中国黄金殺人事件
ファン・フーリック/大室幹雄訳
目 次
まえがき
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
第十三章
第十四章
第十五章
第十六章
第十七章
第十八章
判事と法廷[作者解説]
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登場人物
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ディー・レンチエ……山東《シャントン》省の県都|平来《ホンライ》に任命されたばかりの知事、「ディー判事」また「判事」「知事」とも呼ばれる
ホン・リャン……ディー判事の腹心の助手にして政庁の警部、「ホン警部」「警部」とも呼ばれる
マー・ロン……ディー判事の助手
チャオ・タイ……ディー判事の助手
タン……平来《ポンライ》政庁の上級書記
ワン・テーホワ……平来《ポンライ》の県知事、書斎で毒殺されているのが発見される
ユースー……朝鮮人の娼婦
イー・ペン……裕福な商店経営主
プオ・カイ……イー・ペンの店の支配人
クー・モンピン……裕福な商店経営主
クー夫人……旧姓ツァオ、クーの花嫁
ツァオ・ミン……クー夫人の弟
ツァオ・ホーシェン……クー夫人の父、哲学博士
キム・サン……クー・モンピンの店の支配人
ファン・チェン……平来《ポンライ》政庁の主任事務官
ウー……ファンの下僕
ペイ・チュ……ファンの小作人
ペイ・スーニャン……ペイの娘
アー・クワン……浮浪人
ハイユエ……白雲寺の管長
ホイペン……白雲寺の副管長
ツーハイ……白雲寺の施物《せもつ》係
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まえがき
黄金殺人事件は、ディー判事がその経歴《キャリア》を始めたばかりのときにさかのぼる。そのとき、彼は三十三歳で、地方における最初の地位に、つまり山東《シャントン》省の北東沿岸にある海港都市|平来《ポンライ》の知事に任命されたのだった。
そのころ、唐の皇帝|高宗《こうそう》〔六四九〜六八三〕は、朝鮮の大半の地域に、中国の宗主権《そうしゅけん》を樹立するのに成功したばかりであった。ディー判事ミステリー・シリーズの前後関係では、西暦六六三年の夏に、ディー判事は平来《ポンライ》に到着した(*1)。その前の年の秋に、中国は朝鮮と日本との連合軍を打破したのだが(*2)、この朝鮮戦後の成功のあいだに、少女ユースーは戦争奴隷として連れ去られたのであった。チャオ・タイは、そのまえ、六六一年の戦役に、百人の兵士を指揮する隊長として参加したことがあったのである。
ロバート・ファン・フーリック
(*1)六六五年に、ディー判事は平来《ポンライ》から漢原《ハンユアン》〔湖水殺人事件〕へ、六六八年には、そこから紅蘇《キアンス》省の蒲陽《プーヤン》〔梵鐘殺人事件〕へ転任した。六七〇年、西方国境の蘭坊《ランファン》〔迷路殺人事件〕の知事に任命されて、五年間そこに滞在した。六七六年、ずっと北方の北州《ペイチョウ》〔鉄釘殺人事件〕に転勤し、県知事として最後の三つの事件を解決した。同じ年に、彼は帝都の首都裁判所長官に任命されたのである。
(*2)これはいわゆる白村江《はくすきのえ》の戦いをさすと思われるが、この会戦が起きたのは六六三年秋である。
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第一章
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三人の親しい友は郊外の楼で別れ
知事は道中で二人の追剥《おいはぎ》に出会う
出会いと別れは、夜と昼のように、
歓びと哀しみが入れかわる、さだめなきこの世の定め、
官吏たちは来たり、また去りゆくが、正義と公正は留まる、
変化することなく、帝国の道は永遠に残る。
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男が三人、歓哀楼の最上階で、黙って酒をすすりながら、帝都の北の城門外で交叉する街道を見おろしていた。世人の記憶に残っているかぎりでは、松におおわれた小さな岡の上に立つ、この古い三階建ての料亭は、首都の官吏たちが国内各地の任務に出発する友人を見送り、そして任期が満了して、友人が首都に帰って来ると、またやって来て歓迎の挨拶をのべるのがならわしの、由緒ある場所であった。その表門にきざまれている上掲の詩があらわしているとおり、楼閣の名はこういう二重のはたらきに由来している。
空は曇って、春の雨がものさびしく、しとしと降り始めていて、いつやむとも見えなかった。小さな岡の裾《すそ》にある墓地で仕事をしていた二人の男が、松の古木のかげに雨宿りしたきり、身を寄せあってちぢこまっている。
三人の友達は軽い昼食を終えて、いまは別れの時が迫っていた。ふさわしい言葉をさがすのも空しい、つらい最後の時が来たのである。三人とも年ごろは三十歳前後であった。二人は初級秘書官の錦の帽子を、見送られる三人目の男は県知事の黒い帽子をかぶっていた。
リャン秘書官がきっぱりした仕草で酒杯を置いて、怒ったように若い知事に言った。
「ほんとうに私はひどくいらいらしているんだ、そんなことは、まったくむだだからさ! 求めさえすれば、君は首都裁判所の初級秘書官の地位につけたのだ。そうすれば、君はここで私たちの友人ホウの同僚になっていたのだし、われわれはこの首都で、そろって楽しい生活をつづけることができた、そうして、君は――」
ディー知事は、じれったそうに、炭のように黒い、長い顎ひげを引っぱっていたが、鋭くさえぎった。
「そのことはもう何回も話し合った。それで私は――」ぷつりと言葉を切ると、ディー知事はいいわけするような笑みを浮べてつづけた。「君に話したが、犯罪事例の研究なんて、あきあきして、うんざりしている――紙の上の研究にすぎないんだよ」
「だからといって、首都を離れる必要はないさ。ここには興味|津々《しんしん》の犯罪事件がないのかね? あのワン・ユアンテーとかいう名の財務省の秘書官、部下の書記を殺して、国庫から金ののべ棒三十本を盗んで失踪した男はどうだ? 私たちの友人の伯父、財務省秘書長官ホウ・クワンが、毎日、裁判所に報告を要求しているのではなかったかね? そうだろう、ホウ?」
三人目の男は首都裁判所の記章をつけていたが、迷惑そうな表情をしていた。ちょっとためらってから、彼は答えた、「あの悪党の所在については、われわれのところじゃ、まだ何の手がかりもつかんでいない。あれはおもしろい事件だよ、ディー」
「知ってのとおり」とディー知事は気がなさそうに言った。「あの事件は裁判所の長官がじきじき取り組んでいる。あれに関して、これまで君と私が見たのは、型どおりのわずかな記録だけだ、写しだよ! 書類、書類、また書類ってわけだ」
彼は白鑞《しろめ》の酒|注《つ》ぎに手をのばして、また自分の杯を満たした。みんな黙っていた。少しして、リャン秘書官が口をきった。
「少なくとも、君は平来《ポンライ》よりましな県を選ぶことはできたはずだ。霧と雨ばっかりで陰気くさい、海沿いの僻地だぜ。あの地方について、昔から伝わっている気味わるい話を知らないのか? 嵐の夜には、死人が墓場から生きかえって、奇怪な影や姿が海から吹き込む霧の中をふらつくそうだ。おまけに、あそこの森では、人虎《じんこ》がいまだに忍び回っているという話さ。それなのに、殺された男のあとがまに坐るなんて! いくら差し出されたって、正気なら、だれだって、あの地位は拒絶しただろうに、それを君は求めさえした」
若い知事はほとんど耳をかしていなかった。
「考えてもみろ」知事は熱っぽく言った、「任地に着いたら、すかさず不可解な殺人事件を解決するんだよ。無味乾燥な理論化と埃《ほこり》まみれの書類仕事をおはらいばこにする機会が、もうすぐ持てるのだよ。ついに私は人間を相手にするのだ、わが友よ、現実の、生きている人間たちをさ!」
「君が相手にしなければならないのが、死んだ人間だってことを忘れるなよ」と、ホウ秘書官が皮肉っぽく言った。「平来《ポンライ》へ派遣された調査官は、知事の殺害者に関しては何の手がかりもないと報告した。犯行の動機についてもだ。それに、あの殺人事件の記録の一部が、妙なことに、わが裁判所の文書庫から消えてしまったことは、もう君に話さなかったかね?」
「その事実が何を意味するかは」リャン秘書官がすぐにつけくわえた、「われわれ同様に、君にも分かっている。知事の殺害事件は、この首都にも枝を伸ばしているということさ。君がどんな熊ん蜂の巣をひっくり返そうとしているか、君が高官たちのどんな陰謀にまき込まれることになるのか、天のみぞ知るだ! 君は優秀な成績で文官試験の全課程に合格した。ここ、この首都で、君の前途には洋々たる未来がある。それなのに、好きこのんで、君は、あんなさびれた平来《ポンライ》なんて所に埋もれようとする」
「忠告する、ディーよ」と、ホウ秘書官が真剣に言った、「もういっぺん、君の決定を考えなおせ。時間はまだあるぞ。ちょっとした病気を口実にして、十日間の病気休暇を請求することだって、その気になれば簡単にできるのだ。その間に、あの地位には他のものが任命されるだろう。私の言うことを聴け、ディー、友だちとして、おれはおまえに話しているんだ」
ディー知事は友人の目に哀願の色があるのに気づいて、深く動かされるのを感じた。ホウと識り合ってから一年しかたっていなかったが、その輝かしい精神と並はずれた才能には、高い評価を抱《いだ》いている。知事は酒杯を乾して起ちあがった。
「君たちの配慮を私はうれしく思う。君たちの頼むにたる友情のいっそうの証《あかし》としてね」なごやかな笑みを浮べて彼は言った。「君たちはどちらも完全に正しい。首都に留まれば、そのほうが経歴にはいいだろう。しかし、この企てをやりとおすことは、自分で課した義務なのだ。たったいまリャンが触れた文官試験など、きまりきった手続きにすぎないと私は考える。それは私にとって重要なことではないと、つくづく思うのさ。それに、ここの首都文書庫で何年かやってきた書類作業も、重視していない。自分がほんとうに能力があって、わが卓越せる皇帝と偉大な民衆に奉仕できることを、私はこれから自身に証明しなければならない。平来《ポンライ》の行政職こそ、私の経歴のほんとうの始まりなのだ」
「あるいは、終りだ」声をひそめて、ホウがぼそっと言った。彼もたちあがると、窓に歩み寄った。墓掘人夫たちは雨宿りをやめて、仕事にかかっている。ホウは青ざめて遠くをちらりと見やった。くるりと向きなおると、かすれた声で言った。
「雨があがった」
「それなら、出かけたほうがいい!」ディー知事は叫んだ。
連れだって三人の友は、狭くて曲りくねった階段を降りた。
下の院子《なかにわ》に、初老の男が立って、二頭の馬を引いて待っていた。給仕が別れの杯を満たし、三人の友達が一息に飲み乾すと、最後の挨拶、祝福の言葉が入り乱れた。知事はひらりと躍りあがって鞍壺《くらつぼ》におさまった。半白のひげの男がもう一頭の馬に乗った。ディー知事が訣別《けつべつ》の鞭を打ち振り、それから二人は街道へ通ずる道を馬を駆って下って行った。
目で二人を追いながら、リャン秘書官と友人のホウは立っていた。と、心配そうな表情でホウが言った、「ディーには言いたくなかった。しかし、けさ平来《ポンライ》から来た男が、奇怪なうわさを私に告げたのだ。殺された知事の幽霊が県裁判所の中を歩き回っているのを見たという風説だよ」
二日後、正午近く、ディー知事と助手は山東《シャントン》省の境界に着いた。軍の屯所《とんしょ》で昼食をとり、馬を乗りかえると、街道を平来《ポンライ》へ東に向って進んだ。道路は樹木が厚く茂った、起伏の多い土地を通っていた。
知事は簡便な茶色の旅行服を着ていた。公用の衣裳とわずかな身のまわり品は、二つの大きな鞍袋に入れてたずさえている。二人の妻と子どもたちは、平来《ポンライ》に落ちついたのち、あとを追って来るように決めてあったから、身軽に旅することができた。後日、家族は召使いたちを連れて、有蓋馬車でほかの家財道具を運んで来るはずである。助手のホン・リャンが知事のもっとも大切な二つの財産をたずさえていた。ディー家先祖伝来の家宝である、高名な雨龍《うりゅう》の剣と、宮廷顧問官だったディーの亡父が、几帳面な筆跡で余白に豊富な注を加えた、法理と捜査に関する古い模範的な書物とであった。
ホン・リャンは太原《タイユアン》におけるディー家の古い使用人だった。知事がまだ子どもだったころ、その世話をみていたのである。のちに知事が首都に移って世帯を持つと、忠実な老僕はついて行ったのだった。ホンは家政の管理を助けると同時に、ディーの腹心の秘書の役をつとめてたいへん有能だった。そして今度は、主人が初めて平来《ポンライ》へ地方勤務に赴《おもむ》くのに、どうしてもついて行くと言いはったのだった。
馬の足どりをゆるめると、知事は鞍の上で振り返って言った。
「ホンよ、この天気がもてば、今夜、燕州《イエンチョウ》の駐屯地の町に着くだろう。そこを明日の早朝に出発できれば、午後には平来《ポンライ》に着く」
ホンはうなずいた。
「燕州《イエンチョウ》の司令官に請求して急ぎの使者をやって、おっつけ私たちが到着すると平来《ポンライ》の政庁に通告させましょう。そうすれば――」
「そんなことはしないよ、ホン」ディーは早口にさえぎった。「知事が殺されたあとは、上級書記官が臨時に運営をまかされているが、私が任命されたことは知っている。それで十分だ。私は不意に到着するほうが好きだ。省境の屯所の司令官が、軍隊の護衛を申し出たのを断わった理由もそれさ」
ホンが黙っていると、主人はつづけた。
「知事殺害に関する書類を注意ぶかく調べたが、おまえも知っているように、いちばん重要な部分が失われている。つまり、死んだ男の書斎で見つかった個人的な文書がね。調査官が首都に持って来たのに、盗まれたのだよ」
「なぜ調査官は、たった三日しか平来《ポンライ》に滞在しなかったのでしょう?」と心配そうにホンが尋ねた。「何といっても、皇帝の知事が殺されたのは容易ならぬことです。調査官は、その事件にもっと時間をかけてしかるべきでした。少なくとも、どのように、何ゆえに殺人が犯されたのか、推論も立てずに、平来《ポンライ》を離れるべきではなかったですな」
ディー知事は深くうなずいた。
「しかも、この事件の奇妙なところはそれだけではない。調査官は、ワン知事が書斎で毒殺されているのが発見されたこと、その毒物が印度|蛇木《じゃぼく》の根の粉末だと判明したこと、毒がどのように投与されたかは不明であること、それに犯人と動機の手がかりがないことだけを報告した。それっきりなのさ」
しばらくして、彼は言葉をついだ。「私を任命する書類が通ると、すぐに私は裁判所に行って調査官に面会を求めた。ところが彼は新たに任命されて、首都を発《た》って南方へ下って行ってしまったことが分かった。彼の秘書はふぞろいな事件記録をよこして、こう言った、調査官は事件に関して彼と何も話し合わなかったし、何の覚書も残さず、事件をどう処理すべきだと考えていたのか口頭で指示することもなかったとね。だからね、ホン、私たちは最初から出発しなければならないだろうよ」
半白のひげの男は答えなかった。彼は主人ほど事件に夢中になっていなかった。二人は黙々と馬を駆った。だいぶ前から、行きあう旅人もなく、荒涼としたところを通っていた。高い樹木と厚い下生《したば》えが道路の両側を埋めていた。
とある曲り角をまわると、突然、細い枝道から、馬に乗った二人の男が現われた。つぎだらけの乗馬上着を着て、汚れた青いぼろで髪を結んでいた。一人が弩《いしゆみ》に矢をつがえて旅人に狙いをつけると、もう一人は剣を抜きはなって馬を寄せて来た。
「馬からおりろ、役人!」と男は叫んだ、「街道の仁義として、おまえと老人の物をもらいうける!」
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第二章
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激しい剣の決闘は勝負なく中断し
四人の男は燕州《イエンチョウ》の宿舎で酒を酌む
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主人に剣を渡そうとして、ホンは急いで鞍の上で身をひねった。だが、ひゅっと音たてて、矢が頭上を飛びすぎた。
「楊枝《ようじ》はほうっておくんだ、老人!」射手が叫んだ。「二の矢はまっすぐ喉に行くぞ!」
ディー知事はさっと情況を見わたした。怒りのあまり唇を噛みしめながら、手も足も出せないことを覚った。不意をついて、連中は完璧にやってのけていた。彼は軍の護衛を受けいれなかったのを呪った。
「早くしろ!」一番目の悪漢がうなった。「おれたちが義賊だってことをありがたく思え、命は助けてやる」
「義賊だと!」馬を下りながら、知事は冷笑した。「武器を持たないものを襲う、おまけに射手に援護されてだ。きさまら二人はけちな馬盗《うまぬす》っ人《と》にすぎない」
その男は驚くほど敏捷に馬から跳び下りると、剣を構えて知事の前に立った。知事より一寸ばかり背が高く、広い両肩と太い頸《くび》が度はずれに屈強な男であることを示していた。頑丈な顎をした顔をおし出して、男は叱責した、「侮辱は許さんぞ、犬役人!」
ディー知事の顔がまっ赤になった。
「剣をよこせ!」と知事はホンに命じた。
射手がすかさずホンの前に馬を乗りつけると、
「口を閉じて、言われたとおりにしろ」と知事を脅した。
「きさまらが二人組の盗っ人じゃないことを証明しろ!」知事は噛みついた。「剣をよこせ! まずこっちの悪党をやっつけ、それからおまえをかたづけてやる」
ふいに剣を構えた大男がげらげら笑った。剣をさげると射手に呼びかけた、「このひげとちょっぴりふざけようぜ、兄弟! こいつに剣を持たせろ。ちょっぴり切って、筆ふり野郎に稽古をつけてやる」
もう一人の男は思慮ぶかそうに知事を見やって、鋭く仲間に言った。「遊んでるひまはない。馬を取りあげて、行かせよう」
「思ったとおりだ」と知事は軽蔑して言った。「口は大きいが、胆《きも》は小さい!」
大男は荒々しく罵《ののし》った。ホンに近づくと、ホンが携帯していた剣をひっつかんで知事に投げつけた。剣を受け取ると、知事は手ばやく旅行服を脱いで、長い顎ひげを二本の房に分け、頸の後ろにまわして結んだ。剣を抜きながら、悪党に言った。「何が起ろうと、老人は逃がしてやってくれ」
相手はうなずいて、すぐさま敏速な突きで知事の胸を攻撃した。それを軽く受け流すと、知事は何回かすばやい見せかけの攻撃を繰り出して、悪漢をのけぞらせ、後退させた。男の攻撃はずっと慎重になって、真剣な決闘が始まり、ホンと射手は見物していた。
強打には強打を返しながら、知事は明らかに相手が実戦でわざを身につけたことに気づいた。彼の剣術には、訓練を受けた剣士の洗練が欠けている。しかし、恐ろしく手ごわい男であった。頭のいい試合巧者ぶりを見せつけて、男は繰り返しディーをでこぼこした道端へ誘い込み、ディーは足さばきにも十分注意をはらわなければならなかった。知事にとって、これは道場の外でやる初めての実戦だったが、彼は存分に楽しんでいた。もうじき敵手を無力にする好機がつかめると思った。だが、敵の並の剣が、雨龍の鍛えぬいた刃にたいして、そんなに長くはもたなかった。悪漢が鋭い打込みを受け流したとき、突然、その剣がぽきっと二つに折れたのだ。折れて手に残った剣を仰天して見つめながら、男は立ちつくした。ディー知事は、もう一人の男に向きなおって怒鳴った。
「おまえの番だ!」
射手は馬から跳び下りた。乗馬上着を脱いで、長衣の裾を帯の下にたくし込んだ。彼には知事が一流の剣士であることが分かっていた。しかし迅速な突きを何度か交わし合って、知事もこれが容易ならぬ相手で、好機をつかみがたい、稽古をつんだ剣士であることを知った。
知事はぞくぞくした。最初の戦いで手足がほぐれて、いまは最良の体調なのを感じた。雨龍の剣が身体の一部のように感じられる。彼はややこしい見せかけの攻撃を混えながら打ち込んだ。相手はそれをかわして――男は巨体のわりには驚くほど足さばきが軽かった――すばやい切込みで、つづけざまに反撃してきた。だが、雨龍の剣が空気を鳴らした。それはどんな突きでもはね返すと、長い突きを放った。突きはわずか一寸の差で相手の喉もとをはずれた。男はひるまなかった。新たな攻撃を仕掛けようとして、軽快に何本か見せかけの突きを入れた。
突如、武具の鳴る響きが起こった。二十人の騎兵の一団が曲り角をまわって来て、四人の男たちをあっという間に包囲した。弩《いしゆみ》や剣や戟《ほこ》で装備をかためていた。
「ここで何をやっておるか?」と指揮官が叫んだ。短い鎖帷子《くさりかたびら》の上着と、頂きに尖った鉄鼻のついた兜《かぶと》から騎馬憲兵の隊長であることが分かった。
初めての真剣勝負が中断されたのにいらだって、知事はそっけなく応じた。
「私は新たに平来《ポンライ》の知事に任命されたディー・レンチエである。この三人の男は助手だ。馬に乗りづめでこわばった足腰をのばそうと、仲間うちの剣術試合をやっているところだ」
隊長は半信半疑の目つきで四人の男を見やったス。
「お手数だが、書類を、知事どの」きりつめた声で隊長は言った。
ディー知事は長靴から紙包みを引き出して隊長に渡した。隊長は手ばやく中の文書を一見して知事に返すと、改まって敬礼した。
「ご迷惑をおかけして遺憾に存じます」と彼は丁重に言った。「この辺りに追剥《おいはぎ》が出るという通報を受けましたので、本官は慎重であらねばならんのです。ご無事を!」
隊長は大声で部下に命令した。そうして騎兵の一団は去って行った。
それが視界から消えると、知事は剣をあげた。
「つづけよう」と言って、彼は相手の胸を狙って長い突きを放った。その強烈な突きをかわすと、相手は剣を引いて鞘《さや》にもどした。
「目的地へ進め、知事よ」ぶっきらぼうに男は言った。「わが帝国にあんたのような官吏がまだいるのは、嬉しいことだ」
彼はもう一人の男に合図した。二人は馬に跳び乗った。ディー知事はホンに剣を渡して、また旅行服をつけ始めた。
「私の言葉を撤回する」知事はそっけなく言った。「なるほど、おまえたちは義賊だ。だが、こんなことをつづけていれば、並の盗っ人も同然、処刑台で終るだろう。怨みが何であれ、それを忘れろ。北方で蛮族と激しい戦闘があるという話だ。わが軍には君たちのような男が必要だ」
射手は射るように鋭く知事を見やった。
「では、こちらも忠告する、知事よ」と彼は静かに言った、「剣は自身で佩《おび》ているものだ。さもないと、また不意打ちをくらうだろう」
馬をめぐらして、二人の男は木立の中に消えて行った。
ディー知事がホンから剣を取って背中にかけると、老人が満足そうに言った、「連中に良い稽古をつけてやりましたな。あの二人、もとは何ものでしたろう?」
「ふつう進んで無法者になるのは、何か現に怨みがあるか、怨みがあると思い込んでいる男たちだ。しかし役人と金持だけから奪うのが連中の掟《おきて》で、苦しんでいる人びとを助けることもよくある。連中は勇気と義侠が売りもので、自分たちを|緑林の兄弟《ヽヽヽヽヽ》と呼んでいる。そう、ホンよ、あれはよい戦いだった。だが、時間をむだにしたな。急ごう」
夕方、二人は燕州《イエンチョウ》に着いた。城門で、番人から、町の中心にある、旅行中の官吏が泊る大きな宿舎の道すじをおそわった。ディー知事は二階に部屋を取り、上等の食事を運んで来るよう給仕に命じた。長い道中のあとで、空腹を覚えていたのである。
食事がすむと、ホンが主人に熱い茶をいれた。ディーは窓辺に坐って、槍騎兵と歩兵が忙しく往き来している宿舎の前の空地を見おろした。炬火《たいまつ》の光が鉄兜だの、胸甲だのをきらきらと輝かせている。
ふいに扉が叩かれた。振り返って、知事は二人の背の高い男が部屋に入って来るのを見た。
「至高の天よ!」驚いて彼は叫んだ。「何と、わが緑林《りょくりん》の兄弟二人が現われた」
二人はぎこちなく礼をした。つぎだらけの乗馬上着をまだ着ていたが、いまは頭に狩猟帽をかぶっている。最初に攻撃を仕掛けた、あの頑丈な男が言った。
「この午後、路上で、あなたは私たちがあなたの助手であると言われました。それについて、私は友達と話し合いました。そうして、私たちは、あなたがうそつきだとは思いたくない、あなたは立派な知事だと意見が一致したのです。仮に私どもを雇って下さるなら、私どもは忠誠をもってお仕え申したい」
知事は眉をあげた。
急いで、もう一人の男が言った、「われわれは裁判所の仕事は何も存じません。しかし、いかに命令に従うかは知っております。それに、荒っぽい仕事をやることにかけてなら、おそらくお役に立てると考えております」
「坐りたまえ」知事はそっけなく言った。「君たちの話を聞こう」
二人は足台に腰をおろした。第一の男が膝に大きな拳《こぶし》を置き、ちょっと咳ばらいして話し始めた。
「私の名はマー・ロンといい、江蘇《キアンス》省の生まれです。父は貨物運搬用のジャンクを持っており、私は助手として父の手助けをしていました。しかし私が喧嘩好きで腕っぷしの強い少年だったものですから、父は私を有名な拳闘師範のもとへ送って、軍隊で士官になる資格を得るために、いくらか読み書きも学ばせたのです。そこへ思いもよらず父が死にました。たくさんの借財がありましたので、私は船を売るほかはなく、護衛として、地方知事の軍隊に入りました。私はじきに知事が残忍で、腐敗しきった悪党だということを知りました。あるとき、知事は一人の寡婦から拷問でにせの自白を引き出して、その女の財産をだまし取ったのです。私は知事と争いました。知事が私を鞭《むち》打たせようとしましたから、私は知事を殴り倒して、命からがら森の中へ逃げ込まなければなりませんでした。しかし、亡くなった父の想い出に誓って、私はけっして人をむやみに殺しはしなかった、ただ失なう余裕のある連中から奪っただけです。あなたは私の言葉を信頼してよろしい、同じ言葉がここにいる義兄弟にもあてはまるからです。これで全部です」
ディー知事はうなずいて、問いかけるようにもう一人の男を見やった。彼は彫ったようにすっきりした顔立ちで、鼻は通って唇は薄かった。小さな口ひげをもてあそびながら、男は語った、「私はチャオ・タイと名のっております。と申しますのも、私の本姓は、帝国の某地では、良く知られた名誉あるものであるからです。あるとき、一人の高官が私の同僚を大勢、故意に陥《おとしい》れました。が、彼らが死んだのは私の責任でした。その悪党は姿を隠し、私はしかるべきすじに彼の罪を報告しました。しかし、処置することを拒絶されました。それで私は追剥になり、いつかはあの罪人を見つけ出して殺してやろうと、わが帝国中を放浪したのです。私は貧乏人から奪ったことはなく、私の剣は不正な血で穢《けが》れてもおりません。私は一つの条件であなたにお仕え申したい。つまり、仇《かたき》を見つけ次第、ただちに辞職するのを許して下さることです。と申しますのも、亡き同僚たちの魂に、奴の首を打ち落として犬に投げてやると誓っているからです」
知事はゆっくりとひげを撫でながら、目の前の二人の男を凝視した。少しして言った、「申し出を受けいれよう、チャオ・タイの条件も含めてだ――君が仇を見つけねばならぬのは分る。だが、その男の悪事をまず法的手段で正してみる機会を私に与えよ。私とともに平来《ポンライ》へ行くがよい。君たちが使えるかどうかを見よう。もしだめなら、君たちに、そう告げよう。そのときには、ただちにわが北方の軍隊に入営すると約束せよ。私としては、これが、全、しからざれば無、だ」
チャオ・タイの顔が輝いた。熱っぽく彼は言った。
「全、しからざれば無、これこそ私たちの標語になる!」
チャオ・タイは起ちあがって知事の前にひざまずき、つづけざまに三回、額を床に打ちつけた。友達もその例にならった。
マー・ロンとチャオ・タイがまた起ちあがると、ディー知事は語りかけた。
「これはホン・リャンだ。信頼する助言者で、彼には何ひとつ隠しごとがない。仲良く、ともに働いて欲しい。平来《ポンライ》は私の最初の任地だ。そこの裁判所がいかに組織されているかは知らない。しかし事務官、巡査、守衛、そのほか全職員が、通例に従って現地で採用されたのだと思う。聞くところでは、奇怪なことが平来《ポンライ》では起きている。裁判所の職員がどの程度それにかかわっているかは、天が知っている。私は信用できるものがそばに必要だ。君たち三人は、私の目となり耳となって欲しい。ホン、給仕に酒を運ばせてくれ」
杯が満たされると、ディー知事はつぎつぎに三人の男に誓約させ、知事の健康と成功を祈って、男たちはうやうやしく酒を飲んだ。
翌朝、知事が階段を降りると、ホン・リャンと二人の新しい助手が院子《なかにわ》で待っていた。マー・ロンとチャオ・タイはすでに買物に出たと見え、黒い飾帯《かざりおび》つきのさっぱりした茶の長衣を着て、小さな黒い頭巾をかぶって、政庁の士官の制服をととのえていた。
「曇っておりますな」とホンが言った。「雨にあわねばよいが」
「鞍に麦わらの笠をくくりつけました」とマー・ロンが言った。「平来《ポンライ》までなら、これでも役に立つでしょう」
四人の男は馬に乗り、東の城門から町を離れた。数里の間、旅人で混雑した街道を通って行ったが、やがて交通は少なくなった。荒涼とした山地に入って行くと、向うから一人の騎手が二頭の馬を革紐《かわひも》で引きながら疾走して来た。馬を一瞥《いちべつ》すると、マー・ロンが言った、「立派な乗馬だ! おれはああいう癇《かん》の立ったのが好きだな」
「あいつはあの箱を鞍にのせて運ぶべきじゃない」とチャオ・タイが言葉をそえた。「あれでは自分で面倒をまねくようなものさ」
「なぜだね?」ホンが尋ねた。
「この辺りでは」と、チャオ・タイは説明した、「ああした赤い革の箱は、いつも地代集金人が現金を運ぶのに使っている。賢い連中は鞍袋の中に隠すものさね」
「あの男は精いっぱい急いでいるようだな」ディー知事がさりげなく感想をのべた。
正午に最後の山の尾根に着いた。猛烈な雨が降りそそぎ始めた。道端の台地に立つ高い木の下に雨宿りして、一行は肥沃《ひよく》な緑の半島を眺めやった。そこに平来《ポンライ》の県は位置しているのである。
みんなで冷たい軽食を食べているとき、マー・ロンが百姓娘相手の冒険を楽しそうに語った。下品な話には何の関心もなかったが、ディー知事は、マー・ロンがかなり人を楽しませる、ある辛辣《しんらつ》な諧謔《かいぎゃく》を持っているのを認めざるをえなかった。けれども、マー・ロンが別の似たような話を始めると、知事はさえぎって言った、「この辺りには虎がいるそうだな。あの種の動物は、もっと乾いた気候のほうが好きなのだと思っていたよ」
黙って話を聴いていたチャオ・タイが意見をのべた、「はて、そうとも言えません。あの畜生たちは木の茂った高地にいつくのが通例ですが、いったん人肉の味を覚えると、平地でも出没するようになります。下のあそこなら、素晴しい狩りができましょうな」
「人虎《じんこ》に関するあの話はどうかね?」ディー知事が尋ねた。
マー・ロンが背後の暗い森に落ちつかない眼差しを投げた。
「そんなこと聞いたことがない」と彼は無愛想に言った。
「ちょっと剣を拝見できるでしょうか?」チャオ・タイがきいた。「私には立派な古代の剣だと思われました」
剣を手渡しながら、知事は言った、「これは雨龍と呼ばれている」
「有名な雨龍じゃないか!」うっとりしてチャオ・タイは叫んだ。「天下の剣士すべてが畏敬をもって語っている剣だ。三百年前に、それまででもっとも偉大な刀鍛冶の三本指《さんぼんゆび》が鍛《きた》えた最後にして最良の剣だ」
「伝説では」とディー知事が説明した、「三本指はそれを鍛えようと八回も試したが、そのたびに失敗した。それで、もし成功したら、愛する若い妻を犠牲に捧げようと川の神に誓いを立てた。九度目にこの剣を打ちあげると、すぐに川の岸でこの剣で妻の首を刎《は》ねた。恐ろしい嵐が起こって、雷に打たれて三本指は死んだ。彼と妻の身体は渦巻く波にさらわれてしまったという。この剣は、この二百年の間、わが家に受けつがれてきた財宝で、つねに長子に渡されるのだ」
チャオ・タイは首巻を引っぱりあげて、息で剣を汚さないように鼻と口をおおってから、鞘から引き出した。両手でうやうやしく捧げながら、その暗緑色の輝きと、瑕《きず》ひとつ見えない髪のように鋭い刃を称賛した。語るにつれて、彼の目は狂おしい炎できらめいた。「剣によって私が死ぬべく定められている運命であるのなら、私の血で洗われるのがこの剣であるように祈る!」
深く頭をさげて、彼はディー知事に剣を返した。
雨は小雨に変わっていた。再び馬に乗って一行は坂を下り始めた。平野に降りると、路傍に平来《ポンライ》県の境界をあらわす石柱が見えた。霧がどんより平野にかかっていたが、知事はまだそれをすばらしい風景だと思っていた。これがいまは彼の管轄区域なのだ。
一同はきびきびした歩調で馬を走らせて行った。午後も遅くなって、平来《ポンライ》の城壁が霧を透《す》かして前方にぼんやりと見えて来た。
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第三章
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目撃者は殺人事件の発見を説明し、
判事は空屋で奇怪な出会いをする
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四人の男が西の城門に近づいて行くと、チャオ・タイが低い城壁とつましい二層の門楼について感想をのべた。
「地図で見たところでは」とディー知事は説明した、「この町は自然の要害に恵まれている。川の上流、三里の地点に位置していて、ここで川は広い水路《クリーク》と結ばれている。河口には大きな要塞が立ち、強力な駐屯軍が配置されていて、船の出入りをすべて検問しているのだ。数年前、朝鮮と戦争していたときには、朝鮮の軍船が川に入って来るのを防いだものさ。川の北は岸が高い絶壁になっていて、南に下れば、湿地帯のほかは何もない。それで、平来《ポンライ》はこの辺で唯一の良港であり、朝鮮と日本との交易の中心になってきたのさ」
「首都で人びとが話しているのを聞きました」ホンがつけくわえた、「大勢の朝鮮人がここに住みついているそうですな、ことに船乗り、船大工、仏僧たちが。彼らは町の東の水路《クリーク》の対岸にある朝鮮人街に住んでいて、その近くには有名な古い仏教寺院もあります」
「それじゃ、おまえは朝鮮娘と運だめしができるぜ!」とチャオ・タイがマー・ロンに言った。「そのあとはその寺で、ちょっぴり賽銭《さいせん》を出して罪を浄《きよ》めることもできるってわけだ」
二人の武装した守衛が城門を開くと、混雑した商店街を馬で通りぬけて、彼らは政庁地区の高い牆壁《しょうへき》に行きあたった。牆壁をたどって、南面にある正門にやって来た。そこには何人かの守衛が、大きな青銅の銅鑼《どら》の下の腰かけに坐っていた。
男たちはぱっと跳びあがると、知事にぬかりなく敬礼した。しかし、ホンは知事の背後で彼らが意味ありげな目くばせを交わしたのに気づいた。
巡査が本院子《ほんなかにわ》の反対側にある記録室へ一行を導いて行った。四人の事務官が忙しく筆を走らせていて、痩せこけた、短い灰色のひげの初老の男が監督していた。
男はあわてふためいて出迎えに来た。そしてどもりながら、臨時に県の行政をあずかっている上級書記官のタンであると名のった。
「閣下のご到着が」と彼は神経質につけくわえた、「まえもって知らされませんでしたことを、小官はまことに遺憾に存じます。歓迎の晩餐会を準備することができませず――」
「県境の宿駅がまえもって使者を送ってよこしたはずだ」と知事はさえぎった、「どこかで手違いがあったのにちがいない。しかし私が着いたからには、君は政庁を案内するがよい」
タンは最初に広々とした法廷に一同を連れて行った。石を敷いた床はきれいに掃かれ、奥の壇上にある高い判事席はきらきら光る赤い錦におおわれている。判事席の後ろの壁は、全体が色あせた紫の絹幕でおおわれて、その中央には、通例どおり、ふとい金の糸で刺繍した明敏の象徴たる一角獣、|※[#「けものへん+解」、unicode736c]豸《かいち》の大きな図像が浮きあがっていた。
彼らは幕の後ろの扉を通って、狭い回廊を横切ると、知事の執務室に入った。この部屋もきちんと保たれていて、磨かれた書きもの机の上には塵ひとつなく、漆喰《しっくい》の壁は白く上塗りをしなおしたばかりだった。奥の壁ぎわに置かれた広い長椅子は、美しい暗緑色の錦張りだった。執務室の隣の文書室をさっと見てから、ディー知事は応接室に面している第二の院子《なかにわ》に歩み出た。老人の書記官は、応接室は調査官の出発後ずっと使われていず、椅子やテーブルがしかるべき所に置かれていないかもしれないと神経質に説明した。知事はそのおどおどした猫背の姿をいぶかしそうに眺めた。男はとても不安で落ちつかないように見える。
「君は万事をたいへん良く整頓しておいた」と知事は安心させるように言った。
タンは深く一礼して、どもりながら、「小官は当所に五十年間勤めてまいりました、閣下。じっさい、走り使いの子どもとして入所しまして以来ずっとでございます。私は何ごともしかるべく決まりどおりにあることが好みでございまして、ここでは万事がつねに円滑に進んでおりました。恐ろしいことでございます、ただいまでは、つまるところ、あの年ごろには――」
彼は声をとぎらせて、急いで応接室の扉を開けた。
一同が美しく彫刻をほどこされた高い中央のテーブルを取り囲むと、タンは政庁の大きな四角い印章をうやうやしく知事に手渡した。知事はそれを登記簿に載せられた押印と照合してから、受領の署名をした。いま彼は公式に平来《ポンライ》県を委託されたのである。
顎ひげを撫でながら、彼は言った、「知事の殺人事件をすべての通常業務に優先させる。近いうちに県のおもだった者たちに会い、他は正規の手続きに従いたい。政庁の職員とはべつに、今日、私が会いたい県の官吏は町の四街区の区長たちだけだ」
「ここにはもう一人、五番目の区長がおります、閣下、朝鮮人居住地の区長でございます」
「それは中国人かね?」ディー判事〔知事は判事を兼任する。巻末、作者解説を参照〕は尋ねた。
「いいえ、閣下」とタンは答えた、「ではございますが、そのものは流暢《りゅうちょう》に中国語を話します」彼は手で口をおおって咳をした。それからためらいがちに話しつづけた。「私はこれは少々普通ではない状態かと懸念いたしております、閣下。さりながら、州がここの東岸にございます朝鮮人居住地を半自治にするよう決定したのでございます。その区長がそこの治安に責任を負っておりまして、本所の職員は、区長が助勢を求めましたるさいにのみ、立ち入ることができるのでございます」
「それは確かに普通ではない状態だ」と判事はつぶやいた。「近日中に調べてみよう。さて、君は全職員に法廷に集合するようすぐ知らせよ。その間に、私は自分の執務室などをちょっと見て、気分を変えたい」
タンは困惑した表情を浮べた。少しためらったのち、「閣下の官邸はまことに良くととのえられてございます。前知事が昨年の夏に全部塗りかえられました。ではございますが、あいにくと、前知事の荷作りした家具と荷物がいまだにその辺りに残っております。前知事の兄上さまからは、たった一人のお達者な近親者でございますが、いまだに何の便りもございません。さような物を全部、どこへ送るべきなのか、私には分らないのでございます。ワン閣下は奥さまをお亡くしでしたから、当地の召使いだけを雇っておられ、その者どもは主人の……逝去されましたあと、出て行ってしまいました」
「では、調査官がここへ来たときには、どこに寝とまりしたのかね?」驚いて判事がきいた。
「閣下は執務室の長椅子で休まれました」とタンはみじめたらしく答えた。「事務官が食事もそちらで差しあげました。諸事きわめて変則でありますことを、私は深く遺憾に存じております。ではございますが、前知事の兄上さまが私の書信に返事を下さらないものですから、私は……まことにこのうえなく不都合ではございますが……」
「たいしたことじゃない」とディー判事は早口で言った。「この殺人事件が解決するまでは、家族と召使いを呼び寄せるつもりはないよ。私はさっそく執務室へ行って、そこで着がえをしよう、君は助手たちに部屋を見せてやってくれ」
「政庁の向いに、閣下」とタンは熱心に言った、「たいそう良い宿屋がございます。私は妻とそちらに泊っております、で、閣下にうけあえるのでございますが、助手の方がたも……」
「それもきわめて変則である」冷やかに判事はさえぎった。「どうして君は政庁の構内に住まないのか? 長い経験から、当然規則を知っているはずだ」
「私は応接室の後ろの建物の上階を使用しております、閣下」とタンはおおあわてで釈明した、「ではございますが、屋根を修理せねばなりませんので、外部に住みましても支障はあるまいと存じましたので、もちろん一時的にでございますが――」
「よろしい!」とディー判事はタンを黙らせた。「だが、私の三人の助手は構内に住まわせるぞ。君は守衛所に三人のためにきちんとした宿舎をととのえよ」
タンは深く一礼をすると、マー・ロンとチャオ・タイといっしょに出て行った。ホンは執務室へ判事に従って行った。彼は判事が長い礼服に着かえるのを手伝い、茶の仕度をした。熱い手ぬぐいで顔をこすりながら、判事がきいた、「ホン、あの男がどうしてあんなふうに取り乱しているのか、見当がつくかね?」
「どちらかというと、くよくよ気にする質《たち》の人間らしいですな」と年をとった助手は応じた。「われわれの思いがけない到着が少々|動顛《どうてん》させたのだと思います」
「私はむしろ」ディー判事はもの思わしげに言った、「彼はこの政庁の中のことを、何か非常に気に病んでいるのだと思う。それが宿屋へ引越した理由でもある。ま、いずれ分かるだろう」
タンが入って来て、全員が法廷にそろったことを知らせた。ディー判事は室内帽を、ぴんと翼のように|※[#「巾+僕のつくり」、unicode5e5e]《ぼく》のはった黒い判事帽にかえて、ホンとタンを従えて法廷に行った。
判事は高い判事席の奥に腰をおろした。そしてマー・ロンとチャオ・タイに合図して自分の椅子の後ろに立たせた。
判事がふたことみこと適宜に語ると、石畳の床に低くひざまずいている四十人の男たちを、タンが一人ひとり判事に紹介した。事務官たちはさっぱりとした青の長衣をまとい、守衛と巡査たちの革上着と鉄兜がよく磨かれていることにディー判事は気づいた。全体に見苦しくはない者たちである。巡査長の残忍そうな顔は好かなかったが、そういう頭立《かしらだ》った男たちというのは、通常、不断の監督が必要な、いやな連中なのだと判事は思い返した。検屍官のシェン医師は、知的な顔をした品位のある初老の男である。彼はこの県最良の医者で、高潔な人格者だとタンが判事にささやいた。
点呼が終わると、ホン・リャンが政庁の警部に任命され、また彼が記録室の通常業務すべてを管理すること、そしてマー・ロンとチャオ・タイが巡査と守衛を監督し、訓練ならびに守衛所と牢獄に責任を負うことを、判事は告げ知らせた。
執務室にもどると、ディー判事は、守衛所と牢獄を検査するようにマー・ロンとチャオ・タイに命じた。「それから」と彼は言いたした、「君らは巡査と守衛たちを訓練しなければならない。そうすれば、連中と識り合いになって、連中にどんな値うちがあるかを見る機会があるだろう。そのあとは町へ出かけて、この都市のいろいろな印象をつかんで来い。君たちといっしょに行けたらと思うが、私は知事殺害に関して方針を定めるために、晩いっぱいをあてなければならないだろう。帰って来て、夜、のちほど報告せよ」
二人の屈強な男が去ると、二本の燭台《しょくだい》を運ぶ事務官をともなってタンが入って来た。ディー判事は机の前の腰かけに坐るよう、タン、ついでホン警部に言った。事務官は机の上に燭台を置いて音もたてずに出て行った。
「さてと」判事がタンに言った、「名簿にファン・チュンと記載されている主任事務官があそこにはいなかった。病気かね?」
タンは手を額に打ちあてた。口ごもりながら、「私はそのことについて申し上げるつもりでおりましたのです、閣下。まことに、ファンのことがたいそう気がかりなのでございます。今月の一日に、ファンは州都の釆府《ピエンフー》へ出かけました、年休の日にでございます。昨日の午前には、もどるはずでございましたが、姿を見せませんでしたので、町の西にあるファンの小さな農園へ巡査をやりましたところ、そこの小作人は、ファンと下僕は昨日そこに着いて、正午に立ち去ったと申しました。何とも迷惑なことでございます。ファンは優秀な男で、有能な士官でありまして、日ごろは時間を厳守いたします。あれの身に何事が起こりましたのやら、私には分からないのでございます。ファンは――」
「おそらく虎に食われたのだ」とディー判事はいらいらして中断させた。
「いいえ、閣下!」タンは大声をあげた。「めっそうもない!」ふいにその顔から血の気が引いてしまった。蝋燭《ろうそく》の光が、仰天して見開いた目の中に輝いた。
「そんなに神経質になるな、君!」判事はいらだって言った、「前の知事の殺害事件で君が動顛しているのは良く分かる。しかしそれは二週間前に起きたことだ。いま君は何をこわがっているのだ?」
タンは額の汗を拭った。
「お許し下さいまし」彼はぶつぶつ言った。「先週、森の中で一人の農夫が喉を裂かれ、ひどい引っかき傷だらけで発見されたのでございます。人喰虎がうろついているのに相違ございません。私は近ごろは十分眠っておりません、閣下。つたない弁解ではございますが――」
「けっこうだ。私の二人の助手は老練な狩人《かりうど》だ。近日中に二人をやって、その虎を始末させよう。私に熱い茶を一杯飲ませてくれ。それから仕事にかかろう」
タンが判事の茶碗に注ぐと、うまそうに二、三口すすってから、判事は肘かけ椅子に坐りなおした。
「殺人がどのように発見されたのか、君から正確に聞きたい」と彼は言った。
顎ひげを引っぱりながら、タンはおずおずと話し始めた。
