中国鉄釘殺人事件
ファン・フーリック/大室幹雄訳
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
第十三章
第十四章
第十五章
第十六章
第十七章
第十八章
第十九章
第二十章
第二十一章
第二十二章
第二十三章
第二十四章
第二十五章
判事と法廷[作者解説]
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登場人物
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ディー・レンチエ……唐王朝時代の北辺国境に近い県城|北州《ペイチョウ》の知事、「ディー判事」また「判事」とも呼ばれる
ホン・リャン……ディー判事の信頼する相談役で、政庁の警部、「ホン警部」「警部」とも呼ばれる
マー・ロン……ディー判事の副官
チャオ・タイ……ディー判事の副官
タオ・ガン……ディー判事の副官
クオ……薬局主、また政庁の検屍官
クオ夫人……本姓ワン、クオの妻、また女牢の監督
イエ・ピン……紙商人
イエ・タイ……その弟
パン・フォン……骨董商人
パン夫人……本姓イエ、パンの妻
カオ……犯罪の起こった地区の区長
ラン・タオクエ……拳術の選手権保持者
メイ・チョン……その筆頭助教
ルー・ミン……綿商人、五か月前に死去
ルー夫人……本姓チェン、ルー・ミン未亡人
ルー・メイラン……その幼い娘
リャオ……革工|同業組合《ギルド》親方
リャオ・リエンファン……その失踪した娘
チュー・ターユアン……富裕な地主で北州《ペイチョウ》市民の有力者
ユイ・カン……その秘書、リャオ・リエンファン嬢と婚約している
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第一章
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庭園の四阿《あずまや》で思いがけぬ人に会い
残忍な殺人の知らせが判事に届く
憎悪、策略、疑惑の泡立つ大波を判事はのりきらねばならぬ
渡る道は細い剣の刃《やいば》のごとく、狭く直《すぐ》なる橋一すじ
足を止めて己れの心にじっくりと耳傾けるならば、踏み外すことはよもあらじ
ひたすら公正を志し、過《あや》まつことなきしるべの星たれ、よし常に孤独にわびしかるとも
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昨夜のこと、私はたったひとりで庭の四阿《あずまや》に座し、冷たい夜のそよ風を楽しんでいた。時刻は遅く、妻たちはとっくにそれぞれ自室に引きとっていた。
一晩中、私は書斎で仕事に精を出し、侍童《じどう》にほしい本を書棚から取って来させたり、必要な部分を書き写させたりした。
御承知のとおり、私はわが偉大な大|明《みん》帝国における犯罪とその解明にかんする一覧に、過去の名探偵たちの伝記を収めた補編をも加えた書物を執筆することに余暇を捧げている。目下のところ狄仁傑《ディーレンチエ》、七百年前に活躍した卓越せる政治家の伝記にとりくんでいる。その生涯の前半、まだ地方の県知事の任にあったころ、驚くべく多数の怪事件を解決したために、現在彼は「ディー判事」、われらの光輝ある歴史上の大探偵として知られているのである。
あくびをしている侍童を寝《ね》にやったあと、私はずっと北の北州《ペイチョウ》の州長官のもとで主任秘書官をつとめている兄上に長文の手紙をしたためた。兄上は二年前その職に任ぜられ、隣町にある古い家屋敷を私にゆだねていったのだ。ディー判事が首都の高い地位につくまえ、最後に知事としてつとめたのが北州《ペイチョウ》であったという私の発見について書いた〔巻末の作者解説を参照〕。そしてその地の記録を検索して下さるよう兄上にお願いした、その中にはたぶんディー判事によって解決された犯罪事件に関する興味深い資料が出てくるだろうから。兄上ができるだけのことをしてくださることはわかっていた。なぜなら、私たちはいつもぴったり気が合っていたから。
手紙を書き上げて、書斎の中がひどく暑いのに気がついた。私は蓮池をわたって涼風の吹く庭園にそぞろ歩み出た。
家にもどるまえ庭のはずれの一角の、ひとむらの芭蕉に接して建てた四阿《あずまや》で、もう少しすわっていようと決めた。寝に行きたいという気持ちはそれほどなかった。実を言うと、最近私が家に第三夫人を入れたとき、家庭内で少々もめごとが生じた。第三夫人は美しい女で、しかもたいそうよくしつけられている。第一夫人と第二夫人が彼女を一目見てきらいになり、私が彼女と過ごす夜は必ず恨みに思っているわけを私はとらえそこねたままでいる。その夜は第一夫人のところに宿る約束をしていたが、正直いってそこに行くのはそれほど気の進むことではなかった。
すわり心地のよい竹製の肘掛椅子に腰をおろし、銀《しろがね》の冷たい月光にみたされた庭園を眺めやりながら、私はゆるやかに鶴羽扇《かくうせん》で風を送っていた。
ふいに、小さい裏門が開くのが見えた。そこから兄上が歩み入って来られるのを目にした私のうれしい驚きを、誰が言葉にできよう!
私はとびたって庭の小みちを駆けくだり、迎えに出た。
「どうしてまたこちらヘ?」と私は叫んだ、「南へおいでになることをどうしてお知らせくださらなかったのです」
「まったく急に出発しなければならなかったのでな」と兄上は言われた、「まず思いついたのはおまえに会いにくることだった。時刻の遅いことは勘弁してくれるだろうね」
私は心をこめて兄上の腕をとり、四阿《あずまや》へ導いた。兄上の袖が湿っぽくて冷たいのが気になった。
兄上を私の肘掛椅子に案内し、私はその向かい側の椅子にすわると、気がかりな気持ちで兄上を見つめた。変に重みがなく、顔は土気色で、目玉が少し飛び出ているように思われたのだ。
「月光のせいかもしれませんが」と私は心配して言った、「ご病気のように思います。北州《ペイチョウ》からのご旅行でたいへんお疲れなのでしょうね」
「たしかに辛い旅だった」と兄上は静かに言われた、「四日早くここに着きたかったのだが、ひどく霧が深くてね」簡素な白い長衣から乾いた泥のかけらを払いおとして、兄上は続けた、「おまえも知ってのとおり、近ごろはあまり調子がよくない、この辺りがぴりぴりと痛むのだ」そしてそっと頭のてっぺんに手を触れた。「痛みが目の後ろにまで伝わってくる。そのうえ震えの発作に襲われる」
「私たちの生まれたこの土地の高温が、お体にはよろしいでしょう」と私は慰めた、「そして明日、私どもの老先生に一度みてもらうことに致しましょう。さあ、北州《ペイチョウ》からの便りをみんなお聞かせください!」
彼は北州《ペイチョウ》での仕事について手際のよい説明をしてくれたが、長官とは実にうまくいっているようだった。だが、私生活の話題になった時、なにか困惑したふうにみえた。第一夫人が近ごろ妙なふるまいをする、と彼は言った。夫に対する態度が変わってしまったのだが、なぜなのかはわからなかった。このことと、彼のにわかな旅立ちとの間に何かのつながりがあることが感じられた。そのあたりから兄上は激しく震えだし、明らかに彼の心痛の原因となっている問題について、それ以上くわしく聞きだすことはできなかった。
兄上の気持ちを紛らすために、私はディー判事の話題を持ちだし、さっき書き上げたばかりの手紙について話した。
「ああ、そうだ」兄上は言った、「ディー判事があそこの知事をしていた時に解決した三つの奇怪な事件について、不気味な話が北州《ペイチョウ》で語られている。何代にもわたって語り継がれ、茶館《ちゃかん》で繰りかえされて度を重ねるうちには、もちろん思いつきでいろいろ尾ひれもついてくるさ」
「やっと真夜中をまわったばかりだ」と私は興奮していった、「ひどくお疲れにならないようなら、その話をお聞かせいただきたいものですね」
兄上の憔悴《しょうすい》した顔が苦痛でゆがんだ。だが、私があわてて理不尽な注文を詫びにかかると、彼は手を上げて制した。
「あの奇怪な話を聞くのは、おまえにも有益だろう」と彼は重々しく言った、「私自身もっと早くそれに注意していれば、事態は違う方向に進んでいたかもしれぬ……」
声がか細くとぎれ、彼は再び頭頂にそっと触れた。それからまた話を続けた。
「そう、お前も知ってのとおり、ディー判事の時代には、タタール人との戦いにわがほうが勝利をおさめてのち、わが帝国の北方国境は初めて北州《ペイチョウ》の北の平原はるかにまでのびていた。現在、北州《ペイチョウ》は人口の集中する裕福な県で、北部地方の商業中心地としてさかえている。しかしその当時はかなり孤絶した土地で、散在する住民の中にはタタール人の血をまじえた家が数多く、野蛮な祖先の不気味な祭儀をまだひそかにとり行なっていた。ずっと北のほうには、タタール族集団の新たな侵入に対して唐帝国を防衛するため、ウエン・ルオ大元帥の北方軍が駐屯していた」
こう前置きしてから、兄上は気味の悪い物語を始めた。立ちあがって、もう行かねばならぬと言われたのは、もう第四鼓が鳴り終わったころだった。
兄上はもう激しく震えていて、しわがれ声は途切れがちで何を言っているのかほとんど聞きとれないほどだったから、私は家まで送って行こうとした。しかし彼はきっぱりと断わり、私たちはうちの庭の戸口で別れた。
寝に行く気分ではなかったから、私は書斎にもどった。そしてさっそく兄上が話してくださった気味の悪い物語を書きつけにかかった。暁の赤い光が空にさすころ、私は筆をおいて、外のベランダの竹の寝椅子に横になった。
目覚めたときはもう昼飯|時《どき》に近かった。私は侍童に命じて食事をベランダに運ばせておいしく食べた、この時ばかりは第一夫人の訪れが報じられるのを楽しみに待ちながら。夜、彼女のところに行かなかったことであれがくだくだ言うのを、おおいばりでさえぎってやろう、兄上の不意の到着というあらがいがたい理由を持ちだすことによって。あのしゃくにさわる女をこうして始末したら、兄上の家へぶらぶらでかけて閑談といこう。たぶん兄上は北州《ペイチョウ》を去った理由を正確に教えてくださるだろうし、私に話した古い物語の中ではっきりしなかった二、三の点について説明していただくこともできよう。
しかし、私が箸をおこうとした時、北州《ペイチョウ》から特別伝令が着いたことを家令が知らせてきた。家令は長官からの書状を私に手渡したが、その中で長官は、四日前の真夜中、兄上が彼の地で急死された旨を哀悼の意とともに告げ知らせていた。
ディー判事は厚い毛皮の外套の中に身をちぢめ、執務室の机に向かってすわっていた。耳かくし付きの古びた毛皮帽をかぶっていたが、それでもまだだだっぴろい部屋を吹き抜ける凍てつくような風が感じられた。
机の前の腰掛にすわっている年配の助手二人を見つめながら、彼は言った。
「ほんの小さな隙間からも風が吹きこんで来る」
「ずっと北の荒野からまっすぐ吹いてまいるのです、閣下」と、薄いあごひげの老人が言った、「事務官を呼んで、火鉢にもっと炭をつがせましょう」
彼が立ちあがってすり足で戸口に向かうと、判事は眉をひそめて、もう一人のほうに向かって言った、「この北国の冬は君を悩ませないようだな、タオ・ガン」
やせた男はこう話しかけられると、身にまとっているつぎのあたった山羊皮の長外套の袖にますます深く手をつっこんだ。そして苦笑しながら言った。
「私はこの老躯《ろうく》を帝国全土に引きずりまわしてきたのです、閣下――暑いところ、寒いところ、乾燥、湿気、何だって私にとっては同じです。それに私はこのすてきなタタール風の長外套を持っています。そういう高価な毛皮よりずっと具合がいいのです」
これよりみすぼらしい衣裳にはめったにお目にかかったことがないと判事は思った。だがこの悪賢い老副官がしみったれなほうだということを、彼は心得ていた。タオ・ガンはもと渡り者の詐欺師だった。九年前、ディー判事が漢源《ハンユアン》で知事の任にあった時、タオ・ガンを危険な状況から助け出してやったのだ〔『中国湖水殺人事件』第七章〕。そこで詐欺師は改心し、ディー判事のために働かせてほしいと願った。それ以来、闇の世界のしきたりにかんする彼の知識の広さ、同業者仲間に対する明敏な洞察力は、狡猾な犯人を追いつめて行くときに最も有用であることを示した。
ホン警部はよくおこった炭のはいった桶《おけ》を事務官に持たせてかえってきた。彼はそれを机の傍らの大きな銅の火鉢の火の上に盛った。自分の席にもどると、やせた手をこすりながら言った。
「この執務室の難点は、閣下、あまりにも大きすぎることですよ。三丈〔十メートル〕四方もある執務室は初めてです」
年月で黒ずんだ高い天井を支えている太い木の柱と、全面厚い油紙で張られ、戸外の雪あかりをほのかに反映している向かい側の大きな窓とを判事は見つめた。
「忘れてはいかんな、警部」と彼は言った、「三年前まで、この政庁はわが北方軍の大元帥本部だった。軍隊というのはいつでも十分な余地を必要とするものらしいぞ」
「大元帥は現在地で十二分の余地を得ておられることでしょう」タオ・ガンが述べた、「ここよりさらに二百里も北、凍った原野の真中で」
「首都の人事院は何年かおくれているのでしょうな」とホン警部が言った、「閣下をこの地へ遣《つか》わされた時、あの方々は確かに北州《ペイチョウ》がまだ帝国の北辺にあるものとお考えでした!」
「その通りらしいね」ディー判事はわびしげな笑みをみせながら言った、「長官が私に文書を渡された時、たいへん鄭重だが少々うわのそらのようすで、私が蘭坊《ランファン》〔『中国迷宮殺人事件』の舞台となった西北辺境の都市〕でしたと同様に異民族問題を処理することと信じていると言われた。だが私はこの北州《ペイチョウ》では、三百里の距離と十万の軍隊により異民族と国境のかなたへ隔てられている」
老警部は憤慨のおももちで自分のひげをひっぱった。そして立ちあがって、部屋の隅の焜炉《こんろ》のところに行った。ホン警部はディー家の古くからの従者で、判事がまだ幼少のころから面倒をみてきた。十二年前にディー判事が初めて地方の知事に任命された時、ホンは自分の高齢を顧みずに強く同行を願った。判事は彼を裁判所の警部に任ずることによって彼に公的な身分を与えた。判事とその家族を熱愛するこの老人は、どんな問題も気がねなく論じあえる信頼できる助言者として、量り知れない価値をもつ存在であった。
ディー判事は警部の手渡す熱い茶の大茶碗を感謝してうけとった。それを両手で包み持って手をあたためながら、彼は言った。
「総体としてみれば、文句も言えまい。当地の人々はたくましい種族で、正直でよく働く。ここに来てからの四か月間、行政の日常的業務のほかには暴力事件二、三があったばかりで、それはマー・ロンとチャオ・タイがさっさと片づけた。また、この県に流れこむ脱走者とか、その他北方軍から出るよどみを始末するのは、憲兵隊がいちばん有能だと言わねばなるまい」彼は静かに長いあごひげをしごいた。
「ただし」と彼は続けた、「リャオ嬢の失踪事件があるな、十日前のことだ」
「昨日、父親のリャオ同業組合《ギルド》親方に会ってきました」とタオ・ガンが言った、「リエンファンのことが何かわからないかと、またきかれました」
ディー判事は茶碗をおき、濃い眉をよせて言った。
「市場は捜索した。地方の軍政府、役所、すべてにあの娘の人相書をまわした。手はつくしたと思う」
タオ・ガンはうなずいた。
「リャオ・リエンファン嬢の失踪は、われわれが手をかけるまでもないことだと思います」と彼は言った、「娘は秘密の恋人と駆落ちしたのだと、私はいまも信じています。いずれ太った赤ん坊を抱え、恥ずかしそうな夫を連れて帰ってきて、老父に許してくれ、忘れてくれと頼むでしょうよ」
「しかしだ」とホン警部が口をだした、「あの娘は結婚する約束になっていたんだよ」
タオ・ガンは皮肉っぽく笑っただけだった。
「状況が駆落ちを思わせることは認めよう」とディー判事が言った、「娘は付添の女といっしょに市場へ行き、人混みの中でタタール人の熊の芸当を見ているうち、忽然《こつぜん》といなくなった。人混みの中で若い女を誘拐するのはできないことだから、たしかに自分から失踪したことも考えられる」
銅鑼《どら》の低い音が遠くで響き渡った。ディー判事は立ちあがった。
「政庁の朝の公判が始まる」と彼は言った、「いずれにせよ、今日もう一度リャオ嬢の件の記録に目を通そう。行方不明者は面倒だ。いっそすっぱりと殺人事件のほうが好みだね」
ホン警部が手伝って官服をつけている時、判事が言いそえた、「マー・ロンとチャオ・タイはまだ狩りからもどっていないのかな」
警部は言った。
「夜明け前に出て例の狼を捕えに行き、朝の公判には間に合うように帰ると昨晩は申しておりました」
ため息をつきながら、ディー判事は暖かい毛皮帽を脱ぎ、黒い絹の判事用正帽にかぶりなおした。戸口に向かおうとしたとき、巡査長がはいってきた。彼はせきこんで言った。
「人々がひどく騒いでおります、閣下! 今朝、南区で女が一人、むごたらしく殺されて発見されました!」
判事は足を止め、ホン警部のほうに向きなおると厳格に言った。
「警部、ついさっき私が述べた意見はたいへん愚かしかったよ。殺人のことを断じて軽く口にするものではない」
タオ・ガンが不安げに言った。
「例の娘、リエンファンでないとよいのですが」
ディー判事は何も言わなかった。執務室から法廷の奥戸口に通じる回廊をよぎりながら、彼は巡査長にたずねた。
「マー・ロンとチャオ・タイを見かけたか」
「つい先程もどりました、閣下」と巡査長は答えた、「けれども、酒屋で烈しいけんかが起こったことを知らせに、市場の管理人が政庁へ駆けこんできたところでして。しきりに手をかしてほしがるものですから、お二人はそのまま馬で管理人といっしょに行きました」
判事はうなずいた。
彼は扉を開き、垂れ幕をひきよせて、法廷にはいった。
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第二章
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紙商店の主人が骨董商人を訴えて
ディー判事は犯行現場へと向かう
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壇上の高い判事席に着座すると、判事はぎっしり満員の法廷を見まわした。ゆうに百を越す人々が集まっている。
六人の巡査は三人ずつの二列にわかれて判事席の前に居並び、巡査長がそばに立っている。ホン警部はディー判事の椅子の後ろを定位置としており、タオ・ガンは判事席の傍らの、上級書記が自分の筆をそろえている低い机によって立った。
判事が驚堂木《けいどうぼく》をとりあげようとした時、小ぎれいな毛皮の長衣をまとった二人の男が法廷の入口に姿を現わした。大勢の人々が問いかけるので、彼らは人混みを通り抜けるのに苦労していた。判事の合図で巡査長はすぐ群衆をかき分け、新来者を判事席の前に連れてきた。ディー判事は驚堂木を強く机に打ちつけて叫んだ。
「静――粛!」
広間はにわかに静まりかえり、全員が壇の前の石畳にひざまずく二人の男に注目した。年長の一人は白いあごひげの先のとがったやせた男で、その顔はげっそりと憔悴していた。もう一人はがっしりした体つきで、丸い大きな顔にちぢれたまばらなひげをはやし、それが彼の肥えたあごを取り巻いていた。
ディー判事が告げた。
「北州《ペイチョウ》政庁、朝の公判の開廷を宣する。点呼を行なう」
職員が点呼に応じ終わると、ディー判事は腰掛けたまま、体を前によせて問いかけた。
「当政庁に願い出る両名のものは誰々か」
「身分いやしい手前は」と年長の男がうやうやしく述べた、「イエ・ピンと申し、紙販売を業といたしております。隣におりますのは私の弟イエ・タイで、私の店を手伝っております。私どもは義弟、骨董商のパン・フォンがその妻である私どもの妹を惨殺いたしましたことを、閣下にご報告申し上げます。なにとぞ閣下……」
「そのパン・フォンなるものはどこにいるのか?」とディー判事が口をはさんだ。
「昨日まちから逃げ出しましてございます、閣下、ですがきっと……」
「順を追って申せ!」判事はそっけなく言った。「最初に殺人がいつ、どのように発覚したかを述べよ」
「今朝早く」とイエ・ピンは語りはじめた、「ここにおります弟が、パンの家に行きました。何度も戸を叩きましたが誰も答えません。パンと妻とはその時分にはいつでも在宅しておりましたのに、何かよからぬことが起こったのではないかと不安になり、弟は家に馳《は》せもどり……」
「待て」とディー判事はさえぎった、「なぜまず近隣のものに、パン夫婦が出かけるのを見たかどうかたずねなかったのか?」
「その家はたいへんさびれた通りにございまして」とイエは答えた、「バン家の両隣は空家なのです」
「続けよ」判事は言った。
「私どもは連れ立ってそこへもどりました」とイエ・ピンが続けた、「その家は私どものところから通りを二つ行くだけです。また戸を叩いたり大声で呼んだりしましたが、誰も出てきません。そのあたりは自分の掌《てのひら》のように知り抜いておりますので、急いでその一画をまわってみました。塀をのりこえて、家の裏手に出ました。横|桟《さん》を渡した寝室の窓が二枚開いていました。私は弟の肩に上ってのぞきこみました。すると……」
気持ちがたかぶってイエ・ピンののどがつまった。寒いというのに、汗が額からしたたっている。彼は自分を抑えて、話を続けた。
「壁についた|※[#「火+亢」、unicode7095]《カン》〔内部で弱く火をたき続けることによって暖房する、煉瓦造りの大きなかまど。北中国で用いられる。日中は長椅子として、夜間は寝台として使用される〕の上に、閣下、血だらけの妹の裸体を見たのでございます! 私はわれ知らず声をあげて鉄の横桟から手を放し、地に落ちました。弟が私を助け起こし、私たちは区長の番所に駆けつけました……」
ディー判事は驚堂木で机をうった。「申立人は心を静め、筋道立てて話せ!」と彼は不興げに言った、
「おまえの妹の血だらけの体を窓ごしに見たからといって、なぜ死んでいるとわかるのだ?」
イエは答えず、激しい鳴咽《おえつ》が何度かその胸廓《きょうかく》をしぼり上げた。ふいに彼は頭を上げた。
「閣下」と言葉がつまった、「首がなかったのです」
深い沈黙が満員の法廷を 領《りょう》した。
ディー判事は椅子の背によりかかった。そろそろと頬ひげをなでながら言った。
「続けなさい。区長をさがしに行ったと言っていたね」
「通りの角で区長に出会いました」と、イエ・ピンはいくぶん落ち着いた声で話を続けた。「私は見たことを告げ、パン・フォンも殺されたかもしれないと心配していると言いました。私たちは扉を破り開ける許可を求めました。昨日の昼、パン・フォンが革袋をかついで行くのに会ったとカオ区長が言ったときの私たちの怒りは口につくせません。パンは二、三日まちを離れるといったのです。
あの鬼めは妹を殺して逃げたのです、閣下。どうかあの卑劣な人殺しを捕えて、私どもの哀れな妹の仇を討ってくださいませ!」
「カオ区長はどこにいるか?」とディー判事が聞いた。
「この裁判所まで一緒に来てくれるよう頼んだのですが」とイエは泣きごとを言った、「自分はその家の番をして、そこの物に誰も手をかけないよう見張らねばならないからと断わられました」
判事はうなずき、ホン警部に、「それでこそ職務を心得た区長だ」と耳打ちした。そしてイエ・ピンに向かって言った。
「書記がこれからあなたの申立書を読みあげる。もし間違いがないと思ったら、あなたと弟さんの拇印《ぼいん》をおすのだ」
上級書記が書いた物を読みあげ、イエ兄弟は間違いないと認めた。彼らが文書に拇印をおすと、ディー判事が述べた。
「私はただちに職員と犯行現場へ向かうが、あなたと弟さんにも行ってもらう。ただし出かける前に、あなたがたは官庁、軍隊に配布するため、パン・フォンの様子を書記に十分説明しなさい。パン・フォンは出発して一夜経過したばかりで、悪路でもあり、間もなく捕えられることは疑いない。当政庁は必ずあなたの妹の殺害者を裁くだろう」
判事は驚堂木で机をうち、閉廷を告げた。
執務室にもどると、ディー判事は火鉢のそばに立った。火の上に手をかざしてあたためながら、彼はホン警部とタオ・ガンに言った。
「イエ・ピンがパン・フォンの人相書を仕上げるまでここで待とう」
「あの首無し死体というのはおかしな話だ」ホン警部が言った。
「たぶんイエは室内の薄暗さに惑わされたのですよ」とタオ・ガンが言った、「ふとんの端か何かが女の頭を隠していたのでしょう」
「何が起こったのかを、われわれ自身でこれから見にいくのだ」と判事は言った。
事務官がパン・フォンの人相書を持ってはいってくると、ディー判事は手ばやに掲示の文句を書き、もよりの憲兵隊詰所の指揮官にあてた通達文書の草稿をしたためた。「この件はただちに手配されるようはからいたまえ」と事務官に命じた。
ディー判事の大きな輿《こし》が庭先に用意されていた。判事がのりこみ、ホン警部とタオ・ガンにもいっしょに乗るように言った。前に四人、後に四人と、八人の輿丁《こしかつぎ》が横棒を肩にかつぎ上げ、調子をとって歩き出した。騎馬の巡査が二人先に立ち、巡査長があと四人を連れてしたがった。
市中を北から南へ貫く大通りに出ると、先頭を行く二人の巡査は小型の銅鑼《どら》を打ち鳴らし、「道をあけろ! 道をあけろ! 知事閣下のお出ましだ!」と声を張りあげた。
大通りは両側に商店が立ち並び、大勢の人が行き交《か》っていた。行列が近づくと、人々はうやうやしく道をあけた。
一行は関帝廟《かんていびょう》〔戦争の神〕を過ぎ、何度か曲ったのち、長いまっすぐな通りに出た。左手には横桟つきの小窓のある倉庫が並び、右手には高い壁が続いて、そこここに狭い戸口がうがたれている。一行は数人のものが立って待っている三つ目の戸口の前で止まった。
輿丁《こしかつぎ》が輿《こし》をおろすと、正直そうな顔だちの男が進みでて、東南区の区長のカオであると名のった。彼はうやうやしく判事が輿から降りるのをたすけた。
通りを眺めまわして、ディー判事が言った、
「市内のこの区域はひどくさびれているようだが」
「数年前、わが北方軍がまだ当地に駐屯していました時には」と区長が言った、「向かい側の倉庫は軍需物資を貯蔵するのに使われ、こちら側の八棟の建物は将校たちの宿舎として使われておりました。現在倉庫はからで、空家になった将校宿舎に何家族かが住みついていて、その中にパン・フォンとその妻がいたわけです」
「どうしてまあこんなさびれたところを」とタオ・ガンが声を上げた、「骨董屋が選んだのだ。豆かすだってここじゃ売れやしまいに、まして値打ち物の骨董とは」
「まったくだ」と判事が言った、「そのわけを知っているかね、区長?」
「パン・フォンはつねづね得意先へ商品を持って回っておりました、閣下」とカオ区長が答えた。
冷たい風が通りを吹き抜けた。
「さあ、中ヘ!」と判事はたまりかねて言った。
まず平家建ての建物にとり巻かれた、大きな、がらんとした院子《なかにわ》に出た。
「この区画は三軒単位に分けられています」とカオ区長が説明した、「この棟では中央の一軒にパンが住み、他の二軒はこのところ空家になっています」
一行は院子《なかにわ》をまっすぐ渡って正面の戸口に向かい、安っぽい木のテーブルや椅子がばらばらと備えつけられた大きな広間にはいった。区長はなお人々の先に立って、二つ目の小ぶりな院子にぬけた。中央に井戸があり、石の縁台が一つあった。向かい側の三つの戸口を指さして区長が言った。
「まんなかが寝室です。左側はパンの仕事部屋で後ろに台所があり、右側は倉庫です」
寝室の扉が半開きになっているのを見ると、ディー判事はせきこんでたずねた。
「これまでに誰かあそこへはいったか?」
「いえ、誰も」とカオ区長が言った、「私たちが表口を破ってはいったあと、犯行現場が乱されることがないように、この院子《なかにわ》より中へは部下たちをはいらせませんでしたので」
判事は満足げにうなずいた。寝室にはいると、左側のほとんどの部分は広い|※[#「火+亢」、unicode7095]《カン》で、厚く詰め物をした覆いがかかっていた。その上に、女の裸の体が横たわっていた。仰臥《ぎょうが》し、両手は前で一つに縛られ、両脚は伸ばされて堅くなっていた。首は肉が引き裂かれてでこぼこの切株状で、体と覆いにはいちめんに乾いた血がついていた。
この胸の悪くなるような眺めから、ディー判事はすばやく目をそらせた。窓二面にはさまれた奥の壁ぎわに化粧台があり、鏡にかけられた手拭いが開いた窓から吹きこむ氷のような風でばたばたしている。
「中にはいって戸を閉めたまえ」と判事はホン警部とタオ・ガンに言った。そして区長に向かっては、「外で張り番をし、誰にも私たちの邪魔をさせないようにしてくれたまえ。イエ兄弟が着いたら、広間で待たせておきなさい」
区長が出ていき、戸が閉まると、ディー判事は室内の他の部分を調べた。|※[#「火+亢」、unicode7095]《カン》に向かい合った壁ぎわには季節別の赤革製衣裳箱四個が例によって積み重ねてあり、その近くの一隅に小さな朱漆《しゅうるし》のテーブルがおいてあった。ほかには腰掛が二つあるだけだ。
彼の視線は気の進まぬげに死体にもどった。やおら判事は言った、
「被害者の衣類を捨てたのが見あたらない。タオ・ガン、その衣裳箱を調べてみなさい」
タオ・ガンは一番上のを開けてみて言った。
「きちんとたたんだ衣類のほか、ここには何もありませんが、閣下」
「四つともみんな見るんだ」判事はぶっきらぼうに言った、「警部も手伝いたまえ!」
二人が仕事にかかっている間、ディー判事は部屋のまんなかに立ったまま、ゆっくりとひげをしごいていた。戸を閉めたので、鏡にかけた手拭いは垂れている。それが血で汚れているのが目についた。鏡にうつった死体を見るのは縁起が悪いと考える人が多いことを、彼は思いだした。殺人者もそうした中の一人に違いなかった。タオ・ガンの叫び声が彼をふりむかせた。
「この宝飾品を、二番目の箱の底の隠し仕切りで見つけました」。タオは判事にみごとなルビー入りの金の腕輪一対と、純金のかんざし六本を見せた。
「そうだな」とディー判事は言った、「骨董商人ならこの手の品を格安で手に入れる機会もあるだろう。もとに戻しなさい、いずれこの部屋はまた封印するのだが。ここにある宝石類より、消えた衣類のほうにずっと興味があるのでね。物置のほうを見てみよう」
さまざまな寸法の荷箱が山積みされている部屋を見ると、判事は言った。
「その箱をみんな調べたまえ、タオ・ガン。衣類もだが、切断された首が見つからないことも頭においてだよ。私は警部と仕事部屋のほうへ行く」
パン・フォンの小さな作業場の壁にはぐるりと棚が置かれ、鉢、瓶、彫玉、像、その他小さな骨董品類がとりどりに並べてあった。中央の小さな机には壷、書籍、またあらゆる寸法の筆の収集品がどっさり積みあげてあった。
判事の指図で、ホン警部は大きな衣裳箱を開けた。中にはただ男物の衣類がはいっているばかりだった。
ディー判事はテーブルのひきだしを開け、中味をかきまわして調べた。「見たまえ」と古い勘定書の束の間にばらばらと重ねてある小粒銀を指さして判事が言った、「パン・フォンはひどくあわてて立ち去った。宝飾品も金も持たずに!」
台所もひととおり調べたが、重要な事柄は発見されなかった。
タオ・ガンがやってきて、上着のほこりを払いながら言った。
「あちらの箱には大きな壷や青銅器その他の骨董品がはいっています。みんな埃《ほこり》をかぶっていて、少なくとも一週間かそこいらは、誰もあそこにはいった形跡がありません」
判事は静かに頬ひげをなでながら、当惑顔に助手二人を見つめた。
「驚くべき状況だ」しまいにそうつぶやくと、彼はきびすをめぐらし、二人をしたがえて建物をはなれた。
カオ区長は、巡査長、イエ兄弟といっしょに広間で待っていた。
ディー判事は彼らのお辞儀にうなずき返すと、巡査長に命じた。
「君の部下二人に四つ爪かぎを持ってこさせ、あの井戸をさらわせなさい。それから担架と毛布も持ってこさせて、死体を政庁へ運ぶのだ。そのあと奥の三室を封鎖して、次の命令まで二人に張り番させておきたまえ」
彼は手ぶりでイエ兄弟に合図して、テーブルの彼と向かいあう席につかせた。警部とタオ・ガンは壁の前のベンチにすわった。
「あなた方の妹さんはまことに暴虐に殺害された」と判事は重々しくイエ・ピンに言った、「切断された頭部は発見されない」
「鬼のようなあのパンが持っていったのです!」とイエ・ピンがわめいた、「あれが丸いものを入れた革袋を持っているのを、この区長さんが見ているのだ!」
「パンとどんなふうに会ったか、何と言ったのか、正確に話してくれたまえ」とディー判事は区長に命じた。
「パン・フォンが西のほうに向かって、ひどく急いで通りを歩いて行くのに会いました」と区長は言った、「何をそんなにお急ぎで、パンさん、とききました。あの人は足を止めて丁寧に返事するどころか、二、三日市を離れるとか何とかぼそぼそつぶやきながら私のそばをかすめて通りました。毛皮の外套を着てもいないのに、あの人はほてった顔をしているように見えました。右手に、何かふくらんだものの入っている革袋を持っていました」
判事はしばらく考えこんでいた。それからイエ・ピンにたずねた。
「妹さんが、パンに虐待されると話したことはありますかな?」
「さあ」やや言いよどんだすえにイエ・ピンは答えた、「実を申しますと、閣下、二人はかなりうまくいっていると、ひごろ私は考えておりました。パンはやもめで妹よりだいぶ年上でして、一人前の息子がいて首都で働いております。妹とは二年前に結婚したのですが、まあまあいい男だと私は見ていたのでございます。少々退屈な男で、いつも自分の体の調子が悪いことをこぼしておりましたけれども。悪い悪魔めはずっと私たちをあざむいていたに違いありません」
「おれはだまされなかったぞ!」いきなり弟のイエがわめいた、「あいつは卑劣な根性曲りで……それで、妹はよくあいつに打《ぶ》たれるとこぼしていた!」
イエ・タイは腹立たしげに、たるんだ頬をふくらませた。
「なぜそれをこれまで私に言わなかったのだ」イエ・ピンが驚いてきいた。
「あなたを心配させたくなかったのですよ」とイエ・タイは無愛想《ぶあいそう》に言った、「だがもう何もかも言おう。あの犬畜生をとっつかまえてくれる!」
「今朝」とディー判事がさえぎった、「君はなぜ妹さんに会いに行ったのか?」
イエ・タイはちょっと口ごもってから答えた。
「そのう、あれがどうしているか見にいこうかなと思っただけです」
判事は立ちあがった。
「君の完全な報告は政庁できかせてもらおう。あそこでなら記録に載せられる」と彼はぶっきらぼうに言った、「私はこれからそこに帰るが、あなた方二人も検屍に立ち会うため来てもらう」
カオ区長とイエ兄弟が判事を輿《こし》に案内した。
彼らが再び中心街を通行中、一人の巡査が馬をディー判事の輿の窓に寄せ、鞭で指し示しながら言った。
「あれが検屍官のクオの薬局です、閣下。私が行って、政庁に来るよう申し付けて参りましょうか?」
ディー判事は小さいがきちんとした感じの店先を眺めた。看板には大きい、みごとな書体で「桂花林」とある。
「私が自分で言おう」と判事は言った。輿から降りながら、彼は二人の副官に言いそえた、「私はいつでも薬局を見るのが好きなのだ。君たちは外で待っていたほうがよい、あまり広くはあるまいと思うしね」
ディー判事が戸を押し開けると、香草の快い香りがぷうんとした。一人の傴僂《せむし》が売台の向こうに立って、干した植物を大形の刃物で刻む仕事に没頭していた。
彼はあわてて売り台を回ってきて、深々と頭を下げた。
「私が薬剤師のクオでございます」と驚くほど低い、響きのいい声で男は言った。四尺ほどの背丈しかないが、巾広く厚い肩を持ち、大きな頭に長い髪をざんばらにしていた。目が珍しく大きかった。
「あなたに検屍官としての仕事をお願いする機会をまだ得ていないが」とディー判事は言った、「医師としての手腕には聞き及んでおり、この機会を利用して立ち寄らせていただいた。東南区で婦人が殺された事件をお聞きでしょう。検屍のため、裁判所までお越し願いたい」
「ただちに参上いたします、閣下」とクオは言った。壷やら干した薬草の束やらが山と積まれた棚を見つめて彼は言いわけするように言いそえた、「どうか、閣下、この粗末な店をお見のがしのほどを。何もかも乱雑になっておりまして」
「それどころか!」とディー判事は愛想よく言った、「すべて実によく整理されていますなあ」彼は大きな黒漆塗りの薬品戸棚の前に立ち、数えきれぬほどある小さなひきだしに白い字できちんと彫りこまれた名前をいくつか読んだ。「鎮静剤をよくおそろえですね。月霊草《ムーン・ハーブ》までお持ちのようだ。あれはめったにない」
クオはいそいそとその示されたひきだしを開け、干した細い根の束をとりだした。注意深くそのもつれを解いているのを見ながら、彼が長い器用な指を持っていることに判事は目を止めた。クオは言った。
「この薬草は北の城門の外の高い岩山の上にだけ生えています。ですからこの土地の者はその岩山を薬《くす》が丘と呼びます。私たちは冬、雪の下でそれを集めるのです」
ディー判事はうなずいた。「冬は薬効性が最も高いのだ。樹液がみんな根に蓄積されるからね」
「閣下は専門知識をお持ちだ!」とクオはびっくりしていった。
判事は肩をすくめた。
「私は医薬にかんする古い書物を読むのが好きなのです」と彼は答えた。何かが足もとにまつわる感じがした。見おろすと、小さな白い猫がいて、びっこをひきながら離れていき、クオの足に背をこすりつけはじめた。クオはそれをそっとつまみ上げて言った。
「私は足にけがしていたこれを通りでみつけました。副《そ》え木をあててやったのですが、かわいそうにきちんとつきませんでした。私は拳術の師匠のラン・タオクエに頼むべきでしたね、あの人は優秀な整骨医です」
「副官たちがその人のことを話してくれました」とディー判事は言った、「彼らが会ったうちで最高の拳術家であり闘技士であるということでしたね」
「あれはいい人です、閣下」クオは言った、「ああいう人物はなかなかいません!」
ためいきをつきながら、彼は仔猫をまた下におろした。
店の奥の青い幕が引きあけられて、背の高いすらりとした女が、茶碗をのせた盆をもってはいってきた。しとやかに頭を下げて茶碗をさし出した時、判事は彼女がよく整った、細かく刻んだような目鼻立ちをしていることに気づいた。化粧をしていないのに、女の顔は純白な玉のように滑らかでまっしろだった。髪はすっきりと三つの輪に結いあげられていた。四匹の大きな猫が彼女のあとについてきた。
「あなたを政庁でお見かけしましたね」とディー判事は言った、「女牢をたいへんにきちんと治めてくださっているそうで」
クオ夫人は再び頭を下げて言った。
「閣下のご厚情をもちまして。牢の中にはほんとに少ししか仕事がございません。北のほうからこの土地に参った軍隊付の女たちが時おり道をあやまりますほかには、牢はからっぽでございます」
彼女の沈着な、それでいてまったく礼儀正しい話しぶりに、判事は快い驚きを感じた。
実にうまいジャスミン茶を判事がすすっている間に、クオ夫人は毛皮のマントを夫の肩に着せかけた。首巻を結ぶとき夫を見る夫人の愛情のこもったまなざしを、ディー判事は眺めていた。
判事は去り難い気持ちを味わった。甘やかな薬草の香に満ちたこの小さな店の和やかな空気は、殺人のあった寒い部屋の吐き気を催す情景を目にした後では、喜ばしい気分転換であった。残念そうにためいきをつくと、彼は茶碗をおいて言った。
「さて、行かねばなるまい」
彼は外に出て、輿《こし》に乗って政庁に帰った。
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第三章
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首なし死体の検屍がとり行なわれ
判事は四人の副官たちと評議する
[#ここで字下げ終わり]
ディー判事が執務室にもどってみると、文書係がそこでメちかまえていた。ホン警部とタオ・ガンが忙しく部屋の隅の焜炉にかかっている間に、ディー判事は自分の事務机にすわった。そのそばにつつしんで立ったまま、文書係は書類の束を机の上に置いた。
「事務長を呼びなさい」文書に目をとおしながら、判事は命じた。
事務長がはいってくると、ディー判事は顔を上げて言った。
「まもなく巡査長がパン夫人の遺体を政庁へ運んでくる。野次馬に大口あけて見ていてほしくないから、検屍は非公開とする。君の部下たちに言って検屍官のクオを手伝い、ここの控えの広間に準備を整えさせたまえ。それから警備の者に、政庁の職員以外は、被害者の兄弟二人と東南区の区長のほか誰も入れるなといいなさい」
ホン警部が湯気のたつ茶碗をさし出した。判事は二口三口すすったあと、かすかな笑みを浮かべて言った。
「われわれの茶は、つい先ほどクオ薬局で飲んだジャスミン茶とは比較にならない! ところで、クオ夫婦はかなりふつりあいな組合せだ――それでも二人は十分幸せそうだな」
「クオ夫人は寡婦でした」とタオ・ガンが言った、「初めの夫はこの土地の肉屋で、ワンという名だったと思います。彼は四年前、大酒を飲んだ挙句に死にました。夫人にとっては幸運、と言っていいでしょう、だらしのない卑しい男だったという話ですから」
「さよう」と文書係がつけ加えた、「肉屋のワンはたくさんの負債をのこして行き、市場の後ろの女郎屋にもありました。未亡人は店とその中味一切がっさいを売りました。女郎屋の経営者は借金を返済するため女奴隷として奉公しろと強要しにかかったのですが、そこヘクオさんが仲裁にはいりました。クオが借金を清算し、夫人と結婚したのです」
ディー判事は前の書類に政庁の大きな朱印をおした。それから顔を上げて言った。
「あの婦人はなかなか学があるようだ」
「あの人は薬品と医術についてクオさんからたくさん教わりました、閣下」と文書係は言った、「今では立派な女医さんです。当初は結婚している女なのに自由に人なかへ出すぎるといって非難されたものですが、近頃はあの人がそうするのを人々はたいそう喜んでいます。ただ脈を見ることしか許されない男の医者よりも、ずっとよく婦人患者の治療にあたれるのは言うまでもないことで」
「あの人がここの女牢の女囚監督をしてくれているのは有難い」判事は文書係に書類を渡しながら言った、「ふつうその種の婦人は卑劣な鬼婆で、収容者を虐待したり不正な扱いをしたりせぬよう絶えずおさえをきかせていなければならぬものだが……」
文書係は戸を開けたが、そのまま脇に寄って、厚い革の乗馬上着を着こみ、耳おおいつきの毛皮帽子をかぶった肩はばの広い巨漢二人を通した。これがマー・ロンとチャオ・タイ、ディーのあと二人の副官であった。
彼らが大またに歩みいると、判事は二人に親しげなまなざしを向けた。彼らはもと追剥《おいはぎ》、「緑林の兄弟」と、ていよく呼ばれるやからであった。十二年前にディー判事が知事としての最初の任地を指して旅していた時、人影のない道で彼らが攻めかかってきた。しかし大胆不敵で人に畏敬の念を与えずにおかないディー判事の人柄に強く感銘した二人は、その場でこれまでのすさんだ生活を捨てることを誓い、判事のために働くようになった。それからというものこの強力な二人組は、凶暴な犯人の逮捕やそのほか困難で危険な仕事を行なうとき、判事にとって大いに役立つところとなった。
「どうだった?」ディー判事はマー・ロンに問いかけた。
首巻を解きながら、マー・ロンはにやりとして答えた。
「お話しするほどのことはありませんよ、閣下! 轎子《かご》かきの雲助二組があの飲み屋でけんかになり、チャオ兄貴と私がはいっていった時には、ちょうど切れものでのわたり合いにいきついたところでした。しかしわれわれ二人が少々頭を小突いてやったら、じきにみんなおとなしく家に帰っていきました。主謀者四人を引っ張って参りましたので、閣下、お許しいただければ牢で一晩過ごさせたいのですが」
「それでよろしい」と判事は言った、「ところで、百姓たちが泣きごとを言ってきた例の狼は捕えたのか?」
「はい、閣下」とマー・ロンが答えた、「それもはなはだ壮快な狩りでした! 友人のチュー・ターユアンが真先に奴を見つけたのです、でかいやつで。ところがチューは矢を弦《つる》にかけそこね、チャオ・タイがそいつののど首に命中させたのです。みごとな一撃でしたよ、閣下」
「チューがへまをしたので私に機会が生じたのです」チャオ・タイはいつもの穏やかな笑顔を見せて言った。「なぜチューが仕損《しそん》じたのかわかりません、すばらしい射手ですのに」
