アーカム計画
ロバート・ブロック
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)面《つら》がまえで
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)長身|痩躯《そうく》で
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「きへん+眉」、98-8]石
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[#改ページ]
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登場人物
アルバート・キース……………蒐集家
サイモン・ウェイヴァリー……キースの友人
ロナルド・アボット……………退役軍人
佐藤………………………………オキシュリ丸の船長
―――――――――――――――――――――
ケイ・キース……………………キースの別れた妻
マイク・ミラー…………………政府の諜報員
オリン・サンダースン…………ミラーの部下
ナイ………………………………星の知慧派教会神父
―――――――――――――――――――――
マーク・ディクスン……………新聞記者
ローレル・コールマン…………ディクスンの恋人
ジャドスン・モイブリッジ……弁護士
[#ここで字下げ終わり]
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[#地付き]目 次
[#地付き]第一部 現 在
[#地付き]第二部 その後
[#地付き]第三部 近未来
[#地付き]ブロックとラヴクラフト 大瀧啓裕
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他のアウトサイダーたちに人生をささげ
彼らに銀の鍵をあたえた
HPLに
本書をささげる
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第一部 現 在
[#ここで字下げ終わり]
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アルバート・キースはひと目ぼれというものを信じていなかったが、それもその肖像画を目にするまでのことだった。
美しい顔などではない。事実、むしろ犬と呼ぶのがふさわしい面《つら》がまえで、赤みがかった眼はぎらつき、大きな鼻は平べったく、唇には泡を吹き、耳はとがっている。そしてかがみこんだ体は、びっしりと黴《かび》がこびりつき、かろうじて人間らしいといえるもので、上肢の先には鱗《うろこ》におおわれた肉の薄い鉤爪、そして下肢には蹄《ひづめ》らしきものがあるかと思われた。
その絵に描かれている生物は巨大で、鉤爪につかまれている人間の姿は、それにくらべてかなり小さく見えた。埃《ほこり》をかぶって細部は見さだめがたいものの、キースはすぐに、人間の首が噛《か》みちぎられていることに気づいた。
南アルヴァラド・ストリートにある小さな店の、陰気な奥の部屋の薄闇のなかに立ったまま、キースは身を震わせはじめた。
どうして身震いがするのか、キースはつかのま、その理由を考えてみようとした。恐怖によるものではない――ただし壁に立てかけてある巨大なキャンヴァスの主題は、まぎれもなく怖ろしいものではあった。キースは貪欲《どんよく》と期待から身を震わせる、蒐集《しゅうしゅう》家ならではの反応とうけとりたい誘惑におちいった。売り値がいくらであろうと、この絵を自分のものにしなければならないことがわかったのだから。
キースはそばに立っている店の主人に目をむけた。
「いくらだね」低い声でたずねた。
ずんぐりした小男は肩をすくめた。「五百にしときましょう」
「五百ドルだと」
店主の顔はぴくりとも動かなかった。「この大きさですからね。すこし汚れを落として、立派な額にいれてたとしたら、とてもそんな値段じゃすみませんや」
「こんな絵にずいぶんふっかけるもんだな」
キースは顔をしかめたが、店主は平然としていた。長年にわたり、客との駆けひきに熟練している男の身についた、職業的なポーカー・フェイス。「たしかに、とんでもないしろものですがね、おかしな連中がこの店にやってくるんですよ。あたしがこの絵を表のウィンドーにかけたら最後、あっというまに売れちまいまさあ。いっぱつでね。ラ・シエネガの高級な画廊にいるゲイのやつらときたら、ぞっとしない妙ちきりんなものを、鵜《う》の目、鷹《たか》の目であさってるんですぜ。そんなやつらがこいつをひと目でも見たら、ぶったまげて、めろめろになるんじゃありませんか」
キースはしげしげと絵をながめた。興奮させられるものであることはたしかだ。この作品にはパワーというか、煽情的な主題を超越する完成度の高さがあった。
「誰が描いたんだ」キースはたずねた。
小男は首をふった。「知るもんですか。署名がないんですから」そういって、横目でキースをうかがった。「これはあたしの勘《かん》ですがね、もしかしたら誰か有名な画家が描いたものの、こういうとんでもないしろものだから、署名するのをいやがったんじゃありませんかね。そうだとしたら値打ちもんですよ」
「まえの持主は」
「さっぱりわかりませんな。東部の倉庫でオークションがあったんですよ。そこをとりつぶすんで、持主のわからないものは全部売っぱらっちゃえってね。なかには四、五十年置きっぱなしになってたにちがいないのもありましたっけ。この絵とこみで、本や手紙のはいった箱をいくつか手にいれましたけど、まだなかをあらためてもいませんや」
「絵はほかにもあったか」
「いや、こいつだけでさあ」店主はまた目を絵にむけてうなずいた。「そういやあ、この絵もさっきあたしがいったようにしときゃよかったかもしれませんな。汚れを落として、立派な額にいれて、表のウィンドーに飾っとけば……」
キースは絵を見つめた。目のまえにかがみこんでいる巨大な犬のような生物が、つかのまのこととはいえ、耳をすましてキースがしゃべるのを待っているかのような、ばかげた考えが脳裡にうかんだ。生物の赤い眼が問いかけ、そして命じているようだった。
「五百ドルはらおう」キースはいった。
キースが小切手帳を手にして、ペンをとりだそうとしたとき、店主は顔をそむけ、満面にうかぶ笑《え》みをキースに見られないようにした。
「小切手の受取人の名前はどう書けばいい」
「サンティアゴ、フェリペ・サンティアゴです」
キースはうなずいて、その名前を記《しる》したあと、記入のおわった小切手をちぎりとってさしだした。「さあ、うけとってくれ。身分証明書を見せなきゃならないのか」
「いいえ、けっこうですよ」小男はキャンヴァスをかかえあげた。「車はどこです」
「店のまえだ」
キースの古いヴォルヴォが停められている店の外では、輸送の問題がおこった。絵が大きすぎてトランクにはおさまりきらないのだ。ふたりがかりでようやく、キャンヴァスをななめにしてドアからいれ、フロアーに置いて後部席に立てかけることができた。描かれた生物が車内をおびやかしてにらみつけている。
闇が集《つど》うなか、車を運転して家路《いえじ》を急ぐキースは、赤い眼が自分を睨《ね》めつけているのをバックミラーに見ることができた。
その夜、犬に似た生物の眼が、暖炉の炎を照りかえしてキースをにらみつけた。書斎の大きなテーブルに立てかけられたキャンヴァスは、まわりのものと妙にしっくり調和しているようだった。暖炉の炎の揺らめく光が巨大な生物をかすめ、壁にかかるナイジェリア南東部のイボ族の仮面の上でちらつき、中国製の飾り箪笥《だんす》の棚にならぶ翡翠《ひすい》や象牙造りの小像の上で踊っていた。暖炉からよせる暖気をうけて、マントルから糸でぶらさがるしなびた首が揺れている。キースはいまだにその首が本物かどうか確信がもてずにいるが、エクアドルからやってきたうさんくさい男が、ヒヴァロー族のものだと断言してはばからなかったため、ひと財産ともいえる金をはらって買いとったのだった。
しかしこの絵はたしかに本物で、店の主人もおよそいつごろ描かれたものであるかについて、嘘をついてはいなかった。表面をおおっている汚れや埃はまさしく、数十年の歳月を経《へ》てこびりついたものにちがいない。そしていま、額にいれて戦利品として飾る問題を考えるまえに、キースは汚れをおとす作業にとりかかった。
そうするための液体や薬品はあるが、キースはこれまでの経験から、普通の石鹸と水をつかうのが最善の方法であることを知っていた。
キースはフランネルの布をつかい、ゆっくりと注意深く作業をはじめた。
しだいに汚れが落ちて光沢《こうたく》のある表面が輝きだすと、かがみこむ生物が背景の闇からぬっとうかびあがるようになった。体の色あいが膿疱《のうほう》を思わせる黄土色と粘液じみた緑色をどぎつくまぜあわせたものになり、赤い眼がさらに烈しくぎらついた。これまで隠されていた細部も明らかになっていた。柔毛におおわれた前腕部には小さな黒いダニがこびりつき、犠牲者の頭蓋骨の表面には地衣類のウスネア・ヒュマナがはえ、食事をたのしんだ牙のあいだには小さな肉片がはさまっている。
「どうなってるんだ」
耳ざわりな声に驚き、キースはふりかえった。
「ウェイヴァリーじゃないか」キースはいった。「どうやって入ってきたんだ」
顎鬚《あごひげ》をたくわえた長身の男が笑みをうかべてキースに歩みよった。鬚とサングラスのために、ウェイヴァリーの表情はほとんどうかがえないが、少なくともキースは笑みをうかべていると思った。
「いつものようにだよ」サイモン・ウェイヴァリーがそういって首をふった。「玄関のドアをしっかりロックすることを身につけなきゃだめだぜ。ドアチャイムも直しといてくれよ。五分間もノックしつづけたんだからな」
「すまない。聞こえなかったんだ」キースはテーブルにある石鹸水のはいったボウルを指差した。「電話で知らせたように、食屍鬼を洗ってやっているんだよ」そういって、絵を指し示した。「これは食屍鬼だろう」
キースの友人は黒いレンズごしにキャンヴァスを見あげたあと、低い口笛を吹いて驚きを示した。
「こいつはただの食屍鬼じゃないぞ」ウェイヴァリーがいった。「すこぶるつきのやつだ。ここにあるのが何なのか、あんたはわかってるのか。『ピックマンのモデル』なんだぞ」
「なんだって」
サイモン・ウェイヴァリーがうなずいた。「ピックマンはな、ボストンの墓地の墓を掘り進んだり、穴からとびだして地下鉄構内にいる人間に襲いかかったりする、空怖ろしい食屍鬼の絵を描いた、エキセントリックな画家だったんだ。最後には行方《ゆくえ》をくらましちまって、友人がピックマンの地下室でキャンヴァスを見つけだした。こういうものが描かれた巨大な肖像画だ。そのキャンヴァスには一枚の紙が画鋲でとめられていて、キャンヴァスに描かれているのとおなじ姿があった。しかしそいつは絵じゃない――実物を写した写真だったんだ」
「そんなばかげた考えをどこでしこんだんだ」
「ラヴクラフトだよ」
「誰のことだね」
ウェイヴァリーのサングラスが驚きの色を隠した。「H・P・ラヴクラフトを知らないっていうのか」
「聞いたこともないね」
「何てことだ」ウェイヴァリーが溜息まじりにいった。「そういや、あんたは怪奇小説をたいして読まないんだったな。猟奇趣味の持主だっていうのに、おれには解《げ》せんことだよ」
「ぼくはコレクターであって、本の虫じゃないのさ」キースはそういった。
「おれたち貧乏人が読むことしかできないものを、金で買いとれるってことだな」ウェイヴァリーはふくみ笑いをした。「しかしあんたは魔術や超自然のものに興味をもってんだから、絶対にハワード・フィリップス・ラヴクラフトは読むべきだぞ。ラヴクラフトは怪奇小説の分野における現代の巨匠のひとりだし、『ピックマンのモデル』は傑作なんだ。少なくともおれはずっとそう思っていたよ」ウェイヴァリーの声が低くなった。「しかしこいつを見たいまとなっては、どうともいえんな」
「何がだね」
「ラヴクラフトの書いたものが純然たる小説なのかどうかってことだ」またウェイヴァリーはキャンヴァスに目をむけた。「神に誓って、こいつはラヴクラフトが描写しているとおりの絵だよ。ラヴクラフトが描写しているものを誰かが再現しようとしたんだろう――まさしく愛のなせるわざだ。とってつけたようないいかただがな」ウェイヴァリーはまたふくみ笑いをした。「画家連中は呪われた場所から霊感を得るものだが、こいつはピカいちだよ。誰が描いたんだ」
「わからないよ」キースはいった。「署名がないんだから」
「素晴しい絵だ」ウェイヴァリーがキャンヴァスを指していった。「肉の色がうかびあがってるとこときたら……」
キースはフランネルを手にして、円を描くようにキャンヴァスの基部をふきはじめた。「汚れをすっかり落としたら、まだまだよくなるぞ」そういった。「ほら、蹄《ひづめ》の色が明るくなっただろう。まえには鉤爪があるなんて気が付かなかったよ。前景もはっきりしてきたぞ。もう影につつまれてはいない。おや、これは何かな……」
「どうしたんだ」
「ウェイヴァリー、これを見てくれ。署名があるんだ、この左の隅に」
ウェイヴァリーが目を細くしたあと、首をふった。「おれには見えんよ。いまいましいサングラスだ――白内障の手術をうけてからこっち、まぶしい光に目をむけられないのさ。どう書いてあるんだ」
「アプトンだ。そのまえにイニシャルがある。Rじゃないかな」キースはうなずいた。「そうだよ。R・アプトンだ」
ウェイヴァリーがまた口笛を吹いたので、キースはすぐに顔をむけた。「どうかしたのか」そうたずねた。
「やっぱり『ピックマンのモデル』だ」声を潜《ひそ》めていった。「その小説に出てくる画家の名前は、リチャード・アプトン・ピックマンなんだよ」
その後――かなりたってから――ふたりの男はキースの住居のキッチンでコーヒーを飲んだ。乾燥したサンタナの熱風が鎧戸《よろいど》を鳴らしているが、キースもウェイヴァリーもそんな音に気づいてはいなかった。黙りこくって考えこむことは、どんな音よりも不安をかきたてる。
「あわてて結論にとびつくのはやめようじゃないか」キースがいった。「可能性を考えてみよう」
「たとえば」
「偶然の一致ということもあるだろう。アプトンという名前はそう珍しいものじゃない。それにイニシャルのRが、はたしてリチャードなのかどうかはわからないだろう。ロイ、ロジャー、レイモンド、ロバート、ラルフ、いくらだってあるじゃないか。わかっているのはR・アプトンという名前だけだ。これだけでは何もわからないね」
「ひとつ忘れていることがあるぞ」ウェイヴァリーが低い声でいった。「名前だけでは決定的な証拠にならんかもしれんが、その名前はあの絵、ラヴクラフトが描写しているとおりの絵に記されているんだ。この組合せはとても偶然の一致とは思えんな」
「それならこいつは悪ふざけだ。どこかの画家が小説を読んで、いっぱいくわせようとしたのさ」
ウェイヴァリーは首をふった。「そうなら、どうして小説にならって、リチャード・アプトン・ピックマンと署名しなかったんだ」
キースは眉をひそめた。「いいところをついたな。そういえば、あの絵のテクニックは見事なものだから、冗談として衝動的に描かれたものなんかじゃない。ああいう主題のものじゃなかったとすれば、愛情をそそぎこんで仕上げられたといえるくらいだから」
「主題なんてどうだっていいさ」ウェイヴァリーがいった。「あれは傑作だ」
「そうなると、答はひとつしかない。あの絵は画家のオマージュ、心からの捧げものだよ。ラヴクラフトの小説に触発されて描きあげられたんだろう」
「その逆だとしたらどうだ」ウェイヴァリーが低い声でゆっくりといった。「あの絵を見たのがきっかけになって、ラヴクラフトが小説を書いたのだとしたら」
キースは顔をしかめた。「あまり想像にはしるもんじゃないぞ。問題なのはそういうことじゃないだろう。とにかくぼくたちにはわかるはずもないんだから……」
「そうはっきりいいきるもんじゃないな」ウェイヴァリーがいった。そして考え深げに顎鬚をまさぐり、「たしかあんたは、骨董屋の親父が十把《じゅっぱ》ひとからげに、ほかのものも買ったといったんじゃなかったか」
「そうだが、ほかに絵はなかったんだ。本や手紙のはいった箱がいくつかあるそうだが、まだ調べてもいないといっていた」
「そいつをぜひ調べてみたいもんだな」黒いレンズの奥にあるウェイヴァリーの目がひかった。「そいつが画家の持ちものだとしたらどうだ。もしかしたら答を教えてくれる、何らかの手がかりが見つかるかもしれないぞ。そうだよ、骨董屋の親父に電話をかけて、調べさせてくれないかと聞いてみるんだ」
「こんな時間にか」キースはコーヒー・カップをテーブルに置いた。「もう真夜中をすぎているんだぞ」
「じゃあ、明日だな」ウェイヴァリーが立ちあがった。「ロング・ビーチのエイカーズ・オブ・ブックスまで行かなきゃならないんだが、暗くなるまえに帰ってくるよ。一緒に食事をして、そのあと骨董屋に行こうじゃないか。夜の適当な時間に会えるよう、電話でうちあわせておいてくれないか」
「まあ、やれるだけはやってみるがね」キースはいった。「しかしそんなに遅くまで店を開けたがらないかもしれないぞ」
「あんたはあの絵に五百ドルもはらってるんだぜ」鬚におおわれてよくわからないが、笑みをうかべているようだった。「ウェルカム・マットを敷いて、首を長くしておれたちを待っててくれるさ」
翌日の夜、サンタナと呼ばれる熱風の勢いがまだおとろえず、フロントガラスに襲いかかってくるなか、キースは立体交差をはずれて、アルヴァラドにむかってヴォルヴォを運転していた。
かたわらでは、ウェイヴァリーが窓に顔をむけている。キースはハンドルをきって南にむかったとき、強風が人びとを馴染《なじみ》の場所から遠ざけていることに気づいた。歩道にはほとんど人影もなく、道路のほうもこの時間にしては交通量が驚くほど少ない。店はすべてシャッターをおろして閉店しており、南アルヴァラドは暗い無人の地になっていた。
そしてキースがサンティアゴの店のまえに車を停めたとき、この店にも灯《あかり》はなかった。キースは眉をひそめて、隣の友人に顔をむけた。
「ウェルカム・マットはないようだな」小さな声でいった。
ウェイヴァリーは肩をすくめた。「電話したとき、九時には店にいるといったんだろう。電気代を節約してるのかもな」
しかしふたりが車からおりて店のまえに行くと、ドアはロックされていた。店の窓には店内から大きなボール紙が窓ガラスに押しつけられていて、そこに記《しる》されている言葉がはっきり読めた。閉店――またのおこしをお待ちします。
キースはいらだたしそうな顔をしたが、ウェイヴァリーは首をふった。「すこし遅れてんだよ。しばらく待ってやろうじゃないか」
通りでは、風に吹かれてごみが舞っていた。「気にいらんな」キースがいった。「この風が吹きはじめて、もう三日になるんだぞ」
「そういう季節なんだ」ウェイヴァリーの低い声は、顔とおなじく感情をうかがわせないものだった。「気楽にやれよ」
「神経にさわるんだ」キースはおちつかなげに店のまえを歩きまわった。「昨夜はほとんど眠れなかった。丘に住んでいると、神経が高ぶるんだよ。鎧戸が音をたてるたびに、びくっとする始末さ。それにあの絵のことが頭にとりついてはなれないし――あの生物がかがみこんでにらみつけている様子ときたら、まるでいまにもキャンヴァスからとびだして、喉をつかもうとしているみたいなんだから」
「だから買ったんじゃなかったのか。ああいったものが気にいってると思ってたが」
「そうさ。しかしあれはちがう。あの絵には何かがある。現実のものだと思わせる何かが」
「しかし何ということだろう、エリオット、それは紛《まぎ》れもない実物を撮《と》った写真だったんだから」
「何だって」
ウェイヴァリーはふくみ笑いをした。「ラヴクラフトの『ピックマンのモデル』の最後の文章を引用したのさ。あんたもあの小説を読まなきゃな。本当にラヴクラフトの作品はすべて読むべきだよ――ラヴクラフトについての本も読むべきだ。今度忘れずに何冊かもってってやるよ」
「読む気がおこるかな」
「おいおい、知的好奇心はどうしたんだ。これこそあんたの性《アリイ》にあってることじゃないか」
「路地《アリイ》は嫌いだよ」キースはいった。「サンタ・アナの風が吹きぬけて、奥で怪物が待っているような路地は」ばつがわるそうな笑みをうかべた。「気にしないでくれ。神経のせいなんだから」キースは立ちどまり、腕時計に目をむけた。「いったいサンティアゴはどこにいるんだ。もう九時半になるぞ」
キースがふりかえって誰もいない通りをうかがったとき、ウェイヴァリーがまた店のまえに行った。
「ちょっと待ってくれ」ウェイヴァリーがいった。
キースは顔をあげた。
「もしかしたら、もう店に来てるんじゃないのか」ウェイヴァリーがガラスごしにのぞきこんだ。「通路の奥にあるあのドアだが――あれが奥の部屋に通じるドアだろう。光がもれてるんじゃないか」
「そうだな。裏口から入ったんだろう」
ウェイヴァリーがドアのノブをまさぐり、ガラスをたたいたが、返事はなかった。「聞こえないんだ」そういった。「裏へまわろう」
キースは顔をしかめた。「さっきもいったように、路地は嫌いなんだよ」
ウェイヴァリーがまたふくみ笑いをした。「うけあってもいいが、この路地にはあんたを待ってる怪物なんているもんか。さあ」
ウェイヴァリーが建物の横壁に沿う狭い小路を指差して、足を踏みこみはじめた。キースは足を進め、闇のなかでよろめいたものの、しぶしぶのようにウェイヴァリーのあとにつづいて、さらに暗い小路のなかに入っていった。
たしかに裏口があり、ドアの下から強い光がもれていた。そして小路には、かつては白かったはずのくたびれた小型トラックが停められていて、そのドアパネルにはっきりと、F・サンティアゴ骨董店と記されていた。
「いったとおりだろう」ウェイヴァリーがいった。「やっこさんの車があるじゃないか。それに怪物なんてどこにもいない」
ウェイヴァリーが木製のがっしりしたドアに近づき、ノックの音が小路にひびきわたったあと、風のうなりにかき消された。
またノックしようとしたが、あげた手を急にとめて、握りしめた手を開いておろし、ドアのノブをつかんだ。
「鍵はかかっていない」そういっているあいだにも、ノブがまわってドアが開いた。
キースが戸口に近づいた。「サンティアゴさん」
キースは光のなかに目をむけたあと、眉をひそめてウェイヴァリーに顔をむけた。「見ろよ」
店の奥の部屋には誰もいなかった。しかし頭上にある裸電球の光のもとで、ふたりはついさっきまで誰かがいた痕跡を目にした。椅子がひっくりかえっていた。机の引出が床に投げだされ、なかに収めてあった書類が白い波のように流れだしている。壁にならぶファイル・キャビネットのなかがかきまわされていた。隅にはからになった段ボール箱がほうり投げてある。こういったもののすべてが、徹底的に探しまわされ略奪されたことを、無言ながら雄弁に物語っていた。
「強盗にやられたんだ」ウェイヴァリーがつぶやいた。
「しかしサンティアゴはどこにいるんだ」
キースはそういいながら、部屋に入りこみ、店の表に通じる閉めきられたドアのほうにむかった。そのすこし手前、右手のほうに、小さなドアがあった。すこし開いており、キースは立ちどまってノブに手をかけた。
「待て」ウェイヴァリーがそばに来て、用心深くしろと合図した。見ると、ウェイヴァリーは散乱する床から古風な卓上書類刺しをひろいあげ、それを武器のようにつかんでいた。
「おれが先に行く」ウェイヴァリーがいった。
ドアを押しやって、そのなかに足を踏みこんだ。
そしてあえいだ。
キースはウェイヴァリーのうしろで立ちどまり、狭いバスルームをのぞきこんだ。灯はなかったが、奥の窓が開いていた。
そして窓枠にひっそりもたれかかっているのが、影になってはいても、サンティアゴにほかならないことがわかった。
キースはウェイヴァリーを押しやるようにしてなかに入りこみ、サンティアゴの肩をたたいた。もたれかかっていた男がこちらをむいて床に倒れこんだとき、キースは悲鳴をあげた。
フェリペ・サンティアゴは死んでいた。噛まれ、えぐられた頭部でのこっているのは、もはや顔と呼べるものではなかった。
「『潜み棲む恐怖』だ」ウェイヴァリーが声をひそめていった。「『潜み棲む恐怖』だよ」
「いったい何をいってるんだ」ウェイヴァリーの書斎にぼんやりさしこむ夜明けの光をうけて、キースが目をしばたたきながらたずねた。
「ラヴクラフトの小説だ。ある男と友人の記者が無人の村を調べまわるのさ。その村の住人は丘の地中の穴から出てきたらしい何かに殺されたんだ。嵐がおこって、ふたりは小屋に避難する。闇のなかで記者は窓にもたれて、夜の嵐をながめていた。やがて男は記者がぴくりとも動かないことに気づく。そして肩にさわってみると……」ウェイヴァリーは言葉をのこして肩をすくめた。「あとはわかるだろう」
「さっぱりわからないね」キースはいった。「逃げだすかわりに、警察に連絡すべきじゃなかったのか。ぼくはいまだにそう思うよ」
ウェイヴァリーが溜息をついた。「その話を蒸《む》しかえすのはやめよう。連絡なんかしていたら、あんたもおれもいまごろこんなとこにはいられないんだぜ。ダウンタウンの豚箱にぶちこまれて、容疑をかけられ、地方検事の尋問を待ちかまえるご身分というわけさ。いくらたずねられても、おれたちには何も答えられないんだからな」
「しかしぼくたちがサンティアゴの死に何の関係もないことは、警察にだってわかるはずじゃないか」
「こういったことに関して、警察はやたら短見浅慮《たんけんせんりょ》になりがちなんだ。それにおれたちが告訴されないとしても、重要証人として法的義務をおわされるのはわかりきったことじゃないか。あんたは路地が気にいらないといってただろう。おれは豚箱アレルギーなんだよ」ウェイヴァリーは首をふった。「サンティアゴの死体が発見されたら、どえらい騒ぎになるぞ。こういったたぐいのものは世間を騒がせるはずだし、おれたちはふたりともそういったもので名前を広める必要はない。かかわりにならないほうがいいんだ」
キースは書斎の壁にならぶ書棚に目をむけた。「しかしもうかかわっているじゃないか」疲れたようにいった。「問題なのは、何に巻きこまれているのかがわからないことだ。きみはラヴクラフトという作家が、窓から顔を出していた男の顔が噛みちぎられた話を書いたといったな。それがいまや現実のことになって……」
ウェイヴァリーがじれったそうに手をふって口をはさんだ。「そんなことを考える必要はない。おれの考えをいえば、検視官の報告書には、何か鋭利なもので頭部をくりかえしなぐられ、顔をつぶされたと書かれるだろうよ」
「しかしどうしてだ。あの様子からして、動機は盗みじゃないか。誰のしわざにしても、殺しまでする必要はなかったんだぞ。あやまって殺したとしても、あれほど顔を傷つける理由はない――小説のように、サンティアゴを窓にむけさせることについてもいえることだがね」
ウェイヴァリーは顎鬚をまさぐった。「自然は芸術を模倣するのさ」そういった。「それとも芸術が自然を模倣するのかな。ここにはふたつの実例がある――サンティアゴの死体とあんたの絵だ。ふたつともH・P・ラヴクラフトに密接につながっている」
「しかしラヴクラフトはサンティアゴには結びつかない」
「いや、つながりがあると思うな」ウェイヴァリーは上着のポケットに手を入れ、黄変して破れた皺《しわ》だらけの紙をとりだした。そして皺をのばすと、テーブルの上に置いた。
「何だ、それは」キースはいった。
「あの部屋で書類刺しをひろったときに見つけたものだ」ウェイヴァリーがいった。「車に乗りこむまで見る機会もなかった。あんたは何も目にはいらないほど、おびえあがって運転にかかりきりになってたよ――だからおれはこいつを見たとき、あんたにはいわないほうがいいと思ったのさ。しかしもう見てもらってもいいだろう」
ウェイヴァリーが紙をさしだした。キースは便箋の上部を破りとったらしいものをうけとり、特徴のある小さな文字を目にした。手書きの文字は読みにくいものだった。キースは紙を光にかざして、ゆっくりと文章を読みはじめた。
[#地から2字上げ]ロード・アイランド州プロヴィデンス
[#地から2字上げ]バーンズ・ストリート十番地
[#地から2字上げ]一九二六年十月十三日
[#ここから2字下げ]
親愛なるアプトン
いささか身を震わせながらこの手紙を書いております。先日ボストンで――口頭で述べられたほか実際に見せていただき――明らかにされたことにかんがみて、ぜひとも早急にまたお会いしなければならないと思います。貴兄《きけい》がほのめかしておられた他の作品も見せていただかなくてはなりません。もっとも奔放《ほんぽう》な想像をめぐらしても、小生はあのようなものを夢にも見たことが……
[#ここで字下げ終わり]
便箋が破れていて、文章はそこで不意にとぎれており、キースは視線をあげてウェイヴァリーの無表情な顔を見た。
「親愛なるアプトンだ」ウェイヴァリーがゆっくりといった。「納得しただろう」そういってうなずいた。「そういう名前の画家がいて、ラヴクラフトはそいつを知っていたのさ」
「しかし署名はないぞ。どうしてこれがラヴクラフトの手紙だとわかるんだ」
「それはラヴクラフトの住所だ。それにラヴクラフトの直筆《じきひつ》を見たことがある者なら、誰でもすぐにわかることだよ」ウェイヴァリーは立ちあがると、椅子のうしろにある書棚に近づき、黄色いジャケットのついている小型の本をぬきだした。キースは『マージナリア』という書名と、周囲からきりはなされた荒屋の絵を目にした。その絵のまわりには、雑草の生《お》い茂る背景があって、下のほうに鬚面《ひげづら》の男がうずくまり、不安そうに荒屋のほうを見あげている。
ウェイヴァリーがその本をめくり、光沢《こうたく》のあるページを開けたが、そこには手書きの文字がびっしり書きこまれた便箋《びんせん》の写真が掲載されていた。
「これを見てくれ」ウェイヴァリーがいった。「ラヴクラフト本人が書いた書斎の配置図だ。日付は一九二四年五月二日になっている」そしてページをめくって、またべつの写真を見せた――ペン書きされた家のスケッチで、下に書きこみがある。ほかにも葉書と、手書きの地図と、他人の小説を添削《てんさく》したものの写しがあった。
キースはおぼつかなげに友人を見つめた。「手書きの文字はたしかに似ているようだが、偽造されたものかもしれないぞ」
「これをよく見ろよ」ウェイヴァリーが破れた紙をかざした。「黄変してぼろぼろになってるだろう。インクも色あせてるじゃないか。この手紙は五十年以上まえに書かれたものだ。ラヴクラフトが世間に知られず、まだ無名だったころにな。そんなころに誰がラヴクラフトの筆跡をまねたりするんだ」
「最近つくられたものかもしれないな」キースはいった。「誰かが何も書かれていない古い便箋を手にいれて、冗談のつもりで……」
「これは冗談なんかじゃない。あの残忍で倒錯した殺人には、おもしろがるようなことなんてあるものか」ウェイヴァリーは黒いレンズの奥で敏感な目をしばたたかせながら、頭上のまばゆい光を避けてあとずさった。「殺したやつは――単独にせよ複数にせよ――断固たる目的をもっていたんだ」
「店のものを盗むことか」
ウェイヴァリーは首をふった。「連中の目当は骨董品じゃない――サンティアゴがボストンの古びた倉庫から買いいれた箱をほしがったんだ。そしてサンティアゴがその箱をもっていたことや、出所を知っていたことを口にできないように、サンティアゴを処分したがったのさ。ファイル・キャビネットや机の引出まで荒されていただろう。連中は売上伝票や換金した小切手の控《ひかえ》や貨物引換証といったもの――どこで買われたかを示すもの――はすべて手にいれたがったんじゃないか。そしてあのからの段ボール箱には、連中が探していたものがはいっていたはずだ」
「どんなものだね」
「倉庫にあずけられたまま請求されなかった、R・アプトンの個人的な持ちものだろうな――うけとった手紙の束《たば》とか本だとかさ。こういったラヴクラフトからの手紙だ」ウェイヴァリーはまた破れた紙を手にとった。「破っているうちにこれだけが落ちて、その上に書類刺しが落ちたから気づかなかったんだろう」
キースは眉間《みけん》に皺《しわ》をよせた。「そいつはどうかな。誰も聞いたことがない画家の手紙や古本をどうして盗みたがるんだ」
「世に知られないままにしておきたいからかもしれない」ウェイヴァリーがいった。「いずれ答はわかるさ……」
キースは不意に立ちあがり、やつれた顔をさすりはじめた。「ひと眠りしたいな」
「泊まっていくか。そうしたいんなら、予備の寝室をつかってもいいぞ」
「いや、帰るよ」
「しっかり運転できるのか」
キースは窓に目をやった。「まだ早いから、そう車も走ってないだろう。大丈夫だよ」
ウェイヴァリーが先に立って廊下を歩き、玄関に行った。「今晩電話してくれよ。これからどうするかをきめよう」
キースは首をふった。「何もしたくないね」
「もう手はひけないんだぞ」
「いや、やめられるさ」キースはきっぱりといった。「ぼくはここでやめる。もう何も聞きたくないし、何もしたくないんだ」そういってドアを開けると、早朝の光がさす外に出た。「こんなばかげたことを、何もかも忘れてしまいたいだけだよ。そうするつもりさ」
ウェイヴァリーに見すえられるなか、キースは私道を歩いて車にむかった。
車を運転するキースの動きには断固たるものがあった。決意を胸に疲れをふりはらい、街の道路を走りぬけて、峡谷を見はるかす丘のいただきにある自宅へと、くねくねまがる坂道をのぼっていった。ヴォルヴォをガレージに停め、ドアを開けてようやく、ほっとしたように、ひきしめていた気をゆるめた。
静まりかえった家のなかでまたくつろげるのはいい気分だった。廊下を歩いて寝室にむかっていると、この十二時間の出来事が悪夢のように思えた。ついに安全すこやかに目覚めることのできた悪夢のようだった。
そして開いている戸口をぬけるとき、キースは書斎をのぞきこんだが、安全とすこやかさは無残にそこなわれた。
書斎は暗かった。乱れているものは何もなく、静まりかえってはいたが、あの食屍鬼のキャンヴァスを立てかけてあったテーブルがむきだしになっていた。
絵はなかった。
遠くにぬっとそびえる丘陵を黄昏《たそがれ》がつつむころ、キースは書斎の窓を指差した。
「そこから入りこまれたんだ」そういった。「窓をこじあけられた痕跡があるだろう」
ウェイヴァリーが黒いレンズの奥にある目を真剣なものにしてうなずいた。「ほかのものが何も盗まれていないのはたしかなんだな」
「ああ」キースは飾り箪笥《だんす》にならぶ翡翠《ひすい》や象牙の小像を指差した。「あれだけでもひと財産だが、なくなっているのはひとつもないね。絵だけが賊の目当だったんだ」そういって首をふった。「しかしいったい何者のしわざなんだ。どうして絵がここにあることがわかったんだ」
ウェイヴァリーが窓からはなれた。「答ははっきりしている。サンティアゴの店に行って、売上の記録を手にいれたのとおなじ連中だ。サンティアゴはあの絵もふくめて、売上をしっかり記録していたんだろう。それで連中は住所の書いてあるあんたの小切手を見つけたのさ」
キースは顔をしかめた。「連中は時間を無駄にしなかったわけだな」
「連中が来たとき、あんたがおれの家にいてよかったよ」ウェイヴァリーがいった。「サンティアゴにおこったことを考えると……」途中で言葉をきった。「新聞は読んだか」
「読んでないけど、テレヴィで朝のニュースを見たよ。どこかの配達人が店の裏口にやってきて、店に入ったあと、警察が午前中に死体を見つけたんだろう。ニュースではただ調査中だというだけで、ぼくたちの知らないことは何もいわなかった」キースは眉をひそめた。「指紋が採取されるだろうな」
「あんたはFBIにかあわったことがあるのか」
「あるものか」
「おれもだよ。だからおれたちの指紋は記録にはない。おれたちは自由なわけだ」
「自由だって」キースはキャンヴァスが置かれていたテーブルを見つめた。「もう自由を味わえるとは思えないな」
「いや、この事件の裏にあるものがわかったら、また自由になれるさ」
キースは首をふった。「前にもいったように、ぼくは手をひくつもりだ。こんなことは警察にまかせればいい。知っていることを警察に知らせるべきだと、いまでも思っているんだ」
「何を知らせるんだ。昨夜死体を発見して、報告をおこたったことをいうのか――そして今度は食屍鬼の絵を盗まれたから、とりもどしてほしいというのか」
「こんなことから手をひこうじゃないか」
「もういまとなっては遅すぎるんだぞ。連中が何者かはわからんが、あんたのことを知っているんだからな」ウェイヴァリーは大きく息を吸った。「おれはべつに心配性の人間じゃないが、おれがあんたならしばらくこの家をあけるね。モーテルにでも泊まって、人目《ひとめ》をしのぶよ。連中ももう絵を手にいれたんだから、またこの家に来ることはないだろうが、はっきりそういいきれるわけじゃないからな」
「それだよ。連中のことは何もわからないんだ――ひとりなのか、何人いるのかもな。そしてぼくたちには手がかりひとつない」
「見つけられるかもしれないぞ」ウェイヴァリーが椅子に近づき、クッションの上に置いてあった包をとりあげた。それをテーブルにもってくると、包をほどいて六冊の本をとりだした。「こいつをもってきてやったよ」そういった。「モーテルで読めばいい。しかしたのむから大事にあつかってくれよな――コーヒーの染みなんかつけないでくれよ。どえらい値段のするのもあるんだから」
キースはテーブルに近づき、本を手にして書名を読んだ。「『アウトサイダーおよびその他の小説』、『眠りの壁の彼方』……」
「その二冊はラヴクラフトの短編集だ」ウェイヴァリーがいった。「黄色いジャケットのやつは、あんたが昨夜見た『マージナリア』だよ。のこりは伝記と回想録さ――ディ・キャンプの『ラヴクラフト伝』、ロングの『夜の夢想家』、コノヴァーの『最後のラヴクラフト』だ。小説から読んで、そのあと記録を読んだほうがいいだろうな」
「しかしこんなものが何の役にたつんだ」
「恐怖を探し求める者たちは遠方の風変わりな場所によく足をむける」ウェイヴァリーがいった。「ラヴクラフトがどれかの小説に書いている文章だが、それが正しいことがわかるだろうよ。ラヴクラフトの作品か人生のどちらかに、おれたちの探している答が見つかるかもしれない」
「その答を見つけたいとも思わないがね」
「もう選択の問題じゃないんだぞ」ウェイヴァリーはいかめしい顔をした。「おれたちが生きていけるかどうかは、この事件の裏にあるものを見つけだすことにかかっているんだからな。本を読んでくれよ。これに生死がかかっていると思って読んでくれ。事実そのとおりなんだからな」
モーテルの何もかもがキースには気にいらなかった。機能一点ばりで見せかけだけのプラスティック製の家具や、何の個性もない現代的な調度があるだけなのだから。しかしつづく三日間、キースはまわりにあるものにほとんど注意をむけることもなく、ウェイヴァリーからかりた本に助けられて、べつの世界に入りこんでいた。
その世界とは、家運のかたむきかけた上品な両親のひとり息子として、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトが生まれた、一八九〇年代のニューイングランドだった。八つのときに父親が死に、しだいに奇矯《ききょう》さがひどい精神病にこうじていく母親とともに、ラヴクラフトは発達期をすごした。健康がすぐれないことで読書にふけったため、ほぼ独学で教養を身につけることになった。若いころは当時の社会から孤立しているように感じ、過去を現在と同一視して、十八世紀の考えかたや習俗を好んだ。自分の属する時代のアウトサイダーではあったが、それでも当時の最新科学になみなみならぬ関心をもっていた。天文学にかかわる日誌をつけたり、文芸同好会に所属したりしている。まもなく他の作家たちとも文通するようになった。
そして自分も文筆活動をはじめるようになったとき、ラヴクラフトは怪奇幻想の分野を選んだ。初期の詩は古典を範《はん》としており、初期の散文にはダンセイニの作品にひけをとらない要素が認められる。
しかし一九二〇年代になると、母親が死んだことから、年配の叔母ふたりとともに暮し、相続した財産による収入も先細りになったために、ほかの世界に足を踏みいれざるをえなくなった。そしてまずゴーストライターとして、他人の作品の添削《てんさく》指導をおこない、それから職業的な著作活動にはいった。
しだいに社会にも思いきって身を投じるようになった。プロヴィデンスの通りを夜にひとりで歩きまわっていた男が、いまでは大西洋沿岸沿いに旅をして、古代の道標を探したりしたあと、ついにはニューヨークに居《きょ》をかまえた。しかし成功した女実業家を相手に結婚と離婚を経験した二年後には、またプロヴィデンスにひきこもり、添削や文通や執筆をつづけながら、一九三七年に癌《がん》のために短い生涯をおえた。
ラヴクラフトの作品はパルプ・マガジンに掲載されたので、生前はほとんど世に知られることがなかった。大手の出版社は当時もその後も、長編小説であれ短編集であれ、ラヴクラフトの作品を刊行することはなかった。やがて若いふたりの作家、オーガスト・ダーレスとドナルド・ワンドレイが出版社を興《おこ》して、『アウトサイダーおよびその他の小説』と『眠りの壁の彼方』を小部数刊行し、通信販売をした。死んでもなお、ラヴクラフトは名声には縁がなかった。この二冊はなかなか売れず、書評でとりあげられることも皆無《かいむ》にひとしかった。
しかししだいに短編小説が各種のアンソロジーに収録されるようになった。ダーレスが出版社を独力で経営して、ラヴクラフトと文通をかわしていた、いわゆる<ラヴクラフト派>の作家たちの作品を刊行しつづけたことで、おくればせにラヴクラフトの知名度が高まった。友人たちから<HPL>と呼ばれた男の作品が、アングラ小説の古典のようなものにまでなったのだ。ラヴクラフトの作品の収録されている古い雑誌や初期の短編集が、コレクター必備品として法外な値をつけられた。そして一九六〇年代にはラヴクラフトは著名になり、一九七〇年代には国の内外を問わず広範囲に批評される対象となった。
キースはこうしたことのすべてを伝記から知った。ウェイヴァリーにいわれていたにもかかわらず、伝記のほうから読みはじめたのだ。ラヴクラフトの私生活にわけいると、ラヴクラフトと自分に共通する要素が多分にあることがわかった。
キースもひとり息子で、父親のことはほとんど何も知らない――もっともそれは父親が死んだためではなく、離婚したためだった。キースも内向的な生活を選び、短期間の結婚と円満な離婚を体験している。さいわい健康にはめぐまれているし、望みどおりのことができる遺産もあって、広範囲に旅をしたり、好奇心をそそる珍奇なものやグロテスクなものを蒐集《しゅうしゅう》することもできる。ラヴクラフトもおなじような状況にあったなら、その人生はキースのそれとおなじようなものになっていたかもしれない。キースは伝記を読んでいるうちに、ラヴクラフトに共感をおぼえるようになった。
しかしキースに理解できない面もあった。三冊の伝記の内容が大きくかけはなれているのだ。ウィリス・コノヴァーは十代のファンとして文通をかわした人物の思い出を書いている。親切で博識な祖父像を描いているといっていい。『最後のラヴクラフト』は一九三〇年代のラヴクラフトをあつかっている。
ロングの『夜の夢想家』は一九二〇年代にニューヨークで一緒にすごしたときのことを中心にしている。長身|痩躯《そうく》で顎のとがったラヴクラフトは父性像として描かれ、愛情深い回想の暖かい彩《いろどり》がそえられていた。
ディ・キャンプの浩瀚《こうかん》な伝記はまたべつのHPLをあつかっている。ディ・キャンプとラヴクラフトは実際に出会ったことはないが、『ラヴクラフト伝』はラヴクラフトの生涯と生きかたのすべてをあつかう徹底的な研究書だった。ディ・キャンプの描きだすラヴクラフトは欠点までさらけだしている。奇行や虚飾を調べあげ、幻想を生みだした心理的背景にまで探りをいれているのだ。
三冊の伝記をひとつにまとめると、矛盾やつじつまのあわないことがうかびあがってくる。そしてこれら三冊はすべて、ラヴクラフトの小説の暗黒の輝きのまえには色あせてしまうのだ。
キースは初期の詩作を読んだが、すぐに暗いテーマに呑《の》みこまれてしまった――古びたニューイングランドの街の頽廃《たいはい》の恐怖や、その住民のさらに怖ろしい頽廃ぶりに圧倒された。
ラヴクラフトは小説のために架空の街までつくりあげていた。もっとも心騒がされるのは魔女にとりつかれたアーカムという街で、ここにはミスカトニック大学がある。大学の付属図書館には貴重な『ネクロノミコン』が一部所蔵されており、この冒涜《ぼうとく》的な黒魔術の書は、かつて生をうけ現在なおもひそかに宇宙を支配する、邪悪なパワーにまつわる啓示をふくんでいる。
アーカムの彼方《かなた》の深い林のなかでは、十八世紀に生まれた異様な隠遁《いんとん》者が、人肉|嗜食《ししょく》によって尋常ならざる生をひきのばした。ダニッチ村近くのわびしい丘では、変人の農夫が魔術を実践して、知恵遅れの娘を異界の実体にささげ、人間と怪物の血をひく悍《おぞ》ましい子をもうけさせた。
他の混血はインスマスのさびれた港にひそんでいる。船乗りを稼業にする住民が、ポリネシアの海底に住み、原住民から崇拝されている生物に出会い、そしてまぐわった結果なのだ。この尋常ならざる媾合《こうごう》から生まれた者たちは近親結婚をくりかえし、しだいに人間の特徴を失って、魚類もしくは両棲類になり、あげくのはては鰓《えら》を発達させて海に入りこむ。一方忘れ去られた町の廃屋《はいおく》にひそむ者もいて、南太平洋の海中で見いだされた奇怪な神々に仕え、自分たちの存在を偶然に知った侵入者を始末している。
ラヴクラフトの世界では、他の星からやってきた翼をもつ生物がヴァーモント州の無人の丘や山頂に生息する。そして人間の手先の力をかりて、人類に敵対する陰謀をめぐらしているのだ。ほかにも人間が世界的な規模で邪教をつくり、クトゥルーに仕えている――クトゥルーとは、太古に地球を支配しながら、いまは海底に水没した都市ルルイエで眠りについている旧支配者の一員なのだ。火山活動によって海面に浮上したとき、クトゥルーは石造りの墓所からずるずるすべりでて、権勢をふるって荒しまわろうとした。ほとんど偶然に破壊され、海底の石造りの都市に沈みこんだかに見えたが、いまもなお生きながらえて、配下たちが深海から招喚《しょうかん》する呪文を見つけだす日を待ちつづけているのだ。
ラヴクラフトの後期の作品はすべてこの伝説のパターンを踏襲している。怪物どもの種族が、かつて地球を支配して追放されたものの、いまもなお地球外や地球の地底や海底にひそみ、秘密につつまれた魔術の儀式によって自分たちを崇拝する人間の配下たちの力をかりて、ふたたびよみがえることになっているのだ。クトゥルー神話は文明とそのテクノロジーが無意味ではかない世界をあらわす。現代の人間は無駄な進歩に没頭していて、かつて地球を支配し、まもなくまた支配しようとする旧支配者の力からのがれることはできない。
三日間というもの、キースはこんな世界にひたりきっていた――ラヴクラフトの人生の影濃い夢の世界と、ラヴクラフトの小説の悪夢の世界に。
そしてウェイヴァリーから電話があって、キースは自宅へ、現実へとたちもどった。
「さあ、いまはラヴクラフトのことをどう思うんだ」
ウェイヴァリーは片手にブランディ・グラスをもって椅子にゆったりと坐り、キースの書斎の窓からキースとともに夕映《ゆうばえ》をながめていた。
キースは肩をすくめた。「すごい想像力の持主だったことはまちがいないね」
「どうかな」
「どういう意味だ」
「ラヴクラフトが小説を書いたのじゃなかったとしたらどうだ」ウェイヴァリーは上体をまえに乗りだした。「警告しようとしていたんだとしたら」
「何をだね。食屍鬼なんかを信じているだなんていわないでくれよ」
「信じている者もいるさ」ウェイヴァリーは黒いレンズの奥で目を細めながら、何もないテーブルの上を指し示した。「あんたの絵が誰かに盗まれたんだぞ。その絵をあんたに売った骨董屋の親父も誰かに殺されてしまった」
「警察ではそんなふうにいわれているのか」
「警察は何もいわんよ」ウェイヴァリーは顎鬚をまさぐった。「殺人事件についてはあれ以来何の発表もない――この三日間まったく何ひとつだ。このままになってしまうんだろうな。殺したやつは何の手がかりものこさなかった。おれたちも、あの手紙を見つけていなかったら……」
「あれだけでは何もわからない。あの絵にしてもだ」キースはブランディを飲んだ。「怪物を描く画家はたくさんいるが、そうだからといって、そんな怪物が現実に存在するということにはならないだろう。異様な形態の信仰にふけっている者もたくさんいる。ラヴクラフトの小説にあるような、謎めいた秘密結社のようなものさえ実在するかもしれない。しかしそこで信仰されているのは、純然たる単純な迷信だ」
「おれは純然たる迷信だとも、単純な迷信だとも思わんね」ウェイヴァリーはブランディのデカンターに手をのばし、自分のグラスにそそいだ。「ラヴクラフトだってそうは思わなかったはずだ――そしてラヴクラフトの伝記を書いた者はすべて、ラヴクラフトが厳格な唯物論者だったということで意見を一致させている。おれはラヴクラフトが事実を隠すために小説を書いたのだと確信しているよ」
「どんな事実をだ」
「白人と異種族の結婚という事実だ」ウェイヴァリーはそういってうなずいた。「ラヴクラフトはセックスに対してピューリタンのような態度をとっていたが、それでもこのテーマは小説のなかに脈うっているんだ。初期の作品ですら、<異邦人>に対するラヴクラフトの病的な嫌悪は、血統のまじわりにおける邪悪なもの、文明人としての品性をおとしめて、人類を人類誕生以前のレヴェルにひきさげてしまうものをほのめかしている。
「ラヴクラフトが『潜み棲む恐怖』や『壁のなかの鼠』で描写している、退化した地底の種族のことを思いだしてみろよ。『故アーサー・ジャーミンとその家系に関する事実』では、類人猿と人間のあいだに生まれた子供のことを記しているが、ラヴクラフトは実際にはもっとひどいものを知っていたんじゃないかな。そして『ピックマンのモデル』では、公然と食屍鬼のことを物語っている――食屍鬼というのは、死体を喰う生物で、おそらく死姦から生まれるんだ。
「しかしこういったものはすべて、真の恐怖の前奏曲にすぎない――強者と弱者、人間と獣、生きている者と死体との交接ではなく、さらに慄然たること、人間とばけものとの媾合があるからな。
「『ダニッチの怪』のウィルバー・ウェイトリイと双子《ふたご》の兄弟のことを考えてみろよ――このふたりはヨグ=ソトースと人間の母親のあいだに生まれた子供たちだ。『インスマスを覆う影』の住民のことを考えてみてくれ。彼らは性的な儀式でもってポリネシアのカナカ族の神々を崇拝して、『インスマス面《づら》』になりはてるまでは陸上でも生息できる生物を生みだしている――『インスマス面』というのは、魚の眼をして、蛙の顔をしたミュータントに顕著な特徴で、最後にはのたうちながら海に入り、深海にいる大いなるクトゥルーに仕えるんだ」ウェイヴァリーはブランディを飲みほした。「ラヴクラフトが小説でいおうとしていたことはそれだよ――おれたちのなかにばけものがいるということだ」
キースはグラスをテーブルに置いた。「ラヴクラフトがそんな迷信深いたわごとを本当に信じていたのなら、どうして小説を書いたりしたんだ」
ウェイヴァリーは鬚におおわれた口をすぼめた。「あんたの言葉づかいそのものが、おのずから答になっているじゃないか。時のはじまりから、そういう存在の話はいくらでもあるからな。ギリシアやバビロニアの神話には、ヒュドラ、メドゥサ、ミノタウルス、翼をもつ龍が登場する。アフリカの伝承には、豹男やライオン人間があらわれる。エスキモーは熊人間のことを話し、日本人は狐女のことを語り、チベット人はイェティ、いわゆる雪男のことを告げている。ヨーロッパでは狼男のことが知られている。おれたちの国では、インディアンが林のなかでささやくという蛇人間と大足を怖れている。いつも警告する者がごくわずかいて、それとおなじように崇拝する者もいるんだ――しかし大多数はあんたとおなじようにいうな。こういったもののすべてを迷信としてかたづけ、それを信じる者たちを白痴だとか狂人だとかいってのける、理性の声というやつだ。ラヴクラフトはそういう者たちの運命を知っていて、同じ運命をわかちあいたくなかったのさ。しかし完全な沈黙をまもりつづけることもできなかった。だから幻想の仮面の下に隠すことを選んだんだ」
キースは信じられないといったふうに両手を広げた。「きみはラヴクラフトが知っていたといいつづけるんだな」そういった。「つまりきみのいわんとするところは、ラヴクラフトが何らかの禁断の伝承に接して、何年もかけて調査をしたということなんだろう」
「そうだ」ウェイヴァリーがいった。
「しかしそんなことはばかげている。ラヴクラフトの生涯において事実は十分に記録されているじゃないか」
「すべてというわけじゃない」
「ぼくが読んだ伝記はどうなんだ。ダーレスなんかの追想録は」
「ディ・キャンプはラヴクラフトと直接会ったことがない。ロングはニューヨークなんかで会っているが、ラヴクラフトが見せたがった姿を見ただけだ。コノヴァーはラヴクラフトとは二回会っただけで、ダーレスは会ったことなど一度もなかった。HPLと文通をしていた者たちの大半も、現代の学者たちも、ラヴクラフトには会ったことがない。つまりラヴクラフトが書いた手紙や風説をもとに、ラヴクラフトの姿を思い描いているわけさ。風説というのは正確なものじゃない。手紙については、自分の本当の姿を言葉の壁に隠してしまういいやりかただ」ウェイヴァリーは低い声でいった。「おれにいわせれば、ラヴクラフトは何かを知っていたんだよ――何かに探りをいれていたんだ」
キースは眉をひそめた。「しかし、どうしてそんなことが」
「HPLが昔からのニューイングランドと、その歴史的な道標に魅せられていたのはわかっている。いろんな街で好古家や地元の歴史家と会っているくらいさ。そんな連中がラヴクラフトに何事かをこっそり教えたのかもしれない。そしてラヴクラフトは辺鄙《へんぴ》な森林や、ほとんど忘れ去られた小さな村落に足をのばしはじめ、そんなところにある、窓に板をうちつけられた無人の住居のことを、よく小説のなかで描くようになった。しかしラヴクラフトがただ景色をながめるためだけに、そんなところを歩きまわっていたんじゃなかったとしたらどうだ。たぶんラヴクラフトは何かを探していたのさ。そしてどこかの古びた屋根裏か、くずれかかった地下室で、何かを見つけだしたんだ――古い日記か、写本か、本かもしれないぞ」
「きみは『ネクロノミコン』が実在すると思っているのか」
「おれもそこまでは思ってないよ」ウェイヴァリーは首をふった。「しかしニューイングランドにはたしかに魔女信仰があったし、いわゆる黒魔術の書物がつかわれていた。もしもラヴクラフトがそういった書物を一冊でも見つけだしたとしたら、古くからある伝説を真剣に考えるようになって、その背後にある事実をつきとめようとしたって不思議じゃないだろう」
キースは自分のグラスにまたブランディをそそいだ。「そういったことがいつおこったと思うんだ」
「結婚が破綻《は たん》してニューヨークをはなれ、またプロヴィデンスで叔母ふたりと一緒に暮すようになった、一九二六年ごろにちがいないな。誰も知らなかったこと、推測すらできなかったことがあったんだ」ウェイヴァリーは声がかすれたので、せきばらいをした。「伝記や回想録では、HPLが夜に散歩することを好み、街の通りを歩きまわったとしている。あんたはラヴクラフトがあてもなくただ歩きまわっていたと本当に思うのか。それともちゃんとした目的地があって歩いていたと思うのか。おれは目的地があったはずだと思うね。そしてもちろんそんなときに、アプトンと出会ったんだ――小説ではリチャード・アプトン・ピックマンとされている人物にだよ」
キースは手をふってさえぎった。「そういう男が実際にいたかどうかはまだわからないんだぞ。きみが手紙の切れはしをひろったからといって……」
ウェイヴァリーはふくみ笑いをしたが、顔の表情には何の変化もなかった。「あの手紙の切れはしをもとに、この三日間わき目もふらずに、東部にいる知りあいに電話をかけまくっていたんだよ。おれがつきとめたことを教えてやろう。まず第一に、リチャード・アプトンという名前の画家は、たしかにボストンにいた。一八八四年にボストンで生まれて、一九二六年におなじくボストンで亡《な》くなっている」
「真夜中に薄気味悪いマンションの地下室から、ふっつり消えてしまったというつもりじゃないだろうな」
「そういうことはなかった。新聞の記事によると、十二月十日に旅からもどってくると――いうまでもなくプロヴィデンスに行ったわけだが――アトリエが強盗に押しいられて、絵がすべて盗まれていたそうだ。その夜、盗みがあったことを警察に知らせたあと、拳銃自殺をとげている」
「動機は何だ」
「遺書はなかった。盗まれた絵はついにとりもどされることもなく、警察が何かをつきとめたとしても、何ひとつ公表されていない」ウェイヴァリーは体をまえに乗りだした。「しかしおれは警察の知らなかったことをつきとめたよ。プロヴィデンスへ旅をする一週間まえに、アプトンは一枚の絵を梱包《こんぽう》したり、本や手紙を箱につめたりして、ノース・エンド倉庫会社に送っているのさ。結局その荷物は返却を要求されないまま――おそらく忘れられたままになって――ずっと保管されていたわけだ。サンティアゴが買うまでな」
「どうやってそこまでつきとめたんだ」
「いっただろう。おれにはコネがあるのさ。ボストンの電話帳を手にいれて、倉庫会社にかたっぱしからあたって、最近サンティアゴに売ったものはないかたずねてみろと、ベックマンがいってくれたんだ。そのとおりのことをして情報を手にいれたわけさ」
「ベックマンだって」
「おれの知っている古本屋の親父だよ。初版本や稀覯《き こう》書を専門にあつかっている。当然HPLに関することには何にでも興味をもっているのさ。サンティアゴがアプトンのものをすべて手にいれたわけじゃないかもしれんといっていたよ――ラヴクラフトからの手紙なんかが倉庫にはまだあるんじゃないかと。そういった手紙は最近じゃあ、すごい値段で売れるのさ。ともかくベックマンはおれと取引したがっている」
「どんな取引なんだ」
ウェイヴァリーは立ちあがった。「おれはベックマンの費用でボストンに行ってくる。おれが買いたくなるようなものを見つけたら、ベックマンが売ってくれて、儲けはベックマンとおれとの折半《せっぱん》さ」
「いつ行くんだ」
「午前中の便があるから、それでボストンに飛ぶ」ウェイヴァリーは書斎のドアにむかった。「あんたが自宅にいるつもりなら、明日の夜八時ごろに電話して、つきとめたことを話してやるよ」
「たのしみにしてる」キースはいった。
彼らは闇と深みからあらわれて、目には見えないフルートの不気味なかぼそい音色にあわせ、はねまわったり、はいまわったり、のたうちまわったりした。
はねまわったのは、人間、というよりも、人間もどきとでもいうべき生物だった。わびしい丘のいただき高くにある古《ふる》ぶるしい石のまわりで、篝火《かがりび》の揺らめく光をうけて乱舞しており、その整ったリズムの甲高い詠唱がキースの耳にもとどいた。
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イア! シュブ=ニグラス! 千匹の仔を孕《はら》みし森の黒山羊!