「閣下の前任者は少なからず魅力的な、教養の高い紳士でございました。おそらくときには少々|安直《あんちょく》で、細かなことには耐《こら》え性《しょう》がおありでない、ではございますが、現に重要なことでは万事正確、まことにたいそう正確でございました。おとしは五十歳ほどで、長期にわたる多彩な経験をお持ちでした。有能な知事でいらっしゃいました、閣下」
「ここで敵があったかね?」
「一人も、閣下!」タンは叫んだ。「鋭敏で公正な判事でございまして、人びとからたいそう好かれておられました。私は申し上げられます、閣下、あの方はこの県で人望がございました、まことにたいそう人望がお高うございました」
判事がうなずいたので、彼は話しつづけた。
「二週間前でございます、朝の開廷時間が迫っておりましたとき、家令が記録室に私に会いにまいりまして、主人が寝室で眠らなかったこと、また書斎の扉が内部から鍵がかかっていることを報告いたしました。知事がしばしば夜ふけまで、書斎で読んだり書いたりなさることを存じておりましたので、本の上につっぷして眠ってしまわれたのだと愚考いたしまして、しつこく扉を叩きました。しかし中からは何の音も聞えず、卒中を起されたのかもしれぬと気がかりになったのでございます。巡査長を呼んで、扉を破って開けさせました」
タンは言葉を呑み込んだ。口がぴくぴく引きつった。少しして彼はつづけた。
「ワン知事は焜炉の前の床に横たわっておられ、見えない目は天井を見あげておりました。茶碗はのびた右手近くの布団の上に転がっておりました。身体に触ってみますと、硬直して冷とうございました。すぐさま検屍官を呼びましたが、知事は真夜中ごろ亡くなられたに相違ないと述べました。検屍官は茶びんに残った茶を見本に取りまして――」
「その茶びんはどこにあったのか?」とディー判事が中断した。
「左隅の食器戸棚の上でございます。湯を沸かす銅の焜炉のとなりにございました。茶びんはほぼいっぱいでございました。シェン医師が見本を犬にやりますると、すぐに死にました。彼は茶を熱して、臭気によってその毒を確認いたしました。焜炉にかかった平鍋の水を試すことはできませんでした、蒸発してしまっておりましたので……」
「茶の水はだれが運ぶことになっていたのかね?」
「知事ご自身でございました」タンは即答した。判事が眉をあげたので、彼はあわてて説明した、「あのお方は飲茶趣味の熱狂的な愛好者でございまして、どんなこまごましたことにもきわめてやかましうございました。いつもご自分の庭の井戸からご自身で水を汲《く》んで来られることに固執なされ、書斎の焜炉で手ずから沸かしもされました。茶びんや茶碗や茶筒はすべて値うちものの古物でございまして、焜炉の下の食器戸棚に鍵をかけてしまっておられました。私の指示で検屍官は、茶筒の中にあった茶の葉も検査いたしましたが、まったく無害であることが証明されたのでございます」
「そのあと君はどんな処置を取ったのか?」
「ただちに釆府《ピエンフー》の州政庁へ特使を送りまして、ご遺骸を仮の棺に納めさせ、知事官邸の広間に安置いたしました。それから書斎を封印いたしました。三日目に調査官閣下が首都から到着され、城塞の指揮官に命令されて憲兵の秘密捜査官六人を配下に置かれ、徹底的な調査を開始なされました。閣下はすべての召使いに質問なされ――」
「分かっている」ディー判事はいらいらして言った。「調査官の報告は読んだ。だれもかってに茶をいじくれなかったこと、知事が退いた後にはだれ一人書斎に入れなかったことは明白に確定された。調査官は正確にはいつ立ち去ったのか?」
「四日目の朝」とタンはゆっくり答えた、「調査官は私をお呼びになりまして、最終的な埋葬地について故人の兄上さまの決定があるまで、東の城門の外にある白雲寺へ棺を移させるよう命ぜられました。それから秘密捜査官を城塞に帰らせ、知事の個人的な書類はすべてご自分でお持ちなさると私に告げて出発なされたのでございます」タンは居心地悪そうに見えた。不安げに判事を見やって、つけくわえた、「突然出発された理由をあの方は閣下に説明なされたと存じますが?」
「聞いたよ」ディー判事はすばやく言いつくろった、「調査は新しい知事が有利に継続できる段階に達している、とね」
タンはほっとした表情で尋ねた、「あの方はおすこやかでいらっしゃると存じますが?」
「新しい任命を受けて、すでに南方へ出発した」判事は起ちあがりながら、「書斎を見に行く。私が行っている間、君はホン警部と明朝の公判であつかうべき案件を話し合うのだ」
判事は燭台の一つを取りあげて出て行った。
知事の官邸は、応接室の背後にある小さい庭のもう一方の側に位置していて、扉は半開きになっていた。雨はもうやんでいたけれど、霧が木立にかかって、小ぎれいにしつらえられた花壇をおおっている。ディー判事は扉を押し開けて、がらんとした家屋に入って行った。
報告書についていた見取図から、書斎が中央回廊の端《はず》れにあることは分かっていた。中央回廊はすぐに見つかった。それを通りぬけながら、かたわらに二本の通路があるのに気づいた。しかし蝋燭のかぎられた光の円の中では、どこへ通じているのか見ることができない。ふいに彼は足をとめた。蝋燭の光が一人の痩せた男に落ちかかった。男はちょうどかたわらの通路からすぐ目の前に現われて、彼にぶつかりそうになったのである。
男は立ったまま声も出さず、身動きもしなかった。奇妙な、うつけた目でじっと判事を見つめている。どちらかといえばまともな顔は、左の頬にある銅貨大のほくろで損ねられている。判事は仰天して、男が帽子をかぶっていないのを見た。白くなりかかった髪がちょんまげに結われている。男が黒い帯をしめ、灰色の長い部屋着を着ているのがぼんやりと見える。
ディー判事が口を開いて誰何《すいか》すると、男は急にもとの暗い通路へ音も起てずに歩み去って行った。急いで判事は蝋燭をかざした。しかし急な動きで火が消えて、漆黒の暗闇になった。
「おい、そこの、こっちへ来い!」ディー判事は叫んだ。ただ反響だけが応えた。ちょっとの間、彼は待った。空っぽの家の深い沈黙があるだけだった。
「なまいきな悪党め!」ディー判事は怒ってつぶやき、手で壁をたどりながら庭へもどる道を見つけて、急いで執務室に帰って行った。
タンがホン警部にかさばった調査書を見せていた。
「はっきりと分からせたい」とディー判事は気むずかしくタンに呼びかけた、「だれであろうと職員は平服でこの政庁の中を歩き回ってはならない、夜間でも、非番のときでもだめだということだ。たったいま、部屋着だけ着て、帽子さえかぶっていないやつに出会った。しかもその無礼な田舎者は、呼びとめてもわざと返答さえしなかった。あいつを捕まえて来い。ぎゅうという目にあわせてやる!」
タンはがたがた震え出していた。なさけない驚きようで、判事に目をすえた。ディー判事はふと彼をかわいそうに思った。何といっても、この男は最善を尽してきはしたのだ。静かな声で判事はつづけた。
「ま、ああいう迂闊《うかつ》もときには起こるだろう。いずれにせよ、あいつはだれなのだ? 夜警かね?」
タンは判事の背後の開いた扉に驚いた眼差しを放った。彼はどもって言った、「そ、そ……その男は灰色の長衣をつけておりましたか?」
「そうだ」
「そして左の頬にほくろがございましたか?」
「そのとおり」判事はぴしゃりと言った。「だが、気をもませるのはよせ、君! 言ってしまえ、誰なんだ?」
タンは頭をたれて抑揚のない声で答えた、「あれは亡くなられた知事でございます、閣下」
政庁構内のどこかで大きな音を響かせながら扉が締まった。
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第四章
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ディー判事は犯行の現場を検証し、
彼は銅製の茶炉の秘密を調査する
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「どこの扉だ?」ディー判事が怒鳴った。
「官邸の表の扉かと存じますが」と口ごもりながらタンが答えた。「ぴたりと締まらないのでございます」
「明日、修繕させろ」無愛想《ぶあいそう》に命令して、判事はぎゅっと口を結び、その場に立ちつくした。ゆっくりと頬ひげを撫でながら、幽霊が奇妙な空《うつ》けた目でじっと見つめ、すっと音もたてずに姿を消してしまったさまを思い出した。
やがて机を回って、肘かけ椅子に腰をおろした。ホン警部は無言のまま彼を見やったが、その目は恐怖でひろがっていた。
やっとのことでディー判事は気を落ちつけ、ちょっとの間、タンの血の気のない顔を凝視してから尋ねた、「君もあの幽霊を見たことがあるのかね?」
タンはうなずいた。
「三日前、この執務室ででございます、閣下。夜分おそく、必要な記録を取りにまいりますと、そこに、あの方の机のかたわらに、背を向けて立っておりました」
「それで何が起きた?」緊張して判事がきいた。
「私は大声をあげて、蝋燭《ろうそく》を落としてしまいました、閣下。外へ走り出て、守衛を呼びまして、私どもがもどってまいりますと、部屋は空っぽでございました」タンは手で目をこすってから、つけくわえた、「あの朝、書斎で見つけたのとそっくりに見えました、閣下。そのときも灰色の長い部屋着を着て、黒い帯を締めておりました。帽子は頭から落ちてしまっておりました、床に倒れて……亡くなられましたときに」
ディー判事とホン警部が沈黙したままなので、タンは話しつづけた。
「調査官もご覧なされたに相違ないと確信しております、閣下! でございますから、あの最後の朝、あのように具合が悪そうで、あんなにあわただしく発って行かれたのです」
判事は口ひげを引っぱった。ややあって、沈痛な口調で言った、「超自然的な現象の存在を否定するのは愚かしいことだろう。わが孔子でさえ弟子たちがこうした事柄について質問したさいには、あたりさわりのない返事しかしなかったことをけっして忘れてはならない。とはいうものの、私は手はじめに合理的な説明を求めたいと思う」
ホンがゆっくりとかぶりを振った。
「無理です、閣下。説明できるのは、殺害がいまだに報復されていないので、死んだ知事が安息を見出せないでいるということだけですよ。遺骸は仏寺に横たわっていますが、腐敗がまだあまり進んでいないうちは、死人が死骸の近くの生きている人びとのところに容易に現われるものだと言います」
ディー判事が急に起ちあがった。
「この問題を真剣に考えてみよう」と彼は言った。「当面、家に帰って書斎を調べる」
「また幽霊に出会います、危険を冒してはなりません!」あっけにとられてホン警部が叫んだ。
「どうしていけない? 死者の望みは自分の殺害を報復させることだ。私が同じことを望んでいるのを知っているにちがいない。それなのに、どうして私に危害を加えようなんて思うだろう? ここの用がすんだら、警部、君は書斎へ来てくれ。そうしたければ、守衛二人に提灯《ちょうちん》を持たせて連れて来るがいい」
ホンとタンの抗議を無視して、ディー判事は執務室をあとにした。今度はまず記録室に行って、油紙をはった大きい提灯を取って来た。
再び官邸のがらんとした家屋に着くと、幽霊が消えた通路に入って行った。どちらの側にも扉があった。右手の扉を開けると、広びろとした部屋で、床いちめんに大小さまざまな荷物と箱が乱雑に積まれている。床に提灯を置いて、ディー判事は荷物に触ってみたり、積み上げられた箱の間をのぞいたりした。片隅の気味悪い影にぎょっとして、自分のだと気がついた。そこには死んだ男の所有物のほかは何もなかった。
頭を振りながら、判事は向いの部屋に入った。藁《わら》むしろに包んだ大型の家具がいくつかあるだけで空っぽである。
通路はどっしりした扉に行きあたって、扉にはしっかり鍵がかかり閂《かんぬき》が差してあった。考えに沈みつつ、判事は回廊にもどった。
回廊の端れにある扉には雲と龍を題材に凝った彫刻がほどこされていたが、上部に二、三枚の板が釘づけされて美しさを損ねている。巡査たちが、扉を開けるために鏡板を打ちこわしたのだ。
ディー判事は政庁の印章をおした紙片を裂き離して扉を開いた。提灯を高く差しあげて、優雅な家具をそなえただけの、小さな四角い部屋を調べた。左手には高くて狭い窓が一つあき、そのすぐ前には、大きな銅の焜炉をのせて、大型の黒檀《こくたん》の食器戸棚が立っている。焜炉には湯沸かし用の丸い白鑞《しろめ》の平鍋がかかっている。焜炉に並んで、青と白の精巧な陶器製の小さな茶びんが見えた。壁の残りの部分は、反対側の壁と同じように、びっしり書棚が占めている。奥の壁には低くて広い窓があって、紙ばりの羽目は几帳面なくらいまっさらだった。窓の前には紫檀《したん》の古物の机があって、どちらの端にも三つの引出しがついている。坐り心地よさそうな肘かけ椅子も紫檀材で、赤い繻子《しゅす》の小座布団におおわれている。机の上には、二本の銅の燭台があるきり、何もなかった。
判事は中に歩み入って、焜炉がのった食器戸棚と机の間にある葦《あし》の敷物にある黒っぽいしみを調べた。そのしみは、知事が倒れたとき、茶碗からこぼれた茶が原因でついたのだと推測された。おそらく彼は火に水をかけ、それから机に向ったのだろう。湯が沸いたのが聞えると、焜炉のところへ行って湯を茶びんに注いだ。そこに立ったまま、茶碗に満たして一口すすった。すると、毒がきいたのだ。
食器戸棚の精巧な錠前に鍵がささっているのを見て、戸棚を開け、中をのぞいて、判事は讃嘆した。飲茶道楽のために蒐集された選りぬきの器具が二段の棚に積み重なっていたのである。塵の汚れひとつなかった。あきらかに、調査官と助手は万事徹底的に検査したのだ。
彼は机に歩み寄った。引出しはからだった。そこで調査官は死んだ男の私的な書類を見つけたのだ。判事は深い溜息をついた。殺人が発見された直後に部屋を見なかったのが、いかにも残念だった。
本棚に向きを変えると、何ということなしに本の上に指を走らせた。厚くつもった埃《ほこり》におおわれている。ディー判事は満足そうに微笑した。少なくとも、ここには新たに調べるべき何かがある。調査官とその部下が書物を無視したのは明白である。本のつまった書棚を見わたして、判事はホンが来るまで調査するのを待とうと決めた。
彼は肘かけ椅子を扉に向け回して坐った。両腕を広い両袖に入れて組み、殺害者がどんな種類の人間でありうるのか想像してみた。皇帝の官吏を殺すことは国家に対する犯罪である。故に、この犯罪に対して、法律は何とも恐ろしい|故意に長びかせる死《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、すなわち手足を斬りはなしてなお生かしておくといった最も厳しい凌遅《りょうち》の刑で死罪を科することを規定している。殺害者に非常に強い動機があったに相違ないのは確かである。そしてまた、どのように茶に毒を投じたのか? それは平鍋の中の茶の湯でなければならない、使ってない茶葉を試したところ、無害なことが分かったのだから。ほかに考えられる唯一の解答は、殺害者がぴったり一度茶をいれるだけの少量の茶葉を知事に送ったか、与えたかして、それに毒が含まれていたということだ。
ディー判事はまた歎息して、さっき見た幽霊について考えた。そんな妖怪現象を実際に見たのは生まれて初めてだったし、それがほんものだとはまだ本気で信じていなかった。何かの悪ふざけでもありうる。しかし調査官とタンも見たことがあるのだ。だれがあえて危険を冒して幽霊のまねをしようとしたのだ、それも政庁の内部で? それに、どんな理由で? あれは、結局、ほんとうに死んだ知事の幽霊だったにちがいないと彼は思った。頭を椅子の背にもたせかけて休みながら、判事は目を閉じて自分が見た幽霊の顔を心に思い浮べようとした。死んだ男が何か証拠をくれて、私が謎を解くのを助けてくれるのはありえないことなのか?
彼はぱっと目を開けた。しかし部屋は前同様に静かでがらんとしていた。判事は数瞬間そのままじっとして、四本の太い梁《はり》が交叉している赤い漆で塗られた天井を何となく見わたした。茶の食器戸棚があるところの天井に色のぬけた斑点があって、隅に埃《ほこり》だらけの蜘蛛《くも》の巣が少々かかっているのに気がついた。あきらかに死んだ知事は、部下の上級書記官ほど、清潔についてやきもきすることはなかったのだ。
そのとき、大きな燭台を持った二人の守衛を従えて、ホン警部が入って来た。ディー判事は蝋燭《ろうそく》を机の上に置くよう命じて、守衛を引きとらせた。
「ここで私たちに残されているのは」と彼は言った、「書棚の本と記録の巻物だけだよ。ごっそりあるが、おまえがひと山ずつよこして、私が目を通したところで脇へ置くことにすれば、そんなに時間はかかるまい」
ホンは上機嫌にうなずいて、いちばん近い書棚からひと山の本を取った。彼が袖で埃を払い落としているうちに、判事はまた椅子を回して机に向い、ホンが前に置いた本に目を通し始めた。
ホンが書棚の最後の山を移したときには、二時間以上もたっていた。ディー判事は椅子にそっくり返って、袖から扇子を取り出した。ばたばたとあおぎながら、満足した笑みを浮べて言った、「そう、ホンよ、これで殺された男の人柄についてそうとうはっきりした姿がつかめたよ。自作の詩をまとめた何巻かをざっと読んだが、精巧な文体で書かれてはいても内容はいささか浅い。恋の詩が大半で、そのほとんどは首都か、ワン知事が勤務したほかの土地の有名な芸妓に捧げられたものなのさ」
「ついさきほど、タンがそれとなく言っておりました」とホンが口をはさんだ、「あの知事は、そちらの方では、どちらかというと締まりのないお人だったという趣旨のことをですな。娼婦どもを家に呼び寄せることさえちょいちょいあって、しかも泊らせることもあったそうです」
ディー判事はうなずいた。
「さっきよこした錦の紙ばさみには春画しか入っていなかった。そのうえ酒とか、帝国のさまざまな地方の酒の作りかたとか、料理に関する本を何十冊もそろえていた。それでいて、偉大な昔の詩人たちのすばらしい選集を作りあげていて、そのどの巻もすりきれて、ほとんど各ページごとに彼自身の覚書と注釈が書かれているのさ。同じことが仏教と道教の神秘主義に関する、広範囲におよぶ本の蒐集についても言える。しかし彼が持っていた儒教古典の全集版は、手に入れたときのまま手つかずの状態にある。さらに科学のおもだった本があるのに気がついたよ。つまり医学と錬金術に関する標準的な本はたいていあるし、判じ物や謎あそびや器械仕掛けなんかの稀覯本《きこうぼん》も何冊かあるのだ。歴史、政治、行政、数学の本がないのが目立っておかしい」
椅子を回しながら、判事はつづけた。
「ワン知事は鋭い美の感覚を持った詩人であり、神秘主義に深い興味をいだいた哲学者でもあったというのが私の結論だ。それと同時に、彼はこの世のあらゆる快楽をこよなく愛した官能的な人間だった――これは必ずしも異常な組合せではない、そう私は信ずる。彼には野心などまるでなかった。首都から遠い静かな県の知事の地位を好んだが、そこでなら自分が彼の主人であり、自分の生活を好きなように調整することができた。それが彼が昇進を欲しなかった理由だ――平来《ポンライ》は彼にとり知事としてはもう九番目の任地だったはずだね。しかし彼は探究心の旺盛な――だからこそ、判じ物や謎あそびや器械仕掛けに興味を持ちもしたのだが――非常に知的な人だった。それで、長い実地の経験も手伝って、ここでは相応に申し分のない知事になった、職務にそれほど献身的だったとは思えないがね。家族のきずなにはほとんど関心を持っていなかった。第一夫人と第二夫人の死後、再婚しないで、芸妓や娼婦と一時的な関係を結ぶことで満足していたのもそのせいだ。彼自身、自分の人柄を書斎につけた名のうちにかなり適切に要約しているよ」
ディー判事は扉の上に掛けられた扁額《へんがく》を扇子で指し示した。「浮萍庵《ふへいあん》」と読んで、ホンは覚えず微笑した。
「しかしながら」判事はまた話し始めた、「私は非常に目立つ一つの矛盾を発見した」取りのけておいた細長い帳面を軽く叩きながらきいた、「これをどこで見つけたのかね、警部?」
「この下の書棚の本の後ろに落ちていました」と答えて、ホンは指さした。
「この帳面に、知事は自筆で日付と数字の長い一覧表を写し取って、複雑な計算を書き込んだページを加えている。説明は一言もないのだ。だが、ワン氏が数字に興味を持っていたとはとても思えない。財政と統計の仕事は、すべてタンと事務官たちにまかせていたのだと思うが?」
ホン警部は強くうなずいた。
「ついさきほど、タンがそのように説明しました」
ディー判事は帳面をざっと読んで、ゆっくりと頭を振った。もの思いに沈みながら、「この覚書に彼はたいへんな時間と労力をついやしている――小さな誤りは注意ぶかく抹消して訂正する、といったふうにね。唯一の手がかりは日付だが、最初の日付はぴったり二か月前だ」
彼は起ちあがって帳面を袖の中に納めた。
「いずれにしても、暇なときにこれを研究するつもりだ。これが彼の殺害に結びついている事柄に関係があるのか、もちろんまるで確かではないがね。しかし矛盾というものは、いつだって特別に注意してみる価値があるのさ。とにかく、もう私たちは犠牲者についてはっきりとした像を持っている。捜査便覧によれば、これは殺害者を見つけ出す第一歩だよ」
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第五章
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二人の壮漢は食堂でただ飯を食い
船着場であやしい行動を目撃する
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「第一にやらなきゃならんことは」チャオ・タイと連れだって政庁を出るとマー・ロンが言った、「おれたちの帯の下に何か入れることだ。あのだらけた野郎どもを訓練したおかげで腹がへったぜ」
「それに喉もかわいたぜ」とチャオ・タイがつけくわえた。
政庁の南西の角の狭い所で最初に見かけた小さな食堂に二人は入った。九花果園というごたいそうな名の店だった。騒がしく入りまじった人声に迎えられた。店はひどく混んでいる。奥の高い帳場の近くにやっと空いた席を見つけた。帳場の向うでは、片腕の男が立って、ばかでかい麺の鍋をかき回していた。二人の友達は大勢の客を眺めわたした。たいていは小店主で、急いで帰って夕方の買物に殺到する客を迎えなければならないので、すぐできる軽食をとっている。うまそうにがつがつと麺を食って、白鑞《しろめ》の酒|注《つ》ぎをまわすときにちょっとやめるだけだった。
チャオ・タイが、麺のどんぶりをのせた盆を持って急いでそばを通り抜ける給仕の袖をひっつかんだ。
「そいつを四つ!」と彼は言った。「それと、でかい酒注ぎ二つ!」
「あとで!」と給仕がぴしっと言った。「忙しいのが見えないの?」
チャオ・タイが急に怒鳴り出して、景気のいい悪態を並べ立てた。帳場の奥の片腕の男が顔をあげて、じっとチャオ・タイを見つめた。長い竹のひしゃくを置くと、男は帳場を回って出て来た。汗まみれの顔を皺くちゃにして、あいそのいい笑いをいっぱいに浮べていた。
「そんなふうに悪態をつける人はあすこにゃ一人しかいなかった!」と彼は叫んだ。「どんな風の吹き回しでここへいらしったんで、隊長どの?」
「隊長ってな忘れろ」と荒っぽくチャオ・タイが言った。「北の前線へ出たとき、ごたごたを起こして地位も名前も捨てたんだ。いまじゃチャオ・タイと呼ばれている。ちょっぴり食わせちゃくれないのか?」
「少々お待ちを、隊長」男は熱っぽく言って調理場に姿を消すと、間もなくふとった女を連れてもどって来た。女は二つの大きな酒注ぎと、塩漬けの魚と野菜を盛った大皿をのせた盆を運んで来た。
「こいつのほうがいいぜ」チャオ・タイが満足そうに言った。「坐れよ、兵隊、一度ぐらいかみさんに仕事をさせろ」
亭主は腰かけを引き寄せ、帳場の奥は女房がかわった。二人が飲み食いを始めると、亭主は自分は平来《ポンライ》生まれで、朝鮮で遠征軍から放免された後、ためた金で食堂をやって来たが、ひどく暮しが苦しいわけではないと語って、二人の茶色い長衣を見ながら声を低めて尋ねた、「どうしたわけで、あの政庁で働いてらっしゃるんで?」
「おまえが麺をかき回してるのと同じわけあいよ」チャオ・タイが答えた。「暮しのためさ」
左右を見まわしてから、片腕の男はささやいた、「へんなことがここじゃ起こってまさ。二週間前、あいつらが知事を絞め殺して身体を切り刻んだのを知りませんかね?」
「毒を盛られたんだと思ってたぜ」と言って、マー・ロンは一息で杯をからにした。
「そりゃあいつらが言ってるこってさ。ひき肉、鍋いっぱい! あの知事が残したものったら、それだけだった。ほんとですぜ、あすこの連中でいい奴はいない」
「今度の知事はいかす男だ」とチャオ・タイが意見をのべた。
「そいつのことは知らねえ」男は頑固に言った、「だけどタンとファン、あの二人はいい奴じゃない」
「あのおいぼれのどこがいけないんだ?」驚いてチャオ・タイがきいた。「蝿も殺せないように見えるがな」
「あいつはほっとくこってす」と亭主は陰気くさく言った。「あいつは……ちがうんですよ、ね。そのほかにも、タンにはとっても悪いことがあるんですよ」
「何がだ?」マー・ロンが尋ねた。
「この県じゃ、目にとまる以上のことが起こってるんでさ。あたしはこの土地のもんだから、知ってるんですがね。昔から、ここにはうすっ気味悪い連中がいるんでさ。年とった親父がいつも話してましたっけ……」
声がだんだん弱くなって、悲しげにかぶりを振ると、亭主はチャオ・タイが押しやった杯を急いでからにした。
マー・ロンが肩をすくめた。
「おれたちが自分で見つけるさ。ちょっとしたおなぐさみだ。おまえが言ったファンて野郎だが、いずれ面倒をみてやるさ。あいつはちょいと行きがた知れずだと、守衛たちが言ってた、ついいましがた」
「そのまんまだったらいいのに!」片腕の男は感情たっぷりに言った。「あの弱い者いじめの野郎ときたら、みんなから金を取って、あそこの巡査長よりよっぽどがつがつしてやがんでさ。もっと悪いことに、あいつは女たちをほおっておけない。見てくれのいい悪党でしてね、あいつがこれまでやってきた悪事は天が知ってまさ! だけど、あいつはタンとはひどく仲が良くって、いつもうまく庇《かば》ってやってるんです」
「いいさ」とチャオ・タイが口をはさんだ、「ファンの全盛時代は終わった。やつはもう、おれとこの友達の下で働かなくちゃならんのだからな。もっとも、あいつはもうごっそり袖の下を集めたにちがいない。町の西に小さい農園を持っているそうだな?」
「あれは遠い親戚から去年継いだんでさ。そんなに良かありゃしません、人里離れた、小さな土地でさ、荒寺の近くで。うん、奴がそこで行くえ知れずになったんなら、あいつらが奴を連れてったにちがいない」
「おまえは一度でもすっきりした中国語を話せないのか?」マー・ロンがいらいらして大声を出した。「|あいつら《ヽヽヽヽ》てな、だれなんだ?」
片腕の男は給仕に向って怒鳴った。給仕が麺を入れたばかでかいどんぶりを二つテーブルの上に置くと、亭主は静かに語った。
「ファンの農園の西で、野良道《のらみち》が街道につながってますが、そこんところに古い寺があります。九年前、四人の坊主が住んでました。東の城門の外にある白雲寺のもんでしてね、ある朝、四人が四人とも死んでんのが見つかったんでさ、耳から耳まで喉を裂かれて! その後はだれも住まず、その寺は以来ずっと空いたまま。でも、あの四人の男の幽霊がいまだにあそこんところにふらついてましてね、百姓たちが夜そこで明りを見たこともあって、だれだって避けてまさ。たった一週間前も、夜遅くその近くを通ったあたしの従弟《いとこ》が、月の光で、頭のねえ坊主がこそこそ歩き回ってんのを見ました。そいつがちょん切られた頭を小わきにかかえて持って歩いてんのを見たんでさ」
「何ってこった!」とチャオ・タイが怒鳴った。「そんなおっかない話はやめろ、え、おい? そいつらがどんぶりのはじにつっ立ってたら、どうやっておれが麺を食えるんだ?」
マー・ロンがばか笑いした。二人は一心に麺を食いにかかった。最後の一滴までどんぶりをからにすると、チャオ・タイが腰をあげて袖をさぐった。その腕に手をすばやく置いて、亭主は叫んだ、「だめですよ、隊長! この食堂も、そんなかのものも、みんなあなたのものです。もしあのとき、あなたがいなかったら、あいつら朝鮮の槍騎兵どもに……」
「わかった!」とチャオ・タイが中断させた。「あんたのもてなしに感謝するよ。しかしまたここでおれたちに会いたいんなら、今度は金を払うぜ」
片腕の男は猛然と抗議したが、チャオ・タイがその肩をぽんぽん叩いて、二人は店を出た。
外へ出るとチャオ・タイがマー・ロンに言った、「さて腹いっぱい食ったからには、何かひと働きやったほうがいいぜ、兄弟。ところで、町ってものをぱっとつかむには、どうしたらいい?」
マー・ロンは濃い霧を見つめて、頭をこすりながら答えた。「歩き回ってやるのがいいと思うよ、兄貴」
彼らは明りをつけた商店の店さきに沿って並んで歩いて行った。霧なのに辺りは人でいっぱいだった。陳列されている土地の産物を何となく見物して、あちこちで値段を聞いたりした。戦争の神さまの関帝の廟《びょう》に着くと、中へ入って、数銭で線香の束を買い、祭壇の前で焚《た》いて戦争で失われた兵士らの魂のために祈った。
再び南へぶらぶら歩いていると、マー・ロンが尋ねた、「おれたちが国境の向うで、そこの野蛮人たちと何でいつも戦っているのか分かるかい? なんだって、あいつらが獣の脂《あぶら》で肉をぐつぐつ煮てるのをほっとかないんだ?」
「おまえに政治のことはむりだよ、兄弟」とチャオ・タイは気をつかって答えた。「連中を野蛮から救い出して、おれたちの文化を教えてやるのがおれたちの務めなのさ」
「けどさ」とマー・ロンは意見をのべた、「あのタタール人たちも、一つや二つのことなら知ってるぜ。連中が結婚するときには、娘が生娘だってことに固執しないのはなぜか知ってるか? タタールの娘たちが子どものときから、いつも馬に乗ってるって事実を考えに入れているからだよ。でも、おれたちの娘にゃそんなこと知らせるなよ」
「ぺらぺらしゃべるのはやめてほしいな!」チャオ・タイはいらいらして大声をあげた。「迷子になっちまったぞ」
二人は自分たちが住宅地区らしいところにいるのに気づいた。街路は平らな板石で舗装されていて、どちらの側にも大きな屋敷の高い牆壁《しょうへき》がぼんやり見える。とてもひっそりとして、霧がすべての音を消している。
「前のほうにあるのは橋じゃないか?」マー・ロンが言った。「あれは町の南半分を横切っている運河にちがいない。あの運河をたどって東の方角へ行きさえすりゃ、遅かれ早かれ、たぶんまた商店街に出るだろうよ」
二人は橋を渡り、岸辺に沿って歩き始めた。
突然、マー・ロンがチャオ・タイの腕に手を置いた。黙ったまま、霧を通してかすかに見える対岸を指さした。
チャオ・タイは目を緊張させた。一群の男たちが小さくておおいのない轎子《かご》をになって進んでいるらしい。霧を透かして照る薄暗い月光の中に、轎子の上に両腕を胸に組み、胡座《あぐら》をかいて坐っている無帽の男の姿が見える。男は全身白衣に包まれているらしかった。
「あのけったいな奴はだれだ?」びっくりしてチャオ・タイがきいた。
「天のみぞ知る」とマー・ロンはうなった。「見ろ、とまるぞ」
一陣の風がひとつらなりの霧を吹きはらった。男たちが轎子《かご》を降ろしたのが見える。出しぬけに、坐っている男の背後に立っている二人の男が、大きな棍棒を振りかぶって男の頭や肩に打ちおろした。すると霧がまた濃くなった。水のはねる音が聞えた。
マー・ロンが悪態を吐いた。
「橋へ!」とチャオ・タイに低く声を飛ばした。
二人は向きを変え、運河づたいに走りもどった。しかし視界がきかず、地面がつるつるすべったから、橋へ帰り着くのにけっこう時間がかかった。急いで橋を渡ると、用心しながら向う岸を進んで行った。だが何もかもひっそりして見える。攻撃を見たと思われる辺りをしばらく行ったり来たりしたあと、マー・ロンがふいに屈み込み、指で地面に触れて言った。
「はっきり足跡がある。ここがあわれな野郎を運河に放り込んだ場所にちがいない」
霧はいまわずかにあがりつつあって、数尺下にひとところ水が泥にごりしているのが見られた。マー・ロンが裸になって長衣をチャオ・タイに渡すと、深靴から足を踏み出して身を屈めて水に入った。水は胴まで来た。
「臭い!」とマー・ロンは不機嫌に言った。「だけど、死骸は見えないぜ」
彼はもっと先へ水をこいで行った。岸にもどりながら、運河の底にごみや泥が厚く堆積しているのが足に感じられた。
「やめた」彼はうんざりしてぼやいた。「場所をまちがったにちがいない。ここにゃ、粘土や石やかたまった屑紙なんかのでっかい塊がいくつかあるほか、なんにもありゃしないぜ。何てきたねえこった! 引っぱりあげてくれ」
雨が降り出した。
「これで全部そろったってわけだ。踏んだり蹴ったりだ」チャオ・タイがいまいましそうに言った。背後の暗い静かな邸宅の裏門が屋根におおわれているのに気づいて、彼はマー・ロンの服と深靴を持って逃げ込んだ。マー・ロンは雨の中に立ちどまって身体をきれいに洗い流した。それから門の屋根の下にいるチャオ・タイといっしょになると、首巻で身体を拭った。
雨がやんだ。彼らはまた運河に沿って東の方角へ歩き出した。霧はずっと薄くなっている。左側は大きな家々の裏で、高い牆壁が長くつらなっているのが見える。
「どじがすぎたぜ、兄弟」チャオ・タイがあわれっぽく言った。「もっと年期の入った士官ならきっとあいつらをつかまえただろうよ」
「年期の入った士官だって運河を飛び越せはしないさ」マー・ロンは不機嫌に応じた。「あの白衣を着た奴ったら何とも気味悪い様子をしてたな。おまえの片腕の友達のごきげんなお話を聞いたあげくがぴったりあれよ。もういっぺん飲めるところを見つけようぜ」
ずんずん歩いて行くと、雫《しずく》になってしたたる霧ごしに色提灯《いろぢょうちん》の明りがぼんやりかすんでいるのが見えた。大きな料亭の横の入口の印だった。二人は正面に回って、美しく調度をしつらえた一階の待合室に入って行った。そっくり返った給仕がずぶ濡れの長衣にとがめるように目をとめるのへ、しかめっつらを突きつけて、二人は広い階段を昇って行った。精巧な彫物をほどこした二重の扉を押し開くと、にぎやかな人声で活気に満ちている広びろとした食堂だった。
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第六章
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酔どれ詩人は月に寄せる詩を作り
チャオ兄貴は娼家で朝鮮娘に会う
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大理石をかぶせたテーブルをずらっと囲んでいる、もの静かで小ぎれいな服装の人びとを見て、二人の友達は、この料理屋が自分らの懐具合《ふところぐあい》をはるかに越えているのに思い及んだ。
「どこかほかへ行こうや」マー・ロンがぶつぶつ言った。
二人が引き返そうとすると、扉に近いテーブルに一人で坐っていた男が椅子から起ちあがった。男はだみ声で言った、「坐んなさい、ともにやろう、わが友たちよ! 一人で飲むのはいつでもさびしいものだ」
絶え間なく問いかけているような表情をあたえている、奇妙なかっこうをした弓なりの眉の下から、彼は涙ぐんだ目で二人を見つめた。二人は男が高価な厚い絹の青い長衣を着て、黒い天鵞絨《ビロード》の高い帽子をかぶっているのに気がついた。しかし襟《えり》はしみだらけで、帽子の下からは髪がもしゃもしゃ房になってはみ出ている。顔はむくんで、細くて長い鼻の頭は赤く光っていた。
「頼んでるんだから、ちょっとつきあおうよ」とチャオ・タイは言った。「おれたちが蹴り出されたんだなんて、下の田舎っぺに思われたかないぜ」
二人の友達が向いに腰かけると、主《あるじ》はすぐさま大きな酒注ぎを二つ注文した。
「どんな仕事をなさってらっしゃるので?」給仕が去ると、マー・ロンが尋ねた。
「私はプオ・カイ、船主イー・ペンの番頭だ」と痩せた男は答えた。一息で杯をからにすると、誇らしげにつけくわえた、「されど、高名な詩人でもある」
「おたくがおごってくれるんだから、おれたちに反対する気はないですよ」マー・ロンが気まえよく言った。
マー・ロンは酒注ぎを持ちあげると、頭をのけぞらせて、なかみを半分ゆっくりと喉に注ぎ込んだ。チャオ・タイが例にならった。プオ・カイはこの飲みっぷりを一心に見まもっていた。
「すかっとしてる!」と満足げに言った。「このこうるさい店じゃ杯を使うことになっているが、あんたらの飲みかたはさっぱり単純でいい」
「たまたま、ぐっとやる必要があるってだけのこってすよ」と、マー・ロンは満足の溜息を吐いて口を拭った。
自分の杯を満たしてプオ・カイが言った、「いい話を聞かせてくれ。街道で暮しているあんたらは、波瀾万丈《はらんばんじょう》の生活をすごしているに相違ない」
「街道で暮らすだと?」マー・ロンが憤慨して大声をあげた。「こっちを見ろ、おい、口に気をつけたほうがいい。われわれは政庁の士官だ!」
プオ・カイは弓なりの眉をますます高くあげた。彼は給仕に怒鳴った、「もう一つ酒注ぎを持って来い、いちばん大きいのだ!」。それから言葉をつづけた。「けっこう、けっこう、それならあんたたち二人は、新しい知事が今日ここへ持ち込んできた部下だ。だが、彼はごく最近あんたらを補充したにちがいない、あんたらには、けちな士官たちの、あの気取った顔がまだないものな」
「前の知事を知っていたのかね?」とチャオ・タイが尋ねた。「彼もそうとうな詩人だったという話だ」
「ほとんど知らん」とプオ・カイは答えた、「ここへ来たのはついこのごろなのでね」。ふいに杯を置くと、彼は愉快そうに叫んだ、「ようやっと最後の行《ぎょう》を思いついたぞ!」真剣に二人の友達を見つめながら、「この行で月に捧げる偉大な詩が完成する。君らのために朗読していいかな?」
「だめだ」ぞっとしたようにマー・ロンが言った。
「では、唱っていいかね?」とプオ・カイは期待をこめてきいた。「私はどっちかというと良い声なんだよ、だから、ここにいるほかの客たちは大いに楽しむだろうよ」
「だめだ!」マー・ロンとチャオ・タイが同時に答えた。相手の傷ついた表情を見て、チャオ・タイが言いそえた、「おれたちは詩が好きじゃないんだよ、どんな形や様式のでもね」
「そりゃかわいそうに。君ら二人はたぶん仏弟子なんだな?」
「こいつは喧嘩を売ろうとしてるのか?」マー・ロンがうさんくさそうにチャオ・タイにきいた。
「酔っぱらってるんだ」とチャオ・タイは気のない様子で答えた。そうしてプオ・カイに向って、「あんたが仏教徒だなんて、おれに言うなよ」
「信心篤い浮屠《ふと》の徒さ」とプオ・カイは澄ました顔で応じた。「私はきちんと白雲寺にお詣りしている。管長は聖人だし、副管長のホイペンはきわめて美しい説教をやるよ。先だって――」
「おい」とチャオ・タイがさえぎった、「もっと飲もうか?」
プオ・カイは非難がましい目つきでチャオ・タイを見た。深い溜息をついて腰をあげると、あきらめたように言った、「それは女のところで飲もう」
「お、話せるな」とマー・ロンが熱くなって言った。「いいとこを知ってるのか?」
「馬小屋を知らない馬がいるかね?」と鼻さきであしらうと、プオ・カイが勘定を払って、三人は店を出た。
重たい霧がまだ街路にたれこめていた。プオ・カイは二人を料理屋の裏手の川辺へ連れて行って、指笛を吹き鳴らした。小さい艀《はしけ》のへさきの提灯が霧の中から現われた。
プオ・カイは艀に乗って、船頭に言った、「船へ」
「へい!」とマー・ロンが叫んだ。「あんたは女のとこと言ったんじゃなかったっけ?」
「同じこと、同じこと!」プオ・カイは陽気に答えた、「乗りなさい」それから、船頭に向かって、「近道をやってくれ、紳士がたはえらくお急ぎだ」
彼は低い篷《とま》屋根の下へ潜り込み、マー・ロンとチャオ・タイがそのかたわらにうずくまった。艀は霧の中をすべって行った。櫨《ろ》の水をはねかえす音だけが聞えていた。
しばらくすると音がやんで、艀は静かに進みつづけた。船頭が提灯を消した。艀が停止した。
マー・ロンがプオ・カイの肩に重い手をかけて、さりげなく言った。
「これが罠《わな》なら、あんたの頸をへし折るぜ」
「ばかを言うんじゃない!」プオ・カイはつっけんどんに大声で言った。
鉄のがちゃがちゃ鳴る音がして、それから艀は再び進んで行った。
「東の水門を潜り抜けたのさ」とプオ・カイが説明した。「格子柵の一部がゆるんでるんだよ。でも、あんたらの親分には言いなさんなよ」
すぐに一列に並んだ大きな船の黒い胴体が目の前に現われた。
「二番目だ、いつもどおり」とプオ・カイが船頭に命じた。舟が舷門に横づけすると、プオ・カイは男に銅銭をいくつかやって、マー・ロンとチャオ・タイを連れて甲板に昇った。
たくさんの小テーブルや腰かけが散らかっている中をゆっくり通りぬけて、プオ・カイは船室の扉を叩いた。ふとった女が扉を開けた。汚れた黒い絹の長衣を着ていた。黒い歯並びを見せて、女はにやりと笑った。
「お帰んなさい、プオ・カイの旦那! 下へおいでになさいまし」
急な木の梯子を降りると、広い船室だった。天井の梁《はり》から二張りの色提灯がぶらさがって、ぼんやり室内を照らしている。
三人の男は部屋をほとんどふさいでいる大きなテーブルについた。ふとった女が手を拍った。ずんぐりした、粗野な顔つきの男が酒注ぎをのせた盆を持って入って来た。
酒をつぎながら、プオ・カイが女にきいた、「わが良き友にして同輩のキム・サンはどこにいるね?」
「まだ来てませんよ。でも旦那に退屈はさせませんて!」
女は給仕に合図をした。給仕が奥の扉を開けると、薄い夏物の長衣を着ただけの四人の娘が入って来た。プオ・カイは娘たちに陽気な挨拶を投げかけた。
両脇に一人ずつ無理やり娘たちを坐らせると、「この二人は私だよ」と彼は言った。そしてマー・ロンとチャオ・タイに向って急いでつけたした、「君らが思っていることのためじゃない、ただ、私の杯を絶対からにさせないためにさ」
マー・ロンは、愛嬌のある丸顔のぽっちゃりした娘を招き寄せた。チャオ・タイは四人目の娘と会話を始めた。たいそう美しい娘だと彼は思ったが、機嫌が悪いらしく、話しかけられたときにしか返事をしなかった。名前はユースーといって、朝鮮人だったが、非常にきれいな中国語を話した。
「あんたの国は美しい」チャオ・タイは女の腰に腕を回しながら言った。「おれは戦争中あそこにいたんだ」
娘は彼を突きはなして、軽蔑の眼差しで見た。
ひどい失敗をやったのを覚って、あわてて彼は言った、「あんたの国の人たちは優秀な戦士だ、やれることはやったんだ、おれたちの軍勢より数が少なかっただけだよ」
娘は聞えないふりをした。
「おまえは笑うことも、話すこともできないってのかい? このあま」とふとった女ががみがみ娘に言った。
「ほっといてよ」娘はゆっくりと女に言った。「お客さんが文句いっているわけじゃないでしょ」
女は起ちあがった。手をあげてユースーに平手打ちをくわせると、鋭い声で罵った、「礼儀を教えてやる、このすべた!」
チャオ・タイが荒っぽく女を突きもどして、大声で言った、「娘から手を放せ!」
「甲板へ昇ろう!」とプオ・カイが叫んだ。「私の勘だと、月が出ているぞ。キム・サンもじき来るだろう」
「あたしはここにいるわ」朝鮮娘がチャオ・タイに告げた。
「好きなようにな」と言って、彼は他の連中について甲板へ昇った。
わびしい月が、町の城壁沿いに繋留された船の列の上に照っていた。水路《クリーク》の暗い水面越しに向いの岸がぼんやり見える。
マー・ロンは低い腰かけに坐って、ぽっちゃりした娘を膝の上にのせた。プオ・カイは二人のあいかたをチャオ・タイへ押しやって、
「楽しくおやり」と言った。「わが心はいまやもっと高級なことに向っているのだよ」
後ろ手に立って、彼はうっとりと月を仰ぎ見た。
ふいに彼は言った、「諸君がみんな先ほどよりお望みであるから、わが新作の詩を唱って進ぜよう」
痩せこけた頸を伸ばすと、彼はつんざくような裏声で猛烈に唱い出した。
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音楽と舞踊の並びなき伴侶、
陽気に騒ぐ人の友 悲哀に沈む人の慰め、
おお 月よ、おお 銀に輝く月――
[#ここで字下げ終わり]
彼は息をつごうとして休止した。それからひょいと頭をたれて耳を澄ました。さっと他の連中を見ると、気むずかしげに言った。
「楽しからざる雑音が聞える」
「おれにも聞えるぞ!」とマー・ロンが言った。「なんってこった、あんな恐ろしい音をたてるなよ。あんたにゃ、おれがこのむすめっ子とまじめに話してんのが見えないのか?」
「下から来る音のことを言ったのさ」とプオ・カイが固い口調で応じた。「あんたの友達のいい子が優しい矯正を受けているのだと思うよ」
彼が黙り込むと、殴る音、押えた呻き声が下から聞えた。チャオ・タイが躍りあがって駆け降りて行くと、すかさずマー・ロンが後を追った。
あの朝鮮娘が裸にされてテーブルの上に寝かされていた。給仕が両手を、もう一人の男が両足をつかまえて、ふとった女が籐《とう》の枝で娘の尻を縦に横にひっぱたいていた。
チャオ・タイが給仕の顎に激しい一発をくらわして殴り倒した。もう一人の男は娘の足をはなすと、帯から匕首《あいくち》を抜いた。
チャオ・タイはテーブルを跳び越え、女を壁に投げつけ、匕首使いの手首をとらえてすばやくねじりあげた。男は苦痛に叫んであとずさった。匕首が音を起てて床に転がった。
娘は自分でテーブルから転がり落ちると、口にかまされた、きたないぼろを気ちがいのように引きむしった。チャオ・タイが助け起こして、猿轡《さるぐつわ》をはずしてやった。
もう一人の男が身を屈めて、左手で匕首を拾い上げようとした。だが、マー・ロンがあばらを蹴ると、男は隅へふっ飛んで身体を折り曲げた。娘はひどい吐気がしていた。彼女は嘔吐し始めた。
「小さなしあわせ一家だ」とプオ・カイが階段から感想を言った。
