいたのだろう。ぼくが口をきるのを待ちうけ、ぼくはぼくで、どういうふうに話を進めようか考えていた。
とうとう、ぼくは口を開いた。
「お父さん」とぼくは慄《ふる》えながら言った。「あなたはりっぱなお父さんです。この上なくぼくに目をかけてくださいましたし、数限りない過ちも大目に見てくださいました。ですから、ぼくはお父さんに対して、このうえなく尊敬の気持ちを抱いている息子として、すべての感情を捧げております、神がその証人になってくださるでしょう。ところがぼくが見たところ……あなたは酷《きび》しすぎて……」
「なんだって! わしが酷しすぎるって?」と父が遮《さえぎ》った。父にすればきっと、父が我慢しきれないように、ぼくがわざとゆっくり喋っている、と思ったのだろう。
「ああ! お父さん」とぼくは言葉を続けた。「あなたが、不幸なマノンにした仕打ちは、すこし酷すぎるようにぼくには思えるんです。あなたは彼女《あれ》のことについて、ムッシュウ・ド・G…M…の口からいろいろ聞いています。あいつはマノンに憎さ余って、できるだけ悪い≪尾ひれ≫をつけてあなたに吹き込んだんです。彼女について、あなたは恐ろしい先入観を作ってしまったんです。ところが彼女は、今までにない、いちばん優しい、いちばん愛らしい女性なんです。神様は、ひと目でもいいから彼女に会いたい、という気持ちを、お父さんに起こさせてくださらないものでしょうか! 彼女はすばらしい女性です、それはもう間違いありません、お父さんだって彼女が魅力満点だ、と間違いなくお思いになるでしょう。お父さんだって、きっと彼女の味方になってくれるにちがいありません。G…M…の陰険な企みが嫌になりますよ。お父さんだって彼女とぼくに同情なさるにちがいありませんよ。そうですとも! きっとそうなりますとも。お父さんの心だって、ものに感じないわけじゃあない。きっと気持ちを和らげてくださるでしょう」
父は、すぐには語りおえそうもないほど熱っぽい調子で喋るぼくを見て、もう一度遮った。こんなにのぼせ上がって話しつづけるぼくを見て、結局は何を言いたいのか知りたがった。
「ぼくの命を助けてください」とぼくは答えた。「ひとたびマノンがアメリカへ向けて発ってしまったら、ぼくはもう、一瞬だって生きていることはできません」
「いや、いかん!」と父は酷しい調子で言った。「叡知《えいち》もなく、名誉もないお前の姿を見るくらいなら、お前の死に目に会うほうがよっぽどましだ」
「もうそれ以上言わないでください」とぼくは父の腕をとらえて叫んだ。「この憎らしい、耐えられないいのちをどうか奪ってください。だって、こんな絶望の中に投げ込まれては、ぼくにとっては、死はむしろ恩恵なのです。それこそ、父親の手から贈られるにふさわしい贈り物なんです」
「わしがお前に与えるものは、お前にふさわしいものだけだ」と父が言葉をついだ。「わしは大ぜいの父親を知っているが、みずからお前の死刑を執行するために、こんな永いあいだ待ったものは、おそらくほかにはあるまい。が、とにかく、お前をダメにしてしまったのは、あんまり甘やかしすぎたからだ」
ぼくは父の膝に身を投げかけて、その膝をかき抱きながら言った。
「ああ! もしお父さんにまだ優しい気持ちが残っていたら、ぼくが流す涙に対して、そんな頑固なことをおっしゃらないでください。考えてもください、ぼくはお父さんの息子なんですよ。ああ! お母さんのことを思い出してください。お父さんは、あんなに優しくお母さんを愛していましたね! そのお母さんがお父さんの腕から奪われたとき、お父さんはきっと苦しまれたでしょう? いのちを賭けても、お母さんを守ろうとなさったでしょう。ほかの者はお父さんと同じような気持ちにならない、とおっしゃるんですか? 愛情というものが、苦悩というもが、どんなものかということをひとたび身をもってお知りになりながら、なおそんな情《なさけ》知らずでいられるものでしょうか?」
「お母さんのことは、もうそれ以上は言うな」とイライラした口調で父が言葉をついだ。「そんなことを思い出せば、わしの怒りの火に油を注ぐだけだ。もしお母さんがもっと永生きをしてお前のそんな姿を見たら、お前の不身持ちはお母さんを死ぬほど苦しめたにちがいない」
「そんな話はもうやめよう」と父がつけ加えた。「わしにはわずらわしいだけだし、わしは絶対にこの決心を変えやしないぞ。わしは宿へ戻る。わしは命令するぞ、さあ、わしについて来い」
ぼくをおびえさせるような、頑《かたく》なな、そして乾いた口調で吐き出されたこの命令は、父の気持ちはけっして変わらないということを、じゅうぶんぼくに思い知らせるものだった。父が自分の手でぼくを捉えてやろうなんて気を起こしやしないか、と心配になって、ぼくは二、三歩遠ざかった。
「むりにお父さんに反抗するように仕向けて、ぼくの絶望を深くしないでください」とぼくは言った。「お父さんについてゆくことはできません。お父さんがぼくに対してなさったようなむごい仕打ちを受けては、もうぼくは生きてゆくことも、お父さんについてゆくこともできません。ですから、ぼくはお父さんに永遠のお別れを申します」
「まもなく、お父さんはぼくが死んだという噂を耳にされるでしょう」とぼくは悲しそうにつぶやいた。「そうすれば、お父さんだって、ぼくに対して父親らしい感情をとり戻されることでしょう」
父と別れようとして背を向けると、父は激しい怒りをこめて叫んだ。
「それじゃあ、わしについてくるのを嫌だと言うんだな? よし、行け! 破滅の淵へ急ぐがよい。親に背いた、忘恩の息子よ、さようなら」
「さようなら」とぼくは興奮して言った。「さようなら、父親の慈愛を忘れた、情《なさけ》知らずのお父さん」
すぐにリュクサンブールを出た。猛《たけ》り狂ったように道を歩き、ムッシュウ・ド・T…の家までいった。歩きながら、ぼくは全能の神のご加護を願おうとして、眼を空に向け両手を差し上げた。
「ああ、神よ!」とぼくは言った。「あなたも人間ども同様に無慈悲なんでしょうか? ぼくにはもう、あなた以外に、期待する者はいないのです」
ムッシュウ・ド・T…はまだ家へ戻っていなかったが、しばらく待つうちに帰ってきた。彼の交渉も、ぼくのほうと同様にうまくいかなかった。彼は打ち萎《しお》れた顔つきで、こんな話をした。
G…M…青年は、マノンやぼくにはあんまり肚を立ててはいなかったけれども、ぼくらのために父親に頼む、という計画には乗り気ではなかった。この執念深い老人は、マノンと仲直りするつもりになるなどとんでもない、と言って息子を責め、すでにもう息子に対してひどく≪おかんむり≫だったので、老人のことが怖くて、彼はそれを断ったという。だからこうなったら、ぼくにはもう、前にムッシュウ・ド・T…がそのプランを話してくれたように、腕ずくでやるよりほかに方法は残っていない。ぼくはすべての希望をこの方法に託した。
「ただ希望といっても、あんまり確かなものじゃあありませんね」とぼくは彼に言った。「とにかく、ぼくにとっていちばんたしかな、いちばん心を慰めてくれるのは、せめてこの計画に手を下しているうちに死ぬことですよ」
約束通りぼくを援助してくれるように彼に頼んで、彼と別れた。もう、頭の中では、自分の勇気と決意の火花を感じてもらえるような、仲間を狩り集めることしか考えていなかった。
心に思い当たった最初の男は、G…M…を捉えるときに頼んだ例の近衛兵のことだった。宿をとるにも、今日の午後からあんまり気持ちに余裕がなかったので、やっぱり彼のところへ行って、その夜を過ごそうというつもりにもなった。
彼はひとりでいた。ぼくがシャトレから出獄したのを見て、彼は喜んでくれた。親切に、できることならお世話をしようと申し出てくれた。ぼくは、こんなふうにして、手を貸して欲しい、と彼に説明した。彼とても、なかなかの良識の持ち主だったから、それにはいろいろな厄介な問題が伴うことに気づきはしたが、それでもとても太っ肚《ぱら》な男だったので、そんな困難は乗り切って何とかやってみようと言ってくれた。
その夜の後の時間は、ぼくたちはこのプランを検討することに当てた。彼は、この前の事件のおりに頼んだ三人の番兵のこと持ちだし、あの連中の腕っぷしの強いことはもうすでに説明ずみだ、と言った。
ムッシュウ・ド・T…は、マノンを連行するはずになっている巡査の人数を、前もって正確に教えておいてくれた。わずかに六人しかいない。この憐れな巡査どもを慄えあがらせるには、胆っ玉の坐った断固とした男が五人いればじゅうぶんだ。なにしろあの巡査どもときたら、臆病風に吹かれて、戦いの危険を避けることができるということになれば、りっぱに守り抜こうなんてとうていできゃしない。近衛兵は、ぼくらの攻撃を確実に成功させるには、金に糸目をつけないほうがいい、と助言してくれた。
「オレたちには馬が要《い》るな」と彼が言った。「それにピストルも要るし、それにみんなひとりひとりに騎兵銃も欲しいな。そのほうの調達なら、明日、オレが引き受けて集めてくるよ。それにオレの部下にふつうの服が三着ほしいな、こんな事件に、連隊の制服でとび出すのもどうかと思うんでね」
ムッシュウ・ド・T…から受け取った百ピストールを彼の手に渡した。この金は、翌日、最後の一銭まで費《つか》い果たされてしまった。三人の兵隊がぼくの前へきて、お目見得《めみえ》した。あとでうんと褒美《ほうび》をやるからと言って連中の士気を鼓舞《こぶ》し、連中の不信の念をなくそうと、まず手始めに、連中のひとりひとりに十ピストールずつを贈ってやった。
さて、いよいよ決行の日がやってきた。早朝、兵隊のうちの一人をオーピタルへやって、巡査どもがその獲物を連れて出発する時刻を、その目でたしかめさせた。こんな慎重な配慮も、ただ心配と用心の余りにしたことにすぎなかったが、こうした配慮は絶対必要だ、ということが分かった。ぼくは、彼らの通り道について知らされていた間違った情報を当てにしていたのだ。
この憐れなグループが船に乗り込むのは、ラ・ロッシェルからのはずだ、と信じ込んでいたので、もしその通りにオルレアン街道で待ち伏せていたら、せっかくの苦心も水の泡になったことだろう。ところが、番兵からの報告によって、このグループはノルマンディ街道をとり、アメリカに向けて出発するのはル・アーブル・ド・グラースになるはずだ、と知らされたのである。
ぼくらはめいめい違った道を通るように気を配りながら、ただちにサン・トノレ門で落ちあった。城外の一隅に集まった。馬は溌刺《はつらつ》としていた。時を移さず、二年前にあなたがパッシイでごらんになった、あの六人の巡査とみすぼらしい二台の馬車を見つけた。この情景を見て、ぼくはあぶなく全身の力が抜け、意識を失うところだった。
「ああ、運命よ」、とぼくは叫んだ。「残酷な運命よ! せめて今ここで、死か、勝利かを与えたまえ」
しばらく、ぼくらはどういう攻撃法をとろうか、と相談した。巡査どもは、今はもうほとんどわれわれの前四百歩ほどのところまで来ているし、まわりを大きな畑に囲まれた、小さな畑を横切って行けば連中の行く手をさえぎることができた。近衛兵は、連中の不意をついて、一挙に襲いかかるにはその方法をとるべきだと主張した。ぼくも彼の考えと同じ意見で、馬に拍車を入れたのはぼくが最初だった。
ところが、運命はぼくの希望をみじめにはねつけてしまった。騎馬の五人が彼らに駆け寄ると見るや、巡査どもは、これは疑いなく自分たちを攻撃にきたのだ、と思った。彼らは、決然たる態度で銃剣と銃を構えて、防御の態勢を備えた。これを見て近衛兵とぼくは意気ますます軒昂《けんこう》となるばかりだったが、三人の腰抜けの仲間は、とつぜんに戦意が阻喪《そそう》してしまった。まるで言い合わせたように立ち停まり、こちらには聞こえない声で、彼ら同士で二言三言、言葉を交わすと、馬首を転じて一目散にパリへの道を引き返した。
「ちきしょうめ」と近衛兵が言った。この意気地のない敗走ぶりを見て、ぼくと同じように呆然としているようだった。
「さて、これからどうしよう? オレたちはたったの二人だぜ」
ぼくは怒りと驚きのために、声も出ない有様だった。ぼくを見捨てて逃げた卑怯者どもを追跡して懲罰《ちょうばつ》を加えるほうを、最初に下す復讐とすべきではないかどうかと迷ったまま、心を決めかねていた。彼らが逃げ去るのを眺め、一方では巡査どもに目を転じた。もし自分の体を二つにさくことができたなら、怒りにまかせて、同時にこの二つの目標に襲いかかって行ったにちがいない。その両方に同時に突進したことだろう。近衛兵はぼくの目が落ちつきなく動くのを見て、心の迷いを読み取り、彼の忠告を聞いてくれ、とぼくに頼み、こんなことを言った。
「わずか二人だけで六人の相手を向こうに回そうなんて、狂気の沙汰だぜ。相手はオレたちと同じ武器を備えているし、ガッチリこちらを待ちうけているみたいだからな。パリへ引っ返して、もっと腕っぷしのたつやつを選んで、さらに成功を期したほうがいいぜ。なあに、巡査どもは二台の重い馬車を引きずってるんだから、追いつけるとも。一日にそうたいした行程《みちのり》は行けやしないよ。明日は造作なく追いつけるとも」
こう決心をしたほうがいいかどうか、しばらく考えてみたが、どう見ても結果は絶望的なものとしか思えなかったので、もうほんとうに希望のない道を選ぶことに決めた。というのは、仲間になった近衛兵にその尽力を感謝して、巡査どもを襲撃することなどサッパリ諦めて相手に降伏し、彼らのグループに加えてもらって、ル・アーブル・ド・グラースま連中といっしょにマノンと同行し、ついで彼女ともども海の向こうへ渡るのを許してもらうように頼みに行こう、と決心したのである。
「みんながぼくを迫害するか、そうでなければ裏切るんだ」とぼくは近衛兵に言った。「もうだれも頼りにしないよ。幸福も、ひとの援助も、もう何も期待しないよ。ぼくの不幸はここに極まれり、というところだ。残された道といえば、もう不幸に身を屈することだけなんだ。だから、ぼくはあらゆる希望に目をつぶるよ。君の親切には神が報いてくださるといいね! さようなら、ぼくはこれから、自分の不運に手を貸しに行き、自分の破滅の最後の仕上げをしてくるよ、みずから喜んで破滅の淵に駆け寄ってね」
彼は一生懸命、パリへ引き返すようぼくを説得したが無駄だった。自分の決心した通りにさせてくれと彼に頼み、また、巡査どもが相変わらずぼくらがまだ連中を攻撃するつもりだ、などと思われるのが心配だから、すぐにぼくと別れてくれ、と頼んだ。
ただひとり巡査どもの方へ行った。足どりはノロノロし、顔つきはゲッソリしていたので、ぼくが近寄っても、連中はもうちっとも怖ろしそうな様子はしていなかった。それでも、彼らは守備の態勢を固めていた。
「安心してください、皆さん」とぼくは彼らに近寄りながら言った。「喧嘩を売るつもりで来たんじゃあありません、お願いすることがあってきたんです」
彼らに心配せず道を続けるように頼み、そして歩きながら、こんなことをお願いしたいんだと話した。連中は、この交渉をどう受けとったものか、額を集めて相談していた。
隊長株の男が、ほかの連中を代表して口をきった。その男の返辞はこうだった。彼らが受けている、囚人どもを監視しろという命令はすこぶる厳格なものであった。それでも、連中の見たところ、ぼくがなかなか美青年なので、彼もその仲間も監視の目を少しばかりゆるめてもいい。ただそれには少々金がかかることだけは判ってもらわなければならない、というのだった。≪ふところ≫には十五ピストールばかり残っていた。ぼくは、自分の財布の底をはたいてどれだけあるか、隠さずに言った。
「へーえ、なるほど!」とその巡査がぼくに言った。「それだけありゃあ、わしらもたっぷりうるおうってもんだよ。この女どものうちで、あんたにいちばん気に入った≪たま≫と話をするのに、一時間について一エキュ頂戴しますぜ。これがパリじゃあ相場なんでね」