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そしてそれに対する返答があった――低い唸《うな》りで、人間の声でもなければ人間のたてる音でもなく、人間の会話をまねたものですらなかった。しかしキースは言葉を聞きとることができた――ヨグ=ソトース、クトゥルー、アザゾースという言葉を。そしてその言葉を発したのは、篝火の光がとどかない荒寥《こうりょう》とした夜闇のなかで、はいまわったり、のたうちまわったりしている、黒ぐろとした姿をしたものどもだった。
はっきり見えるものはひとつとしてなく、キースはこのことをありがたく思ったが、炎のきらめきによって、ばけものじみた巨大な山の姿がちらちら目にはいった。うねり、震える山は、無数のロープのような触腕をうごめかして生きていた。山にはいたるところにふくれあがった眼があり、それが間歇《かんけつ》的に開いたり閉じたりして、ぽっかり開いた何百もの口から、人間の舌では発音できない、しゃがれた、むせび鳴くような恐怖の言葉を発していた。
キースにとっては、その喉にかかった応答の慄然たる響《ひびき》でもって、丘そのものが揺れているかのように思え、やがてその光景が薄らいで消えると、また自分の部屋にもどっていた。夢を見ていたことを知ったが、地震に襲われているかのようにベッドが揺れたときも、まだ夢を見ていた。
夢がつづくなか、揺れはおさまったが、さまざまな生物を見た記憶が脳裡にとどまり、それとともにウェイヴァリーがほのめかしていたことも頭によみがえった。
恐怖に襲われ、それとともに心がきまった。
夢のなかで、キースはナイトスタンドにある電話帳に手をのばし、ページをめくり、稀覯《き こう》書を販売するフレデリック・K・ベックマンの名前を見つけたように思った。ベックマンの電話番号をダイアルして、遠くから聞こえる小さな呼出音に耳をすまし、ようやく先方の受話器がとりあげられると、「ベックマンさんですか」とたずねたように思った。
返事があった。低くてうつろな、この世のものとも思えない声だったが、しかしはっきりと聞こえた。その声はこういった。
「ばかめ。ベックマンは死んだわ」
そのときキースは目を開け、ベットのはしに坐って受話器を耳にあてたまま、電話のきれた音を耳にしていることを知った――その音が聞こえるために、夢を見ていたわけではないことがわかった。
朝の七時半、キースは配達された新聞をとりにいった。第一面の囲み記事に目がとまった。
[#ここから2字下げ]
LAで震度三・五
被害はわずか
[#ここで字下げ終わり]
少なくとも地震だけは現実のことだった。キースはその記事――ロスアンジェルスに住む者にはごくありふれた記事――にざっと目をとおし、サン・アンドレアス断層だの、震源地はランカスター地区だの、いつもどおりの記載があることに気づいた。地震学者たちがこの地震は来たるべき大地震のまえぶれかもしれないと、いつもの警告を発しているが、それもこういう記事にはおなじみのものだった。
キースは記事を読んでいささか胸をなでおろしたが、それも第一面をめくって、愕然《がくぜん》とさせられる記事を目にするまでのことだった。またしても囲み記事で、締切まぎわに挿入された最新ニュースだった。
[#ここから2字下げ]
グレンデイルの古書籍商惨殺
昨夜グレンデイルのウィットサン・ドライヴ一四八二番地の自宅で刺殺された、フレデリック・T・ベックマン(五十九歳)の殺人事件を、警察が目下調査中である。死体を発見したのは保安官代理のチャールズ・マクロイで、隣で不審な音がするという隣家からの電話があったためだった。おそらく犯人は開いていた寝室の窓から入りこみ、就寝中のベックマンに襲いかかったものと思われる。ベックマンは稀覯書や写本をあつかう古書籍商で、膨大《ぼうだい》な在庫は自宅の壁にもうけられた金庫におさめられていたが、金庫のなかが荒された形跡はない。
[#ここで字下げ終わり]
新聞をおろしたとき、キースの手は震えていた。ウェイヴァリーの家に電話をかけ、呼出音に耳をかたむけているときも、受話器をもつ手が震えていた。
ウェイヴァリーはボストン行きの早朝の便に乗るため、もう家をはなれているようだったが、まだ空港でつかまえる時間があるかもしれなかった。キースはウェイヴァリーを呼びだしてもらうため、LA国際空港に電話をかけたが、ボストン行きの便は予定どおり半時間まえに離陸したと知らされた。
もう待つ以外どうすることもできなかった。
しかしキースはまず窓やドアをロックしてまわった。うららかな秋の朝の明るい日差のなかで、そんなことをしていると、いささかばつのわるい思いがしたとはいえ、掛金をかけたりボルトをさしこんだりして、かちっと音がすると、心安らいだ。
心安らぐとともに、不安にもなった。ロックする音がべつの音を思いださせたのだ。夢のなかで電話がきられたときの音を。そしてあれは夢ではなかった。
いや、そうなのだろうか。
数時間たってから、キースはようやく気をとりなおし、ウェイヴァリーがかしてくれた本の一冊を手にとった――よく読みこまれて手垢《てあか》のついた、分厚い『アウトサイダーおよびその他の小説』だった。
キースはページをくって、記憶に新しい小説、『ランドルフ・カーターの陳述』を見つけた。語り手と友人のハーリイ・ウォーランが古びた墓地へ深夜出かけたことを簡単に記したものだ。ウォーランの目的はある古い墓をあばくことで、奇怪な秘密があるのだとほのめかした――朽ちはてることのない死体にかかわることだという。典型的な初期作品で、当時ラヴクラフトがつかっていて、一部の批評家がおおげさすぎると非難する、装飾過多な文体で記されている。しかし過度の表現そのものが、悪夢の雰囲気をかもしだしているのだ。生よりも――いや死よりも――大きな存在をまえにしているという感じを。キースは昨夜まさしくそう感じ、白昼に読みかえしているいまも、また不安をつのらせていた。
キースはどうにか読みつづけ、墓をおおう巨大な平石をはずして、黒ぐろとした地下に通じる石造りの階段があらわになる箇所にさしかかった。語り手の連れのウォーランが、通信手段として携帯電話を備えたあと、ひとりでその階段をおりていく。ウォーランが電話線をひきずりながら闇のなかに姿を消す一方、語り手は墓地の地表で待ちつづけ、信号を耳にすると受話器を手にして耳をかたむける。
キースは読みつづけることがしだいに困難になってきた――ウォーランがおびえたささやき声で、地下の窖《あなぐら》で怖ろしいものを見つけたというのだ。話しているあいだにも恐怖は高まり、そして語り手に平石をもとにもどして逃げだせと命じる絶望的な警告を発する。
突然、ウォーランの声がとぎれる。そして語り手がウォーランの名前を呼ぶと、通信のはじまる音がして、べつの声が聞こえる――低くてうつろな、この世のものとも思えない声が、「ばかめ、ウォーランは死んだわ」というのだ。
ばかめ、ベックマンは死んだわ。
電話の声はキースにそういい、あれは悪夢などではなかった。夢を見ていたわけではなかったことを知ったために、悪夢が現実のものとなりはてた。
本がテーブルにすべりおち、キースは身を震わせた。ばかめ……
たしかにばかなのかもしれない。ああいう声を耳にしたし、おそらくその声を発したのはベックマンを殺した犯人だろう。しかしベックマンは自分のベットで刺殺されたのであって、架空の墓の地下にある架空の窖で、架空のばけものに殺されたわけではない。
ベックマンを殺したのは人間で、あんなふうにいったのは偶然のことではない。明らかに殺人犯はラヴクラフトの小説をよく読んでいる者なのだ。
しかし無害な年配の古書籍商を冷酷に殺し、そのあと穏やかに電話に応《こた》え、あざけるように小説から借用した言葉を口にするとは、いったいどんな人間なのか。どんな狂った衝動から、ああいう食屍鬼めいた悪ふざけをするのか。
食屍鬼。『ピックマンのモデル』。太古のばけものめいた神々の秘密を保持し、神々の復活に専念する、世界じゅうに広まる邪教。
ウェイヴァリーはそんなものが実在すると思っているようだが、ばかな男ではない。すでに口にした以上のことを知っているのだろうか。そしてベックマンもそうした知識をもっていたのか。死によってしか消すことのできない知識を。
もしそうなら、もしも何者かがベックマンにそうした知識があることを察して殺したのだとしたら、おそらくウェイヴァリーは危険にさらされているのだ。ウェイヴァリーはボストンで何を見つけだすのだろう――いや、ボストンにいる何者がウェイヴァリーを見つけだすのだろうか。
こうした疑問に答はなかった――沈黙があるだけだった。うつろな家には沈黙があるばかりで、キースはやがてテレヴィをつけ、メロドラマのばかばかしい会話や午後のクイズ番組のわざとらしい歓声で、その沈黙をけちらした。夕方のニュースでは地震のこともベックマンが殺されたことも、まるで報道されなかった。
このことで、キースは妙にほっとした。ニュースキャスターの声が政治家やスポーツマンのことを、ものものしく語っているだけのことを、ありがたく思った。有名人の陳腐《ちんぷ》な発言は安心させられるものだった。現実の世界がいつもとかわりないことを思いださせてくれたからだ――三分間ニュースがつづき、そのあとは三分間コマーシャルがつづく。
時間がたつにつれ、闇が深まりだした。キースはテレヴィを消して、灯をつけた。突然、今日まる一日何も食べていないことを知った。そこでキッチンに行き、夕食のかわりに朝食めいたものをつくった。
ちょうど食事をおえたときに、電話のベルが鳴った。
「キース、大丈夫か」
ウェイヴァリーの声を聞いたとたん、キースは肩の荷がおりたような気がした。「もちろんだよ。きみはどうなんだ」
「すこし疲れてはいるがな――一日じゅうかけずりまわってたんだ。いまはホテルにもどってる。今日ボストンに来てよかったよ。オリファントが明日から倉庫をとりこわしはじめるといってるからな」
「オリファントというのは」
「倉庫の持主さ。叔父から相続したんだが、倉庫経営のことはよく知らないようなんだ。おれが身元を明かすまで用心深くしてたけど、それからは協力的になってくれたよ。午後に倉庫のなかをのこらず見せてもらった」
「何か見つかったのか」
「在庫品のリストによると、サンティアゴはアプトンの委託品をすべて買いこんでいるようだな。けど、ひらめくものがあったから、その荷物が置かれていた場所を見せてくれとたのんだんだ。信じられないくらい穢《きたな》らしいところだったぜ――昔から誰も近づく者がなくて、ほったらかしにされてたんだろうが、ひどいありさまさ。もちろん鼠も入りこんでる。鼠が巣をつくるために、紙を噛みちぎっていってるんだ。その場所で――片隅で――おれは見つけたよ。油紙につつまれてなかったら、たぶん鼠にぼろぼろにされてただろうな」
「何のことだ」
「すぐにわかるさ。ついさっき速達の書留《かきとめ》であんたのとこに送ったからな。明日の朝にはとどくだろう」
「何なのかいってくれないのか。どうして秘密にするんだ」
ウェイヴァリーの低い声がささやきになった。「理由はいくつかある。オリファントから聞いたんだが、名前を明かさない者から何度も電話があって、アプトンの荷物のことをたずねては、誰が買いとったか知りたがったというんだ。当然オリファントは何も答えなかったが、おれたちにわかってることからして、誰かがつきとめたにちがいない」
「きみが推測していることをオリファントに話したのか」
「何もかも話したわけじゃない――おれの動機が正当なものだとわからせる程度にいっただけさ。オリファントの話だと、電話をかけてきたやつが倉庫に押しいろうとしたそうだが、ガードマンに見つかって逃げだしたらしい。それに見なれない男を何度も駐車場で見かけて、まるで倉庫に目をひからせてるみたいだったともいってたな。もちろん気のせいかもしれんが、本当のところはわからんよ。だから誰かにおれのことがさとられるかもしれないから、自分でもってる危険をおかすよりはと、あんたのとこにすぐ送ることにしたんだ」
キースはつかのまためらったあと、大きく息を吸った。「そうするのがいいだろうな。きみの友人のベックマンがあんなことになったんだから」
「ベックマンがどうかしたのか」
「昨夜殺されたんだ」キースはベックマンが殺されたことと自分の体験したことを話した。
話しおわると、しばらく沈黙がつづき、やがてウェイヴァリーが口を開いた。「おれがもどりしだい、この件はよく話しあわなきゃならないな。明日の正午の便を予約したから、夕方には帰るよ。帰ったら電話する」
「わかった」
「それまで、約束してほしいことがふたつある。まず、おれから連絡があるまで、家をはなれないでほしい」
「いいとも、もうひとつは何だ」
「おれがあんたに送ったものだよ。とどいたら、サインしてうけとってくれ。ただしおれが行くまで、開けないでくれよ」
「何か特別な理由でもあるのか」
「会ってから話す。そうしたら、あんたにもわかるだろう。それにキース……」
「何だ」
「気をつけろよ」
キースは用心深くした。ドアと窓の戸締まりをあらため、夜のしじまに異様な音はしないかと耳をすましつづけた。しかしまったく静まりかえって安全のように思え、やがて疲労のあまりベッドに横たわり、自分でも驚くほどぐっすり眠りこんで、不安な夢を見ることもなかった。
朝になっても、警戒はおこたることなく、玄関のドアを開けたのは、郵便配達夫が正午にやってきたときだけだった。
キースはウェイヴァリーがボストンから送った十号のマニラ封筒を、サインをしてうけとり、ほっとした思いをしたが、封をきってなかをあらためたい衝動にかられたものの、安全のためにすぐに上着のポケットにいれた。ウェイヴァリーが待てといったのにはしかるべき理由があるはずだし、もう二、三時間もすれば、またウェイヴァリーと会えるのだ。
キースにはウェイヴァリーにたずねたいことが山のようにあり、そのことで気持がおちつかなかった。キースにとっては、この歳月、自分が封筒のようなもののなかで暮し、財産のおかげで不快なものから切りはなされている、そんな幸運な少数の者にかなえられる特別なはからいでもって、人生をおくってきたような気がした。それが一週間まえに、封が破られ、突然さらけだされてしまったのだ――しかし何にさらけだされたのか。
現実ではないことはたしかだった。この数日の出来事は、キースの理解するところ、およそ現実の概念にあてはまるものではなかった。しかしおそらく大半の者が、貧富を問わず、密封された封筒のなかで暮しているようなものなのだろう。視野を制限し、外の世界を見えなくさせ、現実にわが身におこっていることすらわからなくさせる、狭隘《きょうあい》な、ほとんど二次元ともいえる限られた場所に身を置いているのだ。存在することすら思いもよらない実体によって選《え》りわけられ、あつかわれて、想像することも理解することもできない機械的な手段で人生をかけぬけ、推測することもままならない目的地にむかって時空をよぎっているにひとしい。
しかしいまや封筒の保護の外に出て、狭い視野が広げられ、はてしのない景観があらわになり、正気の証《あか》された薄い紙が星の彼方の深淵から吹きよせる風にさらけだされている。
キースは頭をふった。こんなことを考えても、どうにもならないことはわかっていた。常識にたよったほうがいい。これまでにおこったことには、論理的に説明づけられる方法があるにちがいなく、ウェイヴァリーがそれをもたらしてくれることを願った。もしもウェイヴァリーがまともな説明をしてくれなければ、警察に行くつもりだった。
一度そう心に決めると、気持がおちついた。その日の午後は中断した日常生活のよりをもどし、ブローカーに電話をかけたり、銀行の預金残高をたしかめたり、チューン・アップのためにヴォルヴォをもっていく連絡をしたり、金曜にホームヘルパーに来てもらって掃除をしてもらう手配をしたりした。そして冷蔵庫と冷凍庫のなかにはいっているものを調べ、買うべきもののリストをつくった。
こうした行動の無味乾燥な性質は、それ自体心おちつかせるもので、夕方になるころには、キースはまた以前の自分をとりもどしていた。食事をつくって食べおわると、テーブルをかたづけ、食器をディッシュウォッシャーにいれた。そのあとは書斎に腰をおちつけて酒を飲み、ウェイヴァリーから電話がかかってくるのを待った。
ほの暗い電気スタンドの光のもと、象牙や琥珀《こ はく》の小像がものいわぬまま睨《ね》めつけ、部族の仮面が顔をゆがめ、しなびた首が揺れていた。首の唇はいやらしい笑いをうかべるように縫いつけられているらしく、自分の好みや好奇心がごく普通のものだと思おうとするキースをあざけっているようだった。
しかしかならずしもそうではなかった。ともかく誰もがすべて、この世の存在の異様かつ不気味な局面に反応するわけではない。グロテスクな小像を刻みあげた文明世界の芸術家、仮面を彫りあげた純朴な職人、人間の首を縮めた劣悪な野蛮人――彼らはすべて何かを想像する衝動にかりたてられ、表現のはけぐちを求めたのだ。ちょうどキースがそういう不気味な工芸品を蒐集することで、奇怪なものに対する衝動を満足させるように。
そしてそういう衝動は芸術家や職人や蒐集家だけにかぎられるものではない。人間は誰しも想像による逃避にふける欲求をわかちもっている――もっともたいていの者にとっては、その逃避手段は映画やテレヴィやコミック・ブックだが。教育のない者でさえ、未知のものの魅力を知っているのだ。いかにつまらないものだとはいえ、人間性をわかちもっている者なら、生と死の永遠の謎に無関心でいられるわけがない。人間すべてのうちに、奇怪なもの、異常なもの、謎めいたものに探りをいれさせる何かがあるのだ。そしてそうすることで、精神をおびやかすパワーをやわらげる。頭のかたい現実主義者、神秘のすべてを疑って顔をしかめる者たちは、もっとも狂気から縁遠い。
キースは新たな目で蒐集品をながめた。これまでに集めたものは単に風変わりな好みをあらわすだけのものではなかった。恐怖が馴染《なじみ》深いものになるまで、怖ろしい象徴でもって身をつつみこもうとする欲求のあらわれだった。ありふれたものとしてうけいれてしまえば、もう心さわがされることもない。ある意味では魔術のようなもの。うちなる恐怖を克服するための手段なのだ。ウェイヴァリーが怪奇小説を読むことで自分の悪魔をはらいのけるように、そして――そうなのだ――ラヴクラフトが小説を書くことでそうしたように。
キースが酒をつごうとしたとき、電話のベルがけたたましく鳴った。キースは受話器をとりあげ、ウェイヴァリーの声を聞くと、ほっとしたように笑みをうかべた。
「やあ、送ったものはちゃんと届いているか」
「封筒のことか。ああ、ここにあるよ」
「よかった。開けてないだろうな」
「ああ」
「あんたはいい男だよ。電話するのが遅くなってすまなかった――ちょっと面倒なことになったんだ」
「風邪でもひいているような声じゃないか」
「ボストンでは雨がふってたんだ。それにおれときたら、ばかみたいにコートをもっていかなかったんだからな。しかしそんなことはたいしたことじゃない。おれのぶきっちょな足が……」
「どうしたんだ」
「飛行機が着陸してから、タラップをおりるときに、足をすべらしたんだ。踝《くるぶし》の骨をおってしまった」
「何だって」
「急いだあげくがこの始末だ。乗務員が救急車に乗せてくれて、ドクター・ホルトンの診療所に連れてってくれたよ。レントゲン写真を撮って、ギプスをはめてもらった。ドクター・ホルトンに家までおくってもらったんだ。松葉杖なしには何もできんが、ドクター・ホルトンが二、三日世話をしてくれる看護人をよこしてくれるらしい」
「そんなありさまだと、今晩は会えないな」
「心配しなくていい、おれは大丈夫だよ。封筒をもってきてくれないか」
「明日にしたほうがいいんじゃないか。体を休めたほうがいいぞ」
「おいおい、おれはこの事件の答を見つけたと思うんだよ。二度としゃべれなくなるまえに、あんたに聞いてもらいたいんだ。どれぐらいでこっちへ来れる」
「一時間だな」
「待ってる」
夜気はむっとするほど暑く、そよとの動きもなかった。キースは上着のボタンをはずし、メルローズに沿って車を運転しつづけたあと、南にまがって横道に入った。古びた板ばりのバンガローがいくつか、手入れのされていない芝生や雑草の影のなかから箱のようにそびえている。
ウェイヴァリーの家は隣家よりは大きくて保存程度もよく、庭をしきるフェンスのあいだの歩道から奥まっていたが、月のない闇のなかでは、まわりの家とかわることなく不気味に見えた。キースは白いヴァンのうしろにヴォルヴォを停め、見なれない車があることをいぶかったが、やがて付添いの看護人が来るとウェイヴァリーがいっていたことを思いだした。
そんなわけで、ドアベルを鳴らして玄関のドアが開けられ、聞きなれない声が入るようにいったときも、驚くようなことはなかった。
玄関ホールに入ると、普段着の若い黒人が笑みをうかべて立っていた。「キースさんですね」看護人がいった。「ぼくはフランク・ピータースです」
「やあ、どうも」キースはそういってから、声を低くした。「患者の様子はどうです」
「すこし具合が悪いようですね。医者が渡した鎮静剤を飲んでいるんですが、咳がひどいんです。電話をして咳どめの薬をもらえるようにしました。あなたがいらっしゃったから、これから薬局に行って薬をもらってきますよ」
「お願いします」
「ウェイヴァリーさんは書斎です。あまりしゃべらせないようにしてください」
キースはうなずいて、若い黒人が出ていき、「じゃあまたあとで」といって玄関のドアを閉めると、廊下を歩いた。
書斎は薄暗く、薄闇に目がなれるにはしばらくかかった。机のそばにある電気スタンドの光が弱くされていた。ウェイヴァリーは奥の隅にある大きな椅子に坐り、ギプスのはめられた左足を|足載せ台《ハサック》に置いていた。蒸し暑いにもかかわらず、長袖のウールのバスローブをまとい、首にはスカーフを巻いていたが、顎鬚におおわれていない青白い顔には汗もかいていない。
キースが書斎に入ると、ウェイヴァリーがうなずいた。「来てくれてありがとう――また会えてうれしいよ」
「おなじことをいえないのが残念だね」キースはウェイヴァリーをしげしげと見た。「ひどい目にあったようだな。声もひどいもんだ」
「気にしないでくれ。あんたが来てくれたから、おれはもう大丈夫だよ。酒が飲みたかったら、かまわず自分でやってくれ」
「いや、いいよ」キースは机のそばの椅子に坐った。「長くはいないから――きみは体を休めなきゃならないんだぞ」
「じゃあ、簡単にきりあげるとするか」ウェイヴァリーが黒いレンズの奥で目をしばたたいた。「例のものはもってきてくれたな」
キースは上着のポケットから封筒をとりだした。
「よし」ウェイヴァリーはそういってうなずいた。「もう封をきってもいいぞ。ここは安全だから」
キースは机からペイパーナイフをとりあげると、封を切り、封印のされている黄変した油紙につつまれたものをとりだした。ペイパーナイフが動いて油紙が落ち、おりたたまれた皺だらけの紙があらわれるのを、ウェイヴァリーが無表情にながめていた。
キースはその紙を机に置いて広げ、じっと見つめた。
「どうだ」ウェイヴァリーが低い声でいった。
「地図みたいだな」キースは顔をしかめた。「こまかなところはわからないね――インクが色あせてるから。灯に近づけてもいいかな」
「細部はどうだっていい」ウェイヴァリーは首をふった。「おれが知りたいのは、あんたにその筆跡がわかるかということだ」
キースは目を細めたあと、驚いたように顔をあげた。
「ラヴクラフトの筆跡だ」
「たしかか」
「もちろんだとも。ラヴクラフトの筆跡をまねられる者なんているものか。きみにかしてもらったあの『マージナリア』で、ぼくもラヴクラフトの筆跡を見ているからね。あの本には地図ものっていたんじゃなかったかな」
「ああ。アーカムの通りの配置図だ」ウェイヴァリーは咳ばらいをしたあと、かすれたふくみ笑いをした。「ああいうものを描いて、すべての通りの名前をつくりだし、実在するもののように書きこむということが、あんたには想像できるかな。あの男はおかしなユーモア感覚の持主だったんだよ」
「ラヴクラフトが冗談でこれを書いたと思っているのか」
「もちろんだ」ウェイヴァリーが黒いレンズごしにキースをじっと見つめた。「ラヴクラフトがべつの作家に、自分を小説の登場人物としてあつかう許可をあたえている手紙があっただろう。架空の証人の署名まで、ドイツ語やアラビア語や中国語で書いているじゃないか。そしてHPLはべつの作家の小説の続編を書きあげ、その作家を殺すことで、まやかしをさらに強めている。本当らしくみせかけるためだけに、プロヴィデンスの自宅を舞台に設定しているくらいだからな。ラヴクラフトは徹底して入念なジョークが好きだったのさ。そのことがわかれば、何もかもがわかる」
「ついていけないな」キースがいった。そしてもっとよく見ようとして皺だらけの紙を手にしたが、ウェイヴァリーに話しかけられて注意をそらされた。
「あんたが買ったあの絵もだ――アプトンが描いたものだが、ラヴクラフトはあの絵から着想を得て小説を書いたわけじゃない。逆なんだよ。小説が先にできあがっていて、HPLがアプトンに自分が描写している絵を描かせたのさ。おれたちが考えていたことを知ったら、ラヴクラフトは墓のなかで大笑いするだろうよ。しばらくのあいだとはいえ、おれたちに食屍鬼のことや、自分のつくりだしたクトゥルー神話のいまわしいたわごとを信じこませたんだからな」ウェイヴァリーはまたふくみ笑いをした。「わからないのか。何もかもジョークなんだよ」
梁《はり》の走っている天井の下では、緊迫した雰囲気になっていた。どこかからかすかな足音が聞こえた――たぶんピータースが薬局で薬を手にいれ、もどってきたのだろう。
キースは足音を無視して、闇のなかに坐っている男を見つめた。「ひとつ忘れていることがあるぞ」そういった。「サンティアゴとベックマンが殺されたんだ。冗談ですまされることじゃない」
「いいや、そうなのさ」ウェイヴァリーの声が急に大きな甲高いものになった。「ピータース、地図をとりあげろ」
キースはふりかえった。
戸口から黒人が近づいてきていた。もう笑みはうかべておらず、手には拳銃を握っていた。
「よこせ」ピータースがいった。
キースは一歩あとずさったが、ピータースが拳銃をむけて引金に指をかけていた。「渡すんだ」ピータースが低い声でいった。
そのとき拳銃を握る手が震えはじめた。
うなりとともに部屋全体が揺れた。壁も天井も床も、すべてが揺れていた。家が激しく揺れるなか、急に柱や梁の折れる音がするとともに、頭上の梁が落ちはじめて黒人が悲鳴をあげた。
キースはふりむいて、地図をつかんだままドアにかけよろうとした。
そのときすさまじい音がして天井がくずれ、キースは意識を失った。
キースが目を開けたとき、すべては静まりかえっていた。静かで暗く、何の動きもなかった。
地震がおこったのだ。地震学者が警告したように、大地震がおこったのだ。
キースはそんなことを思いながら、用心深く手足を動かし、どこにも痛みがないのでほっとした。左耳のうしろに鈍いうずきがあった――天井から落ちてきたものがあたったにちがいない。胸の上にはくだけた漆喰《しっくい》の重い塊《かたまり》があった。キースはそれを押しやって上体を起こした。皺だらけの地図はまだ右手にしっかりつかまれていた。
しかし黒人はもう拳銃を握ってはいなかった。キースのうしろに倒れこみ、太い梁に頭蓋骨をくだかれていた。
キースは立ちあがり、胸の悪くなる光景から目をそらした。床に瓦礫《が れき》が散乱するなかを手探りで歩き、サイモン・ウェイヴァリーの姿はないかと、奥の隅の闇に目をむけた。
奇蹟的に椅子はまったくこわれていなかった。しかしいまや何もなかった――いや、ほとんど何もなかった。
闇のなかでキースは目をこらして、座席にあるものを見つめた。全部で三つあった。金属製の留金のついたものが三つ。
見まちがえようのないその三つのものとは、サイモン・ウェイヴァリーの顔と両手だった。
悪夢はとどまるところを知らなかった。
通りでも悪夢はつづき、呆然とした人びとが一部倒壊したバンガローからよろめきでたり、失ったものを探そうと、やみくもになかに入ろうとしたりしていた。
キースはショックのあまり頭がぼんやりしたまま、ウェイヴァリーの家のまえに、もう白のヴァンが停まっていないことに気づいた。しかしヴォルヴォは損傷をうけていないらしく、キーをまわすとすぐにエンジンがかかった。
キースはもう暗くもなければ静まりかえってもいない夜のなかに車を走らせた。くずれた住居が松明《たいまつ》と化して、苦痛の悲鳴をあげる街にむかうキースの行く手を照らしていた。
キースはひとりきりではなかった。ガスの本管からガスがもれ、火災や爆発がおこり、車で逃げだそうとする者が大勢いるため、道路はしだいに交通量がましていった。水道管が破裂して、メルローズが水びたしになり、キースは安全な交差点を見つけるまで幹線道路のへりを走りつづけた。ファウンテイン・アヴェニューで西にまがったが、急にとびだしてきたり、ぶらぶら歩いてきたり、ただ呆然と立ちつくしたりする者がいるので、何度となく急ハンドルをきらなければならなかった。
ハイランド・アヴェニューはフリーウェイを目指して北にむかう車でひしめいていた。ラ・ブレアでは緊急出動したパトカー、救急車、消防自動車のサイレンがけたたましく鳴っていた。
しかしさらに西に進むにつれ、損壊の程度は減じていった。どうやら地震は街の中心部をしたたかに襲ったらしく、キースは自宅が最悪の揺れをまぬかれて[#「まぬかれて」はママ]いるようにと、無言で祈りをささげた。
車のひしめく峡谷の道路をどれほどの時間をかけて走りぬけたのかはわからない。ヴォルヴォが丘の道をのぼりはじめたときには、キースは全身に汗をかいていた。しかしこのあたりには地震による影響はほとんどないようだった――家いえは丘の斜面にしっかり建っており、ごくわずかな木が倒れこんで道路を一部さえぎっている程度だった。キースはそんな障害物を避けてハンドルをきり、山火事のおこっている気配のないことや、サイレンの音が遠くからしか聞こえないことに気づいて、ありがたく思った。
ようやく自宅にもどると、安堵《あんど》の息をついた。家は無傷のようだった。キースはヴォルヴォを停めて家に入り、ガスはもれていないかとかいでみた。何のにおいもしなかったので、玄関ホールの灯をつけ、電気が通じていることを知った。妙な麻痺感があいかわらずあったが、どうにか損傷はないかと家のなかを調べまわった。
キッチンの食器戸棚のガラスが何枚か割れていたが、冷蔵庫のなかにはいっているものは無傷だった。電気オーヴンは作動したし、蛇口からは普通に水が出た。ただ壁の上のほうに亀裂のあるのが、地震に襲われたことを告げるばかりだった。
書斎では飾り箪笥《だんす》の小像が倒れていた。キースは調べてみることもしなかった。部族の仮面のいくつかはかたむき、縮んだ首はもうぶらさがってはいない。
その首が何も見えない細長い目と、あざける口でもって、床からキースを見あげたとき、急にべつの顔がキースの目に二重映しになって見えた――人間の肉をよそおった、たるんだ怖ろしい仮面、サイモン・ウェイヴァリーの顔が。
そのとき麻痺感がパニックにかわった。キースはふりかえって酒をいれてあるキャビネットを開けると、なかをまさぐってブランディの壜を見つけた。
それを寝室にもっていき、灯をつけて、ここには何の被害もないことをたしかめた。蹴るようにして靴を脱ぐと、ベッドに横たわり、壜の栓をねじってはずし、生まれてはじめて正体をなくすまで飲みつづけた。
ひどい頭痛とたまらない渇きに襲われて目をさましたのは、正午に近いころあいだった。アスピリンを水で飲むと、肉体の不快感はすこしおさまったが、パニックをしずめることはできなかった。
キースはバスルームから出ると、ナイトスタンドに近づいて、受話器を手にとった。警察の番号をまわしはじめてから、電話が不通になっていることを知った。地震のせいでこのあたりの電話はつながらないのだ。
キースは居間に行ってテレヴィのスイッチをいれた。テレヴィは機能して、すぐにスクリーンにニュース解説者の姿が映った。これほど早くニュースが見られることをありがたく思ったが、地元の放送局はすべて、昨夜の災害を報道しつづけているにちがいなかった。
つづく一時間のあいだに、断片的なニュースから、リヒター・スケールでマグニチュード七・一の強震が街を襲った惨事のあらましがわかった。
もっとも被害の大きかったのはダウンタウンで、高いビルやシャッターのおりた店の窓ガラスが割れて落ちたのだった。幸いにしてその時間には街は無人も同然だったので、通りでの死傷者はほぼ皆無にひとしかった。しかし備品やシャンデリアが落下した劇場ではパニックになった。大勢の者が逃げだそうとして通路に押しよせたのだ。いくつかの病院は惨禍《さんか》の騒乱場と化し、個人の住居の損壊は激烈をきわめた。火災も続発したが、延焼して大火事となるにはいたらなかったらしい。ロスアンジェルス・カウンティは公式に災害救助法適用都市となり、ガスもれや送電線の切断という危険にさらされている者たちの捜索を、州兵が手伝っていた。
キースはヴォリュームを落として、コーヒーをわかしにキッチンに行った。頭がまた痛んでいたが、この痛みは昨夜天井から落ちてきたものがぶつかったためのようだった。
それに思いあたるとともに、これまでどうにか思いださずにいたことが脳裡《のうり》によみがえった――ウェイヴァリーの家でのことがなまなましく思いだされた。
そして記憶がよみがえるとともに、はたと思いあたることがあった。
ウェイヴァリーの書斎での最後のひとときは、ラヴクラフトの小説に酷似しているのだ。ラヴクラフトの『闇に囁くもの』に。
状況さえも酷似していた。ラヴクラフトの語り手はヘンリー・エイクリーと関係をもつようになったが、この民間学者は、ほかの惑星からやってきた翼をもつ生物が、自宅近くのわびしいヴァーモント州の丘のなかに潜んでいると信じこんでいた。手紙のなかで恐怖をうちあけ、自分が証拠として送った録音物と写真をもってきてほしいと、語り手を自宅に招いた。語り手は現地におもむき、エイクリーの友人だと告げる見知らぬ男に出むかえられ、エイクリーの家へと連れていかれるが、そこではどうやら病気らしい民間学者が語り手を待っていて、安心するようにと闇のなかでささやいた。語り手は最後に、エイクリーの友人だという男が翼をもつ生物の手先であり、自分をなだめすかして証拠品を奪おうとしているのを知り、どうにか逃げだすことができた。しかし立ち去るまえに、語り手もまた友人エイクリーが坐っていたはずの椅子に、人間の顔と両手があるという怖ろしい発見をするのだ。
もちろんちがいはあった。小説では、翼をもつ生物が人間の顔と手で怖ろしい変装をして、死んだ学者にばけていたとほのめかされている。
キースは頭をふった。外宇宙から来たばけものがいくら人間の声をまねてささやこうと、あざむかれるはずがないことには確信があった。しかしラヴクラフトの小説を手引にすると、実際におこったことを推測するのは驚くほど簡単なように思えた。
ボストンの倉庫に目をひからせていたのが何者であるにせよ、ウェイヴァリーが倉庫に入りこんで何かを発見したことを知ったのだ。ホテルの電話を盗聴したことで、ウェイヴァリーが見つけだしたものをキースに送ったことも知った。
おそらくウェイヴァリーには尾行者がいて、おなじ飛行機に乗ってロスアンジェルスにやってきたのだろう。もっとありそうなのは、知らせがあって、誰かがウェイヴァリーの到着をロスで待ちかまえていたということだ。キースは黒人とヴァンのことを思いだした。だだっぴろい空港の駐車場で闇にまぎれてウェイヴァリーに近づき、なぐりつけて待ちかまえているヴァンにひきずりこむのは、実に簡単なことではないか。
そしてキースに電話をかける――ウェイヴァリーに似せたしゃがれ声で、事故の話をでっちあげ、封筒をもってきてくれとたのんだのだ。
あとのこともつじつまがあう。黒人が看護人をよそおい、封筒を手にいれるために仲間がウェイヴァリーの変装をした。
しかしどうしてすぐに殺すようなことをしなかったのか。どうして面倒な変装をして、嘘の話をすることまでしたのか。
考えられる理由が思いうかんだ。キースは電話の声が、封筒とはいわずに、送ったものをもってきてくれといったことを思いだした。それなら連中はウェイヴァリーが倉庫で何を見つけたかは知らなかったわけだ。さらに重要なことに、キースがそのことをどれだけ知っているかも、わからなかったのだ。だからこそ黒人は家をはなれ、いや、はなれるふりをして、キースに封筒を開けさせ反応をうかがったのだろう。殺すまえに、ウェイヴァリーが見つけたものを誰にも話していないことをたしかめたかったのだ。
それを確認するや、黒人は行動にうつろうとした。しかし地震のために死んでしまい、気を失ったキースは、ウェイヴァリーのふりをした者に逃げる機会をあたえてしまった。おそらくそいつはキースも死んだと思ったのだろう。ともかくヴァンに乗って去ってしまった。そして地震にあわてふためいて逃げだしたことで、封筒にはいっていたものを手にいれることも忘れてしまったのだ。
しかしいったいどういうたぐいの者たちが、サンティアゴ、ベックマン、そしてウェイヴァリーの連続殺人をたくらみ、それを実行できたのか。本当にラヴクラフトの小説に描かれているような邪教が実在して、いまもなおひそかに地球で生きながらえている邪悪な存在を崇拝しているのか。
キースはコーヒー・カップをもって居間に行き、もっと得心のいく答はないかと頭をひねった。
もしかして冗談だとしたら――闇のなかでささやいた者が不器用にほのめかしたような、ラヴクラフトがたくらんだ冗談ではなく、ラヴクラフトの著作に心酔する常軌を逸《いっ》した狂人の冗談だとしたら。
儀式的な殺人をおこなって、その残虐行為を悪魔のしわざと見せかけようとした悪魔主義者にまつわるニュースを、キースは思いだした。HPLの小説に見いだされる要素をまねて、そうした小説と同様の殺人をたくらむというのは、おなじような狂った心酔者たちの特徴を示しているのだろう。そういえばいつだったか、ウェイヴァリーが<ダゴン秘密教団>と呼ばれる何らかの結社のことを口にしていたのではなかったか――これは『インスマスを覆う影』に登場する怖ろしい魚面の邪教の信者たちが用いる名称で、この連中は海中のばけものたちとまぐわい、その子供たちは<インスマス面《づら》>になってしまうという。ラヴクラフトのクトゥルー神話は情緒不安定な一部の若者をひきつけるらしい。何年かまえにはH・P・ラヴクラフトと名のるロック・グループまであった。幻覚剤がHPLの奇怪な想像力の強烈さを高め、精神の安定を欠いた麻薬常習者たちは、ラヴクラフトの想像したものを悍《おぞ》ましい現実に読みかえるのかもしれない。
しかしそういったことをもちだしたところで『ピックマンのモデル』からぬけだしたような絵や、その小説の登場人物の実在のモデルであるアプトンという画家がいたことは、どうにも説明しきれるものではなかった。あの絵は一九二六年に描かれたのだ――ラヴクラフトが公然とクトゥルー神話を書きはじめるまえ、現代の反体制の若者が生まれるよりもはるかまえに。
べつの可能性がひらめいた。ラヴクラフトは手紙や会話で、小説のプロットを夢から得たことをよく語っている。ラヴクラフトは一生を通じて、眠りの壁の彼方のなまなましい悪夢に襲われたのだ。
その壁の彼方には何があったのか。HPLは眠りの壁の彼方で異次元を、パラレル・ワールドをさまよったのだろうか。夢のなかで時空をよぎり、過去の光景を目にしたのだろうか。実際におこったことを目撃して、単にそれを登場人物と背景をかえて小説にうつしかえただけなのか。
途方もない仮説だが、これをはねつけるなら、キースはさらに慄然たる決定的な仮説に顔をむけなければならなかった。
キースはまえに自分をラヴクラフトになぞらえたことがあった。しかしほかになぞらえられるものがあるとしたら。もしかしてラヴクラフトの小説の典型的な登場人物のようなものだとしたら。
キースはラヴクラフトの小説の登場人物を何人か思いだした。内向的で、想像力に富み、神経が過敏なのだ。自分の体験したことが本当のことかと疑うこともしばしばある――そして幻覚だったかもしれないとか、発狂しているのかもしれないと思いこむ。
それが真の答なのだろうか。すべては普通の出来事を妄想から誤解した産物なのだろうか。記憶していることのどれだけが現実におこったことなのか。
地震があったことには疑問の余地はないし、ウェイヴァリーの家を訪れているあいだに頭をうってもいる。しかし、もしかして脳震盪《のうしんとう》をおこしたのかもしれない――その場合、まだ頭が混乱していて、過去の出来事を想像しているということも考えられる。
こころよい仮説ではないが、少なくとも医学的にはありうることだった――そしてもしもこれが事実なら、目下の状態は医学的な治療をうけられる。ばけもののような神々や、そんな神々をよみがえらせようとする暗黒教団の世界に直面するよりは、はるかにいいことだった。奇妙なことだが、この結論は慰め、一種の安心感をもたらした。
そしてキースは無意識に上着のポケットに手をいれたが、その手をポケットから出したとき、慰めと安心感はことごとく失われてしまった。
昨夜のことが想像の産物ではなかった証拠があったからだ。キースが手にしているのは、ラヴクラフトの書いた地図だった。その地図は……
「南太平洋……」
テレヴィのスクリーンに映るニュースキャスターの口が動くとともに、その言葉がかろうじて耳にとどいた。キースはすぐにヴォリュームをあげて耳をすました。
「……最新のニュース速報によりますと、昨夜の当地の災害をうわまわる地震活動がおこった模様であります。揺れはオーストラリアやニュージーランドでも感じられましたが、被害が出るにはいたっていません。各地の地震計は海底火山の噴火を示しており、その海域はピトケアン島の南、タヒチの南東、おおよそ南緯四五度、西経一二五度であると……」
キースはまた視線をさげて、地図の余白に記されている緯度と経度を示す数字を見た。そして二本の線が交叉する箇所を探した。
それを見つけるまえですら、何を目にするかはわかっていた。その地点を示す粗雑な十字の印の下に、ラヴクラフトがひとつの言葉を記していた――ルルイエと。
とりわけ緊急時には、富がある種の便宜《べんぎ》をはかってくれるものだ。地震の影響で日常業務が中断しているにもかかわらず、キースは三十六時間のうちに手配をととのえ、タヒチ行きのエア・フランスのジェット機に乗りこんだ。
キースは必要と思うものをまとめ、すぐに家をはなれてベル・エア・ホテルに避難したのだった。そのホテルで安心感をおぼえながら、旅行代理店に手配をしたり、パスポートを更新する手続きをとったりした。銀行が必要な為替《かわせ》を送ってくれたほか、不動産会社を紹介してくれたので、そこに連絡して留守のあいだの家の世話をたのんだ。ホテルをあとにするときには、これでひとまず安心していられると思った。
どうやら最近の災害のために、休暇の計画をたてていた多くの者がキャンセルをしているらしく、ジェット機に乗りこんだキースがあたりを見まわすと、ファースト・クラスには乗客がもうひとりいるだけだった。
その乗客は中年のイギリス人で、かしこまった態度は赤らんだ顔色とともに身に備わったものらしく、ストライプのはいった母校のネクタイをつけ、サザビイのオークション・カタログを熱心に読みふけっていた。
しかしステュワーデスのおしみないもてなしが必然的な結果をもたらし、三杯目の酒を飲むころになると、キースとイギリス人は快適なラウンジにうつって、自己紹介をしあっていた。
イギリス人の名前はアボットだった――ロナルド・アボットは、第五ノーザンバーランド・フュージリア連隊の元少佐で、いまは退役してタヒチに住んでいる。
「しかし一年のうちの半年だけのことですよ」アボットがいった。「市民権をもっていないと、それ以上は滞在できないんです――フランス人は自分たちの領地に他人を入らせたがりませんでね」
「地震のことはお聞きになりましたか」キースはたずねた。「被害があったとお思いですか」
アボットは首をふった。「心配することはないでしょう。南東に数百マイルもはなれた海のまっただなかで起こったことですからね。津波の可能性はありますが、ひどいことにはなりませんよ。パペーテが旅行者にとってまったく安全なことはうけあってもいいですね。休暇をとっていらっしゃるんでしょう」
「そういうわけじゃありません」キースはそういって顔をあげ、ステュワーデスが新しいグラスをさしだして会話を中断してくれたことをありがたく思った。しかし酒にくわえて、高度と疲労の影響がくわわり、舌がゆるんでしまった。それと意識しないまま、いつのまにかひとりぎめした使命のことを話し、その内容や動機については注意して黙っていたものの、とりいそぎ出発の準備をしたことはつつみ隠さずにしゃべった。
「たくさんの仕事をかかえてらっしゃるようですな」アボットがいった。「そんなに急がれるんですから」そういって、横目でキースをうかがった。「まさか法律上の窮地におちいってらっしゃるわけじゃないでしょう」
キースは笑みをうかべた。「ぼくが横領したとでも思ってらっしゃるのでしたら、そんなことはありませんといっておきます。しかしすぐに出発しなきゃならなかったんです。あることがわかりましたからね……」
キースは言葉をきって、アボットの無表情な顔を見つめ、正直にうちあけるべきか黙っているべきかと迷った。ひとつだけたしかなことがあった。目的をはたすつもりなら助けが必要だし、アボットのような男は現地の法律や規則をきりぬける方法を知っているはずだった。
しかしそれ以外の何を知っているだろうか。
キースは大きく息を吸うと、思いきってこういった。
「もしかしてH・P・ラヴクラフトという作家の作品を読まれたことはありますか」
アボットは手にしたグラスを軽くゆすった。「知りませんな。お友達ですか」
「いえ――しかしラヴクラフトが書いたもののなかに、ぼくがしようとしていることを説明づける小説があるんですよ。よろしかったら、あなたにも読んでいただいて……」
「拝見しましょう」アボットがいった。
「しまったな」キースはいった。「スーツケースのなかにいれてあるんです」
「かまいませんとも。空港で見せてくだされば、すぐに読ませていただきますよ」
空港で税関の検査がすんだ後、キースはスーツケースのひとつから『アウトサイダーおよびその他の小説』をとりだして、問題の小説をアボットに示した。
「何の叫び声と読むんですか」アボットがとまどった顔をしていった。
「クトゥルーと発音するんだと思います」キースはいった。「ともかく、それはたいしたことじゃありません。小説を読んで、感想を教えてください」
アボットはうなずいた。「どこにお泊りですか」
「ロイアル・タヒチアンです」
「わかりました。今晩ホテルにお電話しましょう」
ロイアル・タヒチアンは、ジェット機で旅行者が押しよせるまえの、初期の時代の名残《な ごり》だった。古くて、むやみに増築を重ねたホテルだが、まったく魅力的で、本館は独立したバンガローの点在する広大な敷地にとりまかれている。ここで伝統的なタマレの舞踏がおこなわれるのだが、キースは庭園を歩きまわっているうちに、古代に崇拝の対象にされたとおぼしき、大きな石の男根像を見つけた。キースはそれを見て笑みをうかべたあと、またまじめくさった顔をして、ポリネシアの住民がかつてはほかにどのようなものを崇拝したのだろうか――いまも一部の者は何を崇拝しているのだろうか――と思った。もちろんここパペーテのホテルとか、オートバイやトランジスター・ラジオの音が耳ざわりな道路の近くでは、古代の信仰がのこっているわけもない。
かつての習慣や信仰がいまだにのこっているものなら、野生の豚が丘の斜面に穴を掘り、大きなオカガニが岩山のいただきを走りまわる内陸部で見つかるはずだった。いや、それよりも、原始的な過去の名残がいくつか、ムーリアとかボラボラとかいった属島や、人のあまり訪れない北のマルケサス諸島にのこっているかもしれない。信じがたいことだが、笑みをうかべて親しげな住民が、かつては好戦的な社会の一部をつくり、嬰児《えいじ》殺しをはじめ、人肉|嗜食《ししょく》や性愛魔術の儀式を実践していたのだ。しかしそれらはおおやけの歴史のことがらだった――そしておなじように秘密につつまれた歴史もあるのかもしれない。キースは『インスマスを覆う影』に登場する、魚に似た生物とまぐわったカナカ人のことを思いだした。その小説もアボットに読んでもらうべきだったかもしれないが、人を信用するにも限度というものがある。実際には『クトゥルーの叫び声』を読ませるだけでもかなりの危険をおかしているのだ。それで壁のない食堂で夕食をとったあと、キースはいつしか電話がかかってくるのをもどかしい思いで待っていた。
アボットは電話をするかわりに、直接やってきた。九時ごろに来たのだが、キースはさまがわりした男を目にすることになった。ツイードのスーツにワイシャツや母校のネクタイはなくなっていた。アボットはカラフルなショーツにタンクトップを身につけていた。むきだしになった手足は赤銅《しゃくどう》色に日焼けしてたくましく、赤らんだ顔色も酒を飲みすぎるというより、よく戸外に出ることを示しているようだった。
しかし最大の変化は態度にあった。アボットは右手で本を握りしめ、キースをロビーから外に連れだした。
「あなたのバンガローはどこですか」アボットが低い声でいった。「ふたりきりで話しあわなきゃならないことがありますからな」
キースはアボットを自分のバンガローへ連れていき、なかに入ると、酒を勧めた。
「そんな時間はありませんよ」アボットは本をコーヒー・テーブルに置き、手で表紙をたたいた。「いいですか――あなたはここに書いてあることを何かご存じなんでしょう」
「わかりましたか」
「ええ。これは小説ではありませんな」
「そんなことはいいませんでしたが」
「いうまでもないことです。おのずから明らかなことですからな」アボットは本を開き、ページをめくりつづけて目当の箇所を見つけた。「正確な位置まで示されている――南緯四七度九分、西経一二六度四三分です。それに一九二五年三月の日付もある。すべて、つじつまがあいますよ」
「つじつまがあうとは」
「わたしもこの何年か、このあたりに首をつっこんでいるんです。現地の言葉をすこしおぼえていますから、現地人とも親しくなっているほどです。タキタがよく助けてくれました」
「タキタとおっしゃいますと」
「家内です。イギリスの教会で正式に結婚したわけではありませんが、わたしにとってはれっきとした家内ですよ。かわいそうに、去年|亡《な》くなりましたが」つかのまアボットは黙りこくり、またしゃべりだした。「ともかくわたしはタキタの家族のことを知らなきゃならなかったんです。家族はまだラパ島に住んでいるんですよ。タキタの祖父が――何歳かは知りませんが、少なくとも九十はこえていたでしょう――きわめて奇妙な話をしましてね。原住民のただの迷信というのではなく、誓って本当のことだったというんです。ラヴクラフトが書いているあの地震のことですが、実際におこっているんですよ。それに海底に何らかの生物がいるという話もたくさんあります」
「その人に会えるでしょうか」
「無理ですよ。ずいぶんまえに亡くなりましたから」アボットは本をおろした。「ともかく――これを読んだことで、あなたが何を探そうとなさっているかがわかりましたよ。問題の場所へ行って、ごらんになりたいのではありませんか」
キースはうなずいた。「そうするつもりでした。地元の当局から協力が得られるでしょうか」
「無理ですね。あのあたりはフランスの管轄区域外ですから。それに役所がどういうところか、あなただってご存じでしょう。だからこそ、お国の役人には何も話されなかったのではありませんか」
「おっしゃるとおりです」キースは顔をしかめた。「しかしすぐにやらなければなりませんし、それには助けがいるんですよ」
「おっしゃってください」
「そのあたりまで飛行機で行けるかと思っていたんですが……」
アボットは首をふった。「それだけの距離を飛べるチャーター便は島にはありません」
「船をかりるのはどうです」
「水夫を雇う費用などをふくめて、かなりの金がいりますよ」
「それはかまいません」
「出港許可を得るのがちょっとやっかいかもしれませんね」アボットはそういって、口をすぼめた。「一番いいのはピトケアン島を寄港地にすることです――フランス人の役人には、フレッチャー・ブラディ・クリスチャンと、バウンティ号の叛逆《はんぎゃく》者たちの子孫について、本を書いているんだとおっしゃればいい。そうすれば、たとえ風で船が流されても、あなたの責任ではありませんからな」
キースは体をまえに乗りだした。「そうするにあたって、誰か推薦していただける人物はいるでしょうか」
「すこしたずねてまわって、港にどんな船があって、どれがつかえるかを調べなきゃなりませんね。口のかたい船長が必要でしょうし、そういう船長は立派な船をもってはおらんでしょう」アボットはキースをじっと見つめた。「しかしそういう手配をするまえに、何もかもすっかり話していただいたほうがいいかと思いますがね。ただ調査するためだけに、わざわざやってこられたわけでもないでしょう。もしも探しておられるものを見つけたら、どうするおつもりなんですか」
キースはためらった。「よくわかりません。しかし爆雷のような何らかの爆薬が手にいれられれば、おそらく……」
「満点です」アボットが笑みをうかべた。「もちろんそんなものは市場で手にいれられるわけがありません。地元の軍需品部にはあらゆるたぐいの弾薬や武器がそろっていますが、政府のものに手をつけるというのはなかなか骨のおれることですよ。わたしが何人かの者に賄賂《わいろ》をつかわなきゃならないでしょうな」
キースは首をふった。「そんな危険なことをあなたにしていただくつもりはありません」
「何もかもが危険ですよ。船の書類を偽造して、軍の関係者を買収して、爆雷をあつかうんですからね」アボットはにやっと笑った。「おとろえた肝《きも》をきたえあげるにはもってこいです。あなたのお許しがあれば、よろこんでおともさせていただきましょう」
「一緒に来てくださるんですか」
「わたしはひとり暮しにはうんざりしていますし、あなたは爆薬のあつかいかたを心得ている者が必要になりますよ」アボットがいった。「数年まえにヴェトナムであつかったことがありましてね。迷彩服を着て波止場の任務を遂行したんです」そういって、真剣な顔つきになった。「それに、わたしたちふたりが推測していることが事実なら、どうあってもやらなければなりません」
「危険ですよ」
アボットは肩をすくめた。「率直にいって、あなたは救いようのないばかです。しかしそれはわたしにもいえることですがね。あなたのお許しが得られれば、明日の朝一番にとりかかりましょう」
準備が完了するには三日かかった。ことがことだけに、アボットは電話をつかって進行状況をくわしく知らせるのは避けた。島の反対側の黒い砂浜にある自宅に何度もキースを招待したが、注意をひく怖れがあるので、キースはそうするのは避けたほうが賢明だと思った。それでアボットは直接ホテルにやってきて報告し、キースから小切手やトラヴェラーズ・チェックを換金した現金をもらって、必要な準備をととのえた。
