饗宴
プラトン/戸塚七郎訳
目 次
饗宴
解説
年譜
あとがき
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〔凡例〕
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一 訳出にあたっては、バーネット版を底本とし、ビュデ版を参照した。
二 ギリシア語の片仮名表記の際、
(1)φ、θ、χ と π、τ、κ の区別をしない。
(2)固有名詞は原則として音引きを省略する。
三 ステファヌス版の頁づけと記号は、読みやすいことを最大の眼目にして、本訳書においてはすべて省略した。
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饗宴
【アポロドロス】 君たちが尋ねていることについて、自分では十分その準備ができていると思っている。つまり、それはこういうことだ。
〔アポロドロスはソクラテスの熱狂的な心酔者で、プラトンにより、ソクラテスの裁判の時に傍聴したことや(『ソクラテスの弁明』)、臨終に立ち合って、声をあげて泣き、取り乱している様子が描かれている(『パイドン』)。冒頭の情景は、彼のまわりに何人かの友人がおり、その人たちを相手に、アリストデモスから聞いたアガトン邸での『饗宴』の模様、特に出席者によるエロス讃美の演説を語ろうとしているところである。話は彼とグラウコンの出会いの模様に始まり、ついで本題に入って行く〕
先日のこと、ちょうど私はパレロン区にある家から町の方へ向かっていたのだが、その時顔見知りのある男が、私の後ろ姿を見つけて遠くから呼びとめ、呼びかけながらふざけ半分にこう言ったものである、
「おおい、パレロン区の人。そこなるアポロドロス、待ってくれないか」
そこで私は、立ち止まって彼が近づくのを待った。すると彼は言った、
「アポロドロス、実は先日も君を探していたんだ。アガトン〔アテナイの悲劇詩人で、ソクラテスやアルキビアデスと同時代人で、エウリピデスとも親交があったと言われる。彼は富裕で名門の出身であり、美貌と豊かな素質で知られた〕やソクラテスやアルキビアデス、その他あの時宴会の席に顔を見せていた人たちの集りのことで、つまり、恋に関する議論というのがどんなものだったのか、よく聞きたいと思ってね。というのは、他にも、ピリッポスの息子ポイニクスから聞いたと言って話してくれた男がいるんだが、その男が言うには、君もその時のことを知っているというもので。実のところ、その男は詳しいことをなに一つ話すことができなかったのだ。だから、君の口から聞かせてもらいたいんだ、君の友人の言論でもあるし、それを話して聞かせるのには君が一番うってつけなんだから。だがその前に」彼は言った、「聞かせてほしいんだが、君自身がその集りに出席していたのかね、どうなんだい」
そこで私は答えた、
「どうやら君に話したというその男は、詳しいことは一つも話さなかったようだね、お尋ねのその会合が最近行なわれて、それで私もそれに出席していたなどと君が考えているようでは」
「たしかにそう思い込んでいたんだが」と彼は言った。で私は言った、
「なんでそう考えるのかね、グラウコン君〔ここで初めてアポロドロスに呼びかけた人物の名が出てくる。グラウコンの名はプラトン対話篇の中に時々現われるが、それとここのグラウコンが同一人物かどうか、はっきりしない〕。君は知らないのかね、アガトンがこの町を留守にしてから何年にもなるのを。また、私にしたところで、ソクラテスと共に過ごし、彼の言動をあますところなく理解することを日々の努めとするようになって、まだ三年にもなっていないというのに。それまでの私ときたら、当てもなしにただ駆けずり回り、それでひとかどのことをしていると思っていたんだから、誰よりも哀れな人間だった。今の君となんにも変わるところがなかったんだ。なにせ君は、哲学するよりは他のどんなことでもやったほうがいいくらいに思っているんだから」
すると彼は言った、
「そう人をからかうものじゃないよ。さあ、その会合がいつ行なわれたのか話してくれないか」
それで私は答えた、
「われわれがまだ子どもだった頃で、アガトンが最初の悲劇で優勝した時のことだ〔アガトン優勝の年は前四一六年であるから、本篇の著者プラトンは当時まだ十一才の子どもであった。ここの言葉からすると、アポロドロスがアリストデモスから聞いたのは「饗宴」からかなり年月がたった後のことだということがわかる〕。そう、彼自ら合唱隊を従え、勝利を祝って犠牲を捧げた日の翌日だった」
「そうすると」彼は言った、「どうやらだいぶ昔のことらしいね。しかし、それなら誰が君に話してくれたんだ。ああ、ソクラテスが自分で話したんだね」
「まさかそんなことが。」と私は言った、「ポイニクスに話して聞かせたご当人だよ。それはキュダテナイオン区のアリストデモス〔ソクラテスの熟心な心酔者ということだけで他は不詳〕という人で、小柄な、いつも跣足《はだし》でいる人だった。彼はその会合に出席したんだが、思うに、当時ではソクラテスの一番の心酔者だったからだ。もちろん、また聞きとはいえ、彼から聞いた内容については、ソクラテスにもこれまでにいくつか質問してみたし、ソクラテスも、彼が話した通りだと言って同意を与えてくれた」
「さあ、それならなおのこと」彼は言った、「その話というのを早く聞かせてくれないか。町までのこの道は、どう見たって、歩きながら話したり聞いたりするのにぴったりじゃあないか」
こんなやりとりがあって、われわれは歩きながらそのことについて話をして行った。そういう次第で、初めにも言った通り、私は準備ができていない訳ではないのだ。だから、君たちにも話さなければならんというのであれば、そうしない訳にはゆくまい。それに私という人間は、こと哲学に関する話となると、自分でするにしろ、他人がするのを聞くにしろ、それが自分のためになるという考えは別にしても、ただもう、とてつもなく嬉しくなってしまうんだから。しかしほかの話をする段になると、特に君たちがよくやる金持ちの話とか財を作った人の話となると、私自身もいたたまれない気持ちになるが、同時に、友人である君たちが、意味のないことをしながら、いっぱしのことをしていると考えるのに憐《あわ》れみを覚えるのだ。だが君たちは君たちで、たぶんこの私を、不幸な人間よ、と思うことだろう。そして私も、君たちがそう思うのはもっともだと思っている。しかしながら私は、君たちのことをただそう思っているだけではない、そのことをよく知っているのだ。
【友人】 いつもながら君は変わらないね、アポロドロス。なにしろ、いつでも、他人はもとより君自身まで悪く言っているんだから。それで私は思うんだが、君は、ソクラテス以外は誰をも例外なく惨めだと考えているらしい、君自身を始めとしてね。君が、いったいどういうところから『情にもろい』と呼ばれるあの綽名《あだな》を頂戴したのか、私には判らない。なにしろ、議論するとなると、きまってこの調子なんだ。ソクラテス以外には、自分自身であろうと他の者であろうと噛みついて行くんだから。
【アポロドロス】 これはどうもご親切なことで。それではっきりしたという訳だね、私が気狂いじみていたり調子はずれであったりするのは、私自身に対しても君たちに対しても、そんな風に考えるためなんだと。
【友人】 そんなことで、アポロドロス、今言い争うべきではないよ。さあ、君にお願いしたことだが、ほかのことはさておいて、あの議論というのがどういうものだったのか、ぜひ話してくれないか。
【アポロドロス】 では話そう。あの議論は、だいたいこんな内容のものだった……いや、それより、あの人が話してくれたように、私も君たちに、最初から話すことにしよう。
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彼の言うには〔ここからアリストデモスに聞いた話となる。この話はアポロドロスの口から語られるから、間接話法の時の「彼」、直接話法の「私」はアリストデモスを指す〕、彼はたまたまソクラテスに出会ったそうだが、その時のソクラテスは、身体を洗ってさっぱりし、足にはサンダルを履《は》いていた。こんなことはソクラテスのめったにやらないことだった〔ソクラテスが風呂にも入らず、跣足のままでいたことは有名である。しかし一般には、宴会の前には水浴し塗油するのが普通であった〕。それで彼はソクラテスに、こんなに綺麗《きれい》にめかして何処へお出かけですか、と尋ねたそうだ。するとソクラテスは答えた、「アガトンの所へご馳走になりにだ。というのは、昨日の祝勝会では、人混みに恐れをなして彼のもとを逃げ出したのだが、今日は出席しようと約束してきたからだ。それでこんな風にめかしこんだのだ、『美しき人の許へは美しき者』が行くことになるように、という訳でね。しかしどうだろう……ソクラテスは続けた……君は、招かれずして宴会に出席してみようという気にはならんかね」
それで私は……とアリストデモスは言った……「なんでもあなたのお命じになる通りに」と答えた。
「ではついて来たまえ」ソクラテスは言った、「そうすれば、諺《ことわざ》の言葉を入れかえて意味を台無しにすることにはなろうよ。つまり、『アガトンの宴席には善き人々自ら赴く』というふうにだね。こんなことを言うのも、実はホメロスが、意味を台無しにするだけでなく、この諺に暴力を加えることすら、あえてしているからなのだ。なぜなら、彼は、その詩の中で、アガメムノンを軍事にかけては抜群の勇者であるとし、メネラオスを『腰抜け侍』〔『イリアス』第一七巻五八七参照〕としながら、アガメムノンが犠牲の式をとり行ない、饗宴の席を設けた時には、メネラオスがその席に招かれずして入ってくる、という風に書いたが、これはより劣った者でありながらより優れた人の席に赴くことになるからだ」
これを聞いて彼は言ったとのことである、
「しかし、この私にしたところで、これからやろうとしているのは、ソクラテス、おそらく、あなたのおっしゃっているような意味のことではなく、ホメロス流に、愚かでいながら賢い人の席に招かれずして行くことなのかもしれません。ですから考えてくださいよ、私を連れて行って何と言い訳をするつもりか。私は、招かれないのに来ましたと認めるつもりはありません。あなたに招かれたから来ましたと、言うつもりですから」
するとソクラテスは言った、
「『ふたりともども連れだち行きて〔『イリアス』第一〇巻二二四参照〕』何と言うべきかよく考えることにしよう。さあ出かけようじゃあないか」
彼が言うには、なにかこんな話のやりとりをしてから、彼らは出かけたそうだ。ところが、ソクラテスは、道々なにかしらじっと考え込んでいる風で、歩くのも遅れがちになった。それで彼が立ち止まって待っていると、先に行くよう命じたそうだ。ところで、アガトンの家に着いた時、彼は入口の戸が開けられたままなのを目にした。そしてそこで、彼はばつの悪い目に遭わされたそうだ。つまり、着いた途端、内働きのひとりの召使の子が迎えに飛び出してきて、他の人々が着席している場所へ彼を案内したそうだ。そこで彼が見たのは、人々がもう食事に入ろうとしている姿だった。でも、アガトンが彼を見るなり、すぐに声をかけたそうだ、
「これはアリストデモス君、ちょうどいいところへ来た。いっしょに食事をしないか。もしほかの用事でここへ来たのなら、それはまたの機会に延ばしたまえ。じつは昨日も、君を招待しようと思って探していたんだが、見つけることができなくてね。それはそうと、ソクラテスをどうして連れて来てくれなかったんだね」
そこで私は……と彼は言った……後ろを振り向いてみたが、後から来ているはずのソクラテスはどこにも見られなかった。それで私は、実は私も、ソクラテスにここへご馳走になりに行こうと勧められて、彼といっしょに来たのだ、と説明した。するとアガトンは言った、
「それはまったくいいことをしてくれた。でもあの人はどこにいるんだろう」
「つい今しがたまで私の後ろから入って来られたんですが。しかしまったく不思議ですね。どこへ行ったんでしょう」
「これお前」アガトンは召使に向かって言った、「ソクラテスさんを探してここへお連れしないか。だがアリストデモス君……彼は言った……君はエリュクシマコスの隣に横になりたまえ」〔ギリシアでは、宴会の時に長い寝椅子《クリネー》に身体を横たえながら飲食した〕
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すると、召使の子が彼の足を洗ってくれ、彼は横になった。ところが、ほかの召使が帰ってきて、「ソクラテスさんはすぐそこまで来ておいでですが、隣の玄関先に入り込んだまま立っていらっしゃいます。私がお呼びしても入ってこようとなさいません」と伝えたそうだ。するとアガトンが、
「何をばかなことを言っている。さあ、もう一度あの方をお呼びしてこないか。そのままにしておいてはならんぞ」と言った。それで、アリストデモスは言ったそうだ、
「そんなことはしないで、あの方をそっとしておいてください。これがあの方のいつもの癖なんですから。よく行きずりの場所で、脇道にそれてじっと立ち続けるのです。でも、間もなくお見えになることと思います。ですから、邪魔しないでそっとしておいてください」
「君がそう思うのなら、そのようにしなければなるまい」とアガトンが言ったそうだ。(そして召使たちに向かい)「さあお前たち、残りのわれわれにはご馳走を出してくれ。お前たちに指図する者が誰もいない時には、とにかくお前たちがこれと思うものを出しているじゃないか……もっとも、指図など私はこれまでしたことはないが。だから今日のところも、この席にお見えの方々はもちろんだが、私もお前たちに食事に招かれているものと考えて、もてなしてほしい、私たちがお前たちのもてなしを賞めるようにな」
それから彼らは食事に入ったが、ソクラテスはまだ入ってこなかったそうだ。それでアガトンは、再三再四ソクラテスを迎えに行くように命じようとしたが、アリストデモスはそれを押しとどめた。ところがソクラテスは、いつもほど長い時間を潰さないでやってきた。それは、彼らの食事が半ばに達したかどうかという頃であった。するとアガトンは……ちょうど彼だけひとり末席に横になっていたからだが〔末席とは正面から見て一番左手に当たる。つまり、右手を用いるため左下にして横になるから、この位置が一番下座になる訳。この席にはその宴会の主人公が坐るのが普通で、一番右手が第一の席、主賓が坐る。普通この寝椅子には二人横になるようであるが、三人坐れないこともない。この宴席の席順を示すと次のようになるであろう。(右手)パイドロス…(何人かの客がいる)…パウサニアスとアリストパネス…エリュクシマコスとアリストデモス…アガトンとソクラテス(左手)〕……こう言ったそうだ、
「ここへどうぞ、ソクラテス。私のそばに横になってください。あなたに触れて、隣の玄関先であなたに現われてきたという、その知恵のおすそ分けに与《あず》かりたいので。あなたがそれを発見して持っておられることは、もうお見透しなんですから。だって、それがまだなら、あなたがあそこを立ち去るはずがなかったでしょうからね」
するとソクラテスは、アリストデモスの話では、坐ってこう言ったそうだ、
「アガトンよ、知恵というものがそんなもので、まるでカップの中の水のように、羊毛を通して、いっぱい入っているカップから空のカップへ流れて行くようなものであり、われわれが互いに触れさえすれば、いっぱいつまっているほうから、空っぽなもののほうに流れて行くというのであれば、これは結構な話だろうよ。実際に知恵もそれと同じようであるなら、私は君のかたわらに横になるのを大へん有難いことだと思う。なぜなら、思うに、君から流れてくる大量の素晴しい知恵で私は満ちあふれるに違いないからね。なにしろ、私の持っている知恵というのは、お粗末な、いや、まるで夢のようにあやふやなものだろうが、君のときたら、輝かしくもまた前途洋々たるものだからね。事実その知恵は、一昨日、若い君の内から、あれほどにはなばなしい光彩を放ち、誰の目にも明白なものとなったではないか、三万人以上のギリシア人を目撃者にしてね」
「ほれ、またからかっていますね、ソクラテスさん」アガトンは言った、「そのことでは、程なく私とあなたとで黒白《こくびゃく》をつけねばなりますまい、その知恵をめぐって、ディオニュソス〔ディオニュソスを持ち出したのは、この神が演劇の神であるからであろう。この神の祭りで、アガトンは悲劇の第一席を得た。また、ディオニュソスは、別名のバッコスで知られる通り、酒の神でもある。そしてソクラテスもアガトンも酒豪であるところから、両者の飲み比べをも、暗に指しているかもしれない〕を審判に立ててね。だが今のところは、何よりも食事を第一にしてください」
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ソクラテスも席につき、他の人ともども食事をしたが、その後で彼らは灌奠《かんてん》の儀を行ない、神の頌歌《しょうか》を歌ったり、その他のしきたり通りのことをすませてから〔宴会の時の酒宴は、食事をすませてから一定の儀式を行ない、その後に始まるのが普通で、よき神霊(ダイモン)に混じらぬ酒を捧げ、客に花輪を配ったり、ゼウスを初めとするオリュンポスの神々、ついで英雄たち、それから守護神ゼウスへと三度の灌奠をしたり、神の頌歌を歌ったりするしきたりがあった〕、飲むことにとりかかろうとしたそうだ。すると、パウサニアス〔アテナイのケラメス区の出身者。アガトンを恋し、その執心ぶりで有名だったと言われる。彼はアリストパネス、アガトンと並んでこの席の酒豪であり、これに対し、エリュクシマコス、アリストデモス、パイドロスは酒に弱い〕がなにかこんな話を切り出したそうだ、
「さて諸君」彼は言った、「どうやったら最も気楽に飲めるだろうか。ところで、私としてはぜひ申し上げておきたい。この私は、昨日の酒のためまったくもってひどい状態で、少し息抜きの必要を感じている。また、諸君の中にもそういう方が大勢おられると私は見ている。なぜなら、諸君も昨日酒宴に出席しておられたのだから。そこで考えていただきたい、どういう風にしたら最も楽に飲むことができるかを」
するとアリストパネス〔アテナイ出身の喜劇作家。当時の著名人を戯画化した多くの作品が残っている。ソクラテスを主人公としたものでは、当時のソフィストを諷刺した『雲』が有名〕が言ったそうだ、
「これはパウサニアス君、実にいいことを言ってくれた、あらゆる手をつくして酒を気楽に飲む方法を考えておこうなどというのは。実は私自身も、昨日酒びたりになったひとりでね」
すると今度は、アクメノスの息子エリュクシマコス〔医者。この作品では、医者らしく節制を守り、他人にもそれを勧める人として描かれている〕が、彼らの話を聞いて言ったそうだ、
「君たちはなんともいいことを言ってくださる。でも、諸君のうちもうひとりだけに尋ねておく必要がある。それはアガトンなのだが、彼には飲む元気があるのかどうか、この点はどうなのかをね」
「いやいや、私だって」アガトンは言った、「もう飲む気力などありませんよ」
「これはどうやら」エリュクシマコスは言った、「われわれには天の恵みということになるらしい、私にとっても、アリストデモスやパイドロスやここにおられる方々にとっても。あなたがたのように、飲むことにかけては最も豪の者たちがもうお手上げということなんだから。なにしろ、われわれときたら、飲むほうはいつもだめなんでね。しかし、ソクラテスは論外にしておこう〔その理由は、本篇の最後に行なわれるアルキビアデスの話(三十五章)の中で述べられている〕。彼はどちらでもこいという人で、われわれがどっちにしようと、それに満足できるだろうから。それでは、ここにおられる方がたはどなたも、酒をふんだんに飲むということには、気乗りしておられない様子だから、私が酩酊についてその実態がどういうものであるかをお話しても、おそらくそれほど不愉快な感じを与えないであろう。そこで申し上げるのだが、私の考えでは、酔いが人間にとって有害であるというこの点だけは、医学的見地からもう明白なことなのである。だから私は、自分自身も、すすんで度を越して飲もうとはしないだろうし、他人にもそれを勧めはしないであろう。相手が前日来の酔いでまだふらふらしている時にはなおさらである」
「いや確かに」ミュリヌス区出身のパイドロスがその言葉をうけて言ったそうだ、「私はいつも君の忠告に従っているが、とりわけ医学について話すことなら文句なしだ。今日のこの席でも、ほかの方がただって、よく考えたならそうするだろう」
この言葉を聞くと、人々は皆、その日の集まりは酔いにまかせてではなく、ただただ快く飲むことを心掛けて進めることにしよう、と同意したそうだ。
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「それでは」エリュクシマコスが言ったそうだ、「各人が望むだけの量を飲み、いっさい強要することがない、というこの点が議決されたのであるから、次に私は、いましがた入ってきた笛吹き女は退席させて、自分で楽しみに吹くなり、気が向いたらこの家の女どものために吹いて聞かせるなりさせとくとし、われわれのほうは、今日のこの集まりを互いに言論を汲み交わすものにしてはどうか、これを一つ提案したい。また、お望みとあれば、どのような言論を交わすか、それを諸君に提案してもいいと思っている」
すると一同は、それは望むところだと言って、彼に提案するよう求めたとのことである。そこでエリュクシマコスは言ったそうだ、
「私の話の切り出し方はエウリピデスの『メラニッペ』〔断片として残る作品で、それによると「この物語はわがものにあらず、わが母より……」とある〕に倣ったものである。というのは、私が提案しようとしているのは、『この話わがものにあらず、ここなるパイドロスのもの』という訳だからだ。つまりパイドロスは、折にふれて私に向かい憤懣《ふんまん》を洩らしてこう言うのだ、『畏れおおいことではないかね、エリュクシマコス君。同じ神でも、ほかの神々には讃歌や頒歌が多くの詩人の手で作られているのに、エロス〔エロスは固有名詞では神の名、普通名詞では恋である〕の神に対しては、あれほど年古く、あれほど偉大な神であるにもかかわらず、これほど大勢の詩人がいながら、ひとりとして一篇の頒歌すら作ったことがないというのは。なんなら、今度は有能なソフィストたちに目を転じてみたまえ。彼らは、ヘラクレス〔ギリシアの代表的英雄。ゼウスがアルクメネとの間に儲けた子〕や他の者たちについては散文で賞讃の辞を綴っているではないか。例えば、あの比類なきプロディコス〔ケオス出身のソフィスト。ここで言われているのは、プロディコスの「岐路に立つヘラクレス」を指すのであろう〕がそうである。そして、これだけのことなら、それほど驚くことでもない。私だってこれまで、賢い人の書物というやつで、有用だという理由で、塩が驚くほどの賞讃を与えられているのにお目にかかったことがある。ほかにもこの種のおびただしい数のものが賞讃されているのを目にすることはできよう。ところで、私が驚くのは、このようなものには大変な熱意を示しながら、エロス神については、今日に至るまで、それにふさわしい讃歌を作ろうと試みた者がひとりもいなかったということだ。いや、かくも偉大な神がこれほどまでに無視されていたのだ』。
パイドロスのこの言葉は、もっともだと私も思う。そこで、私としては、パイドロスに好意の拠出をよせてその意に応えたいと思うのであるが、同時にまた、今ここでこの神を賞讃で飾り立てるというのも、この場に居合わせるわれわれにとってうってつけではないかと思えるのである。だから、もし諸君の同意も得られるようなら、われわれは言論によって十分な楽しみの時を持つことができるであろう。つまり、私の考えでは、われわれがひとりずつ、右のほうへ順に、エロスを讃える演説をできるだけ美しく述べることにし、まずパイドロスがその口火を切るのがよい、と思う。なぜなら、彼が横になっているのは最上席であるし、それにまた、彼はこの話を持ち出した生みの親でもあるのだから」
「エリュクシマコス」とソクラテスは言ったそうだ、「誰ひとりとして君に反対の票を入れる者はないだろうよ。なにしろ私もそれを拒否はできないだろうし……何分にも、恋の道以外に知っていることはない、と主張しているくらいだから……、アガトンやパウサニアスにしても、おそらくそうだろうしね。それにアリストパネスだが、彼だって、その仕事のすべてがディオニュソスとアプロディテに関わりを持っているくらいだから〔アプロディテはオリュンポスの神々の一人で、愛と美の女神〕、反対はしないだろうし、そのほか、私の見る限りでは、ここにいる人々の中に反対する者はひとりもいないだろう。もっとも、われわれ末席に座っている者にとっては、この順序は公平とは言えんがね。とはいえ、先に話す人々が十分かつ申し分のない話をしてくれるなら、われわれもそれで満足するだろう。さあ、幸運を祈って、まずパイドロスを皮切りにエロスの神を賞讃してもらうことにしよう」。ソクラテスのこの言葉には他の人々もすべて同意し、そうするように促した、ということである。
ところで、各人が披露した演説のことごとくは、アリストデモスもよくは覚えていなかったし、また私(アポロドロス)のほうも彼が話したことを何から何まで覚えている訳ではない。しかし、彼が特によく記憶していたことで、私が、これは心に留めておかなければ、と思ったことついては、それぞれの人が何を語ったか、諸君に話すことにしよう。
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さて、今も言った通り、まず初めにパイドロスが口火を切って、だいたいこんなところから話し始めたとのことである。すなわち、エロスは偉大な神であり、人間の間でも神々の中にあっても驚嘆すべき神であって、このことは他の多くの点からも言われるが、とりわけその生まれにおいてそうである、と。
「なぜなら」彼は続けた、「この神が最古の神であるということ、これは尊敬に値することだからである。これには証拠がある。すなわち、エロスには生みの親というものが存在しないし、また、散文家であると詩人であるとを問わず、誰の口からも親のことが語られていないからである。むしろ、ヘシオドス〔『神統記』の作者として知られる古い詩人で、ホメロスと並び称される。この引用は『神統記」一一六以下からのものである。彼にはほかに『仕事と日々』の詩があり、農民の生活規範をうたったものとして有名〕は、初めに生じたるはカオス(混沌)、と言い、
ついでは胸広きガイア(大地)
とこしえにすべての安らけき座が、
そしてエロス……
と謳《うた》っているのである。そして、ヘシオドスにはアクシラオス〔アルゴス人。ヘシオドスにならって神統記を書いたと言われる〕も同意を示し、カオスについではこれら二神、つまりゲー(大地)とエロスが生じたと言っている。また、パルメニデス〔前五世紀初めのギリシア哲学者。イオニアに生まれた哲学が自然を流動的に見たのに対し、不変不動の一なる自然を説いて、後の思想に大きな影響を与えた〕はエロスの生誕についてこう言っている、
〔女神アプロディテは、〕いかなる神々よりも先に、エロスを案じ出された。
このように、多くの典拠により、エロスは最も年長であると認められているのである。最古であるがゆえに、それはまた、われわれにとって最も善きことどもの根源である。なぜなら、若いうちに早くから与えられる善きものとして、優れた思慕者以上にどんなものがありうるか、また思慕者にとって素晴しい少年〔少年といってもただの少年でなく、恋の対象となる少年(稚児)である。つまり、ギリシアでは同性愛が行なわれていたのである。少年愛の本質はやがて述べられることになる〕以上にいかなる善きものがありうるか、この私にはそれを挙げることができないからである。つまり、立派な生を送ろうと心がける人間が生涯を通して指針となすべきもの、このものをわれわれの心の中に植えつけることは、門閥にしても、名誉にしても、富にしても、またその他のいかなるものにしても、恋ほど見事にはできないからである。
ではその指針とは何であるのか、これをお話しよう。それは、醜悪《しゅうあく》なる行為に対しては恥らいの気持ちであり、一方美しき振舞いにおいては、それで名を得んとする気持ちである。けだし、これらの気持ちがなくては、一個人にしても国家全体にしても、偉大にして立派な事業を果たすことは不可能だからである。そこで私は主張したい。恋している時の男というものは、自分がなにか恥ずべき行為をしたり、あるいは人からそのような仕打ちを受けても臆病なために身を守ることができなかったりして、それが露見するような場合、それを父親によって見られようと、友人たちによって見られようと、はたまた他の誰によって見られようとも、恋する少年たちの目にとまるほどには、辛い思いをすることがないのである。これと同じことは、恋されている者についても認められる。すなわち、自分がなにか恥ずべき所業に身を委ねているのを見られる時には、彼は恋してくれている人に対してとりわけひどい差恥心を覚えるのである。それゆえ、一計が案じられて、国家あるいは軍隊が恋する者と少年たちとで構成されることになるとしたら、彼らは恥ずべきことからいっさい手を切り、互いの目を意識して名誉を競い合うのであるから、自分たちの国家をこれ以上によく治めうる方法はほかにありえないだろうし、このような人たちが互いに手を携えて戦う場合には、たとえ人数が少なくとも、言ってみれば人類全体を相手にしてこれに打ち勝つことであろう。なぜなら、恋している時の男は、戦列を離れたり武器を棄てたりして、それが少年たちに見られることを、他の誰に見られるよりも潔《いさぎよ》しとしないであろうし、それくらいならむしろ、いく度でも死を選ぶことであろうから。いわんや、少年を置きざりにするとか、その危険に際して救いの手をさしのべないなどということに至っては……そもそも、エロスの神自ら勇気の徳を授けるべく息吹きを与えたもうたのに、それでいて生来の最も勇気ある人間に匹敵する者たりえぬような、それほどまでに臆病な者は誰ひとりいないのである。つまりエロスの神は、ホメロスの言う、『神は英雄たちのある者に勇気を吹き込む』〔『イリアス』第一〇巻四八二〕を地で行って、そのことを、御自身からの贈り物として恋する者たちに賦与《ふよ》しているのである。
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さらにまた、命を捧げるということであるが、これを進んでなそうとするのは、ひとり恋する者たちのみである。それも、男子だけというのでなく、女たちもまたそうなのである。この点については、ペリアスの娘アルケスティス〔この話はエウリピデスの『アルケスティス』の中で詳しく語られている〕が、私のこの主張のために十分な証拠をギリシア人たちに提供している。すなわち、彼女は自分の夫のために死を求めたのであるが、夫には父も母もあったにもかかわらず、そうしたのは彼女ひとりだけであった。つまり彼女は、恋心のゆえに愛情において彼らを大きくしのいだのであって、それは、彼らが息子とは他人であって、名目のみの身内にすぎないことを明らかにしたほどであった。そして、このような行ないをしとげたことで、彼女は、人間はもとより神々によっても、その所業は天晴れともてはやされるに至り、その結果、世に多くの優れた行為をなした者は数多い中で、神々が魂をハデス〔冥界。ハデスはまたの名をプルートンとも言い、地下界を支配する神の名でもある〕からふたたび引き上げるというあの褒美を授けるのは、ほんの数えられるほどの者に対してでしかないのに、彼女の魂は、神々がその行ないに愛《め》でて上方へ引き上げたもうたのである。このように、神々ですら、恋に見られるひたむきさと勇気を、特に高く評価されるのである。
ところが、オイアグロスの息子オルペウス〔ホメロス以前の最大の詩人で音楽家と言われているが、多くの伝説につつまれた人物。一説によるとオイアグロスとカリオペの息子でトラケの人。アポロンによりリュラを授けられ、ミューズたちから音楽を教えられた。その調べには、野獣はおろか木や石までもおとなしくなったと言われる。この物語は、妻アグリオペ(又はエウリュディケ)が毒蛇に噛まれて死んだのを悲しみ、妻を求めてハデスヘ下りて行くというもので、その時、妻をハデスから連れ出すまで背を向けたままでいて、決して顔を見てはならないという約束であったのに、まさに外へ出ようという時になって、妻への愛情に負けて思わずふり向いたため、妻はふたたび彼のもとから消えて行ったという話である。本作品にはプラトンの脚色がある。また彼はオルペウス教を創始したとされ、輪廻《りんね》の思想をはじめとして、その教えは、ギリシア思想に大きな影響を与えた〕の場合には、神々は、彼が求めて行った妻の幻影だけを示して、妻本人を渡そうとはせず、彼を目的を果たさぬままにハデスから追い帰えしてしまわれた。それは、彼がキタラ弾きであるところから、柔弱であり、アルケスティスのように恋のために敢えて死のうとはしないで、命あるままハデスに入り込む策をめぐらした、と思われたからである。じつにこういう理由から、神々は彼に罰を課し、彼の死が女どもの手によって到来するようにされたのである〔彼が妻を慕うあまりトラケの婦人たちに見向きもしなかったため、女どもは、バッカスの狂乱的な酒宴に興奮して、彼を八つ裂きにして殺した、と言われる。しかし、一説では、彼が秘教入会者に秘密の教えを啓示したのがゼウスの怒りに触れ、そのために雷光に打たれて死んだとも言われる。死体はミューズたちが集めてオリュンポスの麓に葬ったが、そこを鶯《うぐいす》が美しくさえずりながら飛び回ったと言う〕。これは、テティスの息子アキレウスの場合とは大違いである。すなわち、神々はアキレウスを愛でて浄福なる者たちの島〔これは神々に愛された者のみが死後送られる島で、西方の海のどこかにあると信じられていた〕へ送り出されたのであるが、それは彼が、母親に『ヘクトルを殺したら自分も死ぬことになるが、それをしなかったら、家に立ち戻って年老いるまで生を全うするであろう』と言い聞かされていたにもかかわらず、自分を恋してくれているパトロクロスの救援に赴《おもむ》き、その仇を討って、彼のために命を捧げるというだけでなく、すでになき者となった彼を追って死ぬ途を、あえて選んだからである。このような訳で、神々はとりわけ彼をいたく愛でたまい、これを讃えられたのである。つまりそれは、彼が、自分を恋してくれる者をこれほどまでに大事に考えたからなのである。