ぼくは特別にマノンの名を口にしなかった、というのは、ぼくの気持ちとしては、連中にぼくの情熱を知られたくなかったからである。連中ははじめのうちは、こんな女たちを相手に、少しばかり暇つぶしをしてみたいという、若い男にありがちなただの酔狂《すいきょう》にすぎないものと思っていた。ところが、ぼくが恋いこがれていると気づくと、連中は袖の下の金額をつり上げて、ぼくたちが泊まったマントを出発してパッシイへ着いた頃には、おかげでぼくの財布はすっかり空っぽになってしまった。
その途中、マノンと話し合った会話の内容がどんなに哀れなものだったか、あるいは、巡査どもから、彼女が乗っている馬車に近づく許可を得たとき、彼女のみじめな姿がぼくにどんな印象を与えたか、なにも改めて申すまでもないでしょう。ああ! たとえどれほど説明したところで、ぼくの心情はただの半分も語り尽くせないでしょう。
しかし、どうか想像していただきたい。ぼくの哀れな恋人が胴のところを鎖でつながれて、いく掴《つか》みかの藁《わら》の上に腰をおろし、馬車の脇の板にものうそうに頭を預け、両眼はずっと閉じたままでいるのに、睫毛《まつげ》ごしに小川をなして流れる涙に濡れた蒼白い顔。巡査どもが襲撃を恐れて声をあげるのが聞こえても、彼女には目を開けて見ようという好奇心すら湧かないのだ。肌着はうす汚れてしどけなく、きゃしゃな両手は外の空気にさらされて傷めつけられていた。つまり、あのみごとな肉体のすべてが、全世界の偶像となってひとびとの目を惹いたこの顔が、言葉ではとうてい言い尽くせないほどの、投げやりな沈みきった姿に見えたのである。
ぼくは馬に乗ったまま馬車の脇へ行き、しばらくじっと彼女の姿を見つめた。ほとんど心ここにあらず、といった状態だったので、何度もあやうく落馬しそうになった。あまりしばしばぼくが溜息をつき叫び声をあげたので、彼女は何度かぼくに視線を投げかけた。ぼくに気がついた、そしてぼくのほうへ駆け寄ろうとして、馬車の外へ飛び出そうと最初の反応を示したことにぼくは気がついたが、しかし鎖で体を引っぱられて、はじめの姿勢のまま倒れてしまった。
お願いだから憐れと思って、しばらく馬車を停めてくれ、と巡査どもに頼んでみた。連中は欲深く金をせびったあげく、ようやく承知してくれた。馬を下りて彼女の側に跪《ひざまず》いた。彼女は、しばらくは口を訊くことも、両手を動かすこともできないくらい、けだるそうな様子で気落ちしていた。そのあいだ、ぼくの涙で両手を濡らしていたが、ぼく自身もものが言えなかったので、ぼくらは二人とも今までまったく例がないほど、この上なく情ない心情を抱いて向き合っていた。ようやく二人とも自由に口が訊けるようになると、二人の言葉はいっそう憐れなものになった。
マノンはほとんど語らなかった。恥辱と苦悩にさいなまれて、声帯をいためてしまったにちがいない。彼女の声は力なく震えていた。彼女はぼくが彼女を忘れなかったこと、彼女に与えたしあわせ、溜息まじりに言う彼女の言葉によれば、せめてもう一度ぼくに会い最後のアディユーを言いたいという望みをかなえてくれたしあわせをぼくに感謝した。
しかし、たとえどんなことがあろうと、ぼくを彼女から引き離すことはできない、彼女の世話をするために、彼女に力を添えるために、彼女を愛するために、ぼくの惨めな運命と彼女の運命とをしっかりと離れないように結びつけるために、世界の果てまでも彼女のあとを慕ってゆくつもりだ、と言って彼女を安心させてやると、この哀れな女性は、とても優しく、またとても悩ましげな感情に身を委《まか》せたが、こんな激しい感動に包まれた彼女を見て、ぼくは彼女の生命になにか危険なことでもあるのではないか、と心配してしまうほどであった。彼女の魂の動きのひとつひとつが、その両眼に集められているように見えた。ぼくにじっと視線をそそいでいた。ときどき口を開いたが、なにか二言三言《ふたことみこと》言いかけても、その言葉を終《しま》いまで言う力がなかった。それでも、いくつかの言葉が彼女の口から洩れた。それはぼくの愛情についての讃美と、限りない愛情に対する甘い嘆きと、ぼくの胸中にこんな完全な情熱を呼びさましたなんてあまりにしあわせ過ぎはしないか、という疑いの言葉であり、そして、彼女のあとを慕ってゆくなどという気持ちは捨てて、よそへ、もっとぼくにふさわしいしあわせを求めに行ったほうがいいと言い張り、彼女といっしょにいたら、とてもそんなしあわせは望むことはできないと言うのだった。
あらゆる運命のうち、もっとも苛酷な運命をもものともせず、彼女の眼差《まなざし》のうちに、彼女の愛情はぼくのものだという確信を抱いて、ぼくはみずから満足するのだった。事実は、人々がこれはりっぱだと評価するものを、ぼくはすべて失ってしまった。しかし、自分でもっともすばらしいたからと評価する唯一のもの、すなわち、マノンの心を征服したのだ。ヨーロッパで生きようがアメリカで生きようが、もし恋人と手を執り合ってしあわせに生きてゆけることが確実ならば、どこで生きようがそんなことはぼくにとって何の関係があろうか? 忠実な二人の恋人にとっては、世界じゅういたるところ祖国ではなかろうか? 二人の心の中にそれぞれ、父も、母も、親戚も、友だちも、富も幸福も住んでいるのではなかろうか? ぼくの不安の≪もと≫になるものがぼくにあるとすれば、それは貧窮にさらされたマノンの姿を見ることである。ぼくはすでに野蛮人の住む、未開の地に彼女とともに生きる自分の姿を想像していた。
「まちがいないとも」、とぼくは言った。「あちらにはG…M…やぼくの父みたいな残酷な人間はいないよ。少なくとも、みんなぼくらを平和に生活させてくれるさ。あちらの野蛮人についての見聞談がほんとうなら、彼らは自然の法則に忠実なんだ。彼らはG…M…の心に巣喰っているような、怒りっぽくて欲ばりな気持ちも、ぼくと父を仇《かたき》同士にしてしまったような途方もない名誉心も知りゃあしない。彼らと同じような簡素な生活をしている二人の恋人同士を見たって、彼らはべつに邪魔しようとも思わないだろう」
だから、この問題については安心していられた。だが生活一般のいろいろな要求については、小説じみた考えを抱くわけにはいかなかった。今までに、ずいぶんたびたび経験したことだが、不可欠の必要品というものがあるし、気楽な、贅沢な人生に慣れたデリケイトな女性にとっては、とりわけそうだった。ぼくは自分の財布を無益に費い果たしてしまって、望みの綱を断ち切られた思いだったが、財布に残っているわずかなお金までも、さらに巡査どものペテンによってぼくの手から奪われかかっていた。ちょっとした金額があれば、お金に稀少価値のあるアメリカでは、しばらくのあいだ貧乏生活をしなくてもすむばかりでなく、永いあいだ腰を据《す》えていられるように、なにかの事業を手がけることさえできるとぼくは思った。
こう考えてみると、ぼくの心には、チベルジュに手紙を書こうという考えが湧いた。チベルジュといえば、以前にもいつも、実に手早くぼくに友情の援助の手を差し伸べてくれたではないか。ぼくは、道中の最初の町から手紙を出した。これからル・アーヴル・ド・グラースへ行くはずだが、今の予定ではここで急に必要なことができそうなので、という以外には何の理由も知らせなかった。ただ、マノンを連れてゆく、ということだけは彼にも打ち明けておいた。ぼくは百ピストール欲しい、と言ってやった。
「郵便局長を通じて、ル・アーヴルでその金をぼくの手に渡るようにしてくれたまえ」とぼくは書いてやった。「君にはよくわかるだろうが、君の友情に訴えるのはこれが最後だし、不幸な恋人が永久にぼくの手から奪い取られそうなので、彼女の悲運や、ぼくの死ぬほどの悔悟の念を和らげてくれるようななんらかの援助をしないで、手をこまぬいて彼女を発《た》たせるわけにはいかないのだ」
ぼくの情熱の激しさに気がつくと、巡査どもは実に扱いにくくなり、ちょっとした好意を見せてくれただけで袖の下を、続けて倍に倍にとつり上げて、まもなく連中はぼくを貧窮のどん底まで追いやってしまった。もとより、愛情というものは、財布の紐《ひも》などほとんど気にしてはくれないものだ。ぼくは朝から晩までマノンのそばにつきっきりで我を忘れていたし、もうこうなると、時をはかるのは時間ではなく、一日一日の夜明けから日暮れまでの永さだった。とうとうぼくの財布がすっかり空になると、ぼくは、我慢ならない横柄さでぼくを扱う、あの六人の無情な男たちの気粉れと粗暴な態度に身を委せることになった。
そういえば、あなたはパッシイでそれを目撃なさいましたね。あなたにお会いできたのは、運命がぼくに与えた、寸時のしあわせな休息でした。ぼくの悩みをごらんになって、あなたが同情してくださったのは、あなたのご親切な気持ちとともに、ぼくにとっての唯一の加護ともいえるものでした。あなたが寛大な気持ちで援助をしてくださったおかげで、ぼくはル・アーブルへ辿《たど》りつくことができ、巡査どもも思ったより以上に忠実に彼らの約束を守ってくれたのです。
われわれはル・アーブルへ着いた。まず最初に郵便局へ出かけた。チベルジュには、まだぼくに返辞を書くだけのゆとりがなかった。ぼくは、彼の手紙は正確にいつ受けとれるだろうか、と訊ねてみた。手紙は二日後にようやく着くはずだったし、ぼくの不運の奇妙な暗合から、ぼくの船は、待っている郵便の定期便が到着する日の朝、出帆するはずになっていた。その時のぼくの絶望的な気持ちは、なんと表現したらいいものだろう。
「何だって!」とぼくは叫んだ。「また同じような不運に見舞われたのか、いつも、ぼくは極端に、ひとと別扱いされなければいけないのだろうか!」
するとマノンが答えた。
「ほんとうに! こんな惨めな人生は、あたしたちが一生懸命気をもむ甲斐もないんじゃないかしら? いっそ、ル・アーヴルで死にましょうよ、あたしのシュヴァリエ。死んでしまえば、あたしたちの不幸もいっぺんに終わってしまうわ! この不幸を、見知らぬ国まで引きずって行くんですの? だってみんなあたしを苦しめたがっているんですもの、あちらへ行っても、きっと底知れぬ恐ろしい生活があたしたちを待ち受けているはずじゃあないかしら?」
「ね、死にましょう」と彼女は繰り返し言った。「それがいやならば、せめてあたしを殺して、そしてあなたは、もっとしあわせな恋人の腕の中で違った運命を求めるようになさって」
「いや、いやだ」とぼくは言った。「君といっしょに不幸になるのは、ぼくにとってはふさわしい運命で、むしろ望むところなんだ」
彼女の言葉を聞いて、ぼくは震えた。彼女が不幸に圧《お》しつぶされているのがわかった。ぼくは、彼女から死だの、絶望だのという不吉な観念を一掃しようと、もっと落ちついた態度をとるように努力した。この先もずっと同じような態度でゆこう、と決心した。後になって感じたことだが、ひとりの女性の心の中に勇気をふるいたたせるには、彼女を愛する男の大胆な気持ち以外には、もはや何も不可能である。
チベルジュの援助を受けられるという望みがなくなったので、ぼくは馬を売り払った。馬を売って得た金は、あなたのご親切のおかげで、まだぼくの手に残っていた金と合わせて、小額ながら十七ピストールばかりになった。マノンの気持ちを慰めるためのものをいくらか買い備えるために、そのうち七ピストールを費い、他の十ピストールは細心の注意を払って身につけておいたが、これはアメリカでのぼくらの幸運と希望の資本として残しておいたのだ。
船に乗せてもらうには、何の造作もいらなかった。当時はみずから望んで、植民地へ渡りたいという希望をもった青年たちを求めていたのである。船賃も食費も無料だった。パリ行きの郵便は翌日出発するはずだったので、チベルジュ宛ての手紙を預けておいた。この手紙は感動的であり、おそらく心の奥底まで彼の気持ちを和らげたであろう。というのは、この手紙を読んで、彼は、不幸な友人に対する底知れぬ愛情と、心の寛《ひろ》さがなければ決めることのできないような決意をしたからである。
ぼくらは出帆した。ぼくらの船のために、風は終始順調に吹き続けていた。ぼくはマノンとぼくのために、船長に特別席をしつらえてもらった。彼はしごく親切で、ぼくらの≪つれ≫のしもじもの連中を見るのとは、違った目で見てくれた。ぼくは第一日目から、船長をひとりだけ別に呼んで、船長にある程度の敬意を抱かせようとして、ぼくの不幸な境遇の一部を彼に打ち明けておいた。マノンと結婚していると言ったからって、べつに恥ずべき嘘をついて罪になるなどと思っていない。彼はその嘘を信じたふりをして、ぼくらを保護してやると約束をした。航海中ずっと、彼からいくつもその証拠を見せられたものだった。彼は気を使って、ぼくらにはなるべくよい食事を出すようにしてくれたし、船長が一目《いちもく》おいてくれたので、ぼくらと同じ不幸な仲間にまで、ぼくらを尊敬しようという気にさせた。
マノンがどんな些細なことでも不愉快な思いをしないように、ぼくはたえず気を配っていた。彼女のほうもそれにはよく気づいていたし、そしてぼくをそういうふうに見る目が、彼女のために余儀なく異国の果てまでぼくが飛び込んで行くことになったことへの激しい感謝の念と結びついた。この気持ちは、彼女を実に優しく、実に情熱的に、ごく何でもないぼくの要求にもとても気を配っていたので、もはや彼女とぼくのあいだでは、奉仕と愛情が絶え間なく競い合っていた。
ヨーロッパには心残りはなかった。反対に、アメリカのほうへ近づけば近づくほど、心が大きくふくらみ、落ちついてくるような感じがした。もし、生きてゆく上に絶対必要なものに不足することはない、と確信できたならば、ぼくは自分たちの不幸を、こんなに都合よい人生の道に転換させてくれたことを、運命に感謝したにちがいない。
二カ月の航海ののち、とうとうぼくらは望みに望んだ海岸に上陸した。ひと目見た限りでは、この国はぼくらの気持ちを晴ればれさせるものは何ひとつなかった。それは不毛の、だれも住む者もない荒野で、わずかにいくらかの葦《あし》と、風に吹きさらされて裸になった数本の木々が見えるだけだった。人が住んだ跡も、けものの影もまったく見当たらない。
ところが、船長が船に積んだ大砲を何発か射たせると、しばらくして、ヌーヴェ・ロルレアン〔現在のニュー・オーリーンズ。一八〇三年、アメリカに売り渡される〕の市民たちの一団が見えた。彼らは心から嬉しそうな様子で、われわれに近づいてきた。ぼくらの目には町は見えなかった。町は、反対側の小さな丘の向こうに隠れていたのだ。ぼくらは、天より降り立った人のような大歓迎を受けた。この哀れな住民たちは、ぼくらのところへひしめき寄ってきて、フランスの情勢やら、彼らの生まれたさまざまな地方について、はてしない質問を連発するのだった。彼らの貧しい生活や孤独を分かちあう兄弟のように、親しい仲間のようにぼくらを抱擁するのだった。
ぼくたちは、彼らと連れ立って町へ通じる道を歩いていったが、進むにつれて、それまで彼らが、りっぱな町だ、と自慢げに言っていたものが、実はみっともないあばら家の寄せ集めにすぎないことがわかって、びっくりしてしまった。これらのあばら家には五、六百人の人間が住んでいた。総督の家は、家の高さから見て、そして家の建った場所から見て、ぼくらの目にも少々違っているように見えた。その家はいくつかの土をこねて造った外壁で守られ、そのまわりには広い壕《ほり》がめぐらされていた。
まず総督に紹介された。彼は船長としばらくヒソヒソばなしをしていたが、ついでぼくらのところへ戻ってくると、船で着いた娘たち全部を、一人一人じろじろと見て検《しら》べた。女たちは全部で三十人いた、というのは、ぼくたちはル・アーヴルでべつのグループと会い、このグルーブといっしょになったからである。総督は永い時間かかって女たちを検べ終わると、お嫁さんを待ちこがれていた町の青年を幾人か呼びにやった。総督は重要人物には数人のいちばんきれいな女たちを与え、残りの青年たちは籤《くじ》を引かせた。彼はまだマノンにはひと言も言葉をかけなかったが、ほかの一同に、もう引き取ってもよい、と言ってから彼女とぼくのほうへやってきた。