四日目に、ふたりはついに海に乗りだした。海は穏やかで、これはありがたいことだった。オキシュリ丸は老朽船で、佐藤船長は――アボットが予言したように――くたびれた船に無理をさせようとはしなかったからだ。しかし船長のやりかたには誰も文句はいえず、アボットはひとたび進路が定まると、すべてを船長にゆだねて満足しているようだった。
キースは八人の水夫をほとんど見たことがなく、仕事で甲板にあがってきたときも、話しかけようともしなかった。「英語はわかりません」アボットがいった。「見てくれはひどいですが、とりいそぎ集めたにしてはつぶぞろいですよ。ことがことだけに、地元の者はつかいたくなかったんです――この連中は属島のトゥアモタから来たんですよ。佐藤がステュワードとコックを見つけました。信頼できる人間だといっていますから、信用しなきゃなりませんな。少なくとも料理はそうひどいものじゃありません」
「佐藤船長はどの程度まで知っているんですか」最初の夜にアボットとふたりしてコーヒーとコニャックを飲んでいるとき、キースはそうたずねた。
「すこし知りすぎているのが気にいりませんね」アボットは声を低くした。「佐藤はばかじゃありません――最初はわたしたちが密輸か何かをたくらんでいると思ったようで、平然としていましたがね。爆雷を積みこむのを見たときには震えあがりましたよ。そんなわけで、わたしも話をでっちあげて、あなたが海洋学者で、深海の貴重な標本を手にいれるために、爆破するのだといわなきゃならなかったんです」
「その話を信じましたか」
「どうですかね。しかしわたしたちが非合法なことをするつもりだと思ったらしく、それなりの金を要求しましたよ。わたしたちが実際に狙っていることを知られたら、かなりの金をつかませなきゃならなくなるかもしれませんな」
「何かが見つかればね」キースはキャビンの舷窓に目をむけ、沈みゆく太陽の光がなめらかな海面を千々《ちぢ》の色に染めあげているのをながめた。「こんなに海が穏やかだとは思ってもいませんでしたよ。ラヴクラフトが警告していることはもちろん、この海に人間に害をおよぼすものがいるだなんて、信じられないくらいです」
五日目の朝になって、キースの安らぎは破られた。
アボットが専用室のドアをたたいたことで、キースは目をさましてデッキに出たが、眼前の光景を見てものもいえなくなった。
キースは身を震わせながら、右舷側に横たわるものを見つめた。怖ろしいまでの馴染《なじみ》深さがあり、つかのま既知感をおぼえているのではないかと思ったほどだった。やがてラヴクラフトが小説のなかでなまなましく正確に描写しているものを目にしていることがわかった――深海から泥におおわれた山峰が突出し、そのいただきには軟泥《なんでい》におおわれた緑色の巨大な石塊で構成される柱にいたるまで、途方もない石造りのものがそびえたっていたのだ。
ルルイエだった。現実のものだった。
浅黒い水夫たちがデッキにいるキースのそばに立ち、前方を指差してわけのわからないことを口早にしゃべった。佐藤船長がブリッジからあらわれ、太陽の光に顔をしかめて目を細めながら、重力と正気のいずれをも無視する、くるめくばかりの歪んだ角度でそびえたつ、途方もない大きさの構造物をながめた。
いまこそついに、キースはすべてを信じることができた。眼前に決定的な証拠があった――言葉や悪夢の想像によってほのめかされる程度をこえた、このうえもなく怖ろしい形態の証拠だった。
深海からのこの恐怖を見つめているうちに、キースはそのパワーを知った――存在することを地球の裏側まで人間の夢にあらわすパワーを。ラヴクラフトがかつてこれを夢で見て、目をさますや警告を記したのだ。
そして邪教も現実のものだった。その邪教の祈りと呪文が地震の発生をもたらしたのだ――長く待ち望まれていた火山活動は、暗澹《あんたん》たるルルイエをふたたび浮上させ、その深淵では大いなるクトゥルーが死を知らぬ永遠の眠りにつきながらも命令を発しているのだ。
命令。そばにいるアボットが佐藤船長にきびきびと命令をくだしているのを、キースはぼんやりと意識した。ボートがすぐにおろされることになった。
「爆雷をふたつもっていくことを忘れないように」キースがいった。「あの開口部に近づいて爆雷を落とすことができれば……」
アボットがすぐにうなずき、指示を佐藤に伝えた。
あわただしく準備がなされているあいだ、キースは巨大な城塞を見つめていたが、しだいに理解できる形をとりはじめてきた。狂ったような角度をもつ巨大な石造りの階段は、人間が歩くようには造られておらず、その階段がむかっているのは一エーカーはあろうかという巨大な扉だった。この距離からでも、その扉の表面に奇怪な形をしたものがはいまわっている彫刻を見てとることができた――触腕を備え、身をよじる、空怖ろしい生物だった。そしてそのドアの背後には――ドアの彼方の下には――そんな彫刻があらわすものが現実にひそんでいるのだ。
「大丈夫ですか」アボットがキースの肩をつかんで揺さぶった。
キースはうなずいた。下に目をむけ、ボートがすでに船のそばで揺れており、水夫が乗りこんで出発する準備のととのっていることを知った。
「行きましょう」アボットが縄梯子《なわばしご》をおりはじめ、キースもそのあとにぎごちなくつづいて、安全なボートに乗りこんだ。そして佐藤が舵をあやつり、ボートのもやいが解《と》かれた。
またしてもキースは前方にそびえる、苔がこびりつき海藻がまとわりつく山と、そのいただきに屹立《きつりつ》する巨大な石造りの構造物に目をやった。「ごらんなさい」キースがいった。「ラヴクラフトは嘘をついていたんじゃなかった――石塊はすべて、異次元からもたらされたもののようにゆがんでいるけど、それでもぴったりあわさっている」
アボットがもどかしそうにうなずいた。「幾何学の講義をしている時間はありませんよ。さあ、行きましょう」
海底からそそりたつ山のゆるやかな斜面をまえにして、ボートはすでに速度をおとしていた。佐藤船長が声高に命令をくだし、錨《いかり》が投じられた。キースはあれこれしゃべりあっている水夫たちが恐怖をあらわしていないことに気づいた――しかし水夫たちは前方に何があるかを知るはずもないのだ。妙に傾斜した階段の上の巨大な扉の背後の闇に、何がひそんで待ちかまえているかを知る由《よし》もない。そしてそれはいいことだった。
キースはアボットのうしろから、足をすべらしたりつまずいたりしながら斜面をのぼった。背後では水夫たちが爆雷を運んでいるはずだったが、ふりかえってたしかめることもしなかった。キースの心臓が激しい動悸《どうき》をうっているのは、ただ単に体を酷使しているためではなく、期待と不安によるものでもあった。
ついにキースとアボットは、どの箇所であれ圧力に屈しない、彫刻いりの石の刳形《くりがた》にはめられた、巨大な扉のまえに立った。
そのとき記憶がよみがえった。「あの小説をおぼえていますか」キースが低い声でいった。「上部でバランスのとれているパネルみたいだ」
アボットが彫刻のほどこされた側面をはいのぼり、頭上高みにある※[#「きへん+眉」、98-8]《まぐさ》 石《いし》のぬらぬらした表面を押した。扉が内側にかたむいて、アボットが踏みこし段をすべりおりると、さらに扉が開いて黒ぐろとした深淵をあらわにした。
開口部から五感を麻痺《まひ》させる腐敗したにおいがたちのぼり、その悪臭のあまりの強烈さに、キースは意識を失いそうになった。
あえぎながら気をひきしめていると、佐藤船長と水夫たちも階段の一番上までやってきて、キースのそばに立ったが、爆雷を運んできてはいなかった。
キースは眉をひそめてアボットを見た。「爆雷は――どこにあるんだ」
「パペーテの血なまぐさい武器庫だよ」アボットがいった。「おれが本当にそんなものを盗みだすと思っていたのか。それでなくても厄介《やっかい》なことなんだからな――おれがいったように、おまえがおれの家に来てさえいたら、こんなことまでしなくてすんだんだよ」そういって、肩をすくめた。「まあ、とにかくおれは扉を開けるために、ここへ来なきゃならなかったがな」
キースはあえぎ、佐藤に顔をむけた。そうしたとき、巨大な戸口の奥の闇のなか深くから、がぼがぼ水のはねる音が聞こえた。
佐藤もその音を耳にしたが、表情には何の変化もなかった。頭をたれただけだった。浅黒い肌をした屈強な水夫たちがキースをとりかこみ、大きな口のある顔をむけ、まばたきのしない目でくいいるようにキースを見つめた。
佐藤船長がうなずいた。「こいつをクトゥルーにささげろ」そういった。
水夫たちが押しよせ、冷たくねっとりした手でキースをつかみ、高くかかえあげて、何かがのぼってくる凶《まが》まがしい戸口のぽっかり開いた開口部へと運んだ。
キースは眼下にひそむものを見るにたえなかった。暗澹たる闇に投げこまれるとき、目をきつくつぶった。
最後に目にしたのは、魚の眼をした水夫たちの顔だった。インスマス面《づら》であることを知ったが、もはやどうすることもできなかった。
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第ニ部 その後
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「残念ながら、その件につきましては、疑問の余地はありません」ダントン・ハイジンガーがいった。「お亡《な》くなりになりました」
ケイ・キースは何もいわなかった。銀行の理事の執務室に坐り、自分の反応をひとつひとつ調べていた。ケイが強く意識しているのは、エアコンから送られる冷気、ハイジンガーの葉巻のにおい、分厚い遠近両用レンズの奥にあるハイジンガーのやぶにらみの目、ハイジンガーが机に置いた書類をめくりつづける音だった。
ケイの反応は――聴覚的にも触覚的にも嗅覚《きゅうかく》的にも視覚的にも――すべて正常なようだった。
しかしアルバート・キースの死を現実に知らされても、心のなかには何の反応も生まれなかった。
「ここに領事館からの報告書があります」ハイジンガーがしゃべっていた。「船長や水夫たちからなる目撃者の証言です。全員が警察とフランス政府当局によって個別に事情聴取され、その証言が細部にいたるまで照合されています」ハイジンガーはオニオンスキンの紙に複写された書類をまえにさしだした。「お調べになりたいのでしたら……」
ケイは首をふった。「お話を信用しないわけじゃありません。でも、南太平洋のまんなかで、酔っぱらって船から落ちるだなんて――アルバートらしくないことですわ。アルバートだと本当に確認されたんですの」
「ええ」ハイジンガーは葉巻を灰皿でもみけして、ケイをほっとさせた。「ロスでジェット機の搭乗券を買ったときまで、すべての行動があとづけられていますからね」
ケイは首をふったあと、カールしたブロンドの髪を気まずそうにかきあげた。「アルバートがそんなことをするだなんて思えないんです。どことも知れないところへあわてて行ったりして。アルバートが衝動的なことをするだなんて、想像もできませんわ」
ハイジンガーが肩をすくめた.「率直にいって、わたしもそう思いますよ。あなたのまえのご主人はとても几帳面《きちょうめん》なかたでしたからね」
「何か理由があるはずですわ……」
「そうですね」ハイジンガーがうなずいた。「問題なのは、どんな理由があったのか、わたしたちにはわからないということです。出発されるまえに、わたしに相談することもなさいませんでしたから。わたしからお知らせできることといえば、地震のあとすぐにやってこられて、わたしにおっしゃられたことだけです。二万ドルをひきだしてトラヴェラーズ・チェックにかえる手続きをなされて、普通ならやたら時間のかかるパスポートの更新を、銀行の力で速《すみ》やかにおこなってほしいとおっしゃいました。ほかにも、お留守のあいだに家を管理する不動産会社を紹介してさしあげました。一ヵ月分をまえばらいされて、それ以上家を明けるとはおっしゃいませんでしたから、わたしどもも一ヵ月のうちにはおもどりになると思っていたのですが。わたしの知っているのはそれだけです」
ケイは眉をひそめた。「でも、どうして、よりにもよってタヒチになんか行ったのかしら。それに、陸から何百マイルもはなれた日本人の船で、いったい何をやってたのかしら。アルバートは釣もしなかったし、アル中でもありませんでしたわ。最後に会って、一緒に食事をしながら離婚の条件を話しあっていたときだって、お酒は一滴も口にしなかったんですから」
「たしかそれは、三年くらいまえのことじゃありませんか」ハイジンガーがいった。「人はかわるものですよ」そういって、小柄な男はためらいがちに笑みをうかべた。「もちろんすっかりかわってしまうようなことはありません。まえのご主人が遺言《ゆいごん》を書きかえなかった事実に、お心が慰められるでしょうよ。あなたは財産を相続しているのですからね。遺言執行者として、わたしがただちに財産を調べる手配をしております。そういえば……」
ハイジンガーは机の右側の上の引出を開け、マニラ封筒から鍵のたばをとりだした。「これをどうぞ。家の鍵の予備です。玄関に勝手口にガレージの鍵がそろっています。一度ごらんになりたいかと思ったのですが」
「ありがとうございます」ケイは鍵をパースにいれた。
「わたしに相談することなく、何ももちださないでいただきたいのですが」
「わかってますわ」ケイは椅子を押して立ちあがった。「何かまだお聞きしておかなければならないことはあるでしょうか」
「いまのところはありません。もちろん貸金庫の鍵はわたしがおあずかりしています。どうやら生命保険はかけてらっしゃらなかったようですね」
「離婚が成立してから、契約を失効させたにちがいありませんわ」ケイは溜息をついた。「ひとりになったんじゃ、生命保険にはいっていても意味がありませんもの」
そういったときに、ケイははじめて感情のうねりを感じたが、それがどういう性質のものかはわからなかった。アルバートが死んだためによる悲しみだろうか。いや、正直なところ、悲痛のような激しい感情を呼びおこすことはできなかった。たぶんあわれみというのが真相に近いのだろう――遠いところでひとりきりで死んだ男に対するあわれみ。しかしそんなことをいえば、結婚していたときですら、アルバートはいつもひとりきりで、ケイの手のとどかないところにいたのだった。そのころにアルバートをあわれむことがあれば、そしてアルバートを理解してやることができていれば、死ぬようなことはなかったかもしれない。いまいましいことに、ケイは自分の感情のうねりが何であるかを知った――罪悪感だった。罪悪感がひとつの感情だとしたらだが。しかしどんなものであれ、ケイには罪悪感をおぼえるような理由などなかった。わかれた夫であろうとなかろうと、ケイはアルバートのことを実際には何も知らなかった。あんな人だったからとか、たぶんああいう人だったのだろうとか思って、なげくことすらできない。
ハイジンガーがすこしまえからしゃべっていることに気づき、ケイはびっくりした。
「……財産を調べおわったら、遺言の検認に必要な書類を弁護士につくらせます。またご連絡いたしますので」
「いろいろご配慮いただいてありがとうございます」
「たいしたことではありません」ハイジンガーが立ちあがって、ケイをドアに導いた。「わたしどもはあなたがたにお仕えするのが仕事なんですから」
ハイジンガーの薄い唇がほころんで、軽い笑みをうかべた。ケイはその笑みをコンマ以下まで解釈して、ハイジンガーに頭をさげると廊下に出た。
あの笑みの五パーセントは、相続財産の五パーセントに対するものなのだ。文句はいえないだろうと、ケイは思った。それでもまだ九十五パーセントは自分のものなのだから――いったい何があったのかをつきとめる責任もふくめてのことだが。
でもあたしには責任なんてないわ。ケイはそのことを思いだした。離婚でけりがついたのだし、それを証明する法的な書類ももっている。そんなものが何かを本当に証明するとしての話だが。いまいましいことに、なぜか罪悪感に悩まされてしまうのだった。
すべてを傍観するのが賢明なことなのだろう。遺言執行人と弁護士と税務署に財産の調査と相続税の処理をまかせたあと、九十五パーセントの財産をうけとってたのしめばいいのだ。ケイはアルバートを愛してはいなかったし、アルバートもケイを愛してはいなかった。たとえふたりがロミオとジュリエットや、アントニーとクレオパトラや、ソニーとシェール以来の素晴しい関係をもっていたところで、いまとなってはどうにもならないのだ。アルバートは死んでしまい、ケイはアルバートをよみがえらせることなどできないし、アルバートの死に釣が関係しているとしても……
釣に関係していること。
それなのだ。
足早に銀行の建物から暖かい日差のもとに出たケイは、寒気を感じていた。
ケイは身を震わせながら思いだした。
ピクニック場のまえでコロラド河の土手に立っている五歳の少女を。その少女は、州警察の警官たちが影になったところから、あるものを砂地の上にひきあげているのをながめている。ひっかけ錨が傷跡をのこしていたが、ケイの記憶に焼きつき、長い歳月にわたって心をむしばむのは、そんな傷跡ではなかった。ケイの悪夢にとりついてはなれないのは、痕跡のないことだった。ぬれた体をどさりと横たえ、水滴を土手にしたたらす、ふくれあがったなめらかなもの。長いあいだ水中にあったことで、人間らしさはすべて失われていた。ふくれあがった体は泥にまみれて灰色をしており、腕も足も大きな鰭《ひれ》のように指も爪先もない形のさだまらないものにかわりはて、魚が顔を喰いちぎっていた。
それこそが恐怖だった。人間の顔を喰いちぎる魚を思いうかべることこそが。五歳の少女はそれを目にして悲鳴をあげたが、いまもその悲鳴は長い記憶の通路をぬけてひびいている。
そう、近づかないでいるのが賢明なのだ。
しかし自分の車に無事に乗りこみ、駐車場からはなれるまで、ケイの足は震えていた。そしてケイは立ち去ることができなかった――逃げだすこともできなかった。もう五歳の少女ではないのだから――アルバートに思いをはせるのをやめることなどできはしない。アルバートの死と、どんなふうに死んだのかと思いめぐらすのを、とめることなどできるはずもない。アルバートが溺死した深みでは、魚が群れて、見つけだした肉を歯で噛みちぎり……
ケイは立ち去ることができなかった。逃げだすこともできなかった。
角を西にまがると、靄《もや》につつまれた丘を目指した。
峡谷に入ると、しだいに緊張がほぐれてくるのがわかった。心をきめたことが罪悪感と記憶の両方にとどめをさしたかのようだった。しかしそのふたつにかわって、既知感によく似たものが生まれていた。
まえにはこの道路を何度も通ったことはあるが、この三年間は一度もなく、記憶がぼんやりしたものになっていた。ケイは二度も道をまちがえ、行きどまりの道に入ったり、おなじところにもどってくる道に入ったりした。午後遅くの影がしだいに長くなり、そして夕闇が訪れようとするころ、かつて家庭と呼んでいた場所のまえにようやく着いた。
いや、家庭と呼んだりしたことがあったのだろうか。またしても既知感がした。この家のことはよく知っていたが、それでも過去の現実と結びつけて考えるようなことはしなかった。たぶんここで暮している夢を見ていたのだろう。もしかしたら他人の記憶をわかちもって、それを自分の記憶だと誤解していたのかもしれない。
ハイジンガーのいうとおりだ。人はかわるものなのだろう。
アルバートが変化したことに疑問の余地はなかった。ケイが一番よくおぼえているのは、結婚するまえ、つかのまのこととはいえ、アルバートが虚勢をはっていたことだった。いうならばケイを支配しようとする欲求のようなもの。普通なら欲望の強さをほのめかすものだろうが、アルバートの場合はそうではなかった。魅力的だと知ったものをすぐにも手にいれたがる、長いあいだ過度にあまやかされつづけた子供であることを示すだけのものだった。しかしケイはアルバートに所有欲の強い男でいてもらいたかった。自分が誰かのものになっているという感じが必要だった。不幸なことに、アルバートの衝動、もしくは本能は――実際のところはおそらく蒐集家の熱狂にすぎず――つかのまの現象にしかすぎなかった。どれほど魅力的なものであれ、子供は玩具に飽きてしまう。所有することに責任がともなうときはなおさらだ。アルバートはすぐにいつもの内向的な行動パターンにずるずるとすべりこみ、これが大きな要素となって、別居、離婚へといたったのだ。
しかしケイも変化していた。アルバートが自分の殻に閉じこもることが強まるにつれ、ケイの社交的な傾向が強まった。結婚したときには、ケイはおずおずした気の弱い孤独な女で、実業の世界との日々のふれあいに対処する力に自信がなかったし、自分のセックス・アピールにもまるで自信がなかった。十代前半から男たちに魅力的だと見られていたが、ケイの思いうかべる自分の姿はつねに醜いアヒルの子だった。そればかりか、白鳥になろうという欲望を意識してもったこともなかった。
そして皮肉なことに、アルバート・キースがケイを目覚めさせたのだった。肉体関係にアルバートはすぐに飽きてしまったようだが、それこそがケイに充足を求める欲求と自意識をもたらした。
しかしアルバートは応《こた》えてはくれなかった。アルバートがケイを求めることは少なくなる一方だった。アルバートの行きかたは白鳥のふりをする必要もないものなので、ケイも醜いアヒルの子のままでいてもよかった。一分《いちぶ》のすきもない洗練された装いをする、ウーマン・リブのまったく人工的な産物をまねる必要などなかった。
しかし皮肉なことに、これこそケイが自分のものにしようとしたイメージだった。ケイは退屈をまぎらすために大学の公開講義をうけるようになり、さらにはモデルの講義をうけて、ついにはモデルを職業とするようになった。
そのあとは当然のなりゆきだった。モデルから泥沼まではひととびだ。いや、心おちつかない一年があればいい。離婚することになったが、しごく円満なものだった――円満というのはアルバートがつかった言葉だ。アルバートはいつもまちがった行為に対してふさわしい言葉を見つけるのがうまかった――ふたりはそれぞれべつの道を歩んだ。
ケイのたどった道は楽なものではなかったが、過去三年のうちに一歩ずつ感情的な成熟にむかっていた。いまではそのことがわかっているし、満足してもいる。
しかし疑問に思わずにはいられなかった。アルバートはどんな道を進んだのだろうか、と。
玄関のドアを開け、そして居間に入ったとき、ケイはその答に直面した。
さらに正確にいうなら――つどう闇のなかに目にもあざやかに――答がケイの眼前にあらわれたのだった。奥の窓からさしこむ夕日の最後の赤い光が、壁にかけられた仮面のふくれあがった目や、ゆがんだ口を、まだらに染めあげていた。
つかのまケイは驚いて立ちつくしたが、目にしたものをこわがりはしなかった。薄闇のなかでぶらさがっている縮んだ首や、中国製の飾り箪笥にうずくまる小像にも、恐怖はおぼえなかった。
玩具であって、こわがるようなものではない。少年がコミック・ブックにのっている通信販売の広告で見かけて、注文するたぐいのものなのだから。仮面はプラスティック製の複製というより本物のようだったが、その怖ろしさは見せかけだけのものだった。縮んだ首も、実際には何であれ、おびやかされるようなものではなかった。
しかし、こんなものにアルバートはおびやかされていたのだろうか。こういったものに対する興味が強迫観念にまでなり、そして子供じみた空想の世界にひきこもってしまうほどに。
あたしは成長したわ。ケイはそう思った。アルバートは退行したのよ。
どうして。何があって、アルバートは現実に背をむけ、自分の殻に閉じこもるようになってしまったのか。
あたしがアルバートのまえにたまたまあらわれたのよ。そしてたまたま結婚することになったわ。アルバートはおりあいがつけられなかったから、手をひいてしまったのよ。あたしに顔をむけることができなかったから、顔をむけられるものを自分のまわりにならべたんだわ。見ることも話すこともしない仮面を。批判や軽蔑をすることのない目や口をもった仮面を。縮んだ首には縮んだ脳があるだけだから、自分の思い描くイメージをそこなうようなことを、こっそり考えこむようなことはないし。
ケイは首をふった。いったいあなたはいつから人をあれこれ批判する素人《しろうと》精神分析医になったのよ。でも、そうなのかもしれないわ。自分の問題を処理できない人がいまの世界にはみちあふれているようだもの。麻薬やお酒は現実と幻想の区別をあいまいにさせるけど、それだけでは十分じゃないのよ。恐怖を忘れ、日々の悪魔ばらいをなくしてしまうほど十分じゃないわ。だから顔のかわりにボールをバットでなぐったり、頭のかわりにボーリングのピンをたたきのめしたり、スクリーンをながめながら代償的な暴力行為にふけったりするのよ。
アルバートはそんな道を進みはしなかったが、それはそうする必要がなかったからにすぎない。他人の干渉をうけない不断の隠遁生活を確保するだけの金があったのだから。この隠れ場所で、アルバートは自分を安全のシンボルでとりかこむことができた。人と一緒に暮すことがこわければ、人のかわりに物と一緒に暮せばいい。死んだもの、死を思わせるとはいえ、思いどおりにできることで自分の存在をおびやかすはずのないものと一緒に。それを自分のものにしてしまえば、おびやかされることはない。
あなたはアルバートをゴムばりの部屋に収容されるような男にしてるじゃない。ケイはそうつぶやいた。アルバートは狂ってなんかいなかったわ。
しかし正気ではないことがアルバートに起こったのだ。家をとびだし、行方《ゆくえ》をくらまし、そして死んでしまったことは、およそ正気の沙汰ではなかった。
しかしこのことも合理的に説明づけられるのかもしれない。アルバートの逃避の欲望に密接にかかわっている理由があるのかもしれない。もしかしてゴーギャンを島にいざなったのとおなじ、極端に単純な解決法を探して、日常生活から物理的に隔絶した場所を求めてタヒチに行ったのだとしたら。おそらく地震が引金になって出発する決心を急にかためさせたのだろう。
もしそうなら、アルバートの死にまつわる謎さえも、簡単に消すことができる。アルバートは現代のタヒチが観光客相手に暴利をむさぼるところであることを知ったのかもしれない。船をチャーターして、さらに隔絶した島を探そうとしたのだろう。酒のことについていえば、単に暑さをしのぐためのものだったのかもしれない。ケイの記憶しているかぎり、アルバートは酒には弱く、太陽とアルコールのあわさった結果が、アルバートを無頓着にさせたのかもしれなかった。
無頓着。
いまこのうつろな家のなかに立って、白昼夢にふけっているケイも、無頓着になっていた。
もう太陽が沈んでしまい、闇がいたるところにあるのだから、白昼夢というよりは夜の悪夢といったほうがいいだろう。闇が部屋の隅からしのびだし、壁からわきだし床をはって、おびやかすようにケイを包みこんでいた。闇のなかでは仮面が口を動かし、飾り箪笥の小像がガラスごしに見つめ、縮んだ首の顔がゆがんでぞっとするような笑みをうかべるように見える。論理は白昼に花開くが、夜の訪れとともに闇にふれれば、たちまちしなびてしまう。そしてさらに暗い花が咲いて身をよじらせ、恐怖の香をはなつのだ。闇のなかで暗い花が揺れ、それとともに闇も揺らぐ。
いったい何を考えているのよ。ケイはばつがわるそうな笑みをうかべ、灯のスイッチのあるところへ近づいた。成熟しているのはいいことのようだったが、いまここでは、ケイはおびえた仔猫のように自分の影をこわがっているのだった。
ただそれはケイの影ではなかった。
この影は動いた。
玄関ホールからやってきて、ケイに近づいてきた。
「こんばんは、ミセス・キース」影がいった。「灯をつけていただけませんか」
ケイがスイッチを押すと、影が消えた。影にかわってケイが見たのは、おそらく三十五くらいのがっしりした体格の男だった。髪は短くかりあげられ、高い頬骨が灰色の目を細くさせ、分厚い胸が茶色の地味なビジネス・スーツをはちきれんばかりにしている。ケイはひと目でそれだけのことを見てとったが、この男がいることでこみあげる不安をはらいのけることはできなかった。ケイは何とか平静さをたもとうとした。
「あなたは誰なの――いったいこの家で何をしてるのよ」
「ベン・パワーズです」男がそういって、軽く頭をさげた。「ハイジンガーから聞きませんでしたか」
「聞くって、何を」
「ぼくは銀行の者ですよ。不動産管財部門を担当しています」パワーズは上着のポケットに手をいれて財布をとりだすと、財布を開けてなかにおさまっているカードを見せた。ケイはいらだたしそうに手をふった。
「どうやって家のなかに入ったの」
「たぶんあなたとおなじようにですよ」パワーズはまたべつのポケットに手をいれて、鍵をとりだした。「ぼくたちは予備の鍵をもっているんです」
「ぼくたちって」
「チームを組んでいるんですよ、ミセス・キース。この家の財産を調べあげているわけです――遺言の検認をおこなうときに提出する目録をつくらなければなりませんので」
「こんな時間にそんなことをするの」
「午後早くからずっといたんですよ。寝室にいました。あなたがいらっしゃったのが聞こえませんでしたから」パワーズはにっこり笑った。「音が聞こえたので、ちょっとのぞいてみたんです――こそ泥かもしれないと思いましてね。だからこっそり近づいたわけですよ」
「どうしてあたしだとわかったのかしら」
「写真を見ましたから。引出のひとつに古いアルバムを見つけました」
「ほかには何を見つけたの」
「たいしてありません。まえのご主人は念入りな記録をとるようなタイプじゃなかったようですね」
ケイは眉をひそめた。「よくわからないわ。財産調べといったいどういう関係があるのよ」
ベン・パワーズが飾り箪笥にある小像を指差した。「ああいったものにどれだけ支払われたかがつきとめられるかもしれないと思ったんです。どこから買いいれたかも。ご存じではありませんか……」
「悪いけど」ケイは首をふった。「ここにあるものの大半は、あたしが出ていってから買ったものばかりだから」そういって、腕時計に目をむけた。「出ていったといえば、そろそろあたしはひきあげるわ」
「ぼくもですよ。こんなに遅くなっているとは知りませんでした」鑑定人が玄関のドアにむかった。「車でおおくりしましょう」そういって、灯を消した。
ふたりして闇のなかに出ると、パワーズが玄関のドアに施錠《せじょう》した。ケイは小さな赤のホンダに近づき、連れに目をむけた。「あなたの車はどこに停めてあるの」そういった。
「下の道路ですよ」パワーズはケイに顔をむけて笑みをうかべた。「こういう仕事をしているときは、あまり人目《ひとめ》にたたないようにするんです。見なれない車が毎日のようにこの家のまえに停まっていたら、近所の人が不安がるかもしれませんからね」
「調べがおわるまであとどれくらいかかるのかしら」
パワーズは肩をすくめた。「話しあいをもてばけりはつくでしょう。あなたのお力を得ることで」
「あたしがどうして」ケイはパースから車のキーをとりだした。「二度とこの家にもどってくるつもりはないわ」
「そういうことじゃありません。ただすこし質問に答えていただければ……」
「でも、もう話したじゃない。この三年間にアルバートが買いこんだもののことは、あたしは何も知らないのよ」
「ほかのことはおっしゃっていただけるでしょう。家の購入値段は記録されていますが、家具や備品の値段や、あなたがなされたかもしれない改造のことはわかりません」ベン・パワーズはまた笑みをうかべた。「そうだ、いい考えがある。今晩ぼくと一緒に食事をして、何もかもにけりをつけませんか」
「本当に、パワーズさん……」
「あなたのためになることなんですよ。ぼくが報告書を提出するのが早くなれば、遺言の検認も早くおわって相続できるのですからね。できるだけ早くこの件にけりをつけたいのではありませんか」
ケイはためらった。パワーズがうなずいてうながした。「長くはかかりませんよ。約束します。それに、あなたも食事をしなきゃならないでしょう。ぼくと一緒になさればよろしいじゃありませんか」
「どこへ行くの」
「バートン・ウェイにレストランがあります――マックスウェルといって……」
「そこなら知ってるわ」
「よかった。店で会いましょう」
ベン・パワーズはケイに背をむけると、闇のなかに姿を消した。
マックスウェルの駐車場は明るい照明に照らしだされていたが、店内では闇が待ちかまえていた。テーブルに着くと、パワーズが店内の闇に目をむけたあと、ケイが眉をひそめていることに気づいた。
「どうかしましたか」
「何でもないわ」ケイはメニューに目をむけた。「ここがシーフード専門のレストランだってことを忘れてたのよ」
「魚が嫌いなんですか」
「どうしても好きにはなれないの」
「この店にはうまいステーキがありますよ。飲物もいいのがそろっています。ぼくが選んであげましょう」
酒が最初にもってこられた。そしてベン・パワーズがグラスをかかげ、闇のなかで笑みをうかべた。
「お亡《な》くなりになったご主人のことですが」パワーズがいった。「ご主人も魚がお嫌いだったんですか」
「どうしてそんなことをたずねるの」
「ただの好奇心ですよ。報告書から知ったんですが、釣に出かけられて事故にあわれたようですね」パワーズの笑みが闇のなかに消えた。「ご主人は魚が嫌いだったんでしょう、ミセス・キース」
「知らないわ。結婚していたときに、魚の料理をつくったことはないけど、それはあたしが嫌いだったからだし」
「アレルギーですか」
「いいえ。子供のころにちょっとしたことがあって……」ケイは顔をしかめて口をつぐんだ。「こんなことが財産調査とどんな関係があるのかしら」
「申しわけありません。しかしぼくは報告書に興味があるんですよ。報告書に記されていないことに興味があるといったほうがいいかもしれませんね。ちゃんとした情報がごくわずかしかないことを、不思議に思われませんか。こういう仕事をしていますと、くわしいことをつきとめたくなりがちなんです」
「家具やカーペットや備品について支払った金額ならお話しできるわ」ケイはこわばった顔をしていった。「話はそれだけにして、夫の好き嫌いのことまで話さなくてもいいでしょう」
「申しわけありません」パワーズはそういって、手帳とペンをとりだした。「食事がもってこられるまえにはじめましょうか」
パワーズの質問は型にはまったものばかりで、ケイは機械的に答えた。しだいに最初のいらだたしさが消えていった。いまでは何の問題もないところにパワーズを押しこめたという感じがした。
サラダとステーキがもってこられると、パワーズは手帳をポケットにおさめた。料理はなかなかのもので、ケイは実際にたのしんでいることに気づいて、いささか驚いた。ベン・パワーズは調査人の役割をやめてからは、夕食の相手としてたのしい人物であることがわかった。食事をおえて、食後の酒とコーヒーを飲んでいるころには、ケイはすっかり緊張を解いていた。そしていつのまにか、ベン・パワーズは結婚しているのだろうかと考えはじめていた。
「気分はよくなりましたか」パワーズが闇のなかからケイを見つめて笑みをうかべた。
「ええ、かなり。ありがとう」
「あなたが来てくださったことで、ぼくのほうこそお礼をいわなきゃなりませんよ。たぶんあなたは、死よりも怖ろしい運命からぼくを救ってくださったんです」
「どういうことかしら」
パワーズは首をすくめた。「ぼくたちの社会がひとりきりでやってくる客を冷たくあしらうことにはお気づきですか」
結婚していないんだわ。ケイはそう思った――そしてすぐに、話をつづけるパワーズの声に注意をかたむけた。
「ラスヴェガスのホテルの心そそる広告にしたってそうですよ。広告の一番上には格安の料金が大きく記されていますがね――しかし最後まで読めば、ふたり連れでなければ特典をうけられないことがわかるんです。そしてひとりきりでレストランに行けば、どれほど高級なところであれ、調理場のすぐ近くの小さなテーブルに坐らされるのがおちなんですから」
「だからあたしはシーフード専門のレストランを避けるのよ」ケイはいった。「ウェイトレスが出てくるたびに、魚をあげてるにおいがするから」
「ラヴクラフトも魚が嫌いでしたよ」パワーズがいった。
「誰のことかしら」
「H・P・ラヴクラフトですよ。作家の」
「聞いたことがないわ」
「本当ですか」ベン・パワーズは体をまえに乗りだした。
「ええ。どうして知ってなきゃならないの」
「たぶん亡くなったご主人からお聞きになったことがあると思っていたんですがね。ご主人と友人のウェイヴァリーさんは神話にのめりこんでいたようですから」
「神話ですって」
「気にしないでください」パワーズは椅子にもたれかかってグラスをあげた。
「どういうことなのか話してくれなかったら、気になるわ」ケイはグラスを置いて、闇のなかにいるパワーズを見つめた。「どうしてアルバートとウェイヴァリーが友人だったことを知ってるの。それに、それが夫の財産とどんな関係があるのよ」
「関係はありません。ぼくはまちがいをおかしたようですね」
「まちがいをおかしたのはあたしだわ」ケイはパースを手にして立ちあがった。
「待ってください……」
ベン・パワーズが立ちあがろうとしたが、ケイは手をふった。「おくってくれなくてけっこうよ」にべもなくいいはなった。「それに、もう二度とあたしのまえにあらわれないでもらいたいわ。わかったかしら」
「ミセス・キース、お願いですから……」
しかしケイはもう闇のなかを歩きだしていて、ふりかえりもしなかった。
闇はケイが車を走らせる通りにたれこめ、アパートの下のガレージにわだかまり、廊下にひそんでいた。
居間に入ったときもさらに闇が待ちうけていて、ケイは灯をつけて闇をけちらした。しかしその光にしても、ケイがもちこんだべつのものを追い払うことはできなかった――疑惑と不安の影を消し去れずにいた。
ケイは寝室に入ってパースの中身をベッドに落とし、ダントン・ハイジンガーの住所と電話番号を書きつけてある紙を探した。そういえば電話番号はふたつ書きとめてあるが、あとのほうが自宅のもののようだった。
目当のものを見つけると、ダイアルをまわした。
「ハイジンガーさんですか」
「そうですが」
「ケイ・キースです。こんな時間に電話をしてご迷惑でしょうけど……」
「かまいませんとも。どんなご用件ですか」
「アルバートの財産を調べている人のことを知りたいんです」
「誰ですか」
「ベン・パワーズという人です。今日の午後に行ったら、その人が家にいて……」
「家にですか」つかのま声がとぎれ、ケイはハイジンガーが首をふっているような感じをうけた。やがてハイジンガーがいった。「しかしそんなことはありえませんよ」
「どういうことですの」
「ベン・パワーズが家にいるはずがありません。あなたが立ち去られてすぐに、わたしは会いにいきましたからね」
「パワーズさんはどこにいたんですか」
「ピアース・ブラザーズ墓地です。二日まえに心臓発作で亡くなったんですよ」
夜のあいだ、ケイのアパートには灯がついたままだったが、影はあいかわらずのこっていた。疑惑の影が、目を閉じて眠ろうとしても深まりゆくばかりだった。
翌朝、ダントン・ハイジンガーに会いにいったときも、影はケイの目のなかにあった――職業モデルとしてさらにひどいことに、目の下にも影があった。
「お願いですから、あたしの顔を見ないでください」ケイは椅子に坐ったまま、はずかしそうにそわそわした。「ひどいありさまですけど、よく休めなかったんです」
「わたしもですよ」ハイジンガーがまえに置いたメモ用紙をたたきながらいった。「ピアース・ブラザーズ墓地から、いまもどってきたばかりでしてね。何もかも整然としているようでしたよ。わたしどもの銀行のわずかな者はべつとして、面会簿に署名している者は誰もいません。知るかぎりではベンには親戚もいませんので、財産はまだ金庫のなかにあるんです。財布や身分証明書も金庫のなかにあります。何者かが手にいれたということは文字通り不可能ですよ。財布と身分証明書を見せられたというのは本当のことですか」
ケイは首をふった。「本当のことをいうと、財布はちらっと見ただけなんです。まさか詐欺師だなんて思いませんもの」
「もちろんあなたがベンをご存じではないことにつけこんだんでしょう。そうでなければ、最初からそういう詐称《さしょう》をする危険はおかさないでしょうからね。おうかがいした人相からすると、その男と本物のベン・パワーズには類似点は何もありません。あなたを相手にベンをかたっても、危険はないと確信していたにちがいありませんね」
「でも、どうしてなのかしら」ケイは眉をひそめた。「あたしはあの人が家にいることを知らなかったんですもの。押しこみ強盗をするつもりだったのなら、あたしが出ていくまで隠れていればいいわけでしょう」
ハイジンガーがうなずいた。「そうですね。わたしたちはふたりとも、その男が家にいた動機を盗みだとは考えてはいないわけですが。そのことで、興味深い疑問がいくつか生まれますよ。その男はどうしてあなたの名前を知ったんでしょうか。どういうつもりであなたを食事に誘ったりしたんでしょうか。そしてその男が口にしつづけた、H・P・ラヴクラフトという人物は、何者なんでしょうか」
「さっぱりわかりませんわ」ケイはいった。
「わたしはひとつだけ答を知っていますよ」ハイジンガーはそういって、メモに目をむけた。「メイン図書館の参考文献係に聞いたところによると、ラヴクラフトは幻想小説や怪奇小説を書いた作家だそうです。一八九〇年にロード・アイランド州のプロヴィデンスに生まれて、一九三七年にそこで亡くなりました。短編小説が死後にはじめてまとめられたのは……」
ケイはすぐに手をふってさえぎった。「でも、あたしは聞いたこともありませんわ。ベン・パワーズと名のった人にもそういいましたけど」
ハイジンガーが顔をあげてうなずいた。「そのことをつきとめたかったのかもしれませんよ」
「おっしゃることがよくわかりませんけど」
「最初からたくらんでいたことだとしたらどうでしょう――家のなかに入りこみ、調査人として自己紹介して、あなたを食事に誘うことの何もかもが。あなたがラヴクラフトについて、どれだけのことを知っているかをたしかめるためだったのかもしれません」
「どうしてあたしが何か知っていると思ったりしたのかしら。何のつながりもありませんわ」
「たぶんアルバート・キースがそのつながりなんでしょう」ハイジンガーは椅子に坐った。「お亡くなりになったご主人は、幻想小説を読んだり集めたりすることに興味をもっておいででしたか」
「そういうたぐいの本を家で見かけたことはありませんし、アルバートが小説のことを口にしたこともありませんでしたわ」
「しかし仮面や小像は集めてらっしゃったんでしょう」
「あたしたちが一緒に暮しているときは、あんなものを集めたりしませんでした」
「なるほど」ハイジンガーはまたメモに目をむけた。「質問の角度をかえましょう。ご主人がプロヴィデンスで暮されたことはありますか」
「いいえ」
「プロヴィデンスに行かれたことは」
「行ったことがあるなら、口にしたことがあったはずだと思いますけど」
「ロード・アイランドに友人はいませんでしたか。手紙を送ってくるような人物は」
ケイは顔をしかめた。「何を考えてらっしゃるのかわかりますわ。でも、アルバートと、三千マイルもはなれたところで五十年以上もまえに死んだ人とは、何のつながりもありません」
ハイジンガーが溜息をついた。「そうでしょうね。ラヴクラフトは問題の鍵ではないようです。鍵といえば……」
ケイは小柄な男が机の引出から電話帳をとりだすのを見た。「どうなさるおつもりなんですか」
「錠前屋を見つけようと思いましてね。家に入りこんだのが何者であるにせよ、何を狙っているにせよ、錠をとりかえてしまえば二度と家に入りこむことはできないでしょう。家のほうはわたしが手配しますが、あなたもご自宅の錠をかえられたほうがいいでしょうね」
「やりすぎじゃありませんかしら。あたしはべつに危険にさらされているわけじゃありませんもの」
「はっきりそういいきれればいいんですがね」
「それなら、どうして警察に知らせないんですか」
ハイジンガーは弱よわしい笑みをうかべた。「わたしはおおげさに、もうそこまでしているんですよ。今朝早くシュナイダー巡査部長に話しましたからね。ダウンタウンの強盗課の担当です」遠近両用の分厚いレンズの奥にある目がメモを見つめた。「ここにあった――名前はラルフ・シュナイダー――書きとめておかれたいのなら、警察の電話番号は四八五の二五二四です。あなたに署に来ていただいて、手配書に目をとおしていただきたいといっていましたよ。容疑者を特定できるかもしれませんから」
「それだけなんですの」
「率直にいって、わたしが話したことにも、とりたてて興奮しているようではありませんでしたね。盗まれたものは何もないようですから、実際には強盗事件ではありませんので。押しこみをしたという証拠もありませんから、ただの不法侵入者が名前をいつわっただけのことになるわけです」
「それなら警察では何もしてもらえないんですね」
「ハリウッドの分署に連絡してくれていますよ。パトカーが家を監視してくれるでしょう。それに錠もかえたほうがいいといっています。錠をとりかえたら、すぐに新しい鍵をお渡ししますよ」
「それはどうも」ケイは立ちあがった。
「ダウンタウンにいらっしゃるのですか」
「考えておきますわ」ケイはそういって、手をふった。「お立ちにならなくてもけっこうです。でも、何かありましたら……」
「心配なさらないでください、ミセス・キース。すぐにご連絡いたしますから」
別れるときにうかべたハイジンガーの笑みは、ケイが出ていってドアを閉めると、すぐに消えてしまった。ハイジンガーはしばらくのあいだ、歩み去っていくケイの足音に耳をすましていた。
そして受話器に手をのばした。
ケイはアパートで受話器を手にすると、テレフォン・サーヴィスに電話をかけた。メッセージがひとつあった――コルビン・エージェンシイに電話するようにと。
ケイがそうすると、マックス・コルビンがいつものようににこやかに電話に出た。
「いったいいままでどこにいたんだ」のっけからコルビンはそういった。「説明しなくったっていいさ。もう正午だし、二時から仕事だからな」
「どこでなの」
「南ノーマンディの一七二六番地だ。星の知慧《ちえ》派の教会さ」
「何ですって」
「星の知慧派の教会だよ。ショッピング街でもらうビラに広告されてるような、いかれた団体のひとつだろうな。肩から上の写真を撮るモデルをほしがってるのさ――高価なドレスや宝石はなしで、普段着のままでいいそうだ。ベダードがもう話をつけて、きみがこの仕事をするなら撮影する手はずになってる。しかしまずきみに会ってみたいといわれたんだよ」
ケイは溜息をついた。「あたしの写真を見せるだけじゃだめだったの。あたしがオーディションを嫌いなのは知ってるでしょう」
「おいおい、きみは一時間で三枚の紙幣がかせげるんだし、時間がのびればいつもの超過手当がもらえるんだぞ。そのためなら、ちょっとがまんして、行ってくれたっていいだろう。相手はナイ神父だ」
ちょうど二時に、ケイは南ノーマンディ一七二六番地のまえにある、あいた駐車区画に車を停めた。しかしパーキング・メーターに硬貨をいれるときに、すこしためらってしまった。
二階建ての建物の幅広い戸口の上に大きな木製の看板があって、星の知慧派教会とはっきり読めたが、出入口の両側の大きな窓にかかっている赤い重たげなカーテンと同様、ごく最近備えられたもののようだった。ケイはこの石造りの建物が、以前は拝金主義のマモン神の神殿だったのだろうと思った――いや、それよりも、地元の貯蓄貸付組合が、もはやこのあたりでは業務ができないと考えて、立ちのいたのかもしれない。
しかしこのなかにいる誰かが、一時間の仕事に対して三百ドル支払ってくれるのだ。仕事に呼ばれたのだから、いやでも応じなければならず、ケイはパーキング・メーターに硬貨をいれた。
仕事はいやでもしなければならない。コールガールもそんなふうに思ったりするのだろうか。一時間三百ドルで体を奪う見知らぬ男との約束をまもるため、知らない場所に車でむかうときには。
ケイは戸口にむかうとき、少なくとも度合においては、写真とポルノにちがいがあることを思いだした。もちろんいいよられたり、色目をつかわれたりする可能性はある。ともかくそれは、この職業では避けられない危険だった。しかしネグリジェ姿やヌードで写真を撮ったりはしていないので、これまでのところ問題は何もなかった。SMとか縛りとかをやりたがる窃視《せっし》狂や変態は、もうモデルを雇ったりはしない。地元のマッサージ・パーラーや曖昧《あいまい》宿で満足できるのだから。
ケイはばつがわるそうな笑みをうかべた。何とすみやかにいまのライフ・スタイルになじんでしまったことか。いま考えていることをアルバートが知ったら、墓のなかで身もだえすることだろう。
ケイの笑みは、うかんだときとおなじように、すぐに消えてしまった。アルバートはもう何も知ることはできないし、墓のなかにさえいないのだ。何千マイルもはなれたところ、何千フィートもの海底で、魚たちに……
ケイはすぐにドアのノブに手をかけた。ノブは動かなかった。ドアがロックされていた。たぶんこれは吉兆で、良心を痛めないまま立ち去れるということなのだろう。そして踵《きびす》を返そうとしたとき、ドアの横にあるボタンが目にはいった。仕事で来たのだから。
ケイはボタンを押して待った。
建物のどこかでチャイムが鳴るのがかすかに聞こえた。その音色に応えてロックのはずされる音がした。
ケイはノブを握った。今度はまわってドアが開いた。ケイはカーテンにさえぎられた奥の部屋に通じる暗い玄関ホールに入った。左手のかたわらに二階にむかう階段がある。上から男の声がした。
「ミセス・キースですか」
「はい」
「あがってきてください」
階段に光が流れた。
ケイは自分を呼んだ男を見ようとして、前方を見すえながら階段をのぼった。しかし頭上の踊り場には誰もいなかった。階段の右側にある開いた戸口から光がこぼれていた。
「ここですよ」男がいった。
そして男はそこにいた。
ケイは小さな執務室に入り、あまりのちらかりように目をまるくした。四方の壁には書棚がならび、あふれでた書物がむきだしの床にも積みあげられている。ハードカヴァーやペイパーバック、雑誌や新聞のはいった段ボール箱が、隅に置かれたり、部屋の中央にある机の両側にでたらめにならべられたりしていた。
その机についている本の虫がケイを見てうなずいた。
「あなたに安らぎと知慧があらんことを」低い声でいった。その声にはどこのものとも知れないなまりがあった。
「ナイ神父ですか」
ナイが立ちあがり、白い手袋をはめた手をさしだした。
ケイはその手を握り、驚いたことを気づかれただろうかと思った。どうやら気づかれたらしく、ナイが笑みをうかべた。
「斡旋《あっせん》所の人から聞いておけばよかったですな」ナイがいった。「わたしが黒人だとは思っていなかったのでしょう」
ケイはひかえ目ないいかただと思った。たとえマックス・コルビンから聞いていたところで、心がまえはできていなかっただろう――こういったものに対しては。
ナイ神父は黒人に対する決まりきった形容がぴたりとあてはまる、まさしく石炭のような、スペードのエースのような黒人だったからだ。たぶんなまりは西インド諸島のジャマイカあたりのものなのだろう。しかし漆黒《しっこく》の肌の色、黒い服、どうにもつりあわない白の手袋のせいで、昔のミンストレル・ショーの司会役のように見えた。
ケイはどうにかナイの笑みに応えた。「斡旋所の人もあなたにいっておくことがありましてよ」そういった。「その人も黒人なんです」
「陳腐な話ですね」ナイ神父はふくみ笑いをした。「ともかく、人は学びながら生きるものですよ」そういって机をはなれ、本のはいった大きな段ボール箱をわきへ押しやると、そのうしろに隠れていたクッションつきのストゥールがあらわれた。そしてケイに坐るよう、うながした。
「ちらかっていて申しわけありませんな」ナイ神父がいった。「かたづけようとは思っているのですが、ひまがとれそうにないのですよ。学びながら生きることにかまけるあまりにね」ナイ神父は机にもどって、また腰をおろした。「わたしたちが区別をつけなければならないのは残念なことですな。学ぶことと生きることはひとつのことなんですから。そうでしょう」
「考えたこともありませんわ」
「考える人はめったにいません」ナイ神父は重おもしくうなずいた。「人は啓発させなければならないし、それがわが聖なる務めの目的なのです。星の知慧派の教えをご存じですか」
その質問にケイは不意をつかれた。「いいえ、ちっとも。最近では新しい運動がたくさんあるんですもの――クリシュナ教団とか、サイエントロジーとか……」
またふくみ笑いがおこった。「まったくちがいますよ。星の知慧派は新しいものではありません。星の知慧派の古代の教えは、いまある信仰のどれよりも古いものなのです。しかしもちろんそれが大事なところでして――他の信仰は学ぶことをしないために、実際には生きているものではありません。現代のテクノロジーの犠牲となって、死んでしまい、おわってしまったものなのです。仏陀《ぶっだ》が電気の何を知っていたでしょう。マホメットがわれわれに宇宙時代の心の準備をさせてくれたでしょうか。キリストがコンピュータに対応できたでしょうか。
「聖書、コーラン、タルムードは、すべて時代遅れのものになっています。それらに記された知識や掟《おきて》は、彼方の宇宙の現実を考えることのない、地上に縛られた生活をおくる、砂漠の遊牧民の生活様式にふさわしいものだったのです。現代のわたしたちがページをめくっても、現代の問題に関連するものは何も見つかりません。
「だからこそ、あなたがおっしゃるような新しい運動が生まれているのです。しかしその大半は、昔とおなじ解答をちがう言葉で提供しているにすぎません。無意味な解答をね。現代の生活の複雑さが瞑想を要求しますが、彼らは瞑想を考えるのです。そしてその形而上学的な装飾や心理学的な気取りがすべてあわさると、うんざりさせられる陳腐な言葉――汝自身を知れ――になってしまいます。しかしそれが可能だとして――意味深いものとしては不可能なことですが――自己を知ることにどれほどの意味があるでしょうか。われわれの救済の唯一の希望は、われわれの外なる世界、宇宙と星たちの世界にあるのですから。わかりますね」
ケイはうなずき、ナイ神父が何をいおうとしているのだろうかと思った。ナイ神父が説教師であることははっきりしているが、どうして自分に説教したりするのだろうか。
「かつて、はるかな昔、人類は自分たちについて、そして宇宙における自分たちの立場について、真実を知っていました。かつて地球の陸地がすべて単一の大陸を形成して、それが長い歳月のうちに分断されて漂っていったという、ヴェーゲナーの仮説はご存じですか。比較的新しい概念だと考えられていますが、星の知慧派は大昔からそれが真実だと知っていたのです。いわゆるUFO現象の背後にある現実も知っていましたし、外宇宙からの無線信号と呼ばれるものも……」
空飛ぶ円盤狂なんだわ。ケイはそう思った。この人は説教師じゃなくて、狂信者なのよ。
またふくみ笑いが聞こえた。「申しわけありません、ミセス・キース。つい我を忘れてしまって」
そして白衣を着た人たちに連れていかれるんでしょう。ケイは心のなかでそう思ったが、ナイ神父はそう考えているわけではなかった。
「ただ、あなたにわれわれの根本原理をお知らせしておけば、仕事をしていただくうえで役にたつかと思ったのです」