「隣の舟から人を呼んどいで!」ふとった女があえぎながら給仕に言った。給仕はあわてふためいて階段を昇りかかった。
「悪党どもを残らずみんな呼べ!」マー・ロンがかっとなって叫んだ。彼は椅子をこわして脚を棍棒にした。
「まあまあ、おばちゃん、あわてなさんな!」とプオ・カイが大声で呼びかけた。「気をつけたほうがいいよ。このお二人さんは政庁の士官なんだよ!」
女はまっ青になった。あわてて合図して給仕をひっかえさせた。
チャオ・タイの前にがっくりひざまずいて、女はあわれっぽい声を出した、「どうぞ、旦那さん、あたしゃただ、あの子に旦那さんにどうふるまったらいいか教えようとしただけなんです」
「あの子におまえのきたない手をかけるなと言ったはずだ」ぴしゃとチャオ・タイはきめつけて、娘に顔をふくように自分の首巻をやった。娘は起きあがって、震えながらそこに立っていた。
「あっちへ行って、この子をちょっと元気にしてやれよ、兄弟」とマー・ロンがすすめた。「おれはあの匕首野郎を正気づかせてやる」
ユースーは自分の長衣を取りあげて、奥の扉から出て行った。後について、チャオ・タイは狭い廊下に出た。廊下に並んだ扉の一つを開けると、娘は目まぜしてチャオ・タイを中へ入れてから、さらに先へ行った。
船室はひどく小さかった。ベッドが舷窓の下にあって、ほかに家具は、がたがたの竹の腰かけのついた小さい化粧台がベッドの前にあるきり、大きな赤い革ばりの衣裳箱が向いの壁ぎわにあった。
チャオ・タイは衣裳箱に腰かけて待った。ユースーが入って来た。
何も言わずに彼女が長衣をベッドに投げると、チャオ・タイはおずおずと言った、「すまなかった、おれがいけなかった」
「どうだっていいのよ」と冷淡に娘は言って、ベッド越しに身を曲げて、窓台から円い小箱を手に取った。チャオ・タイはその均整のとれた姿から目が離せなかった。
「着たほうがいい」しゃがれ声で彼は言った。
「ここは暑すぎるんだもの」むすっとした声でユースーが言った。小箱を開けて、両尻に交叉したみみずばれに膏薬を塗った。
「見て」ふいに彼女は言った、「あなたはちょうどいいときに来てくれたのよ。皮膚はまだ破れていないわ」
「頼むから服を着てくれないか」チャオ・タイは声がかすれた。
「あなたが見たいんだと思ったのよ」と娘はおちつきはらって言った。「あなたは自分がいけなかったと言ったでしょ?」長衣をきちんとたたむと、腰かけの上に置き、用心しながら腰をおろして髪を結いなおし始めた。
チャオ・タイは彼女の形の良い背中を見やった。いま彼女をわずらわせたら卑劣だと、腹を立てて自分に言いきかせた。すると、かっちり円い乳房が鏡に映っているのが見えた。
ごくりと喉を鳴らして、彼はやけっぱちで言った、「そんなことするな。おまえが二人もいたんじゃ、どんな男だって多すぎるんだよ」
ユースーは振り返って、びっくりして彼を見た。それから均整のとれた両肩をすくめると、起ちあがってチャオ・タイに向き合ってベッドに坐った。
「あなた、ほんとに政庁から来たの?」とさりげなく尋ねた。「ここの人たちはしょっちゅううそをつくんだから」
話がそれたのをありがたく思って、チャオ・タイは深靴から折りたたんだ書類を引っぱり出した。娘は両手を髪でふいてから、それを手にした。
「私は読めないの。だけど、目はいいのよ」
ころっと腹ばいになると、彼女はベッドのかげに手をのばして、灰色の紙で固く包んだ平たくて四角い包みを取り出した。身体を起こして坐りなおすと、チャオ・タイの通行証の印章を包み紙の折り目におされた印章に照らし合わせた。
通行証を返しながら、「まちがいないわ。同じ印章ね」
彼女はもの思わしげにチャオ・タイを見つめた、ゆっくりと腿《もも》を掻《か》きながら。
「その政庁の印章のある包みを、どうやって手に入れたんだ?」とチャオ・タイは興味ありげにきいた。
「あら、かれ氏が息を吹きかえしたのね」と娘は言って口をとがらせた。「あんた、ほんものの捕り手なんでしょ?」
チャオ・タイはぎゅっと拳を握りしめた。
「いいか、おんな!」彼はうっかり口走った。「おまえは怪我をしたばかりだ、だろ? いまおまえと寝たがるほど、おれがいやらしいとは思わないだろな」
娘は横目でちらっと見た。あくびをすると、ゆっくり言った、「どうかしら、あんたがいやらしいのかどうか」
チャオ・タイは急いで起ちあがった。
チャオ・タイが主船室に帰って来ると、プオ・カイはテーブルに向って坐ったまま舟をこいで、大きないびきをかいていた。ふとった女が向いに腰をすえて、むっつり酒の杯を見つめている。チャオ・タイは勘定を払って、また朝鮮娘を虐待しようものなら、彼とひどい面倒をかまえることになるだろうと警告した。
「あの子はただの朝鮮人の戦争奴隷ですよ、旦那さん、わたしゃ、ちゃんと手順をふんでお上《かみ》から買ったんです」と女はつっけんどんに言った。それから取り入るようにつけくわえた、「でも、もちろん、おっしゃることにゃちゃんと従いますですよ」
マー・ロンが入って来た。たいへん嬉しそうだった。
「何てったって、ここは居心地いいところだぜ。それにあのぽちゃぽちゃした娘は一級だ!」
「そのうちもっといいのをさしあげたいもんですよ、旦那さん!」女は熱心に言った。「四番目の船に手つかずのがいるんでございます、ほんものの美人で、たいした学もありましてね。ちょうどいま、さる紳士にお呼ばれですけど、そう、そんなこた、長くつづきゃしません、ご存じのとおり。たぶん一週間か二――」
「すっばらしい!」とマー・ロンは大声をあげた。「おれたちゃ、また来るぜ。けど、刃物をちらつかせるなって、あいつらに言っとけよ。ありゃ良くないぜ、おれたちに具合悪いことしたら、ちょいと荒っぽくなる癖があるんだ」プオ・カイの肩をゆすって、耳もとで大声に言った、「起きろ、陽気な詩人! 真夜中近くだ、帰る時間だ」
プオ・カイは頭をあげて、二人の男をひがんだような表情で見た。
「君たち二人はまったく下劣だ」と彼は高慢ちきに言った。「君たちはわが崇高《すうこう》な精神を理解しようとしない。ここでわが良き友キム・サンを待つほうがいいぞ。君らは不愉快である、飲むことと交わることしか考えとらん。行ってしまえ、私は君らを軽蔑する!」
マー・ロンは大声で笑った。プオ・カイの帽子をつっついて目の上にずりさげさせると、チャオ・タイといっしょに上にあがって、指笛を吹いて舟を呼んだ。
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第七章
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ディー判事は漆の箱の報告を聞き
夜のさなかに寺を訪ねに出かける
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マー・ロンとチャオ・タイが政庁に帰って来ると、ディー判事の執務室に明りがともっていた。判事はホン警部とそこに閉じこもっていたのである。机には調査書や記録の巻物が山積みになっていた。
手ぶりで机の前の腰かけに二人を坐らせて、判事は言った、「今夜、ホンを相手に知事の書斎を調べてみた。しかし、どのように茶に毒が仕込まれたのかは発見することができなかった。焜炉は窓の前にあるから、ホンの考えでは、殺害者はおそらく細い吹筒《ふきづつ》を外部から窓の紙ばりに突き通して、茶の水の入った平鍋の中へ毒の粉を吹き込んだのだろうという。しかし書斎へもどって検証してみると、窓の外には重いよろい戸のあることが分かった。それはもう何か月も開けられたことがないのだ。窓は庭の暗ったい隅に面している。それで死んだ知事はほかの窓だけを使っていた、書きもの机の前のをね」
「夕食のほんの少し前、市の四人の区長の訪問を受けたが、まともな連中だと思われた。朝鮮人居住区の区長も来たが、有能な男で、自分の国では何かの官についているらしい」判事はしばらく口をつぐんで、ホンと話し合ったさいにこしらえた手帖に目を通した。「夕食後」とまた話し始めた、「ホンとここの文書庫でもっとも重要な資料を調べてみると、すべての記録簿が現在まできちんと保管されていることが分かった」彼は前にある資料を押しやって、闊達な口調になってきいた、「それで、今夜、君たち二人はどうだった?」
「あまりうまくいかなかったと気に病んでいます、知事」とマー・ロンがあわれっぽい声を出した。「私と友達はこの仕事を根本から学ばなければならないだろう、という次第です」
「私だってひとりで学ばなければならないんだよ」力のない微笑を浮べてディー判事は言った。「何があった?」
初めにマー・ロンが、九花果園の亭主がタンとその助手のファン・チュンについて話したことを報告した。終わると、ディー判事は頭を振りながら言った、「タンという男のどこが悪いのか分からないな。あの男はひどい状態だ。死んだ知事の幽霊を見たと思い込んで、深い衝撃を受けているらしいんだ。けれども、ほかに何かまだあると私は疑ぐってもいる。あの男は神経にさわるんだな。夕食後の茶を飲んだあと、家に帰らせた。
ファン・チュンに関しては、その食堂の亭主の言ったことにあまり重きをおくべきではない。ああいう連中はおうおうにして政庁に偏見を抱《いだ》いていて、米価とか酒税の施行とかをわれわれが操作するのを好かないのだ。ファンについては、再び彼が現われたときに、われわれ自身の意見を作ろう」
判事は茶を二、三口すすると、また話し始めた。
「ところで、タンの話だと、この辺には現に人喰虎がいるそうだ。一週間前、農夫が殺された。殺人捜査がある程度進みしだい、君たち二人でそいつを捕えてみてもいいぞ」
「それならわれわれの好きな仕事ですよ、知事」とマー・ロンがはりきって言った。それから彼は顔を伏せ、ちょっとためらった後に、運河の岸で、一団の人々が白衣の人物を攻撃して殺害するのを目撃したと思われることを話した。
ディー判事は当惑した表情を浮べた。口をぎゅっと結ぶと、「霧にだまされたのであってほしいね。このさい第二の殺人事件までかかえ込みたくないからな。明朝そこへもどって、近所の住民から何かもっと発見できるかどうか、調べたまえ。おそらく、君たちが見たことはごくあたりまえの説明がつくだろう。それに、だれかが行方不明になったかどうかも聞き出せるだろう」
そこでチャオ・タイが、イー・ペンの番頭、プオ・カイに会ったことを報告し、水上に浮んでいる娼家を尋ねたことを簡略に説明した。そこで酒を一杯飲んで、娘たちとちょいと話をしたと言ったのである。
二人がほっとしたことに、報告を聞いて判事が喜んだように見えた。
「君たちはまるっきりへまをやったわけじゃないぞ」と判事は言った。「君らは情報をたくさん集めたよ。売春宿というのは町の屑が集まる場所だ。そこへどう行ったか君らに分かっているといいのだが、そんな船が正確にどの辺に位置しているのかを調べてみよう。警部、先ほどの地図を見せてくれ」
ホンは机の上に市の絵地図をひろげた。マー・ロンが起ちあがり、その上に屈み込んで、南西区の水門の東で運河にかかっている第二の橋を指さした。
「この近くのどこかで轎子《かご》にのった男を見たんです。それからここの料理屋でプオ・カイに会って、舟で運河を通って東へ行きました。ほかの水門から外へ出たんです」
「どうやってそこを通り抜けたのかね?」と判事が尋ねた。「水門はつねに重い格子柵で閉じられている」
「柵の一部がはずれていて、小さい舟ならすきまを通り抜けられるんです」
「明日まず第一に修理させよう。しかし娼家がなぜ船にあるのだ?」
「タンが私に申しました、閣下」ホンが口をはさんだ、「何年か前、当地に勤務していた知事が市内に娼家があるのを喜ばなかったそうです。それで東の城壁外の水路《クリーク》に繁留した船に移らねばなりませんでした。そのお上品な知事が転勤した後も、水夫たちが便利だというので、そこに残ったんです。連中にしてみれば、市の城門の警護を通過せずに、舟から直接そこへ行けるんですからな」
ディー判事はうなずいた。頬ひげを撫でながら「そのプオ・カイはおもしろい男らしい、いつか会ってみたいものだ」
「詩人かも知れませんが」とチャオ・タイが言った、「それでも頭の回転の早いやつです。ひと目で私たちがもと追剥だと見ぬきましたし、舟の上で、あいつらが娘を打ちのめしているのに気がついたのは彼だけだったんですからね」
「娘を打ちのめしている?」驚いてディー判事が尋ねた。
チャオ・タイは拳固で膝を打った。「包みだ!」と彼は叫んだ。「何ておれは阿呆だ。まるっきり忘れてた。あの朝鮮娘はワン知事があずけた包みを私によこしたんです」
判事は椅子から起った。
「それは最初の手がかりになるかも知れない」彼は熱中して言った。「だが、なぜ知事は何てこともない娼婦にそれをやったのか?」
「そうです」チャオ・タイは答えた、「娘の話だと、ワン知事は、彼女が宴会をにぎやかにするために料亭に呼ばれたとき、彼女を見ました、で、あの年とったやくざ者は娘が気に入ったんですな。もちろん船に訪ねることはできません、ですが、ちょくちょく、ここ、自分の家で娘にいっしょに夜をすごさせたんです。ある日、一か月ほど前ですが、朝、彼女が帰ろうとすると、知事は包みを与えて、いちばんありそうもない場所こそ、いつでも何か物を隠すにはいちばん良いのだと言って、彼のために保管せよ、それについてだれにも話してはならぬと娘に言いつけました。それが必要なときには、返すように求めるというんです。なかみが何なのか娘がききましたが、彼は笑っただけで、気にするなと言いました。それからまた真剣になって、自分の身に何か起きた場合には、彼の後任者に渡すよう彼女に話したそうです」
「それなら、知事が殺された後、その娘は政庁に持って来なかったのか?」
「ああいう娘たちは」肩をすくめてチャオ・タイが答えた、「政庁をひどくこわがってますからね。あの娘は、だれかがこっちから船を訪れるまで待つほうが良かった、そして最初にたまたまやって来たのが私だったというわけです。ここにあります」
彼は平たい包みを袖から出して判事に手渡した。
ディー判事は手の中でひっくり返して見た。そして昂奮した口調で、「なかみが何なのか見てみよう」
彼は封印を破って、手ばやく包装紙を裂き取った。黒い漆塗の平たい箱が現われた。蓋《ふた》は、金漆を盛りあげて美しくかたどった二本の竹の幹と葉の群の図柄で飾られ、真珠貝を象嵌《ぞうがん》した装飾でふちどられている。
「この箱は値うちのある骨董品だよ」と言いながら蓋を取りあげると、判事は狼狽して大声をあげた。箱はからだった。
「勝手にだれかがいじったのだ!」と彼は怒鳴って、あわてて剥ぎ取った紙をとりあげた。「まったく私はたくさんのことを学ばなければいけないな」じれったそうに言いたした。「紙を裂き取る前に、とうぜん印章をくわしく調べなけりゃいけなかったんだ。もう手おくれだ」
眉をしかめて、彼は椅子によりかかった。
ホン警部はものめずらしそうに漆の箱を調べた。
「大きさと形から判断して、これは書類を保管するのに使ったと思われますな」
ディー判事はうなずいて歎息した。
「だが、何もないよりましだよ。死んだ知事はその中に何か重要な書類を入れたにちがいない、机の引出しに保管したのよりも重要なものだ。これをその娘はどこに保管していたのだ、チャオ・タイ?」
「彼女の船室の中、ベッドと壁の間のところに」すぐさまチャオ・タイが答えた。
ディー判事は鋭く彼を見やった。
「なるほど」と判事はすげなく言った。
「娘は私にうけあいました」チャオ・タイはあわててつづけた、困惑を隠そうとして。「彼女はけっしてだれかに話したり、見せたりしませんでした。けれども、彼女が不在のときには、他の娘が彼女の船室を使い、また召使いや客たちが自由にそこへ出たり入ったりするとも言っていました」
「そのことは、仮に君の娘がほんとうのことを語ったとしても、実際には、だれであろうと包みに手を触れられたことを意味する。ほかは行きどまりだ」しばらく考えてから肩をすくめると、「ところで、知事の書斎の本を調べたとき、帳面を発見した。それから何か考えつけるかどうか、ちょっと見てごらん」
引出しを開けて、判事はマー・ロンに帳面を渡した。マー・ロンが目を通し、チャオ・タイが肩ごしにのぞき込んだ。背の高い男は頭を振ると判事に返した。
「われわれでは、乱暴なごろつきをあなたのかわりに捕えることができないんでしょうか、知事?」と彼は望みをかけてきいた。「友達と私は頭の仕事にはあまり向いてません。だけど、荒っぽいことなら何だって知ってます」
「私はまず犯人を見分けなければならない、そいつを逮捕させることができるまえにね」とわびしく微笑して判事は答えた。「だが、心配するな、君たち用の特別な仕事がある、さっそく今夜にだよ。いくつか理由があって、白雲寺の裏講堂を調べなければならない、だれにも知られずにだ。この地図をもういちど見て、どうやれるか、教えてくれ」
マー・ロンとチャオ・タイは地図の上で頭をくっつけ合った。人さし指で示しながら、ディー判事は言った、「その寺が町の東にあるのは分かるな、水路《クリーク》の対岸、朝鮮人地区の南だ。タンが言うには、寺の裏講堂は牆壁《しょうへき》のすぐ下だ。牆壁の後ろの岡は深い森におおわれている」
「牆壁というのは攀《よ》じ登れるもんです」とマー・ロンが意見をのべた。「要点は、人の注意を引きつけないで、どうやって寺の内情を探るかです。夜のこの時刻には、道路に人はたいしていません。東門の守衛たちがこんなに遅く、その辺にわれわれを見たら、口を閉じたままでいやあしないでしょう」
チャオ・タイが地図から目をあげて言った、「プオ・カイに会った料理屋の裏でなら舟を借りられるでしょう。マー・ロンは達者な船頭です。マー・ロンなら私たちを乗せて、運河を通って水門のすきまを通り抜け、水路《クリーク》を渡ることができます。そこから先はわれわれの幸運を信じなければなりません」
「それが良い考えのようだ」とディー判事は言った。「ちょっと狩猟服を着て来る、それから出かけよう」
四人の男は横の門から政庁を出て、中央道路を南へ歩いていった。天気は回復して、明るい月が空にかかっていた。料理屋の裏につないである小舟を見つけ、頭金を払って借りた。
マー・ロンはたしかに熟練した船頭であることを証明した。櫨《ろ》をたくみに漕いで小舟を水門に進めると、格子柵のはずれた個所を見つけた。それを通り抜けると、水上に浮ぶ娼家のほうへ向い、列の端《はず》れの船のそばまで来てとまった。それから急に向きを東に変えて、迅速に水路《クリーク》を漕ぎ渡った。
マー・ロンは対岸の下生《しばた》えが厚く茂っている地点を選んだ。判事とホン警部が降りると、マー・ロンとチャオ・タイは、陸に舟を引きあげて潅木のかげに押し込んだ。
「老《ラオ》ホンはここに残ったほうがいいですよ、知事」とマー・ロンが言った。「見はりなしに舟は置いとけないし、これから荒っぽいことが起こるかもしれません」
ディー判事はうなずいて、マー・ロンとチャオ・タイの後につづいた。三人は下生えを潜って行った。道端に着くと、マー・ロンが手をあげ、枝をかき分けて、道路の反対側のうっそりと樹木の茂った山の斜面を指さした。左には遠くに白雲寺の大理石の門楼が見える。
「まわりにはだれも見えません」マー・ロンが言った。「走ってつっきりましょう」
向う側の木立の下は漆黒の闇だった。マー・ロンはディー判事の手を取ると、彼を助けて深い下生えを通り抜けた。チャオ・タイはとうに二人の前方、木立の間のもっと高いところに着いていた。彼はほとんど物音を起てなかったのである。むずかしい登攀《とうはん》だった。
ときどき、ディー判事の案内人たちは険しく狭い踏みあとを利用したが、後はまた林の中を押し分けて進んだ。判事はすぐに方向感覚を完全に失ってしまった。しかし二人の男は、山林の技術と知識にかけては元名人だったから、一同は着実に前進して行った。
突然ディー判事はチャオ・タイが横にいるのに気づいた。彼はささやいた、「つけられています」「私も聞きました」マー・ロンがそっと言った。
三人の男は身を寄せ合って立ち、身動きをやめた。ようやく判事にも、かすかな、こすれる音が、それから低いぶつぶついう声が聞えた。それは彼の左手、どこか下のほうから来るらしかった。
ディー判事の袖をぐいと引っぱると、マー・ロンが腹ばいになった。判事とチャオ・タイがそれにならった。彼らは匍《は》いながら低い尾根に登った。マー・ロンが用心ぶかく枝をわずか押し分けると、小さな声で悪態をつき始めた。
ディー判事は下のほうの浅い谷間を見おろした。月光の中で、黒い姿が丈高《たけたか》い茅《かや》の中を跳躍して行くのが見えた。
「あれは虎にちがいない」マー・ロンが昂奮してささやいた。「弩《いしゆみ》を持って来なかったのが残念だな。心配することはない、三人もの人間を襲いはしない」
「だまれ」声をひそめてチャオ・タイが言った。草の中を迅速に動く黒い姿に一心に目をこらしている。それは岩の上に躍りあがり、それから木立のかげにすべり込んで消えた。
「あれは並の獣じゃない」とチャオ・タイがうめくように言った。「跳びあがったとき、白い鉤爪《かぎづめ》のような前足がちらっと見えた。ありゃ人喰虎だ!」
長い不気味な咆哮《ほうこう》が静寂を裂いた。それはほとんど人間の声のようで、ディー判事の背すじを冷たい戦慄が走り下った。
「おれたちを嗅ぎつけたんだ」とチャオ・タイがかすれ声で言った。「寺に向って走ろう。この斜面の真下のはずだ」
彼は勢いよく突っ起つと、ディー判事の腕をひっつかんだ。二人の男はできるだけ急いで斜面を下って行った、判事を引きずって。ディーの頭はしびれ、あの恐ろしい咆哮が耳の中にまだ反響している。彼は木の根につまずいて倒れ、引っぱり起こされ、よろめき進み、枝が長衣を裂いた。気ちがいじみた恐怖が彼をとらえた。圧倒的な重量が背中に落ちかかって、鋭い爪が喉を裂くのを感ずるような気が絶えずしていた。
にわかに、二人の男は彼をはなすと前方へ急いだ。判事が下生えを匍い抜けると、目の前に高さ十尺ほどの煉瓦の牆壁があって、すでにチャオ・タイがそれに向って屈み込んでいた。マー・ロンがその肩にかるがると跳びのり、牆壁のてっぺんに手をかけて自分の身体を引きあげた。壁にまたがって坐ると、彼は身体を傾けてディー判事に手で合図した。チャオ・タイに押しあげられて、マー・ロンの両手をつかむと、判事は引っぱりあげられた。「跳び降りて!」とマー・ロンが鋭く言った。
ディー判事は牆壁の上に身を伏せ、やっと両手でぶらさがると手をはなした。ごみ屑の山の上に落ちた。彼が起きあがろうともがいていると、そばへマー・ロンとチャオ・タイが跳び降りた。牆壁の向うの森の中に、ふたたび長くのびる咆哮が聞えた。それから、また静かになった。
彼らは小さい庭の中にいた。正面には高い講堂があって、地面より四尺ばかり盛りあがった煉瓦の広い基壇の上に立っていた。
「ほら、知事、あそこに、あなたのいう裏講堂がありますよ」とマー・ロンがぶっきらぼうに言った。月の光の中で生気のない顔は疲れきっている。チャオ・タイは口をきかずに自分の長衣の破れを調べている。
ディー判事は激しくあえいでいた。汗が噴き出して顔や身体を流れた。やっとのことで声をととのえて彼は言った。「あの基壇にあがって、講堂の入口へ回ってみよう」
講堂の正面に着くと、大理石の平板を敷いた大きな方形の院子《なかにわ》の向うに、寺の建物の群がいりくんでいるのが見えた。何もかもが墓場のようにしんとしている。
判事は少しの間その平安な情景を観察しながら立っていたが、向きを変えると講堂の重い二重扉にとりかかった。扉がぐるりと開いて、高い紙ばりの窓を通して内部に差し入る月の光にぼんやり明るい広びろとした部屋が見えた。黒い細長い箱が並んでいるほかはからっぽだった。吐気をもよおさせる腐敗臭が、密閉された空気の中にかすかに漂っている。
チャオ・タイが不平たらしく言った、
「あれは棺桶だぜ」
「あれが目あてで来たんだ」ディー判事はそっけなく言って、袖から蝋燭《ろうそく》を取り出すと、マー・ロンに火口《ほくち》箱を手渡すよう言いつけた。蝋燭に火をともすと、判事は棺の間を匍いまわりながら、棺の前面に貼ってある紙の標示に書かれた銘を読んだ。四つめの棺のそばでとまると、彼は起ちあがって指で蓋をなぞった。
「ゆるく釘を打っただけだ」と彼は声をひそめて言った。「蓋をはずしてくれ」
二人の男が短剣を蓋の下に差し込んでこじ開けるのを、彼はいらいらして待った。二人は蓋を取りあげて床に置いた。暗い内部から、むかむかする臭気が起ち昇った。マー・ロンとチャオ・タイは吐きたくなってあとずさった。
ディー判事は急いで口と鼻を首巻でおおった。蝋燭を掲げて、彼は死体の顔をじっと見おろした。マー・ロンとチャオ・タイがその肩ごしにのぞきこんだ。好奇心が恐怖にまさったのである。まさしくそれが回廊で見た男であることを判事は認めた。顔は同じように、どちらかといえば高慢な表情であり、眉は薄くてまっすぐで、鼻は秀でて、左の頬には大きなほくろがある。唯一の相違は醜い青い斑点がこけた頬を損《そこ》ね、落ちくぼんだ両目が閉じていることだった。判事は腹のくぼみにむかむかする空ろな嘔吐感を覚えた。類似は完璧である。あれは悪ふざけではなかったのだ。彼は空家の中で幽霊に出会ったのだった。
判事はあとずさって、マー・ロンとチャオ・タイに蓋をもどすよう合図した。それから蝋燭を吹き消した。
「来た道を帰らぬほうがいい」彼はぼそりと言った。「外壁づたいに行って、寺の正面の門房近くでのり越えよう。見られる危険はあるが、森の中の危険はもっと悪い!」
二人の男はぶつぶつ言いながらも賛成した。
牆壁のかげをひろいながら伽藍をぐるりと回って行くと、やっと前方に門房が見えた。彼らは牆壁を登り越え、木立に密着しながら道をたどった。だれ一人見えなかった。すばやく道を横切ると、水路《クリーク》から彼らを隔てている森の中の空地へ入って行った。
ホン警部は舟の底に横になって眠りかけていた。それを起こすと、ディー判事はマー・ロンとチャオ・タイが舟を川に押し入れるのを手伝った。
舟に乗り込もうとしたとたん、マー・ロンが足をとめた。甲高い声が暗い水を渡って聞えて来た。裏声が唱っている、「月よ、おお 銀に輝く月――」
小さな舟が水門のほうへ漕ぎ進んでいた。歌い手は船尾に坐って、歌の調子に合わせてゆっくりと両腕を上下に揺り動かしている。
「おれたちの酔どれ詩人プオ・カイだ。ようやっと家へ帰るところさ」マー・ロンがうなるように言った。「間をおいて、あいつを先にやったほうがいい」
また突き刺す歌声が始まると、マー・ロンが気味悪そうにつけくわえた、「初めはあの声を聞いてぞっとした。でも、森の中でほんとにあの咆え声を聞いたあとじゃ、あいつの歌もけっこうすてきに聞えるぜ!」
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第八章
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裕福な店主は花嫁の失踪を届出し
判事は二人の出会いを再構成する
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ディー判事は夜明けまえ長いこと起きていた。寺から帰ると疲れているのを感じたが、まるで安眠できなかったのである。二度、彼は死んだ知事が長椅子の前に立っているのを夢に見た。しかし汗でぐっしょり濡れて目を覚ましてみると、部屋はからっぽなのだった。とうとう起きあがって、蝋燭をともして机に向うと、朝焼けの輝きが紙ばりの窓を赤く染めて、事務官が朝食を運んで来るまで県の資料に目を通していた。
判事が箸を置いたとき、ホン警部が熱い茶びんを持って入って来た。マー・ロンとチャオ・タイは、水門の修理を監督し、また霧の中で攻撃を目撃した運河の岸を調べにすでに外へ出かけたとホンは報告した。二人は政庁の朝の公判に間に合うように帰って来ようとがんばっているだろう。巡査長は、ファン・チュンがまだ姿を現わしていないと報告していた。最後に、タンの召使いが主人は夜の間に熱の発作にやられたが、いくぶんでも良くなりしだい、出勤するであろうと言って来ていた。
「私自身あんまり具合が良くないのだ」とディー判事はつぶやいた。熱い茶を二杯むさぼり飲んでから、「いま、ここに私の蔵書があればと思う。たしかその中に、幽霊の現象と人喰虎に関する詳しい文献があるんだが、不運なことにそれに特別注意をはらったことがなかった。知事というものは、ホンよ、どんな分野の知識でもおろそかにはできないものだな。さて、昨日、タンがおまえに話した朝の公判の予定はどんなものかね?」
「たいしたことはありません、閣下。農地の境界に関する、二人の農民の紛争に判定を下さなければなりませんが、それだけです」ホンは判事に関係書類を渡した。
目を通しながら、ディー判事は意見をのべた、「さいわいこれはじつに簡単なようだ。うまいぐあいに、タンが土地台帳に古い地図をつき合せて、本来の境界をはっきりと割り出しておいてある。この件を処理したら、すぐに公判を閉じよう。もっと緊急な事件がいくらもあるのだ」
ディー判事は起ちあがった。ホン警部が主人が暗緑色の錦の制服を身につけるのを手伝った。判事が室内帽を左右にぴんと|※[#「巾+僕のつくり」、unicode5e5e]《ぼく》の張った判事の黒い帽子にかえていると、銅鑼《どら》が三点、大きく政庁に鳴り響いて、朝の公判が開かれようとしていることを告げ知らせた。
執務室の前の回廊を横ぎって、判事は|※[#「けものへん+解」、unicode736c]豸《かいち》を描いた幕の背後にある扉を通り抜けて壇上に登った。判事席の奥の大きな肘かけ椅子に坐ったとき、法廷が人でいっぱいなのに彼は気がついた。平来《ポンライ》の住民が新しい知事を見ようと押しかけていたのである。
彼は法廷の職員たちが所定の場所にいるかどうかをさっと点検した。判事席の両側には、二人の事務官がもっと低いテーブルに向って、法廷議事録を記録するために硯と筆の用意をしている。壇の下、判事席の前には、六人の巡査が三人ずつ二列に立ち、その横に巡査長が太い鞭を前後にぶらぶら振っている。
ディー判事は驚堂木《けいどうぼく》を打ち鳴らすと、開廷を告げた。点呼を終えたあと、ホン警部が判事席にひろげて置いた書類に向った。彼は巡査長に合図した。二人の農夫が判事席の前に連れて来られると、急いでひざまずいた。判事は境界問題に関する政庁の決定を説明した。農夫たちは額を床に打ちつけて感謝をあらわした。
判事は驚堂木を取りあげて閉廷を宣言しようとした。そのとき、良い身なりをした男が前へ歩み出た。太い竹の杖で身体を支えながら、びっこをひいて判事席に近づいて来たとき、判事は男が小さな黒い口ひげと、きれいに刈り込んだ短い顎ひげの、どっちかといえば立派な、ととのった容貌の持主であることに気づいた。男は四十歳くらいと思われた。
苦労してひざまずくと、彼は感じのいい洗練された声で話した。
「手前は商店主クー・モンピンでございます。この政庁におきまして閣下の宰領なされます最初の公廷の折に、閣下をおわずらわせ申しあげねばなりませんことを心より遺憾に存じます。さりながら、実を申しあげますると、手前の妻クー夫人、旧姓ツァオの長びきます不在をたいへん思いわずらいまして、妻の所在につきまして調査を開始下されますよう、手前は政庁に請願申しあげたく存ずる次第にございます」
男は床に額を三回打ちつけた。
ディー判事は吐息をおさえた。彼は言った。「クー氏は当法廷に、法廷がいかなる行動を取るべきか決定するを可能ならしめるべく、事件に関する十分な報告を申し述べよ」
「結婚は十日前に行なわれました」とクーは始めた、「さりながら、閣下の前任者の突然のご逝去によりまして、当然のこととして、私どもは祝宴が大きくなりませぬよう差し控えましてございます。三日目に花嫁は、慣習として両親を訪ねるべく実家へ帰りました。妻の父は博士ツァオ・ホーシェンでございまして、市の西門外の彼方に住んでおります。妻は一昨日、十四日にそこを発ちまして、同日午後には当地へもどる予定でございました。妻が帰ってまいりませんので、滞在を一日延ばすことに決めたのだと私は推測いたしました。さりながら、昨日の午後になってもまだ帰ってまいりませんので、私は心配になりまして、手前どもの店の支配人キム・サンをツァオ博士のもとへ問い合せにつかわしました。ツァオ博士がキムに申しましたところでは、十四日の昼食後に妻は弟のツァオ・ミンとともに、確かに実家を出たのでございます。ツァオ・ミンは妻の馬の後について駆けあしで、市の西門まで同伴するはずでございました。少年はその午後おそく家に帰ってまいりました。彼が父親に申すには、二人が街道の近くに来たとき、道端の木に鴻《こう》の巣があることに気づき、彼は姉に、巣から卵を取ったら、またすぐに追いつくから先に行くように告げたのでございます。さりながら、木に登りましたところ、枯れた枝が折れて、彼は落ちて足首を挫《くじ》いてしまいました。彼はびっこを引いてすぐ近くの農園に行き、足に包帯をしてもらうと、農夫の驢馬《ろば》に乗せられて家へ送られました。二人が別れたとき、姉が街道に入ろうとするのが見えたものですから、姉がまっすぐに町へもどったものと少年は思い込んでおった由《よし》にございます」
クーはちょっと言葉を止め、眉の上の汗を拭った。
「町へ帰る途中で、私どもの支配人は、野良道と街道とが交叉する地点にありまする軍の守衛所で、それにまた町まで街道沿いにある農園や店でも聞き取りをいたしました。さりながら、その日のその時刻に、馬に乗って一人で通った女は、だれ一人見たことがなかった由でございます。かような次第にて、手前は妻に何か不都合事でも起きもしたかとはなはだ危惧いたしますあまりに、遅延なく探索を開始下されますよう、ここに敬意をこめまして閣下に請い願う次第にございます」
袖からたたんだ書類を取り出して、両手で頭上に丁重にささげながら、クーはつけくわえた、「これによりまして私は、私の妻の人相、妻が身につけておりました衣服、ならびに乗っておりました額に白斑《しろぶち》のある馬につきまして詳細な記載を提出申しあげます」
巡査長が書類を取ってディー判事に渡した。判事はざっと目を通すと質問した、「妻女は宝石もしくは多額の金銭を身につけていたのか?」
「いいえ、閣下、手前どもの支配人が同じ質問をツァオ博士にいたしましたところ、妻は母親が私への贈物として与えました菓子一籠のみを持っておったと博士は申しました」
ディー判事はうなずいた。「ことによると、だれかがあなたに怨恨を抱《いだ》いていて、妻女に危害を加えたかも知れないとは思いあたらないのか?」
クー・モンピンは力をこめて頭を振った。「手前に恨みを抱いているものはあるやも知れません、閣下――競争の激しい取引きに従事している商人なら、さようではございますまいか? さりながら、さようなものとて、あえてさような卑劣な罪を犯そうとはせぬでございましょう」
判事はゆっくりと顎ひげを撫でた。クー夫人が他のだれかと駆落ちしたかもしれないことを、公衆の前で論議するのは侮辱になるだろうと彼は思い返した。その女の人柄と評判について調べてみなければならないだろう。
「本政庁はただちにすべての必要な手段を取るであろう。あなたの支配人に申し伝えよ、公判後に本庁に出頭し、仕事が二重になるのを避けるために、彼の調査した事柄につき詳細に報告せよと。本官は何らかの情報を入手しだい、ただちに手落ちなくあなたに知らせるであろう」
そこで判事は驚堂木《けいどうぼく》を打ち鳴らして公判を閉じた。
一人の事務官が執務室で判事を待っていた。彼は言った、「商店主イー・ペン氏がまいりまして、折いって閣下に暫時《ぜんじ》お目にかかりたいと申しました。応持室へ通しておきました」
「その男は何ものなのか?」とディー判事はきいた。
「イー氏はたいへんな素封家《そほうか》でございます、閣下」と事務官は答えた。「イー氏とクー・モンピン氏とは本県における二大商店主でして、両人所有の船ははるばる朝鮮と日本へも行きます。両人とも河岸《かし》に埠頭《ふとう》を所有しておりまして、そこで船も作れば修理もいたしております」
「よろしい。私のほうも、他のものが訪ねて来るのを待っているのだが、いますぐイー・ペンに会うことはできる」警部に向って、
「ホンよ、キム・サンに応接して、彼が主人の行方知れずの妻について調べたことを聴取して書き留めておいてくれ。私がイー・ペンに面会して話を聴き終りしだい、ここで落ち合うことにしよう」
応接室では、背の高い、ふとった男が立って判事を待っていた。ディー判事が階段を昇って来るのを見ると、すぐさま男はひざまずいた。
「ここは法廷ではない、イーさん」茶卓に坐りながら、ディー判事は愛想よく言った。「起ってその向いの椅子におかけなさい」
ふとった男は困惑してぶつぶつ言いわけして、椅子のはじにひどくかしこまって腰をおろした。薄い口ひげのある肉づきのいい満月形の顔をして、まばらな顎ひげがぐるりを取りまいている。判事はその小さくてずるそうな目を好かなかった。
イー・ペンは茶をすすった。彼はどうきり出したものか困りはてているらしかった。
「近日中に」とディー判事は言った、「私は平来《ポンライ》の名士の皆さんを招待して、ここで宴会を開くつもりです。そのとき、もっとゆっくりあなたと話をする便宜が得られるよう願っていますよ、イーさん。残念ながら、いま私は少々多忙なんです。格式ばるのはやめて、用件を話して下さるとありがたいのですがね」
イーはあわてて深々と頭をさげた。そして口をきった。
「商店主として、閣下、私が河岸《かし》で起こることを、万事親しく見聞きせねばならぬことは当然でございます。ただいま、閣下に報告申しあげますのは私の義務だと存じますが、大量の武器がこの町を通って密輸されているという根ぶかい噂があるのでございます」
ディー判事はすくっと起ちあがった。
「武器が?」彼はとても信じられないふうに尋ねた。「どこへ?」
「疑いもなく朝鮮へです、閣下。朝鮮人がわが国により与えられた敗北にいらだっていて、かの地に集結した、わが駐屯軍を攻撃する計画を立てているやに私は聞き及びました」
「その交易に従事している卑劣な裏切者がだれなのか、ご意見をお持ちか?」
イー・ペンはかぶりを振って答えた、「遺憾ながら、私は何ひとつ手がかりを発見できませんでした、閣下。申しあげられますのは、手前どもの船が、さような極悪な計画に使用されていないのは確かだということのみでございます。これはまさしく噂です。けれども城塞の司令官も聞いたことがあるに相違ございません。この数日、出航する船はすべて、きわめて厳格に城塞で検問されているという話でございます」
「もしさらに何かを知られたら、ぬかりなくただちに私に報告されよ」とディー判事は言った。「ついでながら、同輩のクー・モンピンの妻女にひょっとして何か起きたのか、恐らく意見をお持ちだと思うが?」
「いいえ、閣下、これっぽちも。ですが、ツァオ博士は、娘を愚息にくれなかったことをいまになって悔んでおりましょう!」判事が眉をあげたので、イーは急いで言いたした、「私はツァオ博士のもっとも古い友達の一人でございまして、閣下、私どもはそろって、より合理的な哲学の支持者にして、仏教の邪神崇拝に反対するものでございます。このことが実際に話題になったことはありませんけれども、ツァオ博士の娘が私の長男と結婚するのは当然であると私はつねづね思っておりました。しかるに、三月前にクーの妻女が亡くなりますと、ツァオ博士は藪から棒に娘はクーの嫁にやると知らせてよこしました! ご想像下さい、閣下、その娘はやっと二十歳なんです。おまけにクーは熱烈な仏教徒です、世間は申しております、クーは供養を――」
「なるほど」とディー判事はさえぎった。そういう家同士のごたごたには興味がなかったのである。彼は言葉をついだ、「昨夜、私の助手が二人、お宅の支配人プオ・カイに会いました。たいした男のようですな」
「よろず気づかいではありますが」とイー・ペンは鷹揚《おうよう》な笑みを浮べて言った「プオ・カイが酒を飲まずにいればと私は望んでおります。あの男は暇な時間の半分は飲んだくれ、あとの半分は詩を書きなぐっている始末でございまして」
「では、なぜ雇ってらっしゃる?」驚いて判事は尋ねた。
「と申しますのも」とイー・ペンは説明した、「あの酩酊詩人は会計業務にかけては天才なのでございます! それはもう絶対に神秘でございます。過日、彼と会計を調べるために、私はまるまる一晩をあけておきました。さよう、いっしょに坐って、私が説明を始めましたところが、ひょいと私の手から書類の束を全部取りますと、ざっと読むかたわら少々覚書を作りまして、それを返してよこしました。それから筆を執りますと、差引勘定を整然と書き上げました、誤り一つなしにでございますよ。その翌日、言いつけて、一週間の休みをとらせて城塞のために建造する軍船の見積書を作らせますと、その晩のうちに書類を全部仕上げてしまいました、閣下! おかげさまで、私は友人にして同業のクーが仕上げるずっと以前に、見積書を提出することができて注文が取れましたのです」イー・ペンは満足げに微笑すると結論した、「こと私にかかわりますかぎり、あの男は好きなだけ飲み、かつ唱ってよろしいのでございます。ほんのわずかな時間、私のために仕事をして、給料の二十倍は稼ぎます。私が好みませんのはただ、彼が仏教に関心を持っていること、また友人クーの支配人キム・サンと友達づき合いをしていることのみでございます。ですが、プオ・カイは仏教は自分の精神的な欲求に応えてくれるし、クーの業務にかかわる多くの情報をキム・サンから引き出しているのだと言いはっております――もちろん、それは役に立つのです、ときによりましては!」
「彼に伝えられたい」とディー判事は言った、「近日中にいつか、私に会いに来るようにと。政庁内で計算を記した帳面を見つけたのだが、それに関して彼の意見を聞きたいのです」
イー・ペンはちらっと判事を見やった。彼は何か尋ねようとしたが、主《あるじ》がすでに起ちあがっていたので、辞去しなければならなかった。
院子《なかにわ》を横切ろうとして、ディー判事はマー・ロンとチャオ・タイに行き会った。
「格子柵のこわれは修理しました、知事」とマー・ロンが報告した。「帰る途中、二番目の橋付近で、大きな屋敷の召使いたちに問い合せました。連中の話だと、ときどき宴会のあとに、大きなごみかごを轎子《かご》で運河に運んで、水中に投げ捨てるんだそうです。しかし、あそこでチャオ・タイと私があの出来事を見たときに、何かそんなことがあったかどうか見つけ出すには、一軒一軒聴いてまわなければならないでしょう」
「それで説明はつくだろう」ほっとしたようにディー判事は言った。「いっしょに執務室へ来たまえ。キム・サンが待っているだろう」
執務室へ行く間に、判事は二人にクー夫人の失踪について手短かに話して聞かせた。
ホンが二十五歳くらいの、顔立ちのいい若い男と話をしていた。ホンが若者を紹介すると、判事が尋ねた、「姓名からすると、君は朝鮮の家系だと思われるが?」
「まことに、閣下」とキム・サンはうやうやしく言った。「私はここの朝鮮人地区で生まれました。クー氏は大勢の朝鮮人水夫を雇っておりますので、彼らを監督するため、また通訳として働くために雇われております」
ディー判事はうなずいた。キム・サンの話をホン警部が書き留めた覚書を取って、注意ぶかく読んで行った。それをマー・ロンとチャオ・タイに押しやると、ホンにきいた、「ファン・チュンの姿が最後に見られたのは、十四日、それも午後早くではなかったかね?」
「さようです、閣下。ファンの小作人は、ファンは昼食後、下僕のウーを連れて農園を出て、西の方角へ立ち去ったと言っております」
「君はここにのべている、ツァオ博士の家は同一の地区に位置しているとね。これをきちんと整理してみよう。地区の地図をくれ」
ホンが大きい絵地図を机の上にひろげると、ディー判事は筆を取って、町の西の地域の部分をぐるっと円で囲んだ。ツァオ博士の家を指さしながら、「さあ、ここだ。十四日の昼食後、クー夫人はこの家を出て西の方角へ向った。最初の十字路で右へ曲ったのだ。で、弟はどこで夫人から離れたのか、キム?」
「二本の野良《のら》道が交わって、小さな林のある場所に通りかかったときでございました」
「けっこう。ところで小作人は、ファン・チュンがそれと同じ時刻に出て、西の方角へ行ったとのべている。なぜファンは東へ、つまり彼の農園から市へ直接に通っているこの道を行かなかったのか?」
「地図の上ですと、確かに近道のように見えます、閣下」とキム・サンが言った、「ですが、その道は非常に悪うございます、それはほんの通り道でして、雨の後など、まず通れません。じっさい、ファンが近道を取ったとすれば、街道を遠まわりするより時間がかかったでしょう」
「なるほど」ディー判事はまた筆を取りあげると、野良道の交叉地点と街道との間に範囲をかぎって印をつけた。
「私は偶然の一致というものを信じない。この地点でクー夫人とファン・チュンとが出会ったのだと仮定していいように思う。二人は識合《しりあ》いだったかね、キム?」
キム・サンはちょっとためらってから言った、「存じません、閣下。ですが、ファンの農園がツァオ博士の家から遠くないのを見ますと、クー夫人は、まだ両親のもとに暮らしておりましたとき、ファン・チュンに会ったことがあるだろうと想像されます」
「よろしい。君がくれた情報はたいへん有益だ、キム。われわれに何ができるかが分かるだろう。帰ってよろしい」
キム・サンが立ち去ったあと、判事は三人の助手を意味ありげに見やった。唇をすぼめて彼は言った、「あの飯屋の亭主がファンについて言ったことを思い出せば、結論はあきらかだと私は思う」
「クーの骨折りはうまくいかなかったってわけだ」とマー・ロンが意地の悪い目つきで言った。しかしホン警部は腑に落ちないといった様子だった。ゆっくりとホンは言った、「仮に二人が駆落ちしたのだとしてもですよ、閣下、それならなぜ街道の守衛たちが二人を見かけなかったのでしょう? ああした守衛所の前には、つねに二人の兵士が組になって坐っていて、何もやることがないから、茶を飲んだり、通行人をだれかれかまわずにじろじろ眺めているものです。そのうえ、連中は顔だけはファンを知っていたに相違ありませんし、もしファンが女連れで通りかかったなら、確実に気がついたでしょう。それに、ファンの下僕はどうなんでしょう?」