「船長から聞いているが」と彼はぼくらに言った。「君たちは結婚しているそうだね、それに航海中、船長が見たところでは、君たちは二人とも見識も備え、見所《みどころ》もある人物だということだ。君たちの不幸を招いた原因まで、わしは立ちいってどうのこうのとは言わないつもりだが、君たちは外見はいかにもりっぱだし、見かけ通りに処生術も心得ているなら、わしとしても君たちの不運を和らげるためには労を惜しみはしないつもりだよ。だから君たち自身も、この野蛮な荒れ果てたところで、何か楽しみを見つけ出すように努力したらいいと思うがね」
ぼくは、彼がぼくたちに対して抱いている気持ちを裏づけるのに、もっともふさわしいような物腰で彼に返辞をした。彼は、ぼくらのために町に宿を準備するように二、三の命令を下し、そして彼といっしょに夕食をしてゆかないか、とぼくらを引き留めた。ぼくには彼という人間が、不幸な追放者の頭領として、いかにもふさわしく礼儀作法をいろいろと心得ているのがわかった。ぼくらの事件の立ち入った事柄については、公然とは質問しなかった。会話はごくありきたりの話題で、心に悲しみを抱きながらも、マノンとぼくは話題を楽しいものにしようと努力したものだった。
日が暮れると、彼はぼくらのために用意されていた宿に案内させた。ぼくらの目に映ったのは、一階に二つ三つの部屋があり、その上に物置がついた、板と泥でできたみすぼらしいあばら家だった。そこには五、六脚の椅子と、二、三の生活に必要な品々が置いてあった。マノンはこのみじめな住居をひと目見て、思わずゾッとした風だった。彼女が心を傷めたのは、彼女自身のためというより、ぼくのためを思ってのことだった。
二人きりになると彼女は腰を下ろして、いかにもつらそうな様子で泣きはじめた。はじめは彼女を慰めようとした。しかし彼女は、あたしがこんなに嘆くのは、ぼくのことを思うためで、ぼくら二人をともども襲った不幸にさいなまれて苦しまなければならないのはぼくのほうだ、ただそればかりが気掛りだと語るのだった。そんな言葉を聞くと、彼女の気持を引き立てようとして、ぼくはいかにも勇ましそうな様子や、楽しそうな態度さえ見せるようにわざと振舞った。
「ぼくのために何を嘆くことがあるんだい?」とぼくは彼女に言った。「ぼくは欲しいと思ったものはすべて手に入れたよ。君はぼくを愛してくれる、そうだね? この先、ほかにどんな幸福を捧げようというんだい? ぼくらの運命のことなら、神の手に委せようじゃあないか。その運命にしたって、それほど望みがないとは思えないんだけれどね。総督はなかなか礼儀正しい人物じゃないか。ぼくらに敬意を見せてくれたしね。必要なものに事欠くのを、平気で眺めているようなひとじゃないよ。こうしてみると、ぼくらの家がみじめだからって、家具が粗末だからっていっても、ここにはぼくら以上にりっぱな家に住み、りっぱな家具を備えている者はほとんどない、それは君にだって気がつくはずだろ。その上ね、君ときたらすばらしい化学者なんだからな」と彼女を抱きしめながらつけ加えた。「君ならどんなものでも黄金に変えてしまうよ」
「それじゃあ、あなたは世界一のお金持ちだわ」とマノンが答えた。「だって、あなたの愛情と同じような愛情はぜったいないわ、それにあなたが愛されていると同じように優しく愛されることは、とうていできませんもの」
「あたしははっきり言うわ」と彼女は続けた。「あたしようく判るんだけど、あたしみたいな女は、あなたがあたしに抱いてくださるような、あんなすばらしい愛情には、とうていふさわしくない女なのよ。ずいぶんあなたの苦しみの種を播《ま》いてきたわ、限りない寛大な気持ちがなければ、とうていあたしを許すことなどできないような苦しみの種を。軽薄で、移り気だったわ、いつもいつもそうだったわ、そして、あなたを狂ったように愛しながらも、ただの恩知らずな女だったのよ。でも、おそらくあなたにも、どれほどあたしが変わったかおわかりにならないと思うわ。あたしたちがフランスを発《た》って以来、しょっちゅうあたしが流していた涙は、ただの一度だって自分の不幸のために流したんじゃあないのよ。あなただってごらんになったでしょう。あたしね、あなたがあたしの不幸を分かち合ってくださるようになった初めから、すぐにもう自分の不幸など感じないようにとつとめているのよ。あたしはただあなたに対する愛情と共感のためにだけ涙を流しているのよ。あたしの生涯のうち、ただの一瞬でもあなたを悩ませたと思っただけで、あたしはどうしても諦めきれない気持ちだわ。あたしは相変わらず、移り気な自分を責めるのをやめられないし、それに、不幸な女に対する恋のためなら、どんなことでもなさろうというあなたに驚嘆しながらも、つい涙もろくなってしまうの。だいいち、そんな愛情にふさわしくない女なのよ」と彼女は涙に浸りながらつけ加えた。「たとえ体じゅうの血を全部流したところで、あなたに味わわせた苦悩の半分も償《つぐな》えないと思うわ」
彼女の流した涙、彼女の言葉、そしてそれを口にする調子は、ぼくに驚くほど激しい印象を与え、ぼくの魂は張りさけるような苦しみを感じた。
「気をつけてくれ」とぼくは言った。「気をつけてくれ、可愛いいマノン。君の愛情のそんなに激しい言葉に耐えるだけの力はぼくにはないんだ。それにこんなすばらしい喜びだって、ぼくには始めてのことだよ」
「ああ、神よ!」とぼくは叫んだ。「もうこれ以上、何もあなたに望みません。ぼくはマノンの心を確実に掴《つか》んだのです。しあわせになろうとして望んだとおりになったのです。こうなれば今はもうしあわせでなくなることはないでしょう。今こそ限りない幸福が、しっかりと根を下ろしたのです」
「あなたにとって、しあわせがあたし次第でどうにでもなるというなら、まちがいなくしあわせだわ」と彼女が言葉をついだ。「同じように、あたしも、どこで自分の幸福を掴もうとすればいいのかわかりましたわ。あたし、すばらしいことを考えながら寝《やす》んだのよ、こう考えていると、あたしのあばら家も世界第一の王者にふさわしい宮廷に変わるのよ。こうなると、アメリカだってあたしにはまるで桃源境《とうげんきょう》のように見えるわ」
「愛情のほんとうの旨味《うまみ》を味わいたいと思ったら」とぼくは一度ならずマノンに言うのだった。「ヌーヴェ・ロルレアンに来るにかぎるよ。ここならば、人間は利害も忘れ、嫉妬もなく、移り気も捨てて愛し合えるよ。ぼくらの同国人はここへ黄金を求めてやってくる。彼らは、ぼくたちがここへ来て、それよりもっともっと貴重な宝を見つけたなんて、考えてもいないよ」
ぼくらは注意深く総督との友情に気を配っていた。彼はぼくらが到着して数週間すると、親切に、ちょうど砦《とりで》で空いていた、ちょっとした職にぼくを就《つ》けてくれた。目立って派手な職ではなかったが、ぼくはこれを神の恩恵として受け入れた。この職のおかげで、だれにも面倒をかけずに生活してゆけるようになった。自分には下男を、マノンには女中をひとり傭《やと》った。
こうしてぼくらの小さな幸福のお膳立ては備わった。ぼくは生活態度をキッチリと決めた。マノンもぼくに劣らず態度を改めた。ぼくらは隣人の面倒を見たり世話をやいたりするチャンスは逃がさず、ひとに尽くした。こんな世話好きの態度や、物静かな立居振舞が植民地じゅうの信頼と愛情を、ぼくらの上に集めた。いくらもたたないうちに、ぼくらは総督に次ぐ重要な人物とひとに目《もく》されるほど、みなの敬意の的《まと》となった。
ぼくらの仕事は無害潔白なものだったし、その後も相変わらず平穏な生活を続けていたので、おかげでそれと気づかないうちに、ぼくらの心に宗教的な気持ちを喚《よ》び起こすことになった。マノンにしても、けっして不信心な女性ではなかった。ぼくだってべつに、風俗の堕落に無宗教まで加えて得意然としているようなずばぬけた放蕩者というわけでもなかった。不行跡はすべて、愛と若さのなせるところだった。そろそろ経験がものをいって、年齢の代わりになり始めていた。ぼくらにとっては、経験が年齢と同じ結果をもたらしたのだ。いつも相変わらず、昔の思い出を繰り返すようなぼくらの会話は、気がつかないうちに道徳的な愛情の味を教えくれた。マノンにこの心情の変化を言い出したのは、ぼくのほうが先だった。ぼくには彼女の心の主な動きがわかった。彼女はあらゆる感情が卒直で自然で、つねに美徳に向かっていこうという気持ちを持つという長所がある。ぼくらの幸福は、不足しているものがひとつある、ということを彼女に分かってもらった。
「つまりだね、不足しているものといえば、神にぼくらの幸福を認めていただくことなんだ」とぼくは彼女に言った。「ぼくらは二人とも、あまりに美しい魂の、あまりにりっぱな心情の持ち主だから、義務を忘れて平然と生きてゆくなんてとうていできないよ。フランスでの生活ぶりはもう忘れよう、フランスにいた時には、お互いに愛し合うのを諦めることも、正道を歩いて満足することも、どちらもできなかったんだからね。ところがアメリカなら何事もぼくらの気持ちのままだし、階級だの、自己満足などという横暴きわまる法則に膝を屈する必要ももうないんだ、ここではみんなぼくらが結婚している、とさえ思っているし、ほんとうに結婚していて、宗教に課された誓いによって、ぼくらの誓いをよりいっそう高尚なものにしようとしても、いったいだれが邪魔をするというんだい?」
「ぼくにとってはね」とぼくはさらに言葉を続けた。「ぼくの心と手を君に差し出しているんだから、これ以上何も君に捧げる新しいものはないんだ、しかしね、君のために、祭壇のもとで、もう一度新しく捧げものをしようと思っているんだ」
「アメリカへ来てから」と彼女が答えた。「あたしがどれほどそのことを考えたとお思いになって? あなたのご機嫌をそこねやしないか心配だったので、その望みをいつも心の中へ蔵《しま》っておいたのです。どうしてもあなたの奥さんになりたいというほど、あたしは厚かましくないんですもの」
「ああ! マノン」とぼくは続けた。「もし神様がぼくを王者として生んでくれたら、君はまもなく王妃になれるよ。もうためらうことはない。心配しないでもいい、邪魔なことは何ひとつないんだ。今日にでも総督にこの話をして、今日まで彼に嘘をついていたことを打ち明けよう。なあに、結婚がぜったいに解けない鎖だなんて心配するのは、ありきたりの恋人どもに任しておけばいいんだ」とぼくは言った。「連中にしたって、ぼくらと同じように、つねに確実に愛のきずなをつけていようという気があれば、なにも心配するには当たらないんだものね」
こうしたぼくの決心を語って、マノンを歓喜の絶頂に導いてやった。
その時の自分のような立場にあったら、りっぱな良識をもった紳士で、ぼくの意見を認めない者などこの世にあるまいと、ぼくは信じていた。すなわち、そのときぼくは征服することのできない情熱に宿命的に屈服し、抑えきれるはずのない後悔に打ちのめされていたのだ。しかし、ただぼくが、神のみ心にかなうことばかりを心掛けて考えた計画を拒絶され、もしぼくがこれを神の冷酷なせいにして不平でも言ったとして、その嘆きを当をえないものとして非難する者があるだろうか?
ああ! 何と言ったのだ、神がその計画を拒絶するだって? いや、神はこの計画を罪悪として罰したのだ。ぼくが悪の道を盲目的にひたすら歩き続けているあいだは、神はじっと我慢してこらえてきた。ところが、はじめて美徳へ立ち帰ろうと一歩を踏み出したところで、もっとも苛酷な罰をぼくのためにとっておいたのだ。ぼくには、今まででいちばん不吉な事件を、語り終えるだけの力がないのではないかと心配になるほどだ。
これについてはすでにマノンとも話し合いができていたので、ぼくは総督のところへ出かけ、ぼくらの結婚式を許可してくれるように彼に頼んだ。当時この町にいた唯一の僧職である教誨師《きょうかいし》が、総督が列席しなくても面倒を見てくれるという約束をしてくれたらば、ぼくにしても慎重に、総督にも誰にも一切このことは口外しなかっただろう思うのだが。しかし、教誨師はとうてい黙って引き受けてくれそうもなかったので、大っぴらにやろうと覚悟をきめたのである。
総督にはシヌレという名の甥《おい》がいて、とても総督に可愛がられていた。この男は三十歳ばかりで、勇敢だが気の短い乱暴な男だった。まだ結婚していなかった。ぼくらが着いた日から、マノンの美貌が彼の心を打った。そして九カ月か十カ月の間に、何度となく彼女と顔を合わす機会があったので、彼の情火はすっかり燃え上がり、彼女に対して心ひそかに思いをこがしていた。ところが、伯父や町じゅうのひとびとと同様、ぼくらが正式に結婚しているものと信じきっていたので、その思いを少しも外に出さないように、自分の愛情を押し殺していた。そして彼の情熱は、ぼくに対してまでも何度か機会を見て面倒を見るほど、はっきり形を表わしていた。
砦《とりで》へ着いてみると、ぼくは伯父といっしょにいる彼に会った。ぼくとしては、彼が目の前にいたところでべつに支障もなかったから、自分の計画を彼に秘密にしておかなければならない理由は何ひとつなかった。総督はいつに変わらぬ好意を見せてはなしに耳を傾けてくれた。総督に身の上ばなしの一部を語ると、彼は喜んでそれを聞いてくれたし、ぼくが、自分が考えている結婚式に総督も立ち会っていただきたいと頼むと、彼は肚《はら》の大きいところを見せて、祝宴の費用は、全部彼が引き受けてやると言って約束してくれた。ぼくは大喜びで引きさがった。
一時間ほどして、教誨師《きょうかいし》がぼくの家に入ってきた。ぼくの結婚式についていろいろ指図することがあって、それを知らせにやってきたのだと思った。ところが、冷淡な調子で挨拶してから、彼はたった二言、三言|喋《しゃべ》っただけで、こんなことを宣言した。すなわち総督は、ぼくが結婚のことなぞを考えるのは禁ずる、また、彼としてはマノンについてべつの意向を抱いている、ということだった。
「マノンについては、べつの意向ですって!」と、ぼくは心臓に死ぬほどのショックを感じて言った。「じゃあ、どんなご意向なんです、教誨師さま?」
彼はぼくにこんな返辞をした。総督殿が頭領だということは知らないわけではあるまい。マノンはフランスからこの植民地に護送されてきたのだから、マノンのことは総督の意のままにできる。マノンが結婚していると思っていたので、総督も今まではそうしなかったのだが、結婚していない、とぼく自身の口から聞かされたので、総督としては、彼女に恋をしているムッシュウ・シヌレに彼女を与えるのが適当だと判断した、ということだった。
ぼくはついカッとして、慎《つつ》しみなどすっかり影をひそめてしまった。総督だろうがシヌレだろうが、町じゅうの者全部だろうが、ぼくの妻に、いやもしそう呼びたければ、ぼくの恋人でもけっこう、いずれにしても指一本触れさせないぞ、と誓いながら、威丈高《いたけだか》になって、教誨師に、この家から出てゆけと命令した。
今聞いた不吉な知らせを、すぐにマノンに話した。ぼくらの判断によれば、シヌレが、ぼくが帰ってから彼の伯父さんを篭絡《ろうらく》したもので、これはずっと前から考えていた計画の結果だった、と思われた。あの二人はいちばんの勢力家だ。ぼくらはヌーヴェ・ロルレアンにいて、まるで海のまん中に浮かんでいるような気持ちだった、つまり、あいだに広大な空間が横たわって、残りの世界と引き離されてしまったのだ。どこへ逃げればいいのだろう? 未知の、人気のない、猛獣と、猛獣と同じように野蛮な未開人の住む国で?
