中国迷路殺人事件
ファン・フーリック/松平いを子訳
目 次
まえがき
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
第十三章
第十四章
第十五章
第十六章
第十七章
第十八章
第十九章
第二十章
第二十一章
第二十二章
第二十三章
第二十四章
第二十五章
後記
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登場人物
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ディー・レンチエ……中華帝国西北国境、蘭坊《ランファン》県の新任知事。「ディー判事」「判事」とも呼ばれる
ホン・リャン……ディー判事の腹心の相談役で、政庁の巡査を統率する警部。「ホン警部」「警部」とも呼ばれる
マー・ロン……ディー判事の副官
チャオ・タイ…ディー判事の副官
タオ・ガン……ディー判事の副官
■ 密室殺人事件関係者
ディン・フーグオ……隠退して蘭坊《ランファン》で暮らす将軍。自分の書斎で殺される
ディン・イー……文学士で、ディン将軍の一人息子。「ディン学士」「ディン青年」とも
ウー・フォン……首都の軍政局長官の子。学士候補生で、素人画家
■ 秘められた遺言事件関係者
アン・ショウジェン……元総督、隠退後は蘭坊《ランファン》で暮らして、死去
アン夫人……旧姓メイ。総督の年若い第二夫人
リー夫人……画家。アン夫人の友人
アン・キー……総督の長子、第一夫人の子
アン・シャン……アン夫人の、幼い息子
■ 失踪した娘事件の関係者
ファン……鍛冶師。後に政庁の巡査長に任命され、「ファン巡査長」「巡査長」と呼ばれる
白蘭……ファンの娘
玄蘭……ファンの娘
ファンの息子
■ その他
チェン・モウ……蘭坊《ランファン》の実権を奪っている、地方独裁者
リウ・ワンファン……チェンの最長老の相談役
リン伍長……正規軍からの脱走兵、ディー判事により復職
オロラクチー……ウイグル族の一族長。本名はウルジン王子
タルビー……ウイグル族の妓《おんな》
鶴衣先生……老隠者、鶴羽隠士とも
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まえがき
この物語『中国迷路殺人事件』の舞台は、大唐帝国の極西、辺境県 蘭坊《ランファン》である。ディー判事は蒲陽《プーヤン》で二年間、知事の任にあった後、西暦六七〇年にこの地に転勤した。蒲陽で、彼は梵鐘殺人事件を解決したのである。蘭坊は中国の山岳地帯と、中央アジアの不毛のステップ地帯とを分ける、大河のほとりに位置する。ステップ地帯には獰猛《どうもう》なウイグル族の騎馬軍が駆け回り、中国人の辺境都市を襲撃略奪しようと、つねに虎視眈々としている。
蘭坊《ランファン》に到着した途端、ディー判事はたいそう厄介な状況にまきこまれたのを知った。その難題を克服するが早いか、今度は謎の退役将軍殺人事件に直面する。その死体は、密閉された部屋で発見される。彼はまた美しい少女の不可解な失踪の謎を解き、また気味の悪い毒虫がはびこり、亡き主人《あるじ》の幽霊がさまよう、精緻で通り抜けられない沼の迷路を築いた、故州総督の遺言書の謎をも解く。
前刊のディー判事シリーズ諸作品と同じく、蘭坊《ランファン》市の概念図を示し、後記の中に中国の原資料を参考とする作品解説をつけた。
ロバート・ファン・フーリック
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第一章
蓮池のほとりの不可思議な出会い
判事は蘭坊《ランファン》赴任の途上で襲われる
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天の創りたまえる万古《ばんこ》の範型
天に日と星、地に山川の秩序に則《のっと》り
古人はこの世の聖なる秩序を築いた
天の正義をたて糸に 人の法律をよこ糸に
賢明かつ公正の判事は 天の無謬《むびゅう》の計器
民の父にして母 情《なさけ》厚くしてなお厳格
弱者の権利は 法廷にて回復され
卑劣な策とて 罪は断じて免れじ
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輝かしき、わが明《みん》王朝の永楽《えいらく》の御代、帝国は平らかに治まり、五穀豊饒《ごこくほうじょう》、旱魃《かんばつ》も洪水もなく、民は栄えて満ち足りている。この幸せな状況は、ひたすら皇帝陛下の聖徳の賜物である。こんなに恵まれた平和の御代には、当然あまり犯罪が起きないから、犯罪と探偵学の材料になるようなものがほとんどない。厄介な犯罪事件や、明敏な知事たちによるあざやかな解明の手なみなどの話題を求めるには、過去に遡《さかのぼ》るほかはない。
好きなことに費やす時間は、ありあまるほどあったから、私は昔の名高い刑事事件を求めて、せっせと古い記録類や、埃《ほこり》のつもった文庫をあさった。また、茶館に集まってきた友人知人らが、昔の名知事たちの解明した驚くべき犯罪を話題にし始めると、一心に耳を傾けるのを習いとした。
先だっても、夕暮れがた、盛りの蓮の花を賞《め》でようと、西園《せいえん》を散歩した。大理石彫刻の橋を渡って、蓮池の真中にある島に行き、料亭の露壇の隅に、空いたテーブルを見つけて腰を据えた。
茶をすすり、西瓜の種をかじりながら、池一面を覆って咲く蓮の花の眺めを楽しんだ。また人の波を観察して、れいによって通りかかる人の外見からその人柄や経歴を想像してみては、悦に入っていた。
手をつないで歩いている、たいそう美しい二人の娘が眼にとまった。だが二人の性格は全く違うらしい。若いほうは明るく活発で、絶えずなにやらしゃべっている。年かさのほうは逆に内気らしく言葉少なで、せいぜい相槌を打つだけだ。その顔には深い悲しみのようなものが感じられる。その生涯には、なにか深刻な悲劇があるなと、私は確信した。
娘たちが人ごみの中に姿を消したとき、そのあとを尾けて行く年配の女がいることに気づいた。やせぎすな体に杖の助けを借りながら、二人に追いつこうと躍起になっていた。お付きの女かと思ったが、露壇の前を通り過ぎながら、ひどく険《けん》のある目つきを投げてよこしたものだから、私はあわてて、通りかかった感じのいい若い二人連れに目を移した。
若い男は文学士の縁なし帽をかぶり、女は家庭婦人らしいおとなしい装いである。離れて歩いてはいるが、互いに見交わすときのいとしげな眼差しからすれば、親密な仲であることは一目瞭然だ。人目を気にするらしいところを見ると、許されない恋仲に相違ない。ちょうど私の目の前を通りかかったとき、女が男の手をとろうとした。しかし彼はあわてて手をひっこめ、眉をひそめて首をふった。
露壇に集まっている客の間を見回していると、でっぷりして身なりのいい人物が目についた。私と同じに一人で座っている。丸い、気分のいい顔をしている。地所持ちの知識人というところか。話し好きらしく思えたので、私は急いで目をそらした。見つめていて、近づきになりたがっているのと間違えられてはたまらない。私はそっとしておいてもらって、独りで考えているほうが好きだし、何よりも、彼の眼の光りが私に警戒心を起こさせたからだ。親しみやすい顔とは裏腹に、冷たい抜け目のない眼差しを持つこうした人物は、陰険で計画的な悪事をはたらくこともあり得る。
ほどなく、豊かな白髯《はくぜん》の老紳士が、露壇の階《きざはし》を昇って来るのがみえた。茶色の寛袖《ひろそで》の長衣には黒びろうどの縁どりがあり、黒|紗《しゃ》製の高い帽子を頭にのせている。地位を示すものとてないが、風采はたいそう高貴だった。老人はしばらく撞木杖《しゅもくづえ》にもたれて、もしゃもしゃの白い眉の下から鋭い眼差しで、混み合っている露壇を見回していた。
高齢のご尊体を立たせておくわけには行かないから、私はさっそく立ち上がり、自分のテーブルの席を新来者にお勧めした。老人は鄭重な一礼をもって受諾された。茶をすすりつつわれわれはお決まりの儀礼的質問をとり交わし、そのすえに、老人が姓をディーといい、退職知事であることがわかった。
ほどなくわれわれはうちとけた会話を始めていた。私の客人は博識かつ風雅な趣味人であられた。水辺にさんざめく人波のにぎわいを眺めながら、私たちは文章や詩歌を論じて時の経つのを忘れた。
私はわが客人の言葉に山西《シャンシー》なまりがあるのに気づいた。そこで、話のとぎれたところでたずねてみた、ひょっとして山西省都の太原《タイユアン》に古くから続いているディー氏の一族ではあられぬか、と。何百年も前の唐の時代、そこから大政治家ディー・レンチエが出たのである。
にわかに老紳士は眼を輝かせ、怒ったようにぐいとひげをつかんだ。
「いや、私の家はたしかにディー大判事を出した家でして、先祖のうちにかかる人物がおることを、甚だ名誉に思っております。しかし同時に、その事が絶えず悩みの種となります。料理屋で食事をしていようが、茶館で芳《かんば》しい飲み物をすすっていようが、必ず他の客が、わが輝かしい先祖を話題としているのに出会うのです。ディー・レンチエの帝国宮廷における華々しい経歴に関する部分は、たいていのことでは間違いありません。唐朝の公式年代記を調べてみれば、ちゃんと書いてあることですからな。ところがそうしたやからは、たいていの場合、ディー・レンチエの若いうちの突飛な話をしたがるのです。つまりは各地で県知事を務め、謎の多い犯罪事件を数多く解明して〈ディー判事〉の名を上げた時分のことですよ。そうした事例のほとんどは、わが一族の間では数えきれないほど何代もにわたって、正しく語り伝えられています。茶館などで、あの手の荒唐無稽な話を聞かなきゃならんのは、じつにやりきれないことでして、必ず食事半ばで席をけって立つことになるのです」
老紳士は頭をふり、腹立たしげに杖をどんと石畳につき立てた。
客人がじっさい有名なディー判事の後裔だとわかって、私はうれしかった。立ち上がって彼の前に深く頭を下げ、貴顕の家柄に対して敬意を表明した。そしてこう言った、
「尊師よ、じつは私は、輝かしいわが民族の歴史のなかで、すぐれた判事諸氏がなしとげた犯罪解明の偉業の忠実な記事の研究に、強い関心を抱く者です。しかし、意味もないうわさ話に興ずるのではなく、古い記録類を入念に検討する事を喜びといたします。なぜならそれらは、ずっと後の時代に生きるわれわれに、鏡のような役割を果たし、われわれ自身の弱点や短所を教えて戒めとなってくれるではありませんか。そういう記事は道徳を向上させ、風習を改善するばかりか、悪人たちにとっては強力な抑止力となるのです。正義の天網《てんもう》がいかに密に織りなされているか、長い目でみるならば、悪事をおかした者が迷路を脱し得ることは絶対にないということを、これほど雄弁に物語るものはありません。
さて、私の考えますのに、昔の探偵でディー判事に比べものになる人物はおりません。私は多年にわたって根気よく、かのきらめく知性が解明した事件についての覚え書きを収集し続けて参りました。天の恵みと申しましょうか、いまこうして、この話題の岩清水ともいうべき尊師にお目にかかれましたからには、あつかましい願いではございますが、あまり知られていない事件のいくつかを、じきじきお聞かせいただけまいものかと、伏して願い上げるものでございます」
快く引き受けてくださったので、私は紳士を粗餐にお誘いした。
たそがれてきたので、客たちは露壇をはなれ、召使たちがもう蝋燭や色つきの紙提灯に火をともして待っている屋内へ移動した。
大勢の人がかしましく食事をしている中央広間を避けて、私は客人を脇の小部屋に導いた。そこからは、夕焼の茜《あかね》いろをたたえた湖面が見渡せる。
私は四品料理二人前とあたためた酒瓶一本とを注文した。
料理を味わい、盃が二巡したあたりで、老紳士は長い頬ひげをなでさすりながら言った、「わが畏敬する先祖ディー判事が、まさに異常な状況のなかで解決した三犯罪事件についてお話することにいたしましょう。その時は、わが帝国の西北方はるかに位置する辺境県|蘭坊《ランファン》の知事として奉職しておりました」
そして彼は長くていりくんだ話を語り始めた。
その話がおもしろくなかったわけではないが、長々とわき道にそれてしまうことがよくあったし、声ははっきりしない上に一本調子で、まるで蜂の羽音のようだった。いつか私の集中力は鈍ってしまった。続けざまに三杯あけて頭をはっきりさせようとしたのだが、琥珀《こはく》色の液体はよけいに眠気をさそうばかりだった。わが客人の声が単調に響き続けるなかで、私は耳もとに眠りの精の衣ずれを聞いてしまったようだ。
目が覚めてみると、私は底冷えのする部屋にただひとり、テーブルに重ねた腕の上にうつ伏せになっていた。
横柄な給仕が私にかぶさるようにして立ち、もう第一鼓が鳴ったと知らせた。まさかここを一晩中でもいられる安宿とかん違いしてるんじゃあるまい、と。
頭ががんがんして、この無作法な田舎っぺに言いかえすべき言葉がすぐには浮かばなかった。代わりに、私の客人はどうしたのかと、多少その風采などを説明してたずねてみた。
給仕は、夕方は別の持場にいたと言い、どっちにせよ客の一人一人を、あれこれ見ているひまなどあると思うかいと来た。そしてさっそく六品料理二人前と酒八本分の請求書をさし出した。私は払うしかなかった。老紳士と出会ったのは夢ではなかろうか、たちの悪いボーイは私のぼうっとしているのにつけこんで、がっぽりふっかけたのではなかろうかと、合点がいかなかったのだが。
とんだあしらいをされたものだと思いながら店を後にし、人気《ひとけ》のない街を抜けて家に帰った。侍童は書斎のすみで丸くなってぐっすりと眠りこけていた。起こすのは止めにして、足音を忍ばせて書棚に寄り、唐王朝の年代記と帝国地名辞典、ディー判事にかんする自分の覚え書とをとりおろした。そして長いことそれらにかかりきったすえに、老紳士の物語の大筋のところは歴史的事実とよく合っているのだが、西北方の辺境に蘭坊《ランファン》などという土地が存在しないということがわかった。私が聞きまちがえたのかもしれないと考え、明日あの老紳士を訪ねていって、もっとくわしく説明してもらうことに決めた。ところが、どうもさっぱりわからないのだが、話してくれた物語の一語一句まではっきり覚えているというのに、彼がどういう人だったかということはなに一つ思い出せないのだ。彼の名前も住所も忘れてしまったとは。
頭をぶるぶるっと振ってから、筆に墨を含ませ、その夜は彼の語った物語を書き上げることに費やした。筆を置くころにはもう鶏がときをつくっていた。
次の日、私はせっせと友人たちの間をたずねてまわったのだが、ディーという退職知事が市内に住んでいると聞いたことのあるものはいなかったし、その後彼の所在についていろいろ調べてみても、何の情報も得られなかった。それでもまだ私の疑問は解消しなかった。あの老紳士は通りすがりの人だったかもしれず、どこか郊外のほうにひっこんで暮らしているのかもしれない。
そこで、私は思いきって、この物語をありのままで発表することにした。蓮池のほとりでの佳会《かかい》が夢であったのか現実であったのかを決めるのは、炯眼《けいがん》の読者諸氏の判断におまかせすることにして。もしこの三つの謎の犯罪事件が、ひとときでも読者の日常生活のわずらいの気晴らしになるならば、私はゆすりとられた金銭を惜しむものではない。なぜなら、じっさいにどんなことがあったにせよ、あの給仕は紛れもなく卑劣漢だ。たしなみのある一人の紳士が、よしんば二人だったとしても、一夜に八本もの酒瓶を空けるなどということは、信じられない話ではないか。
四台の馬車はゆるゆると、蘭坊《ランファン》市東方の山越えにかかった。
先頭の馬車にいる蘭坊新任知事のディー判事は、辛い長旅をできるだけ安楽なものにしようとしていた。旅行用携帯寝具の上にすわり、書物の大きな梱《こり》にもたれていた。忠実な助手のホン老警部は、彼と向かい合って衣類包みに腰をおろしていた。だが道は悪く、こうしていても激しい揺れは防ぎようがないのだった。
判事も警部も疲労を覚えていた。もう何日もぶっ通しで旅を続けてきたのだ。
すぐあとに、絹の垂幕をおろした大型ほろ馬車が続いていた。中では判事の三人の妻と子どもたち、女中たちが、枕やふとんを集めたなかで体を丸め、なんとか少しでも眠ろうとつとめていた。
あと二台の馬車には荷物が積んであった。召使の何人かは、箱や包みのてっぺんに危なっかしく乗っかっているが、あとの連中は汗びっしょりの馬の傍らを徒歩で行くほうがまだいいと思っていた。
最後の村を出たのが夜明け前、そのあとはずっと、淋しい山中の道ばかり通っている。出会う人といったら、ただ薪を拾っている姿をわずかに見るばかり。車輪の故障で、一行は午後二時間ほど無駄にしたから、そろそろ夕暮れが迫り、山々はますます険悪な様相を帯び始めた。
巨漢二人が行列の先頭を騎馬で行く。幅広の剣を背負い、鞍頭《くらがしら》には弓をしっかりと結びつけ、えびらの中に入れた矢をかたかたと鳴らしている。これがマー・ロンとチャオ・タイ、ディー判事の忠誠な副官の二人で、一行の武装護衛係をつとめていた。タオ・ガンという、もう一人の副官は、猫背気味の貧相な男で、老執事と並んでしんがりを守っている。
山の背に登りつめたところで、マー・ロンは手綱をひいて馬を止めた。道は木々に覆われた谷へと下っており、行く手には別の険しい山がそびえ立っている。
マー・ロンは鞍の上でふり返り、馭者に向かって叫んだ。「このまぬけめが、もうすぐ蘭坊だと言ってから、一時間も経つじゃねえか。まだ山を越えなくちゃならんぞ!」
町場の人間はいつもせかせかしているというようなことを、ぶつくさこぼしてから、馭者はぶあいそに言った、「気にしなさんな、次の峠に着けば、蘭坊はもう足もとだあな」
「あいつの次の峠ってのは、さっきもきいたぞ」と、マー・ロンはチャオ・タイに目を向けた。「こんなにおそくなって蘭坊到着というのは、どうも間が悪いな。転出する知事は、もう昼からずっと俺たちを待っておられるだろう。そのほか県庁のお偉方や歓迎の宴会はどうなってるかな? 今まで待たされては、こちとら同然の腹ぺこだろう」
「もちろん、のどもからからだ!」とチャオ・タイが受けた。彼は馬をまわして、判事の馬車の側にのりつけた。
「閣下、まだ一つ谷を越さなくてはなりません。だが、そうすればいよいよ蘭坊です」
ホン警部はため息が出そうなのをこらえて言った、「じつに残念ですなあ、蒲陽《プーヤン》からの転勤命令を、これほど早く受けることになられたのは。着任早々、刑事の大事件が二件も起こるには起こりましたが、概して好ましい県でした」
判事はちょっと顔をひきゆがめるように笑い、背中を動かして、書籍包みのもたれ具合をよくしようとした。
「どうやら首都で仏教徒派の残党が、広東商人を後押しする連中と結託して、蒲陽《プーヤン》での正式任期満了よりも早く、私を移動させるよう働きかけたらしい。だが、蘭坊《ランファン》のように中央から遠く離れた県の知事を務めるというのは、大いに有益だろう。中部地方の大都市では絶対にお目にかかれないような、興味深い特殊問題が見られるに違いない」
それはそうだと警部は同意したが、それでもやっぱり憂鬱そうだった。もう六十を越えており、長旅の辛さに疲れ果てていたのである。彼は少年のころからディー判事の生家に仕えていた。ディー判事が官途についてからは信任あつい助言者となり、判事はどの赴任地でも彼を警部に任じて、政庁の巡査たちを統率させた。
馭者たちは鞭を鳴らした。行列は峠を過ぎて、つづら折りの狭い山道を谷間に向かって下っていった。谷に下ると高い杉木立が道を暗くし、その下には灌木がびっしりと生い茂って、両側から道に迫っていた。
たいまつをともすよう召使に言おうかと、判事が考えていたとき、前後であわただしい叫び声が上がった。
黒い布で覆面した男たちの一群が、突然森の中から現れたのだ。二人の男がマー・ロンの右足にとりつき、剣を抜く間もあたえず馬から引き落とした。三番目の男はチャオ・タイの馬の後ろから飛びつき、首に腕をからめて彼を落馬させた。行列の後のほうでは別の二人が、タオ・ガンと執事とに攻撃をかけていた。
馭者は、飛び降りるなり、森に姿を消した。判事の召使連中は、われ先にと逃げだした。覆面の顔が二つ、ディー判事の馬車の窓からのぞいた。ホン警部は頭に一撃をくらってのびてしまった。判事は、馬車の中へ突き込まれた槍をすれすれのところでかわした。そして、すばやくその柄を両手でつかんだ。敵はそれをもぎとろうとして、外から引っぱった。判事は初めしっかりとおさえていて、いきなりそれを引っぱっている奴の方に向かって押した。相手は後ろざまに倒れた。ディー判事はその手から槍を奪いとるなり、窓からとび出した。槍をぶんぶんと振りまわして、敵二人をよせつけなかった。ホン警部をのした男は棍棒を手にしていた。槍の男は、今は長い剣を抜き放っていた。二人そろって激しく判事を攻めたててくるので、こういう手ごわいのを二人も相手にしたのでは、長くは防ぎきれまいという気がした。
マー・ロンを馬から引き落とした二人の悪党は、起き上がろうともがくところに切りかかってやっつける算段だった。ところがあいにく、彼らが相手にしたのは、つい二、三年前には野盗で鳴らした手ごわい男だったのだ。判事に会って心を入れかえるまで、マー・ロンとチャオ・タイとは、どちらも「緑林兄弟」の仲間だった。だから道中の戦闘で、マー・ロンの知らない手などほとんどなかった。起き上がろうとする代わりに、体をぐるっとまわして一方の敵の足首をつかむなり、ぐいと引いてバランスをくずさせた。その一方ではもう一人の奴の膝に強烈な蹴りを入れた。この二重の動作で、はね起きる時間をかせいだ。ふらふらしている男の頭に拳で恐るべき一撃を加えて倒した。電光石火のごとくふり向くと、くだけた膝を絶望的におさえている男の顔面を蹴ったから、男の頭はガタンとのけぞって、危く首の骨を折るところだった。
剣を抜き放ちながら、マー・ロンはチャオ・タイのほうへ突進した。彼は寝たままで、背中にしがみついた男との死闘を続けており、長い匕首を手にした二人が、すきあらばチャオ・タイを刺そうと身構えている。マー・ロンは一人の胸にぐさりと剣を突き通し、抜き取っているひまがないので、二人目のに駆けよると股倉を蹴って二つ折りに沈みこませた。そして賊の匕首を拾い上げ、チャオ・タイと組み打ちしている男の左肩の下に突き通した。
チャオ・タイに手をかしてやっていたとき、ディー判事の叫びがきこえた、「気をつけろ!」
判事を攻めたてていた奴の一人が、仲間の加勢にかけつけたのだが、マー・ロンがすばやく身をひるがえしたので、棍棒が危くマー・ロンの頭をかすめて、ドスンと彼の左肩に落ちた。彼は罵り声をあげて倒れた。賊は棍棒を振り上げてチャオ・タイの脳天をねらった。チャオ・タイはもう短剣を抜いていたから、賊のふり上げた腕の下にとびこんで、相手の心臓に短剣をつば元まで突きたてた。
ディー判事の前にはもう剣を使う男一人がいるだけだったから、迅速な働きができた。槍で突きかけるふりをすると、相手は剣でふり払おうとした。そこで判事はすかさず剣術の一手の「旗竿返し」を使って槍を空中でふりまわし、柄の一撃で相手をのばしてしまった。
賊を縛り上げるのはチャオ・タイに任せて、ディー判事は荷車のほうへ駆けつけた。賊が一人地面にぶっ倒れ、のどをつかんで七転八倒していた。一人はこぶつきの棒を手にして、荷馬車の下を覗き込んでいた。判事は槍の穂の平らなところでそいつの頭を叩いてやっつけた。
タオ・ガンが馬車の下から這い出してきたが、細引を手にしている。
「ここでは何があったんだ?」と判事がたずねた。
タオ・ガンはにやりとして答えた。「この田舎っぺの一方が執事を打ち倒しました。もう一人はすれすれに私の頭をめがけて打ってきました。私が死にそうな声を上げてぶっ倒れて、そのまま動かずにいましたら、連中は私がのびちまったと思って、荷物をもぎとり始めました。私は起き上がって、私の持っていた細い輪なわを、手近なほうの奴の頭に引っかけておいてから、馬車の下に飛び込み、力の限りなわを引っ張ってやりました。もう一方の奴は、私を追って這い込んでくれば危ないし、棍棒も役には立ちません。どうしようかと思案にくれていた最中に、閣下がその悩みを解決しておやりになったのです」
判事もにやっと笑うと、マー・ロンの威勢のいい悪態がきこえてくるほうへ急いだ。タオ・ガンは袖からてぐす糸をとり出して、二人の盗賊の両手両足をしっかりと縛った。そうしておいてから、いまにも窒息しかかっている男の首の細引をゆるめた。
この二人は、タオ・ガンのまるで抵抗などしそうもない様子にだまされていたのだ。タオ・ガンは中年者で、腕っぷし自慢ではないが、悪知恵が働くので、長年、職業的な詐欺師として口すぎをしてきた。あるときディー判事が彼を窮地から救い出してやり、副官に加えた。暗黒界のしきたりや陰《かげ》のきまりに親しく通じているために、犯人を追ったり証拠集めをしたりするのには、非常に有用だった。生っ白《ちろ》い顔の盗っ人には欠かせぬ知恵として、タオ・ガンは人の意表をつくさまざまの手わざをふんだんに心得ていた。
行列の先頭に行ってみると、チャオ・タイが、マー・ロンの最初の相手と肉薄戦を演じているところだった。頭をなぐられた奴が息を吹き返したのだ。マー・ロンのほうは地面に腰をおとし、さっきの肩への打撃で左手がなえてしまっているらしい。短い匕首をふりまわして、あきれるほどのすばしこさで周囲を躍り回りながら攻めたてて来る敵を、右の手一つで撃退しようとしている。
判事は槍を振りかざした。ちょうどその時、マー・ロンは相手の手首をつかむことに成功した。恐るべき腕力でひねり上げて匕首を落とさせておいてから、敵をねじ伏せ、その胃のあたりに膝をのせた。
敵は哀れっぽい叫び声をあげた。
マー・ロンが苦労して立ち上がるあいだ、彼のとりこは自由になる手でマー・ロンの頭やら肩やらをなぐり続けていたが、マー・ロンにとってはなんでもないようだった。マー・ロンは息をつきながら、「閣下、覆面をとってくれませんか」
ディー判事は覆面を引き下ろした。マー・ロンが叫んだ、「何てこった! 女じゃねえか!」
二人は若い女の怒りに燃える眼をのぞきこんだ。マー・ロンは仰天して彼女の腕を放してしまった。
ディー判事はあわてて娘の両手を後ろにまわして抑え、難しい顔をして言った、「そうさ、こういう盗賊団の中には恥知らずな女が時折いるものだ。他の奴らと同じに縛り上げろ!」
マー・ロンは、もう相手を抑えつけてお縄にしてしまっていたチャオ・タイを大声で呼んだ。チャオ・タイが娘を後ろ手にしばり上げているそばで、マー・ロンは困ったように頭をかきながら立ちすくんでいた。娘は一言も口をきかなかった。
ディー判事は、女たちをのせたほろ馬車のところへ行った。彼の第一夫人が短刀を手にして窓のところに身をかがめており、他の者たちはふとんをかぶって、恐怖にすくんでいた。
争いが終わったことを、判事は彼らに告げた。
召使や馭者たちが、それぞれかくれていたところから出てきた。彼らは急いでたいまつをともしにかかった。
揺れる光の中で、ディー判事は戦果を調べた。
味方の損害はたいしたことはなかった。ホン警部はもう正気にかえっていて、タオ・ガンに頭にほうたいをしてもらっていた。老人の執事は、賊になぐられたことより、こわさが先だったのだ。マー・ロンは上半身はだかになって木の株に腰をおろしていた。左肩は紫色にはれ上がり、チャオ・タイが膏薬をすりこんで揉《も》んでやっていた。
マー・ロンは賊を二人殺し、チャオ・タイが一人殺した。他の六人は大なり小なり手を負っていて、娘一人だけが無傷だった。
判事は召使たちに命じて賊どもを荷車の上にゆわえつけさせ、死人は別の荷車にのせた。娘は歩かせることにした。
タオ・ガンが詰め物をした食器籠を出して来て、判事と副官たちは熱い茶を一服した。
マー・ロンは口をすすぎ、軽蔑するようにぺっと吐くと、チャオ・タイに向かって話しかけた。「全体として見て、ありゃ素人の襲撃だな。こいつらは本物の野盗じゃないと、俺は思うぜ」
「そうだよ、十人もいれば、もう少しましな仕事ができるはずだ」とチャオ・タイが賛成した。
「私の好みからすると、これでもたくさんだが」と、判事は面白くもないという顔で言った。
みんな黙り込み、茶をもう一杯飲んだ。くたくたで、それ以上何を言う気も起こらなかった。聞こえるのはただ召使たちがささやき合うのと、手負いの賊どものうめき声だけだ。
ちょっと息を入れると、一行はまた行動を起こした。二人の召使がたいまつを手にして先頭に立った。
最後の峠を越えるのに、一時間以上かかった。そのあと道は広い公道にはいり、やがて蘭坊《ランファン》の北門の城壁が、夜空に黒々と浮かび上がって見えて来た。
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第二章
ディー判事が政庁の初公判を開き
文書室で未決の難事件を探し出す
チャオ・タイは高い櫓《やぐら》のあるいかめしい門をあきれて見上げた。そして、蘭坊《ランファン》が西の平原から襲って来る蛮族の大群に対して備えを必要とする、辺境都市であることを思い出した。
彼は鉄鋲を打った扉を、剣のつかで叩いた。
ずいぶん待たせてから、櫓の小さな窓の戸があいた。
つっけんどんな声が高いところから降ってきた。「夜は門は閉まってるんだ。明日の朝、出なおしてこい!」
チャオ・タイは、どんどんとさらに激しく叩いた、「開門! 知事殿のご到着だ!」
「何の知事だ?」と声はたずねた。
「ディー閣下、蘭坊《ランファン》の新しい知事殿だ! 門を開けろ、うすのろ奴が!」
のぞき窓がぴしゃりと閉まった。
マー・ロンがチャオ・タイの側に乗りつけてきてたずねた、「なにをぐずぐずしているのかな?」
「のらくら犬が眠っていたんだ!」とチャオ・タイは腹立たしげに言い、また扉を剣で打ち鳴らした。
鎖がかちゃかちゃ鳴る音がして、ようやく重い扉が少し開いた。
チャオ・タイが馬で突っ込み、だらしない服装にさびた兜をかぶった二人の兵隊を、危くひづめにかけるところだった。
「門をいっぱいに開けろ、こののらくら犬!」とチャオ・タイがどなりつけた。
兵隊たちは、小癪《こしゃく》にも二人のほうを見返した。一方が口を開きかけたが、チャオ・タイの激怒の表情を見て、言われたとおりしたほうがいいと考えた。彼は同僚と力をあわせて、門を開いた。
一行は門を通り、暗い中心街を南へ向かった。
市はさびれている様子だった。まだ第一鼓も鳴っていない時刻なのに、たいていの店はもう頑丈な板戸を閉め切ってしまっていた。
屋台の油ランプを囲む、小さな人の輪がそこここに見られた。一行が通りかかると、人々はふり向いて、冷淡な目つきで暫くの間馬車を見送ったが、また、そばをすすり始めるのだった。
だれも新知事を迎えに出ず、歓迎する気配もない。
行列は通りをまたいで高々と立つ飾り門をくぐった。そこで道は高い障壁に沿って左右に分かれる。これが政庁の背面だなと、マー・ロンとチャオ・タイは考えた。
東に折れて障壁なりに行くと、大きな門のところに出た。雨露にさらされた板に「蘭坊政庁」としるしたのが、門の上に高く掲げられていた。
チャオ・タイは馬からとび降り、力まかせに扉を叩いた。
つぎのあたった長上着をまとったずんぐりした男が門を開けた。もつれたあごひげは脂にまみれ、ひどいやぶにらみだった。紙提灯をかかげてチャオ・タイをしげしげと見たうえで、どなりつけた、「政庁が閉まってることを知らねえのかあ、へえたい!」
これにはチャオ・タイの堪忍袋も緒が切れた。彼は男の衿《えり》がみをつかんで、激しくゆさぶった。頭が門の柱にあたって、鈍い音をたてた。男が助けてと泣き声をあげると、チャオ・タイはやっと手を放した。
チャオ・タイが断固たる調子で言った、「ディー知事閣下のお着きだ。門を開き、政庁の職員を召集せよ!」
男はあわてふためいて両開きの扉を押し開けた。行列は門を通って正院子《せいなかにわ》にはいり、大応接室の前で止まった。
ディー判事は馬車を降りて、あたりを見回した。応接室の高い六枚折りの扉は閉め切られ施錠されていたし、それと向かい合う記録室の窓は板戸が閉まっていた。どこもかしこも暗く、人影がなかった。
袖の中で手を組み合わせながら、ディー判事はチャオ・タイに門衛を連れてくるようにと言った。
チャオ・タイが、男の衿をつかんで引っ立ててきた。ずんぐりした男はあわててひざまずいた。
「おまえは何か。転出される知事、すなわちクヮン閣下はどちらにおいでか?」とディー判事がたたみかけるようにきいた。
「いやしき私奴は、牢番長にございます」と男は口ごもった、「クヮン閣下は今朝早く、市の南門から出て行かれました」
「公印はどこにあるのか?」
「記録室のどこかにあるはずで」と牢番長は震え声で答えた。
ディー判事の忍耐が限度をこえた。彼は地面を踏み鳴らして叫んだ、「衛士《えじ》はどこだ! 巡査はどこだ! 書記は! 事務官は! このけしからぬ政庁の職員どもは、どこにいるのか!」
「巡査長は先月出て行きました。上級書記は三週間前から病気で休んでいます。それから……」
「つまりはおまえしかいないのだ」とさえぎると、判事はチャオ・タイのほうに向きなおって続けた、「この牢番長を、自分の牢にほうりこんでおけ。ここがどうなっているのかは、私が自分で見つけ出す!」
牢番長が抗議をし始めたが、チャオ・タイは両ビンタをくらわせ、両手を後ろにまわして縛り上げた。くるりと向きを変えさせると、一つ蹴とばしておいてどなった、「おまえの牢に案内しろ!」
構内の左手の、空っぽの衛士《えじ》詰所の奥のほうに、けっこう収容能力のある牢があった。房は長いこと使われていないらしいが、扉は十分頑丈そうだし、窓に鉄格子もはまっている。
チャオ・タイは、小さな房に牢番長を押しこむと、扉に錠をおろした。
判事が言った、「さて、法廷と記録室を見てみるとしよう!」
チャオ・タイは、紙提灯をとり上げた。法廷の門はすぐにわかった。チャオ・タイが一押しすると、扉はさびた蝶番のきしみ音をたてて開いた。彼は提灯を高く掲げた。
がらんとした広間の石畳に塵あくたが層をなし、壁には蜘蛛の巣がさがっている。ディー判事は壇に進み寄って、色あせ破れた赤い布でおおわれた裁判官席を眺めた。肥ったねずみが急いで逃げて行った。
チャオ・タイを招きよせると、判事は壇に上がり、裁判官席の後ろにまわりこんで、法廷の奥の判事執務室に通じる開口部をかくしている仕切りの垂幕を引き寄せた。埃の雲が判事の上に舞い降りた。
執務室にはぐらぐらするむき出しの机、背もたれのこわれた肘掛椅子、木の丸腰掛三つのほかは、何もなかった。
チャオ・タイが、向かい側の壁についた扉をあけた。じめじめした臭いが鼻をうつ。壁面の棚に並べられた革の書類箱は、かびで緑色だった。
ディー判事は首を振った。
「なんともご立派な文書室だ!」
通廊の扉を蹴とばして開けると、提灯を持つチャオ・タイを先に立てて、むっつりした顔で正院子《せいなかにわ》にもどった。
マー・ロンとタオ・ガンは、捕虜たちを牢に収容し終わっていた。死んだ追剥三人は、衛士詰所に置いてあった。ディー判事の召使たちは、執事の監督の下で、荷ほどきに忙しかった。構内の奥にある居住区のほうは、きわめてよい状態にあると、執事は報告した。転出した知事は、そちらのほうはすべてちゃんとしていったらしい。各室は清掃され、設備も清潔で、きちんと手入れされている。判事の家の料理人が、すでにかまどに火を入れた、と。
ディー判事は安堵の息をもらした。ともかくも、家の者たちは雨露をしのぐ場所を得たのだ。
彼はホン警部とマー・ロンに、もう休むようにと言った。判事の住居の脇部屋に、どうやら彼らの携帯寝具をのべることができた。
そのあと判事は、チャオ・タイとタオ・ガンについてくるように合図し、荒れ放題の執務室にもどった。
タオ・ガンが、火をともした蝋燭二本を机上においた。
ディー判事は、がたぴしする肘掛椅子に、慎重に腰をおろした。副官二人は、丸腰掛の埃をふっと吹き払ってから座った。
ディー判事は机にもたれて腕を重ねていた。 暫くは、誰も口を開かなかった。
彼ら三人がそろったところは、じつに奇妙な見ものだった。三人ともに、追剥との闘いで引き裂け泥にまみれた茶色の旅行着のままだった。蝋燭のおぼろげな明かりの中の彼らの顔は、げっそりと頬がこけていた。
やがて判事が口を切った、「さて友人たち、時刻はおそいし、われわれは疲れて腹もすいている。それでも私はここにみられる状況について、君たちと意見交換してみたい」
タオ・ガンとチャオ・タイは真剣にうなずいた。
「この市には、まったく当惑させられる。私の前任者はここに三年間駐在しており、その居住区をきわめてよい状態においていたにもかかわらず、明らかに彼は法廷を使ったことはなく、政庁の全職員を家に帰してしまった。私が今日午後着くということを、急使が伝えているに違いないのに、私への伝言さえ残さず、公印をあのならず者の牢番長に預けて、行ってしまった。県政府の他の役人たちは、私たちの到着を完全に無視している。これを、いったいどう説明する?」
「閣下、もしかしてこの土地の住民は、中央政府に対して反逆を企んでいるのではありませんか?」とチャオ・タイがきき返した。
判事は首を振った。
「街がさびれていて、時ならぬ時に店が閉まっているのは事実だが、形勢不穏の気配は感じられないし、バリケードその他の軍事的準備も見かけない。街の人々の態度にも敵意はなく、ただ無関心なだけだ」
タオ・ガンは思案にくれて、左頬のほくろから下がった三本の毛を引っ張っていた。
「ペストかなにかの危険な疫病が、この県を荒廃させたのだろうかと、初めは考えましたのですが」と彼は言った、「街に恐慌の徴候がありませんことや、人々が通りの屋台で気楽に食事をともにしているところなどを見ますと、どうも見当違いのようです」
ディー判事は、長い頬ひげにからまった枯葉を指ですきとっていたが、暫くしてからつぶやいた、「どうもあの牢番長に説明を求めたくはないな。あいつは極悪《ごくあく》な奴のように思える」
執事がディー判事の召使二人をしたがえてはいってきた。一人は盆の上に飯と汁の丼をのせ、一人は大きな茶瓶を持ってきていた。
判事は牢屋の囚人たちのところへも飯を持って行かせるようにと、執事に命じた。
一同は口もきかずに食べた。
みながきれいに食べ終わり、熱い茶をすすっていた時、小さな口ひげをひねりながら暫くじっと考えこんでいたチャオ・タイが口を開いた、「マー・ロンの言うとおりだと思います、閣下、山の中にいた時、マー・ロンが言いましたでしょう。われわれを襲ってきた追剥連中は、本物の野盗じゃないってことですよ。ここで何がどうなってるのか、あの囚人たちにたずねてみるのはどうでしょう」
「それはいい考えだ」と判事は声を上げた、「連中の指導者は誰なのか探し出して、その男をここに連れて来たまえ!」
暫くすると、チャオ.タイが一人だけを鎖でつないで連れて来た。他ならぬ、ディー判事に槍を突き刺そうとした奴だ。判事は鋭い目を向けた。それはととのった率直そうな顔つきの、がっしりした男であった。街道の追剥というよりは、小さな店の主人か職人というふうに見えた。
男が机の前にひざまずくと、判事がつっけんどんに言った。「おまえの姓名ならびに職業を言え!」
「手前はファンと申します」と男はうやうやしく言った、「最近まで、この蘭坊《ランファン》の鍛冶屋でございました。私の家は七代にわたって、この土地に住み続けて来ました」
「由緒も名誉もある職業に従事しているおまえが、なぜ野盗ごとき恥ずべき暮らしを望むのか?」と判事はただした。
ファンは頭を垂れて、気の進まない調子で述べた、「手前は殺人の意図をもって襲いました。死刑が待っていることは十分に承知の上です。手前の罪状には、これ以上なんの証拠も必要ないことを申し上げます。閣下はこれ以上、何をお聞きになりたいのでしょう」
彼の言葉からは、深いあきらめがにじみ出ていた。判事は静かに言った。「私はすべての訳を聞きもせずに、死刑の判決を下すことはしない。正直に、私の質問に答えよ」
「手前は」とファンは口を切った、「父親から受け継いだ鍛冶師のわざを、三十年以上続けてまいりました。私と妻、一人の息子と二人の娘はみな壮健で、日々の飯、そして時には肉一切れを食べることもできました。自分は幸せだと感じておりました。
ところが、ある不吉な一日、チェンの手の者が、手前の息子がたくましい若者であることに目をつけ、無理やりあそこの兵隊にしてしまったのです」
「チェンとは誰だ」と判事が口をはさんだ。
「チェンのことですよ!」とファンは苦々しげに言った、「この県の全権を強奪してもう八年、土地の二分の一、市内の商店や家屋のほとんど四分の一を手に入れた。あれは知事と判事と軍司令官を兼ねています。ここから馬で五日かかる州の役人に、定期的に賄賂を届けていて、もし自分がいなかったら、蛮族の大群が国境を越えて、とっくにこの県を荒らしていると、お役人がたに信じこませているんです」
「私の先任者たちは、こんな変則的な状況を、黙って見ていたのか?」と判事はたずねた。
ファンは肩をすくめてみせた。「ここに任命されてきた知事がたはすぐに気づいたんですな、実権はすべてチェンに任せて、影の存在になってたほうが楽だし、ずっと安全だということにね。操り人形でいる限り、チェンは月々たっぷりの届け物をしていました。私ら民衆が苦しんでいるのに、あの方々はのんびり気楽に暮らしておられたのです」
ディー判事は冷ややかに言った。「おまえの話は理窟に合わなすぎる。辺鄙《へんぴ》な県で、地方のボスが権力を専横することが間々あるのは事実で、まことに遺憾なことである。しかもさらに嘆かわしいことに、気弱な知事がそのような非合法の状態を容認することがある。それにしてもだ、いいか、八年の間、この地に任じられた知事が、誰も彼も、そのチェンなる人物に屈服したなどと、私に信じさせることはできないぞ」
ファンは口もとをゆがめた。「それじゃ、蘭坊の私らはほんとに運が悪かったんでしょう。四年前に、一人だけ、チェンに逆らった知事さんがいました。二週間後に死体が河の土手で見つかりましたよ。のどを耳から耳まで切られてね」
ディー判事が、にわかに身を乗り出した。「もしかして、その知事の名は、パンと?」
ファンはうなずいた。
「パン知事は」と判事が続けた、「侵入してきたウイグル族との小ぜり合いで死んだとして、中央政府には報告されている。彼の遺体は軍葬の礼をもって送り出され、州長官の地位を追贈されたと記憶している」
「そうやってチェンは、自分の人殺しを隠したんだ」と、ファンは冷淡に言った、「私は真実を知っています。この目で死体を見たんです」
「話を続けなさい」と判事が言った。
「こうして、私の一人息子は、チェンが自分の護衛兵にしているならず者集団に入れられてしまい、その後、顔を見たこともないのです。
そのうち、チェンに女をとりもつ役をしている恥知らずのばあさんが、私に会いに来ました。チェンが私の上の娘の白蘭に、銀十両出すというのです。私は断わりました。三日後、娘は市場に出かけたまま、もどって来ませんでした。私は何度もチェンの屋敷に行き、娘に会わせてくれと頼んだのですが、その度にこっぴどくなぐられて追いかえされました。
一人息子に姉娘までなくして、妻は病みつき、二週間前に死にました。私は父の剣を持ってチェン邸に出かけましたが、護衛どもに阻止されました。連中は私に棍棒の雨を降らせ、気を失っている私を通りに置き去りにしました。一週間前、悪党の一団が、私の店に火をつけました。私は妹娘の玄蘭、それも今夜捕えられていますが、それを連れてまちを離れ、自暴自棄で山にはいっている仲間に加わりました。旅行者から略奪するというのは、今夜が初めてのことだったのです」
深い沈黙が訪れた。判事は肘掛椅子の背によりかかろうとして、危いところで、背もたれがこわれていることを思い出した。急いでまた肘を机の上にすえなおしてから、言った。「おまえの話は聞いたことがあるようだな。盗っ人が何かやってつかまってしまったとき、政庁で並べるお決まりの泣きごとによくあるやつだ。もしいつわりなら、おまえの頭は刑場で落ちる。おまえの言ったことが真実と判明すれば、私は裁断を保留する」
「手前にはもうなんの希望も残ってはいません」と、鍛冶屋は落胆しきった様子で言った、「閣下が私の首をはねなくても、チェンが間違いなく私を殺すでしょう。仲間たちだって同じことです。みんなチェンの残酷な圧制の犠牲なのですから」
ディー判事の合図で、チャオ・タイが立ち上がって、ファンを牢に連れもどした。
判事は椅子から立ち、行きつもどりつした。チャオ・タイが帰ってくると、判事は足を止め、もの思わしげに言った。「あのファンという男は、たしかに本当のことを言っている。この県は地方ボスの手中にあり、知事は無力な人形でしかないのだ。それで地域住民のおかしな態度の説明がつく」
チャオ・タイが、大きなこぶしを膝につきたて、憤然と叫んだ、「われわれも、そのチェンという悪党に頭を下げなくちゃならんのですか?」
判事がうっすらと笑った。「もうおそいから、君たち二人は引きとって、よく眠るがよい。明日はひと働きしてもらうよ。私はもう一時間かそこらここに残って、あの古い文書類を、ちょっとのぞいてみる」
タオ・ガンとチャオ・タイが、起きていてお手伝いすると申し出たが、判事はきっぱりと断わった。
二人が去ると、ディー判事は蝋燭をとり上げ、次の間にはいった。汚れた旅行着の袖で、書類箱の札のかびを拭きとってみて、一番新しい日付が八年前のものであることを知った。
判事はこの箱を自分の執務室に持ち帰り、机の上に中身をあけた。
経験を積んだ目からすれば、そのほとんどは県政の日常的事務書類であることを見分けるのに、たいして時間はかからなかった。しかし箱の底のほうに「アン対アンの事件」としるした小さな巻物が見えた。ディー判事は腰をすえ、書類をひらいてざっと目を通した。
それはアン・ショウジェンの遺産継承にかかわる訴訟であった。アン・ショウジェンとは元府総督、隠退して蘭坊《ランファン》で暮らすうち、九年前に卒した人物である。
ディー判事は目を閉じ、今から十五年前、首都で初級秘書官に任じていた頃に、思いをはせた。当時、アン・ショウジェンという名は、帝国中にとどろいていた。例をみないほど有能かつ公正な官吏で、国家および国民のために骨身を惜しまず、慈悲深い行政官としても、賢明な政治家としても、名声をかちえていた。やがて帝《みかど》が彼を最高国務長官に任命したとき、アン・ショウジェンはにわかにすべての官職を辞し、健康がすぐれぬことを口実に、人知れぬ辺境の県に埋もれてしまったのだった。その決心を考え直すようにと、皇帝おんみずから熱心に説かれたのだが、アン・ショウジェンは固辞した。当時このにわかな辞職が、首都で大評判になったことを、ディー判事は記憶していた。
つまり蘭坊《ランファン》が、アン・ショウジェンの終焉の地だったのだ。
蘭坊での隠退生活にはいったとき、アン・ショウジェンは六十代のやもめであったらしい。アン・キーという一人息子がおり、当時三十歳であった。蘭坊に来てまもなく、老総督は再婚している。花嫁として選んだのは、十八歳そこそこの百姓娘で、旧姓をメイという。その不釣り合いな結婚で次男が生まれ、アン・シャンと名づけられた。
病の床に伏して死期が近いことを覚ると、老総督は息子のアン・キーと、自分の若妻とその幼子とを、枕辺に呼んだ。彼は自筆の画巻を妻および次男アン・シャンに遺贈すること、その余の財産はすべてアン・キーのものとなるべきことを告げた。さらに、アン・キーの計らいで、継母と腹違いの弟とがしかるべきものを得られるよう、よろしく頼むとつけ加えた。そう言い終えると、老総督は息を引きとった。
ディー判事は日付を調べ、現在アン・キーは四十歳前後、未亡人は三十歳くらいで、その息子は十二歳のはずだと考えた。
文書によると、父が埋葬されるとすぐに、アン・キーは継母とアン・シャンを屋敷から追い出した。父親の臨終の言葉は、明らかにアン・シャンが不義の子であるという含みを持つ。したがって自分は、アン・シャンまたはその不貞の母親に対して、何かをする義務はない、という言い分であった。
そこで未亡人は政庁に訴え出て、口述の遺言をめぐって争い、一般法に基づいて財産の二分の一を自分の子にと要求した。
ちょうどその頃、チェンが蘭坊の支配者としての地歩を固めた。政庁はこの訴訟の解決のために、まったく何もしなかったようだ。
ディー判事は書類を巻きおさめた。一見したところ、未亡人のほうに強力な論拠はないなと思った。後妻との年の差を考慮に入れると、老総督の最期の言葉は、メイ夫人がじっさい夫に対して不実であったことを暗示するようにみえる。
だが一方、偉大なアン・ショウジェンのように、倫理性の高い人物が、アン・シャンが実子でないことを示すのに、こんな妙な手を使うとはおかしなことだ。もし若妻が自分を裏切ったと、彼がほんとうに知っていたなら、静かに妻を離縁し、彼女と子供をどこか遠いところに追いやって住まわせることで、おのれ自身とおのが名門の誉れとを守るのだろうと考えられる。しかもこのような絵の遺贈とは、何と奇妙なことをするものだ。
アン・ショウジェンが遺言書をのこしていかなかったというのもおかしい。彼ほどに長い官職経験を持つ人が、口頭の遺言は必ず苛烈な家族反目のもとになることを、知らないはずがない。
この訴件は、さまざまな角度から細かく検討してみる必要がある。もしかすると、アン・ショウジェンのにわかな辞任の謎の鍵をもたらすかもしれない。
ディー判事は文書類をひっかきまわして捜したが、アン対アンの事件と関わりがあるのはそれだけだった。チェンを叩くのに使えそうな材料も、ぜんぜんなかった。
判事は巻物を箱にもどした。彼は座ったまま、ひとしきり考えこんでいた。チェンを排除する方法をじっくりと考えてみたのだが、彼の思いはたびたび老総督と、彼の奇妙な遺産へと立ちかえった。
蝋燭の一つがジリジリと鳴って消えた。ため息をついて、ディー判事はもう一つを手にとり、自宅のほうへ歩いて行った。
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第三章
判事は市場でのいさかいを目撃し
父は殺されると一青年が予測する
翌朝、寝すごしたと気づいて、ディー判事はうろたえた。急いで朝飯をかきこむと、まっすぐ執務室へ行った。
そこはすっかりきれいになっていた。肘掛椅子は修理され、机はピカピカで、机上には判事愛用の文具がそろっている。そのゆきとどいた配列がホン警部自身の手になることは、判事にはよくわかった。
警部は文書室にいた。タオ・ガンと二人でごみを掃き出し、湿気《しけ》たところに風を入れたから、いまでは彼らが赤革の書類箱をみがくのに使った蝋の心地よい匂いが漂っていた。
ディー判事は満足げにうなずいた。席につくと、タオ・ガンに命じて、マー・ロンとチャオ・タイを呼んでこさせた。
副官四人が居並ぶと、判事はまずホン警部とマー・ロンに具合をたずねた。両人とも、前夜の闘いでも格別なことはなかったと答えた。警部は頭の包帯をはずして、油紙の膏薬をはりつけていたし、マー・ロンの左腕は、まだいくぶんぎこちないものの動かすことができた。
早朝、チャオ・タイと協力して、政庁の武器庫を調べてきたと、マー・ロンは報告した。かなりな数の槍、ほこ、剣、兜、鎧、革製の胸甲などがしまってあるが、何もかも古びていて汚いので、みんなみがき上げなくてはなるまいと。
ディー判事がおもむろに話し始めた。
「ファンの話には、ここの奇妙な状況の説明として、なるほどと思わせるところがある。彼の言ったことがすべて真実なら、早急に行動を起こす必要がある。私が巻き返しをはかろうとしていることにチェンが気づいて先手を打ってくるより前にだ。どういうことが持ち上がっているのか、彼に知れないうちに、攻撃をしかけなくてはならない。古いことわざにもあるじゃないか、物騒な犬は牙をむくより先にくらいつく、とね」
「あの牢番長はどういたしたものでしょう」とホン警部がたずねた。
「当面はあのままにしておくことにしよう」と判事は答えた、「あの悪党を閉じこめておいたのは、われながらいい思いつきだった。あいつはチェンの手下の一人に相違ない。さっそく主人のところへ駆けつけて、われわれに関して洗いざらい知らせたことだろうよ」
マー・ロンが何か質問しようとして口を開きかけたが、ディー判事は手を上げて止め、話を続けた。
「タオ・ガン、これから出かけて、チェン一味に関しての情報を集められるだけ集めてきてくれたまえ。ついでに、アン・キーという名の裕福な市民についても調べてほしい。この蘭坊《ランファン》で九年ばかり前に死去された、名高いアン・ショウジェン総督の子だ。
私自身はマー・ロンといっしょに出かけて、このまちの全体的な感じをつかむことにする。ホン警部はチャオ・タイと二人でこの政庁にいて、事務管理にあたるのだ。門は閉じたままにし、私の留守中は、わが家の執事以外には出入りさせるな。彼だけが食料品の買い出しに出る。
ではまた昼に、ここで会おう!」
判事は立ち上がって、黒い小さな帽子を頭にのせた。簡素な青い長衣を着た姿は、さながらひまのある学者紳士というところだった。
判事はマー・ロンと肩を並べて、政庁を出た。
まず南の方をぶらついて、蘭坊《ランファン》の名塔を見物した。それは蓮池の中心に浮かぶ小島に立っている。堤に沿って植わっている柳が、朝のそよ風に揺れていた。そのあと彼らは北に向かい、人ごみにまぎれた。
いつもながらの早朝の人の往来がみられ、大通りに軒をつらねる商店では、けっこうな商いが行われていた。それなのに笑い声はめったに聞かれず、すばやく左右を見回してから、小声で語り合う人の姿を、しばしば目にした。
政庁の北側の門のところまでもどると、ディー判事とマー・ロンは左に曲がり、鼓楼の前の市場へ行った。この市場はなかなかの見ものだった。国境のかなたから来た行商人たちは、奇妙ではではでしい服装にがらがら声で、自分の売り物をほめたて、そこここにインド人の托鉢僧がたたずんでいる。
きちんとした身なりの青年と激しく言い合いをしている魚売りのまわりには、野次馬がむらがっていた。明らかに、青年は高値をふっかけられているらしい。結局彼は一握りの銅銭を魚売りのかごに投げ入れ、ぷりぷりして叫んだ、
「もしこれがまともな政治の行われているまちだったら、こんなふうに昼日中に住民をだますことなんかできやしまいに!」
にわかに肩幅の広い男が進み出た。彼はぐいと青年を引きつけるなり、口に一打ちくれてどなりつけた。
「チェン様のことをとやこう言ったら、どうなるかわかったな!」
マー・ロンが割って入ろうとしかけたが、判事がその腕に手をかけて止めた。
見物人はさっと散った。青年は一言も言わず、口許の血をぬぐって、その場をはなれた。
ディー判事はマー・ロンに合図し、二人は青年のあとを追った。
彼が静かな横丁にはいったところで、判事は追いついて声をかけた。「ぶしつけを許してくれたまえ。たまたま悪漢が君に乱暴をはたらくところを見かけたのだが、どうして彼を政庁に訴えて出ないのですか?」
青年ははたと立ち止まった。ディー判事とたくましい連れとを、疑わしげな眼つきで見ると、冷然と言った。「もしおまえたちがチェンの手の者なら、私を巻きこむにはまだまだ手間がかかるぞ!」
ディー判事は通りの上下を見た。彼らしかいなかった。
「お若いかた、君はひどい勘違いをしている」と判事はおだやかに言った、「私はディー・レンチエ、この県の新任知事だ」
青年は色を失い、まるで幽霊を見たような顔をした。やがて、手で額をこすって心の動揺を抑え、一つ大きく息をすると、明るい笑いに表情がほぐれた。彼は深々と頭を下げ、敬意をこめて述べた。「私は進士候補生のディン、ディン・フーグオ将軍の子で、首都から参っております。閣下のお名前は私にとってまことに親しいもの。この県はついに真の知事を得たのでございます」
鄭重な挨拶を受けて、判事は軽く頭を下げた。
何年も前のこと、ディン将軍が北方国境を越えてきた蛮族と戦って勝利したことは、記憶にあった。だがディーが首都にもどったとき、将軍はすでに辞任を余儀なくされていたのだ。将軍の息子がどうしてこの僻陬《へきすう》の地に来ているのだろうと、判事はいぶかった。彼は青年に話しかけた。「この町では、なにかたいへん不都合なことがあるようだ。ここの状況について、もっと聞かしてもらえないだろうか」
ディン学士は、すぐには返答しなかった。少し考えこんでからいった。「この種のことは人目に立つ所でお話ししたくありません。紳士にお茶などさしあげることをお許しくださいましょうか?」
ディー判事は同意した。彼らは街角の茶館にはいり、他の客たちからいくらか離れたテーブルに席をとった。
給仕が茶を運んで来たあと、ディン青年はひそひそ声で話をした。「チェン・モウという残忍な人物が全権を掌握しているのです。彼に逆らおうとする者はおりません。チェンは邸内に百人もの乱暴者を住まわせています。連中は何もすることがなく、ただ町中をのし歩き、人々をおびやかしています」
「どの程度の武装をしているんだろう?」とマー・ロンがたずねた。
「通りに出るときは棍棒と剣ぐらいしか持っていませんが、チェンの屋敷にはほんものの武器庫があると聞いたって、ぼくは驚きませんね」
ディー判事がたずねた、「君は蛮族が国境を越えてこの町へ来るのを、よく見るかね」
ディン学士は断固として首を振って、答えた。
「一人だって、ウイグル人をここで見たことはありません」
「チェンが政府に報告した襲撃というのは、どうもチェン一味がこの土地になくてはならない存在だということを官庁に信じさせるための、彼一流のでっちあげだったようだな」と判事はマー・ロンに向かって言った。
「チェンの屋敷にはいったことがあるかい?」とマー・ロンがたずねた。
「とんでもない!」と青年は金切声をあげた、「あの界隈はいつも避けて通ります。チェンは屋敷に二重の障壁をめぐらし、四方には見張り塔があるんですよ」
「どうやって権力を得たのか」と判事がきいた。
「彼は父親から莫大な資産をひきつぎました」と青年は答えた、「ただし、すぐれた資質のほうはまるきりでしたがね。彼の父親はこの町の生まれですが、誠実かつ勤勉な人物で、茶商として財を成しました。ほんの数年前まで、ホータンやその他西方の進貢国に通じる幹線道路はこの蘭坊《ランファン》を通っていて、したがってこの町はじつに重要な商業中心地だったのです。その後、砂漠を通る路線に沿う三つのオアシスが涸れてしまい、路線は百里北に移りました。まもなくチェンは乱暴者の一団を自分のところに集め、ある日この町の支配者として名乗り出たのです。
彼は頭が働くし、決断力もある人物ですから、武官になればわけなく出世できたでしょう。ですが彼は誰にも従おうとしません。帝国の誰にも束縛されず、文句なしの王者としてこの県を治めることを選ぶのです」
「きわめて遺憾な状況である」と評を下すと、ディー判事は茶を飲み干し、腰を上げようとした。
するとディン学士はあわてて身を乗り出し、いま少しおとどまりをと願った。
判事はどうしようかと思ったが、青年があまり情けなさそうにするので、とうとう座り直した。ディン学士は自らせかせかと茶をいれかえていた。どうきり出したものか迷っている様子だった。
「気にかかっていることがあるのなら、ためらわずに話したまえ」と判事が言った。
ディン青年はやっと話し始めた。「閣下、実を申しますと、私の心に重くのしかかっていることがございます。暴君チェンとはまったく関わりのないことで、私自身の家族に関することなのです」
ここで彼は息を入れた。マー・ロンがじれったそうに、椅子の上で体を動かした。
ディン学士は思いきって言葉をついだ。
「閣下、私の年老いた父が殺されようとしているのです!」
ディー判事は眉を上げ、「それが君に前もってわかっているなら、犯行を防ぐのは難しくあるまい」と言った。
青年は首を振った。
「そもそもからお話しすることをお許しください。私の父が部下の一人、よこしまなウー司令官によって誹謗されましたことを、閣下はお聞き及びでございましょう。ウーは父の北方での大勝利をねたみ、虚偽の告発をしました。それは立証することもできませんでしたのに、軍政局では父の辞任を命じました」
「ああ、その事件は覚えている」と判事は言った、「君の父上も当地に住んでおられるのか?」
ディン青年は答えた、「私の父がこの遠い土地へ参りましたのは、一つには私の亡き母が蘭坊の生まれでありましたためで、また一つには、大きな都市で以前の同僚たちと出会ってなにかとわずらわされるのを避けたいと望んだからでした。ここならば、私たちみな心安らかに暮らせるだろうと思ったのです。
ところが、一か月ほど前から、あやしげな男たちがときどきわが家の近所をうろついているのを見かけるようになりました。先週、私はこっそりその一人を尾行しました。すると男は町の西北隅にある〈永春〉という小さな酒屋に行きつきました。その通りの他の店でたずねて、その酒屋の二階に住んでいるのがウー・フォン、つまりウー司令官の長男だとわかったときの私の驚きは言いようもありません!」
ディー判事はいぶかしげな表情でたずねた、「なぜウー司令官が、息子をここまでよこして君の父上をわずらわせたりするのだ? 司令官は父上の経歴に疵をつけた。何をしたってそれ以上不運な立場に陥れることはなかろうじゃないか」
「考えていることはわかっているのです!」ディン青年はいきりたって叫んだ。「首都にいる父の友人が、司令官の告発は単なる誹謗にすぎないという証拠をつかんだことを、ウーは知っています。彼は私の父を殺し、自分のみじめな命を救おうとして、息子をこの地へさし向けました。閣下はウー・フォンという男をご存じありますまい。いつも酒びたりで、暴力沙汰が何よりも好きという、このうえない奸物《かんぶつ》です。彼は私どもをスパイするためならず者どもを雇っており、機を見つけしだい襲ってくるでしょう」
「そうだとしても」と判事は考えを述べた、「私には手の出しようがない。私はただ君に、ウーの動きに注意していること、あわせてご自分の家で多少簡単な予防策を講じておくよう忠告できるだけだ。ウーがチェン・モウと接触した徴候でもあるのか?」
「いいえ」と青年は答えた、「ウーがチェンの支援を得ようとしている様子は見られません。予防策についてですが、可哀そうな父は、任を辞して以来ずっと脅迫状を受け取っていますから、めったに外出しませんし、わが家の門は昼も夜も施錠し、かんぬきをかけております。さらに父は書斎のあらゆる戸口と窓を、一つだけ残してみなふさいでしまいました。その戸の鍵は一つしかなく、いつも父が持っていて、中にはいると父は戸にかんぬきをかけます。その書斎で父はほとんどの時をすごし、辺境戦争史を編んでいるのです」
ディー判事はマー・ロンに命じて、ディン邸の住所を書きとらせた。それは鼓楼の先で、そこからあまり遠くなかった。
席を立とうとして、判事は言った。「何か新しい展開がみられたら、政庁へ報告することを忘れてはいけない。この地での私の立場が、さほど安穏なものでないことはわかってもらいたい。チェンのほうが片づいたら、さっそく君の問題の検討を進めよう」
ディン学士は判事に礼を言い、客人たちを茶館の戸口まで案内した。そして深々と頭を下げて、別れを告げた。
ディー判事とマー・ロンは、目抜きの通りにもどっていった。
「あのうらなり野郎を見てると、昼も夜も鉄兜をかぶるべきだと言い張った男を思い出しますよ」とマー・ロンが言った、「つまり天空の丸天井が自分の頭に落ちかかって来はせぬかと、たえず恐れていたんです」
判事は首をひねって考えこんでいた、「全くおかしな事件だ。どうも気に入らない」