チャオ・タイは、席を立ったまま地図を見おろしていたが、意見をのべた。「何が起きたにせよ、まさしくそれは荒寺の前で起きたんです。それに、飯屋の亭主がこの荒寺について奇怪な話をしゃべっていましたよ。この道のこの辺りは、守衛所からも、ファンの農園からも、ツァオ博士の家からも見えないことに私は気がつきました。クー夫人の弟が足に包帯をしてもらった小さい農園からも見えないんですよ。クー夫人とファン・チュンとファンの下僕は、この道のこの辺りで薄い空気の中へ消えちまったみたいだ」
あわただしくディー判事は起ち上がった、「その地域を自分たちで調べて、ツァオ博士やファンの小作人と話したうえでなければ、そいつは役に立たない推測だ。空はちょうど晴れている。さあ、そこへ出かけよう! ゆうべみたいな経験の後だから、明るい太陽の中を、気持よく田舎を飛ばすのはすばらしいと思うよ!」
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第九章
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判事は部下をつれて農家を捜索し
奇怪な発見が桑藪の中でなされる
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西の城門の外の野良で働いている農夫たちは頭をあげて、泥道を騎馬の列が通過して行くのを見るとぽかんと口をあけた。ディー判事が先頭を走って、ホン警部、マー・ロン、チャオ・タイが従っていた。後ろには十人の部下をひきいて巡査長がつづいて、全員が騎馬だった。
ディー判事は近道をしてファン・チュンの農園へ行くことにしたのだった。だが、すぐにキム・サンの正しかったことが分かった。ほんとうにひどく悪い道だったのである。乾いた泥がかたまって深い何すじものみぞになり、馬はゆっくりと歩まねばならず、たいていは一列で進んだ。
桑の木の茂みを通りすぎたとき、巡査長が畑に馬を乗り入れて判事のもとへ馳せつけた。前方の小高いところに立っている小さな農家を指さして、彼はしたり顔で言った、「あれがファンの農園です、閣下!」
不快そうに彼を見ると、ディー判事は厳しく言った、「農民たちが丹精した畑を踏みつぶしてもらいたくないぞ、巡査長! あれがファンの農園だとは分かっている、詳しく地図を見たからな」
巡査長はしょげかえって、ディー判事の三人の助手が通過するまで待った。それから最年長の部下にぶつくさこぼした、「なんてやかましやが来ちまったんだ。おまけに、あいつが連れて来たあの二人のお山の大将ときたら! きのう、あいつらはおれを訓練に参加させた、おれをだ、巡査長をだぜ」
「むずかしい世の中でさ」と巡査は溜息をついた。「でも私なんざ、気持のいい小っちゃな農園を遺《のこ》してくれる親戚もありゃしません」
道端にある草ぶきの小屋まで来ると、ディー判事は馬から跳びおりた。そこから曲りくねった小道が農園に向っている。判事は巡査長に、彼が三人の助手といっしょに徒歩で農家へ行ってくる間、部下とともにそこで待っているように命令した。
小屋の前を通りすがりに、マー・ロンが扉を蹴り開けた。焚木《たきぎ》が山積みになっていた。
「分からんだろうが、用心のためでね!」と言って、彼は扉を引いて閉めようとした。
が、ディー判事が彼を押しのけた。粗朶《そだ》の間に何か白いものがちらついたのである。それをつまみあげて一同に見せた。刺繍のある女物のハンカチで、かすかに麝香《じゃこう》の匂が残っている。
「野良仕事をする女たちがこんなものを使うはずがない」判事はていねいに袖に納めながら言った。
四人は農園にあがって行った。道の中ほどに、青い上着とズボンをつけ、頭を色ものの布で包んだ、がっしりした娘がせっせと草取りをしていた。娘は身を起こすと、口をあけたまま一行を見た。マー・ロンが値ぶみする眼つきを投げて、「もっとひどいのを見たことがあるぜ」とチャオ・タイにささやいた。
農家は二部屋の低い建物だった。入口は壁から庇《ひさし》が掛けられ、その下には大きな道具箱があった。少し離れたところに、納屋《なや》が高い垣根で家から隔てられて立っている。
入口の前に、つぎのあたった青い長衣を着た、背の高い男が立って鎌を研いでいた。ディー判事は歩み寄って、男にそっけなく声をかけた、「私は平来《ポンライ》の知事だ。家の中を案内してもらおう」
でこぼこの顔の中で、男の小さい両目が判事から伴の三人の男へさっと動いた。男はぎこちなく一礼すると、一同を家の中へ招じ入れた。漆喰《しっくい》の壁は剥《む》き出しのまま、あちこちまだらになって、粗雑な作りの松材のテーブルとがたがたの椅子二脚があるだけだった。
テーブルにもたれながら、ディー判事は農夫に当人と同居人の名をのべるよう命じた。
「手前は」と農夫はぶっきらぼうに言った、「ペイ・チュといいまして、お役所のファン・チュンさまの小作人でございます。女房は二年前に死にました。ここには娘のスーニャンだけがおって、飯を作ったり、野良仕事をすけたりしておりやす」
「たしかに、この農園には男手がひとり必要のようだな」と判事が感想をのべた。
「銭《ぜね》があるときにゃ」とペイ・チュはぼそぼそ言った、「人手を雇うんで。だけんど、ちょくちょくじゃありやせん。ファンはえらく厳しい旦那なもんで」
ペイはぼさぼさの眉の下からいどむような目つきで判事を見た。広い肩が曲って、長い腕には筋肉が張っている。何とも人好きのしないやつだと判事は思った。「おまえの地主が訪ねて来たときのことを話してくれ」
ペイ・チュは色あせた襟のすり切れた端を引っぱって、ぶっきらぼうに答えた、
「あん人は十四日にここへ来ました。わしとスーニャンがちょうど昼食《ちゅうじき》を食ったとこでした。種子《たね》を新しく買いたすにいる銭《ぜね》をくれちうと、だめだちうて、ウーに納屋ん中を見て来《こ》うと言いつけました。あの野郎、種子はまだ半袋あるちうもんで、旦那は笑いやした。それから二人はここを出て、馬で西に街道のほうへ行きました。これだけです。はあ巡査に話したことがありやす」
ペイは床を見つめた。
ディー判事は黙って彼を観察していたが、ふいに怒鳴りつけた、「知事さまを見るんだ、ペイ・チュ! 言え、女に何が起きたんだ?」
農夫は仰天して判事を見た。それから身を翻して入口に突進した。マー・ロンが躍りかかり、襟をつかんで引きもどして判事の前にひざまずかせた。
「わしがやったんじゃねえ!」とペイは叫んだ。
「ここで起きたことはちゃんと分かっている」ディー判事はぴしっと言った。「私にうそをつくな!」
「何もかも申しあげます、殿さま」両手をかたく握り合わせて、ペイ・チュは泣き声を出した。
「では、言ってしまえ」ディー判事がそっけなく言った。
ペイ・チュは狭い額に皺をよせた。深く息を吸うと、ゆっくり話し始めた。
「こんなあんべえでやした。わしが言ったのと同じ日に、ウーが三頭の馬を引いてここへ来ましたです。旦那と奥さんが、その夜農園に泊るちうんで。わしは旦那が嫁をもらったのを知んねえでしたが、尋ねもせんでした。ウーはやくざな野郎なんで。わしはスーニャンを呼んで、鶏をつぶせと言いつけました、旦那が地代を取りに来《く》んのが分かってたからで。わしは娘に旦那の寝室を仕度し、にんにくといっしょに鶏を油で揚げろちうて、それから納屋へ馬を連れて行きました。馬をきれいにして飼葉《けえば》をくれました。
家にもどると、旦那はここのテーブルに坐ってました。赤い銭箱が前に置いてあるんで、旦那が地代をほしがってんのが分かりました。わしが銭《ぜに》はねえ、新しい種子を買《こ》うたちうと、旦那はわしに悪たれて、納屋に種子の袋があるかねえか見て来《こ》うとウーに言いました。それから、私がウーに畑を全部見せねばならんと旦那は言いやした。
家にもどると、はあ暗くなりかかってました。旦那が寝室から飯が欲しいと怒鳴るもんで、スーニャンが持ってって、わしはウーといっしょにどんぶり一杯《いっぺえ》の粥を食いました、納屋の前ででさ。ウーが言うにゃ、わしは銅貨五十枚をやつに払わにゃならねえ、そしたらば、わしが畑を良く世話してると言ってやるちうんで。銅貨をくれると、ウーは納屋に寝に行きました。外に坐って、どうやって地代を手に入れたもんかわしはかんげえてました。スーニャンが台所の片づけを終わると、納屋の二階へ寝に行かせ、わしはウーの隣りに横になって眠りました。遅くなってから、目を覚まして地代のことをかんげえました。そんとき、ウーがいなくなってんのに気がついたんで」
「納屋の二階へだな」にやりとしてマー・ロンが口をはさんだ。
「軽口は無用だ!」ディー判事が怒鳴りつけた。「黙って、話をさせろ」
農夫はこのやりとりに気がつかなかった。眉をしかめると話をつづけた。
「わしは外へ出やした、そしたら三匹の馬もいなくなってました。わしは旦那の寝室に明りがついてんのを見やした。まだ起きてる、知らせねばいかねえだんべえと思って、扉を叩いても答えがねえんです。家を回ってくと、窓があいてます。旦那と奥さんは寝てました。わしは眠ってるときに明りを燃やしとくんなもってえねえと思いました、いまどき油は一合で銅貨十枚もするんでさ。そんとき、旦那と奥さんが血まみれなのが分かりました。
窓を登って中にへえって、わしは銭箱を探しました。見つかったのはわしの鎌だけです。床に落ちてて、へえ、血がべっとりついてやした。ならずもんのウーが殺したんだと分かりましたです。やつは銭箱と馬を持って逃げたんです」
チャオ・タイが話そうとして口を開いたが、判事が頭を振って制した。
「わしがやったんだと言われるんは分かってまさ」とペイ・チュはぼそぼそ言った。「わしがやったちうまでわしをぶつな分かってます。そんで頭をちょん切るんでさ。そんでスーニャンはいる場所がなくなるんでさ。わしは納屋から手押車を出すと、窓の下へ置いて、寝床から死体を引っぱり出しやした。女のほうはまだぬくかったとです。窓敷居ごしに車ん中へ押し込んで、桑の藪まで車を押っぺしてきましたです。藪《やぶ》のかげへ死体を押し込むと、納屋へ帰って寝ました。明けがた、鋤《すき》を持ってもどって、ちゃんと埋めべえと思ったんでさ。次の朝、そこへ行くちうと、死体はなくなってやした」
「何と言った?」とディー判事は大声を出した。「なくなっただと?」
ペイ・チュは強くうなずいた。
「なくなってました。だれかが見つけて、巡査んとこへ言いに行ったと分かりました。わしは家に飛んでけえって、鎌を旦那の着物に包みました。奥さんの長衣を取って、それでもって寝床の布団と床をぬぐったです。だけんど、布団の血がとれねえもんで、そいつを寝床から引っぺがして、そん中へ何もかも包み込んで丸めたのを納屋へ持ってって、乾草の下へ隠したんでさ。スーニャンを起こすと、みんな夜明け前《めえ》に町へ発ったと言い聞かせました。これはふんとです、神かけてふんとでございます! ぶたせねえで下さい。殿さま、わしゃやっちゃいやせん!」
ペイは狂ったように床に頭を打ちつけ始めた。判事は口ひげを引っぱっていた。やおら彼は農夫に言った、「起って、その桑の藪へわれわれを連れて行け」
ペイ・チュがあわてて跳びあがったとき、チャオ・タイが昂奮したように判事にささやいた。
「われわれは平来《ポンライ》へ来る途中でそのウーのやつに会ったんですよ、知事。馬のことをお尋ねなさい!」
ディー判事は農夫に主人夫婦の馬についてのべるよう命じた。ファンは灰色の馬に、ファン夫人は額に白斑《しろぶち》のあるのに乗っていたとペイは言った。判事はうなずいて、ペイ・チュに行くよううながした。
少し歩いて、彼らは桑の藪に来た。ペイ・チュが下生《したば》えの中の一点を指さして、「ここへ押し込みやしたです」
マー・ロンが屈み込んで落葉を調べた。両手に何枚か集めると、判事に見せて言った、「この黒いしみは血にちがいありません」
「君ら二人はこの藪を調べるといい」ディー判事は言った。「この犬あたまはたぶんうそをついている」
ペイ・チュが抗弁し始めたけれど、判事は無視した。考えに沈んで頬ひげをもてあそびながら、彼はホンに言った、「ホン、この事件は見かけほど簡単ではない気がする。私たちが道中で会った男は、二人の人間の喉を無造作に切り裂いて、金と馬を盗み去る殺人者には見えなかった。むしろやみくもに恐れあわてている男のように見えたよ」
しばらくして小枝の折れる音がすると、マー・ロンとチャオ・タイがもどって来た。さびた鋤を振りながら、マー・ロンが昂奮して言った、「真ん中に小さく藪をはらったところがあります。最近、何かそこへ埋めたようですよ。これが木の下に落ちているのを見つけました」
「その鋤をペイにやれ」と冷やかにディー判事は言った。「この犬あたまに自分が埋めたものを自分で掘り出させるんだ。案内してくれ」
マー・ロンが下生《したば》えを押し分け、一同は木々の間を進んで行った。チャオ・タイが農夫を引きずっていたが、農夫はまるっきり茫然としてしまっているらしかった。
藪がはらわれた場所の真ん中で、ひとところ地面がゆるんでいる。
「やれ!」と判事が荒々しく農夫に言った。
農夫は思わず両手に唾をつけると、ゆるんだ土を取り除き始めた。泥まみれの白い長上着が出て来た。チャオ・タイに手伝ってもらって、マー・ロンが窪みから男の死体を持ちあげて枯葉の上に横たえた。それはつるつるに頭を剃りあげて、薄い下着をつけただけの中年の男の屍骸だった。
「こいつは坊主だ!」とホン警部が叫んだ。
「つづけろ」とディー判事は厳しく農夫に言った。
突如、ペイ・チュが鋤を取り落した。ペイはあえいで言った、「こりゃ旦那だ!」
マー・ロンとチャオ・タイが穴から大きな男の裸の身体を取り出した。二人は注意ぶかくやらなければならなかった。男の頭が身体からほとんど切断されていたからである。胸には血が凝固して塊になっている。屍骸のどっしりした筋肉を興味ぶかそうに見やりながら、マー・ロンが感嘆をこめて言った、「頑丈なやつだったんだぜ」
「おまえの三人目のえじきを掘り出せ!」判事が大声でペイ・チュを叱りつけた。
農夫は地面に鋤を突っ込んだが、岩の層にぶつかった。他に屍骸はなかったのだ。ペイは困りはてて判事を見あげた。
「おまえ、女はどうしたんだ、え、悪党?」とディー判事が声を飛ばした。
「ちけえます、わしゃ知らねえ!」農夫は泣き声をあげた。「わしはここへ旦那と奥さんを運んで、茂みの下へ放っといただけです、けっして何もここへ埋めやしなかった! こんな禿げ頭なんか見なかった! 神かけて、ふんとでさ!」
「ここで何が起きているのです?」と品の良い声が判事の背後から話しかけた。
判事が振り向いて見ると、金の刺繍をほどこした紫の美しい錦の長衣をまとい、まるまるふとった男だった。顔の下半分全体がほとんど長い口ひげにおおわれ、頬ひげが垂れさがって、巨大な顎ひげが三本の太い房になって胸いっぱいにひろがっている。頭には文学博士の高い紗の帽子をかぶっている。判事をちらりと見やると、両手をうやうやしく両袖におさめて深々と一礼して言った。
「手前はツァオ・ホーシェン、やむをえずして地主なれど、なろうことなれば哲学者にございます。閣下こそ、われらが新しき知事でいられると拝察いたしますが?」
ディー判事がうなずいたので、男は言葉をついだ。
「この辺りで馬を走らせておりますると、農夫が、政庁よりまいった人びとがわが隣人ファン・チュンの農園にいられると申しました。で、失礼を顧みませず、何ぞ手助けできるやもとまいりました次第にございます」
男は判事ごしに地面の死体をよく見ようとした。だが、判事がつと前に立ちふさがってそっけなく言った。
「私はここで殺人事件の捜査をしております。ご親切に道までさがってしばらくお待ち下さるなら、おっつけそちらでごいっしょになりましょう」
再び深々と礼をしてツァオ博士が立ち去ると、すぐさまホン警部が言った、「閣下、あの僧の死体には暴行の跡がありません。私に分かるかぎりでは、自然死です」
「午後、政庁で調べてみよう」と言って、判事は農夫に尋ねた、「さあ、言うんだ、ファン夫人はどんなふうだったか?」
「知んねえです」と、ペイ・チュは泣き声を出した。「奥さんが農園に来たときにゃ、会いませんでしたし、死体を見つけたときにゃ、顔はまるまる血だらけだったんでさ」
ディー判事は肩をすくめた。「マー・ロン」と彼は呼んだ、「チャオ・タイがこの悪党と死体を警護している間に、君は巡査たちを呼んで来い。ここの枝で担架を作らせて死体を政庁へ運ぶように取りはからってくれ。この男、ペイ・チュは牢に放り込め。帰る途中、君は納屋へ行って、犠牲者の衣服といっしょに布団をどこにペイが隠したのか言わせるのだ。私は今ホンと農園へもどって家を調べ、娘を尋問しようと思う」
判事はツァオ博士が長い杖で枝をかき分けながら、慎重に下生えの中を進んでいるところへ追いついた。博士の召使いは驢馬の手綱《たづな》を持ったまま道端で待っていた。
「私はこれから農家へ行かねばなりません、ツァオ博士」とディー判事は言った。「それをすませましたら、お訪ね申しあげる機会を得たいと存じます」
博士は深々と礼をした。顎ひげの三本の房が旗みたいにひらひらひろがった。博士は驢馬にまたがり、杖を鞍の上に横にのせると、速歩で走り出した。召使いが後を追って走って行った。
「生まれてこのかた、あんな立派なひげは見たことがない」と、判事はちょっぴりものほしげにホン警部に言った。
農家にもどると、ディー判事はホンに野良から娘を呼んでくるように言って、自分はそのまま寝室に行った。
中には木の枠が剥《む》き出しになった大きなベッドが一台、腰かけが二脚、粗末な鏡台が一つあった。扉に近いすみには小さいテーブルがあって、油ランプがのっかっている。剥き出しのベッドをみおろしたとき、木の枠の頭にあたる辺りについた深い刻みめに目がとまった。|そぎ《ヽヽ》は真新しく見える。つまり刻みめはごく最近つけられたらしいのだ。疑問に頭を振りながら、判事は窓を調べにかかった。木を代用した掛けがねはこわれている。向きを変えようとして、たたんだ紙が窓のすぐ下の床に落ちているのに気がついた。取りあげて見ると、色玻璃《いろはり》の円い切れはしが三つ飾りについている、骨製の安っぽい女物の櫛が包んであった。紙に包みなおして袖に納めたが、判事はとまどって、この事件に二人の女が巻き込まれていることがありうるのかどうか自問した。あの小屋で見つけたハンカチは上流婦人のものだが、この安物の櫛はどう見たって百姓女の持物である。吐息をついて、彼は居間へ行った。ホンとペイの娘が立って待っていた。
ディー判事は、娘が極度に彼をこわがっているのに気がついた。彼女は顔をあげようともしなかった。彼は優しく話しかけた、「さて、スーニャン、親父さんの話だと、おまえはいつか旦那さんのために、とってもうまい鶏の揚げものをこしらえたそうだね」
娘はきまり悪そうに彼を見て、ちょっと頬笑んだ。
「田舎の食べものは、私たちが町で食べるものよりずっとうまいもんだよ。あの奥さんもそれが気に入っただろう?」
スーニャンは顔を伏せた。肩をすくめると、
「あの人は気取りやです、ええ。寝室の腰かけに坐ったきり、あたしが挨拶したって、振り向きもしなかったんです。そうですとも!」
「だけど、おまえが食事の片づけをしてたとき、ちょっとはおまえと話したんじゃないかね?」
「そんときははあ寝てました」すぐさま娘は答えた。
ディー判事は思い沈んで、顎ひげを撫でつけた。それから、彼は尋ねた、「そうそう、おまえはクー奥さんを良く知っているかね? 近ごろ町へ嫁に行った、ツァオ博士の娘だが」
「野良で遠くから、弟さんといっしょなのを一、二回見かけました。みんなは言ってます、あん人はいい娘さんだ、町の女衆のだれのようでもねえって」
「そうか」とディー判事は言った、「これからツァオ博士の家へ案内しておくれ。小屋の下のところにいる巡査がおまえに馬を貸してくれるよ。そのあとで、私たちが町へ帰るのといっしょに来てもさしつかえない。親父さんも町へ行くんだからね」
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第十章
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哲学者は崇高《すうこう》なる哲理を披瀝《ひれき》して
判事は複雑な殺人事件を説明する
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ツァオ博士が松におおわれた小高い岡の上に建てられた、三階建ての塔に住んでいるのを見てディー判事はびっくりした。彼はホンとスーニャンを下の小さな門房に残し、ツァオ博士について階上へあがって行った。
狭い階段を昇る間に、その昔、建物は物見塔であって、この地方に起きた戦争で重要な役割をはたしたことがあるのだとツァオ博士は説明した。彼の家が何代にもわたって所有していたのだが、家族はずうっと市中に住んでいたのだった。茶商だった彼の父が死んだ後、ツァオ博士は市内の家を売って、この塔へ移ったのである。「上にあがって私の書斎にいらっしゃれば」と彼は話を結んだ、「理由がお分かりいただけましょう」
最上階の八角形の部屋に着くと、ツァオ博士はおおいを払いのけるような身振りをして、広い窓から見える眺めを示して言った、「私には思索するための場所が必要なのでございます。この書斎から私は天と地を瞑想し、霊感を引き出すのです」
ディー判事は適当に感想をのべた。北側の窓からはあの荒れはてた寺が良く眺められるが、その前の道は、あの交叉点にある木立まで来ると隠れてしまうことに彼は気がついた。
文書を積み上げた大きな机に坐ると、ツァオ博士が熱心に尋ねた、「首都では私の学説について何と言われておりましょう、閣下?」
これまでツァオ博士の名前が語られるのを聞いたおぼえはなかったが、判事は丁重に応答した、「あなたの哲学はまったく独創的であるとみなされているのだと私は耳にしました」
博士は喜んだらしい。
「私を独自な思想の領域における創始者と呼ぶ人たちは恐らく正しいのです」と彼は満足そうに言って、机の上の大きな茶びんから判事の茶碗に茶をそそいだ。
「何かお考えをお持ちでしょうか」とディー判事がきいた、「お嬢さまの身に何が起こったのか?」
ツァオ博士は面倒くさそうな表情をした。胸にたれた顎ひげを注意ぶかくととのえてから、いくぶん無愛想に答えた、「閣下、あの娘は私を悩ますことばかりやってまいったのでございます。ゆえに、私は悩まされてはならんのです。私の仕事に必要とされる心の平静に深刻に響くからです。私は手ずからあの子に読み書きを教えました、しかるに、いかがあいなったか? あれはつねに悪しき本を読んでおるのです。歴史を読むのです。借問《しゃもん》いたします、歴史をですぞ! いまだ明晰に思考することを学びしことなき先人たちの悲しき記録のみを、ですぞ。時間の空費でございます」
「さよう」とディー判事は用心ぶかく言った、「しばしば、人は余人の過誤から多くを学ぶことができますな」
「ちちち!」とツァオ博士は舌を鳴らした。
「お尋ねしてもよろしいか」判事は丁重に言った、「なぜ、あなたはお嬢さまをクー・モンピン氏に嫁がされたのです? あなたが仏教を無意味な偶像崇拝だと見なされていらっしゃると私は聞き及びました――そうしてある程度は、私もそういう見解を分かち持っております。しかしクー氏は熱狂的な仏教徒ですよ」
「ほっ!」とツァオ博士は叫んだ、「それは万事、私の存ぜぬところで両家の女どもが取りしきったのです。女というものはこぞって愚かですからな」
ディー判事はいささかおおざっぱな主張だと思ったが、やりすごすことに決めた。「お嬢さまはファン・チュンをご存じでしたか?」
博士は両腕を振りあげた。
「いかにして私が知り得たでしょう、閣下、おそらく娘は一度や二度は彼を見たことがありましょう、例《れい》せば、先月、あの無礼な田舎者がここへ、境界石について私に話しに来た折などにですな。ご想像下され、私が哲学者であることを、しかるに……境界石だと!」
「私はどちらもそれぞれに有用であると思います」とディー判事はそっけなく意見を言った。ツァオ博士が疑うような眼差しを投げつけると、急いで彼は言葉をつづけた、「あちらの壁は書棚でおおわれていますが、ほとんどからっぽですな。ご本はみんなどうなされたのか? 広範囲の蔵書をお持ちだったのに相違ないが」
「確かに所持しておりました」ツァオ博士は興味なさそうに応じた、「しかし、多く読めば読むほど発見が僅少になるのですよ。私は読む、さよう、しかしただ人間というものの愚かさで自分を楽しませるためだけにですな。ある著者にうんざりするたびに、つねに私はその作品を首都におる従兄《いとこ》ツァオ・フェンに送りました。従兄は、遺憾ながら、あわれにも独創性を欠如しておるのです。独自な思想を理解する能力を持ちあわせんのです」
判事は首都裁判所の秘書官である友人ホウが催した晩餐会で、そのツァオ・フェンに会ったことがあるのをぼんやり思い出した。ツァオ・フェンは魅力的な老人の蔵書家で、自分自身の研究に完全に埋没していた。ディー判事は顎ひげを撫でかかったが、そのまま手をとめた。ツァオ博士がすでに威厳に満ちた様子で自分のを撫でているのに気づいて困惑したのである。眉をしかめて、博士は話し始めた。
「私はいまわが哲学の概要を簡潔なる言葉で表現いたして、むろん、いたって手短かに、あなたにご紹介申し上げたい。まず初めに、私の思議するに、宇宙は――」
ディー判事は急いで腰をあげた。
「まことに遺憾ながら」と判事は断乎として言った、「市中には私がおらねばならぬ緊急の用件があるのです。この会話を継続できる機会が遠からずありますよう願っています」
ツァオ博士は判事を階下まで見送って来た。
いとまごいを告げて、判事は言った、「昼の公判のさいに、私は何人かの人物がお嬢さまの失踪に関係していると聞きました。あなたは出廷せねばならぬやもしれません」
「私の仕事はどうなります?」ツァオ博士は非難がましくきいた。「現に私は公判に出廷することなどでわずらわされるわけにはいかんのです。それは私の心の平静を傷つける。そのうえ、クーがあれを嫁にした、ではありませんか? あれに起こったことはいまではクーの責任でございます。このことは私の学説の礎石の一つでありまして、すなわち、万人をして己《おの》れ自身を留めしめよ、天命によりて――」
「失礼します」と言って、ディー判事は鞍に跳びのった。
彼はホンとスーニャンを従えて岡を下って行った。すると、ふいに美しい顔立ちの少年が松の木立の間から歩み出て深々と礼をした。判事は馬をとめた。少年は懸命に尋ねた、「私の姉について何か分かりましたでしょうか?」
ディー判事が厳しい顔で首を振ったので、少年は唇を噛んだ。それから少年は目にいっぱい涙を浮べて、「みんな私のあやまちでした。どうぞ姉を見つけて下さい。姉は乗馬と狩りがとても上手でした、私たちはいつもいっしょに野原に出かけていたんです。姉は娘であることが分かりすぎるほど分かっていました、姉は男であるべきだったんです」唾を呑み込むと、彼はつづけた、「ぼくたちは二人ともこの田舎が好きでした、だけど父はいつも町のことを話しているんです。でも父はお金がなくなったとき――」彼は家のほうを不安そうにちらと見かえって、急いでつけくわえた、「でも、ご迷惑をおかけしてはなりません。父が怒ります」
「迷惑など少しもかけていないよ」とディー判事は早口に言った。彼は少年の快活で開けっぴろげの顔が気に入った。「君の姉さんがお嫁に行って、いま君はさびしいにちがいない」
少年はうつむいた。
「姉よりもさびしくはありません。姉はぼくに話しました、あのクーという男に特に望むものは何もない、けれどいずれ、いつかだれかと結婚しなければならないのだから、それに父がとても強く言いはるのだから、なぜクーさんではいけないのか、と言うんです。そんなふうに姉は、閣下、ちょっと軽はずみだったのです、いつもはあんなに陽気だったのに! でもこの間ここへ帰って来たとき、幸せそうには見えませんでした、そうして新しい生活について、ぼくとまるで話したがりませんでした。姉にいったい何が起きたというのでしょう?」
「私は全力を尽して姉さんを捜している」と判事は言って、あの農園の小屋で見つけたハンカチを袖から取り出して尋ねた、「これは姉さんのものかね?」
「ほんとのところぼくには分かりません」微笑して少年は言った。「女の人の持物はみんな同じに見えるんです」
「教えて欲しい。ファン・チュンはよくここへ来たかね?」
「一回だけ家へ来ました。何かのことで、父に会わなければならなかったときです。でも、ときどきぼくは野原で出会います。ぼくはあの人が好きです、とても強くて、弓の名手なんです。いつか本物の弩《いしゆみ》の作りかたを見せてくれました。ぼくは彼のほうがよっぽど好きです、あの政庁から来る別の人、ファンの農園によくいるタンという年とった男よりもです。あの男は人をへんな目つきで見るんです」
「よろしい」と判事は言った、「姉さんについては消息があったら、すぐに父上に知らせるよ。さようなら」
政庁に帰って来ると、ディー判事はホン警部に、百姓娘を守衛室に連れて行って、公判が開かれるまで世話をするように言いつけた。
マー・ロンとチャオ・タイが執務室で待っていた。
「納屋の中で血に染まった衣服といっしょにあの布団を、それに鎌を発見しました」とマー・ロンが報告した。「女の衣服はクーの供述と一致しています。私は白雲寺へ巡査をやって、だれかをここへよこして、われわれが発見した死んだ坊主を確認するようにいってやりました。検屍官がいま死体を調べています。あの田舎っぺのペイは牢獄に入れました」
ディー判事はうなずいた。「タンは出勤したかね?」
「事務官をやって、ファンのことを彼に知らせました」とチャオ・タイが答えた。「間もなくやって来るでしょう。あのふとった博士からは、何かたくさん聞き出せましたか、知事?」
判事は嬉しい驚きを感じた。いま初めて、この並はずれた二人の男の一人が質問を発したのだ。彼らは仕事に興味を抱きつつあるらしい。
「たくさんではなかったよ。あのツァオ博士が尊大な馬鹿者で、おまけにひどい嘘つきだということだけだ。彼の娘が嫁に行く前にファン・チュンを知っていたことは、大いに可能性がある。それに彼女の弟は、クーといっしょになって姉がしあわせではなかったと考えている。事件の全体が私にはまだ分からない。たぶんペイと娘から聴取すれば、いくつか新しい事実がはっきりするだろう。
私はこれから、州のすべての行政ならびに軍政当局にあてて回状を作成して、あのウーという男を逮捕するよう要請するつもりだ」
「やつがあの二匹の馬を売ろうとするときに、捕えられるでしょう」とマー・ロンが意見を言った。「馬喰《ばくろう》はたいへん良く組織されていて、仲間同士とも、当局とも緊密な接触を保っています。連中には馬に特別な焼印を押すやりかたもあります。盗んだ馬を売るってのは、馴れてないものには、なまやさしい仕事じゃないんです。少なくとも私はいつもそう聞いてました」潔癖にも彼はこうつけたした。
ディー判事は頬笑んだ。彼は筆を取りあげて急いで回状を書き、事務官を呼ぶと、それを複写させて、ただちに急送するよう命令した。
そのとき、銅鑼《どら》が鳴った。マー・ロンが判事が急ぎ公式の長衣を着るのを助けた。
ファンの死体が見つかったという消息はすでにひろまっていた。それで法廷はものずきな傍聴人でぎっしり詰まっていた。
判事は牢番あての書類に記入して、ペイ・チュを判事席の前に連れて来させた。判事はペイに供述をくりかえさせ、事務官がそれを読みあげた。ペイがその内容に同意しておや指で指紋をおすと、判事は口を開いた。
「たとえおまえが真実を話したにしても、ペイ・チュ、おまえにはまだ報告を怠り、殺人を隠そうとした罪がある。おまえを最終決定があるまで拘留する。さて、検屍官の報告を聞こう」
ペイ・チュが連れ出され、シェン医師が入って来て判事席の前にひざまずいた。
「手前は」と彼は始めた、「この政庁の主任事務官ファン・チュンと確認されました男の遺体を注意ぶかく検査いたしました。彼が鋭い武器の一撃による咽喉《のど》の切断により殺害せられたことを私は発見いたしました。私はまた、白雲寺の副管長ホイペンによって、同寺の施物《せもつ》係たる僧ツーハイと確認されました僧の遺体をも検査いたしました。その遺体には、打撲傷やその他暴力の印である外傷はひとつも見られず、また毒物が与えられた形跡もありませんでした。彼の死亡は突然の心臓麻痺によるものと私は判定いたしたく存じます」
シェン医師は起ちあがって、検屍の報告文書を判事席の上に置いた。判事は彼を退出させ、こんどはペイ・スーニャン嬢を尋問すると告げた。
ホン警部が娘を判事席の前へ連れて来た。顔を洗って髪をとかしてあった。いまの彼女にはちょいと人好きのする美しさが欠けてはいなかった。
「あそこでおれは、あの子がきれいだっておまえに言わなかったっけ?」マー・ロンがチャオ・タイに耳うちした。「川ん中にちょっとくぐらせろ、そうすりゃあの子たちは町のどんなあまにも負けないくらい良くなる、おれはいつだってそう言ってるんだ」
娘はたいへん興奮していたが、ディー判事は辛抱づよく質問をして、彼女にまたファンと女について話させた。それから彼は尋ねた、「おまえは以前、ファン夫人に会ったことがあるのかね?」
娘がかぶりを振るので、判事はつづけた。
「おまえが給仕した女がほんとうにファン夫人だと、そのときどうして分かったのかな?」
「だって、あの衆は同じ寝床で眠ってました、じゃねえんですか?」
笑い声が群衆から起きた。ディー判事は驚堂木《けいどうぼく》で判事席を叩いて、起こって大声で言った、「静かに!」
娘はうつむいて、ひどくうろたえていた。ディー判事の目が娘が髪にさしている櫛に落ちた。農園の家の寝室で見つけた櫛を、彼は袖から取り出した。まさしくスーニャンがさしているのとそっくりだった。
「この櫛を見なさい、スーニャン」櫛をさしあげて彼は言った。「これを農園の近くで見つけた。おまえのものかな?」
娘の円い顔があけっぴろげな笑みでぱっと明るくなった。
「そんじゃ、あの人はふんとにそれを手に入れたんだ!」満足そうに彼女は言った。と、彼女はびっくりした表情になって、袖で口をおおった。
「だれがおまえにそれを手に入れてくれたのだ?」と穏やかに判事はきいた。
涙が娘の目に浮んだ。彼女は叫んだ、「おとっつぁんにぶたれる!」
「これ、スーニャン、おまえはこの政庁にいるのだ、私の質問に答えなければいけない。父さんはやっかいなことを起こしているのだ。もしおまえが私の質問に本当のことを答えれば、父さんを助けられるかも知れないのだよ」
娘は強くかぶりを振った。
「このことは、おとっつぁんやあなたには何のかかわりもありません」と強情に言った。「言いたくねえんです」
「吐いてしまえ、さもないとこいつを食らうことになるぞ!」巡査長が鞭を振りあげて叱責した。娘は悲鳴をあげると、胸がつぶれそうなすすり泣きを始めた。
「手をおろせ!」判事は巡査長を怒鳴りつけた。それから困りはてた顔で助手たちを見まわした。自分の胸を叩きながら、マー・ロンが問いかける眼差しを投げかけた。ディー判事は一瞬疑わしそうな顔をしたが、うなずいた。
マー・ロンはぱっと壇から降りて娘に歩み寄ると、声をおとして話しかけ始めた。すぐに娘はすすり泣きをやめて、活溌に頭をうなずかせた。マー・ロンはさらに何かを娘にささやき、元気づけるように娘の背中を軽く叩いて、判事にはっきりと目くばせを送ってから、壇上の自分の位置にもどった。
スーニャンは袖で顔をふいた。それから判事を見あげて話し始めた。
「ひと月くれえ前《めえ》のことでした、あたしたちは野良でいっしょに働いてました。アー・クワンがあたしがきれいな目をしてると言いました。そして納屋へお粥を食べに行ったとき、あたしがきれいな髪をしていると言ったんです。おとっつぁんは市場へ行っていませんでした、そんであたしはアー・クワンと納屋の屋根裏にあがりました。それから――」彼女は言葉をとぎらせたが、そこでいどむようにつけくわえた、「そしてそれからあたしたち、納屋の屋根裏にいたんです」
「分かった。で、そのアー・クワンというのはだれなんだね?」
「知らねえんですか?」と娘はびっくりしてきいた。「だれだってあの人のことは知ってます! あの人は日雇《ひやと》いで、野良仕事がいっぺえあれば、自分で百姓に雇われるんです」
「アー・クワンはおまえを嫁にほしいと言ったのかな?」
「二度言いました」スーニャンは誇らしげに応じた。「だけんどあたしはいやだと言いました、絶対に! あたしは自分の地所を持ってる男が欲しいんだよって、あの人に言ったんです。先週も言ってやりました、夜中にだって、もうこっそり会いに来ちゃいけねえって。娘っていうもんは自分の将来《さき》を考えなければいけねえし、この秋であたしははたちになるんです。アー・クワンはあたしが嫁にいったって気にしないと言いました、だけんど、もしあたしがほかにいい人を作りでもしたら、あたしの喉をかっ切ってやると言うんです。世間じゃあの人は泥棒で浮浪者だと言うかも知れません。だけど、あたしのことをとても好きだったんです、ふんとです!」
「で、この櫛はどうしたのだ?」
「あの人は自分の思いどおりにやりました」とスーニャンは思い出し笑いを浮べて言った。「最後に会ったとき、何かそれでもってあの人を思い出すような、ふんとにいいもんをあたしにくれてえってあの人は言いました。いまさしているのと、そっくり同じ櫛が欲しいと言ったら、あの人はあたしのために見つけてくれると言ったんです、それを探しに町の市場へわざわざ出かけなくっちゃならねえでもって!」
ディー判事はうなずいた。
「それだけだ、スーニャン。滞在していられるところがこの町にあるかね?」
「おばさんが波止場の近くに住んでます」と娘は言った。
スーニャンが警部に連れられて去ったとき、ディー判事は巡査長に尋ねた、「そのアー・クワンという男のことを、君は何か知っているか?」
「あれは粗暴なごろつきです、閣下」と巡査長は即答した。「半年前、彼は太い鞭で五十回打たれました、年とった農夫を殴り倒して物を奪ったためです。また、二か月前に西門近くの賭場で商店主を殺したのは彼だと、われわれは疑っております。彼には決まった家がなく、森の中や、たまたま働いている農園の納屋で眠るのです」
判事は椅子の背にもたれかかった。少しの間、ぼんやり櫛をもてあそんでいたが、また身を起こして語った、
「本法廷は、犯行の現場を捜査し、提起された証言を聴取した結果、ファン・チュンならびにクー夫人の衣服を着た女は、本月十四日の夜中に浮浪者アー・クワンによって殺害されたという見解を抱くにいたった」
驚きのつぶやきが聴衆からあがった。ディー判事は驚堂木を打ち鳴らした。
「本法廷の主張は次の通りである。ファン・チュンの下僕ウーが最初に殺人を発見したが、彼はファンの銭箱を着服し、二頭の馬を盗んで逃亡した。政庁は犯人アー・クワンおよびウーの逮捕に必要な諸手続きを取るであろう。
本政庁はファンとともにいた女の身もとを確認すべく、またその遺体の所在を捜しあてるべくひきつづき努めるであろう。修道僧ツーハイとこの事件との関連をあとづけることをも、本政庁は試みるであろう」
彼は驚堂木を打ち鳴らして公判を閉じた。
執務室にもどると、判事はマー・ロンに言った、「ペイの娘が無事におばの家に着けるよう見てやるがいい。女がいなくなるのは一人でたくさんだ」
マー・ロンが立ち去ると、ホン警部が途方に暮れたように顔をしかめて言った、「さきほど公判中に言われた閣下の結論に、私は承服しかねました」
「私もです」チャオ・タイが言葉をそえた。
ディー判事は茶を飲み乾して言った、「ペイ・チュの話を聞いたとき、私はすぐにウーを犯人から除外した。もしウーが現実に主人を殺害して盗むことを企てたのなら、釆府《ピエンフー》の行きか帰りにやっただろう、そのときならもっと良い機会があったし、発見される危険ももっと少なかったからだ。第二に、ウーは町から来た男だ。つまりウーは短刀を使っただろう、鎌でなかったのは確かだ。鎌というのは、馴れていないものにとっては、きわめて扱いにくい武器だからね。第三に、あの農園でじっさいに働いたことがあり、鎌の置き場を知っているものだけが、暗やみの中で鎌を見つけられただろう。
ウーは殺害を発見したあとで銭箱と馬を盗んだのだ。彼はあの犯罪にかかわりあいになるのを恐れたが、恐怖が貪欲と機会に結びついて強力な動機になったのだよ」
「それが適切な推理のようですね」とチャオ・タイが感想をのべた。「しかし、なぜアー・クワンはファン・チュンを殺さなければならなかったのか?」
「それは誤解による殺害だった」と判事は応じた。「アー・クワンはスーニャンに約束した、あの二つめの櫛をうまく手にいれることができた。そして夜、彼女のもとへ行くところだった。おそらく、その櫛をやれば、もういっぺん願いをかなえてくれると考えていたのだろう。彼がやって来たことを彼女に知らせる何かの合図を、二人が申し合わせてあったことは疑いない。だが、納屋へ向って家を通り抜けるとき、彼は寝室の明りを見た。それはいつもと違うことだったから、彼は窓を押しあけて中を見た。半暗がりの中でベッドに男と女がいるのを見ると、スーニャンと新しい恋人だと彼は思ったのだ。彼は粗暴なごろつきだ。すぐさま道具箱のところへ行って鎌を取って来ると、窓から跳び込んで二人の喉を切った。櫛は彼の袖から落ちたので、それを私が窓の下で見つけたわけだ。逃亡する前に、自分が誤って別人を殺したことを彼が覚ったかどうか、私には分らない」
「やつはたぶんすぐに気がついたでしょう」とチャオ・タイが言った。「私はあのてあいを知ってます。何か盗もうと部屋の中を探しもしないで、やつが立ち去ったはずがない。その後で犠牲者をもういっぺん良く見て、その女がスーニャンでないことを発見したに相違ない」
「しかしそれなら、その女はだれだったのか?」とホン警部がチャオ・タイに尋ねた。「それにあの修道僧はどうなのかな?」
濃い眉を寄せて、判事が応答した、「白状すると、私にはこれっぽちも思い浮ばないのさ。衣服、額に白斑《しろぶち》のある馬、失踪した時間、どれもこれもまっすぐクー夫人を指し示している。しかし、彼女の父と弟が彼女について言ったことから、彼女の人柄のはっきりした観念を得たと私は思うのだよ。クーのもとに嫁入りした前後に、彼女があの悪党のファン・チュンと交渉があったというのは彼女らしくない。さらに、ツァオ博士がとほうもない利己主義者だと認めたにしても、娘の運命に対する彼の極端な無関心というのが不自然だと私はまだ思っている。殺害された女はクー夫人ではなかったし、そのことをツァオ博士は知っているのだという考えを捨てきれないのだよ」
「他方で」と警部が意見をのべた、「その女は、ペイと娘に顔を見られないように用心していた。そのことは彼女が現にクー夫人だったことを示唆している、彼女なら、知られたがらなかったはずです。彼女の弟が私たちに、姉といっしょによく野原に出かけたと言ったのからすれば、ペイと娘は彼女を見て知っていたと考えられます」
「そのとおりだ」とディー判事は吐息をついた。「そうしてペイが彼女を見たのは顔が血でおおわれていたときだけなのだから、殺害された後でペイが彼女だと認めたことはありえない――仮にその女が現にクー夫人だったとしてもだ。そう、あの修道僧に関しては、昼食後に自身で白雲寺へ行って、もっと多くのことを見つけ出そうと思っている。警部、守衛に公用の輿《こし》を支度するよう伝えてくれ。チャオ・タイ、君はこの午後はマー・ロンと出かけて、アー・クワンという男を見つけ出して逮捕するように。昨日、君ら二人は、危険な犯人は私のかわりに捕えると申し出てくれた。これは君らの出番だぞ! 調べて回る間に、君たちはあの荒寺へも捜索に行くことになるかもしれない。死んだ女がそこに埋められたということはありえない。その死体を盗んだ男が遠くまで行けたはずはないからね」
「私たちはあなたにかわってアー・クワンを捕えますよ、知事!」確信に満ちた笑顔でチャオ・タイが言った。彼は起ちあがって出て行った。
事務官がディー判事の昼飯の盆を運んで来た。彼が箸を取りあげたとき、ふいにチャオ・タイがもどって来た。
「たったいま牢獄のそばを通りかかって、二人の死体が置いてある房をひょいと覗いて見ますと、タンが死んだファンの手をつかんで死骸のそばに坐り込み、顔中涙を流していました。あの食堂の亭主がタンは変わっていると言ったのはこのことだと私は思います。えらくあわれを誘う情景です、知事。あそこへは行かれないほうがよろしいでしょう」
彼は執務室を出て行った。
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第十一章
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ディー判事は白雲寺に管長を訪ね
河岸ですばらしい夕食を呼ばれる
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東の城門へ向う途中、ディー判事はずっと黙り込んでいた。水路《クリーク》に架かった虹橋《にじばし》を渡ろうとして、前方に白雲寺の美しい眺めがひらけると、ホンに感想を語っただけだった。寺の白い大理石の門と青瓦の屋根が、緑の斜面を背景にくっきりと浮きあがっていたのである。
二人は大理石の広い階段を運びあげられて行った。輿丁《こしかつぎ》たちは、からりと開けた回廊に囲まれている広びろとした院子《なかにわ》に輿《こし》をすえた。
ディー判事は迎えに出た初老の僧に大きな赤い名刺を渡した。
「ただいま管長|猊下《げいか》は午後の勤行《ごんぎょう》を終えられるところでございます」と僧は言った。
彼は判事たちをさらに三つの院子《なかにわ》を抜けて導いて行った。院子はそれぞれ山の斜面に沿ってつぎつぎに高くなる平坦地にあったが、美しい曲線を描く大理石の階段で互いに結ばれていた。
四つめの院子の奥にひとつづきの急な石段があった。その先端には、長くて狭いテラスが苔むした岩の中へまっすぐに切れ込んでいるのが見えた。せわしく流れる水の音が聞える。
「泉があるのかな?」とディー判事は尋ねた。