「それがまた毎日やっているのですからねえ」とマー・ロンがつけ加えた、「雪でこしらえた等身大の標的に向かって練習しているところを御覧になるべきですよ。そのまわりを速駆けさせながら射るんですが、ほとんどの矢が頭に命中するのですから!」マー・ロンは賞賛のためいきをもらした。ついで彼はたずねた、「誰も彼もが噂をしている例の殺しは、いったい何なんですか? 閣下」
ディー判事の顔つきが暗くなった。「ひどい話さ」と彼は言った、「君、控えの広間へ行って、検屍が始められるかどうか見てきてくれないか」
マー・ロンとチャオ・タイがもどって来て、万事整ったことを告げると、ディー判事は警部とタオ・ガンをしたがえて控えの広間に行った。
巡査長と二人の書記が、高いテーブルのそばに立って待っていた。判事がテーブルの席に着くと、四人の副官たちは向かい側の壁に沿って並んだ。イエ・ピンとイエ・タイがカオ区長といっしょに片隅に立っているのを、ディー判事は認めた。彼らの敬礼にうなずき返すと、判事はクオに合図をした。
クオはテーブルの前の床のよしずにかぶせた掛ぶとんをひきのけた。その日二度目に、判事は断たれた死体を眺めた。ため息を一つつくと判事は筆をとりあげ、書式に書きこみながら大声で読みあげた、
「パン夫人の遺体。本姓イエ、年齢は?」
「三十二歳でございます」とイエ・ピンがしぼり出すような声で言った。彼の顔は死人のような土気色だった。
「検屍を始めてよろしい!」とディー判事は言った。
クオは手もとの湯を満たした銅のたらいに布切れをひたして、死んだ女の手をあたためた。彼はそっと縄をゆるめた。そして腕を動かそうとしたのだが、腕はすっかり硬直していた。彼は右の手から銀の指輪をとって、一枚の紙の上に置いた。それから丹念に死体を洗いながら、一寸刻みに調べていった。かなりの時間をかけた後に彼は死体を裏返し、背中の血痕も洗い流した。
そうしている間にホン警部は、この殺人事件についてわかっていることを全部、マー・ロンとチャオ・タイに耳打ちしてきかせた。ここでマー・ロンが息をのんだ。
「背中のあの打ち傷を見なよ」と彼は憤慨したようにチャオ・タイにささやきかけた、「あれをした鬼野郎をおれの手でとっつかまえてやるぜ!」
クオは首の断面にたっぷり時間をかけた。ややあって起きなおると所見をのべはじめた。
「既婚の女性の体で、子供を生んだことのあるしるしは見られません。皮膚はなめらかで、あざ、瘢痕《はんこん》ともにありません。体に故意に加えられた傷は見えませんが、手首に縄による裂傷があり、胸部及び上膊部に打撲傷、背部及び腎部には明らかに鞭で打ったと思われる跡があります」
クオは書記がそれらの細目を記入しおわるのを待った。そしてまた続けた、
「首の切断面には大型の刃物の特徴が見られ、台所で用いられる肉切包丁と推定されます」
ディー判事はいきどおろしげにあごひげをひっぱった。書記にクオの報告を読み上げるように命じ、その上で検屍人に拇印をおさせた。判事は指輪をイエ・ピンにわたすよう検屍官に言った。イエはそれを不思議そうに見つめた。
「ルビーがなくなっている! 一昨日、私が妹に会ったときは、まだ確かにあったのに」
「妹さんはほかの指輪はしなかったのか?」とディー判事がたずねた。
イエが首を振ると、判事は続けた、「もう遺体を持っていってよろしい、イエ・ピン、そして仮の柩《ひつぎ》におさめておきなさい。切断された頭部はまだ発見されていない、家の中にもなければ、井戸にもなかった。しかし私は殺害者を逮捕し首をみつけることに全力をつくすことを約束する。いずれ胴体とあわせて入棺し、最終的に埋葬できよう」
イエ兄弟は黙って頭を下げ、ディー判事は立ちあがり、四人の副官をしたがえて執務室に帰った。
だだっぴろい部屋にはいった時、重い毛皮をまとっているにもかかわらず彼は身を震わせ、マー・ロンに向かってぶっきらぼうに言った。
「火鉢にもっと炭を入れてくれ!」
マー・ロンが忙しく動きまわるうち、一同は席についた。長い頬ひげをゆるゆるとなでながら、判事はしばらく黙りこんでいた。マー・ロンも席につくと、タオ・ガンが意見を述べた。
「この殺人事件には確かにおかしな点がいくつかあります」
「おれには一つしか見えないね」とマー・ロンがうなった、「つまり鬼のようなパン・フォンをおれたちの手の中に引っとらえることだ。自分の妻をあんなふうにむごたらしく殺しおって。しかもいいからだをしているのに!」
深く考えこんでいたディー判事の耳に、その言葉ははいらなかった。ふいに彼は怒ったように大声をあげた。
「あり得ない状況だ!」
判事は唐突に立ちあがった。床を行きつもどりつしながら、彼は続けた。
「裸にされた女がいるというのに、その衣類の一枚も、その鞋《くつ》さえもない。女はしばられ、虐待され、首を切られているのに、争った形跡がない! 夫がやったと仮定して、切断した首と女の衣類を丁寧に包み、へやをかたづけて逃げだした――だがいいかい、妻の値打ち物の装身具と、自分のひきだしの銀は残したままなのだよ! さあ、何か意見があるかね?」
ホン警部が言った。
「第三の人物がいたことが考えられますね、閣下」
ディー判事は足を止めた。再び机の自分の席につくと、副官たちに目をすえた。チャオ・タイがうなずいてから言った。
「大きな剣で武装している死刑執行人のように強い男だって、罪人の首を切り落とすのは困難なことがあります。しかもパン・フォンは弱い、年配の人物だそうです。どうして妻の首を切ることができたんでしょう?」
「たぶん」とタオ・ガンが言った、「パンは人殺しが家の中にいるのを見つけ、びっくり仰天して自分の財産をみんな残したまま、野兎みたいにつっぱしったんだ」
ゆっくりとあごひげをたぐりながら、ディー判事が言った、
「君の言うことには一理ある。とにかくそのパンという男を、できるだけ早く捕えねばならない」
「それも生きたままで!」タオ・ガンが意味ありげにつけ加えた、「もし私の推理が正しければ、殺害者は彼を追っているだろう」
ふいに扉が押し開かれて、やせた老人がおずおずはいって来た。判事は驚いた顔を向けた。
「またどうしてここヘ?」と判事がきいた。
「閣下」と老家令は言った、「太原《タイユアン》からの使いが馬で参りました。第一奥様が、閣下に少々お時間をおさきいただけまいかとおっしゃっておいでです」
ディー判事は立ちあがった。そして副官たちに向かって言った。
「夕方、またここへきてくれたまえ。それからいっしょにチュー・ターユアンの晩餐会に行くとしよう」
せかせかとうなずきをかえすと、彼は執事をしたがえてその部屋を去った。
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第四章
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判事は狩場の饗宴に招かれて行き
容疑者が憲兵隊の手で逮捕される
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暗くなって間もないころ、六人の巡査が厚い油紙を張った手燭を手にして中庭で待機していた。みなが足をあたためるため足踏みしているのを見ると、巡査長がにんまりして言った。
「おまえたち、寒さを気にすることはないぞ! ごりっぱなチュー・ターユアン殿の気前のいいのは知っての通りだ、わしら一同、あちらの台所で上等な食事がとれるようはからってくださるさ」
「いつだって酒もお忘れでないしね!」と若い巡査は満足げに言った。
やがて一同は直立不動の姿勢をとった。判事が四人の副官をしたがえて戸口に現われた。巡査長が輿丁《こしかつぎ》に向かって叫び、判事はホン警部、タオ・ガンとともに輿《こし》にのった。馬丁がマー・ロンとチャオ・タイの馬を連れてくると、チャオ・タイが言った。
「閣下、私どもは途中でラン・タオクエ師を拾ってまいります!」
ディー判事はうなずき、輿丁たちは威勢のよい足どりで出発した。
小蒲団に背をもたせて、ディー判事が話した。
「太原《タイユアン》からの使いが面倒な知らせを持ってきた。第一夫人の母親の病気が重いというので、あれは明朝出発することに決めた。第二、第三夫人が同行し、子どもたちも連れて行く。この季節の旅行は楽ではないが、それでも行かないわけにはいかない。老夫人はもう七十歳を越えており、第一夫人はひどく心配している」
ホン警部とタオ・ガンが見舞いを述べた。判事はそれに礼を言ってから続けた。
「今夜チュー・ターユアンの宴会に行かねばならぬのは実に不都合だ。家族たちを運ぶために、衛兵隊が幌《ほろ》馬車三台を政庁へ届けてくることになっている。私はできれば立ち会って荷造りと積みこみを宰領したい。しかしチューは当地の市民の頭《かしら》株だ。ぎりぎりになって私の訪問を取りやめにし、チューの体面をつぶすことはできない」
警部はうなずいた。
「チューはすでに自邸の大広間に驚くばかりの食事の用意をしていると、マー・ロンが私に言いました。陽気な人柄で、マー・ロンとチャオ・タイは二人のためにあの人が計画した狩猟の集いを思いきり楽しみました――酒盛りを楽しんだのは言うまでもないことでして」
「どうすればいつもあんなに陽気でいられるものやら」とタオ・ガンが評した、「夫人がたが八人もいて、波風立てないようにやっていかなくてはならないことを思いますとね」
「それなんだが」とディー判事はたしなめるように言った、「あの人に子がないことは知っているね。家を継ぐべき男子を得られないことは、彼をひどく悩ませているに相違ない。彼は元気旺盛な人物だが、あの妻妾《さいしょう》たちをただ慰みのためにかかえているのだとは思わないよ」
「チュー・ターユアンはたいそう裕福ですが」とホン警部が哲学者気取りでいった、「その富をもってしてもあがなえないものがあるのです」しばらくおいて、ホンは言いそえた、「閣下の奥様がたやお子たちがみな行ってしまわれると、このさき閣下はたいへん淋しくおなりでしょうな」
「あの殺人事件が政庁の懸案になっているかぎり」と判事は答えた、「どっちみち家族たちとともに多くの時間を過ごすことはなるまいと思うよ。あれたちが不在の間、私は執務室で起居し、食事もそこでとることにする。警部、忘れずにそのことを事務長に言っておいてくれたまえ!」
判事は窓外に目をやり、冬の星空にそそり立つ鼓楼の黒々とした影を見た。
「もうすぐ着くな」
輿丁《こしかつぎ》たちが、堂々たる門の前で止まった。朱漆塗の高い扉が両方に開き、高価な貂《てん》の毛皮を身にまとった背の高い大柄な男が歩み出て、判事が輿から降りるのに手をかした。彼は血色のいい広い顔に、きちんと刈りこまれた黒いあごひげを生やしていた。
チュー・ターユアンが判事を出迎えたのに続いて、二人の者が拝礼した。ディー判事はやせた顔に灰色の山羊ひげをそよがせている同業組合《ギルド》親方のリャオ老人の姿を認めて当惑した。食事の間にリャオは行方不明の娘の捜索の進行状況について尋ねるに違いないなと考えた。それと並んで立っている若い男はチューの秘書をしているユイ・カンだった。その青白い神経質な面《おも》ざしからみて、彼も間違いなくその婚約者について情報をもとめるであろうと判事は覚悟した。
チューが一行を中のほうの大応接室に導く代わりに、南翼の庭に面した野外のテラスに案内した時、ディー判事の当惑はなおさらました。
開けっぴろげな調子でチュー・ターユアンが言った、「広間でおもてなしするつもりでしたのですがな、ご承知のとおりわたしらはただの北辺の百姓でして、閣下がお宅で召しあがるお料理には及びもつきませんわ! むしろ野天での生粋の狩場料理のほうが閣下のお気に召すかと考えました。焼肉に地酒の、まさに田舎風というやつですが、多少は趣があろうかと思っておりますよ」
判事は愛想よく相槌をうちはしたものの、内心、このチューの思いつきはあいにくなことだと思った。風はおさまったし、テラスの周囲には毛氈《もうせん》の幔幕《まんまく》が高く張りめぐらされてはいたが、やっぱりひどく寒かった。判事はぞくぞくする寒気とのどの痛みを感じていた。今朝パンの家で風邪をひきこんだなと考え、暖かい広間での居心地のよい宴会のほうがずっといいのにと思った。
テラスには無数のたいまつがともされ、そのゆらめく光が、架台に厚い板を載せただけのテーブル四脚が形づくる大きな方形を滑らし出していた。中央に途方もなく大きな火鉢があり、赤熱する炭が山のように盛られている。三人の召使がそのまわりに立ち、肉片を長い金串にさしてあぶっていた。
チュー・ターユアンは上席のテーブルの、自分とリャオ同業組合親方との間の野営椅子に判事をすわらせた。ホン警部とタオ・ガンはチューの秘書ユイ・カンといっしょに右手のテーブルにすわった。それと向かい合う年配の人物二人は、紙商人および酒販売商の同業組合親方としてチューから紹介された。判事と向かい合うテーブルにはマー・ロンとチャオ・タイが、拳術家のラン・タオクエといっしょにいた。
ディー判事は名高い拳術家、北部地方の選手権保持者を興味深く眺めた。明かりが彼のつるつるに剃った頭と顔にあたっていた。拳術家は闘うとき邪魔にならないように、毛をすっかり剃ってしまったのだ。判事はマー・ロンとチャオ・タイが熱狂的に語る話から、ランがその術に心身をささげげつくし、結婚したこともなく、非常に謹厳な暮らしぶりであることを知っていた。チューとお定まりの鄭重《ていちょう》な会話を交わしながら、ディー判事はマー・ロンとチャオ・タイとが北州《ペイチョウ》で、チュー・ターユアンおよびラン・タオクエのようなうまの合う友を得ていることをうれしいと思った。
チューが判事のために杯を挙げたので、返礼の乾杯をしなければならなかった――生酒《きざけ》が彼のひりひりするのどを痛めたけれども。
それからチューは殺人事件についてたずね、ディー判事は焼肉を賞味する間を縫って、手短かに説明した。しかし脂《あぶら》で胃がむかむかした。野菜を少しつまんでみようとしたが、手袋をはめたままで箸を扱うのは難しかった。我慢しきれずに脱いでしまったが、今度は指が凍えて、もっと食べづらくなった。
「あの殺人が」チューはかすれ声でささやいた、「ここにいる友人のリャオの心を大いにかき乱しておるのです。娘のリエンファンが同じような悲しい運命に見舞われたのかもしれぬと心配しましてな。閣下、ちっと元気づけてやっては頂けますまいか」
ディー判事はその娘の捜索活動についてリャオ親方に二、三言話しかけ、それに力を得たごま塩ひげの老人は、娘の美質について長々と語り始めた。判事は老紳士に対して大いに同情したが、彼の話は政庁で何度も聞かされていたし、頭が割れるように痛かった。顔は火照ったが、背中と足は氷のように冷えた。この天候に、妻や子どもたちは辛い旅に出るべきだろうかと、彼はみじめな気分で自問した。
チューがまた判事のほうへ身をのり出して話しかけた。
「死んだにせよ生きているにせよ、閣下、どうぞあの娘《こ》を見つけ出してください。私の秘書はあの娘のことで死ぬほどやきもきしています。そりゃねえ、よくわかりますよ、あの娘はあの男の婚約者なんだし、きれいな娘ですからな! だがご存じのとおり私の財産関係の用事はたいへん多いのでして、このところあの男はまったくどうも役に立ちません」
耳打ちするうち、チューは判事を酒とにんにくの匂いで包みこんだ。判事はにわかに吐気を催した。リャオ嬢を見つけるため打つ手はすべて打ったとつぶやくと、彼は立ちあがって、ちょっと失礼したいと言った。
チューが合図をすると、明かりを手にした召使が判事を奥に案内した。暗い回廊の迷路を抜けていくと、奥の方に洗面所の並ぶ小さな院子《なかにわ》に出た。ディー判事は急いでその一つにはいった。
出てくると、別の召使が湯を入れた銅の洗面器をもって待っていた。熱い手拭いで顔と首をこすると気分がいくらかよくなった。
「待っていなくていいよ」と彼は召使に言った、「道は覚えている」
判事は月光に照らされた院子《なかにわ》を行きつもどりつしはじめた。そこは非常に静かで、この宏壮な邸宅の、どこか裏手の方にあたるのに違いないと彼は考えた。
しばらくして、また宴会に出ることにした。しかし屋内の回廊は真暗で、やがて方角を失ったことに気づいた。手を叩いて召使を呼んだが、誰も答えなかった。召使はみんな外のテラスで宴会の給仕をしているらしかった。
前方をすかしてみると、かすかな光のすじが見えた。そろそろ歩いていくと半開きの扉のところに出た。その扉は高い木の柵で囲まれた小さな庭に通じていた。一番遠い一隅、裏口のそばにあるわずかな茂みを除けば、何もない庭であった。
この庭をのぞき見ていたとき、ディー判事はにわかに恐怖感に襲われた。
「私はじっさい病気になりかけているに相違ない」と彼はつぶやいた、「この静かな裏庭に、恐怖すべきものがあるだろうか?」彼は自らに強いて木の段を下り、庭をつっきって裏口に向かって歩いた。聞こえるのは自分の長靴の下で雪がざくざくと鳴る音ばかり。それでもいま彼ははっきりと恐怖を感じ、目に見えぬ脅威の不可解な感触がのしかかってきた。思わず知らず歩みを止めて、彼は周囲を見まわした。心臓がとまった。奇妙な白いものが、茂みのかげにうずくまって動かない。ぞっとして立ちすくみ、判事はそれをみつめた。やおら彼は安堵の息をついた。それは雪だるま――柵に向かい、足を組み合わせて座して瞑想にふける仏教僧侶に似せた、等身大の雪だるまであった。
判事は声に出して笑おうとしたが、笑いは彼の唇に凍りついた。雪だるまの目に代わる炭のかけら二つがなくなっていて、そのうつろな穴ぼこが不吉なまなざしで彼を釘づけにした。その人形からは死と腐朽の重苦しい空気が発散していた。
恐慌がにわかに判事をつかんだ。彼はきびすをかえしてあわてて家のなかにもどった。段を上がるときつまずいて向こうずねを傷つけた。それでも彼は暗い回廊の壁を手さぐりしながら、できる限り先を急いで歩いた。
二度曲ったところで明かりを手にした召使に出会い、導かれてテラスにもどった。
客たちは気勢が上がり、元気よく狩りの歌を合唱していた。チュー・ターユアンは箸で枡《ます》を叩いていた。判事の姿を見ると、チューはあわてて立ちあがった。そして不安そうに言った。
「閣下はお加減がよろしくないようだ」
「たちの悪い風邪を引いたに違いありません」とディー判事は無理に笑顔をつくって言った、「お宅の裏庭の雪だるまが私を甚だ驚かせたと御推察ください」
チューは大声で笑った。
「子供たちに愉快な雪だるまのほか造らせるでないと、下僕どもに申しましょう!」と彼は言った、「さあ、もう一杯召しあがるとよくなりますよ、閣下」
ふいに執事がずんぐりした男を一人案内してテラスに現われたが、その先の尖った兜《かぶと》、短い鎖かたびら、だぶだぶの革ズボンは、彼が騎馬憲兵隊の下士官であることを示していた。男は判事の前で直立不動の姿勢をとり、きびきびした声で言った。
「つつしんでご報告申しあげます。本官の巡視隊は、本街道を東へ二里行ったところにある五羊村の六里南方で、くだんの人物パン・フォンを逮捕いたしました。ただ今、閣下の政庁の牢番長に引き渡して参ったところであります」
「よくやった!」とディー判事は声を上げた。さらにチューに向かって、「たいへん残念ですが、この取調べのためにすぐ行かねばなりません。だがこのすてきな祝宴をこわしたくはありませんな。私はホン警部だけ連れて行くことにいたします」
チュー・ターユアンと他の客たちは判事を表|院子《なかにわ》に導いてゆき、そこで判事は主人に別れの挨拶をして、にわかに席を立つことをあらためて詫びた。
「本分が第一ですよ」とチューは心から言った。「それに、悪漢がつかまったとは重畳《ちょうじょう》です!」
政庁にもどると、ディー判事はてきぱきとホンに命じた。
「牢番長を呼びなさい!」
牢番長が現われて判事に挨拶した。
「囚人は何を持っていたか?」ディー判事がたずねた。
「武器は所持しておりませんでした、閣下、通行証と金を少しだけ」
「革袋は携帯していなかったか?」
「はい、閣下」
判事はうなずき、自分たちを牢へ案内するよう牢番長に命じた。
牢番長が狭い独房の鉄扉を開けて提灯をかかげると、ベンチにすわっていた男が重い鎖の音をたてて立ちあがった。一目で判事はパン・フォンがむしろ害のない老人らしいと見てとった。卵形の顔にくしゃくしゃの半|白髪《しらが》、どじょう鬚《ひげ》をたらしていた。彼の顔は左の頬を走る赤いみみずばれでそこなわれていた。パンはお定まりの無実の訴えを始めるでもなく、黙ってうやうやしく判事を見つめていた。
袖の中で腕組みをしながら、判事は厳然と言った。
「パン・フォン、おまえに対し、きわめて重大な告訴が当政庁に提出されているぞ!」
パンはためいきまじりに言った、
「何が起こったか、私には簡単に想像がつきます、閣下。妻の弟のイエ・タイが私を無実の罪で訴えているに相違ありません。あのろくでなしはいつも私に金をねだって困らせており、つい先ごろ、もうぜったい貸さないぞと強く断わったばかりなのです。今度のことはその仕返しでしょう」
「おわかりだろうが」と判事は穏やかに言った、「法律により、私が内々で囚人に訊問を行なうことは許されない。だがもし、最近なにか奥さんとの間で深刻ないさかいがあったかどうかここできかせてもらえるなら、あなたは明日法廷でまごつかなくてすむだろうと思うのだが」
「では、あれも|ぐる《ヽヽ》なのですね!」パンは苦々しげに言った、「それでここのところ何週間か、あれがいつもと違う時間に外出するとか、妙なふるまいをした訳がわかりました。まぎれもなくあれはイエ・タイがありもせぬ告訴を仕組むのに手をかしていたんですな。一昨日、私が……」
ディー判事は手を挙げた。
「全体の話は明日きかせてもらおう」そっけなく言うと、彼はきびすを返して牢を後にした。
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第五章
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タオ・ガンが勇者の趣味を解説し
骨董商人は政庁法廷で審問される
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翌朝、判事は朝の公判の少し前に執務室にはいった。そこには副官四人がもう待ちかまえていた。
ディー判事の顔色がまだひどく悪く、疲れている様子なのにホン警部は気づいた。幌馬車の積みこみのため夜ふけまで忙しかったのだ。机の向こうの席につくと、ディー判事は言った。
「まずはさて、家の者たちは出発したよ。護衛兵は夜明け前に到着した。雪がまた降りださなければ、三日以内に太原《タイユアン》に着くだろう」
疲れはてたようすで彼は目のあたりをなでた。そのあとは元気な声になって続けた。
「昨夜、パン・フォンと短時間面談した。そこでの第一印象は、われわれの推測は正しく、第三の人物が彼の妻を殺したということだ。さもなくばパンはたいへんな役者だよ、何が起こったかについてこれっぽっちも気づいていない」
「パンは一昨日、急いでどこへ行ったのでしょう?」とタオ・ガンがたずねた。
「法廷で私が尋問すれば、すぐにわかるさ」とディー判事は言った。警部がすすめた熱い茶を静かにすすってから続けた。
「昨夜きみたち三人にチューの夜宴を退席しないように言ったのは、宴会の気分をこわしたくなかったためだけではなくて、何となく奇妙な気配を感じたからなのだ。かなり気分が悪かったから、それは私の妄想だったかもしれない。だが私が出たあとできみたちが何か異常なことに気づいたかどうかききたい」
マー・ロンはチャオ・タイと顔を見合わせた。そして頭をかきながら、情なさそうに言った。
「閣下、白状しますと、私は少々あの酒を過ごしたようでして、特別なことには気づきませんでした。しかしチャオ兄貴ならもっとお話できるかもしれません」
「私に言えるのは」とチャオ・タイが微笑を見せて言った、「私も入れて、みんなとてもいい気分だったということです」
タオ・ガンは左の頬から生えている三本の長い毛を思案げにまさぐっていた。彼は言い出した。
「私はああした強い酒は苦手でして、ラン師は全然酒を飲みませんから、私は大部分の時間をあの人と話してすごしました。だからといって、食卓のまわりで起こっていることから眼を離しはしませんでした。あの宴会は、閣下、まさに愉快な宴会だったと言わざるを得ません」ディー判事が何とも意見を言わないので、タオ・ガンは続けた、「けれども、ラン師がおもしろいことを話してくれましたよ。あの殺人事件の話になったとき、あの人が言うのに、イエ・ピンはよぼよぼの老人だけれども悪い奴ではないそうです。しかしイエ・タイの方は卑劣なならず者だと思うそうです」
「何故だ?」とディー判事はせきこんでたずねた。
「何年か前」とタオ・ガンは答えた、「イエ・タイに拳術を教えたそうですが、それもほんの数週間のことで、ランのほうでもうおまえには教えないと断わったそうです。それというのもイエ・タイはたちの悪い危険ないくつかの手を覚えたがるばかりで、競技の精神的背景には何ひとつ関心を示さなかったからです。あの男の強さは驚くべきものだが、その卑しい根性は彼がすぐれた拳術家となることを妨げるとランは言っております」
「それは役に立つ情報だ」と判事は言った、「ほかに何か言わなかったか?」
「いいえ」とタオ・ガンは答えた、「そのあとランは七巧板《しちこうばん》でいろいろな形を作ってみせはじめたものですから」
「七巧板!」ディー判事はあきれて言った、「たかがこどものおもちゃではないか! こどもの頃それで遊んだのを覚えている。四角の紙を七片に切って、それでさまざまな形を作るあれのことか」
「そうなんですよ」とマー・ロンが笑った、「あれがランさんの妙な道楽なんですな。単なるこどもの遊び以上のものがあるとあの人は言い張るのです。つまりそれは目に見えるあらゆるものの本質的特性を認識させ、精神集中の一助となるのだとね!」
「あの人は望むものをほとんど何でもつくりますよ」とタオ・ガンが言った、「それもたちどころにね」何でもはいる寛《ひろ》い袖から七片の厚紙をとり出すと、それを卓上におき、真四角になるように組み合わせた。「これが紙の切り方です」
紙片をかきまぜながら彼は続けた、「初め鼓楼を作ってくれと頼みましたら、あの人はこれを作りました。それはあまりに簡単だから、走っている馬だと私は言いました。それもランは即座にやってのけました。次に、被告人が裁判所でひざまずいているところをと言うと、こうしました。私はくやしくなったので」とタオ・ガンは続けた、「酔っぱらった巡査と踊っている娘を作ってくれと言いました。それでもあの人はそれをこしらえました! それで、私は降参したわけです」とタオ・ガンはしめくくった。
ディー判事はみんなと声を合わせて笑った。
「きみたちの誰も気になったことがないのだから、何かしら邪悪なものがあると感じた昨夜の私の不安感については、私の調子がよくなかったからだと考えることにするよ。それにしても、チュー・ターユアンの邸宅はとてつもなく広い。あの暗い回廊で私はあやうく迷ってしまうところだった」
「チュー一族はあそこにもう何代とも知れぬほど長く住んでいるのです」とチャオ・タイが言った、「で、そういう大きな古い家にはよく、何やら薄気味悪い雰囲気があるものです」
「あの妻や妾たちを全部住まわせておくには、あれでもやっとじゃないかな」マー・ロンがにやにや笑った。
「チューは好漢です」とあわててチャオ・タイが言った、「第一級の狩猟家ですし、厳しいけれど公正な、よい経営者です。小作人たちが心酔していることで、それはよくわかります。あの人にまだ息子がないことを、百姓たちはみなたいそう気の毒がっています」
「努めるのが不愉快でたまらんわけじゃあるまいに!」と言いながらマー・ロンは大げさに片目をつぶってみせた。
「忘れていました」とタオ・ガンが口をはさんだ、「チューの秘書、つまりユイ・カンという若い男ですが、まったく神経が参っているようです。誰かが話しかけると、まるでお化けでも見たようにびっくりしたふうを見せます。あの青年はわれわれが考えているのとまさに同じ考えでいるような気がします。つまり、彼の婚約者は他の男と逃げたんだとね」
ディー判事はうなずいた。
「すっかり参ってしまわないうちに、あの若いのを尋問することにしよう。リャオ・リエンファン嬢だが、父親があんまり一生懸命で娘の非の打ちどころのなさをわれわれに信じさせようとするものだから、私は彼自身もそれを確信しようと努めているのじゃないかと思ってしまうのだ。タオ・ガン、君は今日昼すぎに、リャオ邸へ行くがよい。そしてあの家のことでもっと情報を収集してみたまえ。ついでにイエ兄弟についても調査して、ラン師が彼らについて言ったことを確かめなさい。だが直接近づいてはいけない。彼らを驚かすことは無用だよ。近所の人にたずねるだけだ」
銅鑼《どら》が三つ鳴った。ディー判事は官服と官帽をつけるために立ちあがった。
パン・フォン逮捕のニュースがすでに知れ渡っていることは明らかで、法廷は満員だった。
開廷し、点呼をとるとすぐディー判事は朱筆をとり上げ、牢番長にあてた書式に記入した。
パン・フォンが判事席の前に連れて来られると、傍聴者のなかから怒りのつぶやきがおこった。チュー・ターユアン、ラン・タオクエとともに最前列にいたイエ兄弟がつめよろうとしたが、巡査たちが二人を押しもどした。
ディー判事は驚堂木《けいどうぼく》で机を打った。
「静まれ!」と叫んでから、眼下の石の床にひざまずいている男に向かってそっけなくたずねた。
「姓名、および職業を申せ」
「いやしい私めは」とパン・フォンは落ち着いた声で言った、「パン・フォンと申し、骨董品売買をなりわいといたしております」
「一昨日、おまえはなぜ町をはなれたか?」と判事が質問した。
「北の城門外の五羊村から来た百姓が、数日まえ私に会いに来まして」とパンは答えた、「その畑に馬糞を入れる穴を掘っておりましたところ、古い青銅の鼎《かなえ》を見つけたと告げました。八百年前、漢王朝支配の時代、五羊村は大きな領主屋敷の敷地であったことを私は存じております。そこへ行って青銅器を見てみる価値がありそうだと、私は妻に言いました。一昨日は晴天でしたので、私は出かけることに決め、次の日には町へ帰ってくることにしました。そうして……」
ディー判事がさえぎった。
「その朝、出かける前、おまえと妻とはどのように過ごしたか?」
「私は朝のうちいっぱい、修理する必要のあった時代物の漆の小卓にかかりきりで」とパンは言った、
「妻は市場へ行き、それから昼飯の支度をしました」
判事はうなずいた。「続けよ」と彼は命じた。
「いっしょに昼飯をすませますと」とパンは話を続けた、「私は重い毛皮の外套を巻いて革の袋に入れました、田舎の旅籠屋《はたごや》は暖房されていまいと思いましたので……。家の前の通りで食料品屋に会い、その男が、宿駅にほとんど馬がない、もしつかまえたいなら急ぐほうがいいと教えてくれました。それで私は北門まで大急ぎで行き、運よく最後に残っていた馬を賃借りできました。それで……」
「食料品屋のほか、誰かに会わなかったか?」とディー判事がまた口をはさんだ。
パン・フォンはちょっと考えこんだ。そして答えた。
「はい、宿駅へ行く途中でカオ区長とすれちがい、簡単な挨拶を交わしました」
判事の合図で、彼は続けた。
「五羊村へは日暮れ前に着きました。私は農園を捜しあて、鼎《かなえ》がとてもよい品だということを確かめました。百姓と長い間かけ合いましたが、強情な男で、とうとう折り合いがつきませんでした。遅くなってしまいましたから、村の旅籠に馬でのりつけ、そこで簡単な食事をとって休みました。
翌朝、私はまず他の農園を、古器はないかと尋ねてまわりましたが、何も見つかりませんでした。旅籠で昼食をとると、例の百姓のところへ帰りました。またもや長々と談合を重ねたすえ、結局鼎を買いとりました。さっそく毛皮外套を着こみ、青銅器を革袋に入れてそこを発ちました。
ところが、馬で三里ばかり来ると、二人の追剥が雪山から姿を現わしてこちらへ駆けてきました。大いにあわてて、私は馬に鞭をくれて駆けて逃げました。その悪党どもから逃げようとあせるうち、やがて道を間違えて迷ってしまったことに気づきました。そしてもっと運の悪いことには、鼎を入れた革袋を落としてしまったものと見え、もう鞍頭《くらがしら》に下がっていないのでした。私は人気のない雪山の間を駆けまわり、刻々と恐怖感をつのらせていきました。
とつぜん五騎の憲兵巡視隊の姿が見えました。私はそれと出会って狂喜したのです。ところがあにはからんや、驚いたことにその人たちは私を馬から引きずりおろし、手足をしばって馬の鞍の上に私をつり上げたのです! これはいったいどうしたことだと聞きましたが、伍長は鞭の柄で私の顔を打っただけで、黙っていろと命じました。その人たちは一言の説明もなく市中に駆けもどり、私を牢に投げこみました。これがあったことのすべてです」
イエ・ピンが叫んだ。
「この野郎めは、うそ八百を述べたてています、閣下!」
「この者の陳述は検証されることになる」と判事はそっけなく言った、「証人イエ・ピンは陳述を求められるまで黙っていよ」パン・フォンに向かって、「その二人の追剥の様子を申してみよ」
少し間をおいて、パン・フォンは答えた。
「ひどくおびえておりましたので、実のところよく見ていないのでございます、閣下。ただ、片方が目にあて布をしていたことを思い出します」
ディー判事は書記に命じてパンの供述書を読みあげさせ、そのあと巡査長がパンに拇印をおさせた。続いて判事が重々しく言った。
「パン・フォン、おまえの妻が殺害され、その兄イエ・ピンはその罪を犯したことによりおまえを訴え出ている」
パンの顔が灰色に変わった。
「そんなことはしていない!」と彼は取り乱して叫んだ、「そんなことは何も知らない。私が出たとき、あれは生きてぴんぴんしていた! 閣下、どうか……」
判事が巡査長に合図すると、パン・フォンはなおも無実を叫びたてながら連れ去られた。
イエ・ピンに向かって判事は言った。
「パン・フォンの供述の確認がすんだら、あなたにはまたここへおいでいただくことになろう」
ディー判事は県行政の日常事務をいくつか処理してから、閉廷した。
みなが執務室にもどると、ホン警部が熱心にたずねた。
「閣下はパン・フォンの話をどうお思いです?」
ディー判事は頬ひげをなでながら考えこむふうであったが、やがて言った。
「あの男はほんとのことを言っていると思う、そして彼が出たあとで、第三の人物がパン夫人を殺したのだろう」
「金《かね》と金製品が手を触れられずにあったわけはそれで説明がつきます」とタオ・ガンが言った、「殺人者は単純にそれがあるのを知らなかったのです。しかし、パン夫人の衣類が消え失せたことの説明はつきません」
「あの話でいちばん弱い点は」とマー・ロンが述べた、「例の二人の追剥から逃げる最中に袋をなくしたというところだな。脱営者とタタール人の密偵とに備えて、憲兵隊があのあたり全域を定期的に巡回していることは誰でも知っていて、追剥どもはあの辺に近づかないんだ」
チャオ・タイがうなずいた。
「それにそいつらの様子についてパンの言えることといったら」と彼は言いそえた、「片方が目にあて布をしていたということだけじゃありませんか。あれは市場で講釈師たちが追剥を語るときの定石ですよ!」
「いずれにしても」と判事は言った、「供述の裏付けをとってみよう。警部、君は巡査長に巡査を二人つけて五羊村へやり、例の百姓と、村の旅宿の主人に問い合わせさせなさい。私はこれから憲兵隊の指揮官に手紙を書き、その二人の追剥についてたずねてみる」
ディー判事は少し考え込んだ。そしてつけ加えた。
「その間に、あのリャオ・リエンファンをみつけるため何か手を打たなくてはならぬ。今日の午後、タオ・ガンがリャオ家とイエ紙店に行っている間に、マー・ロンとチャオ・タイは市場へ行き、娘が消え失せた場所で手がかりをつかむよう再度努力しなさい」
「閣下、ラン・タオクエを連れていってよろしいでしょうか」とマー・ロンがきいた、「彼はあの場所を何もかも知りつくしています」
「もちろんよろしい」とディー判事は答えた。「私はこれから昼食をとり、その後ここの寝椅子で一休みすることにする。もどって来たらすぐ私に報告してくれたまえ!」
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第六章
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タオ・ガンは奇妙な話を聞きこみ
米穀商人からただめしをせしめる
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ホン警部はマー・ロン、チャオ・タイと連れだって、守衛詰所へ昼食をとりに行ったが、タオ・ガンはその足で政庁を出た。
きらきらする雪におおわれた古い練兵場の東側の道を行った。氷のような風が吹いてきたが、タオ・ガンは長外套をやせた体のまわりに引き寄せただけで、足どりを速めた。
関帝廟の前まで来ると、彼はイエ紙店についてたずね、隣町だと教えられた。ほどなくその大きな看板が目にはいった。
タオ・ガンは向かいの小さな八百屋に行き、銅銭一枚はたいて漬けた蕪《かぶ》を一つ買った。
「ちゃんと刻んで、しっかりした油紙にくるんでな」と彼は店主に頼んだ。
「ここで召しあがるんじゃないんで?」と男がびっくりしていった。
「通りで物を食うのは行儀がよくないとわしは考えるのでね」とタオ・ガンは横柄に言った。しかし相手の渋い顔を見ると、あわてて言いそえた、「結構な、清潔な店をお持ちですなあ。ここはいい商いになるでしょうな」
男の顔が明るくなった。
「悪かあないねえ」と男はのってきた、「私とかみさんとで一汁一菜、毎日食べられて、借金もありませんや」さらに得意そうにつけ加えた、「二週間に一度は肉のひときれもつくというもので」
「あちら側の大きな紙屋さんなぞは」とタオ・ガンが評した、「毎日たっぷり肉を召しあがるんでしょうなあ」
「勝手にさせとくさ!」と店主は冷淡に言った、「博奕《ばくち》打ちも長くは肉を食えまいよ」
「イエさんは博奕好きかね?」とタオ・ガンはきいた、「そうは見えないがねえ」
「あの人じゃない」と相手は言った、「図体のでかいごろつきの弟の方さ! だけど、これからは博奕の元手もたっぷりとは出まいなあ」
「だが、どうして?」とタオ・ガンが聞いた、「あの店はたいへん裕福そうだ」
「あんた、わかってないね、兄弟」と相手は哀れむように言った、「一つ、イエ・ピンは借金をしょっているから、イエ・タイにびた一文やらない。二つ、イエ・タイはいつも小遣いを姉のパンのかみさんに借りていた。三つ、パンのかみさんが殺された。四つ……」
「イエ・タイは金が手に入らない」とタオ・ガンがあとを締めた。
「その通り!」店主は意気揚々と答えた。
「そういうことですか」とタオ・ガンは感想を述べると、蕪の包みを袖にしまって立ち去った。
彼はその界隈を歩きまわって賭場をさがした。
職業的な博奕打ちを前身とするタオ・ガンは、その種のことについてはきたえ上げた勘を持っていたから、まもなくとある絹物商店の二階に通じる階段を登っていた。漆喰《しっくい》で小ざっぱりと仕上げた広い室内で、四人の男が四角なテーブルを囲んで賽《さい》を振っていた。ずんぐりした男が一人、脇のテーブルにすわって茶をすすっていた。タオ・ガンはその向かいに腰を下ろした。
胴元はタオ・ガンのつぎのあたった長外套をみて渋い顔をし、冷やかに言った。
「出なおしたがいいよ、お前さん。ここの賭金は一番安くて五十銭だよ!」
タオ・ガンは相手の茶碗をとり上げ、中指でゆっくりと二度、その縁をなぞった。
「どうも気がつかなくて!」と胴元があわてて言った。「お茶をあがって、何がお望みかおっしゃってください」
タオ・ガンは職業的博奕師の暗号をしてみせたのだった。
「さよう」と彼は言った、「実を言うと内緒で教えてほしいことがあるのでね。紙屋から来るあのイエ・タイという奴にちっとばかり貸しがあるのだが、この所まるで金がはいってないと言い張りおる。さとうきびの噛みかすを吸ったとてせんないことだから、しぼりあげる前に確かめてみたいと思ってね」
「だまされなさんな、兄弟」と胴元が言った、「ゆうべここへ来たとき、あいつは銀切れで遊んでいきましたぜ!」
「あのうそつきめが!」とタオ・ガンは金切声をあげた、「兄貴はひどいしわんぼうだし、いつもすけてくれた姉さんは殺されちまったとぬかしたんだ!」
「そりゃそうかもしれません」と胴元が言った、「だが、あいつはほかに金づるがありますな。ゆうべ少々きこしめしたあとで、なんだか間抜け野郎から乳をしぼる話をしていましたよ」
「その牝牛が誰か、あんた見当つかんかね?」とタオ・ガンは熱心に聞いた。「わしだって農家育ちで、乳しぼりならちょいとした腕前だ」
「悪くない思いつきだ」と胴元は認めて言った、「今夜イエ・タイがここに来たとき、聞き出すようにしてみましょうよ。あいつは筋肉はたっぷりついているが、おつむはよろしくない。もし二人分の取引に十分なようなら、あんたにお知らせしましょう」
「明日また寄せてもらうよ」とタオ・ガンは言った、「ついでに、ちょいと賭けてみるかね?」
「いつなりと!」胴元は上きげんで言った。
タオ・ガンは七巧板の紙片を袖からとり出した。それをテーブルの上に置いて名乗りあげた。
「あんたの言うものを何でも、この紙切れで作ってみせるというほうに五十銭賭けよう!」
胴元は紙片を一べつすると、言った。
「乗った! 丸いお銭《ぜに》をお願いしますよ。お金を眺めるのはいつだっていいものでね」
タオ・ガンはやりはじめたが、うまく行かなかった。
「さっぱり訳がわからない!」彼はいらいらして叫んだ、「この前ある人がやるのを見たときは、実に簡単そうに見えたのに」
「さよう」と胴元は落ち着きはらっていった、「昨夜私んところである男が続けて八手いい手を振りだすのを見ましたよ、それもとても簡単そうでしたがね。ところがその仲間がそれを真似ようとして、持ち金そっくりすっちまったんですな」タオ・ガンがしおしおと紙片をかき集めていると、胴元は言いそえた。「すぐ払ってくださるんでしょ。われわれ商売人はいつでも当座払いの実例を示さなくちゃいかんということには、あんたもご同感でしょう」
タオ・ガンが悲しそうにうなずいて銭を出そうとすると、胴元がまじめにつけ加えた。
「兄弟、もしわしがあんただったら、そんな勝負はやめにしますな。ひどく高くつくことになりそうですよ」
タオ・ガンはもう一度うなずいた。立ちあがって別れを告げた。鐘楼に向かって歩いて行く道々、イエ・タイについての情報は実に興味深いが、それにしても何と高くついたことかと考えて気がめいった。
孔子廟の近くにあるリャオ邸は、苦もなくつきとめられた。それは豪華な彫り模様の門を構えた、立派な邸宅であった。タオ・ガンは空腹になってきたので、安い食いもの屋はないかとあちこち見まわした。だがここは住宅地域で、目にはいる店はただリャオ邸の向かいにある大きな料理店だけだった。
大きく溜息をついて、タオ・ガンは軒をくぐった。実に不経済な探索になりそうだと彼は判断した。二階に上がって窓ぎわのテーブルに席をとった、そこからなら向かいの家を見張っていられるのだ。
給仕は愛想よく出迎えたが、タオ・ガンがそこにあるうちで一番小さい瓶の酒だけを注文すると、がっかりした。給仕が小型の瓶を持ってくると、タオ・ガンはいやな顔をしてみつめた。
「あんたがたは酔払いを奨励するのかね、兄弟」と彼はとがめるように言った。
「いいかい、おまえさん」と給仕はうんざりした様子で言った、「もし指ぬきがほしいんなら、仕立屋へ行くことさ!」野菜の漬物の皿をパタンと置くと、つけ加えた。「五銭、別勘定だよ!」
「自分のがある」とタオ・ガンは落ち着いて言った。蕪の包みを袖の中から取りだし、向かい側の家に眼をすえたまま、ちびちびかじりはじめた。
まもなく、厚い毛皮を着こんだ太った男がリャオ邸から出て来るのが見えた。彼は大きな米俵をかついでよろよろしている人夫を一人したがえていた。男は料理店に眼をつけた。人夫に一蹴りくれて「米俵をわしの店に持って行け、さっさと行け」とわめいた。
にんまりした笑みがタオ・ガンの顔にひろがった。情報をつかんで、ついでにただ飯も食える算段がついたのだ。
米商人がふうふうはあはあいいながら段を登ってくると、タオ・ガンは自分のテーブルの席をすすめた。太っちょは椅子にどしんと腰をおろすと、熱爛《あつかん》の大瓶を注文した。
「今日びは生きていくのも大変だ!」と彼はあえいだ。「商品がちょびっと湿っぽいからといって、返してよこすんだからねえ、あんた、おまけにわしは肝臓も悪いとくる」男は毛皮外套の前を開いて、手をそっと脇腹にあてた。