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第四章
タオ・ガンが謎の古屋敷を報告し
闇の政庁に巧妙なわなを仕掛ける
マー・ロンはびっくりしたらしかったが、ディー判事はそれ以上の意見を述べなかった。二人は黙りこくったまま、歩いて政庁に帰った。チャオ・タイが彼らを迎えて門を開け、タオ・ガンはもうもどって、執務室で待っていますと知らせた。
ディー判事はホン警部を呼び入れた。
四副官が判事と向かい合って席を占めると、判事はディン学士との出会いについて、簡単に説明した。それから、タオ・ガンに報告を求めた。
話し始めたときのタオ・ガンの顔は、いつもよりもさらに陰鬱でさえあった。
「閣下、事態はどうもわれわれ側にあまり有利ではないようでして。あのチェンという人物は有力な地位についています。県内の富はしぼり上げてしまっても、首都から来ている有力名門の縁者たちには気を配って、手を触れません。つまり、彼について不都合な報告が中央官庁へ送られることを避けるためです。たとえばディン将軍、その子息には閣下がいま会われたばかりで、それとアン・キー、総督アン・ショウジェンの子ですな。
チェン・モウは抜け目なく、しめつけすぎないようにしてきました。県内で行われるあらゆる取引から、たっぷりの歩合をとっていますが、商人たちにも相応の利ざやをとらせてやっています。しきたりにしたがって公衆の治安も守っており、盗みやけんか騒ぎをした者は、たちどころにチェンの子分どもに打たれて半死半生の目に会います。料理店や旅籠屋で、子分どもが無銭飲食しているというのはほんとうです。ですがその一方で、チェンは気前よく金をばらまくので、大きな商店の多くにとっては、彼と子分たちとは上得意です。彼の暴政にいちばん苦しむのは、小さな店を出している連中でしょう。それでも蘭坊《ランファン》の住民たちは概して自分たちの運命に甘んじ、もっと悪くなっても不思議じゃないと考えています」
「チェンの手下どもは、主人に忠誠か?」と判事が口をはさんだ。
「どうしてそうでないわけがありましょう」とタオ・ガンは答えた、「悪党どもは、百人ばかりいますが、酒を飲んだり賭けごとをやったりして過ごしています。チェンは町のあぶれ者をかり集め、正規軍からの脱走兵も大勢採用しています。ちなみに、チェンの屋敷はまるで要塞です。市の西門の近くにあって、外側の高い防壁は、てっぺんにぐるっと鉄の忍び返しがつけてあるし、正門では完全武装の男が四人、昼夜の別なく番をしています」
ディー判事は、静かに頬ひげをなでながら、黙っていたが、暫くしてからたずねた。「ところで、アン・キーについては何か聞き込んだか」
「アン・キーは水門の近くに住んでいます。まるで隠居のような、ひどく閑静な暮らしぶりです。彼の父親、つまり今は亡きアン・ショウジェン総督について、町の人々がいろいろ話をしていますが、変わった老人で、たいていは市の東門の外の山麓にある、広大な荘園で暮らしていました。そこの別荘は、深い森に囲まれた古い暗い家で、二百年以上も前に建てられたといいます。総督はその裏手に、広さ何|畝《せ》もある迷路をこしらえました。径《こみち》は、密植された灌木と大きな玉石とでできた、全く通り抜けのきかない壁で縁どられているそうです。迷路には毒蛇がうじゃうじゃいるといいますし、総督は径沿いに、気味の悪い人間用わなをいっぱい仕掛けたと言い張る者もおります。いずれにせよ老総督のほかには、そんな完璧な迷路に大胆にもはいってみようとする者はついぞいませんでした。ところが、総督はほとんど毎日そこへ行き、何時間も居続けたそうです」
ディー判事はたいそう興味深げに、タオ・ガンの一語一語に耳を傾けた。
「じつに興味深い話だ」と彼は声を上げた、「アン・キーはその別荘によく行くのか?」
タオ・ガンは首を振って、答えた。
「いいえ、アン・キーは総督の埋葬をすますとすぐ、そこを離れました。その後、そこに戻ったことはありません。別荘は空で、年とった門番夫婦がいるだけです。人々はお化けが出るとか、夜な夜な総督の幽霊が徘徊するとか言って、たとえ真昼間でも近づきません。
総督の町屋敷は、東門をはいってすぐのところにあったのですが、総督の死後まもなくアン・キーが売り払い、市の反対側のはずれに、自分の現在の邸宅を買いました。それは南西隅の川のほとりの空地に建っています。じっさいに行ってみるひまはありませんでしたが、人の話では、高い障壁をめぐらした、堂々たる邸宅だそうです」
ディー判事は席を立ち、部屋の中を行きつもどりつし始めた。暫くして、いらだたしげに言った、「チェン・モウの打倒は純粋な武力的課題とわかったが、私としては、そういう課題には大して興味がもてない。将棋のゲームのようなもので、相手とその手は初めからずっとわかってしまっていて、不可解な要素がない。私はむしろ反対に、アン総督の意味のさだかでない遺言、およびディン将軍の殺人予告という、もっとも興味深い二つの問題のほうに気持がそそられる。私の心をひきつけるこの二つの事柄に専念していたいのは山々だが。それなのに、まずはこのみすぼらしい地方ボスの片をつけねばならない。なんとわずらわしいことか!」
判事は腹立たしげにあごひげをぐいとつかんだ。やがて向きなおると、「まあ、それもなんとかなるだろう。まず、昼食としよう。後で、本政庁最初の公判を開廷することとする」
ディー判事は執務室を出た。副官四人はからっぽの衛士詰所に向かった。ディー家の執事が彼らのために簡単な食事を用意してくれているのだ。
部屋にはいる前、チャオ・タイがマー・ロンに目くばせをした。二人はしばらく廊下に立っていた。チャオ・タイがささやいた。
「閣下はわれわれが直面している課題を過小評価しておられるんじゃあるまいか。君と俺には戦争の経験があるから、まだこっち側に成算のないことがわかる。チェン・モウはよく訓練した百人の手下がいるのに、こっち側の戦い手は、われらが判事自身を別とすれば、君とおれだけだぞ。一番近い軍隊駐屯地は、ここから馬で三日の距離だ。あまり軽率な動きをしないように、判事に警告すべきじゃないかな?」
マー・ロンは短い口ひげをひねっていたが、声を低めて答えた。「われらが判事は、われわれの得た情報をすべて承知だ。情況に対処する策は、もうお持ちなのだと思うがね」
「どんなにすぐれた策だって、あの優勢な力の前には無益だ」とチャオ・タイは言った、「俺たちはいいさ、だが判事の夫人方やお子さん方をどうするんだ? チェンはなにも容赦しないぞ。まずはチェンに屈服するように見せておいて、その後で彼を攻撃する計画を立てるように、判事に提案するのが、われわれの義務だと思うんだ。二週間のうちにはここの軍の大部隊を呼ぶことだってできる」
マー・ロンは首を振った。「お呼びでない忠告は、絶対に歓迎されないぞ。もう少し待って、どうなるか見ようじゃないの。俺としたら、ほんとにいい戦いで死ぬなら、それに越したことはないぜ」
「よし」とチャオ・タイは言った、「もし表立って戦さになったら、俺は少なくとも悪党四人は引きうける。さあ、みんなのところへ行こう。このことは一口もしゃべるなよ、警部やタオ・ガンを驚かしたって、何にもならない」
マー・ロンはうなずいた。
彼らは衛士詰所にはいり、うまそうに食べ始めた。
飯を食べ終えるころ、タオ・ガンがあごを拭きながら言い出した。「私はわが判事のもとにすでに六年の余仕えてきて、あの人のことはかなりわかるようになったつもりでいた。それがこうしてチェン・モウを打倒するという、困難で急を要する問題に直面している折も折、古い訴訟ごとや、たぶん起こりもしない殺人事件やらにどうして夢中になっていられるのかと、めんくらってしまうのだ。警部さんは生涯閣下とつき合って来たわけだが、どう思います?」
ホン警部は口ひげを左手で持ち上げながら、汁の残りをすすりこむのに忙しかったが、静かに丼を置いて、にっこりした。「われらの判事を理解するについては、このところやっと一つだけ覚えたよ。それはね、わかろうなんて思わないことさ!」
みなは大笑いし、腰を上げて、執務室へともどった。
ホン警部に手伝わせて、正装の長袍《ちょうほう》をつけながら、判事はてきぱきと命じた。「法廷の職員が誰もいないから、今日は君たち四人にその持場についてもらう!」
そう言うと、判事は執務室と法廷とを仕切る垂れ幕を引き寄せ、壇上にのぼった。
裁判官席に座ると、判事はホン警部とタオ・ガンを側に並ばせ、書記の役をして議事録をとるよう命じた。マー・ロンとチャオ・タイは下に降り、壇の前で巡査の役をすることになった。位置につきながら、マー・ロンはチャオ・タイに当惑した目つきを送った。なぜ判事が本物の法廷の公判のようにみせたがるのか不思議だった。からっぽの廷内をみやって、チャオ・タイはなんだか自分がお芝居をやっているように感じた。
ディー判事は、裁判官席に驚堂木《けいどうぼく》を打ちつけ、おごそかに言った。「本知事は、当政庁における第一回公判を開廷する。チャオ・タイ、囚人たちを、本官の前に引き出しなさい」
まもなくチャオ・タイが、六人の追剥と例の娘とを連れてもどってきた。彼は全員を長い鎖でつないでいた。
壇に近づいたとき、がらんとした法廷の古ぼけた裁判官席に、すきもなく装った判事が端座しているのを見て、囚人たちはびっくりしたらしかった。
ディー判事は表情をくずさず、タオ・ガンに囚人一人一人の姓名と前職を書きとるよう命じた。
やがてディー判事が述べた。「おまえたちは、公道において殺人の意図をもって襲撃するという犯罪を犯した。法はおまえたちを斬首の刑に処し財産没収、世人に対する戒めのため、首は市門に釘付けにして三日間さらしものとすると定めている。
ただし今回、被害者側には死者がなく、重大な身体的傷害をこうむった者もないことを考慮し、またおまえたちをこの捨て鉢な行為に駆り立てた特殊事情もあることであるから、本知事は、この件に限って、寛大を正義に優先すべきものと判断する。一つの条件のもとに、おまえたちを釈放する。
条件というのは、期間ははっきりしないが、ファンを頭として全員が当政庁の巡査となり、本官が任を解くまでは、国家および国民に対する忠誠な奉仕を行うことである」
囚人たちはあきれて物も言えない様子だった。
「閣下」とファンが思い切って口を開いた、「ここにおります者たちは、与えられましたご寛大に、心から感謝しております。ですが、それはただ私どもへの死刑宣告が二、三日延びるだけのことです。閣下はまだチェン・モウの執念深さをご存じありませんし、ですから……」
判事は驚堂木ではっしと机を打ち、大音声を張り上げた、「頭を上げて、汝らの知事に注目せよ! 本官に付託された権力を表す、これらの徴《しるし》を心して見るがよい。まさにこの日この時、帝国全土で同じくこれらの徴を身に帯びる何千という人々が、国家と国民の名において法を執行しつつある。太古以来、それらは父祖の賢明な深慮により決定された社会秩序の象徴となり、天の命令と、われら髪黒き数知れぬ民の自由意志とによって、滅ぶことなく伝えられてきたのだ。
谷川の激流の中に棒を立てようとしている者を見たことはないか? ほんの一時は立っていよう。が、止まることのない急流に運ばれていってしまう。そのように、時折よこしまな、あるいは愚かしい人間が現れて、わが社会の聖なる範型を崩壊させようとすることがある。そうした企みの行き着くところがみじめな敗北でしかないことは、水晶の如く明々白々ではないか。
これらの徴《しるし》への信頼を失ってはならぬ。さもないと、われわれは自分自身を信じられなくなる。
立て、そしてくびきを脱せよ!」
囚人たちには、ディー判事の言葉の意味するものすべてを見定めることはできなかった。それでも彼の誠意に強く打たれ、絶対の信頼をうけたことで熱狂的になった。むしろ骨身にこたえて理解したのは副官たちのほうで、それらの言葉がじっさいは囚人たちよりも自分たちに向けて言われたものであることも納得された。マー・ロンとチャオ・タイとは顔を伏せたまま、急いで鎖をゆるめた。
そこでディー判事は追剥どもに話しかけた。
「めいめいがチェン・モウからどんな不都合をこうむったのか、あとでタオ・ガンさんとホン警部さんのほうに申告しなさい。折をみてそれぞれの件につき、政庁で訴えをきこう。ただし、目下もっと緊急を要する事がある。君たち六人はただちに正院子《せいなかにわ》に行き、武器と巡査の古い制服とを手入れするのだ。マー・ロン副官とチャオ・タイ副官とが、君たちに軍事教練をしてくれる。ファンの娘さんは私の屋敷で女中として働く事になると、うちの執事に知らせておこう。
政庁の第一回公判は、これにて閉廷!」
判事は立ち上がって、執務室へもどった。
彼は気楽な普段着に着替えた。たまった書類を仕分けていると、ファン巡査長がはいってきた。敬礼してから、うやうやしく言った。
「閣下、例の襲撃のあった谷の向こう側の野営地に、まだ三十人ばかりいるのです。チェン・モウの非道のため、逃げ出さなくてはならなかった者たちです。私はみな知っています。数人はやくざ者ですが、あとはまっとうな人間で、私が保証します。思いついたんですが、近日中に私がそこへ行き、中からいい人物を選んで、ここで働くように頼んでみようと思うのですが」
「いい考えだよ」と判事は声を高めた、「馬に乗って、今すぐ出かけたまえ。君が適任だと思う人物を選ぶんだ。日暮れがたに、数人ずつ組んで違う道を通り、市内にもどって来させるように」
ファン巡査長は急いで退出した。
午後おそくには、政庁の正院子はあたかも軍隊の露営地のようになった。
黒漆塗りの兜をかぶり、革上着に赤い布の腰帯という、巡査の制服をつけた十人は、ファン巡査長の指揮のもと、教練に余念がない。軽い鎧を着こみ、ぴかぴかする兜で華々しくよそおった別の十人は、マー・ロンの指図にしたがって、槍術のけいこをしていたし、もう十人には、チャオ・タイが剣術の極意を伝授していた。
政庁の門は閉じられ、ホン警部とタオ・ガンが守衛に立っていた。
その夜おそく、ディー判事は全員を法廷に召集した。
ただ一本の蝋燭の光の中で、判事は指示を与えた。それがすむと、暫くの間は絶対に音を立てないでいるようにと命じた。そして蝋燭を吹き消した。
タオ.ガンは法廷を出た。念入りに扉を閉めると、小さな紙提灯で足許を照らしながら、暗い通廊を抜けていった。
彼は牢屋に行き、牢番長のいる房の扉をあけた。
タオ・ガンは、牢番長を壁の輪につなぎとめていた鎖をはずし、そっけなく言った。「判事は重大な怠慢のために、おまえを解任することに決めた。おまえに託された政庁の印鑑をしかるべく取り扱うことを怠ったであろう。わが判事は近日中に、新しい政庁職員を徴募するはずであるし、鎖につながれて壇の前にぬかずく最初の罪人は、自ら王の名をかたるチェン・モウとなるであろう!」
牢番長はただ顔をしかめてみせただけだった。
タオ・ガンは暗闇のなかを彼を伴い、人気のない通廊を抜け、がらんとした正院子を横切っていった。
タオ・ガンは門をあけ、牢番長を外へ突き出した。
「出て行け! みっともない面を二度と見せるなよ!」
牢番長はさげすむようにタオ・ガンを見やって、せせら笑った。「おまえさんが考えるよりは早くもどって来るぜ、この犬あたまさんよ!」
そう言うと、彼は暗い通りに姿を消した。
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第五章
丑満時に二十人の悪漢が攻めこみ
ディー判事は命がけの遠出をする
真夜中を少しまわったころ、大音響が政庁の闇を破った。荒々しい号令の声に、武器のガチャガチャとぶつかる音。正門に激しい一撃が加えられ、その鈍い響きが夜のしじまにこだました。
だが、政庁の中では何も動く気配がなかった。
門の木材がくだけて飛び散り、重い鏡板が響きを立てて倒れた。二十人の悪漢が、棍棒を振り回したり、刀や槍をふりかざしながら、とびこんできた。たいまつを手にした大男が先頭に立っている。
「犬役人めはどこだ! へぼ知事はどこにいる!」とわめきながら、彼らは前庭になだれこんだ。
大男は正院子《せいなかにわ》への門を蹴とばして開けると、一歩さがって他の連中を通らせ、その間に自分の刀を抜いた。
悪漢たちは、中にはいると足を止めた。そこは墨を流したような暗さだった。
突然、大応接室の六枚の扉がぱっと開け放たれた。その中に二重に並べられた十数台の大蝋燭や大|行灯《あんどん》の光で、院子《なかにわ》はあかあかと照らし出された。
闇からまばゆい明るさへの急激な変化にくらんだ悪漢たちの目には、左右に居並ぶ兵隊の姿がおぼろげにうつった。光が兵隊の兜や、水平に構えた矛《ほこ》の先に反射してきらめいた。階《きざはし》の下には、剣を抜き放った巡査たちが並んでいた。
階《きざはし》の上には、ちかちかと光る錦地の礼装に身を固め、二つの尾のある判事帽をいただいた、堂々たる人影があった。
騎馬隊長の制服をつけた巨漢二人が、その傍らにいた。胸甲と腕被いがきらきらと輝き、とがった兜のてっぺんには、色鮮かな旗がひるがえっていた。一人は強弓《ごうきゅう》に矢をつがえて構えている。
判事が雷《いかずち》のごとき声を張り上げた。「われこそは蘭坊《ランファン》知事である。武器を引き渡せ!」
抜身の刀を手にした大男が、まず気をとりなおした。
「突っこめ!」と叫んで刀をふり上げたとき、彼は激しく咽《のど》のつまるような声を立てて、のけざまに倒れた。チャオ・タイの矢が、咽首を射抜いたのだ。
同時に、かすれた声の号令が、広間のほうから響いてきた。
「回れ右!」
たちまちそこら中に鉄のガチャガチャ触れ合う音、重い足音が鳴り響いた。
悪漢たちは仰天した顔を見合わせた。一人がつと進み出て、仲間に呼びかけた。「兄弟たち、やられたよ! 軍隊が来てるんだ!」
そう言うと、彼は槍を階《きざはし》の前に投げ捨てた。剣帯をはずしながら、「やれやれ、伍長になるのに六年かかったぜ。また一兵卒から始めなくてはならんということか」と言った。
マー・ロンがどなった、「いま、自分で伍長だとぬかしたのは、誰だ!」
男は反射的に、直立不動の姿勢をとった、「リン伍長っ、左翼第三十三軍、歩兵第六分隊! ご命令に従います、隊長どの!」
「脱走兵は、みな前に出ろ!」とマー・ロンが叫んだ。
五人が伍長の後ろに並び、おどおどと気をつけの姿勢をした。
マー・ロンはぴしりと言った、「おまえらは、軍事裁判送りだ!」
その間に他の悪漢たちは、武器を巡査に渡し、巡査は連中を後ろ手に縛り上げた。
判事が言った。「隊長、この市周辺に、脱走兵がまだ何人くらいいるか、たずねてみよ」
マー・ロンが、質問を、元伍長にとりついだ。
「四十人ほどです、隊長!」
ディー判事は、あごひげをなでた。
「君たちが、他の辺境県へ視察に出かけたあと」と、判事はマー・ロンに話しかけた、「ここで警備勤務につく兵隊がほしいのだ。隊長、その離脱者たちを兵籍に入れるよう、軍司令官に推薦してくれたまえ」
マー・ロンがさっそくどなりつけた。「リン伍長、および兵隊五名、おまえらはどこだか知らぬが、来たところへもどれ。くだらない一般人とは手を切り、明日の正午きっかりにここに出頭しろ。軍装、整備、すべて規定どおりに整えて来い!」
六人は「かしこまりました!」と叫び、足並みをそろえて出て行った。
ディー判事の合図をうけて、巡査たちは囚人を、タオ・ガンの待ち受けている牢へ引いて行った。
タオ・ガンは、囚人の姓名を書きとめた。最後の十五人目は、解職された牢番長にほかならなかった。タオ・ガンはうれしそうににやりとした。
「言ったとおりだったなあ、この畜生め、たしかに、私が考えたよりずっと早くもどって来たじゃないか!」
そう言うなり、タオ・ガンはぐるりと向きを変えさせ、もといた房の中へ、ぽんと正確に蹴りこんだ。
正院子《せいなかにわ》では、ファンが集めてきた急ごしらえの兵隊が、めいめい槍を肩にかついで、衛士詰所の方へ行進して行くところだった。
ディー判事は、彼らが整然と行進するのを見て、マー・ロンに笑顔を向けた、「半日の教練の割には、悪くない!」
判事は段をおりた。二人の巡査が、応接室の扉を閉めた。ホン警部が古い鍋にやかん、さびた鎖をかついだ姿を現した。
ディー判事が一評した。「号令の声はなかなかのものじゃないか、警部!」
翌朝、日が上ったばかりの頃、三人の男が馬で政庁を出た。
狩猟着を着たディー判事が、真中にいた。マー・ロンとチャオ・タイは、騎馬隊長の制服をまばゆく輝かせながら、両側で馬を進めていた。
西に向かって行きながら、判事は馬上でふりかえり、政庁の屋根の上にひるがえる大きな黄色の旗を眺めた。それには赤い字で「軍司令部」と記されていた。
判事は笑いながら、連れに言った。「わが家の女たちは、あの旗造りに、夜おそくまでかかったのだ!」
一行は、まっすぐチェン・モウ邸に乗りつけた。
たくましい体をした男が四人、矛《ほこ》を手にして、門の前に立っていた。
マー・ロンが、手綱を抑えて、彼らの面前に進んだ。乗馬鞭の先で扉を指し、「開けろ!」と命令した。
明らかに、昨夜帰らせた脱走兵が、軍隊到着のニュースを広めていた。門番たちはほんの一瞬ためらったが、すぐ門を大きく開いて、判事と副官たちを通した。
第一|院子《なかにわ》では、十五、六人の男たちがそこここに屯ろしては、興奮してしゃべっていた。彼らはとたんに鳴りをひそめ、三人に不安げな目を向けた。剣を下げている者たちは、あわてて長衣のひだの間にかくそうとした。
三人は彼らに目もくれずに、馬を進めた。
マー・ロンは、第二|院子《なかにわ》に続く四段の階《きざはし》に馬を登らせ、判事とチャオ・タイがその後に続いた。
リン伍長に指図されて、三十人ばかりがせっせと刀や槍をとぎ、革上着に油を引いていた。
足も止めずに、マー・ロンが伍長に声をかけた、「兵を十人連れて、ついて来い!」
第三|院子《なかにわ》には数人の召使がいるだけだったが、三人の騎手を見るとあわてて姿を隠した。
マー・ロンは奥の大きな建物に向かって進み、馬のひづめが石畳に高く鳴り響いた。美しい彫刻をほどこした朱漆塗りの扉は、それが屋敷の主殿であることを示していた。
一行は馬から下り、伍長の部下に手綱を預けた。
マー・ロンは、鉄の長靴で真中の扉を蹴って開け、同行の二人をしたがえて踏みこんだ。
緊急会議の邪魔をしたのは、明らかだった。広間の中央で、三人の男が鳩首《きゅうしゅ》協議中だった。丈高く肩幅の広い男が真中にいて、虎の皮を敷いた大きな肘掛椅子に座っていた。頬からあごにかけて肉づきのよい、尊大そうな顔つきで、細い口ひげ、濃く短いあごひげをたくわえていた。寝床を離れたばかりだったらしく、白絹の寝間着のままで、上に紫地錦のゆったりした部屋着を羽織っていた。頭には黒い小さな帽子をすっぽりかぶっていた。それと向き合って、黒檀彫刻の足のせ台に座っている二人は、いずれも年輩である。彼らもやはりあわてて衣服をつけたものらしかった。
広間はまさに、戦闘準備中というところだった。応接室というよりは、武器庫と呼んだほうがいい。壁には槍、矛《ほこ》、盾が飾り立ててあり、床には野獣の皮が敷きつめてある。
三人の男は闖入者を見上げて、驚きで口もきけないほどだった。ディー判事は一語も発せず、まっすぐに空いた肘掛椅子のところへ行って、腰をおろした。マー・ロンとチャオ・タイは、チェン・モウの真前にすっくと立ちはだかり、憎さげににらみつけた。
チェンの顧問二人は、あわてて足のせ台から立ち、主人の椅子の後ろに退却した。
判事はマー・ロンに向かって、さりげない調子で言った。「隊長、市には戒厳令がしかれた。したがって、この悪人どもの処置は、あなたにお任せする」
マー・ロンは向きなおると、「リン伍長!」とどなった。
伍長が部下四人をしたがえて、急いで敷居をまたぎ越えてはいってきた。マー・ロンがたずねた。「こいつらのうち、どれが逆賊チェン・モウか」
伍長が、肘掛椅子の男を指し示した。
マー・ロンが恐ろしい声でどなりつけた。「チェン・モウ、反乱扇動の嫌疑で、おまえを逮捕する!」
チェンは、ぱっと立ち上がった。面と向かって立つと、マー・ロンにまさるとも劣らぬ荒々しい声でどなった、「おれ様の家で命令する気か? 護衛っ、そいつらを切っちまえ!」
叫ぶところを真向《まっこう》から、マー・ロンが腕に物言わせた。チェンは、倒れる拍子に、優雅な茶卓をひっくり返し、高価な磁器の茶道具もろとも、床にあたってくだけ散った。
獰猛な様子のならず者六人が、広間の奥の大きな衝立のかげからとび出して来た。長い刀を持ち、頭株のは両刃のまさかりを振りまわしている。
彼らは完全武装のマー・ロンとチャオ・タイを見ると、はたと立ちどまった。マー・ロンは腕を組み、用心棒どもに向かって鋭く言った。「武器を捨てろ! おまえら下っぱどもに罪があるかないかは、後刻、司令官どのが決められるのだぞ!」
チェンの鼻はくだけ、血が流れて長衣にしみをつけた。彼は頭をもたげて叫んだ。「その野郎の言うことなど聞くな! 十年も、おれの飯を食ってきたんだろう? まず、そっちの犬役人をやっちまえ!」
用心棒の頭がまさかりを振りかぶって、判事のほうに駆けよった。
ディー判事はびくともしなかった。彼は攻撃者を軽蔑するように見ながら、静かに頬ひげをなでていた。
「待て、ワン兄貴」とリン伍長が叫んだ、「町中、兵隊であふれてるって言わなかったか? 俺たちゃ、運がなかったんだ。軍隊に乗っ取られちまったんだよ」
まさかりの男はたじろいだ。
チャオ・タイがいらだって、床を踏み鳴らした。
「さあ、とりかかろう! こんなならず者を何人かつかまえるより、もっとましなことがあるぞ!」とわめいて向きを転じ、外に出て行くふりをした。
チェン・モウが気絶した。マー・ロンは完全に用心棒どもを無視し、かがみこんで、チェンをしばり上げにかかった。
ディー判事は、椅子から立ち上がった。長衣のしわを整えながら、まさかりを持つ男に冷たく言い放った。「その物騒な道具を、下に置きなさい、君」
そしてその男に背を向けると、二人の顧問をにらみつけた。事の進行する間ずっと、二人はそこで黙って立っていたのだ。決着がつくまでに、どんな形であれ自分の態度を表明したくなかったのは、はっきりしていた。
「そこの両名は何か?」と判事は傲然《ごうぜん》とたずねた。
年上のほうが、深々と敬礼して答えた。
「閣下、私めはこのチェンという者に、余儀なく相談役として仕えて参ったのでございます。閣下、私は断じて……」
「話は政庁でしたまえ!」とさえぎって、判事はマー・ロンのほうに呼びかけた、「急いで政庁にもどろうではないか。このチェンという奴と、顧問両名だけ連行することにする。あとの者は後刻処理しよう」マー・ロンがさっそく、「ご命令に従います、知事閣下!」と応じた。
彼はリン伍長に合図した。四人の兵隊が、顧問両名をしっかりと縛り上げた。チャオ・タイは、自分の腰に巻いた細い鎖をはずして両端に輪をつくり、捕虜両名の首に投げかけた。彼は二人を引ったてて外に出た。そして鎖を鞍の前輪に結びつけながら、ぴしゃりと言った。「自分で首をくくりたくなかったら、さっさと歩くことだな!」
チャオ・タイはひらりと馬にまたがり、ディー判事がそれにならった。マー・ロンは、意識のないチェン・モウを、自分の鞍の上に投げ上げた。それから、リン伍長を呼びつけた、「おまえの兵隊を、十二名ずつの四班に分けろ。各班でチェンの手下十名ずつを、責任をもって担当する。市の門に行って、捕虜を門の櫓に監禁しろ。正午に、将校が四つの門を査閲する!」
「かしこまりました!」と伍長は叫んだ。
三騎は院子を横切り、顧問二人はチャオ・タイの馬の後ろを小走りでついて行った。
第二|院子《なかにわ》で、半白の山羊ひげを生やした初老の男が待ちうけていた。彼はひざまずき、額を石畳にうちつけた。
ディー判事は馬を駐め、きびしく言った。「立って、姓名を申せ!」
相手はあわてて立ち上がると、一礼して言った、「とるに足らぬ私めは、当家の執事でございます」
「政庁から将校が来て引き継ぐまで、おまえは当屋敷とその内部のすべて、使用人や婦人がたにいたるまで、十分に責任をもつのだぞ!」
そう命じると、ディー判事はさっさと馬を進めた。
マー・ロンが鞍の上から身をかがめて、執事にさりげなくたずねた。「軍隊で、細い籐《とう》の笞《むち》で打って、囚人をじわじわ死なせるのを見たことあるかい? ふつう、六時間かかるんだ」
まごついた執事は、まだそういう便宜を得たことはありませんと、うやうやしく答えた。
「それが確実におまえの身の上に起こるんだぜ。もしおまえが閣下のご命令を、お言葉どおりに実行しないならな!」すました顔で言うと、マー・ロンは馬に鞭を入れた。後には執事が真っ青になり、がたがた震えながら立ちすくんでいた。
三騎がチェン邸の正門を通り過ぎるとき、門番四人が捧げ銃《つつ》の敬礼をした。
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第六章
組合の四親方が大広間に招じられ
アン夫人は古い絵を携えて政庁ヘ
マー・ロンとチャオ・タイは、政庁に帰るとすぐに、まだ息を吹きかえさないチェン・モウと、はあはあ息を切らしているチェンの顧問二人を、ファン巡査長に引き渡した。それからディー判事の執務室に行った。ホン警部は、判事が略装に着替えるのを手伝った。
マー・ロンは鉄兜を押し上げて、額の汗をぬぐった。彼は判事をうっとりと見つめて、感嘆の声を上げた。「いまだかつて、あれほどでかいはったりは、出会ったことがありませんや!」
判事は苦笑いした。
「チェンを相手に戦い抜くということになってはまずかったんだよ」と彼は説明した、「たとえこちらに二百の手勢があったとしても、血みどろの争いになったことだろう。チェン・モウは悪党だが、けっして臆病者ではないし、手下どもは手ごわい戦いっぷりを見せたはずだ。
はなから私ははったりをかます計画だった。何もかもおしまいだ、こちら側の勝利は初めから決まっていることだと、チェン・モウ一味に思いこませてしまうのさ。初めの計画では、辺境視察旅行中の府総督か帝国監察官のふりをするつもりだった。
チェンの一味の中に正規軍の脱走兵がたくさんいると、タオ・ガンが知らせてくれた時、すぐに計画を変更したんだ」
「政庁襲撃のあとで、リン伍長と五人をチェン邸に帰らせたのは、冒険ではなかったですか?」とチャオ・タイがきいた、「彼らは情報集めを始めたら、こっちのはったりに気づいたかもしれません」
「ほかでもない、それが決着をつけたんだよ」と判事は答えた、「ふつうの神経なら、圧倒的な人数を後ろ盾として持っていない限り、善良な六人の男を主人のところへ堂々と帰らせたりするはずはない。リン伍長には、確かめてみようなどという考えは浮かばなかった。チェンは目はしの利く男だが、彼ですら正規軍の存在を疑わなかった。彼は捨てばちの決戦で死ぬ覚悟をしたが、家来たちは考えなおしたのだ、とりわけわれわれが、彼らを無罪放免するかもしれぬとほのめかした時にね」
「こうして、架空の連隊を作り上げてしまったわけですが」とホン警部がたずねた、「今度はそれをどう始末したものでしょう」
ディー判事は落ち着いたものだった。「うわさというものがたどる成りゆきについて、私の見通しに大きな誤りがなければ、この連隊はまず人々の想像の中で拡大して、一人前の軍隊になり、やがてはわれわれが何もしなくても雲散霧消してしまうだろう。
さて、仕事だ。まず、私はこの政庁組織を整えなくては。それからチェン・モウ事件を解明する。
タオ・ガンは今から出かけて、市内の各区長に対し直ちに私の前に出頭するよう命じよ。また、主要な同業組合の親方の所に行き、今日の昼に私を訪問されたいと伝えよ。
ホン警部、君はファン巡査長と巡査十名を連れて、チェン邸に行け。婦人たちと使用人は、次に命令が出るまで専用の居住区画を離れないようにと言え。君は執事と一緒に、金目のものすべてを調べて保管室に納め、その扉を封印せよ。ファン巡査長は、息子と姉娘白蘭とを捜せ。
マー・ロンとチャオ・タイは四方の市門を巡回し、リン伍長が部下をしかるべく配置したかどうか、また軍に所属していなかったチェンの手下四十人は、門の櫓にしっかり監禁されたかどうか、確認してくるように。もし万事が適切に処理されているならば、リン伍長は降格せず、前のまま軍籍に復させると知らせてやれ。
脱走兵たちの前歴をとっくりと調べよ。戦線離脱や、何か重大な犯罪を犯して逃亡したのでなければ、軍籍に復させてやれる。今日の午後、私は軍政局に報告を送り、彼らの地位を保全してもらうことにする。同時に、当地に兵隊を百名派遣してもらうよう、要請しよう」
これだけ述べ終わると、判事は熱い茶をいれてきてほしいと、ホン警部に命じた。
タオ・ガンが区長のところをまわるのは、大した時間はかからなかった。ディー判事の執務室に姿を見せたとき、彼らはあまりうれしそうではなかった。
政庁と住民の間をつなぐ存在として、地元で徴募され、出生、死亡、婚姻などの多くの事柄を報告することを責務とするにもかかわらず、チェン・モウの支配下で、それは全くなおざりにされてきた。県政府の職員として、区長たちは新任知事に歓迎のあいさつをするため政庁に出て来ていなければならないはずだった。彼らは、厳しい叱責を予期していた。
案の定、しかも大雷が落とされた。色を失い、ふるえながらディー判事のところから退出してきた区長たちは、可能な限りすばやく姿を消した。
そのあとディー判事は、政庁の大応接室に向かい、金細工師、大工、水取引業者、絹織物商の同業組合親方衆を接見した。判事はいんぎんに彼らの名前をたずね、執事が茶菓をもてなした。
親方衆は、判事がかくもすばやくチェン・モウを逮捕したことを賀し、県がやっと正常に復することを喜んでいると述べた。それにしても、そんなにも多数の兵隊が市内を占拠していることについては、若干の困惑を表明した。
ディー判事は驚いた顔をしてみせた。
「兵隊といっても、ここにいるのは、私が警護のため軍籍に復させた、二、三十人の脱走兵だけです」
金細工師組合の親方が、同輩たちとわけ知り顔の目交ぜをしてから、愛想よく言った。「お口が固いのは、閣下、よくわかっております。ですが、北門の番人の話では、閣下が市内にはいられた時は、騎兵の大部隊に踏みにじられるところだったと申しますよ。昨夜はある金細工職人が、長靴にわらを巻いて足音を消し、大通りを行進して行く、二百人ほどの兵隊の列に出会いました」
絹織物商組合の親方がつけ加えた。「私自身のいとこは、軍需物資を積んだ十輛の馬車隊が通過するのを見ました。ですが、閣下、くれぐれも私どもをご信用ください。辺境県の軍事視察は秘密にしておかなければいけないことは、承知しております。さもないと、河を越えて来る蛮族の群の耳にはいってしまいますからな。市の外までもらすようなことはいたしません。ですが、もしかすると、司令官さまは政庁に旗をお立てにならないほうがよいのではございませんかな? 蛮族のスパイが見たら、軍隊のいることを知ってしまいましょう」
「あの旗は私が上げたのですよ」と判事が答えた、「あれはただ私、すなわち知事がですね、一時的にこの県に戒厳令をしいていることを示しているのです。緊急の際、知事がそうする権限を付与されていますから」
親方たちはにんまりして、深々と頭を下げた。一番年長のが、「閣下の慎重なお心配りを、私どもはよくよく承知しております!」と大まじめで言った。
ディー判事は、もうこのことについてはなにも言わず、全然べつの話題に切り替えた。今日の午後、しかるべき年輩の人物三人をさしむけていただけまいか、政庁の上級書記、文書室長、牢番長として適任であり、しかもすすんで引きうけてくれる人がほしい。また、事務官として、しっかりした若いのを十二、三人お願いしたい。知事はさらに、法廷の最低限の修理費と職員の給料をまかなうため、政庁に銀二百両を貸与してほしいと頼んだ。チェン・モウの事件が片付いて彼の財産が押収されれば、直ちに総額お返しする、と。
親方衆は快諾した。
最後にディー判事は、明朝、チェン・モウに対する裁判を開くつもりでいることを彼らに知らせ、そのことを県内くまなく徹底するよう頼んだ。
親方衆が辞去すると、判事は執務室にもどった。そこにはファン巡査長が、ハンサムな青年と一緒に、判事を待っていた。
二人は判事の前にひざまずいた。青年は額で床を三度叩いた。
「閣下」とファンは言った、「私の息子を見てやってくださいませ。息子はチェンの手下どもにさらわれ、あの屋敷で下男として働かされておりました」
「君の下で、巡査として勤務させなさい」と判事は言った、「上の娘さんは見つかったのか?」
ファンはためいきをついた。「息子はあれを見かけたことがなく、念入りに捜索しましたが、あれの形跡は発見されませんでした。私自身でチェン邸の執事にきいてみましたら、チェン・モウが一時、白蘭を自分の女部屋に入れたがっていたことは記憶していました。ですが、私が娘を売ることを断わったとき、彼の主人はそれを断念したと言い張るのです。私は、どう考えたらいいやらわかりません」
ディー判事は考えこむ様子で言った。「チェン・モウが娘さんを誘拐したという、君の推測は、当たっていないとは言い切れない。チェンのような男は、屋敷の外に愛の巣をかまえることもないではない。だが一方では、チェンがほんとうに娘さんの失踪に関わっていないという可能性も、考えに入れなくてはならない。私はチェンにこれについて質《ただ》してみて、徹底的捜査に着手しよう。あまり早く望みを捨ててはいけないよ」
判事がそう言いきかせていたとき、マー・ロンとチャオ・タイがはいって来た。
彼らは、リン伍長が命令を四角四面に遂行していると報告した。四方の市門にそれぞれ兵十名が配置され、どの門の櫓にも、チェンの手下が十二名ずつ監禁されている。脱走兵のうち五名は、じっさいに罪を犯し、罰を逃れようとして脱走したものであったため、その分、囚人の数が増えた。以前に市門を警護していたのらくら者たちは、リン伍長が水運び人足に降格させた。
リンは、軍人としてのいいところを全部そなえていると、マー・ロンが言いそえた。不誠実な隊長と仲たがいをしたため、脱走してしまったのだが、もう一度正規軍にもどれるというので、有頂天になっていると。
ディー判事はうなずいた。「リンを曹長にするように提案しよう。当面は四十名を市門に配置しておこう。もし彼らの士気が良好に保たれるようなら、全員一緒にチェン邸で宿営するよう提案する。いずれはそれを、守備隊本部とすることになるだろうから。チャオ・タイ、君は私が派遣要請する兵隊が到着するまで、その四十名と、この政庁で訓練した二十名を合わせて、部隊長になっていてくれたまえ」
話し終わると、判事は副官たちを引き取らせた。そして、筆をとり上げ、遠く離れたところにいる州長官にあてて緊急便の稿を練り、この二日間の出来事を記した。さらに、再び軍籍に登録してほしい者の姓名を表にして添え、リン伍長を曹長に昇進させることを提案した。最後に、蘭坊《ランファン》の常駐守備隊として、兵百名の派遣を要請した。
この書状の封をしていると、巡査長がはいってきた。彼は、アン夫人が判事に面会に来ていると知らせた。政庁の門のところで待っているという。
ディー判事は、喜んだようだった。
「お連れしなさい!」と彼は命じた。
巡査が夫人を執務室に招じ入れている間に、判事はすばやく品定めをした。年ごろは三十歳前後だが、まだたいそう美しい。化粧はせず、ごく簡素な装いをしている。
机の前にひざまずいて、おずおずと言った、「アンの妻、本姓はメイ、つつしんで閣下にご挨拶申し上げます」
「ここは政庁ではありませんよ、奥さん」と判事はやさしく言った、「ですから、固苦しいことは抜きにしましょう。どうぞ立って、椅子に掛けてください」
アン夫人はゆっくり立ち上がり、机の前の丸腰掛の一つに座った。彼女は切り出しにくそうだった。
判事が語りかけた。「つねづね、あなたの亡き御夫君アン総督に、大いに感服しております。現代最高の政治家の一人と考えております」
アン夫人は会釈して、小声で言った、「りっぱで、優しい人でございました、閣下。もし亡き夫の指示を行うことが私の義務と心得ておりませねば、閣下の大切なお時間にお邪魔するようなことは、とても致しませんでした」
「どうぞ、お続けください、奥さん」と、判事は身をのり出し熱心に言った。
アン夫人は袖の中をさぐって、細長い包みを取り出し、立ち上がって、机の上に置いた。「臨終の床で」と彼女は口を切った、「総督は私に、自筆のこの画巻を手渡しました。そして、これは私と私の息子に遺産として与える品だと申しました。あとは私の義理の息子アン・キーの物となると。
そこで総督はせきこみ始めましたので、アン・キーが新しい薬湯を言い付けに、部屋を出ました。彼が去るとすぐ、総督はいきなり私に言われました。もし困ったことになったら、この絵を持って政庁に行き、知事に見せなさい。もし彼がその意味を理解しないなら、その次の知事に見せなさい。いずれは賢明な知事が、その秘密をさとるだろうから、と。そこへ、アン・キーがはいって参りました。総督は私ども三人を見つめ、やせ衰えた手を私の幼い息子の頭におき、そのあとは一言も言わずに亡くなられました」
アン夫人は、顔を伏せてすすり泣いた。
ディー判事は、彼女がおさまるのを待って言った。「ご最期の日の、一部始終が大切な意味を持っています、奥様、その後どんなことがあったか、お話しください」
「私の義理の息子のアン・キーは、しまっておいてあげましょうと言って、絵を私の手から取り上げました。その頃は不親切ではございませんでした。人が変わりましたのは、お葬式がすんでからのことでございます。あの人は私に、息子を連れてすぐ家を出て行けと、荒々しく申しました。私があの人の父上を裏切ったと言って責め、私と息子に二度とこの家の敷居をまたぐことを禁じました。そのとき、この画巻をテーブルの上に投げ出し、おまえの遺贈分をすきなようにしろといって、せせら笑いました」
ディー判事は、あごひげをなでた。
「総督は偉大な賢人であられたから、奥様、この絵の中には何か深い意味が託されているに違いありません。私は綿密に検討してみましょう。ですが、私の義務として申し上げておきますが、その秘められた口上に対しては、公正な態度で接します。あなたにとって有利となるかもしれませんが、あなたの姦通罪を証拠だてることになるのかもしれません。どちらの場合でも、私は適切な処置をとり、正義を行うでしょう。どうかお決めください、この画巻を私にお預けになりますか、それとも持ち帰られ、請求をお取り下げになりますか?」
アン夫人は立ち上がり、控えめながら威厳をみせて言った。「どうぞ、お手許においてお調べくださいませ。天助により、あなたさまがその謎をお解きくださることを祈っております」
夫人は深く一礼し、別れを告げた。
ホン警部とタオ・ガンが、廊下で待っていたが、さっそくはいってきて、判事に挨拶した。タオ・ガンは文書を一抱え持ってきていた。
警部は、チェン・モウの財産を調べ上げたと報告した。何百錠もの金の延べ棒、大量の銀が発見された。これらの財貨は、多数の純金製物品と一緒に、保管室に入れて施錠した。婦人たちと使用人たちは、第三|院子《なかにわ》から出ないようにさせた。政庁の巡査六名と兵隊十名をチャオ・タイの監督で第二|院子《なかにわ》に宿営させ、屋敷の警護にあたらせている、と。
得意そうににこにこしながら、タオ・ガンが携えてきた文書の束を、机の上に置いた。「閣下、こちらが私どもの作成いたしました財産目録、それから、チェン・モウの保管室にありました証文と帳簿でございます」
判事は椅子の背にもたれたまま、気乗りのしない様子を隠しもしなかった。
「チェン・モウ事件の解明には、時間がかかってやりきれまい。この作業は、警部とタオ・ガン、君たちに頼むよ。この材料からは、土地建物の不法収用とか、けちなゆすりの証拠くらいしか出ないと思うね。今日の午後には、文書係も含めて、事務的な仕事をするため適当な人物をよこすと、親方衆が約束してくれた。この問題を片付けるのに、役に立つだろうよ」
「その者たちは正院子《せいなかにわ》で待機しています、閣下」と、ホン警部が言った。
「それでは、君とタオ・ガンとで、仕事を指示してやってくれたまえ。今夜は文書室長が、これらの文書の仕分けを手伝ってくれるだろう。君たちにまかせるから、チェン・モウ事件をどう扱うべきかについても触れて、詳しい報告書を書いてくれたまえ。ただし、わが同僚の故パン知事の殺害に関係した文書があったら、別にしておいてくれよ。
私は今はこの問題に専念したいのだ」
そう言いながら、判事はアン夫人が置いていった包みを取り上げた。包みを開き、画巻を机の上にひろげた。
ホン警部とタオ・ガンが歩み寄り、三人は熱心に絵を眺めた。
それは絹布に描かれた中くらいの大きさのもので、想像上の山の風景を極彩色で描いてあった。懸崖の間に白雲がたなびき、繁茂した木々の間を縫って、そこここに建物が見え、右手には山渓が流れ下っている。人影は一つもなかった。
絵のいちばん上に、総督は古風な字体で「虚《むな》しき幻の楼閣」と記していた。
この題辞に総督の署名はなく、ただ彼の印が、朱でおしてあった。
絵は厚い錦で四方を縁どり、下には木の軸心、てっぺんには吊りひもをつけたおさえ竹が添えてある。これは壁にかける掛物としては、通常の表装方法であった。
ホン警部は思案にくれて、あごひげをひっぱった。
「題辞の暗示するところによりますと、この絵はなにか道教家《タオイスト》の楽園か、仙人たちの住まいのようなものを表わしているのでしょうな」
ディー判事はうなずいた。
「この絵はじっくり研究しなくてはならない。私の机の向かい側の壁に掛けてくれたまえ、いつでも好きなときに見られるように」
タオ・ガンが絵を戸口と窓の間に掛けている間に、判事は席を離れて、正院子に出向いた。彼の事務職員と目される人々は、なかなかよくできた者たちだった。判事は手短に講話をし、こう締めくくった、「私の二人の副官が、あなた方に指示を与えるから、よく聞いてください。明朝この政庁の朝の公判を開くとき、さっそく勤務についてもらいますからね」
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第七章
腹黒い坊主は正当に懲らしめられ
文学士が残忍な殺人を訴えて出る
翌朝は、夜も明けやらぬうちから、蘭坊《ランファン》の市民たちが、政庁の前に群がり始めた。朝の公判の時刻に近づくころには、正門前の道路は黒山のような人だかりで埋めつくされていた。
大きな青銅の銅鑼《どら》が、三度打ち鳴らされた。巡査が門の扉を左右に大きく開き、群衆は廷内になだれこんだ。まもなく、立錐《りっすい》の余地もないほどになった。
巡査は左右の二列に分かれ、壇の前に並んでいた。
奥の垂れ幕が引き寄せられ、官服を着用したディー判事が、壇上に現れた。彼が裁判官席に座ると、副官四人がそば近く、それぞれ所定の位置を占めた。今はもう朱色の絹布ですっぽりとおおわれている裁判官席と隣合って、上級書記とその助手とが立っていた。
判事が朱墨の筆をとり上げて、牢番長にあてた伝票に記入するあいだ、廷内は静まりかえっていた。
ファン巡査長が、それを両手でうやうやしく受けとり、巡査二人を連れて法廷を出た。
彼らは、チェン・モウの二人の顧問のうち、年長のほうを連れてもどってきた。男は、壇の前にひざまずいた。
「姓名、および職業を申せ」と判事が命じた。
男はおどおどしていた。「いやしい私奴は、名をリウ・ワンファンと申します。十年前までは、チェン・モウの父親の執事でした。あの人の死後、チェンが私を相談役としていたのでございます。閣下、私はあらゆる機会をとらえて、チェンにやりかたを改めるよう勧告しました。ほんとうでございます」
判事は冷ややかに笑った、「おまえの試みが、著しくわずかな効果しかあげなかったことだけは言えるな。おまえの主人の犯した罪状を、現在政庁で集計し分類しているが、疑いなく、チェンの不法行為の多くにおまえが連座していることは、これらの材料が証明することになろう。ただし、目下のところ、私はおまえと主人とが犯した軽犯罪には触れない。当面は、重大問題にのみ、限っておくことにしたい。申せ、チェン・モウは、どのような殺人を犯しているか!」
リウが答えた。「閣下、主人が人々の土地や家屋を不法に占有したとか、だれかを手ひどく打ちのめすことがよくあったとかいうのは、ほんとうでございます。ですが、私の承知しております限りでは、チェンが故意に誰かを殺したということは、決してございません」
「うそを申せ!」と判事は叫んだ、「当地で卑劣にも殺害された、パン知事はどうなのだ!」
「あの殺人には、私自身同様、主人もびっくりさせられました!」
判事はとても信じられないという顔をした。
リウが、あわてて続けた。「パン判事様が私どもの主人を排除しようという考えをお持ちのことは、もちろん存じておりました。パン様には助手お一人のほか、誰もお味方がありませんでしたから、主人は当分の間、格別の手は打ちませんでした。判事様がどのような行動に出るおつもりか、少し見てみたかったのです。ところがある朝、手下の者が二人屋敷に駆けつけ、パン判事様の死体が川の土手で発見されたと知らせてきました。
主人は頭を痛めました。この殺人の張本人は自分だと、誰もが考えるだろうと思ったのです。早速主人は州の長官様にあてて、にせの報告を書き上げ、パン判事様が民兵六人を率いて川を渡り、反抗的なウイグル族の族長を召し捕りに向かったが、判事様はその時の戦いで殺されておしまいになったということにしました。チェンの手下の六人が署名し、そして……」
ディー判事は、驚堂木で机を打って、憤然と叫んだ。
「これほどけしからぬうそ八百は、聞いたことがない! 畜生めに、鞭で二十五叩きをくらわせよ!」
リウが抗議しかけたが、巡査長が間髪を入れずに顔面を打った。巡査たちがリウの長衣の背を引き裂き、床に押し倒したところへ、鞭が空を切ってふりおろされた。細い革ひもが、深く肉を切り裂いた。リウは、悲鳴を上げ、必死で、うそは言っていないと叫んだ。
十五回打ったところで、判事は片手を上げた。もう権力の座から落ちた主人を、リウがかばおうとする理由はない、うそをついたところで、他の囚人の証言ですぐばれてしまうことは承知しているはずだと、判事は心得ていた。ただ、そうすることでリウのどぎもを抜き、知っていることをすっかり吐かせることができるだろうし、この悪党のしたことに対する罰として、鞭十五打はお安いものだとも考えたのである。
巡査長がリウに濃い茶を飲ませると、ディー判事は尋問を続行した。
「おまえの言うことがほんとうなら、なぜチェン・モウは真の殺害者を見つけ出そうとしなかったのか」
「その必要はなかったのでございます。主人はその憎むべき行為の主が誰か、知っておりましたから」
ディー判事は、ぐいと眉を上げ、冷ややかに言った、「おまえの話は、ますます道理に合わない。おまえの主人が殺害者の身許を知っていたなら、なぜそれを逮捕し、州長官のもとへ送らなかったか? そうすればチェンは、お上の信用を得ることができたろうに」
リウは力なく首を振った。
「そのことでしたら、閣下、チェン自身にきいていただくしかございません。主人は、小さな事柄についてなら、私どもに意見を求めましたが、ほんとうに重要な事柄については、なに一つ話してくれませんでした。重要な問題で、主人がある人物の指示するがままになっていたことを、私は存じておりますが、それが誰であるかは推測もつきませんでした」
「チェンなら、自分の仕事は十分自分で対処できたはずと思ったが」とディー判事が評した、「どうして謎の顧問を雇う必要があったのだろう?」
リウは答えた、「私の主人は才気があり、勇気もある人間で、あらゆる武術にたけておりました。ですが所詮は、この辺境の小都市で生まれ育ったのでございます。どうして蘭坊《ランファン》の人間が、州長官を手玉にとったり、中央政府をあしらったりできましょう。私の主人がなにかしらうまい手を打って、州長官がこの土地の問題に介入してくるのを防いだのは、きまって謎の人物が訪れてきた後のことでした」
ディー判事は身をのり出して問いつめた、「その秘密顧問とは誰だ?」
「ここ四年間、私の主人は定期的に彼の秘密訪問をうけておりました。夜おそく、主人は私を屋敷の脇門の番人のところに行かせ、来客があるが、直ちに書斎にお連れするようにと、伝えさせました。この訪問者は、坊さんの長外套をまとい、黒い布で頭をつつんで、いつも徒歩で現れました。誰も、その顔を見たことがありません。主人は彼と二人で、何時間も続けて閉じこもっていました。そのあとで、また来たときと同じように黙って出て行かれました。この度々の訪問について、主人は私たちになにも説明してくれませんでした。ですが、それは必ずなにか大仕事の始まる前ぶれだったのです。
この人物が私の主人に予告なく、パン判事様を殺したのだと、私は確信しております。彼はその夜もやって参りました。私の主人と激しいいさかいをしたに相違ありません。たがいにどなり合っている声が、廊下にまで漏れてきましたが、言葉はききとれませんでした。その会見の後、主人は何日も不機嫌でした」
判事はじりじりしていた、「こんな妙な話は、もう聞きあきたぞ。鍛冶師ファンの息子と娘を、チェンがかどわかしたことについてはどうなのだ」
「その種の件についてでしたら、私と同僚とが、詳細にわたってご説明申し上げられます。ファンの息子は、たしかにチェンの手の者が捕えました。邸内で力仕事をする人手が足りなくなったので、チェンが手下に、町で頑丈な若いのを少し集めて来いと言ったのです。四人連れてきたうち、三人はあとで親が金を払って連れ帰りました。鍛冶屋は門番と一悶着ありましたので、チェンは鍛冶屋にお灸をすえるため、息子を帰さないことにしたのです。
娘のほうにつきましては、主人が鍛冶屋の店の前を輿《こし》に乗って通った折に、たまたまその娘を見かけたと、承知しております。主人は娘が気に入ったので、金で買おうと申し出をしました。鍛冶屋は申し出を断わり、主人はじきにそのことを忘れてしまいました。その後、鍛冶屋が屋敷に来て、その娘をかどわかしたと非難したのです。主人は腹を立て、人をやって鍛冶屋の家を焼かせてしまいました」
ディー判事は椅子の背にもたれ、長いあごひげを静かになでた。リウはたしかに、本当のことを言っていると思われた。リウの主人は、ファンの姉娘の失踪には関わっていない。チェンの秘密顧問を逮捕すべく、迅速な処置を講じなくてはならぬ。もしもすでに手おくれでなければのことだが。
そこで彼は、「二日前の本官到着後に、どういう事があったか申せ!」と命じた。
「一週間前に、クヮン知事様が閣下の到着予定を、私の主人に知らせてよこされました。クヮン様は、閣下にお目にかかるのは気がひけるから、その朝早く発ちたいと、許可を求めてこられたのです。主人は賛成しました。それから、閣下が到着されても、誰もいっさい構ってはならぬと申し渡しました。新知事に、自分の立場を思い知らせてやれ、というわけです。
主人はそうして牢番長の報告を待ちました。第一日目は姿を見せませんでしたが、二日目の晩にやってきて、閣下が主人を攻撃するつもりでおられると知らせました。政庁には三人か四人しか人がいないとも申しましたが、非常に荒っぽくて手ごわい方々のように話しておりました」
タオ・ガンが、得意そうににんまりした。自分自身について、そんなうれしいことを言ってもらえたことは、あまりなかったからだ。
リウは続けた、「主人は配下の二十人の者に、その夜政庁にはいって、知事を捕え、他の者をみな徹底的にぶちのめせと命じました。リンと五人の者が帰り、正規軍一連隊がひそかに市を占領したという、驚くべき知らせをもたらした時、主人は就寝中で、誰も起こそうとはしませんでした。翌朝早く、私自身でリンを主人の寝間に連れて参りました。彼はすぐ小さな黒い旗を正門にかかげるようにいい、そのまま大広間に直行しました。どうしようかと相談していたとき、閣下が将校方を連れて来られ、私どもをお捕えになったのでございます」
「その黒い旗とは、どういう意味があるのか?」と判事がきいた。
「謎の訪問者を呼び出す合図と心得ております。旗がかかげられるたび、その夜のうちに現れる慣わしでしたから」
ディー判事が巡査長に合図をすると、リウ・ワンファンは連れ去られた。
次に判事はもう一枚、牢番長への伝票に記入して、巡査長に手渡した。
暫くして、チェン・モウが連れて来られ、壇の前に進んだ。
過去八年の間、鉄の手をもって彼らを支配してきた男の姿を見て、群衆はざわめいた。
チェンはたしかに、堂々たる体躯をしていた。身長はゆうに六尺余り、広い肩幅と太い首とは、彼の大力を思わせた。
彼は膝を屈しようとしなかった。不遜な態度で判事をみつめると、今度は向きを変えて、口をぽかんとあけて見ている群衆を眺めまわしてせせら笑った。
「知事さまの前にひざまずけ、この無礼な犬めが!」と、巡査長がどなりつけた。
憤怒でチェン・モウの顔が紫色に変わり、額に鞭のひものように太い青すじが立った。何か言おうと口を開きかけたが、ふいに、彼のくだかれた鼻から、血がほとばしった。ぐらぐらしながら、しばらく立っていたが、やがて床の上にくずれ落ちた。
判事の合図をうけて、巡査長がかがみこんで、チェンの顔の血をふきとった。彼は気がつかない。
巡査長が巡査の一人に、冷たい水をくんで来させた。彼らはチェン・モウの長衣をくつろげ、額と胸を水でぬらした。だがすべて無駄だった。チェンは意識をとりもどさなかった。
ディー判事は、ひどく困惑する様子で、巡査長をやって、もう一度リウ・ワンファンを呼んで来させた。
彼が壇の前にひざまずくと、判事が早速たずねだ。「おまえの主人は、なにか病気持ちか?」
リウはびっくりして、チェンの倒れている姿を見た。まだ巡査たちが、息を吹き返させようと試みていた。
リウは頭を振った。
「私の主人は、驚くほど強健な体をしていましたが、慢性の脳病をわずらっておりました。何年も医者にかかりましたが、どんな薬も効果をあげませんでした。怒りでかっとなると、このように倒れて、何時間も気がつかないということがよくありました。唯一の治療法は、頭蓋を開いて、内部の有毒な気を出してしまうことだと、医者は申します。ですが蘭坊《ランファン》には、そのような特殊技能を持つ医者はおりません」
リウ・ワンファンが連れ去られた。四人の巡査が正体のないチェン・モウをかついで、牢にもどした。
「この男が意識を回復したら、すぐ報告させるように」と、判事は巡査長に言いつけた。チェンが倒れたというのは、きわめて不都合なことだと、判事は痛感した。チェンから謎の訪問者の身元をきき出すというのが、何よりも大事なことだった。黒幕の影法師は、時々刻々と、姿をくらます機会を大きくしているではないか。チェンの逮捕後、すぐさま尋問せずにしまったことを、判事はつくづく悔んだ。だが、彼にこんな知られざる共犯者がいたなどと、誰が予想したろうか。
ため息をつきながら、ディー判事は椅子の中で背を伸ばした。驚堂木を机に打ち下ろすと、朗々と述べた。
「八年にわたって、罪人チェン・モウは、わが帝国政府の特権を侵害してきた。今日《こんにち》これより、蘭坊に再び法と秩序が確立される。善は保護され、悪は国法による厳罰をうける。
罪人チェン・モウは、反政府的扇動の罪科により、当然の罰を受ける。扇動に加えて、彼は数々の犯罪的行為を行ってきた。チェン・モウに苦情のある者は誰でも、当政庁に訴え出よ。すべての件について調査し、許される限りで補償が与えられる。その訴状のすべてを処理するには、時間がかかることを言っておかねばなるまい。しかしながら、不当な処遇はやがて必ず償われ、正されるから、安心してしなさい」
傍聴の群衆は、わっと喜びの声にわいた。巡査たちが法廷を静かにさせるのに、少し時間がかかった。
片隅では三人の仏教僧が、まわりの熱狂に同調する様子もなく、頭を寄せてこそこそと相談していた。
いまや彼らは人ごみをかきわけかきわけ、ひどい仕打ちに遭っておりましたと、声を限りと叫びたてながら進み出てきた。壇に近づいてくるのを観察していた判事は、三人ともあまり感じがよくないなと感じた。下品でみだらな顔つき、ずるそうな目つき。
三人が壇の前にひざまずくと、判事が命じた。「最も年長の者が、姓名および訴えのすじを述べよ!」
「閣下さま」と、真中の僧侶が口を切った、「愚僧は名を義柱と申し、ここにおります二人の同門とともに、市の南区の小さな寺院に住まっております。私どもは日夜祈りと自省とに明け暮れております。
わが貧乏寺に、一つだけ高価な財産がございまして、とりもなおさず、わが観世音菩薩さまの金むくのお像にございます、なんまいだぶ。ふた月前に、チェン・モウの悪党めが当寺へやって参り、聖像を持っていってしまいました! この恐ろしい寺泥棒の罪により、彼は死後の世界では油で煮られることでしょう。けれども、それまでの間、尊い宝物を私どもにお返しくださいますよう、つつしんでお願い申し上げます。もしあの悪党めがもう溶かしてしまっておりましたら、代わりに金か銀で償ってくださいませ」
そう言い終えると、僧は床に三度頭を打ちつけた。
ディー判事は静かに頬ひげをなでていたが、やがて、世間話のような口調でたずねた。「そのお像が、寺のたった一つの財産だとしたら、さぞや身も心も捧げてお世話していたのだろうねえ」
「閣下、それはもう」と、僧はせきこんで答えた、「毎朝私めが、自分で絹のはたきでおぬぐい申し上げ、たやさずお経をあげておりました」
「もちろん、御同門のお二人も、同じほど熱心に、菩薩にお仕えしていただろうね」
「愚僧は」と右側にいたのが言った、「七年にわたり、毎朝毎晩、観音菩薩の前で香をたき、慈悲深いお姿を、かしこみ拝んで参りました、なんまいだぶ」
「愚僧は」と三人目、「毎日観音菩薩のおん前で、恍惚のひとときを過ごしておりました、なんまいだぶ」
ディー判事は、してやったりというように、にんまりした。上級書記の方に向きなおっててきぱきと命じた、「訴人のおのおのに、炭一かけ、白紙一枚ずつを与えよ!」
めんくらっている僧たちの手に、これらの道具が配られると、判事は命じた。「左の人は壇の左側に行きなさい、右の人は右側へ。あなた、義柱さんは回れ右して、傍聴者の方を向く!」
僧たちはこそこそと、指定された場所に向かった。
そこで判事は、きっぱりと命じた。「ひざまずき、金の仏像の絵を描いてみせよ!」
群衆がざわめいた。
「静粛!」と巡査たちがどなった。
三人の僧は、絵を描くのにずいぶん時間をかけた。たびたび坊主頭をかき、汗をだらだら流していた。
とうとうディー判事が、ファン巡査長に命じた。「その絵をここに持ってきたまえ!」
三枚の絵を見るなり、判事は軽蔑するように、机の向こうへ押し落した。
床に散らばった絵を見ると、それぞれまったく違っていることが、誰の目にもわかった。一枚目は四本の腕と三つの顔のある観音さま、二枚目は八本の腕、そして三枚目は二本腕のふつうの形で幼児を伴っていた。
ディー判事は、雷のような声で言った。「この悪党どもは、虚偽の訴えをした! この者どもを、おのおの竹で二十回打て!」
巡査たちが、三人をうつ向けに押し倒し、法衣をめくり上げて腰布も引きおろした。竹の杖が、風を切ってふり降ろされた。竹が肉を裂くたび、僧たちは金切声でのろい罵った。だが、ぴったりその数になるまでは、巡査たちは手を休めなかった。
三人は歩くこともできなかった。傍聴人の力のあるのが何人かで、引きずって行った。
判事はみんなに向かって言った。「この不正直な僧たちが進み出てくる直前、私はちょうど警告を発しようとしているところだった。すなわち、チェン・モウに対してありもしない請求権を訴え出て、不当な利益を得ようとしてはならないということである。この三僧のなりゆきを、よい戒めとするがよい!