なるほどぼくは町では一応の尊敬を集めていた。しかしこの不幸に見合った救助を得ようとして、ぼくのために住民のあいだに騒ぎを起こさせようとしても、あんまり望みはなさそうだった。それにはおそらく金が必要だろう。ところがぼくは貧しかった。もちろん、ひとびとが騒ぎを起こしたところで、その成功はおぼつかないし、もし運がつかなかったら、ぼくらの不幸はとりかえしのつかないことになるにちがいない。
ぼくの頭の中に、こんないろんな考えが転々と去来した。マノンにぼくの考えの一部を伝えた。そして、彼女の返辞も聞かないうちに、また新しい思案にふけるのだった。ひとつ決心をする。そして、その決心を捨てて、また別の決心をする。独り言を言い、そして自分の考えに大きな声で返辞をしたりした。つまり何も較べるものもないような、混乱動揺の極にあったのだ。というのは、これと並ぶような苦悩はけっしてなかったからである。
マノンはぼくに眼差しを投げかけていた。ぼくの混乱状態を見て、彼女はこの危機がいかに重大なものかを知り、彼女自身のためよりも、ぼくのために震えおののいて、この優しい女性は、自分の心配を表現するために、口を開く勇気すらなかったのだ。はてしない思案にあぐね、総督に会いに行き、彼の名誉に訴えて、ぼくの尊敬と愛情を思い出させるように努力してみよう、と覚悟を決めた。マノンはぼくが出かけることに反対した。彼女は目に涙をたたえながら言うのだった。
「死にに行くようなものだわ。あのひとたち、あなたを殺してしまうわ。あたし、もうあなたのお顔を見られないわ。あなたより先に、あたしが死んでしまいたい!」
どうしても出かけなければならない、それに彼女のほうは、何がなんでも家にじっとしていなければいけない、と彼女を説得するのに、ぼくは大骨を折ってしまった。すぐに戻ってくるから、と彼女に約束した。彼女は、いやぼくだって同じだが、神のあらゆる怒りが、そしてぼくらの敵の憤怒が、彼女自身の身の上に落ちかかるはずだとは、まったく知らなかった。
砦へ出かけた。総督は教誨師といっしょにいた。ぼくは彼の心を動かそうと、身をかがめて屈伏してみせるほど謙虚な態度を見せたが、ほかのことが原因だったらどんなことでも、こんなふうに屈服するくらいなら、恥辱のために死んでしまったにちがいない。あらゆる理由をあげて、彼にすがりついた。これを聞いては、獰猛《どうもう》残忍な虎のような心でないかぎり、いやでも強烈な印象を与えずにおかなかっただろう。ぼくの嘆きに対して、この野蛮な男はたった二言答えただけで、さらに百回もこの返辞を繰り返すのだった。彼が言うには、マノンは彼の心のままだ。自分の甥に約束をしてしまったのだ、と。
ぼくは、覚悟をきめて、極端とも思えるくらいへり下って見せた。彼に向かって、あなたをぼくの心からの友だと信じているくらいだから、あなたがぼくの死を望むわけはないはずだ、ぼくとしては、自分の恋人を失うくらいなら、むしろ喜んで死ぬのを承諾するだろう、としか言えなかった。
砦を出るときは、あの頑固な老人を相手にしては何ひとつ望めそうもない、と信じないわけにはいかなかった。あの老人なら、自分の甥のために千回地獄に堕ちることもあえて辞さないだろう。ところがぼくのほうでも、最後まで謙譲《けんじょう》な態度を守っていようという気持ちにしがみついていたが、また一方、もしあまりに無道なことをしようとしたらば、今まで、色恋沙汰が原因で起こったもっとも血みどろな、もっとも戦慄すべき情景のひとつを、このアメリカで見せてやろう、と決心していた。こんな≪もくろみ≫を考えながら家へ戻った。するとその時、運命が一刻も早くぼくを破滅の淵へ堕そうとして、シヌレのやつとばったりと出会うように仕組んだのである。前にも、彼は勇敢だと言った。彼はぼくのほうへやってきた。
「オレを探していたんじゃあないのか?」と彼が言った。「オレのたくらみのおかげで君が恥をかくということは承知の上だし、早晩、君を相手に喉《のど》を切りっこしなければならないだろうと、予想をたてていたんだ。さあ、どっちがよりしあわせ者になれるか見ようじゃあないか」
ぼくは、たしかに君の言うとおりだ、ぼくらの睨《にら》み合いを終わらせるのは、ぼくが死ぬしかあるまい、と彼に答えた。ぼくらは町の外、百歩ばかり離れたところまで行った。二人の剣の先が交わった。ぼくはほとんど同時に彼の武器をたたき落とした。彼は自分の不運にひどく肚を立てて、ぼくに命乞いすることもできず、そうかといってマノンを諦めることもできなかった。おそらく、ぼくにはその両方を一挙に彼から奪い取る権利があっただろうが、生まれのよさとか血筋とかいうものは争えないものだ。彼に、彼の剣を投げてやった。
「さあ、もう一度やり直しだ」とぼくは言った。「今度は容赦はないものと思ってもらおう」
彼はとうてい説明できないほど猛り狂ってぼくに襲いかかった。白状しなければならないが、なにしろパリで三カ月ばかり道場へ通っただけだから、剣にはあまり強いほうではない、恋がぼくの剣を操ってくれたのだ。シヌレにしても、ぼくの腕を突き差したりしたが、しかしぼくは彼の隙《すき》を狙って激しい一撃を加えたので、ぼくの足許にバッタリ倒れて、身動きもしなくなった。
いのちを賭けた戦いに勝利を収めた喜びに酔い痴《し》れることもできずに、ただちにこの死によって生まれるさまざまな結果を考えた。ぼくにとっては、恩赦《おんしゃ》も、刑の延期も望むべくもない。甥に対する総督の愛情はすでに承知しているので、甥が死んだことがわかった以上、ぼくの死が一時間も延ばされないのは確実なことだ。こんな心配はたしかに切実なものであったが、ぼくの不安のもっとも大きな原因はそうした心配ではなかった。マノン、マノンのゆくすえ、彼女の危険と、彼女を失いはしないかという心配が、気持ちを動転させて、目の前にまっ暗な闇を拡げ、いま自分がどこにいるのか、その場所もわからなくなるくらいだった。ぼくはシヌレの運命を悔《くや》んだ。時を移さずぼくも死ぬことが、いまの苦悩の唯一の解決策のように思えた。ところが、こう考えたおかげで、はっきりと自分の気持ちをつかむことができ、ひとつの決意を固めることができたのである。
「なんだって! この苦しみを終わらせるために、死にたいっていうのか?」とぼくは叫んだ。「それじゃあ、自分が愛する者を失うよりほかに、もっと心配なことがほかにあるっていうのか? ああ! 恋人を救うために、もっとも残酷なことでも、トコトンまで耐え忍ぶんだ、耐えても耐えても、それが無益だと判るまで死ぬのを延ばそうじゃあないか」
ふたたび町への道を続けた。わが家へ入った。家の中で、恐怖と不安のためになかば死んだようになっているマノンの姿を見出した。ぼくが姿を現わすと、彼女は生気をとり戻した。いま起こったばかりの恐ろしい出来事を、彼女に隠しきれなかった。彼女はシヌレの死と、ぼくが負傷したことを聞いて、ぼくの腕の中で気を失った。彼女の意識をとり戻させるのに、十五分以上も費した。
ぼく自身もなかば死んだような状態だった。彼女の身の安全にも、ぼくの安全にも、ごく小さな希望も見出せなかった。
「マノン、ぼくたちはどうしたらいいんだい?」と、彼女が少し気力をとり戻したときにぼくは彼女に言った。「どうしたらいいんだい? とにかく、どうしても逃げなければいけない。君はこの町に残っていたいかい? そう、君はここへ残るんだ。君はまだこの町でしあわせを掴《つか》むことができる。ぼくは君と別れて遠く離れ、野蛮人の中へ入るか、野獣の爪で掴《つか》まれるかして、死に場所を探すよ」
彼女は気力が弱っているのも忘れて立ち上がった。ぼくの手をとり、ドアのほうへぼくを連れていった。
「いっしょに逃げましょう」と彼女は言った。「一瞬も無駄にできないわ。ひょっとしたら、シヌレの死体はもう見つかっているかもしれないわ、そうなったら、あたしたち、もう逃げる暇もありませんもの」
「でも、愛するマノン!」とぼくはすっかりとり乱した調子で続けた。「言っておくれ、どこへ行けばいいんだい。どんな逃げ道があるんだい、わかっているのかい? ぼくなんかいなくても、一生懸命ここで生きてゆくようにしたほうがいいんじゃあないのかい、それともぼくのほうから名乗り出て、総督にこの首を差し出したほうがいいんじゃあないかな?」
こんな申し出は、かえってここを出てゆこうという彼女の激しい気持ちを煽《あお》り立てるだけだった。結局は彼女の言いなりにならなければならなかった。まだじゅうぶん気持ちに余裕があったから、出がけに部屋にあった強い酒を何本かと、あらゆる食糧をポケットへ詰め込めるだけ詰め込んだ。隣の部屋にいた召使いたちに、夕方の散歩に出かけるから、と言っておいた。夕方の散歩は、ぼくらが毎日続けていた習慣だったのだ。ぼくらは、マノンのきゃしゃな体の許す限り、大急ぎで町を遠ざかった。
どこへ隠れようかという場所の問題では、まだどちらとも決断がつきかねていたけれども、ぼくには二つの希望がないわけではなかった。もしこの希望がなかったならば、いずれマノンの身に起こるにちがいない問題で、不安に悩まされるよりはむしろ死を選んだにちがいない。アメリカに着いて約十カ月近くにもなるので、この国についてはもう相当な知識を得ていたから、ぼくにしても、土人を扱うにはどんなやり方をすればよいかぐらいのことは、知らないわけでもなかった。なにも確実にいのちを危険にさらさなくとも、土人たちの中に入り込むことだってできたのである。いろいろ機会をみては土人たちと会っていたから、彼らの言葉のうちのいくつかの単語ぐらいは覚えていたし、また彼らの風習にも少しは通じていた。
頼りないとはいえ、こんな希望もあり、その上に、一方イギリス人たちにも望みをつないでいた。イギリス人たちも、われわれと同様に、新世界のこの地方に植民地を持っていたのである。ただ、その距離があまり離れているのがぼくの恐怖の種であった。イギリス人の植民地へ行くためには、数日間もかかるような不毛の荒野と、世にも逞ましい荒くれ男の目にも困難を極めるように見える、高い、峻険《しゅんけん》な山々を越えて行かなければならなかった。それでも、こんな二つの方策を利用できるのではないか、という望みを抱いていた。つまり、幾人かの土人に道案内にたってもらい、イギリス人たちには、彼らの居住地に住まわせてもらうことである。
ぼくたちは、マノンの気力の耐えられる限り、永いあいだ歩き続けた、つまり約二リュウほどであった。というのは、この比類ない恋人は、もっと早く休もうと言っても、つねにそれを拒んだからである。ついには疲労の極に達して、彼女は、もうこれ以上とうてい歩けない、とぼくに打ち明ける始末だった。
すでにもう夜になっていた。ぼくらは、身を覆《おお》う一本の木も見つけることもできずに、広漠とした野原の真只中に腰を下ろした。彼女が第一に見せた心づくしは、ぼくの傷の包帯を換えることだった。家を出る前に、彼女自身でこの傷を手当てしてくれたのだ。彼女の気持ちに逆ってみても無駄だった。ぼくの傷ももうとても楽になり、危険はなくなったのを確かめて安心したいというのに、もしそれを拒んで、彼女自身の体力を消耗《しょうもう》させないようにと先にこちらが気を使ったりしたら、それこそ彼女は、死ぬほど心を痛めるような結果になっただろう。
しばらくのあいだ、彼女ののぞみのままになっていた。黙って彼女の手当てを受けていたが、心は恥ずかしさでいっぱいだった。ところが、彼女が自分の愛情にすっかり満足していたとき、今度はなんと激しい愛情が、ぼくの心を捉えたことだろう! 自分の着ているものをすっかり脱いで、地面が少しでも軟く感じられるように、彼女の体の下に敷いてやった。彼女の気持ちを無視して、無理に承知させた。そして、少しでも居心地を悪くないようにできるなら、彼女のためにできる限りのことはしてやろうという気持ちだった。彼女の手に、熱いキスを繰り返し、溜息の熱い息を吹きかけて暖めてやった。彼女の傍で彼女を見まもり、穏やかな平和な眠りを与え給えと神に祈って一晩じゅう過ごした。
ああ、神よ! ぼくの願いは何と激しく、また何と真摯《しんし》だったろうか! そしてまた神は、その願いを聞き届けようとはなさらずに、何と苛酷な裁きを下されたことだろうか!