「私にはそう大変でもありませんな」とタオ・ガンはうれしそうに言った。「私は今後ずっと一斗百銭の米を食べるつもりなんです」
相手はあわててすわり直した。
「百銭!」男は疑わしげな声を上げた、「あんた、市価は百六十銭なんですぞ」
「私は違うんでしてね」とタオ・ガンはすました顔で言った。
「なぜ、あんたには違うのかね?」と相手はやきもきしてたずねた。
「あはあ!」とタオ・ガンが叫んだ、「そりゃ秘密ですよ。ただ、米の取引が本業の人とだけ談合するのです」
「さあ一杯!」と太っちょがせきこんで言った。そして大杯につぎながら、「教えてくださいな、わしはいい話が大好きなのでねえ!」
「あまりひまがないんだが」とタオ・ガンは答えた、「要点だけ話しましょう。今朝、私は三人の衆に会いました。親父さんといっしょに、米を荷車一台運んで市中へ来たというんですな。昨夜親父さんが心臓麻痺で死んだので、仏を納棺して家へ持って帰るために、至急金が必要だと。私は全部まとめて、一斗百銭でもらうということで手を打ちましたよ。さて、もう行かねば。給仕、おあいそ!」
立ちあがろうとすると、太っちょはあわてて袖をつかんだ。
「急ぐこたあないでしょ、あんた?」と男はたずねた。「焼肉を一皿つき合ってくださいよ。おい、給仕、酒ももう一瓶持ってこい、この旦那はわしのお客だ!」
「礼を欠いてはなるまいな」とタオ・ガンは言った。もう一度腰をおろし、給仕に向かって言った、
「胃が弱いのでな、焼鳥にしておくれ。それと一番大きな皿で」
給仕は離れて行きながらつぶやいた。
「初めはちっちゃいの、次にはでかいの! 給仕はだまって辛抱、辛抱!」
「実を言いますとな」と太っちょは秘密めかして言った、「わしは米商人でして、商売のことはわかっとります。もしあんたが自分で使うためにそれだけの量の米をしまっておいたらだめになりますよ。それにあんたは同業組合の仲間でないので、市場で売ることはできません。ではあるが、わしがお助けしましょう、百十銭でまとめて買いますよ」
タオ・ガンはためらった。ゆっくりと自分の杯をあけてから言った。
「この件はご相談にのってもよさそうですな。まあ一杯」
彼は二人の杯をなみなみと満たし、それから焼鳥の皿を自分のほうへ引き寄せた。さっさと一番いいところをとったうえで、たずねた。
「向かいのあの家は、お嬢さんが失踪したとかいうリャオ親方さんのお宅ですかな」
「そうですよ」と相手は言った、「だがあの人はあまっこを追いはらって運がいいんですよ。あの娘はいかん! ところでその米のことですが……」
「味な話を聞きたいですな」タオ・ガンは鶏の新たな一片をすばやくつかみとりながら、相手の話をさえぎった。
「金持ちのお得意さんのうわさ話は意に染みません」と太っちょは気乗りのせぬ様子でいった、「うちの奴にだって話さなかった」
「もし私を信用しなさらんのなら……」とタオ・ガンがつんとしてみせた。
「悪気があって言ったんじゃないんで!」と相手はあわてて言った、「つまりこういうことですよ。先《せん》だって、私は市場の南のほうを歩いていたのです。そしたら急にリャオの娘が、お付きも誰も連れないで、春風亭という酒場の近くの閉め切った家から出てきたのですよ。娘は通りの上《かみ》と下《しも》を見まわすと、さっさと歩み去りました。おかしなことだと思って、その家に誰が住んでいるのか見に行こうとしました。すると戸が開いて、細っこい、若いのが出てきました。そいつもやっぱり通りの上と下を見まわしてから、行ってしまったんですわ。ある店でその家のことを尋ねましたら、何だったと思います?」
「待合茶屋」とタオ・ガンは即刻いい、皿の漬物の残りをさらいとった。
「どうしてわかったので?」と太っちょが気抜けしたようにきいた。
「ただのあてずっぽうさ」タオ・ガンは杯を干しながら言った。「明日またここへ同じ時間に来てください。そしたら米の勘定書を持って来ましょう。取引することになるでしょうな。御馳走さんでした!」
どれもみな空の皿を唖然として眺めている太っちょを後にのこして、彼は元気よく階段に向かった。
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第七章
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盟友二人は拳術家の住居をたずね
片眼の兵隊の哀れっぽい話をきく
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マー・ロンとチャオ・タイは守衛詰所で食事をすませ、濃い茶を飲むと、ホン警部に別れを告げた。広庭では馬丁が馬のそばで待っていた。
マー・ロンは空を見上げて言った。
「雪にはなりそうにないな、兄貴、歩いていこうか」
チャオ・タイは賛成した。二人は足早に政庁を出た。
城隍廟《じょうこうびょう》〔市の守護神〕の前の高い塀に沿って歩き、それから右に曲って、ラン・タオクエの住む閑静な住宅地にはいった。
ランの弟子の一人と覚しい、たくましい青年が戸を開けた。師匠は道場のほうにいると、彼は告げた。道場はがらんとした広い部屋だった。入口の近くに木のベンチが一つあるほかは、何の家具もなかった。だが、漆喰塗りの壁面には剣に槍、剣術の木刀など、多くの備品を収納する棚が一面にしつらえられていた。
ラン・タオクエは、床をおおっている厚い草むしろの中央に立っていた。寒いのに、下帯をきっちり締めただけの裸だった。彼は直径三寸ほどの黒い球を操っていた。
マー・ロンとチャオ・タイはベンチに腰をおろして、ランの動きの一つ一つを熱心に眼で追った。ランは球に連続運動をさせていた。投げあげ、まず左肩で、続いて右肩で受け、腕に沿って手まで転がして下へ落とすが、床に落ちる直前、しなやかな動きでそれを受けとめる――一貫して楽々とした優雅な身のこなしが二人の見物人を魅了した。
ランの体は頭と同じで毛がなく、丸く太い腕と足に節肉の盛りあがりは見られなかった。胴回りはしまっているが、肩巾は広く、首が太かった。
「あの人の肌は女みたいに滑らかだ」とチャオ・タイはマー・ロンに耳打ちした、「それでいて、その下は鞭そのものなんだから!」
マー・ロンは讃嘆の面もちで黙ってうなずいた。
ふいに、闘士は動きを止めた。暫時呼吸をととのえると、晴れやかな笑顔を見せて、二人の友人に歩みよった。さし伸べた手にのせた球をマー・ロンに渡しながら言った。
「ちょっと持ってくれたまえ。着物を着るから」
マー・ロンは球を受けとったが、畜生、といってとり落とした。それは床に落ちてドシンと重い音を立てた。むくの鉄だったのだ。
三人は声をそろえて笑った。
「あきれたもんだ!」とマー・ロンが声をあげた、「あんたが操るのを見て、おれは木でできているんだと思ったよ」
「あのわざの稽古をおつけ願いたいものですな」とチャオ・タイが乗気なようすで言った。
「以前、御両人に申し上げた通り」とラン・タオクエは穏やかに頬笑みながら言った、「主義として、私は組み手やわざだけを教えることはしません。あなた方に教えるのはいつでも大歓迎ですが、全課程に従っていただかなくてはね」
マー・ロンが頭をかいた。
「おれの記憶が確かなら、あんたの訓練規則には、娘っ子たちに近づかないというのがあるでしょう」
「女は男の力を吸いとるのです!」とランは言った。ひどく厳しい言いかたなので、二人の仲間は驚いて彼を見つめた。ランは滅多に激しい言葉遺いをしないのだ。拳術家は頬笑みながら静かに続けた。「つまり、きちんと制限を設けてのうえならば、害にならないのです。あなたの場合、特別な条件を設けましょう。完全に禁酒し、私の命ずる食養生にしたがい、月にただ一度女と寝る、それで全部です」
マー・ロンは疑わしげなまなざしをチャオ・タイに投げた。
「そう、それが問題なんでね、ラン兄貴!」とマー・ロンは言った。「飲むことや娘っ子がひとよりよけいに好きだとは思わないけれど、おれもそろそろ四十だ、それが習慣みたいになってしまっているんですよね。あんたはどうだい、チャオ・タイ」
小さな口ひげをつまみながら、チャオ・タイは答えた、
「女のことは――まあ、いいさ、もちろんそれが上物から選べるんならね。だが、全く酒抜きというのは……」
「ほらね!」とラン師匠は笑った。「だが、構いませんよ。あなた方お二人は拳術九級で、特級をとる必要はない。あなた方のお仕事では、そのような最高水準に達した相手と戦わねばならぬことは決してありますまい」
「なぜです?」とマー・ロンがたずねた。
「それは簡単なことです」と闘士が答えた、「一級から九級までの全段階を通って行くには、強健な体と不屈の努力があれば十分です。しかし特級となると、力と技能の重要度は二の次です。完璧に澄みきった心の持主のみがそれに到達できるのであり、そのような性質から、当然のこととして犯罪者とはなり得ません」
マー・ロンはチャオ・タイの脇腹をつついた。
「そういうことなら」と彼はうれしそうに言った、「おれたちはいつも通りにやって行くのがよさそうだぜ、兄貴。さあ、着物を着てください、ラン兄貴、市場へ連れて行ってもらいたいのです!」
衣服をつけている時に、ランが評した。
「ところで、あのあなた方のところの判事は、もしその気になれば特級になれると思いますね。非凡な強さの人格という印象をうけましたよ」
「そうなんだ」とマー・ロンが言った、「そのうえ、最高級の剣士でね、あの人が一撃お見舞申すところを一度見たんですが、ぞくぞくするほどでしたよ〔『中国梵鐘殺人事件』二十一章参照〕。あの人なら飲み食いもほどほどだし、奥さん方も日常の規律どおりというところでしょう。だが、あの人にも問題があるな。あの人が頬ひげとあごひげを剃りおとすことを承知するなんて、本気で信じられますかね?」
友人三人は笑いながら表口に向かった。
南の方角へぶらぶら歩いて行くと、間もなく屋根つきの市場の、装飾のついた高い門に着いた。狭い通路はあてもなく動き回る人でぎっしりだが、ラン・タオクエを見るとすぐ道をあけた。拳術家は全|北州《ペイチョウ》によく知られていたのだ。
「この市場は」とランが言った、「北州《ペイチョウ》がタタール族の物資供給基地として主要な役割をはたしていた昔からのものです。この兎小屋を一列に並べるとしたら、五里以上あるだろうといいます。ほんとは何をお探しなんですか?」
「われわれが命じられているのは」とマー・ロンが答えた、「リャオ・リエンファン嬢、先日ここで行方不明になった娘なんだが、その居所の手がかりをつかむことですよ」
「たしか、熊のダンスを見ていた時のことでしたね」と拳術家は言った、「おいでなさい、タタール人がその見世物をやる場所なら知っています」
彼は近道をして、店の後ろ側の、いくぶん広い通りに二人を導いた。
「ここです」と彼は言った、「今はタタール人の姿はないが、この場所ですよ」
売り子がしわがれ声で商品の効能をほめちぎっている両側のみすぼらしい小店をみやって、マー・ロンが言った。
「ここらの連中には、ホンさんとタオ・ガンがもうひととおり聞いたのだが、やつらは抜け目がないよ。もう一度聞いてもしようがない。それにしても、あの娘は何だってこんな場所へ来たのかな。絹物や錦《にしき》を扱ういい店のある北のほうならわかるが」
「お伴の女はそのことをどういっていました?」と拳術家がたずねた。
「道に迷ったといっていましたね」とチャオ・タイが答えた。「そしたら熊が芸をしているので、ちょっと足を止めて見ていくことにしたと」
「南のほうへ通りを二つ行ったところに遊廓があります」とランが言った、「あそこから来ている連中が何かかぎをにぎってはいないでしょうか」
マー・ロンは首を振った。
「あの遊廓はおれが自分で調べたんだが、何も見つかりませんでしたね。少なくともこの件にかかわりのあるようなことは何もね」彼はにやりとしてつけ加えた。
その後ろで妙なきいきい声がきこえた。ふり向くと、十六歳ほどのぼろをまとったやせた少年がいた。奇妙な声でぶつぶつ言いながら顔を激しくひきつらせた。マー・ロンが銭《ぜに》をやろうと袖をさぐったが、少年はいちはやく彼を押しのけ、狂ったようにラン師の袖を引っぱった。
拳術家はにっこりして、少年のくしゃくしゃの頭に大きな手を載せた。少年はたちまち静かになり、そびえ立つ姿をうっとりと見あげた。
「実に変わった友人をお持ちですな!」チャオ・タイがびっくりして言った。
「そこらにいるたいていの人間より変わっているわけではありません」とランは穏やかに言った「これは中国人兵士とタタール人売春婦の間に生まれた捨て子です。私がこの子を通りで見つけた時、酔漢に足蹴にされて、あばらが何本か折れていました。私はそれを接《つ》ぎ、しばらく私のところに居させました。口がきけませんが、耳は少しは聞こえますから、うんとゆっくり話してやればわかります。十分に賢いので、私が彼の役に立つ早わざを二、三教えてやりましたら、今ではあえて彼に襲いかかるのは、よほど酔っている奴に違いありません! おわかりでしょうが、弱い人間がいじめられるのを見るほどいやなことはありません。私はこの若者を手許に置いて走り使いでもさせようと思ったのですが、時おり放浪癖が出て、この市場にいるほうを喜びます。定期的に私のところへ来て飯を食っておしゃべりしていくのです」
少年はまたきいきい言いはじめた。ランは注意深く耳を傾けてから、言った。
「彼は私がここで何をしているのか聞きたがっています。失踪した娘のことをたずねてみましょう。この子は非常に目が利き、ここいらで起こったことで知らないことはほとんどありません」
ランは身ぶりを交えながら、踊る熊と娘のことをゆっくりと少年に語った。少年は拳術家の唇を熱心に見つめながら、緊張して聞いた。汗の玉が彼のいびつな額に浮かびはじめた。ランが語り終えた時、少年は非常に興奮した。彼はランのふところに手をつっこんで、七巧板の紙片をつかみだし、うずくまって舗石の上にそれを並べはじめた。
「私が教えたんですよ」拳術家はにっこりした、「言い表わしたいことを示す捕助としてしばしば役立ちます。さあ、何ができるやら!」
友人三人はかがみこんで、少年が作る形をみつめた。
「明らかにタタール人ですな」とランが認めた、「頭の上にあるのは、平原から来たタタール人がかぶる黒い頭巾だ。ねえきみ、そいつが何をしたんだね?」
唖《おし》の少年は悲しげに首を振った。そしてランの袖をつかみ、耳ざわりな声をたてた。
「難しすぎて自分には説明できないと言っているのです」と拳術家は言った。「自分についてきてほしがっています、何くれとなくこの子の面倒を見ている女乞食の梅干しばあさんのところへね。彼らは商店の下の地下の穴に住まっていますが、お二人はここで待たれたほうがいいでしょう。相当に汚なくて臭いですから。だが暖かくてね、それが取柄《とりえ》なんです」
ランは少年とともに去った。マー・ロンとチャオ・タイは近くの道ばたの店先のタタール式短剣を吟味しはじめた。
拳術家はひとりでもどってくると、うれしそうな顔で言った。
「あなた方のために何かつかめたようだ。こっちへ来たまえ!」二人を店の裏の片隅に引っぱりこんでから、低い声で話しはじめた、「ばあさんの話だが、ばあさんとあの子は熊の芸を見ている人垣の中にいたそうだ。いいかっこうをした娘が年配の女といるのを見て、そっちの方へ行こうとした、小銭を恵んでもらえる公算大と見たんだな。ところが、ばあさんが二人に呼びかけようとしたちょうどその時、娘の後ろに立っていた中年の女が何やら娘にささやきかけた。娘はすばやくお伴の女を見てそれが見世物に気をとられているのを見ると、別の女といっしょに脱けだした。あの子は立って見ている人々の足の間をはってとおり、小銭をもらおうと女二人のあとについて行くと、黒いタタール風の頭巾をかぶった大男が乱暴に彼をつきのけ、二人について行った。あの子は小銭をかせぐ算段を捨てたほうがいいと考えた、というのは頭巾をかぶった男がいかにも荒々しげに見えたからだ。面白い話じゃないかな?」
「違いない!」とマー・ロンは声を上げた。「ばあさんかあの子が、ひょっとしてその女とタタール人の様子を言えないかな」
「残念ながら、だめだ!」と拳術家は答えた。「もちろん私も二人に同じ質問をした。女は首巻で顔の下半分をおおいかくしていたし、男は頭巾の長い耳おおいを口まで引きおろしていたのだ」
「すぐ報告しなくてはならない」チャオ・タイが言った、「あの娘の身に起こったことにかんする初めての確かな手掛りだ!」
「近道をして出口までお連れしよう」とラン師が言った。
ランは二人を導いて、人がぎっしりと動きまわっている、狭くて薄暗い通路にはいった。ふいに女のかん高い悲鳴が聞こえ、続いて家具のこわれる音がした。まわりの人々は散り失せ、次の瞬間、通路には三人がいるだけだった。
「向こうの暗い家だ!」マー・ロンが叫んだ。彼が真先に駆けつけ、戸を蹴とばしてはいり、連れの二人がそれに続いた。
人気のない居間を通りぬけて、巾の広い木の階段に駆けよった。階上は道路側に大部屋が一つあるだけだった。乱脈な情景が展開していた。中央では二人の悪党が床をのたうちまわる二人の男をなぐったり蹴ったりしていた。半裸の女が一人、戸口に近いベッドのそばで立ちすくんでおり、窓の前のベッドではもう一人の女が、腰布で裸身をかくそうとしていた。
悪党どもはいけにえから手を離した。右眼に眼帯をあてているずんぐりした男が、拳術家の坊主頭に惑わされて、ランを攻めこむかっこうの手掛りと見た。男はランの顔面に向かってすばやい一撃をくり出した。拳術家は気づかぬほどわずかに頭を動かし、打撃が顔をかすめて過ぎた時、男の肩をちょっと一押しした。悪党は弓を離れた矢のようにふっ飛んで壁にどしんとぶつかり、壁土が落ちた。同時にもう一方の悪党は体を沈め、マー・ロンの胃に頭突きをくらわしてきた。だがマー・ロンが膝を上げたから、悪党の顔にもろにあたった。裸の女がまた悲鳴を上げた。
片眼の男が起きあがって、荒い息を吐きながら言った。
「もし刀を持っていたら、おまえら悪党を切り刻んでやる!」
マー・ロンがそいつをなぐり倒そうとしたが、ランがその腕を手で抑えた。
「どうも違うほうの肩を持っているようだ、兄弟」と彼は静かに言った。そして悪党どもに向かって言いそえた、「こちらのお二人は政庁の士官なのだよ」
もう立ちあがっていた被害者二人は、急いで戸口に向かったが、チャオ・タイがいちはやくその道に立ちふさがった。
片眼の男の顔が輝いた。仲間三人を見くらべて、勘でチャオ・タイに向かって話しかけた。
「勘ちがいして、申し訳ないです、士官殿! そっちのポン引きの仲間かと思っちまったもんだから。おれとこいつは北方軍の歩兵で、いま休暇中です」
「証明書を見せろ!」チャオ・タイがそっけなくいった。
男は腰帯からぼろぼろの状袋を引っぱり出した。それには北方軍の大きな印がおされていた。チャオ・タイは中の書類にすばやく眼を通した。状袋を返しながら、彼は言った。
「書類に不備はない。わけを話せ」
「そっちの寝床のあまが」と兵隊は口を切った、「通りでおれたちに声をかけてきて、上がって遊んでいかないかと誘いました。はいってみると、あっちのあまがここで待っていました。おれたちは前払いをして楽しんでからひと眠りしました。目が覚めた時、持ち金がすっかりなくなっていることに気がつきました。おれが叫び立てはじめると、あの小ずるいポン引き二人が現われて、二人のあまは自分らの女房だとぬかしました。もしおとなしく出て行かないなら、憲兵を呼んでおれたちが女たちを強姦したと報告するってんで。
おれたちはけんのんな破目になりました。なぜって、いったん憲兵隊にとっつかまったら、罪があろうがなかろうが、地獄十界すべてを通ることになるんですよ! あの連中はあったまるだけのために人をぶちのめすんだから! それでおれたちは金《かね》にはおさらばすることに決め、ただそのごろつき二人におれたちのことを覚えておいてもらうように、ちょいとお見舞してやるつもりだったんで」
マー・ロンは別の二人をじろじろねめまわしていたが、にわかに叫んだ、
「このお勇ましい方々を思い出したぞ! 通り二つ向こうの、二番目の女郎屋の連中だ!」
二人の男はたちまち膝をついて、お目こぼしを乞うた。年かさのほうが袖から金入れの小袋をとり出して、片眼の兵隊に手渡した。
マー・ロンが興ざめなようすで言った。
「一度くらい新しい手を考えついたらどうなんだ、え? この犬野郎どもが。まったくうんざりさせやがる。おまえらは政庁へ来るんだ、そっちの女どももな!」
「君らは訴えて出られるよ」とチャオ・タイが兵隊たちに向かって言った。
片眼の男はあいまいな表情で仲間のほうをちらっと見た。
「ほんとのところを言うと、士官殿、それはやめときます。われわれは二日以内に野営地にもどらなくてはならねえんで、最後の楽しみがお白州《しらす》に出てひざまずくなんてえのはまっぴらでさ。金はもどってきたし、女たちは一生懸命つとめてくれましたしね。それで手を打つということにさせてもらえませんか?」
チャオ・タイがマー・ロンのほうを見ると、彼は肩をそびやかして言った。
「どうだっていいさ。どっちにしろこの家は無許可なんだから、このポン引きどもは連行する」そして年かさのほうにたずねた、「おい、おまえ、自前の行火《あんか》を連れている旦那方にも、ここを貸したんだろ?」
「めっそうもない、閣下!」と男はもったいぶって言った。「登録しておりません女どもをお客様方にご利用いただくのは違法でございます。隣町の春風亭という飲み屋の近くにはそういう家があります。そこの女主人はわれわれの組合に属してはおりません。ですがその家は現在休業中で、女主人は一昨日死にましてございます」
「なむあみだぶつ!」マー・ロンは信心深げに言った。「さあて、だいたい終わったようだな。市場の管理人に言って、手の者にこの二人と女どもを政庁まで送らせてもらおう」それから兵隊たちに、「行ってもいいぜ」と言った。
「ありがとうございます。士官殿!」と片眼の兵隊はうれしそうに言った。「この最後の何日かで初めて幸運に出くわしましたよ。私の眼が災難に会ってからは、面倒なことばかり起こるんで」
寝台の上で震えている裸の女がきものを着るのをためらっているのを見ると、マー・ロンがどなった。
「上品ぶるなよ、おまえ。おまえの持ってるのはどうせみんな店の広告さ!」
女が寝台から降りると、ラン・タオクエはそれに背を向け、さりげなく兵隊にたずねた。
「眼がどうかしたんだって?」
「五羊村からこっちへ向かってくる道で凍っちまったんでさあ」と兵隊は答えた、「早くまちに着きたくて、力を貸してくれる人を捜したんですが、馬に乗った年寄りに会っただけでした。しかもこそ泥に違いありませんでしたな、私たちを見た途端、馬を飛ばしていってしまったんですから。相棒に言いましたよ……」
「待った!」とマー・ロンがさえぎった、「そいつは何か荷物を持っていたか?」
兵隊は頭をかいていたが、やがて言った、
「そう、おっしゃるとおり、革袋か何かを鞍にかけて持っていました」
マー・ロンはチャオ・タイをちらと見やり、それから兵隊に向かって言った、「われわれの判事様がおまえの出会ったその男に関心をお持ちなんだよ。おまえに政庁へまわってもらわなくちゃならんが、誓って手間はとらせない」ラン師の方に向きなおると、彼は言った。「さあ、行きますか」
拳術家はにやにやしながら言った、「ご両人にまちがいなく収穫があったのを見届けたから、私はこれでおさらばしよう! 食い物を少々つついてから、風呂屋へ行くつもりなんです」
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第八章
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ディー判事が難件二つをかたづけ
道徳的な過ちを一青年が告白する
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マー・ロンとチャオ・タイが二人の兵隊を伴って政庁に帰ると、タオ・ガンがもうもどって判事およびホン警部ともども執務室に引きこもっていることを門番が告げた。マー・ロンは、もうじき市場の管理人が男二人と女二人を連れてくるはずだと知らせた。男どもの方は牢番長に委ねればよいが、娼婦二人はクオ夫人を呼んで面倒を見させねばならなかった。それらの手はずをしてしまうと、彼らはディー判事の執務室へ行った。兵隊二人には、外側の廊下で待っているようにと命じた。
判事はホンおよびタオ・ガンと熱心に話しこんでいたが、もう二人の副官がはいってくるのを見るとさっそく報告を命じた。
マー・ロンが市場であったことを詳しく説明し、最後に二人の兵隊が外で待っていることを言った。
判事はたいそう満足げだった。
「タオ・ガンが聞き出してきたことと合わせると、少なくとも例の娘に何が起こったかのおおよそのところはわかった。だが、とりあえずその兵隊を連れて来なさい」
二人の兵隊が判事に敬礼を終えると、判事はさっそく二人にくわしく話をさせた。
「君らの情報はきわめて重要である。私は部隊指揮官にあてて、君ら両名を近県の駐屯部隊勤務につかせてもらうよう依頼する手紙をもたせてあげよう、そうすれば必要となったとき証言をするために来てもらうことができるからな。警部がこれから君らを牢へ連れていってそこである容疑者に面通しさせるが、その後で記録室へ行って、事務官に申立てを書き取らせるのだ。さあ、行って!」
兵隊たちは賜暇《しか》が延長されたことを大喜びし、判事におおげさに礼を述べた。ホン警部が二人を連れさると、判事は公式用箋を一枚とり、部隊指揮官にあてて文書をしたためた。そのあとタオ・ガンに命じて、彼が賭場と料理店でつかんできたことをマー・ロンとチャオ・タイに説明させた。タオ・ガンが語り終えるころ、ホンがもどってきて、二人の兵隊がたちどころにパン・フォンを城外で出会った騎馬の人物だと認めたと報告した。
ディー判事は茶を飲みほしてから言った。
「では、われわれが知りえたことを検討してみよう。まずは、パン夫人殺害に関してだ。彼いうところの追剥に出くわしたというパン・フォンの話が実証されたからには、彼の話のほかの部分もまた正しいことを、私はほとんど疑わない。五羊村へやった巡査がもどりしだい、ほぼ間違いなくパンを釈放することになろう。私としては、パンは全く無実だと信じている。われわれは第三の人物、今月の十五日真昼から十六日朝までの何時かにパン夫人を殺害した人物の手がかりをえることに全力をあげねばならぬ」
「殺人者はパンがその午後まちをはなれるとあらかじめ知っていたはずですから」とタオ・ガンが考えを述べた、「パン夫妻をよく知っている人物に相違ありませんな。イエ・タイは姉さんとたいそう親密だったらしいから、パン夫人の知り合いについて教えてもらえるでしょう」
「いずれにせよ、イエ・タイは調べてみなければな」とディー判事が言った。「あの男について君が賭場で聞きこんできた事柄からすると、その行動については徹底的調査が必要だ。そして私自らパン・フォンに、彼の友人や知り合いについて尋問することになろう。さて、次はリャオ・リエンファン嬢の失踪事件だ。タオ・ガンの友人の米穀商の話では、彼女は市場の中の春風亭と呼ばれる酒場に近い待合で、若い男と会っていたらしい。明らかにそれはポン引きが言うのと同じ家だ。数日後にその近所で一人の女がリャオ嬢に接近し、娘はその女といっしょに消えた。その女は娘に恋人が待っていると知らせ、そこで娘はすぐさまその女について行ってしまったのだと、私は考える。頭巾をかぶった人物の役割は、ただ推測のほかはない」
「それが娘の恋人でないことは確かです」とホン警部は言った、「米屋はそれを細っこい若者だと言っていますが、唖の少年はがっしりした大男の話をしているのですから」
ディー判事はうなずいた。彼は考えこむ表情でしばらく頬ひげをなでていたが、やがて話を続けた。
「タオ・ガンがリャオ嬢の密会について私に知らせた時、すぐさま私は巡査長を米穀商のところへやった。巡査長は米穀商を市場へ連れていき、その家を指摘させたはずだ。そのあと巡査長はチュー・ターユアンの屋敷に行き、ユイ・カンを召しだすことになっている。警部、巡査長がもどったかどうか見てきたまえ」
ホンがへやにもどって来ると、言った。
「リャオ嬢が出てきた家というのは、たしかに酒場から道一つへだてたところにありました。そこの女主人は一昨日死に、たった一人雇われていた女中は田舎へ帰っていったと、近所の者たちが巡査長に話しました。その家で何か妙なことが起こっていたことは知っており、夜おそくまで騒がしいこともしばしばあったのですが、気づかぬふりをしているのが得策と考えていたのですな。巡査長は戸を壊して開けてしまいました。その家はその地区で予想されるよりはずっとましな造りになっていました。女主人が死んで空家になっているというのに、まだ誰も所有権を申し立ててきておりません。巡査長は財産目録を作成のうえ、家を封鎖いたしました」
「財産目録がほんとうに完全かどうか疑わしいね!」と判事が一言した、「動産の大半はいま巡査長の家を飾っているのだろうと私は考える。あの男がにわかに熱意を見せる場合は信用ならない。ともあれその女主人がこんな折もおりに、死んでしまったとは残念だ、リャオ嬢の秘密の愛人に関していろいろ聞かせてくれたろうに。ユイ・カンは着いたのか?」
「守衛詰所で待っております」とホンが答えた、「すぐ連れて参りましょう」
ホン警部がユイ・カンを連れてはいってきた時、美青年はまったく調子がよくないようだと判事は考えた。口は神経質にぴくぴくと引きつり、絶えず手を動かさないではいられないのだった。
「かけたまえ、ユイ・カン」判事はやさしく言った。「調査は多少進んでいるが、君の婚約者の経歴についてもっと知らなくてはならないと思うのでね。話してくれたまえ、知り合ってどれくらいになるのかな?」
「三年でございます、閣下」とユイ・カンは柔かに答えた。
ディー判事が眉を上げた。
「若い二人の縁組がまとまっている場合、二人が結婚にふさわしい年齢に達したらすぐ婚儀をあげるのが、当事者すべてにとって好ましいと、古人は言った」
ユイ・カンの顔が赤くなった。彼はあわてて言った。
「リャオ老人は娘をたいそう好いておりますので、閣下、娘と離れるのは気が進まないふうでございました。私のほうの親たちは南に遠く離れて住んでおりますため、私にかかわる事柄一切につき自分たちの代役をつとめていただくように、これまでチュー・ターユアン殿にお願いして参りました。この地に来て以来ずっと私はチュー氏の屋敷に住まっておりましたから、私が自分の所帯を持ってしまいますと、常時私の身柄を監督するわけにいかなくなるからと、あの方が不安がられるのは無理からぬことなのです。あの方は私にとって父親同然でございましたから、早く結婚したいとねだって許しを求める気にはなれなかったのでございます」
ディー判事は何とも批評しなかった。その代わりにたずねた。
「リエンファンはどうしたのだと思うかな?」
「わかりません」青年は泣きだした。「気になって気になって、心配でたまらないので……」
判事はすわったまま手をもみしだいているユイ・カンを黙って見つめた。涙が頬をつたって落ちた。
判事はふいにたずねた、「あの娘が他の男と逃げたと心配しているのではないのか?」
ユイ・カンは顔を上げた。涙ぐんだまま頬笑んで言った。
「いいえ、閣下、それは全く論外です! リエンファンが他の男と! とんでもない。閣下、すくなくともその点は確信しております」
「それだとすると」と判事は重々しく言った、「君には悪い知らせだ、ユイ・カン。失踪する二、三日前、彼女は若い男と市場の中の待合茶屋から出るところを目撃されておる」
ユイ・カンの顔が色を失った。彼は幽霊でも見るように目を見開いたままディー判事を見つめた。そしていきなり口走った。
「秘密がもれた! 私はもうだめだ!」
彼はひきつったようにむせび泣きはじめた。ディー判事の合図で、警部が一杯の茶をすすめた。青年はむさぼるように飲み干した。そしてやや落ちついた声音で言った。
「閣下、リエンファンは自殺しました。責任は私にあるのです!」
ディー判事は椅子の背によりかかった。静かにあごひげをなでながら言った。
「説明したまえ、ユイ・カン」
若者はようよう激情を抑えて語りはじめた。
「ある日、六週間ばかり前のことになりますが、リエンファンが付添の女と一緒に、チュー氏の第一夫人にあてた言伝てを持ってチュー家を訪れました。夫人が湯浴みをしていたので、二人は待たねばなりませんでした。リエンファンは庭園の一つへ散歩に出て、そこで私に出会いました。私の居室はその一廓にあるのです。私は彼女を説き伏せて中に連れこみ……。その後市場のあの家で数回逢引きしました。付添の女の古い友達があの近くで店を持っていましたから、ばあさん同士の際限ないおしゃべりの間にリエンファンが一人で通りの店をひやかしに出るのを、付添の女はいっこうに気にかけませんでした。私たちが最後にそこで会ったのは、彼女がいなくなる二日前でした」
「では、あの家を出るのを目撃されたのは君だったわけだな」とディー判事が口を入れた。
「はい、閣下」ユイ・カンは憮然《ぶぜん》とした調子で答えた、「私でございました。あの日リエンファンは、みごもったような気がすると申しました。私どもの破廉恥な行為が人に知られてしまうだろうといって、取り乱していました。私もまた甚だ狼狽いたしました、リャオ氏は娘を勘当するでしょうし、私はチュー氏の体面を汚すものとして親許へ帰されるとわかっていたからです。早く結婚することにチュー氏の同意をとりつけるよう全力をつくすと私は約束し、リエンファンも父に同じようにすると言いました。
その晩、私は主人に折りいって話をしたのですが、主人は怒ってどなり散らし、私をつらよごしの悪党呼ばわりしました。私はこっそりリエンファンに走り書きを届け、父親に対してできる限りのことをするようにと促しました。しかし、明らかにリャオ氏も拒絶したのです。哀れな娘は絶望し、井戸に身投げしてしまったに違いありません。あの娘の死の責任はこのみじめな卑怯者にあるのです!」
彼はわっと泣きだした。しばらくしてとぎれとぎれに言った。
「この数日、この秘密は私に重くのしかかり、死体が見つかったという知らせをいまかいまかと待っておりました。しかもそのうえ、あの恐ろしいイエ・タイが来て、私の部屋でリエンファンと会ったことを知っているぞと申しました。私は金を渡しましたが、あの男は来るたびに要求しました。今日またやってきて、そして……」
「どうしてイエ・タイは君の秘密を知ったのか?」とディー判事が口をはさんだ。
「リウという年とった女中が、私たちをスパイしていたのははっきりしています」とユイ・カンは答えた、「あの女はもとイエ家で働き、イエ・タイの乳母だったのです。チュー氏の書斎の外の廊下で立ち話をした時、そのことをあいつに教えたのでしょう。イエ・タイはなにか商売のことでチュー氏に会いにきて、そこで待っていたのです。ばあさんはそのことを誰にも言わないと約束したと、イエ・タイは保証しました」
「そのばあさん自身が君を困らせることはなかったのだね」と判事はたずねた。
「はい」とユイ・カンは答えた、「ですが、私はばあさんに確かに秘密を守ってくれるように、自分で話をしようとしました。けれども今日まで、まだ接触をもてませんでした」判事の不審そうな顔つきを見て、ユイ・カンはあわてて説明した。「私の主人は屋敷うちを八つの世帯に分けていて、めいめいに専用の台所と使用人たちとがあります。邸宅の主要な部分はチュー氏自身と第一夫人、および彼の執務室で占められ、私の居室もそこにあります。さらに主人の他の妻たち七人のために、それぞれ別の棟があります。使用人はどっさりおりますし、邸内の区画ごとに厳しいおきてがありますので、私が内密の話をするために誰かを捜しだすというのは、容易なことではないのです。
ところが今朝、私が小作人の件で話し合ったあと主人の執務室から出た時に、偶然リウばあさんに会いました。さっそく私とリエンファンのことでイエ・タイに何を言ったのか聞きだそうとしたのですが、ばあさんは私が何のことを言っているのかわからないふりをしました。明らかにあの女はまだイエ・タイに忠実なのです」そしてそのあとみじめな調子で続けた、「どっちみちいまとなっては、あれが秘密を守ろうが守るまいが、なにも関係ありません」
「関係あるよ、ユイ・カン!」と判事はすかさずいった、「リエンファンは自殺したのでなく、誘拐されたのだという証拠がある」
「誰がしたんです?」ユイ・カンは叫んだ、「あのひとはどこにいるんです!」
ディー判事は片手をあげた。
「捜査はまだ進行中だ」と彼は静かに言った。「リエンファンの誘拐者に警戒させないために、秘密を守りたまえ。イエ・タイがまた金を要求してきたら、一日二日あとで来るように言えばよい。その間に私は君の婚約者の行方を突きとめ、卑劣な策略で彼女をかどわかした犯人を捕えていると確信する。
ユイ・カン、君は実にふとどきなふるまいをした。その若いお嬢さんを教え導く代わりに、その愛情に乗じて、君にはまだそれを満たす権利のない欲望を満たした。婚約と結婚とは私的な事柄ではなく、いまある人と故人とを問わず、当該両家の人々すべてにかかわる厳粛な協約なのだ。君は家族の祭壇の前で婚約を発表した折にそれを聞き届けられた御先祖がたを冒涜し、また君の未来の花嫁をいやしめたのだよ。あわせて君は犯人に、彼女を手中に陥れる手だてを与えた、犯人は君が待っているとうそをついてあのひとをおびきだしたのだからな。そのうえ君は恋人の失踪を知ったとき、すぐ私に真実を告げなかったために、あのひとが現在送っているに違いない悲惨な状態を不当にもひき延ばした。その償いとしてあのひとのためにしなくてはならないことは多いぞ、ユイ・カン! 今日はもうよい、娘さんの居所がわかったら、また君に来てもらう」
青年はものを言おうとしたが、ひとことも言葉にならなかった。彼は背を向け、戸口のほうへよろめき去った。
ディー判事の副官たちは興奮して一どきにしゃべりはじめた。しかし判事は手を上げた。
「この情報でリャオ嬢の件は片づく。誘拐を仕組んだのはあの曲者のイエ・タイに相違ない、二人の秘密を知っているのはその老女中のほかにはあれひとりなのだから。それに唖の少年が頭巾の男について言ったことはまさしくあの男にあてはまる。にせの伝言を伝えるのに使った女は待合茶屋の女主人だったに違いない。だが女は娘をそこへは連れて行かず、どこか現在イエ・タイがリャオ嬢を閉じこめている隠れがに連れて行ったはずだ――あの男自身の欲望のためか、よそへ売り飛ばすつもりかをこれから確かめねばならないが。あいつは自分が全く安全だと承知している。なぜなら、不運な娘はこうなった以上、絶対に婚約者や親たちと接触を持とうとするはずがないからだ。娘がどんなひどい扱いをうけていることやら! しかもそれでも不足だというように、あの鉄面皮の悪党はユイ・カンをゆすりにかかるのだ」
「これから行ってあのお天気野郎をつかまえますか、閣下?」とマー・ロンが期待をこめてたずねた。
「もちろんだ!」とディー判事は言った、「チャオ・タイと二人でイエ家に行け。兄弟はたぶん今ごろ夕食をとっているだろう。イエ・タイが出かける時あとをつけて行けば、その隠れがへ連れていってくれる。中にはいったところで、あいつと、そこに居合わせる者で関係のありそうなのは誰でも逮捕したまえ。イエ・タイの扱いにそれほど気を遣うことはないが、ただ私が尋問できないほどには傷めつけるなよ。うまくやれ!」
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第九章
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判事は迷子の小むすめを連れ帰り
また別の殺人の報がもたらされる
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マー・ロンとチャオ・タイはとびだして行き、間もなくホン警部とタオ・ガンも夕食をとりに出ていった。ディー判事は郡からまわってきたひと山の公文書にとりくみはじめた。
扉をそっと叩く音がした。「はいりたまえ!」と彼は書類を押しやりながら声を上げた。事務官が夕食の膳を運んできたと思ったのだ。だが、顔を上げると、クオ夫人のほっそりした姿が目にはいった。
フードつきの灰色の毛皮外套が、彼女にはたいそうよく似合っていた。彼女が机の前で頭を下げたとき、判事は「桂花林」の店を満たしたかぐわしい薬草と同じ快い匂いがふわりと漂ってくるのを覚えた。
「お掛けなさい、クオさん」と彼は言った、「法廷じゃないんですからね」
腰掛に浅くかけると、クオ夫人は言った。
「思いきってこちらにうかがいました、閣下、今日の午後拘引されて参りました二人の女のひとについてご報告いたしますために」
判事は肘掛椅子にゆったりと身をもたせて、「話してごらんなさい!」といった。茶碗をとりあげたが、からなのを見てまた机の上においた。クオ夫人はすばやく立ちあがり、机の隅の大きな茶瓶から茶をついだ。
「二人ともお百姓の娘で、南の方から来ております。昨年の秋、農作物のできがたいそう悪うございました時に、親たちが女衒《ぜげん》に売りました。女衒は二人をこの北州《ペイチョウ》に連れてきて、市場の女郎屋の一軒に売りました。抱え主は二人をあのしもた家に住まわせ、昨日いたしましたような恐喝《ゆすり》を時おりやらせていたのでございます。
悪い娘さんとは思われません。現在している生活をいやがっておりますが、それをどうすることもできないのです、と申しますのは売買の手続に遺漏がなく、親たちが署名捺押した証文が女郎屋の亭主の手にありますからで」
ディー判事はため息をついた。「よくある話だ」と彼は言った、「しかし、抱え主がその家を無許可で使用したからには、何とか打つ手がありそうだ。あのならず者どもは、女たちをどのように扱っていたのかな?」
「それもよくある話どおりでございます」とクオ夫人はかすかな笑みをうかべて言った、「二人はしょっちゅう打《ぶ》たれましたし、家を掃除したり食事の用意をさせられたり、さんざんに働かされました」
彼女はすんなりした手を器用にはたらかせて頭巾をなおした。まことになみはずれて魅力あるひとだと、判事は思わないではいられなかった。
「認可なしで家屋を営業目的に用いた場合、通常の処罰は重い科料だが」と彼は言った、「それではだめだ。抱え主は科料を支払い、その分を女たちにかぶせてくるだろう。主人には恐喝の嫌疑もあるわけだから、売買の証書は無効で法的拘束力なしと宣告しよう。そして、あなたの話では根はちゃんとした娘たちなのだから、二人を親許へ帰してやることにしよう」
「ご配慮ありがとう存じます」クオ夫人は立ちあがって言った。
彼女が立って退去の許しを待つあいだ、判事はこの会話をもっと引き延ばしたいと思っている自分に気づいた。おのれに腹を立てて、彼はかなりぶっきらぼうに言った。
「適切な報告をありがとう、クオ夫人! もう行ってよろしい」
彼女は礼をして、立ち去った。
ディー判事は手を後ろに組んで、歩き回りはじめた。執務室がいつになくわびしく、寒々と感じられた。妻たちがもうたぶん最初の宿駅についた頃だということを思いだし、彼女たちの宿舎は居心地よいかしらんと考えた。
事務官が運んできた夕食を、判事はそそくさとすませた。そして席をたつと、火鉢のそばで立ったまま茶をすすった。
戸が開いてマー・ロンがはいってきたが、相当がっくりしている様子だった。
「閣下、イエ・タイは昼食の後で外出し、晩飯を食いにもどっていないのです」と彼は言った、「召使の話だと、あいつはよく外でほかの博奕打ち連中と食事し、深夜までもどらぬことがあるそうです」
「残念だな」とディー判事はくやしそうに言った、「娘を早く連れもどしてやりたかったのだが。まあ、今夜は張り込みを続けてもしかたあるまい。明朝イエ・タイはきっとイエ・ピンと一緒に朝の公判にやってくるから、そのとき取り押えることにしよう」
マー・ロンが去ると、判事は机に向かった。また公文書をとりあげて読みはじめようとした。だが、どうしても精神を集中することができないのを感じた。イエ・タイが家にいなかったということがひどく気になった。こんなにいらだつのは理性的でない、あのならず者が今夜という今夜隠れがへ行くとは限るまいと自分に言いきかせた。
それでも、事件の結末が見えているというのに、行動に移ることができないとは始末の悪いものだった。まさにこの時、どこかの料理屋で夕食を食ったあと、奴はあそこに行く途中だ。黒い頭巾は人混みの中でもよく目立つだろう……ふいに判事は背を伸ばした。そういう頭巾を最後に見たのはどこだったっけ? 城隍廟《じょうこうびょう》のそばの人混みの中じゃなかったか?