「まことに、閣下」と僧は答えた。「四百年前にこの下の岩から噴出いたしましたものにござります、当寺を開基なされた聖人《しょうにん》が、この場所にて弥勒菩薩《みろくぼさつ》の尊像を発見なされたときのことでござります。お像はあちら、岩の裂け目のあちら側にありますお堂にお祀《まつ》り申してございます」
テラスと高い岸壁の間に五尺ほどの幅で裂け目があるのが判事にも見えた。木の横板三枚を渡した狭い橋が裂け目に架けられ、その奥は大きな暗い洞窟になっている。
ディー判事は橋の上を歩いて、深い裂け目を見おろした。およそ三十尺下方で早い流れがとがった岩岩を越えてほとばしっている。爽快な涼気が裂け目から起ち昇っていた。
橋の向い側に厨子《ずし》があった。内部には金色の格子があって、その奥に赤い絹の幕が垂れさがっているのが見える。それは明らかに聖なるもののうちでも最も聖なるものを秘蔵していた。つまり弥勒菩薩像の御堂だった。
「管長の住まいはテラスの端《はず》れにございます」と老僧は言って、小さな建物へ案内して行った。それは屋根を優雅にそりうたせて、蒼古たる木立のかげに寄りそうように静まっていた。すぐにまた出て来ると、老僧は判事を中へ招じ入れた。ホン警部は外の冷たい石の腰かけに坐った。
彫刻をほどこした黒檀のすばらしい長椅子が、赤い絹の座布団におおわれて、部屋の奥の部分全体を占めていた。その真ん中に、まるまるふとった小柄な男が、ごわごわした金繍のだぶだぶの長衣にくるまって結跏《けっか》して坐っている。彼はきれいに剃った丸い頭をさげると、長椅子の前の彫りもののある大きな肘かけ椅子を手振りで示して判事を坐らせた。管長は振り返って、長椅子の背後にある壁龕《へきがん》の中の小さい祭壇に判事の名刺をうやうやしく置いた。壁の他の部分は、仏陀の生涯から取られたさまざまな場面を刺繍した、絹のどっしりした壁掛けでおおわれている。部屋には何か異様な香の重苦しい匂がひろがっていた。
老僧がディー判事の椅子のそばに、彫りものをほどこした紫檀の小型の茶卓を置き、判事に香りのいい茶をついだ。判事がひと口すするのを待ってから、驚くほど力強く響きのいい声で管長は言った、
「愚僧は、明日、政庁へご挨拶に参上つかまつりたく存じておりました。ただいま閣下よりお訪ねいただきまいて、まことに心苦しう存じます。貧僧はかように晴れがましき栄誉に値するものではござりません」
管長は親しげな、大きな目でまっすぐに判事を見た。堅固な儒教徒として、ディー判事は仏教徒の信条にほとんど共感を抱いていなかったけれど、小柄な管長が注目すべき人物であり、たいへんな尊厳の持主であることを認めざるをえなかった。彼は寺院の大きさと美しさについて、二、三、丁重な言葉をのべた。
管長はぷくぷくした手をあげて、
「これはよろず、われらが弥勒菩薩のお慈悲の賜物《たまもの》でござります」と言った。「四百年前、ありがたくも菩薩には、結跏禅定《けっかぜんじょう》をかたどります五尺を越ゆる白檀《びゃくだん》の御像のお姿をかりて、この世に示現《じげん》あそばされまいた。それをわれらが開基の聖《ひじり》が洞窟中に見出されまいての、かようにこの白雲寺がこの地に建立《こんりゅう》されまいてござります、わが帝国東方の鎮護といたしまして、はたまた、なべての船乗りどもの守護者といたしましての」管長は琥珀の数珠を指の間にすべらせて、ものやわらかに祈祷を唱えた。「遠からずこの陋《いや》しき寺にてとり行ないまする儀式に閣下ご臨席の栄を賜《たま》わりたく、おりいってお招き申しあげる所存でござりました」
「私は光栄と思うでありましょう」頭をさげてディー判事は言った。「どんな儀式なのでしょう?」
「壇越《だんおつ》のクー・モンピン氏は」と管長は説明した、「聖なる御像の等身の模像を作らせまいて、わが帝都にござります宗派の本山、白馬寺に寄進いたしたい旨、許しを願うておりまいた。かの人はこの篤信の業を成就せしめんためには、ついえを惜しむことがござりません。わが山東《シャントン》省随一の仏師ファン師を雇いました。ファン師は当寺にて聖なる御像を素描に画き、この上なき注意をこめて寸法を取りまいてな、その覚書と素描をもとに、三週の間、クー氏の屋敷にて杉材により模像を刻む仕事をいたしまいた。その間、クー氏は尊敬すべき客人としてファン師を遇しましての、仕事が完成いたしましたる折には、盛大な祝宴を催しまいての、ファン師が名誉の席に坐ったのでござります。今朝、クー氏は御像を紫檀の美しい箱にお納め申し、当寺へお運び申しあげまいてござります」
管長は満足した笑みを浮べて丸い頭をうなずかせた。あきらかに、こういった事柄が彼には重大事を意味していたのである。それからまた彼は話し始めた。
「めでたき行事を行いまする吉日が決定されしだい、聖なる御像の模像は当寺にて厳粛に開眼《かいげん》なされ申す。城塞の司令官どのは愚僧どものために、御像を首都まで槍騎兵の分遣隊にて護送する許可を得られまいた。開眼供養の日時が定まりますれば、即刻あらかじめ怠りなく閣下にお知らせ申し上げますでござりましょう」
「日時の選定はちょうど終了いたしてござります、猊下《げいか》」とふとい声が判事の背後であがった。「日次は明日の夜、時刻は第二鼓の終りにござります」
長身の、ほっそりした僧が歩み出た。管長は副管長ホイペンだと紹介した。
「けさ、死んだ僧の身元確認をされたのは、あなたではなかったかな?」とディー判事が尋ねた。
副管長はおもおもしく頭を傾けた。
「貧僧どもすべてにとりましてまったく不思議でございます」と彼は言った、「いかなる理由から、当寺の施物《せもつ》係ツーハイが、あのような異常な時刻に、あの遠い所を訪れましたものやら。御仏の恵みの用向きにて、あの辺りの農夫のたれぞに呼ばれてまいり、盗人の待ち伏せに会うたというのが、唯一の説明かと存ぜられます。さりながら、閣下には何か手がかりを発見なされたことと存じまするが?」
ゆっくりと頬ひげを引っぱりながら、ディー判事は応じた、「いまだ知られざる第三の人物が、殺された女の身もとが確認されることを、どんな犠牲をはらっても防ぎたかったのだと考えています。こちらの施物《せもつ》係がたまたまそこに通りかかったのを見て、そのものは女の死体を包むために僧衣を奪い取ろうとしたのです。発見されたとき、ご承知のとおり、施物係は肌着しか身につけていませんでした。乱闘が起きて、ツーハイはふいの心臓麻痺で死んだと私は推定しています」
ホイペンはうなずいた。「閣下は死体のそばでかのものの杖を発見なされませんでしたでしょうか?」
ディー判事は一瞬考えた。
「いいや!」といささかそっけなく言った。判事はふいに奇妙な事実を思い出した。ツァオ博士は、桑の藪の中で彼をびっくりさせたときには手に何も持っていなかった。だが判事が道路へもどる途中で追いついたときには、長い杖をたずさえていたのだった。
「この機会をおかりいたしまして」とホイペンはつづけた、「昨夜、三人の盗人が当寺に侵入しましたことを閣下にお届け申しあげます。門房におりました僧が、そのものどもが牆壁《しょうへき》をのり越えて逃走するのをたまたま見たのでござります。僧が警報をあげましたときには、そのものどもはあいにく森の中に姿を消してしまっておりました」
「ただちに調査させましょう」と判事は言った。「その僧はそのものどもの人相書を提出できますかな?」
「闇の中で良くは見えなかったのでござります。さりながら、三人はそろって背の高い男どもでございまして、一人は薄く、ふぞろいな顎ひげをはやしておったと申しております」
「その僧がもっと観察力が鋭かったなら」とディー判事はぎこちなく言った、「助けになったのですがな。連中は何かかねめの物を盗んで行きましたか?」
「当寺の地どりを知らぬために、裏講堂のみを探りましたが、そこにはいくつかの棺しかなかったのでござります」
「それは幸運だった」と判事はのべて、管長に向って言葉をつづけた、「明晩、ご指定の時刻に私みずからこちらへ出張いたしましょう」
彼は腰をあげると、一礼して辞去した。ホイペンと老僧が輿まで案内した。
虹橋を渡りながら、ディー判事がホン警部に言った、「マー・ロンとチャオ・タイが日暮れ前にもどるとは思えない。北の城門外の造船所と波止場に沿って、遠まわりをして行こう」
輿丁《こしかつぎ》たちにホンが命令して、町の第二の商店街を通って二人は北へ運ばれて行った。
北の城門の外で、二人の目は活気にあふれた情景に出会った。造船所には数多くの大きな船が木の支柱に支えられて立っている。おびただしい職人たちが下帯をはだけて、船の上や下にむらがって、命令を怒鳴ったり、槌《つち》を叩きつけたりしてやかましい物音が響いている。
判事はこれまで造船所を見たことがなかった。ホンとともに群衆の中を歩きながら、彼はどんなことでも興味をもって見まもった。造船所の端れに、大きなジャンクが船側の片方を下にして横たえられ、六人の職人がその下で草の火を燃やしていた。クー・モンピンと支配人のキム・サンが、親方と話しながらそばに立っていた。
判事とホンを見ると、クーは急いで親方を去らせ、足を引きずりながら二人のほうへやって来た。ディー判事は、職人たちが何をやっているところなのか、もの珍しそうに質問した。
「これは私どもでもっとも大きい外洋ジャンクの一つでございます」とクーは説明した。「あのものたちは船を横に倒しまして、竜骨にとりついて速度を妨げる海草だの、ふじつぼだのを焼いております。間もなくきれいに払い落として、船板の継ぎ目に詰め物をつめなおしましょう」判事が良く見ようとして近寄ると、クーはその腕をとらえて、「それ以上近づいてはなりません、閣下!」と警告した。「数年前、熱のために横梁が急にゆるんで、私の右脚の上に落ちました。骨折は完治いたしませんでした、それがためにこの杖でわが身を支えねばならないのです」
「美しい杖ですな」と判事は玩味して言った、「そのような斑点のある南方産の竹はたいへん珍しい」
「さようで」と応じて、クーは嬉しそうな表情をした。「これはつやが良く出ました。ですが、実際のところ、この種の竹は杖にするには細すぎるのですな、それがために、二本を結び合わせねばなりませんでした」それから声を落として、「私はあの公判に行っておりました。閣下が暴露なさいましたことで、私ははなはだしく動揺してしまいました。家内がいたしましたことは、恐ろしいこと、私と家族全体にとり恥でございます」
「性急に結論を出されてはなりませんよ、クーさん。私は慎重に、あの女の身もとはまだ確認されていないことを強調したはずです」
「閣下のご深慮には深く感謝申しあげております」クーは急いで言って、キム・サンとホン警部をちらりと見やった。
「このハンカチがだれのものかお分かりかな?」判事は縫いとりのある絹のハンカチを袖から取り出した。それをさっと見て、クーは答えた、
「むろん、私が妻に贈物としてやりました揃いの一枚です。どこで見つけられました?」
「あの荒寺近くの道端ですよ。私が思うには――」ふいに彼は口をつぐんだ。あの寺がいつ、どういうわけで無住になったのか、管長に問うのを忘れたことを思い出したのだった。「あなたは」とクーに尋ねた、「あの寺の噂をお聞きですか? あすこには幽霊が出るそうな。もちろん、ばかげてはいる。だが、夜ごとにそこへ来るものが現にあるのなら、そこを調べてみなければならない。白雲寺の堕落坊主があそこでこっそりと何かの悪さにふけっているというのは大いにありそうですからな。それによって、ファンの農園の近くに、あの僧が居合わせたことがはっきりする、おそらく彼はあの寺へ行く途中だったのだ。さよう、白雲寺へもどって、管長か、ホイペンにそのことを問うほうがいい。ついでながら、管長があなたの事業について話してくれました。開眼式は明晩と決まりました。私は喜んで出席いたしますよ」
クーは深々と頭をさげると、「せめて素餐《そさん》をごいっしょしていただかねば、閣下をおかえし申すわけにはまいりません! 造船所のあちらにはまことに良い料理店がございまして、ゆがいた蟹が評判でございます」そしてキム・サンに向って言った、「おまえはつづけてよろしい、やることは分かっているね」
判事は寺へひき返したかったが、クーともっと長く話し合うのは有益かもしれないと思いなおした。ホンに政庁に帰って良いと告げて、クーについて行った。
夕闇が降りつつあった。水辺の優雅な亭《ちん》に入って行くと、もう給仕たちが軒に懸けならべた小さな色提灯《いろぢょうちん》に火を入れているところだった。二人は朱塗の欄干の近くに席をとった。そこだと川を渡って来る涼しい微風や、船尾に色美しい明りをともして船が往き来する賑やかな情景を楽しむことができた。
給仕が湯気の起っている赤い蟹を盛った大皿を運んで来た。クーはいくつか蟹をこわして判事にすすめた。銀の箸で白い肉をつまんで、生姜のたれの入った小皿にひたすと、たいそううまいのが分かった。黄色い酒の小さな杯を乾して、判事はクーに言った、「さきほど仕事場で話し合ったさい、ファンの農場の婦人があなたの妻女だと確信されているように見うけられました。キム・サンの前でこんな申しにくい質問はしたくなかったのだが、妻女があなたに貞節ではないと思われるわけが何かおありですか?」
クーは顔をしかめ、間をおいて答えた、「育ちがまるでちがう女を嫁にするのは誤りでございます、閣下。裕福でこそあれ、私は書物の教育は受けたことがありません。このたび、学者の娘を嫁に迎えることは私の大望でございました。さりながら、私は誤まっていたのでございます。私どもがともにおりましたのは三日ですが、あれが新しい生活を好かぬことが私には分かりました。私は最善を尽してあれを理解しようといたしましたが、申せば、まるで反応がございませんでした」ふいに苦々しい声になって彼は言葉をついだ、「あれは私があれにはふさわしくないと思っておりましたし、私はまた考えておりました、あれはほんとうに自由に育てられたのだから、おそらく以前の愛着が――」
口がひきつった。急いで彼は杯をからにした。
「結婚した男女の内密な関係が問題であるときに」とディー判事は言った、「第三者が意見を述べるのはむずかしい。あなたには疑うだけの十分な理由があるのだと思います。しかし私個人としては、ファンとともにいた婦人が奥さんであったとは信じていない。その女がほんとうに殺されたと信じてさえいないのですよ。奥さんについてなら、ひょっとして奥さんが巻き込まれることになった複雑ないきさつが何なのか、私よりあなたのほうが良くご存じだ。もしそうなら、いま私に話されるよう忠告申しあげる。奥さんのために、それにあなたのためにもです」
クーはちらっと相手を見た。そこにほんものの恐れが閃くのを見て取ったと判事は思った。しかしすぐにクーは平静に返った。
「私の存じておりますことはすべて申しあげました、閣下」
ディー判事は席を起った。
「霧が川いちめんにひろがっている。もう失礼したほうがよさそうだ。すばらしい食事でしたよ!」
クーが輿まで案内すると、輿丁《こしかつぎ》たちが町中を抜けて判事を東の城門まで連れもどった。連中は元気な足どりで進んだ。早く夕飯にありつきたかったのだ。
判事がまた通り過ぎるのを見て、山門の番人たちはびっくりした顔をした。
寺の最初の院子《なかにわ》はだれもいず、上方の本講堂から単調な読経の声が聞えて来た。あきらかに僧侶たちが夕べの勤行《ごんぎょう》をやっているところだった。
やや無愛想な若い僧が判事に応待に来て、管長とホイペンは勤行の最中であるが、自分が管長の住まいへ案内して茶をもてなしたいと告げた。
二人は無言で人気のない院子《なかにわ》を渡って行った。三番目の院子まで来たとき、ディー判事は急に足をとめた。
「裏講堂が火事だ!」と彼は叫んだ。
大きな煙のうねりと怒り狂った火の舌が、下方の院子《なかにわ》から空中に高く起ち昇っていた。
僧は微笑した。
「施物係のツーハイを火葬に付《ふ》する仕度をしておるのでございます」
「まだ火葬というものを見たことがないのだ」とディー判事は大声で言った。「ちょっとあそこへ見に行こう」彼が階段のほうへ進むと、若い僧がさっと腕をとらえた。
「部外者がかの儀式を見るのは許されておりません!」
ディー判事は腕をふりもぎって冷たく言った、「無知はおまえの若さに免じて許してやる。知事に口をきいていることを忘れるな。案内せよ!」
後堂の前の院子《なかにわ》には巨大な火がおおいのない大きな炉の中で燃えていた。僧がたった一人だけいて、せわしく鞴《ふいご》を動かしている。陶器の壺がひとつそのかたわらに立っていた。判事は大きな細長い箱が炉のわきに置かれているのにも気づいた。
「死体はどこにあるのか?」
「あの紫檀の箱の中です」愛想のない声で若い僧は言った。「今日の午後おそく、政庁の人たちが轎子《かご》に載せて運んでまいりました。火葬の後、灰はあの壺に納められるのです」
熱気はほとんどたえがたかった。
「管長の住まいへ案内せよ」判事はそっけなく言った。
テラスへ判事を連れて行くと、僧は管長を捜しに立ち去った。茶のことはまるっきり忘れてしまったらしい。それを気にかけるでもなく、ディー判事はテラスをぶらつき始めた。岩の裂け目から昇って来る冷たく湿った空気が、炉のそばの恐るべき熱気のあとでは気分を爽やかにしてくれる。
突然、くぐもった叫びが聞えた。彼はじっと立ちつくして耳を澄ました。岩の裂け目の下のほうで流れがささやいているほかは何の音もしなかった。すると、あの叫びがまた聞え、しだいに高くなり、それから唸り声になって消えた。それは弥勒仏の洞窟から聞えて来たのだった。
洞窟の入口へ渡されている木の橋を判事は急いで登ろうとした。二歩踏み出したところで、彼はふいに凍りついた。岩の裂け目からたち昇っている靄《もや》をすかして、橋の向うの端に死んだ知事が立っているのが見えた。
冷たい恐怖に心臓をつかまれて、彼は身動きせずに灰色の長衣をまとった幽霊を凝視した。空ろな眼窩《がんか》が盲人のようにこちらを見つめて、こけた両頬にぞっとする腐敗のしみが浮んでいるのが、何ともいえない、ぞくぞくする恐怖で判事をいっぱいにした。幽霊は肉がそげ落ちて透きとおった手をゆるゆるあげると、手さきを下へ曲げて橋を指さした。そしてのろのろとかぶりを振った。
判事は幽霊の手が指さしている辺りを見おろした。橋の広い板が見えるだけである。彼は目をあげた。幽霊は霧の中へ溶け込んで行こうとしているように見える。それから何もなくなった。
ひとしきり判事は身ぶるいしていた。彼は用心しながら橋の真ん中の板に右足を置いた。板は落ちた。岩の裂け目の三十尺下の底の岩に、板が音を起てて落下したのが聞えた。
彼は足もとの黒い隙間を見つめて立ちすくんでいた。しばらくして後へひき返すと、額から冷たい汗を拭った。
「閣下、お待たせ申しあげまして、まことに申しわけなく存じます」と声がかかった。
ディー判事は振り返った。そこにホイペンが立っているのを見て、彼は無言で橋板の欠け落ちたところを指さした。
「あの朽ちかかった橋板は架けかえなければならないと」困惑したようにホイペンは言った、「すでに何度となく管長には申しているのでござります。近日中にもたいへんな事故が起こりましょう」
「それが起こりかけたのだ」と判事はすげなく言った。「運よく渡りかけたところで私は足をとめた、洞窟から叫び声が聞えたからだ」
「ああ、それはただの梟《ふくろう》でございます、閣下。洞窟の入口近くに巣をかけているのでござります。あいにくと、偈頌《げじゅ》を唱えませんうちは、管長はお勤めを離れられません。私にできますことが何ぞござりましょうか?」
「さよう」と判事は答えた。「猊下《げいか》によろしく伝えてくれ!」
彼はくるりと向きをかえて階段のほうへ歩いて行った。
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第十二章
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幻滅させられた恋人は告白して
朝鮮人の漆職人はあとをくらます
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マー・ロンが百姓娘を家に連れて行くと、陽気な年とった娘の伯母は、うちで粥を食べて行けとしきりにすすめた。チャオ・タイはしばらくの間、守衛所でマー・ロンを待っていたが、巡査長につきあってそこで飯を食べた。しかしマー・ロンが帰って来ると、即刻、二人は連れだって騎馬で出かけた。
街へ出るなり、マー・ロンがチャオ・タイに尋ねた、「あそこを出て来ようとしたら、あのスーニャンって娘がおれに何てったか分かるか?」
「あんたはすてきな人よってさ」とチャオ・タイは興味なさそうに言った。
「女についちゃ何も分かっちゃいないな、兄貴」マー・ロンはもったいぶって言った。「もちろんあの子はそう思っていたさ、だけど、女ってなそんなこと言わないもんだ、ええ? 少なくともしょっぱなからはな。そうじゃない、あの子はおれのこと優しいと言ったのさ」
「やれやれ!」びっくりしてチャオ・タイは大声で言った。「おまえが――それで優しいだって! かわいそで、ばかな田舎娘よ! だが、それならおれは心配する必要がない、おまえにゃ見込みがないからな。おまえにゃ、これっぽっちの土地もない、だろ? あの子がそいつが欲しいと言ったのをおまえは聞いたはずだ」
「おれには別のものがいくつもあるさ」とマー・ロンは気どって言った。
「女の裳裾《もすそ》から気をそらして欲しいね、兄弟」チャオ・タイは文句を言った。「アー・クワンって野郎のことを、巡査長がいろいろ教えてくれた。あいつを町で捜す必要はないのだ。やつはここへはたまにしか来ない、飲むためか、ばくちのためだ。あいつはここの人間じゃない。おれたちはどこか、奥の田舎のほうでやつを見つけなきゃならない、そのあたりにあいつはくわしいんだよ」
「やつが根っからの田吾作なところからすれば、この県を離れちゃいないと思う。あいつは町の西の森へ行っただろう」
「なぜそうしなきゃならん? あいつの知ってるかぎりじゃ、あいつを殺人に結びつけるものは何もないはずなんだ。仮におれがやつの立場だとすれば、どこかこの近辺に二、三日、鳴りをひそめて、どっちのほうへ風が吹くかを見るな」
「それなら、あの荒寺の捜索から始めれば、一石二鳥かもしれないぜ」
「こんどだけはあたった」渋い顔でチャオ・タイが言った。「そこへ行こう」
西の城門から町を出て、二人は交叉地点にある守衛所まで街道を馬を走らせて行った。そこに馬を残して、寺まで道の左側を歩いて行った。それだと彼らの姿は木立に隠れて見えないのだった。
「巡査長が言ったことだが」荒れはてた門房まで来たとき、チャオ・タイが小さな声で言った、「アー・クワンは木工と喧嘩のほかは、何をやっても間抜けだそうだ。それと匕首《あいくち》できたない手を使うって話だ。で、おれたちはこの仕事に真剣にとりかかって、あいつに見つからずに寺へ近づいたほうがいい――あそこにいるとすればな」
マー・ロンはうなずいて門のかたわらの下生《したば》えの中に匍い込み、チャオ・タイが後につづいた。
潅木の茂みをしばらくしゃにむに進んでから、マー・ロンが手をあげた。用心ぶかく枝を分けて、彼は友達にうなずいた。苔がびっしりはびこった院子《なかにわ》の向う側に立っている、雨風にさらされた石造りの高い建物を二人はことこまかに観察した。ひとつらなりの崩れかかった石段が正面の入口に通じていたが、入口はもう長いこと扉がなくなって暗くぽっかりと開いている。つがいの白い蝶が高くのびた雑草の間をひらひら舞っていて、そのほかにはかすかに動くものさえ何ひとつなかった。
マー・ロンが小石を拾って壁に向って投げた。石はからからと音を起てて石段に落ちた。二人は待った。目は暗い入口にぴたりと吸いついていた。
「中で何か動いたのが見えた!」とチャオ・タイがささやいた。
「おれはあそこから中へすべり込む」とマー・ロンが言った、「おまえは寺を回って脇門から入ってくれ。何か見つけたら合図しよう」
チャオ・タイが右のほうへ下生えの中を移動して行き、マー・ロンは反対の方角へ匍って行った。建物の左角近くへ来たと見当をつけると、マー・ロンは下生えから出て壁を背にして立った。そのまま壁づたいに用心しながら移動して石段の下に着いた。彼は耳を澄ました。ひっそりと静かだった。迅速に石段を駆け登り、中へ入って扉のわきの壁を背にして立った。
目が暗がりに慣れると、大きな、天井の高い講堂が、奥の壁ぎわに古びた供物台がある以外はからっぽなのが分かった。四本の太い中心の柱が、天井の近くでどっしりした大梁《おおはり》によって結合された屋根を支えている。
マー・ロンはその有利な場所を離れて、祭壇のとなりに開いている扉に向った。柱の間を通り抜けようとすると、頭上でかすかな音がした。彼はちらりと見あげて、わきへ身を寄せた。何か大きな黒っぽいものが激しい勢いで降下して彼の左肩を撃った。
衝撃でマー・ロンはどさっと床に投げ出され、身体中の骨が軋《きし》った。彼の背を折ろうとした大男も床に落ちていたが、マー・ロンより先に起ちなおると、躍りかかって喉に手をかけた。
マー・ロンは男の腹に両足をつけて、男を持ちあげると自分の頭ごしに投げた。マー・ロンがやっと起ちあがったところへ、相手がまた突っ込んで来た。マー・ロンはその股ぐらを狙って蹴った。しかし相手は電光のように横へ跳ぶと、突進してマー・ロンの胴を抱え込んで強烈に締めあげた。
激しくあえぎながら、どちらも相手を締めひしごうとした。男はマー・ロンと同じくらい大きく、力があったが、習練をつんだ格闘士ではなかった。相手に押え込まれて両腕が自由にならないふりをしながら、マー・ロンはゆっくりと高い供物台に向ってあとじさった。弱腰《よわごし》が供物台の端についたとたん、マー・ロンは急に腕を振りほどき、相手の両腕の下へくぐらせて喉くびを締めあげた。つまさき立って喉を締めつけながら、相手の胴をのけぞらせ、男の手が離れると、全体重をかけて力のかぎり圧しつけた。ばきっといやな音がして、男の身体がぐたっとなった。
マー・ロンはつかんでいた手をゆるめ、相手が床に崩れるままにした。あえぎながら、彼は男を見おろして立っていた。男はまったく静かに横たわり、両目は閉じていた。
ふいに男は両腕を動かして、へんな、何ということもない仕草をした。両目が開いた。マー・ロンはそばに屈み込んだ。男がもうだめなのが分かった。
倒れた男は小さい、むごそうな目でマー・ロンを見た。細い黒ずんだ顔が引きつった。男はぶすぶすっと言った、「脚が動かせねえよ!」
「おれを責めんなよ」とマー・ロンが言った。「うん、おめえの様子じゃ、おれたちゃ、長いことつき合いを楽しむってわけにゃいかねえが、おれが政庁の士官だってこたあ、おめえに言ったほうがいいだろう。おめえはアー・クワンだな?」
「てめえなんざ、腐っちめえ!」と男は言った。そして呻き始めた。
マー・ロンは入口へ行き、指笛を吹くとアー・クワンのそばにもどった。
チャオ・タイが走って入って来たので、アー・クワンは悪態をつき始めた。それからぶつぶつ言った、「石を投げるだましは、この道じゃいっち古い手よ」
「おめえが梁《はり》の上から、おれの頸に跳びかかろうとしたんだって、そんなに新しいわけじゃないぜ」とマー・ロンが冷たく応じ、チャオ・タイに向って言いたした、「こいつは長くもたないよ」
「どっちみち、おれはあのあばずれのスーニャンをやったさ!」男は不満たらしく言った。「新しい野郎と寝てやがった、それも旦那の寝床ん中で! おれなら屋根裏の乾草でいいってんだ!」
「おめえは暗やみんなかで、ちょいとへまをやらかしたんだ」とマー・ロンが言った、「だけど、いまはそれでおめえを苦しめたかねえ。あの世で閻魔《えんま》さんがまちがいなく、何もかもきれいにあかしてくれるだろうよ」
アー・クワンは目をつぶって呻き声を起てた。あえぎあえぎ息をしながら、「おれは強いんだ。おれは死にたくねえ! だいち、へまなんかやらなかった。兄弟、鎌はあいつの喉を裂いて、骨を突き刺したのよ」
「おまえは鎌にかけちゃうまい男さ」とチャオ・タイが言った。「あの子がいっしょに寝てた男はだれだったんだ?」
「知らねえ、気にもならねえ」とアー・クワンは食いしばった歯の間からぼそっと言った。「けど、そいつも当然の報いを受けたんだ。血があいつの喉から噴き出た、女もまるっきり同じよ。あばずれにぴったしの報いさ!」男はにやにや笑い始めたが、急に長い身震いが厚い胴をおののかせ、顔が土気色に変わった。
「あそこをうろついていた、別のやつはだれだったんだ?」さりげなくマー・ロンがきいた。
「おれのほか、だれもいなかったぜ、どあほう」とアー・クワンはぶすっと言った。ふいに彼はマー・ロンを見あげた。小さい目に狼狽の色が浮んだ。「おれは死にたくない! 怖いんだよ!」
二人の友達は何もいわずにうやうやしく男を見つめた。
男の顔が片頬だけ微笑して歪んだ。両腕がぴくっと動いた。それから静かになった。
「こいつ、いっちまったぜ」かすれ声でマー・ロンが言った。起ちあがって彼は言いつづけた。「こいつ、もうちょいでおれをやっつけるところだったんだがな。待ち伏せてたんだ、柱の間のあの梁のどれかの上に匍いつくばって、天井に近い、あそこの高いところでさ。だけど跳び降りる前に音を起てた、それでおれはちょっと身をよじってかわせた。やっとのことでだ。たくらんだとおりに、あいつがおれの頸に跳び降りてたら、おれは背中をへし折られてただろう」
「そしておまえのほうがあいつの背中をへし折った、それで勝負は|たい《ヽヽ》ってわけだ」とチャオ・タイは言った。「この寺を調べよう、知事の命令だからな」
二人は中央と後ろの院子《なかにわ》をこまかに調べ、無人の僧房や伽藍の背後の木立の中まで捜査した。だが、野鼡を何匹かぎょっとさせただけで、何も見つからなかった。
講堂にもどると、チャオ・タイが考え込んで祭壇の供物台を見つめた。
「覚えてないか? こういう物の後ろには、災難があったときに、坊主どもが銀の燭台や香炉を隠しとく空洞がよくあるもんだ」
マー・ロンはうなずいた、「ついでに見とこう」
二人は重い供物台を押しのけた。その後ろの煉瓦の壁の中には、現に低くて深い壁龕《へきがん》があった。マー・ロンが前屈みになって覗き込むと罵声をあげ、
「古くて折れた坊主の杖がぎっしりつまってやがるぜ」とうんざりした口調で言った。
二人の友達は正門から外へ出ると、守衛所までぶらぶら歩いてもどった。アー・クワンの死体を政庁に運ぶよう、そこにつめている巡査に必要な指示を与えたのち、馬に乗って帰って行った。西の城門を通ったときはすでに暗かった。
政庁の前でホン警部に出会った。ちょうど造船所から帰って来たところだが、判事はそこでクー・モンピンと夕食をとっているとホンは言った。
「おれは今日運が良かったんだ」とマー・ロンが言った。「だから九花果園で二人にすてきな夕飯をおごるよ」
食堂に入って行くと、プオ・カイとキム・サンがすみのテーブルに向っていた。大きな酒注ぎが二つ、二人の前に立っている。プオ・カイの帽子はぐらりと後ろにかしいで、彼は人に対して優しい気分でいっぱいらしかった。
「ようこそ、わが友たちよ!」彼は陽気に叫んだ。「ここへ来て、いっしょにやりたまえ。キム・サンは来たばかりだ。君たちなら彼が私に追いつこうとするのを助けられるぞ」
マー・ロンはプオに歩み寄って厳しく言った、「ゆうべ、あんたは狒狒《ひひ》みたいに酔っぱらっていた。おれと友達をえらく侮辱して、きいきい助平ったらしい歌で気分をだいなしにした。あんたに宣告する、酒は払えよ、食い物はおれがもつ!」
一同は笑った。亭主が簡単だがおいしい食事を運んで来て、五人の男たちは何わたりも酒を酌《く》みかわした。プオ・カイが新しい酒注ぎを注文したとき、ホン警部が腰をあげて言った、「私たちは政庁にもどったほうがいい。知事がいまごろは帰っているだろう」
「やれ、そうだった!」マー・ロンが大声で言った。「ちがいない。おれたちはあの寺のことを報告しなけりゃならない」
「君たち二人はついに光明を見たのかね?」とプオ・カイが疑いぶかく質問した。「教えてくれ、お祈りのご利益《りやく》があったのはどの寺だね?」
「おれたちはアー・クワンを荒寺で捕えたのさ」マー・ロンが言った。「あの寺は確かにいまは荒れはてていて、折れた杖が山積みになっているほかは何もないんだ!」
「非常に、非常に重要な手がかりだぜ!」笑いながらキム・サンが言った。「あんたたちの親分はそれがお気に召すだろうよ」
プオ・カイは三人を政庁まで送って行きたがったが、キム・サンが言葉をつづけた。「このあしらいのいい店にもう少しいて、あと何わたりか飲もうよ、プオ・カイ」
プオ・カイはためらった。そしてまた腰をおろすと、「いいさ、じゃ、あとほんの気もちだけ一杯だよ。私が鯨飲《げいいん》には賛成じゃないのを思い出してくれ」
「ほかに仕事がなかったら」とマー・ロンが言った、「晩に、あとでまた寄るよ、あんたがその最後の一杯をどうやって飲むのか、ちょっと見にさ」
三人は、ディー判事がひとりで執務室に坐っているのを見つけた。彼がもの憂げに疲れているらしいのにホン警部は気づいた。だが、マー・ロンがアー・クワンの発見について報告するのを聞くと、判事は晴ればれと明るくなった。
「それでは誤りによる殺害だという私の説は正しかったわけだ」と彼は言った。「しかしまだ女の問題があるな。アー・クワンは殺害のあと、ただちに現場を離れた、銭箱を持って行くこともなしにだ。彼は逃げたあとで何が起こったのか何も知らなかったわけだ。あの盗癖のある下僕のウーは、この事件に確実にからんでいる第三の男をちらっとは見たかも知れない。そいつが捕まれば、いずれは分かるだろうよ」
「私たちは寺全体とまわりの細長い林を徹底的に調べました」とマー・ロンが言った、「ですが、死んだ女は見つかりませんでした。ただ祭壇の供物台の後ろに折れた杖が山積みになっているのを見つけました、坊主がいつも持ち歩いているようなやつですが」
判事は椅子の中でまっすぐに身を起こした。
「坊主の杖だって?」信用できないように大きな声を出した。
「古ぼけた用ずみのばかりです、知事」とチャオ・タイが言葉をさしはさんだ。「どれもみな折れていました」
「何て妙なものが見つかったものだ」ゆっくりとディー判事は言って、考え込んだ。それから身を起こすと、マー・ロンとチャオ・タイに言った、「君たちは一日ご苦労だった。もうさがって、ゆっくり休んだほうがよい。私はここに残ってホンとちょっと話をする」
二人の壮漢が退出したあと、ディー判事はまた椅子におさまって、白雲寺で橋板がはずれたことを警部に語った。「繰り返し言うが」と彼は話を結んだ、「それは私を殺そうとして入念に企てられたのだよ」
ホンは主人を心配そうに見やった。
「反対に、その板はほんとうに虫がくっていたのかも知れません。閣下がそれに重みをかけたとき――」
「私はしなかったよ」判事はぶっきらぼうに言った。「ちょっとためしに足で軽く叩こうとしたんだ」ホンのわけが分からない表情を見て、急いでつけくわえた、「それを踏みかかった、ちょうどそのとき、私は死んだ知事の幽霊を見たのだ」
建物のどこかでばたんと締まる扉の荒い音が部屋に響いた。
ディー判事はふいに起ちあがった。
「あの扉を修理させろとタンに言いつけたはずだ!」彼は怒鳴った。ホンの青ざめた顔にちらと目をとめると、彼は茶碗を取りあげて唇へ運んだ。が、飲まなかった。茶の表面に浮んでいる小さな灰色の粒子をじっと彼は見つめた。ゆっくりと茶碗をもとに置くと、緊張して言った、「見ろ、ホン、だれかが私の茶に何かを入れた」
二人は無言で灰色の粉末を見た。それはゆっくりと熱い茶に溶けて行った。急にディー判事は指でテーブルの面を撫でた。それから引きつった顔が弱々しい微笑でゆるんだ。
「私は神経質になっているね、ホン」彼は苦々しく言った。「あの扉がぴしゃんと締まって、天井から塗料か何かを落としたのだよ。それだけのことさ」
ホン警部はほっと溜息をついた。茶卓へ行くと、判事のために新しい茶碗についだ。再び腰をおろして、彼は意見をのべた、「おそらく、つまるところ、板がゆるんでいたというのもごく自然な説明になりますよ、閣下。知事を殺した男があえて閣下を襲うとは思えません。その男の身もとについて、私たちにはわずかな手がかりもないのですし――」
「しかし彼はそのことを知らないのだよ、ホン」と判事はさえぎった。「彼は調査官が私にどんなことを教示したかを知らない。私が彼に対して裁判の手続きを取っていないのは、ただ私が辛抱して好機を待っているからだと考えているのかもしれない。疑いもなく、その未知の犯人は私のやることをすべてきわめて注意ぶかく追跡しているし、私がやったり、言ったりした何かが、私が彼の手がかりを得たのだと彼に考えさせているのかも分らない」判事はゆっくりと顎ひげを引っぱった。「私はもうできるだけ身をさらしてみようと思う、そいつがまた何か試しにやるように誘い出すためにだ。そうすれば、たぶんうっかり本性を現わすだろうよ」
「閣下はそんな恐ろしい危険を冒してはなりません!」ホンは仰天して叫んだ。「そいつが残忍で利口な悪党だということは分かっているんです。やつがいま、どんな新しい邪悪なたくらみを用意しているか、天のみぞ知る! それなのに私たちには分かってさえいないんです――」
ディー判事はよく聞いていなかった。急に起ちあがって、蝋燭を取りあげると、そっけなく言った、「いっしょに来てくれ、ホン!」
判事が急いで本院子《ほんなかにわ》をつっ切って、知事の官邸に行くのをホン警部は追っかけた。中へ入ると、判事は無言で暗い回廊を抜けて書斎に向って行った。戸口の中に立って、蝋燭をかかげて判事は部屋を調べた。部屋はそっくりこのまえ来て立ち去ったときのままだった。焜炉に近寄ると、彼はホンに命じた、「あの肘かけ椅子をここまで引きずって来てくれ、警部!」
ホンがそれを食器棚の前にすえると、判事は椅子の上にのって、蝋燭をさしあげながら、赤漆を塗った屋根の梁を細かに調べた。
「おまえの短刀と紙を一枚くれ!」昂奮して彼は言った。「そして私にかわって蝋燭を持ってくれ」
ディー判事は左の掌《てのひら》に紙をひろげると、右手に持った短刀の先で梁の表面をこすり落とした。
下へ降りると、彼は短刀の先を紙の上でていねいに拭った。ホンに短刀を返して、その紙を折りたたんで袖に納めた。それからホンに尋ねた、「タンはまだ記録室にいるかね?」
「私がもどったとき、机に向っているのを見たように思います、閣下」と警部は答えた。
判事は急いで書斎を出て記録室へ行った。二本の蝋燭がタンの机の上にともっている。タンは背を曲げて椅子に坐り、まっすぐ前方を凝視していた。二人が入ってくるのを見ると、タンはあわてて起立した。
そのやつれた顔を見て、ディー判事は思いやりがなくもない口調で言った、「君の助手が殺されたことは、大きな衝撃だったに相違ない、タン。家に帰って、早く寝たほうが良い。しかし、当面、私は君から情報が欲しいのだ。話したまえ、ワン知事の書斎では、彼が死ぬ少し前に何か修理をやったのかね?」
タンは額に皺を寄せた。
「いいえ、閣下、亡くなられる少し前ではございません。ですが、それより二週間ほど前、ワン知事は私にお話しになりました、訪問客の一人が天井の色のはげた個所のことを言って、漆職人をよこして修理させると約束したというのでございます。知事は私に、その職人の都合がつきしだい、呼んで仕事をさせるようにと命ぜられました」
「その訪問客というのはだれだったのか?」緊張してディー判事は尋ねた。
タンは首を振った。
「私はまことにもって存じません、閣下。当地の名士の間で、知事はいたってお顔が広うございました。名士のほとんどは、朝の公判のあと、いつも書斎に訪ねてまいりました、一杯のお茶と雑談のためにでございます。知事はきまってみずから客に茶をいれられました。管長、副管長のホイペン、商店主のイーとクー、ツァオ博士、それから――」
「その職人は見つけ出せると思う」とディー判事はもどかしそうにさえぎった。「漆の木はこの地方には育たない。この県に漆職人が大勢いるはずはないからな」
「知事が友人の申し出を喜ばれましたのもそのためでございます。私どもは、当地に漆職人がおって、使えるとは存じておらなかったのでございます」
「守衛たちに聞いて来い」判事は命令した。「連中は少なくともその職人を見たにちがいない。私に報告せよ、執務室にいる」
再び机の奥に坐ると、判事はホン警部に熱っぽく話した、「塵が私の茶の中へ落ちたことが解決を与えてくれたのだよ。殺害者は、茶の湯の熱い蒸気が原因でできた天井のあの黒っぽい個所に気づいた。と同時に、知事がいつも食器戸棚の上の同じ位置に銅の焜炉を置いていることを覚った、そしてその事実が彼に邪悪な計画を教唆したのだ! 彼は共犯者に漆職人の役をやらせた。そいつは色のはげた個所を修理すると見せかけて、屋根の梁に、焜炉のぴったり真上になるように小さい孔《あな》をきざんだ。そいつは孔の中へ蝋の丸《たま》を一つかそこら詰め、その丸には毒の粉末が含まれていた。そいつがやる必要があったのはそれだけだ! 読書に没頭していると、知事が茶の湯をしばらく沸騰させてしまってから起ちあがって、平鍋から茶びんに湯をそそぐことがちょくちょくあるのをそいつは知っていたのだ。遅かれ早かれ熱い蒸気が蝋を融かして、丸は沸騰した湯の中に落ちただろう。それはたちまち溶解して見えなくなる。単純にして有効というわけだ、ホンよ! ついさっき、私は屋根の梁にその孔を見つけた、色がはげた個所の中心にだよ。ほんの少量の蝋がふちにまだくっついていた。つまりは、こういうやりかたであの殺人はなされたのだ」
タンが入って来た。「守衛のうち二人があの職人を覚えておりました、閣下。知事が亡くなられる十日ほど前に一度、その男は政庁にまいりました、知事閣下が午後の公判を勤めておられたさいごにでございます。その男は港の船の一つから来ました朝鮮人で、中国語はほんのかたことしか話せませんでした。私が中に入れても良いと指示しておきましたものですから、守衛どもは男を書斎に連れて行ったのでございます。守衛たちはそこに男とともに残り、何か盗んだりせぬよう見ておりました。彼らが申しますには、男はいっとき屋根の梁の上で仕事をすると、梯子を降りまして、損傷がひどいから、天井全体を塗りなおさなければならぬという由のことを、何やら分かりづろう申したそうにございます。男は出て行ったきり、二度と見えませんでございました」
ディー判事は椅子の背によりかかった。
「またひとつ袋小路だ!」と陰鬱に彼は言った。
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第十三章
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ふたりの友達は舟遊びに出かけて
恋人の逢引きは思わぬ結末になる
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マー・ロンとチャオ・タイは上機嫌で九花果園にもどって行った。食堂に入ったとき、チャオ・タイが満足そうに言った、「今度こそほんとにすばらしい酒盛りをやってやるぞ」
しかし二人が友達のテーブルに歩み寄ると、キム・サンがみじめたらしくこっちを見てプオ・カイを指さした。プオ・カイはテーブルにつっぷして、からになった酒注ぎが前にずらっと並んで立っていた。
「プオ・カイさんはせかせかとあんまりたくさん飲みすぎました」とキム・サンは痛ましげに言った。「やめさせようとしたんだけど、聞こうとせず、いまはむかむかした気分なんだそうですよ。処置なしってわけです。お二人がご親切に面倒を見てくれれば、私は消えたほうがいい。あの朝鮮人の女の子が私たちを待っているんだけど、残念です」
「どんな朝鮮人の女の子だ?」チャオ・タイがきいた。
「ユースーですよ、二番目の船の」とキム・サンは答えた。「今日、あの子、夜は休みなんです。それで朝鮮人区のどこかおもしろいところ、私でさえまだ知らない場所を私たちに見せてやろうと言ったんです。そこへ行って、水の上で飲もうと思って、もう小舟を雇ってあるんですがね。みんなおじゃんになったと知らせに行きます」彼は腰をうかした。
「そうさな」とマー・ロンがもっともらしく言った、「あんたとちがって、おれたちならこいつを起こして正気づかせられるよ」
「やってみましたよ」キム・サンは言った、「だけど注意しときますが、プオ・カイさんは、怒りっぽい気分でむかむかしているんですよ」
マー・ロンがプオ・カイのあばらを突っつき、襟をつかんでテーブルから引っぱりあげた。
「目を覚ませよ、兄貴!」と彼は耳もとで怒鳴った。「行こうぜ、酒と女のところへだ!」
プオ・カイはぼんやりした目つきでみんなを見た。
「何度でも言うぞ」どろんとした口調でのろのろ言った、「何度でも言うぞ、君らを軽蔑する。君らはそろって下劣だ、君らはだらしない飲んべえの仲間にすぎん。君たちとはつき合わないぞ、だれともだ!」
彼はまたテーブルにつっぷした。
マー・ロンとチャオ・タイはばか笑いした。
「そうだよ」とマー・ロンがキム・サンに言った、「やつがそんなふうに思ってるんなら、あんたはやつをほっとけばいいんだ」チャオ・タイに向ってつけくわえた、「ここで静かに飲もうや。おれたちが出てくまでにゃ、プオ・カイはさめると思うよ」
「プオ・カイなんぞのせいで、出かけるのを中止するのは惜しいみたいだな」とチャオ・タイが言った。「おれたちは朝鮮人区に行ったことがない。どうして代りにおれたちを連れてかないんだ。キム・サン?」
キムは唇をすぼめた。
「それは簡単にいかないでしょうね。お聞きでしょう、朝鮮人区は多少とも独自の管轄権を有する、という申し合せがあるんです。区長が援助を要請しなければ、政庁の職員はそこへ行かないことになっています」
「ばからしい!」チャオ・タイが大声を出した。「おれたちは微行《おしのび》でそこへ行けるさ。帽子をぬいで髪を結ぶ、そうすりゃだれにも分かるもんか」
キム・サンはためらっているように見えたが、マー・ロンが叫んだ、「いい考えだ、行こう!」
彼らが起ちあがりかけると、プオ・カイがふいに顔を上げた。
キム・サンが肩を叩いてなだめるように言った、「あんたはここで良く休んで、琥珀の液のききめをさますんだよ」
椅子をひっくり返して、プオ・カイは跳び起きた。ふらふらゆれる指でキム・サンをさして叫んだ、「連れて行くと約束したんだぞ、口さきだけの助平め! おまえには酔ってると見えるかもしれんが、私はお軽くあしらわれるような男じゃないぞ!」彼は決然と酒注ぎの首をつかんで取りあげると、キム・サンに向って振り動かした。