ところで、アイスキュロスは、アキレウスのほうがパトロクロスを恋していたのだ、などと愚かなことを口走っているが、当のアキレウスは、ひとりパトロクロスのみか、英雄の全部を見渡してもそれらより美しく、その上まだ髭も生えそろわず、しかも、ホメロスが述べているように〔『イリアス』第一一巻七八六参照〕、はるかに若かったのである。それはともかく、実のところ、神が特に讃えられるのは恋にかかわるこの勇気の徳なのであるが、しかし、恋する者がその少年を愛する時よりは、むしろ恋されている者が恋している者を愛する時のほうを、神々はいたく感嘆され、これを愛でて善き施しを与えられるのである。というのは、恋している者は少年たちより神的だからである。けだし、彼は神に魅入られているからである。このような訳であるから、神々はまた、アルケスティスよりはアキレウスのほうを讃えられ、浄福なる者たちの島へ送られたのである。
以上のように、私としては、エロスは神々のうちで最古の神であり、最も畏敬に値するものであり、そして人間が、生きている間も死んで後にも、徳と幸福を所有する上で、最も権威を有する神である――こう主張する次第である」
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パイドロスは、だいたい以上のような演説をしたそうである。で、パイドロスの後にまだいくつかの演説があったそうだが、彼(アリストデモス)は、それらをあまりよくは覚えていなかった。それで彼は、それらは飛ばして、パウサニアスの演説について話してくれた。パウサニアスは次のように述べたそうである。
「どうも私の見るところ、パイドロス君、われわれに対して話題の提示があまり適切になされていなかったようだ、ただやみくもにエロスを讃美せよというのは。なぜなら、エロス神が単一神だとしたら、それでもよかったかもしれん、しかし、実際には単一なものではないのだから。で、単一なるものでないとしたら、賞讃しなければならぬのはどのエロスであるかを、前もって断わっておくのがより正しいやり方というものである。そこで私は、第一に、賞讃すべきはどのエロスであるかを述べること、ついでその神にふさわしい賞讃の辞を与えること、このように課題の修正を試みたいと思う。
さて、われわれのひとしく知っていることであるが、エロスとアプロディテは切り離してはありえないのである。それゆえ、アプロディテが単一な女神であるとしたら、エロスも単一であったろう。ところが、実際には、アプロディテは二つの相《すがた》を持つのであるから、エロスもまた必然的に二つ〔アプロディテとエロスを結びつけるのは大体前五世紀頃から一般的となったが、二つのアプロディテに対応する二つのエロスの考えはここが始めて〕でなければならないのである。この女神が二つの相を持つもつことは紛れもない事実である。その一方は、たしか、年長で、母親なしに生まれた、ウラノスの娘〔ウラノスはガイアの息子とも夫とも言われる。一説では、ウラノスはガイアとの間に多くの子をもうけながら、それらを嫌って、生まれるとすぐ地下のタルタロスに閉じ込めてしまった。これを恨んだガイアは、子のクロノスをそそのかし、ウラノスの男根を切り落とさせた。かくしてクロノスが王座についたのであるが、一方、海に投げ込まれたウラノスの男根の周囲に泡が立ち、その泡からアプロディテが生まれたと言われる(ヘシオドス『神統記』一九五)。したがって、ウラニア・アプロディテは母なくして生まれたことになる〕であって、われわれはこの女神をウラニア(天界の)・アプロディテと名づけている。そしていま一方のより若いほうは、ゼウスとディオネ〔ティタン族のひとりで、オケアノスとテテュスの娘とも、ウラノスとゲー(ガイア)あるいはアイテルとゲーの間にできた娘とも言われる。ゼウスに愛され、その間にアプロディテをもうけた(ホメロス『イリアス』第五巻三七〇)。このアプロディテに何故パンデモスの名が与えられたかはっきりしない。しかし、前五世紀末にはこの名称があったと言われる〕の娘であって、われわれはこれをパンデモス(世俗的)・アプロディテと呼んでいる。それゆえ、当然のことながら、エロスの方もまた、女神の一方に協力するものはパンデモス・エロスと、またもう一方に協力するものはウラニオス・エロスとされるのが正しい呼び方ということになる。
ところで、賞讃はどの神々に対してもなされるべきではあるが〔復警の女神ネメシスの怒りを避けるため〕、だが、とりあえず今は、それぞれのエロスが分け持っている権能について述べておかなくてはなるまい。
すべて行為というものは次のような事情にある。すなわち、為された行為は、ただそれだけとして見るなら、美しいものでもなければ醜いものでもない。例えば、われわれが今やっていることだが、飲んだり、歌ったり、語り合ったりすることもそうで、これらのどれをとっても、そのこと自体は一つも美しいものではない。ただ、実際の行動において、それがいかに為されたかに応じ、そのような性質の行為となって現われるものなのである。すなわち、美しくそして正しく行なわれる時には、美しいものとなり、正しく行なわれないない時には醜い行為となるのである。これと同じように、恋することも、したがってまたエロスも、そのすべてが美しいのでも賞讃に値するのでもなくて、美しく恋するように促すエロスだけが、その資格を持つのである。
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さて、パンデモス・アプロディテに属しているエロスは、まぎれもなく世俗的であって、見境いなしに事を果たそうとする。このエロスは、俗人たちがいだく恋である。このような者たちは、まず第一に少年に劣らず婦人をも恋し、ついで、恋している相手の肉体をその魂以上に恋する。さらに、彼らはできるだけ思慮のない者を恋する。それは、ただ自分の思いを遂げることだけに目を向けて、その恋が美しくなされているかどうかには無関心なためである。彼らがどんなことでも手当たり次第に行ない、それが善《よ》かろうとその逆であろうと無頓着《むとんちゃく》になるのもそのためである。なぜなら、その恋は、二つのアプロディテのうちもう一方よりはるかに若い、そして、その生誕において女性と男性の両方に関わりを持っている女神〔八章で述べられたパンデモス。アプロディテの生誕の事情を指す。つまり、ゼウス(男性)とディオネ(女性)の娘ということで両性に関わる〕から発しているためである。
これに対しもう一方の、ウラニア・アプロディテに伴うエロスであるが、それの属する女神は、第一に女性には関わりがなく、男性とのみ関わりを持つ〔これも、ウラニア・アプロディテの生誕に関係がある〕(それゆえ、このエロスは少年への恋という訳である)。次に、この女神はより年長で、しかも無軌道にはいささかも関与することがない。こういうところから、このエロスによって霊気を与えられている者たちは、男性に向かうのである。すなわち、彼らは、生まれつきより逞《たくま》しく、より思慮のあるものを愛するからである。純粋にこのエロスによって衝動を与えられている者というのは、他でもない、少年を恋する行為の中に認めることができよう。すなわち、彼らが恋するのはただの少年なのではない、いや、少年にすでに知性が備わり始める頃になって、つまり、それは髭《ひげ》の生え始める頃に近いのだが、その頃になって、少年たちを恋するのである。私の思うには、相手のこの時期を見計らって恋し始める者は、全生涯をその子と添いとげ、手を携えて暮らそうという心構えができ上がっているのであって、相手が若いのをいいことに、その思慮が浅いのにつけ込んでとりこにしては騙《だま》し、あざ笑って別な少年のもとへ走り去って行ってしまうつもりなど、毛頭ないのである。
また、年端もいかぬ少年を恋してはならないという法〔法(ノモス)は人間が社会生活を営むようになって生まれてきた規範であって、成文化されたいわゆる法律だけでなく、その社会の掟《おきて》、慣習をも含めた広義のものである。以下、法とあるのはみなその意味で用いられる〕が定められることも、本当は必要だったのである。そうすれば、多くの真剣な努力が、成果の定かでないことに空しく費い果たされはしなかったであろう。というのも、少年たちの行きつくところは、魂の面でも肉体の面でも、悪と徳のいずれに終わるのか、はっきり定まっていないからである。それゆえ、優れた人たちは、わが身に対しては、みずから進んでこの法を定めているのであるが、しかし、あの世俗的な恋慕者たちに対しても、そのような強制を課す必要があるのである。これは、自由な身分〔特に「自由な」と限定するのは、当時身分上の奴隷が存在し、卑俗的恋の対象であった芸妓などを職とするのは、この種の者たちであって、これらと自由人を区別するため〕の婦人たちについても、彼らがこれらの婦人を恋することがないよう、できるだけの制約を彼らに加えているのと同じことである。なぜなら、この連中こそ、恋に屈辱的な非難を招くようにした者どもであり、その結果、『恋する者の意に添うのは恥ずかしいことである』と、はばかるところなく言う者も出るようになったからである。人々がこのような言葉を口にするのは、これらの手合いに目を向け、彼らの時宜を弁えぬ振舞いや不当な仕打ちを目にしているからである〔「時宜を弁えぬ」とは、少年がまだ年端もいかず分別もないうちに恋することを指し、「不当な」とは、思いを遂げると捨てて、他の少年の許に走ることを言う〕。そうであろう、もし慎みを守り、法にしたがってなされるならば、何ごとによらず正当な非難を受けることはまずないであろうから。
さらにまた、恋に関するその法であるが、他の国々においては、それを理解するのが容易である。というのは、一律に規定されているからである。しかるにこの国やラケダイモン〔ラケダイモン(スパルタ)は武勇を尚ぶ国柄で、幕営生活が多いため同性愛が盛んであったが、クセノポン『ラケダイモンの国制』第二巻によれば、その法律は複雑で、エリスやボイオティアと対照的であった〕の場合は、それが複雑なのである。たとえば、エリス〔ペロポンネソス半島の北西部の都市〕やボイオティア〔ギリシア中央部、アテナイの西北にある地方で、この地方の人々は愚鈍であると言われていた〕など、言論が得手でないような国では、一律に、『恋してくれる者たちの意に添うことは美しきこと』と定められており、若い者も年寄りも、誰ひとりとしてそれを醜いなどと口にする者はないであろう。これは思うに、弁舌を用いて若者たちを口説きにかかるという厄介を避けるためであろう。なにしろ、彼らは弁を用いることが不得手だったからである。
これに反し、イオニアとか、その他、異邦人〔バルバロイ。ギリシアは多くの都市国家(ポリス〉からなり、それぞれ国を異にしていたが、民族としては同胞であった。これに対しギリシア民族以外を、彼らはバルバロイと呼んでいたのである。現代語で言えば野蛮人であるが、彼らがバルバロイと呼んでいるものの中には先進国や老大国が含まれていたのである。ここでは特にペルシアを指すのであろう〕たちの支配下で暮らしているような多くの所では、それは慣習的に醜いこととされている。つまり、それらの地域では、僭主《せんしゅ》制を採用しているがゆえに、このようなことは、実に知を愛することや肉体の鍛錬を愛することともども、醜いとされているのである。というのは、私の考えでは、被支配者たちの間に大きな志が生ずることは、そしてまた力強い愛と協力が生ずることも、支配者たちにとって利益にならないのであるが、実にこれらを国民の間に植えつけ易いのは、他のこともさることながら特に恋だからである。この地域の僭主たちも、事実を通してこのことを学んだのである。なぜなら、アリストゲイトンの恋とハルモディオスの固く揺るぎない愛とが、彼らの支配を崩壊せしめたからである〔これは前五一四年に起こった僭主ヒッピアスの兄弟ヒッパルコス殺害事件を指す。アリストゲイトンは中流のアテナイ市民。彼は若くて美しいハルモディオスに惹かれたが、ハルモディオスも同じように温かく彼を愛した。ところが、ヒッパルコスがハルモディオスの愛をえようとして果たさず、その復讐に公共の場で侮辱を加えた。それで、二人は力を合わせ、ヒッパルコスを殺害し、僭主制を倒したことで名声を博した〕。
このように、恋してくれる者の意に添うことが醜いと定められている所では、その法は定めた人たちの品性が劣悪なために、つまり、支配者たちの貪欲《どんよく》と被支配者たちの臆病とによって、そのように定められているのであり、これに対し、一律に美しいことと認められている所では、定めた者たちの精神的|怠惰《たいだ》によってそう定められるのである。しかるに、この国においては、それが以上の国々よりはるかに見事に制定されており、それで、先にも述べたように、理解するのが容易でないという次第なのである。
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この点は、次のことを考えてみればお判り頂けよう。つまり、この国では、大っぴらに恋することが人目をしのんで恋するよりも美しいと言われており、しかも、たとえほかの人々より醜くても生まれと品性が特に優れている者を恋する場合は、特にそのように言われるのである。さらにまた、恋する者に対しすべての人々から寄せられる激励は驚くほどで、それは恥ずべきことを行なっている者に対するものとは思えないのである。また、恋を遂《と》げたならばそれは美しいことであるが、遂げなかった場合には恥ずべきことと思われる。また、恋をかちえんと努力しているのであれば、恋する者が奇異な所業に及ぼうと、法は彼に賞讃を受ける資格を与えているのである。だが、これらの所業は、恋とは別な何かを追い求めたり、なし遂げようと意図したりして、それにあえて手を染めようものなら、最も激しい非難を取り込むことになるようなものなのである。そうであろう、人から財貨を手に入れようとか、官職やその他なんらかの権力を手にしようとの意図をもって、恋慕者が少年たちに対してするようなことを行なうとしたら、そう、頼みごとがあれば嘆願や哀願をしてのけたり、誓いを立ててみたり、門前で横になって夜を過ごしてみたり、奴隷でもする者がないような隷属ぶりを進んでやったりしようものなら、彼は、友人からも敵からも、そんな所業をしないよう制止されることであろう。つまり、後者は彼のへつらいや奴隷根性を非難してのことであり、友人たちは彼に忠告し、彼の所業に恥らいを覚えてそうするのである。ところが、恋する者には、彼がそのようなことをことごとくやろうとも、好意がよせられ、しかも非難を受けずにそうすることが法によって認められている。それは、彼がなにか非常に立派なことをなし遂げようとしている、と考えられているかのようである。そして最も驚くべきことは、多くの人々が口にしていることだが、彼だけは、誓いを立ててその誓約を破ることがあっても、神々から許しが与えられるということである。つまり、世に言う「恋の上の誓いは誓いに入らず」なのである。このように、神々も人間たちも、この国の法が謳《うた》っているように、恋する者にはありとあらゆる自由を用意しているのである。このように見てくると、この国においては、恋することも恋してくれる者に愛情を抱くことも、まったく素晴らしいこととみなされている、こう考えることができよう。
ところがその一方で、父親たちが恋されている少年たちに教育係を監督につけて、恋する者と言葉を交わすことを許さず、教育係にもそのことが仕事として課せられているという場合、そして、彼らと同年輩の友人たちも、このような所業がなされているのを目にすると非難を浴びせ、その上、年長者たちもまた、非難している者たちに対し、そういう言葉は間違っていると言って制止しようともしなければ、なじりもしないという場合、今度はこういう事態に目を移してみると、前とは逆に、上のようなことはこの国では最も恥ずべきこととみなされている、こう考えられることであろう。
だが、思うに、事実はこういうことなのである。つまり、問題の行為は一義的なものではない。これは最初に言われたことだが、それだけをとって見れば美しくもなければ醜くもなくて、美しくなされた場合には美しく、醜くなされた場合には醜いといったものなのである。ところで、醜くというのは、みだらな恋慕者の意にみだらな仕方で添うということであり、美しくというのは、有為な恋慕者の意に美しい仕方で添うということである。また、みだらな恋慕者とは、かの世俗的恋慕者、つまり魂よりも肉体のほうを恋い慕う者がそうである。なぜなら、彼が恋い慕う対象が恒常的なものでないため、彼にもまた恒常的なところがないからである〔恒常的でないものを追い求める者は恒常性を欠き、したがって劣悪であるという考え方の底には、善悪美醜の価値は、ソフィストが説くように相対的に動くものでなく、国や時代にかかわりなく常に妥当するものでなければならない、というソクラテス以来の思想が見られる〕。すなわち、彼は、恋していた肉体の花が萎《しお》れるやいなや、今までのさまざまな言葉や約束を反古にして『飛び去り行く』〔ホメロス『イリアス』第二巻七一からの引用〕のである。しかし品性の優れたものを恋している者は、恒常的なものと一つに融け合っているがゆえに、生涯を通して心変わりすることがない。
それゆえ、われわれの国の法は、恋慕者たちを十分かつ適切に吟味し、その上で、ある恋慕者たちの意には添い、ある恋慕者たちは避けることを望んでいるのである。したがって、以上のような理由から、法は、恋する者には相手を追いかけるよう、そして恋される者には逃げるように勧め、恋している者はいったい上のいずれの種類に属しているか、また恋されている者はいったいどちらに属すのか、吟味をするのである。かくしてこの国では、こういった理由のもとに、まず第一に、たちまちにして相手のとりことなるのは醜いことであると定められている。それは、その間に時を稼ぐようにとの意図に立っているのである。時こそ多くのことを立派に吟味すると考えられているからである。第二に、金銭とか政治的権力に負けて相手のとりこになるのは醜いと考えられている。それが、ひどい仕打ちを受けて脅《おびや》かされ、それに耐えきれないでそうする場合であっても、あるいはまた、金銭面や政治的成功の面で恩義を受けているため、軽く扱うこともできないという場合であっても、同じことである。なぜなら、これらのものはなに一つとして確実なものとも恒常的なものとも思われないからである――それらからは、高尚な愛の生ずることがないのは言うまでもない。
このような次第であるから、少年たちが恋慕者の意に美しい仕方で添わんとする場合には、われわれの法において残された道は一つだけになる。つまり、われわれのもとでは法はこういうことなのである。すなわち、恋する者たちの場合には、少年たちにどんな隷属《れいぞく》を進んでなそうとも、それはへつらいでもなければ非難に値するものでもない、ということであったが、これと対応的に、当人の意志による隷属で、ほかにもう一つだけ非難を受けることのないものが、少年たちに残されているのである。それは徳が目的の隷属である。
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十一
つまりわれわれの間では、ある者が、誰かの助力により、なにかの知恵においてであれ、その他、徳のどんな部分においてであれ、もっと優れた人間になりうると信じて、その者に進んで仕えようとする場合には、この自由意志による隷属もまた、恥ずべきことでもへつらいでもないと見なされているのである。それゆえ、もしも、少年が恋してくれる者の意に添うことが、結果的に美しいこととなるべきであるなら、これら二つの法、すなわち、少年への恋に関する法と知識愛およびその他の徳に関する法とを結びつけて一つにする必要がある。なぜなら、恋する者と少年とがそれぞれその法を手にして、つまり、恋する者の方は、自分の意に添ってくれる少年たちにどんなこともいとわずに奉仕しても、それが正当な奉仕となりうるという法を、また少年の方は、自分を知恵のある優れた人物にしてくれる者にどんなことをして尽くしても、それもまた正当に尽くすことになりうるという法を、それぞれ手にして一緒になる場合、しかも、前者は思慮やその他の徳において貢献できる実力を持っており、後者は、教養を高め、その他の知恵を身につけるために、それらの徳を所有したいと熱望しているといった場合には、これら二つの法が結び合って一つになるがゆえに、ひとりここにおいてのみ、少年が恋してくれる者の意に添うことは美しいという結果になるのであって、それ以外のどんな場合であっても、それは不可能だからである。
このような状況であれば、少年が恋する者に欺《あざむ》かれるということがあっても、それはなんら恥ずべきことではないのである。ところが他のすべての場合には、欺かれても欺かれなくても、彼には恥辱がつきまとう。なぜなら、自分を恋している者を金持ちと思い、富目当てにその意に添ったのに、恋するご当人がまったく貧乏であると判明して、それが裏切られ、一文も手にできないとしたら、これは、欺かれずに富を手にした場合と同様に恥ずべきことだからである。というのは、このような人間は、金のためなら、誰に対してもどんな奉仕でもすることだろうと、わが身の本性をさらけ出しているように見られるが、そのような性根は立派なものとは言えないからである。これと同じ理屈で、人が恋してくれる者を優れた人間と思い込み、その意に添ったなら、自分もまたその者への愛を通していっそう優れた人間になれようと考えていたのに、かの者がよからぬ人間で徳など所有してないことがはっきりして、欺かれることになったとしても、それでもこういう欺かれ方は美しいのである。なぜなら、彼自身もまた自分の本心を、すなわち、彼は徳のためであったら、つまり自分がより優れた者になるためであったら、誰に対してもどんなことでも一途《いちず》になってすることであろうということを、明らかにしているように思われるのであるが、これは、前の場合とは違って、何よりも美しいことだからである。このように、徳のためであれば、どのようなことをどのようにしてであろうと、相手の意に添うということはすべて美しいことなのである。
これが天上的な女神(ウラニア・アプロディテ)に属している恋であり、それ自身も天上的で、国家にとっても個人にとっても、多くの価値を持つ恋なのである。つまりそれは、恋する者と恋される者のいずれに対しても、徳を目ざして自分自身のことを気づかうよう強いるからである。これに反し、その他の恋はすべて、もう一方の女神、すなわち世俗的な女神(パンデモス・アプロディテ)に属している恋なのである。
以上が、……と彼は言った……パイドロス君、即席ではあるが、エロスの神について私が献上する言葉である」
【アポロドロス】 パウサニアスが話を止めたので(こんな語呂合わせをするのはその方面に精通している人たちが教えてくれるのだが)、アリストデモスの話では、次はアリストパネスが話すことになっていたが、折りも折り、彼には、満腹のためか、それともほかの何かが原因で、しゃっくりが襲いかかり、話をすることができなくなって、こう言ったそうだ(というのは、彼の下座に医者のエリュクシマコスが横になっていたからであるが)、
「エリュクシマコス君、君は、私のこのしゃっくりを止めるか、それとも、私のしゃっくりが止むまで代わりに話すか、どちらかをすべきだ〔エリュクシマコスはエロス讃美の演説を提案した人間であるから、演説の進行について責任があるし、また、医者であるから、しゃっくりを止める仕事もしなければならない、の意〕」
するとエリュクシマコスは言ったそうだ、「じゃあ、その両方をやってやろう。つまり、君の番に、私が代わって話をしよう。そして君は、しゃっくりが収まったら、私の番の時に話すという訳だ。でも、私が話している間に、君が長い時間息をとめて、うまくしゃっくりが止むようならいいが。もし、それで止まらないようだったら、水で含漱《うがい》をしてみたまえ。しかし、それでもだめなほど、まったく頑固な代物だったら、なにか鼻をくすぐるようなものをとって、それでくさめを出してみたらいい。これを一、二度やれば、どんな頑固なしゃっくりでも収まるだろうよ」
するとアリストパネスは言ったそうだ、「さあ、早く話にかかってくれたまえ、私はその療法にとりかかるから」
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十二
それでエリュクシマコスが話したとのことである。
「さて、私にはやらねばならぬ仕事があるように思われる。つまり、パウサニアスは、みごとな語り始めで演説に入って行ったのに、仕上げが十分ではなかったので、私がその言論に結末をつける試みをしなければならないようだ。なぜなら、エロス神が二つであるという点は立派な区別だったと思われるのであるが、しかし、エロスが、単に人間の魂にあって美しい者に向かうというに止まらず、その他の多くのものにも向かうし、またその他のものの中にも、すなわち、すべての生きものの肉体の中にも、大地で生長するものの中にも、言ってみれば、およそ存在するものすべての中にあるということは、すなわち、この神がいかに偉大で驚嘆すべきものであるか、そして人間界にも神的なことがらにも、そのいっさいにわたってどれだけその力が及んでいるかということは、私が、われわれの術知である医学の見地から見てとっていると思うからである。
では、この術知に敬意を表するためにも、医学のことから語り始めることにしよう。実に、肉体の本性というのはあの二つのエロス神を備えているのである。すなわち、肉体の健康な状態と病気の状態とは、広く認められているように、異なった相似ないものであるが、相似てないものは、それぞれ相似てない対象を欲し恋慕する。だから、健康な肉体における恋と病気の肉体における恋とは互いに別なものなのである。先程パウサニアスは、人間について、よき人々の意に添うことは美しく、放埒《ほうらつ》な人々の意に添うのは醜いと述べたが、これと同じように、肉体だけに限ってみても、個々の肉体におけるよき部分、つまり健康な部分を悦ばせることは美しいことであり、また必要なことでもあって、実にこれが医療と称されることなのである。これに反し、悪しき、つまり病的な部分を悦ばせることは醜いことであって、この術に心得ある者であろうとする以上は、これらを悦ばせないようにしなければならないのである。
つまり、医学とは、要するに、充足と欠乏に関わる肉体の恋愛現象の知識であって、これらの現象において美しき恋と劣悪なる恋とを識別できる人、これが最も医学に心得のある人であり、また、変化を生ぜしめて一方の恋の代わりにもう一方の恋を所有するようにさせ、恋が現に含まれてはいないが、それが生じてくる必要のある肉体には、恋を植えつけたり、逆にすでにある恋を取り出したりする術を心得ている人が、専門医として優れていることになるのである。すなわち、このような人は、肉体の中にある最も憎しみ合う部分を、互いに親しみ合い恋し合うようにすることができなければならないのである。ところで、最も憎しみ合うものとは、最も相反するもの、例えば温に対する冷、甘いに対する辛い、湿りに対する乾きなど、すべてこういったものである〔このように対立する要素を挙げ、それらの間の調和に健康状態を求める医学説は、前六世紀のアルクマイオンの中に見出される〕。これら相反し合うものに恋と協和を植えつける術を心得ていたればこそ、われわれの祖先であるアスクレピオス〔アポロンの子と言われる、おそらく伝説上の人物。一般に医学の祖とされ、医神として祀られている〕は、われわれのこの術を組織されたのであって、このことはここにおられる詩人がた〔アリストパネス、アガトンを指す〕が述べているところであるし、私もまたそう確信しているのである。
さて、私に言わせれば、医学はその全体がこのエロス神によって操られているのであり、体育術にしても農耕術にしても同様である。また音楽であるが、これが上の諸術知と同じ事情にあることは、音楽にいささかなりとも関心を抱く人であれば、誰の目にも明白なことである。これは、おそらくヘラクレイトスも言いたかったことであろう(というのも、少なくとも言葉の上では、それがうまく表現されていないからである)。すなわち、ヘラクレイトスは、一なるものは『それ自ら自分自身と、相反し合いながら一つに結び合っている、あたかも弓やリュラ琴の調和のように』と言っているのである〔ヘラクレイトスはエペソスの哲学者。森羅万象ことごとくが絶えず流れるように変化しており、一刻も留まることがない、といういわゆる万物流転を説いた人。しかし、現象の上で相反し合っているものも、相反し合うことにより一つの調和を保っていると説き、変動の底に法則性を認めた。この引用は、彼の残っている断片の中にそのままを見出すことはできないが、弓やリュラの調和は『断片』五一にあるから、それを用いて彼の思想を要約したのかもしれない〕。ところで、調和が相反し合っているとか、なお相反し合っているものからできている、などと言うのは、大へん理屈に合わないことである。しかし、彼が言おうとしていたのは、おそらく次のようなことなのであろう。すなわち、以前は相反し合っていたが、後になって音楽術の力で協和するようになった高音と低音から、調和が成り立っている、ということであろう。なぜなら、高音と低音がなお反し合ったままであれば、そこからはおそらく調和が生ずることはないだろうから。というのは、調和は協和であり、協和とは一種の協調だからである。ところで、協調というのは、互いに相反し合っている要素からは、それらが相反し合っている限り、構成されることは不可能である。そしてさらに、互いに反し合っていて協調の状態にないのに、それらを調和させることは不可能なのである。リズムは速い音と遅い音とからできているが、これらの音が、以前は互いに反し合っていたが、後に協調するに至った時にそれが生ずるのと、これは同じことである。これらすべての音の中に協調を植えつける仕事は、さきの場合には医学がそうであったように、この場合には音楽術が行なう。相互への恋と和合をそれらの中に作り込むことによってである。であるから、音楽もまた、調和とリズムに関わる恋愛現象の知識ということになる。
さらに調和とリズムの構成そのものにおいては、恋愛現象をその中に認めることはさして困難ではないし、また、この場合には、エロスの二重性もまだ生じていない。しかしながら、人間生活においてリズムや調和を用いる必要のある場合、それは自分が作るのであっても(これは作曲と呼ばれている)、あるいはすでに作られているメロディーや韻律を正しく用いるのであっても(これは教育と呼ばれている)よいのだが、その場合には困難が伴い、優れた専門家が必要となる。つまり、先の同じ議論がふたたび登場することになる。すなわち、人間の中で慎み深い人の意に、しかも自分がまだ慎みにおいてそこまで達していない者は、もっと慎みのある者となれるような仕方で、添いとげるべきであって、こういう人々の恋は大事に守られなければならないのである。そしてこれが美しい恋、天上的な恋、すなわち、ムーサ・ウラニア〔ムーサ(ミューズ)は九神で、その中にムーサ・ウラニア、ムーサ・ポリュムニアが含まれる。ムーサ・ウラニアは天文を司る女神で、ここでは天体運行の調和に関連させて言っているのであろう。これに対して、ポリュムニアは崇高な頌歌に関わりを持ち、その意味では地上の人間に関係すると言える。ここで何故にアプロディテの代わりにムーサを持ってきたのか。たまたま同じ名前(ウラニア)を与えられているというのでは理由にならない。ムーサはだいたいにおいて、学芸技能を司る女神である。エリュクシマコスが愛を説いても、それは医術の話を恋愛を藉《か》りて述べているのである。してみれば、アプロディテであるよりはムーサのほうが適切なのかもしれない〕に因る恋なのである。これに反し、ムーサ・ポリュムニアに因る恋は世俗的なものであって、それについては、誰に対してその恋を向ける場合であろうと、それからの悦びの実は摘んでも、決して心に放埒《ほうらつ》を植えつけることのないよう、要心してかかる必要がある。それはいわば、われわれの術知において、料理術に関わる欲求の数々をうまく用い、かくて病気にならずにその悦びを収穫できるようにすることが大事な仕事であるのと、同じことである。このような訳で、音楽においても、医学においても、またその他、人間界のことがらであれ神々に関わることがらであれ、そのすべてにおいても、できる限り二つのエロスのそれぞれをよく見守るようにしなければならないのである。なぜなら、二つともそこにはあるからである。
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十三