ディー判事はだしぬけに立ちあがった。
奥の壁ぎわにある大きな戸棚のところに行き、中の古着の山をかきまわした。寒さしのぎにはまだ役立ちそうな、すりきれてつぎのあたった毛皮外套が出てきた。それを着こむと、毛皮の帽子を厚手の襟巻にとり替え、頭から顔の下のほうまでしっかりと巻きつけた。次に執務室にしまってある携帯用の薬箱を出してきて肩からつった。姫鏡台をのぞいてみて、旅商いの医師としてとおるなと判断した。判事は西側の脇門から出て政庁を後にした。
小さな雪片が舞い落ちていたが、間もなく止むだろうと判事は考えた。毛皮の中に身をちぢめて、速足ですれ違う人々を詮索しながら、彼は城隍廟の方角へぶらぶらと歩いた。だが見えるのは毛皮の帽子ばかりで、ときどきタタール風のターバンがまじった。
あてもなくそこらを歩き回っているうち、空が晴れた。イエ・タイに出会うのは万に一つというところだと思い返した。そのいっぽう、イエ・タイと会うことを本気で期待してはいなかったことに彼は気づいて愕然《がくぜん》とした。気分転換がほしかっただけなのだ、あの寒々としてわびしい執務室よりましな何かを……。判事はいまや自分に愛想がつきた。そして立ち止まってあたりを見まわした。そこは狭い、暗い通りで、あたりに人影はなかった。彼は急ぎ足に歩きはじめた。執務室へ帰り、何か仕事をするつもりだった。
ふいに左手の暗がりでしくしく泣く声がした。彼は足を止め、人気のない門口の片すみにちぢこまっている小さな子どもを見つけた。かがんでのぞきこむと五つか六つくらいの女の子で、すわったまま絶望的に泣きじゃくっている。
「どうかしたのかい、お嬢ちゃん?」とディー判事はやさしくたずねた。
「道がわからないの、おうちに帰れないよお!」女の子は火がついたように泣きわめいた。
「君の住んでいるところはちゃんとわかっているよ、そこへ連れていってあげるよ」判事は安心させるように言った。薬箱を置き、その上に腰を下ろすと、女の子を腕の中に引き寄せた。薄綿のはいった室内着を着た小さな体が震えているのに気づいて、彼は毛皮外套をひろげ、その子を自分の体に抱えこんだ。女の子は間もなく泣き止んだ。「まずあったまらなくちゃな」とディー判事は言った。
「そうしたらおうちへ連れて帰ってくれるのね!」女の子は満足そうに言った。
「そうだよ」とディー判事は答えた。「それはそうと、母さんは君を何と呼ぶかな?」
「メイラン!」幼女はとがめるように言った、「それ知らないの?」
「もちろん知ってるさ!」と判事は言った、「君の名前は、ワン・メイランだ」
「からかうのね!」幼女は口をとがらせた、「ルー・メイランだってことわかってるくせに!」
「ああ、そうだった」と判事は言った、「君の父さんがあそこでお店をやっていて……」
「うそばっかりいって!」幼女はがっかりして言った、「父さんは死んで、母さんが綿屋をしてるのよ。あんたってほんとになんにも知らないのね!」
「私はお医者で、いつもとても忙しいのさ」と判事は守勢にまわった。「では教えておくれ、母さんと市場へ行くとき、お寺のどこのところを通るかな?」
「石のお獅子が二ついるとこ!」幼女はたちどころに答えた、「あんた、どっちがいちばん好き?」
「足の下にまりを持ってるほうさ!」今度はあたっているといいがと思いながら、判事は言った。
「あたしもよ!」幼女は上きげんで言った。判事は立ちあがった。片手で薬箱を肩にかけると、女の子を腕に抱いて廟のほうへ歩きはじめた。
「母さんがあの仔猫を私に見せてくれるといいんだけど」と幼女は物言いたげに言った。
「どの仔猫だい?」ディー判事はうわの空できいた。
「このまえ母さんに会いにきた時、男の人がやさしい声で話しかけてた仔猫よ」と幼女はじれったそうにいった、「あんた、あのひと知らないの?」
「知らない」とディー判事は言った。ごきげんをとるつもりで彼は続けた、「そのひとは誰なんだい?」
「あたし、知らないの」と幼女は言った、「あんたなら知ってるかと思ったのよ。ときどき夜おそく来て、仔猫に話しかけてるのが聞こえるの。だけどあたしがそのことを母さんに聞くとおこって、あたしが夢を見てたんだっていうの。だけどそれ、うそだわ!」
ディー判事は、ため息をついた。たぶん後家さんのルーには秘密の恋人がいるのだ。
もう廟の前まで来ていた。判事は商店でルー夫人の綿屋のありかをたずね、簡単に教えられた。さらに歩き続けながら、ディー判事は幼女にたずねた。
「こんなに遅く、君はどうして家からとびだしたの?」
「いやな夢を見たの」と幼女は答えた、「すごくこわくて目が覚めたのよ! それで母さんを探しにとびだしたの」
「どうして女中さんを呼ばなかったの」と判事はたずねた。
「父さんが死んだあとで、母さんが出ていかせたわ」と幼女は言った、「だから今夜は誰もいなかったの」
ディー判事は中流どころの静かな通りにある「ルー綿店」と書かれた戸口で立ちどまった。戸を叩くと、すぐに戸が引き開けられた。
小柄な、かなりやせっぽちの女が出てきた。手燭をかかげて、判事を上から下まで眺め、それから怒った調子でいった。
「私のむすめと、何をしてたのよ?」
「とび出して迷子になっていたのだ」とディー判事は穏やかに言った、「もっとよく面倒を見てやるんだな、たちの悪い風邪をひきこんでいるかもしれない」
女は彼にとげのある目つきを投げた。女が三十歳前後でかなりな美人であることを彼は見てとった。しかし女の眼差しのさすような光と酷薄そうなうすい唇を、判事は好かなかった。
「自分の仕事をしてなよ、やぶ医者が!」と女は鋭く言った、「一文だって私からは出やしないよ!」
子どもを引き入れると、女はバシャンと戸を閉めた。
「愛想のよいご婦人だ」とディー判事はつぶやいた。彼は肩をすくめると、大通りのほうへもどっていった。
大きな構えのそば屋の前の人混みをかきわけて歩いていた時、ひどく先を急ぐらしい二人の大男に突き当たった。先の一人が腹を立てて悪態をつきながらディー判事の肩をつかんだ。だが急に手をおろして、叫んだ。
「こりゃどうだ! われらの判事だぜ!」
マー・ロンとチャオ・タイのあきれ返った顔をにこやかに見やりながら、ディー判事はちょっぴりあらたまって言った。
「ちょっとイエ・タイを探しまわってみようと決めたのだが、迷子の娘を家に連れていってやらねばならなかった。さて今度はいっしょにやれるな!」
副官二人のこわばった表情は、ゆるまなかった。判事は不安げにたずねた、
「何かあったのか?」
「閣下」とマー・ロンは憮然とした声で言った、「私たちは政庁へ知らせに行くところでした。ラン・タオクエが風呂屋で殺されているのが発見されました」
「どうしてだ?」ディー判事がせきこんで聞いた。
「毒殺でした、閣下!」チャオ・タイが憤然と言った、「卑劣な、きたない犯罪です!」
「そこへ行こう!」判事はきっぱりと言った。
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第十章
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判事が卑劣な犯行の現場を捜査し
茶碗の中から毒を含んだ花びらが
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温泉浴場へ向かう広い通りには、興奮した人々が群がっていた。市場の区長が手下どもを連れて門口にがんばっていた。彼らは判事を止めようとしたが、判事はいらだたしげに襟巻を引きおろした。知事だと知ると一同はあわててわきへのいた。
大きな玄関広間で、がっしりした丸顔の男が進み出て、経営者と名乗った。ディー判事はまだ一度も浴場へ行ったことがなかったが、湯が泉からわき出しており、医療的な効果があると言われていることは知っていた。
「事件現場を見せなさい!」と彼は命じた。
男が彼らを湯気のたちこめる熱い控室に導きいれると、マー・ロンとチャオ・タイは上着を脱ぎ始めた。
「下着だけになられたほうがよろしいかと思います」とマー・ロンが警告した、「中はまだもっと熱いですよ」
判事が服を脱ぐあいだに、向こうの廊下の左手に大きな共同風呂があり、右手にそれぞれ浴槽のついた個室が十室あると、経営者は説明した。ラン師はいつもいちばん向こうの端の個人浴室を使った。そこは静かだからだ。
重い木の戸を引き開けると、熱い湯気が人々の顔を吹いた。熱い湯気を防ぐ黒い油布のはっぴと股引を着こんだ係の者二人の姿が、判事の目にぼうっと見えた。
「この二人のお役人がお客さんがた全部に引きとるようご命令なさいまして」と経営者は説明した。
「こちらがラン先生のお部屋です」
一同は大きな浴室にはいった。ホン警部とタオ・ガンは黙って判事のために道をあけた。すべすべした石の床の三分の一ほどが低くなり、湯気の立つ湯をたたえた浴槽になっているのが見えた。前に小ぶりな石のテーブルと竹製の縁台がある。ラン・タオクエの全裸の大きな体が、テーブルと縁台の間の床にまるまって横たわっていた。そのゆがんだ顔は緑がかった異様な色を呈していた。ふくれあがった舌が口からはみだしていた。
ディー判事は急いで目をそらした。テーブルの上には大きな茶びんと、厚紙の何片かがあった。
「茶碗はそっちです!」とマー・ロンが床を指さしていった。
判事はかがみこんで、破片に見入った。彼は割れた茶碗の底の部分をつまみあげた。茶色の液体がすこしはいっていた。それを注意深くテーブルの上に置くと、彼は経営者にたずねた。
「どのように発見されたのか?」
「ラン先生は実に規則正しい習慣をお持ちでして」と経営者は答えた、「ここへは一日おきに、だいたい同じ時刻においでになりました。まず半時間ほど湯につかったあとでお茶を飲み、すこし運動をされます。おおよそ一時間たってあの方が扉を開き、お茶のお代わりをするため係の者を呼ばれるまでは、ぜったいお邪魔をせぬように厳しく言い渡しております。何杯か茶を飲まれると、控えの間で服を着てお帰りになるのです」
彼はごくりとつばを飲みこんでから、話を続けた。
「係の者はみなあの方が好きですから、師匠がお引き取りになる時間がくると、誰か一人がお茶を持って外の廊下で待機しているのが常なのでございます。今夜あの方は戸をお開けになりませんでした。係の者が半時間ばかり待ったうえで、自分からはラン先生をお騒がせすることをあえてしないものですから、私を呼びに参りました。規則正しいご習慣を心得ておりますので、お加減が悪くなられたのではないかと私は不安に思いました。さっそく扉を開いたら……これが見えたのです!」
しばらくは全員言葉もなかった。やがてホン警部が言った。
「区長が政庁へ人をよこしまして、閣下がお出かけでしたから、私どもはすぐここへ来て、何もかきまわされないようにしました。私はタオ・ガンと組んで係の者たちを尋問し、マー・ロンとチャオ・タイは帰りぎわに浴客の名を一人一人聞きとりました。ところがみんな、ラン師の部屋に誰かが出入りするのを見ていないのです」
「茶はどのようにして毒を入れられたのか?」とディー判事がきいた。
「この部屋の中でやったに違いありません、閣下」と警部は言った、「どの茶びんにも控室の大きな湯沸しに用意された茶が入れられることがわかりました。もし殺人者がそこで毒を入れたのなら、他の客たちみんなを殺害することになったでしょう。ラン師は扉に錠をおろしたことがありませんから、恐らく殺人者は中にはいって、毒を彼の茶碗に入れ、出ていったと推定されます」
ディー判事はうなずいた。彼は茶碗のかけらの一つにひっかかっている小さな白い花を指さして経営者にたずねた。
「ここではジャスミン茶を供するのか?」
男は強く頭《かぶり》をふった。
「いいえ、閣下、とてもそんな高価なお茶はさし上げられませんです!」
「茶の残りを小さなびんに注ぎなさい」と判事はタオ・ガンに命じた、「それから茶碗の底の部分とかけらを油紙に包むのだ。そのジャスミンの花をつぶすなよ! 茶びんも封印していっしょに持って行きたまえ。茶びんの中の茶にも毒がはいっているかどうか、検屍官に判定してもらわなくてはならん」
タオ・ガンはのろのろとうなずいた。彼はテーブルの上の厚紙のきれはしをじっと見つめていたのだ。やがて言った、
「見てください、閣下。ラン師は殺人者がはいってきたとき、七巧板で遊んでいたのです!」
みなは紙片を見つめた。それはでたらめに並べられているように見えた。
「六枚しか見えないが」とディー判事が言った、「七枚目を探してみたまえ! 二番目の小さな三角形のはずだ」
副官たちが床の上を探しているあいだ、ディー判事はじっと立ったまま死体を見おろしていた。ふいに彼が言った。
「ラン師は右手を握り締めている。中に何かあるかどうか見なさい!」
ホン警部が命のない手を丁寧に開いた。小さな三角形の紙片が掌についていた。ホンがそれを判事に手渡した。
ディー判事は喜びの叫びをあげた。「ラン師は毒を飲んだ|あとで《ヽヽヽ》図形をこしらえたのだな。殺害者の手がかりをのこそうとしたのかもしれん!」
「床に倒れるとき、腕で配置をくずしたようですな」とタオ・ガンが意見をのべた、「このままでは何も意味をなしません」
「その紙片の配置をスケッチしておくのだ、タオ・ガン」と判事は言った、「じっくり検討してみなくては。警部、区長にいって遺体を政庁へ移送させるように。それから君たちはこのへやをもっとよく調べてみるがよい。私はこれから出納係を尋問してくる」
彼は身をひるがえして部屋を出た。
控室で再び服を着ると、ディー判事は経営者に命じて、浴場の入口にある出納係の事務室に案内させた。
判事は銭箱のそばの小さな机に陣どり、汗をかいている出納係に質問した。
「ラン師がはいって来たのを覚えているか? 君、もぞもぞするんじゃない! 君はこの事務室にずっといたんだから、ここにいるもののうちでこの殺人をしたはずのない唯一の人物なんだからな! かくさず言いたまえ」
「よおく覚えておりますです、閣下」と出納係はつかえつかえ言った、「ラン先生はいつもどおりの時刻においでになり、五銭払って中へおはいりになりました」
「ひとりでか?」とディー判事がただした。
「はい、閣下、あの方はいつもお一人で」と男は答えた。
「君はたいていの客を見覚えているとみていいわけだな」と判事は追い打ちをかけた、「ラン師の後にはいってきた者たちを思いだせるか?」
出納係は額にしわをよせた、「おおよそのところは、閣下」と彼は言った、「当市の名高い拳術家ラン先生のお越しは、いうなれば私にとって晩を二つに区切る目じるしのようになっておりましたので。まず肉屋のリウが来て、共同風呂料金二銭。次は組合長のリャオさんが個室風呂で五銭。そのあと市場から来た役立たずの若造が四人いっしょで。その次は……」
「その四人はみんな顔見知りか?」と判事が口をはさんだ。
「そうです、閣下」と出納係は言った。そして、頭をかきながら言い足した。「つまりそのうち三人は知っておるのです。四人目のは初めて来ましたんで。若い男で、タタール式の黒い上着とズボンをつけていました」
「その男はどの料金を払ったか?」とディー判事がただした。
「連中全員が共同風呂の料金二銭を払い、私は黒い札《ふだ》を渡しました」
判事が不審げに眉を上げたので、経営者はあわてて、二枚ずつひもでつないだ黒い板きれを壁の掛け具からとった。
「閣下、これが私どもで使っている札でございまして」と彼は説明した、「黒い札は大浴場、赤い札は個人風呂のでございます。お客様は控室でお召し物をお預かりする係の者に片方を渡し、同じ番号を書いたもう一方は持っておいでになります。湯からお上がりになるときその片方を係の者に渡すとお召し物をお持ちするのです」
「君のところでする管理はそれだけか?」と判事は渋い顔でたずねた。
「それはまあ、閣下」と経営者は弁解がましく答えた、「私どもではただみなさんが料金を払わないでもぐりこんだり、他のかたのお召し物を持ち去ったりすることがないようにするだけですので」
たしかにそれ以上を求めるのは無理だと、ディー判事自身も認めざるを得なかった。彼は出納係にきいた、
「その若いの四人とも全部帰るところを見たか?」
「確かなことは申せませんです、閣下」と出納係は答えた、「殺人が発見されたあとは大混乱でしたので、私は……」
ホン警部とマー・ロンがはいってきた。浴室の中にはもう何も手掛りは見つからなかったと、彼らは報告した。ディー判事はマー・ロンにたずねた、
「君がチャオ・タイといっしょに浴客たちを点検して帰らせたとき、タタール人のような服装の若者がその中にいるのを見たか?」
「いいえ、閣下」とマー・ロンが答えた、「われわれは一人一人の住所氏名を聞きとりました。タタールの服装をしたのがいたら確実に気がついたはずです、ここらではあまり見かけないですからね」
出納係のほうを向いて、判事は言った。
「出ていって、その若者四人のうちの誰かが通りの人垣の中にいないかみてこい」
男が姿を消しているあいだ、ディー判事は木札でテーブルを叩きながら、黙ってすわっていた。出納係はおとなびた少年を連れてもどってきた。彼はおずおずと判事の前に立った。
「おまえの友達のタタール人は誰だ?」と判事がきいた。
若者は不安そうな目つきでちらっと見た。
「ほんとうに知りませんのです」と彼は口ごもった、「あいつはおととい見かけました。ここの玄関の辺りをうろうろしていたんですが、中にははいりませんでした。今夜、またいました。ぼくらが中にはいったとき、あとについてきたんです」
「そのもののようすを言ってみなさい!」とディー判事が命じた。
若者は落ち着かない様子だった。少しためらった後で話しだした。
「どちらかといえば、ちびでやせっぽちだと思います。黒いタタール式の襟巻を頭に巻きつけ、口をおおっていましたから、口ひげがあったかどうか見ることができませんでしたが、襟巻の下から髪の毛が一ふさはみ出ているのを見ました。友達が話しかけようとしたのですが、そいつがたちの悪い目つきでぼくらを見たものですから、考えなおしてやめにしました。あのタタール連中はいつも長いナイフを持ち歩いていて、しかも……」
「湯にはいった時にもっとよく見なかったのか?」と判事がきいた。
「あいつは個室をとったはずです」と若者は言った、「大風呂ではあいつを見かけませんでした」
ディー判事は彼にすばやい一瞥《いちべつ》を投げた。
「もうよろしい!」と判事はそっけなく言った。若い男が早々に立ち去ると、判事は出納係に命じた、
「おまえの札をかぞえてみよ」
出納係があわてて札を仕分けはじめたのを、ディー判事はゆっくり頬ひげをなでながら見おろしていた。
とうとう、出納係が言った。
「おかしなことです、閣下! 黒いのが一枚、三十六番がなくなっています!」
ディー判事は急に立ちあがった。ホン警部とマー・ロンに向かって、
「もう政庁へもどってもよいな。この段階でできることはみんなやった。すくなくとも殺人者がどのようにして人に気づかれず浴室に出入りしたかがわかったし、風采についてもおおよその見当はついた。さあ、行こう!」
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第十一章
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残忍な殺人事件が政庁で論議され
検屍官は疑わしい古い事件を語る
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翌日、朝の公判で、ディー判事はクオに拳術家の死体の検屍を行なわせた。公判には北州《ペイチョウ》の全著名人と、入廷可能な限りのあらゆる市民とが列席していた。
検屍を終えると、クオは報告した。
「故人は猛毒により死亡しており、南方産印度|蛇木《じゃぼく》の根を粉にしたものによると認定されます。茶びんの中の茶と壊れた茶碗に残っていた茶の二検体が病気の犬に与えられました。前者は無害でしたが、後者の少量をなめつくすとまもなく犬は死にました」
ディー判事がたずねた。
「毒はどのようにして茶碗に入れられたのか?」
「私の推定では」とクオは答えた、「乾燥させたジャスミンの花にまえもってその粉末を詰めてから、ひそかに茶碗の中に入れたのです」
「何を根拠にそう考えるのか?」
「その粉末にはかすかながら特有の匂いがありまして」と検屍官は説明した、「熱い茶に混じるとなおさら目立つものです。しかしジャスミンの花に入れれば、その香りが毒の匂いをごまかす効果があるのです。残りの茶を花無しで熱しましたときは紛れもないその匂いがしましたので、私はその毒を認定することができました」
ディー判事はうなずき、クオに命じてその報告書に拇抑をおさせた。驚堂木で机を打ってから述べた、
「故ラン・タオクエ師は、いまだ不明の人物により毒殺された。師は引き続き何度も北部地方の覇者となった、高名の拳術家であった。同時に師は高潔な方であった。わが帝国、そしてとりわけあの方のご在住の栄をうけた当|北州《ペイチョウ》県は、偉大な人物の逝去に哀悼の意を表する。
当法廷はラン師の御魂《みたま》を安らかならしめんがため、犯人逮捕に最大の努力を払うであろう」
再び驚堂木を打ち鳴らして、判事は続けた。
「それでは、イエのパンに対する訴件にうつる」彼が合図をすると、巡査長がパンを判事席の前に連れてきた。判事は言った。
「書記はパン・フォンの行動にかんする二件の供述を読み上げよ」
上級書記が立ち上がり、まず二人の兵隊の申立書を朗読し、続いて五羊村での捜査にかんする巡査たちの報告書を読み上げた。
ディー判事は公式に宣した。
「この証言により、パン・フォンが十五日および十六日の行動にかんして述べたことは真実であると判明した。さらに本法廷は、もし彼が実際にその妻を殺害したものならば、すくなくとも一時的にであれ妻の死体を隠すことなしに、二日間まちを離れるということはあり得ないという見解に立つ。ゆえに当法廷は、これ以前に提出された証拠はパン・フォンに対する訴件を企図するには不十分であると見る。原告はなお被告に対してさらに証拠を提出する用意があるか、または告発を取り下げることを望むかを述べなさい」
「手前は告訴を取り下げることを望みます」とイエ・ピンが慌てて言った、「妹の恐るべき死をひたすら深く悲しみましたがために、軽率な行動に及びましたことを深くお詫び申しあげます。なおこのことは弟イエ・タイにもなり代わりまして申しあげます」
「そのとおり記録せよ」とディー判事は言った。身を乗り出して壇の前の人々を見つめてから、彼はたずねた、「なぜイエ・タイは本日ここに出廷していないのか?」
「閣下」とイエ・ピンが言った、「弟に何があったのか、私にはわかりません。昨日昼食のあと出かけたまま、まだもどっておりません」
「君の弟はよく外泊するのか?」とディー判事がきいた。
「いえ、閣下、一度もそのようなことは」とイエ・ピンは心配そうに答えた、「遅く帰宅することはよくございますが、いつも家でやすんでおります」
判事はこわい顔をして言った。
「帰ってきたら、ただちに当裁判所に出頭するよう言いなさい。パン・フォンへの告訴取り下げは自分で届け出ねばならぬ」判事は驚堂木で机を打って宣した。
「パン・フォンはこれにて放免。当政庁はその妻の殺害者を発見する努力を続けるであろう」
パン・フォンはせかせかと何度か床に頭をこすりつけて謝意を表明した。立ちあがると、イエ・ピンが早速歩み寄って詫びはじめた。
ディー判事は巡査長に命じて、女郎屋の亭主とポン引き二人、娼婦二人を連れてこさせた。彼は女二人に無効とした証文を渡し、もう自由の身だと告げた。次に女郎屋の亭主とポン引き二人にたいし、三か月の禁固刑を申し渡し、杖刑のうえで放免すると宣告した。三人は声高に抗議をはじめ、なかでも亭主の声が一番大きかった。裂けた背中の傷はなおるけれど、大柄な二人の女にかけた金の穴埋めは難しいと考えたからだ。巡査が男どもを牢へ引いて行くと、判事は二人の娼婦に、政庁の炊事場で働きながら、護衛兵が二人を在所に連れ帰る日取りを待つがよいと言った。
二人の女は判事席の前にひれ伏し、涙を流して感謝した。
閉廷したあとディー判事はホン警部に、チュー・ターユアンを執務室に呼ぶよう命じた。
判事は自分の机に向かってすわり、肘掛椅子をさしてチューにすすめた。副官四人はいつもの場所に陣どって腰を下ろした。事務官がむっつり黙りこくったままで茶を配った。
ディー判事が発言した。
「昨夜はラン師の殺害にかんして論議を進めなかった、それは第一に検屍結果を待ちたかったからであり、またここにおられるチュー氏、師の生活をよく御存じのお方の助言をいただきたかったからです」
「われらの拳術家を殺害した極悪人を審判に引きだすためなら何でもいたします!」とチュー・ターユアンは勢いこんで言った。「あの人は私の会ったうちで最高の競技者でした。あの卑劣な行為を誰がやったかについて、閣下は何かお考えをおもちでしょうか?」
「殺人者は」とディー判事は言った、「若いタタール人、もしくはすくなくともそのようなみなりをした男だ」
ホン警部がちらっとタオ・ガンのほうに目を走らせてから言った。
「私どもには不可解なのですが、関下、ラン師を殺害したのはなぜその若造なのでしょうか。マー・ロンとチャオ・タイが作成したリストでは、六十人からの入湯者がおりますのに」
「だがそのうち誰一人として、人に気づかれずラン師の浴室に出入りしたはずはない」と判事は言った、
「だが殺人者は従業員たちが黒い油布をまとっていること、それがタタール人の黒服に似ていることを知っていた。殺人者は青年三人といっしょに浴場にはいった。控室では札を渡さず、従業員のようなふりをして廊下をまっすぐ歩いて行った。ほら、あそこは湯気が多いので、誰だかはっきり見えないだろう。彼はランの個室にこっそりはいりこんで、湯呑茶碗に毒の花を入れてまた出た。たぶん使用人用の出入口を通って浴場を出たのだろうよ」
「抜け目のない悪党だ!」とタオ・ガンが声をあげた、「すっかり考えてあったんだな」
「手掛りはまだある」とディー判事は言った、「タタール人の服と札とは当然抹消してしまったろう。だが彼は、ラン師が断末魔の苦悶のうちに七巧板で形を造ろうとしたのに気づかずに立ち去ったに相違なく、その形は犯人を示す手掛りを含むと見られる。さらに、ラン師はその男をよく知っていたはずで、例の青年の説明からその男の大体の様子はわかっている。チューさんならたぶんお教え願えると思うのだが、やせていてどちらかといえば小さくて、かなり髪の長い弟子が、ラン師にはおりましたでしょうか?」
「おりませんな!」チュー・ターユアンは即座に答えた。「弟子ならみんな知っていますが、がっしりした大男たちですし、師匠はみなに強く言って頭を剃らせていました。あんなすばらしい闘士が毒殺されるとはあんまりだ! 臆病者の卑劣な武器で――」
みんな黙りこんだ。その時、左頬から生えている三本の長い毛をゆっくりよじっていたタオ・ガンがふいに口を開いた、
「臆病者か、女の武器だ」
「ランが女たちのことで面倒を起こしたことはない!」チュー・ターユアンがさげすむように言った。しかしタオ・ガンはかぶりを振った。
「誰かに殺されたことの理由がまさにそれかもしれない。ランがある女を拒絶したことがあったかもしれず、それは激しい憎悪をかきたてる原因になり得る」
「それはたくさん知っている」とマー・ロンが言いそえた、「ラン師から目もくれられないと嘆いている芸妓がいっぱいいたよ、そう自分で言ったんだ。どういうわけか、彼の慎しみそのものが女たちにとっては魅力なんだなあ」
「ばかげたたわごとだ!」チューは立腹して叫んだ。
ディー判事はずっと黙って聞いていたが、ここで口をはさんだ。
「その考えは正直なところ関心がもてるな。ほっそりした女ならタタール少年に変装するのは難しくあるまい。が、だとすると彼女はラン師の情婦だったに違いない。なぜなら彼女が浴室にはいって行ったとき、ラン師は体をおおおうとさえしなかったのだから。タオルはタオル掛けにかかったままだった」
「まさか!」チューが叫んだ、「ラン師と情婦! 論外だ!」
「思いだしたのですが」とチャオ・タイが静かに言った、「昨日私たちが訪ねましたとき、あの人は女性にかんして、なにか男の力を吸いとるというようなことで、思いがけず辛辣な物言いをしました。ふだんはたいへん穏健な意見の持主ですのに」
チューが腹立たしげにぶつぶつ言っているかたわらで、ディー判事は引きだしからタオ・ガンにこしらえてもらった七巧板をとり出し、六片を彼らが卓上に見いだしたとおりに並べた。三角形をつけ加えて形を造ってみようとした。しばらくして、
「もしランが女に殺されたのなら、この形はその女の正体を示す手掛りをもっていよう。しかし彼は崩れおちるとき紙片を混乱させ、最後の三角形をつけ加えないうちに死んだ。難しい問題だ!」紙片をわきへ払いのけて、話を続けた。「それにしても、最初の課題はラン師が交際していた者たち全員を調査することだ。チューさん、あなたはこれからマー・ロン、チャオ・タイ、タオ・ガンと、仕事をどう分担するか相談していただけますまいか。そしてめいめいが分担した仕事をすぐ始められるようにね。警部、君は市場へ行って、あとの青年二人から例のタタール青年の様子を聞きだしたまえ。連中と一杯やるとか何とか親しげなやりかたでいけば、もっと情報が出てくるかもしれない。マー・ロンが連中の名前と住所を知っているよ。それから、警部、出かける時に、クオにここへ来るよう言いなさい、あの毒のことをもっと詳しく知りたいから」
チュー・ターユアンと副官四名が辞去したあと、ディー判事は静かに茶を何杯か飲み、深く考えこんだ。イエ・タイの不在が彼を不安がらせた。あの悪党は政庁が追っていると疑っているのだろうか? 判事は立ちあがって歩きまわりはじめた。パン夫人の殺害事件が解けず、いままたラン師が毒殺された、せめてリャオ嬢の事件を落着させることができたならおおいに楽になるのだが――。
クオがはいってくると、判事は二こと三こと優しい言葉をかけて迎えた。彼は机に向かってすわり、クオにも腰掛にすわるよう合図した。それからディー判事は言った。
「薬剤師として、君は殺人者があの毒をどうやって手に入れたのか私に教えることができるね。めったにないもののはずだから」
クオは額に垂れ下がった髪の房を押しのけた。大きな手を膝に置くと、彼は話しはじめた、
「都合の悪いことに、簡単に手にはいるのです、閣下。少量用いるなら心臓の刺激剤になりますから、たいていの薬局で備えております」
ディー判事はため息をついた。「それではこれから手掛りは得られないな」七巧板を前に置き、あてもなく動かしながら話を続けた、「もちろんこの判じ物が手掛りを得させてくれるだろうよ」
クオはかぶりを振り、悲しげに言った、
「私はそう思いません、閣下、あの毒は堪え難い苦痛をもたらし、瞬時にして死に到るのです」
「だがラン師はたぐいなき意志の人であり」と判事は言った、「この七巧板にかけてはまことに堪能《たんのう》だった。従業員を呼びに戸口まで行くことができないことはわかっていた、だからこの方法で殺人者を知らせようとしたと思うのだ」
「確かに」とクオは言った、「あの方は七巧板がほんとうに上手でした。私どもの家へ来られた折にも、よく私や妻を楽しませてくださったものです、あらゆるものの形をあっと言う間に造りましてね」
「わからないんだなあ」とディー判事は言った、「この形がいったい何を表わしているんだか――」
「ラン師はたいへんに優しい方だったのです、閣下」とクオは物悲しげに語り続けた、「市場のごろつきが時々私を突きとばして恥をかかせることをあの方は知られました。するとわざわざ骨折って私のために新しい手を編み出してくださいました、足は弱いが腕はかなり強いという私の体格にあった戦闘術です。そしてその手を私に辛抱強く仕込んでくださいましたから、それ以来もう誰もあえて私にいやがらせはいたしません」
ディー判事はクオの話のしまいのほうを聞いていなかった。七片の厚紙をもてあそぶうち、ふいに彼は自分が猫の形を造りあげたのを見た。
急いで彼は紙片をかきまぜた。毒が使われ、ジャスミンの花、猫……彼はこの考えの筋を追うことをこばんだ。クオのびっくりした様子に気づいて、判事は自分の狼狽をかくすためにあわてて言った。
「さよう、昨夜のおかしな出会いのことを急に思いだしましてね。小さな女の子が迷子になっていたのを家に連れて行ってやったのですが、その母親は私にけんつくを食わせるばかりでした。やもめでしたが、まあ不愉快な人物で。子供の罪のないおしゃべりから、どうやら彼女には秘密の恋人がいるらしいと感じました」
「何という名前でしたか」とクオが興味ありげにたずねた。
「ルー夫人です、綿屋をやっている」
クオはすわりなおした。そして声を上げた、
「あれは性悪女ですよ、閣下! 五か月前、つまりあれの夫が死んだ時、私は若干の交渉を持ちましたが、あれはおかしな事件で!」
判事は猫の出現にまだ心を乱されていた。そして、ラン師はよく薬局を訪ねたのだと思い返した。彼はうわのそらでたずねた、
「綿屋が死んだのになにかおかしなことが?」
クオはためらいを見せてから答えた。
「実のところ前の閣下はこの件を少々とおりいっぺんに扱われたのです。ちょうどその時はタタールの大軍が北方軍に攻撃をしかけてきていて、避難民の群れが城内になだれこんでいました。知事閣下は手いっぱいでしたから、心臓発作で死んだ一介の綿商人に多くの時間をさくことを望まれなかったことは十分理解できます」
「どうしてまた!」ディー判事は話の風向きが変わったことを喜びながらたずねた、「検屍が疑わしい徴候を示したでしょうに」
クオは面白くなさそうだった。
「問題は、閣下」と彼はのろのろといった、「つまり検屍が行なわれなかったのです」
判事の注意はいまや完全に話にひきつけられた。椅子の背にもたれかかって、きびきびといった、
「状況を話してください!」
クオが語りはじめた。「午後おそく、当地では知られた医師のクワン先生と同道でルー夫人が政庁に来ました。先生の話では、昼食の時ルー・ミンが頭痛を訴えて寝床で横になった。まもなく、彼がうめき苦しんでいるのを妻が聞きつけた。寝室にはいって行くと、彼は死んでいた。妻はクワン先生を呼び、珍断をもとめた。妻の話では、夫は日頃から心臓がよくないと訴えていたそうです。クワン先生が昼に何を食べたかとききましたら、食事はほとんどとっていない、ただ頭痛をまぎらすのだといって酒を小びん二本飲んだといいました。そこでクワン先生は、ルー・ミンが酒の飲みすぎによる心臓発作で死んだ旨の死亡証明にサインしました。前任の閣下はこの死亡をそのとおり登録されたのです」
ディー判事が何も言いださないのでクオは先を続けた、
「私はたまたまルー・ミンの兄と面識がありまして、その兄の話に、遺体に着物を着せるのを手伝った時、顔色は変色していないのに、目玉は眼窩《がんか》からふくれ上がっていたというのです。そうした徴候は後頭部に衝撃をうけたことを示すものですから、私はルー夫人のところへもっと詳しいことを聞きに行きました。ところが夫人は私をどなりつけ、他人のことに口出しするおせっかい屋だと口汚なく罵りました。そこで私は出すぎたことでしたが、それを知事にお話ししました。ですが、閣下はクワン先生の申立てで十分だと思っている、検屍を行なう理由はないといわれました。事件はそこで終わったのです」
「クワン先生には話さなかったのですか?」とディー判事がきいた。
「何度かやってみようとしたのですが、先生は私を避けていました」とクオは答えた。「そのうちクワン先生が黒魔術に手を出したといううわさが広まりました。先生は南の方へ流れて行く流浪者たちとともに市を去り、その後再び彼の音信を得たものはありません」
判事は静かにあごひげをなでていた。
とうとう彼は「実におかしな話だ!」といった、「この土地にはまだ妖術を使うものがいるのか? 法の定めでは死刑に値する犯罪なんだがね」
クオは肩をすくめた。
「この北州《ペイチョウ》では」と彼は言った、「タタール族の血をうけた家がたくさんあって、タタールの魔術師の秘伝を持ち伝えていると思っています。そうしたものたちはただ呪文を唱えたり、絵姿の首を切ったり燃やしたりするだけで人を殺すことができるのだと言い張る連中がいます。また道教の密儀を知っていて、魔女や小鬼を愛人にして寿命を延ばすことができるといわれている人々もいます。私の考えではこれはすべて野蛮人の迷信にすぎませんが、ラン師はそれをよく研究していて、かれらの主張は真実の根拠をもつと私に語りました」
「われらの尊師孔子は」とディー判事はもどかしげに言った、「われわれがそうした闇の不可思議にちょっかいを出すことをとくに戒められた。ラン・タオクエのように賢い人がそういう超自然的な探求に時間を浪費するとは考えてもみなかった!」
「あの方は関心の幅の広い人だったのです、閣下」クオはおずおずと言った。
「ところで」と判事は続けた、「ルー夫人の話をしてくれたのはありがたい。夫人を召喚して、夫の死についてもっと詳しいことをただしてみるつもりだ」
ディー判事は書類をとりあげ、クオはあわてて礼をして去っていった。
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第十二章
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ディー判事は薬《くす》が丘の探訪を試み
女が政庁の命令に拒絶の意を示す
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検屍官の背後で扉が閉じられるやいなや、ディー判事は文書を机上にほうり投げた。腕組みしてすわったまま、さっきから心の中でどうどうめぐりをしている混乱した考えを整理しようと、いたずらに試みた。
とうとう彼は立ちあがり、狩猟服に着替えた。軽い運動がたぶん頭をすっきりさせてくれるだろう。馬丁に愛馬を連れてくるように命じ、騎馬で外出した。
まず彼は旧練兵場でひとしきり駆けさせた。それから大通りに出、北門をとおって城外に出た。道がゆるやかに下って真白な広野に向かうあたりまで、彼は雪の中をゆっくり歩ませていった。空は鉛色で、もう一降りぱらついてきそうだった。
右手に二つの大きな石が立ち、薬《くす》が丘の名で知られる岩山に登る細い道の起点をしるしていた。判事はそこへ登ろうと決めた、そしてそれだけ運動したら家へ帰ろう。彼は上り坂がけわしくなるあたりまで行き、そこで馬を下りた。馬の首を軽く叩き、手綱を木の切株につないだ。
登りにかかろうとして、彼はふと足を止めた。雪の中に真新しい小さな足跡がついていた。先に進むべきか否かと思案のすえ、結局彼は肩をそびやかすと、登りはじめた。
岩山の頂きは裸山で、ただ寒梅が一本立つのみだった。その黒ぐろとした枝々には小さな紅色のつぼみがいっぱいだった。反対側のはずれの木の手すりのそばで、灰色の毛皮外套を着た女が一人、移植ごてで雪を掘っていた。ディー判事の重い長靴が雪を踏みしめる音を聞くと、女は身を起こした。そして移植ごてをすばやく足もとの籠に置き、ていねいに頭を下げた。
「そうだ」と判事は言った、「月霊草《ムーン・ハーブ》を集めているんですね」
クオ夫人はうなずいた。毛皮のフードが彼女のほっそりした顔にすばらしくよく似合っていた。
「あまり運よくありませんの、閣下」と彼女はにこやかに言った、「これだけしか集まりません」そして籠の中の一束の草をみせた。
「ここへはちょっと運動しにきたのです」とディー判事は言った、「考えをはっきりさせたかったので、つまりラン師の殺害事件が私の心に重くのしかかっているものですから」
クオ夫人の顔つきがにわかに変わった。外套を体のまわりに引きつけるようにしながらつぶやいた、
「信じられない! あんなに強くて健康だった方が!」
「最強の男といえども毒に対しては無防備です」と判事はひややかに言った、「その裏切り行為をはたらいた人物について、私は確かな手掛りを得ています」
クオ夫人の目は大きく見開かれた。
「その男は誰なのですか、閣下」やっと聞きとれるほどの声で彼女はきいた。
「男だとは言いませんでしたよ!」ディー判事はすばやく言った。
夫人は小さなかぶりを静かに振った。
「それに違いない!」と彼女は確信ありげに言った、「あの方は夫のお友だちでしたから、私はよく先生にお会いしました。あの方はいつもとても優しくて丁寧で、私に対してもそうでしたけれど、でもあの方の女に対する態度は……変わっているという気がしましたわ」
「それはどういうことですか?」と判事はきいた。
「ええ……」クオ夫人はゆっくりと答えた、「あの方は……女を気にかけていないような……」。頬に血の色がのぼり、彼女はうつむいた。
判事は落ち着かない気持ちになった。彼は手すりに歩みよって見下ろした。思わず知らず彼はあとずさった。その下は五十尺もの断崖になっており、下のほうにはごつごつととがった岩が雪の中から突き出ていた。
ふもとの平原を見渡しながら、彼は何と言葉を続けるべきか途方にくれた。だれかを気にかける……この考えは奇妙に彼を当惑させた。彼はふりむくと、たずねた。
「先日お宅で見かけた猫たちは、ご主人がお好きなのですか、それともあなたの?」
「どちらもでございます、閣下」とクオ夫人は静かに答えた。「夫は動物が難儀するのを見過ごせなくて、よく野良猫や病気の猫を連れて帰ります。そうすると私がその面倒をみます。今のところ、大きいのや小さいのや七匹いますわ」
判事はうわのそらで相槌を打った。梅の木に目が止まると、彼は言った。
「あの木が咲いたらきっとすばらしいだろうなあ」
「ええ、ええ、もうじきですわ!」と彼女はいきごんで言った。「誰の詩でしたかしら、再びまた……雪のなかで花びらの落ちる音を聞くことができるとかいう……」
判事はその古詩を知っていたが、ただ「そんなふうな詩句を思いだしますねえ」と言っただけだった。そして無愛想に続けた、「さて、クオさん、私はもう政庁へもどらなくてはならん」
彼女は丁寧に頭を下げ、判事は山を下りはじめた。
簡単な昼食をとりながら、ディー判事は検屍官とかわした会話を思い返した。事務官が茶を持ってきたとき、彼は巡査長を呼ぶようにと命じた。
「城隍廟《じょうこうびょう》の近くの綿屋のルー夫人のところへ行き、夫人をここへ連れてくるように」と彼は巡査長に命じた、「あの女に少々質問してみたい」
巡査長が去ったあと、判事はゆっくり時間をかけて茶を飲んだ。殺人事件二つが未解決なままの今、ルー・ミンの死という古い事件をほじくり返すのは、たぶんひどく馬鹿げたことなのだと、悔やまれる気持ちだった。しかし検屍官の話は彼の興味をひいた。そして彼の心を深くかき乱している別の疑惑から、それは気持ちをそらせてくれたのだ。
判事は寝椅子に横になって一眠りしようとした。だが眠りは訪れなかった。転々と寝がえりをうちながら、彼は散る花びらを歌う詩の全文を想いだそうとしていた。記憶は急によみがえった。二百年ばかり前の詩人によって書かれたその詩は「後宮の冬の夕《ゆうべ》」という題を持っていた。それはこうだった――