このぼくのいのちをおびやかすほどつらい物語を、ほんの数言で終わらせてしまっても、どうかお許しください。ぼくは、前例のないような不幸な物語をあなたにお話しするのです。ぼくの全生涯はこの不幸を嘆き悲しむ宿命を負わされているのです。絶えずこの不幸を記憶の中にたたみ込んではおりますが、ひとたびこの不幸を語ろうとすると、そのたびに、恐怖のためにあとずさりしないではいられないような気がするのです。
ぼくらは、その夜の残りを穏やかに過ごした。ぼくは、愛する恋人が眠り込んでいると思っていたから、彼女の眠りを妨げやしないかと心配で、ほんの小さな吐息もつかないように気をつけていた。夜明け前に、彼女の手に触ってみて、手が冷たくひえ、ブルブルと震えているのに気がついた。その手をぼくの胸に近づけて、暖めようとした。彼女はこんな動きを感じて、一生懸命にぼくの手を握ろうとして、絶え入るような声で、最期の時が近づいたような気がする、と言った。はじめはこの言葉を、不運に圧《お》しひしがれたときごくふつうに口にする言葉としか思わずに、ただ愛情のこもった恋の慰めの言葉を返しただけだった。しかし彼女の息の吐き方が激しくなり、質問にも答えず、ぼくの手を握り続ける彼女の手がヒシと締めつける具合からみて、彼女のかずかずの不幸の終わりを告げる時が近づきつつあるのが、ぼくにもわかった。
その時のぼくの気持ちをあなたにお伝えしたり、彼女の≪いまわ≫の言葉をあなたにお話しするよう、きびしく求めないでください。ぼくは彼女を失ったのです。彼女が息を引きとるいまわの際《きわ》にすら、ぼくは彼女から愛の言葉を聞いたのです。ようやく勇を鼓《こ》して、この宿命的な、そして痛ましい出来事について、あなたにお話しできるのは、これですべてなのです。
ぼくの魂は彼女の魂の後を追わなかった。神は、おそらく、これでじゅうぶん苛酷な刑罰が終わった、とはお考えにはならなかったのだろう。神は、今後もなお、ぼくが疲れ果てた惨めな生涯を送るようにお望みだったのだ。ぼくはこれから先、もうしあわせな人生を送ることなど、みずから放棄《ほうき》しているのだ。
ぼくは、愛するマノンの顔や手の上に、じっと口を押しつけたまま二十四時間以上も過ごした。ぼくの気持ちとしては、ここで生を終えるつもりだった。ところが二日目の夜明けになると、ぼくが死んでしまったら、そのあとで、彼女の屍体《したい》は野にさらされて、野獣の餌食《えじき》になってしまう、という考えにとりつかれた。彼女を大地に埋め、そして彼女の墓の上で死を待とう、と決心した。飢えと苦悩のおかげで体力が弱っていたし、すでに自分のいのちの綱がまさに切れようとしていたから、立って体を支えるにも相当の努力をしなければならないほどだった。持ってきた酒の力を借りなければならなかった。そしてその酒のおかげで、これから取りかかろうとする、悲しいつとめを果たすのに必要な力を取り戻すことができた。
その時いた場所ならば、地面を掘り返すことはそうむずかしいことではなかった。そこは砂に覆われた原野だったのだ。ぼくは、地面を掘るのに剣を使って、それを折ってしまったが、剣よりは、自分の手に頼って地面を掘った。大きな穴を掘った。彼女の体に砂が直接触れるのを防ごうとして、自分が着ていた服をすべて脱ぎ、注意深く包んでから、わが心の偶像を墓の中へ横たえた。もっとも完璧な愛情からほとばしる情熱をこめて、何度も何度も彼女をかき抱いてから、ようやく、こうして彼女を横たえたのだった。もう一度彼女のかたわらに腰を下ろした。永いあいだ彼女を見つめていた。なかなか墓に土をかける決心がつかなかった。ついにぼくの気力も衰えはじめて、自分のつとめを果たす前に、完全に力尽きはしないか、と心配になったので、ぼくはこの世でもっとも完璧な、もっとも愛すべきものを母なる大地に永遠に埋めた。ついで砂に顔を押しつけ、もう二度と開くまいと思って両眼をつぶったまま墓の上に横たわり、心に神のご加護を念じながら、辛抱強く死を待っていた。
あなたには信じがたいことと思われるでしょうが、この悲惨な仕事を続けているあいだじゅう、ずっと、ぼくの目からは一滴の涙も流れず、口からはただの一度も吐息が洩れませんでした。
その時のぼくの深い喪心《そうしん》状態、死のうという固い覚悟が、絶望と苦悩のすべての表現の流れをせきとめていたのだ。だからその時の姿勢のまま、墓穴の上に永いあいだ横たわっているうちに、ぼくの心に残っていたごくわずかの意識も感情も失ってしまった。
これだけのことをお聞きになったあとでは、ぼくの物語の結末ももうとりたてて重要とはいえませんから、あなたが強いて耳を傾けられるだけの値打ちもないくらいです。
シヌレの死体が町に運ばれて、その傷口を慎重に検べてみると、いのちに別条ないばかりでなく、生死にかかわる傷さえ負っていないことが分かった。彼は伯父に向かって、ぼくらの間で事件がどんななりゆきで展開したか、そのいきさつをありのままに語ったので、そんな彼の高潔な気持ちに動かされた伯父は、ぼくの寛容な態度のおかげで彼の命が救われたことを公表しようという気になった。
そこでぼくを探しにやったところが、マノンともども、ぼくの姿が見あたらなかったので、一同はぼくが腹を据えて逃亡したにちがいない、と推測した。あとを追うには時機を失していたが、しかし、その翌日も翌々日もぼくの追跡のために費された。追っ手は、マノンの墓穴の上で、一見もう死んだようになっているぼくを見つけ、そしてこんな状態でぼくを発見したひとたちは、ほとんど裸に近く、体に傷があり血まみれになったぼくの様子から、まちがいなく盗賊に襲われて殺されたのだと思った。
みんなでぼくを町まで運んだ。運ばれるうちに体を揺られて、ぼくは意識をとり戻した。ぼくが吐きだした息と、そして目を見開きながら、自分がまだ生きた人間の中にいるという呪いの言葉をつぶやいたので、一同はぼくがまだ救助の手を受ける望みがある、とわかった。一同がぼくに救いの手を差しのべてくれたのは、ぼくにとってはありがた迷惑だった。
ぼくはまたまた、狭い牢獄に閉じこめられずにはすまなかった。裁判の予審が始まった、そして、マノンの姿が見えなかったので、ぼくが怒りと嫉妬の激情に駆られて、彼女を始末したのだ、という非離を浴びせられた。ぼくは、自分の哀れな身の上を包み隠さず語った。シヌレは、この話を聞いて我を忘れるほど悩み苦しんだが、度量の広いところを見せて、ぼくのために恩赦を請願してくれ、そして恩赦を得ることができた。体が衰弱していたので、牢獄からベッドへ移さなければならなかったが、ベッドへ移されてから三カ月のあいだ、ぼくは激しい病魔に苦しむ身になった。
人生に対するぼくの嫌悪《けんお》は影をひそめなかった。絶えず神に死を願い、永いあいだ、かたくなにすべての薬を受けつけないでいた。ところが神は、ぼくにこれだけ苛酷な罰を与えてから、その不幸と懲罰《ちょうばつ》とを有益なものにしようというお気持ちだった。神は、その光明をぼくに投げかけられ、その光明のおかげで、ぼくは自分の生まれと、自分の教養にふさわしい想念を頭に思いかえすことができた。ぼくの魂の中に、やや穏やかな気分が生まれはじめたので、こんな気分転換が始まると、そのあと続いて健康は快方に向かった。ぼくは、身も心もひたすら名誉心に託《たく》し、毎年一回、アメリカのこの地方にやってくるフランスの船を待ちつつ、ちょっとしたつとめぐらいは果たすようになった。自分の祖国へ戻り、賢明な規律正しい生活を送って、自分の不行跡から生まれたスキャンダルを打ち消すように心がけよう、と決心していた。シヌレは、細心の注意を払ってぼくの愛する恋人の遺体を、きちんとした墓地に運ばせてくれた。
ある日、ひとりで海岸を散歩しているとき、ヌーヴェ・ロルレアンに向けてやってきた商船が到着するのを見かけたのは、ぼくが回復してから、約六週間ばかりたった頃だった。乗組員たちが上陸するのを、目をこらして見つめていた。町のほうへ進んでくる人々の中に、チベルジュの姿を認めたときには、ぼくは驚きのあまり胸がドキドキしてしまった。悲しみのためにぼくの顔つきはすっかり変わってしまっていたのに、この忠実な友は遠くからぼくの姿を認めた。
彼がぼくに話したところは、こうだった。彼がわざわざこんな旅行をしてきた唯一の理由は、ぼくに会い、フランスに戻るように約束してもらいたかったからだった。ル・アーヴルから彼あてに書いた手紙を受け取ると、彼は、ぼくが彼に頼んだ援助をするために、みずからそこまで出向いてきた。すでに出発してしまったと聞くと、彼は身も世もあらぬほど悩んだが、もしもすぐに出帆する船が見つかったら、その足でぼくの後を追おうと決心したにちがいない。数カ月のあいだ、あちらこちらの港で船を探し、サン・マロで、マルチニック島〔西インド諸島、小アンチル群島の一つ〕に向かって錨《いかり》をあげようとしていた一隻の船に会ったので、さっそくその船に乗り込んだ。つまりそこから、ヌーヴェ・ロルレアン行きの容易な便船をつかまえられるだろう、という希望があったからである。サン・マロの船は途中でスペインの海賊に捕えられ、一味の島の一つに連れてゆかれたが、彼はうまく脱走することができた。さまざまなコースを辿って、いまここへ到着した小さな船に乗り込むチャンスをつかみ、運よくぼくのそばまでたどり着いたのだという。
これほど鷹揚《おうよう》な、そしてこれほど変わらぬ友情を捧げてくれる友人に、ぼくは何と感謝してよいかわからぬくらいだった。ぼくは彼を家まで案内し、ぼくの持っているものはなんでも思いどおりに使ってもらった。フランスを発《た》って以来、自分の身に起こった事件をすベて彼に話し、彼が期待もしていなかった喜びを味わってもらおうと、彼がむかしぼくの心の中に播《ま》いた美徳の種子が、いまや彼も満足してくれるにちがいない、りっぱな実を稔《みの》らせてくれた、と彼にはっきりと打ち明けた。彼は、こんなすばらしい証しを見たからには、自分の旅行中の疲れもすっかり帳消しにしてくれる、と断言してくれた。
ぼくらは、フランスの船が到着するのを待ってヌーヴェ・ロルレアンで、いっしょに二カ月を過ごし、そしてようやく海に出て、二週間ばかり前にル・アーヴル・ド・グラースに上陸した。そこへ着いてから、家族に手紙を書いた。兄から返辞をもらって、父が死んだという悲しい知らせを聞いた。どう考えても、父の死んだのは、ぼくのふしだらな生活が理由になったのじゃあないかと思うと、ぼくは体が震えるのを禁じえない。カレーに向かって順風が吹いたので、ぼくはとるものもとりあえず船に乗った。ぼくのつもりでは、この町から数リュウの親戚の某貴族の家へ行こうと思っているが、兄の手紙によると、兄はここでぼくの到着を待っている、ということである。 (完)
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解説
アベ・プレヴォの生涯
〔家系〕
北フランス、ピカルディーとアルトワの境、現在のベルギーとの国境から五、六十キロのところに、エダン Hesdin という、人口四千にみたない小さな町がある。多くの北フランスの町と同じく、十六世紀以来スペインの勢力下にあり、また戦争のたびに破壊の脅威《きょうい》にさらされてきたが、十七世紀初頭のフランス・スペイン間の争い、いわゆる三十年戦争では町は包囲され、そのために町は堅固な城壁と深い壕《ほり》で囲まれている。エダンは一六五九年、ピレネー条約によって完全にフランス領となったが、北国人らしくこの町の住民は働き者で、その後間もなく戦塵《せんじん》をとどめぬ美しい町に復興し、エダンといえば皮革や帽子の製造地として知られていた。
十七世紀初頭、この町にプレヴォ某という収税官がいたが、この職業の者に似ない公明廉直な男で、そのために町民の信望も篤《あつ》く、さまざまな名誉職に選ばれていた。その子ども、リエヴァン・プレヴォは、町の会計官の職に就き、さらに議員として活躍したが、その長男、同名のリエヴァン・プレヴォは初審裁判所の検事で王室顧問官も兼ね、いわゆる法服貴族の地位を得たので、この家系はまずこの地方第一流の名門と称することができるだろう。検事リエヴァン・プレヴォはマリ・デュクレーなる女性と結婚して、九人の子供をもうけたが、うち女児四人はみな夭逝《ようせい》して、男ばかり五人の兄弟が残った。この兄弟の二番目がのちに「マノン・レスコー」の作者となる。
アベ・プレヴォ Abbe Prevostは、一六九七年四月一日|呱々《ここ》の声をあげ、アントワーヌ=フランソワと名づけられた。つまりフル・ネームは、アントワーヌ=フランソワ・プレヴォで、俗称アベ・プレヴォのアベは神父の意味である。のちに述べるが、『マノン・レスコー』の物語には作者の自伝的色彩が強い。たとえば、(アメリカに追放されるマノンを助けてくれと懇願する)デ・グリューと父親との会話から推すと、デ・グリューも母親を早く失い、父親の愛情のもとに育ったらしいが、アントワーヌの母親マリもまた、彼が十四歳の時に世を去り、あとは父親の手で育てられている。
父リエヴァンは、男親としては最大級の愛情を注いで子供たちの面倒をみたらしいが、反面清廉潔白で、曲がったことのきらいな硬骨漢だったと思われ、この点でもデ・グリューの父親は作者の父親のスケッチだったろう。また、五人の子供のうち、長男はジェズュイットに入り、後に教会参事会員となり、末弟も僧職、他の二人は司法官というふうに、兄弟がそれぞれ思い思いの職業を選んでいるところをみても、父リエヴァンも、デ・グリューの父親と同じく、子供の職業の選択に関しては比較的寛大だったらしい。
母親の死と同年、つまり一七一一年にアントワーヌはエダンの町のジェズュイットの学校に入学した。当時は、上流階級の子弟はひじょうに幼いうちに就学しているので、十三歳で入学したアントワーヌは、おそらくそれまで父親の監督のもとに、家庭で初歩の勉強を修めたものと思われる。そのためか、彼は入学以来たちまち抜群の成績をおさめ、秀才として町の誇りとなり、先生の神父たちに属目《しょくもく》されて、僧職に進むようにすすめられた。こうして約二年後、アントワーヌはプレヴォ家と、エダンの町民たちの嘱望《しょくぼう》をになって、パリに上京、ジェズュイットのアルクール学院に入学した。アルクール学院では、修辞学科《レトリック》に入学したが、同時に将来僧職になるため見習僧《ノヴィシア》の生活を送ることとなった。学院でも彼の秀才ぶりは頭角を現わし、神父たちが驚嘆の目でこの若者を眺めた。『マノン・レスコー』の冒頭にある、シュヴァリエのアミアンでの名声|赫々《かくかく》たる学生時代も、やはり作者のエダン、パリでの学生生活の思い出ではあるまいか。
パリで約二年間を過ごしたアントワーヌは、一七一五年にさらにラ・フレーシュのジェズュイットの学校、ルイ・ル・グラン校(この学校については異説もあるが)に送られたが、ここで数カ月学ぶうち、神学の勉強に嫌気がさして、数年の学業を棒にふって、サッサと学校をとび出した。これは、プレヴォの永い放浪の生涯の第一歩と見てもよいだろう。
〔赤と黒〕
スタンダールの小説『赤と黒』は、軍服(赤)と僧服(黒)を意味する、という説をご存知のかたは多いだろう。そしてフランスでは、古来この赤と黒、軍服と僧衣が青年たちの最も大きな野心の対象であった。ヴォルテールに、≪彼は鎧《よろい》と苦業服(僧衣)を着たり、脱いだり、また着たりした≫という詩句があるが、その時々の情勢にまかせて、軍服と僧衣のあいだを行きつ戻りつする青年の姿は、当時はごく普通だった。そして『マノン』の作者もまたこの例に洩れなかったのである。
プレヴォ自身、のちにこの当時を回想して、『弁護《ル・プール》と反駁《エ・コントル》』のなかにこんなことを書いている。
「神父たちのもとで数カ月過ごしてから、わたしが軍務についたというのはまちがいない。十六歳にしてジェズュイットを離れたわたしは、軍隊に入りいろいろな仕事をした。まず最初は、仕事がひじょうに少ない町に(最後の戦争の終えた時代)、志願兵の資格で入隊し……」
ここで「最後の戦争」と呼んでいるのは、ルイ十四世が晩年に始めたスペイン継承戦役(一七〇一〜一三)を意味するが、ここで説が二つに分かれる。第一の説は戦争がユトレヒト条約で終結したのは一七一三年、プレヴォはちょうど十六才だから、入隊はこの年であろう、とする説。第二の説は「最後の戦争の終えた時代」とは、完全に平和になったの意味で、つまりオーストリア・フランス・スペイン間にいわゆる三国同盟が結ばれたことであろうとし、一七一六年をその時期としている。後説ではブレヴォは十九才となり、『弁護と反駁』の回想とは年令が合わないが、回想は十数年後に書かれたものなので作者の思い違いということもあるし、また就学年令からみても、後者のほうが順当と思える。