また一年の季節の構成にしても、それはこれら両方の恋に満ちているのであるから、したがって、私が今しがた挙げたもの、すなわち温かいものや冷たいもの、乾いたものや湿ったものが互いに対してうまく慎みのある恋に陥り、調和と適度な混合を手にする場合には、それらは、人間にもその他の動物にも、また植物に対しても、繁栄と健康を携えて到来して、害をもたらすということはまったくないのであるが、ところが、放逸《ほういつ》を伴ったエロスが一年の季節に関して次第に強い影響力を持つようになると、多くのものを破滅させ、害を及ぼすのである。なぜなら、疫病にしても多くのさまざまな病気にしても、それらが動物や植物に生ずるのは、このようなものが原因であることが多いからである。つまり、霜や雹《ひょう》や錆《さび》病などは、この種の恋の諸現象が互いに貪欲であったり、慎みを欠いたりするために生ずるのである。そして、実にこれら恋愛現象の知識が、諸星の運行や年々の季節に関わる場合には天文学と称されるのである。
さらにまた、供犠《きょうぎ》の式とか神占術の権限に属している儀式などのすべて〔当時のギリシア人においては、一部の理性的信仰とは別に、神占術のごときものも、生活に指針を与える重要なものとされていた。ソクラテスがデルポイの神のお告げを重視し、その意味を探し求めたのも、その現われであろう〕――これらは神々と人間たちの相互の交流であるが――、これらは、他でもない、エロス神を守ることと癒すことに関わるものなのである。なぜなら、どんな不敬でも、それが生じやすいのは、慎みのあるエロスに対し、その意に添うことも、あらゆる行為の上で尊敬し崇めることもせず、かえっていま一方のエロスにそのようなことをする場合、しかも両親(現に生きていようと、すでに死んでいようと)についても、神々についてもそのようにする場合だからである。実に、これらのことについて恋している人々がどうであるかを見きわめ、かつこれを癒すことが神占術に課せられている仕事なのであり、それゆえ神占術もまた、人間界における恋の諸現象で神の掟《おきて》や敬虔に関係する限りのものをよく弁《わきま》えることによって、神と人間の間に友愛を創り出すもの、ということになる。
このように多くの偉大な、いやむしろ、一口に言ってありとあらゆる力を、エロスは全体として備えているのであるが、しかし、われわれ人間のもとでも神々のもとでも、善きことどもをめぐって、節制と正義を伴いつつ成就されるエロスは、これこそ最大の力を備え、われわれにあらゆる幸福を提供し、われわれが相互に、そしてまたわれわれより優れている神々とさえ、交わりを持ち、親愛になることを可能にしてくれるのである。
ところで、おそらくこの私も、エロス神の賞讃において多くのことを言い忘れていることであろう。だがそれは、決して意図的にしたことではない。いや、何か言い落としたことがあるとしたら、アリストパネス君、その穴埋めをするのが君の仕事だ。それとも、何かほかの方法でこの神を賞讃する考えがあるのなら、そのように賞讃してくれたまえ。君のしゃっくりも収まったことでもあるし」
すると、その言葉を受けとってアリストパネスは言ったそうである、「うん、すっかり収まった、もっともくさめ療法を施すまではだめだったがね。それで不思議に思っているんだが、身体の慎み深い部分というのは、くさめみたいな、あんなうるさい音やくすぐりを欲求するものなのかね。なにしろ、そこへくさめ療法を施すやいなや、立ちどころに収まったんだから」
そこでエリュクシマコスは言ったそうだ、「参ったねえ、アリストパネス君、自分のやっていることに気をつけてくれたまえよ。話を始めようという段になって、冗談で人を笑わせたりなんかして。こうやって君は、否応なしに私を自分の演説の見張りにしてしまうんだから――何か滑稽なことを言い出しはしないかと。君には穏やかに語ることもできるというのにね」
するとアリストパネスは、笑いながら言ったそうだ、「いやもっともだ、エリュクシマコス君。それでは、今の言葉はなかったことにしてくれないか。さあ、私を見張るのは止めてくれたまえ。私が、これから取りかかろうとする話について案じているのは、人を笑わせるようなことを言い出しはしないかということなのではない(それならむしろ儲《もう》けものなくらいで、われらが崇めるムーサ〔エリュクシマコスのムーサ(前章)に対抗して言っているのであろう。喜劇を司るのはムーサ・タレイアである〕の本領と言えるだろうからね)、そうではなくて、人の笑いものになるようなことを言いはしないかという心配なんだから」
「やや、一撃を見舞っておいて……とエリュクシマコスは言った……逃げられると思っているな、アリストパネス君。しかしよく心して、後で言い訳がきくように話してくれたまえ。もういいだろうと思ったら、たぶん釈放することになろうがね」
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十四
そこでアリストパネスは語ったそうだ、「さてエリュクシマコス君、お言葉通り、私が語るに当たってとろうと考えている方法は、君やパウサニアス君が語った方法とは少し違っている。というのは、私の思うに、世の人間どもはこれまで、恋の力というものにまったく気づいていなかったからだ。もし気づいていたとしたら、この神の神殿と祭壇に最大のものを建てたであろうし、供犠の式も最大の規模で行なったことであろうからだ。だが実際には、この神についてこのようなことはなに一つとして行なわれていないのである、なにはさておいても特にそうすべきであるのにだ。なぜなら、この神は、神々のうちでは最も人間を愛しておられる神なのであって、人間どもの協力者であり、かつ、それが癒された暁《あかつき》には人類に最大の幸福が訪れるであろうような病の医者でもある。そこで私は、この神の力についての秘密を諸君に解き明かしてみたいと思う。これにより、諸君は諸君で、ほかの人たちの教師となれることであろう。
まず最初に、諸君は人間の本来の姿と、それが体験してきたもろもろの出来事を理解しなければならない。つまり、むかしわれわれが持っていた本来の姿というのは、現在のそれではなくて、もっと違ったものだったのである。
まず第一に、人間の性は三つであって、現在のように男性と女性の二つだけではなく、ほかに、これら両方の性に共通な第三の性も加えられていた。この性については、現在名称だけが残っているが、そのもの自体は消滅してもう存在しない。すなわち、男女《おとこおんな》という一つの性が、形態の上でも名称の上でも、男性と女性の両者からなる共通なものとして、当時はあったのであるが、今はそれがなくて、ただその名称だけが非難の言葉として残されているにすぎない。
次に個々の人間の形態であるが、それは全体として球形をなし、背骨と肋骨《ろっこつ》をぐるりと囲りに備え、手を四本、また足も手と同じ数だけ持ち、顔も二つ、どの点から見てもまったく同じなのが円筒形をなす頸《くび》の上についていた。また頭は、互いに反対向きに置かれている両方の顔の上に一つつき、耳は四つ、また陰部は二つ、そしてその他すべての部分も、以上の諸部分から推量できるような状態にあった。
また進行であるが、それは、今と同じように直立したままで、どちらでも望む方向へ進行したし、また、速く駈けようとする時には、ちょうど軽業師が足を真っ直ぐに回転させながらぐるぐるとんぼ返りをうつのと同じように、当時八本あった手足で支えながら速やかに回転して進んで行った。
ところで、人間の種類が三つであり、また今述べたようなものであったのは、次のような理由によるのである。すなわち、男性は、そもそもの初めは太陽の子孫であり、女性は大地の、そして両性に与《あずか》っているものは月の子孫だったからである。というのも、月もまた太陽と大地の両方に与っているからである〔月が両性であることはオルペウスの讃歌の中にも見出される。光り輝く点では男性である太陽に、冷たい点で女性の大地に、類似しているからであろう〕。それゆえ、それらが生みの親に似ているところから、彼ら自体も、そしてまたその進行も、円形をなしていた。したがって彼らは、体力においても活力においても恐るべきものがあり、その思いも尊大で、それで神々に対して反逆を企てた。つまり、ホメロスがエピアルテスおよびオトスについて語っていること、すなわち、神々に攻撃をしかけんものと、天への上昇を企てたというのは〔ホメロス『オデュッセイア』第一一巻三〇五以下に見られる物語。ふたりともポセイドンとイピメディアの間に生まれた巨人で、身体が大きく、オリュンポスの神々に対して攻撃を加えた。天への上昇とは、彼らがオリュンポス山の上にオッサ山を、その上にまたペリオン山を重ねたことを指すのであろう。エピアルテスは、ために、アポロンに左目を奪われ、ヘラクレスに右目を潰《つぶ》されることになる〕、実は彼らについての物語なのである。
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十五
そこで、ゼウスや他の神々は彼らをいかに扱ったものか協議をされたが、どうとも決めかねていた。というのは、神々は、彼らを殺したり、巨人たちにしたように、雷光で打ちすえて種族を消滅させることもできなかったし――なにしろ、そうなると、人間たちから神に捧げられる尊敬や犠牲がなくなるからである――、かといって、野放しにして横暴な振舞いをさせておくこともできなかったからである。そうこうして、全知全能のゼウスが考えあぐねた末、やっとのことでこう言われたのである、
『どうやら名案が浮かんだようだぞ、どうしたら人間どもが生存したままで、同時に今より力が弱くなって放逸な振舞を止めるかという。そう、この度は彼らを一つ残らず二つに切り裂くことにしよう。そうすれば、彼らは今より弱くなるであろうし、同時にまた、その数が今より増えるから、われわれにとっても今以上に役立つ存在となるであろう。また、彼らは今後二本の足で直立して歩くことになるであろう。だが、それでもなお、見たところ、横暴に振舞っているようで、おとなしくしている気がないようなら、……ゼウスは付け加えた……私はもう一度二つに切り裂くことにしよう。そうなれば、彼らは、一本足でぴょんぴょん跳びながら進行することになるであろう』
こう言われると、ゼウスは人間どもを真二つに切り裂かれたのである。それは、ななかまどの実を切って貯蔵しようとする人々のやり口、あるいは卵を毛髪で切る人々のやり口と同じであった。そして、切り裂かれた切り身のことごとくにつき、ゼウスはアポロンにお命じになって、顔と頸の半分とを切り口のほうへ向けかえさせられた。それは、人間が自分の傷口を見て前より慎み深くなるように、との意図によるものである。そして、その他のところは治療するようにお命じになった。そこで、アポロンは、顔の向きをかえ、ちょうど口をしぼられた巾着《きんちゃく》のように、皮膚をあらゆるところから引っ張ってきて、現在腹と呼ばれている部分にたぐりよせ、口を一つにして腹の中央部でしっかりとゆわえられた。これが現在|臍《へそ》と呼ばれているものなのである。また、靴作りが靴型に合わせて靴皮の皺をのばす時に使うような道具を手にして、ほかにもたくさんあった皺《しわ》は平らにのばし、胸部の形をととのえられたが、ごくわずかの、ちょうど腹部つまり臍の周囲にある皺だけは、昔受けた痛手を偲ぶよすがとなるよう残しておかれた。
さて、本来の姿が二つに切り分けられてからは、半身のそれぞれは自分の半身をこがれ求めて、これといっしょになろうとした。そして、身体がもとの一つに接合されることを切望して、手を相手にまきつけ、互いに絡み合い、互いに相手なしでは何をする気にもならないものだから、飢《う》えと全く活動なしでいるためとで死んで行った。そして、二つの半分のうちのどちらかが死に、もう一方が取り残されると、残された半身は別な半身を探し歩き、出会った相手が、完全であった時女性であったものの半身(これを今、われわれは女性と名づけているのである)であろうと、男性であったものの半身であろうとおかまいなしに、これと絡み合った。そして、このようなことをくり返しながら滅びて行ったのである。そこで、ゼウスはこれを憐れに思い、また特別な工夫をひねり出して、それらの陰部を前方に移しかえられた。つまり、それまでは、陰部も外側についており、それで、生むのも生ませるのも、お互いの中にではなくて、大地の中に行なっていたのである。ちょうど蝉《せみ》と同じことである。それで、今言ったようにそれらの陰部を前方に移しかえるとともに、これを通じて生産をお互いの体内で、すなわち、男性によって女性の内にするようにしたのである。つまりその目的は、それらが絡み合う際、男性が女性に出会う場合であれば、人間種族は次々と続くことになるし、また、男性が男性に出会う場合であっても、とにかく一緒になったという満足感は得られ、その間に休らぎを得て仕事に向かい、その他の暮らしにも配慮が行き届くという、一石二鳥になるところにある。このような訳で、互いに対する恋は、これほどの昔から人間たちの心の中に植えつけられているのであって、それは、大昔の本当の姿を一つに結び合わせるものであり、二つのものから一つのものを作り出して人間の本来の姿を回復せしめようと企てるものなのである。
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十六
このようなわけで、われわれのひとりひとりは、人間の割符〔シュンボロン。これは、客が去る時、主人が骰子《さいころ》や指輪を半分に割って一方を与え、後日の証《あかし》としたもの。男女がそれぞれ割符であるという考え方は哲学者エンペドクレスの思想にもあり、アリストテレスによって伝えられている。なお、平目の比喩はよく判らないが、二つの顔を持った、したがって四つの目を持つ人間を二つに切り裂くと、それぞれ片側に二つの目を備えるところから、平目に似ているのであろうか。同じ譬えはアリストパネス『女の平和』にも出てくる〕なのである。すなわち、平目のように一つのものから二つに切り分けられているからである。それで、それぞれの者は常に自分自身の割符を探し求めている。ところで、男子のうち両性(実にこれは、その昔、男女と称されていたのだが)の半身である者は女好きであり、間男の多くはこの種類から生じている。また婦人の場合も、男好きで姦婦と言われる者は、やはりこの種類から生ずるのである。ところが、婦人たちのうち女性の半身であるものは、それほど男子には心をひかれず、むしろ婦人のほうに気持ちが向いている。同性愛の女性たちはこの種類から生ずるのである。だが男性の半身である男子は、男性を追い求める。そして、男性の切り身であるがゆえに、まだ子どもである間は成年男子を愛し、成年男子といっしょに寝て抱き合うのを悦ぶ。そして、少年や青年のうちでは、この種の者たちが最も優れているのである。というのは、彼らは、その本性において最も男性的だからである。ところが、一部にはこれらの者たちを無恥であると言っている連中があるが、その言葉は誤りである。なぜなら、彼らがこのようなことをするのは、恥知らずなためではなく、大胆と勇気と男らしさによるものであり、自分たちの同類を愛慕しているからである。これには大きな証拠がある。すなわち、男子でもこのような人たちだけが、一人前に成長すると、国家公共の仕事において、まこと男子たるの実を示すからである。またこのような人たちは、一人前の男になると、少年を愛し、その本性によって、結婚や子ども作りには心を用いない。ただ、法に従って止むなくそうしているだけなのである。いや、結婚しなくても、自分たち男性だけで互いに手を取り合って暮らして行ければ、それで満足なのである〔当時アテナイでは結婚を強制する法はなかったが、他の都市の中には独身を禁止する法があった。しかしアテナイでも結婚はほとんど慣習的にすべきものと考えられ、特に公人となる場合には子どもを作らねばならなかったらしい。プラトンは結婚しなかったが、ソクラテスは市民の義務と考えて結婚し、子どもを作った〕。したがってこのような者は、いつも自分の同族を悦んで受け入れるのであるから、どう考えてみても少年を恋する者となり、また恋してくれる者を愛する少年となるのである。
さて、少年を恋する者も他のすべての者も、まぎれもないかの自分の半身と出会う時には、もう驚くほどにいとおしさと親しみと恋とに打たれ、言ってみれば一時たりとも、互いから離れようとはしない。実に、互いに手を携えて一生を全うする人々というのはこの人たちなのである。ところが彼らは、互いに相手から自分が何を得たいと望んでいるのか、口にして言うことすらできないであろう。なぜなら、それが愛欲の交わりであると、つまり、ある者が他の者とかくも激しい執心を抱いて交わるのを悦ぶのは愛欲のためだ、などと考える者は一人もないだろうから。いや、いずれの者の魂も別な何かを望んでいることは明白である。だが、それが何かを言うことが魂にはできず、ただ、それが望みとするところを予言めいたおぼろげな言い方で表わしているだけなのである。そこで、彼らが一つの椅子に横になっているところへ、ヘパイストス〔火や鍛冶屋の神。ホメロスによればゼウスとヘラの子。後の伝えでは、ゼウスがヘラなしにアテナを生んだのを嫉妬し、ヘラがゼウスなしに生んだ子とも言われる〕が手に商売道具を持って立ち、こう尋ねたとする、
『これ人間どもよ、お前たちが互いに相手から手に入れたいと望んでいるものは何なのだ』
そして彼らが返答に窮している時、ふたたびこう尋ねたとする、
『お前たちの欲しているものは、できるだけ相手と一つになっており、かくて、昼夜を問わず互いに相手から離れないこと、これではないのか。もしそれを欲しているのであれば、わしはお前たちを溶け合わせ、くっつけて一つのものにしてやろう。そうすれば、お前たちは、二人でありながら一体となり、生きている限りは、まったく一人であるかのように、両方そろって共通の生を送ることになろうし、また死んで後も、今度はあのハデスの世界で、二人でいる代わりに一人の人間として死の状態を共にすることになろう。さあ、よく考えてくれ、お前たちはこのことを恋し求めているのか、そして、これを手にしたらそれでもう満足なのかどうか』
こういう言葉を聞いたら、われわれにはよく判るが、誰ひとりとして否とは言わないであろうし、望みがほかのところにないということもはっきりするであろう。それどころか、文句なしに、今耳にしたのはまぎれもなく以前から欲し求めていたことである、すなわち、恋しい者といっしょになり、溶け合わされて二つの身体から一つになるということである、と思うことだろう。
その原因はこういうことなのである。すなわち、われわれの大昔の本当の姿は今述べたようなものであり、われわれは全き一体をなしていたからである。だから恋というのは、その全き一体を欲求し、追い求めることに与えられた名前に他ならないのである。くりかえして言うが、以前は、われわれは一体であったのが、今は、不正の行ないがあったため、神によって別居させられているのである、ちょうどアルカディアの人たちがラケダイモン人によってそうされたように〔アルカディアはペロポンネソス半島中部にあり、東はアルゴス、北はアカイア、西はエリス、南はメッセニア、スパルタ(ラケダイモン)に接する国で、ペロポンネソスではスパルタに次ぐ大国。スパルタは、前六〇〇年以来、しばしばアルカディアに干渉しており、ここで言われる事件がどれを指すのか判然としない〕。それゆえ、われわれが神々に対して慎み深くない時には、またしても二つに引き裂かれはしないか、そして、まるで墓石に片面の像を浮き彫りにされている人々さながら、骰子《さいころ》を二つに割った割符のようになって、鼻筋にそって切り割られた姿で歩き回りはしないか、という恐れがあるのだ。いや、そのような訳だから、誰でも、一方の運命を避け、他方、本来の状態を手に入れるために、神々に関してはすべてにおいて敬虔に振舞うよう戒めなければならないのだ――われわれには、その指導者、指揮官としてエロス神がついているのだから。この神には、誰ひとりとして逆らうようなことがあってはならない(逆らうというのは神々に忌み嫌われる者の所業なのである)。なぜなら、この神と親しくなり友好的になるなら、われわれは、われわれ自身に属していた少年を見出したり、出会ったりすることができようから。しかし、今の人々の中でこれのできる者はごくわずかである。ところで、エリュクシマコスには、話を茶化《ちゃか》して、私がパウサニアスやアガトンのことを言っているなどと考えてもらいたくないものだ――彼らもおそらく、そのようなわずかな人々の中に入る者たちであって、そもそもの本性は両者とも男性であるに違いないのでね。しかし、ここで私が言っているのは、男子も婦人もひっくるめてすべての人間についてであって、そのわれわれ人間が恋を成就し、それぞれが自分自身の半身である恋人を得て大昔の本当の姿に立ち戻るならば、その時こそわれわれの種族は幸福になるであろう、ということを言っているのである。
もし、こうなることが最善のこととすれば、現在われわれが置かれている状態のうちでこれにできるだけ近いものが、当然最も優れているということになる。そしてそれは、本性的に自分の気持ちとぴったりする恋人を得ることなのである。そこで、その原因をなす者として神を讃えるのであれば、エロス神を讃えるのが正当というものであろう。実にこの神は、現在においても、われわれを本来の親近なものへと導くことによって最大の利益をわれわれに与えて下さり、同時にまた、未来についても、われわれが神々に対して敬虔な気持ちを捧げている限り、われわれを大昔の本当の姿にまで回復させ、癒やして、完全に至福なものにして下さるという、最大の希望を与えてくれるのである。
以上が、エリュクシマコス君……とアリストパネスは言った……私のエロスに関する話であって、それは、さきにも言ったように、君の話とはかなり趣の異なったものである。ところで、今もお願いしたように、この話を茶化さないでほしい。まだ残っている人たちがめいめい何を語るのか、それを聞きたいから。いやむしろ、両者それぞれに何を、と言うべきかもしれん。なにしろ、残っているのはアガトンとソクラテスだけだから」
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十七
「勿論君の言う通りにしようとも」とエリュクシマコスは言ったそうだ、「話をおもしろく聞かせてもらったんだからね。それでなんだが、ソクラテスやアガトンが恋の道にかけてはなかなか達者であるということを知っていなかったら、私は大へん心配になったことだろうよ、いろいろと沢山のことが語られてしまったので、彼らが話す種に困りはしないかとね。でも本当のところ、私には少しも心配はないがね」
するとソクラテスは言ったそうだ、「それはそうだろう、君自身は立派に競技をすませたんだからね、エリュクシマコス君。しかし、君が今の私の立場におかれるなら、いや、それより、アガトンもまたみごとに語り終えた時に私がおかれるであろうような立場に、もし君がおかれたら、と言ったほうがいいだろう、その時には、それはもうひどく心配にもなるだろうし、まったくのところ、今の私のように、どうにも話のしようがない、といった状態になることだろう」
「私にまじないをかけるつもりですか、ソクラテスさん」とアガトンは言ったそうだ、「観客席は私がうまく語るものと大きな期待をよせている、こう思って私があがってしまうように」
「しかし、それでは私が物忘れのひどい人間になってしまうよ、アガトン君」とソクラテスは言ったそうだ、「君が、自分の作品を発表しようと、俳優たちといっしょに舞台へ登り、しかも、あれほど大勢の観客を目の前にしながら、それにいささかも気後れしなかった勇気と自信のほどを見ているのに、この場で、われわれごく少数の人間のために君があがってしまうに違いない、などと考えるようでは」
「なんですって、ソクラテスさん」アガトンが言ったそうだ、「ひょっとして、私が舞台のことでまだ頭が一杯で、そのため、心ある者にとっては、少数の思慮ある者のほうが多数の無思慮な者よりも恐ろしい、ということが判らなくなってるとでもお考えなのじゃありませんか」
「どうしてそんなことが。いや、そうだとしたら、君に失礼なことをしていることになるだろうよ、アガトン君」ソクラテスは言ったそうだ、「私としたことが、君について、不謹慎な思いを抱いたりして。だが私はよく知っているよ、君は、自分が賢いと信じている人に出会うと、大衆よりもその人たちのほうを顧慮するだろうということはね。しかし、それがわれわれであるということはまずないだろう。だって、われわれならあの劇場に居合わせ、大衆の仲間になっていたのだから。だが、誰か賢い人々に出会うようなら、おそらく君は、その人たちに対し恥らいを覚えることだろうよ、ひょっとして、自分のしていることが恥ずかしいことだと思っているようならね。それとも、君の言い分はどうかね」
「いや、おっしゃる通りです」と彼は言ったそうだ。
「だが大衆相手なら、恥ずべきことをしていると思っても、君は恥らいを感じないのだろうか」
すると、パイドロスが口をはさんでこう言ったそうだ、「ねえアガトン君、君がソクラテスに答えようものなら、今ここで行なわれていることの何がどんな風になろうとも、彼にはもうお構いなしになるのだ。彼には、自分が対話する相手さえいれば、そして特にそれが美しい人間ときたら、もうそれだけでいいんだから。私の気持ちとしては、ソクラテスが対話するのを是非聞きたい。しかし、私はエロスに対する賞讃のことを配慮しない訳にはいかんし、君たちのひとりひとりから演説の供物を取りたてる義務があるのだ。だから、君たち二人がそれぞれあの神にしかるべき捧げ物をすませて、その上で、あとは自由に対話する、というふうにしてもらいたい」
「いや君の言う通りだ、パイドロス」アガトンは言ったそうだ、「私は、演説に入っても一向に構わないよ。だって、ソクラテスとは、これから幾度でも対話する機会があるだろうから」
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十八
「それでは、私はまず最初に、私がどのように語るべきかを述ベ、ついで本題に入りたいと思う。というのは、さきに話をされた方々はすべて、私の見るところでは、かの神を賞讃せず、むしろかの神が原因で人間に与えられる善きことどもを挙げ、そのゆえに人間を幸福であると讃えておられるだけであって、では、かの神御自身がいかなる性質のものであるがゆえにそれらの善を贈られたのか、これについてはどなたも話されなかった。しかし、いかなるものについていかなる賞賛をするにせよ、その正しい方法は一つ、すなわち、言論の対象とされているものがいかなる性質のものであるから、いかなるものの原因となっているのか、この点を言論によって説明することなのである。それであるから、エロスについて、われわれもこのような仕方で、まずそれ自体がいかなる本性のものであるか、ついでそれの贈物、という風に賞讃して行くのが至当というものである。
さて、私の主張では、神々はすべて幸福なるものではあるが、エロス神は――こう言っても神々に許され、その憎しみを買うことがないと思うが――神々の中で最も幸福なものである、最も美しく、とりわけ優れているのだから。で、エロスが最も美しいのは、次のような性質を備えているからである。まず第一に、これはパイドロス君に聞いていただきたいのだが〔パイドロスはエロスを最年長であると説いた。第六章参照〕、エロスは神々の中で最も若いのである。その大きな証拠は、この神自ら私の言い分のために提供している。つまり、周知のように足の速い老齢を、逃れに逃れているという事実によってである。とにかく、老齢は必要以上の速さでわれわれに迫ってくるものである。じつにこの老齢を、エロスは生来忌み嫌い、長い間隔をとってであっても、それに近づこうとはしない。これに反し、若い者たちとなら、エロスは常に彼らといっしょで、その仲間である。たしかに、似たものは常に似たものに近づく、というむかしからの言葉は名言である。だから私は、他の多くの点ではパイドロスに同意するものであるが、エロスがクロノス〔ウラノスとガイア(ゲー)の子で、ティタン一族では一番若い。クロノスはウラノスの男根を切り落とし王座についたが、クロノスも、ウラノスの予言通り子どものゼウスに王位を奪われる〕やイアペトス〔クロノスの兄弟。オケアノスの娘アシアと結婚し、その間にアトラス、プロメテウス、エピメテウス、メノイティオスをもうけた。ティタン一族がゼウスと一戦交えた時、彼も地下のタルタロスに閉じ込められた〕よりも古いというこの点だけは、同意しかねるのである。いやむしろ、私としては、エロスが神々の中で最も若く、しかも、いつまでも若いと主張するものであるし、また、ヘシオドスやパルメニデスが語っている、神々に関わるあの大昔の出来事〔前注にもある、神々が互いに殺し合ったり、地下へ閉じ込めたりする争いを指す。これらはヘシオドス『神統記』で述べられているが、パルメニデスにそのような記述は見当たらない〕は、彼らの言葉が真実であったとしても、それはアナンケによってなされたのであって、エロスによるものではない、こう言いたい。なぜなら、かりにエロスがかの神々の間にいたとしたら、神々が互いに身体を切りとったり、縛ったりすることも、そのほか多くの暴力沙汰も行なわれず、むしろ、エロスが神々を支配したその時から、今日のように、愛と平和が生じたことであろうから。
このように、エロスはたしかに若いのであるが、若さに加えて、それはまたやわらかでもある。だが、この神のやわらかさを示すためには、かつてのホメロスのような詩人がいないのである。というのは、ホメロスはアテを女神であり、やわらかである――少なくとも、彼女の足はやわらかである――と語り、次のように謳《うた》っているからである〔ホメロス『イリアス』第一九巻九一〜九四〕、
げに彼女の足はやわらかなりき、
堅き土の上に足踏み入れることなく
もろ人の頭の上を歩みたもうがゆえに。
このように、ホメロスは、かの女神がごつごつしたものの上には足を踏み入れず、やわらかいものの上を行くという風に、りっぱな証拠を挙げて、そのやわらかさを明らかにしているように思われるのである。そこで、われわれもまた、エロスについてそのやわらかであることを示すのに、同じこの証拠を用いるようにしたい。つまり、エロスは、大地の上を行くことがないし、それほどやわらかいとはいえない頭蓋の上を歩くことさえしない。いやそれは、この世の中で最もやわらかいものの中に足を入れ、そこに住まうのである。つまり、神々や人間たちの気性や魂の中に住居を定める。かといって、いかなる魂の中にでも次々にという訳ではなく、固い気性の魂に出会うと、これを避けて立ち去り、やわらかい気性を持った魂に出会った時、そこに居を定めるのである。したがって、最もやわらかいものの中にあって特にやわらかいものに、足のみならず他のすべての部分によっても、いつも触れているのであるから、必然的にそれは最もやわらかいものであるべきである。
さて、このように、エロスは最も若くて、最もやわらかなものであるが、これらに加えて、それはまた姿から言ってしなやかなものである。なぜなら、かりにエロスがごつごつしたものであったら、どんなものにも巻きつくということも、また、気づかれずにあらゆる魂の中にまず入り込み、そして出て行くことも、不可能であろうから。この神が均整のとれた、そしてしなやかな姿をしていることの大きな証拠は、その容姿の美しさである。じつにこの容姿の美しさを、とりわけエロスが持っているということは、すべての人々によって認められているのである。なぜなら、醜い容姿とエロスとでは、互いに絶えぬ争いがつきまとうからである。
また、肌の美しさは、この神の花にかこまれた生活がこれを示唆している。なぜなら、肉体であれ魂であれ、他のいかなるものであれ、まだ花の盛りに達していなかったり、すでに過ぎたりしたものの中には、エロスは腰を落ちつけないが、しかし、花も香りもうるわしいところがあれば、じつにこのところに、エロスは腰を下ろし、また留まりもするからである。
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十九
さて、この神の美しさについては、ほかにもまだ言い残されていることは沢山あるが、以上述べたことだけでも十分である。次には、エロスの徳について語らなければなるまい。その最も重要な点は、エロスが、神によってもまた神に対しても、また人間によっても人間に対しても、不正を働くこともなければ、不正を受けることもないということである。なぜなら、エロスが何かを蒙るとしても、それは、エロス自身が力づくでそういう目に遇わされる訳ではないし(強制力はエロスに手を触れることがないのだから)、また、何かをエロス自身がなす場合であっても、強制によってなすのではないからである(すべての人は、エロスにはどんな奉仕でも進んでするのであるが、何ごとによらず双方が自発的に同意し合ったことは、『国の王たる法』〔ゴルギアスの弟子アルキダマスの言葉〕が正しきことと宣告しているのだから)。
また、正義の徳に加えて、エロスは節制の徳に最も多く与っている。すなわち、節制とは快楽や欲望に打ち勝つことであるが、しかし、エロスには、いかなる快楽も力において勝ることがないと一般に認められているからである。もしエロスより弱いとすれば、それらはエロスによって打ち負かされ、エロスは打ち勝つことになろう。で、エロスは快楽や欲望に打ち勝っているのであるから、それは比類のない節度を備えていることになるであろう。
さらにまた、勇気の徳についてみても、エロスには『アレスといえども向かうこと叶わじ』〔ソポクレス『テュエステス』断片二三五〕である。なぜなら、アレスがエロスを捕えているのではなくて、エロスが、つまり物語にあるようにアプロディテへの恋がアレスを虜《とりこ》にしているのであるが〔アレスはヘパイストスの妻アプロディテに恋慕した。ホメロス『オデュッセイア』第八巻二六六以下参照〕、しかるに捕える者は捕えられる者に打ち勝っているからである。ところが、エロスは他のすべての者のうちで最も勇気のある者に打ち勝つのであるから、それはすべてに優る勇者ということになるであろう。