「肩から上の写真が必要だと聞きましたけど」ケイがいった。「新聞の広告におつかいになるんでしょう」
「そうです」机についている男が白い手袋をはめた手をふった。「しかし必要と望みとはべつものですよ。わたしは単なる魅力的な笑顔の写真以上のものを望んでいるのです。誠実さ、至福、真の理解を反映している顔を」
ケイはうなずき、自分の顔がいまはそのどれも反映していないことを痛切に意識した。古書の黴《かび》くさいにおいがたちこめるなか、白の手袋をはめたこのいかがわしい男にうんざりしていた。しかし――これが仕事なのだ。
「アル・ベダードは優秀なカメラマンですわ」ケイはいった。「いい写真を撮ってくれるはずです」
「あなたの目が澄みきっていて、知慧のきらめきがありさえすればいいんですがね」ナイ神父がそういって、体をまえに乗りだし、つくづくとケイを見つめた。「そのことでお願いがあります。今晩八時に、教会で星の知慧派の講話があるのですよ。耳をかたむけて学ぶ機会、理解する機会をもっていただけないでしょうか。また今晩ここへいらっしゃっていただけませんか」
無理よ。ケイはそう思って、すぐに立ちあがった。
しかし、口を開いたときには、ちがう言葉が出た。「もちろんそうさせていただきますわ」
ケイはどうにか執務室から出ると、階段をおりて戸口をぬけ、自分の車に乗りこんだ。西日のさすなか、車を運転しているときでさえ、あいかわらず何もかもがぼやけていた。
すべてがぼやけていたが、ただ、またやってくることについて、急に気持をかえさせることになったものだけはべつだった――立ちあがって、机のそばにある段ボール箱の本を見たとき、目にはいったものがそれだった。
一番上にある本の書名はケイには何の意味もないものだった――『アウトサイダーおよびその他の小説』など聞いたことがない。しかし著者の名前はH・P・ラヴクラフトだった。
「冗談なんだろう」アル・ベダードがむっとした顔で目を細め、薄汚れたフロントガラスのむこうを見つめながら、くたびれた助手席にケイを坐らせ、フォルクスワーゲンを運転して南ノーマンディのひどい通りを走っていた。「暗くなってからこんなところに来させるだなんて。とても安全とは……」
ベダードの言葉を強めるかのように、がらくたの山が前方にぬっとあらわれた。そのまえには黄色い木びき台が置かれて、先月の地震で被害の出た通りの修復がおこなわれていることを告げている。
ベダードがハンドルをきって左の障害物をかわし、うんざりしたように首をふった。
ケイはベダードに顔をむけて笑みをうかべた。「あたしをひとりで来させたかったのかしら」
「きみがこんなところへひとりで来るもんか」ベダードがいった。「この仕事の報酬はいくらなんだ――ニ、三百ドルくらいだろう。腹をたてる価値もないじゃないか」
「あたしを信じてよ」ケイがいった。そして右手の縁石に顔をむけて、顎をしゃくった。「あそこに停めればいいわ」
「このあたりの連中は信用できんよ」ベダードがいった。「車を停めて五分もしたら、あらいざらいもってかれるぞ」
そういったものの、縁石のそばのあいたところに車を停めると、ケイがおりてから窓ガラスをあげて閉めた。そして車のドアをすべてロックして、通りのむこうの建物をながめているケイのそばに行った。
あいかわらずカーテンが閉めきられて、窓のなかを隠していたが、正面のドアは開いていた。内部の照明が出入口の上にある木製の看板を照らしだしている。
ふたりして通りを横切るとき、ベダードが看板を見あげた。
「星の知慧派教会だって」ベダードがいった。「いったいこれは何なんだ。信仰復興の伝道集会のたぐいか」
「すぐにわかるわよ」ケイは腕時計に目をむけた。「さあ、八時すぎよ。もうはじまってるわ」
戸口に近づいたとき、ケイは内部から光とともに音がもれていることを知った――ぼんやりと聞きおぼえがあるような、甲高い笛の音色だった。やがて低音の調べがメロディにくわわったとき、何の曲であるかがわかった。ホルストの組曲『惑星』のなかの「天王星=魔術師の神」と呼ばれる楽章だった。信仰復興の伝道集会にはおよそふつりあいな曲だ。
しかし出入口をぬけて、カーテンの開いたところから奥の広間に入ると、生まれかわったキリスト教徒の集《つど》いではないことがすぐにわかった。
ケイは何の先入観ももっていなかった。たとえもっていたとしても、内部で待ちうけているものに対しては、何の心がまえもできていなかっただろう。
集会場は予想していたよりも広かった。内陣は建物の全長におよび、壁はすべて天井から床まで、黒いビロードのような布でおおわれている。おそらくこのカーテンは、会衆が坐る黒っぽい古びたオーク材の重厚な腰掛とともに、もともとは教会のものだったのだろう。たしかに教会としてつかわれているこの建物は、側壁に沿ってならべられた背の高い錬鉄の火鉢で香《こう》を燃えあがらせ、不安な思いをかきたてる鼻につく病的なにおいでもって、大気を息づまらせていた。
アル・ベダードもこのことに気づき、鼻に皺をよせた。「遺体安置所みたいなにおいがするな」低い声でそういった。
ケイはうなずき、腰掛をうずめている会衆に目をむけた。黒人が来ていることに驚きはしなかったが、ラテン系の者や東洋人が多数いることにはとまどった。さまざまな少数民族の者が、たとえ信仰のためであれ、何らかの理由でまざりあうことはそうあるものではない。
ケイは何らかの共通要素を脳裡に感じとり、それが何であるかをつきとめようとした。経済状態でないのはたしかだった――会衆のなかには、地味ながらさっぱりした装いの者もいれば、タンクトップ姿のヒッピー然とした者もいる。やがてケイはひとつの特徴を全員がわかちもっていることを知った。若さだ。会衆の大多数はティーンエイジャーで、三十をこえている者はひとりもいない。
奇妙なことに、会衆はおとなしく、若い戦闘的な者の集まりにはあたりまえのさわがしさがまるでなかった。ひとりのこらず頭上のスピーカーから流れる音楽に熱心に耳をかたむけ、広間の奥で一段高くなった演壇の両側にある、スポットライトの列が放つかすかな輝きを見つめていた。
演壇は両側にカーテンがおりて狭い中央部だけが見えるようにされ、そこには大きな書見台があった。書見台の背後は闇につつまれている。
ベダードがケイをうながした。「むこうへ行って坐ろう」そういって、腰掛の後方のあいている列を指差した。ケイはうなずき、ベダードとともに中央通路に近い席に坐った。
そのとき、音楽がかわった。曲がホルストからヴォーン・ウィリアムズにかわったとき、また知っているメロディなので、ケイは驚いた――『第六交響曲』の最終楽章だった。
ナイ神父はここへ来て耳をかたむけて学ぶようにいっていたが、たぶん正しいことだったのだろう。ケイはここへ来たことで、ナイ神父が音楽――そしてその効果――について心得があることをすでに知った。弱音器をつけた弦楽器の不気味な音色が、他の世界、生命のない惑星、死滅した遠隔の太陽といったイメージをかきたてるのだ。それ自体死にむかいつつある外宇宙のうつろな無限のなかで、毛玉のように回転している天体のイメージを。これこそ世界の終末の姿だった――大きな音も小さなうめきもなく、ささやきでもって世界はおわる。闇のなかにしみいるようにして消えるささやきでもって。
やがて静寂のなかで照明が消えた。
会衆からざわめきが起こった。誰もが永遠のうつろさを感じ、つかのまその一部になった。
しかしそれは一瞬のことにしかすぎなかった。
銅鑼《どら》のひびきが永遠をうちくだき、演壇に青白い光がきらめくとともに、赤いローブをまとった者が影のなかからあらわれた。
「汝らに安らぎと知慧を」
ナイ神父の声がとどろいた。神父は深紅《しんく》のローブの下から両腕をあげ、会衆に唱和させた。
「安らぎと知慧を」
「星の知慧を」
「星の知慧を」会衆が唱和した。
祈りの言葉と唱和。何よ、これじゃただのショー・ビジネスじゃない。ケイはそんなことを思った。
しかし効果はあった。
魔術のように効果があったのは、それが魔術だったからだ。音楽と香《こう》、闇と光、ローブと儀式――それらがあわさって、いつものように効果をあげていた。魔術師や妖術師が魔宴で呪文をとなえ、ドルイド僧が巨石墳のまえでルーン文字で記された言葉を朗吟《ろうぎん》し、呪医が密林でわけのわからない言葉をつぶやけば、たちまちにして魔術がはたらく。
赤のローブに身をつつむナイ神父は呪医ではない。しかし現代のマイクロフォンのまえで古代の仕草どおり白の手袋をはめた手をあげると、ひとつの出来事がおこった。個々の人間がひとつにとけこんで大きな集団になったのだ。会衆が信奉者になった。信奉者が信者になった。
ナイ神父がしゃべりつづけるかたわら、ケイはそれがおこるのを目にし、耳にした。またしても午後に会ったときのように、目にするもの、耳にするものが、妙にぼんやりしたものになっていった。
しかしナイ神父の口にする言葉そのものは、ほとんどケイの頭をすりぬけていたとはいえ、意味は歴然としたものであり、神父の声の低いひびきに喚起され、ぼんやりしたにじみからきれぎれにひらめくイメージのうちにたちあらわれていた。
アザゾース。ヨグ=ソトース。シュブ=ニグラス。それらの言葉は無意味な音でしかなかったが、その無意味な音は名前だった。それらがあらわす実体をきわめようとするはかない努力でもって、人間がつくりだした名前だった。
その実体とは旧支配者であり、外宇宙で誕生し、人類が原初の泥から立ちあがるまえに到来して地球を支配したのだ――旧支配者の欲望をかなえるべく、旧支配者に仕《つか》え助けるために、人類は旧支配者に命じられて立ちあがった。生命という賜物《たまもの》をあたえてくれた旧支配者によって、人間は旧支配者を崇拝し、旧支配者にしたがうために創造されたのであり、その関係を示す証拠がある。証拠はあらゆる国の伝説、そして最近になって復活した、他の惑星から<宇宙飛行士>がやってきたとするヴェリコフスキーの理論、さらにデニケンの<神々の戦車>――旧支配者が時空をよぎる旅をしたことの象徴――に認められる。
物理的な証拠も一部が現存しているし、今後発見されるものもあるだろう。不死の支配者である旧支配者の知慧と指示によって、人間がアトランティスやレムリアやムーをはじめとする、先史時代の失われた大陸にそびえたつ神殿や、聖書の告げる洪水によって破壊されたバベルの塔を築きあげているからだ。
この洪水こそが――巨大な彗星がいくつも通過したことによってひきおこされた激動のうちに、大陸が分断され水没した大変動の産物だが――旧支配者の神殿を崩壊させ、ものみなを押しつぶす逆巻《さかま》く大洋の下、あるいは極地の途方もない氷の下に、旧支配者を閉じこめたのだった。
どういうものか人間はごく一部が生きのびた。氷河が押しよせるはてしない時代にあって、獣的なあさましさのうちに生きのび、ごくわずかずつ進化して、ふたたび文明まがいのものをつくりあげた。しかし新しい文化のあいだでは、過去の一部が神話のうちに保存され、それがゆがめられて新たな信仰の基盤となった。知識の一部も保存された。ストーンヘンジ、ジンバヴェの石造建築物、マヤの神殿、アンコールワット、ピラミッドを造りだせる程度には。
新しい聖職団が支配し、古代の知慧を自分たちの目的にかなうように曲解した。旧支配者の存在そのものを否定して、その記憶を悪魔――アーリマン、セト、バール、セイタン――の仮面でおおったのだ。
しかし種族記憶をおおいかくすことはできず、それがなおも人間の夢にのぼったり、現代の絵画形態に反映したりしている。つねに集合的無意識が真実のいくばくかを保持して、それが今日でさえ異なった形で存在する。占星術とは星の影響を解き明かす術ではないのか――われわれの運命を支配するために到来した、旧支配者発祥の星たちの影響を。
つねに聖職者たちの策謀は真実をくつがえし、邪悪なものとしてしりぞけようとしている。人間が堕落したのは禁断のもの――知恵の樹の果実――を味わったためであるとして。そして洪水と大変動を罰としてもたらしたのは、単一であれ複数であれ、聖職者たちの神にほかならない。つねに新しい神の代弁者だと自称する者たちが、自分たちの知恵こそ唯一の知恵、自分たちの信仰儀式こそ唯一のやりかただと主張する。
かくして炎と血にまみれ、分派や分裂、戦争や征服、国家の分断、教義の抗争がおこっている――わずかな者が支配できるよう、多くのものが破壊された。そして信仰|篤《あつ》い者も迫害された。
しかし信仰篤い者はいまものこっている。つねに選ばれた小数の秘儀参入者がいて、人間である支配者による曲解や欺《あざむ》きにまどわされはしない。彼らは旧支配者をおぼえているのだ。
そして旧支配者も彼らをおぼえている。
旧支配者は死んではいないからだ。渺茫《びょうぼう》たる外宇宙をよぎることのできる実体は不死なのだ。うねる大洋の下の巨大な石造りの要塞に閉じこめられたり、広大な氷の下に埋められたりしていてもなお、知覚力をたもっている。悠久《ゆうきゅう》の歳月を閲《けみ》して眠ってはいるものの、旧支配者にあってはそんな歳月も刹那《せつな》にすぎない。まどろみつつ身じろぎして、夢をおくりつづけているのだ。そうした夢は信じない者の心には悪夢としてはいりこむ――しかし信じる者には、新たな信仰と、そして旧支配者がふたたび立ちあがって支配する日の、新たな希望をもたらす。
水没したルルイエで、大いなるクトゥルーは横たわったまま、星が正しい位置につき、解放の力がもどるときを待っている。そのときは間近にせまっており、その力は信者たちが長の歳月まもりつづけている秘密の文書にとどめられ、潜在的に保持されているのだ。この力、この知慧こそが、星の知慧に統合されている。
「われは汝らに福音をもたらそう」ナイ神父が唱えるようにいった。「倦《う》みつかれるほど待ちつづけるのはもうおわる。星座が宇宙の進路に群をなして集まっている。先月の地震はあらかじめ定められていたことの徴《しるし》だった。外部の力が形成され、未来をととのえようとしている。まもなく山が塵のようなものとなり、氷の障壁が溶け、海がその秘密をあらわにする。
「多くの者が死ぬだろう――いつわりの信仰をもつ聖職者たちと、人間が科学者と呼ぶいつわりの予言者たちは、彼らにしたがう者たちとともに死ぬだろう。彼らにとっては恐怖のときになるが、わが友たちよ、われらにとっては勝利のときになるのだ。信ずる者は救われる」
手袋をはめた手があがり、口にする言葉に応じたゆっくりした動きで、黒い顔のまえで揺れた。「一部の者にとって、これがまぎれもないたわごとと思えることはわかっている。冒涜《ぼうとく》的なものと思ったり、せいぜい迷信だと思ったりする者もいよう。そして汝らはこのおおぼらふきが何者かと思っておるだろう」
ナイ神父の声の調子が急に変化した。「それとも汝らは、このまぬけが何者で、したり顔で口にするおおぼらは何だと思っておるのか。みなの者よ、われらはもたらされているものを見いだそうとはせず、数多くの悲痛をもっておるのではないか」ナイ神父は笑みをうかべ、肩をすくめた。「しかしどういいつくろおうが、疑いは疑いだ。真実の道をさえぎるものなれば、とりのぞかねばならない。
「そしていまが真実のときなのだ」
しゃべっているあいだに、ナイ神父は手袋をはめた手を書見台のうしろにおろし、ふたたびあげたときには、収納箱らしきものをもっていた。
ケイはその長方形の容器を見つめた。幅は一フィートくらい、長さと深さは十八インチほどあって、歳月とともに光沢《こうたく》のでた黄色がかった金属でできていた。影になって半分しか見えないが、表面には身をよじる生物の図案が刻みこまれ、蓋には装飾の彫刻があった。
ナイ神父はその箱を書見台に置いた。会衆がざわめき、すぐに静まりかえった。ケイは会衆の切迫感と期待感を感じとり、群がる会衆のぬくもりから、恐怖のにおいをはらむ冷気がかすかにたちのぼるように思った。またしても何もかもがぼやけてくるようだった。
やがてナイ神父が箱のうしろを押した。蓋がはねあがり、ぼんやりしたにじみのようなもののなかから一条の光がひらめいた――金属製の容器の内部から、くるめくばかりの乱舞する光がひらめいた。
開いた箱を見つめるナイ神父の顔がその輝きにつつまれた。腕をのばして、その腕を揺らしながら声高にいった。
「旧支配者自身がのぼってくるように、海底よりのぼってきた旧支配者の賜物を見よ。汝らを自由にする、星たちからもたらされた真実の賜物を見よ」
ナイ神父は箱をまえにかたむけ、内部で光をはなっているものを見せた――大きな結晶体が、箱の内部の側面と底面から水平にのびる金属製の帯に支えられていて、その表面はすさまじい彫面に刻まれ、それがまばゆい輝きを会衆の目にそそぎこんだ。
ケイは目眩《めくるめ》く輝きから目をそらそうとしたが、のがれようがなかった。ぎらつく輝きが磁石のように目をひきつけるのだ。光がいたるところにあり、声がいたるところにあった。
声はその光の一部で、光は声の一部、すべてが夢の一部だった。そして夢のなかで、ケイは自分が結晶体の彫面のようにばらばらになっていくのを感じた。ケイの一部がながめ、ケイの一部が耳をかたむけていながら、自分の見たり聞いたりしているものにべつの部分が参加していた。
いまや声が詠唱《えいしょう》をあげはじめ、異様な言語による詠唱が、演壇の下にいる会衆に不思議な唱和をさせていた。喉にかかった低いうなりがまざりあい、ぶんぶんうなるような音になったあと、歯にかかった甲高い音になり、人間の声や言葉と似かよったところはまるでなかったものの、それでいてどういうわけか、もしもそれが言葉であるなら、その言葉の意味が感じとれそうだった。まさしく夢のなかで聞く声、眠っている者の頭蓋骨の反響室にひびく声のようなもの。そして奇怪なものであるにもかかわらず、馴染《な じみ》深いものでもあった。怖ろしいものであるにもかかわらず、完全な注意をひきつけるものであり、その声の称揚する力は安心を約束するものだった。言葉ではなく意味に耳をかたむけよ。真実に目を開けよ。信仰のために恐怖を投げうてば、未知なるものから理解がもたらされよう。
そして悪夢のなか、夢のなか、現実のなかで、ケイは声が信者たちをいざなうのを聞いた。まえに進めば結晶体の永遠の光によって清められ、真実の輝く力でもって悲しみや苦しみがいやされるのだと、声は告げていた。
つぶやきがおこり、動きがあった。影につつまれたものが立ちあがり、結晶体の置かれた書見台のある演壇のほうへと近づいた。足や目の不自由な者が声に呼ばれ、輝きにひきよせられた。彼らが足をひきずったり手探りしたりしてゆっくりとまえに進み、ほとばしる光のまえにひとりずつ立って、音と輝きをあびたあと、なえた手足をのばしたり目を開いたりして立ち去る一方、のこりの者たちは狂喜乱舞して……
「さあ、ここから出よう」
誰かに肩を揺さぶられ、ケイは目を開けた。ずっと目を開けていたはずなので、妙な感じがした――しかしいま目をしばたたいてみると、アル・ベダードがまえに立って心配そうに見つめていた。
ベダードが何かを口にしたが、ケイにはよくわからなかった。まわりにいる者たちの金切り声やうめきにかき消されたのだ。そしてそれらをしのいで詠唱があがり、緑がかった輝きが箱のなかの結晶体からほとばしっていた。
ベダードがケイの腕をつかんで立ちあがらせた。騒ぎたてる会衆から目をそらすとき、ケイは結晶体の光をあびている会衆の顔を最後に一瞥《いちべつ》した――青ざめた顔、浅黒い顔、黄色い顔、髭のある顔、目の小さな顔、口をぽっかり開けた顔が泣きわめき、ベダードにみちびかれて集会所から無人の通りの静かな闇に出るとき、恍惚《こうこつ》のひびきをたたえてケイの耳を襲った。
ケイはまだ完全には意識をとりもどしてはいなかった。感覚がぼんやりしたものになることが何度もあった。エンジンのかかる音がそんな感じをはらいのけ、ケイはアル・ベダードの隣に坐り、通りで車がUターンしてノーマンディを北にひきかえすのを知った。
そんなあいだも、ベダードがずっとケイに話しかけ、しっかりしろ、自分をとりもどせといっていた。ケイはベダードのいっていることに意識を集中しようとした。
「催眠術師だ。あいつはとんでもない催眠術師なんだよ。いまでもおぼえてるが、子供のころにシスター・エイミーの教会に連れてかれたことがあるんだ。シスター・エイミーはオルガンと簡単な暗示をつかっただけだが、おなじような効果をあげたな……」
集団催眠なのよ。そうにちがいないわ。ケイはそう思った。ベダードがしゃべりつづけていた。
「……あの結晶体をつかう、まやかしの催眠術師さ――箱のなかに電池で光をはなつものがしかけられてるんだ……」
ありうることだわ。ケイはうなずいて、常識的な説明をありがたく思った。
「……信仰療法をおこなう者はみんな、おなじものにたよってるのさ――ヒステリックな変人たちの集団に調子のいいことをいえば、連中はイエスにうったえかけて、松葉杖を投げすてるわけだ。もちろんあいつは手下もつかって、会衆のなかにまぎれこませてる。あいつのしかけがどんなものかはわからないが、今晩ああいうことをやったあとで、かなりの寄付をまきあげるはずだよ。集まってた若い連中をよく見たか。半分のやつは香《こう》にしびれてたじゃないか。そしてあのいまいましい香ときたら、マリファナみたいなにおいがしたぞ。あいつはみんなをトリップさせるためにあの香をたいてたんだ」
ケイはまたうなずいた。筋がとおっていた。ケイがひたすら求める意味があった。強い麻薬がつかわれたのなら、会衆の反応もなるほどとうなずけるし、会衆の構成も説明づけられる。ケイは薄れゆく夢の記憶をよみがえらせようとするかのように、見たり聞いたりしたことを何とか思いだそうとした。するとあの結晶体の彫面のように、さまざまな局面が断片的によみがえった。見つめる目。叫ぶ口。白、黒、褐色、黄色の肌をした若者たちの顔。
しかしまだ記憶から欠落しているもの、重要なもの、思いださなければならないものがあった。夢のなか、にじみのなか、詠唱がつづくあの部屋のなかにあったものだ。ほかのもの――若者たち――とはかかわりのないものを、ケイはつかのま目にしていた。
やがてそれが脳裡によみがえった。
立ちあがって、あの部屋を出ようとしたときのことだ。そのとき、ケイは顔を見た。部屋の奥の影のなかにあった顔――若くはない顔。
ベン・パワーズと名のった男の顔だった。
ベダードにアパートまでおくってもらったあと、ケイは小さな赤いカプセルを一錠飲んだ。
普通ならそんなものを飲んだりはしないのだが。実際のところ、そんなものを飲みたくなる誘惑を最小限にするため、薬をいれてあるキャビネットのなかで、一番上の棚の奥に隠しこむことまでしているのだから。赤い悪魔め、あたしのうしろにいるあなたをつかまえてやるわ。しかしどうしても眠れそうにないときがあって、そんなときにはカプセルの形で眠りを求めることが必要になる。ケイの知っているモデルはすべておなじだった。誰もが眠れる美女で、長い睡眠のあとで気分一新して目をさますことに、存在そのものがかかっている。睡眠なしでは美は色あせ、まぎれもない疲労の徴候がカメラにあばかれてしまう。カメラが現代のチャーミング王子であり、キスのかわりにシャッターの音で、現代の眠れる美女を目覚めさせる。
昨夜ケイは不眠の問題に直面したが、薬をつかわずにうまくいくわけもなかった。それをくりかえすのは問題外だ。しかし一番の問題は、ケイに影のようにつきまとう男の正体と、つきまとう理由、ナイ神父が何者で何を求めているかだった。
薬を飲んだことで、問題はすべて消えてしまった。寝室のなか、ケイが沈みこんでいく忘却、ネペンテス、小さな死のさらに暗い闇のなかに消えてしまった。
しかし眠ってもなお、あいかわらずつきまとうものがあった――パワーズと名のった男ではなく、オブリビオンという狂ったアイルランド人だった。その男が見まもっているかたわら、ナイ神父がケイに飲物、安らぎと忘却をもたらす飲物をあたえた。ただケイは忘れることがなかった――よくおぼえていた。暗澹たる闇のなかにひびきわたる不思議な詠唱をおぼえていた。
[#ここから2字下げ]
そは永久《とこしえ》に横たわる死者にあらねど
測《はか》り知れざる永劫《えいごう》のもとに死を越ゆるもの
[#ここで字下げ終わり]
いまではそれが何を意味するかがわかった。アルバートが死んではいないことを意味するのだ。いまのケイとおなじように、ただ眠っているだけで、死を乗りこえてふたたび立ちあがれるまで、うねる波の下で休んでいるだけのこと。赤い悪魔が青い深海からあらわれるとき、旧支配者が石造りの墓所や氷の埋葬所からあらわれて、自分たちのものを要求する。旧支配者の目がケイを見つめていた。何百万もの目が飢えをあらわにしてケイを見すえていた。何百万もの口がその飢えをみたそうとして開いていた。何百万もの触腕がうごめいて、ケイをとらえ、貪欲な目と胃袋にひきよせようとしており、詠唱が高まるなか、ケイは悲鳴をあげて詠唱をかき消した。
そして身を起こし、朝の日差をうけて目をしばたたいた。
十分に眠ったわけではないことを知るには、べつに鏡に顔を映してみるまでもなかった。セットするのを忘れていた目覚まし時計を見るだけで、必要とするもうひとつのこともはっきりとわかった。
十時だった。寝すぎてしまったのだが、それはいいことだった。つまりもう斡旋《あっせん》所は開いているので、マックスに電話をかけて、ナイ神父に求められたモデルの仕事はキャンセルするといえるわけだ。
ケイはそのことを考えながら、シャワーをあびて、服を身につけ、朝食をつくった。マックスはこの仕事をことわるためにそれなりの口実を必要とするだろうが、マックスにどういえばいいだろうか。本当のことがいえるはずもない――本当のことは夢にすぎないのだから。
いや、はたしてそうなのだろうか。
ひとつだけ、はっきりしていることがあった――昨夜、ベン・パワーズをかたった男を目にしたことだ。しかしそんなことをマックスが気にかけるわけもない。このことはダントン・ハイジンガーに知らせるべきだった。
たぶん最初にハイジンガーに話したほうがいいだろう。そしてそのあいだに、マックスにどういえばいいかを考えればいいのだ。もしかしたらハイジンガーが何かいい考えを思いつき、窮地からのがれるために利用できる策をさずけてくれるかもしれない。
しかしまずしなければならないのは、受話器をとりあげることだった。
ケイは受話器を手にして、銀行に電話をかけたが、つながらなかった。沈黙がつづくばかりだった。もう一度ためしてみて、電話の配線がきれていることを知った。しかしそんなことが。そは永久に横たわる死者にあらねど……
ケイは急によみがえった言葉に顔をしかめながら、受話器をもどした。朝の日差のなかで、夢は消え去っている。パニックにおちいったところで何の役にもたちはしない。なすべきことは、廊下に出て隣人がいるかどうかをたしかめ、電話をかしてもらって電話会社に修理を依頼することだった。
世界が破滅したわけではない。電話線がきれることは日常茶飯事なのだから。偏執的な考えはふりすてて、理性的な行動をすべきときだった。
ケイは立ちあがり、居間を横切って玄関に近づいたが、ちょうどそのときドアがノックされた。
「はい」ケイはいった。「どなたですか」
「パシフィック電話会社です。お客さまの電話が断線していますので」
「どうしてわかったの」
「アパートの管理人から苦情があったんです。調べさせていただけますか」
「どうぞ」
ケイは修理人をいれるためにドアを開けた。
部屋に入ってきたのは、ベン・パワーズと名のった謎の男だった。
男のそばをすりぬけて逃げだすことは不可能だった。男がドアを閉めてロックしたので、ケイはあとずさることしかできなかった。
「おびえないで」男がいった。
「おびえても当然じゃないかしら」ケイはどうにかおちついた声でそういうと、男が左手でつかんでいる、修理道具のはいったキャンヴァス地の袋を見た。本当に修理道具がはいっているのだろうか。
男がコーヒー・テーブルに近づいて、ふくれあがった袋をそこに置いた。ケイはまた一歩あとずさり、この機会を利用して、バスルームにかけこんで鍵をかけようかと思った。男が顔をあげて、首をふった。
「動かないで」そういって、袋のジッパーを開けた。「きみにもってきたものがあるんだ」
男が袋のなかに手をいれた。ケイは大きく息を吸いこみ、ナイフが出てきたら悲鳴をあげようと思った。
しかし出てきたのはナイフではなかった。
袋から出た手がつかんでいたのは、ペイパーバックの本だった。ケイには書名が読めなかった。背表紙に大きく記されている文字が目にはいっただけで、それは著者の名前だった。
「H・P・ラヴクラフトですって」ケイは小さな声でいった。
「さあ」男が本をさしだした。「読んでみたまえ」
「どうして読まなきゃならないのよ」
「いまおこっていることを理解しなければならないからさ」男は本をケイの手に渡した。「いま読んでくれないか」
ケイは首をふった。「あたしに必要な答は本のなかになんかないわ。あなたは誰なのよ。どうするつもりなの。あなたがベン・パワーズを殺したの」
侵入者はにっこり笑った。「いい質問だが、質問する順序がまちがってるな。まず、ぼくはパワーズの死には何の関係もない――パワーズは心臓発作で死んだのさ。信じられないのなら、調べてみればいい。のこりの疑問については、もう自分で答をつきとめているんじゃないかな。ぼくがパワーズの名前をつかったのは、きみに近づいて、亡《な》くなったご主人のことや、ご主人のこの事件とのかかわりについて、きみがどれくらい知っているかをつきとめるためだったんだ」
「今朝あたしの電話が故障したことはどうしてわかったの」
「ぼくが電話線を切断したからさ」男は手をあげてケイを黙らせた。「きみが軽率なまねをするかもしれないからね――モデルの仕事をキャンセルしたり、例の銀行の理事に話したりするようなことを」
「どうしてそうしちゃいけないのよ」
「そのことはあとで話す――きみがその本を読んでからね」
ケイはためらった。「あなたの名前をまだ聞いてないけど」
「ぼくはマイク・ミラーだ。名前なんてどうだっていい」
「最初からそういってくれたってよかったじゃない。どうして何もかもを秘密にするのよ」
「安全のためさ」
「あなたは政府の諜報員か何かなの」
「正式にはそうじゃない」
ケイはマイク・ミラーの目をみつめた。「ねえ、ミラーさん、それが本名かどうか知らないけど、あなたはあたしに嘘ばっかりついてるのよ。いまは本当のことを話してるといったって、証拠は何もないじゃない。どうしてあたしにあなたが信じられるっていうのよ」
「きみがぼくを信じようと信じまいと、どうだっていいことだ。ただその本を読んでくれさえすればね」
マイク・ミラーはキャンヴァス地の袋をつかむと、ふりむいて、玄関にむかった。ケイを見てうなずいたあと、ドアのロックをはずした。「時間を無駄にしないでくれ。午後にまた来るよ。ぼくと話をしたあとで、電話はまた通じるようになるさ」
そして行ってしまった。
ケイは閉ざされたドアを見つめ、ミラーがアパートの外の通りに出たと思えるころまで、自分をおさえて待ちつづけた。そして窓に近づくと、通りを見おろした。ミラーの車が走りだし、運転席にミラーの姿が見えるとほっとした。少なくとも立ち去ることについて嘘はつかなかったのだ。そしていま、ケイがすぐに行動したら……
ケイは窓辺をはなれ、玄関のクローゼットにむかいながら、本をコーヒー・テーブルに投げやった。棚からパースをとりだすと、玄関のドアに近づいた。ドアを開けて外に出ようとした。
男がまえに立ちはだかっていた。
影になっていて顔は見えなかったが、そんなことはどうでもよかった。まざまざとケイが意識したのは、男の右手に急にあらわれたように思える、銃身の太い拳銃だった。
「申しわけありませんが」男が低い声でいった。
ケイはあとずさり、男の面前でドアを閉めた。鍵をかけてドアからはなれ、パースをテーブルに置いて、ペイパーバック版の『ダニッチの怪およびその他の小説』をとりあげた。読まなければならないものなら、ゆったり椅子に坐ってたのしんだほうがいい。
ケイはソファーに腰をおろすと、腕時計に目をむけた。十一時だった。
やがてケイは本を開いた。
つぎに腕時計に目をむけたときには午後二時になっていて、誰かがドアをノックしていた。
「読んだかい」マイク・ミラーがたずねた。
ケイはうなずいた。「全部読んだわ」
「それで」
「すごい作家だったのね。あなたはそれを聞きたかったのかしら。本当いうと、あたしは幻想小説に興味をもったことなんかなかったのよ」
「ぼくもそうだったよ」
「それなら、いったいどういうことなの」
「ラヴクラフトが幻想小説を書いていたんじゃなかったとしたらどうかな」
ケイは眉をひそめた。「まさか小説を信じろっていうんじゃないでしょうね。どうしてあなたがあたしに読ませたがったかがわかったわ。ナイ神父の狂った信仰のよりどころなのね。ナイ神父はラヴクラフトの小説から名前――星の知慧派――まで借用しているんだから」
「『闇をさまようもの』だ」
「ええ。ナイ神父はその小説から、しかけのある結晶体を考えついたのよ。ラヴクラフトは輝くトラペゾヘドロンと呼んでたんじゃなかったかしら。ナイ神父は小説の描写をそのまま利用しているみたいね」
「なかなか効果的だったろう」マイク・ミラーがいった。
「ええ。ナイ神父がみんなをだましてることにまちがいないわね」
「きみの反応はどうだったんだね」
「あたしの反応ですって」ケイはためらった。
「信仰治療がつづいているあいだ、ぼくはずっときみを見ていたんだよ。きみはあの結晶体から目をそらせずにいたね」
ケイは肩をすくめた。「もちろんあれは集団催眠だったのよ」
「集団催眠とは何だね」
「どうしてそんなことをいうの。知ってるでしょう――インド人の奇術みたいなものよ。マジシャンが群衆をあざむいて、ありもしないものを見えるようにさせることだわ」
「どうやって」
ケイはいらだたしそうに手をふった。「そんなことたずねないでよ。あたしは心理学者じゃないんだから」
「そうだな」マイク・ミラーが笑みをうかべた。「心理学者は集団催眠にかかわるたわごとをずいぶんまえに投げすてているよ。マジシャンが観客の注意をほかにそらしたり、幻影を生みだす機械的なしかけをつかうことを知っているからね。しかしひとりの人間が集団全体を催眠術にかけられないこともわかっている。催眠術とはつねに一対一でおこなわれるものなんだ。そしてさまざまな理由から、ことのほか暗示にかかりやすい者がいる。そういった者が観客のなかにいるとき、舞台で誰かが催眠術にかけられると、おなじように反応することがあるかもしれない。しかしそういった者は例外だし、反応するといっても個人としてそうするだけだからね。集団催眠というようなものはないのさ」
「それなら、昨晩あの星の知慧派の教会でおこったことは何だったの」
「心理学者には説明のつけられないことだよ」
「ナイ神父が会衆のなかに仲間をいれて、にせの不具者になおったふりをさせたんじゃないかしら」
「ありうることだな。しかしあの現象はどうなんだね――まわりがぼやけて、夢のなかに入りこんでしまうように思えたことは。きみはそう感じただろう」
「ええ」ケイは眉をひそめた。「でもどうしてあなたは影響をうけなかったの」
「何を目にすることになるか、心がまえができていたからさ。ラヴクラフトの小説を読んで、何がおこるかわかっていたからだ」
「ナイ神父が本物の輝くトラペゾヘドロンをつかっていたというつもりなの――ラヴクラフトの書いたことが本当のことだっていうつもりなの」
「そうだよ」
「旧支配者についてのこともそうだっていうの――旧支配者も現実の存在だって」ケイはまた眉をひそめた。「あたしは信じないわ」
「信じないのか、それとも信じたくないのか」
「あなたはあたしをからかってるんだわ」
「きみが事実から顔をそむけているのさ」マイク・ミラーが立ちあがり、歩きまわりながらしゃべった。「そうだからといって、ぼくはきみを非難したりはしないよ。たいていの者は不快な現実を避けようとするからね。不快な現実があるのがわかっていながら、顔をむける気にはなれないのさ――去るものは日々にうとしといってね。
「ぼくたちは肉を食べることはよろこんで認めるが、その考えをそれ以上押し進めようとはしない。屠殺場に行って、ぼくたちの食欲をみたすために動物が殺されるのは見たくないんだ。
「ぼくたちは精神病や不治の病や死が存在するのをうけいれてはいるが、そのことを話すのはもちろん、考えることすら避けようとする。精神病院はもちろん、普通の病院にも近づこうとはしないし、葬式にすら出席したがらない者も大勢いる。
「ほんのすこしでも心を不安にさせるものを閉めだすよう、ばくたちは条件づけられているんだよ。『他人の問題』や『他人の不満』には耳をかたむけようともしない。現状の批判もふくめて、いわゆる『否定的な思考』をしりぞける学派が広くうけいれられている始末だ。極端に楽天的な思想が蔓延《まんえん》しているんだよ」
「それがどんなものか知らないけど」ケイがつぶやいた。
「すまない」ミラーが立ちどまって、ばつがわるそうな笑みをうかべた。「ぼくがこういったものに夢中になっていることは自分でもよくわかっているんだ。しかし心をかきみだすものに誰もが背をむけることが、たまらなく鼻につくようになってしまったのさ。うちなる声をステレオの音で閉めだし、麻薬なんかでうち消してしまうだなんて……」ミラーは大きく息を吸った。「こんなことを話していてもしかたがないな。もしかしたら、これが現実を避けようとするぼくなりのやりかたなのかもしれない」
「あたしには、現実に対するあなたの考えが、とても気味の悪いもののように思えるわ」ケイがいった。「あなたがいおうとしているのは、五十年もまえにパルプ・マガジンに作品を発表してた誰かさんが、実際には、安い原稿料で創造の秘密を暴露してたってことなんでしょう。まがいもののカルトの指導者が、寄付を得るために、その秘密を利用してるってことじゃないの」
「それだけのことだと思うのか」
「それ以外に何があるっていうの」
「それをきみがつきとめなきゃならないんだ」
「どうしてあたしがそんなことをしなきゃならないのよ」
「裏で何がおこなわれているかをつきとめられる機会のあるのが、きみだけだからだ」
ケイは首をふった。「そういうことをする諜報員がいるんじゃなかったの」
「いるよ。ここ何ヵ月かのうちに、二度にわたって諜報員をナイのグループにもぐりこませた――黒人とメキシコ系の者をひとりずつ、ナイの宗派に改宗したふりをさせてね」
「それでどうなったの」
「こっちが知りたいくらいさ。消息をたってしまったんだ」
ケイはマイク・ミラーをまじまじと見つめた。「それであなたは、あたしにもおなじ危険をおかせっていうの」
「きみの場合は、おなじことにはならない。きみにはちゃんとした入場資格がある。それにきみのほうからナイに近づいたんじゃなく、ナイがきみを求めたんだ」
「あたしがこの仕事をやりとおしたら、何かつきとめられるとでも思うの」
「それはわからないね。しかし少なくとも可能性はある。ひとつ注文を出すなら、ナイが本拠をどこに置いているかをつきとめたいんだ」
「教会の上に住んでるんじゃないの」
「あれは見せかけだけだ。もぐりこんだ仲間が消息をたつまえに、ニ、三報告をしてくれているんだよ。ナイはそのふたりを教化していたんだ――ふたりが価値ある人間になったら、宗派の高位につかせるために特別な場所に連れていくといってね。ふたりが消息をたったから、ぼくたちは教会をはりこみつづけて、ナイが教会をはなれるのを待ちつづけた。先週一度出てきたから、あとをつけたよ」
「どこへ行ったの」
「地下に駐車場のあるダウンタウンの貸しビルだ。地下の駐車場で車を乗りかえたか、どこかからこっそりぬけだしたんだろう。とにかく、尾行をまかれてしまったのさ」
「教会を手入れすることは考えなかったの」
「もちろん考えたさ」ミラーの声がけわしいものになった。「ふたりが消息をたったとき、チームの仲間がそうしたがるのを、ぼくは必死になってやめさせたんだ。これは最後の手段だからね。いったん行動に出れば、ぼくたちのことが気づかれてしまうだろう。それにナイか信者の誰かの口をわらせないかぎりは、ふりだしにもどってしまうわけだ。何をしようが、連中にしゃべらせることはできないような気がするね」
「でも新しい洗脳のテクニックについて読んだことがあるわ。ナイのとりまきから若者をふたりほどつかまえて、正気にもどしてやったら……」
「おいおい、ぼくたちが相手にしているのは、あたりまえの狂信者じゃないんだぞ。ぼくたちが目をひからせている男は、改宗者たちを意のままにあやつる方法と手段を身につけているんだ。そうにちがいない。あいつは大ばくちをうっているんだからな」
ケイは顔をあげた。「それだけ自信たっぷりにいうのなら、実際には何がおこなわれてるのか、察しがついてるんでしょうね」
マイク・ミラーがうなずいた。「だからこそ、きみにラヴクラフトの小説を読んでもらいたかったんだ。神々の使者について、ラヴクラフトが書いていることをおぼえているかい。神々の使者が地震や災害のただなかにどんなふうにあらわれて、世界の終末を予言するかを。それは赤いローブをまとう黒い男で、科学のことを話し、不思議な装置をつくりだして、力を誇示するのさ。そのことで誰かのことを思いださないか」
「ナイ……」
「ナイアーラトテップだ」
「ちょっと待ってよ。それはいただけないわ」
ミラーはうなずいた。「もちろんさ。しかしほかの者はそう思っているんだ。明らかにこの男はわざとナイの名前をつかっている――ごく内輪《うちわ》のもっとも敬虔《けいけん》な信者のなかでは、自分が本当にナイアーラトテップだといっているんじゃないかな」
「街の変人たちからお金をまきあげるためだけに、こんなばかげたことをするだなんて」
「それほど単純なことならいいんだがね」マイク・ミラーはまた歩きまわりはじめた。「しかしぼくたちの知っているかぎりでは、ごく内輪の者は一文なしなんだ。もっぱらスペイン人地区や黒人のゲットーから出てきた、麻薬におぼれる若者ばかりなんだから」
「でもお金が目当じゃないなら、ナイは何をほしがってるの」
「権力さ」ミラーの目が細くなった。「シーク・アル=ジェバルのことを聞いたことはあるかな」
「誰なの」
「山の老人だ。十字軍の時代にアラムートと呼ばれる要塞を築きあげている。この男に手出しをしようとした者など誰もいない――十字軍やサラセン人の軍隊さえもね。彼らはこの男に貢物《みつぎもの》をして、命令にしたがったんだ。権力をもっている男だったから。生と死を支配する力だよ。きみはこの男のことを聞いたことがないかもしれないが、この男の手先たちの名前は歴史に伝わっている。暗殺者《アッササン》と呼ばれたんだよ。
「この言葉はアラビア語に由来している。ハシュシャシンが大麻《ハシシ》とおなじ語源なのは、暗殺者たちが大麻づけにされたからなんだ。シークが若い男たちを補充して、大麻づけにしたあと、命令にしたがうなら永遠の生をあたえてやるというのさ。そして永遠の生を味わわせてやる。
「麻薬をやって若者たちが意識を失うと、シークは山頂にある秘密の花園へ彼らを連れていく。若者たちは目をさますと、自分たちが楽園にいるのだと思ってしまう――音楽、光、香、食事、酒、美しい娘や幼い少年のハーレムでもって、シークが若者たちを骨ぬきにするのさ。そして若者たちはこのトリップからもどると、こんなことをいわれる――これは見本のようなものにしかすぎないが、命令にしたがいさえすれば、死んでからでさえも、この楽園を永遠に自分のものにすることができるのだ、とね。
「それを信じる者はフェダイス、つまり忠実な者になり、あらゆる暗殺の方法を教えこまれる。そして命令をうけて旅立ち、宮廷や軍隊の野営地にもぐりこんで、真夜中に刺殺したり絞殺したりしたんだ。
「信じてもらいたいが、これはうまくいったんだよ。あまりうまくいきすぎて、何百人もの指導者や将校が死んだから、何千人もの者が生命おしさに貢物をしたほどさ。当時もうまくいったし、現代でだってうまくいくね」
「それがナイとどんな関係があるっていうの」ケイはたずねた。
「ナイなのかどうか確信はないんだがね。しかし何者かがこの戦術をつかっているのはたしかだ。テロリストの活動がそうだよ――ここニ、三ヵ月のうちに、重要人物が何人襲われたかを知っているなら……」
「そんなこと知らないわよ。新聞は読んでるけど」
「新聞にはのっていない。報道されたりしたら、街じゅうがパニックになってしまう」マイク・ミラーは顔をしかめた。「はっきりした証拠でナイの容疑をかためなきゃならないんだ。それもできるだけ早く。詐欺の嫌疑で逮捕しても意味がない――この背後に何があるかをつきとめて、命令をくだしている黒幕がいるかどうかをたしかめる必要があるからね。だから重要なことなんだ」
「あなたにとってはそうかもしれないけど、あたしにとってはそうじゃないわよ」ケイは肩をすくめた。「自分の生命を賭けるほど重要なことじゃないわ」
「ぼくはそうだと思うがね」
「ちゃんとした理由をひとつでもいってよ」
「いいだろう」ミラーがケイを見すえた。「犠牲者のひとりが、亡くなったきみのご主人のアルバート・キースだったんだ」
ちょうど三時に電話のベルが鳴った。
ケイは驚いて、とまどった目をミラーにむけた。
「修理されるといってあっただろう」ミラーがいった。「さあ、電話に出たまえ」
「もしもナイだったら……」
「どういえばいいかはわかっているはずだ」
ケイはためらい、ミラーが本当のことをいっているのだろうかと思った。それもすべてを話してくれているのだろうか。やがて電話のベルが執拗《しつよう》に鳴りつづけるなか、ケイが受話器をとりあげた。
「ミセス・キースですか」
「はい」
「こんにちは。ナイ神父です」
ケイはミラーに顔をむけてうなずき、電話をかけてきた者の名前を、声には出さずに口の動きで知らせた。そして耳をかたむけた。
ミラーはケイがときおり答える簡潔な返事が理解できないまま、じっとケイをながめつづけた。ケイがようやく受話器をもどすと、じれったそうに手招きした。
「何だって」
「今晩ベダードに撮影をしてもらいたいんですって。同意したわ」
「何時だ」
「七時半よ」
「場所は」
「自宅じゃないかしら。住所はランプトン・ドライブの四〇〇よ」
「聞いたことがないな」
「パシフィック・コースト・ハイウェイのはずれですって。マリブの北よ」
マイク・ミラーは顔をしかめた。「ナイのように尾行をまくような男にしては、自宅の住所をもらすとは軽率じゃないか。それとも、自信過剰なのかな」ミラーは受話器をとりあげた。「調べがつくかどうかたしかめてみよう」
ミラーはダイアルをまわして待った。
「十八号だ」ミラーがいった。「緊急に情報を提供してもらいたい――これからいう住所にある建物についてだ。ランプトン・ドライブ四〇〇。マリブ地区だ」
今度はケイが見まもる番だった。ミラーはしばらく待ったあと、聞いたことを復唱した。受話器をもどすと、ケイにふりかえってなずいた。
「思ったとおりだ。ナイはそこには住んでいない」
「どうしてわかるの」
「ランプトン・ドライブ四〇〇には住宅はない。そこにあるのは私設の博物館なんだ」
「博物館ですって」
「ニ、三マイル南にあるゲティ博物館みたいなものさ。しかしこいつは新しいやつだよ。どういう団体かはわからないが、プロビルスキイ財団とかいうものがつくったんだそうだ――そして公式には来月まで開館しないらしい」
「どういうことなの」
「どうやらナイは中継点できみに会うようだな。きみがそこへ行くと、ナイがきみをつかまえて、どこかべつの場所へこっそり連れだすつもりなんだろう」ミラーはケイの反応を予想して、安心させるように笑みをうかべた。「心配することはない。ぼくたちも今度はナイをのがすつもりはないからね。安全面にはおこたりなくするよ――通りの両側を監視させるし、裏口ものこらず監視させる。ナイがきみを連れだせば、きみは尾行されることになる。きみがひとりきりになることはないよ」
「ベダードのことはどうなの」ケイは首をふった。「こんなことにベダードが役にたつと思うの」
「ベダードはきみと一緒には行かないよ」
「でも……」
「もうマックス・コルビンに話をして、誰にももらさず協力する確約をもらってある。アル・ベダードのかわりをぼくたちの仲間にさせることにも同意してもらったよ。フレッド・エルストリーというんだが――きみももう会っているはずだがね」
「どこでかしら」
「ここの廊下さ。今朝ぼくが出ていったすぐあとでね」マイク・ミラーは玄関のドアを指差した。「心配しなくていい――プロのカメラマンじゃないが、ぼろを出さずにすむ程度にはカメラのことは心得ているよ。何かがおこったら、処理してくれるだろうが、問題は何もないと思うね。きみはただ目と耳を開いて、ナイに気にいられるようにして、ナイの活動についてわかることがあったら頭にいれておいてくれ」
「それだけね」ケイはいった。「小さな蝿になって、蜘蛛の居間にまっすぐ入りこんで、カメラのまえでは笑顔を忘れないようにすればいいだけね」そういって、怒りの目をミラーにむけた。「ほかにしてほしいことはあるかしら」
「あるね」マイク・ミラーが重おもしくうなずいた。「アルバート・キースのことを忘れずにいてもらいたい」
アル・ベダードとともに星の知慧派の教会に行ってから、まだ二十四時間しかたっていないとは、ケイにとってうけいれにくいことだった。
ある意味で、今夜のドライヴはほとんど昨夜のくりかえしのようなものだった。かならずしも同一のものだというわけではない。いま車は西にむかってサンタ・モニカとその手前のコースト・ハイウェイを目指しているし、運転しているのはフレッド・エルストリーだった。
ケイはエルストリーがいること、エルストリーが武器をもって油断なくしていることをありがたく思った。感謝の気持が今夜と昨夜のちがいを強調した。昨夜は目的地と、そこで目にすることになるものについて、ただ好奇心をもっているだけだった。今夜はこわかった。
アルバート・キースのことを忘れずにいろというミラーの助言も、何の役にもたたなかった。ある意味で、事態を悪化させただけだった。もしもナイがキースの死に何らかの責任があるのなら、わかれた夫を殺した者に会いにいくのがわかっていることで、どんな慰めが得られるだろう。
フレッド・エルストリーが黙っていることから、ケイは慰めを得ていた。エルストリーの沈黙は、有能さ、なすべき仕事があって、それをどうおこなうべきか心得ている男の自信をうかがわせた。
エルストリーは車の運転もたくみだった。車が急にむきをかえ、ハイウェイに通じる傾斜路をくだっていくとき、そのハンドルさばきには、後部席に置かれた撮影器具のはいっているバッグが動くほどのぎごちなさもなかった。しかるべきときが来たら、撮影器具もおなじようにたくみにあつかえるのだろう。ケイは急にそう確信した。エルストリーはたぶんすらすらとカメラマンの役割をはたすことだろう。だから怖れるようなことなどあるだろうか。
「霧だ」北にむかっているとき、エルストリーがいった。「どこからわきだしたのかな」
もちろん海からにきまっているし、それこそケイの怖れるものだった――海と、海が生みだすもの。溺死体《できし たい》が波の下でゆらゆらと動いたり、海面にうかびでたり、陸地にうちあがったりする。前方のハイウェイで渦を巻き、幽霊じみた灰色の波打つカーテンのようになっている霧の背後にひそんでいるのだ。溺死体。アルバート・キースもそんな溺死体になったのだろうか。
ケイが目をしばたたいたのと同時に、エルストリーが車のヘッドライトを弱くして、用心深くスピードをおとした。「気をらくにしたほうがいいね」
ケイはうなずいた。そうよ、気をらくにするのよ。アルバート・キースのことは忘れなさい。アルバートは死んでしまったし、あなたは生きているんだから。それが大事なことなのよ。
北に進むにつれ、ハイウェイを走る車の数はへり、霧は深まる一方だった。右手に高い崖がぬっとあらわれ、その上に建つ家屋の窓には灯ひとつ見えなかった。左手の海側にも住居が建ちならんでいたが、その灯も灰色の霧に隠されていた。大気は冷たくねっとりしている。エルストリーがケイの様子を見て、運転席側の窓ガラスを閉めきった。しかしケイを震えさせたのは冷たい湿っぽさではなかった。
「がんばってくれよ」エルストリーがいった。「これ以上ひどくはならないはずだからね」
ケイがフロントガラスごしに見つめるなか、車は浜辺に建ちならぶ小屋のそばを通りすぎ、そのむこうの広がりに出たが、そこでは左手の土地が、いまでは道路からはるか下にある海へと急にきりたっていた。下には人家もなく、陰鬱な静まりかえった海から、霧がうねりながらたちのぼってくるばかりだった。やがて角をまがると、ひとつの建物が前方にぬっとあらわれ、崖の端に建っているありさまはまるで……
「『霧の高みの不思議の家』だわ」ケイがつぶやいた。
エルストリーが素早くケイに目をむけた。「何だって」
「何でもないわ」そういうしかなかった――本で読んだ小説のタイトルにしかすぎないのだから。ラヴクラフトの短編小説のひとつで、古い家に住む老人が海の旧支配者とまじわるというものだった。
フレッド・エルストリーもラヴクラフトの小説を知っているのだろうか。ケイはそうではないことを願った。いつものやりかたでもって、いつもの警備の仕事を実行することに気をくばってくれるほうがよかった。不安をおもてに出したことがエルストリーを神経質にさせたかもしれず、ケイはそのことが気にいらなかった。
「大丈夫かい」エルストリーがいった。
「もちろんよ。この霧からぬけだしさえしたら」
「さあ、着いたぞ」エルストリーがハンドルをきり、車が左にまがって狭い私道に入っていった。すぐそばのハイウェイの路肩に、一台の小型トラックが停車していた。運転席には誰の姿もなかったが、そばを通りすぎるとき、小型トラックのヘッドライトが素早く明滅した。
「仲間だよ」エルストリーがいった。
ケイは顔をしかめた。「一台だけなの」
「一台だけだというのは、出入口が一箇所しかないことを意味するわけだ」エルストリーが安心させるように笑みをうかべた。「すべて調べはついている。もしもぼくたちの知らない出口があるのなら、ミラーがそこに目をひからせているさ」
「もっと先にほかの車があるかもしれないわ」ケイはいった。
しかしほかには何も見あたらなかった――私道の一番奥にあるむきだしの駐車場を、霧がつつみこんでいるだけだった。そして霧のほかには、むこうの崖の端に、不思議な見なれない建物があった。
よく見てみると、住居などではないことがわかった。白い石造りの窓のない低い建物が、背景の霧とほとんど見わけがつかないほど溶けこんでおり、車が停まっておりてから、ケイはようやく、屋根がドーム状になっていて、正面入口が階段の上にあることを知った。いま目にするのはまさに博物館の姿で、たとえまだ何らかの疑いがあったとしても、黒っぽいオークの戸口に備えられたブロンズの銘板がそんな疑いを吹きはらった。
エルストリーが撮影器具のはいったふたつのバッグを後部席からとりだし、ドアを閉めてケイのそばにやってきた。そして目を細くして銘板を見つめた。
「プロビルスキイ財団か」エルストリーがつぶやいた。「博物館にしては妙な名前だな。ポーランドのコルセットみたいなひびきがするじゃないか」そういってから、ケイの顔を見て笑みを消した。「すまない。こういう冗談をいうときじゃなかったな」
ケイはうなずいた。「この博物館の見かけが気にいらないわ」
