天の光はすべて星
THE LIGHTS IN THE SKY ARE STARS
フレドリック・ブラウン Fredric Brown
田中融二訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)玉蜀黍《とうもろこし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大|無礼講《ぶれいこう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから割り注]
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THE LIGHTS IN THE SKY ARE STARS
by FREDRIC BROWN
Copyright 1953 by FREDRIC BROWN
Translated by YUJI TANAKA
Published 1964 in Japan by HAYAKAWA SHOBO & CO., LTD.
This book is published in Japan by arrangement with SCOTT MEREDITH LITERARY AGENCY, INC., through CHARLES E. TUTTLE CO., TOKYO
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目次
一九九七年
一九九八年
一九九九年
二〇〇〇年
二〇〇一年
解説
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天の光はすべて星
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一九九七年
まだあと二、三日滞在するつもりだったが、その日の昼過ぎ、あるものがわたしの気を変えた。というのは、弟のビルの家の風呂場の鏡に映ったわたし自身の姿だ。すっ裸で、ぽたぽた滴を垂らしながら、わたしには一本きり足がないからその一本の足で立って、背中の後ろの浴槽から湯が流れ出す耳ざわりな音を聞きながら、その夜かぎり出て行こう、とわたしはきめた。
まるでその浴槽から流れ出す湯のように、時間というものがわたしの身内から流れ出しかかっていた。ドアにとりつけたひょろ長い鏡の中に見えるわたし自身が、そのことを物語っていた。あまりにもまざまざと。
鏡は嘘をつかない。もし鏡が、お前は五十七くらいにみえると言うなら、正直かけ値なし、そう見えるんだ。で、もし何かやりたいことがあるか、どこか行きたいところがあるなら、さっさとそうするか行くかしたほうがいい。自分の中に残っている時間を、本気で使おうとしたほうがいい。なにしろ、そいつが流れ出すのを止めるわけにはいかないんだから。浴槽から湯が流れ出すのを止めたいなら栓をはめればいい。が、自分の中から流れ出す時間を止める栓なんてものはありゃしない。いや、いくらか流れをおそくすることはできる。つまり摂生《せっせい》というやつだ。医者に、それ、老人病ってやつの手当をさせて、来世紀まで命をつなぐことはできるだろう。だが、いくらそんなふうにしたって、やっぱり七十になりゃ年寄だ。
十三年たったらおれも七十か、とわたしは思った。その前に、もう年寄になっちまってるかも知れない。今までの生き方が生き方だし、おまけに片足はもう墓の中に突込んでいるんだからな。形容ではなく、実際に。
浴室のドアに等身大の鏡をとりつけるのは悪い趣味だ。ヒューマニズムに反している。若い連中には自惚《うぬぼれ》のもとになり、年寄は惨めな気持にさせられる。
身体を乾かしてから、義足をつける前に、風呂場用の秤《はかり》の上にぴょんと跳び乗って目方をはかってみた。十五貫とちょっと。――まずまずだな、とわたしは思った。一貫七、八百匁減ったうち、半分はとり返したことになる。あまり無茶しないように気をつければ、二、三週間もしたら残り半分もとり戻せるだろう。とにかく、すっかりとり返すまでこの家に落着いていなけりゃいけないって法はない。
わたしはもう一度鏡の中の自分を眺めたが、今度はさっきほどひどくは見えなかった。どうして、長い目でみりゃ隆々と盛りあがった筋肉よりも使いでがある、しんの強い針金のような力がひそんでいる体。それが義足をはめて、完全具足な身体になった。というか、すくなくとも、そう見えた。
その上にのっかっている顔だって、まんざらじゃない。そこにも、一種の力がうかがわれた。
わたしは服を着て階下へ行ったが、すぐには話をきり出さなかった。夕食が済んで、マーリーンがイースターとビル二世を寝かしつけに二階へ上るまで待った。きっと話が揉めるだろうし、子供たちをその中に巻きこみたくなかったのだ。同じビルでも親父のほうとマーリーンの夫婦なら、こなせる自信がある。初めから終りまで、うんうんうなずきながら二人の言うことを聞いて、それでも、とにかく俺は出て行くんだ、と言ってやればいいが、子供たちから、「ねえってば、マックス伯父さん、行かないでよう」とこられたんじゃ、どうしようもなかろうじゃないか。
ビルは坐って熱心にテレビを見ていた。
ビル。俺の肉親の弟。脳天に禿ができて、残った髪の毛も灰色になりかかり、空想なんてものにはおよそ縁のない弟。根っからの善人だ。晩婚だったが、しごく無事に結婚生活を送っている。まともな落着いた仕事について、まともな落着いた意見の持主だ。
だが、まるっきり趣味ってものの持合せがない。好きなのはカウボーイの音楽だ。今も坐ってそれを聞いている。
空のあっちのほうから放送されているんだ、この番組は。一日に一回自転する地球の周囲を一日に一周しながら、いつも必ずカンザス州の上――カンザス特産の丈の高い玉蜀黍の葉並のはるか高みを通過する軌道に乗った、地球の第二人工衛星から、二万二千マイルの距離にあるテレビ放送局から。
地球むけの天然色立体放送だ。カウボーイの帽子をかぶり、ギターを掻き鳴らしながら、テキサス訛りで唄っている男。
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果てない平原、またがる駿馬《しゅんめ》
ほかにおいらは何にもいらぬ……
[#ここで字下げ終わり]
どう見ても、その男には駿馬より駄馬のほうが似合いだった。何かやれば黙るというなら、何だってくれてやる。
ところがビルときたら、そいつが大好きなんだ。
わたしは見晴らし窓のところへ行って、佇んで外の宵闇を見透かした。丘の上にあるビルの家のその窓に面して、三十マイルさきにシアトルの町のすばらしい眺めが横たわっている。こういう晴れた夜には、殊にすばらしい景色だ。一年のうち秋に、稀にではあるが訪れる暖かい、明るい夜。
眼下にはシアトルの町の灯。頭上の空には燦く光。
背中の後ろではカウボーイの歌。やっとそれが終り、ビルは椅子の肘についたスイッチをぱちりと切って、コマーシャル放送の間、音をとめた。
急に静かになったところで、すかさず、わたしは言った。「ビル、長いこと世話になったな」
ビルの反応は、予めわたしがどうかそう出ないようにと祈りながら、きっとそう出るに違いないと覚悟していた通りだった。かれはテレビのところへ歩いて行って、もとから完全にスイッチを切ってしまった。
せっかくのカウボーイ音楽を犠牲にしようというのだ。ただわたしと言い争うために。わたしをもう少し長くひきとめるために。
なお悪いことに、ちょうどその時マーリーンが部屋に入ってきた。どうやら子供たちは、ほんの申しわけばかりも世話を焼かせずに、寝床にはいってしまったらしかった。わたしは、マーリーンが階下に下りてきて加勢する前に、ビルを降参させてしまっておく作戦だったのだ。今や連合軍を一時に相手にしなければならなくなった。それにマーリーンはわたしが言ったことをすでに聞きとがめていた。
かの女は、「だめよ」と言った。きっぱりと。それから長椅子に坐って、わたしをみつめた。
わたしは、「だめなことないさ」と言った。――おだやかに。
「いけません。うちへ来てまだ三週間にもならないのよ。まだすっかりなおっちゃいないじゃありませんか。何ってたって、あと二週間は休まなけりゃ。そんなことくらい、本人がご承知でしょ?」
「すっかり治りきるまで休むことはないさ」とわたしは言った。「しばらく、無理せずにやって行くよ」
ビルは椅子に戻った。かれは「いいかい、マックス――」とまで言ったが、わたしがまともに向き直ると、あとの文句が出なくなってしまった。かれはマーリーンのほうを見、わたしもそっちを向いた。
マーリーンは言った。
「まだよそへ出られるほどよくなっちゃいなくてよ。ご自分で承知のくせに」
「なら、きっと玄関を出たところで気絶してひっくりかえるだろう。そしたら二人して家の中へ担ぎこんでくれ。そしたらまたしばらく厄介になることにする――ということにしようか?」
かの女は睨んだ。ビルは咳ばらいした。わたしはそっちを向いた。かれは、「いいかい、マックス――」というところまで行って、早くもまた行きづまった。
マーリーンが言った。「なんてまあ、じたばたしたがるあんよ[#「あんよ」に傍点]」
「うん。といっても、じたばたしたがってるのは片っぽだけだけどな」とわたしは言った。「ところで、坊ちゃん嬢ちゃん。もしまだこの話をつづけるつもりなら、二人一緒のところに坐ってくれないか。二人がかわるがわる喋るたんびに、そっち向きこっち向きしなくても済むように。ビル、おまえのほうが長椅子の奥さんの傍に行って坐ったらいいだろう」
かれは起ちあがって移動した。優美な歩きっぷりではなく、途中でつまずいた。が、ビルの長所は優雅な身ごなしなんてとこにあるんじゃない。その点ではマーリーンと対照的だ。結婚する前踊り子だったマーリーンは、動作のいちいちが美の標準にかなっている。かの女がイースターのおむつ[#「おむつ」に傍点]をとりかえるところなんぞ、まるでそのままバレーだった。しかも本人はちっともそんなことを意識していない。そこに何とも言えないよさがあるのだ。
マーリーンは言った。「いいこと、これだけ承知しといてね、マックス。あたしたち、あなたがうち[#「うち」に傍点]にいて下さることが嬉しいのよ。あたしたち、あなたが好きなのよ。兄弟だからって無理してるとか、そんなこと全然ないのよ。それに費用はちゃんといただいてるし、それで家計のほうもずいぶん助かってるの」
「家計のたしになるはずがない」とわたしは教えてやった。「今みたいに、実際にかかるだけ[#「かかるだけ」に傍点]って頑張って、一銭一厘まで明細を出してるんじゃね。もし始めわたしのほうから言い出したように、無条件で一週間五十ドルってことにしていたら、あるいは――」
「もしこれからそういうことにしたら、あと二週間うち[#「うち」に傍点]にいて下さる?」
しまった、ひっかかった。けれども、わたしは言った。「いや、有難う。だが、そうはいかない」
わたしは反撃に出た。「いいかね――」と、わたしは言った。「わたしとあんたたちと、今はまだ一対二だ。だが、もっと加勢を呼ぼうと思えば呼べる。わたしがイースターとビリイを、二人いっしょに目の中に入れても痛くないほど可愛がってることは承知だろうし、きっと二人ともまだ本当に寝入っちゃいまい。あの子たちをここへ連れてきて、わたしが出て行くってきかないんだと言って聞かせ、だからうんと泣いて、小っちゃな塩からい涙の滴でわたしを軟化させられるかどうかやってみるがいいと、どうしてけしかけてやらないんだね?」
マーリーンはわたしを睨みつけた。「義兄《にい》さん――あなたって」
わたしはビルに向ってにやりと笑った。「マーリーンがへどもど[#「へどもど」に傍点]してるのは、ちょうど今おれが言ったことをそのままやろうとしていたんだが、さきに言われたんじゃ、まさかそうもできなくなった、それだからなんだぜ。子供たちを階下へ連れてくるのに、どんな口実をつけたらいいか、たぶんその辺まで考えをめぐらしていたと思うよ」わたしはマーリーンを見た。「でも、そりゃよくないことだ、お嬢ちゃん。いや、わたしに対して不公平だというんじゃない――そんなことはどうでもいいことだ。子供たちに対して正しいやり方じゃない、と言いたいんだよ。なんの目的もなしに、いたずらに子供たちの感情をかき乱すことになる。というのは、それと子供たちとわたしとどちらの気持をどれほどかきみだそうと、とにかくわたしは今夜かぎりお暇《いとま》するんだから。そうしなけりゃならないんだよ」
ビルは、ため息をついた。かれはそこに坐って、わたしを悲しそうな目で見つめていた。鬢《びん》の毛が白くなりかかっているおれの肉親の弟。かれは言った。「するとなん[#「なん」に傍点]だな、それじゃ、ぼくは実は兄さんがユニオン・トランスポート会社で仕事にありつけるように話を進めていたんだが、だめだな? いい仕事なんだが」
「おれはロケットの機械屋だぜ、ビル。トランスポート会社じゃロケットは使わない」
「事務系の仕事じゃないんだよ、兄さん。機械をいじくれるんなら、ロケットだって成層圏ジェット機だって、何の違いがある?」
「ジェット飛行機は、おれは好きじゃない。それが違いさ」
「ロケットはもうだんだん影が薄くなりかかってるじゃないか、マックス。それに――いったい、一生ずっと機械工をしているわけにもいかないだろう」
「なぜ、いかない? ばかりじゃない、おあいにくさま、ロケットは影が薄くなったりしやしない。それ以上進歩したものができないかぎり」
ビルは声をたてて笑った。「たとえばミシンのようなものが、かい?」
えい糞、あのミシンにからまるエピソードは、どうやら一生おれにつきまとうらしい。
けれどもわたしはビルに微笑で応じた。もう今では、その話はわたしにも可笑しく思えるようになっていたから。あるいは、その時すでに可笑しいことだったのかも知れない。わたしはそのために二週間の時間と二千ドルの現金を費やしたけれども、自分自身をとことんまでお笑いぐさにするためなら、決して高すぎる値段じゃない。
ビルはまた咳ばらいしたが、マーリーンがそれ以上むだ口をきく手間をはぶいてくれた。かの女は言った。
「いいことよ、ビル、好きなようにさせてあげましょうよ。どうせ、あたしたちがどんなこと言ったって、この分じゃ受付けっこないんですから。そうとすれば、せっかくの最後の晩をわざわざ台なしにすることないわ」
わたしは部屋を横ぎって行って、かの女の肩を軽くたたいた。「ありがとう、お嬢さん」とわたしは言った。
「ひとつ乾盃といこうかね?」
一瞬、かの女は疑う風情だった。わたしは、つとめてゆっくり言った。
「大丈夫だよ、マーリーン。確かに、わたしはいわゆる酒飲みじゃない。けれども、すくなくとも普通の社交として酒が飲めないという意味ではないし、時としては“気ちがい水”にならない程度に浮かれるほど飲むことだってあるんだ。さあ、いささか話は急になったけど、わたしの門出を祝ってマティニでもわたしがつくろうかな?」
かの女はおどり上った。「わたしがつくるわ、義兄《にい》さん」かの女は部屋を出て行き、その歩きぶりはそのまま舞踊だった。ビルの目も、わたしの目も、その後ろ姿を追った。
「いい娘《こ》だ」とわたしは言ってやった。
「マックス、なぜ結婚して身を固めないんだい」
「この年でか? おれはまだ若すぎる[#「若すぎる」に傍点]よ」
「本気の話だぜ」
「本気だとも」
どうもわからん、というようにビルはのろのろと、首を横に振った。こっちだって、かれとかれの生き方に首をかしげたいところだから、いわばお互いさまだ。
マーリーンが酒を運んできたので、お互いに相手を憐れみ合うのはそれでやめにした。わたしたちは手にした盃を触れ合わせた。
「お幸せでね、マックス」とマーリーンが言った。「どこへ行くか、おきめになったの?」
「サン・フランシスコへ」
「またトレジュア・アイランドでロケットの機械いじり?」
「たぶんね。だが、すぐにじゃない。まず最初に休む、と、さっき言ったのは額面通りなんだ」
「だったら、何故はたらき始められるまでうち[#「うち」に傍点]においでにならないの?」
「ちょっと調べてみたいことが起ったんでね――ひょっとすると、わたしが手を貸してやれるかも知れないことが、昨夜テレビのニュースで知ったんだが」
ビルは言った。「あててみようか? 上院議員に立候補して、木星にロケットを飛ばせるとか言ってる頭の具合のおかしいあの女だろう。やれやれ、木星か。火星に行って、それが何のとく[#「とく」に傍点]になったね?」
おれの哀れな弟。金は十分にあるが、夢というものをもたない可哀そうな弟。めくらの、めくらのおれの弟。
わたしは言った。「ところで、二人とも、わたしは午前二時のジェット機に乗るつもりだ。今まだ八時だから、あと六時間ある。そこでこういうのはどうだい? せっかくわたしというとびきり上等の子守《こもり》をかかえながら、一度もその便宜を利用しなかったが、いまが最後の機会だよ。ヘリコプターで、あんたたち二人っきりでシアトルへ散歩に出かけるっのは? ナイト・クラブでもどこでも、しんから気晴らしになるところへ。で、一時半かそこらに帰ってきて、飛行機に間に合うようにジェット機発着場までビルが送ってくれるってことにしたら」
マーリーンは、とがめるような目つきをした。「最後の夜だってのに、わたしたちが出かけたほうが――」
「出かけるも出かけないも、あんたたちの気ままにしたらいかい。わたしとしては、出かけてくれたほうがいいんだ。すこし考えたいことがあるし、これからの計画もたてたい。それに荷造りもあるしね。まあ、行ってこいよ」
わたしはどうにか二人を説き伏せた。
*
スーツケースはドアの傍に――荷造りは済んで。重くはない。わたしは身軽で旅行し、身軽に生きる主義だ。ものを所有するということは人間を束縛するし、それでなくてさえ人間は必要以上に束縛されているじゃないか。
わたしは二階へ、わたしの寝室――というか、とにかくここ三週間わたしの寝室だった部屋で、わたしのものをどけてしまった今、また客間に逆戻りした部屋に戻った。こんどは明りをつけなかった。わたしは荷造りするときと同様、そっと音をたてずに抜き足さし足部屋を横ぎった。というのは、すぐ隣りの部屋にビリイとイースターが眠っているからだ。そして窓を開け、そこから手すりつきの二階のベランダに出た。
美しい夜だった。温かい、澄みきった夜。レイニアー山が遠くに見える。と言っても、近くの遠く[#「近くの遠く」に傍点]だ。
頭上には、遠くの遠く[#「遠くの遠く」に傍点]にきらめく光――満天の星だ。あまり遠くて、行きつくことができないと言われている。その星だ。が、嘘だ。きっと行ける。ロケットで行けないとしたら、他の何かで。
何かしら方法があるはずだ。
おれたちは月世界へ行ったじゃないか? え? それから火星へも。金星にだって。
その冒険に参加できたとは、何という果報者だったろう、わたしは。人類が突然宇宙にとび出した、あの輝かしい一九六〇年代。最初の第一歩、いや、星の世界にむかって最初の三歩を踏み出したあの時。
わたしはそこにいた。わたしもその仲間に加わっていたのだ。一等宇宙航空士マックス・アンドルーズ。
それが、今は? 星に行き着くために、おれたちはどんな努力をしている?
うん、星だ。いや、待ってくれ。だいたい、星って何だか知ってるか?
太陽も星([#ここから割り注]恒星[#ここで割り注終わり])だ。そして空の星はみんなそれぞれ太陽なんだ。それらの太陽であるところの星の多くは、その周囲を廻る惑星をしたがえていることを、わたしたちは知っている。ちょうど地球や火星や金星や、その他太陽系に属する惑星が太陽の周りを廻っているように。
ところで、そういう星の数ときたら、ちょっとかぞえきれないほどだ。
大げさに言ってるんじゃない。むしろ控え目な形容だと言っていい。わたしたちの銀河系宇宙の中だけにだって、約十億の恒星がある。――十億だぜ。おまけにその大半には惑星のおまけ[#「おまけ」に傍点]がついているんだ。かりに一つずつとして、十億の惑星だ。もしその惑星の中に、千について一つずつ地球と同じ種類に属するもの――呼吸できる大気に包まれ、地球と同じぐらいの大きさで、中心の恒星から地球と太陽との間隔と同じぐらいの距離にあり、したがって温度も重力も地球上と大差ない惑星があるとしたら、銀河系宇宙の中には人間が移住して正常な生活をいとなみ、繁殖し、開拓できる惑星が、すくなくとも百万あるということになる。
百万個の世界が、わたしたちが行って占領し住みつくのを待ち受けているんだ。
が、それすらまだほんの序の口――手はじめにすぎない。今いった数は銀河系宇宙の中だけのことだ。それは大宇宙に対して、ちょうど太陽系が銀河系に対するのと同じぐらいちっぽけなものにすぎない。
銀河系位の宇宙は、そこらにごろごろしている。大宇宙の中には、銀河系の星の数よりもっとたくさんの、銀河系位の大きさの宇宙があるんだ。つまり十億の太陽からなる宇宙が十億個だ。
人間が住める惑星が百万個の百万倍だ。というと、どういう勘定になるか、わかるか? 全人類――大人も、子供も、女も、男も、それぞれ一人について二十五個ずつ惑星を山わけできるってことになるんだぜ。
一人では人口を殖やすわけにはいかないだろうから、男女一組の二人につき五十個ずつとしよう。はじめ二人だった人口がだんだんふえて、一個の惑星につき平均三十億になったら、それ以上ふやさないことにしても、それが五十個だから……。いや、むそんそこへ行くのが先決問題には違いないが、いったん行きついたらたちまち繁殖してしまうに違いない。なにしろ大昔このかた、繁殖するのは人間の得意中の得意――じゃなかったっけ?
ひょっとすると、行ってみたらもう先に何かが住んでいたなんてことになるかも知れない。そうなったらそれで、また面白いじゃないか。いったいどんな生物が住んでいるのか。
それを知るだけだって。
*
午前三時十五分、サン・フランシスコ着。やくざなジェット機め、遅延しやがった。なにしろジェット機ときたら、いつだって遅れるにきまってるんだから。
わたしはエンジェル・アイランドでタブロイド判の新聞を買い、ユニオン・スクェアでヘリコプター・タクシーを拾った。下町で、ヘリコプターが発着できるのはそこだけだ。体力をためしてみるために、わたしはマーク・ホテルまで歩いてノッブ・ヒルを登った。すこし疲れたが、たいしたことはなかった。
マーク・ホテルは古いし、ぼろ[#「ぼろ」に傍点]だが、安い。単身者用の部屋なら一日十五ドルで借りられる。わたしがまだ子供の時分には、港と橋の景色がすばらしいので有名だったけれども、今じゃ周りにもっと高いビルが建って、ほとんどすっかり目隠しされちまった。だが七階以上に部屋をとれれば、北東にかけてチャイナ・タウンの低い建物の屋根を見下ろし、さらにロケットが発着するトンジュア・アイランドを望見することができる。たぶん今夜も出て行くか到着するかするロケットがあるだろうし、たとえ遠くからでも夜のロケットの離着陸の光景は美しい見ものだ。このところ幾月もの間一つもロケットを見ていないので、恋しいような淋しいような気分だった。なにしろ長らく、御無沙汰しすぎていた。で、わたしは見物に一番具合のいい隅の、うんと上の階に部屋はないかときいた。
帳場の男は、折あしくわたしの注文に合うような部屋は空いていないと言ったが、十ドル握らせると効き目はあらたかで、もう一度帳簿をひっくり返してみて、たった一時間ばかり前の真夜中に出立した客があって、まだあと片づけが済んでいないけれども、それでよかったら……と言った。わたしはその部屋にきめた。
部屋は、たしかに散らかっていた。出立した客というのは夫婦者で、見受けたところ明らかに酒盛りをやったあげく、寝台とタオルを幾本かつかったほか花々しく一戦まじえたらしい跡があった。夜の半分しか滞在しなかったにしろ、払ったただけのものはちゃんともと[#「もと」に傍点]をとって行ったと言ってよかろう。
だが、そんなことわたしはちっとも気にしやしなかった。わたしは窓のところへ椅子を引張って行ってどっかとおみこしを据え。トレジュア・アイランドの灯とその上の空を眺めながら、エンジェルで買ったタブロイド新聞を読んだ。わたしが関心をもっていること――特別選挙についてはほとんど記事がないので、わたしの目は紙面の上ざっと滑走しただけだった。
しばらくしてそれをそばへ置き、ただ一機でもロケットが見えてこないものかと心待ちにしながら、いろいろなことを考えた。わたしはビルの子供のビリイのことを考えた。六つの男の子は、まだ夢をなくしていない。ビリイはいまでもロケット操縦士になりたいと思っている。星を自分のものにしたい、と。そうさせたのはわたしのせいなのか。それとも立体テレビの宇宙ドラマなのか、とわたしは考え。それからそんなことは要するにどうでもいいのだ、と考え直した。問題は、あの子に夢があるかどうか、それをもちつづけるかどうかだ。あの子もまた星に憑かれた男になるだろう。気狂いがまた一人。一人にしろ、ふえることはやっぱりふえることだ――。おれたちみたいな人間の数が十分なだけにふえたら……。
暁の空が白み、霧が港のほうへながれはじめて、もし離陸するか着陸するかするロケットがあってももう見えないだろう、とわたしはさとったので、寝た。椅子に腰かけたままで、横になりたくもなく、皺くちゃにかき乱された寝台に潜りこむ気にもならずに。それでも、ぐっすり眠った。
ホテルのメイドがドアをノックする音で目がさめた。
窓の外はもう日がかんかん照って、腕時計をみると十一時だったら、わたしは七時間眠っていたわけだ。椅子から起ちあがると、体がしこっているのがわかった。
けれどもわたしはメイドが行ってしまわないうちにドアを開けて、ちょっと出るが、その間に部屋を綺麗にしておいてくれれば有難い、と言った。体がしこったまま、よごれたまま、髭も剃らずにわたしは階下へ朝飯を食いに行った。体を洗うのと髭剃りは、浴室の掃除が済み、新しいタオルがきてからでいい。きっとメイドはわたしが部屋をこんなに散らかしたのだと思うだろう、と思ったが、メイドからどう思われようとどうでもいいことだ、と思い直した。
戻ってみると部屋は綺麗に整頓されていて、わたしはシャワーを浴びて髭を剃った。しこりはもうほぐれていて、おれの調子は上々だ、とわたしはきめた。
わたしはトレジュア・アイランドに電話をかけて、機械部長のロリイ・ブラスティーダーを出してもらった。かれの声が聞えてきたので、わたしは言った。
「マックスだよ、ロリイ。景気はどうだ?」
かれは言った。「どのマックスだね?」
「おれさまだよ」とわたしは教えてやった。
ロリイは吼えた。「マックス――アンドルーズ! こん畜生め、去年じゅうどこをほっつき廻ってた?」
「あっちこっちさ。ニュー・オーリンズに一番長く」
「今どこからかけてるんだ?」
わたしは教えてやった。
「ふっ飛んでこい、たった今、ここへ。すぐ手伝ってもらおう」
わたしは言った。「まだあと一週間ほど働きはじめたくないんだ、ロリイ。さきに、ちょいと調べてみたいことがあるんでね」
「ああ。選挙のこと――だな?」
「ああ。昨日耳に入ったばかりなんだが、シアトルで。どうなんだ。形勢は?」
「とにかく来いよ、話してやるから。いや――待てよ、今晩は何か予定があるのか?」
「ない」
「じゃ、おれとばあさん[#「ばあさん」に傍点]と晩飯をつき合え。おれたちの住居はまだバークレーだから、きさまのホテルから、ここがちょうど中間だ。おれは六時に退《ひ》ける。その時間に門のところで落合って、一緒にご帰館といこうや」
「よかろう」とわたしは言った。「ところで、今日の午後のロケットの発着は?」
「一つきりだ。パリ行きのが五時十五分に離陸……。オーケー、門衛に電話をかけて、五時にきさまを入れるように言っとこう」
*
ロリイの女房のベスは、とびきり上等の料理人だ。といって、ビルの家の食事が美味くなかったというのじゃない。が、マーリーンはどっちかというと趣味が高尚で、料理の味も味だが、見た目がかなり気になるほうだ。ベス・ブラスティーダーのほうは昔ながらのドイツ料理だが、ベスがつくるプディングときたらまるでふんわりと柔らかく軽くて、うっかりすると浮かんで皿から流れ出しそうなのを、とろりと濃い肉スープでようやくおさえている、といった具合だった。
わたしたちは、それをエールといっしょに胃の腑に流しこみ、それから椅子にそっくりかえってくつろいだ。起ちたくても、起ちあがれそうにないほどだった。
わたしは言った。「さあ、選挙の話を聞かせろよ、ロリイ」
「うん、まあ、望みなきにあらずだろう」
「そうじゃないんだ。おれがきいてるのは。もっとも、それもききたいことの中だが。なにしろ、おれは昨日のニュース放送でほんの二言三言聞きかじったばかりなんだよ。おれが知っているのは、ギャラハーとかいう女がカリフォルニア州選出の国会上院議員選挙に立候補して、もし当選したら木星に行って帰ってくる探検を主催する法案を提出して、それが議会を通過するように尽力すると公約してるってことだけなんだ」
「その通り」
「おいおい、その通りって、それっきりなんだよ、おれにわかっているのは。細かい点はどうなってるんだ? 第一、なぜ特別選挙なんかする? 上院議員が任期中に死んだ場合は、州知事が誰かを指名して残りの任期をつとめさせることができるようになっているんだとばかり、おれは思っていたんだが」
「きさまの常識は十年間も時代おくれだよ。一九八七年の選挙法改正で――もし国会上院議員が任期の半分以上を残して死亡した場合には、その選出州で次議会の開会前に期日を定めて補欠特別選挙をやらなければならないことになっているのさ」
「ああ、そうか、それならそれはそれだ。ところで、だが――いったいギャラハーって女は何者だい?」
「エレン・ギャラハー。当年四十五歳。六年だか七年だか前に在任中に死んだロサンジェルス市長の寡婦《ごけ》さんさ。それから自分が政界に打って出た。前からかなり積極的に動いていたが、あくまで亡夫の遺志を継ぐって範囲を出なかった。以後カリフォルニア州下院の議員を二度、それから今度は国会上院議員選挙に乗り出したってわけだ。おつぎの質問は?」
「動機は何だ? おれたちと同じ“星屑”の仲間なのか?」
「いや。だがカルテック工業大学のブラッドレーの政友なのさ。知ってるか?」
「書いたものを読んだことがある。書き方はちょっとかたいが、なかなかいいことを言ってたっけ」
「ああ、おれたちの仲間は仲間だよ、条件つきでな。まだ相対論者たちの顔色をうかがってるところがあるし、光速以上のスピードは出せないと思いこんでる。が、とにかく木星探検を看板にしてギャラハーを売り出したのは奴さんだ。しかし、どうしてあの女が当選するまで秘密の扉をきっちり閉めきっておかなかったのかな? カリフォルニアってとこはまだまだ保守的な土地柄なんで、いきなりああ蓋をあけちまったんじゃ、元も子もなしってことになりゃしないかと思うんだが」
「そうならないように、おれたちが何とかしてやろうじゃないか。誰だ、対抗する相手は?」
「レイトン――ドワイト・レイトンってサクラメントの男だ。もと市長で、ちょっとした顔役だ。目的のためには、多少悪どいことをやるくらいは平気だろう。むろん保守派だ」
わたしは想像しただけで虫酸《むしず》が走った。「それだけか?」
「テレビの時間をうんと買ってる。口先はうまい。奴さんが言うには、こうだ。
『――人類はもっとも貴重な資源のウラニウムを、不毛の月や火星のやくざな植民地を維持するために、湯水のようにむだ使いしている。これまで長いことかかって、実現できないことはわかりきっている夢を追いかけて、地球は日に日に貧しくなって行くばかりだ。火星のためばかりでも千億ドル以上の金を注ぎこんで、それで火星にどんな役にたつものがあったというんだ? 砂とシダ。人間が生きるにはとうてい足りない空気。おそろしい寒さ。だのに、今なお毎年幾百万という金を使っている。それというのが、たった幾十人か気ちがいじみた人間がいて、性懲《しょうこ》りもなく……』」
「やめろ」とわたしは言った。「もうたくさんだ」
ベスは言った。「どいて、坊やたち。テーブルを片づけるわ」
わたしたちも手伝って片づけた。それから居間でエールを飲みながら、わたしはロリイに言った。「オーライ、様子はだいたいわかった。おれにできるのは、どんなことだ?」
かれは何かに狙いをつけるような目つきをした。
「そうだな――まず第一に、清き一票を投ずることだ。選挙人の登録に、ちょうどうまい時にやってきたもんだ。明日までだよ。それにゃ明日もう一度バークレーに足を運んでもらわなきゃならない――一年間居住したってことを証明するために。うち[#「うち」に傍点]を住所として申告すりゃいい。そしたらおれたち夫婦が、確かにそれだけの期間きさまはうち[#「うち」に傍点]に下宿してたって証明してやるから」
「済まん」とわたしは言った。
ベスが言った。「ただし、今夜いったんホテルに帰って、また明日ただ登録するだけのために出直してくるってのはばかばかしいわね。今夜はうち[#「うち」に傍点]に泊って、明日の朝出がけに登録することにしたらいいわ」
「そいつあ有難い。そうさせてもらうよ。ベス、遠慮なしに」
ロリイは言った。「それがいい。何だっておれは女房よりさきにそこへ気がつかなかったんだろう。ところで、選挙についてきさまにできることって話にもどるが、サン・フランシスコにゃ友達が大勢いるだろう? おれんとこのほかにも二、三軒、そこに住んでたことにしてもらって登録するんだな。そうすりゃ火曜日には、三票か四票投票できることになるぜ」
「そうか、なるほど。それなら五、六票は大丈夫だろう」
「よく念を押して、確かに登録してもらうんだぞ。その友達がどっちに投票するか、そんなところまで気を配ることはない。登録さえしてくれれば、友達じゃなくたっていいくらいのものだ。とにかく、きさまが投票する一票々々が、いちいちもの[#「もの」に傍点]を言うんだ」
「もの[#「もの」に傍点]は言うだろうよ。そりゃ。だが、もしおれが二、三十票投票できたとしたって、たいした足《た》しになりゃしない。畜生、もっと名案はないか?」
「おれはそんな利口者じゃないよ、マックス。だいたいきさまは雄弁家って柄じゃない。石鹸の空箱でも拾ってきて、その上に乗っかって演説するか、それともかりにテレビの時間を買って喋るだけの資金があったとしても、きさまが喋ったら気ちがいだと思われるのがおち[#「おち」に傍点]で――事実気ちがいにゃちがいないが、とにかく聞く者を説得するどころか、かえって逆効果だろうからな」
わたしはため息をついた。「ああ、その点はきっときさまの言うのが本当だろう。それにしても、何か打つ手があるだろうじゃないか。よし、おれはギャラハーって女に会って、きいてみてやろう――どうせ一度はお目にかかりたいと思ってるんだ」
「今、本人が町にいるなんて、あんまりあてにしないほうがいいぞ。だが選挙事務長になら会えるだろう。リチャード・シャーラーって男で、セント・フランシス・ビルの一部屋を選挙運動本部にしてる。おれも、つい昨日そいつと話をしたところだ」
「どんな用事で?」
「なあに、昼食休みの時間に、トレジュア・アイランドに演説の弁士をよこそうとしてるって話を聞いたもんでな。だから、おれは言ってやったんだ。トレジュア・アイランドの票はかたい、わざわざ弁士をよこすことはないって。どうせなら、その弁士をよそへやったほうが利口だ、とな」
「まったくだ」とわたしは言った。「木曜日に、何よりさきにそいつに会ってみることにしよう。明日はとりあえずあちこち走り廻って、登録を済ませるよ」
*
わたしは木曜日の朝三時半にベルがなるように目ざましをかけた。そんなに早くからシャーラーに会いにいこうというんじゃない。モスクワ行きのロケットが三時五十分に着陸することになっていたからだ。わたしがこの土地にやってきてから、ロケットの夜間離陸にしろ着陸にしろ夜間はこれが初めてだ。夜のロケット飛行は、どっちかというとたま[#「たま」に傍点]にしかやらない。そりゃそうだろう、たかが地球の範囲内の飛行距離ぐらい――二、三時間もあれば地球を半周してしまうのだから。わざわざ選り好んで夜飛ぶ必要はない。が、夜の着陸は見る目に綺麗だ。
窓から、部屋の暗闇の中にたたずみながら、わたしはそれを見物した。火のような尾をひいたロケットを。見たことがない人には説明できない。とにかくこれまでにあったどんな花火よりすばらしい花火だ。わたしたち人間を月と火星と金星に送りつけた花火。そして今後もっと他の、もっと遠い星まで送りとどけてくれることができる、また送りとどけてくれるにちがいない花火だ。
ロケットは影が薄くなりかかっていると言ったな、ビル?
影が薄くなるどころか、ロケットってやつは飛び出したらたちまち遠くなって見えなくなっちまう。が、今の程度じゃまだまだ……。人間たちは初めの二、三歩を踏み出しただけで、あと押して進む元気をなくしてしまった。しかし、それはほんの一時のことだ。ほんの一時のことだと思わなけりゃやりきれない。とにかく一時、人間たちの大半はへこたれてしまった。
大半ではあっても、全部じゃない。おあいにくさま、全部じゃないんだ。幾百万人というおれたちの同志が、おれとおれ以外の幾百万人が、星にあこがれつづけている。が、そうでない連中のほうが今のところもっと大勢だ。というより、その中には、やはり星に憧れてはいるのだが、その憧れがおれたちほど強くなくて、どうせ自分が生きている間には実現できゃしない。だから、そんなことに金を使うのはばからしい、と思っている連中もかなり多いのだ。
一番いけないのは反動というか、保守派というか、まるっきり目先のものしか見えずに、何でもすぐ金になって返ってこないことは時間と労力の浪費だと思っている目とんぼ[#「とんぼ」に傍点]連中だ。
もちろん、まだそんな目にみえるかたちになって手に入った収穫はない。が、まだほんの最初の二、三歩を踏み出したばかりじゃないか。その辺じゃ大したものはみつかりそうにないってことくらい、天文学者だって言ってたことだ。しかし考えてもみろ、どこにあってどんなふうになっているのか見当もつかない部屋――宇宙の宝という宝がぎっしり詰まった部屋にむかって長い階段を登って行こうというのに、一番下の二、三段の足もとに一つかみほどの宝がばら撒いてないからといって、それでやめちまっていいものだろうか?
保守主義者たち――幾百万人とも数えきれない保守主義者たちは、おれたちのことを気ちがいだと言う。星気ちがいだ、と。税金が怖いのだ。金のことが気になるのだ、連中は。もう損はたくさんだ、とその連中は言う。もうこれ以上はごめんだ、と。近くの惑星は値うちがないことがわかったし、それより遠くの星といったら――いや、絶対に行き着けないとは言わないけれども、それまで幾千日かかるとも知れやしない……。
この言い分は、一部わたしも認めてもいい。そうだ、幾千年もかかるかも知れない。ことに、今わたしたちの手の中にあるあらゆるものを活用しようと心がけないならば。しかしあらゆる手だてをつくして努力しつづけるなら、突然一挙にして実現しないとも限らないのだ。一九六五年に火星に到達した時のように、思いがけなく。予定からいうと、ようやく月に到達するはずの時より四年間も早かった。思いがけなく原子力エンジンが発明されて、それまでもっぱら使用しまた頼りにしていた化学燃料は、一日にして過去の遺物になってしまったのだ。それはまるで櫂《かい》で漕ぐ小舟で大洋を乗切ろうとしていた男が、岸からわずか二、三マイル沖に出たところで、いきなりその小舟のかわりに超音速の飛行機をもらったようなものだった。
星をめがけるわたしたちにも、同じようなことが起こるのではなかろうか。星と星との間の距離を考えると。原子力エンジンでさえ大海原を行く小舟のようなものだということは認めないわけにいかないのだから。原子力エンジンで近くの惑星に行くことが容易になったように、もっと遠くの星に楽々と飛んで行けるような何か新しい方法がみつからないとは誰にも言えまい。だが、そういう方法がみつかるのは、おれたちがとにかく現在あらゆる手段を動員し、全力をつくしてそこへ行こうと努力している場合に限られるのだ。ちょうどわたしたちが化学燃料で何とかして月にたどりつこうと一生懸命にやっていた時、ふいに原子力エンジンを発明したのと同じように。
*
九時に、わたしはセント・フランシス・ビルの千三百十五号室に入って行った。“ギャラハー上院議員候補選挙運動本部”とドアに書いてあった。受付の金髪の女の子は、机の上に何か書類をいっぱいひろげていた。わたしが入って行くとちらりと目を上げ、ちょうど目に入った相手のわたしが気に入ったか、それとも誰にでも笑いかけるように言いつけられているかの、どちらかのようだった。とにかく、その娘はわたしにほほ笑みかけた。
候補者本人は不在だろうとロリイは言ったが、まずそいつを確かめなけりゃ、とわたしは思った。「エレン・ギャラハーはおいでかね?」
「ミセス・ギャラハーはお見えになりません。州の北の方に遊説《ゆうぜい》にお出かけですの。あい済みません」
「何故あんたが済まながらなけりゃならないんだい? リチャード・シャーラーは?」
「もうお出でになる頃ですが、しばらくそこへお掛けになって――あら、見えましたわ。この方がお目にかかりたいそうですけど、ミスター・シャーラー」
ちょうど入ってきたのはお月さまみたいな顔をした赤毛の男だった。わたしは自己紹介して、二人は握手した。「どんなご用件ですかな、ミスター・アンドルーズ?」かれの声は低くのろくて、まるでまだるっこしかった。
「エレン・ギャラハーを当選させるのに、どうしたら力を貸してやれるか、教えてくれないかね?」
「こっちへおはいりなさい」かれは先に立って奥の部屋に入り、椅子をわたしにすすめ、自分も机に向ってプラスチック製の旧式の自動椅子に腰かけた。
「ミセス・ギャラハーの御友人でいらっしゃいますかな、ミスター・アンドルーズ?」
「もちろん」とわたしは言った。「まだ一度もお目にかかったことはないがね。しかしロケットを木星に飛ばす計画を推進しようとしてるってことで、それならわたしは文句なしに味方だよ」
「ははあ、いわゆる“星屑”のお仲間ですな」と言ってかれは口元をほころばせた。「いや、もちろん“星屑”の方々の御後援はあてにしています。事実、候補者がロケットのことで旗色をはっきりさせてしまった今となっては、是非ともあてにしなけりゃならないような状況になりましてな」
「あんたは賛成じゃない……?」
「ロケットを飛ばす計画そのものには、賛成ですよ。もうそろそろ、もう一歩遠くへ行けるかどうか、やってみてもいい時分ですからな。ただ、選挙を前にひかえてそのことを新聞なんかに発表したのは、政治的には間違いだったと思っとります。きっと、そのために殖える票より減る票のほうが多いでしょう」
「そのために落選するほど――?」
「そいつはわかりません。けれども、はっきりああ言明してしまった今となっては、“星屑”一党の票は絶対に確保しなければ」
わたしは言った。「おれたち“星屑”の票のことは大丈夫。確保できるよ――すくなくとも、中の幾人かについては一票ずつでなく、もっとうんと」
相手はかすかに微笑した。「今のお言葉がどういう意味なのか、うかがう勇気はわたしにはありませんので、それは忘れてしまうことに、いや、聞こえなかったと申上げておくことにしたほうがよさそうですな」
「オーライ、わたしは何も言わなかった。それはそれでいい。ところで今あんたは当選するかどうかわからないと言った。はっきり言うと、そりゃどういうことかね?」
相手があまり長いこと何も言わずにいるので、わたしが代りに言ってやることにした。「なるほど、今のままでは落選する……?」
「――というところでしょうな、残念まがら。何か思いがけないことでももちあがらない限り――」
「たとえば対立候補のドワイト・レイトンの身の上に、ふいに思いがけない事故がおこるというようなことが、かね?」
それまでかれはだらりと力なく机にのめりかかるようにしていた。それが今や突然誰かに棒か何かでつつき起されたかのように、まっすぐ背を立てた。
かれは言った。「まさか、あなたは――」かれはわたしをみつめた。「やれやれ、どうやらあなたは本気でそういう事故をおこすつもりでいなさるらしい」
「かりの質問だけれども、答えてもらいたい。そうすればギャラハーの当選の見込みはよくなるかね?」
かれは立ちあがって、考えこみながらオフィスの中を、のろのろと行ったり来たりしはじめた。五回往復してから、立ちどまってわたしに直面した。「いや、そりゃかえって一番ため[#「ため」に傍点]になりますまい――たとえレイトンがほんものの事故に会ったとしても」
「何故?」
「ドワイト・レイトンが、とんでもない食わせものだからですよ。誰にも証明はできませんけれども。しかしそうじゃないかと疑っている人間は大勢――同じ政党の仲間の中にさえあります。それでかなり票を失うことになるでしょう。残念ながらエレンがロケットについての言明のために失うほど、多くの票を失いそうにはありませんが、とにかくそこはこっちのつけ目です。ほかの誰が対抗候補に立っても、たとえ選挙期日の間際になって全然無名の誰かが立ったとしても、それでもこっちのほうが、勝ち目はすくないでしょう。おまけに、もしその事故が狂信的な“星屑”たちの手で仕組まれたのかも知れないという疑いが、ほんのかすかにでも生じたとしたら――あなたがたが念願しておいでの目的の実現に、どんな障害になるか、あなたにはおわかりになりませんかな? それも全国的に。エレンの選挙の結果がどうなるかは別として」
「あんたの言うことのほうが本当だ」と、わたしは言った。「今のは取消しだ。ところでレイトンが食わせものだというのは? どんなことをしたんだい?」
「サクラメントの市長に在任中に、あの男はおそろしく急に金持に成り上がりました。公共事業の工事の契約にリベートをとった、という噂です。けれども、もしそうだとして、おそろしく上手にごまかしてあるのですよ。税務所の所得税係が、その噂に刺戟《しげき》されて去年あの男の財政状態を調査してみましたが、結局疑点なしという健康診断書をやってひきさがってしまいました」
「腕ききの会計士を傭ってるんだな?」
「本人が腕ききの会計士なんですよ。政治に首を突込む前のあの男は、その道では指おりの腕ききでした。どうして、抜け目のない男で、誰も表むきには指一本さすことはできません。そんなことは、もしこっちが仄めかしでもしたら、すかさず名誉毀損で訴えられてしまうでしょう」
「もし、わたしが仄めかしたら? わたしが自分の金でテレビの時間を買い、ギャラハーの選挙運動とは全然関係なしってことにしてやったら? 仄めかすどころか、訴えられるのを覚悟で公然と非難を浴びせてやったら?」
かれはのろのろと首を横に振った。「それでもやはりエレンのためにはなりますまい。現に選挙だというのに、一人の候補者を非難することは自動的に他の候補者の選挙運動に結びつけて考えられずには済みません。いやいや、ミスター・アンドルーズ、有難迷惑にならずに専らわたしどものため[#「ため」に傍点]にお力添えをいただくことはできそうにありません。というのは、大がかりには、という意味ですが。もちろん、あなたの一票は是非わたしどものために投じていただきたいもので。それにできるだけお友達の方々にもそうするように誘っていただければ……」
そこでシャーラーが握手の手をさしのべ、それはつまり明らかに会見打切りの意志表示だった。
*
わたしは思案にくれながら、しばらく、そこらを歩き廻った。わたしは考えてみたかったのだ。それも、うんと。自分で幾票かを投じ、それ以外さらに幾票か、いや、幾十票かを自分が味方する側に投票するように説きつけることくらいしかできないのだと諦めをつける前に。たとえ多少無理して二、三百票何とかしてやることができたにしても、たいしたプラスにはなりそうになかった。選挙事務長がざっくばらんに打明けてくれた話の調子から推すと。
気がついてみると、わたしはユニオン・スクェアの広場を通りかかっていた。広場の真中に壇があって、その上で喋っている男がある。その声は拡声器を通じて広場の隅々まで聞えた。
「木星!」とその男はまるで誓いでもたてるような大げさな声で言った。「そのご婦人は、ロケットに木星を廻って帰ってこさせるために、われわれの貴重な税金を使わせようとしているのであります。その費用は、すくなくとも十億ドルにのぼるでありましょう。十億ですぞ! 十億という金をわれわれから、われわれのポケットから強奪しようとしておる! われわれの口からパンを奪い去ろうとしておる!