なお、今朝以降、当県にはもはや戒厳令はしかれていない事も言っておきたい」
ここまで話すと、ディー判事はホン警部をかえりみて、何やら耳うちした。警部はせかせかと、法廷を出た。
もどって来た警部が首を振った。判事は声を落して言った。「チェン・モウが意識を回復したら、すぐ私を呼ぶようにと、牢番長に命じなさい。たとえ真夜中でもだ!」
それからディー判事は驚堂木を手にとった。閉廷を言い渡そうとしかけたとき、法廷入口あたりでの動揺が目に入った。
若い男が狂ったように、立錐の余地もない人々をかきわけて通ろうとしていた。
判事は二人の巡査に命じ、新来の者を前に連れて来させた。
その男が荒い息を吐きながら、壇の前に膝をついたとき、ディー判事は、それがディン学士であると気づいた。
「閣下!」とディン学士は叫んだ、「あの悪魔のウーが、非道にも私の老父を殺害いたしました!」
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第八章
老将軍が自らの書斎で殺害されて
ディー判事は事件現場を訪問する
ディー判事は、椅子の背にもたれた。
寛《ゆる》い袖の中でゆっくりと両腕を組み合わせてから言った。「いつ、いかにして、殺人が発見されたかを申してみよ!」
「昨夜、私どもは」とディン学士は言い始めた、「父の還暦を祝いました。邸内の大広間で、家族全員が祝賀の膳を囲み、誰もかれも上きげんでした。父が席を立ったのは、真夜中も近いころでした。父はそのあと書斎にはいり、この記念すべき日にあたって、自著の辺境戦争史の序文を起草するつもりだと申しました。私が自分で、書斎の戸口までお伴し、ひざまずいて夜のご挨拶をいたしました。父は扉を閉め、かんぬきをさした音が聞こえました。
ああ、それが、尊敬するわが父の現《うつ》し身《み》を見た最後でした。今朝、朝食の用意ができたことを知らせるため、執事が書斎の戸を叩きました。繰返し叩いても応答がないので、執事は私を呼びにきました。もしや夜の間に具合でも悪くなられたかと心配して、私たちは扉の羽目板を斧で叩き割りました。
父上は、机の上に突っ伏しておられました。お休みかと思い、そっと肩に触れてみました。その時、死んでいると気づきました。小さな短剣のつかが、咽に突き出ていたのです。
身を守るすべのない私の老父を、卑劣なウーが殺したとお知らせしに、私はこの政庁に駆けつけました。閣下、なにとぞこの恐ろしい悪行の仇をうってくださいませ!」
ディン学士は泣きむせび、何度も叩頭《こうとう》した。
ディー判事は、濃い眉をひそめて、しばらく沈黙を守っていたが、やがて口を開いた、「心を静めなさい、ディン学士! 当政庁は遅滞なく捜査を開始する。供の用意が調いしだい、私は犯行現場に向かおう。正義は必ず行われると、安堵せよ!」
判事は驚堂木で机を打ち、閉廷を宣した。彼は席を立って、執務室との仕切りの向こうに消えた。
巡査たちは、法廷から人を追い出すのにひと苦労した。事件に興奮して、傍聴者は談論風発だった。誰もが新しい知事をほめそやし、強欲な三人の坊主のぺてんをあばいた明察ぶりに感服した。
リン伍長は、若い兵卒二人をしたがえて一部始終を見ていたが、さて、とベルトを締めなおしながら言った。「あの知事は、なかなか堂々としたもんだ。もちろん、われわれのマー隊長とチャオ隊長みたいなかっこよさはないけどな。あれは、長いこと軍隊勤めをしなくちゃ身につかねえものなんだ」
兵卒の一人の、さかしげな若い奴がたずねた。「戒厳令は解除されたと、知事が言いましたよね。つまり、ここにいた軍隊は、夜のうちに行ってしまったということでしょう。だけどぼくは、ぼくたち自身のほか、兵隊は一人も見なかったがなあ」
伍長は哀れむように彼を見ると、きびしく言った、「兵隊は、高等戦術には関わらないがいいぞ! だが、おまえは頭の切れる若造だから、ここまでは教えてやろう、つまり連隊は国境全体を視察する行軍のためにここを通ったんだ。これは重大な軍事機密だぞ。一言でも漏らしてみろ、おれが首をちょん切ってくれるから!」
「でも、どうして誰にも見られずに出て行けるんです、伍長」
「兵隊さんよ」と伍長は誇らしげに言った、「おれたち帝国軍に、不可能なことはなにもない! 黄河渡河のことを話したことがなかったか? 橋も渡し舟もなかったが、おれたちの将軍は渡ろうとした。そこで、兵隊二千人が手をつなぎ合って、二列になって河にはいった。千人がその間に、盾を頭にのせて立った。将軍はこの鉄の橋を、馬を駆けさせて渡ったんだぜ!」
若い兵隊は、これほど信じ難い話は、聞いたことがないよと考えた。だが、伍長の気の短さは心得ていたから、敬意をこめて、「はっ、そうでした!」と応じた。彼らは傍聴者の最後尾について、法廷を出た。
正院子《せいなかにわ》には、判事の公用|輿《こし》の用意がととのっていた。巡査六名が前に、六名が後にしたがった。兵二名は、ホン警部とタオ・ガンの馬の手綱をおさえていた。
執務室から出てきた判事は、まだ官服のままだった。ホン警部に手伝わせて、判事は輿におさまった。
警部とタオ・ガンが馬にまたがると、行列は動き出し、町にはいった。巡査二名は、「蘭坊《ランファン》政庁」と大書した看板を掲げて、先を駆けた。列の先頭で、別の二名が小形の銅鑼を打ち鳴らした。彼らは、「道をあけろ、道をあけろ! 知事閣下がお通りになるぞ!」と叫んでいた。
人々はうやうやしく、道のわきによけた。ディー判事の輿が見えてくると、高らかに歓声を上げ、「われらが知事に長寿を!」と叫んだ。
ホン警部は判事の輿と並んで馬を歩かせていたが、窓に身をかがめて、うれしそうに言った、「三日前とは大違いですね、閣下!」
ディー判事はあまりうれしくもなさそうに笑った。
ディン邸は、なるほど堂々たる建物だった。
ディン青年は第一院子まで出てきて、判事を迎えた。ディー判事が輿を下りると、灰色のひげをもじゃもじゃと生やした老人が進み出て、検屍官であると名乗った。日常生活では、有名な薬種店の経営者なのだ。
ディー判事は、まっすぐ犯行現場に向かうと言った。ファン巡査長と巡査六名は大広間にはいり、仮政庁を設営して、検屍に必要な準備をととのえておくようにと命じられた。
ディン学士は、判事と補佐たちの先に立った。
彼は曲がりくねる回廊を通って、奥院子《おくなかにわ》へ案内した。中央に人工の岩山と大きな金魚池とのある、魅惑的な風景庭園であった。大広間の扉は開け放たれ、召使たちは家具の取り片付けに追われていた。
ディン学士は左手の小さな戸を開け、暗い廊下を抜けて、八尺四方ほどの狭い坪庭に導いた。三方は高い壁で囲まれ、向かい側の壁に堅い木の扉のついた、狭い戸口があったが、その扉の鏡板が一枚こわされていた。ディン青年はこの扉を押し開け、わきに寄って判事を通した。
室内にこもった蝋燭の匂いがむっときた。
ディー判事は敷居をまたいではいり、ぐるっと見回した。八角形の、かなり大きな部屋だった。壁面の上方には、色ガラスを市松模様にとり合わせた小窓が四つ並び、柔らかな光を室内にひろがらせていた。窓の上に、およそ二尺四方の、鉄格子をはめた通気孔があった。これはただ換気のためで、彼らがはいってきた戸口以外に、開口部はなかった。
戸口に面して、部屋の中央にひどく大きな黒檀彫刻の机があり、その上に伏せている、やせた人影があった。暗緑色の錦の室内着を着ている。頭は折り曲げた左腕の上に傾き、机の上に伸びた右手には、朱漆の筆がまだ握りしめられている。黒絹の小さな頭巾は床に落ち、犠牲者の長い灰色の頭髪が露われていた。
机上には文具類が、型通りに並んでいた。しおれた花をさした青磁の花瓶が一方の隅にあった。死者のどちらの側にも、銅の燭台が立ててあり、蝋燭はすっかり燃えつきている。
ディー判事は、手の届く高さまでは書棚で隠されている壁面を見て、タオ・ガンに言った。「壁に隠し羽目板がないか、調べたまえ。あそこの窓や通気孔もよく検査せよ!」
書棚によじのぼるために、タオ・ガンが上に着た長衣を脱いでいる間に、判事は検屍官に、遺体を調べるよう命じた。
検屍官は、肩と腕にさわってみた。それから、頭を持ち上げようとしたが、すでに硬直していたから、死者の顔が見えるようにするためには、肘掛椅子の中でそのまま後ろへ倒さなければならなかった。
老将軍のうつろな目が、天井を見上げていた。しわだらけのやせた顔は、驚愕の表情を凍りつかせていた。やせこけた咽《のど》もとから、指の半分の太さもない細い刃が、一寸ほどとび出していた。その柄《つか》は白木造りの変わったもので、刃より大して太くはなく、長さもほんの一寸くらいだ。
ディー判事は腕を組んで、死体を見下ろしていたが、暫くして検屍官に、「その小刀を抜きとりなさい」と言った。
検屍官は、ちっぽけな柄をつかまえるのにひと苦労した。だが、親指と人差指でつかむと、あっさり抜けた。四分の一寸そこそこしか刺さっていなかったのだ。
短い武器を入念に油紙で包みながら、検屍官は観察を述べた。「血は凝《こご》っており、体はすっかり硬直しております。死んだのは、昨夜遅くに相違ありません」
判事はうなずき、考えこんだ、「犠牲者は戸にかんぬきをさした後、礼服とかぶりものを脱いだ、それは戸のわきにかかっている。それから普段着に替えた。そのあと机の前に座り、墨をすって、筆をしめした。殺害者は、その少し後に襲ったのに違いない。なぜなら、邪魔がはいるまでに、将軍はたった二行しか書いていない。
不思議なことには、殺害者が彼の目にはいったのと、小刀が咽に突き立てられたのとの間には、ほんの一瞬しかなかったはずだ。彼は、筆をおいてさえいないのだよ」
「閣下」とタオ・ガンが口をはさんだ、「もっと不思議なことがありますよ。殺害者がどうやってこの部屋にはいったのか、私にはわかりません。どうやって出たかは、さておくとしてもです」
ディー判事が意外そうな顔をした。
タオ・ガンは話を続けた、「人がこの部屋にはいって来られるのは、あの戸口からだけです。壁も、書棚の上の小さな窓も、鉄格子入りの通気孔も、みんな調べました。最後に扉そのものも、秘密の羽目板でもないか調べてみました。ですが、どのような形であれ、隠し戸口というものは存在しません」
口ひげをひっぱりながら、判事はディン学士にたずねた。「父上がここに入室される少し前か後で、殺害者が忍び込むということはあり得るか?」
戸口の傍らで、茫然と見つめていたディン学士は、われにかえって答えた、「あり得ません、閣下! 父はここにもどってきて、扉の鍵をあけました。そして、私がひざまずいていた間、暫く入口に立っていました。執事は私の後ろに立っておりました。私が立ち上がってから、父は扉を閉めました。その時にも、その前にも、誰もはいったはずはありません。父は必ず扉に鍵をかけましたし、その鍵は父しか持っていません」
ホン警部がディー判事のほうへ体を傾けてささやきかけた、「閣下、執事にも聞いてみなくてはなりますまい。たとえ殺害者がどうにかして人に見られることなくここへ忍びこんだと仮定してみても、出ていった方法もわからないのです。この扉には、内側からかんぬきがかかっていたのです」
ディー判事はうなずいた。ディン学士に向かって、「この犯行はウーによるものだと、君は考えている。彼がこの室内にいたという証拠を、何かあげられるか?」
ディンはずうっと部屋中を見まわして、悲しげに首を振った。「ウーは目はしのきくやつなのです、閣下、あれがあとを残して行くようなことはありません。ですが、さらに調査を進めるうち、必ず彼の有罪を立証する明白な証拠が見つかることと、私は信じております」
「遺体を大広間に移させよう」と判事は言った、「ディン学士、君はそちらに検屍の用意ができたかどうか、見に行ってくれたまえ」
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第九章
死者の部屋で判事はひとり思案し
死体検視が死因を暴露してみせる
ディン学士が姿を消すと、判事は早速ホン警部に命じた。「被害者の着ているものを調べたまえ!」
警部は長衣の袖をすっかり探った。右袖からは手拭いと、錦のケースにおさめた楊枝と耳かきのセット。左袖からは手のこんだ意匠の大型の鍵と、厚紙の箱。飾り帯も探ってみたが、手拭いがもう一枚出てきただけだった。
ディー判事が、厚紙の箱を開けてみた。中には砂糖漬の李《すもも》が九個、きちんと三個ずつ三列に並んでいた。この甘い李は蘭坊《ランファン》名物として評判の品である。箱の蓋には「敬賀」と記した赤い箋紙《せんし》がはってあった。
判事はため息をついて、箱を机に置いた。検屍官は、死体のこわばった指から筆をはずした。二人の巡査がはいってきて、将軍の遺体を竹竿の担架にのせて運び去った。
ディー判事は、被害者の肘掛椅子に腰をおろした。
「みんなは大広間に行きたまえ。私は暫くここにいたい」
他の者たちがいなくなると、判事は椅子に体をあずけて、思案にふけりながら書籍や文書を積み上げた書棚を眺めた。空いている壁面は、戸口の両側だけだ。戸のわきには絵の軸物があり、さらに上には「自検斎」という文字を彫りこんだ板の扁額《へんがく》がかかっている。これは老将軍が、自分の書斎に与えた名前に違いない。
ついで判事は、机上にきちんと配置された文房具をみつめた。硯《すずり》は逸品だし、竹の筆筒には精緻な彫刻がほどこされている。硯に並べてあるのは、それを濡らすための、紅い磁器製水滴だが、青い文字で「自検斎」とあるところを見ると、ディン将軍が特別にあつらえたものに違いない。墨は翠玉を刻んだ小さな台にのせてあった。
左手には青銅の文鎮が一組置いてあり、それにも「柳は春の風に姿を借り、波紋は秋の月にその美を承《う》く」という詩句が彫られている。この対句《ついく》は竹林隠士と署名されていた。これは将軍の友人で、彼のためにこの文鎮を造らせた人の筆名なのだろうと、判事は考えた。
彼は、死者が使っていた筆を手にとった。狼の毛を集めた長い穂先をもつ、非常に精巧な細工の品で、堆朱《ついしゅ》の軸には「晩節の果報」の献辞があり、そのそばにごく小さく上品な書体で「還暦を賀したてまつる、静安居」とあった。つまりこの筆は、また別の友人からの記念の贈物というわけだ。
判事は筆をおき、死者が書きかけていた料紙をじっと見つめた。大胆な筆使いで、二行だけ書かれている。
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歴史記録は、遠い昔にまで遡る。前王朝の出来事を後代のために書き遺したのは、著名なる人々であった。
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これは、一応完結した文章だなと、ディー判事は考えた。これでみると、将軍は書いている最中に妨げられたのではない。殺害者が襲いかかった時、将軍はたぶん次の文の想を練っていたところだった。
判事はもう一度|堆朱《ついしゅ》の筆をとりあげ、精巧に彫刻された雲竜文様を、ぼんやりと眺めた。ふと、彼はこの隔離された書斎の静けさを痛感した。外界の音は全く伝わって来ない。
ふいに、えたいの知れない恐怖にさらされるのを感じた。彼は死者の椅子に、殺害時の将軍とまさに同じ姿勢で座っているのだ。
判事はびくっとして目を上げた。戸のわきに掛けられた画軸が曲がっているのに気づいて、どきりとした。彼はにわかに恐怖に襲われた。殺害者はこの掛軸のかげの隠し羽目板からはいりこんで、将軍の咽に小刀を突き刺したのではないか? もしそうなら、自分もいま犯人の思うがままだという考えが閃いた。彼は掛軸に目をすえ、それが片寄せられて、再び恐怖の人影を現すのを待った。
判事はやっとのことで心の動揺をおさえた。こんなに目立つ場所の隠し戸口を、タオ・ガンが見のがすはずがないではないかと考えた。きっと壁を調べたあとで、タオ・ガンが画軸を傾けたままにしておいたのだ。
ディー判事は、額の冷たい汗をぬぐった。突然の恐怖感は去ったが、自分が殺害者のすぐそばにいるという思いは、まだ抜き去ることができなかった。
彼は筆を水さしに漬け、机の上に身をかがめて、書き心地をためそうとした。右側にある燭台が邪魔になることに気づいて、それを押しのけようとしたとき、彼は突然手を止めた。
彼は肘掛椅子に体を沈め、蝋燭を見つめて考えこんだ。被害者は二行書いた後で、明らかに暫く手を休めて、蝋燭を手許に引き寄せたようだ。書いているものをよく見るためではない、それなら蝋燭を左に押すはずだからだ。彼の目は、光の下に寄せてよく見たいと思った何かに向けられたに違いない。まさにその時、犯人が襲いかかった。
ディー判事は眉をひそめた。筆を下に置くと、燭台を手にとった。よくよく吟味してみたが、これといって異常なところは見あたらない。そこで、もとあった位置にもどした。
納得のいかない顔つきで、判事は首を振った。そしていきなり立ち上がると、書斎を出た。
廊下で立番をしている二人の巡査の前を通るとき、彼は書斎をよく見張っているように、こわれた鏡板が修理されて入口が封印されるまでは、誰も近づけてはならぬと言いつけた。
大広間では、すっかり支度ができていた。
ディー判事は、仮設の裁判官席に着いた。前方の床に草むしろを敷いた上に、将軍の遺体が、手足を伸ばして横たえられている。
それが自分の父親の遺体であることを、ディン学士が型通りに確認した後で、ディー判事は検屍官に、死体検証を進めるよう命じた。
検屍官は死者の着衣を細心に、すべて取り去った。やせさらばえた体が、むき出しで横たわった。
ディン学士は、長衣の袖で父の顔をおおった。書記など法廷職員たちは、黙って見守っていた。
検屍官は死体の傍らにうずくまって、一寸刻みに調べていった。とくに急所急所には念を入れ、頭骨を探った。銀の板を唇の間にさし入れ、舌と咽も検査した。
とうとう検屍官は立ち上がり、報告した、「被害者は外見上健康状態良好でして、物理的外傷もありません。腕と脚には、銅貨大の変色斑が現れています。舌は灰色の厚い舌苔《ぜったい》でおおわれています。咽の傷は命にかかわるものではありません。死因は、被害者の咽にささった薄い刃を通じて投与された猛毒です」
一同は息をのんだ。ディン学士はぞっとした面持ちで、腕をだらりと垂らしたまま、なきがらを見つめていた。
検屍官は小刀の包みを開き、裁判官席に置いた。
「どうか御覧ください。その乾いた血とは別に、先端のところに何か違うものが見えます。それが毒物でございます」
ディー判事は、小刀の柄《つか》をつまんで、持ち上げた。そして先端の焦茶色のしみをしげしげと見た。
「どういう毒か、わかるか」と判事は検屍官にたずねた。
検屍官はかぶりを振り、ちょっとほほえんでから言った。「外部から投与された毒の性質を確定する手段を持たないのでございます。内部に投与される毒についてはよく知られており、それによる症状についてもくわしいのですが、短刀に塗って使われる毒というのは、非常に珍しいのです。けれども体の斑点の色と形から考えまして、なにか有毒な爬虫類の毒液を原料とすることだけは申し上げられます」
判事はそれ以上には何も言わなかった。検屍官の陳述を公式に記録して彼に読ませ、拇印を捺させた。
その上で、判事は言った、「遺体に衣服を着せ、納棺してよろしい。執事をここへ呼びなさい」
巡査たちが遺体を屍衣でおおい、担架にのせているとき、執事が広間にはいってきて、裁判官席の前にひざまずいた。
ディー判事は、彼に向かって言った。「あなたはこの家庭の日常生活に責任を持っている。昨夜あったことを、正確に話してくれたまえ。晩餐会からだ」
「閣下のための祝賀晩餐会は、ほかならぬこの大広間で催されました。将軍様は中央のテーブルの主人役をつとめておいででした。
そのテーブルを囲みましたのは、将軍様の第二、第三、第四奥様、若旦那様とその奥様、それに十年前に亡くなられた第一奥様の若いおいとこさんお二人です。外のテラスで、雇いの楽団が音楽を演奏いたしました。その者たちは、将軍様がお引きとりになるより二時間も早く退出しました。
そろそろ真夜中というころおいに、若旦那様が打ち上げの乾杯を申し出られました。そのあと将軍様は、書斎にこもるからと言って退席されました。若旦那様がお伴され、私は蝋燭に火をともして、お後について参りました。
将軍様が鍵をお開けになりました。私は中にはいり、持参した蝋燭の火を、机の上の二本の蝋燭にうつしました。誓って、部屋の中には誰もいなかったと証言できます。私が再び外に出ましたとき、若旦那様は将軍様の前にひざまずき、お休みの挨拶をなさっておいででした。若旦那様が立ち上がる。将軍様は鍵を左の袖にしまい、中にはいって、戸をお閉めになる。そしてかんぬきをさされた音を、若旦那様も私も聞きました。これは正真正銘のことでございます」
判事は上級書記に合図した。彼は執事の陳述の記録を読み上げた。執事は自分の言ったとおりだと認め、拇印を捺した。
ディー判事は、執事を下がらせた。そしてディン学士にたずねた。「そのあと、君はどうしたか?」
ディン学士は落ち着かなげに、話すのをためらった。
「私の質問に答えよ!」と判事は声を荒らげた。
ディンはしぶしぶ口を開いた。「実を申しますと、私は妻とひどいいさかいをしたのです。まっすぐ自分の住まいに帰りますと、妻が私を責めたのです、宴会の時、私が彼女にしかるべき敬意を払わなかったといって。他のご婦人方の前で、恥をかかせたと言い張るのです。祝宴の後で疲れておりましたから、あまり言い返しもしませんでした。妻が小間使二人に手伝わせて衣裳を脱ぐ間、私は寝台に腰を下ろして、茶を飲んでおりました。そのあと妻は頭痛がすると言って、小間使の一方に、小半時肩を揉ませました。それから休んだのでございます」
ディー判事は、自分の心覚えに書きつけた紙をたたんだ。それからさりげない調子で言った。「この犯行をウーに結びつける証拠は、見つけられなかったよ」
「どうかお願いいたします、閣下」とディン学士は叫んだ、「あの人殺しを拷問で責めてください! そうすれば、どうやってこの非道な犯行をしてのけたか、吐くでしょうから!」
判事は、予備審問の閉廷を宣言した。
彼は何も言わずに、前庭まで歩いて行き、輿に乗った。ディン学士は深々と頭を下げた。
ディー判事は、政庁にもどるとその足で牢獄に行った。チェン・モウはまだ意識を回復しないと、牢番長が知らせた。
判事は医者を呼ばせた。チェン・モウを蘇生させるために、できるだけの手を尽くすことが命じられた。それからディー判事は、タオ・ガンとホン警部とを連れて、執務室にはいった。
自分の机の前に座ると、判事は袖から殺害者の小刀をとり出した。事務官に、熱い茶を持って来るように言いつけた。
一同が一服したところで、判事は椅子の背にもたれ、おもむろにあごひげをなでながら言った、「これは驚くべき殺人だ。動機や犯人の特定はさておいても、われわれは二つの事実問題に直面している。第一に、殺害者は密室にどうやってはいり、どうやって出たか。第二、犯人はどうやってこの奇妙な武器を、被害者の咽に突き刺したか」
ホン警部は、途方に暮れて頭をゆすっていた。タオ・ガンは小刀を熱心に見つめていた。左頬に生えた三本の長い毛を指にはさんですべらせながら、おもむろに口を切った。「閣下、初めは謎は解けたと感じていました。私が南の地方を流浪しておりました頃、山に住む野蛮人が、長い吹筒を使って狩りをすると聞いておりました。管状の変わった柄《つか》を持つこの薄い刃は、そのような吹筒でなら発射できると思い、犯人は壁の鉄格子の外からねらいをつけたと考えたのです。
ところがです、この武器が被害者の咽にささった角度は、この仮説とまるで合いません。犯人がテーブルの下にでも座っているのでなければね! そのうえ、書斎の後壁とちょうど向かい合って、もう一つの高い盲壁《めくらかベ》が立っているのがわかりました。誰もあそこに梯子を掛けることはできますまい」
ディー判事は、ゆっくりと茶をすすり、暫くしてから言った。「吹筒の仮説は、合わないと思うね。だが、この小刀が被害者の咽にじかに刺されたのではないという点には、私も賛成だ。柄がこう小さくては、子供にだってつかめない。
さらに、この刃の形の変わったところにも注意してほしい。凹みがあって、小刀というよりは丸のみのようだ。われわれの捜査の現段階では、それがどのように用いられるかを推測することさえ避けたいね。ああ、タオ・ガン、この小刀の正確な複製を、木でこしらえてくれないか。そうすれば、私は安全に実験してみることができる。ところで、これを扱うときは気をつけてくれたまえよ。如何なる命取りの毒がその切っ先に塗りつけられているかは、神のみぞ知るだ!」
「閣下、この殺人の背後関係についても、もっと調査しなくてはなりますまいな」とホン警部が言った、「ウーをここへ召喚して、問いただすべきではないでしょうか」
判事はうなずいた。
「今からウーを訪問しようと、言おうと思っていたところだよ。私はいつでも、被疑者が当人自身の生活に囲まれている状態で見たい。私は身分を隠して行く。警部、ついて来たまえ」
ディー判事は立ち上がった。
突然、牢番長が執務室にとび込んできた、「閣下、チェン・モウが意識を回復しました! ただ、今にも死にそうで!」
判事はすぐ後について駆けだし、ホン警部とタオ・ガンがその後を追った。
チェン・モウは、独房の木の寝台に寝かされていた。牢番長の手で、冷い水にひたした布が、頭に載せられていた。目を閉じ、切れ切れにあえいでいた。
ディー判事が、その上にかがみこんだ。
チェンは目を開き、判事をみつめた。
「チェン・モウ」と判事は勢いこんで聞いた、「だれがパン知事を殺した?」
チェンは判事に燃えるような目をすえた。唇を動かしたが、声が出て来ない。激しい努力のすえに、やっと一言、はっきりしない声がもれた。彼の声はそれで途切れた。
にわかに彼の大きな骨組全体が、ひきつるように震えた。彼は目を閉じ、もっと居心地よい姿勢を求めるかのように、体を伸ばした。そのまま、まったく動かなくなった。
チェン・モウは死んだ。
ホン警部が興奮して言った。「あいつは、あんた、と言いかけたのですが、言葉を続けることができませんでした」
ディー判事は体を起こし、おもむろにうなずいた。「チェン・モウは、われわれが何がなんでも必要とする情報を、渡さずに死んでしまった!」
動かぬ体を見下ろしながら、彼は撫然とした声でさらに言った。「これで、パン知事を殺害したやつは、もう見つかるまい!」
両手を寛い袖の中に収めると、判事は執務室へと歩み去った。
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第十章
判事は常軌を逸した青年を訪ない
政庁では絵画鑑賞の会を主宰する
ディー判事とホン警部は、ウーの住処《すみか》をつきとめるのに、いささか手間どった。戦神廟の後ろのあちこちの店でたずねたが、ウー・フォンという人物を知っている者はいなかった。
そのうち判事は、彼が永春という酒屋に居候していることを思い出した。これは優秀な酒を置いていることで評判の、名の知れた店らしかった。街の浮浪児に連れこまれた横丁で、「永春」としるした赤い布ののぼりが、風にはためいているのが目にはいった。
店は表に向かって開き、通りとの間を高い売り台で仕切っている。店内の壁にめぐらした木の棚に、大きな酒壺がたくさん並べてあるが、その胴には、中味が極上品であることをうたった紅い箋紙が貼られていた。
陽気そうな丸顔の店主は、売り台の後ろで歯をせせりながら、ぼんやりと通りの方を眺めていた。
判事とホン警部とは、売り台を回って、店内の四角なテーブルに座った。ディー判事は、上等な酒の小瓶を注文した。主人がテーブルを拭いているとき、ディー判事が、商売はどうかねとたずねた。
主人は、肩をすくめてみせて、答えた、「自慢するほどじゃありませんがね、まあなんとかというところでさあ。いつも申すんですがね、足りないよりは、ちょうどいいがましですよ」
「店に、手伝いはいないのか?」と判事はたずねた。
主人はまたもどって行って、片隅のかめから、漬物をすくい出した。それを小皿に盛り、客の前にすすめて言った。「手伝いはいてもいいんですがね、残念ながら手伝ってくれる二本の手にゃ、必ずひもじい口がくっついているんで。ええ、私は自分ひとりでやるほうがいいですな。ところで、旦那方はこの町で何をなさろうというんですかい?」
「通りがかりなのだ」と判事が応じた、「われわれは都から来た絹商人だよ」
「おやおや」と相手は叫んだ、「それじゃ私の店子のウー・フォンさんに会ってくださいよ、やっぱり都から来ている人でして」
「ウーさんも絹商人かな?」と警部がたずねた。
「いやいや、まあ、絵かきみたいなもんですかな。私はこのてのことは、なんとも判断しようがありませんが、とてもいい絵だと、人が言っているのを聞きました。それに、あの人はそれに入れあげてるといっていいでしょうな。だって、朝から夜まで、かかりきりなんですよ!」階段の下から、彼は呼びかけた、「ウーさん、都から紳士お二人が、最新のニュースを持っておいでだよ!」
二階からどなり返す声があった。「いま、手が放せない! 上がってもらってくれ」
酒屋は目に見えるほどしょげかえった。判事は気前よく心付けをおくことで、彼を慰めた。
彼らは木の階段を登った。
二階は大きな部屋|一間《ひとま》で、前面と背面に並んだ粗い格子窓に、きれいな白い紙が貼られ、室内を明るくしていた。
異国風な服装の若い男が、冥界の閻魔大王を描いた絵にかかりきっていた。彼は派手な上着を着こみ、頭には、国境の向こうに住む蛮族がつけるような絹のターバンを、高々と巻いていた。
画家は、部屋の中央にすえた巨大な机の上に、白絹をのべていた。窓の間の壁面には、描き上げられたおびただしい数の作品が、とりあえず紙で仮表装して懸け連ねられていた。竹製の寝台が、背面の壁に寄せて置いてあった。
「ちょっと、その寝台に掛けていてください」青年は作品から目を離さずに言った、「ここに青い絵具を塗っているところなんです。もし手を休めると、色が平均に乾かないのでね」
ホン警部は寝台に腰を下ろした。ディー判事は立ったままで、器用に筆を動かしている青年を興味深げに見つめていた。その絵は、専門家らしく熟練しているが、とりわけ衣服のひだの扱いや人物の顔などに、数々の見なれない特徴を示していることに、判事は気づいた。壁に懸け並べた作品を見回してみると、どの作品にも同じように異国的な特徴が見られた。
青年は最後の一筆を加えると、体を起こして、磁器の鉢で筆を洗いはじめた。それをしているとき、青年は判事に鋭い目を投げた。鉢の中で筆をゆっくりと回しながら、彼は言った。「では、あなたが新しい知事さんですか。あなたがお微行《しのび》で来ておられるからには、私も型通りのご挨拶で面倒をおかけするのはやめておきましょう」
ふいにこう言われて、ディー判事はわれに返った。
「どうして私が知事だと思うのかね?」
青年は、してやったりという顔でにやにやした。筆を筆立にしまうと、机に背をもたせて判事のほうに向きなおって、言った。「ぼくは肖像画家だと自認しています。それであなたは、まさに判事の見本であられるのです。どうぞ、この絵の地獄の判官をごらんください。あなたがモデルにおなりになったと言ってもいいくらいです、いや、けっして実物より体裁よくみせようという描きかたでないことは認めますがね」
判事はにやりとせずにいられなかった。この賢い青年をだまそうとしても駄目だと、彼は覚った。「君の言うとおりだよ。私はたしかにディー・レンチエ、つまりこの蘭坊《ランファン》の新知事だ。で、こちらが私の副官だ」
ウーは悠然とうなずくと、判事を正面から見つめながら言った。「あなたのお名前は、首都では有名です。で、閣下、ぼくが今回ご来臨の栄を得たのは、何のためなのですか? あなたがぼくを逮捕しに来られたのだとは思いません。そんな仕事は、巡査にお任せになるのでしょうから」
「どうして、君は逮捕されると考えるのだ?」と判事が問い返した。
ウーは、ターバンを押し上げた。
「閣下、どうかお決まりの前おきは、すべて省略させてください。お互いに手間が省けます。今朝、ディン老将軍が殺されたというニュースが広まりました。ちなみに、それは偽善的な悪党にはぴったりなんですがね。しかも彼のこそこそした息子は、将軍の宿敵として知られるウー長官の子のぼくが、あの人を殺そうと企んでいると、言いふらしてきました。ディンの若さんは、もう一月以上もこの界隈をかぎまわり、ここの店の主人からぼくに関する情報を引き出そうとしたり、ついでにいろんな悪口を言いふらしたりしているのです。
きっとディンの若さんは、ぼくが彼の父親を殺したと、訴えて出たのでしょう。並みの知事さんなら、すぐさま巡査をよこして、ぼくを逮捕させるところです。ところが、閣下、あなたはまれに見る洞察の人として有名です。つまりあなたは、とりあえず自分でこのあたりに来て、ぼくの様子を見ようと考えられた」
ホン警部はこの暢気《のんき》な陳述を聞くうちに、だんだん向っ腹が立って来た。ここでとうとうとび上がって叫んだ。「閣下、この犬頭めの無礼は、許せません!」
ディー判事は片手を挙げて制止し、微かに笑って言った、「ウー君と私とは、うまく意志が疎通しているよ、警部! どちらかというと、私の気持ちをすっきりさせてくれる」
警部が再び腰を下ろすと、判事は続けた。「君の言うとおりなのだ、友人。それでは私のほうも、単刀直入にやらせていただこう。著名な中央軍政局長官の息子である君が、なぜこのように人里離れた土地に住みついているのか?」
ウーは、壁に懸け連ねた自分の絵を見回しながら、答えた。
「ぼくは五年前に、学士に合格しました。父を落胆させたことに、ぼくはその後、学問を捨てて画業に専念する決心をしたのです。首都の二人の有名な先生につきましたが、その画風に満足できませんでした。
二年前、ぼくは偶然、一人の坊さんに出会いました。西の果ての進貢国ホータンから、はるばるやって来たんです。その人はぼくに、生命感と強烈な色彩に満ちあふれる、彼の画風を開示してくれました。わが国朝美術を再生させるため、われわれ中国人はこの画風を研究することが必要だと、ぼくは覚りました。先駆者たらんと考えて、ぼくは自分でホータンに向かって旅立つことに決めました」
「自分としては」と判事は冷淡に言った、「わが国朝美術に十分満足しているし、野蛮な外国民族から教えられることがあろうとは、考えたこともないが。まあ、専門家の考えにとやこう言うつもりはない。どうぞ、続けてくれたまえ」
「そこで、ぼくは善良な父から、まんまと旅費をせしめました。父はこれを若気ゆえの突飛な行動と考え、いつかぼくが落ち着いた若い官吏になることを願いつつ送り出しました。西方王国への交通路は、二年前まで蘭坊《ランファン》を通っていましたから、ぼくはここに来ました。ところがこの交通路は、もっと北の方を通る路線と代わって、見捨てられてしまっていたのです。現在この都市の西方の平原には、芸術も文明も持たずに放浪するウイグル族のみが住まっています」
「だとしたら」とディー判事が口をはさんだ、「なぜ君はすぐこの県を去って北に向かい、旅を続けなかったのだ?」
青年は微笑んだ。
「閣下にわかっていただくのは、難しいですね。ぼくが怠け者で、気分に左右されることが多いのを、ご理解願わねばなりません。なぜかぼくには、この土地が居心地よく感じられ、しばらく滞在して仕事をするのもいいなと思ったのです。おまけに、この家が気に入ったんですな。ぼくは酒が大好きですから、その売り手が一つ屋根の下にいるってのはもってこいなんですよ。あの男はいい酒を利き分ける不思議な勘をもっていて、都の最良の店に匹敵するほどの品を置いています。それでぼくは、ここに住みついたんです」
判事は、それについては何も言わなかった。
「それでは第二問だ。昨夜はどこにいたか、第一鼓から第三鼓までの間だ」
「ここです」青年はたちどころに答えた。
「それを証明できる人間はいるか?」
ウーは情けなさそうに首を振った。「いるもんですか。だって、将軍が昨夜殺されることになるなんて、ぼくは知らなかったんですから!」
ディー判事は階段のところに行き、声を上げて店主を呼んだ。
彼の丸い顔が階段の下にのぞくと、判事は大声でたずねた、「なに、ただちょっと内輪もめのけりをつけるためなんだが。ウーさんがゆうべ出かけたかどうか、知っているかな?」
男は頭をかき、にやにやしながら言った、「残念ですが、お役に立てませんなあ、旦那。ゆうべはすごく出入りが多かったんでさ。ウーさんが出かけたとも出かけなかったとも、なんとも申せませんや!」
ディー判事はうなずいた。しばらくあごひげをなでていたが、やがて言った。「ディン学士は、君が人を雇ってディン邸を探らせていると報告した」
ウーは吹き出した。
「なんというばかげたデマだ!」と彼は叫んだ、「ぼくはあの似非《えせ》将軍を無視しようとつとめている。あいつが何をしてるか知るために、びた一文だって使うもんか!」
「君の父上は、何ゆえにディン将軍を告発されたのか?」
ウーの顔つきが、ひきしまった。
「あのおいぼれ悪党は」と彼は憤然と言った、「自分自身を難局から救い出すために、帝国軍一大隊の生命を犠牲にしたのです。八百名のすぐれた男たちをですよ。一人一人が、蛮族のやつらの手でめった切りにされました。ディン将軍は首をはねられていたはずです、もしその当時、軍隊内部にかなりの不平分子を抱えていたという実状さえなければね。ところが、そのために当局は、将軍の卑劣な行為が、広く一般の知るところとなるのを喜びませんでした。彼は辞表を提出することを命じられたのです」
ディー判事は何も言わなかった。
彼は壁に沿って歩き、ウーの作品を吟味した。どれもみな、仏教徒の崇める仏たちの絵であった。観世音菩薩はたいそうみごとに描かれており、単独のもあれば、眷属《けんぞく》を伴っているのもあった。
判事は向きなおった。
「率直な対話を、率直な意見で締めくくらせてもらうなら、悪いが、私には君のいわゆる新画法というのが、向上だというふうに思えないんだよ。慣れなくちゃいけないのだろうねえ。もし、その絵を一つ貸してもらえたら、君の作品をじっくり研究できると思うのだが」
ウーは判事をいぶかしげに見た。しばらく迷ったすえに、四仏を伴った観世音菩薩像の、中型の絵をとりおろした。そしてそれを机の上に伸べ、小さな白玉の塊を精巧に彫りあげた、自分の印章を手にとった。それはごく小さな黒檀製の台に立ててあった。印章を朱肉に押しつけてから、絵の片隅に捺印した。名前のフォンという字が、古風な、変わった書体で浮き上がった。絵を巻きおさめると、それを判事にさし出した。
「ぼくは逮捕されるのですか?」
「君の心にはよほど罪の意識が重くのしかかっているようだな」と判事はそっけなく応じた、「逮捕はされない。ただし、次の通告をうけるまで、この家を離れることはならないぞ。ではまた、それから、絵をありがとう!」
ディー判事は、ホン警部に合図した。二人は階段を下りた。ウーは別れの敬礼をした。彼らを戸口まで送って出る労はとらなかった。
表通りに出ると、ホン警部はもう腹の中に抑えておけなかった。「あの無礼な田舎っぺは、閣下の壇の前で絞め木にかけられたら、まるきり違うことを言うのでしょうな」
判事はにっこりした。
「ウーはきわめて抜け目のない青年だ」と彼は評した、「だが、初めての大失策をしてしまったようだな」
タオ・ガンとチャオ・タイは、判事の執務室で待っていた。彼らは午後いっぱいチェン邸にいて、ゆすりを立証する証拠をいくつか集めた。たいていのことはチェン・モウが独りで決めていたという、リウ・ワンファンの法廷での証言は、タオ・ガンが裏付けをとった。相談役二人というのは、いつでも主人が必要としたときに「左様ごもっとも」と相槌を打つ取巻きにすぎなかったのだ。
ディー判事は、ホン警部のすすめる茶を飲んだ。
それからウーの絵をひろげて、言った。「さあ、芸術鑑賞を始めるとしよう! タオ・ガン、この絵を壁に掛けてくれたまえ、アン総督の絵の隣に!」
判事は椅子にもたれて、二枚の絵を暫く見つめたすえに言った。
「この二枚の絵が、総督の遺志への鍵、またディン将軍殺害の鍵を握っている!」
ホン警部、タオ・ガン、チャオ・タイは、腰掛を動かして向きを変え、絵と向かい合った。
マー・ロンがはいってきた。この常ならぬ情景に、彼はびっくりした。
「座りたまえ、マー・ロン!」と判事は命じた、「そしてこの鑑定家の集いに加わるのだ!」
タオ・ガンが席を離れ、手を後ろ手に組んで、総督の風景画の前に立った。しばらくして向きなおると、首を振った。「木の葉の間とか岩の輪郭線とかに、ごく小さな字の書きつけかなにか隠されているかと思ったのですが」と彼は言った、「文字一つ見あたりませんな」
ディー判事は頬ひげをつかみ、何か考えこむふうだった。
「昨夜、私はその風景画について、何時間も考えてみたし、今朝も早くから、隅から隅まで調べてみた。どうもこの絵には当惑させられると言わざるを得ない」
タオ・ガンは、まばらな口ひげをなでていた、「もしかして、閣下、絵の裏側の内貼りの中に、紙片がかくされているということはありませんか?」
「その可能性も考えてみたよ」と判事は答えた、「それで、絵を強い光線に当ててみた。裏打のなかに紙が貼られていたら、見えるのじゃないかと思ってね」
「広東《カントン》におりました頃」とタオ・ガンが言った、「絵の表装を習いました。裏打をすっかりはがし、錦で囲んだ部分も調べてみましょうか? ついでに上下の木軸が中空でないかも確かめられます。老総督が固く巻いた紙片をその中に隠してないとは限りません」
「原状に復させることさえできるなら」と判事は答えた、「どのようにでも試みてくれ。だが正直なところそのような隠し場所というのは、総督の輝かしい精神に似つかわしくなく、そんな調べ方をするのは礼を欠くという気がしてならないのだが。といって、この謎をとくためには、どんなに小さな機会も見逃すわけにはいかない。
わが友ウーのこの仏画のほうは、まったく別問題だ。ここには、はっきりした手掛りがある」
ホン警部はびっくり仰天した。「どうしてそんなことが? 閣下、ウーはその絵を自分で選び出したのです!」
ディー判事は、いつもの薄笑いを見せた。
「ウー自身が本心を露わしてしまっていることを、自分で気づいていなかったからだ。ウーは私の芸術的感覚を高くかっていなかったのだろうが、私は彼の絵の中に、彼自身が見逃してきた何かを見たのだ」
ディー判事は、茶をすすった。そのあとマー・ロンに、ファン巡査長を呼ぶよう命じた。
ファンが机の前に立つと、ディー判事は重々しい表情で、暫く彼を見つめていた。それからやさしく言った。「君の娘さんの玄蘭はよくやっている。よく働くし、たいそうのみこみがよいと、私の第一夫人が知らせてくれた」
巡査長は、深く頭を下げた。
判事は続けた、「娘さんを現在の安全な環境から引き出すことは、どうも気が重い、まして姉の白蘭の運命について、まだなんの情報も得ていないというのにね。ところが、ディン家の内情を探ってもらうのには、玄蘭はいちばん適切な人物なのだよ。将軍の葬儀をひかえて、あの家はごった返しており、臨時雇いの召使が要る。もし玄蘭が臨時の女中になることができれば、他の使用人たちから、多くの内部情報を得られるはずだ。しかし、父親である君の承諾なしでは、玄蘭をそこへやりたくない」
「閣下」と巡査長は穏やかに答えた、「私と私の家族は、閣下の奴隷と思っております。まして末娘は、独立心のある積極的な娘でございます。そのようなご命令を遂行することを、喜びますでしょう」
マー・ロンは面白くなさそうに、腰掛の上でもそもそしていたが、そこで口をはさんだ。「それは、どっちかというと、タオ・ガンの仕事ではないでしょうか、閣下」
判事はマー・ロンを一にらみしてから、答えた。「家庭内で起こっていることについては、女中たちのこそこそ話にまさる情報源はないのだ。巡査長、君の娘さんに指示して、すぐディン邸に行かせなさい!
わが友ウーに関しては、二重の監視をつけたい。マー・ロン、君は今夜、公然の監視者としてあそこに行け。そして彼にそれと覚られまいとしているふりをするのだ。だがその一方で、君が政庁から派遣された監視役だということを、わからせてやれ。そして、なんでもいいから、人に気づかれずに外出する機会をウーに与えるのだ。マー・ロン、君の技量と経験を生かしてやってみたまえ。このウーというやつは、恐ろしく目はしの利く若造だぞ!