「こういえば気が休まるかもしれないな。予備調査はもうすませてある。財団は合法的なものだよ――シュリーヴポート出身の石油王、ドナルド・プロビルスキイが、一九七四年に税金対策のひとつとしてつくったものなんだ。プロビルスキイは二年まえに亡くなった。未亡人のエルジーが相続して、管財人として財団を運営している。この土地が購入された日付や、まえの所有者にくわえて、博物館を建てる申請や許可の記録まで調べあげてあるよ。そこそこのリベートが支払われているほかは、ごく普通の取引で、法律に違反しているところはない。J・C・ヒギンズがこの仕事をひきうけたんだ――ロング・ビーチの大きな建築会社だよ。この博物館は公式には来月オープンすることになっていて、開館するのは週に四日間だそうだ。学芸員の誰かはワイオミング大学の付属図書館からひきぬかれたらしい。これですこしは気分がよくなったかな」
エルストリーの実際的な口調と話の内容には安心させられるところがあった。ケイは感謝の笑みをうかべた。
「ええ。ありがとう。ところで、ここはどういう博物館なのかしら」
「すぐにわかるさ」
エルストリーがドアのそばにあるボタンを押した。博物館の内部でチャイムが鳴るかたわら、エルストリーが声をひそめていった。「冷静になるんだよ」そういった。「心配するようなことは何もないからね」
アルバート・キースとアルバートに起こったことをべつにすれば、たしかにそのとおりだった。
ドアを開けた若者は見なれた姿をしていた。何年にもわたって、ケイはこういう若者を、キャンパスの売店や街の通りで何千人となく目にしている。ジーンズとジャケットを身につけ、髪はのびほうだい、上唇と顎の上が髭におおわれている若者は。みんなおなじように見えるだけではなく、言葉づかいまでおなじで、おなじ刺激をうければ一様な反応を示し、おなじドラムにあわせて行進する――これらの若者にあっては、ドラムというよりはエレキ・ギターだが。そしていまひとつ共通することがある。誰もがひとりのこらず、自分のユニークな個性に誇りをもっているのだ。
ケイはこういうわけで、目の前にいる若者が、昨夜星の知慧派の教会にいた若者のひとりだと思ったが、はっきりそうだといいきれる確信はなかった。たぶん若者が口をききさえすれば……
しかし若者は何もいわず、ただうなずいて、幅広い戸口のむこうの調度ひとつない明るいロビーに入るよう、手振りで示しただけだった。
いまや星の知慧派の若者たちがこの博物館にいることには、ほとんど疑いもなかった。ロビーの雰囲気には、ただ温度だけによるというより、建築の構造による独特のひややかさがあった。むきだしの白い大理石の壁と、そびえる柱の堅苦しさが、視覚的な寒ざむとした既知感を生みだしている。とどめはカーペットの敷かれていない床にひびく足音だった。ケイはどこの博物館を訪れてもおなじようなひびきを耳にしている。
しかし両開きのドアからつぎの部屋に入ったとたん、馴染深さは消えてしまった。その巨大な部屋は、高い天井に接する間仕切りのくぼみに置かれたランプにほのかに照らされているだけで、天井そのものは建物の外部の円形のドームとは似ても似つかなかった。ドームの形状をしているのではなく、壁に相当する三角形の石の板が四枚、するどく傾斜してのびて、一点で接しているのだった。
いま立っているのは、小さなピラミッドの内部であるらしい。
そのことに気づいているのだろうかと思って、ケイはエルストリーに目をむけた。どうやらそうらしく、にっこり笑ってこうささやいた。「わかっていればよかったのにな。切れあじのわるくなった剃刀《かみそり》をもってくるんだったよ」
ケイは笑みをうかべようとしたが、部屋にあるものを目にして顔をこわばらせた。この部屋の建築上の着想に疑問を感じたとしても、四方の壁の影のなかと、そこに備わっているものにかき消されてしまった。
大理石の床に置かれた陳列用のガラス製キャビネットのなかにはいっているものは、エジプト学の選択科目を履修《りしゅう》したことで、ケイにもぼんやりと馴染のあるものだったが、かろうじておぼえている言葉や絵がいまやはっきりとした現実になった。
ひとつのキャビネットにはエジプト・コブラの象徴をおびた大きな石柱がおさめられ、いまひとつには、再生の不死鳥のシンボルである羽をのばしたベンヌが立ち、ほかのキャビネットには、パピルスの巻物や、ブロンズの銘板や、葬儀用の壺がおさめてある。こちらには最後の審判のために死者の霊魂を冥界《めいかい》に運ぶ聖なる船のミニチュア・モデルがあるかと思えば、あちらには死者があとにのこしていくものの実物大の展示物がある――死んだ者の肝臓、肺、胃、腸をおさめる四個ひと組のカノーポス壺だ。それらの内臓がとりのけられた体がいくつも、ミイラの棺《かん》に横たわっているが、心臓はまだとりのぞかれておらず、何世紀もの歳月をまどろみながら傷ひとつなく、死者を裁く四十二神に直面したとき識別《しきべつ》できるように、顔はすべて注意深く保存されている。
そして三角形をした壁のまえに立ちならぶ、真鍮《しんちゅう》、ブロンズ、石の大きな像は、人間の体と動物の頭を備える彫像だった――エジプトの神々である。
こちらには牡牛の頭をしたアピス、角のあるハトール、鰐の鼻面をしたセベクと鷹の嘴《くちばし》をもつホルスが立っている。バスティトと母なるセクメトが野獣の鉤爪をむきだしにしてうずくまり、トートのトキを思わせる横顔とアヌビスのジャッカルの鼻面がほのかな灯のなかにうかびあがっている。そしてそのそばでは、ネクベトの禿鷲の顔が、牡羊の頭をした偉大なアモンを、スカラベの頭蓋骨をもつケプリを、蛇神ブトを、まがまがしい動物の顔をもつ邪悪の権化《ごんげ》セトを、ひややかに見おろしていた。それらにぬきんでてそびえているのは、羽毛のローブをまとう彫像で、ウアスの笏《しゃく》をもち、アテフの冠をいただいていた――死者の王、オシリスにほかならない。
オシリスがまじまじと見つめた。そして動いた。
それが闇から進みでたとき、ケイはあえぎをもらしたが、やがて動いたのが彫像ではなく、そのまえの影のなかにひそんでいた男であることを知った。
「汝らに安らぎと知慧《ちえ》を」ナイ神父がいった。そしてケイにむかってうなずいたあと、白の手袋をはめた手をフレッド・エルストリーにさしだした。
ケイがあわててエルストリーをナイに紹介して、自分の連れに上品な笑みをうかべさせるとともに、黒人の顔をごくわずかにしかめさせた。ナイが問いかけるようにケイを見つめた。
「昨夜あなたと一緒に教会にいらっしゃったかたではありませんな」
「ええ――ベダードはほかの仕事でサンディエゴに行かなきゃならなかったもんですから」ケイはエルストリーに顔をむけてうなずいた。「フレッドの仕事にきっとご満足がいただけると思いますわ。ポートレイトを撮影することでは、優秀なカメラマンですから」
「それはよかった。しかしこの仕事の目的は承知していらっしゃるのかな」
「ええ、あたしから話してあります」
「よろしい」ナイが髭面《ひげづら》の若者に手をふった。「おまえはもう行っていいぞ、ジョディ」若者は身動きひとつせずに立ちつくし、壁に立ちならぶ彫像を見すえていた。
ナイの声がけわしくなった。「ジョディ――行くんだ」
ぼんやりしていた目が揺らぎ、若者はすぐに頭をさげた。そしてふりむいて、ケイの疑惑をかためるすべるような独特の足取りで、ドアにむかっていった。
何かで幻覚状態になってるのよ。マイク・ミラーが教えてくれた暗殺者のことを思いださなきゃ。
そのことでミラーのいったことが事実とすれば、おそらくのこりのことも事実なのだろう。この博物館は中継点にすぎないのだ。ナイがこっそりケイとエルストリーのふたりを、ほかの場所へ連れだそうとするはずだった。
「さて、はじめましょうかな」ナイがいった。「撮影の準備をしてくださるのなら……」
ナイ神父はそういいながら、部屋の奥まで行ってスイッチを押した。急にまばゆい光が部屋にあふれ、ケイは目をしばたたいた。
連れだされることについてミラーはまちがってるんだわ。のこりのこともまちがってるかもしれない。
つかのまケイは混乱してしまったが、まばゆい光が迷いも影もかき消していた。光の輝きが部屋を暖かくして、不気味な彫像を無害な彫刻作品にかえた。まだグロテスクなものではあったが、もはやおびやかされるようなところはなかった。
おそらくそれがすべてに対する解答なのだろう。グロテスクなものではあってもおびやかされるものではない。すべてはナイのペテンの一部なのだ――宗派のためのこけおどしにすぎない。ケイがモデルとして撮影される写真さえ、広告としてつかわれるものであって、だまされやすい者をひきつける見せかけだけのものなのだ。またしてもある考えがケイの脳裡をよぎった――すべてがショー・ビジネスのいまひとつの形態なのだと。
何を考えているのだろうと、ケイはフレッド・エルストリーに目をむけたが、エルストリーの反応を読みとることはできなかった。エルストリーはすでにふたつのバッグを開けて、携帯用の照明器具をとりだしていた。スポットライトを支えるスタンドの伸縮する脚をのばし、ユニットに接続されたコードの輪をほどき、床にのばしてコンセントにさしこんだ。エルストリーが本当のプロのカメラマンのように作業をしているのを見て、ケイの不安は消えてしまった。エルストリーはこの仕事をあたりまえの撮影と思えるようにさせていた。
まさしくあたりまえの撮影のようなものになったことで、ケイはさらに驚かされた。
ナイ神父が満足そうにうなずいた。「準備はおわりましたかな。よろしい。さて、はじめるまえに、この場所を選んだ理由をお話ししましょう。財団を運営されている女性がたまたま星の知慧派の信者でして、親切にもこの博物館をつかう許可をくださったのです。ここにある彫像をうまく利用できるでしょうし、おさしつかえなければ、わたしのほうから二、三ポーズの注文を出させていただきたいのですが」
「そうぞ」エルストリーがいった。「ぼくはカメラをむけるだけですから」
ナイがそれに応じて、低い声で指示を出しはじめた。ナイの望んでいるのは、明らかに、ケイをひきたてる一連のクローズ・アップだった――肩から上の写真だった。しかしそれぞれのポーズには、背景に彫像のひとつがはいっていた。蛇の頭をもつブト、禿鷲のようなネクベト、すべてを見る目であるオシリスが。またしても照明の強さとポーズをとることが、おさだまりのことのように思えた。ちがいはモデルに出すナイの指示だけだった。
「昨夜のことを思いだすのです」ナイが低い声でいった。「あの苦しんでいたあわれな者たちが、祭壇に近づいたときにどんなふうに見えたかを思いだしてください。それがわたしの望んでいることです――強烈さ、存在と変容の神秘に対する完全な意識の集中が。これらの彫像をありのままに、偉大な力の象徴である神々の、さらなる象徴であると見ていただきたい。オシリスの目を見つめ、オシリスが見ているものを見るのです――生命の秘密とは、すなわち死の秘密であり、永遠の秘密なのです。再生と復活がはてしなくくりかえされます。オシリスの目のなかにいるあなたは反映にしかすぎません――オシリスが目を閉じれば、あなたは消えてしまい、オシリスがまた目を開けるときにふたたびあらわれるのです」
ケイが耳にするナイの声は、光の輪の彼方から低くひびき、ケイを闇にひきよせていた。耳をかたむけながらケイはしたがった。したがい、信じた。見つめていると、オシリスの目が意識をもってケイの目を見つめかえしているのが、ほとんど感じとれそうだった。そしてオシリスが目を閉じれば、ケイは存在するのをやめてしまうのだ。
他の声がしたことを、ケイは無言で感謝した。その声がケイを現実にひきもどしたのだった。
「横顔の写真をもうすこし撮ろう」エルストリーがいっていた。「半インチくらい顎をあげて。そうだ……」
ようやく撮影がおわると、ケイはぐったり疲れきっていた。エルストリーがまばゆいスポットライトを消してくれたこと、そしてナイが頭上の照明を暗くして部屋がまた薄闇につつまれたことが、ケイには妙にうれしかった。これでもうグロテスクな彫像を見つめ、オシリスの目をのぞきこみ、その目に自分を見つめる眼差《まなざし》を見る必要はなかった。
エルストリーがプラグをコンセントからはずし、コードを巻いて、照明器具を分解してバッグにおさめはじめた。ここから出ることができさえすれば……
エルストリーがバッグを手にしてうなずいた。「おわりましたよ」
「来ていただいてありがとう」ナイ神父がふたりと一緒にドアに近づいた。
「明後日には写真をお渡しできるでしょう」エルストリーがナイにいった。
「わかりました」ナイがふりむいて、ドアの上部パネルを強くたたいた。「ジョディ――開けなさい」
ドアが内側に開いた。
戸口に立っているのは髭面の若者だった。手に何かをもっており、エルストリーはそれを見るや、素早く上着のポケットに手をいれた。
エルストリーが何かを叫んだ――ケイは「気をつけろ」といわれたように思った。エルストリーの声はむこうの控室《ひかえしつ》にひびいたので、はっきりとはわからなかった。
しかし若者が拳銃をかまえて、フレッド・エルストリーの頭を吹きとばしたときには、何の音も聞こえなかった。
ケイは石の床が頬に冷たくあたるのを感じ、まずもって驚いてしまった。失神するようなタイプじゃないのにと思った。やがて目にしたことを思いだすと、また目がまわりそうになった。しかし音もなくおこったのだ。若者はサイレンサーをつかったにちがいない。
いまは音がしていた。低いつぶやきだった。ケイは目を開けた。博物館の部屋の床に横たわっているところから、髭面の若者がすこし開いたドアのまえでナイと話しているのが見えた。若者がしゃべっていることもナイが答えていることも、はっきりと聞きとることはできなかったが、若者がうなずいて戸口をぬけ、そのむこうのタイルに倒れこんでいるエルストリーの体のそばを通りすぎていくのは見えた。
ナイがドアを閉めてふりむいたとき、ケイは上体を起こした。ナイがケイに近づいた。黒い顔には動きひとつなく、声には感情もなかった。「きみは武器をもっているのかな」ナイがいった。
ケイは首をふった。
ナイが手をのばし、ケイは身を縮めたが、さわられることはなかった。ナイはそうするかわりに、そばに落ちているパースをひろいあげた。パースを開いて、ひっくりかえし、なかにはいっているものを床に落とした。コンパクト、キー、ペン、鉛筆が、音をたててこぼれ落ちた。ナイが満足して顔をむけた。
ケイが肘をついて身を起こそうとすると、ナイが手をかして立ちあがらせた。体をはなすひまもなく、ナイがなれた手つきで素早くケイの体を調べた。
「きみに盗聴機もしかけられていないとは驚かされるね」ナイがいった。「もちろんしかけられていたところで、何のちがいもないが」
「いったい何をいってるの」
ナイは首をふった。「息を無駄にするものではないね。きみはただ、まだ息ができることを感謝すべきだ。ジョディはきみもほかの者たちのようにかたづけたがったのだからな」
「ほかの者たちって」
「外の小型トラックに乗っていたふたりだ」ナイはそういって、うなずいた。「どうやらそのふたりはインターコムに耳をすませているばかりに、ジョディが近づいてくることにも気づかなかったのだろう。サイレンサーは粗雑だが有益な発明だよ」
「死んだの」
「当世ふうのいいかたをすれば、ぶっとんじまったのだ。ジョディがトラックを走らせて、崖から落としたからな。証拠を処分する分別《ふんべつ》について議論することもできんが、わたしは死体とインターコムを調べたかったのだよ。その機会をのがしたのだから、きみにたよるしかあるまい。これは諜報活動のたぐいなのかな」
「あたしは知らないわ」
「それならきみの知っていることを話してもらおうか」
ケイは首をふった。「何も知らないのよ。あたしは仕事でここにやってきただけなんだから……」
「エルストリーも仕事で来たわけだ」ナイの声は穏やかだった。「エルストリーはマックス・コルビンのもとで働いているわけではない――きみに同行するように誰かに命じられたのだ。それは誰なんだね」
「いったでしょう。あたしは何も……」
手袋をはめた手であっても、平手打ちはこたえた。ケイのこめかみから頬にかけて痛みが走った。
「すまない」ナイが手をおろし、声を低くした。「こういう状況だから、きみに本当のことをしゃべってもらうのは求めすぎかもしれないな。しかしわたしにも推測はつくのだよ。政府の諜報員の何者かが、さまざまな嫌疑をかけて、わたしを調査している。麻薬の所持、密輸、テロ活動といった嫌疑でね。連中はきみに協力を求め、できるかぎりのことをつきとめてくれとたのんだ。まあ、これ以上きみに疑いをもたせなくてもいいだろう。すべての嫌疑は事実なのだよ」
「認めるの」ケイはまた目がくらみそうになり、意識をたもとうとした。「つまり、あたしを殺すってことなの……」
黒檀のように黒い顔は謎めいた仮面のようだった。「わたしがそれを認めるのは、たいした問題ではないからだ。何をもってしてもあの連中を救うことはできなかっただろう。ともかく連中は死ぬ運命にあり、ほかの者もおなじことだ。アルバート・キースもふくめてな」
「アルバートを知ってるの」
「もちろんだとも。わたしがきみの行方《ゆくえ》を追って、ばかばかしいモデルの斡旋所で見つけだしたことが、偶然のことだとでも思っているのかね。すでに目的にかなっている、まがいものの宗派の宣伝をするのに、写真など必要ではないのだよ。今度のことはすべて行動様式の一部、計画の一部なのだ……」
「どんな計画なの」
「きみの生命を救うことだ」
「信じられないわ」
「よく考えるのだね。どうしてこんなことになったかを。単に星の知慧派をつくりだすためだけなら、何もこういう思いきった手段をとる必要はない。しかしほかの目的、大いなる目標があるのだ。われわれの手段が粗野で、予防措置が浅薄《せんぱく》で洗練されていないことは、わたしも認めるよ。しかし星が正しい位置につくとき、世界がおわるときに備えて、迅速《じんそく》な行動をしなければならないのだ」
ケイは眉をひそめた。「まがいものの宗派だといったわね。でも、あなたは教会にいた人たちに説教したように、わたしにも説教したじゃない」
「宗派はまがいものだ。しかしその教えは真実に基づいている。世界のおわりが近づいているのだよ――きみの知っている世界、精神と道徳と人類からなるこぎれいな世界の終末がね。旧支配者がすでに身じろぎして、大地が旧支配者の到来を予期して震えている。選ばれた者だけがのこるのだ――きみもそのひとりで、来たるべきことで特別な役割をになう運命にあるのだ。だからこそ、きみを救おうとしているのだよ」
ドアが開いて、ナイが顔をむけた。ジョディが拳銃を手にして入ってきた。髭面の若者はドアを閉ざしたあと、ナイとともに彫像が闇のなかに立ちならぶ部屋の奥に行った。
ささやき声で言葉がかわされた。やがてジョディがうなずき、ケイに近づいてきた。あいかわらず武器を手にしていた。
「むこうをむけ」ジョディがいった。
「何ですって」
「ドアのほうに顔をむけるんだ」
ジョディの声は穏やかなものだったが、命令とともに拳銃があげられたので、ケイはいわれるままにした。
ケイがジョディの存在を背後にひしひしと感じていると、肩甲骨のあいだに冷たくかたいものが押しつけられた。あたしを殺すつもりなんだわ。ケイはそう思った。
不意に圧迫感がなくなった。「こわがることはない」ジョディがいった。「気楽にしろ」
ケイがふりむくと、髭面の若者は武器をおろしていた。ケイはジョディの背後に目をむけ、ナイの姿を探したが、奥の壁に沿って半円を描いて闇からうかびあがる、不気味な彫像が見えるだけだった。
「ナイ神父はどうしたの」
「ずらかったのさ」
そのことはたしかだった。しかしどうやって立ち去ったのだろうか。ドアはロックされているし、窓ひとつない部屋にはほかに出口はひとつもないのだ。ケイの目がジョディのにや笑いにぶつかった。
「心配することはない。もどってくる。おまえをのこして出発することはないからな。おまえは逃げられないのさ」
逃げられない。しかし何らかの方法があるはずだった。ケイは何とか恐怖をおししずめ、現実に意識を集中しようとした。ナイは行ってしまい、ジョディがナイのもどるまでケイを監視している。そしてナイがもどってくれば……
「あたしたちはどこへ行くの」ケイが小さな声でいった。
「旅に出るのさ。旅は好きか」
ジョディが麻薬で陶然《とうぜん》としていることにまちがいはなかった。しかしケイはジョディのいったことを信じた。ナイがもうすぐもどってきて、ケイを連れていくのだ。ナイはケイを救うと約束していた――何のためなのか。
ケイはその答を知りたくなかった。しかしそれを避けるには、ナイがもどってくるまえに、いますぐ行動しなければならなかった。何らかの方法があるはずなのだ……
ケイは床を見おろしたあと、まえに進みだした。
「待て」ジョディがいった。「どこへ行くつもりだ」
「パースをひろうのよ――そこに落ちてるでしょう。自分のものはもっておきたいのよ」ケイにとっては、声をおちついたものにするのも、動くこともむつかしかった。しかしそうしなければならず、そうするしかなかった。
パースにかがみこむと、ケイはちらばっているものをひろいはじめた。ジョディがそばにやってきて見つめるかたわら、ケイはパースからこぼれ落ちたもの――ハンカチ、コンパクト、鏡、香水、キーホルダー、ペン、鉛筆、手帳――をひろい集め、パースのなかにもどした。そうするとき、すこしでも重いものは上に置き、コンパクトの留金を指の爪ではずした。何の武器もないのは歴然としているので、パースを手にして立ちあがったときに、ジョディが気をゆるめているのが感じられた。
ケイはふりかえると、開いたパースをふりあげて、ジョディの顔にたたきつけた。目つぶしのパウダーの粉が開いたコンパクトから飛びだすなか、ジョディがキーホルダーや先のとがったペンや鉛筆を避けるため、片腕で目をおおった。
ジョディがそうしたとたん、ケイはジョディに体あたりして、拳銃をもぎとった。ジョディがせきこみながら、顔をゆがめてケイをつかもうとした。
ケイは引金をひいたことを意識しなかったが、ジョディの顔が急に見えなくなったので、そうしたにちがいなかった。ジョディの顔のあったところから、深紅にそまる塊《かたまり》がしりぞいて、ジョディがあおむけに倒れこんだ。
ケイはそんな光景を目にする心がまえはできていなかった――においに対しても、自分自身の反応に対しても、心の準備は何もなかった。胃をむかつかせながらふりむいて、拳銃を手から落としながら、体を支えるために展示用のケースをつかんだ。
つかのまケイは吐気がおさまるまで立ちつくしていた。するうちパニックにかりたてられ、部屋を横切ってドアに走った。
ドアはロックされていた。
そしてドアには鍵穴がなかった。
ケイはそのことを知り、呆然としてドアのノブを見つめた。ジョディが入ってきたときにドアを閉めたのだ。むこう側から本締め錠がかかっているにちがいない。
何か方法があるはずよ。ケイは横たわっている死体に注意深く目をむけないようにして、床から拳銃をひろいあげたあと、またドアに歩みよった。身をまもるために片側によって、錠に狙いをつけ、引金をひいた。
カチッと音がした。
また引金をひき、カチッと音がした。拳銃には弾《たま》がなかった。
どうしようもない。
ケイは部屋のなかに目をさまよわせ、エジプトの神々が睨《ね》めつけたり嘲笑《あざわら》ったりして、あるいは立ちつくし、あるいはうずくまっている闇のなかをのぞきこんだ。
ゆっくりと彫像に近づき、石の鼻面をしたセベク、ブロンズの嘴《くちばし》を備えるホルス、金属製の顎をもつ真鍮のバストを見つめた。すると高みから、高い台座に立っているオシリスが、その目をケイにむけた。
最後に見たとき、ナイはここに立っていたのだ。ここ、死者の支配者、オシリスのかたわらに。
彫像の背後の壁はかたくて破れそうもない。ケイは冷たい石の表面に指をはわせたが、動きそうもなかった。ここには秘密の出口はないのだ。どうしようもない。
ケイはふりむいて、また地下世界の支配者、オシリスの目をのぞきこんだ。
地下世界。
ケイは台座の背後の闇のなかを見おろし、つまずきそうになってようやく、突起物があることを知った。床とおなじ高さに鉄の環が設けられ、そこに金属製の輪がはまっていた。
ケイはかがみこんでその輪をつかんだ。円形をした重い蓋《ふた》は完璧な釣合錘がつけられていて、音もなくやすやすともちあがった。
ケイは膝をついて眼下の闇をのぞきこんだ。ナイはこの揚げ戸を通って出ていったのだ。階段はなく、丸くけずった一連の横棒が梯子《はしご》を構成している。
しかしいったいどこに通じているのか。
ケイは大きく息を吸うと、一番上の横棒をつかんだ。そしてゆっくりと、地下世界に身をしずませはじめた。
下へ。闇のなかへ。湿りけのなかへ。ケイは梯子の両端をしっかりつかむため、手を片方ずつおろしてから、片方の足をのばしてつぎの横棒を探るというふうに、注意深く金属製の梯子をくだりつづけた。横棒の間隔は二フィートくらいあるらしく、平たい上部は普通の梯子よりも細かった。ハイヒールをはいてなくてよかったわ。ケイはそう思った。
くだりつづけるにつれ、揚げ戸を開けたところからさしこむ光が弱くなっていった。ケイは横棒の数を――三十一、三十二、三十三と――かぞえながら、まだどれだけあるのだろうかと思った。しかしいつくだりきるかがわかったところで、何にもならない。問題なのは、どこにくだりきるかだった。
つかのまケイは動きをとめて、陰鬱な静寂のなか、梯子にすがりついた。目や耳にとまるものは何もなく、途方にくれてしまった。何も見えず、何も聞こえないからには、触覚だけをあてにするしかない。金属製の横棒はさわると冷たく、顔と額をなでる大気はひややかで湿っていた。
下から吹きあがってくるかすかな風は、竪穴の外のどこかから伝わってくるにちがいない。ナイがここを通って立ち去ったのなら、出口に通じているはずだった。
ゆっくりと着実に、ケイはまた梯子をくだりはじめた。頭上の光が点のようになって、そして消えてしまった。ケイは光が消えたことを無視して、横棒の数をかぞえることに専念しつづけた。そして六十六段目に達したとき、右足がかたい石の表面におりた。
どういうことなのよ――百三十フィートもあるだなんて。十三階くらいの高さじゃない。ケイは博物館が建っている崖の高さを思いだそうとした。いまいるのはその崖の下にちがいなく、海面に近いはずだった。そしていま耳をすましてみると、遠くからくぐもったとどろき、規則正しい間隔をおいてくりかえされる音が聞こえるような気がした。遠くで波が岩壁にあたっている音だ。
ケイは何らかの通路にいるにちがいなかったが、その大きさや通じている場所については、何の手がかりもなかった。直接顔にあたる大気の流れをたどり、その源《みなもと》まで行くしかなかった。そしてとどろく音が強くなっていけば、出口に近づいているということになる。
ケイはつかんでいた金属製の横棒から手をはなしたが、すぐに後悔することになった。いまは闇のなかでひとりきりで立っているのだ。梯子からはなれたら最後、二度と梯子を見つけることはできない。
ケイはふりかえって腕をのばし、いま立っている開口部の壁面を探りあてようとした。左手にふれた何かかたいものは、ちょうど肩の高さで突出しており、ケイはノブもしくは把手《とって》らしきものに手をかけた。それがかすかにピンと鳴ってまえに動いたあと、ケイは突然の光に瞳をうたれて目をつぶった。
ほのかな蛍光が頭上からふりそそぎ、その発光源を見ることができた――梯子の下に立っているところから、目のまえに広がるトンネルの天井を。
細い穴はかたい岩盤をうがったもののようだった。幅四フィート、高さ六フィートくらいだろう。通路の天井に沿ってのびる線渠《せんきょ》に、規則正しい間隔をおいて蛍光灯が備わって、荒くけずられた壁が前方でまがっているのをあらわにしていた。岩の表面は地衣類のはびこるじめっとした緑色の塊が点在して、湿りけがあった。
人口の洞窟であることに疑いはなく、それも古代につくられたもののようだった。しかし照明は明らかに最近とりつけられたものであり、ケイの押した壁にあるレヴァー式のスイッチは、まわりと不釣合なほどに現代的なものだった。
と、そのとき、記憶がひらめいた。ありがたくもない招かれざる記憶は、ラヴクラフトの小説、『忌避される家』でほのめかされる地下の通路のことだった。
ケイは首をふった。あられもない考えではなく、事実に注意を集中すべきときであり、いま大事なものは空気だけだった。トンネルの入口から流れ、その内部深くの源から発している空気。通路の彼方には出口があるはずだった。
ケイはもうためらいもせずに進みだした。通路は冷たくじっとりしていて、いたるところに海のにおいがした。足音のひびきが外の岩壁にあたるリズミカルなとどろきとまざりあう。ケイが思っていたように、トンネルは岩のなかをまがったりねじれたりした。まもなくケイは背後の開口部を見失った。ときおり左右のどちらかに小さな開口部があって、崖の内部全体に洞窟や通路がおびただしくはりめぐらされているように思えたが、ケイはそういった開口部は無視して、照明のある中央通路をたどりつづけた。つねに前方から流れてくる空気がたのもしく、しぜんと足が早まりだした。
音の調子がしだいに変化していくことを感じとったのは、かなりしてからのことだった。足音のひびきは彼方のくぐもった波のとどろきと同様に、着実に聞こえてはいたが、いまではべつの音が聞こえるようになっていた――波のよせる音がとぎれるときに聞こえるのだ。何らかの動きによる音だった。外部ではなく内部から聞こえてくる。
ケイは立ちどまって、前方をうかがった。暗い通路が前方へとうつろにのびている。そこに動いているものは何も見えなかったが、見えない波のどよめきが静まったいま、それにつづく沈黙がまたしてもべつのかすかな音に破られた。その音がケイに思いださせたものは何だったか。
さらさら鳴る音。こそこそした音。かけまわる鼠たち――ラヴクラフトの言葉だ。そしてラヴクラフトの小説、『壁のなかの鼠』だった。
遠くの闇のなかでちゅうちゅう鳴くものがいたが、音が聞こえるのは背後からだった。
ケイはふりかえって、通路に目をはしらせた。遠くの床は闇のなかにのみこまれている。しかし闇がずるずるすべったり、波打ったりはしない。闇に目があるわけもない。
そのときケイは遠くから駆けよってくるものを見た。何千もの小さな赤い目が、背後の通路をうずめつくす動く塊からぎらつき、何千ものふとりすぎた黒い体が横の開口部から群をなしてとびだし、中央通路をみたしているのだった。いまでは鋭い鉤爪が石をひっかく音が聞こえ、せまりつつある大群の悪臭がかぎとれた。
ケイが走りだすと、生きている影がそのあとを追って、小さな鉤爪が音をたてた。鼠たちは勢いをましてせまってくる。いまやケイの背後数ヤードとはなれておらず、とびかかろうとしていた。牙のある口が開き、いっせいに金切り声をあげ、甲高い声で飢えを示していた。鼠たちの飢え、壁のなかの鼠たちの……
ケイはおりよく前方の側面に開口部を目にした。左手の狭いくぼみに戸口が設けられていた。そこに駆けよったとき、逆上した毛むくじゃらの大群がケイの踵に押しよせた。戸口でふりかえったケイは、細長い目、毛におおわれた鼻面、よだれにぬれる先のとがった牙を見て、パニックに襲われ凍りついたようになった。大きな灰色の鼠が一匹、まえにとびだして、ケイの右足にぶつかった。ケイは悲鳴をあげて蹴りつけたあと、開口部に駆けこんで、内壁に対してすこし開いている重い扉をひっぱった。
つかのまの抵抗があって、ケイがどうにか扉を開けたとき、鼠の大群が金切り声をあげて戸口に押しよせてきた。
そのとき扉が大きな音をたてて閉まった。扉のむこうから、体あたりする音、鳴く声、金切り声が聞こえた。しかし扉はもちこたえた。輝く蝶番《ちょうつがい》でたくみに支えられる、機械加工された金属性の、きわめて新しい人工の障壁だった。ケイはしばらく扉を見つめ、あえぎながらも息をととのえ、おちつきをとりもどそうとした。そうしてはじめてふりかえり、部屋のなかを見まわした。
そしてケイがいまいるのはまさしく部屋で、自然の洞窟でもなければ、岩をくりぬいた洞穴でもなかった。巨大な部屋の四方の壁は明らかに熟練した職人の手になるもので、頭上で左右対称に設けられた人工の天井の穴から蛍光がふりそそいでおり、まわりでおこる唸りは、どこか見えないところで作動している機械の存在を告げていた。
空調装置だろうか。その考えはばかげているように思えたが、まさにそういう音がしているのだった――巨大な空調装置が作動しているような、着実なとぎれのない唸りだった。そしてここは寒く、外の湿った通路よりも寒かった。
鼓動がおちつくと、ケイは目のまえに広がる部屋のなかに、人間の手がくわわったことを決定的に確証するものを見いだした。一番奥の扉に通じる長い通路の両側に、金属製の箱というか容器が列をつくっているのだった。それぞれ高さ四フィート、幅二フィート、長さはおおよそ七フィートくらいあって、平たい上部の表面はアルミニウム製の板らしきものにおおわれている。ざっと見渡したかぎりでは、数百の容器が列をつくってならんでいた。
両側に容器がならぶ通路を歩きだしたとき、ケイはそれぞれの容器の基部から、蛇のように輪になったチューブがのびていて、それが容器をたがいに連結していることに気づいた。まわりじゅうで唸りがわきあがり、外の通路にいる生物の音をかき消していたが、この新しい音にはそれなりに心さわがされる調子があった。リズミカルに強弱をつける音は、巨大な心臓の低い鼓動のようだった。
ケイは歩調を早め、両側からわきあがる音を無視することに全力をつくした。しかし強まりゆく冷気と、急に身が震えだしたことを、無視することはできなかった。
冷気は箱から発していた――何百もの冷却された箱は、何か巨大な冷凍庫の貯蔵容器めいていた。
衝動にかられ、ケイは右にある容器に目をむけた。好奇心がケイを立ちどまらせ、内容物をおおうアルミニウムの薄板からつきだす、冷えきった金属製の把手《とって》に手をのばさせた。薄板は両側にある溝にはまっているにちがいなく、ふれただけで後退して、なかにあるものをあらわにした。
あらわれたのはいまひとつの保護層にすぎず、今度は分厚《ぶ あつ》いプラスティック製だったが、完全に透明だった。そして視線をおとしたケイは、箱のなかにおさまっているものを目にした。
まがりくねったワイアー、もつれたチューブが、泡立ち揺らめく朦朧《もうろう》とした液体のなかで螺旋《ら せん》を描き、そうした束《たば》がとぐろを巻いたりねじれたりして、その先端が締め金によってとりつけられているのは、内部にうかんでいるもの――笑みをうかべる死体――だった。
年配の男の裸の解剖用死体といったところで、ぞっとするほどやつれ、乳白色の溶液のなかにあおむけに横たわり、やせた手足、骨のうきでた胸郭《きょうかく》、こけた頬をふちどる、なびく細い白髪に、泡が吹きあたっていた。
その箱は死体をおさめるものだった。ワイアーのただなかでばけものじみた操り人形のように身もだえしながら、揺れ動く死体は、泡立つ渦《うず》のなかで歯をむきだして笑っていた。
そしてその目は開いていた。
ケイは悲鳴をあげなかった。その場に立ったまま、寒気が全身を駆けぬけるにまかせ、アンモニアのにおいをかいでいると、無意味な言葉が頭にわきあがった。
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そは永久《とこしえ》に横たわる死者にあらねど……
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ラヴクラフトの言葉だった。そしてまたしても、ラヴクラフトの小説に酷似していた。『冷気』がそれで、半世紀以上もまえに、人工の冷却でもって生をひきのばしてたもつ、粗雑な試みをあつかった小説だ。
延命――これはラヴクラフトが何度もくりかえしほのめかすテーマだった。それにくわえて、『かれ』、『魔宴』、『恐るべき老人』における、復活したり死ぬことのない太古からの生存者のテーマがある。そして『家のなかの絵』に登場する、人肉|嗜食《ししょく》をおこなういまひとりの老人。
しかしこの箱にいるものは、原始的な保存手段や血で養われているのではなかった。ここには低温保存という現代の現実があった。冷凍された肉体は、生命活動を中断されて腐敗をふせぎ、復活の日に備えて冬眠しているのだ。
そして他の箱には……
ケイはつきとめなければならないことを知り、でたらめにまわりの容器の蓋を開けつづけた。箱にはすべて死体があった。よくふとって笑みをうかべる中年の男がいて、頬がいやらしいほどふくれあがり、これ以上はない怖ろしさだった。小さな子供もいて、乾燥と腐敗をふせぐため、凍りついた血管に滋養分をおくるチューブのただなかで、体をねじったり揺らしたりしていた。そしてケイによく似た若い女もいた。青い唇がひそかな笑みをうかべ、どんよりした目が死とともに訪れる夢をうつしている。
ここには何百の死体が横たわり、よみがえれと告げる命令を待って冷凍保存されているのか。
ケイは背をむけて、通路の奥にあるドアに急ぎながら、ロックされていないことを祈った。ドアのむこうに何があろうと、この部屋にあるものよりひどいはずがなかった。
ほっとしたことに、ドアは把手《とって》をひくと簡単に開き、ほのかに照らしだされるいまひとつの通路が前方にのびていた。ケイはつかのま戸口で立ちどまり、すこし暖かい空気が顔にあたるのをうれしく思った。
そしてその空気は確かに流れていた。これはまた正しい方向にむかっていることを意味した。トンネルの奥のどこかに、探している出口があるはずだった。
ケイは通路を歩きはじめた。大きさは先に歩いた通路とほぼひとしく、照明もおなじようなものだった。足早に進んでいると、唸りがしだいに消えていき、鼠たちのたてる音は二度と聞こえなかった。またくぼんだ箇所を通りすぎることがあり、通路の側壁に扉が備えられていることがわかった。ケイはそんな扉のむこうに何があるかなど考えないようにして、足をとめて調べることもしなかった。そんなことをするかわりに、どこか前方から伝わってくる湿った微風に意識を集中して、期待に胸を高鳴らせながら足を進めた。
いまでは通路が右にまがっていて、ケイはその通路をたどりながら、岩の床がしだいに上方に傾斜していくことに気づいた。これは出口にいたる道、最終的な自由にいたる道にちがいなかった。ケイは自分の苦しい息づかいを意識しながら、さらに足を早めた。すると……
ほかの音が聞こえた。
遠くで何かがうちあたったかすかなエコーだった。ドアのあたる音、金属製のドアが背後の通路の側壁で開いた音だった。
ケイはあわててふりかえり、通路をひきかえして、まがりはじめるところにもどった。通路はうつろで、遠くの闇のなかには誰もいなかった。
しかしどこか遠く、分岐点をこえたところから、音がケイの耳にとどき、聞こえているあいだでさえ変化しつづけた。うちあたる音はやんだが、それにかわって、聞きまちがえようのない動きの音が聞こえた。しかし人間や動物の足音ではなく、その進み具合は不規則だった。何かとびはねているような感じで、ひきずったりこすったりするような音も聞こえ、歩くというよりは這う生物を不気味に暗示させるものだった。
そしていま、突如として、ケイは魚くさい悪臭を意識した――音が大きくなるにつれ、その音を出しているものから、悪臭がただよってくるのだ。いまにも背後の直進する通路にあらわれるかもしれず、ケイは気をひきしめてその姿を見ようとした。
そのとき光が消えた。
闇がケイをつつみこみ、闇のなかから高まりゆく音が聞こえた――ケイにせまってくる見えない存在の、とびはねたりこすったりする音が。しかしそれすら最悪のものではなかった。
最悪なのは、ほかのところから聞こえてくるべつのもの、聞きまちがえようのないつぶやきで、人間の声とは似ても似つかなかった。野獣が唸り、吠え、喉にかかった低い声をあげているのだった。
ケイはふりかえって走った――まがりくねる壁にぶつかるのをふせぐため、両腕をまえにのばし、傾斜がきつくなっていくトンネルの床に足音をひびかせてやみくもに走った。いまでは石の表面がぬれてすべりやすくなっており、見えない湿りけがしたたって足もとがあやうくなっていた。
そして背後の闇から音がせまっていた。どさっ、ぱたっ、どしっという音とともに、喉にかかったあえぎと息づかいが聞こえ、ケイに追いつこうと進む速度を早めていることを告げていた。音はしだいに大きくなり、むかつく悪臭も強烈になった。
しかし前方に光があった。ほのかな光が頭上の円形の開口部――トンネルの出口――からさしていた。
やっきになって顔をひきつらせながら、ケイは出口の端にたどりつこうと足を早めた。あえぎながら最後の傾斜をよじのぼった。そして倒れこんでしまった。
ぬるぬるした石に体がぶつかったとき、そのショックで、つかのま目の前が真っ暗になった。
やがて意識をとりもどすと、肩にさわられるのを感じた。
身をよじってかわそうとしたが、さわられていただけなのがつかまれ、情け容赦のない力をこめられた。そしてせまりつつあるしわがれた唸りと残忍な吠え声をついて、人間の声がした。
「ケイ――あばれるんじゃない――たのむから急いでくれ」
ケイが目を開けると、マイク・ミラーがひっぱって立ちあがらせ、前方の開口部に押しやった。
そのあとのことはぼんやりしたきれぎれの印象が連続するものでしかない。明るい光景が闇と交互にあらわれた。洞窟の口からつづく狭い岩棚の先は、そのまま海になっていた――海にはモーターボートがあった――マイクが心配そうな顔をしながら、ケイをボートに乗せた――エンジンがかかりボートが速《すみ》やかに走りだすと、ぐったりした体に振動が感じられた――海岸線が後退していくなか、その上にぽっかり開いた洞窟を最後に見た。
いまや洞窟の口を何かがみたし、闇のなかからぬっとそびえて、とびはねたり唸ったり吠えたりして、いまにも海にとびこんできそうだった。しかしそういうことにはならなかった。
そのかわりに爆発がおこり、頭上から洞窟の口に岩や石がふりそそぎ、崖全体が途方もない激動のうちにくずれそうに見えた。耳をつんざく音、目をくらませる光、そして身を締めつけられる動きがあわさったとき、ケイは逆巻《さかま》く波に翻弄《ほんろう》されてボートが激しく旋回するのを感じ、倒れこむのを抱きとめてくれるマイク・ミラーの腕を感じた。
そしてすべては闇につつまれた。
ケイがはっきり意識をとりもどすには二十四時間かかったが、そのあいだにもつかのま意識のよみがえるときがあった。そんなときの記憶は、もっぱら揺れる動きとぼんやり理解できる音からなっていた。
岸にむかうボートのエンジン音――なかばよろめき、なかば支えられながら、停められている車にみちびかれていく感じ――スピードをあげる車のシートにもたれて感じたマイクの肩のほっとするぬくもり――車からほかのエンジン音のする場所に運ばれる感じ――エンジン音が高まるにつれ、耳に圧迫感をうけ、エンジン音が低くなるにつれ、また圧迫感がした――ふたたび運ばれる感じがして、べつの車に乗せられマイクの隣に坐った――最後に目のくらむような動きがあって、それがおわるとやわらかいベッドに横たわっていた。そしていまは、当然のように……
「ここはどこなの」
ケイは目を開けて、ベッドのそば、電気スタンドが投げかける円形の光のなかに立っているマイクを見あげた。「ぼくのアパートさ」マイクがいった。「きみはワシントンにいるんだよ」
「でもどうやって」
「そのことはあとで話そう。いまは体を休めたほうがいいと、ドクター・ロウエンキストがいってるよ」マイクはそういいながら、エンド・テーブルにあった壜とグラスをとって、壜の液体をグラスにそそいだ。「さあ、これを飲みたまえ」
ケイはそれを飲んで、まどろみにおちいった。今度は何の感じもうけず、ありがたいことに、夢も見なかった。
また目をさますと、マイクがいて、ベッドわきのエンド・テーブルには蓋のされたトレーがあった。驚いたことに、ケイは空腹でたまらなくなっていて、やすやすと体をおこし、自分で食事をすることもできた。
食事をしたことで力がよみがえり、頭もすっきりして話ができるようになった。ケイはマイクとふたりして、この二日間の出来事をたがいに話しあってまとめあげた。
博物館を監視していたマイクの仲間は、ナイがいったとおり、不意をうたれて消されてしまった。しかし予防措置をとっていたにもかかわらず、マイクは海から現場を監視するのを他人にまかせることはせず、こうしてボートで洞窟の入口をつきとめ、ケイを救いにくることができたのだった。
「それじゃ、あの爆発は」
マイクは肩をすくめた。「ナイがあの通路に地雷をうめこんで、十分な圧力がかかれば作動する起爆装置をしかけていたにちがいないね。幸運にもきみは起爆装置を踏まずにすんだわけさ――爆発がおこったとき、崖全体が博物館もろとも吹っとんだよ。爆風でサンタモニカからオックスナードにいたるまでの窓ガラスが割れたそうだ。いま現場で作業させているが、あれだけの岩がくずれたところを掘りおこすことはできないだろうな」
「ナイはどうなったの」
「きみのまえから姿を消して、まっすぐ星の知慧派の教会に行ったにちがいないね。少なくともぼくたちはそう判断している。崖が吹きとんだのとおなじときに、南ノーマンディが地獄の修羅場《しゅら ば》と化したんだから」
「そこでも爆発があったの」
マイクは首をふった。「火事だよ。しかし突然の猛火だったから、あらかじめ準備されていたことにまちがいないだろう。教会全体がものの数分とたたないうちに焼きつくされてしまった。そしてこっちでは死者が出たよ――最後にうけた報告によると、死体が六体見つかったそうだ」
「ナイの死体もあったの」
「そこまではわからない。犠牲者は焼けただれて、見わけがつかなくなっているからね。ナイの部下だということはたしかだが、ナイが自殺するつもりだったとは思えないな。ナイは証拠が何ひとつのこらないようにしただけさ」
ケイは顔をしかめた。「何の証拠なの」
「それに答えるにはきみの助けが必要だ」マイクはケイのそばに腰をおろした。「昨夜何があったか、正確に話すことができそうかい」
「やってみるわ」
「よし」マイクはエンド・テーブルの引出を押した。かすかにカチッと音がした。
「何なの」
「テープ・レコーダーが組みこまれているんだ。きみが眠りながらしゃべる場合に備えて、ずっときみをモニターしていたんだよ」マイクはそういって、にっこり笑った。「こういう諜報用の道具は重宝することがあるのさ。ぼくから二、三質問をしてもいいかな」
ケイはうなずいた。「ええ、何か意味のあるものがつかめるかもしれないわ」
しかしマイクにたずねられ、ケイが答えたことは、何の意味もなさないようだった。それもケイが質問するようになるまでのことで――マイクの答えたことが、ケイにとってはうけいれることはおろか、耳にする心がまえもできていない、ある種の意味をとりはじめた。
「きみが『冷気』について推測したことは、もちろん正しいよ」マイクがケイにいった。「ナイがラヴクラフトからアイデアを得たかどうかはともかくとして、冷凍保存装置はナイの遠大な計画の一部だったようだな。大いなる日が到来したときの復活と生存を、金持の信者に約束したにちがいない。たとえば、ぼくたちがすでに知っているところでは、エルジー・プロビルスキイは、博物館と崖の土地を星の知慧派に寄付した直後に、姿を消しているんだ。メキシコ・シティの郊外にある私立診療所で、末期癌の普通でない処置をうけたところまではつきとめてある。エルジーは数ヵ月まえに急にその診療所をはなれて、完全に消息をたってしまった。ナイのしわざだという可能性があるね。賭けてもいいが、きみが見た装置で冬眠させられていたのさ」
「それじゃ、あの鼠は」
「ラヴクラフトをもちだすよりも、偶然の一致とうけとりたいね。ああいうトンネルは鼠にとって自然の避難所になるんだ。きみがいったことから考えて、崖全体に洞窟や通路が掘りぬかれているにちがいない――ナイたちは単にその一部をつかって、目的にかなう必要な改良をくわえただけなんだろう。そしてまたきみの話から考えて、そこに避難したのは鼠だけじゃなかったんだろうな。きみのあとを追ってきたのは……」
「お願い」ケイはすぐに首をふった。「そのことを考えていたのよ。あたしはまちがってるのかもしれないわ」
「どうして」
「あたしが震えあがってたことは話したでしょう。もしかしたら、気のせいで、ありもしない音を耳にしたのかもしれないわ。あたしが聞いたのは、ナイの仲間たち、あなたの言葉をかりれば、暗殺者だったのよ。ああいうものじゃないわ」
「ああいうものって何だね」
「そのことは話したくないわ」
「じゃあ、ぼくからいおう」マイクの顔がいかめしいものになった。「きみはまたラヴクラフトの小説を考えていたんだ。ラヴクラフトの『インスマスを覆う影』をね。深海からあらわれて、人間とまじわり、半人間の混血生物を生みだしたものを」
「でもそれは架空の話よ――人魚の伝説みたいなものだわ。ラヴクラフトが描写してるような生物を見た人はいないもの」
マイクは首をふった。「ラヴクラフトはその生物が最初は人間のように見えると書いているんだよ。ただ成熟すると変化がはじまり、人目をしのばざるをえなくなってしまうんだ。あの海ぎわの崖の洞窟がそういう隠れ場所だったとしたらどうだい。はねたり、這ったり、のたうったりする生物の避難場所だとしたら。きみは聞いただろう……」
「たしかに音は聞いたわ。でも何も見えなかったのよ」
「そのことを感謝するんだね」
ケイはマイクを見つめた。「あなたは見たってことなの」
「たぶんね」マイクはゆっくりとうなずいた。「あの爆発が誰にも気づかれないはずがない。崖全体が海にくずれおちたんだからね。だから警察や消防が現場に来たときには、あたりを立ち入り禁止にするだけで精一杯だった。沿岸警備隊の監視船が何隻もすぐに出動して、海面にうかんでいるものをさらえあげる準備をしたよ。そのうちの一隻が幸運にも――いや不幸にもかな――あるものを見つけだしたんだ。
「しかしパニックがおこるまえに、ぼくたちがすべてをとりしきった。発見されたものを没収したあと、ドライ・アイスづめにして、検査のためにここの実験室に空輸したのさ。二時間ほどまえに見たよ」
ケイは片肘をついて身をおこした。「何だったの」
マイクはためらい、大きく息を吸った。「死体だ。正確にいえば、死体の一部だよ。頭と胴はほとんど無傷だが、手足はなくなっていて、顔の特徴は吹きとばされている。のこっているものは、一見人間らしいものだよ。首の両側にあるものの意味を指摘したのは、病理学者のひとりだった。首の両側にあるものが鰓《えら》の痕跡だと鑑定したんだが、あとで意見をかえたね」
「鰓じゃなかったの」
「痕跡器官じゃなかったのさ」マイクは首をふった。「検査の結果、その器官が部分的に発達する段階にあって、成長しつづける証拠があったんだ。ほかの検査から血液の特性がわかったが、既知の分類にはまったくあてはまらないものだった。
「被験者――学者はそう呼ぶんだよ――は溺死したわけじゃないが、肺のなかに水があった。そしてその肺が通常の生理学にはあてはまらないものなんだ。まるで鰓が機能することに適応しているみたいなんだからね。整形外科の予備検査の報告書は、骨の構造に変化があることを示している。異常は脊柱にもおよんでいるのさ。それに胸郭《きょうかく》が萎縮してもいる。当然ながら、一大事だよ。いまや関係者はひとりのこらず独自の仮説をたてているしまつだ。ぼくとしては、顔がそこなわれていたことを神に感謝するだけだね。
「しかし学者たちは徹底的な検視と解剖をおこなう準備をしているから、心臓をはじめとする器官を見れば、もう何の疑いもなくなるだろう」
「どうなるの」
「ぼくたちが手をかしたところで、どうにもならないさ。研究所の学者たちは厳格な監視のもとに置かれてはいる。時間かせぎには役立つかもしれないが、いつまでも黙らせておくことはできないだろう。
「ジャーナリズムが爆発のことを報道しているし、現場にテレヴィ局のカメラマンをたちいらせないようにするのが大変なんだ。沿岸警備隊の捜索は極秘におこなわれ、まだあたりを調べているが、これまでのところは何も明るみには出ていない。つぎの段階として、ダイヴァーをもぐらせることになっているが、岩がくずれたあいだに入りこむことはできないだろうな。少なくともぼくはそう願っているよ」
ケイはうなずいた。「話がもれないようにできるのなら、パニックはおこらないでしょうね。最後にもれたとしても、少なくとも危険なことはおわってるわ」
「それほど簡単なことならいいんだがな」マイクがいった。
「どういう意味なの」
マイクは立ちあがり、エンド・テーブルに近づいて手をのばし、引出にあるテープ・レコーダーのスイッチをきった。「ドクター・ロウエンキストがもうすぐやってきて、きみを検査するよ。それまで眠っていたらどうだ」
「あたしの質問には答えてくれないのね」
「ドクター・ロウエンキストがもう大丈夫だといったら、きみに会議に出てもらう」
「会議ですって」
「ぼくの仲間とだ。だからみんなはきみをこのワシントンに来させたがったのさ――きみに質問したいことがあるから」
「でもあたしが興味をもってるのは答のほうなのよ」
「ぼくたちもだよ」マイクはうなずいた。「問題は、答がないかもしれないことだ」
翌朝、ドクター・ロウエンキストの許しを得て、ケイはベッドから出ると、気分がいいことを知ってうれしい驚きを感じた。服や持ちものがとどけられ、こぎれいにまとめられているのを知って、さらに驚かされた。
プライヴァシーをおかされたことに対するいらだちも、さっぱりした服を選んだり、来たるべき会議に備えてその準備をしたりするよろこびのうちに、すぐに消えてしまった。マイク・ミラーがその日の午後七時までに仕度《し たく》をしておくようにといっていた。一時間まえに諜報員のひとりがもってきてくれた食事を食べおえるとすぐに、マイクがあらわれた。
妙なことに、ケイは諜報員の存在や監視のもとにあることに、すぐになれてしまった。いまこうして生きていられるのも、監視されていたおかげなので、感謝することしかできなかった。
ケイはまだマイクに十分な礼をいっていないことを急に意識した。いまそうしたかったが、マイクが耳をかたむけてくれる雰囲気ではないことが感じとれた。挨拶の言葉をかわすと、マイクはケイを下へ連れていき、車に乗りこませると、わざとふたりのあいだに音の壁をつくろうとしているかのように、すぐにラジオをつけた。何かに頭を痛めているらしく、それが何であるにせよ、自分ひとりの胸におさめておくつもりでいるようだった。
街をはなれるとき、雨がフロントガラスをうちつけ、マイクは路面がすべりやすくなっている高速道路で、じりじりと進む夕方のラッシュに全神経を集中した。ケイはシートにもたれかかり、スピーカーから流れるソフト・ミュージックに耳をかたむけているふうをよそおいながら、横目で隣の男をうかがっていた。
質問と答。それがふたりのこれまでの会話の実体だった。しかしそれが会話というものの実体ではないのか――実にあらゆる関係の実体ではないのか。人生そのものも、答えようのない大きなふたつの疑問、誕生と死の神秘を考察するつかのまの期間にすぎない。