その十億ドルで、何を買おうというのか? また一つ、ろく[#「ろく」に傍点]でもない星を手に入れるのか? いや、そのろく[#「ろく」に傍点]でもない星さえ、実は手に入れることはできないのであります。ただ見るだけ、ただ近くに寄って見てくるだけなのであります。着陸することさえできない。着陸できないことはわかっとるんであります」
演壇の周りの人数は少なかった。しかし広場じゅうに散らばった人々が、またその広場に沿った道をあるく通行人たちも、それぞれの用事を、かかえて歩きながらではあるけれども、意識的にか無意識にか、とにかくその男が喋ることを耳に入れているのだった。
壇の上に上って行って、横っ面を、ぶちのめしてくれようか、とわたしは思った。そうしたくて、手がむずむずするくらいだった。が、そうしたところで何のたし[#「たし」に傍点]にもなりゃしないどころか、わたしは留置場にぶちこまれて、投票することさえできなくなるにきまっている。だから、やめにした。
わたしにしては、まったく上出来だ。
「木星という名の惑星。火星までの距離の八倍以上、すなわち四億マイルのかなたにあって、人間が着陸することのできない一個の星。この星はメタンとアンモニアでできた有毒なガスに包まれておりまして、そのガスの層はまたはなはだしく厚いのでありまして、そのために底のほうではひどい圧力がかかって液体になっているんであります。この圧力はおそろしく大きな圧力でありまして、こいつにかかってはどんなロケットだって卵の殻みたいに押し潰されてしまうでありましょう。なにしろ、ガスの層の厚さは幾千マイルというのであって、しかも、そいつが絶えず荒れ狂い、動揺しているんであります。その大気の下に何があるというのでありましょう? 何だかわからないが、おそろしい圧力にとじこめられた、また何千マイルかの深さの、何かの層があることはわかっている。それだけが望遠鏡で見て木星についてわかっとることでありまして、とにかく人間が住めないことはわかりきっておる。また、このばか[#「ばか」に傍点]でかい星には、もの凄い引力があって、ある程度より近くロケットが近づけば、衝突せずには済まないということもわかっとるんであります。いや、衝突するというより、ぽしゃる[#「ぽしゃる」に傍点]と言ったほうがいいかも知れない。それに木星の月が、われわれの住むこの地球の周りをまわっている月より、もっと冷たく、もっと不毛で、もっと荒れ果てたものだということも、すでにわかっとるんであります。にもかかわらず、ギャラハーというご婦人は、十億ドルという金を使ってわざわざ……」
ロケットの中で握り拳《こぶし》をかためて、わたしは静かに立って聞いていた。……エレン・ギャラハーに当選のチャンスをあたえるために、ただ一つ有効なこと――それを実行しようと本気で決心できるほど腹が立ってくるまで。
*
サクラメントに着いたのは、ちょうど正午だった。ジェット機の飛行場はごった返していた。たぶん何かの会合でもあるせいだろうと思ったが、町までヘリコプター・タクシーを拾うのにひどく難儀した。が、一時半にばドワイト・レイトンのオフィスがあるビルの正面に立っていた。
一分間後、わたしはオフィスの受付の部屋にいた。
受付の女は手ごわかったが、手におえないほど手ごわくはなかった。わたしはうんと早口でまくしたてて、どうやらその女の前を通り抜けて奥へ踏みこむことができた。うんと個人的な話があるんで、その話の内容は選挙に関係があって、ミスター・レイトンの当落に重大な影響をおよぼすことなんだ、と言ってやったのだ。いやいや、だめだ、選挙運動の事務長でもだめだし、秘書でも駄目だし、本人のミスター・レイトン以外は誰にも喋れないことだ、と。
奴さんはその時ちょうど忙しくて、わたしは二十七分待たなければならなかったが、とにかく結局は奴さんの部屋に通された。
わたしはでたらめの偽名を名乗って、やくざな“星屑”どもがミスター・レイトンに対してもちいている不正な戦術について、まるで気ちがいじみた調子で気ちがいじみたことをまくしたてはじめた。やがて一分間と経たないうちに、わたしはまだ口からたわごとを吐き散らしながら、閉口したミスター・レイトンになだめられながら送り出された。
もっと長く頑張ろうと思えば頑張れないことはなかったけれども、奴さんの部屋の構図と、奥の部屋と受付の部屋のドアの錠の種類と、金庫の種類と大きさを見きわめるにはそれだけで充分だった。その金庫は大きいが旧式のやつで、ちょっと腕のいい機械工なら誰でも、ちゃんとした道具さえあれば十分間以内に易々と開けてごらんにいれるにちがいない。
わたしは必要な道具を一揃いと、それを詰めて運ぶ大きな手さげ鞄を買った。九時頃まで時間をつぶして、それからレイトンのオフィスに押入った。
侵入者警報器はついていなかった。つまりわたしは自分で賭けた賭けに勝ったわけだ。
金庫を開ける必要さえなかった。というのは、はじめに机の引出しには一つだけ鍵がかかっていて、その引出しの中にはたった一冊赤い表紙の帳簿があるだけで、その記入はレイトンの筆蹟だった。確かに本人の筆蹟に違いないことを、他の引出しの中にあった書類とつき合わせてつきとめた。名前と、日付と、金額と、おまけにサクラメント市のどの事業の請負契約からどれだけの割前をとったかという心覚えの摘要まで書きこんであった。奴さんを牢屋に入れて、なおお釣りがくるほど充分な証拠だ。
会計士の頭の働きというものは、おそろしく細かく組織だっていて、そのくせ妙なところで抜けているものだ。
金庫の中には金が入っていたかも知れないし、それを貰ってきてもわたしの良心は、べつに痛そうじゃなかったけれども、長居して危険をおかすのはやめにした。目的のものは手に入ったのだし、それは金なんかよりずっと重大な意味をもつものだった。欲を出して、せっかくの幸運を台なしにしたくなかった。
わたしはそれをごく変わり栄えのしない包装紙に包んで、セント・フランシス・ビルのリチャード・シャーラー宛てに郵送した。
それからサン・フランシスコに舞い戻って寝床にもぐり込んだ。
*
昼すこし前にシャーラーに電話をかけた。
「小包は届いたかね?」とわたしはたずねた。
「届き――ましたよ。どなたです?」
「あの小包の差出人さ。お互いに名前は呼びっこなしだ、ことに電話では。あれをまだどうにもしないのかね?」
「どうしたら一番いいかと目下まだ思案中でして。冷や汗を流しとるところですわい」
「汗なんか流すのはやめろ」とわたしは言った。「州警察に渡す。それっきりさ。ただその前にオフィスにうんとこさ新聞記者を集めて、あの中で一番のさわり[#「さわり」に傍点]のページを写真にとったやつを配ってやるんだな」
「しかし、どこから、手に入れたと言ったらいいものか……?」
「どこからかって? サクラメントから、ごくありきたりの包装紙に包んで郵便で送ってきたんじゃないか。包み紙も、お巡りに渡してもかまわないよ。指紋はついていないし、宛名は活字体で特徴なんかない。思うに、たぶんミスター・レイトンの所業を快く思わない結社の誰かが送ってよこしたんじゃないか、とでも言ってりゃいい。その点については、きっとレイトン自身だってそう思うだろうよ。盗賊侵入の形跡は全然残っていないし、おそらく本人だってまだ気がついちゃいまい」
「ところで、ですがね、こんなことまでしてあなたは何がお望みなんです? 何かわたしどもでお役にたてることがあるのですか?」
「あるよ、二つばかり。一つは、わたしに一杯おごってくれることさ。二つ目のほうは、その時に話そう。十五分間以内にビッグ・ディッパー・バーに行って待ってるからね。大丈夫、あんたの見分けはつくよ。あんたのほうじゃわたしを知らなくても」
「いや、わたしのほうでも存じ上げているような気がしますよ。あなたは昨日わたしのオフィスで、一人で幾度か投票するというようなことをおっしゃいませんでしたかな?」
「しーっ」とわたしは言った。「一人で二度以上投票するのは法律点違反だってこと知らないのかね?」
ビッグ・ディッパーを落合う場所に選んだのは、その名前が気に入ったからだ([#ここから割り注]ビッグ・ディッパーは星座の名=大熊座[#ここで割り注終わり])。それまでにも前を通ることはあったけれども、中にはいったことはなかった。しかし、はいってみるとなかなか静かな、いい場所だった。わたしは一隅のボックスに腰かけ、間もなくシャーラーがやってきた。
かれは興奮すると同時に、いろいろの思案に心を煩わされているように見えた。かれは言った。「あなたが言われるように、新聞記者たちに立合わせて州警察に渡すのが一番効果的でしょう。そのことはあなたから電話がある前、わたしも考えていました。しかし発表は明日――土曜日の、それも遅くなるまで待つつもりです。土曜日の晩の放送と日曜日の新聞が、そればっかりで埋まるように。いよいよという時までいっぱいに水を溜めておいて、一気に堰を切って落すんですよ」
「時間の遅れをどう説明する? 郵便局のスタンプで、今日受取ったことはわかっちまうだろうに」
「なあに、そんなこと。なにしろわたしには、あれが果してほんものかどうか、まだ半信半疑なんですからね。あれが本当にレイトンの筆蹟なのか、それとも誰かが思いきりたちの悪い悪ふざけをしかけているのか、どうしてわたしにわかるもんですか」
わたしは眉をしかめた。「わたしがあんたをひっかけようとしてるとか何とか、ちょっとでもそんなふうに勘ぐってるのかね? え?」
「とんでもない。けれどももしあれが実際にいきなりわたしのところに送りつけられたのだとしたら――事実、人に話す時にはそういうふうに話をこさえなけりゃいけないんで、こちらとしても相当に疑ってかかってるってとこをみせてやらなけりゃなりません。とにかくあれがほんもの[#「ほんもの」に傍点]かどうか確かめるのに明日の午後までかかり、そのために写真もとらなければならず、それで新聞記者たちに配る写真もお誂えむきに間に合ったって説明がつくわけですよ。さあ、ところで、もう一つのお望みというのは何です?」
「こいつは、実際には、選挙が済むまでお預けで構わないんだ。それまではエレン・ギャラハーも忙しいだろうからね。ただ、あんたの口からあの帳簿を手に入れたのは誰かってことを話して、都合つけてわたしに会ってくれるように計らってもらいたいんだ。わたしと会って話をしてくれるかな?」
「会って話をするかって? 冗談じゃない、一緒に寝てくれって頼まれたって、あんまり素気なく振るわけにはいかないとこじゃありませんか。承知しました。そのほかには?」
「あんたには、頼まれたって返事できかねることさ。ギャラハーにお願いとしてきいてもらいたいことがあるんだ。だから、あんたから予めそのことを通じておいて欲しいんだよ」
かれは酒を啜って、わたしを見た。「あなたはあの[#「あの」に傍点]ロケットには乗れませんよ、たとえエレンがそうさせてあげたいと思ったとしても。操縦士の定年は――」
わたしは片手をつき出して。相手のあとの言葉をさえぎった。「あんた、わたしを気ちがい扱いするつもりかね? ロケット乗りの定年がいくつかくらい、あんたよりわたしのほうがよく知っているよ。三十歳だ。で、わたしは五十七だ。いやいや、乗れはしない。が、それを送り出す計画を押し進める手伝いはできる。わたしの望みはそれだけだ」
かれはうなずいた。「それならエレンがどう出るかくらいはわかる程度に、わたしだってエレンという人間を理解しているつもりです。エレンは必ずあなたの資格がゆるすかぎり最高の仕事につけるように、できるだけのことをするでしょう。もちろんロケットの計画の法案が通ったとしての話ですがね。しかし、通る見込みは十に一つもないようにしか、わたしには思えませんよ」
「あんた、エレン・ギャラハーが選挙に当選する見込みはどれくらいだと思ってた?――あの帳簿が手に入るまで」
「やっぱり十に一つ以下でしたな。しかし、法案を議会で通すというのは、これまた全然別のことでしてね。まさか、いくらあなただって、法案に反対の投票をしようという議員のオフィスに、軒並みに押入るわけにもいきますまいが」
わたしはにやりと笑ってみせて、言った。
「やってみせようか?」
*
一気に堰を切って落すと言ったが、まったくその通りだった。そのニュースは、ちょうどいい頃合いをはかって暴露され、テレビも新聞も喋りまくり書きまくった。レイトンの党はそれでも最後の必死の足掻きをした。本人のレイトンがテレビのスクリーンにあらわれて自分は潔白だと抗弁し、さりながら汚名が雪がれるまでは立候補を辞退し、かわりに別の候補を身代りに立てることにしたい、と言った。けれども、もう誰も耳をかそうとはしなかった。最後の瀬戸際にきてからの身代りだから、どだい無理な話で、そいつはサクラメントの六つの選挙分区で優勢に立っただけで、あとは全部エレソがさらった。
午後八時、ベスとロリイとわたしが見ている前で、敵の党は敗北をみとめる声明をおこなった。わたしたちはテレビの音量を小さく絞って、スイッチは切らずにおいた。エレン・ギャラハーの顔を見て、当選第一声として何と言うか聞きたかったからだ。かの女はジェット機でロサンジェルスを発ってサン・フランシスコに向うことになっていて、八時三十分エンジェル・アイランドに着陸と同時にインタビューの実況放送がおこなわれる、と予告されていた。
ベスは冷蔵庫からシャンパンの瓶を出してきた。選挙の結果が確定するまで、栓を抜かずにおいたのだった。
わたしたちは酒を注ぎわけて勝利の乾盃をした。
わたしたちは飲みかつ喋った。八時三十五分に、テレビのの画面がジェット機飛行場の会見担当の男に変わるのが見えたので、わたしは行ってスイッチをいじって音量を上げた。
「……ひどい霧であります」とその男は弁解していた。「滑走路では、ほとんど視界ゼロと言っていいほどでありますので、ギャラハー新上院議員が到着して、この屋内に入ってこられるのを、ここで待受けてインタビューすることにしたいと思います。外へ出ましても、ジェット機着陸の模様はどうせ見えないのであります。もちろん誘導自動操縦で着陸するのでありますが、どうやら時間通りに到着の模様でありまして――あ、音が聞えてきました」
わたしは言った。「おいおい、本当かい、ロリイ、ジェット機ときたら、自動操縦の着陸はおそろしく不得手なんだから。もし――」
それから衝突の音響が聞えた。
やにわに現場にかけつけるつもりで、横っ飛びに外へとび出そうとすると、ロリイが抱きとめた。かれは言った。「かけつけるより、ここにじっとしているほうが早く様子がわかるよ」
つぎつぎに、刻々に、断片的にニュースは送られてきた。機はひどく破壊して、多くの乗客が即死し、負傷を免れた者は一人もなかった。副操縦士は生残って、意識があった。レーダーとラジオが同時に故障し、その時機はすでに着地寸前で機首をたて直す暇もなかったのだ、とかれは言った。
一人ずつ、つぎつぎに運び出されてきた。ミセス・ギャラハーの選挙事務長リチャード・シャーラー。……死亡。それからカルテック大学のエメット・ブラッドリー博士。……死亡。
「畜生、やくざなジェット機め」とロリイが言った。
ギャラハーは生きていた。意識不明で、重傷を負っていたけれども、とにかく生きていた。かの女はエンジェル・アイルランド救急病院に急送され、容体は判明しだい速かに公表する……。
霧の中に尾をひく救急車のサイレンの音。糞いまいましいサン・フランシスコ、糞いまいましい濃霧、糞いまいましいジェット機……何もかも腹だたしかった。
わたしたちは坐って待っていた。せっかくのシャンパンは温《ぬる》くなって気がぬけてしまっていた。ロリイは立って行ってそれを流しにあけ、かわりに冷たいビールを注いだ。それには、わたしは指も触れなかった。
ギャラハー上院議員について、その後の報告があったのは十一時を廻ってからだった。まだ生きていて、おそらく命はとりとめるだろうが、生死の間一髪の重傷だ、と。すでに二度の手術がおこなわれた。数カ月の入院はどうしてもやむをえない。しかし回復の見込みはかなり確実なものと判断される、と。
リチャード・シャーラーは、死ぬ前にあの帳簿を手に入れるまでの真相を話してくれただろうか、とわたしは思い惑った。話してくれたに違いない[#「話してくれたに違いない」に傍点]。きっとかの女のほうからきいただろうし、それに対してあの男が話さずにいなければならない理由はどこにもない――絶えず周囲に聞かれては困る他人がいて、二人きりで話す機会が全然なかったというのででもないかぎり。
そうだ、そういう成行きは大いに考えられることだ。かの女はシャーラーのほかに五人、自分も入れて合計七人の一行の一人だった。そしてそのシャーラーは、その日の午後かの女と落合うためにロサンジェルスへ飛んだばかりだった。かの女と、そしてブラッドレーとも。かの女がシャーラーと二人きりになれる機会がなかったということは、充分にあり得る。
ようやくわたしはロリイが注いでくれてあったコップのビールを飲み乾した。その時はもう前のシャンパンと同じくらいなま温《ぬる》く、いっそう気が抜けていた。
翌朝からわたしはロリイの下でトレジュア・アイランドで働きはじめた。
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一九九八年
ロケットの整備作業。出て行くロケットが相手だ。出て行くといっても、あまり遠くまでは出ない。せいぜい二、三百マイル出て、それからまた地球に戻ってきてしまうのだ、ここのロケットは。ニュー・ヨークやパリやモスクワや東京やブリスベーンやヨハネスブルグやリオ・デ・ジャネイロ行きのロケットだ。月や火星にさえ行きはしない――サン・フランシスコから出るこれらのロケットは。そうでない本当の[#「本当の」に傍点]ロケットはニュー・メキシコやアリゾナの離着陸場から出る。それらは政府の経営で、政府の連中はロケットをいじくる機械技術者というものについてばかげた固定観念をいだいている。ロケットの機械工は五十歳以下でなければいけない、と考えているのだ。またロケットの機械工は、生身《なまみ》の骨と肉でできた両脚がそろっていなけりゃいけない、と。いや、わたしはあとのほうの制限にはお構いなく、惑星間ロケットの仕事をしてきた――仲間の中の誰かがわたしのだめ[#「だめ」に傍点]なほうの足のために特例を設けることができる地位にある場合には。けれど、それも七年前に五十の坂を越えてからはだめ[#「だめ」に傍点]になった。政府のロケット基地で、ただ一つ、それだけはどうしてもまげることができない規則なのだ。五十を越してからもときおりごく短期間、惑星間ロケット発着場で働いたことはある。けれどもそれは機械屋としてではなく、直接ロケットをいじくるのではなく、せいぜいその近くに寄り、ながめ、時々ちょっと触れてみたり、離陸したり着陸したりするところを見ているだけが関の山だった。それも長い期間つづけて常備員としてはだめ[#「だめ」に傍点]だった。そうかといって、いくら同じ惑星間ロケット発着場の中だとはいいながら、売店で働いたりするのでは将来にかけての生き甲斐がない。星とのつながりがない。それよりは、たとえ、地球から出てすぐまた地球に戻る、まるで地球にへばりつきっぱなしのようなロケットだろうと、とにかくロケットそのものを相手にできる仕事のほうがまし[#「まし」に傍点]だ。
そういうわけで、しばらくサン・フランシスコに落着くことにしたのだ。それにギャラハー上院議員もいる。まだ入院しているが、快方にむかいつつある。なあに、きっと命はとりとめるさ、まだ一度も会ったことのないわたしの女[#「わたしの女」に傍点]は。きっと命をとりとめて、二、三カ月のうちにはすっかり元気になるとも。要するに時間の問題だ。木星まで、つぎの一歩を踏み出すのは、ただ時間の問題だ。ただ時間の問題ではあるが、その時間はどんどん流れ出しつづけている。
いや、全然手をつかねているわけじゃない。一月には、すこしばかり、仕遂げたことがある。わたしは環動輪(ジャイロ)安定装置の重量をすこし減らす思いつきを案出した。それでわたしは千ドルの特別賞与をもらい、きっとその考案は地球ロケット航路の費用を年に二、三千ドル節約することになるだろう。そんなことは、しかし、大事なことじゃない。大事なのは、その改良が惑星間ロケットにも応用できるし、またきっと応用されるだろうということだ。ほんの九牛の一毛――にせよ、とにかく星への距離を一インチつめたことになる。そこだ、かんじんなのは。ロリイとベスとわたしの三人して、その千ドルの中の百ドルで一番愉快にやった。
*
いい知らせ、それも大吉報がその二、三週間後――二月になってからやってきた。ギャラハー上院議員からの手紙だ。それがとうとうやってきた。わたしはかなりあちこち動き廻ったが、本当に気に入る住居がみつからず、それで郵便物はブラスティーダーの家に宛ててもらうようにしていた。そしてある日、ベスが勤務中のわたしに電話をかけて、その手紙が届いたと教えてくれたのだ。むろん、わたしはすぐに封を切って急いで読んで聞かせてくれと頼んだ。
封を切り、畳んだ手紙をひろげる間をおいて「拝啓――」とべスは読みはじめた。
「長いことかかりましたが、ようやくこれまでに私が受取っていた手紙の中の幾通かに返事を口授することを医師から許され、もちろんあなたに宛てたこの御返事は、中でも真先にさし上げるものです。
はい、確かにリッキー・シャーラーは私を選挙に勝たせてくれた爆弾を手に入れて下さったのがあなただということを教えてくれました。そのことについて、私は深くあなたに負《お》い目を感じております。あのひとがそのことを私に話しましたのは、結局あのひとが在世中にした最後の行為の一つになりました。あのひとと私はジェット機内で隣合わせに坐っており、あのひとがその話をしたのは、エンジェルに着陸しようとする直前のことでした。
五月に散会する予定の現議会の議席に、果して私が連なることができますかどうか、医師たちは望みがありそうなことを申しておりますけれども、実際のところまだ確実にはわかりません。けれども真夏頃までには完全に回復して、明年一月に始まる一九九九年度議会には間違いなく参加できるものと存じております。
ところで、それよりずっと以前に私はあなたにお目にかかって、木星へロケットを飛ばす計画のことを、いろいろとお話し合いたいと存じます。申すまでもなく、あなたの関心はその計画そのものにあるので、私という個人にあるのでないことは充分承知しております。私は自分の最善をつくしてその計画を推進し、のみならず、もしその計画が法案として可決された暁には、できますことならば、是非あなたにも何かの積極的な役割をつとめていただくようにしたいと念願しております。それこそあなたがお望みのことにほかならず、それこそあなたが選挙戦で私に加勢して下さったことにお酬《むく》いする唯一つの道であることは、よく承知しております。
たぶん、ここ一月以内に、もう一度お手紙をさし上げるつもりでおります。その頃までには客と面会するお許しも出るでしょうし、そうしたらあなたにお出でをいただけることになるものと思います」
「すばらしい手紙だな。お蔭さまだよ」とわたしはベスに言った。
心からそう思って言ったのだ。わたしはまだ放り出されてはいなかった。いとしのリチャード・シャーラー――リッキーはわたしの期待を満たしてくれた。かれはあの帳簿のことをギャラハーに話すのに、必要なだけ生き永らえてくれたのだ。いとしいリッキー。わたしはかれが懐しかった。誰もかも懐しかった。わたしはまだ木星行きのロケットから振り落されずにいるのだ。
*
それからもロケットは発着しつづけ、わたしはそれらの整備をつづけた。上って行って、二千マイルかそれ以上の距離にある、ただし地球上の都市に再び降りてしまうロケットではあったけれども。二千マイルというのは、ロケットを飛ばして採算がとれる最短距離だ。いったん飛立ったら、それ以下の距離内に降下することはできないのだ。またかりにできるとしても、それではジェット機と較べた場合、ほとんどとるに足りない時間しか節約できない。
たとえばニュー・ヨークからメキシコ・シティーまでなどの場合、節約できる時間は僅か数時間に過ぎない。時間を節約するという点にかけては、せめてパリくらいまで飛ばないことには大して意味がないということは認めざるをえない。それならジェット機では十八時間かかるが、ロケットでならば四時間以下だ。十四時間という時間には確かに節約するだけの値うちがあるけれども、そのお蔭をこうむることができるのは金持だけだ。ロケットの料金はジェット機の十倍以上もするのだから。金持連中に祝福あれ。金持がいるからこそどうにかロケット航路を維持できるので、かれらの上に神の祝福あれ。地球から飛び出してすぐまた地上に戻るにせよ、とにかくロケットを飛ばせつづけるということは大事だ。その間に考案された技術的改善は、どんなに小さい改善にせよ、きっと本当にロケットらしいロケット――恒星間ロケットのためになるに違いないので、現にそういう考案はすでに無数に生み出されている。その多くは大きな改良ではないけれども、どんなに僅かずつであれ、それらはすべていちいち恒星間ロケットが運ぶ荷重を加える役にたつ。あるいはその飛行所要時間を幾分間かきりつめ、一パーセントの幾分の一か安全率を高めるだろう。それらのロケットのお蔭で、年齢その他についてのばかばかしい杓子定規《しゃくしじょうぎ》のために、政府のロケット発着揚で働くことを禁じられた機械屋たちが完全失業せずにすむということは別にしても。どろどろに汚れた作業服を着たわたしたち生えぬきの機械屋が気にすることといえば、自分が技術の上でも、また肉体的にも、仕事ができる状態にあるかどうかということきりないのだ。
しかり。金持どもに栄えあれ。
*
ギャラハー上院議員は、ついに二通目の手紙はよこさなかった。かわりに電話をかけてきた。三月も末になってからのある晩だった。以前ロリイのところの気付になっていたわたしの宛名をまだあて[#「あて」に傍点]にして、そこへ電話をかけてきたのだ。運よく、わたしはその晩ロリイの家に出かけていたので、電話をかけ直してもらう手間が省けた。
はじめ電話の応答に出たのはベスだった。「あんたへんだわ、マックス」とかの女は言った。「ちょっと変わった女のひとよ。もしか[#「もしか」に傍点]すると――」
やっぱりもしか[#「もしか」に傍点]した。
「ミスター・アンドルーズ? わたし、エレン・ギャラハー。もう退院して帰って・うんとよくなってますの。三十分間以内っって条件つきで、お客さまと面会してもいいことになりましたのよ。いつか近いうちにお出かけ願えるかしら?」
「いつだって」とわたしは言った。「そのことなら、たった今すぐだって構やしない――いや、待てよ、あなたは退院して帰ったと言いなさったっけ。とすると、この電話はロサンジェルスからかけてなさるのかね?」
「いいえ、まだ、サン・フランシスコにいますの。退院して“帰った”というのは、まだあと一と月二た月この土地に滞在して、今かかっているお医者さまの手当を受けられるように借りたアパートに寝起きしてるってことですのよ――テレグラフ・ヒルにある」
「今夜これからでよけりゃ、三十分以内に行けるけど」
相手の女は声をたてて笑った。気持のいい笑い声だった。好きになりそうだった。好きになりそう[#「なりそう」に傍点]だって? ばかばかしい、わたしはもうとっくに好きになっちまって[#「なっちまって」に傍点]いたんだ。かの女は言った。「まったく。あなたって忙しい方ですのね、ミスター・アンドルーズ。まったく、リッキーが話してくれた通りの方らしいわ。でも、今夜はもう誰にも面会してはいけないことになっていますの。明月お暇があります? 午後の二時にお出でいただけませんかしら?」
暇はある、仰せの時刻にお伺いしよう、とわたしは答え――むろんわたしはすぐさまロリイに事情を説明して、翌日仕事を正午までで切上げさせてもらうように話をつけた。それなら昼食後顔や手足の汚れを落して、服を着替えて出かけるだけの充分のゆとりがある。
*
看護婦が迎えに出て、エレン・ギャラハーが寝台に起き直ってわたしを待っている部屋に案内してくれた。
顔色は青白くやつれて見えたけれども、実物のほうがわたしが見た写真よりも美人だった。たぶんそれは、わたしがお目にかかった写真といったら全部黒白のだったのに、実物のほうには、とても黒白の写真ではあらわせない、ほとんど赤にちかいみごとな栗色の髪の毛が生えていたせいだろう。四十五歳という年には、とうてい見えなかった。三十台なら幾つといっても通るに違いない。目の色は黒みがかって、目と目の間ははっきり開いていた。口も大きく、温かい印象を与えた。あらためて見直すと、かの女は決して美人じゃなかった。美人といったのは言葉のはずみだ。が、かの女は魅力的で、いかにも女らしさに満ち溢れていた。
「ううん、悪かない」とわたしは言った。
かの女は声をたてて笑った。「あら、それ、賞めて下さったのね、ミスター・アンドルーズ?」
「マックスと呼んでもらうよ、他人行儀はやめて」とわたしは言った。
「いいわ、それじゃマックス。とにかくお坐りして、そんなにぐるぐる歩き廻らないで。まだロケットは飛び立ちゃしないのよ」
わたしは自分がぐるぐる歩き廻っていたことに気づかずにいた。わたしは坐った。「いつ飛ぶんだね?」とわたしはきいた。
「お役所仕事ってものが、何かの計画を実行するまでにどれくらいかかるかご存知?」
ああ、知っているとも。法案が通ってからでも、計画に着手するまですくなくとも一年はかかるだろう。誰かが背後から押しやり押し進めつづけなければ、きっともっと長くかかる。それからもやっぱりお役所仕事だから、新式のロケットを作るのに最低二年間だ。民間の事業だったら、その半分の時間で仕上げてしまう。
わたしはたずねた。「正直な話、法案を議会で通せる見込みはどれくらいあるね?」
「見込みはかなりあるわ、マックス。わたしは、それをいかにも見込みありそうに見せることができるし、宣伝も上手にしてみせるし、近くまで行って木星を観察することが、科学的にみて価値があるってことについて、最高の権威をもつ学者たちの声明もとりつけられるつもりよ。もちろん、それだけではただ尤もらしい体裁《ていさい》がととのうというだけだわ。本当は、どっちかというと規模の小さい法案だから、取引きをやって通すつもりでいるの」
「取引き? 何だね、そりゃ?」
かの女はわたしを見て、いぶかしむように首を振った。
「あなた、本当に議会の政治のかけひきの仕方ってものをご存知ないの?」
「知らない。教えてくれ」
「こんなふうなのよ、マックス。一口に言うと議員というものはたいてい、めいめい特に通したい法案をもっていて、ふつうそれは自分が選出された州とか、そこの選挙民の利益になる内容なんだけれど、それを議会で通過させて、それを手柄にしてまたつぎの選挙に当選を狙うのよ。たとえばアイオワ州選出のコーンハスカー議員は、玉蜀黍《とうもろこし》の生産者価格を今よりも高く改正させたがっています。そこに取引きの余地がある――というのは、わたしが玉蜀黍《とうもろこし》の値上げ法案に一票を投じるかわりに、先方にもわたしのロケット法案に同じく一票入れてもらうのよ」
「やれやれ」とわたしは言った。「上院議員の定員は、確か百二名だっけ。するとあんたは、自分を除く百一人の議員と――」
「マックス。そりゃ勘ちがいだわ。五十二票とれば絶対過半数のよ。わたし、最低三十五票は、あて[#「あて」に傍点]があるの――つまり、放っといても賛成投票をしてくれる議員がそれだけいるだろうってこと。だから、それを過半数から差引くと十七票――あるいは念のために二十票だけ取引きすればいいって勘定になるでしょ?」
「だが下院のほうが――」
「たしかに上院より手ごわいわ。でも、その点は院外団の人たちが助けてくれるの。どの議員とどの議員の票は黙っていても貰えるとか、過半数を獲得するのに充分な票を味方につけるにはどうしたらいいかとかいうことを、すっかり正確に調べ上げてくれるでしょう。ばかりでなしに、まとめて票を取引きできるようにお膳立てもしてくれる――最近では上院の一票は下院の八票と取引きできることになっているのよ。その取引きも、いちいち自分が出なくてもよくて、一部の相手つまりこちらから働きかけなくても先方のほうが自分の法案を通すために喉から手が出るほど賛成票を欲しがっている議員が相手の場合は、院外団の人たちが最後まで片づけてくれるの」
「そんなふうだとすると、いよいよ時間がかかりそうだな。何とかして、こんどの議会を通過させる手はないものかしらん――もちろん、散会前にあんたがすっかり回復して、登院できたとしての話だが?」
かの女ははっきり首を振って否定した。「かりにもしわたしが怪我《けが》しなかったとしても、マックス、たとえわたしが今元気で議会に出ていたとしても、こんどの議会の会期中にもち出すつもりはなかったわ。今年は一九九八年――大統領選挙の年よ。ジャンセン大統領は今度も再立候補するつもりで――たぶん再選されるでしょう。あのひとは、どっちかといえばこちらの味方よ。ロケットの議案が、再選後に両院を通って回付されてきたら、あのひとは署名を拒否したりしないでしょう。けど、もし選挙前だったら、本心ではどう思っていても署名を拒否せざるをえないんじゃないかと思うわ」
「もしジャンセンが再選されなかったら?」
「きっと再選されるだろうと、わたしは思いますけどね。でも、あのひとが大統領に再選されなくたって、たいして問題じゃないのよ。いずれにしろ大統領に選ばれるのはほとんど間違いなくいわゆる“中間派”の政治家で、わたしたちが提出しようとしているような小規模の進歩的な法案は、黙って承認するものなのよ。また一つ別の星に植民地を開拓するとか、大宇宙船を作るとかいった本当に大きな急進的な法案だったら、また話は別だけれど」
「どうして確信がもてる? というのは、つまり、その中間派の誰かが大統領になるってことだが」
「それはね、どの政党も向うみずな“星屑”たちを敵に廻しても構わないと思うほど肚が据わった保守主義じゃないからよ。有難いことに、ロケットを飛ばすって計画は表むきどの政党の政策方針にも触れてない――というのは、“星屑”の勢力が、どの政党としてもはっきり敵に廻してしまうわけにはいかないほど大きいってことだけど。そこがこっちのつけ目なのよ、マックス、現在の状況では。もし政党の政策の線がその問題を境にして引かれるってことになると、こっちはどうしたって過半数はとれませんもの」
「それはわかる。だけど、わからないことが一つだけあるんだ。あんた、それほど政治の駆けひきのこつ[#「こつ」に傍点]を心得ていながら、木星へロケットを飛ばすって公約を、なぜわざわざ正面きって大事な特別選挙の看板にふりかざしたんだね? 新聞記者たちに新しいロケットを木星に飛ばす計画の尻押しをするなんて喋って、へたをすりゃ落選しかねなかったんじゃないのかい?」
「ええ、そうよ。もしあなたのお蔭がなかったら、きっと落選していたでしょう。でも、あれは本当はわたしのせいじゃないの。張本人はブラッド――いえ、ブラッドレー博士なのよ。カルテック工大の。あのひとが、計画は細部まですっかりでき上っている、そしてわたしがもし当選したら議会でその計画を法案として提出することになっているんだって洩らしちまったのよ。それから新聞記者たちが確かな話かと念を押しにやってきたんで――わたしとしてはブラッドの顔に泥を塗るわけにはいかない――でしょ? あのひとのことを嘘つき呼ばわりするわけにはいきませんものね」
「うん、そりゃそうだろう」とわたしは言った。「しかし何だってあの男はまたそんなばかげた――」
「マックス!」かの女はやや声をとがらせた。「ブラッドはもうこの世の人じゃないんだってことを忘れないでね。それに、とにかくその計画をわたしに吹きこんだのはあのひとなんですから。あの人の思いつきなのよ」
「いや、わたしが悪かった」とわたしは言った。
かの女の表情はすぐ微笑に和らいだ。「いいわ、今のは帳消しよ。ところで――」
その時扉口のほうから足音が聞えたので、かの女はその方を向いた。看護婦だった。「三十分たちました、ミセス・ギャラハー。そしたら教えるようにってさっきおっしゃいましたので……」
「ありがと、ドロシー」かの女はわたしのほうに向きなおった。「マックス、今わたしがあなたに伺おうと思ったことは、返事にかなり時間がかかることなの。だから、今日はこれまでにして、今度お目にかかる約束だけきめて、お話はその時までお預けにしましょう」
つざの面会は、金曜日の晩七時ということにきめた。
*
わたしは六インチの光学ガラスの原材を買って、自分の手で反射望遠鏡のレンズを研磨しはじめた。こと[#「こと」に傍点]がそんな具合に運んでくると、木星とその衛星をあらためてとつくづくと眺めてみたくなってきたのだ。そのためにわざわざ天文台に出かけたりせずに。
ロケットを飛ばす計画に、すくなくとも一年間は手がつけられないとすれば、眺める時間はたっぷりあるはずだった。
わたしはレンズの研磨をはじめた。長い、根気のいる仕事だけれども、わたしには待つ身の辛さを紛らわす時間つぶしになった。
*
金曜日の晩、エレン・ギャラハーは起きて椅子に坐り、室内着を着て待っていてくれた。かの女は前よりも元気に、血色も前よりよくなっているように見えた。
かの女は言った。「おかけなさいな、マックス。いいこと? こないだ打切ったところからお話をつづけましょう。わたしは、あなたのことに話の誘い水を向けようとしていたのよ。あなたのお望みはどういうことなの?」
「そんなこと、とっくに、知ってるだろうに、わたしはそのロケットに乗りたいんだ。だけど、そういうわけにはいかないことは、わたしもあんたも承知の通りだ。で、乗れないとすればつぎの望みは、あんたがその計画の法案を議会を通過させるについて力添えをしたい。そのロケットの建造を手伝い、それが飛立って行くのを見とどけ、あとまだ命がつづくなら、それがまた、地球に戻ってきて着陸するところを見たい。わたしたちが、いつかきっと行きたいと憧れているところへ向って、いま一歩踏み出したことを確かに見とどけて死にたいのだ」
「やっぱりわたしが思った通りね。いいわ。ロケットのことについては、たぶんあなたにも何かの仕事をしていただくようにできるでしょう。でも、法案に議会を通過させるのを助けて下さるってのは――だめよ、それはもうはっきり。あなたの縄張りじゃないわ。わたしがやるべきことだし、やれる自身もあるの」
「こないだの手際は、まんざらじゃなかったつもり――」
「だがマックス、それとこれとは別よ。わたしを当選させたのはあなたじゃありません。ね? あなたは、むしろわたしの敵を倒しただけよ。もちろん結果は同じことになったけれど。でも、法案を通すにはああいう手じゃ役にたたないわ。だって、どうなさるつもり? 国会議員のオフィスに押入って脅迫の種を盗み出すの?」
「わたしは、議論も得意なんだがな」
「マックス、ワシントンの政界じゃ、きっとあなたがすることなすことかえって有難迷惑になるわ。そんな場違いなところへ近づかないで。ね、約束してくださる?」
「オーライ。あんたの言うことのほうが本当らしい」
「わかってくださるのね。ところで、つぎに、いよいよ計画が軌道に乗ることになったら、どんな種類の仕事がお望みなの? そうそう、リッキー・シャーラーはわたしに、あなたがロケットの機械屋さんだってことはわかっている、それにもと宇宙ロケットの操縦士だったらしいんだけれど、そっちのほうはどうもはっきりしない、と言ったわ。そうだったの?」
わたしはうなずいた。
「名誉の退役――なんでしょ? 記念章はどこにつけておいでなの?」
「どこかの引出しの中だろう。あんなもの、わたしはつけないよ。ずっと大昔のことを、これ見よがしにひけらかして歩くんなんてぞっとしないからな」
「これからは着けて歩くようになさい。もと宇宙ロケット乗りだったって経歴は、きっともの[#「もの」に傍点]を言います。さあ、そもそもの初めから今までのあなたの経歴を、はしょらずにすっかり話して頂戴」
「よしきた」と、わたしは言った。「そもそもわたしの生いたちは、一九四〇年、イリノイ州シカゴにはじまる。わたしは、貧しいけれども正直な両親の息子に生まれた」
「ふざけないで、マックス。真面目に話して。将来うんと大事な意味をもってくるかも知れないのよ」
「わかった、あやまるよ。ええと、宇宙ステーションの計画が始まった一九五七年、わたしは十七歳の少年だった。その宇宙ステーションは月に向って、いや、やがて星にむかってわれわれが踏み出す最初の第一歩になるはずだった。
わたしは宇宙気ちがいだった、むろん、他の幾百万人もの子供たちと同様。言うまでもないこった。あの当時の子供たちはみんな宇宙気ちがいだった。むろん、わたしはロケット乗りになりたいと思った。その頃の十七歳前後のまとも[#「まとも」に傍点]な男の子なら、誰しもそう思ったに違いない。
けれどもわたしは、そこらのたいていの連中より、はしっこかった。どうしたらみんなの先頭を切ってロケットに乗りこめるか、その方法はちゃんと計算してはじき出した――というか、みごと予想できたんだから。競争者が殺到する直前に、わたしは飛行操縦練習生として空軍に入隊した。宇宙ロケット部隊が、編成される場合、その乗組員はまず空軍から――成績の最も優秀なパイロットの中から選ばれるだろう、という噂がぱっと広まったのは、それからたった一月ばかり後のことだった。そして百万人以上の入隊希望者が、一時にどっと空軍に殺到したものだ」
わたしはにやりと笑った。「むろん空軍では、きまった人数しか採用するわけにはいかず、空軍に入隊するのは、おそろしく難かしくなった――代議士に当選するよりも。かけ値なしに千に一つ――千人に一人の割合だった。
が、すでに入隊していたわたしは、そんな大騒ぎもどこ吹く風と、涼しい顔でもっぱら操縦訓練に励んでいればよかった。事実、大いに励みもした。やがて一人前のジェット機の操縦士となり、そのままで行けばきっとロケット部隊に編入される見きわめがついた。けれども第一期生じゃなかった。というのは、わたしよりさきに入隊し、わたしより長く空軍にいて、わたしよりさきにロケットに乗る優先権をもった幾百人かのパイロットたちがいた。一九五八年に創設されたロケット乗組員養成所には、第一期生が三百人もいた。一方、その連中が乗るはずになっているロケットは、まだ設計もでき上っていないという情けないありさまだ。それも例の三段ロケットというやつで、十階建てのビルディングの高さほどもある身のたけをしていながら、宇宙ステーションの予定軌道の高さまで自重以外に二、三百ポンドの重さのものを持ち上げるのがやっとのことだ。
第一期生のうち半数は途中でふるい落されて、残りの半数が卒業したのが一九六二年。折から宇宙ステーション設置のためのロケットの出発準備ができて、連中はちょうどそれに間に合った。けれども、まだまだロケットの数よりも乗組員のほうが多くて、わたしが第二期生として卒業した一九六三年には、そのうちに果して自分の番が廻ってくるものかどうか、心細いかぎりだった」
わたしは声をたてて笑った。「それまでに実際に地球から外にとび出す幸運を握ったのは、第一期生の中でも成績最優秀の十二、三人きりだった。わたしの成績は第二期生の中では最優秀にちかかったけれども、それでもわたしの前にはなお百人以上が行列をつくって順番を待っていた。その間にもわたしはどんどん年をとって――もう二十三だ! 化学燃料をつかうロケットの時代には、ロケット操縦はひどく体力を消耗する仕事だったために、現役の操縦士の最高年齢は二十七歳で、へたをするとわたしがめざす目的に到達しないうちに、宇宙ステーションまでの小旅行をする順番さえこないうちに、四年間ぐらいはすぐに経ってしまいそうだ! わたしは、あんた、心配で心配で気が狂いそうだったよ」
「わかるわ、その気持。そうなっても不思議はないところですものね」
わたしは言った。「だとも、そうなってもちっとも不思議はないところだった。けれども、それよりさきに別のあることが起ったんだ、有難いことにな。一九六四年という年がやってきて――それまでわたしたちを押しつけていた重い蓋が吹っとんだ。あまり急なことで、と言っても事実は長い年月の努力の結晶だったんだが、まるで一夜のうちに起った奇蹟のように感じられた。ロス・アラモスの研究所の連中がマイクロパイル([#ここから割り注]極小型原子炉[#ここで割り注終わり])を発明して、原子エネルギーをロケットに利用できるようになったのだ。
その時から、在来の化学燃料を使うロケットなんか、まるで牛車のように時代おくれの廃物になっちまった。そりゃ、やっぱりまだ燃料タンクは必要だったけれども、原子力エンジンの強大な噴進力のおかげで、前よりずっと小さいタンクで間に合い、おまけに燃料はどんな値段の安い液体でも――なんならただの水でも構わないことになったのだ。マイクロパイルで噴進ガスに変えられるものでさえあれば。月まではたった一飛び、火星と金星へは一度燃料を補給するだけで飛んで行けることになった。宇宙ステーションなんてものは、三つ目ができ上った時にはもう時世おくれで無用のものになってしまって、われわれは初めの予想より五年も早く月に着陸することができた。
むろん宇宙ステーションだって作りはした。けれども最初のからして予定よりずっと小さいのを、主として気象観測所としてつくっただけだ。それから二つ目のを――二十四時間で軌道を一回転するやつをテレビ放送用のためにつくった。その間に――」
「マックス、わたしだってロケットの歴史の本くらい読んだわ、あなたにうかがってるのはあなた自身の経験と経歴なのよ、いいこと?」
「ああ、そうだっけ。つまり、そういうわけで、わたしは突然もう行列の中でもそう後ろのほうじゃないってことになった。原子力ロケットは大量に製作されはじめた。実際に飛ばしてみた結果も上々で、一九六五年には三十機、六六年にはさらに四十台が追加され、その頃には四人乗りのものまでできて、たちまち、わたしにも番が廻ってきた。一九六六年の末、わたしは月に行った。二人乗りのロケットで、そこに建てることになった観測所建設用の二トンの資材を積み、副操縦士兼宇宙航空士の資格で。月へは副操縦士として、もう一度、翌年こんどは火星へ、それからわたしは宇宙ロケット一等操縦士に昇進して正操縦士になった。わたしは二十六になっていたけれども、規則のほうも変わって三十歳まで現役に服することができるようになり、したがってわたしはまだあと四年間つとめられるはずだった。
が、何てことはない、それでもわたしはやっぱり二十六の年に退役しなけりゃならなかった。金星の表面を調査するための旅行中の事故のおかげで、それはわれわれ人類として八度目の金星行きだった。わたしにとっては初めてだ。
わたしたちは無事に任務を終えた。それから帰りの飛行に飛び立とうとしてロケットの各部を点検していた。わたしは外にいて、前部の展望窓を掃除しようとして機体を攀じのぼりにかかっていた。ところが副操縦士はわたしが中にいるものと思って、方向調節装置をテストするために、点火スイッチを入れてちょっとジェットを噴出させた。その噴気管の一本の真前にわたしの片足があって、その足はそれでおしまい――ちょうど膝のすぐ下からね。仲間たちはわたしを地球に連れ戻してくれ、わたしは命をとりとめた。けれどもロケット乗りとしての生命はそれで終りだった」
かの女は低い声で、「まあ!」と言い、それから「お気の毒だったわね、マックス」
「とんでもない」とわたしは言った。「ちっとも気の毒じゃないよ。つまり、わたしは前後六回宇宙旅行をさせてもらったわけだが、そんな旅行をするより足が無事だったほうがよかったとは夢にも思わない。初期のロケット乗りたちは、たった一度の宇宙旅行に、生命を犠牲にしたものだ。わたしは運がよかった。なにしろ、六回の旅行にたった一本で済んだんだから」
「わかるわ、あなたのその気持。で、それから?」
「それから? それで終りさ」
かの女はすこしばかり声をたてて笑った。
「その時あなたはまだ二十七だったんでしょ? 今は五十七じゃないの。その間にどんなことがあったの?」
「わたしはロケットの機械工になった。傷痍軍人年金を貰うつもりなら貰えたんだが、それまで月謝なしで原子力やロケットの機械のことを教えてもらったことを考えて、わたしは辞退することにした。それからずっと、わたしはロケットの機械いじりで通してきた。それだけだよ」
わたしはちょっと考えた。「いや、違う、それだけじゃないぞ。あんたにわたしというものをよくよく知ってもらうために、こうして喋ってるんだとすると、遠慮や謙遜は無用の沙汰だろう。ならば言おう。わたしは機械屋は機械屋でも、うんと腕のいい機械渥だ。全国でも指おりの。すこしずつロケットが改良されるにつれて、いちいちその改善に自分の歩調を合わせて、追いついてきた。ロケットのことなら、どこをひっくり返してもわからないことはない。どこかが故障すれば、どこが具合が悪いのか、きっとつきとめて直すことができる。原子物理学の、理論のということになるとわたしは専門家じゃない。けれども応用原子力の範囲で、実地に必要なことは何でも知っている。旅客輸送ロケットのことも、定期郵便ロケットのことも、惑星ロケットのことも、ロケットのことなら何でも知っているし、仕事の上でも実際に手がけてきた。
七年間に政府がきめた機械作業者の定年を越してからは、惑星間ロケットを手がけたことはない。けれどもそれらがとげた変化には絶えず細大もらさず気をつけているし、現にわたしが思いついて採用され利用されている改良の思いつきも幾つかある」
こう言うと口はばったく聞えるかも知れないが、この国にある十二の民間旅客ロケットの発着場の中で、わたしが今までに仕事したことがないところは一つもないし、わたしが一言声をかければ、現在人手が足りていようがいまいが、いつ何どき、どこの発着揚でも大喜びで働かしてくれる。それにわたしはもう自分でロケットを操縦させてもらうことはできまいが、おそらくこれまでに試みられまた採用されている航法の新しい技術は、いつでも誰よりさきに食いついて消化してきた。わたしはアマチュアの天体観測者でもある。それもただ星を眺めてりゃ満足だなんていうのじゃなしに、どんな天体物でもいちいち確実に見わけることのできる軌道や蝕の計算もできる」
「工学の学位はあるの?」
「いや。ただの理学士で、こいつは当時ロケット乗組員養成所を出ると自動的にもらえた資格だが、むろんその肩書に相当するだけの実力はある。しかし知識ってことになると、わたしの専門は何てったってロケット工学だ。工学の学位をとるにゃ多少補わなけりゃならない点もあるだろうが、とろうと思えばとれるつもりだよ。ただ、今までそんな気が起らなかったというのは、実地の機械いじりのほうが、好きだからだ。わたしは、図面に書いたロケットより、ロケットそのものを相手にしているほうが性に合ってるんだ」
「じゃ、現現から離れて人を監督するような仕事はなさったことがないのね?」
「ない。嫌いだから」
「木星行きの計画でならば、そういう仕事を引受けてくださる?」
「床の掃除をしろと言うなら、それだっていやとはいわない――計画の仲間に入れてもらうためなら。しかし、できることなら現場の親方がいいな」
「計画全体の副監督官を引受ける気がある?」
わたしは大きく息を吸い込んで、言った。
「ある」
「マックス、その仕事をあなたに廻してあげられるかも知れないわ――二つの条件つきで。ということは、実際に計画を切り廻すのはあなただってことよ。計画の最高責任者には、誰か政治的に名前の売れた人をもってこなけりゃなりません。こればかりはどうにも動かせないわ。けれども副監督官なら、必ずしもそうでなくたっていい。そして実際に仕事を切り廻すのは、副監督官なのよ――最高責任者は名前ばかりで。どう、マックス? 計画を切り廻し、ロケットをつくって飛び立たせるまで、いっさい自分の手塩にかけるって思いつきは?」
「あんた、ばかみたいな質問はよしにしとくれ。二つの条件とか言ったな? 何だってきくよ。何だい?」
「きっとあなたのお気に召さないことよ」と、かの女は言った。「だから、今言うのはよしときましょう。言い争いになるから」
「言い争いはしない」とわたしは言った。「何だってうん[#「うん」に傍点]と言う。たとえ残ってるほうの足を切れと言われたって。なんなら首まで切ってさし出したっていい」
「首がなけりゃ、あなただって困るでしょう? それから足のほうも、切っちまっちゃ肝腎《かんじん》の話が進めにくくなるばかりよ。でも、マックス、今日はもうかなり長いことお話して、わたしは疲れてきたわ。明日の晩また同じ時刻にいらしてくださらないこと?」
いらしてくださらない[#「くださらない」に傍点]かって!