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寒鳥は 荒涼たる冬空に啼《な》く
されどなおわびしき心――泣きこそせねど
暗き想い出の 過去よりよみがえりつきまとい
喜びは過ぎ去り ただ悔いと悲しみのみ
おお せめて一度《ひとたび》の新しき恋に古き痛み忘れん――
冬の梅は 新たなる年の夕に再び花開く
窓開けて 女はさやぐ木を見おろし
水晶の如き雪のなかに 花の散る音を聞く
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あまり知られた詩ではなく、彼女はたぶん終わりの二行だけが何かに引用されたのを見たのだろう。それとも詩全部をよく知っていて、意図してそれを引きあいに出したのか? 愕然《がくぜん》として、判事は腹立たしさに顔をしかめた。彼はつねづね教訓的な詩にのみ関心を抱いており、恋愛詩など時間の無駄とみなしてきた。だがいま彼はほかならぬこの詩のうちに、これまでついぞ気にとめたことのなかった痛切な情感を見いだしたのだ。われながらいらだって、彼は焜炉《こんろ》のところへ行き、熱い手ぬぐいで顔をふいた。それから机に向かって、上級書記が持ってきた役所の通達文書に目をとおしはじめた。巡査長がはいってきたとき、判事はその仕事に没頭していた。
巡査長の面白くなさそうなようすをみてとって、ディー判事はきいた。
「何かうまくないことでも、巡査長?」
巡査長は神経質そうに口ひげをひねった。
「実を申しますと、閣下――」と彼は答えた、「ルー夫人は同行することを拒否いたしました!」
「何だって?」判事はあきれてたずねた。
「何さまだと思っているんだ、その女は」
「その婦人は」と巡査長は哀れっぽく続けた、「私が令状を持っていないからといって、同行を拒みました」判事が憤慨して何か言いかけると、彼はあわてて続けた、「女が私をののしってひどく騒ぎたてたので私どものまわりに人だかりができました。女はお国にはまだ法がある、正当な理由もなしに政庁がまっとうな女を呼び出す権利はないと叫びたてました。私は女を引っ立てようとしましたが、女はさからい、群衆が女の肩を持ちました。それで私はもどって閣下のお指図をいただいたほうがよいと考えたのです」
「令状がほしいというなら、くれてやるさ!」判事は憤慨していった。彼は筆をとりあげると、すばやく書式に記入した。それを巡査長に渡して、「巡査を四人連れてそこへ行き、女を連れて来たまえ!」
巡査長はそこそこに立ち去った。
ディー判事は室内を行ったりきたりしはじめた。ルー夫人とはなんたる性悪女か! 自分は実に幸運であったと、彼は自分の妻たちをかえりみて思った。第一夫人は父の最良の友人だった人の長女で、教養豊かな女性である。二人の間の暖かな意志疎通は、緊張の中にある時の彼にとって常に大きな慰めとなった。かれらの二人の息子たちはいつも喜びの源であった。二番目の妻はたいして教育はないが、美しいうえ健全な良識の持主で、彼の大所帯を実に手際よくきりまわしている。彼女の生んだ娘はやはりよく似た堅実な性格である。三番目の妻は、最初の任地|平来《ポンライ》にいたとき入れた。ある恐ろしい体験のあと〔『中国黄金殺人事件』第十五章参照〕家族に見捨てられた彼女を、判事は第一夫人の部屋付き女中として家に入れた。第一夫人はその娘をたいそう好きになり、やがて判事に彼女を妻とするようねだった。はじめ判事は反対した、娘の感謝の心につけいるように感じたからだ。しかし自分もほんとは判事を好きなのだと娘から明かされて折れ、その後それを悔いたことはない。彼女は美しく、生き生きした若い娘で、今では判事の好きなドミノ遊びのメンバーがいつでも四人そろうので、じつに好都合である。
北州《ペイチョウ》での暮らしは夫人たちにとってかなり退屈なものに違いないということが、ふいに思い浮かんだ。新年が近い、あれたちに何か目新しい贈物を物色してみようと、彼は心に決めた。
彼は戸口に行って事務官を呼んだ。
「副官はまだだれも帰らないか?」と彼はたずねた。
「まだです、閣下」事務官は答えた、「みなさんははじめ記録室でチュー・ターユアン氏と長時間相談をなさってから、全員ご一緒に出かけられました」
「馬丁に私の馬を連れてくるよう言いなさい!」とディー判事は命じた。副官たちがラン殺害に関する材料を集めている間に、パン・フォンのようすを見に行って来た方がよいと思った。途中でイエ・ピンの紙屋を通り、イエ・タイが姿を現わしたかどうか聞こう。イエ・タイが長々と姿を見せぬことが、新たな面倒を招くことになるのではないかという穏やかならざる気持ちを、彼は捨てることができなかった。
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第十三章
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判事は骨董品の商人と相対《あいたい》で語り
漆の毒の悪害について教えられる
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ディー判事は紙店の前で馬を止め、戸口に立っていた店員に声をかけてイエ・ピンに会いたいと伝えさせた。
紙屋の老人があわてて出てきて、うやうやしく判事に、中にはいってお茶を一杯お上がりくださいと勧めた。しかしディー判事は馬から下りず、ただイエ・タイが戻ったかどうか知りたいだけだと言った。
「いえ、閣下、まだ帰って参りませんので」とイエ・ピンは心配そうな表情で言った、「店員をやって、よくあれが行く料理屋や賭場をまわらせましたが、誰も見つけていません。何か事故にあったのではないかと本気で心配しはじめたところです」
「もし今夜まだもどらなかったら」とディー判事は言った、「人相書を書いた立札を立て、憲兵隊に通報しよう。といっても、私は心配はしないだろうよ。君の弟はおいそれと追剥や盗っ人なんぞの餌食《えじき》になるたまじゃないという印象をうけた。夕食後知らせてくれたまえ!」
彼は馬を急がせて、パン・フォンの住む町へ乗りつけた。市中のその一画のひどいさびれようが、あらためて彼を驚かせた。そろそろ晩飯というこの刻限でさえ、通りは全く人気《ひとけ》がなかった。
判事はパンの住む区画の前で馬から下り、壁にとりつけた鉄の環に馬の手綱をつないだ。パンが開けに来るまでには、鞭の柄で何度も戸を叩かねばならなかった。
判事を見て、パンはたいそう驚いた。広間に招じ入れながら、そこに火の気がないことを彼は繰りかえし詫びた。
「仕事場からすぐ火鉢を運んで参ります」
「お構いなく」とディー判事は言った、「そちらで話をすればよい。どんな場合でも、私は人々が仕事をする部屋を見るのが好きなのだ」
「ですが、恐ろしく乱雑でございます!」とパンは声を上げた、「品物の仕分けにとりかかったところでしたので」
「構わない!」と判事はぴしゃりと言った、「案内しなさい」
はいってみると、小さな工房はたしかに物置きも同然だった。床には大小とりどりの磁器の壷がいくつも置かれ、包装用の箱も二つあったし、机の上は本や箱、包装用品で雑然としていた。しかし銅の火鉢には炭が赤々と燃え、小さな室内はよく暖まっていた。
パンは判事が重い毛皮外套を脱ぐのを手伝い、火鉢と並んだ腰掛にかけさせた。骨董商がせかせかと台所に走って茶の用意をするあいだ、ディー判事は机の上に油を含ませたぼろ布を敷いてのせてある重い肉切り包丁をもの珍しげに眺めた。判事が戸を叩いたとき、パンがそれをみがいている最中だったことは明らかだった。彼の目は机のわきの、湿った布きれをかぶせて置いてある四角のかなり大きなものに落ちた。何げなくその布を持ちあげてみようとしたとき、パンがはいってきた。
「それにさわってはいけない!」
ディー判事が驚きの眼差しを向けると、パンがあわてて説明した。
「それは漆の小卓で、いま修理中でございます、閣下。湿っている漆に素手で触れてはなりません、ひどいかぶれを起こしますから」
ディー判事は漆の毒かぶれの辛さについてきいたことがあるのをおぼろげに思いだした。パンが茶碗に注いでいるとき、彼は言った。
「そこにあるのはみごとな牛刀だね」
パンは大きな包丁をとり上げ、拇指《おやゆび》で注意深く刃のかどにさわった。
「はい、五百年以上も前のものでして、寺で犠牲の雄牛を殺すのに使われておりました。それでもまだ刃は完璧です」
ディー判事は茶をすすった。家の中がいかにも静かなことが痛感された。なんの物音も聞こえなかった。
「お気の毒だが、聞きにくいことをおききせねばならない」と彼は急に言いだした、「あなたの奥さんを殺害した人物は、あなたがまちを出ることをあらかじめ知っていた、奥さんが話したのに違いない。奥さんが他の男と関係があるような兆候にお気づきか?」
パン・フォンの顔が青ざめた。彼は不安そうにちらりと判事のほうを見た。
「実を申しますと」と彼は不安げにいった、「ここ何週間か、私に対する妻の態度に何やら変わったところがあると感じておりました。言葉にするのは難しいのですが……」
彼は口ごもった。判事が何も言わずにいると、さらに話を続けた。
「私はよしない非難をしたくはないのですが、何かイエ・タイがそれに関わっているような気がしてならないのです。あれは私が外出しているとき、よく妻に会いにきました。妻は魅力に欠ける女ではありませんので、閣下、イエ・タイが私と別れるよう妻に説きつけているのではあるまいかと時おり考えました、そうすればあの男は私の妻を金持ちの妾として高く売ることができますから。妻はぜいたくなものが好きですし、むろん私は高価な贈物など与えたことはありません、それに……」
「あのルビーをはめた金の腕輪|一対《いっつい》は別としてというわけか」とディー判事はそっけなく言った。
「金の腕輪ですって?」パン・フォンは仰天して叫んだ、「閣下のお間違いでしょう。あれは伯母さんにもらった銀の指輪を一つ持っているきりです!」
判事は体をおこした。
「ごまかしてはいけない、パン・フォン!」と彼は手きびしく言った、「あなたの妻が目方のかかる金の腕輪と純金のへヤピンもいくつか持っていたことは、私同様に君も承知のはずだ」
「ありえないことです、閣下!」とパンは興奮していった。「妻はけっしてそのようなものを持ってはおりませんでした!」
「来たまえ」とディー判事はつめたく言った、「それを見せよう!」
彼は寝室にはいって行き、パン・フォンがすぐあとにしたがった。衣裳箱を指さして判事は命じた。
「その一番上のを開けたまえ、中に宝石類があるだろう」
パンがふたを上げると、箱の半ばほどまで女物の衣類が雑然とつめこんであるのがディー判事の目にはいった。前にはそこにきちんと畳んだ着物がつめてあり、箱を調べた後でタオ・ガンがそれを丁寧にもとにもどしたのを彼は記憶していた。
パンが衣類を取り出して床に積みあげてゆくのを、判事は目をすえて見つめていた。箱がからになると、パンはほっとして叫んだ、「ご覧のとおり、宝石はありません!」
「見せてみろ」ディー判事はパンを押しのけながら言った。箱の上にかがみこんで、底の隠し仕切りのふたを引きあげた。そこはからだった。
身を起こすと、彼はひややかに言った、
「君はあまり賢明ではないな、パン・フォン。あの宝石を隠したって助からんぞ。本当のことを言いたまえ!」
「誓って、閣下」とパンは真剣な顔で言った、「こんな隠し仕切りのことは存じませんでした!」
ディー判事は暫く考えこんでいた。それからゆっくりと室内を見まわした。いきなり彼は左手の窓に歩み寄った。そして曲っているようにみえる鉄の桟《さん》をひっぱった。それは二つに折れて抜けた。他の桟ものこぎりでひき切られ、それからそっともと通りにはめこまれたものであることがわかった。
「君の留守中に押込みがはいったな」
「けれども私が政庁からもどったとき、私の金は全然盗まれておりませんでしたが」とパンは仰天して言った。
「その衣類はどうしたことだ」と判事はきいた、「私がこの部屋を調べたとき、その箱はいっぱいだった。どの衣裳がなくなっているか言えるか?」
もみくちゃの衣類の山をかき回して捜したすえにパンは言った、
「そうですね、妻が嫁いでくるときあれの伯母から贈られたもので、重みのある紋織りに貂《てん》の毛皮で縁どりをした、相当高価な外套二着が見あたりません」
ディー判事は静かにうなずいた。あたりを見まわしながら彼は言った。
「ほかにもなくなっているものがあるようだな。さてと……、そうだ、むろん向こうの隅に小さな朱塗のテーブルがあったな」
「はい、ありました」とパンは言った、「つまりいま私が修理しておりますものです」
判事はじっと立ち止まって考えこんだ。頬ひげを指の間ですべらせながら、ある行動形態がしだいに浮かびあがってくるのを見ていた。もっと早くこれに気づかなかったとはなんと愚かなことか! 宝石という手掛りはずっとそこにあったのであって、犯人はのっけからもう大きな過誤を犯していた。自分はそれに気づかなかったのだ。だが今すべてのつじつまが合った。
やがて判事は沈思から覚め、不安そうに見つめていたパン・フォンに声をかけた。
「君は本当のことを言っていると信ずるよ、パン・フォン。向こうへもどろう」
ディー判事が静かに茶を飲むあいだ、パン・フォンは手袋をはめて濡れた布を持ちあげた。
「これが閣下のおっしゃった朱塗のテーブルでございます。極上の年代物なのですが、私は漆をかけなおさねばなりませんでした。先日五羊村へ向かう前に、私はこれを乾操させるため寝間の隅に置きました。あいにくそのあと誰かさわったに違いありません、今朝調べてみましたら、上に大きなしみが一つありました。私はいまそこを直しているのです」
ディー判事は茶碗を置いた。
「奥さんがさわったということは?」
「妻は心得ていますので、閣下」とパンはにっこりして言った、「漆の毒性についてはたびたび聞かせておきましたから、どんなにたいへんかよく承知しています。先月、綿屋のルー夫人が私のところへ来ました。そのひどいのにやられて両手が腫れあがり、いちめん炎症をおこしていました。それでどう治療したらいいのかききにきたのです。私は……」
「どうしてあの婦人を知っているんだ?」とディー判事が口をはさんだ。
「あの人がまだ子どもだった頃、親たちが市内の西部にあった私の以前の家の隣に住んでいたのです。嫁に行ってからはとんと会っておりません。たいして気にかけもしませんでした、あの一家の女たちを好ましく思ったことなどありませんでしたから。父親はまっとうな商人でしたが、母親はタタール人の血統で、妖術に手を出しておりました。娘も同じような気味の悪い関心をもち、いつも台所で妙な服用物《ふくようぶつ》をこしらえていましたし、時には神がかりになってぞっとするようなことを口ばしるのです。明らかにあの女は私の新しい住所を知っていて、かぶれた手のことで相談しにきたのです。そのとき、夫が死んだことも話していました」
「それは実に興味深い話だ」と判事は言った。そしてパンを気の毒そうに見つめてから言いそえた。「この悪辣な犯行をしたのが誰かわかったぞ、パン・フォン。だが犯人は危険な異常者で、そういうやからには十分な注意を払わねばならない。今夜は家にいて、寝室の窓に板を釘付けにしておきたまえ。そして表口には錠をおろしておくんだ。明日になればわかるよ」
パン・フォンはあきれて口もきけないふうで聞き入っていた。ディー判事は問い返すひまを与えなかった。彼はパンにお茶の礼を言ってそこを出た。
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第十四章
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若い未亡人は政庁で審問をうけて
法廷を侮辱した罪により罰せらる
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ディー判事が政庁にもどってみると、マー・ロン、チャオ・タイ、タオ・ガンが執務室で待っていた。彼らのげっそりした顔を一目みれば、新しい知らせが何もないのは明白だった。
「チュー・ターユアン氏が卓抜な計画を練ってくれたのですが」とマー・ロンが憂鬱そうに報告した、
「新たな手掛りは何も得られませんでした。チュー・ターユアンはチャオ・タイと組んであらゆる名士の間をまわり、ラン師が弟子にとったことのあるものすべての一覧表を作りました。これがそうなんですが、あまり期待できそうにありません」彼は巻いた紙を袖からとりだしてディー判事に渡した。判事がそれにざっと目をとおすそばで、マー・ロンは話を続けた。「自分はタオ・ガン、ホン警部と、ラン師自宅の捜査に行きました。すべて無駄骨で、ランと誰かの間にいざこざがあったことを示すものすら発見できませんでした。そこで私どもは師匠の筆頭助教でメイ・チョンという好青年に質問しました。彼が重要かと思われることを話してくれました」
判事はそれまで大して注意深く話を聞いていなかった。彼の頭はパンの家で得た驚くべき発見から離れなかったのだ。だがここで彼は体を起こし、熱心にたずねた。
「それは何だ?」
「青年が言うには」とマー・ロンが続けた、「ある夜、思いのほか遅い時刻にラン師の家にもどったとき、師匠が女の人と話しているのを聞いたというのです」
「その女は誰だったんだ?」とディー判事は緊張してきいた。
マー・ロンは肩をすくめた。
「メイ・チョンは姿を見ず、ただ意味をなさないかすかな二こと三ことが戸の間から洩れてくるのを耳にしただけなのです。その女の声が誰かわかりませんでしたが、女が腹を立てているらしいのはわかりました。メイ・チョンは一本気の真正直な青年ですから、盗み聞きすることなど夢にも考えず、急いで離れたのです」
「だが、すくなくともラン師が一人の女性と何かかかわりがあったことは確かです!」とタオ・ガンが熱っぽく言った。
ディー判事は論評を加えなかった。そのかわりに彼は言った、
「ホン警部はどこだ?」
「われわれがずっとラン師の家にいた間に、警部は例のタタール男のようすについて二人の若者からききだすため市場へでかけました」とマー・ロンが答えた、「夕食にはここへもどるといっていました。チャオ・タイはまずチュー・ターユアンを家に送り届け、そのあとラン家で私どもと落ちあいました」
銅鑼の音が三つ、政庁内にこだました。
ディー判事は眉をひそめた。
「夕方の公判だな。私はルー夫人というのを召喚しておいた。後家で、夫は疑わしい状況で死んだのだ。型通りの質問を二、三するつもりでいるが、この公判でよけいな問題が持ちあがらないことをねがっている。というのは、実を言うとこの午後、私はパン・フォンの家で重大な発見をした。あそこで行なわれたあさましい犯罪はたぶん解けよう!」
三人の副官たちが質問を浴びせたが、判事は手を上げた。
「公判の後、ホンももどって来てから、私の理論を説明してあげよう」
彼は立ちあがり、タオ・ガンに手伝わせて、てばやく官服をつけた。
またもや多くの人々が法廷に参集しているのが見られた。みながラン・タオクエ殺しについての最新情報を聞きたがっている。
開廷すると、まず判事は拳術選手権保持者毒殺事件の調査は順調な進展を見せていると告げた。裁判所はある重要な手掛りをつかむに至ったと彼は述べた。
次に判事は牢番長あての伝票に記入した。クオ夫人がルーの後家を連れてくるのを見たとき傍聴人の間からざわめきが起こった。巡査長が女を判事席の前に伴い、クオ夫人は引き下がった。
ルー夫人が装いにたいそう気をつかったことに、ディー判事は気づいた。顔には控えめに紅が施され、念入りに眉が描かれた。簡素な焦茶の綿入れ長衣を着た姿は人目を引くものだったが、紅もその小さな口の冷酷な線をかくし得ていなかった。石畳の上にひざまずく前に彼女は判事のほうへ目を走らせたが、それと認めたようすはなかった。
「姓名、職業を申してみよ」とディー判事は命じた。
「身分いやしき手前は」とルー夫人は正確な調子で答えた、「寡婦ルー、本姓はチェン。亡夫ルー・ミンの綿店を経営いたしております」
これらの細目が規定どおり記録されると、判事は言った。
「本官はあなたの夫の死に関して若干の説明を求めることを企図し、あなたを呼んで簡単な質問に答えてもらおうとした。あなたが進んで出頭することを拒んだので私は令状の発行を余儀なくされた。ここに当法廷で審問を行なう」
ディー判事は彼女が頭の働く能弁な女であることを思い起こした。彼はそっけなく言った。
「当法廷は亡夫ルー・ミンの病気に関連して、当法廷付き検屍官がとった若干の見解を確認する必要ありと考える」
いきなりルーの後家は立ちあがった。なかば傍聴者のほうに身を向けて女はわめいた、
「操《みさお》正しい未亡人を傴僂《せむし》男が中傷していいものかしらねえ? 体のねじ曲った人間は性根もねじ曲っているとは、誰だって知ってることさ!」
ディー判事は驚堂木《けいどうぼく》を机に打ちおろした。彼は立腹して叫んだ、
「女! 当法廷の吏員を罵ってはならん!」
「何が法廷だい!」ルーの後家は馬鹿にした調子で言った、「知事さん、あんたはこの前の夜、変装して私んところへ来たんじゃなかった? そんとき私が中へ入れてやらなかったら、今日はこっそり、令状やら何やら無しで私を呼びつけようとしたんじゃないか!」
判事は怒りで青くなった。彼は精いっぱい己れを抑えた。そして平静な声で言った。
「この女に法廷侮辱罪を申し渡す。鞭五十叩きを科する!」
群衆からつぶやきがもれた、明らかに承服していない様子だった。しかし巡査長がいち早くルー夫人に歩み寄った。彼は女の髪をつかんで無理にひざまずかせた。巡査二人が女の長衣と下着を腰まで引き裂いた。別の二人が両側から女のふくらはぎを踏まえ、両手を後手に縛り上げた。巡査長の鞭が空を切ってヒュッと音を立てた。
最初の幾打ちかのあとでルーの後家は金切声をあげた。
「犬役人! あいつは自分をはねつけたまっとうな女への腹立ちをこうやって発散させるんだよ! あいつときたら……」
鞭が女の裸の背中に食いこむにつれて、その声は烈しい悲鳴に変わった。しかし十打が加えられたことを札で表示するため巡査長が手を休めると、女はわめいた。
「私たちのラン先生が殺されたのに、犬役人めは女をたらしこむことしか考えないんだよ。あいつは……」
再び鞭がふり下ろされ、女はもう悲鳴をあげるばかりだった。二十打を表示するため巡査長が手を休めた時、彼女は物を言おうとしたが、できなかった。さらに五回打たれると、女は床に顔を埋めて倒れ伏した。
判事の合図で巡査長は女の頭を持ちあげ、意識を回復するまで鼻の下で強い香をたいた。彼女はようやく目を開けたが、起き直るには弱りすぎていた。巡査長が肩を支えていなければならず、巡査の一人が髪をつかんで女の頭をもたげていた。
ディー判事はひややかに言った、
「ルー夫人、あなたは当法廷の規則を破り、定められた刑の半分をうけた。明日再び審問をうけることになろう。残り半分の刑が加えられるか否かは、あなた自身の態度しだいだ!」
クオ夫人が姿をあらわし、三人の巡査とともにルー夫人を獄舎へ連れ帰った。
ディー判事が驚堂木をとり上げて閉廷を宣しようとしたとき、一人の年とった百姓が進みでた。そしてたまたま外の通りの街角で、豆板を載せた盆を運んでいた菓子売りと鉢合わせしたことについて長々と物語りはじめた。百姓は土地なまりでしゃべるので、判事はその話について行くのに大変困難を感じた。結局それがどういうことなのかは理解できた。百姓は快く菓子五十個分の損失を弁償する気でいた、なぜならそれがおおよそのところ盆の上にあった菓子の数だからだ。しかし物売りは百個あったと言い張り、それだけの支払いを求めた。
次に物売りが判事席の前にひざまずいたが、その言葉はさらにわかりにくくさえあった。彼は菓子がすくなくとも百個はあったと誓い、老百姓をいんちきでうそつきだと非難した。
判事はうんざりしいらだってもいたが、努めてこのいさかいに精神を集中した。彼は巡査を外へ走らせ、壊れた菓子をさらい集めて、それといっしょに売店から新しい菓子を一つ持ってくるようにと命じた。さらに事務官に言って天秤を持って来させた。
彼らがとりに行っているあいだ、ディー判事は椅子に背をもたせ、ルー夫人の信じ難い無礼をあらためて考えた。彼女の夫の死をめぐって、確かに何かしら不都合なことがあるということでのみ説明がつく種類の行為だった。
巡査が壊れた菓子を油紙にくるんで持ち帰ると、ディー判事はその包みを天秤にのせた。それはおおよそ一二〇〇|匁《もんめ》あった。次に新しい菓子一個を量ると紛二〇匁あることがわかった。
「そのうそつきの物売りに、竹二十叩きを加えよ!」判事は愛想のつきたようすで巡査長に言った。
今度は傍聴者からいくらか喝采がきかれた、こうした適正ですばやい判決が好まれるのだ。
物売りが刑罰をうけ終わると、ディー判事は閉廷した。
執務室で、判事は額の汗を拭った。室内を行ったり来たりしながら、彼は突然言った、
「二十年知事を勤めてきて、たちの悪い女も扱ったが、こんなのは初めてだ! 私が訪ねていったことへのあの憎たらしいあてこすりといったら!」
「閣下はなぜ即座にあの性悪女の非難を否認されなかったのですか?」とマー・ロンが憤懣《ふんまん》やるかたなげにたずねた。
「それでは余計悪くなるばかりだろう」と判事はうんざりした調子でいった、「どうあろうと、私は夜、変装してあの家へ行った。あの女は実に頭が働く。群衆の同情をどうつかむかを正確に心得ている」
判事は腹立たしげにあごひげを引っぱった。
「私の考えだと」とタオ・ガンが意見を加えた、「あの女はそんなに賢明ではありません。あの女にとって最良の策はあらゆる質問におとなしく答え、クワン先生の認定証明に委ねることだったはずです。こうした面倒をおこすことは、あれが本当に夫を殺したのだと、われわれに信じこませるばかりだということを、女は知るべきなのです」
「あの女はわれわれの考えることなぞ屁《へ》とも思ってやしない」とディー判事は苦々しげに言った、「あれはルー・ミンの死亡の再調査を避けようとして躍起になっているだけだ、それをすればあれの有罪が証明されるから。そして今日あれはその目的に向けて、大いに威力あるところを示したのだ」
「この事件には重々警戒してあたらねばなりませんな」とチャオ・タイが感想を述べた。
「もちろんそうさ!」とディー判事は言った。
ふいに巡査長が執務室へとびこんできた。
「閣下」と彼は興奮して言った、「ただいま靴職人が、ホン警部からの緊急連絡をもってまいりました!」
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第十五章
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ホン警部は屋根つき市場を探索し
酒場で頭巾の男と顔をつき合わす
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あてもなく通りの店から店と歩き回るうちに、いつしか日が暮れかかっているのに気づいた。政庁へもどったほうがいいなと、ホン警部は考えた。
タタール青年といっしょに浴場にはいった二人の若者に対してした根気のよい質問も、ごくわずかな成果しか生まなかった。ディー判事の尋問をうけた仲間が与えた情報に、新たに何かを付け加えることはできなかった。そのタタール人は別のもう一人の若い仲間というふうに思われたと二人は言った、ただ一つ、その顔色の悪いことには驚かされた。二人は髪のほつれに気づいておらず、最初の若造は襟巻の端をそれと見まちがえたのかもしれぬな、と警部は考えた。
警部は薬種屋の店先にちょっと立ちどまり、売台の前の盆に並べてある奇妙な形の根や干からびた小動物の正体を見きわめてみようとした。
大きな男が一人、彼をかすめてとおった。ふりかえった警部の目に、広い背中ととがった黒い頭巾がうつった。彼はぶらぶら歩きの人波をかきわけて、男が次の角を曲ってかくれるところでその姿をとらえた。足を速めて後を追い、男が宝飾品店の前に立ち止まっている姿を再びとらえた。頭巾の男は何かをたずね、宝石商がとり出した盆の上の光りものを調べはじめた。
警部は思い切って近くにより、男の顔を一目みたいと願った。しかし頭巾の垂れがじゃまになった。ホンは宝飾品店と隣りあったそば屋に歩みより、二銭の丼を注文した。売り子がそばをすくいだしているうち、警部は頭巾の男から目を離さなかった。しかし今度は別の裕福そうな買物客が二人宝石商と話しこんでおり、警部の目をさえぎった。頭巾の男は手袋をはめた両手が見えるだけで、赤い石を満たしたガラス鉢を吟味しているところだった。彼は片方の手袋をはずし、ルビーを一つつまみ上げて右の掌にのせた。そして宝石を人さし指でこすった。別の二人の買手は先へ進み、男の姿が警部からまる見えになった。しかし頭をうつむけて立っているので、ホン警部はやっぱり顔を見ることができなかった。
警部はすっかりいらだって、そばをのみこむのもやっとだった。彼は宝石商が双手を高くさし上げ、盛んにしゃべりはじめたのを見た。明らかに頭巾の男と値段で言い合っていた。警部は懸命に耳をすませたが、まわりに立ってそばを食っている連中の話し声ががやがやと入り交って、何を言っているのか聞きとれなかった。
彼はすばやく一口ほおばった。また目をやった時は宝石商が肩をすくめているところだった。そしてなにか小さなものを紙で包んで手渡すと、頭巾の男はさっさときびすを返して人混みの中に消えた。
ホン警部はまだ半分はそばの残っている丼を売台の上におき、そのあとを追った。
「おい、じいさん、うちのそばが気に入らねえのか?」と売り子が腹を立ててどなった。しかし警部の耳にははいらなかった。彼は頭巾の男が酒場にはいるところを見きわめた。
警部はほっとひと息ついた。足を止めると彼は人波の頭越しにすかし見た。すすけた看板の消えかかった文字はなんとか判読できた。それは「春風亭」だった。
彼は通行人を眺めて、見知った者をみつけ出そうとした。だがただ人夫や物売がいるばかりだ。ふと、何度か引き立ててやったことのある靴職人を見つけて、さっそくその袖をつかんだ。男は怒って問いかえそうとして口を開いたが、警部とわかるとにっこりした。
「ごきげんよう、ホン先生」と男は行儀よく言った、「あなたのためにすてきな冬靴を、いつ造らせていただけますかな?」
ホン警部は男を道ばたにひっぱっていった。そして名刺と銀一片を入れてある色あせた錦の小さな名刺入れを袖の中から取りだした。
「きいてくれ」と彼はささやいた、「できるだけ早く政庁へ駆けつけて、知事閣下にお会いしたいと言ってほしいんだ。門番に私からの緊急連絡があるといい、この名刺入れを証拠に見せたまえ。判事に会えたら、すぐに副官三人を連れて向こうの酒場まで、われわれの探索中の人物を召捕りに来てもらうよう言うんだ。さあ、この銀粒を手間賃にとってくれたまえ!」
銀粒を見て靴職人は眼を丸くした。しきりに礼を言い始めると、警部はそれをさえぎった。
「行け!」と彼は吐き出すようにいった、「できるだけ速く走れ!」
そうしてホンは酒場の側へ渡り、中にはいった。
なかは思ったより広くて、五十人以上の人々が三、四人ずつ松材の卓につき、安酒を飲みながら騒がしく話をしていた。無愛想な給仕が一人、酒|注《つ》ぎをのせた盆を高々と支え持って走り回っていた。
警部は脂燭《しそく》の煙がたちこめる中をすかしてすばやく室内に目を走らせた。黒い頭巾をかぶった男の姿はなかった。
テーブルの間を縫って進むうち、ふと料理屋の奥に狭い戸口と憐りあって人目につかぬ一角があるのが目にはいった。小卓一つ置くのがやっとの広さで、そこに頭巾の男が店内に背を向けてすわっていた。
力の抜ける感じで、彼は男の前に置かれた酒注ぎと狭い戸口とを見くらべた。この手の低級な食い物屋では注文したものに引きかえで金を払うきまりなのはわかっていた。だから、頭巾の男が出ようと決めればいつでも出て行ける。だが自分は判事の到着まで何がなんでも男をこの酒場に引きとめておかねばならないのだ。
警部はその一隅に歩みより、頭巾の男の肩を叩いた。男がぎくっとしてふり向くと、調べていたルビーの玉二つが床に転げ落ちた。
男をそれと知ると、ホン警部の顔が色を失った。
「こんなところで何をしておいでです?」信じられない様子で彼は言った。
男は人混みに目を走らせた。誰も彼らのほうに注意してはいなかった。男は指を口にあてた。
「すわってください」と彼はささやいた、「そのことでなにもかもお話ししましょう」
腰掛を一つそばに引きよせて、警部をそこにすわらせた。
「よく聞いてください!」男は警部のほうへ体を寄せた、と同時に長い細身の小刀をつかんだ右手が袖から出た。電光石火のすばやさで、彼はそれを深く警部の胸に突き刺した。
ホンの眼が大きく見開かれ、叫ぼうとしたが、血が口から溢れでた。血にむせ、うめき声をたてて、彼は卓上に倒れ伏した。
頭巾の男はそれを平然と見つめ、同時に店のなかに目を配った。誰も二人のほうを見てはいなかった。
警部の右手が動いていた。震える指で、彼は卓上の血のなかに姓の一字をしるした。そのあと体をひきつらせて動かなくなった。
頭巾の男は軽蔑するようにその文字を擦り消した。そして血のついた指をホン警部の肩でぬぐった。
人混みにもう一度ちらりと目を走らせると、男は立ちあがり、裏口を開けて出ていった。
ディー判事が、マー・ロン、チャオ・タイ、タオ・ガンをしたがえて春風亭に通じる通りに駆けこんだ時には、一群の人々が表口の提灯の下にたむろして、興奮してしゃべっているのが見られた。
ディー判事はがっくりした。誰かがどなった、「政庁の衆が殺人の捜査にきたぞ!」
人々はあわてて道をあけ、判事が駆けこみ、副官三人があとに続いた。彼は一番奥の片隅に立つ人々を押しのけた。次の瞬間、卓上の血だまりのなかに崩おれたホン警部のなきがらを見おろして、凝然《ぎょうぜん》と立ちすくんだ。
酒場の亭主が何か言おうとしたが、四人の顔つきを見るとあわてて引き下がり、他の者たちも自分といっしょに部屋の向こう側へひきさがらせた。
ややあって、ディー判事はかがみこんでそっと死人の肩に触れた。それから注意深く灰色の頭を持ち上げ、上着をゆるめて傷を調べ、再び静かに頭をテーブルにおろした。そして袖の中に腕を重ねて立ったとき、副官三人は急いで目をそらした。ディー判事の頬に涙が光っているのを彼らは見たのだ。
タオ・ガンがまずこの恐ろしい衝撃から立ちなおった。彼はテーブルの上をよく調べ、それからホン警部の右手をみつめてから言った、
「勇敢な人は、自分の血で何かを書こうとしたように思います。ここにおかしな汚れがあります」
「あの人はわれわれとは比べようもない!」チャオ・タイが激した調子で言った。マー・ロンはあごに血が滴るほどに唇をかみしめていた。
タオ・ガンは膝をついて床を調べた。立ち上がると黙ったまま、みつけた二個のルビーを判事に見せた。
ディー判事はうなずいた。そして聞きなれない、かすれた声で言った、
「ルビーのことはわかっている。だがもう遅い」ちょっと黙っていたあとで言いそえた、「店主にたずねなさい、わが警部は黒い頭巾の男といっしょにここへ来たのかどうか」
マー・ロンが主人を呼んだ。彼は何度かのどをごくりごくりと鳴らしてから、どもりどもり言った、
「わ、わしらは、何も存じませんです、閣下様。く、くろずきんの、お、おとこは一人でこのテーブルにすわっとりました。給仕の話じゃ、そいつは酒注ぎ一本注文して金を払ったそうです。このお気の毒な旦那はあとでいっしょになられたに違いありません。給仕が見つけたとき、別のやつは行ったあとでした」
「どんなようすの奴だった!」とマー・ロンがほえた。
「給仕には眼が見えただけでした、閣下。そいつは咳をしており、頭巾の垂れを引きおろして口までかぶせていましたし、それに……」
「そんなことはどうでもいい!」と判事が沈んだ声でさえぎった。主人はこそこそと引き下がった。
ディー判事は黙りこんでいた。副官たちもあえて口を開くものはいなかった。
にわかに判事は顔を上げた。燃えるような眼つきでマー・ロンとチャオ・タイをみつめて、しばらく考えたすえ、彼は二人に厳しく言った。
「よくきけ! 君らは明日の明けがた五羊村まで馬で行く。チュー・ターユアンを連れて行け、あれは近道にくわしい。村の旅籠《はたご》へ行って、パン・フォンがその宿に泊っていたとき会った男についてすべてきき出せ。それからチュー・ターユアンも連れてまっすぐこの政庁へもどってくるのだ。わかったな」
副官二人がうなずくと、判事はわびしげにつけ加えた。
「警部のなきがらを政庁へ運びたまえ」
彼はきびすを返し、もう何も言わずに立ち去った。
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第十六章
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三人の騎手たちは朝駆けから戻り
心得違いの女がおのれの愚を語る
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翌日、昼近い頃、毛皮の帽子に雪を載せた三人の騎手は、政庁の前で馬を止めた。
大勢の人が列をなして、正門からすいこまれていく。
マー・ロンが驚いてチュー・ターユアンに話しかけた。
「公判が開かれるらしいですよ!」
「急ごう」とチャオ・タイがつぶやいた。
タオ・ガンが本院子《ほんなかにわ》に出迎えた。
「閣下は特別法廷を召集することを必要とされたんだよ」と彼は三人に告げた。「緊急に考慮を要する重大事実を公表しなければならなくなってね」
「判事の執務室に参上しておききしましょう」とチュー・ターユアンが興味深げに言った。「警部殺害についてのニュースがあるのかもしれない!」
「公判はもう始まります」とタオ・ガンが言った、「今は邪魔されたくないと判事はおっしゃっています」
「そういうことなら、このまま法廷に向かったほうがよさそうだ。チューさん、いっしょにおいでになれば、壇のそばに席をとりますよ」とチャオ・タイが言った。
「前列の席で結構です」とチュー・ターユアンは答えた、「だがもし裏入口から連れこんでいただければ、人混みをかきわけないですみますな。相当な人出のようだ」
三人は回廊にはいり、判事の出入りする壇の後ろの戸口から廷内にはいった。マー・ロンとチャオ・タイは壇の端に行って立ち、チュー・ターユアンはさらに進んで傍聴者の最前列、巡査の後ろに立った。
満員の廷内はざわめいていた。人々の眼が期待をこめて、高い判事席のディー判事の肘掛椅子に集まっていた。
あたりが急に静かになった。判事が壇上に姿を現わしたのだ。腰を下ろしたとき、その顔が昨夜にもまして憔悴の色を加えていることに、マー・ロンとチャオ・タイは気づいた。
驚堂木を机に打ち下ろすと、判事は宣した、
「北州《ペイチョウ》県政庁の特別法廷は、骨董商パン・フォン宅における殺人事件に関し、重大な新展開を取り扱うため開廷された」巡査長に向かって彼は命じた、「第一の証拠物件を持ってきなさい」
マー・ロンがまごついた顔でチャオ・タイの方をちらっと見た。
巡査長は大きな油紙の包みを持ってきた。彼はそれをそっと床におくと、袖から巻いた油紙をとりだして判事席の一端に敷いた。それから包みをとりあげてそこにのせた。
ディー判事が身をのりだして、手早くそのてっぺんを開いた。包み紙が落ちると傍聴者の中から声がもれた。判事席の上には雪だるまの首がのっていた。眼は二つの赤く光る石で表わされ、ぎらつく邪悪な眼つきで観衆をにらみつけているようだった。
判事は何も言わなかった。彼はじっとチュー・ターユアンを見つめていた。チューはそろそろと進みでた、一歩一歩と、雪だるまの首に目をすえて。
判事の断固たる合図をうけて、巡査たちは急いでわきへ退いた。チューは判事席まで歩み寄り、首のすぐ下に立った。そして奇妙にうつろな眼つきでそれを見つめた。
ふいに彼はおかしな、むずかるような声を出した、
「おれの赤い石を返せ」
手袋をはめた手をさしあげた時、ディー判事の手が伸びた。彼が驚堂木で首のてっぺんを叩くと、雪が粉々に砕け散った。女の切断された首が判事席にのっていた。顔のなかばは濡れた髪のふさでおおわれていた。
マー・ロンがすさまじい怒声を発し、壇からとびおりてチュー・ターユアンにとびかかろうとした、が、判事が万力のような力でその腕をつかんだ。
「自分の席にいろ!」と彼は鋭く命じた。チャオ・タイがマー・ロンのそばに駆けつけて引きもどした。
チュー・ターユアンはうつけた表情で女の首をみつめながら凝然と立ちつくしていた。廷内は死の沈黙にとざされた。
チューはそろそろと視線を下のほうにうつした。急にかがみこんで、雪といっしょに下に落ちた二粒のルビーを拾いあげた。手袋をはずし、腫れあがっていちめん水泡におおわれた左手のたなごころに石をのせると、右の人さし指でこすった。子どものような笑みが、その幅の広い顔にひろがった。
「きれいな石だ!」と彼はささやいた、「きれいな赤い石、血の滴りのような!」
満座の人々の眼は、おもちゃを手にした子どものように幸せそうに笑っている、その無気味にかさばった姿に集まっていた。タオ・ガンが判事席の前に連れてきた、背の高いヴェールをかぶった女に目を留めたものは誰もいなかった。女がチュー・ターユアンと向かい合って立ったところで、ディー判事がいきなり問いかけた。
「おまえはリャオ・リエンファンの切断された首を覚えているか?」
同時にタオ・ガンが女の顔のヴェールをはいだ。
チューは急に夢から覚めたように見えた。彼の眼は面前の女の顔から、判事席の上の首へとすばやく動いた。それから彼はずるそうな笑みを浮かべて女に言った。
「急いでそれに雪をかぶせてしまわなくては!」
彼は膝をついて舗石をさぐった。
群衆からざわめきが起こり、にわかに高まっていった。が、判事が断固たる様子で手を挙げると止んだ。
「イエ・タイはどこにいる」と判事はチューにたずねた。
「イエ・タイ?」と、チューは頭を上げて問い返した。そして大声で笑った。「あいつも雪のなかさ!」と彼は叫んだ、「雪のなかだよ!」
ふいに彼は元気をなくし、ぎくっとおびえる様子だった。女をちらりと見ると、哀れっぽい声で叫びをあげた。
「おまえも手伝っておくれ! もっと雪が要るんだよ!」
女はしりごみして判事席にもたれかかり、両手に顔を埋めた。
「もっと雪を!」チュー・ターユアンは金切り声をあげた。そして狂おしく石の床を探りまわり、舗石の溝に爪を裂きはがした。
ディー判事が巡査長に合図をした。二人の巡査がチューの腕をつかんで引き起こした。彼はわめきののしり、口から泡を吹きながら激しくあらがった。さらに四人の巡査がとびだし、さんざんてこずった挙句に、荒れ狂う男は鎖をかけて連れていかれた。
ディー判事は重々しく宣した、