会話そのものは意思を疎通させる満足のいく媒介ではない。たとえばマイクを例にあげてみよう。たいていの者とおなじく、はっきり区別されるしゃべりかたを、ひとつではなく、いくつも身につけている。ケイがするように、お国言葉をそのままつかうしゃべりかたをすることもある。しかしラヴクラフトの作品や、ナイとラヴクラフトの作品とのかかわりを議論するときは、まったくちがう語彙《ごい》をつかうことができる。
ナイもくだけた俗語から、福音伝道の美辞麗句、あるいはラヴクラフト自身の学者はだしの語彙にいたるまでつかいわけ、おなじ多様なしゃべりかたをする。
人は芝居や映画で何とちがったしゃべりかたをすることか。芝居や映画では、登場人物がその会話のスタイルを一様にたもつことによって見わけられる。しかし現実においては、個人の言葉は個人の思想のように――個人の実際の性格のパターンのように――はてしないほどさらに複雑だ。
言葉は部分的な手がかりをもたらすにすぎず、隠蔽《いんぺい》するものとしてもひとしく有益になる。ナイ神父はその役割演技でもってその典型だ。ナイが何を動機にしているのか、口にしたことのどれほどが真実なのか、どれだけを自分でも信じているのか、ケイにはまるでわからなかった。その点については、マイクにもおなじことがいえる。マイクははじめて会ったとき、あざむいたのではなかったか。そしてそれからも、率直にしているふりをして、危険について知っていることの大半を隠しとおしていた。
しかし言葉をべつにすれば、はっきりしていることがひとつある。危険が存在するのだ。そして疑問がなおものこる。その危険とは何なのか。
ケイは考えこむあまり、どこへむかっているのか気づきもしなかった。顔をあげ、いつのまにか高速道路をはなれて、雨にうたれる田舎の道路を走っていることを知り、びっくりしてしまった。ヘッドライトの照らす前方にうかびあがっているのは、有刺鉄線のはられた場所で、そのむこうに平屋の工場らしき建物が見えた。車が門のまえで停まり、マイクがヘッドライトを弱めて合図すると、守衛が詰所《つめしょ》からあらわれて門を開けた。またヘッドライトが強くなり、ピンカートン高級家具と記された看板を照らしだした。
車はそのむこうの私道を走り、建物の入口のまえで停まった。マイクが車からおり、ケイがついていくと、マイクはドアに近づいて夜間用のベルを押した。ドアはすぐに開き――ケイは電気じかけで開いたことを知った――マイクが入るようにうながして、ケイの腕をとった。
またしても危険だという思いがケイの胸をよぎったが、マイクに腕をしっかりつかまれていた。ケイは前方の明るい光のなかをのぞきこみ、にわかにわきおこった不安に対して気をひきしめた。
ケイは本当に家具の工場にいることを知って驚いた。旋盤《せんばん》や工作機械の性質については見まちがえようがなかった。組立てラインに人の姿はなかったが、おがくずのにおいがついさっきまで作業のおこなわれていたことを告げており、左手のガラスにしきられたところには、布張りをする小部屋がひしめきあっていた。右手の壁には事務室がならんでいたが、マイクはケイを連れてそのそばを通りすぎ、奥の壁に設けられた荷物用エレヴェーターにむかって通路を歩いた。
「どこへ行くのか教えてくれないの」エレヴェーターに乗りこんだとき、ケイはいった。
「下だ」マイクがいった。
ドアが音をたてて閉まり、エレヴェーターが降下した。また疑問が脳裡をかすめた――危険とは何なのか。
五階下でケイはその答を知った。
会議室は広く、照明も明るく、情報機器が十分に備わっていた。右手の壁に映画かスライド用のスクリーン、左手の壁には有線テレヴィのスクリーンがあることに、ケイは気づいた。奥の壁には大きな世界地図がかかっている。その下にはテープ・レコーダーがあって、テープが音もなくまわっていた。
中央を占める、表面がプラスティック製の長い会議用テーブルには、その周囲にならぶ二十の椅子のそれぞれのまえにマイクロフォンが備えられていた。そのうちすでに十八の椅子はうまっていて、手前のふたつがあいているだけだった。ケイとマイクがそこに坐ると、空席はなくなった。
とぎれることのない会話はふたりがあらわれても中断することなく、ふたりにかくべつ目をむける者もいないようだった。紹介されることも名前を告げられることもなく、ケイはまわりにいる者を好奇心たっぷりにながめることしかできなかった。
そうすることで、さらに混乱させられることになった。この部屋にいる者の外見には何ひとつ共通点がなかった――マイクくらいの歳の者からかなり年配の者までいて、ふたりいる女は、どちらも髪に白いものがまじり、ややみすぼらしい恰好をしていた。着ているものからは何の手がかりも得られなかった。何人かの男が科学者だとしても、モンスター映画の愛好家にはおなじみの、白いスモックを身につけてパイプをくゆらすタイプではなかった。何人かは軍の高官じみた、堅苦しい姿勢と、いかめしい表情をしていたが、その正体をあらわす軍服を身につけてはいない。そして若者のうち少なくとも三人は、ナイ神父の信奉者とおなじように毛むくじゃらで、身につけているジャケットとジーンズは、ほかの者たちの地味なビジネス・スーツと同様に、これという特徴のないものだった。
ケイはマイクに質問するため顔をむけ、まわりじゅうでおこっている会話をしのいで声をあげようとした。しかし不意に声が静まり、期待にみちた沈黙がたれこめ、それを破るものといえば、ところどころでおこる神経質そうなせきばらいだけだった。
テーブルの一番むこう、世界地図の下に坐っている、頭のはげあがった長身の男が、テーブルをたたいて注意をひきながら立ちあがった。ここでの地位がどんなものであるかは、その男のまえのテーブルにつみあげられているファイルや文書のおびただしい量、そして男の口にする言葉に、おのずからあらわれて、権威を示していた。
「みなさんの大半はお知りあいではありません」男がいった。「そしてごくわずかなかたはわたしをご存じでもない。しかし紹介をして時間を無駄にするつもりはありません。
「重要なのは、わたしがみなさんを知っているということです――みなさんの報告書や、文書や、テープ録音された会話や、宣誓証書や、身上調書といったものから、みなさんのことを存じあげているわけです」そういって、まえにつみあげられたファイルや文書に手をむけた。
「これはわれわれが過去二年間にわたって処理したもののごく一部、断片にしかすぎません。われわれが投げすてた資料――にせの手がかり、実質のない証言、でっちあげ、常軌を逸《いっ》したたわごと、まぎれもないナンセンス――は、マイクロフィルムにおさめたとしても、この部屋いっぱいになってしまうでしょう。しかしのこりのものは研究され、調査され、コンピュータにインプットされ、その信憑性《しんぴょうせい》に対してあらゆる検査がおこなわれました。そして確証されたのです。
「だからこそ、みなさんにここにお集まりいただいたわけです。みなさんのそれぞれがこの調査――みなさんのほとんどが存在することすら知らなかった調査――を正当なものにする、有益なデータを提供してくださったのですから」
長身の男はひとりひとりに目をむけながらしゃべった。「何人かのかたは大学において広範囲にわたる――文学、人類学、考古学、天体物理学、地質学、超心理学といった――さまざまな研究分野にたずさわっておられる。ひとりひとりが個別に調査研究をされ、それがこの機関の注意をひくにいたったのです。その研究の性質から、多くのかたは呼びだされ、質問をされ、おなじ線に沿って研究をつづけるよう求められました。同時に、見つけだされたことを公表せず、完全に秘密にすることに同意していただきました」
テーブルについている者たちがうなずいたりつぶやいたりするのを見て、長身の男は間合《ま あい》をとってから話しつづけた。
「協力することに同意してくださったみなさんは、それぞれの研究が普通ではなく、いわゆる学会で質問をあびせられるような、とりわけその分野でユニークなものだと思っておられるでしょう。
「たしかにそのとおりでした。しかしみなさんがご存じでなかったのは、今晩ここにお集まりのみなさんが――まったく異なった分野、はた目にはまったく何の関係もない分野で活動しておられる学者や研究家でありながら――実はまったくおなじ仕事にたずさわっておられるということです。そしてその仮説、実験、経験のことごとくが、同一の問題に関係をもっているのです」
またつぶやきがおこり、今度は驚きによるものだったが、長身の男の話を中断させた。男は静まるよう手振りでうながした。
「もうひとつ、みなさんの個々の研究に共通しているものがありました――みなさんがそれぞれの研究において偶然見つけだされたものが、前例のない新しいものであるばかりか、危険なものでもあるという信念です。ある意味では、国防に対する由々《ゆゆ》しい危険になりかねません。
「みなさんの判断は正しかったのです」
またつぶやきがおこり、長身の男はテーブルをたたいて注意をひきつけた。
「これは独断的な価値判断や性急にひきだされた結論ではありません。われわれのもとにもたらされ、そしてコンピュータにインプットされたみなさんのデータは、増大するひとつのパターンを描きだしたのです。しかし完全なものでもなければ、はっきりそれとわかる絵でもありません。実際のところ、われわれの手にしたのは、ぴたりとはまりあうように思えるジグソー・パズルの多数の小片でした。そうであっても、ぬけているところ、たりないところがいくつもありました。
「こうして作戦が格上げ拡大され、軍の助力とわれわれ自身の諜報員の協力が得られるようになったのです。このおかげで、いくつかのつながりが見いだされました――みなさんが特別な注意をむけられる範囲をはるかにこえた、さまざまな分野でのつながりです。こうしたつながりが結びつけているのは、見た目にはかけはなれていることがらでして、たとえば国際テロ活動、政治的暗殺、地球物理学上の異常と変動、精神病の多発、さきほどここでお聞かせした、若い女性とわれわれの諜報員の会話の録音でおわかりいただけるような、宗教結社の運動などがあげられます」
ケイは何のことかを知って頬が赤くなるのを感じたが、マイクが安心させるように腕に手をかけてくれた。
「二年にわたる協同作業をおこない、多方面にわたって労力をついやし、政府および官憲の干渉に抵抗しつづけたわけですが、ついに断片がまとまり、ひとつの絵が得られたのです。心さわがされるものではありますが、なまなましく見あやまりようのないものですので、もはや関係当局も疑いや異議をさしはさむ余地はありません。示されているものが真実であることを、誰もがわれわれと同様に納得してくれたのです。その真実に対しては、いささかの遅滞もなく対決しなければなりません。
「その結果、みなさんが特別調査委員会のメンバーとしてここに招集されたわけです。この委員会は、公式には、アーカム計画と呼ばれる総力作戦に所属します」
アーカムですって。ケイはその言葉のひびきに緊張した、その言葉は……
「ばかげた作戦名だと思われるかもしれません」長身の男は肩をすくめた。「しかしそうではないかもしれません。なぜならアーカムという言葉は、みなさんがよくご存じの、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの作品を象徴しているからです」
また男が間合をとると、出席者から驚きの声があがった。ケイとて同様だった。本当なのだろうか――ここにいるみんながラヴクラフトのことを知っているのだろうか。もしそうなら、どうしてなのか。
「そもそものはじめから、ラヴクラフトの小説にすでに親しんでおられた一部のかたは、われわれに注意をむけさせることになった現象に、ある種の類似点があることに気づかれていました。こうしてわれわれははじめて、提出されたデータがひとつの大きなパターンの一部ではあるまいかと思ったわけです。調査を進めるにつれ、ラヴクラフトについて何も知らない人びとからも、補足的な資料がもたらされました。かくしてそういう人びとにラヴクラフトのことを知らせるのが、われわれの方針になったのです――彼らが事実として提示したものが、ラヴクラフトが小説として執筆したものと合致するからにほかなりません」
ケイはマイクに目をむけた。マイクは何の表情もうかべずにうなずき、長身の男がまたしゃべりだした。
「ですから、みなさんはすべて、アーカムがラヴクラフトの数多くの小説の背景としてつかわれる、ニューイングランドの街の名前であることをご存じでいらっしゃる。ラヴクラフトの作品における他の地名――ダニッチ、キングスポート、インスマス、ミスカトニック大学といったもの――と同様に、ラヴクラフトの想像のなかにしか存在しないものです。
「ラヴクラフトの小説で言及される妖術と黒魔術の書物、『ネクロノミコン』についても、おなじことがいえます。ラヴクラフト本人も『ネクロノミコン』の実在性を否定しておりました。しかしかつて存在した可能性を除外することはできません――おそらく、もとはべつの書名であったものを、明白な理由から、ラヴクラフトが世に知られないようにしたのでしょう。われわれはひとつの点を確信しております。ラヴクラフトは幻想小説を書いたのではありません。たとえ当時はそう見えたとしてもです。
「過去半世紀のあいだに、物理科学はいちじるしい進展をとげました。最近の発展と発見に貢献された科学者の一部が、このテーブルにもついておられます。お名前をあげずに、いくつかの例をあげさせていただきましょう。
「ラヴクラフトは中編小説の『狂気の山脈にて』のなかで、南極探検隊が人跡未踏の山岳地帯で古代都市の廃墟に行きあたったことを記しております――この都市には他の星からやってきた異界的な生物が住んでいたと思われます。
「ラヴクラフトがこの小説を書いたとき、南極探検はほとんどはじまってもおらず、凍りついた荒野に、高度の生命体が文明を築きあげたと信ずべき理由は何もありませんでした。それ以来われわれは大陸の漂流について多くのことを学びとっております――はるかな過去に何度も大規模な変動が極地を移動させたこと、氷河期には途方もない気候の変化があったこと、何百万年ものあいだ南極が熱帯であったことなどです。いまでは生命がそうした先史時代にも、われわれにはまったく未知な形態で生息したかもしれないことがうけいれられています。さらに最近の調査では、山の背後、おそらくは極地の氷冠そのものの下にさえ、さらに暖かな地域が見いだされる可能性を明らかにしております。
「ラヴクラフトの告げる都市は、ラヴクラフトがレンと呼んだ高原の下にあるのかもしれません。ラヴクラフトが『時間からの影』で描写しているオーストラリアの未踏の地域は、その秘密をあらわにするかもしれません。ラヴクラフトが描写する異界の生物については――われわれが入手した、不可解ながらも確証されたUFOの目撃例に照らして、はるかな過去であれ現在であれ、もはや実在する可能性をしりぞけることはできないのです」
体つきといい、顔といい、声といい、ケイには太いとしか形容しようのない、ずんぐりした小男が、むかいの席でいらだたしそうに首をふった。「しかしラヴクラフト先生は宇宙船のことなど、どこにも記してらっしゃいませんぞ」
「直接的にはたぶん記していないでしょう」長身の男がいった。「しかしさまざまな言及の含みを考えなければなりません」そういって、背後の世界地図に顔をむけた。「いわゆる巨大な隕石と考えられるものが、一九〇八年にシベリア高原のストニイ・トゥングスカ河の近くで、理論上は爆発しながらも、落下した地点にはクレイターもできず、落下した物体の痕跡ひとつ見いだせませんでした。さらに最近の調査からは、何らかの原子力推進の宇宙船が高速度で大気と摩擦《ま さつ》をおこし、現地の上空で爆発したかもしれないという仮説を確証するかたむきがあります。ラヴクラフト自身『宇宙からの色』において、異星の生命体の考えられうる移動手段として、隕石をもちだしていますが、おそらく実際に知っていたことを故意に隠そうとしたのでしょう。ラヴクラフトの小説に登場する他の地球外生物は、膜状の翼でもって地球に飛んできたわけですが、その体は外宇宙の危険をよせつけず、精神は旅をつづけるはてしない歳月のあいだ密閉されているわけです――生存はひとえに、われわれとは異なった独自の時間感覚、異界的な構造の生理学的様式、途方もない長さの寿命によります。
「しかし星間旅行、あるいは銀河間旅行を説明するには他の方法もあり、ラヴクラフトはそれらをおろそかにしたわけではありませんでした。次元のあいだの戸口、そして他の時空でこの次元に復帰する戸口について、ラヴクラフトは書いています。天体物理学の最近の概念――ブラック・ホール、ホワイト・ホール、反重力、反物質など――がラヴクラフトの作品に先鞭《せんべん》をつけられているわけです。
「そしてラヴクラフトは先鞭をつけているのではないかもしれません。ラヴクラフトの小説『魔女の家の夢』は、現代科学と古代の魔術を結びつけ、ある種の呪文やまじないが、実際には時間と空間の交換をもたらす数学原理をはらんだものであることをほのめかしています。いいかえるなら、かつて魔物と見なされた異星の生命体が、振動数や物質の構造や相互関係をかえる呪文をとなえることによって、地獄ではなく外宇宙、他の次元、他の時代から招喚《しょうかん》されるということです。
「ここにお集まりのみなさんのなかには、この点にかかわる<場の理論>について、高度な研究をなさっているかたがいらっしゃいます。ほかにも超心理学的現象――いわゆる黒魔術――を調査して、おなじ結論に達しておられるかたもいらっしゃいます。
「われわれはある機関を通じて、おなじ調査にたずさわっているソヴィエトの研究所と情報の交換ができるようになりましたが、彼らの見つけだしたことはわれわれのものと一致しております。
「アーカム計画の科学的な面についてはこれくらいにしておきましょう。われわれが考えなければならないのがこれだけなら、非合理なものとしてかたづけていたかもしれません。そしてつけくわえれば、ラヴクラフト――あらゆる作家のなかでもっともふさわしい名前をもつラヴクラフト――の直観的な聡明さに敬意を表していたでしょう。
「不幸なことに、われわれが追求したべつの角度があります。今日、現実の人生でわれわれに脅威をおよぼしている、軍事的、政治的、地球物理学的な凶事にかかわるものです」
長身の男は聴衆からおこったつぶやきを無視して、テーブルにあった書物をとりあげ、背後の世界地図に目をむけた。
「これから申しあげることは極秘情報です。過去数ヵ月のあいだに、ごくわずかがニュース・メディアで報道されていますが、その場合でも実際の細部は削除されたり潤色《じゅんしょく》されたりしております。多くの場合、こうした細部はわれわれが調査するまで明らかではありませんでした。幸いにして、外部の団体や個人はまだ、これらの事件すべてに共通するつながりを見いだしておりません。そのつながりをわれわれがつきとめたのです」
男は骨ばった人差指を地図のさまざまな箇所にむけながらしゃべった。
「項目――テロ活動」男が書類を読みあげた。「七月九日、アルゼンチンのフエンテスの暗殺、二十三日、イラン国王の暗殺、七月十五日から二十七日にかけて、アフリカの三つの共和国の指導者が謎の失踪。八月には、一日にフランス法務大臣の暗殺未遂、十日にスペインの王位継承者と噂される人物の溺死、十八日にソヴィエト共産党政治局のふたりの局員の事故とされる死。九月二日にはいわゆるアラブ産油国の国連代表団五人の生命を奪った飛行機事故、十一日には北京政府で中国ナンバー・ツーの地位にある人物の急死の報告、二十五日には西ドイツのホフマンの暗殺、二十九日にはエルサルヴァドルの大統領の暗殺。翌週にはインドの国民会議派指導者の暗殺、十月八日にはわが国のポートライト上院議員の自殺と思われる死……」
まわりで声があがったため、男は言葉をきったあと、ふりむいてまたテーブルをたたいた。
「つづけることもできますが、これだけの例で十分でしょう。うわべは自殺、事故と思われるもの、謎の失踪、未解決の殺人、無法な暗殺。これらのうちで犯人が逮捕されているのはわずか四件にすぎません。三人は現場で射殺され、のこるひとりは尋問されるまえに自殺しました。身元が確認された者はひとりもおらず、犯行声明を出したテロリスト・グループはありません。世界の指導者と政府の要職にあった人物の死は謎のままなのです」
長身の男がまた世界地図に顔をむけたとき、ケイはマイクに目をやった。マイクはうなずいたあと、注意を話し手にむけた。
「項目――南太平洋。過去数ヵ月のあいだに、赤道と、南緯四六度、西経一三一度ないし一五〇度のあいだの地域で観測され、報告された火山活動。この周辺のどこかでほぼ毎日のように地震がおこっていますので、日付は省略して、大きな出来事だけを二、三紹介するにとどめます。大地震が前例のない津波をともなって、いわゆるギルバート・アンド・エリス島を水浸しにしました。同様の火山活動がマニヒキの惨事につながり、セレベス地域のセラム、ティモル、トゥアモトの一連の大破壊を誘発しています。新たな揺れと津波が先週イースター島の人工建築物すべてを一掃し、彫像をことごとく倒して、生存者はひとりもおりません。このことは公表をさしひかえられています――ピトケアン島を二日まえに襲った台風のことも公表されてはいません。救援機からの初期の報告は今後とも公表されることはないでしょう。住民の半数以上が死亡して、生きのこっている者は重症をおっているか精神的外傷をうけており、軍医はこれをひどい妄想性分裂病にひとしいものと考えています。
「この二ヵ月におけるこれらの現象にともない、公表をさしひかえられている他の事例として、軽飛行機、漁船、ボート、貨物船の失踪があります。われわれが現在入手している情報は完全なものではありませんが、それでも報告は七十九件におよびます」
髪に白いものがまじる女が急に顔をあげた。「バーミューダ・トライアングルだわ」そういった。
長身の男は首をふった。「わたしが話しているのは、地震がおこったのとおなじ太平洋のことなのです。もちろんカリブ海もやつらの秘密の潜伏《せんぷく》場所のひとつですが」
「潜伏場所だと」口髭をたくわえた年配の男が顔をしかめ、目を細くして話し手を見つめた。
「わたしはよくよく考えたうえで、この言葉をつかっているのです。カリブ海、南極大陸、シベリア北部の高原、ヒマラヤ山脈、わが国のメイン州の地下洞窟――ラヴクラフトがこのすべてについて、ほのめかしているか、具体的に記しています。しかもラヴクラフトがもっとも関心をむけていたのは、われわれと同様、南太平洋です。『クトゥルーの叫び声』で正確に位置を記している地域です」
「わしの質問には答えておらんじゃないか」口髭をたくわえた男が立ちあがり、にらみつけながらいった。「あんたのいう――よくよく考えたうえでの――潜伏場所のことだよ。どういうことなのだ。あんたはそこに何者かが住みついていることを信じているということなのか。もしそうなら、何者なんだ。異星人なのか。地球外生命体なのか。ラヴクラフトが小説で書いているばけものなのか。あんたはラヴクラフトの最大の関心も、われわれの関心も、南太平洋にあるといっておるな。よかろう、わしが単刀直入にたずねるから、あんたもはっきり答えてくれないか。あんたはクトゥルーが実在するというつもりなのか」
つかのま部屋のなかは水をうったように静まりかえった。全員の目がむけられるなか、話し手は口髭をたくわえた男を見つめかえした。
「わかりません」そういった。「しかし、だからこそ、みなさんにお集まりいただいたわけです。そのことをつきとめなければなりませんから」
急に部屋が凍《い》てつくように寒くなったように思えた。ケイは自分が身を震わせていることを知った。目のまえがぼうっとしてきて、すべてが揺らいで見え、さながら水中にいるかのようだった――それもはるかな深みで、饗宴につらなる魚たちが腐敗した死体の肉に群がったあと、魚でも人間でもない生物がやってくるまえに逃げだしていき、そいつらが魚にかわって死体をとりまくが、水が逆巻《さかま》き海底がくずれるにつれ逃げだして、大いなるクトゥルーがあらわれる……
ケイは目の焦点をあわせ、注意を話し手にむけようとした。
「みなさんにお集まりいただいたのは、みなさんの反応、評価、そして以前は無視されていたかもしれませんが、全体を理解していただいたいまでは、問題に関係があるものとしてお知らせいただけるやもしれない、補足的なデータを必要とするからです。わたしが必要とするのは、みなさんの専門的意見、協力、助力にほかなりません――それもいま必要とするのです。
「みなさんのそれぞれに連絡将校と警備がついています。みなさんはこの地域では完全に保護されているわけです。しばらくのあいだは、この手配をうけいれてください。何人かのかたは、これまでおたがいに調査をおこなううえで接触なされて、お知りあいになっていられるでしょう。しかしここで顔をあわせられたかた以外には、決して身元を明かさないようになさってください。親しくまじわったり、データの交換をなさったりすることは、どうかおひかえ願います。
「これから四十八時間のうちに、みなさんのひとりひとりと個別に面接するつもりですので、その時間は連絡将校のほうからお知らせいたします。面接のさいには、詳細にわたる質問に答え、役にたつと思われる提案や補足的なデータを提供してください。そのときに単独で調査をつづけるか、ここにいらっしゃるどなたかと協力するようお願いするかもしれません。後者の場合は、そのときにわたしのほうから必要な紹介をいたします。
「いまはこれだけのことしか申しあげられません。みなさんの専門のご研究がどのようなものであれ、必要な手配はすませてあります。われわれは基金、人力、物理的装置を用意して、研究に必要なものはどんなものであれ提供するつもりです。この政府の資金すべてをみなさんはご自由におつかいになれるわけです。
「さて、そろそろ部屋にもどって、つぎの指示をお待ちいただきましょうか。もう十分にお聞きになられたわけですから、こうした予防措置、秘密厳守の必要性、ことの緊急性がおわかりいただけたかと思います。
「最後にこれだけいわせてください。われわれが知っているものは科学と呼ばれるものです。われわれが知らないものは魔術と呼ばれています。そしてわれわれが生存のために判断しなければならないのは、そのふたつが実際にはひとつのものなのかどうかです」
二十四時間後、長身の男がマイクのアパートにやってきて、ケイとの面接をおこなった。
ケイはまだ男の名前を知らず、いまですら紹介もされなかったが、男の振舞は親しげで直接的だった。ポケットからパイプをとりだすと、ウィング・チェアーに腰をおろし、ケイとマイクに顔をむけてうなずいた。
「何も異常はありませんかな。それはよかった。こういう処置があなたがたふたりともに気まずいものであることは承知していますが、できるだけ人目《ひとめ》につかないようにすることが大事なのですよ」そういって、ケイに笑顔をむけた。「あなたをホテルにお泊めすると、いささか問題がおこりますからね――警備の者をともなってチェック・インしたら最後、そのことが噂にならないわけがありません」
「よくわかっていますわ」ケイはいった。
「それでは、用件にはいりましょう。あなたには本当に役にたっていただきましたよ、ミセス・キース。あなたの証言から確認できたかぎりでは、あなたの以前のご主人と友人のウェイヴァリーとが、この事件で善意の局外者の役割を演じていたことで、われわれは満足しております。少なくともその点については、ご安心なさってください。われわれのほうからはっきりお知らせできるのは、ふたりが偶然にこの事件にまきこまれ、多く知りすぎるまえに抹殺されたということだけですが」
「ナイに殺されたということでしょうか」
長身の男はパイプに火をつけた。「この期間のナイの居場所と行動については大半のことがわかっています――ふたりが失踪したときに、ナイがボストンにも南太平洋にもいなかったことがわかる程度にはです。しかしナイがふたりを処分する命令をくだしたと推測してさしつかえないでしょう」
「ふたりはいったい何をつきとめたんですの」
「はっきりしたことはわかりません。しかしどうやらウェイヴァリーは、ラヴクラフトにかかわるものを調べるためにボストンに行ったようです。そしてそれが潜在的に、ナイにとって脅威となったのでしょう。
「あなたのお亡《な》くなりになったご主人については、南太平洋への旅は、邪教のことでかなりのことをご存じでいたか、推測なさっていたことを示しています。実際にはルルイエそのものを探していたのかもしれないと、われわれは考えているのですよ。そして見つけだしたときに、破滅させられたのです――ちょうどラヴクラフトの登場人物が小説のなかで、おなじような潜伏場所を見つけたときに殺されたように。『ダゴン』と『神殿』のことですよ」
「まだうけいれられませんわ」ケイはいった。「自分の身におこったことがわかっていても」
「それなら、わたしの立場をお考えください」長身の男はパイプをふかした。「頭のかたい科学者や軍関係者のまえに立って、黒魔術の現実的な基盤を認めたときに、わたしがどんな気持でいたと思われますかな。それも、ただ認めただけではなく、信じるように主張したのですよ」
「そして誰もが信じているわけだ」マイクがいった。「自分たちの経験からね」
「そのとおりです」長身の男はうなずいた。「何もかもがぴたりとあてはまる。そしてナイアーラトテップがすべての糸をひいているのです」
ケイは以前マイクと話しあったことを思いだした。「本当にナイがナイアーラトテップだと思ってらっしゃるんですか」
「事実を考えてください」長身の男はパイプを灰皿でたたいて灰を落とした。「ラヴクラフトによれば、ナイアーラトテップは黒人で、予言ではエジプトからあらわれるそうです。ナイの素姓《すじょう》はわかりませんが、その可能性を除外することはできません。ラヴクラフトの描写の大半にあてはまっていますからね。赤いローブ、奇妙な装置のたぐい、耳にすることをまったく理解できないままにやってくる人びとに対して、世界の破滅を説教すること」
「それは読んだもののイメージにあわせているからですわ」
「それが明確な結論ですし、わたしもそううけとりたいのですがね。しかしほかのことはどうですか――地震、津波、そしてこうした突発的な自然の惨事にくわえて、世界規模のテロ活動の形をとる人為的な凶事があるのですよ。もちろん偶然の一致なのかもしれませんが、強壮なる使者があらわれるときにおこるものとして、ラヴクラフトが描写しているものにあてはまるじゃありませんか」
「すると、最後のこともおこると信じてらっしゃるんですね――世界の最後がおとずれると」
「そこまではいっておりません。わたしがいっているのは、われわれが相手にしているものの可能性を考えて、たとえ伝説上の旧支配者が実在することを認めなければならないとしても、それに対処する心がまえをしなければならないということです」
「でも、そんなことって……」
「どうしてですか。すこし考えてみてください」長身の男はパイプをポケットにおさめた。「記録されている歴史を通じて、人類は多くの宇宙論、多くの神をわがものにしています。わたしがいま話しているのは、蛮人のことではなく、われわれのもっとも高度な文明人のことですよ。万神殿をもつギリシア人とローマ人、獣の頭を備えた不死のものに敬意を表するエジプト人、おびただしいヒンドゥの神々の信者――何十億もの真摯《しんし》な信者が途方もない実体を崇拝しているのです。現代の一神教をとりあげてみましょう。回教徒は信仰の基盤を何に置いているのでしょうか。アラーが唯一の真の神で、自分を真の預言者にしたと主張した、ただのラクダひきの言葉にすぎません。ゴータマと仏教、モーゼとユダヤ教、イエスとキリスト教にもおなじことがいえます。多くの場合、説教師として身をたてた者は誰もおらず、ひとりの男もしくはその信奉者たちが、新しい信仰を本にまとめ、聖なる神のお告げを記したものだとしているわけです。そしてこれは効《き》き目があります。何十億もの人間が信じていますからね。
「しかし証拠はどこにあるのですか。そうした偉大な宗教はほぼ完全に信仰によってうけいれられているわけです。われわれには事実があります」
マイクが長身の男に顔をむけた。「それなら、つぎの行動は何ですか」
「多くの行動があります。われわれはそのひとつとしてないがしろにはしていません。ひとつのチームはすでに言語の問題を解決する任務をわりあてられました――ラヴクラフトの作品すべての言葉、章句、地名、固有名詞を分析する作業です。われわれはこれまでずっとラヴクラフト自身の造語であると考えてきました――しかしいまではその確信はありません。われわれはそうした言葉を、権威のある魔導書や黒魔術の儀式の式文、あらゆる言語の呪文やまじないに見いだされるかもしれない、類似した言葉と結びつけようとしているのです。もしかしたら共通する要素があるかもしれず、もしそうなら、それが見つかれば助けになるでしょう。この計画にたずさわっている言語学者たちは、われわれが早く答を知りたがっているので、コンピュータをバックアップにつかっています」
男はマイクに顔をむけてうなずいた。「もちろんあなたがたはCIA、FBI、法の執行機関の全面的な協力を得て、物理的な調査をおこなっているわけです。われわれは極秘裡《ごくひ り》に行動して、データをインターポルとわかちあい、国内国外を問わず、テロ・グループおよびそれとみなされるものを急襲する準備をしています。今晩のうちに、星の知慧派のメンバーは一網打尽《いちもうだ じん》にされるでしょう。主要なメンバーは逮捕できないかもしれませんが、やってみるだけの価値はあります。われわれが願っているのは、尋問によってナイの手がかりをつかむことです」
マイクは肩をすくめた。「そんなやりかたをとれば、秘密にしておくことはできませんがね」
「できることはやりますが、いまは時間との闘いなのです。急襲に対する大衆の反応も、つぎにおこるかもしれないことを避けるべくわれわれが何の手段もとらないかぎり、当然おこるはずの全面的なパニックにくらべれば、とるにたりません。もしも最近の地震によってルルイエが海からあらわれ、そこで眠っていたものが目覚めているようなら、これは何としてでもくいとめなければならないのです」
「どうやってですか」
「わたしはすでに海軍のアーミントンに承認してもらっています」長身の男は腕時計を見た。「正確に三十八時間のうちに、太平洋の基地から核武装した潜水艦が出動します。目的地は南緯四七度九分、西経一二六度四三分。作戦命令は捜索と破壊です」
マイクが顔をしかめた。「その連中は何を相手にするのか知っているんですか」
「部隊指揮官にはもちろんあらましを伝えますが、完全に信頼するわけにはいきません。特別顧問の資格で監督を同行させる許可を申請しています」
「信頼できる人物ですか」
「そう願っています」長身の男が立ちあがった。「明朝、あなたにはグアムに行っていただきます」
ベッドわきの目覚まし時計のベルがとまった。
ケイは身じろぎして、手をのばし、マイクをつついた。
「出かける時間よ、あなた」そういった。
あなた。気まずそうに口からこぼれでた耳なれない言葉。しかしマイクがふりむいて腕をからめてくると、妙な感じはしなくなった。
昨夜おこったことは、いまでは避けがたいことだったようにも、当然のことだったようにも思える。そしていまおころうとしていることも正しいことのように思えるが、ただ……
急にひとつのイメージが脳裡《のうり》にひらめいた。傾斜路をのぼって屠殺場に入っていき、なかで待ちかまえている死に追いやられていながらも、やみくもにどうしようもなく進みつづける牛の姿が。
「だめよ」ケイはそうささやいて、身をはなした。
「どうしたんだ」マイクがとまどった顔をして見つめた。「ぼくを愛しているんじゃないのか」
「それくらいよくわかってるでしょう」ケイはマイクからはなれると、すぐに上体を起こして、こぼれおちた髪をかきあげた。「時間がないじゃない」
もちろん愛しているわよ。ケイはそう思った。灰色の光のなかに手をのばしてローブをつかむと、コーヒーをいれるために立ちあがってキッチンに入っていき、マイクが髭をそって服を着ているあいだに、もう一度マイクを愛しているとつぶやいた。これは現実で、単なる肉体の解放以上のもの、独身者専用のバーで知りあった男との、ひと夜かぎりの情交以上のものだった。しかしそのことをマイクはどんなふうに思っているのだろうか。マイクにとってはどんな意味があるのだろうか。
ケイにはその答がわからず、朝食のテーブルについてマイクの顔を見つめてもわからなかった。
「どうしてそんなに黙りこくっているんだ」マイクがいった。「何を悩んでいるのか、いってくれないか」
「悩んでることなんか何もないわ」ケイは溜息をついた。「何もかもがそうよ。こんなことがなかったらよかったのに。あなたが出かけなきゃならないようなことがなければ……」
マイクが手をのばした。「こんなことがなかったら、ぼくたちが出会うこともなかったんだよ。それにきみは、ぼくが出かけなきゃならないことを知っている。しかし二、三日したら、ぼくはもどってくるよ」
「それからは」
マイクは肩をすくめた。「どうしてほしいんだ――正式なプロポーズかい」
「あなたったら」
今度はその言葉がやすやすと口から出た。そしてそのときからずっと、マイクと一緒に玄関まで行って抱きしめられた最後のときでさえ、もう何の迷いもなかった。
しかしマイクが出ていったとたん、恐怖がぶりかえした。ぶりかえしたまま、消え去ることはなかった。
自分の身を思ってのことではない――ここでは十分に安全だし、マイクのかわりをつとめる者が安心感をあたえてくれた。あたりのやわらかなオリン・サンダースンという南部の男で、サンダースンがマイクのかわりをつとめるためにあらわれたとき、マイクは暖かくむかえたのだった。
「オリンはいいやつさ」マイクはケイにそういった。「ケンタッキーの紳士をばかにするもんじゃないよ。ふだんは仔猫みたいにおとなしいが、きみが必要とするときには虎になれるやつなんだから」
たしかにオリン・サンダースンは上品で、うれしいほどひかえ目だった。ほかの者たちが交代で外を警備しているかたわら、二十四時間ぶっとおしでアパートにいるよう指示されていたが、距離をたもつことには何の問題もなかった。食事が運ばれたときはケイと一緒に食べたが、それ以外のときはケイからはなれていた。もっぱら居間のソファーに坐って読書をして、夜もそこで眠った。ケイは寝室にかなりの本のおさまった書棚とポータブルのテレヴィがあるのを知ったことで、サンダースンのそばに行く必要もなかった。サンダースンのいるのがわかっていることで、かなりの慰めが得られた。
しかし恐怖がケイにとりついてはなれず、ふりはらうこともできなかった。本を読んでいるときは肩ごしにのぞきこみ、テレヴィのまえにいるときは、かたわらにわだかまっているのだった。そして時計に目をむけるつど、まっこうからケイをあざけった。
午後十時。グアムでは何時なのだろうか。マイクはもう着いているのだろうか。いまグアムにいるのか、それとも潜水艦が作戦を開始して出発したのか。目的地に達するまでどれほどの距離があるのか、正確な位置はどこなのか。面接のときに長身の男が口にした緯度や経度は、ケイにとっては何の意味もなかった。
マイクが去ってから三十六時間以上がたったいま、何の知らせもないのが現実だった。しかしそれでも時間だけはすぎていき、ケイはそれがどういうことなのかを知っていた。恐怖が時間を餌《えさ》にして、分につぐ分をむさぼり喰い、成長しつづけているのだ。
印刷されたページの言葉はもはや意味をなさず、ブラウン管の映像もぼやけていた。二日目の夜、ケイはいつのまにか書棚をかきまわし、いらだちをつのらせながら、おさめてあった本をつぎつぎに投げすてていった。
その音を耳にしたオリン・サンダースンが寝室のドアにやってきた。
「どうかしましたか、マダム」
「地図帳か年鑑を探してただけよ。地図が載ってる本を」
「そんなことでやきもきしないでください」
「地図を一部もってきてもらえないかしら」
サンダースンは首をふった。「申しわけありません」そういって、腕時計に目をむけた。「そろそろ目的地に着いているころだといえば、気持がおちつくかもしれませんね。運がよければ、二、三時間のうちにけりがつくでしょう。スケジュールどおりにいけば、明日の朝には基地にもどってくるはずです」
「電話をかけて知らせてくれるの」
「そのときが来たら、連絡があります」サンダースンが上品にうなずいた。「いまは気持をしずめてください。コーヒーをいれましたけど……」
ケイは何とか笑みをうかべた。「いいえ、けっこうよ。あたしは大丈夫だから」
「お休みになったらいかがですか。いまはぐっすり眠るのが一番ですよ」
それでケイはベッドに横たわったが、ひとりきりではなかった。
恐怖がシーツのなかにしのびこんできて、ケイは闇のなかで恐怖がそばに冷たく静かに横たわり、自分を抱きしめて、夢と深みにひきずりこもうと待ちかまえているのを感じとることができた。その陰鬱《いんうつ》な海の水面からはるかな下の深みでは、ルルイエの石造りの館で、死せるクトゥルーが待っているのだ。
ケイは恐怖とたたかったが、いつしか夢が訪れ、気がついてみると、海藻がこびりつき、年旧《としふ》りた悪臭にそまる崩れはてた神殿の、その巨大な塔のただなかをただよっていた。悠久《ゆうきゅう》の歳月のうつろさと、測り知れない世紀の沈黙のなか、ケイは消え去ったものを探し求めたが、太古の恐怖の雰囲気以外には何ものこってはいなかった。するうち前方の海底に巨大な亀裂があらわれ、そのむこうでは、縁がぎざぎざになった巨大な岩がそびえて、頭上はるかな海面を破っていた。
いまやケイも上昇していて、狂った形をとるものをあとにして目指しているのは、石造りの要塞の一部が無傷でそびえ、墨を流したように黒ぐろとした波を破り、氷のような灰色の空にそそりたっている箇所だった。そしてその要塞の輪郭《りんかく》はたえまなく溶けて形をかえつづけるので、ケイにはおおよその形や大きさをつきとめることはおろか、開いているという以外、戸口がどのようなものであるかもわからなかった。
巨大な入口にさらに近づき、ぽっかり口を開けた闇のなかをのぞきこんだとき、まもなく目にすることになるはずのものを思って、ケイの恐怖はいやましにつのった。その恐怖をしのぐものなどなかった。いや、のぞきこんでいるときですら、ケイはそのように思っていた。
しかしケイはまちがっていた。最大の恐怖はこれから訪れるのだ。その恐怖が襲いかかったとき、ケイは一部開いた戸口の彼方を見つめ、海上に浮上したクトゥルーの館の奥深くを見つめ、邪悪の棲処《すみか》を見つめて……
「何もないわ」
その叫びが口からほとばしるとともに、ケイは目をさました。寝室のなかが急にまぶしい光にみたされ、戸口からオリン・サンダースンが近づいてくるのが見えた。
「マダム、どうしました」
「こわい夢をみたのよ」ケイは片肘をついて身をおこし、はずかしそうにシーツをひきあげながら、体の震えをおさえようとした。「心配しないで――もう大丈夫だから」
「よかった。とにかくおきてもらうつもりでしたから。ついさっき電話があったんです」
「電話ですって」
サンダースンがうなずいた。「すべてはおわりました。作戦が完了したんです」
「何があったの」
「くわしいことはわかりません。しかしマイクに会ったら、何もかも話してくれるでしょう」
ケイはもう震えてはいなかった。体をさらけだすことも気にせず、すぐに体をおこした。「いつ会えるの」
警備担当の諜報員が笑みをうかべた。「わたしがうけた命令は、あなたをエスコートしてロスアンジェルスに行くことです。明日にはマイクももどってきます。どうやらこの作戦の責任者がマイクに会って、直接マイクから報告をうけるようです」
「マイクが直接ここへもどってくるとは思わないの」
サンダースンは笑みをうかべた。「わたしはこの仕事について十二年になるんですよ、マダム。これまでのところ、わたしが学びとったのはふたつのことだけです」
「何かしら」
「何も考えないこと。そして質問しないことです」
ケイは最善をつくしてサンダースンの助言にしたがおうとしたが、たやすいことではなかった。知りたいこと、理解したいことが、山のようにあった。昨夜の夢は予知、あるいは現実を象徴するものではないだろうか。悍《おぞ》ましい開口部の下にあるうつろな墓所――それはクトゥルーが破壊されたことを意味するのだろうか。マイクがもどってくるのなら、明らかにそうだった。ケイはラヴクラフトの小説を思いだした。船がばけものじみた生物に突進して、膠質《にかわしつ》の体をつき破っても、その物質は再結合したのだ。しかしラヴクラフトの生きていたころには核兵器はなかった。異界の生命体でさえ、原子の崩壊には耐えられないだろう。
考えるのをやめるのよ。質問するのもやめるのよ。それに、時間がないわ。
サンダースンが電話をしているあいだに、ケイはあわただしく荷物をまとめた。
何がおこったにせよ、警備には何の影響もないことがわかった。サンダースンの車のあとに、諜報員の乗りこんだ車がつづいた。ダラス国際空港まで、その車はずっとあとについていた。空港でその車が停まると、サンダースンは一番奥の人目《ひとめ》につかないゲイトに車を乗りいれ、何の特徴もない制服姿の男たちがいる格納庫のまえで停めた。ジェット機が待機していたが、機体には何のマークもなかった。
制服姿の男たちと言葉がかわされることはなかった。サンダースンはただうなずいただけで、ケイをまっすぐタラップにむかわせ、ジェット機に乗りこませた。
乗降口はすぐに閉ざされ、タラップがはずされた。すぐにも離陸したがっているかのように、ジェット機はすでに轟音をあげていた。前方のキャビンのドアのむこうでは、パイロット、副パイロット、航空士が最終的なチェックをおえていたが、広びろとした客室にはほかに誰もいなかった。
入念な設備――キッチン、簡単なバー、ラジオとテレヴィのセット、会議机、そして後部には寝室まであること――から、ケイはこのジェット機が、ふだんは軍や政府の高官をスタッフ全員とともに運ぶものだろうと思った。
ジェット機が滑走路を走りだしたときに、サンダースンから確証が得られた。「いつもの添乗員《てんじょういん》がいないのが残念ですね。しかし乗員が少ないほど危険も少ないわけですから」
「そんなことはいいわ」ケイはいった。「家に帰れるだけでうれしいもの」ケイがゆったりしたシートにもたれかかると、まもなくジェット機はなめらかに離陸した。「何時間くらいで着くの」
「予定ではおおよそ三時間です」ケイが目をむけたので、サンダースンはあくびを噛みころした。
「疲れたの」
「すこし疲れましたね」サンダースンはにっこり笑った。「アパートのあのソファーはクッションがすこしかたかったですから」
「奥に寝室があるじゃない。そこで眠ったら」
「あなたはどうなんです」
「あたしはここで十分にくつろいでるわ」ケイはラジオとテレヴィのセットを、まえにあるコーヒー・テーブルを指差した。「ほら、新聞まで置いてあるもの」
サンダースンはしきりにまばたきをした。「このままでは命令を破ってしまいそうですよ」
ケイは首をふった。「そうじゃないわ――ただすこしまげるだけよ。さあ、休んだら。着陸するまえに起こしてあげるから」
「ありがとうございます」サンダースンはむきをかえると、小室のほうに行ったが、今度はあくびを隠すこともしなかった。
ケイはそんなサンダースンをじっとながめていた。疲れているのも無理はない。昼も夜も任務についていて、緊張が顔にあらわれていた。
いまやケイは危険がすぎ去ったことを感じとることができたが、不安のあまりアドレナリンが分泌されていた反動で、疲れがどっと出た。マイクは無事だし、二、三時間すれば一緒になれるのだ。もうリラックスしてかまわなかった。
ケイはコーヒー・テーブルに手をのばし、<ポスト>と<タイムズ>の最新版をとりあげた。たとえ検閲《けんえつ》されて事実を隠蔽《いんぺい》されたものではあれ、実際におこったことの手がかりになるような記事、少なくとも速報のようなものが載っているかもしれない。
しかし何もなかった。どうやら事態を極秘にする統制がまだおこなわれているか、新聞が印刷されるときにはおこなわれていたのだろう。
ケイは新聞を投げすてると、ラジオとテレヴィのセットを調べることにした。しかし音楽番組の消えいく音にアナウンサーの元気のいい声がわりこんだとき、アナウンサーが伝えたのは、痔疾《じ しつ》患者のことだけだった。そして揺らめくテレヴィのスクリーンはボウリイ・ボーイズの姿を白黒で映しているだけだった。
ケイはシートにもたれかかって目を閉じたあと、眠りこみそうになるのを感じて、あわてて目を開けた。危険をおかしても意味がない。
意味がない。危険という言葉の意味にどんな変化が生じているのだろうか。一週間まえには、この言葉はケイに何の意味もなかったし、政府の機密保持――検閲はまさしくそうだ――のおかげで、まだ世界のほとんどにとって意味をなさないだろう。人はいつもとおなじように暮し、痔のコマーシャルに耳をかたむけ、何もおこらなかったかのように古い二流の映画をながめている。旧支配者は人びとの夢を乱すことはないのだ。
もちろんケイにしても、自分の夢がそういう源から発しているという証拠はなかったし、不気味な夢を見る仮説とてたててはいなかった。しかし確信はなおものこっている。どういうわけか、夢は異界的な存在と人類との通信手段なのだ。すべての人間が夢をうけとって、そのメッセージを思いだすわけではない。ある種の創造力をそなえた者だけ――呪われた者だけ――にかぎられる。
それこそラヴクラフトが『クトゥルーの叫び声』で伝えようとしたことではないのか。あの感受性の強い芸術家、彫刻家や画家は、ことのほかそういう夢に感応して、その記憶を粘土やキャンヴァスで再現したのではなかったか。
そしてラヴクラフト自身はどうなのか。そういう夢がラヴクラフト本人の知識の源だったのだろうか。想像上の人物の悪夢とされるものについて記しているとき、多くのことをほのめかしているのではないだろうか。もしそうなら、それで何もかもの説明がつくのかもしれない。
ケイは客室の窓から薄闇を見つめ、納得がいったという感じでうなずいた。
自分が体験したことに照らせば、意味をなすのだった。懐疑家や冷笑家の世俗的な世界であっても、多くの者が他人とは異なる夢を見た記録はある――エドガー・ケイシーのような、いわゆる<霊能者>だ。彼らのまどろみの幻視は、どういうわけか彼らを異界的な意識の源に結びつける。
ラヴクラフトもそういう男だったのか。本人の書いたものによれば、終生なまなましい夢を見つづけたものらしい。そして夢がしばしば小説の直接の源泉になったことを、ラヴクラフト自身が認めている。
ラヴクラフトの作品の心理学的説明が――ただし原因と結果が逆転しているものとして――正しいとしたらどうだろう。学者たちがほのめかすのは、海産物に対するアレルギーがラヴクラフトに『インスマスを覆う影』のような幻想小説を書かせることになったということだ。しかしその逆かもしれない――ラヴクラフトの書いたものは夢でもたらされた真実で、普段の生活で海産物を忌避《き ひ》するようにさせたのは、海の生物に対する恐怖と憎しみだったのかもしれない。
ケイはまた得心《とくしん》がいったようにうなずいた。もしそうなら、パターンはあまりにも明白だった。おなじ学者たちはラヴクラフトの大西洋岸を舞台にした小説を、ラヴクラフトの低温に対する肉体的な反応に結びつけようとする。しかしその反応は精神的な要素にひきおこされたものではないだろうか。凍《い》てつく荒野のカダスを怖ろしくも夢で瞥見《べっけん》した結果、日常生活にしのびよる冷気を怖れるようになったのではないのか。
そして議論のかまびすしいヨーロッパやアジアやアフリカの「混血」に対するラヴクラフトの嫌悪については――人間と異界的なものとの交わりから生まれた混血生物の夢から、どれだけのものが発しているのだろうか。眠りの壁の彼方で遭遇した実体をひそかに崇拝する者たちについての知識から、どれだけのものが発しているのか。
おそらくラヴクラフトのいう「混血」とは象徴的なものなのだ。そしてラヴクラフトが大昔の家屋や廃墟や墓地を、そうした場所からたちあらわれる迷信上の生物とともに偏愛したことについては――死の恐怖にもとづくものではなくして、ある種の生命形態に対する恐怖によるものだとしたらどうだろう。なぜなら死は最後ではないと夢が教えたからだ――歳月を知らず、なかば生きた状態で存在しつづけるもの、ふたたび招喚《しょうかん》されうるものがあるからだ。そは永久《とこしえ》に横たわる死者にあらねど……
ケイは眉をひそめた。そういうことなのだろうか。ラヴクラフトは真実を夢に見たのだろうか。目覚めているときにひそかに研究し、さらに調査をすることで、ラヴクラフトは知識を増していったのだろうか。そしてラヴクラフトの書いたものは、実際には小説の見かけをよそおった警告なのだろうか。もしそうなら、そうした警告は手遅れになるまえについに注意をはらわれたのだ。
手遅れになるまえに。ケイはまた窓に目をむけ、暗くなった空をながめた。腕時計を見て、もう三時間近くたっていることを知り、驚いてしまった。着陸する準備ができるまえにサンダースンを起こすと約束してあった。
ケイは立ちあがると、通路を歩いて小室にむかった。体を動かすことで、現実――いやケイが現実としてうけとっているもの――を思いださせられるのは、元気づけられることだった。ユングはどういっていただろうか。個人が唯一の現実である、だ。つまり、すべては主観的に解釈されるということにほかならない。ケイはいま高度四千フィートの空を音速以上で飛んでいる。ラヴクラフトは五十年まえに、このことを現実としてうけいれただろうか。うけいれたにしても、かなりの苦労をしてからのことにちがいない――そしてケイがラヴクラフトの書いたものでうけいれるのが困難だと思うものも、おそらく確実なものなのだろう。
ケイは小室のドアを開けてのぞきこみ、サンダースンが寝床でうつぶせになっているのを見た。
サンダースンがあまりにも静かで、身動きひとつしないため、つかのま急にこわくなって、心臓が高鳴るのを感じた。やがてほっとしたことに、かすかな息づかいが聞こえた。
ケイは手をのばして、諜報員の肩にさわった。「起きてちょうだい」そういった。
サンダースンが身じろぎしてあおむけになり、目をしばたたいた。「眠っているのを起こしてごめんなさい」ケイはいった。「でもそろそろ時間だから」
「ありがとう」
サンダースンが笑みをうかべ、寝床から足をおろした。そして立ちあがると、戸口に来て、ケイのあとにつづいてメイン・キャビンにもどった。
ケイはサンダースンがシートに坐りこむのをながめた。「もうすぐ着陸よ」
「まだ時間はありますよ」サンダースンはコーヒー・テーブルのむこうの椅子を手で指した。「坐ってください」
ケイはうなずいて、いわれたとおりにした。「本当に疲れてたのね。気分はよくなったかしら」
「だいぶよくなりましたね。わたしが眠っているあいだ、何をなさっていたんですか」
「考えをまとめようとしていたのよ。ラヴクラフトのことや、ラヴクラフトが書いたことについて」
「ラヴクラフトですって」
ケイはばつがわるそうに笑みをうかべた。「ごめんなさい。あなたとはラヴクラフトのことを話したことがなかったわね。あなたは知らないんでしょう」
