ハヤカワ文庫SF
サンダイバー
デイヴィッド・ブリン 酒井昭伸訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)白鷹秀麿《しらたかひでまろ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丸の内|倶楽部《くらぶ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]
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わが兄弟、ダンとスタン、
アーグルバーグル四世……
そしてほかのだれかさんに
目 次
第一部
1 〈鯨夢〉より出でて
2 〈開化派〉と〈毛皮派〉
3 ゲシュタルト
第二部
4 虚像
5 屈折
6 遅滞と回折
第三部
7 干渉
8 反射
9 オオウミガラスの記憶
第四部
10 高熱
11 乱流
12 重力
13 太陽の下で
第五部
14 もっとも深い海
15 生と死……
16 ……および、亡霊
第六部
17 影
18 焦点
19 ラウンジにて
20 最新医学
第七部
21 〈カリュブソ〉の教訓
22 代表者
第八部
23 励起状態
24 自然放射
25 手詰まり状態
第九部
26 トンネルをぬけて
27 励起
28 励起放射
29 吸収
第十部
30 不透明度
31 伝播
解説/大野万紀
第一部
……さほど遠くない未来、恒星のような単
純なものなら、われわれにも理解できるよう
になるかもしれない。そう期待するだけの理
由はある。
──A・S・エディントン
1 〈鯨夢〉より出でて
「マカーカイ、準備はいいか?」
ジェイコブは、自分の乗ったひとり乗り潜水艇がたてる小さなモーター音やバルブの音を、意識の外へしめだした。そのまま、じっと艇内に横たわる。返事を待っているあいだ、機械鯨の丸い船首を、海水がやさしくたたいた。
もういちど、ヘルメット内のディスプレイに小さく表示されたデータを確認する。だいじょうぶ、無線は異常なし。もう一体の機械鯨の操縦者は、数メートル離れたところに待機し、なかば海中に没したまま、彼のことばをひとこと残さず聞きとろうと聞き耳をたてているはずだ。
きょうはいつになく、海水が澄んでいる。下を見おろすと、小ぶりのレオパード・シャークが、沖合いのやや離れたところを、ものうげに泳いでいくのが見えた。
「マカーカイ……準備はいいのか?」
じれったそうな口ぶりになってはいけない。待っているあいだ、頸のうしろにたまりはじめた緊張を表に出さないようにしなけれぱ。ジェイコブは両目を閉じ、こわばった筋肉をひとつずつ弛緩させていった。そうしながら、彼の生徒が口を開くのを待った。
「ダイジョウブ……ハジメマショウ!」やっとのことで、さえずるような、かんだかい声が帰ってきた。そのことばは、息を吸うときに無理に絞りだしたように、息切れして聞こえた。
マカーカイにしては、充分に長いせりふだ。フェイスブレートの縁にある鏡に、若いイルカのトレーニング・マシーンの姿が映っていた。そのグレイの金属のひれが、波のうねりに合わせてわずかに上下している。うねる海面の下で、機械の動力にたよらずに、金属ひれが弱々しく、のろのろと動いた。
もはや機は熟している、とジェイコブは思った。技術が〈鯨夢〉からイルカを解き放つことができるかどうか、いまこそはそれを見きわめる正念場だ。
顎の先で、ジェイコブはふたたびマイクロフォンのスイッチを入れた。「いいそ、マカーカイ。これで機械鯨の動かし方はわかったはずだ。それはきみのいかなる動きをも増幅するが、作動させたいと思ったら、英語で命じなけれぱならない。不公平にならないよう、ぼくの作業もイルカ語を便わなけれぱできないようになっている」
「オーケー!」彼女のグレイの金属ひれが勢いよく上下し、あたりの海面をゆるがせ、海水をまきちらした。
〈夢見るもの〉への祈りを、なかばつぶやくようにして唱えると、ジェイコブはマカーカイと彼自身の金属ひれを増幅させるスイッチに触れた。それから、慎重に手を動かして、ひれを作動させた。が、両足を曲げたとたん、増幅機構がそれに応えてぐいと大きく尾ひれを動かし、彼の乗る機械鯨はくるりと回転して、海中に潜ってしまった。
ジェイコブは姿勢を正そうとしたが、補正が大きすぎて、回転がさらにひどくなった。しばらく胸ひれをばたばたとふり動かし、気泡をちらしてあたりをかきまわしたあげく、辛抱強く試行錯誤をつづけて、やっとのことで安定をとりもどした。
ふたたび慎重に脚を曲げると、少し前進できたので、今度は背中を曲げ、思いきり蹴りだした。
人工尾ひれは反応し、力強く水を蹴って、彼の体を空中に躍りあがらせた。
イルカはすでに、ほぼ一キロほども先行していた。ジャンプの頂点に達した瞬間、ジェイコブは彼女が、十メートルの高さから優美に落下して、海面にきれいに切れこむのをかいま見た。
ヘルメットの前面を下方に向ける。海面が緑の壁のように迫ってきた。浮遊していたコンブを突っ切って海面にぶつかったとたん、衝撃でヘルメットが振動した。海中に突っこんでいく彼のまわりから、金色をしたガリバルディが、驚いて逃げちっていった。
とびこむ角度が急すぎたらしい。彼は毒づくと、船体を水平にしようと、二度水を蹴った。機械のごつい金属尾ひれが、彼のリズミカルなキックに応じて海水を蹴る。そのたびに、背筋を振動が走りぬけ、体が機械鯨内の厚いバッドに押しつけられた。タイミソグを見はからって、体を弓なりにし、もういちどキックする。機械は海面を割ってとびあがった。
陽光がミサイルのように左の窓からとびこんできて、小さな表示パネルの、暗い発光文字を呑みこんだ。ヘルメットのコンピューターがかすかにぶつぶついうのもかまわず、彼は身をひねり、船首を下に向けて、もういちど明るい海水にとびこんだ。
銀色に光る小さなコイワシの群れが目の前で逃げまどうのを見ながら、ジェイコブはいまいましげに、大きな音をたてて息を吐きだした。
手が補助ロケットの制御装置にさわったのを機に、彼はつぎのジャンプの頂点で、イルカ語のコードをさえずった。モーターがうなり、機械鯨の体側から短い翼がせりだした。ついで、ブースターか点火し、猛烈な加速がはじまった。突然の加速によって、ジェイコブの頭はヘッドピースのパッドに押しつけられ、絞めつけられた。機体は波のすぐ上を吹っとんでいった。
ほどなく、彼はマカーカイのそばに大しぶきをたてて着水した。彼女がかんだかいイルカ語で歓迎の声をあげる。ジェイコブはロケットが自動停止するのにまかせ、彼女のそばで純粋に機械的なジャンプを再開した。
しばらくのあいだ、ふたりはそろって進みつづけた。ひとはねごとに、マカーカイはだんだん大胆になっていき、海面を蹴ってから着水するまでの長い数秒間のあいだに、空中ひねりやつま先旋回をしはじめた。一度などは、空中でイルカの下品な滑稽詩をひとつ、すばやくさえずったほどだ。それは三流の詩だったが、あとをついてくるポートがこれを録音してくれていることを、ジェイコブは願った。着水の瞬間、彼はその詩のおちの部分を聞きそこねてしまったのである。
トレーニソグ・チームのほかのメンバーたちは、ホバークラフトに乗ってあとからついてきていた。ジャソブするたびに、大型船の姿は後方に小さくなっていき、着水と同時に、水しぶきの音、マカーカイの有機ソナーの発するエコー、マカーカイのそばを流れゆく、青緑色にきらめく波の音しか聞こえなくなった。
ジェイコブのクロノメーターは、トレーニングを開始してから十分が経過したことを告げていた。いくら筋力増幅装置があっても、あと三十分もマカーカイに合わせてジャンプをつづけるのば無理な相談だ。人間の筋肉と神経は、ジャンプと着水をくりかえしても平気でいられるようにはできていない。
「マカーカイ、そろそろロケットを試すころだぞ。つぎのジャンプでロケットを使う準備ができているなら、そう教えてくれ」
ふたりは着水し、ジェイコブは泡だらけの海中で尾ひれを動かして、つぎのジャンプに備えた。
ついで、ふたたびジャンブ。
「マカーカイ、今度は本気だぞ。準備はいいな?」
ふたりは空中高く跳びあがった。ジェイコブは、彼女が体をひねって海中にもどる寸前、人工ひれ装置のプラスティックの窓から、小さな目を覗き見ることができた。つぎの瞬聞、彼もつづいて着水した。
「オーケイ、マカーカイ。きみが答えないんなら、いますぐ訓練をやめるだけだ」
生徒とならんで進む彼の横を、気泡の雲といっしょに、蒼い水が船体の外を流れすぎていった。
マカーカイは体をひねり、もういちどジャンプするかわりに、海中へ潜った。そして、イルカ語で、速すぎてほとんど聞きとれないことをさえずった……きっと、興をそぐまねをするなとがなんとか言ったのだろう。
ジェイコブは機械鯨の速度を少しずつあげていった。
「なあ、マカーカイ、キングズ・イソグリッシュを使ってくれないものかね。きみの子供を宇宙にやりたいのなら、それを憶えてもらわなくちゃ。それに、英語は表現力豊かだぞ! さあ、いい子だから、きみがジェイコブのことをどう思っているのか、話してごらん」
数秒間の沈黙。それから、なにかがすごい速さで下を泳ぎぬけるのが見えた。それは矢のように海面にとびあがっていき、海面に出る寸前、マカーカイのかんだかい声が、嘲るように言った。
「追イカケテオイデ、コノノロマ! 翔ンデミセテアゲル!」
言いおわらないうちに、マカーカイの機械尾ひれが激しく水を蹴り、彼女の乗る機械鯨は、炎の柱を噴きだして飛翔を開始した。
笑いながら、ジェイコブは向きを変え、生徒のあとを追って、宙にとびあがった。
二杯めのコーヒーを飲みおえたとき、グロリアがデータを打ちだした細い紙片をわたしてよこした。ジェイコブは、のたくった曲線に目の焦点を合わせようとしたものの、体が波のように前後に揺れて、よく見えなかった。グロリアにデータ表をさしもどして、」
「データはあとで見るよ。要約だけしてもらえないかい? それから、そいつを全部食わせてもらえるんなら、まずそのサンドウィッチをひとつもらおう」
グロリアはライ麦パンのツナサンドを投げてよこすと、カウンターの上に腰をおろし、ポートの揺れであおられないように、その端をつかんだ。いつものように.彼女はほとんどなにも身につけていない。魅力的で、才能澄れ、長い黒髪をたらしたこの生物学者は、まさに裸同然の格好で、そこに腰かけていた。
「これで懸案の脳波に関する情報は得られたと思うわ、ジェイコブ。どうやって引きだしたのかは知らないけれど、英語に対するマカーカイの関心の幅は、少なくとも通常の二倍。マンフレッドの考えでは、神経連結の度あいは充分だから、つぎの実験的変異の組み合わせにとりかかれるそうよ。マカーカイの子孫の左脳では、ふたつの結節を拡張したいとか言ってたわ。
いまのところ、うちのグループは申し分なくやってるわね。マカーカイの機械鯨を操る能力は、いまの世代でも機械を操れることを証明してるわ」
ジェイコブはため息をついた。「その結果を見せてやれぱ、連合政府が次世代の変異をあきらめるだろうとあてにしてるんなら、考えがあまいそ。連中、戦々兢々だからな。イルガの知能の証明に、いつまでも詩や音楽の能力に頼っていたくはないんだ。連中がほしいのは分析的な道具使用者で、ロケット・ウォルドーを作動させるコードを言えるくらいでは、まだ足りないのさ。マンフレッドも、一体に対して二十体は切り捨てる勘定になる」
グロリアの顔が怒りで赤くなった。「切り捨てるですって! 彼らはね、一人前の種族なのよ。美しい夢の世界に住む、一人前の種族なのよ。彼らを技師の種族に変えてしまえぱ、詩人の種族は失われてしまうというのに!」
ジェイコブはバンの耳を置き、胸に落ちたパンくずを払い落とした。すでに彼は、よけいなひとことを後悔していた。
「わかってる、わかってるよ。ぼくだって、ものごとがもう少しゆっくり進んでくれたらいいと思ってるんだ。しかし、こういうふうに考えてみたらどうだい。いつの日か、フィンは〈鯨夢〉をことばで表現することができるかもしれない。ぼくたちは、天気の話をずるのにイルカ語を使う必要もなくなるし、哲学を論じあうのにピジン・イルカ語を使うこともなくなる。彼らはチンプと肩をならべて、その鼻づらを銀河の諸族に突きつける。それをぼくらは、威厳あるおとなの態度で.見守ってやれぽいいのさ」
「だけど……」
ジェイコブは片手をあげて彼女を黙らせた。「その話はあとにできないかい? しばらく体を伸ばしてから、ぼくらのいい娘に会いに、また潜りたいんだがな」
グロリアはちょっとのあいだ顔をしかめていたが、すぐににっこりとほほえんだ。「ごめんなさい、ジェイコブ。あなたはくたくたに疲れているはずだったわね。でも、少なくともきょうのところは、なにもかもうまくいったわ」
ジェイコブは彼女にほほえみかえした。笑うと、その大きな顔に自い歯がこぼれ、口のはたと目尻に笑い雛が寄った。
「そうさ」と彼は立ちあがりながら、「きょうのところは、なにもかもうまくいった」
「そうそう、あなたが潜っているあいだに、あなたあての連絡が入っていたの。それがなんと、イーティーからなのよ! ジョニーときたら、えらく興奮しちゃってね、危うくメッセージを控え忘れるところだったわ。ええと、どこかここらにあったはずなんだけど」
彼女はランチの皿をわきにどけて、一枚の紙を引きずりだし、ジェイコブに手わたした。
ジェイコブはげじげじ眉を寄せて、そのメッセージを見おろした。彼の肌は、ひきしまってつやつやとしている。色が黒いのは、太陽と海水にさらされていたせいもあるが、血筋のせいもあるのだろう。メヅセージに集中すると、その褐色の目が糸のように細くすがめられた。たこのできた手を、アメリカ・インディアンの血が流れていることを示す鉤鼻のわきにあてがう。これは、無線オペレーターの殴り書きを読もうとして、悪戦苦闘している証拠だった。
グロリアが言った。「みんな、あなたがイーティーたちと働いていたことは知ってるだろうけど──まさかこんなところでイーティーの姿を見ようなんて思いもしなかったわ! しかも、大きなブロッコリーの芽みたいな格好をして、儀典局の長官みたいな話し方をするイーティーなんて!」
ジェイコブが顔をあげた。
「カンテンが連絡してぎたって? ここにかい? 名前は訊いた?」
「そこに書きとめてあるはずよ。それがそうじゃない? カンテンですって? わたし、異星人のことはあまりくわしくないの。シンシアンかティンブリーミーなら見分けがつくけど、あれはまったくの新顔だったわ」
「ふうむ……だれかに訊いてみなくちゃなるまい。その皿の残りはあとで平らげるから、手をつげるんじゃないそ! マンフレッドとジョニーには、もうしばらくしたらマカーカイに会いにいくと言っておいてくれ。それから、ありがとう」ジェイコブはほほえみを浮かべ、彼女の肩に軽く触れた。だが、背を向けると同時に、その表情はすぐさま、心配そうなもの思いのそれにもどってしまった。
ジェイコブはしっかりとメッセージを握りしめたまま、前部ハッチのなかに消えた。グロリアはしぱしそのうしろ姿を見送った。それから、データ表を拾いあげて、思った。あの人の注意を一時間以上、あるいはひと晩以上つなぎとめておくには、どうすればいいのかしらね?
ジェイコブの船室は、幅の短い折りたたみ寝台のある、ひどくせまい部屋だったが、ブライバシーを保つにはこれで充分だった。彼はドアのそぼのキャビネットから携帯電話をとりだし、寝台の上に置いた。
ファギンが単なる挨拶以外の目的で連絡してきた、と考える理虫はなにもない。ファギンもまた、イルカの研究には深い興味を持っているのだ。
だが、ファギンからの連絡が面倒を引き起こしたことも、何度かあった。ジェイコブは、よほどカンテンに連絡ずるのをやめようかと思った。
しばしためらったのち、電話機にコードを打ちこみ、うしろにもたれかかって、どうしたものかと考えこんだ。が、よくよく考えてみると、いつであろうとどこであろうと、ETと話のできる機会となると、彼にはどうしても抵抗できないのだ。
スグリーンに二連のラインが光り、彼の呼びだしているポータブル・ユニヅトの場所を明示した。バハのET居留地だ。なるほど、こいつも道理。あそこには〈ライブラリー〉がある。異星人との接触については、要観察局から一般警告が出されているのだ。ジェイコブは不快そうに顔をそむげた。静電気による明るい光点群が、毛布の上の空間を満たし、ついでスクリーンの前の、ほんの数インチだけ離れたところに、実物そのものと見まがうぽかりのファギンが立っていた。
そのETはたしかに、巨大なブロッコリーの芽のようだった。無数の溝の刻まれたこぶだらけの幹から、先の丸くなった青と緑の枝が左右相称に何本も伸び出しており、それらが球形の房を作りだしている。頭頂部の数本の枝の先端には、そこここに小さな結晶質の白片がついていて、正面からは見えない呼吸孔を覆い隠していた。
ETが息を吐き出すと、頭部の茂みがゆさゆさと揺れ、結晶群がきらきらときらめいた。
「ごきげんうるわしゅう、ジェイコブ」ファギンの鈴の音のような声が、空中に響きわたった。
「喜びと感謝をこめ、しかしながら、きみのつねなる頑強な主張にしたがい、形式的態度はいっさい打ち捨てて、ここに挨拶を申し述べん」
ジェイコブは懸命に笑いをこらえた.その笛の音のような声、アクセソト、いちばん親しい人間の友人に対するもってまわったこのしゃべりかた、どれをとっても、ファギンの口調には、背の中国の漢語を連想させるものがあったのだ。
「やあ、わが友ファギン。心からの誠意をもって、きみの幸せを祈る。さて、これで挨拶はおわりだ。話を切りだされる前に言っておくが、答えはノーだぞ」
結晶群がかずかにきらめいた。「おお、ジェイコブよ! その若さにして、きみはなんとすぐれた洞察力の持ち主であることか! わたしが連絡を入れた理由をすでに推し量っているとは、きみの洞察力は賞賛に値しよう!」
ジェイコブはかぶりをふった。
「お世辞はぬき、巧妙にことばでくるみこんだ皮肉もなしだ、ファギン。ぼくと話をするときは、ふつうの英語を使ってほしい。きみと話をしていて煙にまかれまいとすれば、そうしてもらうほかないからな。それに、ぼくがどうしてノーと言うのか、きみにはよくわかってるはずだ!」
異星人は体を揺すった。肩をすくめるまねをしてみせたのだ。
「おお、ジェイコブ、わたしはきみの意志の前に頭をたれ、きみたちの種族がこのうえなく誇りに思っている、大いなる率直さをもって話をすることにしよう。きみにぶしつけなたのみをお願いしようとしたのは、たしかに失礼なことだった。だが、こうして答えを聞かされたからには……きみがことわるのは、過去の特定の不快な──それでいて、のちにはそうすることが最良であったと判明したできごとに起因しているのだろうが……この話はとりやめとしよう。
かわりに、きみたちの元気のいい類族、イルカ≠フ発達について、きみの研究の進展ぶりを訊いてもかまわないだろうか?」
「ああ、研究のほうはしごく順調にいってる。きょうはひとつ、壁を越えた」
「それはよかった。きみの力なしには、それは実現しえなかっただろうとわたしは確信している。きみの研究は、そこでは必要不可欠だそうではないか!」
ジェイコブは相手の言わんとするところをはっきりさせようと、ひとつ頭をふるった。いつのまにかファギンのやつに、またもやイニシアティブをとられてしまっている。
「まあ、初期にウォーター・スフィンクス事件の解決に貢献したのは事実だがね。あれ以来、ぼくの役割は、そんなに特殊なものじゃなくなっている。最近ぼくがここでしたようなことは、だれにだってできることさ」
「おお、そんなことはとても信じられない!」
ジェイコブは眉をひそめた。残念ながら、それは真実なのだ。そして、これから先は、この知性化センターにおけるおれの研究は、ますますルーティーソになっていくだろう。
おれよりイルカ心理学にくわしい百名の専門家が、早く研究に加わりたくてうずうずしている。センターはおそらく、ひとつには功績に報いるためにおれをとどめておくだろうが、はたしておれは、ほんとうにここに残りたいのか? イルカと海は大好きだが、このごろでは、不安が高まるいっぽうだ。
「ファギン、しょっぱなに無礼な言いかたをして悪かった。きみの用事とやらを聞かせてもらえるかい……ただし、話を聞いても答えがノーのままでよけれぱだがね」
ファギンの頭部がゆさゆさと揺れた。
「わたしはきみを、あるささやかで親睦的な会合に招待しようと思って連絡したのだよ。その会合には、いくつかの種族の高貴なる代表が出席し、純粋に知的な性質の、ある重要な問題を語りあうことになっている。会合がもたれるのは今週の木曜目、エンセナダのヴィジターズ・センターにて、十一時からだ。部外者が出席しても、だれも文句を言いはしない」
ジェイコブは、しばしそのアイデアを反芻した。
「ETがくるって? どの種族が? 会合の目的は?」
「残念ながら、ジェイコブ、わたしにはそれを口外する自由がない。少なくとも、電話ではね。詳細を話すのは、木曜日、現地にきてくれるときまで待ってもらわなくてはならない」
ジェイコブはたちまち懐疑的になった。「しかし、その問題≠ニやらは、政治がらみじゃないんだろう? それにしちゃ、やけに慎重にかまえてるじゃないか」
異星人の映像は微動だにしなかった。やがて、その青々とした体が、熟考しているかのように、ゆっくりと小刻みに震えた。
「いまだにわたしには理解できないのだが、ジェイコブ」やっとのことで、鈴の音のような声が話しだした。「なぜきみのような血筋の人間が、きみたちが政治≠ニ呼ぶ、感情と要求の交換にほとんど興味を示さないのだろう? この隠揄が適切かどうかはわからないが、政治というものはわが血のなかに流れて≠「るはずだ。それはきみたちの場合も同じにちがいない」
「ぼくの家系のことなんか関係ないだろう! ぼくが知りたいのは、それがなんの会合か教えてもらうのに、なぜ木曜まで待たなきゃならんのかということだけだ!」
ふたたび、カンテンはためらった。
「それが……この件に関しては、エーテルを介して口にできないことがらがあるのだよ。きみたちの文化における、相対立する党派のなかの、より反発的なグループが、もしその内容を……漏れ聞いたなら、その知識を悪用してしまうかもしれない。しかし、請け合っておくが、きみの役割は純粋に技術的なものだ。われわれが期待しているのはきみの知識であり、知性化センターで培ったきみの技術なのだ」
ほざけ! とジェイコブは思った。ほんとうはそれ以上のことを期待しているくせに!
おれはファギンのことをよく知っている。その会合に出たが最後、このカンテンはそれを楔《くさび》に用いて、必ずなんだかぱかぱかしくて複雑で危険な冒険にまきこもうとするにちがいない。この異星人は、ずでに三回、おれをそんな目にあわせているのだ。
最初の二回は、ジェイコブも気にしなかった。が、その当時はいまとちがい、彼もそのたぐいのことを好む人間だったのだ。
〈ニードル〉の事件があったのは、そのあとである。エクアドルで受けたトラウマは、彼の人生をすっかり変えてしまった。あんなまねは、もう二度としたくない。
そのいっぽうで、この老カンテンをがっかりさせることには、かなりの抵抗があった。ファギゾが意図的に嘘をついたことは一度もなかったし、彼はこれまでにジェイコブが会ったETのなかでも、なんのてらいもなく人間の文化と歴史を賞賛する、ただひとりの存在なのだ。それに、もっとも熱心に人間を理解しようとしているひとりでもある。
ファギンにほんとうのことを言ってやれたら、おれも危ない目にあわずにすむだろう、とジェイコブは思った。もしファギンがひどく圧力をかけはじめたなら、おれの精神状態を──自己催眠の実験と、そのおぞましい結果を──教えてやるまでだ。フェアプレイの精神に訴えれぱ、ファギンもあまり強くは出まい。
「いいだろう」ジェイコブはため息をついた。「きみの勝ちだ、ファギン。そこへ行こう。ただし、ショーのスターになるなんてごとは期待しないでくれよ」
ファギンの笑い声は、木管楽器のような音色をしていた。「そんな心配は無用だとも、わが友ジェイコブ! この特別ショーでは、だれもきみをスターだなんて思いはしないさ!」
上部甲板を歩いてマカーカイの船室に向かう途中、太陽はまだ水平線の上にあった。西のまぱらな雲に遮られ、太陽は朦朧《もうろう》として、弱々しいオレソジ色に輝いている。穏やかで形のはっきりしない日輪。彼はしばし手すりの前で立ちどまり、タ焼けの色合いと、潮のにおいを楽しんだ。
目を閉じ、陽光が顔を暖め、光線が肌を貫いてさらに褐色の度を深めるにまかせる。ようやく、彼は手すりをまたぎこえ、下層デッキにおりた。張りつめた、力に満ちた感覚が、一日の疲労感にとってかわった。彼は鼻歌を歌いはじめたーもちろん、調子っばずれに。
おりていくと、くたくたになったイルカが、プールの端に寄ってきた。マカーカイは、イルカ語の詩で歓迎のことばを述べた。詩は早すぎてよく聞きとれなかったが、愛らしいながらも、なにか野卑-なことを言っているようだった。なにか彼の性生活に関したことだ。人聞がやっとのことでイルカの脳を発達させ、ことばをしゃべれるようにし、イルカというものを理解しはじめるまで、イルカは何千年にもわたって、人間たちに野卑なジョークを投げかけつづけてきたのである。先祖たちよりはずっと洗練されてはいるものの、マカーカイのユーモア感覚はまさしくイルカのものだな、とジェイコブは思った。
「で」とジェイコブ。「忙しい一日を送ったのはだれだと思うんだい?」
彼女はジェイコブに、いつもよりは弱く水をひっかけ、「ナニサ」と聞こえることばを叫んだ。
だが、ジェイコブがしゃがみこみ、愛撫しようと水のなかに手を入れたとたん、マカーカイはすっとそばに寄ってきたのだった。
2 〈開化派〉と〈毛皮派〉
旧北アメリカ政府は、かつてメキシコとの交通を管理するために、国境地帯一帯を破壊してしまったことがある。そのため、それまでふたつの都市が接していたところは、砂漠と化した。
だが、 〈大変革〉以来、そして旧サソディカリズム的政府の圧政的な官僚機構≠ェ崩壊して以来、連合政府はその一帯を公園として管理するようになっていた。サソディエゴ=ティワナ間の国境地帯は、いまではペンドルトン公園南部で最大の森林地帯となっている。
だが、それもまた、変化の波に洗われつつあった。レンタカーを駆って高架ハイウェイを南に向かう途中、ジェイコブは、国境地帯がかつての姿にもどされつつあるさまを目のあたりにした。作業員たちが、道路と交差する形で東西に森を切り開き、百ヤードごとの間隔で、縞模様のほっそりとしたポールを立てていたのだ。ポールの存在は、恥辱の象徴だった。彼は顔をそむけた。
緑と白の巨大な標識板が、ポールの列とハイウェイとが交差する地点にそびえたっていた。
新国境線:バハ地球外種族居留地
ティワナ市に住民票のない住人は市役所に届け出ること。
届け出者には再定住の特典あり!
ジェイコブはかぶりをふり、うめくように言った。「|みなが恐れているかぎり、憎ませておけ《オデリント・ドウム・メトウアント》」それでは、ひとつの街で一生を送ってきた者はどうなる? 彼に選択の余地がないとずれぱ、進歩が押し寄せてきたら道をあけるしかないではないか。
ティワナ、ホノルル、オスロー.そのほか六ヵ所におよぶ都市は、ET居留地が再拡張されるのにともなって、併呑されることになっていた。永久、一時双方を含む、五、六万の要観察者たちは、せいぜい一千人がところの異星人の安寧≠フために、それらの都市から立ち退かねばならない。もちろん、実際上の問題はほとんどない。地球の大部分の土地はまだETの立ち入りが禁止されているし、非市民にはまだかなりの居住余地が残されている。政府は失っただけのものを補償してやることができるだろう。
だが、ふたたび地球には、家をなくす者が出ることになる。
国境地帯の南端で、街は急にまたはじまっていた。建物の多くは、スペイン式、もしくはスペイソ復古調のスタイルをしていたが、都市全体の様式には、現代メキシコの街によく見られる、実験的構造がとりいれられている。建物の塗装は、みな自と青ばかり。ハイウェイ両側の道路では、かすかな電気自動車のうなりがあたりに満ち満ちている。
街じゅうのいたるところには、国境地帯で見かけたような、緑と自の縞模様の金属標識が立っており、きたるべき変化を告知していた。だが、ハイウェイのそばの一枚は、黒ペンキのスブレーで落書きされていた。その前を通り過ぎる瞬間、ジェイコブは乱暴に書き殴られた、先住権≠ニ侵略≠ニいうことばを読みとった。
永久要観察者《PP》のしわざなのだろう。一般市民なら、自分の意見を表明する方法がいくらでもあるのだから、あんな過激なまねをしなくてもいい。それに、一時的要観察者──なんらかの犯罪を働いて保護観察を宣告された者──は、観察期間を延ばされるようなまねはしたがるまい。あんなまねをすればすぐにしょっぴかれることを、一時的観察者なら心得ているはずだ。
きっとどこかのあわれな永久要観察者が、立ち退きをせまられ、やけを起こして、あとさき顧みず、行動に出たのだろう。ジェイコブは同情を覚えた。いまごろそのPPは、拘留されているはずだ。
自身はあまり政治に関心がなかったものの、ジェイコブは政治家の家系の出身だった。彼の祖父のうちのふたりなどは、あの〈大変革〉──少数の技術官僚集団が官僚機樽をみごと崩壊に導いた改革──のさい、立役者を演じたほどである。要観察法に対して、彼の一族は猛烈な反対の立場をとっていたのだ。
この何年間か、ジェイコブは過去の記憶を思いだすまいとする習慣ができてしまっていた。だがいま、彼の心には、過去のイメージが強烈によみがえってきた。
あれは一族のサマー・スクールでのことだった.カラカスの高地にあるアルヴァレス一族の屋敷……三十年前、ジョーゼフ・アルヴァレスとその仲間たちが計画を練ったその館で、ジェレミー叔父が講義をしていた。ジェイコブの従弟や、入籍して従弟になった者たちは、表面上は尊敬に満ちた表情を浮かべ、内心では退屈な話で夏の一日をつぶされることへの不満を抱きながら、話に耳を傾けていた。そしてジェイコブはといえば、部屋のうしろの片隅におちつかなげにすわって、早く自分の部屋にもどりたい、自分の部屋で腹ちがいの姉のアリスが組み立てた、秘密の機械≠フところへもどりたい、と願っていたのだった。
愛想よく、自信に満ち溢れたジェレミーは、当時中年にさしかかったばかりで、連合政府内でめきめき頭角を現わしつつあった。まもなく、兄のジェイムズをさしおいて、アルヴァレス一族の頭首になろうかというころだ。
ジェレミー叔父は、旧官僚機構がいかなる経緯を経て人々を苦しめる法を定めたかを語っていた。生けるすべての人間は、その暴力性向≠試され、テストに失格した者はすべて、以後、たえざる観察下に置かれることになる──すなわち、要観察法である。
十二歳の顔にいまにもはちきれんばかりの興奮をたたえ、アリスがそっと図書室にもどってきたのは、そんな日の午後のことだった。ジェイコブは、そのとき叔父がしゃべっていたことばを、一言一句にいたるまで思いだすことができる。
「……政府は」とジェレミーは低く響く声で言ったものだ。「多大な努力をはらい、要観察法が犯罪を減少させるはずだと民衆に思いこませた。尻に無線発信機を埋めこまれた人間は、隣人に迷惑をかける前に、はたと考えなおすだろう、と。
そしていまでは、市民は要観察法を愛するまでになっている。人々はいともあっさりと、同法か憲法による基本的人権の伝統的な保証をなしくずしにするものだ、という事実を忘れ去ってしまったのだ。まあ、どのみち彼らの大半は、そのような恩恵などない国に住んでいたのだがね。
その要観察法をみごとバネにして、ジョーゼフ・アルヴァレスとその仲間が官僚機構を身内から切り崩したとき──人々は歓呼して、要観察法をますます愛するようになってしまった。〈大変革〉のリーダーたちにとって、すぐさま要観察法をなくそうとするのは、得策ではなかった。彼らはすでに、連合政府樹立のため、充分すぎるほど問題ごとをかかえており……」
ジェイコブは叫びだしたくなった。ジェレミー叔父さんときたら、もう耳にたこのできた昔のたわごとをくりかえすばっかりだ。いったいアリスは──叔父さんにどやされる危険を冒して、屋敷の深宇宙通信機の情報を盗み聞きしにいっていたアリスは──なんの話を聞いてきたんだろう? スターシップだ! あの大きくてのろくさい船の三隻めが帰ってきたんだ! 宇宙軍の予備役兵が召集され、研究室やオフィスが集中している屋敷の東翼で動きがあわただしいのは、そのせいにちがいない!
ジェレミー叔父は、まだ人情の欠如ぶりについて講釈をたれていたが、ジェイコブはもう、叔父を見てもいなかったし、話を聞いてもいなかった。そして、顔だけは前を向き、じっとしたまま、アリスが耳もとに口を寄せてささやくのを──いや、興奮であえぎあえぎ、かすれ声でこう言うのを聞いた。
「……異星人よ、ジェイコブ! 〈ヴェサリウス〉が異星人を連れ帰ってきたのよ! 異星の船といっしょに! ジェイコブ、〈ヴェサリウス〉はね、イーティーを連れてきたのよ!」
ジェイコブがイーティーということばを聞いたのは、それがはじめてだった。ときどき思うのだが、このことばを発明したのは、アリスだったのではなかろうか。当時十歳の彼の耳に、このイーティー≠ニいうことばは、だれかが食われる≠アとを意味しているように聞こえたのだった。
眼下にティワナの通りを見おろして車を進めながら、その疑問にはまだ答えが出ていないな、とジェイコブは思った。
いくつかの大きな交差点の一画からは、建物がとりはらわれ、極彩色に塗りたくられたET 休憩所≠ェ設置されていた。途中、車高が低く、屋根のない新型バスを何台も見かけた。これは、人間だけでなく、這いずりまわったり身長が三メートルもあったりする異星人でも乗れるよう、特別に設計されたものだった。
市役所の前を通りすぎるとき、十人ほどの〈毛皮派〉がピケを張っているのを目にした。少なくとも、その連中は〈毛皮派〉のような風体をしていた。毛皮をまとい、プラスティック製のおもちゃの槍をふりまわしていたからだ。こんな暑い季節に、ほかのだれがあんな格好をするだろう。・
ジェイコブはラジオのボリュームをあげ、音声によるチャンネル指定のボタンを押した。「ローカル・ニュース。キーワード──〈毛皮派〉、市役所、ピケ」
一瞬の間があってから、ダッシュボードの奥で機械的な声がしゃぺりだした。コンピューターの読みあげるニュースには、抑揚にわずかにおかしなところがあった。はたして、声の調子をぴったり調整できるようなときがくるんだろうか。
「ニュースを要約します」合成声音は、オックスフォードふうの発音で言った。「おはようございます。二二四六年一月十二日、ただいまの時刻は〇九四一時でず。本日、ティワナ市役所前では、三十七名の人間が合法的なピケを張っています。ピケ・グループの不満の種は、ひとことで言うと、地球外種族屠留地の拡大にあります。ピケ・グループの抗議宣言文のハードコピー、もしくは音声による読みあげをお望みでしたら、その旨お申し出ください」
機械は少しのあいだ沈黙した。ジェイコブは黙っていた。さて、要約の先を聞いたものかどうか。〈毛皮派〉の居留地拡大に関する抗議内容については、すでに十二分に承知している。少なくとも一部の人間は、異星人とうまくやっていけないということだ。
機械が報告を再開した。「抗議グループ三十七名のうち、二十六名は要観察者発信機を埋めこまれていました。残りの十一名は、もちろん市民です。ティワナ市全般では、要観察者は市民百二十四名につきひとりの割合ですから、このピケは、たいへん要観察者の割合が多いことになります。その行状と着衣から、抗議者たちはいわゆる新石器時代主義者、通称〈毛皮派〉の賛同者と目されます。市民については、プライバシーの権利が侵されることはありませんが、それでも、三十七名のうち、ティワナ市居住者は三十名で、その他の七名は外部からの……」
ジェイコブがオフのボタンを押すと、声は途中で切れた。市役所の前で見られたような光景は、ずっと前にすたれてしまったものであり、どのみち過去のものでしかない。
だが、ET居留地の拡大にともなう論争から、彼はあることを思いだした──この前、サソタ・バーバラに叔父のジェイムズを訪ねてから、もう二ヵ月近くがたってしまっている。あの大仰な老人は、いまごろこの間題に首まではまりこみ、ティワナの要観察者保護のために訴訟を起こしているのだろう。それでも、ジェイコブが彼もしくはほかの叔父、叔母、従弟、その他ごちゃごちゃとひしめくアルヴァレス一族のだれにもことわらずに長旅に出ようものなら、ジェイムズはたちまちそれに気づくはずだ。
長旅だって?
どこへ出かけるというんだ? おれはどこにも行きやしないそ!
だが、心の片隅で、ジェイコブはうすうすと察していた。ファギンが声をかけてきた今度の会合とやらには、なにかそんなことにまきこまれそうなにおいがあるのだ。期待を感じるいっぽうで、ジェイコブはそれを押さえこもうとした。このような心の葛藤は、ひどく混乱をもたらしていたはずである──もしこれがすっかりおなじみのものでなかったならば。
ジェイコブはしばらく、無言のまま運転をつづけた。まもなく、街をはずれて開けた郊外に出ると、走っている車はほとんどなくなった。それからの二十キロを、ジェイコブは太陽の暖かみを片腕に受けながら、車を進めた。そのいっぽうで、心のなかでは、さまざまに入り組んだ疑念が渦巻いていた。
このところ心隠やかならぬ日々が続いているにもかかわらず、そろそろ知性化センターを去るべき潮時であることを、ジェイコブは認めたくなかった。イルカやチンブとの仕事はすばらしく楽しいし、昔やっていた科学犯罪調査官と比べると、(ウォーター・スフィンクス事件の最初の騒々しい数週間のあとは)はるかに落ちついている。センターのスタッフはみな献身的だし、近ごろの地球上の科学的事業の多くとはちがって、やる気も充分だ。彼らのしている研究は、ラパスの〈ライブラリー〉分館が本稼働に入ったからといって、たちまちすたれてしまうたぐいのものではないのである。
だが、とりわけ重要なことは、センター内には友人ができており、その友人たちのおかげで、この一年間かそこら、ぱらぱらになっていた心の断片が、徐々にひとつにまとまりはじめていたことである。
とくに、グロリア。センターに残るのなら、彼女をなんとかしてやらなけれぱ。それも、いままでのような、ひと晩かぎりの関係でなく。あの娘の気持ちは、もうはっきりとわかっている。
そもそも、ジェイコブがセンターにやってきたのは、エクアドルでの惨劇ののち、仕事と平安をもとめてのことだった。いまにして思えば、ああなる前に、なすべきことを心得、それを実行するだげの勇気を持ちあわせておくべきだったのだ。いまでは、彼の気持ちは混沌としていた。あたりさわりのない恋愛関係以上のものがもういちど自分に持てるかどうか、ジェイコブには自信がなかった。
タニアが死んで、もう二年にもなる。立派な仕事とよき友人たちに恵まれ、心のなかにはずばらしいゲームのアイデアもいろいろ暖まってはいたが、それはときとして、胸が押しつぶされそうなほど寂しい二年間だった。
まもなく、あたりは起伏に富んだ、土色一色の地形となった。うしろへ去っていくサボテンを眺めながら、ジェイコブはシートにもたれかかり、ゆったりとしたドライブを楽しんだ。いまになっても、彼の体はかすかに、まるで洋上にいるかのように揺れていた。
丘の向こうに、青く輝く海が見える。うねる道路を登って会合場所に近づいていくにつれ、海に出てボートに乗りたいという思いがつのった。ああ、コククジラが体をくねらせ、尾ひれをふりあげて、大移動をはじめるところを見たい。群れのリーダーが歌う鯨の歌を聞きたい。
丘のひとつをまわりこむと、道路の両側に帯状の駐車場があり、ジェイコブの乗っているのと同じような小型電気自動車が、ずらりとならんでいた。丘の頂上には、何十人もの人々が立っていた。
ジェイコブは、右側の自動誘導路《ガイドウェイ》に車を乗り入れた。そこに入れてしまえぱ、速度をぐっと落とせるし、道路から目を離しても平気だからだ。いったいここで.なにが起きてるんだ? 道路の左側では、ふたりのおとなと何人かの子供が車をおり、ピクニック・バスケットや双眼鏡をとりだしている。興奮しているのがひとめでわかった。典型的な週末の行楽に出かげてきた家族≠フようだが、全員が銀色に光るローブと金色の魔除けを身につけているところがちがっている。丘の上の一団も、ほとんどが同じような格好をしていた。彼らの多くは望遠鏡を手にしており、道を先に進んだところにある、ジェイコブの位置からは右手の丘がじゃまになって見えないなにかをにらんでいた。
その右手の丘には、やはり一団の人閘がおり、こちらは穴居人の扮装をしていて、羽飾りをつけていた。とはいえ、すっかりクロマニヨン人のスタイルをしているわけではない。石斧や石のヤジリをつけた槍のほかに、望遠鏡をはじめ、腕時計、ラジオ、メガフォソなどを携行していたからである。
ふたつのグループが別々の丘の上に集っているのも、驚くにはあたらない。〈開化派〉〈毛皮派〉が意見を同じくするのは、ただひとつ、地球外種族居留地に対ずる憎しみだけなのだ。
ふたつの丘のあいだの、ハイウェイを登りつめたところには、巨大な看板がかかっていた。
ババ・カリフォルニア地球外種族居留地
要観察者の許可なき立ち入りを禁ず
はじめての訪間者は情報センターに立ち寄ること
呪術的・原始人的装束着用は認められない
〈毛皮派〉は情報センターにてチェックを受けること
ジェイロブはにやりとした。最後の一行は、新聞≠フ格好のネタとなっている。どのチャンネルをまわしても、居留地を訪れた人間たちが皮をはがれ、それを蛇のような格好をしたふたりのETが満足げに見ている、という漫画が必ず出てくるのだ。
頂上付近にくると、あたりには車がいっぱい止めてあった。ジェイコブの車が頂上まで登りつめると、境界が視界にとびこんできた。
荒涼とした土地が東西にどこまでも広がるなかを、今度は途切れることなく、床屋のポールの列がずらりとならんでいる。なめらかなポールの多くは、ほこりにまみれて色が見えない。ボールのてっぺんにのっかった丸いランプにも、土ぼこりがつもっている。
ありふれた精神波感知器《Pポスト》だが、ここではふるいの役をはたし、一般市民はET居留地に出入り自由だが、要観察者には立入禁止を、異星人に対してはなかにとどまっているようにとの、警告の役目をはたしていた。それは大半の人々がわざと忘れようとしている事実を、露骨に思いださせるものだった。かなりの割合の人間は、要観察者として送信機が埋めこまれている。多数派が彼らを信用していないからである。多数派は、地球外種族と要観察者──心理学的テストによって暴力性向≠ェあると判定された人間──とが接触することを、防いでおきたかったのだ。
境界は、立派にその役をはたしているようだった。ふたつの丘の群衆は、頂上にいくにつれてますます増えていき、服装もより過激になってはいたが、Pポストの列のすぐ北側で、ひとかたまりになってとまっていた。〈開化派〉のなかにも〈毛皮派〉のなかにも、一般市民はいるのだろうが、その連中も、仲間とともにこちら側にとどまっている。礼儀のためでなげれば、抗議のためだろう。
群衆は、境界のすぐ北側あたりで、いちばん密集していた。〈開化派〉も〈毛皮派〉も、すばやく通りすぎる車に、プラカードをふりまわしている。
ジェイコブはガイドウェイにとどまったまま、強烈な陽光を遮るため、目の上に手をかざし、まわりを見まわして、ショーを楽しんだ。
道路の左手では、喉もとからつまさきまで銀色のしゅすで身を包んだ若い男が、こう書いたプラカードを掲げていた。「人類も知性化されたのだ──われらが従弟、ETを外へ!」
道路をはさんでちょうどその反対側には、石槍を持った女がいて、その柄に結びつけられたのぼりには、こうあった。「人類は自力で進化した……イーティーどもは地球を出ていけ!」
彼らの論争は、このふたつのメヅセージに集約されていた。いまでは世界じゅうが、正しいのはダーウィンの信奉者なのか、それともフォン・デニケンの信奉者なのか、固唾を呑んで見守っている。〈毛皮派〉も〈開化派〉も、人類をまっぷたつに割った哲学的見解の、両極端の一派閥にすぎない.問題は.ホモ=サピエンスがいかにして考える生物に発達したか、ということにある。
いや、〈開化派〉と〈毛皮派〉が体現しているものは、それだけだろうか?
〈開化派〉はほとんど疑似宗教的熱狂をもって異星人を敬愛している。ヒステリー的異星人愛好症か?
新石器時代主義者は、穴居人の扮装と大昔の知識に傾倒する者たちである。ヒトがETの影響とは無縁に進化した≠ニする彼らの叫びは、なにかもっと根源的なもの──未知のものに対する恐怖、強力な異星人に対する恐怖に根ざしているのではあるまいか。あるいは、異星人拒絶症とも考えられる。
ただひとつ、ジェイコブにもはっきりわかっていることがあった。〈開化派〉と〈毛皮派〉は、怒りを共有しているということだ。ETに対する連合政府の慎重で妥協的な政策への怒り、仲間の多くを隔離している要観察法への怒り、そして、もはやだれも自分のルーツに自信を持てなくなった世界への怒りを。
ふと、年とった、髭を剃っていない男が目にとまった.男は道端にうずくまり、ぴょんぴょんとびはねては、脚のあいだの地面を指さし、群衆のたてる土ぼこりのなかで、なにごとかをわめいていた。そばを通りかかるとき、ジェイコブは車のスピードを落とした。
男は、毛皮の上着と手縫いの革の半ズボンを身につけていた。ジェイコブが近づいていくにつれ、男の叫び声ととびはねっぶりは、ますます狂騒的になった.
「ドードー!」痛烈な侮辱でも放ったかのごとく、男は叫んだ。口から泡が吹きだしはじめ、男はふたたび地面を指した。
「ドードー! ドードー!」
当惑して、ジェイコブは車の速度を、ほとんどとまらんばかりに落とした。
とたんに、なにかが左手からとんできて、顔の前をかすめ、助手席の窓の内側にぶつかって砕けた。車の屋根になにかがぶつかり、まもなく小石が雨あられとふりそそいできて、やかましく鳴り響いた。
左側の窓を閉め、自動運転を切って、車をとびださせる。小型車の貧弱な金属やプラスティッグは、石がぶつかったところにへこみができていた。ふいに、左側からいくつもの顔が覗きこんだ。だらりと長い口髭をはやした、たくましい若者の顔だ。ぐずぐずと加速する車に並走しながら、若者たちはわめきちらし、こぶしで車体をがんがんたたきまわった。
境界線がほんの数メートルのところにせまると、ジェイコブはにやりとして、この連中がなにをしようとしているのかたしかめてみることにした。アクセルをわずかにゆるめ、すぐ横を走っている男に質閲しようと口を開きかけた。男は二十世紀のSFに出てくるヒーローのような、けばけぱしい格好をしていた。多少スピードが出ているので、道路ぎわの群衆は、プラカードやさまざまなコスチュームのかたまりとなって、ぼんやりとしか見えない。
が、ひとことも口をきく間もなく、車は激しい衝撃を受けて揺れた。フロントガラスに穴があいており、小型車のなかに、なにかが燃えるようなにおいがたちこめた。
ジェイコブは境界線まで車をつっぱしらせた。床屋のポールの列が横をうなってかすめすぎる。ふいに彼はひとりきりになっていた。バックミラーで見ると、追ってきた連中が後方でひとかたまりになっている。若者たちは走り去る彼の車に向かって口々に叫びかけなから、未来的なローブの袖の下からこぶしをふりあげていた。ジェイコブはにやりと笑うと、窓をあげ、手をふってみせた。
レンタカー屋に、こいつをどう説明したものだろう? ミン皇帝の軍勢に襲われたとでも言うか? ほんとのことを言ったところで、信じてもらえるとは思えない。
警察を呼ぶのは問題外だった。地方警察は、まずPサーチをしてからでなくては、行動に出るごとができない。だいいち、わずかなP送信機があれだけおおぜいのあいだに埋もれてしまっていては、見つけだすことなど不可能だ。それにファギンも、今朝の会議に出席するにあたっては、充分用心してくるようにと言っていたではないか。
ジェイコブは窓をあけはなち、風を吹き入れて、煙を外へ追いだした。フロントガラスにあいた穴に小指をつっこみ、呆けたような笑顔を浮か』へる。
おまえ、ほんとうは楽しんでるな?
体じゅうにアドレナリンを充満させることと、危険を嘲笑うこととは、まったくべつものだ。境界線をくぐる騒動のときに感じた高揚感は、ジェイコブの心の一部を、あの群衆のわけのわからない襲撃よりももっと悩ませた……さっきのようなことがあると、昔からああいう気分になってしまうのだ。
境界を通って一、二分が過ぎたころ、ダッシュボードのブザーが鳴った。
顔をあげて前方を見る。ヒッチハイカーか? こんなところに? 前方の、五百メートルといかないあたりの縁石のそばに、男がひとり立っていて、ガイドビームを時計で遮っていた。そばの地面には、鞄がふたつ置いてあった。
ジェイコブはためらった。しかし、居留地内に通行を許されるのは、一般市民だけだ。彼は男の横を二、三メートル通り過ぎてから、縁石に寄せて車をとめた。
どことなく、見覚えのある男だった。赤ら顔をした小男で、ダーク・グレイのビジネス・スーツを着ている。重いふたつの鞄をジェイコブの車のそばに持ってくるとき、突き出た腹がゆさゆさと揺れた。男は汗だくの顔を助手席側のドアにかがめ、なかを覗きこんで、「まいったね、ずこい暑さだ!」とうめくように言った。ちょっとアクセントに癖があったが、標準的な英語だった。
「むりないよ、だれもガイドウェイなんか使わないのは!」男はハンカチで額の汗をぬぐいながら、「ほかの連中ときたら、少しでも車内に風を入れようと、すっとばしていくんだからな。おや、あんたの顔には見覚えがあるぞ。前にどこかで会ったことがあるな。おれはピーター・ラロック……よげれば、ピエールと呼んでくれ。ル・モンド紙の特派員だ」
ジエイコブは驚いて、
「ああ。なるほど、ラロックか。前に会ったことがあるよ。ぼくはジェイコブ・デムワ。乗りたまえ、情報センターまでしか行かないが、そこからならバスが出ているから」
思っていることが顔に出ていなけれぱいいが、とジェイコブは思った。走っているうちに、なぜラロックを見分けられなかったのだ? それなら車をとめずに、素通りできたものを。
この男に対して、とくに含むところがあるわげではない……たしかに、その尊大なエゴと、言い返すこともできない相手に投げかける、尽きることを知らない持論の山にはうんざりさせられる。だが、多くの点で、彼はなかなかに魅力的な人間のように思われた。そしてまた、デニケソ派の説の信奉者でもあった。ジェイコブは、ラロックの署名記事をいくつも読んだことがあったし、内容はともかくとして、その文章はけっこう楽しめた。
だがラロックは、ジェイコブがウォーター・スフィソクスの謎を解いたのち、何週間もあとをつけまわしたブンヤどもの群れのひとりであり、なかでもいちばん無遠慮なやつだったのだ。ル・モンド紙に掲載された記事は、好意的であり、非常にみごとにまとまってはいた。だが、あれだけうるさくつきまとう意味は、まるでないしろものだった。
ジェイコブは、ウォーター・スフィンクス事件の前に起きたエグアドル事件──あの〈ヴァニラ・ニードル〉の大惨事-のとき、このブンヤに見つからなくて幸いだったと思った。あのときラロックにつきまとわれていたら、とても耐えられなかっただろう。
久しぶりに会ってみると、信じがたいことに、ラロヅクの発音は明らかに原音℃蜍`に影響されていた。前に会ったときよりも、なまりがさらにひどくなっていたのだ。
「デムワ? おお、そうだとも!」ラロックは後部席に鞄を押しこむと、助手席に乗りこんできた。「格言作りの王者! 謎解きの名人! きっとここへは、われらが気高き外宇宙からの客とパズルでもしにきたんだろう? さもなければ、ラパスの大〈ライブラリー〉を検索しにきたのかな?」
ジェイコブはガイドウェイにもどりながら考えた。母国独自の原音にそった発音≠ネどというものを作ったのは、どこのどいつだ。だれだかわかったら、くびり殺してやる
「ぼくがここへきたのは、コンサルタントとしての仕事をはたすためさ。きみの言うのが地球外種族のことだとしたら、たしかに彼らもぼくの顧客のなかに入ってるよ。くわしいことは言えないがね」
「なるほど、極秘中の極秘というわけだ!」ラロックはからかうように指を一本ふって、「そんなにジャーナリストをいじめるもんじゃないぜ! あんたの仕事とやらはおれの仕事と同じかもしれんのだから! ところで、ル・モンドのトップ・レポーターが、なんでこんなさいはての地にいるのか、不思議に思うだろう?」
「それよりも──なんでこんなさいはての地のどまんなかでヒッチハイクをしてたのか、そっちのほうが不思議だな」
ラロックはため息をついた。
「さいはての地、ねえ。まさにそうだ! 地球を訪れた高貴なる異星人が、ここやらアメリカ州のアラスカやら、ひどい僻地にとじこめられていなきゃならんとは、なんとさびしい話だ!」
「ハワイ、カラカス、スリランカ、このへんはみんな、州都だぞ」とジェイコブ。「しかし、どうしてきみがここへ……」
「どうしておれがここへ派遣されたかって? そう、もちろんさ、デムワ! しかしだ、ここはひとつ、おたくの有名な演繹能力のご披露といこうじゃないか。おおかた見当はついてるんだろう?」
ジェイコブはうめき声を押し殺した。車をガイドウェイから出し、アクセルをぐっと踏みつける。
「それよりもっといい考えがある。なぜ荒野のまっただなかで立っていたのか話してくれる気がないのなら、ある謎を解いてくれないかな」
ジェイコブは障壁でのできごとを話して聞かせた。ラロックがフロソトガラスの穴に気づかなければいいがと願いながら、あの投石事件には触れないようにして、ジェイコブは慎重に、例のしゃがみこんでいた男のふるまいを語った。
「そいっは決まってるさ!」ラロックが大声で言った。「わかりきったことじゃないか! あんたたちの使う、永久要観察者≠フ頭文字がヒントだよ。それにしても、あの分類のしかたはひどすぎる。一個の人間の人権を否定し、親となる権利も選挙権も……」
「そんなことはとっくにわかってる! ぼくは昔から反対派だ.よげいなおしゃべりはしなくてもいい」ジェイコブはちょっとのあいだ考えこんだ。永久要観察者《パーペチュアル・プロペイショナー》の頭文字は、なんだった?
「ああ……なるほど、そうか」
「そのとおり、そのあわれな男は、逆襲しただけなのさ! あんたたち市民は、彼のことをPP と呼ぶ……それなら、彼があんたのことを嘲ったとしても、ばちはあたるまい? |従順な飼い犬《ドーサイル・アンド・ドメスティケイテッド》、略してドードーさ!」
ジェイコブは思わず笑い声をあげた。道はカーブしはじめていた。
「しかし、あれだけの人間が障壁の前に集まっていたのはどうしてだろう? みんな、だれかを待っているみたいだったが」
「障壁のところでかい?」とラロック。「ははあん。毎週木躍日になるとそうなるという話は聞いたことがある。木曜日には、ETたちがセンターを出て、非市民の見物に行くんだ。そのかわりに、連中は逆にETたちを見物にくるというわけさ。おかしな話じゃないか? どっちがピーナッツを投げる側かわかりゃしない!」
丘をひとつ迂回すると、目的地が見えてきた。
エンセナダの北、数キロの地点にある情報センターは、不規則に伸び広がる、ET居住区、公共博物館、奥に隠された境界パトロールの営舎、などからなる、混成施設の総称である。広大な駐車場の前には、はじめての訪問者か銀河の儀礼について学ぶ、主要施設が建っている。
教育ステーショソは、ハイウェイと海とのあいだの小高い大地の上に立っており、どちら側からも、ずっと遠くまで見わたすことができた。ジェイコブは、その中央入口のそばに車をとめた。
ラロックは赤い顔をして、なにごとかを頭の中で反芻していた。が、ふいに顔をあげて、「なあ、ピーナッツのことは、あれはほんの冗談だったんだ.わかってるだろう? あれはただの冗談だったんだ」
ジェイコブはうなずきつつも、この男はなにを気にしているんだろうといぶかしんだ。どうも、態度が妙だった。
3 ゲシュタルト
ジェイコブは、ラロックが鞄をバス停まで運ぶのを手伝ってから、どこか外で腰をおろせるところはないかと、中央庁舎の裏手にまわった。会議に顔を出す予定の時間まで、まだ十分あったからだ。
庁舎のすぐ裏手には、小さな港があり、その前にちょっとした公園があって、木蔭やテーブルがいくつか見つかった。ジェイコブはテーブルのひとつに近より、腰をおろすと、ベンチの上に脚を投げだした。冷たいセラミックのタイルが、心地よい。海からの風が服を吹きぬけて、肌のほてりをいやし、服についた汗を乾かしてくれた。
しばらくのあいだ、彼はじっとそこにすわったまま、こわばった肩と腰を一ヵ所ずつもみほぐし、運転の疲れをふりはらった。彼方のヨットに目を凝らす。三角帆と大檣帆が海よりも濃い緑色に染められたデイクラフトだ。やがて彼は、みずからをトランス状態へと導いた。
豊かな感覚が広がっていく。一度にひとつずつ、五感か心に伝えることがらを吟味しては、それを締めだした。ひとつひとつの筋肉に意識を集中して、感覚と緊張を断ち切った。ゆっくりと、手足の感覚は鈍り、遠のいていった。
太腿のかゆみが残っていたが、両手は膝の上から離さずにおいた。やがてかゆみは、ひとりでに消えた。潮のにおいが心地よかったが、それだけに、じゃまものでもあった。ジェイコブはそれを追いやった。ついで、心臓の音に一心に耳を傾け、それと気づかなくなるほど心になじませてから、それをも消し去った。
こうして完成したトランス状態を、この二年間そうしてきたように、ジェイコブはさらに浄化フェイズへと導いた。この状態に入ると、いろいろなイメージが驚くべき速さで去来し、いったん別れ別れになったかたまりがふたたびひとつに融合しようとずるかのごとく、傷を癒してくれる。だが、ジェイコブはこのブロセスを、けっして楽しんだことはなかった。
彼はほとんどひとりぼっちだった。残っているものといえぱ、さまざまな声、ほとんど聞きとれるかとれないかの、かすかなことばの断片のつぶやきだけだ。一瞬、グロリアとジョニーがマカーカイのことで言いあい、そこヘマカーカイ本人が、なにかぶしつけなことをピジン・イルカ語でさえずるのが聞こえた気がした。
ジェイコブはひとつひとつの音をそっと外へ追いやり、いつものように、そろそろだなという予感にとらわれながら、例の声の唐突な到来を待った。ぐっと両手を差しのべたまま、目の前を落下していきながら、タニアがほとんど聞きとれないなにごとかを叫んでいた。二十マイル下の大地に向かってぐんぐん落下しつつ、その声はいつまでも消えさらない。その姿が点のように小さくなり、すっかり見えなくなってからも……まだ叫び声はつづいていた。
やがて、そのかすかな悲鳴も消え去ったが、今回は、いつもより大きな不安感をあとに残した。
境界ゾーンでの事故が、実際よりもすさまじく、より誇張された形で、心のなかに閃いた。ふいに彼は現在にもどり、今度は要観察者のただなかに立っていた。ビクト族の座師の服装をした髭づらの男が、一個の双眼鏡をさしだし、執拗にうなずいている。
ジェイコブはそれをとりあげ、男の指さすところを見た。双眼鏡に映った場面は、ハイウェイから立ちのぼる熱で歪んでいた。一台のバスが、左右の地平線の彼方まで伸び連なる、ななめの縞のポールのすぐ向こうに停車した。ポールの一本一本は、太陽にもとどきそうなほど、どこまでも高く伸びている。
ついで、そのイメージも消えうせた。ものなれた無頓着さで、ジェイコブはそれについて考えたいという誘惑を受け流し、心を完全に空自にした。
静寂と暗黒。
深いトランス状態に身を置いていても、覚醒のときが近づいたら、体内時計が教えてくれるはずだ。彼はゆっくりと、把握することも思いだすこともできない、象徴も長い意味も欠如したパターンのなかを進んでいき、辛抱強く、そこにあることがわかっており、いつの目か見つけるであろうはずのキーを捜しつづけた。
より深みへと沈むにつれ、いまでは時間も、ほかの要素と同じように失われた。
だしぬけに、鋭い痛みかひっそりとした暗闇を貫きとおり、心の遮蔽をすべて突き崩した。その苦痛のもとをつきとめるのに、ほんの百分の一秒ながら、永遠とも思える時間がすぎた。苦痛の正体は、鮮烈な青い光だった。その光は、閉じたまぶたを通して、催眠術的に鈍らせた目にさえも貫き通ってくるようだった。つぎの瞬間、なんの反応をする間もないうちに、それは消えうせていた。
ジェイコブはしばらく、自身の混乱と戦った。一心に意識のもとへと浮上しようと努めながらも、パニックに満ちた疑問が、フラッシュのようにつぎつぎと閃いては通りすぎていく。
いまの青い光は、潜在意識の作ったなにかだったのか? 神経症を引き起こしかけるほど激しく防衛したところをみると、あれは相当のやっかいごとにちがいない! おれは隠れた恐怖を探りあてたらしいが、それはいったいなんなのだ?
覚醒するにつれて、聴覚がもどってきた。
前方から、足音が聞こえてきた。風や潮騒の音からは識別できたものの、まだトランス状態がつづいているため、その足音は、モカシン・シューズをはいたダチョウのような、やわらかなぱたぱたという音に聞こえた。
やっとのことで深いトランス状態が破れ、数秒後、心のなかにあふれんばかりの光が押し寄せてきた。ジェイコブは目をあけた。背の高い異星人が、目の前数メートルのところに立っている。ぱっと見たところでは.背の高さと、色の自さと、大きな赤い目が印象的だった。
少しのあいだ、世界は傾いているように見えた。
両手でテーブルの端をつかみ、体を支えようとしたものの、なおも頭が沈みこんでいくようだ。
ジェイコブは目を閉じた。
まだトラソスの影響が残っているな。まるで頭が地面のなかを突き破っていって、地球の反対側から出ていきそうな気分だ!
片手で目をこすり、もういちど慎重に前を見る。
異星人はまだそこにいた。すると、こいつは本物なわけだ。ヒューマノイド・タイブだが、上背は少なくともニメートルはありそうだ。ほっそりとした体のほとんどは、長い銀色のローブで覆われている。恭順の姿勢をとって、胸の前で組まれている両手は、長く、白くてつややかだ。
異星人はこうべを垂れていた。小枝のような細い首にのっかった頭が、ひどく大きい。まぶたのない、円柱状にとびだした赤い目も、唇も、やはり大きく、このふたつだけで、顔の造作のほとんどを占めている。ほかにも二、三、小さな器官かあったが、その機能がなんであるのかは、わからなかった。この異星人は、ジェイコブもはじめて見る種族たのだ。
ふたつの目は、知性に輝いていた。
ジェイコブは咳払いをした。いまだに朦朧とした状態は残っており、ジェイコブはそれに負げまいとして戦わねばならなかった。
「もうしわけないんだが……紹介されたことがないので、その……どういうふうに話しかけていいのかわからないんだが、きみはわたしを迎えにきたと考えていいのかな?」
巨大な自い頭が、大きくたてにふられた。
「すると、きみはカソテン=ファギンが会うようにといっていたグループとやらの一員なのかい?」
ふたたび、異星人はうなずいた。
うなずくというしぐさは、イエスを意味しているんだろうな、とジェイコブは思った。こいつはしゃべれるんだろうか。この大きな唇の奥には、想像もつかない不思議な器官でも潜んでいるのかもしれない。
だが、なぜこいつは黙ってつっ立っているだけなんだ? 待てよ、こいつの態度は、もしや……?
「もしや、きみはどこかの類族で、口をきいてもいいと言われるのを待っているんじゃないかい?」
唇≠ェわずかに開いた。その隙間から、なにか明るくて白いものが見えた。異星人はふたたびうなずいた。
「それなら、頼むからしゃべってくれ! ぼくたち人間は手順を省くことで有名なんだ。きみはなんという名前だい?」
異星人の声は、驚くほど低く響いた。開くか開かぬかの口から絞りだされたその声は、サ行の音のはっきりしない、舌ったらずなものだった。
「わたくしは、カラと申します。お許しをいただき、ありがとうございます。わたくしは、あなたが道に迷われないよう、出迎えにつかわされました。ほかの方々はお待ちですので、いっしょにおいで願えますでしょうか。おいやでしたら、予定の時刻まで、瞑想をおつづけいただいてけっこうですが」
「いやいや、万難を排して、いますぐ行くよ」ジェイコブはおぼつかない足で立ち上がった。しばらく目を閉じ、心からトランス状態の最後の残滓をふりはらう。いずれ、識閾下でかいま見たものを選別しなければならないが、それはあとまわしにしてもいい。
「案内してくれ」
カラは踵を返し、ゆっくりとした、流れるような足どりで、センター側面の入口のひとつに向かった。
カラは明らかに、類族《クライアント・レース》>氛氓サの主族《パトロン・レース》≠ヨの奉仕期間がまだ終わっていない種族の一員だった。このような種族は、銀河のつつきの順位≠ノおいて、下位に位置づけられる。ジェイコブは、いまだに銀河文明の複雑さに当惑しながらも、幸運な偶然によって、人類が危なっかしくはあるが、そのヒエラルキーの上位の地位を獲得しえたことを、ありがたく思った。
カラは上階の、大きな樫の木の扉へとジェイコブを導いていった。声をかけずにその扉をあけると、彼はジェイコブの先に立って、会議室に入った。
なかにはふたりの人間と、カラを除いてもうふたりの異星人がいた。ひとりは短驅でふさふさとした毛皮に覆われており、もうひとりはさらに小柄で、トカゲのような格好をしている。室内には大きなグリーン・インテリアと、港を見おろすピクチャー・ウィンドウがあり、そのあいだにクッションがならんでいて、みんなはそこにすわっていた。
向こうがこちらに気づく前に、異星人たちの印象を整理しようとしたものの、部屋に入るなり、だれかか彼の名前を呼んだ。
「わが友、ジェイコブ! わざわざ来訪してくれて、きみの時間をわれわれと分かちあってもらえるとは、これにまさる喜びはない!」この笛の音のような声は、ファギンだ。ジェイコブはずぱやく室内を見まわした。
「ファギン、いったいどこに……?」
「わたしはここだよ」
窓のそばの一行に目をもどす。ふたりの人間と毛のふさふさしたETが立ちあがった。トカゲ型の異星人は、クヅションに腰をおろしたままだ。
ジェイコブはもういちどよく室内を見なおし、ふいに気がついた。グリーン・インテリア≠フひとつが、ファギンだったのだ。老カンテンの、銀色の小片にふちどられた頭部の茂みが、そよ風にゆられているかのように、かすかにさやいでいた。
ジェイコブはにっこりと笑みを浮かべた。ファギンと会うと、いつも困ることがある。これがヒューマノイド・タイプの異星人なら、顔.もしくはそれに相当する部分を見て話しかけれぱいい。いつもなら、異星人の奇妙な容貌を見ても、どこに焦点を合わせて話せばいいのか、見ぬくにはほとんど時間がかからない。
たいていの場合、それは当人が他の存在に注意を向ける器官の付近だ。したがって、人間と同じく、たいていのETについても、焦点を合わせるべき場所は、目と目のあいだでいい。
ところが、カンテンには目がない。あの小さな、鈴のような音をたてる銀色のまばゆい小片は、ファギンの受光器官のように思える。しかし、たとえそうだとしても、それでどうなるわけでもない。ファギンに向かうときは、自我の先端ではなく、その全体に目を向けなけれぱならないのだ。自分の気持ちとしては、いったいどちらがほんとうのところなのだろう──このハンディキャップにもかかわらずこの異星人が好きなのか、それとも、長年の友だちづきあいにもかかわらず、彼といると不安になるのか。
黒っぽい葉に覆われたファギンは、体をゆさゆさゆらし、そのたびにひとつながりの眼塊を前にたらしながら、窓ぎわから近づいてきた。ジェイコブは中くらいに丁寧なおじぎをひとつして、待った。
「ようこそ、ジェイコブ・アルヴァレス・デムワ──ヒト=主=イルカ=主=チンプ。本日、このあわれな生物に、ふたたびきみの存在を体感させてくれたことを、うれしく思う」ファギンのしゃべりかたははっきりしていたが、抑揚に、どうしても押さえきれない独特の癖があり.そのため、スウェーデン語と中国語とまぜあわせたような感じに聞こえた。カンテンという種族は、原始イルカ語や現代イルカ語のほうが、ずっとうまく話せるのである。
「ファギンーカンテン=従=リンテン=従=シクル=従=ニッシュ、ミホーキ・キープ。また会えてうれしいよ」ジェイコブはもういちど、おじぎをした。
「ここにおられる尊敬すべき方々は、きみと意見を交換ずるためにやってこられたのだ、わが友ジェイコブ。正式に紹介を受ける心構えができているといいのだが」
ジェイコブは各異星種族につきものの、複雑につながった種族名に──少なくともその構成に──注意を払おうとした。種族名に連なる主族と類族の名前は、その種族の地位について。かなりの情報を提供してくれるのだ。ジェイコブははじめてくれるようにとうなずいた。
「それでは」、正式におひきあわせしよう。こちらはババカブ──ビラ=従=キシャ=従=ソロ=従=ハル=従=ババール=主=ジェロ=主=ブリング。〈ライブラリー〉協会のラパス分館長だ」
ETのひとりが前に進み出た。第一印象は、身長四フィートの、灰色をしたテディペアといったところだった。が、大きな鼻と目のまわりをふちどる柔毛は、そんな印象を改めさせた。
では、これが〈ライブラリー〉分館の館長、ババカブなのか! 〈コンタクト〉以来、地球が蓄えてきたとぼしい外貨は、ラパスの〈ライブラリー〉分館ひとつであらかた消えてしまった。しかも、ちっぽけな地方&ェ館を人間にも使えるようにする膨大な作業の大半は、遅れた$l類が銀河文明のレベルに追いつけるよう援助するために、慈善活動として、巨大な〈ライブラリー〉協会のサービスで行なわれたのである。その分館の館長であるパパカブは、地球にいる異星人のなかでも、もっとも重要な人物のひとりなのだ! しかも、彼の種族名は、ビラの地位がかなり高く、ファギンの種族すらを上まわるものであることを示している!
種族名の四番めあたりまである従≠ヘ、ババカブの種族が、〈始祖〉という神話的種族以来連綿とつづけられてきた知性化連鎖の一環として、知的種族に引きあげられたものであり……その連鎖のうちの四つの親種族≠ヘ、まだこの銀河系のどこかに存続しているということを意味している。ゆるやかにまとまった銀河文明においては、(人類という、おそらく唯一の例外を除き)すべての宇宙航行種族が、いずれかの宇宙航行種族の手によって、野蛮な準知的段階から知的段階へと引きあげられたのであり、その種族としての地位は、このような連鎖のどこに位置するかで決まるのだ。
主≠ニいうことばは、ビラという種族が、今度は自分たちで、新たにふたつの種族を知性化したことを意味していた。これもまた、その地位を表わすものである。
孤児≠ナある人類が、銀河の列強に頭から押さえつげられずにすんだ唯一の理由は、〈ヴェサリウス〉が異星船とコンタクトし、ET文明を地球へともたらず以前に、人類みずからの手で新たな知的種族を産みだしていたからであった。
異星人はわずかに頭をさげた。
「わたし、がババカブだ」
人工的な声だった。その声は、ビラの首にかかっている円盤から聞こえていた。
発声器《ヴォーダー》だ! それでは、ビラという種族は、英語を話すのに人工的な手段を必要とするのだ。その装置はきわめて単純なタイブで、さえずり声やキーキー声で話す一般の異星人旅行者のものよりずっと小さいことから、ババカブは実際には人間のことばが話せるが、周波数がずっと低くて、人間の耳では聞きとれないのだろう、とジェイコブは思った。
「ジェイコブです。地球へようこそ」会釈して見せた。
ババカブの口がぱかっと開き、なんの音も出ないままに、数回閉じられた。
「あり、がとう」と、ヴォーダーが歯切れのよい、簡潔なことばを伝えた。「ここへこられて、うれしい」ババカブはそういうと、前に進み出ながら、ぞんざいにうなずいた。
「わたしも、あなたをおもてなしすることができてうれしく思います」ジェイコブは、ババカブの会釈よりもわずかに低く頭をさげてみせた。異星人は満足したらしく、うしろにさがった。
ファギンは紹介をつづけて、
「そこにおられる紳士および淑女は、きみの同族だよ」小枝とひと叢の葉が、ふたりの人間のいるだいたいの方向に向けられた。そこには、半白の髪の、ツイードのスーツを着た紳士と、背の高い、茶色の髪をした美しい中年の女性が立っていた。
「人間の好む、非公式なやり方でご紹介しよう」ファギンが語をついで、
「ジェイコブ・デムワ、こちらのおふたかたは、〈太陽降下《サンダイバー》計画〉のドウェイン・ケプラー博士、それから、ラパス大学心理学部の、ドクター・ミルドレッド・マーティンだ」
ケプラーの顔のほとんどは、立派な髭で覆われていた。博士はにっこりと笑いかけてきたが、ジェイコブはあまりにもばかげて聞こえる計画に唖[#口偏+亞]然として、ことばも出なかった。
〈サンダイバー計画〉だって! 水星および太陽の彩層内の研究は、最近まで連合議会でもままこあつかいされていた。適応生存#hは、〈ライブラリー〉から引きだせる情報を調べるのに膨大な費用を費やすのは無意味であり、それだけの予算があれぱ、地球上で職にあぶれている科学者たちに、何人分でも仕事をあてがえるほどの研究プロジェクトが組めると言って反対した。それに対して自立#hは、デニケン主義者の非難もかまわず、これまでのところ、独自の道を押し通してきていたのである。
だが、ジェイコブにとって、人間の乗った船を恒星のなかに潜らせるというアイデアは、きわめつけの愚行のように思われた。
「この計画については、カンテン=ファギンも熱心に勧めてくれているんでず」ケプラーが口を開いた。笑みを浮かべていたものの、〈サンダイバー計画〉の責任者の目は、まっ赤に充血していた。目の下に隈ができているのは、なにか心労でもかかえているのだろうか。彼はジェイコブの手を両手で押し包むようにしてぎゅっと握りしめ、話をつづけた。よく通る声だったが、震えは隠しきれていなかった。
「わたしたちは、ごく短期間の滞在予定で地球へやってきました。ファギンがきっとあなたを説き伏せて、引き会わせてくれるだろうと期待していましたので。あなたには、ぜひともわが水星基地へおいでいただいて、その豊かな種族間コンタクトの経験を生かしてもらいたく思います」
ジェイコブは目を丸くした。よしてくれよ、またしてもこの手の話か、この葉っぱの化物め!できることなら、ファギンに向きなおってにらみつけてやりたいところだったが、いくら儀式ぱらない人間同士の会話とはいえ、少しは話くらいしなけれぱ失礼にあたる。それにしても、水星とはまた、ごたいそうな話じゃないか!
ドクター・マーティンは、にっこりと魅力的な笑顔を浮かべて手を差しのべたが、握手をするとき、少し退屈そうなようすがうかがえた。
ジェイコブは、あまり興味がありそうには聞こえない口調で、超心理学が太陽物理学となんの関係があるのか訊ねてみようと思ったが、その機会はファギンにつぶされてしまった。
「非公式な人閻同士の会話においては、一般的に、間があいたときに口をはさんでもいいと考えられているようだから、そうさせてもらうよ。ほかにもうひとり、紹介しなければいけない人物がいるのでね」
ああ、そうだったな、とジェイコブは思った。つぎのETがそんなに神経質なやつじゃないといいんだが。彼は右手の、極彩色のモザイクを施された壁のそばに立っている、トカゲ型の地球外生物に向きなおった。それはクッションから立ちあかっており、いまは六本足で歩いて、みんなのほうに向かってきていた。体長は一メートルに満たず、体高は二十センチほどだ。そいつはジェイコブには見向きもせずに彼のすぐ右を通りすぎると、ババカブのもとへ歩いていき、その脚に体をこすりつけた。
「エヘン」とファギン。「それはペットだよ。きみに引き会わせたい人物とは、きみをこの部屋へ案内してきてくれた、気高き類族だ」
「ああ、こいつは失礼」ジェイコブは思わず笑いかけて、むりにまじめな表情を装った。
「ジェイコブ・デムワ──ヒト=主=イルカ=主=チンブ、こちらはカラ──ブリング=従=ビラ=従=キシャ=従=ソロ=従=ハル=従=ババール。〈ライブラリー〉におけるババカブの助手であり、〈サンダイバー計画〉に対ずる〈ライブラリー〉の代表者だ」
ジェイコブの思ったとおり、カラの種族名には主族の名前しかなかった。プリングは、自分たちの類族を持っていないのである。だが、彼らはババール/ソロの系統に属する種族だ。いつの日か、彼らはあの古く強大な知性化連鎖の一員として、高い地位につくだろう。ババカブの種族もババール/ソロ系統の流れを組んでいると言っていたが、はて、ビラとブリングは、主族と類族の関係にあっただろうか?
カラは前に進み出たが、手を差しだそうとはしなかった。二本の細長い腕の先端は、それぞれ長い触手になっており、六本ずつ指がある。体格は見るからにひよわそうだ.体には、刈り取ったばかりのまぐさにちょっと似た、かすかなにおいがあったが、それは少しも不快ではなかった。
格式どおりの紹介の作法にしたがって、カラがこうべをたれたとき、円柱状にとびだした巨大な目がきらりときらめいた。ETの唇≠ェめくりあがり、上顎と下顎にそれぞれひとつずつついた、白く輝く、一対の碾臼に似たものが見えた。多少は把握力のある唇が、ガチリ!≠ニいう音とともに、白い碍子同士をかみあわさせた。
ジェイコブはぞくりとして、これはおそらく、こいつの出身地での友好的なしぐさではあるまい、と思った。この異星人は、おそらくその大きな歯≠引き離すことによって、人間のほほえみをまねしようとしたのだろう。その歯≠フ眺めは、ぞっとずるものであると同時に、心魅かれるものでもあった。いったいこの歯≠ヘ、なにをするための器官なのだろう? いずれカラが、その……唇を、ずっとめくりあげて見せてくれることを、ジェイコブは願った。
わずかにうなずいて、ジェイコブは言った。「ジェイコブです」
「カラと申します。あなたの地球は、とても住みよいところですね」巨大な目の赤い輝きは、いまは鈍くうすれていた。カラはそれだけ言うと、あとずさった。
ババカブが先頭に立って、みなを窓のそばのクッションへと連れもどした。小柄なビラは、クッションの上にうつぶせに寝そべり、たがいに向かいあった四本の左右相称の指のある手を、グッションの両脇へだらりとたらした。ペット≠烽サのあとにつづき、彼のとなりで丸くなった. ケプラーが前に身を乗りだし、ためらいがちに話しだした。
「あなたを重要な研究から引き離してしまうことについては、申しわけなく思っています、デムワさん。あなたがおそろしくお忙しいことも重々承知しているのですが……わたしとしては、われわれのかかえているちょっとした……問題が、あなたのお時間と能力をお借りするだけの価値があることを、ご理解いただけたらと思いまして」ケプラー博士は、両手を膝の上で固く組み合わせていた。
ドクター・マーティンのほうは、ケプラーの熱意あふれた顔を、多少おもしろがりながら、じれったそうな表情で見つめていた。その表情には、どうも気になるところがあった。
「ケプラー博士、ファギンからお聞きになっていると思いますが、家内が死んでからというもの、わたしは謎解き≠ゥら遠ざかっているんですよ。それに、当面は忙しくて首もまわらない状態ですから、おそらく地球を離れるような長旅に出る暇は……」
ケプラーががっくりとうなだれた。うなだれかたがあまりにも激しかったので、ジェイコブはつい同情して、つづけた。
「……しかしまあ、カンテン=ファギンは知覚力の高い生物ですから、彼が紹介してくれる人の話は喜んで聞きますし、こととしだいによっては、お引き受けしないこともありません」
「ありがたい、話を聞けぱきっと興味をお持ちになりますよ! わたしはずっと、われわれには斬新な考え方をする人物が必要だと説いてきたんです。もちろん、理事たちはコンサルタントを迎えることを認めてくれましたから……」
「待って、ドウェイン」ドクター・マーティンが口をはさんだ。「そういう言い方はフェアじゃないわ。わたしは半年前からコンサルタソトとして参加しているし、カラはそれよりずっと前から、〈ライブラリー〉の知識を提供してくれているのよ。いまではババカブの好意で、〈サンダイバー計画〉に対する〈ライブラリー〉の援助強化も認められたし、ババカブもみずから水星まで出向いてくれると言っているんだし。理事たちは気前がいいどころじゃないわ」
ジェイコブはため息をついた。
「いったいなんの話をしているのか、だれか説明してくれませんかね。ドグター・マーティン、きっとあなたなら、あなたがその……水星でどんな仕事をしているのか、説明してもらえるでしょう?」いざ口にしようとしてみると、サンダイバー≠ニいうことばには、どうしても抵抗があった。
「わたしは単なるコンサルタントです、ミスター・デムワ。わたしの依頼された仕事は、水星上の要員および環境について、心理学的・超心理学的テストをすることです」
「そいつは、ケプラー博士の言われた聞題と、なにか関係があるんですね?」
「ええ。はじめのうちは、その現象は悪ふざけ、もしくは集団幻覚の一種だと考えちれていました。でも、わたしのテストでは、そのどちらでもないという結論が出ました。いまでは、それが現実のものであり、実際に太陽の彩層内で起こっていることが明らかとなっています.
この数ヵ月聞、わたしは太陽に降下するさいに持っていく、精神波実験装置を作ってきました。また、臨床医として、おおぜいの〈サンダイバー計画〉のスタッフも診てきました。この種の太陽研究を行なう上でのプレッシャーは、多くの人々に影響をもたらしていまず」
マーティンはなかなか有能そうなしゃべりかたをしたが、その態度には、どこか鼻につくところがあった。どうも、こなまいきな感じがつきまとう。ケプラーとこの女には、ほかにどんな関係があるのだろう。ケプラーの主侍医ででもあるのか?
それを言うなら、おれがわざわざここへ呼ばれたのは、重荷を背負わされている、病気の大物科学者の気まぐれを満足させるためだったのか? あまりぞっとしない考えだ。それに、政治に巻きこまれそうな気配も好ましくない。
それに、地球上の全〈ライブラリー〉分館の総責任者、ババカブ──こいつはなぜ、得体の知れない地球人の一計画などにからんでいるのだ? ある意味で、この小柄なビラは、ティンブリーミーの大使をべつにすれば、地球でもっとも重要なETだ。彼の所属する〈ライブラリー〉協会は、銀河のもろもろの組織においてもっとも大きく、もっとも影響力が強い。〉ライブラリ〉協会と比べれぱ、ファギンの育成協会などは、ずっと弱小の組織でしかない。そういえぱマーティンは、ババカブも水星へ行くと言わなかったか?
ババカブは、明らかに人間の会話など無視して、天井を仰いでいた。その口もとが、人間の耳には聞こえない波長で歌を歌っているかのように、びくびくと動いている。
カラのきらめく目は、小柄な〈ライブラリー〉の館長にびたりとすえられていた。おそらく、彼にはその歌声が聞こえるのだろう。でなければ、やはりこの会話には退屈してしまっているのだ。
ケプラー、マーティン、ババカブ、カラ……ファギンがいちばんまともに思えるような集まりにいあわせることがあるなどとは、思いもしなかった!
カンテンはそばで、小片をさやがせていた。どうやら、興奮しているようだ。〈サンダイバー計画〉のいったいなにが、ファギンをこれほど興奮させるのだろう?
「ケプラー博士、あなたがたの手助けをしてさしあげられる可能性もなくはありません……あくまでも、可能性ですがね」ジェイコブは肩をすくめて見せて、「ただしその前に、なにがどうなっているのか教えてもらえませんか!」
ケプラーの顔がばっと輝いた。
「まだ具体的なことを申しあげていませんでしたか? それは失礼しました。このところ、なるべくあのことは考えないようにしているので……どうも、つい主題を棚あげして話してしまいがちなのです」
ケプラーは背筋を伸ばし、ひとつ深呼吸をして舌目った。
「デムワさん。どうやら太陽には、幽霊《ゴースト》≠ェ出るらしいのです」
第二部
先史時代、および古代において、地球は宇宙より、未知
の存在の訪問を受けた。これらの未知なる存在は、意図的
な遺伝子操作によって、人間の知能を創造した。そのさい、
この地球外生物たちは、みずからの姿を形どって$l間
を気高い姿へと創りあげた。したがって、われわれこそが
彼らに似ているのであって、彼らがわれわれに似ているの
ではない。
──エーリッヒ・フォン・デニケン
『古代の宇宙飛行士』
宗教、愛他主義、倫理等の高度な精神活動は、すべて進
化の産物であり、ひとつの物質的基盤を持っている。
──エドワード・O・ウィルスン
『人間性とは』よリ ハーヴァード大学出版局刊
4 虚 像
〈ブラッドベリ〉は新造船だった。それには、以前に建造された商業船よりもはるかに進んだ技術が導入されており、海抜ゼロメートル地点から自力で離昇することができた。赤道上に配置された〈ニードル〉の一基を使い、巨大な飛行船でステーションまで運びあげられる必要もない。
〈ブラッドベリ〉は巨大な球形船で、初期の基準と比べると、とてつもない大質量を持っていた。
ジェイコブにとって、十億年の歴史を持つ銀河文明の科学を盛りこんだ船に乗るのは、これがはじめてのことだった。ファーストクラスのラウンジから見ていると、大地はぐんぐん遠ざかっていき、最初はふたつの海を隔てる細長い褐色の畝と見えたババ・カリフォルニアが、やがてメキシコの海岸ぞいにある一本の指と化した。
それは息を呑むような眺めだったが、少々ものたりない思いも残った。ジェットライナーの咆哮と加速感、あるいは飛行船の悠然たる上昇のほうが、ずっとロマンティックというものだ。以前に何度か地球を離れたときには、行き帰りともに飛行船を利用したが、そのさいには、まばゆくきらめくほかの船が、与圧された〈ニードル〉の内部を、あるいはエネルギー・ステーションへ向かって上昇し、あるいは下降してくる姿が見受けられたものだった。
大〈ニードル〉は、どちらに乗っても決して退屈するごとがない。一気圧に与圧された、高さ二十マイルの塔の淡いクリーム色の内壁には、大がかりな壁画──空とぶ巨大な鳥や、'二十世紀のSF雑誌からとった宇宙戦争の絵などが描かれているからである。おかげで、閉所恐怖症に悩まされることもなくてすむ。
それでもジェイコブは、〈ブラッドペリ〉に乗れたことがうれしかった。いつの日か、ノスタルジアに駆られて、ケニア山頂の〈チョコレート・ニードル〉に乗ることはあるかもしれない。だが、もうひとつの〈ニードル〉は──エクアドルの〈ヴァニラ・二ードル〉だけは、二度と見たくはなかった。
あの巨大な塔が、カラカスから石を投げればとどく距離にあることも関係ない。そこを訪れようものなら、銀河の列強でさえ驚嘆させるほどの、地球における工学的奇跡を救った英雄として、大歓迎されることも関係ない。
〈ニードル〉を救う代償に、ジェイコブ・デムワは、自分の妻と心のかなりの部分を失った。その代償は、あまりにも大きかった。
地球が円盤として見えるようになったのを潮に、ジェイコブはラウソジをあとにして、バーを捜しに出た。急に、話し相手がほしくなったのだ。この船に乗りこんだときには、そんな気分ではなかったのだが。グロリアをはじめ、センターのみんなを説得するのはおおごとだった。マカーカイなどは、かんかんになったほどだ。それに、頼んでおいた太陽物理学に関ずる研究材料の多くはまだとどいておらず、水星へ転送してもらわなければならなかった。しまいには、そもそもなぜ水星行きを承知してしまったのかと、われながらいぶかしむ始末だった。
船の赤道部分にある中央通路を進んでいくうちに、人のたくさんいる、薄暗く照明されたバーが見つかった。そこらじφうに立って談笑したり一杯ひっかけている乗客たちを押し分けて、ジェイコブはカウンターまで進んでいった。
バーのなかにいるのは約四十人──その多くは、水星での熟練作業に雇われた契約労働者たちだ。飲みすぎて、近くの連中に大声で話しかけている者や、ただじっとまわりを見ている者も. ひとりやふたりではない。人によっては、地球を離れるということは、たいへんなことなのだ。
異星人専用にしつらえられた一画には、クッションの上に数人の地球外生物がすわっていた。ひとりは、毛皮をつやつやと光らせ、濃いサングラスをはめたシンシアン。その向かいにすわっているのは、カラだ。カラは大きな唇でストローをくわえ、どうやらウォツカの瓶とおぼしきものに突っこんで、ときおりうまそうにすすっては、黙ってばかでかい頭をうなずかせていた。
何人か、異星人のそばに立っているのは、ETの会話を一言一句残らず聞きとって、隙あらば質問しようと熱心にチャソスを待っている、典型的な異星人愛好者だ。
ジェイコブは人ごみのあいだを突っきって、ETの一画に行こうかとも思った。あのシンシアンは、知り合いかもしれない。だが、部屋のそちら側には、あまりにも人が多すぎた。ジェイコブはかわりに飲み物をもらい.だれかおもしろそうな話をしているやつはいないかと、まわりを見まわした。
ほどなく彼は、ある採掘技師の話に聞き入る一団のなかに混じっていた。技師は、ヘルメス深部の鉱山事故のさいの送風と救援活動について、誇張した話を楽しそうに語っていた。まわりがうるさいので、話を聞くには耳をそばだてなけれぱならなかったが、少なくともこの話を聞きおわるまでは、そろそろはじまりかけている頭痛を都合よく忘れていられそうな気がした。そのとき、脇腹をつつかれて.彼はとびあがった。
「デムワじゃないか! 奇遇だな!」そう大声で言ったのは、ピエール・ラロックだった. 「こいつは運がいいそ! これからは水星までずっといっしょだからな。この先ずっと、機知ある会話を交わせる相手が見つかったってわけだ」
ラロックは光り輝くゆるいローブを着ていた。パイプを強く吸いこむと、青いパースモックの煙が霞に漂った。
ジェイコブはほほえもうとしたが、うしろのだれかに踵を踏みつけられて、むしろ歯をむきだしたような顔になった。
「やあ、ラロック。なんできみが水星に? きみの読者が興味を持つのは、むしろベルーの遺跡だとか……」
「人類の祖先が古代の地球外からの訪問者に知性化されたという、その手の劇的証拠のほうだ、と言いたいのかい?」ラロックが途中で遮った。「そうとも、デムワ、そんな強力な証拠が出てきたら、〈毛皮派〉や連合議会の懐疑主義者だって、自分がまちがっていたことを悟るだろうさ!」
「きみが着てるのは、〈開化派〉の衣装だな」ジェイコブは、ラロヅクの銀色のチュニックを指さした。
「地球を離れる当日には、われわれに宇宙に出る力を与えてくれた、より古き種族たちに敬意を表して、デニケン協会のローブを着ることにしてるんだ」ラロックはグラスを持っている手にパイブを持ちかえ、あいた手で、首からかかっている金のメダルとチェーンを伸ばして見せた。
大のおとながやることにしては、少しばかり芝居がかってるな、とジェイコブは思った。このフランス人の粗野な態度とは正反対に、ローブや飾り物はめめしい印象を与える。だが、それがまた、粗野できどったイメージを強めていることもたしかだった。
「おいおい、そいつはちがうそ、ラロック」ジェイコブは笑みを浮かべて、「いくらきみでも、ぼくたちが自力で字宙へ出たことは認めざるをえまい。それに、地球外生物はこっちが見つけたのであって、向こうが見つげたんじゃない」
「そんなことは認めないそ!」ラロックは激昂して答えた。「遠い過去に知能を与えた種族にとってふさわしい存在であることを、われわれ人類がみごと証明した暁には──そして、その種族が人類を認めてくれたときには、彼らがずっと、いまにいたるまでひそかにわれわれを助けてくれていたことが明らかになるだろう!」
ジェイコブは肩をすくめた。 〈毛皮派〉/〈開化派〉論争には、もはや目新しい要素がなにもない。いっぽうは、人類がアフリカ東部のサバンナと沿岸で自然そのものから知恵を勝ちとった存在であり、自力で進化した類い稚なる選民であることを自慢に思うべきだと言う.それに対してもういっぽうは、ホモ「サピエンスは──他のすべての既知の知的種族と同じように──伝説に満ちた銀河の黎明期、〈始祖〉の時代にまで遡る、遺伝子的・文化的知性化の連鎖の一部であると言う。
大半の人間は、ジェイコブのように、どちらの見方についても、慎重に中立的な態度をとっていたが、人類は、そして人類の類族たちは、その決着を興味津々たる目で見まもっていた。じっさい、〈コンタクト〉からこのかた、考古学と古生物学は、新しい趣味として匹く普及していたのである。
しかし、ラロックの議論はあまり新味に乏しくて、かびが生えているもいいところだった。それに、ジェイコブの頭痛も、だんだんひどくなってきていた。
「そいつは非常に興味深い議論だがね」と言って、ジェイコブは少しずつ出ロへ動きだしながら、「それについては、またべつの機会にでも……」だが、ラロックはまだ、言い分を言いおえていなかった。
「あんたも知っているように、宇宙で働く人間には、ネアンデルタール主義派のシンパが多い。地球の船に乗っている連中は、動物の毛皮を好んで着るし、猿のようにぶつくさ言ってぼかりいる! 連中は古き種族を憎み、控えめな態度をとる感受性の高い人々を虐げているんだ!」
ラロックはパイブの柄をジェイコブに向けてぐっとつきだした。ジェイコブはのけぞってそれをよけ、なおも丁寧な態度をとりつづけようと努力したが、なかなか難しかった。
「そいつはちょっと言いすぎだと思うな、ラロック。きみが言ってるのは宇宙飛行士のことだろう。彼らの選別にあたっては、感情面と政治観の安定度がまず第一の基準に……」
「はっ! いま自分で言ったことが、あんたはなんにもわかっちゃいないんだよ! 冗談で言ってるんじゃないだろうな、ええ? 字宙飛行士の.感情面と政治観の安定度坩とやらについては、おれは少しばかり、知ってることがあるんだ!