さて、この神の正義と節制と勇気については語り終えたが、知恵についてはまだ言い残されている。それゆえ、できるだけ取り残しのないように努めなければなるまい。まず第一に、エリュクシマコスが自分の術知に敬意を表したように、私のほうもわれわれの術知に敬意を表するために申し上げたいのだが、この神は、詩人としてもなかなかの知恵者で、それは、ほかの者をも詩人にしてしまうほどである。とにかく、エロスが触れさえすれば、『もとは歌う心なき者たりとも』〔エウリピデス『ステネボイア』断片六六三〕誰もが詩人になるのである。実に、この点をわれわれが証拠として挙げ、要するにエロスは文芸の領域でのありとあらゆる創作に関して優れた詩人である、と言うのは、適切なことである。なぜなら、自分で持っているとか知っているとかするのでなければ、それを他人に与えることも、他人に教えることもできないだろうから。さらにまた、いっさいの生きものの生産にしても、すべての生きものがそれによって生まれ、成長する知恵、この知恵がエロスのものでないなどと、誰が反論しえようか。さらにまた、もろもろの技術を巧みに使用するという点から考えても、この神が師匠となって教えた者はすべて、最後には名声を博すような輝かしい者となり、この神が触れなかった者はかすんで行ってしまうということを、われわれはよく知っているではないか。また、アポロンが射弓術や医術や予言術を発見したのは、欲求と恋が彼を導いたからであって、したがって、この神もまたエロスの弟子ということになろうし、ムーサたちも文芸において、ヘパイストスは鍛冶《かじ》術において、アテナ〔アテナ(またはアテネ)はゼウスの娘で、その生誕については多くの伝説がある。一説では、ゼウスの頭から武装したアテナが生まれたと言われる。機織術との関係についてはホメロス『イリアス』第五巻七三五、第一四巻一七八、ヘシオドス『仕事と日々』六三参照〕は機織術においてエロスの弟子であり、ゼウスは『神々と人間を操る術』をエロスから教わったのである。こういうところからしても、神々の世界のもろもろのことがらが秩序づけられたのは、エロスが、もちろんのこと美へのエロスが――なぜなら、醜いものの上にはエロスは存しないから――神々の間に生じたからであって、それまでは、初めに述べたことだが、言い伝えにある通り、多くの恐るべきことがらがアナンケの支配のために神々の間に生じていたのである。だが、この神が生まれてからというものは、すべてが美しきことどもを恋するようになり、そのため、神々にも人間どもにも、ありとあらゆる善きことどもが生ずるようになったのである。
このように、パイドロス君、エロスは、まずそれ自身が最も美しくかつ優れたものであり、それゆえに、ついではその他のものにとっても、他の優れて善きことがらの原因となっている、このように私には思えるのである。だが、私はなにか韻をふんで語りたいような気分になってきた。つまり、この神は、
人々のうちには平和を、大海には静けき凪《なぎ》、
風のしとねを、そして悲しみの中には眠りを
作り出す者なのである。実にこの神は、われわれから疎遠の感情をすっかり除いて親近の情で満たし、われわれが互いにこの席のごときありとあらゆる集いを持てるようにする者。祭りにおいても、歌舞においても、犠牲を捧げるに当たっても、自らその指揮をとる者。柔和を生み出して、粗野を閉め出す者。好意を贈るのを悦び、悪意を贈らぬ者。慈愛に満ちた善き者。賢者には観照の的、神々には敬意の的。それに与からぬ者には憧れの対象、与かりえた者にはよき所有物。享楽、奢侈、なよやかさ、優雅、欲望、渇望を子として持つ父。よきものに心を用い、悪しきものを無視する者。苦難、不安、羨望、議論におけるこの上なき操舵《そうだ》手、戦士、戦友、そして救い主。ありとあらゆる神々および人間の秩序。最美にして最善の指導者――じつにこの指導者には、人すべて、この神がすべての神々と人間の心を魅了しつつ歌う歌に唱和して、美しき頌歌《しょうか》を唱えながらつき従わねばならぬのである。
以上が、……彼は言った……パイドロス君、私の演説であって、これを、私からの供物としてあの神に捧げることにしよう、ある部分では遊びを、あるところでは真面目にと、私のできる限り、両方を適当にあしらってあるものだが」
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二十
アガトンが語り終えた時、アリストデモスの話では、出席者一同は、この若者が、自分自身にもまたかの神にも、なんとふさわしい話ぶりをしたことかと、やんやの喝采《かっさい》をしたそうだ。すると、ソクラテスはエリュクシマコスのほうを見やって言ったそうだ、「どうかね、アクメノスの息子君、……彼は言った……さきほど私は恐れてならぬ恐れを恐れたと君は思うかね。いや、今しがた私が語ったこと、すなわち、アガトンは素晴しい話をするであろうし、それで私は困惑するであろう、と言ったのだが、あれは予言者はだしだったとは思わないかね」
「一つのほうは、……エリュクシマコスは言った……つまり、アガトンがりっぱに語るだろうという点では、あなたの言葉は予言者なみだったと思いますが、あなたが困惑することになるだろうという点になると、私はそうは思いません」
「いやいやどうして、……ソクラテスは言った……私にしてもほかの誰にしたところで、これほどに美しく、しかも多彩な言論が述べられた後に話すことになったら、困惑しないはずがない。話のほかの部分なら、素晴しいといってもまだ同じくらい驚嘆するほどではないが、結末部になると、その語句や表現の華麗さに、聞いて心を打たれない者があるだろうか。なにしろこの私は、わが身をふり返って、自分だったら、これに近いほどであっても、美しく話すことはとうていできまいと考えたもので、恥ずかしさのあまり、できるものなら逃げ出してしまいたいくらいだったのだ。なにしろ、彼の話は私にゴルゴンならぬゴルギアスを思い起こさせ、そのため私は、文字通りホメロスが言っているような目にあってしまったからだ。つまりアガトンが、その演説の中で、弁にかけては恐るべき達人ゴルギアスの首を私の話に向けて投げつけ、ついには私を石に変え、声も出ない状態にするのではあるまいかと心配した訳だ〔ホメロスの『オデュッセイア』第一一巻六三二でハデスに棲む怪物ゴルゴンのことが述べられている。ホメロスは一つだけ挙げているが、ほかの伝えによると三つのゴルゴンがいた。これらは西の海に棲むとも言われ、この姿をひと目見た者は石に化すとされていた。ここでは、ゴルゴンとゴルギアスの語呂が似ているので、アガトンの弁論の師であるゴルギアスのことをゴルゴンにかけて言っている〕。
また、私が、諸君の仲間入りをして、順番が来たらエロスを讃美するという申し出に賛同し、自分は恋愛の道にかけては達者であると口にした時〔第五章参照〕、私は、なんと自分は滑稽な人間であることよ、と気づいたのだ。なんともはや、讃美するということついては、すなわち、どんなことでもいい、それをどのように讃美すべきかということについては、まったく何も知らないくせに、そんなことを言ったのだから。つまり、私は、愚かなために、何が讃美されるにせよ、そのそれぞれについて真実を語るべきであり、そして、このことを基本として、ついでこれら真実だけから最も適切なものを集めてきて、それをできるだけ当のものにふさわしいように配列したらいい、と考えていたからだ。それで、私は、うまく語ることができるものと、意気揚々としていたのだ、何についてであれ、讃美というものの本当の姿を知っているつもりでいたものだから。ところが蓋をあけてみたらどうだ、何かを立派に讃美するというのは、どうやらこのことではなくて、事実その通りであろうとなかろうと、とにかく当のことがらに、できるだけ大そうなこと、できるだけ美しいことを寄進することであるらしいんだ。そして、それが偽りだったとしても、なんと、別に問題にすることでもなかったのだ。なぜなら、あらかじめ申し渡されたのは、どうやら、われわれひとりひとりがエロスを讃美しているかに見えるようにせよ、ということなのであって、真実エロスを讃美しようということではなかったらしいからだ。それなればこそ、私の思うには、諸君はありとあらゆる言葉を動員してエロスに捧げ、エロスができるだけ美しくかつ優れているものに見えるように――もちろん、それは事実を知らない人たちに対してである。まかり間違っても、事実を知っている人に対してではあるまいから――、エロスをあのような性質のものであり、あれほど多くのものの原因であると主張しているのである。そしてこの讃美が、美しくかつ荘重だという訳なのだ。だがそういうことであれば、この私は、讃美の方法というものを知らなかったことになる。で、知らないものだから、自分も順番が来たら讃美しようと諸君に同意してしまったのである。だから、『舌は』約束を与えたが、『しかし心は』〔エウリピデス『ヒッポリュトス』より引用。これはよく引用される言葉で、プラトンの『テアイテトス』にも見られる〕それをしなかったという訳だ。そういうことだから、この同意はなかったことにしてもらいたい。つまり、そのような方法では、もう讃美する気がないのだ、私にはできない相談だから。とはいえ、真実をということであれば、諸君がお望みなら、話す気持ちは持っている。それも私流のやり方であって、諸君の話の向こうを張ってということではない、そんなことをして笑いものになるのは真っ平だから。そこで、パイドロス君、一つ考えてみてほしい、こんな種類の話でも少しは必要なのかどうか。つまり、エロスについて真実が語られるのを、それも、言葉や字句の配列はその場の思いつきで済ませるのだが、それでも聞く必要があるのかどうか」
すると、パイドロスもほかの人々も、ソクラテス自身がこう語るべきだと思う方法で話すことを勧めたそうだ。
「ではもう一つ、……とソクラテスは言った……パイドロス君、お許しがあれば、アガトンに少しばかり尋ねたいのだが。彼の同意をとりつけてから話すことにしたいのでね」
「それはお好きなように。……パイドロスは言った……さあ質問なさい」
そんなやりとりの後で、ソクラテスは、だいたいこんなところから話し始めたそうである。
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二十一
「ではそうさせて貰うが、アガトン君、私は、君の話の導入はなかなかお見事だと思った、まず初めにエロス自身について、それがどのような性質のものであるかを明らかにし、ついでそれの仕事を明示しなければならない、などというあたりは。この語り始めには、私もたいへん敬意を表している次第だ。さあそこでだ、どうかエロスについて次の点も話してほしいのだ、なにしろ、それがいかなる性質のものかを、他の点についてもりっぱに、堂々と語ったのだからね。はたしてエロスは、『何ものかへの』恋といった、対象を持った性質のものなのか、それとも『何もののでもない』ものなのか、どうなんだね。ところで、私が聞いているのは、それが母への、あるいは父への、恋といったものかどうかではない――なぜなら、エロスが母親あるいは父親への恋かどうか、などというのは質問として滑稽だろうからね。たとえてみれば、私が、ちょうどその「父親」について、いったい父親とは何ものかの父親なのか、あるいはそうではないのか、と尋ねた場合と同じようなことだ。すると君は、うまく答えようと思うなら、おそらく私にこう答えるに遠いない……父親とは息子の、あるいは娘の父である、と。そうじゃないかね」
「たしかにそうです」とアガトンは言った。
「母親の場合でも同じことじゃないかね」
彼はそれも認めたそうだ。
「それではなお、……ソクラテスは言った……もう少しばかり答えてくれたまえ。私が何を言おうとしているか、もっとよく知ってほしいから。そう、かりに私がこう尋ねたとしよう、『ではどうかね、兄弟は。兄弟であるというまさにその点だけで考えた場合、それは誰かの兄弟なのか、それともそうでないのか』」
アガトンは、誰かの兄弟である、と答えた。
「それは、男兄弟、あるいは女|姉妹《きょうだい》の兄弟ではないか」
彼はこれに同意した。
「それでは話を戻して、……ソクラテスは言った……エロスについても言ってみてくれたまえ。エロスはいかなるものへの恋でもないのか、それとも何かへの恋なのか」
「それはもう、何かへの恋にきまっています」「それでは、……ソクラテスは言った……この『何ものへの恋か』という点は君の心の中に留めておいて、なくさないようにしていてくれたまえ。そこで、今は次の点だけ言ってほしい。エロスは、それが恋の対象としている当のものを、欲求しているのかね、それともしてないのかね」
「もちろん欲求しています」と彼は言った。
「欲求し恋慕している当の対象を手にしており、それでいて欲したり恋い慕ったりしているのだろうか。それとも、それを持っていないからなのかね」
「持っていないからです。たぶんそうでしょう」と彼は答えた。
「では考えてほしいんだが、……ソクラテスは言った……たぶんということではなしに、必ずそうなければならないかどうかをね。つまり、欲求しているものは、自分に欠けているものを欲しているのかね。いや、欠けていなければ欲することもないのかね。どうだろうか。私の考えでは、アガトン君、驚くほど、なんとしてもそうでなければならぬように思われるんだが。君はどうかね」
「私にもそう思われます」と彼は言った。
「それは結構。そうだとすると、いったい、現に身体が大きいのに、大きくありたいと望む者がいるだろうか、あるいはまた、力が強いのに、力が強くありたいと望む者が」
「そういうことは、これまでに同意されたことから考えて、ありえません」
「そう、現に自分がそれのどれかである者が、当の性質に欠けているはずはありえないからね」
「おっしゃる通りです」
「だって考えてもごらんよ」ソクラテスは言った、「現に強いのに強くあることを望むとか、速いのに速くありたいとか、健康なのに健康でありたいと望む場合だって――なにしろ今言ったようなこととか、それに類するすべてのことでは、現にそうであり、そして現にそれらを持っている人々が、現に持っているそのものを欲することもある、と考える人がいるかもしれないからね。だから、つられてだまされてはいけないと思って、それで私はこんなことを言っているんだ――、つまり、これらの人々にとっては、アガトン君、考えても判ることだが、彼らが持っているもののそれぞれを現に持っているという事実だけは、彼らが望もうが望むまいが、どうにも変えようがないことなんだ。それでいて、当のそのものを欲求するような人はまずありえないだろう。いやむしろ、『私は健康であるが、なお健康であることを望む』とか、『金持ちであるがなお金持ちであることを望む』とか、『現に私が持っているそのものを私は欲する』などと口にする者がいるとすれば、われわれは彼にこう言ってやるであろう――君、君はすでに富を所持し、また健康や力を備えてはいるが、だが、それらを将来に亘《わた》って所有したいと望んでいるのだ。だって、今現在、君が望むと望まぬとにかかわらず、君はそれらを持っているんだから。そこで考えてみてほしいんだが、『現に手もとにあるものを私は欲しています』と君が口に出す場合、君が言いたいのはこういうことなんじゃないかね。つまり、『現在手もとにあるものが、将来においても手もとにあることを私は望んでいる』ということではないのかね、と。彼はこれに同意するのじゃないかね」
アガトンはその通りだと答えた、とのことである。そこでソクラテスは言ったそうだ、
「すると、このことが、まだ手許にはないものとか、持っていないものとかを恋するということになるのではないかね、『上に挙げたようなことが未来に亘って保持され、彼の手もとにあることを』というのは」
「たしかに」とアガトンは言ったそうだ。
「そうすると、この者はもちろんのこと、ほかの誰であれ、およそ欲求している者というのは、自分がすぐ手にできないとか、現に手もとにないものとかを欲求している訳で、したがって、自分自身が現に持っていないとか、現にそうでないとか、現に欠いているとかするもの、このようなものが欲求と恋慕の対象であるということになるね」
「たしかにそうです」、アガトンは言ったそうだ。
「さあそれでは、……ソクラテスは言った……今まで述べられたことを一度まとめておこうではないか。つまり、こういうことではなかったかね――エロスとは、第一に何ものかを対象とし、第二に、現に自分に欠けた状態にあるものを対象とする、と」
「そうです」とアガトンは言った。
「では、これらの点を認めた上で一つ思い出してほしいんだが、君は話の中で、エロスを何への恋であると言ったかね。なんなら、私が君に思い出させてやろう。つまり、君はこんな風に言っていたと思うんだ――神々の間でもろもろのできごとが秩序づけられたのは、美しいものへの恋によってである、なぜなら、醜いものを恋は対象としないのだから。なにかこんなことを言ったのと違うかね」
「たしかにそう言いました」とアガトンは答えたそうだ。
「これはまた、なんと理にかなった言い分なんだろうね、君。……ソクラテスは言った……それで、もし君の言っている通りであるとすると、エロスは美への恋であって、醜さへの恋でないということになろう。違うかね」。彼はこれに同意した。
「ところで、こういう同意がなされているのではないかね――恋する場合には、自分が欠いているものや持っていないものを対象に恋する、と」
「そうです」彼は言ったそうだ。
「それなら、エロスは美を欠いており、美を持っていないことになるね」
「そうならざるをえませんね」彼は言ったそうだ。
「ではどうなんだね、美に欠けており、どうみても美を所有していないものを、君は美しいものであると言うかね」
「いいえ、決して」
「それでもなお、君はエロスを美しいと認めるかね、事実はこの通りであるのに」
するとアガトンは言ったそうだ、「どうやら、ソクラテスさん、私はあの時自分で言ったことを、まったく判っていなかったようです」
「そうとしても、君の話は見事だったんだよ、アガトン君。……ソクラテスは言った……だが、もう少しばかり答えてくれたまえ。善いものはまた美しくもある、とは思わないかね」
「そう思います」
「それじゃあ、エロスは美しいものに欠けており、しかも善いものは美しいとすると、エロスは善いものをも欠いていることになるだろう」
「私にはもう、ソクラテスさん、……彼は言った……あなたに反論するだけの力などありそうにありません。ただもう、あなたのおっしゃる通りだということにしてください」
「いや、そうじゃないんだよ、愛すべきアガトン君、真理に対してなんだ、君が反論できないのは。ソクラテス個人に対してなら、なにもむずかしいことではないんだからね」
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二十二
「それでは、君のほうはもう放免することにしよう。それでエロスに関する話ということだが、私の話というのは、かつてマンティネイアのディオティマ〔実在の人物かどうか問題である。この名前には、語源的に「神に名誉を与えられる」の意があり、この線で考えるとプラトンの虚構という感が強い。一説では、ピュタゴラス派の哲学者だったとも言われる〕なる婦人から聞いたことのあるものなのだ。ところで、この婦人は、恋の道についてはもとより、そのほかにも多くのことがらに通暁している人だった。そう、前にアテナイの人たちが、あの疫病を前にして、襲ってこないように祈願の犠牲を捧げて貰ったことがあったが〔前四三〇年にアテナイを襲った疫病であろう。アテナイはたまたま籠城《ろうじょう》中であったため、病気の伝染が著しく、市民の多くが死亡し、その様子を見て敵軍も引きあげたと言われる〕、その時だって彼女がこの病気の襲来を十年間遅らせてくれたのだった。そのディオティマが、私にも恋の道を教えてくれたという訳だ。それでは、彼女が語ってくれたその話というのを、諸君にお話することにしたい。私とアガトンの間で同意されたことをふまえて、私は私なりに力の限りやってみよう。
ではアガトン君、君が述べたように、私もまずエロスそのものについて、それが何であり、いかなる性質のものであるかを語り、ついでそれの業に触れるという風に語らなければなるまい。ところで、あの異国の婦人は、あの時、私に問いただしながら話してくれたのであるが、それと同じやり方で話をするのが、私には最もやり易いように思われる。
つまり、この私も、今アガトンが私に向かって言ったのとだいたい同じ趣旨のことを、彼女に向かって言ったのだ。いわく、エロスは最大の神であり、美しいものへの恋である、とね。すると彼女は、私がアガトンに対して反駁《はんばく》したその議論でもって、私を反駁したのだ――私の論法でいけばエロスは美しくもなければ善くもないことになろう、と。
そこで私は言った、『それはどういうことなのですか、ディオティマさん。すると、エロスは醜くて悪いということなのですか』
すると彼女は言った、『罰当たりなことをお言いではありません。するとなんですか、あなたは、美しくなければ、それは当然醜いものでなければならない、とでもお考えなのですか』
『もちろんですとも』
『また、知恵のあるものでなければ無知である、と? いや、あなたはご存知ないのですか、知恵と無知の間になにか中間のものがあることを』
『それは何ですか』
『正しいことを思いなしてはいるものの、それについて、説明することができないということですが、……彼女は言った……これは、ご存知でしょうが、知っている状態ではありません――説明のできないものが知識であろうはずがありませんもの。かと言って、それは無知でもありません――なぜなら、真実を射当てているものがどうして無知でありましょう。ですから、正しい思いなしというのは、きっとこのようなもの、つまり、知恵と無知の中間に位するものなのです』
『あなたのおっしゃる通りです』私は言った。
『それでは、美しくないものなら、それは醜いものでなければならないとか、また、善くないものなら悪いものであるべきだ、などと無理強いしてはなりません。エロスについてもこれは同じことで、あなた自身がそれは善くも美しくもないと認めているからといって、だから当然エロスは醜くて悪いのだ、などと考えてはなりません。むしろ、これら両者の中間にあるものと考えるべきなのです』と彼女は言った。
『そうはおっしゃいますが、……私は言った……それが偉大な神であることは、実にすべての人々が認めるところなのですよ』
『あなたの言うすべての人々というのは、真実を知らない人々のことなのですか、それとも、知っている人々もそうなのですか』彼女は言った。
『勿論、その全部です』
すると彼女は笑いながら言った、『でも、ソクラテスさん、エロスを神ですらないと主張している人々がいるのに、その人々によって偉大な神であると認められようはずがないでしょう』
『誰ですか、その連中は』私は言った。
『そのひとりは、ほらあなたですよ、そしてもうひとりは私です』彼女は言った。
そこで私は言った、『それはどういうことでしょう』
すると彼女は、『簡単なことですよ』と言った、『さあ、私の質問に答えてごらんなさい、お判りになりますから。あなたは、神々はすべて幸福で美しいと主張するのではありませんか。それとも、神々の中には美しくも幸福でもないものがあるとでも主張なさるおつもりですか』
『この私が、そんなことは絶対にありません』私は言った。
『でも、あなたが幸福だとおっしゃるのは、善きものや美しいものを所有している者のことではないのですか』
『ええ、そうです』
『しかし、あなたは認められたではありませんか、エロスは、善美なるものに欠けているがために、まさしく自分に欠けているそのものを欲求している、と』
『たしかに認めました』
『とすると、いやしくも善美なるものに与かっていないものが、どうして神でありえましょうか』
『決してそんなことはありません。どうもそうなるようです』
『ではもうお判りでしょう、あなたもエロスを神とは認めていらっしゃらないのですよ』彼女は言った。
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二十三
『それでは、……私は言った……いったいなんだということになるのでしょう、エロスは。死すべきものなのでしょうか』
『決してそんなことはありません』
『それなら、それは何なのですか』
『さきほどの例と同じことで……彼女は言った……死すべきものと不死なるものとの中間にあるものなのです』
『とすると、何でしょうか、ディオティマさん』
『偉大なダイモン〔ダイモンは霊的な存在で、それぞれの人が持つとされていた。よきダイモン(エウ・ダイモン)がつくと幸福になり、悪しきダイモン(カコ・ダイモン)にとりつかれると不幸になる。ソクラテスによくダイモンの声が聞こえたことは、『ソクラテスの弁明』でも述べられている〕です、ソクラテスさん。実に、ダイモンとして位置づけられるものはすべて、神と死すべきものとの中間に位するのです』
『それでどんな働きを持っているのでしょう』と私は言った。
『人間たちのところから出てくるものを神々のために、また神々のところから与えられるものを人間たちのために、通訳したり伝達したりします。すなわち、人間たちからの請願や犠牲、神々からの勅令や犠牲に対するお返しなどをそうするのです。また、神々と人間たち両者の中間に位しますから、その間の間隙を充たし、かくして全宇宙がそれ自体で一つの結合体をなすようにします。実に、このものを通して始めて、卜占術のすべても、また犠牲、秘儀、呪術、あらゆる予言、魔術などを扱う神官たちの術も、機能するのです。神は人間と直接交わることをしません。いや、神々の人間たちとの交流や会話のすべては、このものを通してのみ、行なわれるのです。これは、人が目醒めている時でも眠っている時でも変わりありません。ですから、このようなダイモンの媒介的な仕事について精通している人は、ダイモン的な人間という訳でして、これに対し、ほかのことで、たとえばなにかの技術とか手仕事において精通している人は、世俗的人間ということなのです。ところで、このようなダイモンは、数も多く種類もたくさんありますが、実はエロスもその中の一つなのです』
『それで、エロスの父親は誰ですか。また母親は』私は尋ねた。
『それを話すと少し長くなりますが、……彼女は言った……しかしお話しましょう。つまりこういうことです。
アプロディテが生まれた時、神々は祝宴を開きました。神々はほかにも大勢おられたのですが、その中には女神メティス(知恵)の息子ポロス(良策)もいました。さて、神々が食事を終えられた時、大へんなご馳走が出たことでもあるので物乞いしようと思ったのでしょうか、女神ペニア(貧困)がやって来て、戸口の辺をうろついていました。
さて、ポロスですが、彼はネクタール〔神々の酒のことで、不死にする力をもっているとされた〕にすっかり酩酊して(つまり、その頃はまだ酒がなかったのです)、ゼウスの庭園に入り込み、酔いつぶれて、そのまま眠り込んでしまいました。するとペニアは、自分が貧困の身であるところから一計を案じ、ポロスの子を儲けようとたくらんで彼の傍らに横になり、こうしてエロスをみごもったのです。このような事情があるものですから、エロスはアプロディテの従者となり、下僕となったのです。つまりそれは、エロスがかの女神の誕生祝いの日に生まれたからですし、同時にまた、生まれつき美しいものに憧れる恋慕者の性質を持っているところへきて、アプロディテが美しい女神だからなのです。
さて、エロスはポロスとペニアの間にできた息子ですから、彼は次のような定めにおかれています。まず第一に、それはいつも貧乏でして、多くの人々が思っているようなやわらかで美しい神などとはもってのほか、それどころか、ごつごつして干からびており、跣足《はだし》のままで住む家も持たず、いつも大地に寝床なしで横になり、戸口や道端で天を屋根にして眠ります。母親の本性を享《う》けていて、いつも貧困と同居しているからです。しかしその一方では、父親の血筋で、美しいもの善いものにはそつなく狙いをつけ、大胆で果敢で、熱血漢であり、したたかな狩人で、いつも何かの策を編み出しています。また、いつも知恵を求めては、これをものにしますし、生涯を通して知を愛し求める者であり、達者な魔術師、魔法使い、ソフィストなのです。
また、不死なるものの本性を享けているのでも、死すべきものとして生まれついているのでもなく、同じ一日のうちに、時として開花して生きることも、死んで行くこともあります。しかし、父親の本性をうけているために、事がうまく運ぶ時には、ふたたび生を喚《よ》びもどします。が反面、手に入れたものも絶えず流れ出て行きますから、エロスは決して、窮乏していることもなければ金持ちでいることもありませんし、また、さきのくり返しになりますが、知と無知の中間に位することになるのです。つまり、それにはこういう事情があるからです。神々のうちには、知を愛し求めたり、知者となることを欲したりする者はひとりもありません。なぜなら、現にもう知者なのですから。また、神以外に知者がいたとしても同じことで、その人もやはり知を愛し求めることはありません。だが、そうかといって無知なる人々も、知を愛し求めたり知者になろうと欲したりすることはないのです。じつにこのことが、つまり、優れて善き者でも知恵のある者でもないのに、自分では満足できる者だと思い込んでいるその点が、無知の厄介なところなのですから。とにかく、自分に欠けているところがあると思っていない者には、欠けていると思っていないそのものを欲求するということがないのです』
『すると、ディオティマさん、知を愛し求める者とは誰なんですか……知者でも無知なる者でもないとなると』私は言った。
『そのことなら、もう子どもにだって明らかです。すなわち、これら両者の中間にあるものどもがそれで、エロスも、そのひとりということになるでしょう。なぜなら、知恵は最も美しいものの一つですが、エロスは美しいものへの恋ですから、したがってエロスは、当然のこととして、知を愛し求める者でなければなりません、で、知を愛し求める者であれば、知者と無知なる者との中間者ということになるからです。彼がこういった事情にあるのも、原因はその生まれに求められるのです。つまり、父親は知者で良策の持ち主であり、一方母親は無知で策に窮している者でして、彼はその間に生まれたからです。ダイモンの本性というのは、ソクラテスさん、このようなものなのです。でも、あなたがこれこそエロスとお考えになったエロス像ですが、あなたがそのようにお考えになったのは、なにも不思議ではないのですよ。あなたが話しておられることから察するに、どうやらあなたは、エロスを、恋されるものであって恋するものでないとお考えになったようです。ですから、あなたの目にはエロスが完全に美しいもののように映ったのだ、と私は考えます。たしかに、恋されるものというのは真実美しく、絢爛で、完全で、幸福そのものですからね。しかし恋するものとなると、それとは違った、今私がお話したような姿をしているのです』
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二十四
そこで私は言った、『なるほどね、お客人、あなたのおっしゃることはもっともです。で、エロスがお話のようなものであるとして、それは人間にとってどんな役に立つのでしょうか』
『では次にその点を、ソクラテスさん、教えて差しあげましょう。……彼女は言った……さて、エロスは上のような性質のものであり、そのように生まれついているのですが、一方では、あなたの言われる通り、美しいものに向かうものです。そこで、誰かがわれわれにこう質問したと仮定しましょう、「どういうわけで、エロスは美しいものどもに向かうのですか、ソクラテスにディオティマ」と。そう、こう言ったらもっとはっきりするでしょう、「美しいものどもを恋する者は恋し求めている訳ですが、なんのために彼は恋し求めるのでしょう」』
そこで私は言った、『それらが自分のものになるように、です』
『しかし……彼女は言った……その答えはさらに次のような問いを憧れ求めますよ。「彼には何が備わることになるのでしょうか、美しいものが自分のものとなった場合には」と』
私は、その問いに即座に答えることは、もう私にはできない、と答えた。
『では、……彼女は言った……美しいものの代わりに、言葉を換えて、善いものを用い、こう尋ねたとしてみてはどうでしょう。これは同じことなんですよ。「さあ、ソクラテス、善きことどもを恋する者は恋し求めているのですが、なんのために彼は恋し求めるのですか」』
『それが自分のものになるようにです』と私は言った。
『それで、彼には何が備わることになるのでしょうか、善きことどもが自分のものとなった場合に』
『それなら……私は言った……ずっと簡単に答えることができます。彼が幸福になるということです』
『そう、……彼女は言った……幸福な人が幸福であるのは善の所有によるのですからね。そしてこの答えには、さらに問いを重ねる必要はもうありません、「では、幸福であろうと欲する者は、何のために幸福であろうと欲するのか」などとは。いいえ、あなたのその答えは究極のものであると思われます』
『おっしゃる通りです』私は言った。
『ところで、この願望、つまりこの恋ですが、それはすべての人間が共通に抱くものだと、すなわち誰もが、善きものが常に自分自身のものであることを欲しているのだと、お考えになりますか、それともどういうお考えでしょう』