「当法廷は土地所有者チュー・ターユアンを、リャオ・リエンファン嬢殺害容疑、ならびにイエ・タイ殺害容疑をもって告発する。パン夫人はその共犯者である」
傍聴者の怒りの声を、手を挙げて押し止めてから、彼は続けた。
「今朝、本官はチュー・ターユアンの邸宅を捜査し、人目をさけた一廓にパン夫人がひとり住まっているのを発見した。リャオ嬢の首はある後庭の雪だるまの中に見いだされた。いま諸君の前に提示したのは、木製の模造品である」
ついで、ディー判事は女に向かって言った。
「パン夫人、本姓イエは、被告チュー・ターユアンとの関係をありのままに申し述べ、チュー・ターユアンがいかにしてリャオ・リエンファン嬢を誘拐し、ついで殺害するにいたったかを述べよ。
パン夫人がこれらの犯罪の共犯者であることについて、当法廷は明白な証拠を有するため、同女に死刑を提言する。しかし何もかも洗いざらい白状するならば、当法廷は穏便な方法による死刑を考慮してもよい」
女はゆっくりと頭を上げ、低い声で語りはじめた、
「手前が初めてチュー・ターユアンに会いましたのは、ひと月ほど前、屋内市場の宝飾品店の前でございました。あの人はルビーをはめた金の腕輪を買い、そして私が羨しげにちらっとみたのを知っていたに違いありません。なぜなら、そのあと通りをずっと先に行った所の行商人から私が櫛を買っていた時、ふいにあの人が私のそばに立っていたのですから。あの人は話しかけてきて、私が誰だかきくと、夫からよく骨董品を買うと申しました。あの人の関心をひいたことで私はいい気になり、会いに行ってもよいかときかれるとすぐ承知して、夫が出かけるはずの午後を教えました。あの人はさっそく私の袖に腕輪をつっこんでから去りました」
パン夫人は黙りこんだ。しばらくためらったあとで、顔を伏せたまま続けた、
「その午後、私はいちばんいい長衣を着、|※[#「火+亢」、unicode7095]《カン》の寝床をあたためて、熱爛の酒注ぎも用意しました。チューはやってきて優しく話しかけ、私を同輩のようにあつかいました。お酒はさっさと飲みましたが、私の心待ちにしていたような誘いには及びませんでした。私が長衣を脱ぐと彼はにわかに居心地悪そうにし、下着をすべり落とすと顔をそむけました。あの人は私にまた着物を着るようにと無愛想に言い、それに続けてもっと優しい声で、私を実に美しいと思い、愛人にしたいと切望していると申しました。だが自分のために一働きして、信頼できるところを見せてくれなくてはいけないと。私はすぐ承知しました、なぜなら、気前よく褒美をくれることの確かなこの裕福な人と、おつき合いしたい気持ちが山々だったからです。私はあのわびしい家での暮らしを憎んでおりました。私の貯めたわずかなお金はいつも弟のイエ・タイに持っていかれてしまうのです……」
女の声が細くとぎれた。判事の合図で、巡査長が苦い茶をすすめた。女はそれをむさぼり飲んでから、話を続けた。
「定まった日に老女と連れ立って屋内市場に来る娘がいると、チューは私に申しました。私はチューとそこへ行き、チューがその娘を教えたら、私は老女に気づかれずに娘さんをおびき出すというのです。あの人は待合せの日と場所を指示し、金の腕輪をもう一つ私にくれると行ってしまいました。
私は約束の日にチューと会い、彼は私の後からついてきましたが、その顔はなかば黒頭巾でかくされていました。私は娘さんに近づこうとしましたが、いつも老女がすぐそばについているので、あきらめねばなりませんでした」
「あなたはその娘を知っていたか?」とディー判事が言葉をはさんだ。
「いえ、存じませんでした、閣下、ほんとうでございます!」パン夫人は声を上げた、「どこかの評判のお女郎さんだと思いました。数日後、私たちはまたやってみました。二人連れは市場の南のほうまでぶらぶら歩き、芸をする熊を連れたタタール人を見物していました。私は娘さんに並んで立ち、チューが教えたとおりに「ユイさんが会いたがっていますよ」と耳打ちしました。娘さんは一言もなく私についてきました。
私はその人をチューに教えられた近くの空家へ連れてゆき、チューはすぐあとについてきました。戸が半開きになっており、チューがすばやく娘さんを押しこみました。チューは私にあとで会うといい、私の鼻先で戸に錠をおろしました。
張り紙を見た時、私はチューが有名なお宅の娘さんを誘拐したことを知りました。私は夫のことづてをよそおってチューの家にかけつけ、娘さんを放してあげてと頼みました。けれどもチューは、もう娘をこっそり自分の屋敷の人目につかぬ一廓に移してしまった、娘がそこにいることは誰にもわかるまいといいました。そして私にかなりの額のお金をくれ、近いうちにまた必ず私を訪ねると約束しました。
三日前、私は市場でチューに会いました。娘が面倒なことになった、家のほかの者の注意を引こうとするので、どこにも置き場がないといいました。私の家は辺鄙《へんぴ》な場所にあるので、一晩娘を置いてほしいというのです。ちょうどその日、私の夫は二日がかりで出かけると私は答えました。その夜、夕食のあと、チューは尼さんに変装した娘さんを引きしたがえてやって来ました。娘さんに話しかけてみようとしたのですが、チューが私を戸口へ押しやり、出ていけ、二鼓が鳴るまではもどるなと命じました」
パン夫人は手を両眼にあてた。再び話しはじめたとき、その声はかすれていた。
「私がもどってみると、チューはなかば茫然として広間ですわりこんでいました。心配になって、何かあったのかとききますと、チューはしどろもどろに娘が死んだと告げました。私は寝室に駆けこみ、チューが絞め殺したことを知りました。恐ろしくて気が狂いそうになって私はチューのところに馳せもどり、区長を呼ぶと言いました。色事に手を貸すのは構いませんでしたけれど、殺人事件にまきこまれるのは絶対にお断わりでした。
急にチューは平静になりました。私が自分の愛人である以上、死刑は当然だとすげなく申すのです。しかし殺人をかくすことはたぶんできる、ついでに誰にも疑われないでお前を妾として自分の家に入れようと。
チューは私を寝室に連れもどし、無理やり私を裸にしました。全身くまなく調べて傷あとや大きなあざなどがないことを見てとると、お前は運がいいから何もかもうまく行くだろうと申しました。そして私の指から銀の指輪を抜きとり、床に落ちている尼さんの着物を着るようにと命じました。私はまず自分の下着をつけたかったのですが、彼はひどく腹を立ててマントを私の肩に投げかけると外へ押し出し、広間で待っていろと命じました。
寒さと恐怖で震えながら、どれほどすわっておりましたでしょうか、やっとチューが大きな包み二つを持ってもどってきました。「ここに切りとった娘の首と、お前の着物と履物を持ってきた」とチューは落ち着きはらって申しました。「これならだれでも胴体はお前のだと思うだろう、そしてお前はわしの家で、わしの可愛い女として安穏にしていられる」「あなたはどうかしています!」と私は叫びました、「あのひとは生娘《きむすめ》よ」彼はにわかに激怒して、口から泡を吹きながら罵りはじめました。「生娘だと!」彼は「ちっ!」と激しく歯を鳴らしました、「淫乱な雌犬めが、うちの屋根の下でおれの秘書といっしょにいるところを、おれは見たんだ!」
憤怒に震えながら、チューは包みの一つを私に持たせ、私たちは出かけました。私に外から表門を閉めさせ、市の城壁の陰づたいにチュー家に行きました。あまり恐ろしくて、寒さも気になりませんでした。チューは屋敷の裏手にまわって裏口の戸を開け、包みの一つを庭園の隅の叢《くさむら》のかげに置き、暗い回廊をいくつも抜けて独立した一廓に私を連れていきました。ほしい物は何でもそこにそろっていると言うなり、彼は行ってしまいました。
その部屋は贅沢にしつらえられ、つんぼで唖の女の人が上等の食べ物を運んでくれました。チューは次の日に来ました。ひどくうわの空な様子で、ただ私がやった宝飾品をどこにしまったかとだけたずねました。衣裳箱の秘密の隠し場所のことを話すと、彼はそれをとってきてくれると言いました。私は気に入っているきもの何着かも持ってきてと頼みました。
ですが、翌日現われたときには、宝飾品はなくなっていたといい、きものだけを渡してくれました。私はいっしょにいてくださいと頼んだのですが、彼は手を痛めてしまった、別の晩に来ようといいました。それきりチューに会ってはおりません。これはみんなほんとうのことでございます」
判事が合図すると、上級書記がパン夫人の告白の記録を読みあげた。彼女はものうげに、間違いないことを認めて文書に拇印をおした。
ディー判事は重々しく言いわたした。
「あなたは実に愚かしいふるまいに走った。したがってあなたの生命をもってそれを償わねばならない。だが、チュー・ターユアンがあなたを指嗾《しそう》し、後には彼への協力を強制したのだから、本官はあなたのために穏やかな形態の死刑を提言するであろう」
すすり泣くパン夫人を巡査長が脇戸口に導くと、クオ夫人が彼女を牢に連れもどすため、そこに待っていた。
ディー判事は述べた。
「検屍官に犯人チュー・ターユアンの診断を行なわせる。彼の精神が永続的に狂うものかどうかは、数日中に明らかになるであろう。もし回復するものなら、本官は彼に最も厳しい形態での死刑を提案する、なぜなら、リャオ嬢、そして恐らくイエ・タイとともに、チューは当法廷の警部をも殺害したからである。われわれはただちにイエ・タイの死体の捜索にかかろう。
当法廷はリャオ同業組合親方のこうむった残酷な損失に対し、同情の意を申し述べたい。しかしながら、あわせて当法廷は、娘たちが結婚適齢期に達した時、ただちにそれにふさわしい夫を選択するだけでなく、なるべく早く婚礼をとり行なうよう配慮することが、父親たる者の義務であることを強調せねばならない。われらが従うべき規範を作成した古えの賢人たちは、すぐれた道理もないのにそうしたのではなかった。この訓戒はまたこの法廷に臨席する他のすべての家長たちにも向けられる。
パン・フォンはリャオ・リエンファンの胴体を納めた棺をリャオ親方に渡しなさい、回収された首といっしょに埋葬できるように。殺人者をどう扱うかが上級官庁で決定されれば、ただちにチュー・ターユアンの所有地のうちから、リャオ氏に対して身代金が支払われることになろう。当面その所有地は、秘書ユイ・カンの補佐を得て、当法廷の経理官により管理される」
判事は公判を閉じた。
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第十七章
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ディー判事極悪非道の殺人を解き
紙の猫に託された事について悟る
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面々が執務室にもどってくると、ディー判事は疲れた声音で言った。
「チュー・ターユアンは二重人格者だった。表向きは陽気なスポーツマンで、君たち、マー・ロンとチャオ・タイが好きにならないはずがない。だが芯は、彼が肉体的な一つの弱点をかかえていたことによって、腐敗し堕落しきっていたのだ」
彼が合図すると、タオ・ガンがさっそく茶碗に茶をついだ。判事はそれをうまそうに飲んでから、マー・ロンとチャオ・タイに向かって話を続けた。
「私にはあの男の家を捜索する時間が必要だったし、全く彼に気づかせずにおかなければならなかった、あの男は悪魔のように目はしが利くからだ。そこで私は君たち二人を彼といっしょに五羊村へ、みせかけの使命で行かせなければならなかった。もし警部が殺されるということがなければ、昨夜のうちにチューの犯罪事実にかんする私の推測を君たちに話しただろう。しかしあの事の後では、ホン警部を殺害した者に対して、何でもないようにふるまうよう君たちに求めることはできまいと感じたのだ。私自身、そんなまねができたはずはないから」
「もしそれを知っていたら」とマー・ロンが激して言った、「おれはあの犬畜生をこの手で絞め殺していたでしょう!」
ディー判事がうなずいた。長い沈黙があった。
やがて、タオ・ガンが言った、
「首無し死体がパン夫人のでないことには、いつお気づきになったのですか?」
「そのことはすぐに疑ってみるべきだった」と判事は苦々《にがにが》しげに言った、「何しろ死体にははっきりした矛盾点があったのだから」
「それは何ですか?」とタオ・ガンが熱心にたずねた。
「指輪だよ」ディー判事は答えた、「検屍のときイエ・ピンが、ルビーが外されていると言った。犯人がその石をほしいと思うなら、なぜ彼は指輪をあっさりそのまま死体から奪わなかったのかな?」
タオ・ガンが手で額を叩いた。判事は先を続けた。
「あれは犯人の第一の誤りだった。だが私はその矛盾を見おとしたばかりか、死体がパン夫人のものでないことを示すもう一つの手掛り、すなわち彼女の履物が紛失しているという点も見おとしていたのだ」
マー・ロンが相槌をうって言った。
「娘っ子たちの着ているゆるい長衣やすけすけの下着がぴったり合っているものかどうか見分けるのは難しいが、履物となればこれは別ですな」
「そのとおり」とディー判事は言った、「もしパン夫人の衣類を履物ぬきで遺留すれば、それがないことにわれわれが疑念を抱きはじめるだろうと、犯人は心得ていたのだ。またもし履物を残しておけば、それが死体の足に合わないことに気づくかもしれないと。そこで彼はこれによってわれわれが混乱させられ、履物がないことの意味を見のがすだろうと予測して、何もかも持ち去るという賢い手をうった」
一つため息をついてから判事は続けた。
「不運にも、彼の予測はよくあたった。しかしそこで彼は第二の誤りを犯した。それが私を正しい筋道に導き、私が前に見落としてきた事実に気づかせたのだ。彼にはルビーヘの執着があり、それをパンの家に放置することに堪えられなかった。そこで彼はパンの下獄中に寝室に押し入り、衣裳箱からとっていった。愚かしくも彼は、好みのきもの何着かを取ってきてというパン夫人の頼みをきいた。だがこのことが、私にパン夫人の生存を悟らせた。というのは、もし下手人が犯行を行なった時にその隠し場所を知っていたなら、彼はその時点で宝石を取っていたはずだ。誰かがあとで教えたに相違なく、それはパン夫人以外ではあり得ない。
そこから、石のない指輪の意味するところが私にわかりはじめ、なぜ下手人が衣類すべてを持ち去ったかも理解した。それは死体がパン夫人のものでないことを、われわれに気づかせないようにするためだったのだ。もし気づくとしたら、それができる人物はただ彼女の夫だけだということを犯人は心得ており、そのうえ彼が予測した事はまたもや的中したのだが、パン・フォンの嫌疑が晴れる時までに、死体はすでに棺に入れられているだろうということだった」
「閣下はいつチュー・ターユアンと犯行とを結びつけられたのですか?」とチャオ・タイが問うた。
「最後にパン・フォンと話し合った、そのあとだったよ」とディー判事は答えた、「私はイエ・タイを疑うことから始めた。私は殺された女が誰であり得るかを自問し、リャオ嬢が行方不明の報告のあった唯一の女性であるところから、それに違いないと思いついた。検屍人は死体が処女でないと言ったが、私はユイ・カンの告白から、彼女もそうでないことを承知していた。それにあの時のわれわれの考えでは、イエ・タイがリャオ嬢を誘拐したのであって、彼ならば首を切り落とす力は十分にある。イエ・タイが怒りのため発作的にリャオ嬢を殺し、姉が殺人の隠蔽に手をかして、その後自分も姿を消したのだという魅力ある推測も考えてはみた。だがその考えはすぐに捨てたよ」
「なぜです?」とタオ・ガンがあわててたずねた、「私にはそれがいちばん適切に思える。イエ・タイと姉がたいそう親密なことはわかっていましたし、パン夫人にとっては、これが好きでもない夫のもとを去る好機となったでしょうから」
判事はかぶりを振った。
「漆かぶれの手掛りを忘れてはいけない」と彼は言った、「パン・フォンの申し立てから、あの湿った漆の層でおおわれたテーブルに不注意に触れたのは、犯人のほかにあり得ないことを私は知った。パン夫人はそれをよく知っていたから、その小卓にさわらぬよう注意しただろう。イエ・タイには漆かぶれがなかったし、殺人者がその不運ないけにえに対してしたことは、手袋をはめてできることではない。
漆かぶれはチュー・ターユアンを指示した。二つの現象が思い出された、それ自体では些細なことだが、ここでにわかに特別な意味を持ってくる。まず、チューが広間の中での通常の食事をとりやめて戸外の狩場料理にしようと急遽決定したことは、漆かぶれで説明がつく。彼はかぶれた手をかくすため、常時手袋をはめていなくてはならなかった。第二は殺人の後の朝、マー・ロンとチャオ・タイがいっしょに狩りに行ったとき、チューが狼を射る好機をしくじったことを説明する。チュー・ターユアンは恐怖の夜を引きずっており、彼の手はひどく傷ついていたのだ。
さらに、犯人はパンの近所に住んでいなければならず、恐らく非常に広い邸宅を持っている。人に見られてはならぬ女を連れ、大きな包みを持ってパンの家を出たに違いないことはわかっていた。夜番や軍の巡警に出会う危険は避けたはずだ、なぜならそういう連中には、夜中に大きな荷物を持って歩きまわる人間を止めて職務尋問するという、ほめられる習慣があるのだから。さて、われわれはパンがさびれた通りに住んでいることを知っているが、そこからチュー邸の裏手へは城壁の内側づたいに歩いて行けるうえ、途中にあるのは古い倉庫ばかりだ」
「ですが」とタオ・ガンが一言した、「屋敷に行き着く手前で、東の城門に近い大通りをよぎらなければなりませんね」
「それは大した冒険ではない」と判事はいった、「城門の番人は門を通過する人々に目を光らせているだけであって、内側を通りかかる人々にではないからね。
私がこうして最も容疑者らしい存在としてチュー・ターユアンに思いあたったとき、もちろん私はすぐに、何が彼の動機となったかと考えた。するとチューのおかしなところがどこか急にはっきりわかってきた。健康で活気のある男に八人の妻がいて、それでも跡継ぎが一人もいないというのは、男に身体的な欠陥があることを暗示する。それはときに男の性格に、危険な作用をもたらすのだ。指輪から石を抜いたこと、腕輪を奪うためパンの家に忍びこんだことに示されるルビーヘの執着は、チューにかんする私の心像に意味深長な一筆を加える。つまり心のゆがんだ男の像だ。彼をしてリャオ嬢を殺害せしめたのは、彼女への気違いじみた憎悪だったのだよ」
「その時どうしてそれがおわかりになったのですか、閣下」とタオ・ガンがまたたずねた。
「最初は嫉妬だと思ったね」とディー判事は答えた、「若い二人に対する大人の嫉妬さ。しかし、その考えはすぐすてた。ユイ・カンとリャオ嬢の婚約は三年越しのものだが、チューの激しい憎悪はごく最近のことだからね。そこで私は奇妙な符合を思い出した。チュー・ターユアンの書斎の前の廊下でイエ・タイと老女中が立ち話した時、ユイの秘密を彼女から聞き知ったとイエ・タイが言ったということを、ユイ・カンはわれわれに告げた。そのさいユイ・カンは、その後やはりチューの書斎の前の廊下で、その女中とこの事について自らわたり合ったとも語った。チューは会話を両方とも小耳にはさんだのかもしれぬと私は気づいた。最初の会話では女中がユイ・カンの寝室での密会のことをイエ・タイに教え、リャオ嬢に対するチューの憎悪に理由を与えた――自然がチュー自身には拒んだ幸せを、彼女はほかならぬチューの家の屋根の下で一人の男に与えたのだから。チューにとってリャオ嬢は彼のフラストレーションの象徴となり、彼女をものにすることは自分の男らしさを回復するための唯一の手段であると感じられた、と私には想像できた。彼の立ち聞きした二つ目の会話、ユイ・カンと女中とのは、イエ・タイがゆすりを働いていることを彼に知らしめた。イエ・タイが姉とたいへん親しいことをチューは知っていたから、パン夫人が二人の会合のことを、もしかすると屋内市場の例の娘のことまで弟に話したかもしれないと不安に思った。イエ・タイが知って、死ぬまで自分をゆすりにかかるような危険は絶対に見過ごせないと心に決め、イエ・タイを消そうと決心した。そのことは事実とぴったり符合している、イエ・タイが姿を消したのは、まさにユイ・カンが老女中と話をした日の午後のことだ。
チュー・ターユアンには犯行の動機も機会もあると確信したとき、もう一つのことが思い浮かんだ。私が迷信深い人間でないことは諸君みんなが知るところだが、そのことは超自然的現象の可能性を私がまったく認めないということにはならない。チュー・ターユアン邸での宴会の夜、ある後庭に座している雪人《せつじん》を見たとき、私ははっきりと非業《ひごう》の死のまがまがしいにおいをかいだ。食事のとき、チューはそれら雪だるまは召使の子どもたちの造ったものであることを納得させようとした。だがマー・ロンとチャオ・タイは、弓の稽古の的にするためチュー自身もまたそれを造ると私に教えた。この凍結の季節に切り取った生首を急いで隠さなければならないとしたら、それに雪をかぶせて雪だるまの頭にするのは悪い解決方法ではないということが、ふと思い浮かんだ。とくにチューにとっては魅力のある方法だ、それはリャオ嬢に対するチューの異常なまでの憎しみを満足させるためにさらに役立つのだから。なぜならそれは彼に射的の稽古を想い出させたであろう、雪だるまの頭めがけて次から次と矢を放つ……」
判事は黙りこみ、体をおののかせた。彼はあわてて毛皮のマントを体にまといつけた。三人の副官たちは色蒼ざめ、すさまじい表情で彼を見つめていた。狂気の犯罪のまがまがしいにおいが部屋の内に漂っているようだった。
長い沈黙のあと、ディー判事がまた話し始めた。
「こうなるとチュー・ターユアンが犯人だという信念をもったが、具体的な証拠がなかった。だから昨晩裁判のあとでチューにかんする私の推論を諸君に説明し、不意打ちの家宅捜索をどう計画するかを検討するつもりでいた。もしほんとにパン夫人がそこにいることがわかれば、チューはもう手も足も出ない。しかしながら、そのときチューは警部を殺害した。もし私が半日早くパン・フォンと話し合っていたら、チューがホンを殺さないうちにチューに対して手を打っていただろう。だが、運命は別様の道を定めていたのだ」
悲しみの沈黙が部屋を領した。
やがてディー判事が言った。
「あとはみなタオ・ガンが話してあげられるよ。君たち両人がチューといっしょに市を出たあと、私はタオ.ガンと巡査長を連れてチュー邸に行き、そこでパン夫人を発見した。彼女は閉めきった輿《こし》で、誰にも知られることなく政庁へ移送された。タオ・ガンはどの寝室にも秘密ののぞき穴があるのを発見したし、私が老女中を尋問したところ、彼女はユイ・カンの情事について何も知らないとわかった。今ではわれわれはパン夫人の自白から、ユイ・カンとその婚約者をスパイしていたのがチュー自身であったことを知っている。チューは一度イエ・タイに向かって不注意な言葉を洩らしたのだろう、そして抜け目のない悪党めはその余のことを推量したのだと私は思う。しかしユイ・カンがイエにどうやって秘密を知ったのかたずねたとき、イエは老女中の話をでっちあげた。ゆすりの計画にチューをとりこむところまではしなかったのだ。その後イエ・タイが大胆にもチューをゆするところまで行ったのか、それともチューがユイと女中の話をぬすみ聞いて、イエが自分をゆすろうとするのではないかと恐れただけだったか――私はそう推測したのだが――それは恐らくもう絶対にわかるまい。なぜならチューは精神異常をきたし、イエ・タイの死体はどこか雪野原に転がっていると信ずるからだ。
私はチューの八人の妻たちとも話をした。チューとの生活について彼女らが語ったことを、私は忘れたい。女たちはそれぞれの実家に帰されるよう、すでにしかるべき指示を出しておいた。結審後にチューの財産から応分の分け前を受けとることになるだろう。
チュー・ターユアンの狂気は、彼を法の圏外においた。より高き御力のみが彼を裁き給うであろう」
判事は机の上に置かれたホンの古びた名刺入れをとりあげた。色あせた錦を指先で優しくなでると、そっと長衣のふところ深くに納めた。
彼は机上に一枚の紙をのべ、筆をとりあげた。助手三人は急いで起ちあがって辞去した。
ディー判事はまず郡長官に対し、リャオ・リエンファン嬢殺害にかんする詳しい報告を書き、ついで書状二通をしたためた。一通は太原《タイユアン》にいるディー判事の弟の家で執事をつとめているホン警部の長男にあてて。警部はすでに男やもめで、息子が一家の家長であったから、彼が埋葬地を決めることになるのだ。
二通目はやはり太原《タイユアン》の妻の老母方気付で、第一夫人にあてて書かれた。まず儀礼的に老夫人の病状をたずねたあとで、警部の死去についてしらせた。しきたり通りの固苦しい言いまわしに続いて、彼はもっと個人的な調子でつけ加えた。「非常に大切に思っていた人がなくなると、その人を失ったばかりか、自分自身の一部を失ったような気がするものです」
書状を事務官に渡して急ぎ発送するよう命じたあと、一人ぼっちの昼食をとり、憂わしげな物思いに沈んだ。
判事はラン師殺害事件やルー夫人の事件について考える気が起きなかった。疲労困憊した気分だったのだ。彼は事務官に命じて、穀物が不作のとき無利子で農民に貸し出される政府貸付金の計画にかんする草案が入っている書類綴を持ってこさせた。これは彼の本意とする企画で、多くの宵をホン警部とともに、財務省の認可を得られそうな計画案を立てようとつとめてきたのであった。県政の他の出費を節約すればできることだと、ホンは考えていた。副官たちがはいってきたとき、判事は計算にかかりきっているところだった。
書頬を押しやって、彼は語った。
「ラン師殺害事件について協議しなくてはならないね。彼を毒殺したのは女だと、私はまだ考えている。だがこれまでのところ、彼が一人の女性と親しかったことを示唆するのは、あの若い拳術家の陳述のみだ。彼は一人の女が夜ラン師を訪ねたことを告げたが、彼のもれ聞いた言葉は、女が誰であるかを知る手掛りを与えなかったと言った」
マー・ロンとチャオ・タイは残念そうにうなずいた。
「驚いたのは」とチャオ・タイがいった、「二人ともに型どおりの挨拶を交わしていないことです。それからみても二人は非常によく知り合っていたと言えますね。ですが閣下、閣下が前おっしゃったとおりで、女が浴室にはいったとき、ランは自分の裸身を隠そうともしなかったのですから、もうそれははっきりしているのですが」
「青年がもれ聞いた会話の断片というのは、正確なところどんな言葉だったのか?」とディー判事がたずねた。
「いえ、特別なことは何も。ランが彼女を避けるといって女は怒っていたように見え、ラン師は問題にならないと返事しました」とマー・ロンは答えた、「『仔猫』というような言葉を言い添えたそうです」
判事が突然すわりなおした。
「仔猫だと?」いぶかしげに彼は問いかえした。
彼はルー夫人の小さな娘の質問を思い出した。その子は母親のところへ訪ねて来る人が話していた仔猫はどこにいるのかしらときいたのだ。これで風向きが変わる! 彼はさっそくマー・ロンに言った。
「すぐ馬でパン・フォンの家へ行きたまえ。パンはルー夫人がまだ子どもだった頃のことを知っている。彼女に仇名《あだな》があったかどうか、パンにたずねるんだ」
マー・ロンはびっくりしたらしかった。だが彼にはあれこれききかえす習慣はなく、すぐにでていった。
ディー判事はそれ以上説明を加えなかった。タオ・ガンに新しく茶を用意させ、県内の一般住民に対する憲兵隊の管轄権をめぐってもちあがった面倒をどう解決するか、チャオ・タイと相談した。
マー・ロンは意外にはやくもどってきた。
「いやあ、パンさんはひどく落ちこんでいましたよ」と彼は報じた、「奥さんが殺されたという初めの知らせよりも、不貞の知らせのほうがひどくあの人を打ちのめしたのです。ルー夫人のことをたずねましたら、学校友達はいつも『仔猫』という仇名で呼んでいたといいました」
ディー判事は拳固で机をガンと打った。
「それこそ求めていた手掛りだ!」
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第十八章
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検屍官の妻は二女囚について報じ
若い後家が再び法廷で審問される
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ディー判事の三人の副官が去ったあと、クオ夫人がはいってきた。
判事はあわてて手ぶりで合図して席につかせ、彼女のぶんの茶も注《つ》がせた。この婦人に対するとひどくやましい気分になるのだ。
彼女がまず判事の茶を注ごうとして机の上に身を傾けたとき、ディー判事は彼女の一部をなしているほのかなかぐわしさを再び感じた。
「閣下、パン夫人が何も食べず、泣いてばかりいることをお知らせに上がりました。夫に一度面会の許可がおりまいものかとたずねるのです」
「それは規則に反することだ」とディー判事はむずかしい顔で答えた。「だいいち二人にとって、それで何かよくなりはしまいと思うが」
「あの女《ひと》は」とクオ夫人はもの静かに言った、「死刑になることの覚悟はついていて、自分の運命を甘んじて受けようとしています。けれども今では多くの点で自分が夫を好きだったことがわかってきて、夫に詫びたい、そうして自分の罪のせめていくらかでも償いをつけた気持ちで死にたいと望んでいます」
判事はしばらく考えこんでから言った、
「法の主要な目的は規範を回復すること、犯罪により生じた揖失をなし得る限り補償することにある。パン夫人の謝罪は夫を慰めることになるから、その願いは聞き届けられよう」
「それから、これもご報告申しあげたいのですが」とクオ夫人は続けた、「私はルーさんの背中をいろいろの膏薬で治療しております。傷はよくなるでしょう。でもやはり……」
声がとぎれた。判事が励ますようにうなずいてみせると、彼女はあとをついだ。
「あの人は体力的にはあまり丈夫そうでありません、あの人を支えているのは並みはずれた意志の力でございます。もう一度背中を鞭うつならば、一生健康体をとりもどせないことになるのではないかと存じます」
「有益なご忠告だ」とディー判事は言った、「覚えておきましょう」
クオ夫人は頭を下げた。しばしためらいを見せたのちに、彼女は言った。
「あのひとは何も話をしませんものですから、勝手でしたがあの人の幼い娘のことをたずねました。すると近所で面倒を見てくれているといい、いずれ政庁は近いうちに自分を放免しないわけにはいかないと申しました。ですが、私は通りがかりにルーさんの家に立ち寄って確かめてみるつもりでございます。もし子どもが幸せそうでありませんでしたら、私どもの家に連れて参ります」
「ともかくもあなたがお連れください」とディー判事は言った、「ついでにルー夫人の家を調べて、黒いタタール風の衣服か、その代わりになりうる黒い衣類がないか捜してみてください。ご婦人でないと判断しにくいことなんだ」
クオ夫人はにこやかに頭を下げた。ルー夫人とラン師の間にひそかな関係があり得たろうかと、彼女の意見をたずねてみたい衝動にかられたが、判事は急いで自分を抑えた。政庁内の業務にかんして婦人と話し合いをしただけでもずいぶん異例なことだった。代わりに判事は、彼女の夫がチュー・ターユアンの状態をどうみているかきいた。
クオ夫人は小さなかぶりを静かに振った。
「夫はまた強い睡眠薬を与えました」と彼女は言った、「チューの精神は生涯狂ったままだろうと、夫は申しております」
ディー判事はため息をついた。彼はうなずいてみせ、クオ夫人はその場を辞した。
午後の公判を開いたとき、ディー判事はまず憲兵隊の管轄権に関する法令を公表し、県内全域に掲示する旨をつけ加えた。ついで彼は巡査長に命じて、ルー夫人を判事席の前に連れてこさせた。
判事はまたも女が容姿に相当心を用いていることに目を止めた。彼女は髪を簡素ながら人目を引く形に結い、新しい紋織りの上衣をはおっていた。両肩がひどく痛むに違いないにもかかわらず、体をしゃんと立てていた。ひざまずく前、彼女はすばやく廷内に目を走らせ、傍聴者の少ないのにがっかりしたようすだった。
ディー判事は穏やかに言った。「昨日、あなたは当法廷を侮辱した。あなたは愚かな女ではないから、ルーさん、今日は私の質問に対し誠実に答えてもらえるものと信じている、正義のためにも、あなた自身のためにもね」
「手前は嘘をつく習慣はございません!」ルー夫人は冷然と答えた。
「では言いなさい」と判事は言った、「自分の名前とあわせて、あなたが仔猫という仇名を持っているのは事実かどうか」
「閣下は私をおからかいなさるのですか?」とルー夫人はさげすむように問いかえした。
「尋問を系統立てて行なうことは当法廷の特権である」と判事は静かに言った、「答えよ!」
ルー夫人は肩をすくめようとしたが、にわかに苦痛で顔をひきつらせた。のどをごくりと鳴らしてから、彼女は答えた。
「はい、そういう仇名をもっております。私の死んだ父親がつけたものです」
ディー判事はうなずいた。そしてきいた。
「死んだあなたの夫はときにはそういう呼び方をしたか」
邪悪なきらめきがルー夫人の眼に光った。
「いいえ!」彼女はきっぱりと言った。
判事が続けた、「あなたはタタール人の男が着るような黒い服をときどき着るのか」
「ばかにするのはお断わりだよ!」とルー夫人はわめいた、「まともな女が、なんで男の服なんぞ着るのさ!」
「じつは」とディー判事が言った、「その種の衣服があなたの持ち物のなかにあったのだ」
いま初めてルー夫人が動揺したのを、判事は見のがさなかった。すこしためらったすえに女は答えた。
「私にタタール人の親戚がいることを、閣下はたぶんご存じでしょう。あの服はずっと以前に、国境を越えてきた私の年若いいとこが家に残していったものです」
「あなたは獄にもどされるが、間もなくまた尋問のため出てきてもらう」とディー判事は言った。
女が引かれて行ったあと、判事は遺産相続法の変改に関する告示を読みあげた。いまや廷内は満員で、まだ人がつめかけてきた。傍聴人の誰かが、ルー夫人がまた審問をうけるということを言いふれたに違いなかった。
巡査長が判事席の前に、三人のもうすっかり大人びた少年たちを連れてきた。彼らはいかにも不安げで、巡査や判事を恐ろしそうにうかがいみた。
「おそれることはない」とディー判事は優しくいった、「君らは傍聴席の前の列にいて、これからこの判事席の前に案内されてくる人物をよく見るのだ。そのうえで、その人物を前に見たことがあるかどうか、もしあるならいつ、どこでかを話してくれたまえ」
クオ夫人がルー夫人を連れてはいってきた。クオ夫人はルーの家で見つけ出した黒服を彼女に着せていた。
ルー夫人は気取った足どりで判事席の前に進んだ。優美な手つきで黒い上着を引き下げると、小さくしまった胸と丸い尻の形があらわれた。なかば傍聴者のほうに身を開いて、彼女は頭にまいた黒いスカーフの角度をちょっと直した。はにかむような笑みを見せ、上着の裾を気にして指でへりをひっぱった。たいへんな役者ぶりだと、ディー判事は舌を巻いた。合図をうけて巡査長が三人の若者を判事席の前に連れてきた。
「このひとがわかるか?」とディー判事は一番年かさのにきいた。
少年は賛嘆の色をかくしもせずルー夫人を見つめた。彼女は若者に恥ずかしそうな流し目をくれると、顔をぽっと赤く染めた。
「いえ、わかりません、閣下」と若者は口ごもった。
「君たちが浴場の前で会った人物ではないか」と判事は辛抱強くたずねた。
「そんなはずはありませんよ、閣下」と若者は笑いながら答えた。「あれは若い男でしたよ!」
ディー判事は他の者たちのほうを見た。彼らは眼をみはってルー夫人を見つめながらかぶりを振った。女は若者たちをいたずらっぽく見やると、すばやく手で口許をおおった。
判事はため息をついた。彼は巡査長に合図して、若者たちを連れ去らせた。
彼らが立ち去った途端、ルー夫人の顔つきはまるで魔法のように変わって、以前のひややかな、憎しみのこもった表情を示した。
「こんな仮装をさせるわけをお聞かせ願いたいものですわ!」と彼女はせせら笑いながら言った。「背中を打たれて生傷のままの女に、今度は男の服を着せて恥ずかしめ、そのうえこうして人前にさらすとはねえ!」
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第十九章
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性悪女が知事閣下をののしり笑い
紙の猫はみるみるうちに変容する
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人物特定は不首尾に終わったが、ルー夫人の手のこんだしぐさは、ディー判事に彼女の有罪を強く確信させていた。
体を前方へ傾けると、彼はてきびしくただした。
「拳術家故ラン・タオクエ師とあなたの関係につき、当法廷に申告しなさい!」
ルー夫人は起き直るなり叫んだ。
「思うぞんぶんさいなんだり恥ずかしめたりするがいいさ、私がどうなろうと構うことはないからね。だけどラン・タオクエ先生のとうとい思い出に泥を塗るような卑劣な中傷に手をかすのはごめんだよ、わが民族の英雄でこの県の誇りなんだからね!」
群衆のなかから高い歓呼の声が上がった。
判事は驚堂木《けいどうぼく》を机に叩きつけた。「静かに!」と彼は叫んだ。そして声を荒げて再びただした。
「私の質問に答えなさい、女!」
「真平だね!」とルー夫人は大声でわめいた。「好きなだけ拷問おしよ。でも、ラン先生をあんたたちの悪い企みにまきこむことはさせないよ!」
判事はやっとの思いで怒りを抑えた。そしてぴしっと言った。
「これは法廷侮辱行為である」クオ夫人の忠告を思いだし、ルー夫人に対し適法の厳しい裁きをもって臨むにあたっては、意を用いなければならぬと考えながら、巡査長に命じた。
「この女に籐《とう》の杖で臀部二十打を加えよ!」
怒りのつぶやきが廷内にひろがった。誰かが「いっそラン殺しの犯人を捕えてみろよ!」と叫び、別のものは「恥を知れ!」とどなった。
「静――粛!」ディー判事は朗々たる声を放った。「当法廷は、ラン師みずからがこの女を告発する動かし難い証拠を、ここに提出する用意がある!」
傍聴席が静かになった。ルー夫人の悲鳴が再びにわかに廷内に響き渡った。
巡査たちは女を床にうつぶせにし、タタール服のズボンを引き下ろした。巡査長がすばやく尻に湿った布切れをかぶせた。法によって、女は処刑場以外では不面目な露出を認められないのである。補助者二人が女の手足を抑えこみ、巡査長が籐の杖を女の尻に打ち下ろした。
ルー夫人は狂ったように悲鳴を上げてもだえた。十回目がすむと、ディー判事の合図で巡査長は手を休めた。
「今度は私の質問に答えるだろうな」と判事がひややかに言った。
ルー夫人は頭をもたげたが、口はきけなかった。結局押しだすように、「言うもんか!」と言った。
ディー判事は肩をすくめ、籐の杖が再びヒュッと振りおろされた。ルー夫人の尻にかぶせた布に血がにじみだし、急にひっそりと動かなくなった。巡査長は手を止め、巡査たちが女を起きなおらせ、息を吹きかえさせようとしはじめた。
ディー判事が巡査長にどなった。
「二番目の証人をここへ連れてきなさい!」
がっしりした体格の若い男が判事席の前に案内されてきた。頭をきれいに剃りあげ、簡素な茶色の長衣を着ており、さっぱりした気性を示す表情をしていた。
「君の姓名職業を言いたまえ」と判事は命じた。
青年はうやうやしく答えた、「手前はメイ・チョンと申します。ラン師の助教を四年以上にわたって勤めており、第七級の拳士でございます」
判事はうなずいた。
「メイ・チョン、君が三週間ほど前のある晩に見、かつ聞いたことについて話しなさい」
「手前はいつものとおり」と拳士は答えた、「晩の稽古のあと師匠に挨拶して出ました。自分の家の門をはいろうとして、ふと道場に鉄球を置いてきてしまったことを思いだしたのです。私はそれをとりにもどりました、朝の稽古に必要だったからです。私が表|院子《なかにわ》にはいろうとしたとき、ちょうど師匠が客を導き入れて戸を閉めたところでした。はっきりしませんが黒い服だけ見えました。師匠の友人とはみな顔なじみでしたから、邪魔はしないつもりで戸口のほうへ歩みよりました。そのとき、女の人の声を聞いたのです」
「その女は何と言っていたか」とディー判事はきいた。
「扉ごしで、言葉をはっきりと聞きとることはできませんでしたし」と拳士は答えた、「その声は私にとって全くなじみのないものでございました。しかし、女の人は怒っているような調子でした、師匠がその人に会いにこないとかなんとか。師匠が返事をしたとき、仔猫のことを何やらいっているのがはっきり聞きとれました。この事件は私と全然かかわりないことだとこころえて、私はさっさとそこを離れました」
判事がうなずくと、書記官がメイ・チョンの話の記録を読みあげた。拳士が文書に拇印をおすと、ディー判事は行ってよいといった。
そうしている間にルー夫人は意識を回復し、再び二人の巡査に支えられてひざまずいていた。
ディー判事は驚堂木を鳴らしてから言った、
「ラン師を夜分に訪問した女はルー夫人であったというのが、当法廷の主旨である。いかにしてか同女はラン師の信用をとりつけるにいたり、師は同女を信頼した。さらに同女は師の愛顧を懇願したが、師はむろん一顧だにしようとはしなかった。怨恨からの復讐に、同女は師が浴後の休息中に、その茶碗の中に致死量の毒を含むジャスミンの花を投入、もって師を殺害した。同女は若いタタール人に変装して浴場にはいった。つい先刻三証人が同女を認識し得なかったのは事実であるが、同女は巧みな役者である。タタール人に扮している時は男のしぐさをまね、ついさっきは故意にその女性的魅力を強調した。しかしながら、この点は問題としない。なぜならば、これより私は、いかにしてラン師みずからがこの邪悪な女性をきっぱりと示唆する手掛りを残したかについて、実物説明を行なうものであるからだ」
驚きの声が観衆のそこここから上がった。廷内の空気が彼にとって有利な方向へ変わってきていることを、ディー判事は感じた。若い拳士の率直な証言が、群衆によい印象を与えたのだ。彼はタオ・ガンに合図を送った。
タオ・ガンは、開廷寸前にディー判事の指示でこしらえた、四角い黒板を持ちだした。白い厚紙で造った七巧板の六片が、その上にピンで留められていた。縦横とも幅二尺以上あったから、傍聴人からよく見えた。タオ・ガンは黒板を壇上に上げ、書記の机に立てかけた。
「ここにあるのは」とディー判事は再び話を始めた、「七巧板のうちの六片で、ラン師の浴室の卓上で発見されたとおりになっている」
判事は三角形の厚紙を高くかかげて続けた、「七番目の紙片、この三角形は、死者の右手の中にしっかり握りしめられているのが発見された。