アナトール・フランスによれば、プレヴォはこのとき暇も告げずに学校を去り父の許へ帰ったが、几帳面な父親と衝突し、また小さな故郷の町にも飽きて復校しようとした。ところが学校側で拒否され、ローマまで出かけてその許可を願おうとして旅立った。ところが少年の身ではこうした長旅には耐えられずに、フランスを出ないうちに病気になり、ある旅宿で病床につく身になったが、たちまちのうちに財布が空になった。ちょうどここで知り合いになった親切な士官がプレヴォ少年を病院に入れてくれたが、少年が品のある美貌だったので軍隊入りをすすめ、こうして兵士プレヴォが生まれた、という。話としてはよくできていて面白いが、どうにも小説的な潤色《じゅんしょく》のにおいがする。
いずれにしても野望を抱いて入隊したものの、戦争は終わり出世のチャンスがつかめそうもないとなると、彼は早くも赤い服に見切りをつけ、もとの黒衣に戻ろうとして、ふたたびラ・フレーシュの学院に復帰し、哲学級《フィロゾフィ》の勉強を始めた。その時期は一七一七年三月のことと思われる。復学後のプレヴォは、また秀才ぶりを発揮し、先生たちに大いに認められたらしく、プレヴォ自身、のちに「つねに彼の記憶にすばらしい」思い出として残った、と書いているが、この青年の胸中には「赤い服」に対する野心が燃えあがり、ふたたび入隊する。
「わたしはジェズュイットの神父たちのもとへ帰り、その後いくばくもなくそこを出て再度軍職についたが、今度はよりよい地位に昇進し、より快適な生活を送った」と彼みずから書いているが、この証言通りに今度は士官になっている。これは恐らく彼の家系と財産が≪もの≫を言ってこの地位を買ったものと思われるが、そうでなくても一七一九年にフランスはスペインとの間に風雲急を告げていた時期であるから、平和到来の軍縮時代の前回とは違って、出世のチャンスも大いにあったにちがいない。この士官生活に入ったのは一七一九年のことと思われ、ある資料によれば、この時代、プレヴォは「一士官としての放蕩生活の享楽」に身を沈めていたという。プレヴォが初めてオランダの地を踏んだのも同じ頃のことと思われる。オランダでは彼の美貌と温和な性格のおかげで上流社会で歓迎され、またこの頃から詩作や小説の筆を執《と》ることを憶えたらしい。滞在中のこまかい生活はわかっていないが、ある資料はこんなことを書いている。
「彼(プレヴォ)はしばらくオランダに逗留《とうりゅう》したが、人の主張するところでは、彼はここで二人の女性と結婚したという。彼は彼女たちを捨ててフランスに帰り、サン・モール会のベネディクト修道士となった」
はたして、二人の女性と結婚したのが事実かどうか歴史の霧の中に消えてわからないが、ただおそらく、プレヴォが青年の客気にまかせて相当に奔放な生活を送ったことは、プレヴォ自身の次のような告白によっても明らかである。
「数年が過ぎた。享楽に熱しやすく、溺れやすかったわたしは、のちに、カンブレー氏の表現を借りて、こんな告白をするであろう。すなわち、叡智は多くの慎重さを要求したが、わたしはその慎重さを重んじなかった、と。三十五、六才にして『クレーヴランド』のようなものを書いた男の心や感情が、二十才から二十五才までどのようなものだったかは、よろしくご想像におまかせしよう」
〔司祭プレヴォ〕
プレヴォのこのオランダ滞在はそう永くなかったらしい。というのは一七一九年か、おそくとも二〇年の始めごろまでには、すでにフランスへ帰っているからである。アリッスという研究家は、この頃プレヴォの身に、『マノン』そっくりの事件が起こったと語っているが、あまり信頼できない。事実は、プレヴォは一七二〇年十月に、ノルマンディーのジュミエージュ僧院に入りベネディクト派の僧となり、以後アベ・プレヴォの名前はノルマンディー地方の各地に現われている。プレヴォは後年、
「あまりにも優しい誓願によって招いた不幸な結末が、わたしを墓へ導くようなことになった。この名は、わたしが骨を埋めに行く尊敬すべき教団に名づけたもので、ここでわたしはしばらく、まったく死んだような生活を送り、わたしがどうなったかは、わたしの両親も友人たちも知らない有様だった」
と書いているが、実際はこの時代に彼はそうした精神的な無気力状態にあったわけではなく、むしろルーアンにおけるジェズュイットのルブラン神父との論戦などで彼は徐々に名声を得て、ベックの僧院ではその後約三年間、神学研究に打ち込んでいる。ここで彼は世間を捨てて隠退したヴィラール公、ルイ・ド・ブランカと識り合い、サント・ブーヴによれば公によってプレヴォは、彼の『俗界を引退したある貴人の手記』の想を得たものという。事実プレヴォがほんとうに文学に対して目覚めたのはこの時期で、ドン・グルニエによれば、プレヴォの処女作とされる、一七二四年に出版された小説、『ローマの騎士、ポンポニウスの冒険、一名われらの時代の物語』は、一七二二年に執筆されたものという。
その後一七二五年、二六年と彼はノルマンディーのフェキャンの僧院で過ごし、二六年にはサン・ジェルメの教団の学校に講師として招かれ、またエヴルーでは司祭に任命され、その雄弁は地方の良民の人気を集めたが、一七二七年の終わりか、二八年の始めにはついにパリに呼び戻され、サン・ジェルマン・デ・プレの僧院に留まることとなった。ここでの彼の仕事は、「フランス教会史」という教団の歴史の編纂《へんさん》の仕事で、元来筆を執ることが好きな彼は喜んでこの職に打ち込んだらしく、またこの文筆生活は彼の才能開発にも大いに資するところがあったにちがいない。二七年には「インド人の使徒、聖フランシスコ・ザヴィエルを讃えるオード」をマルセイユのアカデミーへ提出して賞を得、二八年七月には、『俗界を引退したある貴人の冒険と手記』の最初の第二巻を出版、同年十一月には、次の二冊の出版許可をとるというはなばなしい活動を始めている。この『ある貴人の手記』の出版はひじょうな好評で、プレヴォにとって「名誉と≪ふところ≫の両方」に大いに資するところがあった、と言われるが、こうなるとプレヴォの心中には生来の野心が頭をもたげ、≪かび≫臭い「教会史」の編集などには嫌気がさしたらしく、後年彼自身こんな回想を書いている。
「ところがわたしの胸中に感情が戻り、わたしは、この生き生きした心が、灰の下でなお焔をあげているのに気がついた。自分の自由を失ったことが、涙が出るほど悲しくなったが、時すでにおそしの憾《うら》みがあった。わたしは五、六年のあいだ、研究の魅力のなかに慰めを探し求めた。わたしの本はわたしには忠実な友だちだったが、わたしにすれば、その本もまるで死者のようなものだった。ついにわたしは、ちょっとした不満を好機として引退した」
「引退した」、と書いているが、この時プレヴォも相応の手続きはとり、法王庁に転任の許可を提出している。しかし手違いがおこり(サント・ブーヴはこれを陰謀の結果としている)、許可の親書の届かないうちに僧院を離れたので、結果的には脱走者の汚名を着せられることとなった。加えて、『ある貴人の手記』の第三巻、第四巻のなかに、トスカナ大公|誹謗《ひぼう》の個所ありとして、一七二八年十月パリ警視総監から逮捕命令が発せられ、ここに十年以上にわたる流竄《りゅうざん》の生活が始まる。
〔亡命者プレヴォ〕
一七二八年十一月、プレヴォは初めてロンドンの土を踏んだ。亡命地にイギリスを選んだ理由はいろいろあるが、第一に、カトリックを追放された学僧を庇護《ひご》してくれる国でなければならない。それにはカトリックの勢力の少ない英国国教のイギリスが最適であったたこと(一九五七年に発表された研究では、プレヴォは英国国教に改宗した、というがその真偽は不明)。第二に文学者を保護してくれる大貴族の多いこと。第三に、プレヴォ自身が告白しているように、当時のオックスフォード大学は≪古代ローマに似て≫、学識のある者なら誰でもその教壇に迎えたこと、などである。
この時のイギリス滞在は約二年間と思われるが、この期間中、彼がどんな生活を送ったかははっきりしない。ただ、この頃『マノン』についての想をえたこと、『ある貴人の手記』の第五巻、および『クレーヴランド』を執筆したこと、さらに、元イギリス銀行頭取、南海会社の副社長ジョン・エイリスの家に住み、その息子フランシスの家庭教師として生活していたことはほぼ確実である。また、この滞在中にプレヴォがイギリス文学を相当につっこんで研究し、その造詣《ぞうけい》は当時の英文学通として知られるヴォルテールを凌《しの》いでいたと思われ、この意味でプレヴォは比較文学研究の絶好の対象とされている。
一七二〇年九月、彼はイギリスを離れてオランダに渡る。なぜイギリスを離れたか? プレヴォがさる貴族にとり入って、その娘ペギイ・D……を情婦にしたとか、某富豪の婿《むこ》におさまろうと画策したとか、伝説はいろいろあって定かではないが、さる資料によれば、「彼に好意と庇護を捧げた二十八人の貴族に惜しまれ」「贈り物と、好意と、抱擁ぜめにされて」イギリスを去った、という。
のちにも述べるつもりであるが、プレヴォをめぐるマノン的女性は、真偽とりまぜれば十指を下らないほどいる。が、彼の生涯にもっとも大きな影響を与え、シュヴァリエとマノンに似た≪くされ縁≫的な生活を続けた女性は、この時ハーグで知り合ったレンキであった。レンキ、フル・ネームはレンキ・エックハルトで、「才能もあり家系もりっぱな淑女だが、財産があったために不身持ちになった」という。彼女に対する同時代の評はまったく二つに分かれ、ある者は「むかしスイスの大佐の妾で、今は低級な娼婦」だといい、他は、「プロテスタントの名家の令嬢」だというが、いずれにしろプレヴォが彼女を熱愛したことは事実らしい。プレヴォの友人であり、また彼の伝記作家でもあるラヴァンヌは、当時のプレヴォとレンキの関係をこんなふうに書いている。
「ハーグの上流社会のひとびとは、みなレンキが自分の恋人たちの大部分を絞り上げてしまう、ほんとうに蛭《ひる》のような女として認めていたが、彼女はわたしの前ではえらくもったいぶった様子をし、わたしが見たところそれがまったく≪ピッタリしないように≫思えた。こんな性格の女性には、思いやりなど見せてやる必要はまったくなかったばかりでなく、わたしはとても素直だったので、彼女に気を使う気にはとてもなれなかった。ある日わたしは、彼女が恋人といっしょにいるところを、彼女にもじゅうぶん感じられるくらい思いやりのない言葉で、うんと軽蔑した調子でやっつけてやった。彼女が涙を流して救いを求めると、プレヴォ……は癇癪《かんしゃく》をおこして、わたしに黙れと言おうとした。今度は逆にわたしのほうが、彼に黙れと言うと、彼は賢明にも口をつぐんだ。わたしは立ち上がり、彼女にふさわしいように、アバズレ扱いをして、もう今後はぜったいに、二人いっしょのところへ同席しないぞと肚《はら》を決めて席を蹴《け》って出た。彼女のお人好しの恋人が、たとえどんなにわたしに頼んでも、ぜったいにわたしの意見を変えることはできなかった」
ラヴァンヌの手記は信頼できるものだから、レンキがマノン以上の悪女だったことは事実だろう。
ところで、ではレンキはマノンのモデルだっだろうか。結論から先に言えばノウである。というのは、プレヴォのハーグ到着は一七三一年の冬で、レンキとの交情がもっとも深かったのは三二年、三三年であり、一方『ある貴人の手記』の第七巻、すなわち『マノン・レスコー』がアムステルダムで出版されたのは三一年五月なので、レンキとの恋を題材にとったとは考えられない。
いずれにしろ、プレヴォは何度もレンキと手を切ろうと思ったらしいが、すぐにまたみれんが出てよりを戻し、レンキの贅沢《ぜいたく》な生活を支えるべく稼ぎまくりながらも、ついに家賃その他に九百フロリン、出版社の前借り千七百フロリンという借金を残して、家具什器いっさい競売に付され、レンキともども再度ロンドンに逃れなければならなかった。亡命者「プレヴォ」という名は、すでに第一回のロンドン滞在中からみずから用いているが、公文書として記されたのはこの時がはじめてであろう。
二人のロンドン行きは一七三三年一月だが、第二回のロンドン滞在中のプレヴォの消息もはなはだ曖昧《あいまい》である。二人がロンドンで冷遇され、窮迫したあげくに、プレヴォが某書店と出版契約をとり結び、違約して投獄されたとか、あるいは手形の偽造で逮捕されたとか、いろいろな中傷的伝説があるが、いずれも疑わしい。ただ金に困ったことは事実らしく、それを逃れる生活の方便として一七三三年から、文学芸術はもちろん、社会一般から科学まで広範囲に扱った個人雑誌を出した。これが「弁護と反駁《はんばく》」で、この出版は一七三三年三月より四十年十月に及び、その数二十巻に達している。
プレヴォがレンキといつ別れたか、レンキがその後どうなったかは明らかではない。ある説では、プレヴォが一七三五年十一月パリの某友人あてに書いた手紙のムッシュウ・ド・チェスターが、マダム・ド・チェスターの書き違いであり、このマダム・ド・チェスターがレンキの後身であるとしているが、いずれにしろロンドン滞在二、三年で二人は別れたらしい。一七三四年頃のものと思われるプレヴォの手記がある。
「もしすでに、自由への、独立への愛情が心を占める情熱でなくなったならば、僧院の孤独以上に適した終《つい》の棲家《すみか》はまたとあるまい」
この頃プレヴォ三十七歳、恋人とも別れ、異郷に放浪して落ち着く家とてない彼の身に、寂寞《せきばく》の影がさすのも当然といえるだろう。
〔晩年〕
一七三四年、プレヴォはようやくフランスの地を踏んだ。もちろんビッシィ枢機卿と、コンチ公の仲介があったおかげで、彼は教団と和解し、世俗聖職者として帰国し、一七三六年一月にはコンチ公つき司祭となり、クロワ・サン・ルーフロワの僧院で、社交界にも時に足を踏み入れながら安定した生活を送っている。
一七四一年頃、彼の身に何度目かの波瀾《はらん》が訪れたらしい。原因は、社交界に出入りするうち、女優コーザン某、ダンサー、サレ某などの女性とのスキャンダル、金銭問題、さらには筆禍《ひっか》事件などいろいろあったらしいが、この時彼はブリュッセル、フランクフルトなどで亡命生活を送った。しかし今度は一時ほとぼりをさます程度の亡命で、その期間はあまり永くなかったと思われる。
この時期はプレヴォの生涯でもっとも静かな時代で、生活が安定するとともに、元来筆の早い彼の創作力はますます旺盛となり、驚異的な速度で作品を書き上げている。一七三八年から四一年のあいたに『イギリス女王、マルグリット・ダンジュの物語』『あるギリシャ娼婦の物語』『マルト騎士会の歴史についての覚書』その他数えきれない小説、紀行、歴史などを世に送り出しているが、とくに彼の英文学の翻訳、リチャードソンの『クラリス・ハロー』『グランディッソン』などはルッソーやディドロに大きく影響を与えている。
一七四六年七月に、プレヴォが友人に近況を知らせた手紙が残されている。五十歳に近い彼の心境をよく物語っているので、ここに引用しよう。
「わたしは、三週間前から大都会パリを去ったことを先ずお知らせしなければなりません。チュルリイからほんの五百歩ばかり、小さな丘になり、自然に愛され、神々の恵みを受けたところです。きちんとした賃貸契約で三年の期限、わたしが住居を変えたのはここで、家政婦の優しい未亡人ルルー、料理女、下男がいっしょに住んでいます。木口《きぐち》や家具は豪華ではありませんが、わたしの家は美しい家です。見晴らしはすばらしく、庭もわたしの気に入るようにできています。つまりは、わたしはこの世の男で、もっとも心みち足りたもの、といえるでしょう。五人か六人かの友人が……ときにやってきて、わたしといっしょに人類の狂気の沙汰を笑ってやるのです。それ以外の俗世間には、わたしの家のドアはまったく閉ざされたままです。
あなたは何とおっしゃいますか、わが親愛なる哲学者よ! わたしが何度も何度もあなたと語りあったこのプラン、そしていつかきっとあなたも同じように実行されるこのプランはみごとに稔《みの》ったのです…遅かれ早かれ、感受性のある者ならば、孤独への趣味をもつものです。そうしたひとびとは、あまりにも自分を離れて生活しすぎたのです」
生まれつき孤独を好みながら、心ならずも波瀾《はらん》に富んだ生活を送ったのか、あるいはあまりにも波風の多い人生に疲れて安息を望んだのかは知らないが、とにかく中年以後のプレヴォとしては、平安な生活は貴重なものであり、それだけに、「わたしはこの世でもっともこころみち足りたもの」、というのは偽らぬ告白だったにちがいない。
そういえば、読者は父の家に連れ戻されて幽閉されたデ・グリューの理想の生活を思い出されるだろうか。
「こうして、前もってぼくは、平穏な孤独な生活設計を立てておいた。庭の一隅に、小さな森と静かに流れる小川のある、人里離れた家に住む。選ばれた書物が並んだ書斎、行ないすました良識に富んだ少数の友人たち、清潔だが、質素で、ほどほどの食卓がほしい。パリに住んでいるある友人と文通をする。この友人は世間のいろいろなニュースをぼくに知らせてくれるが、それもぼくの好奇心を満足させるためではなく、俗人たちの狂気の沙汰からぼくの気持ちをそらせるためのものだ。『そうなったら、ぼくはしあわせになるんじゃあなかろうか? ぼくの思うところは、これで全部果たされるんじゃあないかな?』こんな計画を思いめぐらしてみると、たしかにそれはぼくの気質にピッタリかなったものだった」(コメディー・フランセーズでマノンを見かけた後の、デ・グリューの心境)