帰ると、わたしは、例の望遠鏡の反射鏡の研磨をはじめたが、いつになく仕事がやり辛くて、いい加減でやめようとして気がつくとわたしの両手はぶるぶる震えていた。
震えているからといって、咎める気にはなれなかった。手だって震えるだろうさ。なにしろ思いがけない好運にめぐり合おうとしているのだから。おそらく千に一つ――だが、その手でロケットの操縦装置をあやつって火星までの八倍の距離にある木星へ、火星までの八倍の空間を乗り切って木星へ飛んで行く好運にめぐり合えるかも知れないのだ。
千に一つ。だが、昨日までは百万に一つのチャンスもなかった。二、三カ月前には十億に一つか、それとも全然なし[#「なし」に傍点]だったのだ。
いやいや、震えているからといって、手ばかりを責めるわけにはいかない。
*
「条件ってのは?」と、わたしはエレン・ギャラハーにきいた。
「はじめにまず不戦条約を結んどきましょうよ。一杯お酒をいかが、マックス? すこし懐柔しておかなくちゃ」
「条件は何だね? あんまりもったいをつけるなよ」
「第一に、工学の学位をとること。あなた、その気になればとれるとおっしゃったわね? ロケットの計画の責任者の人選が始まる前に、とることができる? そうね、かりに一年間以内ときめて?」
わたしは喉の奥で唸った。「できる。が、そのためには少々くそ勉強をしなけりゃならん。学位をとるってことになると、十単位の試験にパスしなけりゃならない。そのうち六つは、いますぐにだってバスできる。が、あとの四つについては、かなり猛烈に勉強しなけりゃ。それだって実際には知ってることばかりなんだが、理論のほうを少々つめこまなけりゃならない。しかし、まあ何とか――ああ、やれるよ、一年以内に。もしかしたらもっと早く。それからもう一つの条件ってのは?」
「監督的な仕事につくこと。今すぐ、なるべく早く。そしていまからロケットの計画の実行についての人選が始まるまでに、できるだけ高い地位に昇進しておくこと」
わたしはもう一度うなった。
かの女は言った。「それは、こういうわけなのよ、マックス。計画がいよいよ実行ときまったら最高責任者が副監督官を指名します――けれども正式の任命には大統領の承認がなけりゃならない。だから、その時できるだけけち[#「けち」に傍点]をつけられないようにしておかなけりゃならないのよ」
わたしは言った。「しかし、それより、そもそも最高責任者の任命権は大統領にあるんだろう? だったらその最高責任者とやらに、どうしてわたしを副監督官になんて押しつけることができる?」
かの女は微笑した。「それは、わたしが取引きするの。要するに表看板《おもてかんばん》だけの最高責任者を、わたしがみつけてくるのよ。かなり名前が売れていて、ちょうど仕事がなくてぶらぶらしている誰かを。そしてあなたを副監督官に任命するという条件を呑めば、わたしもその人を大統領に推薦してあげるってもちかけるの。でも、まさか、いくら何でもただの[#「ただの」に傍点]ロケット機械工を押しつけるわけにはいかないわ、マックス。わかるでしょ?」
「わかるよ、残念ながら。どのくらいの地位に行っておけばいいんだい?」
「上なら上であるほどいいわ。けれども、どこか大きなロケット発着場で、ある程度重要な責任ある地位なら、何でもいいでしょう。それと、あなたがロケット工学の学位を持ってるってこと。それに、もと宇宙ロケット操縦士だったってこともプラスになるわ」
「もしそれだけのことをすっかりやっても、大統領が自分で別にその計画の最高責任者を選ぶと言い出したら?」
「そりゃ、それぐらいの冒険はしなくちゃ。けど、実際にはそんな心配はほとんどないのよ――大統領から決してだめ[#「だめ」に傍点]が出る気づかいのない、たとえわたしが推薦しなくたって結局はそこに落着くというような人をみつけるくらい、ぞうさないことですからね。大丈夫だって理由はほかにもあるわ。面倒だから今ここで説明はしませんけれど――大丈夫、自信があるのよ。もしあなたが学位をとって、聞こえのいい肩書をものにすることができるならば、ね。できる?」
「できる」とわたしは言った。「できるよ、気のすすむことじゃないが。ほかに条件は?」
「それだけよ」
「じゃ、さっきあんたが、勧めてくれたお酒をご馳走になろう。一杯ぐらい飲まなくちゃ、やりきれない。どこにあるね?」
「隅の、その戸棚の中よ。あなたは何でも好きなものになさって、わたしにはシェリー酒を一杯注いでくださる?」
わたしもシェリーにした。思考が重い頭を心の底からもたげてきた。
わたしは言った。「ロサンジェルスのロケット発着場が一番見込みがある。一つには、指おりの大きな、空港であること。いま一つには、わたしの友人が空港長をしている。もと軍のお偉方で、わたしと親しくしていた相手といったら、そいつが一番だ。本人も機械工から叩き上げで、今でも機械屋仲間の言葉で話が通じる。
それに、奴さん、わたしの将来のことを考えて、もういい加減で手に染みついた機械油を洗ってオフィスで働くようにしたほうがいいって、このところ幾年も口癖のようにせついてばかりいたもんだ。もしあき[#「あき」に傍点]さえあれば、部長くらいになら今すぐにだってしてくれるだろう。あき[#「あき」に傍点]がなければ、とりあえず今あいている中で一番いい仕事をくれて、できるだけ早くもっと上の地位につけるようにしてくれる。運よくいけば、一年間以内に副長にだってしてもらえるかも知れない。まったくの話――」
わたしはちょっと思案した。「まったくの話が、少々策略をもちいるってことになりゃ……。いや、計略をもちいちゃいけないってわけはどこにもありゃしない。そうだ、わたしたちの手のうちをすっかり見せて、何故わたしが看板になる肩書が欲しいのか、打明けて話してやろう。そうすればあの男は、たぶん木星行きロケット計画の人選がおこなわれる間だけでも、きっとわたしがその肩書をくっつけていられるように按配してくれるだろう。きまってるさ、それくらいのことはしてくれるに――。その頃までにわたしは金をためて、本来の副長に一月かそこらの暇をやって、その間の給料はわたしが払うからってことにして、一時わたしをその地位に据えてもらうことだってできないことはない。いや、きっとそれくらいのことはしてくれる、クロッカーマンなら」
「副空港長だったら文句はないわ。部長だって間に合うかも知れなくてよ。いつから始めてくださる?」
「一、二日のうちに。うまい具合に、トレジュア・アイランドではいまそれほど仕事がたてこんでるってほどじゃないから、わたしが急にやめるからってロリイをそう困らせないで済む――たとえ困らせることになるような状態にあったとしても、ロリイなら話せばきっとうん[#「うん」に傍点]と言ってくれるにきまっているけれど。そうだな、明日はこの土地におさらばできる――そして、クロッカーマンには今夜帰ってすぐ電話をかけよう。ロリイには今夜のうちに会って話して、明日一番のジェット機で発つよ」
かの女はすこし笑った。「ものごとを、何でも少しずつでなく一時にとことん[#「とことん」に傍点]までやるってとこ、わたしの大好きなところよ、マックス。お礼とか報酬ってことを全然ぬきにして、ロケットの計画は是非あなたにやってもらいたいわ。きっと立派にやりとげてくださるわ、あなたなら」
「最善をつくすよ」とわたしは言った。「だが何だな、あんた、本当ならわたしは来年いっぱい厭なことばかりさせるあんたって人を恨まなけりゃならないはずなのに、わたしもあんたが好きになっちまった。いつになったらあんたにちょっかい[#「ちょっかい」に傍点]を出してもいいかね?」
かの女はまた笑った。「あなたってば、ロケットの計画の仲間からはずされないためとあれば、恋までしても厭わないってわけね?」
「その通り」とわたしは言った。「けれども、今その話はお預けにしておこう。それで、わたしの計画は今までの話で一応落着いたことにして、わたしのことを話すのはやめ[#「やめ」に傍点]だ。何かその計画――ロケットのことを、話してくれないか。何かい、その、ブラッドレーはもうすっかり計画のお膳だてをととのえていたのかい?」
「最後のぎりぎりまでね、マックス。細かいところまで行きとどいた見積りよ。でも目論見書はロサンジェルスのわたしの金庫の中にしまってあるので、そこにわたしが帰ってからでなけりゃ見せてあげられないわ。二、三お話してあげられることもないわけじゃないけれど、なにしろわたしには機械の細かいことはわからないので、間違った受取り方をしているかも知れません。だからその目論見書を見せてあげられる時まで待って、何もかも一時に呑みこんでいただくほうがいいと思うのよ」
「結構」とわたしは言った。「いつ頃ロスに帰る?」
「これからも、これまで通り順調に、また悪いほうにぶり[#「ぶり」に傍点]返さずに回復しつづけるとして、一カ月以内。三月の一日前後ね、たぶん。あちらに落ちついたらすぐわたしに手紙を書いて、あなたの住所と電話番号を知らせて、わたしが帰ったらすぐ、あなたにそのことを知らせてあげられるようにして頂戴」
「よしきた」とわたしは言った。「そうするよ。しかしそのロケットのことで、何かちょっとしたことでいいから教えてもらえないかな? そうすりゃ、ひとりでいろいろに考えて楽しめるんだが」
「わたしに無理をさせないで、お願いだから、マックス。わたし、もうくたびれてきたし、あなたも相当に長居なさったわ。またここでロケットのことを話しはじめたら、すぐにはやめられないでしょう。とにかく、何もかもブラッドの目録見書に書いてあるのよ。それはきっと見せてあげるんですから。その計画は、ブラッドの申し子[#「申し子」に傍点]みたいなものなのよ」
ふふん、ブラッドの申し子[#「申し子」に傍点]か。その申し子[#「申し子」に傍点]をエレンが抱いて歩いているわけだ。そこに何か意味があるのかどうか、わたしはふと考えてみて、それからどっちにしろわたしの知ったことじゃない、ときめた。ちょっかいを出すとか何とか、さっき言ったのは相手をからかってみただけだ。いや、それとも、からかわれていたのはこっちかな? いずれにしろエレンはまったくすばらしい女だった。
わたしは自分の下宿に帰らず、まっすぐロリイのところへ行った。ロリイにありのままの成り行きを話し終ると、こんどはクロッカーマンに電話をかけた。とんで来い、という返事だった。さし当り工具室の親方くらいの仕事しか呉れられないが、部長たちの中に二、三人、仕事ぶりが充分に気に入らない連中がいるので、一月ほど我慢すればもっといい部署にひき抜いてくれる、ということだった。電話では、何故わたしが機械いじりをやめる気になったのか、またどれほど早く、高い地位に昇進したいと思っているか、本当のところは話さずにおいた。時間はたっぷりあるのだから、いつかゆっくり一杯やりながら話してやればよかろう。
わたしは、ロリイに、途中まで研磨した光学ガラスの原形を、欲しけりゃやるよと言った。望遠鏡用の上等の反射鏡を磨き上げるには、うんと時間がかかる。ところが、これから長いこと毎晩わたしは勉強で忙がしくなりそうだった。木星を眺める望遠鏡が欲しいことに変りはなかったけれども、この分では自分で、作るかわりに買うより仕方がないようだった。ロリイは欲しいと言い、早速それをとりにくる目的を兼ねて、下宿までわたしを車で送ってくれた。かれはわたしが荷造りをするまで待っていてくれて、それからエンジェルのジェット機飛行場まで行くヘリコプター・タクシーを拾える広場まで、また送ってくれた。真夜中、わたしは、すでにロサンジェルスに到着していた。
*
二月と三月、わたしは昼間働き、夜勉強した。
どちらでも、着々と進歩をとげていた。ロケット空港で、わたしの地位は部長だ――維持管理部の。退屈な仕事だが、それでとにかく肩書というものができた。わたしはその仕事に自分の全部をうちこみ、順調に行っていた。いんちき[#「いんちき」に傍点]をしなくても、そのままやっていれば一年間以内に正味の実力で副長になり上れそうだった。クロッカーマンには、まだ、真相をうち明けてなかった。もし自分の努力で副空港長になれたとすれば、その上で、真相をうち明けたとすれば、もっと上の肩書をもらえるかも知れない。わたしの本当の狙いはどこにあるのか、それをクロッキイにうち明ける前に、正直かけ値なしの自分の努力で副長になっておいたら、いざうち明けた場合、ひょっとするとこっちにとっていちばん大事な時期にあたる一カ月かそこら、本人自身が休暇をとって、その間わたしを空港長代理に任命して、世界で三番目のロケット空港をわたしの手の中に預けてくれるようにできるかも知れない。
勉強のほうでは四つの課目――一番手ごわい四つの学科単位にかじりついた。工学の学位をとるのに、わたしは九つだけ単位をとればいいのだということがわかり、そのうち三つはあまり易しいので復習する必要さえなかった。後の邪魔にならないように、まずその三つをわたしは最初の週の間に片づけてしまった。あと二週間の勉強で残りのうち二つの試験にも通った。あとに残った四つのうち、二つはすでによく理解してはいるのだが、長いこと放ったらかしにしておいたので、記憶が錆びついてしまっていた。しかしわたしは猛烈な勢いで錆落しにかかり、つぎの一カ月かかってどうやらよかろうというところまで磨き上げた。
すると差引き残りはあと二つ――わたしにとって一番の難物の二課目だった。超高熱冶金学と統一場の理論。どっちにしろ、ロケット技師にそんなものが必要だとは夢にも考えたことがなかった。あらゆる金属と合金の性質は、表を見ればちゃんと出ているので、いろんな数字だって百分の一の小数点まで示してあった。それを自分で、計算して出せるからって、どんなとく[#「とく」に傍点]がある? 統一場の理論ときたら、なおさら厄介だ。要するにそれは理論の範囲を一歩も踏み出たためしはないので、むろん、ロケットに実地に応用されるなんてことはあり得ない。おまけにそれは相対性理論から入って行かなければならないので、勉強しながらわたしはいらいらして歯噛みした。というのは、それはとにかく物事に限界を設けようとする理論だからだ。わたしは、限界というものをみとめない主義だ。
さよう、この二つの課目については個人教授を受けなければならなかった。けれどもカルテック工業大学の講師連中の中には、いや教授たちの間にさえ、内職にわたしたちみたいなのを教えていくらか小遣いを稼ぎたがっているのが腐るほどいて、逆にわたしのほうはたんまり給料をもらいながら、それを使う自由な時間というものがないので、金なんかいっそ火をつけて煙にしてしまってもいいくらいのものだった。
*
ギャラハー上院議員が帰ってきたのは四月の初めだった。わたしはジェット機飛行場にかの女を迎えに出たけれども、出迎人は他にも大勢あって、家まで送って行くらしい取巻き連の仲間にはわたしは加わらなかった。会話は、ただかの女に他に用事のない最初の晩に訪問させてもらう約束をするのに必要なだけにとどめた。かの女はもうほとんど完全に回復しているように見え、翌月中にはワシントンへ行って、現議会の会期中の最終の一カ月かそこら、上院の議席に坐ってみるつもりだ、とわたしに言った。
わたしの訪問の約束は二日後の晩ということになり、一晩そっくりわたし一人のために空けておくから、ロケットの計画書に目を通す時間は充分にある、とかの女は言った。
*
「飲みものは、マックス?」
「それよりも――」とわたしは言った。「目論見書を見せておくれ、もう一月もお預けを食わされたあげくなんだから」
エレンは、いぶかしむように首を左右に振った。
「オフィスの仕事も、あなたを文明人にすることはできないのね、マックス。まるで原始人だわ。いったんこうと思いこむと、一つのことっきり考えられないのね」
「その通り」とわたしは言った。「今のところはロケットの計画書のことっきり、ね。さあ、見せてもらおう」
「だめよ、まず一杯飲みもので喉を湿らせて、それからすくなくとも十五分間、文明人らしい、お話をしてからでなけりゃ。とにかく今まで幾月か待ち暮して、大丈夫だったんだから、ここでたったの十分か二十分、待つ時間が延びたからって、まさか死にゃしないでしょ?」
わたしは飲みものをつくった。わたしはお行儀よく、じっと辛抱して待った。エレンがきめた時間より長く――二十二分間もだ! それからもう一度計画書を見せろとせがんだ。
かの女は、それをとり出して持ってきてくれた。
わたしは飛びつくようにしてロケットの設計図をすばやく一瞥し、おどろきの叫び声をあげた。声には出さず、心の中で。ページをめくって工費の見積りをざっと見終った時、わたしは自分の髪の毛を根こそぎ引きむしりたいような気持だった。
顔の表情に、その気持があらわれたのだろう。エレンはたずねた。「どこか、おかしいところがあるの?」
「多段式ロケットじゃないか、こりゃ!」と、わたしは言った。「五十年も昔の幽霊だ――多段式ロケットなんて! エレン、木星に行くのにはね、多段式ロケットなんていらないんだよ、原子力を使えば! おまけに工費――三億一千万ドルだと! わたしが計画をたてれば、この十分の一の費用で木星を廻って帰ってこさせられる。どう多く見積ったって五千万ドルあれば……まったく、気ちがいじみてる。この数字は」
「それ本気、マックス? ブラッドだってロケット技師だったのよ――それも指おりの優秀な」
「本気だとも、しかし――待ってくれ、どこでこんな桁はずれな見積りになったのか、ざっと当りをつけてみるから」
わたしはざっとその紙の上に目を走らせて、武者ぶるいした。
わたしは言った。「欠点の第一。二人乗りのロケットになっていること。何故そんなことをする? 一人でたくさんじゃないか。記録と観測に必要なことは全部一人でやって、それでもまだ暇があり過ぎてもて余すくらいだよ――木星の周りに沿って飛ぶ間だって」
「そのことは、ブラッドとわたしも話し合ったわ。あのひとが言うには、まる一年間一人きり宇宙の空間に放り出されているということだけだって、とても常人には――」
「ばかな」とわたしは言った。「火星へ最初に飛行したオートマンは、一九六五年、ただ行って周りをまわるだけで着陸せずに戻ってくるのだったけれど、四百二十二日間というもの、あの男はたった一人きりで宇宙の空間を走りつづけたんだよ。そのロケットの中の居住空間といったら、さしわたし三フィート、長さ六フィート半。ちょっと大き目なお棺みたいなものだった。しかしロケット乗組員養成所に在校中の候補生の中で、あの男を羨ましがらなかった者は一人だって居やしなかった。できることなら、たった一分間でもいいからお裾わけにあずかりたいものだ、と誰しも思ったものだ。
「こんどの木星への飛行もまた最初の[#「最初の」に傍点]旅行だ。しかも宇宙ロケット乗りなら誰だってうんざりせずにはいられないほど久しぶりの最初の飛行だ。いよいよ実行ときまったら、たった一人しか乗れないそのロケットに乗る特権を狙って、千人もの優秀なロケット乗りたちがもの凄い競争をくりひろげるだろう。条件の如何にかかわらず、どんなに辛い旅行かということがわかっていても」
わたしはもう一度計画書を見なおした。「さしわたし十フィートの居住空間――と、ブラッドの設計ではそうなっている。かりにどうしても二人乗りロケットでなければならないとしても、この広さは最初の[#「最初の」に傍点]にしてはばかげきっている。しかも、二人乗りでなけりゃいけない道理はないんだ。ブラッドがこれだけの広さにきめたのは、きっと二人乗りの火星行きロケットの基準がそうなっているからだろう。が、火星行きなんてのは牛乳配達みたいなもんだ。一人乗り、居住空間は幅四フィート。それで充分どころか、贅沢なくらいだ。それだけでロケットの重量を七割がた削ることができる」
エレンは身ぶるいした。「わたしだったら、そんな狭苦しいところで一年間も過すなんて、考えただけでもぞっとするわ」
「だろうとも。が、あんたはロケット乗りじゃない。ロケット乗りたちは頑丈だ。肉体的にも精神的にも。そうでなけりゃ。宇宙ロケット乗組員養成所に入校するだけだってできない。入ってから卒業するまでの激しい訓練は別にしても。
入校の時からずっと候補生たちが一番厳重に検査されることといったら、密閉所恐怖症の傾向の有無だ。もしかりにほんのちょっとでもその徴候が見られたら、たちまちはねのけられて、完全に治癒したとみとめられないかぎり、二度と復帰は許されない。必要に応じて、長時間一人でいられる訓練を受ける。どうして、今日宇宙ロケット乗組員養成所でおこなわれている対精神病訓練にくらべたら、木星までの旅行なんかそよ[#「そよ」に傍点]風みたいなものさ」
わたしはにやりと笑った。「エレン、わたしが養成所に入校した当時、まだ精神病理学は今日ほど進んでいなかった。入校して最初の週に、密閉所恐怖症に対する耐久力のテストとして、どんなことをやられたか想像がつくかい? わたしたちは一人ずつ、きっちり二フィート四方の真暗な箱の中にとじこめられた。あまり狭くて膝を屈めることさえできず、立ったままその中で四十八時間、おまけに眠らずに過さなけりゃならないんだ。その箱の内側にはブザーのボタンがついていて、きっかり一時間ごとに必ずそれを押さなけりゃならない。文字盤に夜光塗料を塗った時計があって、時間はそれでわかるんだ。つまり、そのボタンを押すのが、中にいるわれわれが目をさましてしゃん[#「しゃん」に傍点]としているってことの証拠なのさ。ところでもし、自分が恐怖に駆りたてられ、気ちがいになりそうだと思ったら、やはりそのボタンを押す――三度つづけざまに、短く。そうするとすぐに扉を開けて出してくれることになってる。ただし、その箱の中からばかりでなく、養成所からも、ね。こんなのは当時わたしたちが潜りぬけなければならなかった肉体と精神と両面の耐久テストの中で、ほんの小手しらべに過ぎないので、とてもそのくらいじゃひどい[#「ひどい」に傍点]とも言えたものじゃなかった」
「でも、マックス、ブラッドも一人乗りロケットのことは考えていたのよ。だけど、どうせ多段式ロケットにしなけりゃいけないんだから、一人乗りでも二人乗りでも費用は大して変りないんだ、とあのひとは言ったわ。だから――」
「ちょっと黙っててくれ」とわたしは言った。「このとんでもない計画書を、今もうすこしよく吟味してみようとしてるところなんだから。ははあ――みつけたぞ、たわいのない冗談の根っこを、エレン。何故ブラッドは一人乗りロケットでも多段式のでなけりやいけないと考えたか、そのわけが読めたよ。あの男は、往復ずっとイーグルをかかえて飛ばせるつもりだったんだ――木星を一回りして帰ってくる飛行中ずっと!」
「なあに、イーグルって?」
「ロケット乗り仲間の略号で、イグゾースト・ギャス・リクイッド([#ここから割り注]排出ガス発生用液体[#ここで割り注終わり])の頭文字をとって、イー(E)グ(G)ル(L)というのさ。エレン、原子力ロケットは燃料を持って行く必要がない――極小型原子炉の中での消費を計算に入れなければ。そして、その消費ってのは、重量という点ではほとんど無視してもいいくらいなものなんだ。旧式の化学燃料を使うエンジンが燃料を持って行かなければならなかった理由を、ちょうどひっくり返しにした意味で。しかし原子力ロケットにも何かの液体を詰めるタンクは必要だ。原子炉が生み出したヒート・パイル([#ここから割り注]熱堆[#ここで割り注終わり])をガスに変え、それを噴出装置から噴出させてロケットを推進させるために」
「それはわかるわ。だけど、何故そのロケットが、往復ずっとイーグルをもち運ぶ必要はないっておっしゃるの? 行って、また帰ってくる無着陸飛行なのよ」
わたしはそのやくざ[#「やくざ」に傍点]な目論見《もくろみ》書を片手につかんで、床の上をぐるぐる歩き廻りながら、言った。「むろん、木星そのものに関するかぎり、往復無着陸飛行には違いない。けれども木星には十二個も衛星の月があって、そのうちどの一つにだって、着陸してまた飛び立つのは易々たることだ。重力が小さいからね。そしてその十二のうち七つには、アンモニアがしこたま[#「しこたま」に傍点]あるんだ。ただで、いくらでも」
「でも、アンモニアなんかで間に合うの?」
「一定の条件のもとで不活性な液体でさえあれば、どんな液体でも間に合う。アンモニアなら上等だ。試験の結果もちゃんと出ている。ただ一つの欠点は、常温ではそれが気体の状態にあるということだ。圧力をかけてタンクに封じこまなければ。圧力タンクは普通のタンクより目方がかかる。したがってそれをつければロケットの重量は増し、それだけ少ししか他のものが積めなくなる」
「それなら、マックス――」
「圧力タンクをとりつけるためにふえるロケットの目方は、しかし、ごく僅かなものだ。往復ずっとイーグルをかかえて飛ぶ場合にふえる重量にくらべれば、ほとんど勘定に入れなくてもいいと言ってもいいくらいだ。その差がつまり、一段ロケットと、三段ロケットの違いに相当するわけだ。費用に直すと、五千万ドルと三億ドルとの」
エレンは前に身を乗り出した。「マックス、それは大変な違いだわ。そんなに、安くあがるとすれば――それ確かなこと、あなた?」
わたしは言った。「確かめてみよう、今すぐ。明日の晩また来るよ。今日と同じ時間に」わたしは起ちあがった。
「そんなに急がないで――」
けれどもわたしは急いだ。大急ぎで帰った。計算尺をとり上げて二、三度小手慣らしの計算をしたところで、わたしは概略の設計と見積りを仕上げるのに必要な資料が自分の手もとにはそろっていないことに気がついた。クロッカーマンなら、すっかり揃えて持っている――頭の中にか、書斎にか。ばかりでなく、かれのほうがわたしより優秀だ。ことに費用の見積りにかけては。逆にわたしのほうは、そこが一番の弱点だった。
わたしはかれを電話口に呼び出し、事情を説明し、これから行くから一緒にやってくれないかと頼んだ。資料はそっちに揃っているだろうから、と。わたしはヘリコプター・ハイヤーを呼んだ。
わたしたちは徹夜で頑張った。
わたしたちは計算した。きっちり正確とまではいかないが、小数点の一桁かそこらまで。それでも、それがうまく、容易に実際に移せるということを示すには充分だった。計算してみると、わたしの見積りですら高く見積り過ぎていたことがわかった。クロッキイが割出した工費見積りは二千六百万ドル――ブラッドレーの多段式ロケットの工費の十分の一以下だった。
わたしたちは夜通し飲みつづけていたコーヒーに、朝飯と覚醒剤をおまけに加えて、なおも奮闘しつづけた。
その夜、わたしはでき上った結果をエレンのところへ持って行った。かの女は嘆賞のため息をつきながらそれを検閲した。とりわけ工費見積りとその合計を。
「クロッカーマンが一緒にやってくれたんですって?」
「わたしより、むしろあの男の仕事だよ、それは」
「優秀なんでしょ、そのかた?」
「最優秀[#「最優秀」に傍点]だ」とわたしは言った。「ロス・アラモスとホワイト・サンズの政府の研究所にいる二、三の専門家を別にすれば。もちろん、いずれその連中がこの見積書に目を通すことになるんだろう、建造にとりかかる前に。けれども、保証するよ、エレン、この中に根本的な間違いは一つもみつからないはずだ。小さな変更はあるかも知れない。安全保証のために、二、三なにかの装置をとりつけろと主張するかも知れない。が、それにしたって、どんなに多く見積ってもこれより一割以上費用がかさむってことはあり得ないし、それならやっぱり三千万ドル以下でできることになる」。
かの女はのろのろとうなずいた。「このロケットにしましょう。それでは。さあ、マックス、お祝いの乾盃をしましょう」
わたしたちは乾盃した。最初の一杯ずつは乾盃用としてストレートを注いだ。それからちびちび啜るためにハイボールにした。
エレンは考えこみながら自分のグラスの酒を啜った。
「マックス、こうなると形勢はがらりと一変だわ。いい思いつきが浮んだの。ここ二週間のうちに、わたしはワシントンへ行きます。もう元気なんだけれど、あと二週間だけは休養と計画にあてるつもりよ。それから上院に乗りこんで、いきなりわたしがやろうとしていること、何だかわかる?」
「わかるとも。予想していた十分の一の費用で済むってことがわかったから、この会期中に通過させるように、やってみるんだ。どうだ、当ったろ?」
「はずれ[#「はずれ」に傍点]よ。予算額の多少にかかわらず、今年は大統領に署名を拒否されるわ。たとえ超スピードで議会を通過させられたとしても。それに、議会を通すのも、できない相談だわ。いいえ、わたしが思いついたのは、来期の議会で、来期の議会が始まるとすぐに鉄砲玉みたいに早く通してしまえる方法よ。ワシントンに着いたらすぐ、わたしはブラッドの多段式ロケットの案にもとづいた予算案を提出するの」
「何だと?」とわたしは黄色い声を出した。「なぜ?」
「大きな声を出さないで」かの女はにっこり笑った。「そう、三億ドルのロケットの予算案を出すのよ。けれども、その検討は委員会付託として、今会期中には票決に付さない、ということにするの。つぎの議会が始まったら、それこそ第一週のうちに、わたしは委員会に出頭して、それをひっこめて別の案ととりかえる、と言ってやるの。費用の上で、もとの案のたった十分の一で済む案と。そうすれば、マックス、疑いなしよ――たった一月の間に両院を通過して大統領の署名が貰えるわ!」
わたしは言った。「議員さん、わたしは心からあんたに惚れこんだよ」
かの女は声をたてて笑った。「あなたが惚れこんでるのは、ロケットよ。ロケットと木星よ」
「それから星という星にはみんな。けれども、あんたにも、だ。エレン・ギャラハー上院議員にも、だよ」
とたんにわたしは自分がまさに本当のことを言ったのだと気がついた。
わたしはエレンを愛していた。かの女がロケットの後押しをしているからではなく、かの女が女であるが故に。
わたしは行って長椅子に腰かけたかの女の傍に坐り、腕を相手の体に廻して抱き寄せてキスした。それからもう一度、こんどはエレンの腕が上ってきてわたしを抱き、わたしを強く自分のほうへ引きつけた。
「おばかさん」とかの女は言った。「ほかのことは何でも超スピードのくせして、これだけは、どうしてこんなに長く暇どったの?」
*
ここで二週間ほど勉強から遠ざかることは、長い目でみれば、害よりも益になるほうが大きいだろう、とわたしは判断した。勉強は予定よりかなり先に進んでいて、わたしは充分の時間の余裕をもって目的の学位をとれる自信があった。ここらでちょっと一休みすれば、倦怠防止の役にたつだろう。
で、その二週間というもの、晩はたいていエレンと一緒に過した。二、三度は夜じゅうずっと。けれども、そのことは秘密にしておいた。妙な噂が立っては、エレンのためにならないだろうから。
もちろん結婚など、もってのほかだった。他には何の理由もなくても、それだけでわたしを木星への飛行計画から閉め出すのに充分だろう。一九九〇年代に入って以来、縁故びいきという言葉は政界の禁句となった。昔の議員連中は、よく自分の縁故者を公的な地位につけて、政府の予算を食い荒したものだが、たとえ秘書か何かのごく低い地位にしても、そういうやり方はもはや通用しなくなった。
エレンが主唱する木星行きロケットの計画に、エレンの夫が主だった当事者として名を連ねるなど、到底あり得ないことにきまっていた。
クロッカーマンはわたしとエレンの仲を察していたけれども、その頃にはもうかれまでひっくるめて一つ家の家族のようなものだった。わたしたちは、何故わたしがかれの下で、人の上に立つような仕事につこうとして運動したのか、そのわけをうち明け、それに対してかれはいよいよ計画実行の当事者の人選が始まりそうなったら、必要な期間だけ――場合によっては半年だって自分が暇をとって、その間わたしを空港長代理に任命して一切を任せるようにはからってくれる、と約束してくれた。そうでなくても、いつか休暇をとって行きたいところへ行き、見たいものを見、やりたいことをしようと思って長いことそうできずにいたのだから、とかれは言った。
もと宇宙ロケット乗りの老いぼれにとって、人生はにわかに楽しいものになった。考えるだけでもうんざり[#「うんざり」に傍点]するほど長い過去にかつてなかったほどわたしは幸せだった。
*
四月の第三週に、エレンはワシントンに行った。すくなくとも一カ月、もしかすると二カ月、現在の議会の会期がどれだけ長びくかによって差はあるけれども、とにかくその間エレンとは会えないわけだ。
わたしは、おそろしくやるせなかった。まったく、女ってものは、あっという間に自分を相手の男にとって、なくてはならないものにしてしまう。そんなことになろうとは、もう幾年も久しくついぞ考えたことがなかった。それがたった二週間エレンの傍にくっ付いていただけで、その後そうしてかの女が行ってしまうと、まるで日々のわたしの生活にはぽっかり大きな穴があいてしまったようだった。またすぐ帰ってくるにきまっているにもかかわらず。
わたしはあらためて勉強にたちむかった。しばらくそれから離れていたおかげで、わたしの思考力は冴え、休息の効験はあらたかだった。それから二週間で、わたしはその前からかかっていた二つの学科を復習し終り、難なく単位試験にパスした。それからいよいよ最後の二つの苦手の科目だ。わたしは、カルテック大学から超高熱冶金学にうんとくわしい男をみつけてきて、その男に毎週四晩個人教授を受けるこにして、はじめた。残りのうち二晩は自習。一晩だけ――たいていは日曜日の晩だが、クロッキイの家に行ってチェス([#ここから割り注]西洋将棋[#ここで割り注終わり])をしたり、すこしビールを飲んだり、雑談をしたりして過した。
勉強にあてた夜は、はじめから一人でか、あるいは教師が帰ってしまった後なお、目が疲れて字がぼやけて読めなくなるまで、学習書を読みに読んだ。それからようやく読むのをやめて、視界のきく晴れた夜であれば、屋上に出て、買ってきてそこに据えつけてある望遠鏡を通してはるか遠方の光をながめて目を休めた。
木星は衝([#ここから割り注]太陽と正反対の位置[#ここで割り注終わり])にちかづき、その星としては地球に最も近い距離に寄って来かかっていた。あと二、三週間のうちに、それはたった[#「たった」に傍点]の四億マイルのところに近づくはずで、今だってそれよりさほど遠くはないわけだった。太陽系中の巨人――木星。地球の十一倍の直径をもち、三百倍の体積を持つ巨星。おなじ太陽系に属する他の星をすっかり寄せ集めても、その半分にさえ満たないのだ。
十二個の月をしたがえた木星。そのうち四つは、わたしの望遠鏡でも見えた。他のはみんな小さくて、さし渡し百マイルかそれ以下しかない。それをみつけるには、大きな望遠鏡がいる。
しかし四個だけは見えた。いずれも地球の月と同じくらいか、それよりも大きい、一六一〇年にガリレオが手製の粗末な望遠鏡で発見した四個の月だ。
四つの月――冷たいけれども愛らしい、いまだかつて人間が到達したことはないけれども、やがて人間が到達して足跡を印そうとしている四つの月。間もなく、だ。もうじきに、だ。
イオ。オイローパ。ガニメード。カリスト。
わたしはどれに着陸しようか? それとも、どれにも着陸できずに一生を終ってしまうのだろうか? マックス――とわたしは自分に呼びかけた。この馬鹿野郎の甘ちゃんの夢想家め、いまだにチャンスは、千に一つきりありゃしないんだぞ。ロケットは飛び立って行こうとしている。そりゃ、そうだ。やがてそのロケットの建造がはじまり、お前はその建造の監督をすることになるだろう。だがな、マックス、おめでたい男め、そいつを盗み出せる確率は? なにしろ、政府の仕事だぜ。番人もいる。幾百人という作業員たちの目もある。ああ、もちろん、必要な手筈の幾分かをととのえることくらいはできるだろうよ。所定の出発時刻の二十四時間前に、燃料を詰めこみ、積み荷を終えるくらいことはできるだろう。予め燃料補給用の人工衛星ロケットを射ち上げておくこともできるだろう――何かの理由をつけて。ああ、口実ぐらい何とでもつけられるだろうさ。そしていよいよという時には、何とか細工して計画の最高長官が現場に居合わせられないように仕組んで、お前がお山の大将になって勝手な采配を振ることもできよう。けれども、それでもうまくいかない時はうまくいかないものだ。無数の要素が絡み合って、うまくいかない時には……。
チャンスは依然として千に一つ。だが、賭けるだけの値うちはある。なにしろ火星までの距離の八倍を行く――これまでに人類が行ったことのあるところまでの距離の十倍も遠くに出て行くチャンスだ。
ほんのすこし星に近く――いつの日にかきっと人類が到達しようとしている遠い遠い星、わたしたちを待ち受けている億兆の星に、ほんのちょっぴりではあるが近づくチャンスだ。
*
エレンは七月のなかばに戻ってきた。
もちろん、わたしたちは、久方ぶりの再会の歓びを味わった。かの女が帰ってきたその夜に。けれどもそれからまた一週間は会わなかった。折からわたしの冶金学の試験準備完了にあと一歩というところだったので、それを片づけてしまうまで辛抱して会わないことにしよう、と約束したのだ。それはわたしに燈火親しむべき二重の刺戟をあたえ、事実わたしは大いに燈火に親しんで励んだ。その週は視界も不良で、屋上に出たい誘惑にも駆られず、一夜をクロッキイと過す日頃の習慣も棚上げにした。
お蔭でエレンが帰った日から数えてちょうど七日後、わたしはかの女に最後から二つ目の試験に合格し、いよいよ残るはただ一科目となったことを電話で知らせることができた。
「なんてすばらしいこと、あなた」とかの女は言った。
「だったら、あなた、なにもすぐにつぎの勉強にかからなくたっていいんでしょ? ね? ずっと予定を追越してるんですから」
「まさにその通り。それにもう一つ耳よりなニュースがある んだ。というのはクロッキイが維持管理部長としてのわたしの勤めぶりに、満足だというだけでは足りないほどだ、と言うんだよ。それで、わたしが学位をとったら、それを機会に副空港長に昇格させてやる、と言うんだ。そうなればわたしも、いよいよの時に空港長代理として全部を任される前に、仕事のだいたいについて幾月か経験を積んでおくことができることになる」
「マックス、本当に何もかもうまく行ってるのね。ワシントンのほうと同じように。今夜お祝いに来る?」
「何か新しいことを聞かしてくれるのかい?」
「そう露骨に本音を吐くものじゃないわ、あなた。シャンパンがあるのよ。それだけじゃ不足?」
「不足じゃない。が、ただ、こっちにはもっといい考えがあるんだ。今なら、一週間かそこら休暇をとろうと思えばとれるんだよ。そっちの予定は?」
「そうね……幾つか面会の約束があるわ。それにテレビの出演が一つと、会合が一つか二つと――」
「そんな約束、みんな取消しちまえないか? どうだい、一週間メキシコ・シティーに行って暮すのは? 今から出かければ、夕食に間に合うように向うに着けるよ」
一週間、わたしたちはメキシコ・シティーに行って暮した。
すばらしい一週間、同時にまた静穏な休らいの一週間だった。二人とも日頃の疲れが出て、よく眠った。毎日、昼どきまで、時にはもっと遅くまで眠った。晩には景色を見物したりナイト・クラブめぐりをしたりした。ただし決して時計の短針が一とか二とか、小さな数字をさす時刻まで遊びに溺れたりすることはなかった。むろんエレンは、ホテルの部屋から外に出る時には必ず人工皮膚マスクをつけて変装した。昼間の外光でもほとんどそれとわからない、最新式のやつだ。一種の有名税――というところだろうか。
その週、わたしはエレン・ギャラハー上院議員という一個の人間のありのままの姿を知らされた。本人が、自分の身の上に起った重要なことはほとんどすべて包み隠しなく、洗いざらい話して聞かせてくれたのだ。
エレンの生いたちは、かなり不遇だった。生れた時の姓名はエレン・グラバウといったが、その姓を授けてくれた父親の顔を、かの女は、一度も見たことがない。かれは一九五二年、当時わたしたち米国人がまきこまれていた朝鮮の戦乱で、エレンが生れる二、三週間前に戦死してしまった。二年後に、母親も死んだ。残されたエレンを父方の祖父母がひきとって育てようとしたけれども、保姆や乳母を傭うには貧しすぎ、かといって自分たちの手で育てるには、片方は年寄りすぎ、片方は病身がちで、それもかなわず、結局、孤児院に入れるより仕方がなかった。
そうしてかの女はいわゆるみにくいアヒルの子の境涯に落ちた。皮膚の弱い、風邪にかかり易い、病気がちの可愛げのない子供だった。おまけに、本人が、告白したところによると、自分自身に対する不満と、自分で感じている欠点を隠そうとして示す過度に粗暴なふるまいのために、ひどく手に負えない憎たらしい子供だという印象を周囲にあたえた。三歳から八歳になるまでの間に三度、場合によっては養子にしようと申し出た養家先へ試験的にひきとられて行ったが、三度とも試験期間が終ると同時にか、あるいはまだ終らないうちに、孤児院に送り戻された。
十歳の時に四回目の養子の口がかかったけれども、その時には養父母になろうという夫婦の面前で、ことさらにあらわしてみせた癇癪の発作に相手が恐れをなして、話はその場でたち消えになってしまった。十五歳になるまで、孤児院にいた。それから勤めに出るという名目で解放された――いわば仮釈放のかたちで。というのは、成年に達するまで孤児院ではないがガールズ・クラブというやはり一種の保護機関で寝起きし、また高校卒業の資格をとるまで夜学につづけて通うという条件で出してもらったのだ。勤め先はある百貨店の買上げ品発送部で、最初の給料をもらうまで二週間かの女はそこに我慢していた。これまで、すべてはカンザス州ウィチタであったことだ。
ウィチタという土地にはほとほと厭気がさしていたし、孤児院から出してもらうについての条件もいまいましくてたまらなかったエレンは、生れて初めて自分で稼いだ金を手にすると、孤児院との約束なんぞ糞くらえと蹴とばし、ハリウッド行きのバスに乗った。かの女は演劇というものに憧れ、当時ようやく隆昌期にさしかかっていたテレビの世界で名をなしたいと熱望していたのだ。(二つ目の宇宙ステーションができたのはこの年だった。それはテレビ放送専用の人工衛星で、カンザス州にいたかの女の頭の真上の空にむかってまっすぐに射ち上げられた)かの女は十五歳になってもやっぱり不器量な娘で、そのことは自分でも自覚していたが、そのかわり自分には偉大な演技の才能があり、性格的な役や憎まれっ子の役をやりこなすことができる、またひょっしたら喜劇俳優の素質もあるのではなかろうか、とうぬぼれていた。
自分にどことなく風変わりなところがあるとか、風変わりに見せかけるこができるとか考えていたのは、たぶん、それで思春期の自分の不器量をカバーしようとする自己防衛本能のあらわれだったのだろう、とかの女は言った。自分の顔や姿を鏡に映して惚れ惚れと眺める世の常の娘とちがって、鏡にむかってエレンはもっぱら渋《しか》め面をつくる稽古をしたものだった。
*
「休憩」とわたしは言った。
わたしは起ちあがって、二杯のグラスに飲みものをつくり、それを持って寝台にもどった。エレンは枕を頭のさきの衝立《ついたて》に立てかけるようにして、わたしたちはそれに背をよりかからせた。それから酒を啜った。
「退屈したんじゃない、わたしの話なんか?」とかの女はきいた。
「今までわたしはあんたの話に退屈したことはないし、これからだって、きっと――」とわたしは言った。「さあ、続けてくれ」
*
エレンは続けた。かの女はそうしてカリフォルニアへ出かけた。テレビ界で一朝にして成功をおさめる夢を抱いて。
けれどもハリウッドでウエイトレスをしながら働いた二年間は、せっかくの才能を示す機会はついに自分を訪れないのだ、とかの女に確信させるにいたった。事実はそれから二度かの女にもテストの機会が訪れたのだが、結局二度とも役をもらえなかったばかりか、慰めや励ましの言葉の一つにもありつけず、そこでかの女はテレビ俳優よりほかにもっと自分一に向いた何かをみつけにかかったほうがよさそうだと観念した。
そのほかの何か[#「ほかの何か」に傍点]は、どうやら、かの女より一つ年上で、レイ・コンナーという名の青年だったらしく、かれはかの女に結婚を申込んだ。十八歳のその青年もまたかの女と同じ孤児の身の上――といっても当時ようやく孤児になりたてのほやほやで、亡くなった両親から多少の遺産らしきものを受けついでいた。かれは法律家に、そしてやがては政治家になる志望を抱いていて、折しも法科大学に入学して、希望のコースのスタートを切ったばかりのところだった。やがて結婚すると、新郎は新婦にむかって、おまえも大学に入って一緒に勉強しないかとすすめ、そこで初めて相手が実は高校の修業年限にまだあと一年半というところで学校をやめてしまったのだということを知って、いささかたじろいだ様子だった。その頃エレンはようやく自分の教育の不足を痛切に自覚しはじめていたので、そう言われるとすぐにかの女は夫に助けてもらいながら家庭で高校の学業課程を自習して、独学で大学の入学試験に合格できる学力をつけようと心をきめた。
そうして始めてみると、おどろいたことに勉強が面白くてたまらず、やがてかの女は自分が今や勉強しなければならないからではなく、勉強したいからしているのだという状態におかれていることに気がついた。かの女は独学を始めてから半年で大学の入学試験にパスした。ウィチタにいて夜学に通いつづけたとして、高校を卒業するには、なおそれより長くかかったはずだ。かの女はたった一学期だけ夫より遅れて大学に入学し、夫と同じく法律を専攻することにした。かの女は夫の関心の傾向に同化して、その学問に興味をもつようになり、シェークスピア劇『ヴェニスの商人』の立役者で名判官のポーシャ姫に、さらには女流政治家にさえ自分をなぞらえて考えるようになった。それは一九六〇年代の初頭、女性がいよいよ活発に政治に参加するようになってきた時期にあたっていた。
それからエレンは、一学期さきに進んでいた夫に追いついて、一九七五年に二人は一緒に卒業した。かの女は二十三歳、かれは二十四歳だった。時に世間は大不況のどん底にあって、経験のない若い法律家には、勤め口も仕事の依頼もなかった。もっと年がいった連中でさえ、精神病医以外どんな職業についても変わり栄えがしなかったが、ほかに仕方がないのでやむをえず従来の職にかじりついているといった状態だった。夫婦のうち、さきに仕事にありついたのはエレンだった。というのは、かの女には、もとウエイトレスの経験があり、またウエイトレスという職種には、不況の最中でさえ他にくらべて補充交替がはげしかったからだ。レイのほうは、三カ月も百方奔走したあげく、やっとのことで初めて仕事口をつかまえた。建築工事現場の人夫だった。働きはじめてから三日目に、かれは四階の梁《はり》から落ちて死んだ。
*
「エレン、その男を愛していたのかね?」と、わたしはきいた。
「ええ、その頃までには、とても。はじめ結婚したのは、おもに実際的な動機からだったのかも知れなくて、愛情と言われると自信がないんだけれど、それから五年経つ間に心からあのひとを愛するようになっていました」
「そういうふうに、愛した相手の男は大勢あるのかい、エレン?」
「四人。四人きり。あなたのほかに三人」
*
二人目がラルフ・ギャラハーだった。
レイが亡くなって四年後、ギャラハー・レイヨール・アンド・ウィルコックス会社に法律書記として勤務する間に、かの女はかれを知るようになった。かれはかの女より年上だったが、ひどく年が開きすぎるというほどではなかった。かの女の二十七歳に対して四十二歳。かれはすでに政界にかなり名を売り、順調に大物になるコースの途上にあった。一度結婚したことがあったけれども、数年前に離婚して以来独身だった。
エレンはかれを尊敬し、敬愛の心をもって、かれを仰ぎ見た。かの女がそこで働くようになって幾月か経って、かれがかの女に気をとめ、親しい態度をみせるようになった時、かの女は嬉しく思った。かれがかの女を、外へ食事やお茶に誘い、かれが二号ではなく正式の妻をさがしているのだということ、またかの女こそその地位にふさわしい女性だとかれが思っていることを聞かされた時、かの女はいっそう嬉しく思った。
かの女はかれと結婚した。以後かれが死ぬまで共に送った十年間に、かの女は自分の野心をすっかりかれのそれに同化させた。かの女は最善をつくしてかれの妻たることに専念した。どうしたらかれを楽しませることができるかを完全に会得《えとく》した。かの女は政治というものを、ことにその実際的な面をよく理解し、その理解を、かれを助けるために役立てた。かれはロサンジェルス市長となり、次期カリフォルニア州知事選挙にはほとんど当選確実の最有力候補となった。
けれども知事選挙より心臓冠状動脈血栓のほうが一足さきにやってきた。
エレンにとっては二度目の大打撃だった。かの女はふたたびふり出し[#「ふり出し」に傍点]に戻った。ぺしゃんこに打ちのめされて。かれが政治的にどんな状態にあるかということはよく知っていたけれども、財政的にどんな状況にあるかについて、かの女はほとんど注意を向けていなかった。そしてかれは、向うみずに自分の財産のすべてを一つの籠に――政治という底ぬけの籠につめこんでいたのだった。遺産整理がすっかり片づいてみると、それまで二人が住んでいた家屋敷だけがわずかに残された財産だった。
エレンは法律を学んだが、独立して実際にそれを職業に活用したことはなかった。三十七歳になってからでは、それを始めるには遅すぎる。けれどもかの女は政治のかけひきというものを知り、またカリフォルニア州ことにロサンジェルスの人々に敬意をもって迎えられる姓を二人目の夫から受けついでいた。
かの女は市会議員に立候補して当選し、二年後の二度目の選挙には前回より票を加えて当選し、市会議長に推された。つづいて州下院の議員に二回当選。それから党の長老たちから、任期中に死んだ男の未了の上院の任期を埋める特別選挙に立候補するように説きつけられた。
*
「そしてみごとに惨敗するところだったわ、マックス、あなたが帽子の中から兎をとり出す手品をやってくれなかったら」
「帽子じゃない、あんたの政敵のオフィスの中からだろう? それはそうと、愛人第三号の話をまだ聞いていないぞ。ブラッドレーかね、そいつは?」
「そう、ブラッドよ。一年くらいつづいたかしら、二年ほど前に。そこで一応うち切りになったのよ、何ということなく両方からそうしようと言い出して、口喧嘩ひとつせずに。だから、どっちもそれほど本気じゃなかったんじゃないかと思うわ」
「しかし、その後にあの男は木星行きロケットの計画をもち込んだんだろう? それとも、もっと前からの話だったのかい?」
「両方よ。前にもそのことを話したことはあったわ――わたしたちが愛し合っていたか、それともそう思い込んでいた時分に。でも、その頃は要するにそれこそただの話だったの。わたしが上院議員に立候補するってことを聞きつけると、こんどはちゃんとした計画――目論見書を持ってやってきて、当選したらそれを議案として議会を通せないか、やってみてくれって頼むのよ。わたしはうん[#「うん」に傍点]と言ったわ。まさか選挙前に新聞記者たちに喋るなんて政治的なミスをするとは夢にも思わずに。もしそれがわかっていたら、わたしは決してうん[#「うん」に傍点]と言わなかったでしょう」
わたしは言った。「そりゃ違うだろう。うん[#「うん」に傍点]とは答えるけれども、当選するまでは、お喋りするなって念を押しただろう、というのじゃないかね? それともあんたは、計画そのものにはそれほど熱がなかったのだ、というつもりかい? つまりブラッドレーにうん[#「うん」に傍点]と言ったのは、あの男に対する友情だけからだったのだという――?」
「そうね、そういうところも幾分なきにしもあらずだわ。そりゃもう、木星へ行くロケットって思いつきは本当に気に入ってよ。わたしが生きてる間に、また一歩、人間が宇宙の外に踏み出すのを是非見とどけたいと思っていたわ。けど、それが本当に[#「本当に」に傍点]わたしにとってかけがえがないほど大事なことなのかってことになると、そうではなくて、もちろんそれに自分の政治的生命を賭ける気はなかったわ。でも、マックス、いつからわたしがロケットのことを、それこそ本気で考えるようになったか、知りたい? あなたに初めてお会いした晩よ。あなたの目の色、あなたの喋り方、あなたのものの考え方のおかげよ。きっとあの晩、あなたから“星屑”をすこし擦《こす》りつけられたのね。気がついてみると、いつの間にかわたしはロケットの法案を、ほかの議員と取引きして議会を通過させるって思いつきを、夢中で喋ってるの。まるでそれが世界中で、一番大事な法案だと思いこんでるみたいに――そして、不意に、実際そうなってしまったのよ」