『おおせの通りです。……私は言った……すべてが共通に抱くものだと思います』
『そうするとこれはどういう訳でしょう、ソクラテスさん。……彼女は言った……誰もが同じものを、そしていつも、恋し求めているのだとしたら、私たちが、すべての人々について、恋しているとは言わないで、ある者については恋していると言い、ある者をそうは言わないのは、なぜでしょうか』
『不思議に思っているんです、実はこの私も』私は言った。
『しかし、不思議に思うことなどありませんよ。……彼女は言った……なにしろ、私たちは、恋の一つの種類をとり出して、これに全体の名称をつけて恋と呼び、その他の種類を呼ぶためには、それぞれ別な名称を用いているのが実情なのですから』
『たとえばどんなことでしょう』私は言った。
『たとえばこれなどそうです。ご承知のように、創作とはたいへん広汎《こうはん》なものです。そうでしょう、何によらず、有らぬ状態から有る状態へ進むという場合、そのものがそうなる原因はすべて創作ということなのですから。ですから、どんな技術による製作も創作であり、そしてまた、この製作に掌《たずさ》わる職人は誰でも創作者ということになるのです』
『おっしゃる通りです』
『ところが、それにもかかわらず、……彼女は言った……ご存知のように、これらの人々は創作者とは呼ばれないで、別な呼び名を持っています。そして、創作全体の中から一部分、すなわち、音楽と韻律に関係のある部分だけが特に区別されて、全体の名称で呼ばれているのです。つまり、この部分だけが創作と称され、創作のこの部分を扱っている人々だけが創作者と呼ばれているのです』
『おっしゃる通りです』私は言った。
『恋についても事情はこれと同じなのです。一口に言って、善きものどもへの、そして幸福になることへの欲求は、誰のものであれそのすべてが「最強にして術数にたけたる恋」なのです。しかし、ほかのさまざまな道を通って恋に向かう人々は……蓄財の面でそうする人もありましょうし、体育を愛するという形で、あるいは知識を愛するという形でそうする人もありましょうが、これらの人々は、恋しているとも言われなければ、恋している者とも呼ばれません。これに反し、ある一つの形をとって恋に向かい、情熱を注ぐ人々は、全体の名称を手にして、恋とか恋しているとか恋する者などと呼ばれるのです』
『おっしゃる通りだと思われます』私は言った。
『また、これについてある説が世に伝わっています。……彼女は言った……それは、自分自身の半身を求めているような人々、こういう人々が恋しているのだ、というのです〔これは、さきに行なわれたアリストパネスの演説を指すものと思われる〕。しかし、私の説はこう主張します――恋が求めるのは、よろしいですか、たまたまそれが本当に善いものであったというのならともかく、そうでなければ、自分の半分とか全体とかいったものではない、と。そうでしょう、足とか手であれば、自分のものであっても、それらが悪い状態にあると思われる場合には、人々は進んで切断しようとするのですから。つまり、どんな人でも、自分自身のものだからといってそのものを悦び迎え入れているのではない、と思うのです――もっとも、善いもののことを、自分のものとか自分に属するものと呼び、悪しきものを他人のものと名づける、とでも言うのなら話は別ですが。人間が恋し求めているのは、実に善きもの以外にはないのですからね。それともあなたは、ほかのものを恋するとお考えですか』
『滅相もない。神かけてそんなことはありません』私は言った。
『それなら、……彼女は言った……こう簡単に言い切ってもかまわないのでしょうか、人間は善を恋し求めるのだ、と』
『そうです』私は言った。
『でもどうでしょうか。……彼女は言った……善が自分自身のものとなることを恋する、こう付け加えるべきではありませんか』
『付け加えなければなりません』
『それからまた、……彼女は言った……ただ「自分のものになる」というだけではなく、さらに「いつまでも自分のものになる」ということも?』
『それも付け加えるべきです』私は言った。
『そうしますと、これらをまとめて、恋とは、善きものがいつまでも自分のものであることへの恋、ということになりますね』
『まったくあなたのおっしゃる通りです』私は言った。
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二十五
『さて、恋とはいつの場合にもこういったものを追い求めるのですが、……彼女は言った……では、いかなる仕方で、またどのような行為においてそれを追求する場合に、その人たちの情熱や努力が恋と呼ばれることになるのでしょうか。彼らのその営みとは、そもそも何なのでしょうか。言っていただけますか』
『それができるくらいなら、……私は言った……ディオティマさん、あなたのその知恵に目をみはることもないでしょうし、まさにそのことを学ぼうと、あなたのもとへ通ってきたりするものですか』
『それなら、私がお話しすることにしましょう。つまり、その営みとは、美しいものの中に産むことなのです、肉体においてであっても、魂においてであっても、それはかまいませんが』
『あなたが何を言っておられるのか、卜占が必要ですね。……私は言った……私にはさっぱり判りません』
『それなら……彼女は言った……もっと判るようにお話してあげましょう。つまり、人間はすべて、ソクラテスさん、肉体の上でも魂の上でも、みごもっているものなのですよ。それで、ある年頃に達すると、われわれ人間の本性はそれを産み出したいと欲するのです。ですが、産むといっても、醜いものの中には不可能でして、出産は美しいものの中に行なわれるのです。そう、男女の交わりだって出産の一つなのです。で、この行為は神的なものです、つまりそれは、死すべき生きものの中に、不死なるものとして宿っているのです――懐妊と出産がですね。しかし、これらの行為が、しっくり調和しないものの中で行なわれるということは、まずありえません。しっくり調和しないものとは、いっさいの神的なものにとっては醜いものがそうです。これに反し、美しいものはそれに調和するのです。ですから女神カロネ(美)は、出産に際してはモイラ(運命の女神)とエイレイテュイア(出産の女神)の役をつとめるのです〔カロネはプラトンが美を神格化して作ったものである。モイラは、人間の出産に当たって、その者の担《にな》うべき運をわかち与え、将来の生涯を決定する女神(ホメロス『イリアス』第二四巻二〇九)。エイレイテュイアは婦人が出産する際に力を添えてくれると言われる女神。しかし、この女神の怒りを買うと痛みがひどく、苦しむと言われた〕。このような訳ですから、みごもっているものが美しいものに近づく時には、柔和になり、悦びに満ちて身も心もゆったりとし、かくして生殖と出産を行ないます。ところが、醜いものに近づいた時には、ふさぎ込み、悲しみにくれて内にこもり、くるりと背を向け、しりごみして生産しようとしません。かえって、胎内の子を抱えて苦しみながら耐えることになるのです。こういう訳ですから、内にみごもり、もうはち切れんばかりになっているものにおいては、美しいものに対するその興奮ときたらもう大へんなものなのです。というのも、美しいものが、それを手にしている者を激しい苦痛から解放してくれるからなのです。つまり、ソクラテスさん、……彼女は言った……恋とは、あなたがお考えのような、ただ美しいものを求めるというものではないのです』
『とすると、それは何なのですか』
『美しいものの中に生殖し出産することを求めるものなのです』
『そういうものなのですか』と私は言った。
『ええ、たしかにそうなのですよ』彼女は言った、『では、なぜ生殖を求めるのでしょう。それはこうです。死すべきものとしてみれば、生殖が、永遠につながる不死なるものに当たるからです。善きものと一緒に不死なるものをも欲求するということは、さきに認められたことからして当然のことなのです、恋は善きものがいつまでも自分のものであることを求める、とされているのですから。ですから、この論からして、恋が不死をも求めるものであることは、当然の結果なのです』
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二十六
さて、以上のことすべてを、彼女は、恋の道について話するたびに教えてくれたのである。そしてある時は、こんな質問をしてきた。
『ソクラテスさん、あなたは何だと思います、このような恋や欲求の原因となるものを。いや、お気づきではありませんか、どんな動物でも、生殖の欲望にかられる時期になると、どんなに恐ろしい状態になるかを。これは歩行動物、飛翔《ひしょう》動物のいずれについても同じことです。彼らはすべて、恋にとりつかれて狂った状態になります、まず初めは、互いに交わりを持とうとして、次には生まれてきた子を育てようとしてです。そして、これら子どもたちのためなら、最も力の弱いものですら、最も強いものを相手に闘い、ために死することをいといませんし、それらを育てあげるためには、自分は飢えに苛《さいな》まれようとも、またほかのどんなことをしてでも、という覚悟があります。人間の場合でしたら、』彼女は続けた、『こういう苦労も考量にもとづいて行なう、と考えられるかもしれません。しかし動物たちの場合、これほどまでに恋にたけり狂った有様になるには、どんな原因が考えられるでしょう。言っていただけますか』
そこで私は、またしても判らないと答えた。すると彼女は言った、
『それであなたは、いつの日にか恋の道にかけて精通した人間になれるとお考えなのですか、こういうことが判らないでいて』
『いや、それなればこそ、ディオティマさん、さっきも申しあげた通り、私はこうしてあなたのもとに来ているのです、教えてくれる先生が必要だと自分でも判っているので。さあ、どうか話してください、これらのことや、その他恋の道にかかわることなどの原因というのを』
『それではお話しますが、……彼女は言った……もしあなたが、恋の本来向かって行くべき対象が、しばしば私たちが認めてきたあのことであると信ずるのなら、なにもいぶかしがることはありません。なぜなら、この場合にしても、先の人間の場合と同じ理由で、死すべき本性のものはできる限りいつまでも存在し、不死であることを求めるのですから。しかし、それができるのは、ひとり生殖というこの方法によってのみなのです。というのは、死すべきものは、生殖のつど、古いものの代わりに別な新しいものを後に残していくからです。生きもののどの一個体をとってみても、それが生きていると称され、同一のものと呼ばれている期間においてすら、そのようなことが行なわれているのですからね。たとえば、ひとが幼児から老人になるまで同一人と呼ばれているのなどがそうですが、しかし実際には、この人は、自分の内に一時として同一のものを持っている訳ではありません。それなのに同一人と呼ばれているのです。いいえ、この人は、毛髪、肉、骨、血など、身体のすべての部分で絶えず新しくなり、そしてあるものは失っているのです。
これは身体だけのことと考えてはなりません。魂においてすら、気質、品性、意見、欲望、快楽、苦痛、恐怖など、これらのどれをとってみても、一時として同一のままで各人に備わっているのではなく、あるものは生じ、あるものは滅びたりしているのです。そして、これらよりもなおいっそう奇妙に響くことは、知識でさえもその例にもれず、われわれが持つ知識のあるものは生じ、あるものは滅びたりして、知識の面ですら、われわれは一時も同一のままではないのですし、それのみか、これら知識の一つ一つをとってみても、やはりこれと同じ状態におかれているということです。なぜなら、一般に復習すると言われていることですが、あれは、知識は出て行くものというたてまえで行なわれているのですから。というのは、忘却とは知識が逃げ出すことですし、これに対し復習とは、出て行く記憶に代わって新しい記憶を魂の中に植えつけることにより、もう一度知識を保有し、かくて、知識が同一のままであると思われるようにしているからです。
実に、どんな死すべきものでも、それが保全されるのはこの方法によるのでして、神的な存在と同じように、いつまでも完全に同一なままで存在することによるのではありません。いや、去り行くもの、老いゆくものが別な新しいものを、自分が以前そうであったのと同じような姿で、後に残して行くことによるのです。この手だてによって、ソクラテスさん、……彼女は言った……死すべきものは不死に与《あずか》るのです、身体もそうですし、その他のすべてもそうです。でも、不死なものには、また別な道があります。
このような訳ですから、すべてのものが生来自分の子孫を大切にするとしても、それを不思議に思うことはないのです。なぜなら、不死に与かるためなのですからね、このような情熱と恋がすべてのものについて離れないのも』
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二十七
私はその話を聞いて、不思議の感にうたれ、そして言った、
『そういうものですか、ディオティマさん。あなたの知恵は本当に素晴しい。でも、本当にあなたのおっしゃる通りなのですか』
すると彼女は、まるで正真正銘のソフィストの口ぶりで言った、
『もちろんです、ソクラテスさん、よく覚えておきなさい。試みに、人間についても、その名誉欲に眼を向けてごらんなさい。そうすれば、私が話したことをよく理解していないと、自分の愚かしさにあなたは驚いてしまうでしょうからね――名のある者となり、「名声をとこしえに不滅ならしめん」ことへの恋で、人々がいかにすさまじい様相を呈するかをとくと思い知らされて。実に彼らは、このためなら、子どものためにする時以上にあらゆる危難を冒す覚悟があるし、財産を費い果たし、どんな苦しみをもこらえ、それのために死を賭すほどの気持ちでいるのです。なぜって、あなたは、……彼女は言った……アルケスティスがアドメトスのために命を投げ出したとか、アキレウスがパトロクロスの後を追って死を選んだとか、あなたがたのお国のコドロス〔前一〇六八年頃のアテナイの王と言われる。ドーリア軍に攻められた時、神託が下って、王の生命と引きかえに勝利を得ようと言われた。そこで敵軍は、勝利を得るためにコドロスを殺さぬように命じていたが、アテナイのために犠牲となる覚悟をしたコドロスは、一般人を装って敵の陣営に行き、故意に兵士と口論を始め、その手にかかって殺された。彼の死を知ったドーリア軍は、敵対行為を中止して引き揚げ、アテナイは破滅を免れた〕が子どもたちの王権を守るために寿命を縮めたなど、このようなことが行なわれえたとお考えですか、もし彼らが、自分たちが有徳であったという思い出が不滅なものになろう、と考えなかったとしたら(われわれは現にその記憶を持っているのですが)。それは大違いというものです。いいえ、不滅なる徳とそれにまつわる輝かしい評判のために、すべての人間はあらゆることをするのだと私は考えます。そして、彼らが優れた人物であればあるほど、ますますそうするのです。なにしろ、彼らが恋し求めているのは不死なるものなのですから。
さて、肉体の上でみごもった状態にある人々は、どちらかと言えば婦人たちに向かい、このような仕方で恋しているものとなっています。つまり、子どもを作ることによって、自分たちのために不死や、思い出や、彼らが考える幸福を、未来永却にわたって獲得するのです。しかるに魂の上でみごもった状態にある人々――ところで、実際に、肉体よりもはるかに多く、魂の中に、みごもっている人々がいるのです、みごもったり産んだりするのが魂にふさわしいものをですね。では、何が魂にふさわしいものなのでしょうか。思慮とかその他の徳がそうなのです。実にこれらのものを産み出すのは、詩人のすべてがそうですし、技能者のうちで発明家と言われている人たちもそうです。しかし……彼女は言った……思慮の中で何よりも重要で美しいのは、国家や家にかかわる諸事を斉《ととの》える知恵でして、これには節制と正義という名前が与えられています――。で、話を戻しますが、そのような人々のある者が、若い頃から魂の中にそれらをみごもった状態にあるのに、まだ伴侶がなく、それに年頃にも達しているので、もう生殖し出産したいと欲しているような場合、思うに、この者もまたあちこち歩き回っては、産みつけることができるような美しいものを探し求めます。醜いものの中には、決して産むことはしないでしょうから。そういう訳で、彼はみごもっているのですから、肉体の上でも醜いものよりは美しいもののほうを悦んで迎え入れるのですが、その上、たまたま美しく、気品があって素質の優れた魂に出会うことがあると、その両方〔肉体における美しさと魂の上での美しさの両方〕を備えているものを心から悦んで迎え入れます。そして、こういう人間に対しては直ちに、徳についての話、すなわち、善き人間とはいかなるものであるべきか、とか、何をなすべきか、などの話がとめどもなく溢《あふ》れ出て、相手を教育しようと試みます。つまり、私の考えるには、彼は美しい人と接触しこれと交わることによって、以前からみごもっていたものを生殖し出産しているのです。そして、傍にあろうと、離れていようと、彼を忘れることはありませんし、生まれた子どもを彼と力を合わせていっしょに育てあげます。その結果、このような人たちは、お互いに、人の子を共有する場合よりもはるかに大きな連帯とより確かな愛情とを保持しあうことになるのです、なにしろ、人の子よりも美しく、かつより不死なる子を彼らは共有しているのですから。そのような子どもなら、誰でも、人間の子以上に、自分のものになることを歓迎するでしょう、そしてホメロスとかヘシオドスとかその他優れた詩人たちに目をやって、なんと素晴しい自分の子を彼らは後に残していることか、と思い羨むでしょう。なにしろ、それらの子どもは、それ自身も不死なるものですが、かの人々に不滅の名声と思い出をもたらしているのですから。なんなら……彼女は続けた……リュクルゴス〔半ば歴史的、半ば伝説的なスパルタの立法者。この人物についてはあまり知られてないが、スパルタでは、英雄として神殿を建てて祀ったと言われる〕でもいいでしょう。彼がラケダイモンに、ラケダイモンの、いや言ってみればヘラス〔ヘラスとは、ギリシアのこと。始めはギリシア内の地名として用いられていたが、後にヘラス人(ギリシア人)の住む土地ということで、ギリシアの総称となった〕全体の、救い主としてなんと優れた子どもたちを残したか、と人は羨むことでしょう。また、あなたがたのお国では、ソロンも、法律を産んだことで尊敬を集めていますね。そのほか、ヘラスであると異国であるとを問わず、多くのところで多くの人々が、かずかずの立派な業績を世に示すという形で、ありとあらゆる徳を産み出したのです。そして、これらの人々に捧げて、これまでに神殿も数多く建てられましたが、それは、今お話したような子どもを作ったためなのでして、人の子を作ったという理由では、誰に対してもそんな例はまだないのです。
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二十八
さて、恋の道もここまでなら、おそらく、ソクラテスさん、あなたでもその秘儀に授かることができるでしょう。しかし、究極深奥の秘儀ということになると(実は、正しい道を経て辿《たど》って行く時には、これこそ以上のことがらの目的となるものなのですが)、あなたがその秘儀に授かることができるかどうか、私には判りません。ですが、私としては……彼女は言った……とにかくお話しましょう。熱意に欠けるようなことは、決してしないつもりです。ですから、あなたも、できるだけ私について来るようやってみてください。
さて、正しい道を経てこの恋の営みに向かって行く者は、若いうちは美しい肉体に向かうことから始めなければなりません。そして、導き手の指導が正しければ、彼はまず第一に一つの肉体を恋し、その中に美しい言論を生み出さなければなりません。そして次には、いかなる肉体における美も、他の肉体における美と兄弟関係にあるということ、ですから、もし形における美を追い求めるということであるなら、すべての肉体に見られる美が同じ一つのものであると考えないのは大へん愚かであるということ、これらのことをよく理解しなければなりません。そして、この点を納得した上で、美しい肉体のすべてを恋する者となり、あの一つの肉体に激しく執着する恋を軽蔑し、とるに足らぬことと考えて、その恋の手を緩《ゆる》めるべきです。
だが次の段階では、魂の中に宿る美を肉体中における美よりも価値あるものと考え、それゆえ、相手が魂の優れている者であれば、たとえ肉体の花が貧弱であっても、彼はその相手に満足してこれを恋し、その身を案じたり、また、若者を向上させうるような言論を産み出したり、求めたりするようにならなければなりません。それは、彼が、今度は人の営みとか慣習の中にある美に眼を向けるよう仕向けられ、それらのどれもが互いに同類である、と見ざるをえなくなるためです。その目的は、肉体にかかわりのある美をとるに足らぬものと考えるようになることにあります。
そして人の営みの次には、彼をもろもろの知識へと導いて行かねばなりません。それは、彼が、今度は知識の持つ美を目にし、かくて、広汎な美を眺めている今となっては、ひとりの少年とか、ひとりの人間とか、一つの営みなど、一つのもののもとに見られる美を大事にして、まるで召使いのように仕え、低俗でこせこせした人間になるということが、もはやなくなり、むしろ、美の大海原に向きをかえてこれを観照し、つきせぬ知識愛に燃えてかずかずの美しくかつ大らかな言論と思想を生み出し、この大海原の中で力をつけ成長して、ついには、次のようなある一つの知識、つまり、これから述べるような美を対象とする知識を、見きわめるに至るためなのです。それでは、……彼女は言った……できる限り私の言うことを注意して聞いてください。
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二十九
さて、次々と正しい道順に従ってさまざまな美を観ながら、恋の道もこの段階まで教え導かれてきたなら、誰でも、今しも恋の道の終着点に達しようとする時に、突如として、ある驚嘆すべき本性を備えた美を目撃することでしょう。これこそ、ソクラテスさん、これまでのすべての労苦が目ざしていたかのものなのです。それは、まず、常に有って、生成したり消滅したりすることも、増大したり減少したりすることもありません。ついで、それは、ある面では美しいがある面では醜いということも、ある時には美しいがある時はそうでないということも、あるものとの関連では美しいが、他のものとの関連では醜いということも、また、ある人々にとっては美しいがある人々の間では醜いというような意味で、ある場所では美しいがある場所では醜いということもありません。さらにまた、その美は彼の前に、たとえば顔のようものとして現われることも、手とか、そのほか肉体が備えているどんな部分の形をとって現われてくることも、ある言論とかある知識の形で現われてくることもありませんし、また、なにかほかのものの中に有るという形で、たとえば動物の中とか、大地の中とか、天の中とか、その他のものの中に有るものとして現われてくることもありません。いいえそれは、それ自体がそれ自体だけで、それ自体と共に、ただ一つの相《すがた》をとって常に有るのです。これに反し、それ以外の美しいものすべては、次のような仕方でかの美に与ることにより有るのです。すなわち、かの美以外の美しいものどもは生じたり滅びたりしますが、そのためにかの美が、いささかなりと美であることにおいて増したり減ったりすることもありませんし、何らかの変化を受けることもないのです。
ですから、人が正しい少年愛によりこの世の美から上昇して行って、かの美を目にし始めた時には、彼はほとんど究極の目的に触れていると言っていいでしょう。なぜなら、これが自ら恋の道を進む、もしくは他人に導かれて進む正しい道筋なのですから、つまり、この世にあるさまざまな美から出発して、かの美を目指して不断の上昇を続け、その際、あたかも梯子《はしご》を用いて昇るかのように、一つの肉体から二つの肉体ヘ、二つから美しい肉体のすべてヘ、また美しい肉体から美しい営みヘ、営みからもろもろの美しい学問へと進み、そして、最後はもろもろの学問からかの学問――これこそ、他でもないかの美そのものの学問なのですが――、この学問に到達し、かくして、ついにはまさしく美なるものそのものの認識に至る、ということがですね。
ねえソクラテスさん、……マンティネイアからの婦人は言った……いやしくも人生のどこかに生き甲斐が見出せるものなら、人間にとっては、まさにこのところに、それがあるというものです、美そのものを目にしているのですから。ひとたびそれを目にするならば、あなたにはそれが、金とか衣服とか、美しい少年や若者などの及びもつかぬものであると思われることでしょう。ところが、今は、あなたはこれらのものを見て心を奪われています。そして、あなただけでない、ほかにも多くの人たちが、少年たちを眺め、いつも彼らといっしょにおられるなら、できるものなら飲まず食わずでもいい、ただ彼らを眺め、彼らといっしょにいたい、という気になっているのです。
でも、いったいどうなると思いますか、もし人が、美そのものを純粋で清浄無垢なままで、人間的な肉とか色香、その他多くのはかなく消えるくだらないものにはまみれていない状態で、いいえ、むしろ、神的な美そのものをただ一つの相のままで目にすることができたとしたら。あなたは、……彼女は続けた……人間がかの世界〔唯一不動なる真実の美が存する世界。このような真実の存在は数多く、総括してイデア界と言われる。この世界は、感覚の対象である現象界の彼岸に位する〕に目をやり、しかるべきものをもってかのものを観、それと共にある場合、その者の生はとるに足らぬものになるとお考えですか。いいえ、こうはお考えになりませんか、美がそれによって観られるような器官〔この世の現実の美を見る肉眼に対し、神的な美を見るいわば魂の眼、すなわち知性の意味〕をもって美を眺めた場合、ひとりこの場合にのみ彼には産み出すことが可能になろうとは。産み出すといっても徳の影像を産むのではありません、彼が触れているのは影ではありませんからね。いいえ、彼は真実のものに触れているのですから、真実の徳を産み出すのです。そして、真実の徳を産み、それを育てあげた時、彼は神に愛されるものとなることが許されるのですし、また、人間の誰かが不死たることを許されるものなら、彼こそそれを許されるのです』
さて、以上のことを、パイドロス君ならびに他の諸君、かのディオティマは語ったのである。そして私も、その言葉を信じきっている。そして、信じていればこそ、私は他の人々にも説得しようと努めている訳である――この財産を手に入れるためには、人として生まれついている限り、エロス以上の優れた協力者を得ることは簡単にできないだろう、と。こういう訳で、私としては、人間はすべてエロスに尊敬の念を抱くべしと主張したいのである。そして私自身も、恋の道を大切に考え、なによりも特にこれの修業に努めているのであるし、またほかの人々にもそうするよう勧めているのである。そして、今に限らずいついつまでも、私の力及ぶ限り、エロスの力と勇気を賞讃するものである。
では、パイドロス君、以上の話を、よかったらエロスの讃美の演説と考えていただきたい。またなんなら、君の好きな名称をいかようにでもつけて、そのように呼んでくれても結構である」
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三十
ソクラテスが以上の話を終えた時、人々はこれを賞めそやしたが、アリストパネスだけは、ソクラテスが話の中で触れた説が自分のものであるところから〔第二十四章参照〕、何か一言切り出そうとしたそうだ。すると突然、門の扉が叩かれて、乱痴気騒ぎをしてる連中のとおぼしい、やたら騒がしい音がして、笛吹き女の声まで聞こえてきたそうである。それで、アガトンが召使いたちに言ったそうだ、「これお前たち、早く見てきなさい。だれか知り合いの方だったらここへおよびするし、そうでなかったら、酒は終わってもう寝るところだと言ってやりなさい」
ところが、ほどなく、ひどく酔って大声を張りあげているアルキビアデスの声が門のところにして、アガトンはどこだと尋ね、アガトンのところへ連れて行けと命令しているのが聞こえてきたそうだ。すると、笛吹き女や何人かの供の連中が、彼を抱きかかえるようにしながら彼らのところへ連れてきた。彼は、キヅタとスミレでふさふさに編んだ冠をいただき、頭のまわりには、いやもうたいへんな数のリボンを巻きつけるという格好で、戸口に立ち止まり、こう言ったそうだ、
「やあ諸君、どうかね。こんなひどい酔っぱらいでも飲み仲間にしてもらえるかね。それとも、アガトンに勝者のリボンを結んだら、それだけで退散することにしようか、そのためにこうしてやって来たんだから。実を言うと、私は、昨日はどうしても来ることができなかったんだ。だが今は、こうして頭にリボンを巻きつけてご入来という次第だ。私の頭から最も賢くて最も美しい人(私は彼のことをこう宣言したい)の頭へ結び奉ろうという訳でね。君たちは、酔っぱらいだと思って、私のことを笑おうとしているな。まあいいさ、諸君が笑ったって。私の言うことが本当だってことは、この私がちゃあんと知っているんだから。さあさあ、ぐずぐずせずに返答してくれたまえ、今の条件で中に入ってもいいのかどうか。いっしょに飲むのか、それとも飲まないのか」
すると、人々はみなやんやの喝采をし、中に入って横になるよう勧めた。そしてアガトンも、彼を招き入れたそうだ。すると彼は、供の者たちに連れられてやって来たが、アガトンに結んでやろうと、歩きながら頭から沢山のリボンを解き、それを目のすぐ前に捧げてきたもので、ソクラテスの姿が目に入らず、アガトンの傍へ、ソクラテスと彼の真中になるように腰をおろしたそうだ。というのも、ソクラテスが、アルキビアデスが座れるように席を空けたからだ。で、アルキビアデスは、アガトンの傍に座ると、彼に挨拶してリボンを結んでやったそうだ。
すると、アガトンが召使いたちに言ったそうだ、
「これお前たち、アルキビアデスさんの履物を脱がせて差しあげなさい。三人掛けにしてもらうんだから」
「ぜひお願いしたいね。」アルキビアデスは言ったそうだ、「しかし、われわれのその三番目の飲み仲間というのは誰なんだね」。そう言いざま彼はふり向いて、ソクラテスの姿を目にした。そして、見るなりパッと起ちあがって、こう言ったそうだ、
「おおヘラクレス〔たいへん驚いたとき、危険なときに用いられる言葉〕、これはまたなんとしたことだ。こんなところにソクラテスとは。あなたは、またしてもこの私を待ち伏せて、こうして坐っていたんですね、あなたがいようとは夢にも思わないところへ不意に姿を現わすといういつもの手で。それで今日は、どうしてここにお見えなのですか。それにまた、何が目当てでこんなところに横になっているんです。だってそうでしょう、アリストパネスや、ほかにも滑稽な者やそうありたいと思っている者がいるというのに、その横に坐りもしないで、うまいこと仕組んだのですからね、この中で一番美しい人間の傍に横になろうと」
するとソクラテスは言ったそうだ、
「さあ、アガトン、助けておくれでないか。この男との恋は、私には、もう一筋縄《ひとすじなわ》ではいかなくなっているんだから。実際、この男を恋したその時からというもの、私はもう美しい人にはいっさい、視線を送ることも言葉を交わすことも許されないんだから。さもないと、この男は、私を妬《や》き、ねたんで、びっくりするようなことをしでかすは、悪口雑言を言うはで、手出しをしないのがやっとという始末なんだ。だから、今も、なにかをしでかしはしないか、気をつけていてくれないか。いやそれより、われわれを仲直りさせるか、さもなくば、彼が暴力を振るおうとしたら私に力を貸すか、してくれないか。私は、この男の狂おしさと恋する者への愛情の激しさには、すっかり縮み上がっているのだから」
「それはできない相談です」アルキビアデスは言った、「私とあなたが仲直りするなんて。今度のことでは、改めてきっと仕返しをしますからね。でも今日のところは、アガトン、済まないがそのリボンを少し分けてくれないか、この人のこの途方もない頭にも結んであげたいから。それに、この人に非難されるのもいやだしね、君にはリボンを結んでやったのに、彼には、言論ではあらゆる人々を打ち負かし、それも君のように一昨日だけというのではなく、いつもそうしているのに、その彼には、ついぞリボンを結んであげなかった、などとね」
そう言いながら、彼はリボンを少しとってソクラテスに結びつけ、それから横になったということである。
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三十一
横になってから、アルキビアデスは言ったそうだ、
「さぁて、諸君、お見受けするところ、諸君はどうも素面《しらふ》のようだ。だから諸君には任せておけんのだ。諸君は飲まなくちゃならん。これは今互いに約束したことじゃあないか。それでは、私が酒宴の長《おさ》を選ぼう。君たちがしたたか飲むまでは、この私が長だ。さあ、アガトン、なにか大きな盃があったら運ばせてくれ。いや待てよ、その必要はない。これお前、あそこにある冷酒器を持ってこい」
彼は、その器に八コテュレ〔約二・二リットル〕以上も入るのを見て、召使いに言った。それから、その容器になみなみと注がれると、最初にそれを自分が飲み干し、ついで、ソクラテスに注いであげるよう命じながら、こう言ったそうだ、