まあ、そいつはいつか話すとしよう。いつの日か明るみに出るときがくるぞ、連合が人間の大半を、古参種族からーそして星々の遺産から隔離しようともくろんでいることが! あわれなのは、 不適格者≠ウ! だが隔離がはじまるころには、漏洩をとめようとしてももう遅い!」
ラロックは思いきりパイプを吸いこみ、ジェイコブに向かってぱーっと青いパースモックの雲を吹きかけた。ジェイコブはめまいを覚え、
「わかったよ、ラロック、なんとでも言いたまえ。いずれそのことを話してもらわなくちゃなるまい」と言って、あとずさった。
ラロックはちょっとむっとしたような顔になったが、すぐににやりとし、人ごみをぬって戸口に向かおうとするジェイコブの背中をたたいて言った。
「そうだな。いずれくわしい話を聞かせてやろう。しかし、いまは横になったほうがいい。顔色がさえないそ! それじゃな!」もういちどジェイコブの背中をどやしつけて、ラロックは人ごみをすりぬけ、カウンターにもどっていった。
ジェイコブは、いちばん近い舷窓まで歩いていき、ガラスに頭をもたせかけた。ガラスはひんやりとして、頭のうずきを楽にしてくれた。外を見ようとして目をあけたときには、もう地球の姿は見えなくなっていた……ただ、暗黒を背景にしてまたたきもせずに輝く、底大な星々の海が見えるばかりだった。より明るい星々は回析光に包まれており、その光は、目をすがめて見ると、長くなったり短くなったりして見える。明るさをべつにすれば、この効果は、夜の砂漠で星々を見あげたときと、なんら変わらないものだった。またたいてこそいないが.それらはやはり、同じ星なのだ。
だが、ジェイコブはなにかがものたりないことに気がついた。宇雷から見た星々は、より神秘的で、より……哲学的≠ネはずだ。若いころの経験でいちばんよく思いだされるのは、夜空を埋めつくす満天の星々の、すさまじいばかりの咆哮である。あれはこんな、催眠状態を通じて感じているような、茫漠たる眺めではなかったはずだ。だがその光景は、まるで前世で見た夢のなかの景色のように、ぼんやりとしか思いだせなかった。
中央ラウンジに入っていくと、ケプラー博士、ババカブ、ファギンの三人がいた。そばへくるようにと、ケプラーが手招きをした。
三人は、展望窓のそばに散在するクッショソに腰をおろしていた。ババカブは見た目と漂っているにおいからして、なんだか毒のように思える液体のカップを手にしている。ファギンはなにも持っておらず、根塊の上で体をゆすりながら、ゆっくりと歩きまわっていた。
湾曲した船殻にそってならぶ舷窓の列は、巨大な丸窓のような、床と天井に接する大きな円盤で断ち切られていた。その面が、ラウソジのなかヘ一フィートほどつきだしている。その円盤のなかのなにかは、しっかり閉められたパネルの奥に隠されていた。
「きみが、きてくれて、うれしい」ババカブがヴォーダーを通して言った。ひとことそう言っただけで、彼はクッションの上にだらしなく寝そべったまま、手にしたカップに鼻づらをつっこんで、ジェイコブにもほかのだれにも、知らん顔をした。いまのはやむをえず挨拶しただけなのだろうか、」それとももともと愛想がいいのだろうか。
ジェイコブはババカブのことを彼≠ニ考えていたが、これはババカブの性別がまったくわからなかったからである。ババカブが身につけているのは、ヴォーダーと小さな袋だけ。服は着ておらず、外から見える体の構造は、かえって混乱を招くだけだ.たとえば、ビラは卵生動物であり、子供に乳を含ませたりはしないと聞いている。ところが、ババカブののどから股にかけては、シャツのボタンのような形の、乳首様のものがずらりとならんでいるのだ。データネットには、そんなことは触れられていなかった。ジェイコブは〈ライブラリー〉に、もっと完襞な要約をたのんでおいた。
ファギンとケプラーは、太陽降下船《サンシップ》の歴史について話しあっていた。その上層部の茂みと呼吸孔が吸音性の天井に触れているため、ファギンの声はくぐもって聞こえた。ジェイコブは思った。
(このカンテンが、閉所恐怖症を起こして暴れださなげれぱいいんだが。しかし、たとえ暴れだしたとしても、たかが口をきく植物など、恐れることはない。せいぜい、ちょこっとかじられるのがおちだ。それにしても、愛を交わすのに飼いならされた蜂の媒介が必要な種族のセックスとは、どんな感じのものなんだろう)
ファギンがしゃべっていた。「すると、それらの偉大な即興の工夫によって──あなたがたは、外部から少しの援助をも借りることなく、光球にまで観測装置を送りこむことができたというのですね! 非常に感銘を受ける話です。地球にきてから、もうずいぶんになりますが、〈コンタクト〉以前にそのような冒険が行なわれていたとは、少しも知りませんでした!」
ケプラーはにっこりとほほえんだ。「この太陽探査計画は、わたしのずっと音の先達たちによって行なわれた、ほんの……はじまりだったことを理解してもらわなけれぱなりません。〈コンタクト〉以前、恒星間宇宙船用に開発されたレーザー推進システムを利用して、彼らは光球上に浮かんだまま、高温レーザー利用の熱力学システムによって余剰の熱を吸収し、船体内部を冷却することのできる、ロボット船を降下させることができたのです」
「それでは、人間を送りこむのに、いま一歩のところまできていたのですね!」
ケプラーは無念そうにほほえんだ。「ええ、おそらくは。計画はできていたのです。しかし、生物を太陽に送りこみ、無事につれもどすとなると、単に熱と重ガの問題を解決するだけではすみません。最大の障害は、大気の乱流でした!
もっとも、われわれにそれが解決できるかどうか確認できていたなら、ずばらしかったでしょうがね」ケプラーの目が、一瞬きらりと光った。「じっさい、計画はいくつかあったのです」
「ところがそこへ、〈ヴェサリウス〉が、白鳥座でティンブリーミーの船団と出くわしてしまった」ジェイコブが口をはさんだ。
「そのとおり。ですから、それが成功していたかどうかは、われわれにはわかりまぜん。それらの計画は、わたしがほんの子供のころ立てられたものでした。いまでは、どうしようもなく時代遅れになっています。そしておそらくは……停滞場なしで降下を敢行していたら、必ず犠牲者が出ていたことでしょう……いまや、〈サンダイバー計画〉にとっては、時間流の制御が必要不可欠となっていますし、その結果に不満を漏らすつもりは、毛頭ありません」
科学者の顔が、ふいに暗くなった。「ところが、つい最近になって事情が変わってきました」
ケプラーは黙りこみ、絨毯を見つめた。ジェイコブはしばらく彼に目をそそいでから、手を口にあてて咳払いをした。
「その件についてですが──データネットには、太陽霊《サンゴースト≠ニやらについての言及はまったくないし、〈ライブラリー〉に特別の惰報提供を依頼したのに、やはり言及はありませんでした……1=ABの許可を持つわたしが頼んだのにですよ。ですから、この旅のあいだに、この件に関して、少しお話を聞かせてもらえないだろうかと思っていたところなんです」
ケプラーは神経質そうに、ジェイコブから顔をそむけた。
「水星の外にデータを持ちだず準備は、まったく整っていないんです、デムワさん。この発見に関しては……政治的な判断がともなっており、そのために、ご説明は水星基地に着くまで待ってもらわなげれぱなりません。あちらに着いてしまえぱ、あなたの疑問にはすべて答えてさしあげられるはずです」ケプラーは心から申しわけなく思っているようなようすだったので、ジェイコブはしばらくその問題には触れないことにした。だが、これはよくない兆候だった。
「もうひとつだけ、情報の断片を教えてあげられると思うよ」とファギンが言った。「あの会合以来、もういちど降下が行なわれたんだ、ジェイコブ。そしてその降下では、ソラリアソのなかでも、最初に発見された平凡なタイブしか発見されなかったという。ケプラー博士に強い関心を抱かせるにいたった二番めの種族は、見つからなかうたのだ」
すでにケプラーから、これまで観測された太陽に住む生物には、ニタイプがあることはざっと説明されていたが、ジェイコブにとっては、それはいまだに混乱のもとでしかなかった。
「つまりそいつは、博士のおっしゃる、草食獣のほうでずね?」
「草食獣ではありません!」ケプラーが否定した。「磁食獣。磁場のエネルギーを食ぺて生きている生物です。こっちの種については、だんだん理解が深まってきているのですが、しかし……」
「そこまで! 中断の強要を寛恕されることを心より願いつつ、わたしは分別ある行動を期待する。部外者が接近中だ」ファギンの枝葉の上層部が、天井にあたってこすれた。
ファギンをして相手のことぱを遮らせるほどの、ことの重大さに少々驚きながら、ジェイコブは戸口をふりかえった。これもまた、自分が政治的緊張を招く事態に巻きこまれてしまったことの証拠であり、これがいったいどういう事態であるか少しもわかっていなかったことに気づいて、彼はげんなりした。
おれはまだなにも聞かされちゃいないんだぞ──そう思ったとき、ピエール・ラロックの姿が戸ロに現われた。ラロックは片手にグラスを持っており、いつもの赤ら顔をさらに赤く染めていた。はじめから浮かんでいたにやにや笑いが、ファギンとババカブの姿を目にするや、いっそう大きくなった。ラウソジに入ってくると、彼はジェイコブの背中を上機嫌でどやしつけ、いますぐ紹介しろと言いはった。
ジェイコブは腹のうちで肩をずくめた。
それから、ゆっくりと紹介をはじめた。ラロックは感銘を受けたようすで、深々とババカブに頭をさげた。
「従=キシャ=従=ソロ=従=ハル=従=ババール! それに、類族もふたつ持ってるって、デムワ? ジェロと、なんて言ってたっけな? ソロ族の系統の知的種族にじかにお目にかかれるとは、感激だ! わたしはあなたがたの親種族のことばを研究しているんですが、その親種族は、いずれ人類の親種族でもあることが証明されるかもしれませんよ!
ソロ族のことばは、原セム語や原バソツー語にそっくりなんです!」
ババカブの柔毛が、目の上まで逆立った。そのヴォーダーから、複雑で踏韻的な、意味不明のことばが流れだした。ついで、異星人の口から短くて鋭い怒声が発せられ、なかばヴォーダーで増幅された形で、かんだかいうなり声となってとびだした。
ジェイコブのうしろから、ファギンが舌打ち音の混ざった低く響くことばで答えた。ババカブはファギンに向きなおり、黒い目に怒りをみなぎらせて、のどにかかったうなり声で答え、太短い腕をラロックに向げてひとふりした。カンテンのかんだかいさえずりのような返事を聞いて、ジェイコブは背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
ババカブはくるりと踵を返すと、人間にはそれ以上ひとことも声をかけずに、足音荒くラウンジを出ていった。
なりゆきに唖然として、ラロックはしばらくことばを失っていた。それから、」あわれな顔でジェイコブを見やり、「いったい、どうなっちまったんだ?」と訊いた。
ジェイコブはため息をついた。「おおかた、きみの従弟だと呼ばれるのがいやなんだろうさ」話題を変えようとして、彼はケプラーに向きなおった。科学者は、ババカブの出ていったドアを見つめていた。
「ケプラー博士、船内に詳細なデータが皆無にしても、太陽物理学についての基本的な解説書を何冊かと、〈サンダイバー計画〉の背景となる歴史的資料くらい、貸してもらえませんか?」
「喜んでお貸ししまずよ、デムワさん。夕食までにはとどけさせましょう」ケプラーは、心ここにあらずの体でうなずいた。
「こっちにも頼むぜ!」ラロックが叫んだ。「おれは公認ジャーナリストなんだ。あんたの愚劣な冒険について、背景的資料を要求する!」
一瞬唖[#口偏+亞]然としたものの、ジェイコブは肩をすくめた。ケプラーも、わたさずにはずまないだろう。厚顔無恥というやつは、熱意さとまちがえられやすいからな。
ケプラーは、なにも聞こえなかったかのようにほほえみを浮かべた。「なんとおっしゃいました?」
「ひどい思いあがりだと言ってるんだよ! あんたの〈サンダイバー計画〉とやらにつぎこまれる膨大な金で、地球の砂漢を緑化したり、もっと大きな〈ライブラリー〉を建てられるっていうのに! だいたい、こんなむだな計画があるか。おれたちが猿にもならないうちから、古き種族が完全に理解していたことを研究するなんぞ!」
「ちょっと待ってください。連合政府は基金を設けてこの研究を……」ケプラーの顔には朱がそそいでいた。
「なにが研究だ。あんたのは再発見だろうが。あんたが研究しようとしてるのは、もう銀河系の〈ライブラリー〉に収められていることで、人類全体の恥をさらすだけのものだ!」
「ラロック……」ジェイコブは言いかけたが、ジャーナリストは口を閉じようとはしなかった。
「それに、あんたのいう連合政府ときたらどうだ! 連中は先進種族たちを、昔のアメリカ・インディアンみたいに居留地に押しこめてる! しかも、〈ライブラリー〉分館にアクセスする権利を、一般人から遠ざけてるしまつだ! そのうえ、人類は自力で進化したなどという、ばかげた主張を野放しにして、銀河系の失笑を買っているじゃないか!」
ケプラーはラロックのけんまくにあとずさり、すっかり血の気の失せた顔で、どもりがちに言いかけた。
「わたしは……わたしはそうは……」
「ラロック! いいかげんにしないか、もうやめろ!」
ジェイコブはジャーナリストの肩をつかみ、」ぐいと引きよせて、すばやくその耳もとにささやいた。
「そのへんにしとけ、尊敬すべきカンテン=ファギンの前で、人間全体を辱めたくはないだろう?」 ラロックの目が大きく見開かれた。ジェイコブの肩ごしに、ファギンの枝葉の上層部が、がさがさと音をたててゆれていた。やっとのことで、ラロックは規線を落とした。
ふたつめの驚きは、充分なショックを与えたのだろう。彼はぼそぼそと異星人に詫びを言うと、ケプラーをきっとにらみつけてから、部屋を立ちさった.
「適切な演技をありがとう、ファギン」ラロックが行ってしまうと、ジェイコブが言った。
ファギンはひとつ、短くて低いさえずりをあげて、それに答えた。
5 屈 折
四千万キロメートルの彼方から見た太陽は、鎖につながれた地獄でしかない。それは暗黒の宇宙空間のなかで燃えたぎる、明るい光の点にすぎず、地球の子らはそれをあたりまえの光景として受けとり、いともたやすく、無意識のうちに、視野から追いだしてしまうことができる。だが、それだけの距離を経てなお、太陽は人間たちを魅きつける。強制的に、そばに行ってみたいという気にさせる。しかし、そばに行くことは、危険な行為なのである。
〈ブラッドベリ〉から見える太陽の見かけの大きさは、目から一フィート離して手にした、五セント貨ほどもあった。この距離では、光輝があまりにも強烈なので、防眩処置を講じずにはとても見ることができない。地球でときどき人がやるように、この日輪をちらりと見≠謔、ものなら、目がつぶれてしまうだろう。船長は船の停滞場スクリーンに偏光をかけ、通常の展望窓を閉じさせていた。
しかし、ラウンジのライオット窓にはシャッターがおろされていなかったので、乗客は目を痛めることなく、生命の源を見つめることができた。
ジェイコブは、個室のなかで何度も眠っては目を覚まし、まだすっかり目があかないまま、コーヒー・サーバーのもとへ深夜の巡礼に赴く途中、その丸窓の前で立ちどまった。寝ぼけまなこで、ぼーっとして何分も見つめていると、ふいにうしろから舌たらずな声に話しかけられ、はっとして目が覚めた。
「水星軌道の近日点からみたあなたがたの太陽は、このように見えるのです、ジェイコブ」ほの暗く照明されたラウソジのカード用テーブルのひとつに、カラが腰かけていた。異星人のうしろにある、自動フード・マシーンの列の上には、時計がかかっており、発光文字が〇四三〇時であることを告げていた。
起きぬけのせいで、ジェイコブの声はのどにつまりがちだった。「そんなに……げほん……もうそんなに近づいたのかい?」
カラはうなずいた。「はい」
異星人の口のなかの自い碾臼はしまいこまれていた。おりたたまれた大きな唇が閉じ合わされ、サ行の音を発音しようとするたびに、息か漏れてかんだかい音になった。薄暗い明かりの下で、その目が展望窓からの光を反射して、赤く輝いていた。
「到着までには、もう二日しかありません」と異星人は言った。その両腕は、目の前のテーブルの上で組まれている。銀色のローブのゆるやかなひだが、テーブルの表面の半分を覆っていた。
展望窓に向ぎなおろうとして、ジェイコブはわずかにふらついた。太陽の円盤が、ゆらいでいるように見えた。
「だいじょうぶですか?」ブリングが心配そうに言うて、立ちあがりかけた。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだ、手を貸してくれなくてもいいよ」ジェイコブは片手をあげて異星人を押しとどめ、「ちょっとまいってるだけだ。あんまり寝てないんでね。コーヒーがいるな」
ジェイコブはフード・マシーンまでよろけるように歩いていったが、その途中でふと立ちどまり、向きなおって.もういちどまっ赤に燃える太陽を見やった。
「太陽が、まっ赤だ!」呆然として、うめくように言う。
「あなたがコーヒーを入れているあいだに、そのわけをご説明しましょうか?」
「ああ、たのむ」ジェイコブは黒々とならぶフード・マシーンに向きなおり、コーヒーの機械を捜した。
「ライオット窓は、単色光しか通しまぜん」とカラははじめた。「この窓自体は、いろいろな特性を持つ何種類もの丸いプレートでできていてーなかには光を偏光させるものもあるし、光の透過を遅らせるものもありまず。それらがたがいに回転し、最終的に、どの波長に光を透過させるかを決定するわけです。
銀河文明の水準では、これはひどく遅れたしろものではありますが、なかなかに精密で巧妙な細工で……ちょうど、電予の世の中に、人聞のなかにもスイス℃梃vを好む者がいるのと同じようなものでしょう。あなたがたか〈ライブラリー〉を使いこなせるようになったなら、このような……骨董品?……は、古ぼげてしまいますよ」
ジェイコブは、いちばん手近の機械にかがみこんだ。どうやらコーヒーのサーバーのようだ。透明のふたがあって、その奥に小さな台があり、台の底には金属の排水格子がある。適切なボタソを押せぱ、使い捨てのコップが台の上におりてきて、内部のパイプからお待ちかねの苦いブラック・コーヒーが注ぎだされるはずだ。
カラの声をぼんやりと聞きながら、相槌を打つことだけは忘れなかった。「ははあ……ふうん、なるほど」
ボタソの列の左端に、緑のランプのついたやつがあった。衝動的に、ジェイコブはそれを押した。
かすんだ日で、機械を見まもる。そらきた! ブーソという音につづいて、コトンという音! コップがおりてきたんだ! さあて……おや、どうしたっていうんだ?
コップのなかに、黄色と緑の縞の、大きな錠剤が]錠落ちてきた。
ジェイコブはふたをあけ、コップをとりだした。一拍置いて、それまでコップのあった場所に熱い液体が逝り出て、下の排水格子に消えていった。
狐につままれたような思いで、彼は錠剤を見おろした。なんだか知らないが、こいつはコーヒーじゃない。左の手首で、片方ずつ目をこする。そして、いま押したボタンに、非難の目を向けた。
ボタンにはラベルが貼ってあり、いまでははっきり読みとることができた。それには、ET 用合成栄養飲料≠ニ書いてあった。
ラベルの下には、データ・スロットからコンピューター・カードが吐きだされていた。その突き出た端には、こう印刷されていた。ブリング用補助栄養食──クマリン・タンパク質配合剤=B
ジェイコブはすばやくカラを見やった。異星人はライオット窓に向いたまま、まだ説明をつづけている。ポイントを協調するために、彼はいっぽうの腕を、ダンテのごとき輝きを放っている太陽にふって見せて、
「いま透過しているのは、水素アルファ線です。これはきわめて有用な波長でしてね。太陽がさまざまなレベルで放射するとてつもない量の光に圧倒されることなく、われわれはこうして、水素が通常の光以上に吸収し、放出する領域で太陽を見ているのです……」
カラはまだらのある太陽面を指さした。表面は赤黒い斑点と、羽毛のようなアーチに覆われていた。
ジェイコブはそれについて読んだことがあった。羽毛のようなアーチは、フィラメント≠ネのだ。宇宙空間を背にして、太陽の円盤を縁どるそれらは、目食観測にはじめて望遠鏡が用いられたとき以来、ずっとおなじみの光景である。明らかに、カラはこの現象が、太陽の縁ではなく、太陽面を背にした場合どのように見えるかを説明していた。
ジェイコブは考えこんだ。地球からの航海を通じて、カラはだれかといっしょに食事をとることをずっと避けている。せいぜい、ときおりウォヅカやビールをストローですする程度だ。そのわけを聞かされたことはなかったが、この種族には人前でものを食べることについて、なにか文化的禁忌があるのかもしれない。
そういえぱ、あの碾臼のような一枚歯だからな──彼の食事というものは、ちょっとばかりすさまじいものなのかもしれないそ。カラは気を使ってなにも言わないが、どうやらおれは、彼が朝食をとっているところへ閲入してきたものらしい。
ジェイコブは、手にしたコップに入ったままの錠剤を見つめた。それから、上着のポケットに錠剤をしまい、コップをくしゃくしゃにして手近の暦入れに捨てた。
いまでは、コーヒー──ブラック≠ニ記されたボタンもちゃんと見つかった。ジェイコブは残念そうにほほえんだ。コーヒーはあきらめて、カラの機嫌をそこねる危険は避けるのがいちばんだろう。このETはなにも文句を言わないが、ジェイコブがフード・マシーンの前へきてからは、ずっとこちらに背を向けたままなのだ。
ジェイコブが近づいていくと、カラは顔をあげた。わずかに開いた口のあいだから、ちらりと白い磁器のような歯が見えた。
「少しは……元気が出ましたか?」異星人が気づかわしげに訊ねた。
「ああ、ありがとう……それから、窓の説明にもお礼を言うよ。いままでずっと、太陽はごくなめらかな球体だと思っていたんだ……黒点と紅炎をぺつにすればね。しかしじっさいには、太陽はかなり複雑な構造をしているらしい」
カラはうなずいた。「ケプラー博士はその道の専門家です。わたくしたちといっしょに降下するときには、彼がずっとくわしく説明してくれますよ」
ジェイコブは形ばかりにほほえんで見せた。この銀河文明の使者という連中は、なんとよく訓練されていることだろう! いま、カラはうなずいたが、このしぐさはなにか意図があってのものなのだろうか? それとも、人間と話をするときには、時と場合に応じてそのようなしぐさをするように教えこまれているのだろうか?
わたしたちといっしょに降下する、だって!?
カラにもういちど聞きなおすのは、いまはやめておこう。
やぶへびになったら困るからな。
あくびが出かけた。危ういところで、彼は口を手で隠すぺきことを思いついた。ブリソグの母星で、同じしぐさがなにを意味するか、わかったものではないからだ。「それじゃあ、カラ、ぼくは部屋にもどって、もう少し横になるとしよう。話し相手になってくれて、ありがとう」
「あなたなら大歓迎です、ジェイコブ。おやすみなさい」
ジェイコブは足を引きずるようにして廊下を歩きだし、倒れこむ寸前、かろうじてベッドにたどりついた。
6 遅滞と回折
舷窓からいっぱいにそそぎこむ、柔らかな真珠色の光が、人々の顔を照らしだしている。降下していく船の下では、水星の表面が飛ぶように走りすぎていく。
ラウンジには、するべき仕事のない人間がほとんど全員集まって、展望窓の列にしがみつき、惑星の荒々しい美しさに見入っていた。大きな声を出す者はなく、会話はそれぞれの窓のまわりに集った小グループのなかだけで、ひっそりと交わされている。おおむねのところ、ジェイコブに聞こえる音は、なんだか正体不明の、かすかなカチカチという音だけだ。
水星の表面は、クレーターや細長い谷で抉られ、引っかき傷だらけになっていた。まばゆい銀色や褐色の大地に落ちる、黒々とした山脈の影には、真空特有の鋭さが見うけられる。多くの点で、この地は地球の月にそっくりだった。
ただし、ちがう点もある。ある場所では、広大な一帯が、太古の大激変によってずたずたに切り裂かれていた。無数の深い溝からなるその傷跡があるのは、太陽に面する側の半球である。そのそばには、ぎざぎざの傷跡にそって、夜側と昼側を隔てる鋭い明暗界線が、不気味に走っていた。
水星の、影がまったく落ちない部分には、七種類におよぶ炎の雨がふりそそぐ。水星自身の磁気圏から放り出された陽子やX線、そして強烈な太陽光が、他のおそるべき要素と相互に作用しあって、水星の表面を、月とはちがった、おそるぺき場所にしあげているのである。
そこはいかにも、幽霊の出そうな場所だった。煉獄だ。
ジェイコブは、ひと月前に読んだばかりの、俳句ができる以前の大昔の日本の詩の一節を思いだした。
狩り暮らし
たなばたつめに
宿からむ
天の河原に
われは来にけり
「なにかおっしゃいましたか?」
ジェイコブははっとして軽いトランス状態から覚め、となりに立っているドウェイン・ケプラーを見やった。
「いえ、たいしたことじゃありません。それより、上着を」折りたたんだ上着をさしだすと、ケプラーはにやりとして受けとった。
「これはどうも。生物学的要求というものは、往々にしていちばんロマンティックなときに起こりやすいものでしてね。現実の生活では、宇宙旅行者も入浴しなくてはなりませんし。ババカブは、このビロードの上着がすっかりお気に召したらしいんですよ。用を足しに上着を脱いで置いていくたびに、もどってきてみるとその上で眠りこんでいるしまつでず。地球にもどったら、彼にも同じようなやつを買ってやらねばならんでしょう。ところで、席を立つ前には、なんの話をしておりましたかな?」
ジェイコブは、下の地表を指さした。
「ちょうど考えてたんですが……こうして見ると、宇宙飛行士が月のことを遊び場≠ニ呼ぶわげがわかりますね。ここでは月よりも、うんと慎重さが要求されるでしょうから」
ケプラーはうなずいた。「そうです。それでも、地球であのばかげたあてがいぶち<vロジェクトにつくよりはずっとましですよ!」なにか痛烈なことばが出かかったらしく、ケプラーはちょっと押し黙った。だが、ふたたびしゃべれるようになったときには、その激情は去っていた。
「アントニアディやスキャパレリといった初期の水星観測者は、この一帯をカリト・レギオと呼びました。あそこの巨大な太古のクレーターは、ゲーテといいます」明るい平原の上の、暗いかたまりを指さし、「あれは北極のすぐそばにあって、あの地下に、ヘルメス基地の建設を可能にした洞穴網があるのです」
ときおり、長い砂色のロ髭の一端が口に入るときを除いては、いまやケプラーは、威厳のある紳士的な学者としての、完壁な姿をとりもどしていた。彼の落ちつかなげなそぶりも、自分がとりしきる水星へ、そして〈サンダイバー計画〉基地へと近づくにつれて、落ちついていくようだ。
しかし、旅を通じて、会話が知性化や〈ライブラリー〉のことにおよぶと、ケプラーの表情は、言いたいことは山ほどあるのに、言うすべを知らない男のそれとなった。それはまるで、恐怖にかられ、叱責を恐れて持論の表明をはばかっているような、神経質で当惑ぎみの表情だった。
しばらく考えてみて、ジェイコブはその理由のひとつがわかったような気がした。〈サンダイバー計画〉の責任者として、決して本心をはっきり示すようなことは言わないものの、ドウェイン・ケプラーはなんらかの旧宗教の信奉者なのではないか。
吹き荒れる〈毛皮派〉/〈開化派〉論争と、地球外種族との〈コソタクト〉によって、かつての宗教組織はまっぷたつに分裂した。
人類の発達に介入し、これからも同じことをするかもしれない、いずれかの偉大な(しかし全能ではない)種族へ帰依する、デニケン派。それに対して、人間の魂≠フ確固たる存在を説く、ネアンデルタール主義派。
宇宙には何千という宇宙航行種族が存在しており、そのなかに、古い地球の諸信仰と同じ教義を抱く種族がひとつとしてないという事実は、各宗教における、全知全能の神人同形同性説的な神という概念に、致命的なダメージを与えた。
既成の宗教の大半は、〈毛皮派〉/〈開化派〉対立のどちらかに肩入れするか、あるいは哲学的有神論に宗旨変えするかしていった。無数の信徒の多くは、それまでとはべつの旗印のもとに群れ集い、残された者たちは、騒然たる諭争のなかで、沈黙を守った。
ジェイコブはしばしば、その残された者たちが予兆を待っているのではないかと考えた。
もしケプラーがどれかの宗教の信徒なら、彼の陳重さにも少しは納得がいく。近ごろでは、職にあぶれた科学者がうようよしている。狂信者との評判がたったために失業科学者の仲間入りする危険を、ケプラーは冒したくないのだ。
ケプラーのそんな気おくれを、ジェイコブは恥かしいことだと思った。彼の本音を聞けたらさぞかしおもしろいだろう。だが、その点については、ケプラーの意志を尊重して、触れずにおくことにした。
ただ、ジェイコブが職業的な興味を覚えたのは、そんな孤立感がケプラーの精神的問題におよぼしている、その影響のしかただった。この男の心に働きかけ、リーダーとしての指導力、科学者としての自信を損なっているものは、単なる哲学的な苦境以上のなにかにちがいない。
心理学者のマーティンは、しょっちゅうケプラーのそばにいて、彼がいくつものガラス瓶に入れてポケットに持ち運んでいる、さまざまな色の錠剤を飲むよう、たびたび指導している。
ジェイコブは、知性化センターでの平穏な日々のあいだは鈍っていた、昔からの詮索癖がもどってくるのを覚えた。あの錠剤はなんの薬なんだろう。それに、〈サンダイバー計画〉におげる、ミルドレッド・マーティンのほんとうの仕事はなんなのか。
ジェイコブにとって、マーティンはいまだに謎の人物だった。この船に乗ってから何度も彼女と話してみたが、その親しげではあるが近づきがたい態度は、どうしても打ち破ることができなかった。ジェイコブに対する、彼女のおもしろがっているような丁重なものごしは、やはりジェイコブに対するケプラー博士の盲目的な信頼と同じくらいきわだっている。あの黒人の女性には、なにかしらほかに思うところがあるらしい。
マーティンとラロックは、めったに舷窓から外を見ようとしなかった。そのかわりにマーティンは、色彩や強い光が心理的行動におよぼす影響について、彼女がしているという研究のことをよく話をした。エンセナダでの会合のとき、ジェイコブもそれについて聞かされたことがあった。
〈サンダイバー計画〉に参加する上で、マーティンがした最初の仕事のひとつは、なんらかの現象≠ェストレスに基づく幻覚であると判明したときに備え、環境による精神への影響を最低限に抑えることだったという。
旅を通じて、失われた文明や太古の地球への訪問者などに関し、つぎからつぎへとラロックの話す相矛盾した話にうっとりと聞きほれるうちに、マーティンはラロックに、たしかな友情を感じるようになっていった。彼女の関心に応えて、ラロックもつとに知られた雄弁ぶりをもって応じた。ラウンジで交わされるふたりの会話が、聴衆を集めたこともたびたびだった。ジェイコブ自身、二度はどその聴衆に加わったことがある。その気になれぱ、ラロックはおおいに、聞き手の感受性に訴えかけることができるのだ。
それでも、この男といると、ジェイコブはほかの乗客のだれといるよりも落ちつかない気分になった。彼はむしろ、もっと裏表のない相手、たとえばカラなどといっしょにいるほうが気楽だった。ジェイコブはこの異星人が好きになっていた。巨大で複雑な目と、奇怪な歯を持っているにもかかわらず、このプリングはさまざまな分野において、ジェイコブと好みが一致していたのである。
カラは地球と人類について、たくさんの非凡な質問を投げかけてきた。その多くは、人類が自分たちの類族をどうあつかっているかということに関連していた。ジェイコブがじっさいにチンパンジーやイルカ、最近では犬やゴリラに完全な知能を与える計画に参加していたことを知ってからは、カラはますます尊敬の念をあらわにして、ジェイコブに接するようになった。
カラは地球のテクノロジーが陳腐で時代遅れであるとはひとことも言わなかったが、それが銀河系でもひときわ独特の風変わりなものであることは、周知の事実だった。なにしろ、記録に残る種族のなかで、まったくのゼロからすべてを開発しなけれぱならなかった種族は、ほかにひとつもない。ノウハウは〈ライブラリー〉が持っているからである。〈ライブラリー〉が、人類とその友であるチンパンジーにどれだけの恩恵をもたらすかを、カラは熱心に説いて聞かせた。
一度、このETは船内のエクササイズ・ルームまでついてきて、地球を発って以来、ジェイロブが何度か参加してきたマラソン大会で汗をかくのを、巨大な赤い目で見ほれていたことがある。その休憩時間のとき、ジェイコブはこのプリングが、すでに卑猥なジョークをとばすずべを心得ていゐことを知った。ブリングという種族も、現在の人類と似た性的習俗を持っているにちがいない。なぜなら、「……いやあ、ひと晩いくらかなと思ってさ」というオチのひとことは、両方の種族にとって同じ意味のことのように思われたからである。
それはなによりも、このほっそりとしたブリングの外交官がいかに遠く故郷を離れているかということを、強く思いださせた。このカラも、自分が同じ立場にいたならば感じていたであろう寂しさを、感じているのだろうか。
そのあとの、ピールでいちばんうまいのはツボルグかL5かという議論にいたっては、ジェイコブはこれが異星人であり、サ行の音のはっきりしない、ばかていねいな人間ではないということを、必死で忘れないようにしなげれぱならないほどだった。だが、そこで彼らは、教訓を学ぶことになった。話をつづけるうちに、ふたりはだしぬけに、自分たちが越えようにも越えられない溝で隔てられていることを思い知らされたのである。
ジェイコブが昔の地球の階級闘争にまつわる話をして聞かせたところ、カラはどうしても理解できないと言った。そこでジェイコブは、それをこんな中国の格言で言い表そうとした。家貧しくして親老いれぱ、緑を択《えら》ばずして仕う
するといきなり、異星人の目がまばゆい光を放ち、カラの口から、ジェイコブがはじめて耳にする、不快そうな舌打ち音が漏れたのだ。
ジェイコブは一瞬相手を見つめ、すぐに話題を変えた。
とはいっても、すべてを総合して考えてみると、これまでジェイコブが会った異星人のなかでは、カラはいちばん人間に近いユーモア感覚を持っていた。もちろん、ファギンは例外としてだが。
いま、着陸を目前にして、プリングは静かに自分の主族のそばに控えていた。彼の表情も、ババカブの表情も、ふたたび読めなくなっていた。
ケプラーがそっとジェイコブの腕をつつき、展望窓の外を指さした。「もうじきですよ。船長が停滞スクリーソを張りめぐらして、時空が侵入してくる割合を減らしはじめるころです。あの眺めは、きっとあなたのお気に召しますよ」
「この字宙船は、サーフポードで波に乗るときのように、宇宙空間の織地の上をすべっていくのだと思っていたのでずが」
ケプラーはほほえんだ。
「そうじゃありません、デムワさん。一般にはそのように思われていますが、それは誤解なんです。わたしが言った時空とは、織地≠フことではありません。空間は物質ではありませんからね。
じっさいには、船が惑星周辺の歪曲域──つまり、惑星によって引き起こされる空聞の歪みに近づくとき、たえずメートル系、あるいは時空を計測するのに使われる一群のパラメーターを変えてやらなけれぱならないのです。まるで自然が、大質量に近づくときには、われわれのメートル尺の長さや時計の進む速さを徐々に変えるよう望んでいるようなものでず」
「というと、船長はその変化をゆっくりと起こさせることによって、われわれの接近を制御しているということですか?」
「そのとおり! もちろん、昔の宇宙船では、このような適応過程はもっと乱暴なものでした。メートルの長さを調整するためには、接地までロケットでブレーキをかけるしかなかった。それに失敗すれば、惑星に激突です。いま、わたしたちは停滞場のなかで、反物を巻くようにして、メートル系の長さを短縮しているのです。おっと! またしても、物質%Iなアナロジーになってしまいましたね」
ケプラーはにっこりとして、「この適応過程の副産物のひとつが、輸出にまわせるほど大量のニュートロニウムですが、システムの主要な目的は、われわれを無事着地させることにあります」
「それじゃあ、われわれがいよいよ空間をバッグのなかにつめこみはじめたら、どうなるんです?」 ケプラーは展望窓の外を指し示した。
「あのようになります」
外では、星々が消滅しようとしていた。フィルターのかかったスクリーンでさえ透過してくるほどの、天にちらばる無数のまばゆい光点は、見ている間に、ゆっくりと消えていった。まもなく、残った星はごくわずかとなり、それらにしても、漆黒の宇宙を背景にしてさえ弱々しく光るだけの、鈍い色の光点に変わっていた。
眼下の惑星もまた、変化していた。
水星の表面から反射してくる光は、もはや熱くもまばゆくもなく、オレソジがかった色あいを帯びている。水星の表面自体は、いまやまっ暗だ。
そして水星は、近づいてきつつあった。ゆっくりと、だがそれとわかる速さで、地平線が平らになっていく。〈ブラヅドペリ〉の高度がさがるにつれて、それまではぼんやりとしか識別できなかった地表の造作が、はっきり形をとりはじめた。
大きなクレーターが口を開き、そのなかに、多数の小さなクレーターが見えるようになった。縁がぎざぎざの、小型クレーターのひとつへ船が降下ずるにつれて、その内側に、さらにそれよりも小さなクレーターがたくさんあるのがわかった。小さなクレーターのひとつひとつは、大きいものと同じ形をしていた。
惑星の短い地平線が山脈の影に隠れてしまうと、遠近感がいっさいなくなった.降下がつづけられて何分たっても、下の地面は同じように見えた。船の高度がどれくらいなのか、どうやって識別できるのだろう? すぐ下にあるあれは山脈なのか、玉石なのか? 船はいまにも着陸しようとしているのか、それともあれは単なる岩なのか?
もうすぐ地表のようだ。灰色の影とオレンジの露頭は、地面がすぐそこにあるかのような印象を与える。
そうやって、いつ船が接地してもいいように心の準備をしていたジェイコブは、肝をつぶした。地面にぽっかりとあいた穴が急速に近づいてきて、船を呑みこんでしまったからである。
乗客たちが下船の準備をはじめるごろ、ジェイコブは降下の途中、軽いトランス状態に入ってしまったことを思いだして、愕然とした。あのとき、おれはケプラーの上着につかまった。
そして、かつての凄腕をふるって、ケプラーのポケットに手をすぺりこませ、指紋も残さずすべての薬を少しずつ抜きとり、ついでにちびた鉛筆を一本すりとったのだ。いま、それらはきちんとひとまとめにされて、ジェイコブのポケットに収まっている。ごくわずかな分量なので、上着がふくらんで見えることはない。
ジェイコブは心のなかでうめいた。すると、またあれがはじまってしまったのか。
ジェイコブの口もとがひきしまった。
今度こそは、こいつを目力で解決してやる! もうひとりの自分の助けなどいるものか。こそこそ忍びこんだりするようなまねは、絶対にしないからな!
ジェイコブは固く握りしめたこぶしを太股にたたきつけ、じーんとする、指先の満足げな感覚を追いだそうとした。
第三部
コロナと光球(自く輝いてみえる太陽面の部分)とのあ
いだの境界域は、日食時において、太陽をとりまく赤色の
明るい光の環として現われ、そのことから、彩層と呼ばれ
ている。彩層を詳細に観測すると、均質の層ではなく、た
えず変化する線状の構造であることがわかる。燃える草
原≠ニいうことばで表現されることがあるのも、そのため
だ。光球からは、針状体《スピキュール》≠ニ呼ばれる無数の短命の噴流
が、たえず数千キロメートルの高みにまで噴出している。
これらが赤く見えるのは、水素アルファ線の輻射が優勢な
ためである。このような複雑な領域でなにが進行している
かを理解するには、数知れない問題があり……
──ハロルド・ツィリン
7 干 渉
ドクター・マーティンは、自室を出て保守用通路を通り、異星の環境が整えられたET居住区へと向かった。ここを通るのは、人目を避けるためではなく、通行の特権を与えられているためだ。通路内には、何本ものパイブや通信ケーブルが、打ちっぱなしの壁に固定されている。ヘルメス石が輝き、湿った石のにおいが漂うなかを、彼女の足音は、前方の溶接された通路に響いていった。
やがて、上に緑のラソプのついた、気圧調整ドアの前についた。ある異星人の居室へ入る裏口である。ドアのとなりにある感知パネルを押すと、ドアはただちに開いた。
まばゆい、緑がかった光が溢れだしてきた。何パーセクもの彼方の、とある太陽の光を獏したものである。彼女は片手を目の上にかざし、もういっぼうの手で腰のポーチからサングラスをとりだすと、それをはめて室内を覗きこんだ。
壁にはいくつもの空中庭園や、険しい山のふもとに広がる都市を描いた、蜘蛛の巣のようなタペストリーがかかっていた。都市は険しい山肌にしがみついており、滝を通して見たかのように、きらきらときらめいている。気のせいか、自分の可聴領域のわずかに上の領域で流れる、かんだかい音楽が聞こえるようだ。息がつまるような感じはそのためだろうか。それとも、神経が高ぶっているせいなのか。
ババカブが、クッションを載せた低い台から立ちあがって、彼女を出迎えた.灰色の毛皮をつやつやと光らせながら、太短い脚でちょこちょことこちらへ歩いてくる。この部屋の、化学線による照明と一・五Gの重力のもとでは、外で見られるような.かわいらしさ柑は微塵もない。ワニ脚で立った姿は、力強さを物語っていた。
異星人の口が小刻みにぱくぱくと動いた。出てきたのは、ぶつぶつと切れる歯切れのよい音だったが、首にかかったヴォーダーから流れ出たのは、なめらかで深く響くことばだった。
「ごくろう。きてくれて、うれしい」
マーティンはほっとした。〈ライブラリー〉の館長は機嫌がいいようだ。彼女はちょっと会釈をして言った。
「おじゃまします、ビラのババカブ。〈ライブラリー〉分館から新たに情報が入っていないかと思ってうかがいました」
ババカブは大きく口をあけて、針のように鋭い歯をむきだした。「なかに入って、すわりたまえ。ちょうど、よかった。新しい、事実、があるのだ。ともかく、入りたまえ。まず、なにか食ぺて、飲むといい」
敷居をまたぐとき、重力の変化を感じて、マーティンは顔をしかめた。何度くりかえしても、これには違和感を覚える。室内に入ると、体重が七十キロになったような感じを受けるのだ。
「いえ。けっこうです、いま、食事をしてきたところでずから。そのかわり、すわらせていただきますわ」彼女は人間用に作られた椅子の一脚を選び、慎重に腰をおろした。七十キロなんて、人間にあるまじき重さだわ!
ビラは彼女の向かいにある自分のクッショソにもどり、まただらしなく寝そべった。熊のような頭部は、その脚の高さからわずかに上にあるだけだ。ババカブは小さな黒い目で彼女を見つめた。
「さきほどラパスから、メーザー・通信、が入った。サンゴースト、については、なんの報告も、なかった。なにひとつ、だ。意味が通じない、ためではあるまい。あの分館、が小さずぎるせいだろう。前にも言ったように、あれはひどく小さな分館、なのだ。だが、人類の政府・関係者のなかには、このデータの欠落を、重視する者、が出てくるだろう」
マーティンは肩をすくめた。「その点については、心配いらないでしょう。せいぜい、〈ライブラリー〉計画にかける努力が小さすぎることを裏つげてくれるだけでずわ。わたしたちのグループがずっと前から要求しているような大型分館ができれば、問題は解決するはずです」
「時間遡及・通信を使って、データを送るよう、母星に指示、しておいた。本館に問い合わせれば、混乱、などありえない!」
「それはけっこうですげれど」マーティンはうなずいて、「気になるのは、その遅れのあいだに、ドウェインがなにをするつもりかということです。ゴーストとどうやってコミュニケートしようかなどというたわごとを口走っているくらいですから。わたしは心配なんです──太陽に潜ってうろうろしているうちに、あの精神生物をひどく傷つけてしまい、〈ライブラリー〉全体の叡知を動員してさえ修復できないような事態を引き起こしてしまいはしないかと。地球がいちばん近くにいる隣人となかよくすることは、なによりもたいせつなことなのに!」
ババカブはわずかに頭をあげ、その下に短い腕を差し入れた。「きみは、ケプ・ラー博士、を治療する、努力をしている、のではないか?」
マーティンはむきになって答えた。「もちろんでずわ。じっさい、これだけ長いあいだ、どうして彼が要観察者に指定されずにすんでいるのか、不思議なくらいです。ドウェインの心は混乱に満ちています。それなのに、彼の暴力性向値が許容曲線内であることは認めざるをえません。地球で、瞬間露出テストを受げてもいることですし。
いまでは、かなりドウェインを安定させることに成功したと思います。ただ、どうしてもわからないのは、基本的な問題がどこにあるかということです。彼の躁鬱状態の変動は、二十世紀末から二十一世紀初頭にかげて、環境ノイズが精神におよぼす悪影響によって社会が崩壊に瀕していた時期の、抜き身の狂気≠ノ酷似しています。それが頂点に達したとき、工業文明はあわや崩壊しかけ、今日の人々が遠まわしに官僚主義≠ニ呼ぶ、抑圧の時代が出現したのです」
「なるほど。わたしも、きみたちの種族、が自減しようとした、という話は、読んだこと、がある。きみの言う、その時代の直後、からは、秩序と平和、の時代に入ったように、思う。だが、それはわたしには、関係のないことだ。自減の縁まで、行っていながら、無能に陥らなかったとは、きみたちはじつに、運がよかった、といえよう。
話がそれて、しまったな。ケプ・ラーの状態は、どうなのだ」
ビラは語尾をあげず、そのかわりに、鼻づらであるしぐさをした……唇のかわりをする、肉のひだをめくりあげたのだ。これは彼が質問をしていること──いや、答えを要求していることを意味している。それを見て、ドクター・マーティンの背筋に、ぞくっと冷たいものが走った。
ほんとうは、こいつはおそろしく傲慢なんだわ、と彼女は思った。ほかのみんなは、いまのしぐさが、この異星人のちょっとした癖だと思っているらしい。地球におけるこの生物の存在が示す権力と驚異に、みんなごまかされているようだ。
カルチャー・ショッグさめやらぬうちに、人類は小さな人間に似た、熊のような生物を目のあたりにした。なんてかわいらしい! という反応さえ出たほどである。外宇宙からきた悪魔の正体を見ぬく力があるのは、連合議会のわたしのボスと、その友人たちだけなのだろうか。
そして、この悪魔のきげんをとるにはどうすればよいかを見つけだす役目が、どういうわけか、このわたしにまわってきた。しかも、そのいっぽうで、ドウェインがしゃぺりずぎないように監視し、サンゴーストとコンタクトするための、筋のとおった方法を考えだす役もつとめろだなんて! |幸運の女神《イフニ》よ! あなたの妹を助けてちょうだい! ババカブはじっと答えを待っていた。
「その、そうですね、ドウェインが異星文明の力を僭りずに、サソゴーストの秘密を解明する決意を固めていることはたしかです。彼の部下のなかには、なにがなんでもその方針を押しとおそうとする者もいます。そのなかに〈毛皮派〉が混じっている、とまでは言いませんが、彼らのブライドがかなりそのバネとはなっているようです」
「ケブ・ラー、に急進的な行動、をとらせないように、できるか? すでに彼は、ラソ・ダムな要素を、持ちこんで、しまっている」
「ファギンやその友人のデムワを招いたことですか〜 彼らなら無害でしょう。イルカに対するデムワの経験は、彼が役にたつかもしれないという、薄弱ではあるがもっともらしい理由になりますし。ファギンは異星種族とうまくやるコツを心得ています。大事なことは、ドウェインには自分のパラノイア的幻想をこぼす相手が必要だというごとです。デムワには、彼のぐちを聞いてくれるように話しておきましょう」
ババカブはちょっと手足をもがくようにして身を起こした。新しい姿勢をとると、マーティンの目をまっすぐ見すえて、
「わたしは、彼らのことなど、気にしてはいない。ファ・ギンは、消極的、なロマンティストにすぎない。デムワは、愚か者、のように見える。ファ・ギンの友人は、みんなそうだ。
そうではなく、もっと気になるのは、いまや基地の、トラブル・メーカーとなった、ふたりの存在だ。ここにくるまで、知らなかった、ことだが、基地のスタッフには、ひとり、チンプがいるな。彼とあの、ジャーナリストは、われわれがここに、到着して以来、たえずやっかいごとを、巻き起こしている。ジャーナリストのほうは、基地の要員たちに、無視、されて、騒ぎたてているし、チンプのほうは、しじゅう、カラにまとわりついて……あれを、解放=Aしようとしている、ありさまだ。こんなことでは……」
「カラが命令をきかなくなったんですか? たしか、彼の奉仕期間は……」
ババカブはばっと椅子からとびあがると、シュッと息を吐きだし、鋭い歯をむきだした。「話の、途中で、口をはさむな、この、人間、めが!」マーティンの隠えているかぎり、ババカブの地声を聞いたのは、これがはじめてだった。キーキーというかんだかい怒声は、ヴォーダーからのことばを圧して、耳に痛いほど響いた。
しばらく、マーティンは身も心もしびれたようになって、身動きもできなかった。
ババカブのこわばった姿勢が、徐々にリラックスしはじめた。ほどなく、逆立った毛皮は、ほとんどもとのようになめらかにもどった。
「謝罪、しよう、人間=マーティン。原始的種族が、このような、ささいな過失を犯した、からといって、激昂するぺき、ではなかった」
マーティンは音をたてないようにしながら、ためていた息を吐きだした。
ババカブはふたたび腰をおろし、「きみの質問、に答えよう。カラは務めを、忘れては、いない。親種族、の権利によって、わが種族、は彼の種族、に奉仕されるべきであり、それが長い期間、におよぶことを、彼はよく、承知している。 .
それでも、あのジェフ・リー博士、というチンプが、親種族に奉仕する、必要などない、と吹聴するのは、よくないことだ。きみたち、人類は、自分のペットの、ちゃんとした、しつけかたを、学ぱなくては、ならない。なにしろ、そもそも彼らが、知的な類族、と呼ばれるのは、われわれ、古き種族の、慈悲のおかげ、にほかならない、のだからな。
そして、彼らが、知的生物でない、としたら、きみたちの立場は、どうなる、人間よ?」
ババカブの歯が一瞬きらりと光ってから、ずぐにロがぱくんと閉じあわされた。
マーティンはのどがからからになっているのを感じながら、慎重にことばを選んで言った。
「ご不快な思いをおかけしたのでしたら、お詫びします、ビラ=ババカブ。ジェフリーの件については、ドウェインによく言っておきましょう。彼ならジェフリーをおとなしくさせることができるかもしれませんから」
「で、ジャーナリスト、のほうは?」
「ピーターのほうにも釘を刺しておきます。彼が害になるとは思えません。これ以上はトラブルを起こしたくないでしょうし」
「それなら、いいが」ババカプのヴォーダーが、おだやかな声をだした。ビラはずんぐりした短駆をもういちど寝そべらせて、
「きみとわたし、は大いなる、共通の目的、を持っている。双方が、一体となって、動けれぱ、文句、はない。だが、覚えておきたまえ──きみとわたし、の手段は、異なるかもしれないことを。できるかぎりの、手を打つことだ。さもなければ、わたしとしても、きみたちの言う、一石二鳥、の手段に、訴えざるを、えなくなるかもしれない」
マーティンはふたたび、弱々しげにうなずいた。
8 反 射
ラロックがまたそろ講釈をたれているあいだ、ジェイコプの心はよそへさまよっていた。どのみち、いまこの小男は、ジェイコブ相手に一本とるよりも、ファギンに印象つげることのほうに一生懸命なのだ。こんな話を聞かされるETに同情することは、ファギンを擬人化する罪を犯すことになるのだろうか、とジェイコプは考えた。
三人は小型車に同乗して、左右上下にくねるトンネルを移動しているところだった。ファギンの根塊のうちのふたつが握っているのは、フロアーから数センチ上にある低い手すりだ。ふたりの人間は、それよりも高い位置にある、もうひとつの手すりにつかまっている。
ジェイコプは、すべるように進んでいく車の上で、聞くとはなしにラロックの話を聞いていた。ラロックはまたしても、〈プラッドペリ〉船内ではじめた議論をむしかえしていた。失われた地球の主族……数千年前、人類の知性化に手をつけ、未完成のまま途中で放り出していったと思われる、謎の種族……が、太陽と関係あるのではないか、というあの話である。ラロックは、サンゴーストそのものが、その種族ではないかと考えていたのだ。
「じっさい、地球の宗教に関ずる資料に、ひととおり目を通してみることです。どの宗教でも、たいてい太陽は神聖視されている! こいつはあらゆる文化を貫く、共通の糸なんです!」
ラロックは自分の考えを囲いこむように、大きく両手を広げて見せた。
「こいつはみごとに筋の通った説明ですよ。〈ライブラリー〉が人間の親種族を探るのに苦労しているわけも、これで説明がつく。太陽に住む種族は、かつては知られていたはずだ……だからこそ、この探索≠ェばかげているというんです。ただ、太陽に住む生物は非常に稀なものだから、ふたつの問題をいっきょに解決できる両者の相関関係を、まだだれも〈ライブラリー〉に問い合わせようと考えつかないだけなんです!」
問題は、この考えを論破するのが、ひどく難しいということにあった。ジェイコブは心のなかで、ため息をついた。地球の原始文明の多くがかつて太陽を崇拝していたことは、もちろん事実だ。なにしろ太陽は、見るからに力強い、熱と光と命の源であり、奇跡的な力の源泉と見えるのだから! 太陽を命の源とみなすことは、原始人がいちどは通る、共通のステヅプにちがいない。
そして、問題はそこにあった。銀河系には、かつての人間と比較できるような原始人≠ニいうものが、めったに現われない。たいていは、動物か、準知的段階にある狩猟・収集種族(あるいはそれに類したもの)か、完全に知性化された知的種族、のいずれかに含まれる。人間のような中間的℃族ー明らかに、知的種族としての訓練を受けないまま、主族にうち捨てられた種族は、ほとんど存在したごとがないのである。
このような稀なケースでは、新たに知性を付与された精神は、その生態環境から一気に解放されることが知られている。そして、奇妙な科学まがいの体系──奇怪な因果律や、迷信、神話などを創りだすという。導いてくれる主族がいないために、このような孤児%I種族は、長く存続できたためしがほとんどない。いま、人類がこれほど銀河諸種族の興味を集めているのは、ひとつには、いまなおヒトが生き延びているためなのだ。
比較できるような、類似した経験を持つ種族がほかにいないという事実は、ラロックの説の一般化を容易にし、反駁を難しくした。ラパスの小規模な〈ライブラリー〉分館には、種族全体に共通する太陽崇拝の例がほかに見られないごとから、そういった人間の伝統が、いまだ仕上げの終わっていない知性化によって引き起こされたものである、とするラロヅクの説を、打ち破りがたくしていたのである。
なにか新しいことを言いだすのではないかと、ジェイコブはうわのそらで、もう少しだけラロックのことばに耳を傾けた.だが、彼の心は、ほとんどよそにさまよったままだった。
水星に着陸してから、すでに長い二日が過ぎていた。水星基地内には人工重力がかけられていたが、場所によっては水星の弱い引力そのままのところもあり、基地内を移動するには、その変化になれなくてはならなかった。ジェイコブは基地内のいろいろな要員に紹介されたが、ほとんどの者については、その場で忘れてしまった.それから、ケプラーのつけてくれた基地の要員に案内されて、自室へ赴いた。
ヘルメス基地の主任医師は、イルカの知性化の熱烈な賛同者だった。ジェイコプがたのむと、やけに種類が多いですなといぶかりながらも、彼はふたつ返事でケプラーの薬の分析を引き受けてくれた。そのあと主任医師は、医療部の人間はきっとマカーカイの話を聞きたがるだろうから、ぜひ歓迎パーティーを開くと言いはった。だが、肝心のパーティーでは、みんな乾杯をくりかえすばかりで、結局マカーカイのことについては、それほどたくさん質問されずにおわった。
ふと、ジェイコプの心がちょっとだけ、ゆっくりと反応した。車が停止し、ドアがいくつも開いて、サンシップを保守整備するための、巨大な地下ドックがあらわになったのだ。と、ふいに空間そのものが歪みだし、さらに悪いことに、だれも彼もがふたりに分裂して見えだした!・
ドックの向こう端の壁がぐぐっと前にせりだし、まっすぐこちらへふくれあがってきて、ほんの数メートルのとごろまで近づいてきたように見えた。そのいちばん近い部分に、高さニメートル半のカンテンと、赤ら顔の小男、それに色黒の男が立っていた。色黒の男は、ジェイコブがこれまで見たうちでももっとも愚かしい表情を浮かべて、こちらを見返していた。
ジェイコプはふいに、自分が見ているのはサンシップの船殻──すなわち、太陽系内でもっとも完襞な鏡であることを悟った。口をぽかんとあけて見返している男は、明らかに、瞑想からまだ覚めやらぬ白分自身の鏡像だったのだ。
直径二十メートルの球形船は、完壁な球面鏡で覆われているため、その形状を見分けることは難しかった。わずかに、鋭く途切れる輪郭と、映った像が湾曲して流れるあたりで、かろうじて実体のある部分に焦点をあわせることができる。
「こいつはすごい」と、ラロックがうなるように言った。「美しく、りりしくも、あやまてる用途のために造られた結晶」小型録音カメラを掲げて、船を左から右へ走査する。
「きわめて印象的だ」とファギン。
まったくだ、とジェイコプも思った。しかもこいつは、家ほどもある。
だが、これほどの船でさえ、この大洞窟のなかでは矮小に見えるほどだった。頭上高くで湾曲する、ごつごつしたむきだしの岩天井には、朦朧とした霧がかかっていてよく見えない。彼らの立っている部分は比較的狭いほうだが、それでも洞窟がカープして見えなくなるまで、少なくとも右手に一キロはつづいているようだ。
三人はプラットフォームに立ったまま、洞窟の作業フロアーを横切って、船の赤道部まで運ばれていった。下には小人数の集団がいたが、銀色の球形船のそばでは、小さく見えた。
左手に二百メートルほどのところには、横百メートル、縦五十メートルはある、一対の巨大な機密扉があった。おそらくあれは、トンネルを通じて水星の苛酷な地表に通じる、エアロックの一部なのだろう。あの向こうには、たとえば〈ブラッドベリ〉のような大型の惑星間宇宙船が、天然の洞窟を利用して停泊しているはずだ。
プラットフォームから下の洞窟の床へは、傾斜路でおりるようになっていた。下ではケプラーが、作業服を着た三入の男たちに話しかけていた。さほど遠くないところには、カラが立っていた。そのそばには、モノクルをぶらさげ、きちんと服を着たチンパンジーがおり、カラの目と同じ高さに自分の目がくるよう、椅子の上に立っていた。
チンブが膝をまげてぴょんぴょんとびはねるたびに、椅子がゆれた。なんだか怒ったように、胸にかげた機械をたたいている。プリングの外交官は、ジェイコブの目には親しみをこめた敬意とわかる表情を浮かべて、それを眺めていた。だが、そのカラの態度に、ジェイコブは驚いた……力をぬいた、気楽な姿勢。それは、このETが人間やカンテン、シンシアン──とりわけビラと話すときには、決して見せたことのない態度だったのだ。
ケプラーはまずファギンに声をかけ、それからジェイコプに向きなおった。
「いっしょにきていただけてうれしいですよ、デムワさん」ケプラーは驚くはど力強く燧手してから、チンパンジーをそばに呼び寄せた。
「こちらはジェフリー博士。彼の種族のなかでは、宇宙研究チームに正式に参加を認められた、最初のメンバーであり、かつ非常に優秀な研究者です。これからご案内ずる船を設計したのは、彼なのですよ」
ジェフリーは、スーパーチンブに特徴的な、歪んだ笑みをうかべた。二世紀におよぶ遺伝子操作によって、チンパンジーの頭蓋や骨盤の湾曲は、人間に近い形に改造されている。それがいちばん、人間に似せやずい部分だったからである。その結果、彼はひどく毛深い、長い腕と大きなそっ歯のとびでた、背の低い褐色の人間のように見えた。
握手をしたとき、操作のもうひとつの片鱗が感じられた。他の指と完全に向かいあわせられるように改良された親指が、ぐっと強く押しつけられたからである。ジェイコプは、まるでそこに、人間の刻印があるように感じた。
ジェフリーは、ババカプがヴォーダーをぶらさげている位置に、黒いキーが水平に右から左へならぶ機械をかげていた。そのまんなかには、縦が十センチ、横が二十セソチほどの、なにも映っていないスクリーンがあった。
スーパーチンプはおじぎをすると、キーに指を走らせた。明るい文字が、スクリーンに現われた。
〈お目にかかれてうれしいです。ケプラー博士は、あなたがいい人だと教えてくれました〉
ジェイコプは笑って、「そいつはありがとう、ジェフ。いい人であれるように努力するよ。もっともわたしは、自分がなにをするためここへ呼ばれたのか、いまだに知らないんだがね!」
ジェフは、ジェイコブにはもうおなじみの、チンパンジー特有のかんだかい笑い声をあげた。それから、はじめて口をきいた。「スグニワカリマスヨ!」
ほとんどしぼりだすような声だったが、それでもジェイコプは目を見張った。ことばをしゃぺることは、この世代のスーパーチンプには、いまなおぼぼ不可能に近いほどの難事なのだ。それなのに、ジェフのことばは、非常に明瞭に吐きだされている。
「ジェフ博士は、わたしたちが見学会を終えたあと、この最新型サンシップで降下を行なう予定なんです」とケプラーが言った。「もう一隻の船で探索に出ている、ダシルヴァ司令官がもどってぎしだいね。
〈プラッドペリ〉が到着したとき、司令官が留守にしていてお出迎えできなかったのは、申しわげなく思っています。しかも、わたしたちがあす説明会を行なっているとき、ジェフもまた出発してしまうのですから。もっとも、あすの午後、わたしたちの説明会がちょうど終わったころに. ジェフからの第一報が入れば、さらに興を高めてくれるでしょうがね」
ケプラーはサンシップに向きなおった。「ご紹介しわすれている方はいないかな。・ジェフ、カンテソのファギンには前にお会いしているな。ビラのババカブは、声をかけたが出てきたくないらしいし。ミスター・ラロックには紹介したかい?」
チンプの唇がめくれあがり、嫌悪の表情を作った。ついで一度鼻を鳴らし、自分の姿が映っている鏡面のほうに、ぷいと顔をそむけた。
ラロックは怒りと当惑の入り混じった顔で、チンプをにらみつけた。
ジェイコプは、危うく吹きだしそうになるのをこらえねばならなかった。スーバーチンプがチンプと呼ばれるのも無理はない! ラロックよりもっとぶしつけな態度が、そのいい証拠だ。夕ベの食堂でのふたりの初顔合わせは、すでに伝説となっている。あれを見逃したのは、じつに残念だった。
ジェフの袖に、カラがほっそりとした六本指の手を置いた。「行こう、わが友ジェフリー。ミスター・デムワと彼の友人たちに、きみの船を見せてさしあげよう」チンプは仏頂面をしてラロックをちらと見やってから、カラとジェイコブに向きなおって、大きくにっと笑った。そして、ジェイコプとカラの手をとり、船の入ロへと引っぱっていった。
もうひとつの傾斜路を登りつめると、短い橋がかかっており、その先は鏡面球の内部へつづいていた。ジェイコプの目が船内の暗闇に慣れるのに、ちょっと時間がかかった。慣れてみると、なかには船内いっぱいに、平らなデッキが広がっていた。
船の赤道面に位置するその円形のデッキは、黒っぽい弾力性のある材質でできていて、縁が船殻に触れておらず、デッキ自体が宙に浮いていた。平らなデッキの上には、円周状に均等に配置された六つか七つの観測カウチと、ちょっとした計器パネルを備えた操縦コソソールがひとつならんでおり、そのちょうど中心部に、直径七メートルほどのドームがつきだしていた。
ケプラーがコソトロール・パネルのそばにひざまずき、スイッチのひとつを押した。船殻が半透明になった。あらゆる方向から洞穴内の光が入ってきて、うすぼんやりと船内を照らしだした。ケプラーは、計器や乗員の混乱を防ぐため、球形の船殻の内側に内部の光が反射しないよう、船内の照明を最低限にしぼっているのだと説明した。
ほぼ完壁な球に近い船殻の内部は、土星の模型を連想させた。環≠ノあたるのが、広いデッキ。惑星≠サのものは、デッキの上下に半球に別れてつきだしたドームというところだ。いまはジェイコプにも、上部の半球の表面に、いくつかのハッチとキャビネットがあるのが見てとれた。事前に読んだ資料から、彼はこの中央球に、船の航行を司る、すべての機構か収められていることを知っていた。時間流制御装置や、重力場|発生装置《ジェネレーター》、冷却レーザーなどは、みなこのなかに収められているのだ。
ジェイコプはデッキの縁まで歩いていった。デッキ自体は力場の上に浮いており、その端は湾曲した船殻から四、五フィート離れている。その上へ、奇妙に明るい部分も陰影もないままに. 船殻が頭上高くカーブしていた。
名前を呼ばれて、ジェイコブはふりかえった。見学会の参加者たちが、中央ドームに入るドアのそばに立っている。ケプラーが手招きした。
「これから、計器を収めた下側のデッキを見にいきます。わたしたちは裏デッキ≠ニ呼んでいますがね。足もとに注意していてください、重力アーチになっていますが、あまり驚かれないように」
戸口の前で、ジェイコプは脇により、ファギンを先に通そうとしたが、ETは上部半球に残っていたほうがいいという身振りをした。身長七フィートのカンテンが高さ七フィートのハッチをくぐるのは、あまり楽なことではないのだろう。ジェイコプはケプラーにつづいて、球内に入った。
とたんに、そこからとびだしそうになった! ケプラーはすぐ前にいたものの、両面を隔壁ではさまれた丘のような、急に盛りあがった斜面の上を、床に対して垂直に立ったまま登っていくではないか! ジェイコブの位置からは、ケプラーが大きく傾いで立っており、いまにも倒れてきそうに見える。いったいこの科学者は、どうやってバランスを保っているのだろう!
やがてケプラーは、盛りあがった細い道をずんずん進んでいき、短い地平線の向こうに消えた。ジェイコプは両壁に手をつっぱるようにして、おそるおそる一歩を踏みだした。
体は少しもぐらつかなかった。もう一歩足を踏みだしてみる.やはり体は、床に対して垂直なままだ。さらにもう一歩。そこでうしろをふりかえった。
入口がぐっと傾いでいる。どうやらこのドームの内部には、わずか数ヤードの範囲にしかおよばない程度の、緊密な疑似重力場がかかっているらしい。重力場はきわめてなめらかで完壁なため、内耳の感覚がだまされてしまったのだ。
作業員のひとりが、入口に立ってにやにやしていた。
ジェイコブは口を引き結ぶと、白分の体が少しずつさかさまになっていくことを意識すまいとしながら、ループを登りつづけた。通路のあちこちには、壁面や床に、アクセス・プレートの標識があった。半分ほどまわりこんだところで、あるハッチの前を通りかかったが、それには時間圧縮装置≠フ文字が刻まれていた。
ループはゆるやかなスロープを描いて終わっていた。さかさまという感覚をまるで感じないままに、下部半球側のハッチの外へ出る。外がどう見えるか、感覚的にわかってはいたものの、それでもジェイコブは、思わず声をあげずにはいられなかった。
「うわっ!」両手で目をおおう。
頭上数メートルのところに、格納洞穴の床が、四方へどこまでも伸び広がっていた。サンシップの船架のまわりを歩きまわっている人間たちは、天井にとまった蠅のようだ。
ひとつあきらめたようにため息をつくと、デッキの縁近くに立って複雑そうな機械の内部を覗いている、ケプラーのもとへ歩いていった。ケプラーは顔をあげて、ほほえんだ。
「じつは、責任者の特権を利用して、あちこち重箱の隅をつついてまわってるところなんですよ。もちろん、出発まぎわですから、もうとっくに万全のチェックがすんでいるんですが、わたしは自分の目であちこちをよく見ておきたい性分でしてね」いとおしげに、機械をぽんぽんとたたいた。
ケプラーはジェイコブをうながして、デッキの縁に行った。そこから見ると、さかさまの感覚がいっそうきわだった。靄のかかった洞穴の天井が、足もとのはるか下≠ノ見えたからだ。
「これは多層偏光カメラといって──干渉光ゴーストがはじめて発見された直後にとりつけたものでず」ケプラーは、縁にそって等間隔にならんでいる、数基の同型の機械のひとつを指さした。
「われわれが彩層の錯綜する光のなかからゴーストを識別することができたのは、偏光面がいかに移り変わろうとも、目標を追跡し、光の干渉が現実のものであって、時間に対して安定であることが確認できたからなのです」
「カメラが全部下側に配置されているのはどうしてです? 上には一台も見かけませんでしたが」
「それは、生ある観測者と機械とが同じ面上にあった場合、干渉しあうことが発見されたからです。それやこれやの理由で、計器類はすべてこの下部半球に集中させ、わたしたち人間は、上部半球に乗っていくわけです。
もっとも、デッキの縁が観測したい現象に向くように、船の向きを変えることによって、どちらの半球からも目標を見ることはできますがね。これはなかなかうまい妥協策であることがわかりました。重力が問題とならないのですから、のちに比較するため、生物観測者・機械観測者、どちらの半球からの視点も同一になるよう、船の角度を自在に変えることができるのです」
ジェイコプはこの船が一定の角度をとり、太陽の彩層内の嵐にふりまわされつつ、観測者と乗員が冷静に外の光景を見つめている姿を思い描こうとした。
「ただ、このところ、この方法では少々問題が生じていましてね」とケプラーが先をつづけた。
「ジェフが降下する予定の、この新造の小型船には、それに関していくつか改善が施されていますから、じきに……おや! 何人か友がやってきたようだ……」
戸口から、カラとジェフリーの姿が現われた。チンプの類人猿と人間が入りまじったような顔は、嫌悪に歪められている。入ってくるなり、ジェフは胸のディスプレイのキーをたたいた。
〈LRはまともじない。あいつが傾斜路をうろちゃろしてると吐き気がすうる。〈開化派〉のうすのろめ〉
カラがそっとチンプに話しかけた。それはジェイコプの耳にかろうじて聞きとれる程度の声だった。「もっと敬意を払いたまえ、わが友ジェフ。ミスター・ラロックは人間なのだぞ」
よほど頭にきているのか、ジェフリーは頻繁にスペルをまちがえながら、自分はチンプに近い存在には敬意を払うが、いままでどんな人間にも敬意を払ったことはない、ましてやチンパンジーの知性化に関与していない人間になんかまっぴらだ、と書きだした。
〈だいたい、五十万年前にババカブん先祖がきみたちを知性化したからと言っれ、なせババカブの言いなりにならなけりゃならんのだ?〉
プリングの目が赤く輝いた。分厚い唇のあいだから、ちらりと自い歯か見えた。「お願いだ、わが友ジェフ。きみが善意で言ってくれているのはわかるが、ババカプはわたしの主族なんだ。人間はきみたちの種族に自由を与えた。だが、わたしの種族は仕えなけれぱならない。それが世界のありかたなんだ」
ジェフリーは鼻を鳴らして、「イマニワカルサ」ときしるような声で言った。
カラにジェイコブを案内してくれるようにたのんで、ケプラーはジェフリーを脇に連れていった。カラはジェイコプを半球の反対側に連れていき、太陽大気内の半液体状のプラズマのなかで──深海潜水艇のように──サンシップの航行を可能にする、停滞場ジェネレーターを見せてくれた。何枚かのパネルをはずして、カラはホログラム式メモリー・ユニットが見えるようにした。
この停滞場ジェネレーターは、サンシップ内の時空の流れを制御し、荒々しい彩層内の乱流も、なかにいる者にとっては穏やかなゆらぎ程度に感じさせるものである。停滞場ジェネレーターの原理は、地球の科学考にはまだ部分的にしか理解されていなかったが、にもかかわらず、政府はこれが人類の手によって建造されたものであると標榜していた。
カラの目が明るく輝き、舌ったらずな声のなかにも、〈ライブラリー〉によって地球に新しいテクノロジーをもたらしたことへのプライドがにじみ出ていた。
ガラス繊維の束のように見えるジェネレーターは、論理バングによって制御される。カラは、そのロッドやファイバーが、かつての地球のいかなる装置よりも高密度に情報を蓄えることができ、しかも反応速度も速いのだと説明した。ふたりが見ている間にも、いちばん近いロッドを、青い干渉模様が上下に走りぬけていった。データがきらめきながら、圧縮されて流れているのだ。ジェイコプには、まるでその機械が生き物のように思われた。カラが触れると、レーザー利用の入出力ロッドは大きく脇にのいた。そのままふたりは、何分間も、機械の血とも言うべき、脈打つ生の情報を見つめつづげた。
カラにしてみれぽ、コンピューターの内部など、何百回も見たことがあるにちかいないが、それでも彼は、ジェイコプと同じくらい魅入られたようすで、明るく輝くまぶたのない目をひたと機械にずえ、瞑想にふけっているようだった。
やっとのことで、カラはパネルにふたをした。ジェイコブはこのETが疲れているらしいことに気がついた。きっと働きすぎなのだろう。ふたりはほとんど話をしないまま、ゆっくりとドームをまわりこんで、ジェフリーとケプラーのもとへもどった。
チンパソジーとケプラーは議論をしており、ジェイコプはなにを言いあっているんだろうと聞き耳をたてたが、カメラの一台についてのこまかい目盛りあわせについてのことで、ほとんど意味がわからなかった。
やがてジェフリーは、洞穴の床でやらなければならないことがあるからと言って出ていき、カラもすぐにそのあとを追って出ていった。ふたりの人間は、機械のことなどを話しながら、もう二、三分そこにとどまっていたが、それからケプラーが、ジェイコプの先に立ち、きたときのループをもどるようにとうながした。
ジェイコブがなかほどまでループを登ったところで、ふいに前方から騒ぎが聞こえてきた。だれかが怒って叫んでいるようだ。ジェイコプは湾曲した重力ループに関して目が伝える情報を無視しようと努めながら、足を速めた。だが、この通路は、大急ぎで通り抜けるようにはできていなかった。複雑な形状をした重力場の強さが場所によって段階的に変化し、まちまちの力で体を引っばるのだ。ジェイコプははじめて混乱を覚えた。
ループの頂点では、固定の甘いフロアー・プレートを踏んづけてしまい、湾曲した床ぞいに、プレートと何本かのボルトをはじきとばしてしまった。なんとかバラソスを保とうとしたが、湾曲した通路の頂点で、パースペクティブがとくに異様だったため、つい彼はよろめいた。やっとのことで表デッキに出るハッチにたどりつくころには、もうケプラーが追いついてきていた。
叫び声は、船外から聞こえていた。
傾斜路の下で、ファギンが動揺して枝葉をゆらめかせている。基地の要員たちが何人も駆け寄ってくる。騒ぎの中心は、レスラー同士のようにがっぷりと組みあったまま動かない、ラロックとジェフだ。
顔をまっ赤にし、荒い息をしながら、ラロックは首を絞めつけるジェフの手をふりほどこうと必死になっていた。拳で殴りつけてはいるが、なんのダメージも与えていないようだ。チンプは何度も何度も叫びながら、歯をむきだし、ラロックの頭を自分の頭の高さまで引きずりおろそうと、やみくもに引っぱっていた。どちらもまわりに人だかりがしているのには気づいていない。ふたりを分けようと何本もの手がさしだされても、見向きもしない。
下へ駆けおりながら、ジェイコプはラロックの片手が離れ、ベルトのロードにぶらさがっているカメラに伸びるのを見た。
組みあうふたりのもとへ、すばやくとびこむ。間髪を蒲かず、手の甲でラロックの手からカメラをはたき落とし、もういっぽうの手でチンバソジーの頭のうしろの毛を引っつかんだ。そのまま渾身の力をこめてジェフリーを引きはがし、ケプラーとカラの手のなかに放りこんだ。
ジェフリーは大暴れした。長い強力な類人猿の腕が、だきすぐめるふたりの腕をふりほどこうともがいた。頭をうしろへふりあげ、わめき叫んだ。
ジェイコプは背後に動きを感じた。くるりとふり向くと、駆けよってきたラロックの胸を、手のひらで突くようにして押しとどめた。ジャーナリストの足が宙に浮かび、痛う!≠ニいう声をあげて、どすんと尻もちをついた。
ラロックがベルトのカメラをつかむと同時に、ジェイコブは手を伸ばしてそれを押さえた。コードがぶつんとちぎれた。まわりの要員たちが、じたばたするラロックをうしろからとり押さえた。
ジェイコプは両手をふりあげ、
「いいかげんにしろ!」と一喝した。たがいの姿を遮るように、ラロックとジェフリーの中間に立つ。ラロックは肩を押さえつけている要員たちにかまわず、手をさすりながら、怒りに燃える日でにらみつけている。
ジェフリーはまだ、手をふりほどこうとじたぼたしていた。が、カラとケプラーは、しっかりと彼を押さえつけていた。そのうしろで、ファギンが困りはてたように、かんだかい声をあげた。
ジェイコプはチンプの顔を両手ではさみこんだ。ジェフリーがきっとこちらをにらみつける。
「チンバソジー=ジェフリー、ようく聞くがいい! わたしはジェイコプ・デムワ、人聞だ。そして、知性化計画の監督者でもある。そのわたしの目から見て、いまのきみの行動はじつに見苦しい……まるで動物なみだ!」
ジェフリーの顔が、ひっぱたかれでもしたかのように、がくんとのけぞった。しばしジェイコブの顔を呆然と見つめ、うなり声のようなものをあげかげたが、それから、褐色の目がうつろになった。体から力がぬけて、ジェフリーはカラとケプラーの腕のなかでがっくりとうなだれた。
ジェイコブは毛皮で覆われた頭に手をあてがった。もういっぽうの手で、さかだった毛皮をなでつけてやった。ジェフリーはぶるっと震えた。
「さあ、楽にして」と、やさしくジェイコプ。「心を落ちつけようとしてごらん。なにがあったのか話す気になったら、あとでみんなで聞いてあげよう」
震えながら、ジェフリーは会話ディスプレイに手を伸ばした。しばらく時間をかけて、〈すまない〉と、ゆっくりとタイプした。ジェイコプを見つめ、心からそう思っていることを伝えようとした。
「いいそ」とジェイコブ。「あやまれるということは、一入前の知的生物の証拠だ」
ジェフがすっと背筋を伸ばした。必死に冷静そうなそぶりを装いながら、ケプラーとカラにうなずいて見せた。ふたりは彼を離し、ジェイコプはあとずさった。
知性化計画でイルカとチンプをみごとにあつかってきたにもかかわらず、ジェイコブはなんとなく、主族風を吹かしたことについて、恥かしさを覚えた。このチンプの科学者に対し、主族の権威がきくかどうかは、ひとつの賭けだった。前にジェフリーが話していたことからすれば、このチンプは、内心ではおおいに主族を尊重しているものの、敬意を払うかどうかは、相手を見ているらしい。彼の敬意を受けられたことはうれしかったものの、それでもジェイコプは、それを誇る気にはなれなかった。
ジェフリーが落ちついたと見るや、すぐさまケプラーが糾弾にかかった。
「いったいどうしたというんだ!」ラロックをにらみつけて、彼は怒鳴った。
「そのけだものが襲いかかってきたんだ!」ラロックは叫ぶようにして、「気味が悪いのをこらえて、やっとのことであの恐ろしい船から出てきて、高貴なるファギンと話をしていたら、そのけだものが、いきなり虎みたいに襲いかかってきやがったんだ! おれとしては、命がけで戦うしかないじゃないか!」
〈嘘だ。あいつはサポタージュをしていたんだ。時間流制御装置のアクセス・プレートがはずれていた。ファギンは、われわれが出てくる音が聞こえたと思ったら、そのウジムシがとびだしてきたと言った〉
「口をさしはさんで申しわけないが!」とファギンが笛の音のような声で、「わたしはウジムシ≠ネどというような侮蔑的言辞は使わなかった。わたしはただ、そう訊かれたから……」
「ヤツハ一ジカンモアノナカニイタンダゾ!」顔が歪むほど苦労しながら、ジェフリーが声に出して遮った。
かわいそうなファギン、とジェイコブは思った。
「いま言ったようにな」とラロックが叫びかえす。「おれはあの気ちがいじみた場所ですくみあがってたんだ! なかにいた時間の半分は、床にしがみついていたんだぞ! いいか、このちび猿め、ろくにしゃべれもしないくせに、おれに話しかけるんじゃない! そいつは木登りの仲間のためにとっておくんだな!」
チンプが絶叫し、カラとケプラーがあわてて駆けよって彼を引きとめた。ジェイコプはなんと言ってよいものやらわからず、ファギンの前へ歩いていった。
大騒ぎのなかでも聞こえる声で、カンテンがやさしく言った。
「わが友ジェイコプ、きみたちの主族がなにものであれ、それはじつにユニークな存在であったにちがいないな」
ジェイコブはぼんやりと、うなずいた。
9 オオウミガラスの記憶
ジェイコプは傾斜路の下に集まっている人々を観察した。カラとジェフリーは、ことばやディスプレイを使って、ファギンと熱心に話しこんでいる。そのそばに、基地要員が何人か集っていたが……これは、ラロックの執拗な質問からのがれるためだろう。
あの男は、あのつかみあいが終わって以釆、ずっと洞穴のなかをうろつきまわっては、作業中の要員たちに質問をし、なにもしていない者には不満をたれつづけていた。しばらくのあいだ、彼はカメラをとりあげられたことをかんかんに怒っていたが、それも徐々に、ジェイコブに言わせれば、卒中一歩手前の状態にまでおさまっていた。
「どうしてこれをラロックからとりあげたのか、ぼくもよくわからないんです」とケプラーに言って、ジェイコプはポケットからカメラをとりだした。スマートなカメラ・レコーダーには、小さなボタンと附属品がたくさんついていた。それはコンパクトで用途の広い、明らかにかなり高価な、レポーターにとっては完壁な道具のように見受けられた。
ジェイコプはそれをケプラーに手わたして、「どうも、あいつが武器に手をのばしたような気がしたもので」
ケプラーはカメラを自分のポケットにしまいこみながら、「もし武器だったらたいへんですから、よく調べておきましょう。それはそうと、あなたの手際にはお礼を言いますよ」
ジェイコプは肩をすくめた。「あんまり持ちあげないでください。でしゃばったまねをして、申しわけないと思っているんです」
ケプラーは笑って、「でしゃばっていただいてよかったのです! わたしにはとうてい、どう処置していいかわからなかったはずですから」
ジェイコブは笑顔を浮かぺたが、まだうしろめたさは去らなかった。
「で、これからどうします?」
「まず、ジェフの言っていた時間流システムを調べて、なにも異常がないかどうか確認します。あるとは思っていませんがね。たとえラロックがあの機械をいじくりまわしたとしても、彼になにができます? あの回路は、どういじるにしても、特殊な道具が必要なんです。だが、彼はなにも持っていなかった」
「しかし、ぼくらが重力ループから出てきたときには、パネルはゆるんでいたんですよ」
「それはそうですが、ラロックは、ただちょっと好奇心を起こしただけかもしれない。じっさいわたしは、ラロックに喧嘩をしかけるために、ジェフが自分でパネルをゆるめていたとしても驚きませんね!」
科学者は笑って、「そんなにびっくりした顔をしないでくださいよ。男の子はどうしても男の子、というでしょう。それに、もっとも進んだチンプの心でさえ、極度なしかつめらしさと子供じみた悪ふざけのあいだでゆれ動くごとは、こぞんじのはずです」
ジェイコプはたしかにそのとおりであることを知っていた.しかし、それでも彼は、なぜケプラーが、明らかに軽蔑しているはずのラロックにこうも寛大な態度をとるのか、不思議だった。ケプラーはそれほどマスコミの評価を気にしているのだろうか?
ケプラーはもういちど礼を言うと、カラとジェフリーを連れ、サンシップの入口にもどっていった。ジェイコブはまわりの作業のじゃまにならない場所を見つけて、貨物用の木箱の上に腰をおろした。
上着の内ポケットから、書類の束をとりだす。
〈ブラッドベリ〉で着陸した乗客の多くには、きょうになって、地球からメーザー通信がとどいていたのである。ジェイコプは、朝、ババカプが自分あての暗号メッセージを受けとりに席を立ったとき、ミリー・マーティンと陰謀めいた目くばせを交わしたのに気づいて、あやうく吹きだしかけた。
ちょうど朝食どき、彼女がババカプとラロックのあいだにすわり、不可解な異星人崇拝にこりかたまったこの地球人と、超然としつつも疑念を隠さない〈ライブラリー〉館長との、話のつなぎ役になっていたときのことである。どうやら彼女は、このふたりのあいだの溝を埋めようと腐心していたらしい。だが、メッセージがとどいたとたん、ラロックはひとりとり残され、彼女とババカプは急いで上の階へ去っていったのだった。
おそらく、それでもあのジャーナリストは、腹をたてなかっただろう。
そのあと、ジェイコプも食事を終え、医学研究室でも行ってみようかと思ったが、かわりに、自分のところにきているメーザー通信を受けとりにいった.そして、部屋にもどると、高さ一フイートにもなる〈ライブラリー〉からの資料の山をデスクの上に置き、瞑想読書に入る準備をした。
瞑想読書とは、短時間に大量の情報を吸収ずるためのテクニックである。これまで、そのテクニックは何度となく役だってくれたが、唯一の欠点は、批評能力がなくなってしまうことだった。情報自体は蓄積されるものの、それを認識するためには、ふつうの状態で、もういちど読み返さなくてはならないのだ。
瞑想状態から覚めると、資料は全部左側に積みあげられていた。まちがいなく、すべてに目を通したのだ。彼の吸収したデータは、ばらばらの情報の断片として心のなかにとびこんできたもので、意識の端には蓄積されたものの、いまだ相互に関連づけられてはいない。少なくとも一週間は、デジャ・ヴュを味わいつつ、トランス状態下で読んだ内容を消化しなおさなくてはならないだろう。あまり長く混乱していたくないのなら、いますぐデータに目を通しはじめたほうがよさそうだ。
いま、サンシップの洞窟のなかで、プラスティックの梱包枠に腰をおろして、ジェイコブは持ってきた資料に、適当に目を走らせていった。情報の断片がちらついているおかげで、中身は読みやすかった。
……惑星ビラは、銀河文明の植民対象区がこの星域に移った直後、ソロ族への奉仕から解放されたばかりの種族、キシャによって発見されたものである。痕跡からして、同惑星には、約二億年前、べつの短命の種族が存在していたことが明らかとなった。その結果、銀河古文書館によって、惑星ビラは六十万年にわたり、メリンの住居となっていたことが確認された。
(一覧表参照──メリン=絶減種族)
必要期間を大幅に越えて休閑地のままになっていた惑星ビラは、調査ののち、慣例的にキシャの植民星として認められ、クラスCに分類された(クラスCとは、期間三百万年を上限に、現状の生態環境に最低限の変化しか与えないとの条件のもとに、一時的居住を認める、植民分類のことである)。
この惑星ビラに、キシャは準知的種族を発見した。その種族名には、発生した惑星名をとって……
ジェイコブは、キシャがやってきて知性化する前、ビラがどんな種族だったのか、思い描こうとした。原始的な狩猟・収集種族であったことはまちがいない。もしキシャがこなかったなら、五十万年がたった今日でも、彼らは同じ状態のままだったのだろうか? それとも、地球の人類学者の一部がいまなお可能だと主張しているように、主族の介入なくして、自力で進化し、別種の知的文化を築いていただろうか?