残虐な薬の効果が舌を膨《は》れあがらせたため、師は叫ぶことができなかった。そこで最後の力をふりしぼり、師は運命の一杯を飲む寸前までもてあそんでいた七巧板を使って、犯人の正体を示そうとした。
不運にも、師が図形を完成しないうちに痙攣が起こった。そして断末魔のあがきのうちに床へすべり落ちたとき、師の腕が紙片をかすって、そのうち三片をずらせたに違いない。だがそれら三片の位置をわずかに調整し、師の手の中にあった三角をつけ加えることによって、意図されたものとみておおむねまちがいない図形が再構成される」
ディー判事は立ちあがった。彼は三枚をはずし、すこし違う位置にまたピンで留めた。四枚目をつけ加えて猫の形を作りあげた時、傍聴人ははっと息をのんだ。
席にもどると、判事は締めくくった、「この図形を用いて、ラン師はルー夫人を下手人として指名したのである」
ふいに、ルー夫人が叫んだ、「うそだ!」
巡査の手を払いのけ、彼女は手と足を使って壇に這いよった。顔は苦痛にゆがんでいた。超人的な努力により彼女は自分で壇上に上がり、判事席の側面にもたれてうずくまってうなり声をあげた。荒い息を何度か吐いてから左手で黒板のへりにしがみついた。激しく震えながらディー判事がピンで留めた三片の位置を変えた。そのあと四番目の紙片を胸にあてると、彼女はかすれ声で叫んだ。
「ほら、うそ八百さ!」
うめきながら膝をついてのびあがり、図形のてっぺんに三角形を留めつけた。
そうして金切声をあげた、
「ラン先生は鳥を作ったんだよ! 証拠を……のこそうなんてしやしなかった」
にわかに顔色が土気色に変わった。女はどさりと床にくずれ落ちた。
「あの女は人間じゃない!」ディー判事の執務室でみんながそろった時、マー・ロンが声をあげて叫んだ。
「あれは私を憎んでいる」と判事は言った、「私が後押しをしている人たちすべてが憎いからだ。あれは性悪な女だね。それにしてもあのすさまじい気力と頭の回転の速さには感服のほかはない。どうやれば猫を鳥に変えられるかを一眼で見てとる力量はなまやさしいものではない。しかも女はあのとき苦痛でなかば失神状態だったというのに!」
「並みはずれた女だったに相違ありません」とチャオ・タイが評した、「さもなくば、ラン師が彼女に目を留めることはなかったでしょう」
「ところで」と判事は当惑げに言った、「あの女はわれわれを極めて面倒な状況に追いこんでしまった。ラン殺害の嫌疑を負わせることができぬとあっては、われわれはあれの夫が変死をとげたこと、あの女がそれにかかわっていることを明らかにするしかない。検屍官を呼びなさい」
タオ・ガンがクオを連れてもどると、ディー判事が語りかけた。
「クオさん、先日のお話ですが、ルー・ミンの死体の眼球がふくれあがっているのは変だと、思われたとのことでしたね。後頭部を強打するとこのような現象が起こることがあるとあなたは言われた。しかし、たとえクワン医師が一枚かんでいたと仮定しても、ルー・ミンの兄弟とか葬儀屋とか、死装束をさせた人がそういう傷に気がつかなかったのでしょうか?」
クオは首を振った。
「それは、閣下、もし打撃がたとえば厚い布にくるんだ重い木槌によって加えられたならば、出血はなかったでしょう」
ディー判事はうなずいた。
「検屍をすればむろん頭蓋骨のつぶれているのがわかる。だがかりにこの推測があたっていなかった場合、ほかにどんな変死の証拠を死体から発見することができますか? 何しろもう五か月前におこったことなのです」
「棺材と墓穴のなかの状態によるところが大きいのです」とクオは答えた、「ただ、たとえ腐敗がかなり進んでいたとしても、毒を跡づけることはできると思います、たとえば皮膚、骨のなかの髄の状態を調べることによって」
判事はしばらく考えていてから言った。
「法にしたがえば、確たる理由なしに死体発掘を行なうのは死刑にあたる罪である。もし検屍によってルー・ミンが殺害されたという反駁の余地ない証拠をあげ得なかった場合、私は辞表を提出して上級官庁の裁量に委ね、墳墓を冒涜したかどにより裁かれることになろう。もしその上に、ルー夫人が夫を殺したと誤りの告発をした責任を重ねて問われることになれば、私の死罪には寸毫《すんごう》の疑いもない。役人の背後に政府全体が控えているとはいっても、それは役人が過誤を犯さぬ限りにおいてなのだ。わが帝国の公務員制度は実に巨大な組織であるので、たとえ誠意をもって行動した場合であっても、規則に反した官僚に対しては寛恕《かんじょ》の余地はないのだ」
ディー判事は立ちあがり、室内を歩きまわりはじめた。三人の副官が不安そうにみつめていた。ふいに彼は足を止めた。
「検屍を行なうことにしよう!」判事はきっぱりと言った、「危険は覚悟の上だ」
チャオ・タイとタオ・ガンはためらうふうだった。タオ・ガンが言った。
「あの女はあらゆる種類の邪悪な秘法に通じています。もしあの女が魔法をかけて夫を殺したんだとしたらどうでしょう。死体にはなんの跡ものこらないのではありませんか?」
判事はいらだたしげにかぶりを振った。
「この世界にわれわれの理解を超える多くの物事があることを私は信ずる。だが闇の力が、ただ魔術のみによって人間を殺すことを至高の天が許し給うとは、私は断じて認めない。マー・ロン、巡査たちに必要な指示を出しなさい。ルー・ミンの遺体の検屍は本日のうちに墓地において挙行する!」
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第二十章
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死体検視が墓地において実施され
重病人は驚くべき事柄を打明ける
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市の北区はまるで集団移動の最中のようだった。街路は人々で雑踏し、みな北門に向って動いていた。
ディー判事の輿《こし》がかつがれて門をくぐると、群衆はむっつり黙って道をあけた。しかしルー夫人が護送されていく閉めきった小さな轎子《かご》を見るが早いか、歓呼の叫びが上がった。
人々は長い行列を作って雪の丘の間を通り、市の西北の中央墓地のある台地へと向かった。大小の土饅頭の間のこみちを縫い、中央部の開かれた墓のところに集まってくると、そこにはもう巡査たちの手でよしず張りの仮小屋が建てられていた。
判事が輿から降り立ってみると、状況の許す限り似せて仮法廷が設営されていた。高い木のテーブルが判事席にあてられ、上級書記が脇テーブルに着席して、手に息を吐きかけて温めていた。開かれた墳墓の前には大きな棺が、架台の上に据えられていた。葬儀屋と手伝いの者たちがその傍らに立っていた。三枚の大きなむしろがその前の雪の上にのべられ、クオはさかんに火の燃え立つ携帯ストーブをひきつけて、そこにうずくまっていた。
三百人ばかりの人々が幾重にもとり囲んで立っていた。判事は判事席のたった一つの椅子にすわり、マー・ロンとチャオ・タイがその両側に立った。タオ・ガンは棺のほうに歩み寄り、もの珍しげに調べていた。
轎夫《かごかき》がルー夫人の轎子《かご》をおろすと、巡査長が垂れ幕をあげ、息を呑んで後じさった。ルー夫人の動かない体が、横木の上にぐったりもたれかかっている。
怒りのざわめきがあがり、群衆が輪をつめた。
「その女を見てやれ」とディー判事がクオに命じた。そして副官たちに向かってささやいた、「女がわれわれの手のうちで死ぬことなど断じてあるものか!」
クオが静かに女の頭を持ち上げた。ふいにまぶたがぴくりとして、彼女は大きく息をついた。クオは横木をはずして、女が杖にすがって仮小屋までよろめき歩くのを助けた。墳墓が開かれているのを見ると、彼女は尻ごみし、袖で顔をおおった。
「ただの演技だ」タオ・ガンがうんざりしたようすで言った。
「いかにもそうだが」とディー判事は当惑げに言った、「群衆はそれが好きなのだ」
彼は驚堂木でテーブルを打った。冷たい戸外の空気のなかで、それは奇妙に弱々しい響きを立てた。
「これより」と判事は大声で宣した、「故ルー・ミンの遺骸について、死体検視を行なうものである」
にわかにルー夫人が顔を上げた。杖を支えにしながら、彼女はゆっくりと述べた。
「閣下は私ども平民の父でも母でもおありなさいます。今朝私は裁判所で軽はずみな口をききましたが、それは哀れな若後家としての私の名誉と、われらのラン先生の名誉とを守らなければならなかったからでございます。けれど私はその見苦しいふるまいのため、正当な罰をうけました。今度は閣下の御前にひざまずき、事件をここで終えるよう、そして哀れなわが亡き夫の柩《ひつぎ》を汚《けが》すことなきよう、乞い願いたてまつります」
女は膝をついてすわりこみ、額を地に三|度《たび》打ちつけた。
賛同のざわめきが見物人から上がった。分別のある妥協案、人々の日常生活のなかでなじみ深い問題解決への途が開かれたのだ。
判事は判事席を打った。
「知事たる本官は」と彼は厳然と言った、「ルー・ミン殺害の十分な証拠もなしで、この死体検視を指示することはあり得ない。この女は口が達者だが、本官の義務遂行を妨害することはさせない。棺を開け!」
葬儀屋が進みでると、ルー夫人は再び立ちあがった。なかば群衆のほうに向かって、彼女はわめいた。
「お前さんの人民をこんな具合に圧迫してもいいのかい? それがお前さんの知事ということかい。私が夫を殺したと言い張るけれど、どんな証拠を出せるんだい? 言わせてもらえば、あんたはここの知事だろうけど、全能じゃあないんだよ。しいたげられ圧迫される者のために、上級官庁の扉はいつでも開かれてるって言うじゃないか。覚えておおきよ、知事が無実の人間をいつわって告発したことがわかった日には、無実の被告にそいつが与えようとしたと同じ刑罰が、法によってふり当てられるんだ! あたしは守ってくれるものもいない若後家かもしれないが、その判事の帽子がお前さんの頭から脱がされる日までは、目をつむりゃしないよ!」
「女が正当だ! 検屍はさせんぞ!」という叫びが群衆のなかから上がった。
「静かに!」と判事は声を高めた。「もし遺体に殺害の証拠が明白に認められないならば、私は喜んで、この女に該当すべき刑罰をうけるであろう!」
ルー夫人が再び口を開こうとすると、ディー判事がいちはやく棺を指して言葉を続けた、「証拠がここにあるのに、何を待つことがあるのか」群衆がたじろいだすきに、彼は葬儀屋に向かってどなった、
「やれ!」
葬儀屋が槌でたがねを蓋の下に打ちこむと、手伝い二人は棺の反対側で仕事にかかった。まもなく重い蓋をはずし、地面に横たえた。口と鼻を首巻でおおうと、棺の中に敷いてある厚い敷物ごと、死体を棺から出した。彼らはそれを判事席の前にすえた。何も見のがすまいとしてごく近くまで来ていた見物人たちがあわててひきさがった。死体はむかつく様相を呈していた。
クオは火のついた線香を入れた二つの壷を死体の左右に置いた。顔を薄い紗のヴェールで覆い、厚い手袋を脱いで、薄手の革手袋をはめた。そして判事を見あげて開始の合図を待った。
ディー判事は書式に記入してから、葬儀屋に言った。
「死体検視にとりかかる前に、墓をどのように開けたかについて説明をききたい」
「閣下の御指示にしたがいまして」と葬儀屋はうやうやしく言った、「手前と手伝い二人とで、正午過ぎに墓を開きました。墓を閉じている石板は、五か月前に私どもがそこに置きました時と全く同じ状態でございました」
判事はうなずき、検屍官に合図した。
クオは熱い湯にひたした手ぬぐいで死体を清めてから、一寸刻みに調べていった。
一同は緊張して声もなく、彼の仕事の進み具合に注目していた。
前側を終えると、クオは死体を転がして頭蓋骨の後部を調べはじめた。その基部を人差指で綿密に調べてみてから、死体の背中へと調査を続けた。ディー判事の顔が青ざめた。
ついにクオは立ちあがり、判事のほうに向きなおって言った。
「報告いたします。死体外面の検査は終了しましたが、この人物が変死を遂げたというしるしはございません」
見物人が叫びはじめた。「知事はうそつきだ! 女を釈放しろ!」だが前列の人々が、「静かにしろ、報告の続きを聞こう」と後のほうに向かってどなった。
「そこで」とクオは言い継いだ、「毒が投与されたかどうかを確かめますために、手前は閣下に内部の検視を行なうお許しを乞うものでございます」
判事が応ずるより早く、ルー夫人が金切声をあげた。
「これで十分じゃないのかい。哀れななきがらはまだ恥ずかしめられなくちゃならないのかい?」
「あの役人には自分で首に輪なわをかけさせるんだな、ルーのかみさんよ!」と前列にいる男が叫んだ。
「あんたが無実なことはわかっているよ!」
ルー夫人はまた何かわめこうとしたが、ディー判事が先に検屍官に合図を送ったので、見物人たちはルー夫人に黙っていろと叫んだ。
クオは長い時間をかけて磨いた銀の薄板を用いて死体をしらべ、また腐った死体から突きだしている骨の端を丹念に調べた。
体を起こしたとき、彼は判事にとまどったような眼差しを投げた。人でぎっしりの墓場は、今や静まりかえっていた。すこしためらったすえに、クオは言った。
「体内にも、毒を投与したしるしが見られないことを御報告申しあげねばなりません。私の察知いたします限りで、この人物は自然死でございました」
ルー夫人がなにか金切声で叫んだが、その声は群衆の怒号に呑みこまれた。人々は仮小屋に向かって殺到し、巡査たちを押しのけた。先頭にいるのが叫んだ。
「あの犬役人を殺《や》っちまえ! あいつは墓を汚《けが》した!」
ディー判事は席を起ち、判事席の前に出て立った。マー・ロンとチャオ・タイがその両脇にとび寄ったが、判事は荒々しくそれを押しさがらせた。
先頭に立つ人々はディー判事の顔にあらわれた表情を見ると、思わず知らず後じさりして、鳴りを静めた。後にしたがう者たちはわめくのを止め、何が始まるか聞こうとした。
袖の内で手を重ねて、判事は大音声をはりあげた。
「本官は職を辞すると言ったからにはそうする! だが、もう一点を確認するまではだめだ。本官が辞表を提出せぬ限り、本官は当地の知事の任にあることを、心に留めておくように。好きなら私を殺すのもよいが、その時、お前たちは帝国政府に対して反乱を起こす叛徒となり、その責任をとることになろう。その覚悟をしてかかれ。私は逃げぬ!」
人々は堂々たる姿を畏敬の念をもって仰ぎ、たじろいだ。
ディー判事はすかさず続けた。
「ここにもしどなたか同業組合の親方がおられたら、前に出してあげてくれたまえ。遺体の再埋葬をおまかせしたい」
がっしりした体格の肉屋同業組合の親方が人垣から進みでると、判事は命じた。
「葬儀屋が遺体を棺に納めるのを監督し、墓の中へ元どおりもどすよう手配してください。そのあと入口に封印をお願いします」
彼は向きを変えると、輿に乗りこんだ。
その夜おそく、ディー判事の執務室は重苦しい沈黙に包まれていた。判事は濃い眉を固くひそめて自分の机に向かっていた。火鉢の中で燃えていた炭はとうに灰になり、大きな部屋の冷えこみは厳しかったが、判事も副官たちもそれに気づかなかった。
机の上の太い蝋燭《ろうそく》がパチパチ音をたてはじめた時、判事がやっと口を開いた。
「この件を決着するためある限りの手段をここで再検討してみた。そしてわれわれが新たな証拠を発見せぬ限り、私の死命は決せられるという点で合意に達した。われわれは証拠を発見せねばならない、それも急いでしなければ!」
タオ・ガンが新しい蝋燭に火を点じた。ゆらめく炎の光が彼らの憔悴した顔を照らした。
戸口を叩く音がした。事務官が興奮したようすではいってきて、イエ・ピンとイエ・タイがきており、判事とお話ししたいといっていると告げた。
判事はたいそう驚いて、二人を連れてくるようにと命じた。
イエ・ピンが、イエ・タイを腕で支えながらはいってきた。イエ・タイの頭と手とはほうたいで厚く巻かれ、顔は異様に蒼ざめて歩行もおぼつかなかった。
マー・ロンとチャオ・タイの手をかりてイエ・タイを寝椅子の上にすわらせると、イエ・ピンは語った。
「閣下、今日の昼すぎ四人の百姓が弟を担架にのせて、東門の外から連れて帰ってくれました。雪の吹きだまりのかげに人事不省で倒れているのを、偶然見つけたそうでございます。後頭部にひどい傷を負い、指は凍傷でやられておりました。けれどもその人たちがよく面倒を見てくれて、今朝弟は意識をとりもどし、自分の身分を告げたのでした」
「何があったのだ?」とディー判事は熱心にたずねた。
「いちばんしまいに覚えているのは」とイエ・タイは弱々しい声で言った、「二日前、夕食のため家にもどるところを、ふいに頭の後ろから一発がんとやられたということでした」
「君をやったのはチュー・ターユアンだったのだよ、イエ・タイ」と判事は言った、「あの男はユイ・カンとリャオ嬢が彼の家で秘かに逢ったことを、いつ君に話したのかね」
「閣下、あの人が私に話したのではありません」とイエ・タイが答えた、「あるとき私がチューの書斎の外で待っておりましたら、あの人が中で大声で話しているのが聞こえました。誰かともめているんだと思って、戸に耳を押しつけました。あの人はユイ・カンとリャオの娘が自分の家の屋根の下で愛し合っているといってわめき散らしているのでした。すごく卑猥な言葉を使っていましたよ。そこへ執事が来てノックしました。チューは突然静かになり、私が許されて中にはいってみるとあの人一人きりで、全くふつうでした」
副官たちに向かって判事は言った、「リャオ嬢殺害事件で不明確なままになっていた一点が、これではっきりしたね」イエ・タイに向かって彼は話を続けた、「そうやってたまたまこの情報をにぎったものだから、君はあの可哀そうなユイ・カンをゆすったのだな。だが至高の天はすでに君を厳しく罰したもうた」
「指がなくなってしまいました!」イエ・タイはがっかりして泣き出した。
判事はイエ・ピンに合図をした。マー・ロン、チャオ・タイも手伝って、一同はイエ・タイを助けて戸口へ向かった。
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第二十一章
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指揮官が緊急の書状を携えて着き
判事は御先祖の祠堂に報告し奉る
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翌朝ディー判事は朝駆けに出た。しかし通りで人々が彼に向かって叫びたて、鼓楼の近くでは石が飛んできて危くあたるところだった。
判事は旧練兵場までのりつけて、何周か駆けさせた。
政庁にもどってから、法廷を召集してルー夫人の事件の決着を公表することができるようになるまでは、外に姿を見せないほうがいいなと、つくづく考えた。
続く二日間は滞っていた県関係の政務処理にあてた。副官三人は毎日でかけて、憑《つ》かれたように新たな手掛りを求めて歩いた。
唯一の朗報は二日目に、彼の第一夫人からの長い便りという形で訪れた。彼女は太原《タイユアン》から手紙をよこし、危機は乗り切ったこと、老母はいまや完全な回復に向かいつつあることを書いてきた。彼らは近いうちに北州《ペイチョウ》へもどる計画でいるのだ。ルー夫人の件が解決しないなら、もう再び家族たちには会うまいと、判事は悲しい思いをかみしめた。
三日目の早朝、ディー判事が自分の執務室で朝食をとっていると、事務官が総司令本部から大尉が到着したことを報じ、じきじき知事に渡さねばならぬ書状を持参していると伝えた。
正装の甲胃に雪をかぶった、丈の高い人がはいってきた。一礼して判事に大きな封書をさし出しながら、かしこまって言った、
「御返書を頂戴してもどるよう命じられております!」
判事は不審そうな目つきで受け、「お掛けなさい」とそっけなく言うと、書状を開いた。
それは憲兵隊の秘密情報員が、北州《ペイチョウ》住民の中の不安動揺について報告してきたと述べていた。ずっと北方にいる異民族集団の間に戦闘準備があることの報告もあり、総司令官は北方軍背後の地域が平穏であることを軍事的に必要と考えている。もし北州《ペイチョウ》の知事から県内に守備隊を派遺するよう要請があれば、ただちにそれに応じる用意があると暗に知らせていた。書状には総司令官代理として、憲兵隊総指揮官の署名があった。
ディー判事は真青になった。
彼はさっそく筆をとりあげ、四行の返書をしたためた。
「北州《ペイチョウ》知事こと、敏速なる御通告に対し篤《あつ》く御礼申し上げ候《そうろう》。されど当県内の秩序平穏を急遽回復せしめんがため、今朝《こんちょう》にも本官|自《みずか》らしかるべき方策手段を講ずる所存にこれあり候えば、謹んでお知らせ申し上げ侯」
政庁の大きな朱印を書状におして渡すと、大尉は一礼して受け取り、辞し去った。
ディー判事は立ちあがって事務官を呼んだ。そして儀式用の正装を出してこさせ、副官三人を呼ばせた。
マー・ロン、チャオ・タイ、タオ・ガンの三人は、判事が大礼服を着こみ、金で縁どりをしたびろうどの帽子をかぶっているのを見て、びっくり仰天したようすだった。
今は信頼する友となった三人の顔を悲しげに見つめながら、判事は語った。
「このままの状態を続けることはできない。私は今しがた、この県の住民間の不穏状態について、総司令本部からていのいい叱責《しっせき》を受け取ったところだ。軍隊をここへ駐留させようと提案してきた。私の北州《ペイチョウ》統治能力が疑問視されているのだね。私はわが家の儀式に、少しのあいだ証人として君たちの臨席をお願いしたいのだ」
記録室と公舎の棟とをつないでいる回廊を歩きながら、家族の者たちが太原《タイユアン》へ行って以来、自分の家に行くのはこれが初めてだと、ディー判事はしみじみ考えた。
判事は副官たちを、表広間の奥にある祖先の祠堂《しどう》へまっすぐに連れていった。ひえびえとした室内には天井まで届く大きな戸棚があるばかりで、左手に祭壇の机があった。
ディー判事は香爐《こうろ》に線香を立ててから、戸棚の前にひざまずいた。三人の副官たちは、入口近くにひざまずいた。
立ちあがると、判事は戸棚の高い観音開きの扉をうやうやしく開けた。どの段にもそれぞれ細緻《さいち》な彫りの台をつけた小さな木の板がぎっしり林立していた。それはディー判事の祖先たちの位牌であって、どれにも金字で謚号《おくりな》と位階、生卒の年、日時が記されていた。
判事は再びひざまずき、床に三度額を触れた。それから、瞑目して想いを擬らした。
この前に祖先の祠堂が開かれたのは二十年前、太原《タイユアン》において、ディー判事とその第一夫人との結婚を父上が祖先に告知した時であった。彼は花嫁とともに、父上の後ろにひざまずいていた。彼は目の前に白髪のほっそりやせた姿、敬愛するしわを刻んだ顔を見た。
しかし今、父上の顔はひややかによそよそしかった。いま見る父上は途方もなく広い会議場の入口に立ち、その左右には厳めしい人々が列をなして不動の姿勢で立ち並び、その目はすべて父上の足許にひざまずく彼に向けられていた。広間の奥、はてしなく延びる床のかなたに、ちらちらと金色《こんじき》に光る長袍《ちょうほう》をまとって高い主座にじっと座している太祖がほの見えた。彼は八世紀まえ、聖なる孔夫子《こうふうし》からほど遠からぬ時代を生きたのであった。
このおごそかな集会の前に謹んでひざまずくとき、判事は遠く苦しい旅路のすえやっと家に帰りついた人のように心安らぎ、ほっとするのを感じた。彼は澄んだ声音で語った。
「光輝あるディー家のそれに値せぬ子孫、名はレンチエ、亡き顧問官ディー・チョンユアンの長子、いま国家および人民への義務をはたしえず、今日辞表を提出いたしますことを、謹んでご報告申し上げます。あわせて同人は死刑にあたる罪過二件、すなわち十分な理由なく墳墓を汚《けが》す挙に及びました罪、ならびに某《それがし》が殺人を犯したと誤り告発いたしました罪とを、われから訴え出る所存にございます。誠心誠意もて致したことではございましたが、力乏しく、同人に託された任に堪ええぬ結果となりました。これらの事実をご報告申し上げ、謹んでお許しを乞い願い奉ります」
語り終えると、遠大な集会はしだいに彼の心眼から消えていった。最後に見えたのは父上が、彼のよく知っている身振りで長い朱袍《しゅほう》の打合せをゆったりと整える姿だった。
判事は体を起こした。また三|度《たび》拝礼すると、祠堂の扉を閉じた。彼はふりむいて、三人についてくるよう合図した。
自分の執務室にもどると、判事はしっかりした声で言った。
「私をこれから一人にしておいてほしい。私は辞職の公式文書を書く。君たちは正午まえにここにもどってきて、私の文書を市内各所に掲示してくれたまえ、そうすれば人々は安心するだろう」
三人は黙って頭を下げ、さらに膝をついてすわって額を三度床につけ、判事の身に何が起ころうと、彼らの忠誠を変え得るものはないことを示した。
彼らが行ってしまうと、判事は州長官にあてて書状を書き、自分の失策について事細かに記したのちに、死にあたる罪二件をもって自らを告発した。寛恕《かんじょ》を願う根拠はないとも付記した。
書状に署名し封印し終えると、椅子に背をもたせて深い息をついた。これは彼の北州《ペイチョウ》知事としての最後の公式活動であったのだ。午后、文面が公表されしだい、とりあえず公印を主任書記に渡し、別の人物が引き継ぐまでは、主任書記が県を統治することになるはずだ。
茶をすすりながら、彼は来たるべき試練を公平に思いめぐらすことができるようになっていることを知った。死刑判決は疑う余地がない、ただ彼にとって有利な一つの点は、蒲陽《プーヤン》県知事在任時代に、皇帝の銘文を授与される栄に浴したことがあることだった〔『中国梵鐘殺人事件』第二十四章参照〕。首都裁判所がその功績を熟慮し、全財産没収を差し控えてくれることを彼は切望した。妻子のことは太原《タイユアン》にいる弟が面倒を見てくれよう。だがたとえ自分の親戚であっても、人の情にすがって暮らすのは悲しいものだからと、しみじみ考えた。
ともかくも、第一夫人の母君が回復されたことは喜ばしかった。前途に横たわる試練の日々、母君は娘にとって大きな力となってくださるであろう。
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第二十二章
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ディー判事は予期せぬ訪問をうけ
検屍を再度実施しようと決意する
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ディー判事は立ち上がり、火鉢に歩み寄った。立ったまま手を温めていると、背後で扉の開く音がした。心を乱されるのをわずらわしく思いながら彼はふり返った。そしてクオ夫人のはいってくるのを見た。
ちょっと頬笑んでみせてから、彼は優しく言った。
「いまたいへん忙しいのです、クオさん。もし何か大事なことがあるなら、上級書記に話していただいて結構です」
しかしクオ夫人は辞去する様子を見せなかった。彼女は黙って目を伏せて、そこに立っていた。しばらくしてから、非常に低い調子で言いはじめた。
「閣下が、私どもを見捨てて去られると聞きました。私は……夫と私とに対する閣下のご配慮にお礼を申し上げたくて……」
判事は向きを変え、窓に面して立った。戸外の雪の反映が紙障子をすかして明るかった。やっとの思いで彼は言った。
「ありがとう、クオさん。当地の在任期間中、あなたとご主人とにご協力いただいたことを大いに感謝しております」
戸の閉まる音を心待ちにして、立ったままでいた。
そのとき、彼は干した薬草の匂いをかいだ。静かな声が彼に向かって語りかけていた。
「男の方にとって、女心を推し測るのが難しいことは存じております」
判事が性急に彼女のほうへ向きなおると、彼女は急いで続けた。
「女にはそれぞれの秘密があり、その深みを男の方は測ることができません。閣下がルー夫人の秘密を見つけだせなかったのも不思議はないのです」
ディー判事が歩み寄った。
「新たな手掛りを得たと言われるのか?」と彼は緊張してたずねた。
「いいえ」とクオ夫人はため息をまじえて言った、「新しい手掛りではありません。古い……でもルー・ミン殺しを解くただ一つの手掛り……」
判事は彼女に突き刺すような眼差しを注いだ。そしてしわがれた声で言った。
「すっかりお話しなさい、奥さん!」
クオ夫人はマントを体にまといつけた。彼女は震えているようだった。やおら彼女は、ひどくものうげな声音で語りはじめた。
「家の中の日々の雑事に心を傾け、つくろう値打ちもない着物をつくろいながら、古靴のフェルト底を刺しながら、私たちの心はさまよいます。ちかちかする蝋燭の光に眼を痛くしながら、私たちは働き続け、そしていたずらにいぶかしむのです……これがすべてなのかしらと。フェルト底は硬く、私たちの指は痛みます。私たちは長くて細い釘をとり、木槌をとり、そして靴底の穴を打ちます、一つ、また一つ……」
顔を伏せて立つ彼女のすらりとした姿をじっとみまもりながら、判事はなにか優しい言葉をかけようと言葉を探した。しかし彼女は同じよそよそしい、けだるげな声で唐突に続けた。
「私たちは釘を刺しては抜き、抜いては刺し、そして私たちの悲しい心もはいっては出ます――わびしいねぐらのまわりであてもなく飛ぶ、灰色をしたおかしな鳥たちです」
クオ夫人は顔を上げて判事を見つめた。その大きな眼の中にきらめくものに、彼はどきりとさせられた。彼女は静かに言った。
「そして、ある晩、考えが湧きます。女は縫う手を休め、女は長い釘をとりあげて、それをじっと見つめます……まるでそれまで見たことがなかったかのように。痛む手を救ってくれる忠実な釘、悲しい思いにふける長い孤独な年月《としつき》の忠実な道連れ」
「あなたが言うのはつまり……」ディー判事は叫び声をあげた。
「そうなのです」とクオ夫人は、変わらぬ単調な声で応じた、「あの釘にはごく小さな頭しかありません。槌ですっかり打ちこめば、あの小さな点は頭のてっぺんの髪にかくれて、決してみつかりません。誰にも知られはしないのです、どうやって女がその人を殺したか……そして自由になったかを」
判事は燃えるような眼でじっと夫人を見つめた。
「奥さん、あなたは私を救ってくださった!」と彼は叫んだ、「それが正解に違いない。なぜあの女があんなに検屍を恐れたか、そしてなぜあの検屍が成果をあげ得なかったかも、これで説明がつく!」憔悴した顔に暖かな笑みをひろがらせながら、彼は優しく言いそえた、「あなたの判断は実に的確だ。女の人でなくてはこういうことはわからない」
クオ夫人はだまって彼を見つめた。判事はあわててたずねた。
「どうして悲しいのです? もう一度申し上げるが、あなたの考えは確かに正しい。それは正解に違いありません!」
クオ夫人はマントのフードを引きあげてかぶった。柔らかに頬笑んで判事を見ながら、彼女は言った。
「はい、それがただ一つの正解とおわかりになりますでしょう」
彼女は戸口に向かい、立ち去った。
閉じられた扉を見つめて立っていた判事の顔が、にわかに色を失った。彼は長い間そこに立ちつくしていた。やがて彼は事務官を呼び、副官三人にただちにここにくるよう伝えよと命じた。
マー・ロン、チャオ・タイ、タオ・ガンは気の進まぬ様子ではいってきた。だが判事の顔つきを見たとき、彼らの顔にいぶかしげな頬笑みがのぼった。
判事は広い袖の中で腕を組んで、机の前に真直に立っていた。そして眼を輝かせて言った。
「友人たち! 私はまさに最後の瞬間に、ルー夫人の犯行を暴露する確信を得た。われわれはルー・ミンの遺骸に臨んで再度死体検視を実施する!」
マー・ロンは愕然として、仲間二人を見つめた。だがやおらにやりと笑うと、叫んだ。
「もし閣下がそうおっしゃるなら、事件は解けるということですな! いつ検屍をやりますか」
「可及《かきゅう》的速やかに!」ディー判事はてきぱきと言った、「今回われわれは墓地におもむかず、棺をこの政庁に運ばせよう」
チャオ・タイがうなずいた。
「閣下もご存じのように、民衆には不穏な空気があります。戸外よりはここのほうが彼らを制御しやすいと、私も考えます」
タオ・ガンはまだ疑わしげだった。彼はそっと言った。
「事務官に掲示用の紙を用意するよう言いつけましたとき、彼らが覚ったらしいことが気配からわかりました。閣下が辞職なさるというニュースはもう街中に広がっておりましょう。再検屍のことが聞こえたら、暴動が起こりはしないでしょうか」
「それは十分承知のうえで、危険を冒す覚悟はできているのだ」と判事は落ち着いた声で言った。「クオに言って、検屍に必要なものすべてを法廷に準備させなさい。マー・ロンとチャオ・タイは肉屋|同業組合《ギルド》親方とリャオ同業組合親方に会いに行きなさい。私の決定を知らせて墓地まで君たちと同行してくれるように頼み、立会人になってもらって棺を出し、それを守って政庁に持ち帰るのだ。もし万事ひそかに速やかにやってのければ、何かあると人々が感づく前に、この政庁に棺を収容できるだろう。そしてニュースが広まった段階では、初めはきっと私に対する怒りよりも彼らの好奇心が先に立つだろうし、いっぽう彼らの信頼する親方たちの臨席は、彼らが軽率な行動に出るのを防ぐのに大きな力となるだろう。このようにすることによって、私がこの政庁で裁判を開くまで、不都合なことが出来《しゅったい》せぬよう望んでいる」
そして副官たちを元気づけるように笑いかけると、一同は挨拶して出ていった。
その直後、ディー判事の面上の笑みは凍りついた。副官たちの前で上きげんな態度をとっていたのは最大限の努力によるものにすぎなかった。いま彼は机に歩み寄り、腰をおろして両手に顔を埋めた。
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第二十三章
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政庁に特別法廷の準備が整えられ
女はついに驚天動地の事実を語る
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昼どき、判事は事務官が彼の前に並べた飯と汁を食べなかった。ただ茶一杯のほかはのどをとおらなかったのだ。
棺が何の障害もなく政庁に運ばれてきていることは、クオが知らせてきた。だが現在、正門の前には大群衆が集まってきて怒号している。
マー・ロンとチャオ・タイがはいってきた時、二人はひどく不安そうだった。
「閣下、法廷の中にいる人々は険悪な空気です」とマー・ロンが深刻らしく言った、「また廷内にはいりきれなくて外の通りにいる連中は、罵声をあげたり門に投石したりしています」
「させておけ!」ディー判事はそっけなく言った。
マー・ロンがチャオ・タイのほうを訴えかけるように見た。チャオ・タイが言った。
「閣下、憲兵隊を呼ばせてください! 彼らは政庁の周辺に非常線を張って……」
判事は拳固でテーブルを打った。
「私はここの知事ではないか!」と彼は副官たちを怒鳴りつけた、「これはわが県城、かれらはわが人民。外部の者の助力は求めぬ。私は自分の力でとりしきる!」
二人はなにも言わなかった、言っても無駄だと知っていた。しかし今回は判事が間違っていると、彼らは不安に思った。
銅鑼《どら》が三つ鳴り響いた。
ディー判事は立ちあがり、二人の副官をしたがえて、法廷に通じる廊下を渡った。
判事が入廷して判事席につくと、不吉な沈黙が彼を迎えた。
廷内は溢れるほどの超満員だった。巡査たちは落ち着かなげに規定の位置にならんでいた。左手にはルー・ミンの棺が見え、その傍らに葬儀屋と手伝いの者がいた。ルー夫人は棺の前に、杖によりかかって立っていた。書記の机の並びにタオ・ガンとクオがいた。
ディー判事は驚堂木で机を打って言った。
「開廷を宣する」
ルー夫人が突然叫びだした。
「やめる知事に法廷を開く権利があるのかい?」
群衆の中から怒りのざわめきが起こった。
ディー判事が宣言した、「綿商人ルー・ミンが卑劣に殺害されたことを証するために、当法廷を召集するものである。葬儀屋、棺を開けよ!」
ルー夫人は壇の端にとびあがった。彼女は金切声をあげた。
「この犬役人めに、また私の夫のなきがらを汚させようというの?」
群衆が前方へ寄せてきた。「知事を引きずりおろせ!」という叫びがそこここで上がった。マー・ロンとチャオ・タイは重ね着した長衣の下に隠し持つ剣のつかに手をあてた。先頭の人々が巡査をわきへ押しのけた。
邪悪なきらめきがルー夫人の眼の中に輝いた。ここは私の勝ちだ。暴力と流血を眼前にして、女のなかのタタール人の野性の血が喜びに騒いだ。彼女が手を高く挙げると、人々は止まってその感動的な姿を見つめた。胸を波打たせながら彼女は始めた、判事に指をつきつけて……、
「この犬役人め、この……」
彼女が大きくひと息ついた時、すかさず判事が平静な口調で言った、
「あなたのフェルト底を思いだしなさい、奥さん!」
あっと叫んで女は姿勢をくずした。彼女が己れを立てなおした時、ディー判事は初めて真の懼《おそ》れをその眼の中に見た。前列の者たちは、判事のこの思いがけない言葉をすばやく後方の人々に中継した。ルー夫人が自分の心を静めて聴衆を見つめ、言葉を探しているあいだ、当惑のつぶやきがぶつぶつと人波からもれた。「あいつはなんと言ったんだ?」広間の後ろのほうの人々はじりじりして叫んだ。ルー夫人がしゃべりはじめた時、その声は葬儀屋の槌音にかき消された。タオ・ガンの手をかりて、葬儀屋はさっさと蓋を床に置いた。
「いまこそ答えがわかるのだ!」ディー判事は大音声をはりあげた。
「あいつを信じるんじゃないよ、あいつは……」とルー夫人は始めた。しかし群衆が棺から出され草むしろの上に置かれた死体にばかり気をとられているのを見てやめた。彼女は判事席のわきにしりぞき、むしろの上に横たえられた身の毛もよだつむくろに、じっと眼をすえていた。
ディー判事は判事席を驚堂木で叩くと、大声で言った。
「倹屍官は今はただ遺体の頭部のみを調べるがよい。頭蓋骨の頂点にとくに留意し、頭髪の間を見なさい」
クオがかがみこんでいるあいだ、満員の廷内は深い静けさに包まれていた。聞こえるのはただ外の通りでわめきたてている人々の不明瞭な声ばかりであった。
ふいにクオが体を立てた、その顔は鉛色だった。彼はしゃがれ声で言った。
「閣下、申し上げます、頭髪の間に小さな鉄のつぶを発見いたしました。釘の頭かと思われます!」
ルー夫人が平静をとりもどした。
「仕組んだんだ!」と彼女は金切声でわめいた、「お棺に細工をしたんだよ!」
しかし見物人たちはもう好奇心でいっぱいだった。前列にいるずんぐりした肉屋がどなった。
「おれたちの組合の親方が自分で墓に封印したんだぞ。黙ってなよ、おかみさん、あれが何なんだか、おれたちは見たいんだ」
「あなたの陳述を実証しなさい!」判事がクオに命じた。
検屍官は袖からやっとこを一丁とりだした。ルー夫人がとびかかろうとしたが、巡査長がとりおさえて引きもどした。彼女がまるで野育ちの猫のように暴れているあいだに、クオは長い釘を頭蓋骨から引き抜いた。彼はそれを高く掲げて群衆に示してから、判事席の上、判事の前にそっと置いた。
ルー夫人の体から力が抜けた。巡査長が手を放すと、何も目にはいらぬように書記の席のほうへよろめいて行き、机の角にもたれてうなだれて立った。
前列の観衆が何を見たかを後方の人々に大声で伝えた。人々は騒がしくしゃべりはじめ、後列の何人かが、通りにいる人々に知らせに駆けだしていった。
判事は判事席を打った。騒ぎが静まったところで、彼はルー夫人に向かって呼びかけた。
「あなたは頭のてっぺんに釘を打ちこむという方法で夫を殺害したことを事実と認めるか」
ルー夫人はゆっくりと顔を上げた。長い戦《おのの》きが全身を走った。ほつれた髪を額からかきあげると、彼女は無表情な声で言った。
「認めます」
傍聴席からさざ波のようなざわめきが起こり、この終局の知らせもまた法廷中に引き継がれていった。ディー判事は椅子の背に身をもたせた。広間が再び静かになったとき、彼は疲れた声で言った。
「ではあなたの告白を聞こう」
ルー夫人は長いきものを細い胴のまわりにひきよせた。のぞみも絶えたようすで彼女は語った。
「もうずっと前のことのような気がするけれど、もうほんとはどうだっていいのさ」テーブルによりかかって彼女は壁の高い窓を見あげた。そしていきなり話しはじめた。
「私の夫のルー・ミンは鈍くて、愚かで、何もわかってやしなかった。どうしてあんな人といっしょにいられるものか。この私、私は捜し求めていた……」彼女は大きくため息をつき、語り続けた、「私が女の子を生んだら、あいつは男の子が欲しいのだといった。私はもう金輪際《こんりんざい》我慢できなかった。ある日あいつがおなかが痛いというので、私は強い酒に眠り薬をまぜて、薬だといって飲ませた。あいつがぐっすり眠りこんだとき、私は靴底に穴を開けるのに使う長い釘をとり、槌であいつの頭のてっぺんに、釘の頭しか見えなくなるまで打ちこんだわ」
「鬼婆を殺せ!」と誰かが叫び、怒号が後をうけた。早くも態度を一変させて、群衆はいまその激情をルー夫人に向けた。
ディー判事は驚堂木を卓上にがんと叩きつけた。
「静――粛!」と彼は叫んだ。
廷内はたちまち静まった。政庁の権威は回復された。
「クワン先生は心臓麻痺だと証言したの」とルー夫人は続けた。さげすむように彼女は言いそえた、「その人の協力を得るためにはその情婦にならなくてはならなかった。先生は魔法の秘術を知っているつもりでいたけれど、じつは役立たずのほんの駆けだしにすぎなかったわ。死亡証明を書いてもらうとすぐ私は縁を切った。そして私は自由になった。……。
ある日、ひと月ほど前のこと、私は店を出ようとして雪で滑ったの。男の人が助け起こし、中へ連れていってくれたわ。私は店の腰掛にすわり、あの人がくるぶしを揉《も》んでくれた。あの人の手の一押しごとに、私はその人を揺り動かしている生命の力を感じた。これこそ私の配偶者、待ち続けた人にとうとう会えたと私は知った。心と体のすべてを総動員してその男性を自分に引きつけようとしたけれど、その人が抵抗しているのが感じられた。それでもその人が立ち去った時、かならずもどってくると私にはわかっていた」
話を続けるうち、なにかしら以前の生気がルー夫人にかえってきた。
「そして、あの人はもどって来たの! 私は勝った。あの人は燃え上がる炎のようで、いちどきに私を愛し私を憎み、私を愛している自分を憎み、それでもなお私を愛した! 私たちを結びつけていたのは生命の泉そのものだった……」
彼女はひと息ついた。そして頭を垂れ、また力の抜けた声で話を続けた。
「いずれまたあの人を失うことになるとは、その時からわかっていたわ。私があの人の力を吸いとる、修行の妨げとなるといって、あの人は私を責めた。別れなければならないとあの人は言った……私は狂わんばかりだった、あの人なしでは生きて行けない、あの人なしでは生命の力は潮が引くように私から消えて行くと感じて……もし私を捨てたら、夫を殺したように私はあなたを殺すだろうと言った」