「ソクラテスにかかったら、諸君、折角のこの謀略も、残念ながら効き目なしなんだ。なにしろ、人にどれだけ勧められても、それを飲み干したからといって、酔った気配を見せることは少しもないんだから」
さて、ソクラテスは、召使いの子が注ぐとそれを飲んでいたそうだ。するとエリュクシマコスが言ったそうだ、
「アルキビアデス、いったい、どうしようというんだ。こんな風に盃《さかずき》を手にして、なにか語るでもなし、歌うでもなし、まるで喉の渇ききった人さながらに、ただもう飲んでばかりいるのかね」
すると、アルキビアデスが言ったそうだ、
「これはエリュクシマコス、とりわけ優れて節度ある父君の、いともごりっぱな息子さんでしたか。いやあ、ご機嫌いかが」
「いや君こそ。」エリュクシマコスは言った、「それはそうと、われわれはどうしたものかね」
「なんなりと貴方のお命じになるままに。君の言うことには従わなければなるまいから、
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医者、これぞ他の大勢に匹敵するほどの者なれば〔ホメロス『イリアス』第一一巻五一四からの引用〕
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という訳でね。さあ、お望みのところをご指示あれ」
「では聞いてくれたまえ」エリュクシマコスが言ったそうだ、「君が入ってくる前に、われわれは取りきめをしたのだ、めいめいが右回りに順番で、エロスに関する話をできるだけ美しく語り、エロスを讃美することにしようとね。われわれほかの者はもう語り終えたのだが、君はまだ話していないし、酒をもう飲み干したことでもあるから、当然君が話さなければならない。そして、語り終えたら、なんなりと君の望み通りのことをソクラテスに命じてくれたまえ。そうしたら、今度はソクラテスが右手の人に命じ、という風にして、ほかの人々も次々にこのようにして行く訳だ」
「いやあ、エリュクシマコス君」アルキビアデスが言った、「それはたいへん結構な話だ。しかしね、この酔っぱらった人間をつかまえてだ、素面の人間の話と比べようというのは公平を欠きはしないかね。それにまだある。君は人が好いね、ソクラテスがさっき言ったことを君は真にうけているのかね。君は知らないのか、事実はまるっきり彼が言ったのと反対だってことを。なにしろ、この人ときたら、自分のいるその前で私が誰かを賞めようものなら(それは神でも、人間でも、とにかくこの人以外の者であれば誰でもいいのだが)、そんなことをしようものなら、この人は、私に手をかけないことはまずありえないんだからね」
「これ、なんということを言うのだ」ソクラテスは言った。
「ポセイドンにかけて〔この誓いの言葉は、プラトンには珍らしいもの。おそらく、語源的に、ポセイドンが飲酒に関係あるためか〕」アルキビアデスは言った、「この件には抗弁ご無用。私には、あなたのいるところで、誰なりとほかの者に賞讃の辞を送るなどということは、ありえないんですから」
「それじゃあ、そうのようにしたらいい」エリュクシマコスは言った、「君の希望というのであれば。さあ、ソクラテスを賞讃したまえ」
「えっ、それはどういうことだ」アルキビアデスが言った、「私はそうしなければならんという取り決めなのかね、エリュクシマコス。この人に飛びかかって行って、君たちの目の前で仕返しなければならぬという訳かね」
「これ」ソクラテスは言った、「君は何を考えているのだ。笑いものにするつもりかね、私を賞讃するなんて。それとも、何をしでかそうというのだ」
「真実を話そうというんです。さあどうです、お許しのほうは」
「そりゃあ、真実ということなら許すも許さぬもない。ぜひ話すよう勧めるよ」
「では早速とりかかりましょう」アルキビアデスは言った、「しかし、あなたにやっていただきたいんです、こんな具合に。もし私が真実ならざることを話すようでしたら、あなたのよいように途中で中止させてください。そして、私のその言葉は偽りだ、と言っていただきたいんです。私には、好んで偽りを言う気は毛頭ないんですからね。しかし、思い出すがままに、あちこちからあれこれと飛び飛びに話をしても、驚かないでください。なにしろ、あなたのとてつもない振舞を、よどみなく順序を立てて数えあげるなどということは、こんなていたらくの人間には容易ならざる仕事なんですから」
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三十二
「では、ソクラテスの讃美を、諸君、私はこんな風に、つまり比喩を用いてやってみたいと思う。こう言うと、この人はおそらく、自分を笑いものにするためだ、と思うことでしょうが、しかし、この比喩は真実のためにあるのであって、滑稽にしようという意図のものではない。
さて、私に言わせれば、彼は、彫刻屋の店先に鎮座ましますあのシレノス〔サテュロス(次注)たちのうち年とった者たちがシレノスと呼ばれていたが、特にその一人をシレノスとも言う。ここでは後者の意。いつもディオニュソスの供をしている陽気な老人で、でっぷりとして禿《はげ》頭で、酒袋をかつぎ、いつも酔った姿に描かれている。酔っているため足もとがおぼつかなく、驢馬《ろば》に乗っているが、ほかのサテュロスに支えられている場合が多い。彼はディオニュソスの育ての親とも教育者とも言われ、また、マルシュアス、オリュンポスと共に笛の発明者と言われる〕の像にたいへんよく似たところがある。その像を、彫刻家たちは牧笛とか葦笛を手にした姿に作っているが、それは、真中で二つに開かれると、内部に神々の像を持った姿となって現われるという代物《しろもの》なのである。さらに私は、彼がサテュロスのマルシュアス〔サテュロスはディオニュソス崇拝と関係を持つ一群の者たちで、自然の豊かな活力を表わしている。外見は山羊か羊に似ており、髪は剛《かた》く、鼻は丸くて少し上に向き、耳は動物のように尖り、小さな角と馬に似た尾を持っている。サテュロスは酒好きで、盃を手にしている姿が多い。マルシュアスはその一人。彼は、アテネが捨てた笛を拾い、これでアポロンの琴と音楽を競って負け、皮をはがれたと言われる〕に似ているとも主張する。ところで、ソクラテス、少なくとも容姿の上では、あなたがこれらのものに似ているということを、あなた自身だっておそらく反対できないでしょう。だが、それ以外の点でも、あなたがどれほど似ているか、それを次に聞いてください。
あなたは意地悪な方だ。違いますか。それを認めないというのなら、証人を出してもいいんですよ。でも笛吹きではないって? いえどうして、あのマルシュアスよりもずっと素晴らしい吹き手です。彼のほうは、楽器を用い、口から出てくる魔力で人間を魅了したのです。そして今もなお、彼の曲を吹く者はみなそうです――というのは、オリュンポス〔マルシュアスの弟子、あるいは愛する少年で、一本笛の演奏に長じ、一時期を画したと言われる〕が吹いた曲にしても、それは、私に言わせればマルシュアスのものなのですから。だって彼が教えてやったんですからね――。そういう訳ですから、彼の曲を吹くのが優れた笛吹きであっても、とるに足らない笛吹き女であってもそれは構いません、とにかく彼の曲だけが、人の心を魅入られたものにし、神々や秘儀を求めているのは誰なのかをはっきりさせるのです。その曲は神的なものですからね。しかし、あなたが、彼と違うのは、ただこれだけのこと、つまり、楽器なしに、生の言葉でそれと同じことをする、というだけにすぎません。とにかく私たちは、あなた以外の人があなたとは違った話をするのを聞く場合には、かりにそれが非常に優れた弁論家であったとしても、その者が心に残るということは、まったくないといっていいでしょう。ところが、あなたから話を聞く場合には、あるいは、他人の口を通して、あなたが話した言葉を聞くのでもいい、そしてその場合、それを伝えている者がまったくとるに足らぬ人間であったとしても、また、聞いているのが女であろうと、男であろうと、あるいは若い子であろうと、とにかくわれわれは、ひどく心を打たれ、魅入られてしまうのです。
何にしても、諸君、私はひどく酔っていると思われてるが、もしそういうことにならなかったとしたら、私は、誓いを立てた上で、この人の言葉のために私自身どのような思いをさせられてきたか、また、今なおどんな思いをさせられているか、それを諸君に話したことだろう。なにしろ、この人の話を聞く時には、その言葉のために私の心は、コリュバンテス〔プリュギアで崇拝されていた神々の偉大な母レア(あるいはキュベレ)の祭司たち。この神の信仰は一種の秘儀宗教で、その祭りは、武具をつけ、管、太鼓、シンバルに合わせて激しく踊り狂うもので、これにより陶酔に入って神と合一すると信じられていた。一般に、ディオニュソスの祭りで酔って踊り廻る人々にも用いられる〕どころか、それ以上に激しく鼓動し、涙まで溢れ出るのだ。また、ほかにも非常に大勢の人たちが同じ思いにさせられているのを、私はこの目で見ているのである。ところが、ペリクレス〔アテナイの著名な政治家で、アテナイの全盛時代を築いた。彼の業績は、その清廉《せいれん》な品性、知性にもとづく政策と並んで、卓抜した弁論の能力によると言われる〕であるとか、その他優れた弁論家たちが話すのを聞いても、なるほど話は上手だと思うものの、このような気持ちにされたことは一度もない。私の心が沸きたったことも、すっかりとらわれの身になったと苛だったことも、ないのである。しかるに、このマルシュアスの手にかかると、幾度となく、今のままでは生きている甲斐がないのじゃあるまいか、と思い込むほどの気持ちにさせられてきたのだ。この点は、ソクラテス、よもや真実でないなどとはおっしゃらないでしょう。現に今でさえ、彼に耳をかそうものなら、これに耐えきることができないで、また同じ目に遇うであろうということは、自分でもよく知っている。なぜなら、彼は、どうしても認めざるをえないようにするからである――私自身に足らぬところがまだ沢山あるのに、その自分を気づかうことはしないで、アテナイのことばかりやっている、と。だから私も、なにがなんでも、まるでセイレン〔スキュラとカリブディス近くに住むと言われた半女人半鳥の怪物で、その歌声は人の心を魅了し、立ち去ることをできなくする。ために、近くを航行中の水夫が多く生命を落とした。ホメロスの『オデュッセイア』では、オデュッセウスが、キルケの忠告により、水夫たちの耳に蝋《ろう》で栓をし、自分は帆柱に身体を縛りつけ、無事にそこを通過するという話が語られている〕たちのもとから逃げ出すようにして、耳をふさいで逃げ帰るのだ、彼のもとに坐っていてそのままそこで年をとりたくない、と思うものだから。
また、数ある人のうち、この人に面と向かった時だけだ、私がこんな気持ち、つまり誰かに恥らいを覚えるという気持ちにされたのは――人は、私の中にそんなものがあるとは思いもしないだろうけれど。だが私は、この人にだけは恥ずかしい思いを抱くのだ。なぜなら、私は、この人の命ずることなどするに及ばないと言って反駁《はんばく》することもできないし、そうかといって、この人のもとを離れたら、多くの人々から与えられる名誉に潰《つぶ》されてしまう、という自分をよく知っているからだ。それで私は、この人のもとを走り去り、逃げ出す訳だが、またこの人の姿を見ると、さきにあんな約束をしたのに、と恥ずかしさを覚えるのである。また、私は、この人が人間の世界にいなくなったのを見たら嬉しかろうと、幾度となく思うことがある。だが逆に、それが事実となったら、今よりはるかにひどい悲嘆を覚えるであろうということも、よく知っている。だから、この人間をどう扱ったらよいのか、私にはまったく見当がつかないのだ。
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三十三
さて、笛の調べによって、私を初めほかの多くの人々も、このサテュロスのために以上のような目に遇わされてきたのであるが、それ以外のことでも、私がなぞらえているものと彼がいかに似ているか、また彼が備えている力がいかに驚嘆すべきものであるか、この点について私の話を聞いてほしい。なぜなら、よく心得ておいてもらいたいのだが、諸君の誰ひとりとしてこの人のことをよく知っていないからなのだ。しかしそれは、私がはっきりお見せすることにしよう、もうやり始めたことなんだから。
さて、諸君が目にしているのは、ソクラテスは美しい人々に惚れやすく、いつも美しい人々の回りをうろつき、うつつを抜かしている、しかもそれだけでない、何ごとにも無知で一つとして知っていることがない――こういうことであろう。彼のこの外見はいかにもシレノス的ではないかね。いや、たしかにそうなのだ。つまり、彼はそんな姿を外側にぐるっとまといつけているのだ、彫刻のシレノスと同じように。しかし、その内側がひとたび開かれると、どれほどの思慮に満ち満ちていると思うかね、飲み仲間諸君。いいかね、誰かが美しいとしても、それは彼にはなんの関心もないのだ。いや、誰ひとり思いもかけぬほど軽蔑しているくらいだ。誰それが金持ちであるとか、大衆の垂涎《すいぜん》の的であるなんらかの美点を持っているとかしても、同じことだ。このような所有物はすべて価値のないもの、そしてわれわれを、――これは諸君にぜひ申し上げたい――まったくとるに足らないものと彼は考えている。それでいて、人々の前ではとぼけたふりをし、戯れつつその生涯を送っているのだ。だが、彼が真剣になって、その内側が開かれた時に、その内に秘められたかずかずの像を見たことのある人がほかにいるかどうか、私は知らない、しかし、この私はかつて見たことがあるのだ。そして私には、それらが神々《こうごう》しく金色に輝き、筆舌を絶した美しさで、驚嘆すべきもののように思えた。それは、一言で言うと、ソクラテスが言いつけることなら何をおいてもやらなければ、と思ったほどだったのである。
ところで、私は、彼が私の色香に夢中だと思い込んでいたもので、これはしめた、なんと素晴しい幸運か、と考えた。つまり、ソクラテスの意に添えば、この人が知っていることをなんでも聞き出せると思ったのである。なにしろ、自分の色香には驚くほどの自信があったのだから。それで、こんなことを思いついたものだから、それまでは供を連れずにひとりで彼との逢瀬を楽しむということはなかったのだが、その時は、供を追い帰して、ただひとりで彼と逢ったのだ――なにしろ、諸君にはすべて真実を打ち明けなければならんのでね。さあ心して聞いてほしい。また、私が嘘偽りを言ったら、ソクラテス、反駁をお願いしますよ――、つまり私は、諸君、彼と逢った訳なのだ、一対一で。そして、彼がすぐにも、あの、恋する者が少年たちに水入らずの時にするような会話を、私に語りかけてくるものと思い、内心わくわくしていた。ところが、そういうことはまったく起こらなかった。いや、いつもと同じ調子で私と語らい、いっしょに一日を過ごすと、そのまま立ち去って行くのがおちだった。
その後、私は、いっしょに身体を鍛えようと彼に誘いをかけた。そしていっしょに身体を鍛えたのだ、今度こそなんとか思いを遂げようと考えて。さて、彼は幾度となく私といっしょに身体を鍛え、組みつほぐれつした、誰もいない時にね。だが、なんということを言わねばならんのだ。そう、私にはなんの成果もなかったのだ。で、こんな手では全然効果がなかったものだから、私は考えた――この人には、しゃにむに向かって行かなければ駄目だ、乗りかかった以上、今さら後にひく訳にはいかん、いや、本当のところはどうなのか、もうとくと見きわめなければ、と。そこで私は、いっしょに食事でもしよう、と彼を誘ったのだ――なんのことはない、これでは、恋する者が少年をものにしようと企むのと、同じことだ。だが、このことでも、彼は、すぐには私の申し入れに応じなかった。しかしそれでも、そのうちに聞き入れてくれたのだ。しかし、初めて出向いて来た時は、彼は食事をすませると立ち去ろうとした。そして私も、その時は、恥ずかしい気持ちがあったもので、彼のしたいようにさせた。だが、もう一度策を練り直して、次には、食事をすませた後で、かなり夜がふけるまでわれわれは語り合った。そして、彼が帰ろうとした時、もう夜も遅いことを口実にして、むりやり彼をひきとめた。それで彼は、私の隣の、食事をとった時の寝椅子に身体を休めたのだ。しかも、その部屋には、われわれ以外に誰も寝ていなかったのである。
さて、話もここまでなら、誰に向かって語ろうと構わないであろう、だが、これから先のこととなると、諸君は私の口から聞かれなかったことだろう、もし、まず第一に、諺にもある『酒は』――これに『と子どもは』とつけても、つけなくてもどちらでもいい〔これには、「酒は真実」(酒の中に真実あり)という諺と「酒と子供は真実」というのと二つあったと考えられる〕――、とにかく『酒は真実』ということでなかったら、そして第二に、ソクラテスの賞讃の仕事にとりかかっていながら、あの高潔な行為をうやむやにしてしまうのは不当だ、と私に思われなかったら。その上にまた、私は、毒蛇に噛まれた人の痛みを自分でも経験しているのだ。人の話では、そういう目に遇った者は、その痛みがどのようなものだったか、噛まれたことのある人々以外には喋りたがらないということだ。苦痛に耐えかねてどんなことをやってのけようと、また言ってのけようと、こういう人たちだけは判って大目に見てくれると思うからだそうだ。ところで、この私は毒蛇よりもっと痛いやつに、それも噛まれたら一番痛いところを噛まれたのだ。つまり、心を、いや魂を、あるいはしかるべき名前ならなんと呼んでもいいが、そこを、知識愛の中で生まれた言論で、がつんとやられ、がっぷり噛みつかれたのだ。じつに、この言論たるや、若くて素質も悪くない魂をとらえようものなら、毒蛇よりも激しく食らいつき、その魂にどんなことでもやってのけたり、言ってのけたりさせる、という代物なのである。それに、私の見たところ、ここにはパイドロスも、アガトンも、エリュクシマコス、パウサニアス、アリストデモス、アリストパネス、さらに第二、第三のそれらの人々もいる。もちろん、ソクラテス自身は言うまでもあるまい。それに、ほかにもここにいる人たちがそうだ――つまり、諸君はみんな、愛知者の狂気と熱狂に与った経験の持ち主なのだ。それなればこそ、諸君のすべてに聞いてもらいたいのだ。その時私がとった振舞い、そしてまた私の今の言葉、これらを諸君は理解してくれるに違いないから。しかし、召使いたち、それに、ほかにもまだ浄められていない、粗野な者がいたら、その者もだが、君たちには、大きな扉をその耳に立てていてほしい〔古注によれば、オルペウス教でこのような言葉が用いられたという。浄めとか秘儀とは、ここでは哲学のそれを指す〕。
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三十四
さて、諸君、灯りが消され、召使いたちも部屋から出て行ってしまった時、私はこう考えた、この人には婉曲《えんきょく》な言い方をしても駄目だ、むしろ単刀直入に自分の思っていることを言うべきだ、と。それで私は、彼をゆすって言った、
『ソクラテスさん、もう寝たのですか』
『いやまだだ』と彼は答えた。
『では、私が心に決めていることがお判りですか』
『いったいなんだね』と彼は尋ねた。
『あなたを私はこう思っているんです、』私は言った、『私を恋する者としては、あなただけがそれにふさわしい方だ、と。そしてまた、あなたは、私に面と向かっては、そのことに触れるのをためらっておられるように思えるのです。しかし、私の本当の気持ちはこうなんです。このようなことでも、また他の何かを求めておられる場合であっても、たとえそれが私の財産であろうと、私の友人の財産であろうと構いません、とにかくあなたの意に添わないのはたいへん愚かなことだ、と考えているんです。だって、私にとっては、自分ができるだけ優れた人間になること以上に大事なことはありませんし、またこのことでは、私にとってあなた以上に有力な協力者はひとりもいないと思われるのですから。ですから、私としては、このようなお方の意に添わないでいて心ある人々の手前恥ずかしい思いをするほうが、その意に添って大勢の心なき人々に対して恥ずかしく思うよりも、はるかに大きな恥と感ずることでしょう』
するとこの人は、それを聞き終えると、非常にとぼけた、まったく彼独特のいつもの調子でこう言ったのだ、
『親愛なアルキビアデスよ。君はどうしてどうして、なかなかに目先のきく人間らしいぞ、君が私について言っていることが真実その通りであって、私の中にはある力があり、それによって君が今より優れた人間になれるのだとしたら。そうだったら、君は私の中になんとも言いようのない美を見ていることになろう、君が持っている容姿の美しさなどとは、とうてい比較にならないやつをね。それで、その美を目にしたがために、私と取引きをして、美と美をとり換えてやろうと企てているのだとしたら、君は私よりもうんと得しようと考えている訳だ。いや、美の張り物と交換に本物を手に入れようとたくらんでいるのであって、その考えは、「青銅で黄金を」〔ホメロス『イリアス』第六巻二三五〜六。ゼウスに心惑わされたグラウコスが、ディオメデスに黄金の鎧を贈り、青銅の鎧と交換したことを指す〕の交換を地で行こうとしている訳だ。しかし、お気の毒に、もっとよく調べてみたらいい。私がなんの取り柄もないことにに、君は気づいていないのじゃないかな。たしかに、心の目というのは、肉眼の視力が衰えかかった時に、初めて鋭く働き出すものなんでね。しかし君には、それはまだまだ遠い話だ』
で、私も、それを聞いて言った、
『私から言うことはそれで終わりです。その中には、私が心で思っているのと違っている言葉は一つもありません。そういう訳ですから、今度はあなた自身が、あなたと私にとって一番いいと思われることを、考えてみてください』
『たしかに、君の言うのはもっともだ』彼は言った、『実際に、これからさきは、今のこともそうだし、そのほかのことについても、よく考えた上で、われわれ二人にとって最善と思われることをするようにしよう』
さて私は、以上のようなことを言ったり聞いたりすることによって、言ってみれば矢を放ったのであるから、彼はすでに傷を負っているものと思っていた。そこで、やおら起きあがり、この人にはもう有無を言わせないで、私の外套をこの人にすっぽりかぶせ――つまり、それは冬のことだったのだ――、彼が着ているそのぼろ外套の下に横になって、両の腕を、このまことダイモン的で驚嘆に値する人物に巻きつけ、一晩中こうして横になっていたのだ。このこともまた、ソクラテスさん、私が嘘をついているなどとはおっしゃらないでしょう。ところが、私がこんなことまでしたのに、この人は、これほどみごとに、私の色香に打ち勝ち、それを軽蔑し、あざ笑い、そして私を辱かしめたのである――私としては、少なくとも色香にかけては相当なものと思い込んでいたのにだ、裁判官諸君(こんな呼び方をするのも、諸君はソクラテスの傲慢《ごうまん》を裁く裁判官だからだ)。つまり、よろしいか諸君、神々や女神たちに誓って言うが、私はソクラテスと褥《しとね》を共にして寝たのだが、起きた時には、父や兄といっしょに寝た場合と少しも変わったところはなかったのだ。
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三十五
それでは、その後、私がどんな気持ちでいたと諸君は思うかね。一方では侮辱されたと思いながらも、他方ではこの人の資性と節度と勇気とに敬愛の念を抱いていたのだ、思慮や忍耐にかけて、よもや出会うとは思いもかけなかったほどの人物にめぐり会ったのだから。だから私は、腹を立ててこの人との交際を断つという手段に出ることもできないし、かといって、彼を自分のとりこにしようにも、そのうまい方法が浮かびもしなかったのである。というのは、財貨などでは、彼はどんなことをしても傷つかない、それはアイアスが鉄の武器で傷つけられなかった比ではない〔アイアスはサラミス王テラモンの子で、トロイ遠征軍の中ではアキレウスに次ぐ勇将。彼の楯《たて》は皮が七重で、容易に傷つけることができなかったと言われる(ソポクレス『アイアス』五七六)〕、ということをよく知っていたし、また、これこそが彼を捕えうる唯一の武器と信じていたものを使っても、彼は私の手から逃げて行ってしまったからである。それで、私は途方にくれてしまい、誰ひとりとして他の誰によっても味あわされたことがないほど、この人間のとりこにされて、うろつき回っていたのだ。
さて、これらのことはみな、以前に私が経験したことであるが、その後にも、われわれはポテイダイア〔マケドニアの南東に位置する要衝。前四三二年にアテナイ軍に包囲され陥落した〕ヘ一緒に出征するということがあり、そこで幕営生活を共にしたのである。ところで彼は、まず第一に労苦に際して、ひとりこの私だけでなく、他のすべての人たちをも凌駕《りょうが》していた――出征中にはよくあることだが、どこかで連絡を断たれ、やむをえず食糧なしで過ごさねばならないような時には、彼以外の人たちは、それに耐え抜くという点では、まったく無力だったのだ――。また反対に、ご馳走が沢山ある時も彼ひとりだった、十分にそれを楽しむことができたのは。特に酒を飲む段になるとそうで、彼は進んで飲もうとはしないけれど、人にぜひと勧められれば、誰よりも強かったのである。そして、なによりも驚いたことに、ソクラテスが酔いしれているのを、これまでに誰ひとりとして見た者がないのである。このことなら、今すぐにも証明されることになるだろうと思う。
さらにまた、冬の寒さに耐えるということでもそうだ――実に、あの土地の冬の寒さときたらすさまじいものなんだが――、彼はほかにもいろいろ、びっくりさせるようなことをやってのけたけれど、中でも、これ以上はあるまいと思われるほどの凍結があった日のこと、すべての人々は幕舎から出て行こうとしないか、出て行くにしても、驚くほど沢山のものを身にまとい、靴を履き、さらにフェルトや羊の皮で足をくるんだりしたのに、この人ときたら、そんな場合でも、以前からいつも身につけていたのと同じような外套〔トリボーンと言い、目が荒く安物で、貧乏人やスパルタ人がよく用いた。ソクラテス以降、彼をまねる哲学者がしばしばこれを着用した〕を羽織っただけで、外へ出て行ったものである。しかも、靴を履かずにいながら、靴を履いた他の人たちよりも平気な顔で氷の中を歩いて行ったのだ。それで兵士たちは、自分たちを見くびってのことだな、と思い、彼のことをじろっと睨《にら》んだものである。
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三十六
その話はこのくらいにするとして、出征中のある時かの地で、
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『してこの不屈なる勇者の、いかになし、いかに耐えしか』〔ホメロス『オデュッセイア」第四巻二四二〕
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このことは、聞くだけの価値がある。
ある時、この人はなにか考えごとをして、思いめぐらしながら、朝早くから同じ場所に立ち続けていた。そして、考えがうまく進まないものだから、それを投げ出したりもせずに、探究を続けながら立っていたものである。で、もう昼になり、兵士たちも彼に気づいた。そして、いぶかしく思って、口々に、ソクラテスは早朝からなにかを思案しながら立っているぞ、と語り合ったものだ。だが遂には、イオニアの兵隊が何人か、夕方になってから、食事をすませると寝床を外に持ち出し(時はちょうど夏だったのだ)、涼しいところで寝ながら、同時に、彼が一晩中立ち続けるかどうか見守るという仕儀になった。ところがこの人は、夜明けになって太陽が昇るまで立ち続けていた。それから、太陽に祈りを捧げると、やおら立ち去って行ったのである。
また、よかったら戦闘におけることを一つ。というのは、このことでは、私はこの人にお返しをする義務があるのだから。すなわち、あの戦闘があった時のこと〔前四三二年のポテイダイアの戦い。この後間もなくポテイダイアが包囲される〕、つまり、その戦闘での働きで将軍たちは私に勲功章を授けてくれたのだが、その時、数ある人の中で私を救い出してくれた者は、ほかならぬこの人ひとりだけだった。この人は、傷ついている私を置き去りにしようとはせず、私のみか私の武具までいっしょに救ってくれたのだ。それで私は、ソクラテス、その時も将軍たちに、あなたに勲功章を与えるように勧めたのです。少なくともこのことでは、あなたは私を責めないでしょうし、嘘をついているともおっしゃらないでしょう。ところがどうでしょう、将軍たちが私の家柄をも考慮して、この私に勲功章を授けようとした時、将軍たちよりもむしろあなた自身のほうが熱心になられたのです……あなた自身よりも私がそれを受け取るべきだ、と。
さらにまた、諸君、わが軍がデリオン〔ボイオティアにあるタナグラの辺境部で、海岸にある地点。前四二四年にアテナイ軍はここのアポロン神殿を占拠したが、ボイオティアの反撃にあって大敗を喫した〕から退却した時のソクラテスは、一見に値するものだった。たまたま私は彼の傍にいたのだが、私は馬に乗っていたけれども、この人は重装兵の装備をしていた。さて、味方の兵士はすでに散り散りになってしまい、この人はラケス〔アテナイの将軍。この話は彼が将軍になる前のことであろう。なお、プラトンには彼の名をつけた『ラケス』という対話篇があり、そこでは勇気の徳がとり上げられている〕といっしょに退却していた。それに私がたまたま出会って、二人を見るなり元気を出すよう激励し、二人を見殺しにはしないぞ、と声をかけたのだ。ところで、私はこの場面で、ポテイダイアの時よりもよくソクラテスを観察したのである――なぜなら、私のほうは馬上にあったから、恐怖がそれほどなかったからだ――。第一に気づいたことは、沈着であるという点で、この人がいかにラケスより優っているかということであった。次に、彼は、アリストパネス君、君の言葉〔アリストパネス『雲』三六二〕ではないが、そのような場所でも、まるでここにいる時と同じように『胸をそらせ、両の眼をあたりにくばり』冷静に味方と敵を見やりながら、その間をつき進んでいるように思われた。そして、なんぴとであれ、この人に指一本でも触れようものなら、非常に手厳しい防戦に出るであろうことは、誰の目にも、またどんな遠くからでも、はっきりしているといった風であった。それゆえに、この人も戦友も安全に脱出できたのである。というのは、だいたいにおいて、戦場では、このような態度の人々には襲いかからず、かえって一目散に逃げる者を追いかけるというのが普通だからである。
さて、このほかにも多くの驚嘆すべきことがらを挙げて、ソクラテスを賞讃することは可能であろう。しかしながら、ほかの行動においてであれば、彼以外の人についても、それと同じようなことを、おそらく挙げることができるかもしれない。ところが、昔の人であれ、今いる人であれ、およそ人間とは、その誰にも似ていないという点になると、これこそまったくの驚嘆に値する。なぜなら、アキレウスがいかなる人物であったかということなら、ブラシダス〔スパルタの将軍で、アテナイとの戦いではしばしばアテナイ軍を苦しめた。しかし、人柄が優れ、人望を多く集めていた名将である。前四二二年のアンピポリスの戦いで重傷を受け、それで死んだ〕とかその他の人々をこれになぞらえてみることができようし、さらに、ペリクレスがどんな人物であったかは、ネストル〔トロイア戦争のギリシア側の老将で知恵袋。ホメロスの『イリアス』に登場する〕やアンテノル〔トロイア軍の顧問格で正義の人。トロイア戦争の因となったヘレネをギリシアに返すことを忠告した〕(ほかにもまだいるが)をこれになぞらえてみることもできる、その他の人々の場合も、これと同じようにして比べてみることができるであろう。ところが、ここにいるこの御仁《ごじん》となると、本人はもとよりその言論にしても、並みはずれているという点でどのようであるのか、比較できる者を探してみたところで、現在の人間の中にも昔の人々の中にも、それに近いものですら見出すことはできないであろう――私が挙げたあのものに、つまり、人間の誰かにということではなくて、シレノスとかサテュロスたちに彼自身とその言論をなぞらえる以外には。
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三十七
それから、このことも最初の話の中で言うのを忘れていた。それは、彼の言論もまた、内側が開かれるようになっているあのシレノスに非常によく似ているということである。つまり、ソクラテスの話をその気になって聞くと、初めはそれがまったく滑稽なものに見えることであろう。その語句も表現も、外側にそういう滑稽なものをまとっているのである。それはまるで、人をあざけっているサテュロスの皮だ。つまり、彼の口をついて出るのは荷役の驢馬《ろば》のことであり、鍛冶屋《かじや》のことであり、靴屋や鞣革《なめしがわ》屋のことであって、しかも、いつも同じ言葉で同じことを言っているように見える。それだから、未熟であまり考えの深くない人間は誰でも、その話をあざ笑うことになるだろう。しかし、言論の内側が開かれるのを目にし、その内部に立ち入るなら、まず第一に、数ある言論の中で彼のだけが内に叡智《えいち》をたたえているのを見出すに違いない。そして第二に、それが非常に神々しいものであって、その内部に徳のおびただしい像を含んでおり、およそ優れてよき人物たらんと志す者が探究すべきほとんどの領域、いやそのすべての領域に及んでいるのを発見することになろう。