絶減した種族、メリン≠ノ対する謎めいた言及は、太古よりつづく銀河文明が、そして驚異に満ちた〈ライブラリー〉が、いかにとほうもない時を経てきているかを実感させた。二億年! それほど古い時代に、惑星ビラには宇宙航行種族がおり、六千世紀にわたってそこに住んでいたのである。そのころ、まだババカプの祖先は、穴に住む、とるにたらないちっぽけな動物だったのだろう。
おそらく、メリンはそれなりの代償を払い、みずからの〈ライブラリー〉分館を所有していたはずだ。そして、惑星ビラに植民するずっと前に彼らを知性化した主族に対し、しかるべき敬意を払っていただろう(もっとも、それは心底からではなく、表面的なものだったかもしれないが)。ビラにやってきたメリンは、今度はそこで発見した有望な種族……ババカブの種族の生物学的従弟……を知性化した。だが、その種族も、いまごろは絶減してしまっているかもしれない。
ふいにジェイコプは、居住と植民に関する、銀河の奇妙な諸法の意味を理解した。銀河の諸法は、各種族に対し、自分たちの惑星を一時的居住地と見なすよう義務づけている。現在では矮小で愚かに思えても、未来には成長するかもしれない種族のために、住み場所を確保しておくためである。銀河の列強種族の多くが、地球における人類の蛮行の記録に顔をしかめたのも無理はない。頑固で環墳にはひどくやかましい植民協会を相手どり、人類が白鳥座に三つの植民星を確保できたのは、ひとえにティンプリーミーをはじめとする、数少ない友好的種族のおかげだった。それを言うなら、そもそも〈ヴェサリウス〉が警告を携えてもどり、人類にみずからの犯罪の一部を隠させたことも幸運だったのだ! ジェイコプは、かつてマナティーやオオナマケモノ、オランウータンなどといった動物が存在したことを知っている、十万人にも満たない人間のひとり.だった。
人類の餌食となったあの動物たちは、いつの日か、ものを考える動物に進化したかもしれない。仕事柄、ジェイコブはそのことをだれにも増して痛感し、悔やんでいた。ジェイコプはマカーカイや鯨のことを思い、彼らがいかに危ういところで絶減をまぬがれたかを痛感した。
資料をとりだして、ジェイコプはななめ読みを再開した。読むうちに、もうひとつの問題がひよいと意識に昇ってきた。それはカラの種族に関することだった。
……は、ビラの探険隊によって植民された(この時点で、ビラはキシャを脅迫し、ジハドを遂行してソロ族の歓心を買うことにより、奉仕義務からの解放を勝ちとっていた)。惑星プリングへの植民許可を得るにさいし、ビラは契約に定められた最低限環境保全規定に、おざなりの関心しか払わなかった。ビラの惑星プリング入植以来、植民協会のオブザーバーは、原住種族を保護するための一般基準よりずっと厳しい保護措置をとるよう、ビラを監視してきている。植民地設立の影響で絶減に瀕した種族のなかには、種族プリングの遺伝子的祖先もいる。プリソグという種族名は、やはり惑星名からとられたもので……
ジェイコプは、ビラのジハドについてもっと調べるよう、頭のなかにメモした。銀河政策において、ビラは攻撃的な保守主義者である。ジハド、すなわち聖戦≠ヘ、銀河系の諸種族に伝統を強制するさいの、最後の手段と見なされている.諸協会は伝統を司るが、その強制的執行は、多数意見、つまり最強者の意見にまかされる。
ジェイコプは、〈ライブラリー〉のなかが正当化された聖戦の記録だらけであることを確信していた。伝統の美名のもとに、権力欲、あるいは怨恨がらみで戦争をしかけることに、遺憾の意≠現わすような言及はまずあるまい.
一般に、歴史は勝者によって書かれるものなのだ。
いったいビラは、どんな不満の種をもとにしてキシャから奉仕免除を勝ちとったのだろう?キシャというのは、どんな姿をしていたのだろう〜
ふいに、けたたましいベルの音が洞窟じゅうに鳴り響き、ジェイコプは肝をつぶした。そのベルがもう三回くりかえされ、岩壁に反響するにおよんで、彼は立ちあがった。
目につくかぎりの作業員たちが、全員手にしていた工具を置き、巨大な扉のほうを向いている。その扉の向こうは、気閘とトンネルを通りぬけれぱ、もう地表だ。
低い振動音とともに、扉がゆっくりと左右に別れていった。はじめのうち、広がりゆく割れ目の向こうには、ただ暗黒が見えるだけだった。ついで、なにか大きくて明るいものが姿を現わし、子犬が早く扉をあげてなかに入ろうとじれったげに鼻づらを突っこむように、扉の向こうからその一部を突きださせた。
それは、ついいましがた見学していたのとそっくりの、輝く鏡面球だった。ただ、もっとでかい。それはトンネルの床の上に、実体がないかのようにふわりと浮かんでいた。船は空中でわずかに上下しており、扉がすっかり開ききると、外からのそよ風に吹きあおられるようにして、広大な格納庫に入ってきた。鏡面に映った岩壁や機械類、人々などが、まばゆくその船体を流れすぎていく。
近づいてくるにつれて、船からはかすかなプーンという音やカチカチという音が聞こえてきた。作業員たちが、近くの船架に集まった。
カラとジェフリーも、じっと見とれているだけのジェイコプのそばを駆けぬけていった。横を通りすぎるとき、チソバソジーは大きく笑みを浮かべ、いっしょにくるように手招きした。ジェイコブもほほえみかえし、資料を折りたたんでポケットにすべりこませながら、そのあとを追いはじめた。ケプラーはどこだ? 〈サンダイバー計画〉のチーフは、検査を完了するためジェフリーの船に残っているのか、どこにも姿が見えなかった。大型のサンシヅプは、カチカチ、シューシューという音をたてながら船架の上で位置を定めると、ゆっくりと降下をはじめた。みずから発光しているわけではないのに、そんなことはとても信じられないはど、その鏡面はまばゆく光り輝いていた。ジェイコブは群衆の端っこにいる、ファギンのそばにいった。ふたりは肩をならべて、サソシップが船架におさまるところを見まもった。
「すっかり考えごとにふけっているようだね」ファギンが笛のような声でいった。「考えを中断させて申しわけない。ただ、いったいどのようなことについて考えているのか非公式に訊ねても、かまわないのではないかと思ってね」
ジェイコプは、オレガノに似たかすかな香がかぎとれるほど、ファギンの近くにいた。異星人の葉むらが、そばでそっとゆれていた。
「この船がいままでいたのは、どんなところだったんだろうと考えていたんだよ。太陽のなかというのは、いったいどんなふうなのか想像してみようとしてたんだ──どうしてもできなかったがね」
「あわてることはない、ジェイコプ。わたしだって同じように畏怖に打たれているんだ。それに、きみたち地球の人類がここでなしとげたことを、理解する力もない。矮小な想像でもしながら、初降下を待つとするさ」
そんなことを言って、またしてもおれを恥じ入らせる気だな、この菜っぱ野郎。こっちはいまだに、なんとかこの気ちがいじみた降下をまぬがれる手はないかと考えているというのに。ぜひ行きたいだと!
「きみを嘘つき呼ぽわりずるつもりはないがね、ファギン、この計画に感銘を受けたっていうのは、ちょっとばかり外交辞令が過ぎるんじゃないかい。こんなテクノロジーなんか、銀河の水準から見れぱ石器時代のしろものだ。いままで恒星のなかに降下した種族がいないとは言わせないそ! この銀河系に知的生物が出現して、ほぼ二十億年にもなる。試すだけの価値があることは、少なくとも一兆回は試されているはずだ!」
ジェイコブの口調には、わずかながら棘《とげ》があった。自分の感情の高ぶりは、われながら少々意外だった。
「それはまぎれもなく真実だ、わが友ジェイコプ。わたしも〈サンダイバー計画〉自体がユニークであると思っているふりをするつもりはない。わたし自身の経験としてははじめてだというだけのことだ。しかし、これまでにわたしの接触した知的種族たちは、離れたところから太陽を観測して、結果を〈ライブラリー〉の基準と比較ずるだけで満足していた。だから、わたしにとって、これはまさに冒険そのものなのだよ」
サソシップの船殻の一部がぱっくりと長方形に開き、船架の縁へ倒れこんで、昇降路を形作りはじめた。
ジェイコプは顔をしかめて、
「しかし、有人降下は以前にも実行されているはずだ! 可能であることがはっきりしているなら、何度か実行ずる者が出てきそうなものじゃないか! 〈サンダイバー計画〉がはじめてだなんて、とても信じられない!」
「もちろん、だれかが降下したことは、まずまちがいないだろう」ファギンはゆっくりと言った。
「ほかにいなかったとしても、〈始祖〉がやったことはまちがいない。なにしろ、いずこかへ旅立つ前、彼らはありとあらゆることをなしとげていったと言われているからね。しかし、種族の数は多く、達成された事業もきわめて数多い。だれがなにをしたかをつきとめるのは、非常に難しい」
ジェイコプは黙ったまま、考えこんだ。
サンシップの一部が昇降路として完全に船架に固定されると、ケプラーがほほえみながら、ジェイコブとファギンのほうへやってきた。
「おお! ここにいらっしゃったか。じつに刺激的でしょう? 基地じゅうの人間がここにきている! だれかが太陽からもどってきたときには、いつもこうです。たとえ、今度のような短時間の偵察降下の場合でもね!」
「たしかに」とジェイコプ。「刺激的ですね。ところで、ケプラー博士、いまちょっとよろしけれぱ、ひとつおうかがいしたいことがあるんですが。おそらくもう、博士はサンゴーストについて、ラパスの〈ライブラリー〉分館にデータを問い合わせておいででしょう。そのような幻に出くわした種族は、必ずほかにもいたはずですから、そのデータがあれぱおおいに役にたつはずだと……」
ケプラーの笑顔が消えるのを見て、ジェイコブは口ごもった。
「そもそも、カラがわたしたちのもとへ派遣されているのは、そのためなのです、デムワさん。
〈サンダイバー計画〉は、われわれ独自の研究と〈ライブラリー〉からの限定的な援助とをどれだけうまく融合させられるかという、試験的計画なのです。このタイプの船を建造する段階では、それはうまくいきました。銀河文明のテクノロジーがとほうもないものであることは、わたしも認めなくてはなりません。しかし、それ以来、〈ライブラリー〉はなかなか協力してくれようとしないのでず。
これはひどく複雑な話でしてね。くわしいことは、あす、現状をすっかりお話ししたあとで説明するつもりでしたが、おわかりのように……」
周囲のいたるところから、わあっと歓声があがり、群衆が前へ詰め寄った。ケプラーはあきらめたようにほほえむと、「その件はまたあとで!」と声を張りあげて言った。
船架の上で、三人の男と二人の女が、歓呼で迎える群衆に手をふっていた。そのうちの、背が高く、スマートで、まっすぐなブロンドの髪を短く切りそろえた女性が、ケプラーを目にとめて、にっこりと笑いかげた。ほかのクルーたちをしたがえて、彼女は船架をおりはじめた。
これこそ、この二日間、何度も話に聞かされた、ヘルメス基地の司令官にちがいない。夕ベのパーティーで、医師のひとりが、あれはかつて連合から水星基地に派遣された最高の司令官だ、と彼女のことを形容した。すると、横からもっと若い男が口を突っこみ、……狐みたいな女さ≠ニ言った。そのときジェイコプは、その医師が言いたいのは、司令官がやりてであるということだと思ったが、いま、その女性がしなやかな足どりで急な傾斜路をおりてくるのを見て、彼は医師のことばがそれとはべつの意味の、敬愛をこめたことばであったことを知った。
群衆が左右に分かれて道をあけるなかを、女司令官は手を広げて、〈サンダイバー計画〉のチーフのもとへ近づいてきた。
「彼らはたしかにあそこにいたわ!」開口一番、彼女は言った。「最初の活動領域をタウ・ポイント2まで降下したら、彼らがいたのよ! そのうちの一体には、八百メートル以内にまで近づいたわ! これでジェフも苦労しないですむわね。あれはわたしが見たなかで、いちばん大きな磁食生物の群れだったわ!」
低く、音楽的な声だった。しかも、自身に満ちている。ただ、そのアクセントがどこのものなのかは、ちょっとわからなかった。どこか風変わりで、古風な感じのしゃぺりかただ。
「すばらしい! そいつはすばらしい!」ケプラーはうなずいて、「すると、羊のいるところ、番犬もいたはずだな、うん?」
ケプラーは彼女の腕をとり、ファギンとジェイコプに引き会わせるためにふりかえった。
「おふたかた、こちらはエレン・ダシルヴァ──連合水星基地司令官であり、かつわたしの右腕です。エレン、こちらはミスター・ジェイコプ・デムワ──メーザー通信で話した、あの紳士だ。カンテン=ファギンには、数ヵ月前、地球で会っているな。あれ以来、きみたちは何度かメーザー通信を交わしあっているはずだ」
ケプラーは若い女性の腕に触れて、「さて、わたしはもう行かなきゃならん、エレン。地球から、二、三処理すべきメッセージがとどいているのでね。きみたちの出迎えで、そっちに手をつけるのがもうだいぶ遅れているので、そろそろ行ったほうがよさそうだ。万事順調にいったね? クルーたちも休養充分だろう?」
「だいじょうぶ、ケプラー博士、なにもかも順調そのものだったわ。睡眠はもどる途中でとったし。ジェフを見送る時間になったら、またここで会いましょう」
〈サンダイバー計画〉のチーフは、ジェイコブとファギンに挨拶してから、声がとどく程度には近くにいるものの、ことばをかけるほどでもない距離をおいて立っているラロックに、そっけなく会釈した。そして、エレベーターへ立ち去っていった。
エレン・ダシルヴァは、たいていの人間にはとてもまねできないほど暖かい態度で、敬意をこめてファギンにおじぎをした。ファギンに再開できてうれしくてたまらないようすが、体じゅうからにじみ出ていたし、言わずもがなのことながら、彼女はわざわざ口に出してそう言った。
「それから、こちらがデムワさんね」彼女はジェイコプと握手しながら、「あなたのことはカンテン=ファギンからうかがっています。エクアドルの〈ニードル〉を救うために、あの頂上からとびおりた勇敢な若者というのは、あなたのことね。そのときの話を、ぜひヒーローの口から聞かせてくださいな!」
目の前で〈ニードル〉ということぱを口にされるとき、決まってそうなるように、ジェイコブの心の一部はたじろいだ。が、それを笑顔の奥に押し隠し、
「信じてください、あのジャンプは意図してやったんじゃないんだ! じっさい、もういちどあんなまねをするくらいなら、あなたのサンシップの一機で蒸し焼き旅行に出たほうがましなくらいです!」
ダシルヴァは笑ったが、同時に値踏みするような表情で、不思議そうに彼を見つめた。その表情は気にいったが、ジェイコプは同時に混乱し、なんと言っていいのかよくわからなくなった。
「ともかく……その、あなたのように若く見える方から若者≠ニ呼ぱれるのは、ちょっとおかしなものですね。小皺ひとつできないうちから、こういうところの指揮をまかされるからには、あなたはよほど有能な方なんでしょう」
ふたたび、ダシルヴァは笑った。「まあうれしい! やさしいことを言?てくださるのね、デムワさん。でも、目に見えないだけで、ほんとうのわたしには六十五歳分の小皺が刻みこまれているんですよ。わたしは〈カリュプソ〉の下士官だったんです。二年前、わたしたちが太陽系にもどってきたときの騒ぎは憶えておいででしょう。わたしは九十を越えてるんですよ!」
「!」
宇宙船の乗組員には、きわめて特殊な権利が与えられている.じっさいの年齢がいくつであれ、星界からもどってくると、彼らは好きな仕事につげる……もちろん、彼らが働くことを選べぱの話だが。
「とすると、それだけの敬意を払って接しなくちゃならないわけですね、おばあちゃん《、、、、、、》」
ダシルヴァは一歩あとずさり、顎をあげぎみにして眉をひそめ、目を細めて彼をにらみつけた。
「そんな両極端に走らなくたって! わたしはね、性犯罪の対象となる青少年≠ゥらいきなり社会保障を受けられる年になる仕事につきたくて、よい士官であり、紳士でもあろうと努めてきたけれど、それと同じくらいに、いい女になろうと一生懸命努力してきたんです。わたしの指揮下にない人間で、数ヵ月ぶりに魅力的な男性に会えたというのに、この女には近づきたくないなんて思われたなら、だれかにこの男の手足をしばって海にほうりこんでいいかと訊かれても、どうぞどうぞと返事してしまうかもしれませんよ!」
女司令官のせりふの半分は、古めかしくて意味不明だったが(いったい、性犯罪の対象となる青少年≠ニいうのはなんなんだ?)、言いたいところはなんとなくわかった。ジェイコプはにやりとして、降参のしるしに両手を──喜々として──あげて見せた。どことなく、エレン・ダシルヴァには、タニアを思いださせるところがたくさんある。どこがどう似ていると言えるわげではないが、ぞくぞくずるような手応えがあるのだ。曖昧で、ほとんど識別できないほどだが、それはたどってみるだけの価値があるものだった。
ジェイコプはそのイメージをふりはらった。心のでっちあげた、めめしいたわごとだ! こういうことにかけては、おれは想像力過多でいけない。ともかく、はっきりしているのは、基地司令官がおそろしく魅力的な女性だということだった。
「じゃあ、そういうことにしましょう」とジェイコプ。「それから、しょっぱなからどうだい、今夜!≠ネんていう男は、くそくらえです」
ダシルヴァはくすくす笑い、軽く彼の腕をつかむと、ファギンに向きなおった。
「さあ、おふたりに降下クルーを紹介するわ。それがすんだら、ジェフリーの出発準備で大忙しになるわよ。あの子はみんなと別れるのがきらいでね。今度のやつみたいな短時間のフライトに出るときでさえ、いつもまるで今生の別れみたいに、うしろのほうにいる人間にまでひとり残らず抱きついて泣きわめくんだから!」
第四部
太陽内部の質量分布、角運動量……高解像度
写真……太陽表面あるいは表面付近で進行中の
核反応によって発生する中性子の探知……(も
しくは)太陽風がどのようにして加速されるか
……こういったことに関するデータを入手でき
るものがあるとすれば、それは太陽探査機しか
ない。さらに、通信・追跡システムを搭載し、
できれぱ水素メーザーも搭載できるなら、現在
考えられるかぎり、太陽探査機は、宇宙に源を
持つ低周波重力場を探知するための、最高のデ
ータ収集施設となるだろう。
──NASA
『太陽探査機予備研究会報告書』より
10 高 熱
ひねりアメ、もしくは羽毛の衿巻きに似た黄土色の|もの《、、》が、見えない糸に吊られているかのように、朦朧としたピンクの霧を背にして漂っている。それとはべつに、ひとつひとつが綿毛のローブでできたような、小さい房状の黒いアーチ──ガスでできた触手の列──が、しだいに遠く、小さくなっていきながら、はるか彼方まで連なって、渦巻く真っ赤な瘴気のなかに消えている。
目を凝らして見ても、記録された立体映像の細部は、ジェイコブにはどれひとつとして見きわめられなかった。彩層の中間層で幾何学模様を織りなす、ダークフィラメントとガスの流れは、形、構造ともに、どうにも判別しがたい。
いちぱん近くのフィラメントは、タンクの左前部の一画をほとんど覆っていた。そのほぼ一千キロメートル下の太陽黒点の上には、目に見えない磁場のアーチがかかっており、それにからみつくようにして、綿毛のような、もっと黒っぼく見えるガスの流れが螺旋状にとりまいている。
そこよりずっと上空では、太陽で生産されるエネルギーの大半が、光の形で宇宙空間に放出されている。そこでなら観測者も、数万マイル単位のこまかさでディテールを識別できただろう。だが、たとえそうであっても、いま自分が見ている磁力線のアーチが、ひとつでノルウェーほどもあるという事実には、なかなか慣れることができなかった。しかもそれは、下方の太陽黒点集団上に長さ二十万キロメートルもの大アーチを織りなす、線条細工のひとつでしかないのだ。
しかもそれは、彼らがこれまで見てきた数多くのアーチと比べれぱ、吹けばとぶようなものでしかない。
壮大なカーブを描くアーチのひとつなどは、端から端まで二十五万キロメートルもの長さがあった。その映像は、ずっと前に消減した活動領域の上方で、数ヵ月前に記録されたものである。大アーチの姿は、遠く離れた船から撮影されていたが、その理由はすぐに明らかになった。ねじくれた巨大で幻想的なアーチの頂上が、突如として爆発したのである。太陽でももっとも壮大な現象──フレアーだ。
フレアーの美しさは、壮絶ともいえるものだった。うねり、沸きたつまばゆい渦の正体は、想像を絶する規模のショートだ。いかにサンシップといえども、フレアーが引き金となって生ずる核反応により、ふいに高エネルギー中性子の嵐に見舞われては、とても持ちこたえられないだろう。そうやって生まれた中性子は、サンシップの電磁シールドなどものともしないし、またあまりにも数が多いため、時間圧縮プロセスではとうてい処理しきれないのである。〈サンダイバー計画〉のチーフは、それゆえに、フレアーはふつうは予測可能であり、避けうるものであることを強調した。
そのふつうは≠ニいう但し書きさえなけれぱ、もっと安心できただろうに、とジェイコプは思った。
説明会はもうルーティーンになっているのだろう、ケプラーはもの慣れたようすで、聴衆に要領よく太陽物理学を説明していった。太陽物理学については、ジェイコプもすでに〈プラッドペリ〉船上でおおむね学んでいたが、彩層へのじっさいの降下のようすを見せられてみると、たしかに視覚面ですばらしい理解の助けになることは認めざるをえなかった。これでもいま目にしているもののサイズが把握できなかったとすれば、ほかならぬ自分自身が悪いのだ。
ケプラーは、太陽内部の基本的な構造を簡単に述べた。本物の恒星と言えるのはこの内部のことであり、彩層は表面を包む薄い皮にすぎない。
深奥部では、太陽の想像を絶する質量が核反応を引き起こし、高熱と高圧を発生させ、太陽が自身の大重力によって収縮するのを防ぎ、巨大なプラズマの球体を維持させている。つまり、高圧が太陽を膨張≠ウせているのだ。
核の炎によって放出されるエネルギーは、ときには光、ときには下層部の熱い物質から上層部のより温度の低い物質への対流という形をとって、ゆっくりと外へ向かう。まず輻射、ついで対流、そしてまた輻射を経て、このエネルギーは光球≠ニして知られる厚さ数百キロメートルの層に到達し、ここでようやく宇宙空間に解放されて、永久に故郷を離れる。
恒星内部の物質密度はきわめて高いので、」内部で突然の激変が発生したとしても、それが太陽表面を離れる光の量変化として現われるまでには、百万年を要するだろう。
しかし、太陽の外縁は、この光球にはとどまらない。太陽棲成物質の密度は、中心から遠くなるにつれて、徐々に低くなっていく。太陽風に乗り、宇宙空間へと未来永劫流出をつづけるイオンや電子──地球のオーロラや、水星のプラズマの尾を形成する張本人──を考慮に入れるなら、太陽には厳密な境界はないと言ってもいいかもしれない。じっさいそれは、他の恒星にまで到達するのである。
日食時、月を縁どって、コロナの暈《ハロー》が輝く。写真で見るかぎり、きわめて柔らかそうに見えるその触手は、じつは数百万度にも熱せられた電子で構成されているのだが、これらは希薄なものであって、密度の低さでは(そしてサソシップに対する害のなさでは)、ほぼ太陽風と変わらない。
最後に、光球とコロナのあいだにあるのが、彩層……老ソルがみずからの発ずる光に最後の修正を加え、地球人の目に陽光として見えるスペクトル特性を与える層である。
ここでは、昼度が急激に最低温度に低下して、ほんの%、三千度程度に落ちこむ。光球の粒状斑の脈動は、彩層を貫いて重力のさざ波を上方に送りだし、数百万キロメートルにもわたって時空のコードをかき鳴らす。そうやって放射された荷電粒子群ぱ、アルフヴェン・ウェーブの波頭に乗って、はるか彼方まで吹き流されてゆく。
こここそは、サンダイバーの活動領域である。彩層において、太陽の磁場は鬼ごっこを行ない、単純な化合物がつかのま形成される。正しい帯域さえ選べば、はるか彼方まで見とおすことができるのだ。そして、見るべきものはたくさんあった。
いまやケプラーは、得意の分野の解説にすっかり没頭していた。照明を消された部屋で、彼の髪と口髭が、立体タンクの発する光をあびて赤っぼく光っている。細い指示捧をふるい、聴衆に彩層の構造を指し示すとき、彼の声は自信に満ち温れていた。
黒点周期とは、磁場の活動が定期的に強くなったり弱くなったりすることで、その極性は十一年ごとに逆転する。太陽からとびだした℃・場は、彩層内に複雑なループを描く。そのループは、ときおり、水素アルファ線を用いることによって、ダークフィラメントのアーチをたよりに、位置をつきとめることができる。
ダークフィラメントは、磁力線のまわりにからみつき、複雑な誘導電流によって光を放つ。拡大図で見ると、最初にジェイコプが思ったほど、それは羽には似ていなかった。そのアーチの全長にそって、暗い赤と明るい赤のひもがからみあって、濃淡の縞を作り、それがところどころで複雑なバターンを描いて渦巻いたかと思うと、緊密なこぶとなって、フライパンからこぼれる熱した油のように、まばゆいしずくを迸らせている. 、
それは茫然とするほど美しい光景だったが、赤一色の色調を見つめているうちに、ジェイコプは目が痛くなってぎた。タンクから目をそらし、観測室の壁を見つめて目を休ませた。
ジェフが別れを告げ、サンシップで太陽に飛びたってからの二日間、ジェイコブは喜びとともに、いらだちをも感じていた。たしかに、忙しい二日間ではあった。
きのうはヘルメス鉱床の見学に連れていかれた。基地北方にぽっかりとあいた巨大な洞窟群には、いったん溶けてから固まった金属の流れが、いく層にも広がっていた。その純粋な金属からなる、なめらかな虹色の表面にも驚いたが、その鉱襞にへばりついて採掘している小さな機械や人間の群れには.畏れさえ抱いた。溶解金属が凍結してできた大金属鉱床の美しさといい、宝を掘りだすためにその美しさをだいなしにするちっぽけな人間の無謀さといい、あのとき感じた驚きは、決して忘れることがないだろう。
また、エレン・ダシルヴァと過ごした午後も楽しかった。ダシルヴァの居室のラウンジで、彼女が封を切った異星産のブランディーを──ジェイコプは、それがどれだけ値の張るものか、とても考える気にはなれなかった──ふたりしてすっかりあけてしまったのである。
二、三時聞のうちに、ジェイコブはこの基地司令官が、すっかり気に入ってしまった。その機知と関心の幅もさることながら、楽しい古風なユーモア感覚は、じつに魅力的だった。暗黙の了解のうちに、おもしろい話はあとにとっておくことにして、ふたりはまず、身のまわりのことから話しあった。やがてジェイコプは、彼女を楽しませるため、マカーカイの研究のことを持ちだした。いかにしてあの若いイルカを──催眠術を使ったり、(たとえば機械鯨のようなおもちゃ≠与えて遊ぼせるなどして)懐柔したり、愛情をかけたりして──説得し、〈鯨夢〉にかわって(あるいはそれにプラスする形で)、人間がするような抽象的思考に集中させることができたか、といったことをである。
つづいて、〈鯨夢〉が──徐々にではあるが──理解されつつある過程を語り、アメリカ・インディアンのホピー族やオーストラリアのアボリジソの世界観を引合いに出して、まったく異質な世界観を、ぼんやりとながら人間の心にも理解できるものに置き換えてみせた。
エレソ・ダシルヴァは聞き上手で、ジェイコブの口からつぎつぎにことばを引きだした。彼が話しおえると、彼女はいかにも満足げな顔になり、今度はお返しに、ある暗黒星の物語をはじめた。話を聞くうちに、ジェイコブの髪はほとんど逆立ちそうになった。
恒星船〈カリュプソ〉のことを話すとき、彼女の口調には、まるで母親と子供と恋人をいっしょにしたような、やさしい響きがこめられた。彼女にとって、あの宇宙船と乗組員たちが世界そのものであったのは、主観時間にして三年間にすぎないが、地球にもどる途中、それらは彼女と過去とを結びつける唯一の絆となったのだ。はじめての航海のとき、彼女が地球に残していった者のうち、生きて〈カリュプソ〉の帰還を出迎えてくれたのは、いちばん若かった者たちだけだった。そして、その彼らも、すっかり老いていた。
〈サンダイバー計画〉への仮参加を申し出られたとき、彼女はこの機会にとびついたという。太陽探険という科学的冒険に加え、指揮官としての経験を生かせるというだけでも充分な理由だったのだろうが、ジェイコブはその選択の裏に、ほかにも理由があったであろうことを感じとった。
表に出さないようにしていたが、エレンはどうやら、星界から帰還した恒星船乗組員が示すので有名な両極端のふるまい──世を捨ててひっそりと閉じこもるか、騒々しい乱痴気騒ぎにふけるか──が、気にくわなかったらしい。てきぱきとして有能そうな外見と、よく笑う陽気な女性の内面の下からは、核が……それを言い表わすのに、ジェイコプは内気さ≠ニいうことばしか知らなかったが……顔を覗かせていた。水星にいるあいだに、ジェイコプは彼女のことをもっと知りたくてたまらなくなった。
だが、ふたりでとるタ食は、べつの機会に延期せざるをえなくなった。ケプラー博士が正式の晩餐会を開いたからである。それは気どった晩餐会で、だれもが紳士を気どり、お世辞をいうことに熱中していたので、その晩ジェイコプは、ほとんど考える余裕など持てなかったのだった。
しかし、いちばんいらだたしかったのは、〈サンダイバー計画〉そのものだ。
ジェイコブはダシルヴァを手はじめに、十人以上もの基地のエンジニアに質問をしてまわったものの、返ってくる答えは、いつも同じだった。
「おっしゃるとおりですがね、デムワさん、その話をするのは、ケプラー博士の説明があったあとのほうがいいんじゃないですか? そのほうがずっとわかりやすいし……」
はたしてそうなるものかどうかは、非常に疑わしかった。
〈ライブラリー〉からとりよせた資料は、いまだに彼の部屋に山積みになっていた。その資料の山を、ジェイコプは一度に一時間ずつ、意識を通常の状態に保ったまま消化していった。のろのろと資料を漁っていくうちに、つぎの文章を読んだとたん、ぱらぱらになっていた知識の断片が、急になじみ深いものとなった。
……また、惑星プリングの他の原住生物たちには、どの種にも目がひとつしかないにもかかわらず、プリングにだけなぜふたつの目があるのかも理解されていない。一般に、この点をはじめとするプリングと他の原住種族とのちがいは、ビラの植民者による遺伝子操作の結果によるものと考えられている。ビラは、協会の正規役員の質問以外には答えようとしないが、枝わたりをする樹上動物であったブリングを知性化し、二足歩行ができ、ビラの農場や町で労働にあたれる知的生物に改良したことについては認めている。
プリング独特の歯の構造は、かつて樹食動物であったことに起因している。彼らの惑星の樹木の、栄養価の高い外樹皮をすりつぶずために進化したのが、この歯である。この樹皮は、一般世界においては果実に相当するものであり、惑星プリソグ産植物の多くにとっては、胞子拡散器官の役をはたすもので……
すると、カラの奇怪な歯の形状には、そういう背景があったのか! その用途を知ってみると、プリングの碍子のような歯に対するイメージも、それほど不快なものではなくなった。それが菜食のためのものであるという事実には、ひどくほっとさせられた。
資料を読み返しているうちに、ジェイコプは〈ライブラリー〉分館が非常に要領よくこの報告書をまとめていることに気づいて、興味を覚えた。もともとのデータが書きこまれたのは、地球から数百光年とまではいかずとも、おそらく数十光年は離れた場所であり、それも〈コンタクト〉よりずっと昔のはずである。ラバス分館の意味分析機械は、異星の言語を意味の通る英語文に変える上で、明らかにこつを身につけつつあるらしい。もちろん、内容のいくぷんかは、翻訳の過程で失われてしまうかもしれないが。
〈コンタクト〉直後にはじめて行なわれた破減的な試みののち、それらの機械をプログラムするにあたって、〈ライブラリー〉協会が人間の助力を必要としたのは事実だが、といって、それでなんのなぐさめになったわけでもなかった。全体的に、ETたちはすべて同じ源流を持つ言語間の翻訳に慣れていたため、はじめのうち、彼らは人類のすぺての言語の気まぐれで不正確な″\造に、驚きあきれた。
とくに英語については、その大仰な表現、内容のとりとめのなさ、乱れ具合のあまりのひどさに、絶望の声をあげた(あるいはさえずり、キーキーわめき、はばたいた)。語尾変化および格が高度に整理された構造を持つラテン語や、それよりもはるかに整った新石器時代式の印欧語なら、もっと喜ばれていただろう。だが、人類は頑固に、〈ライブラリー〉の要求にあわせて英語を国際語の地位からおろすことを拒み(〈毛皮派〉と〈開化派〉は、おもしろがって印欧語を学びはじめてはいたがーどちらにもそれなりの理由があった)、そのかわりに、協力的な異星人が英語に慣れるのを助けるため、人類中でももっとも優秀な男女を派遣したのである。
プリングは、ビラの所有するほぼ全惑星の都市や農場で働いているが、惑星ビラだげは例外である。ビラの太陽はF3型の矮星であり、知性化されたこの世代のプリングには、明らかにまぶしすぎるのだ(プリングの太陽はF7型である)。プリングの視覚システムに関し、本来の知性化認可期限が大幅に過ぎてなお、ビラによってたえず遺伝子的研究が行なわれているのは、このためであり……
プリングに対しては、伝統協会および植民協会から、使用制限資材を自由に使うことが認められているが、植民が許されているのは、生物がおらず、環境整備の必要のある、Aクラス惑星のみである。何度かのジハドにおいて指導者的役割をはたしたビラは、自分たちの類族により古く生命を持つ惑星を与え、だいなしにされてしまいたくないのだと……
カラの種族に関するデータは、銀河文明について、多くを物語っていた。それはすばらしいものではあったが、銀河文明の権謀術数ぶりに、ジェイコブは不安を覚えた。漠然とながら、これはしっかりしなくてはいけないそ、という気持ちが湧いてきた。
そして、ちょうどそこを再読していたときに、待ちに待ったケプラーからの説明会の召集がかかったのである。
いま、彼は観測室にすわって、考えていた。いつになったらこの男は肝心な点に触れるのだろう。磁食生物とはなにか? そして、ここの連中のいうソラリアソのふたつめのタイプ≠ニは、どういうものなのか? それはサンシップと鬼ごっこをしたあげく、人間の姿をとってクルーたちを脅したというが……
ジェイコプは立体タンクに目をもどした。
ケプラーの選んだフィラメントが、タンクいっぱいに広がっており、それはなおも膨張をつづけて、見ている者に、その羽のようなおそるべきかたまりに呑みこまれてしまいそうな錯覚を与えた。しだいに細部がはっきりしてきた──緊密な磁力線の織りなすねじくれたかたまり──熱いガスがカメラの撮影範囲を横切るたびに、蒸気のようにゆらぎながら現われては消える、いくつもの房──視界の彼方ぎりぎりのところで踊っている、まぱゆい光点の群れ。
ケプラーは、ときにジェイコブには専門的すぎる内容も交えつつ、おおむねわかりやすい隠喩を用いながら、ひとりで説明をつづげた。その声はしっかりとして自信に満ちており、明らかにこのショーを演ずることを楽しんでいるようだった。
ケプラーは近くのプラズマ流のひとつを指し示した。いくつかの、目に突きささるほどまばゆい光点に、太くねじくれた暗くて赤いひもが、螺旋状にからみついている。
「はじめのうち、これはよく見られる、圧縮された白斑であると考えられていました。しかし、それは二度めの観測をするまでのことです。そのときわたしたちは、そのスペクトルが全然別ものであることを発見したのです」
ケプラーは指示棒の根もとにあるコントロール装置をいじって、その小フィラメントの中心部をズーム・アップさせた。
まばゆい光点が、ぐっと膨れあがった。倍率があがるにつれて、より小さい光点も見えるようになった。
「さあ、ここで思い出してください」ケプラーは語をついで、「さきほど見たあの白斑は、赤い色を──非常にまばゆいながら、それでも赤い色をしていました。そのわけは、この場面が撮影されたとき、船のフィルターが、水素アルファ線を中心とするごくせまいスベクトル領域しか通さないように調整されていたからでず。さあ、いまこそ、わたしたちの興味を引いたものの姿が見えるはずです」
なるほど、こいつか、とジェイコブは思った。
明るい緑色をした、まばゆい光点。
それらはウインクしているかのようにまたたきつつ、エメラルド色に輝いていた。
「緑と青の帯域のなかには、フィルターを用いても、たいていの帯域よりカットしにくいものがあります。しかし、距離が遠ければ、それらはふつう、水素アルファ線のなかに完全に呑みこまれてしまう。しかもこの緑色は、その帯域のどれでもないのです!
もちろん、わたしたちの驚きぶりはご想像になれるでしょう。いかなる熱光源も、このスクリーンを通してあのような色を透過させることはできません。あれを貫くとなると、これらの物体の発する光は、とてつもなく明るいだけでなく、完全に単色であり、何百万度もの輝度温度を持っている必要がある!」
ジェイコプはついに興味を覚え、説明のあいだずっととっていたけだるげな態度を改めて、筋を伸ばした。
「言いかえれぱ」とケプラーはつづけた。「それはレーザーでなくてはならないのです!」
「恒星内部において、自然にレーザー現象が発生するためには、いくとおりかの過程があります」ケプラーは先をつづけた。「しかし、これまで地球の太陽でそんな現象が起こるところを見た者は、ひとりもいません。そこでわたしたちは、調査に乗りだしました。そして、だれにも想像だにできなかった、きわめて特殊な生命形態を発見するにいたったのです!」
科学者は指示棒のコントロール装置に触れ、画面の倍率を変化させはじめた。
そのとき、柔らかいチャイムが、聴衆の前列であがった。エレン・ダシルヴァが受話器をとるのが見えた。彼女は受話器に向かって、小声で話しかけた。
ケプラーは自分のショーにずっかり熱中していた。明るい光点群がゆっくりと大きくなっていき、それがじつは、小さな光の環であったことが識別できるようになった。が、まだまだ細部を見分けるには小さすぎた。
ふいに、電話に向かってつぶやくダシルヴァの声がはっきりと聞こえた。
ケプラーさえも、説明を中断し、彼女が電話の向こうの人間にやつぎぱやに質問を投げかけるのを見まもった。・
やがて彼女は、仮面のように表情をこわばらせたまま、受話器を置いた。立ちあがると、不安そうに指示棒をいじりまわして立ちつくしてるケプラーのもとへ歩み寄った。わずかに身をかがめてその耳もとになにごとかささやきかける。とたんに、〈サンダイバー計画〉のチーフの目は閉じられた。ふたたび開かれたときには、ケプラーの顔は完全にうつろになっていた。
だしぬけに、だれも彼もがいちどきにしゃべりはじめた。カラが最前列の席を離れて、ダシルヴァのそばに行った。空気の流れを感じたと思うと、ドグター・マーティンがケプラーのもとへ通路を駆けよっていった。
ジェイコプも立ちあがり、そばの通路に向きなおったが、そこにファギンが立っていた。
「ファギン、いこう、なにがあったのか調べに。ここでぼーっと突っ立っていてもしかたがない」
「その必要はないだろう」カンテンの哲学者は、笛の音のような声で言った。
「どういうことだ?」
「人間の司令官、エレン・ダシルヴァに電話で伝えられたことの内容が、わたしには聞きとれたからだよ、わが友ジェイコプ。よい知らせではなかった」
ジェイコプは心のなかで叫んだ。どうしておまえは、そういつも無表情でいられるんだ、この葉っぱだらけの、インテリぶったナスビ野郎! いいニュー.スでないことくらい、見ていれぱわかる!
「じゃあ、いったいなにがどうなったっていうんだ!」ジェイコプは問いただした。
「心からの悲しみを伝えよう、わが友ジェイコプ。どうやらチンパンジーの科学者、ジェフリーの乗ったサンシップが、きみたちの太陽の彩層内で、破壊されたらしいのだ!」
11 乱 流
立体タンクからの黄土色の光を浴びて、ドクター・マーティンがケプラーのそばに立ち、うつろになった目の前で左右に手をふりながら、何度も何度も名前を呼びかける。聴衆たちは口々になにか言いながら、演台に駆けよっていく。が、異星人のカラは、ケプラーのほうを見ながらひとり離れたところに立ち、ほっそりとした肩の上で、大きな丸い頭をかすかに横にふっていた。
ジェイコプはカラに話しかけた。
「カラ……」プリングには、彼の声がとどいていないようだった。巨大な目の光は失せ、その分厚い唇の奥からは、歯がガチガチかみあわされるような音が聞こえている。
ジェイコブは、立体タンクから溢れ出る強烈な赤い光に盾をひそめながら、呆然として立ちつくしているケプラーの前へ行き、その手から指示棒をそっととりあげた。マーティンの努力はまったく効果をあげていなかったが、ケプラーの意識を呼びもどそうとするあまり、彼女はジェイコブに気がつきもしなかった。
ためしに二回ほど指示棒をひねると、画像が消え、室内の照明がともった。これで状況はずっと処理しやすくなった。がやがやという声がおさまったところを見ると、ほかの者たちもそれに気づいたにちがいない。
ダシルヴァは電話から顔をあげ、指示棒を持っているジェイコプを見やった。感謝をこめてにっこりほほえみ、それから、電話に注意をもどして、向こうの要員に厳しく質問を投げかけはじめた。
医療班が担架を携え、駆け足で到着した。ドグター・マーティンの指示のもとに、彼らはケプラーを担架の上に横たえると、戸口に固まった人々を押しわけて、そっと運びだしていった。
ジェイコプはカラに向きなおった。ファギンはどうにか、壇上に立った〈ライブラリー〉代表のうしろまで椅子を運びあげ、すわらせようとしていた。ジェイコプが近づいていくと、葉のさやぎとかんだかい笛のような音はやんだ。
「彼はだいじょうぶだと思う」と、歌うような声でカンテン。「彼は非常に感情移入の激しい生き物なので、友人ジェフリーの死を、大仰なほど嘆き悲しんでいるのだろう。これは、しぱしば若い種族が、なかよくなったべつの若い種族の個体の死にさいして示す反応なのだ」
「なにかしてやれることはないのか? 彼にはこちらの言うことが聞こえるのか?」
カラの目は焦点が定まっていないように見える。とはいえ、その目を見たところで、ジェイコプになにがわかるわけでもなかった。カラの口のなかから漏れるガチガチという音は、なおもつづいていた。
「聞こえているはずだ」とファギンがジェイコプの質問に答えた。
ジェイコプはカラの腕をとった。その腕はひどく細く、柔らかかった。できることは、なにもなさそうだった。
「聞きたまえ、カラ。きみのまうしろに椅子がある。すぐに腰をおろしてくれれば、ぼくらはみんな、ずっと安心するんだが」
異星人は答えようとした。大きな唇が分かれた。とたんにガチガチという音がひどく大きくなった。目の色がかすかに変化し、唇がふたたび閉じられた。カラは弱々しげにうなずくと、ジェイコプに身を委ねて椅子にすわらせてもらった。丸い頭が、ゆっくりと、ほっそりした腕のなかに抱えこまれた。
感情移入の度が強いにしろそうでないにしろ、ひとりの人間──チンパンジー──が死んだからといって、これほど激しい反応を示すというのは、どこかしら異常だ。体の根本的な科学組成にいたるまで、カラはチンプとはどこまでも異質であり、その魚に似た遠い祖先が泳いでいたのは、地球の海とは異質の海だし、まったく異質な恒星の陽光に、彼は息もつげないほどの驚きを示したのではなかったか。
「みなさん、聞いてください!」ダシルヴァが壇上に立って呼びかけた。
「まだお聞きおよびでない方のためにご報告します。さきほど、未確認情報ですが、ジェフリー博士の乗ったサンシップが、ジェーン黒点付近の活動領域J12付近で事故にあったかもしれない、との報告が入りました。これはまだ未確認情報であり、今後の確認は、事故のあった時点までに受信した遠隔データをチェックするまで待たなけれぽなりません」
ラロックが部屋の反対側の端から手をふって、司令官の注意を引いた。彼は片手に、サンシップの格納洞窟でとりあげられたのとはべつの、小型カメラを持っていた。ジェイコブは不思議に思った──ケプラーはどうして、もう一台のカメラを返してやらないのだろう?
ラロックが言った。「ミス・ダシルヴァ、マスコミにも遠隔映像を見せてもらえませんかね? 公共記録というやつがあるはずでしょう」輿奮しているために、ラロックのフラソスなまりはほとんどなくなっていた。それがないと、ミス・ダシルヴァ≠ネどという古めかしい呼びかけも、ひどくおかしく聞こえた。
じかにラロックを見ようとはせず、彼女は押し黙った。証拠法には、秘密寄託局の封印≠ェないかぎり、ニュースの題材となる公共記録への情報提供を拒否してはならないことが明記されている。だが、同法の順守を監督する秘密寄託局の人間といえども、そんなことは許したがらないだろう。もっとも、ラロックは明らかに彼女を困らせてはいたが、強引な押しには出ていなかった──いまはまだ。
「いいでしょう。コンピューター・センターの上の観察ギャラリーには、見学希望者を全員収容するだけの余裕があります。ただし」と彼女はドアのそばに固まっている基地要員の集団をにらみつけて、「するべき仕事のある者はべつでず」と、片方の眉をつりあげていった。出口付近には、たちまちあわてふためいた動きが湧き起こった。
「集合は二十分後とします」と言って、彼女は壇をおりた。
ヘルメス基地の要員たちは、ただちに部屋を立ちさりはじめた。最近ついたばかりの者やビジターなど、地球の服を着ている者たちは、もっとゆっくりと部屋を出ていった。
ラロックはすでにいなくなっていた。地球へ特ダネを送りに、メーザー通信室にとんでいったのだ。
気になるのはババカブだった。説明会がはじまる前、あの小さな熊のような異星人はドクター・マーティンと話していたが、会場にはやってこなかった。説明会のあいだ、ババカブはいったいどこにいたのだろう?
エレン・ダシルヴァが、ジェイコプとファギンのもとへやってきた。
「カラはとてもETらしくないETなの」ジェイコプに向かって、彼女はやさしく言った。「いつもよく冗談を言っていたわ。ジェフリーと自分のうまがあうのは、どちらもヒエラルキーの最下層に位置していて、ごく最近、樹上生活からおりてきたからだって」エレソは同情をこめてカラを見やり、片手を異星人のほおにあてた。
これならカラも心がなごむだろう、とジェイコプは思った。
「悲しみは若い種族の主要な特典だ」ファギンの葉がこすれあい、鈴がいっせいに鳴るような、シャラシャラという音をたてた。
ダシルヴァは手をおろして、「ジェイコプ、じつはケプラー博士は、彼の身になにごとかが起こったら、あなたとカンテン=ファギンに相談するよう、指示を書き残していたの」
「なんだって?」
「いま言ったとおりよ。もちろん、この指示にはほとんど法的な重みはないわ。わたしがじっさいにすべきことは、あなたたちに墓地スタッフの会議へ参加してもらうことだけ。とくにあなたたちふたりは、遠隔映像の再生を見のがしたくないだろうと思ったんだけど」
ジェイコプは彼女の立場を考えた。基地司令官として、彼女はきょう行なわれる、すべての決定の責任を負うことになるだろう。しかし、いま水星にいるある程度名の通った人物のうち、ラロヅクは敵対的だし、マーティンはこのプロジェグトにはほとんどそっぽを向いており、ババカプはなにを考えているのかわからない。もし地球が、ここでのできごとについてみなから証言をとることになれぱ、友人を作っておいたほうが彼女のプラスになるだろう。
「もちろんだとも」とファギンが言った。「わたしたちはふたりとも、喜んできみたちのスタッフの力になろう」
ダシルヴァはカラに向きなおり、やさしい声でだいじょうぶかと訊ねた。ちょっと間があってから、カラは手のあいだから頭をあげ、ゆっくりとうなずいた。ガチガチという音はとまっていたが、目はまだ鈍く、その隅で、明るい光の点が不規則にまたたいていた。憔悴しきった、見るもあわれな状態だった。
ダシルヴァは遠隔映壊の再生の準備を手伝いに、部屋を出ていった.そのすぐあとで、ビラのババカブが、つややかな毛を太短い首のまわりに逆立て、ふんぞりかえって入ってきた。口がはじけるようにすばやく動き、胸のヴォーダーが人間の可聴域でがなった。-
「知らせは、聞いた.全員が、遠隔・映像、を見ることが重要だ。だからおまえを、連れにきた」
ババカブは少しわきに動いて、ジェイコプのうしろを覗きこんだ。そして、カラが放心したように、貧弱な折りたたみ椅子にすわりつづけているのを見ると、
「カラ!」と怒鳴りつけた。プリソグは顔をあげたが、ためちいがちに、ジェイコブには意味のわからないしぐさをした。嘆願するような、否定するようなしぐさのようだ。
パパカブの毛が逆立った。一連の舌打ち音と、かんだかいキーキーということばが、やつぎぼやに吐きだされた。カラはたちまちふらりと立ちあがった。ババカプは三人にくるりと背を向けると、短く力強い足どりで、廊下へ歩みさっていった……
そのあとから、ジェイコプとファギンも、カラといっしょに歩きだした。ファギンの頭≠フどこかから、奇妙な音楽が流れだした。
12 重 力
自動装置のおかげで、遠隔計測室はコンパクトにまとまっていた。大きな観測スクリーンの下には、わずか十台ほどのコンソールが二列にならんでいるきりだ。後方で高くなった壇上の、手すりのうしろ側には、招待された者たちが、オペレーターが慎重に記録されたデータを再チェックするのを見まもっていた。
ときおり、男女の混じったオペレーターのだれかが、それぞれのスク.リーンに顔を寄せ、サンシップがまだ存在するという手がかりをもとめて、望みのないままに、細部を見ようと覗きこむ。
エレン・ダシルヴァは、ギャラリーにいちばん近い、二台のコンソールのそばに立っていた。その二台のディスプレイには、ジェフリー最後の報告の記録が映しだされていた。^
数時間前、四百万キロメートルの彼方でキーボードに打ちこまれた、文宇の列が現われた。
〈自動装置による航行は順調だ……乱流通過のさい、時間要素を十分の一に設定しなけれぱならなかった……昼食をたった二十秒で食べた勘定になるな、ハハハ……〉
ジェイコプは笑みを浮かべた。あの小さなチンパンジーが、時間流の速度のちがいを逆手にとるところが想像できたからだ。
〈いま、タウ・ポイントーを通過した……前方で磁力線が一点に収斂している……計器によれぱ、そこにエレンの言った群れがいるようだ……数は約百頭……現在、接近中……〉
と、だしぬけに、ジェフリーの類人猿的なしわがれ声が、ラウドスビーカーから流れ出た。
「森ノナカデ話ヲツケルマデ待ヅテテクレ、ミンナ! 初ノ太陽内単独航行ダ! 悔シサニ身ヲ焦ガセ、たーざん!」オペレーターのひとりが、笑いそうになるのを必死でこらえた。チンパンジーのせりふには、シューシューという音がかぶさって終わった。
ジェイコプはびっくりして言った。「すると、彼はひとりだけで太陽に降下したのかい?」
「知らなかったの!」ダシルヴァは驚き顔で、「このごろは、降下もかなり自動化が進んでいるのよ。乗り組んでいる者が乱流にふりまわされてぐちゃぐちゃのかたまりになってしまわないよう、停滞場を迅速に調整できるのは、コンピューターだけだもの。ジェフには……二台のコンピューターがあったわ。一台は船に積載のもの、もう一台は.レーザー通信でつながれた、この水星の大型コンピューターよ。装置のあちこちに触れること以外に、人間になにができるというの?」
「それなら、なぜ無人にしない?」
「ケプラー博士の考えなのよ」少し言いわけめいた口調で、彼女は答えた。「博士は、サンゴーストが逃げたり威嚇的なしぐさをするのは、人間の精神波パターンに対してだげなのかどうかを確認したかったの」
「そこまでは説明されていなかったものでね──あの事故のせいで」
彼女はブロンドの髪をひと房うしろにかきあげた。
「そうだったわね。磁食獣と最初に何度か遭遇したときには、牧夫は全然見あたらなかったの。そのうちにそれと出くわして、わたしたちはまず、その生物と磁食獣との関係を調ぺるため、遠くから観測したのよ。
いよいよ接近してみると、はじめは牧夫は、ただ逃げるだけだった。ところが、それから彼らの行動が急に過激になったの。大半は逃げてしまったのに、一体か二体が計器のない上部半球へまわりこんで、船のすぐそばまでおりてきたのよ!!」
ジェイコプはかぶりをふった。「ぼくにはよくわからないんだが……」
ダシルヴァはいちばん近くのコンソールにちらりと目を走らせたが、なにも変わったことは起きていなかった。ジェフの船からの唯一の報告は、太陽学的データ──太陽の状態に関する、機械的な報告だけだった。
「いい、ジェイコプ、サソシップの実体は、ほぼ完壁な反射球殻に包まれた、平らなデッキなの。重力波エンジン、停滞場ジェネレーター、冷却レーザーなどは、前部デッキの中央部に位置する、小型球のなかに納められているのよ。記録装置はデッキの下¢、の縁にならんでいて、クルーは上¢、に乗るようになっているから、どちらの側からも、デッキの縁にかぎっては、なにものにもじゃまされず外が見通せるわけ。でも、意図的にカメラを避けるものに出くわしたのは、あれがはじめてだったのよ!」
「ゴーストが上¢、にまわりこんで計器の視野からはずれてしまったのなら、船を回転させればいいじゃないか? きみたちは重力を完全にコントロールすることができるんだろう?」
「やってはみたわ。すると、彼らは消えてしまったの! もっと悪いことに、こちらがどれほど早く回転しても、彼らはずっと上¢、にとどまっていたのよ.ただ上に浮かんだまま! クルーの一部が、あのいまわしい人型の姿を見たのは、そのときだったわ!」
ふいに、ジェフリーのしわがれ声が、ふたたび室内を満たした。
「ヘイ! 番犬ドモノ群レガ、アノ環状体生物ドモヲ追イ立テテクルゼ! べっとヲクレル気カナ! 気ノイイ犬コロドモダ!」
エレンは肩をすくめた。
「ジェフはいつでも懐疑的なの。目の錯覚なんて起こしたことがないのよ。その行動ぶりにまったく知的なところか見られないといって、牧夫たちのことをいつも番犬≠ニ呼んでいたわ」
ジェイコプは苦笑いを浮かべた。犬族に対するスーパーチンブの優越感は、彼らの模倣主義的妄念の、より滑稽な側面のひとつなのだ。それはまた、チンプと人間の関係よりも古い犬と人間との特別な関係に対する、彼らの敏感な気持ちの希釈されたものでもあるのだろう。多くのチンブは、犬をペットとして飼っていた。 .
「彼は磁食生物のことを、卜ロイドと呼んでいたのかい?」
「ええ、あれは大きなドーナツ型をしているから。あなたもその形状が識別できたはずよー説明会があんなふうに……中断されなげればね」彼女は悲しげにかぶりをふって、うつむいた。
ジェイコブは狼狽し、「だれにもどうしようもなかったことだから……」と言いかけて、それがいかにもばかげたせりふであることに気がついた。ダシルヴァは一度うなずき、コンソールにふりかえって、ほんとうに目が放せないのか、それともそんなふりをしているだけなのか、技術的情報にじっと目をそそいだ。
左側の、手すりの近くでは、ババカプかクッションの上にごろりと寝そべっていた。手にはブック・リーダーを持っており、小さなスクリーンの上から下へつぎつぎに現われる異星の文字を、一心不乱に呼んでいる。ジェフリーの声が流れると、ビラは頭をあげて聞き入り、それからピエール・ラロックに、謎めいた視線を向けた。ラロックの目は、歴史的瞬間≠記録できることで、輝いていた。ときおり、低く興奮した声で、だれかから借りてきた小型カメラのマイクにレポートを吹きこんでいる。
「あと三分」ダシルヴァがうわずった声で言った。
しばらくは、なにごとも起こらなかった。ついで、スクリーンにふたたび大きな文字の列か現われた。
〈今度はビッグ・ブラザーどもが向かってきた。少なくとも二体は向かってくる。いま、近距離用カメラを向けた……おい! 船体が傾ぎだした! 時間圧縮装置がいかれたんだ!!〉
「ダメダ!」だしぬけに、低いきしるような声が聞こえた。「急遮二漏レテイク……傾キガヒドクナッタ! 落下シテイク!……いーてぃードモダ! ヤツラガ……」
ほんの一瞬、空電の音が響いたと思うと、静寂が訪れた。コソソールのオベレーターがゲインをあげるとともに、ヒス・ノイズが大きくなった。それから、なにも聞こえなくなった。
長いあいだ、だれも口をきかなかった。やがて、コンソール・オペレーターのひとりが、部署から立ちあがった。
「内爆が確認されました」
ダシルヴァはこくりとうなずいた。「ありがとう。地球へ送信するために、データ要約の準備をしてちょうだい」
奇妙なことに、ジェイコブが抱いたもっとも強い感情は、うずくような誇りだった。知性化センターの主要メンバーである彼は、一生の最後の瞬断に、ジェフリーがキーボードを無視したことに気づいていた。恐怖のあまり退行するかわりに、あのチンプは、誇り高い、困難な行動をとった。地球人ジェフは、声に出してことばをしゃぺったのだ。
ジェイコプはこのことをだれかに話したかった。ここでその意味を理解できる者がいるとすれば、ファギンくらいだろう。ジェイコブはカンテンの立っているほうへ歩きだしたが、そこへ行きつく前に、ピエール・ラロックが、歯のあいだからシュッと鋭く息を吐きだした。
「なんてまぬけぞろいなんだ!」ジャーナリストは、あきれはてたような顔でまわりを見まわした。
「なかでも、おれはとびきりの大まぬけだ! ここにいる人間のなかで、おれはチンバンジーを単身太陽に送りこむことの危険に気づくべき、ただひとりの人間だったというのに!」
室内はしんと静まりかえった。きょとんとした顔が、いくつもラロックに向けられた。ラロックは大仰なしぐさで手をふりまわした。
「あんたたちにはわからんのか? あんたたちはみんな、目がないのか? もしソラリアソがわれわれの主族なら──そうに決まっているが──何千年ものあいだ人間を避けてきたのは、明らかに、人間と会うのが苦痛だったからさ。ただ、ほのかな愛情が残っていたために、いままで人間を減ぽさずにおいてくれたんだ!
彼らはどうにも無視しようのないやりかたで、人間とそのサンシップに警告しようとしたのに、それでもあんたたちはかまわず侵入しようとした。かててくわえて、無礼にも一度見捨てた種族の類族に乗りこまれたら、この強力な存在はどういう反応を示すと思う? エテ公に侵入されたなら、彼らはどうすると思う……?」
何人かのスタヅフが、血相を変えて立ちあがった。彼らをすわらせるために、ダシルヴァは大声を出さねばならなかった.彼女は鉄の意志で表情をコソトロールしながら、ラロックに言った。
「ラロックさん、毒舌をできるだげ控え、その興味深い仮説を文書の形にしてくださるのでしたら、スタヅフは喜んでそれを検討させていただきます」
「しかし……」
「さあ、もうこの話題は充分です! そのことを話しあう時間は、あとでたっぷりありまずから!」「いいえ、時間はあまりないわ」
みんながいっせいにふりかえった。ドクター・マーティンが、ギャラリー後方にある戸口に立っていたのだった。「わたしは、いますぐこのことを検討したほうがいいと思います」
「ケプラー博士はだいじょうぶなのか?」ジェイコプが訊ねた。
彼女はうなずいて、「たったいま、博士のベッドをあとにしてきたところよ。ショック状態からは、なんとか引きずり出せたわ。いまは眠っています。だけど、眠ってしまう前に、博士はさしせまった口調で、いますぐ再度の降下を行なうべきだと言ったわ」
「いますぐ? どうして? ジェフリーの船になにが起こったのか確認されるまで、降下は控えるべきじゃないか?」
「ジェフリーの船になにが起こったのかは、もうわかっているじゃないの!」ことば鋭く、マーティン。「入ってきたとき、ちょうどラロックさんのことばが聞こえたけれど、みんなの反応はあまり関心しないわね! あなたたちはひどく偏狭で、みずからに自信を持つあまり、斬新な考えには耳を貸そうともしない!」
「すると、あなたは本気で、ゴーストがわたしたちの主族だと考えているの?」ダシルヴァは信じられぬといった面もちで訊ねた。
「主族かもしれないし、ちがうかもしれない。ただ、それ以外の点については、彼の言うことも一理あるでしょう! じっさい、これ以前にソラリアンが、威嚇以上の行動に出たことがあって? なのにいま、彼らは急に攻撃的になった。なぜかしら? ジェフの種族のような未完成種族の一員を殺すことに、少しも気がとがめないからかもしれないじゃないの?」
彼女は悲しげにかぶりをふって、
「時聞の問題なのよ、人類がどれだけ徹底的に適応しなくてはならないかに気づくのは! 現実に、人類以外の全酸素呼吸種族は、同じ階級体系……古いものから新しいものへ、強いものから弱いものへ、親種族から子種族へという、つつきの順位を採用している。あなたたちの多くは、これが気に入らないでしょう。でも、それがものごとのあるべき姿なのよ! そして、人類が十九世紀における非ヨーロッパ種族の轍を踏みたくないのなら、他のより強い種族の遇し方を学ぶべきなのよ!」
ジェイコプは顔をしかめた。
「きみが言っているのは、チンパンジーは殺されたのに、人間は脅されたり無視されたりしただけだから……」
「おそらくソラリアンは、子供たちやそのベットとはかかわりあいたくないけれど……」
オペレーターのひとりがこぶしでコンソールをたたきつけたが、ダシルヴァにひとにらみされて、言いかけたことばを呑みこんだ。
「……より古い、もっと経験を積んだ種族の代表となら、進んで話をするかもしれないということよ。結局、試してみるまでは、どうなるかわからないでしょう?」
「たいていの降下のときには、カラもいっしょに乗っていたんだぞ」さっきのオペレーターが、つぶやくように言った。「そして彼は、経験を積んだ大使だ!」
「プリングのカラには敬意を払うけれど」マーティンは背の高い異星人に軽く頭をさげて、「彼はごく若い種族の出身だわ。ほとんどわたしたちと同じくらいに。ソラリアンが彼のことを、わたしたち以上に注意を向けるに足る相手であると思わなかったことは、明らかでしょう。
いいえ、わたしはこの水星に滞在している高貴なる存在、古く名誉あるふたつの種族のメソバーに協力を仰ぐことを提唱するわ。わたしたちは敬意をもって、ビラのババカプとカンテンのファギンにお願いし、太陽へ同行していただいて、ソラリアンとコソタクトする最後の試みをするぺきなのよ!」
ババカプがのっそりと立ちあがった。ゆっくりとまわりを見まわして、ファギンが待っているのを見てとると、先に口を開いた。「もし人類が、太陽への降下、において、わたしを必要としている、と言うのであれぱ、原始的」なサン・シヅプには、多々危険がともなう、ことを承知で、その願いに応じる、用意がある」
そう言うと、彼はまた満足そうに、クッションに寝ころがった。
ファギンは葉をさやさやとゆらし、ため息をついた。「わたしも喜んで同行するでしょう。このような船においては、わたしにはいちばんつまらない仕事さえこなせないと思います。じっさい、わたしがどのようなお役にたてるかは、見当もつきません。ですが、喜んで同行させてもらいます」
「とんでもない、わたしは抗議します!」ダシルヴァが大声で言った。「ビラのババカプとカンテンのファギンを降下に連れていくような、政治問題になりそうなことは認められません。とくに、あんな事故があったあとでは!
ドクター・マーティン、あなたは強力な異星種族との友好関係を口にするけれど、彼らが太陽のなかで、地球船に乗ったまま死んでしまったらどうするの?」
「なにを寝ぽげたことを! 地球にはいっさい非難がこないよう、事態を処理できる者がいるとすれば、それはこのふたりの知的種族だけだわ。なんといっても、銀河系は危険なところだもの。きっと宣誓証書かなにかを残していけるはずよ」
「わたしの場合、そのような文書はすでに記録ずみだ」とファギン。
ババカブも、いかにも度量の大きそうな態度で、生命の危険を冒して原始的な船に乗っていくことについては、全責任を負うと述べた。ラロックが礼を言いかけたとたん、ビラはそっぽを向いた。マーティンでさえ、ラロックには黙っていてくれるようにたのんだほどだった。
ダシルヴァはジェイコプを見やった。ジェイコプは肩をすくめて、
「ともかく、時間はあるんだ。ここのスタッフにジェフの降下データを分析する機会を与えて、ケプラー博士が回復するのを待とうじゃないか。そのあいだ、この件を地球に伝えて、指示を仰ぐこともできるだろう」
マーティンはため息をついた。「それがそんなに簡単にいけばいいんだけれど。あなたはまだ、この件をよく考えていないのね。いいこと、もしわたしたちがソラリアンと友好関係を結ぼうと思ったなら、ジェフが訪れたのと同じグループのところへ行くべきでしょう?」
「必ずしもそうする必要があるかどうかわからないが、筋が通った意見のようだ」
「でも、太陽の大気のなかで、どうやって同じグループを見つけるつもり?」
「磁食生物が磁力を食んでいた、同じ活動領域にもどれぽいい……待てよ。きみの言う意味がわかったぞ」
「わかってくれるだろうと思っていたわ」マーティンはにっこりとして、「太陽には、地図を作るためのよりどころにできるような地形≠ェないの。活動領域はおろか、太陽黒点そのものも、ものの数週間のうちには消えてしまうわ! 太陽には表面と言えるものがなくて、」さまざまな密度の気体が層をなしているだけ。だいたい、赤道部分などは、高緯度の部分より白転速度が速いくらいなのよ! それなら、ジェフの降下で引き起こされたダメージが太陽じゅうに広がらないうちにすぐ出発しなけれぱ、どうやって同じグループが見つけられると言うの?」
ジェイコプは当惑顔で、エレン・ダシルヴァに向きなおった。「彼女は正しいと思うかい、エレン〜」
エレンは困りはてたような目つきをして、「さあね。正しいのかもしれない。見当の要ありだわ。ともかく、ひとつたしかなことは、意見を訊けるほどケプラー博士が回復するまでは.いっさい早まった行動はとらないということよ」
ドクター・マーティンは盾をひそめた。「さ」っき言ったでしょう! ドウェインはいますぐ第二次降下隊を送りこむことを認めたのよ!」
「それは彼からじかに聞きます!」ダシルヴァがつっぱねるように言った。
「わたしはここにいるよ、エレン」
みながいっせいにふり返る。側柱に身をもたせかけて、ドウェイン・ケプラーが戸口に立っていた。そのそばでは、彼の腕を支えるように抱えて、主任医師のレアードが、部屋の反対側にいるドクター・マーティンをにらみつげていた。
「ドウェイン! ベッドからぬけだしてなにをしてるの! 心臓麻痺を起こしてもいいの?」マーティンは怒りながらも気づかわしげに、大股でケプラーに歩みよったが、博士はそれを押しとどめ、
「わたしはだいじょうぶだ、ミリー。きみのくれた薬を薄めて飲んだ、ただそれだけのことだよ。量を少なくしてもちゃんと効いたのだから、きみも善意でしてくれたのだろう。薬を全部飲んでいれぱ、いまごろはまだベッドの上だろうがね!」
ケプラーは弱々しげに笑った。「ともかく、きみの雄弁ぶりを聞きのがすほど深く眠りこまなかったのは、幸いだった。きみの演説は、戸口からおおむね聞かせてもらった」
マーティンが赤くなった。
ジェイコブはほっとした。ジェイコプがひそかにはたした役割を、ケプラーが黙っていてくれたからである。水星に着陸して研究施設が便えるようになった以上、〈プラヅドベリ〉でケプラーから失敬した薬のサンプルを分析せずにおくのは、もったいないというものではないか。
幸い、彼がどこでそのサソプルを手に入れたのかは、だれも訊ねなかった。相談した基地のレアード医師は、弱い躁病状態の薬としては少しばかり量が多すぎるものもあるようだが、どれも標準的な薬だと考えた──が、ただひとつ、例外があった。
その不可解な薬のことは、ジェイコプの心の奥に引っかかっていた。これもまた、解かなければならない謎だ。あれほど強力な抗凝血剤を大量に必要とするとは、いったいケプラーの病気は、なんなのだろう? ともかく、医師のレアードはかんかんになった。なぜマーティンは、ワルファリンなどを処方したりしたのか?
「ほんとうに、ここにいてだいじょうぶなんですか?」ダシルヴァがケプラーに訊ねた。彼女は医師に手を貸して、ケプラーを椅子まで連れていった。
「だいじょうぶだとも。それに、事態のほうは待っていてはくれん。
第一にわたしは、サンゴーストが、人間よりもビラのババカプやカンテンのファギンを歓迎ずる、というミリーの説には、まったく気をそそられない。彼らを降下に連れていくことについては、絶対に反対だ! なぜなら、彼らが太陽で殺されたなら、その罪はソラリアンにではなく……人間にあるからだ! 第二次降下はいますぐ行なうべきだろう……ミリーが言ったまさにその理由で、ただちに降下隊を同じ領域に送りこまねばならん……ただし、もちろん、われわれの高貴なる異星の友人は乗せずにだ」
ダシルヴァは激しくかぶりをふった。「わたしは絶対、降下には反対です! ジェフはサンゴーストに殺されたのかもしれませんが、サンシップになにか異常が発生した可能性もあるでしょう。認めたくはありませんが、わたしはあの事故は、船体故障のせいだと思っています……降下するのは、船を完全に点検してからでないと……」
「ああ、原因が船にあったことはまちがいないさ」ヶプラーが遮った。「サンゴーストは、生物を殺したりせんよ」
「なにを言ってるんだ!」ラロックがわめいた。「あんたは目が見えないのか? こんな明白な事実を、どうして否定できるんだ!」
「ドウェイン」すかさず、マーティンも言った。「いまのあなたは、疲れがひどくて、こういうことは考えられないのよ」
ケプラーは手をひとふりして彼女を黙らぜた。
「失礼でずが、ケプラー博士」と、今度はジェイコプが、「あなたは危険要素が人間の手によるものだとおっしゃいましたね? ダシルヴァ司令官はたぶん、あなたの言う意味を、ジェフが命を落としたのは船の整備ミスのせいだと解釈したようですが。あなたは、べつの意味で言ったんじゃありませんか?」
「ひとつ訊いておきたいのだが」とケプラーはゆっくりと言った。「遠隔映像によれぱ、ジェフの船は停滞場の崩壊がもとで内爆したのではなかったかね?」
さっきのオペレーターが、前に進みでた。「驚いたな……そのとおりですよ。どうしてわかったんです?」
「わかったわけじゃない」ケプラーはにやりとして、「ただ、サボタージュの可能性を考えてみると、話がぴったりいくのさ」
「なんでずって!?」マーティン、ダシルヴァ、ラロックが、ほぼ異口同音に叫んだ。
ふいに、ジェイコブは理解した。「まさか博士は、あの見学会のときに……?」ラロックのほうをふりかえる。マーティンがその視線を追い、息を呑んだ。
ラロックは殴られでもしたかのようにあとずさり、「おまえは気ちがいだ!」とジェイコプに向かって叫んだ。「それにおまえもだ!」ケプラーに指を突きつけて、「あのいかれた場所にいるあいだ、おれはずっと気分が悪かったのに、どうやってエンジンに細工できるはずがある?」
「考えてもみろよ、ラロック」とジェイコプ。「ぼくはなにも見たわけじゃないし、ケプラー博士も、単にそういう疑いがあると思っているにすぎないはずだ」そうでしょう、と言わんばかりに、ケプラーに向かって片方の眉をあげて見せる。
ケプラーはかぶりをふって、「残念ながら、わたしは本気です。あのときラロックは、ジェフの重力場ジェネレーターのそばで一時間を過ごし、その間だれもそばにいなかった。わたしたちも、だれか素人がいじくりまわして異常が起きてはいないかと思い、重力場ジェネレーターを調べたものの、なにも異常は見つからなかった。ミスター・ラロックのカメラを調べることを思いついたのは、そのあとになってからです。
そして、それを調べてみたところ、その小さな附属品のひとつは、小型超音波スタンナーであることがわかりました!」チュニックのポケットのひとつから、小さな記録機械をとりだして、「これを使って、ユダのキスはなされたのです!」
ラロックはまっ赤になった。「スタンナーはジャーナリストの漂準的な護身装備にすぎん。そいつのことは忘れてたくらいだ。それに、そんな小さなもので、あんな大きな機械を壊せるわげがないじゃないか!
だいたい、あんたの言うことはみんなピントはずれだ! この地球優越主義者の、古くさい宗教かぶれの気ちがい野郎め! 自分のミスで危うく人類の主族と友好的に出会うチャンスをつぶしかけたくせに、よくも動機のないおれをつかまえて、濡れ衣を着せようとしやがったな! 自分であのあわれな猿を殺しておきながら、その責めを他人に押しつけようとは、ふといやつだ!」「お黙りなさい、ラロック」ダシルヴァが冷徹な声で言った。ケプラーにふり返って、「ご自分のおっしゃっていることがわかっているんですか、博士? 単なる個入に対する嫌悪くらいでは、市民は殺人を冒したりしません。特別の理由もなしに殺人ができるのは、要観察者だけです。ミスター・ラロックにそれだけ強い動機があると考える根拠が、なにかおありなんですか?」
「なんとも言えん」ケプラーは肩をすくめた。ラロックに目をやって、「だが、正当な理由があるつもりで人を殺すような市民は、殺人のあとでも良心の呵責を感じない。ミスター・ラロックには、なにひとつ後悔しているふしはない。とすると、彼はじっさいに無実なのか、役者なのか……さもなければ、要観察者なのだ!」
「ここは宇宙なのよ!」マーティンが叫んだ。「そんなごとはありえないわ、ドウェイン。あなたにもわかっているはずよ。あらゆる宇宙港には、精神波感知器が設置されていることを。それに、どの船にも必ず感知器が積載されているのよ! いますぐラロックさんにお詫びしなさい!」
ケプラーはにやりとした。「詫びる? 少なくともわたしは、ラロックが重力ループでめまい≠起こしたというのが嘘であることを知っているぞ。じつは、メーザー通信で問い合わせておいたのだ。彼に関ずる一件書類がほしくてね.当局は喜んで、データを提供してくれたよ。
それによれぱ、ミスター・ラロックは宇宙飛行士の訓練を受けていたらしい! その後、彼は軍を離れた。理由は医学上の理由≠セそうだが──これは常套的に、その人間のPテスト反応値が、要観察者のレベルに達した場合に用いられるフレーズだ。つまり彼は、高度の慎重さを要する仕事は、あきらめざるをえなかったということだ!
それがなんの証拠になるわけでもないが、ともかくラロックは、宇宙船には慣れているはずだから、ジェフリーの重力ループで死にそうな思い≠するわけはない。ああ、まだまにあううちに、この矛盾に気がついて、ジェフに警告してやれたなら」
ラロックは抗議し、マーティンは異論を唱えたが、ジェイコプは室内の空気が、ふたりに不利な方向へ流れていることを感じとった。ダシルヴァは、ジェイコプもいくぷん驚いたほど冷酷で兇暴な光をたたえた目で、じっとラロックをにらみつけていた。
「ちょっと待ってくれ」ジェイコブが片手をあげて言った。「じっさいにトランスミッターをつけていない要観察者がいるのかどうか、調べてみてはどうだい。確認のために、ここにいる全員の網膜パターンを地球に送ることを提案しよう。もしラロック氏が要観察者として登録されていなければ、今度はケプラー博士に、なぜ一市民が殺人を冒す理由があると考えたのかを証明してもらう番だ」
「いいだろう、それなら、ググルカソにかけて、いますぐ調べてもらおうじゃないか!」とラロック。「ただし、おれだけ調べたりしないという条件でな!」ここにいたって、ケプラーははじめて不安そうなようすを見せはじめた。
ケプラーの体のことを考えて、ダシルヴァは全基地の重力を水星の重力に引きさげるよう指示した。コントロール・センターは、切り替えには五分ほどかかると答えた。彼女はインターカムの前に行き、全要員およびビジターについて識別テストを行なう旨を通知してから、準傭を監督しに立ち去った。
遠隔計測室にいた者たちも、エレベーターに向かって、少しずつ出ていきはじめた。ラロックは、まるで自分にかけられた嫌疑をふり払おうと必死になっていることを印象づけようとしているかのように、いかにも苦悩しているような表情を浮かべ、顎を高くあげたまま、ケプラーとマーティンのそばにくっついていた。
重力の切り替えが行なわれたのは、この三人のほか、ジェイコプとふたりの要員が、エレベーターの前で待っていたときのことだった。皮肉な場所で起こったものである。なにしろ、エレベーターの前で、床がふいに沈みこみはじめたように感じられたのだから。
みな、重力の変化には慣れている──ヘルメス基地内では、地球の重力がかけられていない場所がたくさんあるからだ。しかしその変化は、ふつう停滞場制御機構のついた戸口をくぐりぬけるときに起こるものであり、それ自体も気持ちのいいものではないが、慣れのせいもあって、これほどとまどいは感じない。ジェイコプは思わずはっとしたし、要員のひとりなどは、軽くよろめいたほどだった。と、だしぬけに、ラロックがケプラーの手から乱暴にカメラを引ったくった。マーティンが息を呑み、ケプラーが驚いてうめき声をあげた。基地の要員がうしろからジャーナリストを引っつかみ、顔めがけて殴りかかった。ラロックはアクロバットのように身をびねると、とりもどしたカメラをかかえて、いまきた廊下を駆けもどりはじめた。本能的に、ジェイコプともうひとりの要員がそのあとを追った。
とたんに、なにかが光り、ジェイコブの肩に刺すような痛みが走った。スタンナーの第二撃を避けようと伏せたとき、心のなかでなにかが言った。「オーケー、こいつはおれの仕事だ。いまからおれが引き継ぐ」
気がつくと、彼は通路に突っ立って待っていた。さっきまでの胸の踊るような感覚が、いまは不快このうえない。一瞬、目の前が暗くなった。あえぎ、体を支えようと、仕上げの施されていないむきだしの壁に手を伸ばしたとき、視覚がもどってきた。
ジェイコブはたったひとりで、肩の痛みをかかえ、保守用通路に立っていた。執拗に鼻につく満足感の名残は、いまや消えゆく夢のように、消散しようとしている。彼は慎重にまわりを見まわすと、ため息をつき、
「すると、おまえはおれの体を乗っとって、おれがいなくてもちゃんと操れると思ったわけだ」と、うなるように言った。ちょうど痺れがとれようとしているらしく、肩がぴりぴりしていた。
いったいどうやって自分の半身が封印を破ったのか、なぜやつが主要な人格の助けなしに事態に対処しようとしたのか、ジェイコプにはわからなかった.だが、いまこうしてあきらめたところを見ると、やつはなにか手に負えない事態にはまってしまったにちがいない。
そう考えたとたん、心の奥から怒りが湧きあがってきた。ハイド氏は、自分の限界を示されることに敏感なのだ。だが、やがて条件つき降伏が申し出られた。
これでおしまいだろうか。この十分間のすべての記憶が、どっともどってきた。ジェイコブは笑った。善悪を知らぬもうひとりの自分は、打ち破りがたい障害に直面したのだ.
ビエール・ラロックは、通路のつきあたりの部屋にいた。カメラ・スタンナーの奪取につづく混乱のなかで、ラロックにふりきられずにいたのはハイド氏だけであり、身勝手にも、彼は自分ひとりだけで獲物に近づこうとしたのである。
ハイド氏はラロックを泳がせ、彼にすべての追跡をふりきったと思わせた。一度などは、ラロヅクに近づきすぎた基地要員の一隊を、見当ちがいの方向へ追いやったほどである。
そして、ラロックはいま、外部に通じる気閘から二十メートル離れた用具室で、宇霞服を着ようとしていた。ラロックがあそこへ入ってから五分だから、着おえるまでには少なくとももう十分はかかる.打ち破りがたい障害というのはそれだった。ハイド氏には、我慢というものがない。彼は衝動の集合体であって、人格ではなく、ずべての忍耐を持っているのは、ジェイコブのほうである。そこで、待つのはこちらにまかせようと、ハイドのやつは考えたのだ。
ジェイコプは嫌悪に鼻を鳴らしたが、同時に心に痛みを覚えた。ハイドが日常的に顔を出すようになったのは、それほど昔のことではない。刹那的な満足をもとめるあの小さな人工的人格にとり、待つことがどんなに苦痛をもたらすかは、彼にも理解できた。
何分間かが過ぎた。彼は静かにドアを見まもった。すっかり意識をとりもどしてさえ、ジェイコブはじれはじめた。ドブのノブをつかまないようにするには、相当の努力を必要とした。
やがて、ドアのノブが回転しだした。ジェイコブは両手を脇におろしたまま、あとずさった。
と、ドアがわずかに外側へ開き、その隙間から、ガラスの球のような宇宙服のヘルメヅトが突き出された。ラロックは左右をたしかめ、ジェイコブに気づくと、歯をむき出した。ドアが大きく開き、ジャーナリストはプラスティックの支柱のようなものを片手に、向かってきた。
ジェイコプは片手でそれを制して、「待て、ラロック! 話がしたい。どのみち、ここからはどこにも行けないんだ」
「あんたに手を出す気はない、デムワ。行け!」胸のスピーカーから、ラロックの声が神経質そうに響いた。威嚇するように、プラスティックの棍棒をたわませる。
ジェイコプはかぶりをふって、「悪いがな。ここで待つ前に、そこのつきあたりのエアロックをあかないようにしておいた。宇宙服を着たままで歩いていくには、となりのエアロックは遠いそ」
ラロックの顔が歪んだ。「なんだと? おれはなにもしてないじゃないか! とくにあんたには!」
「それはあとでわかる。ともかく、話をしよう。あまり時間がない」
「話してやるさ!」ラロックが叫び、「こいつにものを言わせてな!」というなり、梶捧をふりまわしながら、とびかかってきた。
ジェイコブは身を沈め、両手をふりあげてラロックの手首をつかもうとした。が、左肩が痺れていることを忘れていたため、意図した位置に持っていく途中で、左手がわずかに震えた。急いでプロッグした右手に、棒がしたたかにぶつかる。必死になって、前に倒れこみ、頭をさげた瞬間、棍棒が頭上数インチのところをかすめすぎた。
少なくとも、ころがりかただけは完壁だった。低重力のおかげで、彼は軽々と起きあがり、膝をついた。が、今度は右手が痺れていた。ひどくうずく打ち身の痛みを、自動的に意識から閉めだす。宇宙服を着ているというのに、ラロックは思ったよりも身軽に向きなおった。ケプラーがラロックは宇宙飛行士だったと言ったとき、ほかになんと言っていたか? 時間がない。ラロックがまた向かってくる。
棍棒が荒々しく横手から襲いかかってきた。剣道式に、両手で棒を握ったひとふりだ。両手が使えたなら、これをブロックするのは簡単だったろう。だが、かわりにジェイコプは、身を沈めて棒を避け、頭からラロックの胸もとにとびこんだ。そのままぐいぐい押しつけると、ラロックの背中が通路の壁にどんとぶつかった。ラロックは「うっ」とうめいて、棍棒をとり落とした. ジェイコブはそれを遠くへ蹴とばし、あとずさった。
「いいかげんにしろ、ラロック!」ぜいぜいあえぎながら、「ほくはただ、きみと話をしたいだけだ……きみになにかの罪をかぶせられるような証拠は、だれも持っちゃいない。それなら、なぜ逃げる? 逃げたって、どこへもいくところはないんだぞ!」
ラロックは悲しげにかぶりをふった。「すまん、ジェイコプ」きざなアクセントは、すっかり消え失せていた。ラロックは両腕を広げて、突進してきた。
ジェイコブはうしろにとびすさり、適正な距離を保って、ゆっくりと数をかぞえた。五つ数えたとき、目がすっと細くなり、狭い切れ目となった。一瞬のうちに、ジェイコプ・デムワは完全体に融合していた。うしろにのけぞりつつ、自分の爪先と相手の顎とが最短距離のカープを描くように計算する。爪先が瞬時に──主観的には何分もかかったように思えたがーその弧をたどった。衝撃は、羽根のようにソフトに感じられた。
ラロックの体が空中にはねあがった。ジェイコプは満足感とともに、字宙服を着た姿が、スローモーションのようにゆっくりとうしろへとんでいくのを見つめた。情動感応が働きだした。空中を水平にとんでいくのが、まるで目分の体のようだ。恥辱と痛みに包まれて、彼の体はゆっくりと落ちていき、ユーティリティー・パックの上から、背中が固い床の上にたたきつけられるのがわかった。
そこでトランス状態は去り、気がつくと、ジェイロブはラロックのヘルメットのロックをゆるめていた。ヘルメットをとりはずし、壁に背中をもたせかけてやる。ラロックは小さくうめいていた。
ふと、ラロックの腰に装着されている、パッケージに目がとまった。そのアタッチメントをちぎりとり、とられまいとするラロックの手を押しのけて、カバーをはがしはじめた。
「すると」とジェイコブは唇をかみしめて言った。「いまスタンナーを便おうとしなかったのは、このカメラがそれほど貴重だったからなのか。なぜだ? まあいい、こいつの記録を再生できるかどうか、調べてみよう。
さあきたまえ、ラロック」彼は立ちあがり、ラロックを引き起こして、「これから読み出し装置のあるところへ行く。その前に、なにか言いたいことはあるか?」
ラロックは首をふった。そして、片腕をジェイコブにとられたまま、おとなしくついてきた。
保守用通路から一般通路に出て、写真分析室に向かおうとしかけたとき、ドウェイン・ケプラー率いる一隊と出くわした。この低重力の中でも、科学者は医療班の要員の腕に、すがるようにして立っていた。
「おお! あなたがつかまえてくださったか! すばらしい! これでわたしの言ったことがなにもかも証明された! その男は、正義の裁きを恐れて逃げ出したのです! そいつは人殺しだ!」「それはあとでわかるでしょう」とジェイコプ。「この騒ぎで証明されたのは、ラロックが怯えてしまったということだけです。たとえ市民であれ、パニックに陥れぱ暴れることもありうる。わたしが知りたいのは、彼がどこへ行こうとしていたかということです。外には、荒涼とした岩場のほかはなにもない! 念のため、何人か外へ出して、一帯を捜索させたほうがいいでしょう」
ケプラーは笑って、
「その男がどこかへ行こうとしていたとは思えませんな。要観察者に、自分がどこへ行こうとしているのかわかるわけかない。彼らは根源的な本能にしたがって動くのです。その男は、狩り立てられた動物のように、単に閉鎖された場所から外へ逃げ出したかっただけですよ」
ラロックは無表情のままだった。が、地表の捜索を提唱したとき、ジェイコプはラロックの腕が緊張し、ケプラーがやんわりとそれを一蹴したとたん、力がぬけるのを感じとった。
「それでは、博士は確信犯説を捨てたわけですね」と、ケプラーに向かってジェイコプ。一行はエレベーターのほうへ歩きだしており、ケプラーはゆっくりと足を運んでいた。
「しかし、動機はどうなります?・かわいそうなジェフは、蠅一匹だって傷つけたことはないんだ! 慎みある、神を恐れることを知ったチンパンジー! だいいち、ここ十年間、太陽系内で市民による殺人が行なわれたことはないんですそ! これは金の隈石が落ちてくるくらいめずらしいことだ!」
それはどうかな、とジェイコブは思った。そういった統計は、なによりも警察の処理の仕方ひとつによるものなのだ。だが、そのことは口に出さずにおいた。
エレベーターの前にくると、ケプラーが壁のコミュニケーターに、ふたことみこと話しかけた。たちまち、さらに数人の要員が到着し、ジェイコプからラロックを引きとった。
「ところで、例のカメラは見つかりましたか?」とケプラーが訊ねた。
ジェイコブはとぼけようとした。ここは隠して蒲いて、あとで見つかったふりをしようと思ったのだ。
そのとき、「それはおまえの叔父のカメラだぞ《マ・カメラ・ヴォートル・オンクル》!」と叫んで、ラロックが手をつきだし、ジェイコプのズボンのうしろポケットの中身をとろうとした。まわりの者たちがラロックを取り押さえる。べつのひとりが進み出てきて、手をさしだした。ジェイコブはしぶしぶ、カメラをわたした。
「なんと言ったんです?」ケプラーが訊ねた。「いまのは、何語です?」
ジェイコプは肩をすくめた。エレベーターが到着し、さらにおおぜいの人間を吐きだした。その次かには、マーティンとダシルヴァの姿もあった。
「ただのののしりことばですよ」とジェイコプ。「彼があなたの先祖を認めるとは思えませんね」
ケプラーは大声で笑った。
13 太陽の下で
ジェイコプの見たところ、通信ドームは、タールの海に立った泡のようだった。ガラスと停滞場でできた半球の周囲には、どちらを向いても、水星の地表が鈍く柔らかな光を放っている。大地の反射する、海面の照り返しにも似た陽光は、自分が泥の海にはまったガラスの球のなかにいて、正常な宇宙空間へは脱出できないという感覚を強めていた。
やや離れたところには、奇怪な岩がころがっていた。太陽の高熱と、太陽風の運んでくる粒子のたえまない爆撃によって、つねならぬ鉱物が形成されているのだ。どうしてあのようなものができたかはよくわからないまま、彼はその粉末や奇妙なガラスの形を見て、当惑を覚えた。それに、あの金属のぬかるみ。その成因は、考えたくもない。
ふと、地平線近くのなにかが注意を引いた.