ほかの客たちがこちらを眺め始めた。マー・ロンが大声で悪態をつくと、プオ・カイの手からぱっと酒注ぎを取って怒鳴った、「救いようがない。こいつをいっしょに引きずってこう」
マー・ロンとチャオ・タイがプオ・カイを挟んで連れて行き、キム・サンが勘定を払った。
外へ出たとたん、プオ・カイがしめっぽい調子でぐちり始めた、「とっても具合が悪いんだ、歩きたくない。横になりたい、舟ん中でだ」プオ・カイは通りの真ん中にへたり込んだ。
「そいつはできないよ!」と陽気に言って、マー・ロンが引っぱって立ちなおらせた。「けさがた、おれたちが、水門にあるあんたの気持いい鼡穴をふさいじまった。だらけた足をのばすしかない。それがあんたのためにもなるだろうよ」
プオ・カイは急に泣き出した。
「やつに轎子《かご》を雇ってやれよ」辛抱できなくなってチャオ・タイがキム・サンに言った。「東の城門でおれたちを待ってろ、門番に言って、あんたらを通させるよ」
「あんたたちが来たんでよかった」とキム・サンが言った。「格子柵の隙間が修理されたとは知らなかった。門のところで会いましょう」
二人の友は活溌な足どりで東へ向った。黙っていっしょに歩いている仲間を、マー・ロンが怪しむように横目で見やった。
「何てこった!」と彼はふいに大きな声を出した、「またそいつにかかったなんて言わないでくれよ! 言っとくがね、ちょいちょいそいつにかかることはないけど、かかるとなると、おまえはひどくかかるんだ。そいつをはぐらかせって、何べんも教えたはずだよ、兄貴! こっちでちょっぴり惚れ、あっちでちょっぴり惚れる、それがいい思いをして面倒なことにならないやりかたってもんだ」
「それがどうしようもないんだよ、あの女が好きなんだ」とチャオ・タイはぼそり言った。
「いいさ、かってにやってくれ」マー・ロンはあきらめて言った。「だけど、あとになって言うなよ、おれがおまえに警告しなかったなんてな」
二人は東の城門に着くと、キム・サンが門番たちを相手に辛辣《しんらつ》にやりあっていた。プオ・カイは轎子《かご》に坐り込んだまま、声をはりあげてわいせつな歌を唱って、轎夫《かごかき》たちをおおいに笑わせている。
チャオ・タイが自分たちは命令によって水路《クリーク》の向う岸で、プオ・カイをある男と対面させに行くのだと門番に説明した。門番たちは疑っていたが、しぶしぶ一行を通過させた。
金を払って轎子《かご》を返すと、一同は虹橋《にじばし》を渡って向こう岸で舟を雇った。舟の中で、マー・ロンとチャオ・タイは帽子を袖の中へ押し込んで、荒縄の切れはしで髪を結んだ。
すばらしく大きな朝鮮の遊覧船が二番目の船の舷側にもやってあった。色提灯をいくつも吊した索輪《つなわ》が、二枚の低いあてむしろの間にかかっている。
キム・サンが船に昇り、マー・ロンとチャオ・タイが後ろにつづいた。チャオ・タイがプオ・カイを引っぱりあげた。
ユースーが手すりによっかかって立っていた。ユースーは白絹に花模様を浮かせた、長くてまっすぐな自分の国の衣裳をまとって、絹の薄ものを、美しくて大きな蝶結びにして胸乳の下をきつく締め、足もとへ扇のようにひろげて垂らしていた。髪は高い束髪に結いあげ、耳の後ろに白い花をさしている。女を見て、チャオ・タイは讃嘆のあまり目を見はった。
頬笑みながら、女は挨拶をした。
「あなたたち二人もいっしょとは知らなかったわ。でも、なんで頭のまわりに、そんな妙なものをつけているの?」
「うへ!」とマー・ロンが言った。「だれにも言うなよ。おれたちゃ変装してるんだ」それから二番目の船のふとった女に呼びかけた、「へい、おばあちゃん、おれのぽちゃぽちゃの女の子をよこしてくれ! 船酔いしたら、あの子はおれの頭を抱いてくれるはずだよ!」
「女の子なら朝鮮人区でいくらも見つかりますよ」と我慢しきれないでキム・サンが言った。彼は朝鮮語で三人の船頭に大声で命令した。船頭たちは遊覧船を突き離すと、漕ぎ始めた。
キム・サンとプオ・カイ、それにマー・ロンは、甲板に漆塗の低いテーブルを囲んで敷いてある絹の座布団に胡座《あぐら》をかいた。チャオ・タイも座に加わろうとしたが、甲板の船室の戸口でユースーが彼を手招きした。
「朝鮮の船がどんなだか見たくないの?」と口をとがらしてきいた。
チャオ・タイはちらっと仲間を見た。プオ・カイは酒をついでいて、キム・サンとマー・ロンは話しこんでいる。女に歩み寄って、彼はしゃがれ声で言った。「連中がおれを見逃すとは思えない、しばらくの間でもね」
彼女はいたずらっぽく目をきらきらさせて彼を見つめた。こんなに美しい女を見たことはないと彼は思った。女が中に入った。階段を降りて、彼は主船室へ彼女について行った。
色絹をはった提灯が二つ、ぼんやりした明りで、目のつんだ厚い葦の敷物におおわれた、真珠貝の象嵌と彫物でごてごて飾られた、たいそう低くて広い黒檀の長椅子を照らしていた。刺繍をほどこした絹の垂幕が壁を飾っていて、赤い漆塗の化粧台に置かれた古風な型の青銅の香炉からは、かすかに鼻にくる香の淡い煙がゆるゆると渦を巻いて起ち昇っている。
ユースーは化粧台に寄って、耳の後ろの花をさしなおした。くるりと振り向くと、微笑しながら尋ねた、「ここではいや?」
優しく見やりながら、チャオ・タイは奇異な悲しみが胸に刺し入るのを感じた。
「いま分かったよ」とかすれ声で彼は言った。「あんたを見るには、あんたの国の部屋の中にいて、あんたの国の衣裳を着ているところがいつもいちばんいいってことがね。でも、あんたの国では、女たちがいつも白い服を着ているのは何とも不思議だよ。おれたちのところでは、白は喪《も》の色なんだ」
女はすっと歩み寄ると、男の唇に指をあててささやいた、
「そんなこと言わないで!」
チャオ・タイは女を両腕に抱きしめて長い口づけをした。そうして長椅子に誘って、女を引いて横に坐らせながら腰かけた。
「きみの船にもどったら」と彼は女の耳にささやいた、「一晩中、きみといるよ」
また口づけしようとすると、女は彼の頭を押しやって起ちあがった。「あんたはそんな熱烈な恋人じゃないでしょ?」と低い声で言った。
女は胸の下の蝶結びを解いた。ふいに肩をゆすると、衣裳が床に落ちて、彼の前に裸で立った。
チャオ・タイは跳び起きて、女を抱きあげて長椅子に横たえた。
以前二人がいっしょにいたときには、女はむしろ気がすすまないようだったが、いまは彼同様に求めていた。こんなに女を愛したことはかつてなかったと彼は思った。
二人の情熱がおさまった。二人は並んで横になったままでいた。チャオ・タイは遊覧船が速度を落としているらしいことに気づいた。朝鮮人区の船着場に近づいているのにちがいない。甲板から何か騒動が聞える。彼は身を起こして、長椅子の前の床に山になっている衣服に手をのばそうとした。しかしユースーが下から彼の頸に柔らかな腕を巻いた。
「まだあたしをひとりにしないで!」と彼女はささやいた。
上からどしんという大きな音が響いて、怒号と罵声がつづいて聞えて来た。突然、キム・サンが部屋に飛び込んで来た。手に短剣を握っていた。だしぬけにユースーの腕がチャオ・タイの喉にからんで、万力《まんりき》のように頸を締めた。
「早くこいつをやって!」ユースーがキム・サンに叫んだ。
チャオ・タイは女の腕をつかんだ。喉にかかった腕をはずそうとして、身体を起こして坐ったかっこうになれたが、娘の重さでまたひっくり返った。キム・サンが長椅子に跳んで来て、短剣をチャオ・タイの胸にあてて喉にねらいをつけた。かろうじて胴をひねって、チャオ・タイは娘を振り離そうとした。キム・サンがつき刺した。娘の身体がチャオ・タイの身体にねじれかかっていた。短剣はユースーの剥き出しの横腹に突っ込んだ。キム・サンは短剣を引き抜き、よろめいてあとじさって、血が娘の白い肌を染め始めたのを信じられないふうで凝視した。チャオ・タイは娘のぐんにゃりした腕から頸を振りもぎると、長椅子から跳んで短剣を握ったキム・サンの手をつかんだ。キムはわれに返った。彼はチャオ・タイの顔面に猛烈な一撃を放って右目をつぶした。だが、チャオ・タイはもう両手でキムの右手をつかんでいた。それをねじりあげて、短剣の切先をキムの胸に向けた。キムがまた左手で打った。同時にチャオ・タイが短剣を力いっぱい突きあげた。それはキムの胸に深々と食い込んだ。
チャオ・タイはキムを投げ飛ばした。キムは背中で壁にぶちあたった。振り向くと、ユースーは半身を長椅子に横たえ、手で脇腹を押さえていた。血がゆっくり流れて指の間から滴っている。
頭を上げて、ユースーは奇異なすわった眼差しでチャオ・タイを見た。唇が動いた。
「あたしはそれをやらなければならなかった」彼女は口ごもりながら言った。「私の国にはあの武器が必要なの。私たちはまた起ちあがらなければならない! あたしを許して――」口が引きつった。「朝鮮万歳!」。ユースーはあえいだ。おののきが身体を震わせ、頭が後ろに落ちた。
チャオ・タイは上方、甲板でマー・ロンが荒々しく罵るのを聞いた。彼は裸のまんま上へ突進した。マー・ロンは背の高い船乗りと必死に取っ組んでいた。チャオ・タイがその男の首に両腕を巻いて締めあげ、鋭くねじった。男がぐったりしても、チャオ・タイは腕をゆるめなかった。敏捷な腰投げで彼は男の身体を水に投げ込んだ。
「ほかのやつはおれが始末した」とマー・ロンがあえぎながら言った、「三人目は水の中に飛び込んだにちがいない」マー・ロンの左腕はおびただしく出血していた。
「下へ来い!」とチャオ・タイが怒った声で言った、「そいつに包帯してやる」
キム・サンは、チャオ・タイが投げ落としたところの床に坐り込み、壁に背をもたせかけていた。ととのった顔はゆがんで、どろんとした目は死んだ娘にすえられていた。
キムの唇が動くのを見て、チャオ・タイがその上に屈み込んで鋭く言った、「武器はどこにある?」「武器?」とキム・サンはぶすっと言った。「あれはかついだだけさ! ユースーをちょっとだますためにだ。あの子はそれを本気にした」キムは呻き、両手が胸から突き出ている短剣のつかにかかって、痙攣しながらぐいと引っぱった。涙と汗がすべり落ち、彼は悲痛な声でうなった、「あの子は……あの子は……豚だ、おれたちは!」彼は血の気のひいた唇をぴたっと結んだ。
「武器でなければ、何をこっそり持ち出してるんだ?」とチャオ・タイが緊張してきいた。
キム・サンは口を開いた。血の流れが噴き出した。咳き込みながら言った、「黄金だ!」
そのとき身体が沈み込み、横ざまに床に崩れた。
マー・ロンは、奇妙そうにキム・サンから死んだ娘の裸の身体へと見入っていた。「この子がおまえに警告しようとして、やつがこの子を殺したのか、おい?」
チャオ・タイはうなずいた。
チャオ・タイは急いで長衣を着た。それから優しく娘の身体を長椅子の上にまっすぐに寝かせ、娘の白衣でおおってやった。喪《も》の色だ、と彼は思った。娘の静かな顔を見おろしながら、友達にものやわらかに言った、「忠節……それはおれの知ってるもっともすばらしいものだよ、マー・ロン」
「美しい感傷だ」と二人の背後でそっけない声がした。
チャオ・タイとマー・ロンは振り向いた。
プオ・カイが外から舷窓ごしに肘を窓敷居に置いて見ていた。
「なんてこった!」とマー・ロンが大声を出した。「あんたのことはけろりと忘れてた」
「ご親切なことだ!」とプオ・カイは批評した。「私は弱者の武器を使ったよ、逃げたのさ。この船のぐるりを走ってる狭い通路にもぐったのさ」
「こっちへまわって来い!」とマー・ロンが不満げに言った。「おれの腕に手あてする役には立つ」
「豚みたいに血を流してるぜ」と痛々しそうにチャオ・タイが言った。彼は手ばやく娘の白い飾帯を取りあげると、マー・ロンの腕に包帯を巻き始めた。「何が起きたんだ?」
「だしぬけに」とマー・ロンが答えた、「あの犬どもの一人が後ろから、おれに組みついて来たんだ。身をすくめて頭ごしに投げ飛ばそうとしたら、二人目がおれの腹を蹴って匕首《あいくち》を引っこ抜いた。やられると思ったが、そのとき、後ろから押えてたやつが急に手をはなした。危いところで身体をひねることができたが、心臓を狙ってた匕首が左腕にとどいたのさ。そいつの股ぐらに膝をあてて、右手で顎の下に一発食らわすと、後ろざまに欄干をぶっこわして落ちて行った。そのときには、もう、背後の男は川ん中へ飛び込んだ。そのほうがいいと思ったにちがいない、水のはねる音が聞えたよ。そこへ三番目のが向って来た。そいつはでっかくて頑丈なやつだったが、おれは左腕が使えなかった。ちょうどいいときにおまえは来てくれたんだよ」
「これで出血はとまるだろう」マー・ロンの頸にまわした飾帯の端を結びながら、チャオ・タイが言った。「この吊り包帯の中へ腕を入れておくんだぜ」
チャオ・タイが包帯を引っぱってきつくしたので、マー・ロンはぴくっとひるんだ。「あのいまいましい詩人はどこだ?」
「甲板へあがろう」とチャオ・タイが言った。「あいつはたぶん酒注ぎをみんなからにしているぜ」
しかし二人が上にもどってみると、甲板には人気《ひとけ》がなかった。二人はプオ・カイの名を呼んだ。遠くから霧をとおして響いて来る、櫂が水をはねる音だけが辺りの静寂を破った。
猛烈な悪態を吐きながら、マー・ロンは船尾に走って行った。救難用の小舟がなくなっていた。
「犬っころのふたまた膏薬が!」とマー・ロンはチャオ・タイに向って叫んだ、「あいつも一味だったんだ!」
チャオ・タイは唇を噛み、吐き捨てるように言った、「あの二枚舌の悪党を捕えたら、おれの手で痩せ頸をねじきってやる」
マー・ロンは遊覧船をとりまいている霧を透かして覗き込もうとした。
「あいつを捕えるにしては」と彼はゆっくり言った、「おれたちはどこか川下に来すぎていると思うよ、兄弟。あいつはまんまと逃げだしたんだ、おれたちでこの遊覧船を船着場へもどすには、たっぷり時間がかかるからな」
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第十四章
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判事は二件の殺人未遂を論評して
知られざる女が法廷に姿を現わす
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マー・ロンとチャオ・タイが政庁に帰ったときは真夜中に近かった。二人は朝鮮の遊覧船を虹橋《にじばし》の下にもやると、東の城門の番人に言いつけて、何人かの男たちを配置して何も妨害が起こらぬよう見張りをさせた。
ディー判事はホン警部とまだ執務室に閉じこもっていた。彼は目をあげ、びっくりしてめちゃくちゃなかっこうの二人を見つめた。
しかしマー・ロンが報告すると、驚きは心底からの怒りに変わった。マー・ロンが話し終わったとき、判事は躍りあがって、後ろ手を組んで行ったり来たりし始めた。
「信じられないことだ!」ふいに彼は大声を発した。「今度は私の政庁の士官二人を襲撃して殺害しようとした、私を除こうとたくらんだ直後にだ!」
マー・ロンとチャオ・タイは驚いてホンを見た。ホンは声を落として手短かに、岩の裂け目に架かった橋の板がゆるんで落下したことについて話してやった。死んだ知事が警告したことには触れずにおいた。この並はずれた二人の男がこの世の中でほんとうに恐れているものが、たった一つ、超自然の摩訶不思議《まかふしぎ》であることを承知していたからである。
「あの犬あたまどもはうまく罠を仕掛けました」とチャオ・タイが発言した。「われわれに対する襲撃も巧妙に仕組まれていました。九花果園でのあの会話も、周到に稽古した芝居だったんです」
ディー判事はよく聞いていなかった。まだ立ったまま、彼は言った、「そうか、彼らがひそかに運び出しているのは黄金だったのか! 武器についてのうわさは、まさに私の注意をそらすためのたぶらかしだった。だが、何のために朝鮮へ金を密輸出しようとしたのか? あそこに金は豊富にあるのだと思っていた」
彼は怒りのあまり顎ひげを引っぱった。ふたたび机の奥に坐ると、口をひらいた。
「今夜、さきほど、あの悪党どもがなぜ私を消したがるのかをホンと話し合っていた。実際に知っているよりも多くのことを私が知っていると、やつらが思い込んでいるのに相違ないというのが結論だった。だが、なぜ君らを殺す? 遊覧船での襲撃が、君らがプオ・カイとキム・サンに別れて来たあとで準備されたのはあきらかだ。食事の間に、君らが何か連中に警戒心を引き起こすようなことを話したかどうか、ひとつ思い出してみたまえ」
マー・ロンは眉をひそめて考え込んだ。チャオ・タイは小さな口ひげを指でいじっていた。やがて、チャオ・タイが言った、「そう、いつものちょっとしたお喋りをやった、それから冗談をいくつか言った。しかし、それをおけば――」彼は望みがなさそうに頭を振った。
「私は確か、私たちがあの荒寺へ行ったことについて話をしました」とマー・ロンが口をはさんだ。「公判のとき、アー・クワンを逮捕するところだと言われたので、あそこでアー・クワンを捕えたことを、連中に教えてもかまわないと思ったもんですからね」
「あの古い杖の山についても、何か話さなかったかね?」ホン警部が尋ねた。
「ええ、話しました」とマー・ロンが言った。「キム・サンがそのことで冗談を言いましたよ」
判事が拳で机を打った。
「それに相違ない!」と彼は叫んだ。「何かの理由で、あの杖は非常に重要なのだ」
袖から扇子を取り出すと、判事はばさばさとあおぎ始めた。それからマー・ロンとチャオ・タイに言った、「いいかね、ああいうごろつきと渡りあうときに、君たち二人はもう少し注意深くなれないものかね? アー・クワンは死ぬ前に、われわれが知りたかったことを正確に教えたし、あの朝鮮人の船乗りたちは、おそらくキム・サンの命令を遂行しただけだろう、だからそれらについては問題ない。だが、もし君たちがキム・サンを生かしたまま捕えたら、われわれの問題は多分すべて解決していただろう!」
チャオ・タイが頭を掻いた。
「そのとおりです」とあわれっぽく言った。「考えてみれば、彼を生かしたまま捕えれば、確かにすばらしかったと思います。しかし、それは何というか、あっという間に起きたんです、ええ。始まったと覚る前に万事が終わっていました、言わせていただければですが」
「私の言ったことは忘れてくれ」と微笑しながらディー判事は言った。「私はすじの通らないことを言っている。しかし、遺憾なことに、君たちがキム・サンの死に立ち会っていたとき、プオ・カイが君たちを見張っていた。あの悪党は私たちが何を知っているのかをもう正確につかんでいる。もしそこにいあわせなかったなら、キム・サンが全体の計画を漏らしたかどうかと、いまごろ彼は死ぬほど気をもんでいただろう。そうして気をもんでいる犯罪者というのは、えてしてばかなことをやらかして、それによって正体を暴露しがちなものだ」
「あの商店主たち、クーとイーを拷問で尋問できませんか?」とマー・ロンが期待をこめてきいた。「どっちみち、チャオ・タイと私を殺そうとしたのは、連中の番頭だったんです」
「われわれはクーとイーに対する一片の証拠も握っていないのだよ。朝鮮人たちがこの犯罪計画で重要な役割をになっているのを知っているだけだ。しかもそのことは、われわれが、彼らが金を朝鮮へ密輸出しているのをいまでは知っているから想像されるにすぎない。ワン知事はあの朝鮮娘を選んで記録をあずけたとき、不運な選択をやったのだ。あきらかに娘はあの包みを友達のキム・サンに見せ、キム・サンはあの漆箱から自分たちを罪に陥れる書類を取り去った。連中はあえて箱を破壊しはしなかった。なぜなら連中は恐れたからだ、ワン知事がその私的な記録の中に、娘にあの包みを渡したことを記した覚書を残しておいたかもしれないとね。つまり、もし求められてそれを提出できなければ、容疑者として彼女が逮捕されるだろうということだ。死んだ知事の私的な記録が首都裁判所の文書庫から盗まれたのは、おそらくそのためだろう。犯人たちは実際非常に大きな組織を有しているにちがいない。連中はわが帝都にさえも手先を置いているのだ! 何らかの理由で、ファンの農園で女が失踪したことにも、連中はかかわりがあるに相違ないし、あのもったいぶった阿呆のツァオ博士とも何か関係を持っているに相違ない。われわれは結びつきのない事実をたくさんつかんでいるが、この推定と嫌疑からなる雑然とした模様に意味を与える鍵が欠けている」
ディー判事はふうっと溜息をついた。「ところで、真夜中を過ぎた。君たち三人はもうさがって良く休んだがいい。警部、出る途中で君は事務官を数人呼び起こして、プオ・カイ追及の掲示を書かせてくれ、殺人を企てた容疑でだ。それに彼の完全な人相書をそえさせてくれ。守衛たちには、掲示を今夜中に、政庁の門と町中の大きな建物に打ちつけるよう命令せよ。そうすれば、朝いちばんに人びとが読むだろう。あののらりくらりした悪党を捕えれば、おそらくいくらか前進するだろう」
翌朝、ディー判事が、ホン警部の給仕で執務室で朝食をとっているところへ、巡査長が入って来て、商店主のクーとイーが知事にとり急ぎ面会を求めていると報告した。
「朝の公判に出廷するように伝えろ」と判事はすげなく言った、「言いたいことがあるのなら、公然と言えるはずだ」
そこへマー・ロンとチャオ・タイがタンを従えてやって来た。タンは前よりずっと悪くなっているように見えた。顔は血の気が引いて、ほとんど手をじっとさせておけないのだった。タンはどもりながら言った、「こ、こ、これは恐ろしいことでございます。私の全生涯におきまして、こんな非道が本県で起きたことは絶えてございません! 政庁の二人の士官に対する襲撃、私は――」
「君が気にやむことはない」とディー判事はタンの悲歎を中断させようとした。「私の助手たちは自分の面倒は自分でみられるからね」
二人の友達は嬉しそうな顔をした。マー・ロンはもう包帯で腕を吊っていず、チャオ・タイの目は虹の色を全部そなえているものの、少しは良くなっているらしかった。
判事が熱い手ぬぐいで顔をふいている間に銅鑼が鳴った。ホンが衣裳をかえるのを手伝い、一同はうちそろって法廷へ進んで行った。
早い時刻にもかかわらず、法廷は人でいっぱいだった。東の城門近辺に住んでいる人びとには、朝鮮の遊覧船で起きた格闘の風聞がひろまっていたし、市民たちはプオ・カイ追及の掲示を読んでいたのである。ディー判事は点呼を取るうちに、ツァオ博士とイー・ペン、それにクー・モンピンが前列に立っているのに気がついた。
判事が驚堂木《けいどうぼく》を鳴らすと、すぐにツァオ博士が、怒りで顎ひげを揺らしながら前に進み出た。彼はひざまずき、昂奮して話し始めた。
「閣下、昨夜、恐ろしき事態が出来《しゅったい》いたしました! 夜中遅く、愚息ツァオ・ミンは、門房近くにあります厩舎《きゅうしゃ》で馬どもが嘶《いなな》くのに目をさましました。愚息がまいって見ますると、馬どもがいたく落ちつかぬ様子でおりますので、門番を起こし、剣をたずさえまして、わが家のまわりの林を調べ始めました、そのあたりに盗人が徘徊《はいかい》しておるに相違ないと思案してのことでございます。そのとき、突如として愚息は背に大変な重量が落ちかかり、肩に爪が突き立てられるのを覚えました。愚息は頭から顛倒《てんとう》して地面へ投げ出され、頸の近くに噛みつく歯牙の音を聞いたのを最後、失神いたしました。と申しますのも、頭部を鋭い石に打ちつけたからでございます。幸運にも、まさにそのとき、門番が炬火《たいまつ》を持って駆けつけてまいりましたが、その者は黒い形をなせるものが、林の中へ消えるのを目睹《もくと》いたしましてございます。私どもは愚息を寝床に入れ、手当てをいたしました。肩の傷痕は重くありませんでしたが、額に裂傷がございました。けさがた愚息は暫時《ぜんじ》意識を回復したのでございますが、そのあと譫妄《せんもう》状態に陥りました。シェン医師が未明にまいりまして、病状は重いと申しましてございます。
手前はたって要請申しあげねばなりませぬ、閣下、政庁には適切な処置を採られ、わが県に出没いたしおります、かの人喰虎を遅延なく追跡して殺害せられますよう!」
賛同のざわめきが傍聴人たちから起きた。
「今朝にも」とディー判事は言った、「本庁は狩猟者を派遣して、その動物を探索するであろう!」
ツァオ博士が前列のもとの場所に引きさがると、イー・ペンがすかさず進み出て裁判官席の前にひざまずいた。まず姓名と職業をのべてから、イー・ペンは始めた。
「手前はけさほど、支配人プオ・カイにかかわります掲示を拝読いたしました。朝鮮の遊覧船にて起こりました騒動に、当該のプオ・カイなる者がかかりあっておったと申す風説でございます。当該のプオ・カイなる者は、散漫なる習慣と常軌を逸したる行為の持主でございまして、勤務時間外にかの者がなしたる事柄に関しましては、その全責任を私は拒否せねばならぬと申しあげたく存ずる次第にござります」
「いつ、またいかなる状況のもとで、プオ・カイなる男を雇ったのか?」とディー判事が尋ねた。
「かの者は十日ほど前に手前に会いにまいったのでございます、閣下。私の良き友人ツァオ・ホーシェンの従兄にして、首都における著名なる学者でありますツァオ・フェンの紹介状をたずさえておりました。プオ・カイの申しますには、妻を離縁いたしましたところ、首都におっては、妻の一族が厄介を引き起こすゆえ、そこを離れてしばらく滞在いたしたいとのことでございました。あの者は放埓《ほうらつ》な泥酔漢ではありますが、並なみならぬ実務能力の持主であることを証明いたしました。掲示を読みました後、家令を呼んで、プオ・カイを最後に見たのがいつであるか尋ねましたところ、昨夜、非常に遅くなってから帰ってまいったと申しました。つまり、プオ・カイは、私の屋敷の四番目の院子《なかにわ》にあります自室に行きましたが、その後すぐに再び、平たい箱をたずさえて出て行ったのでございます。家令はプオ・カイの不規則な習慣にはなじみでございますので、かくべつ注意もいたしませんでしたが、あの男がことのほか急いでおるらしく見えますことに気づきました。本政庁に出頭いたします前に、かの者の部屋を調べましたところ、かの者が自身の書類をいつも収めておりました皮張りの箱のほかに失われたものは何もございませんでした。当人の衣服と所持物は、まだすべてそこにございます」
彼は一瞬口をつぐむと、話を結んだ。
「手前は、プオ・カイのお上《かみ》を恐れぬ行動に対して手前が責めを負っておりません旨、記録にお載せ下さいますよう申し立ていたしたいのでございます、閣下!」
「その旨、記録されるであろう」とディー判事は冷たく応じた、「しかし、これから私があなたに聞かせる所見を付してである。私はその申し立てを容認しない、とともに、あなたの支配人の行なったことであろうとなかろうと、そのすべてに対して、あなたは全幅の責任を負っていると判断していることを言明する。彼はあなたに奉公し、あなたの屋根の下で暮らしていたのである。彼は私の二人の助手を殺害する入念に準備された計画に加わっていた。あなたもそれにかかわっていなかったかどうか、それを証明するのはあなた次第である!」
「どうやって私が証明できましょう、閣下?」とイー・ペンは泣き声をあげた。「それについては何も存じません。閣下! 私は法を守る市民でございます。いつぞや私はおりいって報告申しあげに閣下をお訪ねしなかったでしょうか、その、つまり――」
「あの話は念入りなうそだった」とディー判事は厳しくさえぎった。「そのうえ、さらに、あなたの屋敷の近辺、運河に架かる第二の橋の近くで、奇怪なことが進行中だという報告もあったのだ。追って通告するまで、あなたを自宅拘留にする」
イー・ペンは抗弁し始めたが、巡査長が怒鳴《どな》りつけて黙らせた。二人の巡査が彼を守衛所に連れ去った。どの程度の自宅拘留が科されるのか、ディー判事の次の命令をそこで待つのである。
イー・ペンが連れ去られると、クー・モンピンが裁判官席の前にひざまずいた。
「手前は」と彼は言った、「わが友にして同輩のイー・ペンがとりましたのとは、いささか異なる態度を持するものでございます。手前の支配人たる朝鮮人キム・サンもまた、かの遊覧船における騒擾《そうじょう》に加担しおったのでありまするから、手前は、当該のキム・サンなる者の行動全般に、勤務時間外に従事いたしおったやも知れぬ行動も含めまして、全幅の責任を負っておることを感じおりますことを強く申し立てたく存ずるのでございます。私は閣下に報告申しあげます、不法行為が起こりました朝鮮の遊覧船は私の所有物であり、また三人の船頭と朝鮮人水夫は私に奉公いたしておりました。私の造船所の職人頭は、昨夜、夕食の時刻にキム・サンが埠頭にまいって、行先きを告げることなく、かの遊覧船を漕ぎ出すよう命じたと証言いたしました。キム・サンが私の命令なしに、また私の認知もなしに、行ないましたことは申すまでもございません。さりながら、私はこの不法行為を徹底的にみずから調査いたす所存でございまして、私の全活動を監督すべく数人の経験を積みました職員が、政庁より埠頭ならびに私の家に配置されますことを歓迎いたす所存でございます」
「本法廷は」とディー判事は言った、「クー・モンピンの協力的な態度を評価する。騒擾の調査を終わりしだい、当該のキム・サンなる者の遺骸は、埋葬のため、最近親者に渡すべく、クー・モンピンのもとへ移されるであろう」
判事は公判を閉じようとした。そのとき傍聴人の間に何か動揺が起きたのに気がついた。けばけばしい赤い模様のある黒い長衣を着た、背の高い、粗野な顔立ちの女がヴェールをかぶった女を引きずって、群衆を押しのけて進み出て来るのだった。女がひざまずく間、ヴェールをかけた女は頭をさげて、そのわきに立ったままでいた。
「手前は」とひざまずいている女はしゃがれ声で言った、「東の城門外にあります五番目の画舫《がぼう》の持主、リャオ夫人なることを謹しんでお知らせ申しあげます。手前は閣下の政庁の前に罪人を召し連れてまいりましてござります」
判事は前によりかかって、ヴェールの女の痩せた姿を見た。彼は女の言ったことにいささか驚いていた。というのは、原則として、遊女宿の持主は、違反をやった娼婦を自分たちのやりかたで万事処理することができたからである。
「この娘の名は何というか」彼は尋ねた、「また彼女に対して、おまえが持ち出したい罪状とは何なのか?」
「この娘は名前を言うのを強情に拒みました、閣下!」と女は叫び出した、「そうして――」
「おまえは当然承知しているはずだ」とディー判事は厳しくさえぎった、「身もとを確認する前に、娘をおまえの施設で働かせることは許可されていないことをな」
女はあわてて額を床に打ちつけ、泣き声を起てて言った、「閣下のお許しを千万お願い申しあげます! 私がこの娘を娼妓に抱《かか》えたのでないことを、初めに申しあげるべきでござりました。これは事実でござります、閣下、まったくほんとうです! 十五日の夜明け前でござります、プオ・カイさんが、坊主の頭巾つきの服を着たこの娘を私の船に連れてまいりました。あの人は自分の新しい妾《しょう》だと言うんです、前の晩、家に連れて来たんだって。一番目の女房が家に置きたがらず、娘の着物をぼろぼろにひっちゃぶいて娘にひどいことして、プオ・カイさんは夜ふけまで話し合ったけど、聞きわけようとはしなかったんでさ。女房を口説き落とすにゃ何日かかかるから、万事まるくおさめるまで、娘を私の船にいさせてくれって言うんです。いくらかおあしをくれて、娘に恥ずかしくない服を着せてくれ、あの坊主の着物のほか何も着ちゃいないんだからって、言いました。いまじゃプオ・カイさんはいいお得意さんでしてね、殿さま、それに商店主のイー・ペンのとこで仕事してるし、船乗りたちだって上得意でござんして、で、ひとり身の女のできることってば、はいと言うしかないんでござります、殿さま! あたしゃ、ひよっ子にすてきな着物をやって、まるまる一人でいい船室にいさせてやりました、そいであたしの手伝いが、かっこうだけでも娘にお客を取らせなさい、どっちみちプオ・カイさんに言いつけるはずはないからと言っても、あたしゃすぐにだめだって言ったんです。私は約束は守りますですよ、殿さま、だって、それが私のとこのきまった方針でござんすもの! ですが、同時に私はいつだって言ってるんです、閣下、法ってものが第一なんだって! そいで、けさ、青物売りの舟が横づけして、そのぼてふりがプオ・カイ追及の掲示が立てられたってもんですから、あたしゃ手伝いに言ったんでござんす、この田舎娘が罪人じゃないにしたところで、閣下がどこでプオ・カイを見つけられるかぐらいは知ってるだろうよ、この子のことを知らせるのはあたしの務めだよって。そいでここへ、政庁へ連れてまいったんでござります、閣下」
ディー判事は椅子に身を起てて、ヴェールをかけた女に話しかけた。
「ヴェールをはずして名を告げ、犯人プオ・カイとの関係をのべよ」
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第十五章
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若い女は思いがけない話を物語り
一人の老人は奇怪な罪を告白する
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女は頭をあげ、疲れた仕草でヴェールをあげた。人なつこそうで、いたって聡明そうな顔立ちをした、大柄でたいそう魅力的な二十歳ぐらいの娘であった。彼女はものやわらかに口を開いた、
「手前はクー夫人、旧姓ツァオでございます」
驚きの叫びが見物人から起きた。クー・モンピンはあわてて前に出て来た。自分の妻をさぐるような目つきで見ると、前列の自分の場所にもどったが、顔は死んだように青ざめていた。
「あなたは行方知れずになったと報告された、クー夫人」とディー判事は厳粛に言った。「起こったことを正確に告げなさい、あなたが弟を後に残して行った十四日の午後から始めて」
クー夫人は判事を哀しげな表情で見た。
「すべてを申しあげねばなりませんか、閣下?」と彼女は尋ねた。「私は少々――」
「そうせねばならない、クー夫人!」判事はそっけなく言った。「あなたの失踪は少なくとも一件の殺人に、そのうえおそらくは他の重大な犯罪に関連があるのだ。さあ、聞こう」
ちょっとためらってから、彼女は話し始めた。
「街道のほうへ左に曲りましたとき、私は下僕を連れた、私どもの隣人ファン・チュンに出会いました。顔だけは見知っておりましたので、彼の丁重な挨拶に応えるのにさしさわりを覚えませんでした。どこへ行くのかと彼が尋ねましたので、市中に帰る途中で、弟がすぐに追いつくでしょうと申しました。弟が現われませんので、私たちは交叉地点までもどって道を見わたしましたけれど、弟のいる気配はまったくなかったのでございます。すでに街道近くに来ているから、弟は私を見送る必要はないと考えて、農地を通って家に帰ったのだと私は思いました。すると、ファンが自分も町に帰るところだと言って、私に同行を申し出たのです。彼は泥道を通って行くつもりだと申して、泥道はすでに修理されているから、近道すればおおいに時間の節約になるだろうとうけあいました。私は一人で荒寺の前を通りぬけるのがいやだったものですから、申し出を受けいれたのでございます。
ファンの農園の入口の印になっている小さな小屋まで来ますと、彼は小作人に知らせねばならないことがあると言って、しばらく小屋で休むよう私に申し出ました。私は馬を下りて、中にある腰かけに坐ったのです。ファンは外にいる下僕に何か言うと、もどって来ました。色目を使って私を見まわしながら、下僕を一足さきに農園にやった、私と二人きりでしばらく時を過したいからだと彼は言ったのです」
クー夫人は一瞬言葉を切った。怒りの羞恥が頬を赤くした。低い声で彼女はつづけた。
「彼が私を引き寄せましたが、私は突き放して、私をひとりにして立ち去らなければ、声を張りあげて助けを呼ぶと警告いたしました。けれども彼は笑いながら、だれにも聞えはしないのだから、どんなに悲鳴をあげたってかまわない、それより優しくしたほうが良いと言いました。彼は私の長衣を引き裂き始めました。私はできるかぎり抵抗しましたが、彼が強すぎました。私の衣服を剥ぐと、私の手を私の飾帯で後ろ手に縛って、柴の山の上に私を投げ出しました。そこで憎悪すべき抱擁《ほうよう》に服さなければならなかったのです。そのあと彼は私の両手をほどくと、衣服を着るように言いました。彼は私が好きなのだ、私はその夜を彼の農園で彼と過さなければならぬ、とファンは言いました。翌日、町へ私を連れて行き、夫には何かうまい話をする、現実に何が起きたかは、だれ一人知りはしないだろうと言ったのです。
私は自分が悪党の思いのままなのが分かりました。農園で食事をすると、私たちは寝ました。ファンがぐっすり眠ってしまうと、すぐに私は起きて逃げ、父の家に帰ろうと思いました。突然、窓が開いて、背の高い悪漢が鎌を手に、窓に登って部屋に入って来るのが見えました。仰天して私はファンを揺り起こしましたが、その男はファンに躍りかかると、鎌の一撃で喉を断ちました。ファンの身体が私にのしかかって、血が私の顔や胸にいちめんに噴き出し――」
クー夫人は手の中に顔を埋めた。判事の合図で巡査長が苦い茶を一碗すすめたが、彼女は頭を振ってつづけた。
「男は、つぎはおまえだ、不実なすべた! と歯ぎしりして言いました。そのうえ何やら恐ろしい言葉を吐きながら、寝台に手をのばして私の髪をさぐりあてると、私の頭を引っぱってあお向けにし、私の喉に鎌をさげました。私は頭のそばにずしっと重い音を聞くと、意識を失なってしまったのです。
正気に返ったとき、私はでこぼこ道を、がたがた揺れ動いて行く車に横たわっておりました。ファンの裸の死体がかたわらに横たわっていました。私はそのとき鎌の尖端は寝台の側面を撃ち、それで鎌の刃が私の喉をかすめただけなのを覚ったのです。人殺しが私も殺したと思っているのはあきらかなので、私は死んだふりをしていました。急に車がとまって傾けられ、死体といっしょに私は地面にすべり落ちました。人殺しは枯枝を投げて私どもにかぶせ、やがて車が去って行くのが聞えました。私はあえて目をあけませんでしたから、人殺しがだれであるのか言えません。彼が寝室に入って来たとき、どちらかといえば痩せて、青黒い顔をしていると思いましたが、それは部屋のすみにあった油ランプのせいだったかもしれません。
私は匍いあがって見まわしました。月光の中で、私がファンの農園の近くの桑の藪にいるのが分かりました。それと同時に、一人の僧が町の方角から、泥道をやって来るのが見えたのです。私は腰布しかつけていませんでしたから、木の後ろに隠れようとしましたが、僧はすでに私を見つけてしまって、私のほうへ走って来ました。杖によりかかって、ファンの死体を見ると、彼はこう言いました、おまえは自分の情人を殺したんだな? わしといっしょに荒寺へ来て、ちょいとつき合うがいい、そうすりゃ秘密はもらさぬと約束するぜ! 僧が私をつかまえようとしたので、私は恐ろしさのあまり大声をあげました。ふいに、もう一人の男がどこからともなく現われました。その男は僧に向って、女を犯すのに寺を使っていいと、だれがおまえに教えたか? 言ってみろと怒鳴ると、袖から短剣を引き出したのです。彼は悪態をついて、杖を振りあげました。けれども、ふいにあえぐと、僧は自分の心臓をつかんで地面に倒れました。もう一人の男は急いでその上に屈み込みました。身を起こすと、彼は悪運が憑《つ》いたのだというようなことを何かぶつぶつ言ったのです」
「あなたは思うかね」とディー判事が遮《さえぎ》った、「その新しく来た男はその僧侶を知っていたのだと?」
「私は申しあげようがありません、閣下」とクー夫人は答えた。「それはすべてとても急速に起きたのです、僧はその人を名で呼びませんでした。彼がプオ・カイと呼ばれていることが分かりましたのは後になってです。彼は何がどうなっているのか尋ねました。彼は私の裸をちらとも見ないで、教養のある人のように話しました。みすぼらしい衣服にもかかわらず、どこか威厳のある雰囲気がありましたので、私は彼を信用することに決めて、何もかも話したのです。彼は私を夫の家か、父の家へ連れて行こうと申し出てくれました。夫や父ならどうすべきか分かるだろうと言うのです。私は率直に申しました、私はどちらにも顔を合わせられない、私は半ば正気ではない、考える時間が欲しいと。私は彼が私をどこぞへ、一日、二日隠せるかどうかと尋ね、また、その間に彼はファンが殺害されたことを、殺害者が私をほかの女とまちがえたのは確かなのだから、私のことは何も言わないで報告できるはずだと申しました。彼は殺人事件は自分にかかわりがないが、私が隠れたいのなら手助けしてやろうと答えました。そして自分は他の人たちと住んでいるし、宿屋は夜のその時刻では女一人を受けいれないだろうとつけくわえました。彼が思いつけた唯一の解決は、水路《クリーク》に浮んでいる娼家の一つに、私のために部屋を借りることでした、あそこの人たちなら何も問い尋ねないし、いずれにせよ彼がもっともらしい話をしておくと言うのです。彼は死体を桑の藪の真ん中に埋める、そうすれば見つかるまでに五、六日はかかるだろう、そのときまでに、政庁にそのことを知らせたいかどうかを私が決められるだろう、と言いました。彼は僧の頭巾つきの服をはいで、腰布で顔や胸の血を除いてから身につけるよう言いました。彼がもどって来たとき、私はそれをすませておりました。彼は泥道をずっと進んで、木立のある場所まで私を連れて行きました、そこに馬がつないであったのです。彼は馬に乗り、彼の後ろに私を乗せて町へ帰って来ました。水路《クリーク》で舟を借りると、彼は東の城門外の水路《クリーク》に浮んでいる娼家へ私を連れて行ったのです」
「どのように市の城門の守護所を通過したのか?」と判事が尋ねた。
「彼は南の城門を叩きました。そしてひどく酔っているようなふりをしました。門番たちは彼を見知っておりました。門番たちに向って、新しい芸人を町に連れて来たのだというようなことを大声で申しました。門番たちは頭巾をあげよと私に言い、私がほんとうに女なのを見ると皆で笑って、プオ・カイの悪ふざけについて粗野な冗談を飛ばしてから私たちを通過させたのです。
彼は私のために船に一室を借りました。そこを取りしきっている女にひそひそ説明していましたが、私には聞えませんでした。ただし彼が銀の粒を四つ彼女に与えたのははっきりと見えました。彼女は私に良くしてくれたと言わなければなりません。私が身ごもってはならないのだと話すと、飲むべき薬をくれさえしました。私はしだいに驚愕から回復して来ました。プオ・カイが来るまで待って、それから父のもとへ連れて行ってくれるように頼もうと決心したのです。けさになって、あの女が給仕をともなって私の部屋へ来ました。プオ・カイは罪人で、逮捕されたと言いました。そのうえ、私の衣服と部屋代に彼がわずかな前金しか払ってないから、借金を清算するために、私がその娼家で働かねばならぬと言ったのです。私は憤慨して、銀の粒四つは出費をつぐなってあまりがあるはずだ、ただちに出て行きたいと告げました。この女が給仕に鞭を取って来るよう言いつけたので、私は考えました、どんなことがあろうと、この人たちの手中に落ちるよりはましだと。そしてプオ・カイが罪を犯したのを目撃したし、彼の他の罪についてもすべて知っているのだと告げたのです。すると女は恐ろしくなって、もし私のことを報告しないと、お上《かみ》とひどいもんちゃくを起こすことになるだろう、と給仕に言いました。こうしてあの女は閣下の政庁へ私を連れてまいったのです。私は、あのプオ・カイという男の忠告に耳をかすべきであったと十分に悟っております。彼がどんな罪を犯したのかは存じませんけれども、私にたいへん良くしてくれたとだけは申すことができます。私はすべてをただちに報告すべきなのでした。けれど、経験したことによって深く動顛しておりまして、何をするべきなのかを休んで静かに考えたいとばかり思っていたのです。以上はありのままの真実でございます」
事務官が彼女の供述の筆記を読みあげている間、判事は彼女が率直で自然な態度でその話を語り、話が既知の事実すべてに符合しているのを思い返した。農園でベッドの端に見つけた深い刻み目の意味がいまはあきらかになった。アー・クワンが彼女がスーニャンでないことをなぜ覚らなかったかも、もっと良く理解できるようになった。というのも、鎌を持って彼女に向ったとき、アー・クワンはベッドのファンの側に立っていたし、彼女の顔はファンの血でおおわれていたからだ。プオ・カイがうまいぐあいに彼女を助けたのは簡単に説明できるし、そのことはツァオ博士に対する嫌疑を確証するものだ。ツァオ博士はプオ・カイの秘密の計画の仲間にちがいない。だからプオ・カイがツァオ博士に、自分が僧侶のうちの共犯者の一人と会っているところを娘がたまたま目撃したこと、それで何日間か彼らの邪魔にならないところに彼女がいるように手配したことを知らせたのは疑いない。そのことはまた、ツァオ博士が失跡したわが娘の運命に無関心であることをも説明している、つまり彼はずっと娘が無事でいることを知っていたのだ。
クー夫人が記録に拇印《ぼいん》をおしたあと、判事は話しかけた。
「あなたは恐ろしい経験をした、クー夫人。同じ状況のもとでも、自分ならもっと賢明に行動しただろうと偽りなしに言える者があると本官には思われない。数時間以前にわが身に対して、暴行という重大な罪を犯した男が殺害されたことを、報知するのを怠った女の罪がいかなるものかという法律上の問題に、本官は立ち入るつもりはない。法理学の専門家に研究の資料を提供するのは本官の義務ではないのだ。本官の義務は正義を施行すること、そしてまた犯罪によって作られた損害を回復することである。ゆえに、本官は本法廷はあなたに対する告訴を行なわないと裁決する。それとともに、本官はあなたを夫たるクー・モンピンのもとへ返すものである」
クーが前へ出て来ると、妻はさっと彼を見た。しかし彼女を完全に無視して、緊張した声でクーは尋ねた。「手前の妻がほんとうに暴行されたという、またあの悪党の抱擁に自分からすすんで服したのではないという、何か証拠でもございましょうか、閣下?」