絶望的に頭を振り動かして、彼女は話し続けた。
「それを言うべきではなかった。あの人が私を見た眼つきでそれはわかったわ。すべてはおしまいだった。あの人を殺さなくてはならないことも、その時わかっていた。
私は干したジャスミンの花に毒をつめて、タタール青年のみなりをして浴場へ行った。お詫びを言いに来たのだといい、仲よく別れたいのだと言ったわ。あの人は他人行儀にひややかだった。私の秘密を守ることについてあの人が返事しなかったので、私は花を茶碗の中に落としたの。薬がまわった途端、あの人はもの凄い眼で私を見た。口を開いたけれど、ものは言えなかった。けれどあの人が私を呪ったこと、そして私もおしまいだということはわかったわ……ああ、あれは私の愛したただ一人のひと……そして私はあの人を殺すほかなかったの」
ふいに彼女は頭を上げた。そして判事を正面から見つめながら言った。
「これで私は死にます。私の体はどうとでもお好きなように!」
判事は彼女を襲った突然の変貌を、ぞっとする思いで眺めた。滑らかな肌には深いしわが走り、眼は光を失ない、彼女はにわかに十も年をとった。烈しい、不屈の精神が消え去ったからには、じっさいもうからっぽの脱けがらしか残されてはいないのだった。
「供述書を読み上げよ」と彼は書記に命じた。
書記が書いたものを読みあげるあいだ、廷内はしんと静まり返っていた。
「あなたはこれがあなたの真実の告白であることを認めるか?」と判事がきいた。
ルー夫人はうなずいた。巡査長が文書をさしだし、彼女はそれに拇印をおした。
ディー判事は法廷を閉じた。
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第二十四章
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ディー判事はしのびの遠出に行き
ふたたびまた薬《くす》が丘をおとずれる
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ディー判事は三人の副官をしたがえて法廷を去った。群衆から自信なげな歓呼の声があがった。廊下に出ると、マー・ロンがチャオ・タイの肩を音高くポンと叩いた。彼らはあふれる喜びを抑えきれなかった。タオ・ガンでさえディー判事の執務室にはいりながらうれしそうに含み笑いをするのだった。
だが判事が向き直ったとき、その顔つきが開廷中と同じように冷たく無感動であることに、彼らはまったく驚かされた。
「長い一日だった」と彼は静かに言った。「チャオ・タイとタオ・ガンは休息しに行くがよい。だがマー・ロン、申し訳ないが君はまだ行かせてあげられないんだ」
唖然とした顔つきでチャオ・タイとタオ・ガンが去ると、ディー判事は州長官に宛てた書状を手にとった。彼はそれを引き裂いて、火鉢の中の炎の上に投げた。それが灰に変わるまで、彼は黙って見つめていた。それからマー・ロンに向かって言った。
「狩猟服に着替えて来たまえ、マー・ロン。それから馬を二頭、庭につないでおくように」
マー・ロンは物も言えないほど驚いた。説明してもらおうかと考えてみたが、ディー判事の顔つきを見て黙って出ていった。
庭には、大きな雪片が舞い落ちていた。ディー判事は鉛色の空を見あげた。
「急がねばなるまい」と彼はマー・ロンに言った、「この天気だと、もうすぐ暗くなる」
首巻を引っ張って顔の下半をおおうと、ひらりと馬にまたがった。二人は脇門から出て政庁を後にした。
大通りを馬で行くとき、雪や氷のように冷たい風にもかかわらず、通りの屋台にたむろしている人々を大勢見かけた。油布の差し掛けの下に身を寄せ合って立ち、政庁での大評判の裁判を熱心に話題にしていたものたちは、馬に乗って過ぎる二人の人物に目もくれなかった。
市の北門まで来ると、平原からの冷たい突風が二人の顔を打った。ディー判事は衛兵詰所の扉を鞭の柄で叩いた。兵士が一人姿を見せると、彼は厚い油紙の風防つき提灯をマー・ロンに渡すように命じた。
城外に出ると判事は西の方角へ馬を走らせた。宵闇が迫りつつあったが、雪は小止みになっているようだった。
「遠くへ行くのでしょうか、閣下」とマー・ロンが心配そうにたずねた、「この天侯では、丘陵の間で道に迷いやすいです」
「道はわかっている」と判事がとりつくしまもなく答えた、「もうすぐだ」
彼は墓地へ通ずる道をとった。
墓地にはいると、判事は馬の足をゆるめて、熱心に土饅頭を調べていった。開いているルー・ミンの墓を過ぎて、墓地の一番奥の片隅まで行った。ディー判事は馬から下りた。すぐあとにマー・ロンをしたがえて、ひとり何かつぶやきながら土饅頭の間を歩きまわった。
ふいに判事が立ち止まった。大きな墳墓を閉ざしている石から、袖で雪をぬぐいとった。板石に彫りこまれたワンという名を読みとると、彼はマー・ロンに声をかけた。
「ここだよ。この墓を開けるのを手伝ってくれ、鞍袋に短い鋤《すき》が二丁あるはずだ」
ディー判事とマー・ロンは石の墓標の基部にたまった雪と土とを掘り、それを外しにかかった。骨の折れる仕事で、やっと板石を前方に倒せるようになったときにはもうすっかり暗かった。厚い雲が月をかげらせた。
寒さにもかかわらず、判事は汗をかいていた。マー・ロンの手から提灯をうけとると、身をかがめて墓にはいった。
内部のかび臭い空気は不思議なほど静かだった。提灯の火を掲げてみると、丸天井の下に三つの棺が据えられていた。碑銘を丹念に調べてから、右端の棺のほうに行った。「提灯を持っていてくれ」思わず声を低めて、彼はマー・ロンに命じた。
提灯のちらちらする光に照らし出された判事の憔悴した表情を、マー・ロンは不安げにみつめた。彼は判事が袖からのみを取りだすのを見た。鋤を槌代わりに使いながら、彼は蓋をこじ開けにかかった。打つ音が丸天井にうつろに響いた。
「向こう側からかかれ!」と判事はマー・ロンに鋭く命じた。
提灯を床に置いて鋤をみぞにさしこもうとしたとき、混乱した感情がマー・ロンの頭の中を駆け抜けた。自分たちは墓を汚《けが》しているのだ。この息苦しい場所で空気はほとんど暖かいくらいなのに、マー・ロンはガタガタ震えていた。
どれくらい棺にかかりきっていたかわからないが、とうとう蓋が外れたときは背中が痛んだ。鋤をてこに使えば蓋を持ちあげられるとわかった。
「右側に落とせ!」ディー判事が息を切らしながら言った。
二人が蓋を押すと、蓋は床に落ちてゴトンと響きをたてた。
判事は首巻で鼻と口をおさえ、マー・ロンがあわててそれにならった。
判事は提灯を開いた棺の上に掲げた。中には骸骨が横たわり、骨のそこここにはまだ朽ちた屍衣《しい》の残りがかぶさっていた。
マー・ロンは後ずさりした。ディー判事は彼に提灯を渡し、棺の上にかがみこんでそっと頭蓋骨を探った。外せることがわかると、彼はそれを棺からとりだして熱心に調べた。提灯のおぼろげな光のなかで、しゃれこうべのうつろな眼窩《がんか》は、ディー判事の顔をすぐそばから横目でいやらしく見つめているようだとマー・ロンは思った。
いきなり判事がしゃれこうべを振った。金物のカラカラ鳴る音がした。判事はしゃれこうべの頭頂をすかして見、人差指の先で触ってみた。それからしゃれこうべをそっと棺の中にもどした。そしてかすれた声で言った。
「これですんだ。帰ろう」
二人が丸天井の下から這いだしたとき、雲は消え失せ、空には満月がその白銀の光の矢を荒涼たる墓地に投げかけていた。
ディー判事は提灯の灯を消した。
「板石を据えなおそう」と彼は言った。
石をもとどおりの位置にもどすのにずいぶん手間どった。ディー判事は雪と泥をすくって根もとにかけてから、馬に乗った。
馬に乗って墓地の門に向かっていたとき、マー・ロンはもうそれ以上好奇心を抑えていられなかった。
「閣下、あそこには誰が埋まっていたんです?」と彼はきいた。
「明日わかる」とディー判事は答えた、「朝の公判で、また別の殺人事件調査に着手する」
市の北門の前に着くと、判事は馬をとめて言った。
「吹雪が去ったら、すばらしい夜になったな。君は政庁にもどってよろしい。私は丘陵の間をもう一駆けさせて頭をすっきりさせてくる」
マー・ロンに何かを言う間もあたえず、判事は馬の首を立てなおして駆け去った。
彼は東に向かった。薬《くす》が丘の麓まで来て馬をとめた。鞍から身を乗りだして、彼は雪の上に目をさらすようにした。それから馬を降り、手綱を切株に結びつけておいて、登りはじめた。
灰色の毛皮マントをまとったほっそりした人影が岩山の上の柵によって、眼下の白い平原を見おろして佇《たたず》んでいた。
雪を踏むディー判事の長靴の音を聞くと、女はゆっくりとふり向いた。
「ここへおいでになるとわかっていました」静かに彼女は言った、「お待ち申しあげておりました」
判事が黙って立ったままでいると、彼女はすぐに続けた。
「まあ、お召物がすっかりよごれて、お靴は泥だらけで! あそこへいらしたのですね」
「そうです」と判事はのろのろと答えた、「あそこへ行きました、マー・ロンといっしょに。昔の殺人事件は政庁の手で捜査されねばなりません」
彼女の眼が大きく見開かれた。判事は彼女の肩ごしに遠くに目を向けて、必死になって言葉を捜した。
「こうなるとわかっておりました」と彼女は無表情な声音で言った、「けれども……」息をひとつついて、それからわびしげに言った、「あなたは御存じありません、何が……」
「私にはわかっている!」判事は激しく彼女をさえぎった、「私にはわかっている、五年前、何があなたにあのようなことをさせたか、そして私は知っているのだ、あなたが……、何があなたをして私に告げしめたかを」
彼女はうつむいてむせび泣いた、奇妙に声をたてずに――。
「規範は回復されねばなりません」と判事はとぎれとぎれに言った、「たとえ……もしそれがわれわれ自身を滅ぼそうとも。ほんとうです、これは私自身より強いのです。これからの日々はこの世の地獄となるでしょう、あなたにとって……そして私にとっても。何とか他の手はないものかと願いました。しかし私にはできない……しかも私を救ってくれたのはあなたなのだ! 許してください、どうか……」
「そんなふうにおっしゃらないで!」と彼女は声を上げた。そして、涙ながらに頬笑んで、静かに言いそえた、「むろんあなたがそうなさることはわかっておりました、でなかったらお話ししなかったでしょう。あなたに他のなさり方を決して求めはいたしません」
判事は物を言おうとしたが、胸がいっぱいで声が出なかった。彼は彼女に捨てばちな眼を向けた。
彼女は眼をそらした。
「なにもおっしゃらないで!」彼女はあえいだ、「私をごらんにならないで。私には耐えられない……」
彼女は両手で顔をおおった。判事はじっと動かず立ちすくんでいた。氷の刃にゆっくりと心臓を貫かれているような気持ちだった。
ふと彼女が顔を上げた。判事は話しかけようとしたが、いち早く彼女は唇に指をあてた。
「だめ!」と彼女は言った。そしておののきのような笑みを浮かべて続けた、「さあ、黙って! 覚えていらっしゃいません? 花が雪の中で散るというのを。耳をすませば、音が聞こえてきます……」
浮き浮きと後ろの木を指さしながら急いで続けた、「ごらんなさい、今日は花が咲きました! ほら、ごらんなさい!」
ふりかえり、ふり仰いで、判事はそこに見たものの美しさに息を呑んだ。木は月明かりの空にくっきりと浮かび上がり、小さな紅色の花はあたかも銀《しろがね》の枝をおおう紅玉《ルビー》のようであった。微かな風の流れが冷たい空気を動かした。いくつかの花びらが離れて、ゆっくりと雪の上に舞い落ちた。
ふいに彼の背後で木の裂ける音がした。すばやくふりかえると、壊れた柵が見えた。岩山の上に、彼はただ一人だった。
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第二十五章
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検屍官が驚くべき罪状を申告する
首都の宮廷から二人の官吏が到着
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次の朝、苦悩の一夜を過ごしたディー判事は遅く起きた。朝の茶を運んできた事務官が悲しそうに言った。
「閣下、私どもの検屍官の奥さんに事故があったのです! ゆうべあの人はいつものように薬が丘へ月霊草を集めに行きました。きっとあの人は柵にもたれかかり、そしてそれが壊れたのです。夜明けがた猟師が岩山の下であの人のなきがらを発見しました」
判事は遺憾の意を表し、それからマー・ロンを呼ぶように命じた。
マー・ロンと二人だけになると、判事は真剣な表情で言った。
「昨夜私は思い違いをしたのだよ、マー・ロン。私たちが墓地へ行ったことを誰にも話してはいけない。忘れるんだ」
マー・ロンは大きな頭をうなずかせて、落ち着いて言った。
「閣下、私は頭の要る仕事にはあまり役に立ちませんが、私にできる一つの事はご命令に従うことです。もし閣下が忘れろとおっしゃるなら、忘れます!」
ディー判事は優しく彼を見やってから、去らせた。
戸を叩く音がして、クオがはいってきた。判事はすぐさま立ちあがって迎えに出た。彼は折目正しく哀悼の辞を述べた。
クオは大きな、悲しい眼で判事を見あげた。
「事故ではございませんでした、閣下」と彼は静かに言った、「私の妻はあの場所を自分のたなごころのように知っておりましたし、柵はしっかりしておりました。妻は自殺したのだと、私は承知しております」
ディー判事が眉を上げると、クオは変わらぬ穏やかな調子で続けた。
「閣下、私はある重大な罪を犯しておりますことを告白いたします。私が妻に結婚してくれるよう頼みましたとき、妻は自分は夫を殺したのだと警告しました。それでも私の気持ちに変わりはない、あなたの夫が人にも動物にも一様に苦痛を与えることに喜びを見いだす、無慈悲な人非人だったことを知っているからと、私は申しました。ああいう人間は滅ぼさるべきだという気がいたします、私自身にそれをする勇気はございませんけれども。閣下、私は偉大なことを成しうる人間ではないのでございます」
望みが尽きたという様子で、クオは両手を高くさしのべた。そしてまた続けた。
「そのとき詳しくはたずねませんでしたし、その後再びそのことが私たちの間に持ち出されることはありませんでした。けれどもあれがいつもそのことを思い、迷いにさいなまれていることは知っておりました。言うまでもなく私はあれに勧めて犯行を申告させるべきだったのですが、閣下、私は利己的な人間でございます、妻を失うと思うと耐えられませんでした……」
彼は床に目をすえ、口もとをひきつらせた。
「ではなぜ今あなたはこの事を持ち出すのか?」とディー判事がたずねた。
クオは眼を上げた。
「なぜかと申しますと、閣下、それがあれの希望であると、私にはわかるのです」と彼は落ち着いて答えた、「ルー夫人の裁判に心を深く動かされ、あれは自殺することにより自分の罪を償わねばならぬと感じました。しんそこ誠実な女でしたから、自分の罪が公式に届け出られるようあれが願っていることはわかっております、それでやっとあれはきれいな記録をもってあの世へ行けるのです。そこで私はここに申告のため参上し、あわせて私自身を事後共犯として告発いたします」
「あなたが死に当る罪だというのがわかっているのか?」と判事がたずねた。
「勿論でございます!」とクオは心外そうにいった、「妻亡きあとでは私が死など気にかけないだろうということを、あれは承知しておりました」
ディー判事は無言のままあごひげをなでていた。この無上の忠誠に、深く恥じ入る気持ちであった。しばらくしてから彼は言った。
「私はあなたの奥さんに対する死後の訴えに手をつけることはできないよ、クオさん。あの人がどのようにして夫を殺したかあなたに話したことがないのだし、伝聞証拠だけで墓を暴《あば》いて死体検視はできない。それに、もしあなたの奥さんが犯したと話した罪をほんとうに申告してもらうつもりでいたのなら、当然自筆の自白供述書を後に残していっただろうよ」
「ほんとうに」とクオは考えこんで言った、「それは思いつきませんでした。私の頭はひどく混乱していて……」その後に彼はそっと独りごとのようにつけ加えた、「これからは淋しいことでしょう……」
ディー判事は椅子を離れて彼のほうへ歩み寄った。
「ルー夫人の幼い娘が、あなたの家にいるのではないか?」
「はい」とクオはゆっくりと笑みを浮かべて言った、「あの子はすてきなおちびさんです。妻はあの子がたいそう気にいっておりました」
「では、あなたのすることははっきりしているよ、クオさん」判事は断固として言った、「ルー夫人の訴件が片づきしだい、あなたはあの子を養女にすることだ!」
クオは判事を感謝の眼で見た。そして悔やむように言った。
「私はすっかり気が転倒しておりまして、一回目の検屍のさいに釘を見落としましたことのお詫びさえ申しあげておりませんでした、閣下。どうかなにとぞ……」
「済んだことは忘れよう!」ディー判事はすばやくさえぎった。
クオはひざまずいて、額を三度床につけた。再び立ちあがった時、彼は飾り気なく言った。
「ありがとうございます」立ち去ろうとしながら、彼は言いそえた、「閣下は立派な、高潔なお方です」
クオが足をひいてのろのろと戸口ヘ向かうとき、判事はあたかも真向《まっこう》から重い鞭でなぐりつけられたような気持ちだった。
ふらふらと席にもどって、どさんと椅子に腰をおとした。ふいに彼は、クオが妻の抱いていた迷いについて語ったのを思いだした。「喜びは過ぎ去り ただ悔いと悲しみのみ」――あの人は確かに詩の全文を知っていたのだ。「おお せめて一度《ひとたび》の新しき恋に……」彼は机に頭をおとした。
かなりたってから、彼は己れをとりもどした。長く念頭を去っていた父上とのある対話が、急に心によみがえってきた。三十年前、彼が最初の文官試験に合格したばかりの頃、父上に向かって壮大な将来の計画を熱心に語った。「おまえならやるだろうと信じているよ、レンチエ」と父上は言われた、「だがその道には多くの苦悩が待つ。そして頂上に立つということは実に孤独であることを、おまえは知るだろう」と。生意気にも彼は応じた、「苦悩と孤独とは男を強くするものだと存じます!」彼は父上の悲しいほほえみを理解するに到らなかったのだ。
だが今、彼はそのことを知った。
事務官が熱い茶のはいった茶瓶を持ってはいってきた。判事は茶を一杯、ゆっくりと飲んだ。ふと彼は考えて、驚嘆した、「生きて行くというのは何と笑止なことか、それもまるで何もなかったかのように! それでもホンは死に、一人の女と一人の男とが私を深く恥じ入らせ、しかも私はここにすわって茶を飲んでいるのだ。人生は続くが、私は変わってしまった。人生は続くが、私はもはやそれに参加することを欲しない」
彼はぐったりと疲れを感じた。平穏を、と彼は思った、隠棲を、と。しかしそれはできないと彼は悟った。隠棲は義務のない人のためのものだが、自分にはあまりにも多くの責務がある。自分は国家および人民に奉仕することを誓ったのだし、結婚をし、子どもたちを授かった。卑怯者のように負い目から逃げ出す債務不履行者とはなれない。自分は生き続けるのだ。
こう心を決めると、判事は深い物思いに沈んだ。
いきなりパッと戸が開いて、彼を沈思から呼びさました。副官三人が駆けこんできた。
「閣下!」とチャオ・タイが興奮して叫んだ、「高官お二方が首都からお着きです! 夜通し旅して来られたのです!」
ディー判事は驚いた顔で彼らを見た。高位の客人方を応接室でおもてなしし、ご休息願うようにと彼らに命じ、自分は礼服に着替えてただちにお目通りすることにした。
応接室にはいって、判事は輝く錦の袍《ほう》をまとった二人の人を見た。帽子の徽章でそれが首都裁判所の上級調査官であることがわかった。がっくりと気落ちしながらひざまずいた。これは重大なことに違いない。
年長の人がすばやく歩み寄って、判事を立ちあがらせた。そしてうやうやしく言った。
「閣下は僕《しもべ》どもの前にひざまずかれてはなりません」
物も言えぬほど驚いて、判事は上座に導かれるがままになっていた。
年長の役人が奥の壁面を背にした高い祭壇のところへ行き、そこに安置してあった黄色の巻物を大切そうにとり上げた。それを両手にうやうやしく捧げもって言った。
「閣下、どうか畏れ多い御言葉をご拝読ください!」
ディー判事は立ちあがり、拝礼して巻物を受け取った。
一番上におされている御璽《ぎょじ》が眼の高さより下がらぬよう注意しながら、彼はそろそろと開いた。それはしきたりどおりの形式的文章で綴られ、十二年にわたる奉公の功績を賞して、太原《タイユアン》出身のディー・レンチエを首都裁判所長官に任ずることを告げた勅令であった。それには朱筆でもって帝の裁可が与えられていた。
ディー判事は勅令を巻いて、もとどおりに祭壇の上に置いた。それから首都の方角に向かってひれ伏し、床に九回|叩頭《こうとう》して、帝のご愛顧に対する感謝を表明した。
立ちあがると、二人の高官は彼の前に深く頭を下げた。
「手前ども両人は」と年長のほうがうやうやしく言った、「閣下の補佐に任命されましてございます。勝手ながら私どもは上級書記に勅令の写しをとらせ、市中に掲示させるようはからい、人々がその地の知事に授与されました栄誉をわかち喜ぶことができるようにいたしました。明朝早くに私どもは首都まで閣下をご警護申し上げます。閣下に可能な限り早く任務におつき戴くのが、畏《かしこ》きあたりのご意向でございます」
「閣下の後任者はすでに任命をうけており」と若いほうが言いそえた、「今夜当地に着くはずでございます」
ディー判事はうなずいた。
「ご両所はお引きとりください。私は執務室に参って後任の方のため書類を整理しておきましょう」
「私どもに閣下をお手伝いする栄をお与えください」と年長のほうがしかつめらしく言った。
記録室にもどる途中で、判事は遠くに爆竹の音を聞いた。北州《ペイチョウ》の市民がもう彼らの知事の出世を祝賀しはじめていた。
上級書記が彼らを迎えにやってきた。判事に祝辞を述べるため、政庁の全職員が法廷で待っていることを知らせにきたのだ。
壇上に登って、ディー判事はすべての書記、事務官、巡査、守衛が判事席の前にひざまずいているのを見た。そしてこのたびは、副官三人も一同のなかにいた。
二人の調査官を両側にしたがえて、判事はその場にふさわしい言葉を短く述べ、在任期間中の彼らの奉仕に感謝した。全員に対し、その階級役職に応じて特別手当金を与える旨を発表した。そのあと、とりわけ忠誠をもって仕え、彼の友となった三人の副官を見つめた。そして、マー・ロンとチャオ・タイを首都裁判所の左右近衛隊長に、タオ・ガンを秘書官長に任ずると発表した。
職員たちの大喝采が外の通りに集まっている群衆の歓呼の叫びと一つになった。「知事万歳!」と人々は叫んだ。人生は何たる喜劇かと、ディー判事は苦い思いをかみしめていた。
ディー判事が自分の執務室にもどっていると、マー・ロン、チャオ・タイ、タオ・ガンが礼を述べにとびこんできた。だが、二人の厳かな役人が判事の礼服を脱ぐのを手伝っているのを見て、はたと立ち止まった。
判事は二人の頭越しに副官たちに向かってわびしげに頬笑みかけた。彼らはすばやく引き返した。その後ろで扉がしまったとき、判事は気のおけない友だちづきあいの古い日々が終わりを告げたことを悟って心が痛んだ。
年長のほうの役人が判事の気に入りの毛皮帽をさしだした。宮廷社会で人となった判事は感情をかくすことを学んでいた。それでも古びてすりきれた毛皮を見つめて、思わず彼の片方の眉が上がった。
「比類なき栄誉でございます」と若いほうの役人がもの柔らかに言った、「長官という高い地位に直接に任用をおうけになりましたのですから。通例|帝《みかど》は年配の府の総督のなかからお選びになられます。しかも閣下はまだやっと五十五歳ほどかとお見うけいたしますが」
この男はあまり気が利かないなと判事は考えた、自分が四十六歳でしかないことはわかっているはずなのに。だが姫鏡台をのぞいて彼が愕然とさせられたことには、この数日のあいだに彼の黒いあごひげと頬ひげは灰色に変じていたのだった。
彼は机上の書類綴りを区分けし、二人の役人に簡単に説明した。たびたびホン警部とともに携わってきた農民貸付金計画の綴りの番になったときには、自然と熱がはいらずにはいなかった。役人たちは礼儀正しく耳を傾けていたが、彼は間もなく二人が明らかにうんざりしていることに気づいた。嘆息して、彼は綴りを閉じた。彼は父上の言葉を思い起こしていた、「孤独なものだ、頂上に立つということは――」
ディー判事の副官たち三人は、守衛詰所の石の床の真中で燃えさかっている焚火を囲んですわっていた。ちょうどホン警部の話が出たところで、三人はいま炎を見つめて黙りこんでいた。
いきなりタオ・ガンが言いだした。
「都から来たあのお偉い方々に、今夜ちょいとさいころ博奕におつきあい願えるかしらん」
マー・ロンが顔を上げた。
「もうさいころはだめだよ、秘書先生!」と彼はうなった、「あんたはもうあんたの高い身分に合う暮らし方を覚えなくてはなるまいぜ。あんたのあのうっとうしい脂染みた長外套姿を見ないですむのは、実にありがたいこった!」
「都へ行ったら裏返して仕立て直させるよ」とタオ・ガンは平然と言った、「そしてマー・ロン、あんたの品のよくないなぐり合いももうなかろうね。それにしても、荒っぽい仕事はもう若い連中にまかせる時期じゃないのかな、え、兄弟? 頭に白髪が出てきたねえ、君!」
マー・ロンは大きな手で自分の膝をなでた。
「そうなんだ」と彼は無念そうに言った、「ときおり手足が固くて動きづらくなってきたのは認めるよ」ふいに彼はにたりと笑った、「だが兄弟、おれたちみたいに上等な男は、都じゃ女の選りどりみどりだよな!」
「都の若い洒落者連中の張り合いを忘れなさんな」とタオ・ガンが冷淡に言った。
マー・ロンががっかりした顔をして、情けなさそうに頭をかいた。
「黙れよ、因業《いんごう》爺いめが!」チャオ・タイがタオ・ガンをどなりつけた、「たとえおれたちがちっとばかし年をとって、ときには一人でぐっすり眠るのを楽しむようになるとしてもだよ、だけど兄弟、絶対おれたちを見捨てないものが一つあるぜ」
彼は杯を上げるように、手を高く挙げた。
「琥珀《こはく》色の水だ!」マー・ロンは叫んでとびあがった、「行こうぜ、兄弟、街中で一番いいところへ行こう!」
タオ・ガンを中に挟んで引っ立てて、彼らは正門に向かった。(完)
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判事と法廷[作者解説]
――ファン・フーリック
古い中国の探偵もののすべてに共通する特色は、探偵の役回りが常に犯罪の起こった県の知事により演じられることである。
この官吏は彼の管轄下にある県――通常城壁で囲まれた一つの都市とその周辺五〇里《マイル》前後までの田園地帯から成る――の全面的管理の任にあたる。知事の義務は多方面にわたっている。租税の徴収、出生・死亡・婚姻の登緑、土地登記書の管理、治安の維持など、万事に責任を負う一方で、地域法廷を主宰する判事として犯罪者の逮捕と処罰を行ない、民事・刑事万般の訴訟を審理する任務を負う。このように知事は人民の日常生活のほとんどすべての局面の監督管理にあたるため、通例「父母官」と呼ばれる。
知事はつねに変わらず過重労働の官吏である。政庁と同じ構内にある一廊で家族とともに住まい、概して起きているあいだ中ずっと公務にあたる。
古代中国の政治組織の巨大なビラミッド構造の底辺に、県知事がいる。彼は二十余の県を監督管理する州長官に報告の義務を負う。州長官は十二余の州に責任をもつ府の総督に報告の義務を負う。総督は、皇帝をその頂点とする首都の中央官庁に報告する番に当たる。
貧富を問わず、社会的背景に関係なく、帝国の全市民は文官試験〔科挙〕に合格することによって、官途につき、県知事になることができる。そういう点から見ると、ヨーロッパがまだ封建制度のもとにあったそのころとしては、中国の制度はむしろ民主的なものとなっていた。
知事の任期は通例三年であった。その後彼は他の県に転任させられ、しかるべき時期に州長官に昇任する。昇任は実績のみにもとづく抜擢であるため、才能の乏しい人物がその生涯の大半を県知事として過ごすことはしばしばあった。
知事の一般職務を果たすうえでは、政庁の常勤職員、たとえば巡査、書記官、牢番長、検屍官、守衛、使丁の補佐をうける。だがそれらの人々はその日常職務を遂行するのみであり、犯罪の解明にはかかわらない。
この責務は知事自身が果たすものであって、信頼できる助手三、四人の補佐をうけるが、これらの人物はキャリアを始めるにあたって彼自身によって選定され、彼がどんな職に転じてもそれに随伴する。これら助手たちは他の政庁職員よりも上位に立つ。地域的な縁故がないため、仕事をするさい個人的な思惑《おもわく》から影響をうけることが比較的少ない。同じ理由から、官吏が生まれ故郷の県に知事として任命されることは絶対にないのが定則である。
この小説では、古代中国の訴訟手続の一般概念が示される。三五頁、二七三頁の図は、法廷の設備を示している。開廷中、判事は判事席につき、助手たちと書記官たちがその左右に並ぶ。判事席は赤い布をかけた高いテーブルで、布は前に垂れて、一段高い壇上の床に届いている。
この判事席の上にはいつも同じ備品が見られる、すなわち墨と朱墨をするための硯、筆二本、それから筒に立てたたくさんの細長い竹片。この竹片は罪人のうける笞《むち》打ちの数をしるしするのに用いられる。もし巡査に十回打たせようとするならば、判事は数取り棒十本をとって、壇の前の床に投げてやる。一打ちするたびに巡査長は数取り棒一本をとりのける。
判事席の上には大きな政庁の印璽《いんじ》と、驚堂木《けいどうぼく》も見られる。驚堂木は西洋のそれのように槌の形をしてはいない。堅い木でつくられた長さ一尺ばかりの矩形の木片である。中国では示唆的に「驚堂木」とよばれている。
巡査は壇の前に、左右二列に分かれて向かいあって立つ。原告被告ともこの二列にはさまれてむき出しの敷石の上にひざまずき、開廷中ずっとそうしていなければならない。彼らには援護してくれる弁護士もいないし、証人を呼ぶこともできないから、彼らの立場は概して望ましいものではない。あらゆる訴訟手続はじっさい抑止力として、法律に関わりあいを持つことは恐ろしいと人々に印象づけるように仕組まれている。政庁では通例日に三度、朝と正午と午後の公判がある。
犯人が自分の罪を告白せぬうちは有罪判決を下さないというのが、中国の法の基本原則である。筋金入りの犯人がゆるがぬ証拠をつきつけられても自白を拒むことにより処罰を免れるのを防ぐために、鞭や竹杖で打つこと、手やくるぶしを締め木にかけることなどの適法な厳しい裁きを、法は認めている。これら正当と認められる拷問手段とあわせて、知事たちはしばしばもっと苛酷な方法を用いた。しかしそのような苛酷な拷問のために、被告が永続的な身体傷害をこうむったり絶命したりすることがあれば、判事と政庁職員全員が、しばしば極刑をもって処罰された。だからたいていの判事は苛酷な拷問よりも、鋭い心理洞察力や協力仲間の知識に頼ることのほうが多かった。
全般的に見て、古代中国の組織はかなりよく機能していた。上級官庁によるぬかりのない規制が権限逸脱を防いだし、不正な、あるいは無責任な知事に対しては、世論が別のしかたで抑制を加えた。死刑宣告には皇帝の裁可が必要とされ、被告は誰でも上級審に控訴でき、それは皇帝の耳にまで達するしくみになっていた。そのうえ知事は被告に内々で尋問を行なうことを認められておらず、訴件に関する尋問は、予備的な取り調べも含めて、すべて政庁の公判の場でなされねばならなかった。訴訟手続のすべては綿密に記録にとられ、これらの報告は上級官庁に送付されて、監査をうけねばならない。
速記術を用いないで、書記官がどうして正確な法廷議事録を記すことができたのか、読者は不審に思われるかもしれない。その答えは、中国の文章言語がそれ自体一種の速記術であることにみいだされる。たとえば、二十語以上もある口語的な一文を、四つの表意文字につづめることが可能なのである。そのうえ続け書きのいろいろの書体があり、十画以上の文字が一筆《ひとふで》に省略される。私自身、中国在任中よく中国人の書記にこみいった中国語の会話を書き留めさせたが、その記録は驚くほど正確なものであった。
「ディー判事」は古代中国の大探偵の一人である。彼は歴史上実在する人物で、唐代の著名な政治家であった。名は狄仁傑《ディーレンチエ》、西暦六三〇年から七〇〇年まで生きた。地方で知事をつとめた若い頃には、難しい犯罪事件を数多く解決したことで名声を博した。後代の中国の小説が多くの犯罪物のなかで彼を主人公にしているのは、主として彼の犯罪解明者としての名声に由来するものである――それらの物語では、たとえ史実を踏まえているとしても、とるに足らぬほどでしかないが……。
のちに彼は帝国法務大臣「御史大夫」となり、賢明な助言を行なって国政に有益な影響を与えた。当時権勢を有した則天武后の、正統の皇太子に代えて寵臣を帝位につけようというもくろみを放棄させたのは、彼の強硬な抗議のゆえであった。
〔ここまでの文は『中国梵鐘殺人事件』に付せられた作者解説からの抄録である〕
首無し死体事件は、一三世紀の中国の判例集で、私が T'ang-yin-pi-shih, Parallel Cases from under the Peartree, a thirteenth-century manual of jurisprudence and detection (Sinica Leidensia Series,Vol.X, E.J. Brill, Leiden 1956)と題して翻訳したものの中で語られる一話にもとづいている。その手引書のCase 64〔邦訳『棠陰比事《とういんひじ》』岩波文庫版、一二七話〕に、九五〇年のこと、ある商人が旅からもどって妻の首無し死体を発見したとある。妻の一族が男を下手人として訴えて出、男は拷問をうけて偽りの申し立てをした。勘のいい探偵が疑念を抱き、県内の葬儀屋すべてにたいし、変わった埋葬について聞きこみを開始した。一人が金持ちの家の死んだ女中を埋葬したが、その棺がやけに軽いことが気になったと申し出てきた。探偵が開けさせてみると、ただ切断された首だけが入れてあることが判明した。それにより金持ちの男が女中を殺して首無し死体を不在の商人の家に置いたこと、その妻は商人の秘密の情婦であったことが明るみに出た。このあらすじばかりの話からはさらに多くのことが想像できるし、あり得ないことも何点かある、たとえば死体が妻のものでないことに商人が気づかないというような……。この小説をモチーフとするにあたって、私はそのような点をとり除くよう試みた。
鉄釘殺人事件は中国の犯罪物語ではいちばんよく知られているモチーフの一つである。一番古い出典は前述の判例集 T'ang-yin-pi-shih Case 16 〔邦訳 三二話〕に出てくるが、そこでは西暦初頭に生きた賢明な判事|厳遵《げんじゅん》が解決したとなっている。これらの話の要点はいつも同じで、妻に対して疑いを抱くつよい根拠があるのだが、夫の身体に変死を示す徴候がみられない事実に、判事が困惑を感じるのである。決定的な鉄釘の発見は、さまざまに工夫されている。一番古い形では、死体の頭頂部の一点に蝿がむらがるのに気づいた厳遵が発見したのだとされる。私の知る限りで最も新しいものは一八世紀の中国犯罪長編小説『武則天四大奇案』(Dee Goong An, Tokyo 1949 と題して私が英訳刊行した)に出てくる。そのなかで判事は、政庁内に地獄の情景を設定し、冥界の大判事のまえにひきだされたと思わせて、心やましい後家から決定的な自白を引き出す。この解決のしかたでは西欧の読者には受けそうにないので、この小説にはまったく別の版、G.C. Stent により The Double Nail Murders と題して簡略に記録され、一八八一年に China Review の Vol. X に収めて刊行されたものを用いた。検屍官が犠牲者の遺体に暴力的な痕跡を発見することに失敗したとき、その妻が釘を捜してみるようにと提案する。この証拠により被害者の未亡人に有罪を宣告した後に、判事は人知れず巧妙に人を殺害するすべに通じていることを疑わしく感じて、検屍官の妻もまた自分の前に連れてこさせる。そうして検屍官は彼女の二人目の夫であることが明るみに出る。彼女の最初の夫の死体が掘り出され、頭骸骨の中に釘が見いだされる。女は両名ともに処刑される。
「ディー判事シリーズ」では、知事はつねに全能|無謬《むびゅう》の判事として登場し、彼の前に連れて来られる罪人たちを例外なく圧倒する。この小説では誤りを犯したとたんに知事が重大な危機に陥ることに重点をおき、物事には裏があることをあらわしてみようと試みた。判事席の前に引き出されたあらゆる人物に対して、知事がほとんど絶対的な権力と完全に優位な地歩に立つのは借り物の栄光にすぎなかったのであり、それも彼個人の位階身分に基づくものではなく、いっとき彼が任命されて代行している政府の威信にひたすら由来するものであったことは銘記されねばなるまい。神聖犯すべからざるものは「法」であって、それを制定した判事ではなかった。知事はその職務を根拠に、自分のために免除特権もしくは何らかの特典を要求することはできなかった。たとえば彼らは中国の古くからの法的原理である〈反坐《ファンツオ》〉すなわち「反転処罰」の適用をうけた。これは、不正に他の人物を告発した者は、もしその告発が虚偽であると証明されたならば、その不当に扱われた人物がうけることになるのと同じ刑罰を受けることを意味する。
ルー夫人事件のこの局面で、私は Dee Goong An の中の描写のいくつかを利用した。同時に、ディー判事の生活の中で、美しい女性がより重要な役割を演ずるべきだとする一部読者の――いわれなきことではない!――要求に答えることを試みた。
ユイ・カンとリャオ嬢の話にかんして、中国人は男の結婚前の性関係についてたいへん寛容であるけれども、未来の妻との交わりは断然タブーであったことを特筆せねばならない。そのわけは恐らく、高級娼婦《コーテイザン》や結婚関係にない女を相手にする場合は男の個人的問題だが、結婚は祖先をも含む一家の問題とみなされ、この厳粛な行為はしかるべき儀式により祖先に報告されねばならないものだったからである。そのことが公式に祖先に告知されないうちに結合を遂げることは、孝心の犯罪的な欠如を示し、祖先に対する重大な無礼にあたった。大昔から中国人は、生没を問わず両親に対する不孝を〈不道〉すなわち「不敬罪」の法的範疇に入れ、最も厳しい形態の死刑を伴うものと考えた。
祖先崇拝は中国人の宗教生活の土台である。その家族の死者たちの霊がやどるとされる位牌をまつる祭壇はどこの家にもあった。家長は家族内の重要な出来事をこれら霊たちに告げ知らせ、定期的に供物を供えた。こうして一家の団結は生死の境界を越え、死者たちは生きている者たちの活動に参加し続けたのだ。こうした事実が、この小説の第二十一章の背景を説き明かす。
先祖崇拝はまた、墳墓を汚す罪が法律上死刑に値する理由の一つを提供する。一九一一年の中華民国成立まで施行されていた中国刑法典の第二百七十六条にいわく、
「他の人間の埋まっている土地を、その中に安置してあった棺の一つがむき出しになるか人から見えるようになるまで掘り、またくだく罪を犯した者は、すべて百叩きに処したうえ、三千里外へ永久追放とする。さきに述べた罪に加えて、さらに棺を開き、その中に入れてあった遺骸をあらわにするならば、誰によらず拘禁ののち絞首刑に処せられるものとする」(cf. Ta Tsing Leu Lee, the Penal Code of China, translated from the Chinese by Sir George Thomas Staunton, London 1810『大清律令』)。
ラン・タオクエ師の人柄についていうと、中国の拳法が相手を打ち負かすことよりもむしろ己れの心身の健康増進を目的とする、たいへん古い術であることを言っておかねばなるまい。一七世紀に亡命中国人がこの術を日本に持ちこみ、そこから名高い日本の自衛術、柔道または柔術が発展した。ラン師とルー夫人の関係についていうと、古代中国人は或る種の理論を有し、もしそれを邪道なしかたで用いれば、わが中世の吸血鬼主義《バンパイアリズム》に似たものになった。興味ある方はジョゼフ・ニーダム博士の Science and Civilization in China (Cambridge University Press, 1956 ) Vol. 2, p.146 〔邦訳『中国の科学と文化』思索社刊、第二巻一八〇頁〕を参見されたい。この問題に関する私の刊行物もそこに引かれている。
本小説第十四章に用いられた、壊れた菓子をめぐるいさかいとその解決は、前述の T'ang-yin-pi-shih, Case 35〔邦訳、七〇話〕からとった。そのなかで、これを解決したのは西暦初頭のころの明哲な判事|孫宝《そんぽう》とされている。
中国で「七巧板」また「智慧板」ともいわれるものは昔の中国人の考案で、一六、一七世紀にとくに流行した。当時名の知れた学者の何人かが、その板を使って作り得る図形をあつめた書物を出版した。今世紀の初めには西洋各国にも伝わり、今でもときおり玩具店の店頭で見かける。
〔作者紹介〕
ローバート・ハンス・ファン・フーリツク
一九一〇年、オランダに生まれる。幼少期をインドネシアで過ごし、ライデン大学、ユトレヒト大学に学び、中国文学博士号を取得。外交官となり、日本、ワシントン、レバノン、マレーシアなどに勤務し、一九六四年、駐日大使として来日する。その間『馬頭明王諸説源流考』、『古代中国の性生活』、『秘戯図考』、『書画鑑賞彙編』などの学術的著作、また探偵小説「ディー判事」シリーズを書きつぐ。このシリーズの主人公ディー判事は、唐代、武則天の時代に実在した狄仁傑《ディーレンチエ》(六三〇〜七〇〇)で、名宰相として中国史の上では有名な人物である。ディー判事シリーズ全十六巻は欧米に幅ひろい読者を獲得し、英語・フランス語・ドイツ語・オランダ語・中国語版などでミステリー・ファンに親しまれている。フーリックは、また語学の達人であった。その語学力は西欧諸語はいうに及ばず、日本語、中国語、インドネシア語、サンスクリット語、チベット語、アラビア語など十数ヶ国語に及んだ。一九六七年、五十七歳で没。
〔訳者紹介〕
大室幹雄(おおむろみきお) 東京生まれ。東京大学大学院卒。山梨大学教授。歴史人類学専攻。著書、『劇場都市』『桃源の夢想』『園林都市』(三省堂)『囲碁の民話学』(せりか書房)『西湖案内』(岩波書店)ほか。