「で、その晩にもう、その後わたしたちの間がどうなるかってこともわかったというのかい」
「もちろん。ほとんどあなたが部屋に入ってきたと同時に」
わたしはいかにも合点がいかないようにいやいや[#「いやいや」に傍点]をした。「飲みものを一杯、どうだね?」と、わたしはかの女にきいた。
欲しい、とかの女は言った。わたしは起きて、一杯ずつこしらえた。
寝台に戻り、両手にかかえたグラスの飲みものを啜りながら、わたしたちはもうしばらく話した。
「マックス、人間は本当に星まで行けると思う――幾光年もさきの星まで? 一光年だって、おそろしいほどの距離じゃないの」
「ああ。恐ろしがらされる隙をあたえれば、な」
「一番近いのまではどれくらい? 聞いたことがあるんだけど、忘れちまったわ」
「プロクシマ・ケンタウリ([#ここから割り注]人馬座の中心星[#ここで割り注終わり])まで、だいた四光年というのが一番近いことになってる。逆に、一番遠い星まではどれくらいあるかってことになると、まだわかっていない。というのは、銀河系は望遠鏡で見えるかぎり幾十億光年のさきの、もっと先までつづいているからだ。もしかすると宇宙には極限があるって、相対論者たちの説は間違いで、どこまでも限りなくつづいているのかも知れない。たぶん無限大ということはただの観念でなく現実にあるのだろう」
「それから、永久というものも?」
「話がいよいよ急所に触れたな。そうだ、宇宙の年齢を二十億年とか、四十億年とかに限るなんて――ばからしい。おまえ、ある時ふいに誰かが時計のネジを捲いて動かさせ始めたんで、その時以前には時なんてものは全然なかったんだ、なんて信じられるかい? 時ってものは、始まらせることもできなけりゃ、終らせることもできゃしないんだ、畜生! もし、おれたちが住んでるこの特定の宇宙に有限の年齢ってものがあって、永久な存在ではなく、おれたちにはまだ埋解できない何かの過程を経て絶えず更新しているのだとしたら、それならこの宇宙の前に別の宇宙があったんだ。永久というのはつまり宇宙の無限の自己発展――過去には無数の宇宙があったし、将来にも無数の宇宙があり得るってことをいうんだ。
もしかすると、エレン、幾億年も幾兆年も前に一つの宇宙があって、その中で二人の人間がちょうど今のわたしたちと同じように互いに寄り添って寝台に坐って、ひょっとすると名前まで同じで、同じ飲みものを啜り、同じことを喋ってたなんてことがあるかも知れないぞ――ただ、互いに異なる宇宙だから、パジャマの色ぐらいは違ってたかも知れないけれども」
エレンは声をたてて笑った。「けど、三十分前には、その二人もわたしたちもパジャマなんか着ていなかったから、ぜんぜん見わけがつかなかったかも知れないわね。でも、マックス、時と永遠の問題は別にして、あなたは相対論者たちが言う、宇宙の大きさは有限であって、空間は彎曲して同じところに回帰するってことを、本当に間違いだと断言できる確信があって? 有限だとはいうものの、とても大きいってことは相対論者たちだって認めてるんでしょう?」
わたしは飲みものを一口すすった。わたしは言った。
「どうか間違いであってくれ、と祈るよ。さもなきゃ、どんなに大きいものとみとめようが、とにかく有限だとすれば一番遠い星ってものがあることになり、そんなものがあるなんて、わたしは絶対に思いたくないんだ。だって、そこまで行っちまったら、あとどこへ行きゃいいんだ?」
「だけど、空間というものが彎曲回帰するのだとしたら、一番遠い星すなわち一番近い星ってことになんじゃなくて?」
わたしは言った。「そいつだ。一番おそろしい考えは。そのことを考えると、おれはめまい[#「めまい」に傍点]をしそうになる。そんな考えはとても受けつけられないし、ほじくってみるのも厭だ。せいぜい有限の宇宙ってとこで勘弁しといてくれ。その場合にも、もしこの[#「この」に傍点]宇宙が有限だとしても、それと同じ宇宙は無数にある――つまり無限数の有限って条件つきだ。ちょうど水と一滴の雫《しずく》の関係のように。もしかすると、わたしたちは一滴の水の雫《しずく》の中に住む極微動物みたいなものかも知れない。その雫《しずく》は他の雫《しずく》から離れてしたたり落ちたので、その一滴の雫《しずく》が一つの宇宙そのものなんだ。極微動物が、自分の住む水滴のほかにもたくさんの水滴があるんじゃないか、なんて考えることがあると思うかい?」
「――かも知れないわ。ちょうどあなたみたいに。でも、マックス、わたしたちがかりに極微動物だとして、そのわたしたちが住んでる水滴が顕微鏡のスライドの上に置かれて、たった今誰か[#「誰か」に傍点]がその顕微鏡のレンズを通してわたしたちを観察してるとしたら、どうするの?」
「勝手に見させておくさ」とわたしは言った。「――よけいなちょっかいを出さないで、ただ見てるだけなら。もし余計なことをするなら、ぶん撲って、のしてやる」
*
わたしはロサンジェルスに舞い戻った。ロケット空港の維持管理部のオフィスに、また試験勉強に。
こんどはそれほど日課を厳しくしなくてもよかった。学位はもうつい鼻の先で、あと一つの単位だけをとればいいのだから。おまけにエレンが、勉強ばかりして遊ばずにいると味もそっけもない男になってしまうだろう、とおどかすのだ。わたしは、味もそっけもない男にはなりたくない。勉強は一週間に四日ときめた。二日は独習、二日は教師について。週に二晩はエレンか、クロッキイか、あるいはその二人とともに過すこととし、残りの一晩はただ読みたいものを読んで休む。ふつうエレンと付合う夜は、かの女のアパートで静かに過したが、時には連れ立ってショウや音楽会にも出かけた。時々一緒にいるところを見られるくらいのことは構わない。ゴシップ気ちがいの記者や解説者がやたらに出入りする場所を避けさえすれば。印刷物やテレビのスクリーンを通して二人の名前を並べて宣伝されることは好ましくない。例え二人の間にロマンスの花が咲いているらしいと匂わされるだけでも、いざエレンがわたしをロケットの計画の当事者に仲間入りさせるために運動する時、さしさわりになるに違いない。
七月、八月。そして九月。
わたしにはまた新しい友達が一人できかけていた。わたしに統一場の理論を教えてくれる男だ。その男は、めったにない名前で、チャン・エムバッシというのだ。けれども、その名前より本人の人物のほうがもっとずっと変っている。
チャン・エムバッシは、一九六〇年代の末まで赤道アフリカ東部に住んでいたマサイ族という部族の最後の生残りだ。すくなくとも、そう信じられている。今日すでにその種族は現地に行っても見ることはできない。エムバッシのほか、残らず死んでしまったのだ。
すくなくとも、その部族の生残りとして、信ずるにたる他の例は報告されていない。マサイ族は、あらゆるアフリカ人種の部族の中で最も華やかで、最も猛々しく、最も勇敢な戦士だったといってよかろう。背が高く、平均の身長はゆう[#「ゆう」に傍点]に六フィート以上もあった。得意のスポーツは、槍でするライオン狩りで、若者たちはめいめい自分の手でライオンを仕止めないうちは、一人前の男としてみとめられなかった。他の獣は狩らず、肉もめったに食べない。戦士であると同時に遊牧民でもあったのだ。かれらは牛の大群を養い、牛の乳と血を混ぜたものを主食として、他のものはほとんど食べなかった。その食物こそ、もしわたしの覚えに間違いがないとすれば一九六九年に、赤道アフリカ地方を襲って二、三週間の間に千五、六百万人を殺した不慮の大疫病の際、マサイ族絶滅の原因となったのであった。その疫病は、その地方のツェツェ蠅を根こそぎみな殺しにしようとする最初の大がかりな試みがおこなわれた翌年に襲来した。その試みはほとんど成功したといってよかったが、完全ではなかった。一部は生残って、その時もちいられたワンダーサイドという最新の殺虫薬に対して、抗性をつくりあげた。
翌年、ツェツェ蠅は、数だけはうんと少なくなったかわりに、それまで知られていなかった新しい種類のヴィールス([#ここで割り注終わり]濾過性病原体[#ここで割り注終わり])を体内にかかえて襲来し、それを家畜に伝染させ、その結果ふしぎな三つのあらわれ方をする疫病《えきびょう》が発生した。それに感染しても家畜は全然病気の症状をあらわさず、またツェツェ蠅から直接にうつされたのでは人間も病気にはならなかった。けれども感染した牛の乳と血液の中でヴィールスは変性をとげ、それは人間に致命的に作用した。感染した牛の肉を食い、血を啜り、あるいは乳を飲むと、間違いなく疫病におかされる。数時間以内に嘔吐がはじまり、一日以内に身動きができなくなり、三、四日以内に死ぬ。
ツェツェ蠅が繁殖地から群をなして飛来して一週間たらず――疫病が発生した時、マサイ族はそれを避ける暇もなかった。誰もかも全員ほとんど同時に感染してしまったのだ。エムバッシという名の少年以外の全員が、防疫《ぼうえき》医たちが助けにやってくる前すでに病気におかされていて、効果的な治療法が発見される前すでにエムバッシ以外のマサイ族の全員が死亡してしまった。防疫《ぼうえき》医たちはすみやかに病原体とその由来をつきとめ、牛肉と牛乳を飲食するなとふれ[#「ふれ」に傍点]を出した。このふれ[#「ふれ」に傍点]と、それから一週間以内に防疫《ぼうえき》医たちが発見したききめある治療法のおかげで、マサイ族以外の部族はいずれも同族全員の半数以上を失うことはなくて済んだ。同じく遊牧を主とする部族でも、マサイ族以外の部族が飼う家畜は、マサイ族のほど急速にまた徹底的にやられずに済んだのだった。
エムバッシが死なずに済んだのは、偶然というか神の摂理によるというか、それはめいめい見る人の見方に任せる。医師で仏教伝道者のチャン・ウォ・シンという名の中国人が、その事件の直前に、マサイ族の住む地方にやって来ていたのだ。その後ずっと伝道しつづけていたとしても、マサイ族を改宗させるのはひどく難かしかっただろうと思う。というのは、仏教の中でもかれが信奉する教派では、絶対菜食主義とともに動物を殺さないことが、厳格な戒律としてきめられていたからだ。この男がもってきたこの哲学は、マサイ族にとって――いや、これも見る人の見方にまかせよう。つまりマサイ族にとって、野菜しか食べてはいけないということと、熱愛するライオン狩りをやめることと、どちらのほうが他にくらべていっそうとんでもない[#「とんでもない」に傍点]ことであったか、それは見る人の見方にまかせる。マサイ族を改宗させるよりは、ライオンを菜食主義者にしようとするほうが、まだ成功する見込みがあったろう。
けれども極めて根られた意味で、チャン・ウォ・シンは全マサイ族を改宗させることに事実成功したのだ。つまり、かれはエムバッシを仏教徒に改宗させ、そのエムバッシは今日世界中に生残っているマサイ族の一人であり同時に全員なのだから。
その時エムバッシは十一歳で、チャン博士がやってきて腰を落着けたマサイ族に属する一部落の酋長の息子だった。ちょうど博士がその部落に到着した日、エムバッシは部落から半マイルほどはずれたところで、ライオンにひどく引掻かれた。かれはひどい出血のために、生きているというよりほとんど死んでいるといったほうがいい、意識不明の状態で運ばれてきた。かれの父親の酋長は、どうせ死ぬにきまっている息子を、中国人医者が手当してみようというのを、強いて止めだてしようとはしなかった。
チャン博士の治療は成功した。けれども負傷して数日後のエムバッシは、依然として重症の怪我人であることに変わりなく、そのことが結局かえってかれの命を救ったのだ。かれは喉をひどく傷つけられ、猛獣の爪はわずかに頸静脈をそれて、栄養は静脈注射で補給され、その注射剤は純粋な植物質を溶解したものだった。
その部落と、またマサイ族のあらゆる部落という部落の他のエムバッシの同胞たちは、病魔にとらえられてばたばた死にはじめた。チャン博士は防疫《ぼうえき》医たちがやってくる前すでに病因のすくなくとも一部には察しがつき、何とかして病人を救ってやろうとしたけれども、以前には全然ぶつかったことがない病気で、それにかれは専門の細菌学者ではなかった。牛からとった食物をとるな、とマサイ族の人々をいましめた博士の警告は、まさしく当をえた処置だったけれども、時すでに遅かった。もっとも、たとえ時間的に間に合っていたとしても、そんな警告は、無視されてしまっていたにちがいない。患者の多くは早くも食物を食べるどころではない弱り方で、ただ一人ひどい怪我をした少年のほか、マサイ族の全員がすでに病毒に感染して倒れていた。医療救助隊がかけつけてみると、チャン博士はとある部落で、累々たる屍と瀕死の病人に囲まれて途方にくれていた。
けれどもエムバッシは命をとりとめた。かれ以外の最後のマサイが死に、その屍《しかばね》を埋葬し、他の医師たちがほかの場所でまだ生きている原地人たちを救いに移動して行ってしまって後、博士はなお二週間、エムバッシが起きて歩けるようになるまで、その少年とともに部落にとどまっていた。それからナイロビまで行ってエムバッシを一カ月そこの病院に入院させ、それから二人いっしょに鉄道でモンバサへ、そこから海路中国へ向った。
本国へ帰って後、チャン博士は医師として大いに栄えた。かれはエムバッシを実の子同然に可愛がり、のちは海外に遊学までさせた。ロンドンへ、チベットへ、そしてアメリカのマサチューセッツ工科大学へ。
*
エムバッシってのは、こんな男だ。――身のたけ六フィート五インチで、すらりとした体つき。皮膚の色はぬばたまの夜のように黒い。年の頃は四十前後。たださえ獰猛なアフリカ人種特有の容貌が、もつれた頭髪から顔の縦いっぱい、奇蹟的に両眼を避けて深く刻まれたライオンの爪のあとのためにいっそう獰猛に見える顔に、静かな、瞑想にふけるような目が据わっている。柔らかい優しい声は、どこの国語を喋っても甘い音楽のように聞えさせる。仏教徒で、神秘的な数学者で、すばらしい男だ。
エムバッシをわたしに紹介したのはエレンだ。かの女はブラッドを介してかれと知合い、幾月か前、わたしが個人教授を受けなければならない課目の一つは統一場の理論というやつだと何かのついでに口に出した時、それじゃこの男はどうだろう、と勧めてくれたのだ。養父から継いだ姓を中国流に姓名の頭のほうにつけてチャン・エムバッシと名乗るその男は、南カリフォルニア大学の高等数学の講師だという触れこみだった。
「けど、あなた――」とエレンはわたしに言った。
「たかが講師だろうって、みくびっちゃだめよ。教授になろうと思えば、いつだってなれるんですって。ただそうすると責任が重くなるのと、そればかりにあまり時間をとられるのが厭だから、教授にならないのよ。講師の身分でいるのは、それなら講義にあまり時間をとられないし、それだけたくさんの時間を自分の研究に注ぎこめるからなの」
「――それなら」とわたしは言った。「わたしを教えてくれようなんて気をおこすはずがなかろうじゃないか?」
「かも知れないわ、マックス。お金のことだけだったら、決して引受けないでしょう。でも、最初まず知合いになって、お二人のうま[#「うま」に傍点]が合えば――」
二人はうま[#「うま」に傍点]が合った。
何故だかわからない。たった一つのことを除いては、二人には何ひとつ、全然なに一つ共通点はなかった。その一つのことも、ずっと後になって、もっとよくエムバッシという人物を知るようになるまでは、まるっきり知らなかったのだ。わたしにとって、神秘主義は、涙が出るほど退屈だった。逆にかれにとっては、純粋な高等数学の領域以外、科学というものはまったく関心の外にあった。
それなのに、わたしたち二人は友人になったのだ。
*
十月、わたしはロケット工学の学位をものにした。
わたしたちは盛大な祝賀晩餐会を開いた。ブラスティーダー夫婦もバークレーから飛行機でやってきて列席した。シアトルからビルとマーリーン。クロッカーマン夫妻。独身のチャン・エムバッシ。それにもちろんエレンも。全部で九人だった。
ビルも愉快そうだったけれども、その席の会話の種はおおかたかれの肌には合わなかったんじゃないかと思う。それでも喜んでくれて、ずっと楽しそうにしていた。喜ぶというのも、わたしが学位をとったことよりも、わたしがとうとう埃と機械油を手から洗い落して、しかるべき地位について落着きかかっているらしいことを知って喜んでいたのだ。クロッカーマンが、ちかくわたしをロケット空港の副長に昇進させる予定でいるということについて短いスピーチをすると、ビルは大喜びで握手しようとでかい[#「でかい」に傍点]手をつき出した。けれどもわたしはマーリーンが好奇の目でわたしをみつめているのに気がついて、ウィンクをしていっそうかの女の好奇心をそそってやった。好奇心をおこす度に女はそれだけ利口になるもので、それでどうやらマーリーンも、事の底には何かわけがあると感づいたようだった。
*
クリスマスはエレンと二人きり、エレンのところで迎えた。何をプレゼントしようかと、さんざん智慧をしぼったあげく、とびきり上等の真珠の頸飾りにした。もうそれでほぼ一年間、これまでそんなにたくさん稼いだためしがないほど高給をもらいつづけていた。おまけにほとんど無駄づかいをする機会もなかった。金は銀行に溜まるばかりで、そのことを考えるとすこし頭が重いような気がしはじめていたほどだったから、一つかみ掬《すく》いとって捨てて頭を軽くするのに、いい口実ができたというものだった。
エレンはわたしに綺麗なシガレット・ケースを呉れた。黒い地で、それに小さいダイヤモンドが、乱雑にちりばめてある。乱雑にだって? いや、目をこすって見直すと、それはよく見馴れた配列の模様だった。北極星を指点する大熊座の七つの星――北斗七星。
かの女は言った。「あなた、わたしにはこんな星しか、あなたにさし上げられないのよ」
わたしは声をあげて泣きたかった。いや、実はちょっぴり泣いたのかも知れない。ぽっと目の前が霞んだところをみると。
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一九九九年
一月末ワシントンのエレンから。
「いとしいあなた。あなた。あなたが今夜わたしの傍にいてくださるなら。それとも、わたしがあなたのお今夜わたしの傍にいてくださるなら。
そしたらこの疲れも、この鬱陶しい頭痛もけしとんでしまうでしょうに。そしたらわたしは幸せな、寛いだ気持になれるでしょうに。けれども、頭痛だろうと何だろうと、今日わたしがやり遂げたことは是非お伝えしておかなければなりません。
わたしはかねてから狙いをつけておいたカモに襲いかかって、まんまと仕止めて上手に料理しました。カモというのはランド議員――マサチュセッツ州選出の保守党の長老で、予算割当委員会の委員長です。どんなふうに料理したかって? それはこんな具合よ――。
ほかの人たちに気づかれない、したがって邪魔のはいる気づかいのない場所へうまく誘びき出して一緒に食事したの。食べる間じゅう、わたしは木星の至近観察がどれほど科学と人類のために有益であるか、さんざんまくしたてて、あの人をうんざりさせてやりました。けれども、その話題はうわべだけなの。何気ない口ぶりの底に、どんなに反対があろとも絶対押し切って、その法案を通過させる自信があるって暗示を、ふんだんに仕込んでおいたのよ。もう多数決に必要なだけの票数は確保できてるってことを、うんと匂わしてやりました。だから、いくら反対してもあなたのためにはならないぞって。むろんでたらめ[#「でたらめ」に傍点]ですけれど、今のところ、あの人には、それが、でたらめ[#「でたらめ」に傍点]だということをつきとめることはできないはずです。よくみていると、そんな立派な目的をもった計画がたった三億一千万ドルぽっち――なんて安あがりで済むんでしょうって、わたしが言う度にだんだんん気分を害して行くのがはっきりわかるの。その数字をはっきり印象づけるために、わたしは五、六回以上もそれを口にしました。
食べるのが終って、食後のブランデーをちびちびやりはじめる時まで、わたしはじっと待って機会をうかがいました。ランド議員が、お昼でも食事のあと必ずブランデーを啜る習慣はよく知っていましたから、わたしもお相伴《しょうばん》しました。あの人が掌の中で温たまってきたグラスのブランデーのいい香りと味を楽しみはじめた時、わたしはいかにも何気なく、同じようにロケットを木星に飛ばせるにしても、もっとずっと安あがりで済む方法もあるんだけど、と言ってやりました。おまけに、その方法なら木星の衛星の中の一つに着陸までできるんだ、と。わたしはあなたの見積書――ほら、あなたがクロッキイと二人でお作りになったあれ[#「あれ」に傍点]を、ハンドバッグからとり出してあの人に見せてやりました。あの人ったらもう夢中で、数字のほか何も目に入らないようでしたけれど、とにかく二千六百万ドルって合計の数字だけは、紙に穴があきそうな目つきで睨みつけてましたわ。それからその目をわたしに移して、『ギャラハー議員――』って言うの。『もし初めからこんなに安くあがることがわかっとるなら、何故その十二倍も予算のかかる法案を提出したのかね?』
もちろん、そうきかれるのは百も承知で、答はちゃんとできていました。この、安あがりでできるほうの案は、わたしが法案を提出したときにはまだできていなかったばかりでなく、もとの案では多段式ロケットを使うことになっていて、それなら二人乗りだし、機内の空間も広くて乗組員が楽だから、と。けれども万一――ほんとに万一、わたしがもとの案をひっこめて、そのかわりとして新しいほうの案を法案として提出した場合、保守党の議員は反対せず速かにそれを通過させてくれるという約束を、あなたの口からしていただけるなら、そうしてもいいんだ、と。いいえ、賛成投票なんかしてくれなくたっていいの。ただ、いざ票決という時、議場外の廊下でもぶらぶらしているか、あるいは中立の票を投じてくれればいいんだ、って。
あの人はしばらくはっきりしたことを言わずにごまかそうとしてましたわ。自分には、せいぜい自分だけは反対しないってことくらいしか約束はできないって。けれどもわたしはおべっかを使って、あなたが両院の保守党議員たちにどれほどの支配力をおもちか、わたしにはよくわかっているし、保守党の議員たちがあなたを党の指導者として敬愛し崇拝していることもよく心得ている、とおだててやりました。それでもまだ逃げを打とうとするので、わたしは最後の追込みをかてやったの。どうせ保守党の皆さんと戦わなければならないのだったら、まずもとの大がかりな、お金がうんとかかるほうの法案で力のかぎり戦って、いよいよ決戦までもちこんで負けるときまってから、こんどは新しいほうの案をもち出すつもりだ、と言ってやりました。あの人々はようやく自分の党の議員を説得する口実を教えてもらって、かえってほっとしたようでした。そしてもしわたしが最初の案をひっこめて、新しいほうの案をかわりに提出するなら、保守党として積極的に反対することがないように、自分としてできるだけのことはしよう、と約束してくれました。ところでね、あなた、あなたはどうお考えになるかわかりませんけど、ランド議員って人は約束をきっと守ることで有名なのよ。
法案は事実上もう通ったようなものです。法案の書類はとっくに用意してありましたから、わたしは今日の午後すでに提出の手続きを済ませてきました。来襲の月曜日に、委員会報告があるはずです。それから二、三日中に上院で票決をおこない、長目にみても一カ月中には下院も通過してしまうでしょう。
大統領の拒否権発動もないはずです。わたしたちはジャンセン大統領からそのように非公式の言質《げんち》をとり、おまけにそれはもとの法案についてなのです。ですから新しいほうの案なら、なおさら、とびついて署名してしまうだろうと思います。そんなに安く責任のがれできるので、大喜びで。したがってその計画の責任者として誰を推薦しようが、政治的に難のない人物ならば、きっとその人の任命に同意してくれるに違いありません。もちろん誰かを推薦する時には、必ず前もってあなたを副監督官にするよう非公式の約束をとっておくことは、言うまでもなしよ。
というわけで、今から一月かそこらしたら、まあ大体三月一日前後の日付で、自分は休暇をとって代りにあなたを空港長代理に任命するようにクロッキイに話してください。期間は三カ月もあれば充分でしょう。その間には、あなたの任命も認証も終るでしょう。ロケット建造の仕事そのものは、秋頃にならなければ設計図をひくところまでも行かないでしょうけれど。ホワイト・サンズの研究所の連中が計画を検閲するでしょうし、それだけにでもかなり時間がかかりますからね。法案には、予算を実際に割当てて建造にかかる前に、使用すべきロケットの安全度その他について権威ある研究期間の承認を受けることという一項目がつけくわえてありますから。
けれども、そう厄介な問題がおこるとは思われません。事実邪魔、しようとするどころか、できるだけ力添えをしてくれるのではないかと思われます。その研究所の巨頭ラッジ閣下が先週末ワシントンに、お見えになって、その時わたしは(これは絶対に秘密で、ここだけの話よ)あなたの計画書を見せてあげましたの。するとあのかたは、これも内緒ですけど、むろん数字はいちいち縦からも横からも検討してみなければ何とも言えないけれど、全体として自分には納得できる計画のように思える、とおっしゃってくださいました。たぶん、すこしばかり安全性を高くするための設備を幾つか追加することになるのではないかしら、というのがその時のわたしが受けた印象でした。
これが今日までの成績よ、あなた。はじまったばかりの議会が休会にはいるのが、今からもう待ち遠しくてたまらない始末です。七週間も、長いことね? でも、その時にはきっと法案も通過して、大統領の署名が済んで――うまくいけばあなたの、任命の手続きも終っているかも知れない。そしたら、それこそすばらしいお祝いができる……わけね?
追伸。あなたの[#「あなたの」に傍点]議員閣下に手紙を書くことを忘れないように」
わたしはわたしの[#「わたしの」に傍点]議員閣下に、おまえが居なくなって淋しくてたまらない、と手紙を書いた。
*
淋しくてたまらないというのは、正直かけ値なしの本音だった。離れてみて今更のように自分が心底からエレンを愛していること、またわたしたち二人の間にあるものは深くかつ大きな意味をもち、これまでに幾度かわたしにも経験のある情事なんかとは全然ちがっていることを思い知らされた。時々、そのおかげで二人が離れていなければならないのだと思うと、木星行ロケットの計画すら呪いたくなったほどだ。
孤独感。それはわたしは生れてはじめて味わった感情だった。一週間の夜の数がとても多過ぎるように感じられた。
その年のその季節、ロサンジェルスでは、やけに雨が降った。にもかかわらず、わたしはよく散歩した。時には洪水のように雨水が溢れた街路を、じゃぶじゃぶと。読書もうんとした。また相手に倦きられないようにする心遣いは忘れなかったが、できるだけ頻繁にクロッキイや、エムバッシと議論したり将棋をさしたりして過した。時には音楽会へも行き、二、三度はショウを見にも出かけた。それでもまだ夜の数が多過ぎた。一週間に七つも……。
何故わたしはエレンを慕うのか? それは、お前の指はなぜ五本あるのかときかれるようなものだった。
仕事に熱中していれば、昼間は忽ち時間が経った。そして夜の時間のはかどりは這うようにのろかった。
*
エレンから二月初めの便り――。
「あなた、昨日電報でお知らせした通り、法案は上院を通過しました。たぶんあなたは、わたしの想像が間違っていなければ、テレビにかじりつくようにしてニュースをごらんになって、電報が着くより前にそのことを御存知だったのではありませんか?
でも票の内訳はどのニュースでも放送されなかったと思いますので、本当のところどんなに際どい勝負だったか、それはきっと、お察しがつきますまい。ぎょっとしましたわ、本当に。それで、わたくしたちも多少計画を変更しなければならなくなりました。
マックス、たった三票の差で通過したのよ。
それも、ランド議員が約束を破ったせいではないのです。あの人は約束を守りました。上院の保守党勢力を構成する約二十五の票のうち、反対票はたった二、三票でした。保守党議員はほとんど全員、票決の時には、議席をはずすか、中立票を投ずるかしてくれたのです。
こちらが絶対確実な票として握っていたのは二十五票でした。十五票はあの法案に限らずいつでもあて[#「あて」に傍点]にできる味方、それに取引きの成立した十票をあわせて。それからまたいつものように、どっちつかずの中間派の票五十を、敵味方半々として計算していました。この予算通りにいけば、保守党が中立を守るとして、ほとんど二対一の絶対多数で通せるはずでした。
ところが、とくに申合わせた反対グループというものはないのに、また反対演説もなかったのに、中間派の票がひどくこちらに不利に動いたのです。はっきり数字を言うと三十六票対三十三票――ということは、絶対確実な二十五票以外の四十四票のうち、賛成投票はたった十二票しかなかったということです。なんと、たったの四分の一よ!
それから調べてみて、そのわけがわかりました。ふだんはたいていわたしたちに賛成投票をしてくれる、筋の通った拡張的な計画にはたいてい賛成投票をする中間派の議員の幾人かと話をしてみましたの。先週の火星ロケットの墜落事故が、その人たちの気分を動揺させたのです。火星植民地から六人の乗組員を乗せて飛び立った貨物運搬ロケットが、流星に打たれてデイモスに墜落不時着した、あの事件よ。(損害は、ロケットそのものだけで三百万ドルですってね)
その事故のニュースは、もちろんその時にわたしも聞きました。ばかりか、なにかその事故のため一般にひろがった一種の興奮といったようなものにも気がついていました。けれどもまさか、合衆国の上院議員として選出されたほど教養ある人々が、そんな一時の興奮に押流されようとは、夢にも思いがけなかったことです。いくらお金がかかったか、幾人死んだか、そんなことは問題外で、とにかくまるでたった一つ列車事故が起ったからといって鉄道は以後全廃にしようと騒ぎたてるみたいに!
というわけで、やれやれ、有難いことに法案はどうにか通過しましたけれど、わたしたちは自分たちがどんなに自信過剰だったかを知って、ひやっとさせられたところですの。そしてその法案を委員会にかけ直して下院に廻すに当っては、よっぽど計画的に、用心してかからなければならないと思っています。相当大がかりに票の取引きもしなければなりません。
いずれにせよ、すくなくとも休会明けまで、あるいはその後なお一月かそこら、ロケット事故の印象が下院の議員たちの念頭から薄れるまで待たなければなりません。そしてもしなお運悪く今後二、三カ月中にまた別のロケット事故が起ったりしたら、今年度議会のぎりぎりまで委員会にとめおいて最終日のどさくさ紛れにでも強引に通すよりほかなくなるかも知れません。たとえそうしたとしても、なお危い賭けだということになりかねません。
で、もしクロッキイが三月一日から休暇をとるという件、もうどうにも動かしようがないほど進んでいるのでしたら仕方ありませんけれど、そうでなかったら、一カ月延ばして四月一日からということにはできないかしら? ぜひ頼んでみて頂戴。というのは、そうして欲しい勝手な理由もあるの。それはね、今の議会の休会が三月の第二、三週――六日から二十一日までということになっているでしょう? だからもし三月一日からあなたがクロッキイに代って場長代理になると、おいそれとは休暇なんかとれないことになるわね? でも、もし三月いっぱいクロッキイが頑張っててくれるなら何とかできるのじゃないかと……虫がよすぎるかしら、この前二人で……メキシコ・シティーに行った時からいくらも経っていないのに?(もっとも、わたしにはずいぶん長い昔のことのように感じられます)
わたし、まだ頭痛がつづいています。この前にお手紙を書いた時ほどひどくはありませんけれど。今あの法案が通ってひとしきりほっとしているところなので、お医者のところに行ってみてもらってこようと思っています。慢性偏頭痛でなけりゃいいんですけれど、もしそうだとしても、今ではよくきく治療法ができているので、そう本気になって心配することもありますまい。
わたしのほうが休会になる週のこと、クロッキイとご相談の結果を、わかりしだいすぐ知らせてください。もしあなたりのほうでも休暇をとれることになったら、いろいろ計画を打合わせたいと思いますので」
クロッカーマンは、いいよ、と言った。かれはもう三月一日から休暇をとることにきめて、準備も手続きもすっかり済んでいたが、いまさら変更はできないというほどではなかった。その晩わたしはエレンに電話をかけ、長いこと話し合った。わたしたちは、キューバのバヴァナで落合うことにきめた。三月の六日に。
上院の票決の結果が際どいすれすれの勝利だったこと、また下院に廻すまでしばらく遅れを覚悟しなければならないことを知っても、わたしはちっとも心配にはならなかった。強いて言えば、かえって少々楽観的になったほどだ。何らかの妨害か押返しには当然ぶつかってしかるべきだし、それまでぶつからなかったのが不思議なくらいだった。やっと、一つだけぶつかり、それはこちらがぺしゃんこにされるようなものではなかった。わたしは、なんだか気がせいせいした。
*
ある日曜日エムバッシと昼食をつき合い、奴さんは兎の餌みたいなものを、わたしはビフテキを注文した。あとで、ロサンジェルスですら二月にしては異常なほど温かい日だったので、裸体主義を建前にしている有料海浜日光浴場へ、一、二時間日光浴をしに行った。わたしは、そろそろ皮膚を日に焦がしはじめたいと思っていたところだった。しかしエムバッシのほうは、ただ太陽とその暖かい光そのものが好きなだけだった。なにしろかれの皮膚ときたら、今さら日に焦がすなんて言ったら、神様だって笑い出すだろう。
わたしたちはライオンのことを話し合った。エムバッシのほうからその話題をもち出したのだ。
「昨日の午後――」とかれは言った。「わたしは初めて、今まで一度もやったことがない経験をしてきました。というのは、動物園へ行ってみたのです。ライオンを見に。ライオンには、もう三十年間一遍もお目にかかっていませんでした。行くと、いましたよ」
「どうだった?」
「ライオンみたい[#「みたい」に傍点]でしたよ。とてもライオンによく似てました。けれども、しばらくわたしはそうじゃないのではないかと迷いました。というのは、わたしがアフリカで子供の頃に見たライオンとは、わたしを爪にかけて結局そのお蔭でわたしの命を救ってくれることになったライオンとは、それこそまるっきり違って見えたからです。それからわたしは、その違いはライオンそのものにあるのではなくて、わたしの心に刻まれたライオンというものの印象のせいだということがわかりました。行ってよかったと思っています」
わたしは言った。「印象による違いってのは、二通りほど考えられるな。自由なライオンと檻《おり》にとじこめられたライオン。あるいは子供の目を通して見たライオンと、成人の目で見るライオンとの違い。どっちだい、あんたが言うのは?」
「どちらでもありませんよ。わたしが言う違いとは、野蛮人の目と文明人の目の違いです。わたしは生れてから十一年間、野蛮人として育ちました。それは、子供と成人の目の違いというだけではありません。というのは、もしわたしがずっと野蛮人のままで、部落の生活をつづけていたとしたら、その目は今も変わっていなかったでしょうから」
「その目ってのは、わかりやすく言うとどういうことなんだい? つまり、その野蛮人の見方だが、おれが言うのは」
「憧れと、畏れと、殺したいという欲望です。人間であるところの自分を、ライオンであるところの相手にぶつけて闘うこと、そして自分が相手を怖れてはいないということを証明することです」
「だが、おれは、マサイ族の連中は勇猛で、ライオンなんか怖がっちゃいなかったんだと思ってたがな」
「もちろん、勇敢でした。しかし、いや、だからこそもちろん怖れてもいたのです。それでなけりゃ、ライオンと闘うなんてちっとも勇ましことでも何でもなくなってしまいますからね。恐怖のないところに勇敢ということはあり得ません」
「で、文明人としてライオンに対していだいた感情は?」
「憧れと、畏れと、憐れみです」
「檻にとじこめられたライオンに憐れみを感じるってのは至極当然なこった。しかしもし今あんたがアフリカにいて、ライオンに襲いかかられたとしたら?」
エムバッシはため息をついた。「たぶん自己防衛の手段をとるでしょう――気に染まないながら。仏教の思想は、それほど過激ではありません。すべて生命というものは尊重すべきだと教えながら、人間の生命は他の動物の生命よりも貴重だという条件を保留しています」
「なるほど、それなら襲いかかってきたライオンを殺すのは罪にならないわけだな。しかし、ライオン狩りをするのは罪なのかい?」
「ある条件のもとでならば、必ずしもそうとは限りません。つまり、たとえばとくに好んで人間を襲う人食いライオンを狩るのは罪じゃありません。罪とされるのは、自分の楽しみのために狩りをしたり殺したりすることです。相手がどんな生き物であれ、それを殺して楽しむということが」
あれも生き物――カモメたちが、ゆるゆると優美に頭の上の空を飛び廻っている。あれも生き物――一隊の娘たちが、ふざけ合い身をよじらせて笑いながら歩いて行く。もの倦い波のリズム。暖かい日光。空の色。
わたしは、大きく弧を描いて腕を振った。「みろ、エムバッシ。これみんながおれたちの世界だ。これみんなと、空の星まで、これだけあれば、宗教も神もなくたって構わんじゃないか?」
「かも知れません。これみんなと、それに空の星まで、神も宗教もなしに自分のものにすることができるならば。けれども、あなたにだって科学というものがある。わたしの場合、それにあたるものがつまり宗教なのです。あなたは科学という馬にまたがって星に向って行こうとしている。わたしもわたしの馬にまたがって行くというわけですよ」
まさか、その時には、相手が本気にそのつもりでいるのだとは夢にも思わなかった。
*
わたしは、がらにもなく金持の真似をしてマイアミまでロケットで、それから飛行機に乗りついでハヴァナに着いた。エレンのジェット機は二時間後に着陸し、それまでにわたしはホテルの部屋をきめて用意しておくことができた。
エレンは頭痛を医者にみてもらった。手当をしてくれて、もうどこにも別条はないという。けれども最初の幾日間か、かの女は疲れているように見えた。
「いかんよ、おまえ」とわたしはかの女に言った。「あんまり働きすぎるんだ。木星ロケットのことでは、おまえはもう自分の分担以上のことをやってくれている。あと法案を下院を通過させるのは、はたの連中に任しときゃいい」
「わたしだってやるわ、マックス。大丈夫よ、ここを引揚げる時まではすっかり休養できて。それに、わたしが疲れているのはロケットのせいじゃないの。むしろあのバックレー・ダムの建設工事の法案のほう――カリフォルニア州のために何とかしてあれを通しておかないことには、このつぎ再選される見込みはこれっぽっちもなくなってしまいますからね」
「どうしてそう再選されたがるのかね? エレン、おまえが立てた作戦のおかげで、わたしは今みたいに大勢の人の上に立つ仕事につくようになった。厭だ厭だと思っていた時期は一通り過ぎたし、いい給料をもらってる。上院議員を一人養うくらいは易しいこった。ロケット計画の監督官に、わたしの任命が終ったら、二人が結婚しちゃいけない道理がどこにあるね?」
「そのお話は、またその時にね、あなた」
「そのお話じゃない、その時には。実際にそうするんだ」とわたしは言った。「お話は今だってできる。話しちゃいけないなんて法律はない。エレン、おまえが政治に身を入れてるのは、本当に政治家でありたいと思うからなのか――つまり、それが自分に一番ふさわしい天職だと思っているからなのかい? それとも、ただ生活のためにかね?」
「わたし――マックス、わからないわ、本当のところ。たぶん両方の要素が加わってるんでしょうし、今は何だか混乱してて自分が政治に身を入れる動機も、結婚のことも、筋道をたてて分析したりできそうもないわ。とにかく、わたしは、州の人たちから信頼を受けて選び出された議員としての自分の今の任期をつとめ上げるまでは――ということはあと二年間、あなたと結婚することはできません。まだ、ずっと長いさきのことよ」
「いや、まったく、長いさきのことだ。おまけにその間、わにたしたちは年をとって[#「とって」に傍点]行くばかりなんだよ」
「そりゃそうだわ。だけど、とる[#「とる」に傍点]だけで、何もなくす[#「なくす」に傍点]わけじゃないでしょ? わたしたちの仲は、今だってもう結婚してるのとほとんど同じことじゃなくって、マックス? だったら、かりにこれが今よりもう二年かそこら前に結婚していたとしたって、やっぱりわたしは議員をやめたりせず、したがって議会の会期ごとにワシントンへ出かけてくってことになってたでしょう」
「だが、人なかに出るとき、そのいまいましい仮面だけはつけなくてもよくなる」
「こんなもの、ちっとも気になりゃしないわ。むしろ、それだからこそ、二人っきりになって[#「なって」に傍点]これをとる時のほっとした気持といったら……。あなた、飲みものをつくってくださる?」
かの女は自分のグラスの中味を一口啜ってから、枕に頭をもたせて目をつぶった。「お話して、あなた」
「何の話を? おれがおまえをどれほど愛してるかってかい?」わたしはしかめ面をした。「ばかばかしい、おまえ。わたしが五十八というこの年になるまで、結婚してくれってこっちから申込んだりした相手は、おまえだけだってこと知らないのかい? だのに、その相手から打てば響くような返事が聞けないんだからな」
「愛してるわ、マックス。わたしはあなたのものよ。それだけで充分じゃないこと? あなたはわたしというものと一身同体だと言ってもいいわ。たった二言三言の宣誓と、結婚証明書類に何の意味があるっての?」
「宣誓や書類じゃない、おれが欲しいのは、それは――えい糞、おまえにそう言われて反省してみると、自分が利己主義みたいな気がしてきたぞ。おれはたぶん、おまえがわたしのものだってことを、みんなの前にひけらかして歩きたいんだ。秘密にしておかずに」
「秘密にって――それはあなたが本当に親身に思ってる以外の人たちに対してのことでしょ? クロッキイだってブラスティーダーだって、あなたの弟さんご夫婦もエムバッシも、みんなわたしたち二人の仲はとっくに――」
「わかったよ」とわたしは言い、何かほかにもっともっともらしい理屈を思いつこうと焦った。
ところがまたエレンに先をこされた。かの女は起きなおって、ふたたび飲みかけのグラスに手を伸ばした。
「マックス、わたしが代りに言ったげるわ。あなたが今までわたし以外の女のひとに結婚を申込んだことがないってことは信用するけど、ほかの女のひとを愛したことがないって信じろなんておっしゃらないでしょうね。あなただって、きっと、一度どころではなく、すくなくとも幾度か、わたしと同じぐらい愛した相手があったに違いないわ。どう? まずそれだけのことを認めて頂戴」
「そりゃ、ほかの女に惚れたことはある。が、こんどみたいなのは初めてだ。そこはおまえの言うことが間違ってる。今度のは、今までのなんかとかは全然違う」
「どう違うのか、マックス、わたしが教えてあげるわ。あなたは宇宙気ちがいで、それも愛というものが何か、よくわからないくらいの年頃からずっとなのよ。いよいよそれを知りかかった時分、女というものよりさきに星があなたの心を奪ってしまったのよ。結婚なんかしたら、あなたはそれに束縛されて、心から行きたいと思っているところへ行くことができなくなってしまう。ところが初めて二つのものを一包みにして手に入れることができた――いとしい女と、その女を通してこれまでに誰が行ったよりも遠くまでロケットを飛ばすことを手伝う機会と」
その言葉の中には、うんと真実がこめられていた。
かの女は言った。「もし違うと思うんだったら、もっと説明してあげてもよくってよ。もしわたしが今ここで、ハヴァナで、すぐにあなたと結婚しよう、ただし星を眺めては夢をみるのはやめてもらいたい、と言ってごらんなさい、どうなるか――?」
「そんなことは言いっこない。そんなことを言うおまえは、本当のおまえじゃないもの」
「もちろん、そうよ。だけど、わたしの言ってることの要点は変わらないわ。ね、マックス、今夜は結婚の話なんかやめましょう。そのことによらず、何かを話し合うなんてのは。あなただけが話して、わたしは聞き手に廻らせて頂戴な」
「よしきた。何を話そう?」
「たった一つだけ、あなたがいくらでも話せる――つまり、星のこと。あなた、本当に星まで行けると思う?」
「ははあ、そりゃ質問じゃなくて誘い水だな。本当に行けるとわたしが信じこんでることは百も承知なくせに――事実、いつかきっと行けるにきまってるんだ。いつ行けるか、要するに時間の問題さ。どんなことにしろ人間にできないことがあるとか、やってみる勇気がないとか、人間ってものを見びっちゃいけない。
星は人間がやってくるのを待っているし、人間は必ず行ってそれを自分のものにすることにきまっているんだ。いつの日にか、たぶん思いがけなく急に、人間は宇宙のはるか奥の空間におどり出るにちがいない――ちょうど一九六〇年代に太陽系の空間におどり出たように。ただ、今度は前の時みたいに脅迫されて縮みあがって、追いつめられてやむをえずやるんだってことにならなけりゃいいと思うんだが」
「脅迫されて?」
わたしは言った。「ああ。ドイツ人や日本人たちに追いつめられて、やむをえず原子爆弾を発明したように。また米ソ二大国の勢力争いの結果が宇宙ステーションと月世界へのロケット射ち上げとなったように。時々、おそろしく費用のかかる大規模な仕事にとりかかる決心をするためには、何かどうしてもわたしたちをそうせざるをえないところまで追いつめる動機が必要になるらしい。
一九四〇年代のナチ・ドイツと日本がそれだった。――おまえはまだ生れてもいなかった時分のことだが。なぜ原子爆弾が発明されたのか、知ってるかい? ナチ・ドイツのほうは、それなしでも屈服させることができた――事実、その目的には間に合わなかったが、日本人たちは自分たちの本土を防衛するのに必死の力を傾けていた。で、その日本人たちを屈服させるのに、原子爆弾より威力のすくない武器を使ったら、かえってうんと金がかかったろう。いや、待った。そうじゃない、全然ちがう――結果的にみればそういうことになりはするけれども、原子爆弾を作りにかかった時、われわれ米国人たちには、金を倹約しようなんて考えは、これっぽっちもなかった。ただ何とかしてわれわれの生活原理と生命を守り抜かなければ、と思いつめていたばかりだ。いくら金がかかろうが問題じゃない、というところまで追いつめられていたわけだ。
一九五〇年代になると、世界各国、なかんずく、米ソ両国は競ってロケットの研究に没頭した。最初の頃のはむろん化学燃料を使うやつで、三段式で、ちょっとしたビルくらいも高さがあって、そのくせ最終到達距離のさきまでもち上げられる荷重といったら、射ち上げの際の重量の百分の一かそこらに過ぎない。最初の一トンの荷重を軌道に載せるまでには、三年間という時間と五十億ドルもの研究費がかかった。ところが、多段式ロケットってものは、本格的な実用段階に入ったか入らないかに、たちまち石弓か何かみたいに時代おくれになっちまった。宇宙ステーションもだが。そして地球の周囲の空間には無数の無線操縦装置をつけたロケットが乱れ飛び、それに水素爆弾の弾頭をつければ、いつ何時どこの大陸にでも狙いをつけて、こっぱみじんに吹きとばしてしまうことができるという緊張状態がもたらされた。
ただ、現実にそういう悲しむべき事件は起らなかった。というのは、それ、共産主義というものが自己崩壊してしまったからさ――そこまで追いつめられないうちに」
「そして月へも、火星へも行ったのね、マックス」
「それから金星へも」とわたしは言った。「それが一番遠くまで行った記録で、その記録はそこでストップしたきり全然更新されていない。われわれを追いつめる脅威というものがなくなると同時に、わざわざ莫大な費用をかけてまで、宇宙の遠くに足を伸ばそうなんて企てることもなくなっちまったんだ。今じゃ月に天体観測所が一つと、火星に試験的な小さな植民地がつくられているだけだ。それから金星をちょっと探検してみたきり。そこでストップしちまった」
「でも、そりゃ呼吸《いき》をつぐためじゃないの、マックス? 人間にとっては、それだけだって一気にひどい苦労をしたことになるんでしょうから」
「呼吸《いき》をつぐだけに四十年間かい? とっくの昔に、また駈け出していなけりゃ。木星に、またその他の惑星に――ばかりでなく恒星にむかってだって。とにかく本来ならもう今頃は一番近くの恒星に向って進んでいてもいい時分だ」
「できるの、だけど、そんなこと、マックス? たった今、わたしたちの手の中にあるものと知識だけで?」
「ああ、できるとも。金はうんとかかる――たぶん今まで原子爆弾と惑星間ロケットにかけた費用をすっかり寄せ合わせたほどの。うんと大きな宇宙船でなけりゃ――ちょうど宇宙ステーションみたいに、あらかじめ一定の軌道まで少しずつ資材を射ち上げておいて、それからそこで組立てる。大きさはすくなくとも、五組か六組の家族を収容できるくらいでなけりゃ。というのは、現在のロケットに出せるスピードだと、その宇宙船に乗って一番近くの恒星プロクシマ・ケンタウリまで、四光年の距離を乗切って行きつけるのは、幾世代か後の子孫ということになるだろうからな」
「そうそう、やるとすればそんなふうになるだろうってこと、わたしも何かで読んだ覚えがあるわ。でも、あなた、今の世界の人類にはまだそんなことをするだけの心構えはできていないんじゃないかしら。それほどの費用とそれほどの努力を注ぎこみ、しかも自分たちはその結果がどうなるかってことを知ることもできない……なにしろ結果がわかるのは一世紀も後のことなんだから――それも、かりに何らかの結果があらわれるとして」
「わかってるよ」とわたしは言った。「ただ、やればできるって話だ――決してやりゃしないけれども。まだあと幾世紀もかかるだろう、いずれにしろ、もしそういう方法でやらなきゃならないとすれば。でも、わたしはそうは思わない」
エレンは目をみはった。「思わないんですって?」
「思わない。そんなことをするくらいなら、むしろそれだけの費用をイオン・エンジンの研究にかけるだろうよ。だって、もし政府が原子爆弾をつくった時ぐらいの意気ごみで費用と勢力を傾けたなら――そんなもの、二、三年もかけりゃできるだろうじゃないか! そして、それを応用したロケットでなら、最初のが出かけて戻ってくるのを、わたしたちはまだ生きていて見とどけることができるんだ!」
エレンは目をきらきらさせた。「ひょっとして、もし木星へ行ったロケットが何かすばらしいおみやげ[#「おみやげ」に傍点]を持って帰ってきたら――」
「え? 何? 待った、そう言や、すばらしいおみやげ[#「おみやげ」に傍点]を持って帰る見込みは大いにあるんだぜ、エレン。ウラニウムだ――もう地球に残りすくなくなっているウラニウム資源を、木星の衛生の中のどれか一つに多量にみつけることができたとしたら、それも一つのおみやげ[#「おみやげ」に傍点]になるだろう。あるいはわれわれ人類より文明度の高い生物が、どこか銀河系の星に住んでいるらしい徴候をそこでつかまえることができたとしたら――エレン、それが人類の好奇心と夢を刺戟して、他のどんな動機よりも強い誘惑となって、是非そこへ行ってみたいという気をおこさせるかも知れない」
「――かしら? もしかしたら逆に作用するんじゃない? わたしたちより智慧がすぐれた生物がみつかったら、怖ろしくなりゃしないかしら?」
「わたしはそう思わないな。人間は、一人々々をとりあげたら臆病者かも知れない。けれども全体としてみると、それくらいがちょうどいい励ましになるんじゃないか? だって、考えてみろ、どうなっていたか? もし火星に運河が――人類以外の高度に発達した生物が住んでいたという証拠が、あそこにみつからなかったと仮定した場合のことを!