以上が、諸君、私がソクラテスを賞讃する言葉である。その上また、私の彼を詰《なじ》る言葉を混えて、彼が私を辱しめた数々のことをも諸君にお話したのである。しかし、彼が上のような仕打ちを加えたのは、私だけに対してではない、グラウコンの息子カルミデス〔プラトンの母方の伯父。ソクラテスの信奉者である。前四〇四年にクリティアスの三十人会寡頭政治に加担し、四〇三年、民主派との戦いに破れて死んだ。彼の名をつけた対話篇『カルミデス』がプラトンにある〕にも、ディオクレスの息子エウテュデモス〔同名のソフィストがいるが、それとは別人。クセノポン『ソクラテスの思い出』に出てくる人物であろう〕にもそうだし、ほかにもかなり多くの人たちに対してそうなのである。実にこれらの人々を、この人は恋する者を装って欺いているが、ご当人は、恋する者であるよりは、むしろ恋される少年で収まっているのだ。だから、アガトン君、君のためにも言うのだ、この人に欺されてはいけない。いや、われわれが受けた仕打ちから教訓を得て、要心したほうがいい。そして、諺にもあるが、子どものように痛い目に遇って知る、ということがないようにしたまえ」
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三十八
アルキビアデスが以上の話を終えた時、彼のあけっぴろげな話しぶりに笑いが起こったそうだ。つまり、彼はまだソクラテスヘの恋心を捨てきれてない、と思われたからである。するとソクラテスは言ったそうだ、
「君は素面《しらふ》のようだね、アルキビアデス君。そうでなければ、こうも巧妙に、持って回ったような言い方までして、あんなことを洗いざらいぶちまけた目的を覆《おお》い隠そうなどと企てたり、また、まるでついでに触れたかのように、その目的を話の一番終わりに持ってくるなどということは不可能だったろう、自分はその目的のためにすべてのことを話したのではないという顔をしてね。その目的というのは、私は君だけを恋して他の誰をも恋してならないし、また、アガトンは君だけに恋さるべきで他の誰からも恋されてはならないと考えて、私とアガトンの仲を裂こうということなんだ。しかし、うまく隠しおおせることはできなかった、それどころか、君のサテュロスやシレノスばりのお芝居は正体が露見してしまったのだ。さあ、アガトン君、この男にまんまとしてやられないように、いや、私と君の仲を誰も裂かないように、心構えをしておいたほうがいいよ」
するとアガトンは言ったそうだ、
「いやたしかに、ソクラテスさん、どうもあなたのおっしゃる通りらしいですよ。その証拠に、われわれを引き離そうとして、私とあなたの間に横になったではありませんか。彼の思う壷にはまるものですか。私はあなたの傍へ行って横になることにします」
「それがいい」ソクラテスは言った。「ここへ来て私の下座に横になりなさい」
「おおゼウスよ」アルキビアデスは言った、「またしてもなんという目に遇わされるのでしょう、この人のために。この人は、どんな時でも私の上を行かなくては、と思っていらっしゃる。しかしどうでしょう、桁《けた》はずれのあなたには適いませんから、せめてアガトンをわれわれの真中に座らせてくださいよ」
「それはできない相談だね」ソクラテスは言った、「だって、君は私を讃美したんだ。だから今度は、私が自分の右側にいる人を讃えなければならないんでね。もしアガトンが君の下座に横になったら、それこそ私をもう一度、彼が賞讃することになるじゃあないか――それより私によって賞讃されるべきなのに、その前に。ねえ君、いいだろう。私に賞讃されたからといって、この若者を嫉《ねた》まないでおくれよ。なにしろ、私は彼を賞讃したくってうずうずしてるんだから」
「これはしめた、ありがたいぞ。」アガトンが言ったそうだ、「アルキビアデス、ね、僕がここにじっと坐っている手はないだろう。何はさておき席をとりかえることにしよう、ソクラテスに讃美してもらいたいんでね」
「これが」アルキビアデスは言ったそうだ、「あのいつものおちだ。ソクラテスが傍《そば》にいたら、ほかの者は、美しい人のおすそ分けにあずかることなどできないんだから。今だってそうだ、自分の傍にこの人が横になるように、いかにもすらすらと、もっともらしい理由を見つけてきたものだ」
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三十九
【アポロドロス】そこでアガトンは、ソクラテスの傍に横になろうと立ちあがったそうだ。とその時、突然、大勢の酔いどれ連中が戸口のところやって来た。そして、たまたま誰かが出て行って、ちょうど戸が開いていたものだから、そのまま真直ぐ彼らのところまで入り込んで来て、横になったそうだ。それで、家中が騒ぎに満たされ、もうなんの秩序もあったものでなく、ただやたら大酒を飲むことを余儀なくされたそうだ。それで、アリストデモスの話では、エリュクシマコス、パイドロス、それに何人かの人たちは、その場を立ち去って行ったそうだ。だが彼自身は、睡む気にとりつかれ、夜長の季節だったもので、かなり長い時間眠り込んでしまった。そして目が醒めたのは、明け方近くで、すでに鶏《にわとり》がときを告げていた。
目を醒ました時、目についたのは、ほかの人たちは眠りこけているか、もう退散してしまった有様だった。しかし、アガトンとアリストパネスとソクラテスだけは、まだ起きていて、右へ順送りしながら大きな盃で飲んでいたそうである。ソクラテスは彼らと話し合っていたそうだが、アリストデモスの言うには、話のほかの部分は覚えてないとのことだった――なにしろ、初めから話の席に加わっていた訳ではないし、それに、うつらうつらしていたそうだから。しかしその要旨は、悲劇を作るのも喜劇を作るのも、その心得は同じひとりの人間が持ちうるのであり、技術があって悲劇を作る者はまた喜劇作家でもある、ということで、この点でソクラテスは、彼らに同意を迫っていたとのことだ。ところで彼らは、同意を迫られてなんとか話について行くうちに、うつらうつらし始めたそうだ。そして、初めにアリストパネスが眠り込み、すっかり夜が明けた頃になって、アガトンも眠りに落ちたそうだ。するとソクラテスは、二人を寝かせつけると、立ちあがって出て行った。そして、アリストデモスも、いつものようにその後からついて行ったそうだ。するとソクラテスは、リュケイオン〔アテナイの東方、キュノサルゲスの南にある郊外の体育場。これはアポロン・リュケイオスに捧げられたもので、深いプラタナスの林に囲まれていた。後にアリストテレスがここで教えた〕ヘ行き、沐浴をすませてから、いつもと変わらぬ様子で一日の残りの時を過ごし、このようにして一日を送った後に、夕方、家に戻って休息したとのことである。(完)
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解説
プラトンの生涯と思想
〔プラトンの生まれ〕
プラトンはアリストテレスと並んでギリシア哲学の双壁とうたわれる人である。彼は紀元前四二七年にアテナイで生まれた。彼の家は名門であって、父親アリストンの家系は、アテナイの最後の王と言われるコドロス、そしてさらに海の神であるポセイドンに発すると言われる。また、母方も血筋は優秀で、アテナイ民主制の基礎を作り、また有徳の士としてギリシア七賢人のひとりに数えられる、立法家ソロンに遡るというものであった。
しかし、彼が生まれた四二七年という年は、ギリシアの衰運を招いたあのペロポンネソス戦争が始まってほどない頃、すなわち、この戦争は大体二十三、四年続いた長期のものであったが、その四年目に当たり、さらに、政治、文化の上でアテナイの全盛期を築き上げ、いわゆるペリクレス時代を作った優秀な指導者ペリクレスが疫病に倒れて二年目、という頃であった。したがって、プラトンは、少年期をこの泥沼のような戦乱(むしろ、ギリシア人同志の内乱)の中で過ごしたことになる。このことがプラトンの人間形成にどのような影響を及ぼしたか、この点について正確なことは判らない。しかし、この間の血を血で洗う内乱の悲惨さ、それに伴う道義の頽廃、その上、戦後に現われた政争の醜さ、これらが少年の心に強い印象を残したであろうことは容易に推測できる。後に大著『国家』を著わした時、プラトンが、理想国家の構想の中で、道義心の確立と同時に内乱の戒めを強調しているところを見ると、少年時代のこの体験と印象が、かなり強烈であったということは明らかである。
〔ソクラテスとの出会い〕
だが、彼の人間形成にとって最も重要な、そして、これなくしてはわれわれのプラトンがありえなかったと思われる契機を与えたのは、ソクラテスを知るに至ったことである。彼も普通の名家の子弟と同様、少年時代を教養的学習に明け暮れしたことは言うまでもない。しかし、それだけではわれわれのプラトンは生まれなかったろう。
もちろん、彼が素質豊かな少年であったことは、後の対話篇に現われている優れた文才がこれを示しているし、彼が若い頃に悲劇を書いていたということも伝えられているのである。それにまた、名家の子弟の常として、政治に参加する希望を持ち、政治家としての生活に期待を抱いていたことも、彼自身の書簡の中に述べられている(第七書簡)。彼には、叔父にカルミデス、母の従兄弟にクリティアスという政界で活躍している親戚があり、政治を身近なところで感じながら育ってきたことであろう。しかし、こういう才能を持ち、恵まれた環境に育ちながら、彼に哲学者としての道を選ばせることになったのは、ソクラテスとの出合いである。言い伝えでは、悲劇を作ってコンテストに参加しようとした時、たまたまソクラテスに出会い、その言葉に従って自分の作品を焼き捨てたと言われる。その真偽はともかく、ソクラテスがプラトンに与えた影響には、なみなみならぬ強いものがあった。いや、決定的なものであったとさえ言える。これはソクラテスについても言えるであろう。ソクラテスはプラトンという天分まれな若者を得て、彼がアテナイに播いた種を結実させたと言えるのである。ふたりの出会いについてはエピソードが伝わっている。ある夜ソクラテスは夢を見た。それは、一羽の白鳥が彼の膝に舞い下り、一声鳴いて飛び立ったというもので、次の日、ソクラテスはたまたまプラトンに会い、これこそ夢のお告げのとおりだと知った、というものである(ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第三巻五)。これも単なる言い伝えにすぎず、ふたりの関係をまことしやかに伝える後世の作りごととも見られようが、しかし、ふたりの出会いに、このエピソードにあるような運命的なものを感じさせるほど、プラトンにとってはこよなき名|伯楽《はくらく》を、ソクラテスにとっては最上の名馬を、得たという印象が強いのである。
プラトンがソクラテスを知ったのは、彼が二十歳の時と言われている。とすれば、それは紀元前四〇七年頃のことで、ソクラテスの死は前三九九年であるから、わずか七、八年の交際ということになる。もちろん、年数の多寡《たか》は両者の魂の結びつきに決定的な条件とならないかもしれない。『饗宴』の中のアリストパネスの言葉をかりれば、これこそ自分の半身という印象を互いに受けたことであろうが、そうだとすれば、ただの一度の出会いであっても強く結ばれることが考えられるからである。しかし実際には、プラトンがソクラテスの人となりを知ったのは(かりにソクラテスがプラトンを知らなくても)、それ以前であったという可能性も考えられる。というのは、彼の身内の中にはソクラテスと親交を持っているものがおり、それらの口を通していろいろ話を聞きえたはずだからである。例えば、上記のカルミデス、クリティアスがそうである。
しかし、ソクラテスを知るようになって直ちに、プラトンが政治への関心を一切捨て、純粋な学問の世界に没入したと考えるのは早計である。ソクラテスはプラトンに哲学への目を開かせたと言うことはできる。だがそれは、現実と遊離することではなかったのである。つまり、ソクラテスが教えた哲学(あるいは知識への欲求と言うべきであろう)とは、現実に即した真理の追求なのである。いや、教えたというのは誤りで、対話を通して、また行動を通じて、みずから示したと言うべきであろうが、それは、現実の仮面をはぎとって、その底にある真実をえぐり出そうとする、真理へのあくなき情熱と勇気である。ソクラテスはそれを、現実の世界において、現実の問題と対決しながら実践したのである。
〔ソクラテスの教え〕
人はだれでも幸福であろうと欲する。これは、生まれつきだれもが、たとえ無意識にであっても、求めているものである。ではその幸福とは何であろうか。いや、こういう問いは正しくないのであって、幸福は幸福であると言う以外はないであろう。それは人間の最終目的なのだから。むしろ、幸福になるための道、方法、手段は何か、と問わるべきであろう。つまり、いかにして幸福になれるか、幸福はどこにあるか、ということであろう。これに対し世間の人々は、百人いれば百様の答えを出すかもしれない。そして、あるいは財産を多く手にすることで、あるいは大きな名誉を得るとか、高い地位につくとかすることで、一種の満足感を味わうこともできよう。しかし、|人間にとって《ヽヽヽヽヽヽ》究極であるべき目的が、このように多様で多数のものであってよいものだろうか。究極とは、つきつめて行った最後のものであるから、一つでなければならない。もしそれぞれの人間が、外見に現われているとおりに、顔、形、性格などが違った個々の存在であり、しかも、それだけのものであるとすれば、百人いれば百人が皆自分の究極の目的を持っていて、百通りの目的があってもおかしくはないであろう。ただその場合には、それぞれが幸福と言っているものは、名称だけが同じで、内容はまったく別なものである。したがって、互いに自分は幸福であると言っても、相手の幸福を理解することはできないし、幸福だと言って讃えたり羨ましがったりすることも本来は不可能なはずである。
だが、われわれは、ひとりひとりは互いに別な人格であるが、その一方で、すべてが等しく「人間」と呼ばれている。単に呼び名だけでなく、その裏には、同じなにものかを共通に持っているという意識がある。少なくともそう予想している。われわれはこの同じものを持ち、相手の中にもこの同じものがあると信じているから、共同に生活できるのである。人間は社会生活を営む動物と言われるのはそのゆえである。このように考えるなら、すべてが幸福であることを求め、しかもそれを生の究極の目的とする場合には、その幸福は万人に共通に認められ、憧憬の的となるものでなければならない。これが人間《ヽヽ》にとっての真実の幸福である。
では真実の幸福をもたらすものとは何か。それは、この「共通なもの」、人間であるというそのことに即して考えるべきであろう。人間にとって間違いなく確実なものは何かというと、それは「人間であること」と言える。美しいとか、肌の色がどうとか、背が高いとか、名誉や地位とかは、人間が人間であることにとって決定的なものではない。金持ちが一文無しになっても、そのことで人間でなくなることはない。手足を切り落とされたからといって、とたんに人間でなくなることもない。とすると、まさに人間が人間であるそのこと、ここに最も確実なものが求められる訳である。だが、「人間であること」と言っても、生物学的分類において人間《ヒト》であるということも考えられよう。ここで言う「人間であること」とは、そのような意味ではもちろんない。人間が、その複雑な営みの一切を通して、その中で人間であることをしみじみと実感するような、そういう意味での人間味とか人間らしさに即して考えた場合に、これこそ人間であると言われるようなものである。これをつきつめて行くと、人間のみが持つ特質とか、本質ということになろう。だから、例えば二本足であるということは、人間の本質とならない。なぜなら、鶏も二本足だからであるし、また、事故で一本失なっても、それだけのことで彼が人間でなくなることはないからである。とすると、人間のみが持ち、それによって人間が人間たりうるもの、つまり人間の本質は何かというと、それは理性に基づいて判断し、行動しうるということに帰するであろう。理性こそ人間のみが持つ特性であって、他の動物には見られないものである。この特性を十分に発揮し、その点で卓越していること、これが人間としての優秀性、すなわち徳と言われる。理性によって判断するというのは、その場その場を計算ずくでうまく処理するというのとは違う。人間にとっての真の目的、つまり真に幸福であることを目指し、それを念頭において、あらゆる場合によき生を実現する手だてを判断することである。したがって、人間にとっての真実の幸福は、人間がまこと有徳の士になることによって到達されるのである。
ソクラテスが身をもって示したのはこの真実の|よさ《ヽヽ》を認識することである。彼が人をつかまえて吟味し続けたのは、人間にとって欠くことのできないこのものの何たるかを、はっきりつきとめようとしたからである。ソクラテスのこの努力は、現実の殻や異物に覆《おお》われ、さまざまに見えているこの真相を、うわべを一枚一枚はぎとることによって純粋な姿にしようとすることだったのである。真実は、この過程をどこまでもたゆみなく続けた最後に求められる。それを行なうソクラテスにとっても、真実が何であるかはあらかじめ知られてないのである。彼が自己の無知を告白し、他人にもこれを求めるのはそのためである。ソクラテスが自分が無知であると言い、他の名士が知者であると言うその違いは、その内部に隠された真実を求めて生きるか、うわべの皮に甘んじて生きるかの違いにあると言えよう。
〔国家と個人〕
ところで、幸福であるとは、ギリシア語では「よく生きること」とも言い表わされる。この場合の「よく」の意味は、上述のように、人間の本質に即して最善の生を営むことであるから、それはまた、個人としてすぐれて善き人間になることを意味し、それが現実の生において実現されることを要求する。だが、当時のギリシア人には、まだ独立した個人意識はなかった。すなわち、各都市は自由と自律を理想とする独立した国家《ポリス》を形成していたが、ポリスは、信仰を共にし、法(掟・慣習)を共にする市民の協同体で、そのつながりは、血族社会に似た強いものを持っていた。だから、市民は一個人としてではなく、ポリスの一員として生き、育てられ、そして死んで行ったのである。公共への奉仕が価値ある行為と考えられるのもそのためで、市民にとってポリスは、その全生活を支える基盤であり、市民のポリスに対する感情も、親に対する子のそれであり、神に対する信仰の感すらあったのである。いわば、個人はポリスの縮小された形であり、マクロコスモス(大宇宙)に対するミクロコスモス(小宇宙)であった。それゆえ、質的には個人倫理も国家社会の倫理と同一であり、むしろこれに含まれるものだったのである。つまり、よき人間になることはよき市民になることであり、よき生を営むことはよき国家を営むことに直結したのである。その意味でソクラテスの教えは、同時にまた、国家全体の幸福を説く、いわば政治の本質をなすものでもあった。
ところがソクラテス自身は、市民の義務としてやむをえない場合のほか、進んで政治に参加しなかったし、それを避けていたことを、自らはっきり口にしている(『ソクラテスの弁明』第一九節)。しかし、彼が避けたのは形骸化して歪んだ現実の政治であったとも考えられよう。彼としては、むしろ、参加するよりは、批判的態度を貫いて真の政治に目覚めさせることに、価値を見出していたのである。ある意味では、真実の政治家を自負していたとも考えられよう。プラトンがその感化を受けたであろうことは言うまでもない。彼が説く「国家」は哲人王を中心とする道徳的国家であった。そこでは、個人が身を整えることと国家がよく治められることとは、規模の大小だけで、質的には完全に同一である。それゆえに、個人の問題を論じても、それを通して国家を論ずることができるのであり、逆に国家を論ずるには、個人の身を修めるための論も必要なのである。ここにわれわれは、プラトンの政治に対する関心が、必ずしも消え去ったのでないことを知る。いや、前よりも強い情熱を燃したとさえ考えられるのである。
〔ソクラテスの刑死後〕
話を元に戻して、やがて青年プラトンは現実の政治に対し疑問を抱き、それへの参加を断念するに至る。その契機となったのは、民主制、独裁制を問わず、現実の政治がソクラテスに対して示した仕打ち、特にソクラテスに対する死刑の宣告である。ソクラテスの死後、プラトンはアテナイを離れ、ギリシア各地、さらにキュレネへと旅したと言われる。その理由ははっきりしないが、ソクラテスの死後、彼と交際のあった人々に危険のふりかかることが予想されたためと思われる。つまり、弁明の中でソクラテスは、有罪投票をした裁判官たちに、自分の死後大きな報復が見舞われることであろうと予言している(『弁明』第三〇節)。これを聞いた人たちがその芽をつみとろうとするのは容易に予想されることであるから、彼がアテナイを出たのはその難を避けるため、と見るのは必ずしも不可能でない。この期間にプラトンは、師ソクラテスの思想を反復吟味して十分消化して、それを基に自分独自の思想を固めて行ったと考えられる。これに伴い、現実政治に対する批判と併行して、真の政治を行なう必要性が次第に強く感じられてきたものと想像される。哲学者が支配の地位につくか、現在の支配者が哲学するようになるか、そのいずれかでなければ人間の災厄は終わらないであろうという、あの有名な哲人王の思想は、このころ固まってきたと見てよいであろう。また、この旅行の際に、おそらく、南イタリアでピュタゴラス教団をつぶさに見聞することができ、これが後に、アカデメイアに学校を創設する時の参考となったと考えられる。
〔第一回シケリア旅行〕
その後、プラトンはシケリア(シチリア島)に渡り、僭主《せんしゅ》ディオニュシオス一世治下のシュラクサイを訪れている。しかし、ここでのプラトンの存在は、乱れた生活に慣れきっている僭主にとっては思うがままにならぬ目の上の瘤《こぶ》に等しく、ついにその怒りを買って、当時アテナイとは不仲のスパルタの使節に身柄を渡され、アテナイの外港ピレウス近くにあるアイギナ島に送られて、奴隷として売りに出されるという危難に晒された。この時は、たまたま来合わせたキュレネのアンニケリスの目にとまり、買いもどされてアテナイに帰ることができた。このような危難に見舞われたシケリア旅行であったが、プラトンにとっては唯一の収穫もあったのである。それはディオニュシオスの娘と結婚していたディオンと知り合ったことである。ディオンは、シュラクサイで彼が見つけたただひとりのまともな人間であり、その優れた素質はプラトンの心をとらえるのに十分であった。ディオンがプラトンに心酔したことは言うまでもない。おそらく、プラトンがソクラテスに抱いたのと同じ気持ちを、彼はプラトンに対して抱いたことであろう。
〔アカデメイアの創設〕
アテナイに帰ったプラトンは、アテナイ郊外のアカデメイアに学校を創設した。この学校は後に、地名にちなんでアカデメイアと呼ばれるようになった。この創設にはエピソードがあり、プラトンの友人たちがアンニケリスにプラトンの身代金を返そうとしたところ、アンニケリスがそれを受けとろうとしなかったため、その金でアカデメイアを建てたというのである。その真偽のほどはともかく、このアカデメイアの教育を通して、プラトンは、哲学に裏づけられた真の政治家を養成しようとしたのである。また、この間に多くの主著が生まれたと考えられる。この時プラトンは四十歳であった。
〔再度のシケリア行き〕
プラトンがアカデメイアの教育と研究に日を送っている間に、シュラクサイにも変化があり、ディオニュシオス一世が没して、息子の若いディオニュシオス二世が僭主の地位についた。その際、ディオンのたっての依頼があり、プラトンは、自分の理想を実施する期待を抱いて、再びシケリアの地を踏むことになる。だが、若くて移り気な僭主にプラトンの説く理想が理解できようはずがなく、諫言《かんげん》するディオンの存在も邪魔になり、他人の中傷を容れてディオン追放という挙に出た。プラトンはこの処置について抗議したが容れられず、かえって自分まで軟禁される目に遇い、一年後にやっとアテナイに帰国するという結末に終わった。その後数年して、またしてもディオニュシオスから再三の招聘《しょうへい》がきた。その時プラトンは、これを強く断わったのであるが、友人たちの推めもあり、特にディオンの懇請を無にはできなかったので、老いの身をひっさげて三度目のシケリア行きをあえてしたのである。この時プラトンは六十五(もしくは六十六)歳であった。しかし、僭主の約束はまたしても反古にされ、身の危険すら感じられるようになったプラトンは、友人のたすけで辛うじてアテナイに帰国した。
プラトンが、このように、予想される身の危険を冒してまでシケリア行きを決行した理由は何であろうか。友人たちのすすめ、愛するディオンの懇請があったことも確かである。だが、これらは断わって断われぬことはなかったろう。むしろ、プラトンが長年抱いてきた理想国家実現の期待が再三シケリアまで行かせたとみるべきである。
やがてディオンは、ディオニュシオスのプラトンに対する仕打ちに立腹し、暴政を改めるべく革命の兵を挙げた。革命は成功し、僭主は追われたが、わずか四年にして彼自身も暗殺の刃に倒れてしまった。時にプラトンは七十歳をすぎていた。彼は八十歳まで生きたと言われるが、その後の彼は、自分の手で実現できなかった理想をアカデメイアの弟子たちに託し、最後まで教育と著述を続けたのである。
〔イデア論〕
プラトンと言えばすぐに、国家論と並んで、イデア論という言葉が返ってくるであろう。イデアという語は形、姿の意味で、通常は、なんらかの具体的な形を指している。このイデアに独自の意味を与えたのがプラトンである。しかしそれは、「イデア論」と称される体系的学説が残されているという意味ではない。プラトン自身の哲学の中でさえイデア論的思考が発展し続けているのである。ここでは、イデアの考え方がどのようなものか、ごく簡単に触れておくことにしよう。
ソクラテスがアテナイの市民をつかまえては問いをかけ、その答えに対しさらに問いをかけるという風に、問答の形で次第にことがらの真理に迫ろうとしたことは有名である。ソクラテスのこのような方法は問答法と呼ばれている。これはまた、相手がはっきりと理解しておらず、おぼろげに抱いているものを、問いと答えを重ねる中に明確にする過程でもあり、その意味では、魂の中にみごもっているものを産み出させる働きをする。そこでこの方法を、ソクラテスの母親パイナレテの職業と言われる産婆の仕事になぞらえて、人は産婆術とも呼んでいる。
この方法を相手に試みる際、ソクラテスが相手に問いかけたのは、当の問題となることがらの「何であるか」であった。ソクラテスはこの問いかけを、主として倫理的領域において行なったが、これを一般化して、例えば人間について、「人間とは何であるか」に置き換えて考えると、この問いに対して多くの対話者は、普通、世に行なわれている定義をもって答える。例えば「人間とは二本の足で直立して歩く動物」というように、いかような形態をしているかとか、いかような性質を持っているかとか、いかなる働きをするかなどの、表面に現われた定義、あるいは部分的な規定を示すのが普通である。しかし、直立して歩かない時は人間でないのかというと、そうではない。這っている間の子供も、また足の不自由な者も、やはり人間であることに変わりはないのである。鶏もまた、少なくとも外見は、二本足で直立して歩くのであるから、この定義は、必ずしも人間の何であるかを的確に示すことにはならない。だが、ソクラテスが問うのは、それにおいて人間がまさに人間である点、あるいは、それなしでは人間でありえない点、つまり人間の本質において、その定義を求めようということなのである。かりに、這っている頃の子供は完全に人間らしく生きていない、あるいは人間としての機能を発揮していない、ということであれば、その「人間らしく」とか「人間としての機能」とかの意味をつきとめようというのが、その本意なのである。したがって、ソクラテスの問いに対する完全な答えは、それこそだれもが認めるそのものの本質だったのである。したがってこの定義は、およそ人間である限り、誰にも、いつでも当てはまる普遍的定義である。
この定義に対応する「人間」が個々の人間とは別に存在すると考えると、プラトンの言うイデアが出てくる。例えば、ここにA、B、C三人の人間がいるとする。われわれは目や耳その他の感覚で、それぞれが別個に独立していることを認めている。例えば、Aは背が高くBは低いとか、Cは白くAは黒いとか、Bは気丈でCはおとなしいなどと、それぞれが違った状態や性質の持ち主であることを認める。しかしその反面、Aは人間である、Bも人間である、Cも人間である、という風にもわれわれは考えるのである。ところで、この共通な「人間である」ということと、「背が高い」とか「色が白い」とかいうことを比べた場合、われわれ人間にとってどちらが本質的であろうか。かりに背の高いことがそうだとすると、背の低いBは人間的でなくなる(あるいは、Aに比べて、人間性においてより劣ることになる)し、またA自身にしても、事故で足を切断したとすれば、以前の背の高い状態ではなくなるから、やはり人間でなくなるという不合理が生じよう。ところが、足を切断しても、Aは、形の上では以前のAでないが、しかし、人間であるという点では前と変わっていない。色の白い者が日焼けして黒くなっても、やはり人間であることには変わりない。つまり、場合場合でさまざまに変わる性質や状態に対し、いつも変わることのないこの共通なものが、人間を人間たらしめるものということになろう。ところが、われわれは、Aは人間である、Bは人間である、と言う場合、その「人間」という共通の述語に当るものを、単なる思考上の抽象概念と考えることもできるが、その一方で、それだけでは説明のつかない状況のあることを、われわれは経験しているのである。
目の前のこの花が美しいとされる状態を作り上げているのは、その花の大きさ、色合い、香り、形状、おかれている環境その他であるが、われわれがそれを見て「美しい」と言う場合、そのもののあらゆる性質、状態などの条件を逐一分析し、それらを綜合した上で美しいと判断している訳ではない。見ると同時に、まるで打たれたかのように、直感的にそう判断し、それが口をついて出るのである。このことを考えると、われわれは「美しい」という言葉を発すると同時に、その言葉に対応する何か(この場合は美しさ)を、目の前の対象とは別に、思い描いていると思わざるをえなくなる。そして、このような美しさを把握しているがゆえに、別個のものを、いずれが美しいか比較判断したり、もっと基本的には、感覚に上る個々の異なる対象について、共通に、「美しい」とか「美しくない」ということを述語づけをすることができるのである。その意味では、この一つの共通な美しさが、美しいものを美しいものたらしめる原因をなす、と言うこともできる。このような美しさを認めることは、また、草花とか、雲とか、人間とか、壺とか、絵画その他、多数の異なったもの、その限りでは統一を欠く雑然としたものを、「美しい」という一つのパターンで把握する、あるいは、「美しいもの」という一つのクラスにまとめること、と考えることもできる。雑多なものを一つの特徴とか型によって包括するということ、これは、これら多数のものについて一つの理解を持つことに他ならない。このことは概念についても言えるかもしれないが、プラトンはその一なる型を普遍概念ではなく実在と考える。芸術家の創作活動について考えると、このことは理解できるかもしれない。彼らにとって「美しさ」は、概念ではなく、、創り出されるべき実在なのである。このような実在を考えるに至った動機として、後述のような目的論的世界観があることを見逃すことはできない、すなわち、そこには、雑多な現象界に統一を与えることをも意味しているのである。
イデアとは、このように、現象の多が絶えず変化の中にあり、例えば、美しくあったり、美しくなくなったりするのに対し、「美しさ」の基準として「まさに美しくあるもの」、「真実美しくあるもの」であるから、したがって、現象の個々のものとは存在の様式を異にする。それは「真実……である」のであって(真実在)、時間・空間の制約を受けない。すなわち、時の経過や、国とか民族の違いによってそのありようを変えるということはない。いついかなる時も、いかなる所ででも、いかなる観点からしても、誰にとっても、「常に」そのようであり続ける。このような存在は相対性の中にある現象界には見られぬものである。つまり、それは感覚的な存在とは離れてある、と言うべきである。しかし、このことは、現象界を超絶していることを意味しない。現象界の個物はすべて、この真実在たるイデアに関わりを持つことにより(関与、分有)、あるいは、イデアがそれら個物を包括することにより(占有)、そのようなものとして(例えば美しいものとして)存在しうるのである。
〔イデアは多数ある〕
さて、以上のように、イデアは統一のないまま個々に雑然としてある多数のものに対し、これを統一する一なるものである。この考え方を拡張し、一般化して行くと、理論上、イデアは多くのものについて考えられるようになる。例えば、美しさだけでなく、人間とか、黒さとか大きさなどについても、さまざまな人間、さまざまな黒さ、さまざまな大きさなどに対し、人間のイデア、黒のイデア、大のイデアを考えることができる。理論的には、多くの主語に対する共通な述語と同じ数だけ、イデアが多数認められることになる。そして多くのイデアは、それぞれ、それに対応する個々の雑多なものに対し、それらをそのようなものたらしめる原因となっている。例えば人間のイデアは、個々の多数ある人間が人間たりうる原因(人間と呼ばれる根拠)となっている。同じように、黒いもの、大きいものは、黒や大のイデアによって黒い、あるいは大きいのである。つまり、一般に個々のものは、イデアに関係する(あずかる)ことによって、そのような性質、もしくは状態のものとなっているのである。