サンダースンは笑みをうかべた。「ラヴクラフトの何を知りたいんですか。もちろんラヴクラフトは本当のことを書いていたんですよ。それをゆがめたのがナイです」
ケイは体をまえに乗りだした。「あなたもナイのことを知ってるの」
「星の知慧《ちえ》派の信者たちに説教したことが、ナイの目的にかなうよう歪曲《わいきょく》されたものであることがわかる程度にですがね。実際の話、旧支配者が到来して地球に定住したときには、人類はまだ存在していなかったのですよ。さまざまな宗教の天地創造の話をよく考えてみてください。ほとんどすべてがおなじことをちがったやりかたで告げています。単数あるいは複数の神、もしくは神に相当する存在が、人間を創造したとね。
「そしてまさしくそれが実際におこったことなのです。旧支配者が最初に地球に到来しました。旧支配者の支配した世界は、われわれが今日知っている世界とは大きくかけはなれていたはずです――そしてその世界が大陸を破壊する大変動でもって変化したとき、旧支配者は異次元に逃亡したのです。しかし一部のものはとどまって、海底に沈められたり氷の山に捕えられたりしました。肉体的には無力であっても、物理的には力をおよぼせるのです。
「そしてわれわれの知っている生命、動物と人間の双方を創造しました」
ケイはサンダースンの目を見つめかえした。「でも、何のためにそんなことを」
「食物ですよ」
「でも、そんなことって――狂ってるわ」
「狂気とは、直視できない現実に対する人間の反応にすぎません。もうあなたは、どうしてナイがこのことを信者に隠していたかがおわかりでしょう。自分たちが存在する真の理由をうすうすでも察したら、ナイの命令にも、旧支配者の命令にもしたがうことはしませんからね。しかしそれが真実です。アザゾース、ヨグ=ソトースをはじめとする旧支配者が、たがいにむさぼり食いあう下等な生命体や動物をつくりだし、そうしたものすべてが人間の食物になりました。そしてさらにいえば、人間が地球にいるのは、旧支配者の糧《かて》になるためだけにすぎません。
「肉体のことではありませんよ。おわかりでしょう。旧支配者は肉を糧とはしないのです――人間の感情を糧にしていますから。
「これが旧支配者の力の源です。そしてあらゆる感情のなかで、もっとも強烈なもの、もっとも申し分ないものは、恐怖にほかなりません。
「人間がもっとも望ましいものとして、食物[#「食物」はママ]や動物を選択して育てているのとおなじように、人間そのものが恐怖のために育てられているのですよ。人間がそのうぬぼれから人種と呼ぶものに、ときとして新しい種類がくわわることがあります。ある種の異界的な生命体との交配がととのえられるのです――海の生物、いわゆるダゴンの末裔《まつえい》たちは、その一例にすぎません。銀河の外縁から到来した翼をもつ生物との結合もありますし、ときにはそうした実験がうまくいくこともあります。血の混合の結果が、感情的な反応の受容力を高められた雑種なのです。
「当然ながら、たいていの者はこんなことをまるで知りません――人間の飼っている動物たちが、食物として利用されることや、単なるたのしみのためのペットとして育てられることを知っているはずがないでしょう。
「しかしときとして夢のなかで暗示がもたらされることがあります。夢魔の伝説はそうした交配を悪夢で瞥見したことから発生しているのです。そして交配の結果生存しつづける突然変異が、吸血鬼、狼男、半人半獣の生物を説明づけます。あなたは人の顔が何らかの動物に似ているのに気づいたことが何度くらいありますか。これは偶然の一致でもなければ、われわれがまちがって『獣のような』振舞としてかたづけている、残虐行為、拷問、大量殺人に対する欲望によるものでもありません。
「そうした属性のすべてが恐怖をつのらせ、そして歳月のすぎゆくままに、旧支配者はその恐怖を糧《かて》に力を得て、身を動かし、障壁を破り、ふたたび地上に立ってこの地球を自分たちのものにしようとしているのです。
「そしていつもごく一部の人間が、真実を推測したり発見したりしています。ごくわずかに察した者は自分たちの知識を魔術、妖術、呪術と呼びました。そしてすべてを知った者――旧支配者によって伝えられた夢と霊感でもってすべてを知った者――は、信仰をすてることがありませんでした。彼らは旧支配者を崇拝し、旧支配者が帰還する日を早めるために力をつくしているのです。
「現代ほど恐怖が蔓延《まんえん》している世界はかつてありません。崇拝者たちがこれほどまでに確固とした目的をもって力強くなったこともありません。待ちつづけながら画策《かくさく》する時期はもうおわり、旧支配者はまたたくましくなって、旧支配者のときが訪れているのです。星が正しい位置につき、道がついに開かれたのです」
ケイは困惑をつのらせながら耳をかたむけた。またしても話しかたのわかりやすさ、人が状況に応じてつかう言葉をかえることを思いおこしていた。そうではあっても、あたりがやわらかいとはいえ頭のかたいサンダースンが、こんなことを話せるとは思ってもいなかった。
そんな思いがケイの顔にあらわれていたにちがいない。サンダースンがあわてて手をふった。「申しわけありません。あなたを動揺させるつもりはなかったのですよ、ミセス・キース」
ミセス・キース。
サンダースンはいままでケイをそう呼んだことはなかった。いつも「マダム」といっていたのだ。呼びかけが変化する理由は何もない。ただしサンダースンが……
ケイは表情も言葉もおさえきれず、思わず立ちあがった。「あなたはオリン・サンダースンじゃないわ」
穏やかな笑みが答としては十分だった。ケイは目を大きく見開いて、一歩あとずさった。
「でも、どうして……」
「サンダースンが眠っているあいだに交換がおこなわれたのだよ」顔にうかんだ笑みは揺らぎもしなかった。「たぶんラヴクラフトのもうひとつの小説を思いだしているのではないかな……」
「『戸口にあらわれたもの』ね」ケイはその小説もよくおぼえていた。インスマスの海の生物の血をひく女、魔女が、自分の体のかわりに夫の体を奪うのだ。「じゃあ、悪魔つきに関する伝説は本当のことなのね……」
笑みが広がった。「いかにもそのとおりだよ、ミセス・キース」
「あなたは誰なの」
「仕《つか》える者のひとりにすぎない」
ケイはふりむいて、キャビンのまえに走り、ドアをまさぐった。動かなかった。
ドアをたたくと、オリン・サンダースンの体が立ちあがった。
「きみは時間を無駄にしているだけだ」そういった。「わたしはひとりきりで来たわけではない」
ふりかえったケイは目をまるくしていた。「まさかパイロットや乗員まで……」
「交換をおこなうには、べつに眠りは必要ではないのだ」そういって、うなずいた。「おびえなくてもいい。われわれは旅のあいだきみをまもるためにいるのだからな」
「でも、どうしてなの。もうすぐロスアンジェルスに着くのよ」
男はまだ笑みをうかべたまま、キャビンの右手の窓から外の景色をながめた。ケイはその視線をたどって、窓の外をのぞきこんだ――そしてはるか下に、自分の疑問に対する答を見いだした。
いまジェット機が飛んでいるのは、はてしなく広がる海の上だった。
ほとんどはてしがなかった。
ケイは意識を失ったにちがいない。ラウンジで休んでいるうちに、時間の流れも意識しなくなってしまったからだ。ときおり目を開けては、そばに坐っているオリン・サンダースンの見なれた姿を認め、その唇から発せられる言葉を耳にしているうちに、また目を閉じてしまうのだった。
ささやかれることがきれぎれに頭にはいった。
「ナイの計画……きみはキースの妻だったから、ナイはきみと接触して、きみがどれだけ知っているかをつきとめなければならなかった……もちろん何も知らなかったわけだが、ミラーとかかわったことで、もうきみを自由にしておくわけにはいかなくなったのだ。
「きみのあとをつけ……ワシントンでのあの会議……幸運にもわれわれは手遅れにならないうちに破壊計画のことを知った。しかし誰かが選ばれなければならなかった……きみが理想的だとナイがいった……ジェット機をのっとり……危険なことだが……ラヴィニアのような女を処分してはならない……ナイが主張したのだ……星に記されている……すべての予防措置……たとえ不測の事態がおこったとしても、本質はたもたれる……」
注射器の針が腕にささったとき、ケイは何も感じなかった。また意識を失ってしまい、つぎに目をさましたときにはキャビンの窓から外をながめていて、ジェット機が降下しはじめ、眼下の海からつきだす岩の多い土地を旋回していた。
ぼんやりとかたわらの男に顔をむけると、質問を期待していたかのようにいった。
「ラノララクだ」そういった。「死火山の火口が見えるかな。ポイケ半島のすぐ背後にある」
「でも、ここはどこなの」
「イースター島だよ」
夢のなかで聞いたもののように、ケイは自分が答える声を耳にして、自分も夢の一部になっているように思った。
「彫像のあるところね――写真を見たことがあるわ――大きな彫像がたくさん立っていて、海のむこうを見つめているんでしょう」
「残念ながら、もう立ってはいないがね。先週の地震で大半が倒れ、のこったものも津波に倒されたのだ。西端にあった村は破壊された。何百人もの人びと、何千頭もの羊が、波にさらわれ消えてしまった」
「でも、あそこに誰かがいるわよ」ケイは見おろしているうちに、また意識をとりもどした。「光が見えるもの……」
「われわれをみちびく松明《たいまつ》だ」オリン・サンダースンの姿をした者がケイの腕をつかんだ。「坐っていたほうがいい。とてもなめらかな着陸は期待できないからな」
つかのまケイは意識を完全にとりもどし、おびえあがった。
「どうしてこんなところへ来たのよ。教えてちょうだい……」
男は力ずくでケイをシートに坐らせ、男を相手に、恐怖を相手にあらがうケイを押さえつけた。またケイは感覚がなくなった。ジェット機が接地して機体を襲う衝撃を感じながら、推進力が逆転した唸りのただなかにあがる自分の悲鳴を、どこか遠くからのように耳にした。
機体がかしぎながら横すべりして、水面すれすれに停止したとき、ケイはシートに押しつけられ、恐怖を感じなくてすむために、感覚のなくなっていることをうれしく思った。ともかく夢なのかもしれなかった――夢にちがいないのだ。
サンダースンの姿をした男にキャビンから連れだされ、タラップがわりに出入口からおろされた縄梯子をおりるのに手をかしてもらったとき、ケイはすっかりおとなしくしていた。
ジェット機の三人の乗員はすでに下で待っていて、ケイは制服をまとう姿とまったくありふれた顔を目にしてほっとした。たぶんサンダースンは嘘をついたのだろう――たしかにこの三人の若者には、どこも変化しているところはないようだった。
ほかの者も集まっていたが、松明を手にしている男たちは、明らかにポリネシア人と東洋人だった。これという特徴もない水夫の服をまとっていて、言葉はまったく理解できないものだったが、その振舞には驚かされるようなところは何もなかった。事実ケイが松明の光の輪のなかに入ると、黙りこくって、ほとんど畏敬の念にも似た、おおげさな敬意をしのばせるやりかたでケイを見つめた。
「こっちだ」サンダースンがいった――サンダースンにちがいない。ケイはそう思った。「彼が待っている」
そしてケイをみちびいて、ジェット機が着陸したすべりやすい広場をはなれ、しずくをしたたらす丸石がちらばるところを歩き、背後の斜面にむかって上方に傾斜している岩の表面にできた、大きな開口部に入っていった。
ほかの者たちも松明をもってあとにつづいていた。前進は沈黙のうちになされ、岩のあいだのまがりくねる通路に入ると、もうジェット機の姿は見えなかった。
夜の闇がたちこめるばかりだった。闇、荒寥《こうりょう》、そして遠くから聞こえる風の音と、岩にあたる波の音。
突然、べつの音がわきあがった。背後にいる者たちの声だった。ケイには意味がとれなかったが、抑揚《よくよう》をつけているのはわかった。詠唱《えいしょう》をあげているのだ。詠唱をあげながら、這いのぼりつづけ、松明が漆黒の空を背景に赤く燃えあがっていた。ひとつのイメージがケイの脳裡にひらめいた――宗教的な行列のイメージが。まさしくそのとおりだった。異教の儀式、秘密の存在の待つ秘密の神殿への行進なのだ……
「汝らに安らぎと知慧を」
前方の岩の穴から出てきたときですら、ケイは誰の声であるかを知った。
ナイ神父が前方の斜面の上から見おろしていて、その長身の姿が燃えあがる松明の光をうけて揺らいでいた。身につけているのは黒ずくめで、顔も黒かった。そして挨拶のために両手をあげたとき、ケイはもう手袋をはめていないことを知った。
ナイが上や横に動かす手を見て、ケイは手袋が隠していたものが何であるかを知った。
ナイの手は掌《てのひら》まで黒かった。ピンク色ではなく、漆黒だった。
ケイはその掌を見つめ、ナイを見つめた。
暗黒の男。
魔女の集会での暗黒の男、伝説上の暗黒の男。強壮《きょうそう》なる使者、ナイアーラトテップ。
夢ではなかった。ナイは現実であり、ケイはここにいて、マイクは……
ケイはその言葉を叫んだのだろうか。それともナイがケイの心を読みとったのだろうか。「ミラーは死んだ」ナイがいった。
そしてケイは悲鳴をあげたが、ナイはかまわず話しつづけた。
「ルルイエを破壊しようとする者はすべて破滅させられるのだ。いまとなってはどうでもいいことだ。われわれがここにやってきたのは待つためだからな。いまおまえがここにいて、秩序から混沌をもたらすときになっておる」
くだけた俗語もなければ、政治的暗殺者の言葉もなく、華麗な説教師の修辞さえもなかった――ここ闇の場所で口にされ、黒い唇から発せられたのは、そういうものではなかった……
そしてナイの唇が黒いことを、ケイは知った。まえには気づかなかったし、真っ黒な口のなかでまるまっている黒い舌を見たこともなかった。
「いまこそ時なり」暗黒の男がいった。「いまや星の正しい位置にあれば」
黒い指がつきあがって空を指し、ケイは上空を見あげて、星たちを食いいるように見つめた――星は不動ではなかった。
じっとしておらず、旋回していた。旋回し、回転し、移動し、溶けていき、見なれた星のパターンがひややかな炎の新しい形態をとっていた。
暗黒の男は手をまえにつきだし、ざわめきを静まらせると、ケイの背後に目をむけてうなずいた。「アボット」そういった。「おまえと佐藤が準備をして女を連れていけ……」
ケイがふりかえると、サンダースンの姿をした男が立ち去っていた。しかしほかのふたりが両側から進みでて、ケイの肩をしっかりつかんだ。ひとりは背が高くて赤ら顔をしており、いまひとりはがっしりした体格で、肌が浅黒かった。
ケイはもがいたが、肩をつかむ力は強く、着ているものをつぎつぎにはぎとられていき、松明の光のなかで丸裸にされてしまった。
暗黒の男が両腕をあげた。
「花嫁を照覧《しょうらん》あれ」
ケイの背後から、それに応《こた》える声があがった。「花嫁を照覧あれ」
すると、闇のなかのどこからか、太鼓の音がひびいた。しだいにその音が高まるにつれ、星たちがまばゆくきらめくなか、マイクが死んでしまい、ケイは恥辱《ちじょく》と寒さのために身を震わせていたが、暗黒の男がうながすままにつかまれて、追いやられるようになった。
ケイは力ずくで進まされ、ラノララクの斜面をひきずりあげられ、倒れこんだ巨像のそばをとおりすぎていった――頭部をかたどった巨大な石が基部を固定されて、頭上の火口の門衛になっているのだった。ケイは身をよじってあらがったが、つかむ手をふりほどくことはできなかった。ケイはなかば抱きあげられるようにして火口の縁に近づかせられ、いたるところに彫刻された顔がぬっとうかびあがった――鼻がそりあがり、口をけわしくひきむすび、目のない異様な顔が。石ですら見てはならないものとは何なのか。
太鼓の音がとどろき、声が詠唱をあげるなか、ケイは前方の火口のむこうに、ポイケの絶壁のぎざぎざした縁が、靄《もや》をとおしてうかびあがっているのを見た。
靄なのか、瘴気《しょうき》なのか。いま押しよせてくるにおいは胸をむかつかせるたまらないもので、海の悪臭がケイのむきだしの体にまといつき、腐敗臭でもってケイをつつみこみ、ケイの感覚を麻痺させた。背後では太鼓が鳴りひびき、松明をもつ男たちがはてしない詠唱をあげていた。
「花嫁を照覧あれ」
ケイは音と悪臭のまざりあったものに目がくらみ、つまずいたり、よろめいたりした。やみくもに目を閉じて、何も見えないよう、何も感じないようにしようとしたが、詠唱のひびきは消えることがなかった。花嫁を照覧あれ。
そしていまではべつのひびきがあった――サンダースンの姿をした男がジェット機のなかでささやいた声だった。誰かが選ばれなければならない……きみが理想的だと、ナイがいったのだ……危険がある……ラヴィニアのような女を処分してはならない……
ラヴィニアとは。
突然、ケイはその名前を思いだし、どこで目にしたかも思いだした。ラヴクラフトの小説『ダニッチの怪』だ。おつむのたりない白化症の女、ラヴィニア――ヨグ=ソトースの花嫁になった女。
ケイは目を開き、そうしたときに前方の靄のカーテンが開きはじめた。
何かが靄のなかで動いていた。
そいつは身を起こし――いままでながめながら待っていた巨大な火口から、濡れて泡立つ黒ぐろとした巨大な姿をあらわし――その鱗《うろこ》でおおわれた姿のシルエットを夜空に描きながら、のたうつようにまえに進みでて、ケイのほうへと流れてきた。
ひと目見ただけで、ケイはすさまじい絶叫をあげ、そのために太鼓の音も、詠唱も、近づきつつある頭上の飛行機の音も耳にはいらなかった。
ケイはまえに押しやられた。
そしてのたうつ付属器官がのびて体にまきつくと、もう何もわからなくなってしまった。
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第三部 近未来
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マーク・ディクスンがホテルのロビーの電話ボックスにいて、新聞社の通信部長に電話をかけていたとき、発砲がはじまった。
「待ってください」マークはいった。
そしてふりかえり、プレキシガラス製のドアごしにのぞいたあと、また銃声がしたので思わず頭をさげた。
双方向テレヴィのスクリーンに映るヘラーが顔をしかめた。「いったい何のさわぎだ」
「市長です」マークはいった。「市長がいま来たんですが……」用心しながら頭をあげて、ガラスごしにあたりをうかがったとき、むこうのロビーから一斉射撃がはじまった。「誰かが市長に発砲しているんです――バルコニーの上から――護衛がいま近づいています――よく見えません」
「そこをはなれて、わしに見せろ」ヘラーが叫んだ。「おまえがスクリーンをさえぎっとるんだ」
マークはまた頭をさげて、スクリーンの邪魔にならないようにした。ヘラーがスクリーンごしに目を細めたとき、最後の銃声がとどろいた。公衆電話のボックスには標準タイプの送信機が備わっているだけなので、焦点深度も広角も得られず、ヘラーに見えるものといえば、ロビーの入口近くでもみあって悲鳴をあげる群衆だけだった。ロビーの中央のどこかに、市長とそのボディガードがいるはずだった。
しかしいま最後の銃声が鳴りひびいたとき、誰もが一様に上を見やって悲鳴をあげた。ヘラーの視線に中二階ははいらなかったが、誰かの体がバルコニーの手摺《て すり》ごしにロビーの床に落ちていくのは見えた。
やがて群衆がひしめいて、かまびすしい騒ぎになると、ヘラーが声をはりあげていった。
「録音のことは気にするな。すぐに取材班をそっちへおくりこむ。おまえは取材をしたらもどってこい――すぐにだぞ――」
「わかりました」マークはいった。
そして命じられたようにした。
半時間とたたないうちに、マークはロスアンジェルスのダウンタウンにもどり、タイムズ・ニュース・センターの最上階にあるヘラーのオフィスに駆けこんだ。デスクについている筋金いりの小柄な男は、マークが入ったときにはすでにボタンを押していた。すべてが消えていた――双方向のテレヴィ電話、インターコム、テレヴィ、そしてデスクにむかいあうところにあって、コンピュータのリードアウトから最新のニュースをとぎれることなく表示しつづけるスクリーンさえも。
マークはこのスクリーンが消されているのをいままで見たことがなかった。もっともそれほど目にする機会があったわけではない。新入りの記者として――昔は「ひよっこ」と呼ばれたのではなかったか――このオフィスに入ったのは、入社してからの一年間に二度だけだった。その点については、双方向テレヴィ電話でヘラー本人と話したこともほとんどなかった。いつもは編集部の古株の記者に報告して、ヘラーに名前をおぼえられているだろうかと思っているほどだった。
しかしいまそのすべてが変化していた。
「坐りたまえ、ディクスン」通信部長がいった。そしてテープ・レコーダーのボタンを押して、ぶっきらぼうに顎をしゃくった。「最初からだ」
「ホテルには早く着きました」マークはいった。「宴会は正午にはじまる予定でしたが、十二時半になっても市長があらわれませんので、ともかく会場のドアが開けられたわけです。会場は二階のゴールド・ルームでした――招待客たちはカクテルをもって休憩室にいました。市のお歴々のほとんどが出席していましたね――飲物はただだったようです――ぼくは新聞係秘書のスタンリイと話をして、スタンリイが市長は遅れるといったんです……」
ヘラーがいらだたしそうに手をふった。「そんなことはいい。おまえはロビーにおりて、わしに電話をかけたな。その理由は」
「そのことを話そうとしていたんですよ。スタンリイが市長はあらわれないかもしれないといったんです。今朝もまた殺しの予告があったらしくて」
「スタンリイがそうおまえにいったのか」ヘラーは顔をしかめた。「どういうことだ」
「スタンリイは緊張しつづけだったんだと思います――バーに何度も足をはこんでいましたから。ほかには誰も話しかける者がなくて、ぼくが問いつめると、口をすべらしたようにいったんです。重要なことのように思えたので、電話をかけたわけです」
「くわしいところはどうなんだ」
「脅迫があったのは九時で、市庁舎が開いたときのことです。秘書の誰かが電話をうけました――市長を出せといわれたそうですが、まだ登庁していませんでした」
「脅迫をしたのは」ヘラーは体をまえに乗りだした。「ひとりなのか、複数なのか」
「ひとりだけです。スキー用のマスクをかぶっていました」
「身元はわかったのか」
マークは首をふった。「もちろんモニターされていますので、声紋がのこっています。まえに電話をかけてきた者のようですが、まだはっきりしたことはわかりません。ともかく、脅迫の内容はおなじでした。辞職しなければ殺す、と」
「しかし市長はとにかく宴会にあらわれたわけだ」ヘラーは顔をしかめた。「理由は」
「どうやら脅迫は時間と場所を特定していなかったようです。それに政治的なパーティでしたし、社交界の名士がひとりのこらず、選挙運動をはじめようと集まっていましたから、市長も出席しなければならないと思ったんじゃありませんか。再選の立候補を公表しようとするときに、臆病者のように思われたくはないでしょうから」
「そのこともいい」ヘラーがマークに指をつきつけた。「おまえはロビーにおりて、わしに電話をした。おまえは電話ボックスにいた――そのとき市長が護衛を連れて正面入口から入ってきて……」
「護衛は六名で、全員私服でした。責任者はエドゥアルド・J・モラレスです。ほかの護衛の名前もここに書きとめてあります」
ヘラーはじれったそうに手をふった。「あとでいい。話をつづけてくれ」
「ロビーを半分ほど進んだときに、発砲がはじまったんです。いきなりのことでした。最初はどこから撃たれているのかわからなかったようです。モラレスが市長をひきたおして、自分の体を楯《たて》にしました。もうひとりの護衛、ペレス巡査部長が中二階のバルコニーに賊を見つけ、発砲したんです。ほかの護衛たちも賊を見つけて応戦をはじめました。暗殺者は姿を隠そうともしませんでした。――市長とモラレス目がけてもう二発撃って、二発とも的をはずしました。そして射殺されたんです。
「暗殺者は手摺を乗りこえて、ロビーの床に顔からまっさかさまに落ちました。ペレスの弾があたったんです――ペレスは散弾をつかっていました。ロビーにいる者が誰も負傷しなかったのは奇蹟ですよ」
「暗殺者のことだけを話してくれ」
「ぼくは電話ボックスからとびだして、群衆のなかにもぐりこみました。護衛がふたり、市長を横手の出口から連れだし、のこりの護衛が群衆をロビーから立ちのかせました。ぼくはざっと見ただけです」
「話してみろ」
「白人の男で、髪は茶色、身長は六フィートくらい、やせているほうで、作業着を着ていました。ペンキ屋のふりをして、ガードマンの目をかすめたのにちがいありません――作業着にはペンキの染みがありましたから」マーク・ディクスンは顔をしかめた。「それに大量の血も。顔がすっかりくだけていたんです……」
「そういうことはいわなくていい」ヘラーがいった。「武器のことはどうなんだ」
「ぼくには見えませんでした。中二階にいた誰かが武器をひろいあげて、オートマティックだと叫びましたが」
「暗殺者は身分証明書をもっていたのか」
「もっていたとしても、まだ見つかっていません。さっきいったように、ざっと見ただけで追いだされてしまいましたから。群衆を立ちのかせたのはフィリップ・カウフマンという警官です。その警官がほかの護衛の名前を教えてくれました」
「ほかには何を聞いた」
「何も聞けませんでした。暗殺者が暗黒教団の一員だと確信している点はべつにして」
ジャドスン・モイブリッジがテレヴィのスイッチをきって、スクリーンが消えたとき、マークが入ってきた。
「夕方のニュースを見ていたんだよ」モイブリッジがいった。「ショッキングな事件だな。まさにショッキングだ。おまえが興奮していたのも無理はない」恰幅《かっぷく》のいい弁護士はホーム・バーを指し示した。「何かもってきてやろうか」
マークは首をふった。「ぼくがほしいのは情報だけです」
「それなら、中庭に出よう。こんな美しい夕べを無駄にするのはもったいない」
マークはモイブリッジのあとにつづいて、フランス窓からプールサイドの中庭に出たとき、まさに美しい夕べであることに気づいた。
深まりゆく黄昏《たそがれ》のなか、モイブリッジが安楽椅子に腰をおろし、静まりかえったプールのむこう、はるか眼下にぎらつく多彩な光に目をむけた。素晴しいながめだった。モイブリッジのような資力のある者だけが、こういう夜の景観を見おろせる高みに、居《きょ》をかまえることができるのだ。
マークはそんな特権をもつモイブリッジをねたんだことはない。ジャドスン・モイブリッジがたのしむものは何であれ、正当に手にいれられたものなのだから。モイブリッジが顧問弁護士として、この丘の頂《いただき》にのぼりつめるには、三十年の歳月を要したし、その努力を示せる相手はほとんど誰もいなかった――妻も家族もいないのだ。マーク自身が家族としてかぞえられないかぎりは。ともかくマークが三年まえに二十一になるまで、この弁護士がマークの法律上の保護者だった。
氷がグラスにあたる音を耳にして、マークは顔をあげた。この家の主人が安楽椅子のそばにある携帯用のキャビネットから酒をとりだし、手ずからついでいるのだった。
「おまえも飲まないか」モイブリッジがいった。
「いいえ、けっこうです」
「好きなようにしなさい」弁護士はグラスをかかげて口をつけたあと、中庭の床に置いた。「さてと。情報といったな。どんな情報だね」
「まず、ニュースについてくわしいことを話してもらえますか。車のラジオが故障していて、新聞社をはなれてから何も耳にしていないんですよ。身元はわかったんですか」
「暗殺を試みた男のことかな」モイブリッジは首をふった。「予備検査の結果、髪が染められていて、指先の指紋が酸で消され、声をかえるために咽喉の手術を最近うけていたことがわかったそうだ。それに、着ているものには手がかりになるようなラベルなんかはなかったから、プロの暗殺者だと見られているようだな」
「使用した武器については何かいっていましたか」
「ああ、武器の名前をいっていたが、あまり注意して聞かなかったんだよ。普通のリヴォルヴァーだったと思うがね」モイブリッジはマークが顔をしかめているのに気づいて、ためらいがちにいった。「どうかしたのかね」
「ええ」
モイブリッジがグラスを手にして見つめたとき、若い男は背すじをのばし、よく日に焼けた額にふりかかる黒い髪をかきあげた。いい若者だ。これがわしの息子だったなら。こんなふうに緊張しているところは見たくない。モイブリッジはそんなことを思いながら、またグラスに口をつけ、「何が問題なんだね」
「わからないんですか。身元を隠すためにわざわざ手間をかけている男なんですよ――プロだとおっしゃいましたよね。しかしいざ行動のときとなったら、素人《しろうと》のようにふるまったんです。プロの暗殺者なら身を隠すために細心の注意をはらうはずですよ。望遠照尺とサイレンサーのついた高性能のライフルをつかうか、最新の超音波銃をつかうでしょう。しかしこの男は百人もの目撃者のいるまえで、バルコニーにのぼって、古風な拳銃をぶっぱなしたんです。意味をなしませんよ。もっとも……」
「何だね」
「もしかしたら、わざとそうしたのかもしれません。見られたり聞かれたりすることを望み、暗殺の試みが失敗しようが成功しようが、自分の行為が無視されたり、もみ消されたりすることがないようにしたかったのかも」
「いいかえれば、人目をひきたがった精神異常者か」
「たしかに人目をひきたがったんでしょうが、精神異常者じゃありません。少なくとも普通の意味における精神異常者ではないでしょう」マークはそういってうなずいた。「護衛のひとりと話をしたんです。その護衛も暗黒教団のしわざだと思っています」
モイブリッジが酒を飲みほした。「何度いわなきゃならないんだね……」
「暗黒教団のようなものが存在しないことですか」マークは肩をすくめた。「その話はよく知っていますよ――誰か想像力のたくましい人さわがせな者がでっちあげたジョーク、ほら話で、それが世間に広まるあまり、大々的にニュース・メディアにとりあげられるようになり、世間に広まる妄想が未解決の犯罪事件を説明するために利用されているということでしょう。あなたから十回くらい聞かされましたからね。しかしいまは本当のことをいってほしいんです」
「しかしわしはいつだって、おまえに本当のことを話しているじゃないか」弁護士はかたくるしく身を起こし、顔と声にひややかな怒りをたたえていた。「おまえもわしの本は読んだだろう。わしが調査をしていたとき、おまえはまだあの古い家でわしと一緒に暮していたんだからな」
マークはうなずいた。「あなたがなさった旅――ワシントンに行って、政府の役人と面会したこともおぼえていますよ。いつもどんな話を聞いてきたんだろうと思っていました」
モイブリッジはまたグラスに酒をついだ。「すべてはわしの本に書いてある」そういった。「『クトゥルーの崩壊』だ――書名そのものがおまえの質問に対する答になっているんじゃないのか。わしは論点を証明したし、それ以来十人をこえる者が事実を確証してくれている。
「ああしたことがおこったとき、おまえはまだ生まれてもいなかった。地震についてのたわごとが世間を騒がせ、地震が意味するもの、地震がもたらすものについて、さかんにいいはやされていたときにはな。純然たる恐慌状態だった――昔からある悪魔の話と同様に、人はスケイプゴートを探していたんだよ。しかしいまでは真相がわかっている。イースター島は水爆の実験がおこなわれていたときに、あやまって破壊されたのだ――それが公式の記録だ。ラヴクラフトという男についても、答ははっきりしている。わしの本が出版されてから五年のあいだに、他の調査家たちがおなじ結論に達しているからな。ラヴクラフトは才能豊かな、説得力のある男で、古典的な妄想性分裂病の典型だったのだ」
モイブリッジが話を中断して酒を飲んだとき、マークは深まりゆく闇のなかでモイブリッジを見つめた。「お書きなった[#「お書きなった」はママ]ものは読みましたよ。しかし証拠はどこにあるんですか」
「おまえの目のまえだ」弁護士がいった。「あの地震がおこってから、四分の一世紀がすぎ去っている。しかしパニックになったにもかかわらず、そして狂った邪教の常軌を逸《いっ》した予言があったにもかかわらず、何もおこりはしなかった。地震はおさまった。海からぬるぬるしたばけものがあらわれることもなかった。ありがたいことに、わしらは以前とかわらず、まだ安全無事じゃないか。そしていまではラヴクラフトの小説は絶版になっている……」
「それも疑問に思うことです」マークはいった。「このクトゥルー神話に対する関心から考えて、出版社は市場を利用して当然だとは思いませんか。それなのに、古本屋でさえラヴクラフトの著書を見つけられないんですよ。政府が何らかの検閲をして――本を買いあさっては処分しているんじゃありませんか」
「そんなことはないと思うがね」
「あなたのもっていた本はどうなったんです。あなたがあの本を書きだしたころにぼくが読んだものは」
「ここへひっこすときに処分したのさ」モイブリッジは溜息をついた。「こんなことをこれ以上話しても意味がないな。わしは最善をつくしておまえの質問に答えたよ……」
「まだひとつのこっています」
「何だね」
マークは弁護士を見つめた。「どうしてこんなことにかかわるようになったんですか。どうして神話を論破する本を書くためだけに、本業をおろそかにしてしまったんです」
「さっきもいったように、こんなことを話しあっても……」
「意味はあります。ぼくはあなたを信じているからです。いつもあなたを信じていました。誰にもまして」
「それなら、いまもわしを信じてくれないか」モイブリッジがマークに近づいた。闇のなかでモイブリッジの顔は、いかめしい目をのぞいてぼんやりしていた。「わしらは仲がよかったものだ。つい二、三年まえまではな。わしはぐちをこぼしているんじゃない――おまえももう一人まえの男だし、わしからはなれて生きていく権利がある。しかしわしはさびしいんだよ。いまでもおまえをわが子のように思っている。わしが一番気にかけるのは、いまもこれからも、おまえの幸福だけだ。
「だから、こんな調査はやめてほしいんだ。暗黒教団など存在しない。信じてくれ。しかし政治的な狂信者たちはいる――非道かつ危険な者たちが、現代の社会不安を自分たちの目的のために利用しているのだ。自分たちの暴力を合理化するために、この古くからある迷信につけこんでいる。おまえにはそんなやつらをとめられないし、とめようとしても無駄なことだ。おまえがやつらの邪魔をしたら、殺されてしまうんだぞ」
モイブリッジがマークの腕に手をかけた。「たのむから――わしらふたりのためだと思って……」
マークはあとずさった。「まだぼくの質問に答えていませんよ。どうしてあの本を書いたんです。何を知っているんです。どうしてそんなにおびえているのかいってください」
「おびえているだと」弁護士の声が甲高いものになった。「わしはそんなことをいったおぼえはないぞ……」
「おっしゃるまでもないことですよ。手をごらんになればいい――いまにもグラスを落としそうなほど震えているじゃありませんか。今日オフィスに電話をしました――ここ何週間も顔を出していないようですね。どうしてこんなところに隠れているんです。わからないんですか。ぼくはあなたを助けたいんですよ。しかし本当のことを話していただけないかぎりは、どうすることもできません。教団があなたまで狙っているんですか」
「出ていってくれ」
「お願いですから、ぼくの話を聞いてください。あなたは何らかの問題にまきこまれているんです。ぼくにもそれくらいわかりますよ。もしもあなたがこの事件にまきこまれているのなら……」
「そんなことはない。おまえもわしにはかまうな」モイブリッジの声が大きくなった。「さっさと出ていけ。ここから、この家から、この調査から、手をひくんだ」
モイブリッジはマークがふりむいてフランス窓から家のなかに入っていくのをながめ、居間を横切っていくのを目で追い、玄関のドアが閉まる音に耳をかたむけた。マークの車のエンジンがかかり、そして走り去る音を耳にするまで、身動きひとつしなかった。
そうしてはじめて、中庭を横切って、安楽椅子のそばにある酒のキャビネットに手をいれられるだけの力をふるいおこした。手の震えようからして、とても酒壜のコルク栓がぬけるとは思えなかった。
しかし何とかやりとげた。
マークも何とかやりとげたが、たやすいことではなかった。頭痛がひどくてたまらなく、こめかみがずきずきとうずいた。そして首も痛かった。息をつくために襟《えり》のボタンをはずさなければならないほどだった。
いったい何があったのか。ただの口げんかではなく、そんなふりをしても意味がない。かつての保護者があんなにおびえているのはもちろん、抽象的な見解の相違であれほど狼狽《ろうばい》した者を見たこともなかった。
ただこれは単なる見解の問題ではない。そしてジャドスン・モイブリッジがどう主張しようが、事実は異なっているのだ。
暗黒教団はニュース・メディアのつくりあげたものではない――断固として存在するものなのだ。そして最近の暗殺と暗殺未遂の波は、あまりにも広範囲にわたっているので、ごくわずかの政治的破壊活動分子のしわざとしてかたづけるわけにはいかない。彼らの脅迫や来たるべき災いの予言には、政治的なものなど何もないのだから。
モイブリッジが著書で提出し、他の懐疑家たちの書物でくりかえされている議論は、まったく空疎なものだった。ラヴクラフトの著書が急に消えてしまい、図書館でも妙に手にできないありさまではあっても、一般大衆はその内容を知っていると思われる。暗黒教団の声明と口頭での暴露に助長されて。
こうした情報源によれば、公式の政府の報告は故意に一部が隠蔽《いんぺい》されているという。四分の一世紀まえに地震が頻発《ひんぱつ》していたあいだ、水没していたルルイエの都市が一部海上に浮上したとき、クトゥルーが実際にまどろみから目覚めたのだ。そしてクトゥルーが移動しはじめたことは、そのあとに破壊の跡がのこされたことで示されている――船や飛行機が消え、孤立した島々の住民すべてが姿を消しているのだ。極秘の作戦が準備された。そして水爆がイースター島と、この作戦を阻止しようとして送りこまれた特攻隊の双方を破壊した。
この話は公式には確認も否定もされていないが、それだけのことではなかった。
根強い噂によれば、クトゥルーは死んではいないのだ。どんな武器をもってしても、原子構成を再確立できる異界の生命を撲滅《ぼくめつ》することはできない。不死の実体はふたたび海底の秘密の隠れ場所に避難したのだった。
そしていまやクトゥルーの再来を説いたさまざまな邪教も、なりをひそめてしまっている。それにかわってあらわれたのが暗黒教団だった。黒というのは、人種的なものではなく、黒魔術とおなじ意味をはらんでのことだ。マークはそのことを思いおこした。当然ながら、このグループは白人でない人種をごく普通の割合でふくんでいるにちがいない――とりわけロスアンジェルスでは、全人口に対して、現在黒人は二十二パーセント、東洋人は七パーセント、スペイン系の者は三十パーセント以上を占める。
しかしこの邪教の構成員を実際に知っている者は誰もいない――白人の数、黒人の数、活動家の数、単なる信者の数すらまるでわからない。おそらく実際の構成員の数はごくわずかだろうが、その影響力は拡大の一途《いっと》をたどり、あらゆるテロ活動が教団の力を増している。
公式の否定や、ジャドスン・モイブリッジのような者たちによる学究的な努力も、クトゥルーの到来という考えに根ざす緊張がたかまるのをふせぐことはできずにいる。そして司法当局によるいかなる行為も、暴力と騒乱の元凶である秘密教団を解体することはおろか、所在をつきとめることもできずにいるのだ。このロスアンジェルスだけではなく、世界じゅうに広まっており、そのパターンは明白だった――爆弾、放火、サボタージュ、殺人、今日の試みのような公然たる警告をしてからの、公私を問わない著名人の謎の失踪。
当局が秘密調査を広範囲におこなっているのはたしかだが、何の成果もあがってはいない。かつてはささやかな問題だったものが、急速に政府の大きな頭痛の種になっているのだった。
頭痛。
目の奥で痛みが脈をうち、マークは目をしばたたいた。空気をいれるために窓ガラスをさげると、夜の冷気が額をなでた。海から霧がうねっていた。パークランド墓地の壁のむこうにある木立が霧につつまれているのが、左手に見えた。
マークは墓地を好まなかったが、この墓地は歓迎すべきながめだった――この墓地が見えることは、目的地に近づいていることを告げるからだ。左にハンドルをきり、通りのむこうに位置する小さな家に近づくと、行きどまりの箇所の縁石に車をよせた。
すこししてから、マークはパークランド・プレイス一一一二でドアベルを鳴らしていた。
玄関の横の窓に灯がともり、ドアのむこうから声がした。
「はい――どなたですか」
「マークだよ」
ドアが開き、ローレル・コールマンがのぞきこむようにしてマークを見た。ローレルはローブをまとい、髪をアップにまとめていた。眠る仕度《し たく》をしていたのだろう、クレンジング・クリームの跡がまだ顔にのこっていた。しかし化粧をおとしてはいても、小柄なブルネット美人の繊細な顔と、サファイアの輝きをたたえたすこしつりあがりぎみの目は、驚かされるほど心ときめかせる効果をおよぼした。
その目にいまはとまどいがあった。「いったいこんな時間にどうしたの」
「入らせてくれよ」
「どうぞ」ローレルは一歩わきへよって、マークを入らせた。「でも、いってくれたっていいじゃない……」
「あとだ。アスピリンはあるかい」
「坐ってて。もってくるわ」
ローレルはマークを居間にとおして姿を消し、またあらわれたときには、片手にアスピリンを二錠、もう片方の手に水のはいったグラスをもっていた。
マークがアスピリンを口にいれて水を飲むのを、ローレルは眉をひそめて見つめた。「どうしたのよ」
「何でもない。また頭痛がしただけさ」
「ねえ、マーク、お医者さんに診《み》てもらわなきゃだめよ。約束したでしょう。おぼえてるかしら」
「ああ」マークはうなずいた。「時間がなかったんだ」
「今晩わたしに電話するはずだったでしょう」ローレルが小さな声でいった。「何があったの」
マークが話すと、ローレルは口をはさまずに耳をかたむけた。
「モイブリッジのことだよ。ぼくが心配しているのは」マークはいった。「ぼくたちの仲がよかったことは知っているだろう。ぼくが三つのときに、モイブリッジが孤児院から連れだしてくれてから、ずっとそうだったんだ――モイブリッジはまるで自分の子供みたいに、自分の家でぼくを育ててくれて……」
ローレルが急に顔をあげた。「本当のお父さんじゃないことはたしかなの」
「そうあってほしいと思うこともあったけど、ありえないことなのさ。一度、何年まえだったか、ぼくが十四か十五のときに、ぶしつけにたずねたことがあるんだ。そうするにはかなりの勇気がいったけど、どうあってもはっきり答えてもらわなきゃならなかったからね」
「ホモだったの」
マークは首をふった。「子供がつくれない体なんだよ。子供のころの病気のせいでね――耳下腺炎か猩紅《しょうこう》熱だろうな。だから結婚もしなかった。ぼくの保護者になった動機には、それもあるんじゃないかな。あの大地震がおわったあと、たくさんの子供が両親を失ってしまっただろう――他人の家の戸口にすてられた子供もいた。孤児院がすしづめのありさまで、政府は里親計画をたてたんだ。モイブリッジはそれに応えたひとりで、ぼくは幸運にもモイブリッジに選ばれたのさ」
「じゃあ、生い立ちのことなんかは何もわからないのね」
「ほんのわずかしかね。苗字のディクスンはモイブリッジの母親の旧姓なんだ。ぼくをひきとったときに、法律上の手続きをとって、ぼくの苗字にしてくれたのさ。当時モイブリッジはロスフェリスに家をもっていて、ミセス・グライムズというハウスキーパーがぼくの世話をしてくれた。モイブリッジが弁護士としての腕をみがいている時期だったけど、いつもぼくのために時間をつくってくれていたね。さっきもいったように、ぼくは幸運だったんだ。
「ぼくがUCLAでジャーナリズムを専攻することにしたとき、モイブリッジがおおよろこびしてくれたことは、いまでもよくおぼえているよ。モイブリッジはダウンタウンの誰かとコネがあって、ぼくが卒業してからいまの新聞社に入社するのに力をかしてくれたんだ。そしてぼくのためにアパートを買ってくれて、ぼくはそこにうつったわけさ。しかしそりがあわなくなったからじゃない。モイブリッジは息子のように思っているといってくれていたからね。ぼくたちはつきあいつづけて、ぼくが問題をかかえているときはいつも、モイブリッジが力をかしてくれたよ。暗黒教団のことをもちだすまでは……」
ローレルが眉をひそめた。「モイブリッジの本を読んだことはないけど、あなたが話してくれたことから考えて、かなりの調査をしたにちがいないわね」
「そうだよ。ぼくがまだ大学にいるころに調査をはじめたんだ。あの本をしあげるには何年もかかったね」
「やっぱり」ローレルは考え深げな顔をした。「でも、どうしてあの本を書く気になったのかしら。興味をもっている友人とか、書くように勧めた人でもいたのかしら」
「そこのところは、ぼくにもわからないんだ。しかしモイブリッジは執筆をつづけているあいだ、ほかのことはほとんど何もしゃべらなかったよ。最終草稿をしあげたころには、弁護士の仕事もまったくおろそかにしていた――部下にまかせきりでね。そして本が出版されると、たちまち興味をなくしてしまったようなんだ。また弁護士の仕事をするようになって、いまの家を新しく買ってひっこしたのさ。今晩まで、ぼくたちはラヴクラフトのことを口にしたこともなかったよ」マークは手にしたグラスをもてあそんだ。「それが急にこの爆発だ。威嚇《い かく》。警告。どうしてなんだろう」
「モイブリッジがあなたの幸運を気づかうのが、当然のことだって考えたことはないの」ローレルがいった。「いままであなたは暗黒教団にかかわったことはなかったでしょう。それがいまかかわるようになったから、モイブリッジは心配しているのよ」
「それならどうして暗黒教団が実在することさえ否定したりするんだ。現実におこっていることについて、どうして嘘をついたりするんだ。モイブリッジはぼくたちの知らないことを知っているんじゃないかな」
ローレルは肩をすくめた。「最近では誰もが神経をぴりぴりさせているわ。ただのテロリストの問題じゃないわよ。大陸移動なんかのことについての記事を見てごらんなさいよ。ついこのまえ時事雑誌で読んだけど、核廃棄物が大気を汚染して気候をかえているんですって――『温室効果』っていうらしいわ。それで二十五年まえのような連続地震が、もしかしたらまえよりひどい規模でおこるかもしれないそうよ」ローレルは笑みをうかべた。「もちろん世界のおわりについての予言を信じているわけじゃないけど」
「ぼくもだよ」マークは立ちあがった。「しかしモイブリッジは信じているのかもしれない。秘密を知っているのかもしれない」
「あなたまで信じたりしないでね」ローレルが立ちあがった。「さあ、もう遅いんだから……」
マークはグラスをコーヒー・テーブルに置き、ローレルに近づいて抱きしめた。ローレルの唇はかすかにクレンジング・クリームのにおいがしたが、ローレルのほっそりした体を抱いたとき、急に驚くほどはりつめた下腹部のこわばりをそこなうことはなかった。マークの手はすでにローブのボタンをまさぐっていた。
「マーク――やめて――通りから見えるじゃない」
「寝室に行けば誰にも見られないさ」
マークはローレルを寝室に連れていき、今度はローブが脱がされた。
心ときめかされる顔が、アイルランド人の父親と日本人の母親からうけついでいるものを反映して、じらすような嘲笑をかすかにたたえ、マークをじっと見つめた。
「頭痛がしていたんじゃなかったのかしら」
「ああ。しかしきみがなおしてくれるはずだよ」
「最善をつくすわ」ローレルが小さな声でいった。
ローレルはマークをベッドにひきよせると、約束をまもった。
闇。最初はかたいものだったが、やがてマークをつつみこむようになった――冷たい滝、氷の波が凍てついた海でうねり、夜の岸に押しよせ、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、体に感じるものをかき消した……
「マーク――起きてよ」
ローレルに揺さぶられて眠りからさめ、マークは目を開けて、寝室の天井に揺れる影を見た。
ローレルが体を揺らしているのではなかった。部屋そのものが揺れていた。そしてまわりじゅうで、がたがた揺れる音が、つのりゆくとどろきとなってひびいていた。
「地震だ」
マークがすぐに立ちあがり、ローレルをひっぱって立ちあがらせたとき、床板が波をうってきしんだ。
「外に出るんだ――急いで」
ローレルがベッド近くの椅子にあったローブとスリッパをつかむ一方、マークは自分の靴と皺だらけになった服をつかみとった。そしてよろめきながら廊下を歩いて居間に入った。背後の寝室からガラスの割れる音が聞こえた。ふたりが玄関のドアに駆けよったとき、電気スタンドが倒れ、壁にかけてある絵が揺れて床に落ちた。
いまや家全体が巨大な手につかまれているかのように揺れていて、マークはドアのノブをつかみ、力まかせにひっぱった。ドアが開いた。マークはローレルを押しやり、そのあとから霧につつまれた夜のなかに出た。
背後では目に見えない手が家をつかみ、しめあげていた。屋根の一部がくずれ落ち、大きな音がした。
ふたりはうねる芝生の上を走り、安全な通りに出ようとした。
「見てよ」ローレルが叫んだ。
マークは顔をあげ、街灯の電球が割れてくだけちり、濃い霧のなかに消えていくのを見た。
「車に乗るんだ」マークが叫んだ。
しかしマークの車はもう縁石のそばにはなかった。右に目をむけたマークは、車が横すべりして行きどまりのコンクリートの壁にぶつかり、フードの上に電柱が倒れこんでいるのを見た。光雲が車のまわりで明滅して、霧を緑色に染めているのは、切れた電線が波うって車体にあたっているためだった。
突然、はるかなとどろきのただなかで、不気味な音がしたかと思うと、緑がかった光が赤にかわり、車が爆発して燃えあがった。
何かが頭上を飛び、マークはローレルを押し倒し、ふたりして深紅の霧をのぞきこんだ。こぼれたガソリンが芝生や通りに流れ、炎の舌が広がるにつれ、芝生も通りも赤くなった。炎はまもなく家にまで達するだろう。そうしたら……
マークは立ちあがり、左にむきをかえて、通りの入口にむかった。ここでは一本の木が倒れこんで、切断された高圧線が枝にまつわりついていた。いまその木まで燃えあがりはじめ、炎でもってふたりの進路をさえぎった。
逃げ道はただひとつ、まっすぐ前方の通りをさえぎり、霧と闇の分厚いヴェールの背後にそびえる、パークランド墓地の壁だけだった。
マークはローレルの手をつかんで、ものもいわずに前進しはじめた。墓地をとりかこむ石壁を乗りこえられるなら、少なくとも開けた場所で安全になれる。
渦巻く霧をぬけて通りの一番奥に進んでいくマークは、壁自体の一部とともに、問題がなくなってしまっていることを知った。右手の壁の一部がそっくりくずれさって、大きな割れ目が口を開けていた。
マークはローレルに顔をむけてうなずいた。「さあ、火が広がるまえに……」
ふたりは割れ目の下にくずれた残骸を踏みこえたあと、息をはずませ黙りこくって、彼方に広がる霧につつまれた墓地をまえにして立ちつくした。
「もうおわったんじゃないかしら」ローレルがつぶやいた。「耳をすましてみて……」
マークはうなずいた。どよめきが遠くにしりぞき、足元の揺れもおさまっていた。
マークは大きく息を吸って、ローレルがローブのボタンをとめ、腰の紐を結ぶのを見た。急に身をつつむ冷気を意識して、左手で服をつかんでいることを思いだした。あわてて服を身につけ、傷だらけになったはだしの足に靴をはいた。背後では炎が広がってはじける音がしており、ふりかえって見るまでもなかった。逃げ道は前方、霧につつまれた木々のなかにあるのだ。そしていまや地震がおさまっているからには……
墓地。
ローレルもそれを感じとったのか、マークの肩にふれる手が震えていた。
「墓地は嫌いよ」ローレルがささやいた。「ここから出ましょう」
「通りにもどる危険はおかせないよ」マークはいった。「高圧線がきれているんだから。まっすぐ墓地をぬけて、正門から大通りに出ればいい」
「そうしなきゃならないの。こわいわ……」
「手遅れにならないうちに逃げだせたことを感謝するんだね」マークはローレルにいった。「少なくともここでは安全だ。さあ、ぼくの手をつかんで」
ローレルの震える手がマークの手にあわさり、ふたりはまえに進みはじめて、木々のあいだをぬけ、もりあがった墓やかたむいた墓石のあいだをくねくねとまがる、霧につつまれた砂利道を歩いていった。ここでは霧がさらに深まっていた。霧がすべてをつつみこむ屍衣でもって、沈黙の墓地をおおいつくしていた。
突然ローレルがあえぎ、手首をひっぱってマークを立ちどまらせた。
マークはすぐに視線を落とし、すぐまえにぽっかり口を開けている穴を見た。
見えない手がここでも猛威をふるっていた――墓石や墓標をくつがえし、その下の墓をあばいていた。大きな亀裂が砂地のいたるところをはしり、大地の深くに達している。
前方の墓穴を見おろしたマークは、棺がくだけて、オーク材の蓋が破れているのを見た。そのなかに横たわっているものを見つめた――渦巻く霧をとおして、にやつく髑髏《どくろ》が見つめかえし、そのうつろな眼窩《がんか》が夜の闇のなかで燐光をはなった。
ローレルが喉にかかったうめきをあげ、顔をそむけてマークの手をひっぱった。その穴を避けて、ふたりはまた進みはじめた。
いまでは足を早めているふたりのまわりじゅうに、墓穴が口を開けていた。墓石の壺状装飾のくだけた破片が、倒れこんだ墓石のただなかにちらばっていた。ふたりはまた進む速度を落として、口を開けた墓穴を迂回《う かい》したが、ふたりのどちらも、立ちどまって墓穴に横たわるものをのぞきこもうとはしなかった。
いまでは砂利道をはなれ、霧と墓穴がおりなす迷路のなかを進んでいた。マークはくだけた記念碑や割れた石碑に目をむけたあと、翼のおれた天使像をほとんどよろめくようにして踏みこえた。
墓地の中心部に達してみると、歳月を閲《けみ》したこの箇所では、大理石の霊廟《れいびょう》がもりあがり、御影石の墓石はまだ立っていた。しかし無傷なものはひとつとしてなかった。装飾いりの錬鉄の柵と門扉が、たいてい地震によってねじまげられていた。そしてふたりのまわりじゅう、四方八方に深い亀裂が大地を走っていた。
ぽっかり口を開けた墓穴。マークははじめてその言葉の意味を知った。その意味と脅威を知った。あえぐローレルをひきつれて、マークは亀裂をとびこえ、死の領域に通じる開口部をあとにした。まさに修羅《しゅら》場にほかならず、裂け目から鼻をつく腐敗臭がたちのぼり、冷たくねっとりした霧とまざりあっているのがわかった。
しかし最悪なのは静寂だった。深まりゆく霧の闃《げき》とした静寂、夜と悪夢の静寂、それを破るものはマークとローレルの荒い息づかいだけだった。
そしてほかの音もあった。