こんなデ・グリューの希望とプレヴォの告白とを読み較べてみれば、老境に近づいたプレヴォにとって、シャイヨでの生活は、まさに理想境といってもよいものだったろう。
当時の彼の生活を見ると、有名なクレッキ侯夫人、ミュサール・ドゥブレ夫人などのサロンに賓客《ひんきゃく》として迎えられ、家には「五人か六人かの友人」を迎えて、田園の散歩や音楽に時を過ごしている。そうした、みち足りた生活は彼の創作力に拍車をかけて多くの作品を世に問うと同時に、年来の保護者コンチ公に仕えて、コンチ家の歴史編纂の仕事も引き受け、生活はすっかり安定していた。
一七六二年、プレヴォは晩年を静かに送るべく、シャンチィに近いサン・フィルマンという小村に引退し、文字通り悠々自適の生活を送った。一七六三年十一月二十五日、プレヴォはサン・ニコラ・ダシイの修道僧たちと家で談笑しながら昼食をとり、機嫌よく別れてその帰路、シャンチィの森、クルトゥイユの道で、突然倒れ、そのまま息を引きとった。翌日村医が彼の遺体を解剖したところ、死因はいわゆる動脈瘤であったという。享年六十六歳であった。
ボーマルシェ、ヴォルテール、ルッソオなどの例を見ても、十八世紀の作家はたいてい波瀾|重畳《ちょうじょう》の生涯を送っている。それはこの時代が大革命前後のシュトルム・ウント・ドランクの時代で、現実に大革命に遭遇しなくても、なんらかのかたちでこの動乱の渦に巻き込まれたためであった。ところがプレヴォの波瀾の生涯は、そうした時代の影響ではない。みずから種を蒔《ま》いて身辺に波瀾を起こしている。そしてその種は彼の燃え上がる野心であり、動揺しやすい魂であり、激しい情熱だった。こうしてみるとプレヴォの生涯は、彼の作品の主人公のように、野心と情熱の生涯であったというべきであろう。
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作品解説
〔成立〕
一七二八年、ようやくパリのサン・ジェルマン・デ・プレの僧院に呼び戻され、ここで「フランス教会史」の執筆を委任されたプレヴォは、すでに『ポンポニウスの冒険』という処女作も出版していたので、小説の技法にも、もうまったくのしろうとでもなかった。しかも仕事は比較的余暇に恵まれていたし、おそらく彼はさっそく新しい小説にとりかかったものと思われる。こうして発表されたのが、『俗界を引退したある貴人の冒険と手記』であった。この作品の出版状況を略記すれば次のようになる。
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第一巻、第二巻、一七二八年九月、パリ
第三巻、第四巻、一七二八年末、パリ
第五巻、第六巻及び第七巻、一七三一年五月、アムステルダム
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この作品は全巻で二千ページを超える膨大な作品で、この大作をプレヴォはわずか二年足らずで完成したわけだが、彼の友人ラヴァンヌの残した記録などを見ると、プレヴォは実にすばらしい速度で、一気呵成《いっきかせい》に作品を書き上げるのがふつうだったらしい。『ある貴人の手記』の最初の二巻は、発表当時、読書界からひじょうな讃辞を送られたらしい。摂政時代の才媛として有名なマドモワゼル・アイッセは、その書翰中に、
「ここに『ある貴人の手記』という新刊書があります。たいしたものではありませんが、でも最初の百九十ページばかりを、涙を流しながら読破してしまうのです」
と書いている。この手紙の日付けは一七二八年十月だから、ここで話題にされているのは第一巻と思ってよいだろう。こんな読書界の好評をプレヴォ自身はもちろん知っていだろうが、しかしこの好評に気を良くして第三巻第四巻執筆にとりかかったわけではない。というのは、その二、三カ月後は次の二巻が出版されたことを思えば、最初の二巻が出版された時には、すでに彼は次の二巻の大半を書き上げていたと思われるからである。そしてこの第三巻、第四巻がトスカナ大公に対する筆禍事件を起こしプレヴォの永い亡命生活の誘因となったことは、すでに「生涯」の項に書いたとおりである。
第五巻、第六巻、第七巻は、同時に発売されているが、アムステルダムで発行されている某定期刊行物の一七三一年四月号に、この三冊の発行を予告されているところをみると、第七までは当然それ以前に執筆されたものと思われる。前年九月に彼はすでにイギリスを離れてオランダに渡っているところから、この三冊はイギリス、あるいはオランダで執筆されたものにちがいない。そして、この第七巻が、『シュヴァリエ・デ・グリューとマノン・レスコーの恋物語』Histoire du Chevalier des Grieux et de Manon Lescaut で、一般には『マノン・レスコー』は、プレヴォがイギリス亡命中に書いたものだろう、と推定されている。
『マノン・レスコー』が、作者プレヴォの生涯の一時期に起こった恋愛事件を描いたもの、つまり一種の自伝的小説であるということはすでに議論の余地のない定説で、したがって『マノン』的な事件、またマノンに似た女性のモデル探しは過去二世紀間、執拗なまでに行なわれている。「生涯」の項で紹介したレンキという女性は、プレヴォの生活にもっとも深い関係をもっていて、マノンのモデルとしては本命だったが、既述のように執筆年代から考えてこの説は成立しがたい。これ以外のマノンのモデルについての女性、ないしは恋愛事件は枚挙にいとまがないが、ここにその数例のみ紹介しよう。
第一にアリッスが語る例がある。一七一九年オランダから帰ったプレヴォは、ジェズュイットに受け容れられず、やむをえずマルト修道会に入会する覚悟を決めた。ある日彼は、アミアンの司教の許可を求めようとして「チベルジュ」役の友人とともにアミアンへきたところ、ここでマノンのモデルとなる女性に出会った。彼女に一目惚れしたプレヴォは、彼女を誘拐してパリへ帰ったが、彼女はオテル・ド・トランシルヴァニーで誘惑されて姿を消す。しかし彼女を見つけ出した若きプレヴォは、ふたたびパリで同棲生活を送る。そしてG…M…役の老人の出現。父と子の愛情のシーンなどなど、克明にその恋愛事件を記しているが、これはむしろ『マノン』という作品から、逆にプレヴォの青春像を割り出した感があって、あまりにもっともらしいところが、却って信頼できないような気がする。ただ一七一九年という年は、この頃プレヴォが兄弟の一人に送った手紙から推察しても、たしかに一種の危機的な心境にあったらしく、よほど身にこたえた恋愛事件かなにかがあったことは事実と見てよいだろう。
その二、一七二八年、プレヴォが『ある貴人の手記』の最初の二巻を出版した頃のことである。このころ、正確にいえば同年十月初旬、プレヴォはオーピタルの懺悔聴聞僧《ざんげちょうもんそう》になったという。このころ、オーピタルにマノン・エイドゥーという女性がいた。彼女は一七〇七年生まれで本名はマリ=マドレーヌ・エイドゥー、母アントワネット・ルブィユーとエイドゥー某とのあいだに生まれ、母親は彼女を高級娼婦に仕立てるべく育てた。マノンの恋人はブザンソン出身の銃士で、シュヴァリエ・ルイ=アントワーヌ・ブィアンテー。いろいろな事件をへて、一七二一年十二月にマノンはオーピタルへ幽閉される身となった。ところで、オーピタルでマノンを知ると、プレヴォはひと目で恋におちた。そして十月十八日、サント・ペラジーの廊下でマノンに会い、二人のラブ・シーンのクライマックスに、オーピタルの同僚のバィイ某女がこれを見て嫉妬にかられ、いきなりマノンにとびかかって、彼女をなぐり、プレヴォは急いで僧院へ逃げ帰った。
この時の手紙に書かれた「わたしは、数年前にしなければならなかったことを、明日するでしょう」という一行は、マノンをオーピタルから救い出すためにはどんな危険も辞さないデ・グリューの覚悟に似た、恋に狂った男の無謀な心境を物語っている。実際その挙には出なかったが、そのしばらくのちロンドンに亡命中、この時の思い出を紙に記したのが、『マノン・レスコー』であるという。
この説は、一九六九年出版のドイツ語訳『マノン・レスコー』の序文に「ほんとうのマノン」と題して紹介された新説であるが、この説も、ブレヴォは一度もオーピタルの懺悔聴聞僧になったことはない、という事実の前には、否定せざるをえないだろう。
その三、ロンドンに亡命したフランス士官の娘、ミセス・ペネロープ・オーパンという女性がいたが、プレヴォ自身この女性のことを「弁護と反駁」のなかで紹介している。ところで彼女は、一七二七年に『有名なフランスの恋人たち』The Illustrious French Lovers という小説を発表したが、この中にこんな二つの挿話がのっている。すなわち、デ・ルエーという青年が、マノンという少女を愛し、マノンもまた彼を愛していた。この青年が父に連れ去られ、父の命令でサン・ラザールに幽閉された。プレヴォは当然この小説を読んでいるはずだから、この挿話にヒントを得て『マノン』を書き上げたのではないか。
このようなモデル探しは、しかしこの小説の本質の解明に役立つものとは思われない。『マン・レスコー』はけっして、一時期フランスに流行したモデル探しに興味をつなぐジャンル、つまり「鍵小説《ロマン・ア・クレ》」ではない。自伝小説といえばいえるが、日本の私小説に近い意味の自伝でもなければ、ミュッセの『世紀児の告白』のような、告白小説でもない。『マノン・レスコー』は、プレヴォの身に起こった事件を描いた小説ではなく、作者の魂、心境を物語る、という意味での自伝小説なのだ。だから、この小説のモデルとなった事件は、彼の外的な生活にあったのではなく、プレヴォの内面生活にあったもので、いわば魂の歴史ともいえる。
プレヴォが『ある貴人の手記』の最初四巻を書いたのはサン・ジェルマン・デ・プレの平和な環境の中であった。しかし『マノン』の執筆時代は、心ならずも亡命生活を送り、流謫《るたく》の地ロンドンで望郷の日々を過ごしていた。その上、プレヴォは中年まではひじょうに感じ易い不安定な心を持ち、ともすれば情熱のままに暴走しそうな無鉄砲さを持つと同時に、またまったく逆にその暴走にストップをかけようとするブレーキも働く。つまりプレヴォの心中には、デ・グリューとチベルジュが同居していた。言葉を変えれば、デ・グリュー、チベルジュは作者の心の両面を人格化したものであり、『マノン・レスコー』は、彼の精神風土をそのまま移したタブロオであり、さらに放浪のプレヴォの望郷の念と、青春回顧が結晶した作品といってよいだろう。
〔構成〕
『ある貴人の手記』には、一貫した筋はない。主人公ルノンクール侯爵が、ヨーロッパから回教圏にまでわたる大旅行をし、その途中の体験談、そしてその旅行の途次出会った人々らの聞き語りがその筋といえばいえる。そうしてみるとこの大長篇は、いくつかの中篇ないしは短篇小説の寄せ集めで、『マノン』もその中篇小説のひとつと見るべきであろう。
ルノンクールはイギリス、ドイツなどを旅行したのち、トルコに行き、ここで回教徒に捕えられて改宗を迫られるがこれを拒否し、この地でセルマという女性を愛し結婚する。その後ふたりはトルコを逃れローマに滞在するが、セルマに先き立たれて悲嘆のあまり侯爵は世を捨てて隠棲する……『俗界を引退したある貴人の冒険と手記』、という題はここから生まれる……ところが隠棲後に某貴族に懇望され、その息子の家庭教師となって、弟子の貴族とともにスペインへ旅行する。物語の最初の語り手はこのルノンクール侯爵で、侯爵がパシイでデ・グリューに会うのはこの時であるが、デ・グリューが「ぼくは十七歳のときに、アミンで哲学級の勉強を終えた」と『マノン・レスコー』の物語を語りはじめる再会の部分は、それから約二年後のことになる。
ルイジアナへ女囚を送ったのは歴史的事実で、一七一九年、二〇年の両年に行なわれたが、とくに盛んだったのは一九年であった。十八世紀初頭にはまだアメリカ移民は少なく、とくに女性が不足がちだったので、当局は、身持ちは正しいが器量が悪く、そのために結婚できない不幸な女性たちをアメリカへ送って、植民者の妻とする政策をとってきた。ところがそれでは移民たちから苦情が絶えなかったので、身持ちはともかく、器量のよいオーピタルの女囚たちを送る方法に切りかえたのがこの時代である。
しかしここにフランスの上下を震撼《しんかん》させた大事件が起こる。東インド会社の設立に功あり、投機的な銀行事業によって経済の行き詰まりを打開しようとしたスコットランド人、ジョン・ローの政策の失敗がこれで、植民会社もその≪あおり≫で崩壊する。こうして一七二〇年、すなわちジョン・ロー失脚と同時に女囚護送の制度も終わった。
以上の歴史的事実からみれば、デ・グリューがアメリカから帰って、ルノンクール侯に身の上を物語ったのは一七一九年か一七二〇年の初頭と思われるので、パシイでの出会いは一七一七年頃ということになる。(ところが侯爵はパシイでデ・グリューと会ったのちスペインへ行き、ここでルイ十四世逝去の報に接している。太陽王の死は一七一五年九月であるから、ここには若干の時代錯誤がある)。
十八世紀には、七、八巻に及ぶ、後世の大河小説のような大長編が流行した。ル・サージュの『ジル・ブラース』、マリヴォーの『マリアンヌの一生』『成り上り百姓』、やや時代は下るがレチフ・ド・ブルトンヌの『ムッシュウ・ニコラ』などがそれである。ル・サージュの『ジル・ブラース』は、スペインの悪党小説 Roman picaresque の影響によって生まれた葛藤《かっとう》小説の典型であるが、マリヴォの『マリアンヌ』にしても、プレヴォの『ある貴人の手記』にしても、スペイン的な色彩は脱したとはいえ、この葛藤小説の系統につながるものといってよいだろう。
葛藤小説とは、近代的な小説の概念から考えられるような一貫した筋とか、ひとつの主題に求心的に描かれてゆく均整のとれた構成がなく、次から次へと副次的な事件が起こり、これをつなぎあわせたもので、芝居でいえばボーマルシェの『フィガロの結婚』によって代表される葛藤喜劇に対応するものといえよう。葛藤小説では、ある主要人物がまずある事件にまき込まれて、ひとつのエピソードを紹介し、そのエピソードに登場した人物がまたべつのエピソードを語り、つまりエピソードとエピソードがつぎつぎと鎖でつながれて、最初の主題とはまったく関係ない事件に発展する、というのが常套的手法である。当然長篇小説とはいいながら、そのエピソードが各々独立した短篇、ないしは中篇小説となる。
『ある貴人の手記』と『マノン・レスコー』との関係もこの例に洩れず、「作者の序文」のなかで、「ここにはとりたてて、何の必然的な関連もないので、読者としてはこの二つ(『ある貴人の手記』と『マノン』)を別々にお読みになったほうが、よりいっそう満足されるにちがいないと思う」と明言しているところをみても、プレヴォ自身『マノン』を独立した小説とみなしていたことは明らかである。
『マノン』を『ある貴人の手記』から独立したもの、と考えていたとはいえ、その手法については両者はまったく同じであった。冒頭でデ・グリューがマノンに一目惚れしてから、駆け落ち、恋人の裏切り、再会、ペテン、入牢、誘拐、決闘など、ひとつの事件は次の事件を呼び、文字通り連鎖的に、息もつかせず事件が連続する。つまりこうしたお膳立ては、まさに葛藤小説の常套で、その意味で、『マノン・レスコー』も形式的には十八世紀流の葛藤小説の域を出ない。
十八世紀流の葛藤小説は、わずかに『ジル・ブラース』、『マリアンヌ』に少数の愛好家を残すのみで、ほかはほとんど姿を消してしまった。いや、『マノン・レスコー』の元の作品である『ある貴人の手記』すら、現代ではまったく読む者もなく、その一エピソードにすぎなかった『マノン』のみが、いまなお必読の書として盛んな生命を続けているのは、『マノン』独自の近代性にその秘密があると言うべきだろう。
〔『マノン』の歴史〕
『ある貴人の手記』の第七巻、すなわち『マノン』がアムステルダムで出版された同年、一七三一年にパリで二種類の『ある貴人の手記』が出版されている。そのひとつは無削除の完本、アムステルダム版によったスイスの一種の海賊版で、もうひとつは合法的なフランス版で、これは第七巻の『マノン』に削除が加えられている。というのは、フランスの出版社ではこのままではとうてい検閲が通らないと判断したためと思われる。