〔善のイデア〕このようにイデアと個々のものの関係を考えることが、単に雑多を統一するという思考上のことであれば別にイデア論という仰々しいものを持ち出さなくてもすむかもしれない。だが、プラトンの意図はさらに一段高い所におかれている。つまり、雑多な個々のものがイデアに関係するのは、自然物の運動のように、ただ機械的に行なわれているのではない、それは一つの目的を目指しているのである。そこには、万物の統一と調和という考え方が含意されている。
イデアは多くのものに対する一なるものであり、現象の世界に多様なものがあれば、その種類に対応して一つのイデアがある。それゆえ、イデアもまた、現象とは違った意味で多数である。そこでイデア界もまた秩序原理を必要とすることになる。このイデア界の統一を果たし、それゆえ、ありとあらゆるものの根源的な原因となるのが、善のイデアと呼ばれるものである。言いかえると、すべてが善のイデアを目指すことによって、万物の統一が果たされ、調和と秩序のある世界が達成されるのである。そして、この善のイデアが原因となることにより、個々のイデアとそれに対応する雑多なものとの関係が意味を持ってくる。イデアは、まさに(真実に)人間であるもの、美しくあるもの、すなわち、真実Xであるものである。真実美しくあるものは、条件によって美しくなくなることがあってはならない。つまりそれは完全な美しさである。このように、イデアは完全な存在として、不完全な(絶えず変化する)個々の存在の模範となるものである。この模範を目指して、個々のものができるだけ自分をそれに似たものにし、近づいて行く時、すなわち完全に近づく時、世界全体の秩序ある統一、完全に善にして美なる調和が達成される。それゆえ、個々のものとイデアの関係は、単に機械的なものではないのである。プラトンのイデア論は、むしろイデア論的思考は、その理論的展開の背後に、このような目的意志を秘めているのである。その場合、最高のイデアとして善をおいたところに、ソクラテス以来の考え方、すなわち、すべての人間が善を目指して行為し、そこにおいて幸福を見出すという考え方、を見ることができる。
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作品解説
〔構成〕
『饗宴』はプラトンの中期作品と考えられている。この時期の特徴は、プラトンの文学的才能が最も発揮されていることで、したがって、作品も文学的に洗練されたものが多い。この頃の作品の目立った傾向は、ソクラテスと誰かの対話を他人の口を通して報告するという間接的形式をとっていることである。本作品は、さらにもう一人の報告者の口を通すという、二重の報告形式をとっている。
第一章は、直接の話手であるアポロドロスが、友人たちを相手に、アガトン邸で行なわれたかなり前の饗宴の様子を語ろうとしているところで、これは本作品のいわば序曲に当たる。ここではアポロドロスの性格描写が行なわれている。
第二章からはアポロドロスの話の内容に入るが、これを彼に話して聞かせたのはアリストデモスで、アポロドロスはその報告者にすぎないから、これを第一の報告者アリストデモスの話と言ってよいであろう。大きく分けると、『饗宴』はこの二つの部分からなる訳である。しかし、第二章から終わりまでの作品のほとんどの部分は、饗宴の席上で行なわれた六人の演説、それにアルキビアデスのソクラテス讃美に当てられ、その間に出席者相互の若干のやりとりが入っていて、第二部はさらにいくつかの部分に分れることになる。
まず最初は第二〜五章で、ここではアリストデモスによるプロローグとして、彼がソクラテスに会って一緒にアガトン邸へ出かけた次第、アガトン邸での様子、エリュクシマコスによるエロス讃美の提案などが述べられる。第六〜七章は、最初の演説者パイドロスのエロス讃美。第八〜一一章は二番目のパウサニアスの演説。第一一章は、アリストパネスがしゃっくりのために話ができなくなった様子を描く、いわば幕間の部分。第一二〜一三章は医者エリュクシマコスの演説。第一三章はエリュクシマコスとアリストパネスのやりとり(第二の幕間)。第一四〜一六章はアリストパネスの演説。第一六章〜一七章はソクラテスとアガトンの対話で、第三の幕間に当たる。第一八〜一九章はアガトンの演説。第二〇〜二一章はアガトンに対するソクラテスの質問(第四の幕間)。第二二〜二九章は、ディオティマから聞いた話をソクラテスが述べる部分で、これがソクラテスのエロスに関する演説になる。第三〇〜三一章は、アルキビアデスが酔って宴席に闖入《ちんにゅう》する場面で、第五の幕間になる。第三二〜三七章がアルキビアデスのソクラテス讃美、第三八〜三九章は終末部で、酔いどれが大勢入り込んできて混乱状態となった様子、騒ぎが納まって一同が眠りに落ちいる間に、ソクラテスがひとりアガトン邸を立ち去って行く情景。以上のような構成になっている。
これを見ると、ソクラテスの演説とアルキビアデスのソクラテス讃美に、全体の半分に近い紙数が費されていることが判る。他の演説との量的比較からも、この作品におけるプラトンの意図は明らかであろう。
〔作品の意図〕
この対話篇の特色は、上述のように、二人の報告者の口を通して伝えられるところにある。その場合、プラトンは報告者としてアポロドロスとアリストデモスを選んでいる。アポロドロスは熱狂的な人物で、哲学の議論には異常なまでの関心を示し、また、ソクラテスとの交際がまだ三年ほどの短いものであるにもかかわらず、ソクラテスの言動をことごとく自分のものにしようとひたすら熱中している男である。このような人物を報告者として選んだところに、伝えられる内容が信ずるに足るものであることを読者に印象づけようとする、プラトンの意図を見ることができる。作品の中で、アポロドロスに、ソクラテスに会って事実を確かめたことを語らせていること、また、同じようにアリストデモスから聞いていながら、もうひとりのポイニクスは正確に伝えられなかったのに、アポロドロスは正確に覚えていると断わっている点、これらの点にもその意図は現われているのである。
もっとも、このことは饗宴を歴史的事実として描いたということを意味しない。ただ、プラトンが、自分の描いたソクラテス像、そして彼が真実と信じて疑わないソクラテス像を、彼が作り上げたソクラテスであるとの印象を与えぬようにしよう、としているという意味である。この点はアリストデモスを選んだ配慮にも見られよう。この人物は、饗宴が行なわれた当時ではいちばんのソクラテスの心酔者で、跣足《はだし》で歩くところまで真似るほどの身の入れようをしている。また、いつものようにソクラテスの後を追う最後の場面では、ソクラテスに対する徹底した忠実ぶりを表わしている。したがって、彼もまた、ソクラテスに関する真実を伝えるべき報告者としては、まさにうってつけの人物と言えよう。信憑《しんぴょう》性を高めるというこの点は、アルキビアデスがそのソクラテス賛美の中で、繰り返し自分の話が真実であることをソクラテスに確かめているところにも見られるであろう。
このような準備のもとに、プラトンが本作品で狙った目的は何なのであろうか。それは、演説者としてパイドロス、パウサニアス、アリストパネス、エリュクシマコス、アガトン、ソクラテスを選び、その上にアルキビアデスを他とは違った形で登場させ、しかも、アリストパネスとエリュクシマコスの順序を、しゃっくりという演説者にとっては致命的で、しかも滑稽味のある生理現象で変更させたりした意図にも関連してくるかもしれないが、立入ったことは避けて、一口にその主たる目的を言うなら、『饗宴』の全体を、各演説の総花的な列挙ということではなしに、ソクラテスの演説、つまり、優れた意味でのエロスを描き出すことに焦点を合わせている、と言ってよいであろう。他の五人の演説はすべて、ソクラテス(あるいはディオティマ)の話の前奏として用意されているのであって、クライマックスはエロスの哲学的意義を、そして、容貌とはうらはらに、このエロスを純粋に実践して生きたソクラテスを、描き出すことにあったのである。
〔内容〕
『饗宴』の内容をなす七つの演説は、ソクラテス讃美も含めて、一言にエロス讃美につきると言えよう。それぞれの話の特徴をつかむ一助として、次にその梗概《こうがい》を述べる。
〈パイドロス〉
この人物の詳細は判らぬが、プラトンの『パイドロス』にも登場し、ソクラテスの対話者をつとめている。弁論術に強い関心を寄せ、リュシアスに心酔していたと思われる。したがって、彼のエロス讃美演説には、弁論家の典型的な話しぶりが覗える。
彼の主張は、エロスは最古の神であるというところから始まる。なぜなら、エロスには親がないからである。その根拠として、神々の系譜を謳った詩人たちの言葉が挙げられる。そして、最古であるがゆえに(つまり、源であるがゆえに)エロスはすべて善きものの原因ともなる。これは一見論旨が通っているようであるが、そこには論証というものがまったくなく、ただ豊富な引用をすることで自分の主張に信憑性を与えようとしているにすぎない。これは弁論家の常套手段である。同時に、そこには、古いがゆえに優れているとする、伝統や権威を重んずる態度が覗えるのである。
エロス讃美の第二の論点は、愛し合う者に見られる行為の美しさである。恋する時には互いに対する恥らいの心が強くなる。これは名誉を重んずる気持ちと言ってよいであろう。したがって、恋する者は、戦場においても勇敢な行為を示すことができる。また、ために死すという行為も、恋する者のみがなしうることで、これは神々も讃えたもうところである。ここでも、アルケスティスやアキレウスの伝説が引用される。できるだけ美しく讃美するという建前からすると、このように引用の多様さで話を飾り立てることは当然とも言えるが、弁論術の手法に終始することにより、彼の讃美は皮相的なものに終わり、後のソクラテスによる讃美とは対照的な性格を浮き彫りにしている。
〈パウサニアス〉
この人物については、一七六aの註を参照されたい。彼は、エロスを一律に扱うことの誤りを指摘した上で、神話を基にしてエロスを分類する。すなわち、エロスとアプロディテの関係はあまねく認められるところであるが、アプロディテにはウラニア(天上的)・アプロディテとパンデモス(世俗的)・アプロディテの二つの顔があるから、それに対応して、エロスにもウラニオスとパンデモスの二つが分けられていなければならない。これは恋の二つの表われ方(エロスの欲求の二様)を意味し、それぞれに対する評価もおのずから違ってくる。すなわち、美しいエロスと醜いエロスの区別がなされることになる。これらはそれぞれ、魂に向かう恋および肉体に向かう恋と言ってよい。
このような評価に応じて、恋の現象に関する法(慣習)も国によってさまざま異なる。国によってはやエリスやボイオティアのように一律に美しいものとする所もあれば、イオニア地方のように一律に醜いとする所もある。この違いは、個々の国の国情、しきたり、過去の経験に基づいて立法されているためである。ところがアテナイでは、さきに挙げた恋の現象の二種に応じて、規定もそれぞれ異なっている。一方では、恋する者のひたむきな行為はすべて認め、なんら非難をしないどころか、神々すらこれを許すとし、他方では、恋し合う者同志の交際を禁止するような習慣も行なわれている。これは、恋に限らず、一切の行為はそれ自体善悪無差別なものであり、その行為の仕方によって評価が違ってくるという理由による。すなわち、恋する者、恋される者のいずれにおいても、その恋が魂の向上に向かう時には、それは美しいものであるとして、それにかかわるいかなる行為も是認され、一方、他の目的、例えば金銭とか権力とか地位とかが目的で恋する者になびくのは、醜いとして非難されるのである。
この演説は、パイドロスのに比べて、問題をやや明確に捉えているようである。その中には、それ自体善でも悪でもない行為が、その仕方によっていずれにもなりうるとし、また、美しいエロスを魂にかかわる恋に限定する点で、後の演説への関連が含まれている。と同時に、同じ一つの行為が、国によって美しいとも醜いとも評される点に、当時流行したソフィスト的考え方、つまり、善悪の評価は絶対なものでなく、つまるところ人間のとりきめ(ノモス……人為的なもの)にすぎないとする相対主義的思想、を見てとることができよう。
〈エリュクシマコス〉
これまでのふたりは修辞的技巧をこらし、伝統、慣習に基づいた論じ方をしたのに対し、エリュクシマコスは、自然学者らしく、たんたんとした語り方をする。ここでも、パウサニアスによる二つのエロスが、話の前提となって生きている。パウサニアスがエロスを人間の世界に限定しているのに対し、彼はこれを宇宙全体の原理に拡大して論ずる。その際、彼の専門である医学の立場から、肉体におけるエロスの働きが最初に語られる。
肉体は二つの相反する要素からなっている。これは、温…冷、乾…湿などの対立要素を考えるアルクマイオンの医学思想と見てよい。これら要素間に均衡と調和が保たれる時、健康状態が、いずれか一方が支配する時に病気が生ずる。肉体におけるエロスは、そのいずれの状態をも生ぜしめる。すなわち、二つの要素に節度をもたらし、過超を排除して、これらを調和させる美しいエロスと、いずれか一方の過超、放埒《ほうらつ》を許す醜いエロスとの二つが、肉体の中に働いているのである。医学とは、美しい恋と醜い恋を識別し、美しい恋を育てることを目的としている。これは医学に限ったことでなく、音楽においても、高音と低音、速いと遅いという相反する音を、恋の力で調和させ、協和音を生み出させることを、音楽術の仕事としているのである。四季の秩序、天体の規則的運行もそうで、およそ術(知識)と言われるものは、美しい恋を育て、醜い恋を抑えて取り除くことを、その目的としている。これが彼の話の要旨である。その中には、名を挙げたのはヘラクレイトスだけであるが、そのほかにも多くの哲学説や医学説への示唆が含まれており、彼の衒学《げんがく》的一面が覗われると言えよう。
〈アリストパネス〉
彼は当代随一の喜劇作家であり、また『雲』を書くことによって、『弁明』のソクラテスの口をかりれば、ソクラテスに対する古くからの告発者の一人となった人物である。彼をここに登場させたプラトンの意図については、さまざまな見方ができよう。しかし、ソクラテスが蒙った仕打ちに対し、報復を加える意志をもって登場させたと考える必要があるかどうかは、疑問である。あっても、せいぜい、ソクラテスを戯画化したおかえしに、彼を滑稽に描く程度であろう。むしろ、彼の話は優れた洞察を含むものとして描かれているのである。
彼の話は荒唐無稽《こうとうむけい》な物語りを基に語られる。原初の人間は、顔が二つ、手足は各四本、ちょうど現在の人間ふたり分を一つにしたような恰好で、全体として球形をなしていた。性別も、男性と男性、男性と女性、女性と女性が組み合わされた三種類あり、また能力は、今の人間のそれをはるかに凌《しの》いでいた。ために、それが次第に傲慢に変わり、神を恐れぬ不敬の振舞いに出た。それで、ゼウス神の怒りにふれ、みな二つに切り裂かれてしまった、というのである。恋の現象は、これら二つに裂かれた半身たちが、それぞれ以前の自分たちの姿を回復し、もとの一つになろうとする欲求であり、努力であるとされる。
この物語りは、喜劇作家らしい調子で面白おかしく語られ、読者の興味をそそるものがある。例えば、全知全能で、行くとして可ならざるものはないゼウスが、人間の処置にほとほと手を焼いたり(その理由も、人間からの捧げ物がなくなるという功利的なものである)、やっと浮かんだ名案が、自分たちにとって都合のよいものであったり、尊厳なる神も市井の人間並みに取り扱われて、思わず笑いを誘うのである。このように、すべてを滑稽の中に包み込む調子には、喜劇作家の面目躍如たるものがある。しかし、笑いのべールに覆われているが、その底に、恋愛現象に対するこれまでの人以上に優れた洞察をきらりと光らせているのを見逃すことはできない。また、性の問題、原初人間の形態にしても、単に詩人の発想というのではなく、当時の哲学思想や医学思想を材料に、巧みに料理してみせているである。しかも男と男の組み合わせに最も優れた関係を見ている点で、本作品の意図するエロス観が貫かれていると言える。
〈アガトン〉
彼は、弁論術の第一人者ゴルギアスの影響を受け、弁論の技術を駆使して、この『饗宴』の主人公らしく、しかも悲劇の優勝者らしく、堂々とした弁論を披露している。
彼はまず、言論の手続きとして、エロス自体の本性とその業とを分けて述べることを提案し、エロスの本性から語り始める。その要旨は、パイドロスがエロスを最古で、それゆえに尊厳であるとするのに対し、エロスの若さを強調する。その場合の彼の論じ方は、パイドロスと同様、詩人たちからの引証をさかんに行ない、これらを根拠として述べるというものである。いわば、ここでパイドロスと弁論の術を競う恰好になっているが、弁論術とは、こうしたところにその本質があったのである。つまり、同じ一つの問題について異なった主張をし、できるだけ多くの、華麗な引証をして説得力を持たせ、相手に打ち勝つという訳である。だが、アガトンが演説の終わりで言っているように、この部分は彼の遊びにはいるものかもしれない。つまり、ソフィスト的な言葉の遊びである。そして、エロスを最善最美なものとして讃える後半が、彼の真面目な話ということになろう。しかし、この作品にとって重要なのは、エロスは美しいものであるがゆえに美しいものに向かうとして、エロスを美への恋と性格づけている点である(第一九章)。この点が、次にくるソクラテスの話との関連を用意しているのである。
〈ソクラテス〉
ソクラテスの演説に先立ち、彼とアガトンとの間で交わされた対話(第二一章)は、ソクラテスの話にとって重要な伏線をなしている。ここでエロス(恋)は欲求であると定義されるが、この定義は、ソクラテスのエロス論の中心をなすものである。欲求は自分に欠けているものに対し向けられる。健康を求めるのは健康に欠けている(病気である)からで、健康な者は、すでに健康なのであるから、あえて健康を求めようとはしない。もっとも世間には、金持ちでありながらなお金銭を欲求し、健康でいながら健康を求める者がいる。しかしそれは、単に金銭や健康を求めているのではなく金持ちであり、健康であるその状態が永久に続くことを求めているのである。永久ということは死すべきものが本質的に欠乏しているものなのである。したがって、欲求は自分に欠けているものを求めるという定義は、依然として保たれることになる。
ソクラテスの演説は、神秘的な女性ディオティマの口から伝えられた話として語られる。このことが何を意味するのか、これは一つの問題である。訳註で示したようにディオティマなる人物がプラトンの創作であるとすれば、ますますその意図が問題となろう。エロスは人間を超えた存在、つまり神と人間の中間的存在であり、それはダイモンであるとされる。とすれば、それを語るには、ソクラテスのような人間離れしたところのある、つまりダイモン的な人間の口をかりるのが最適であろう。しかし、ソクラテスにドグマ的な物語りをさせることは、ソクラテスをよく知るプラトンにとってはばかられたに違いない。そこで、文学的技巧として、架空の人物を立てて語らせたのであろう。これは、あくまでも一つの推測にすぎない。
ディオティマの話は、さきにソクラテスとアガトンの間でとり交わされた、恋=欲求、欲求は欠けているものに向かう、という二つの承認事項を出発点とする。エロスが美への恋であるとすれば、エロスは美を欠いていることになる。しかし、美しくないことが直ちに醜いことにはならない。美でも醜でもない、したがってまた美にも醜にもなりうるものは多く存在するのである。この点で、さきのパウサニアス演説が思い出されることであろう。つまりエロスは、美と醜(あるいは知と無知)の中間にあるということになる。しかし単に中間的なものということでは、性格の無規定な、曖昧なもののようにもとれるが、ディオティマはこれを、はっきりダイモンであると定義する。ダイモンは神と人間の中間にあるが、単にいずれでもない存在ではなく、両者の間隙《かんげき》を満たすという積極的な役割りを演じているのである。エロスのこの性格は、エロス誕生の神話を通して説明される。エロスはポロスとペニア、言いかえると神性と反神性の間に生まれ、そのいずれの性格にもあずかっている。ために、それはいずれか一方に固定することができない。常に相反する二つの極の中間に留まるのである。
エロスの本性に続いて、話はエロスの業に移る。エロスは美なるものを対象としている。つまり美への恋である。美しいものを恋するとは、そのものを自分の所有にしようとすることに他ならない。金銭を愛する者は、金銭を自分のものにしようとするのである、では、対象を自分のものにすることは何を目的としているのであろうか。手に入れることだけが目的であれば、そのものを手に入れただけで恋は消えて行くはずである。話を判りやすくするために善と置き換えて考えると、善を手に入れることの目的は何か(この場合、善を広く「よい」ものと解したらよい)ということになる。「よい」とされるものは人によって異なり、多数のものが考えられるが、それらのいずれも「よい」と言われる時、この「よい」に対応するものが、ここでは考えられているのである。これは結局、幸福であることにほかならない。つまり、幸福が究極の目的であり、しかも、幸福がいつまでも永久に続くことを目的としているのである。
では、美しいものを恋するというが、それはどのような形で行なわれるのであろうか。ここに至って、エロスの話はその核心に入って行く。つまり恋は、美しいものの中に生産することによって果たされる。美しいものは、魂の美しさであっても、肉体の美しさであってもよい。とにかく、その中になにかを産むことが恋の行為である。このことは、知性を持たない動物の本性の中にも認められる。動物たちは、時期がくると激しく相手を求め、生殖行為と仔《こ》の養育に生命をかける。これは血みどろの努力で、美しい恋のイメージとは似ても似つかぬものである。これは何を意味するかというと、その行為の中で、死すべきものが不死にあずかろうとしている、ということである。自分は死んでも、自分と同じものを次々と残すことで種の保存が行なわれ、ある意味で不死になりうるのである。死すべきものにとって究極において欠けているもの、それは不死性である。つまり、不死こそ死すべきものの究極の欲求対象である。これは肉体における営みだけでない。人間は名誉を、あるいは優れた業績を、肉体を備えた子供に勝る子孫として、後世に残そうとする。これも不死への欲求の現われにほかならない。
だが、往々にして、恋の衝動は正しい道を通って行なわれぬことが多い。それは、エロスが神と人間の間にある(あるいはポロスとペニアの間に生まれた)ためである。すなわち、常に向上の道を辿るとは定ってないのである。世俗的でつまらぬ対象にとらわれ、恋の衝動が無駄に費やされることが少なくない。そこで、恋の道には正しい指導が必要である。美しい少年への恋(Paiderastia)は少年を導くこと(Paidagoge…教育)でなければならない。正しい恋の道とは、一個の肉体(形あるもの)の美だけにとらわれることなく、同じ多くの肉体には一つの美が宿ることを認めるようにさせ、肉体に共通な美を観るよう導くことから始まる。ついで、梯子を登るように一段一段と上昇を続け、肉体は醜くとも魂の美しさを備えていれば、その美に恋を向けさせる。魂の美と併んで、行為とか慣習の美を観るように、さらに一段上昇して、知識の美しさに目がとまるようにさせる。このように、個々の美から次第に普遍的な美へと目を開いて行くプロセス、つまりエロスの上昇、を続けていくうちに、突然、これまで観てきた美しいものどものなに一つとして及ばないような美を観るようになる。これこそ恒常不変の、時により所により、また人によって変わって現われるということのない、美そのもの、一切の現世的なものに汚されてない美のイデアである。ここにわれわれは、プラトンの恋の形而上学を見る。もし後世に生まれたプラトニック・ラブ(プラトン的恋)という言葉の意味するところをあえて求めるとしたら、この最後のプロセスにおいてであろう。それは、あたかも動物の生殖行為がそうであったように、たゆみない苦闘の連続であって、美しい感傷的なものでは決してないのである。
〈アルキビアデス〉
彼の話は、これまでの人々とは違って、エロスでなくソクラテス讃美になっている。しかし、ソクラテスをエロスの権化とみれば、ソクラテスの口を通してエロスの真の姿を語らせた後、その実例としてソクラテスを描くことは、少しもおかしくはないのである。ソクラテスが当時、美しい少年にうつつを抜かす男というように見られていたことは事実である。身体はでっぷり、背が低く、はげ頭で、ぎょろりとした大きな目をし、鼻は天に向かっている、どう見ても美しいとは言えない男が美しい少年の後を追い回す様は、よく人目についたことであろう。しかし人々は、ソクラテスのうわべだけしか知らない。彼と親しく交際し、その心に触れた者だけが、ソクラテスの偉大さに打たれ、彼への憧れの心をつのらせるのである。ここにおいて、美少年を追いかける姿のソクラテスと追いかけられる少年の立場が逆転し、ソクラテスが恋される側に変わる。アルキビアデスは、ソクラテスへの恋心を燃やした体験者のひとりである。その告白は、ソクラテスのこの真実、つまり彼の恋が、見かけだけから想像されるような、一般人のそれでないことを切々と訴えている。ソクラテスは、まこと、内に黄金の神像を秘めたシレノスであり、人の心を魅了するサテュロスであった。アルキビアデスは、この秘密をわが目で確かめたとの確信を抱いている。彼は、ソクラテスのとぼけた素振りに迷わされ、苛立ちながら、しだいに彼のまことのエロスに酔っていったひとりである。しかし、彼自身は、ソクラテスのエロスを自分の恋として実践することがついにできなかった。ここで改めて、このエロスを貫き通せたソクラテス的強さを、われわれは感じとるのである。
〔年代〕
この作品が書かれた年代を知るのは大変な仕事である。これを知るには、作品に出てくる歴史的事件や当時の記録をもとにして、プラトン自身の思想の発展をも考慮しながら、しだいに推定の枠をせばめて行くという作業をするのであるが、ここでは、多くの学者によって大体認められている結論だけを述べる。
一般に、この作品はプラトンの中期のもの、それも早い頃と考えられている。すなわち、アカデメイアが前三八七年頃に創設されているが、それからあまりたたない頃、プラトンの年令でいえば四十歳台の頃に書かれたと思われる。この推定は、異邦人の支配下でイオニアが暮らしているという記述や、アルカディアがスパルタ人によって分割された事件への言及とも整合する。すなわち、前者は前三八七年のいわゆる「大王の平和」以降のことを指し、後者は、アルカディアのマンティネイア市がスパルタによって四つに分割された(前三八五年)ことを指すからである。また、この作品に出てくる饗宴の時期、つまり舞台設定は、アガトンの悲劇優勝の後ほどない頃、つまり前四一六年のレナイア祭の後ということである。だがその模様をアポロドロスがグラウコンら友人たちに語っているのは、アガトンがアテナイを出てかなり後のことで、しかも彼がまだ存命中と見られるところから、大体前四〇〇年に近い頃と考えられる。
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年譜(年号はすべて紀元前)
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四六九 ソクラテス、アテナイに生まれる。父は石工と言われる。母は産婆と伝えられるパイナレテ。
四六二 哲学者アナクサゴラス、アテナイに出てペリクレスの庇護の下、前四五〇年までこの地で暮らす。
四六一 ペリクレス、民主派の党首となる。
四四七 パルテノン神殿の建設始まる(〜前四三八)
四三二 ソクラチス、マケドニア南東パレネ半島にあるコリントス植民地ポテイダイア包囲戦に出征。
四三一 ペロポネソス戦争始まる(〜前四〇四)
四二九 ペリクレス、疾病のため死す。
四二七 プラトン誕生。父はアリストン、母はペリクティオネ。
四二四 ソクラテス、ボイオティア地方の要地デリオンに出征、ボイオティア軍に大敗を喫する。
四二三 アリストパネス『雲』上演。
四二二 ソクラテス、マケドニアのアテナイ植民地アンピポリス奪還のために出征。
四二一 アテナイ・スパルタ間に「ニキアスの平和」が成立。一時休戦状態に入る。
四一六 アガトン、レナイア祭の悲劇競演で初の優勝。
四一五 アテナイ、アルキビアデス・ニキアス指揮の下にシケリア遠征軍を派遣。その出発直前に起こったヘルメス像破壊事件の容疑で、アルキビアデスはシケリア到着と同時に召還を受けるも、スパルタに逃亡する。この遠征は失敗に終わり、アテナイの衰運に拍車をかけた(〜前四一三)
四〇七 プラトン、ソクラテスに出会い哲学の道に入る。
四〇六 ソクラテス、評議会の執行委員となる。アルギヌサイ海戦で乗員を救助しなかった将軍六名の一括裁判を違法として、ソクラテス一人反対する。
四〇四 ソクラテス、三十人会によってサラミスのレオンを逮捕するように命ぜられるも、これを不正な命令として無視する。
ナイの降伏により。ペロポネソス戦争終結。アテナイにクリティアスを中心とする三十人会が組織され、過激な独裁制をしく。
シュブロス、アニュトスら民主派の革命でクリティアス死す。民主制復活。
三九九 ソクラテス、アニュトスを後ろ楯とするミレトスに告発され、死刑に処せられる。プラトン、後難を避けてメガラのエウクレイデスの許に身を寄せる。その後、ギリシア各地、エジプトを旅する。これから十年余の間に、『ソクラテスの弁明』を含む初期対話篇が書かれたと思われる(〜前三八七)
三九三 クセノポンの『ソクラテスの弁明』公にされる。
三八七 プラトン第一回シケリア旅行。シュラクサイの僭主ディオニュシオス一世の宮廷を訪問、ディオンと交友を結ぶ。この訪問は僭主の憎しみを買う結果になる。
三八六 プラトン、アテナイ郊外のアカデメイアに学校を開く。この後約二十年間に、いわゆる中期対話篇が書かれたと思われる。
三八五 マンティネイア、スパルタによって四分割される。
三八四 アリストテレス、マケドニアのアミュンタス二世の医師を勤めるニコマコスの子としてスタゲイラで誕生。
三六七 プラトン、ディオンの要請でシュラクサイへ渡る(第二回シケリア旅行)。若い僭主を教育して哲人王の実現をめざす夢は、反ディオン派の策動で潰え、翌年帰国する。その後の二十年間は、後期作品の著述に費やされる。
ラクサイのディオニュシオス一世没し、若い二世がその跡を継ぐ。
オン、シュラクサイから追放される。
ストテレス、アカデメイアに入門。
三六一 プラトン、ディオンの勧めもあり、ディオンと僭主の和解をなすためにも、ディオニュシオス二世の招きを容れてシュラクサイへ赴く(第三回シケリア旅行)。目的を果たせず、アルキュタスの尽力でシュラクサイから脱出する。
三五七 ディオン、革命の兵を挙げ、ディオニュシオス二世の僭主制を倒す。
三五四 ディオン、暗殺者の手にかかり没す。
三四七 プラトン没(八十歳)
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あとがき
本訳は、今から三十年前に、『ソクラテスの弁明』と一冊にして旺文社文庫に収められた旧訳に、手を加えたものである。
旧訳の依頼を受けたのは一九六七年頃であった。たまたまその頃、数年来の懸案であったアリストテレス全集が岩波書店から刊行される運びとなり、その編集実務を担当していた関係で、週のうち何日かは書店の全集編集室に詰めて、原稿や校正刷りのチェック、テキストとの照合を初め、出版の雑務を処理する仕事に当たっており、これに加え、一年後には在外研究のためイギリスに出掛ける予定になっていたため、その前に自分の担当する『生成消滅論』と『問題集』を校了にしておかねばならず、連日、空が白む頃に床に入って三時間ほど眠るというハードスケジュールを強いられていた。ために、旺文社との約束は中途のまま、仕事を抱えて羽田を発つという体たらくであった。したがって、翻訳の大半は、ロンドン滞在中に行なわれたという曰くつきの仕事である。
この度、グーテンベルク21社から電子ブックに収めたいという相談を受け、旧訳に目を通してみたが、自分では念を入れたつもりでも、いくつかの読み違いや、不適切な表現、テキストの問題などが目につき、手を入れているうちに、結局新訳と変わらぬような仕事になってしまった。この仕事も、計らずも京都大学学術出版会の「古典叢書」の仕事と併行せざるをえぬ仕儀となり、三十年前と同じ状況におかれたことに因縁めいたものを感じ、苦笑を禁じえなかった。
この訳が、いささかなりとも、読者のプラトン入門の手助けとなれば幸いである。
一九九九年四月  訳者
〔訳者略歴〕
戸塚七郎(とつか・しちろう) 東京都立大学名誉教授。一九二五年、北海道に生まれる。一九五〇年、京都大学文学部哲学科卒業。古代哲学専攻。主な著訳書、『後期ギリシア哲学資料集』(編訳、岩波書店)、『懐疑への誘い』(編著、北樹出版)、プラトン『テアイテトス』、『ピレボス』(角川書店、プラトン全集)、同『小ヒッピアス』(岩波書店、プラトン全集)、アリストテレス『生成消滅論』、『問題集』(岩波書店、アリストテレス全集)、同『弁論術』(岩波文庫)、プルタルコス『モラリア』第六、一三、一四巻(西洋古典叢書、京都大学学術出版会)。