犬が遠くで吠えていた。その吠え声が背後の闇のどこかから聞こえていた。そして吠え声が強まるにつれ、うちたたくような音やひっかくような音が夜にひびきわたった。
マークは立ちどまり、ふりかえって霧を透かし見た。何も見えなかったが、音はいまでは大きくなっていた。ローレルも耳にして、冷たい手でマークの手首を強く握りしめた。
「何かが近づいてきてるのよ」ローレルが叫んだ。そしてふりかえり、背後の霧のなかをのぞきこんだ。「何よ、あれ」
そのときマークも見た。いや、見たと思った。
亀裂の端の土がもりあがったところから、ぼんやりしたものが立ちあがったのだ。頭と肩らしきものが霧を背景に輪郭を描き、左右に身をよじっているので、犬の鼻面がはっきり見えた。巨大な犬が亀裂から身を起こしてのぞきこみ――そして消えてしまった。
いや、そうなのだろうか。
犬が吠えているが、その吠え声は笑い声のようなものになっているのではないか。
そしていま、甲高い哄笑《こうしょう》があがり、霧がみたす亀裂を何かがすべるように前進していた。
ローレルが悲鳴をあげ、急に手をはなした。マークがそれと知るまえに、いきなり走り出し、やみくもに彼方の霧のなかにとびこんでいった。
「待つんだ」マークが叫んだ。しかし走っていく姿は闇のなかに消え、亀裂の中心部の塚に立ちならぶ墓石にむかっていた。
亀裂ではなかった。穴だった。
そのことをマークは冷酷な事実として知った。地震が大地をひきさいたのかもしれないが、そのなかに隠されていたものをつくりだせるはずはない――地表から六フィート下で大地を縦横に走る、トンネルの規則正しいパターンをつくりだせるはずがない。一世紀の歳月をついやして粘土層を掘りぬき、何百ものトンネルをつくりあげ、墓から墓へと移動しているものが探し求めているのは……
滋養物なのだ。
マークは叫びながら霧のなかにとびこんだ。「ローレル――待ってくれ――もどってくるんだ」
返事はなく、前方の墓穴のまわりで渦を巻く霧につつまれた闇のなか、ローレルの姿を見つけることは不可能だった。
しかしいまふたたび甲高い笑い声がおこった。前方のどこか、亀裂が集中している墓のある塚から聞こえた。そしてほんの一瞬、大地から鼻面があらわれ、それにつづいて波打ってはずむ体が二本の足を広げて立ちあがり、グロテスクなほどひきのばされた腕、もしくは前脚を、貪欲《どんよく》そうにまえにのばすのが見えた。
そしてローレルのときとおなじように、闇にのみこまれて消えてしまった。
「ローレル」マークは叫んだ。そのとき下に目をむけ、ぽっかり開いたトンネルの開口部に落ちるのをまぬかれた[#「まぬかれた」はママ]。塚にかけのぼると、霧につつまれる夜闇に墓石がぬっとうかびあがっていた。
「ローレル――どこにいるんだ」
返事は悲鳴となって耳にとどき、左手の霊廟の入口から聞こえた。
そこにむかって走りだしたとき、悲鳴が不意にとぎれたが、いまや甲高い笑い声がおこり、いいようのない音がそのあとにつづいた。唸りと、ごろごろ喉にかかる音のいりまじったものだった。
マークは前方の開いた戸口に目をこらし、塚の斜面をかけあがっていたので、行く手に墓標が倒れているのも目にはいらなかった。
足をつまずかせてまえに倒れこみ、気をうしなってしまうほどの勢いで額を御影石にぶつけてしまった。意識をたもとうとやっきになっているあいだ、目も耳も正常に働かなかった。あえぎながら倒れふしていると、やがてまた目が見えるようになり、急にこめかみがうずきはじめ、首と肩にさすような痛みがはしった。しかし出血はしておらず、目と耳はまた正常なものになっていた。よろめきながら立ちあがり、墓の戸口に目をむけて、そのなかから聞こえる音に耳をこらそうとした。
しかしいまでは完全に静まりかえっていた。マークは足を進め、戸口で立ちどまって、奥にあるものを感じとろうとした。
沈黙と闇が感じられるばかりだった。
どういうわけか、ここへ入りこんだものが何者であるにせよ、倒れこんで目をくらましているあいだに姿を消してしまったことがわかった。
「ローレル」低い声で名前を呼んだが、返事はなかった。
マークは大きく息を吸った。
そして用心深く一歩ずつ足を進め、暗い戸口をぬけて不快な闇のなかに入りこんでいった。霊廟の石の床に足音がうつろにひびいた。右手を大理石の壁にあてながら、悪臭と冷気の充満する、何も見えない領域に入った。もう一度ローレルの名前をささやいた。
ローレルを見つけたのはマークの足だった。前方の床にローブが広がっているのに足がふれたのだ。
ローレルは身動きひとつせずに横たわっており、マークは名前を呼ぶこともしなかった。そんなことはせずにすぐにかがみこみ、両腕でぐったりした体を抱きあげた。ほっそりしているので、抱きあげたまま入口にもどり、霧の濃い夜に出るのは造作《ぞうさ》もないことだった。外に出てはじめてローレルを見おろし、あまりにも軽く思えた理由を知った。
闇のなかでローレルをとらえたのものが[#「とらえたのものが」はママ]何者であるにせよ、ローレルの体を傷つけてはいなかった。手足も胴もありがたいことに無傷だった。
しかしローレルには首がなかった。
どれほど走りつづけたのか。
マークにはっきり思いだせる最後の記憶は、ねじられひきちぎられて血を吹きだす首を見たことだった。そのとき慄然《りつぜん》たる死体を落とし、そのあとあえぎながら墓地の恐怖の領域を走りぬけた。
すべてがばらばらにくずれ、頭蓋骨をたまらない痛みが襲った。頭がわれそうな激しい痛みだった。現実と幻覚の区別をくずす痛みだった。
かつてローレルという女がいて、その女が死んでしまったいま、ほかのことまでどうして確信がもてるだろうか。犬のような生物がいなかったのなら、どうして怖ろしいほどはっきりと、そんな生物の記憶がのこっているのか――よだれをしたたらす鼻面、鉤爪のある銀色の毛につつまれた腕を見た記憶があるのか。そういう生物の大群が墓地にトンネルを掘りつづけ、墓地の下に横たわるものを餌にしていることと同様に、現実味のあることなのか。
あるいはラヴクラフトの小説のひとつ、以前に読んだものからひきおこされたものにすぎないのか。
しかしローレルの首はなくなっていた。
そしてマークは走り、墓地の反対側の大通りの門に達した。ここでは埋葬所の静寂にかわって、耳ざわりな音がしていた――遠くではサイレンの唸り、近くの通りではむせび泣く声があった。夜にひびく炎の唸り、車がジグザグに走ってぶつかる甲高い金属音、煉瓦《れんが》の崩れ落ちる音、制服姿の男たちが崩れたショッピング・センターに入りこもうとする略奪者たちとあらそっているバリケードでは、拡声器による声。
ローレルの首がなくなってしまった。
マークはダウンタウンに行ってヘラーに会い、墓地でおこったことを知らせなければならなかった。地震は二十五年まえのものよりひどいにちがいなく、大きくあつかわれるはずだった――しかしマークにも記事にすることがあり、それを伝えなければならなかった。
車がない。それなら歩けばいいのだ。一マイルもないのだから。うずくまる者や燃えあがるものを避けていけばいい。
チャイナタウンが燃えあがっていた。通りを走っている老人は髪と髭が炎にそめられていた。遠くでガスの本管が爆発して、老人の姿が消えた。震動――衝撃波――雨のようにふりそそぐ瓦礫《が れき》――炎の壁が行く手をさえぎった。
迂回《う かい》するんだ。フリーウェイの下を急いでぬければいい。フリーウェイの前方はすでに倒壊して崩れ落ち、何台もの車がひしゃげたブリキの玩具のように落ちて、人形のような乗客をはきだしていた。しかしその人形は身をよじって悲鳴をあげている。その絶叫がマークの頭をうずかせた。
頭がまだあることを感謝するんだ。ローレルの首はなくなってしまった。ヘラーに知らせなければ……
マークはあえぎながらバンカー・ヒルをのぼった。ここでは煙が霧とまざりあい、肺と目を痛めつけた。しかしもうのぼりつめていて、前方にダウンタウンがあった。
渦を巻く煙のなかをのぞきこみ、マークはダウンタウンがすさまじいありさまになっているのを見た。
前方にあるのはまさしくダウンタウンだった。地震の猛威をうけたダウンタウンは、高台だったところを低くさせ、空にそびえていた尖塔を倒し、パヴィリオンとミュージック・ホールを地面に押しつぶし、市庁舎の上部をくずしていた。
ローレルの首がなくなってしまった。
そしてタイムズ・ニュース・センターのビルがなくなっていた。かつて地平線を破って誇らしくそそり立っていたところに、いまは炎の柱が立ちのぼっていた。
ヘラーに知らせることはできなかった。誰にも話すことはできなかった。ジャドスン・モイブリッジはべつにして。そう、マークはモイブリッジに会いにいかなければならなかった。
マークは時間感覚をことごとく失っていたにちがいない。いままたのぼっているのは、ダウンタウンではなく、丘の近くだったからだ。車に乗った男、若い黒人がマークのそばで車を停め、乗るようにうながしたことをぼんやりおぼえているような気がするのは、現実のことなのだろうか、気のせいなのだろうか。
「疲れてるようですね――この車に乗りなさいよ――どこへ行くんです。まだ通れるものなら、一〇一号線に行ってみようと思っているんですよ。わかりました。峡谷の下までお連れしましょう。そこでお別れです」
たまらない頭痛。
しかしそんなふうにおこったにちがいない。車に乗ったにちがいなかった。いまマークは闇のなかで丘の坂道をのぼっていた。電線はほとんど何の損傷もうけていなかったが、斜面に建つ静まりかえった家屋に灯はなく、私道にはほとんど車もなかった。誰もがパニックに襲われて逃げだしたのだ。消えてしまった――ローレルの首のように。
「あなたにもわかるでしょう。あなたはまちがっていて、ラヴクラフトの書いたことが正しいんですよ。ああいうものは実在するんです。この目で見ましたからね。いったい地下の穴にどれだけの数がいることか――いったい何が原因で街にまで入りこんだのか。今晩は獲物を十分に手にいれて、むさぼり喰うでしょうよ……」
これはマークがモイブリッジに話していたことだった。いや、闇のなかをのぼりながら、自分に語りかけていたことだった。もはや幻覚と現実の区別がつかなかった。
のぼりつめると、空が赤くなっていた。轟音をあげて空にのぼる赤い色。炎とサイレンの音、頭上の空中にとどまっているヘリコプター。
頭の痛み、首と肩の痛みが、肺と下腹部と足のうずきに調子をあわせていた。のぼりつづけ、まだのぼりつづける。モイブリッジに会って話さなければならない。
丘の頂の家は暗かったが、車がカーポートにあって、もう一台の車が通りに停まっていた。
マークは門に鍵がかかっていないのを知った。門から入って玄関にむかった。ドアベルを鳴らしてもノックしても返事はなかった。ノブをまわそうとしたが、ドアはロックされていた。
家の横にまわり、鎧戸《よろいど》がおりた窓を見つけた。その窓もロックされていたので、ガラスを割るための石を探した。
そうしているとき、裏門がすこし開いていることに気づいた。押し開けて中庭に入った。ここでは霧が濃くなっていて、海から押しよせ、プールサイドをつつみこんでいた。
しかしマークが注意をむけたのはプールではなかった。居間のフランス窓に顔をむけた。フランス窓は開いていて、なかから唸りが聞こえ、光が明滅していた。
マークはなかをのぞきこんだ。唸りと明滅する光を出しているのは、壁にうずめられたテレヴィだった。ひびわれたスクリーンは映像を映しだせず、くもったにじみをつくりだすだけだった。
マークは居間に入り、灯のスイッチを見つけて押した。灯はつかず、ここでもある程度の被害があるようだった。もしそうなら、ジャドスン・モイブリッジはどうなったのか。
マークはモイブリッジの名前を呼び、そして叫んだが、返事はなかった。
またしても頭蓋骨と肩にうずきを感じ、あえぎながら部屋を横切り、キッチンと寝室に通じる廊下を進んでいった。
乱れた様子はなく、闇のなかを歩いていく自分の足音が聞こえるだけだった。そのときポケットにライターがあることを思いだし、ポケットをまさぐった。炎がひらめくと、食堂とキッチンを調べた。どちらにも誰もおらず、被害もなかった。
マークはゆっくりと最初の寝室に近づき、なかをのぞきこんだ。しかしここでもライターの炎は人の気配を示さず、寝室の奥のバスルームにも手がかりひとつなかった。
そのときマークは、モイブリッジがふたつ目の寝室を書斎兼オフィスとしてつかっているといっていたことを思いだした。
マークは廊下を奥まで進んだ。ドアは閉まっていたが、ロックされてはいなかった。ドアを開けるとライターをかかげてなかに入った。
部屋のなかは雑然としていた。本がつくりつけの書棚から落ちて、床にでたらめな山をつくっていた。デスク用の椅子が倒れこんだキャビネットのただなかに横たわり、キャビネットにはいっていたものがカーペットにはきだされている。デスクは立っていたが、壁から移動して、その上には書類やフォルダーが散乱していた。
マークは顔をしかめて見つめた。地震の揺れだけでこんなありさまになるだろうか。もしかして……
地震が引出を開けることはありうるが、引出をからにすることなどありえない。キャビネットを倒すことはあっても、鍵をこわし、なかにあったものをぶちまけたりはしない。地震のせいで壁の金庫が開くはずがない……
マークはデスクのむこう、円形の金庫の扉が開いているところへ行った。
金庫はからだった。
かがみこんで、足元の書類を調べた。一部は金庫のなかにはいっていたものにちがいなかった。保険証書のはいった革の書類いれ、抵当権設定会社の名前が記された細長いマニラ封筒、そして札束。
マークは札束をひとつとりあげて調べてみた。スコッチ・テープで束《たば》ねられ、三インチの厚みがあって、すべて百ドル紙幣だった。足元にはまだ六束あった――相当な金額になるだろう。
どうやら金庫を開けた者は金が目当ではなかったらしい。
いまでは胸にまで広がっている痛みを意識して、マークはしゃがみこんだ。呼吸するのも困難で、大きく口を開けなければならなかった。どこか体の具合がおかしかったが、そんなことにかまっているひまはない。ここには何か異常なものがあり、それをつきとめなければならなかった……
金庫から床に投げだされたものがほかにもあった。領収書、株券、法的書類のたぐいだ。底のほうにある封筒をもうすこしで見のがすところだったが、封筒のなかにはいっているかたいものに指が偶然ふれた。これを金庫からとりだした者は手紙か書類だと思ったにちがいないが、そのどちらでもなかった。マークはあいている手で封を破り、封筒のなかにあったものを掌《てのひら》に落とした。
テープで封印されたビニール袋にはいっていたのは、小さなマイクロフィルムだけだった。テープには手書きで内容が記されていた。
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『ネクロノミコン』抜粋
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またマークは目のまえがぼやけ、肩にさすような痛みがはしるのを感じた。幻覚と現実。
『ネクロノミコン』は幻覚だった。ジャドスン・モイブリッジ自身がそんな書物はラヴクラフトの想像のなかにしか存在しないといっていた。しかしこのマイクロフィルムは現実のもので、しかもモイブリッジの金庫のなかにあったのだ。
金庫にはほかに何がはいっていたのか――そして誰がここに来て、それを見つけたのか。
マークは立ちあがり、マイクロフィルムをポケットにいれた。手にしているライターが震え、さすような痛みが強くなってきた。
幻覚と現実。モイブリッジは暗黒教団など存在しないと断言していたが、暗黒教団は地震がおこることを説き、それが現実のものとなったのだ。モイブリッジは人生の貴重な歳月をついやして、ラヴクラフトの想像が現実にもとづいていないことを証明したが、今晩ラヴクラフトの小説のひとつが現実のものとなり、そしてそのためにローレルが死んでしまった。
モイブリッジが真実を知っていたなら、どうして嘘をついたりしたのか。ローレルの首がなくなってしまったのだ。そしてモイブリッジはどこにいるのか。
マークはあとずさって寝室から出ると、身を隠している者の気配や音はしないかと油断なくしながら、じりじりと廊下を進んだ。影以外に何も見えず、居間のテレヴィの唸り以外に何も聞こえなかった。そのむこうの中庭では、霧がもう戸口まで押しよせていた。
マークはライターの火を消して、水音のする霧のなかに出た。音を耳にしてプールサイドにひきよせられ、黒い泡がうきあがっては破裂する、小波をうつ水面を見つめた。
何かが水中で動いていた。
何かが身をよじり、底からうかびあがってきた。そしていまゆっくりと水面にあらわれた。
渦を巻く霧をとおして、マークはプールの中央にうかんでいるものを見つめ、目をこらして、揺れる体とふくれあがったジャドスン・モイブリッジの顔を見た。
どんよりした目がかすかにふくれていて、ゆがんで開いた口から何の音もでないのは、見ることも口をきくこともできないからだった。モイブリッジは死んでいた。
マークはかがみこんで体をまえに乗りだし、死体に手をのばそうとした。
そのときだった。水際から急に手がのびて、マークの踝《くるぶし》をつかみ、泡だつ黒い水のなかにひきずりこんだ。
おぼれるときにはこれまでの人生を一気に思いだす。
いいつたえではそういうことだが、それは嘘だった。
マークがそのことを知ったのは、いままさにおぼれているからであり、ジャドスン・モイブリッジの死体がうかぶプールでおぼれているのだった。頭の痛みは頂点に達し、首と胸が激しくうずいた。逃れようとしたが、見えない手にしっかりつかまれ、底にまでひきずりこまれ、破裂しそうな肺に水がはいりこんだ。
そのとき死んだにちがいないが、それでおわりではなかった。夢があった……
夢のなかでは、プールからひきあげられたとき、マークはまだ生きていた。ぬれて水をしたたらし、目がくらんで、なすすべもなかったが、それでも生きていた。
いまでは彼らを見ることができた。彼らがまわりをとりかこみ、マークを立ちあがらせ、なかばかかえるようにして、家のまえに停めてあった車に乗せた。
彼らの着ている服にはおかしいところがあった。体にあっていないのだ。服は普通の人間の体型にあわせて仕立てられているが、マークを捕えた者たちは普通ではなかった。不恰好に歩くのは足が変形しているためで、背中にはこぶがあり、ふくれあがった首が荒い息づかいにあわせて収縮した。きつい袖口からつきだす長い手首の先には、水かきのついた指があり、それが鉤爪のように閉じたりまるまったりした。そして彼らの顔を一瞥《いちべつ》したことで、マークの夢は悪夢にかわった。
大きな丸い目はまばたきすることがなかった。大きく広がった平たい鼻は、鼻孔がふくれあがっていた。唇のない大きな口に、先のとがった小さな歯がならんでいるのが見えた。鱗《うろこ》のような皮膚が毛のない頭までおおっていた。触鬚《しょくしゅ》のある首は両側に穴があって、それがたえまなく閉じたり開いたりしていた――こうしたもののすべてが夢の一部だった。
しかし真に反感をおぼえるのは、たまらない魚くささだった。彼らのにおいと声だった。喉にかかった低い声は、かろうじて会話に似ていると思える程度のものだったが、マークは苦労して口にされる言葉をよく理解することができた。
二匹の生物が車の後部席でマークをはさみ、坐るというか、しゃがみこんでいた。もう二匹が前部席にいた。運転している生物は道を知っているらしく、いま夢のなかで低くひびいているのはそいつの声だった。
「海岸はだめだ――ハイウェイがなくなってる――消えてしまったんだ――道路にひきかえさなきゃならない――山をぬけて――」
そしてありがたいことに、すべてが消えてしまった。
意識がよみがえったとき、マークは夜が寒いことを知ったが、寒気は感じなかった。いまでは霧の上にのぼっていて、車がかたむき、ずるずるすべっていた。マークは目を開け、遠くを見つめ、背後の赤い地平線と、高い峰がそびえる前方の漆黒《しっこく》の空を見た。
高い丘のけわしい斜面に設けられた登り坂を進んでいるうちに、まわりにいる者たちの息づかいがさらに荒いものになっているような気がした。彼らがあえぎながら文句をいったが、運転している者は毛のないふくれあがった頭をふりつづけた。何度も何度も低い声でこういった。「ここしか安全なところはないんだ――ここしかな」
たしかにいかなる人間の邪魔もうけない安全なところだった。山頂をぬける危険な山道には、ほかの車は一台もあらわれなかった。陰鬱な深紅の太陽が東の空にのぼり、赤みがかった光が左手の山脈の亀裂からさしこんだ。その光ははるか下の水に反射したものだが、マークには北の山岳地帯の近くで海を目にしたおぼえはなかった。夢のなかを旅しているあいだにのみ遭遇する、混乱した地形だった。
マークはまた深いまどろみに落ちこんだようで、ときおり目をさますと、きまってラジエターをひやすために車が停まっていた。しかしいつもすぐに走りだし、沈黙がつづくなか、はてしない時間がすぎていった。マークの両側にいる者はマークの腕をつかんだままで、マークに話しかけることもしなかった。
夢には時間がなく、あふれた水が家の屋根まで達している谷間におりたのがいつのことなのか、マークにはわからなかった。人間や家畜の死体が赤くそまる泡のなかにうかんでいる、ぬかるんだ急流を見おろしながら走っていたのが、いつのことだったのかも。
マークは目を開けて、また夕闇がせまっていることを知ったが、そのとき車はかたむいた標識のそばを走りすぎた。標識にはロスガトスまで三十マイルとあった。
サンタ・クルス山脈のどこかにちがいなかった。夢のなかにそういうものが実在するとして、そうであるはずだった。そしてこれは夢にちがいない。マークは自分にそういいきかせた。死の夢なのだ。現実は街のどこかで死にたえた。ちょうどマーク自身が泳ぎをおぼえなかったためにプールでおぼれ、死んでしまったように。
そうであるほうがよかった。死んで夢を見ているほうがよかった。まだ生きて、こんな生物にとらえられ、ふたたび木々が頂に立つ黄昏の丘をのぼっているよりは。
いまときおりかいま見える家いえは、そびえたつセカイヤメスギのただなかに点在して、静まりかえり、灯ひとつなく、うつろだった。マークは通りの看板を目にした。スカイヴュー・テラスとあった。車はそのそばをとおりすぎたあと、ほとんど踏みならされてできた道としかいいようのない、狭くけわしい荒れた道をのぼり、木々のなかをぬけていった。
もちろん幻覚にちがいなかった。夢が唯一の現実なのだから。この夢と生物は。マークもいまでは、この魚じみた生物が何者であるかを知っていた。どこから来たのか、どこへ行こうとしているのかを知っていた。
彼らはマークをインスマスに連れていこうとしているのだ……
「インスマスだと」声がそういった。「そんなものが存在しないことはわかっているはずだぞ。存在したこともない――少なくともその名前ではな」
マークは目を開けた。
部屋は暗く、大きな窓から見える夜空はさらに暗かった。マークはその窓のそばにある寝椅子、一風かわった粗い布のはられた寝椅子に坐っているようだった。そしてどうして肌に刺激をうけるのか、その理由を知った。マークは裸にされていた。
大気はじっとりして寒かったが、気にもならなかった。痛みと頭痛が消えているので、どうにか以前の自分にもどっているような気がした。しかしもう死んでしまって夢を見ているのだから、そんなことがありうるだろうか。
「死んでもおらず、夢を見ているわけでもない」声がそういった。
マークは部屋を見まわし、声を出した者を見つけようとした。しだいに目が闇になれてきて、正面の壁近くの椅子に坐っている影の輪郭を、ぼんやり目にすることができた。
その姿はぼんやりしたものだったとはいえ、背筋をのばしている姿勢が、異臭もなく発音の正確なこととあいまって、マークを誘拐した生物ではないことを告げていた。
「誘拐したのではない」声がいった。「きみはここへ案内されたのだ」
マークはようやく、自分が声に出してしゃべっていたわけではないことを知った。ということは……
「きみの心を読んでいると思うのか」声にはすこしおもしろがっているようなところがあった。「直観だよ。お座敷芸だ。本当に人の心が読めるなら、モイブリッジが信用できないことがわかっていただろうからな。実をいえば、そういう可能性もあると思って、モイブリッジの家を調べさせたのだ。金庫のなかで見つかったものが、わたしの疑惑をかためた」
「おまえがモイブリッジを殺させたんだな」マークがいった。
「耳ざわりな言葉だな。ともかくモイブリッジは、われわれが手をくださなくとも、いまごろは津波にのみこまれて死んでしまっていただろうよ」
「津波だと」
「忘れていたが、昨夜の地震で津波がおこったことを、きみは知らないのだったな。ロスアンジェルスの盆地はもうなくなっている。バハ・カリフォルニア半島からサンフランシスコ湾にかけての海岸線が水びたしになっているのだ。この山のなかでさえ、われわれは一時的にまもられているだけにすぎない。自分の目で見たまえ」
マークは左手の大きな窓に目をむけた。どよめく音を聞いたあと、その音を発しているものを見た。海原がとぎれることなく広がり、四十フィート下で崖にうちよせていた。
「まだ水面は上昇している」声がいった。「すぐにもここまで達するだろう」
マークは思わず立ちあがり、その動作に冷笑があびせられた。
「じっとしているのだ」声がいった。「どこにも行くところはない。地震がやりのこしたことを海がしてくれるのだ。世界じゅうでおごりたかぶった都市が崩壊し、のこっているのは高い山だけだ。しかし深海から新しい陸地が浮上する――実際には古い陸地だがな。かつて彼らは地球全体を支配し、いままた支配するためにあらわれるのだ。古《いにしえ》のもの、古の習わしが、正しく回復され、人類のなかでのこっている者はいまより劣る役割を演じるだろう。奴隷になる者もいれば、家畜として海のなかにいるものとまぐわせられたり、大地の下にいるものを養ったりする者もいる」
「ばかな」マークは首をふった。「そんなことがあるものか……」
「自分の目で見てもか」またふくみ笑いが闇のなかにひびいた。「人間が自分たちを最高の存在だと思っていたときでさえ、まぐわせたり養ったりすることは常に持続されたのだぞ。そうした交わりから生まれたものたちが、きみをここへ連れてきたのだ。養うことについては――人間が最後の憩《いこ》いの場と呼んでいるものが、実際にはそうではなかったのだ。あらゆる墓地は地底から近づけ、すべての大地が墓への戸口で穴だらけになっている。きみが昨夜見たものは、あの墓地や山頂の地下の洞窟にひそむものたちを、わずかにしのばせるものにすぎない」
マークは声を出している黒い影を見つめた。「おまえは誰なんだ」
「わたしの本当の名前はきみには何の意味もないだろう。しかしここ地球では、はるか昔のエジプトで、人間はわたしをナイアーラトテップと呼んだ」
その名前が上昇する海の音をしのいでひびきわたった。ナイアーラトテップ。旧支配者の強壮なる使者。ラヴクラフトの小説……
「もちろんラヴクラフトは知っていた」声が告げた。「少数の者は常に知っているのだ。人間が真の支配者と意思をかよいあわせられるよう、アルハザードが自分の知っていることを『ネクロノミコン』に書きとどめたからな。しかしそうした呪文やまじないは、悪いやつに知られると、害をおよぼす可能性がある。たとえアルハザードが人間を啓発するだけのつもりだったにせよ、その著書を見つけだしては処分し、アルハザードに狂人の汚名を着せなければならなかった。
「しかしラヴクラフトは警告するつもりでいたので、これはさらに由々《ゆゆ》しい危険だった。まったくの偶然のみが、一世紀まえにクトゥルーの到来を阻止したのだ。ラヴクラフトはすべてを明確に記録し、大いなるクトゥルーがふたたび立ちあがるときを予言した。ラヴクラフトの著書が広範囲に流布《るふ》したことで、すべての書物を処分することが不可能になり、その結果、一部の読者が小説の背後に事実があるのではないかと疑いだした。
「ラヴクラフトの小説の真価をおとしめ、それらを四分の一世紀まえの星の知慧派のような、いかがわしい邪教に結びつけることが重要になったのだ。入信者にはラヴクラフトの啓示を確証するかもしれぬあらゆる証拠をとりのぞく、秘密の任務があたえられた。ラヴクラフトが典拠とした文書や手紙が見つけだされ、リチャード・アプトンの絵や、それを所有する者たち――アルバート・キースのような者たち――は処分された。
「そして大いなるクトゥルーが到来する予言がふたたび成就《じょうじゅ》したのだ。いや、成就するところだった。しかしどういうわけか、当局の者が警戒して、一連のなりゆきから、キースの以前の妻がまきこまれるようになった。
「クトゥルーに対して特殊部隊が派遣され、わたしは妨害するのに必要なことをした。しかし事実上クトゥルーが撲滅《ぼくめつ》されたと思われ、権力者たちはまた安心感を味わった。
「その満悦感がつづいているあいだに、わたしは仕事を再開し、人間の規則を粉砕する状況をつくりだした。わたしが暗黒教団をつくりあげたのだ――テロと暗殺をつかって、来たるべきものから人間の注意をそらしてやった。
「今度はまちがいをおかすことがなかった。そして星が正しい合《ごう》にはいり、大地が破壊される徴候が近づいたとき、すべての準備はととのった。いまや、そのときになっている」
「どうしてそんなことを話すんだ」マークは不安そうに身じろぎした。「さっぱりわからない……」
「わかるようになる」
かすかな音がして、急に光がさし、まばゆい強さでぎらついたので、つかのまマークは何も見えなくなった。やがてゆっくりと目が強烈な光になれるようになり、マークはすべてをはっきりと見た。
むかいあって坐っているのは、黒い服に身をつつんだ黒人だった。その黒さにさえどこか異様なものがあったが、それをさらけだす光の源《みなもと》ほど不安にさせられるものではなかった。
光をはなっているのは、黒人の膝に置かれた光沢《こうたく》のない金色の金属の箱だった。側面には身をよじる生物が刻まれ、その目といい、触腕といい、マークに思いだせるどんな生命体とも似ていなかった。箱そのものは正方形でも長方形でもない。それ自体の幾何学にのっとって形造られたようだった。
しかし光そのものがマークの注意をとらえ、内部の側面や底にとりつけられた金属製の帯に支えられる、大きな結晶体からほとばしっていた。結晶体は黒く、赤い縞がはいっているようだったが、それがはなつ輝きは緑色の炎を思わせた。
マークは目をしばたたいた。「いったいそれは」
「いつも地上にあったわけではない」黒人がいった。「いまはその力を発揮し、目的をはたすために、ここにあるがな。輝くトラペゾヘドロンだ」
ラヴクラフトがつかった名前であることを、マークは思いだした。「『闇をさまようもの』という小説があったんじゃなかったのか」
黒人がうなずいた。「この光がある実体を招喚《しょうかん》して、これを見つけた者に死をもたらした。しかしほかにも特性があるのだ。これはひとつの焦点、星に結びつく戸口、異次元に棲《す》むものたちに達する道を開くものなのだ。光は癒《いや》すことも破壊することもでき、もっとも重要なことには、変容させることもできる。
「この輝くトラペゾヘドロンという媒介をとおしてこそ、わたしははるか昔に太古のケムで、はじめて人間の姿をとったのだ。そしてこれはさらに高度な役割をになう定めになっている」
マークはまた目をしばたたいた。結晶体が光とともに熱をはなっているように思えた――しかしその熱はひややかだった。マークはローレルの家で、凍りつく炎を夢で見たことを思いだした。これもあの夢の一部なのか。
「そうではない」黒人が低い声でいった。「夢の時代はすぎ去り、夢を見る者たち――アルハザード、アプトン、ラヴクラフト――は死にはてている。アルバート・キースはあえて夢の源を探ろうとして、死んでしまった。そしてきみは……」
「ぼくがそんなものにどんな関係があるというんだ」マークがいった。
「わからないのか。モイブリッジはもちろん知っていながら、口にすることがなかったのだよ。われわれがそれをあてにしていたのは、モイブリッジに報《むく》いてやったからだし、モイブリッジがわれわれの命令で本を書きあげたときには、安心感を味わったものだ。モイブリッジはラヴクラフトの真価をおとしめることに力をかし、われわれにはモイブリッジがひそかにわれわれと結託していることをもらさないと信ずべき理由があった。しかしモイブリッジは秘密を知っており、われわれが提供した情報をもちつづけた。きみが見つけたマイクロフィルムのたぐいだ。われわれはモイブリッジが力をかした見返りに、その生命を保証してやったが、地震がおこったときに、モイブリッジは疑いをいだいてしまった。
「そのときにはモイブリッジが当局に連絡するには手遅れだったが、われわれに対してモイブリッジがいくつかの呪文をつかう可能性はまだあった。そしてわれわれはきみがモイブリッジを見つけだすつもりでいることを知った。だからモイブリッジが所有しているものをとりもどし、モイブリッジを処分しなければならなくなったのだ」
ひややかな熱がいたるところにあった。マークは頭と肩にうずきを感じた。「どうしてぼくはこんなところにいるんだ」そういった。
黒人が体をまえに乗りだした。「さっきもいったように、アルバート・キースのまえの妻が、クトゥルーを破壊する試みにかかわるようになったのだ。しかしそれが成功するまえに、捕えられて、旧支配者が待っているところへ連れていかれた。その夜、爆弾がイースター島に落下して、大いなるクトゥルーですらその猛威に耐えられなかった」
「すると、クトゥルーは死んだのか」
「逃げのびた者はふたりだけだった――ケイ・キースという女とわたしだ。わたしがひそかに用意してあった安全な場所に女を運び、陣痛がはじまるまで見まもってやった。予想されたように、女は出産のときに死んでしまった。しかし子供は生きていた」
マークは顔をしかめた。「どんな子供だ……」
「結合は爆弾が落下するまえにおわっていたのだ」黒人がひややかな燃えあがる光の背後から見すえていた。「そのあとのことについては――ハイジンガーという男がキースの財産の管理をした。ハイジンガーには甥《おい》がいて、その男を通じて、そのときが来るまで子供を養子にされた孤児として育てる手配がなされた。こうして大いなるクトゥルーの種子はたもたれたのだ。その子供はもちろん、誰も疑った者はいない」
黒人がマークにむかって笑みをうかべた。「そしてきみは疑いもしなかった」そういった。
そのときマークは立ちあがろうとしたが、箱がまえにかたむけられると、青白い光にさらされて、なすすべもなく全身が麻痺《まひ》してしまった。悲鳴は喉につまり、見つめることしかできなかった。体をつつみこみ、脳のなかまで燃えあがらせる光を見つめることしかできなかった。
大いなるクトゥルーの種子がたもたれた。遺伝子によりひきつがれたもの――プールでおぼれなかったのも当然だった。そして激しい痛みがして、息をするのも困難だったことは、変異の過程の一部、水中でも星の世界に舞いあがっても生きていける姿に変身する過程の一部だったのだ。その変化はまだおわっていない。しかし光が変身させ……
見つめているうちに、光の背後にある黒い結晶体が鏡で、そこに光をあびている自分の姿が映っているような気がした。
そしていま、脳室の窩洞《か どう》のどこかで、細い光が脳橋をつらぬき、青斑《せいはん》と呼ばれる部分に入りこんだ。
マークの姿がぼやけて揺らいだ。手足が溶け、そして増大した――顔のない拡大する体から新しい器官がのびて広がり、単なる人間性はさらに巨大な神の姿に溶けこんだ。もう苦痛はなく、脈動と潜在能力、誇りと力があるばかりだった。
そは永久《とこしえ》に横たわる死者にあらねど、測り知れざる永劫《えいごう》のもとに死を超ゆるもの。その永劫の歳月が訪れていた。星が正しい位置につき、戸口が開かれ、海は不死の大群にあふれ、大地は不滅のものをはきだした。
まもなくユゴスの翼あるものたちが虚空から舞いおり、旧支配者がもどってくる――これまで擁護《ようご》していたアザゾースとヨグ=ソトースが、マークと同様に変容して隆起した大陸の、無明のレンとカダスにもどってくる。
身じろぎすると、まわりの壁が割れてくずれ落ちた。
呼吸すると、ナイアーラトテップがトラペゾヘドロンだった小さな玩具をつかんで消えてしまった。
身を揺るがすと、眼下の海が渦巻き、沸《わ》きたって、招いていた。
立ちあがると、山が震え、海中に没した。
時間がとまった。
死が死にたえた。
そして大いなるクトゥルーが世界に躍りでた。永遠の治世をはじめるために。
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ブロックとラヴクラフト
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[#地から1字上げ]大瀧啓裕
本書は一九七九年にアメリカのウィスパーズ・プレスから、限定版および普及版の二種のハードカヴァーとして刊行されたが、それに先立つ一九七八年の秋、同社の不定期刊行誌<ウィスパーズ>の十一・十二合併号に、この翻訳では五十二ページから七十三ページにかけての箇所に相当するエピソードが、いわば予告編という形で独立して掲載されている。旧支配者にまつわる夢にはじまり、謎に謎を重ねて緊迫感を高めながら、ラヴクラフトの『闇に囁くもの』の衝撃的な結末を再現するにいたる構成は、まさしく本書の醍醐《だいご》味をここに凝縮した感があり、ブロック・ファンはもとより、ラヴクラフトやクトゥルー神話の愛読者にうれしい驚きをあたえることになった。
やがて刊行された本書は、ラヴクラフトの生涯について饒舌《じょうぜつ》に語り、ラヴクラフトの作品を徹底的に利用しつくし、それらが物語の流れのうえで必然的なものになっている姿を明らかにして、本書の全貌があらわれるのを待ち望んでいた読者をさらに驚かせた。これはラヴクラフトがひそかにたのしみながら用いた手法の斬新な応用でもある。そして物語はラヴクラフトの作品を淵源とする事件が続発するなか、黙示的な事象がこれにともない、不穏な動きを徐々にうかびあがらせながら、しだいにすべての謎が収斂《しゅうれん》して迫真のデヌーマンにいたる経過をたどり、一つの世界に逃れようのない終末をもたらす。これはラヴクラフトが最終的に提示した幻想宇宙年代記の正統的な解釈にほかならない。
すなわち本書はブロックにとってのクトゥルー神話の総決算である。ただしダーレスが展開した人間中心の善悪二元論に基づくものではなく、あくまでも人間の視点を超越したラヴクラフトの伝統に浴するものであることは、本書の結末からも明らかだろう。わたしはこれまで、ラヴクラフトとダーレスの視点が截然《せつぜん》と異なるために、ラヴクラフトが創造してダーレスが解釈しなおした神話を、それぞれ原神話およびクトゥルー神話と呼んで区別してきたが、ブロック自身が本書において発音もダーレスとおなじクトゥルー神話としているので、この解説においてはブロックの用いる名称をつかわざるをえない。このことをあらかじめおことわりしておく。
かつてブロックがラヴクラフトとともに織りあげていたクトゥルー神話は、ナイアーラトテップを隠れた主人公とする本書において、たがいにわかちあう宇宙観のもと、ついに他者の追随を許さぬ極点に達したのだ。ラヴクラフトの真意をよく理解しているブロックなればこそ、みずからの資質を生かしながら、見事ラヴクラフトの宇宙年代記に一つの終止符をうてたわけであり、ゆるぎのない伝統の維持に思いをいたせば、ラヴクラフトに寄せるブロックの衷心からの敬愛の念が、本書成立の要《かなめ》であるといってさしつかえなかろう。アルバート・キースによって口にされる、ラヴクラフトへの「オマージュ、心からの捧げものだよ」という言葉は、そのまま本書に対して用いることができる。さらにいえば、ブロックとラヴクラフトのかかわりをクトゥルー神話に即してたどることは、本書について語ることにひとしい。
そもそもブロックが小説を執筆するようになったのは、ラヴクラフトから勧められたことがきっかけとなった。十歳のときに<ウィアード・テイルズ>一九二七年八月号を叔母に買ってもらい、翌々月号に掲載されたラヴクラフトの『ピックマンのモデル』に感銘をうけ、不況の影響をうけて一時期購読はかなわなかったものの、一九三二年にふたたび購読をはじめ、同誌の四月号に発表されたラヴクラフトの『死体安置所にて』にまたしても感激して、熱烈なファン・レターを送ったのだ。ラヴクラフトが稀代の文通魔であることを知らなかった十五歳の少年が、こうしてはじまったラヴクラフトとの文通に狂喜し、貪欲に教えを乞うにいたったことは想像にかたくない。この文通はラヴクラフトが一九三七年三月に逝去《せいきょ》するまでつづいた。
既に本書の背景の一部がうかびあがっている。叔母に<ウィアード・テイルズ>を買ってもらったのは、ブロックの述懐によれば、表紙絵がエジプト風のものだったからだという。このころ既に芽生えていたエジプトに対する関心が、エジプトを舞台にするという形で初期作品をいろどり、プロビルスキイ財団の博物館の描写によって本書にも反映している。一九七九年にグレイム・フラナガンからインタヴューをうけたとき、ブロックはこの事情にふれてつぎのように語った。
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子供のころからシカゴの博物館や画廊を訪れて、エジプト学に興味をもつようになったんだよ……いまも興味をもっているし、はるかに知識も増しているね。ただし、かつてエジプトに関して記《しる》したことの大半は、参考とする資料がかぎられていたこともあって、正確なものじゃなかったな。
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本書において博物館の展示品を克明に記すにあたっては、正確な描写をおこなう意図もこめられていたわけだ。つぎにブロックがはじめて読んだラヴクラフトの小説、『ピックマンのモデル』は、本書の導入部として巧みに利用されている。さらにラヴクラフトのさほど成功しているとはいいがたい、皮肉のこもる『死体安置所にて』に感激したことは、恐怖とユーモアをコインの両面とするブロックの資質を示すばかりか、ラヴクラフトのクトゥルー神話の展開に参加した事情をも端的に物語るが、このことはあとでふれよう。そしてラヴクラフトとの文通もまた、本書においては、食屍鬼の絵の作者がリチャード・アプトンであることを特定するさいに、ラヴクラフトからアプトンに宛てた手紙をもちだすことで生かされているわけである。
さてラヴクラフトの勧めにしたがい、創作をはじめるようになったブロックは、ラヴクラフトの助言をうけて、まずウィリアム・クロフォードが刊行していた半商業誌<マーヴエル・テイルズ>の一九三四年冬期号に幽霊奇譚『百合』を、おなじくクロフォードの同人誌<ファンタシー・ファン>の同年十二月号に、食屍鬼の誕生を結末とする『食屍鬼の笑い』を発表した。早くも食屍鬼のテーマがあらわれていることに注目しよう。商業誌におけるデヴューは、<ウィアード・テイルズ>の一九三五年一月号における『僧院での饗宴』によってだった。もっともこれより先に『墓場の秘密』が売りこめたのだが、『僧院での饗宴』のほうが完成度がすぐれているとして先に掲載されたいきさつがある。
四ヵ月後、<ウィアード・テイルズ>の五月号に掲載された『墓場の秘密』は、永遠の生の秘密を求めて祖先の墓を訪れ、妖術師である祖先が食屍鬼のごとく子孫の肉を喰って生きながらえていることをつきとめた男の話だが、ただ書名をあげるだけだとはいえ、ラヴクラフトの『ネクロノミコン』、クラーク・アシュトン・スミスの『エイボンの書』がひきあいにだされているほか、ブロック自身の創案になる冒涜《ぼうとく》の書『サボスのカバラ』、そしてルドウィック・プリンを著者とする『妖蛆の秘密』もあげられていることを見のがしてはならない。同様の言及は同年六月号の第三作『書斎での自殺』でもおこなわれており、ジギルとハイドをテーマとする本編では、バストの司祭、狂えるラヴェ=ケラフを著者とする『暗黒儀式』が新たに創案され、ブロックがクトゥルー神話に早くも積極的にかかわっている事情を物語る。
バストはエジプトの猫の神であり、狂えるラヴェ=ケラフとは、猫好きのラヴクラフトをあらわしたものにほかならない。ラヴクラフトが一九二六年の夏に執筆した『クトゥルーの叫び声』を嚆矢《こうし》とするクトゥルー神話は、文通によってラヴクラフトを中心とする親密な<ウィアード・テイルズ>系列の作家仲間たちを巻きこみ、それぞれが創案した異界の存在や魔導書をたがいに融通しあうことで、個々の作品の奥行きを深めるとともに、それらの作品がおのずからクトゥルー神話の世界を広げるという、比類ない手法を駆動力として急進的に展開した。忘れてならないのは、これがラヴクラフト派と呼ばれる作家たちのひそかな仲間うちのたのしみであったことだ。クトゥルー神話はひそかな共犯関係を内在するものであった。だからこそブロックは、職業作家としてデヴューした時点から、早くもクトゥルー神話にのめりこんだのだといいうる。
この事情を端的に示すのが、<ウィアード・テイルズ>の一九三五年九月号に発表された『星から訪れたもの』である。本編はラヴクラフトへのオマージュとして執筆され、ラヴクラフトにささげられたものだが、まず注目すべきは、本編においてはじめて『妖蛆の秘密』にラテン名『ウェルミス・ミステリイス』があたえられ、著者プリンの経歴と出版史についてふれられていることだ。ラテン名を教えたのはラヴクラフトであり、経歴や出版史についても、文通による冗談半分の議論から決定されたという。ブロックとラヴクラフトの共犯関係はこの時点で確立されていたわけである。
本編の内容を記しておこう。ブロック本人とうけとれる語り手が『妖蛆の秘密』を手にいれ、それをプロヴィデンスの夢想家、すなわちラヴクラフトのもとに持参するところからはじまる。ラヴクラフトが同書に魔物を招喚する呪文を見つけ、それを唱えおわるや異星から到来した魔物によって無残にむさぼり喰われ、語り手は恐怖に圧倒されて逃げだしてしまう。もちろんブロックにしても、ユーモア精神の発動したものとはいえ、敬愛するラヴクラフトを惨殺する小説をいきなり書いたわけではない。事前にラヴクラフトに許可を求めているのだ。
これに対しラヴクラフトは、一九三五年四月三十日付ブロック宛て書簡で、自分をモデルにした登場人物を「描き、殺し、軽視し、分断し、美化し、変身させることをふくめ、どうあつかってもよい」ことを許可する旨《むね》を伝えた。この書簡は証明書の体裁をとり、本書『アーカム計画』で偽物のウェイヴァリーがキースに告げているごとく、ラヴクラフトの署名のほかに、立会証人としてアルハザードやフォン・ユンツトをはじめ、レンのトゥチョ=トゥチョ人ラマ僧の署名まで念入りに記されており、ラヴクラフトとの共犯関係をたのしむブロックをよろこばせたことはまちがいないだろう。
話はこれだけでおわりはしない。ラヴクラフトは本編によって殺された「お返しにブロックを殺す」決意をかため、同年十一月に『闇をさまようもの』という傑作を書きあげた。この小説では、『星から訪れたもの』で名前の記されていない語り手に、ロバート・ブロックならぬロバート・ブレイクという名前があたえられ、超自然の研究家であるこのブレイクがラヴクラフトの故郷に移り住んだとされる。ブレイクの下宿先としてはラヴクラフトの住居がそのまま利用された。ブレイクは星の知慧《ちえ》派の荒廃した教会で輝くトラペゾヘドロンを見つけだし、暗黒星ユゴスで造られ、旧支配者が地球にもたらし、エジプト王ネフレン=カも所有したことのある、この輝くトラペゾヘドロンの魔力によって、闇をさまようものナイアーラトテップの猛威にさらされて壮絶な最後をとげるのである。
話はさらにつづく。あまり知られていないことだが、ブロックはラヴクラフト訪問記なるものを直接ラヴクラフトに送付して、殺された怨みをはらした。この掌品でラヴクラフトは、生まれたときから髭のはえていた七十歳のちびの老人とされ、うかうか招待に応じて訪問したブロックを食べようとして逃してしまう。本書でもとりあげられているウィリス・コノヴァーの『最後のラヴクラフト』では、ラヴクラフトがブロックのこの架空訪問記におおよろこびしたとされている。こうした作品を書きあげるユーモア精神こそ、ブロックの最大の特質であり、ブロックがラヴクラフトを敬愛しながらもポオをさらに高く評価する所以《ゆえん》でもあるのだ。
ブロックはエジプトに強い興味をもっていたことから、ラヴクラフトの詩『ユゴス星からの黴《かび》』によって知るにいたった、ラヴクラフトの創案になる強壮な使者ナイアーラトテップに、ことのほか執着を示す。こうしてエジプトにおけるナイアーラトテップ信仰をテーマに、この神の慄然たる呪いを描く『無貌の神』(一九三六年五月号)、この神がエジプトの背徳者ネフレン=カにもたらした予言の力をあつかう『暗黒のファラオの神殿』(一九三七年十二月号)が、それぞれ<ウィアード・テイルズ>に掲載されたわけであり、クトゥルー神話におけるナイアーラトテップの役割は、ラヴクラフトとともにブロックが展開させていったわけである。ラヴクラフトの原案を忠実に、ブロックがナイアーラトテップを成長させたといってもよい。
さらにラヴクラフトを思わせる登場人物を殺す『闇の魔神』(一九三六年十一月号)をはじめ、アーカムを舞台にした『窖《あな》に忍び寄るもの』(一九三七年七月号)等の短編小説を<ウィアード・テイルズ>に発表していたブロックだったが、一九三七年のラヴクラフトの死に打撃をうけ、創作の筆もにぶり、クトゥルー神話作品の執筆はとだえることになる。<ウィアード・テイルズ>一九三七年六月号に掲載されたブロックのラヴクラフト追悼文は涙を誘う。クトゥルー神話の創造者ラヴクラフトを失った後、神話作品を書く意欲は確実に失われた。ブロックの言葉をかりるなら、「わたしの知るもっともすぐれた幻想世界」であるクトゥルー神話は、ラヴクラフトの死によって大司祭を失い、それとともにブロックがたのしんでいたラヴクラフトとの共犯関係もたちきられたのだ。後年リン・カーターに宛てた手紙に記された、ブロック自身のつぎの言葉がこの事情を明らかにしている。
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クトゥルー神話作品を書くことはゲームをやっているようなものでしたよ――少なくともラヴクラフト自身が存命中はこれをたのしんでいました。ラヴクラフトが逝去するや、クトゥルー神話は陰鬱なものになり、たのしさが失われて……ゲーム感覚もなくなってしまったのです。
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しかしブロックはクトゥルー神話から完全に手をひいたわけではなかった。ダーレスが新たな視点からクトゥルー神話をとらえなおす作品を発表しはじめたことが刺激になったのかもしれない。一九四二年には沈黙を破って、魔導書『妖蛆の秘密』をあつかう『暗黒の取引』を<ウィアード・テイルズ>の五月号に、一九四八年にはユゴス星に連れ去られる女をあつかった『名状しがたい婚約』を<エイヴォン・ファンタシー・リーダー>の第九号に、一九五〇年には『尖塔の影』を<ウィアード・テイルズ>の九月号に、一九五一年には十二歳の少年の目から見た恐怖を描く『無人の家で発見された手記』をおなじく<ウィアード・テイルズ>の五月号に、一九五八年には旧支配者の復活にまつわる『入江の恐怖』を<ファンタスティック>の六月号に発表している。
本書『アーカム計画』とのかかわりでとりあげなければならないのは『尖塔の影』だろう。本編はブロックの『星から訪れたもの』をうけたラヴクラフトの『闇をさまようもの』の後日談であるとともに、本書で徹底して多用される手法がはじめてもちこまれたものでもあるからだ。ブロックは『闇をさまようもの』が謎をまだのこしていると考え、本編を執筆することになったそうだが、物語は非業《ひ ごう》の死をとげたロバート・ブレイクの友人、エドマンド・フィスクによる調査の経過をたどり、『闇をさまようもの』のあらましを記したうえで、輝くトラペゾヘドロンをナラガンセット湾に投げこんだとされるデクスター医師が、ナイアーラトテップに乗りうつられていることを明らかにする。
さて、本編の主人公フィスクは、ブレイクと同様、超自然のものを主題にする職業作家とされ、ラヴクラフトを通じでブレイクと文通をかわしていたとされる。フィスクがブロックの変名の一つであったことを指摘すれば、ブロックがフィスクに自分自身を投影していることがおわかりいただけるだろう。さらに重要なのは、これまでブロックはクトゥルー神話作品において、プロヴィデンスの夢想家や紳士として仮名を用いていたにもかかわらず、本編でははっきりラヴクラフトと実名を記し、さらにラヴクラフトの『闇をさまようもの』を事実に基づく小説であると断定していることだ。
これは実在の人物を登場させることによって物語の信憑《しんぴょう》性を高める狙いもあるが、もちろんそれだけにはとどまらない。ブロックにあっては、自作にラヴクラフトを登場させることにより、かつてはラヴクラフトを相手にひそかにたのしんでいたクトゥルー神話の遊びの精神を復活させる目論見《もくろ み》もあったはずである。クトゥルー神話を創造した怪奇小説の巨星、ラヴクラフトについての言及は、確実に読者を物語にひきこむだろう。ラヴクラフトの作品を小説の形をとった警告とすることは、ラヴクラフトが『時間からの影』において提示した幻想宇宙年代記により、ラヴクラフトの小説がすべて記録文書と化していることに呼応して、決して唐突なものではない。そしてラヴクラフトが最終的に提示した幻想宇宙年代記の宇宙観にのっとるかぎり、物語は読者に確認のよろこびをあたえ、斬新な手法による遊びの精神はブロックのひとり遊びにおちいることなく、読者を相手の公然たるものへと転換する。そしてこの手法は本書『アーカム計画』において極限にいたるまで駆使された。
いささか駈足でブロックのクトゥルー神話作品をふりかえってみたが、本書がブロックにあっては必然の運動であり、ブロックにとってのクトゥルー神話の総決算である所以《ゆえん》は、おのずから明らかになったはずだ。ラヴクラフトに対するつきせぬ愛が、ラヴクラフトにかわり、構成緊密な終末の物語を生みだしたわけである。ラヴクラフトやクトゥルー神話については本書でくわしく紹介されているので、この解説では繰返す労をはぶかせていただいた。本文庫からはラヴクラフト全集が、青心社からクトゥルー・シリーズが刊行されていることを申しそえておく。なお、ブロックの全般的な作家活動については『サイコ2』の解説で簡単に紹介しているので、興味のあるかたはそちらをご覧願いたい。
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底本:「アーカム計画」ロバート・ブロック 著/大瀧啓裕 訳
創元推理文庫 Fフ12 531 02 東京創元社
ISBN4-488-53102-4
1988年11月18日 初版
1992年11月6日 6版