太陽だった。強力なスクリーンに光をカットされて、それはひどく暗く見えた。白みがかった黄色の球は、手を伸ばせぱ触れられそうなほど近くにあり、黄金のひまわりとも、光り輝くコインとも見える。太陽面の赤道から北東および南東にかけては、黒点の集団が扇形に広がっていた. その表面は、きわめてなめらかだ。
じっと太陽を眺めていると、奇妙に超脱した感覚が心に宿った。カットされた陽光は、暗いが赤い色調を持ち、ドームのなかをエネルギーに満ちた光で満たしている。太陽光の流れが、まるで額をなでているようだ。
単なる暖かさ以上のものをもとめ、自分のあらゆる部分を宇宙の神にさらげだしている、太古のトカゲになったような気分だった。あの炎を見ていると、引きよせられるような、あそこへ行かなくてはならないという気持ちになってくる。
たしかに」不安ではあった。あの竈《かまど》のなかに、何者かが住んでいるのだ。なにかおそろしく古くて、おそろしく孤高を保った荏在が。
ドームの下では、人と機械とが、珪酸鉄の溶融した大地の上に立っていた。ジェイコプはのけぞるようにして、ドームの中心にそびえたち、停滞場を貫いて水星の強烈な陽光の上に突きだす、巨大な鉄塔を見あげた。
その頂上には、メーザーやレーザーが設置されている。これらの機器によって、水星表面上空一千五百万キロメートルの軌道をめぐる静止衛星ネットワークを通し、ヘルメス基地と地球との連絡をとったり、ヘリオスの渦のなかまでサンシップのあとをたどったりできるのである。
いまは、メーザー・ビームがさかんに働いていた。つぎからつぎへと、いくつもの網膜パ」ターンが、高速で母星のコンピューターに送られている。そのビームに乗って、青い空と青い水に覆われた惑星、地球への帰還を想像するのは、魅力的な誘惑だった。.
網膜パターンの読み取り装置は、小型の本体を、〈ライブラリー〉の設計になるコンピューター・システムの、レーザー光学装置にとりつけたものだった。バターンを読み取るには、単に読み取り装置の大きなアイピースを顔にあて、頬と額に押しあてるだけでよい。あとは、光学機械がひとりでに読みとってくれる。
ETだけは要観察者の捜索から除外されていたが(異星人の網膜を識別する方法はなかったし、太陽系にいる二、三千人ほどの銀河文明の使者たちについては、網膜コードがファイルされているはずもない)、カラはぜひ自分の網膜も調べてくれるようにと言いはった。ジェフリーの友人として、いかに形ぱかりのものであろうとも、あのチンパンジーの科学者の死の原因調査においては、自分も捜索の対象になる権利がある、と主張したのだ。
カラは苦労して、巨大な視覚器官を、片方ずつアイピースに押しあてた。そして、かなり長いあいだ、そのままの姿勢でいた。ようやく、音楽的なチャイムが鳴り、異星人は機械から離れた。
オベレーターは、エレン・ダシルヴァに合わせて、アイピースの高さを調整しなおした。
ついで、ジェイコブの番がやってきた。アイピースが調整されるまで待ってから、彼は鼻と頬と額を固定パッドに押しあてて、目を開いた。
ブルーの光点が光っている。ほかにはなにもない。それはジェイコプにあるものを連想させたが、それがなんであるかをはっきり思いだすことはできなかった。見つめているうちに、その光点は視線をかわそうとするかのようにぐるぐるまわりだし、きらめいた。まるで人魂のようだ。
やがて、音楽的なチャイムが鳴って、彼の番は終わった。あとずさり、場所をあけると、今度はマーティンの肩につかまって、ケプラーが進み出た。ジェイコブの横を通りずぎるとき、科学者はほほえみかけた。
そうだ、あの光点がなんに似ているかわかったぞ! 人の目のなかのきらめきなんだ。
なるほど、このごろのコソピューターに思考ができるようになったことを考えれぱ、これも納得がいく。なかには、ユーモア感覚を持ったコンビューターさえあるという話だ。これがその一台かもしれないではないか? コソピューターにも、きらめく目や、腰にあてがう手を与えてやれぱいい。もし凝視で人を殺せるものなら、そんな意味ありげな一瞥や凝視をも可能にさせてやるのだ。機械がその創り主の一面を身につけだしたとしても、べつにおかしなことはあるまい?
ラロックは自信ありげなようすで、読み取り装置の前にすわった。読み取りが終わると、エレソ・ダシルヴァと数人の部下に監視されて、黙りこくったまま、よそよそしい顔でべつの席にすわった。
基地司令官は、交替の者たちを呼び入れた。〈サンダイバー計画〉の船にかかわる者は、ひとり残らず読み取り装置の前にすわることになっている。技術者たちの多くは、仕事が中断されることに不平をこぼした。検査が進むのを見まもるうちに、ジェイコプは、これがたいへんな労力を要する作業であることを思い知った。エレンが全員をチェックするつもりだとは、まさか思いもよらなかったのだ。
エレベーターでここへ昇ってくる途中、ダシルヴァはそのわけを部分的に説明した。ケプラーとラロックを別々の回に分けて乗りこませたあと、ジェイコブといっしょに、エレベーターに乗りこんだときのことである。
「ひとつ、わからないことがあるんだが」とジェイコプ。
「たったひとつだけ?」彼女はユーモアのない笑みを浮かべた。
「つまり、ひとつだけ、とくに気になることがあるんだよ。ケプラー博士は、ジェフの船にサボタージュを働いたと言ってラロックを告発したが、それなら、この調査結果がどう出ようと、つぎの降下にババカプとファギンを連れていくことに反対したのはなぜだい? もしラロックがほんとうに犯人なら、彼さえ連れていかなけれぱ、つぎの降下は安全なはずじゃないか」
ダシルヴァはちょっと彼を見つめて、考えこんだ。
「この基地でほんとうに信用できる人間がいるとしたら、それはきっとあなただわ、ジェイコブ。だから、わたしの考えを話しましょう。
ケプラー博士はね、この計画にETを介入させるのがいやなのよ。わたしがかなりの確信を持って言ってることは.あなたならわかるでしょうけど、博土の場合、大半のスベースマンに見られる人間第一主義と異星人崇拝との一般的なバランスが、ちょっと極端に走りすぎているらしいの。その経歴から言って、博士はデニケン派にひどく反発を感じるようになっていて、それが異星人に対する、部分的な嫌悪感にすりかえられてしまったんじゃないかな。それに、〈ライブラリー〉のおかげで、博士の仲間がずいぶん仕事を奪われているでしょう。博士のように研究を愛ずる人にとって、それはつらいことにちがいないわ。
わたしは、博士が〈開化派〉かなにかだと言ってるわけじゃないのよ! 博士はファギンととてもうまくやっているし、ほかのイーティーに対しても、不快感を表に出さないようにしているわ。だけど博士は、危険人物がひとり水星にやってきたなら、まだほかにもやってくるかもしれないと言うだろうし、わたしたちの賓客の安全を口実に、船に乗せまいとするでしょうね」
「しかし、カラはほとんどすべての降下に同行してるじゃないか」
ダシルヴァは肩をすくめた。
「カラは員数に入らないわ。類族だもの。
ただし、ひとつだけはっきりしていることがあるわ。こととしだいでは、ケプラー博士を無視してでも、ある行動に出なげれぱならないでしょう。この基地全員が身もとのチェックを受けていながら、ノーチェックのババカプとファギンがつぎの降下に同行するようなことになったら、薬を盛ってでもふたりをとめなけれぱ! 人間のクルーが信用できないという噂を、少しでもたたせるわげにはいかないのよ!」
彼女は口もとを引き締めてうなずいた。そのときは、ジェイコプは彼女の考え方が厳しすぎると思った。気持ちはわかるが、あのすばらしい生き物たちに一服盛るのは、恥かしいことだ。それに、エレンの動機は、少し公正さにかけるのではないだろうか。
メーザー・リンクのそばで立って待っていた男が、メッセージ・テープをちぎりとり、ダシルヴァに手わたした。張りつめた静寂のなかで、全員がそれを読む彼女を見つめた。やがて、彼女は厳しい顔で、そばに立っている何人かの屈強な要員たちに合図した。
「ミスター・ラロックを拘禁しなさい。つぎの便船で、地球に送還します」
「なんの罪でだ!」ラロックがわめいた。「あんたにこんなことをする権利はないそ、このネアソデルタール女め! こんな侮辱を働いたことを、きっと後悔させてやるからな!」
ダシルヴァは虫けらを見るような目で彼を見おろした。「現時点での罪状は、要観察者トランスミッターの不法除去。ほかの罪状も、追って追加されるでしょう」
「嘘だ、嘘だ!」ラロックが金切り声でわめいてとびあがった。要員のひとりがその腕を引っつかみ、怒りにまかせてぐいぐい締めつけながら、エレベーターに引きずっていった。
ダシルヴァはその騒ぎを無視し、ジェイコプに向きなおった。「デムワさん、第二次降下船は、三時間のうちに出発準備が整いまず。わたしはこれから、結果をみんなに報告しにいきますから。
船に乗ったら、途中で眠る時間がありますわ。地下でのお力そえについて、もういちどお礼を言います」
ジェイコブが答える間もなく、彼女は踵を返し、まわりに蝟集する要員たちに、低い声で命令を下した。この事件に対する怒りは、みごとに覆い隠されていた。要観察者が宇宙に出たって!? ジェイコプは少しのあいだ、ドームからだんだん人が去っていくのを眺めていた。はでな逃走劇、そして今度は、重罪か。いまのところ証拠のあがっている、ただひとつの重罪──トランスミッターの除去──は、もしおれが要観察者だったなら、やはり犯していたかもしれない……ということは、ラロックにも殺人を犯せる可能性が、充分にあるということだ。
あの男は大嫌いだし、プラスティックの棒で殴りかかられもした。にもかかわらず、ラロックに冷酷な殺人ができるとは、どうしても思えなかった。
心の奥底で、ジェイコプは自分の分身が、うれしそうに手ぐすねを引いているのを感じとった……〈サンダイバー計画〉をめぐる謎に満ちた混乱と、もうじき騒動がもちあがりそうな気配に、ふらちにも喜びを覚えているのだ。
そんなことは、忘れてしまえ。
エレベーターの前に立っていると、ドクター・マーティンが近づいてきた。ショックを受けているようだった。
「ジェイコプ……あなたは、あなたはピーターに、あの愚かなちび猿が殺せたと思う? だってね、彼はチンパンジーが好きなのよ!」
「申しわけないが、証拠はそいつを裏づけているように思うね。ぼくだってきみと同じくらい、要観察法は気にくわない。だが、要観察者に分類された人間は、たしかに簡単に暴力をふるう傾向があるし、ラロックがトランスミッターをはずしたことは、じっさい法律違反だ。
だが、心配はいらないよ。地球にもどれぱ、なにもかもちゃんと手続きしてもらえる。ラロックはちゃんと、公正な裁判を受けられるはずだ」
「でも……ピーターはすでに、不当な告発を受けてるのよ!」マーティンはうっかり口をずべらせた。「彼は要観察者じゃないし、人殺しでもない! わたしには証明できるわ!」
「そいつはすごい! 」証拠があるのかい?」
そこでジェイコプは渋面を作り、「しかし、地球からの通信では、彼は要観察者だということになっていたんだぞ!」
ジェイコプは彼女に哀れみを覚えた。いまや、あの過剰なほどの自信に満ち満ちていた心理学者は、ショックのあまり口ごもりながら、こじつけにしがみついている。それはいたたまれない姿であり、できることなら、ジェイコブはどこかに逃げだしたくなった。
「あのメーザー通信がでたらめだったという証拠でもあるのかい? それを見せてもらえる?」
マーティンは顔をあげて彼を見た。ふいに、これ以上話そうかどうしようかと迷っているかのように、ひどく不安そうな顔になって、
「あの……あの女よ。あなたは、その目でじっさいにメッセージを見た? あの女は……あの女は、ただ読みあげただけだったわ。彼女と基地の連中は、みんなピーターをきらっていたし……」
自分の論拠が薄弱であることを承知しているかのように、彼女のことばは弱々しく途切れた。そもそも、あのダシルヴァ司令官が、だれも確認しようとしないであろうことをいいことに、一片のテープを見ながらでたらめを読みあげる、などというまねをするだろうか? それも、たかが恨みくらいのことで? へたをすれば、ラロックに訴えられ、七十年間蓄えた財産を一文残さずとりあげられてしまうかもしれないというのに。
それとも、マーティンにはほかに、なにか言いたいことがあったのか?
「自分の部屋に行って、少し休んだらどうだい」とジェイコプはやさしく言った。「それから、ラロヅクのことは心配しないことだ。地球で裁判を受けるとき、殺人の罪で服役するようになるには、いまよりもっとたくさんの証拠が必要なんだから」
マーティンはジェイコプに導かれるようにして、エレベーターに入った。そこで、ジェイコブはドーム内をふりかえった。ダシルヴァは部下の指揮で忙しく、ケプラーはもう下に連れていかれたあとだ。カラはファギンのそばでむっつりと立っている。巨大な黄色い太陽の円盤の下に立つふたりのETの姿は、室内のだれよりも背が高い。
ドアが閉まるとき、ジェイコプは思った。こんなことでほんとうに、旅をはじめてもいいのだろうか、と。
第五部
生命は、物理的世界の延長である。生物のシ
ステムはユニークな特徴を備えているが、にも
かかわらず、それは環境の物理的・化学的性質、
および組織体そのものによって制約を受げざる
をえない……
生物学的問題に関する進化の解答は……物理
的・化学的環境に影響されたものである。
ロバート・E・リクレフス
『エコロジー』より ケイロン・プレス版
14 もっとも深い海
〈イカルス計画〉、とそれは呼ばれていた。この名前を持つ計画としては、それは四番めのものだったが、内容とぴたり一致するという点では、これがはじめてだろう。ジェイコプの両親が生まれるずっと前──〈大変革〉や盟約や、宇宙都市衛星連盟、それどころか、旧官僚主義体制が権勢をふるっていた時代よりもさらに前に──宇宙開発の古き祖父、NASAにおいて、太陽に使い捨ての探査機を降下させ、なにが起こるか見てみるのもおもしろかろう、という話が持ちあがった。
その結果、それらの探査機は、太陽に接近すると世にも珍しい反応を示すことがわかった。つまり、燃えつきてしまったのである。
アメリカ晩年の平穏で満ち足りた一時期においては、不可能なことはなにもないと考えられていた。アメリカ人たちは宇宙に都市を建設していたほどだから──もっと耐久性の高い探査機を造ることくらい、わけはない!
かくして、圧力に強く、ほぼあらゆるものを反射する材質で、船殻が建造された。磁場をかけることで、コロナや彩層をとりまく、希薄ではあるが超高温のプラズマを押しのけて、船殻から遠ざける。強力な通信レーザーを搭載することで、太陽大気を貫き、双方向の指示とデータの流れを確保する。
だが、やはりロポット探査機は燃えつきた。いくら鏡面と絶縁を改艮しても、いくら超伝導体の熱分散率を均等にしてみても、熱力学の法則は譲らなかった。遅かれ早かれ、高温の場所から低温の場所へは、熱が伝わるのだ。
それでも太陽物理学者たちは、瞬間的に送信される大量の情報と引きかえに、あきらめて探査機を燃えつづけさせていただろう──ティナ・マーチャソトがほかの方法を提案しなけれぱ。
「冷却法を試してみたらどう?」と彼女は問いかけた。「そうするだけのエネルギーはあるでしょう。冷却装置を使って、探査機の一部の熱を、ほかの部分へ押しだすのよ」
それに応えて、彼女の研究仲間たちは、超伝導体さえあれぱ、熱の分散は問題ないと言った。
「だれが熱の均等分散のことなんか言ったのよ」とケンブリッジ出の美女は反論して、「船の機械類がある部分から余剰の熱を全部吸いとって、それを機械類のない部分へ汲みだしてやればいい、と言ってるのよ」
「そんなごとをしたら、汲みだされた部分が焼けてしまうじゃないか!」とべつの同僚。
「それはそうだが、その熱の汲みだし≠ヘ、連続して行なうことができるはずだ」と、これはもう少し頭の切れる、ぺつの技術者が言った。「そして、その熱を順次外へ放出することも……」
「ちがうちがう、あなたたちはなんにもわかっちゃいないのね」のちにノーベル賞の三重受賞に輝くことになる才媛は、黒板に歩みよって円を描き、その内側にもうひとつ円を描いた。
「ここよ!」と、彼女は内側の円を指し示して、「余剰の熱はいったんここへ汲みだして、瞬間的に、船をとりまく外のプラズマよりも高温にしてやるの。そして、その高熱が船に悪影響をおよぼす前に、彩層に吐きだしてやるのよ」
「だけど、どうやって?」有名な物理学者か疑問を呈した。「そんなことができると思うのかね?」
ティナ・マーチャントは、まるで宇宙飛行技術賞の受賞を確信したかのように、ほほえんで見せた。「まったく、あなたたちにはあきれてしまうわね! 太陽探査機には、輝度温度が数百万度にもなる通信レーザーを捲載してるじゃない! それを使うのよ!」
こうして、太陽探査の時代は幕をあげた。浮力に加え、冷却レーザーの放射でバランスをとることにより、探査機は何日も何週間も太陽表面を漂って、地球の気象に影響をもたらす、太陽の徴妙な変化を観察しつづけた。
その時代も、〈コンタクト〉とともに終焉を迎えた。だが、すぐに新しいタイプのサンシップが誕生した。
ジェイコブはティナ・マーチャントに思いを馳せた。サンシップのデッキに立ち、この燃えさかる星の恐るべき嵐のなかを静かに巡航できたなら、あの偉大な女性は誇らしく思うだろうか、それともただ呆然とするだろうか? 「もちろんよ!」と彼女は言うかもしれない。しかし、人類がその嵐のなかへ乗りこむためには、彼女のアイデアに加えて、銀河文明の科学が追加されなくてはならなかったことなど、どうして彼女に想像できただろう。
ジェイコプにとって、技術の混合は、不安をもたらすものだった。
もちろん、この船のおかげで、二十回もの降下が成功に終わうていることは承知している。この旅が危険なものになると考える理由はなにもない。
しかし、もう一隻の、この船を小さくしただけの同型船が、原因不明のまま、三日前に失われたぱかりなのだ。
いまごろジェフの船は、溶解する対熱合金のかけらとイオン化ガスの雲となって漂い、太陽の高熱の渦のなかを、数百万立方マイルにもわたって散乱してしまっているだろう。ジェイコプは、あのチンプの科学者が、生の最後の瞬間、時空フィール下の保護なしに目のあたりにした、彩層の嵐のようすを想像しようとした。そこで、目を閉じて、まぶたの上からそっと眼球を押さえた。あまり長いあいだ、まばたきをせずに太陽を見つめつづけていたためである。
いま彼がすわっているところ、デッキの上にずらりとならぶ観測カウチのひとつからは、太陽の半球のほぼ全体を見わたすことかできた。天の半分は、ふわふわとした、赤や黒や白の.ゆっくりと蠢くボールで満たされている。水素アルファ線しか通さないため、あらゆるものが赤みがかって見える。太陽の縁から宇宙空間へ伸びだした、かすかで弱々しいプロミネンスのアーチ。黒々としてねじくれた、何本ものフィラメント。真影の深みと半影の流れからなる、陥没した暗黒の太陽黒点。
太陽の地形には、ほとんど無限の変化と構造があった。目では追いきれないほど速いきらめきから、ゆっくりとした堂々たる回転まで、目に見えるありとあらゆるものに動きがある。
一時間たってもおおまかな景観に変化はなかったが、いまやジェイコブには、無数のこまかい動きが識別できるようになっていた。いちばん速い動きを示すのは、超粒状斑をとりかこむ、背が高くてほっそりとした、針状体《スピキュール》≠フ森の脈動だ。 脈動は数秒間の間隔で起こっていた。そのスピキュールの一本一本の断面積が数千平方マイルにもおよぶことを、ジェイコプは知っている。
彼は長いあいだ、サソシップの裏デッキから、ちらつく棘を望遠鏡で観察した。超高熱のプラズマが、太陽の重力をふりきり、小刻みにゆらぐ噴水のように、光球から噴きだしている。そうやって吐きだされた音と物質の荒れ狂う波が、コロナとなり、太陽風となるのである。
スピキュールの垣根のなかには、巨大な粒状斑があった。深奥部から昇ってきた熱が、百万年におよぶ対流の旅を終え、だしぬけに光となって解放されるたびに、それぞれの粒状斑が複雑なリズムで脈動していた。
さらに、その粒状斑が集まって超粒状斑を形成し、その振動が、ほぼ完壁な球をなす太陽の、基本的な振動を作りだしていた──宇宙に鳴り響く、恒星のベルだ。
これらのすべての上に、海底を覆う広大で深い海洋のように、彩層が流れていた。
このアナロジーはちょっと極端かもしれないが、スピキュールの上の乱流地域が珊瑚礁、磁場のあらゆる通り道にからみつく壮麗でふわふわしたアーチ状のフィラメソトが、ゆっくりと潮にゆらぐ海藻の苗床、と考えれぱわかりやすいだろう。たとえそのピンクのアーチのびとつひとつが、地球の何倍もあろうともだ!
もういち」ど、ジェイコブはたぎりたつ球体から目を引き離した。こんなものを見つづけていたら、なんにもできなくなってしまう。ほかの連中は、どうやってこの誘惑に抵抗しているのだろう。
彼の位置からは、観測フロアーの全体が見わたせた。見えないのは、直径四十フィートの中央ドームの向こう側にある、一部のセクションだけだ。
ふいに、中央ドームの側面に開ロ部が広がりだし、デッキに光が溢れ出た。その光にシルエットを浮かびあがらせて、男がひとり、ついで背の高い女がひとり現われた。目が慣れるのを待つまでもなく、ジェイコブにはその体格から、それがダシルヴァ司令官であることがわかった。
エレンはほほえみながらやってきて、彼のカウチのとなりに、足を組んですわった。
「おはよう、デムワさん。夕ぺはぐっすり眠れたかしら。今日は忙しい一日になるはずよ」
ジェイコプは笑って、「まるで、ここに夜と呼べるものがあるような口ぶりじゃないか。わざわざ手をかけて、こんなふうに目の出を見せてくれなくてもいいのに」天の半分を覆う太陽に、顎をしゃくって見せる。
「船の自転を調整して八時間の夜を作りだせぱ、地上人にも眠る余裕が持てるでしょう」
「心配ご無用。ぼくばいつだって眠れるんだ。こいつはぼくの、いちばん貴重な才能のひとつでね」
エレソの笑みが大きく広がった。「それは便利だこと。ただ、話の出たついでに言っておくけれど、最終降下に入る前に船を回転させて、それを夜と呼ぶのは、太陽飛行士《ヘリオノート》の伝統になっているのよ」
「もう伝統ができちまったのかい? たった二年間で?」
「いえいえ、この伝統はもっとずっと古くからあるのよ! 大昔に遡って、だれも太陽探訪など想像もできなかったころからね。太陽になんか行けるはずがない、もし行けるとしたら……」彼女は間を置いた。
すかさず、ジェイコプが大きな声で、「太陽がまだ熱くない、夜のうち!」
「ご名答!」
「ちょっとした推理だよ、ワトソンくん」
今度はうめくのは、彼女の番だった。「じっさい、ヘリオスに降下した連中のあいだには、伝統を作ろうという気分ができあがりつつあるのよ。降下者だけで、〈火食いクラブ〉というのを作ってるんだけどね。水星にもどったら、あなたにも入会資格ができるわ。残念ながら、入会式がどういう内容になるかは申しあげられません……でも、泳ぎはできるわよね?」
「逃げ道はないようだな。喜んで火食いになるよ」
「けっこう! それから、忘れないでちょうだい、あなたはまだ、〈ヴァニラ・ニードル〉を救ったときの話をしてくれていないのよ。まだ話していなかったけれど、〈カリュプソ〉でもどってきて、あの古い大建造物が残っているのを見たときには、わたし、ほんとうにうれしかった。だから、あれを救ってくれた人物の口から、ぜひその話を聞きたいの」
ジェイコプは、サンシップの指揮官を通り越して、過去を見つめた。一瞬、吹きすさぶ風の音と、だれかの叫び声……だれかが落下していきながら、よく聞きとれないことばを叫んでいる声が聞こえた気がして……ジェイコプはかぶりをふった。
「ああ、それはあとのためにとっておこう。あれはごく個人的な話で、よもやま話のついでに話せるようなもんじゃないからね。〈ニードル〉を救うにあたっては、ある別の人間が──きみもどんな人物だったか聞きたくなるはずの人間が、関係していたんだ」
エレン・ダシルヴァの表情に、なにか同情するような色が浮かんだ。すでにエクアドルで彼の身に起こったことを知っていて、それはあなたの気が向いたときに話してくれれぱいいと言わんぼかりの表情だった。
「そのときがくるのを楽しみにしているわ。ところでね、あなたにしてあげる話を、ひとつ思いついたの。オムニヴァリウムのよがり鳥≠フことよ。あの惑星はとても静かで、人間の植民者は、よっぽど静かにしていないと、どんな音をたててもその鳥たちにものまねされてしまうの。これが植民者の愛の営みに、おもしろい影響をもたらしてね。とくに、たいへんなのが、女性のほう。なにしろ、相手のよさ≠誇示するために昔ながらの方法に訴えるか、さもなければじっと声を出さないようにこらえていなきゃならないんだから!
ああ、もう仕事にもどらなきゃ。この話は、まだまだこれで終わりじゃないのよ。最初の乱流に入ったら、つづきを話してあげるわね」
ジェイコプは司令といっしょに立ちあがり、操船ステーションに去ってゆく彼女のうしろ姿を見まもった。太陽の彩層のすぐ外というのは、女性の歩きっぶりに心を奪われるにはふさわしからぬ場所かもしれないが、彼女の姿が見えなくなるまで、ジェイコプはどうしても彼女から目が離せなかった。恒星間宇宙軍のメンバーが、手足の先にいたるまでたたきこまれたしなやかさは、まさに賞賛に値した。
いや、彼女はわざとああいう歩き方をしているのかもしれない。職務に関係のないことでは、エレン・ダシルヴァは明らかに、趣味としてリビドーを追及しているのだ。
だが、ジェイコプに対ずる彼女のふるまいには、どこかしら奇妙なところがあった。どうも彼女は、水星でのちょっとした貢献と、ふたりで交わしたわずかだが親しい会話から本来抱く以上の信頼を、ジェイコブに抱いているらしい。おそらく、彼女にはなにか目的があるのだろう。たとえそうであっても、こちらにはそれを推し量るすべがない。
さもなければ、〈カリュプソ〉で地球をあとにし、長期間の旅に出たときから、その乗組員は自然に人恋しくなるのかもしれない。オニールの植民星に立ちより、政治の愚かさというものをつくづく考える時間を持った人間は、高度に個人否定的な連合政府の子供よりも、自分の本能のほうを信用するようになるのだろう。
それにしても、ファギンは彼女に、おれのことをどう話したのだろう?
ジェイコプは中央ドームの前に行き、ハッチを通って、四角い箱のような通路に入った。表デッキに出たとたん、たちまち眠けが完全にふっとんだ。ドーム出口の横にあるフード・マシーンのそばに、ふたりの異星人といっしょに、ドクター・マーティンが立っていたのだ。彼女はほほえみ、カラの目が親しげに輝いた。ババカプでさえ、ヴォーダーを通して低くうなるように挨拶した。
ジェイコブはオレンジジュースとオムレツのボタンを押した。
「ジェイコブ、夕べは寝るのが早すぎたわね.あなたが行ってしまってから、ビラのババカブがもっと驚異に満ちた話をしてくださったのよ。ほんとうに、あれは気の遠くなるような話だったわ!」
ジェイコプはババカプに軽く頭をさげた。
「それはそれは、申しわけないごとをいたしました、ビラのババカブ。夕ベはもう、くたくただったものですからね。疲れてさえいなければ、偉大なる銀河系の諸種族、とりわけ栄光に輝くビラにまつわるお話を承って、興奮に身をうち震わせていたでしょうに。あなたのお話は、尽きることを知らぬ泉でしょうからね」
となりでマーティンが身をこわぼらせたが、ババカプは身つくろいをすることで、喜んでいることを現わした。この小さな異星人を侮辱すれば、危険な事態になることくらい、ジェイコブも心得ている。だが、いまでは彼は、いくら傲慢なものいいをしても、この大使にはそれが侮辱だとわからないのではないかと思っていた。だから、害のない皮肉を言う誘惑に耐えられなかったのだ。
マーティンは、ぜひここで朝食を食べていけと言いはった。カウチはすでに、食事ができるようにしつらえられている。近くでは、ダシルヴァの四名の部下のうちのふたりが、食事をとっていた。
「だれか、ファギンを見たかい?」とジェイコブは訊ねた。
マーティンはかぶりをふって、「いいえ、もしかしたら、十二時間前から、ずっと裏デッキに行ってるんじゃないかしら.どうしてみんなといっしょにいないのか、わたしにはわからないわ」
こうも寡黙になるとは、ファギンらしくもない。このまえ望遠鏡を覗きにいったときも、カンテンは計器側半球にいた。ファギンはほとんど口をきかなかった。いまでは、司令官の命令で船の裏デッキ側は立入禁止になっており、ただあのETだけが、そこを占領している状態だった。
昼どきになってもファギンがなにも言ってこないようなら、どうしたのか訊いてみよう。
近くでは、マーティンとババカブが話をしていた。ときおり、カラもふたことみこと口をはさんだが、そうするときには必ず、最高級の敬意を払った。ブリングはつねに、その大きな唇のあいだにストローをくわえていた。ジェイコプが食事をとっているあいだ、彼はゆっくりと、着実に、数本分の容器を空にしてしまった。
ババカプが祖先の話をしはじめた。その祖先は、百万年ほど前、ソロ族の一員として、この銀河系を分かちあう、ゆるやかにまとまった酸素呼吸諸族と謎に満ちた水素呼吸諸族との、数少ない平和的コンタクトに参加したという。
何億年にもわたって、水素呼吸生物と酸素呼吸生物は、ほとんど、あるいはまったく、たがいを理解しあうことかなかった。両タイプの諸族同士で闘いが起きたときには、必ずひとつの惑星が減びた。共通の興味の対象がほとんどなく、したがっていさかいがめったに起こらないのは、幸いなことだった。
その物語は、長く、こみいっていたが、ババカプがみごとな語り部であることは、ジェイコブも認めざるをえなかった.自分が注目の的になっているかぎり、ババカプは愛敬がよく、ウィットに満ちた存在だった。
ジェイコブは、ビラが生き生きと語っていくさまざまなことがらに──それらを目にしたことのある入間は、まだほんのひと握りしかいない──想像の羽をはばたかせた。星々の、たとえようもないほどの奇妙さと美しさ。無数の惑星に住む、さまざまな生物たち。ジェイコプは、エレン・ダシルヴァがうらやましくなりはじめた。
〈ライブラリー〉の存在意義に、ババカプは強烈な自負を持っていた。〈ライブラリー〉は知識の宝庫であり、すべての酸素呼吸種族をひとつにたばねる、伝統の守護者である。それはたえず発展し、知識を増やしていく。なぜなら、もし〈ライブラリー〉がなけれぱ、種族間の橋渡しをするものがなくなってしまうからだ。戦争は無制限に行なわれ、種族を減亡へと導くだろう。惑星は過度の使用によって荒廃してしまうだろう。
〈ライブラリー〉をはじめとする、ゆるやかに組織された諸協会は、所属する種族同士がたがいを絶減へ追いやらぬよう、力をつくしてきたのである.
ババカプの物語はクライマヅクスに達し、彼の聴衆たちは、しばし畏怖に打たれて、沈黙に陥った。ややあって、ババカプは善意から、ジェイコプにも自分自身のことでなにかおもしろい話を聞かせてはもらえないかと水を向けた。
意表をつかれて、ジェイコブははっとした。なるほど、人間の基準で言えぱ、たしかに彼は興殊深い人生を送ってきたかもしれないが、とても驚異的と言えるようなものではない! なにか、歴史のできごとで話せることはないだろうか? どうやらそれは、個人的な経験か、先祖もしくは古代人の冒険でなければならないらしい。
椅子にすわったまま冷や汗をたらしながら、ジェイコブは歴史的な人物のことでも話そうかと考えた。たとえばマルコ・ボーロや、マーク・トウェインあたりだ。しかし、それではマーティンにはおもしろくない。
では、祖父のアルヴァレスが〈大変革〉のときに果たした役割はどうだろう。いや、あれはかなり政治色の強い物語であり、ババカプはそれを危険だと思うかもしれない。いちばんいいのは、〈ヴァニラ・ニードル〉での自分自身の体験を語ることだが、それはあまりにも個人的なことだし、いまここで話すには、つらい思い出が多すぎる。それにあの話は、エレン・ダシルヴァにすると約束したのだ。
ラロックがここにいないのが、ひどく残念だった。あの短気な小男なら、足もとの太陽が燃え尽きるまでも、話しつづけていただろうに。
そこでふと、いたずらっぽい考えが浮かんだ。そうとも、歴史のなかには、ジェイロブ自身の直系の先祖であり、充分適切な話題となりうる人物がいる。おもしろいのは、その物語が、二重の意味に解釈しうるということだ。
「そうですね、じつを言うと」と、彼はゆっくりとはじめた。「地球の歴史のなかには、ひとりお話ししておきたい男性がいるんでずよ。原始的≠ネ文化や技術を持つ文明と、それをほぼあらゆる点で圧倒する文明とのコンタクトにかかわったという点で、それはなかなか興味深い人物なんでず。当然、このことについては、みなさんもよくこぞんじでしょう。〈コンタクト〉以来、それはほとんどすべての歴史家が語ってきたことですから。
アメリカ・インディアンのたどった運命は、現代の寓意的教訓となっています。かつて、二十世紀によく映画に描かれた誇り高き赤い人種≠ヘ、今目では笑いものの見本でしかありません。ミリーが水星基地で言ったように、そして地球のだれもが知っているように、アメリカ・インディアソは、ヨーロッパ人の侵入にともなって強い影響を受げた文化のなかで、もっとも適応の仕方がへたな人種だったのです。その誇り高さによって、彼らは白人の強力な方法をとりいれようとはせず、気づいたときにはもう手おくれだった。これとちょうど正反対なのが、十九世紀末に日本がみごとになしとげた、開化$ュ策です……現在、これは格好の成功例として、適応共存#hの指摘するところとなっています」
うまく注意を引きつけたぞ。人間たちは黙って見入っているし、カラの目は輝いている。いつもは超然としているババカブも、ビーズのような小さな目をひたとジェイコプにすえている。もっとも、適応共存#hのことを口にしたとき、マーティンが一瞬たじろぐのが見えた。これはデータとして憶えておくとしよう。
もしラロックがここにいたなら、おれがなにを言おうと耳も貸さないだろう。だが、ラロックの苦しみなどは、おれがこんなふうに話しているのを聞いたときのアルヴァレス一族の苦痛と比べたら、なにほどのこともあるまい!
「もちろん、アメリカ・インディアンの適応の失敗は、彼らの責任ばかりとも言いきれません」ジェイコプは先をつづけた。「多くの学者は、不幸にして、ヨーロッパ人が世界じゅうに進出した時代は、西側半球の諸文明が周期的な低迷期にあたっていたと考えています。じっさい、あわれなマヤ人などは、ちょうど内乱を終えたばかりで、人々はこぞって都市を捨てて田舎へと移り住み、貴族や僧官たちは頽廃していました。コロンブスが到着したとき、寺院はほとんど打ち捨てられていたのでず。もちろん、マヤの黄金時代≠通して、人口は二倍になっており、富と貿易量は四倍に膨れあがっていましたが、それらは文明の活力の尺度とはなりません」
気をつけろ、ジェイコプ。あまりきつい皮肉はよすんだぞ。
ジェイコブは、クルーのひとり、デュプロフスキーと紹介された男が、仲間に背を向け、こちらを向いているのに気づいた。その顔の皮肉っぽいにやにや笑いが見えるのは、ジェイコプだけだ。ほかの者たちはみな、見るからに興味津々の顔で──もっとも、カラとババカプについてはなんとも言えなかったが──話に聞き入っているらしい。
「さて、これからお話しするわたしの祖先も、アメリカ・インディアンでした。名前はセコイ。チェロキー族の一員です。
当時、チェロキー族は、おおむねジョージア州のあたりに住んでいました。ここはアメリカの東海岸ですから、ほかの部族と比べて、白人に対ずる準備期間がずっとわずかしかない。それでも彼らは、自分たちなりの方法で対応を試みました。日本の試みほど大規模で完壁ではなかったにせよ、ともかくも彼らは試みました。
つまり、すぐさま新しい隣人たちの技術を導入したのです。テント小屋は丸太小屋となり、鉄器と鉄鋼はチェロキー族の生活の一部となりました。早いうちから、火薬についても学び、ヨーロッパ式の農法にも慣れ親しみました。この点については否定する者もおおぜいいますが、チェ同キー族は一時期、奴隷所有者ともなったのです。
問題は、二度の戦争で打撃をこうむったあとでず。彼らは一七六五年の戦いでフランスに、アメリカの独立戦争ではイギリスに味方するというあやまちを犯しました。それらを経たのちも、十九世紀のはじめごろまでは、彼らはちょっとした共和国を保持していました。ひとつには、チェロキーの若者のいく人かが、白人の知識を充分に吸収して、法律家となったからです。類縁関係を持つ北方のイロコイ族とともに、彼らは外交ゲームで、なかなかみごとな仕事をこなしていたのです。
しかし、それもしばらくのあいだでした。
わたしの先祖の話に入りましょう.セコイは、チェロキー族にせまられたふたつの道──誇り高い蛮族のまま全減するか、植民者のやり方にすっかり順応して部族としては消減してしまうか──このどちらもが気に入りませんでした。とりわけ、、書かれたことばの力は承知していたものの、教養人となるために英語を学ぱなげればならないとしたら、インディアンは永遠に不利を背負わされると考えました」
ジェイコブはようすをうかがった。セコイ以下のチェロキー族の直面する問題と、〈ライブラリー〉に対する人類の窮境とを関連づけて聞いている者が、だれかいるだろうか。
マーティンの表情から判断して、少たくともひとりは、いつもはもの静かなジェイコプ・デムワがこんなに長い歴史物語をすることに、驚きを覚えているらしい。彼女は知らないし、これからも知ることはないだろう──ジェイコブをはじめとするアルヴァレス一族の子供が、学校がひけたあと、歴史と雄弁術について、どれほど長いレッスンを受けたのかを。一族の変わり者として、政治の道に背を向げたものの、彼もやはり、その技術のなにがしかは身につけていたのである。
「その結果、セコイは自分の満足のいく形で、この問題を解決しました。チェロキーの話しことぼから、書きことばを発明したのです。それは非常に困難な仕事であり、数々の迫害と放浪のエピソードのはてに達成されました。チェロキー族のなかには、彼の努力に反対する者がおおぜいいたからです。しかし、この仕事かすべてなったとき、文学と技術の世界は、何年もかかって英語を学ぶことのできた教養人に限らず、ふつうの知識を持つチェロキー族にも、手のとどくものとなったのでず。
ほどなく、同化主義者たちも、セコイの偉業を受け入れるようになりました。彼の勝利は、その後のチェロキー族の生き方を方向つげたと言えまず。これによって、その根本的なヒーローが戦士ではなく.知的な者であった唯一の部族、チェロキー族は、選民となることを選んだのです。
しかし、それこそば彼らの決定的なあやまちでした。もし宣教師たちを受け入れ、植民者のまがいものに変貌していたなら、おそらく彼らはヨーマン階級に融けこむことができ、ヨーロッパ人からは少々身分の低い白人と見なされていたでしょう。
ところが彼らは、昔からの文化の核を保持したまま、近代的なインディアンになれると考えました……このふたつは、明らかに背反する要素です。
とはいえ、なかには彼らがそれをなしとげたかもしれないと考える学者たちもいます。状況は順調に進んでいたのです。ところがそこへ、白人の一団が、チェロキーの土地に金鉱を発見しました。金鉱発見によって、植民者たちは色めきたちました。そして、ジョージア州議会を動かして、その土地を押収する法律を成立させました。
この時点で、チェロキー族は思いきった行動──その後の百年間、だれにもまねのできない挙に出ました。チェロキーのインディアン国家は、ジョージア州議会を、土地の不法占拠のかどで法廷に訴え出たのです! 一部の同情的な白人の助けも借りて、彼らはどうにか、この間題を合衆国最高裁に持ちこむことができました。
最高裁は、この撤収が違法であると裁定しました。チェロキーの土地は確保されました。
しかし、ここにおいて、チェロキー族の適応の不完全さは、みずからを減ぼすことになります。植民者社会の基本構造に融けこもうとする、本格的努力を怠っていたために、チェロキー族にはみずからの論拠の正当性を裏づける政治力が欠けていました。彼らは新国家の崇高にして名誉ある法律を信じ、賢明にもそれを利用したはいいが、世論というものが、あらゆる点で法と同じ力を持つことを理解していなかったのです。
白人入植者の大半にとって、彼らは単なるインディアンの一部族にずぎません。アンディ・ジャクスンが最高裁などくそ食らえと言って、軍隊を送りこみ、結局チェロキー族を強引に追いたてたとき、彼らにはどこにも移り住む場所がなくなっていました。
そこから、セコイの一族はわずかな財産をまとめ、だれひとりとして見たことのない西部に新たな.インディアンの土地伽をもとめて、悲劇的な涙の道行き≠ノ出ざるをえなくなったのです。涙の道行き≠フ物語は、人間の勇気と忍耐の物語です。長い旅にともなうチェロキー族の苦しみは深く、悲しみはつきませんでした。それを題材にして、非常に感動的な文学も書かれていますし、以来彼らの魂に刻みこまれた我慢強さの伝統は、今日にいたっても受け継がれています。
しかしこの追いたては、チェロキー族にふりかかったトラウマの、最後のものではありませんでした。
合衆国で南北戦争が勃発するや、チェロキー族はまたもや悲惨な目にあいました。連邦についたインディアン義勇兵と、連合側についたインディアン旅団は、兄弟の血を流しあって闘ったのです。彼らの奮戦ぶりは白人に勝るとも劣らぬもので、しかもずっと統制がとれていました。そして、その過程で、彼らの土地は荒廃してしまいました。
そののちも、彼らは野盗の襲撃や病気、たびかさなる土地の接収に苦しみました。そして、その我慢強さから、彼らは一部で、アメリカ・インディアンのユダヤ人≠ニして知られるようになりました。ほかの部族のなかには、絶望とインディアンに向けられる犯罪的な仕打ちに耐えかねて、同化してしまうものもありましたが、チェロキー族は人を頼りにしない伝統を守りぬきました。
そこで思いだされたのが、セコイです。おそらく、チェロキー族の誇りの象徴としてでしょう、彼の名前はある樹木──カリフォルニアの霧深い森に生える、大木につけられました。これは、世界じゅうでもっとも高い木です。
しかし、こういうことを話していては、チェロキー族の愚かさから目がそれてしまいそうですね。しばらくのあいだ.彼らのプライドは、十九世紀の掠奪と二十世紀の冷たい扱いを生きぬくのに役だちましたが、それは逆に、二十一世紀のインディアン慰謝運動への参加をとどめさせてしまいました。彼らは、官僚時代直前にアメリカ政府によって申し出られた、文化的補償≠拒否したのです。啓発され、強化された大衆の良心を慰めるため、インディアン諸部族の残澤に富が寄せられたその時代は、皮肉にも、アメリカのイソディアン・サマー≠ニ呼ばれています。
チェロキー族は、昔ながらの踊りや儀式を演じて見せる文化セソターの設立を拒否しました。ほかのアメリカ・インディアンの復古主義者が、自分たちの財産をとりもどすため=Aコロンブス時代以前の工芸を復活させたのに対して、チェロキー族は、インディアン独自の二+一世紀アメリカ文化を樹立できるというのに、なぜ過去の遺物≠掘り起こすのかと問いかけました。
モホーク族やその他のちりぢりになった部族のメンバーたちとともに、彼らは慰謝料≠ニ部族の財産の半分を投じて、宇宙都市連盟に参加しました。チェロキー族の若者のプライドは、彼らの祖父たちがアメリカの大都市建設に力を貸したように、宇宙に都市を築くことに向けられました。こうして、チェロキー族は、空の領有と交換に、富裕になるチャンスを逸してしまったのです。
そしてふたたび、彼らは手ひどくプライドの代償を払わされることになります。官僚主義が締めつけをはじめると、連盟は抵抗しました。チェロキー族の宝と言うべき、聰明な若い男女たちは、彼らの宇宙の兄弟、アンディ・ジャクスンの子孫やアンディ・ジャグスンの奴隷たちの子孫もろともに、何千人と死んでいきました。彼らの建設した連盟諸都市は、ほぼ壊減しました。生き残った者たちは宇宙にとどまることをゆるされましたが、これは、官僚政府が入念に選んだ新たなる住人のために、宇宙での生活の仕方を教えてやるためにすぎません。
地球でも、チェロキー族は苦しんでいました。その多くが、護憲主義運動に参加したからでず。インディアンの諸国家のなかで、民族として勝者に処罰されたのは、べトナム人、ミネソタ人とならんで、チェロキー族だけでした。二度めの涙の道行き≠ヘ、最初のものに劣らないほど悲惨なものでした。もっとも、今度は道連れがいたわけですが。
もちろん、ほんとうの官僚時代が到来したのは、官僚主義第一世代にあたる、血も涙もない指導者たちが代替わりしてからです。権力者たちは、復讐よりも生産性を重視したのです。連盟は政府監視のもとで再建され、元来の建設者の生き残りたちの影響を受けて、宇宙都市オニールには、豊かな新文化が発展しました。
しかし地球では、多くの部族が世界文化に吸収されたりおかしくなったりしていったなかで、いまなおチェロキー族は闘っています。彼らはいまだに教訓を学んでいません。噂では、彼らの最新の気ちがいじみた計画は、ペトナム人とイスラエル・APUと組んで、金星を地球化することだとか。もちろん、これはばかげた計画です。
しかし、こういったことはすべて、二義的なことにすぎません。もしわたしのご先祖さまのセコイやその一族が、完全に白人のやり方に同化していれぱ、彼らは白人文化のなかでささやかな地位を獲得し、苦しむこともなく、平和裡に吸収されていたでしょう。また、もし彼らが多くのアメリカ・インディアンの隣人たちのように、見境いなしに頑迷な抵抗をつづけていれぱ、いっときは苦しんでも、最後にはのちの白人世代の寛大さ≠ノよって平和を得ていたでしょう。
しかし、チェロキー族はかわりに、西欧文明の明らかに優秀で強力な側面と、自分たちの遺産との、融合の道を見出そうと試みた。彼らはそれを実験し、えり好みをしました。彼らは六百年にわたって、口うるさく好ききらいを言い立て、それゆえに、他のどの種族よりも苦しみぬいたのです。
この物語の教訓は明白でしょう。われわれ人間は、アメリカ・インディアンと同じ選択をせまられている。えり好みをするか、〈ライブラリー〉から提供される、二十億年の長きにわたる文化のすべてを無条件で受け入れるか。えり好みを主張する者たちには、チェロキー族の物語を思い出させてやることです。彼らの審判は長く、いまなお終わっていないのですから」
ジェイコプが話しおえると、長い静寂が訪れた。ババカブは小さな黒い目で、なおも彼を見つめていた。カラも凝視を崩さない。ドクター・マーティンは考え深げに眉をひそめたまま、デッキに目を落としている。
クルーのデュブロフスキーは.ずっと向こうに立っていた。片腕で胸を押さえ、もういっぽうで口もとを押さえて、目尻には皺を寄せている。必死に笑いをこらえようとしているらしい。
きっとあれは、連盟の出身者なのだろう。宇宙には連中がうようよしているのだ。この件については、口を出さないでいてくれるといいのだが。ただでさえ、危ない橋をわたっているのだから。
のどがからからだった。オレンジジュースの飲料チューブをひとくち長々と吸いこみ、あとは朝食用に残した。
ババカプはようやく、小さな両手を首のうしろにあてがい、身を起こした。しばらくジェイコブを見つめてから、ややあっ」て、
「おもしろい、話だった」と言った。「水星、にもどったら、わたしのために、記録してくれるよう、お願いする。いまの話、は、地球人、について、すばらしい、レッスンだった。
しかし、二、三、質問、したいことがある。いまでも、あとでも、いい。いくつか、わたしには、理解、できないことがある」
「なんなりとどうぞ、ビラのババカプ」ジェイコブは、笑みを隠そうとして、頭をさげた。あとは、ババカプがこうるさく細かいことを聞きはじめる前に、急いで話題を変えてしまうことだ!だが、どうやって?
「わたしもまた、わが友ジェイコプの話を楽しませてもらったよ」笛の音のような声が、彼らの背後から言った。「話の聞こえるところまでくるのに、できるかぎり音をたてないようにしていたんだ。わたしの存在が話の腰を折らなくて、うれしい」
ジェイコプは安堵のあまり、はじけるように立ちあがった。
「ファギン!」カンテンがすべるようにやってくると、全員が立ちあがった。赤い光のもとで、その姿は漆黒に見えた.その動きは、ゆったりとしていた。
「お詫びを申しあげたい! どうしても下にいないわけにはいかなくてね。わたしが養分を光合成できるようにとの司令官のご好意で、スクリーンの輻射線透過率をあげてもらっていたのだよ。しかし、おわかりのように、そうするためには、船の裏デッキ側だけにかぎることが必要だったのだ」
「それはそうだわ」とマーティンが笑って、「こんなところで、日焼けはごめんよ!」
「まったくだ。それに、あそこは寂しかった。またみんなといっしょにいられて、うれしい」
二足動物たちは腰をおろし.ファギンもデッキに体を固定した。ジェイコブはこの機会に、いままでの話題から逃げることにした。
「ファギン、いまみんなで、降下がはじまるのを待ちながら、たがいに物語をしあっていたところだったんだ。きみもなにか、育成協会のことでおもしろい話はないかい?」
カンテソは枝葉をゆすった。ちょっと間があってから、「困ったな、わが友ジェイコプ。〈ライブラリー〉協会とちがって、わが育成協会は、それほど重要な存在ではないんだ。この名称自体、やむをえず英語に翻訳されたものにすぎない。きみたちの言語には、それを適切に言い表わすことばがないんだよ。
われわれのささやかな組織は、ずっと昔、〈始祖〉が銀河系をあとにするとき、いちばん古参の種族に言い置いていった指示のなかの、もっとも瑣末なものを実行するために設立されたものだ。おおまかに言ってしまえぱ、それは新しいもの≠尊重することを義務づけるものだった。
きみたちのような、いわば字宙の孤児──つい最近まで、類縁関係のほろ苦い絆も知らず、主族=類族間の義務関係も知らなかった種族には、われわれの銀河文明生来の保守主義が理解しにくいかもしれない。この保守主義は、悪いものではない。多種多様の価値観が存在する宇宙では、伝統と共通遺産を重んじることがよい影響をもたらず。若い種族は、長年にわたって叡知と忍耐を学んできた、より古い種族のことばに耳を傾ける。
いうなれば、英語の表現を借りるなら、ルーツに深い関心をはらうということだな」
このとき、ファギンがわずかに重心をずらしたことに気づいたのは、ジェイコプだけだった。カンテンが、足の役目をする短いこぶだらげの触手を、曲げたり伸ばしたりしたからである。驚いた拍子に、オレンジジュースが気管に入ってしまい、ジェイコブはむせないようにこらえなければならなかった。
「しかし、そのいっぽうで、われわれは未来にも対処しなくてはならない」とファギンはつづけた。「ゆえに、賢明なる〈始祖〉は、新たに太陽のもとに生まれた生物たちを見下さないよう、最古の種族に警告していったのだ」
ファギンの姿は、彼らの目的地である巨大な赤い円盤を背に、黒々と浮かびあがって見えた。ジェイコブは、疲れはてたようにかぶりをふった。
「そこで、狼の乳で育った野蛮人が見つかったという話が伝わったとき、きみたちはずっとんで逃げたわげだ。そうだろう?」
葉むらがさらにゆさゆさとゆれた。「非常に写実的な表現だな、わが友ジェイコブ。しかし、きみの要約は本質的に正しい。〈ライブラリー〉には、生き延びるためになにが必要であるかを地球の諸種族に教えるという、重要な役割があった。わたしの協会は、きみたちの新しさを評価するという、マイナーな役割をはたしたにすぎない」
ドクター・マーティンが口を開いた。
「カンテン・ファギン、あなたの知るかぎり、こういうことがいままでに起こったケースはありますか? つまり、わたしたちのように、太古の知性化の記憶がなく、いきなり自力で銀河系に進出したような種族が、いままでにいたか、ということでず」
「いたとも、敬愛するドクター・マーティン。そういうことは、いままでに何度となくあった。宇宙はいかなる想像力をも寄せつけないほど広大だ。酸素呼吸生物と水素呼吸生物との周期的な植民は広大な範囲におよんでいるが、植民されている当該星域が完全に探険しつくされたことは、皆無に近い。しばしば、その大移動のさい、まだ準知的段階から引きあげられたばかりの種族のごく一部が、主族に捨てられ、みずからの道を歩みだすことがある。このような放置は、文明種族によって処罰されるのがふつうだが……」カソテンはためらった。ファギンが急いで先をつづけたとき、ジェイコプはショックとともに、だしぬけにその理由を理解した。
「しかし、一般に特定星域の植民期間が限定されているがゆえに、そのような稀なケースからは、またべつの問題が生ずる。見捨てられた種族は、種族の技術の残りかすから、粗雑な宇宙航法を開発することがあるが、その種族が恒星間宇宙に進出するころには、銀河系のその部分は休閑地となっている。そのため、今度はその星団、もしくは渦状肢に植民してきた水素呼吸生物によって、わけもわからぬままに、鶴食にされてしまうのだ。
にもかかわらず、ときとしてそのような種族が見つかることがある。ふつうは、孤児たちは主族の記憶をはっきりと持っているものだ。場合によっては、神話と伝説が事実にとってかわっていることもある。しかし、たいていの場合、〈ライブラリー〉は真実を突きとめることができる。なぜなら、〈ライブラリー〉こそは、われわれの真実が蓄積されているところだからだ」
ファギンは何本かの枝を、ババカプに向かって下げて見せた。ビラは親しみをこめて一礼し、それに応えた。
「だからこそ」とファギンは語をついで、「その偉大な知識の宝庫になぜ地球についての言及がないのか、そのわけが解明される日を、われわれは大いなる期待をこめて待っているのだよ。
〈始祖〉が旅立って以来、この星域には五回の大規模な植民が行なわれた。にもかかわらず、かつて地球に知的種族が住んだという記録は、いっさいない」
頭をあげかけたババカブの動きが、ぴたりととまった。小さな黒い目がきっと上を向き、獰猛な光をたたえてひたとカンテンを見すえたが、ファギンはそれに気づかないようすで、先をつづけた。
「わたしの知るかぎり、人類は、知性がひとりでに進化するという魅力的な可能性を秘めた、最初の例だ。きみも知っているはずだが、このような考えは、強固に確立されたわれわれの生物科学の原理のいくつかを、根底から脅かす。しかしながら、きみたちの人類学者の議論のなかには、非常に説得力のあるものがあみ」
「ばかげた.考えだ」ババカブが鼻を鳴らした。「人間、の言う〈毛皮派〉、のほら話は、永久運動、と同じようなものにすぎない。完全な、知能、が、自然に#ュ達する、などという理諭は、たあいない、ジョークの種、でしかないのだ、人聞=ジェイコブ・デムワ。だか、もうじき、〈ライブラリー〉は、きみたち不遇な種族に、必要なものを、与える。きみたちが、どこからきたかという、心安らぐ、知識をだ!」
船のエンジンの低い振動音が大きくなり、一瞬ジェイコプは、かすかなゆれを感じた。
「全員に通達します」ダシルヴァ司令官の増幅された声が、船内じゅうに響きわたった。「本船はたったいま、彩層最外層を通過しました。以後は、たびたびいまのようなショックがあるはずです。目標領域に接近したら、再度通達します。以上」
太陽の地平線は、いまやほぼ平らになっていた.船の周囲のあらゆる方向で、まばらにそびえる赤と黒のからみあったアーチが、無限の彼方へ伸びだしている。船が降下するにつれて、もっとも高いフィラメントがつぎつぎに周囲にそびえたっては、いまなお黒々と残る宇宙空間を背にしてブロミネンスとなり、ふたたび頭上を覆う、赤い靄のなかに呑みこまれた。話をしていた者たちは、だれからともなく、デッキの縁に行った。そこからは、彩層の下部をじかに見ることができた。ときおりデヅキがゆれるのにもかまわず、しばらくのあいだ、彼らはただ、黙って見入っていた。
「ドクター・マーティン」ジェイコプが言った。「きみとビラのババカブは、きみたちの実験をはじめる準備ができているのかい?」
彼女はババカブと自分のカウチのすぐそばに置いてある、ふたつのがっしりした宇宙トランクを指さした。
「必要なものは、みんなあれに入っているわ。わたしのほうも、これまでの降下で使った精神波装置を持ってきたけれど、基本的には、ビラのババカプの実験を手伝うことに全力をあげるつもり。わたしの脳波増幅装置やQ装置は、彼のトランクのなかにあるものに比べれば、子供のおもちゃ、出がらしのお茶っ葉ですものね。ともかく、役にたつように努力はするわ」
「きみの、助力、をありがたく、受け入れる」とババカプが言った。だが、ジェイコブがビラの精神波測定装置を見せてくれとたのむと、ババカプは四本指の手をあげて、断った。「それはあとで、準備、ができてからだ」
おなじみのむずがゆさが、ジェイコプの手にもどってきた。あのトランクのなかに、ババカプはなにを隠しているのか? 地球の〈ライブラリー〉分館には、精神波についての言及がほとんどと言っていいほどない。現象面については若干あるが、方法諭についてはまったくないのだ。
十億年にもおよぶ銀河文明は、すべての知的種族に共通する基本的能力について、どれだけのことを知っているのだろう? 列強諸族がまだこの現実面で研究しているところからすると、なにもかも知っているわけではなさそうだ。そしておれは、列強諸族のうちの少なくともいく種族かは、おれよりましなテレパシー能力を持っていないことを知っている。
噂では、より古い種族たちは、定期的に銀河系から姿を消すという。ときには、戦争や頽廃などによって自然淘汰されることもあるが、ときには、単に引退=c…つまり、その類族や隣人たちには無意味な関心事や行動に走って、消減してしまう場合もあるらしいのだ。
地球の〈ライブラリー〉分館には、精神波の現実的な側面についての情報は言うにおよぱず、なぜこれらのできごとについての情報がないのか?
ジェイコブは眉をひそめ、両手をぐっと握りしめた。よし。ババカプのいないところで、トランクの中身を調べてやろう!
そのとき、インターカムから、ふたたびエレン・ダシルヴァの声が流れ出た。
「三十分以内に、本船は目標領域に接近します。目的地の状況をよくごらんになりたい方は、操縦席までどうぞ」
目標領域のひときわ強烈な明るさに目が慣れてしまうと、太陽のほかの領域は、少し暗くなったように見えた。はるか下方で、だしぬけに強烈な光輝を放って、白斑が点減した。距離の判別しがたいある領域には、大規模な黒点集団が広がっている。いちばん近くの黒点は、炭坑の入口のように、黒々として見えた。光球の流紋で覆われた表面≠ェ、そこだけ陥没しているのである。その真影の部分はひどく静かだったが、黒点の縁にある半影の部分は、池に石を投じたとき波紋が広がっていくように、たえまなく外へと脈打っていた。境界部分は曖昧で、ピアノ線をはじいたときのように振動していた。
上方と周囲のいたるところには、もつれたひとつのフィラメントの、巨大な姿がそびえていた。これまでジェイコブが見たもののなかでは、最大のやつにちがいない。融合し、ねじれ、からみあう磁力線にそって、巨大なガス雲が渦巻き、流れているのである。なにもないところから、一本のこよりが出現し、伸びあがり、もう]本のこよりにからみついてから、虚無≠フなかへと消えていった。
いまや、船体のまわりには、そのこよりのミニチュア版が渦巻いており、ほとんど目には見えないものの、あたりを覆うピンクの靄のなかで、ほっとする黒い空間を作りだしていた。
ジェイコブは、文学的な人間ならば、この光景をどう表現するだろうと思った。いろいろと評判の悪い男だが──そして、殺人までおかしているかもしれないが──ことばによる表現の美しさにかけては、ラロックは定評がある。ジェイコブもいくつか、ラロックの記事を読んだことがあった。その結論には笑わされたものの、流麗な文章には感心させられたものだ。このような光景の前では、たとえどのような信条の持ち主であれ、詩人こそなくてはならない人間である。彼はラロックがここにいないことを残念に思った……それも、ひとつ以上の理由で。
「計器が異常な偏光の源をとらえました。われわれが捜索を開始した地点です」
カラがデッキの縁に寄り、クルーの指さす部分をじっと見つめた。
ジェイコプは司令官に.彼はなにをしているのかと訊ねた。
「カラはわたしたちのだれよりも正確に、色彩を識別できるの。一オングストローム前後の細かさで、波長を識別できるらしいわ。それに、どういうふうにしてか、自分の見ている光の位相を維持しておくことができるのよ。きっと、マイナス面もあるんでしょうげれど。そのおかげで、例のレーザー生物が発するコヒーレント光を、やすやすととらえることができるわけ。ほとんど例外なしに、連中の姿をまっ先にとらえるのは、カラね」
カラのごつい歯が、一回ガチリとかみあわされた。それから、ほっそりとした手を差し伸べて、「あそこにいます」と報告した。「あそこにたくさんの光点があります。大きな群れだ。あれなら、番犬も必ずいるでしょう」
ダシルヴァはにっこりとほほえんだ。船は急遮に、そちらへ向かって進みだした。
15 生と死……
フィラメントのまっただなかで、サンシップは急流に呑まれた魚のように、懸命に進んだ。急流とは電子の流れであり、鏡面球を洗う潮流は、とほうもなく複雑な帯磁プラズマである。
イオン化ガスのかたまりや流れゆく細片が、みずからの作りだした通路のカにより、四散する。偶然の働きで、ドップラー効果により、ガスの輻射線と観測に使われているスベクトル線が一致した瞬間、輝く物質の流れが忽然と現われ、現われたかと思うとたちまち消えた。
サンシップは、みずからの発する磁場シールドの強度を微妙に変化させ、ほとんど実体を持った、いわば数学の帆を操りながら、プラズマの波を間切りするようにして、荒れ狂う彩層の横風を突っきっていった。船を包むシールドの輝きは、急速に激しく、強くなっていき、ぶつかりあう渦巻きの力を一方向に受け流すことによって、嵐の打撃をやわらげた。
そのシールドは、打ちかかる高熱の大半をも締めだし、残りを処理可能な程度までしぼりこんだ。そうやってシールドを通過してきた熱は、処理室に集められ、冷却レーザーのエネルギー源となる。このレーザーは船の腎臓にあたるもので、ここで濾しとられた余剰の熱は、X線の流れとなり、行く手にあるプラズマを切り裂いて排出される。
しかし、ここまでは地球人の産物でしかない。サンシップを優美かつ安全なものにしたてあげたのは、銀河文明の科学だった。サンシップが自由自在に降下し、移動できるのは、太陽の圧倒的な引力を押しとどめる、重力場のおかげである。また、時間圧縮プロセスによってフィラメント中心部のすさまじいエネルギーは吸収・中和され、滞在時間そのものも変更できる。
太陽の絶対位置に対し(そういうものが存在ずるならばだが)、磁力線のアーチにそってサンシップが進む速度は、じつに時速数千マイルにもなった。しかし、周囲をとワまくガスの雲を基準にして見ると、船はときおりかいま見える目標に向かって、ゆっくりと進んでいるように思われた。
ジェイコプは目標を片目で見ながら、それからしばらく、カラを観察して過ごした。ほっそりとした異星人は、船の水先案内人だ。航法士のそばに立って、目を輝かせながら、黒々とした目標を指さしている。
カラの指示は、船の計器よりもわずかにましな程度のものにすぎなかったが、船の計器は複雑すぎて、ジェイコブにはなかなか読めなかった。乗客はもとより、クルーにとっても、どこを見たらいいのか教えてくれる者がいることは、ありがたいことだった。
一時間のあいだ、彼らは彼方の靄のなかで、輝く光点群を追いつづけた。ダシルヴァの命令で開かれたプルーとグリーンの帯域では、小さな光点群はごくごくかすかにしか見えなかったが、ときおりそのどれかから、強烈な緑がかった光が迸り、サーチライトの光のように船を包みこんだと思うと、すぐに通りすぎていった。
いまでは、その閃きがもっと頻繁になっていた。目標の数は少なくとも百体、大きさはみな同じくらいのようだ。ジェイコブは近接距離計を見やった。あと七百キロメートル。
二百キロまで近づいたところで、目標の形がはっきりした。一体一体の磁食獣≠ヘ、ドーナツ型をしていた。この距離からだと、その群生は、小さなプルーの結婚指輸の大集団のように見えた。小さなリングのどれもが、フィラメントのアーチにそって、同じ向きにならんでいる。
「磁場がいちばん強い部分にそってならんでいるのよ」とダシルヴァが説明した。「そして、体の軸を中心に回転して、電流を起こしているの。磁場が変化するとき、ある活動領域からべつの活動領域へどうやって移動するかは、まったくわからない。わたしたちはまだ、どうしてあれが群れをなしているのか、探ろうとしている段階なの」
群生の端のほうで、小数の円環体が、回転しながらゆっくりとぐらついていた。すりこぎ運動だ。
突然、瞬間的に、船は強烈なグリーンの輝きに包まれた。それから、またあの黄土色の色合いがもどってきた。パイロットがジェイコプを見あげて言った。
「いまのは円環体のひとつのレーザー・テールが当たったんです。たまに当たるくらいだったらどうということはありませんがね。群れのうしろから近づいていって、いちどきにあれを浴びせかけられたら、まずいことになるでしょう!」
ほかよりも温度が低いのか、それとも周囲のガスよりわずかに高速で動いているのか、一陣の黒いプラズマが船の前を横切り、彼らの視界を遮った。
「あのレーザーは、なんの役をしてるんだい?」とジェイコブは訊ねた。
ダシルヴァは肩をすくめて、「動力学的安定性のため? それとも、推進のためかしら。あるいは、この船と同じように、冷却のためかもしれない。もしそうだとしたら、彼らの体構造中には、固体さえあるかもしれないわね。
目的はなんであれ、赤い色のみを通すよう調整されたこのスクリーンを貫くほど、あれは強力だわ。わたしたちが彼らを発見したのも、まさにそのおかげなの。いくら大きいとはいっても、この太陽のなかでは、あれは風に吹き流される花粉みたいなものだもの。あのレーザーという手がかりがなけれぽ、百万年かかってもトロイド一体さえ見つけ出せなかったでしょうね。彼らは水素アルファ線では見えないから、よりよく視認するために、緑以外にもふたつの波長を通すよう、船のスクリーンを調整してあるの。といっても、当然、あのレーザーの波長を通すようにはなっていない。わたしたちの選んだ波長は、.静かで光学的に厚いものだから、船内で見える緑と青の光は、すべてあの円環体生物《トロイド》から発射されたものよ。たまに変化があるのも、すてきでしょう?」
「この気のめいる赤以外の色なら、なんだって歓迎だよ」
サンシップは黒い物質を通過した──つぎの瞬間、船は生物たちのほぼ真上にとびだしていた。
ジェイコブは息を呑み、しばし目を閉じた。ふたたび目をあけたときには、息もできなくなっていた。三日間にわたる壮大な眺めの連続のはてに、ついに目のあたりにしたその光景は、ただただ彼の心を、激しい興奮にうち震わせた。
魚の集団を群れ≠ニ呼ぶのがその統一性のゆえであり、ライオソが誇り≠表わすことばとして使われるのがその堂々たる態度のゆえだとすれば、太陽生物の集団は、まさに炎≠ニしか呼びようがない。その輝きは、まるで一体一体が暗黒の宇宙空間を背にしているように見えるほど強烈だったのだ。近くにいるトロイドは、緑いっせいに萌えいずる、地球の春の色に輝いていた。離れるにつれて、その色は簿くなった。彼らの中心軸の下では、レーザー光がプラズマを蹴ちらすあたりで、薄緑色の光が輝いていた。
トロイドたちの周囲のいたるところには、暈《ハロー》の分散光が白くきらめいている。「シンクロトロン輻射です」クルーのひとりが言った。「あのベビーたちの回転速度はたいへんなものらしい! 計器は百キロ電子ボルトの大電流をとらえています!」
厚さ四百メートル、直径二千メートルはある、いちばん近くのトロイドは、すさまじい勢いで回転していた。その縁のまわりには、ネックレスの玉のように、幾何学的な形のかたまりがずらりとならんでおり、それらが形を変えながら、猛烈な速さで回転している。形の変化にあわせて、数秒のうちに、その色が深いプルーのダイヤモンドから紫色の波状の腕環へ、さらにまばゆいエメラルドの指輪へと変化した。
サンシップの船長を見やると、彼女は操縦席のそばに立ち、少しのデータも見逃すまいと、各表示装置にすばやく目を走らせていた。強烈な色彩は薄れていたものの、彼女の顔に映る反射を見ているだけで、船外でくりひろげられているショーのようすがだいたいわかる。船にいちばん近いトロイドの放つ、たえまなく変化する虹色の光が、彼女の顔と白い制服を染めあげたのち、そこで分散し、ぐっと穏やかな形になってから、ジェイコブの目にとどくのだ。はじめはかすかに、ついでしだいに強さを増しながら、グリーンとプルーの光は入り混じり、ピンクの光を締めだした。色彩が閃くたびに、彼女は顔をあげてほほえんだ。
だしぬげに、ブルーの光があたりを呑みこんだ。そのトロイドから迸りでた光輝と、複雑なパターンを描きつつ、縁をとりまいて回転する神経結節のようなものの色とが、同調したのだ。
それは想像を絶する眺めだった。緑色をした無数の動脈が伸び出して、脈打つ鮮やかなプルーの静脈とからまりあった。動脈と静脈は、からみあったまま脈打ちながら、成長しきった蔓のように伸びだしていったが、やがてはじげ.徴小な三角形の小片からなる雲を吐き出した──それらが、非ユークリッド的なトロイドの体のまわりで衝突しあいながら、二次元の花粉の霧となって飛散する。たちまち、ドーナツ型の生物を縁どるパターンは二等辺三角形となり、縁はぎざぎざの棘だらげとなった。
そこでショーは最高潮に達し、収拾へと向かいだした。縁をとりまく模様は輝きを失い、トロイドは後退して、仲間のもとで回転をはじめた。それとともに、船のデッキと見ている者たちの顔から緑と青の色が薄れ、赤い色がもどってきはじめた。
「あれは挨拶よ」ややあって、エレン・ダシルヴァが言った。「地球にはまだ、あの磁食生物が磁場の異常にすぎないと疑う者がいるわ。そんな人間は、ここへこさせて、あれを見せてやれぱいい。わたしたちが見ているのは生命よ。造物主が創造の御業に限界を設けなかったことは明らかだわ」
彼女はそっとパイロットの肩に触れた。パイロットの両手が操縦パネルの上を走り、船は船体を傾斜させて、トロイドから離れだした。
エレンの論理は科学的ではなかったが、ジェイコプは同じ思いだった。あのトロイドが生物であることに、疑いの余地はない。いまのショーが挨拶であれ、近づいてきた船に対するテリトリーの示威であれ、知的とは言わぬまでも、なにか活力に満ちたサインだ。絶対神についての時代錯誤なことばも、いまの光景の美しさを表わすには、奇妙にぴったりしているように思われた。
磁食獣の炎が遠ざかっていき、裏デッキがそちらに向けられると、司令官はふたたび、マイクロフォンに向かって言った。
「さあ、ゴースト捜しはこれからです。
忘れないでください、わたしたちがここへ研究しにきたのは、磁食獣ではなくて、その保護者のほうだということを。保護者は非常にすばしこいので、なにか変わったことがあれぱ見逃さないよう、クルーが常時観測体制を敷きます。なお、彼らが偶然に見つかるごともままありますので、みなさんにも捜索を手伝っていただければ幸いです。なにか見慣れないものを発見したら、わたしに報告してください」
ダシルヴァとカラは、なにごとかを相談していた。異星人はゆっくりとうなずいている。ときおり、大きな歯ぐきのあいだからちらりと自い歯が見えるのは、興奮している証拠だ。やがてカラは、中央ドームの通路に消えた。
ダシルヴァは、ふだんは人の立ち入らない裏デッキへカラに行ってもらったのは、レーザー生物に船の真下から忍びよられた場合、デッキの縁に配置されている探知機では発見できないので、見張りをしてもらうためだと説明した。
「船の真上にやってきたところは何度も見たわ」とダシルヴァはくりかえした。「そして、もっとも興味深いとき──たとえば、人間の姿をとるときなどは、真上からきた場合が多いの」
「そして連中は、船体が回転する前に消えてしまった?」とジェイコプ。
「さもなげれば、船といっしょに回転して、ずっと真上にとどまっているかね。癪《しゃく》にさわるったらありゃしない! でも、彼らに精神波を感じる力があるのではないかと考えられはじめたのは、それがきっかけなのよ。結局、向こうの動機がなんであれ、わたしたちの意図がわからなけれぱ、どうやってデッキの縁に計器が配置されていることを見ぬいたり、船の動きを正確に読んだりできるというの?」
ジェイコプは眉をひそめて考えた。「しかし、それならカメラをいくつか表デッキに持ちこんだらいいじゃないか? それほどめんどうなことじゃないだろう?」
「ええ、たしかにそれほどめんどうなことじゃないわ」とダシルヴァも認めた。「でも、整備要員や降下クルーは、船本来の対称性を崩したくないというの。そうするためには、デッキを貫いてメイン・コンピューターにつながるコンジットを設置しなければならないし、カラが言うには、そんなことをすれば、停滞場における船の微妙な操縦性に必ず悪影響をおよぼすそうよ……もっとも、操縦性と言ったところで、もともとたいしたことはないのかもしれないわ。かわいそうなジェフの身に起こったことは、見たでしょう。
あなたも水星で見学したジェフリーの船は、はじめから船の真上と真下を写せるカメラを積むように設計されていたの。その点で改良かなされたのは、彼の船だけだったのよ.だからこの船は、縁の計器と、わたしたちの目と、わずかな携帯カメラに頼らざるをえないわけ」
「それから、精神波実験にもね」ジェイコプが指摘した。
ダシルヴァは無表情にうなずいた。
「ええ、わたしたちはみんな、友好的なコンタクトを期待してるのよ、もちろんね」
「船長、ちょっと」
パイロットが計器パネルから顔をあげた。耳に小型スピーカーをあてたまま、「群れの北端上層部に色の変化ありとカラが言っています。出産かもしれません」
ダシルヴァはうなずいて、「オーケイ。船頂を北に向けてそちらへ進んで。群れの上を大きく迂回していくのよ。彼らを驚かせるほど接近しないように」
船は新たな角度へと傾きだした。左側に太陽がせりあがり、上と前方へはてしなくつづく壁となった。船体からは、下の光球面に向かって、かすかな光の線が伸びだしていた。きらめく光線は、円環生物の群れに対して、平行に伸びていた。
「あれはね、この船の船底が光球面を向いていたとき、冷却レーザーが残した超イオン化現象のあとよ」とダシルヴァが説明した。「長さ二百キロはあるでしょうね」
「そんなに強力なレーザーなのかい〜」
「ええ、なにしろ、とてつもない量の熱を放出しなけれぱならないんだもの。それに、この冷却法の原理は、太陽のごく一部の温度をあげることにあるの。さもなければ、冷却は不可能でしょう。ついでながら、これだけ神経を使って、群れが船の前方だけじゃなく後方にもこないようにしているのは、そのせいもあるのよ」
ジェイコプは、しばし畏怖の念にとらわれていた。
「で、いつなんだい、その現場が見えるようになるのは……なんて言ってたっけ? 出産?」
「そう、出産。わたしたちはとても運がいいわ。いままでそれが目撃されたのは、二度しかないの。そのどちらにも、シェパードたちが付き添っていたのよ。どうやら彼らは、トロイドが子を産むときには、必ず手を貸すみたい。シェパードたちの捜索開始地点としては、妥当な場所ね。
いつそこへ到着するかということについては、現在地とその地点とのあいだの彩層の荒れぐあい、それから、快適にそこへ着くためにはどれはどの時間圧縮を必要とずるかによるわ。まる一日かかるかもしれないし、運がよければ……」操縦パネルにちらりと目をやって、「……十分で着くかもしれない」
ダシルヴァと話をしたいのだろう、クルーがひとり、図表を手にして、彼らのそばに立っていた。
「それじゃあ、ぼくはババカブとマーティンのところへ行って、準備をするように伝えてこよう」とジェイコプ。
「ええ、それはいい考えね。かかる時間がはっきりしたら、アナウンスするわ」
背を向けたジェイコプは、彼女の目がまだ自分に注がれているという、奇妙な感触を持った。その感覚は、彼が中央ドームの向こう側にまわりこむまでつづいた.
ババカブとマーティンは、冷静にそのニュースを受けとめた。ジェイコブはふたりに手を貸して、装置の入ったケースを操縦席のそばまで引きずっていった。
ババカプの持ってきたいろいろな装置は、正体不明で、鷲くべき形状をしていた。そのうちのひとつ、複雑できらきらと光り輝く、多数の切子面で覆われた機械は、ケースの半分を占めていた。とびだした螺旋状の細線といい、ガラス様の窓といい、なんのためのものかは、さっぱり見当がつかない。
ババカプは、ほかにふたつの機械をとりだしてならべた。ひとつは、明らかにビラがかぶるように作られた球形のヘルメット。もうひとつは、ニッケル=鉄隈石から削りだしたようなかたまりで、一端がガラス状になっている。
「精神・波、のとらえかたには、三つ、の方法がある」ヴォーダーを通して、ババカプが言った。四本指の手をふって、ジェイコブにすわるように示し、「そのひとつは、精神・波、を、単なるきわめて繊細、な超・能力、としてとらえ、長・距離から、相手の脳波に感応し、それを識別、することだ。そうするための、装置、がこれだ」ヘルメットを指さした。
「では、この大きな機械は?」ジェイコプはもっと近くへよって見た。
「それは、知的生物、の意志の力によって、時空、がねじまげられ、ているかどうかを、見るためのものだ。ときおり、そのような現・象、が引き起こされ、ることかある。もっとも、めったに、許されること、ではない。それを表わす、ことば、は、〈ピ=ングルリ〉だ。きみたちには、それに相当する、ことば、がない。きわめて稀な現象、だから、人類も含め、たいていの種族は、それについて、知る必要がない。
しかし、〈ライ・ブラリー〉は、各分館に、この〈力=ングルル〉、を支給している」一度、機械の側面をなでて、「無法・者が、〈ピ=ングルリ〉、を使おうとした場合、に備えてな」
「それは、その力を中和できるんですか?」
「そうだ」
ジェイコプはかぶりをふった。人類の手のとどかないものが、あまりにも多ずぎる。なるほど、技術力の不足も問題ではあるが、時間さえかけれぱ、それは補えるだろう。しかし、質的な遅れは、彼をうかない気分にさせた。
「連合政府は知ってるんですか、その……カ……カ」
「〈カ=ングルル〉。知って、いるとも。これを地球、から持ちだす、にあたっては、当局、の承諾、をとってある。これが失われ、れぱ、補充、がくる」
それで少し、ジェイコプは気が軽くなった。その機械が、ふいに親しみのあるものに思えてきた。「それから、この最後のものは……?」ジェイコブは鉄のかたまりへ歩みだしかけた。
「それ、は〈ビス〉だ」ババカプはそれを引っつかむようにして、トランクのなかへもどした。それから、ジェイコブに背を向け、脳波ヘルメットをかぶりはじめた。
「あれのことになると、彼はすごく神経質になるの」近づいてきたジェイコプに、マーティンが言った。「彼から聞きだせたかぎりでは、あれはレタニ──彼の種族の五代上の種族の遺産なのですって。レタニが現実のべつの次元へ移る£シ前のころから伝わるものだそうよ」
例の、たえることのない笑みがいっそう大きく広がって、「ほら、あなただって、昔の錬金術師の道具を見られたくないでしょう?」
ジェイコブは笑った。「なるほど、われらが友人のビラは、賢者の石を持っているというわけだ。どんな奇跡的な機械で、磁気素≠混ぜあわせたり、熱素≠フかたまりのような悪霊を払ったりできるというんだい?」
「ありきたりの精神波探知装置を手あたりしだいに使うくらいしか、方法はないわね。たとえば脳波探知装置──あるいは、時間圧縮場ではおそらく使えないだろうけれど、感性移動センサー。それから瞬間露出式3Dカメラとプロジェクター……」
「そいつを見せてもらえるかい?」
「いいわよ、トランクのいちばん奥にあるわ」
ジェイコブは手を伸ばして、重い機械をとりだした。それをデッキに横たえて、記録ヘッドと投射ヘッドを調べる。
「なあ、ミリー」とジェイコブは静かな声で、「できないはずはないじゃないか……」
「なにが?」マーティンが問い返す。
ジェイコプは彼女を見あげて、「こいつと水星で便った網膜パターン読み取り装置を一緒に便えば、完壁な暴力性向のテスターとなったはずだ」
「この装置のひとつが、要観察者かどうかを見分けるのに使えるということ?」
「そうだ。水星基地でこれが使えることがわかっていれぱ、あのときその場で、ラロックをテストできたはずだ。わざわざ地球にメーザー通信で問い合わせて、ミスの多い官僚機構を通し、不正に手が加えられたかもしれない情報を待つことなんかなかった。彼の暴力性向を、その場で確認できたはずなんだ!」
マーティンは少しのあいだじっとすわっていた。それから、床に目を落とした。
「それでも、ちがいが出ていたとは思えないわ」
「しかし、地球からのメッセージがおかしいと断言したのはきみだぞ! きみが正しければ、ラ目ックはニヵ月も拘禁室にぶちこまれずにすむかもしれない。くそっ、そうしておけば、彼がいまここに、こうしていっしょにいられたかもしれないじゃないか! ゴーストが危険をもたらしうる疑いも、それで強められたはずだ!」
「だげど、水星の逃走劇はなに! あなたも彼が暴力をふるったって言ったじゃない!」
「パニックに陥って暴力をふるったからといって、要観察者だとはかぎらない。いったいきみはどうしてしまったんだ? ラロックが濡れ衣を着せられたと信じているはずじゃなかったのか!」
マーティンはため息をついた。ジェイコプの視線を避けるようにしながら、「わたし、基地では少しヒステリックになっていたのよ。考えてもみて。ピーターを陥れるだけのために、どうして罠をしかけなければならないの!
いまでも彼が要観察者だとは信じられないし、あの返信にはなにか手ちがいがあったのかもしれない。だけど、もうそれが意図的になされたものだとは思っていないわ。だいたい、あのかわいそうなチンパンジーの死の責任を、だれがラロックに負わぜたがるというの?」
ジェイコブは、なにがこうもマーティンの態度を変えてしまったのかわからぬまま、じっと彼女を見つめ、「そいつは……たとえば、真犯人さ」と、静かな声で言った。
言ったとたんに、後悔した。
「いったいあなた、なんのことを言ってるの?」マーティンの声はかすれていた。すばやく両脇に目を走らせ、だれも近くにいないことをたしかめる。数メートル離れたババカプに、ひそひそ声が聞こえないことは、ふたりともわかっていた。
「ぼくが言ってるのは、あれだけラロックをきらっているエレン・ダシルヴァが、スタンナーくらいでジェフの船の停滞場ジェネレーターにダメージを与えられっこないと考えている、という点さ。彼女は整備ミスだと思っているが、しかし……」
「それなら、ピーターは」証拠不充分で釈放されて、もう一冊本を書くことになるでしょうよ! ソラリアンについての事実もわかって、だれもがハッピーというわけね。良好な関係さえ樹立されてしまえぱ、彼らが腹立ちまぎれにかわいそうなジェフを殺したことなんか、問題じゃなくなるわ。ジェフは科学の殉教者となって、殺人騒ぎは完全に打ちどめ。どのみち、口にするのも不快なことなんだし」
マーティンとの会話も、やはり不快なものになってきていた。なぜ彼女は、これほどねじくれた考え方をするのか? これでは、筋道だった話などできはしない。
「きっと、きみの言うとおりなのかもしれない」と言って、ジェイコプは肩をすくめた。
「そう、わたしが正しいのよ」彼女はジェイコブの手を軽くたたき、脳波探知装置に向きなおった。「ファギンでも捜しにいったら? わたしはしばらく忙しくなりそうだし、彼はまだ、出産のことを知らないかもしれないから」
ジェイコブはうなずき、立ちあがった。かすかに振動しているデッキを歩きだしながら、彼は考えた。いったい自分の半身は、どんな奇怪なことを考えているんだろう? 思いがけず、ひとりでに口をついて出た真犯人≠ニいうことばが、ひどく気になった。
ファギンのいる場所からは、光球が全天を覆いつくす巨大な壁のように見えた。異様な姿をしたカンテンの眼前には、船の乗ったフィラメントが渦巻きながら下へと伸びており、赤い海に呑みこまれている。左右とはるか下には、風になびくガマの林のように、スピキュールの森が激しくゆらいでいる。
しばらくのあいだ、ふたりは無言でそれを見つめていた。
一本のイオン化ガスの触手が、ゆらめきながら船のそばを漂っていった。それを見て、ジェイコブはまたしても、潮にゆれる海藻を連想した.
だしぬけに、あるイメージが浮かんできた。そのイメージに、ジェイコブはにやりとした。マカーカイが、サーメットと停滞場でできたウォルドー・スーツに身を固め、重力場の殻に守られながら、そびえたつ泉や渦巻く炎のなかに潜りこみ、とびはね、ダイブして、この広大無辺の海の子らと遊びまわる図だ。
サンゴーストたちは、地球の鯨類と同じことを、何十億年も前からしてきたのだろうか? 歌を歌いながら?
鯨類にもサンゴーストにも、機械(あるいは、飽くことなき野望を含めた、機械のもたらす神経症的なせっかちさ)はない。どちらにも、そうするための手段がないからだ。鯨類には手がないし、火も使えない。サンゴーストには、固体成分がなく、手近の火の量が多ずぎる。
それは彼らにとっていいことだったのか、呪わしいことだったのか。
(海中の静寂のなかで嘆くザトウクジラに訊いてみるがいい。おそらく、彼は答えようとはしないだろうが、いつの日か、歌にその疑問をつけ加えるかもしれない)
「ちょうどいいときにきたわ。いま呼ぽうとしていたところなの」船長はそう言って、前方のピソクの靄のなかを指さした。
十体前後のトロイドが、さまざまな色に彩られながら、船の前で回転している。
このグループは、この前のものとは動き方がちがっていた。ふわふわと漂うかわりに、集団中央の色の濃い部分に行こうとして、押しあいながら激しく動ぎまわっているのだ。ほんの一マイル先にいるトロイドの一体が脇にどぎ、そのおかげで、ジェイコプは彼らの関心の的を目にすることができた。
その磁食生物は、ほかのものたちよりも大柄だった。たえず形状の変わる多数の切子面で覆われた幾何学的な形のかわりに、明暗の縞が交互にその周囲をとりまいており、体表を波打たせながら、それはゆっくりとぐらついていた。まわりにいる同類たちは、そのまわりをうろうろしているものの、なにか妨害物に押しとどめられているかのように、一定の距離を保っている。
ダシルヴァが命令を下した。パイロットの操作に合わせて、船は回転し、ほどなく光球は、ふたたび船体の下側にきた。ジェイコプはほっとした。船のフィールドがいかに強力なものであれ、太陽がすぐ左横にあると、落ちつかない気分になってしまうのだ。
ジェイコプがでかぶつ≠ニ思った磁食生物は、おともの存在など忘れはてたようすで回転していた。ときおり大きくぐらつくものの、その動きはゆったりとしている。
ほかのトロイドには必ず見られる白い暈《ハロー》も、このでかぶつ≠フまわりでは、消えゆく炎のように、弱々しくちらつくばかりだった。明暗の縞は、不規則なリズムで脈打っていた。
一度それか脈打つたびに、周囲をとりまくトロイドたちのあいだに反応が湧き起こった。縁の幾何学的パターンを、強烈なブルーのダイヤモンドや巻貝状に変化させながら、とりまぎたちは、徐々に強くなっていくでかぶつ≠フリズムに呼応しつづけた。
だしぬけに、いちばん近くにいるとりまきの一体が、回転しながらまばゆい緑色の閃光を放って、明暗の縞のあるでかぶつ≠ノ突っこんだ。
と、妊娠しているトロイドの周囲から、とびかかってくるやつに向かって、いくつものまばゆいブルーの光点が翔んだ。光点群は、突進してくる巨体の前に立ち塞がり、フライパンの上に落ちるきらめく水滴のように、その手前で踊りまわった。そして、まるでつついたりしかったりするようにして、とびだしたトロイドを押しもどしはじめ、ほとんど船の下まで後退させた。
パイロットの手が動き、船体が回転して、デッキの縁がほんの一キロ離れたところにいる、いちぽん近くの光点に向けられた。そのとき、ジェイコブははじめて、サンゴーストと呼ばれる生命形態を、はっきりとその目で見たのだった。
かすかに体をはためかせ、彩層の嵐をまるでそよ風のように受け流しながら、それは亡霊のように、たおやかに浮遊していた。がっしりとして、一心不乱に回転するトロイドとは、蝶と回転するふたと同じくらいの差があろうか。
その外見はグラゲ、または、もの干し綱にかかったまま風にはためく、明るいプルーのバスタオル、といったところだった。瞬間的に、ぎざぎざの縁からちらちらと触手が出たり入ったりしているところは、むしろタコに似ているとも言えそうだ。ときおりジェイコプの目には、それが海面の一部そのもののように──どのようにしてか海面をすくいとり、ここまで持ってきて、なにか奇跡的な力で、液体特有の潮の動きを維持させているかのように見えた。
ゴーストが小刻みに震えた。約一分間かけて、それはゆっくりと、サンシップのほうに近づいてきた。そして、とまった。
あいつもこっちを見ているんだな、とジェイコプは思った。
しばらくのあいだ、二種類の生物──サンシップに乗り組む水の生物とゴーストとは、たがいを見つめあった。
やがてゴーストは、平らな面をサンシップに向けた。突如として、まばゆい虹色の閃光がデッキを包みこんだ。スクリーンのおかげで、光輝は耐えられる程度に押さえられたが、彩層の淡い赤色は消減した。
ジェイコプは片手を目にあてがい、目をぱちくりさせながら、見当ちがいなことを思った。すると、虹のなかというのは、こんなふうなんだな!