ただ燃料が足りないというだけの理由で、たった二、三歩踏み出しただけで、初めの大きな夢を忘れてしまおうってのか? われわれは、そもそも初め、どこまで行くつもりで出発したんだ?
いったい、生存のための闘争が、どうしてもそうしなければならないところまで、おれたちを追いつめるまで待ってなけりゃならないってのか? 怯え、ちぢみ上らされるまで? 他のどこかの星系から、宇宙船が地球を侵略にでもやってきて、やむをえずそいつを迎え撃たなければならなくなるまで? それとも天文学者が、太陽が短縮爆発の時期にさしかかっていると予言し、正確な時を計算し出して、その時までにどこかよそに退避しろと警告を発するまで? エレン、そういうことの中のどれか一つが起るまで、じっとして待っていろってのかい?」
返事がないので、わたしは相手の様子をうかがった。ゆっくり、規則的な呼吸。エレンはぐっすり寝入っていた。
わたしは灯を消して、かの女の目をさまさせないように、そっと寝台にもぐりこんだ。
*
第二週には、エレンはずっと、疲れから回復したようだった。前週より頻繁に外出し、町を見物して廻った。二人ともダンスはしなかったけれども、モダン・キューバ音楽は好きだった。キューバ舞踊も好きだった。わたしたちは二人とも、どちらかと言えばアメリカ人としては趣味の古いほうだったと思う。
中でも日のよく照る日には、舟遊びもした。いわゆる“アメンボ”という、あまり、スピードが速くて飛沫《しぶき》がひどいので、水着を着て乗らなければならない小さな滑走艇だ。岸から人目のとどかない沖まで出ると、わたしたちは水着を脱ぎ捨て甲板に平べったく寝そべって日光浴をした。キューバには、裸休日光浴場というものがない。スペイン人の血統をひくその国の人々は、かつてアメリカ人もそうであったように何かの理由で裸体というものにおそろしく神経質なのだ。
まったく申し分のない休暇で、二週間が終るべくして終った時は、二人ともすっかり休養を満喫して、心身ともに調子は上々だった。それからエレンはワシントンへ、わたしはロサンジェルスのロケット空港へ。
忙がしい一週間。クロッキイが休暇をとる前の最後の一週間で、わたしがかれの仕事をひきついで留守をまもるについて承知しておかなければならないこと、見ておかなければならないものを、教えてもらい見せてもらった。クロッキイは一つ、また一つ、わたしに教えておくべきことを思い出しては、結局毎日かなり夜おそくまで休む間がなかった。
ロサンジェルスのロケット空港をきり廻すというのは、どうして、容易ならぬ大仕事だということをわたしは知った。多くの責任と、自分の下に所属する部課について、知っておかなければならないことが山ほどあった。クロッキイが戻ってくる頃までには、わたしは耳のところまで仕事に埋まっちまっているに違いない。
クロッキイは四月一日にアフリカに向って旅立った。出立は霧の深い明け方だった。「連絡を欠かさないようにな、マックス。おまえの任命がきまって、おれがまた帰ってきてもいい時期がきたら、それと知らせてもらえるように。だが、すくなくとも三カ月だけは何とか頼むぜ。それくらいは骨休みさせてもらわなくちゃ。じゃ――幸運を祈ってるぜ」
*
しばらくというもの、仕事に目鼻がついてどうにかてきぱきと処理して行けるようになるまで、わたしは自分の運命のことなんか考えている暇がなかった。が、その間にもわたしの運勢はずっと上昇線をたどっていたのだ。
五月も末近くなってから、わたしの[#「わたしの」に傍点]議員閣下から手紙がとどいた。
「いましばらくの辛抱よ、あなた。例の法案を、今週の末に下院の票決にかける予定でいます。木曜日か金曜日になるでしょう。惑星間のにしろ地球圏内のにしろ、ロケットの遭難事故がおこらないかぎり、通過することはほぼ確実です。万一そういう事故が起ったとしたら、法案提出を延期することになるでしょう。この前上院であったような、際どい勝負はしたくありませんので。絶対勝算の確実な勝負をしたいのです。すくなくとも六割の過半数をとりたいと思っています。
これまで大いに奮闘をつづけ、その甲斐あってどうやらもでうこれ以上待たなくても大丈夫だろうと思われるところまで漕ぎつけることができました。
票決の成行きがどちらに向うか、はっきり判明しだい電話で知らせてあげますから、その時までまだあと二、三日ありますけれど、ニュース放送の時間ごとにいらいらしながらテレビと睨めっくらしたりなさらないように。テレビの速報よりも、わたしの電話のほうが早いはずです。というのは、それはニュース解説者にとってあまり重要な法案という中には入りませんので、たとえ速報の内容に繰り入れるにしても票決が終ってから、その結果だけを知らせるという程度にすぎないでしょうから。でも、わたしは、法案可決の見きわめがついたと見たら、結局最後には幾票獲得したことになるか、そんなことに構わずすぐに電話します。
午前十時以前、また午後五時以後には法案の票決はおこなわれないことになっています。これはワシントン時間で、そちらの時刻ではそれぞれ午前七時と午後二時にあたりますから、もしわたしの口から早くニュースを聞きたいとお思いでしたら、きたる木曜日と金曜日、この時間に挟まれた時間中、なるべく電話の傍から離れないようにしてください。もし九時(そちらの時間で)前でしたら、まずあなたのアパートを呼び出し、それで応答がなかったら空港のオフィスのほうにかけることにします。
きっと吉報をさし上げることができるつもりでいます。大丈夫、安心して任せといて下さいな。それに、もう一つ別にいいお知らせがあるの。昨日、わたしは他の二人の上院議員といっしょに、別の用件でホワイト・ハウス(大統領官邸)に参りましたが、他の人たちにとってはそっちのほうが重大問題だったその用件が済んでから、うまく口実をもうけて、ごく自然にわたしと大統領と、ごく短い時間ではありますけれど二人きりでお話できるようにもって行きました。わたしは木星行きロケットの話をもち出し、その法案が両院を通過したら署名して下さるという約束を覚えておいでだろうか、とたずねてみました。覚えているとも、きっとお望みのようにするよ、と大統領は言いました。
上院を通ったというニュースも耳に入っているが、予算割当額がたった二千六百万ドルだと聞いて実はおどろいたことを覚えている、と。正確な数字は覚えていないが。なんでも確かその法案の話をはじめて聞かされた時の印象では、予算額は二千六百万ドルどころではなかったような気がするのだが、と。
その言葉はわたしに、あなたの任命の地盤がためをはじめる絶好の機会をあたえてくれました。わたしは多少あなのことを大統領に話しロケットの計画にあまり費用をかけずに仕上げるためには、絶対に信用のおける人物だ、と吹きこみました。クロッカーマンがあなたの目論見と費用の見積りに目を通してくれたという割引きはあるにしても。
鉄は熱いうちに打てという諺通り、わたしはもうすこし打っておきました。あなたはロケットの計画の最高責任者にうってつけの人物だ、と言ったの。けれどもむしろその地位には政府の仕事につきものの面倒な制限や手続きに馴れた政治家を、名目上の最高責任者として据え、ただその場合に今いった人物に、作業監督官という肩書でロケット建造の実際上の責任をもたせる条件をつけたほうがいいだろう、と言ってやりました。
すると大統領は、それこそ両手をあげて賛成してくれたのよ、あなた! 三億ドルの予算の工事を、その十分の一の経費に切りつめることができるような人物なら、もし本人にその気があるなら当然その計画に許される限り高い地位について仕事の采配をふるってもらいたいものだ、と。
実のところ、大統領がその時その場であなたを作業監督官でなく計画全体の最高責任者にきめてしまおうとするのを、受け流して傍へそらすのにちょっと冷汗をかいたほどです。もしそんなことになったら、ぶちこわしですもの。というのは、こういうわけなの――つまり、大統領の指名による人事は上院の承認を受けなければならないので、そうなるとこっちが仕組んだ計画の歯車が、かける危険が大きくなるのよ。政治家たちの間ではほとんど知られていないあなたがロケットの計画の最高責任者の地位につくということになると、いつか機会があったらいい仕事を世話してやろうと誰かに約束したりしている議員が、あなたに咬みついてこないとも限りません。
咬みつくというのは、要するにあなたの適格性にけち[#「けち」に傍点]をつけようとかかることで、その結果がどうなるか、あなたはよくご存知でしょう。あなたが学位をとってからまだ一年にもならないこと、たった一年半前までは部下を監督するような仕事に全然ついたことがないことなどが明るみに出されるでしょう。そういうことが公けにとり上げられたら、上院もまた、そのように報告を受けた大統領も、なるほど、幾千万ドルという費用をかける政府の計画の最高責任者に任命するには経歴が不足している、と考えるにちがいありません。それではあまりに危険が大きすぎます。そうしていったん最高責任者として不信任されたとなると、それでは作業監督官に、ということも今さらわたしとしては言い出しにくくなるわけです。絶対にそうできないというわけではないにしても。
そこでわたしはジャンセン大統領に、きっと本人自身、最高責任者にはなりたがらないだろう、と言ってやりました。本人は何よりも実際の設計や施工に興味をもっているので、書類いじりよりロケットそのもののほうが性に合っていると言うだろう、と。またあなたがロケット操縦士と機械技術者の前歴をもち、地球の表面から火星までの間のロケットのことなら何でも心得ているけれども、別に政治的に外部との接衝にあたる最高責任者というものは、いずれにせよ必要なのだ、と。
では、そういう地位に適当した人物に心当りがあるのか、と大統領はたずねました。幾人か候補者としてあて[#「あて」に傍点]にしている人物はあるけれども、法案が下院を通過するまで名前は伏せておきたい、とわたしは答えて、だいたい予定している法案通過の時期を教えてやりました。
たしかに通過させられる見込みがついているのか、と大統領は念を押し、わたしが大丈夫だと答えると、秘書を呼び入れて面会予定表を持ってこさせ、今日から一週間後にあたる来週の水曜午後二時にわたしと面会の約束をしてくれました。
その時までには、最高責任者として推薦する第一の候補者と、もし大統領がその人の任命に反対した場合かわりにすすめられる第二の候補者を、はっきりきめておきます。そしてその前に二人の相手とも会って、こっちの持ち札をすっかり相手の目の前に並べて、推薦してあげてもいいけれども、それはわたしが勧める人物を作業監督官に任命するという条件つきなので、それでなければ推薦してやらない、と、はっきっり念を押してやるつもりです。
相手は、きっとそうすると約束するにきまっています。大体わたしの考え通りにでき上った法案によれば、なにしろそれは、政治的にもかなりの要職ですし、報酬もいいのですから。それにわたしはよく調べた上で、はじめから誘いの水を向ければ飛びついてくるにきまっていて、たった一つこちらがつける条件をとやかく言う気づかいのない相手を選ぶのですから。
いよいよ、最後の追込みにかかったのよ、あなた。いま一息、辛抱なさってね」
*
わたしは辛抱した。エレンの手紙はロケットの特別速達便で、差出人がそれを書いた日、つまり火曜日の午後まだ早いうちにわたしの手もとにとどいた。
したがって、もし法案が木曜日に票決に付されるとすれば二日間、金曜日なら三日間、辛抱しなければならないわけだった。
実際、待ち遠しかった。脅迫され、追いつめられたような気分だった。事実、事の成否がきまる時はすぐ目の前に迫っていたのだ。
さんざん苦労してここまで漕ぎつけはしたものの、最後のどたん場まできて背負い投げを食わされることは、往々にしてありがちなことだから。
またこの前のようなロケット事故が起ったらどうなる? 幸い、同じ法案の上院通過の際すんでのことにわたしたちの計画の命とりになるところだったデイモスでの事故いらい、一つも事故はおこっていなかった。わたしは毎晩おそく放送されるその日の重要総合ニュースにテレビのダイヤルを合わせて確かめることにしていたから、これは確かだ。けれども今、法案票決まであと二、三日という今になって、また事故がおこったらどうなる? 何もかも次期議会までお預けになることは間違いなかろうし、全体の形勢もがらりと一変してしまうかも知れない。とにかく、すくなくともほとんど一年間の遅延は覚悟しなければなるまい。それにわたしだって、年を逆にとってだんだん若くなって行くわけじゃない。わたしはちょうど五十九回目の誕生日を迎えたところだった。六十はもうすぐ目と鼻のさきだ。
その後の二、三日、わたしは携帯用テレビをオフィスの机の上に置いて、ニュース放送の度ごとに、気をつけて見ていた。ことに木曜日には、何かの故障があってエレンからの電話がうまく通じないような場合、テレビのニュース放送のほうがさきになるかも知れないと思って、オフィスを出る時には必ず出先を秘書に教え、ワシントンから電話がかかってきたらそちらへ廻してくれるように、と念を押すことを忘れなかった。が、電話はかかってこなかった。
わたしは一日の勤めを終えてアパートに帰り、そこでとうとう我慢できなくなってこちらからエレンに電話をかけた。ワシントン時間の九時で、その時分にはもうかの女も帰宅しているに違いなかった。また事実その通りだった。
「順調にはこんでいるのかい?」とわたしはきいた。
「ええ、何もかも。法案は明日上程されることになっているわ。最初から三つ目の議事として。前の二つは、これといって問題のないありきたりの議事だから、十一時にはわたしたちの法案の票決にかかれると思うのよ。そちらの時間の午前八時ね。その頃、あなたはまだおうち[#「おうち」に傍点]でしょ? どう?」
「うん。だが――しかしそれより遅くなると、うちとオフィスと、ちょうどその中間にいるってことにならないとも限らないよ。だから、こうしよう。わたしはいつもより早く家を出て、そうだな……七時にはオフィスに着いているようにする。そうすれば、おまえから電話がかかる時間には出勤の途中なんてことは絶対なくて済むだろうから」
エレンの笑い声が電話線をつたわってきた。「いいわ。じゃ、とにかくオフィスを呼び出すことにしましょう。でも、七時半より早く行ったってむだ[#「むだ」に傍点]よ。それより早く大勢がきまるってことは、決してないわ。それからわたしたちの法案が討議もなしにすらすらと通ったとしても――」
「わかった。それじゃ、七時半以後ずっとオフィスにいることにする。ところで、エレン、ずいぶんつかれたような声だが、大丈夫なのかい?」
「疲れているの。そのことを別にすれば、元気よ」
「もう頭痛はしないのかい?」
「もう頭痛はしません。それに、今から休めるわ。今夜は早く床につくつもりなの。明日は上院のほうには、登院しないで、下院の傍聴席に出かけて、大勢がきまるまで様子を見とどけて、あなたに電話をかけて、あとその日はもう臨時休蝦ってことにするつもり」
「そして、何もしないで、休養するって約束してくれるかい?」
「ええ、何もしないで休むわ。それともお昼休みの前に法案が通ったら、午後どこかへ行ってみるかも知れないわ。ただ気晴らしのために。どこへ行くか、教えてあげましょうか? 動物園に出かけて、猿を見るのよ。午前中いっぱい下院の代議士さんたちのお茶番を見たあとでは、きっとそれで神経が休まるわ。わたし、人間ってものにそれほど信用をおいていないの。まったく、その点にかけては猿といくらも違っちゃいないわ。わたしもあなたみたいに、人間の本性や能力を信頼できるといいんだけれど」
「わたしより、おまえのほうがずっと信頼してるはずだよ。ただ、今は疲れ過ぎてるだけだ。これ以上喋っていると、また疲れるといけないから……じゃ、おやすみ」
その夜は、わたしも早目に床についた。けれども気が張って、心配で、なかなか眠れなかった。しばらくやきもき[#「やきもき」に傍点]したあとで眠ることは一時あきらめ、屋上に出て望遠鏡をのぞいた。木星は地平線下にあって見えなかったが、その夜はちょうど環をかぶった土星が見やすい位置に来ていて、美しかった。土星も見て美しい星の一つだ。木星より一廻り遠い、地球から外にむかって木星のつぎの足がかりだ。
そして明日こそ、わたしたちが間もなく木星に行けるかどうかが、はっきりきまる。木星行きロケットの法案は通るだろうか? それとも運命の歯車のどこかがかけて、これまでの計画がぶちこわしになってしまう……?
*
歯車は、かけなかった。
エレンから電話がかかったのは、九時二、三分前だった。
「オーケーよ、あなた」とかの女は言った。「いま通過するところ」
「すごい!」
「余裕しゃくしゃくよ。名前を呼び上げて順番に投票するので、今まだつづいてるわ。投票に参加したのは全議員の四分の三ですけれど、もう過半数をとってしまったわ――というのは、投票される予定の票数の過半数ですけれど、だから、実際はもう可決したのと同じ。もし最終の票決結果が知りたければ、あと二十分もしたらまた電話してもいいわ」
「そんなこと、放っとけ」とわたしは言った。「エレン、まだ疲れてるみたいな声だぜ。すぐ家に帰って休んだほうがいい。それとも、動物園へ行って猿を見るつもりだと昨日言ったのは、ありゃ本気なのかい?」
「言ったときは半分本気だったけれど、でも、やっぱり帰ってすこし寝ることにするわ。今夜、ひとと会食の約束があるの。もうすぐに最高人事の推薦のお膳だてを始めなけりゃ」
「誰だい、今夜つき合う相手は?」
「ホイットローよ。ウィリアム・J・ホイットロー。それが第一の候補なの。名前を聞いて、何か思い出すことがあって?」
「幾度も聞いた名前のような気がするんだが。思い出せない。簡単に説明してくれ」
「ウィスコンシン州選出のもと下院議員よ。ジャンセンと同じ政党の所属。この前の選挙で落選したんだけれども、本人の罪じゃないの。同じ党の他の候補に較べたら、ずっと多く票をとったのよ。ウィンコンシン州だけに限っていえば、大統領選挙で、ジャンセンが集めた票より多かったくらい。ところが、選挙前あの州で汚職事件があったのよ。覚えてるでしょ、例の乳製品業者の贈賄事件? ホイットローは関係してなかったけど、同じ政党の人たちが、あまり大勢連坐していて、人よりも党をとって票が全部よそへ行っちまったの。二年前、下院でアラスカ開発法案を通すために戦ったので有名で――その法律にはあのひとの名前をとってバーンズ=ホイットロー法って名がついてるわ。それででしょう、あなたが名前を開いたような気がするってのは」
「今、何をしてるんだね?」
「国務省の次官補の中の一人よ。選挙の後でジャンセンが世話してやれた一番いい地位が結局それだったの。でも、ロケットの計画の最高長官とは較べものにならない、つまらない仕事だわ――報酬も半分以下だし、あまり名を売る役にもたたない。木星行きのロケットの話をしたら、とびついてくるわよ。ジャンセン大統領も、自分の息がかかった男の地位が上るんだから喜ぶでしょう、きっと」
「上院の承認を受ける場合、面倒のたねになりそうなことはないのかい?」
「これっぽっちも。清廉潔白ってことで通ってるの。うんざりするほど実直な人柄よ。上院議員たちは、指一本さしゃしないでしょう。その点は、お誂えむきといっていいわ。マックス」
「そりゃ結構。しかし、ものの考え方のほうはどうだい?」
「わたしは、あのひとがこれまで議会でどんな動き方をしてきたか、調べてみたの。絶対中立より、どっちかってばこっちの味方に近いほうよ。とくに拡張的な法案の後押しをするってとこはみられないけど、ロケットを作ったり、飛ばしたり、地球の外に植民地を開拓する計画には、一度も反対投票したことはありません。ということは、あのひとがわたしたちの仕事に向いてるってことなのよ――政治的に都合がいいってことですけど、わたしが言う意味は。なまじっか急進的な拡張主義者という評判をとってるような人物より、むしろ」
「そりゃそうだ。で、人柄は?」
「少々こちこち[#「こちこち」に傍点]ね。その点わたしもちょっと……。でも、心配いらないわ。あなたなら、きっとうまく操縦できるし、あなたの邪魔はしませんわ。工学とかロケットとかいうことには、ほんの初歩の知識もありゃしないんで、建設工事というもの一般についてだって、どうだか怪しいもんだわ。とにかく実際の仕事はあなたに任せっきりで、自分は書類いじりのほうが立派な仕事だと思って満足してるような人よ。今夜、きっと上手にあなたを売りこんでみせるわ。いえ、話がそこへ来たから言いますけど、今夜はあなたの名前は出さずにおこうと思うの。わたしはただ、あのひとを最高監督官に推薦するかわりに、わたしが指名する人物を第二の地位に据えなきゃいけないって言ってやるだけ」
「どうして?」
「それで、相手を二重に縛ってやろうと思うのよ。マキャヴエリそこのけの政治のかけひきってとこね。もしあのひとがその人事のことでジャンセン大統領と会談するまで、わたしがあなたの名前を伏せておき、たまさか大統領がわたしの言ったことを思い出して、自分の考えとしてあなたをホイットローに推薦したらどうなると思う? わたしとの約束のことを考えて、それこそ頭痛鉢巻だわ。そこでわたしがあなたの名前を言うと、それがちょうど大統領が推薦したのと同一人物だったとしたら――それがどうホイットローに響くか、考えてごらんなさいな! あなたを自分のすぐ下の地位に据えることで、わたしとの約束を果すと同時に大統領の勧めをうけいれることができるんだわ。何につけても、あなたと衝突するのはよそう、と思うでしょう? 逆に、ジャンセン大統領があなたの名前を口に出さなかったとしても、こっちとしては、どうせもともと[#「もともと」に傍点]なんですから」
「感心したよ」とわたしは言った。「ただ、相手をもてなすあまりに、夜ふかしをしないようにな」
「しません。する必要がないんですもの。こっちから押売りするんじゃなくて、向うからとびついてくるにきまってる取引を一方的に申入れるだけですから。誘惑する必要はもちろんないし、いい顔を見せてやらなくたっていいくらいよ」
「そんなところだな、どうやら。しかし、それで思い出したんだが――お祝いをしても、いいんじゃないか? 今日は金曜日だ。明日と日曜、二目つづけて休みをとれるように都合できないこともないが。おまえだって今夜と明日いちんち眠ったら、明日の夜二人っきりで水入らずのお祝いをやれるだけに元気を回復できるとは思わないか? わたしのほうは明日の午後のジェット機で出かけて、日曜午後ので帰ってこられる」
「すてきな思いつきね。だけど、マックス、あなたの任命がおわって、本当に[#「本当に」に傍点]お祝いできるときまでお預けにしましょうよ。わたしが本気でかかったら、来週の末にはそっちのほうも片付いてしまうんじゃないかと思うの。だったら、それまで待つだけの値うちはあるんじゃないかしら?」
わたしは溜め息をついた。「だろうな。しかし、おそろしく淋しいんだ、こっちは、クロッキイまで行っちまって。エムバッシには時々会うが、あの男とじゃお祝いらしい気分にもなれない。葡萄酒より強い酒は飲まないし、それさえ一杯か二杯しかやらないんだから」
エレンは笑った。「そう、それじゃあんまりお祭気分になれそうもないわね。あなた、明日の午後バークレーへ出かけて、ベスとロリイの二人とお祝いしたらどうなの? 二人とも、いい人たちだわ」
「だとも。そうしよう」
「ええと、それから、今日の夕刊を忘れずにごらんになってね。うんと宣伝上手な人に頼んで、ロケットの計画についてすばらしい新聞発表のための配布資料を用意してあるのよ。とっくにできていたんだけど、下院を確実に通過するまでって抑えてあったの。それを間もなく、記事解禁にしますからね」
「気をつけて見るよ」とわたしは言った。「有難う、おまえ。電話の話を、あんまり長くひっぱるのは迷惑だろうから、この辺でやめる。それじゃ、来週きっと会おうよ。それまでにも、時々わたしのことを思い出しとくれ」
「新しいニュースができたら、すぐに知らせるわ。それじゃ――さよなら」
その日の夕方、わたしはロリイとベスが翌日の夜在宅するか、またその夜から翌日にかけてわたしとつき合うひまがあるかどうか、念のため電話で問合わせようとしているところへ、むこうから先手を打って電話を、ひけ時の直前、オフィスにかけて来た。
「マックス、明日こっちへ飛んでこれるか?」
行ける、とわたしは答えた。
「木星ロケット計画法案通過記念大祝賀会をやろうって話がもち上ってるんだ」とかれは言った。「五十人かそこらで――たいていはトレジュア・アイランド・ロケット空港の連中なんだが、人数はもっと多くなるかも知れん。プレイアデスの部屋を幾つも借り切って、ちょいとした大|無礼講《ぶれいこう》になりそうだぜ」
結果はまさしくオール・ナイトの大|無礼講《ぶれいこう》になった。明け方までつづいた。行ってみると、わたしは当夜の主賓ということになっていた。というのはエレンが言った新開発表に、ロケットの計画の功の大半はわたしに帰すべきだと書きたててあったからで、わたしは演説をさせられ、途中でへどもど[#「へどもど」に傍点]つっかえてしまった。が、そんなことを気にするやつは一人だっていなかった。
*
そんなふうに名前を宣伝されたためにロサンジェルス・ロケット空港でわたしの株が下がるということもなかった。月曜日に職場に戻って、そのことがわかった。クロッキイがわたしを、他の連中をさしおいてむやみに早く昇進させたことについて、空港の人々の間に多少恨みがましい気持が流れていたとしても――事実、すこしはそういう傾向があったとわたしは思うが、今やそれは一掃された。三日天下かも知れないが、とにかくわたしは英雄だった。うっかり英雄にふさわしくないことをしたら、ぶち壊しだ。昨日と今日の違いを、わたしははっきりと感じた。
月曜日にも火曜日にも、エレンからは音沙汰なし。むろん、どうしても電話がかかるか手紙が来るかしなけりゃならない理由はない。火曜の午後のニュース放送は、大統領が木星ロケット計画法案に署名し、今やそれが正式に法令として成立したことを知らせた。けれどもそのことについてはすでに話もしたことだから、是非エレンから電話がかかってこなけりゃならないいわれ[#「いわれ」に傍点]はない。
しかし水曜日はエレンとジャンセン大統領との会見の約束の日で、会談が終りしだいきっと電話をかけるか、すくなくとも電報を打つくらいのことはしてくれるはずだった。もしホイットローとの話合いがうまく行って、同時にホイットローの計画長官任命が確実となったら、わたしの将来もきまったと同じになるのだから。
エレンと大統領の会見の約束の時間は午後二時――太平洋標準時の午前十一時のはずだったから、十一時以後ずっとわたしは電話をとり損なうまいと、オフィスから出ずにいた。やがて昼になったが、まだ電話はかかってこない。わたしは食事をとりに外へ出るかわりにオフィスに弁当を運ばせて、電話器の傍に頑張っていた。午後一時になると、すこし心配になってきた。エレンと大統領の会見は、十五分長びくことはあり得ない。しかし、きっとエレンは何かの大切な用事でもあって大急ぎで上院に戻り、わたしには晩電話することにしたのだろう。
しかし、オフィスのひけ時の五時――エレンがいるワシントンの時間では八時になっても、まだ、電話はかかってこない。ばかな! とわたしは自分に向って言った。便りのないのは無事の証拠さ、と。何もかもうまく行っていて、エレンはわたしが家に帰って寛ぎ、話の途中で邪魔がはいる心配がなくなったところをみすまして電話をよこそうとしているのさ。
わたしは帰途レストランでそそくさと夕食を掻込んで六時には家に着いた。七時にワシントンのエレンのアパートに電話をかけてみたが、応答がなかった。それから深夜の二時まで――わたしにとっては午後十一時まで一時間ごとに電話で呼出しをかけ、その夜はそれで打ち切りにした。二時になってもまだ帰宅しないとすれば、その夜はどこかよそに泊りだろう。が、だったら何故わたしに電話をかけて知らせてくれないのか? わたしが電話を待ちわびていること、もしその電話がかかってこなければわたしのほうから電話をかけるだろうということ、それでかの女が家にいなければわたしがひどく心配するだろうということは、エレンとしては充分承知のはずだった。
わたしは、目覚まし時計のベルを五時にかけて寝床に入った。とぎれとぎれに、それでも眠ったようだが、四時半にはもう起き上ってコーヒーを自分でいれた。五時、ふたたびわたしはエレンのアパートを電話で呼んでみた。よそで一夜を過したとしても、その時刻にはきっと着替えか、それとも登院の際に持って行く書類でもとりに、一度は戻ってくるだろう。それには一番ふさわしい時間――上院の議事開始の一時間前だった。が、応答なし。エレンは全然帰宅していないことになる。
三十分待ってから、こんどは開会三十分前の上院に電話をかけ、議院の守衛を呼出した。ちゃんと院内の議席まで行って、そこにエレンがいないかどうか確かに見とどけてもらうために、わたしはことさらロケット空港長という肩書をふりかざして、大事な用事だという印象を与えるようにした。けれども、もしギャラハー議員が忙しそうだったら、今すぐわざわざ電話口まで引張ってこなくてもいいから、暇ができしだいわたしに電話をくれるように言づてしてくれ、とわたしは頼み、相手がかしこまって、即座に見に行ってくれている間、通話を切らずに待った。十分もたたないうちに守衛は戻ってきて、「ギャラハー議員はまだ登院なさっておられません」と言い、けれども気をつけて見ていて、見かけたらすぐにわたしの伝言をとりついでくれる、と約束してくれた。
わたしは礼を言って電話を切った。
ワシントン市の警察に電話をかけてみるか? もしエレンの身に何か事故があったとすれば、それはおそらく昨夜のうちに違いなく、きっと今頃はもう警察にもわかっているだろう。けれども、もし事故なんか全然なかったのだとしたら、よく考えてみればごくあたり前の何かの理由があって家を留守にしていたのだとしたら、わたしが電話をかけたお蔭で警察が大騒ぎで捜索をはじめ、そのためにエレンに迷惑がかかり、かの女が姿をあらわす前に新聞やテレビで大げさに扱われてひっこみがつかなくなったりしないとも限らなかった。
わたしは坐って受話器を睨みつけていた。と、そのベルが鳴り出した。
ワシントンからだ。わたしはほっと息をつき、きっとエレンが上院に着いて守衛からわたしの言づてを聞いたのだなと思い、すぐに応答した。
けれども先方は男の声だった。「ミスター・アンドルーズですか?」
そうだ、とわたしは言った。
「こちらはケリイ病院の医師で、グランドルマンと、申します。エレン・ギャラハー上院議員の御依頼で電話をおかけしておりますので。ギャラハー議員は只今当方に入院中で、こうしてあなたに電話をかけるようわたしにお頼みになったのです」
「どうしたんだ? けがはひどいのか?」
「けがではありませんので、ミスター・アンドルーズ。本日後刻、脳|腫瘍《しゅよう》の除去手術をすることになっております。あなたへのお言づてと申しますのは――」
「言づては、ちょっと後廻しにしてくれ。その手術は危険なのかね?」
「かなり大手術ですが、見込みはそう悲観的というほどでもありません。はじめて診察をお受けになった、今から十日前に手術できたら、もっとよかったのですが。しかし今からでも、最悪の事態だけはまぬがれることができると思っております」
「手術の時刻は? その前に、わたしが行って本人と話をすることができるかね?」
「午後二時半の予定です。二時には準備にとりかかりますので、今は九時五十分ですから――こちらの時間で、あと四時間と十分ということになります。特別のロケットを仕立てれば別ですが、それにはおそろしく金がかかり――」
「行く、と伝えてくれ」とわたしは言って、叩きつけるように受話器をかけた。
それからまたすぐにとり上げ、わたしの秘書の自宅の電話番号にダイヤルを廻した。二、三分して、眠そうな声が聞えてきた。
「マックスだよ、ドッティー」とわたしは言った。
「しゃっきり目をさましとくれ、至急の用事なんだから。鉛筆と紙が傍にあるかい?」
「はい、ミスター・アンドルーズ」
「よし。手ぬかりをしないように、今から言うことを書きとめてくれ。そしてこの電話が切れたら、すぐ実行してくれ。第一、空港を呼び出して特別ロケットの出発準備をさせ、わたしがそちらに行くと同時に離陸できるようにすること。二十分以内に行く。操縦士は、他に交替の当直がいるなら、レッドにして欲しい。行先はワシントン。いいかい?」
「はい、ミスター・アンドルーズ」
「第二、それが済んだら、ヘリコプター・タクシー会社を呼び出して、一台わたしの自宅へ廻させること。非常特例として、アパートの屋上に直接着陸するように。それでもし問題が起ったら、わたしが全責任をとる。わたしは、この通話の十分後には屋上に出ている。いいかね。わたしが着替えをしてる間にこれだけのことを実行して、終ったらそっちから電話をかけてくれ。まだ、あと二、三、頼みたい用事があるから」
わたしは自分の体に服を叩きつけるようにして着た。ところへドッティーから折りかえし電話。ロケットはすでに出発準備にかかり、ヘリコプター・タクシーも、すぐそちらへ廻る、と。それからわたしはドッティーに、今度は仕事のことを――留守中、誰に代理を頼むとか、その男にこう伝えて欲しいとかいったことについて指示をあたえた。
それから屋上まで三階をかけ上り、二分待ったところでヘリコプター・タクシーが屋上に舞い下りてわたしをさらいこんだ。
*
わたしたちはロケット空港を七時二十分に離陸した。病院からの長距離電話の会語を打切ってから二十二分後だ。もし旅客ロケットの航行規則に許された最高上昇限度と最低下降限度を守っていたら、ワシントンまでは二時間十五分かかるはずだった。けれどもわたしが分秒を争う飛行だと言った瞬間から、レッドはわたしを“旅客”だとは考えていなかった。一時間五十分で目的地に着いた。先方にはもうヘリコプターがわたしを待っていて、わたしたちが着陸すると同時に着陸場に出てきた。わたしが言いつけたのではなく、ドッティーが手配してくれたのだ。
で、わたしは東部標準時間の正午――エレンの手術の準備がはじまる二時間前に病院に到着した。
受付では、わたしにエレンの病室を教えてくれようとしなかった。グランドルマン医師から、わたしが来たら自分の部屋へよこすように、と指示があったのだ。わたしはかれのオフィスへ案内された。
かれは赤い顔をした、ずんぐり背の低い、まるでロケットの鼻面のような禿げ頭の男だった。外見は、医者よりもバーテンダーかレスリングの選手にふさわしい。握手の手をさし出したので、やむを得ず握ったが、あんまり長くは握らなかった。わたしはそんな男に会いにきたんじゃない。エレンに会いに来たのだ。さっさと病室に通してもらいたいものだった。
「ずいぶん早くお着きでしたな、ミスター・アンドルーズ。もうここまでお出でになった以上、お慌てになることはありません」
「あんたは慌てなくてもいいだろうが、わたしはそういうわけにはいかん。どこにいるんだね。病人は?」
「どうぞおかけ下さい、ミスター・アンドルーズ。しばらくそこにお坐りになったからとて、あのかたと一緒にお過しになれる時間が一分でも縮まるわけではありませんよ。手術の準備にとりかかるまでにはまだ二時間ちかくありますが、どう延長しても一時間以上面会をお許しするわけには参りません。実際一時間でも通常の限度を越えているくらいでして。どっちにしても同じ一時間なら、いよいよ手術の用意をはじめる直前の最後の一時間、つまり一時か二時まで、傍についていておあげになったほうがいいのではありませんか?」
「よかろう」とわたしは言った。「ただ、わたしがすでに到着していて、一時になったら会えるのだということを本人に知らせるという条件つきで。果して間に合うように到着できるかどうか、寝たきりやきもき[#「やきもき」に傍点]気をもんだりしないように」
「もうご存知ですよ。あなたがこちらへ案内されておいでになる間に、受付からここへ電話で知らせがあり、あなたがお見えになったことは即刻わたしからギャラハー議員にお伝えしておきました。さあ、おかけになりませんか?」
わたしは坐って、言った。「済まん、ドクター。なにぶん気が立っているもので」
「それもまた、あなたを今すぐに患者におひき合わせしたくない一つの理由なのですよ。お会いになる時は冷静に、興奮なさらないように。そうおできになりますか?」
そういうふりはできると思う、とわたしは言った。
「いったい何事がおこったんだね? 原因は? またここへ入院するようになった経緯《いきさつ》は? 発病の時期は?」
「腫瘍《しゅよう》は、すくなくとも一年以上前すでに発生していたに違いありません。最初の自覚症状にあたる頭痛は、一月から始まっていたそうです。最初は断続的で、また堪えきれないほどひどくはありません。ギャラハー議員は三月――つまり二カ月ほど前に、医者のところへ診察を受けに行かれました」
わたしはうなずいた。それはわたしたちのハヴァナ行きの直後に当っていた。あの頃きっとエレンは、わたしにそれと見てとれるよりずっとひどい苦痛になやまされていたのだろう。
グランドルマンは話しつづけた。「あのかたが診察をお受けになった医者は、偏頭痛と診断して、それに応じた手当をしました。これは、その医者の責任ではありません。腫瘍《しゅよう》の位置は、ちょうどそのためにおこる症状が偏頭痛のそれと混同されやすいところに当っていたものですから。それからしばらく、本人の自覚では病状は快方にむかっているようでした。ところが十日前に突然また悪化して、それでもとあのかたを偏頭痛と診断した医者が、この病院へ来て精密診断を受けるよう、あのかたに勧めたのです。その結果、腫瘍が発生していること、およびその位置がわかり、わたしは即刻手術を受けるようにおすすめしました。けれどもあのかたは、どうしても二週間だけ手術を延期してくれ、と頑張られるのです。そのためにみすみす危険率が増すことはわかりきっているのに、何でもひどく重要な法案についての仕事を片づけるまで待ってくれ、と」
わたしは目を開けていられなかった。木星ロケットだ。命をかけても、とエレンは思ったのか。命をかけても推進しなければならないほど重大な仕事だと思ったのか、それともその計画に対するわたしの執着と、かの女のわたしに対する愛情に命をかけようと決心したのか?「それから?」とわたしは話のさきを促した。
相手は肩をすくめた。「そうおっしゃられたのでは、わたしに何ができましょう? 本当は明後日――土曜日の予定だったのを、今日に早めたのです。ヴァイスザッハ博士の執刀で――ご存知ですか、このかたの名前を?」
わたしは首を横に振った。
「脳外科の手術では、おそらく世界一でしょう。リスボンにお住まいですが、普通の診察はなさらず、手術だけが専門です。病状が許す場合には、患者は飛行機でリスボンに行って手術してもらいますが、今度のギャラハー議員のように非常の場合には、あちらから出向いてお出でにもなります。むろん費用はずっと高くなりますけれども」
「費用の点で、何か問題は?」
「ありません。ギャラハー議員が、すべて御自分でお支払いになるそうです。ヴァイスザッハ博士も、すでに到着しておいでになります。今朝お着きになって、予備診察と打合わせをお済ませになりました。今は、しばらく御休息になっておいでです。他におききになりたいことは?」
「うん。手術成功の見込みは?」
「ほかならぬヴァイスザッハ博士の御執刀ですから、成功率は極めて高かろうと申上げてよろしいでしょう」
「手術が終って、もう大丈夫――絶対に大丈夫と見きわめがつくまで、どれくらい時間がかかる?」
「そのご質問には、手術後でないとお答えをはばかります」
「なるほど。わたしの勤め先へ、留守にする期間を知らせなけりゃならないので、きいたわけだが、いや、それじゃまた後できこう」
*
一時きっかり、わたしはエレンの病室に歩み入った。
顔色が蒼ざめているようだったが、他はわたしと最後に会った時とちっとも変りはないように見えた。エレンは微笑しながらわたしを見上げた。まだ、すぐには、わたしは相手にキスしようとはしなかった。わたしはただ立って、じっとかの女を見下ろしていた。めざましい色の対照――栗色の毛が枕の白を背景にして。
エレンも気がついたのだろう。「最後の見おさめよ、あなた」とかの女は言った。「剃らなけりゃならないんですから。ね、ご存知でしょ」
「髪の毛なんぞ、どうだっていい」とわたしは言った。あまりロマンチックな挨拶ではなかったかも知れないが、そう言ったわたしの気持は通じて、エレンはもう一度微笑した。
「おまえ――」とわたしは言った。「こんなことになっているんだと、何故わたしに知らせなかったんだ? 手術を受けることは、十日前からわかってたっていうじゃないか」
「心配をかけたくなかったの。そりゃもう、来ていただきたいのは山々だったけれど。手術前に是非もう一度お顔を見ておきたくて――いよいよ手術する直前に。けれども予定では土曜日に手術するはずだったでしょ? だから金曜の晩あなたにお電話して、夜行の飛行機で土曜日の朝こちらに来ていただくつもりだったの。そうすれば日曜日にはお帰りになれるから。こんなふうに――ごめんなさい、おそろしく急なことになって、あなた。でもとにかく来てくださって嬉しいわ。キスしてくださらないの?」
わたしは優しく、柔らかくキスした。
エレンは言った。「さ、マックス、その椅子をこっちへお寄せなさいな。坐って、今までにわたしがやりとげたことの報告を聞いて。グランドルマン博士に、お言づてを頼んだのに、あなたってば、聞いてくださらなかったんですって?」
「時間が惜しかったから。理由はただそれだけだ。ただここへ飛んできたくて、夢中で。何だったんだい、言づてってのは?」
「ジャンセン大統領はホイットローを計画長官に任命することにきめたってこと。それからホイットローも、わたしが申入れた条件をいれる約束をしたってこと」
「おまえ、何故十日前にグランドルマンが手術を受けろと言った時すぐにそうしなかったんだい? 木星ロケットは、建造にどうせ二、三年はかかるんだから、二週間や三週間おくれたってどうってことはないのに」
「そうはいかなかったのよ、マックス。法案は下院を通るように、またほかのこともすっかりお膳だてができあがっていて。わたしがいなくても、法案は難なく通過していたでしょう」
「そんなら、何だって――」
「わからない、あなた? そこでわたしが手術を受けたら、一番かんじんな、人事をきめる時にわたしが立会えないってことになるじゃないの。でも、わたしはどうしても、あなたの地位を確保しておきたかったの。それにわたしは、グランドルマンは早く手術を受けさせるために危険を誇張して言ってるのだと思ったのよ。たった二週間ばかり延長したところで、ここまできたからには大した違いはない――それで危険が増すなんてことはないだろうとたか[#「たか」に傍点]をくくったのよ。どっちみち死ぬ危険があるのだとしたら、あなたがあれほどお望みだった――いいえ、わたしたち二人の念願だったロケットの仕事を、確かに手の中におさめておきたかったの」
「やめろ、そんな、まるで――。ばかな。おまえはきっとよくなるにきまってるよ」
「もちろん、そのつもりよ。だけど、そういかない場合のことも考えに入れておかなけりゃ。昨日はね、こんな具合だったのよ。わたしは二時に大統領に面接する時、二重の手間を省くために、ホイットローを一緒に連れて行ったの。もちろん、わたしが大統領の部屋に入っている間、ホイットローは控えの部屋に待たせておいたわ。わたしはすぐ用談をきり出して推薦する人物の名前を言うと、大統領は喜んだわ。ホイットローならまさに打ってつけの人物だし、かねがね国務省であの男が現在占めている地位は役不足だと思っていたところだ、と言うの。よろしい、喜んでホイットローを計画長官に任命しよう、というわけで大統領は秘書を呼んで、ホイットローを引見する時間をきめて予定に繰り込むように言いつけようとしました。
そこでわたしはにっこり大統領に笑いかけて、きっと大統領はわたしの推薦する人事に同意してくださると確信していたので、実はホイットローを同道してきているのだが、はじめ面接の時間としてお約束くださった十五分間のうちまだたった二分しか経っていない今のこの機会を利用して、ホイットローにお目通りくださって一時に用事を片付けてしまったらどうだろうか、と言ってやったのよ。そこで大統領は秘書にホイットローを呼入れるようにいいつけ、それで万事決着よ。ただね、あなた、一番おしまいの幕ぎれったら! 大統領があなたのことを思い出して、あなたのことをしきりに賞めそやして、是非あなたを計画実施の監督官にしろと勧めるのよ。すると、ホイットローってば――」そこでエレンはくっくっ笑った。「じわじわ汗をにじませているのがわかるの。それってのが、わたしが推薦する人物をその地位につけると約束したばかりのところへ、大統領からそんなこと言われたものだから。それからホイットローがこっそりこっちのほうを盗み見たから、わたしはうなずいてやったの。まあ、その時のあのひとのほっとした顔つきったら! まるでその場でダンスでも始めるんじゃないかと思ったほどだわ。きっとあなたを監督官に任命する、とあのひとは大統領に約束しました」
わたしは言った。「そりゃよかった、エレン。しかし、何故わたしに電話をかけなかったんだい――いや、そのことじゃなくて、土曜の予定を繰上げて今日手術を受けるってことを?」
「わたしがそう決めたんじゃないの。用談を済ましてホワイト・ハウスを出ると、ホイットローはタクシーを拾って、どうせ行先が同じ方角だから、その車でわたしを家まで送ってくれると言うので、遠慮せずそうしてもらうことにしました。わたしが覚えているのは、その車に乗込んだところまでで、つぎに気がついてみるともう今朝になっていて、わたしはここに入院させられていたってわけ。ホイットローは、大急ぎでわたしをここへ運んでくれたのよ。それからわたしのハンドバッグの中からグランドルマン博士の署名入りの診察料の領収書がみつかって、すぐ博士のところへ問合わせが行き、博士はすぐにわたしをここへ運びこませると同時にリスボンへ国際電話をかけてヴァイスザッハ博士に出張手術を依頼してくださったの。今朝目がさめてみると、もうすっかり手術の手配ができあがっていました。わたしにできることといったら、すぐあなたに電話をかけてくれるようにって、グランドルマン博士にお願いするだけ。もちろん間に合えば、来ていただきたかったけれど、もし間に合わない場合は、せめてあなたのお仕事の件について話がすっかりまとまったってことだけ、どうしても知らせておきたかったのよ」
わたしは言った。「でも、よかった。間に合うように電話がかかって」
「嬉しいわ、来てくださって。でも、お話だけならできないことはなかったのよ。どっちにしても。あなたが、もうあちらをお発ちになったって知らされたあとで、もう後の祭でしたけれど、この部屋まで電話の内線を引張ってもらえば、あなたと直接お話できるってことに気がついたの。もしお出でになれなかったとしたら、きっとそうしてもらっていたでしょう」
「いや、このほうがいい」とわたしは言った。「電話じゃキスはできないからな」
「それから手をつなぐことも、ね。わたしの手を握って頂戴な、マックス。そうしていて幾つかあなたに聞いていただきたいことがあるの」
わたしは椅子をいっそう近くいざらせ、エレンの手をわたしの両手の中につつみとった。
「ほかの話はあとでいい」とわたしは言った。「今は、いま一度、わたしを愛してると言っておくれ」
「今さらなにをおっしゃるの。わたし、今までの一生を通じてあなたほど強くひきつけられた相手は他に誰もいないわ。いえ、過去のことじゃなくて、今はなおさらそうよ。まるでわたしはあなた、あなたはわたし――二人は一人で、どこからわたしでどこからあなたなのか見境いがつかないくらい」