タオ・ガンが、ほんとうの監視者になる。注意して姿を見られないようにするのだ。ウーがマー・ロンをまいたら、ただちにタオ・ガンがウーを尾行し、彼がどこへ行き、何をするかを見届ける。もし彼が市から出ようとしたら、姿を現して彼を逮捕してよい」
タオ・ガンは、気に入ったらしかった。「前にマー・ロンと私とで、この二重監視を稽古してみたことがあるんですよ、閣下。私はまず、総督の絵を持って行って、霧を吹いておきます。そうすると、夜のうちに裏打がふやけて、はがしやすくなります。それから、マー・ロンと一緒に出かけます」
タオ・ガンとマー・ロンが去ったあと、判事はチェン・モウ邸の問題について、チャオ・タイと巡査長に相談した。
チェン・モウの妻妾たちは、それぞれの実家に帰らせることに決めた。家の使用人たちは、一か月分の給料を政庁が立て替え払いして解雇する。執事だけは、さらに尋問するために、拘留しておかねばならない。
兵隊の規律にはおおいに満足していると、チャオ・タイが報告した。毎日朝夕、彼が厳しい軍事教練をやらせている。兵隊たちがリン隊長をたいへんに畏怖しているということも言い添えた。
巡査長とチャオ・タイが去ると、ディー判事は椅子の背にもたれた。
こうしてもう何年も一緒に仕事をしてきたのに、チャオ・タイについては、ほんとうのところあまり知らないなと、つくづく考えた。彼は「緑林」時代のマー・ロンの仲間だが、もっと前にどんな生活をしていたのか、判事は全く知らない。マー・ロンの身の上話は通して聞いたし、いくつかのエピソードは二回も聞かされた。だが、チャオ・タイはいつもとても口が重い。蘭坊《ランファン》での軍務がひどく楽しいらしいので、チャオ・タイはもともと職業軍人だったのではないかしらと思う。近いうちに突きとめてみようと、判事は心に決めた。
だが、もっと急を要する問題が山積している。ため息をついて、判事はタオ・ガンが机の上に置いて行った、チェン・モウの悪事を語る文書類を調べ始めた。
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第十一章
タオ・ガンは古い寺で危険を冒し
マー・ロンは飲み仲間を見つける
べつに変装する必要もないなと、マー・ロンは考えた。ただ、政庁の士官のしるしである黒い帽子を、労働者階級の者たちがかぶる先のとがった頭巾と替えた。タオ・ガンは、黒い紗で仕立てた、折り畳めるほうの帽子にした。
出かける前、二人は衛士詰所で簡単な打合せをした。
「そっちのほうならわけはないさ」とマー・ロンは言った、「わざとけどらせるようにして、あいつが宿から出ないように見張りに来ている人間だということを、ウーにわからせることならね。だが、あの悪党がどう反応するかがわからない。あいつが外に出かけて、途中でおれをまくとしたらどうなる?」
タオ・ガンは首を振った。
「そうはしないだろうよ」と彼は答えた、「だいいち、ウーは君がどういう指示をうけているかを知らない。外出して、その場で君に逮捕されるような危険を犯そうとはしないだろう。そんなことをしたら、政庁から疑わしい行動をすると思われるもの。私が気がかりなのは、ウーが君の目を逃れようなどとは全然考えず、命じられたとおり、じっと家にいようと決めこむことだけなんだ。だがもしあいつが脱け出しても、私が拾うから大丈夫だ」
それから彼らは政庁を出た。マー・ロンが先を行き、タオ・ガンは距離をおいて、そのあとについて行った。
場所はホン警部がマー・ロンに教えてあった。永春酒店はすぐ見つかった。
店内はすばらしく魅力的だった。二張りの色付き提灯の光が、酒がめの赤い箋紙に照り映えていた。店主が、酒を一合|量《はか》り分けていた。遊び人が二人、表の売り台にもたれ、小皿にのせた塩漬の魚を、物憂げにつついていた。
店の向かいに、中流どころのしもた屋があるのを、マー・ロンは見てとった。そこの門口の壇に上がり、黒漆塗りの扉に背中をつけて立った。
酒店の二階には、何本もの蝋燭がともされていた。障子窓越しに、人影が一つ動いているのが透いてみえた。ウーはせっせと仕事をしているらしい。
マー・ロンは首を曲げて、通りの上下を見渡した。タオ・ガンの気配はない。彼は腕組みをして、長く待つ態勢にはいった。
上きげんの客二人が盃を空にした頃、マー・ロンの後ろで、急に戸が開いた。年輩の紳士が、門番に案内されて出てきた。マー・ロンを見ると、紳士はたずねた。「我輩に御用がおありかな?」
「ない!」とぶあいそうに言い捨てると、マー・ロンは向きを変えて門柱にもたれた。
「それならだな!」と紳士はぷりぷりして言った、「ここは我輩の家というわけだ。用がないと言われるなら、さっさと行ってほしいものだね」
「この通りは公有物だぞ!」とマー・ロンはうなり声を上げた、「おれがここに立っていていけないわけがあるか!」
「即刻立ち去れ!」と紳士はわめいた、「さもないと、夜回りを呼ぶぞ!」
「もしここに立っててほしくなかったらだな」とマー・ロンもどなった、「ちょいと、おれを押してみなよ!」
二人の遊び人はふり返って、言い合いを見守った。売り台にもたれて満足そうに腕を組み、いざこざの成りゆきを眺めた。
二階の窓が一つ、押し開けられた。ウーが顔をのぞかせ、誰かれなしにけしかけた、「ごつんとやっちまえ!」
「他の男たちを呼びましょうか、旦那様」と門番がきいた。
「誰でも彼でもみんな呼んでこい!」とマー・ロンはほえたけった、「おれが相手になるぞ!」
その荒っぽい様子を見て、紳士はとり合わぬほうがましだと考えた。
「我家のまん前で喧嘩沙汰は好ましくない。その田舎者を、骨の腐るまで立たせておけ!」
そう言うと、彼はぶうぶう腹を立てながら行ってしまった。
門番はぴしゃりと扉を閉めた。マー・ロンは、かんぬきをかける音を聞いた。
ウーはがっかりし、窓を閉めた。
マー・ロンはぶらぶらと、酒店の側に寄った。遊び人たちは、急いで売り台にマー・ロンの席をあけた。
マー・ロンは、彼らをにらみつけて、こわい声で言った。「まさか、あんたら二人は、向こう側の楽しいお宅のかかり合いじゃあるまいな!」
「いえいえ、わしらは隣町のもので」と一人が答えた、「向かいのあいつは先生さんで、いつも面白味のないったら」
もう一人が後をつけた、「わたしらは、ここへ勉強に来るのじゃありません。このサービスのいい売り台で、ちょいと一杯やりに来るんでさ」
マー・ロンは高笑いした。銅銭を一つかみ売り台の上に投げ出し、主人に向かって叫んだ、「いちばん上等のを一丁!」
主人がいそいそと出迎えた。盃になみなみとつぎ、干魚と漬け菜を盛った新しい皿をみんなの前に出した。彼は愛想よく話しかけた、「見なれないお方だが、どちらからお越しですかな?」
マー・ロンは盃を一気に干し、主人がつぎなおすのを待って言った、「おれは都から来た茶の大商人、ワン様の馭者だ。国境の向こうで売るための茶を馬車三輌に積んで、今日の午後着いた。旦那様は、質のいい銀を三粒下さって、楽しんで来いよと言われたんだ。めんこい娘《こ》を見つけるつもりだったんだが、どうも違うところに来ちまったにちげえねえ」
「そうですな、そういうことだと、たしかにずいぶん方角がそれちまったようですよ」と主人が答えた、「国境を越えてきた異国人のきれいどころは、ここからおよそ一時間かかる北町にいます。中国人の妓《おんな》なら南町ですが、市の南東の隅の蓮池の向こうですよ」そこで彼は、取りいるように言った、「だが、都からおいでになった、あなたさんみたいな趣味のいい方に、ここいらの妓《おんな》がお気に召しますかな? それはさて、ずいぶんと活気のあるご商売のようで。店にはいって、道中の武勇伝の一つ二つも、お聞かせくださいませんか」
そう言いながら、銅銭をマー・ロンのほうに押してよこした、「初めのひと回りは、店持ちとしときましょう!」
遊び人連中は、ただ飲みをあてこんで、さっそく乗気になった。
「あなたほどの大きな方なら」と一人が言った、「道中で強盗をのしたことも度々でしょう!」
マー・ロンは、彼らのすすめるがままにまかせた。一同は店内にはいり、四角のテーブルについた。マー・ロンは、階段に向いた席をとった。
主人も座に加わり、やがて盃が、あきれるような速さで回された。
マー・ロンが、身の毛のよだつような話をいくつかしたところで、ウーが階段を降りてくるのが見えた。ウーは途中で止まり、マー・ロンを鋭い目つきで見た。
「あんたも来なさらんか、ウーさん」と主人が声をかけた、「この旦那は、めったに聞けない話を聞かせてくれるよ!」
「いま忙しい」とウーは答えた、「だが、夜になったら下りてくる。ぼくにも、なにかとっといてくれよ!」
そう言うと、彼はまた上がって行った。
「あれはうちの下宿人ですが、気持のよい男で」と主人が言った、「あの人と話すのはおもしろいですよ。下りて来るまで、帰らないでいてください!」
そしてまたひと回り酒をついだ。
そのころ、タオ・ガンは大忙しだった。
マー・ロンが酒店の向かいで位置につくのを見届けると、さっそくタオ・ガンは暗い路地にはいった。急いで長上着を脱ぎ、裏返して着なおした。
この長上着というのが、特別仕立てなのである。表地は茶色の上質の絹なので、ひどく品ありげにみえる。ところが裏はきたならしいしみやら、不細工なつぎはぎだらけの、がさがさした麻布でできている。タオ・ガンが一打ちくれると、帽子はつぶれて、よく乞食がかぶっているような頭巾に化けた。
こういういかさぬ格好になると、彼はウーの住む町と、隣合う町の後壁とを隔てる、狭い空地にはいりこんだ。
障壁の間はとても暗くて、がらくただらけだった。タオ・ガンは注意深く足を運ばねばならなかった。酒店の裏とおぼしいところで立ち止まった。爪先立ちしてみると、障壁のてっぺんにちょうど手が届いた。体を引き上げ、障壁の内側をのぞいてみた。店の裏は暗いが、上階の窓はみんな明るかった。裏庭は、きちんと二段に重ねた空の酒がめでいっぱいだ。これが、ウーのいる家の裏手に間違いない。
タオ・ガンはまた下におりた。そこら中さがして、こわれた酒がめを見つけ出し、障壁の下に転がして行った。その上に乗ると、障壁の上に肘をかけられた。彼は腕にあごをのせ、なんとなくあたりの様子をさぐった。
ウーの画室の後ろ側に、狭い濡れ縁《えん》が走っており、画家はそこに植木鉢を並べていた。その下は酒店の白壁、狭い戸口は半開きのままで、それに続いて、台所とみられる小屋があった。ウーがこの縁を伝って部屋を脱け出すのは、簡単なことだなと、彼は考えた。
彼はじっと待っていた。
小半時もたった頃、ウーの部屋の窓がそっと押し開けられ、ウーが顔を出した。
タオ・ガンは動かなかった。闇を背にしているので、姿は見えないとわかっていた。
ウーは窓枠をまたいで出た。猫のように危なげなく狭い縁に沿って、小屋の上のところまで来ると、てすりをまたぎ越えて、勾配のある屋根の上に下りた。瓦の上でしばらくかがみこんでいたのは、酒がめの列の間のすきまを探していたのに相違ない。彼はやがて積み上げた列の間に正確にとび降り、すぐに、酒店と隣家とを隔てる狭い通路のほうへ向かった。
タオ・ガンは見張り場所を離れ、できるだけ早く路地から出ようと駆けた。古い木箱につまずいて、危く足をくじくところだった。路地の角を曲がろうとして、彼はウーと鉢合せした。
タオ・ガンは、下層階級ふうな悪態をついた。だがウーは見向きもせず、大通りの方へ向かって先を急いだ。
タオ・ガンは、少し距離をとってつけて行った。
通りには大勢の人が出ていたから、タオ・ガンは姿を見せないよう気を遣うまでもなかった。ウーの異国風なターバンは、群衆の黒い頭巾の上にひょいひょいと現れていて、尾けて行くのは楽だった。
ウーは南に向かって歩いていたが、急に脇道にそれた。
ここは多少人影がまばらだった。すたすた歩きをゆるめずに、タオ・ガンは帽子の真中のボタンを引っぱって、平民のとがった頭巾の形にした。袖から長さ一尺ほどの竹筒をとり出した。これはタオ・ガンの巧妙な考案品の一つで、だんだん寸法の小さくなる六本の竹筒がはいっている。それを引き出すと、一本の竹杖になった。タオ・ガンは年輩の家長らしい、もっとゆったりした足どりに変わった。
彼はずっとウーに近寄った。
画家はまた横丁にはいり、タオ・ガンはその後について行った。二人は閑静な場所に来ていた。市の東壁から遠くないはずだと、タオ・ガンは思った。ウーはこの辺に慣れているようで、まったく人気のなさそうな狭い脇道にはいって行った。
ついてはいる前に、タオ・ガンはその一角を見回した。そこは袋小路で、突き当たりは小さな仏寺の山門になっている。廃寺らしくて、木の扉は壊れてしまっているし、明かりも見えない。その辺りには誰もいなかった。
ウーはまっすぐ歩いて、山門に到る崩れかかった石段を上った。そこで立ち止まると、後ろを見た。タオ・ガンは、あわてて首を引っ込めた。
次に見たとき、ウーは寺の中に消えていた。
タオ・ガンは少し待ってから隠れ場を出て、ぶらぶらと寺に向かって歩いて行った。山門の上の方の煉瓦に埋めこまれた色つき瓦は、雨風にうたれて薄れているものの、なんとか三つの字が読みとれた。それは「三宝庵」というのであった。
タオ・ガンは段を上って寺にはいった。
寺はもう何年も前に廃寺になったらしかった。調度はすっかりなくなってしまい、もと祭壇だったところも空っぽだった。ただむきだしの石壁があるだけだ。屋根もそこここに穴があき、夜空の星が望まれた。
タオ・ガンは忍び足で内部を調べたが、ウーのいる気配はなかった。
最後に彼は、後戸口から外をうかがい、あわてて門柱のかげにひっこんだ。
塀で囲まれた小さな庭、中央に金魚池がある。池の畔に苔むした石の長腰掛。ウーはひとりでそこに座っていた。
彼はあごを両手に埋め、古池に関心を集中させているようだった。
「これは秘密の逢引きの場所に違いない」タオ・ガンは胸の中で言った。
窓のくぼみで、座ったままウーから目を離さず、また別の誰かが来ても見られずにすむところがあった。
そこに腰をすえると、タオ・ガンは腕組みして目を閉じ、何の音も聞きもらすまいとした。たびたびウーを見ることはしなかった。陰から見られることに敏感な人間が大勢いることを知っていたからだ。
ずいぶんそこに座っていたが、何も起こらなかった。
ウーはときどき姿勢を変えた。一度か二度は小石を拾い上げ、池に投げこんでみた。とうとう立ち上がって、庭を行きつもどりつし始めたが、何か深く思い沈んでいるようだった。
さらに小半時が経った。
すると、急にウーがそこを出て行こうとした。
タオ・ガンは、凹みの中に体をすくめ、湿っぽい石壁にはりついた。
ウーは右顧左眄《うこさべん》せず、すたこら家にもどった。
住んでいる横丁にもどると、角のところで立ち止まって見やった。マー・ロンが通りに出ていないか、見ようとしたに違いない。そのあとすばやく歩いて、酒店と隣家との間の通路に消えた。
タオ・ガンはあきらめたようにため息をつくと、さっさと政庁に帰って行った。
酒店の中では、みないいきげんだった。
マー・ロンの話の種が尽きると、今度は主人が自分で幾つも話をした。遊び人たちは聞き上手だった。話が終るたびに盛大に拍手し、何時間たっても調子が落ちなかった。
とうとうウーが下りて来て、酒宴に加わった。
マー・ロンは、覚えていられないほど度々盃をまわした。だが酒ならいくらでもというほうだから、頭はまだはっきりしていた。ウーを酔わせてしまえば、なにか役に立つ情報が引き出せるかもしれんぞと、彼は考えた。
そんなわけで、彼はウーを同郷人扱いしておおげさに歓迎し、祝杯をあげた。
そののち何か月もその界隈で評判になった酒盛りの、それが皮切りだった。
ウーは自分がみんなよりずっと立ち遅れていると不平だった。強い焼酎を飯椀についでぐいと一気にあけ、かめの半分まで空にした。彼にとっては酒なんてききめがない、水みたいなものだというわけだ。
その次には、一合の酒をマー・ロンとわけ合って飲み、長いがとても笑える話をした。
マー・ロンは酒がきいてきたなという感じがしてきた。彼は頭をしぼって、荒っぽい出入りの話をした。なんとか話はしまいまで辿りついた。
ウーは大声で賛同した。そしてたて続けに三杯あけた。ターバンを額に押し上げ、肘をテーブルにつくと、都で起こる奇妙な出来事を次から次へと話し始め、黙るのはただ飲むときだけだった。ほんとうにうまそうに、いつも一気に盃を空にするのだった。
マー・ロンは忠実にそれにつきあった。はっきりせぬ頭の中で、ウーはすごく話せるやつだなあと考えた。なにかを聞きたかったんだと思い出したが、なんのことだったか考えられなかった。マー・ロンは、もう一杯いこうと申し出た。
二人の遊び人がまずつぶれた。主人が、近所の友だちに、家へ連れ帰らせた。だいぶまわってきたようだぞと、マー・ロンは思った。気のきいた話をし始めたつもりが、どうしたことか、しまいにはこんぐらかってしまった。ウーはまた一杯干し、おどけた猥談を一席やって、主人を笑い転げさせた。話の要点は聞きもらしてしまったのだが、それでもマー・ロンはその話を非常におかしいと思って大笑いした。彼はウーのためにまた乾杯した。
ウーは真赤になり、汗が額にしたたり落ちた。彼はターバンをむしりとって、隅にほうった。
そのあたりから会話はめちゃくちゃになった。マー・ロンとウーとは同時にしゃべった。手を叩き、さらに盃をあけるときだけ、しゃべるのをやめた。
もう寝るぞ、とウーが言い出したのは、真夜中すぎだった。どうにかこうにか席を立ち、階段の下までは辿りついた。その間ひっきりなしに、マー・ロンに向かって永遠の友情を熱っぽく説き続けた。
主人がウーを助け上げている間、この酒店はじつに楽しく、居心地のよいところだと、マー・ロンはしみじみ考えていた。ゆっくりと床にすべり落ちると、たちまち太いびきをかき始めた。
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第十二章
判事が二つの絵の謎を解き明かし
若い娘は熱烈な恋文を見つけ出す
翌朝、タオ・ガンが正院子《せいなかにわ》を横切って、判事の執務室に行こうとした時、マー・ロンが頭を抱えて、石の腰掛にうずくまっているのに出会った。
タオ・ガンは立ち止まり、この動かない姿を暫く眺めてからたずねた。「加減でも悪いのかな、わが友?」
マー・ロンは右手であいまいなしぐさをした。顔を上げようともせず、かすれ声で言った、「行ってくれよ、兄弟、おれは一休みしているんだ。ゆうべおれは、ウーとちょいと一杯やった。夜遅くなったんで、酒屋で夜明かししようと決めた。もっとウーの動きを探ってみたかったのでね。半時間前にもどってきたばかりなんだ」
タオ・ガンはうさんくさそうに見ていたが、我慢できずに言った、「ついて来たまえ! 君は私が閣下にする報告を聞き、いまここに持っている物を見なくてはならんのだ!」
そう言いながら、彼は小さな油紙の包みをマー・ロンに示した。
マー・ロンはしぶしぶ腰を上げた。二人は院子を抜けて、ディー判事の執務室にはいった。
判事は机に向かい、書類に没頭していた。ホン警部は片隅で、朝の茶を味わっているところだった。ディー判事が書類から顔を上げた。
「さて、友人たち」と彼は言った、「われらの画家は、昨夜外出したか?」
マー・ロンは大きな手で額をこすり、ばつ悪そうに言った。「閣下、私の頭には石がぎっしりつまっているみたいなんです。タオ・ガンならご報告できますでしょう」
ディー判事はマー・ロンのげっそりした顔を探るように見たあと、タオ・ガンのほうに向きなおった。
タオ・ガンは、昨夜彼がどのようにしてウーを「三宝庵」までつけたか、またそこでのウーの奇妙なふるまいについて、詳細に語った。
語り終えた時、ディー判事は眉をひそめこわい顔をしてしばらく黙りこんでいたが、やがて叫んだ。「つまり、娘は現れなかったのだ!」
ホン警部とタオ・ガンは驚き、マー・ロンさえ幾分の関心を示した。
判事はウーにもらった絵を取り上げた。立ち上がってそれを机上にひろげ、両端に文鎮を置いた。
それから書き物用紙を数枚とり、絵の上にかぶせて、ただ観世音菩薩の顔だけが見えるようにおいた。
「この顔をよく見なさい!」と彼は命じた。
タオ・ガンと警部とは腰を上げ、絵の上に頭を近づけた。マー・ロンも腰掛から立ち上がろうとしたが、苦しそうにまたすぐ座ってしまった。
タオ・ガンが静かに言った。「たしかに、これは仏さまとしては珍しい顔ですな、閣下。女性の仏像はふつう穏やかな、個性のない顔で表わされるものです。ところがこれは、生ま身の若い娘の肖像のようだ!」
ディー判事は満足そうだった。
「全くその通りだ!」と彼は声を上げた、「昨日ウーの絵を見たとき、彼の描いた観音さまがみんな同じで、ひどく人間的なのに驚いたのだよ。
ウーはある娘を深く愛しているに違いないと、私は結論した。その娘の姿が、いつも彼の心の中にある。だから彼が女体の仏像を描くとき、たぶん自分では気づいていないんだが、この娘の容貌をそれに与えているのだ。ウーが大画家であることは疑いないから、この絵はその謎の娘のすぐれた肖像であるはずだ。はっきりした個性を示している。
ウーが蘭坊《ランファン》を離れない理由は、この娘にあると、私は確信している。ウーとディン将軍殺害との関わりを解き明かす手掛りを、この娘が与えてくれるかもしれぬ」
「この娘を探しあてるのは、それほど難しくありますまい」とホン警部が指摘した、「その寺の近辺を調べてみましょう」
「それはいい考えだ!」と判事は言った、「君たち三人とも、この絵を記憶に刻み込んでおきたまえ!」
マー・ロンもうめき声を上げて立ち上がり、絵を見つめた。
彼は両方のこめかみに手をあてて、目をつむった。
「わが酒豪は、何を悩む?」判事が辛辣にたずねた。
マー・ロンは、目を開き、のろのろと言った。
「この娘には、たしかに会ったことがあります。なぜだか、この顔とはなじみがあるんですよ。だがいくら考えてみても、いつどこで会ったのか、思い出せません!」
ディー判事は、絵を元通りに巻きおさめた。「よかろう、君の頭がはっきりしたら、思い出すかもしれない。ところでタオ・ガン、そこに何を持っているのだ?」
タオ・ガンはたいそう慎重に包みを開いた。そこには、小さな四角形の紙を貼りつけた板切れがはいっていた。
彼はそれを判事の前に置いた。「閣下、ご注意ください。その薄紙はまだ湿っていますから、すぐ破れます。今朝早く総督の絵の裏貼りをはがしておりましたら、この紙が錦の表装の裏打ちの下に貼られているのを発見しました。これがアン総督の遺言でございます!」
ディー判事は小さな書き付けをのぞきこんだが、やがて興ざめした表情で、椅子に背をもたせかけ、怒ったように頬ひげをつかんだ。
タオ・ガンは肩をすくめた。
「そうなのです、閣下。外観が人をあざむくことはよくあります。アン夫人はわれわれをだまそうとしていたのです」
判事は板切れを、タオ・ガンのほうに押してよこした。
「声をあげて読みたまえ!」と彼は鋭く命じた。
タオ・ガンが読み上げた。
[#ここから1字下げ]
われ、アン・ショウジェン、最期の日の迫るを感じつつ、ここにわが遺志および遺言を述ぶ。
わが第二の妻メイは、不義密通の咎《とが》あり、その生みたる子はわが血肉にあらざれば、わが全資産は長子アン・キーに譲ることとし、由緒あるわが家の伝統を、引き継ぐべきものとする。アン・ショウジェン署名 印
[#ここで字下げ終わり]
ちょっと間をおいて、タオ・ガンが一言した、「もちろん私は、この書きつけに捺された印形を、絵そのものに捺されている総督の印形と比較してみました。二つは完全に一致します」
座は静まりかえった。
やがてディー判事は体を前にかがめ、机に拳固を打ちつけて声を高めた。
「何もかもがみんなおかしい!」
タオ・ガンはホン警部をあいまいな目つきで見やった。警部はかすかに首を振った。マー・ロンは目をむいて判事を見た。
ディー判事は、ため息をつきながら言った、「説明してあげよう、ここになにか根本的な誤りがあると、私が確信しているわけを。
アン・ショウジェンが賢明で先見の明ある人物だったという前提から、私は出発している。長子アン・キーに邪悪な性格があり、幼い異母弟を激しく嫉視していることを、彼は十分に承知していた。アン・シャンが生れるまでは、アン・キーはわれこそ唯一の継嗣《けいし》と、何年間も思っていたのだからね。死期が近づいた時、総督が最後に考えたのは、自分の若い未亡人と幼い息子とを、いかにしてアン・キーの策略から守るかということだった。
アン・キーに相続権を与えない場合は言うまでもないことだが、たとえ二人に財産を等分したとしても、アン・キーは必ず幼い異母弟の相続分を横領しようとして危害を加え、殺すこともやりかねないと、総督にはわかっていた。そのため総督は、アン・シャンには遺産を与えなかったものと見える」
ホン警部はうなずいて、タオ・ガンに目配せした。
「同時に彼は」と判事は続けた、「彼の資産の半ばもしくは大半がアン・シャンに行くべきだとする証明を、この絵の中にひそませた。これは総督が遺志を表明した時に用いた、妙な言葉づかいからも明らかだ。彼は画巻をアン・シャンに与え、そして〈残り〉をアン・キーに与えると、はっきり言った。この〈残り〉というのを定義せずにすますような心遣いをした。
総督の考えは、この秘められた遺言によって、いとけない息子が成長して青年となり、家督を手に入れることができるようになるまで、彼を保護することにあった。総督は、十年ばかり後に賢明な知事が画巻に秘められた伝言を読みとり、アン・シャンの正当な相続権を回復してくれることを希望した。この県に新しい知事が任じられてくる度ごとに、この画巻を見せるようにという指示を未亡人に与えたのは、このためなのだ」
「そういう指示はなかったかもしれません」とタオ・ガンが口を入れた、「われわれはアン夫人の口からそれを聞いただけです。私の考えでは、この書き付けはアン・シャンが庶出子であることを、歴然と証明しています。総督は心優しく寛容な方でした。父親のうけた不正な仕打ちに対してアン・キーが報復するのを防ぎたいと思われましたが、あわせて、いつかは真実が明らかになるようにしておきたいとも願われました。それで総督は、この画巻の中に書き付けをひそませたのです。頭の働く知事がそれを発見したならば、アン夫人がどんなにアン・キーを訴えて出ても、知事はそれを却下することができるのです」
判事はこの意見に、注意深く耳を傾けていた。そしてたずねた。「では、アン夫人がこの画巻の謎が解かれるのを強く望んでいることは、どう説明するのかな?」
「ご婦人というものは」とタオ・ガンは答えた、「自分を愛してくれる男性に自分の与えた影響を過大に評価しがちです。もらえなかった財産の分け前を償うために、情け深い老総督が、画巻の中に現金手形か、隠し金を見つけるための指示書でも隠したことをアン夫人は願っているのだと、私は信じているのです」
判事はかぶりを振った。
「君の言うことは、たいへん筋が通っているが」と彼は評した、「老総督の性格と合致しない。ここにあるこの書き付けは、アン・キーのこしらえた偽物だと、私は信ずる。総督はアン・キーの追求をそらすために、なにか大して重要でない文書をこの画巻にかくしたと、私は推測している。前にも言ったが、アン総督が真に重大なものをひそませるにしては、これはあまりに幼稚な装置だ。こういうインチキな手掛りとは別に、この絵の中には真の情報が、もっとずっと巧妙な方法で隠されているに違いない。
総督は、アン・キーがこの画巻に何か重要なものが含まれていると疑い、破り棄ててしまうことを懸念して、アン・キーに見つけ出させるために、裏貼りに文書をはさみこんだ。アン・キーにそれを発見させ、それ以上の追求をしようと思わせないためだ。
アン夫人は、アン・キーが画巻を一週間以上おさえていたと語った。彼が書き付けを見つけ出すには、それで十分だったろう。何であったにせよ、彼はそれをこの偽物の遺言書と入れ替えた。アン夫人が巻物をどうしようが、自分はもう安泰になるのだ」
タオ・ガンはうなずいて言った、「閣下、閣下のもたいそう魅力ある説であることは認めましょう。ですが、私の説のほうが、やはりずっとすっきりしていますね」
「アン総督の筆跡の見本を見つけるのは、難しくないはずです」とホン警部が一言した、「あいにくこの風景画に書きこまれた文字は、古めかしい書体のものですが」
ディー判事は、考えこむように言った、「いずれにせよ、アン・キーを訪ねるつもりでいたのだ。私は今日の午後に行き、総督の通常の筆跡と自署の見本を手に入れる努力をしよう。警部、これから私の名刺を持って出かけ、訪問を知らせてくれたまえ」
警部以下一同立ち上がり、挨拶をして引き下がった。
院子《なかにわ》を横切りながら、警部が言った。「マー・ロン、君に必要なのは、茶瓶一杯の熱い苦い茶だ。しばらく衛士詰所で腰を下ろそう。少し君を元気づけないと、出かける気にならないよ」
マー・ロンが同意した。
衛士詰所では、巡査長のファンが息子と二人で四角の机をはさんで熱心に話しこんでいた。三人がはいって来るのを見ると、息子はいそいそと立ち上がって席を譲った。みなが座ると、警部が当番巡査に言いつけて、苦い茶を茶瓶に入れて持って来させた。
とりとめない話をしばらくした後で、ファン巡査長が言った。「皆さんが来られた時、私はちょうど息子と、どこで私の姉娘を探すべきか検討していたところでした」
ホン警部は茶をすすり、おもむろに口を切った、「巡査長、君にとってつらいことを、口にしたくはない。だが、白蘭に秘密の恋人があって、それと駆落ちしたという可能性を無視できまいと思うよ」
ファンはやっきになってかぶりを振った。「あの娘《こ》は、妹娘とはまるきり違うのです。玄蘭のほうは強情っぱりで、たいへんに独立心が強いです。やっと私の膝に届くくらいの頃から、もう自分のほしい物を正確に知っていましたし、どうやってそれを手に入れるかということだってわかっていたんですよ。玄蘭は男に生まれるべきでした。姉娘のほうは反対に、いつもおとなしくて柔順でした。性質が優しくて、人の言うなりになるのです。あの娘《こ》は決して恋人を持とうなどと思わないし、まして駆落ちなどは言わずもがなです、保証しますよ」
「そういうことならば、もっとも悪いことを覚悟しなくてはならないかねえ」とタオ・ガンが述べた、「下等な悪漢が彼女をさらって、女郎屋に売るようなことはあるまいか」
ファンは悲しそうにうなずいた。
「そう、その通りなのです。私も登録されている区域をあたってみるべきかと思っているのです。ご存じのとおり、このまちにはそういうところが二か所あります。北町と呼ばれるほうは市壁の北西の隅にあり、そこにいる妓《おんな》は、たいてい国境の向こう側から来ています。西方への交通路がまだ蘭坊を通っていた時期、この区域はたいへんに繁盛していました。北町の景気が悪くなってしまってからは、この都市のくずどもが好んで立ち回る場所になっています。
もう一つの南町と言われるほうは、高級な施設だけから成っています。そこの妓《おんな》たちはみな中国人で、ちゃんと教育を受けているのもいます。大都会の高級娼妓や芸妓にもひけをとりません」
タオ・ガンは、左頬の三本の毛をひっぱりながら聞いていた、「北町から手をつけるべきだと私は思うねえ。君の話からすると、南町の店で娘をさらったりはしまい。そのような高級の施設というのは、常に違法行為には神経質だ。彼らは正規の手段で妓《おんな》たちを買い入れる」
マー・ロンは大きな手を、巡査長の肩に置いた。「われらの判事がディン将軍殺害事件を解決したら、すぐにタオ・ガンと俺を、君の上の娘さんの行くえをつきとめる仕事にあててもらうように頼んでみるよ。娘さんを見つけ出せる奴がいるとすれば、この悪賢いおいぼれペテン師さ、荒っぽい仕事をする係の俺がついていればの話だがね」
ファンは涙ぐんで、マー・ロンに感謝した。
そこへ、お屋敷の小間使いらしく、つつましいつくりの玄蘭が門をはいってきた。
「仕事はどんなだい、嬢ちゃん!」とマー・ロンが声をかけた。
玄蘭は彼には全然目もくれず、父親の前で深々と頭を下げた。「お父さん、閣下にご報告申し上げたいのです。どうか、連れて行ってください」
ファンは席を立ち、失礼して出て行った。ホン警部は、ディー判事の言葉を伝えに、アン・キーのところに出かけ、巡査長は娘をしたがえて院子を横切って行った。
ディー判事は、執務室に一人きりで座り、頬杖をついて考えこんでいた。
顔を上げてファンと娘の姿を見ると、表情が明るくなった。二人の敬礼に親しげにうなずき返し、待っていたように言った、「ゆっくりしていきなさい、お嬢さん。そして、ディンの屋敷内で見聞きしたことを、みんな話しておくれ!」
「閣下、老将軍さまが生命の危険にひどくおびえていたことは、間違いございません」と玄蘭は口を切った、「食べ物はなんでもまず犬に食べさせて、毒がはいっていないかどうか確かめるのだと、ディン邸の女中たちが教えてくれました。正門と脇門は、昼も夜も錠をおろしてあるので、お客さまとか物売りとかが来るたびに鍵を開けなくてはならないと、召使たちはとても迷惑がっているのです。彼らはあそこで働くことを喜んでいません。当番にあたった者はみな将軍さまの疑いの種になり、若旦那さまから根ほり葉ほり問いただされるのですから、召使は二、三か月も居つきません」
「家族の人々について、話してみなさい」
「将軍の第一奥さまは何年か前に亡くなられ、いまでは第二奥さまが屋敷内をとりしきっておいでです。いつも、ほかの人達が自分に十分な敬意を払わなくなるのではないかということばかり心配していて、お仕えしやすい方ではありません。第三奥さまは無教養で、おでぶの怠け者ですが、嬉しがらせるのは簡単です。第四奥さまはごく若く、将軍さまがこの蘭坊で入れた方です。男性にとって魅力的な人なんでしょうね。ですが、今朝お召し替えの時に、左胸に醜いあざがあるのに気づきました。第二奥さまをだましてお金を巻きあげようとしている時のほかは、たいてい鏡の前に座って過ごしています。
ディンの若旦那さまは、離れた小さな区画で、ご自分の奥さまと暮らしています。その方はあまり美しくないし、夫より少し年上です。ですがとてもたしなみの深い方で、読書家だという話です。若旦那さまがときどき第二夫人を入れる話を持ち出しますが、奥さまはどうしてもそれを許そうとしません。若旦那さまはいま若い女中に言い寄っているのですが、あまりうまく行っていません。そういう家では誰も喜んで働きたがらず、女中たちは若旦那さまを怒らせても、なんとも思いません。
今朝、若旦那さまの部屋を掃除した時、私的な書き物を少し捜して持ってきました」
「そんなことは、言いつけなかったぞ」判事はきっとなって口をはさんだ。
ファンが、娘に向かってこわい顔をした。
玄蘭は赤くなって、あわてて続けた。「抽出しの奥に、若旦那さまの書いた詩や手紙の束がありました。文体が難しくてよくわかりませんが、いくつかの文章を拾い読みしてみると、内容にひどく特徴があることがわかりました。閣下にお見せしようと思って、持って来ています」
そう言いながら、ほっそりした手で袖を探って一束の紙をとり出し、うやうやしく頭を下げて判事に手渡した。
ディー判事はとまどって、ぷりぷりしているファンのほうをちらりと見てから、すばやく紙束に目を通した。
彼は紙束を置いて言った。「これらの詩は、許されざる恋をうたっている。しかもたいそう情熱的な辞句を用いているものだから、さいわいあなたには理解できなかったのだよ。手紙も同様な内容で、どれにも〈貴女の奴隷ディン〉と署名されている。ディン青年は、自分の情熱のはけ口を求めて、これを書いたのだろう。その宛先に送られることは絶対になかっただろうから」
「若旦那さまは、ご自分の奥さまのような学問好きな女にあてては、そんなものを書こうとはしなかったでしょうね!」と玄蘭が評した。
父親は、その耳を激しく引っ張って、「きかれもしないのに、しゃべるんじゃないぞ、このでしゃばりのお転婆めが!」と叱りつけてから、判事に向かって詫びた、「すべて私のよき妻がいないため、躾けが行きとどかないのでございます、閣下!」
ディー判事はにっこりした。
「巡査長、この殺人事件がすっかり片付いたら、私が君の娘のために、縁談をまとめてあげよう。わがままな娘は、普通の家庭生活に落ち着かせるに限るよ」
ファンはうやうやしく謝意を表した。玄蘭はかっかとなったが、さすが口には出さなかった。
包みを指先でこつこつと叩きながら、ディー判事は言った、「大至急この写しをとらせておこう。この原本は、今日の午後、もとあったところにもどしなさい。なかなかやるじゃないか、お嬢さん! 耳と目を大きく開けていなさい。だが、あいていない抽出しや戸棚は無理にあけないように気をおつけ。また明日、報告してくれるね」
ファンと娘が去ると、判事はタオ・ガンを呼び入れた。
「ここに手紙と詩を集めたものがある。注意して写しとり、そこにある情熱的表現のなかから、なにか相手の婦人の身元を示す手掛りを引き出してみてくれないか」
タオ・ガンは詩を斜め読みし、あきれた表情で眉を上げた。
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第十三章
アン・キーが貴顕の客をもてなし
判事は将軍の書斎の再訪を決める
判事はホン警部に巡査四人だけをしたがえ、アン・キー邸に赴いた。
輿が装飾的な大理石橋を渡る間、左手の蓮池の中にそびえ立つ九重の塔を、判事はほれぼれと眺めていた。
そこから一行は西へ折れ、水路に沿って、市の南西隅の、さびれた一帯に来た。荒地の広がるなかに、アン・キー邸はぽつんと建っていた。恐ろしいほど堂々たる障壁をめぐらしていることに、判事は注目した。この地所は水門に近い。この辺りの人々は、蛮族が水路を通って市を襲撃する場合に備えて、堅固な家屋を持ちたがるのだと、判事は考えた。
警部が表門を叩くと、すぐ扉が両方に開かれた。門番二人が深く敬礼するなかを、ディー判事の輿は本院子《ほんなかにわ》に向かった。
判事が輿から下りると、丸々と太った中背の男が、応接室の階《きざはし》をせかせかと降りてきた。彼は丸い大きな顔に、先をとがらせた短い口ひげを生やしていた。薄い眉の下の小さな目はたえずあちこちに動き、動きのすばしこさと早口とによく合っていた。
うやうやしく頭を下げて、彼が言った、「私めは、土地所有者のアン・キーでございます。閣下のお越しは、わが茅屋《ぼうおく》にとり、めざましい栄誉でございます。どうか、おはいりくださいませ!」
アン・キーは判事を案内して階《きざはし》を上がり、応接室の高い戸口をくぐった。そして客人を奥の壁ぎわの、祭壇のような大きな机の上座に導いた。
一見して、広間が品よく落ち着いたしつらえになっていることがわかった。昔風のがっちりした椅子とテーブル、壁に掛けた名画は、恐らくはアン老総督から受け継いだものと思われた。
極上の時代物磁器の茶器揃で召使が茶を注いでいる間に、判事は口を切った。「私はいつも、知事として赴任した県の傑出した市民がたをお訪ねするのを、慣わしとしております。あなたの場合はとりわけうれしい。故アン・ショウジェン総督ほどの名だたる政治家のご子息にお会いするのを、待望しておりましたので」
アン・キーはぴょこっと立ち上がり、せかせかと三回続けて、判事に向かって頭を下げた。そしてまた腰を下ろすと、早口でまくしたてた、「閣下のお優しいお言葉に、お礼を申し尽くせません! はい、私の亡き父は、たいへんに擢《ぬき》んでた、まことにたいへん擢んでた人でございました! 私めが、あの偉大な父の子にふさわしからぬ者だということは、まったく不運なことでございます! ああ、真の才能とは、天より与えられます。たゆみない勉学により、それはさらに深められるのです。けれども、閣下、もし私の場合のようにですね、もとになるものがなければ、朝から晩まで勉強しても無駄でございます。ですが私は、せめて自分の限界を心得ておりますことを申し上げたく存じます。閣下、私はすぐれた才能を持ってはおりませんので、高位の官職を望もうとしたことはございません。ただ平穏に日々を過ごし、家と土地とを管理してゆくだけでございます!」
ふっくらした手をすり合わせながら、彼は取り入るようににっこりした。ディー判事が口を開こうとしたが、アン・キーが言葉を続けた、「閣下のように学のあるお方と会話を交えるのに値しませんことを、私は恥ずかしく存じております。甚だしくうろたえており、と申しますのも、かくも名高い知事様が忝《かたじけな》くも拙宅にお越しくださいましたことを、限りない名誉と感じておりますからで。閣下がかの悪党チェン・モウを、速やかに捕縛されましたことを、慶賀し奉ります。なんと輝かしいお手柄でございましょう。ここの前の知事様方は、ただチェンに服するばかりでした。まったく悲しむべきことです! わが尊敬する父が、若い役人たちのモラルの低さについて、しばしば批判的に語っていたのをよく覚えております。いや、閣下はもちろん例外でおありになる。つまり、よく知られておりますように……」
アン・キーは、ちょっと口ごもった。ディー判事はすばやく口をはさんだ、「亡くなられた総督は、相当な資産をあなたにお遺しになったに違いない」
「はい、確かに! その私がこう愚かなのは、全く不運なことです。土地の管理に、私はほとんどすべての時間を費やしてしまいます。しかも小作人ども、閣下、小作人どもときたら! もちろんじつに正直な連中で、たぶん最高にと言っていいでしょう、ところが年貢はいつも滞納! それに、ここらの田舎者の雇人どもときた日には、首都の連中となんたる違い! いつも申すのですが……」
「市の東門の外に、美しい山荘をお持ちだとか」。 ディー判事はすかさず言った。
「あ、はい」とアン・キーは答えた、「はい、あそこはすばらしい土地で」
そう言うと、ちょっと彼の話が途切れた。
ディー判事は言った、「いつか、そこの有名な迷路を見せていただきたいものだ」
「名誉なことだ! 名誉なことだ!」とアン・キーが興奮して叫んだ、「あいにくあそこはひどい状態です。私はあの屋敷を建て直したかったのですが、私の崇敬する父がそれをことのほか気に入っておりまして、一切手をつけてはならぬという特別な指示までございました。はい、閣下、私は愚かではありますが、孝行の念を欠きたくないと、ひたすら願っております。父は年とった夫婦者に管理を任せて行きまして、古くからの忠実な家来です、ですが屋敷を維持する力などとうていございません。ところが、ご承知のように、まあ、ああいう年とった使用人というものはどういうのでしょう、どうやら、人に邪魔されたくないらしいですな。私はついぞ行ったことがありません。実際のところ、閣下もおわかりと存じますが、あの年寄りどもの考えでは……」
「とくにその迷路が見たいのだ」と、判事はこらえきれずに言った、「たいそうな奇巧と聞いているのですよ。はいったことがおありか?」
アン・キーの小さな目が、不安げにちかちかした。
「いや、つまり、……いえ、はいってみたことはありません。ほんとうのことを申し上げますと、父は迷路に関してはたいへん気むずかしゅうございまして。父だけが秘密を……」
「故総督の奥方なら迷路の秘密をご存じだろう」とディー判事はさりげなく言った。
「悲しい事です!」とアン・キーが声を上げた、「母は私のまだ小さい頃身まかりましたことを、お知らせせねばなりません。なんたる不幸! しかも長く、重い病の挙げ句でした!」
「じつは私はね」と判事が念を押した、「総督の二人目の奥方、つまりあなたの義理のお母さんのことを言っているつもりなのだが」
アン・キーはまたぴょんと、あきれたすばしこさで立ち上がった。判事の目の前を行きつもどりつしながら、彼は絶叫した。「あのつらい出来事! そのことについて語らねばならぬとは、なんと不幸なことか! 閣下ならおわかりくださいましょう、父を熱愛する子にとって、崇敬する父の犯したただ一度の過ちを受け容れざるを得ないということが、どんな痛みを伴うものかを。きわめて人間的な過ち、さらにこうも申せましょう、高貴で寛大な天性こそが、その過ちを犯させることとなったのだと。
ああ、わが父は、利口で邪心のある婦人のあざむくがままにさせておいたのです。彼女は父の同情心をあおることに成功し、父は彼女と結婚しました。ああ、この手の女というのは! それをありがたく思うどころか、誰やら知らぬ若い悪党と通じて、父をあざむきました。不義密通、閣下、暗い、いまわしい罪科です! 父はそれに気づきました。ですが黙って苦悩に耐えておりました。わが子である私にさえ、悲しみをわけあおうとはしませんでした。やっと臨終の床で、最期の言葉のなかで、とうとう父はこの恐るべき不正を暴露したのです!」
ディー判事が何か言おうとしたが、アン・キーは話を続けた。「閣下が何を言おうとしておいでになるかはわかります。私はあの婦人を政庁に訴えて出るべきだったのでしょう。けれども、わが老父の私事が政庁で、下品な群衆の前にさらけ出されることを、私は堪えられませんでした。とても堪えられませんでした!」
アン・キーは、両手で顔をおおった。
「たいへんお気の毒だが」と判事は冷淡に言った、「この事件は、政庁で審議せねばなるまい。義理の母上が、口頭での遺言をめぐり、財産の半分を要求して、あなたを政庁に訴えて出ている」
「恩知らずな!」とアン・キーは叫んだ、「なんとも言いようのない女です! きっと邪悪な狐の精ですよ、閣下! 人間なら、そこまで下劣にはなれません!」
彼はむせび泣いた。
ディー判事はゆっくりと茶を飲み干した。アン・キーが腰を下ろし、気をしずめるのを待った。そして、世間話のような調子で言った。「とうとうあなたの父上にお会いする機会をもてなかったことを、いつも残念に思っているのですよ。ですが、人はその筆蹟の中に精神を遺すと申します。図々しいお願いですが、なにか父上のお書きになったものをお見せくださるまいか? 亡くなられた総督は独創的な書法で名高くあられた」
「おお!」とアン・キーは絶叫した、「またしてもあいにくなこと! 閣下のご命令にしたがい得ませんとは、なんと恥ずかしい! これもまたわが父の、思いがけない特性でございました。いや、正確に言わせていただくなら、父の偉大な慎み深さの、もう一つの証拠と申せましょう。死期が近いことを感じると、父は自分の書いた物をすべて焼却するよう、私に厳しく命じました。後世まで保存するに値する作品はないと、父は考えたのです。なんたる高潔な人柄!」
判事は二こと三こと調子を合わせてから、また言った。「総督はたいそう有名な方であられたから、この蘭坊《ランファン》でも多くの人々が親交を得ていたでしょうな?」
アン・キーは軽蔑するように笑って答えた。「こんな辺境の土地に、わが亡き父が語り合いたいと思う人物など、一人としておりません。もちろん、閣下は別でございます! 閣下とお話できたなら、わが敬愛する父はどんなにか喜びましたろう! 父はいつも行政問題に関心がございました……いや、私の父はおもに自分だけの文学研究に没頭し、残りの時間を地所の百姓どもを監督する仕事にあてておりました。それで、あの女は父に取り入ることができたのです……さてさて、くだらないことばかり申し上げまして!」
アン・キーは手を叩いて、茶をいれかえるよう命じた。
ディー判事は黙ってあごひげをなでていた。恐ろしく抜け目のない男だと、判事はつくづく考えた。あんなにしゃべりまくりながら、ほとんど何も言っていないに等しい。
アン・キーが蘭坊の厳しい気候についてぺちゃくちゃ言っているそばで、判事は黙って茶をすすっていた。
ふいに、彼はたずねた、「父上はどこで画作をされたのか?」
アン・キーはうろたえた様子で客人を見やった。すぐには答えずに、あごをなでたが、暫くして、「さあ、私自身たいした芸術家でもありませんので……さて、考えてみましょう、そうですね、父は山荘の奥にある園亭で絵を描きました。気持のよいところ、庭園の真後ろで、迷路の入口の近くです。父が仕事に使っておりました大きなテーブルが、まだあそこにあるはずです。門番の老人がちゃんと注意をしていればの話ですが。閣下にもおわかりでしょう、年とった召使どもと来た日には……」
ディー判事は立ち上がった。
アン・キーは、もう少しゆっくりしていってくださいと、言い張った。彼はまた別の、不明瞭な話を始めた。
判事は一苦労したすえに、やっといとまごいをするのに成功した。
ホン警部は、門番の小屋であるじを待っていた。一行は政庁に帰りついた。
自分の机の前に腰を下ろすと、判事は深いため息をついた。
「アン・キーというやつは、なんとうんざりする男だ!」と彼はホン警部に向かって言った。
「新しい材料がございましたか?」と警部が勢いこんで言った。
「いやいや。だが、もしかすると重要かもしれない事を一つ二つ言ったぞ。タオ・ガンが画巻の内側で見つけた遺言書と比べるための総督の筆跡見本を手に入れることはできなかった。死後、自分の書いた物をすべて滅ぼし尽くすように、父の命令をうけたと主張するのだ。蘭坊にいる総督の友人がなにか持っているだろうと、私は考えたのだが、父は一人として友を持たなかったと、アン・キーは証言する。警部、君はあの屋敷で、どんな印象を得た?」
「門番小屋でお待ちしていた間に」とホン警部は答えた、「私は門番二人とのんびり話をしました。連中は、主人の頭が少しおかしいんじゃないかと考えています。父親と同じくらい変わり者なのですが、総督の輝かしい知性は欠如しています。
アン・キー自身は、運動家とはとても言えませんが、拳術、相撲、剣術が大好きです。あの屋敷の使用人の大半は、腕っぷしの強さで選ばれてきました。アン・キーは、彼らの稽古を見るのが、なによりも好きなのです。第二|院子《なかにわ》を闘技場のように仕立て、そこに何時間でも腰をすえて、大声で闘技者たちを応援したり、勝者に賞品をやったりします」
ディー判事は、静かにうなずいた。
「弱い人間が、腕っぷしの強さを過大にたっとぶというのは、よくあることだ」
「使用人の話ですが」と警部が続けた、「ある時、チェン・モウ邸で一番の剣術師範を、高い金で買収して引き抜いたことがあったそうです。チェンはひどく怒りました。アン・キーは勇敢な人間ではないので、いつも蛮族が市を襲って来るだろうと思っています。それで、使用人は強い戦士でなくてはならないというのです。ウイグル族の戦士を二人雇って、河の向こうから呼び寄せ、使用人たちにウイグル式戦闘法を教えさせたこともあるのですよ!」
「アン・キーに対する総督の態度について、使用人はなにか言ったか?」とディー判事がたずねた。
「アン・キーが極度に父親を恐れていたことは確かです。老総督が亡くなられても、それに変わりはありませんでした。葬儀が終わると、アン・キーは古い使用人をみんな解雇しました。その連中がいると、恐ろしい老総督の姿を見るような思いを強くさせるからと言って。アン・キーは父親の最後の指示を全部守りました。郊外の別荘を、すっかり原状のままにしておかねばならないというのもそれです。父親が亡くなってから、アン・キーは一度もそこへ行っていません。使用人の話では、誰かがそのことを口に出しただけで、顔色が変わるそうですよ!」
ディー判事は、あごひげをなでながら、なにか考えているらしかった。「近いうちにその別荘へ行って、有名な迷路というのを見てみよう。それまでに、アン夫人とご子息の住所を調べ、私に会いに来るように言ってくれたまえ。たぶんアン夫人が、なにか総督の書いたものを所持しているだろう。父は蘭坊に友人がいなかったと、アン・キーが言ったことが正しいかどうかも、確認できよう。
パン知事殺害に関してだが、チェン・モウの謎の訪問者について、なにか手掛りを得る望みを全く捨てたわけではない。チェン邸の警備隊にいた者たち全員に聞いてみるよう、チャオ・タイに指示してあるし、ファン巡査長が、牢にいるチェンのもう一人の相談役に尋問するはずだ。当市の下級犯罪者たちの出入りする場所へ、マー・ロンを探索に行かせようかとも考えている。もしパン知事を殺したのが黒幕にいる例の謎の人物なら、きっと共犯者がいるに違いないのだ」
「マー・ロンはそのついでに、巡査長の姉娘白蘭について、聞きこみできるでしょうな。われわれはそのことで、今朝ファンと話をしましたが、かどわかされて娼家に売られたということも十分考えられると、ファンも言っておりました」
判事は吐息をつきながら言った。「そうなのだ、哀れな娘の身の上に、じっさいそんなことが起こったのではあるまいかと案じている」
しばらくしてから、判事が言葉を継いだ。「しかも、ディン将軍殺害事件も、ごくわずかな進捗しかみていない。私は今夜タオ・ガンを三宝庵に行かせ、ウーかあるいはウーが好んで描く未知の女性かが、姿を現すのを見張らせるつもりでいる」
判事は、留守中にタオ・ガンが持って来て積み上げていった中から、文書を一つとり上げた。しかしホン警部は去りがたい様子だった。少しためらっていた後に、彼は言い始めた。「閣下、私はディン将軍の書斎で、なにかを見のがしてきたような感じがしてならないのです。考えれば考えるほど、謎の鍵はあそこにあるという気がしてきます!」
ディー判事は書類を置き、警部をまじまじと見た。
彼は漆塗りの小箱を開け、タオ・ガンが彼のためにこしらえた、小刀の模造品をとり出した。それを掌にのせたまま、彼は静かに言った、「警部、君にはなにも隠しだてすることはない。ディン将軍殺害の背景について、考えられそうなことをいろいろと考えてみているのだが、正直に言って、この小刀がどのように使われたのか、また加害者がどうやってはいり、どうやって出たかについては、全く考えが浮かばないのだよ!」
二人はしばらく、黙りこくっていた。
判事はにわかに腹を決めた。
「警部、明朝もう一度ディン邸に行って、書斎を調べよう。たぶん君の言う通り、この犯行の解決法は、あそこで探すしかないのだ!」
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第十四章
死者の部屋で奇妙な手掛りを得て
ディー判事は捕り方をさし向ける
翌朝は、いい天気だった。よく晴れて、日の当たる一日が期待された。
朝食をすませると、判事はホン警部に、ディン邸まで歩いて行くつもりでいることを知らせた。
「タオ・ガンも連れて行こう」と判事は続けた、「少し運動させたほうがいい!」
彼らは西門から外に出た。
訪問の件は、前もってディン学士に知らせてあった。邸内は、葬礼の準備の真最中であった。
執事が、判事と伴《とも》の二人を脇部屋に案内した。大広間は霊安室になり、将軍の遺体がばかでかい漆塗りの棺に納めて安置されている前で、二十人の僧侶が高らかに読経していた。その単調な節回しと、木魚を叩く音が、邸中にこだまし、香煙が重くたちこめていた。
通廊のわきに置かれたテーブルの上に、いずれも赤い紙で包まれ、めでたい言葉を添えた祝いの品が積んであるのが目についた。
執事は判事のびっくりした様子を見ると、あわてて詫びた。今ではひどく凶々《まがまが》しく感じられるこの品々は、とっくの昔に片づけなくてはならないのだが、召使たちがみな将軍の葬儀の仕度にかかりきってしまっているのでというのであった。
白麻の喪服を着たディン青年が、部屋にとびこんできた。そして家の中がごたごたしていることを、しきりと言い訳した。
ディー判事は、彼の弁明をさえぎった。
「今日明日にも、あなたの訴件を、政庁で扱おうと思っている。二、三確認したいことがあるので、ごく形式ばらずにお訪ねすることにしたのだ。
今日はもう一回、亡き父上の書斎に行かせていただく。君には、同伴するお手間はとらせない」
書斎に通じる暗い廊下で、二人の巡査が張り番していた。誰もそこに近づいた者はいないと、彼らは報告した。
ディー判事は封印を破って、扉を開けた。
彼は急に後に下がり、長い袖で顔をおさえた。
吐き気を催す臭いが、人々の鼻を襲った。
「なにかが中で死んでいる」と判事は言った、「タオ・ガン、大広間へ行って、坊さんにインドの線香を何本かもらって来たまえ!」
タオ・ガンがあたふたと去った。
彼は両手に三本ずつの、火のついた線香を持ってもどって来た。浸み透るような匂いのする濃い煙が流れた。
判事は線香を受けとると、それを振り回しながら、書斎にはいりなおした。青い煙が雲のように、彼を包みこんだ。
警部とタオ・ガンは、外で待っていた。
しばらくするとディー判事が出てきた。壁に掛軸を掛けるのに使う、細いさすまたを手にしており、その尖端に、半ば腐ったねずみの死骸がささっていた。
彼はタオ・ガンにさすまたを渡して命じた、「この動物の死骸を、封をした箱に入れておくように、巡査に言いたまえ!」
ディー判事は、開け放った戸の前に立ったままでいた。線香は机の上の筆立てに立てておいて来た。煙が雲のように、戸口の外に流れ出た。
悪臭が消えるのを待つ間に、ホン警部が笑いながら言った、「あの小さなけだものに、びっくりさせられましたよ、閣下!」
ディー判事の表情は、動かなかった。
「あの部屋にはいってみた後なら、警部、君は笑いはすまい。暴虐な死の気配が満ちているのだ!」
タオ・ガンがもどるのを待って、三人は書斎にはいった。
ディー判事は、床の上にある厚紙の小箱を指さした。
「先日、私はあの箱を机の上に、硯石に並べて置いた。将軍の袖から出てきた、甘い李《すもも》入りの箱だよ。ねずみがそれをかぎつけた。見たまえ、机の上にたまったほこりに、小さな足跡がくっきり残っている」
判事は腰をかがめて、二本の指で箱を注意深くつまみ上げ、机の上にのせた。
蓋の一角が、かじりとられていた。
判事が箱を開いてみると、九つの李のうち、一つがなくなっていた。
「これが加害者の、二つ目の武器だ」と判事は重々しく言った、「これには、毒が仕込んである!」
彼はタオ・ガンに言いつけた、「床にその李が落ちていないか、捜したまえ。手を触れるんじゃないぞ!」
タオ・ガンは膝をついた。かじりかけの李が、書棚の下に転がっているのが見つかった。
ディー判事は自分の長衣の縫い目から楊枝を取り出して李に突き刺し、箱の中にもどして、蓋をした。
「この箱を油紙に包みなさい」彼はホン警部に言った、「政庁に持ち帰って、もっとよく調べてみなくては」
判事はあたりを見回した。そして首を振った。
「政庁へ帰ろう。タオ・ガンはこの戸に封印し、巡査二名はそのまま外で見張りに立たせておくように」
一同は沈黙のまま、歩いて帰った。
執務室にはいると、判事は大声で事務官を呼び、熱い茶を持って来させた。
彼は机に向かった。タオ・ガンと警部とは、いつもの腰掛に座った。
彼らは黙りこんだままで、茶を飲んだ。
やがて、判事が口を開いた。「警部、仕丁を一人走らせて、検屍官の老人をここへ呼びよせたまえ」
警部が去ると、判事はタオ・ガンに向かって言った、「この殺人事件は、ますます複雑化してくる。殺人者がどうやって突き刺したかさえ確定できていないというのに、彼が第二の武器を用意していたことが判明した。被告ウーに謎の女友達がいると知った途端、原告ディンにも秘密の愛人がいることを知るというふうに!」
「まさか、閣下、それが同じ娘だというわけではありますまい?」とタオ・ガンが茶化すように言った、「もしウーとディンが恋仇なら、ディンの告訴は全く新たな見方ができるわけですが!」
ディー判事はうれしそうな様子だった。「それは実に興味深い意見だな!」
一息おいて、タオ・ガンがまた口を開いた。「私にはまだ理解できません。どうやって殺人者は、あの毒入り李の箱をディン将軍に受取らせたのでしょう。殺人者はじきじき手渡したに違いありませんよ。祝いの品々が、廊下のテーブルに積み上げてありましたね。殺人者はあそこに置く気はなかったのです。将軍がその当の箱をとり上げるとは言い切れませんからね。ディン学士とか、家族の別の人間がそれを持って行くことだってあるのです」
「そうなると」と警部が言った、「こんな問題も出てきますな。なぜ加害者は、将軍を殺害した後に、この箱を将軍の袖から出さなかったのか? なぜこの証拠品を、犯行現場に置いたままにしたのか?」
タオ・ガンは、さっぱりわからないというふうで、かぶりを振ったが、しばらくすると言った。「いっぺんにこれほど多くの難問と対決することになるのは、めったにないことです。この殺人事件はさておいても、その壁にかかっている風景画の、秘められた情報がありますし、こうしている間もチェン・モウの謎の客人はまだ自由に歩き回り、何ともわからぬ新しい騒動を計画中です。その人物の身元についてはまだ全然手掛りなしですか?」
ディー判事はわびしい笑いを浮かべた。
「全然ない。昨夜のチャオ・タイの報告によれば、彼がチェンのもとの警備兵と相談役とに尋問したが、誰からも情報は得られなかった。謎の客はいつも夜おそく、長外套で体を包んでやって来た。一言も口をきかなかった。顔の下半分は衿巻きで隠しており、上半分は外套の頭巾がかぶさっていた。手も見せなかったそうだ。いつも袖の中に入れていたのでね」
彼らは黙りこんだまま、もう一杯の茶を飲み干した。
その時事務官が、検屍官が来たと知らせた。
ディー判事は、薬種商の老人に、鋭い目を向けた。
「先日、将軍の屍体検証を行ったさいに、経口的に用いられる毒ならば、たいていは識別できると言われたな。ここに、李《すもも》菓子のはいった箱がある。一つねずみが食って、即座に死んだ。今ここで李を調べ、何の毒がはいっているのか判定していただきたい。必要とあらば、ねずみの死骸を調べてみてもよい」
ディー判事は、紙箱を検屍官に渡した。
老人は携えている小さな包みを開いて、革の容器を出した。それには、短い刃に長い柄のついた細い小刀が一組はいっていた。彼は、毛髪のように鋭く細い一本をとり出した。
次には袖から、白い紙を一枚出して、机の一角に置いた。やっとこで、ねずみのかじった李をはさんで取り出し、敷紙の上にのせると、あざやかな手並みで、果肉から透ける紙のような薄片を切りとった。
判事と副官二人は、彼の動作の一つ一つを熱心に目で追った。
検屍官は小刀の刃先を用いて、薄片を敷紙の上に平らに置いた。彼はそれをじっと見つめた。やがて顔を上げると、茶碗一杯の湯、使ってない筆、蝋燭一本を所望した。
事務官が注文の品物を持って来ると、検屍官は筆を濡らし、薄片に水分を含ませた。それから、真っ白で光沢のある、小さな紙片を出して薄片の上にかぶせ、掌でおさえつけた。
検屍官は蝋燭に火をつけた。光沢紙を持ち上げて、それを判事に見せた。そこには、薄片の跡が濡れてついていた。検屍官はそれが乾くまで、炎の上にかざした。
彼は紙を窓際に持って行って、軽く指でなぞるようにしながら、しばらく調べていた。タオ・ガンが席を立ち、検屍官の肩越しにのぞきこんだ。
検屍官は向きなおると、その紙を判事にさし出した。「申し上げます。この李には雌黄《ガンボージ》という有毒染料が、多量に含まれております。管状の針で注入されたのです」
ディー判事はゆっくりと頬ひげをなでた。その紙を一通り見た上で、「どうしてそうだとわかるのか」とたずねた。
検屍官はにっこりして答えた。「この方法は、私どもの商売では昔から使われております。李の果汁の中の異質物は、色と粒子で識別されます。この跡をごらんくださいませ、はっきり黄色に染まっているのがわかりますでしょう。粒子の違いは、経験を積んだ薬種取引業者の敏感な指先でないと、わかりません。薄片の中に、丸い小さな点が数多く見られますことから、雌黄が管状の針で注入されたと推論したのです」
「みごとなものだ!」と判事は満足げに言った、「それでは、他の李も調べてもらえるかな」
検屍官が仕事にかかっている間、ディー判事はなにげなく厚紙の空箱をもてあそんでいた。彼は箱の底に敷いてある、折り畳んだ白い紙をひっぱりあげた。そして、にわかにその上に首を曲げ、紙の片隅にある、ぼやけた赤いしるしをしげしげとのぞきこんだ。
「なんとまあ、間の抜けたことをするものだ!」
ホン警部とタオ・ガンが席を立ち、いそいそと紙の上にかがみこんだ。ディー判事が、赤いしるしを指さしてみせた。
「ウーの印形の半分ですな!」と警部が叫んだ、「先日あの男は、これと同じ印形を絵の上に、全体きっちりと、捺していましたよ」
判事は椅子の背もたれによりかかった。
「二つの手掛りが、こうしてまっすぐ例の画家を指している。第一に、使用された毒物。雌黄《ガンボージ》なら、黄色の絵具として、どんな画家でも使っているし、危険な毒物だということは熟知している。第二は、箱の敷紙に使われているこの白い紙。思うに、ウーはこれを、絵に印を捺すときの下敷に使ったのだろう。知らない間に、印の半分がこの下の紙にとおってしまったのだな」
「まあまあ期待どおりですな!」とタオ・ガンが勢いこんで言った。
判事はそれには答えず、検屍官が他の李の検査を終えるまで、黙って待っていた。
とうとう、老人は報告した。
「閣下、どの李にも致死量の雌黄が含まれております」
判事は机の上から、一枚の公用の料紙を選び出し、検屍官のほうへ押しやった。
「あなたの証言をこの紙に記録し、拇印を捺してくれませんか!」
老検屍官は筆に墨をふくませ、書類を書いた。それに拇印を捺し終わると、判事は優しく二言三言声をかけてから、引きとらせた。そのあと判事は事務官に命じて、ファン巡査長を呼ばせた。
巡査長が姿を現すと、判事はてきぱきと命令をくだした。「巡査四人を連れて行き、画家ウー・フォンを逮捕せよ!」
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第十五章
画家ウーは政庁にて秘事を明かし
ディー判事が東区の捜査を命ずる
大きな青銅の銅鑼《どら》の音が三回、政庁中にこだまして、午後の公判の開始を告げた。
相当な数の傍聴者が、法廷に群集していた。ディン老将軍は蘭坊《ランファン》の知名人であったのだ。
ディー判事が壇上に登った。そしてディン学士に、前に出るよう命じた。
彼が裁判官席の前にひざまずくと、ディー判事が語り始めた。「先日、君はこの政庁に出頭し、ウー・フォンが君の父を殺したと訴え出た。私はつとめて調査をすすめ、ウーの逮捕の正当な理由となるべき証拠を集めた。だが、まだ解明を要する点が多々ある。これから被告を尋問しようと思うが、君は注意深く聞いていなさい。関連して何か情報をつけ加えられる点があったら、必ず言うのだ!」
ディー判事は、牢番長にあてた伝票に記入した。まもなく二人の巡査が、ウーを法廷に連れてきた。壇に近づいてくる姿を眺めて、判事は彼が全く平静なのに気づいた。
ウーはひざまずき、うやうやしく、判事に問いかけられるのを待った。
「おまえの姓名、職業を申せ!」と判事が切口上でたずねた。
「このいやしき者は、ウー・フォンと呼ばれております」とウーは答えた、「職業的には学士候補生ですが、むしろ画家でありたく存じます」
「おまえは、ディン・フーグオ将軍を殺害したと訴えられている」と判事はぴしりと言った、「真実を申してみよ!」
「閣下」とウーは落ち着いて言った、「私は起訴事実を断然否認いたします。私は被害者の名前、および被害者が軍務を解かれた理由となった犯罪については、よく知っております。といいますのは、私の父がその不名誉な事件について語るのを、度々聞きましたからです。けれども、申し上げますが、私は一度も将軍に会ったことはありません。彼の息子が私に関して、悪意のあるうわさをまき散らし始めるまでは、彼が蘭坊《ランファン》に住んでいることさえ存じませんでした。そのうわさというのは、反論の必要もないほどばかげたものでしたから、私はすべて無視しておりました」
「そうだとすると」判事は冷ややかに言った、「なにゆえに将軍は、絶えずお前を恐れておったのか? なにゆえ将軍は日夜屋敷の門を閉ざし、施錠した書斎に閉じこもっておったのか? そしてもしお前が将軍に対し、卑劣な陰謀を企んでいなかったのならば、なにゆえお前は悪漢を雇って、屋敷を探らせたのか?」
「閣下の初めの二問は、ディン家の内部事情に関係したことです。私はそのようなことについては全く何も存じませんので、意見を申し述べる立場にはございません。最後のご質問については、私はディン家を探るため人を雇ったことを、いっさい否認いたします。私が雇ったと言われている者を誰か連れてきて、私と対決させるよう、原告に対して要求いたします!」
「あまり自信満々になるな、若いの!」と判事がぴしゃりと言った、「実を言うと、既にその悪漢の一人を捕えてある。いずれ対決することになろうぞ!」
ウーはかっとして叫んだ、「あのディンの野郎が金《かね》をやって偽証させたな!」
ウーがついに平静を失ったのを見て、ディー判事は、さらに被告の虚をつく好機だと判断した。
彼は身をのり出し、鋭く言った、「なぜお前がディン一族を憎むに至ったか、知事が言って聞かせよう! お前の父とディン将軍との間の宿根ではない。そうだ、お前には全く個人的ないやしむべき動機があったのだ。この女を見よ!」
そう言うと、判事は袖の中から、ウーの観世音菩薩像の顔の部分だけ切りとったものを取り出した。
それをウーに見せるためファン巡査長に手渡すとき、ディー判事は被告とディン学士の両方から、目を離さずにいた。事件の中の女の存在について言及した途端に、どちらの青年も顔色を変えたのがわかったのだ。ディンの目は思いがけない恐怖で見開かれていた。
ディー判事はすぐそばに、押し殺したような叫び声を聞いた。
ファン巡査長が、まだ絵を手に持ったまま立ちすくんでいた。顔面蒼白、まるで幽霊を見たようだった。
「閣下! これは白蘭、私の上の娘でございます!」
この予期せぬ新事実に、群衆はざわめいた。「静粛!」判事は雷のような声を上げた。
彼自身もひどくびっくりさせられたのだが、判事はそれと見せずに、落ち着いて命じた。
「巡査長、その絵を被告に渡しなさい!」
巡査長による身元確認で、ウーが激しい動揺を示したのにひきかえ、ディン学士のほうはほっとしたらしいのを、ディー判事は見逃さなかった。ディン青年は大きく息をつき、頬に血の色がもどってきた。
ウーはまじまじと、絵を見つめていた。
「申せ!」と判事がほえた、「この娘とお前との関係はどうなのか!」
ウーの顔は死人のように青ざめていた。しかし、彼が答えた時、その声音はしっかりしていた。「私は絶対に答えません!」
判事は椅子の背にもたれ、冷ややかに言った。「被告は自分が政庁にいることを忘れたとみえる。本官はお前に、質問に答えるよう命じているのだ!」
「あなたは私を死ぬまで責めさいなむことがおできになる」ウーははっきりした声で言った、「だがその質問に答えさせるのには、けっして成功なさらないでしょう」
ディー判事はため息をもらした。「お前は法廷侮辱罪を犯した!」
判事の合図をうけて、二人の巡査がウーの長衣を引き裂いた。別の二人が両腕をつかみ、顔が床につくほど押さえつけた。そして待ち構えるように、重い鞭を手にして立っているファン巡査長を見た。
巡査長は、苦しげな表情で判事を見つめた。
判事にはその心がわかった。ファンは公正な男である。彼は己れの怒りのゆえに、ウーを打ち殺してしまうのではないかとおそれているのだ。判事はがっしりした巡査を指名した。
彼は巡査長の手から、鞭をうけとった。たくましい腕をふり上げると、むき出しのウーの背中に、細い革ひもを打ち下ろした。
一打ちごとに肉の上に鞭の跡が走り、ウーはうめいた。十《とお》数えた時、背は裂けて血がほとばしった。それでも彼は、話そうという合図をしない。
二十打たれると、彼の体は力尽きた。
気絶しましたと、巡査が報告した。判事が合図すると、巡査二人がウーを引き起こして、ひざまずかせた。そしてウーの鼻の下で酢を燃やして、息を吹き返させた。
「汝の知事を見よ!」とディー判事が命じた。
巡査がウーの髪をつかんで、頭を後ろへ引いた。
判事は身をのり出し、彼のゆがんだ顔をしげしげと見つめた。
ウーは唇をぴくぴくと引きつらせると、力なく言った。「しゃべるもんか!」
鞭を持っている巡査が、太い柄でウーの顔をなぐろうとしたが、ディー判事が片手を上げて止めた。彼はウーに向かって、世間話をするように話しかけた。
「ウー君、君は頭のよい青年だ。君の態度がどんなに馬鹿馬鹿しい限りか、わかっているはずだな。言わせてもらうが、君が考えているよりも、私は君とあの心得違いの可哀そうな娘との関係について知っているのだよ」
ウーはただかぶりを振るだけだ。
判事はおもむろに後を続けた、「私は知っているぞ、君が白蘭と、東門の近くの三宝庵で逢引きしたことも全部な」
にわかにウーはとび上がった。ふらふらと立ち上がったので、巡査が腕をつかまえて支えていなければならなかった。ウーはそんなことにおかまいなく、血の条《すじ》のついているむき出しの右腕をもち上げた。判事に向かって拳をふりながら、彼はかすれた声で叫んだ、「これであの人はもういなくなる! お前が、犬役人めが、あの人を殺したんだぞ!」
群衆から、大きな叫び声が上がった。ファン巡査長はつめよって、言葉にならぬ言葉で問いかけた。巡査たちは、どうしていいやらわからなかった。
ディー判事が驚堂木《けいどうぼく》を裁判官席に打ちつけ、大音声を上げた、「静――粛!」
ざわめきは静まった。
「もう一度警告せねばならぬようなら」と判事は厳格に言った、「法廷からの立ち退きを命ずるぞ! 全員、持ち場に留まれ!」
ウーは床に倒れ伏し、全身を震わせて泣きむせんだ。ファン巡査長は不動の姿勢で立っていたが、あごに血が滴るほどに強く唇を噛みしめていた。
ディー判事はゆっくりと、あごひげをなでていた。
やがて判事の響きのいい低音が、気まずい静寂を破った。
「ウー学士候補生、もう何もかも話してしまうほかないと、観念したまえ。君の最後の一言から考えてみて、もし私が、君と白蘭の荒れ寺での会合を口にしたことで、私が彼女の命を危くしたというのなら、苦境に立つ彼女に責めを負うべきは君だぞ。君には私に知らせる時間的余裕は、たっぷりあったのだ」
判事の合図にこたえて、巡査がウーに濃くいれた茶をすすめた。ウーはごくごくと飲んだ。それから、情けない声で言った、「あの人の秘密が、まち中に知れ渡ってしまった! あの人はもう助からない!」
ディー判事はそっけなく言った、「娘が助かるかどうかは、この政庁にまかせたまえ! もう一度言うぞ、何もかも話すのだ!」
ウーは気をとりなおし、低い声で話し始めた。「東門の近くに、三宝庵という小さな寺があります。何年も前のこと、まだ西方への路がこの市を通っていた頃、ホータンから来た僧侶が庵室を建てました。やがて彼らは去りました。寺はさびれ、近所の人々が焚き物にするため扉やその他木で作ったものを持ち去りました。けれども、僧侶たちが描いた、壮麗な壁画だけが残っていました。
仏教絵画を求めて市内を歩き回るうち、私はたまたまその壁にめぐり会いました。私は度々そこを訪れ、壁を模写しました。とくに寺の後ろの、人目につかぬ小さな庭が好きになり、夜にはそこを散歩して、月を賞でるのを習慣としていました。
ある晩のこと、二十日ほど前でしたが、私はひどく酔ったので、寺へ行ってあの庭で頭を冷やして来ようと決めました。
私が石の腰掛に座っていると、ふいに娘が一人、庭にはいって来るのを見たのです」
ウーは、さらに深くうなだれた。法廷はしいんと静まり返っていた。
ウーはうつろな目を上げた、「あの人は、地上に下り立った観音様のように思えました。白い薄絹の単衣《ひとえ》の長着をまとい、白絹の肩掛けを頭からかぶった姿。美しい顔に言い表わしようのない深い悲しみの表情をたたえ、涙が蒼白い頬に光っていました。天のもののようなその面ざしは、私の心に焼きついています。命ある限り、私はそれを忘れることはありますまい」
彼は両手で顔をおおった。そしてその腕を力なく垂らした。
「私は自分でも何を言っているかわからぬままに、なにやら口走りながら、あの人に駆け寄りました。あの人は驚いてしりごみし、小声で言いました、何も言わないで、あっちへ行って、私こわいの、と。私はあの人の前にひざまずき、私を信用してくれと懇願しました。
あの人は、きものを固くかき合わせ、声を低めて言いました。私は家から一歩も出るなと言われています、でも、今夜はこっそり脱け出しました。すぐ戻らなくてはなりません、でないと殺されるわ、誰にも言わないで、また来ます!