はじまったときと同じように、光のショーはだしぬけにやんだ。赤い太陽とともに、フィラメントや、そのはるか下の黒点や、回転ずるトロイドの姿がもどってきた。
が、ゴーストたちの姿は消えていた。彼らは例の、大きな磁食生物のもとへもどっており、その縁をとりまく見えるか見えないかの光点となって、踊りを再開していた。
「あいつは……あいつは、船をレーザーで狙い撃ちした!」パイロットが言った。「いままで、こんなまねはしたことがなかったのに!」
「通常の形態で、これほど船に近づいたこともなかったわよ」とエレソ・ダシルヴァ。「だけど、いまの行為がなにを意味するものかはわからない」
「わたしたちに危害を加えるつもりだったと思う?」ドクター・マーティンがためらいがちに言った。「きっとジェフリーの船で、はじめてあれをやったんだわ!」
「わからない。警告かもしれないし……」
「あるいは、単に仕事にもどりたかっただけなのかもしれない」ジェイコブがロをはさんだ。
「ぼくらはあそこの大きな磁食生物と、ほぼ正反対の位置にいた。あいつの仲間たちが、同時に全部あそこへもどったのには気づいたろう」
ダシルヴァはかぶりをふって、「わからない。でも、たぶんここにとどまってようすを見ているかぎり、安全だと思う。出産が終わったら彼らがどうするのか、見ていましょう」
船の前方では、回転をつづける大型卜ロイドのぐらつきが激しくなりだしていた。一回脈動するたびに、縁をとりまく明暗の縞はいっそうきわだち、暗い部分は細く縮んで、明るい部分は外に膨らんだ。
それから二度、ジェイコプは明るい光点群の一部が、妊婦のそぱに仲闘を残してとびだしていき、シェパードが聞き分けのない子羊を追いたてるように、近づきすぎた磁食生物を追い払うのを見た。
やがて、ぐらつきはますますひどくなり、黒い縞はますます緊密になった。と、グリーンのレーザー光が閃き、大型卜ロイドの下方に拡散した.その輝きはしだいに弱くなり、やがて消えた。
ゴーストたちが近づいた。大型トロイドのぐらつきがほとんど垂直に近くなると、彼らはどのようにしてかその体をつかみ、ぐいとひと押しして、トロイドの体を起こした。
いまや大型生物は、磁場に対して垂直に回転していた。しばらくその体勢でいてから、生物はふいに分解しはじめた。
糸の切れたネックレスのように、円環体の黒い縞のひとつが縮まって切れた。母体がゆっくりと回転するのに合わせて、縞の明るい部分、いまや小さなドーナツ型の個体となった子供たちは、回転しながら切れ目までやってくると、ひとつ、またひとつと外へ出ていった。一度にひとつずつ、磁束管の見えない線にそって、新たな個体は上へと運ばれていき、やがてビーズのように、天を駆けめぐりだした。母体であった大型卜ロイドの体は、もはやなにも残っていない。
まばゆいブルーの光点群に護られるようにして、五十ほどの小さなドーナツ型の個体は、めまぐるしく回転していた。小さなドーナツ群は不安定にぐらついておウ、それぞれの中心からは、試すように、ほのかなグリーンの輝きがちらついていた。
注意深く見まもっていたにもかかわらず、ゴーストたちは活発にとびまわる子供たちを何体かとり押さえそこなった。子供たちのなかの、監視者よりすばしこいものたちが、ゴーストのあいだをすりぬけてとびだしてしまうのだ。瞬間的に緑の閃光を放って、赤ん坊磁食生物の一体が保護区域をとびだし、船の近くにいる一体の成体のほうへ向かってきた。ジェイコプは、それがそのまま船のそばにやってきてくれることを祈った。あの成体卜ロイドさえどいてくれたら!
彼の思いがとどいたかのように、その成体は沈みこみ、近づいてくる幼生に道をあけた。が、幼生が頭上を通過しかげたとき、その縁が緑がかったブルーのダイヤモンド型に脈打った。
だしぬけに、成体がグリーンのプラズマの柱を吐きだして、上へはねあがった。手おくれながら、幼生は逃げようとした。弱々しいトーチを追跡者の縁に向けて、逃げ去ろうとあがく。
しかし、成体を押しとどめることはできなかった。たちまち、赤ん坊は食らいつかれ、成体の脈打つ中央孔に引きずりこまれたのち、閃光を放って、呑みこまれた。
ジェイコブは息をとめて見入っている自分に気がついた。吐きだした息は、まるでため息のようだ。
いまや赤ん坊たちは、保護者たちによって、きちんとした列にならぺられていた。やがて彼らは、ゆっくりと群れから離れはじめた.成体が群れを離れて追ってこないよう、あとには少数のゴ!ストが残って監視をつづけている。ジェイコプは、太いフィラメントの一部が漂ってきて視界を閉ざすまで、明るい小さな光の環の群れの姿を追いつづけた。
「さあ、予定の行動に移るわよ」エレン・ダシルヴァがささやき声で言った。パイロヅトに向きなおって、「残ったゴーストにデッキの縁を向けつづけるようにして。それから、カラによく目をむいているようにたのんでちょうだい。なにかが船底から近づいてきたら、ずぐに知りたいの」
目をむくだって! ジェイコブは身震いしそうになるのをなんとかこらえ、想像力がその情景を思い浮かべそうになるのを、断固として拒んだ。いったいなんという時代から、この女はやってきたんだ!
「いくわよ」と司令官。「ゆっくりと接近をはじめて」
「出産が終わるまでぼくらが待っていたことに、向こうは気づくだろうか?」ジェイコプが訊ねた。
彼女は肩をすくめて、「さあ。もしかするとこの船のことを、成体のトロイドのなかでも臆病なタイプだと思ったのかもしれない。あるいは、これまでの訪問を思いだしさえしないかもしれない」
「ジェフの降下も?」
「ジェフの降下さえも。あまり多くを仮定しても意味がないでしょう。ええ、ドクター・マーティンの機械が基本的な知能をとらえたというのは、信用するわ。でも、それがなにを意味するかしら? このような環境下では……地球の海よりもずっと単純なこの環境下では、生物が意味把握能力を──あるいは、記憶力を発達させなけれぱならない理由がある? これまでの降下で見てきた威嚇的なしぐさは、必ずしも高い知能を示すものじゃないのよ。
彼らは、二百年前、わたしたちが遺伝子実験をはじめる前の、イルカのようなものなのかもしれない。知能は高くても、精神的な意識はまるでない。そうよ、わたしたちはずっと前に、あなたのような人を知性化センターから招いておくべきだったんだわ!」
「まるで、知能の発達は知性化のみによるような口ぶりだな」ジェイコプはほほえんだ。「いまは銀河文明の意見はさておくとしても、少なくともほかの可能性を考えてみるべきじゃないかい?」
「ゴーストが知性化の産物かもしれないというの?」ダシルヴァはつかのま、愕然とした表情になった。それから、彼の言わんとすることに気づいたのか、鋭い目で結論にとびついた。「でも、もしそうだとすれぼ、かつて……」
そこで彼女は、パイロットに遮られた。
「司令、連中が動きはじめます」
ゴーストたちは、高熱のガスの房のなかではためいていた。光球面上空十万キロメートルに、ものうげに漂う彼らの表面からは、青や緑の閃光が発されている。彼らはゆっくりと、少しずつあいだを開きながら船から離れていき、やがてそれぞれがかすかな白い暈《ハロー》で包まれているのがわかる距離まで遠ざかった。
ファギンがすぐ左にやってきた。
「悲しいことだ」カンテソが笛の音のような声でそっと言った。「これほど美しいものが犯罪で汚れているとすれば。畏怖に打たれるあまり、なかなか悪意を感じとれなかったのかもしれないが」
ジェイコブはゆっくりうなずいた。
「天使たちは光り輝く……」と彼は言いかけた。だが、むろんファギンは、その先を知っているはずだった。
天使たちは光り輝く。さりながら、もっとも輝かしき天使は堕ちた。
すべて悪しきものは美しさを身にまとうが、
それもまた道理というもの。
「連中、なにかをしようとしているとカラが言っています!」パイロヅトが片手を耳にあてて、前方を覗きこんだ。
船の前へ、フィラメントから黒いガスのかたまりが高遼で流れてきて、ゴーストたちを覆い隠した。ガスのかたまりが消えてみると、一体を残して、彼らはずっと向こうに離れ去っていた。
残った一体は、船がゆっくりとにじりよるのを待っていた。それはほかのゴーストとちがって、半透明でより大きく、一段と濃いブルーをしていた。それに、形もすっきりしている。体をこわばらせているのか、ほかのゴーストのように波打ってはいない。その動きも、もっと慎重だ。
これは大使だな、とジェイコプは思った。
船が近づいていくと、ソラリアンはゆっくりと頭上にまわりこもうとした。
「デッキの縁からはずさないようにして!」ダシルヴァが命じた。「計器観測が途絶えないように!」
パイロットは難しい顔で彼女をちらりと見あげたが、口を引きしめて操縦パネルに向きなおった。船体が回転をはじめた。
ゴーストはますます速くまわりこみながら、近づいてきた。扇形の体がプラズマ流にあたって、鳥が揚力を得るときのような働きをしているらしい。
「わたしたちをもてあそんでるのよ」ダシルヴァがつぶやくように」言った。
「どうしてわかる?」
「船の上にとどまるために、あれほど苦労する必要はないからよ」パイロットにもっと回転速度をあげるように命じた。
太陽が右側にせりあがり、天頂へずれていった。船体の回転にあわせて、ゴーストはさかさまにならなくてはならなかったが、それでも、船頂側にとどまりつづけた。太陽が頭上を横切り、沈んだ。それからふたたび昇ってきて、一分とたたないうちにまた沈んだ。
ゴーストはなおも頭上にとどまっている。
回転速度がますます速くなってぎた。数秒ごとに昼と夜とが交替し、ジェイコプは歯をかみしめて、体のバラソスを保つためにファギンの幹をつかもうとする誘惑に抵抗した。太陽への旅がはじまって以来はじめて、船内が暑くなってきたようだ。腹立たしいことに、ゴーストはなおも頭上にとどまっており、光球がフラッシュのように、頭上で明減をくりかえした。
「オーケイ、あきらめましょう」ダシルヴァが言った。
回転速度が落ちた。回転が完全に停止すると、ジェイコブの体がぐらりとゆれた。ふいに、冷たい風が体を吹きぬけていくのを感じた。最初は暑さ、ついで寒さ。病気にでもなったのか?「あちらさんの勝ちね」とダシルヴァ。「いつも勝つのは向こうだけれど、挑戦してみるだけの価値はあったわ。もっとも、今度挑戦するときは、冷却レーザーを作動さぜたままにしておきたいものね!」頭上のゴーストをちらりと見あげて、「回転速度が光速の何分の一かになったら、あの生物はどうなるかしら」
「というと、いまは冷却レーザーを切っていたのか?」もう我慢できなかった。ジェイコブは軽く、ファギンの体につかまった。
「そうよ。何十体もの罪もないトロイドやシェパードを、焼き殺したくはないでしょう? 時間的な制約があったのはそのため。そうでなけれぱ、地獄が凍りつくまでだって、デヅキの縁がゴーストと平行になるように回転しつづけることもできたのよ!」ダシルヴァはゴーストを見あげた。
またしても、不思議なことばがとびだしてきた。この女の魅力が、その竹を割ったような性格にあるのか、それともこの奇妙なことば使いにあるのか、ジェイコプにはよくわからなかった。どちらにしても、これで温度の上昇とその後の冷風の説明はついた。しばらくのあいだ、太陽の熱が船内に侵入してきていたのだ。
こいつが終わってくれてほっとしたよ、とジェイコブは思った。
16 ……および、亡霊
「とらえられるのは、ぼんやりした映像だけです」とクルーが報告した。「停滞場スクリーンが透過光を歪曲しているのか、ゴーストの姿が歪んで見えます……レソズを通してななめに見ているように。
ともかく」と彼は肩をすくめ、写真をまわりの者にわたして、「携帯カメラで撮れるのは、これがせいいっぱいです」
ダシルヴァは手にした写真に見入った。それには、青い色の、形の歪んだ人間のカリカチュアのような姿が映っていた。ほっそりした足、長い腕、大きくてぶざまな手を持つ、針金のような人型。その写真は、手先が丸く固まって形状のよくわからなくなる直前に撮られたものだった。
写真がまわってくると、.ジェイコブはじっとその顔に目を凝らした。目のなかと、縁がぎざぎざになった冒のなかは、ぽっかりと黒くなっている。写真では黒く見えるが、それが本当は彩層の真紅であることを、ジェイコブは思いだした。燃えあがる目も、呪いのことぽを吐きかけているように見える口も、すべて真っ赤なのだ。
「ただし、ひとつわかったことがあります」とさっきのクルーがつづけた。「あのゴーストは、透明だということです。水素アルファ線は、あれの体を透過してきている。目と口のなかだけ水素アルファ線が見えるのは、あれの発する青い光が、そこだけ途切れているためです。しかし、われわれにわかるかぎり、彼の体はまったく水素アルファ線を遮蔽していません」
「ふうむ、ゴーストについてはっきりした話を聞かされたのは、そいつがはじめてだ」ジェイコプは言って、写真を返した。
もう何度めになるだろうか、ジェイコプはもういちど上を見あげ、訊ねた。「ソラリアンがもどってくるのは、たしかなのかい?」
「いままでは、いつもそうだったわ」ダシルヴァが答えた。「一ラウンドの侮辱だけでは、満足した試しがないの」
そばでは、マーティンとババカブが腰をおろし、もういちどソラリアンが現われたらすぐにヘルメットをかぶれるよう、準備を整えていた。カラは裏デッキの監視任務から解放されて、カウチのひとつに横たわり、青い飲み物の入った飲料チューブをすすっていた。大きな目が明るく光っており、なんだか疲れているようだ。
「みんな、寝ころがったほうがいいわね」とダシルヴァが言った. 「上を見るなら、そのほうが首が楽よ。ゴーストが現われるのは、上からなんだから」
ババカブとマーティンの作業が見えるように、ジェイコプはカラのとなりのシートを選んだ。
最初にゴーストが現われたときは、ふたりとも、ほとんどなにもできなかった。船の真上にくるやいなや、サンゴーストは人の形をとり、威嚇するようなしぐさをした。そして、マーティンが自分のヘルメットを調整する暇もないうちに、船をにらみつけ、片手をこぶしのようにまるめてふりまわすと、消えてしまったのだ。
しかし、ババカブは〈カ=ングルル〉を使う時間があり、ソラリアンはこの機械が探知し反応するタイプの精神波を──少なくともそのときには──用いていなかったと報告した.小柄なビラは、突然の来訪に備えて、装置をずっとつけっばたしにしていたのである。
ジェイコブはシートの背にもたれかかり、リクライニングのボタンを押した。シートの背がゆっくりと倒れてゆき、頭上のもやもやしたピンクの空が見えるようになった。
〈ピ=ングルリ〉の力がここでは使われていないと聞いて、ジェイコプはほっとした。しかしそれならぱ、ゴーストのあの奇妙なふるまいはどういうことだ? 彼はぼんやりと、もしかしてラロックは正しかったのかもしれない、と思った……部分的にせよ、ソラリアンが意図を伝えることができるのは、ずっと昔から人類のことを知っていたからではないか。過去において、人間が太陽を訪ねたことがないのはたしかだが、あのプラズマ生物がかつて地球を訪れ、人類の文明を育てたということはありえないか? ばかげた考えのようだが、それを言うなら、〈サンダイバー計画〉自体、ばかげたことなのだ。
もうひとつ考えが浮かんだ。ラロヅクかジェフの船の破壊に無関係だとしたら、ゴーストはいつでも、この船をまるごと破壊してしまえるかもしれない。
もしそうなら、あのジャーナリスト兼宇宙飛行士の言うことが、その他の点でも正しいものであってくれることを願った。ソラリアンは、チンパソジーに対するよりも、人間やビラ、カンテンなどに対して、より敬意を払って接するのではないか、というあれだ。
つぎにゴーストが現われたとき、目分のテレパシー能力を試してみよう。以前にテストを受けて、自分にはずばぬけた催眠能力と記憶力はあるものの、精神感応力がないことはわかっているのだが、もういちど試してみたって、べつに悪くはあるまい。
目の端に、すぐ左でなにかが動くのが見えた。カラがデッキ・マイクを口に運んだのだ。船頂に対して四十五度の一点を、くいいるように見つめている。
「船長。あれがもどってきたようです」
ブリングの声が船じゅうに轟きわたった。「方位一二〇度、高度三〇度に、船を向けてみてください」
カラがマイクを置いた。フレキシブル・コードに引き寄せられて、マイクはひとりでにスロットへもどった。スロットのそばには、ほっそりした右腕と、もうからっぼになった飲料チューブがあった。
暗いガスのかたまりが船の前をかすめ、赤い靄が一瞬暗くなった。それが通りすぎると、ゴーストの姿が見えた。まだ遠くて小さいが、近づくにつれてだんだん大きくなってくる。
今度のゴーストは、前よりも輝きが強く、その縁はずっと角ぱっていた。ほどなく、その青い光は、見ていられないほど強烈になった。
それはふたたび、棒きれでできた人間のような形をしてやってくると、目と口を赤熟ずる石炭のように輝かせたまま、船頂の近くに浮かんだ。
長い数分間、それはなにもせず、そこにとどまっていた。その姿には、まぎれもなく悪意がこめられていた。ジェイコプはそれを感じることができた。そのとき、マーティンがののしり声をあげたため、彼はふとわれに返り、自分が息を殺していたことに気づいた。
「だめだわ!」マーティンがヘルメットをむしりとった。「ノイズが多すぎる! なにかをつかみかけたのに……なにかの感触を感じとったのに……もう消えてしまったわ!」
「心配、はいらない」とババカプが言った。ぷつぷつと切れる声は、小柄なビラのとなりに横たえられている、ヴォーダーから出たものだった。ババカプは自分のヘルメットをかぶり、小さな黒い目をじっとゴーストにそそいだまま、「人間、には、彼らの使う、精神・波、がない。じっさい、きみの試み、は、彼ら、に苦痛、を与え、怒り、をかきたてる、だけだ」
ジェイコプは肝をつぶし、マーティンと異口同音に言った。「では、あなたは彼らと接触を持っていると?」
「そのとおり。じゃまを、しないでくれ」と言って、ババカプは目を閉じた。「あれ、が動いた、ら、教えてくれ。動いたとき、だげだぞ!」それを最後に、ババカブはひとこともしゃべらなくなった。
ババカプはあの生物に、なにを語りかけているのか? ジェイコブは亡霊を見やった.あのような生物に、なにを話しかけるというのか?
だしぬけに、ソラリアンがその手≠ふり動かし、口≠動かしはじめた。今度はその表情がずっとはっきりしている。最初に見たときのような歪みは、まったく見られない。きっと、停滞場スクリーンのあつかい方を学んだのだろう。その適応能力の、もうひとつの実例だ。それが船ひ安全についてなにを意味するのか、ジェイコプは考えたくもなかった。
そのとき、左手で色彩が閃いた。ジェイコブはおやと思い、そちらに目を向けたまま、そばのパネルをまさぐって、デヅキ・マイクをとりあげ、個人連絡用のスイッチを入れた。
「エレン、方位四〇度、高度六五度を見てくれ。連中のお仲間がきたようだ」
「了解」カウチのスピーカーから、頭のあたりにダシルヴァの声が小さく響いた。「見えるわ。標準的な形態をしているようね。なにをするつもりか見てみましょう」
二体めのゴーストは、ためらいがちに、左から近づいてきた。細かく波打つ、その不定型な形は、海面に浮いた油のしみのようだ。人間に似たところは、まったくない。
二体めの葎在に気づくなり、ドクター・マーティンははっと息を呑み、ヘルメットをかぶりはじめた。
「ババカプに声をかけたほうがいいか?」ジェイコプがすばやく声をかけた.
彼女はちょっと考えてから、最初のソラリアンにちらりと目をやった。それはまだ手≠ふっていたが、位置を変えてはいない。ババカプも身じろぎひとつしない。「.ババカブは、あれが動いたら教えろと言ったのよ」
新来者を食い入るように見つめて、「新手のほうはわたしが受け持つわ、ババカブには気を散らさず、最初のゴーストの相手をしてもらいましょう」
はたしてそれでいいものか、ジェイコプには自信が持てなかった。いまのところ、積極的な行動をとっているのは、ババカプだけだ。マーティンはなぜ、ババカブに二体めのソラリアンのことを教えまいとするのか。その動機には、どうも疑わしいところがある。彼女は、ビラに成功されるのがねたましいのではないか?
まあいいさ、とジェイコブは肩をすくめて思った。どちらにしても、ババカブの怒りを買うことになるんだから。
新来者は慎重に、より大きく明るい従弟が怒った人間のまねをしているほうへ向かって、じりじりと近づいてきつつあった。
ジェイコブはカラを見やった。
少なくとも、彼には教えておくべきだろうか? カラは最初のゴーズトにすっかり夢中になっているようだ。なぜエレソはみんなに報告しないのだろう? それに、ファギンはどこだ? これを見逃す手はあるまいに。
どこか頭上で、光が閃いた。カラが身じろぎした。
ジェイコブは上を見あげた。新来者はいなくなっている。最初のゴーストもゆっくりと縮んでいき、消えた。
「なにが起こったんだ」とジェイコプ。「ほんのちょっと目を離した隙に……」
「わかりません、わが友ジェイコブ! あの生物のふるまいから、なにかその性質の手がかりが得られないかと見ていたら、いきなり二体めのソラリアンが近づいてきたのでず。すると、最初のソラリアンが閃光を放って二体めのを攻撃し、追いちらした。そして、最初の者も去っていったんです!」
「二体め、がやってきたとき、わたしに教えるべき、だったのだ」とババカブが言った。彼は立ちあがっており、ヴォーダーがふたたび首にかかっていた。「まあそれは、いい。知るべきこと、はすぺて、知った。いますぐ、人類=ダシルヴァに、報告しよう」
彼は背を向けて歩みさった。ジェイコプもあわてて身を起こすと、あとを追った。
ダシルヴァと操縦席のそばでは、ファギンが待っていた。「いまのを見たかい?」とジェイコブは小声で訊ねた。
「見たとも、しっかりと。われわれの高貴なる友がなにを知ったのか、おおいに興味のあるところだ」
芝居がかったしぐさで片腕をひとふりして、パパカブはみんなに話を聞くように声をかけた. 「あれは、古い種族、だと言った。わたしもそれを、信じる。あれは、非常に古い、種族だ」
そうだろう、とジェイコプは思った。それはババカプが、まっ先に訊ねそうなことだった。
「ソラリ・アソは、チンプを、殺したのが、自分たちだ、と言った。責任は、ラロックにあるのだとも。そして、もし永久に放っておいて、くれないのなら、人間をも、殺しはじめるそうだ」
「なんですって?」ダシルヴァが叫んだ。「どういうことです、それは? どうしてラロックとゴーストに責任があると言うの?」
「冷静、になりたまえ、冷静に」ヴォーダーのせいで弱められてはいたが、ビラの声には威嚇の響きがあった。「ソラリ・アンは、あの男に殺人、を行なわせたのが、彼らだと言った。あの男、に怒りをもたらし、殺さずにはいられない、気持ちにさせたのは、彼らだと。そして、あの男に、真実をも教えたのだ、と」
ジェイコブはババカプの報告内容を、ドクター・マーティンに要約しおえた。
「……そして彼は、こう言って話を締めくくったんだ。ゴーストたちがこれほど遠くからラロックに影響をおよぼせるとすれば、方法はひとつしかない。そして、ゴーストたちがその方法を使ったのだとしたら、彼らは〈ライブラリー〉の情報にたよってはいないということになる。どこであろうと、なにものであろうと、その力を使うことは禁じられており、その情報は封じられているのだから、とね。ババカプはそれを調べるまでここにとどまって、わかったらただちに太陽から引きあげてほしいそうだ」
「それは、どんな力?」マーティンが訊ねた。彼女は粗雑な地球製の精神波探知ヘルメットを膝にのせて、すわっていた。近くでは、カラが耳を傾けており、またもや細い飲料チューブを口に加えていた。
「〈ピ=ングルリ〉ではないそうだ。それはときどき合法的に利用されているらしい。それに、〈ピ=ングルリ〉ではここから水星までとどくはずはないし、その形跡も見あたらないと言っている。どうやら.ババカブは、例の石のような道具を使うつもりらしいよ」
「あのレタニの遺産?」
「そうだ」
マーティンはかぶりをふった。下を見おろして、ヘルメットのつまみをまさぐり、
「あまりにも複雑すぎる。わたしには、なにがなんだかさっぱりわからない。水星にもどってきて以来、なにもかもうまくいかないわ。外見どおりの知的生物なんて、ひとりもいやしないのね」
「どういう意味だい?」
超心理学者は口ごもったが、それから肩をすくめて、
「だれも信用できないということよ……わたし、ジェフリーに対ずるピーターのばかげた憤りは、自然で害のないものだと確信していたの。ところが、いまこうして、それが人為的な怒りであり、有害なものであることがわかった。それに、ソラリアンについても、ピーターは正しかったんでしょう。ただ、それは彼の考えたことではなくて、ソラリアソの植えつけたものだったんだわ」
「ほんとうに信じるのかい、彼らが大昔に失われたわれわれの主族だなんて?」
「だれにわかって? もしそれが真実なら、もう二度と彼らと話をしにもどってこられないというのは、悲劇ね」
「すると、きみはババカプの話を鵜呑みにするのか?」
「ええ、もちろんよ! ソラリアンとのコンタクトに成功したのは彼ひとりだし、わたしは彼のことをよく知ってるわ。ババカブは決してわたしたちをあやまちへと導いたりはしない。真実を知ることは、彼にはなによりも大事な仕事なのよ!」
しかし、ジェイコブはもう気がついていた。さっき.だれも信用できない"と言ったとき、彼女がだれのことを指していたのかを。ドクター・マーティンは、恐れているのだ。
「なんらかのコソタクトに成功したのがババカブだけだというのは、まちがいないのかな?」
彼女は目を見開き、そっぽを向いた。「そんな能力があるのは、彼くらいのものでしょう」
「それなら、ババカブが報告すると言ってぼくらを呼び集めたとき、なぜきみはここでヘルメットをつけたままでいたんだ?」
「あなたからとがめられるいわれはないわ!」マーティンはかっとなって答えた。「どうしても知りたいなら教えてあげましょう。わたしがここに残ったのは、もういちど試すためよ。ババカプの成功がねたましくて、もういちど試してみたかったのよ! もちろん、失敗したけれど」
ジェイコプは納得しなかった。マーティンがこんなふうにいらだつ理由はないし、彼女が口にしている以上にたくさんのことを知っているのは明らかだ。
「ドクター・マーティンーきみはワルファリン≠ニ呼ばれる薬について、なにを知ってる「あなたまで!」マーティンはまっ赤になって、「基地の主任医師にはワルファリンなんて聞いたこともないと言ったし、どうやってそんなものがドウェイン・ケプラーの薬にまぎれこんだのか、見当もつかないわ。そもそも、そんなものがあったとしたらね!」
そっぽを向いて、「よろしけれぱ、少しやすませてもらったほうがよさそう。ソラリアンがもどってきたときには、起きていたいから」
ジェイコブは彼女の敵意を無視した。疑惑とともに、彼の半身の気の荒ざが、少しぱかり漏れ出てしまったようだ。だが、マーティンがこれ以上なにも言わないことは明らかだった。ジェイコブは立ちあがった。マーティンはわざとらしく彼を無視して、カウチに身を横たえた。
フード・マシーンのそばで、カラと出会った。「あなたは動轉していますか、わが友ジェイコプ?」
「いいや、そんなことはないよ。どうして?」
長身のETは彼を見おろした。疲れているようだ。ほっそりとした肩はうなだれているが、大きな目は煌々と輝いている。
「ババカブがさきほど報告したことを、あまり深刻に受けとらないでくださるといいのですが」
ジェイコプはフード・マシーンから完全に向きなおり、カラに面と向かった。「なにを深刻に受けとるんだい、カラ? 彼の報告はひとつのデータ。ただそれだけのものだ。これで〈サンダイバー計画〉が終焉を迎えるとしたら、がっかりではあるさ。それに、受け入れざるをえない事実として認める前に、彼の言ったことを確かめてみたくもある……少なくとも、〈ライブラリー〉に関することについてはね。だが、いまぼくが抱いているいちばん強い感情は、好奇心さ。おかしな質問をされて、ジェイコプはいらだち、肩をすくめた。赤い光を浴びすぎたのだろう、目がひりひり痛む。
カラはゆっくりと、その巨大な頭を左右にふった。「わたしが言ったのは、それとはべつのことでず。ぶしつけなことを言って申しわけありませんが、あなたはひどく、動轉しているのではないかと思うのです」
ジェイコプはむっとした。もう少しで本音を吐きそうになったが、かろうじてそれを押しとどめ、「もういちど訊くが、きみはいったいなんのことを言ってるんだ、カラ?」と、ゆっくりと言った。
「ジェイコプ、あなたは、あなたの種族における驚くべき内紛のなかで、みごとに中立的立場を貫いています。しかし、知的生物というものは、必ず自分本位の考え方をするものです。人類が失敗したコンタクトにババカブが成功したことで、あなたはひどく傷ついているはずでず。いままであなたは、出生の疑問≠ノ関する立場を表明したことがありませんが、人類にたしかに主族がいたことを思い知らされて、あなたがおもしろく思っていないことはわかります」
ジェイコブはふたたび肩をすくめた。
「ほんとうのところ、ぼくはまだ、ソラリアンがはるかな菅に人類を知性化し、その仕事が終わらないうちにぼくらを捨てていったという話を、信じちゃいないんだ。筋がまったく通らない」
ジェイコプは右のこめかみをこすった。頭痛が起きはじめていた。「それにこの計画は、どこもかしこもひどく異常なことだらけだ。ケプラーはなにか説明のつかない神経症にとり憑かれていて、マーティンに過度に依存している。ラロックの言動もいつもより過激で、ときに自己破壊的になる。ラロックのしわざだといわれているサボタージュのことも、忘れるわけにはいかない。それから、マーティンにしても、感情的なほどラロックの肩を持っていたくぜに、ババカプの不興を買いそうな発言については、ひどく奇妙な恐れを抱くようになっている。どう考えても妙だ……」そこでジェイコプは、口ごもった。
「おそらく、そういったことについては、すべてソラリアソに原因があるのでしょう。もし彼らが、これほど離れたところからミスター・ラロックを操って殺人を犯させることができたのなら、ほかの者たちの異常な行動についても、関与しているかもしれません」
ジェイコプは両手をぎゅっと握りしめた。怒りにまかせて相手の首を絞めそうになるのをかろうじてこらえ、ジェイコプはカラを見あげた。異星人の光る目は、圧倒されそうな迫力を秘めていた。こんなものに屈してなるかと思い、ジェイコブは、
「話の途中で口をはさまないでくれ」と、口を引き結び、できるだけ冷静な口調で言った。
なにかがおかしいのはまちがいない。もやもやとしたものが彼のまわりを押し包んでいるようだ。はっきりしていることはなにもなかったが、ここでなにか大切なことを言っておかなければならないという気がした。なにか大切なごとを。
すばやく、デッキを見まわした。
ババカプとマーティンが、ふたたびいつもの場所にもどっていた。ふたりともヘルメットをつけて、こちらを見ている。マーティンがなにかしゃべっていた。
あの牝犬め! きっとあいつは、あのふんぞりかえったろくでなしのチビに、おれが言ったことを残らず注進しているにちがいない。へつらいやがって!
船内巡回の途中、ダシルヴァがババカブとマーティンのそばに立ちどまった。ふたりの関心が、カラとジェイコプからそれた。しぱらく、ジェイコプは気分が楽になった。カラがどこかに行ってしまうといいんだが。こいつをへこますのはうまくないが、類族は自分の立場をわきまえているべきだ!
ダシルヴァが話を終え、ババカブとマーティンのもとを離れて、まっすぐフード・マシーンに向かってきた。ふたたび、ババカプの小さな黒い目が、ひたと彼にすえられていた。
ジェイコプはうなり声をあげた。ビーズのような目にくるりと背を向けると、フード・マシーンに向きなおる。
みんなくたばっちまうがいい。おれはここへ飲み物を飲みにきた、だからそのとおりにするまでだ。こんなやつらなんか、ここにはいないと思え!
目の前で、フード・マシーンのいくつものランプが光っていた。心の奥で、声が緊急事態を告げていたが、ジェイコプはそんな声も存在しないと決めつけた。
しかし、この機械はへんだな。〈ブラッドベリ〉にあった、あのいかれた機械とはちがったタイプだといいんだが。あいつはまるっきり、親切とは言えなかったからな。
ふうん、こいつには透明な3Dポタソがいっぱいついてるぞ。外に出っぱった小さなボタンが、何列にもならんでいる。
適当にひとつを押そうとしたが、そこで手をとめた。待て待て。今度はラベルを読むんだ! いま、おれはなにを飲みたい? コーヒーか?
心のなかの小さな声が、ジャイロ工ードを飲めと叫んだ。ああ、たしかにそれはいい。ジャイロエードはすばらしい飲み物だ。うまいだけでなく、気分をしゃっきりさせてくれる.幻影だらけの世界では、最高の飲み物だ。
ジャイロエードがなかなかすばらしい選択であることは、認めざるをえなかった。だが、なにかが少しおかしかった。どうしてなにもかもが、こんなにゆっくり動いているんだろう?
手がかたつむりのようにのろのろと動いて、望みのボタンに向かった。手は何度か目標をそれてから、とうとうぴたりと狙いを定めた。いまにも押しそうになったとき、また小さな声がもどってきた。今度は押すなと懇願している!
いったいどうしたというんだ! すばらしいアドバイスを与えておきながら、今度はやめろだと? ふざけるな、だいたい、だれがおまえなんか必要だと言った?
ジェイコプはボタンを押した。時間の流れが少し遮くなり、液体がそそがれる音が聞こえた。
だれも相手になどしてやるものか! いまいましいなりあがりもののカラ。いばりくさったババカプと、その冷酷な人間の仲聞。そして、おれを地球からこの気ちがいじみた場所へ引きずりだした、いかれたファギンさえも……
身をかがめて、スロットから飲料チューブをとりだす。こいつはうまそうだ。
時間の流れはますます速くなり、ほとんどふつうの速さにもどった。すでに、重い肩の荷から解放されたように、気分がよくなっている。敵意と幻影が消え去っていくようだ。近づいてくるエレン・ダシルヴァにほほえみかけた。それから、向きを変え、カラにもほほえんだ.
あとで──あとで、カラに乱暴な口のききかたをしたことをあやまろう。チューブを掲げて、乾杯のしぐさをした。
「……は、いままでそこに、探知可能範囲をわずかに出たところに浮かんでいたわ」とダシルヴァがしゃべっていた。「こちらの準備はできているから、あなたも……」
「いけない、ジェイコプ!」カラが叫んだ。
ダシルヴァが叫び、とびかかってくるなりジェイコプの手首をつかんだ。非力ながら、カラも手を貸し、ジェイコブの口からチューブをもぎとった。
ほほう、こいつら、人の楽しみを奪う気か、と彼は楽しげに思った。よかろう、ひよわな異星人と九十のばあさんに、男になにができるかを教えてやる。
ジェイコプはひとりずつ、ふたりを引きはがしたが、それでも彼らはとびかかってきた。ダシルヴァは、手からチューブをはたき落とそうと空手を見舞ってきたが、ジェイコプはそれをことごとくプロックし、勝ち誇った顔で、ゆっくりと口もとに飲み物を運んだ.
ふいに障壁が崩れ、嗅覚が──いまはじめて、失われていたことに気づいたのだが──蒸気ローラーのようにもどってきた。一度咳をし、ひどいにおいを放つ、手にした混合飲料を見おろす。
それは茶色の毒々しい液体で、いくつものかたまりが浮かび、ぶくぶく泡だっていた。ジェイコプはそれを投げ捨てた。だれもがこちらを見ていた。カラは投げとばされた床からなにごとかを呼びかけている。ダシルヴァがゆっくりと立ちあがった。ほかの人間たちが集まってきた。
どこかから、ファギンの心配そうなかんだかい声が聞こえてきた。ファギンはどこだ、と思いながら、ジェイコプは前によろりと踏みだした。三歩歩いてから、ババカプの目の前で、彼はデッキにくずおれた。
少しずつ、意識がもどってきた。頭がずきずきして、なかなかはっきり目が覚めない。皮膚が太鼓の皮のようにぴんと張りつめている。だが、皮のように乾いてはいない。肌はずっと漏れたままになっていた。最初は汗で、それからあとは、なにかべつの、冷たい液体で。
うめき、片手を持ちあげる。肌に、暖かくて柔らかい、だれかの手が触れた。香水のにおいで、それが女性の手であることがわかった。
ジェイコブは目を開いた。ドクター・マーティンが、褐色の手に濡れタオルを持って、そばにすわっていた。彼女はほほえみ、飲料チューブをさしだして、彼の口にさしこんだ。
一瞬びくりとしたものの、ジェイコブは頭を起こして、ひと口すすった。レモネードだ。すばらしくうまい。
それを飲みながら、まわりを見まわした。デッキのあちこちに散在ずるカウチには、どれにも人々が横たわっている。
上を見あげた。空がほとんどまっ黒だ!
「わたしたち、もどるところなの」とマーティンが言った。
「ぼくは……」長いごと眠っていたのか、声ががらがらだった。「ぼくは、どのくらい意識をなくしていたんだ?」
「十二時間ほどね」
「鎮静剤を打ったのか?」
彼女はうなずいた。あの職業的なたえざるほほえみがもどっている。だが、それはたったいまもどってきたものではないようだ。ジェイコプは片手を額にあてた。まだずきずきしていた。
「すると、あれは夢じゃなかったんだな。きのうぼくが飲もうとしたのは、なんだったんだ?」
「ババカプのために用意された、アンモニア化合物よ。飲んでも死にはしなかったでしょうけれどね。重体にはなっていたかもしれないわ。
どうしてあんなまねをしたのか、説明できる?」
ジェイコプはふたたび、頭をクッションに沈めた。「それが……あのときは、あれを飲むのがすごくすばらしいことに思えたんだ」
かぶりをふって、「まじめな話、ぼくはどうかなってしまったんだと思う。なにかどうおかしくなったのかは、見当もつかないが」
「殺人だとか陰謀だとか、あなたがおかしなことを言いだしたとき、わたしもなにかおかしいことに気づくべきだったのよ」彼女はうなずきながら、「兆しに気づかなかったのだから、責任の一端はわたしにもあるわ。なにも恥じることなんかないのよ。あれはちょっとした、適応ショックだったんじゃないかしら。サンシップの降下は、いろいろな面で、おそるべき不適応経験になりうるものだから」
ジェイコブは目をこすって、眠けをふりはらおうとした。
「不適応経験については、たしかにきみの言うとおりだ。しかし、いま思いついたんだが、なかにはぼくが操られたと考えている者もいるんじゃないかな」
マーティンは、彼がこれほど早くそれに気づいたことに驚いたようすで、目を見開いた。
「そう。じっさい、ダシルヴァ司令官は、あれがゴーストのしわざだったと考えてるわ。彼女が言うには、ゴーストたちはみずからの正しさの証拠として、精神能力のデモンストレーションをしたのだろうって。それどころか、報復しようと言いだすしまつよ。彼女の説にもそれなりの長所はあるけれど、わたしは自分の説のほうをとるわ」
「ぼくが狂ったという}」
「ちがうわ、そんなこと言ってないでしょう! ただの不適応と混乱よ! カラはあなたが、例の……事故の前の数分間……あなたの言動が異常だったと言っていたわ。それに加えて、わたしの観察からしても……」
「そうだったな。カラにはよくあやまらないと……そうだ! 彼は怪我しなかったか? エレンは?」ジェイコプは立ちあがろうとしかけた。
マーティンはそれを押しとどめ、「だいじょうぶ、だいじょうぶ、みんな無事よ。心配しないで。だれかが心配しているとしたら、それはあなたの体のことだけよ」
ジェイコブはベッドに体をもどした。からっぼになった飲料チューブを見おろして、「もう一本、お願いできるかい?」
「いいわ。すぐにもどってきます」
マーティンは、彼をひとり残して去った。彼女の静かな足音が、フード・センターへ……あの
事故≠フあった場へ向かっていくのが聞こえた。あのできごとを考えると、気が減入ってくる。ないまぜになった、恥辱と嫌悪感。だが、とりわけ強烈なのは、なぜあんなことをしたかという、燃えるような疑間だ。
フード・セソターのほうで、ふたりの人間がそっと話をずる声が聞こえた。ドクター・マーティンが、だれかと出会ったにちがいない。
ジェイコブは覚悟を決めた。遅かれ早かれ、自分は〈サンダイバー計画〉さえ子供だましに思えるような降下をしなけれぱならない。トランス状態に入るのは気が進まないが、真実を引きだすためには、それもやむをえない。問題は、いつそうするかということだけだ。いますぐ行なうべきだろうか? いまなら、あのできごとで心が大きく開かれているかもしれない。それとも、地球にもどって、センターの専門医のもとで行なうべきか? しかし、地球にもどってから答えを見つけても、〈サンダイバー計画〉やおれの仕事には、なんの益にもならない。
マーティンがもどってきた。横に腰をおろして、液体のいっぱい入った飲料チューブをさし出した。そのそばに、エレン・ダシルヴァもいた。司令官は、超心理学者の隣に腰をおろした。
もうだいじょうぶだとダシルヴァに納得させるのに、数分かかった。乱暴したことを詫びると、彼女は気にもしていないようすで、
「あなたがあれほどUCの達人だとは知らなかったわ、ジェイコブ」と言った。
「UC?」
「アンアームド・コンバット。武器を使わない格闘術のことよ。時代遅れとはいえ、わたしもなかなかの腕前なんだけれど。あなたはもっとうわ手だったわ。わたしたちはおたがい、相手に打撃や苦痛を与えずにとりおさえようとして闘った。これはひどく難しいことだけど、あなたはその達人ね」
こんなおせじを言われたくらいで、思いもよらないことに、ジェイコブは顔が赤くなるのを覚えた。
「ありがとう。よく憶えていないが、きみもなかなか達者だったようだ」
ふたりは完全におたがいを理解しあい、にやりと笑った。
マーティンがふたりの顔を交互に見つめてから、咳払いをして言った。「まだあまり長く話をしないほうがいいでしょう。あのようなショックは、充分な休養を必要とするものだから」
「二、三、知りたいことがあるんだ、ドグター。それがすんだら、お達しにしたがうよ。まず第一に、ファギンはどこだ? どこにも姿が見えないが」
「カンテン=ファギンは裏デッキよ」とダシルヴァが答えた。「養分補給のためにね」
「あなたのことをひどく心配していたわ。あなたがだいじょうぶだったと知ったら、さぞかし喜ぶでしょう」とマーティン。
ジェイコプはほっとした。どういうわけか、彼はファギンの身が心配だったのだ。
「それじゃあ、あれからどうなったのか、教えてもらえるかな」
マーティンとダシルヴァは顔を見かわした。それから、ダシルヴァが肩をすくめて、
「あれからもういちど、ゴーストがやってきてね。かなり時間がたってからのことよ。何時間ものあいだ、そのソラリアソは視認範囲ぎりぎりのところで浮遊していたの。卜ロイドの群れは、その擁護者といっしょに、もうずっと後方に離れていたわ。
それでも、待っていてくれて助かった。わたしたちはしばらく、その、つまり……」
「ぼくの人目を引く行為で、大騒ぎしていたわけだ」ジェイコプはため息をついた。「しかし、連中がそこで浮遊しているうちに、だれかコンタクトしようとはしなかったのかい?」
ダシルヴァはマーティンを見やった。ドクターは抵んのわずかに、かぶりをふった。
「そのときは、たいしたことはなされなかったの」と司令官が急いでつづけた。「わたしたち、まだ混乱していたのよ。ところが、〇四〇〇時になって、それは消えてしまった。そして、しばらくしてもどってきたの……例の威嚇形態≠とって」
ジェイコプは、ふたりの女性のあいだに目くばせが交わされるのを見た。そのとき、ふいにある考えが浮かんだ。
「待てよ、きみたちはみんな、あれが同じゴーストだと考えてるんだな? しかし、通常形態≠ニ威嚇形態≠ヘ、じつはまったくべつの種族かもしれないじゃないか!」
マーティンか一瞬きょとんとした顔になり、「それなら説明が……」と言いかけて、口ごもった。
「それがね、わたしたちはもう、彼らをゴーストと呼んでいないのよ」とダシルヴァが言った。
「.ババカブが、彼らはそう呼ぼれるのをいやがると言うの」
ジェイコプはちょっといらだちを覚えたが、ふたりがどちらも気づかないうちに、すぱやくそれを押さえこんだ。こんな話をしていては、なにもわかりやしない!
「で、ソラリアンが威嚇形態≠ナもどってきてからはどうなったんだい?」
ダシルヴァは顔をしかめた。
「長いあいだ、ババカプが話しあっていたわ。そのうちに、腹をたてて、ソラリアンを追い払ってしまったのよ」
「どうしたって?」
「.ババカプはまず、ソラリアンを諭《さと》そうとしたの。星間主従関係の権利義務に関する本を引用してね。取り引きさえ約束したわ。でも、向こうは蕨嚇をつづけるだけ。地球に精神波メッセージを送って、なにか表現不可能な災厄をもたらすとも言ったそうよ。
そこでとうとう、ババカプは接触を打ち切ったわけ。そして、全員に伏せているようにと言って、だれにも見せようとしなかった、あの鉄とガラスのかたまりをとりだしたの。それから、みんな目を覆うようにと言うと、なにかわけのわからないことばを口にして、あのおそろしいものの力を解放したのよ!」
「どんな力を?」
ダシルヴァはふたたび肩をすくめた。
「それは〈始祖〉のみぞ知るだわ、ジェイコブ。目のくらむような光が迸って、耳に圧迫感が襲ってきたと思ったら……つぎに見たときには、ソラリアンはいなくなっていたの! それだけじゃないのよ! わたしたちは、あとにしてきたトロイドの群れがいたはずの場所にもどってみたわ。すると、彼らも消えていた。視界のおよぶかぎりの範囲には、生命を持った存在がいなくなっていたのよ!」
「一体も?」ジェイコプはあの美しいトロイドや、虹色に光り輝くその主人たちのことを考えた。
「一体もよ」とマーティンが言った。「一体残らず、彼らは追い払われていたわ。ババカプは、彼らに危害を加えたりしていないと保証したけど」
ジェイコプは脱力感を覚えた。「すると、少なくともこれで、身を守るすべは見つかったわけだ。ぼくらは強気で、ソラリアンと交渉できるんだな」
ダシルヴァが悲しげにかぶりをふった。
「ババカプは、もはや交渉はありえないと言うの。ソラリアンは邪悪だからって。できることなら、彼らはいまでもわたしたちを殺してしまいかねないそうよ」
「しかし……」
「それに、これ以上ババカブをあてにはできないわ。地球に危害が加えられたなら、ソラリアソに復讐してやるとは言ってくれたけれど、でも、それ以外の場合には、手を貸してくれそうにもないの。あの遺産は、惑星ビラにもどされるそうだから」
彼女はデッキに目を落とした。そして、かすれがちな声で言った。
「〈サンダイバー計画〉は、これで終わったのよ」
第六部
(精神の)健康の尺度は、つぎのような要素に
もとめられる。柔軟さ(なんらかの基準≠ェ
あるわけではない)、経験からいろいろ学びと
る力……筋の通った議論に耳を傾ける姿勢……
感情への訴えやすさ……そしてとりわけ、十二
分に堪能したことを、どれだけあっさりやめら
れるか。病の本質は、硬直化し、飽くなきパタ
ーンにのめりこむことにある。
──ローレンス・キューピー
17 影
作業台の上はきれいさっぱりかたづけられ、いつもはごちゃごちゃに散乱している道具類も、壁のそれぞれのフックに、居心地悪そうにかけられていた。道具はどれもびかびかだ。傷だらけ、穴だらけの台の表面も、ワックスをかけられてぴかぴかに輝いている。
そばの床には、ジェイコプのおろした、一部分解された機械の山が、非難がましく横たわっている。同じく整備主任も、いったいなにをやらかすつもりなんだという顔で、作業台をいじくりまわすジェイコプを眺めている。にもかかわらず、おそらくサンシップで大暴れをやらかしたおかげだろう、ジェイコプが自分の研究をつづけると決めたとき、異を唱える者はひとりもいなかった。作業台は大きく、彼の目的にはもってこいの場所で、いまのところ、使いたがる人間もいない。それに、ここならミリー・マーティンに見つかる恐れもなさそうだ。
巨大なサンシップの格納洞穴のなかには、岩壁に遮られて部分的に姿が見えるだけの、大きな銀色の船が光を放っていた。そのずっと上のほうでは、壁が湾曲して、濃密な霧のなかに消えていた。
ジェイコプは作業台の前の、高いストゥールに腰かけていた。台の上に広がる、二枚の紙に書かれているのは、ツウィッキーの選択枠≠セ。ピンク色の二枚の紙には、それぞれにイエス・ノー式で答える、形態論的に可能な二者択一の問題が定義されている。
左の紙には、こうあった。『Sゴーストに関するBのことばは正しい──イエス(T)/ノー(U)』
右の紙には、それよりはるかにやっかいな疑問が書かれていた。『おれは発狂した──イエス(V)/ノー(W)』
このふたつの疑問については、ほかのだれかの判断に影響されてはまずい。水星にもどって以来、マーティンやほかの者たちを避けてきたのは、そのためだ。病状が快方にむかいつつあるケプラー博士を表敬訪問したほかは、ジェイコプはずっと人を遠ざけていたのである。
左の紙の疑問は、ジェイコプの仕事に関することで、右の紙の疑問との関連を除外しては考えられないものだ。
だが、右の疑問は難しそうだった。この疑問の正解を得るためには、感情というものをずっかり脇へやってしまわなくてはならないだろう.
左の疑間の下に、ローマ数字のTを書いた紙を置き、その上に、ババカブの話か正しいとする証拠を書きならべていく。
「ボックスT:Bの話は正しい」
すっきりしたリストになった。まっ先にあげられるのは、サンゴーストのふるまいに対する、ビラのきわめて筋道の通った説明である。サソゴーストがなんらかの種類の精神波を利用しているというのは、ずっと前から知られていたことだ。威嚇するような、あの人型の亡霊は、人類に関する知識があり、かつ人類に対して非友好的であることを示している。殺されたのはチンパンジーだけ≠ナあり、ソラリアソとの意志疎通に成功したのはババカブだけだ。これらのすべては、ラロヅクの話──ソラリアンによってラロックの心に植えつけられたと考えられる話──と一致する。
もっとも印象的なできごとは、サソシップでジェイコブが気を失っているあいだに起こったことである。レタニの遺産を用いた、ババカプの離れわざだ。あれはたしかに、ババカブがサンゴーストとなんらかのコソタクトを持ったことの証明と言える。
閃光を放って一体のゴーストを追い払うだけでもたいしたものだが(もっともジェイコブは、あれほどまばゆい彩層に漂う生物が、サンシップの暗い内部からのなにかを感じることができるのかどうか、釈然としなかった)、磁食生物の群れをソラリアンもろとも追いちらしたことは、あのビラが用いたのが、なにかとほうもない力(精神波?)であったことを物語っている。
これらの要素はすべて、形態論的分析の過程で見なおされなけれぱならないだろう。しかし、こうしてみると、ボックスTが正しそうに見えることは認めざるをえない。
ナンバーUは頭痛の種だ──なにしろこれは、ボックスTとまったく反対のことを仮定しているからである。
『ボックスーU:Bの話は正しくない──(UA)彼はまちかっている/(UB)彼は嘘をついている』
UAからはなにも思いつかなかった。ババカプはあまりにも確僑と自信に満ちているように見えた。もちろん、ババカブ自身もまた、ゴーストにだまされたという可能性もある……ジェイコプはそういった概略のメモを、UAの位置に書きつけた。じっさいこれは、非常に重要な可能性だったが、さらに降下をくりかえさないかぎり、それを証明したり反証したりずる方法は、ジェイコプには思いつけない。そして、政治的な状況により、もはやこれ以上の降下は不可能なのだ。
ババカブは、マーティンの支持を受け、自分と自分のレタニの遺産がなけれぼ、これ以上の探険は無意味であり、おそらく破減的だろう、と主張していた。不思議なことにケプラー博士は、彼らに反対しようとはしなかった。それどころか、サンシップをドック入りさせ、通常の整備を中止させたうえ、データの引きだしもストップさせたまま、地球当局と相談に入った。
ケプラーの動機が、ジェイコブにはよくわからない。数分間、彼は『派生的問題──ケプラー』と書いた紙を見つめていた。やがてそれを、ババカブの頭脳に関する派生問題の山の上に放り投げた。ケプラーの行動にはがっかりだった。彼はUBの紙にとりかかった。
ババカプが嘘をついているというのは、魅力的な考えだ。ジェイコブはもう、あの小さな〈ライブラリー〉の代表に対して、好感を抱いているふりをできなくなっていた。自分の個人的な偏向は承知の上だ。UBが真実であってほしい。
ババカプには、たしかに嘘をつく動機がある。〈ライブラリー〉を検索しても、太陽に住む生命形態の記述が見つからなかったことで、彼は当惑していた。また、見捨てられた野蛮な℃族が、百パーセント自分の力だけで〈サンダイバー計画〉にとり組んでいることでも、腹をたてていた。そして、どちらの問題も、〈サンダイバー計画〉が太古からの科学の地位を高めるような形で打ち切られれば、片がつく。
しかし、ババカプが嘘をついていると仮定すれぼ、問題がどっと増えてしまう。第一に、彼の話はどこまで嘘なのかという点。明らかに、レタニの遺産による芸当は本物だろう。しかし、それ以外の点については、どこで一線を引けるだろう?
それに、もしババカプが嘘をついたのだとしたら、絶対にばれないという自信があるにちがいない。銀河の諸協会、とりわけ〈ライブラリー〉協会は、絶対に嘘をつかないという評判の上に成り立っている。もし嘘がばれたなら、ババカブは生きたまままる焼きにされてしまうだろう。
ボックスUBには、すべてがかかっている。それは望みがなさそうに見えたが、なんとかしてUBが真実であることを証明しなけれぱならない。さもなければ、〈サンダイバー計画〉はおしまいだ。
複雑なことになりそうだった。ババカプが嘘をついているという線でどんな理屈をこねてみても、それはジェフリーの死、ラロヅクの異常な状態と行動、サンゴーストの威嚇的なふるまい、等々をも説明するものでなくてはならない。
ジェイコプはメモを書きつけて、それをUBのシートの上に放り投げた。
『注:サンゴーストは二種類いるか?』そういえぱ、通常形態≠フサンゴーストが、あの威嚇的なしぐさをした半透明のタイプに変化するところは、だれも見たことがないと聞いたぞ。
そこでもうひとつ、考えが浮かんだ。
『注:ソラリアンの精神波が、ラロックのみならず、ほかの者の異常な行動をも説明するという、カラの説』
このメモを書きとめるとき考えていたのは、マーティンやケプラーのことだった。しかし、それを考えたあと、彼はぺつの紙にまったく同じ内容を書き写し、それを「おれは発狂した──ノー(W)』と記された紙の上にのせた。
ようやく、ふんぎりがついた。目分自身の正常さに対する疑間を、見すえることにしよう。組織的に、彼はなにかがおかしいことを示す証拠を、ナンバーVの紙の下に書いていった。
『1 バハで見た、冒のくらむ閃光=x最後に深いトランス状態に入ったのは、情報センターでの会合直前のことだ。あれから覚めたのは、明らかに心理学的た手段による青い光≠ェ、自己催眠状態にある彼の心を、サーチライトのように照らしだしたからだった。しかし、彼の無意識が発していたにちがいない警告は、カラが近づいてきたため遮られた。
『2 ハイド氏がかってに出てきたこと』ジェイコプは、現代の医学では、長期的な問題に対する解決策として、自分の心を正常な部分と異常な部分に分けることが最良の方法であることを知っていた。二百年前なら、ジェイコプのような状態は分裂症と診断されていたところだろう。だが、自己催眠的処置を用いれぱ、分裂したふたつの部分を、おそらく平和裡に、主要人格のもとにまとめることができるはずだ。したがって、彼の兇暴な半身が強引に表へ出てきたり、主導権を握ったりするときは、諭理的に言って、そうすることが……かつてそうであったような、冷酷で容赦のない、自信に満ち溢れた問題児にもどることが要求されているときでなくてはならない。
いままで彼は、自分の半身の離れわざに対し、困ったものだとは思っても、不安を覚えたことは一度もなかった。たとえば、〈ブラッドベリ〉でケプラー博士の薬を少しずつ失敬した件にしても、たしかにもっと好ましい方法はあるが、これまで見てきたことからして、充分に筋が通る。
だが、サンシップの船上でドクター・マーティンに言ったことの一部は、正当化された疑惑が無意識のなかでかなりたくさん渦巻いているか、あるいはそこにひどくやっかいな問題がひそんでいることを暗示していた。
『3 サンシップでのふるまい:自分は自殺しようとしたのか?』考えていたときよりも、字で書いてみると、心の痛みは少なかった。あのエピソードについては、なにがなんだかよくわからない。が、奇妙なことに、恥かしさよりも怒りが先に立った──まるで、だれかに木偶《でく》のように操られた気がして。
もちろん、この怒りが、自己を正当化しようと必死になるあまりの反応であるとも考えられるが、どうもそうではないような気がする。その論法にそって心のなかを走査してみたが、なんの抵抗も感じられなかった。ただ、消極的な反対があるのみだった。
船で暴れたことは、精神的な衰弱による全体的なパターンの一部をなすものなのだろうか。それとも、ドクター・マーティン(水星帰還以来、彼女はなんとか治療を受けさせようと、基地じゅう彼のあとを追いまわしている)が診断したような、環境不適応による独立した問題なのだろうか。あるいは、すでに考えたように、なにか意図的な力によるものなのか。
ジェイコプは作業台から身を引いた。これには時間がかかりそうだ。成果をあげる方法はただひとつ、たびたび休憩をとり、アイデアが無意識から──彼の調べている無意識そのものから濾し出されてくるのを待つしかない。
いや、これが唯一の方法というわけではないが、自分の正気に対する疑問が解けないかぎり、ほかの方法を試すわけにはいかないのだ.
ジェイコブはあとずさり、太極拳として知られる、一種の柔軟体操のパターンに合わせて、ゆっくりと体を動かしはじめた。悪い姿勢でストゥールに腰かけていたため.背骨がぼきぼき鳴った。体をまっすぐ伸ばし、いままで眠っていた体の各所に、気が横溢するにまかせる。
着ているライト・ジャケットがじゃまで、肩があがりにくかった。ジェイコプは動きをとめて、それを脱いだ。
整備ブロックの向こう端、飲み物の自販機近くの、整備主任のオフィスのそばに、洋服掛けがあった。太極拳のおかげで身が引き締まり、活力が湧いてくるのを感じながら、ジェイコブはかろやかに、足の親指のつけねを使って、洋服掛けまで歩いていった。
ジェイコプが前を通りかかったとき、整備主任はむすっとして会釈した。明らかに、おもしろく思っていない顔だ。発泡パネルのオフィスのなかで、デスクの向こうにすわっている整備主任の顔には、基地に帰ってきて以来、とくに下位の要員のあいだでよく見られるようになった表情が浮かんでいる。その表情を見たとたん、ジェイコプは気まずい気持ちになった。
飲み物の自販機にかがみこんだとき、物音が聞こえた。さらにもういちど、船のほうから音がしたので、ジェイコプは顔をあげた。いま立っているところからは、船の姿が半分ほど見える。岩壁の隅まで歩いていくと、ほかの部分も少しずつ見えるようになった。
ゆっくりと、サンシップの楔型をした入口が開きつつあった。その下に、カラとババカブが立っており、長い円筒状の機械をふたりで支えていた。ジェイコプは岩壁の背後にまわりこんだ。あのふたり、いったいなにをするつもりだ?
サンシップのデッキの録から、乗船橋がすべりだす音がし、つづいてビラとプリソグが、その機械を船内に運びこむ音がした。
ジェイコプは背中を岩壁にあずけ、かぶりをふった。疑問があまりにも多すぎる。このうえまたひとつ謎が増えれぱ、おれはきっと、ほんとうにおかしくなってしまうだろう……もしまだいかれていないのならば。
船内で、エアー・コンプレッサー、または真空掃除機が使われているような音がした。金属でできたなにかを引きずるような音のあいまに、ときおりビラのののしり声が混じる。どうやら、あの機械が船内じゅうを引きずりまわされているらしい。
ジェイコプは誘惑に負げた。ババカプとカラは船内におり、あたりには人影もない。
なにが起ころうと、覗き見していたことがばれたところで、これ以上評判が落ちることもないだろう。
力強い数歩で、ジェイコブはしなる乗船橋をかろやかに駆け登った。傾斜路の頂上に近づくと、腹ばいになってなかを覗きこむ。
例の機械は、やはり真空掃除機だった。こちらに背を向けて、ババカプがそれを引っぱり、カラがフレキシブル・ホースの先端にある、長くて固い吸入パイプを動かしている。プリングはゆっくりと首を左右にふっており、歯がかすかにかたかた鳴っていた。ババカブがたてつづけに鋭く叱咤すると、類族の歯はますますひどく鳴ったが、その動きは速くなった。
彼らの行動は、ひどく妙だった。カラが掃除機をかけているのは、デッキと湾曲した船殻のあいだの空間ではないか! デッキを支える力場のほかに、そこにはなにもないというのに!
カラとババカプは、デッキの縁にそって進んでいき、中央ドームの影に消えた。まもなく、彼らは向こう側をまわりこみ、今度は入口をまともに見る格好になるだろう。ジェイコブは数歩分ほど傾斜路をすべりおりてから、あとは歩いて下までおりた。壁の窪みにもどると、ふたたびストゥールにすわり、紙の束に向かった。
くそっ、時間さえあれぱ! もし中央ドームかもっと大きく、ババカブがもっとゆっくり作業してさえいれば、力場の隙間にもぐりこんで、彼らが集めているなにかのサンプルをかすめとってこられたかもしれないのに。それを考えただけで、ジェイコブは身震いを覚えた。が、やって見るだけの価値はある。
あるいは、作業しているカラとババカプの姿だけでも、写真に撮っておくべきだろうか。しかし、わずかに残された二、三分で、どうやってカメラを手に入れられる?
ババカブがなにかをたくらんでいることを示すすべはなかったが、これでUBはぐっと信憑性を増した。一枚の紙に、ジェイコブはこう書きこんだ。『Bは粉末状かなにかの……幻覚剤を船内にごぽしたか?』それをUBの山の上にのせ、整備主任のオフィスに急いだ。
ジェイコブにいっしょにきてくれと言われて、整備主任はぶつぶつ文句を言った。いつオフィスに電話がかかってくるかもわからないし、正規の携帯カメラがどこにあるか見当もつかないと言うのだ。ジェイコブは嘘だと思ったが、言いあっている暇はなかった。ともかく、電話をすることだ。
電話は、カラとババカブが傾斜路を登っていくところを見た、あの窪みのそぽの壁ぎわにあった。が、いざ電話の前に立ってみると、だれにかけたらいいのか、なんと言えばいいのか、わからなくなった。
やあ、ケプラー博士? 憶えてますか、ジェイコプ・デムワです。ほら、あなたのサンシップで自殺しようとした、あの男ですよ。ええと……じつは、ちょっとここにおりてきて、ビラのババカプが大掃除をしているところを見てもらえませんかね……
いいや、こんなことではうまくいかない。だれかがここにおりてくるころには、カラとババカブは立ち去っており、ジェイコブ・デムワの異常な行動のリストが、また長くなるだけだ。
そこでふと、ジェイコプは気になった。
こいつはみんな、おれの幻覚じゃないのか? いまはもう、真空掃除機の音はしていない。ただ静寂があるのみだ。なにもかもが、あまりにも象徴的すぎる……
そのとき、角の向こうから、キーキーというビラのののしり声と、機械が落っこちるガチャンという音が聞こえた。ジェイコプはしばらく目をつぶった。妙なる響きとはこのことだ。危険を冒して、壁の向こうを覗きこんだ。
ババカプが傾斜路の下で、真空掃除機の一端を支えて立っていた。目のまわりの柔毛を針のように突きださせ、首のまわりの毛を逆立てて、カラをにらみつけている。カラはあわてふためいたようすで、掃除機のダスト・バッグの留め金を押さえていた。そこから少しこぼれ落ちているのは、赤い粉末だ。
ババカブは軽蔑に鼻を鳴らしながら、カラがそのわずかな粉末をかき集め、その上に組み立てなおした掃除機をあてがうのを見まもった。ジェイコプは、ほんのひと握りの粉末が、地面の上にではなく、カラの銀色のチュニックのポケットに入ったのを、はっきりと見た。
ババカプは残った粉末を踏みにじって、地面と混ぜあわせた。それから、周囲をすばやくうかがうように見まわして──ジェイコブはあわてて壁のうしろに顔を引っこめた──ひとこと短く命令すると、カラをしたがえてエレベーターにもどっていった。
作業台にもどると、整備主任が、台上に広がった形態論的分析のシートを眺めているところだった。彼が近づいていくと、整備士は顔をあげて、
「いまの音は、ありゃいったいなんだね?」と、サンシップのほうに顎をしゃくって見せた。
「ああ、なんでもないんだ」とジェイコブ。ちょっと考えてから、「ただ、ETたちが船内をうろちょろしてただけだよ」
「サンシップのなかを?」整備主任はたちまち気色ばんだ。「さっきわけのわからないことを言ってたのはそのためだったのか? それならそうと、なんでそう言わなかったんだ?」
「まあまあ、落ちつきたまえ!」ジェイコプは、サンシップの船架へ急こうとふり向いた整備士の腕をつかみ、「もう遅すぎるよ、彼らは行ってしまった。第一、たとえなにかおかしなことをしているところをつかまえたとしても、それでなにをしていたかわかるわけじゃない。おかしなまねは、ETの専売特許なんだから」
整備士ははじめて見るかのように、ジェイコプの顔をまじまじと見つめていたが、やがて、「そうだな」と、ゆっくりと言った。「たしかにあんたの言うとおりだ。しかし、こうなった以上、あんたが見たことを話してもらったほうがよさそうだ」
ジェイコブは肩をすくめ、ハッチが開く音を聞いたところから、こぼれた粉末の喜劇にいたるまで、ありのままをすっかり話した。
「わけがわからんな」と、頭をかきながら整備士。
「心配はいらないさ。いま言ったように、ひとつの手がかりだけでは、連中の奇妙な行動の動機をつきとめることはできないんだから」
ジェイコプはふたたびストゥールに腰かけ、何枚かの紙に、慎重にメモを書きつけはじめた。
『Cは粉末のサンプルを持っている……どうする? 分けてくれとたのむのは危険か? Cは進んで共犯者となってくれるか? それはどのくらいのあいだだ?
サンプルを手に入れろ!!』
「なあ、あんた、こんなところでなにをやってるんだ?」整備主任が訊ねた。
「手がかりを追いかけてるのさ」
しばらく黙りこんでから、整備士は台のいちばん右にあるシートをたたいて言った。「まいったぜ、もし自分が気ちがいになったと思ったら、おれにはこんなに冷静なまねなんかできやしない! あれはどんな感じだったんだい? つまり、あんたがおかしくなって、毒を飲もうとした」ときのことさ」
ジェイコプは、メモをする手から顔をあげた。ふと、イメージが浮かんできたのである。ひとつのゲシュタルト。鼻孔を満たすアンモニアのにおいと、激しいこめかみのうずき。まるで、訊問に使う強烈なスボットライトを、何時間も浴びたような感じだ。
あのときのイメージが、ありありと浮かんできた。倒れる寸前、最後に見たものは、ババカブの顔だった。その精神波ヘルメットのひさしの下で、小さな黒い目がじっとこっちを見つめていた。船内でただひとり、ビラだけが少しも動じずに、にじりよっていくジェイコプを見すえている。ジェイコプが意識を失って倒れたのは、その二、三フィート手前のことだ。
背筋の寒くなるようなイメージだった。彼はそれを書きとめかけたが、途中でやめた。これは問題が大きすぎる。ジェイコプはピジン・イルカ語で短いメモを書きつけると、それをWの束の上にのせた。
「ああ、失礼」ジェイコプは整備主任に顔をあげた。「なにか言ってたかい?」
整備士はかぶりをふって言った。「いやまあ、おれには関係のないこったからね。鼻をつっこむべきじゃないかもしれんが。おれはただ、あんたがここでなにをしてるのか、気になっただけだよ」
整備士はちょっとことばを切り、
「あんたは、〈サンダイバー計画〉を救おうとしてるんだろう?」と、ややあってからジェイコプに訊ねた。
「そうだよ」
「とすると、ここにいる有名人のなかで計画に好意的なのは、あんたひとりにちがいない」整備士は苦々しげな口調で言った。それから、「さっきはうるさそうな口のききかたをして悪かったな。あんたが仕事をつづけられるように、おれはあっちへ行っていよう」と言うと、背を向けかけた。
ジェイコプは少し考えて、声をかけた。「それなら、ちょっと手を貸してもらえないかな?」
男はふりかえった。「なにをすればいい?」
ジェイコプはにやりとして、「手はじめに、ほうきとちりとりがほしい」
「すぐ持ってくる!」整備主任は急ぎ足で立ち去った.
ジェイコブはしばらく、指先でとんとんと台をたたきつづけた。それから、散乱しているシートをかき集め、ボケットにねじこんだ。
18焦点
「なあ、司令官は、そのなかは立入禁止だと言ってたぜ、知ってるだろうけど」
ジェイコプは、作業をやめて顔をあげた。野蛮な笑みを浮かべて、「まさか、主任。そんなことは知らなかったさ! ぼくがこのロックをあけようとしているのは、健康のためだからね!」
整備主任は不安そうに立ったまま身じろぎし、盗みにまきこまれようとは思ってもみなかった、とぶつぶつこぼした。
ジェイコプはうしろによろめいた。部屋が傾ぎ、体を支えようとして、そばのテープルのプラスティックの脚をつかむ。写真分析室の薄暗い光のなかでは、ほとんど足もとが見えない。とりわけ、二十分にわたり、小さな道具を用いて細かい作業をしてきたあとでは、なおさらだ。
「前にも言っただろう、ドナルドスン」ジェイコプはゆっくりと言った。「ほかにどうしようもないんだ。ぼくらの手もとに、人に見せられるような証拠があるかい? わずかばかりの粉末と、いいかげんな理屈でなにができる? 頭を使いたまえ。ぼくらは不利な立場にある。みんなは証拠に近づけさせてくれないだろう。なにしろこっちには、その証拠が必要だと証明することができないんだから!」
ジェイコプは首のうしろの、凝った筋肉をもみほぐした。「やはりこれは、自分たちでやらなくちゃならない……つまり、もしきみが〈サンダイバー計画〉に……」
整備主任はうめくように、傷ついたような声で言った。「おれが残りたがってることは、知ってるはずだ」
「わかったわかった。あやまるよ。それじゃ、そこの小さな道具をとってくれるかい? それじゃない、先が鉤になってるやつ。そいつだ。
おつぎは、表のドアに出て、見張りをしててくれないか。だれかがきたら、道具を隠すだけの余裕がほしい。それから、そこの穴につまずくなよ!」
ドナルドスンはジェイコプから少し離れたが、外には出ず、ジェイコブが作業にもどるところを見まもった。ドアの側柱のひんやりした感触を背中に受けながら、頬と眉毛から汗をぬぐう。
デムワの言うことは、たしかに合理的で筋が通っているようだが、この二、三時間、とほうもない話ぱかり聞かされつづけて、ドナルドスンはぼうっとなっていた。
いちばんこたえたのは、なにもかもがあまりにもぴったりつながることだ。たしかに、手がかりの捜索はエキサイティソグだった。ここでデムワと出会う前、自分で気がついていたことも、デムワの話を裏づけていた。しかし、その半面、恐ろしさもつきまとう。その首尾一貫した仮説にもかかわらず、この男がほんとうに気が狂っている可能性は、決してなくならないのである。
ドナルドスンはため息をついた。金属のこすれあう小さな音と、うなずいているジェイコプのふさふさした頭に背を向けて、ゆっくりと写真分析室の外のドアに歩きだず。
ほんとうは、そんなことはどうでもいい。水星では、なにかがおかしくなっている。だれかが早急に手を打たなければ、〈サンダイバー計画〉はじきに中止になってしまうだろう。
ひとつのタンブラー式ロックをあけれぱ、確実な手がかりが手に入る。これ以上簡単な仕事はない。じっさいジェイコプは、水星には最新型のロックがどこにもないことを、いやでも思い知らされた。大気に守られていないむきだしの地表を、磁気の嵐が見舞うような惑星では、電子ロックはシールドしてやらなけれぱならない。シールドすること目体にはたいして費用はかからないが、それでもだれかが、ロックにまでそのような金をかけることは、ぱかぱかしいと思ったのだろう。だいたい、だれが写真分析室の奥にまで忍びこんだりするというのか? それに、ロックを破る方法など、だれが知っている?
ジェイコプは知っていた。だが、それはどうも、いまは役にたっていないようだ。どういうわけか、手ごたえがうまくない。道具からはなにも感じられなかった。手と金属のあいだに、通いあうものがないのだ。
この調子では、ひと晩じゅうかかってしまうかもしれない。
(おれにやらせろ)
ジェイコプは歯をかみしめ、ゆっくりと道具をロックから引っぱりだした。それを下に置く。
人格化するのはやめろ。おまえはいままで自己催眠の檻のなかに閉じこめられていた、利己的な衝動のかたまりにすぎない。もしおまえが独立した人格のようにふるまいつづけるなら、おれたちは……おれは、完全に分裂症になってしまうそ!
(人格化してるのはどっちだ)
ジェイコプは皮肉な笑みを浮かべた。
ここにくるべきではなかった。まる三年間地球にとどまり、精神的な大掃除が、静かに、平安のうちに終わるのを待っているべきだったのだ。眠っていてほしい……いや、眠っていなくてはならない行動パターンが、この仕事のために、完全に目を覚ますことを余儀なくされるなんて。
(なら、なんでそいつを使わない?)
この精神的な治療が施されたときには、これほど硬直したものになるとは考えられなかった。だが、この種のプレッシャーは、まぎれもなくトラブルに通じるだろう! たえまない流れとなって漏れだしている、アモラルで冷血で野蛮な意識。いつもなら、それは完全に制御下に置かれている。緊急事態にのみ使えるようにするためだ。
問題のいくつかをもたらしたのは、いまのところ、たえずその流れに加えられつづけてきた、抑圧と人格化かもしれない。彼の悪の半身は、タニアのトラウマが消え去るまで眠っているべきであり……切り捨てられるべきものではないのだ。
(それならおれに、ロックをあけさせろ)
ジェイコブはべつの道具をとりあげ、指ではさんで回転させた。細く軽い鋼鉄の道具は、なめらかで冷たく感じられた。
黙れ。おまえは人格なんかじゃない。不幸にして神経症につながった、ただの能力にすぎないんだぞ……ステージの上で裸で立ったときにのみ発揮される、よく訓練された歌声と同じようなものだ。
(けっこう。その能力を使えよ。使っていたら、いまごろはそのロックもあいてるぞ!)
ジェイコプは慎重に道具を下に置き、少しずつ体を傾けて、ドアに額を押しつけた。そうするぺきだろうか? サンシップで発狂したのがほんとうだったらどうする? おれの説がまちがっているかもしれないじゃないか。それに、バハでのあの青い閃光。おれの心のなかでなにかがおかしくなっているとしたら、それを解放する危険を冒してもいいのか? どうするか決めかねている隙に、トラソス状態がはじまりはじめた。懸命の努力で、彼はそれを押しとどめかけたものの、それから心のなかで肩をすくめて、トランス状態への進行を許した。七つ数えたところで、恐怖からくる障壁が移行を遮った。おなじみの障壁だ。それは絶壁の縁のような感触だった。ジェイコブは意識的にそれを脇へ追いやり、没入をつづけた。
十二数えたところで、少しのあいだだけだぞ、と心に命じる。なにかがうなずくのが感じられた。
融合はたちまちのうちに終了した。目をあける。うずくような感覚が腕をつたいおりていき、古巣にもどってきた犬のように、それは疑り深くにおいをかぎながら、指先に入りこんだ。
ここまではいい、とジェイコブは思った。べつに悪党になったような気はしない。おれ≠フ自覚も弱まってはいない。両手が見知らぬ力に操られているような感じもないし……むしろ、力に温れているようだ。
錠をこじあける道具を拾いあげても、冷たくは感じられなかった。道具は官能的に鍵穴にすべりこんでいき、いとおしむようにタンブラーをまさぐって、回転バーを引っこめた。つぎつぎに、シリソダーにそって、小さなバーは引きこまれていった。まもなく、ドアがあいた。
「ほんとにあけちまったのか!」ドナルドスンの驚き声が、ちょっときまり悪かった。
ジェイコブは、「簡単なもんさ」とだけ言った。心に浮かんできた侮蔑的な返事を押さえるのは、造作もないことだった。ここまではいい。この半身はたちがいいそ。ジェイコプは大きくドアを開き、なかに入った。
せまい部屋の左の襞にそって、ファイリング・キャビネヅトがならんでいる。その反対側の壁ぎわには、低いテープルが一脚あり、その上に写真分析装置がずらりとならべられている。つきあたりにはドアがあって、あけっぱなしになっており、その向こうに、めったに使われることのない、化学フィルム現像用の暗室があった。
ジェイコプはファイリング・キャビネットの一端からとりかかり、腰をかがめてラベルを読んでいった。ドナルドスンはテープルにそって調ぺていく。まもなく整備主任が、「見つけたぞ!」と叫び、テープルのなかばほどにあるヴュアーのとなりの、開いた箱を指さした。
フィルムのスプールは、ひとつひとつパッドを施された小室に納められ、その側面には、日にちと時間のほかに、記録装置に読みとらせるためのコードが刻みこまれていた。そして、少なくとも、そのうちの十の小室がからっぼだった。
ジェイコブはいくつかのカセットを光にかざして見た。それから、ドナルドスンに向きなおった。
「だれかがひと足先にここに忍びこんで、ぼくらが捜しているカセットを全部盗んでいったらしい」
「盗んで?……だけど、どうやって!」
ジェイコブは肩をすくめた。「ぼくらと同じように、錠をこじあけて忍びこんだか、あるいは、鍵を持っていたのかもしれない。ぼくらにわかっているのは、それぞれの記録装置の最後のスプールが、みんなぬきとられているということだけだ」闇のなかで、ふたりはしばらく、黙って立ちつくした。
ややあって、ドナルドスンが言った。「すると、こっちにはなんの証拠もなくなったわけだ──ただし、なくなったスプールのありかをつきとめれぱ、話はべつだが」
「ババカプの部屋にも忍びこむってことかい?……そいつはどうかな。ぼくが思うに、いまごろそのデータは灰になってるよ。どうして彼がそんなものを手もとに残しておくはずがある?」
「そうじゃない。おれが言ってるのは、ここから出て、ケプラー博士とダシルヴァ博士にはなにも教えずに、その目でスプールがなくなっていることを発見させたらどうかってことさ。たいして役にはたつまいが、それでふたりは、こいつがおれたちの話を裏づける、ささやかな証拠と見てくれるかもしれない」
ジェイコブはためらった。それから、うなずいた。
「手を見せてくれるかい?」
ドナルドスンは両の手のひらをさしだした。薄いビニール被膜はまだはがれていない。これなら、化学的なチェックと指紋の検出をごまかせそうだ。
「わかった」とジェイコブ。「思い出せるかぎり正確に、あらゆるものをもとの場所にもどそう。まださわっていないものにはいっさい手を触れるな。終わったら、ここを出る」
ドナルドスンが言われたとおりにしようとふり向いたとき、外の研究室で、なにかが落ちる音がした。閉めたドアを通して、音はくぐもって聞こえた。
廊下からのドアにセットした仕掛けに、引っかかった者がいる。だれかか写真分析室に入ってきたのだ。これで逃げ道は塞がれた!
ふたりは急いで、暗室の暗い戸口に引き返した。光のとどかない暗室の壁をまわりこんだとたん、せまい部屋の向こうから、金属のキーが錠前をこする音がした。
自分の耳には轟音とも聞こえる荒い息づかいを通して、ドアがかすかな音をたて、ゆっくりと開くのが聞きとれた。ジェイコプは上着のポケットをたたいた。忍びこむのに使った道具の半分は、外に、ファイリング・キャビネットの上に置きっぱなしになっている。
が、うまいぐあいに、歯科医用の鏡は手もとにあった。それはまだ、胸ポケットのケースのなかに収まっていたのだ.
侵入者の足音が、となりの部屋の二、三フィート離れたあたりで、静かに響いた。ジェイコプは慎重に、得失を秤にかけてから、ゆっくりと鏡をとりだした。そして膝をつき、円形の輝く鏡面を、床から数インチの高さで、戸口からつきだした。
ファイリング・キャビネヅトの前に立ち、リソグ状の鍵束から金属鍵を捜そうとしているのは、ドクター・マーティンだった。一度、彼女は外のドアをうかがうように見やった。ちっぽけな鏡に映った像では──おまけに、マーティンの足もとからはニメートルも離れて浦り、床の上で不安定にゆれているので──よくわからないが、彼女は動揺しているようだ。
ジェイコプは、ドナルドスン主任がすぐ背後にかがみこみ、戸口から外を覗こうとしている気配を感じた。いらだって、さがるように合図したが、かわりにドナルドスンはバランスをくずしてしまい、その左手が支えからすべって、体ごとジェイコプの背中に落下した。「ぐふ!」整備主任の体重がもろにかかってきて、ジェイコプの肺から空気がしぼりだされた。歯をかみしめ、渾身の力をこめて、左手でふたりぷんの体重を支える。どうにかふたりとも床に倒れずにすんだが、鏡は手から落ち、床の上に落ちてチリンという音をたてた。
ドナルドスンは荒い息をしながら、必死に音をたてまいとして、奥の闇にあとずさった。ジェイコプは弱々しげに笑みを浮かべた。よほど耳の悪いやつでないかぎり、いまの騒動が聞こえないはずはない。
「だれ……そこにいるのは、だれ?」
ジェイコプは立ちあがり、わざとらしくほこりをはらった。ちらりと軽蔑の視線をくれると、ドナルドスン主任はむっつりとすわったまま、目をそらした。
足音が小走りに、外の部屋へ遠ざかった。ジェイコプは戸口に足を踏みだして、言った。
「待ちたまえ、ミリー」
ドアに向かう途中で、ドクター・マーティンの足は凍りついた。肩をいからせてゆっくりとふりむいた彼女の顔は、恐怖にひきつっていたが、そこでマーティンは、相手がジェイコプであることに気がついた。黒い貴族的な顔だちが、まっ赤に染った。
「いったいこんなところで、なにをしてるの!」
「きみを見てたのさ、ミリー。ふだんでも楽しい見ものだが、いまはとりわけ興味深い」
「わたしを見張ってたのね!」息を呑んで、マーティン。
ジェイコプは、ドナルドスンに隠れつづけているだけの知恵があることを祈りながら、足を踏みだした。「きみだけじゃない、ミリー。全員をさ。水星ではたしかに、なにか妙なことが起こっている。だれもがてんでに好き勝手なマグロをほしがり、みんながみんな、なにかをごまかそうとしているんだ! きみにしても、ぼくに話してくれた以上のことを知っている、という感触を持ったんだがね」
「なんのことを言ってるのかわからないわ」と冷たい声でマーティン。「でも、むりもないわね。あなたは病気で、助けを必要としているんですもの……」言いながら、あとずさりはじめる.
「かもしれない」ジェイコプは真顔でうなずいた。「しかし、きみのほうも、いまここにいるわけを説明する助けがいるだろう」
マーティンの体がこわばった。「わたしはドウェイン・ケプラーからキーを借りてきたのよ。あなたはどうなの!」
「かれの承諾を得て借りてきたのかい?」
マーティンは赤くなって、黙りこんだ。
「この前の降下のとき」記録されたデータのスプールが、何本かなくなってる……どれもが、例のレタニの遺産とやらで、ババカブがあの芸当をしてみせたときのものだ。まさかきみは、偶然それがある場所を知っていたりはするまいね}」
マーティンはジェイコプを凝視した。
「ばかなこと言わないで! だけど、だれが……? まさか……」彼女は混乱して、ゆっくりとかぶりをふった。
「持ちだしたのは、きみか?」
「ちがうわ!」
「では、だれだ?」
「知らないわよ。どうしてわたしが知ってるはずがあるの? あなたになんの権利があって、そんなことを……」
「いますぐエレン・ダシルヴァを呼んでもいいんだぞ」ジェイコプは凄味をきかせて言った。
「こっちは、ここを通りかかったらドアがあいていて、なかにきみがいた、と言うことだってできるんだ。きみのポーチには、きみの指紋がついた鍵が入ってるはずだな。司令官は室内を捜索して、スプールがなくなっていることに気づくだろう。疑惑はきみに向けられる。きみはだれかをかばいつづけてきたし、ぼくにはそれがだれだかを示す間接的な証拠がある。いますぐきみの知っていることを洗いざらい話さないんなら、威しじゃなく、きみは破滅だぞ。きみの友だちが道連れになろうとなるまいとだ。基地の連中がだれかを火あぶりにしたくてうずうずしているのは、ぼくと同じく、よくわかっていると思うがね」
マーティンがよろめいた。片手を頭にあてた。
「知らないわ……知らないのよ……」
ジェイコブは彼女を椅子までつれていった。それから、廊下に出るドアを閉め、鍵をかけた。
さあ、気を沈めろよ、と彼の一部が言った。しばし目を閉じ、十数える。手のなかの粗暴な衝動は、ゆっくりと薄れていった。
マーティンは両手で頭を抱えこんでいた。暗室に目をやると、戸口から覗いているドナルドスンの顔が見えた。首を横にふってみせると、整備主任の頭はあわてて引っこんだ。
ジェイコプは、マーティンがあけようとしていたファイリング・キャビネットを開いた。
ははあ。こいつを捜していたのか。
ジェイコプはキャビネットから小型カメラをとりだすと、作業台にもどし、読みだしジャックをヴュアーの一台にさしこんで、両方の機械をオンにした。
読みだされた記録のほとんどは、ごくどうでもいいことばかりだった。それは、水星基地に着陸したときから、あの朝、このカメラをサンシップの洞穴に持ちこんで、ジェフリーの船の運命的な見学に乗りこむ直前までの、ラロックの記録だったのだ。音声による記録は無視することにした。自分のための覚え書きだというのに、ラロックのメモは、文宇になった」記事よりも、ずっと饒舌だったからだ。だが、サンシップの外部からの全景が映しだされたあと、だしぬけに、映壊記録の内容が変わった。
しばらく、ジェイコプは目の前に展開される映像を、とまどいながら見つめていたが、やがて、大声で笑いだした。
悲嘆にくれていたミリー・マーティンが、突然の大笑に驚いて、まっ赤になった目をあげた。ジェイコプはやさしく彼女にうなずいた。
「どうしてここへ忍びこむ気になったのか、言えるかい?」
「言えるわ」マーティンは.かすれ声で答えた。ゆっくりとうなずいて、「わたし、ピーターが記事を書けるように.カメラを返してあげたかったの。ソラリアソが彼をあんな残酷な目に……あんなふうに利用したんだもの、せめて……」
「彼はまだ監禁されてるんだね?」
「ええ。みんな、それがいちばん安全だと思ったのよ。前に一度、ソラリアンに操られたでしょう。だったら、もういちど操られるかもしれないわ」
「で、カメラを返してやるというのは、だれのアイデアだい?」
「ピーターに決まってるでしょう.彼ば記録をほしがっていたわ。これを返したところで害になるわけでもないし……」
「彼に武器をわたしてやることがかい?」
「ちがうわ! スタンナーは使えないようにするのよ。ババカ……」そう三口いかけて、彼女の目が大きく見開かれ、声がとぎれた。
「つづけたまえ、すでに答えはわかっている」
マーティンはうつむいて言った。
「ババカプが、ピーターの部屋で落ちあって、スタンナーをとりはずしてやろうと言ったの。ピーターに悪意を持っていないことを示すために」
ジェイコブはため息をつき、「やはりな」とつぶやいた。
「やはり……?」
「ちょっと手を見せてくれ」ためらうマーティンに、ジェイコプは有無を言わさず見せるよう、身ぶりで命じた。ジェイコプに調べられているあいだ、長くほっそりとした指は震えていた。
「なにをしてるの?」
ジェイコプは彼女の疑問を無規した。そして、せまい部騒のなかをゆっくりと行ったりきたりしはじめた。
罠の巧妙さに、ジェイコプは感心した。もしこれが成功すれば、水星基地に残っている人間は、悪評を買うことになるだろう。自分だったら、これほど巧妙な罠はしかけられない。いまの問題はただひとつ、その罠の口が閉まるのはいつかということだ。
ジェイコプはふりかえり、暗室の入口に目をもどした.ふたたび、ドナルドスンの頭がさっと引っこんだ。
「もういいよ、主任。出てきてくれ。きみにはドクター・マーティンといっしょに、この部屋についた彼女の指紋を消してもらわなくちゃならない」
大柄の整備主任が、照れくさそうに笑みを浮かべて姿を見せると、マーティンは唖然とした。
「あんたはどうするんだね?」と整備士。
答えるかわりに、ジェイコブは内側のドアのそばにあるインターフォソの受話器をとって、ダイヤルをまわした。
「もしもし、ファギン? ああ、ぼくだ。いま、推理小説でいうラウンジ・シーン≠フ準備が整った。え、なに……? さあ、まだそれほどの確信はないが。そいつは、これからの数分間の、ぼくの運しだいだな。
悪いが、基地の中心メンバーに、五分以内に、ラロックが拘禁されている部屋に集まるよう連絡してくれるか? ああ、いまずぐにだ、有無を言わさず。ドクター・マーティンには連絡しなくていい。彼女はここにいるから」
ジェイコプ・デムワの口調に驚いて.マーティンはファイリング・キャビネットをぬぐう手をとめ、彼を見やった。
「そのとおり」とジェイコプは先をつづけた。「それから、まっ先にババカプとケプラーに声をかけてくれ。きみお得意の、あのやりかたで、ふたりをせきたてるんだ。ぼくも大急ぎでやらなくちゃならないだろう。じゃ、たのむ」
「で、おつぎは?」外に出るドアに向かいながら、ドナルドスンが訊いた。
「おつぎは、きみたち盗っ人見習いが、第一級の盗っ人に昇格する番だ。すばやく行動してくれなくちゃ困るぞ。もうじきケプラー博士が部屋を出るが、きみたちが会議に出てくるのは、あまり遅くならないはうがいいからな」
マーティンは踏みだしかけた足をとめた。「冗談でしょう? 本気でドウェインの部屋を荒す手伝いをしろと言うの!」
「なにをいまさら?」ドナルドスンがうなるように言った。「あんたは博士にネズミとりの毒餌を盛ったじゃないか! この写真分析室に忍びこむために、博士の鍵だってくすねてきたんだろう」
マーティンの鼻孔が膨らんだ。「わたしは毒餌なんて盛ってないわ! だれがそんなことを言ったのよ?」
ジェイコプはため息をついた。「ワルファリンさ。あれはその昔、ネズミとりに使われていたんだ。ネズミがあれでは死ななくなるまでね。いまでは連中、ほとんどなんにでも免疫を持っているが」
「前にも言ったけど、わたしはワルファリンなんて聞いたこともなかったのよ! 最初に聞いたのは博士から、そのつぎはサンシップであなたから。どうしてみんな、毒を与えたのがわたしだって思うのよ!」
「ぼくは思っちゃいない。だが、ぼくらがこの件の真相をつきとめる手伝いをしたいんだったら、協力したほうがいい。きみはケプラーの部屋の鍵も持ってるな?」
マーティンは唇をかんでから、こくりとうなずいた。
ジェイコブはドナルドスンになにを捜せぱいいのかを教え、見つかった場合の言いぬけかたも教えた。それから、部屋を出て、ET居住区に向かった。
19 ラウンジにて
「この会合を呼びかけた当のジェイコプが、まだきてないですって?」エレン・ダシルヴァが、戸口で言った。
「わたしは気にならないがね、ダシルヴァ司令官。彼はじきにやってくるだろう。ミスター・デムワが、時聞をつぶすに値しない会議を召集した例は、まだ一度も見たことがない」
「そうとも!」大きなソファの端にすわり、足を足乗せ台にのせたラロックが、笑い声をあげた。パイプを口のそばにくゆらし、煙に包まれながら、彼は皮肉っぽい口調で、「遅れたっていいじゃないか? ほかにすることがあるとでも言うのかい、ここで? .探求≠ヘ終わり、研究には終止符が打たれた。象牙の塔は傲慢のゆえに崩壊し、長き苦難の年月がはじまる。デムワに時間を与えてやるがいい。彼がなにを言いだそうと、ここであんたたちのしかつめ顔を見ているよりはおもしろいさ!」
同じソファの反対端にすわっているドウェイン・ケプラーが、苦々しげな顔をした。彼はできるだけラロックから離れてすわろうとしていた。神経質そうに、医療助手が整えたばかりの膝かけを引っぱっている。助手は医師の顔を仰いだが、医師は肩をすくめるだけだった。
「黙りたまえ、ラロック」ケプラーが言った。
ラロックはただにやりとしただけで、パイプを詰める道具をとりだした。「やっぱりここは、記録装置がほしいところだね。おれはデムワを知ってるからな。こいつは歴史的な会合になるかもしれないぜ」
ババカプは鼻をならし、そっぽを向いた。彼はずっと歩きまわってばかりいる。彼らしくもなく、絨毯を引かれた部屋じゅうに散在しているクッションには、まったく寄りつこうとしない。ビラは壁のそばに立っているカラの前で足をとめ、相称的な四本指を、複雑なバターンで打ち鳴らした。カラがうなずいた。
「わたしはこのように申しあげるように命じられました。ミスター・ラロックの記録装置によって、すでに充分な悲劇が起こっているではないか、と。また、ビラのババカブは、はじまりがもう五分遅れたなら自室に帰ると言っておられます」
ケプラーはこの宣言を無視した。そして、まるでかゆいところを捜してでもいるかのように、組織的に首をさすっていった。この数週間で、ずいぶん若々しさがなくなってしまったようだ。
ラロックは苦い顔をして肩をすくめた。ファギンばなにも言わなかった。青緑色の枝の先端にある銀色の細片でさえ、そよとも動かなかった。
医師が言った。「ともかく、なかに入ってすわってくれ、エレン。ほかの連中も、もうじきくるだろう」医師の目には、同情の色が浮かんでいた。この部屋に入ることは、ひどく冷たいがあまり澄んでいない池に、足を踏み入れるようなものなのだ。
ダシルヴァはできるだけみなから離れた椅子に腰をおろした。落ちつかない気分で考える。ジエイコブ・デムワはいったい、なにをもくろんでいるのだろう?