クー夫人はとても信じられない様子で息をとめたが、ディー判事は平静な声で応じた、「あるのだ」袖からハンカチを取り出しながら、「このハンカチは、あなた自身が妻女のものだと確認したのだが、前に道端で発見されたと私がのべたのとはちがって、じつはファンの農園近くの小屋の中の柴の間で発見されたものだ」
クーは唇を噛んだ。それから彼は言った、「さようならば、手前は妻が真実を語ったと信ずるものでございます。さりながら、わが賤しき一族に何代にもわたって守られ来たりました名誉の規範に従いまして、妻は暴行の後、ただちに自裁すべきであったのでございます。さようにいたすことを怠って、妻はわが家に恥辱を持ち込みました。されば、ここに私は彼女と縁を切らざるを得ぬと公的に申し立てるものでございます」
「それはあなたの正当な権利である」とディー判事は言った。「離婚は追って届け出るよう。博士ツァオ・ホーシェンをこれへ!」
ツァオ博士は裁判官席の前にひざまずいた、顎ひげの中でぶつぶつ何か言いながら。
「ツァオ博士」と判事はきいた、「離縁された娘を、あなたのもとへ引き取ることに同意するか?」
「これは私の確固たる信念でございますが」とツァオ博士は大きな声で言った、「根本的な諸原理が含まれておりますところでは、人は自身の個人的な感情を犠牲にいたすことを躊躇してはならぬのであります。そのうえさらに、おおいに社会の視聴を集めておる人間であるからして、私は他人の模範にならねばならぬと感ずるのでございます、仮にそれが私を傷つけることがありましても、父親として、何と申しましょうか、閣下、われらの神聖なる道徳規範に背馳いたしましたる娘というものを、私は引き取るわけにはまいらぬのであります」
「そのことはそのまま記録されるであろう」ディー判事は冷やかに言った。「ツァオ嬢は、しかるべき手はずがととのうまで、本政庁において庇護される」
判事はホン警部に合図をしてツァオ嬢を退廷させた。娼家の女のほうに向くと、「おまえが強制して、あの娘を娼妓にしようとしたことは犯罪的な違反である。しかしながら、けさまではあの娘を静かにしておき、また少なくとも本政庁に対する、おまえの義務が分かっていることを示したのであるから、このたびはおまえの罪を見逃してやろう。だが、おまえについて他にも苦情が届くようなら、おまえは鞭打ちの刑に処せられ、免許は停止される。このことはあそこにいるおまえの同輩たちにもあてはまる。去れ、そしてその者どもに伝えよ!」
女はあわてふためいて走り去った。ディー判事は驚堂木を打って閉廷した。
壇を離れたとき、彼はタンがいなくなっていることに驚きを感じた。それについて尋ねると、マー・ロンが答えた、「ツァオ博士が裁判官席の前にいたとき、タンはいきなり気分が悪いとか何とかもぐもぐ言っていなくなりました」
「あの男はほんとうに厄介ものになっている」とわずらわしそうにディー判事は言った。「もしこのままなら、退職させなければならないだろう」
執務室の扉をあけると、ホン警部とツァオ嬢が坐っていた。判事はマー・ロンとチャオ・タイにちょっとの間、外の回廊で待つように告げた。
机の奥に坐りながら、判事はてきぱきした口調で娘に言った、「さて、ツァオさん、いまはあなたに何をしてやれるかを、考えてみなければならない。あなた自身はどうお考えかな?」
唇が震え始めたけれど、すぐに彼女は自分を抑えて悲しげに言った、「私はいま、私どもの神聖な社会秩序の教えに従えば、私が現に自殺すべきなのを悟っております。けれども私は告白しなければなりません。あのとき、自殺するという考えはまったく起きなかったんです」弱々しく微笑すると、彼女は話しつづけた。「農園のあそこを離れてから、もし私が何か考えたことがあったとすれば、むしろどうしたら私は生きつづけられるかということだったんです。私は死ぬことを恐れているのではありません、閣下、ですけれど、私は自分の理解できないことはやりたくありません。私にご助言を恵まれますよう、閣下にお願い申しあげます」
「私たち儒教徒の教義によれば」とディー判事は答えた、「婦人はまことに清く、穢れなく自身を保つべきである。しかし、私はしばしばいぶかしく思う、この見解は身体よりも、むしろ心について言っているのではないかとね。ともあれ、わが孔子も、人の本性を汝の最高の規範たらしめよ、と申されている。ツァオさん、教義的な見解というものは、すべてこういう偉大な言葉の光の中で解釈されなければならないと、私個人としては確信している」
ツァオ嬢は感謝に満ちた眼差しで彼を見た。しばらく考えてから、彼女は言った、「私がいまできます最良のことは、尼僧院に入ることだと思います」
「あなたはこれまで宗教的な生活に入る必要を感じなかったのだから、それはひとつの逃避でしかないだろう。それに、それがあなたのような思慮のある若い婦人に十分ふさわしいわけではない。首都にいる私の友達に、娘たちの先生としてあなたを雇うよう、私に口をきかせてはくれないかね? 時がたてば、きっとそこで、あなたにふさわしい再婚を彼ならととのえることもできよう」
ツァオ嬢は恥ずかしそうに答えた、「閣下のご配慮には深く感謝申しあげます。ですがクーとの短い結婚は失敗でございましたし、農園で私に起こったことは、画舫《がぼう》におります間に見聞きせざるをえなかったことともども、すべて私を永遠に……男と女の関係からそむかせてしまいました。ですから、尼僧院こそ私にふさわしい唯一の場所と思うのでございます」
「永遠に、という言葉を使うには、あなたはいかにも若すぎる、ツァオ嬢」と厳しくディー判事は言った。「しかしあなたと私とがこういう事柄を話し合うのは適切ではない。一、二週間中に私の家族がここへ来るから、決定する前に、あなたの計画を私の第一夫人と十二分に話し合うよう、私はぜひにも言わなければならない。そのときまでは検屍官のシェン医師の家にいなさい。彼の妻は親切で、良くできた婦人だと聞いている。それに彼女の娘はあなたの友達になるだろう。警部、ツァオ嬢をあそこへすぐに連れて行ってくれ」
ツァオ嬢は深々と礼をし、ホン警部が彼女を連れて行った。そこへマー・ロンとチャオ・タイが入って来た。判事がチャオ・タイに言った、「君はツァオ博士の訴えを聞いたね。あの息子がかわいそうだよ。いい若者だと私は思った。君たち二人にはちゃんと一日休みをやるから、君は守衛の中から狩猟者を二、三人選んで、奥地へあの虎を射とめに行ってはどうかな? マー・ロン、君はここへ残ればよい。巡査長に、市の各区長たちとプオ・カイ探索を組織するのに必要な指示を与えたら、君は休息して、傷ついた腕を治療するがよい。今夜おそく、われわれ全員で白雲寺のあの儀式に出席しなければならなくなるまで、私は君ら二人を必要としないだろう」
チャオ・タイは熱烈に同意した。しかしマー・ロンはチャオ・タイに向って怒ったように言った。「おれを置いてけぼりにはしないよな、兄弟! おまえが虎をやっつけてる間、おれがそいつの尻尾《しっぽ》をつかんでる必要が絶対あるんだぜ!」
二人の友達は大声で笑って、退出して行った。
書類が山積みになった机に一人向って、判事は県の地租に関するかさばった書類を開いた。あきらかになった新しい諸事実を落ちついて良く考え始めるには、まず心をまぎらす必要のあることを感じていたのである。
けれども、長くは読んでいられなかった、扉を叩く音がしたのだ。あわてふためいた様子で巡査長が入って来た。
「閣下」と彼は昂奮して報告した、「タン氏が毒をのんで瀕死であります! 閣下にお会いしたがっております」
ディー判事は躍りあがって、巡査長といっしょに門へつっ走って行った。向い側の宿屋へ道路をつっ切りながら、「解毒剤は何もないのか?」
「どんな毒をのんだのか言いたがりません」と巡査長はあえぎながら言った。「おまけに、毒がきき出すまで待っていたんです」
二階の回廊で初老の女が判事の前にひざまずいて、夫を許してくれるよう懇願した。ディー判事が二言、三言優しい言葉をかけると、彼女は広々とした寝室へ案内した。
タンはベッドに横たわって、目は閉じていた。妻がベッドの端に腰をおろして、静かに話しかけた。タンは目をあけた。判事を見ると、ほっと溜息をついた。
「私たちだけにしておくれ」と彼は妻女に小さな声で言った。彼女は起ちあがり、判事がその後に坐った。タンは長いこと探るように判事を見てから、疲れきった声で話しかけた。
「この毒はゆっくりと身体を麻痺させます。両脚はもう感覚がなくなりつつあります。ですが、頭ははっきりしております。私が犯しました罪について申しあげたく、そのあと、お尋ねしたいことがございます」
「知事の殺害について、私に話してないことが何かあるのではないかな?」ディー判事は早口に言った。
タンはゆっくりと頭を振った。
「存じていることはすべて申しあげました。自分の犯した罪を思いわずらうあまり、他人の罪を心配するどころではないのでございます。けれども、あの殺人、それと幽霊は私の気持を手ひどく動顛させました。そして気が動顛しますと、私は抑えられないのです……もう一人を。そこへもってきてファンが殺されました、これまでに私がほんとうに好いた、たった一人の人間なのに、私は――」
「君とファンのことは知っている」とディー判事さえぎった。「私たちは自然が導くとおりにふるまうものだ。だから、二人の大人が互いに分かり合ったとすれば、それは二人自身の問題だ。あのことは気に病むな」
「そんなことではまるでないのです」と頭を振ってタンは言った。「心痛のあまり、私が神経質になっていたことをお伝えするために、そのことを申しあげるだけなのです。そして自分の気力が弱くなっていると感じているとき、私の中のもう一人の自分が私には強くなりすぎるのです、ことに明るい月が空にかかっているときには」タンはやっとのことで呼吸をした。深い吐息をついて、言葉をつづけた。「とどのつまり、近年ずっと、そいつのことはすっかり分かっているんです、そいつと、そいつのいやらしいたくらみのことは! おまけに、いつか私は祖父が残しておいた日記を見つけました。祖父もそいつと闘わなければならなかったのです。父はそいつから免れておりましたが、祖父は首を吊って自殺しました。それ以上生きつづけてはゆけない段階に、祖父は達してしまっていたんですね。いま私が毒を飲んだのとそっくり同じなんです。けれどもいまは、もうそいつに行き場所はありません、私に子どもはないんですから。そいつは私といっしょに死のうとしている!」
タンの痩せこけた顔が苦笑に歪んだ。ディー判事は憐れみの眼差しでタンを見やった。あきらかに、この男の知力はすでにとりとめなくなっているのだ。
瀕死の男はしばらく前方を凝視していた。ふいに驚いたように彼は判事を見た。「毒がいよいよきいて来た!」と緊張して言った。「急がなけりゃならん! そいつがいつもどんなふうに起きるのか、申しあげたい。夜中に胸が締めつけられるのを感じて、いつも私は目を覚ましたものです。起きあがって、私は床を歩き始める、あちらこちら、あちらこちらと。しかしいつだって部屋は非常にせばまっていくのだった、私は新鮮な空気が欲しかった。私は外へ行かねばならなかった、街路へと。しかし街路は狭くなり、高い牆壁に囲まれた家並が私を取りこめ、私を押しつぶそうとする、いつだって……恐ろしい混乱を感じて、息をしようとあえいだものだ。すると、窒息しそうになる、ちょうどそのとき、そいつが取り憑くのだった」
タンは深い溜息をついた。彼は気が楽になったらしかった。
「私は城壁に登って、向う側へ跳び降りました。ゆうべもまた私はやったんです。田舎へ出ると、新しい活力に満ちた血が血管を脈うち走るのを感じた、自分が強く、気分が浮き立つのを感じた。新鮮な大気が肺に満ちて、私に対抗できるものは何もなかった。新しい世界が私に開けたのだ。さまざまな種類の草を嗅ぎ、湿った大地を嗅いで、そこを兎が通り過ぎて行ったのを知った。両眼を見ひらいて、闇の中で私は見ることができた。空中に鼻をひくつかせて、前方の木立の中に水溜りのあるのを知った。それからもう一つの匂を嗅いだ、私を地面にぴたりと匍わせ、私の全神経をはりつめさせる一つの匂。暖かく、赤い血の、その匂が――」
ぞっとしながら、判事はタンの顔に現われてきた変化を見た。タンの緑色の両眼は、ふいにずっと広くなったと見える頬骨ごしに、せばまった瞳孔を判事にひたとすえていた。口はねじ曲り、黄色い、とがった歯を剥き出して唸りをあげていた。半白の口ひげは獣の剛毛さながらに逆立っている。恐怖に凍りつきながら、判事は両耳が動いているのを見た。二本の鉤《かぎ》のような手がおおいの下から伸びあがって来る。
突如として鉤爪のように曲った指が伸び、両腕ががっくりと落ちた。タンの顔は空ろな死相に変化した。弱々しい声で彼は言った。
「私は再び寝台に横たわったまま目を覚ましたものだ、汗にびっしょり濡れて。起きあがり、蝋燭をともして、いつだって急いで鏡のところへ行った。ほっとした、言いようもなくほっとしたものだ、私の顔に血が見えないときには」彼はひと息入れ、それから金切り声で言った、「しかしいま私は申しあげます、あいつは私の弱い立場を利用した、あいつは無理やり、あいつの下劣な罪に私を引っぱり込もうとしている! ゆうべ私は自分がツァオ・ミンを襲っているのが分かった。躍りかかりたくはなかった、傷つけたくはなかった……だが、私はやらねばならなかった、誓って言う、やらなければならなかった、私はやらねばならなかった――」声は高まって叫びになった。
急いで判事は、冷たい汗をいちめんに浮べたタンの額に手をやってなだめた。
タンの叫びは喉の奥でごろごろ鳴って絶えた。タンは狼狽して判事を凝視し、狂ったように唇を動かそうとした。しかし聞きわけられない二、三の音が出て来たにすぎなかった。もっと良く聞こうとして判事が屈み込むと、タンは最後の力をしぼって言葉を発した、「言ってくれ……私に罪があるのか?」
出しぬけに薄い皮膜がその両眼にかかった。口がたるんで開いた。顔がゆるんだ。
判事は起ちあがって、おおいを引いてタンの頭にかぶせてやった。いまとなっては、至高の審判者だけが死んだ男の質問に答えてくれるだろう。
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第十六章
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判事は料理屋へ麺を食いに出かけ
大昔の同僚の解決に拍手喝采する
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ディー判事はホン警部に政庁の正門前で行き会った。タンの知らせを聞いて、ホンはその様子を問い合わせに宿屋へ向うところだったのである。判事はファンが殺されたのに気落ちしたのが理由で、タンは自殺したのだと語った。「まがまがしい宿命がタンをさいなんだのだよ」と言ったきり、彼は口をつぐんだ。
執務室に帰ると、ディー判事はホンに言った、「タンとファンが死んで、事務職のうち二人の主要な職員を失なってしまった。ここへ第三事務官を呼んで、タンが管理していた書類一式を持って来るように言ってくれ」
ディー判事は残りの午前を、警部とその事務官を相手に書類に目を通してすごした。タンは婚姻、出生と死亡、それに政庁の会計を細心な注意をはらって記帳しつづけていたが、それでもこの二日間の短い中断が停滞を引き起こしていたのである。第三事務官が良い印象を与えたので、判事は彼をタンの地位に臨時に任命した。もし彼が申し分ないことが分かれば、彼が昇進して、それにともなって他にも事務職員の配置がえがあるはずだった。
こういった仕事に従事してから、ディー判事は戸外で、院子《なかにわ》のすみの樫の大木のかげで昼食をとった。彼が茶を飲んでいると、巡査長が来て、プオ・カイの行方を捜索中であるが、目下のところ何の手がかりも見出せないでいると報告した。あの男はまるで薄い空気の中へ溶けてしまったみたいなのだった。
それから、事務官たちの仕事を監督し、訪問者に応接するために、ホンは記録室に立ち去った。ディー判事は執務室にもどって、竹の簾をおろすと、飾帯をゆるめて長椅子に横になった。
過ぎた二日間の緊張がひどくこたえ始めているのを感じて、彼はうろたえた。目を閉じて、くつろいで、いろんな考えを整理してみようとした。クー夫人とファン・チュンの失跡はもう解決されている。しかし、知事の殺害事件の解決が初めの段階から進展していないことを彼は思い返した。
容疑者がいないわけではない。プオ・カイ、イー・ペン、ツァオ博士、それに、いまのところまだはっきりと名指しはできないが、白雲寺の大勢の僧侶たち、その中にはホイペンも含まれる。彼の生命を奪おうとする計画が失敗したあのとき、あの副管長ホイペンの現われようはいかにも早すぎた。イー・ペンが犯罪活動に関係しているのは明白だが、彼にしても、ホイペンとツァオ博士にしても、首領として行動できるタイプの人物とは思われない。こうしたことすべての背後にひかえている悪の元凶がプオ・カイであるのは疑いない。あきらかに彼は多面的で、異常に沈着な人間であり、そのうえ熟練した役者だ。彼は知事が殺害された直後に平来《ポンライ》に着いている。イー・ペンとキム・サンに下準備の仕事をまかせたうえで、彼自身が首都からやって来てひきついだのだ。しかし何をひきついだというのか? ホン警部といっしょに到達した結論、つまり彼自身と二人の助手を殺そうとした襲撃は、犯人たちの陰謀について、彼が現実に知っている以上に彼が詳しく知っていると、連中が思い込んでいることを意味しているのだという結論を、いまや考えなおさなければならないのを判事は認めざるをえなかった。習練を積んだ大勢の秘密捜査官に補佐された帝国調査官でさえ、真実を発見するのに失敗しているのだし、確かに犯人たちは、彼自身の捜査が、僧侶の杖が朝鮮へ黄金を密輸するのに使われていることだけは明らかにしたことを知っているのだ。あきらかに金は僧侶の中空の杖に隠されて、細いのべ棒の形で内地から運び出されている。だが、そういう金を詰めた杖をたずさえて、平来《ポンライ》へ旅をして来る僧侶たちはかなりの危険を冒していることになる。すべての道路と街道には一定の間隔で軍の屯所《とんしょ》があって、密輸を防ぐために公用ではない旅行者をすべて検問しているからだ。金は申告して、通過した各距離に応じて道路税を支払わなければならない。道路税を脱することから生ずる利益は、平来《ポンライ》での輸出関税の脱税分と合わせたところで、おそらくたいした額に達しないだろう。金の密輸出は擬装にすぎず、相手は彼を巧妙なたくらみに絡め込んで、彼の注意をいま進行中の何かはるかにずっと重大なことからそらせるつもりなのだと考えて、彼は気が落ちつかなくなった。皇帝の官吏を現に殺害し、さらにまた殺害しようと企てることさえ正当化するほどに、そのことはきわめて重要なのだ。そしてその重大なことというのは、ごく近い時期に起こるよう計画されているのにちがいない。このことこそ、犯人たちがずうずうしく攻撃して来たことを正しく説明するものだ――連中は時間がなくて苦しんでいる! そして、知事たる彼は、それがいったい何事なのかまるで思い浮かばなかった、あの悪党のプオ・カイが、マー・ロンとチャオ・タイに交際を求めて親しくなり、それによって、政庁内部に進展していることを逐次つかんでいたというのに。いまや、あののらりくらりした悪党が秘密の隠れ家から事態をあやつっているのだ!
ディー判事は嘆息した。もっと経験豊かな知事なら、この段階で、ツァオ博士とイー・ペンを逮捕して、合法的な厳しいやりかたで尋問するのかどうか知りたい気がした。だが、そんな極端な手段に訴えるには十分な証拠が欠けていると思われる。ある男が桑の藪の中で杖を拾いあげたから、そして彼が自分の娘の運命にあまり関心を見せなかったからという事由では、彼を逮捕するのはまず無理である。イー・ペンに関しては、適切に対処したと彼は思った。自宅拘禁というのは穏当な手段だし、彼に武器密輸出のぺてんを押しつければ十分正当化される。同時にそれはプオ・カイから、彼がキム・サンを失なった直後に、第二の子分を奪ったことにもなる。このことはプオ・カイが計画を遂行するのを妨げ、成功させようという彼の気をたぶん挫かせ、さらに捜査を進める時間をもう少し政庁に与えてくれるだろうという期待を彼は抱いた。
いくつもの出来事が非常に速く進行しているので、河口にある要塞の司令官を訪問する機会がこれまでまだなかったことを判事は反省した。あるいは司令官のほうがまず彼に会いに来るべきなのか? 文官と武官の関係はつねに少々微妙である。武官が同一の官位であれば、原則として文官が武官に優越している。しかし要塞の司令官はたぶん千人の兵を統率する将なのだろうし、そういう武官というのは通常傲慢な連中なのだ。だが、黄金の密輸出を司令官がどう見ているかを確認するのは、きわめて重要なことだ。その男が朝鮮に関する事柄に習熟しているのは疑いない。おそらく彼は、無税でなら中国とほぼ同じ値で売れる国へ、なぜ人びとが金を密輸出したがるのかを説明できるだろう。地方的な社交儀礼について、タンに相談しておかなかったのは遺憾だった。あのあわれな老人は形式ばったことにはやかましかった。彼なら知っていただろうに。判事はうとうと眠り込んだ。
外の院子《なかにわ》で大声がして、判事は目を覚まされた。急いで起きあがると、長衣をきちんとなおした。予定したのより長いこと眠ってしまって、もう夕闇が降りつつあるのに気づいて彼はうろたえた。
院子《なかにわ》の中央には、事務官や巡査や守衛たちが群がって立っていた。その頭ごしに、マー・ロンとチャオ・タイの丈高《たけたか》い姿が見えた。
男たちが知事のためにうやうやしく道をあけると、四人の農夫が竹の担い棒から、ぐったりした恰好《かっこう》の、測ればほとんど十尺の長さはありそうなすばらしく大きな虎を地面におろしているのが見えた。
「チャオ兄貴がしとめました!」とマー・ロンが判事に向って叫んだ。「山の斜面の麓にある森林地の、こいつがいつも通るけもの道へ百姓たちが連れてってくれました。子山羊を囮《おとり》に仕掛けて、われわれのほうが風上《かざかみ》になる場所の下生えの中に隠れたんです。待ちに待って、午後ようやっと獣の姿を認めました。やつは子山羊につられて来たんですが、襲おうとしないんです。危険を察知したに相違ありません。そこの草の中に、半時間以上も腹ばいになっていましたよ。聖なる天よ、何と待たせたことか! 子山羊はずっと鳴きつづけて、チャオ兄貴は少しずつ少しずつ匍い寄って行きましたが、弩《いしゆみ》にはもう矢がつがえてあった。私は思いましたね、いま虎が躍ったら、まともにチャオ・タイ兄貴の頭に跳びかかるだろうって。私は二人の守衛と、三叉鉾《みつまたほこ》を三人とも構えて、兄貴の後ろへ匍って行こうとしました。出しぬけに獣が躍りあがって、空中に一本のすじしか見えませんでした。ところが、チャオ兄貴はやつをしとめた、ぴったりそいつの脇腹、右の前肢の後ろのところですよ。何とまあ、矢柄《やがら》の四分の三までめり込んでいたんです!」
チャオ・タイはしあわせそうに頬笑んでいた。虎の巨大な右足をおおっている白いまだらを指さして、言った、「これはあの夜、水路《クリーク》の対岸で見たのと同じ虎にちがいありません。私はちょっと結論を急ぎすぎたんだと思います、あのときは。でも、やつの出かたが出しぬけだったんです」
「私たちは超自然的な現象についてくよくよすべきじゃない。どこから見ても自然的な現象で手いっぱいなんだからね」とディー判事は言った。「みごとに射とめておめでとう!」
「これから皮を剥ぐんです」とマー・ロンが言った。「肉は百姓たちに分けてやります、連中は子どもたちが丈夫に育つように食わせるんですよ。毛皮はちゃんとこしらえてから、知事、われわれがあなたに贈りますよ、書斎の肘かけ椅子用に、あなたを尊敬しているほんのお印としてです」
判事は感謝の言葉をのべてから、ホン警部をともなって正門へ向った。昂奮した人びとの群がつぎつぎに入って来て、死んだ虎とそれを殺した男を見ようと熱中していた。
「眠りすぎたよ」とディー判事はホンに言った。「かれこれ夕食の時刻だ。われらの二人の勇者が初めてプオ・カイに会った、あの料理屋へ行って、気分転換に夕食をとろう。同時に、そこではプオ・カイについてどんなことが話されているか分かるかもしれない。歩いて行けばいい、新鮮な夜の空気は、頭の中から蜘蛛《くも》の巣をはらうのを助けてくれるかもしれないからね」
二人は賑やかな通りを南の方角へぶらぶら歩いて、難なくその料理屋を見つけた。二階へあわてふためいて亭主が挨拶に飛んで来た。円い顔がお世辞笑いで皺くちゃになっていた。亭主は二人をやたらと長く引き留めて、どんなに高貴な客人を迎えたかを他の客たちに見せびらかすと、贅沢にしつらえた離れの部屋へうやうやしく案内して、手前どもの賤しい調理場で何か提供できましょうかと尋ねた。「鶉《うずら》の卵、詰物をした大えび、薄切りの焼豚、塩漬けの魚、燻製の豚腿肉《ぶたももにく》、細切りの冷たい鶏肉を手初めといたしまして、おあとは――」
「欲しいのは」とディー判事は亭主のおしゃべりを断ち切った、「麺二杯、野菜の漬物一皿、熱い茶の大きな茶びん一つだ。それだけだよ」
「ではございましょうが、せめて薔薇露《そうびろ》一杯だけでも、閣下に差しあげさせて下さいまし!」と、がっかりした亭主は大声で言った。「食欲を盛んにいたしますです!」
「私の食欲はすばらしいよ、ありがとう」と判事は言った。亭主がつましい注文を給仕に伝えると、ディー判事はまた言った。「プオ・カイはちょくちょくこの店へ来るのかね?」
「ふえ!」と亭主は大声をあげた。「私には、あの男が卑劣な罪人だってことはすぐに分かりました! あいつが入って来ると、いつだって、こすっからい顔つきや、手を袖につっ込むやりかたに気がついたもんです。まるで匕首《あいくち》をいまにも引っぱり出しそうだったんです。けさがた、やつを逮捕するって掲示が出たと聞いたときに、私は申しました、おれはずっと前に、閣下にそのことを申しあげることだってできたんだぜって」
「そのころ、そうしなかったのは遺憾だな」判事はそっけなく言った。彼は亭主のうちに、あのいたましいタイプの証人、ものを見る目がからっきしないのに想像だけは逞しくする人間を認めた。判事は言った、「給仕頭を呼んでくれ」
給仕頭は抜け目のない顔立ちの男であった。
「私は申しあげなければなりません」と彼は話し始めた、「プオ・カイさんが罪人だなどと、思いつきもいたしませんでした。それに私の仕事では、客を見定めることを習います。あの人は確かに教養のある紳士に見えますし、たとえどんなにたくさん飲んでも変わりはありませんでした。給仕たちにはいつも優しかったのですが、親密になろうと求めていたからではなかったんです。それに、孔子廟《こうしびょう》近くの古典学校の校長が、あの人の詩の秀れた品性について意見をのべるのを、いつか私は耳にいたしました」
「ここで飲み食いするとき、ほかの人たちとはよくいっしょだったのかね?」ディー判事がきいた。
「いいえ、閣下、ここへきちんきちんと見えた十日ばかりの間は、一人で食べるか、友人のキム・サンといっしょでした。お互い冗談を言い合うのがお好きでした、あの二人の紳士がたは。それにプオ・カイさんの弓なりの眉毛ときたら、顔を何ともおかしな表情にしたものでした! ですが、ときどき、その目がぜんぜんおかしくないことに気がつきました、何と申しましょうか、つまり目が眉毛とぴったりしてなかったんです。そんなとき、私は自問いたしました、もしかすると、この人は変装をしているのじゃないかとです。しかし、そこであの人がまた笑い出すと、自分がまちがっていたことが分かりました」
判事は給仕頭に礼を言って、急いで麺を食べ終えた。亭主の精力的な抗議をおしきって勘定を払い、あの給仕頭に気まえのいい心づけを与えると外へ出た。
通りでホン警部に彼は言った、「あの給仕は観察力の鋭い男だ。プオ・カイはほんとうに変装しているのではないかと、たいへん気にかかる。彼がツァオ嬢に出会って、演技しなくて良かったときには、『どこか威厳のある雰囲気があった』という印象を与えたのを思い出してごらん。彼こそ私たちの第一の敵、背後でこの事件をあやつっている犯人なのだ。だからわれわれの部下が彼を発見できるなんて期待は、もうさっぱりと捨ててしまっていい。彼は隠れる必要もないのだからね。彼がちょいと変装をかえる、そうすればだれにも彼とは分からない。私がやつに出会ってないのは、何とも口惜しいことだ」
ホンはディー判事の終わりの言葉を聞いていなかった。町の守護神の神殿、城隍廟《じょうこうびょう》がある街の方角から流れてくる鉦《かね》や笛の響きに、ホンは一心に耳を澄ましていた。
「旅芸人の一座が町にいますよ、閣下!」昂奮してホンは言った。「連中は白雲寺の開眼式のことを聞いて、今夜歩き回っている群衆から金をもうけようと、舞台を架けたに相違ありません。ちょっと見に行きますか、閣下?」期待をこめて彼は言いたした。
警部が生まれてこのかた芝居の心酔者なのを、判事は知っていた。それだけが彼の思いきり楽しめる唯一の気晴しなのだった。判事は微笑しながらうなずいた。
廟の前の空地は群衆でごったがえしていた。彼らの頭ごしに、竹の柱と蓆《むしろ》でできた高い舞台が見えた。赤や緑の幟《のぼり》がその上の空中にひらひらはためいている。けばけばしい衣裳の役者たちが舞台の上を動きまわり、たくさんの華やかな色提灯が舞台を明るく照らしている。
立ったまま見ている群衆を肘で押しのけて進むと、二人は金を払う観客用の木の腰かけにやっとたどりついた。派手な舞台衣装をつけて、厚い顔ごしらえをした娘が金を取って、後列に空席を見つけてくれた。だれ一人、新来者に注意をはらうものはない。すべての目が舞台を見まもっているのである。
ディー判事は四人の役者を注意ぶかく眺めた。芝居とその約束事については、まったく何も知らなかったけれど、緑の錦織の長衣をまとい、白い顎ひげをなびかせて、中央で身ぶり手ぶりを演じている老人が年長者にちがいない、と推察した。老人の前に立っている二人の男と、その間にひざまずいている女となると、見さだめがつかなかった。
楽団の演奏がやみ、老人が調子の高い声で長い朗唱を始めた。奇妙な、引きのばされた芝居の言葉づかいに、判事はなじんでいなかった。で、彼はついていけなかった。
「いったいどういうことかね?」と判事はホンに尋ねた。
警部は即座に答えた。「あの老人は長老です、閣下。この曲は終わりに近づいていますが、左側の男が自分の妻、あのひざまずいている女です、妻に対して持ち込んだ訴えをいま長老が要約しているところです。もう一人の男は訴訟人の弟で、自分が立派な人物であることを証言しに来たのです」。ホンは少しの間聞いてから、昂奮してつづけた、「夫は二年間も旅に出ていたんです。そして帰ってみると、妻が身ごもっていました。夫は事件を長老に訴えて出ました、密通を根拠に妻を離縁する許しを得ようとしてですな」
「黙れ!」と、判事の前に坐っている、ふとった男が肩ごしに噛みついた。
突然、楽団が絃楽器をかき鳴らし、鉦《かね》を叩き響かせて演奏を開始した。女はしとやかに起ちあがって、情熱的な歌を唱ったが、その内容が判事にはさっぱりつかめないのだった。
「女は言ってます」とホン警部が声をひそめて、「八か月前のある日、夜遅く夫が帰って来て、その夜を彼女とすごしました。夫は夜明け前にまた出発したんです」
舞台の上では大混乱が勃発しかかっている。四人の役者全員が、いちどきに、唱い、しゃべくった。長老は頭を振りながら円を描いて歩き回り、そのため白い顎ひげが彼を包んでひらめいた。夫は振り返って見物に向うと、手を上下に揺らしながら、妻は嘘をついているのだときしみ声で唱った。その右手の人さし指は油煙《ゆえん》で汚れていたから、その指が欠け落ちているみたいに見える。夫の弟は、両腕を組んで長い袖に突っ込んだなり、満足そうに頭をうなずかせながら立っている。彼はもう一人の男にそっくり似ているような顔ごしらえをしていた。
ふいに音楽がやんだ。長老が第二の男に向って、咆《ほ》えるように何か言った。男はひどくびっくりしたような仕草をした。足で舞台を踏み鳴らして目玉をぐりぐりめぐらしながら、男はぐるぐる回転した。長老が再び彼に向かって叫んだので、男は袖から右手を出した。彼の人さし指も欠けていたのである。
楽団が熱狂的な旋律で鳴り出した。しかし音楽は群衆の喝采の叫びにほとんどかき消されてしまった。ホン警部もいっしょになって、ありったけの声で叫んでいた。
「ぜんたい、あれはどういう意味なんだ?」と、喧噪が静まりかかったとき、ディー判事が怒ったようにきいた。
「あの夜、女のもとへ来たのは、夫の双子《ふたご》の弟だったんですよ!」警部は早口に説明した。「彼は自分の指を切り落とした。それで妻は彼がほんとに夫だと思ったんでしょ! それであの曲は|春の一夜の指一本《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》という外題《げだい》なんです!」
「何て話だ!」腰をうかしかけながらディー判事は言った。「帰ったほうがいい」前の席のあのふとった男がオレンジをむいて、肩ごしにひょいとディー判事の膝に皮を投げ込んだ。
裏方が大きな文字を五つ、黒ぐろと書いた、ばかでかい赤い幟《のぼり》をするすると垂らしていた。
「ごらんなさい、閣下!」ホン警部は熱くなって言った。「つぎの曲は、『神明にユー判事が解く三不思議』ですよ!」
「なるほど」とディー判事は観念して言った、「ユー知事は、七百年前、わが漢王朝の最も偉大な探偵だった。連中がそれをどんな芝居にしたか見てみるさ」
ホン警部は、満足の溜息をもらしながら、また坐り込んだ。
楽団が、拍板《はくばん》のかたかた鳴る響きで拍子をとった、陽気な旋律を演奏し始めると、裏方が大きなテーブルを舞台に運んで来る。黒い顔で、長い顎ひげの巨《おお》きな人物が舞台に大股で現われた。彼は赤い龍を刺繍した、すらりと垂れた黒い長衣をまとい、きらきら光る輪型の飾りをいただいた高くて黒い帽子をかぶっている。熱狂した見物たちの賑やかな歓呼をあびながら、彼は赤いテーブルの向こうへどっしりと腰をすえた。
二人の男がやって来て、裁判官席の前にひざまずいた。彼らは突き刺すような裏声で唱う二重唱を始める。ユー判事は、指をひろげた手で顎ひげを櫛けずりながら聞き入った。彼は手をあげたが、彼が何を指さしたのか、ディー判事には見えなかった。ちょうどその瞬間に、油菓子を売っている小さなきたならしい子どもが、彼の前の腰かけをのり越えようとして、あのふとった男と口喧嘩をやり始めたからだった。けれども、これまでに、ディー判事の耳は舞台の言葉づかいに順応するようになっていたから、目の前でやっている口論ごしに聞き取れる歌がきれぎれに分かった。
小さな菓子売りがすべり抜けて行ったとき、判事はホン警部にきいた、「あの二人は兄弟じゃないか、また? 一方がもう一人を、年とった父を殺したと訴えているのだと思うが」
警部は活溌にうなずいた。舞台の年上の男は起ちあがって、小さな物を裁判官席に置くふりをした。ユー判事は拇指《おやゆび》と人さし指に挟んでそれを取るような仕草をし、気むずかしいしかめっ面でつらつらと見た。
「あれは何だ?」ディー判事が尋ねた。
「あんたにゃ耳がないのかね?」とふとった男が肩ごしにいらだたしく言った。「ありゃアーモンドだよ!」
「分かった」とディー判事はぎこちなく言った。
「兄弟の年老いた父は」ホンが早口に説明した、「あのアーモンドを殺害者の手がかりとして残したのです。兄はいま父が殺害者の名を紙片に書いて、アーモンドの中に隠したのだと言ってます」
ユー判事は小さな紙片を、用心しいしい広げているかのような仕草をした。ふいにまるでどこからともなくというふうに、彼は五尺以上もの長い紙を取り出した。大きな二文字が書かれていて、それを判事は見物に見せた。群衆は憤然としてわめき出した。
「あれは弟の名前ですよ!」とホン警部が叫んだ。
「黙れ!」ふとった男が彼を怒鳴りつけた。
楽団が狂ったように爆発し、銅鑼《どら》や鉦《かね》や小太鼓がいっぺんに鳴り響き始めた。弟は起ちあがり、甲高い笛の旋律を伴奏に熱烈に唱って、罪を否定した。ユー判事は怒って両目をぐりぐりまわしながら、兄と弟を順ぐりに注視した。はたと音楽がとまった。つづく死んだような沈黙の中で、裁判官席にかぶさるようにもたれかかると、ユー判事は二人の男の長衣の襟をむずとつかんで引き寄せる。判事はまず弟の、ついで兄の口の臭いを嗅いだ。兄を荒っぽく突き放し、拳でテーブルを激しく叩き、雷のような声で何か叫んだ。音楽がまた荒れ狂う旋律を鳴らし始めて、観客が歓呼して湧き起った。ふとった男が起ちあがって、「いいぞ! いいぞ!」と声をふりしぼって怒鳴った。
「何が起きた?」我知らず引き込まれて、ディー判事がきいた。
「判事が言ったんです」とホン警部が昂奮で山羊ひげを震わせて答えた、「兄はアーモンドの乳汁の臭いがしたって! 年とった父親は、年上の息子が自分を殺して、どんな手がかりを残してもかってに変えるだろうと分かっていました。それでアーモンドの中に知らせを入れといたんです。アーモンドがほんとうの手がかりだったんです。兄はアーモンドの乳汁が大好きでしたからね」
「悪くないね!」とディー判事は感想をのべた、「私は考えたことがある。つまり――」
だが、楽団がべつの耳をつんざく曲を鳴らし始めた。金できらきら輝いている長衣を着た二人の男が、ユー判事の前にひざまずいている。どちらも手に一枚の紙を持ってひらひら振っているが、紙にはいちめんに小さく何か書いてあり、その上に大きな赤い印章がおしてあるのだ。ディー判事は二人の朗誦から男たちがどちらも貴族であることを聞き分けた。二人の主君がどちらにも大きな荘園、土地、家屋、奴隷、貴重品を半分ずつ遺してくれて、そのことは彼らがいま提示している書類にはっきり指示されている。だが、分配が不正であって、相手が本来の取り分よりよけいに受け取ったとてんでに主張しているのだった。
ユー判事は白眼を剥き出しながら二人を注視した。帽子のきらきら輝く飾りを豆提灯の光に躍らせながら、判事は怒って頭を振った。音楽がとても静かになって、緊迫した雰囲気が湧き、それがディー判事にもひしひしと伝わった。
「おまえの思ってることをぶっちゃけろ!」とふとった男が辛抱できずに叫んだ。
「黙れ!」と、自分が怒鳴るのを聞いて、ディー判事はえらくびっくりした。
銅鑼《どら》がけたたましく鳴り響いた。ユー判事は起ちあがった。二人の告訴人の手から書類をつかみ取ると、それぞれに相手の書類を手渡した。判事は両手をさしあげて、一件が落着《らくちゃく》したことを合図した。二人の貴族はまごまごして手にした書類を見つめるのだった。
耳を聾《ろう》する喝采が観客から湧き起こった。ふとった男が席に坐ったまま振り向いて、先達《せんだつ》ぶった口調でしゃべり始めた、「何とか、あんたにも分かっただろ? そうさ、あの二人は――」
男の声がだんだん弱くなって行った。彼は口をあけっぱなしで判事を見つめた。彼は相手がだれなのか覚った。
「完全に分かったよ、ありがとう!」判事は澄まして言った。彼は腰をあげて、オレンジの皮を膝から振り落とし、群衆をかきわけて帰りかけた。ホン警部が後を追ったが、未練たっぷり最後の一瞥《いちべつ》を舞台に投げた。そこでは二人を席に案内した女役者が、ちょうど裁判官席に近づくところだったのである。
「これは若い女が男のふりをする事件ですよ、閣下!」とホンは言った。「まったくすばらしい話なんですよ!」
「ほんとにもう帰らなきゃならないのだ、ホン」と判事はきっぱり言った。
混雑した街路を歩きながら、ディー判事がふいに言った、「通常、ものごとというのは、人が期待したのとはまったくちがったことになるものだな、ホンよ。まだ学生だったころ、実際、私は予測していたのさ、たったいまわれらのユー判事が舞台の上で活躍するのを見たが、知事の仕事は多かれ少なかれああいうものだろうとね。裁判官席の奥にいて、長い混乱した話だの、手のこんだうそだの、つじつまの合わない申し立てだの、人びとが私の前に持ち込んでくる、あらゆる種類のことに傲《おご》ることなく耳を傾け、それから出しぬけに弱点に跳びかかって、その時、その場で判断を下し、混乱した犯人を粉砕するのだろうと思っていた。そうだよ、ホン、いまはもっと良く分かっているさ」
二人は声をあげて笑い、ぶらぶら歩きをつづけて政庁へもどって行った。
政庁へ帰ると、ディー判事はそのまま執務室へ警部をともなって行った。彼は言った、「上等の強い茶を一杯いれておくれ、ホン。そしておまえも一杯飲みなさい。それから白雲寺の儀式に着ていく私の礼装をととのえるがいい。面倒でも、あそこへ私たちは行かなければならない。ここにいて、われわれの殺人事件に関する考えかたを、おまえと再検討するほうがよっぽどましだけれど、どうしようもない」
警部が茶を持って来ると、判事は二、三口ゆっくりすすった。
「まったくのところ、ホン、おまえの芝居好きが、今は前よりも良く分かるよ。もっとちょいちょい見に行かなければならないね。初めは万事が非常に錯雑して見えるが、鍵になる言葉が語られると、ふいにすべてが明瞭になってしまう。私たちの殺人事件も同じだといいのだが」
判事はもの思いにふけって口ひげを引っぱった。
「あの最後の事件は」と、皮張りの箱から、ディー判事の礼装用の帽子を用心して取り出しながら、ホン警部が言った、「前に見たことがあります。あれの主題は変装が――」
ディー判事は聞いていないらしかった。突然、彼は机を拳で打った。
「ホン!」と彼は叫んだ、「どうやら分かったぞ! 至高の天よ、仮にそれが正しいとすれば、もっとずっと早く私に分かっただろうに!」
判事はちょっとのあいだ考えてから言った、「県の地図をくれ!」
警部は大急ぎで机の上に大きな絵地図をひろげた。ディー判事は熱心にこまかく調べ、うなずいた。
彼は躍りあがると、後ろ手を組み、もじゃもじゃの眉を深く皺寄せながら床をゆっくりした足どりで歩き始めた。
ホン警部は緊張して判事を見まもった。しかし何度となく部屋を行ったり来たりしたはてに、ついに判事は立ちどまって言った、「そのとおりだ! すべてがぴったりいく! さあ、仕事にかからなければならないぞ、ホンよ。やるべきことはたくさんあって、時間は非常に少ないのだ!」
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第十七章
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敬虔な管長は荘厳な儀式を主宰し
懐疑的哲学者は最良の論拠を失う
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東の城門の外にある虹橋《にじばし》はずらり並んだ大きな提灯《ちょうちん》に照明され、その色さまざまな輝きが水路《クリーク》の暗い水に映っていた。白雲寺へ通ずる道は、両側に立てられた高い柱から吊りさがる色どり華やかな提灯で花輪のように飾られ、寺そのものは炬火《たいまつ》と燈明《とうみょう》で輝かしく照らし出されていた。
ディー判事の輿《こし》が橋を渡ろうとしたときには、その辺りはまばらな人影が見えるばかりだった。儀式が行なわれる時刻が迫っていて、平来《ポンライ》の市民たちはもう境内に集まっていたのだ。判事は三人の助手と二人の巡査だけをともなっていた。ホン警部は判事の輿に向い合って坐り、マー・ロンとチャオ・タイは騎馬で従って、二人の巡査が「平来《ポンライ》政庁」と書かれた提灯を長い竿で掲げて先導していた。
輿は門房の広い大理石の階段を運びあげられて行った。判事には、鉦《かね》や銅鑼《どら》の響きが僧たちの単調な朗誦に律動をそえているのが聞えた。仏教の讃歎《さんたん》を合唱しているのだ。印度の薫香の濃厚な匂が山門から漂い出ている。
寺の本院子《ほんなかにわ》は密集した庶民たちであふれていた。本堂の前の高い檀の上から群衆を見おろして、管長は赤漆塗の玉座のような席に結跏《けっか》して坐っていた。彼はその高い地位をあらわす紫の法衣をまとい、肩のまわりから金色の錦繍の袈裟を掛けている。その左には、商店主のクー・モンピンと朝鮮人区の区長、それと二人の同業組合《ギルド》の親方がもっと低い椅子に腰かけていた。管長の左の椅子は名誉ある席で、だれも坐ってはいなかった。その隣には要塞の司令官がよこした隊長が一人、きらめく武具に身をかため、長い剣をたずさえて坐っている。そのとき、ツァオ博士ともう二人の同業組合の親方がやって来た。
壇の前には高い桟敷《さじき》が組んであって、その上に絹の掛布と生花で飾られた円形の祭壇が立っていた。祭壇には、あの弥勒菩薩《みろくぼさつ》像の杉材の模像が、金箔をおした四本柱が支える紫の天蓋におおわれて祀られていた。
祭壇を取り囲んで、五十人ばかりの僧侶が坐っていた。左側の僧たちはさまざまな楽器を演奏し、もう一方の僧たちは合唱を受け持っている。桟敷の周囲は、ぴかぴか光る甲冑をつけた槍騎兵たちが警戒線をはり、それをとりまいて群衆がごったがえしている。うまく席が見つからなかった連中は、院子《なかにわ》を囲む建物の前面に並んでいる柱の高い礎石の上に、危いかっこうで鳥みたいにのっかっていた。
ディー判事の輿が院子《なかにわ》の入口で降ろされた。黄色い絹の長衣もまばゆい、四人からなる初老の僧侶の代表が判事を出迎えた。壇へつづく、綱で仕切られた狭い通路を案内されて行きながら、判事は見物の群衆の中に、中国人と朝鮮人の水夫が大勢、守護神を拝みにやって来ているのに気づいた。
判事は壇に登って、小柄な管長の前で会釈をして、さし迫った公務のために遅れたのだと告げた。管長は優雅にうなずき返すと、閼伽鉢《あかばち》を取って、聖水を判事に振りかけた。判事は三人の助手を後ろに控えさせて、椅子に腰をおろした。要塞の隊長、クー・モンピン、それに他のおもだった市民たちが席を起ち、判事の前に来て丁重に礼をした。一同がまた席におさまったところで、管長が合図を送った。楽団が演奏を開始した。合唱の僧侶たちが、仏陀をたたえる厳粛な讃歌を唱いはじめた。
讃歌が終わりに近づくのに合わせて、大きな梵鐘が殷々《いんいん》と鳴り響き出した。桟敷の上ではホイペンの先導で、僧侶が十人、手に手に香炉を振り揺らしつつ、ゆっくりと祭壇を回り始めた。薫香の濃密な雲が、磨きあげられて、美しい焦茶色につやつや輝いている仏像をおし包んだ。