その時、雲が月を隠しました。暗闇の中で、私はあの人が急いで歩み去る、かすかな音を聞きました。
その夜、何時間もかけて、寺とその近辺を探しまわりました。けれども、あの人の跡を見つけることはできませんでした」
ウーが話をやめた。ディー判事が、茶のお代わりを与えるよう合図したが、ウーはもどかしげに手を振って、話を続けた、「忘れ難いその夜以来、私はほとんど毎晩あの寺に行きました。けれどもあの人は、二度と現れませんでした。あの人が囚われの身であることは明らかです。あの人が秘かに寺を訪ねたことが知られたら、囚えている悪魔は彼女を殺すでしょう!」
ウーはわっと泣き出した。
少し間をおいて、ディー判事は口を切った。「真実を完全に言ってしまわないことがどんなに危険か、これでお前にも納得が行ったろう。政庁はその娘の居場所を見つけるため、なし得る限りのことをしよう。さてそこで、どうやってディン将軍を殺したかも、白状したほうがよいぞ!」
ウーは叫んだ、「なんとでもお気に召すとおりに白状しましょう! ですが、今ではありません。閣下、どうかお願いします、今すぐ閣下の手の者をやって、あの娘を救い出してください。まだ間に合うでしょうから!」
ディー判事は肩をすくめた。そして巡査たちのほうへうなずいてみせた。彼らはウーを引き起こして立たせ、牢に連れて帰った。
「ディン学士よ」と判事は言った、「実に思いがけない展開となった。明らかに、ウーによる御尊父の殺害事件とは関係ないことだ。ではあるが、被告がこれ以上尋問できる状況でないことも確かだ。
今日のところは、あなたの告訴をとり上げるのは止めにしよう。いずれ折を見て、続けることにする」
判事は驚堂木で机を打った。そして席を立ち、壇を後にした。
傍聴者の群れは、新たな展開に好奇心をそそられ、にぎやかに議論を戦わせながら、長い列を作って出て行った。
普段着に着替えながら、判事はホン警部に、ファン巡査長を呼べと命じた。
マー・ロンとタオ・ガンは、判事の机のそばの腰掛に座っていた。
巡査長がはいって来ると、ディー判事は言った。「巡査長、こんどのことはさぞショックだったろう。あの絵を、もっと早く君に見せなかったのは悪かった。だが、まさかそれが君の姉娘に関わりがあるとは、思いもつかなかったのだよ。しかし、これは彼女の居場所を知らせる、最初の確かなしるしだ」
判事は話しながら朱筆をとり上げ、役所の書式三通に記入を終えた。
「これから二十人の武装巡査を連れて、直ちに三宝庵に行け。マー・ロンとタオ・ガンが、君の指揮監督にあたる。二人は私のところの最良のメンバーで、そういう仕事に豊富な経験を積んでいる。この許可証があれば、君たちはその界隈のどこの家でも、はいって捜査を行う権限が得られる!」
判事は書類に政庁の大きな印を捺してから、マー・ロンに渡した。
マー・ロンは、さっそくそれを袖にしまった。そして、三人はいっせいに飛び出して行った。
ディー判事は、熱い茶を土瓶で持ってくるように命じた。まず一杯を飲み干してから、彼はホン警部に語りかけた、「巡査長が、失踪した娘についての情報を多少なりと得られたのはよかった。ウーの絵に表わされていたのが彼女だとわかってみると、ファンの妹娘の玄蘭にも似たところがあると感じられる。そのことにすぐ気づくべきだったな!」
「似通っていることに気づいていたのは、ただ一人」と警部はとぼけて言った、「わが勇敢なる戦士のマー・ロンでしたよ、閣下」
判事はにやりとした、「どうやらマー・ロンは、君や私よりも、ずっとよく玄蘭を観察していたようだな!」
そのあと、判事の顔はまたいつもの厳しい表情にもどった。彼はのろのろと言った。「ともかく見つかったとしても、あの哀れな娘がどんな状態で発見されることやら。われらの激しやすい友の芸術家的詩語を、日常語に移してみれば、白蘭が寺を訪れた時、彼女はありきたりの寝間着を着ていたことは明らかだ。そのことは彼女が寺のごく近くで、たぶん低劣な好色漢の手に囚われていることを意味する。娘が秘かに家を離れたと知ったら、彼は腹を立てて娘を殺すかもしれぬ。いつの日か、彼女の死体が空《から》井戸で発見され……」
「ところで」とホン警部が口をはさんだ、「これはわれわれを、将軍殺害事件の解決のほうへ近づけてはくれません。ウーを拷問にかけて問いただすべきではないかと思うのですが」
警部の二つ目の発言に対して、判事は反応を示さなかった。彼は言った。「一つ、面白いことに気がついたよ。公判の席で私が事件の陰の女について触れたとき、ウーもディンも顔色を変えた。ディンなどは、確かにびくびくしていたな。それが巡査長の娘だと聞いた途端に、ディンはありありと安心した。将軍殺害事件の陰にも女がいることを、これは意味している。明らかに、ディンが自作の情熱的な詩にうたっているのと同一人物だ」
そっと戸を叩く音がした。
ホン警部が立って行って、戸を開けた。玄蘭がはいってきた。
彼女は判事の前に、深く頭を下げた。「閣下、父が見あたりませんでしたので、思い切ってひとりでご報告に参りました」
「ほんとうによく来たね、お嬢さん!」判事はいそいそと言った、「ちょうど、ディンの家のことを話し合っていたところなのだ。さて、ディンの若主人は、外で時間を過ごすことが多いのかな?」
玄蘭は、小さな頭をきつく振った。
「いいえ、閣下、召使たちは、もっと外出してほしがっております。あの方はほとんど一日中、家の中をうろうろしていて、重箱のすみをつつくように、失策や手落ちがないかと探しまわっているのです。夜おそく、あの方が忍び足で廊下を歩いているのを、女中が見かけたこともあります。きっと、召使たちが賭事をしているかどうか、探っていたのです!」
「私が今朝いきなり訪問したことの、反応はどうだった?」と判事が尋ねた。
「閣下のおいでを召使が知らせてきた時、私は若旦那さまの部屋におりました。あの方は奥さまと二人で、葬儀費用の見積り書を書いていました。若旦那さまは、閣下が再びおいでになったことを、たいそう喜んで、奥さまに、父上の書斎の最初の検証はうわつらだけだといったでしょう、判事がまた来てくれてよかった、手掛りをいくつも見落としているにきまってると思うんだ、と言いました。奥さまがしぶい顔で、知事さまより自分のほうが賢いなんて考えるものじゃありませんわと言うと、若旦那さまは急いでお出迎えに出て行きました」
判事は黙って茶をすすっていたが、やがて言った。「そう、あなたのしてくれた働きを、ありがたいと思っている。あなたの目と耳は鋭いね! ディン邸には、もどらないでよろしい。今日の午後、姉さんについていくらか情報があったので、お父さんが捜しに行っている。こんどはあなた方の宿舎に行っていなさい。お父さんがいい知らせを持って帰ってくることを、心から願っている!」
玄蘭はいそいそといとまを告げた。
「どうも解《げ》せませんな」とホン警部が論評した、「ディン学士が、あまり夜の外出をしないとは。どこかに秘密の愛の巣を構えていて、そこで未知の女性と逢引きすると考えたいところですが」
ディー判事はうなずいた。
「逆に、とうに終わってしまった古い情事かもしれないぞ。感傷的な人間には、過去の思い出を守り続けるという、不運な癖がある。だが、玄蘭が私に見せた原本は、ごく最近書かれたように見えた。タオ・ガンが全部の写しをとったが、何か女の身元の手掛りはあったのかな?」
「いや、ございません。ですが、タオ・ガンはおおいに楽しんでおりました。しきりとあごをなでては、腕によりをかけて、見事な字で書き上げました」
しようがないなというふうに微笑むと、ディー判事は机上の書類の山の中から、タオ・ガンの、図案入りの用箋にきちんと書かれた写しを探し出した。
肘掛椅子の背にもたれて、判事は読み始めた。しばらくしてから、彼は言った、「はてさて、どれもみな同じことを、手を替え品を替えて表現しているのだな。ディン学士はぞっこん参っているのだ。まるで詩というものが、ほかの用には立たないとでもいうようだよ。聞きたまえ。
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飾り鋲打ったる扉を鎖し 臥床《ふしど》の帳《とばり》たれこめて
繍《ぬ》いある衾《ふすま》は 柔らかき愛の住み処《か》
この忘我の境にては 礼も節も如何にせん
恋い焦がるる者たちに 法の掟《おきて》もあらばこそ
かの女《ひと》の蓮苞《れんぽう》の足 かの女《ひと》の榴花《りゅうか》の唇《くち》
かの女《ひと》のまろき向股《むかもも》 かの女《ひと》の初雪《はつゆき》の胸――
誰か言わん 一点のしみの満月を損ねしと
そは完璧の珠玉の一点のきず
誰か賞でん 極西の地のたぐいなき香を
かの女《ひと》の肢体の香に 心奪われ惚《ほう》け果《は》て
かかる美を目前に見て、なおそここことさすらい彷徨《さまよ》う愚かしさよ……
[#ここで字下げ終わり]
判事はうんざりして、紙を机の上にほうり出した。
「韻《いん》は合っている」と彼は冷淡に言った、「言えるのは、その程度さ!」彼はゆっくりと、長いあごひげをなでつけた。
ふいに、彼は体をこわばらせた。声高に読んでいた紙をとり上げると、熱心に目を走らせた。
ホン警部は、ディー判事が何かを見つけ出したことがわかったので、席を離れ、判事の肩越しにのぞきこんだ。
ディー判事は、握り拳で机をガンと打った。
「執事の証言を見せてくれ、ディン邸で予備審問をした時のだ!」
ホン警部は、ディン将軍殺害事件のファイルを入れてある、革製書類箱を運んで来た。そして、封印した書類をより出した。
ディー判事は、頭から終わりまで目を通した。
書類を箱にもどすと、彼は椅子から立ち、室内を行ったり来たりし始めた。
「恋に落ちると、信じ難いほど愚かになるものだ!」と判事はいきなり叫んだ、「将軍殺害の謎の半分は解けたぞ! なんと不正な、あさましい犯罪だ!」
[#改ページ]
第十六章
マー・ロンは認可地域を内偵して
不法な陰謀に加担することになる
日暮れを知らせる第一鼓が鳴り、マー・ロン、タオ・ガン、巡査長の三人は、東区の区長宅に集合した。蝋燭の明かりに照らされた彼らの顔は、げっそりと疲れきってみえた。彼らは黙りこんだまま、四角の机を囲んで座った。
彼らはその地域をしらみつぶしに調べたが、何の収穫もなかったのだ。
マー・ロンが、巡査を七人ずつ三隊に分けた。一隊はタオ・ガンが率い、もう一隊はファン巡査長、三つ目の隊はマー・ロン自身が率いた。人目に立たぬよう、二、三人ずつの組になり、べつべつの道筋をとってその地区にはいりこんだ。これらの組がいろいろな口実を使って、商店や人の集まる場所などで聞き込みをした。そのあと、個人の家にはいり、徹底的に捜索した。
巡査長の一隊は盗賊の秘密の集まりに踏みこんだ。マー・ロン隊は賭場を蹴散らしたし、タオ・ガンはもぐりの待合茶屋で、二組の男女の邪魔をして驚かせた。しかし、白蘭の痕跡は一つも見つからなかった。
タオ・ガンは、待合を経営している女にしつこくたずねた。もし娘がかどわかされてどこかに押しこめられるようなことがあれば、遅かれ早かれこういう女たちの耳にはいるものだと知っていた。けれども、手を替え品を替えて小半時も質《しっ》したうえで、彼女が白蘭については何も知らないと確信した。ただ、主だった市民の何人かについて、妙な話を多少聞きこんだだけだった。
結局、彼らは正体を現して、各戸に組織的調査を行い、区長が保管している住民登録簿と照合して、住人を確かめた。しかし、もう捜査は失敗に終わったことを認めざるを得ないところに来ていた。
ややあって、タオ・ガンが言った。「まだ可能性は一つだけある、つまり、この近辺の家に、娘さんは数日だけしかいなかったということだよ。彼女がこっそり寺へ出かけたと知った時、捕えていた人物は危険を感じて、彼女を市内のもぐりの待合茶屋に移動させたか、売春宿に入れたかしたのだ」
ファン巡査長は、意気消沈した様子でかぶりを振った。
「奴らがあの子を売春宿に売るなどということは、とても考えられません。私らは生れてからずっとこの土地で暮らしているのですから、そういう場所に行く客が娘を知っていて私に知らせるだろうと、覚悟しなくてはできないことです。
もぐりの待合茶屋なら、いちばん可能性がありますね。だが、それを全部調べ上げるには、何日もかかる」
「北町とかいうのがあると聞いたぞ」と、マー・ロンが口をはさんだ、「市の北西の隅にある営業許可地区で、中国人はあまり行かないそうじゃないか」
巡査長がうなずいた。
「あれはウイグル族とかトルコ族とか、国境を越えてくる蛮族だけが利用する、低級の場所です。妓《おんな》は寄せ集めのごたまぜ集団で、北方の進貢国から来た金持ちの蛮人の族長や貿易商がたくさん来ていて、このまちが繁昌していたころの置き土産ですよ」
マー・ロンは立ち上がって、帯を締めなおした。
「おれはこれからそこへ行く」と、彼はぶっきらぼうに言った、「疑われないように、一人で行くよ。今夜おそく、政庁で会おう!」
タオ・ガンは左頬から垂れた三本の毛をたぐっていたが、考えこみながら言った。
「それはいい考えだ。われわれは早急に行動したほうがいい。明日までには、このニュースが全市に広まってしまうだろうからね。私は南町へ行って、妓楼の主人たちと話をしてみよう。あまり期待はしていないが、その可能性だって無視してはいられない!」
巡査長は、自分もぜひマー・ロンについて行きたいと言った。
「まち中のかすみたいな奴らが集まっている場所なんです。一人で北町へ行くのは、たちまち殺されに行くようなものですよ!」
「気にはしないさ!」とマー・ロンは言った、「そういう悪党をどう扱うかは、知っている!」
帽子をタオ・ガンに投げ渡し、汚れた布切れで頭をゆわえた。それから、長衣のすそを帯の中にたくしこみ、袖をまくり上げた。
巡査長の抗議をさえぎって、マー・ロンは街に出た。
大通りはまだたくさんの人出だった。だが、マー・ロンは先を急いだ。図体の大きな無頼漢が近づいてくるのを見ると、どんな通行人もあわてて道を開けた。
鼓楼の市場を横切ると、貧しげな区域にはいったことがわかった。狭い通りをはさんで、低い、いまにもつぶれそうな家並みが続いた。行商人がそこここで油灯をともしていたが、商品は安い粉の蒸しパンに粕酒《かすざけ》くらいのものだった。
北町に近づくにつれ、風景はずっと活気に満ちてきた。異国の風変わりな服装の人々が酒場の辺りをぶらつき、聞いたこともない耳ざわりな言葉で、声高に話し合っている。彼らはマー・ロンを見たが、意に介しないふうだ。ここでは、こんな芳しからぬ格好も日常茶飯事なのだ。
角を曲がると、色とりどりの油紙の提灯でけばけばしく照明された、一列の建物が目にはいった。琵琶をかき鳴らす音が聞こえ、続いて横笛のきしるようなかん高い音色が響き渡った。
ふいに、ぼろぼろの上っぱりを着たやせた男が暗がりから立ち現れた。彼は片言の中国語で、「ウイグルのお姫さん、旦那、好きか?」と言った。
マー・ロンは立ち止まって、その男を頭から足の先まで見た。男は取り入るようににやつき、不ぞろいな歯並びをむき出した。
「ぐじゃぐじゃになるまでぶちのめしてみたって、今よりみっともねえ面《つら》にはなりようがねえな!」とマー・ロンはてきびしく出た、「さっさと先に立って、いいとこへ御案内しろい! ただし、安いとこだぞ、わかったか!」
そう言う一方で、マー・ロンはぐいと相手の向きを変え、どまんなかへ一蹴りくれた。「ひえっ」と相手は泣声をあげ、あわててマー・ロンを裏道へ案内した。
両側に平屋が並んでいた。その正面は、かつては漆喰《しっくい》細工でにぎやかに装飾されていたのだが、雨風に打たれて色が洗い流されたまま、誰も顧みるものがなかったのだ。
油じみたつぎだらけの垂れ幕が、戸口をかくしていた。けばけばしいぼろ服を着た、厚化粧の妓《おんな》たちが、垂れ幕を掲げて、中国語と外国語ちゃんぽんで誘いかけた。
案内人はマー・ロンを、他よりはちょっぴりましな家に連れて行った。大きな紙提灯が一対、戸口の上にぶらさげてあった。
「旦那、ここでさあ!」と案内人は言った、「みんな生粋のウイグルのお姫さんですよ!」そのあと猥《みだら》な一言をつけ加えると、汚い手の平をつき出した。
マー・ロンは男の咽首をひっつかむなり、その頭を、がたぴしの扉にどんとぶちあてた。
「ご到着の合図だ! 手数料はこの店からもらうさ。二重取りなぞするんじゃねえや、悪党めが!」
戸が開いて、上半身裸の丈の高い男が現れた。その頭はきれいに剃り上げられていた。彼はマー・ロンを、片目でぎらっとにらんだ。もう一方の目のあるべきところには、赤い醜い傷跡が走っていた。
マー・ロンは荒っぽく言った。「この畜生めが、余分のお駄賃を、まき上げようとしやがってさ!」
相手はたけだけしく、案内人にどなりつけた、「失せろ! あとで手数料をとりに来い!」それからマー・ロンに向かってぶすりと言った、「はいんなせえ、お客人!」
羊の脂の燃えるむかむかするような匂いが、部屋中にこもって息苦しいような暑さだった。地面を踏み固めただけの床には大きな鉄の火鉢が置かれ、石炭が燃えさかっていた。五、六人が、そのまわりに並べた低い木のベンチに座り、銅の串にさした羊の脂身をあぶっていた。男は三人で、上半身は脱ぎ、袋のようなズボンだけの姿になり、色つきの紙提灯の明かりが汗の玉を浮かべた彼らの顔を照らした。その相手の女たちは、赤や緑の平織り地にたっぷりひだをとったスカートをつけ、袖無しの短い上衣を着ていた。髪には赤い毛糸の紐を編みこんで、太く巻き上げてあった。上衣が開いて、裸の胸がのぞいていた。
門番はマー・ロンを詮索するような目で見た。「女一人と食事で五十銭、前金で願いますよ!」
マー・ロンは、ぶつくさ言いながら、袖を探って銭を一|緡《さし》とり出し、骨を折って結び目を解いた。そしてゆっくりと五十銭数えて汚い売り台に並べた。
門番が手を伸ばした。だがマー・ロンは、男が金《かね》をさらいとる前に、すばやくその手首をつかんで、売り台の上に圧えつけて、うなった。
「食い物に、飲み物はつかねえのか?」
マー・ロンがつかんだ手を締めると、男の顔がゆがんだ。
「つかねえ!」と男はうめいた。
マー・ロンは手を放して、乱暴につきのけ、金をかき集め始めた。「ここはやめだ! ほかにだってあらあ!」
男は、消えて行くびた銭の山を咽から手の出そうな顔で見ていた。
「よし、酒を一本つけるよ!」
「そりゃいいや!」とマー・ロンは言った。
彼はくるりと向きを変え、火鉢を囲む人の輪に加わることにした。場所柄に合わせるため、彼はまずもろはだを脱ぎ、両方の袖を腰のまわりでゆわえた。それから、空いた板腰掛に腰をすえた。
人々は、いちめんに傷痕のある厚い胸を気にして、見入っていた。
マー・ロンは、羊の脂身の串を一本、火の上からとり上げた。彼は結構美食家だから、不快な匂いで胃がむかっときた。それでも歯で一片を裂きとって食った。
ウイグル人三人のうちの一人は、ひどく酔っていた。隣に座った女の腰に手を回し、奇妙な節回しの鼻歌まじりに、静かに体を揺すっていた。汗が、頭からも肩からも垂れていた。あとの二人は酔っていなかった。やせてはいたが、そのそいだような強靱な筋肉が、軽視しがたいことをマー・ロンは知っていた。彼らは自分たちの言葉で、早口に語り合っていた。
主人は素焼の小さな酒瓶を、マー・ロンの傍らの床に置いた。
妓《おんな》の一人が売り台に歩み寄った。棚から三弦の琵琶をとり、壁にもたれて、琵琶をつまびきながら歌い始めた。声はかすれ加減だが浮き浮きした調子で、なかなか悪くなかった。妓たちの平織布のスカートがとても薄くて、すけて見えるのが、マー・ロンの目を引きつけた。
戸口から、四人目の妓が姿を現した。粗野ながら、魅力的でなくはなかった。足ははだしで、色の落ちた絹の、緩やかなひだスカートをつけているだけだった。裸の上半身は形がいいが、胸も腕も煤《すす》で汚れていた。今まで勝手場で手伝っていたらしいのだ。
丸い顔に微笑を浮かべて、彼女はマー・ロンの隣に座った。
彼は酒瓶を口に持って行くと、強いアルコールを一口飲みくだした。そして火の中に唾を吐いてからたずねた、「何て名だ、べっぴんさん?」
妓は笑って、かぶりを振った。中国語がわからないのだ。
「ありがたいことに、俺がこのあまっちょとする取引に、お話ごっこははいっていねえ!」とマー・ロンは、向かい側の二人に言った。
二人のうち丈の高い方が大笑いした。そして、ひどい中国語できいてきた。「よその衆、あんた、名前?」
「俺の名はユン・バオだ」とマー・ロンは答えた、「あんたは?」
「かりゅうど、言うね。あんたの、おんな、タルビーと、呼ぶ。あんた、なんでここへ来た?」
マー・ロンは男を意味ありげな目つきで見て、隣に座った女の腿に手をのせた。
「それだけで、わざわざこんなところへ来るか?」と狩人は皮肉っぽく言った。
マー・ロンは腹を立て、相手をにらみつけた。彼は立ち上がった。妓がひっぱって座らせようとしたが、彼はじゃけんに妓を押しもどした。火鉢をまわって行くなり、狩人の腕をとって引き起こし、ふり回しながらわめいた、「根ほり葉ほりきいてどうする気だ、うすぎたねえ畜生め!」
狩人は他の連中を見た。もう一人のウイグル人は、火にのせた脂身に集中していたし、主人は売り台にもたれて、歯をせせっていて、助けにくる様子はなかった。狩人はぶすりと言った。「怒るなよ、ユン・バオ。ただきいただけよ、中国人あまり来ないから」
マー・ロンは手を放し、自分の席にもどった。妓が腰に手をまわして来たので、暫くそれといちゃついた。それから、酒瓶の酒を、一気に空けた。
彼は手の甲で口をぬぐいながら言った。「そうさな、まるで古くからのなじみみたいに、ここで落ち合ったんだから、おまえの質問に答えてやってもいいな。ここから三日のところにある軍隊駐屯地で、俺は何週間か前に、ある奴と親しい同士のいさかいをやらかしたのさ。頭をチョンと叩いたら、頭蓋骨がくだけちまった。おえらい人たちは、こういう出来事をよく誤解するのでな、俺はどこかへ旅に出たほうがいいと考えた。そこでここにいるんだが、実はもとでがほとんど底をついちまったんだ。なにか金になる仕事があるならやる!」
狩人が、さっそくもう一人の、丸い頭にずんぐりした体つきの男に、通訳して聞かせた。二人はマー・ロンを、値踏みをするように見た。
「今のところ、大したことはないよ、兄貴!」狩人が用心深く答えた。
「そうだなあ、娘っ子をかどわかすなんてのはどうだ? いつでも商売になる品物だぞ!」
「このまちじゃ売れねえや、兄貴!」と相手は答えた、「どこの店もいっぱい、あり余っている。何年か前、みんながここ通って行ったときなら、うん、娘一人で銀どっさり。だが今はだめだ!」
「ここに、中国人の娘っ子はいないのか?」とマー・ロンがたずねた。
狩人はかぶりを振った。
「一人も。だけど、その隣にいる女で、何か悪いか?」
マー・ロンは、妓のスカートを引っぱってゆるめた。
「とんでもない。それにどっちにしたって、俺はえり好みするほうじゃねえ」
「ウイグル人の娘をさげすむなあ、おまえさんがたみたいな、いばりくさった中国人だ」と相手は吐き捨てるように言った。
マー・ロンは、いざこざを起こさないほうがいいと思ったので、「俺は違うぞ! おまえさんたちの娘は、それなりにいいさ!」そして、妓がまた肌を包み直そうともしないのを見て、言い足した、「お上品ぶってもいないしな!」
「そうさ!」と狩人は言った、「俺たちは優秀な民族。あんたがた中国人よりずっとずっとたくましい。いつかは北から西から襲いかかって、あんたがたの国全部を征服してやる!」
「俺の生きてるうちじゃあねえよな!」とマー・ロンは上きげんで言った。
狩人はマー・ロンに、また鋭い目を向けた。そのあと、もう一人のウイグル人のほうを向いて、長い話を始めた。相手は初め激しく首を振っていたが、やがて賛成したようだった。
狩人は立ち上がって、マー・ロンのほうへ来た。そして無造作に妓を押しのけると、マー・ロンの隣に座りこんだ。
「ねえ、兄貴、いい仕事がありそうだ!」と彼は自信ありげに言った、「あんたは、正規軍で使われている武器をよく知っているか?」
おかしなことをたずねるなと思ったが、マー・ロンはいそいそと答えた、「何年か、兵隊だったことがあるんだ! 武器のことならなんでも知っている!」
狩人はうなずいた。
「もうじき、ちょっと出入りがある。有能な男にはたんまりもうけになる!」
マー・ロンは、手を開いてつき出した。
「現なまじゃないよ」と狩人は言った、「だが、二、三日うちに始まれば、いくらでも分捕り放題だ!」
「いつでも来い!」マー・ロンは夢中になって叫んだ、「どこへ行けばいいんだ?」
狩人はまた仲間と早口で語り合ってから、立ち上がった。「行こう、兄弟、頭《かしら》のところへ連れて行く!」
マー・ロンはとび立って、長衣の肩を引っ張り上げた。妓を優しく叩いて、「もどって来るからな、タルビー!」と言った。
狩人を先頭に立てて、一同は店を出た。
彼はマー・ロンを連れて、暗い裏通りを二つ抜け、廃墟のような一画にはいった。一同は、小さな掘立小屋の前で止まった。
狩人が戸を叩いたが、返事はなかった。
しようがないなという顔で、彼は戸を開け、マー・ロンを招き入れた。
彼らは、羊の皮をかぶせた低い丸腰掛に腰を下ろした。低い木の寝椅子のほか、室内には何もなかった。
「頭《かしら》はすぐ帰ってくる」と狩人は言った。
マー・ロンはうなずいて、のんびり待つ覚悟をした。
いきなり戸がぱっと開いて、肩幅の広い男がとびこんできた。彼は狩人に向かって、興奮して叫んだ。
「何をキイキイ言ってるんだ」とマー・ロンがたずねた。
狩人はおびえているようだった。
「巡査たちが、東区に手入れにはいったそうだ!」
マー・ロンはとび上がった。
「俺もずらからないと!」と彼は叫んだ、「奴らがこっちへ来たら、俺はおしまいだ! 明日もどって来るよ。このひでえ場所は、どうしたら見つかるかな」
「オロラクチーとたずねればいい!」と相手は答えた。
「じゃ、行くぞ! あの娘っこは、お預けだ!」
マー・ロンはいっさんに駆け出した。
彼がもどった時、ディー判事は一人で執務室に腰をすえ、何か考えふけっているらしかった。
マー・ロンを見ると、ディー判事はむずかしい顔で、「タオ・ガンとファン巡査長が、ほんの少し前にもどってきた。捜査は不首尾だったということだ。タオ・ガンは南町へ行ったが、この半年というもの、新しく娘を買い入れた者はいない。北町の営業許可区域の辺で、なにか白蘭の手掛りはあったか?」
「誘拐された娘を指すようなことは何も。ただ、変な話を聞きました」
そこで彼は判事に、狩人とタルビーにまつわる冒険の全貌を語った。
ディー判事は、気がなさそうに聞いていた。「その悪漢どもは、他の部族に襲撃をかけるのに、手を貸してほしいんだろう。もし私が君なら、彼らとともに河の向こうの平原まで、危険を冒しに行こうとは思わないね!」
マー・ロンは疑わしげに首をひねっていたが、判事は続けた、「明朝は、私とホン警部がアン総督の山荘へ行くのに、ついてきてほしい。だが明日の夜はまた北町に行ってよい。その蛮族の悪党の首領について、もっと調べてみてくれたまえ」
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第十七章
アン夫人は再度政庁へ足を運ばれ
古い屋敷で奇怪な事実を発見する
ディー判事は早朝から、総督の山荘に出かけようと計画していた。ところが、ちょうど朝の茶を飲み終えた頃、ホン警部が来て、アン夫人と息子アン・シャンが、求めに応じて判事に会いに来ていると告げた。
ディー判事は、二人を連れてこさせた。
アン・シャンは年齢のわりに背が高かった。率直で知的な顔立ちと自信に満ちた様子が、判事を喜ばせた。
彼はアン夫人と息子を、自分の机の向こう側に座らせた。
お決まりの挨拶をとり交わした後に、判事が口を切った、「奥さん、他の仕事にとりまぎれて、あなたの訴件に思うように時間をさけないのを、申し訳なく思っております。総督の画巻の謎解きにはまだ成功しておりません。ですが、あなたのご夫君が在世であられた頃の、ご家庭内の状況がもっとよくわかれば、問題が解きやすくなるという感じがしております。そこで、私自身の参考とするために、二、三の質問をさせていただきたい」
アン夫人は頭を下げた。
「まず」と判事は続けた、「長子アン・キー殿に対する総督のご態度に、不審を感じております。あなたの証言では、アン・キーは無情な男だということです。総督は、子息が曲がった性格を持っていると覚っておられましたか?」
「これだけは申し上げておかなくてはならないと存じますのですが」とアン夫人は答えた、「父親が死去いたしますまで、あの人はたいそう正しくふるまっておりました。後に見せたように残酷になれるということを、私は想像もしておりませんでした。夫はいつも優しい口ぶりで、アン・キーのことを話題にいたしました。アン・キーは勤勉な人柄で、家の資産の管理では、たいへんよく手助けしてくれると、いつも申しました。そしてアン・キーは、父親のあらゆる希望に叶いたいと努力する、模範的な息子であるという印象を、私はうけておりました」
「次に、奥さん」とディー判事は先を続けた、「この蘭坊《ランファン》での、総督のお友達のお名前を二、三挙げていただきたい」
アン夫人はとまどいを見せたが、やがて答えた、「総督はお付き合いがお好きでなかったのでございます、閣下。午前中はいつも農園ですごされ、午後は独りで迷路にはいって、一時間ほどそこにいらっしゃいました」
「あなたは、そこにはいったことはおありか?」と判事が口をはさんだ。
アン夫人はかぶりを振った。
「いいえ。あそこはひどくじめじめしていると、いつも言っておいででした。その後は屋敷の裏の園亭でお茶を召上り、読書したり、絵を描いたりなさいました。リー夫人という方を存じておりますわ。たいへんに才能のある素人画家です。総督はよくリー夫人と私を園亭に呼び入れ、ご自分の絵について語り合いました」
「リー夫人は、まだご存命か?」と判事はたずねた。
「はい、そう思います。以前は、市内の私どもの家から遠からぬ所にお住まいで、よく私に会いに来てくださいました。結婚後まもなく夫をなくされた不運をお持ちの、とても優しいご婦人です。昔、あの方が私の家の畑に近い田んぼを歩いていらっしゃった時にお目にかかり、私をお気に召したようでした。総督が私を妻といたしました後も、あの方は友情を持ち続け、私の夫がそれを応援してくれました。
総督は、とても思いやりのある人でしたわ、閣下。会ったこともない人々で満ちあふれている大邸宅の女主人になって、私が心細く思うだろうとわかってくれました。リー夫人にときどき訪ねてくるよう勧めてくれたのは、そのためだと思っております、総督は概して訪問者を喜びませんでしたのに」
「総督が死んだ時、リー夫人は絶交したのですか?」と判事はたずねた。
アン夫人は赤くなった。
「いいえ、その後リー夫人と会いませんでしたのは、すべて私の落ち度でございます。アン・キーに屋敷を追い出された後、私はひどく恥ずかしい気持になり、すぐ父の農園に帰りました。その後、リー夫人にお会いしようとしませんでした」
彼女の心がひどく動かされたらしいのを見て、判事は急いで言った、「で、つまり総督は、蘭坊には全く友人がおられなかったわけですか」
アン夫人は、心を静めて、うなずいた。「夫は一人でいるのが好きでした。でも、いつでしたか、この市の近くの山中に、とてもお年を召された親友が住んでいると話してくれたことがあります」
ディー判事は身をのり出した。
「それは何という人ですか、奥さん」
「総督は名前を申したことはありませんが、たいへんに尊敬し、好意を抱いているという印象をうけました」
ディー判事は、落胆の表情を示した。
「これはとても大事なことです。奥さん、そのお友達について、なにかもっと覚えていることはないか、思い出してみてください!」
アン夫人はゆっくりと茶を飲んだ。「思い出しました。一度、その人が総督を訪ねて来たことがあるはずです。ずいぶんとおかしな出来事でしたけれど。夫は毎月一回、小作人の訪問を受けることにしておりました。苦情を申し立てたり、相談事があったりする人は、誰でもその日に来てよかったのです。
あるとき、たいへん年とったお百姓が、院子《なかにわ》で待っておりました。総督はそれを見るとすぐ駆けよって、丁寧にお辞儀をしました。そしてさっそく書斎に案内し、二人きりで何時間も閉じこもっておりました。それが総督のお友達で、たぶん隠者なのだろうと思いましたが、たずねてはみませんでした」
ディー判事は、あごひげをなでていた。少し間をおいて、判事が言った、「ご夫君の書かれたものを、なにかお持ちだろうと思うのだが」
アン夫人はかぶりを振り、あっさりと言った、「総督が私を妻としました頃、私は読むことも書くこともできませんでした。夫が自分で少し教えてくれましたが、もちろんのこと、書を味わうほどには上達することはありませんでした。アン・キーの屋敷でしたら、総督の書かれたものが、なにかあるはずでございます。閣下は、あちらへお聞きになったほうがよろしゅうございましょう」
ディー判事は立ち上がった。
「奥さん、あなたがあらゆる困難を耐え忍んで来られたことに、感心しております。総督の絵に秘められた伝言を発見するため尽力いたしますので、ご安心ください。ご子息については、お喜びを言わせていただきたい。たいそう聡明な少年とお見うけする!」
アン夫人とアン・シャンは、立ち上がって深々と頭を下げた。ホン警部が二人を送り出した。
もどって来るなり、彼は言った、「閣下、総督の手書きの見本を手に入れるのが、何よりも大事なようですな! 首都へ問い合わせることができましょう。国務省には、総督が帝《みかど》に提出した覚え書の原本がたくさんあるはずです」
「それには何週間もかかってしまう」と判事は答えた、「たぶんリー夫人が、総督の描いた絵を持っていよう。彼女がまだ生きているかどうか、またどこに住んでいるか、調べてみてくれたまえ。アン総督の友人だったという隠者についての情報は、あまりに漠然としていて、見つかるかどうか望みが持てない。たぶん、死んだだろう」
「今日の午後は、ディン学士の訴件を審議するおつもりですか?」と警部がたずねた。
昨夜ディー判事は、ディン学士の詩の中で見出したことについてあれ以上詳しい説明を与えなかったので、警部は知りたくてたまらなかった。
ディー判事はすぐには答えなかった。それで、腰を上げてから言った。「実を言うとだね、警部、まだ考えが固まっていないのだ。山荘に出かけてみてからのことにしようよ。乗物が用意できているかどうか見てきてくれたまえ。それから、マー・ロンを呼んでおきなさい!」
ホン警部は、それ以上頑張っても仕方がないと思った。彼は部屋を出て、ディー判事の私用の輿《こし》と、輿丁《こしかつぎ》六人を調えさせた。
判事は輿に乗った。警部とマー・ロンは馬にまたがった。
彼らは市の東の城門を出て、稲田の中の細い道を行った。
台地に近づいたところで、マー・ロンが農夫に道をたずねた。一番目の道を、右に曲がって行けばいいということらしかった。
わき道は、全く手入れされていなかった。雑草や灌木が伸び放題で、中央に踏み跡を一すじ残しているきりだ。
輿丁が輿をおろした。判事が降りたった。「閣下、歩いて行ったほうがよさそうです」とマー・ロンが言った、「輿はここを通って行けません」
そう言いながら、自分の馬の手綱を、木に結びつけた。ホン警部が、それにならった。
判事を先頭に、彼らは一列縦隊で進んだ。
何度も曲がったすえに、突然大きな門構えの前に出た。両開きの扉は、かつては金や朱の漆で覆いつくされていたのだが、今はそのかげもなく、ただひびだらけの板戸にすぎない。鏡板の一か所が外れて垂れ下っていた。
「誰だってここにはいれる!」判事があきれて叫んだ。
「それでも、蘭坊にここほど安全な所はありません」とホン警部が言った、「最も豪胆な盗賊といえども、この敷居をまたぐ勇気はありますまい。ここは幽鬼の土地です!」
判事はきしむ扉を押し開け、かつては美しい庭園であった場所にはいった。
そこはいまや荒れ野原だった。そそり立つ杉の太根が舗石を突き破り、下生えは密生して、道をふさいでいた。あたりは深いしじまにとざされ、鳥さえ歌わなかった。
径《こみち》は灌木の茂みの中に消えてゆくようだった。マー・ロンが繁った草むらをかきわけて、判事を通らせた。小高く広い土壇をめぐらせて建つ、荒れ果てた屋敷が姿を現した。
かなりの広さの平屋建てで、昔は堂々としたものだったに違いない。今では屋根のそこここが抜け落ちて穴があき、扉や柱の彫刻は雨風に打たれてすっかり壊れてしまった。
マー・ロンが崩れた階《きざはし》を登って土壇に上がり、あたりを見まわしたが、誰もいない。「客人がお着きだぞ!」と彼は大声で叫んだ。
こだまのほか、返ってくるものはなかった。
人々は大広間にはいった。
壁から漆喰がはがれて下がっていた。あて布団もないこわれた家具が、いくつか片隅に寄せられている。
マー・ロンはもう一度叫んだ。だが、やっぱり返事はなかった。ディー判事は、古い椅子に恐る恐る腰を下ろした。「君たち二人で、その辺を見てくれたまえ。老人夫婦は、たぶん家の裏手の庭で仕事でもしているのだろう」
ディー判事は腕組みした。その地を覆う気味の悪いほどの静けさに、彼はあらためて驚嘆させられた。
ふいに、駆けてくる足音がした。
マー・ロンとホン警部が、広間へいっさんに駆けこんできた。
「閣下!」とマー・ロンが荒い息を吐いた、「老人夫婦の死体を発見しました!」
「よしよし」と判事は性急に言った、「死人は危害を加えないんだ。さあ、見に行こう!」
薄暗い廊下を抜けると、松の古木に囲まれた、かなり大きな庭に出た。中央に八角形の園亭が建っている。
一隅にある花をつけた木蓮の木を、マー・ロンが、黙って指さした。
ディー判事は土壇の階を降り、丈の高い草を分けて行った。木蓮の真下に置かれた竹の寝椅子に、二つのむくろがあった。
遺体はもう何か月も前から、そこに横たわっていたに違いない。骨が朽ちてぼろぼろになった長衣を突き破り、灰色の頭髪はもつれて、しゃれこうべにはりついていた。二つは寄りそって横たわり、腕を胸に組み合わせていた。
ディー判事はかがみこんで、熱心にむくろを調べた。
「二人の老人は、自然死をとげたというふうに見えるな。片方が老衰のため倒れた、もう一人もすぐそばに横たわって死んだのだと思う。
これらの死骸は巡査に運ばせて政庁で屍体検証を行わせるけれども、格別変わった発見があるとは思わないよ」
マー・ロンが憂鬱そうに頭を振って、言った、「ここで何か情報が得られるとしても、みんな自分たちでやらなくちゃならなくなったんだ!」
ディー判事は、園亭のほうへ歩いて行った。窓の手のこんだ格子細工から、そこが昔はたいそう風雅な建物であったことがうかがわれた。今ではただむき出しの壁と、大きなテーブルが一つあるばかりだ。
「ここで、老総督は絵を描き、読書をしていたのだ」とディー判事は言った、「後ろの塀のあの門は、どこに続いているのだろう」
一同は園亭を出て、のんびりと木の門に向かった。マー・ロンが扉を押し開けた。はいってみると、そこは石を敷きつめた庭だった。
正面に、緑の葉むらを圧して、壮大な石門がそびえ立っていた。曲線を描く屋根は青く輝く瓦で美しく飾られ、左右の障壁は、密植された樹木と繁茂する灌木とで形成されていた。ディー判事は、頭上の漆喰壁にはめこんである碑石を仰ぎ見た。
連れをふり返って、彼は言った。「これが有名な総督の迷路の入口らしいな。あそこに記されている詩句を見たまえ。
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曲径は くねくねと
百里を 越えて行く
されど 心への道は
千分の一寸に満たぬ」
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警部とマー・ロンは、熱心に見つめた。碑文は達者な草書体だった。
「私にはひと文字もわかりません!」とホン警部が驚嘆した。
ディー判事にはそれも耳にはいらぬようだった。彼はそこに立ったまま、食い入るように碑文を見つめていた。
「これほど見事な書を見たことがない!」と彼は嘆息した、「あいにく、署名はひどく苔で覆われてしまって、よく読めない。そうだ。鶴羽隠士、だ。変わった名前だな!」
判事は少し考えこんでから、言葉を続けた、「そういう名前の人物について、聞いた覚えはない。だが、それが誰にせよ、超一流の書家だよ! こういう書を見るとね、君たち、古人がすぐれた書を〈うずくまる豹の緊張感、雷雨の中に戯れる龍の荒々しさ〉にたとえて賞賛するわけが理解できるのだ」
ディー判事は、なおも感じ入って頭をしきりに振りながら、門をくぐった。
「人の読める字にしてほしいよ!」とマー・ロンは警部に耳打ちした。
正面には、年古りた杉の並木があった。その太い幹の間は、大きな丸石といばらで埋め尽くされ、木々の梢は重なり合って、日光をさえぎっていた。
腐った葉の匂いで息がつまりそうだった。
右手には曲がりくねった二本の松の木が径《こみち》の両側にあり、自然の門を形づくっていた。その一方の根方に「入口」と記した石板が立っていた。その先はじめじめして薄暗いトンネルがひとしきり続き、やがて曲がって見えなくなっていた。
この緑のトンネルをのぞきこんでいた時、ディー判事はにわかに不思議な胸騒ぎを覚えた。
彼はゆっくりと向きを変えた。左手にはもう一つのトンネルの口があった。たくさんの丸石が、杉の木の間に積み上げられ、その一つに「出口」と記されていた。
マー・ロンとホン警部は、判事の後ろに来て立った。彼らは口をきかなかった。彼らもまたこの場所のぞっとするほど不気味な空気を感じとっていたのだ。
ディー判事は、また入口をのぞきこんだ。トンネルから冷たい気流が吐き出されているようだ。判事は骨まで凍るのを感じた。だが、大気は全く動かず、木の葉一枚ゆらぎはしない。
ディー判事は目をそらしたかったが、薄暗いトンネルは彼をひきつけて離さなかった。はいって行かずにいられない欲求を感じた。曲がり角の向こうの、緑の色が闇に消えるあたりに立ちはだかり、彼を手招きする老総督の丈高い姿が見えるような気がした。
やっとのことで、判事は己れをとりもどした。彼は邪気に満ちたこのあたりの空気から逃れるために、朽葉の厚く積もった地面に、強いて視線をおとした。
一瞬、心臓が止まった。まさしく彼の足許に、ぬかるんだ一帯の真中に、小さな足跡が一つ、トンネルのほうを指していた。この異様な道標は、彼にはいれと命じているようだった。
ディー判事は一つ深い息をつくと、にわかに体の向きを変え、さりげなく言った。「さて、相応の用意もなくこの迷路にはいるのはやめたほうがいいだろう」
そう言いながら、彼は門をくぐり、石で畳んだ庭をよぎって庭園にもどった。日の光がこれほど暖かく迎えてくれたことはなかった。
ディー判事は、松よりも遥かに高くぬきんでて立つ杉の巨木を見上げ、マー・ロンに話しかけた。「この迷路の大きさや形について、せめておおよその概念を得たい。そのために中にはいることもあるまい。もし君がこの木に登れば、全体を見渡すことができるはずだね」
「お安い御用です!」とマー・ロンは叫んだ。
彼は帯を解き、長衣を脱いだ。そして、一番下の枝にとびついて、自分の体を引き上げた。まもなく彼は茂った枝葉の中に消えた。
ディー判事とホン警部は倒木に腰を下ろした。二人とも口をきかなかった。
頭の上で大きな音がして、マー・ロンがとび降りた。彼は情けなさそうに下着のかぎ裂きを見つめた。
「まっすぐてっぺんまで登りました、閣下、そこから迷路が見渡せました。円形で、何|畝《せ》(一畝は約一アール)もあり、山裾にまで届いています。ですが、構図は全然わかりません。どこもかしこも梢のほうはふさがってしまっていて、径《こみち》が切れ切れに見えるだけなんです。ところどころに、薄くもやがかかっています。中にはよどんだ水たまりがいっぱいあるのでしょうねえ」
「園亭か、小さな建物の屋根が見えなかったか?」と判事がたずねた。
「いいえ」とマー・ロンは答えた、「ただ緑の木の葉の海が見えただけです!」
「おかしなことだ」とディー判事は考えこんだ。「総督はあの迷路で多くの時間をすごした。園内に小さな書斎か工房を持っていたと見ていいはずだ」
判事は立ち上がり、長衣をととのえた。
「こんどは、邸宅そのものをよく調べてみよう」
一同は再び庭の園亭と、木の下の動かぬ二体のそばを通り、土壇に上がった。
彼らは大小さまざまの空き部屋を、いくつも見て歩いた。木造部分はほとんど腐ってしまい、漆喰が落ちて積み石が露われていた。
判事が薄暗い通廊にはいって行くと、先を歩いていたマー・ロンが呼んだ。「閣下、閉まっている戸がありますよ!」
ディー判事とホン警部が寄って行くと、マー・ロンは、きちんと修理されている大きな木の扉を指さしてみせた。
「初めてここで、きちんと閉まっている戸を見たな!」と判事が言った。
マー・ロンが肩をあてて押し、中へ倒れこみそうになった。蝶番に十分油を含んでいた扉は、軽く両側に開いた。
ディー判事は足を踏み入れた。
部屋にはただ一つの窓しかなく、しっかりと鉄格子がはまっていた。家具は簡素な竹の寝椅子があるきりだが、床はきれいに掃き清められていた。
ホン警部も室内にはいり、鉄格子の窓に近づいた。
マー・ロンが、急いで外に出た。
「青銅の鐘の下での冒険(『梵鐘殺人事件』)以来」と彼は外から話しかけた、「閉めきったところはひどく苦手なんです。閣下とホン警部が中におられる間、私はこの通廊にいて、お節介屋がその扉でばたんと閉じこめてしまわないように、番をしていますよ!」
ディー判事は苦笑した。
格子をはめた窓と高い天井とを一通り見回すと、判事は言った、「君の言う通りだ、マー・ロン! その戸に鍵をかけられたら、おいそれとはこの部屋から出られまいね」
塵一つ止めぬ寝椅子の滑らかな竹に触れながら、彼は言い添えた、「ごく最近まで、誰かここに住んでいたようだよ!」
「隠れ家《が》としては悪くありません」と警部が評した、「犯罪者の隠れ家にでもなっていたのでしょう!」
「犯罪者か、それとも囚われ人か」とディー判事は考えこみながら言った。
彼はホン警部に、戸口の封印を命じた。
他の部屋部屋も調べたが、何も発見されなかった。もう昼が近いので、判事は政庁にもどることに決めた。
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第十八章
判事は老隠者に相談しようと決め
マー・ロンは本命《ほんめい》を鼓楼で捕える
政庁に帰ると、ディー判事はさっそくファン巡査長を呼んだ。そして、巡査を十人連れて担架を二台持って山荘に行き、門番の老夫婦の遺骸を運んでくるよう命じた。
そのあと、判事は執務室で昼食をとった。
食事中に文書室長を呼びよせた。これは絹商人同業組合の親方が推薦してきた六十過ぎの男で、もとは絹の取引を業としていたが、今は隠居の身、生来この蘭坊《ランファン》に住んでいる。
汁椀を空にしながら、ディー判事はたずねた、「あなたはこの県で、鶴羽隠士という雅号をもっている老学者のことを聞いたことがありますか?」
「閣下がおっしゃるのは、鶴衣先生のことでしょうか」と文書室長は言った。
「同じ人物かもしれないね」と判事は言った、「市の城外に住んでいるはずだ」
「はい、それなら鶴衣先生です、ふつうはそう呼んでおります。私が物心ついて以来ずっと、市の南門外の山の中で暮らしている隠者です。何歳になるのか、誰も知りません」
「その人に会いたい」と判事は言った。
老文書室長は、あやぶむように言った。
「それは難しい相談ですな、閣下! 老先生は、住んでおいでの谷間から決して出られませんし、訪問客もお断りになります。二人の薪拾いが先生が庭仕事をしておられるところに行き合わせたという話を、つい先週聞いておりませなんだら、まだ生きておられるかどうかも知らなかったでしょう。たいそう賢明で、学識のある方なのでございますよ。あの方は生命の霊薬をすでに見つけ出しておられ、やがてはこの地を離れて仙人となられるのだと申す者もおります」
ディー判事は、ゆっくりとあごひげをなでた。
「そういう世捨人の話は、いろいろ聞かされてきた。たいていは極度に怠惰であるか無知であるか以外の何ものでもない。しかし、私はこの人物の比類なくすぐれた筆蹟を見てしまったのだ。そこへ行く道は、どんな道かな?」
「大部分はお歩きにならねばなりません。山道は狭くけわしく、小形の轎子《かご》も通れません」
判事が文書室長に礼を言っているところへ、チャオ・タイがはいって来たが、心配そうな表情だった。
「チェン邸には、何も不都合なことはないはずだと思うが?」と判事が気づかわしげに問いかけた。
チャオ・タイは腰を下ろし、短い口ひげをひねり始めた。「閣下、どう説明したらいいか、たいへん難しいんですが、兵隊たちの間になにか変わった様子があるのです。ほとんど勘なんですがね。二日前から、連中の間にどこかおかしなところが感じられるのです。
リン伍長に確かめてみたところ、彼もやはり気にしていたことがわかりました。どうも納得のいかないほど多額の金《かね》を使っている兵隊たちがいるらしいと、知らせてくれました」
ディー判事は真剣に聞いていた。
「容易ならぬことのようだぞ、チャオ・タイ!」と彼はおもむろに言った、「マー・ロンの、不可解な話を聞きたまえ」
マー・ロンが、北町で聞きこんできた話を繰り返した。
チャオ・タイは、首をひねった。
「面倒なことにならなければいいですがね、閣下。想像の辺境査察軍を作り出したわれわれの策略が、二通りの作用をしたのです。一方では、われわれがチェン・モウを逐《お》い、その配下の者たちを制圧するのを可能にしました。その一方では、この都市を襲撃しようと計画していた蛮族に、守備隊の到着前の今をおいては、もうチャンスはないと信じこませてしまったのかもしれません」
ディー判事は、頬ひげをぐいとつかんだ。「この市を一度《ひとたび》蛮族が襲ってくれば、もう終わりだ!」と彼は憤然として叫んだ。「既に手に負えないで難渋していることが、まだ足りないとでもいうのか! チェン・モウに指示を与えていた、あの疫病神のような謎の人物が、この事件の背後にいるのではあるまいか! われわれの当てにできる人数は、どれくらいいると思う?」
チャオ・タイは、暫く考えこんでから言った。「全部合わせても、五十名そこそこというところでしょうな」
みな黙りこんだ。
不意にディー判事が、机にがんと拳固をぶつけた。
「まだ遅くないかもしれないぞ! チャオ・タイ、策略が二通りに作用したという君の意見で、いいことを思いついたのだ!