わたしが思っているようなことじゃなければいいんだげど。この部屋のなかにいるメンバーに共通するものがあるとすれば、それはだれもサンダイバー≠ニいうことばを聞きたがっていない、ということだけだ。みんな、たがいの喉をかき切りたくてうずうずしているのに、室内にあるのは、この申しあわせたような沈黙ばかり。
彼女はかぶりをふった。この計画がもうじき終わるかと思うと、ほっとずる。きっともう五十年もすれぽ、事態はましになっているだろう。
もっとも、それについては、あまり期待はしていなかった。すでに、ビートルズの調べが演奏されるのは、こともあろうに、交響曲のなかだけになってしまっている。古きよきジャズも、もはや図書館の外には存在しない。
なぜわたしは、故郷をあとにしてしまったんだろう?
ミルドレッド・マーティンとドナルドスン主任が入ってきた。エレンが見たところ、ふたりは懸命に、なにげないようずを装おうとしているようだが、だれもそれには気づいていないようだった。
おもしろいわ。このふたりが共有しているものは、いったいなんだろう?
ふたりは部屋のなかを見まわし、室内にただひとつしかないソファの、うしろの一画に向かっ」た。ソファにすわっているケプラーとラロックのあいだは、緊張で満たされていて、すわれるような状態ではなかったからだ。ラロックがマーティンを見あげて、ほほえみかけた。あれは陰謀のウインクだろうか? マーティンがその視線を避けるのを見て、ラロックはがっかりしたような顔になった。そして、パイプに火をつける作業にもどった。
「もう、たく・さんだ!」とうとうババカブが言いはなって、ドアに向かいかけた。だが、彼がたどりつかないうちに、ドアがひとりでに大きく開いた。ついで、ジェイコプ・デムワが、白いカソバス地の袋を肩にかついで、戸口に現われた。部屋に入ってくるとき、彼は小さく口笛を吹いていた。それを聞いて、エレンは信じられぬげに目をしばたたいた。その節は、サンタが町にやってくる≠ノそっくりだったのだ。だけど、そんなことって……
ジェイコプは、はずみをつけて袋をふりおろした。それは大きな音をたててどすんとコーヒー・テーブルの上にのり、マーティンは驚いて、半分ほど椅子からとびあがった。ケプラーの眉間の皺が深くなり、ソファの腕をぐっと握りしめた。
エレンはどうしても笑いをこらえきれなくなった。場ちがいの、心休まる昔の調べ、大きな音、そしてジェイコプの行状は、大嫌いな人間の顔にカスタード・パイがぶつけられたように、緊張の壁をすっかりつき崩してくれたのだ。笑わずにはいられなかった。
ジェイコブは一度、ウインクして見せた。「ホッホゥ!」
「きみは、道化、を演じにきたのか?」ババカプが難詰した。「きみは、わたしの時間、を無駄にした! 償いたまえ!」
ジェイコプはにっこりとして、「よくおわかりで、ビラのババカプ。わたしの演技から、感じるところがあれぽ幸いでず。だがその前に、すわってもらえまずか」
ババカプの顎が、ぱくりと閉じられた。小さな黒い目が、一瞬燃えあがったように見えたが、それから彼は鼻を鳴らすと、手近のクッションに、動作も荒々しく寝ころがった。
ジェイコプは室内の顔を見わたした。どの顔も、おおむね混乱と敵意に満ちている。例外なのは、ひとり超然としてふんぞりかえっているラロックと、とまどいぎみに笑顔を浮かべているエレソ、それからもちろん、ファギンの三人だけだ。またしてもジェイコブは、カンテンに目があったらいいのにと思った。
「ケプラー博士が水星に招いてくださったとき」とジェイコプははじめた。「わたしは多少の疑問は抱いたものの、〈サンダイバー計画〉自体には賛成でした。あの最初の会合のあと、わたしは〈コンタクト〉以来もっともエキサイティングなできごとのひとつ……地球からいちばん近い、いちばん奇妙な隣人、サンゴーストとの種族間交渉という、複雑な問題に参加できると期待したのでず。
ところが、ソラリアンの問題は、いまや星間謀略の複雑な網と、殺人事件の火つけ役になってしまったらしい」
ケプラーは悲しげな顔をあげて言った。「ジェイコプ、たのむ。われわれはみんな、きみがストレス下にあったことを知っている。ミリーは、われわれがきみに対してやさしく接し、なんでも言うことをきくべきだと考えている。だが、ものごとには限度というものがある」
ジニイコブは片手をあげて制した。「そのやさしく接するというのが、わたしを満足させるということでしたら、どうぞそうしてください。しかし、無視されるのは困る。あなたが聞かなくても、地球政府は耳を貸すはずです」
ケプラーの笑みが凍りついた。ソファの背にもたれかかって、「そういうことなら、つづけてくれたまえ。承ろう」
ジェイコブは、部屋の中央に敷かれている、幅広の小絨毯の上にのった。
「第一に。ピエール・ラロックは、スタンナーを使って小型サンシップにサボタージュを働き、チンプのジェフリーを殺害したことを、終始否認しつづけてきました。さらに、要観察者であったことをも否定し、地球からの記録がなんらかの方法ででっちあげられたものだと主張しました。
しかしながら、太陽からもどって以来、彼はずっとPテストを受けることを拒否している。それによって、自分の無罪の証明が手まどるにもかかわらずです。おそらく彼は、そのテストの結果もまた、でっちあげられるだろうと思ったのでしょう」
「そのとおりだ」ラロックがうなずいた。「またでっちあげがあるに決まってる」
「それは、ドクター・レアード、ドクター・マーティン、わたし、三人の立ちあいのもとでもか「それに答えることは、裁判のさい偏見を与えるおそれがある。とくに、おれが訴えることに決めた場合には」
「なぜ裁判に持ちこむ? RQチューナーのアクセス・プレートをあげたとき、きみにはジェフリーを殺す意志はなかったはずだし……」
「そんなまねはしてない!」
「……悪意から人を殺せるのは、要観察者だけだ。それならなぜ、拘留されたままでいるんだ?」
「きっと、住み心地がいいんでしょうよ」医師の助手が口をはさんだ。エレソは顔をしかめた。このところ、士気の低下とともに、規律がすっかり乱れてしまっている。
「彼がテストを拒んだのは、失格ずることがわかっていたからだ!」ケプラーが叫んだ。
「だからこそ、太陽・生物、は、殺人、の道具に彼、を選んだのだ」とババカブがつけ加えた。
「わたしは、彼ら、から、そう、聞かされた」
「それでは、わたしも要観察者ですか? なかには、ゴーストがわたしを操って自殺させようとしたとお考えの向きもあるようだが」
「きみ、はストレス・下に、あったのだ。ドクター・マー・ティンは、そう言っている。だろう?」
ババカプはマーティンに向きなおった。彼女は白くなるほどきつく手を握りしめたが、なにも言わなかった。
「もう二、三分もすれば、その間題に入ります」とジェイコプ。「しかし、その件に入る前に、ケプラー博士およびミスター・ラロックと、私的な話をさせていただきたい」
ドクター・レアードとその助手は、礼儀正しく退いた。ババカプは席をどかされることに仏頂面をしたが、ともかくも医者たちにしたがった。.
ジェイコブはソファのうしろにまわりこんだ。ふたりの男のあいだに身をかがめ、そのいっぽうで、片手を背中にまわす。ドナルドスンが前にちょっと身を倒し、その手に小さなものをのせた。ジェイコブはそれをしっかりとつかんだ。
ジェイコブはケプラーとラロックを交互に見やって、
「ふたりとも、もう隠しごとはやめたほうがいい。とくにあなたはね、ケプラー博士」
ケプラーは声をつまらせて、「いったいきみは、なんのことを言っているんだ?」
「あなたはラロック氏の財産を隠し持っておられるはずです。ラロック氏め所持が不法であったことは、このさい関係ありません。彼は熱烈にそれをほしがっている。すぐにとりかえされることはわかっているのに、一時的にせよ、引ったくろうとするほどに。これが手もとにあるかないかで、いずれこの件のすべてについて記事を書くさい、まるっきりトーンが変わってくるかもしれませんよ。
しかし、その心配はもうなさそうです。ほら、その品物は、わたしがここに持っていますから」
「おれのカメラ!」ラロックが押し殺した声で言った。目がぎらりと光った。
「非常に小さなカメラだ。同時に、超小型音波分光装置でもある。そう、それはここにあります。そして、ケプラー博士の部屋に隠されていた、このカメラの記録のコピーもここにありまず」
「こ、この裏切り者め」ケプラーはどもりながら言った。「友人だとばかりおもっていたのに……」
「だまれっ、このがりがり亡者のろくでなしが!」ラロックはほとんど叫ぶようにして言った。
「裏切り者はきさまのほうだっ」たまりにたまった蒸気が噴出するように、小柄な記者から軽蔑が吐きだされた。
ジェイコプはふたりの背中に手をかけた。「ふたりとも声を落とせ! さもないと宇宙船に閉じこめて、帰りのない旅に放り出してやるぞ! ラロックはスパイ行為で告発されうるし、ケプラーにはスパイ行為に対する恐喝および共謀罪が適用されうる!
じっさい、ラロックのスパイ行為の証拠は、彼がジェフリーの船にサボタージュをする時間などなかったことの状況証拠でもあるんだ。とすれば、疑惑はサンシップのジェネレーターを点検した最後の人物に向けられる。ああ、あなただと思っているわけではありませんよ、ケプラー博士。しかし、ぼくがあなただったら、用心するでしょうね!」
ラロックは黙りこんだ。ケプラーは口髭の端をかんでいた。
「なにが望みだ?」ややあって、ケプラーが言った。
押さえつけようとしたものの、抑圧されていた半身は、いまや覚醒しすぎていた。ジェイコプは、もう少しつついてやらずにはいられなくなった。
「さあ、まだなんとも言えません。そのうち、なにか考えつくでしょう。まあ、あまり極端な想像はしないことです。地球にいるぼくの友人たちは、いまごろ、ことのすべてを知っているはずですから」
これは嘘だった。だがハイド氏は、用心を欠かさない男なのだ。
エレン・ダシルヴァは、三人がなにを話しあっているのかと、聞き耳をたてていた。もし彼女がサソゴーストの憑依を信じる人間のひとりだったなら、この三人が、とり憑いた精神の命令にしたがって動いていると思っただろう。あの温和なケプラー博士がーサンシップが太陽からもどって以来、口数が減り、人を避けるようになっていたケプラー博士が、もくろみをくじかれて怒り狂った賢者のようにつぶやいている。その逆に、ラロックはー思慮深く、用心しながら──まるで、事件をいかに注意深く評価するかに彼の全世界がかかっているかのようにふるまっている。
そして、ジェイコプ・デムワ……これまでにも、そのもの静かな、ときとして水のような思慮深さの下に、強烈な個性が潜んでいるらしいと思うことはあった。のらりくらりとした外見のなかでその個性がじれているときにすら、彼女はそれに魅きつけられた。だがいま──いま、それははっきりと放射されていた。それはまるで炎のように、勢いよく迸り出ていたのである。
ジェイコプはすっくと背を伸ばして、みなに呼びかけた。「いま、心やさしくもケプラー博士は、ピエール・ラロックに対するすべての告発をとりさげることに同意なさいました」
ババカブがクッションから立ちあがった。「おまえは気ちがいだ。人類、がみずからの類族の殺害、に目をつぶるのは、人類の勝手だ。だが、太陽人はもういちど、ラロックをあやつって、危害を加える、かもしれないのだぞ!」
「太陽人は、二度と彼を操って妙なまねをさせたりしませんよ」ジェイコプがゆっくりと言った。
ババカプはかみつかんぽかりに、「いまも言ったように、おまえは気ちがいだ。わたしは太陽人、と話をした。彼らは、嘘、をつかなかった」
「よろしければ」とジェイコプは一礼して、「まだ仮説のつづきを話したいのですがね」
ババカブは大きく鼻を鳴らし、ふたたびクッションにどすんと寝ころがると、「気ちがいめ!」と吐き捨てるように言った。
「まずはじめに」とジェイコブははじめた。「寛大にも、ドナルドスン主任、ドクター・マーティン、わたしの三人が写真分析室を訪ね、最後の降下フィルムの研究許可を与えてくださったケプラー博士に、お礼を申しあげたい」
マーティンの名前が出たとたん、ババカプの表情が変わった。すると、あれがビラのくやしさの表情なのだ。ジェイコブはとくに、小さな異星人に聞かせるように話しかけた.いまや完全に崩されたとはいえ、ババカプのしかけた罠は、じつに巧妙なものだった。
ジェイコプは、写真分析室での発見──裏デッキのデータ・スプールが、降下の終わり三分の一の期間ぷんだけ消えてなくなっていたこと──を、脚色して話した。ジェイコプの声のほかに室内で聞こえる音は、ファギンの枝のこすれあう音だけだ。
「しばらくのあいだ、わたしはそのスプールが、いったいどこにあるだろうと考えました。だれが持っていったのか心あたりはありましたが、それを処分したのか、あえてどこかに隠したのかはなんとも言えない。結局わたしは、データ収集癖のある鼠≠ヘ、どんなものであろうと捨てたりしないだろう、ということに賭けました。そして、ある知的生物の居室を捜索したところ、なくなっていたスプールが見つかったのです」
「無礼・者めが!」ババカプが猛りたって言った。「きさまにちゃんとした、主・人、がいたなら、神経・鞭をくらわすよう、要求しているところだ! この、無礼・者めが!」
エレンが驚きをふりはらって、「それでは、サンダイバーのデータテープを隠したのは自分だと認めるのですね、ビラのババカブ? なぜそんなまねを!」
ジェイコブはにやりとした。「そいつはじきに明らかになるさ。じっさいぼくも、事態のなりゆきからして、この件はめったなことでは解決できないだろうと思っていたんだがね。じっさいには、ことはきわめて単純だった。いま言ったテープのことだけで、ビラのババカブが嘘をついていたことがはっきりしたんだから」
ババカブの喉の奥で、低くごろごろという音がした。小柄な異星人は、石化したかのように、ぴくりとも動かなかった。
「すると、そのテープはどこにあるの?」ダシルヴァが訊いた。
ジェイコプはテープルの上から袋をとりあげて、
「こいつはまさに、つきによるものでね。スプールの隠し場所としては、からっぽになったガスポンペがぴったりだと思ったのは、まったくの幸運だったよ」と言うと、なかからあるものをつかみあげ、掲げた。
「レタニの遺産!」ダシルヴァが息を呑んだ。ファギンからも、驚きの小さな顎音が漏れた。片手を首にあてて、ミルドレッド・マーティンも立ちあがった。
「そう、レタニの遺産だ。ババカプはきみたちがいまのように反応し、自分の部屋を捜索するわずかな可能性まで計算している、とぼくは読んだ。当然、古代の強力な種族の半伝説的な宝器を調べようとは、だれも思わない。とくに、それが隕石とガラスの石板としか見えないものならね!」
ジェイコブはそれを両手に持ってひっくりかえした。
「見たまえ!」
ひとひねりされて、遺産はぱっくりとふたつに割れた。その片方に、なにか筒のようなものが埋めこまれていた。ジェイコプはもう半分を下に置き、手にした半分に埋もれた、筒の端を引っぱった。なかでなにかが、かすかにことことと音をたてた.ふいに筒のふたがはずれ、十個ほどの小さな黒いものがこぼれだしてきて、床にぱらぱらと落ちた。カラの歯がガチリと鳴った。
「スプールだ!」パイプをいじりながら、ラロックが満足げにうなずいた。 ・
「そのとおり」とジェイコプ。「そして、この遺産≠フ外側には、ひとつボタンがある。いまはからっぼだが、これを押すと、この容器の内容物が放出されるしくみだ。容器内には、放出されたその中身の痕跡がまだ残っているだろう。きのう、ドナルドスン主任とぼくは、ケプラー博士にその内容物らしきものをわたした。そのときはまだ確証がなかったのだが……」ジェイコプはことばを切った。それから、肩をすくめて、
「……その不安定な分子の残滓は、ある知的生物のみごとな手品によって、光と音の爆発≠ニともに放出され.サンシップの表デッキ側を覆いつくし……」
ダシルヴァが立ちあがった。カラが歯をかみあわせる音がだんだん大きくなってきて、ジェイコブは声をあげなげればならなかった。
「……効果的に、緑と青のすべての光を遮断した──サンゴーストを周囲から識別ずる、唯一の波長をだ!」
「まさか!」ダシルヴァが叫んだ。「そのスプールには……」
「映っているんだよ、トロイドが、ゴーストが……何百体とね! 興味深いのは、人型をしたものが一体も見あたらないことだ。もっとも、彼らはこちらの精神パターンを読むのだから、ぼくらが見ていないことに気づいて、わざとその形をとらなかったのかもしれない。
しかし、なんの前触れもなく、ぼくらがいきなり彼らの群れのまっただなかにとびこんだとき、トロイドやふつうの<Sーストたちはあわてふためいて道をあけた……それもこれも、彼らの群れにとびこんだことが、ぼくらには見えなかったからだ!」
「この気ちがいイーティーめ!」ババカプに向かってこぶしをふりあげ、ラロックが叫んだ。ピラは叫び返したものの、じっと立ちつくし、ジェイコプをにらみつけたまま、両手の指をぐっと押しつけあっていた。
「その単分子は、船が彩層を離れるとき分解するように作られていた。ところが、デッキの縁の力場にも分子は落ちてしまい、うっすらとそこに積もった。だれもその存在には気づかなかったのだが、そこヘババカブがカラを連れてもどってきて、掃除機でそれを吸いとった。そうだな、カラ?」
カラはみじめな顔でうなずいた。
アモラルな怒りだけでなく、以前と同じように、なんとなく同情を抱けたことで、ジェイコプはぼんやりとした喜びを覚えた。彼の一部は、心配になりはじめていたのである.ジェイコブは力づけるようにほほえんだ。
「気にしなくてもいいよ、カラ。ぼくはほかのなにかときみを関連づけるような証拠は持っていない。掃除≠フとき、ぼくはきみたちふたりを観察していたが、きみが強制されていたことは明自だった」
プリソグは顔をあげた。その目がひどく明るく輝いていた。彼はもういちどうなずき、唇の奥から聞こえるガチガチという音は、ゆっくりと海さまっていった。ファギンがほっそりしたET のそぱに寄った。
記録スプールを拾っていたドナルドスンが立ちあがった。
「監禁の準備をしたほうがいいと思うんですが」
エレンはすでにインターカムの前に行っており、「それはいま手配してるわ」と静かに言った。
マーティンがジェイコプににじりよってきて、ささやきかげた。「ジェイコプ、これはもう、星間省の問題よ。これからはあちらにまかせるべきだわ」
ジェイコブはかぶりをふった。「いや、まだ早い。もう少し、しなけれぱならないことがある」
ダシルヴァが受話器を置いた。「じきに保安要員がくるわ。そのあいだ、先をつづけたらどう、ジェイコプ。まだ先があるの?」
「ああ。ふたつある。ひとつはこれだ」
テーブルの袋から、彼はババカブの精神波ヘルメットをとりだした。「こいつも押収品に加えたほうがいい。ほかに憶えている者がいるかどうかは知らないが、サンシップでぼくがおかしくなったとき、ババカプはこいつをかぶって、じっとぼくをにらみつけていた。おかしなまねをずるように、こいつでぼくを操ったんだ。ババカプ、あんなことはするべきじゃなかったな」
ババカプは片手でなにかしぐさをしたが、ジェイコプはそれを解釈しようともしなかった。
「最後に、チンパンジー=ジェフの死の問題がある。じつは、こいつはいちばん簡単な部分でね。
〈サンダイバー計画〉における銀河文明の技術について、ババカプはすぺてを知っている。航法装置のことも、コンピューター・システムのことも、通信装置のことも……地球の科学者がこれっばかりも知らないようなことをね。
ジェフのほとんど遠隔操縦されていた船が爆発したとき、ババカプはレーザー通信塔にいて、」ケプラー博士がそぱにいながら、なにか細工をしたらしい──このことについては、状況証拠しかない。法廷ではとても通用しない証拠だが、このさいそれは関係ないだろう。ビラには治外法権があり、ぼくらにできることは、国外送還だけだからね。
もうひとつ、立証するのが難しいのは、ババカプが身分証明システム……これはラバスの〈ライブラリー〉に直通のシステムだが……これににせものの回線をしくんで、ラロックを要観察者とする虚偽の報告を作りだした、とする仮説だ。しかし、ババカプがそのとおりのことをしたことは、きわめてはっきりしている。あれはみごとなトリックだった。だれもがラロックの犯行を確信していれば、ジェフの航法装置の遠隔操縦システムをこまかくチェックしなおそうとは思わない。いま思い返してみれば、小型サンシップは、ジェフが近距離用カメラのスイッチを入れたとたん、おかしくなったように思う。もしババカプがそう仕組んだのだとしたら、これは完肇な時限信管だ。どのみち、その証拠は決して見つかるまい。遠隔操縦装置は、いまごろはおそらく行方不明になっているか、破壊されてしまっているだろうからね」
ファギンが笛の音のような声で言った。「ジェイコプ、カラはもうやめてくれと言っている。どうかこれ以上、ビラのババカプを苦しめるのはやめてほしい、それ以上やっても無意味だろう、と」
戸口に三人の武装要員が現われた。彼らはダシルヴァ司令官にうかがうような目を向けた。彼女は待つようにと身ぶりで命じた。
「もうちょっと待ってくれ」とジェイコプが言った。「まだ、いちばん肝心の部分に触れていない。ババカプの動機だ。なぜ重要な地位にある知的生物が、そして信頼を誇る〈ライブラリー〉協会の代表者たる者が、盗み、狂言、精神波による攻撃、殺人などを冒したのか?
まずはじめに、ババカブはジェフリーとラロックに、個人的な恨みを抱いていた。彼にとって、ジェフリーは憎悪の的──わずか百年前に知性化されたばかりでありながら、口答えをする種族を代表する者だった。ジェフの高慢な¢ヤ度と、カラに対する友情とが、ババカプの怒りをかきたてたのだ。
しかし、とりわけババカブが憎んだのは、チンパンジーという種族が体現ずるものだったと思う。イルカとともに、チンパンジーは、粗野で低級な人類の地位を約束する存在だ。いまの地位を手に入れるのに、ビラは五十万年におよぶ戦いをつづけてきた。おそらくババカブは、人類がいまの地位をやすやすと℃閧ノ入れたことが、おもしろくなかったんだ。
ラロックについては──そう、虫が好かなかったとだけ言っておこう。ひどく騒々しいことや、やけに押しつけがましいところなどがね……」
ラロックが大きく鼻を鳴らした。
「それにおそらく.ラロックが人類の主族はソロ族だったかもしれないと言ったとき、ババカプは侮屠を感じたんだ。銀河系社会の上層部≠ヘ、類族を見捨てていくような種族にはいい顔をしないからね」
「でも、それはみんな、個人的な理由にすぎないわ」とエレンが異論を唱えた。「もっとましな理由はないの?」
「ジェイコブ」ファギンが言いかけた。「たのむから……」
「もちろん、ババカブにはほかに理由があった」とジェイコプは答えた。「彼は〈サンダイバー計画〉を終わらせたかったのさ──地球独自の研究の評判を落とし、〈ライブラリー〉の地位を高めるような方向で。彼、ビラが、人類にはできなかったコンタクトをなしとげたと思わせ、〈サンダイバー計画〉がさんざんな失敗という形で終わるようにもくろんだ。そして、ソラリアンに関して彼の主張を裏づけるような、にせの〈ライブラリー〉の報告をでっちあげ、二度と降下を行なわないように強調したんだ!
おそらく、ババカプがいちばん恐れたのは、〈ライブラリー〉にも解決できないことがあった、という結果が出てしまうことだったんだろう。そして、彼はメッセージをでっちあげた。母星に帰ったら、ババカブは相当やっかいな目にあうだろう。殺害行為ではなく、その過失に対して。ババカブは、ジェフの殺害についてぼくらがくだしうるどんな処罰よりも、はるかにひどい罰を受けるはずだ」
ババカプがゆっくりと立ちあがった。丹念に毛をなでつけてから、やがて四本指の手をぴしゃりと打ちあわせて、
「おまえは、非常、にスマートだ」と、ジェイコプに向かって言った。「だが、意味論・的には、劣悪だ……狙いが高すぎる。おまえは、わずかなことがら、からあまりにも多く、を構築した。人間はつねに、矮小、でなけれぱならない。わたしはもう、このこざかしい、地球・語は、二度と使わない」
そう言って、彼は首にかけたヴォーダーをはずし、ものうげにテープルの上に放り出した。
「申しわけありませんが、ビラのババカプ」ダシルヴァが言った。「どうやら、地球の指示があるまで、あなたを監禁しなくてはならないようです」
ジェイコブはなんとなく、ビラがうなずくか肩をすくめるかずるだろうと予想していたが、そのかわりに、異星人は無関心さを表わすらしい、べつのしぐさをした。そして、くるりと背を向けると、ぎくしゃくとした足どりで戸口まで歩いていき、がっしりした短躯を誇らしげにそびやかせ、大柄な人間の保安要員の先頭に立って、部屋を去っていった。
エレン・ダシルヴァが、レタニの遺産≠フもう半分を拾いあげた。慎重に、考えこむような顔で、それを両手に持って重さを計る。ついで、口もとをこわばらせ、ありったけの力をこめてそれをドアに投げつげると、ひとことののしった。
「人殺し!」
「わたしも教訓を学んだわ」マーティンがのろのろと言った。「三千万年以上昔から存在ずる種族は、もうだれも信用できないということをね」
ジェイコプはぼんやりと立っていた。高揚した気分が、あまりにも急速に退いていく。麻薬のように、それはあとに、ぽっかりと穴を残した──理性はもどってきたが、合一感はもはやない。もうじき彼は、演繹的推理を集中豪雨的にひけらかし、なにもかもいちどきに放出したことが正しかったのかどうか、思い悩みはじめるだろう。
マーティンのことばで、彼は顔をあげた。
「だれも信用できないって?」
ファギンがカラを椅子にすわらせていた。ジェイコブはそのそばへ行くと、
「すまない、ファギン──まっさきにきみにことわり、あらかじめ話しあっておくべきだった。この件からはなにか……複雑な事態が──ぼくの考えてもいなかったはねかえりが──出てくるかもしれない」片手を額にあてる。
ファギンはやさしく答えた。
「きみはいままでためていたものを吐きだしただけだよ、ジヱイコプ。いまになるまで、なぜきみがあれほどその能力を控えていたのか、わたしには理解できない。しかし、いまこのときにおいて、正義はきみのすべての能力を必要としていた。きみがやりすぎなかったことは幸いだった。
いま起こったことについては、あまり心配しないでもいい。真実は、ささやかな過剰反応により──あるいはあまりにも長いあいだ眠っていた能力の発揮により──生じたいかなるダメージよりも、重要なのだ」
ジェイコブはファギンに、自分がどれだけまちがっていたのか言ってほしかった。彼が目覚めさせた能力≠ヘ、そんななまやさしいしろものではない。それは彼のうちに潜む、おそるべきカなのだ。ジェイコプは、自分のしでかしたことが利よりも害をもたらすものではないかと不安になった。
「これからどうなると思う?」とジェイコブは疲れはてたように訊いた.
「人類は、強力な種族を敵にまわしたことに気づくだろうな。きみたちの政府は抗議ずるだろう。どのように抗議するかは非常に重要なところだが、ともかくも、それで本質的な事実が変わるわけではない。公式には、ビラはババカブの不幸な行動を認めまい。だが、彼らは激しやすく、誇り高い種族だ。もしきみたちが、同格の知的種族について、つらくはあるが必要不可欠な告発をしたならぼ……
それはこの一連の事件がもたらしうる、結果のひとつにすぎない。だが、それほど心配しなくてもいい。これを引き起こしたのは、きみではないのだ。きみがしたことは、人類を危険に気づかせたことでしかない。いずれはだれかがそうしていただろう。それはつねに、孤児的種族の体験してきたことなのだから」
「だが、なぜ!」
「それは、わがもっとも敬愛する友よ、わたしが解明するためにここへやってきた目的のひとつなのだ。ほとんど気休めにはならないかもしれないが、これは覚えておいてほしい。人類が生き残るのを期待している種族はたくさんいる。そしてそのうちのいくつかは……きみたちのことを、とても気づかっているのだ」
20 最新医学
ジェイコブは三たび、ゴムで縁どられた綱膜スキャナーのアイパッドに顔を押しあてた。なかでは、黒いバックの上で、ひとつの青い光点が踊り、きらめいている。凝視をいざなうように踊る光点を、今度こそは無視し、それに集中すまいとしながら、彼は三番めの瞬間露出イメージが現われるのを待った。
それはふいに閃き、視野の全体を鈍いセピア色の立体イメージで満たした。虚をつかれた一瞬に彼が踏みこんだ心象風景は、田園の眺めだった。その前景で、ぽちゃぽちゃ太った女が走っており、古めかしいスカートがひらひらとはためいている.
おどろおどろしい暗雲が、丘の上に立った農家の上、地平線の彼方にせりあがっている。左手には一団の人々がいた……踊っているのか? いや、戦っているんだ。あれは兵隊だ。その顔に広がるものは、興奮か──それとも、恐怖? 例の女性はおびえていた。彼女は頭を両手でかかえこむようにして、ふたりの男から逃げていた。男たちは十七世紀ふうの甲胄を着こみ、鋭い銃剣つぎの火縄銃を高々とふりかざしており……
場面はまっくらになり、プルーの光点がもどってきた。ジェイコプは目を閉じ、アイパッドから目を離した。
「はいけっこう」とドクター・マーティンが言った。レアード医師のとなりで、コンピューター・コソソールにかがみこんだまま、「一分もずれぱ、あなたのPテストの結果が出るわ、ジェイコプ」
「ほんとにこれだけでいいのかい? 三回しかやらなかったじゃないか」ほんとうのところ、彼はほっとしていたのだった。
「ええ、ピーターのとき五回試したのは、念のためよ。あなたはちゃんと自分をコントロールできてるから。検査が終わるまで、そのへんで腰をおろしているといいわ」
ジェイコプは近くのソファまで歩いていき、左のそでで、額にうっすらとにじんだ汗をぬぐった。三十秒にわたる試練は終わったのだ。
最初のイメージは、ある男の顔だった。その一生を物語る、日焼けした深い皺だらけの顔。それを二秒、もしくは三秒見つめるうちに、そのイメージは憶えているどんな記憶よりもはかなく、陽炎のようにふっと消えた。
二番手は、ごちゃごちゃと入り組んだいくつもの抽象的な形が、じっとしたままくるくる姿を変えるイメージだった。それはどことなく、太陽に住む円環体生物の縁の幾何学模様に似ていたが、輝きはなぺ、全体的な一貫性もなかった。
三番めは、三十年戦争を描いた古い銅版画をもとにしたと思われる、セピア色のイメージだった。それはいかにも暴力的な、人がPテストに予想するような場面だった。
例のあまりにも劇的なラウンジ・シーン≠ナ半身と合体してからというもの、ジェイコプは、たとえ神経を沈めるためであろうと、軽いトランス状態にさえ入りたくなくなっていた。だが、トランス状態に入らないかぎり、安息は得られない。彼は立ちあがって、コンソールに近づいた。ドームの向こう端、停滞場そのもののすぐそばでは、ラロックが結果を待つあいだぶらぶらしながら、水星の北極の泡だつ岩が落とす、長い影を見つめている。「生のデータを見てもいいかい?」ジェイコブはマーティンに訊ねた。
「どうぞ。どのデータを見たいの?」
「最後のやつを」
マーティンがキーボードをたたいた。スクリーンの下のス同ットから、一枚の紙が吐きだされた。それを破りとって、彼女はジェイコプに手わたした。
それは田園風景≠フデータだった。
もちろん、いまでこそ、それの意図するところはわかるが、いましがたの網膜スキャナーを通して見るといラ行為は、被験者がこれを見たときの第一印象を、意識的な思考が介入してくる前に識別することが大目的なのだ。
その図の全体には、上下左右に、ぎざぎざの線が走っていた。そのすべての頂点や、目の焦点がとまっていた点には、小さな数字が付されている。その線は、彼の目の動きを追って網膜リーダーが読みとった、彼の視線の軌跡だった。
軌跡の出発点である番号1は、絵の中央に近かった。それから、番号6まで、焦点の軌跡は移動をつづけ、走っている女の豊かな胸の谷間のすぐ右でとまっていた。番号7は、その胸のまわりを一回転してもどった点につけられていた。
番号7から16までは、点がごちゃごちゃに入り混じっており、同じ状態は、番号30から35、82から86にも見られた。
番号20で、点は急に女の足から離れ、農家の上の暗雲へと向かった。それから急速に、一団の人々と情景のほうに移動した。その途中で、軌跡はときどき円を描いたり四角を描いたりしていたが、これは瞳孔の散大の度合いや、焦点の深さ、網膜内の毛細血管から測られる血圧の変化、などといったものを示すものだった。どうやら、マーティンの瞬間露出装置その他の機械を借り、このテストのためにジェイコブのこしらえあげた改良型スタンフォード=プアキニェイ・アイ・スキャナーは、うまく機能したようだ。
ジェイコプは、まっ先に女の胸に目がいった自分の反射的な反応に、とまどったり心配したりしなくてもいいことを知っていた。彼が女だったなら、またべつの反応を示し、もっと長く絵の女性を見ていたはずだ。ただしその関心の向けられる先は、髪や着物、顔などだったろう。
もっと心配なのは、場面全体に対する反応だ。絵の左手の、戦っている男たちのそばには、星印つきの番号があった。それは、彼がその絵を田園的ではなく、暴力的だと認めた最初の点であることを示していた。数字は比較的若く、軌跡はすぐさまそこから離れて、心臓が五つ打つあいだだけよそをさまよってから、また星印のところへもどっていた。これは、その場面を見た直後、ひそやかな好奇心ではなく、健康的な拒否反応が起こったことを意味している。
ちょっと見ただけなら、たぶんパスするだろう。それを真剣にあやぶんだことは、一度もなかった。
「そのうち、Pテストをごまかすすべを身につけた人間が出てきやしないかね」コピーをマーティンに返しながら、ジェイコプは言った。
「きっと出てくるでしょう、いつの目かね」マーティンはデータを集計しながら、「でも、瞬間的な刺激に……無意識しか反応する暇がないほどの短時間に見せられたイメージに対して、本来とはちがった反応をするようみずからを条件づけたなら……あまりにも多くの副作用が現われるはずよ。それはテストで、どうしても新しいパターンとなって現われてくるわ。
最終的な分析はいたって単純でね。被験者の心は、結果がプラスまたはゼロになるよう試みているか、自分を市民として位置づけているか、それとも結果がマイナスになるという、異常にして甘美な快楽にふけっているか。暴力性向の度合いなどにより、その点こそが、このテストの肝心な点なのよ」
マーティンはレアード医師に向きなおった。「そうでしょう、先生?」
レアードは肩をすくめた。「専門家のおっしゃるとおりだよ」レアードは、自分に相談せずにケプラーに処方することだけはまだ許していなかったものの、少しずつ、また彼女に好意を抱くようになっていた。
ラウンジでの告発のあと、彼女がケプラーにワルファリンを処方したという事実は、まったくなかったことが判明した。ジェイコプは、〈ブラッドベリ〉船内での、ババカプの癖を思いだした。ババカブは、だれかがうっかりクッションや椅子の上に置き忘れた服の上で、よく眠りこんでいた。ビラがああしていたのは、ケプラーの常備薬のなかに彼の症状を悪化させる薬をまぎれこませるための、予備行動だったにちがいない。
それは功を奏した。ケプラーは最後の降下から除外されたのだ。彼の鋭い洞察力をもってすれば、ケプラーはレタニの遺産≠用いたババカプのトリックを見ぬいていたかもしれない。また、彼の常軌を逸した行動は、長い目で見れば、〈サンダイバー計画〉の評判を落とすことにもつながっていただろう。
すべてはぴたりとつじつまがあったが、ジェイコプにとって、演繹的に導かれたこれらのすべては、タンバグ質フレークのディナーのように味けないものだった。説得力に満ちてはいるが、味わいはまるでない。推定が山盛りになった皿だ。
ババカプの悪事のいくつかは、立証された。だが、あの〈ライブラリー〉の代表に治外法権があるかぎり、その他の悪業については、推定の域を出ない。
ピエール・ラロックがやってきた。フランス人のものこしは、柔らかくなっていた。ジェイコプが訊ねた。「彼の結果はどうでした、レアード先生?」」
「ラロック氏が非社会的なほど暴力的な性質の持ち主でないことは、きわめて明自ですな。要観察者に該当するような要素はなにひとつない」レアードがゆっくりと答えた。「事実、彼はかなり高い社会的良心の指標を示しています。彼の間題はそこにあるのかもしれません。なにかを理想化しているようです。地元にもどったら、近くの専門医に相談したほうがいい」レアードはそっけなくラロックに目をくれた。ラロックはおとなしく、こくりとうなずいた。
「それで、みんなの自制力の結果は?」とジェイコプは訊ねた。テストを受けたのは、彼が最後だ。ケプラー博士、エレン・ダシルヴァ、そしてラソダムに選ばれた三人の要員は、すでに機械の前にすわったあとだった。エレンはテストの結果など見向きもせず、要員たちを引き連れて、急ぎ行なわれているサンシップ出発前のチェックを監督しに、立ち去った。ケプラーは、レアード医師にそっと結果を聞かされて顔をしかめ、むすっとして出ていった。
レアードは手をあげ、眉のすぐ下あたりの鼻筋をつまんだ。
「ラウソジであなたのちょっとしたショーを見て以来、危惧していたのとは反対に、被験者のなかに要観察者はひとりもいませんでした。ですが、いくつか問題や腑に落ちない点がある。基地にいる一部の人々の心のなかに、不信感が渦巻いているのです。もちろん、わたしのような田舎外科医には、インターン時代の訓練をたよりに人々の心を覗くなど、容易なことではありません。ドクター・マーティンの助力がなけれぱ、いくつものニュアンスを見のがしていたでしょう。じっさい、これらの隠された暗部──とりわけ、わたしがよく知っており、評価している人物たちの暗部を解釈することは、なまやさしいことではありませんでした」
「深刻なことじゃなければいいんですがね」
「深刻なことだったら、エレソの命じた今度の急な降下に、あなたたちを行かせたりしませんよ! ドウェイン・ケプラーが風邪をひいているからといって、地上にとどめたりはしません!」
レアードは詫びるように首をふった。「失礼! わたしはこういうことには慣れていないんです。なにも心配することはありませんよ、ジェイコプ。あなたのテスト結果には、ひどく奇妙な要素が現われていますが、基本的な判定は、これまでに見ただれにも劣らず正常です.非常に積極的で現実的だというだけです。
ただし、いくつかよくわからないことがありましてね。それを言ってしまうと、降下に出たさい、プラスになるかわりに、よけいな心配をかけてしまうかもしれませんから、くわしい話はさしひかえますが、降下からもどってきたら、あなたとエレソには、それぞれ別個に会ってお話ししたいと思います」
ジェイコプは医師に礼を言うと、彼と連れだって、エレベーターに向かった。マーティンとラロッグも、そのあとにつづいた。
頭上高くには、停滞場ドームから通信塔がつきだしていた。なかにいる要員や機械ごしに見える、ドームの外側のいたるところでは、水星の泡状になった岩塊群が、きらめきや鈍い光を放っている。低い丘陵の上には、太陽が光り輝く黄色い球となってかかっている。
エレベーターが開くと、マーティンとレアードはなかに入ったが、ラロックがジェイコプの腕をとってドアが閉まるまで引きとどめ、ふたりだけを先に行かせた。
ピエール・ラロックがささやき声で言った。
「カメラを返してくれ!」
「かまわんよ、ラロック、疑いが晴れたからには.ダシルヴァ司令官がスタンナーをとりはずしたから、いつでも好きなときに持っていくといい」
「で、記録は?」
「ほくが持ってる。これからもそうさせてもらう」
「あんたには関係のな……」
「いいかげんにしろ、ラロック」ジェイコブはうなるように言った。「そういう態度はやめて、人の知恵を信用したらどうだ! ぼくが知りたいのは、なぜきみがジェフリーの船の停滞オシレーターの音波写真をとったかということだ! そして、どうしてぼくの叔父がそれに興味を持つなどと思ったのかもだ!」
「あんたにはずいぶん借りができた」とラロックはゆっくりと言った。強いフランスなまりは、ほとんどなくなっていた。「だが、それに答えるのは、あんたの政治観があんたの叔父さんと少しでも似ているのかどうか、知ってからのことだ」
「叔父ならたんといるさ、ラロック。ジェレミー叔父は連合議会の議員だが、きみが彼のために働くわけがない! ユアン叔父は相当の理論家で、曲かったことは大きらいだ……とすれば、きみの言うのは、一族の変わり者、ジェイムズ叔父のことだろう。たしかにぼくは、いろんな点で彼と意見を同じくしている。一族のほかの者が認めないようなことについてもな。だが、もし彼がなにかの陰謀に……とくに、きみが関係しているような粗雑な陰謀にかかわっているんなら、彼とこれ以上つきあうつもりはない。
きみは人殺しでも要観察者でもないかもしれないが、スパイだ、ラロック! ただひとつ残った問題は、きみがだれのためにスパイしているかということだ。その謎は、地球に帰ったときのためにとっておこう。
地球にもどったら、ぼくを訪ねてきたっていいそ。きみとジェイムズと連れだって、陰謀に引きこもうとしたっていい。充分フェアだろう?」
ラロックはそっけなくうなずいた。
「おれは待つさ、デムワ。あの記録をなくしてはいまいな? おれはあれを手に入れるために、さんざん苦労を重ねてきたんだ。あれをわたしてもらいにいったとき、あんたを説得させてもらうことにするよ」
ジェイコブは太陽を見つめていた。
「ラロツク、ぼくの前で苦労などということばを使うな。きみはほんとうの地獄を見たことがないんだ……これまではな」
ジェイコプは踵を返し、エレベーターに向かった。まだ二、三時間は、睡眠装置にかかる余裕がある。出発までのあいだ、ジェイコプはだれにも会いたくなかった。
第七部
すぺての進化において、この変化に比肩しう
るほどの変態、もしくは量子的飛躍≠ヘ存在
しない。適応の過程において、ひとつの種の生
活形態が、これほど徹底的に、これほどすみや
かに変わった例はかつてない。千五百万年にわ
たって、人類は他の動物の食料を掠奪しつづけ
てきた。以来、事態は爆発的に進行した……最
初の農村……都市……超大都市……これらのす
べてが、進化の時間尺度では瞬時ともいうべき、
わずか一万年のあいだに起こったのである。
──ジョン・F・ファイファー
21 〈カリュプソ〉の教訓
「人類の恒星船の大半において、クルーの七十パーセントがどうして女性で占められているのか、考えてみたことがある?」
エレン・ダシルヴァはホット・コーヒーの飲料チューブをジェイコブにわたし、自分の分をとりだすために、機械に向きなおった。
ジェイコプは半透過性膜の上ぶたをちょっとめくり、黒い液体をなかにとどめたまま、蒸気を外へ逃がした。断熱効果があるにもかかわらず、飲料チューブは手に持てないほど熱かった。
つぎつぎにおもしろい話題を考えつく、このエレンの才能ときたら! ふたりきりになったときには必ず──といっても、サンシップの表デッキでふたりきりになれる範囲でのことだが──エレン・ダシルヴァは、ジェイコブに精神的訓練を課す機会を逃さない。不思議なのは、それが少しもいやでなかったことだった。十時間前、水星をあとにして以来、この訓練はジェイコブの心をずっと高揚させてくれたのである。
「若いころには、友だちもわたしも、そのわけをまじめに考えたことはなかったわ。せいぜい、宇宙船に乗り組む男のためのボーナスだろう、くらいに思っていたの。このような考えから、思春期の幻想は生まれる……≠アれを書いたのはだれだったかしら、ジョン・トゥー=クラウド? 彼の書いたものを読んだことある? たしか彼の生まれはハイロンドンだから、あなたも彼の両親くらいは知っているかもしれないわね」
そう言って、エレンは彼に責めるような視線を送った。これで何度めになるだろう、ジェイコブはまたしても、その顔はとても愛くるしいね、と言いそうになる誘惑と戦わなけれぱならなかった。たしかにその顔は魅力的なのだが、すっかり成熟した女性指揮官が、自分にえくぼができることを思いださせられて、喜んだりするだろうか? ともかく、腕一本折られること覚悟で試してみるほどの価値はない。
「わかった、わかったよ」ジェイコブは笑って、「その話をつづけよう。ぼくが思うに、男よりも女のほうが多いわけは、そのほうが高重力や暑さ寒さなどに対する女性の耐久力が高くなり……手と目の連係がよくなり、消極的抵抗力が高まるためだろう。そういう比率のほうが、女性は優秀なスぺースマンになるんじゃないかな」
エレソは自分の飲料チューブのストロ1をくわえた。「そう、それも理由のひとつではあるわ。それに、男よりも女のほうが、字宙病に対する耐性が高いらしいし。でも、それがそんなに大きなちがいにならないことはわかるでしょう。宇宙飛行の志願者は、女より男のほうが多いという事実を打ち消すには不充分だわ。
だいいち、太陽系内を飛ぶ宇宙船のクルーは、半数以上が男だし、軍艦では十人に七人が男なのよ」
「商船や調査船のことはわからないが、軍が男を選ぶのは、戦いに対する適性のためだろう。まだ証明されたわけじゃないが、おそらくそれは……」
エレソは笑った。「いいのよ、そんなに遠慮しなくたって、ジ甚」イコプ。もちろん、男は女よりも優秀な戦闘員……統計的にはね。わたしのような女闘士は例外だわ。じっさい、それは選択要素のひとつでもあるの。恒星船には、あまり戦士タイプがいらないのよ」
「しかし、それもへんな話じゃないか。恒星船クルーは、〈ライブラリー〉にさえ完全には探険されたことのない、広大な銀河系へ乗りだしていくだろう。そこには無数の異星種族がいるにちがいないし、なかにはおそろしく兇暴な種族もいるはずだ。それに、銀河の諸協会は種族間の戦いを禁じていない。ファギンの話からすれば、たとえ禁じようとしてもできないんだろう。協会は、ただ戦いをすっきりしたものにしようとするだけだ」
「だから、人類の乗り組んだ恒星船は、喧嘩ざたに備えておくべきだというわけ?」肩をドームの壁にもたせかげて、エレンはほほえんだ。水素アルファ線でとらえられた、彩層上層部のまだらになった赤い光のなかで、エレンのブロンドの髪は、ぴったりとしたピンクの帽子のように見えた。「もちろん、それはそのとおり。戦いの備えは、絶対に欠かせない。でも、外字宙でわたしたちが直面ずる状況をちょっと考えてみて。
わたしたちは文字どおり、何百という種族を相手にしなければならない。彼らに共通しているものは、ただひとつ──わたしたちにはない、二十億年前にまで遡る、知性化の伝統よ。どの種族も、長年にわたって〈ライブラリー〉を利用してきており、徐々にではあるけれど、それに知識を蓄積してぎている。
彼らの大半は気まぐれで、自分たちの特権ばかり気にかけ、ソルからきた愚かな孤児℃族には、うさんくさそうな目を向けるだけ。
たとえばここに、すでに絶減した主族によって、ことばを話すききわげのいい乗馬として知性化され、いまはふたつの、小さな環境改造された惑星を持つ弱小種族がいる。そのふたつの惑星が地球からオムニヴァリウムに行く唯一のルート上にあって、その種族から通行をさしとめられた場合、わたしたちにどうすることができる? なんの夢もなく、ユーモア感覚もないその種族が、鯨の歌四十種という法外な通行料をとりたてるために停船を命じたとしても、わたしたちになにができる?」
エレンは眉根を寄せて、かぶりをふった。
「こんなときに戦えたら、どんなにすばらしいことか! 苦闘中の小さな植民地がどうしても必要としている物資を満載し、それよりもはるかに貴重な積み荷を積んだ、〈カリュプソ〉のように優美このうえもない船が……宇宙のまっただなかで、二隻のちっぽけなボンコッ宇宙船に乗る──それも彼らが建造したものではなくて、明らかにどこかから買い入れたものよ──知的な<宴Nダに停船させられるなんて!」そのときの屈屏を思いだしたのか、女司令官は声をつまらせた。
「考えてもみて。まだ新しくて美しい、でも原始的な船が──改装にあたって、人類が吸収できた銀河文明のテクノロジーは、駆動まわりを中心とするほんの一部分にしか便われていない船が……シーザーより古いけれど、生まれてこのかたずっと〈ライブラリー〉にたよってきた種族の船にさしとめられたのよ」
エレンはことばを切り、背を向けた。
ジェイコプは心を動かされたが、それよりもさらに、誇らしい気分だった。いまでは、ジェイコブは彼女のことを充分に理解していた。こんなふうに心を開いてくれることは、自分への信頼のあかしなのだ。
その信頼関係を打ち立てる作業が、ほとんど彼女の側からの働きかけで行なわれたことを、ジェイコブは承知していた。質問をするのは、もっぱらエレンのほうだ──おれの過去、おれの家族のこと、おれの感じ方──どういうわけか、おれは彼女のことを聞く気にはなれない.彼女の内面に踏みこむ気にはなれない。なにがおれをとどめさせているのだ? 彼女のうちには、いろいろなものがつまっているにちがいないのに!
「すると、戦うのはうまくない──なぜなら、おそらく勝てないだろう、ということかい」ジェイコプは静かに号目った。
彼女はふりかえってうなずいた。それから二度、こぶしを口にあてて、咳をした。
「まあ、いつの日か、だれかを驚かせてやれるようなトリックは二、三あるけれど。わたしたちには〈ライブラリー〉がなかったのに対して、他種族が知っているのは〈ライブラリー〉にあることだけだから。でもそのトリックは、ここぞというときのためにとっておかなくてはならないでしょう。
そのかわりに、わたしたちはおべんちゃらを言い、おもねり、袖の下を使い、黒人霊歌《スピリチュアル》を歌い……タップ・ダンスを踊り……それがどれも失敗したときには、逃げだすのよ」
ジェイコプは、船いっぱいのビラに出会ったところを想像した。
「ときには、どうしてもこらえきれないときだってあったろう」
「ええ、でもわたしたちにはね、冷静さを保つ秘密の方法があるの」エレンは少し気をとりなおしたようだった。一瞬、例の魅力的なえくぼが、ほほえむ口の両端に現われた。「クルーがおおむね女性である最大の理由のひとつは、それなのよ」
「ちょっと待った。女というやつは、自分を侮辱した相手には、男に勝るとも劣らず、徹底的に恨みを晴らそうとするはずだ。女性が多いことが、忍耐の保証になるとは思えないがね」
「そのとおりよ、ふつうはね」彼女はふたたび、例の値踏み≠キるような表情でジェイコプを見やった。つかのま、彼女は先をつづけようとしたように見えた。が、そこで肩をすくめて、「すわりましょう」と言った。^「あなたに、あるものを見せてあげるわ」
エレンはジェイコプの先に立ってドームをまわりこみ、デッキを横切って、クルーや乗客がひとりもいない一画に歩いていった。浮いているデッキの縁からニメートル離れたところは、もう船殻だ。
ふたりの足の下の、停滞スクリーンが下方へとカープしている部分では、彩層のきらめきがおどろおどろしく屈折して見える。せまい懸架フィールドが、光の透過を許しているものの、わずかにそれを歪ませているのだ。ふたりの立っている位置からは、大黒点の一部が見えた。その形状は、この前の効果のときから大きく変化している。フィールドが横切っている部分では、黒点自体のきらめきと脈動が、いっそう誇張されて見えた。
ゆっくりと、エレンはデッキに身をかがめてゆき、それから縁ににじりよった。そして、少しのあいだ、フィールドのきらめきから数インチの位置まで足を近づけ、膝をかかえるようにしてすわりこんだ。それから、両手をデッキにつき、足をフィールドのなかへ投げだした。
ジェイコプは目を丸くした。
「そんなまねができるとは知らなかった」
ぶらぶらとゆれている、彼女の足を見つめる。足はまるで、ねっとりとしたシロップのなかを動いているようで、船内服をぴったりと包む被膜が、まるで生き物のように波打っていた.
エレンが、明らかにほっとした表情で、足をまっすぐデッキの上に引きあげた。
「ふう。足はなんともないみたい。でも、あまり深くまでつっこめなかったわ。きっと、わたしの足の質量では、懸架フィールドを少ししかへこませられないんでしょう。少なくとも、足がさかさまになったような感じはなかったわ」彼女はそう言って、もういちど足をおろした。
ジェイコプは膝から力がぬげそうになった。「まさか、それは、いまはじめてしたのかい?」
エレンは彼を見あげて、にっと笑った。
「そう見える? そうね、わたしはあなたの肝をつぶしてやろうとしたんだわ、きっと。でも、わたしは気が狂ってるわけじゃない。あなたがババカプと真空掃除機の話をしたあと、わたしは丹念に懸架フィールドを調べてみたの。粉末はこれっばかりもなかった。だから、いっしょに足をつっこんでみない?」
ジェイコプはのろのろとうなずいた。地球を離れて以来目にしてきた、たくさんの奇跡や説明不可能なものと比べれぱ、こんなことはなんでもない。ジェイコプは覚悟を決めた。秘訣は、なにも考えないことだ。
フィールドは濃厚なシロップのようで、底に足をつっこむほど、粘度が高くなった。それはゴムのような感触で、足を押し返してきた。
そして、船内服に包まれたジェイコプの足は、ほとんどまごついてしまうほど、生き生きと感じられたのだった。
エレンはしばらく、なにも言わなかった。ジェイコプは彼女の沈黙を尊重した。彼女の心のなかで、なにかが明らかに反舞されているのだ。
「あの〈ヴァニラ・二ードル〉の話は、ほんとうなの?」ややあうて、彼女は顔をあげずに訊いた。
「ああ」
「よほどたいした女だったのね」
「そう、たいした女だった」
「わたしが言うのは、勇敢さ以外のことも含めてよ。地上二十マイルもの高さで、気球から気球へとび移るなんて、たしかに度胸のいることにちがいないけど、でも……」
「タニアは、ぼくがトーチをとりはずしている間に、気球をよそへ動かそうとしたんだ。あんなこと、させるべきじゃなかった」自分の声が、どこか遠くで、かすかに聞こえていた。「だけど、ぼくは同時に、タニアもすくってやれるとも思っていた……知ってるだろう、ぼくにはあれがあったから……」
「……彼女はそのほかの面でも、やっぱりたいした女性だったにちがいないわ。彼女に会ってみたかった」
ジェイコプは、自分が声に出してはひとこともしゃべっていなかったことに気がついた。
「ああ、そうとも、エレン。タニアはきっと、きみが好きになったろうな」ジェイコブはかぶりをふった。こんなことを話していても、なんにもなりはしない。
「ところで、ぼくらはなにかべつのことを話してたんじゃなかったかな? そうだ、恒星船の男女の比率だよ。だろう?」
エレンは自分の足を見つめながら、「これはその話のつづきなのよ、ジェイコプ」と、静かな声で言った。
「これが?」
「そうよ。さっきわたしは言ったでしょう、クルーに女性が多けれぱ、異星人との交渉において、より慎重になるわけがある……戦うことよりも逃げることを選ぶようになるわけがあるって」
「ああ、しかし……」
「それから、知っているでしょう、人類はいままでに三つの星に入植できたけれど、輸送コストが嵩《かさ》むためにあまりおおぜいの乗客は運べない、だから孤立した植民星で遺伝子プールを増加させることが、深刻な問題になっていることを?」まるでとまどっているかのように、彼女は口早に言った。
「わたしたちがはじめてもどってきて、その問題がふたたび持ちあがったとき、政府はつぎのジャンプから、女性のクルーを強制ではなく、志願制で選ぶことにしたの」
「その……なにを言いたいのか、よくわからないんだが」
エレンは顔をあげて彼を見つめ、ほほえんだ。
「いまは言うべきときじゃないでしょう。ただ、これだけは憶えておいて。数ヵ月後に、わたしはまた《カリュプソ》で旅立つの。それに先立って、しなけれぱならないことがあるのよ。
そして、その相手の選択は、わたしの自由になるの」
エレンはまっすぐに、ジェイコブの目を見つめた。
ジェイコブは、自分の口があんぐりとあくのを感じた。
「さあ!」エレンは両手を膝にこすりつけて、立ちあがる準備をした。「そろそろもどったほうがよさそうね。もうじき活動領域だから、わたしは部署にもどって、操船を監督しないと」
ジェイコブは急いで立ちあがり、片手を差しだした。その古風なしぐさを、どちらもおかしいとは思わなかった。
司令官席へもどる途中、ジェイコプとエレンは、パラメトリヅグ・レーザーのようすを見に立ちよった。ふたりが近づいていくと、ドナルドスン主任が顔をあげた。
「やあ! 彼女はすっかり調整ずみ、準備万端整ってます。覗いていきますか?」
「ああ」ジェイコプはレーザーのそばへしゃがみこんだ。そのシャーシは、デッキにボルトどめされていた。長くてほっそりとした、数本の筒をたばねたような本体は、回転架の上で回転するようになっている。
エレンがそばに近づき、その右足を覆う柔らかい布地が、軽く腕にこすりつげられるのを覚えた。レーザーに集中しようとするジェイコプの心は、いっそう乱れた。
「このパラメトリック・レーザーは」とドナルドスンははじめた。「サンゴーストとコンタクトするのに使えないかと思って、わたしが用意したものなんでずがね。精神波にたよるばかりじゃ、なんの成果もあがりそうもない。だったら、連中がこっちに話しかけるのと同じ方法を用いて──つまり、視覚的に話しかけてみちゃどうかというわけです。
さて、たぶんもうごぞんじでしょうが、たいていのレーザーというやつは、ひとつないしふたっの、ごくせまいスベクトル領域-特定の原子的・分子的転移の範囲内でしか発振しません。ところがこの娘は、このコソトロール装置をいじるだけで、望みのどんな波長のレーザーでも吐きだせるんです」そう言ってドナルドスンは、シャーシの前面に三つある制御パネルのうち、まんなかのやつを指さした。
「なるほどね」とジェイコブ。「パラメトリック・レーザーのことは聞いたことがあるが、実物を見るのははじめてだ。こいつは、船のスクリーンを貫いて、なおゴーストにも見える明るさを保てるほど強力なんだろうな」
「わたしの前世ではね……」ダシルヴァが皮肉っぼく、わざとのろくさい話し方で言った(彼女はしばしば、〈カリュプソ〉でジャンプずる以前のことを、自己弁護的な皮肉をこめて、前世≠ニ呼ぶのだ)。「……わたしたちは、同じレーザー光源を有機色素で染色して=Aいろんな色のレーザー光を作りだしたものよ。あれは相当のエネルギーを産みだせるうえに、効率がよくて、信じられないほど単純だったわ」
にっこりとして、「ただし、色素をこぼさないかぎりはね。こぼしてしまったら、もうたいへん! 銀河文明の科学でいちばんありがたいのは、床にごぼれたローダミン6G色素を、二度と掃除しなくてもいいことね!」
「ほんとうに、ひとつの分子を励起させて、スペクトル全域の色を出すことができたんですか?」ドナルドスンは疑わしそうな声を出した。「その……色素レーザー≠ニやらの光源や活性材料は、なんだったんです?」
「ああ、光源にはときどきフラッシュなんかも使ったわ。色素にはふつうは有機エネルギー分子、たとえば砂糖なんかの、内的な化学反応を利用したの。
ただ、スペクトルの可視領域を全部カバーするためには、何種類もの色素を使わなけれぱならなかったわね。スペクトルの、青と緑の色を出すのによく使われたのは、ポリメチルクマリンよ。ローダミンその他二、三の染料は、赤の色を出すのに使われたわ。
ともかく、これは昔話。今度は、あなたとジェイコブが考えだした、悪魔の計画を教えて!」
エレンはジェイコブのとなりにかがみこんだ。ドナルドスンを見るかわりに、彼女はなんともどぎまぎさせられる、値踏みするような目でじっとジェイコプを見つめていた。
「つまりだね」とジェイコブは落ちつかない気持ちを押さえて、「こいつは非常に簡単なことなんだよ。〈ブラッドベリ〉に乗りこんだとき、サンゴーストが詩人であるとわかった場合に備えて、ぼくは鯨とイルカの歌を一式持ちこんだ。そして、連中と意志をかわすためにレーザー・ピームを打ちこむ、というアイデアをドナルドスン主任から聞かされて、そのテープを提供したわけさ」
「それに加えて、古い数学的コソタクト・コードの改良版も試してみるつもりです。こいつもジェイコプが用慧してきたものでね」ドナルドスンはにやりとして、「フィボナッチ数列のことなんか、わたしにゃどんなものだかわかりゃしない! だけどジェイコプが、それは古くからの標準コードのひとつだと言うもんでね」
「そのとおりよ」とダシルヴァ。「もっとも〈ヴェサリウス〉以後、数学的コードはひとつも使われたことがないけれど。〈ライブラリー〉のおかげで、宇宙ではだれもがたがいを理解できるようになっているから、古い〈コソタクト〉以前のコードは使われなくなうたのよ」
エレンは、ほっそりとした筒を軽く押した。筒は回転架の上で、なめらかに回転した。
「まさかレーザー発射中にも、こんなふうにするする回転するわけじゃないんでしょうね?」
「もちろん、がっちりボルトどめしますよ。レーザー・ピームが船の中心から一定の角度をとって発射されるようにね。そうすれば、おそらく司令官が心配してらっしゃる内部反射も防げるはずだ。
じっさいには、こいつの発射時には、みんな自分のゴーグルをはめたくなるでしょうが」ドナルドスンは、レーザーの横のサックから、厚くて黒い、顔にぴったり密着ずるゴーグルをとりだした。「たとえ綱膜になんの危険がないにしても、ドクター・マーティンは絶対にはめろと言いはるでしょう。あの人は、強い光が感覚器官と人格におよぼす影響について、えらくうるさいですからねえ。基地にやってきたときには、それが集団幻覚≠フ元凶だ、とか言って、だれも知らない明るい光源まで見つけだして、基地じゅうを引っかきまわしたくらいですよ.じっさいに太陽生物を見たときの、あの人の驚きようといったら!」
「さて、わたしはそろそろもどる時間だわ」エレンが言った。「あまり長居してはいけなかったわね。目的地はもうすぐそこ。金員を部署につけておかないと」立ちあがったジェイコブとドナルドスンに、彼女はにっこりほほえんで立ち去った。
ドナルドスンは、歩み去っていく彼女のうしろ姿をじっと見つめた。
「なあ、デムワ、おれは最初、あんたのことを気ちがいだと思ってたんだ。それからすぐに、じつはあんたが、ものごとをすっかり見通していることに気づいた。だけど、またそろそいつが変わりかけてきたよ」
ジェイコプはふたたびすわりこんだ。「どんなふうに?」
「女にあれだけ口笛を吹かれたら、たいていの男はしっぽをふってついていくもんだ。とんでもない自制力だ、と思っただけさ。もちろん、おれには関係のないことだがね」
「そのとおり。きみには関係のないことだ」では、はたからも、はっきり状況が見えているのだ。ジェイコプは混乱した。早くこの仕事を終えて、この間題を一体となった自分に委ねられたらいいのだが。
ジェイコブは肩をすくめた。地球を離れて以来、すっかりこの癬が身についてしまっている。
「話は変わって──さっきから、内部反射というのが気になっていたんだが。きみはだれかが大仕掛けを仕組んだ.と思ったことはないかい?」
「大仕掛け?」
「サンゴーストのさ。サンゴーストの存在をでっちあげようと思ったら、一種の立体プロジェクターを、こっそり船に持ちこむだけで……」
「そいつはあるまいよ」ドナルドスンはかぶりをふった. 「そいつはまっさきにチェックされることだからな。だいいち、トロイドの群れほど複雑で美しいものを、だれにでっちあげられる?どのみち、全天を埋めつくすような形で、そんなものを投影しようとすれば、裏デッキの縁の全周にプロジェクターをしかけなきゃならんだろう!」
「しかし、群れ全体じゃなく、あの人型≠フゴーストならどうだ? あれなら比較的単純で小型だし。リム・カメラを避けるために、船体の回転よりも速く頭上にまわりこむというのは、ひどく妙じゃないか」
「おれにはなんとも言えないな。船内に持ちこまれる装置類が、個人の携行品といっしょにひとつ残らずチェックされたのは、まさにそのためなんだ。いまのところ、プロジェクターはひとつも発見されていないし、こんな個室のない船のどこにそんなものを隠せると思う? そりゃあおれだって、たしかにその可能性を何度も考えはしたさ。しかし、そんな仕掛けを持ちこむ方法は、まったく考えつけないね」
ジェイコプはゆっくりとうなずいた。ドナルドスンの主張は、筋が通っている。それに、プロジェクターとレタニの遺産を使ったババカブのトリックは、なかなか関係づけにくい。心魅かれるアイデアではあったが、ゴーストがにせものであるという可能性は、あまりなさそうだ。
遠くで、スピキュールの森が、ゆらぐ無数の噴水のように脈動していた。そのひとつひとつの噴流が、天の半分を覆い、ゆっくりと脈打つ超粒状斑を、垣根状にとりまいている。その中央には、大黒点があった。まばゆく光る高熱のエリアに縁どられた、巨大な黒い目。
デッキ上、ジェイコプとドナルドスンから見て九十度の方向には、パイロット席のまわりに、あるいは立ち、あるいは膝をついて、一団の黒々としたシルエットが浮かびあがっていた。光球の強烈な赤い光をバヅクにしているため、その姿は輸郭しかわからない.
司令官席のそばにいるふたつの影は、すぐにそれとわかった。わずかに身を傾げて前方を指さしている、背が高くてほっそりしたシルエットは、カラだ。その指の先には、例の黒点の上にどこまでもそそりたつ、もやもやとしたフィラメントのアーチがかかっている。見ている間にも、そのアーチは少しずつ、それとわかるほどの速さで、大きくなりつつあった.
もうひとつの識別可能な影は、一団の人影をあとにし、ふと思いついたように、ジェイコプと主任のほうへ向かってこようとしていた。その頭部は丸く、すえ広がりに大きくなっていた。
「そうだ、プロジェクターを隠せるとしたら、あそこだよ!」ゆさゆさと体をゆらしながらにじりよってくる大きなシルエットに顎をしゃくって、ドナルドスンが言った。
「なんだって、ファギンが?」
カンテンの聴力の前には、声をひそめたところで無駄なのだが、それでもジェイコブは小声で言った。「そんなばかな話があるか! 彼が降下に同行したのは、二回だけだぞ!」
「そりゃそうだが」ドナルドスンは考えこんだようすで、「それでも、あれだけ枝葉が茂っていちゃあ……それに、プロジェクターを捜してあの葉のなかをあさらなきゃならないくらいなら、ババカプの下着をさぐったほうがまだましってもんだ」
一瞬ジェイコプは、主任技師の声が、わずかになまったような気がした。ドナルドスンを見つめたが、ポーカー・フェイスは崩れない。それ自体、ドナルドスンのちょっとした奇跡だった。この男がほんとうに知恵者なら、たいしたものだ。
ふたりは立ちあがって、ファギンを迎えた。カンテンはふたりの会話が聞こえたようすも見せず、笛のような声で、明るく返事を返した。
「エレン・ダシルヴァ司令官の話では、太陽風は驚くほどないでいるそうだ。サンゴーストとは関係ない、太陽学的間題の解決にあたって、この状況はおおいに役だつということだよ。それを計測するのに必要な時間は、かなり短くてすむと聞いた。この好天のおかげで浮く時間より、ずっと短いそうだ。
言いかえれぱ、わが友よ、きみたちには約二十分の準備期間ができたことになる」
ドナルドスンは口笛を吹いた。それからジェイコプをうながし、ふたりしてレーザーに向かうと、方向を固定し、投影するテープのチェック作業にとりかかった。
数メートル離れたところでは、ドクター・マーティンかトランクのなかをあさって、いくつかの小さな道具をとりだしていた。すでにマーティンは、精神波ヘルメットをかぶっている。ジェイコブは、彼女がそっとつぶやくのを聞いた。「見てらっしゃい、今度こそ、話をさせてみせるから!」
22 代表者
「彼らの──あの光の生物の目的はなにか?≠ニ記者は自問ずる。しかし.その間いは、じつはこうあるべきではあるまいか──人類の目的はなにか?=B這いずりまわり、子供じみたブライドによる心の痛みを無視して、全宇宙にこう呼びかけるのが、われわれの仕事ではないのか? おれを見ろ! おれは人間だ! ほかの者たちが歩くところを、おれは這いずっていく! しかし、どこにでもいざっていけるのは、とてもすばらしいことではないか
新石器時代派は、人類の適応性の高さが特殊化≠フ結果だと主張する。ヒトはチーターより速く走れないが、走ることはできる。カワウソのようにうまくは泳げないが、泳ぐことはできる。鷹ほど鋭い目は持っていないし、頬の内側に食べものを詰めこむこともできないが、それゆえに、目をよくする訓練をし、大地を切り刻んで得たものから、道具を──目がよく見えるようにするだけでなく、猫よりも速く走り、カワウソよりもうまく泳ぐための道具を作る必要にせまられた。ヒトは北極の荒野を歩いて横断することもできるし、熱帯の川を泳ぎ、木に登り、その旅のはてに、すばらしいホテルを建設する。そこで彼は汚れを落とし、夕食の席で、友たちに自分のなしとげたことを自慢するだろう。
しかし、記録された歴史を通して、われわれのピーローは満足ということぱを知らない。彼は世界じゅうに自分の居場所を知らしめようと願い、叫んだ。なぜ自分がここにいるかを、知らしめようとした。だが、星々は彼の呼びかけに対して、深遠な、つかみどころのない沈黙をもって、ほほえみかえしただけだった。
ヒトは目的を捜しもとめた。否定された人間は、同居する生物を相手にうさを晴らした。ヒトのまわりの専門家たちは、みずからの役割を知っており、それゆえにヒトは彼らを憎んだ。彼らは奴隷となり、タンパク質の供給源となった。彼らは、彼らの皆殺しを望む、ヒトの怒りの儀牲となったのだ。
適応力≠ノよって、じきにヒトは、ほかの生物を必要としなくなった。いつの日か、その後裔が偉大な種族になったかもしれない種も、人間のエゴイズムによって虐殺され、土くれと化した。
〈コンタクト〉の直前までに、人類が環境保護を考えられるようになっていたのは、まさに間一髪の幸運だったとしか言えない……それによって、われわれは年長の種族たちの怒りをまぬがれたのだから。それとも、それは幸運だったのだろうか? 確認された最初の見学≠フ直後、ジョン・ミュアーとその追随者が現われたのは、偶然だったのだろうか?
あたり一面に渦巻く、朦朧としたピンクの霧のまっただなかで、球形船のなかに横たわったまま、記者はこう考える──人類の目的は、見本となることかもしれないと。どのようなものであれ、ずっと昔、われわれの主族の犯した原罪は、喜劇の形で報われるだろう。
隣人たちは、われわれが驚きあきれ、なんの望みもなく欲望を充足した者たちにしばしば怒りを抱き、這いずりまわるのを見るうちに、おもしろがりながらも、あるいは教訓を学びとるかもしれない」
ビエール・ラロックは録音ボタンから親指を離し、顔をしかめた。だめだ、最後の部分がよくない。ほとんど悲しげでさえある。辛辣さよりも哀れっぼさがめだつのだ。こいつははじめからやりなおさなくてはならないだろう。のびやかさがまるでない。文章も深刻にすぎる。
ラロックは左手に持った飲料チューブをひと口すすると、ぼんやりと口髭をなではじめた.目の前では、船が姿勢を整えるにつれ、まばゆく輝くトロイドの群れが、ゆっくりとせりあがってきていた。姿勢制御には、思ったより時間がかからなかったようだ。もはや、人類の窮状という、本題とは無関係のことを論じている暇はない。そんなことは、また日を改めてでもできる。
だがこれは、これだけは、特別の題材だ。
彼はふたたび録音スイッチを押し、マイクを口に持っていった。
「書きなおしにあたっての注意。もっと皮肉を効かせ、特殊化のいくつかのタイプにおける利点を付すこと。ティンプリーミーについても触れること……人類でさえこの先かないそうもない、彼らの適応力の高さの原因について。短くまとめ、全人類にかかわる未来については、明るさを持たせること」
ついいままで、眼前には、せりあがってくる群れの端──五十キ日以上離れたところにいる、小さなリングばかりが見えていた。だがいまは、光球を覆う小さな細片とともに群れの主要部も見えるようになっていた。いちぱん近いトロイドは、まばゆく光りながら回転する、青緑色の怪物だ。その縁では、数本の細いプルーの線が、なめらかにくっついたり位置を変えたりして、雲紋模様を作りだしている。トロイドの全体は、白くきらめく暈《ハロー》でとりまかれていた。
ラロックはため息をついた。これは自分にとって、最大のチャレンジになるだろう。この生物たちの立体映像が放映されたら、うちにいるチンプの執事も含め、だれも彼もが鵜の目鷹の目で、その報道が水準に達しているかどうか見きわめようとするにちがいない。だがラロックは、自分がみなに感じさせなけれぱならない高揚感とは、逆の気分に陥っていた。サンシップが太陽の深みへ潜るにつれて、ますます超然とした気持ちになってくる。まるで、目の前で展開していることが、まったく現実みを欠いているかのように。あの生物たちは、まるっきり現実のものとは思えない。
そしてまた、これは認めざるをえないことだが、ラロックは恐れてもいたのである。
「静かに燃えるエメラルドのネックレスに連なった、極上の真珠、といったところだろうか。いずれかの列強種族のガレオン船がここで沈没し、この朦朧とした灼熱の礁脈に宝を残したとしても、その宝冠はいまだに安全のようだ。時の流れにも朽ちはてることなく、彼らはいまもきらめきつづけている。彼らをしとめ、袋につめて運びさろうとするハンターは、存在しない。
彼らは論理を無視する──ここにあるべき存在ではないがために。彼らは歴史を無視する──思い出されることがないために。彼らはわれわれの道具の力を無視し、より古き銀河文明の諸種族のそれさえも無視する。
ポンバディルのように平然として、彼らはたえまなくきらめきながら、体を通過する酸素と水素を無視し、時の流れを知らぬ泉から養分を吸いとる。
彼らは思い出すことがあるのだろうか……彼らがまだ生命の少なかった銀河系に──〈始祖〉の時代に生きていたという可能性はあるのだろうか? それを問いたいのはやまやまだが、いまのところ、彼らは他者に心を開こうとしない」
群れがふたたび見えるようになると、ジェイコプは作業から顔をあげた。はじめて見たときから比べると、その眺めは、ややインパクトに欠けていた。最初の降下のさいの感動を再度体験する、には──あれほど圧倒される眺めは、恒星間ジャンプにでも出ないかぎり、もう二度と見られないにちがいない──はじめて目にする、まったくべつのなにかを見なくてはならないだろう。
それは、猿を先祖に持つことの、欠点のひとつだった。
それでも、卜ロイドの作りだす美しいバターンを眺めて、ジェイコプは何時間も過ごすことができた。ときおり、ほんの瞬間的ながら、自分の見ているものの意味を思いだし、そのたびに彼は、畏怖に打たれた。
ジェイコブの膝にのったコンピューター・ボードには、一時間前に見かけたゴーストの、たえず変化する曲線や結合線などが表示されていた.
あれはコンタクトと言えるようなものではなかった。群れの端近くの太いフィラメントの影から出たとたん、船はいきなり、一体のはぐれソラリアンに出くわしたのだ。
それはものすごい速さで船から離れ、二、三キロの距離をおいて、疑わしそうに浮かんでいた。ダシルヴァ司令官は、はためく生物にドナルドスンのパラメトリック・レーザーを向けられるよう、船の回転を命じた。
はじめのうち、ゴーストはさらに遠ざかった。ドナルドスンはぶつぶつ文句をいいながら、レーザーを調整しなおし、ジェイコプのコンタクト用テープを使って、さまざまなパターンを投射した。
そこではじめて、生物は反応を示した。触手、もしくは翼のようなものが、その中央部からはじけるようにとびだしたのだ。ソラリアンはさまざまな色に波打ちはじめた。
そして、目もくらむようなグリーンの閃光を放って、姿を消した。
コンピューターによるその反応の分析をデータを、ジェイコプは調べた。ソラリアンの姿は、リム・カメラにくっきりと映っていた。いちばん最初の記録が示すところによれぱ、その脈動の一部は、鯨の歌の低音のリズムに同調したものであるらしい。いま、ジェイコプは、姿を消す前にそれが見せた複雑な色の変化が、応答として解釈可能なパターンを持っているかどうか調べようとしていた。
コンピューターにかけるべき分析プログラムは、もうできている。それは、ゴーストの体表全体に見られる、色彩、形状、明るさの変化から、鯨の歌のテーマとリズムを見いだそうとするものだった。もしそれで意味の通るものが見つかれぽ、つぎの接触のとき、コンピューターによるメッセージをリアルタイムで送れるようになる。
もっとも、それはつぎの接触があるとしての話である。鯨の歌は、ジェイコプが送るつもりでいた、一連の尺度と数列の導入部にすぎない。だがあのゴーストは、そのあとを聞こう≠ニもしなかった。
ジェイコプはコンピューター・ボードを脇に置き、カウチの背もたれを寝かせて、首を動かさずにいちばん近くのトロイド群が見えるようにした。そのうちの二体が、デッキ面に対して四十五度の位置を、ゆっくりとスウィングしていく。
どうやら、トロイドの回転≠ヘ、いままで考えられていたよりも複雑らしい。その周囲を高速で回転している、複雑でたえずなめらかに変化ずるパターンは、その内部構造のなにかを表わしているようだ。
磁場のなかでもっといい位置をとろうとして、二体のトロイドが接触したとき、両者の回転にはまったく変化が見られなかった。二体の生物は、まるで自分たちがまったく回転していないかのように、たがいを押しあっていたのだ。
群れに近づくにつれて、トロイド同士の押しあいはますますめだつようになった。エレン・ダシルヴァが教えてくれたところによれぱ、あのようなふるまいは、いままで彼らがいた活動領域が消減しようとしているからだという。磁場がしだいに、拡散しはじめたのだ。
カラがとなりのカウチに腰をおろし、歯を一回、ガチリとかみあわせた。ジェイコプは、状況に応じてカラの歯が作りだすリズムを、いくつか識別できるようになりはじめていた。プリングにとって、それが人間の顔の表情と同じような、基本的な感情表現の一部であるとわかるまでには、ずいぶん時間がかかったものだ。
「ここにすわってもいいですか、ジェイコブ?」とカラは訊ねた。「水星での処置に対してお礼をいう機会は、これがはじめてですね」
「礼なんかいらないさ、カラ。二年間秘密を守るという誓いは、事件が事件だけに、順当なところだろう。どのみち、ダシルヴァ司令官が地球の命令を受けてからは、サインをするまでだれも母星に帰れないことがはっきりしたんだし」
「それでも、あなたは世界じゅうに、銀河じゅうに、すべてを明かす権利があった。〈ライブラリー〉はババカブの行動に恥じ入っています。あまや……あやまちの発見者であるあなたが、自制を示し、〈ライブラリー〉に償いをさせることにしたのは、賞賛されるべきことです」
「〈ライブラリー〉協会はどう出るだろう……ババカプへの処罰はともかく?」
カラは、たえず手にしている飲料チューブをひと口すすった.その目が明るく輝いた。
「〈ライブラリー〉協会は、おそらく地球への負債を帳消しにし、しばらくのあいだ分館のサービスを無料にするでしょう。公表をさしひかえる期間について、連合政府とのおりあいがつけば、無料奉仕期間はもっと長くなるはずです。スキャンダルを避けるためなら、〈ライブラリー〉は血まなこになりますから。
それに加えて、あなたにも報酬が与えられるでしょう」
「ぼくにも?」ジェイコプは驚いた。原始的≠ネ地球人にとって、銀河文明が選ぶ報酬は、ほとんどどんなものでも魔法のランプに等しい。ジェイコプには、カラのことばがとても信じられなかった。
「そうです。その逆に、あなたがあなたの発見を内々のものにしていなかったなら、〈ライブラリー〉の反応は厳しいものになっていたでしょう。彼らの寛大さの度合いは、ババカブの事件の風評がどれだけ広まるかに反比例するのです」
「ははあ、なるほど」それでわかった。つまりその褒美とは、〈ライブラリー〉協会の感謝のしるしではなく、口止め料なのだ。もちろん、それでその褒美の価値がさがるわけではない。それどころか、それはもっとずっと価値の大きなものになるだろう.
いや、そうだろうか? 異星人の考え方は、人間のそれと必ずしも同じわげではない。〈ライブラリー〉協会の館長たちは、彼にとって謎の存在だ。確実にわかっているのは、彼らは悪い評判をとりたくないだろうということだけである。カラはいま、公式にしゃべっているのだろうか、それとも、単にそうなるだろうと予想しているにすぎないのか。
ふいに、カラが横を向き、通過する群れを見あげた。その目が光り、分厚い、把握力のある唇の奥から、短い振動音があがった。プリングは、自分のカウチの横のスロットからマイクをとりあげた。
「失礼します、ジェイコブ。でずが、なにか見えたような気がするのでず。司令官に報告しなければなりません」
カラは簡潔にマイクに語りかけた。その視線は、彼らの右三十度、高さ二十五度の方向にぴたりとすえられている。ジェイコブはそちらに目を凝らしたが、なにも見えなかった。カラのカウチの頭のあたりにエレンの声が響き、ぼそぼそと答える声がかすかに聞こえた。船が回転しはじめた。
ジェイコプはコンピューター・ボードをチェックした。結果が出ていた。前回の接触からは、なにも返答として解釈できるものは引きだせていない。したがって、今度の接触でも、前のときと同じようにやるしかないだろう。
「みなさん」エレンの声が、船内じゅうに響きわたった。「ブリングのカラが、ふたたびソラリアンを発見しました。部署におもどりください」
カラの歯がガチリと鳴った。ジェイコブは顔をあげた。
約四十五度の方向の、いちばん近くにいるトロイドの巨体の向こうで、ちらちらきらめく小さな光点が、形をなしつつあった。ブルーの光点は、近づくにつれてしだいに大きくなっていき、やがて五つの不均等な触手がつきだした。左右相称の姿が識別できるようになった。それは急速に膨れあがったのち、停止した。
おおまかに人間の形をした、サンゴースト第二の形態が、上からにらみつけていた。その目と口のぎざぎざの穴を通して、彩層の色が赤く輝いている。
裏デッキのカメラをゴーストに向けようとする試みは、いっさいなされなかった。おそらく、そんなことをしても無駄だろうし、今回はPレーザーの使用が優先されるのだ.
ジェイコブはドナルドスンに、基本的コンタクト・テープを、前回の接触が切れたところから送りつづけるようにと指示した。
技師がマイクをとりあげた。
「みなさん、ゴーグルを着用してください。これよりレーザー照射を開始します」自分もゴーグルをはめ、まわりを見まわして、見えるところにいる全員がゴーグルをつけていることを確認する。(カラははめようとしなかった。危険はないというドナルドスンのことばを信じたのである)それから、スイッチを入れた。
ジェイコプの目には、ゴーグルを通してさえ、レーザー・ピームがゴーストに向かって吐きだされるさい、シールドの内壁がぼんやりと輝くのが見えた。この生物は、人型になると、前の通常形態≠謔閧煖ヲ力的になるのだろうか。ジェイコプにわかっていることは、これが同じ個体らしいということだけだった。おそらく、前に逃げだしたのは、いまのような姿に装いをこらす≠スめだったのだろう。
通信レーザーのビームにそのまんなかを貫かれながら、ゴーストは平然とはためいていた。遠くないところで、マーティンが小声でののしるのが聞こえた。
「ちかうちがうちがう!」精神波ヘルメットとゴーグルをつけているため、見えるのは彼女の鼻と口だけだ。「なにかがいるのに、ここにはいない。妙だわ! いったいこれはどういうことなの!」
だしぬけに、ゴーストが膨れあがり、蝶々のように平たくなって、船の外壁にへばりついた。その顔≠フ造作が不鮮明になり、細長くて黒っぽい、黄土色の筋と化す。腕と体が伸び広がって、天に十度の幅で広がる、縁がぎざぎざの長方形をした青い帯になった。その表面のそごここに、緑の斑点が現われはじめた。それらの斑点はくっつきあい、混ざりあい、融合して、ひとつながりの形を描きだした。
「天にましますわれらが神よ」ドナルドスンがつぶやいた。
ファギンのいるあたりから、笛の音のような音が震えがちに、半音減七度の音程で響きはじめた。カラの歯が、ガチガチ鳴りだした。
ソラリアンの変じた帯の全体にわたって、明るい緑の文宇がならんでいた。ローマ字体のアルファペットだ。それには、こうあった。
タチサレ。モドッテクルナ。
ジェイコプは思わず、カウチの両端を握りしめていた。ETたちのたてる音の騒々しさにもかかわらず、そして人間たちの荒い息づかいにもかかわらず、静寂が耐えがたいほどに感じられる。
「ミリー!」大声を出すまいとして必死になりながら、ジェイコプは言った。「なにか反応は?」
マーティンはうめいた。
「ええ……いいえ! なにかはとらえてるけれど、つじつまがあわないの! 精神波の反応と現実とが一致しないのよ!」
「質問を送ってみろ! きみの精神波を受けているかどうか訊くんだ!」
マーティンはうなずき、両手をぎゅっと顔に押しつけて、思念を凝らした。
すぐさま、頭上の文字が変わった。
シュウチュウシロ。メイカクニスルタメニ、コエニダシテハナセ。
ジェイコプは愕然とした。心の奥底で、自分の抑圧された半身が、恐怖に震えているのが感じられた。自分の理解を超えたものが、ハイド氏を恐れさせたのだ。
「これまで黙っていたのに、なぜいまになって急に話をする気になったのか、訊いてくれ」
マーティンは質問を、ゆっくりと、声に出してくりかえした。
シジンダ。ワレワレニカワッテ、カレガハナシヲスル。カレハココニイル。
「な、なにを言う、おれにはむりだ!」ラロックが叫んだ。ジェイコブはすばやくふりかえり、小柄なジャーナリストが、フード・マシーンのぞぱにへたりこみ、すくみあがっているのを見た。
緑の文字が輝いた。
ワレワレニカワツテ、カレガハナシヲスル。
「ドクター・マーティン」エレン・ダシルヴァが呼びかけた。「ソラリアンに、なぜもどってきてはいげないのか訊いて」
しぼらく間があってから、ふたたび文字が変わった。
ワレワレハ、ブライバシーヲノゾム。ホウッテオイテクレ.