「そうだ」とわたしは言った。「わたしもおなじだ」
「でも、もし――万一わたしの手術の結果がよくなくても、それで挫けてしまわないでね、あなた。あなたには、なさらなければならない仕事があるんだから。わたしがお傍にいようといまいと」
「おまえ、そんな縁起でもないこと――」
「マックス、ひょっとすると手術が失敗する可能性もあるって事実に、まともにたち向わなければいけないわ。その率は百に十か一か知れないけれど、その場合を考えに入れて、聞いておいていただきたいことがあるの。それだけ言わせて。ね? そしたらあとはそれこそ縁起でもないことは一言も言いませんから」
「よし」とわたしは言った。「言っちまっとくれ。わたしは黙って聞いているから」わたしはかの女の手を握った両手に力をこめた。
「第一に、わたしの遺言状のこと。遺産をあなたに譲るように書き変えたい気持は山々ですけれど――」
「何だと? おまえ――」とわたしは言った。「遺産のことなんか、聞きたくもない」
「黙って聞くと約束なさったでしょ? 何故わたしは遺言状を書き変えないか、理由だけ知っておいて欲しいの。遺産は遠い親戚の二人に譲るようになっているけれど、その二人はそれでもやっぱり一番近い身寄りということになるけれど、おまけにその二人というのはラルフ・ギャラハーの兄妹で、結婚を通じて親戚になった、血のつながりのない身寄りなのに、それでもわたしが遺言状を書き変えない理由を知って欲しいの。
第一の理由は、もしわたしの遺言が公開されて、わたしが遺産をあなたに贈ったって事実が噂となって流れ出したら、木星行きロケットの計画に参画したいというあなたの真意が誤解されて、せっかくここまできまった仕事をとり上げられてしまうかも知れないからなの。もしおっちょこちょいの事時解説者か何かが、そのことをとりあげて――」
「わかったよ、もう」
「それに、遺産といっても本当に大したことないのよ。この手術の費用を払い、お葬式の費用とか――」
「何を言うんだ、おまえ!」
「もしか[#「もしか」に傍点]ってことを話してるのよ、あなた。もしわたしが死んだら、とにかくお葬式だけはしなけりゃなりませんからね。それで、もしそうなった場合、お願いがあるの。それはね、あなたにはお葬式に出てもらいたくないってこと」
「何故? 参列者は幾百人となくあるだろう。まさか、その中にわたしが混ってたからって、そのことをとりあげてかれこれ――」
「そうじゃないのよ、このほうの理由は。ただとにかく、あなたにはお葬式に来てもらいたくないの。わたし、お葬式って、大嫌い。体裁ばかり大げさで、ばかげていて、胸がむかむかするわ。自分のお葬式ってことを考えるのも厭。もっとも、どんなふうだろうと、その時にはもう自分にはわからないんですけれどね。上院議員というからには一種の公人ですから、やっぱりお葬式はしなけりゃならないでしょう。それは仕方ないと諦めるとして、自分が心から愛している唯一人までがその仲間入りしてるところを想像すると、たまらないの。もしわたしが死んだら、死んだわたしなんてもの、ここでも、葬儀屋でも、あなたの目に入れてもらいたくないの。あなたの思い出に残るわたしが、死体であったりお棺であったりしてもらいたくないの。生きているわたしを、あなたの思い出の中に住む最後のわたしにしたいのよ。お葬式のことを考えたり、花環を送ったりもして欲しくない。これだけのこと、きっと約束してくださる、マックス?」
「ああ。そういう話はもうそれで終りって条件つきで」
「いいわ、死の舞踏はもう終りよ。あとはもう楽しく、朗らかにしましょう。あと、時間はどれくらい?」
わたしは腕時計を見た。「三十分ちかく」
「あら、まだそんなに? 嬉しい! さ、今度はすこしあなたが喋る番だわ。おはなし[#「おはなし」に傍点]してよ」
「おはなし[#「おはなし」に傍点]? おはなしをするのは、得意じゃないんだ」
「お伽噺なんかじゃない、実話よ。いつか聞かせるって約束して、いっこう聞かせてくださらないお話があったでしょ? 覚えてる?」
わたしは首を振った。
「ほら、去年の十月。あなたが学位をとって、お祝いのパーティーにあなたの弟さんのビルと奥さんがシアトルからおいでになったでしょ? ね? その時ビルがミシンとか何とか言ってあなたをからかって、二人で声をそろえて笑ったので、わたしがいったいそれ何の話? ってきいたら、あなたはそれは昔あなたがやった気ちがいじみたことについての笑い話で、説明すると長くなるからまたいつか別の時にしようっておっしゃったわ。それからわたしもずっと忘れていたんだけれど、今朝あなたが来るって知らされた時、ひょいとそのことを思い出して、時間があったら是非きこうってきめたのよ」
わたしは声をたてて笑った。「たいした話じゃないんだよ、エレン。あの時はパーティーの最中で、話なんかで時間を潰すのが惜しかっただけさ。ことの起こりはわたしが十代の年頃に読んだ一冊の本で、空想科学小説のはしり[#「はしり」に傍点]ともいうべきやつだった。著者の名前は忘れたが、題は『発狂した宇宙』とか何とかいうのだった。例の時間の軌跡というやつをテーマにした小説で、その小説の主人公はふとしたはずみで自分が現に住んでいる宇宙とは別の宇宙にとびこんでしまう。ところがその二つの宇宙は歴史上のある瞬間まで、何から何まですっかり同一なんだが、そこから両宇宙の時間の軌跡がずれてしまうんだ。つまりそれまでは両方の宇宙で必ず同じことが起っていたのが、それからは片方の宇宙で起ることが、もう一つの宇宙では起らなくなり、別の方向にむかって発展していくことになる。
その小説の中では、その瞬間というのが十九世紀のある時になっていて、その原因は片方の宇宙に住んでいる一科学者が星と星との間を旅行する方法を発見したためだということにしてある。たまたまその科学者が、中古の裁縫ミシンから低電圧の小型発電機をつくり出そうと奮闘している最中に、偶然そういう旅行方法が発見された、というんだ。その男は一組の小さなコイルをとりつけて、相互のコイルをミシンの踏み板につないで、さて試運転にとりかかったとたんに、ミシンは消え失せてしまった。配線を間違えたってわけだ――つまり、発電機をつくるには。しかし、どこで間違えたか見当がついたので、こんどは中古でない新しいミシンを使ってやってみた。するとそいつも消えちまった。
それでもその男はくじけずに、あとからあとから幾つもミシンをなくしながら研究をつづけたあげく、ついに瞬時にして宇宙を旅行する方法の、秘密をつきとめた――というお話さ。読んだことあるかい、エレン?」
かの女はゆっくりいやいや[#「いやいや」に傍点]をした。
「手術が済んで、すこし快方にむかったら読んでごらん、退屈しのぎになるぜ。もちろんその本がみつかればの話だが、見つかるかどうかわからないな。もう四、五十年も前に絶版になっちまってるだろうし、題も確かには覚えていない。昔の空想科学小説を集めてる誰かが持ってれば別だが。
わたしが初めてそれを読んだのは十代の子供の頃で、それっきりそんな本のことなんか思い出しもしなかったのに、四十幾つかになって偶然その本の古い版をみつけて読み直したものだ。ほかのことはおくが、とにかくその本は前に読んだ本とは全然違う本のような印象をあたえた。もちろん、ちっとも不思議なことじゃない。前とその時とでは、わたしも変わっていたし、他の何もかも変化していたのだから。
その時分のわたしは、不満と反抗心で腹の底まで蝕まれた男だったよ、エレン。自分が片一方しか足がないロケットの機械工だってこと、二度と宇宙ロケットを操縦できないってこと、すでに知られている以外のどこへも出て行けないってこと……何もかも不満で癪にさわってたまらなかった。ことに一番口惜しく思っていたのは、自分が[#「自分が」に傍点]ではなく人類が[#「人類が」に傍点]、未知の世界へ乗出して行こうとすることをやめてしまっていることだった。われわれは月と火星と金星まで行って、そこに黄金やダイヤモンドが散らばった野原がなく、見も知らぬ不思議な生物や文明がみつからなかったというので、それきり興味をなくしてしまいかけていた。わたしが生きている間には、それ以上遠くに――ことに星をめがけて行ってみようとする試みはおこなわれそうになく、宇宙旅行の研究はほったらかしにされていた。その頃の保守主義者たちときたら、今の同類よりずっとたち[#「たち」に傍点]が悪かった。それに較べると今は、二度目の風が吹きおこって、もう一度やってみようという気構えができかかっているような気がするんだが。けれども、その当時は宇宙旅行というものに対する反動が一番ひどかった時で、政府はすでに設けた宇宙ステーションさえとり込んでしまおうかと相談しているような有様だった。地球圏内ロケットでさえ、最悪の状態にあった。折から大型旅客ロケットがパリの町の人ごみの真中に墜落して、乗っていた連中ばかりでなく他に百人以上が死傷する事故が起ったばかりで、ロケットによる旅行は一切禁止しようという議論まで出ているほどだった。たしか、あれは、一九八四年のこと――だっけ?」
わたしは自分の喋り方に気がついて眉をしかめた。
「こいつはいかん、わたしは自分がやったばかげた[#「ばかげた」に傍点]、気ちがいじみた行いのことを話そうとしているのに、妙な方向へ外れちまったようだな。だがもうここまで混乱しちまったからには、ついでのことに当時の状況をすっかり話しちまうことにしよう。その頃のわたしは酒飲みだった。常習の大酒飲みだ。酒で身をもちくずす一歩手前のところまで行っていた。ロリイなんか、わたしを立直らせようとしてずいぶんきつく諫《いさ》めてくれたものだ。ビルもそうだ。ビルはまだ独身でサン・フランシスコに住んでいたっけ。でも、わたしは性根《しょうね》なしの飲んだくれで、誰がいくら言ってくれてもほとんど効き目はあらわれなかった。
そうしてある夜も、わたしは一人っきり自分の部屋で酒に溺れていたが、ふとそのミシンのことが出てくる昔の本をみつけて、読み直してみる気になったんだ。それからわたしは妙な考えにとりつかれた。何故やってみちゃいけないんだ、とね。詮じつめれば、宇宙旅行の原則ってものについて、ロケット以外、人間はまるっきり知っちゃいない。けれども何か他の方法があったって、ちっともおかしくはない。ところでそういう方法があるとして、それがどう作用するのか人間は全然知っちゃいないんだから、発見されるとしたら何かのはずみ[#「はずみ」に傍点]で発見される可能性が大きいんじゃないか? わたしたちにできることといったら、ただそのはずみ[#「はずみ」に傍点]にぶつかる時を早めるだけで、それにはやたらにコイルやら電線やらをつなぎ合わして、わざとめちゃくちゃなことをやってみるほかはないんじゃないか、とね。
そう決心した時、わたしの目の前にある瓶の中には、ちょうど半分だけウィスキーが残っていた。わたしはそれを流しに持って行ってぶちまけ、寝床にもぐりこんだ。あくる朝、わたしは銀行へ出かけて貯金をありったけひきおろした。うん、千ドルもあったかな。わたしはそれまでの勤め先に電話で辞職すると言ってやって、それからロリイにもビルにもみつけ出されないように市内の別の地区の部屋に引越した。
それからわたしは出かけて買いこんだんだ。何をって? あらたまって、言わせてくれるなよ、エレン。つまり、その、中古ミシンを、さ。それも三台。一台は電動式のポータブルだったが、二台は旧式の踏み板式のやつで、さんざん骨董品屋を探し廻って目玉がとびくり出るほど高い値段をふんだくられたものだ。それからやたらに電気器具の部品を買いこんだ。電線、コイル、コンデンサー、真空管、抵抗器、スイッチ、クリスタル、電池、その他思いつける限り、ありとあらゆるものを。
わたしはその部屋にとじこもって一日に十五、六時間ずつ二週間というもの、思いっきりでたらめな回路や思いつきをそのままに組立て、繋ぎ合わすことに没頭した。休むと言ったらただ食事をしに外へ出る時だけで、酒は一滴も喉を通さなかった」そこでわたしはにやりと笑った。「たぶん、それがいけなかったんだろう。もし酒を飲みながらやったら、もっとうまくはずみ[#「はずみ」に傍点]にぶつかった――というか、発明の才を発揮することができたかも知れない。が、わたしはそうしなかった。幾千通り、いや幾万通りも組立てては壊し、また組立てた組合せの中から、たとえ宇宙旅行の方法でなくとも何かしら発見したんじゃないかと言われるかも知れない。が、事実は、何ひとつ出てこなかった。二週間かかってわたしがやったことといったら、一文なしになったことと、ハンダ鏝《ごて》でできた火傷だけだ。
ちょうどその時ビルがとうとうわたしの居所をつきとめて、踏みこんできた。わたしはビルに自分がやっていること――あるいはやろうとしていることを、説明しようとしているうちに、急におかしくなって、大声で笑い出した。というのは、突然わたしはものごとを冷静に――か、それともビルの目を通して見ることができたからで、いったいなんたるばかげたことだろう、と気がついたからで、だからわたしは獣が吠えるみたいな声で笑い出し、しばらくしてビルにもそれが通じて、二人して腹をかかえて大笑いしたってわけさ。
いずれにしろ、その事件はわたしが長いことぶちこまれていた暗い絶望の淵からわたしを救い上げてくれ、ビルとわたしの仲をそれまでのいつにもましてちかづけてくれた。その晩、そこらをすっかり片づけ、翌日からまた働きに出られるように話もつけ、当座をしのぐだけの金をビルから借りて、それからわたしとビルは一緒に一杯やった。滅多にないことだが、ビルもいい加減に酔った。もちろん、わたしだって。しかし、その晩、わたしの酔い方はいい酔い方で、また落着いた酔いで、たった二週間前まで毎晩つづけていたような逃避的な酔い方じゃなかった。そして以前のような卑怯な酒の飲み方はぷっつり止まった」
わたしはまたエレンに笑ってみせた。「つまり、これがいわゆるミシンのお話さ。それからというもの、こいつはビルとわたしの間だけで通じる笑い話になって、いつもああして折をつかまえちゃからかいやがるのさ。これからは、おまえもそう言ってからかっていいよ」
エレンは微笑した。「好きだわ、今のお話。おかしいお話だからではなく――もちろんおかしい話だとは思うけれど。でも、わたしがそのお話を好きなのは、それがいかにもあなたらしいから。そしてそういうあなたを、わたしは愛しているから。だけど、あなたのお話の中に、たった一つ間違っているところがあるわ」
「どういうことだい、そりゃ?」
「宇宙旅行の原理を、人間はちゃんともの[#「もの」に傍点]にしてるってことよ。それはあなたの中に、あなたと同類の人々の中にあるのよ。わたしの中にだって、ほんのすこしだけれど、あるわ――あなたから貰って。クロッキイにも、ロリイにも、ロケットに関係した仕事をしている“星屑”たちなら、たいてい誰の中にでもあるわ。エムバッシの中にさえ」
「エムバッシだって?」わたしはきっとぽかん[#「ぽかん」に傍点]とした顔をしていたに違いない。「エムバッシは宇宙旅行なんかと全然関係ないよ。あの男は神秘主義者だ」
かの女はふたたびにっこりした。「あのひとがどういう点で神秘主義を信じているのか、たずねてみたことないんでしょう? こんど会った時、きいてみるといいわ」
その時ドアに軽いノックの音がして、グランドルマンが入ってきた。「あと一分間ですよ」と、かれは言った。「それだけ、お知らせしたほうがいいと思いまして」かれは出て行って、ドアを閉めた。
「マックス、もう一つ約束してくださる?」
「何なりと」
「もしわたしが死んでも――きっと死にやしないけれど、万一まさかのことがあっても――決して挫《くじ》けないって。またお酒を飲みはじめたりしないって」
「約束するよ」
ドアが再び開いて、こんどはグランドルマンでなく、看護婦と男の看護人だった。男のほうが言った。
「失礼ですが、面会はこれで打切りに願います。準備をはじめますから」
準備だって? そうだ、髪を剃るのだ。白い枕によくうつる、こんなに美しい栗色の髪の毛を。わたしはかがみこんでまず髪の毛に、それから唇にキスした。
*
グランドルマン博士が待合室に入ってきた。
「今、手術室にお連れしているところです」と、かれは言った。「ヴァイスザッハ博士は、すでに手術室に行っておいでになります。けれども手術はかなり長くかかりますし、手術そのものが済んでもすくなくとも二十四時間は面会厳禁になります、どうせ。ホテルにいらしたほうが、お寛ろぎになれるでしょう。手術が終りしだい、できるだけ早くお電話をさし上げますから――」
「いや、ここで待つ」
わたしはそこで待った。
祈りたい衝動に襲われた。それからわたしは祈った。「神さま、わたしは神さまなんてものが存在するとは信じておりません。かりに存在するとしても、人格をもった存在ではなく、たとえ目の前で燕が一羽地に落ちようとしているのを見ても、誰かの頼みや祈りにこたえて救いの手をさし伸べたりなさる神さまがあろうとは、とてもわたしには信じられません。けれどもわたしは間違っているのかも知れません。だったら、許してください。そしてもしわたしが間違っているのでしたら、わたしはあなたにお祈りします。神さま、どうかエレンを……」
*
幾年も経ったようだった。やっとグランドルマンが戻ってきた。かれは微笑していた。しめた!
かれは言った。「みごとな手術でした。奇蹟というほかはありません、、たぶん、命はとりとめるでしょう」
わたしは相手を睨みつけた。「命はとりとめるだって! みごとな手術だってのに、命はとりとめるってくらいのことしか言えないのか?」
かれはふっと微笑を消した。「さよう、生死の可能性は五分五分か、あるいはかすかに生存の見込みのほうが勝っているといったところでしょう。けれども完全に危険から脱したと見きわめをつけるのは、まだ三、四日経ってからでなければ――」
畜生、とわたしは思った。すると、手術する前の見込みはどうだったんだ? たった二時間半前、わたしがエレンと話をしていた時、見込みはどうだったんだ? 医者が言う“成功率は極めて高かろう”ってのは、いったいどの程度の見込みを意味するんだ? 百か、それとも千に一つってことなのか?
「明日、病人に会わせてもらえるかね?」
「たぶん。しかし確かな約束は、まだできかねます。明日の朝、電話をかけてみてください」
「泊まるところがきまったら、すぐ電話するよ。何か変わったことがあったら知らせてもらえるように」
医者はうなずいた。
*
ホテルの部屋に落着いて、はじめてわたしは自分がどれほど疲れているかをさとった。前夜わたしはほとんど眠っていなかったし、心労からくる緊張は肉体的な労働より甚だしく人を疲れさせる。
けれども何もかも成行きに任せて休む前に、わたしはロケット空港に電話をかけ、留守中わたしの代理をつとめさせることにした男を呼び出して、たぶん一週間くらい帰れないだろうということを知らせ、空港のほうは何事も変りなくうまくいっていることをたしかめ、何かわからないことや知らせたいことがあったらここへ電話するように、と言ってこちらの電話番号を知らせた。
つぎに病院を呼び出し、わたしの居場所を教えて、それから寝床に入った。けれども浅い眠りだった。ほんのちょっとでも物音がすると、はっとして目がさめた。というのは、電話のベルが鳴り出しはしないかと、気がそっちのほうへ行っていたからだ。今鳴るか、今鳴るかと思いながら、どうか鳴らずに済んでくれと祈りながら。
そして、それはついに朝まで鳴らずに済んだ。浅い眠りではあったけれども、かなり長い時間にわたって目ざめては眠り、また目ざめてはまた眠りしたので、朝起きた時にはかなり疲労が消えて元気が回復しているのがわかった。それに、おそろしく腹がへっていた。というのは、その時になって気がついたことだが、前日中全然食事というものをしていなかったからだ。
さっそく病院に電話をかけてみると、エレンは夜中じゅうずっと安静で、容体はいい方にむかっている。ということだった。グランドルマンはまだ出勤して来ていなかったので、エレンに面会できるかどうかはきけなかった。見えたらすぐに電話をもらいたい、とわたしは言づてを頼んだ。
電話の傍から離れなくても済むように、電話で各室配膳を申込み、ふつうの三倍ほどの量の朝飯を注文した。それをわたしは全部平らげた。
九時をすこし廻った時分、グランドルマンから電話がかかってきた。エレンの「容体は順調」だとかれは言った。
「そいつは、また例の外交辞令かね? それとも本当に見通しが明るくなってきたという意味かね?」
「見通しはずっと明るくなりました。今は、はっきり快方にむかっていると言いきれます」
「今日の午後、面会させてもらえるかい?」
「たぶん。二時に電話をかけてみてくださいませんか? それとも、ずっと今のお部屋においでなら、こちらからおかけしてもよろしゅうございますが」
「そっちで勝手にこうときめこまれないように、どっちともきめずにおくよ」とわたしは言った。「わたしはずっとここにいるから、そっちからかけてくれるつもりがあるなら、ここへかけてくれ。しかし一時までにそっちから何とも言ってこなけりゃ、こっちからかける」
病院からの電話は、そうして今かかったばかりだから、しばらくは音沙汰あるまい。で、わたしはその間を利用してアフリカのクロッカーマンに国際電話をかけることにした。そんな暇でもなけりゃ、大事な電話がそれで塞がっては困る。身に変ったことがあれば、それだって聞きたいだろうし、それにせっかく預かった仕事を一時他人まかせにしなければならなくなった経緯《いきさつ》を説明しておきたかったのだ。もしかすると、わたしがあとを任せてきた男ではクロッカーマンには不安心で、すぐロケットで飛んで帰らなければならないと思うかも知れない。
ヨハネスブルグにいるということだけは、わかっていたので、わたしはそこの交換嬢に、その土地のアメリカ大使館にたずねてくれれば、泊っている場所がわかるだろう、と言った。交換嬢はそうしてくれて、うまく行った。二十分と経たないうちに、わたしは事情をすっかりクロッカーマンに知らせることができた。
「やれやれ、よかったな」と、かれはエレンのことを聞き終ると言った。「それじゃ、今はいい方に向ってるんだな?」
「ああ。しかし、仕事のほうはどうだ? おれはグレシャムに代理の代理を頼んできたが。あの男で間に合うかな?」
「大丈夫だとも。心配するな。おれのほうは、ちっとも心配じゃないよ。ただ、エレンのことは、何くれとなく知らせを頼む。急にもし容体が変ったり、あるいはもう大丈夫だという見きわめがついたら、忘れずに電話で教えてくれ、木星ロケットのほうはどうなんだい? 法案が通ったってことは聞いたが――こっちでもニュース放送があってな。しかし、おれがききたいのは、おまえとそれとの関係さ。うまく行ってるのか?」
うまく行ってる、とわたしは答え、要するにそのためにエレンは手術の時期をおくらせ、おかげで今こんな危険に自分をおとしいれているのだということを説明してやった。
「えらい女だな、マックス」とかれは言った。
まるで、わたしが知らないことでも教えてくれるかのような調子で。
*
グランドルマンに先を越された。一時きっかりに呼出しをかけようとして時計を睨んでいると、三分前に目の前の電話のベルが鳴った。
かれは言った。「患者の経過は良好で、今はもう目がさめておいでです。いつなりと、こちらにお出でになりしだい三十分の面会を許してさし上げられます。が、その前にわたしのオフィスに寄ってください。ちょっとお話があるのです」
「どうせ話すんなら、今にしてくれ。内容の如何にかかわらず、今この電話で。行く途中で、あれこれ気を廻して心配させられるのはかなわんよ。何か手違いでも――?」
「というほどのことではありません。肉体的には患者の容体は上々です――あれだけの大手術だったこと、それに終ってからまだ二十時間も経っていないことを考えると。ただ、精神状態のほうが、すこしどうも、どういうわけですか、すっかり元気をなくして、悲観的になっておしまいになり、その点、手術の前よりひどいと申上げてもよろしいほどで――いや、本人は知りませんが、手術前なら悲観に価するだけの理由は山ほどあったんですがね。だから、あなたに三十分間も面会をお許しするつもりになったようなわけでして。あの方を、元気づけてあげて下さい。手術は申し分ない成功で、危険はすっかり去ったとわたしから聞いた、とおっしゃって。わたし自身そう申上げましたが、信用してくださらないのですよ」
「言おう。しかし、本当にもう危険はないのかね?」
「――ほとんどないと申してもよろしいでしょう」
「そのほとんど[#「ほとんど」に傍点]ということの正確な意味は? 数字に直して言ってみてくれ」
「さよう――目下のところ、治癒の見込みは四分の三とでも申しましょうか」
「よし」とわたしは言った。「今後とも、わたしにわからせようと思うなら、そういう言い方をしてもらいたい。できるだけ、患者を元気づけるようにやってみるよ。ただ、それならそれで、こっちから一つ提案があるんだが」
「何です?」
「本当のことを、患者に知らせるのさ。もし嘘をつこうとしたら、相手はきっと感づいちまうだろう。あんたの嘘を感づいたより、わたしの嘘ならなおさらはっきりと。包み隠しなく、回復の見込みは四分の三だとありのままを言ってやっちゃいけないかね? そのほうが喜ぶだろうし、また信用もするだろうし、百千の嘘を並べたてるより結局そのほうがいい効果を生むんじゃないか?」
「ううん。あなたのおっしゃることにも一理はあるようですな、ミスター・アンドルーズ。ただ、どうです、すこし水増のしするのは? 四分の三ではなく、十に九つのチャンスだと」
「本当のこと以外はだめだ。水増しをすりゃ、相手はちゃんと感づくさ」
「よろしい、それでは、本当のことを、しかし、いいですか?――面会中患者を興奮させないように、またあなたも興奮なさらないように、気をつけてくださいよ。キスなさるなら、なさってもよろしい。が、そっと軽くして、頭を動かさせてはいけません。もっとも、御本人もそのことは充分に承知のはずですが」
*
こんどは栗色の髪の毛のかわりに厚い白い繃帯に包まれた頭。けれどもエレンはわたしを見上げて微笑した。「ずいぶんご心配になったでしょ、あなた?」
「おまえは、そうしてわたしのことばかり心配しているが、わたしのことを心配するのはやめとくれ。どうだね、気分は? 痛むかい?」
「痛みはしないんですけど、ひどく力が抜けちまったみたいな感じなの。なるべく、あなたのほうが話す役に廻ってね」
わたしは枕元ちかくへ椅子をひき寄せた。「いいとも。何を話そう?」
「一番はじめに、医者からわたしの容体について、本当のことをお聞きになったでしょ?」
「ああ」とわたしは言い、グランドルマンとの電話の会話の模様を詳しく説明してやった。
エレンの目は、すこし輝きを増した。「ありがと、マックス。そう、あなたが言う通りよ。四分の三までこっちのものだというなら、その通りはっきり教えてもらうほうが、いい加減なことを言われていろいろ気を廻しているよりずっといいわ。四分の三ですって? わたしが、思っていたより優秀よ。おかげで、気が楽になったわ」
「だろうとも。わたしにはわかる。さあ、それはそれでよし、と。何か特別に話題のお好みがあるかね?」
「あなたのことを。ね? 昨日あなたからあの話を聞いて――ほら、あのミシンの話を聞いて、わたし、あなたがロケット乗りだった時分のことや、その前のことを、どれほど少ししか知らないかってことに気がついたの。あなたが十七歳になる前のことと、その後宇宙ロケット乗りをしてらした間のこと。あなた、子供の時代にはどんなふうだったの?」
「とりたてていうほど変わっちゃいない。シカゴで、前にも話したように、一九四〇年に生れた。環状線から十ブロックほど南のステート街にあるペンキ屋の三階の四部屋の住居で生まれた。当時、あそこいらは貧乏人だらけの、ひどい場所だった。
わたしは三人兄弟の二番目だった。わたしより二つ上の姉がいたが、二十年前に死んじまった。それに五つ年下の弟が一人――ビルだ。親父は市電の車掌で、かなりの大酒飲みだった。
子供の頃のわたしはやくざな餓鬼で、遊び仲間と一緒になってさんざん小さな悪事もした。やがて中の幾人かは、小さくない悪事もするようになった。腕白時代の友達の中には、バーのむこうで一生を終える運命におちいった連中も少くない。バーといったって酒場のバーじゃない、牢屋のバー(鉄棒)だ。今になって考えてみれば、わたしがそうならなかったのは、たった一つのもののお蔭だった。
というのは、ものを読めるほどの年頃になってからというもの、わたしはやたらに空想科学読物というやつに読みふけるようになったのだ。覚えてるかい? 漫画の形式になってるやつだ。それから雑誌、さらに本格的な科学小説に移って行った。どうして、中には随分すばらしいのがあったぜ。すくなくとも、その頃のわたしにはすばらしい読物だった。火星や、その他の惑星や、銀河系の宇宙を越えて、ずっと遠くの星まで飛んで行く冒険物語だ。そういう初期の科学小説を書いた連中は、やがて宇宙旅行が現実にできるようになるということを知っていたんだ。その作者たちは、夢をもっていた。そして、その夢をわたしたちにも分けてくれたんだ。その連中が書くものの中には星屑がいっぱいちりばめられていて、それがわたしの目の中にとびこんできたんだ。今に宇宙旅行の時代が必ずやってくる、そしてわたしは宇宙ロケット乗りになるんだ、とわたしは信じて疑わなかった。
それがわたしに節度というものを守らせ、あまり遠く傍道に外れないように引きとめてくれたのだ。わたしは警察の犯罪者名簿に名前をのせられないようにつとめ、感化院なんかに送られないように気をつけなければならないということを知っていた――さもなければ、宇宙ロケット隊が編成される時、その一員に加えてもらうことはできないだろう。遊び仲間たちが学校をサボってばかりいる時でも、わたしは学校だけはほとんど欠席しなかったが、それにしてからが、自分が行きたいと思っているところへ行けるようになるためには教育が必要だということを勘定に入れていたからだった。
喧嘩はしたよ。ことに、学校をサボる仲間に入らないからといって、臆病者呼ばわりされた時とか、警察につかまって悪事の前歴の記録を残すのが厭で、酔っ払いの持物を掻払ったり店屋に泥棒に押入る手伝いをしないからといって卑怯者呼ばわりされたりすれば、喧嘩しないわけには、いかなかった。しかし、結局それはわたしのため[#「ため」に傍点]になった。わたしはそれで強く錬えられ、どんなことでもそうやすやすとうまくいくものではないということ、また自分が欲しいものを手に入れるためには力をつくして戦わなければならないのだということを学んだ。わたしが欲しいもの――それは宇宙だった。そしてわたしはそれを手に入れるために戦った。
わたしたちはずっと原子爆弾の脅威――原爆によるみな殺し[#「みな殺し」に傍点]戦争の影に怯えながら育った。わたしには、それが嬉しいことのようにさえ思われた。お礼を言いたいくらいだった。そのわけは、その当時ですらわたしは気がついていたからだ――宇宙ステーションや月や惑星に行くために、政府が惜し気なく金を使うのは、そういう脅威のせいにほかならないことに。また、そういう脅威が現にある間に限られていることに。どんなに恐るべき脅威にさらされているか、どんな危険に直面させられているか、わたしにとってそんなことは問題じゃなかった。人間がそういうことからくる恐怖に駆りたてられて、やむをえず星に向って出発せざるをえなくなるというのならば。
事実、わたしたちはそういうふうにして出発し、そういうことを繰返しながらいつかきっと星にたどりつくだろう。それはもう初めからわかりきったことなんだよ。エレン。どうしてもそうしなければならないことなんだ。――恐竜みたいに絶滅してしまうのが厭なら。そして人類は決して、絶滅しやしない――恐竜なんかよりずっと賢いんだから。わたしたち人類は、環境の変化のために絶滅させられてしまうような段階はもう乗りこえてしまったんだ――わたしたちには自分の思うがままに環境を変える力があるんだから。今では、もう人類は、自然が人類に対してしかける以上のことを、自然に対してしかけることができる。で、将来は? これからさき人類が退化するということもあり得ない――すでに種の進化の科学を自分のものにしてしまったのだから。今後二、三世紀かけて、人々がさかんに種の進化の原理の自己適用につとめるように教育すれば、肉体的にも精神的にも、人類が退歩することは絶対にない。人類はいよいよ強く、いよいよ賢くなって、ついには神様になる。というよりむしろ、これくらい神にちかくなりたいと自分で望むだけ神に近づく。あんまり神様みたいになったんじゃ退屈でやりきれないから、すこしは悪魔の名残りも自分の中に残しておいたほうがいいだろう。
エレン、人間はきっと星にたどり着くぜ。どうしても他に方法がなければ、光より遅いスピードの宇宙船に乗って、親が死ねば子、子が死ねば孫がかわって操縦しながら、あるいは道中に幾世紀かかろうとも死にもせず年とりもしない仮死状態に自らをおく方法でも発明して。しかし、そんなことをしなくてもいい、もっといい方法をきっとみつけ出すにちがいない。相対性原理によると、人間は光のスピードを追い越すことができないというが、相対性原理ってのは要するに理論にすぎない。きっとどこかに近道があるに違いない。ハイパー・スペースか、サブ・スペースか、それはどうとでも想像は自由だ。が、とにかく通って行ける近道があるなら、人間は必ずそれをみつける。人間てものの能力を、あんまりみくびっちゃいかん」
エレンはほほ笑んでいた。「人間なんて言わなくたって、あなたを[#「あなたを」に傍点]みくびることだってできやしないわ、マックス。不思議ね――あなたと一緒にいると、本当にそう信じられてくるのよ。あまり信用できなかったわ――はじめは。だけど、今はもう信じられるの」かの女の声には、ほとんど子供っぽい賛嘆の響きがあった。「わたしたちは、きっと星にたどり着けるのね!」
「もちろん。ただ時間の問題さ――ちょうど太陽系の中でつぎの一歩を、木星にむかって踏み出すのが時間の問題に過ぎないのと同じ意味で。その時はもうすぐ目の前だ。おまえのお蔭で」
「わたしたち二人の協力のお蔭よ、あなた。わたしたちのロケットよ。ぜひ二人で一緒に乗って行きたいものね」
「一緒に乗って行く――?」わたしはかの女をみつめた。
エレンはまた微笑した。「あなた、もうそろそろわたしに感づかれたとしても不思議はないでしょ、マックス? わたしに、あなたってものが、隅々まで手にとるようにわかり、あなたのものの考え方がすっかりわかっているとしたって、不思議はないでしょ? あなたが、命だけは別として、残っている一本の足と両腕とを投げ出しても、自分で木星行きのロケットを操縦したいと思っていること、またそうできるって自信をもってることくらい、とっくにわたしが承知してるとしたって不思議はないでしょ? そして、あなたが本気でそうしようと決心してることを、わたしが知ってるとしたって不思議はないでしょ?」
わたしは黙っていた。
かの女は言った。「いいことよ、マックス、やってごらんなさい。できるかどうか、わたしは、何としてでも、あなたに、あのロケットに乗り逃げさせてあげたいと思ってるの。それであなたが自分を殺す結果になろうとも、それがあなたの望みならば、その望みを叶えさせてあげたい――そういうふうにして死ぬ望みを」
わたしはかたくエレンの手を握りしめた。まったく言うべき言葉を思いつけなかった。まったく、全然。
「マックス、もしわたしが死んだら――」
「ばかな。死ぬものか。死ぬ話はやめだ」
「ええ、もうこれっきり。でも、今一度だけ――そこの、その封筒をとって。それをあなたのポケットにしまって頂戴」
わたしはそれをとり上げた。「何だい、これは?」
「わたしの髪の毛がすこし。剃られる時、とっておいてもらったの。年甲斐もなくおセンチだと思われるのは厭だから、手術のあとで伸びてきた髪が白髪になっていたら、もとと同じ色に染めるための見本だと言って。でも、本当はあなたに渡すためだったのよ、マックス。木星にむかって行く時、きっと身につけていらしてね、わたしだと思って。そして、行ったさきに――木星の衛星のうち、どれでもあなたが着陸なさったところに残してきていただきたいの。でも、あなただけは、ばかばかしいことだなんてお思いにならないわね、マックス?」
わたしは黙って首を振った。胸がつまって、まともな声を出せる自身がなかったからだ。
かの女は言った。「いいこと、あなた? たとえわたしが死んでも、宇宙の空間を飛びながら、木星を廻りながら、わたしのことを思い出してね。そういうかたちでいいから、わたしはあなたと一緒にいたいの。できるだけお傍に」
わたしは言った。「エレン、おまえは死にゃしないよ。それだけは、しっかり頭に刻みこんでおくんだ。けれども、死のうが生きようが、もしわたしがロケットに乗り逃げできたとしたら、木星に行って帰るまでの間じゅう、おまえとわたしは始終いっしょで、寝てもさめても、かた時たりとも離れていることなんかあり得ない。あり得ないとも、エレン。おまえはいつだってわたしと一心同体だ
*
エレンが完全に危険から脱するまでは、ずっと電話の傍についていたいと思った。だから、その日は夕食も部屋に運ばせ、眠くなるまで雑誌を読んで時間をつぶした。
時の経つのがひどく遅く感じられた。
それでも真夜中の十二時ちかく寝床にもぐりこんで眠ったが、午前三時十五分、電話のベルの音で眠りを破られた。
エレンはたった今しがた最期の息をひきとった、とその電話は言った。
*
わたしはどこかのバーの椅子に腰かけていた。両手にグラスを捧げていた。手がぶるぶる震えるので、両手で包むようにして捧げなければならなかった。まだ一口も啜っていなかった。ただそうして捧げていただけだ。
わたしは、のぞきこむようにそのグラスの中の液体を睨んだ。
飲んじゃいかんぞ、とわたしは自分にむかって言った。もしほんの一口でも啜ったら、もうおしまいだ、と、わたしは感じていた。一口が二口となり、一杯が二杯となって、それで。
今度こそ、それじゃいけない。束の間の死にひとしい一時の忘却――おきまりの逃げ道。それじゃいけない、今度は。
それで済むと思うか?
エレンに対して、済むと思うか? エレンがわたしに捧げてくれたもの。エレンの愛情。エレンの命。わたしたちのロケット。そのロケットの建造はもう今にも始まろうとしている。そして木星めがけて飛びたって行くだろう。けれどもエレンは、そのロケットをわたしの手でつくらせ、そのロケットにわたしを乗せたいと思っていたのだ。もしできることなら。
飲みはじめることが飲みつづけることを意味し、その結果エレンの贈りものをすっかり失ってしまうことがわかりきっている今、この酒を啜ってかの女の真心を踏みにじって、それで済むのか?
おまけに約束までしたんじゃないか、とわたしは突然思い出した。わたしははっきりエレンに、たとえかの女が死んでも、そのためにたった今わたしがしようとしているようなことはしない、と約束したのではなかったか。
わたしはグラスをテーブルの上にもどし、後をも見ずにその酒場を出た。わたしはホテルの自分の部屋に戻った。午前十時だった。三時十五分からずっとわたしは歩きつづけていたのだろう。ふと気がついてみると、あの酒場で酒のグラスを両手に捧げて今にも一口啜ろうとしていたのだ。そしてはっきり我にかえったのだ。
部屋から外線に繋いでもらって、わたしはクロッカーマンに電話をかけ、ありのままを知らせた。
「ううん」とかれは稔った。「何といって慰めたらいいのか、おれには――」
「何も言うな」とわたしは言った。「言おうとするな。ただそう知らせておきたかっただけだ」
「おれはつぎのロケットで飛んで帰るよ」
「よせ、クロッキイ」とわたしは言った。「もし葬式のことを考えてるんだったら、やめてくれ、と、これは本人が言うんだ。おれにもそう言ったよ。もし空港の仕事のほうだったら、頼む、しばらくおれに任しておいてくれ。そっちの都合が悪いというのでなけりゃ」
「それは、確かにおまえの本心からの望みなんだろうな、マックス?」
「望みじゃない。それが、おれのなすべきことなんだ。今のおれにできる、たった一つのことなんだ、クロッキイ。おれは、つぎの定期ロケットで空港に帰る。そして仕事にもどる。そして気ちがいみたいに仕事にうちこむんだ」
*
エレンの葬式がワシントンであったのか、それとも遺骸をロサンジェルスに送って、そこで営まれたのか、わたしは未だに知らない。わたしは仕事にうちこみ、死にもの狂いに働き、新聞は読まず、毎晩睡眠剤をのんで倒れるように眠って、起きるとまたすぐ気ちがいのように働きつづけた。
一カ月ちかく経つと、仕事以外のことを冷静に考えることができるようになった。酒より害のすくない、時間という鎮痛剤のお蔭だ。
心の底は依然として痛く疼いた。その痛みが消えることは決してなかろう。けれども、痛みにかかわらず、痛みは痛みのままにそっとしておいて、ものを考えることはできる。わたしはふたたび人恋しくなりはじめた。エムバッシも、ロリイも、ビルも、それまでに幾度か誘い出しの電話をかけてきていたが、わたしは片っぱしからはねつけていた。クロッキイも毎週欠かさず電話をよこして、表面はいかにももっともらしく空港の模様をたずねるのだが、その実わたしがどうしているか、いつになったら仕事で紛らわさなくても心の痛みに堪えられるようになるか、さぐりを入れているのだった。七月の中頃、四度目の電話をかけてきたクロッキイに、わたしは答えた。「オーケー、クロッキイ。こっちはちっとも急ぎやしないが、いつでも、帰る気になったら帰ってきていいよ」それはよかった、とかれは言い、もう二週間だけ最後の保養をしてから、八月の一日前後の予定で帰ると約束した。
わたしのほうから電話をかけてみると、エムバッシは不在だった。下宿の女主人の話だと、エムバッシは今チベットへ出かけていて、来週か再来《さらい》週帰ってくることになっている、ということだった。バークレーに電話をかけると、ロリイは折よく家にいて、土曜から日曜にかけて遊びに行ってもいいかときくと、いいとも、と嬉しそうに答えた。
いっぽう、何はおいても、この辺で一度ロケットの計画のほうがどうなっているのか、すこし調べてみよう、とわたしはきめた。その晩、仕事からの帰途、わたしは下町に廻り道してタイムス紙とヘラルド紙と二種類の新聞を前月の分からまとめてもらって家へ持って帰った。夕食を済ましてから、それにずっと目を通してみた。
ウィリアム・J・ホイットローを木星ロケット探検計画の長官とする大統領の指名人事は、三週間前に公表されていた。その指名は、すでに二週間前、全然反対なしに上院の承認を受けた。
だいたいニュースとしてはそんなところだったが、日曜の付録にロケットの計画に関係のある解説読物が二つ載っていた。一つはそれほどひどくでたらめではないロケットの図と挿絵つきので、もう一つは木星の衛星はそれぞれどんな状態にあるだろうか、またアンモニア採取のために着陸するにはどの衛星が一番適当かということについて、大勢の天文学者と天文物理学者の意見をふんだんに引用した記事だった。おまけに木星の衛星のどれかに、もし智能の発達している生物が住んでいるとしたら、それはどんな生物だろうかということについて、その記事の筆者の恐ろしく思いきった思いつきが書きつけてあった。例によって例のごときあてずっぽ[#「あてずっぽ」に傍点]だ。
ホイットローに電話をかけて、仕事はいつ頃から始まるのかたずねてみようと思いつき、それからやはりクロッキイが帰ってきてからのことにしようと考え直した。いつ何時わたしが暇をとると言いだしても、すぐにクロッキイがとって代って後をひきつぐことができるようになってからのことに。
*
クロッキイは二日前に帰って、旅の疲れもおさまり、もうわたしはいつ出て行ったっていい。空港長代理を解任されて副場長の身分に戻ると、すぐにわたしはホイットローに電話をかけた。
「ウィリアム・J・ホイットローですが……?」ひからびた、わざとらしくとり澄ました声だ。
「こちらはマックス・アンドルーズ」と、わたしは言った。「木星行きロケットの仕事は、いつから始まるのかと思って――いつ頃こっちの仕事をやめると申出たらいいのかと思ってね」
相手はちょっと黙った。心配になるほど長い間ではなく、やがて相手は言った。「お急ぎになることはありませんよ、ミスター・アンドルーズ。まだ最初の純粋に行政的な段階にあるので、それはそれで順調にこちらで進行させております。あなたにやっていただく仕事は、ロケットの建造と発射場の建設作業の監督なので、今のところ必要ありません。それが始まるのは、来年になってからのことでしょうな」
「何故?」
「何故って、ミスター・アンドルーズ、これほど大がかりな計画であるからには、いざ実行に着手するまでにどれほどこみ入った手続きをふまなければならないか、あなたはご存知ないのですかな? 予算上の措置だけだって……」まるでいくら言ってもわかってもらえっこない相手にぶつかって説明を諦める時のように、声が尾をひいてとぎれた。
「予算上の措置って、何だね?」とわたしは追及した。「議会は二千七百万ドルの予算を認可した。大統領はその予算法案に署名して、あんたを計画長官に任命した。ところが大蔵省が貧乏で、その金を都合しきれない、とでも言うのかね?」
「とんだご冗談を、ミスター・アンドルーズ。政府の仕事ってものが、いざ軌道に乗って走り出すまでにどれほど長い手間をとるか、あなただってご存知でしょうに」
「ああ、そのことは知ってる。で、どうしてそうなんだろうって、いつも不思議に思ってるんだ」
二千マイル以上も向うで、相手が溜め息をついたのがわかった。
かれは言った。「やれやれ、あなた、こういうことにはすべて面倒な、とても面倒な手続きがつきまとうものなんですよ。いろいろの書式を印刷したり――――」
「“極秘”と彫ったゴム印を作ったり、ね。だが、それはそれとして、来年より早く仕事を始めることはどうしてもできないのかね?」
「――でしょうな、おそらく。実のところ、もし明年早々、準備委員会の手を離れて、実際の建造作業にとりかかることができたら、大出来と言わなければなりますまい。準備委員会を組織するだけのことにも、三つの段階を経なければならないのですからね」
わたしは唸った。「わかった。来年早々でなけりゃならないというなら、それはそれで仕方ない。しかし、できるだけ早くとりかかれるように、やれるだけのことはやってみようじゃないか。とにかく、それよりは絶対に遅らせないようにしなけりゃ。建設作業だけでも、まる一年かかるんだから」
「もっと長くかかりゃしませんか?」
「長くかからせるわけにはいかないんだよ、予算をはみ出さずには」とわたしは言った。「工費の見積りは、一年以内に完成させるということを条件にして算出してあるんだ。それやこれやで、ミスター・ホイットロー、わたしはあんたに詳しく話したいことがあるんだ――電話では話せないほど、うんと。どうだね、そのうち週末にでも、こっちからワシントンへ出向くから、一遍ゆっくり膝をまじえて話合うってのは? いつなら都合がいい?」
「ええと――今週はだめですな。それから来週も。そのつぎの週では?」
「もしそれ以上早くはできないというんだったら、オーライ、もちっとはっきりきめておこう。そのためにまた改めて電話をかけたりしなくてもいいように。時間と場所は?」
「ふつう、土曜日にはオフィスに出ないことにしているのですがね。しかし、まあ、出られないことはありますまい」
出られないことはないだろうとわたしも思った。奴さんに会いに、こっちはロサンジェルスからはるばる出向いて行こうというのに、そのわたしに会うためにオフィスまで出てこられないことはなかろう――じゃないか?