マー・ロン、君が昨夜会うはずだったウイグル族の悪党を、早急に捕える必要がある。他の者たちの注意をひかずに、その男を逮捕することができるだろうか」
マー・ロンはそれが気に入ったらしい。大きな両手を膝に置くと、にんまりした。「そういう大仕事をするのに、真昼間というのは最高にぴったしの時間とは言えませんがね、閣下、だが勿論やってのけますよ!」
「チャオ・タイと一緒に、すぐ出かけたまえ!」と判事は命じた、「ただし今回のは秘密検挙だということを忘れるな。もし誰にも知られずに逮捕するのが無理だと見たら、彼に手をつけずに、ここへもどって来るのだぞ!」
マー・ロンは承知した。彼は立ち上がり、チャオ・タイに、ついて来るように合図した。
二人は衛士詰所に行って、片隅に腰を下ろした。そこでしばらく、ひそひそ声で打合せをしてから、マー・ロンが単身で政庁を出た。
彼は政庁の外廓を回って行き、市の北門に到る目抜きの通りをぶらついた。小さな喰い物屋の前でちょっと立ち止まっていてから、はいっていった。
マー・ロンは、前にもここに来たことがあった。亭主は名前を覚えていて、挨拶した。「二階の小部屋で、昼飯を喰わしてくれよ!」と大声で言いながら、マー・ロンは階段を登った。
二階で、彼は空いた角部屋をとった。昼飯の注文を済ませたところへ、戸が開いてチャオ・タイがはいってきた。彼は裏口からここへはいってきたのだった。
マー・ロンは急いで上っ張りと帽子を脱いだ。チャオ・タイがそれを受けとって小さな包みにしている間に、マー・ロンは髪をぼさぼさにし、汚れたぼろ切れをまきつけた。それから、下着のすそを腹巻にたくしこみ、袖まくりした。そそくさと別れを告げると、彼は部屋を出た。
忍び足で階段を下りると、勝手場にはいりこんだ。
「でぶ親爺、そこらに、揚げ菓子の残りはねえのか!」と、火のそばで汗だくの料理人に凄んだ。
料理人は顔を上げた。荒っぽそうな男を見ると、さっそく鍋にくっついているお焼きを渡した。
マー・ロンはぶつくさ言いながら菓子をわしづかみにして、勝手場から裏口へ出た。
二階ではチャオ・タイが昼食に取りかかっていた。見慣れた茶色の長衣に、とがった黒い帽子という政庁の制服で、給仕はそれがさっき店にはいって来た男と別人だとは気づかなかった。
チャオ・タイは、亭主の忙しい時を見計らって出るつもりだった。
一方マー・ロンはその頃、ぶらぶらと鼓楼の近くの市場に向かっていた。
しばらく道端の行商人の台をひやかして回ったすえに、塔に近づいて行った。
鼓楼の基部をなす石造りのアーチの下の薄暗いところには、誰もいなかった。雨の日には行商人が、このアーチの蔭で雨を避けて商品を並べるのだが、今は日のさす戸外のほうがいいのだった。
マー・ロンは肩越しに後方をうかがい、誰も彼に目をつけていないと見てとると、すばやく中に歩み入った。そして、二階に上がる狭い梯子段を登った。
ここは四面に大きく窓を開いた屋根裏部屋のようなものだ。暑い時には涼を求めて人が上がって来ることがあるのだが、今日は誰もいなかった。三階に登る急な梯子は、木戸でふさがれていた。錠はついていないが、かけがねの上に、政庁の朱印を捺した紙片がはりつけてあった。
マー・ロンはそっと封印を破って木戸をこじ開け、三階に登った。
板敷の真中の一段高くなったところに、ばかでかい丸い太鼓がすえてある。四方の吹きさらしのアーチ窓からはいる埃が、厚くつもっている。太鼓は住民に危急を知らせる時だけ打ち鳴らされる。明らかに、もう何年も使われたことがないらしい。
マー・ロンはうんとうなずいて、また急いで下に降りた。基部のアーチの一隅に身をひそめてあたりをうかがい、誰も見ていないと見定めると、すべり出て、北町に向かった。
昼の光の下で見ると、その一画は、夜見るよりさらにみすぼらしかった。人は歩いていなかった。住人たちは前夜の疲れで眠りこんでいるのだろう。
マー・ロンはひとしきり歩き回ったが、昨夜訪れた家を突きとめられなかった。
彼はいい加減に戸を押した。だらしない身なりの妓《おんな》が、木の寝椅子で寝ていた。
マー・ロンは、寝椅子を一蹴りした。妓はのそのそと起き上がった。面白くなさそうな顔でマー・ロンをちらっと見ると、頭をガリガリかき始めた。
マー・ロンはぶっきらぼうに、「オロラクチー!」と言った。
途端に妓はしゃっきりした。寝椅子からはね起きると、仕切りの垂れ布を押して奥にかくれた。そして、汚れた小さな男の子を連れて、また出て来た。マー・ロンを指さしながら、彼女は早口で男の子に話しかけた。それからマー・ロンに向かって何か言った。一言もわからなかったが、彼はうんうんとうなずいてみせた。
小僧がマー・ロンを手招きして、通りに飛び出した。マー・ロンはその後を追った。
少年は二軒の家の間の狭いすき間にすべりこんだ。マー・ロンの大きな体は、そこをくぐり抜けるのに苦労した。二尺四方の小さな窓の下を通った時は、もしこの機会をとらえて、誰かが中から俺の頭を割ろうとしても、こっちは防ぎようがないなと考えた。
着物が釘に引っかかった。マー・ロンは立ち止まり、情けなさそうに大きな裂け目を見つめた。そして肩をそびやかした。どっちにしたって、変装におまけができただけさ。
ふいに、上の方から優しく彼を呼ぶ声が聞こえた。「ユン・バオ、ユン・バオ!」
彼は顔を上げた。タルビーという妓が、真上の小さな窓からのぞいていた。
「元気か、ねえちゃん!」とマー・ロンは機嫌よく言った。
タルビーはひどく興奮しているように見えた。大きな眼でマー・ロンを見つめて、なにかささやきかけようとした。
マー・ロンはかぶりを振った。
「おまえの悩みが何だか知らないけれどな、ねえちゃん、俺はいま暇がない。後でもどって来るよ!」
そう言って、先を急ごうとすると、タルビーは窓越しに手を伸ばして来て、マー・ロンの衿をつかんだ。そして、男の子が去った方向を指さしながら、激しくかぶりを振った。それから人差指で、咽を横に切る形をした。
「そうか、あいつらは人殺しだってんだな、わかってるさ!」マー・ロンはにやりとした、「だが、心配するな、俺は自分の面倒は見られるぞ!」
タルビーは、すばやく彼を窓際に引き寄せた。彼女の頬が、一瞬彼の頬をかすめた。彼女は微かに羊脂の匂いがしたが、マー・ロンはそれも悪くないなと思った。
そのあと、彼はそっと腕をはずさせて先へ行った。路地を抜け出すと、小僧が待っていて、いきりたってぺちゃくちゃしゃべりまくった。マー・ロンを見失ったかと思ったらしい。
彼らはがらくたごみの山をよじ、崩れた障壁をのり越えた。
つぶれそうな掘立小屋の間に一つはなれて建つ、小ざっぱりした白壁の小屋を指さすと、小僧は走り去った。
マー・ロンは、前夜狩人と一緒に訪れた小さな家をようよう見つけた。彼は戸を叩いた。
「はいれ!」と中から声がかかった。
マー・ロンは戸を開けるなり、棒立ちになった。
向こうの壁を背にして、やせた長身の男が立っている。マー・ロンの眼は、その男の右手ににぎられた長い匕首《あいくち》に吸いつけられた。見るも恐ろしいその刃は、いまにも手から放たれようとしている。
張り詰めた一瞬が過ぎると、男は言った。「ああ、おまえか、ユン・バオ! 座れよ!」
彼は匕首を革製の鞘に収め、低い丸腰掛に腰を下ろした。マー・ロンもそれにならった。
「ゆんべ」とマー・ロンは話し始めた、「狩人が、ここへ来るようにって言ったんだ、そんで……」
「黙れ!」と相手はさえぎった、「もし私がおまえのことをよく聞いていなかったら、おまえは今頃死んでいる。私は匕首を投げて外したことはない!」
それはたぶんほんとうのことだと、マー・ロンは胸の内で思った。そのウイグル人は、見事な中国語を話した。あまり身分の高くない族長の一人だなと、マー・ロンは推量した。
マー・ロンは取り入るように笑った。
「頭《かしら》なら、少々金になる仕事をくださると聞いたんですよ!」
「おまえは裏切者だ!」と相手は見下したように言った、「裏切者は、金のことしか頭にない。だが、おまえは使えそうだな。ただし指示を与える前に、一つはっきりさせておきたい。両股かけるような真似は、そぶりにも見せないのが身のためだぞ! ちょっとでもそんな気配が見えたら、背中に匕首が立つと思え!」
「わかってまさ、頭!」とマー・ロンはあわてて言った、「お見通しでしょうが、俺は……」
「よし!」と相手は尊大に言った、「よく聞け! 指示は繰り返さないぞ!
河の向こうの平原に、三部族が集結している。明日の深夜に、この市を占領する。そんなことはいつでも好きな時にできたのだが、過度の流血は避けたいと思う。おまえたち中国のお偉方はひとりよがりの怠け者で、ここは辺鄙な前哨地点だ。この市が陥落したところで、それほど首都で大騒ぎにならなければ、お偉方が急いでここに軍隊を派遣してくることはあるまい。われわれにとって都合のよいことに、西方への交通路はもはやこの市を通っていない。だから中央のお偉方は、西方の進貢国から来る朝貢使節団を、われわれが妨害するだろうと心配する必要がない。彼らが行動を起こそうと考える頃までには、われわれはここにわが王国を建て、どんな攻撃も寄せつけない状況を築き上げている。
大事なのは、この市を不意打ちすることなのだ。政庁を接収し、知事と配下の者を殺す手順はすべて調っているが、城門の警備を始末するために、あと少し中国人が必要なのだ」
「へえ!」とマー・ロンは叫んだ、「それは運がいい! ここに一人友だちがいるんですがね、あいつこそ、それにぴったりですよ! ここの正規軍の軍曹なんですが、新しい知事と一悶着あったもんだから、脱走して姿をくらまさなくちゃならねえんで。あのディーって野郎は、たちが悪いんだ!」
「おまえら中国人は、みんな知事を恐れる!」ウイグル人はせせら笑った。「私は知事など恐れぬ! 数年前には、この手で一人の咽を切り裂いてやった!」
マー・ロンは、感嘆して相手に見入った。「いやあ、俺の友だちに会ってやって下さいよ。あいつは剣は最高に使えるし、合言葉も軍隊の規則もみんな心得てまさあ」
「どこにいるのだ!」と相手は乗り気になった。
「ここから、そんなに遠くないですよ。最高の隠れ場所を見つけたんですよ。あいつは夜だけ外に出て、日中は鼓楼の三階で寝てるんで」
ウイグル人は笑い出した。
「なかなかいい考えだ。そんな所へ探しに行く奴はいまい。行って、そいつをここまで連れて来い」
マー・ロンは困ったように、眉をひそめた、「さっき言ったように、昼日中に出歩くわけにはいかないんです。俺たちのほうから行ってみませんか。ついすぐそこですよ」
ウイグル人は、マー・ロンを探るような眼で見た。ちょっと考えていたが、立ち上がって、匕首を腹巻から袖に移し変えた。
「おまえが何か企んでいないことを願っているぞ。おまえが先に歩け。何か変な動きでもしたら、私の匕首がたちどころにおまえの背中に飛ぶ。それがどこから来たものやら、誰にもわかるまいぞ!」
マー・ロンは肩をすくめた。
「そんな用心はご無用に願いますよ」とマー・ロンは言った、「俺たちは心《しん》からのお味方です。政庁へ一言でも告げ口されたら、あいつと俺はお手上げですよ」
「それを肝に銘じておくんだな!」と相手は言った。
彼らは通りに出た。ウイグル人はマー・ロンの後から、少し離れてついて行った。
市場にはいった時、チャオ・タイが、石碑にもたれて立っているのが目にはいった。彼は腕組みして、落ち着きはらって人波に目を配っていた。とがった帽子、茶色の長衣に黒い帯という服装は、威信ありげな態度とあいまって、紛れもなく政庁の士官だということを示していた。
マー・ロンが足を止めた。
ここは運に賭けるしかないところだった。ウイグル人の匕首が、いつ背中にぐっさりと来るやらわからなかった。
それでも、あまり急ぐわけにはいかなかった。チャオ・タイが気づいたことを確認しなければならないのだ。額に冷汗が浮かぶのを感じながらも、マー・ロンは慎重に役をこなした。
彼はちょっとためらっているようなふりをした。チャオ・タイが手を上げて、ゆっくりと口ひげをなでた時、マー・ロンは向きを変えて、石碑を迂回して進んだ。
鼓楼の下の暗がりに無事にすべりこむと、続いてウイグル人もはいって来た。
「石碑にもたれていた奴を見たかい?」とマー・ロンが勢いこんでささやいた、「あいつは政庁の士官だ!」
「そうだな」と相手はそっけなく言った、「早くしろ!」
マー・ロンは、二階に登り、ウイグル人が上がって来るのを待った。木戸の破れた封印を指さして言った、「見なよ、友だちはあそこに上がったんだ!」
ウイグル人は匕首を鞘から抜き、剃刀のような刃に親指を走らせた。
「登って行け!」と彼は命じた。
マー・ロンは、諦めたように肩をすくめると、ゆっくりと梯子を登った。ウイグル人が後に続いた。
肩が床の上に出たところで、彼は声を上げた。「おやまあ、のらくら犬はおねんねかい!」
そう言いながら、残りの段をさっさと上がり、太鼓を指さして言った、「あいつを見なよ!」
ウイグル人は、急いで登って来た。
その頭が床と並んだ時、マー・ロンがいきなり顔を真向《まっこう》から蹴とばした。
ウイグル人はぎゃっと言って、急な梯子から転落した。
マー・ロンは、精いっぱいのすばやさで梯子をすべり降りたが、一番下で、危うく残忍な匕首の一撃をかわした。ウイグル人は左腕を床について横たわっていた。片脚が折れたらしいし、坊主頭のひどい裂け目から血が噴き出ていた。それでも両眼は爛々と緑色に光り、しっかりと匕首を握り締めていた。
細かいことを考えてる暇はないと、マー・ロンは腹を決めた。彼はすばやく、相手の背後にまわった。ウイグル人が向きを変えようともがいているところを、蹴った。ウイグル人は梯子の側面に頭をぶつけた。匕首が床にからんと落ち、彼は動かなくなった。
マー・ロンは匕首を拾い上げて、自分の腹巻にしまった。それからウイグル人の両手を後ろに回してしばり上げた。脚にもさわって見たが、折れているのは一か所だけではないようだった。
マー・ロンは下に降りた。塔から出て、何もなかったようにぶらぶらと市場にはいり、石碑に向かって歩いて行った。
石碑の前を通り過ぎようとした時、チャオ・タイが歩み寄って来た。
「止まれ!」と彼は叫んで、マー・ロンの腕をつかんだ。
マー・ロンはそれを振りもぎると、仏頂面を向けてどなった、「汚ねえ手をどけろ、畜生め!」
「俺は政庁の士官だ!」とチャオ・タイがきっぱり言った。「知事閣下が、おまえに少し質問をなさりたいのだ」
「俺にだと?」とマー・ロンは、憤然としてわめきたてた、「俺は真正直な市民さまだぞ、このお巡り野郎!」
ひま人どもの輪が出来て、事の進行を見守っていた。
「一緒に来るか、それともまずガツンと行こうか?」とチャオ・タイが、嚇かすように問いかけた。
「こいつら政庁の犬どもに、威張り散らさせておくのかい?」と、マー・ロンは群衆にきいた。
誰も動こうとしないことに、マー・ロンは腹の中で満足した。
マー・ロンは肩をすくめた。
「まあ、いいか、政庁はなんにも証拠を握ってやしねえさ!」
チャオ・タイが、彼の手を後手に縛り上げた。
マー・ロンは振り返った。
「聞いてくれ、病気の友だちがいるんだよ。そこの行商人に一、二銭やって、そいつの所へ喰い物を持たせてやってくれねえか、そいつは動けねえんだよ!」
「その男は、どこにいるんだ」とチャオ・タイがたずねた。
マー・ロンはちょっとためらってから、しぶしぶ言った。「いやあ、実を言うとさ、そいつはゆうべ鼓楼へ涼みに上がった。それで梯子から落ちて、脚を折ったんだ。いま、二階で寝てるのさ」
野次馬はげらげら笑った。
「政庁は喜んでおまえの患者の面倒を見ると思うぜ」と言うと、チャオ・タイは群衆のほうを向いた。「誰か、区長の所へ急げ、男を四人と、担架、古い毛布も持って来るように言うんだ!」
まもなく区長が、屈強の男四人に、竹竿を持たせて駆けつけて来た。
「区長、この悪党を見張っていろ!」と命じておいてから、チャオ・タイは男二人を呼んで鼓楼に行った。
チャオ・タイは、毛布を肩にかけて、階段を昇った。ウイグル人は、まだ気がついていなかった。チャオ・タイはすばやく油紙を口にかぶせてから、毛布の上に転がし、もう一枚の毛布でウイグル人の頭と肩を包んでしまった。それから下へ声をかけた。区長の部下が上がって来て、ぐったりした体をかつぎ下ろした。
ウイグル人は、急ごしらえの担架に横たえられた。行列は政庁に向かって動き出した。チャオ・タイが先頭に立ち、マー・ロンを引いて行った。
一行は脇門からはいった。チャオ・タイは、すぐ区長に言った。「担架はここに下ろせ。君たちは行ってよろしい!」
彼らの去った後の門にチャオ・タイがかんぬきをかけると、マー・ロンはゆるく縛った縄から手を抜き、チャオ・タイと二人で、担架を牢に運んだ。そして、小さな房の寝椅子にウイグル人を寝かせた。
マー・ロンが怪我人の頭に包帯を巻くと、チャオ・タイは袋のようなズボンを切り裂いて、折れた脚に雑な副木をあてた。
マー・ロンは判事に報告するため、急いで出て行った。
チャオ・タイは独房の扉に錠を下ろし、扉にもたれて立った。牢番長が姿を現すと、凶暴な奴をつかまえたのだと話し、落ち着き次第、名前を聞き出すつもりだと説明した。
ディー判事の執務室では、タオ・ガンが一人、片隅でこっくりやっているだけだった。
マー・ロンは彼を揺り起こし、勢いこんできいた、「閣下はどこだ!」
タオ・ガンが顔を上げた。
「判事は、君とチャオ・タイが出て行った少し後に、ホン警部と出かけたよ」とぷりぷりして答えた。「なんでそんなに騒ぐんだ。ウイグルの奴は、つかまえたのか?」
「それ以上さ」とマー・ロンは誇らしげに言った、「パン知事殺しの犯人をつかまえたんだぞ!」
タオ・ガンも、満足そうだった。「今夜は一杯やる値打があるねえ、兄弟! ところで、閣下は、今日の午後おそくにここへ来てくれるようアン・キーの所へ言いに行けと、私に言いおいた。判事は山荘の管理人夫婦の死について、彼に尋問したいんだと思うな。もう出かけたほうがよさそうだ!」
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第十九章
人生の目的を問う深遠な会話から
ディー判事が老総督の秘密を知る
マー・ロンとチャオ・タイが出た後、ディー判事は、机上の書類の山から一枚を手にとった。見てはいるものの、その中味が頭にはいっているようではなかった。
判事は気懸りなのだと、ホン警部は思った。
ディー判事は我慢しきれずに書類を投げ出した。「君になら話してもいいだろう、警部、つまり、もしマー・ロンとチャオ・タイがその男を捕えそこねたら、われわれは甚だしく危険な立場に陥るのだ!」
「彼らはもっと難しい仕事もこなして来たのです、閣下!」と警部は安心させるように言った。
ディー判事はそれについて、何も言わなかった。それから小半時、いろいろな公文書にかかりきっていたが、とうとう筆を置いた。
「もうここで座って待っていてもしかたがない。きっとマー・ロンたちは、注目を集めずにその男を逮捕する好機を見つけたに違いない。天気は上々だ、鶴衣先生を見つけ出せるかどうか、行ってみようじゃないか!」
判事がいらだっている時は、体を動かすのがいちばんいい鎮静剤になるのだと、警部は経験から知っていた。彼は早速馬の支度を言いつけに出た。
彼らは政庁の正門から出て、南に向かった。大理石橋を駆けさせて渡り、市の南門を通り抜けた。
主街道をしばらく行ったところで、農夫が山の方に行く細道を教えてくれた。それは急峻な分水嶺の麓で行き止まりになった。
ディー判事たちは馬から飛び降りた。ホン警部が薪拾いの男にいくつかの銅銭を握らせ、一時間かそこら馬の番をしていてくれと頼んだ。それから二人は登り始めた。
骨の折れる登りの後、松に覆われた山の背に着いた。判事はそこで一休みして、一息入れた。足下に広がる緑の谷間を眺めながら伸びをすると、静かにそよぐ山の冷気が寛い袖を吹き抜けて行くのが心地よかった。
ホン警部も休息をとったところで、二 人 は九十九折《つづらお》りをゆっくりと下りにかかった。
谷に向かって下るにつれ、あたりは不思議なほど静まり返り、谷川のせせらぎの音のほかには、聞こえるものはなかった。
狭い石橋を渡って、川を越えた。細い脇道が、緑の繁みの間に見え隠れする、低い草ぶき屋根のほうに向かっていた。茂りに茂った下生えの間を道なりに行くと、青竹でこしらえた門があった。
その中は、小さな庭になっていた。両側にはほぼ人の背丈ほどの植物が並んで、花を咲かせていた。こんなに見事な花がふんだんに咲いているのを見たことがないと、判事は思った。
小さな家の白壁にはつる草が這い、緑に苔むした草屋根の重さでかしいでいるようにみえた。がたぴしする木の段を幾つか登ると、白木の片戸があるが、開けっ放しになっている。
声を上げて、案内を請うつもりだったのだが、ここの閑寂を破るのが、なんとはなしにためらわれた。判事は建物に沿って生えている植物をかきのけてみた。
竹竿を組んで作った縁があり、ぼろぼろの長衣をまとったたいそうな老人が、鉢植の花々に水をやっていた。蘭の典雅な香りが流れた。
ディー判事はさらに枝をかき分けて呼ばわった、「鶴衣先生はご在宅かな?」
老人はふり向いた。顔の下半分は、もじゃもじゃの口ひげと長い白髯で覆われているし、上はつば広の帽子の陰になって見えない。彼は返事をせず、ただ家の方に向かって、あいまいなしぐさをした。
それから如露《じょうろ》を置き、一言も言わずに、家の陰に消えた。
ディー判事は、この略式の応対があまり気に入らなかった。彼はホン警部に、外で待てとそっけなく言いつけた。
警部は門のそばの長腰掛に腰を下ろし、ディー判事は段を上がって家にはいった。
そこは広くて何もない部屋だった。木の床には何も敷いてないし、白壁も同様のむき出しだった。家具は、低い、幅の広い窓の前に粗削りの木机と腰掛二脚が置いてあり、奥の壁につけて竹の机があるだけだ。まるで貧しい農夫の家のようだが、万事が清潔できちんとしていた。
主《あるじ》のいる気配はなかった。ディー判事はじりじりして、わざわざ来たのを後悔した。
ため息をついて、彼は腰掛の一つに腰を下ろし、窓の外を眺めた。
彼は、縁の棚に並べられた鉢植の花々の見事さに圧倒された。陶磁器の鉢には珍奇な蘭が咲き、その香気は部屋中に満ちわたっているようだった。
そこに座っているうちに、あたりに行きわたる安らいだ静寂が、悩み疲れた彼の心をゆっくりと鎮静させるのが感じられた。姿の見えない蜜蜂の柔らかな羽音に耳をすませていると、時が止まってしまったような気がした。
ディー判事のいらだちは雲散霧消した。肘を卓上にのせて、のんびりと眺めまわした。竹の机の上の白壁に、一対の掛軸が掲げられていた。雄渾《ゆうこん》な書体で記された連句である。
判事は何気なく読み下した、
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永生の門《かど》に到る道はただ二つ
虫の如く 泥土にもぐるか
龍の如く 天空にかけるか
[#ここで字下げ終わり]
この文はかなり特異なものだなと、判事は思い直した。一通りの解釈では片づくまい。
連句には署名があり、印も捺してあったが、字が小さくて、判事の席からは読めなかった。
奥の色あせた藍布の垂れ幕が引き寄せられて、老人がはいって来た。
ぼろぼろの長衣を茶色の寛い室内着に着替え、半白の頭には何もかぶっていない。手には湯気の立つ湯沸しを提げていた。
ディー判事は急いで立ち上がり、深く頭を下げた。老人は気軽にうなずき返すと、のんきそうにもう一つの腰掛に腰を下ろし、窓枠にもたれかかった。ちょっと迷ったすえに、判事も腰を下ろした。
老人の顔は野りんごの皮のようにしわだらけだが、唇は辰砂《しんしゃ》さながらの朱色だった。急須に湯を注ぐためにうつむくと、白くて長い眉毛が幕のようにかぶさって、眼を隠してしまった。
ディー判事はうやうやしく、まず老人が口を開くのを待った。
主は急須の蓋をすると、袖の中で手を組み合わせ、まっすぐ判事を見つめた。もじゃもじゃした眉の下の眼は刺すように鋭く、まるで鷹の眼のようだった。
彼はよく響く太い声で語った、「この老いぼれの、行きとどかぬことをお許しください。めったに客人をおもてなし致しませんのでな」
彼が物を言う時、その歯の歯並びがよく、しかも真珠のように白いのが目に立った。
ディー判事は答えた。「にわかにお訪ねしましたことのお許しを願わねばなりません。ああ……」
「はあ、そう!」と老人が口を入れた、「あんたは有名なアン一族のお方ですか!」
「いいえ」と判事はあわてて正した、「私の姓はディーと申します。私は……」
「そうじゃなあ」と相手は考えこんだ、「わしが古い友だちのアンに会うてから、もうずいぶん長いことになる。あの人が死んでから、さよう、もう八年にはなるはずだ、いや、九年かな?」
老人はぼけているらしいと、判事は内心思った。だが主《あるじ》のとり違えが、そのまま彼を訪問の目的に導いて行くようなので、あらためて間違いを正そうとはしなかった。
老人は茶を注ぎ、耳にはいらぬ様子で話を続けた、「さよう、アン老総督は、大望の人であったよ。われらが首都で共に学んだのは、そうじゃ、もう七十年も前になろうか。いかにも、あれは大望の人だった。遠い将来にまで見通しを立ててな、すべての悪を滅し、帝国を改革し……」
老人の声は細くなって、とぎれた。彼は何度かうなずいてから、茶をすすった。
ディー判事は、おずおずと言った、「私は当地|蘭坊《ランファン》でのアン総督のお暮らしぶりに、大いに興味を持っております」
それも、主の耳にははいらなかったらしく、相変らずゆっくりと茶をすすっている。
判事も、茶碗を口もとに運んだ。一口すすってみて、それが未だかつて味わったこともないほどうまい茶であることを知った。その芳醇《ほうじゅん》な香気は、彼の全身にしみ透るかと思われた。
ふいに主が言った。「水は流れが岩の間からしみ出る所で汲みました。昨夜、私は茶の葉を菊のつぼみの中に置き、今朝日が出て花が開いた時に取り出しました。この茶の葉には、朝露の精気がたっぷりと浸みこんでいるのですよ」
そのあと、なんの説明もなく、話は元にもどった。「アンは官途につき、わしは帝国中を放浪する旅に出た。あれは州長官となり府総督となって、その名は帝国宮廷の大理石の広間に鳴り響いた。彼は悪をくじき、善を護り励まし、帝国の改革に向けて、長い長い道を進んだ。そしてある日、彼の大望がほぼ成った頃、彼はわれとわが息子の感化に失敗したことを知ったのでありました。
彼はすべての高い地位を辞し、ここに来て退隠生活を送り、農場や園林の世話をしました。そうしてわれわれは、五十年の余を経て再会しました。異なる道を経て同じ目的地に着いたのですな」
老人は急に童子のようにくくっと笑って言いそえた、「ただ違うのは、一つの道は長くて曲折多く、もう一つの道は短く真直だったというだけですよ!」
そこで主《あるじ》は口をつぐんだ。最後の論評について、もう少し説明を求めていいものかどうかと判事は思い悩んだ。だがまだ言い出せないでいるうちに、主はまた言葉を継いだ、「彼が亡くなる少し前、私たちはまさにこの点について論じ合いました。その折、アンがそこの壁にある連句を書いたのですよ。近寄って、とくと彼の墨蹟をご覧なさい!」
ディー判事は、言われたとおりに立ち上がって、壁の掛軸を見に行った。今度は署名が読めた。静安居主人、アン・ショウジェン書。アン夫人の画巻の中で見つけた遺言書が偽作であることは、今や確信された。遺志を装う文書に添えられた署名の字と似てはいるが、断じて同じ手に成ったものではない。ディー判事はおもむろにあごひげをなでた。沢山のことが、はっきりと見えて来た。
再び席につくと、判事は言った、「はばかりながら申し上げますが、アン総督のご筆蹟はすばらしいものでございます、が、あなたさまのは、霊感によるものとも申せましょう。総督の迷路への門に掲げられたあなたさまの筆蹟は、私に衝撃を与え、まさに……」
老人は聞いていなかったようで、話の中途で口をはさんできた、「総督はやりたいことの多い人だったから、一生涯かけても、その意力はなお尽きなかった。この土地に落ち着いても、活動は止むことを知らなかった。昔の不正を正そうとする幾つかの企てなどは、何年も後になって、その時彼が既に世を去っていても、その実を結ぶようになってさえいたのではないか? 独りになりたくて、彼はあの驚くべき迷路を築いた。気の立った雀蜂のうなりのようにあらゆる計画や策略が頭のまわりでわんわんしているというのに、それでも独りになれるというかのように!」
老人は疑わしげに頭を振った。彼は茶のお代わりを注いだ。
「老総督は、当地で多くの友人をお持ちでしたか?」と判事はたずねた。
主《あるじ》はおもむろに、長い眉毛の一方をつかんだ。そしてくすんと笑った、「あれほど多くの年を経て、多くを見、かつ聞いた後にも、アンはまだ孔子の書物を研究しておった。荷車一台分の書籍をここへも送ってくれたよ。大いに役に立ったな。かまどのたきつけには甚だ具合がよかった!」
経書の権威をおとしめる、このような発言に対し、判事は謹んで異を唱えようとしかけたが、主は彼に構わずに続けた、「孔子ねえ、あんたにとっては、意義ある人物でしょうな! あれはまるで馬蝿みたいにぶつぶつ言いよる! なせばなすほど成ることは少なく、知れば知るほど得るものは少ないことを、じっくりと考えて悟るに足るほど、口をつぐんではいられないのだ。そうだ、孔子は抱負の多い人物だった。アン総督もそう……」
老人は言葉を切った。やがて難しい顔をして言い足した、「そして、あんたもだ、若いお方!」
にわかにこのように評価されて、ディー判事はびっくり仰天した。面くらって立ち上がると、深く頭を下げてから、遠慮がちに言った、「お聞きいたしてもよろしゅうございましょうか……」
主も立ち上がって、にべもなく応じた。
「一つ聞けば、また一つ聞きたくなるばかりだ。あんたは、川と網に背を向け、木に登って魚を取ろうとする漁夫ですな! それとも鉄で舟を造り、底に大きな穴を穿《うが》って川を渡ろうとする人か。正当な結末から、問題に近づき、解答から始めよ。さすれば恐らく、いつの日か究極の答えを得られよう。さらば!」
ディー判事は、別れの挨拶をしようとした。だが主はいち早く背を向け、よちよちと部屋の端の垂れ幕に向かっていた。
青い垂れ幕が、主の背後に落ちるのを待ってから、判事は外に出た。
外では、ホン警部が、折戸にもたれて眠りこんでいた。
判事は彼を起こした。
警部は眼をこすり、幸せそうに笑った、「こんなに安らかに眠ったことはないみたいです! まだ四つか五つの幼子だった頃の夢を見ました、すっかり忘れていたことをね!」
「そうだ」と判事は物思わしげに言った、「ここはたいそう不思議な家なのだ……」
二人は黙って、山の尾根に登った。再び頂上の松の根方に立った時、警部がたずねた、「草庵では、多くの情報が得られましたか?」
ディー判事はうわの空でうなずいた。
「ああ」と答えたのは、少し経ってからのことだ、「ずいぶん教えられたよ。総督の絵の中に隠されていた遺言書が偽物であることは確実だ。また、老総督がにわかにすべての官職を辞してしまった理由もわかった。それから、ディン将軍殺害事件のもう一方の側面もわかってきた」
警部はもっとくわしい説明を求めようとしかかったが、ディー判事の顔つきを見て、口をつぐんだ。
一息入れると、二人は山を下った。馬にまたがり、市内にもどった。
マー・ロンが執務室で待ち構えていた。
彼がチャオ・タイと二人でウイグル人を捕えた件の報告を始めると、判事は物悲しいような気分をふり捨てて、熱心に耳を傾けた。
誰も逮捕に気づいたものはないと、マー・ロンは保証した。ウイグルの族長と交わした話について詳細に語ったが、タルビーと思いがけず出会って警告されたことは省いた。そういうロマンチックな出来事には、判事は興味を持つまいと思ったし、確かにそれでよかったのだ。
「よくやったぞ!」マー・ロンが話し終えると、判事は声を上げた、「さあ、もうこっちのものだ!」
マー・ロンがつけ加えた。「タオ・ガンが応接室でアン・キーのお相手をしています。一緒に茶を飲んでいます。ついさっきのぞいてみましたら、アン・キーが立て板に水でまくしたてて口をはさませないものだから、タオ・ガンがかりかりしていました」
判事は満足そうにみえた。「警部、応接室へ行ってアン・キーに、たいへん申し訳ないが判事は手の放せない緊急の用件に手間どっている。用事が終わり次第すぐお会いするのでよろしくと伝えてくれたまえ」
警部が行きかけると、判事はたずねた、「ところで、リー夫人の消息はわかったかい、例の総督夫人の友だちだが」
「そっちはファン巡査長に頼んでおきましたが」と警部は答えた、「土地の人間ですから、私よりは早く何かつかめるのじゃないかと思いまして」
判事はうなずき、次にマー・ロンにきいた。「総督邸の庭園で見つけた老夫婦の、検屍結果はどうだった?」
「検屍官は自然死だと断言しました、閣下」とマー・ロンは答えた。
ディー判事はうなずいた。彼は立ち上がって、礼装に着替え始めた。二つ尾のある判事帽を頭に戴きながら、いきなり言い出した、「私の記憶違いでなければ、マー・ロン、君は十年前に、拳術で最高位の九段に上がったのだったな?」
大男は肩をいからし、誇らしげに答えた。「いかにもそうです、閣下!」
「では思い返してみて、君がまだ初心者、そう二段か三段くらいの時、先生に向かうとどんな気持ちだったか、教えてくれないか!」
マー・ロンは、自分の気持を分析するのには慣れていない。眉をしかめて、猛烈に考えてみた。暫くたってからゆっくりと答えた、「そうですねえ、心の底から先生に参っていました。確かに現代最高の拳術家の一人でしたから、私は感服しきっていたんです。それでも、先生と立ち合うと、私が懸命でうまい打ち込みをしたつもりでもあっさり外され、こっちが必死で守っているのに、先生はどこでも好きなところをおもしろいように打って来ます。そういう時は、もちろん感嘆してはいるんですが、その一方で先生が断然まさっているために、憎らしくもあるのです!」
判事は微かに笑った。
「ありがとう、わが友! この午後、私は市の南の山に出かけてある人物に会ったが、彼はひどく私の心を混乱させた。私が筋道立てて表わせなかったことを、いま君は正確に言葉にしてくれたよ!」
ディー判事がなんのことを言っているのやら、マー・ロンにはさっぱりわからなかったが、ひどくほめられたように感じた。晴れやかな笑顔を見せると、彼は法廷に続く垂れ幕を引いた。判事はそこを通って、壇上に上がった。
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第二十章
謀反人の首領は拷問のすえ白状し
謎めいた客人の実体が明かされる
銅鑼《どら》が三回鳴って、午後の開廷を知らせた。
常務以外の何かを取り扱うとは誰も知らないから、法廷には二、三十人の傍聴者がぱらぱらといるだけだった。
裁判官席に座って、開廷するとすぐに、ディー判事はファン巡査長に合図した。四名の巡査が法廷の入口で警備に立った。
「国家的な重大理由により」と判事は述べた、「閉廷まで、誰も法廷から出ることはならぬ!」
驚きのつぶやきが上がった。
ディー判事は朱筆をとり、牢番長に宛てた書式に記入した。
二名の巡査がウイグル人を連れて来た。彼は歩行困難で、巡査たちが支えてやらねばならなかった。
壇の前で、彼は片方の膝をついた。副木をあてた方の脚は、苦痛のうめきとともに、前に伸ばした。
「姓名及び職業を申せ!」とディー判事が命じた。
男は顔を上げた。彼の炎のような眼に、激しい憎悪の色が光った。
「私はウイグル青《あお》部族の王子ウルジンだ!」と彼は吐き出すように言った。
「おまえたち蛮族は」と判事が冷ややかに言った、「馬二十頭を持てば、すぐ王子を名乗る。だが、それはどうでもよいことだ。
寛恕きわまりなき帝国政府は、忝《かたじけな》くもウイグル族の王を属臣とされたのであり、王は天と地を証人とする厳粛な宣誓により、帝への服従を誓っている。
ウルジン、おまえは当市襲撃を計画していた。おまえ自身の王を裏切るとともに、帝国政府に対する反逆罪を犯したのだ!
反逆は最も重大な犯罪であり、厳しい極刑を以て罰せられる。おまえに僅かに許されるのは、真実をすべて隠さず述べることにより、刑がいくらかでも緩和されることのみである。またそれには、その非道な計画の遂行に協力することを約束した、中国人反逆者の名を明かさずにはすまぬぞ!」
「おまえはそういう中国人を裏切者と呼ぶが」とウイグル人は叫んだ、「私はそれを義人と呼ぶ! われわれから取り上げたものは、返すべきだと認めている中国人もいるのだ。おまえたち中国人はわれわれの牧野を不当に奪い、われわれの美しい牧草地を、農民にすきで耕させ、稲田に変えてしまったではないか! われわれは砂漠の奥へ奥へと逐われ、馬も牛も死なせてしまったではないか!
われわれウイグルの民に対して、おまえの国民が犯した恐るべき不正を理解してくれた中国人たちの名前を、私は明かすものか!」
巡査長が彼を打とうとしたが、判事は手を上げて止めた。
身を乗り出すようにして、彼は静かに言った、「たまたま予備審問をするひまがなかった。おまえの右脚はもう折れていて、どうでも歩くことはできぬ。だから、もう一本の脚も折れても、べつに不都合はなかろうな」
ディー判事が、巡査長に合図した。
二人の巡査がウイグル人を仰のけざまに倒し、その手を踏みつけて立った。もう一人が、二尺ほどの高さの台を持ち出した。
巡査長はウルジンの左足を持ち上げて、台に縛りつけ、判事を仰ぎ見た。
ディー判事がうなずくと、たくましい巡査が丸味のある重い棒で膝をなぐりつけた。
ウイグル人はしわがれた叫びを発した。
「ゆっくりやれ」と判事は巡査に命じた、「あまり急いで打つな!」
巡査はすねを一打ちし、次に腿を打った。
ウルジンは悲鳴を上げ、母国語で罵った。再びすねを打たれた時、彼は呪いの叫びを上げた、「呪われたおまえの国に、いつかわが軍団は襲い来る、城壁を破り都市を焼き、男を殺し女と子供を奴隷とし……」
巡査の鋭い一撃をうけると、彼の声は狂おしい悲鳴に変わった。いよいよ脚をくだく最後の一撃がふり下ろされようとした時、ディー判事が手を上げた。
彼は平静な調子で言った、「ウルジン、この尋問が単に形式的なものだということがわかるだろう。私はただ、おまえと共謀した中国人がおまえとその部族について報告し、陰謀をすっかり暴露した時言ったことの裏付けをとりたいと思っているだけなんだよ」
ウイグル人は、超人的な努力で、片手を巡査の足の下から抜き出し、肘をついて体を起こすと叫んだ、「犬役人め! 恥知らずなうそで丸めこむつもりか!」
ディー判事は冷ややかに受けた、「言うまでもなく中国人は、愚かな蛮族のおまえたちよりずっと賢明だ。彼はおまえたちの味方であるようにふるまった。そして時到ると、すべてをお上《かみ》に知らせたのだ。その貴重な情報の褒賞として、彼には早速政府から有利な地位が与えられよう。おまえやおまえの無知な王がどんなに道化にされているか、わからぬか?」
そういう話を始めるまえに、マー・ロンに合図してあったから、この時アン・キーが壇の前に導かれてきた。
床に倒れているウイグル人を見ると、アン・キーは色を失った。逃げ出そうとしたが、マー・ロンが万力のようにがっちりとその腕をつかんで、行かせなかった。
アン・キーが眼にはいった途端、ウイグル人は悪罵の言葉を雨あられと吐きかけて呪った、「犬畜生の子! あさましい裏切者! 正直なウイグル人が、おまえ如き二枚舌の中国の野良犬のために、一働きしようと心を決めたあの日は呪われよ!」
「閣下、この男はどうかしています!」とアン・キーは叫んだ。
ディー判事はそれにとり合わず、ウイグル人に向かって落ち着いて言った、「この男の屋敷にいる、おまえの仲間は誰々か?」
ウルジンは、表向きは剣術師匠としてアン・キーに雇われているウイグル戦士二人の名を上げた。そしてさらに叫んだ、「だが言っておくがな、中国を裏切る者もいるのだぞ! アンの畜生は私をこけにしたかもしれないが、ほかの中国の悪党どもは、金だけのためになんだってやる気でいたのだ!」
といって、彼は中国人の店主三人と兵隊四人の名前を数え上げた。
タオ・ガンが入念にそれらの名前を書きとった。
ディー判事はチャオ・タイをそばに招き寄せて耳打ちした、「すぐチェン邸の君の持場にもどり、その兵四名を拘禁したまえ。次にリン伍長と二十名を率いてアン・キー邸に行き、そこでウイグル人二名を逮捕せよ。それから中国人の商店主三名を逮捕。最後に北町で、狩人とその共謀者を逮捕するのだ」
チャオ・タイが急いで出て行くと、ディー判事は言った、「ウルジン、私は公平性を欠く人間ではない。おまえに犯罪行為を教唆扇動しておいて、後から裏切ってその褒賞をあてにするような中国人に味方する気はない。もしおまえがこのアン・キーを、裏切行為の罰も受けずには終わらせたくないと望むなら、パン知事が如何にして殺害されたかを述べるがよい!」
ウイグル人の眼に、邪悪な喜びが光った、「よし、仕返しだ!」と彼は叫んだ。「聞け役人め! 四年前、そのアン・キーという男が、私に銀の延べ棒十錠をよこした。そして私を政庁に行かせ、その夜チェン・モウが浅瀬の近くで、ウイグル王の密使と秘密会合をするから、そこを捕えればよいと、新しい知事に密告させた。パン知事は従者一人を連れてやって来た。その従者は、城外に出るとすぐ私がなぐり倒した。私はこの手で知事の咽を切り裂き、川の堤まで引きずって行ったのだ」
ウルジンは、アン・キーのほうに向けて唾を吐いた。
「さて、おまえの褒賞はどうなるかな、犬め!」と彼は罵った。
ディー判事は、上級書記にうなずいてみせた。書記はウイグル人の陳述の記録を読み上げた。ウルジンは、確かに自分の白状したことであると認めた。文書が渡され、彼は拇印を捺した。
そこでディー判事は言った、「ウルジン、おまえは越境して来たウイグルの王子であり、おまえの反乱扇動の罪はわが帝国の対外関係に影響が出る。おまえたちの王や、別の部族の族長たちがどこまでこの反乱計画に関わっていたかを明らかにするのは、私の任ではない。私には、おまえに判決を言い渡す法的権限はないのだ。おまえはただちに首都に護送される。おまえの罪は、首都の蛮族対策省で取り扱われる」
彼は巡査長に合図した。ウルジン王子は担架に寝かされ、牢へ運ばれて行った。
「罪人アン・キーを、私の前に連れて参れ!」
アン・キーが壇の前で膝を折らされると、ディー判事がきっぱりと言った。「アン・キー、おまえは大逆罪に問われる。国家に対する犯罪であり、法は苛酷な刑罰を定めている。しかし恐らく、おまえの亡き父君の偉大な名声と、本官からの勧告により、当局はおまえに予定されている恐怖すべき処刑方法に、多少の手加減をしてくださるだろう。したがって、ここですべてを白状し、罪状に関してすべての申し開きを行うがよい!」
アン・キーは答えなかった。頭を深くうなだれ、苦しそうに息をついていた。ディー判事は、そのままにしておけという合図をした。
とうとうアン・キーが顔を上げた。彼はいつもの活発な話し方とは全然違う、沈んだ声で話した、「ウイグル人二人のほかには、私の屋敷には共謀者はおりません。私の使用人たちには、私たちが市の奪取にとりかかるぎりぎりの時になったら知らせることにしていました。四名の兵隊は金《かね》で買収されており、明日の真夜中に、チェン邸の一番高い物見櫓の上で合図の火をたきます。それは悪党の一団への合図で、その連中が騒ぎを起こし、それに紛れて市中の金細工師の大店《おおだな》二軒を荒らすのだと教えられています。ところが本当は、ウイグルの部族が大河を渡って襲撃してくるための合図なのです。すると、ウルジンと中国人の助っ人が水門を開き、そして……」
「もういい!」とディー判事がさえぎった。
「その話は明日、たっぷり時間をかけて話してもらえばいい。
もう一つだけ、質問に答えてもらおう。亡き父君の画巻の中から発見した遺言書を、おまえはどうしたのか?」
アン・キーの憔悴した顔に、ぎくりとした色が走った。「もとの遺言書には、財産を私と異母弟アン・シャンとで折半するようにとあったものですから、破棄しました。代りに、どう見ても私だけの継承権が成り立つような内容のものを自分で書き、画巻の裏貼りにはさみこみました」
「おまえの悪行は、すべて本官に知れているということを覚ったであろう」と判事は威厳を見せて言った、「罪人を牢に連れもどせ!」
閉廷後ほどなく、チャオ・タイが執務室に現れ、罪人全員をしかるべく収監したと報告した。北町では少々面倒があった。狩人が逮捕に抵抗したが、リン伍長になぐり倒されたのである。
ディー判事は、椅子にゆったりと掛けて、熱い茶をすすった。「ウルジンほか六人のウイグル人は、首都へ送らねばならない。リン伍長に兵隊十名を選ばせ、明日早朝に騎馬で出発させたまえ。軍隊駐屯地ごとに馬を替えて行けば、一週間以内に首都に着くはずだ。商店主三人と金をもらっていた兵隊たちは、私が当地で裁く」
机の前で半円形に並んで座っている四人の副官を見回して、ディー判事はにこやかに言葉を継いだ、「指導者たちを逮捕したからには、この陰謀を未然のうちに防いだことになるね!」
チャオ・タイが、意気ごんでうなずいた。
「ウイグル族というのは、広い戦場で全軍あげてぶつかり合うような場合、あなどり難い戦士です。騎乗に長《た》けているし、弓手たちは恐ろしく正確に矢を命中させます。ですが、城壁都市を包囲攻撃するには、それに必要な経験もなければそのための設備もありません。明日の夜、物見櫓からの合図の火が見えなければ、彼らは攻撃をしかけては来ますまい!」
ディー判事はうなずいた。
「チャオ・タイ、万一の場合に備えて、必要な用意万端、君に一任する」
判事は苦笑しながら言い添えた、「この市では暇だなどと、言わせてはおかないぞ、君たち!」
「先日|蘭坊《ランファン》に向かって参ります折、閣下が」とホン警部がにこにこしながら言った、「ここでのわれわれの仕事は面白くなるぞ、ここでは変わった問題に出会うだろうからとおっしゃいましたな。その予測がほんとうになりました!」
ディー判事は、もううんざりだというように、手で眼をこすった。
「蘭坊に着いてまだたった一週間だなんて、信じ難いくらいだよ!」
手を寛い袖の中にひっこめると、彼は続けた、「この数日のことをふり返ってみると、チェン・モウの謎の客人のことが、なによりも悩みの種だったよ。暴君の活動の黒幕に違いなかったからね。それが野放しになっている間は、何が起こっても不思議ではないと思った!」
「どうしてそれがアン・キーだとお分かりになったのです?」とタオ・ガンがきいた、「私の知る限り、客の身元の手掛りになるものは何もありませんでした!」
ディー判事はうなずいた。
「われわれが多くを知らなかったのは事実だ。ただ、じかに示唆するのではないが、手掛りが二つあった。一つは、彼が国家の内情にも外交にも通じていたこと。二つは、彼がたぶんチェン・モウ邸の近辺に住んでいるだろうということ。
正直を言うと、私は初めウー・フォンこそその男だと、強く疑っていた。ウーはじっさいそのような野望に挑みそうな、向こう見ずな奴だ。しかも彼の出自とする家系から得られる国政についての知識は、チェン・モウを操るには十分だ」
「それに」とホン警部が口をはさんだ、「ウーは奇妙なほどの、異国芸術びいきですね」
「全くだ! しかし、ウーの住んでいるところはチェン・モウ邸とはずっと離れているし、永春の騒々しい亭主に気づかれずに、定期的に念入りな偽装をしたうえで家を出るということは難しそうに思えた。結局はマー・ロンと狩人の話から、ウーの逮捕は共同謀議に影響を及ぼしていないらしいとわかったのだよ」
ディー判事は両袖から手を出し、机に肘をついた。そしてチャオ・タイを見つめて言った、「チャオ・タイ、君が私に解決のヒントをくれたんだ!」
思いがけない言葉にチャオ・タイはびっくりしたようだった。
「そうなんだよ、君なんだ。われわれが作り出したありもしない軍隊との関連で、この計略が二つの方向に作用したと指摘してくれた。それで急にひらめいたんだが、アン・キーが蛮族の襲撃に対して入念な守りを固めているということは、その襲撃の片棒をかつぐための用意でもあるんだな。
一旦疑いを持ってみると、アン・キーはチェン・モウの黒幕という役割にぴったりだということに気づいた。第一に、言うまでもなくアン・キーは政治問題に精通している。彼は今日最大の一政治家の家で人となったのだ。第二に、彼の家はチェン・モウ邸へ歩いて行ける距離にある。チェンがアン・キーに来てほしいと思う日に屋敷の門に掲げることにしていた黒い旗は、すぐ見えたろうよ。
それで私はいくつかの疑問を発してみた。蛮族の襲来を心配する人間が、なぜ市の南西の片隅で水門のそばという、最も危険な地点に家屋敷を買うのかと。しかも東門に近い場所の、最初の危険信号で山に避難すればすむという安全地域で、既に家屋敷を構えていたのに。また、アン・キーがチェンの家で一番の剣術教師を連れて行ってしまった時、なぜチェン・モウはなんの行動にも出なかったかということも。
答えは一つしかない。アン・キーがチェンの顧問であり、辺境のこの土地に独立王国を建てるという計画を作った人間だということだ。
最終的には、チェン・モウ自身が私にそう言った」
「いつです、閣下?」ホン警部とマー・ロンが一緒に声を上げた。タオ・ガンとチャオ・タイは、あっけにとられて判事を見つめた。
ディー判事は、いたずらっぽい笑みを浮かべて、副官たちを見回した。
「チェン・モウが死にかけていた時、〈あんた
……〉と何か言い始めたと、みんな思ったね。私はもっとよく考えてみるべきだったよ。今にも死にそうで、ほとんど口のきけない人は、こみいった文を組み立てようとはしない。彼はパン知事を殺した人物の名前、それ一つだけを口にしたかったのだ。そして、それはアン・キーだったのさ!」
タオ・ガンが机を拳で打ち、仲間を意味深長な目つきで見た。
ディー判事は続けた、「このヒントは、鶴衣老先生からもらったのだということも言わなくてはな。話ののっけから、先生は〈あなた〉と〈アン〉を聞き違えた。少なくとも、私は彼が聞き違えたのだと思った……あの時の奇妙な対話を思い返してみるうちに、老師の言われたどの言葉も意図するところがあり、非常に特別な意味合いを持っていたのではあるまいかと……」
ディー判事の声が途絶えた。彼は黙りこみ、暫くの間、沈思するように、あごひげをなでていたが、やがてまた副官たちを見つめて、きびきびした声で続けた、「明日、アン・キー事件を結審させよう。一番重大なのは大逆罪の嫌疑だが、それはパン知事殺害の罪で成り立つ。ついでにディン将軍殺害事件も、けりをつけてしまおう!」
最後の発言は、ディー判事の副官たちにとって、今宵二つ目のショックだった。彼らはいちどきに口を開いた。
ディー判事は手を上げた。
「そうだよ、私はあの不思議で複雑な事件の解決を、とうとう得たのだよ。事実上将軍を殺害した人物は、行為の中に自分の名前を記していた!」
「それじゃやっぱり、あの不謹慎な風来坊のウーですな!」とホン警部が意気揚々と言った。
ディー判事はすまして言った。「明日になれば、ディン将軍がどのように死を迎えたかがわかるよ」
茶をすすってから、彼は話を続けた。「今日は大きな進展があった。しかしまだ面倒な問題が二つ残っている。一つは実際的で緊急な問題、つまり白蘭の失踪だ。もう一つはそれほど緊急でないが、同じように、われわれ全員最大の注意力を発揮してあたらねばならない、つまりアン総督の絵の謎だな。
われわれがそれをはっきりさせないならば、アン夫人とその子アン・シャンは総督の資産の二分の一の正当な相続権者とはならず、永遠に今のままの貧困の中にいることになる。アン・キーが大逆罪で起訴されると、彼の所有物は全部政府に没収されるからだ。
あいにくアン・キーが、総督の絵の中で見つけた遺言書を破棄してしまった。だから証拠はないんだ。アン・キーの自白では、老総督が死の床でアン・シャン母子に例の絵を遺贈し、〈あとはすべて〉アン・キーに遺したという事実を変えられない。上級官庁、とりわけ大蔵省はその口頭での遺志に基づいて、アン・キーの全財産を没収するだろう。そういうことだから、私が謎を解かなかったら、アン夫人とアン・シャンは何も受け取れないでしまうだろう!」
タオ・ガンはうなずいた。左頬から垂れている三本の毛を静かにまさぐっていたが、やおら言い始めた、「初め私たちは、市をのっとるこの計画にアン・キーが関与しているとは知りませんでした。相続権訴訟の被告としてしか見なかったのです。どうして閣下はそもそもの初めから、アン対アンの訴訟事件に強い関心をお持ちなのでしょう?」
ディー判事はにこやかに応じた、「だから説明してるじゃないか、私がとくにこの件に興味を感じた背景も話してあげるよ。
総督アン・ショウジェンの人柄には常々から強い関心を抱いていたことを言っておかねばなるまい。何年も前の、私が上級試験の準備をしていた時のことだが、アン総督がまだ県知事だった頃に解決した犯罪事件の記録を、手にはいる限りみんな書写した。それらをつくづく読み返しながら、私は彼のすばらしい演繹的な方法を学びとろうと熱望したのだ。後になっては、人を奮い立たせる勢いに満ちた、帝への上書類を熱心に研究し、彼の正義への燃える熱意と、国家および国民への深い献身ぶりとを吸収しようと試みた。私にとって彼は輝かしい鑑《かがみ》であり、国家に捧げ尽くす公僕の理想像だった。
じかに会ってみたいと、私はどんなに切望したことか! だが彼は総督だし、私はまだこれからの受験生だったのだから、到底無理な話さ。
そのうちアン総督は、にわかに官を辞した。わが英雄のこの説明し難い行動は、私をひどく混乱させた。それ以来ずっと私はそれを不審に思い続けて来た。
この蘭坊の文書室でアン対アンの書類を見つけた時、私は若き日のわが崇拝の的に近づく機会がとうとう来たというふうに思えた。いわば、精神的に向かい合うということだね。彼の遺言の謎は、彼が墓の中から私にしかけて来た挑戦のように思える……」
判事は口を閉ざし、向かい側の壁に掛けた画巻を見つめた。
それを指さしながら、彼はまた話を継いだ、「私はあの絵の秘密を明らかにしようと、断然決心した。アン・キーの自白により、老総督の言葉はさらに強い努力目標となった。崇拝する人の未亡人と遺子とが正当な相続権を得られるようにすることは、総督に捧げる私の厳粛な義務だと思うんだ。長子を刑場に送ることになってみると、その思いはなおさらだ」
判事は腰を上げ、絵の前に立った。副官たちも席を離れて、それぞれに、謎を秘めた風景画を見つめなおした。
袖の中で腕を組んだ判事は、静かに言った、「〈虚しき幻の楼閣〉か。父のきららかな知能を受け継いだ長子が、彼の高い特性のほうは全く受け継いでいないと気づいた時、老総督は激しい衝撃をうけたに相違ない。
この絵の一線一画には、心がこもっている。古い山荘から、なにか手掛りが出て来ればと願ったのだが、私には……」
急に、判事は黙った。前かがみになって、絵全体を上から下まで眺めた。身を起こすと、彼はゆっくりと頬ひげをつかんだ。やがて向きなおった時、その眼は輝いていた。
「諸君、わかったぞ!」と彼は叫んだ、「明日は、この謎も解ける!」
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第二十一章
ディー判事は将軍殺害の件を終え
チャオ・タイが部隊の全滅を語る
翌日、ディー判事が朝の公判を開廷した時には、何百人という人々が法廷にひしめいていた。アン・キー逮捕のニュースが全市に広まり、ウイグル人族長逮捕に関しては、途方もない流言が飛び交っていた。
ディー判事はおもむろに群衆を見まわし、どのように尋問を始めるべきかと、暫く考えをめぐらした。アン・キーはそらとぼけて陰《かげ》で企むのが達者なのだと、判事は考えた。彼は入念に仕組んだ遮蔽物の陰から物事を動かす。そういう人間はいったん明るみに引き出されると、えてしていっぺんに崩壊してしまう。
判事はアン・キーの名を伝票に書き、ファン巡査長に渡した。
アン・キーが連れられてはいって来た時、判事は推測が当ったと思った。アン・キーは、一夜で別人に変わっていた。あれほど細心にまとっていた陽気で屈託なげな仮面ははがれ落ち、ただ力なく疲れ果てた人間がいるばかりだった。
ディー判事は静かに言った、「昨日の公判で、形式的手続きは済んでいる。今日は直ちに、おまえの自白から始めてよい」
アン・キーは、沈んだ声で語った。「閣下、この世にも来世にも、なんの望みも残されていない人間は、あらゆる真実を述べてはならないという理由はありません」
アン・キーは、暫く黙っていたが、いきなり悲痛な調子で語り始めた。「父が私を憎んでいたことは知っています。そうです、私も憎んでいたのです。私が父を恐れていたことは事実ですが! まだ父が生きていた内から、私は父より偉大な人間になるのだと、固く心に決めていました。あの人は総督でしたから、私は独立国の王になるのです!