「そして、もしもどってきたら? そのときは、どうする?」ドナルドスンが訊いた。深刻な顔で、マーティンがその質問をくりかえした。
ナニモ。ワレワレヲミツケラレナイダケダ。オソラク、ワレワレノヨウセイヤ、ワレワレノカチクヲミカケルコトハアルダロウ。ダガ、
ワレワレハミツカラナイ。
それでソラリアンのふたつのタイブの説明がつくな、とジェイコプは思った。通常形態≠フソラリアンは、彼らの子供であり、トロイドの番人といったような、単純な仕事をまかされているにちがいない。それなら、成人たちはどこにすんでいるのか? 彼らはどんな文化を持っているのか? 水の世界に住む人類と、イオン化プラズマを用いて、どうやって意志を通じあったのか? ソラリアンの威嚇に、ジェイコブの気持ちは沈んだ。もしその気になれぱ、成人したソラリアンは、たとえ作りだせるかぎりのサンシップをくりだしたとしても、鷲が気球を避げるように、やすやすと回避することができるのだ。もしいまコンタクトを断たれれば、人類は二度と彼らと接触できなくなってしまう。
「お願いです」とカラが言った。「あれに、ババカプが彼らを怒らせたのかどうか、訊いてください」プリングの目はぎらぎら輝いており、ひとことしゃべる間にも、ガチガチというくぐもった音がつづいていた。
ババカブトイウコトバニハ、ナンノイミモナイ。ムイミダ。タダ、タチサレ。
ソラリアンの姿が薄れはじめた。縁がぎざぎざの長方形は、遠ざかるにつれて、ゆっくりと小さくなっていった。
「待て!」ジェイコブか立ちあがり、虚無をつかむように片手をさし出した。
「接触を切るな! われわれはきみたちの唯一の隣人だ! われわれはきみたちと知識を分かちあいたいだげだ。少なくとも、きみたちが何者であるかくらい教えてくれ!」
ゴーストはますます遠ざかり、その姿がぼやげた。黒いガスのかたまりが通りかかり、ソラリアンを覆い隠したが、その寸前、ジェイコブたちは最後のメッセージを読みとった。まわりを子供たち≠フ集団でとりかこまれながら、成人はもういちど、さっきのメッセージをくりかえした。
ワレワレニカワッテ、シジンガハナシヲスル。
第八部
大昔、翼を手に入れた、ふたりの鳥人がいた。
ダイダロスはぶじに空中を飛翔し、みごと着陸
して名誉を得た。イカロスは太陽に向かって飛
びつづけ、ついには翼をつなぎとめる臘が溶け
て、まっさかさまに落下した。……古典的な権
威筋に言わせれぱ、イカロスはもちろん、単に
奇をてらった行動をとった≠ノすぎないとい
う。だが、わたしはむしろこう考えたい。イカ
ロスは、当時の飛行機械について、深刻な構造
的欠陥を明らかにした入物であったのだ、と。
──サー・アーサー・エディントン
『星々と原子』オックスフォード大学出版局刊
23 励起状態
ピエール・ラロックは、ユーティリティ・ドームにもたれかかって、すわりこんでいた。膝をかかえごみ、ぼんやりとデッキを見つめたまま、みじめな気持ちで考える。サンシップが彩層を離れるまでぶっ倒れずにすむような注射を、ミリーが射ってくれないだろうか、と。
残念ながら、薬を射ってもらっても、預言者としての新しい役割をつとめる役にはたちそうもない。ラロックは身震いした。記者としての職業歴を通じて、彼ははじめて理解したのである。
できごとをまとめるのではなく、ただコメントを述ぺることが、いかにたいへんなことであるのかを.ソラリアンが彼に与えたのは、祝福ではなく、呪いだった。
ぼんやりとした頭で、考える。あの生物がおれを選んだのは、皮肉をこめた気まぐれ……冗談ではなかったのか。それとも、おれの心の奥深くに、地球にもどったらひとりでに出てくるようなメッセージを──おれ自身仰天し、当惑するようなメッセージを埋めこんだのだろうか。
それとも、これは単に、いつものおれの持論を明らかにすればいいということなのか? ラロックはみじめな気分で、ゆっくりと体を前後にゆすった。自分の個性によって、自分の考えを他
人に受け入れさせるのはかまわない。だが、預言者の衣をまとって話すとなると、これは問題だ。
ほかの者たちは、つぎの行動を相談するため、司令官席のそばに集まっている。ともかく、早々に立ち去ろうと話しているのが聞こえた。顔をあげなくても、ラロックにはみんながこちらを向き、じっと見つめているのが感じられた。
死んでしまいたかった。
「おれは、やつを処分してしまうべきだと思うね」とドナルドスンが言った。いまでは、彼のなまりはひどくはっきりと出ていた。そばで聞きながら、ジェイコブは、民族言語がはやらないでくれることを願った。「あの男を地球に野放しにしたら、収拾のつかない混乱が起きてしまいますよ」
マーティンはしばらく唇をかんでいた。「だめよ、それは賢明な方法じゃない。ヘルメス基地にもどったら.地球に指示を仰いだほうがいいわ。政府はピーターに非常事態隔離措置の適用を決定するかもしれないけれど、だれもピーターを処刑しようとは思わないでしょう」
「驚いたね、きみが主任の提案にそんな反応を示すとは」とジェイコプが言った。「あんなことを聞かされれぱ、とりみだしてもしかたがないところだろうに」
マーティンは肩をすくめて、「いまはもう、みんなはっきり承知していると思うけれど、わたしは連合会議の一派を代表する人間です。ピーターはわたしの友だちだげれど、彼を排除ずることが地球に対するわたしの義務だと思えぽ、そのとおりにします」思いつめたような表情だった。
ジェイコプはそれほど驚かなかった。過去一時間のショヅクをふりはらうため、整備主任が軽率な言動を積み重ねているとすれば、ほかの多くは、うわべの姿をすっかり脱ぎ捨ててしまっていたからだ。マーティンは進んで、およそ考えられないことを考えようとしている。そばではラロックが、みんなの存在など忘れはて、呆然としたようすで、ゆっくりと体をゆすっている。
ドナルドスンが人さし指をたてた。
「メッセージ・ピームについて、ソラリアンがひとことも触れなかったのに気づいたかい? 体のどまんなかをビームで貫かれたというのに、あれは知らん顔をしていた。ところが、もう一体のゴーストは……」
「幼生よ」
「……幼生は、はっきりと反応を示した」
ジェイコプは耳たぶをかいた。「謎はつきないな。なぜあの成体は、つねにリムの計器を避けようとするのか? なにか避けなけれぱならないわけでもあるのか? 数ヵ月前、ドクター・マーティンが精神波ヘルメットを持ちこんだときから、意志を疎通することができたのに、いままでどうして、ずっと威嚇的なしぐさをするだけにとどまっていたのか?」
「あのPレーザーに、そうさせるだけの要素があったんじゃないでしょうか」クルーのひとりが口をはさんだ。この降下の出発時にはじめて会った、チェンという、東洋糸の上品な男だった。
「さもなければ、それなりの話し相手が現われるまで待っていた、ということになりますが」
マーティンが鼻を鳴らした。
「それはこの前の降下のとき考えた説だけれど、うまくいかなかったわ。ババカブはコンタクトをでっちあげたし、ファギンのいろいろな才能をもってしても……待って、あなたが言うのは、ピーターが……」
ナイフで切り裂けそうな静寂がつづいた。
「ジェイコブ、やっぱり、隠しプロジェクターが見つかってほしいよ」ドナルドスンが弱々しげにほほえんだ。「そいつが見つかれば、問題は全部解決する」
ジェイコプもユーモアのない笑みを返した。「デウス・エキス・マキナかい、主任? 宇宙から特別の好意を期待できないことは、きみも承知してるはずじゃないか」
「あきらめたほうがいいのかもね」とマーティン。「わたしたちは二度と、成体のゴーストと会うことはないでしょう。地球では、人型≠ノ関する話はなにひとつ信じていないわ。その存在を裏づけるのは」それを見たという二十人ほどの知的生物と、二、三枚のぼやけた写真だけ。わたしのテスト結果は無視して、それはすべて異常な興奮状態の結果とされるでしょう」陰鬱に、目を落とした。
ジェイコブは、エレン・ダシルヴァがとなりに立っていることに気づいていた。二、三分前、みんなを召集してから、彼女は異常なほどに黙りこくっている。
「まあ、少なくとも今度は、〈サンダイバー計画〉自体について脅されたわけじゃない。太陽学的な研究はつづけられるし、トロイドの群れについても研究はできる。ソラリアンは、邪魔はしないと言ったからね」
「たしかに」とドナルドスン。「しかし、彼は?」そう言って、ラロックを指さした。
ジェイコブが言った。「ともかく、これからどうするかを決めるのが先決だ。船はいま、群れの底付近を浮遊している。上昇して調査をつづけるぺきだろうか。人間と同じように、ソラリアンのなかにも個人差があるかもしれない。ぼくらが会ったやつは、たまたまきげんが悪かったのかもしれないそ」
「そうは思えなかったけれど」とマーティン。
「パラメトリック・レーザーを自動にして、通信テープにコード化された英語を加えてみようじゃないか。螺旋を描いてゆっくりと上に向かいながら、それを群れのなかに投射してやるんだ。万が一にも、友好的なソラリアンの成体のなかに、興味を示すやつがいるかもしれない」
「いたとしても、この前のやつみたいに、肝をつぶすようなまねはしないでほしいね」とドナルドスンがつぶやくように言った。
エレン・ダシルヴァが、寒気と戦うように両肩をさすりながら言った。「まだなにか意見のある者は? それじゃあ、この人間だけの話しあいの結論は、ミスター・ラロックについて軽率な行動はいっさい慎むこと、ということでいいわね。万一の場合に備えて、全員彼から目を離さないでいて。
この話しあいは一時延期とします。みんな、つぎにとるべき行動を考えておいてください。それから、だれかファギンとカラに声をかけて、二十分後にフード・マシーンのそばにきてくれるように伝えて。以上です」
ジェイコプは片腕をつかまれるのを感じた。となりにエレンが立っていた。
「だいじょうぶかい?」ジェイコプは気づかわしげに訊ねた。
「ええ……だいじょうぶ」彼女はあまり自信のなさそうなようすでほほえんだ。「わたしはただ……ジェイコブ、悪いけれど、わたしのオフィスまできてくれない?」
「いいとも、送っていこう」
エレンはかぶりをふった。ジェイコプの腕をぎゅっと握りしめて、エレンは急ぎ足に、船長室として使われている、ドーム側面の、トイレほどの大きさしかない小部屋へ彼を引っぱっていった。なかに入ると、彼女は小さなデスクの上をかたづけ、ジェイコプにすわるように示した。それから、ドアを閉め、それにもたれかかり、
「神さま」とため息をついた。
「エレン……」ジェイコブは足を踏みだしかけたが、そこで立ちどまった。エレンのプルーの瞳が、燃えるように彼を見あげていた。
「ジェイコブ」彼女はみずからを落ちつげようとたいへんな努力をしながら、「約束できる、二、三分間、わたしの言うとおりにして、あとでそれを口外しないって? うんと言ってくれないかぎり、どうしてほしいのかは言えないわ」ブルーの瞳が、ことばなく訴えていた。
ジェイコブにとっては、考えるまでもないことだった。「もちろんさ、エレン。なんでも言ってごらん。ただし、なにをたのみたいのか教え……」
「それじゃ言うわ。お願い、抱いて」最後のほうは、悲鳴のようになって途切れた。両手をジェイコブの胸にあてがうようにして、エレンはすがりついてきた。あっけにとられながらも、ジェイコブは両腕をエレンの背にまわし、ぎゅっと抱きしめた。
ジェイコプの腕に抱かれて、ゆっくりと前後にゆずられているうちに、エレンの体を、何度も強い震え添走りぬげた。「よしよし……だいじょうぶだ……」なだめるように、意味のないことばをつぶやく。エレンの髪が頬をくすぐり、エレンのかおりが小さな部屋を満たした。頭がくらくらした。
しばらくのあいだ、ふたりは無言のまま抱きあっていた。ジェイコプの肩の上で、エレンがゆっくりと頭を動かした。
震えがおさまってきた。少しずつ、エレンの体の緊張がほぐれていく。片手で背中のこわばった筋肉をなで、ひとつひとつもみほぐしてやった。
ジェイコブは、いい思いをさせてもらっているのはどっちなんだろうと思った。これほどの安らぎを、これほどの平安を味わったのは、どのくらい昔のことだろう。エレンがこれほどまでに信頼してくれることに、ジェイコブは感動を覚えた.
しかもこの抱擁は、彼を幸せな気分にしてくれた。心の奥で、歯ぎしりしている小さな声が聞こえたが、ジェイコプは耳を貸さなかった。エレンを抱擁することは、息をするよりも自然なことに思われた。
何分間かたってから、エレンが顔をあげた。口を開いたとき、その声はつまりがちだった。
「生まれてこのかた、あれほど恐ろしい思いをしたことは一度もないわ。あなたにはわかってほしいんだけれど、ほんとうならわたしは、こんなことをする必要はなかったのよ。本来なら、降下が終わるまで、わたしは鉄の女でいられたでしょう……でも、あなたがここに、すぐ手のとどくところにいたから……こうしないでぽいられなかったの。ごめんなさい」
ジェイコブは、エレンが少しも身を遠ざけようとしていないことに気づいた。ジェイコブも、抱きしめた腕をほどかなかった。
「かまわないさ」と、やさしくジェイコプ。「もう少ししたら、これがどんなにすぼらしいことだったか話してあげるよ。心配ないさ、恐ろしくなったのもむりはない。ぼくだって、あの文字を見たときには肝が消しとびそうになったくらいだ。ただ、ぼくの場合は、好奇心と鈍感さが防衛機構になってくれた。ほかの連中の反応ぶりは、きみも見ただろう。きみはみんなよりも責任が重かった、それだけのことさ」
エレンはなにも言わなかった。そして、両手を上にすべらせ、ジェイコプの肩にまきつけて、ぴったりとしがみついた。
「それにだ」とジェイコプはほつれた彼女の髪をなでつけながら、「ジャンプのあいだ、きみは何度も、もっと驚くべきものを見てきたはずじゃないか」
エレンは身をこわばらせ、ジェイコブの胸を押しやった。「ミスター・デムワ、あなたはひどい人ね! あなたはいつも、わたしのジャンプのことばっかり口にする! わたしがあんなに恐ろしい思いをしたことが、いままであるとでも思うの? あなた、わたしがいったい、何歳だと思ってるの?」
ジェイコプはほほえんだ。エレソは彼の腕をふりはらうほど強く押しのけはしなかったのだ。まだジェイコプから離れる気になれないのは、明らかだった。
「それは、相対論的に……」
「相対論なんかくそくらえだわ! わたしは二十五なのよ! それは、あなたよりたくさんの世界を見てきたかもしれない。だけど、わたしが体験した実世界は、あなたよりもうんと狭いのよ! わたしの能力指数は、わたしが内心どう感じているかなんて語ってくれやしない! 完壁さと力強さを保ち、みんなの生命に対して責任をまっとうするのは、ものすごくたいへんなことなのよ……少なくとも、わたしにとってはね。ええ、あなたはちがうでしょうよ、あなたみたいに、あなたみたいに鈍感で、冷静で、昔々の英雄まがいの人は、いつでも落ちつきはらってそこに立ってるんだわ。ちょうど〈カリュプン〉がJ81ekの気ちがいじみた秘密封鎖線にとびこんでしまったときの、べロック船長のように……いいこと、いまわたしは指揮官の特権をむちゃくちゃに乱用して、キスすることを命じるわ、そうでもしなけりゃ、あなたはとても自分からしてくれそうにもないから!」
エレンは挑みかかるようにジェイコプを見すえた。ジェイコプが笑って、エレンの体を引きよせると、彼女はちょっと抵抗した。が、すぐにその両腕がジェイコブの首にすべるようにからみつき、彼女の唇はジェイコプの唇にぴったりと押しつけられた。
どこか遠くで、彼女がふたたび震えているのが感じられた。だが、今度の震えは、以前のものとはちがっていた。どうちかうか、説明ずるのは難しい.なぜなら彼は、いましていることに没頭しきっていたからである。すっかり陶然とするほどに。
ふいに、苦痛とともに、ジェイコブは自分がどれだけ長いあいだ我慢していたのかを思いだした……長い長い、二年間。その考えを、脇に押しやる。タニアは死んだが、エレンは美しく、驚くほどいきいきしている。ジェイコブはいっそう強くエレンを抱きしめ、ただひとつ可能な方法で、彼女の情熱に応えた。
「すばらしい治擦だったわ、ドクター」髪のもつれをほどこうとしているジェイコプに向かって、エレンがからかうように言った。「天にも昇るような心地とはこのことね。あなたが絞り器で絞りつくされたみたいに見えることは認めるけれど」
「なんだい、その……絞り器≠チてやつは? いや、いい、昔のことばなんか説明してくれるまでもない。ぼくを見たまえ! 溶かされてねじまげられた鉄の棒みたいな気持ちにさせたことを、きみは自慢に思ってるんだろう!」
「そうよ」
押さえようとしても、ジェイコプの口もとには笑みか浮かんできた。「口を慎んで、年長者を敬いたまえ。ところで、会議まではどれくらい時間がある?」
エレソは腕時計に目をやった。「約二分。こんなときに会議に出なきゃならないなんて。やっとあなたが関心を示しだしたところなのに。だれ、こんな不粋なときに会議なんか召集したのは」
「きみさ」
「あ、ああ。そうだったわね。つぎは少なくとも、三十分の時間をあげるわ、もっとこまかくいろいろなことを調ぺられるようにね」
ジェイロブは不安そうにうなずいた。ときどきこの娘は、どこまで冗談を言っているのかわからなくなる。
ドアの掛け金をはずす前、エレンは真顔になって背筋を伸ばし、キスをした。
「ありがとう、ジェイコブ」
左手で、ジェイコブはエレンの顔をなでた。エレンはその手のひらに、ちょっと顔を押しつけた。ジェイコプが手をのけたときには、言うべきことばはなにもなかった。
エレンはドアを開き、外を見やった。目のとどくところには、パイロットのほかにだれもいない。あとはみんな、二回めの会議のために、フード・マシーンのそばに集っているのだろう。
「さあ、行きましょう!」とエレン。「いまなら、馬だってたいらげられるわ!」
ジェイコプは身震いした。エレyのことをもっとよく知るつもりなら、想像力をたっぷりと酷使されることを覚悟したほうがよさそうだ。この娘なら、はんとうに馬も食いかねない!
それでもジェイコブは、一フィートほどうしろに遅れて、エレンのうしろ姿に見入った。それはあまり魅力的だったので、彼は回転する円環体の一体が、その側面をあでやかな模様に輝かせ、鳩の胸の下部にも負けないほど白くまばゆい暈に包まれて、船のそばを通過していったのにも気づかなかった。
24 自然放射
ふたりがもどっていくと、ファギンの葉むらから、ちょうどカラが飲料チューブをとりだそうとしているところだった。片方の腕が、カンテンの葉の茂る枝のなかに入りこんでいる。プリングはもういっぽうの手に、べつの飲料チューブを持っていた。
「よくもどってきてくれた」とファギンが言った。「プリングのカラが、ちょうどわたしの栄養補給の手伝いをしてくれていたところだったのだ。このおかげで、カラが自分の栄養補給をする暇がなくなったのでなければいいのだが」
「ご心配にはおよびません」とカラは言って、ゆっくりとチューブを引っぱりだした。
ジェイコプはよく見ようと、プリングのうしろにまわりこんだ。これは、ファギンの機構をもっとよく知るための、絶好の機会だ。以前このカンテンに、彼の種族には慎みに関するタブーがないと聞かされていたから、カラの腕にそってどんな摂取口が見えるのか覗いても、この半植物異星人は気にしないだろう。
そうやって、身をかがめたとき、いきなりカラの握っていた飲料チューブがすっぽぬけ、カラの腕が勢いよくうしろにさがった。肘でしたたかに片目のすぐ上をたたきつけられて、ジェイコプは尻もちをついた。
カラの歯が大きく鳴った。両手の飲料チューブが落ち、ぐしゃりと床にひしゃげた。エレンは笑いをこらえようと必死になっていた。ジェイコプは急いで立ちあがり、おぼえていろ≠ニいう顔でにらみつけたが、彼女はますます大きな音をたてて咳をするばかりだった。
「気にしないでくれ、カラ」とジェイコプ。「たいしたことはない。ぼくが悪かったんだ。どのみち、目はもうひとつあるんだし」痛む箇所をさすろうとする衝動を、懸命にこらえる。
カラは輝く目で彼を見おろした。ガチガチという音は、おさまってきた。
「きわめて寛大なご処置を感謝します、わが友ジェイコプ」ややあって、やっとのことでカラは口を開いた。「これが正当な類族・主族関係において起こったことでしたら、わたしは不注意の罰を受げていたでしょう。許してくださったことに、お礼を申します」
「いいんだってぱ、カラ」ほんとうは、ぶざまなこぶがふくれはじめるのがわかったが、ジェイコプはなんでもないというふりをした。ともかく、カラをこれ以上混乱させないためには、話題を変えたほうがいい。
「もうひとつ目があると言えぱ、ぼくの読んだところでは、きみの種族も惑星プリングに住む生物の大半も、ビラがやってきて遺伝子計画を開始するまでは、目がひとつしかなかったそうじゃないか」
「そのとおりです、ジェイコプ。審美的な見地から、ビラはわたしたちにふたつの目を与えてくれたのです.銀河系においては、ほとんどの二足歩行生物がふたつ目を持っています。ビラはわたしたちが、ほかの若い種族たちに……いじめられないよう、配慮してくれたのです」
ジェイコプは層をひそめた。どこかが妙だ……ハイド氏はすでに気づいているようだが、すねているのか、それがなんだか教えてはくれなかった。
ええいくそ、おまえはおれの無意識なんだぞ!
むだか。まあいい。
「しかしカラ、これも読んだ話だが、ぼくの記憶が正しけれぱ、きみの種族は樹上性で……枝わたりさえしていたそうじゃないか……」
「なんです、枝わたりって?」ドナルドスンがダシルヴァの耳もとにそっと訊ねた。「枝から枝へ、体をふりながらわたっていくことよ」と彼女は答え、「さ、ちょっと黙ってて!」
「……ひとつの目しかなかったのに、きみたちのご先祖さまは、つぎの枝にとびうつるとき、どうやって距離の目測をあやまらずにすんだんだい?」
言いおえないうちから、ジェイコプは歓喜を味わっていた。ハイド氏が隠していたのは、この疑問だったのだ! とすると、あの小悪魔は、もはや無意識的洞察を完全にシャヅトアウトしてはいないことになる! エレンのしてくれたことは、すでによい効果をあげているらしい。ジェイロブはほとんど、カラの答えを気にしてはいなかった。
「それはこぞんじだと思っていたのですが、わが友ジェイコブ。わたしは、最初の降下のさい、わたしの知覚器官があなたがたのそれとはちがっている、とダシルヴァ司令官が説明されるのを聞いた憶えがあります。つまりわたしの目は、光の強弱だけではなく、位相をも測れるのです」
「なるほど」いまでは、ジェイコプはすっかりおもしろくなりはじめていた。ただ、ファギンからはずっと目を離さないようにしていなけれぱならない。カラの触れてほしくない部分にまで踏みこんだなら、この老カンテンがすぐに警告してくれるはずだからだ。
「なるほどね、しかし日光は、とくに森のなかでは、まったく非コヒーレントなものにならざるをえない……位相がまちまちになるためだ。たとえば、イルカはその有機ソナーを、きみたちとおなじような測距システムに利用し、位相その他を測っている。しかし、そうする上で、イルカは周囲に向けてタイミングよく音を放つことにより、目力でコヒーレントな位相フィールドを形成しているんだ」.
ジェイコブはあとずさり、ドラマチックな間あいを楽しんだ。片足が、カラの落とした飲料チューブのひとつを踏んづけた。ほとんどうわの空で、彼はそれを拾いあげた。
「したかって、きみの祖先たちの目が位相を把握できたとしても、きみたちの環境にロヒーレント光の源がないかぎり、すぺてはまったく機能しない」ジェイコブはだんだん興奮してきた。
「とすれば、天然のレーザーか? きみたちの森には、天然のレーザー光を発するものがあったのか?」
「そいつはおもしろい!」とドナルドスン。
カラはうなずいた。「そのとおりでず、ジェイコプ。わたしたちはそれを……」カラの歯が、複雑なリズムでこすりあわされた。「……樹と呼んでいます。これほどわずかな手がかりから、その存在まで導きだすとは、とても信じられません。これは賞賛に値します。基地にもどったら、その写真をお見せしましょう」
エレンをちらりと見やると、彼女は自分のものを見るような顔で、はほえんでいた。(心の奥深くで、遠いうなり声が聞こえたが、それは無視した)「ああ、ぜひ見せてもらいたいな、カラ」
手にした飲料チューブは、ぺとべとしていた。あたりに、刈りたてのほし草のようなにおいが漂っていた。
「ほら、カラ。さっききみが落としたやつだ」ジェイコプはその飲料チューブをさしだしかけて、ふと手をとめた。しばらくチューブをじっと見つめてから、げらげらと笑いだした。
「ミリー、きたまえ!」大声で、マーティンを呼ぶ。「こいつを見てみろ!」ドクター・マーテインにチューブをさしだし」そのラベルを指し示した。
「3−[アルファ・アセトニルベンジル]──4−ヒドロキシクマリン。アルカリド混合物?」マーティンはちょっとのあいだけげんそうにそれを見ていたが、やがて目を見開いた。「これはワルファリンじゃないの! すると、カラの栄養補給剤のひとつだったのね! それたら、どうしてこれがドウェインの携帯薬にまぎれこんでたの?」
ジェイコブはうしろめたそうな笑みを浮かべた。「どうやら、その誤解はみんなぼくのせいらしい。〈プラッドペリ〉に乗っていたとき、ぼくは寝ぼけ眼で、カラの飲み物のもとになる錠剤のひとつをポケットに入れた。そのときはひどく眠たかったから、忘れてしまっていたんだがね。それをしまったポケットが、あとでケプラー博士からくすねたサンプルを入れたのと、同じポケットだったにちがいない。それがみんな、ドクター・レアードの研究室に行ってしまったわけだよ。
カラの栄養補給剤のひとつが、地球の昔のネズミ捕りと同じものだったことは、とんでもない偶然の一致と言うしかない。だが、それでなにもかもまるくおさまる! ぼくは、薬にそれが混じっていたのは、ババカブがケプラーの病状を悪化させようとしたためだと思っていたが、いまひとつ腑に落ちなかったんだ」そう言って、ジェイコブは肩をすくめた。
「ともかく、わたしにとっては、万事解明されてばんばんざいよ!」マーティンがにこやかに、「みんながわたしを見る目つきときたら、ぞっとしなかったもの!」
それはささやかな発見にずぎなかった。だが、このひとつの、こまかいながらどうにも気にかかる謎が解明されたことで、その場にいる者たちのムードは一変した。みんなは活発に議論をはじめた。
ただ一度、座が沈んだのは、・静かに笑いながら、ピエール・ラロックが通りかかったときだった。ドクター・マーティソがそのあとを追いかげて、話しあいに加わるように勧めたが、小男はただ首をふり、デッキの縁ぞいに、のろのろとした周回を再開しただけだった。
エレンはジェイコブのとなりに立っていた。彼女は、まだカラの飲料チューブを持っているほうの、ジェイコプの手に触れ、
「偶然の一致といえぱ、カラの栄養剤の化学名をよく見た?」と言って、ジェイコプを見あげた。そのとき、カラがそばにやってきて、頭をさげた。
「もうご用かすんだのでしたら、ジェイコプ、そのべとつくチューブをかたづけてしまいましょうか」
「え? ああ、そうかい、カラ。すまないな。で、いまなんと言ったんだい、エレン?」
真剣な顔をしているときも、彼女は信じられない椴ど美しかった。この、愛に落ちた≠ニきの初期症状のせいか、つかのま、彼女の声が聞きとりにくくなった。「……はこう言いかけていたの。ドクター・マーティンが声に出してその化学名を読みあげたとき、ある偶然の一致が興味を引いたって。憶えてる、前に有機色素レーザーの話をしたときのこと? つまりね……」
エレンの声が遠のいていった。彼女の口が動くのが見えたが、聞きとれたのは.ひとことだけだった。「……グマリン……」
無意識層で、トラブルが噴出していた。もうひとりの自分が、反抗しようとしている。ハイド氏が、彼にエレンのことばを聞かせまいとしているらしい。そこで、ジェイコプはふいに気がついた。デヅキの縁で、ふたりで話をしたとき、つぎの〈カリュプソ〉のジャンプには、星々に彼の遺伝子を持っていきたいとエレンはほのめかしたがーあれ以来、彼の半身は、いつもの洞察力のおこぼれをくれなくなっているのだ。
ハイドはエレンを憎んでいる! ショックとともに、ジェイコプはそれを悟った。失ったものをふたたび満たすことのできる女性にはじめて出会ったというのに、ハイドは彼女を憎んでいるのだ! (瞬間的に頭痛が起こり、たちまち消えた)
しかも、自分の無意識の一部から、彼は締めだされている。もうひとりの自分は、すべての断片を把握し、それを表面まで出そうとしない。これは契約違反だ。こんなことはとてもがまんできない。しかし、なぜあいつはこんなまねを!
「ジェイコプ、だいじょうぶ?」エレンの声がもどってきた目彼女はけげんそうな顔で覗きこんでいた。と、彼女の肩ごしに、フード・マシーンのそばに立って、カラがじっとこっちを見つめているのが見えた。
「エレン」ジェイコブは唐突に言った。「聞いてくれ、パイロヅト席のそばに小さな薬箱を忘れてきた。この頭痛はときどき起こるやつで、その薬箱のなかに、これに効く薬が入っている……それを捜して、持ってきてくれないか?」片手を額にあてて、痛そうに顔をしかめる。
「ええ……いいわ」エレンが彼の腕に触れた。「じゃあ、いっしょにきたら? あっちに行けば、横になる場所もあるし。そこで話を……」
「だめだ」ジェイコプはエレンの両肩をつかみ、やさしくパイロット席の方向に向けた。「たのむから、行ってくれ。ぼくはここで待っている」エレンを追いやるために、時間が失われていく。ジェイコプは湧き起こるパニックを、懸命に押さえた。
「わかったわ、すぐにもどってくる」とエレンは答えた。彼女が歩み去っていくと、ジェイコブは安堵のため息をついた。あたりにいる人間は、ほとんどが服務規定にしたがって、ベルトにゴーグルをぶらさげている。だが、完全無欠で有能なはずのダシルヴァ司令官は、自分のゴーグルをカウチに忘れてきていたのである。
パイロット席へ十メートルほど進んだところで、エレンはいぶかりはじめた。
パイロット席のそばには、ジェイコプは薬箱など置いていなかったはずだ。もし置いていたなら、わたしがすぐに気づいている。彼はわたしをそばから離したかったのだ! しかし、なぜ? うしろをふりかえる。ジェイコプは、ちょうどフード・マシーンからもどってくるところだった。手にはタンパク質のロールを持っている。マーティンにほほえみかけ、チェンにうなずき、ファギンの横を通って、彼は中央ドームから離れようとしていた。そのうしろで、カラが目を明るく輝かせながら、重力ループのハッチのそばで、一行を見つめていた。
ジェイコプは少しも頭痛を起こしているようには見えない! エレンは傷つき、混乱した。
ええ、わたしがそぼにいないほうがいいんなら、いいわよそれで。いまいましい薬とやらを捜すふりをしてあげるから!
ふりむきかげたとき、ふいにジェイコプがファギンの根瘤のひとつにつまずいて、デッキに倒れた。タンパク質ロールがはずみながらころがっていって、パラメトリック・レーザーの台にぶつかった。エレンがなにをする間もないうちに、ジェイコブは所在なげに笑いながら立ちあがり、レーザーまで歩いていって、タンパク質ロールを拾いあげた。身をかがめるとき、その肩がレーザーのバレルに触れた。
つぎの瞬間、ブルーの光が船内に溢れた。警報がけたたましく鳴りだした。エレンは本能的に腕で両目をおおい、腰に手を伸ばして、そこにあるはずのゴーグルを探った。
ない!
自分のカウチは三メートル先だ。いま自分のいる位置が、そして愚かにもゴーグルを置き忘れてきた場所が、ありありと目に浮かんだ。エレンは向きなおり、カウチに向かってつっぱしり、ひとつづきの動作でゴーグルを引っつかんで、目にはめた。
いたるところに、明るい光点が乱れとんでいる。船殻に対して九十度の方向に向けられていたPレーザーの向きが変わり、それの発射ずるビームが、サンシップの船殻内の凹面壁に反射してはねまわっているのだ。デッキとドームに反射してひらめく、改良されたコンタクト・コード=B
フード・マシーンのそぽでは、いくつかの人影がのたうちまわっていた。だれもPレーザーのスイッチを切ろうとはしていない。ジェイコプとドナルドスンはどこだ? 最初の閃光で、ふたりとも目もつぶされてしまったのか?
何人かが、重力ループに通じるハッチのそばでもみあっていた。閃く陰気な光のなかで、エレンはそれがジェイコプ・デムワと整備主任……そして、カラであることを見てとった。彼らは……ジェイコブは、異星人の頭に袋をかぶせようとしている!
迷っている暇などない。わけのわからない戦いをとめに入るか、自分の船に対する潜在的な危険を断つか、どちらかとなれぱ、とる道は決まっている。でたらめにふれ動くかすかな光線の下をかいくぐり、エレンはPレーザーのもとへ駆けよると、プラグを引きぬいた。
だしぬけに、あちこちに閃いていた光の点は消えたが、ただひとつ、なおも閃く光があり、同時にハッチのそばで苦痛の悲鳴があがって、だれかが倒れる音がした。唐突に警報が鳴りやみ、あとには人々のうめき声だけが残された。
「船長、いまのはなんです? なにがあったんです?」インターカムから、パイロットの声が響いた。エレンは近くのカウチのマイクをとりあげ、ロ早に言った。
「ヒューズ、船の状態は?」
「正常です。ですが、ゴーグルをつけていて助かりましたよ! いったいなにが起こったんです?」「Pレーザーが暴発したのよ。現状を維持。群れから約一クリックの距離を保って。わたしはすぐにもどるわ」マイクを放して顔をあげ、「チェン! デュプロフスキー! 報告なさい!」と叫んで、暗闇のなかに目を凝らした。
「ここです、船長!」チェンの声がした。エレンはののしって、自分のゴーグルをむしりとった。チェンはハッチの向こうで、デッキのそばに横たわる男の前にひざまずいていた。
「デュプロフスキーです」とチェンは言った。「死んでます。眉間を焼き貫かれたんです」
ドグター・マーティンは、葉むらで覆われたファギンの体の影にうずくまっていた。エレンが急ぎ足で近づいていくと、カンテンはそっと、笛のような音をたてた。
「だいじょうぶ、ふたりとも?」
ファギンは、なんとなく間延びした「イエス」と聞こえる、長い音をたてた。マーティンは震えながら、こっくりとうなずいたが、ファギンの体の影にうずくまったままだ。その顔に、ゴーグルがななめにはめられている。エレンはそれをはぎとった。
「しっかりして、ドクター。患者よ」マーティンの腕を引っぱりながら、「チェン! わたしのオフィスに行って、救急キットを持ってきなさい! 大至急!」
マーティンは立ちあがりかけたが、いやいやをしながら、また尻もちをついた。
エレンは歯ぎしりをして、つかんでいた腕を強くぐいと引っぱり、驚く年上の女性を引き起こした。マーティンがよろよろと立ちあがる。
その顔」に一発、エレンは平手を食らわせた。「しゃっきりなさい、ドクター! みんなの手あてを手伝うのよ、さもなければその歯を蹴り折ってやるわ、いい!」マーティンの腕をとったまま、二、三メートル向こうの、ドナルドスン主任とジェイコブ・デムワが横たわっているところまで引っぱっていく。
ジェイコブはうめいて、身じろぎしはじめていた。エレンは心臓をどきどき言わせながら、ジェイコブの顔から腕をはずした。火傷はあさく、目には達していない。ジェイコブはゴーグルをはめていたのだ。
マーティンをドナルドスンのそばに引っぱっていき、すわらせた。整備主任は、顔の左側にひどい火傷を負っていた。左のゴーグルのレンズが割れていた。
チェンが駆け足で、救急キットを持ってきた。
ドクター・マーティンはドナルドスンに背を向け、身震いした。それから、顔をあげ、救急キットを持っているクルーを見あげた。手をさし出した。
「手助けがいる、ドクター?」とエレン。
マーテ孔ンはデッキに医療道具を広げた。それから、顔をあげずに、かぶりをふった。
「いえ。静かにしてて」
エレンはチェンに呼びかけた。「ラロックとカラを捜してきなさい。ふたりを見つげたら報告して」クルーは駆け去った。
ジェイコプがもういちどうめき、肘で体を起こそうとした.エレンは近くの機械から布きれをとりだして、それを濡らした。それから、ジェイコプのそばにひざまずき、肩をかかえて抱き起こずと、頭を片膝の上にのせた。火傷をそっとぬぐうと、ジェイコプはそれをふりはらおうとした。
「ううん……」ジェイコプはうめいて、片手を頭に持っていった。「もっと早く気づくべきだった。彼の祖先は、枝わたりをする樹上生活者だ。チンプなみの力があるのは当然なのに。あんなにひよわそうに見えるなんて!」
「なにが起きたのか話せる?」彼女はそっと訊ねた。
ジェイコプはうめきながら、左手で腰の下をさぐった。二度、なにかを引っぱりだそうとした。ようやく、保護ゴーグルが入っていた大きな袋を引っぱりだした。それをじっと見つめてから、放り投げた。
「頭がやすりにかけられたみたいだ」押しあげるようにして半身を起こし、ちょっとのあいだ両手を頭のうしろにあてて体をゆすってから、おろした。
「カラがたまたま気を失ってそこに倒れてる、なんてことはないだろうな? 殴りつけられてぼんやりしたあと、戦い好きのあいつが顔を出すかと思ってたんだが、そのまま気を失ってしまったらしい」
「カラはどこにいるのかわからないわ」とエレン。「それがいったい……?」
そのとき、チェンの声がインターカムから轟いた。
「船長? ラロックを見つけました。方位二十四度の位貴です。彼はなんともありません。騒ぎが起こったことさえ知りませんでした!」
ジェイコプはドクター・マーティソのそばに行き、口早に話しかけはじめた。エレンは立ちあがり、フード・センターのそばの受話器をとった。
「カラは見た?」
「いえ、どこにも見あたりません。裏デッキにいるんでしょう」チェンは声をひそめて、「どうも、殴りあいのあったような印象を受けてるんですが。なにがあったのかわかりましたか?」
「なにかわかれば、そっちへもどります。そのあいだ、ヒューズと交替してやったほうがよさそうね」
ジェイコブがインターカムのそばにやってきた。
「ドナルドスンはだいじょうぶだ、新しい目がいるだろうが。いいかい、エレン、ぼくはこれから、カラをつかまえにいく。ひとり部下を貸してくれないか? それから、できるだけ早々に、太陽を立ち去ったほうがいい」
エレンはわけがわからなくなった。「あなたはわたしの部下のひとりを殺したばかりなのよ!デュプロフスキーは死んだのよ! ドナルドスンは目をつぶされて、そのうえまだ、かわいそうなカラを追いつめるのに人手を貸せというの? いったいこの騒ぎはなに?」
「ぼくはだれも殺しちゃいない」
「わたしは見たのよ、このどじのうすのろ! あなたはPレーザーにぶつかって、暴発させたじゃないの! あなたがしたのよ! それに、カラを襲ったのはなぜ?」
「エレン……」ジェイコブはたじろいだ。片手を頭に持っていき、「説明してる時間はない。きみは早急に船を太陽から離脱させてくれ。ぼくらが気づいた以上、カラが下でなにをしでかすかわからない」
「まず説明なさい!」
「ぼくは……ぼくはわざとレーザーにぶつかったんだ……ぼくは……」
彼女の船内服は、あまりぴったりと体にフィットしていたので、まさかそんなものを持っているとは思いもよらなかったが、気がつくと、エレンの手のなかには、小型スタンナーが握られていた。「つづけなさい、ジェイコブ」と彼女は氷のような声で言った。
「……彼はぼくをじっと見ていた。もしぼくが気づいたそぶりを見せようものなら、彼はたちまち全員の目をつぶしてしまったかもしれない。だから、直接光のとどかないところにきみをやってから、ゴーグルの袋をとりにもどったんだ。そして、彼を混乱させるために、レーザーのレバーを蹴とばしてスイッチを入れ……レーザー光を船内じゅうに反射させた……」
「そして、わたしの部下を殺し、傷つけたのね!」
ジェイコプは立ちあがり、「聞け、このチビのぼんくら!」と一喝すると、のしかかるようにして言った。「ビームの出力はさげておいた! 目はくらむかもしれないが、火傷するほどじゃない! ぼくの言うことが儘じられないんなら、殴り倒すがいい! 縛りつけるがいい! ともかく、カラが船の人間を皆殺しにする前に、さっさと船を太陽の外に出すんだ!」
「カラが……」
「彼の目だよ! クマリンだ! 彼の栄養補給剤≠ヘ、レーザーに色をつけるための色素だったんだ! カラのやつが、ぼくとドナルドスンに手を貸そうとしたデュプロフスキーを殺したんだ!
母星のレーザー植物の話はでたらめさ! プリングという種族は、みずからコヒーレソト光の光源を持っているんだ! 成体<^イプのサンゴーストを映しだしていたのは、彼だ! そして……ええいくそ!」ジェイコプは空を殴りつけた。
「もし彼の映写能力が、サンシップの内壁にゴースト≠映しだせるほどすぐれたものなら、
〈ライブラリー〉のデザインになるコンピューターに光学的にデータを入力する芸当もできるにちがいない! ラロックに要観察者のレッテルを貼るようコンピューターにプログラムしたのは、カラだ。そして……そしてカラは、ぼくの見ている前で、ジェフの船に自爆の指示もプログラムした! ぼくがあの美しい光に見ほれているあいだずっと、カラは指示を与えつづけていたんだ!」
エレンはかぶりをふりながら、あとずさった。ジェイコプは怒りにこぶしを握りしめ、一歩詰めよって彼女を見おろしたが、その顔は自責の念でいっぱいになっていた。
「人型のゴーストをいちばん最初に見つけるのが決まってカラだったのはなぜだ? カラがケブラーと地球に行っているあいだ、だれもその姿を見た者がいなかったのはなぜだ? こうなる前に、おれはどうして思いつかなかったんだ──暴力性向判別テストのさい、自分の網膜≠燗ヌみとってはどうかと申し出たときの、カラの狙いを?」
ことばはあまりにも矢継ぎ早に逝りでてきた。考えようとしているのだろう、エレンの眉間には、深い皺が刻まれている。
ジェイコプは嘆願するような目をして言った。「エレン、たのむからぼくの言うことを信じてくれ」
彼女はためらったが、やがてはっとして、「しまった!」と叫ぶなり、荒々しくインターカムのマイクをとりあげた。
「チェン! ただちに太陽より離脱! 安全ベルト着用の警告は不用、全速推進で、時間圧縮率アップ! 二回まぱたきしないうちに、黒い空を見せて!」
「了解!」
船に急加速がかかり、中和フィールドが一時的に圧倒されて、エレンとジェイコプはよろめいた。司令官はそれでも、インターカムにしがみつき、
「全員に告ぐ、これよりいかなる場合もゴーグルを着用のこと。全員、できるだけすみやかにベルトを着用されたい。ヒューズ、大至急ループ・ハッチへ出頭せよ!」
外では、卜ロイドの群れがいっそう高速で横をかすめだした。ひとつのトロイドがデッキのリムの下に沈むたびに、その縁が別れを告げるかのように、まばゆく輝いた。
「わたしも気づくべきだったわ」エレンは気落ちしたようすで言った。「それなのに、わたしはPレーザーを切ってしまった。彼に逃げられたのは、わたしのせいだわ」
ジェイコブはずばやく、エレンに強烈なキスを見舞った。離れたあとも、彼女の唇はずきずきしていたほどだった。
「きみは知らなかったんだ。立場が逆なら、ぼくも同じようにしてたさ」
エレンは自分の唇に触れながら、ジェイコプの肩ごしに、デュプロフスキーの死体を見つめた。
「あのとき、わたしを追いやったのは……」
チェンの声が割って入った。「時間圧縮装置の目動制御がはずれなくなっていまず。手助けにヒューズをここに残してもらえませんか? ヘルメス基地とのメーザー通信もできなくなってるんです」
ジェイコブは肩をすくめた。「まず、外部に連絡できないようメーザー・リンクを切り、つぎに時間圧縮装置の制御機能を奪う。つぎは重力駆動装置と、停滞場だ。停滞場ジェネレーターを壊すのは、ほかの処置では不充分だった場合の最後の手段だろう。そして、ほかの処置だけでは不充分なはずだ」
エレンがインターカムに向かい、「だめよ、チェン。いますぐヒューズをここによこしなさい! ひとりでできることをやっていて」と言うと、スイッチを切った。
「わたしもいっしょにいくわ」
「だめだ、きみは残れ」ジェイコプはもういちどゴーグルをはめ、床から袋を拾いあげた。「もしカラが最終段階に着手したら、文字どおり、ぼくらは黒焦げだ。しかし、そこまで行く前にとめられたなら、船を安全な場所へ導けるのはきみしかいない。さあ、その銃を貸してくれ。役にたつかもしれない」 、
エレンは言われたとおりにした。この段階で議論するのは愚かなことだ。ジェイコプには策がある。だが、彼女にはない。
静かな船のうなりは、リズムが変わって、低く乱れた音になった。
エレンはジェイコブの問いかけるような視線に答えた。「時間圧縮装置の音よ。すでに彼は、時間圧縮率を落としはじめている。いろいろな意味で、わたしたちにはもう、あまり時間がないわ」
25 手詰まり状態
ジェイコブは、ハッチの壁の外側にひょろ長い異星入の姿が見えたら、すぐにとびすされるよう身構えつつ、ハッチの手前で身をかかめ、外のようすをうかがった。ここまではいい。カラは重力ループにはいなかった。
裏デッキにつづく唯一の道、宙返り通路は、待ち伏せにはもってこいの場所かもしれない。だが、カラがそこにいなくても、ジェイコプはあまり驚かなかった。理由はふたつある。
ひとつは戦術的なものだ。カラの武器は、視線にそって一直線に作用する。だが、ループはかなり急勾配でカーブしているため、こちらはそれと気づかれないうちに、数メートルの距離まで近づけるはずだ。ループぞいに投げつけられた物体は、ほとんど速度を落とすことなく、向こう側までたどりつくだろう。いま、ジェイコブはそれをはっきりと確信した。ループに踏みこむとき、彼とヒューズは厨房から何本かナイフを投げこんでおいたのだが、それがみんな、裏デッキへの出口で見つかったのだ.それは、飲料チューブからこぼれた──これは宙返りループを歩きなから投げつけたものだ──アンモニアの水たまりのなかにころがっていた。
ハッチのすぐ外にカラが待ち伏せている可能性もなくはなかったが、カラにはうしろを無防備にしたまま先に進まなけれぱならない、もうひとつの理由があった。サンシップが高軌道に乗るまでには、かぎられた時間しかない。宇宙空間に出てしまえぼ、サンシップは彩層の嵐の打郷からまぬがれるし、船の頑丈な物理的船殻は、太陽の高熱を充分反射して、助けがくるまで人間たちを生かしておいてくれるだろう。したがって、カラとしては、みんなを、そして自分自身を、迅速に処分してしまう必要にせまられている。ジェイコプは確信していた。あのプリングの専門家は、ドームを出て右側九十度の位置にあるコンピューター入力ユニットのそばにおり、レーザー眼を使って、少しずつ機械の安全装置をブ日グラムしなおしているにちがいない。
なぜそんなことをするのかという疑問は、ひとまずあとまわしだ。
ヒューズがナイフを拾いあげた。袋、何本かの飲料チューブ、そしてエレンの小型スタンナーだげが、彼らの武器のすべてだ。
船ごと全員死ぬかどうかの瀬戸ぎわである以上、古典的な戦術ならば、ここはひとりが犠牲になって、巷うひとりがその隙にカラを倒すべきところだ。
ジェイコブとヒューズが、それぞれ逆の方向からドームをまわりこみ、慎重にタイミングを計って、同時にカラにとびかかる。あるいは、ひとりが前に立ちはだかり、もうひとりがその肩ごしに、スタンナーで狙い撃ちにする。
だが、どちらの作戦も成功ずまい。彼らの敵は、文宇どおり、見た瞬間に相手を殺せるのである。にせの"成体"サンゴーストの投影とちがって、カラの殺人光線には色がついていない。表デヅキの格闘で、カラが何回レーザーを発射したのか……その発射間隔はどのくらいだったか、思いだせればいいのだが。だが、それがわかったところで、たぶんなんの役にもたたないだろう。カラの目ふたつに対して、追手はふたり。片目でひとりずつ撃てぱ、おそらくけりがつく。
なによりまずいのは、その立体映像投射能力によって、デッキに出た瞬間、船の内壁に映った反射から、カラにこちらの位置を特定できるのかどうか、はっきりしないことだった。内壁に反封させたレーザー光では、人を傷つけることはできないだろうが、それはたいして気休めにはならない。
船体内壁を反射させることで、ビームの威力があれほど極端に減衰するものでなけれぱ、人間全員とファギンが重力ループ内に入り、船内じゅうをPレーザーでくまなく走査させて、カラを倒す試みをためすこともできただろうに。
ジェイコプはののしり、Pレーザーの調整になにを手まどっているんだろうと思った。となりでヒューズが、壁のインターカムに小声でつぶやきかけた。それから、ジェイコブに向きなおり、「準備完了です!」と言った。
ドームの外側が光で満たされたとき、ゴーグルのおかげで、刺激の大半は和らげることができた。それでも、涙のにじんだ目をまたたいて、まぶしさに慣れるまでには、ちょっと時間がかかった。
ダシルヴァ司令官は、おそらくドクター・マーティンの助けを借りて、Pレーザーを表デッキリム付近に引っぱっていったにちがいない。もし彼女の計算が正しければ、いまのビームは、裏デッキ側のドーム側面の、ちょうどコンピューター入力部付近に命中したはずだ。残念ながら、デッキの縁のせまい隙間を通し、A点からB点に反射させるためには、複雑な計算をしなけれぱならない。いまのピームでは、カラを傷つけることはできなかっただろう。
だが、それでカラが驚いたことはまちがいなさそうだ。ビームが発射された瞬聞、まだジェイコブがぎゅっと目をつぶっているうちに、ずっと右のほうで、ふいにガチガチという音となにかが動く音が聞こえたのだ。
目がはっきり見えるようになると、細くまばゆい光の線が、何本も空中にかかっているのがわかった。Pレーザー・ビームが、空中の微量な塵に軌跡を描いているのだ。これは好都合だった。ビームに触れずにすむ。
「インターカムのボリュームは最大になってるか?」ジェイコブは口早に訊いた。
ヒューズがぐっと親指をつきたててみせた。
「よし、行くそ!」
Pレーザーはいま、たまたま青緑色の色あいを帯びている。内壁からの反射が、混乱に拍車をかけてくれればいいが。
足をそろえて、数をかぞえる。「ワン、ツー、いまだ!」
ジェイコブはドームの外へとびだし、デッキを駆けぬけて、その縁にある、大きな記録装置の一台の陰にとびこんだ。ジェイコブの隠れた機械から数えて、右まわりにふたつめの機械の陰に、ヒューズが勢いよくとびこむ音が聞こえた。
ふりかえると、ヒューズは一度手をふってみせ、声をひそめて、「こっちにはなにもなし!」と言った。ジェイコプは自分の隠れている機械の角から、救急キットにあった鏡をつきだして、あたりを見まわした。ヒューズの使っているのは、マーティンの小物入れから持ってきた、べつの鏡だ。
カラは見あたらなかった。
ジェイコブと相棒の位置からは、デッキの五分の三の範囲が見わたせる。コンピューターの入力部はドームの向こう側の、ヒューズの視野のすぐ先だ。ジェイコブのほうは、つぎつぎと記録機械の陰にとびこみながら、大きく遠まわりしていかなけれぱならない。
サンシップの内壁は、Pレーザーの反射しているところが、ぽつんぽつんと光っていた。その色はたえず変化していた。さもなければ、彩層の赤とピンクの瘴気が、彼らを押し包んでいただろう。船は数分前に、トロイドの群れのいた大きなフィラメントをあとにしており、いまそれは、百キロほど下に遠ざかっていた。
船の下方は、ジェイコプから見ると上側だ。中央に大黒点を擁する光球が、燃えさかる平らな天井となって、どこまでも広がっており、スピキュールの森が、鍾乳石のようにたれさがっている。
ジェイコブはカをため、一気に陰からとびだすと、待ち伏せされている可能性もかまわず、身をかがめてつっぱしった。
浮遊する微粒子に軌跡をしるす、Pレーザーのビームをとびこえ、となりの機械の陰にとびこむ。すばやく鏡をつきだして、新たに見えるようになった範囲を探る。
カラの姿は見えなかった。
それに、ヒューズの姿もだ。あらかじめ打ち合わせてあった合図にしたがって、短く二回、口笛を吹いた。だいじょうぶ。ヒューズの答える、一回の短い口笛が聞こえた.
つぎの機械に進むには、ビームの下をくぐらなければならなかった。腹ばいになって床とのわずかな隙間をくぐるあいだじゅう、いまにも脇腹に殺人ビームをくらいそうな気がして、体毛がさかだった。
ようやくのことで、よろめくようにつぎの機械の陰に入ると、荒い息をしながら、それにしがみついて体を支えた。こんなはずはない! いまからこれほど疲れるわけがない。なにかがへんだ。
ひとつ大きく深呼吸してから、機械の左側の縁からそろそろと鏡をせりだしはじめた。
とたんに指先を苦痛が襲い、ジェイコプは叫び声をあげて鏡を落とした。もう少しで指を口につっこむ寸前、その手をとめ、苦痛に大きくあけた口から、数インチのところにとどめる。
自動的に、苦痛を中和するための軽いトランス状態がはじまった.指先の感覚がしだいに遠く感じられるにつれ、まっ赤になった指が意識から切り離されはじめた。が、そこで苦痛中和の流れがとまった。まるで綱引きのようだ。ここまではなんとかできたものの、そこから先はいくら集中しても、拮抗しあう圧力が、入ろうとするのと同じ力をふるって、自己催眠に抵抗するのだ。
これもまた、ハイド氏のトリックだった。ともかく、いまはやつと交渉している暇はない……たとえやつがなにを望んでいようとも。ジェイコブは、痛みがかろうじて耐えられる程度になった指先を見つめた。人さし指と薬指がひどく火傷している。ほかの指は、それよりはましな状態だ。
ジェイコブはなんとか短く口笛を吹いて、ヒューズに合図を送った。そろそろ計画を実行に移す頃あいだ。成功する見こみがあるとすれば、この手しかない。
彼らの唯一のチャンスは、宇宙空間に出ることにある。時間圧縮装置は自動モードに固定されているから──メーザー・リンクについで、カラか最初に講じた処置だ──船内の主観的時間は、船が彩層から離脱するのに要するじっさいの時間にほぼ等しい。
カラの不意を打つことがほとんど不可能である以上、彼の殺人/自殺を遅らせる最良の手段は、話しかけることだけだ。
ジェイコブは、立体映像記録装置にもたれかかり、二回息を吸ってから、耳をそばだてた。カラはいつも騒々しい音をたてて歩く。カラの完壁な攻撃を封じる望みは、そこにあった。もしカラが広いところでかなり大きな音をたてたなら、ジェイコブにも焼かれていないほうの手に握ったスタンナーを使うチャンスがあるかもしれない。スタンナーのビームは広範囲をカバーするから、きちんと狙いをつけなくてもすむ。
「カラ!」とジェイコプは大声で言った。「もう充分だとは思わないか? こっちへ出てきたまえ、話しあおうじゃないか!」
耳をすます。カラの歯が厚い把握力のある唇の奥で鳴っているような、かすかなガチガチという音がした。表デッキの格闘で、ジェイコプとドナルドスンが苦労したことの半分は、きらめく白い臼のような歯を避けることだった。
「カラ!」とジェイコプはくりかえした。「異星人を自分の種族の価値観で判断することはたしかにばかげているが、ぼくはほんとうに、きみのことを友だちだと思っていたんだ。だから、きみには説明する義務がある! ぼくらに話す義務がある! もしきみがババカプの命令で動いているのなら、投降したまえ。そうすれぱ、ぼくらはみんな、きみの戦いぶりが立派だったと証言することを誓う!」
ガチガチという音が大きくなった。すり足で歩くような足音が聞こえた。一歩、二歩、三歩……だが、そこでとまった。位置を特定するには、それではたりない。
「ジェイコブ、申しわけないと思っています」カラの声が、デッキの向こうからそっと語りかけてきた。
「全員が船ごと死んでしまう前に、あなたには話しておかなけれぱなりません。だが、その前に、あのレーザーを切ってくれるようにお願いしまず。あれは、痛い!」
「カラ、痛むのはぼくの手も同じだ」
プリングは悲しげに言った。「ほんとうに、ほんとうに申しわけありません、ジェイコブ。どうか、あなたはいまでもわたしの友だちであることを理解してください。わたしがこんなまねをするのは、ひとつには、あなたの種族のためでもあるのです。
これはどうしても避けられない犯罪です、ジェイコプ。唯一の救いは、死の訪れが間近く、すぐに記億から解放されることです」
異星人の詭弁に、ジェイコブは驚いた。どのようなわげがあるにせよ、カラの口からこのような身勝手な泣きごとを聞かされようとは、思ってもいなかったのだ。返事を返そうとしたとき、エレソ・ダシルヴァの声がインターカムから響いた。
「ジェイコプ? 聞こえる? 重力スラストが急速に低下中。進路が定まらなくなりつつあるわ」
真の脅威は、そのことばが言外に暗示するところにあった。もし早急に手を打たなけれぱ、船は光球に向かって、二度ともどれぬ長い落下をはじめるだろう。
ひとたび対流する粒状斑につかまってしまえば、船は太陽の核まで引きこまれてしまう──もしそれまで船がもちこたえていれぱ。
「わかったでしょう、ジェイコプ」とカラが言った。「わたしの作業を遅らせようとしてもむだです。作業はほとんど終わりました。わたしがここにいるのは、あなたたちが細工をもとにもどせないようにするためです。
ただ、どうか最後の最後まで話につきあってください。わたしはあなたの敵として死にたくないのです」
ジェイコプは朦朧とした、まっ赤な太陽の大気を見やった。燃えるガスの触手は、なおも船の下方へ=i彼にとっては上方へ)流れさりつつあったが、それはいまこのとき、この一帯における、ガスの運動の一部とも考えられた。ガス雲が流れる速度は、明らかに落ちている。ということは、船はすでに落下をはじめているのかもしれない。
「わたしの能力と工作に関するあなたの発見は、ほぼあたっていまず、ジェイコプ。あなたは多くの曖昧な手がかりから、答えを見つけだしました! わたしの種族的背景と結びつけた点は、じつにみごとです!
では、これはどうです? わたしは、リム・カメラに映らない位置に幻影を投影しましたが、わたしが裏デッキにいるあいだにも、ときどき船頂側に幻影が現われた仕掛けは、解明できましたか?」
ジェイコプは考えようとした。スタンナーの冷たい側を、頼に押しあてる。ひんやりと気持ちよかったが、といってなんのアイデアも湧いてはこなかった。それに、カラと話をつづけることにも、いくぷん神経を割かなくてはならない。
「そんなことは考えるまでもないさ、カラ。きっときみは、船殻の内壁によりかかって、デッキの透明な懸架フィールドを通してピームを送りこんだんだろう。それでゴーストの姿が屈折していた説明もつく。それはじっさいには、一定の角度をとって、船殻に反射していたんだ」
じっさい、それは強力な手がかりだった。ジェイコブはなぜそれを見落としていたんだろうといぶかしんだ。
それに、バハで深いトランス状態にあったときに見た、あのまばゆいブルーの光! あれがあった直後に目覚めて前を見ると、カラが立っていたんじゃないか!あのとき、このイーティーは、おれのホログラムを撮っていたんだ! 相手をよく知り、その顔を忘れないための、これはなんと風がわりな方法だろう!
「カラ」とジェイコブはゆっくり語りかけた。「これといった証拠をつかんでいるわけじゃないが、前回の降下の終わり近くで、ぼくが異常な行動を起こしたのは、あれはきみのしわざじゃないのか?」
しばらく間があった.それから、カラがしゃべりだした。その発音は、いっそう舌ったらずになっていた。
「そうです、ジェイコブ。申しわけありません。でも、あなたはあまりにもいろいろなことに首をつっこもうとしていました。だから、あなたの信用をなくそうとしたのです。うまくいきませんでしたが」
「しかし、どうやって……・」
「ドクター・マーティンが話すのを聞いたのです、光が人間にどんな効果をおよぼすのかを!」
ブリングはほとんど叫ぱんばかりにして言った。カラが相手の言うことを遮るのは、ジェイコブの憶えているかぎり、これがはじめだった。「わたしは何ヵ月間も、ケプラー博士を使って実験してきました! つぎはラロックとジェフを使い……そのつぎはあなたを。わたしが用いたのは、細い回折ビームでず。だれにも見えませんが、それは人の思考をにぶらせるのです!
あなたがあんなまねをするとは思ってもいませんでした。ですが、なにか異常な反応を示すことはわかっていました。もういちど、お詫びを言います。でも、ああするしかなかったのです!」
船の上昇は明らかにとまっていた。二、三分前に離れたばかりの、例の巨大なフィラメントが、ふたたびジェイコプの頭上にそびえている。先端の何本ものガスの筋が、ねじくれ、身もだえながら、つかみかかる指のように、船に向かうてきつつあった。
ジェイコブは打開策を考えようとしたが、想像力が強力な障壁に遮られていた。
わかったよ! あきらめる!
もうひとりの自分に、ジェイコプは交渉をもちかけた。いったいこいつは、なにが望みなんだ?
ジェイコプはかぶりをふった。緊急事態であることを訴えざるをえまい。いまはハイドを呼びだして、かつての悪夢のときのように──水星でラロックを追いかけたときのように、あるいは写真分析室に押し入ったときのように、自分の一部にせざるをえない。ジェイコブはトランス状態に入る準備を整えた。
「なぜだ、カラ。なぜこんなことをしたのか、教えてくれ!」
返事などはどうでもいい。きっとヒューズが聞いているだろうし、エレンも録音しているはずだ。ジェイコプには、そんなものに気をとられている余裕はなかった。
抵抗がある! 非直線的、・非直角的な思考の座標のなかで、彼は感覚と意識をふるいにかけた。かつての自動システムがまだ働く範囲で、ジェイコブはなすべき仕事に感覚と意識を解放した。
ゆっくりと、ごまかしとカムフラージュがはぎとられていき、ジェイコブはついに、もうひとりの自分と顔をつきあわせた。
これまでいかなる攻撃にもびくともしなかった城壁が、いまはいっそう堅固になっていた。土盛りだった城壁は、石壁にとってかわられている。城の周囲には、先の尖がった高さ二十マイルもの細い針を使って、さかもぎがはりめぐらされている。いちばん高い塔の頂上には、はためく軍旗。その旗にそめぬかれた文字は、忠誠≠セった。旗は二本のポールでつなぎとめられ、ポールの先端には、それぞれ首が刺し貫かれていた.
首のひとつはすぐに見分けがついた。自分の首だ。切りとられた首からしたたりおちた血は、まだぬらぬらと光っている。みずからを責めるような表情だ。
もうひとつの首を見たとたん、ジェイコプの血は凍りついた。それはエレンの首だったのだ。彼女の顔は、傷だらけ、穴だらけになっており、見ているうちに、その目が弱々しくまたたいた。彼女の首は、まだ生きていた。
なぜだ! なぜエレンにこれほどの怒りを示すのだ? それに、この自殺の暗示……ジェイコブと合体したくないというハイド氏の意志は、かつての彼に近い、超人を作りだしてしまったのだろうか?
いまカラが攻撃する気になれぽ、ジェイロブには手も足も出なかっただろう。彼の耳は、吹きすさぶ風の悲鳴で満たされていた。すさまじい気流の咆哮が聞こえ、ついで、だれかが落ちていく音が……すぐ目の前を、だれかが落下しながら叫んでいる声が聞こえた。
あのとき以来はじめて、ジェイコプは彼女のことばを識別できた.
「ジェイク! 足もとに気をつけて……!」
それだけか? では、あれにかかわるさまざまな混乱はなんだったのか? あれがタニア最後の皮肉な警旬であるとわかるまで、なぜこんなに長いあいだ時間がかかったのだ?
決まっている。死が不可避となったいま、彼の半身は、隠されていたことばがただのまやかしであったことを見せようとしているのだ。ハイドはほかになにかを隠している。それは……罪悪感。
〈ヴァニラ・ニードル〉の事件以来、彼はその重荷を背負ってきたが、それがどれほどのものかは認識していなかった。いま、彼は、いままですごしてきたこのジキルとハイドの分化が、どれほど深刻なものであるかを理解した。かけがえのないものを失ったトラウマをゆっくりと治療するかわりに、彼は人為的な存在を封じこめ、みずからを、そしてタニアの落下を手をこまねいて見送ったことへの恥辱を糧にして、それを育てあげ、肥大させたのだ……あの狂気の日、地上二十マイルの高みで、一度にふたつのことをできないと知った男の、とてつもない驕りのために。
そして、これもまたその傲慢さのひとつの現われにちがいない……彼は自分が、苦悩からの人間的な回復を──何十億という同胞の人類たちが、それぞれ大事なものを失ったときに経験してきた苦しみにうちひしがれ、それをのりこえるというパターンを──避けられると思ったのである。
そしていま、彼はみずからの首を締めるはめとなった。いまや、胸壁の旗印の意味するものは明白だった。病んだ自分の心は、失った恋人への忠誠を示すことによって、罪を少しでもあがなおうとしているのだ。それも、公然たる忠誠ではなく、心の奥深くでの……あらゆる人間から自分を遠ざけようとする、病んだ忠誠をもって。それなのに、いままでずっと、自分は人を愛することができるからだいじょうぶだと、みずからに信じこませていたとは!
ハイドがエレンを憎むのもむりはない! ジェイコプ・デムワをともに死へ引きずりこもうとずるのもむりはない!
タニアは決しておまえなど認めなかっただろう、と彼は半身に向かって言った。だが、ハイドは聞いていなかった。それにはそれなりの諭理があり、こちらの論理を用いてもむだなのだ。
くそ、タニアならエレンを気に入ったろうに!
だが、それでどうなるわけでもない。障壁は堅固だった。ジェイコプは目をあけた。
彩層の赤みが深まっている。船はいま、フィラメントのただなかにいた。ゴーグルをはめているのに、色彩が閃くのが見え、ジェイコブは左に目をやった。
トロイドだった。船はふたたび、群れのなかにもどってきたのだ。
見ているうちに、縁をまばゆい模様で飾りたてられて、もう何体かがそばを通りすぎていった。サンシップの窮状も知らず、彼らは狂ったドーナツのように回転していた。
「ジェイコプ、あなたはなにも言おうとしない」カラの哀調をおびたものうげな声が、背景に割りこんできた。名前を呼ばれて、ジェイコプは耳をそぼだてた。
「きっとあなたには、わたしの動機について、それなりの考えがあるでしょう。ですが、この行為がよりよい結果を……わたしの種族だけでなく、あなたの種族にもあなたがたの類族にも、よりよい結果を産むことまでは、見通せていないでしょうね?」
ジェイコプは頭をふるって、すっきりさせようとした。なんとか、ハイドの抵抗で鈍った頭の働きをとりもどさねぽならない! ただひとつ、指が痛まなくなったことだけが救いだった。
「カラ、それについては、もうしぼらく考えてみなければならない。なんとか話しあいの余地はないのか? 食料をさしいれてやってもいい。そうすれば、なにか打開策が出てくるだろう」
間があった。それから、カラがゆっくりと答えた。
「あなたはじつに巧妙な策を弄する人だ、ジェイコブ。もう少しで、わたしは気が変わるところでした。ですが、やはりあなたとあなたのお仲間には、じっとしていてもらったほうがいい。じっさい、この点は念を押しておきますよ。もしあなたなりあなたのお仲間なりが動いたなら、わたしは動いた人を視ます」
ぼんやりした頭で、ジェイコブはいぶかしんだ。異星人にさしいれを申し出ることが、どれほど巧妙な策≠ネのだろう。それに、どこからこんな考えが浮かんできたんだ?
船はまずます急速に落下しつつあった。頭上では、光球層の不吉な天井をバックに、卜ロイドの群れが広がっている。船の横を通りすぎるとき、近くのトロイザがブルーとグリーンに輝いた。その色は、遠くなるにつれて薄れていった。もっとも遠いグループは、それぞれがちっぽけな緑の閃光の上でつりあいをとる、小さくて暗い結婚指輪のようだ。
いちばん手前の磁食生物のグループのあいだに、動きが湧き起こった。船が落下していくにつれて、彼らは一体、また一体と、ジェイコプのさかさまになった視点から見て下≠ヨ、側面へと移動しだしたのだ。一度、その一体の尾のレーザーが横切り、グリーンの閃光がサンシップ内を満たした。それで船が壊れなかったということは、自動スクリーンがまだ作動しているということだ。
頭上高くから、はためく姿が急速に落下≠オてきて、横をかすめ、デッキの下へと消えた。ついでもう一体、波打つ亡霊が現われ、つややかな体を虹色に輝かせて、しばらくジェイコプのいる側のすぐ外にとどまっていた。やがて、それもデッキの下に沈み、見えなくなった。
サンゴーストが集まりつつあるのだ。おそらく、まっしぐらに落ちていくサンシップが、ついに彼らの興味を引いたのだろう。
いま、船は群れの最大の部分を通過しようとしていた。すぐ上の、船の落下コース上には、大型磁食生物の集団がいる。そのまわりを、小さいが明るく輝く牧人たちが、踊りまわっている。ジェイコブは彼らが道をあけてくれることを祈った。ほかのものを道連れにしても意味はない。白熱光を放つ船の冷却レーザーの尾は、危険なほど集団の近くを横切っている。
ジェイコプは意を奮い起こした。ほかに打つ手はない。彼とヒューズは、カラに突撃を試みなけれぱならない。ジェイコブは短く一回、長く二回、口笛を吹いた。ちょっと間があってから、応答が返ってきた。向こうも用意ができたのだ。
なにか音がするまで待つ。とびかかれる位置まで近づいたあと、少しでも攻撃を成功させられるとしたら、なにか音がした瞬間、カラが気づく前にしかけるしかないーそういう手はずになっているのだ。
ヒューズはもっと長い距離を進まなくてはならないから、おそらく先に動くのは向こうだ。
ジェイコプは緊張してうずくまり、攻撃することだけに神経を集中させた。スタンナーは汗で濡れた左手に握られている。自分の心の切り離された部分から噴きだしてくる、こうるさい振動を無視する。
音がした。だれかが倒れるような音が、どこか右手から聞こえてきた。ジェイコプは機械のうしろからとびだすや、スタンナーの発射ボタンを押した。
殺人ビームに迎え撃たれはしなかった。そこにカラはいなかったのだ。貴重なスタンナーのエネルギーの一部が、これで失われてしまった。
ジェイコプは全速力で駆けだした。・もし異星人がヒューズを相手にして背を向けているうちにたどりつけたら……
光の様相が変わろうとしていた。ほんの二、三歩駆けだしたとき、頭上の光球の真っ赤な輝きが、上からのブルー・グリーンの光にすうっととって変わられた。ジェイコブは駆けつづけながら、ほんの一瞬、上に目を走らせた。その光は、トロイドの集団からくるものだった。巨大な牧獣の群れが、サンシップと衝突コースをとって、急速にせりあがってくる。
警報が鳴り響き、エレン・ダシルヴァの警告の声が大きく轟いた。青い色がますます強くなるなかを、ジェイコブはPレーザーが空気中のほこりに残す軌跡をとびこえ、カラのニメートル手前に着地した。
プリングのすぐ向こうには、ヒューズがひざまずき、血まみれになった両手をあげていた。ナイフがあたりにちらばっている。とどめの一撃で苦痛から解放されることを期待するかのように、ヒューズはうっそりとカラを見あげていた。
ジェイコブがスタンナーをかまえると同時に、物音に気づいたカラがこちらをふりむいた。発射ボタンを押しながら、一瞬、ジェイコブはやったと思った。
ついで、左手がまるごと苦痛に見舞われた。ショッグで左手がはねあがり、銃がふっとぶ。つかのま、デッキがゆらいだように見えてから、視覚がもどってきた。すぐ前に、目から輝きの失せたカラが立っていた。プリングの歯はいまや大きくむきだされ、触手のような唇≠フ先でうごめいている。
「ゆるしてください、ジェイコブ」異星人の声はあまりにもまのびしていて、ジェイコプにはほとんどなにを言っているのかわからなかった。「こうしなければ、ならないのです」
このイーティーは、あの歯でおれを始末しようとしているんだ! ジェイコブは恐怖と嫌悪にかられて、よろめくようにあとずさった。自分の歩くリズムにあわせ、歯を力強くゆっくりとかみあわせながら、カラはじりじりとせまってきた。
強いあきらめがジェイコプを押し包んだ。敗北と不可避の死に対するあきらめ。死は、もうほんの目と鼻の先にせまっている。手のうずきは、もはや死が近いことを意味するものでしかない。
「ちくしょう!」ジェイロブはすさまじい声で絶叫すると、カラに向かって頭からとびかかった。
その瞬間、ふたたびエレンの声が轟き、頭上の青い光がすべてを呑みこんだ。遠くからプーンという音が聞こえたと思うと、強力な力がみなを床からはねあげ、荒々しく振動するデッキの上へ放りあげた。
第九部
むかし、あるところに、とても高潔な若者が
いた。神々は彼にひとつだけ願いごとをかなえ
てやることにした。彼の願いは、一日のあいだ、
太陽の馬車の御者になることだった。アポロン
は悲惨な結果を予言し、異議を唱えたが、押し
きられた。それにつづくできごとによって、彼
の正しさは証明された。サハラ砂漠は、この不
慣れな御者が馬車を大地に近づけすぎたために
できた、荒廃のあとだといわれる。
以来神々は、|組合員以外おことわり《クローズド・ショップ》の立場を
とろうとするようになった。
──N・N・プレイノ
26 トンネルをぬけて
ジェイコプは、コンピューター・コンソールの反対側にはねとばされ、火ぶくれと血で覆われた両手をかばおうとして、背中から落下し、したたかに床にたたきつけられた。さいわい、弾力性のあるデッキの材質が、衝撃をいくぷん和らげてくれた。
口のなかには血の味がしたし、頭はがんがん鳴っていたが、ジェイコプは腹ばいになり、肘で体を支えた。デッキはまだ激しくゆれている。まばゆいプルーの光で裏デッキの内側を満たしながら、頭上の磁食生物たちが、つぎつぎに船底にぶつかってきているのだ。そのうちの三体が、船底の中央に大きく間隙を残し、デッキの上方*四十五度のあたりで船体に接触している。
そのあいた部分からは、船と磁食獣たちとのあいだにたまった太陽熱を、下の光球に向かって、冷却レーザーのおそるべきビームが吐きだしていた。
攻撃しているのか、ただ遊んでいるだけなのか(なんという考えだ!)。ソラリアンたちの行動を考える余裕は、ジェイコプにはなかった。この猶予を、迅速に利用しなくてはならない。
ヒューズはそばにはねとぱされてきていた。彼はすでに立ちあがっており、呆然としてよろめいている。ジェイコプも急いで立ちあがると、ヒューズの腕を……傷ついた手がたかいに触れないようにして……自分の腕ではさんだ。
「こい、ヒューズ。もしカラがまだ驚きからさめていなければ、同時にとびかかれるかもしれん!」 ヒューズはうなずいた。混乱していたが、それでも闘志はあった。ただし、その動きは大仰すぎた。ジュイコブは急ぎながら、彼を正しい方向へ導かねばならなかった。
中央ドームの曲面を曲がりこんだところで、ちょうど立ちあがろうとしているカラに出くわした。異星人はよろよろしていたが、彼がこちらを向いたとたん、ジェイコブはもはや望みがないことを知った。カラの目のいっぽうが、まばゆく発光した。カラの目がレーザーを発射するところをまともに見るのは、これがはじめてだ。ということは……
ゴムの焼けるにおいがして、ゴーグルの左側のストラップが焼き切れた。ゴーグルがはずれたとたん、船内を満たすまばゆいブルーの光輝に目がくらんだ。ジェイコプはヒューズをドームの曲面の影に押しもどし、自分もあとからとびこんだ。いまにも首筋を突然の苦痛が襲うかと思ったが、ふたりはそのまま、よろめきよろめき、重力ループのハッチまで駆けもどり、無事なかにころがりこんだ。
ファギンが脇にどいて、ふたりをなかに入れ、枝をゆらしながら、大きな声でさえずった。
「ジェイコブ! 生きていたのか! それにきみの相方も! わたしが恐れていたよりも、状況はいいらしい!」
「どのくらい……」ジェイコプはぜいぜいあえぎながら、「どのくらいだ、落下をはじめてから?」
「五分、あるいは六分。分別をとりもどしてから、わたしはきみたちのあとを追っておりてきたんだ。わたしには戦いは無理だろうが、この体で道を塞ぐことはできる。わたしの体を焼き切って通りぬけるだけのエネルギーは、カラにもないだろう!」カンテンはかんだかい笑い声をあげた。
ジェイコブは眉をひそめた。これはおもしろいポイントだ。最初、カラはどれだけのエネルギーを持っていたのだろう? 前に読んだなにかの本には、人間の体は平均百五十ワットで動いていると書いてなかったか? カラの消費するエネルギーは、それよりはるかに多いだろうが、あれは二分の一秒もない、ほんの一瞬のエネルギー放射だ。
充分な時間があれば、ジェイコプにはそれがはじきだせていただろう。カラがにせのソラリアンを投影していたとぎ、その持続時間は二十分ほどだった。それが過ぎると、あの人型のゴーストは興味を失い=Aカラは急に激しい空腹に陥った。みんなはあの圧盛な食欲の原因が、神経をすりへらしたためだろうと考えたか、じつはプリングは、クマリンを再補充しなけれぽならなかったのだ……そしておそらくは、色素レーザー反応のエネルギー源となる、光エネルギー化学物質をも。
「けがをしているじゃないか!」ファギンが叫んだ。枝が興奮したようにゆれた。「ふたりとも表デッキに行って、手当てをしてもらった橡うがいい」
「そうだな」ファギンをひとり残していきたくはなかったが、ジェイコプはうなずいた。「治療してもらっているあいだ、二、三、ドクター・マーティンに訊かなけれぱならない重要なこともあるし」
カンテンは長々と、笛の音のようなため息をもらした。「ジェイコプ、いかなる状況にあっても、ドクター・マーティンのじゃまをしてはならない! 彼女はいま、ソラリアンと接触を持っているんだ。これはわれわれの唯二のチャンスだ!」
「なんだって!」
「パラメトリック・レーザーの閃光を見て、彼らは魅きつけられてきた。そして、彼らが近づいてきたとき、ドクター・マーティンは精神波ヘルメットをつけ、彼らに呼びかけたのだ! ソラリアンは磁食獣の何体かを使って船を支えさせ、落下速度をかなり落としてくれている!」
ジェイコブの心臓はとびあがった。死刑執行を延期されたようなものだった。だが、そこで眉をひそめて、
「かなり? というと、船は上昇していないのか?」
「残念ながら。船はゆっくりとだが落下している.それに、トロイドたちがどれだけのあいだ船を支えきれるかは未知数だ」
ぼんやりと、ジェイコブはマーティンの偉業に畏れを抱いた。彼女がソラリアンとコンタクトした! それはかつてなく画期的な業績だ──それなのに、彼らは破減を迎えようとしている。
「ファギン」とジェイコブは注意深く言った。「ぼくはできるだけ早くもどってくる。そのあいだ、ぼくの声をまねて、カラをだませるか?」
「できると思う.やってみよう」
「それじゃ、彼に話しかけてくれ。声を投げかけろ。あらんかぎりの知恵をしぼって、カラの注意を引きつけ、不安にさせるんだ。これ以上コンピューターをいじる時間をやるわけにはいかない!」
ファギンは承諾のさえずりをあげた。ジェイコプばふりかえり、腕をヒューズの腕にからめて、重力ループを登りだした。
ループの上は、重力場がかずかに変動しだしたような、奇妙な感じがした。ヒューズに手を貸して短い坂を登りながら、内耳がかつてない異常な感覚をもたらし、足もとに注意を集中して歩きつづけなげれぱならなくなった。
表デッキ側は、やはり赤かった──彩層の赤さだ。が、はためくブルー・グリーンのソラリアンたちは、船のすぐ外の、これまでに見たこともないほど近くで踊っていた。その蝶の羽≠ヘ、船と同じくらいの幅があった。
Pレーザーのプルーの光は、ここでも空中に軌跡を残していた。デッキの縁近くでは、大きな台座にのって、レーザー自体がうなりをあげている。
ふたりは何本かの細いピームをかわした。
あのしろものを台座からはずず工具さえあったなら。まあいい、ないものねだりをしてもしかたがない。ジェイコプはヒューズを抱えるようにして、カウチまで連れていった。それから、彼をベルトで固定すると、救急キットを捜しにいった。
救急キットは操縦席のそばにあった。マーティンの姿が見えないところをみると、彼女はソラリアンとの交流に集中するため、ほかの者たちと離れ、デッキのほかの部分にいっているのだろう。操縦席の近くには、ラロックとドナルドスンがおり、デュプロフスキーの死体が、カウチにしっかりと固定されて横たわっていた。ドナルドスンの顔は、半分以上が泡化プラストで覆われていた。
エレン・ダシルヴァと、残った最後の部下とは、操縦パネルにかがみこんでいた。ジェイコプか近づいていくと、司令官は顔をあげた。
「ジエイコプ! どうだった?」
彼女の注意を引かないよう、ジェイコプは両手をうしろに隠したままにしておいた。だが、立っているのがつらくなりはじめている。早急に、なにか手を打たなければならない。
「うまくいかなかった。カラを話に引っぱりこみはしたが」
「ええ、一部始終はここで聞いたわ。それから、物音がつづいて。卜ロイドと接触する前、警告しようとしたのよ。あのショックを利用できれぱいいと思っていたんだけれど」
「ああ、あの衝撃波は大助かりだったよ。高く放り出されたが、おかげで助かった」
「それで、カラは?」
ジェイコブは肩をすくめた。「まだ下にいる。そろそろエネルギーが切れかけてると思う。さっきここで格闘したときは、一発でドナルドスンの顔の半分を焼いてしまった.ところが下では、威力が弱くなっていて、目標を戦略的なポイントにしぼって撃ってきたんだ」
カラが歯で襲いかかってきたことを話しながら、「もうじき彼のエネルギーは完全に底をつくだろう。充分な頭数があれば、少しずつくりだして、すっからかんにさせてやれるんだか、こっちも人手不足だ。ヒューズはやる気はあるが、もう戦えない。きみたちふたりは、部署を離れるわけにはいかない」
操縦パネルから警報音があがり、エレンはそちらにふりかえった。スイッチのひとつに手を伸ばして、切った。それから、申しわけなさそうな顔で、向きなおった。
「ごめんなさい、ジェイコブ。わたしたちもここで打てるかぎりの手を打ってるの。船のセンサーをコード化されたリズムで作動させて、コンピューターにアグセスしようとしてるのよ。なかなか進まない作業だけれど、緊急事態を避けるためには、ここについていなけれぱ。残念ながら、作業はうまくいっていないみたい。機器の制御は悪くなるいっぼう」べつのシグナルに応えるために、彼女はまた向きなおった。
ジェイコプはあとずさった。たのみの綱は、エレンの手を借りることだったのだ。
「おれが行こうか?」
数フィート離れたカウチから、ピエール・ラロックが見あげていた。むりやり寝かしつけられたのだろう、カウチのストラップが、手のとどかない位置に固定されている。ジェイコブはほとんど彼のことを忘れていた。
どうしたものか。表デッキでの格闘直前のラロックのふるまいからすると、あまりあてにはできそうもない。エレンとマーティンが彼を縛りつけたのは、だれの足手まといにもしないためだ。 だが、ジェイコプは救急キットを使うのに、人の手を必要としていた。ふと、ジェイコプはラロックが水星基地で逃げだしかけたときのことを思いだした。この男はあてにはできないが、その気になれぱ、それなりのことはできるのだ。
いまラロックは、真剣な目をじっとこちらにそそいでいる。ジェイコプはエレンにラロヅクを解き放させてくれとたのんだ。彼女はちらと目をあげて、肩をすくめた。
「いいわ。でも、計器のそぽにきたら、殺すわよ。そう言っておいて」
伝えるまでもなかった。ラロックはわかったというふうにうなずいた。ジェイコプはカウチにかがみこみ、右手の使える指で、ストラップのフックをはずした.
エレンがうしろから悲鳴に近い声をあげた。「ジェイコプ、その手!」
エレンの心配そうな表情を見て、ジェイコブは胸に熱いものを覚えた。が、立ちあがりかけたとき、その顔は無表情にもどっていた。いまこのとき、彼女の仕事はこちらの仕事よりも重要だ。ジェイコプは彼女が少しでもうろたえた顔を見せたことを、深い愛情の表われとして受け入れた。エレンは力づけるようににこりと笑うと、いっせいに鳴りはじめたいくつもの警報音に対処するため、パネルに身をかがめた。
ラロックは肩をさずりながら立ちあがり、救急キットをとりあげて、ジェイロブに手招きした。そして、皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。
「で、まずだれの手あてをするんだ? あんたか、もうひとりのやつか、それともカラかい?」
27 励 起
エレンは考える時間を必要としていた。なにか自分にできることがあるにちがいない! 銀河文明の科学に基づいたシステムは、徐々に徐々にいかれつつある。すでに、時間圧縮装置、重力駆動装置をはじめとして、ほかにもいくつかの末梢的装置がおかしくなっている。もし船内の重力コントロールが切れれば、荒れ狂う彩層の嵐の前に、船はもみくちゃにされ、乗員はみな船殻にたたきつけられて死んでしまうだろう。
だが、問題はほかにあった。太陽の引力に対し、船を支えてくれているトロイドたちは、明らかに疲れてきている。高度がどんどんさがりつつあるのだ。すでに群れの本体は頭上ずっと高くにあり、彩層上層部のピンクの鰯に隠れて、ほとんど見えなくなっている。長くはもたないだろう。
警報ランプが、ぱっとともった。
船内の重力場に、明白なフィードバックが起こっている。彼女はすばやく暗算すると、一連のパラメーターを入力して、それを吐きださせた。
かわいそうなジェイコブ。あの人はくたくたに疲れきっていた。どれだけ疲れているかは、顔にはっきりと出ていたわ。彼女は裏デッキでの格闘に加われない自分を恥じた。もっとも、自分が行ったところで、裏デッキのコンピューターにとりついているカラを追いだせそうもないことはわかっている。
だから、コンピューターに指示を与えなおすのは、彼女の仕事だ。だが、いまいましい装置類がかたっぱしからいかれだしているというのに、どうやって!
いや、全部が全部いかれたわけではない。水星基地とのメーザー・リンクを除いては、地球のテクノロジーで開発された機器はまだ完襞に作動している。カラはそこまでいじる必要を感じなかったのだ。冷却レーザーはまだ動いているし、堅い船殻を包む電磁フィールドもまだ生きている。電磁フィールドは裏デッキ側により多くの陽光を引き入れる能力を失っていたが、それは当然のことだ。
船が振動した。一度、二度、なにかにぶつかって、船体がはずんだ。それから、デッキの縁に光り輝くものが現われた。だしぬけに、卜ロイドの縁が出現し、船の側面にこすりつけられた。その上で、数体のソラリアンがゆらゆらと舞っている。
どしんどしんという音は、ガラスをかきむしるような、不快で大きな音に変わった。そのトロイドの縁には、まるであざのような、明るい紫色のまだらができていた。ゴーストたちに鞭打たれて、それは脈打ち、身をよじった。が、突然光が爆発したと思うと、それは消え失せていた。支えを失って、サンシップはいままでそれがいた方向へ急激に傾いた。ダシルヴァとチェンは、懸命に船の立てなおしを試みた。
顔をあげると、残った二体のトロイドとともに、ソラリアンたちが漂い去っていくところだった。
彼らにできることは、もはやないのだ。先に船を身捨てていったトロイドは、すでに頭上の光点となり、緑の炎の柱にのって、急速に遠ざかっていた。
高度計の針が激しくまわりはじめた。ヴュースクリーンには光球の粒状斑が映っており、そのただなかの大黒点は、かつてなく大きく膨れあがっていた。
すでに彼らは、だれよりもそれに近づいているのだ。じきに彼らは、あのなかに呑みこまれるだろうー太陽に潜った最初の人間。
ただし、瞬間的に。
いまや遠く離れたソラリアンを見あげ、彼女はみんなに声をかけて……別れの挨拶かなにかを送るべきだろうかと考えた。ジェイコプがここにいてくれたなら。
だが、彼はふたたび下にいってしまった。彼がもどってこられる前に、船はあのなかに突っこんでいるだろう。
ふと、彼女はののしり声をあげ、大きくとびあがった。チェンが彼女を見あげる。「どうしたんです、船長? シールドが切れたんですか?」
喜びの叫びをあげて、エレンはつぎつぎにスイッチを入れはじめた。
水星基地でこちらのようすを遠隔モニターしていてくれるといいのだが。もし、この太陽のなかでみんな死んでしまうにしても、それは世にも珍しい死に方にちがいない!
ジェイコブの腕はまだずきずきしていた。もっと悪いことに、かゆかった。もちろん、かきたくてもかきようがない。左手は泡化プラストの固いかたまりで覆われており、それは右手の二本の指も同様だったからだ。
ジェイコプはふたたび重力ループのハッチの内側にうずくまって、裏デッキのようずを探っていた。ジェイコブが新しい鏡をハッチの外へつきだせるよう、ファギンは脇にどいていた。今度の鏡は、やはり泡化プラストを使って、鉛筆の先にくっつけただけのものだった。
カラは見あたらなかった。巨大なリム・カメラが、船を支える磁食獣たちの、脈打つ青い天井に向かってそびえている。Pレーザーの軌跡が、空気中の塵にあたって分散され、縦横に走っているのが見える。
ジェイコプはハッチのすぐ内側の、ファギンのそばに荷物をおろすよう、ラロックに合図した。
ふたりは交替で、相手の首や顔にもっと泡化プラストをぬりたくった。ゴーグルは、柔軟なゴムのような泡化プラストのあまりで固定された。
「これが危険なことはわかってるはずだよな」とラロック。「レーザーのダメージからは守ってくれるだろうが、こいつはひどく燃えやすい。そもそも、強燃性を持つ物資で、宇宙船での使用が認められているのは、これだげだ。そのユニークな医療用途のおかげでな」
ジェイコプはうなずいた。もし自分もラロックのように見えるなら、恐怖のあまり、カラの心臓はとまってしまうかもしれないそ!