わたしは言った。「じゃ、あんたのオフィスで。それとも、そうだ、もし午前中早くにロケットに乗れば、ちょうど昼頃にそちらに着ける。どこかで一緒に昼食を食べて、それからあんたのオフィスに行くことにしたら?――」
「その日の昼は、もう他に会食の約束がきまっておりましてな、ミスター・アンドルーズ。二時にオフィスにお越し願えませんか?」
二時にかれのオフィスに行く、とわたしは約束した。
やれやれ、相手はすこしこちこち[#「こちこち」に傍点]だとエレンがいつか断わったのは、つまりこのことだったのか。が、わたしがうんざりしたのは、相手がこちこち[#「こちこち」に傍点]だったからじゃない。そうじゃなくて、木星行きのロケットを飛びたたせるまでの事の運びのスピードののろさに愛想が尽きかけたのだ。
ま、いいさ、そのことはホイットローに会った上で、まだかけ合いの余地はあるだろう。すくなくとも、相手がわたしを監督官にする約束を忘れたみたいな気ぶりをみせなかったことだけで、今のところはよしとしなけりゃ……
*
心の疼きは相変わらず。それに空虚な感じ――わたしというものの一部が、それも一番大事な一部がどこかに行ってしまったような、うつろな感じ。しかし今ではもうクロッキイが帰ってきて仕事の重荷から解放されたわたしは、孤独のかわりに他人との接触をもとめるようになった。時々晩クロッキイのところへ行って、将棋をさしたり、話したりした。二人で、木星のつぎに太陽から遠い土星に行って戻ってこれるロケットの大ざっぱな図面をひき、大ざっぱな計画をたててみたりした。土星――神秘な環をかぶった惑星。その環について現在わたしたちの知識はごく乏しいし、今後も現にその傍に行ってみるまでは、あまり多くのことはわかるまい。けれども土星には、木星と同じように、アンモニアをたくわえた衛星があって、そこへ行くには原理の上では木星行きのロケットと同じ構造のロケットを使うことができる。土星までの距離は木星までよりずっと遠いが、おどろいたことに、土星行きのロケットは木星行きのロケットのたった三倍の費用でできる計算になるのだ――ブラッドリーが見積った木星行き多段式ロケットの工費三億ドルに較べたら、まだまだ問題にならないほど安上りでできることになる。けれども土星のことは、まず木星行きが成功して、それからでなければ話になるまい。
翌週末、つまりホイットローと会う約束の一週間前、わたしは飛行機でシアトルへ行って、マーリーンとビルの夫婦のところで一日を過した。久しぶりで、楽しかった。エレンになくなられてしまったわたしは、もはや一生自分の家庭をもつようなことはありそうになかった。ということになると、ともかくわたしにとって最も家庭に近いものといえば、やっぱり肉親の弟のビルの家だ。まったく、おれにもイースターやビリイ二世のような子供が一人二人あったらなあ、とわたしは思った。けれども子供をつくるという点では、いずれにせよわたしがエレンに会った時はすでに遅すぎた。
本当に遅すぎたろうか? なるほど、四十五歳のエレンが自分で子供を生むことは、無理だったかも知れない。が、もしエレンが生きていて、わたしとおなじことを感じたとしたら、養子を一人もらって育てるようにできたかも知れない。たぶん、ビルと同じくらいの年頃の子を。それなら、わたしたちは必ずしも年とりすぎてはいなかった。すくなくともエレンだけは、子供が一人前になるまで見とどけることができただろう。
わたしはもっと頻繁にビル夫婦と子供たちの顔を見られるように、みんなロサンジェルスに引越してこないかと勧めてみようかと思ったが、そこでわたしは当の自分がロスに住むのはあと僅か――木星ロケット計画の作業開始までに過ぎないのだということを思い出した。それ以後は、どこか知らないがとにかく作業の現地に住むことになるわけだ。その作業地をどこにするか、予定はきまっているのかな? とわたしは思い、ホイットローに会ったら、その点を確かめてみること、と心の中のメモに書きつけた。もし全然予定がないのだとしたら、わたしのほうから案を出せるようにしておかなければ。
その晩、夕食が済んでから、マーリーンはまずイースターをさきに寝かせに二階へ連れていき、そのすきにわたしはビリイをさらって、玄関さきに連れ出した。もう薄暗くなって星がまたたきはじめていた。わたしたちは玄関の石段に腰をおろして、星を見上げた。
「ねえ、マックス伯父さん」
「何だい、ビリイ?」
「伯父さん、星に行ったことある?」
「ないよ、坊や。星([#ここから割り注]恒星[#ここで割り注終わり])には、まだ誰も行った人はいないんだ。でも、今にきっと行く。坊やだって、行きたいんじゃないかい?」
「もち! テレビに出てくるロック・ブレイクみたいにさ。あのね、ブレイクはね、星をうんと占領して、戦争したり、いろんなことをするんだよ。でもパパはね、あれはショーセツだから、本当じゃないって言うんだ」
「それは、パパはね、まだ[#「まだ」に傍点]本当におこらないことだって言うつもりなんだよ。ビリイ」
「それにパパは、でたらめの、ろくでもない番組だって言うんだ。伯父さんも、でたらめの、ろくでもない番組だと思う?」
「伯父さんは知らない。見たことがないから。でも、でたらめの、ろくでもない番組だとしても、それを見てると坊やはロッキイ・ブレイクみたいに星まで飛んで行ってみたくなるんだろ? だったら、やっぱりいい番組さ」
「そうさ、ねえ? ぼくもそう思うんだ。それにスペース艇長の冒険のやつだって……凄かったよ、今日は。ライオンみたいな頭をした緑色の怪人と喧嘩するとこ。ええと、その星はね、シリ――シリ……」
「シリウス([#ここから割り注]狼星[#ここで割り注終わり])かい?」
「そう、そう、シリウス。伯父さん、その星には、ほんとにあんな緑色の怪人がいるの?」
わたしは思わず頬を崩した。「教えてやろうか、坊や?――どこへ行ったらそれが本当かどうかわかるか」
わたしは空にひときわ燦然と輝く星――あらゆる星の中で最も明るい光を放つシリウスを指さしてみせた。
*
翌週の水曜目の晩、エムバッシが帰ってきた。わたしはジェット機の飛行場まで迎えに出た。着陸場からこちらにむかって斜面を上ってくる乗客たちの中でも、ずば抜けてひょろ長い姿がすぐに目について、わたしは微笑を誘われた。
「お帰り、相変らずノッポだな」とわたしは言った。
エムバッシは大きな白い歯をみせて微笑した。「お出迎えありがとう、マックス」それから真面目な顔にかえって「聞きましたよ、エレンのこと。どんなにお気の毒に思っているか、口では言いあらわせません」
わたしたちは空港のバーで軽く一杯やった。エムバッシは葡萄酒だ。かれは葡萄酒だけ、それもごく控え目の量しか飲まない。それからわたしは、わたしのアパートへ来て将棋をささないかと誘い、そうすることになった。
上着を脱ぐと、ほとんど透明なナイロンのシャツをとおして、エムバッシが以前よりひどく瘠せているのが、それと見がてとれた。肋骨が、まるで洗濯板の畝《うね》ように浮き出して見えた。
わたしが気づいたことに察しがついたのだろう、エムバッシは微笑した。「何でもありませんよ、マックス。十日間断断食をしただけです。それも四日前で終りで、今またもと通りになりはじめているところです。あなたこそ、すこしお瘠せになったようじゃありませんか」
たしかにわたしも瘠せた。エレンが死んだ直後の二、三週間、ほとんど食物が喉を通らなかったために。しかし、わたしだってもうもと通りになりはじめている。
将棋板をとり出し、エムバッシが駒を分けてならべてくれている間に、わたしは二つの小さなグラスに白葡萄酒を注いで、さてそれから盤上の戦闘を開始した。
最初の一手を着手しようとして、ふとわたしは思い出して言った。「そうだ。エムバッシ、たったいま思い出したんだが、いつかエレンが言ったっけ――あんたの中にも星にむかって行く原動力があるって。それから、どういう点であんたが神秘主義を信じてるのか、いつかきいてみるといいって。どういう意味でそんなことを言ったのか、わかるか?」
「わかりますとも、マックス。わたしたちは同じ目標をめざしているんです。わたしとあなたとは、それぞれ別の道を通って星に行こうとしているんですよ」
「あんたも星にとり憑かれている“星屑”の仲間なのかい? 何故もっと早くそう言わなかったんだい?」
「おたずねにならなかったからですよ」かれは柔和な微笑をうかべた。「それに、わたしが通って行こうとしている道のことは、話してもあなたにはわかっていただけないでしょうからね。あなたがたに言わせれば、それは神秘主義で、わたしは神秘主義の信奉者ということになるので、その言葉が目隠しのカーテンになって、あなたがたにはそれからこちら側をごらんになることはできないのです。霊魂とその能力の研究を神秘主義と呼ぶことは、人間の肉体は理解できるが精神は不可解な謎だ、というのと同じことです。しかし、それは正しいものの見方ではありません」
「それと、星へ行くことと、どんな関係があるんだね?」
「あなたのやり方は、とにかく肉体を星まで運んで行けば、霊魂もそれについて一緒に行くというのでしょう? いや、霊魂というより精神といった方があなたがたには通りがいいかも知れない。ところでわたしの方法は、精神を主としてそこへ行かせて、その精神に肉体を運ばせようというのです」
わたしはぽかん[#「ぽかん」に傍点]と口を開けて、それからまた閉じた。
エムバッシは言った。「この考え方は、あなたがたにも初耳ではないはずです。あなたは昔、空想科学小説をよくお読みになったそうですね。だとすると、きっとエドガー・ライス・バロウズのものもお読みでしょう――火星に行ったジョン・カーターという名の男を主人公にした連続物語を書いた?『火星の王女』でしたっけ、確か、最初の一篇の題は。それに五、六篇、続きがあったと思いますが」
「読んだ、読んだ」とわたしは言った。「ありゃとんでもないでたらめ[#「でたらめ」に傍点]小説だ」
「とんでもないでたらめ[#「でたらめ」に傍点]だったら、何故お読みになりました?」
「その頃はまだ子供で、くだらない愚作だってことがわからなかったからさ。まさか、エムバッシ、あんたはあれが傑作だなんて説をわたしに押付けるつもりじゃあるまい?」
「そんなつもりはありません。あの小説の文学作品としての評価に関しては、わたしもあなたと同意見です。しかし、あの小説に一つだけ、同じ頃書かれた他の科学小説とはっきり違う点があることを、お思い出しになりませんか?」
「いや、そう言われても即座には。何だったっけ?」
「主人公のジョン・カーターが火星に到達するためにもちいた方法ですよ。覚えていますか?」
わたしはうんと考えこんだ。なにしろ、わたしがバロウズの作品を読んだのは五十年ちかくも昔――一九五〇年頃のことだ。
わたしは言った。「ああ、思い出した。あの物語の主人公のカーターは、ある夜、火星を睨んで、ああ、あそこへ行けたらなあ、と思った。そしてふと気がついてみると、そこへ行ってた。まったく突然――」
わたしはけたたましい声をたてて笑い出したが、エムバッシの感情を傷つけたくないので、すぐに笑いやめた。
「笑いたければ、どうぞ、構いませんよ」とエムバッシは言った。「あなたみたいな言い方をすれば、確かに滑稽に聞えます。また事実バロウズの本に書かれた方法は、あまりにも単純化されすぎています。けれどもあれが、いつか人間が実際にやれるよとになることの単純化された表現だったとしたら、どうです? かりに名付けるなら精神作用による遠隔移送法とでも言いましょうか。つまりある物体を、物質的な方法によらずして空間中を移動させる能力のことです」
「しかし、そんな方法が実証された例は、まだ一つもないだろう、エムバッシ」
「そういう言い方をなさるなら、空間の彎曲だとか光波ロケットだとか、科学小説の作者たちが予言している他の宇宙旅行の方法だって、全然実証されているわけではありますまい? けれども心霊学でいわゆる念動作用とか隔動現象といわれる現象については、かなり確実な証拠があげられています。一口に言えば、それは物質的な方法によらずに物体にはたらきかける方法です――たとえば骰子《さいころ》の目を自由に出すとか。星への旅行も、要するにその力の拡大延長にすぎないのですよ。マックス。一が可能ならば、他も必ず可能なはずです」
「かも知れん」とわたしは言った。「が、わたしはロケットのほうにするよ。とにかく、ロケットは間違いなく動くんだからな」
「そりゃ動くし、近くの惑星へ行くには現にそれで間に合っています。でも、恒星へは、どうですかな。マックス?」
「イオン・エンジンができれば――」
「どんなエンジンができても、ロケットは光の速度にさえ達する見込みはほとんどありません。統一場の理論がそのことを証明しています――そんな理論は理論といっても一種の神秘主義だ、とあなたがお考えになるのは勝手ですが。とすると、幾十万光年も向うの星まで、どうしてたどり着くつもりなんです? 幾十万年もロケットに乗りづめで行こうというんですか?」
かれは一口葡萄酒を啜り、またグラスを卓上に戻した。かれは言った。「そこへいくと、思考というものはほとんど時間を要しません。もし思考の力によって旅行することができるとすれば、そのスピードは思考そのもののスピードに等しいでしょう。その速さに較べたら、光のスピードなんか問題になりません。もしその方法の秘密を明かすことができたら、わたしたちは一番遠いとこにある星にでもたった一インチ動くのと同じ時間で飛んで行くことができるようになるでしょう」
初めに駒を一枚動かしたきり、将棋なんかもうすっかりそっちのけで、あとの晩ずっと二人は夢中で話し合った。エムバッシはチベット旅行の話をしてくれた。かれは霊魂旅行術を修行している有名なグールー([#ここから割り注]宗教教師[#ここで割り注終わり])を訪ねて行ったのだった。かれはそのグールーの教えを受け、かつまた一緒に断食の行《ぎょう》をした。
「で、その霊魂旅行とかいうやつを経験できたのかい?」とわたしはたずねた。
「その質問には、お答えをさし控えておきましょう。ただ、あることが起ったことは事実です。あるいは、そうわたしが錯覚しただけなのかも知れませんが。断食の九日目のことでした。けれども断食がながびくにつれて幻覚があらわれるのは、一般によくありがちな現象だとも言われています。たとえそれが現実に起ったことだったとしても、たった一遍しかなかったことですし、確かに事実だという証拠もなく、わたしにもたしかにそうだったという自信はありません。ですから、どういう経験だったかは説明せずにおきたいのです。許してくれますね?」
許さないと言ったって仕方がない。どう頼んでみても、喋るまいときめた決心をひるがえしてくれそうにはみえなかったから。ただ一つ、他にそのことについてエムバッシから聞き出すことができたのは、断食の十日目にそのグールーはひどく衰弱してしまって、それ以上食物をとらないと生命が危険なので実験はそこで終りにせざるをえなかった、ということだけだった。
「とても年寄なんですよ、マックス、そのグールーは。百七歳です。もう二度と同じことはやれないかも知れません。もしやる場合には、予め知らせてくれることになっていて、もしその知らせがきたら、たとえ一生かかって積上げた貯金をひきずりおろし、特別ロケットを仕立ててでも飛んで行くつもりでいます」
わたしはかれをみつめた。「エムバッシ、エレンが言った通りあんたは完全に星に憑かれてるよ。だのに、よくも今までそのことをわたしに黙っていたな? 考えてみろ、今まで二人してどれだけの時間をむだにしてきたことか――将棋をさしたり、つまらないことを喋ったりして、何故だ?。きっと何か理由があるはずだ」
「はじめは確かに理由がありました。あなたに統一場の理論を教えることになったとき、エレンからそう注意されたのです。もしあなたと宇宙旅行の議論をはじめたら、勉強のほうがちっともはかどらないだろうって。それでだいたい別のことばかり話すのが習慣のようになってしまって、さりとて途中から急にその習慣を変えようという気も今日まで起らなかったのですよ。それというのが、あなたをわたしの考え方のほうに引寄せるのに、あなたがわたしをあなたの考え方のほうに引寄せるより、もっと難かしいということがわかりきっていたからです。といっても、わたしはあなたの方法を頭から否定しようというのではありません。わたしのほうが間違っているかも知れません。そしてあなたの方法だけが、星にたどりつく唯一の方法だということが、いつか証明されないとは断言できません」
かれは溜め息をついた。「本当に、わたしもあなたみたいに確固とした信念をもちたいと思いますよ。わたしたち二人のうち、どっちのほうが狂信的な神秘主義者かということになったら、それはむしろあなたのほうなんですからね」
*
時――土曜日の午後二時。ところ――首都ワシントンにおけるホイットローのオフィス。見たところウィリアム・J・ホイットローは、電話で聞いた声から想像していたところと寸分違わなかった。小じんまりと、こせこせして、こちこちだった。まだ中年のくせに、もう年寄じみていた。けれども生れついての年寄じゃない。それは相手をしばらくじっと見ていればわかる。
わたしはいきなり第一問をぶつけた。「ロケット空港のほうへは、いつやめると言ってやっていいかね?」
「きり[#「きり」に傍点]のいい、明年の元日からということではいかがですかな、ミスター・アンドルーズ?」とかれは言った。かれは目の前の机の上にある汚点一つついていない吸取紙挾みをいじいりながら、透かすようにわたしを見た。「もっと早くこちらの人間になっていただくことも、できないこともありますまいけれど、工事がはじまるまではあなたにやっていただく仕事はほとんどないのでして、収入の面でも、あなたのお得になりませんしな。当分の間、こちらでさし上げられる給料は、現在あなたがミスター・クロッカーマンのところでとっておいでの金額を上廻ることはありますまいから」
「そんなこと、どうだって構やしない」とわたしは言った。「わたしはただ、一刻も早くロケットを飛ばしたいだけだ」
「それはもう、もちろんそう心がけておりますから、任せておいてください。いったん仕事を始めるとなったら、それこそあなたには山ほどやっていただかなければならないことがありますからな。あるいは――そうそう、こういうことにしたらあなたのお気に召すかも……どうです、十一月一日付けでこちらの職員になっていただいて、その日かぎりロケット空港のほうはやめるということになさっては? しかし初めの二カ月間は、今申上げたようにほとんどあなたの仕事らしい仕事はないので、その間適当に休暇をおとりになって、むろん給料はさし上げますので、うんと忙がしくなる前に予め休養を――」
「休暇も休養も欲しくはないよ」とわたしは言った。
「それに、実際の仕事もないのに給料をもらおうなんて料簡もない。作業地はもうきまったのかね?」
「いいえ、実はその点についてもあなたのご意見をうかがおうと思っておりましたので。どこかとくにここというような目星をつけておいでですか?」
「いや、とくにこれといっては。しかし、やっぱりニュー・メキシコかアリゾナになるだろうな。それに工事の現地はいいかげんの大きさの町から行き来できるところでなくちゃ。たとえばアルバカーキとか、フィニックスとか、タクソンとか、エル・パソとか、作業要員をすっかり吸収できて、わざわざ新しく住宅を建てなくても済むくらいの大きさのある町から。もし周囲に何もないところとか、あっても小さな町の近くだと、二、三百人の工事要員とその家族のために住居を新築しなけりゃならないから、それだけでだいぶ金がかかって、それだけ予算が減っちまうことになる。初めの予算には入っていないのに」
かれはうなずいた。「しごくごもっともなご意見のようですな。あなたが今おっしゃった中では、アルバカーキが一番好都合でしょう。あそこなら大きなジェット機の発着場があって、ワシントンから毎日幾度か往復の定期便が出ています。どうせわたしは現地と当地の間を頻繁に行き来しなければならなくなるでしょうから、そのためにはおおいに便利です」
「なるほど」とわたしは言った。「それじゃアルバカーキを第一候補ってことにしよう。それに、あの辺には政府の所有地がうんとあるから、ひょっとしたら土地を買わずに使わしてもらえることになるかも知れない。もっとも、買ったって値段はたか[#「たか」に傍点]が知れている。あの辺には、あんまり地味が瘠せていてサルビヤさえ育たない土地がうんとあるんだから。そんな土地だと、ほとんどただ[#「ただ」に傍点]同然の値段で買える。何より大事なのは、なるたけ大きな街道に近い場所を選ぶことで、そうすりゃ道路建設にむだな金を使わなくて済むわけだ。帰りに、わたしがちょっと寄ってみようかね? どうせ明日一日は休みなんだから。明日いっぱい見て廻りゃ何か収穫があるかも知れない。もしそうなれば、どこを作業地にするかってことには、それ以上頭を悩まさなくてもよくなる」
「そうなさる気がおありなのでしたら、もちろん、どうぞ、ミスター.アンドルーズ。しかし――さし当り、そのためにかかる費用を、こちらでお支払いすることはできないかも知れませんが」
「そんなこと心配しなさんな。帰り道の途中だし、ちょっと下りてみるくらい、心配してもらうほどの費用はかからないよ。オーケー、そうしてみて、何かいい収穫があったらすぐ知らせるよ。それから、ロケット空港のほうへは今年いっぱいでやめると言っておく。ほかに今話しておかなけりゃならないことは――?」
そんなことは何もなかった。が、それでもよかった、とわたしは思った。こうして二人で話したことは、電話でも充分通じたろうし、そのほうがずっと安あがりだった。けれどもわたしは、ホイットローという男をじかに見確かめておきたかったのだ。
ホイットローという男から、感銘はちっとも受けなかったけれども、印象はよかった。いったん仕事がはじまったら、いちいち小うるさく干渉してわたしをいらだたせるようなタイプではない。たぶんホイットローはほとんど始終ワシントンに腰を落着けっぱなしになるだろうという予感がした。ことに現地がどんなに暑い無味乾燥な土地かということがわかったら。
わたしがアルバカーキに着いたのは薄暮の頃だった。わたしは、屋上にヘリコプターの発着設備があるホテルに部屋をとり、翌日ヘリコプターを一機賃借りできるように話をつけた。
*
それをみつけたのはちょうど正午頃だった。一目見て、まったく申し分なしと見極めをつけた。わたしは主要州道――第八十五号道路に沿って、アルバカーキの南二十五マイル、ベレンの北約五マイルのところを飛んでいた。
それは道路の左手に、それほど引込んでいないところの一劃だった。平らなことでは月世界の“海”のようで、広さはほぼ一マイル平方。周囲をぐるりととりまいた丘は、砂を運んでくる風をよける役にたつだろう。
いい加減の道路が一本と、二筋の細道がすでに幹線道路から引込んであって、その平坦な区域の道路寄りの側に大小とりまぜ五つ六つ建物が目についた。人気はないが、ひどく荒れ果ててはいないようだ。その一劃を手に入れることができて、修理や模様変えは必要だとしても、建物まで使えるというのでは、あんまり話がうますぎるような気がした。
わたしはその周囲に沿って一回旋回飛行してみた。すると、どうだ、塀まである! まるで本式のロケット発着場のように、高い金属の塀でとり囲んであるじゃないか。しかし、ロケット発着場ではなかった。発射台らしいものは見えなかったから。
建物は、工事場の仮小屋のようなのと倉庫みたいなのがそれぞれ幾棟かと、それに発電所らしいのが一つ。わたしはその建物の近くに着陸して、すこし歩き廻ってみた。空中からみて想像したほど、良好な状態ではなかったが、そうかといってひどくいたんでもいない。新しく建てることに比較したら、ほんの僅かの金をかければ使えるようになるだろう。
しかし、いったいこいつは何だ。
だしぬけに記憶がよみがえった。思い出したぞ――そうだGステーションだ!
覚えているだろうか? 一九七〇年代のことを覚えておいでの読者なら、当時あれほど大評判だったGステーションのことを思い出せないはずはなかろう。
当時最大の賭博場経営者たちの連合組織が資金を出して、地球から七百マイルの軌道に乗せて設けようとした賭博場用人工衛星だ。一夜の遊びに、ロケットの渡し貸千ドルを払っても惜しくないという上等のお客専門の賭博場にする予定だった。
賭博場経営者たちはすでに数百万ドルを投じてこの土地を買いこみ、これらの建物を建て、資材を少しずつ軌道まで運び上げるための運送ロケットの建造にとりかかろうとしていた。運送ロケットは、あとで客の送迎用ロケットに改造されることになっていた。
第一台目のロケットの建造にとりかかったところへ、ハリス=フェンロウ法案が議会を通って賭博場経営者たちの連合組織は解散させられ、個々の賭博業者たちにも相当の財政的打撃をあたえた。そして賭博場用人工衛星の計画は、たった一台の資材運送用ロケットさえ完成しないうちに頓挫してしまったのだ。
しかし、木星ロケット計画にとっては、何という好都合だろう! どうしてわたしは今までに、そのことを思いつかなかったのか? わたしでなくて、他の誰かでも?
金額にして、すくなくとも二百万ドルは助かるだろう。おまけに地均らしして塀をめぐらす時間も手間もいらず、建物までできていて、ただ修繕しさえすればいいとは!
しかもこの土地の建物の所有主は、きっと合衆国かニュー・メキシコ州か、どちらかの政府にきまっている。未納税金の抵当流れで、二十年間以上も誰かがずっと不動産税を払いつづけてきたとは千に一つも考えられないことだから。
まったく、何たる幸運だろう。
わたしはさらに二時間ほどそのへんを歩き廻り、見て廻った。建物は窓や出入口にしっかり板を打ちつけて閉ざしてあったが、だいたいを察するには外から眺めるだけで充分で、眺めれば眺めるほどわたしは興奮して、居ても立ってもいられなくなった。
わたしはアルバカーキに飛んで戻り、ヘリコプターはまだ返してしまわず、ホテルの屋上にとめておいて、自分の部屋に下りて行って電話をかけはじめた。親切な長距離電話交換手は、サンタフェをすこし北にはずれたテスクにあるロメロ知事の家に線を繁いでくれた。さよう、Gステーションは州のものです、とかれは言った。よろしい、その話なら、今すぐ飛んでおいでになるなら、しばらく時間をさいてもよろしい、とかれは言った。さよう、邸にはヘリコプターを着陸させられるほどの空地が付属してあります、とかれは言い、どうしたらそこに見当がつけられるか教えてくれた。
三十分後、わたしはロメロ知事とじかに話をしていた。一時間半後、わたしはホテルに戻って、ホイットローに事の次第を報告していた。
「ロメロ知事は、そういうことなら大歓迎だ、と言ったよ」とわたしは言った。「実現には州議会の承認がいるので、確約はできないけれども、自分としてはあれ[#「あれ」に傍点]を無償でか、あるいは純粋に名目だけの賃貸料で、こちらに必要な期間だけ貸してあげられると思う、と言ったよ。木星ロケット計画の作業地がそこときまれば、幾百万ドルかの金が州に流れこむことは誰にだって目に見えているし、それにわたしは、もしGステーションを貸してもらえないなら、ロケット計画の作業地はたぶんアリゾナ州のフェニックス付近になるだろう、と言ってやったよ」
「それはいいことを言われた、ミスター・アンドルーズ。とてもいいことを。それに、こんなことも言ってやったらよかったのですがな――木星ロケット計画が終って基地を返す時には、たぶん修理や手入れができた上に、こちらで追加した建物もふえて、その施設の価値は初めより上っているということになるかも知れないのだ、と」
「言ってやったよ、それも」とわたしは言った。「もっともこちらとして新たに設けなければならない施設といったら、ロケット発射台だけなんだけれどもね。それに起重機を一台か二台。その二つだけは、今のところないから。しかし建物のほうは、今あるだけで充分間に合う」
「大変結構なお話のように聞えますな、ミスター・アンドルーズ。ひとつ、わたしも行って見ることにしましょう。自分でも、じかに検分してみないことには。もしだいたいただ見たところだけでも、今あなたがおっしゃったこととあまり違いがなければ、早速ロメロ知事に連絡をとって正式の借用申請を出すことにしましょう」
「鉄は熱いうちに打て、という諺がなかったかね? 明日すぐ航空郵便で正式の借用申請をおくって、本人自身が乗り気でいるうちに議会にはたらきかけさせるようにしたらどうだい? 政府の名目だけの賃貸料といえば、ふつう一ドルってことにきまっている。あんたが実施検分する前に話がきまっちまって、あんたが行って見たら、わたしの言ったことはでたらめ[#「でたらめ」に傍点]だったってことになったら、その一ドルはわたしが払おう。そうすれば、誰も損しやしまい?」
「あなたの言われることにも一理はある――実地検分といっても、わたしはここ一月ほどは出て行けませんからな。しかし、わたしが知事に手紙を書くのは、あなたから報告を書面にして受取ってからのことにしたい。ロサンジェルスに帰ってから、そういう報告書をつくって送ってくださらんかな」
きっとそうする、とわたしは答えたけれども、実はもっとうまい手を使ってやったのだ。
暗くなるまでには、まだかなり時間があった。で、第一にわたしはホテルの支配人に土地の腕っこきの私立探偵を推薦してもらって、ホテルの交換台からその探偵を呼出させた。わたしはその探偵に、問題の土地と建物の状態について法律的に完全な報告書を、それも早く、つくってくれと頼んだ。ホイットローという相手を動かすには、法律的に首尾がととのった書類を送りつけてやらなければだめ[#「だめ」に傍点]だ。とわたしは覚っていた。どうして手に入れようと、そんなことはこっちの知ったことじゃない、とわたしは探偵に言ってやった。そういうことはそっちの繩張りなんだから、知りたいことがどこへ行ったらわかるのか、知らなかったら自分で探し出せ、と。もし今日は日曜日で公けの記録は閲覧させないと言われたら、何とかして見られるように自分で算段をつけろ、と。わたしが欲しいのは法律的に完備した報告書だ。それも、一刻も早く。
それからわたしは大型のインスタプリント([#ここから割り注]即時現像[#ここで割り注終わり])カメラを借出し、ヘリコプターでGステーションの敷地に出かけて、やたらにたくさん写真をとった。まず空中から、いろいろの角度と高さから五、六枚。それから建物、塀、道路などを地上で遠近それぞれの距離から。
ホテルに戻ると、ちょうど日が暮れかかっていた。探偵が来て待っていた。どうして、頼んだ以上のことをやってくれていた。さすがのわたしも顔負けのスピードだ。税金抵当と抵当流れを証明する書類の謄本もあった。敷地をはっきりとマークで仕切った地図もあった。それをみると、塀で囲まれた区域ばかりでなく街道まで前面一マイルほどにかけて、ずっと敷地に付属していることがわかり、わたしはすっかり有項天《うちょうてん》になった。何より有難かったのは、建物の内部がすっかりわかる青写責まで手に入れてくれたことだった。わたしが苦労してとった写真なんか全然必要がなくなってしまった――ただ現状を示すため以外には。
かけ値なしに腕っこきだった――その探偵は。わたしは請求された料金を即座に払ってやったばかりでなく、おまけに夕食をおごってやった。あまり興奮したので、わたしは昼食を食べるのを忘れていて、うんと腹が減っていた。
夕食後わたしは代書屋の速記者を傭って、ロメロ知事との会談の模様まで逐一詳しく述べた報告書を口授した。書類と写真につけて送るためだ。
速記者が仕事をつづけている間に、わたしはワシントン行きジェット機の時間を確かめ、結局かなりかさのある小包になった速記者の仕事の結果を持って飛行場へ行って、九時四十分発のジェット機に間に合わせた。ホイットローの自宅に宛てて、至急速達便にした。
わたしは一人でにやりと笑った。ホイットローが真夜中に叩き起されて、たった数時間前わたしに向ってロサンジェルスに帰って暇があったら作って送ってくれと頼んだ報告書をつきつけたらどんな顔をするだろうかと思ったからだ。
ロサンジェルス行きの最終発ジェット機には乗り遅れたが、そんなことは問題じゃなかった。朝の一番機に乗って、着いてすぐ家に寄らずに真直ぐ仕事に行けば充分間に合う。
ホテルに帰って寝る前に、わたしは自分に一杯おごった。
今日の働きにはそれくらいの価値はある、と思ったのだ。
木星ロケット計画は、実現の芽をふきはじめた。もしホイットローが握り潰しにでもしないかぎり、作業地はすでにきまった。そして、こっちがこれほどまでにしている以上ホイットローだって握り潰しにすることはできないし、そんなことをするいわれもなかった。
*
エムバッシはハリウッドの細民街に住んでいた。サンセットにある、その辺にはそう珍しくない、ぞっとしない十二階建てかそこらのアパートの一つだ。廊下は暗く陰気で、エスカレーターのかわりに、がたついたエレベーターがついている。十六室ある三階全部が、もとは一つの貸切りアパートだったのだが、今では祖母が昔映画のスターだったとかいう妙な女が分割して幾家族かに貸している。けれどもエムバッシがその女から借りている裏手のほうの四部屋つづきの一郭に一歩踏みこむと、自分が今どこにいるのか、すっかり忘れてしまう。
中心になる大きな部屋は、かれが幾度となく中国へ旅行する度に持帰った品物で、隅々まで東洋風に美しく飾りたてられている。その部屋が異国趣味であるのと同じ程度に、実用一点張りなのは書斎で、どちらの側も床から天井までぎっしり本が詰まった書棚で、ほかにといっては机と椅子が一つずつあるっきりだ。もう一つの部屋は寝室兼台所。第四の部屋は小さくて、家具といわず道具らしいものはまるっきり置かず、絨氈さえ敷いていない。それが修道室で、エムバッシはそこに閉じこもって瞑想にふけるのだ。
聞くともなく音楽を聞きながら話をするのが好きなエムバッシの趣味で、柔らかい音楽――今夜はスクリアビンの曲を静かに伴奏に流しながら、エムバッシはわたしの質問に答えていた。というより、むしろ答えよう[#「答えよう」に傍点]としていたと言ったほうがいいかも知れないけれども。
「霊魂はどういうふうにして旅行するかって? マックス、マックス、もしわたしがそんなことを知っていたら、今こうしてこんなところにじっとしていると思いますかね?」
「でも、エムバッシ、あんたはその術を習ってるんだろ? だったら、すくなくともどういうふうにして修行するのかは知ってるはずだ」
「修行の方法は無数にありますよ。けれども全然その道に心得のない相手には、どれも説明のしようがありません。あなただって、自然科学の知識が全然ない相手に、ロケットがどうして動くのか説明できますか?」
「もちろん、できるとも、大づかみになら。原子エネルギーが液体を高圧ガスにしてロケットの尻から噴き出し、その反動で前に進むのさ」
「それでは、光波ロケットがどうして進むのか説明してください」
「なに言ってるんだ。知ってるくせに――光波ロケットなんかまだできてないってことくらい。だが、今にきっと発明されるよ」
「あなたこそ、わたしにはまだ霊魂旅行ができないってことを知ってるくせに。しかし、今にきっとできるようになります」
「できるようになると思う根拠は?」
「どうしてそう思うか、理由は二つあります。第一に、それはすでに実証され、事実にしてみとめられている念動作用の延長にすぎないからです。もう一つの理由は、これまでに確かに霊魂旅行の例が事実としてある、とわたしが信じているからです。わたしがよく知っていて信用できる三人の人物がそれぞれ何かのかたちで霊魂旅行を経験しています。その人たちは霊魂旅行には成功したのですが、いずれも――何と説明したらわかっていただけるか――どういう具合にして成功したのか自分ではわからず、それがわからないので、思いのままに繰返してそうするというわけにはいかないのです。うまく行ったときに自分がおかれていた精神的、肉体的な状態に、もう一度できるだけ自分を近づけようとしてやってみても、どうしても繰返すことができないのです」
「最初の一度は成功したってことは絶対に確かなのかい?」
「絶対に確かなんてことが、この世の中にありますかね? 幻覚だったか、その他の錯覚だったか、その可能性はいつもつきまとっています。こうして今わたしがここにいて、あなたと話しているということが、絶対に確かなことだとあなたは言いきれますか?」
「しかし、あんたはその連中が確かに霊魂旅行をしたと信じるんだね?」
「信じます。たとえば、今年の夏わたしがチベットまで行って教えを受け、また一緒に修行したグールーは、自分は確かに二度霊魂旅行をしたと話してくれました。決して嘘をつくような人ではありません」
「それはまあそうとしよう。しかし、何故その男の霊魂旅行は錯覚じゃないと思えるのかね?」
「その人は賢い人だからなんです。その人は、幻覚に惑わされないように、予防の手を打っておきました。どういう予防線を張っておいたのか、わたしに教えてくれましたが、それだけでわたしは充分信じてよいと思いました」
「実験をするのに予防線を張っとくのかい、あんたたちは、エムバッシ?」
「もちろん。そうしなければ、もし成功しても、どうして成功したとわかります? たとえばわたしがこのアパートの修道室で実験するとすれば、わたしはその部屋にとじこもってドアに内側から錠をおろします。内側からでなければ、かけも外しもできない錠を。そこでかりにわたしが成功したとします――つまり、気がついてみたら別の場所にいたというわけです。たとえば修道室とは別室の、この部屋に来ていたとしましょう。わたしはそのドアのところへ行って、まだ修道室の内側から錠が下りているかどうか調べてみます。もしちゃんと鍵がかかっていれば、夢遊病者のように自分で知らずに錠をはずして、この部屋に出てきて、それからふと我にかえったのではないという証明になるでしょう」
「そしたら、また修道室に入るのに、ドアを壊さなけれりゃならんな」
「それができたら、ドアの一枚や二枚、犠牲にしたっていいんじゃありませんか?」
わたしは言った。「それはそうだ。しかし、ところで、断食と霊魂旅行とどんな関係があるんだい?」
「肉体はね、マックス、いろいろと精神に影響を及ぼすんですよ。体内にある食物、あるいは食物が欠乏している状態、疲労、刺戟剤や鎮静剤を摂取した時の状態など、いずれもわたしたちの精神の能力と、そのはたらき方に微妙な影響があるのです。ずっと大昔から賢人たちは――いや、愚かな連中だって幾分かは、断食すると頭が冴えて、時には目の前にないものを見ることができるということを知っていました」
「それがいわゆる幻覚だろうじゃないか。それならアルコールだって同じことだ。わたしだって――いや、わたしが見たものの話はやめておこう。とにかく、わたしだって目の前にはないものを見たことがあるよ」
「その通り。ですがね、マックス、同じ酩酊状態でもある一定の段階にさしかかった時、何かこう、ひどく重大な何かがもうすこしでわかる瀬戸際に来たような感じを味わったことはありませんか? その、何というか――わかるでしょう、わたしが言うことの意味は?」
「わかるとも」とわたしは言った。「しかし、いつだって瀬戸際までだ。そこを踏みこえることは決してできない」
「ある特殊な状態のもとで、踏みこえることができる場合があり得るかも知れない、とはお思いになりませんか? もっとも、わたしはアルコールより麻薬のほうに望みをかけていますがね。わたし自身、そのうちに麻薬で実験してみるつもりでいます」
「アルコールのほうは、もう実験済みなのかい?」
「ええ。それにアヘンの喫煙も。どちらかと言えば、アヘンを喫った時のほうが目的に近づけたような気がしました」
「そいつは危い実験だぞ、エムバッシ」
「ロケットは安全、とおっしゃるんですか?」わたしが口惜しそうな顔をして自分の義足に視線をおとすのを見てエムバッシは微笑した。かれは言った。「マックス、どこか自分の行きたいところへ行くためになら、あなたはどんな危険でもおかすつもりでいることを、わたしは知っています。だったら、わたしだって危険をおかしていけない道理はないでしょう」
その夜わたしはエムバッシの書棚から一かかえほどの本を借りて帰った。みんなわかり易く書いた入門書だ、とエムバッシは言った。
しかし、わたしにとってはわかりやすいどころではなかった。わたしという読者に関する限り、どいつもこいつもちんぷんかんぷんだった。午前三時まで頑張ってみたが、どうにもそれ以上我慢できずに諦めることにして寝た。エムバッシのやり方でやってみりゃいい。わたしは今までのわたしのやり方でつづけよう。これから新しい手品を習うにしては、わたしは老いぼれ過ぎている。
ばかりでなく、エムバッシが何事かを成就するようにと心から祈りながら、またかれの不屈の情熱には大いに敬服しながらも、わたしにはどうしてもかれがやっていることが正しいと信じることができなかった。
木星行きロケット、土星行きロケット、冥王星行きロケット、プロクシマ・ケンタウリ行きロケット――そういう頃を追って進むのが、わたしの行くべき唯一の道だ。
*
十月、木星ロケットはふたたび時の話題となった。ニュー・メキシコ州の旧Gステーション建設作業場の正式借用契約がきまった、と発表されたからだ。
発表された当日の水曜日のニュースでは、ほんのちょっと触れられただけだったが、新聞の日曜版と週刊総合ニュース放送では、最初のロケットさえ発射することなく挫折したそのかみのGステーションの物語をかなり詳しく再生させて、大々的に報道した。記事の中の幾つかは写真つきで、中に二枚、わたしがヘリコプターの上から撮影したものも混っていた。どちらにも写真はマックス・アンドルーズ撮影と但し書きがついていたけれども、記事には全然わたしの名前は出ていなかった。それにひきかえ、ホイットローの名前はやたらに出てきた。ただ偶然[#「偶然」に傍点]かれが木星ロケット計画本部長官であるというだけの理由で。そもそも旧Gステーション基地を木星ロケット計画に使おうと思いついたのはわたしだということについて、一言もホイッロートは喋っていなかった。もっとも、自分だ、とも言っていなかったけれども。そんなことはまあどうでもいい。とにかく木星ロケット計画がひろく宣伝されることは大いに結構だ。要は、せっかくふき出したロケット計画の芽を、ホイットローが握り潰しにしなかったことだ。
木星ロケット計画にも、こうしてようやく基地ができた。
建設作業が始まるのも、もうそれほど遠いさきのことではなかろう。いったん工事が始まったら、わたしはそれこそ毎日二十四時間、ほとんど身も心もやすまる暇がなくなるだろう。一刻も早くそういう状態になることが、わたしの望みだ。本心からの望みなのだ。
その待ち遠しさを別にすれば、現在の状況にさして不満はなかった。わたしはエレンを亡くしたことを、やむをえなかったこととして諦めることができるようになり、その諦めはある意味でふたたびかの女をわたしの身近に引きもどしてくれた。というのは、以前にはエレンのことを考えると絶望と悲しみのために心に雲がかかり、思考を歪められずには済まなかったのが、今では前ほどの苦痛なしにエレンのことを考え、また思い出すことができるようになったからだ。近頃では時々話さえする。想像だけの会話を、高い声には出さずに。励ましや慰めが欲しい時には、それを心の中のエレンにもとめることもできる。そして時にはわたしはエレンと一時的に離れているだけなのだ、と自分に思いこませることさえできるようになった。ちょうど以前エレンがワシントンの議会に出かけ、わたしは、ロサンジェルスの空港勤めで、その間やむをえず離れて別々に暮さなければならなかった時のように。エレンは今でも生きていて、どこかでわたしを待っているのだ、と。事実、ある意味でエレンは生きていた。わたしの心の中に。かの女は現在立派にわたしの記憶の中に生きているし、わたしが生きているかぎり、いつまでもそこに生きつづけるに違いなかった。
死という冷厳な事実でさえも、エレンをわたしから完全に奪い去ることはできないのだ、ということをわたしはさとった。そしてその悟りはわたしの心に平安をもたらした。
*
十一月。十二年はもう目と鼻のさきだ。わたしは早く木星ロケット計画のほうの仕事の仲間入りをしたくて、我慢しきれなくなってきた。もう今頃、ワシントンで計画はしだいに形をととのえはじめ、さかんに討議がおこなわれ、計画が練られはじめているにちがいない、とわたしは思った。だったら、わたしだって仲間に入れてもらわなくちゃ、と。正式の要員として給料を貰うのは来年の元日からという約束はしたけれども、計画を推進する手伝いさえできるなら、給料なんかどうでもいい。
わたしはクロッキイに、もしわたしが予告したより早く辞職したらひどく迷惑をかけることになるだろうか、とたずねてみた。
かれはうんと笑った。「おまえが、このロケット空港で他にかけがえがないほど大事な人間だなんて、どこからそんな考えをひねり出したんだ? どっちみち、おまえが正月元日からよそ[#「よそ」に傍点]の人間になるってことは、とっくに覚悟してるんだ。後任はバンナーマンてことにして、用意はちゃんとできているんだぜ。それどころか、マックス、お前さんがなかなか行っちまわないんで、こっちは先月あたりからそろそろしびれ[#「しびれ」に傍点]がきれかけていたところだ。当然もっと早く飛んで行っちまうものと思っていたからな。いつもに似合わず、何でそう鷹揚《おうよう》に構えてるんだね?」
「そいつは本人の俺が教えてもらいたいことさ」と、わたしは言った。「しかし、たぶん、行ってみて何もすることがない、なんてこになるのがおっかないんだろう。それよりゃ、ここに腰を落着けてるほうがまだましだからな」
「もし行ってみて何もすることがなけりゃ、また戻ってくりゃいいじゃないか。どうだね、いっそこういうことにしたら? 特別休暇をやろう――待てよ、今日は水曜日だから……と、今週いっぱいワシントンへ飛んで行って、ホイットローと鼻つき合わせ、何かおまえにできる手伝い仕事はないかってきいてみろ。あると言ったら、おれに電話をかけて辞職の手続きをとれ。ないと言われたら、戻ってきて来週月曜日からあと一カ月ここで働きゃいい。むろん、それより長く、いつまでだって好きなだけいろという意味だが」
「クロッキイ、きさまって、なんていい男なんだ」
かれは鼻を鳴らした。「そんなことが、今頃やっとわかったのかよ? ところで、今住んでるアパートのほうはどうする? 本とか、ほかの荷物なんかも?」
そのことは考えていなかった。わたしはちょっと喉の奥で唸り、とたんにこの二年間に自分がどれほどしこたまがらくた[#「がらくた」に傍点]を蓄《た》めこんでいたかに気がついた。
「考えることをすっかりお留守にしてたぞ」とわたしは言った。「――本や荷物のことは。アパートのほうは大丈夫。今年いっぱいで出るって予告をして、家賃もそれまでの分は支払い済みだから」
「おれに鍵をよこしとけ、マックス。おれが心配して、ワシントンへ送るようにしてやるから。それともアルバカーキか――作業の現地に落着いてからのほうがよけりゃ」
わたしは安堵の溜め息をついた。「有難い」とわたしは言った。「ワシントンには送ってくれるな。それだけはもう初めからきまってることだ。それから、もし今年の末ぎりぎりになってもまだ俺の落着き先がきまらなかったら、運送会社の連中をここへよこしていい加減に荷造りさせ、ひきとって保管金庫にぶち込んでおくように言いつけてやってくれ」
「望遠鏡はまだ屋上に据えつけたまんまなのか?」
わたしはうなずいた。「今夜とり下ろして分解しとくよ。それに、なくなっちゃ困る大事な物については、明細書を作っておくことにしよう。アパートに備えつけの道具なんかも混ってるからな」
「そんな心配はするな、マックス。おまえが大事にしてる物は、おれにはちゃんとわかってるから、おれが荷造りに立会ってやる。しかし、望遠鏡を下ろして分解しとくってのは悪い思いつきじゃない。が、どうせやるなら夜でなく今日の昼からにしたらどうだ? それで夕方のジェット機でワシントンにむけて発《た》って、今夜ゆっくり休んで明日の朝から行動開始ってことにしたら?」
「つまり、この場から今すぐ暇をとっても構わないってことか、そりゃ?」
「ばか言え」と、かれは腕時計を見ながら言った。「まだ正午に二十分前だよ。休暇は正午きっかりからってことにしろ。あと二十分だ。おまえの新しい出発のために、乾盃するのにちょうどいいだけ、時間の余裕があるわけだ」
かれは、秘書のところに通じる伝声器のスイッチを入れ、「ドッティー」と秘書の名を呼んだ。「今から二十分間、誰もおれの部屋に通すな。おれたちは、これからしばらく、ロケット空港就業規則に完全に違反したことをやらかそうとしてるんでな。電話も繋がないでくれ。留守だと言って」
かれはスイッチを切り、それから瓶とグラスを机の引出しの底からとり出した。二つのグラスに酒を満たし、その一つをわたしに手渡した。
「マックス、木星のために、乾盃!」
二人は盃を乾した。それからかれは、じっとわたしみつめ、その目にきらり[#「きらり」に傍点]と光る露がやどっていたように見えたのは、神かけてわたしの目の迷いではなかったと思う。かれの声は静かだった。「うまくやれると思うか、マックス?」
わたしは答えなかった。エレンと同様、クロッキイもちゃんと察しをつけていたのだ。知己というべきだろう。
わたしはやっと答えた。「望みなきにあらず、さ」
「おれはおまえが羨ましいよ、マックス。どんなに際どい橋も渡らなきゃならないとしても。何だってくれてやったっていい、もしおまえに代って――」
そこでかれは言葉をとぎらせ、二つのグラスにもう一杯酒を注いだ。
*
二つのスーツケースの中に、わたしはほぼ二カ月間の生活にどうしても必要と思われるだけのものを詰めこんだ。作業現場に落着くまでに、それくらいの日にちがかかる場合の用意だ。
わたしは望遠鏡をとり下ろし、すぐ荷造りできるように分解した。
畜生、とわたしは自分の身の周りをながめながら舌打ちした。何だって、こうがらくた[#「がらくた」に傍点]を山ほど蓄《た》めこんじまったんだろう? 人間は、どこかへ向って駈け出そうという時、担いで持って走れる以上のものを蓄めこむべきではない。が、すでにそうなってしまった以上どうにも仕方なかった。
ジェット機でワシントン着。それからヘリコプター・タクシーでホテルに着くと、もう晩だった。すぐホイットローの自宅に電話をかけようと思ったが、思いとどまった。
明日でいい。ただし電話でなく直接に襲うのだ。
早目に床に就いて、ゆっくり、ぐっすり眠った。
*
木曜日、午前九時。ホイットローはマホガニーの大机の向うから、うかがうようにわたしを見た。ホイットロー――というのは、つまり新たにわたしの親方になろうとしているウィリアム・J・ホイットローだ。それからホイットローはうつむいて、それまで何か書いていた手をとめ、その手に握ったボール・ペンの先をじっとみつめた。
そして言った。「お出でにならないほうがよかったのに」
やれやれ、まだそんなことを言っているのか。「給料なんか貰わんでいいよ。何か、わたしだって手伝いできることがあるはずだ」
「そういうことを問題にしているのではありません。実は昨日手紙を書いたところで。一足違いでお気の毒でしたな、あれをお読みにならずに出て来てしまわれたとは」
畜生、何だっていったい……まさか、この期《ご》に及んでおれを――? 撲ってやるか、この拳固で? それともその肥った首を両手が痛くなるまで絞めつけてやるか? どっちだ?
「あなたの監督官任命の人事は、もう間もなく公表する段どりになっていました。けれども、ミスター・アンドルーズ、当然の手続きとして当方では一応あなたの経歴を調査させていただきました。それで、調査の結果について報告がくると、亡くなられたギャラハー議員と生前の約束もあり、またこの人事はジャンセン大統領自身のお声がかりでもありますので、さっそく大統領のところへその報告を持って出かけて相談いたしましたが――」
そうだ、思い出した。わかった。とたんにわたしは生きなから死の淵に投げこまれ、目がくらみ、ぶん撲るにも絞めるにも相手の姿が見えなくなり、あたり一面灰色にとざされ、ただ声だけが耳に入った。
その声は喋っていた。「……あなたが精神病的虚言症におかされているのか、それともそうすれば人事決定の際ご自分の利益になると思って故意に嘘の申立てをなさったのか、それは存じませんが、いずれにせよ……」
その声は喋りつづけた。「一九六三年に宇宙ロケット乗組員養成所を卒業なさったことは確かに事実であるけれども、あなたが片脚を失うにいたった事故がおこったのは、地球上においてであって、金星ではなかったということがわかりました。しかもそれは養成所卒業直後のことであって、したがって、あなたは金星どころか火星へも、月へも、いな宇宙ステーションまでも行ったことがないということがわかりました」
その声はなおもしつこく喋りつづけた。「しかし、ミスター・アンドルーズ、実のところわたしには合点がいきかねるのです――あなたの他の履歴からみて、あんなばかげた嘘を申立てなくても資格に不足はなかったのに、何故そんなことをなさったのか。ロケット工学の学位と、ロサンジェルス・ロケット空港の空港長代理という要職と、それだけで資格は充分でしたのに。学位取得と空港長代理就任と、いずれもごく最近のことであるということを割引いても。とにかくあなたにお願いする予定の仕事は、ロケットを操縦することではなくて、建造作業の監督をしていただくことだったのですから。
けれども大統領閣下もまったくわたしと同意見で、またギャラハー議員が今なおこの世においでになったとしても、きっと同じ判断をお下しになったに違いありません。つまり宇宙ロケットに乗って地球の外に出たことは一度もなかったにもかかわらず、そうしたという偽りの申立てをなさったことは、誠実の資質に欠けるところがあるか、あるいは精神病的虚言症の傾向があるかのどちらかを示すもので、どちらにせよ……」
声はなおしきりにつづいた。
*
どこかのバー。それから別のバー。それからまたどこかの……。それからホテルの部屋にわたしはいた。傍らには空になった瓶が一本と、まだ中身が多少残った瓶が一本。そして部屋の中にはホイットローのオフィスにたちこめていたのと同じような灰色の霧がたちこめ、その灰色の霧に隠されて姿は見えないけれども、エレンがいた。
「おまえ――」とわたしはエレンに呼びかけていた。
「本当なんだ、エレン。あの声が喋ったことは本当なんだ。あれが本当だということに間違いはないけれども、わたしは決しておまえをあざむくつもりではなかったのだ。どうか、それだけはわかってくれ。わたしは自分が嘘をついているということを、知っていたけれども自覚していなかった。あまり長いこと他人にばかりでなく自分にもそう言いつづけできたので、それで――」
「弁解なんかしなくていいのよ、マックス。わたしにはよくわかってるわ」
「しかし、エレン、わたしにはわからないんだ。わたしは気ちがいなのか、それとも気ちがいだったのか? 自分ではっきり嘘だと知っていることを、本当だと信じこんじまうなんて。いや、本当だなどと信じはしないし、嘘だと知ってはいたけれども、あまり長いこと他人にも自分にもそう言いつづけてきたので、嘘だということを忘れ、本当のこととして受けいれ――」
わたしは言った。「エレン、宇宙の空間にむかって出て行く戸口に足を踏みかけたところで、ぐいとわたしを突き戻したあの事故以来、わたしはずっと気ちがい――狂気の状態におちこんでいたのに違いない。たった一時間――かけ値なしの一時間こっきりで終りを告げたのだ、わたしの最初で最後の宇宙旅行は。乗組員養成所を出て一月経った時、初めて宇宙旅行の順番が廻ってきた。そして事故は、いつかわたしがおまえに話した通りにして起こった。ただその時ロケットは金星から地球に帰ろうとしていたのでなく、地球から金星に向って出発しようとしていたのだった。
金星へ! わたしは金星へ行こうとしていたのだ。最初はたいてい小手馴らしに月へ行かされるのが普通なのに、わたしの場合は初めから金星へ! そこへその事故――で、わたしがその事故からこうむったのは、たんに肉体的な苦痛とかショックとかいったものではなかった。わたしを襲ったのはわたしが地球にへばりついたまま一生を終らなければならないという事実、わたしは一生地球を離れることができないということ、名実ともにそなわった宇宙ロケット乗りには決してなれないということ、それらの事実を否応なしに認めなければならないということからくる精神的なショックだった。
それから歳月が、長い歳月が経つ間に、わたしは徐々に心の中に夢を築いた。わたしの心は、自分がそれこそ宇宙の戸口まで足を踏みかけ、たった一時間で、自分の過失でもないたった一つの事故のために一切が終ってしまったのだという事実を、どうしても認めようとしなかったのだ。
わたしは宇宙気ちがいだった、おまえ、いつかも話したように。そのわたしにとって、あまりといえばひどい運命だった。わたしは自分が精神病者になったのか、それともただの嘘つきになったのか、今でもわからない。けれどもわたしは、おまえに嘘をつく気はなかった。自分になら、また他の連中になら、話は別だ。が、おまえにだけは嘘をついてはならないということくらい、もちろん充分に心得ていた」
「わかるわ、マックス。それくらいのこと、初めから。わかっていてしかるべきだったのよ」
「だが、おまえにそうして嘘をついてしまった以上、最後までおまえにわたしが嘘つきだと知らずに済んだことが、せめてもの慰めだ。わたしが嘘つきだとわかったら、いくらおまえだってもうわたしを愛してはくれなかったろうが? 知らずに済んだことが、せめてもの幸せだった」
かの女は、手を伸ばしてそっとわたしの額《ひたい》に触れた。それともカーテンが風にひるがえったに過ぎなかったのか?