巡回の儀礼を終えると、ホイペンは桟敷から降りて壇に登り、管長の椅子に歩み寄った。ひざまずいて、黄色い絹の小さな巻物を頭上に捧げた。管長は身体を前に曲げて、ホイペンの手から巻物を受け取った。ホイペンは起ちあがり、桟敷上の自分の席にもどった。
梵鐘が三点、会衆の頭上に鳴りわたった。すると、会場全体がひっそりと静まりかえった。いよいよ開眼《かいげん》の儀式が始まるのだ。管長が黄色の巻物に記された祈祷文を朗誦するだろう、ついでそれに聖水を振りかけるだろう、そして終わりにその巻物と、他に何点かの小型の祭具が、仏像の背中にあいた空洞に納められるであろう。こうしてあの洞窟に安置されている、白檀《びゃくだん》の弥勒仏の現物がそなえているのと同一の神秘な徳が、新しい仏像に分与されるはずだった。
管長が黄色い巻物を解き始めたとき、突如、ディー判事は起ちあがった。彼は進み出て壇の端に立ち、ゆるゆると会衆を見わたした。目という目が、緑色にきらめく錦織の長衣をまとって威厳に満ちた判事の姿に向った。炬火《たいまつ》の光が、翼状に|※[#「巾+僕のつくり」、unicode5e5e]《ぼく》を張って、金で枠取りをした黒|天鵞絨《ビロード》の帽子を輝かせた。判事はしばらく顎ひげをしごいていたが、やおら両腕を広い袖に入れた。それから口をきった。声は朗々と会場中に響きわたった。
「帝国政府は、仏教寺院に対して、その崇高なる教えがわが億兆の庶民大衆の習俗と道徳とに有益な感化を及ぼすと考えられるかぎりにおいて、忝《かたじけ》なくも手あつく保護せんことを認め来たった。ゆえに、この聖域、白雲寺を保護することは、当地|平来《ポンライ》において帝国政府を代表する知事たる私の義務である。いわんや当境内に安置せられてある弥勒菩薩の尊像が、大海の危険に勇敢に起ち向かう、わが水夫諸君の生命の安全を守護するにおいてをや」
「なむあみだぶつ!」と小柄な管長が唱えた。初め彼は儀式が中断されたことに腹を立てたらしかったが、いまは穏やかな笑みをたたえて頭をうなずかせていた。予告がなかったにもかかわらず、知事の演説に彼が賛同しているのは明白だった。
ディー判事はつづけた、「さて、船主クー・モンピンがこの弥勒菩薩の尊像の写しを奉納し、われわれはその厳粛なる開眼《かいげん》に立ち会うべくここに集まっている。帝国政府は忝《かたじけ》なくも、儀式完了の後に写しの像が軍隊の護衛のもとに帝都に運搬せらるべきことを承認している。政府はかくすることによって、正しく浄化せられた仏の像に対して敬意を表せんとし、並びに首都へ輸送する途中において、この像に何らの不都合も起こらざることを保証せんとするものである。
知事たる私は、この公認せられた信仰の場に出来《しゅったい》するすべてのことがらに十全なる責任を負うがゆえに、開眼に承認を与えるに先立って、この像がまことに申立てられているとおりのものであるか否か、すなわち、弥勒菩薩の尊像を杉材にきざんだ正確な写しであるか否かを検証するのがわが義務であると判断する」
驚いてぶうぶういう声が会場から湧き起こった。管長は憮然として判事を見つめ、祝辞だと予想していたのが、思いもかけずこんな終わりようをしたことに困惑していた。桟敷上の僧侶たちの間に何か動揺が起こった。ホイペンが管長と相談をしに降りて来ようとしたが、兵士たちが阻止した。
ディー判事が手をあげた。会衆はまた静まりかえった。
「わが助手に命ずる」とディー判事は告げた、「この像がほんものであるかどうか検証せよ」
判事が合図すると、チャオ・タイがさっと壇を降りて桟敷に昇った。僧たちを押しのけながら、彼は祭壇の前に進んで剣を抜いた。
ホイペンが欄干に進み出た。大音声で叫んだ、「われわれは尊像が穢されるのを見すごすのか、弥勒菩薩の恐ろしい怒りに触れて、航海中のわれらが仲間の大切な命が危険にさらされてもいいのか?」
怒りの叫びが会衆からあがった。水夫たちに先導されて、群衆が口々に抗議の声をあげながら、桟敷に向ってどっと押し寄せた。管長はチャオ・タイの丈高い姿を見つめた。驚きのあまり口が開いていた。クー、ツァオ、同業組合の親方たちは不安そうに互いにささやきかわし始めた。要塞から来た隊長は、激昂した群衆を心配げに見わたして剣の柄《つか》に手をやった。
ディー判事が両手をあげた。
「もとへもどれ!」群衆に向って厳然と叫んだ。「この像はまだ開眼されてはいない、ゆえに、この像は尊ぶに値しないのだ!」
「聴き従え!」という大きな叫び声が院子《なかにわ》の入口から聞えて来た。人びとが振り返ると、政庁の巡査と守衛たちが完全武装で駆け込んで来るのが見えた。
チャオ・タイが剣を返してホイペンの頭を打った。ホイペンが倒れた。すかさず剣を振りかぶると、チャオ・タイは彫像の左肩に激しい一撃を加えた。剣が手から跳ね飛んで、音を起てて床に落ちた。彫像はまるで傷つかないように見えた。
「奇蹟じゃ!」恍惚《うっとり》として管長が叫んだ。
群衆が押し寄せ、槍騎兵たちは槍を横にして押し返さなければならなかった。
チャオ・タイは桟敷から跳び降りた。兵士たちが道をあけると、彼は壇に駆けあがって、彫像の肩から剣でそぎおとした小さな切れはしを判事に手渡した。みんなが見られるように、そのきらきら光る細長い切れはしをさしあげながら、ディー判事は叫んだ、「卑劣な欺瞞《ぎまん》が行なわれていた! 不敬な瞞着《まんちゃく》が弥勒菩薩を辱《はずか》しめたのだ!」
容易には信じられないで、群衆が騒然となった。その喧騒をうわまわる大音声で判事は語りつづけた。
「この像は杉材でできているのではない。純粋な黄金なのである! 貪欲な罪人どもはこのようにして、こっそり運び込んだ黄金を不法な儲けのために首都へ運搬しようとした。知事たる私は、この極悪なる神聖冒涜の罪状によって、彫像の寄進者クー・モンピン、その共犯者ツァオ・ホーシェンおよびホイペンを告発し、また、この神聖冒涜の罪に共謀したかどによって審理すべく、管長および当寺の他の同房全員を拘引することを申し伝える!」
群衆はもう静かになっていた。会衆はディー判事の発言に含まれた意味が分かりかけていた。判事の深い誠実に感銘を受けて、この思いがけないなりゆきについてもっと詳しく知りたがっていた。要塞の隊長は安堵の吐息をもらして剣から手を離した。
ディー判事の声がまた響き始めた。
「私はまず第一にクー・モンピンを審理する。国家はこの者を、公認された信仰の場で神聖冒涜をなし、密輸と帝国官吏殺害とによって国家を欺いたかどで告発する!」
二人の巡査がクーを席から引き立てて、判事の足もとに押しつぶしてひざまずかせた。クーは完全に驚愕にとらわれていた。顔は蒼白で、がたがた震えていた。
ディー判事は厳しく呼びかけた。
「おまえに対する三重の告発は、政庁において公式にのべられるであろう。邪悪な計画はすっかり明白になっている。いかにして、おまえは大量の金を日本と朝鮮から密輸入し、旅の僧の杖の中にのべ棒にして隠すというやりかたで、朝鮮人区へ、その後にこの寺へこっそり運び込んだか。いかように、被告人ツァオ・ホーシェンは金を詰めた杖を、市の西にある荒寺で受け取り、本の包みの中に隠して首都へ送ったか。本県の知事たる亡きワン・テーホワ閣下が疑いを抱《いだ》き始めるや、いかにして、おまえは閣下の書斎の焜炉のまうえにあたる梁に隠した毒で閣下を殺害したか。そして最後に、いかように、おまえは、詐欺の小細工に利用するために純金でこの仏像を鋳ることにより、自分の卑劣な犯罪を飾りたてようと企てたのか。白状せよ!」
「私は無実でございます、閣下!」とクーは叫びをあげた。「この仏像が金でできているとはまるで存じませんでした、それに私は――」
「うそはたくさんだ!」ディー判事は怒鳴りつけた。「ワン閣下自身が、閣下を殺そうとたくらんだのはおまえだと私に告げた。私にあてたワン閣下の書信を見せてやろう」
判事は朝鮮の娘がチャオ・タイによこした古物の漆物箱を袖から取り出して、一対《いっつい》の金色の竹の幹で装飾された蓋を持ちあげた。そしてまた話し始めた。
「おまえはこの箱に入っていた書類を盗んだのだ、クーよ、そしてそれによっておまえに関する証拠はすべて抹消したと思った。しかしおまえには、おまえの犠牲者の鋭い知性が少しも分かっていなかった。この箱自体が手がかりになっていたのだ。この箱に描かれた一対《いっつい》の竹はそのまま、おまえには手離すことのできない伴侶たる杖の一組の竹を指し示しているのだ!」
クーはあわてて椅子に立てかけてある自分の杖を見た。二本の平行する竹の幹を結び合わせている銀の輪が、炬火《たいまつ》の光できらきら光っていた。黙ったまま、彼は頭をさげた。
判事は容赦せずにつづけた、「そのうえ亡き知事は他の手がかりをも残している。それらは、おまえがこの邪悪な計画にかかわっていること、また知事を殺そうとたくらんでいるのがおまえであることを知事が知っていたことを証明している。もう一度言う、クーよ、白状せよ、そして共犯者どもの名をあげよ!」
クーは頭をあげて、みじめに判事を見つめた。それから、どもりどもり言った、「わたくし……私は、白状いたします」
クーは額の汗を拭うと、抑揚のない声で話しつづけた。
「私の船で朝鮮の港と平来《ポンライ》の間を往き来しております朝鮮の寺々の僧どもが、杖に仕込んで金ののべ棒を運びました。そしてその金を私がここから荒寺へ、さらにそこから首都へと移送するのを手伝いました者どもは、まことにホイペンとツァオ博士でございました。キム・サンが私を助け、施物《せもつ》係のツーハイが、私が名を申しあげます他の十人の僧とともにホイペンを助けました。管長と他の僧たちはかかわりがございません。金の仏像はホイペンが監督して、ここで鋳造いたしました。ツーハイの死体を火葬にする火を使ったのでございます。ファン師匠の作りました本物の写しは、私の屋敷に隠しました。キム・サンが朝鮮人の職人を雇って、ワン知事の書斎の梁に毒を仕込ませ、そのあと次便の船にて、その男を朝鮮に送り返したのでございます」
クーは顔をあげて、哀願するように判事を見た。彼は絶叫した、「さりながら、私は誓います、何ごとによらず、私はただ命令に従って動いただけなのでございます、閣下! ほんとうの犯人は――」
「黙れ!」雷鳴のような声でディー判事が命令した。「私に新しいうそをつかませようとするな! 明日、おまえ自身の動機を申し立てる機会は十分に与えてやる、政庁でだ」チャオ・タイに向って、判事は言った、「この男を捕え、政庁に連行せよ」
チャオ・タイはすばやくクーを後ろ手に縛ると、両側に二人の巡査を立てて連行して去った。
ディー判事はツァオ博士を指さした。博士は石になったように椅子に坐り込んだままだった。だが、マー・ロンが近づいて来るのを見ると、ぱっと跳びあがって壇の向う端へ突進した。マー・ロンが躍りかかり、博士はかわして逃げようとしたが、マー・ロンがひらひら翻る顎ひげの端をつかまえた。ツァオ博士は悲鳴をあげた。顎ひげがマー・ロンの大きな拳の中に抜け離れたのだ。博士の小さく縮まって行く顎には、薄い絆創膏が細長くわずかに残って、あとはつるりとしてしまっていた。絶望の咆え声をあげて、博士は剥き出しの顎を両手でおおった。マー・ロンがその手首を捕え、後ろ手にまわして縛りあげた。
微笑がディー判事のいかめしい容貌をゆっくりと明るくした。満足そうに彼はひとりごちた、「そう、あの顎ひげがくせものだったのだ」
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第十八章
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ディー判事は邪悪な陰謀をあばき
ついに謎の人物の身もとが割れる
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ディー判事と三人の助手が政庁に帰って来たときには、真夜中もとうに過ぎていた。判事はそのまま三人を執務室へ連れて行った。
判事が机の奥に腰をおろすと、ホン警部がすみのテーブルの上にある焜炉のところへ行って、判事のために濃い茶を一杯いれた。ディー判事はなん口かすすると、椅子の背にもたれかかって語った。
「偉大な政治家にして卓抜な捜査官であった、わがユー・ショウチェン州長官は、その『知事への教訓』の中でこうのべている、捜査官たるものは一つの理論に頑固にしがみつくことなく、捜査の進行にともなって、それをくりかえし再検討し、何度でも事実と照らし合わさなければならない、そしてぴったりしないと思われる新しい事実が見つかったら、その事実を理論に当てはめようとしてはならず、理論を事実に合わせるか、きっぱり理論を捨てるかしなければならない、とね。私はいつも思っていた、わが友たちよ、これはわざわざ言う必要もないくらい分かりきったことだ、とね。けれども、知事殺害の件では、歴然とこの基本的な原則を守りそこねていた」話しながら、判事は弱々しい笑みを浮べた。
「あきらかに、それは私が思っていたほど分かりきったことじゃないのだよ。
この計画の背後にいる狡猾な犯人は、私が平来《ポンライ》の知事の地位に任命されたのを耳にすると、ご親切にも何かかぶりつくものをくれようとした、数日の間、私を忙殺するためにね。そいつの最後の一撃は黄金の仏像を首都へ送ることだったが、その計画はほぼ成功しかかっていた。仏像が平来《ポンライ》を離れるまで私をまちがった道へ進ませておきたかったのだ。こうしてクー・モンピンに私を迷わせるように命じ、クーは武器が密輸出されているという噂をひろめた。クーはその思いつきをキム・サンから得た。キムは前からそれをあの朝鮮娘の協力を得るために使っていたのだ。私は罠《わな》にかかったのだよ。武器の密輸が私の全推理の基礎になっていたのだからね。キム・サンが密輸出されているのは黄金だともらした後でも、まだ中国から朝鮮へそれが密輸されているのだと信じていた、そんなことをしてどんな利益が得られるのかと漠然と疑問に思ってはいたのだが。それがまったく逆の方向だと分かったのが、まさにこの今夜だったのだ!」
ディー判事はぷりぷりして顎ひげを引っぱった。話をつづけるのを熱心に待っている三人の助手を見て、彼は元気のない微笑を浮べた。
「私の短見に対してあげられる、たった一つのいいわけは、ファン・チュンの殺害、クー夫人の失踪、タンの奇怪な行動といった偶発的な事件がともすれば問題点を混乱させたことだ。そのうえ、長いことイー・ペンにかかずらいすぎた、彼は――完全に無罪なのだが――武器がこっそり運び出されていると私に話しに来たし、いま話そうとしている誤りのために私も彼に疑いをかけたからだ。
だれが知事を殺したのかを教えてくれたのは、今夜早くホンが連れて行ってくれた芝居だった。劇の中で、一人の男がアーモンドの中に通信を残すことによって、だれが自分を殺したのかを、死んだあとに暗示したのだ。だが、その通信は殺害者の注意を、ほんとうの手がかりからそらせる手段にすぎなかった。つまりアーモンドそのものが手がかりだったのさ! そのとき、とつぜん分かった、ワン知事がわざと高価な古物の箱を書類のいれものに選んだのは、その蓋にある一対《いっつい》の金色の竹の幹が、クーの二本の竹を結び合わせた杖を指し示しているからだ、とね。知事が謎ときや判じ物が好きだったのが分かっているから、同時に彼は、黄金が竹の杖に仕込まれて、こっそり運ばれていることも暗示しようとしたのではないかとさえ私は思う。だが、いまとなっては、そいつはけっして分からないだろうな。
クーが殺害者だと分かったから、私は覚った、私を蟹料理店へ連れて行く前に、クーがキム・サンを立ち去らせて言った言葉の底にある意味をだ。クーは、『おまえはつづけてよろしい、やることは分かっているね』と言ったのさ。あきらかに彼らは、私が正しい道についたように見えしだい、私を消すことのできる方法をすでに話し合っていたのだ。そして私は連中にそう思わせてしまった。白雲寺の坊主どもが、ふらちな目的で荒寺を使っていると頓馬なおしゃべりをし、そのうえ、クーが首都へ仏像を送ろうとしていることを話してね! さらにそのうえ、夕食の間に妻のことを語らせようとした、クー自身のたくらみの一つに、彼女はうっかり巻き込まれたのだと漠然とほのめかしてだ。クーはもちろん、私が真相を疑い、いつなんどきでも彼を逮捕できることを、彼に分からせようとしているのだと考えた。
事実としては、私はそのときはまだ真相からひどく離れていた。密輸人たちが内地から荒寺へ黄金をどうやってうまく運べるものか、突っつきまわしていたのさ。けれども、今夜、クーとツァオ博士の関係がどんなものでありうるかと自問した。博士には首都に従兄《いとこ》がいる。どんなまちがったことでも疑わないから、簡単に利用できる世間知らずの書物気ちがいなのだ。ツァオ博士はクーを従兄に紹介することで、クーが首都から平来《ポンライ》へ金を持って来るのを助けたにちがいない、と私は考えた。その時点で、とうとう真実が私に現われた、というのも、そのとき突如私は思い出した、ツァオ博士が一定の間隔を置いては首都へ本の包みを急送していたことをだ。金は中国に密輸入されていたのであって、その逆方向ではなかった! こうして頭のいい犯人一味は、高い関税と道路税を免れることによって、大量の安い金を集め、その金で市場を操作して肥えふとっていたのだ。
しかしながら、その時点で、私は一つの困難に突きあたった。金密輸のたくらみは、一味が莫大な量の金を処分するときにのみ動くことができる。朝鮮で金が安く買えるのはほんとうだが、それに対してはそこで支払いをしなければならず、そのことは相当の資本が出費されていることを意味する。現実に大きな利益をあげるためには、首都の市場に影響を及ぼすことができなければならず、そのためには、中空の杖と本の包みに隠してこっそり運ぶ、五、六十本の細いのべ棒ではけっして十分ではありえない。おまけに、私がここへ到達したときには、連中はあきらかに私があとづけた方途をもう使っていなかった。なぜなら、ツァオ博士は蔵書のほとんど全部を、すでに首都へ急送してしまっていたからだ。そこで、犯人たちが恐ろしく急いでいる理由が分かった。つまり、ごく近いうちに、厖大な量の黄金が首都へ発送されようとしていることがだよ。どのようにすれば、それができるか? クーの仏像の写しが、政府の護衛つきで首都に運搬されるというのが、そのはっきりした解答だったのさ。
この大胆な企てのこのうえない厚かましさは、組織をあやつっている首領にふさわしい。ついに私は、マー・ロンとチャオ・タイが運河の岸で霧の中に目撃した奇妙な出来事の意味を理解した。町の地図を調べてみると、クーの屋敷が第一《ヽヽ》の橋の近くにあることが分かった。霧の中で君たち二人は、自分たちが歩いた距離を誤認したに相違ないと私は覚り、君たちが出来事を目撃したのは第二《ヽヽ》の橋の近くだったのだと考えた。そして翌日君らが聞き込みをやったのはその辺りだった。イー・ペンはその附近に住んでいる。そのことが、少しの間、あの思慮はたらないが罪はない商人に対する私の疑いを強めた。だが、それをべつにすれば、君たちの目は君たちをだましてはいなかったのだよ。ただし、クーの家の者たちは生きている人間を殴り殺したのではなかった。黄金の仏像の鋳型《いがた》を鋳るために、クーがこっそり作った粘土の模像を打ち砕いたのだった! 白雲寺の疑うことを知らない管長に、紫檀《したん》の箱に入れてクーが送ったのはその鋳型だったのさ。ホイペンが箱をあけて、施物係の死体を火葬するのを口実に利用して、集めてあった金ののべ棒を溶かすのに必要な燃えたつ火をおこして黄金仏を鋳たのだ。私は自分の目でその紫檀の箱を見たし、死体一つを焼くのに、それほど大きな火が必要だということに驚いた。しかし、何も疑いはしなかった。
ところで、半時間前、私たちが寺からクーの屋敷へおもむいて捜査したさいに、ファン師匠が作った杉材の像が、十数個の断片に鋸《のこ》できちんと挽《ひ》き分けられているのが見つかった。それらを首都へ送り、そこでもういっぺん組み合わせて白馬寺に奉納する、その片方で、黄金仏は陰謀の指導者のもとに運ばれる、というのがクーの計略だったのだ。粘土の模像は容易に処分することができた。こなごなに打ち砕いて、運河にほうり込んだのさ。マー・ロンはその残骸を踏んだのだが、紙のおおいがまだくっついていたね」
「そうです」とマー・ロンが言った、「自分の目がまだ信用できるってことが分かって、うれしいですよ。ごみの入ったかごを坐っている人間と見まちがえたのかと、ちょっぴり気にしていたんです」
「ツァオ博士は、なぜあの犯罪計画に加わったのでしょう、閣下?」と警部が尋ねた。「つまるところ、彼は学者です、それに――」
「ツァオ博士は贅沢が好きだったのさ」と判事がさえぎった。「彼はかねの消耗に追いつけなかった。だからしかたなく市中を離れて、あの古ぼけた塔に住んだのだよ。あの博士については、何もかもがうそっぱちだった、顎ひげさえもがね! クーが近づいて、利益の大きな分けまえを約束すると、その誘惑に逆らえなかったのさ。施物《せもつ》係のツーハイがクー夫人とプオ・カイに会ったあの夜、ツーハイがたずさえていた杖には金ののべ棒が入っていた。博士がきちんと受け取っていた分けまえだよ。クーは、ツァオ嬢に対する欲望が警戒心に勝《まさ》ってしまって、ツァオ博士に娘を嫁によこすよう命じたとき、ひどい誤りをしでかしたのさ。そのことが、二人の間に結びつきのあることを証明してくれたのだ」
ディー判事は溜息をついた。茶碗をからにすると、
「クー・モンピンはまったく無情で強欲な男だが、一味の首領ではなかった。命令に従って行動していたにすぎない。だが、私はその雇主《やといぬし》の名を彼に言わせることができなかった。というのも、その男はここでほかにも手先を使うことができて、そいつらがクーに警告したのだろう。今夜にも――というより、けさにもだ!――私は大至急、首都へ、君らが外で院子《なかにわ》に待機しているのを見た騎馬憲兵の一隊を派遣して、首都裁判所の長官にその男の告発を送達する考えだ。ところで、その騎馬憲兵隊の伍長が少しまえ、憲兵がファンの下僕のウーという男を、二頭の馬を売ろうとしていたところで捕えたと知らせて来た。彼はやっぱり、アー・クワンが農園を離れたすぐあとに殺人を発見したのだった。ウーは自分がやったと疑いをかけられるのが恐ろしくて、銭箱と馬をさらって逃げた、ぴったり私たちが推理したとおりにね」
「でも、密輸の陰謀を指揮した首領はだれだったんです、閣下?」とホン警部がきいた。
「もちろん、あのいいかげんな悪党のプオ・カイさ!」とマー・ロンが叫んだ。
ディー判事は微笑した。
「警部の質問については、ほんとうのところ私には答えられないんだ。その犯人がだれなのか知らないのだからね。プオ・カイが本名を名のって私を補《おぎな》ってくれるのを待っているのさ。実を言えば、どうしていまだにプオ・カイが姿を現わして来ないのか、不思議に思っている。私たちが寺からもどれば、ただちにここへやって来ると期待していたのだよ」
三人の助手が驚いて口々に質問したとき、扉が叩かれた。巡査長が飛び込んで来て、プオ・カイが政庁の正門を落ちつきはらって通り抜けたと報告した。守衛が即刻逮捕したと言うのだ。
「ここへ通せ」と判事は平静な声で言った。「守衛なしでだ、よいな」
プオ・カイが入って来ると、判事はさっと起ちあがって礼をした。
「どうぞおかけ下さい、ワンさん」と彼はプオ・カイに丁重に言った。「この対面を待ち望んでおりました!」
「私もそうでした」訪問者はおだやかに応じた。「失礼だが、用件に取りかかる前に少々きれいにいたしたい」
あっけにとられて見つめている三人の男を無視して、焜炉に歩み寄ると、湯の入っている盤から手ぬぐいを取って丹念に顔を拭った。振り向いたときには、顔をむくんだように見せていた紫色のしみと、赤い鼻のてっぺんが消え失せていて、眉毛もいまは薄くてまっすぐだった。彼は黒い絆創膏の丸い一片を袖から取り出して、左の頬に貼りつけた。
マー・ロンとチャオ・タイは息が詰まった。棺の中で見た顔だった。二人は同時に大声をあげた。
「死んだ知事だ!」
「その双生の兄上」とディー判事は二人をたしなめた、「財務省上級秘書官ワン・ユアンテー氏である」ワンに向って、「そのほくろは、あなたとご舎弟とに、多くの迷惑を省いてくれたことでしょう、ご両親については申しあげるまでもなく!」
「たしかに」とワンは答えた。「これをおけば、私たちは莢《さや》に入っている二粒の豆のようにそっくり似ていた。しかし私たちが成長してのちは、もはや問題ではなかった。そのころにはあわれな弟は地方で勤務しており、私のほうはずっと財務省に残っていたからだ。私たちが双児であることを知っている人は多くなかった。が、それはたいしたことではない。私はあなたにお礼が言いたくて来たのですよ、知事、あなたが愚弟の殺害事件を鮮やかに解決されたこと、また、愚弟の殺害者が首都で私に対して提出した偽りの告訴を正すために、私が求めている資料を提供して下すったことに対してね。今夜、私は寺の集まりに出ていました、僧に変装して。そしてあなたがどのようにこの複雑な陰謀を首尾よく暴かれたかを聞きました。私のほうは漠然とした疑い以上には進まなかったのですがね」
「思いますに」とディー判事は熱心に尋ねた、「クーの雇主《やといぬし》は首都にいる高官ですね?」
「いや」とワンは答えた、「それがまったく若い男なのだ。ただし、不正腐敗においては、えらく老熟しているがね。首都裁判所のホウという初級秘書官、わが秘書長官ホウ・クワンの甥だ」
判事は蒼白になった。
「ホウ書記官ですって?」と彼は叫んだ。「私の友達ですよ!」
ワンは肩をすくめた。
「往々《おうおう》にして、人はもっとも近しい友達の判断を誤るものです。若いホウは才能のある男です。いずれ、彼なら官僚生活で高い地位に昇ったでしょう。しかし彼は、富への近道を発見して、詐欺や裏切りでうまくやっていくことができると考えた。そして自分が見あらわされたと分かったとき、ためらわずに卑劣な殺人を犯した。彼は邪悪な計画を発展させるには、たいへん有利な地位に任命された。というのは、伯父を通して、わが財務省のことなら何でも分かっていたし、一方、裁判所の書記官として、そこの全記録に近づくことができたからだ。陰謀の指導者は彼なのだ」
ディー判事は手で目を撫でた。いま彼には分かった、なぜホウが、六日前、歓哀楼で見送ってくれたとき、平来《ポンライ》へ赴任するのを放棄するようにあれほど強く言いはったのかが。ホウの目の中に哀願の色を見たのを思い出した。少なくとも、ホウの彼に寄せる友情がまるっきり偽りだったわけではないのだ。そうしていまホウを没落させるのは彼なのだ。こう考えると、事件を解決したことに感じていた意気揚々とした気分がいっぺんに消え失せてしまった。抑揚のない声でワンに尋ねた、「どのようにして、この陰謀の最初の手がかりを得られたのですか?」
「天は私に数字に対する特異な感覚を恵んでくれたのですよ」とワンは答えた。「財務省で早く昇進したのも、この恩恵のおかげです。一か月前、財務省が定期的に作成する金相場の報告書の中に、食いちがいがあることに私は気づいた。安い金が非合法に国に入って来ているのだと疑って、私は自分で調査を開始した。だが、不幸なことに、私の書記はホウのまわし者だったに相違ない。ホウは愚弟がここ、自分が密輸している金の源泉である平来《ポンライ》の知事であることを知ると、愚弟と私とが彼を摘発しようとしていっしょに動いていると――見当ちがいもいいところなのに、そう推測した。事実、弟は一度だけ、平来《ポンライ》が密輸入の中心だという疑念について書いてよこしたことがあったが、私はその漠然とした知らせが、首都における金相場の操作に関連するとは思わなかったのだ。しかし、ホウは犯罪者の多くが犯すあやまちをやった。せっかちに自分が見あらわされたと思い込んで、軽率な行動を取ったのだ。ホウはクーに弟を殺害せよと命じ、また書記を殺させた。ホウは国庫から金ののべ棒三十本を盗んで、伯父に、その罪状によって私を告発させた。逮捕されるまえに、私はうまく逃亡し、プオ・カイに変装して平来《ポンライ》へ来た、ホウの陰謀の証拠を見つけ出して、殺された弟の復讎《ふくしゅう》をはたし、同時に私自身の偽りの告発を晴らすためにね。
あなたがここへ到着したので、私は困難な立場に追いやられた。あなたと協力したかったが、身もとを現わすことができなかった。なぜなら、即刻私を逮捕して首都へ送るのは、言うまでもなくあなたの義務だったからですよ。けれども、私は自分のできることをまわり道してやった。あなたの助手二人に接近して、水路《クリーク》に浮んでいる娼家へ連れて行った。私が疑いをかけていたキム・サンと朝鮮娘に興味を持たせるようにね。それはみごとにうまくいった」彼はちらっとチャオ・タイを見やった。長身の男はあわてて茶碗に顔を埋めた。「また二人の注意を仏教徒の一団に引きつけようとしてもみた――しかしこれはそんなにうまくいかなかった。僧たちが金の密輸に関係していると疑っていたのだが、何の手がかりも見つけられなかった。私は白雲寺を近くで見張りつづけた。水路《クリーク》に浮んでいる娼家は監視に役立つ場所だった。私は施物係のツーハイが人目を忍んで寺を出るのを見てあとをつけた。だが、荒寺で何をやろうとしているのか問いただすまえに、残念ながら彼は死んでしまった。
キム・サンには少々きわどいところまで質問したから、私を疑うようになった。私が舟遊びに同行するのを、彼が反対しなかったのはそういうわけだ。つまり私も同じように殺してしまえるとキムは考えたのだ」マー・ロンのほうを向いて、「遊覧船で喧嘩したとき、連中が君に集中したのはまちがいだった。連中は私を取るにたらないと考えて、あとからゆっくり片づけるつもりだったのだよ。だが、私は少々短剣を使うのでね。争いが始まったとき、背後から君につかみかかった男の背中にそいつを突き刺した」
「あれはほんとうにあのときにぴったりの手さばきでした!」感謝をこめてマー・ロンが言った。
「キム・サンの最後の言葉を聞き」とワンは話しつづけた、「それによって金密輸に対する私の疑いが正しいと分かると、すぐに私は救難用の小舟に乗って、急いで帰って来た。私に対してホウが捏造した告発と彼の市場操作とに関する書類が、他の書類に混って入っている箱を手に入れるためにね――キム・サンの仲間が、イー・ペンの家の私の部屋から、それらの書類を盗み出すまえにだ。連中が|プオ《ヽヽ》・|カイ《ヽヽ》に疑いをかけているから、その変装をやめることに決めて、私は遊行僧に変身した」
「私たちがいっしょにがぶ飲みした酒のことがお分かりでしたら」とマー・ロンが不満げにうなった、「遊覧船を離れるまえに、せめて一言か二言、説明するぐらいできたでしょうに」
「一言か二言じゃすまなかったろうよ」とワンはそっけなく応じ、ディー判事に向って言った、「この二人は役に立つ取合せですな、少々流儀が荒っぽいにしても。あなたの常雇《じょうやと》いですか?」
「おっしゃるとおりです」と判事が答えた。
マー・ロンの顔がぱっと輝いた。チャオ・タイを肘で突っついて言った、「凍ったつまさきで、北方の前線をあっちこっち行進するのは取り消しだ、兄弟!」
「私がプオ・カイの変装を選んだのは」とワンは言葉をつづけた、「もし放埓《ほうらつ》な詩人と熱心な仏教徒のふりをすれば、舎弟が交わっていたのと同じ人たちに、遅かれ早かれ、近づきになれると分かっていたからです。そして調子はずれの呑んべえとして、人の疑いを呼び起こすことなく、昼夜いつでも町中を歩き回ることができました」
「あなたはご自分の役を上手に選ばれました」とディー判事は言った。「私はいまホウに対する告発状を作成します。憲兵の一隊がただちに首都へ持って行くでしょう。知事殺害は国家に対する犯罪ですから、州と州長官を通して、首都裁判所の長官に直接に送付することができます。長官は即刻ホウを逮捕させましょう。明日、私はクー、ツァオ、ホイペンおよび陰謀に加わった僧侶たちを審理して、可能なかぎりすみやかに、事件に関する十全な報告を首都に送ります。形式上、あなたに対する告発が撤回されたという通知が公式にまいるまで、私は本政庁においてあなたを拘留下に置きます。それを機会に、事件の会計上の専門的な事柄についてご助言いただけるでしょうし、他方で、本県の土地税をこれから簡略にできるかどうかおはかりできればとも存じます。この問題の関係書類を調べて驚きました。小農民の税負担が過度に重いのです」
「どんな用でもやりますよ」とワンは言った。「それにしても、どうして私の身もとがお分かりになったのか? 私はあなたに何もかも説明しなければならないと思っていた」
「ご舎弟の家の回廊でお会いしたとき、私はあなたが殺害者で、亡くなられた知事が残されたやもしれぬ有罪の証拠となるような資料を、妨害されずに探せるように犠牲者の幽霊に変装したのだと疑ったのです。その疑いがきわめて強かったものですから、同じ夜、秘かに白雲寺を訪ねて、ご舎弟の亡骸《なきがら》を拝見いたしました。ですが、そのときは、人工の手段で作りあげたにしては、あまりにも完璧に似すぎていると見られました。それで、ほんとうに亡くなられた知事の幽霊を見たのだと確信したのです。
私が真実を射あてたのはまさに今夜でした。私は双児の兄弟の芝居を見ましたが、彼らは兄の人さし指が欠けていることだけによって識別されるのでした。そのことが幽霊の実在を私に疑わせたのです、と言いますのも、仮に故人に双児の兄上がおありだったとすれば、その兄上は必要があるさいに、おそらく頬にほくろを貼ったり塗ったりして、簡単に亡くなられたご舎弟のふりができると考えなおしたからでした。それにタンが私に申しましたことに、故人の生存する唯一の近親者は兄上であり、いまのところ、政庁とうまく接触が取れないでいるとのことでした。|プオ《ヽヽ》・|カイ《ヽヽ》こそ、それにうってつけの唯一の人物だったのです。すなわち、彼は知事殺害の直後にここへ到着しましたし、この事件に関心を持っていましたし、ツァオ嬢と一人の観察力の鋭い給仕が、彼は何か一つの役を演じているのかもしれないと私に思わせたからです。
仮にお名前がたまたま――リーやチャンとともに、世間にもっともひんぱんに見うけられるワンではなかったとすれば、もっと以前にあなたを見さだめられたかも知れません。私が首都を発とうとしておりましたとき、あなたが犯人と推定されて姿を消されたことは、あそこでかなり評判になっていたからです。実際には、会計の仕事について、|プオ《ヽヽ》・|カイ《ヽヽ》がたいへんな伎倆を有しているということが、最終的に手がかりを与えてくれました。そのことが私に、彼は財務省と関係があるのかもしれないと考えさせ、そうして私はついに、殺害された知事と失踪中の財務省書記官がどちらも同一の姓、ワンであることに思いあたったのです」
判事は溜息をついた。思いにふけりながら頬ひげを撫でていたが、少ししてまた話し始めた。
「もっと経験のある知事なら、疑いもなく、もっとすみやかにこの事件を解明したでありましょう。ですが、これは私の初めての任地であり、私は初心者にすぎないのです」引出しをあけて、帳面を取り出してワンに手渡すと、「いまになっても私には、ご舎弟がここで作られた覚書の意味が分からないのです」
ワンはゆっくりと帳面をくって数字を調べた。それから彼は言った、「愚弟のたるんだ道徳には賛成しないが、その気になれば、あれがはなはだ抜け目なくやれたことは否定できませんな。これはクーの商会の入船に関する詳細な記録で、クーが支払った入港税、輸入税、乗客の人頭税の総額も記入されています。輸入税が非常に低いから、クーは経費を十分つぐなうほどの積荷はほとんど輸入できず、一方で人頭税が非常に高いから、クーの船は異常に大勢の乗客を運んでいたにちがいない。弟はこのことを見つけ出したのに相違ない。それが弟の疑惑をかきたてて、弟に密貿易のことを思いつかせたのだ。愚弟は生来怠惰ではありましたが、好奇心をくすぐるものに出会うことでもあれば、無我夢中になって追究し、解決を見出すためにはどんな労も厭いはしませんでした。子どもだったころ、すでにそういう癖がありました。さよう、これは可哀そうな弟が解いた最後の謎あそびだった」
「ありがとうございます」とディー判事は言った。「それで私の最後の謎が片づきます。それにあなたは幽霊に関する私の謎も解いて下さったのです」
「死んだ弟の幽霊の役を演ずれば」とワンは述べた、「たとえ見つかったにしても、だれもあえて私を誰何《すいか》することなく、政庁の中で調査できることが分かっていました。私は自由に出入りすることができました。死去のすぐ前に弟が屋敷の裏口の鍵を送ってよこしたからですよ。明らかに弟は死が差し迫っていることを予感していた。あの朝鮮人の娘に漆の箱を預けたことでも証明されるようにね。弟の書斎を調べているとき、私はあの調査官には驚かされた。それと、あの老人の書記官は、私がこの執務室で弟の私的な書類を探しているところを見たのだ。あなたにも、舎弟の荷物を調べている最中に、まったく偶然に出会ったのでした。あの折のぶしつけな振舞いを心から侘《わ》びさせていただきましょう!」
ディー判事はわびしげに頬笑んだ。
「喜んでお受けいたしますとも!」と彼は答えた。「昨夜、白雲寺で、幽霊に変装して私の前に二度目に現われなさったとき、私の生命を救って下すったのですから、なおさらのことです。ですが、申しあげねばなりません。あの二度目の折には、あなたはいかさまはなはだ手痛く私を驚かされた。お手は完全に透き通って見えましたし、突如として霧の中に溶け入ってしまわれたように見えたのです。どのようにしてあんなものすごい効果を作りあげられたのです?」
ワンは驚きをつのらせながら判事の言葉を注意して聞いていた。それから、困惑しきって言った。
「私が二度もあなたのまえに現われたと言うのかね? 勘ちがいされているのに相違ない! 私は死んだ舎弟の幽霊に変装してあの寺へ行ったことは一度もなかった」
この言葉につづいて訪れた深い沈黙の中に、建物のどこかから扉が締められる微かな音が聞えて来た、今回はまことにおだやかに。 (完)
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判事と法廷[作者解説]
――ロバート・ファン・フーリック
古い中国の探偵もののすべてに共通する特色は、探偵の役回りが常に犯罪の起こった県の知事により演じられることである。
この官吏は彼の管轄下にある県――通常城壁で囲まれた一つの都市とその周辺五〇里《マイル》前後までの田園地帯から成る――の全面的管理の任にあたる。知事の義務は多方面にわたっている。租税の徴収、出生・死亡・婚姻の登録、土地登記書の管理、治安の維持など、万事に責任を負う一方で、地域法廷を主宰する判事として犯罪者の逮捕と処罰を行ない、民事・刑事万般の訴訟を審理する任務を負う。このように知事は人民の日常生活のほとんどすべての局面の監督管理にあたるため、通例「父母官」と呼ばれる。
知事はつねに変わらず過重労働の官吏である。政庁と同じ構内にある一廓で家族とともに住まい、慨して起きているあいだ中ずっと公務にあたる。
古代中国の政治組織の巨大なピラミッド構造の底辺に、県知事がいる。彼は二十余の県を監督管理する州長官に報告の義務を負う。州長官は十二余の州に責任をもつ府の総督に報告の義務を負う。総督は、皇帝をその頂点とする首都の中央官庁に報告する番に当たる。
貧富を問わず、社会的背景に関係なく、帝国の全市民は文官試験〔科挙〕に合格することによって、官途につき、県知事になることができる。そういう点から見ると、ヨーロッパがまだ封建制度のもとにあったそのころとしては、中国の制度はむしろ民主的なものとなっていた。
知事の任期は通例三年であった。その後彼は他の県に転任させられ、しかるべき時期に州長官に昇任する。昇任は実績のみにもとづく抜擢であるため、才能の乏しい人物がその生涯の大半を県知事として過ごすことはしばしばあった。
知事の一般職務を果たすうえでは、政庁の常勤職員、たとえば巡査、書記官、牢番長、検屍官、守衛、使丁の補佐をうける。だがそれらの人々はその日常職務を遂行するだけであり、犯罪の解明にはかかわらない。
この責務は知事自身が果たすものであって、信頼できる助手三、四人の補佐をうけるが、これらの人物はキャリアを始めるにあたって彼自身によって選定され、彼がどんな職に転じてもそれに随伴する。これら助手たちは他の政庁職員よりも上位に立つ。地域的な縁故がないため、仕事をするさい個人的な思惑《おもわく》から影響をうけることが比較的少ない。同じ理由から、官吏が生まれ故郷の県に知事として任命されることは絶対にないのが定則である。
この小説では、古代中国の訴訟手続の一般概念が示される。一六八頁の図は、法廷の設備を示している。開廷中、判事は判事席につき、助手たちと書記官たちがその左右に並ぶ。判事席は赤い布をかけた高いテーブルで、布は前に垂れて、一段高い壇上の床に届いている。
この判事席の上にはいつも同じ備品が見られる、すなわち墨と朱墨をするための硯、筆二本、それから筒に立てたたくさんの細長い竹片。この竹片は罪人のうける笞《むち》打ちの数をしるしするのに用いられる。もし巡査に十回打たせようとするならば、判事は数取り棒十本をとって、壇の前の床に投げてやる。一打ちするたびに巡査長は数取り棒一本をとりのける。
判事席の上には大きな政庁の印璽《いんじ》と、驚堂木《けいどうぼく》も見られる。驚堂木は西洋のそれのように槌の形をしてはいない。堅い木でつくられた長さ一尺ばかりの矩形の木片である。中国では示唆的に「驚堂木」とよばれている。
巡査は壇の前に、左右二列に分かれて向かいあって立つ。原告被告ともこの二列にはさまれてむき出しの敷石の上にひざまずき、開廷中ずっとそうしていなければならない。彼らには掩護してくれる弁護士もいないし、証人を呼ぶこともできないから、彼らの立場は慨して望ましいものではない。あらゆる訴訟手続はじっさい抑止力として、法律に関わりあいを持つことは恐ろしいと人々に印象づけるように仕組まれている。政庁では通例日に三度、朝と正午と午後の公判がある。
犯人が自分の罪を告白せぬうちは有罪判決を下さないというのが、中国の法の基本原則である。筋金入りの犯人がゆるがぬ証拠をつきつけられても自白を拒むことにより処罰を免れるのを防ぐために、鞭や竹杖で打つこと、手やくるぶしを締め木にかけることなどの適法な厳しい裁きを、法は認めている。これら正当と認められる拷問手段とあわせて、知事たちはしばしばもっと苛酷な方法を用いた。しかしそのような苛酷な拷問のために、被告が永続的な身体傷害をこうむったり絶命したりすることがあれば、判事と政庁職員全員が、しばしば極刑をもって処罰された。だからたいていの判事は苛酷な拷問よりも、鋭い心理洞察力や協力仲間の知識に頼ることのほうが多かった。
全般的に見て、古代中国の組織はかなりよく機能していた。上級官庁によるぬかりのない規制が権限逸脱を防いだし、不正な、あるいは無責任な知事に対しては、世論が別のしかたで抑制を加えた。死刑宣告には皇帝の裁可が必要とされ、被告は誰でも上級審に控訴でき、それは皇帝の耳にまで達するしくみになっていた。そのうえ知事は被告に内々で尋問を行なうことを認められておらず、訴件に関する尋問は、予備的な取り調べも含めて、すべて政庁の公判の場でなされねばならなかった。訴訟手続のすべては綿密に記録にとられ、これらの報告は上級官庁に送付されて、監査をうけねばならない。
速記術を用いないで、書記官がどうして正確な法廷議事録を記すことができたのか、読者は不審に思われるかもしれない。その答えは、中国の文章言語がそれ自体一種の速記術であることにみいだされる。たとえば、二十語以上もある口語的な一文を、四つの表意文字につづめることが可能なのである。そのうえ続け書きのいろいろの書体があり、十画以上の文字が一筆《ひとふで》に省略される。私自身、中国在任中よく中国人の書記にこみいった中国語の会話を書き留めさせたが、その記録は驚くほど正確なものであった。
「ディー判事」は古代中国の大探偵の一人である。彼は歴史上実在する人物で、唐代の著名な政治家であった。名は狄仁傑《ディーレンチェ》、西暦六三〇年から七〇〇年まで生きた。地方で知事をつとめた若い頃には、難しい犯罪事件を数多く解決したことで名声を博した。後代の中国の小説が多くの犯罪物のなかで彼を主人公にしているのは、主として彼の犯罪解明者としての名声に由来するものである――それらの物語では、たとえ史実を踏まえているとしても、とるに足らぬほどでしかないが……。
のちに彼は帝国法務大臣「御史大夫」となり、賢明な助言を行なって国政に有益な影響を与えた。当時権勢を有した則天武后の、正統の皇太子に代えて寵臣を帝位につけようというもくろみを放棄させたのは、彼の強硬な抗議のゆえであった。
〔この文は『中国梵鐘殺人事件』に付せられた作者解説からの抄録である〕
〔作者紹介〕
ローバート・ハンス・ファン・フーリツク Robert Hans van Gulik
一九一〇年、オランダに生まれる。幼少期をインドネシアで過ごし、ライデン大学、ユトレヒト大学に学び、中国文学博士号を取得。外交官となり、日本、ワシントン、レバノン、マレーシアなどに勤務し、一九六四年、駐日大使として来日する。その間『馬頭明王諸説源流考』、『古代中国の性生活』、『秘戯図考』、『書画鑑賞彙編』などの学術的著作、また探偵小説「ディー判事」シリーズを書きつぐ。このシリーズの主人公ディー判事は、唐代、武則天の時代に実在した狄仁傑《ディーレンチエ》(六三〇〜七〇〇)で、名宰相として中国史の上では有名な人物である。ディー判事シリーズ全十六巻は欧米に幅ひろい読者を獲得し、英語・フランス語・ドイツ語・オランダ語・中国語版などでミステリー・ファンに親しまれている。フーリックは、また語学の達人であった。その語学力は西欧諸語はいうに及ばず、日本語、中国語、インドネシア語、サンスクリット語、チベット語、アラビア語など十数ヶ国語に及んだ。一九六七年、五十七歳で没。
〔訳者紹介〕
大室幹雄(おおむろみきお) 東京生まれ。東京大学大学院卒。山梨大学教授。歴史人類学専攻。著書、『劇場都市』『桃源の夢想』『園林都市』(三省堂)『囲碁の民話学』(せりか書房)『西湖案内』(岩波書店)ほか。