ジェイコプは茶色の缶をとりあげ、デヅキに向けて軽くスプレーした。射程は短いが、これは武器として使えるかもしれない。中身はまだたっぷり入っている。
足もとでデッキがゆれ、さらに二度はずんだ。外を見やると、船体が傾いていることがわかった。船のこちら側を支えている磁食獣が、天を覆う光球のほうからデッキの縁に向かって、どんどん下にずり落ちてくる。
それでは、その反対側を支えていた磁食獣の一体が、こらえきれずに離れてしまったにちがいない。ということは、もはや死が、ほんの目前にせまったということだ。
船体が振動し、右に傾きはじめた。ジェイコプはため息をついた。カラをいますぐ倒せるのなら、まだ船を救う時間はあるだろう。だが、そればまず不可能だ。ジェイコプは上にもどってエレンのもとに行けたらいいのに、と思った。
「ファギン」とジェイコブは言った。「ぼくはきみがよく知っているジェイコプじゃない。あのジェイコブなら、いまごろはカラを倒せていただろう。ぼくらはここを脱出して、安全圏に出ていられたはずだ。ぼくらはふたりとも、あのジェイコブになにができるのかを知っている。
どうか理解してくれ。できるだけの努力はした。だが、どうしてもあのジェイコプにはなれないんだ」
ファギンは枝をゆすった。「わかっていたよ、ジェイコプ。そもそも、きみを〈サンダイバー計画〉に招いたのは、その変化をもたらすためだったのだから」
ジェイコプはまじまじと異星人を見つめた。
「きみはみごとに引っかかってくれた」とカンテンは静かに言った。「まさか〈サンダイバー計画〉の問題が、ここまで危険なものだとは思いもよらなかった。わたしは、エクアドルの事件以来、きみが陥ったさなぎ状態を打ち破る手助けをし、エレン・ダシルヴァと引きあわせるだけのために、きみを招いたのだ。計画はうまくいった。わたしはうれしい」
ジェイコプは途方にくれた。
「だが、ファギン、ぼくの心は……」言いかげて、ジェイコプは口ごもった。
「きみの心は正常だとも。きみはただ、想像力過多にずぎない。それだけのことだ。じっさいには、ジェイコブ、それはきみの創りだした幻想にすぎないのだよ。それも、じつに念のいった幻想だ! わたしは、きみほど徹底した心気症患者には、お目にかかったことがない!」
ジェイコプの頭はすばやく回転した。このカンテンは、おれを傷つけまいとしてこう言っているのか……なにか勘ちがいしているのか……さもなければ、そのとおりなのかだ。ファギンはいままで、おれに嘘をついたことがない。とくに、個人的なことがらに関しては。
ハイド氏の正体が神経症などではなく、ただのゲームだなどということがありうるだろうか? 予供のころ、おれは現実と区別がつかないほどリアルな架空の世界を、いろいろと想像して楽しんでいた。それらの世界は、たしかに実在のものだった。新ライヒ派の医師は、ただ笑顔を浮かべ、きみはたくましい想像力を持っているが、それは病気でもなんでもないと言うだけだった。なぜなら、テストではつねに、それが遊びであることをちゃんとわきまえている……そういう結果が出ていたからである──だが、それはテストという、その認識が必要な場合にかぎってのことにすぎない!
ハイド氏が架空の存在でありうるか?
いまにいたるまで、ハイド氏が実害をもたらレたことはない。ハイド氏はたえざる迷惑の種ではあったが、それがおれにやらせた≠アとは、ちゃんとした理由があることばかりだった。そう、いままでずっと。
「わたしたちがはじめて出会ったころ、あの当時こそ、きみは正常ではなかったのだ、ジェイコプ。だが、〈ニードル〉の事件以後、きみの病は治った。それが治ってしまったことに恐れをなして、きみはゲームに没入した。きみのゲームの細部までは知らない。きみはひどく秘密主義だったからね。だが、いま、わたしにはきみが正気にもどったことがわかる。おそらく、きみが正気にもどったのは、二十分ほど前からだろう」
ジェイコプは考えこもうとずる自分を押さえた。ファギンが正しかろうがまちがっていようが、ここでつっ立ってそんなことを話している暇はない。船を救うには、もう数分しかないのだ。それも、その可能性があるとして。
外では、彩層がぎらぎらと輝いていた。頭上には光球が、どこまでも広がっている。船内を、Pレーザーの軌跡がとびかっていた。
ジェイコプは指を鳴らそうとしたが、痛くてできなかった。
「ラロック! 上に行ってライターをとってきてくれ。大急ぎでだ!」
ラロックはあとずさり、「ライターならここにあるぜ。だけど、こんなもの、なんに……」
みなまで聞かずに、ジェイコブはインターカムに近づいた。もしエレンが予備のエネルギーを残してあるとしたら、いまこそそれを使うときだ。少しだけ時間を稼かなくては! が、彼がスイッチを入れようとしたとたん、警報が船じゅうに鳴り響いた。
「全員に告ぐ」エレンの声が轟きわたった。「加速に備えられたい。本船はまもなく太陽圏を離脱する」
エレンの声には、おもしろがっているような、ほとんどちゃめっけさえ感じられる響きがあった。
「離脱時の状況に備えて、全乗員はできるだけ暖かい服を着用のこと! この季節、太陽はひどく寒くなるかもしれないわ!」
28 励起放射
冷却レーザーを納めるケースの通風ダクトからは、たえず冷たい風が吹きだしていた。ジェイコブとラロックは.その冷気から身を守ろうと、焚火のまわりに固まった。
「そうら、ベイビー。燃えろ!」デッキの上でくすぶっているのは、泡化プラストのかけらだ。かけらをくべたすにつれ、炎はゆっくりと燃えあがっていった。
「いやはや!」ジェイコブが笑って、「むかしは穴居人、いまでも穴居人、てわけか、ラロック? はるばる太陽までやってきながら、人は体を暖めるのに、火を起こすんだ!」
ラ日ックは弱々しげにほほえむと、もっと大きなかけらをくべた。カウチから解放されて以来、このおしゃべりのジャーナリストは、ほとんど口をきいていない。ただ、ときどき、なにごとか怒ったようにつぶやいては、唾を吐くばかりだ。
ジェイコプは炎のなかに松明をつっこんだ。飲料チューブの端に、泡化プラストの塊をぬりつけたものである。先端がくすぶりはじめ、太く黒い煙が立ちのぼった。美しい眺めだった。
じきに、数本の松明ができあがった。悪臭をふりまきながら、煙が宙に立ち昇っていく。息をするには、身を遠ざけて、エアーダクトから吹いてくる空気の流れに体を置くようにしなけれぱならない。ファギンは重力ループのずっと奥に引っこんでいた。
「よし。行くそ!」ジェイコプはそう言うと、ハッチからとびだして左側に向かい、目のとどくかぎりできるだけ遠くまで、松明の一本を投げつけた。うしろでは、反対側に向かって、ラロックも同じことをしていた。
枝葉をがさがさ鳴らしながら、ファギンもあとから出てきて、ハッチからまっすぐに歩きだし、デッキの縁に向かった。もの見の役をし、できれぱカラのレーザーを引きつげるためだ。泡化プラストを体に塗ることを、ファギンは拒否していた。
「だいじょうぶだ」カンテンは小声で言った。「カラは見えない」
それはよいニュースであると同時に、悪いニュースでもあった。おかげでカラの位置の見当はついたが、それはカラが、おそらく冷却レーザーに細工していることをも意味するからだ。
寒さはますます厳しくなりつつあった!
気温の低下がはじまるや、ジェイコプはただちにエレンの計画を見ぬいた。船を包むスクリーンのコントロールを維持している以上(乗員が生きていることがその証拠だ)、エレンは太陽からの熱を好きなだけとりこめる。この熱は、じかに冷却レーザーに送られ、船の動力系の排熱とともに、彩層に吐きだされる。ただし、いまはその放出量がぐっと増え、放出方向が真下に向けられていた。その反動で、船は落下をやめ、上昇しはじめているのだ。
当然、船の自動熱制御システムにとっては、このような措置は認められないものである。とすれば、エレンはシステムをプログラムして、冷却能率を異常に高めたにちがいない。そのやり方でなら、ミスは修正しやすい。
それはすばらしいアイデアだった。ジェイコブは彼女にそう言ってやりたかった。だが、いまは、それが成功するチャンスを確保するのがこちらの務めだ。
ジェイコプはドームにへばりついたまままわりこんでいって、ファギンの目がとどかなくなるところまで進んだ。まわりを見まわしもせず、もう二本の松明を、自分の周囲の、デッキの別々の」場所に投げつける。それぞれから、煙がもくもくと吐きだされた。
やがて室内には、煙がもやもやと立ちこめはじめた。Pレーザーのビームが、空中にくっきりと輝いて見える。ビームのなかの、エネルギーの低いものは、煙を通過するうちに、しだいに消えていった。
ジェイコブは、ファギンの視野のなかにもどった。手もとにはもう三本、松明がある。デッキの縁にさがると、その三本を中央ドームごしに、別々の角度に投げこんだ。ラロックももどってきて、同じように投げつけた。
投げられた松明の一本は、ドームの中心の真上を通って、冷却レーザーのX線ピームにさしかかり、そのとたんに、蒸気の雲となって消滅した。
ジェイコプは、いまのショックであまりビームがそれなかったならいいが、と思った。冷却レーザーのコヒーレントなX線は、汚れが皆無に近い船の船殻なら通りぬげるはずだが、個体を処理できるようにはできていないのだ。
「はじめるぞ!」とジェイコプはささやいた。
ラロックとともに.ドームの壁の、リム・カメラの予備部品が納められている部分に駆けよる。ラロックがキャビネットを開き、足をかけられるかぎり、できるだけ高く登ってから、手をさしだした。
ジェイコブはそれにつかまって、ラロックのとなりによじ登った。
いま攻撃されたら、ひとたまりもない。カラは松明による明白な脅威に反応するはずだ! すでに視界は、通常よりもずっときかなくなっている。室内は悪臭で満ちており、ジェイコプは息をするのがどんどんつらくなってきていることに気づいた。
ラロックがキャビネットの横板最上部にぐっと肩を押しつけ、両手を組んで、ジェイコプにさしだした。ジェイコプはその手に足をかけ、はずみをつけて、ラロックの肩にのった。
この高さだと、ドームはかなり傾斜していたが、その表面はつるつるしており、しかもジェイコプには十本ではなく、三本の指しかなかった。が、泡化プラストのコーティングが役にたった。それはまだ少し、粘度を保っていたのだ。二回失敗を重ねてから、ジェイコプは意識を集中して、ラロヅクの肩からとびあがった。反動で、ラロックはあやうくころげ落ちそうになった。
ドームの表面は、まるで水銀のようだった。ジェイロブはドームにへばりつくようにして、一インチ、また一インチと、這いあがっていった。
頂上付近では、冷却レーザーにも注意しなけれぱならなかった。頂上近くでちょっと体を休めたとき、その放出口が見えた。ニメートル先で、それは静かなうなりをあげている。煙でにごった空気が輝いているのを見て、ジェイコプは、このおそるべき口の安全透明深度はどのくらいなのだろうかと思った。
そんなことは考えないように、顔をそむける。
口笛を吹いて、頂上に達したことを知らせるわけにはいかない。彼らとしては、ファギンがそのずばぬげた聴力によってこちらの進み具合を聞きとり、うまく注意を引いてくれることをあてにするだけだ。
少なくとも、二、三秒は待つ余裕がある。ジェイコブはいちかばちか、賭けてみることにした。体をひねって仰向けになり、大黒点を見あげた。
いたるところに、太陽があった。
この位置から見るかぎり、船は存在しない。戦いもない。惑星も恒星も銀河系もない。ゴーグルの縁のおかげで、自分の体さえも見えない。ただ、光球だけがあった.
それは脈動していた。スピキュールの森が、うねる杭垣のように、こちらに向かって深い轟きを噴きあげている。その音の波頭は、頭のすぐ上で砕けちり、分かれ、まわりこみ、見当ちがいの方向へ向かっていた。
それは咆哮していた。
大黒点は、じっと彼を見つめかえしていた。一瞬、その広大な広がりが、顔に──半白の髪を逆立てた酋長の顔に見えた。脈動はその呼吸。轟音は、大いなる歌声──ほかの恒星のみに聞こえ、理解できる、数十億年の昔からの歌。
太陽は生きていた。しかも、彼に気づいていた。それは分割されない意識を、彼にふりむけた。
われを呼べ、生命の父と──余は汝らを育みそだてるものなれぱ。余は燃える、燃えて汝らを育む。余は立つ、立って汝らの命の綱となる。空間はわが身をくるむ毛布でありながら、わが腹わたをも形作る。時はその大鎌でわが炉を苛む。
生ける者よ、わがいまわしき伯母、エントロピーは、われらの企みに気づいたか? まだであろう、なんとなれぱ、汝らはいまだ矮小にすぎるゆえ。エントロピーの潮流の前には、汝らのささやかな抵抗など、大風に逆らってはばたく鳥のごとし。だが、伯母はまだ、余を味方と思いこんでいる。
われを呼べ、生命の父と、おお命ある者よ、そしてすすり泣け。余は永久に燃えつづけ、燃えながら、決して補充されえぬものを使いはたしていく。汝らがわが奔流をうまそうにすするあいだにも、泉は徐々に枯れていく。それが枯渇したとき、他の恒星がわが地位を引き継こう。だが、それとても永久ではない!
われを呼べ、生命の父と、そして笑え!
生ける者よ、汝は、ときに真の生命の父の声を聞くという。彼は最初の子らであるわれらではなく、汝らに語りかけるという!
星々を哀れむがよい、おお生ける者よ! われらは喜びを装い、何十億年もの長きにわたって、彼の残酷な妹のためにあくせく働いてきた──おまえたちが成熟し、おまえたち小さな胎児が、彼によって解き放たれ、ふたたびものごとを変えるときを心待ちにしながら。
ジェイコプは声もなく笑った。なんという想像力! 結局、ファギンは正しかったのだ。合図に耳をすましながらも、ジェイコプは目を閉じた。ドームの頂上に達してから、ちょうど七秒がたっていた。
「ジェイク……」それは女性の声だった。彼は目を閉じたまま、声のしたほうを向いた。
「タニア」
彼女は、何度となく迎えにいったときそのままに、研究室のパイ中間子スコープのそばに立っていた。褐色の髪を編みあげ、わずかにならびの悪いまっ白な歯をこぼれさせて、やさしくほほえみかけ、大きくて魅力的な目でこちらを見つめている。彼女は自信に満ち溢れた優美さで近づいてくると、両手を腰にあてがい、ジェイコブの顔を見すえた。
「もう、いいかげんにしてよね!」
「タニア、ぼくは……どういうことだい、それは?」
「いいかげんに、落ちていくところじゃなくて、わたしのほかの姿を思いだしてっていうこと!わたしが何度も何度も落ちていくのが、そんなにおもしろい? どうして楽しかったときのわたしの姿を思いだしてくれないの!」
彼はだしぬけに気がついた。たしかにそのとおりだ。この二年間というもの、彼はタニアの最後の瞬間のことばかり考えていて、ふたりですごした時のことはまったく思いださなかったのだ。
「そりゃあね、そのおかげで少しは薬が効いたことは認めるわよ」と彼女はうなずいて、「あなたはとうとう、あの鼻持ちならない傲慢さをぬぐいされたみたいだもの。だけど、お願いだから、ときどきはわたしのことを思いだして。無視されるのはがまんならないわ!」
「ああ、タニア。思いだす。約束するよ」
「それから、太陽に目を向けて! なにもかもが自分の想像だとは思わないで!」
彼女の輸郭がぼやけた。イメージが薄れはじめたのだ。「あなたの思ったとおりよ、いとしいジェイク、わたしは彼女が好き。さあ、ふたりで……」
ジェイコプは目をあけた。頭上で光球が脈打っていた。黒点がじっと彼を見かえしている。粒状斑は、ものうげな鼓動のように、ゆっくりと脈動していた。
これはあなたのしわざか? とジェイコブは無言で問いかけた。
答えは彼の体に染みとおり、反対側から出ていった。ニュートリノで神経症を治す。これ以上独創的な治療法はあるまい。
下から短い口笛が聞こえた。それと気づかぬうちに、彼の体はひとりでに動きだし、口笛のした方向の右側に向かって、静かに、むだな動きをせず、すべりおりはじめていた。
見おろすと、カラ──プリング=従=ビラ=従=キシャ=従=ソロ=従=ハル=従=ババールの頭が見えた。
異星人はジェイコブから見て左側を向いている。その手はまだ、コンピューター入力部の開かれたアクセス・プレートに伸びたままだ。煙のおかげで、ほとんど見えなくなっていたが、それでもPレーザーのピームがあたっている点は、明るく輝いていた。
左手から、ざわざわという音がした。右手のどこかからは、人の走る足音。ラロックが急いでドームをまわりこんでいるのだ。
ドームの曲面から、何本か銀色の小片で覆われた枝がつきだした。カラが身をかがめたとたん、きらめくファギンの受光器官は、煙を吐いて縮みあがった。カンテンはかんだかい悲鳴をあげて、さっと曲面の影にしりぞいた。カラはずぱやく反対側に向きなおった。
ジェイコプはボケットから泡化プラストのスプレーをとりだした.狙いをつけ、レバーを押す。細い液体の噴流が、カラの頭めがけ、弧を描いてとびだしていった。それがかかる寸前、ピエール・ラロックが駆け足でとびだしてくると、頭をさげ、煙のなかをカラめがげて突進した。
カラがとびすさる。その目の前を、スプレーが通過した。その瞬間、液体の弧の先端で、ぱっと閃光が迸った。
シュッという音とともに、弧全体が燃えあがった。両手で顔を押さえて、カラがよろよろとあとずさった。燃えるしぶきの下をかいくぐって、ラロックがとびかかり、プリングの腹に頭からぶつかった。
カラの姿は、濃い煙のなかにほとんど呑みこまれた。ぜいぜい息をしながら、ラロックの首をつかむ。はじめは体を支えるためだったが、ついで、思いきりラロックの喉をしめあげはじめた。ラロックはじたばたもがいたが、彼の勢いはもはやない。それはまるで、二匹の大蛇の胴から逃げだそうとずるようなものだった。ラロックの顔がまっ赤になり、膨れあがりはじめた。
ジェイコブはとびかかる体勢をとった。煙がかなり濃くなっており、いまにも咳をしそうになった。死にものぐるいで、その発作を押さえこむ。とびかかる前にこちらの姿に気づいたなら、カラはわざわざ首をしめてラロックを殺そうとはすまい。目で見るだけで、ふたりにけりをつけるはずだ。
強力なばねのように筋肉をはじけさせて、ジェイコブはドームを蹴った。
冷や汗もののジャンプだった。自分自身の主観的時間圧縮行程のおかげで、ジャンプはのろくさく感じられた。それは悪しき古き日々のトリックであり、彼はひとりでに、ふたたびそれを用いていたのだった。
三分の一の距離をとんだところで、カラの頭がこちらを向きはじめるのが見えた。この瞬間、このETがラロックをどうしようとしているのかは、判別できない。厚い煙のベールで覆われて、なんとか見えるのは、もはや赤く輝くカラの目と、その下のふたつの白いかたまりだけだ。
目がこちらに向きかけた。もはや勝負は、異星人の頭のすぐ右上にこちらがとびかかるのが早いか、向こうの視線が向けられるのが早いかにかかっている。カラはどの角度までピームを発射できるのか。
心臓がとまりそうなほどのスリル。皮肉とも言える結果だ。ジェイコプは事態の進行速度を速め、なにが起こるかを見ようとした。
まず閃光が閃き、歯かガチガチ鳴り、つぎの瞬間、鈍い衝撃とともに、彼の肩はカラの側頭部にぶつかっていた。頭にしがみつき、異星人の服の胸もとをしっかり握りしめ、勢いにのって、もろともにデッキに倒れこむ。
人間と異星人は、咳こみ、あえぎながら、相手をつかんだまま、ひとかたまりになってごろごろころがった。どのようにしてか、ジェイコブは相手の背後にまわりこみ、しっかりとはがいじめにした。かみつくかレーザー眼で焼き殺すかするために、首を曲げようとして、カラがころげまわる。
強力な触手状の指が、うしろにつかみかかってきた.ジェイコブは頭を遠ざけ、足をなんとかシザーズ・ロックに決めようと、カラをふりまわした.デッキを半分がたころげまわったところで、なんとかそれに成功し、その報いに、右の太股に刺すような痛みを味わった。
「もっとだ」と咳こみながら、ジェイコプ。「もっと撃て、カラ。エネルギーを使いはたせ!」
火線に入った両足に、もう二度、レーザーが襲いかかり、小さな激痛の津波が脳髄に押しよせてきた。その苦痛を脇に押しのけ、カラがもっと撃ってくれることを祈って、ロックをつづける。
だが、カラはエネルギーのむだつかいをやめ、もっと速くころがりだした。一回転するたびに、ジェイコブはしたたかにデッキにたたきつけられた。ふたりとも咳をしつづけだ。厚く渦巻く煙のかたまりのなかに入るたびに、カラは瓶に十個ほどのボール・ベアリングを入れてふったような音を出した。
この悪魔をくびり殺すすべはないものか! 一度、ジェイコブは相手の頭を離し、その首に喉輪をかけてしめようとした。だが、急所らしき部分がどこにもない! なんと不公平な話だ。ジェイコブは運の悪さをののしってやりたかったが、息をむだにする余裕はなかった。肺にはすでに、プリングがころがりながら上にきたとき、ちょっと咳をするだけの空気しか残っていないのだ。
涙が溢れ出て目の前をぼやけさせた。目が痛む。だしぬけに、ジェイコプは気づいた。ゴーグルがはずれている! ドームからとびかかった最初の瞬間、カラにピームで焼き落とされたのか、でなけれぱ、戦いの最中にちぎれてしまったかだ。
いったいラロックのやつは、どこにいるんだ!
しめつづけているうちに、腕がこわばり、ころがりつづけでたえずデッキに打ちつけられたため、下腹と鼠蹊部がこすりつけられて痛くなってきた。カラの咳はいっそうあわれをさそうものになり、ジェイコブ自身の咳にも、不吉なごぼごぼという音が混じりはじめていた。ジェイコプは発熱による体力の消耗の最初の段階を感じ、苦しみはまだ終わらないのではないかという恐怖を覚えた。そのとき、組みあったままころげまわるうちに、くすぶっている泡化プラストの燃えさしのひとつに、背中がのった。
くすぶる燃えさしのすさまじい熱さに、ジェイコプは悲鳴をあげた。まったく思いがけない場所に、あまりにも急に痛みが襲ってきたため、とても苦痛を意識からそらす余裕はなかった。一瞬、カラの首にかけたグリップがゆるみ、その隙に異星人は彼の手をふりはらった。手がはずれ、カラはころがって逃げようとした。ジェイコプがそのあとに追いすがる。
だが、つかみそこなった。カラはさらに遠くへ離れてから、くるりとふりむいた。レーザーの一撃を覚悟して、ジェイコブは目を閉じ、泡化プラストで包んだ左手で顔を覆った。
立ちあがろうとしたが、肺のなかのなにかがおかしかった。肺がちゃんと働かないのだ。息が浅くなり、あたりがゆらぎだすなかで、ジェイコプはゆっくりと立ちあがった。背中が焦げたハンバーグのようだ。
それほど遠くないところ、せいぜいニメートルほどのところで、大きなガチリ! という音がした。もう一度。そして、さらに近いところから、もう一度。
ジェイコブの腕がだらりとたれた。もうあげている力がなくなったのだ。どのみち、目を閉じていても意味はない。目をあけると、一メートル向こうに、膝をついてにじりよってくるカラが見えた。
濃い煙を通して、赤い目と光る自い歯だげがくっきりと浮かびあがっている。
「カ……カラ……」あえぎながら、ジェイコプが言った。ぜいぜいという音にまぎれて.そのことばは、小さな歯車がきしむようにしぼりだされた。「もうあきらめろ、これが最後のチャンスだ。警告……しておく……」
タニアの気に入りそうなせりふだな、とジェイコブは思った。最後の一矢としては、タニアのとほとんど同じくらいに痛烈なことばだ。エレンがこいつを聞いていればいいんだが。
最後の一矢? そうとも、カラに一矢報いてやれぱいいじゃないか! たとえカラがおれの喉を切り裂き、目を貫いて脳をぶちぬこうとも、やつに一矢報いてやるだけの時間はある!
ジェイコプはベルトの下から泡化プラストのスプレーを引っぱりだし、それをかまえはじめた。このスプレーをくらわせてやる! たとえ、スプレーを吹きかけた瞬間に、かみ殺されるのではなく、レーザーで撃ち倒されるのだとしても。
だしぬけに、鉄の針をつきさされたようなすさまじい痛みが、左目を襲った。まるで、目から電撃がとびこみ、すべてを破壊しながら後頭部に達して、そこから出ていっ.たような痛さだ。同時に、カラの頭があった場所めがけ、ジェイコブはスプレーを押した。
29 吸 収
エレンはちらりと目をあげて、上昇する船の左手に広がる、卜ロイドの群れを見やった。
距離が遠いため、グリーンとプルーの光は薄れて見える。それでも磁食獣たちは、小さな白熱のリソグの群れ──整然とならんだ、生命を持つ光点群の小集団と見えた。小さく見えるのは、彩層の想像を絶する巨大さのせいだ。
牧人たちの姿は、もはや遠すぎて見えない。
やがて群れは、フィラメントの黒々とした巨体の陰になり、視界から消えた。
エレンはほほえんだ。まだメーザー・リンクがありさえすれば。そうすれぱ、基地のみんなも、わたしたちがどれだけがんばったかを見られるのに。みんなは、ソラリアンがわたしたちを殺さなかったことを知るだろう──なかには、へそまがりもいるだろうけれど。ソラリアンはわたしたちを助けようとした。しかもわたしたちは、彼らと話を交わしたのだ!
警報ランプが一度にふたつともり、彼女はそれに応えるために身をかがめた。
ドクター・マーティンは、わたしと副パイロットのうしろをあてもなく歩きまわっている。この超心理学者は、理性はあるが集中力に欠けるようだ。いまはちょうど、表デッキの向こう側からもどってきたばかりで、不安そうに歩きまわっては、なにごとかぶつぶつつぶやいている。
わたしたちにまとわりつくべきでないことを、マーティンかちゃんとわきまえていてくれるのは、とてもありがたいことだった。だが、彼女はカウチに体を固定することを拒んだ。といって、裏デッキのようすを見にいくようたのむのもためらわれる。現在の彼女の状態では、下に行ったところで、あまり役にたちはしないだろう。
空気には、煙のにおいが漂っていた。裏デッキのモニターに映っているのは、たなびく濃い煙の雲だけだ。数分前、だれかが格闘する、おそろしい叫び声と物音が聞こえだした。二度、インターカムはだれかが叫ぶ声を伝えてきた。そして、ほんのいましがた、死人さえ目をさましかねない、すさまじい絶叫が轟いた。そのあとは、なにも聞こえなくなった。
エレンがみずからに感じることを許せる唯一の感覚は、誇りだけだった。戦いがこれほど長びいたということは、彼らにとって、とりわけジェイコプにとって、名誉なことだ。カラの武器をもってすれば、彼らをたちまちかたづけて当然なのだから。
もちろん、ジェイコブたちが成功する可能性は低い。成功していたなら、いまごろ連絡がきているはずだ。彼女は自分の感情に伽をはめ、震えているのは寒さのせいだと自分に言い聞かせた。
室温は五度Cに落ちている。疲れがたまっていき、反応が鈍くなるにつれ、彼女はしだいにひどくなりだした冷却レーザーの気まぐれな変動を押さえ、温度を低くしていった。放出口は地獄だろう。
電磁フィールドが変動し、XUVの帯域で穴があきそうになるのを、懸命に制御する。フィールドは徴妙な調整を加えられて生き延び、もちこたえつづけた。
冷却レーザーは、うめきながら彩層から熱を吸いこみ、それをX線の形で、外へ、真下へと吐きもどしている。船はじわじわと上昇しつつあった。
そのとき、警報が鳴り響いた。それは進路ずれの警告ではなく、船が死にゆく、断末魔の悲鳴だった。
すさまじいばかりの悪臭! しかも、さらに悪いことに、気温がぐんぐんさがりつつある。近くでだれかが、震えながら咳をしていた。ぼんやりと、ジェイコブはそれが自分であることに気づいた。
ひとしきり咳の発作に襲われて、彼はとびおき、がたがた震えだした。それがどうにかおさまってからは、長いあいだそこにすわったまま、ぼんやりと、自分はどうして生きているのだろうと考えた。床のあたりで、煙がわずかに晴れだしている。煙の筋が、プーンとうなっているエアー・コンプレッサーに吸いこまれていく。
目が見えるということ自体、驚きだった。右手をあげて、左目に触れてみた。
開いているのに、なにも見えない。だが、つぶれてはいなかった! まぶたを閉じて、その上から、何度も何度も三本の指でさわってみた。目はまだそこにあり、その奥の脳も……おそらく、濃い煙で遮られたのと、カラのエネルギーが残り少なになっていたのとで、助かったのだ。
カラ! ジェイコプは異星人を捜そうと、いきなり頭をふりうごかした。めまいが襲ってくるのを感じたが、それをこらえて、まわりを見まわす。
ニメートル離れたところに、ほっそりとした白い手が、煙の雲のなかからとびだしていた。空気がまた少し澄んできて、カラの体の残りが見えるようになった。
ETの顔は、見わけもつかないほど焼け焦げていた。黒焦げになった泡の燃えかすが、大きくとびだした目の残骸のまわりにこびりついている。脇腹の大きな裂け目からは、シューシューと音をたてて青い液体が溢れ出している。
カラはまちがいなく死んでいた。
ジェイコブは這い進みだした。まずラロックがどうなっているか、調べなければならない。ファギンはそのつぎだ。そう、それがただしい順序だ。
そのあとは、急いで連絡して、だれかコンピューター・パネルをいじれる入間をおろさせなけれぱ……まだカラの与えたダメージを回復できる可能性があるのなら。
うめき声で、ジェイコプはラロックの居場所を探りあてた。彼はカラから数メートル離れたところにおり、頭をかかえてすわりこんでいた。ラロックはかすんだ目で彼を見あげた。
「つう……デムワ、あんたか? 答えるな。あんたの声を聞いたら、おれの繊細な頭は吹っとんじまいそうだ!」
「だ……だいじょうぶか、ラロック?」
ラロックはうなずいた。「ふたりとも生きてるってことは、カラは死んだんだな? 中途半端な仕事を押しつけられるくらいなら、死んじまったほうがましだよ。|おい《モン・デュー》! まるでスパゲッティみたいな顔をしてるじゃないか! おれもそんなふうに見えるのか!」
戦いがどんな影響をもたらしたのか、ラロックはふたたび饒舌さをとりもどしていた。
「もういい、ラロック。ぼくを立たせてくれ。まだしなきゃならんことが残ってる」
ラロックは立ちあがりかけてから、ふらつき、倒れまいとして、ジェイコブの肩をつかんだ。ジェイコブはあまりの痛さに涙が出そうになるのをこらえた。よろよろと、ふたりはたがいに手を貸しあって、立ちあがった。
松明の燃えさしはすっかり消えてしまったのだろう、室内の煙は急速に晴れつつあった。だが、ドームにそって左まわりに進んでいくと、まだ煙の筋がたなびいており、顔の前にたれこめていた。
一度、ふたりは、行く手にまっすぐ立ちふさがる、細いPレーザーのピームに出くわした。といって、またぎこえるカも、くぐる力もない。右の太股の外側と左の太股の内側に、ビームで細い血の筋を刻まれて、ジェイコブはたじろいだ。だが、ふたりはそのまま進みつづけた。
ファギンが見つかったが、昏睡状態になっていた。呼吸孔からかすかな音が聞こえ、銀色の小片がチリンチリンと鳴っていたが、なにを聞いても、返事は返ってこなかった。動かそうとしてみて、ふたりはそれがむだであることを知った。ファギンの根瘤から鋭い爪が伸びだしており、それがデッキの頑丈で柔軟な材質にしっかりくいこんでいたのだ。爪は何十本も出ており、それを引きぬくすべはなかった。
ジェイコプには、ほかにしなければならないことがあった。しぶしぶと、彼はラロックをうながして、カンテンを迂回した。ふたりはよろめきながら、ドームの側面にあるハッチに向かった。
インターカムの前にくると、ジェイコプはあえぎながら三口った.
「エ……エレン……」
返事を待つ。だれも答えない。かすかに、自分のことばが表デッキでこだましているのが聞こえた。とすると、機械の故障ではない。なにがおかしくなったのだ?
「エレン、聞こえるか! カラは死んだ! ただし……ぼくらもぼろぼろだ。きみか……きみかチェンがここへ……ここへおりてきて、修理を……」
冷却レーザーから吹きだしてくる冷気にさらされて、ジェイコブはがたがた震えだした。これ以上はもう口をきけない。ラロックの助けを借りて、ジェイコプはダクトの前をよろめき通り、重力ループの傾斜した床にころがりこんだ。
焼げた背中をかばうために、横向きに倒れる。咳の発作が襲ってきた。ゆっくりと、発作は引いていったが、そのあとには、胸に激しい痛みが残った。
必死で眠けをふりはらう。休め。ちょっとだけ横になってから、立ちあがって表デッキに出るんだ。どんな異常が起きたのかをつきとめろ。
腕と足から、鋭い苦痛の波が脳まで駆けぬけた。痛む箇所はあまりにも多く、心が鈍っているため、苦痛のメヅセージを全部遮断することはできない。肋骨が一本折れているような感じだ。きっと、カラとの格闘のときにやられたのだろう。
だが、それらの痛みも、頭の左側のひどいうずきとは比べものにもならない。まるで、熱い石炭でもつきつけられているかのようだ。
重力ループの床は、どこかおかしかった。床をぴったりとカバーする重力場は、ほんとうなら彼の体を均等に引きつけるはずだ。そのかわりに、床は海面のように、体の下で軽さと重さの小さな波がうねっているように感じられた。明らかに、なにかがおかしくなっているのだ。だが、それは心地よく、まるで子守り歌のようだった。眠りはきっと、ずばらしいだろう。
「ジェイコブ! 神さま、感謝します!」エレンの声がまわりで轟いたが、それはまだ、遠くで響いているようだった──親しげで、決然として、暖かく──しかし、どこか実在感のない声。
「しゃぺってる時間はないわ! 急いで上へきて、ダーリン! 重力場が消えかけてるの! いまマーティンをおろすけど……」ガタガタという音がして、声は途切れた。
もういちどエレンに会えたらすばらしいだろうな、と彼はぼんやり思った。今度は、眠りが強引に押しよせてきた。しばらく、彼はなにも考えなかった。
彼はシシュボス──呪いを受けて、永遠に丘の上へ岩を運びあげなけれぱならない男──の夢を見ていた。おれなら、それをごまかすことができるだろう.丘をだまして、見かけは丘のままでありながら、自分は平らだと思いこませるのだ。そのトリックは、前にも使ったことがある。
だが、今度は丘も怒っていた。丘の表面は蟻で埋めつくされており、その蟻が体に這い登ってきて、いたるところをかみ、苦痛を与えるのだ。片方の目には、蜂が卵を生みつけていった。
しかも、丘は罠だらけだ。あちこちねばねばして、足が離れないところがある。かと思うと、ほかのところはつるつるすべって、体重が軽すぎるために、その表面をしっかり踏みしめられないところもある。そのうえ、気持ちが悪いほど不均等にでこぼこしている。
どうやって這えぱいいのかも、まったく思いだせない。だが、どうやら這うことは這っているらしい。少なくとも、体を押しあげる役にはたっていた。
それから、岩も役にたった。それをちょっと押してやるだけでいい.たいてい、岩は自力で這い進んでいく。便利なことだが、ただ、あまりうめかないでほしかった。岩はうめいてはいけない。とくにフランス語では。むりやりことばを聞かせようなど、言語道断だ。
ジェイコプは目を覚ました。ハッチがぼんやりとにじんで見えた。どちらのハッチだかはよくわからなかったが、煙はほとんど見えない。
ハッチの外では、デッキの向こうの上方に黒い空間が広がりはじめており、下に行くにつれて黒さが薄れていって、彩層の赤い靄がまたはじまっていた。
あれは地平線か? 太陽の縁? 平らな光球が、彼方へどこまでも広がっている。黒い炎をちりばめた、真紅の絨毯。彩層の深みの底には、小さな動きが充満していた。太陽は脈動しており、いくつものフィラメントが、先細りのアーチを描いて、まばゆくゆらぐ噴流の上に縫いつけられていた。
ゆらいでいる。前へ、うしろへ、何度も何度も。彼の目の前で、ソルはゆらいでいた。
こぶしを口の近くにあて、恐怖の表情を浮かべて、ミリー・マーティンが戸口に立っていた。
ジェイコプはだいじょうぶだよ、と言ってやりたかった。なにもかもうまくいったんだ。これからもうまくいくさ。ハイド氏は死んだ、そうだろう? その死体を、あの荒石の城のどこかで見かけた覚えがある。彼の顔は焼け焦げ、目はなくなり、恐ろしいにおいを放っていた。
それから、なにかが手を伸ばして、彼をつかんだ。ハッチへの道は、もう下り坂だ。急な斜面をすべりおりていくだけでいい。彼は前にすべりだすと、ハッチからとびだし、床にぶつかって止まる前に、気を失っていた。
第十部
うつくしや
障子の穴の
天の川
小林一茶
(一七六三──一八二八)
30 不透明度
アパトソグルー委員《コミッショナー》 では、〈ライブラリー〉の設計になるシステムが、最終段階にいたる前 に、すべてダウンしたと言ってもいいのですな?
ケプラー教授《プロフェッサー》 そのとおりです。すべての装置が、最後にはどうしようもなくいかれてしまい ました。最終段階でまだ稼働していた機械は、地球において、地球人の手で設計されたものだ けです。つけ加えれぱ、その建造中、ビラのババカプをはじめとして、多くの種族が原始的で 無用の長物だと言いきったその装置類が、最後まで生き残ったのです。
CA 教授は、ババカプが前もってそれを知っていたと……。
PK いいえ、もちろんそんなことはありまぜん。わたしたちと同様に、彼もそれなりに信じき っていました。彼が地球の技術を否定したのは、審美的な見地にのみ基づくものでず。銀河文 明の時間圧縮システムや重力制御システムを、セラミックの殻で覆い、さらに原始的な冷却シ ステムに接続することが、いやだったのでしょう。
反射フィールドおよび冷却レーザーは、基本的に、二十世紀の人類に知られていた物理法則 に基づくものです。当然.ババカプは、それを中心に置く船を建造するという、われわれの.迷 信的な伽主張に反対します──銀河文明のシステムがあれぱそんなものはいらないというだけ でなく、〈コンタクト〉以前の地球の科学が、いいかげんなデータとがらくたの上になりたっ ていると考えていたからです。
CA ところが、新しい技術がダウンしたのに、そのがらくた≠ヘちゃんと働いたわけだ。
PK ですが、公正を期しますと、委員閣下、それは幸運だったからだ、と申しあげなけれぱな りません。破壊工作者は、地球産のシステムが役たたずだと考えたため、そもそも手をくだし ませんでした。そして、そのあやまちを正す機会は、与えられなかったのです。
モンテス委員 ひとつわからないことがあるのですが、ケプラー博士。同席の委員たちも、やは り同じ疑問を抱いていることと思います。サンシップの船長が、彩層からとびだすのに冷却レ ーザーを利用したのはわかりました。だが、そうするためには、太陽の表面重力よりも大きな Gをかけなくてはならなかったはずです──船内の重力場が生きているうちは、それも支障な かったでしょう。しかし、重力場が切れたあとはどうです? 巨大な重力をもろに受けて、乗員はたちまちぺちゃんこになってしまうはずではありませんか?
PK ただちにそうはなりません。重力場の減衰は徐々に進行しました。はじめは、徴妙な調整 をほどこされていた計器側半球、すなわち裏デッキ≠ノいくための重力ループ・トンネルが やられ、ついで、自動乱流調整装置がいかれ、最後に、メイン重力場が徐々に──太陽の引力 を内部的に打ち消すだけの力は残っていましたが──弱くなっていったのです。メイン重力場 がダウンするころには、船はすでにコロナの下層部に到達していました。そして、ダシルヴァ船長も、それに対する準備ができていました。
彼女は、内部の重力中和機構が失われたのち一直線に上昇することは、自殺行為であると心 得ていましたが、ともかくもそうしようと考えたのは、彼女の記録をわれわれにとどけるため だったのです。とすれば、ほかにとる道はただひとつ、船を降下させ、ブレーキをかけて、乗 員には三GかそこらのGしかかからないようにすることしかありません。
さいわい、重力の溝に向かって降下し、なおかつ脱出できる方法があります。つまり、エレ ンが実行したことは、双曲線の脱出軌道をとることだったのです。そのために、レーザーによ る推進力のほぽすべてが、ふたたび落下をはじめた船に接線速度を与えるためにつぎこまれま した。
つまり彼女は、コンタクトの何十年も前、有人降下のために考えられた計画を、そのまま踏 襲したのですよ──浅い軌道をとり、推進と冷却にレーザーを用いて、電磁場を熱からの保護 に使う、という方法を。ただ、今度の降下は意図的なものではなく、したがってそれほど浅く はなかったという点だけがちがっていますが。
CA どの程度深くまで、彼らは潜ったのです?
PK うちつづく混乱のなかで、このときの落下以前に二度、船が落下したことを憶えておいで でしょう。一度めは重力推進が停止したとき、二度めはソラリアンが船を支えきれなくなった とき。そして,この三度めの落下では、それまでのいかなるときよりも光球層の近くまで落ち こみました。文字どおり、その表面をかすめるほどに。
CA しかし、乱流はどうなります、博士! 船内の重力場も時間圧縮場もなくして、なぜ船はつぶされずにすんだのです?
PK わたしたちは、この思いがけない降下から、太陽物理についてたくさんのことを学びまし た。少なくとも、今回の降下においては、彩層はかつてだれが予想したよりも……このだれか とは、すなわち丁重に詫びてもらうべき、わたしの研究仲間にほかなりませんが……ずっと穏 やかでした。しかし、もっとも重要な要素は、わたしは操船技術であったと確信しています。エレンはきわめてみごとに、不可能事をなしとげたのです。いま、地球連合宇宙軍《TAASF》によって、自動記録装置が調査されているところです。彼らはテープの分析結果をおおいに賞賛しており まして──その興奮をうわまわるものといえぱ、彼らがエレンに勲章を与える立場にない、と いう悔しさだけのようでず。
ウェイド将軍 さよう、乗員の状態は、TAASFのレスキュー部隊を呆然とさせるにあまりあ りました。サンシップはまるで、ナポレオンのモスクワ撤退のような惨状を呈しておりました からな! 生存者がひとりもいなかったため、事情を聞きだすにも聞きだせず、テープが再生 されるまで、われわれがいかに首をかしげたかは、ご想壊いただけるでしょう。
ングエン委員 想像はつくよ。まさか地獄の業火のなかから、雪玉の特別便がとどくとは思わん からな。博士、船の指揮官が熱吸排システムの排熱能力をあれほど高くしたのには、ちゃんと ああいう結果になるという計算があってのことだったーそう仮定してかまわんですかな?PK 正直申しまして、委員閣下、そうではないと思います。エレンが船内の温度をさげようと したのは.すべての記録を守りたかったからでしょう。冷却レーザー・システムの吸熱率が高 くなりすぎれぱ、記録は焼けてしまいます。彼女がああしたときには、記録テープを守るだけのことしか念頭になかったのだと思います。おそらく彼女は、たとえて言えぱ、イチゴジャムの中身のような状態になった乗員を乗せて、船が太陽からとびだしていくものと考えていたのでしょう。冷凍のもたらず生物学的効果まで思いおよんでいたとは考えられません。おわかりのように、エレンは多くの点で、知識的に少々欠けているところがあります。自分の分野でこそ追いついてはいますが、おそらく、彼女の時代以来、冷凍医学がどれほど発達したかは知らなかったでしょう.ですから、いまから一年たって目覚めたときには、きっと愕然とするでしょうね。ほかの者たちは、たぶん復活をあたりまえの奇跡と受けとめるだろうと思います。もちろん、デムワ氏だけは例外ですが。わたしには、デムワ氏がなにかに驚くとは……あるいは、自分の復活を奇跡だと考えるとは、とても思えません。彼は不死身です。いまこのとき、彼の意識が冷凍睡眠においてどこを漂っているにせよ、彼はそのことを知っていると思います。
31 伝 播
春の訪れとともに、鯨たちはふたたび北へと向かう。
遠くで潮を噴いている灰色のコククジラたちの何頭かは、以前にカリフォルニアの岸に立って、回遊しているのを見かけたときには、まだ生まれていなかったはずだ。あのグレイの鯨たちは、いまもジェイコブとスフィンクスのバラード≠歌っているだろうか。
たぶん、歌っていないだろう。どのみち、あれはコククジラたちの好きな歌ではない。きまじめな彼らにとって、あの歌はあまりにも不敬で、あまりにも……イルカ的なのである。コククジラたちは自己満足型の気どり屋だったが、それでも彼は、コククジラたちが好きだった。
足もとの岩場に波が押しよせ、どどーんという轟きとともに、砕けちる。足は海水で濡れており、彼の肺は、ほかの人間ならベーカリーで深く息を吸いこんだときに味わうはずの、満足感と空腹感のないまぜになったような、奇妙な感覚を味わっていた。そこには、うねる海のもたらず静謐さと、潮がつねに岸辺を洗って、変化をもたらしてくれるという期待感があった。
サンタバーバラの病院は、車椅子を用意してくれたが、ジェイコプは杖のほうを好んだ。行動範囲ぼせまくなるが、体を動かしていれぱ、療養期間が短くなるだろう。冷凍臓器センターで目覚めてから三ヵ月、ジェイコプは自分の足で立とうと懸命の努力をつづけ、そのいっぼうで、本来ならつらいはずの、楽しい経験を味わってきた。
つまり、エレンのことばの攻撃である。官僚主義時代全盛期に生まれた人間が、連合市民を赤面させるようなことばを使いまくるという事実は、すぺての論理をくじくものだった。だがエレンは、友人たちにとって、自分のことばつかいが強烈であり、自分の語彙が相手を仰天させるものであることを感じとっていた。彼女はそれが、宇宙都市で培われたことばだと言った。そして、ほほえみを浮かべ、ジェイコプにはまだ準備ができていないとわかっているくせに、彼がある行為をもって返答するまで、そのことばの説明を拒むのだ。まるで、自分は準傭ができているかのように!
医者たちがホルモン抑圧措置をとりはらうのは、一ヵ月後、細胞再生処置の大半が終わってからの予定になっている。宇宙飛行のような負担の大きい経験をしてもよくなるのは、さらにその一ヵ月後だ。それなのにエレンは、うむを言わせずぺージのすりきれた『NASAスートラ』を引っぱりだし、あなたにこんな体力があるのかしらね、とわざとらしく首をかしげるのだ!
まあいい、医者たちは、フラストレーションは回復を早めると言っている。意識をとぎすましたり、こういったばかげたことを言いあっているほうが、常態にもどりやすいのだ。
もしエレンが、これからもずっとあれをつづけるつもりなら、医者たちは仰天するだろう!ともあれ、ジェイコプは回復予定表を、あまり信じてはいなかった。
イフニ! 水がやけに気持ちよさそうに見える! さわやかで、ひんやりとして。神経をもっと早く再生させる方法は、必ずあるにちがいない! 自己暗示よりも、ずっと効果的な方法が。
ジェイコプは岩場に背を向け、叔父のむやみに細長く伸びた屋敷のパティオに向かって、ゆっくりと歩きだした。杖を使うのは、必要にかられてというよりも、そのドラマチックな手ざわりが気に入っ七いたからである。杖を握っていると、病状が少しは軽くなったような気がするのだ。
いつものように、ジェイムズ叔父はエレンとじゃれあっていた。彼女は恥知らずなことを言って、叔父を楽しませていた。
あれだけの面倒を引き起こしたこのヒヒ親父には、これこそ正しいあつかいかただな、とジェイコブは思った。
「よう、ぼうず」ジェイムズ叔父が両手をあげて言った。「ちょうどおまえを追いかけていこうと思っとったんだ、ほんとうだぞ」
ジェイコプはものうげにほほえんだ。「急がなくてもいいよ、ジム。ぼくらの恒星間探険家は、おもしろい話をいっぱい知ってるはずだから──プラックホールの話はしてやったかい、エレン?」 エレンはいたずらっぼく笑い、人目を忍ぶようなしぐさをした。「なに言ってるの、ジェイク、それだげは話すなって、あなたが言ったんじゃない。でも、あなたの叔父さまが聞きたがると思うんなら……」
ジェイコプは首をふった。叔父の相手は自分でしたほうがいい。エレンにまかせると、ちょっと手厳しくなるかもしれない。
ミズ・ダシルヴァは大パイロットであると同時に、この数週間は、想像力に富んだ陰謀の共謀者ともなっていた。だが、ふたりの個人的な関係は、ジェイコプをくらくらさせていた.彼女の個性は……ひどく強烈だった。
目を覚まして、〈カリュプソ〉がジャンプに出てしまったことを知ったとき、エレンは新造船、〈ヴェサリウスU〉の設計チームに加わることにサインした。そのわけを、エレンは堂々とこう宣言した。まる三年かかって、ジェイコプ・デムワにパブロフの条件反射をしこむ。その期間が終わるころには、鈴を鳴らしただけで、ジェイコプは進んで外宇宙飛行士になることを決断するだろう、と。
ジェイコプはそれには答えずにおいたが,すでに彼の唾液線は、完全にエレン・ダシルヴァの意のままになっていたのだった。
ジェイムズ叔父は、いままでになく神経質になっていた。いつもは冷静な政治家が、いまはひどく不安そうだ。アルヴァレス家の血筋である快活なアイルランド系の魅力は、いまは影をひそめている。ごま塩頭を、神経質そうにうなずかせており、緑の目は不自然なほど悲しげだ。
「来たぞ、ジェイコブ。客が到着した。書斎に通して、いま、クリスティアンが相手をしている。
なあ、この件については、分別をわきまえてもらえるといいんだがな。政府の人間を招く理由は、どこにもない。わしらだけだって、この件の片をつけられるんだ。
だから、その、わしが思うに……」
ジェイコプは怪我をしていないほうの腕をさしあげた。'「ジム、やめてくれ。この件については、よく話しあったはずだ。
これは裁判にかけられるべき問題なんだ。もし叔父さんが秘密寄託局の調査を断ると言うんなら、親族会議を開いて、みんなに諮《はか》るしかない!あのジェレミー叔父さんのことだ、きっと洗いざらいを世聞に公表したがるぞ。それでマスコミは喜ぶだろうが、そうなれぱ検察庁がこの事件をかぎつけて、叔父さんは五年間、尻に小さな機械をつけなけりゃならなくなる。そいつは信号を出しつづけるだろう──ピー、ピー、ピー≠ニね」
ジェイコプはエレンの肩に、体を支えるためというよりも、むしろ彼女に触れていたいがためにもたれかかったまま、両手をジェイムズ叔父の前でぱっぱっと開いて見せた。一度ピー≠ニいうたびに、叔父の貴族的な顔は少しずつ蒼ざめた。エレンがくすくす笑いかけたが、そこでしやっくりをした。
「ごめんなさい」とりすました顔で、エレン。
「このいたずらものめ」ジェイコプはそう言ってエレンをつねり、杖を握りなおした。
書斎は、カラカスのアルヴァレス屋敷の書斎ほど立派なものではなかったが、なにしろここはカリフォルニアだ。それだげで充分埋めあわせがつく。ジェイコプは、あしたから自分と叔父が口をきかないようなことにならなけれぽいいが、と願った。化粧しっくいの壁や飾りの針が、スペイン風の雰囲気を強調していた。本棚のあいだには、ジェイムズが集めた、官僚主義時代の地下出版物コレクションを収めた陳列ケースが、あちこちにせりだしている。
マントルピースには、長い金言が掘りこまれていた。
力を合わせれぱ、人民は決して打ち負かされない。
入っていくと、ファギンがさえずりをあげて、暖かく出迎えた。ジェイコブは、ただカンテンを喜ぱせるだけのために、おじぎをし、長々と格式ばった挨拶を述べた。ファギンは病院に、定期的に彼を訪ねてきてくれた。はじめのうちは、おたがい気まずい思いを味わった──どちらも、相手にひどく迷惑をかけてしまったと思いこんでいたのである。だが、最後には、ふたりともそんなことはないと認めあうよ穿になった。
TAASFのレスキュー部隊がサンシップに乗りこんだときーサンシップは、レーザーの反動に乗って双曲線軌道を描き、高速で太陽系の外めがけて飛んでいくところだった──彼らはかちんこちんに凍った人間たちを見て、肝をつぶした。裏デッキで見つかったぼろぼろのプリングの死体についても、まったく手の施しようがなかった。だが、彼らをいちばん唖然とさせたのは、レーザーの推力がかかっているあいだじゅう、根瘤の小さな鋭い棘で床にさかさまにぶらさがっていた、ファギンの姿だった.そして、人間の場合とちがい、彼の細胞の四分の一は凍結しておらず、光球をかすめる荒っぽい飛行を、無傷で生き延びたらしいことが判明したのだった。
こうして、本人も思いもよらなかったことに、育成協会のファギン──永遠の観察者であり、裏で糸を引く者であったファギンは、白分自身、ユニークな存在となってしまった。おそらく彼は、厚い光球の不透明な炎のなかを、さかさまになったまま飛行するのがどんなものかを説明できる、唯一の知的生物だろう。これで彼にも、人に語って聞かせられる冒険譚ができたわけだ。
それはカンテンにとって、つらい経験だったにちがいない。エレンのテープが再生されるまでは、だれも彼の話を頭から信じなかったのだから。
ジェイコプはピエール・ラロックにも、やあと声をかけた。この前会ったとき以来、ジャーナリストはだいぶ本調子をとりもどしているようだ。食欲も旺盛なもので、クリスティアンの出したオードブルをかたっばしから漁っている。まだ車椅子に乗ったまま、彼はジェイコプとエレンににやりと笑いかけ、黙ってうなずいてみせた。ラロックが返事を返さなかったのは、口のなかがいっぱいだったからではあるまいか。
もうひとりの客は、背が高く、ブロンドの髪と明るいプルーの目を持つ、細面の男だった。彼は長椅子から立ちあがって、手をさしだした。
「ハン・二ールセンです、デムワさん。ご偉業はユユースで聞きおよんでおります。お会いできて光栄です。もちろん、秘密寄託局は、マスコミに流れた情報のほかにも、政府が知っていることはすべて知っていますから、光栄さもひとしおというものですよ。もっとも、わたしどもをお呼びになったからには、政府が知らないことをお話しになるおつもりなんですね?」
ジェイコブとエレンは、海を見わたせる窓を背にして、彼の向かいの長椅子に腰をおろした。
「そう、そのとおりです、二ールセンさん。じつを言うと、問題はふたつありまず。それについて、秘密の保持と、地球評議会による裁判をお願いしたいのです」
ニールセンは眉をひそめた。「この件について、評議会がほとんどなにも知らないことは、ごぞんじなんでしょうね。植民星の任命した代表者は、まだ地球に到着してさえいないんですよ!連合の官……公僕たちも──」(この男は、官僚≠ネどといういまわしいことばを使おうとしたのだろうか?)「──秘密寄託局のような超法規的組織が、一般法を越えて誠実さを強制することにはいい顔をしません。地球評議会は、さらに評判がかんばしくない」
「たとえ、〈コンタクト〉以来最大の危機を乗りきるには、この方法しかないことが明らかになっても、ですか?」エレンが訊ねた。
「そうでず。連合政府も、恒星間・種族間関係において、いずれは司法権を手放さなけれぱならないことは承知していますが、なかなかそうはしたがらず、権利を譲るうえで、一歩ごとにずるずる足を引きずっているしまつですから」
「しかし、問題はそこにあるんです」と、今度はジェイコプ。「この危機は、今回水星で惨事が起こる前から悪化していました──評議会を創設せざるをえないほどに.だが、それでもまだなんとかやってはいけた。その状況を変えてしまったのが、おそらくサンダイバーです」
ニールセンはうかない顔をした。「承知しています」
「ほんとうに、そうですか?」ジェイコプは両手を膝にのせ、前に身をのりだした。「水星で暴かれたババカプのささやかなあやまちに対し、ビラという種族がどう反応を示すと考えられるかについての、ファギンの報告はごらんになったはずだ。そしてその報告は、カラの工作に関する全貌が明るみに出るずっと前に書かれたものなのですよ!」
「そして政府は、なにもかも知っています」ニールセンは眉根を寄せて言った。「カラの行動、彼の奇怪な謝罪、その概略全体を」
「なるほど、結局」とジェイコブはため息をついて、「連合主義者ずなわち政府でずからね。外交政策を決めるのは彼らだ。だいたいエレンは、われわれがあの地獄を生き延びられるとは、夢にも思っていなかったのです。そして、すべてを記録してしまった」
エレンが言った。「ファギンが説明してくれるまで、わたしは少しも気づかなかったんです──連合政府には真実を知らせないほうがよく、この混乱の処理については、地球評議会のほうが適任であるということを」
「たぶん、適任ではあるでしょうが、しかしあなたがたはわれわれに……そして評議会に、どうすることを望んでおられるのです? 組織として認知され、合法性を得るには、何年もかかるでしょう。なぜ評議会が、この状況を調停するために、そのすべてを賭けなくてはならないのです?」 しばらくのあいだ、だれも口をきかなかった。やがて、ニールセンが肩をすくめた。
ブリーフケースから、彼は小さな記録キューブをとりだし、スイッチを入れ、部屋の中央の床に置いた。
「以後の会話は、秘密寄託局によって厳封されます。どうぞはじめてください、ダシルヴァ博士」
エレンは指を折りながら、要点をチェックしはじめた。
「第一点。わたしたちは、ババカプが〈ライブラリー〉協会、および自分自身の種族に対して、犯罪を犯したことを知っています。〈ライブラリー〉の報告を捏造し、〈サンダイバー計画〉において工作を行なった──すなわち、ソラリアンと交信し、レタニの遺産≠用いて彼らの怒りからわたしたちを救ったと詐称したことです。
わたしたちは、ババカプがあんなことをした動機を理解しているつもりでいます。〈ライブラリー〉にサンゴーストに関する言及を見いだせなかったことに当惑した、というのがその理由のひとつ。そして、詮索好きな字宙の孤児≠ノ、自分たちが劣っていることを思い知らせてやろうとも思ったのでしょう。
銀河の伝統によれば、この状況は、ビラおよび〈ライブラリー〉双方が、地球に口止め料≠払うことによって解決される筋合いのものです。連合政府は、いくつかの付帯事項つきで、報酬を選ぶことができるでしょう。ただし、人類は以後、そのプライドを傷つけたというだけの理由で、ビラの憎しみを買うことでしょうが。
今後は、チンプとイルカという類族の存在によって得られた、暫定的な主族としての地位から人類を引きずりおろすことに、彼らはいっそう力を入れることも考えられまず。人類を……銀河社会への困難な適応を導く≠スめに、いわば養子縁組≠ウせて、どこかの類族にしてしまおうという意見もあるくらいですからね。ここまではちゃんと状況を要約できたかしら?」
ジェイコブはうなずいた。
「立派なものだよ。ただし、ぼくの愚行を言い忘れている。水星でぼくは、ババカブを公衆の面前で糾弾してしまったんだ! 二年間絶対に口外しないという誓約書にサインはしたが、向こうもそれをあてにするわけはないし、政府がこの件に関して緊急報道管制に踏みきるまでには、時間がかかりすぎた。おそらく、この渦状肢の半分くらいには、この事件が知れわたっているだろう。
ということは、ビラを脅せていたはずのささやかなてこが、もはやなくなってしまったということだ。彼らはなにはぱかることなく、人類を養子縁組≠ウせることに全力をそそぐだろうし、ババカブの犯罪に対する賠償≠口実に、こちらが望んでもいない援助をいろいろと押しつけようとするだろう」
ジェイコプはエレソに、つづけるようにと身振りで示した。
「第二点。いまやわたしたちは、ババカブの失策の背後にカラがいたことを知っています。カラには、ババカブの犯罪を人類に教える意図はなかったようです。彼には彼なりの、脅喝計画があったからでず。
ジェフリーの友情を勝ちとることにより、カラはあのチンパンジーに自分を解放≠ウせようとし、それがババカブの怒りを買った。その結果、ジェフリーは死に、〈サンダイバー計画〉が大頓挫を喫したため、ババカブは自分のすることはなんでも信じられると思いこんでしまったのでしょう。ドウェイン・ケプラーの精神状態の悪化も、彼の計画の一環であり、カラの光輝幻覚°Z術によってもたらされたものかもしれません。
カラの計画でもっとも重要な部分は、人型のゴーストをでっちあげることでした。これはみごとに実行されました。あれにはだれもがだまされましたから。あれだけの能力があれば、プリングがビラを威し、独立を勝ちとれると考えるのもむりはありません。プリングは、これまでわたしが聞きおよんだ種族のなかでも、その外見とは裏腹に、もっとも高い潜在能力を秘めた種族なのです」
ジェイムズが異論を唱えた。「だが、ビラがプリングの主族であるとすれば──そして、動物に近かったカラの祖先を知性化したのがビラであるとずれぱ、なぜババカプは、あのゴーストがカラのでっちあげであることを見破れなかったのだね?」
「それについてコメントさせていただいてよろしいのなら」とファギンが口をはさんだ。「プリングは、ババカプの随員をみずからの判断で選ぶことを許されていました。わたしの協会が独自に入手した情報によれぱ、カラはプリングの居住に適するよう、環境を改造された惑星のひとつにおいて、ある芸術的試みの重鎮だったそうです。その芸術がどのようなものであるのかは、いまにいたるまで目撃されたことはありません。この件に関するブリングの秘密主義は、ビラから継承した行動パターンなのでしょう。そして、ビラ自身も、その芸術を見たことがないと推定されます。その優位性に満足するあまり、ビラは知らず知らずのうちに、彼らの類族の試みに力を貸す形となったのではないでしょうか」
「で、その芸術とは?」
「その芸術とは、論理的に考えて、立体投影でしょう。プリングが知性を得てから一万年、その期間の大半を費やし、主族にはないしょで実験を重ねてきた──そう考えることも、あながち不可能ではありません。それほど長いあいだ秘密を保って実験に打ちこんできたことに、わたしは畏怖を抱かずにはいられませんよ」
ニールセンが低く口笛を吹いた。「よほど解放されたくてたまらないのでしょうね。しかし、テープはひととおり聞かせてもらいましたが、どうしてもわからないことがありまず。なぜカラは、〈サンダイバー計画〉において、あのような企みをしたのでしょう? 人型のサンゴーストをでっちあげたり、ジェフリーを死に追いやったり、ババカプに過失をしでかさせたりすることが、プリングにとってなんの利益になるのです?」
エレンはジェイコブを見やった。ジェイコブはうなずいた。 「これはまだきみの受け持ちだ、エレン。大半を推理したのはきみなんだから」
エレンは深々とため息をついた。
「たぶんカラには、水星でババカプの悪業をばらすつもりはなかったのです。彼は自分のボスをそそのかして、嘘をつかせ、レタニの遺産を使った芸当を洟じさせましたが、それの狙いは、その行為が信用されることにあったのです──少なくとも、太陽系ではね。
もし彼の計画が実行に移されていれぱ、彼は〈ライブラリー〉協会に対して、ふたつの問題点を報告していたでしょう。ひとつは、ババカブが愚か者で嘘つきであり、助手の機知で危うい場面を救われたこと。ふたつめは、人類が無害な脳なしの集まりであり、無視されるべき存在であること。
まず、ふたつめの点から説明しましょう。
この件をよく考えてみれぱ、外世界のだれひとりとして、人型をしたゴースト≠ェ恒星のまわりをとびまわっている、などという気ちがいじみた話を信じないことは明らかです。とりわけ、〈ライブラリー〉には、それについての言及がないのですから!
想像してもみてください、プラズマ生物がこぶしをふりあげ=A自分たちが存在する証拠を写真に撮られないよう、奇跡的にもカメラから逃れつづけたという話に、銀河の諸種族がどのような反応を示すかを! それを聞いたオブザーバーたちは、わたしたちがたしかにとらえた」証拠を──たとえばトロイドや本物のソラリアンの記録をも、調べる気をなくしてしまうでしょう! そして銀河系全体は、地球人の研究≠、揶揄のまじった軽蔑の目で見ることになります。カラは明らかに、〈サンダイバー計画〉が詳細を聞かれもせず、笑いとばされることを望んでいたのです」
部屋の反対側で、ピエール・ラロックが赤面した。だが、一年前、彼が地球人の研究≠ノついて書いた記事のことは、だれも口にしなかった。
「カラがわたしたちを皆殺しにしようとしたとき、簡単に説明したところでは、彼がゴーストをでっちあげたのは、わたしたちを救うためだということでした。もし人類が愚か者のレッテルを貼られれぱ、太陽に生物がいることを報告したときのセンセーションは……雌伏して列強に追いつくための研究に努めるべき時期に、人類の名を高めてしまうそのセンセーションは、うんと矮小なものになっていたでしょう」
ニールセンは眉をひそめた。「それは一理あるかもしれない」
エレンは肩をすくめて、「いまとなっては、もう手おくれですけれどね。
ともかく、さっきも言ったように、カラは〈ライブラリー〉に、そしてソロ族に、人類は無害な愚か者であると報告するつもりだったようです。そしてさらに重要なのは、ババカプがその愚か者の同類であったということです……なにしろババカブは、ゴーストの存在を信じこみ、その思いこみに基づいて嘘をついたのですから!」
エレンはファギンに向きなおった。「わたしたちが話しあった内容の要約は、これでよろしいかしら、カンテン=ファギン?」
カンテンはそっとさえずった。「けっこうだと思うよ。秘密寄託局の秘密厳守≠信用して、わたしは確信を持って申しあげよう。いまわれわれが学んだことに照らしてみれば、プリングとビラに関してわたしの協会が入手していた情報は、すっかり筋が通る。プリングは明らかに、ビラの信用を落とす計画に力を入れているようだ。そこには、人類にとって、チャンスと危険がひとつずつ存在する。
チャンスについては、きみたちの連合政府が、カラの裏切りの証拠をビラに提示し、それによって、ビラがいかに操られていたかを教えてやれるということだ。そこでソロ族が介入してきて、プリソグの処罰を決断すれば、カラの種族は擁護者を必要とするほど激しく迫害されるだろう. 彼らの地位は引きさげられ、その植民星は減ぼされて、人口は減少≠オてしまうかもしれない。
それを教えたことで、人類に対してその場では報酬が与えられるだろうが、といって、それでビラの長期的な憎悪がたいして和らぐわけでばない。彼らの心理は、そのようには働かないのだ。いったんは、人類を養子≠ノしようとする試みを中止するかもしれない。ババカブの犯罪に対する償いの押しつけを断っても、おとなしく引きさがるかもしれない。だが、長い目で見れぱ、それで彼らの友情が得られることはない。人類に負い目を受けたことは、彼らの憎悪を増大させるだけだ。
加えて、もっとリベラル≠ネ種族たち──これまで人類がその保護にたよってきた種族たちの多くは、きみたちがビラに、またもや聖戦をしかける名目を与えてしまったことを快く思うまい。ティンプリーミーは、ルナの領事館を引きはらうかもしれない。
最後に、倫理上の問題がある。その理由を全部話すには、長い時間がかかってしまう。そのうちのいくつかは、きみたちには理解できないだろう。だが、育成協会は、プリングが荒廃することを案じている。たしかに、彼らは若くて直情的だ。ほとんど人類と同じくらいにね。だが、彼らにはおおいなる将来性がある。そのわずかなメンバーが、十万年の奉仕から脱却することをたくらんだからといって、種族全体が黴底的な掠奪をこうむることは、おそるべき悲劇だ。
それらの理由で、わたしはカラの犯罪を機密下に置くことを推奨する。噂はまちがいなく広まるだろう。だがンロ族は、人類をはじめとする劣等種族が言いふらす噂などには、耳も貸すまい」
窓から吹ぎこんできたそよ風にあおられて、ファギンの小片が小さく鳴った。ニールセンは、じっと床を見つめていた。
「デムワさんにたくらみを見破られたとき、自分もろとも、カラが船の乗員を皆殺しにしようとしたのもむりはない! ビラがカラの行動について公式に抗議することにでもなれぱ、おそらくプリングは破減ですからね」
「連合政府はどう出ると思います?」ジェイコブが訊ねた。
「彼らが?」ニールセンはユーモアのない笑いを浮かべた。「決まっているでしょう、膝を屈して、ビラに証拠をさしだしますよ。イフニ! こいつは、人類がセクター規模の〈ライブラリー〉分館と一万人の技術者をせしめる、絶好の機会なんだ。そして、人間の技師には理解できず、アドバイザー≠ネしでは人間のクルーには乗りこなせない、最新式の宇宙船を押しつけられないように交渉ずる、絶好の機会でもあります。この誘惑の前には、いまいましい養子≠フ問題など影が薄れてしまう!」両手を広げて、「それに、われわれの類族のひとりを殺し、われわれがおおいに力を入れていた計画をつぶしかけ、銀河の諸種族の前に人類が愚か者であると思わせようとした知的種族の運命など、政府が気にするはずはありません!
いざそういう立場に立たされてみれぱ、彼らを非難できますか?」
ジェイコプの叔父、ジェイムズが咳払いをし、みなの注意を引いた。
「われわれは、この事件のすべてを封印ずるよう試みることもできる。わたしは、いくつかの組織に影響力がなくもない。ちょっと話をつけてやれぱ……」
「そんなことはできないよ、ジム」とジェイコブが言った。「いくらちょっとした役割しかはたしていないとはいえ、あなたもこの混乱の関係者なんだ。自分からしゃしゃりでようとすれば、いずれ真実がばれてしまう」
「なんです、その真実とは?」二ールセンが訊ねた。
ジェイコブは眉をひそめて、叔父を、ついでラロックを見やった。フランス人は平然と、オードブル漁りを再開している。
「このふたりは」とジェイコプは言った。「要観察法の廃止をもくろむ、ある結社の一員なんです。あなたにおいでいただいたのには、この件も関係しているんですよ。彼らについては」、なにか手を打つ必要がありますが、警察に行くよりは秘密寄託局に相談するほうが、その第一歩としては妥当でしょう」
警察ということばが出たとたん、ラロヅクは小さなサンドイッチをほおぱるのをやめた。それをじっと見つめてから、下に置いた。
「それはどういう結社なのです?」二ールセンが訊ねた。
「要観察者、およびそのシンパの市民からなる組織です。その目的は、ひそかに宇宙船を……要観察者のクルーの乗り組む宇宙船を建造することです」
ニールセンはいずまいを正した。「なんですって?」
「ラ日ックは、彼らの宇宙飛行士訓練計画の責任者です。そして、スパイのチーフでもあります。彼はサンシップの重力場ジェネレーターのセッティングを調べようとした。その」証拠のテープを、わたしは持っています」
「しかし、なぜ彼らはそんなくわだてを?」
「決まってるでしょう? 想像できるかぎり、これ以上強烈に象徴的な抗議はありません。もしわたしが要観察者だったなら、わたしもきっと参加していたでしょう。それに、わたしは彼らのシンパでず。要観察法には、これっばかりも我慢がならない。
しかし、わたしは現実的でもあります。現状では、要観察者は特別扱いされています。彼らの心理学的問題は、汚名の烙印となってどこにでもついてまわります。それに対して、彼らはきわめて人間的な反応をしめし、寄り集まって、まわりの従順に飼い馴らされた℃ミ会を憎むようになります。
彼らは言います。おまえたち市民がおれを暴力的だと言うのなら、いいだろう、暴力をふるってやろうじゃないか!@v観察者の大半は、そのPテストの結果がどうあれ、人を傷つけるようなことはしません。しかし、このステロタイプな評価をつきつけられたとたん、彼らはその評価のとおりの反応をしてしまうのです!」
「それは事実であるのかもしれませんし、そうではないのかもしれません」と二ールセン。「しかし、現在の状況において、要観察者が宇宙に出るとなると……」
ジェイコブはため息をついた。「もちろん、それはそのとおり。そんなことを許すわけにはいきません。いまはまだね。
そのいっぼうで、要観察者に対し、政府が集団ヒステリーを煽ることも許すわけにはいきません。それを見過ごしておけば、問題がますまずこじれた形で先送りされ、もっと激しい反乱を呼び起こすでしょう」
二ールセンは当惑したような顔になった。「まさか、地球評議会を要観察法にてこいれさせようと言うんじゃないでしょうね? そいつは自殺行為だ! 世間がそんなことを許すはずがありません!」
ジェイコブは悲しげにほほえんだ。「そのとおり、許すはずはありません。ジェイムズ叔父でさえ、それは認めざるをえないでしょう。現在の市民は、要観察者の地位を変えることなど考えもしないでしょうし、いまの地球評議会には、なんの権限もありません。
しかし、地球評議会の勢力圏はどこです? いまは太陽系外の植民星を治めていまずが、いずれ、太陽系外のすべてのことがらをとりしきるようになるでしょう。その外世界でこそ、評議会が要観察法に──少なくとも象徴的に、だれの心の平安も乱すことなく、もの申すことができるはずです」
「おっしゃることがよくわかりませんが」
「たぶんあなたは、オルダス・ハックスリーをお読みになったことかないでしょう? ない?彼の諸作品は、エレンが生まれたころはまだ広く読まれていたもので、わたしの従弟たちやわたしも……若いころ、その一部を研究させられたものです──なにしろ、奇妙な時代について書かれているものだから、その年ごろでは読むのに骨が折れ,ましたが、作者のとほうもない洞察力と機知を知るだけでも、読む価値がありましたよ。
その老ハヅクスリーの著書のなかに、『すばらしい新世界』というものがあります……」
「ああ、聞いたことはあります。たしか、一種のディストピア小説でしたね?」
「一種のね。一度お読みになるべきでしょう。そのなかに、いくつか不気味な予言があるんです。
その小説のなかで、ハックスリーはある社会を描いています.不愉快な側面もあるが、それでも筋の通った、それなりに名誉ある──蜜蜂の巣の倫理に似てはいるが、ともかくも倫理と呼べるものを持った社会。人には個人差というものがありますから、その社会に条件づけされたパターンに合わない個人が、どうしても出てくる。そういった人たちを、ハックスリーはどのように処理すると言っていると思いますか?」
二ールセンは、この話がどこにどうつながるのだろうといぶかしみながら、眉をひそめて答えた。 「蜜蜂の巣のような社会でですか? きっとはみだし者は排除されて、殺されてしまうんじゃないですかね」
ジェイコブは指を一本立てた。「いや、ちょっとちがいます。ハヅクスリーの描くところでは、この社会にはそれなりの知性かあります。その指導者たちは、自分たちの築ぎあげたシステムが・堅固なものではあるが、予想もつかない脅威によって崩壊しかねないことに気づいています。そして、いずれ苦難の時代が到来し、社会がすべての人材を必要とするとき、はみだし者たちがそれを乗りきる役にたつであろうことも承知しています。
とはいえ、社会の安定を脅かす彼らを、そこらに放置しておくわけにもいきません」
「では、どうするんです?」
「はみだし者を集めて、あちこちの島に隔離してしまうんですよ。そこで彼らは、だれにもじゃまされることなく、独自の社会的実験を行なうことができるという寸法です」
「島に、ですか?」ニールセンは頭をかいた。「そいつは意表をつくアイデアだ。じっさいそれは、われわれがすでに地球外種族居留地に対してしていること-地理的に制御可能な地域から要観察者を締めだして、市民の出入りは自由とし、ETたちとの交流を許していることと、正反対のことじゃありませんか」
「じつに我慢のならん状況だよ」ジェイムズがつぶやいた。「要観察者だけでなく、地球外種族にとってもな。じっさい、カンテン=ファギンは、ぜひともループルやアグラやヨセミテなどを訪ねてみたいそうだ!」
「すべては時間が解決することでずよ、わが友ジェイムズ・アルヴァレス」ファギンがさえずるように言った。「いまのところは、カリフォルニアのこの小さな地域への訪問を認めてくれる特例処置だけで、充分ありがたく思っています。これは過分の報酬です」
「その島≠フアイデアがうまくいくがどうかはわかりません」ニールセンは考え深げに言った。
「もちろん、試してみるだけの価値はあるでしょう。細かいことはまたの機会に話しあうということにして、わたしにわからないのは、それが地球評議会となんの関係があるのかということです」
「外挿してみてください」とジェイコプはうながした。「太平洋に専用の島を選び、要観察者たちがいまどこに行ってもつきまとう、たえざる監視の目から逃れ、自分たちの道を切り開く場所を設けてやれぱ、要観察者間題は改善されるかもしれない。しかし、それでは充分ではありません。多くの要観察者は、自分たちがはじめから去勢されたものと感じています。彼らの親権が法的に制約されているだけでなく、人類のかつてなく重要な冒険、宇宙への進出からも締めだされているのです。
ラロックとジェイムズがからむささやかなごたごたは、要観察者の居場所が確保され、彼らが自分たちも人類の活動に参加していると感じるようにならないかぎり、いずれ人類が直面することになる諸問題の、極端な例ということですね」
「彼らの居場所。島。宇宙……ま、まさか! 本気でそんなことを! もうひとつ植民星を獲得して、それを要観察者にあけわたせというんですか? 三つの植民星を取得しただけでも、借金で首がまわらないというのに? そんなことができると思っているんなら、あなたはたいした楽天家だ!」
ジェイコブは、エレンの手が自分の手のなかにすべりこんでくるのを感じた。ちらりと目をやっただけで、ジェイコブには彼女の表情に浮かぶものが読みとれた。誇り、警戒、そしていつものように、いまにもはじけそうな笑いの発作。ジェイコブは手と手がもっとたくさん触れあえるよう指をからみあわせ、ぎゅっと握りかえした。
「そのとおり」とジェイコプは二ールセンに言った。「このごろわたしは、たしかに楽天家になっています。そしてわたしは、それが可能だと考えているんでず」
「しかし、外貨はどうします? それに、非市民に宇宙を与えてしまったら、植民星に出たがっている五億の市民の傷ついた自我をどうやって癒すんです?
どちらにしろ、植民というアイデアはうまくいかないでしょう。〈ヴェサリウスU〉でさえ、運べる人員はわずか一万人なんですよ。要観察者は、約一億人もいるというのに!」
「もちろん、要観察考が全員宇宙へ行ぎたがることはないでしょう。とりわけ、居住場所として島を提供してやればね。そもそもわたしは、彼らが望んでいるのは、正当な扱い──社会への参与だけであると確信しているんでず。われわれの真の問題は、植民星にあきがなく、輸送手段も不充分だということだけでしょう」
ジェイコブの顔に、ゆっくりと笑みが広がった。「しかし、もしわれわれが〈ライブラリー〉協会に話をもちかけ、クラス4の植民星と、人間のクルーでも動かせるよう特別に操作を簡略化されたオリオン級輸送船を何隻か買い入れるため、資金を寄付≠オてもらったならどうです」
「どうやって連中を説得します? たしかに、ババカプの欺瞞に対して償いをしようとはするでしょうが、それは彼らの目的にあったやりかたになるはずです──たとえば、銀河文明のテクノロジーをいっさい与えないようにずるなどして。その点で、彼らはほぼ全種族の支持を受けるでしょう。とすれぱ、彼らの償いの形を、どうして変えられるというんです?」
ジェイコブは両手を広げてみせた。「あなたはお忘れのようだ。いまやわれわれの手中には、彼らがほしがっているものが……それなくして〈ライブラリー〉協会が立ちいかなくなるような、きわめて貴重なものかあることを。つまり、知識です!」
ジェイロブはポケットに手をつっこみ、一枚の紙をとりだした。
「これは、少し前、水星のミリー・マーティンから受けとった、暗号メッセージです。彼女はまだ車椅子に縛りつけられてはいますが、水星の連中に矢の催促を受けて、一ヵ月以上も前、向こうにわたったんでずよ。
彼女の話では、活動領域に対して本格的なアプローチが再開され、もう何度も降下が行なわれているとか。すでに彼女も一度降下しており、ソラリアンとのコンタクトの再確立を試みたそうです。これまでのところ、彼女は自分の発見を政府には隠しとおすことができ、ファギンとわたしに相談するときを待っているそうでず。
コンタクトはなされました。ソラリアンは彼女に話しかけたのです。彼らは明白な知性を持っており、きわめて古い記憶の持ち主でした」
「信じられない」ニールセンがため息まじりに言った。「しかし、どうやらあなたは、それといままでわたしたちが話しあっていた問題とが、政治的な関連を持つと考えておられるようですね?」
「考えてもみてください。〈ライブラリー〉は地球に対し、自分たちの都合のいい賠償を押しつけられると思いこむでしょう。しかし、うまくたちまわりさえすれば、われわれは餌をちらつかせ、われわれの望みのものを手に入れることができるのです。
ソラリアンが話好きであり、遠い昔を思いだすことができるという事実は、われわれが前代未聞の宝を発見したことを意味します──じつはミリーは、彼らが古代穏族によって太陽に降下が行なわれたことを憶えており、それがあまりにも昔のことであるため、その種族とは〈始祖〉そのものであったかもしれないとほのめかしているのです。
それはずなわち、〈ライブラリー〉がそれについて、あらゆることを掘り起こす努力をしなけれぽならないということです。そして、この発見が銀河じゅうにあまねく知れわたるということでもあります」
ジエイコブはにやりと笑った。
「複雑なことになるでしょう。はじめにわたしたちは、すでに〈ライブラリー〉協会が抱いている、〈サンダイバー計画〉がひとつの大いなる愚行であるという印象を、もっと強めてやらねぱなりません。われわれに太陽への〈ライブラリー〉独占調査権を与えるよう、彼らをしむけるのです。それで向こうは、われわれがますます愚かだと思いこむでしょう。そしてついに事実に気づいたとき、彼らはわれわれの言い値でその情報を買いとらなけれぱならなくなる!
それを適切にやってのけるには、ファギンの助力、および、アルヴァレス一族あげての機知と、地球評議会の人々の協力が必要でしょうが、ともかくも、不可能ではありません。とくにジェレミー叔父などは、わたしが長いあいだ眠らせてきた能力を呼びさまし、しばらくのあいだ.汚い政治坩にかかわると知るだけで、喜んで協力してくれるでしょう」
ジェイムズが笑い声をあげた。「ただし、おまえの従弟たちの耳に入れるまで待つんだぞ!いまから、やつらの震えあがる姿が目に浮かぶようだ!」
「それなら、みんなに心配するなと言ってやってくれ。いや、この件については、ジェレミーが親族会議を召集したら、ぼくの口から話そう。この混乱が三年以内におさまることを納得させてみせる。そして、その三年がすぎたら、ぼくは永久に、政治から引退する。
そのあとは、わかってるだろうが、長い旅に出るんだ」
エレンが小さく息を呑み、爪をジェイコプの太腿にくいこませた。なんとも言いようのない顔つ音をしている。
「ただし、ひとつ条件を呑んでもらわなくちゃならない」とジェイコブはエレンに向かって言った。はたしておれは、この娘を笑わせようという欲求を──この娘のけたたましい笑い声を聞きたいという欲求を、押さえることかできるのか? そもそも、ほんとうに押さえたいのか?「ほくたちはなんとか、少なくともひとりのイルカを連れていく方法を見つげださなくちゃならない。彼女の滑稽詩は、おそろしく卑狼だが、宇宙をめぐっているうちに、その詩を代償にして、いくつかの宇宙港で補給品を買い入れることくらいできるかもしれないそ」
解 説
大野万紀
……こうしてわれわれは今日ふたたび、貴重な火を掴みとるのだ、と隊長は思った。この火をたずさえて、冷たい宇宙空間を横切り、地球に戻るのだ。なんのために?
その答えはすでに出ていた。
地球上でわれわれが動かす原子が貧弱だからだ。原子爆弾は哀れっぽいほど小さく、われわれの知識も哀れっぽいほど小さく、太陽だげがほんとうにわれわれの知りたいことを知っているのだ。そして秘密は太陽にしかない。だが、それはそれとして、こんな所まではるばるやって来て、杯を突っこんだり、ぶつけたり、走ったりすることは、愉快ではないか。またとない冒険ではないか。実をいえば、これは、小さな昆虫のような人間が、ライオンをちくりと刺して、うまく逃げ出してくるというブライドと虚栄心まじりの遊び、それだけのことなのだ。どうだ、やったぞ! とわれわれは言うだろう。さあ、これがエネルギー、火、震動、何と言っても構わない。それ《、、》の入った杯だ。これでもって町の器械を動かしてくれ、船を走らせてくれ、図書館を明るくしてくれ、子供たちの顔色をよくしてくれ、毎日のバンを焼いてくれ。科学と宗教を信じるあらゆる善意の人々よ、この杯を飲みほしてくれ! 無知の夜、迷信の吹雪、不信の風、恐怖の暗黒を放り出して、きみたちの体をあたためてくれ。これなのだ、われわれがこの杯を突き出ず理由は……
──レイ・プラッドペリ「太陽の黄金の林檎」
(小笠原豊樹訳)
太陽。六千度の表面温度。燃えたぎる核融合の炎。灼熱地獄の溶鉱炉。けれどもSF作家の想像力は、はるか昔から、そんな恒星の中へと突入していく宇宙船を、そこにエネルギーや知識を求めようとする科学者たちを描き出していた。プラッドペリは、人類に火をもたらしたプロメテウスを称えながら、詩的な文章でそれを綴ったのだった(それゆえ、当然のことながら、本書の宇宙船はブラッドベリ号と名付けられている)。太陽は知識の源泉であり、秘密のありかだった。
そして、本書でも、太陽の黄金の林檎を求めようとする人間たちが描かれている。ここでも、太陽への降下は、人類の健全な知的好奇心を象徴するものであり、銀河の古参種族たちに対して人類の独自性を主張し、プライドと虚栄心を秘かに満足させる愉快な冒険なのである。
本書はまた、科学者でもある作考が、最新の科学知識をもとに描いたハードSFでもある。この十年前後の間に、探査機等による観測により、われわれの太陽系に関する知識の量は桁違いに増大した。過去の常識的なイメージの多くは修正や変更を余儀なくされた。太陽の表面活動に関する科学的研究が飛躍的に進んだのは、一九七三年のスカイラプによる観測によってである。この時宇宙空間から撮られた多くのX線写真は、それまでの比較的安定していた太陽のイメージを大きくくつがえすものだった。本書で描かれているフレアや彩層、針状体《スピキュール》≠ネどの詳細な描写には、それらの最新知識がしっかりと取り込まれている。太陽表面は決して単純な炎の世界ではなく、恐ろしく複雑でダイナミックな、生きたエネルギーの世界なのである。
本書の書かれた一九八〇年は、太陽の研究にとっても重要な年だった。たまたま太陽活動の極大期にあたっていたのである。これを宇宙空間から観測するために、二つの衛星が打ち上げられた。アメリカのSMMと日本のひのとり≠ナある。二つの衛星はそれぞれ異なる手段で太陽表面のX線観測をおこない、貴重なデータを収集した。SMMが重量二・三トンもある巨大で精巧な衛星であるのに対し、わが国のひのとり≠ヘその十分の一、わずか二百キロ足らずの小型衛星だった。しかしそこには研究者の知恵を絞った、極めて独創的なアイデアが多数組み込まれ、SMMと充分に競いあい、むしろそれを越えるほどの成果を上げることに成功したのである。一例をあげると、X線観測をおこなうのに、SMMでは超小型の計数管を多数並べ、精密な姿勢制御をおこなうことで太陽表面の比較的狭い範囲を観測ずるようになっていたが、ひのとり≠ナはわが国独自の技術である、すだれコリメーターを使うことにより、SMMに比べるとずっと簡単な装置であるにもかかわらず、視野の広い、精度の高い観測が可能なようになっていた。SM Mは打ち上げ後わずか九ヵ月で肝心の姿勢制御装置に故障が生じ、精密な観測が不可能となってしまったが、ちっぽけなひのとり≠ヘこれを肩代わりして、貴重なデータを長期間送信してきたのである。
プライドと虚栄心の秘かな満足……。
SFの深部に根強く存在する素朴なモラルの一つは、みずから努力する者は報われるというものである。これはSFが未来を見つめる若者の視線を共有する文学であることと強く関係している。今に見ておれ、過去に安住している保守的な口うるさい老人どもめ、あなたたちにはなるほど豊富な経験があるかもしれないが、われわれにはみずから挑戦する若さと、新しいものを生み出す知恵と、失敗を恐れない勇気がある。未来はわれわれのものだ! というわけだ。これは社会的な地位も家柄や身分も何もない一人の人間が、みずからの努力で成功を克ち取るというアメリカン・ドリーム≠ノ通じるものだが、敗戦後の無から出発した日本人にも、その日本を追い上げようとしている韓国やアジアの人々にも共有できる夢だろう。おもしろいことに、慣習や制度にがんじがらめになっている過去の老大国≠フ代表と目されるイギリスでも、SFの中には同じモチーフが繰り返し現われている。クラークの「太陽系最後の日」に、くすぐったい高揚感を覚えた読者は多いことだろう。この種のナイーブな感覚には危険な一面があることも確かである。けれども、SFを子供の心を失わない大人のための物語としてとらえる時、このような素朴な上昇志向は健全なものとして理解できるのではないだろうか。本書や、『スタータイド・ライジング』に見られるのは、頭の古い悪い大人≠ナある銀河の列強種族に対して、知恵と勇気でその裏をかこうとずる賢い子供>氛汾l類や鯨類──の物語である。もっとも人類を賢い子供≠ニ見なずのはさすがに気恥かしいためか、元気なイルカたちが次代をになうものとされているのだが……。
著者デイヴィッド・プリンについては『スタータイド・ライジング』の解説に詳しい。本書は彼のデビュー作であり、『スタータイド・ライジング』より二百年前の時代を扱っている。本書でジェイコプが訓練していたイルカたちの子孫が、『スタータイド・ライジング』では宇宙船に乗り、列強種族の間で活躍するのである。
ブリンがア人リカのSF界で人気を獲得したのは、ハードSF的側面もさることながら、明るく元気のいいスペースオペラとしての側面が大きくアピールしたためだろう。若者の視線を共有するSFといっても、大人の世界≠ヨの対処の仕方は様々である。それをネガティブにとらえ、大人になんかなりたくもない、とするものが現代SFではむしろ主流だった。大きくなって、今の大人よりもっといい大人になりたい、というような青年の主張は、とても恥かしくて聞いちゃいられなかった。それが受け入れられるようになってきた背景には、分析すれば様々な要因が考えられるだろう。しかしそんなに難しく考える必要はあるまい。SFは、程度の差はあれ、もともと気恥かしい側面のある文学の一ジャンルなのだ。それを照れることなく、すなおに楽しめぱいいじゃないか、というファンが増えてきたということだろう。本書もそうだ。まるで昔のスペースオペラのような異星人《エーリアン》たちといくぷん現代風に描かれる人間たち、ハイテックでハードな描写とデニケンもまっ青のアイデアというようなミスマッチ感覚もおもしろいが、全体としていかにも西海岸の若い作家の作品らしい、映画的なタッチが楽しめる作品となっている。本書でブリンを知ったという方は、ぜひ『スタータイド・ライジング』の方も御一読願いたい。
底本:「サンダイバー」ハヤカワ文庫SF、早川書房
1986(昭和61)年9月30日初版発行
入力:2103
校正:2103
2009年6月7日公開