「それでもわたしはあなたを愛したにちがいないわ、マックス。それでもきっとわたしはあなたを信じたにちがいなくてよ。だって、地球から飛び出せなかったのは、あなたの罪じゃなかったんですもの。仕方ないわ、できるだけのことはやって、それでそうなったなら。それに、それからも一生ずっとできるだけのことをやってきたんですもの」
「ずっとじゃないんだよ、おまえ。ちょうど今みたいに本当のことを思い出すと、事実をはっきり自覚せざるをえなくなると、わたしは酒でそれを紛らわした。ちょうど今しているみたいに。正気で、あまりにも明白な事実から目をそむけることができずにいる間じゅう、幾週間も、幾月もつづけて、酒びたりだった。今までに幾度もあったんだよ、おまえ、ちょうど今みたいなことが。シアトルでビルとマーリーンの家に身を寄せていた時――ほら、おまえのことを初めて耳にした時、おまえが木星にロケットを飛ばそうとしていることを聞いて、おまえに手を貸しに行った時も、やっぱりそういうだ酒びたりの一時期の直後だったんだ」
「そして、わたしたちはその仕事をやり遂げたのよ、マックス。忘れちゃだめよ、わたしたちのロケットは本当に飛び出そうとしてるんだってことを。木星にむかって、今までに誰が飛び出したよりも遠くに。そして、もしあなたの力がなかったら、これからさきすくなくとも十年やそこら、そういう企ては決して実現しなかっただろうってことを、それだけで充分じゃないこと、一人の人間が一生かかってやることとしては?」
「いや、充分じゃない」とわたしは言った。「ロケットは行く。けれどもわたしは置去りにされるんだ」
「マックス、わたしをお抱きなさいな。そしたらすこしは心が安らかになるでしょうから」
わたしは灰色の霧の中にエレンをとらえようとした。しかしエレンはそこにはいなかった。エレンは死んでしまって、もういないのだ。二度と決して姿をあらわしてはくれないのだ。二度と決してエレンから慰めてもらうことはできないのだ。エレン、いとしいエレン、おまえは死んでしまって、声だけが、わたし心の中に残っているだけなのだ。
*
どこかの部屋。また別の部屋。それからまたどこか別の……。壁紙は大きな紫色の花模様だった。その壁の間にとりこめられて、わたしは夢み、その夢はかならず悪夢となってわたしはうなされた。このところ長いこと縁が切れていた悪夢に。その悪夢はやはり以前と同じ悪夢で、ただその悪夢に連絡する夢はその時々によって多少異なっていた。
今度は、もちろん、その夢の中にはエレンがあらわれた。二人とも若く、同じ年位で、時は一九六〇年代だった。わたしは宇宙ロケット乗組員養成所を卒業して、最初の宇宙旅行に出発しようとしていた。わたしたちは、わたしがその最初の宇宙旅行を終えて帰りしだい結婚することになっていた。
わたしはエレンに別れのキスをした――と思うと、もうかの女はいなかった。そしてわたしはロケットの整備の仕上げにかかっていた。わたしは雑巾をポケットに突込んでロケットの機体の外側の梯子を上って行った。というのは、前方の展望窓にぶつかって死んだ羽虫がへばりついているのを内側からみとめたからだ。たぶん上昇する間に大気と摩擦してとれるだろうが、どうしてもいくらか汚れが残るだろう。金星に着くまで、ずっとその汚れを気にしつづけのは不愉快だから、拭きとっておこうと思ったのだ。
そのときだしぬけに轟音と気が遠くなるような苦痛がおこり、わたしは悪夢の淵に叩きこまれる。気がついてみると、わたしは白い部屋の中にいる。病院の一室だ。医者がわたしの足を覆った白い布のかげで、何かやっている。繃帯をとりかえているのだ。
わたしは頭をもたげて、そのほうを見る。
おそろしい瞬間。永遠に凍りついて、決して溶けて動き出そうとしない一瞬。そこでいつもきまって目がさめる。
わたしはぶるぶる身ぶるいしながら起きあがる。体じゅう汗みずくになって。
それからわたしはそこから出て行く。紫色の花模様の壁の部屋から。あてどもなしに。もうその夜は二度と寝つくことができず、その後幾晩もほとんど眠れないことがわかりきっているから、とろとろと眠りに入る忘我の境で、それはきっとわたしを待ち伏せしているのだ。それは永久にわたしを解放してくれようとしなかった。それに対抗する手段は、とことんまで自分を疲れきらせ、消耗しきらせるより他になかった。
*
どこかの町のどこかの酒場。自動蓄音機からは、エレンとわたしがハヴァナで聞いたのと似たキューバ音楽が流れていた。
それからあの声。音楽でもまぎらわすことができないあの声。「わたしには合点がいきかねるのです――あなたの他の履歴からみて、あんなばかげた嘘を申立てなくても資格に不足はなかったのに、何故そんなことをなさったのか。ロケット工学の学位と、ロサンジェルス・ロケット空港の空港長代理という要職と、それだけで資格は充分……」
一語一句まではっきり覚えていた。その一語一句がキューバ音楽のリズムに乗って耳の中でがんがん鳴った。
「もう一杯、もう一杯って、もうだめですよ、お客さん。これ以上さし上げたら、営業許可をとり上げられちまいまさ。もう、すっかり酔い潰れちまっておいでじゃありませんか」
いや、まだだ。まだ不充分だ。
街の騒音。それからあの声。それから他の声。地球が廻っている。地球――それ自体一種のロケットである地球が、わたしを乗せて宇宙の空間を廻転しながら飛行している。わたしのロケットである地球が、わたしのお棺になるのはいつだ?
雪。きらびやかなデコレーション。誰かが「クリスマスおめでとう」と言い、誰かにわたしは一杯おごり、誰かがわたしに一杯おごり返し、ふいに目の焦点が合って相手の顔がはっきりした。五十年配の、醜いくせに美しい顔をした、鼻のひしゃげた、大きな澄んだ目をした、無垢《むく》の星をじかに見たことのある目をした、静かにまたたかぬ目をした男。宇宙ロケット乗りだ。
かれは言った。「おい、しっかりしろよ、きさま。体をこわすぞ、こんな無茶な飲み方をしちゃ。何かあったんなら、話してみろ。おれにできることなら、何でもするぜ」
「おれのことを、きさまなんて呼ぶな。おれはロケット乗りなんかじゃない」
「ばか言え。きさま、マックス・アンドルーズだろ?」
「おれは誰でもない」とわたしは言った。「おれはイカサマ師だ。死んじまったほうがましな男だ」
「おれは知ってるよ、きさまを。きさまは、腕っこきのロケット整備員じゃないか、同じロケット操縦士出身の」かれは身を乗出し、大きな澄んだ目をひときわ明るく輝かした。
「おい、きさま、きさまだって知ってるだろ? 久しぶりでまたロケットを飛ばすんだぜ、木星へ」
「勝手に飛ばしやがれ」と、わたしは言った。「お前さんはおれを誰かと間違えてるんだ。マックス・アンドルーズなんて、名前を聞いたこともないぜ」
かれは言った。「そうしておきたいんなら、そうしておくさ」
「したいんじゃない、本当にそうなんだ[#「なんだ」に傍点]」
*
例の怖ろしい瞬間にぶつかって、わたしは目ざめた。まだすっかりさめきらない悪夢をふるい落そうとして、わたしは起き直った。
どこかのホテルの部屋だった。が、紫の花模様はなかった。大きな、清潔な部屋で、寝台が二つ並んでいた。その一つにわたしがいて、もう一つのには昨夜わたしが出会った男が眠っていた。名前を知らないロケット乗りだ。かれが、わたしをここへ連れて来てくれたのだ。
が、わたしを踏みとどまらせることはできない。まだ、だめだ。
わたしは静かに、たった一つの物音もたてないようにして服を着た。相手を起こさないように。
議論はしたくなかった。相手のほうが正しいことがわかりきっていたからだ。いい男だ。相手のほうではわたしを知っていて、わたしのほうでは知らないか思い出せないこのロケット乗りは、わたしを助けてここへ連れてきてくれたのだ。かれがやってくれたことは正しいことだが、それはかれの規準にあてはめて正しいことなので、その規準はわたしに対してはあてはまらないのだ。何故なら、わたしはまとも[#「まとも」に傍点]でないからだ。わたしはまとも[#「まとも」に傍点]でないので、もちろんそう急にまとも[#「まとも」に傍点]にはなれない。まともでないコースが尽きるところまで突走ってしまわなければ。かりに尽きるところがあるとしても。
だが、そんなことをどうしたら相手に納得がいくように説明できる? 自分だけにとりついた悪夢を、どうして他人に見せてやることができる?
わたしは財布の中の金を検めてみた。かなりうんと入っていた。きっと電報でも打つかして送らせたのだろう。自分では覚えがないが。わたしはホテルの宿泊料にたっぷり足りるだけの額をとり出して鏡台の上に置いた。それからす早く、静かにその部屋を後にした。
何よりも酒が欲しかった。たぶん、自分を殺し、一切あと腐れなく片をつけてしまうために。そしてたぶん今そこに寝ている男は、わたしが起きぬけの迎え酒を欲しがることを察して、どこかに一瓶忍ばせているかも知れなかった。としても、それはどこかにかくしてあるので、わたしは探さなかった。ロケット乗りは、今ロケット乗りでなくてももとロケット乗りだつた男は、かつて受けた訓練から、ちょっとしたものの気配にも目をさます習慣を身につけているはずだから。
まだ朝の八時だったが、それでもわたしはどうやらもう店を開けている酒屋をみつけた。
*
酒。また酒。どこかの部屋、また別の部屋。昼間と夜と人ごみと孤独。バーと酒と喧嘩。顔と拳の甲についた血の汚点。
悪夢と冷たい風。生けるもの、死せるものの幻影。親父と言い争い、ビルと言い争い、エレンに向ってかきくどいた。
「おまえ、おまえ、わかってくれるだろ? な? こうするよりほか仕方ないんだ。行くところまで行ってしまわなければ、止まるわけにいかないんだ。行くところまで行ったら一巻の終りだとしても、行かないわけにはいかないんだ」
エレンは、飲むなとは言わなかった。エレンだけは、わかってくれるのだ。
本当にわかってくれるだろうか? わたしは時たま酒の気が抜けて正気にかえった時、寒々としてそう考えた。
けれども、かりに死者に何かがわかるとすれば、その何か[#「何か」に傍点]は何もかも[#「何もかも」に傍点]であるに違いない。
*
そしてある夜、まったく思いがけないある夜、町がひどくざわめき、楽しげな、よろこばしげな声があたりに満ちた。
笑い声。何か楽器を吹き鳴らす音。祝いの挨拶。
音はいよいよ高まり、今や最高潮。
サイレンの音。汽笛の音。鐘の音。
誰かがわたしにむかって呼びかけ、声が聞きとれた。「お正月おめでとう!」
鐘とサイレンと汽笛の音と、呼び合い呼びかわす挨拶の声と、それからどこかの大時計がボン、ボン、ボン……と打ち出した。
だしぬけに、わたしは悟った。ただいつもながらのクリスマスが過ぎて、いつもながらの正月がやってきただけではないということを。それ以上の意味をもった元旦だということを。人声と物音と静かに舞い落ちる雪の中におとずれたものは、世紀の変り目であるとともに千年の変り目、ただありきたりの年ではない紀元二〇〇〇年の元日だということを。紀元二→
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二〇〇〇年
→〇〇〇年だ! いつもの年とは違う、まさに祝うだけの値うちがある年だ。お正月おめでとう! 千年に一遍しかこない年のお正月おめでとう! 三重四重に客が包囲したバー。わたしはその列を掻きわけて奥へ割りこもうとしたが、だめだった。注文は人の頭ごしに送られ、折返し酒のグラスが人の手から手を渡って戻ってきた。注文した男は、二つのグラスを両手に捧げて、きょろきょろしている。今まで傍にいた筈の連れが、見えなくなってしまったのだ。その男は肩をすくめ、片っぽのグラスをわたしによこした。
「おめでとう!」他の誰かれに一杯おごり、他の誰かれからおごり返され、他の誰かれの背中をどやし、他の誰かれに背中をどやされ、意味もなく握手し合い、時々ふいにはっきり見えてはまた朦朧とかすむ人の顔また顔。それから人ごみはしだいに散り、薄れ、溶け去り、やがて閉店となって最後までねばっていた幾人かと一緒に街路に掃き出された。夜の街路に。風のない夜。寒い、澄明な、静かな夜。
あてどなくよろめきながら歩いて行った。あっちの道、こっちの通り、それから芝生を踏んで公園らしい一劃へ。
池にかかった橋。静かに黒々とたたえた水。
わたしはよろめきながら橋を渡りかかり、低い欄干《らんかん》ごしに暗い水面をのぞきこんだ。あまりにも静かで、あまりにも暗いので、星が映って見えた。黒々と静止した表面の幾光年も底に、静かにまたたいている星。生命の源泉であるところの水。そこから生物が生れ、陸に這い上り、進化し、憑かれた目つきで星を望んだ。それが今酔いどれて水の底の光を、星の反映をじっとみつめている。
わたしは空にむかって、星にむかって転落して行った。
*
ふたたび白い部屋。だが悪夢の中ではなく、ただの夢だ。それとも、ただの夢でさえないのか? 誰かがわたしのほうへ、栗色の髪の毛をした誰かが、わたしのほうへ屈みこんでいる。わたしは目を凝らし、心を凝らしてじっと見たが、それはエレンではなかった。
看護婦だ。白い制服を着て、エレンの髪の毛と同じ色合いの栗色の髪の毛をしている。が、エレンではない。
その声もエレンの声ではなく、わたしに語りかけたのでもなかった。「気がおつきになったようですわ、先生」
看護婦は一歩退き、わたしは頭を動かしてそこにいる医者を見た。黒みがかった灰色の髪をした、澄んだ灰色の目をした大きな男だ。その顔は、鼻がひしゃげていない点を除いては、いつかわたしをホテルへ連れこんでくれたロケット乗りの男によく似ていた。
「口がきけるかね?」とかれはたずねた。深い、重く響く声だ。信用できる男の声だ。
「あんた、いい人らしいな」とわたしは言った。
かれは白い歯をみせて笑い、「いいよ、もうさがって、ミス・ディーン」と肩ごしに看護婦をかえりみて言い、それからわたしにむかって、「どうだね、気分は?」
「まだよくわからない。どこか、わたしの体に具合の悪いところがあるかね、脚のほかに?」
「行き倒れ、肺炎、栄養失調、振戦譫妄症。だいたいそれくらいかな。どうしたのか、自分で覚えているかね?」
「池に落ちて行くところまで覚えている。あとは知らない。わたしは自分で這いあがったのかい?」
「その通り。だが、水の深さは一尺きりなかった。あんたは水際に、濡れ凍えながら寝そべっていた。通行人が見つけるまで、どれくらいの時間そうしていたのかわかない。けれども、たった一つのことだけは確かだ。というのは、みつかるのがあと三十分遅かったら、今ここにこうしていることはできなかったろうということだ。それにもう一つ。もしもう一度ああいう無茶な飲み方をしたら、どこにも落っこちなくてもあんたの一生はお終いだ。わかるかね?」
「ああ」とわたしは言った。
「幸い、あなたは常習の大酒飲みじゃない。だから、回復して元気になったら、普通の、つき合い程度の酒までいけないとは言わない。しかし長時間つづけて酔い潰れるほど飲んだら――」
「わかった、そのことは。しかし、あんたに何故わたしが常習の酒飲みじゃないなんてことがわかった?」
「あんたの弟さんと、ミスター・クロッカーマンの話で。二人とも見舞いにかけつけてくれたんだよ。弟さんはまだその辺においでのはずだ。午後また面会時間にやってくることになっている」
「二人が、あんなに遠くから、わざわざかけつけてくれたってのかい? それとも、いや――わたしは今まだワシントンにいるのかい?」
「デンヴァーだよ、ここは。デンヴァーのケイリー・メモリアル病院だ」
「どれくらいになるんだね、わたしがここへ来てから? 今日は何日だい?」
「入院してから十一日間。あんたが運ばれてきたのは正月元日の午前五時だった。今日は一月十一日。火曜日だよ」
「何年の?」わたしはただ、誰かがその年号を口にするのを聞きたかっただけだ。
相手はけげんな目つきでわたしを見て、それから口ずさんだ声の調子では、どうやらわたしの気持を汲みとったらしかった。
「二〇〇〇年だよ」とかれは言った。「紀元二〇〇〇年だ」
*
新しい千年の始まりだ、とわたしは再び一人になってから思った。第二十一世紀、三度目の千年の始まり。
未来。未来という時、わたしはいつでも紀元二〇〇〇年を念頭において考えたものだった。一九五〇年代、まだ十台の少年だったころ、それは信じられないほど遠い未来の、あまり遠く先のほうにあって、本当にあるのかどうかわからないくらいだった。
それが、とうとうやってきた。そこに現在わたしは身をおいているのだ。
そして現在このところから、なお生きつづけたいと思うなら、わたしは平和に暮さなければならないのだ。わたしは真実に直面しなければならない。ごまかしなく、恨みがましい気持を捨てて。少なくとも、あまり甚だしい恨みは捨てて。
わたしは年をとった。宇宙の空間に飛び出して行くには、そして惑星に到達することさえ無理なほどに年をとった。そのことを認めなけりゃいけない。チャンスはわたしがまだ若かった頃やって来て、わたしはそれをとり逃した。それから五十の坂を越してから、ふたたび奇蹟的にチャンスがおとずれた。どんなに僅かなチャンスであろうとも、とにかくチャンスが。しかし、それもわたしはつかみ損なった。そしてわたしは現実にもう六十で、二度とチャンスはやってきそうにない。そのことを、いさぎよく認めなけりゃいけない。だからどうだってんだ? 世の中には一生宇宙気ちがいで、一生たった一度のチャンスにも恵まれない連中はうんとこさいるじゃないか。それでも、ちゃんと生きつづけている――じゃないか。
それだけのことをいさぎよく認めるんだ、とわたしは自分に言いきかした。そうすれば、今からは平和に生きられる。もう二度とおまえの生活をかき乱すようなことは起らない。何故なら、チャンスはもう二度とやってこないのだから、二度と手ひどい失望を味わされることはないのだから。それに愛ゆえに苦しむこともない。何故なら、わたしはエレンを愛してしまったのだから。エレンの愛ほどすばらしいものは二度とわたしをおとずれることはなく、したがってエレンの死ほどはげしい苦痛は二度とわたしを見舞いはしない。
覚えておくんだ。いいか、きっと忘れるんじゃないぞ。おまえはたった一度も地球を離れたことはないのだということを。覚えておくんだ、そうすれば将来は楽々たる下り坂だ。
おまえは、あまりにも多くを望み過ぎた。一人の人間として、望む権利のある以上を。そしておまえは人類に対して、おまえが生きている間に達成してくれと望む権利がある以上のことを達成することを期待した。
人間はきっと星に行く着くだろう、これからの一千年の間に。考えてもみろ、たったいま終った一千年初めに、人間がどんな状態にあったかを。剣と槍と弓と矢を持って、原始的な格闘をくりひろげていたのじゃないか。それがその千年間の終る前に、地球をはなれて一番近くの惑星に行き着いたのだ。
今からの千年間が終る時、人間はどの辺まで行っているだろうか?
むろんおまえは、それを自分の目で見とどけることはできない。しかしおまえはその一部なのだ。何故なら、おまえもまた人類の一員なのだから。そしておまえはその手伝いをすることができる。命のある限り、ロケットと人類を星に向って押し進める手伝いをすることができるのだ。自分でロケットに乗るかわりに。
*
栗色の髪の毛をした看護婦が昼食を運んできてくれ、わたしは自分がかなり弱っているが、自分でフォークやスプーンを操れる。すこしなら食物が喉を通ることを知った。
同じ看護婦が盆をさげにきた時、わたしは面会時間はいつかとたずねた。ビルが来るまでに、一眠りできるほどの暇があるかも知れなかったからだ。けれども面会時間まであと三十分ということなので、昼寝はやめにした。
そのかわりに、エムバッシのことを考えた。チャン・エムバッシのことだ。
わたしが考えていることでなく、あの男が考えていることのほうが正しいとしたらどうなる? それは、あり得ることだ。あり得ないことなんか、この世に何ひとつありやしないのだから。いったい誰に、人間の精神の能力の限界などというものを定めることができるというのだ? エムバッシが心の中に抱いているすばらしい不思議な思いつきが決して実現できないと、誰にも断言はできるものか。
精神と物質との関係ということだけですら、確かに知りつくしていると、誰に断言できるものか。人間というのは、精神をその一部にとじこめた一塊の物質で、そのうちどちらかが死ねばもう一方も死ぬ、とわたしは考えている。けれども肉体が精神に作用を及ぼすことができるのだから、逆に精神のほうが肉体を動かすことだって、どうして決してできないと断言できるものか。思考と同じスピードで。
もしそれが正しい道だとしたら、どうかエムバッシがさらに力を養い、その道をさぐり出し、その道に一歩を踏み出すことができるように、とわたしは祈った。
しかし、それはわたしの行くべき道ではない。そんな道を探ろうとするだけだって、自分を欺すことになるだろう。自分を欺すのは、もうたくさんだ。わたしの繩ばりはロケットだ。わたしは、わたしの繩ばりに最後までしがみついていよう。そしてそれを押し進め、それを改良するために残り僅かな一生を献げるのだ。
*
ビルは言った。「やあ、マックス、よかったな。落着いて」
わたしはビルの手を握って、言った。「ああ、すっかりもとに落着いたよ。なにしろ、今度こそ、行くところまで行ったあげくの果てだ」ビルにはわたしの言ったことの意味が通じたはずだ。そしてもしそれまでわたしのことを心配していたとしても、その心配はそれで吹っとんだはずだ。
かれは椅子をひき寄せた。
わたしは言った。「話は、こまかいことから先だ。おれの財政状態は? 病院の費用は誰が払ってる?」
「大丈夫だよ、それは。あんたの物はクロッカーマンが預かってくれてる。銀行の預金も調べて、ここの払いと退院の時の費用に充分だって言ってたっけ」
「その銀行のことだが、ひょっとするとおれは、かなり」
「ああ、電報で二度ひき出して、銀行のほうでもそれに応じて送金したそうだが、それはちゃんと勘定にはいってる。いや、また働きはじめられるようになる頃までには、おれかそれともほかの誰かに二、三百ドル借りってことになるかも知れないけれど、とにかく心配しなけりゃならないほどのことはないさ」
「ありがとう」とわたしは言った。「それから、もひとつ。さっき医者と話をしたが、いつまで入院してなきゃいけないのか、そいつをきくのを忘れちまった。おまえ、きいたか?」
「うん、今来がけに。あと十日安静にしていたら、動いてもいいって。しかしその後すくなくとも一カ月は仕事をさせちゃいけないってさ。シアトルへ来て、一緒に暮らさないか? そしたらマーリーンも子供たちも大喜びだし、おれだって」
「その返事は、今すぐしなけりゃいけないのか、ビル?」
「そんなことないよ、むろん。無理強いはしない。そこで教えとかなけりゃいけないんだが、クロッキイと、エムバッシと、ロリイと、それぞれからあんたをひきとるって申し出が出ているんだ。いい友達が揃ってるな、あんたには、マックス」
「それにいい身内も、な」わたしは、まっすぐ相手のほうに向いた。「それにつけても、きいておきたいことがあるんだよ、ビル」とわたしは言った。「もしシアトルへ行って、おまえの家の厄介になるとしたら、あらかじめ一つ話しておきたいことがあるんだ。他人のいない、二人きりのところで」
「言えよ」
「ビリイのことだ。もしおれが――」あの子の夢を育てにかかったら、とわたしは言おうとしたのだが、ビルにはそれでは通じまい。「もし、おれがあの子に宇宙の話をして聞かせて、それであの子が“星屑”になっちまったらどうする?」
「そのことは、マーリーンと話し合ったよ」とかれは静かに言った。「構わない、というのが二人の結論だ。何をしようと、何になろうと、それは本人の自由だ」そこでかれは不意ににやりと笑った。「しかし、あの子が今のままの調子で育って行くとしたら、兄さんが手を貸してやる必要はないぜ。あんたの子供の時と、そっくりそのままだ」
「結構」とわたしは言った。「だったら、ビル、一カ月の休養のうち、しばらくおまえんとこに置いてもらうよ。たぶん最初の二週間でなく、あとのほうの二週間ばかり。そのほうが、おれも元気が回複して、子供を相手にするのに具合よくなってるだろうから。なにしろ年寄りにとっちゃ、体が参ってる時には子供の相手もなかなか骨だからな」
「よかろう。マーリーンに、そう言っとこう。で、初めは誰のところへ行くか、きめているのかい? 手紙を書かないでも済むように、おれから言ってやってもいいぜ」
「いや、まだきめていない。しかし、こうしてもらえたら有難いんだがな、ビル。電話でか電報でか、その三人ともに、おれの容体は峠を越して、もう大丈夫だって。もうずっとオーケーだ、と。やってもらえるかな?」
「もちろん」
「それから電話料か電報料、とにかくかかった費用を何かにつけといてくれ。それに、おまえがここまで来てくれるのに使った金も」
かれは笑った。「電話料はつけておくよ。だが、おれがここへ来るのにかかった費用とか何とか、ばかな。久しぶりで独身にかえったみたいに、家族をおっぽり出して出かけてくる口実ができた上に、おれは今までずっと何とかうまい理由をこじつけてデンヴァーへやって来たくてしょうがなかったんだよ、マックス。ここは牛の町だったんだ、ずっと昔。たしか指おりの。当時をしのぶ“西部博物館”もあるし、だいたい、おれが今泊ってるのはどんな所だと思う?」
「おいおい――」とわたしは言った。「まさか昔あったみたいな、観光客を泊める牧場なんてものが今でもあるんじゃないだろうな」
今でもあるんだそうだ。そしてビルはその中の一つに泊って、わが世の春を謳歌《おうか》しているのだった。どうやらビルにとっては、わたしが正気にかえり、自分も成人《おとな》にかえって家と家族たちのところへ帰って行かなければならないことが、多少は本心から残念でなくもなさそうだった。
おれの肉親の弟。馬にまたがり、カウボーイの真似ごとに熱中し、もっぱら過去の夢をむさぼって御機嫌のおれの弟。おれの、すばらしい肉親の弟……。
*
手紙が届きはじめた。一通はマーリーンからで、わたしが行くのを自分も子供たちも――ことにビリイが首を長くして待っていると書いてあった。
それからベス・ブラスティーダーの手紙。「ロリイが忙しく書く暇がないので、わたしが代って書きます。うちのひとは、仕事を変えようとしていますの。もうこのところしばらく、あのひとはトレジュア・アイランドの勤めが面白くなくなっていましたの――会社の上の人たちと意見が合わずに。で、よそに仕事口をみつけて、今週末そちらのほうへうつって行くことになりました。今までと同じ機械部長の仕事ですけれど、こんどのは今までより小さなロケット発着場ですので、給料はあまりよくありません。でも、それであのひとが今までより気持よく働けるなら、そんなこと何でもありませんわ。きっとそういうことになると思います。というのは、今度のところでは機械のことに関する限りあのひとに全権をもたせて、誰を傭い、誰を馘にしようが、またいちいちの仕事にどれだけ時間をかけようが、いっさい干渉はしないという条件つきですから。今までは、そういかなかったことが会社のお偉方と衝突する主な原因だったのです。重箱の隅をつつくようなやり方で、やたらに経費を節約することばかりやかましく言われるので、それがあのひとには気に入らなかったのです。
わたしたちの引越先を教えたら、きっとあなたはお喜びになるでしょう――というのは、シアトルなんですの、わたしたちが行くのは。これからは、あなたがロケットで飛んでいらっしゃるにしても一石二鳥――弟さんのご家族と、わたしたちのところと、二軒を一遍に訪問できることになりますわね。わたしたちとしても、あなたの弟さんご夫婦とももっと親しくおつき合いしたいと思っています。たった一度しかお目にかかったことがありませんけれど、その一度だけでわたしはあなたの義妹《いもうと》さんが大好きになってしまいました。あなたが学位をとったお祝いのパーティーをやった時よ。覚えてらっしゃる?
家を買うのは、しばらく落着いて様子をみてからにしようと思っていますが、昨週末夫婦してあちらへ出かけて、とりあえず住むためのアパートをきめてきました。あなたに滞在していただくのにちょうどいい客間がついています。わたしたちはこの土曜から日曜にかけて引越す予定で、あなたがおいでになれるようになる頃には、すっかり落着いてお迎えの用意ができているはずです。きっと来るわね? それはもうきまってることなんだから、逃げ口上はきかないわよ。待って、今ちょっとロリイがわたしの肩ごしにここまでの文句を読んで、何か書き足したいんですって。あとは任せるわ。以上、ベスより報告終り!」
ロリイの太い筆蹟が、あとをひきとっていた。「待ってるぞ、マックス。ロサンジェルスのもとの仕事に戻るつもりでいるんだろうと思うが、もしそうでなかったら、シアトルにいつでも一つ仕事口が空いているぜ。誰を傭おうが馘にしようが……つまり、ベスが書いた通りだ。元気を出せ」
そういう手紙をもらって、元気が出ないほうがどうかしてる。それでわたしのシアトル行きはきまった。
ところが、翌日とどいた手紙でまた気持があやふやになった。それはエムバッシからで、短く慌しい走り書きだった。最初の一節で、どうあってもわたしはかれのところで予後静養期間を過すべきだと説いたあと、「マックス、たぶん、きっと、今度こそあと一息で成功という境にいます。あなたのお力添えが欲しいのです。どうか、来てください」
そうなるとちょっと話は別だ。
あと一息で成功というのは、どういう意味だろう? すでにある程度の霊魂旅行ができるようになったというのか、それとも間もなくできるようになりそうだというのか?
わたしの力添えが欲しいというのは、何だ?
それともあの黒い賢人は、ただそうしてわたしの好奇心をかきたて、わたしを自分のところへ誘《おび》き寄せようとしているだけなのか?
だが、しかし、もし万一――?
心をきめかねていると、二日後、クロッキイから手紙がとどいた。
「マックス、おれはエムバッシのことが心配でたまらない。あの男はまた例の修行に凝りはじめた。断食と麻薬を服《の》むのとを同時にやっているので、この二つが危険な組合せであること言うまでもなしだ。あんまり瘠せて、お日さまが当っても影もうつらないほどで、おれがいくら常識ってものを説いて聞かせても、耳もかそうとしない。あんなふうじゃ、あといくらも長もちしそうにないぜ。
もし何とかしてやる気があるなら――むろん、そんな気がおこらないとしても、おれとして責めるいわれはないが、ともかくあの男の招待を受けたかたちにして、一緒に住んですこしまとも[#「まとも」に傍点]な生活にひき戻してやったほうがいいんじゃないかと思う。何をやるつもりでいるのか知らないが、とにかく今の様子は気ちがいじみているよ。餓死しないとしても、麻薬中毒になり果てる――いや、あれほど意志の強い男のことだから、決してそんなことにはなるまいと信用はしているがね。それにしても、とにかく現在危険な状態にあるってことに変わりはない。
何故だか知らないが、ゴータマ・ブッダ([#ここから割り注]仏陀[#ここで割り注終わり])をべつにしたら、あの男は誰よりもおまえの言うことを一番よくきくんだから、是非そうしてやってもらいたい。
もしエムバッシのところへ行ってやる気になったら、予めおれに知らせをよこせ。そしたらヘリコプターでむかえに出て、先方に行く前に一応おれとして予備知識を吹込んでおきたいから」
それでわたしの心はきまった。と同時に、その結果、わたしの退院は医者が予言したより三日繰上げになることになった。自分がもうどれほどよくなっているか、医者の目の前でやや誇張してみせたきらいはあるけれども、どうやら退院の許可をとることができた。
*
クロッキイは、この前最後に別れた時とちっとも変わらなかった。といっても、たった二カ月しか経っていないのだから、おどろかなければならない理由はないのだが、とにかくわたしは驚いた。たぶん、わたしにとってその一カ月は、二の二倍の年数が経ったほどにこたえていたのだろう。
あまり強く手を握られて、痛かったほどだ。「よく帰ってきたな、マックス。淋しかったぜ。ちょっと喫茶店にでも寄って、ヘリコプターに乗る前に、ざっと主な話を片づけてしまおう」
クロッキイは機の操縦中、いや、地上の車を運転する時でさえ、お喋りをして注意力を分散するのが大嫌いだった、とわたしは思い出した。
コーヒーを飲みながら、わたしはエムバッシのことをきいた。
「うんと最近のことは知らない。ここ二日間、全然会っていないんだ、しかしエムバッシのことを話す前に、ちょっとおまえのことを話そうじゃないか。また、おれのところへ戻ってきてくれるんだろう? え?」
「さあ、どうかな、クロッキイ。たぶん、そうはならないだろうと思うんだが」
「空けてあるんだぜ、もとの地位を。無期欠勤ってことにしてあるんだ。おまえは、かけがえがない人間なんだよ、マックス」
わたしはにやりと笑ってみせた。「この前に別れる時には、そう言わなかったぜ。しかし真面目な話、ひとっきりまた機械いじりをしようと思ってるんだ。必要なんだよ、今のおれには、それが。両手を機械油と砂と埃にまみれさせることが。肉体労働が」
「マックス、おまえだって年を逆にとってるんじゃなかろう。一生機械をいじって過すわけにゃいかんよ」
「もう二、三年は、やれる。その後は――またその時になって考えるさ。しかし、おれのために欠員をつくっとくのはやめてくれ、クロッキイ」
かれは肩をすくめた。「結局はおまえの意思さ。しかし、しばらくは欠員にしておくよ。ひょっとしておまえの気が変わった場合の用意に。そして、当分かわりに機械工の仕事をやる。だが、いったい――」
わたしはかぶり[#「かぶり」に傍点]を振った。「いやいや、ロサンジェルス空港で機械工をやろうってんじゃない。もとの副空港長が油まみれになって働いてる図ってのは、はたの身にしても本人のおれにしても気づまりだ。もう行く先はきまってるんだよ」わたしはロリイが働き場所を変えたことと、かれからの申し出このとを話してやった。
「オーケー。どうしても、そのほうがいいと言うんなら」わたしがロサンジェルス空港で機械工をしようとしているのではないことを知って、かれがほっとした様子をわたしは見てとった。
「クロッキイ――」とわたしは言った。「おれはあんまり新聞を読んでないんだが、あれ[#「あれ」に傍点]はきまったのか?」
あれ[#「あれ」に傍点]とは何のことか、かれにはすぐわかった。かれはうなずいた。「クリーガーだ。チャーリー・クリーガーだよ」
わたしには思い出せない名前だったが、クロッキイは知っているらしい口ぶりだった。「いい男か?」とわたしはきいた。
「ああ、とびきりだ」
それこそわたしが聞きたかった返事なので、そのことはもうそれで終りにした。ロケット計画の人事に絡まる今度のことの真相を、クロッキイがどの程度まで詳しく知っているのか、わたしは知りもしなかったし、きこうともしなかった。それはそれでもう済んだことだ。けれども木星行きロケットの建造を監督するのが立派な男だと知らされたことは、わたしの心の中に残っていた心配を叩き出すききめがあった。
わたしは言った。「よし、こんどはエムバッシの話だ」
「よく考えてみると、マックス、おれからあらためておまえに話さなきゃならないことは何もないようだ。とにかく本人を一目見れば、それで何もかも一目瞭然だ。たぶんこれ以上おれの口からつけ足さないほうがいいだろう――それに、あんまり話すべきこともない」
「じゃ、ここにこうしているのは時間のむだだ。さあ、行こう」とわたしは言った。
*
ノックしたが返事がない。四角い桃色の何かの端がドアの下からのぞいている。わたしはそれを引張り出して開いた。それはわたしが今日ここに着く時間を知らせるために前日打った、桃色の封筒に入った電報だった。すくなくとも二十四時間以上前に配達されたはずだった。
ドアには鍵がかかっていなかった。わたしたちは黙って通った。二人とも、わたしたちが来るのが遅すぎたこと、また何事が起ったかをすでに察しながら。
室内では、滑らかなものの表面にうっすら埃が積もっているのがわかった。
例の小さな家具のない部屋――修道室に通じるドアには、内側から錠がかかっていた。わたしは一度しかノックしなかった。それからクロッキイとわたしは互いに相手を眺め、わたしのほうがうなずいた。クロッキイのほうが、わたしより五十ポンドは重い。かれはすこし後がえりして、それから走って勢いをつけて肩をドアに叩きつけた。錠は弾ねとんだ。
エムバッシは、そこに、微笑をうかべて横たわっていた。
かれは褌一本の裸形で、粗布の上に背を下にして寝ていた。肋骨はまるで鳥籠の桟《さん》のようにはっきり浮いて見えた。大きくひらいた両眼は、じっと上方に視線を釘付けにしていた。
ほんの形式ばかりの検査をして、きまりきった電話をかけた。それこそ形ばかり――というのは、二人とも、外のドアをノックして返事がなかった時、すでに間に合わなかったこを知っていたからだ。
エムバッシはそこにはいなかった。かれの肉体はそこにある。が、エムバッシは?
エムバッシはただ逝《い》ってしまったのではなくて、どこかへ行った[#「どこかへ行った」に傍点]のだとわたしは信じたかった。
*
人間は一度死んだらそれっきりだというのでなく、生まれかわりとか霊魂不滅とかいうことを信じられたら、どんなにいいだろうとわたしは思う。ほかの人間になってまた生まれかわるとか、たとえ天国の雲の隙間からでも、朽ち傾いたあばら家の窓ガラスごしにでも、あるいは自分が何かの虫けらになって、その虫けらの目玉を通してでも、その他どんなものに変わっても構わないから、見ていられたらどんなにいいだろう。どんなにひどい条件をつけられても構わないから、わたしはその時その場にいて見ていたい。わたしたちが星に行き着くところを、わたしたちが一つまた多くの宇宙を自分のものにするところを。わたしたちが神になる時を。神なんてものの存在を、まだわたしは信じていないし、これからだって、わたしたち自身が神にならない限り、存在しっこないと信じているけれども。
けれども、わたしはすでに過去において間違いをおかしたし、今またわたしが信じていることは間違いであるのかも知れない。どうかそうであってくれ。どうかわたしの考えが間違いであるように。神よ、わたしが間違っているということを、はっきり証明して見せてくれ。エムバッシに、微笑するだけの根拠があったのだということを証明してみせろ。
姿をあらわせ、神よ。……畜生! 神よ、証拠を見せろ、おれが間違っているのだという証拠を。
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二〇〇一年
「こっちのほうが、よく見えるんだよ、ビリイ」とわたしは言った。
わたしはヘリコプターを岡の向うに駐め、ビリイと二人してロケット出発場を縁どるその丘陵地帯の岡の一つに登って来たのだ。視界の透明な十月のある夕方の五時。日はすでに地平線にかかった。木星行きロケットの出発時刻までにはまだ三時間あるが、わたしたちよりもっと早く来ている連中もあって、一番見晴らしのいい岡の一番見晴らしのいい場所を占領しようとしていた。出発予定時刻の八時三分過ぎになるまでには、これらの岡はいっぱいの見物人で埋まるだろう。
「大丈夫、マックス伯父さん? あっちの垣根のすぐ傍のほうが――」
「こっちのほうがずっとよく見えるんだよ。嘘はつかない」わたしは甥に笑ってみせた。「できるだけ傍に寄って見たいんだろう? でも、心配しなくていいんだ。出発場の周りのあの垣根のところより、ここからのほうがもっと近く見えるんだよ」
ロケットは高さ五十三フィート。みごとなやつだった。いや、まったく。すべすべして、すらりとして、ぴかぴか光って、何とも言いようがない。新品の、一人乗りロケット――まだどんなロケットも行ったことがない、ひとまわり遠くの別の世界に出て行こうとしているロケット。わたしたちがめざすものに、それだけ近く。
そばかす[#「そばかす」に傍点]のあるビリイの顔が、あんまりがっかりしたように見えるので、わたしは言った。「よしよし、時間はまだたっぷりある。垣根のところまで行って、のぞいておいで。でも、また戻ってくるんだよ。出発するところは、ここからのほうがよく見えるんだ」
岡を駈け下りて行く後ろ姿を、わたしは目で迫った。十歳《とう》だ、今。やれやれ、月日の経つのは早いもの……わたしが初めてあのロケットのことを聞き、初めてエレン・ギャラハーの噂を耳にしたあの時から、もう四年だ。ものごとが成就する追込みの時期というものは、まったく、あっという間に過ぎてしまう。物が落ちる時の、加速度のように。エレン、待っておくれ、とわたしは心の中で言った。もうすぐ、わたしもおまえのところへ行くよ。あと二、三年か三十年か、それはわからないけれど、どっちにしろまるであっという間だ。光の速さとどっちかって? そんなもの、時の経つ速さに較べたら問題じゃない。
わたしは毛布を拡げてその上に腰をおろし、ロケットを、ビリイを眺めた。ビリイは高い鋼鉄線の金網の垣根にへばりついて、まるでできるだけよく匂いを嗅ごうとでもするかのように、鼻を押付けている。
わたしは十歳《とう》の自分の姿をそこに見たように思った。当時は、眺めようにも惑星間ロケットなんてものはなかったけれども、もしあったとしたら、わたしはやっぱりあの子みたいにして見ただろう。
今それはわたしの目の前にあった。わたしは声をあげて泣きたかった。それに自分が乗って木星まで飛んで行けないからだ。が、六十一にもなって、泣いちゃみっともない。もうおまえはおおきい[#「おおきい」に傍点]んだよ、とわたしは自分に言いきかせた。
日が沈んで行く。それと入れかわりに、伜《せがれ》がかけ上ってくる。わたしの伜じゃない。けれどもそれに一番近い存在だ。それが、わたしのほうにむかって、岡をかけ上ってくる。目にいっぱい“星屑”のきらめきをたたえて。そしてわたしの傍に、毛布にちょこんと腰を落着ける。
放心したように、憧れるような目つき。地球に縛りつけられたロケット乗りと同じ目つき。檻にとじこめられた動物の目つきだ。
うす闇がこめ、人々の数がしだいにふえてくる。たいていは黙々としている。ほとんどたいていは、黙って、畏敬にひたされて、これから起ることを待ちもうけている。
うす闇のせいで輝きをました投光器に照らし出されたところ。あそこで、わたしたちがかたず[#「かたず」に傍点]を呑んで待ち構えていることが起ろうとしているのだ。あそこに、今しもビリイの目の中にある光と同じ光を目にたたえ、この地球から脱出して行こうとして、待機している一人の男がいるのだ。人間という三次元の生物が、心にもなくぶざま[#「ぶざま」に傍点]にへばりつき、這い廻っている二次元の地表面を離れて。
そうだ、脱出だ。このちっぽけな世界から、誰もかも脱出したくてうずうずしている。その願望こそ、肉体的な欲望を満たす以外の方向にむかって人間がやってきたことすべての原動力にほかならないのだ。それはさまざまの形をとり、さまざまの方向にむかって発散されてきた。それは芸術となり、宗教となり、苦行となり、占星術となり、舞踊となり、飲酒となり、詩となり、狂気となった。これまでの脱出はそういう方向をとってきた。というのは、本当の脱出の方向を人間たちはつい最近まで知らなかったからだ。その方向とは?――外へ! この小さな、平べったい、いや、丸いかも知れないけれども、とにかく生れついて死ぬまでへばりついていなければならない地面を離れて、未知に、永遠にむかって。外へ! 太陽系の中の塵の一片、宇宙の一原子に過ぎないちっぽけな地球から、外へ!
わたしははるか未来のことをあれこれと想像してみた。今わたしがどれほど奇抜な想像をしてみたところで、そんなもの、遠い未来にはきっとおそろしく古臭い思いつきとして笑いとばされてしまうだろう、と。不老不死術だって? そんなものは百九十世紀に発明されて、二百三十世紀には誰もかえりみなくなっちまったよ。そんなもの必要なくなったからだ。宇宙を再構成するための逆行熱力学だって? そいつももう時代おくれだ。なにしろ今じゃノラニズムと四次元空間同時再構成の法則が応用できるようになっているんだから。
ばかな! と言うか? それじゃ、きこう。今の人間先祖のネアンデルタール人に、物質のエネルギー移行とか量子とかいう考えを押しつけることができると思うか? 今から十万年後のわたしたちの子孫から見たら、ちょうどわたしたちは今わたしたちの目から見たネアンデルタール人みたいなものさ。
なに? 星だって? もちろん、星なんかとっくに自分のものにしているとも。
*
もうすっかり暗くなった。
「いま何時、マックス伯父さん?」
「あと四分だよ、ビリイ」
投光器の光が消えた。息づまるような緊張感。千人の見物人が一時に息をつめている。
ああ、エレン。おまえが今わたしと一緒にここにいて、わたしたちのロケットが飛び出すところを見られたらなあ。おれたちのロケットだ。が、おれのより、むしろおまえのロケットだ。そのために、おまえは命を献げたんだから。
息づまる闇の中でわたしはそのロケットと、おまえと、人類とその未来と、そしてもし人間が神になる前から神というものがあるとしたら、その神に対して、言い知れぬ畏れに全身をひたされている……。
[#改ページ]
シリアス タイプの傑作
[#地から4字上げ]福島正実
この作品は、フレドリック・ブラウンの第二冊めのSF小説ですが、一読してわかることは、他の諸作とくらべて、非常に地味な、いわゆるシリアス・タイプに属するSFであることです。
彼のSFは、奇想天外な着想と、軽妙なユーモアとで組みたてられた、文字どおり痛快なエンターテインメントであることが多いのですが、この場合は、まったく別人の作品の感があります。
この小説の主人公は、マックス・アンドルーズ、二十世紀末の宇宙パイロットですが、しかし、彼をつき動かし、その生涯を賭けさせるものは、宇宙――というより、むしろ、満天に数かぎりなく星を鏤めた、われわれに身近な夜空そのものなのです。
彼はいいます。
「わたしたちの銀河系宇宙の中にだけだって約十億の恒星がある。その大半には、惑星がついている。かりに一つずつとして十億の惑星だ。もしその惑星のうちに、千に一つ、地球と同じ種類に属するもの――呼吸できる大気に包まれ――温度も重力も地球に似た惑星があるとしたら、この銀河系宇宙には、人間が移住して正常な生活をいとなみ、繁殖し、開拓できる惑星が、すくなくとも百万はあるということになるんだ。百万の世界が、われわれが行って住みつくのをまっているんだ」
夜空を見あげて、こうした想いを抱くとき、胸が、温かい、血ではない何ものか、この世の日常に汚れた常識でない何ものかによって満たされてくるのを、彼は感じないではいられなかったのです。
いや、彼だけではない。
SFを好んで読むわれわれSFファンの中にも、同じ感懐をいだくものが、決してすくなくないはずです。
ブラウンの描こうとしたのは、そうした、星に憑かれた男の物語だったのです。これを、ブラウンは、彼一流のサスペンスフルな筋運びで、巧みに説き語っているのです。ブラウンの他の一面を現わした、彼の傑作の一つということができるでしょう。
この作品の書かれた、一九五三年という年は、アメリカ、イギリスのSF界にとっても、もっとも実り多い年でした。すでに飜訳されたもののなかでは、C・M・コーンブルースとF・ポール共作の『宇宙商人』T・スタージョンの『人間以上』J・ウインダムの『海魔めざめる』(ハヤカワ・SF・シリーズ近刊)など、見飜訳のものでは、A・ベスターの〈破壊された人〉A・C・クラークの〈夜にむかって〉コーンブルースの〈シンディック〉ライバーの〈みどりの世紀〉W・ムーアの〈悦びの時〉など、名作、傑作がまさに雲のごとく輩出したわけです。
ところで、先刻の引用ですが、あれには、現在の天文学からすると、おかしなところが一つあります。ブラウンは、銀河系宇宙の中に、十億の恒星がある、といっているのですが、最近のみとめられている数値では、銀河宇宙内の恒星は約千億ということになっているのです。
とすると、かりに、そのうち一割の恒星が五つずつの惑星を持っているとして(これは太陽系をスタンダードと考えた数です)、銀河系が持っている惑星の数は五百億ということになります。そのうち、千に一つの地球型惑星があるとすると、地球に似た世界は、五千万もあるということになる――。
この数字から、無限のイマジネーションを感じない人がいるということに、ぼくなど、いささか憐憫を感じないではいられないのですが……。
なお、本書は、数年まえ、某社のSFシリーズの一冊として出版されましたが、今度このハヤカワ・SF・シリーズに入れるに際して、全面的な改稿を訳者におねがいした結果、よりさらにすぐれた飜訳になっているはずです。また、そのおり、旧題『星に憑かれた男』をやめ、原題にちかいこの『天の光はすべて星』を採用しました。
ブラウンのSF作品リストは、このシリーズで最近出版された彼の短篇集『わが手の宇宙』につけましたので省略します。
[#地から7字上げ](一九六四・二)
[#改ページ]
底本:「天の光はすべて星」ハヤカワ・SF・シリーズ 3063、早川書房
1964(昭和39)年2月29日発行
入力:iW
校正:iW
2007年9月29日作成