辺境の情勢について、私は何年もかけて細かく研究しました。そして、もし蛮人の諸部族を連合させ、多少の手引きをするならば、彼らはたやすく国境の全地域を撃破できると覚ったのです。蘭坊《ランファン》を首都とし、国境の両側にまたがって王国を建てることができる。また臣従を約束し、身分に関する折衝をずるずると長びかせて中国当局の手を遠ざけておく一方で、さらに多くの蛮族の族長を引き寄せて、王国を着実に西へ拡大しよう、そうして私の権力が西へ向かって拡大すれば、東方の中国政府当局に対する私の姿勢はさらに強固なものとなり、誰もあえて私を撃とうとはしなくなると」
アン・キーは深いため息をついて、さらに言葉を継いだ、「この計画を遂行するに足るだけの外交手腕と国政の内情についての知識には、自信がありました。しかし戦争経験が欠けていたのです。チェン・モウは使えるなと思いました。あれは思い切りのいい、無慈悲な男ですが、政治的指導者になる資質はないと心得ていました。私は彼をそそのかしてこの地方の支配者におさまらせ、どうすれば中央政府に対抗して自分の権力を強化して行けるかを教えてやりました。彼は私を指導者として認めたのです。われわれの計画が実現した暁には、私はチェン・モウを総司令官に任ずるはずでした。同時に私はチェン・モウの動きを使って、中央政府の反応を試みました。何もかもうまく行きました。中央政府は、この土地の変則の状況を黙認しているようでした。それで私は次の段階に取りかかり、ウイグル諸部族と接触しました。
その時、間抜けな邪魔者のパン知事がやって来ました。あいにくな出来事から、ウイグル人の族長にあてた私の書状が彼の手に落ちたのです。すばやく手を打たなくてはなりませんでした。私は王の従兄弟で、頼みになる私の手先のオロラクチーに命じて、パンを河へおびき出して殺させました。チェン・モウは腹を立て、政府が報復するのではないかと心配しました。しかし私はどうしたらこの犯行を隠蔽できるかを教えてやりましたし、何も不都合なことは起きませんでした」
ディー判事は口をはさみかけた。だが考え直して、アン・キーの思うままに、話を続けさせることに決めた。アン・キーはあい変わらず沈んだ声で語り続けた、「もしその頃、北方で中国軍が蛮族に大勝したという知らせがウイグル王に届いていなかったら、私はその時期、表舞台に現れていたでしょう。王は二の足を踏み始め、結局支援を撤回しました。その後は二流の族長たちとの面倒な交渉につとめ、とうとう三つの有力な部族の併合に成功しました。水門を開けておくこと、市内の主要ポイントを私の手勢で抑えておくことを保証するなら、彼らが市を襲うというのです。
期日が決定された時、閣下が国境地帯監視のための正規軍一連隊とともに到着されました。チェン・モウは逮捕され、その手勢は散り散りになってしまいました。計画が漏れて、強力な守備隊が近々|蘭坊《ランファン》に巡遣されてくるのではないかと心配になり、私は即時行動に出る決意をしました。
今夜、ウイグルの三部族が平原に集合します。深夜に物見櫓の上で合図の火がともされると、彼らは河を渡り、水門から市内にはいるのです。
これで全部です!」
群衆は目の色を変えてしゃべり始めた。情け容赦を知らない蛮族騎馬軍の侵略から、辛くも免れたことを知ったのだ。
「静粛!」とディー判事がどなった。
そうしておいて、アン・キーに言った、「その三部族は、配下にどれほどの人数を擁するか、申せ!」
アン・キーは暫く考えてから答えた、「弓を持った精兵およそ二千騎、及び数百の歩兵です」
「商店主三名は、この計画の中でどんな役割を受け持つことになっていたのか?」
「私は会ったことがないのです」とアン・キーは答えた、「可能な限りは黒幕でいることが、私の定まった策でした。私はオロラクチーに命じて、政庁と各門とにウイグル族戦士を案内するため、十人前後の中国人の助勢をとりつけさせました。彼はその人数を捜し、その応援を保証しました」
ディー判事は、上級書記に合図を送った。書記がアン・キーの陳述の記録を読み上げ、アン・キーが拇印を捺した。
そこで判事は厳かに申し渡した、「アン・キー、おまえに大逆罪を宣告する。亡き父上のご奉公の功績に対する敬意と、おまえが自発的に白状したことで、最高官庁は極刑の形態になんらかの緩和を考えてくださるだろう。ただし大逆罪に対して、律法は〈長引く死〉すなわち、生きながら切り刻むという刑を定めていることを言いおくのは、本官の義務である。
罪人を引いて行け!」
そのあと、ディー判事は法廷の人々に向けて言った、「本官は、この極悪な企みの主謀者全員を逮捕した。蛮族は、信号の火が見えなければ、今夜攻めて来ることはあるまい。しかしながら、如何なる不測の事態にも備えておくよう、既に命令を発しておいた。今日中に各区長から、各人いかになすべきかの指示が与えられる。蛮族が城壁都市を占領したためしはないのだから、恐れることはないのだ!」
傍聴者たちは、喜びにわいた。
ディー判事は驚堂木で机を打ち、声を高めた、「これから、ディン対ウー事件の審問を行う」
彼は朱筆をとって、用紙に記入した。まもなく二人の巡査が、ウー・フォンを壇の前に連れて来た。
ウーがひざまずくと、判事は早速袖から厚紙の箱をとり出し、裁判官席の向こうへと押しやった。それはかたりとウーの前に落ちた。
おかしなものをという顔で、彼は見た。それは殺された将軍の袖から出て来た箱だったが、ねずみのかじった所はきれいに修復してあった。
判事がたずねた。「その箱を知っているか?」
ウーは顔を上げた。「甘い李《すもも》を入れて売っている箱でしょう。鼓楼の近くの市場で、何百と積み上げて売っているのを見ました。ぼくも一つ買ったことがあります。ですから、そういう箱とは知っていますが、この箱そのものは見たことがありません。上に賀詞が書いてあるから、きっと人に贈ったものなんでしょうね」
「まったくその通り、記念日の贈物だ」と判事は言った、「中の李を一つ食べてみてはくれまいか」
ウーは面くらったように、判事のほうを見たが、ひょいと肩をすくめた。
「いっこうに構いませんよ、閣下!」
彼は箱を開いた。白い薄様紙を敷いた上に九つの李がきちんと並んでいる。ウーは人差指で押してみて、柔らかそうなのを見つけると口に入れた。食べ終わると、核《さね》を床に吐き出した。
「もっと食べるのでしょうか、閣下」ウーは慇懃にたずねた。
「それでたくさんだ」判事は冷然と言った、「後ろに下がっていなさい」
ウーは立ち上がって巡査たちを見たが、彼をつかんで牢へ連れ帰る様子がなかった。それで彼は何歩か下がってたたずみ、まごついたように判事を見やった。
「ディン学士を前に出させなさい!」とディー判事は命じた。
ディンが裁判官席の前にひざまずくと、ディー判事が言った、「ディン学士、君の父上を殺したのが誰か、私にはもうわかっている。この事件はまれに見る厄介な事件なのだ。その複雑な関連事実をすべて解きほぐそうというつもりはない。父上の生命を脅かしていたのは単独のすじからではなく、殺害の企ても一つだけではない。しかしながら、この法廷では、成功した一つの企てのみを対象とする。被告ウーは、それとはなんら関わりがない。ゆえに、ウー・フォンヘの訴えはこれにて却下する!」
群衆は驚き、ざわめいた。ディン学士は黙りこみ、その上はウーに対する訴えを持ち出さなかった。
ウーがいきなり叫んだ、「閣下、白蘭さんは見つかったのですか?」
判事がかぶりを振ると、ウーは何も言わずにきびすをめぐらし、そっけなく人混みを押し分けながら、法廷の戸口に向かった。
ディー判事は朱漆の筆をとり上げた。
「立ちたまえ、ディン学士、この筆について、知っていることを話しなさい」
そう言いながら、判事は筆をディンの方へさし出し、空っぽの軸を青年の顔にまっすぐ突きつけた。
ディン学士はあっけにとられた様子だった。筆を受け取り、指にはさんでくるくる回してみた。彫りつけられた文字を見ると、彼はうなずいた。
「閣下、この文字を見て思い出しました。何年か前に、父がたいそう古い玉《ぎょく》製品を出して見せてくれた時、この筆も出して来ました。たいへんに身分の高い方から、還暦祝のために前以て贈られたものだということでした。父はその名前を明かしませんでしたが、その方は、もう自分の余命がいくばくもなさそうなので、この筆を前以て贈りたいと言われたそうです。父は実際に六十の賀を祝うまでは、それを使わないはずでした。
父はこの筆をこの上なく大切にしておりました。私に見せた後は、玉の所蔵品をしまっておく、鍵つきの箱にもどしました」
「その筆こそ」とディー判事が重々しく言った、「父君殺害の凶器である!」
ディン学士はうろたえた様子で、手にした筆を見つめた。念入りに吟味し、空っぽの軸をのぞきこんだ。それから不審そうに頭を振った。
ディー判事は、彼の一挙一動をじっと見守っていた。そして、きっぱり言った、「その筆を返しなさい。どういうふうにやったか、実演してみせよう!」
ディン学士が筆を返すと、ディー判事はそれを左手に構えた。そして袖から取り出した小さな木の円筒を、誰からも見えるように右手で掲げた。
「これは、ディン将軍の咽にささっていた小刀のつかを木で正確に模造したものだが、長さのほうは、刃も含めて小刀全体の長さと同じにしてある。これからそれを、この筆の軸の空隙にさしこんでみよう」
棒はぴったりはまったが、あと一、二センチというところで、つかえた。
ディー判事は、筆をマー・ロンに渡した。
「この棒を、もっと押し下げよ!」
マー・ロンは大きな親指を、突き出ている棒の端にあてた。相当に力をこめて、棒が軸の中にすっかり隠れるところまで押し下げた。
どうしましょうかという顔で、彼は判事を見やった。
「腕を伸ばし、できるだけすばやく親指をはなせ!」と判事が命じた。
棒は五尺ばかりも飛び上がり、からんと石畳に落ちた。
ディー判事は椅子の背にもたれ、おもむろにあごひげをなでた。「この筆は巧妙に考案された凶器である。その軸の空隙には、南方産の籐と推定される細い螺旋がいくつもはいっている。この凶器を製作した人物は、螺旋を入れた上から、中空の管でできるだけ奥深く圧えつけた。そこへ溶かした膠《にかわ》を注ぎ入れて固まるまでおいた。それから管を取り去り、かわりにこれを入れたのだ」
ディー判事は小さな箱を開け、たいへんに用心しながら、死去した将軍の咽から発見された小刀を取り出した。
「この円筒状のつかが、この筆の軸にぴったり合うのを見るがよい」と判事は続けた、「しかも中空の刃は、軸の内側の丸みと合っている。たとえ軸をのぞきこんだとて、小刀は目にはいるまい。
何年か前にある人物がこの筆を将軍に贈り、それでもって死刑を宣告したのだ。将軍がこの筆を使う時、われわれ誰もが新しい筆をおろす時にはするように、いずれは必ずその穂先を蝋燭の炎に近づけて、余分な毛を焼くと、その人物は心得ていた。炎の熱が膠を柔らげると、螺旋は解除され、毒を仕込んだ小刀が軸から放たれる。被害者の顔か咽にそれが命中するのは、十に一つの機会だったろう。その後、螺旋は軸の内壁に沿って延びるので、やはり人の目にはいらない」
ディー判事が話をしている時、初めディン学士はまるでまごついている様子だったが、次第にあまりに恐ろしくて信じ難いという顔に変わった。とうとう彼は悲鳴をあげた。「こんな悪魔のような仕掛けを、閣下、いったい誰の工夫なんでしょう!」
「その人物は、行為の中にちゃんと自分の名を止《とど》めて行った」と判事は落ち着いて言った。「だがそれだけでは、私は決してこの謎を解くことはできなかったろう。ここに、銘記を読み上げさせてもらう、〈還暦を賀したてまつる、静安居〉」
「誰のことです? そんな雅号を聞いたことはない!」とディン学士は叫んだ。
判事はうなずいて、答えた、「数少ない、親密な友人が知っているだけなのだ。昨日、私はそれが故アン・ショウジェン総督の雅号であることを知った」
聴衆から、どよめきが上がった。
興奮がおさまったところで、判事は言葉を継いだ、「同じ日に、父と子とが当政庁に登場することになったわけである。現《うつ》し身の子と、霊となった父と。
ディン学士よ、あなたはたぶん私よりもよく知っているであろう。あなたの父の如何なる行為がもととなり、アン老総督をして、あなたの父に対し死刑を宣告させ、かくも異例の方法により手ずから刑を執行させるに至ったかを。さりながら、本官は死者に対し訴訟を行うことはできない。本知事は、これにて、本件の終了を宣する!」
ディー判事は驚堂木を机に打ちおろした。彼は立ち上がり、壇の後ろの仕切りの陰に消えた。
ぞろぞろと法廷を出て行きながら、傍聴者たちは将軍殺しの意外な結末について、さかんに語り合った。巧妙な仕掛けを見抜いたというので、判事は大いに人々に賞賛を博した。しかし裁判に多少の経験のある年輩者たちは、いくらか納得がいかないようだった。彼らには李の箱が何を意味するのか理解できず、この事件には、なにかまだ表沙汰になっていないことがあるに違いないと批評し合った。
ファン巡査長が衛士詰所にはいると、ウーが待ち構えていた。
ウーは巡査長に向かって、うやうやしく頭を下げ、いそいそと言った、「どうか私に、あなたの娘さんの捜索を手伝わせてください!」
ファン巡査長は、感慨深げに彼を見やった、「ウーさん、あなたは私の娘のために苛酷な拷問にも堪えるご覚悟だったのだから、私は喜んでご助力をお受けします。今すぐやるように命じられていることが一つあるので、ちょっとここで待っていてください。もどってきたら、収穫のなかった最初の捜索についてすっかり説明しましょう」
ウーが異議を唱えるのをさえぎって、巡査長は門のところに行き、流れ出て行く人波を見回した。ディン学士が、ちょうど通りに出て行くところだった。ファン巡査長は彼に追いついて、声をかけた、「ディンさん、閣下がご自分の執務室へ、ちょっと来てほしいと言っておられます」
ディー判事は席に着き、そのまわりに副官四人が集っていた。判事はタオ・ガンに命じて、筆の軸を鋸で二つにひき割らせたのだ。軸の底に膠のぬるぬるした塊があり、細い籐の切れ端が、軸の内壁に沿って伸びていた。
ファン巡査長がディン学士を中に案内すると、ディー判事は副官たちに向かって言った、「もう君たちは下がってよろしい」
彼らは立ち上がって、廊下に向かった。しかしチャオ・タイは、ディー判事の机の前に立ったままでいた。
「閣下」と彼は改まった調子で言った。「ここにとどまることをお許しください!」
ディー判事は眉を上げ、チャオ・タイの冷静な顔をさぐるようにちらと見たが、やがてうなずいて、自分の机の脇の丸腰掛を指さした。
チャオ・タイが座ると、ディン学士も、それにならおうとする様子だった。だが判事が座るようにと言わないので、青年は少々とまどったが、結局立ったままでいた。やがて判事が口を開いた。
「ディン学士、私は君の亡き父上を、人々の前で公然と非難することを控えた。ここで私が明らかにしようとする特別な事情さえなかったなら、彼の一人息子である君の前で非難するつもりはなかった。
なぜ父上が退職を余儀なくされたか、私にははっきりとわかっている。その件について述べている機密文書が首都の記録編纂所に登録された時、私はちょうどそこに勤務していた。詳細は記されていなかった、というのも、その惨事から生き残り、君の父上の腹黒い行為の証人となる目撃者が一人もいなかったからだ。それでもウー総司令官は、わが帝国軍の一連隊が一兵あまさず虐殺された事件について、君の父上の責任に違いないことを示すに足る、十分な副次的証拠を集めた。
政府が政治的配慮から父上の告発を回避した時、アン総督は、当然の刑を自らの手で執行しようと決意した。老総督は勇敢な人だった。もし自分自身の家族を巻き込む心配がなければ、君の父上を公然と殺すことさえしたであろう。そこで彼は、自分が人の裁きの手を超えた場所に身を置いた後で、実行されるように決めた。
総督のとった行動について、判断を下すつもりは毛頭ない。ああいう種類の人物は、通常人の尺度では到底推し量れない。ただ、私は君に対し、私が何もかもすべて知っていることをはっきりとさせておきたいと思うのだ」
ディン学士は答えなかった。父の犯罪行為について、彼が知っていることは明らかだった。彼は頭を垂れ、黙って床に目を落として立っていた。
チャオ・タイは、身じろぎもしなかった。彼は何を見るでもなく、ひたすら前方を見つめていた。
ディー判事はひとしきり黙って自分の長いあごひげをなでていたが、やがて言った、「父上の件は、これで決着したから、ディン学士、次は君自身の件に移る!」
チャオ・タイが立ち上がった。
「私は失礼いたします、閣下!」
ディー判事はうなずいた。チャオ・タイは部屋を出た。
判事は暫く口をきかなかった。
とうとうディン学士が恐る恐る顔を上げたが、彼に注がれている判事の燃えるような眼差しに出会うと、尻ごみした。
椅子の肘掛をつかんで身をのり出し、判事はさげすむように言った、「汝の知事を見よ、この恥知らずの卑怯者!」
青年は激しい恐怖感を浮かべて、判事を見た。
「見下げ果てた愚かな奴!」判事は激しい憤りに声を震わせながら、吐き出すように言った、「おまえの卑劣な企みが、この知事の目をごまかしきれると思うか?」
判事はつとめて自分を抑えようとした。次に口を開いた時、その声は落ち着いていたが、金属のように堅く容赦ない響きを帯び、ディン学士を縮み上がらせた。
「おまえの父を毒殺しようと企んだのはウー・フォンではない。それは一人息子のおまえだ!
ウーが蘭坊《ランファン》にやって来たことで、おまえは自分の計画している犯行を隠蔽することを思いついた。おまえはウーについて流言を広め、彼の動きを探った。ウーの外出中か飲んだくれている最中かにウーの画室に忍びこみ、印形の捺されている紙を一枚抜き取ったのはおまえだ!」
ディン学士は口を開いた。
ディー判事は、机を拳固でがんと打ってどなりつけた。
「黙って聞け!
父の賀の当夜、おまえは毒入りの李の箱を、袖の中に用意していた。おまえの父が広間を去った時、忠実な息子は彼を書斎まで送って行った。執事はおまえの後からついて行った。
父が戸口の鍵を開けた。おまえはひざまずいて、夜の挨拶をした。執事は室内にはいって机の上の二本の蝋燭に火をともした。その時おまえは袖の中から箱を取り出し、黙って父に差し出した。たぶん頭を下げたのだろう。箱の上書きが十分に意を尽くしていた。おまえの父は礼を言い、箱を左の袖に入れた。
ちょうどその時、執事が部屋から出てきた。彼はおまえの父が鍵を左袖にしまったのだと思い、礼の言葉は、おまえがよき夜をと願ったのに対して言ったのだと考えた。だがそこに、二分かそこらの説明のつかない時間がある。つまり、執事が二本の蝋燭に火をつけていた間だ。なぜ、おまえの父は鍵を手にしたままそこに立っていたのか? 言うまでもなく、彼は戸を開けるとすぐに、鍵を袖にしまった。執事が袖に入れるのを見たのは、毒入りの李の箱だったのだ。心の腐った息子が自分の父親を殺そうと企んだ小道具だ!」
ディー判事の眼差しが短刀のように、ディンの眼をさし貫いた。青年はがたがたと震え始めたが、ディー判事の逆らい難い凝視から、眼をそらすことはできなかった。
「おまえは父を殺しはしなかった」と判事は低い声で続けた、「箱を開きすらせぬうちに、亡き総督の手が襲いかかった」
ディン学士は何度か咽をごくごく言わせた。そして、わざとらしい声で叫んだ。「なぜ、なぜ私が自分の父を殺そうなどとするでしょう?」
判事は立ち上がり、ディン事件について自分で書きこみをした書類を取り上げた。ディン学士の面前に立ちはだかると、彼は恐ろしい声で言った。
「この、度し難い愚か者! よくもそんな事を言えたものだ! よくもなぜと問い返せたものだ! おまえのけがらわしい落書の中で、おまえは父への憎悪の原因をなした堕落した婦人についてはっきりと言及しているばかりか、罪深い関係をさらけ出してさえいるではないか!」
巻物をディンの顔に突きつけて、判事は続けた、「おまえのみじめたらしい詩の中で、〈初雪の胸〉やら〈一点のしみとて満月を損ねず〉やらと書いているところを読み返して見よ! たまたまある女中が知らせてくれたところでは、おまえの父の第四夫人は、左胸にみっともないあざがあるそうな。おまえは父親の妻たちの一人と、卑劣な密通の罪を犯している!」
静寂が、部屋を領した。
判事が再び口を切った時、彼の声には疲れがあった。
「私はこの恥ずべき不義密通の罪により、おまえと情婦とを政庁で裁くこともできた。だが、法律の主要な目的は、犯罪行為によって生じた損害を修復することにある。この件では、修復すべきことはない。しかし、われわれのできる、またなすべきことは、腐敗堕落をそれ以上広げないことだ。
木の枝が芯まで腐っている時、庭師がどうするか知っているな? 彼は枝を切り落として、木を生かそうとする。おまえの父は死に、おまえは一人息子で、おまえ自身には子はいない。ディン家のこの血筋が断たれねばならないということがわかっただろう。それだけだ、ディン学士!」
ディン学士は向きを変え、夢を見ている人のような足どりで、執務室を去った。
戸を叩く音がした。
チャオ・タイがはいって来るのを見て、ディー判事の顔が輝いた。「掛けたまえ、チャオ・タイ!」と彼は疲れた声で言った。
チャオ・タイは丸腰掛の一つに座ったが、その顔は青ざめ、こわばっていた。彼は前置きもなく、公式報告を読み上げるような単調な声で語り始めた。
「十年前の秋のこと、ディン・フーグオ将軍は七千の軍勢を率い、北方国境を越えて来た、兵力においてやや勝る蛮族軍と遭遇しました。もし戦闘を挑めば、勝敗は互角だったでしょう。
ところが彼は、自分の生命を危険にさらしたがりませんでした。彼は秘密交渉を行い、蛮族の将軍に贈賄して撤退を求めました。その時蛮人は、合戦での腕前を誇示するための数百の敵の首を得なければ、自分の戦士たちは幕舎に帰れないと言い張ったのです。
ディン将軍は左翼の第六大隊に指令を出し、主力軍から分かれて、ある谷あいの前進位置につくようにと命じました。その隊には、帝国軍で最も雄々しい将校の一人であるリャン司令官の率いる八百の兵と、隊長八人とがおりました。
大隊が谷あいにはいるとすぐ、二千の蛮族が山の上から殺到してきました。わが軍は勇敢に戦いましたが、その勇猛もあんなに優勢な兵力の前にはなすすべがありませんでした。全大隊は皆殺しの目に合いました。蛮族は能う限りの数の首を切りとり、槍の先にさして馳せ去りました。
隊長七人は切り刻まれて死にました。八人目の隊長は、兜の上から槍でなぐられて気を失い、自分の馬の下敷になって、死んだものとして忘れ去られました。蛮族が去った後で気がつき、自分がただ一人の生存者だと知ったのです」
チャオ・タイの声はしぼりだすようだった。憔悴した顔に、汗が流れ落ちた。「その隊長はやっとのことで首都に帰り、軍政局に出頭して、ディン将軍を告発しましたが、事件は決着した、もう何もかも忘れてしまえと言われました。
それ以来、隊長は軍服を脱ぎ捨てました。ディン将軍を見つけて首をはねるまでは、休むまいと誓いました。名前を変え、義賊の群れに加わって、ディン将軍を探し求めながら、何年も国中を駆けめぐりました。そうしたある日、彼は任地に向かって旅していた、ある知事にめぐり会いました。その人物は、彼に正義の意味を教え、そして……」
チャオ・タイの声が途切れた。押し殺したような咽《むせ》びが、彼の咽《のど》からもれた。
ディー判事は、優しく彼を見つめた。そして厳かに言った。
「チャオ・タイよ、君の良き剣が裏切者の血でけがされることのないようにと、天が定めたのだ。もう一人の人物がディン将軍の死罪を決定し、処刑した。
君がいま話したことは、厳にわれわれだけの間に秘めておこう。だが私は、君の意志に反して君をここに引き留めはしないよ。君がいつも軍隊に心惹かれていることはわかっている。なにか口実を設けて、君を首都へやるというのはどうだ? 軍政局長にあてて推薦の信任状を書いてあげることもできる。君ならきっと、千人以上の軍の指揮官に任命されるぞ!」
わびしげな笑みが、チャオ・タイの頬に浮かんだ。
彼は静かに言った、「どちらかといえば、私は、閣下がいずれ首都の高官になられる日を待つ気持ちが強いです。私の働きがもう必要でなくなるまでは、お側で仕事を続けることをお許しください」
「それは重畳《ちょうじょう》!」と判事は幸せそうに笑った、「君の決心を有難く思っているよ、チャオ・タイ。いなくなられたら、どんなに寂しいか!」
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第二十二章
判事はディン将軍の殺害を解説し
ついに画巻の謎も解明してみせる
ちょうどその頃、ファン巡査長はウーとじっくり話しこんでいた。
白蘭の失踪以外には、ウーの関心をひくことはないらしかった。牢獄にいた日々も、政庁で受けた鞭打ちの刑も、もうすっかり念頭から去っていた。ディン将軍がどのようにして死を迎えたかを巡査長が説明するのを、暫くはうわの空で聞いていたが、そのうちたまらなくなってさえぎった、「あの呪われたディン一族になぞ、私はこれっぽっちも興味がありません。私が知りたいのは、どうやったらあなたの上のお嬢さんの行方を突き止められるかだけです。それに、もうおわかりでしょうが、あの人が見つかり次第、私たちの結婚のための媒酌人を立てるつもりでいるのです!」
巡査長は黙って頭を下げた。こんなに身分の高い若い人が自分の娘と結婚したがっていることを、心の中ではたいそう誇らしく感じた。とはいえ、こうした婚姻の計画を気安く口にするのにはぎくりとさせられた。普通程度の家の家長がたいていそうであるように、ファンも形式にうるさかった。花婿となるべき人は、仲人を立てて交渉を始めないうちは花嫁の父に直接この問題を持ち出すものではないというのが、基本的な作法だった。
リー夫人に関する情報を集めよというホン警部からの指令を、娘の玄蘭に命じてやらせたのは、巡査長の堅苦しい礼儀作法の感覚だった。その指令を、ファンは自分自身ではやりたくなかった。もし男が彼女について聞いて回ったとしたら、リー夫人の名声に傷がつくかもしれぬと思案したのだ。
ファン巡査長はあわてて話題を変えた、「閣下は明日新しい捜査プランを出されるはずです。その時には、ウーさん、たぶんあなたが私の行方不明の娘の似顔絵を何枚か描いて、市中の他区域の区長たちにまわすことになるでしょう」
「それはいい考えだ!」ウーは有頂天で叫んだ、「ぼくは家に帰って、すぐ仕事にかかろう!」
飛び立とうとする腕を、巡査長が抑えた。彼は遠慮深く言った、「ここを出られる前に閣下にお会いして行かれたほうがいいのでは? あなたはまだきちんと退出のご挨拶をしていないし、疑いを晴らして戴いたことのお礼も申し上げるのではないんですか?」
「あと、あと!」ウーは陽気に言うなり、ふっとんで行ってしまった。
ディー判事は執務室で、ホン警部に給仕させながら質素な昼食をとった。
お疲れらしいと、警部は思った。判事は黙ったままで食べていた。
食事の後は、時間をかけて茶を飲んだ。その後でようやく言った。「警部、他の副官たちを呼びなさい。皆に、将軍殺害事件の全貌を話したい」
副官四人の顔が揃うと、ディー判事はゆったりと椅子にもたれ、ディン学士と二人だけで交わした会話の内容を話して聞かせた。
タオ・ガンはとまどったように頭を振っていたが、大きな息をついて言った、「閣下、こう入り組んだ難問が束になってくるのにぶつかったのは、未だかつてなかったようですな!」
「外見上はそういうふうに見えるが」と判事は答えた、「その実、ただ地方的な背後事情がすべてを複雑にしているだけなのだ。からまった糸が次第にほぐれてくると、はっきりした型が現れる。
実際の事件は三つだけだ。一、ディン将軍殺害。二、アン対アンの訴訟。三、ファンの娘の失踪。
チェン・モウに対してとった方策、アン・キーの陰謀発覚、パン知事殺害事件の解決などは、地方的事情と見るべきだろうね。それらは別問題であって、われわれの抱えている三件の本筋とは関係がない」
ホン警部がうなずき、暫くしてから言い出した、「閣下がどうしてウーに対する訴訟をすぐ続けられないのかと、ずっと不思議に思っておりました。最初はあらゆる証拠が彼の有罪を色濃く示しましたから」
「最初に出会った時から、ディン学士は不審な動きをしていた」と判事は答えた、「マー・ロンと私とが路上で初めて彼に出会った時、私が身分を明かすと、彼は激しい驚きを隠しきれなかった。犯罪探知者という、柄でもない評判を私がとっているものだから、父親を毒殺して罪をウーにきせる企みを諦めようかと、一瞬思ったに違いないよ。そこで彼は、自分の計画に手落ちはない、必ず機会は得られると腹を決めた。私たちを茶館に誘い、ディン将軍の生命に関するウーの悪企みについての造り話をしゃべりまくった」
「あのディンの野郎は、おれまで馬鹿にした!」とマー・ロンはぷりぷりして叫んだ。
ディー判事は、にっこりして続けた。「そして将軍が殺された。ディン青年は、どういうことになっているのか、まるで考えもつかなかった。そのことを、私は今朝またためしてみた。私がいきなり殺人筆を、筆の軸のあいている方を、ディンの顔にまともに向けて突き出したのを見ただろう。総督が将軍に贈った後でディンが手を加えたのだったら、思わずディンの顔に出たはずだ。
それにしても、ディン学士はこの不可解な殺人事件に、われわれ同様、頭を悩ましたに相違ない。起こったことを確かめるために心穏やかならぬひと時を過ごしたはずだよ。自分の情人が人殺しに手を貸したのだろうか? 自分の殺人計画に気づいた奴がいたのだろうか? 自分の代わりに計画を遂行したからと、いずれ相当な報酬を請求して来るのだろうか? とね。そこで彼は、ウーを犯人に仕立てるというそもそもの計画を、ともかくも果たさねばと決心した。ウーの有罪が確定すれば、実際の殺害者から脅迫されたりゆすられたりする気遣いはなくなる。それで彼はここに駆けつけて、ウーを訴え出た。だがディンは、自分では念を入れてこしらえたつもりの手掛りが、全く薄弱なことに気づいていなかった」
「とても理解できませんな、閣下!」とタオ・ガンが口をはさんだ、「毒入り李のあの箱は、ずばりウーを指していましたよ!」
「ずばり過ぎたさ」と判事は応じた、「あまりにも出来過ぎだったし、おまけに、ウーの人柄を全く見損なったところから出発している。ウーは目から鼻へ抜けるほど賢くて、しかも激し易い青年だ。正直言って、私とはあまり気の合うタイプとは言えないが。だが、優秀な芸術家には違いない。その種の人間は、日常生活の決まりにはどちらかというと無頓着でいい加減なのだが、ほんとうに関心を持っている事柄に対する時は、恐るべき集中力を発揮する。もしウーが誰かを毒殺しようと考えたら、絶対に雌黄《ガンボージ》などを使うはずはないし、箱の敷紙の印形のような見え透いた手掛りを見過ごすわけがない」
タオ・ガンはうなずいて言った。
「彼の潔白を決定的に証明したのは、例の箱に私がつめた新しい李を平気で食べたことですな」
「その通り!」とディー判事は言った、「だが、事件を時間を追って見て行こう。ディンが殺人を知らせて来た時、私は早速ウーに会いに行った。私は原告と被告の人物像を比較してみたかった。会ってみてすぐに私は、ウーが計画的な殺人をするようなタイプではなさそうだと判断した。ましてディンがほのめかしたような、こじつけめいた動機からでなかったにしてもだ。
実際に殺したのは第三の人物だと想定してみた。ディン将軍のように陰惨な犯罪を犯した人間が多くの敵を持つことは十分考えられることだし、ディンはウーに疑いをかける時この事実を利用しているとみた。ディンがウーを迫害する理由は、恋仇同士だからだろうと考えた。ウーの絵とディンの恋文とに繰り返し現れる娘の姿が、二人の青年は同じ娘に恋していると、私に信じこませた。
毒入り李の箱を発見したことで、ディンがウーに対してなにか企んでいるという、私の信念は強められた。当然のこととして、ディンは父親が李を口にする前に毒に気づくような予防措置を講じているはずだと思った。恋仇を追い払うために、自分の父親の命を危険にさらす人間がいるはずがないと考えたからだ」
ホン警部が口をはさんだ、「閣下がウーを容疑者から外されたわけが、やっとわかりました」
「たしかに私は、ディンを背信的で卑劣な奴だと思った。それで、次の段階のための心の用意ができた、つまり、ウーとディンが同じ娘を恋しているので|ない《ヽヽ》とわかった時だ。だが、それなら一体全体、なぜディンはウーを告発したのか? それには、ディンが自ら父親を殺し、ウーに罪をきせようと計画したという答えしかない。
そこで私は、ディンが二通りの凶器を用意したという理論を組み立てた。一つは実際に使用されたが、まだそれを発見してはいなかった。もう一つの毒入り李の箱は、第一の凶器が実効を示さなかった場合のために、ディンが予備としておいた第二の凶器だ。そうなると、ディンの非道な尊属殺人の動機は何かを見つけ出すのが最重要なこととなる。ディンが激しく恋い焦がれている娘と何か関係があるのではあるまいか? さらに材料を集めるために、私は玄蘭をディン邸にもどらせた」
ここでディー判事は口をつぐみ、ゆっくりと湯呑みを手にした。部屋は静まりかえっていた。やがて判事が話を継いだ。
「しかし、同時に私は奇妙な矛盾に悩んでいた。二つ目の凶器の毒李の箱を、ディンはあんなにも入念に準備してウーとつながるようにしておいたのだから、第一の凶器についても、直接ウーを指すように工夫して当然だ。私はさんざん知恵をしぼってみたのだが、実際の殺害の中にはウーにつながる手掛りが全く見つからないのだ。
そこで私は、最初の仮説にもどることにした。つまり、ほんとうの殺しは未知の第三の人物がやったので、その行為がたまたまディンの卑劣な毒殺計画と重なったのだと。通常、私は偶然の一致というのは好きではないが、この場合は、偶然の一致ということが起こったという事実を色濃く示していると認めざるを得ない」
「つい先刻閣下が言及された、ディン将軍が多くの敵を有したという事実によってもたらされた偶然の一致でしょう」とチャオ・タイが述べた、「確かに最終的には、将軍が部下たちを裏切った事件のために、老総督は彼を殺したのでした」
判事はうなずいてから話を続けた、「そう結論してみても、実際の殺人行為の解明に近づけるわけではなかったが、ディンとウーを容疑者から外せるという点では役に立った。ディンが父親を殺したくなった動機がわかった時、事件のその面は解決した」
ホン警部が口をはさんだ、「殺人事件の半分ははっきりしているとおっしゃったのは、そういうことだったのですか! 将軍の第四夫人の胸に醜いあざがあるという玄蘭の情報と、ディンの詩の文句とを、閣下はもう結びつけておられたのですな!」
「その通りだ」と判事は言った。「この事件の別の側面、つまり実際の将軍殺害の方は、もし老総督が行動の中に名前を刻みこんでおいてくれなかったら、正直言って私はどうしても謎を解けなかったかもしれないよ。
私がなんとか漕ぎつけた推論は、将軍はなにか機械仕掛けで殺されたに違いないということだった。あの閉め切られた部屋に、殺人者がはいったり出たりするのは絶対に不可能なことだ。それでも筆の秘密は永遠に見出せなかったかもしれない。私はあの老総督のすばらしい頭脳に到底かなわないよ! 小刀が軸から出た後、螺旋が内壁に沿って伸びているのを見ただろう。たとえ軸をのぞきこんだとしても、私はそれに気づかなかったろう。
鶴衣老先生を訪ねた折、静安居というのが老総督の雅号だったことを知り、ディン将軍が殺された時使っていた筆の軸に、その名前が彫りこんであったことを思い出した。タオ・ガンが吹き矢の可能性もあると言ったことを思い出し、筆の軸はそれと同じように使用できるなと気づいた。燭台の位置が変えられていたことから、筆の内部になにかからくりがあって、筆が温まると同時に発射される仕掛けになっているのじゃないかと気づいた。後は簡単だったよ」
「もしディン学士が自殺しなかったら、どうしますか?」とチャオ・タイがきいた。
「この政庁でディンと情婦との不義密通を告発し、自白するまでいためつける」と判事は落ち着きはらって言った。
長いあごひげをゆったりとなでつけながら、判事は副官たちを見つめた。もうなにも質問がないと見ると、彼は言葉を継いだ、「では第二の事件、老総督の遺言の件に移る」
副官たちはふり向いて、壁に掛けた絵に注目した。
「裏貼りに隠されていた遺言書は」と判事は言った、「アン・キーをあざむくために老総督がわざと隠しておいたまがいものだった。総督のねらいは的中した。なぜなら、書付を見つけた時、アン・キーは画巻を破棄しないで、アン夫人の手にもどした。手掛りは山水画それ自体の中にあり、さらに巧妙きわまりないものなのだよ!」
判事は席を立ち、絵に歩み寄った。副官たちも急いで腰を上げ、彼の側に立った。
「この山水画と総督の荘園との間に、なにか関係があるのではないかという漠然とした感じがあった。私が自分でそこへ行ったのは、それが主要な理由だった」
「どうして関係があるんですか?」とタオ・ガンが熱意をみせてたずねた。
「簡単な理由だよ」と判事は応じた、「その二つは、老総督がどんなことがあっても保全したいと願ったものなのだ。彼の死後にこの画巻が破棄されないですむように、巧妙な対応策を講じたし、アン・キーに厳命して、荘園の変改をいっさい禁じた。
最初は、この山水画巻は偽装された山荘の地図で、総督の本物の遺言をかくしてある秘密の壁戸棚の位置でも示しているのではないかと思った。だが自分でそこに行ってみた時は、全く類似性を発見できなかった。つなぎ目が見つかったのは、やっと昨夜になってだった!」
ディー判事は、笑いを含んで副官たちを見やった。彼らは判事の話に聞き入っていた。
「この山水画をよく見ると、構成上いくつかおかしなところがあるのがわかるだろう。いくつかの建物が崖を縫ってそこここに散らばっている。どの建物も山道伝いに行けるが、右上にある、一番大きくて、入念に描かれた建物には行けない。流れのほとりにあるんだが、全然道はない! その建物には特別な意味があるはずだと、私は推論した。
こんどは樹木に注目したまえ! 妙だなという気のするところはないかい?」
タオ・ガンとホン警部は絵を綿密に調べてみた。マー・ロンとチャオ・タイとはお手上げだった。二人は感心しきった表情で判事を見つめていた。
警部とタオ・ガンがあきらめて首を振ったので、判事は話を続けた、「どの建物も、どちらかといえば不正確な木立に囲まれている。ただ、松だけは、細心に描かれていて、どの幹もくっきりと背景から浮き出て見える。それらの松の本数が連続しているのがわかるだろう。山頂にある二本松は径《こみち》の始まりだ。三本松は下に下り、四本松は径が流れを渡る所、そして五本松は右上の大きな建物の近くだ。これらの松は、辿るべき道筋を示す道しるべだという結論を私は得た。頂上の二本松がこの絵と荘園とのつなぎ目だ。迷路の入口で見た、一対の松の木を表しているのだよ!」
「つまりこの山水画は、総督が迷路の中に建てた小さな家か園亭かまでどうやって行きつくかを示す、迷路の案内図というわけだ!」とタオ・ガンが叫んだ。
ディー判事は、かぶりを振った、「いや、それは正確ではない。迷路の中の園亭への道筋を示すということだろうね。総督はほとんど毎日そこへ行ったのだから、読書や書き物ができるような園亭があることは確かだ。この入念な建物がその園亭を表していることは、私も認める。しかし、迷路の径を辿って行きつけるとは思わない。
老総督は迷路の中の自分の居所を、全くの秘密にすることにした。もし誰か勇気と我慢強さを持つ人物が迷路の探索に出て、通常の径を通ってそれを発見できるようなら、総督は決して重要文書をそこに置きはしまい。
なぜ総督は、道筋の前半と後半をこんなにはっきり区別したのだろう? なぜ後半部を山渓で表したのか?」
「ずっと困難にするためです!」タオ・ガンが即答した。
「違う」と判事は応じた、「総督は、四本松で印したところが重要な地点だということを示すために、特に苦心したのだ。通常の山道に替えて、ここからは道筋が流れで示される。さらに、橋はこの場所で重大な変化があることを示す。
ここで道筋は迷路の通常の径を離れて、秘密の近道にはいると確信している。本当の径沿いでなく、曲がり角の間のどこかにある、隠された園亭に行く道だよ」
タオ・ガンがうなずいて、同意を示した。
「なんという完璧な隠れがでしょう! どんな砦より安全です! もし近道の鍵を握っていなかったら、何十日かけて迷路を探し歩いても、絶対に園亭は見つかりますまいよ。ですが、総督やその他秘密を知っている人なら、恐らく二、三分で行きつくでしょう!」
「そうだよ」とディー判事は言った、「いま君が最後に言ったことが肝心だ。総督は迷路に行くたびにくねくねと三十分以上も歩くのはうれしくなかっただろう。そう考えていたら、秘密の近道の存在が頭に浮かんだのさ。
では、この絵に示された道筋を辿ってみようではないか」
判事は山の上の、両側に一本ずつ松の立っている小さな家を指で示した。
「ここが迷路の入口だ。ここから岩に刻みつけられた石段を下り、径に沿って下がって行く。最初の分岐点は意味がない。右へ行っても左へ行っても構わない。二番目の分岐点では、径沿いに立っている三本松が左に行けと知らせる。やがて流れのところに着く。これはわれわれが迷路の通常の径から外れる地点だ。秘密の近道の入口は、四本松で示されている。迷路では、二本目と三本目の間のちょうどまんなかに入口が見つかるだろうと思う。ちょうどこの絵の流れのようにだ。この秘密の径のどこかに二本、三本と分かれて立つ五本松があるのだろう。総督の秘密の園亭は、きっとそこにある!」
そう言って、絵の右上方の大きな家に人差指を置いた。彼は席にもどって腰を下ろした。
「もし私がひどい間違いをしていなければ」と判事はしめくくった、「園亭の中で、遺言書など総督の極秘文書を入れた金庫か鉄の箱が見つかるだろう!」
「どうも私にはわかりかねることばかりですが、試してみるのは大賛成です」とマー・ロンが言った、「しかし、まだ第三の事件があります。白蘭失踪というのが」
ディー判事の表情が曇った。茶をすすりながら静かに言った。「全く心の痛む事件だ! あの娘の発見に、一歩も近づいてはいない。巡査長をいい人だと思うから、余計に残念だ。あれは正直で礼儀正しい職人だ、わが国家があの階級を誇りとしているのは当然のことだよ……」
判事はやり切れないというように額を押さえた。そして話を続けた。「今夜食事の後で、あの娘の行方を求める手だてを一緒に相談しよう。他の事件のけりがつけば、この残った謎に専念できる。
これから山荘に出かけて、迷路を抜ける秘密の近道という私の推論があたっているかどうか調べよう。もし総督の遺言書が見つかったら、アン・キーの大逆罪についての報告書に添えて、上級官庁へ送付できる。そうすれば大蔵省は、アンの資産没収を公表するとき、アン・シャンの贈与分を除外せざるを得まい。
チャオ・タイ、君はこの午後はずっと、今夜蛮族が襲撃した場合に備えた都市防衛態勢の組織にあたってくれたまえ。だが警部、君はマー・ロン、タオ・ガンと共に、私について来なさい!」
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第二十三章
判事は一行を迷路の核心に導いて
奥まった亭で身の毛もよだつ発見
一時間後、老総督の荘園は、たいへんな活況を呈していた。
政庁の巡査たちがそこら中にいた。庭園の径《こみち》を掃除している者もいれば、邸内の古い家具の在庫調べをしている者もいた。裏庭をもう一度調べて回っている者もあった。
ディー判事は迷路への入口になっている石門の手前の石畳に立ち、ホン警部、マー・ロン、タオ・ガンに、最終的な指示を出した。そのまわりには二十名の巡査がたむろしていた。
「どれくらいの道のりがあるかはわからない。わりあいに近いのではないかと思うが、確かなことは言えない。歩き進むあいだ、およそ二十歩ごとに巡査一名が本隊から離れて立ち止まる。それならば、先の者にも後の者にも声が届く。この迷路の中で迷子になるのは御免だ!」
さらにマー・ロンに向かって言った、「君は槍を持って先頭に立て。この迷路に侵入者を防ぐわながあるというような話は全く本気にしていないが、何年も野放し状態になっていたから、害獣が巣くっているかもしれない。皆に注意させるように!」
そのあと一行は石の入口をくぐり、迷路にはいって行った。
薄暗いトンネルの中で、腐った葉のじめついた匂いが鼻をついた。径は狭いが、楽に二人が並んで歩けた。両側に密植された樹木と乱雑に積まれた玉石とが、通り抜け不可能な壁を作っていた。あらゆる種類の樹木があったが、松は一本も見当たらなかった。頭上でさし交わす枝々に蔓がからまり茂ってぶら下がり、ディー判事とマー・ロンは、かがんでくぐり抜けなければならないことも度々だった。木々の幹にあきれるほど大きな茸が生えていた。その一つをマー・ロンが槍で叩いた。いやな臭いのする白い粉が煙のように吹き出した。
「気をつけろ、マー・ロン!」と判事が言った、「毒かもしれないじゃないか!」
初めて左に折れる所で、判事が足を止めた。満足そうににっこりしながら、曲がり角に並んで立っている、ごつごつした三本松をさした。
「あれは、最初の目印だ!」
「閣下、危い!」マー・ロンが叫んだ。
ディー判事がすばやく飛び退いた。
大人の手ほどもある蜘蛛が、鈍い響きを立てて地面に落ちた。毛の生えた胴に黄色の斑点があり、目がまがまがしい燐光を放った。
マー・ロンが槍の石突きでつぶした。
ディー判事は、首巻きの布をかき合わせた。
「あんなのに首に落ちて来られたらやりきれない!」と言い捨てると、彼は先を急いだ。
径は折り返しているようだった。二十歩ばかり行くと、鋭く右に曲がった。
「止まれ!」とディー判事はマー・ロンに呼びかけた、「二つ目の目印だ!」
径に沿って、四本の松が並んでいた。
「ここで正常の径をはずれて、秘密の近道にはいらなければならない。二番目と三番目の松の間で、すきまを探せ!」
マー・ロンが下生えの茂みを槍でつついた。彼はふいに飛び上がり、手荒く判事を押しのけた。
二尺ばかりの赤蛙が腐った葉の上を這って行き、驚くべきすばやさで、木の下の穴に消えた。
「すごい歓待だな!」とマー・ロンは捻り声をあげた、「あんな這い回るしろものは、山水画に描いてなかった!」
「だから厚い狩猟用の脚絆をつけるように言ったのだ!」と判事が応じた、「よく見てみろ!」
マー・ロンはかがみこんで、枝の下をすかし見た。やがて体を起こして立ち上がって言った、「確かにここに径があります。しかしとても細くて、人一人やっと通れるくらいです。まず私が行って、かぶさっている枝を押し分けます!」
彼は濃い茂みの中に姿を消した。判事は長衣を固く胴に巻きつけてその後を追い、ホン警部とタオ・ガンもついて行った。巡査たちは心許なげに、ファン巡査長の顔を見た。彼は短剣を抜き放って、部下たちに呼びかけた、「たじろぐな! けだものがいたら、おれたちが引き受けよう!」
抜け道はたかだか数|間《けん》しかなかった。棘だらけの茂みと少し闘うと、また正常の径に出た。
左も右も、急な曲がり角になっていた。判事はまず左に曲がってみたが、その先には長く真っ直な道が続いていた。
彼はかぶりを振った。
「反対の方角に違いないな。こんなに真っ直な長丁場が近道とは思えない」
彼は径に出た地点にもどった。角を曲がってみると、短い通路にはいった。
「ここだ!」と判事がいきごんで叫んだ。彼は左右を指さした。松が三本と二本、道をはさんで立っていた。
「総督の絵に従えば」と判事は連れたちに言った、「秘密の園亭は、ごく近いはずだ。径は二本松の間だと思う。向かい側の三本は、ただ全部で五本にするためにあるだけのようだ」
マー・ロンは張り切って、二本の木の間をふさいでいる薮に突進した。が、激しく悪態をつく声がした。
彼は再び姿を現した。脚絆が泥まみれになっている。
「腐った池しかありませんよ!」うんざりしたように、彼は言った。
ディー判事が難しい顔で、いらだたしげに言った。
「その池のまわりに径があるに違いない。ここまではすべて符合した!」
ファン巡査長が巡査たちに合図した。彼らは刀を抜いて、下生えを切り開き始めた。黒い池の縁が見えて来た。さっきマー・ロンが踏みこんだあたりには、まだ泡が立っていた。悪臭が空気をよどませていた。
判事は体をかがめて、垂れ下がった枝々の下をのぞきこんでいたが、急に身を引いた。
おかしな形をした頭が静かに水から出た。その黄色の目が、じっと彼らに注がれた。
マー・ロンがうっと言って槍を構えた。だが判事がその手を抑えた。
巨大なとかげが、ゆっくりと池から上がってきた。細長いその身の丈は五尺あまりもあった。堤に上がると、す速く水草の間にすべり込んだ。
みな、ひどく肝をつぶした。
「あの生きものより、ウイグル人六人のほうがましだよな!」しみじみと、マー・ロンは言った。
だが判事はとても嬉しかったらしく、明らかに満足した様子で言った、「古い書物の中で、ああいう大きなとかげの話を度々読んだ。じっさいにこの眼で見たのは初めてだよ!」
それから彼は、池の堤で目にはいるものを細かく調べたが、あまり見込みはありそうになかった。泥をかぶった水草しかなかったのだ。判事はその後でもう一度黒い水を見つめた。
「あの石が見えるか?」いきなり判事はマー・ロンに言った、「確かにあれは、渡って行く飛び石の第一石だ。進んでみよう!」
マー・ロンは、長衣の裾を腰帯にたくしこんだ。他の者もそれにならった。
彼は平らな石の上に乗り移り、そのまわり一帯を槍で探った。
「ここに二つ目がある!」と彼は声を上げた、「ちょうど左前方だ!」
低い枝をかき分けながら、彼は歩を進めた。が、ふいに足を止めた。ぴったり後についていたディー判事は、彼に衝突した。もしマー・ロンが支えなかったら、判事は水に落ちていただろう。
マー・ロンは黙って折れた枝を指し、判事の耳許でささやいた、「人間がその枝を折ったんです。それもそんなに前のことじゃない。見てください。まだ葉が枯れてやしません。誰かが昨日ここを通ったんですよ、閣下!
この石の上ですべって立ち直ろうとして、この枝につかまったのです!」
ディー判事は、枝を見つめてうなずいた。
「すぐ近くにいるかもしれない。攻撃を覚悟したほうがいい!」と小声で応じてから、すぐ側の石の上にいるホン警部に伝え、警部がタオ・ガンとファン巡査長に伝えた。
「どんな人間だって、あのぬらぬらっとした奴よりましだ!」とマー・ロンはつぶやいた。槍の重味をためしながら、彼は先へ進んだ。
池はそれほど大きくなかったのだが、ずいぶん時間をとった。飛石の場所を一つ一つ確かめなければならなかったからだ。いくつかは水面のすぐ下にあった。それでも配置を知っている人なら、数分で池を渡り切るはずである。
再び堅い土を踏んだ時、マー・ロンとディー判事は姿勢を低くした。判事が少し枝をかき分けた。木々と巨大な玉石とで縁どられた、かなり大きな空地があった。中央の高い杉の木の下に、石造りの丸い園亭があった。窓は閉まっていたが、戸口は半開きになっていた。
巡査全員が池を渡り終えるのを待ってから、ディー判事は叫んだ。「建物を包囲!」
そう言うなり飛び出して、園亭まで突進すると扉を蹴って開けた。二匹の大きな蝙蝠が翼をぱたぱたさせて飛び出した。
判事はふり向いた。巡査たちはもう散開して、薮を見張っていた。ディー判事はかぶりを振った。
「ここには誰もいない。巡査長と巡査たちに、この空地を徹底的に調べさせよ!」
そう言ってから、彼はまた中にはいった。マー・ロン以下三人がその後に従った。マー・ロンがよろい戸を押し開けた。
緑がかった光でほのかに明るい室内は、中央に石卓、正面の壁際に大理石の長椅子が置かれているだけだった。どこもかしこも埃とかびで厚くおおわれていた。
石卓の上に、およそ一尺角の箱があった。ディー判事はその上にかがみこみ、自分の袖の端で汚れを拭きとった。箱は翡翠で造られ、見事な雲龍文様が彫刻されていた。
判事はそっと蓋を開け、色褪せた錦の布で包まれた小さな巻物を取り出した。
それを掲げて連れの者たちに見せながら、彼は重々しい声で言った。「これこそ総督の遺言書である!」
ディー判事はおもむろに包みを解いた。巻物をひろげて、朗々と読み上げた。
「これは、帝国学士院会員、東方三カ州の元総督、アン・ショウジェンの、動産の処分に関する遺言である。
わが絵の謎を読み解き、わが迷路の核心部に貫き入りたるわが畏友に対し、ここに私は敬意を表する!
人は春に種まき、秋に刈りとる、自業自得という。晩年に人生のたそがれ迫り来る時、人は己が功績を省み量らねばならぬ、後年それが如何に量られようかと。
私は成功したと思っていた。突如私は、みじめな失敗でしかなかったことに気づいた。帝国を改善せんがため、精励奮闘して来た私は、わが唯一の血肉たる、一子アン・キーの改心に失敗した。
アン・キーは、邪《よこし》まな気質を持ち、法外の欲望を抱く人間である。わが死後において、いずれはアン・キーが己れの破滅を招くことを予見したゆえに、私はわが先祖に対する義務を行うため、またアン・キーが獄中に、あるいは刑場に死したとしても、わが家系の絶えざることを願って、再婚した。
天はこの婚姻を嘉し、第二子アン・シャンを得さしめたが、私は彼に大いに期待している。わが死後もアン・シャンが栄え続けるようはからうことは、私の義務である。
もし私が財産を二子に等分するならば、それはアン・シャンの生命を危くすることとなろう。したがって、私は死の床では、すべてをアン・キーに遺すかのように見せることにする。しかしここに、私は自署押印のうえ、真の遺言を書き記す。すなわち、もしアン・キーが改心するなら、二人は等しく二分の一を得る。もしアン・キーが犯罪を犯すなら、すべてはアン・シャンに与えられるというのが、私の遺志である。
私は同趣旨の遺言書を画巻の中に隠しておく、アン・キーに見つけ出させるためである。もし彼がこの遺志を忠実に行うなら、万事はおさまり、天はわが家門に恵みを賜わるであろう。もしアン・キーが邪心からその遺言書を破棄したとしても、彼は私の絵がその秘密をすべて吐き出したと考えて、絵はわが貞節な若妻の手に残り、ついにわが賢明なる同僚《とも》たる貴君が、隠された意味を読みとり、この文書を発見するに至るであろう。
この文書が貴君の目に触れる時、天よ、なにとぞアン・キーの手の、未だ血に汚れざらんことを。されども彼が既に凶悪犯罪を犯しいる場合には、必ず責任をもって同封の嘆願書を所轄官庁に送付していただきたい。
賢明なるわが同僚《とも》に、天の恵みあらんことを、そしてわが家には憐れみを!