『ある貴人の手記』は読者人のあいだに好評を得たが、作者アベ・プレヴォの名前はいっこうに有名にならなかった。プレヴォの名前がクローズアップされたのはその二年後、定期刊行誌「弁護と反駁」が出版されてからで、この雑誌の内容、幻想的なロマネスクな挿話や、やや放縦な論調が摂政時代《ラ・レジャンス》という頽廃した時代の風潮に合致して、彼の名は女性読者たちのあいだに拡まった。彼の名前が有名になると、すかさずパリで、はじめて『ある貴人の手記』と離して単独に『マノン』が出版されたが(一七三三年)、皮肉にもこれがスキャンダルとなり、厳格なカトリックたちの非難を浴びた。
「この元ベネディクト修道僧は狂人である。彼は『マノン・レスコー』と呼ばれる恐るべき本を書き上げたところである……とにかく『マノン・レスコー』を見てみたまえ、その後にそれを火に投じたまえ、しかしそれにしても、一度は読んでしかるべきだ」
マチウ・マレーのこの有名な弾劾《だんがい》文が出るとさっそく『マノン』は差し押えられ、翌三四年には焚書の厄にあっている。
一七五三年にはディド書店より新版の『マノン』が出版された。この新版には特筆すべきいくつかの事項がある。まず、文章語句に作者が大きな推敲《すいこう》を加え、さらにマノンの性格をはっきり浮き立たせるために、イタリア公爵のシーンを加筆したことで、これが現在用いられる定本になっている。
『マノン』の出版は営業的には成功して好評を博したとはいえ、同時代人の多くは、プレヴォの作品としては、『クレーヴランド』や、『キルリーヌの修道院長』などを代表作として扱っている。後の批評家たちが、『マノン』の影響を強く受けたと説くルッソーやディドロすら『マノン』については触れていないし、ヴォルテールもごくひかえめな暗示的な言葉を用いているだけで、同時代人で『マノン』を語ったといえば、ひとりモンテスキューの次の書翰のみといってよい。
「一七三四年四月六日、
わたしはプレヴォ神父の執筆による小説『マノン・レスコー』を読みました。この小説が好評なのももっともだと思います。というのは、主人公シュヴァリエ・デ・グリューの不行跡は、すべて愛情が原因になっているからで、たとえ品行が下劣であっても、愛情はつねに高貴なモチーフなのです。マノンもまた相手を愛しております。この一事だけでも、彼女の性格の残りのことなど許されるではありませんか」
モンテスキューのみごとな見識にもかかわらず、『マノン』は十八世紀末までは不遇な扱いを受けていた。
十九世紀初頭に到って、批評家ラ・アルプが、『マノン』は、「その情熱と真実性」によって、プレヴォ最高の傑作であると賞揚してからのち、ロマン派の作家たちは、この小説のうちに彼ら好みのテーマを見出し、こぞって礼讃した。情熱の優位、個人と社会との対決、不幸の魅力、女性心理の複雑さ、すべて一八三〇年代に開花したメロドラマ的な風潮にピッタリだった。一八三九年にはサント・ブーヴがシャルパンチエ書店より『マノン』を出版、ミュッセはその『第一詩集』のなかで熱に浮かされたようにマノン礼讃を歌い上げる。世代が移り、自然主義作家たちは、プレヴォを自分たちの先輩として崇拝し、デュマ・フィスは一八七五年に『マノン』の新版を出す。続いて現在に至るまでA・フランス、モーパッサン、エイナール、テリーヴなどが続々、讃辞を付した新版を企画し、『マノン』は多くの作家たちにはかり知れない影響を与えてきた。
オペラでもっとも有名なのは、一八八四年のジュール・マスネの「マノン」だが、それ以前にもスクリーヴが脚色したオペラがあり、映画では無声時代から何本も作られているが、一九四八年アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督の「情婦マノン」は、時代を第二次大戦末期に移し変えた、大胆な演出で有名になった。
『マノン』の続篇もいくつか現われたが、最初のものは一七六二年アムステルダムで出版され、ラクロが執筆したといわれる。埋葬された後に息を吹きかえしたマノンは自分がデ・グリューに捨てられたと思い込み尼僧になる。その後いろいろ紆余曲折《うよきょくせつ》をへて、デ・グリューと再会して、二人はめでたく結婚する。ところが今度はチベルジュがマノンの魅力のとりこになり、デ・グリューを捨てて、ふたりで僧院に入る……デュマ・フィスも『ル・レジャン・ミュステル』、という題で続篇を書いた。マノンとデ・グリュー、ヴィルジニーとポール、シャルロッテとウェルテルの三つの有名なカップルが一同に会して複雑怪奇な愛情関係が生まれるが、結局みんな死んで、ようやくもつれが収まる。
プレヴォの生存中はあまり高く評価されなかったとはいえ、ロマン派以後はほとんどすべての作家たちから崇められ、現代までもっともポピュラーな小説として愛好者を断たない『マノン・レスコー』こそ、まさに第一流の作品といっても過褒《かほう》ではない。
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作品鑑賞
〔二人の主人公〕
「作者の序文」によれば、プレヴォは明らかに、デ・グリューを主人公として扱っている。ところが、われわれが『シュヴァリエ・デ・グリューとマノン・レスコーの物語』、と聞いて、ただちに思い浮かべるのはマノンの姿であって、デ・グリューではない。つまり読者にとって、この小説の主人公はまずマノンである。一七五三年版ではこの作品は、単に『マノン・レスコー』というタイトルに変わっているが、それも読者のこんな反応を読み取っての処置だろう。
主人公としては、マノンの経歴ははなはだ曖昧である。中流の家庭に育ち、享楽好きで、年齢のわりには経験豊富だ、という以外にはなにも知らされていない。が、筋が進行し、さまざまな事件が継起するにつれて、しだいに彼女の輪郭ははっきりしてくる。嘘つきで、顔色ひとつ変えずに恋人をごまかす。感覚はナイーブだが、ちょっと理解しがたいところもある。快楽に対する、服装に対する、そして贅沢に対する飽くところのない情熱。道徳心の完全な欠除。肉体は平気で許すが「心の貞操」はあんがいに重んじる。軽佻浮薄《けいちょうふはく》な気質……これらの性格のいずれをとっても、すべて女性のひとつの典型となっている。
ある批評家は彼女を「可愛いい女」と言い、また他は「娼婦型」という。いずれにしろ、マノンという女性はいつの時代にも、どこの国にもわれわれの傍に息吹いている女性である。
マノンに較べて、デ・グリューについては、作者は端的にその経歴を語っている。彼は上流家庭に育った、おとなしい躾《しつけ》の良い秀才で、学問でも前途洋々であるが、このままいけば小説の主人公には不向きな、なんの変哲もない青年だった。それがマノンを一目見て恋を知るに及んで、まるで魔法にかけられたように一変する。デ・グリューは一見勢力的に動いているようだが、じつは運命の糸に操られて右往左往する。はじめの彼はただめくら滅法に手さぐりで動くが、恋を知ったおかげで利口になり、世故《せこ》に長《た》け、ペテン師にまでなり下ることもあえて辞さない。自分の幸福をつかむためには、既成の秩序に対し、家族に対し、社会に対し、宗教に対し、道徳に対して敢然と立ち向かう。何度も過ちを犯しながら、彼はつねに嘆かなければならない。というのは、つねに被害者……マノンの、B…の、G…M…の、そして運命の被害者だからである。頭脳的にも、肉体的にもひとに勝り、どんなことにでもすぐに進歩をみせる能力、そしてマノンに対する騎士的な愛情、こうしたデ・グリューの性格は小説のヒーローとしては≪うってつけ≫であり、しかも彼の情熱は彼を一種不死身な男に仕立て上げる。ふつうでは耐えられないような運命の苦痛にも耐え、「おおかたが間抜けな」上流紳士や金持ちに対して、反抗者となることにみずから誇りを感じる。こんな青年像が読者の共感を呼ぶのであろう。
マノン、デ・グリューには、それまでの小説の主人公にはない特殊な一面がある。それは、一人の人間に内在する性格的矛盾であり、そしてこれがこの作品をしていつの時代にも読者の共感を集める近代性につながる。マノンという女性をよく見れば、彼女が矛盾だらけの女性であることがはっきりするだろう。たとえば彼女はデ・グリューを裏切った。では彼女は彼を愛していないのだろうか? いや、彼女は彼を熱愛していた。王妃のような生活を約束したイタリアの公爵に向かって、「この方があたくしが愛する方ですの、あたしが生涯を誓った方ですの……イタリアの公爵全部を集めても、あたくしが握っているこの髪の毛ひと筋にも及びもつかないからです」と言ったのはマノンの心からの言葉だった。
また、マノンには貧乏が耐えられない。それでいながら金銭には欲がない。「彼女ほど金銭に対して恬淡《てんたん》とした女性はまずないだろう。そのくせにして、金がなくなるのが心配で心配でたまらず、いっときだって落ち着いていられなかった……少しばかりの財産とくらべたら、彼女はこの全世界を受けとるよりも、ぼくのほうを選んだにちがいない。ところがもうぼくの手の中に彼女に提供するものといえば、変わらぬ真心と誠実さしかなくなったときには、彼女がぼくを捨てて、またどこかの新しいB…のもとへ走ることは、まったく疑う余地のないことだった」というデ・グリューの告白に描かれたマノンの心情には、その性格の矛盾がまざまざと感じられる。もっともふしぎなのは、恋人との約束をすっぽかして、熱愛する男のもとへ「パリでもっともきれいな少女のひとりをとりもつ」心理である。そして、「誠実といっても、あたしがあなたに望んでいるのは、心の貞操なんですもの」と平然と言ってのける彼女を見ては、まったく呆然たらざるをえない。ミュッセはマノンを読んで狂喜し、
「マノン! 驚くべき|謎の女《スファンクス》! まことの|海の魔女《シレーヌ》よ! 三倍も女心を備えたる、囚人護送車《パニエ》に乗ったクレオパトラよ!」
と歌っているが、たしかに謎の女であり、魔女であり、また女心の哀れさ、可愛いさを余すとこなく身につけた女性像であった。
デ・グリューにしても、こうした性格の複雑さを隠せない。父に背き、友を利用し、サン・ラザールの院長の好意を裏切りながらも、常に神の懲罰の怖ろしさにおののいている。インチキ賭博師で、美人局《つつもたせ》に近いことを平気でやってのけ、人殺しまでしながら、なお神への憧憬を心に秘めている奇妙な二面性をもつ。
プレヴォ以前の小説では、人間は単に作者の手で操られる人形に過ぎず、生命の息吹きはまったく感じられなかった。つまりこれ以前の小説の主人公は、心理も性格もまったく単純な、手際よく割り切られる、いわば単細胞の人間にすぎなかった。ところがプレヴォに到ってはじめて、さまざまな性格や心理を、錯綜《さくそう》した、割り切れない、ヒューマンなものとして描いた作品を創造した。現実に生きた人間もみなマノンやデ・グリューのように矛盾にみちた性格を備えている。してみると、『マノン』に登場する人物の性格や心理の矛盾こそ、プレヴォの同時代の作家に追随を許さぬオリジナリティであり、ル・サージュやマリヴォーより一頭地を抜いた近代性があるといえよう。
〔恋愛小説の最高峯〕
『マノン・レスコー』は恋愛小説の最高峯と言われ、また近代恋愛小説の嚆矢《こうし》とも呼ばれている。恋愛小説の歴史は遠く中世にまで遡るが、『トリスタンとイズー』や『オーカッサンとニコレット』の例を見てもわかるように、波瀾万丈の葛藤小説的な色合いが濃い。こうした小説は十七世紀に到ってふたたび現われるが、本質的には中世小説とほとんど変わりがない。高潔にして勇敢な主人公が、運命のいたずらから恋人の美女と別れ別れになり、いのちを賭けて彼女のあとを追う追跡の一幕。この世ならぬさまざまな冒険のはてに、彼女を探し出すと、今度は彼女は手の届かぬ地位にあって、絶望的に彼女の足許にひれ伏し、さらには彼女の気紛れに悩み、彼女の嫉妬や冷酷な仕打ちに苦しむ。つまり中世的女性崇拝の変型である。十七世紀の社交界の子女たちの紅涙《こうるい》を絞った、オノレ・デュルフェ、スキュデリー嬢などの、いわゆるプレッシュウな恋愛小説はすべてこんな筋立てで、登場人物はすべてイタリヤ喜劇のようにティピカルな性格で、筋は波瀾万丈であっても心理的葛藤のまったくない、いわば人間の形はしていても人間的な複雑な感情を持たないロボットであった。
マダム・ド・ラファイエットが現われて、『クレーヴの奥方』(一六七七年)を書き上げてから、新しいシチューエイションが創造された。二人の悩める夫の心理を克明に描き出し、新しいジャンル、心理小説が生まれた。ここにはもう稀有な冒険の連続はなく、事件は登場人物の心理的葛藤に終始する。
『マノン・レスコー』はこの二つの在来の小説の伝統をみごとに融和させたもので、これにさらにべつの、すでに一時期流行した二つの要素を加味した。そのひとつは、フェヌロンが『テレマックの冒険』のなかで試みた小説の教育的な配慮である。同時代のピューリタン的な批評家がその背徳性についてどんなに弾劾《だんがい》しようが、プレヴォがこのエピソードのなかに、ひとつの道徳観を打ち出そうとし、「作品全体がひとつの道徳論となり」「風俗の矯正《きょうせい》に役立つ」作品を書こうとしたことは「作者の序文」を読めば明らかであろう。さらに、他のひとつは、一六二二年にシャルル・ソレルが「フランシオン」の中で宣言した写実主義《レアリスム》、つまり、生きた、真実の物語を描こうと努力したことである。サント・ブーヴは『マノン』を評して、「『マノン・レスコー』を読めば読むほど、そのすべてが真実であるように思える。なにひとつ作りもののない、すべてが自然に則《のっと》って写し出された真実そのままであるように見える」と評し、アナトール・フランスは、「多くの者は、本を閉じてからこう言うだろう。『ああ! マノン、もしお前が生きていたら、わたしはどれほどお前を愛するだろうか!』と。この小冊子の中では、すべてが自然であり、すべてが真実であり、すべてが正確である。ここではたとえ一語たりとも変えることはできない」と言っているが、ほかにもフローベル、モーパッサンなどほとんど驚喜に近い言葉でたたえているのはその真実さであり、写実主義《レアリスム》である。すでに書いたように構成的には、『マノン』も同時代の葛藤小説の域を出ないが、風俗作家で終わったル・サージュ、一種の心理小説家としてひとりの女性の一生を書き綴ったマリヴォとは、この点でまったく同日に語れない近代性を持つ。
さらにプレヴォは、それまでの作家がまるで暗黙の契約のように顔を背けていた、ひとつのテーマに勇敢に取り組んだ。というのは、愛情と社会との対決であり、また愛情のために社会的に、精神的に堕落してゆく男の姿である。ラシーヌの場合も、テーマはほとんど愛情だけだったが、ラシーヌにあっては、まったく反対に愛情はなお人間の偉大さの源泉になっている。ルッソオは『新エロイーズ』の第一部で、ふたたびプレヴォに似た主題を扱い、はじめは愛情の自然の権利を主張し、これをすべてに優先したが、のちには夫婦間の忠実な愛情、ごく当たり前の美徳を高唱する。その主人公サン・プルーは一七六〇年代のひとびとに「感情の恍惚」の味を教えたが、結局は良心に抑えられてしまう。ところがデ・グリューの愛情は抑えるところを知らない。情熱のままに押し流されて、「すべての利益を捨ててかえりみず、みずから進んで、陰惨な放浪の生涯を歩むのである」。この主人公の姿はロマンチックであると同時に、また摂政時代《ラ・レジャンス》という熱に浮かされた時代の青年たちの真実の姿であった。
デ・グリューは目に見える情熱に操られて逆上し、倦怠と悪徳に身を委せ、みずから神を選び、神の怒りに耐えることに誇りを感じ、しかもなお罰の恐ろしさにおびえて不安にさいなまれる。その魂は運命の不思議さにおののきながらも、彼は既成の体制に敢然と立ち向かう近代的な自我《モワ》を持っている。こうした主人公は十八世紀にあっては≪けたはずれ≫の存在であり、ほとんど前例のない存在だった。こうした主人公が現われるまでには、シャトオブリヤンの『ルネ』、ユーゴーの『エルナニ』その他のロマン主義小説の出現を待たなければならない。しかも『マノン』にはロマン主義が目をそむけた人間の、人生の現実が脈打っている。ロマン派と相容れない自然主義作家にも賞揚されるゆえんである。
『椿姫』の主人公マリ・デュプレシスの伝記によると、彼女の死後その机上には、赤インクでいっぱいにアンダーラインされた『マノン』が残されていたという。またやや古いはなしだが、第二次大戦の前に、フランスで十七、八才から二十二、三才までの女性の読書調査を行なったところ、『マノン』が他を引き離してだんぜんトップだったという。現在ヨーロッパでこうした調査をしても、その結果はおそらく変わっていないだろう。こうしてみると、『マノン・レスコー』という一冊の小説は、永遠のベストセラーであり、まさに恋愛小説の王座の名にそむかないものといっても過言ではあるまい。(訳者)
〔訳者紹介〕
鈴木豊(すずきゆたか)
仏文学者、早大教授。大正十五年東京生まれ。早大仏文科卒。フランス古典演劇の研究。主著『西洋の故事』主訳書、モリエール『人間ぎらい・町人貴族』、ジャン・マレー『私の四つの真実』、プラントーム『ダーム・ギャラント』その他がある。