アン・ショウジェン署名印」
「われわれが見出した事柄を、一々裏付けている!」とホン警部が叫んだ。
ディー判事は心も空にうなずいた。上包みに気を取られていたのだ。巻物と一緒に巻いてあった、装飾入りの厚い紙が一枚出てきた。
彼はその内容を朗読した。
「アン・ショウジェン、未だ己れ自身のためあるいは己れのもののために、嘆願をしたことは一度もありませんでしたが、死後の今、伏してわが長子アン・キーのために、法の許す限りにおいて慈悲を願い奉ります。アン・キーはその短所にもかかわらず愛を注ぎ続けてきた老父の指導つたなきため、犯罪者となりました」
ほの暗い亭の中は、粛として声もなかった。聞こえるのはただ戸外の巡査たちの叫び声だけだった。
判事はゆっくりと文書を巻きおさめた。強い感動に声を詰まらせながら、彼は静かに言った、「アン閣下は、まことに高潔な方であられた!」
タオ・ガンは、爪で石卓の面をひっかいていた。
「ここに模様が彫ってありますよ!」
彼は小刀を取り出して、汚れをはぎとり始めた。ホン警部とマー・ロンもやり始めた。しだいに、円形の図案が現れてきた。
ディー判事は前かがみになった。
「これは迷路の地図だぞ! 見たまえ、曲がりくねる径は、古風な書体で様式化された四つの漢字を形造っている。〈虚《むな》しき幻の楼閣〉。山水画に書いてあったのと同じ成句だ! これは、老総督の隠退後の思想の基調をなした言葉なのだ。空しい幻影!」
「近道も出ているぞ!」とタオ・ガンが意気ごんで言った、「松のありかは、点で表されている!」
ディー判事は、再び地図に眼をこらした。人差指で図案をなぞった。
「なんという精巧な迷路だろう! 見たまえ、もし通常の入口からはいって、分れ道を毎度右へ曲がって行くならば、迷路全体を踏破してから出口に着く。また反対に、出口からはいって、分れ道を左々ととって行けば、同じことが起こる。だがもし秘密の近道を知らなければ、絶対にこの秘密の園亭を発見することはない!」
「閣下、アン夫人のお許しを頂いて、この迷路を掃除しなくてはなりませんな」と警部が言った、「そうすれば、蓮池のあの塔と並んで、当県の観光名所となりましょう!」
その時、ファン巡査長がはいって来た。
「閣下、ここにいた何者かは、われわれが来る前に立ち去りました。藪の中を徹底的に調べましたが、何も発見されません!」
「連中に命じて、木の幹や枝の間も見させたまえ。知られざる遊覧客は高みにひそんでいるかもしれない!」
巡査長がまた出て行った後、ディー判事はけげんそうにタオ・ガンを見た。タオ・ガンは幅の広い寝椅子にかがみこんで、厚く積もった埃にしげしげと目を注いでいた。
彼は頭を振りながら言った、「閣下、もしよく知らなかったら、私はこの黒っぽい点は、著しく血痕に似ていると言うところです!」
ディー判事は、冷たい恐怖が心臓をむずとつかむのを感じた。
彼はあわただしく歩み寄って、タオ・ガンの示すしみを指でこすった。そして窓辺に行き、手を調べた。赤ぐろい汚れが見分けられた。
判事はきっとなって、マー・ロンに向かって命じた。
「大理石の寝椅子の下を見よ!」
マー・ロンが下の暗いうろに槍をつき入れた。大きなひき蛙がひょこひょこ出て来た。
さらに膝をついて、寝椅子の下をのぞきこんだ。「蜘蛛の巣とごみ以外は、何もありません!」
一方タオ・ガンは、後ろのすき間をのぞいたが、色を失ってふり向くと、声を震わせた。
「寝椅子の後ろに、死体が転がっています」
マー・ロンが寝椅子の上に飛び上がった。二人は力を合わせて、切断された若い女の体を引き上げた。女は全裸で、乾いた血と泥にまみれていた。頭のあったはずの所は、ただぎざぎざの切口だった。
身の毛もよだつ発見物を、彼らは寝椅子に横たえた。マー・ロンが自分の首巻をはずして、腰部を覆った。退いて立ったマー・ロンの眼は、恐怖で大きく見開かれていた。
かつては姿のよい若い娘だったに違いないむくろの上に、ディー判事は身をかがめた。左乳の下には醜い刺し傷があり、両腕にはひどい傷の治ったあとがあった。彼はそろそろと体を裏返した。肩にも腰にも細い鞭のあとがついていた。
起き直った時、彼の眼は怒りに燃えていた。彼は張り詰めた声で言った。
「この娘は、ここで昨日殺されたばかりだ。すっかり硬直しているが、腐敗は始まっていない」
マー・ロンが度を失ってたずねた、「こんな所へどうやって来たんでしょう? 迷路を抜けて来る時は、もう裸だったに違いありませんよ! ほら、腿は茨でひっかかれているし、足は池の泥でまみれています。飛石ですべった時つかまろうとして、あの枝を折ったのはこの娘です!」
「大事なのは、誰が娘をここへ連れて来たかだ!」と判事は吐き捨てるように言った。「ファン巡査長を呼べ!」
巡査長がはいって来たのを見て、判事は命令した。「巡査長、この死体を君の外套で包め。巡査たちに長い枝を何本か切らせて、担架を作れ!」
巡査長は外套を脱いで、寝椅子のほうへ体をかがめた。
突然、彼はかすれた叫びをもらした。眼を飛び出しそうに見張って、彼は切断された死体を見つめていた。
「これは白蘭です!」と彼は声をつまらせた。
皆が一度に叫び声を上げた。
ディー判事が手を上げた。
「確かにそうか、巡査長!」と彼は静かにたずねた。
「やっと七つの頃」と巡査長は咽び泣いた、「煮立っている湯沸しにつまずいて、左腕に火傷をしました。その跡を私が見分けられないとお思いですか?」
形のいい美しい腕についた白い一点の傷痕を、彼は指さした。そして死体に身を投げかけ、心も破れんばかりに泣き咽び始めた。
ディー判事は寛い袖の中で腕を組み、濃い眉をひそめて、暫く思いに沈んでいた。
ふいに判事が、ホン警部にたずねた、「警部、リー夫人の住んでいる所はわかったか?」
警部は黙って、ファン巡査長のうつ伏した姿を指した。
ディー判事は巡査長の肩に手を置いて、緊張した声音で問いかけた。「リー夫人の住まいはどこか?」
頭は上げずに、巡査長は答えた、「今朝、玄蘭に探し出して来るようにと言いました」
ディー判事は電光のようなすばやさでふり向いた。マー・ロンの袖をつかんで引きつけると、何事か耳打ちした。
マー・ロンは言葉も返さず、亭から飛び出して行った。
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第二十四章
若い娘が高名の画家のもとを訪ね
思いもかけぬ場で犯人は縛《いましめ》につく
その朝、玄蘭は父の指図で、リー夫人の住所を探すために政庁を出た。
彼女は市の東門に向かう大通りを小走りで歩いた。もう何日も姉の身を案じ続けて来た。そうやって歩くことで、少し心が晴れてくれればいいと思っていた。
四辻の行商の売台の間をぶらぶらして小半時つぶした後、東門の商店街に向かった。リー夫人は絵描きだと、父に知らされていたので、玄蘭はまず最初に目についた筆と紙を売る店にはいった。
店主はリー夫人を知っていた。もう何年来もの上得意だということだった。夫人はまだ存命だった。五十歳くらいだろうと、店主は見ていた。玄蘭がリー夫人の家へ行くのは止めたほうがいいともつけ加えた、ここ一か月以上、夫人が新しい女弟子をとっていないからというのだ。
玄蘭はただ遠い親戚のことでリー夫人に会いたいだけなのだと言った。店主はどう行くか教えてくれた。通りをいくつか先へ行くだけでよかった。
もう政庁に帰って、お父さんに知らせさえすればいいのだと、彼女は思った。それでもまだ日はよく照っているし、そんなにすぐ帰るのは気乗りがしなかった。それで、教えられたとおりに歩いて、リー夫人の家を見て行くことに決めた。
それは閑静な、中流の住宅地の中にあった。よく手入れが行き届き、黒漆塗りの扉のある家々を見て、玄蘭は、裕福な商店主のご隠居がたが好んで住む場所なのだろうと考えた。
通りを中程まで行ったあたりで、かなり大きな家の門にリーとあるのを見つけた。
銅《あかがね》の鋲を打った扉の前で立っているうちに、玄蘭は戸を叩いてみたい思いを抑えられなくなった。
返事はなかった。そのことが娘の好奇心をかきたて、ますます中をのぞいてみようという心を固めさせた。彼女はもう一度、できるだけ強く戸を叩いた。そして耳を戸に押しあてた。
足を引きずって歩くような、微かな音が聞こえた。
もう一度戸を叩くと、扉が開いた。地味な身なりの中年婦人が、銀の握りのついた杖にもたれて入口に立っていた。彼女は玄蘭を上から下まで見ると、冷ややかに言った、「なぜうちの戸を叩くんですか、お嬢さん?」
婦人の衣装と物腰から、玄蘭はそれがリー夫人その人に違いないと知った。彼女は丁寧に頭を下げ、うやうやしく言った、「私は玄蘭という名前で、鍛冶師のファンの娘です。私の拙い絵にご指導くださる先生を探そうとしておりましたら、紙屋さんがこちらを教えてくれました。お店の人の話ではもうお弟子はおとりになるまいということでしたが、奥さま、私はあつかましくも、お目通りに上がったのでございます」
中年婦人は慎重に玄蘭を見つめていたが、ふと笑って言った、「もう弟子をとらないのは事実です。けれどもあなたはわざわざ訪ねてくださったのだから、どうぞはいって、お茶でも召し上がれ!」
玄蘭はもう一度頭を下げると、リー夫人が片足をひきずりながら、狭いがよく手入れされた庭を横切って、明らかに家で一番の部屋と見える所へ向かう後をついて行った。
リー夫人が湯を取りに行ったあと、玄蘭はあたりを見回し、上品なしつらえに見とれていた。
部屋は広くはないが隅々まで清潔で、申し分なく趣味のいい調度がそろっていた。腰を下ろしている寝椅子は紫檀で、刺繍をした絹の枕がのせてある。木彫りの椅子と華奢な小卓も同じ紫檀製だ。奥の壁際の高い台には、古風な青銅の香炉から香の煙が細くゆらいで立ちのぼり、その上には花鳥を描いた細い軸物がかけられている。窓の格子に張られた紙には染み一つない。
リー夫人が銅の湯沸しを提げてもどって来た。精巧に彩《いろど》った磁器の急須に湯を注ぐと、彼女は寝椅子の反対の端に座った。
香り高い茶をすすりながら、お決まりの質問が交わされた。
少し足を引きずってはいるが、若い頃のリー夫人はきりっとした美人だったに違いないと、玄蘭は考えた。顔つきに幾分粗野なところがあり、女としては少し眉が濃すぎるけれど、よく整った目鼻立ちをしている。彼女が若い娘との会話を楽しんでいるのは確かだった。玄蘭はすっかり気分をよくしていた。
家の中に使用人のいる気配のないことが、娘にはかなり不思議に思われた。そのことを口にすると、リー夫人はあわてて答えた、「私の家はかなり小さいの。年とった女中を一人だけおいていて、力の要る仕事をしてもらっています。その点、私は少し変わっているかもしれないわね。大勢の召使がいつも回りでうろうろしているのは大嫌いなの。二、三日前、その女中の加減が悪くなったので夫の所に帰らせたのよ。その夫というのは年寄の行商人で、角を曲がった所に住んでいます。空いた時間にはうちの庭の世話をしてくれます」
女中がいない時ではよけいご面倒でしたでしょうに、押しかけたりしてと、玄蘭はあわてて改めて詫びた。彼女は立ち上がって、別れを告げた。
リー夫人はすぐさま異議を唱えた。可愛らしい方とご一緒できて楽しいと言い、急いで茶をいれなおした。
やがて彼女は玄蘭を離れに案内した。床面積のほとんどを、巨大な朱塗りの机が占めていた。壁の書棚には五、六個の筆立が並び、大小さまざまの筆が立ててあって、床にはいろいろの顔料を入れた小さな壺がいっぱい置いてあった。床の広口の壺に、巻いた料紙や絹が立ててある。花をつけた草木がぎっしりと植わった小さな庭に向かって、窓が開いていた。
リー夫人は玄蘭を机の脇の丸椅子に座らせると、自分の作品を見せ始めた。リー夫人が次から次へと軸物をひろげては見せるうち、絵のことはあまり分からない玄蘭にさえ、その家の女主人が本物の芸術家であることはわかった。花と果物と鳥しか描かないのだが、どの絵も驚くほど精密で、細心に着色されていた。
玄蘭はリー夫人に親切にされて、ひどくまごついた。政庁からそうするように命じられて来ただけなのだと言うべきかしらと迷った。さらには、判事がこのことを秘密にしておきたいかどうかも、自分は知らないのだと考えた。結局彼女は自分の役回りを演じ続け、なるべく早く機会をとらえて失礼するほうがよいと思った。
リー夫人が絵を巻きもどしている間に、玄蘭は席を立って、窓の外をのぞいた。彼女は草花が幾本か踏みつけられていることを、何気なく口にした。
「先日、政庁の野暮天どもが、この界隈を探りに来た時そうなったの!」とリー夫人は憎々しげに言った。その声にひどく悪意が感じられたので、玄蘭はふり返り、驚いて彼女を見つめた。だが、リー夫人の顔は相変らず平静そのものだった。
玄蘭はお辞儀をして、丁寧にお礼を述べ始めた。
リー夫人は窓に倚り、日を仰いで声を高めた、「おやまあ、もうお昼をまわったなんて! 食事の仕度をしなくちゃならないのに、私はお勝手仕事が大嫌い! ねえ、あなたはとても腕がよさそう。手を貸してくださいとお願いするのは見当違いじゃないと思うけど?」
玄蘭にとって、この注文を断わるのはとんでもなく失礼なことだった。それに、親切な女あるじにおいしいものをこしらえてあげることで、せめて多少はかたりの償いになるとも考えた。彼女は急いで答えた。「私どもは何をやっても不手際ですけれど、せめてお台所の火のたきつけなりとさせてくださいませ!」
リー夫人は満足そうだった。彼女は玄蘭を伴って、奥の院子《なかにわ》を通り抜けて台所へ行った。
娘は上に着た長衣を脱ぎ、袖をまくり上げた。そしておき火から火をおこし直した。リー夫人は台所の長い板腰掛に座り、結婚してまもなく急逝したという夫について、長い物語を始めた。
玄蘭は、麺のはいったざるを捜し出した。玉葱とにんにくを少々刻み、窓の外に紐でつるしてある干茸《ほしきのこ》を十ばかり取った。
リー夫人が話を続けるそばで、玄蘭は鍋に油を引き、刻んだ野菜と醤油を入れて、長い鉄のお玉でかきまぜた。頃あいを見計らって、鍋に麺を入れた。まもなく食欲をそそる匂いが小さな台所を満たした。
リー夫人が丼鉢と箸、野菜の漬物を盛った皿を持ってきた。二人は台所の板腰掛に座って食べた。
玄蘭は食欲旺盛に食べたが、リー夫人はほんの僅かしか食べなかった。半分も食べないうちに丼を置き、少女の膝に手をかけて料理の腕前をほめた。玄蘭は丼から眼を上げて、リー夫人の目つきに気づき、なんだか妙に居心地悪くなった。女の人の前で恥ずかしがるなんて変だわと、彼女は自分を納得させた。それでもどういうわけか、落ち着かない気持ちになった。彼女は知らず知らず、少しあとずさった。
リー夫人が立って行き、白鑞《しろめ》の酒瓶と盃を二つ手にしてもどって来た。
「消化を助けるために、一口飲みましょうよ!」と彼女はにっこりして言った。
玄蘭のとまどいは消えた。彼女はまだ一度もお酒を飲んだことがなかった。こういうのはとても奥様らしい感じで、わくわくした。
彼女は盃をなめてみた。長春露《ばらのつゆ》と名づけられた上品な香りのする酒は、冷たいままだが、ふつう温めて供する普通の黄色い酒よりずっと強かった。
リー夫人が少女の盃を二、三回満たす頃には、玄蘭はひどく幸せな気分になっていた。リー夫人は彼女に手を貸して上着を着させ、客間に連れて帰った。長椅子に玄蘭を並んで座らせ、彼女の不幸な結婚について話を続けた。
リー夫人は腕を玄蘭の腰にまわしていた。結婚生活は女にとって多くの不利をもたらすと、彼女はそれとなく知らせようとしていた。男はがさつで思いやりがない、同性の誰かとするようにほんとうに心を許して語り合うということは、男との間ではできないのだと。少女はリー夫人の話を真面目に受けとった。年配の奥様が自分と打ち解けて話してくれるのを、とても誇らしく感じた。
暫くすると、リー夫人は立ち上がった。
「私って、なんて厚かましいんでしょう! くつろいでもらうどころか、お勝手仕事をさせたりして! きっとお疲れでしょ。私が絵を描いている間、少し私の寝間でお休みなさいな」
玄蘭はもう帰るべきだと考えた。けれどもじっさいに疲れていて、頭がくらくらするようだったし、こういう上品な奥様の化粧台をのぞいてみたいものだという気がした。
熱のない抗議を続ける彼女を、リー夫人は奥のほうの一間に導いた。
寝間は玄蘭の予想以上だった。天井から吊り下げられた七宝細工の球形の吊り香炉から、優雅な香りが漂い流れていた。黒檀の化粧台の上には、銀の円鏡が白檀で彫刻した台に立てかけてあり、その前に磁器や堆朱《ついしゅ》の小箱が十《とお》余りも並んでいる。たっぷりとした黒檀の寝台は、入り組んだ模様を彫りこみ、螺鈿《らでん》がちりばめられていた。寝台の帳《とばり》は、白い紗に金糸で図案を織りこんだものだ。
リー夫人はさりげなく仕切りの垂れ幕を引き寄せた。大理石の階《きざはし》を二段下がったところが、小さな湯殿になっていた。彼女はふり返って言った、「さっぱりなさいな、可愛い人! あなたが一休みしたら、私の画室でお茶にしましょう!」
リー夫人は戸を閉めて、行ってしまった。
玄蘭は上着を脱いで、化粧台の前の丸椅子に腰を下ろした。いろいろと化粧品入れを開けてみて、白粉《おしろい》や練った顔料のたぐいの匂いをかいだ。好奇心を満たしてしまうと、次は寝台の横に積み重ねてある、四つの赤い革の箱に向かった。箱には金の漆で、四季がそれぞれ記されている。それにはリー夫人の長衣類が収納してあるのだが、玄蘭もその中までのぞこうとはしなかった。
彼女は垂れ幕を引き寄せて、湯殿に降り立った。浅い木の浴槽に、小さな手桶が並べて置いてあり、隅に水と湯とをたたえた大きな溜め桶が見えた。格子窓に不透明な油紙が張ってあり、そこに日が当たって外の庭の竹の影をうつしていたから、窓全体がまるでそよぐ竹の葉むらを描いた精妙な墨絵のようだった。
玄蘭は湯を入れた桶の蓋をとってみた。湯は十分に熱くて、香草が浮かべてあった。
彼女はすばやく長衣を脱ぎ、湯を何杯か浴槽に入れた。水を足していた時、ふいに後ろで物音がした。少女はあわててふり向いた。
リー夫人が杖をついて、戸口に立っていた。彼女はにっこりして言った、「あなた、こわがらなくてもいいのよ。いるのは私だけよ。私もやっぱり昼寝をしようと思ったの。あなたはまずお湯を浴びたほうがいいわね。そうすればよく眠れるでしょう!」
そう言いながら、リー夫人は妙にすわった眼で、娘を見た。
玄蘭は急にひどく怖くなった。それで、あわててかがんで着物を拾おうとした。
リー夫人が進み出て、玄蘭の手から下着をもぎ取った。
「お風呂にはいるんじゃないのかい?」と彼女はひきつったような声できいた。
玄蘭は訳がわからなくなって、詫び事を言い始めた。いきなりリー夫人が少女を引き寄せて優しく言った、「お澄まししなくてもいいのよ、いい子ちゃん、あんたはほんとに可愛い!」
激しい嫌悪感が少女の胸の中にこみ上げた。彼女は力まかせに女を突き放した。リー夫人はよろめいて倒れた。立ち直った時、そのゆがんだ顔の中で、眼がぎらついていた。
どうしていいかわからずに玄蘭が立ちすくんでいると、いきなりリー夫人の杖がふり下ろされて、少女の裸の腿を鋭く打った。
痛みが玄蘭に恐怖を忘れさせた。彼女はリー夫人の頭をめがけて投げつけるつもりで、すばやくかがんで手桶を拾い上げようとした。だが、彼女はリー夫人の杖さばきの巧みさを計算に入れていなかった。
玄蘭の指が手桶に触れるより早く、リー夫人の残忍な一撃が彼女の尻を見舞い、少女は苦痛に悲鳴を上げて飛びのいた。
リー夫人は馬鹿にしたような笑い声を立てた。「おかしな手を使いなさんな、いい子ちゃん!」と彼女は猫なで声で言った、「この杖は打つばかりでなく刺すこともできるのだと覚えておおき! おまえは姉の白蘭より手強いが、それでもじきにお行儀よくなるさ!」
思いがけず姉の名が出たので、玄蘭は痛さを忘れた。
「姉さんはどこにいるの?」と彼女は叫んだ。
「会いたいかい?」リー夫人はじろりといやな眼つきをすると、返答を待たずに、さっさと寝間にはいった。
玄蘭は恐怖と不安とで立ちすくんでいた。仕切りの向こうで、リー夫人が含み笑いをするのが聞こえた。
やがてリー夫人が左手で垂れ幕を引き寄せた。右手には鋭利な長めの短刀があった。
「御覧よ!」勝ち誇るように言うと、彼女は化粧台を指さした。
玄蘭はあまりの恐ろしさに、つんざくような悲鳴を上げた。
鏡の前に、姉の生首があった。
リー夫人は短刀の刃を親指で試しながら、すばやく湯殿に降りた。
「おまえは私を好きにならない、この馬鹿娘!」と彼女は歯ぎしりした、「だから、姉にしたように、おまえも殺してやる!」
玄蘭はふり向いて、声の限りに助けを呼んだ。格子窓に体当たりして庭へ逃げるという考えが、ちらっと頭に浮かんだ。
巨大な影が窓をかげらせたのを見て、彼女は尻ごみした。
窓が枠からもぎとられて、仁王様のような男が飛びこんで来た。
二人の女にすばやく目を走らせると、すぐさまリー夫人のほうへ馳せ寄った。短刀で突きかかるのをかわすと、夫人の手首を捕えて捻《ひね》った。短刀はからりと床に落ちた。
彼は瞬く間にリー夫人の帯で両手を後ろに縛り上げた。
「マー・ロン!」と玄蘭は叫んだ、「その人、姉さんを殺したのよ!」
「体を隠しなよ、はすっぱ娘!」と彼はつっけんどんに言った、「この女が姉さんを殺したなあ、とっくにわかってるんだ!」
玄蘭は顔に血が上って来るのを感じた。マー・ロンがリー夫人を寝間へ引きずって行く間に、玄蘭は急いで着物を着た。
寝間にはいって行くと、もうマー・ロンはリー夫人を寝台に横たえ、手と足をしっかり縛り上げてしまっていた。白蘭の首を籠に入れ直しながら、彼は言った。
「走って行って、門を開けろ! すぐ巡査たちがやって来る。おれは先に馬で来たんだ」
「あんたの指図はうけないわ、威張ってばっかり!」
マー・ロンは高らかに笑った。彼女は急いで部屋を出た。
暮れかかる頃、ディー判事と副官たちが執務室に集まっていた。
ウーがはいって来て、判事に挨拶した。
「白蘭の遺体は衛士詰所に安置してあります」と彼はかすれた声で言った、「首も一緒にしました。木のしっかりした棺を注文してあります」
「巡査長はどうしている?」と判事がたずねた。
「白蘭の身に起こった事がわかりましたので、気持ちは静まって来ました。玄蘭が側についています」
ウーは頭を下げ、また出て行った。
「あの青年はずいぶん落ち着いた」と判事が評した。
「あの野郎がなぜまだうろうろしているのか、さっぱりわからねえ!」とマー・ロンは面白くなさそうな顔をした。
「白蘭の悲惨な運命に何かしら負い目があると感じている気持ちは、理解できる」とディー判事が述べた、「リー夫人の手中にあった間、あの哀れな娘は地獄を体験したに相違ない。あの娘の体の傷痕を見ただろう」
「まだ理解できないのですが」とホン警部は言った、「閣下は白蘭とリー夫人の間につながりがあることを、どうやって迷路で発見されたのでしょう」
ディー判事は椅子の背に倚りかかり、ゆったりとあごひげをなでた。「選択の幅はそれほど多くなかった。老総督は近道を、厳に自分一人の秘密にしていた。息子のアン・キーや若い妻でさえも、決してはいったことがなかった。ただ一人だけが例外的な機会を得て、それを発見することができた。
リー夫人はときたま庭園の園亭で総督や令夫人と茶を飲みながら、彼の絵について論じ合ったということだった。リー夫人がある日、総督が例の山水画を描いているところを不意打ちしたと考えてみた。彼女の鍛えられた画家の眼を以てすれば、それがただの山水画でないと知るのは難しくあるまい。しかも迷路の入口の様子にも馴染んでいたから、総督にそれと気づかせずに、その意味を推測してしまったに違いない」
「たぶん、かなり早い段階で見たのでしょうな」とタオ・ガンが一言した、「松の木しか描きこまれていない頃に。総督は、その他のものは後から描きこんだのでしょうから」
ディー判事はうなずいた。
「リー夫人は若い娘に対するこのような異常嗜好があったから、この知識を誰にも教えなかった。危くなった時、役立つかもしれないと考えたのだ。
どうにかして、彼女は白蘭を自分の家に誘い込んだ。ファンの姉娘のほうは優しくて人の言いなりになるたちの娘だから、言うことを聞かせるのは簡単だったろう。リー夫人は自分の囚人を自宅で数週間監禁していた。娘が荒れ寺を訪ねたことが、リー夫人を不安がらせたのだろう。彼女は白蘭を山荘に連れて行き、あの鉄格子のある部屋に閉じこめた。だから、巡査たちが東区を捜査してリー夫人の家を調べた時も、娘は見つからなかったのだ。しかし、巡査が来たことがリー夫人をおびえ上がらせたに違いない。彼女は囚人を殺すことに決めた。老総督の秘密の亭は、残酷な殺人のためには、いちばん安心な場所だった」
タオ・ガンが声を上げた。「最初に荘園を訪ねたあの朝、もう一時間かそこら早く政庁を出ていれば、この犯行は防げたかもしれない! リー夫人はわれわれが着くより少し前に、あそこを離れたに違いありません!」
「ちょうどあの朝アン夫人が私に会いに来たというのも、天命だったのだ」とディー判事は重々しく言った、「その後で迷路の入口を視察した時、私はリー夫人か白蘭かの足跡を見た。私はその場ではそのことを言わなかった。なぜなら、そこで迷路を覗きこんでいると、なんとも言い難い恐怖感に襲われたのだ。ほんの半|刻《とき》ばかり前にそこで惨殺された哀れな娘の魂が、私の上を漂っていたのに違いない。老総督の幽霊が暗がりから私に手招きしているのが見えたような気もした……」
ディー判事の声が震えた。彼は恐怖そのものであったその瞬間を思い浮かべて、身を震わせた。
暫くの間はみな黙りこんでいた。
やがて判事は気を取り直し、活気のある調子で言った。「それにしてもマー・ロンが間に合って、第二の殺人を防いだのは幸運だった!
さあ、夕食にしよう。その後で、二、三時間眠ったほうがよいぞ。わかっているだろうが、わくわくするような夜が待っている。あの蛮人どものすることは、予測し難い!」
その午後、チャオ・タイは騒ぎ立てずてきぱきと、市の防衛態勢を整えた。最良の兵隊を水門付近に配置し、残りは市の城壁の各所に分けた。彼の指示に従い、区長たちは住民に、その夜蛮族の襲撃があるかもしれないと警報を発した。働ける男は総出で大きな石や乾いた木片を城壁の上に集め、また竹槍や鉄のやじりをつけた矢を作るのに忙しかった。午後九時には、全員が城壁の守備につき、五十人ごとに兵隊一名がついて、指揮にあたることになっていた。
兵隊二名は、鼓楼で部署についた。ウイグル族軍が河に接近したら、彼らは直ちに太い木の撥《ばち》で大太鼓を打ちならすはずだった。太鼓の重い轟きを合図に、城壁では松明《たいまつ》に火をつける。もし蛮族が城壁をよじ登ろうとすれば、彼らは重い石や燃える薪《たきぎ》の雨を浴びるだろう。
ディー判事は自分の住まいで夕食をとった。それから書斎の寝椅子で二、三時間眠った。
真夜中の一時間前には完全武装のマー・ロンが迎えに来た。判事は薄手の革|甲《よろい》を着込んだ上に官服をつけ、書棚と隣合った壁から祖父の長剣を取り下ろした。正式の知事帽をかぶり、彼はマー・ロンについて出た。
二人は騎馬で水門に向かった。
チャオ・タイが彼らを待ち構えていて、ホン警部、タオ・ガン、及び兵四名がチェン邸の物見櫓で部署についていると報告した。彼らはそこでぴかりとも火の色を見せることがないように、注意を配っているのだ。
ディー判事はうなずき、急な石段を登って水門の頂上に上がった。胸壁の上には、マー・ロンほどにも背丈のあるがっちりした兵隊が、直立不動の姿勢をとっていた。彼は先端に帝国軍旗を掲げた長い旗竿を手にしていた。
判事は自ら胸壁で位置についた。右手には軍旗を手にした兵隊が、左にはディー判事の司令官記章をつけた杖を高々と掲げているマー・ロンが立っていた。
帝国の国境にあって、外敵の攻撃に対し防衛の任に当たるのは、これが最初だと、判事はしみじみ考えた。夜風にひるがえる軍旗を仰ぎ見ながら、彼は強い誇りがわき上がって来るのを感じた。彼は両腕で剣を抱き締めて、暗い平原を見渡した。
真夜中近く、ディー判事は遥かな地平線を指さした。遠くでいくつか光が見えた。ウイグル族は、前進の準備をしていた。
光はしだいに近づいて来て、やがて止まった。蛮族の騎馬兵たちは停止して、物見櫓の合図の火を待っているのだ。
立っている三人はそこで沈黙を守り、一時間余りを経た。
やがて突然、川の向うで火光がひとしお大きく燃えた。それはだんだん小さくなり、消え、一面の闇になった。
合図の火を空しく待ったすえに、ウイグル族は宿営地に帰って行ったのだ。
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第二十五章
凶悪犯人両名は最高刑を科せられ
判事は玄妙の句に秘めた謎を覚る
翌朝の政庁公判で、ディー判事はリー夫人の件を審理した。
彼女は進んで犯行を自供した。
総督の死の少し前のこと、リー夫人はアン夫人と庭園の亭で茶を飲みながら、総督を待っていた。彼の作品を見ているうちに、例の山水画の下書きを見つけた。総督の二、三の書込みから、それが迷路を抜ける近道の案内図とわかった。
リー夫人はアン夫人に強く魅かれていたが、総督が存命の間は、とてもその気持を見せる訳にはいかなかった。総督の埋葬後に山荘を訪ねたが、老夫婦がいるだけで、アン・キーに追い出された後で夫人がどこへ行ったのか、彼らは知らなかった。リー夫人は田舎へ行ってたずね回ったが、アン夫人は自分と息子が身をひそめている農園を誰にも教えないようにと百姓たちに口止めしてあった。
そのうち、数週間前のことだが、リー夫人はその近くを通りかかったついでに、また山荘へ行ってみた。老夫婦のなきがらを見つけてから、彼女は近道の二段目まで遠征してみた。そして丹念に覚え書をとっておいた山水画の中の目印が確かなことを知った。
リー夫人は市場で白蘭と出会い、自分の家までついて来させた。家に行くと、彼女は内気な娘をおどしてすっかりおびえさせ、監禁して自分の邪欲の餌食とした。白蘭に家事を何もかもやらせ、ほんのちょっとしたことでも杖で打った。
白蘭が脱け出して荒れ寺に行き、知らない男と会ったことを知って、リー夫人は怒り狂った。おびえる娘を、厚い壁が音を通さない空《あ》き倉にひきずって行った。そして娘を裸にして、柱に両腕をくくりつけた。
そうしておいて、リー夫人は、知らない人に居所を漏らしたんだろうと、同じことばかりを繰り返して問い質し始めた。娘がそれを否認する度に、リー夫人は歯がみして恐ろしい脅迫の言葉を吐きかけながら、細い籐の笞で打ちさいなんだ。烈しい笞の雨に白蘭は身をよじり、狂ったように許しを求めて泣き叫んだ。それは余計にリー夫人の怒りをあおった。彼女は悲鳴を上げる娘の尻に、渾身の力をこめて籐の笞を打ち下ろし、しまいには腕が疲れてしまったほどだった。その頃には白蘭は苦痛と恐怖で息も絶え絶えだったが、それでもまだ、自分は何もしていないと言い張った。
しかし、リー夫人は秘密が漏れたかと不安だった。次の朝、彼女は白蘭に尼僧の頭巾つき外套を着せて、総督の荘園に連れて行った。そこで老夫婦が暮らしていた部屋に娘を閉じこめ、逃げ出そうなどと思わないように、着るものを全部取り上げた。そして一日置きに、水瓶一つと、籠に入れた乾燥豆と揚げ餅を運んだ。白蘭が脱け出して寺へ行ったことでべつに不都合は起こらなかったとわかりしだい、そこから連れ帰るつもりだった。
ところが、やがて巡査たちが東区へ捜査にはいった。リー夫人は不安を覚えた。次の日の早朝に、彼女は山荘に駆けつけた。白蘭を先に歩かせ、杖で容赦なく追い立てながら、松の木を頼りに秘密の園亭をめざした。園亭にはいると、娘を大理石の寝台に寝かせ、短刀で胸を刺した。異常な直覚が働いて、首を切り落とさせた。胴体は寝台の端から押し落とした。リー夫人は切り取った首を籠に入れて持ち帰った。あわてていたので、机の上の箱には格別注意しなかった。
リー夫人は、強いられもせずにこれらすべてを語った。何もかもしゃべることに喜びを感じ、自分の残虐行為にほれぼれとしているなと、ディー判事は気がついた。三十年前に酒に毒を混入して夫を殺したことまで、自ら進んで言い出したのである。
ディー判事は、ここまで腐り切った女に対して強い嫌悪感を感じた。リー夫人が自白書に拇印を捺し、牢へもどっていいとなった時にはほっとしたほどだ。
同じ公判で、ディー判事はウイグル族に加担した商店主三名も審理した。彼らは陰謀の真の重大さについて、確たる認識を持っていないようだった。ただ騒ぎを起こして、どさくさまぎれに商店を何軒か荒らす計画だと思っていた。
判事は彼らにそれぞれ竹で五十回打たせ、以後一か月間、重い木の首かせをつけるという判決を下した。
その昼過ぎ、ディン邸の執事が政庁に駆けつけ、ディン学士が縊死したこと、将軍の第四夫人が服毒自殺したことを報告した。どちらも釈明の書きつけなど遺さなかった。一般の意見では、二人は将軍の悲劇の死に気落ちしたのだということだった。夫人の自殺のほうは、妻が死んだ夫の後を追って葬られるのは最高の献身のしるしだと考えている旧式の人たちの間でもてはやされた。彼らは顕彰碑を建立するための寄付金募集を始めた。
チェン・モウ及びアン・キー事件万端の処理に、判事はその後まるまる十日以上を費やした。チェン・モウの相談役二名、及び実際に脅迫やゆすりを行った手下の者たちには、やや軽い刑が科せられた。アン夫人には総督の遺言の内容が知らされた。中央政府の最終決定が首都から届きしだい、彼女は政庁へ呼び出されるはずだった。
事件は三件すべて解決したのだし、市の襲撃計画も消えたのだから、なんとか判事にものんびりしてもらおうとホン警部は願っていた。ところが彼ががっかりしたことに、判事はまだなにかひどく思い屈していた。いつも不機嫌だったし、前に決めたことを変更することもよくあった。それはおよそ彼らしからぬことだったのに。判事の悩みのもとが何なのか、警部には想像がつかなかったし、ディー判事はご説明くださらなかった。
ある朝、ひづめの音と大きな銅鑼の響きが表通りにこだました。正規軍の二百の兵員が、旗をなびかせて蘭坊《ランファン》に入城した。これはディー判事の要請に応えて派遣された、駐屯隊の軍勢であった。
司令官は北方の蛮族に対する軍事勤務を実際に経験している将校だが、頭のいい若い男で、判事は大いに好感を持った。彼は軍政局からの公式書状を携えて来ていたが、それは県内の軍政すべてについてのディー判事の全権を認めるものであった。
駐屯隊はチェン邸に宿営することとなり、チャオ・タイは政庁にもどった。
駐屯隊の到着が判事をいくらか元気づけた。だがまたすぐに鬱《うつ》状態に陥ちこんだ。県内の日常業務に没頭してしまい、出掛けることもほとんどなかった。彼が政庁を出たのは、白蘭のための葬儀に出席した時だけだった。
ウーは盛大な葬礼を準備した。費用はすべて自分が負担すると言ってきかなかった。画家は別人のようになった。彼は飲酒の悪習を絶ってしまったが、その決心は、大家の「永春」経営者との間にひどいいさかいをまき起こすことになった。酒屋はそれを、自分の店に備えた商品の質に対する挑戦とうけとったのだ。地域の大酒飲み連中は、この仲違いを、美しい友情の終わりと悲しく取沙汰した。
ウーは自分の絵を全部売り払い、孔子廟の境内に小部屋を借りた。彼は一日のほとんどを古典の勉強にあて、外出するのはただ政庁の近所に住むファン巡査長を訪ねるときだけだった。二人は信頼しあう友となったようだ。衛士詰所で何時間も話しこんでいることがよくあった。
ある日の午後、ディー判事が執務室で、気の進まぬながら日常的な書類に目を通していた時、ホン警部が大きな封書を持って来て手渡した。
「閣下、この書状は、たった今、首都からの飛脚が持って参りました!」
ディー判事の顔が輝いた。彼は封を切り、いそいそと中の書類に目を走らせた。
書類を元通りに畳むと、彼は満足そうにうなずいた。書類を人差指で叩きながら、彼は警部に言った。「これはアン・キーの大逆罪、ディン将軍殺害事件、リー夫人の殺人罪についての公式裁定だよ。興味あることだが、ウイグル族の陰謀は、政府段階の高いレベルで解決を見た、わが異民族対策省とウイグル族の王との間の交渉によってだ。もう蘭坊が襲われることはないぞ! 明日、これらの件を結審しよう。そうしたら、私は解放される!」
ホン警部には、判事の最後の意見があまりよく理解できなかった。だが判事は質問する暇も与えなかった。彼は直ちに明朝の公判に向けて、指示を出し始めた。
次の朝、政庁職員は日出の二時間前から準備にかかった。表門の前に松明《たいまつ》が並び、巡査たちは、罪人を市の南門外の刑場に護送する荷車を仕立てて待っていた。
まだ時刻が早いにもかかわらず、大勢の市民が集まって来て、この準備を怖いもの見たさで眺めていた。まもなく駐屯隊から槍騎兵の一団がやって来て、荷車のまわりに非常線を張った。
夜明けの一時間前に、たくましい巡査が門のところで大きな銅鑼を打ち、威圧するような音を三回響かせた。衛士が両開きの門を開けると、群衆はぞろぞろと、大蝋燭で照らされた法廷にはいって行った。
ディー判事が壇上に姿を現し、おもむろに席に着くのを、人々は敬意をこめて黙って見とれていた。判事はちかちか光る緑地錦の礼服できちんと装い、緋《ひ》色の肩衣《かたぎぬ》を羽織っていた。これは彼が死刑を宣告するときの徴《しるし》なのである。
最初にアン・キーが、壇の前に連れて来られた。
彼が裁判官席の前の舗石に膝をつくと、上級書記が判事の前に一枚の書類を置いた。ディー判事は蝋燭を引き寄せ、厳粛な声でゆっくりと読み上げた。
「罪人アン・キーは、重大反逆罪にあたる。本来ならば生きながら切り刻み、徐々に死に到らしめるべきところである。罪人の父たるアン・ショウジェン閣下が国家及び国民より高い評価をうけているという事実を考慮し、また閣下が遺子のために死後嘆願書を提出している事実を考慮して、この刑をある程度緩和し、当該罪人はまず命を断った後に、四肢を切断するものとする。再び故アン総督の誉れに敬意を表するため、罪人の首級は市の門にさらさず、その財産は没収されない」
ディー判事は一呼吸入れると、書類を巡査長に手渡した。
「罪人は、亡き父の嘆願書を読むことを許される」と、彼は告げた。
冷淡な表情で聞いていたアン・キーに、ファン巡査長が書類を渡した。だが、この痛ましい文書を読むと、アン・キーは胸も張り裂けんばかりに泣き咽んだ。
二人の巡査が、アン・キーの両手を後ろにまわして縛った。巡査長が、前以て用意されていた白い長い板切れを、アン・キーの背中の縄の間にさし込んだ。それにはキーという名前だけと、罪状及び刑罰とが大書されていた。老総督の名誉のため、姓は省いたのだ。
アン・キーが連れ去られると、ディー判事は言った。「帝国政府の発表によれば、ウイグル族の王は自分の長子を首席とする特別使節団を首都に送り、ウルジン王子の企てたけしからぬ陰謀について謝罪するとともに、皇帝陛下に対する忠誠の協定を新たにしたいと願い出た。帝国政府は寛大にも、その謝罪を認め、ウルジン及び共謀者六名の身柄を使節団の手に引き渡して、王が妥当な手段を取るのにまかせることとした」
マー・ロンがチャオ・タイに耳打ちした、「ふつうの言葉に直せばだよ、〈妥当な手段〉てのは、王様がウルジンの生皮を剥いで、油で揚げて、残ったものを切り刻むんだ! ウイグルの王様は、計略でどじを踏んだ人間を好きになっちゃくれねえんだよ!」
「王の長子は」と判事は続けた、「帝国政府の賓客として、首都滞在を延長するよう要請された」
傍聴者は歓声を上げ始めた。長男が首都に人質になっているのでは、ウイグルの王は約束を守るほかないことを知ったからだ。
「静粛!」と判事が叫んだ。
彼は巡査長に合図した。アン夫人とその子のアン・シャンが、壇の前に導かれて来た。
「奥さん」とディー判事は優しく呼びかけた、「あなたはもう、迷路の中核にある故人の隠された画室で発見された、総督の遺言書の原本をご存じですね。あなたは今後はあなたのご子息アン・シャンの名のもとに、全財産を所有されることになります。あなたの指導の下で、ご子息が輝かしい父上に似て、アンという偉大な名にふさわしい人となられることを疑いません!」
アン夫人とその息子は、何度も床に叩頭して、感謝の念を表した。
彼らが下がると、上級書記がもう一つの書類を判事の前に置いた。
「これから、ディン将軍の事件に関する公式裁定を読み上げる!」
頬ひげをなでながら、彼はゆっくりと読み上げた。「首都裁判所は、ディン・フーグオ将軍の死去にまつわる諸事実について関心を寄せている。命を奪った武器が隠されていた筆に、ある特定の名前が刻まれていたという事実は、当該の筆を凶器に作り変えたのが同じ人物であるということの決定的な証拠とはならないし、またそうだとしても、必ずしも将軍を殺す運命にあったとは言えないというのが当法廷の見解である。従って当法廷は、ディン将軍の死亡を事故死として記録さるべきことと決する」
書類を巻きもどしている判事の耳許に、ホン警部がささやいた、「巧妙な法解釈のお手本ですな!」
判事は見えないほどにうなずいて、小声で答えた、「きっと、総督の名を出すまいとしたのだよ!」
次に彼は朱筆を取り上げ、牢番長に宛てた書式に記入した。
リー夫人が二人の巡査に引かれて来た。牢獄で待つ間に、目の前に迫った死の恐怖がじんわりと彼女をとらえた。極悪非道の犯行を自供した時に見せた自画自讃するような態度は、すっかり消え失せてしまった。げっそりやつれた面持ちで、判事の緋色の肩衣と、壇の側に無表情で立っている大男とに、見張った眼をすえていた。男は抜き身の剣を肩に担ぎ、後ろには助手二人が小刀や鋸、巻いた縄を持って控えていた。それが死刑執行人とその手伝いたちだと気づくと、リー夫人の足許がぐらついた。二人の巡査は、彼女が壇の前にひざまずくのに、手を貸してやらねばならなかった。
ディー判事が読み上げた、「罪人リー、旧姓ホワンは、不道徳な目的で少女たちを誘拐し、計画的に殺人を行った。罪人はまず鞭打たれ、ついで斬首の刑に処すべきものとする。国家は当該罪人の資産の請求を放棄し、慰謝料にかえて犠牲者の家族に与える。罪人の首級は三日間市門にさらし、人々の戒めとする」
リー夫人が金切り声を上げ始めた。巡査の一人が油布でさるぐつわをかませると、別の二人が手を後ろで縛った。最後に彼女の名前と罪状、刑罰を記した立札を、縄の間にさし込んだ。
リー夫人が引かれて行くと、見物の群衆は法廷を出る支度を始めた。ディー判事は驚堂木で机を打ち、静粛を命じた。
「本官はここに、政庁臨時職員の呼名を行う!」
ファン巡査長を初めとする元無宿者で、蘭坊着任の翌日に巡査や衛士として雇われた面々の姓名が呼び上げられた。彼らは判事の前に気をつけの姿勢で立った。
ディー判事は椅子の背に体を預けてあごひげをなでながら、ようやく終わりを見た危機的時期を、彼のため忠実に仕えてくれた人々の顔を感慨深げに見回した。その上で彼は言った。
「巡査長、君とそれに従う諸君とは、非常事態下で雇われたにもかかわらず、忠誠心をもって政庁のため働いてくれた。情勢は今日を以て正常に復したので、私は諸君の義務を解除する。ただし諸君の中で常勤につきたいと希望する者があれば、大いに歓迎するという条件付きである」
「私ども全員」とファン巡査長がうやうやしく答えた、「閣下に感謝と恩義を感じております。とくに私は誰にもましてそうです。娘のことさえなかったら、私はこの職を続けさせてくださるよう、閣下にお願いするところでございます。娘は、絶えずわが一家の悲劇を思い出させる当市から離れたがっております。
ウー・フォン学士が、首都の父上のお友達の家に執事頭の職を探して勧めてくれました。ウー学士は文官の上級試験に合格されたら、すぐさま妹娘の玄蘭と結婚するというご意向を、仲立ちをたてて申されました。それでなおさら私はそのお勧めをお受けしようと思っております」
「ひでえ恩知らずだぞ、あの娘!」マー・ロンはぷりぷりしてチャオ・タイにこぼした、「おれはあの子の命を助けたんだ! しかもさ、亭主だけが見るはずの姿を見ちまった!」
「やめときな!」とチャオ・タイがささやいた、「いい眺めだったんだろう。それでお返しは十分だ!」
「どうか、私の一人息子を蘭坊に留めることをお許しください」と、巡査長は続けた、「なぜなら、国中どこを探しても、閣下ほどにお仕えし甲斐のある方は見当りますまい。それほど才能はございませんが、どうか息子を政庁の常勤にお加えくださいますよう」
ディー判事は真剣な顔で耳を傾けていた。
「巡査長、息子さんにはここで引き続き巡査をやってもらおう。
至高の天の限り知らぬ恵みにより、暗い犯罪が、ついには両家の幸福を招くに至るとは喜ばしい。娘さんの婚礼で赤い蝋燭がともされる時、輝かしい新たな未来の幸運の気配が、父親の心の古傷にとっては妙薬となろう。
残念ではあるが、君の辞任は明日からということで認可する!」
ファン巡査長とその息子はひざまずき、何度も床に叩頭した。
巡査のうち三名は元の職業にもどることを希望した。残りの全員は常勤を願った。
この手続きを終えると、判事は閉廷した。
政庁の外では黒山の人だかりが待ち構えていた。アン・キーとリー夫人は、死刑囚用の無蓋の荷車に乗せられていた。姓名と罪状を記した立札が、そこで人々に示された。
やがて門が開き、ディー判事の輿が通りへ担ぎ出された。巡査十名が前を行進し、後に十名が続いた。マー・ロンとホン警部が右側を、チャオ・タイとタオ・ガンが左側を、騎馬で固めた。使丁四名が「蘭坊《ランファン》知事」と大書した看板を掲げて行列の先頭に立った。衛士たちが小形の銅鑼を打ち鳴らし、行列は南に向かって進んだ。
囚人車は護衛の兵隊に囲まれて殿《しんがり》を行き、群衆はその後について行った。
行列が大理石橋にかかった時、曙の薔薇いろの光が蓮池の中に立つ塔を照らした。
刑場は、市の南門を出てすぐの所にあった。ディー判事の輿が門を通り、柵の中に運ばれた。降り立つと、駐屯隊の指揮官が出迎えた。
指揮官は、夜の間にしつらえられた臨時裁判官席に判事を案内した。兵隊が前方に方陣を作っていた。
死刑執行人が剣を地面に突き刺して、上着を脱いだ。むき出しの胴に、筋肉が分厚く盛り上がっていた。手伝いの二人が囚人車によじ登り、死刑囚両名を刑場の中央に連れて来た。
彼らはアン・キーの縄をゆるめ、地面に立てた、二本の横木のある柱のところに引きずって行った。一人が首を柱に縛りつけ、もう一人が両腕と両脚を横木に縛りつけた。
用意が終わると、死刑執行人は長くて細い小刀を選び取り、アン・キーの前に立った。そして、判事をふり仰いだ。
ディー判事が合図した。執行人はアン・キーの心臓めがけて、まっすぐに小刀を突き立てた。 アン・キーは声も立てずに死んだ。
その後で、アン・キーの体は薄く切り刻まれた。彼らがこの恐ろしい工程にかかったのを見て、リー夫人は気絶したし、見物の何人かは顔を袖で覆った。
とうとう死刑執行人が切り取った首を判事のほうへさし上げ、判事は朱筆でその額に印をつけた。首は死体の残りと一緒に籠に投げこまれた。
リー夫人は鼻の下で強い香を焚かれ、気付かされた。手伝い二人が壇の前に引き立て、つき飛ばして膝をつかせた。
死刑執行人が鞭を手にして近づいて来るのを見ると、リー夫人は狂ったような悲鳴を上げた。卑屈なまでの恐怖を顔に出して、哀れみを乞うた。
死刑執行人の一団は、そんな情景には慣れっこだから、夫人の懇願などに眼もくれなかった。手伝いの一人が夫人の髪を解き、一つかみにして手にからげると、頭を前に引いた。もう一人は上着を引き裂き、両手を後ろで縛り上げた。
死刑執行人は、鞭の握り具合を試した。この恐ろしい道具には、鉄のかぎの林立する革紐が何本もついている。それは処刑場でのみ見られる。なぜなら、それで打たれて生きていられる者はないからだ。
ディー判事が合図をすると、死刑執行人は鞭をふり上げた。それはリー夫人の裸の背中でどすんと不快な響きをたて、首から腰までの肉をぎざぎざに引き裂いた。もし助手が髪をしっかりつかんでいなかったら、リー夫人は打撃の重さで、地に伏してしまったろう。
絶え絶えの息が整うと、リー夫人は金切声を上げ始めた。それでも執行人は続けて打ちおろした。六つ目の打撃で骨が現れ、裂けた肉は血でじくじくしていた。リー夫人は意識を失った。
ディー判事が手を上げた。
息を吹き返させるのに、多少時間がかかった。
今度は助手がリー夫人を膝立ちさせ、死刑執行人は剣をふり上げた。
判事の合図に応えて剣がふり下ろされ、恐るべき一撃の下に、首が胴体から切断された。
ディー判事が、朱筆で首に印した。すると死刑執行人は、それを籠に投じた。それは後で市の門に、髪を釘付けにしてつるし、三日の間さらされるのである。
ディー判事は壇を下り、輿の人に な っ た。輿丁《こしかつぎ》が掛声とともに柄を肩に担ぎ上げた時、朝日の最初の光が兵隊の兜をきらめかせた。
ディー判事の輿はまず城隍廟(市の守護神)に向かい、駐屯隊の指揮官も無蓋の轎《かご》に乗って随行した。
そこで判事は、守護の神位に対し、その市で行われた犯罪について申告し、悪人どもに科せられた死刑について報告した。それから判事と指揮官は香を焚いて祈りを捧げた。
二人は廟の庭で別れの挨拶を交わした。
政庁にもどると、ディー判事は早速執務室へ行った。濃い茶を一杯飲むと、判事はホン警部に朝食を食べに行ってよいと言った。
その日は後で上級官庁に宛てて処刑報告を起草することになっていた。
ホン警部は、マー・ロン、チャオ・タイ、タオ・ガンの三人が正院子《せいなかにわ》の片隅で立ち話しているのを見つけた。それに加わってみると、マー・ロンがまだ玄蘭の背信なるものにこだわって、ぶつぶつ言っているのだった。
「俺があの娘っ子を嫁にもらうのは当然だと、ずっと思っていたんだ!」と彼は渋い顔をした、「山で俺たち一行を襲った時、あの娘は俺に切りかかりそうになったよ。俺はほんとにあいつが気に入った!」
「もっけの幸いと思ったほうがいいよ、兄弟!」とチャオ・タイが、慰めるように言った、「あの玄蘭ていう娘は口が達者だ。君をひどい目に会わせることだろうよ!」
マー・ロンはおでこを叩いた。
「それで思い出したぞ!」と彼は叫んだ、「教えてやろうか? 俺はタルビーって妓《こ》を買うことにするんだ! いい体をした若い妓だし、中国語は一言もだめなんだぜ! 家ん中はさぞかし静かで快適だろうじゃないか!」
タオ・ガンは首を振った。彼の馬面《うまづら》はいつもよりさらに悲しげで、暗い声で言った。「幻想を持ちなさんな、君! 一週間か二週間のうちに、その女子《おなご》はのべつまくなし、しかも流れるような中国語でしゃべりまくるに違いないさ!」
それでもマー・ロンはくじけなかった。
「今晩行こう。もし誰か一緒に行くなら、歓迎するぜ! いい妓が見つかるよ、しかもあいつらは、全然色香を内緒にしとかない!」
チャオ・タイは帯を締め直し、じりじりしてどなった、「君たちには女よりもましな話題はないのか? さあ、もう退散して、腹の底からうまい朝飯を食おうぜ! 空きっ腹には、燗酒の二、三杯ほどいいものはない!」
それは賢明な話だと、みな賛成した。一同は打ちそろって正門に向かった。
その頃、ディー判事は狩猟着に着換えていた。お気に入りの馬を厩《うまや》から連れて来るようにと、事務官に言いつけた。
判事はひらりとその背にまたがった。首巻きを鼻の上まで引っ張り上げると、街に出た。
通りは、そこここに屯《たむろ》している人々でいっぱいだった。彼らは罪人二人の処刑についての議論に夢中で、孤独な騎手になど目もくれなかった。
判事は南門を出ると、馬を駆って走らせた。刑場では巡査たちが、まだ臨時裁判官席の撤去に立ち働いていた。血の痕の上には新しい砂を敷いて、平らにならしてあった。
田野に出ると、ディー判事は速度を落とした。新鮮な朝の空気を深く吸いこみ、平和な風景を眺めた。だがこの晴れやかさの中にも、彼の悩ましい思考は安らぎを見出すことはできなかった。
刑場での情景がいつも重苦しく判事にのしかかった。事件に取り組んでいるうちは彼は非情で厳しいのだが、いったん犯人がつかまって白状してしまうと、決まって判事はその件を頭の中から葬り去ってしまいたくなる。身の毛もよだつ処刑場面の、血みどろのくまぐままで見届けねばならぬ自分の義務がうとましかった。
判事の心の奥底にひそむ公職引退のもくろみは、鶴衣老師と会話を交えてからこっち、止むに止まれぬ願望に育っていた。自分はやっと四十の坂を越えたばかりだ、生れ故郷に所有する小さな農園で、新しい生活を始めても遅すぎはしないと考えた。
平穏な隠退生活のなかで読書と文筆三昧に明け暮れ、子女の教育に十分心を注ぎながら送る静かな日々よりよいものがあるだろうか? 目覚めている時のすべてを、不正邪悪や犯罪者の知恵が生み出す卑劣な企らみなどにかまけていてなんになる? 人生はこれほど善くかつ美しいものを豊かに用意しているというのに!
彼の席を満たす有能な役人ならいくらでもいる。また、彼が時々考えてきたように、四書五経の高貴な教義をわかり易い言葉で説明した論文をまとめ、万民が理解できるようにするならば、それでも国家に奉仕することはできるのではないか?
それでもディー判事には疑念が残った。もしすべての官吏がこのように超越した姿勢をとるとすると、帝国は一体どうなる? いずれは自分の息子たちが官途につく機会を用意してやるのも私の務めではないのか? 小さな農園でのぬくぬくした生活は、あの若い者たちの将来に備えるために、十分だと言えるだろうか?
馬に拍車をかけながら、ディー判事は首を振った。彼の問題への答えは、彼が鶴衣先生の住まいの壁で見た、あの難解な対句《ついく》の中にあった。
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永生の門に到る道はただ二つ
虫の如く 泥土にもぐるか
龍の如く 天空にかけるか
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あの不思議な訪問以来、その文句は彼の思考につきまとった。ディー判事は嘆息した。決めるのは、老師に任せよう。自分はその二つの道のどちらを採るべきか、あの人に説明してもらおう。
山裾まで来ると、判事は馬から飛び降りた。近くの畑で働いている農夫に声を掛け、馬の番を頼んだ。
判事が登りにかかったところへ、薪拾いが二人、山道を下って来た。年とった夫婦者で、顔はしわみ、手は背負っている木片のように節くれだっていた。
男は足を止め、薪の荷を下ろした。額の汗を拭いながら、判事を見上げて愛想よく尋ねた、「旦那さんは、どちらへ行きなさるんで?」
「鶴衣先生をお訪ねするところだ」と判事はそっけなく言った。
老人はゆっくりと首を振った。
「お会いになれませんよ、旦那。四日前、お宅がからっぽなのを見つけたんでさ。風で戸がばたんばたん言うてるし、花はすっかり雨に打たれるしでね。今じゃ、わしとばあさんの薪の置き場になってまさあ」
判事は、自分一人取り残されたような思いに襲われた。
「登る面倒をせずにすんだねえ、旦那!」と農夫が手綱を返してよこした。
上の空でそれを受け取りながら、判事は薪拾いにたずねた、「老先生はどうされたんだ。ご遺体は見つけたのか?」
老人はゆっくりと首を振り、しわだらけの顔をいたずらっぽい微笑でゆるめた。
「ああいう人というものは、わしやあなたさんのように死にゃしません。もともとが、しんからこの世のものじゃなかったです。結局は龍みたいに、青天井めざして昇って行くですよ。後にはなあんにも残しゃせん!」
老人は荷を担ぎ上げて、先を急いだ。
突然判事の心の中に、ぴんとひらめくものがあった。つまりはこれが答えか!
彼は笑いながら、農夫に言った、「そうだな、私は紛れもなくこの世のものだ。やっぱり頭を泥につっこみ続けることにするよ!」
彼はひらりと鞍にまたがり、市内に馳せもどった。(完)
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後記
古い中国の探偵もののすべてに共通する特色は、探偵の役回りが常に犯罪の起こった県の知事により演じられることである。
この官吏は彼の管轄下にある県――通常城壁で囲まれた一つの都市とその周辺五〇マイル前後までの田園地帯から成る――の全面的管理の任にあたる。知事の義務は多方面にわたっている。租税の徴収、出生・死亡・婚姻の登録、土地登記書の管理、治安の維持など、万事に責任を負う一方で、地域法廷を主宰する判事として犯罪者の逮捕と処罰を行い、民事・刑事万般の訴訟を審理する任務を負う。このように知事は人民の日常生活のほとんどすべての局面の監督管理にあたるため、通例「父母官」と呼ばれる。
知事はつねに変わらず過重労働の官吏である。政庁と同じ構内にある一画で家族とともに住まい、概して目覚めている間中ずっと公務にあたる。
古代中国の政治組織の巨大なピラミッド構造の底辺に県知事がいる。彼は二十余の県を監督管理する州長官に報告の義務を負う。州長官は十二余の州に責任をもつ府の総督に報告の義務を負う。総督は、皇帝をその頂点とする首都の中央官庁に報告する番に当たる。
貧富を問わず、社会的背景に関係なく、帝国の全市民は文官試験(科挙)に合格することによって、官途につき、県知事になることができる。そういう点から見ると、ヨーロッパがまだ封建制度のもとにあったそのころとしては、中国の制度はむしろ民主的なものとなっていた。
知事の任期は通例三年であった。その後彼は他の県に転任させられ、しかるべき時期に州長官に昇任する。昇任は実績のみにもとづく抜擢であるため、才能の乏しい人物がその生涯の大半を県知事として過ごすことはしばしばあった。
知事の一般職務を果たすうえでは、政庁の常勤職員、たとえば巡査、書記、牢番長、検屍官、衛士、使丁の補佐をうける。だがそれらの人々はその日常職務を遂行するだけであり、犯罪の解明にはかかわらない。
この責務は知事自身が果たすものであって、信頼できる助手三、四人の補佐をうけるが、これらの人物はキャリアを始めるにあたって彼自身によって選定され、彼がどんな職に転じてもそれに随伴する。これら助手たちは他の政庁職員よりも上位に立つ。地域的な縁故がないため、仕事をするさい個人的な思惑《おもわく》から影響をうけることが比較的少ない。同じ理由から、官吏が生まれ故郷の県に知事として任命されることは絶対にないのが定則である。
この小説では、古代中国の訴訟手続の一般概念が示される。第七章の挿絵は法廷の設備を示している。開廷中、判事は判事席につき、助手たちと書記たちがその左右に並ぶ。判事席は赤い布をかけた高いテーブルで、布は前に垂れて、一段高い壇上の床に届いている。
この判事席の上にはいつも同じ備品が見られる、すなわち墨と朱墨をするための硯、筆二本、大きな政庁の印章と、驚堂木《けいどうぼく》も見られる。驚堂木は西洋のそれのように槌の形をしてはいない。硬木で造られた長さ一尺ばかりの矩形の木片である。中国では示唆的に「驚堂木」と称されている。
巡査は壇の前に、左右二列に分かれて向かいあって立つ。原告被告ともこの二列にはさまれてむき出しの敷石の上にひざまずき、開廷中ずっとそうしていなければならない。彼らには援護してくれる弁護士もいないし、証人を呼ぶこともできないから、彼らの立場は概して望ましいものではない。あらゆる訴訟手続はじっさい抑止力として、法律に関わりあいを持つことは恐ろしいと人々に印象づけるように仕組まれている。政庁では通例日に三度、朝と正午と午後の公判がある。
犯人が自分の罪を告白せぬままで有罪判決を下さないというのが、中国の法の基本原則である。筋金入りの犯人がゆるがぬ証拠をつきつけられても自白を拒むことにより処罰を免れるのを防ぐために、鞭や竹杖で打つこと、手やくるぶしを絞め木にかけることなど、適法な厳しい裁きを法は認めている。これら正当と認められる拷問手段とあわせて、知事たちはしばしばもっと苛酷な方法を用いた。しかしそのような苛酷な拷問のために、被告が永続的な身体傷害を蒙ったり絶命したりすることがあれば、判事と政庁職員全員が、しばしば極刑をもって処罰された。だからたいていの判事は苛酷な拷問よりも、鋭い心理洞察力や協力仲間の知識に頼ることの方が多かった。
全般的に見て、古代中国の組織はかなりよく機能していた。上級官庁によるぬかりのない規制が権限逸脱を防いだし、不正な、あるいは無責任な知事に対しては、世論が別のしかたで抑制を加えた。死刑宣告には皇帝の裁可が必要とされ、被告は誰でも上級審に控訴でき、それは皇帝の耳にまで達するしくみになっていた。そのうえ知事は被告に内々で尋問を行うことを認められておらず、訴件に関する尋問は、予備的な取り調べも含めて、すべて政庁の公判の場でなされねばならなかった。訴訟手続のすべては綿密に記録にとられ、これらの報告は上級官庁に送付されて、監査をうけねばならない。
中国の多くの探偵小説のなかで、知事は同時に三件以上の全然別々の事件に携わる。この興味ある特徴を私はこのシリーズで維持し、三つのプロットを一つの連続的な物語となるように書き上げた。私の考えでは、この点、中国の犯罪物はわれわれのそれより現実的である。一県には実におびただしい人々が住んでいたのだから、しばしばいくつもの犯罪事件に同時に対処せねばならないというのは、まさに理にかなったことなのである。
中国の伝統にしたがって、私は作品の終わり近くに罪人処刑の描写を加えた。中国人の正義感は、罪人にふり当てられた罰を詳細に述べることを求める。中国の明代の作家たちの、舞台はしばしば何世紀も前にとるけれども、小説を書くにあたっては十六世紀の人間と生活とを描写するという習慣を、私は採用した。同じことは挿絵についてもいえ、唐代というよりはむしろ明代の習慣と服装になぞらえている。その当時中国人は煙草も阿片も吸わず、弁髪をつけていなかった(それは一六四四年以後に征服者満州族によって強いられたのであった)。男たちは髪を長く伸ばし、髷に結った。戸外でも屋内でも帽子をかぶった。
「ディー判事」は古代中国の大探偵の一人である。彼は歴史上実在する人物で、唐代の著名な政治家であった。名は狄仁傑《ディーレンチエ》、西暦六三〇年から七〇〇年まで生きた。のちに彼は帝国法務大臣「御史大夫」となり、賢明な助言を行って国政に有益な影響を与えた。後代の中国の小説が多くの犯罪物のなかで彼を主人公にしているのは、主として彼の犯罪解明者としての名声に由来するものである――それらの物語では、たとえ史実を踏まえているとしても、とるに足らぬほどでしかないが……。
「密室殺人事件」は、一五六五年に死んだ明代の悪名高い政治家に関わる逸話からヒントを得た。彼は蝋燭のそばで熱すると致命的な結果をもたらす飛び道具を発射する、特殊な筆を発明したと言われる。もとの話では、厳世蕃《イェンシーファン》はこの「装填された筆」を護身用武器として用いたと語っている。彼が書斎で書き物をしている時、不意に大勢いる仇敵の一人に襲われ、他の武器が手近にない場合に使うのだ。私はそうした「装填された筆」を攻撃用武器として描き、中国の小説にそれほど珍しくない、遅れて来た仇討ちのモティフと組み合わせて、新しい話を書いた。ちなみに、新品の筆を使う時、書き手は穂のまわりの余計な毛を焼いて取るものである。それをするには、軸を平らに自分の眼に向けて持って焼く。その時、飛び道具が筆の末から発射されて彼の顔に当たる機会が生じるのである。軸の中で螺旋を抑え固めている膠が、じっさい焼き切っている間には融けなかったとしても、その筆を使い始めてしまったら、書き手が助かる望みは少ない、彼はずっと頭を紙の上に垂れていて、炎と一直線上になっているからだ。これはこの小説でディン将軍の身の上に実際に起こったことなのである。
「秘められた遺言事件」には、まったく別のモティフが使われている。この事件は古代中国のよく知られるプロットを土台にしている。その一つの形は、西暦一二一一年に編まれた判例集『棠陰比事《とういんひじ》』に載っている。筆者の訳による『タンインピーシー、梨の木の下からの類例集、十三世紀の判決と解明のマニュアル』(Sinica Leidensia Vol.X, Leiden 1955)一七七頁、事例六六―Bを参照されたい。十六世紀の有名な犯罪小説集『龍図公案』には別の形が見え、こちらは宋代に生きた大探偵|包《パオ》公の手柄になっていて、「画軸をはがす」と題されている。十七世紀の人気のある中国小説集『今古奇観』ではもっと手の込んだ物語となって、「滕《トン》知事が遺産争いをあっぱれ解決」という題になっている。原話では真の遺言書が軸物の裏打ちに隠されていたことになっていて、絵自体の中に手掛りが含まれているとしたのは、私の潤色である。迷路の不思議も私がつけ加えたものであって、迷路は中国の宮殿に関する記述に時折見られるにもかかわらず、私の知る限り、中国の昔の推理物には出て来ない。この小説に出て来る迷路のデザインは、実際に中国の香炉の覆いにある形である。中国の古い習慣に、連続文様を切り抜いた薄い銅板を、口まで香の粉を満たした器の上に置く。文様の一端に点火すると、香は導火線のように文様通りゆっくりと燃え進む。この種のさまざまな文様を複製した本が、長期にわたって数多く出版された。縁起のよい文句を表すことが多く、たいへんにうまく出来ているのもある。この小説で用いたデザインは、一八七八年に出版された『香印図考』から借りた。
首なし少女のプロットは、中国の古い犯罪小説にはたいへん多い。一例としては、私の『棠陰比事』事例六四―A。私はそれを、中国の劇や小説によく出て来る女の異常な同性愛を中心にすえてまとめた。古代中国の女性間にしばしば同性愛が見られ、時折サディスティックな事件があるのは、大勢の女性が四六時中、間近にひしめき合って暮らさなければならない、一夫多妻の家族制度のために違いあるまい。私がこのモティフを小説にとりこんだのは、一つには思いがけない展開を生み出すために必要だったからだが、もう一つには、昔の中国のプロットがあきれるほど「現代的」だというところを見せるためである。
この小説七章の、黄金の像を奪われたと偽りの申し立てをした三僧の企てが露見する話は、前記『棠陰比事』事例五七―B。
この小説の大枠の、辺鄙な都市で土地の乱暴者が権力を横領するというのも、中国の小説によくある仕掛けだ。ときには抜け目のない知事が、その裏をかいて横領者を倒し、ときには横領者のほうが主人公である。彼は腐敗知事から地位を奪い、やがてそれに感謝する政府から公式にその地位を認められる。
最後に、「鶴衣先生」がこの小説(第十九章)で演ずる役回りは、中国の推理小説によく見られる「機械仕掛けの神」のかなりひねった形である。超自然の存在(時には冥府の神みずからが人間の形で出現する)を登場させ、神秘的な方法を用いて、知事が厄介な犯罪を解く手助けをする。こういうところは、言うまでもなく、現代の読者には受け入れにくい。そこで、この小説では、鶴衣先生を精神的修養を積んだ道教徒隠者として描き、対話の間にディー判事がつかんだ手掛りが、幸運な偶然によるものか、それとも先生がアン将軍の事件について内々で何か知っていたのか、はたまた先生の常ならぬ洞察力によるものかは、読者の判断にまかせることにした。二人の会話の背景には、儒教と道教の対比を据えた。周知の通り儒教と道教は、おおよそ前四世紀からずっと、中国人の哲学と宗教を特色づけて来た二様の基本的思考法である。儒教は現実的で、この世界を重んじるが、道教は理想主義的で、まったく現世的でない。
ディー判事は、正統的儒教徒の学者=官人として、正義・廉直・慈悲の心・義務感など、衆目の認める道徳価値に絶対の重要性を付する儒教の経典に精通している。一方で鶴衣先生は、衆目の認める価値とはすべて相対的なものでしかないこと、また自然の原始的力と完全に調和して生きる無為の生という、道教徒の信条を唱える。相反するこの二つの考え方は、虫けらと龍とをめぐるアン将軍の対句に要約されている。この対句は、禅哲学を扱った、ある仏教徒の作品から引用した。仏教の中でも禅一派は、しばしば道教に非常に近づく。
ロバート・ファン・フーリック