中国湖水殺人事件
ファン・フーリック/大室幹雄訳
目 次
まえがき
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
第十三章
第十四章
第十五章
第十六章
第十七章
第十八章
第十九章
第二十章
判事と法廷[作者解説]
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登場人物
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ディー・レンチエ……漢源《ハンユアン》の知事、「ディー判事」「判事」とも呼ばれる
ホン・リャン……政庁の警部、「ホン警部」「警部」とも呼ばれる
マー・ロン……ディー判事の一番目の補佐
チャオ・タイ……ディー判事の二番目の補佐
タオ・ガン……ディー判事の三番目の補佐
ハン・ユンハン……裕福な地主、漢源《ハンユアン》の指導的な市民
垂柳《すいりゅう》……その娘
杏花《きょうか》……漢源《ハンユアン》の柳街《りゅうがい》の芸妓
銀蓮花……漢源の柳街の芸妓
桃花……漢源の柳街の芸妓
ワン……金細工師|組合《ギルド》の親方
ポン……銀細工師|組合《ギルド》の親方
スー……玉《ぎょく》細工師|組合《ギルド》の親方
カン・ポー……裕福な絹商人
カン・チュン……その弟
チャン・ウェンチャン……文学博士
チャン・フーピアオ……その息子、文学士
リウ・フェイポ……首都出身の裕福な商人
月仙《げっせん》……その娘
コン……茶商人、チャン博士の隣人
マオ・ユアン……大工
マオ・ルー……その従弟
リァン・モンクワン……帝室顧問官、漢源《ハンユアン》に隠棲している
リァン・フェン……その秘書を務めている甥《おい》
ワン・イーファン……取引斡旋人
モン・キー……最高調査官、帝国検査官とも呼ばれる
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まえがき
湖水殺人事件は、ディー判事が西暦六六六年に三つのむずかしい事件を解決した次第を述べている。少しまえに、彼は漢源《ハンユアン》の知事に任命されたのである。
漢源《ハンユアン》は小さな古い町で、首都の北西、わずか九十六キロほどのところに位置していた。しかし高い山々の間に埋もれていて、ずっと孤立したままの土地であり、外部からそこに住みつく人はほとんどいなかったのである。町は山の湖、漢源《ハンユアン》の神秘的な湖の畔《ほと》りにあって、住民は昔から湖をめぐる不思議な話を語りついでいた。湖で溺れた人たちの遺骸はけっして発見されないけれど、その幽霊が生者の中を歩きまわっているのが見られたという。しかし、同時にまた、湖は「画舫《フラワー・ボート》」で、つまり嫖客《ひょうかく》が美しい娼妓相手に歓楽の宴を張り、水上で一夜を過すことのできる、浮きただよう密会の家で知られていた。
この奇異な古い町で、ディー判事は無残な殺人に出会う。この犯罪の捜査にとりかかったところで、二つの新しい、ややこしい謎に直面して、彼はすぐに、政治的な陰謀と卑しい貪欲と禁じられた暗い熱情との迷路に巻き込まれたことに気づく。
この本の冒頭には漢源《ハンユアン》の全景が、第三章には画舫《がぼう》の絵がのせられている。画舫の絵と、それの平面図は、インド、ニューデリーの考古学記念物調査局の前局長である私の友人ヒラリー・ウォディントンが、私のために親切にも画いてくれたのである。
ロバート・ファン・フーリック
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第一章
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悩める官吏は異様な記録を書きあげ
ディー判事は画舫《がぼう》の宴会に出席する
人の命の目録を書いた天のみぞ
人の命のどこに始まり、どこで終るかを知る
仮に終りがあるのなら。われら死すべきものには天の令状が読めない、
文面があれやこれ、どう書かれているかさえ知りはしない。
けれど判事が緋色の席に坐ったときは
天の力は彼のもの、生と死とを支配する
だが天の知ではない。彼をして――またわれらをして!――心せしめよ
他人に裁きを下さぬように、われら自身が裁かれるのだと。
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何人《なんぴと》も、私は信ずるのであるが、わが赫奕《かくえき》たる大明《だいみん》帝国の皇帝に二十年間奉仕したことを貧しい記録だと呼びはすまい。げに私の亡き父上は、五十年間仕えられて国務顧問官主任のまま死去された時は、あたかも七十回目の誕生日を祝われたばかりであった。私は四十歳になる、あと三日後に――だが、その時に私はまだ生きてあることを天は恕《ゆる》し給わらぬかも知れぬ。
そんな時間はもう稀《まれ》になっているのであるが、懊悩《おうのう》に苛《さいな》まれている私の頭脳が明晰な折には、私は過ぎ去った歳月へ私の想いを還《かえ》してやるのである。今となっては、それが私に残された唯一の逃避の手立てなのだ。四年前、私は首都裁判所の調査官に昇進した。僅《わず》か三十五歳の官吏にとって、それは大変な栄誉であった。世人は私の未来は洋々たるものであるだろうと予測したものだ。私に割り当てられたこの宏壮な邸宅を、私はどれほど誇らしく思い、その麗わしい園林をわが娘と手に手を取り合って逍遥《しょうよう》することをいかほど愛したことか! その頃、わが娘の何と稚《おさ》なかったこと、ほんの童女であったが、私が指さすいかなる花であれ、あの子はもうその詩的な雅名《がめい》を識《し》っていた。四年――とはいえ、今は何と遥かな過去に思われることか。まるで前生からの想い出のような。
いま、そなたは、私を脅《おびや》かす影よ、またも私にひたひたと圧《お》し迫る。恐怖に畏縮《いしゅく》しつつ、私はそなたに服さねばならぬ。そなたはこの束の間の休息だに私に与えるのを吝《おし》むのか? そなたが私に為《な》せと命じたことは、何であれ、私が為さなかったであろうか? 先月、不吉な湖水の畔《ほと》りの、あの死んだように古びた漢源《ハンユアン》の町から帰って後、直《ただ》ちに私は娘の婚儀を挙げるべく吉祥なる日取りを選ばなかったろうか? そして先週あの子は嫁《とつ》いで行かなかったか? そなたはいま何を言っているのか? 私の五官は堪《た》えられぬ痛苦に痺《しび》れてしまっている。そなたの言うことが良く聞えない。そなたは言う……わが娘は真実を知らねばならぬ、と? 全能の天よ、あなたは憐れんでは下さらないのか? それを知ったら、あの子の心は張り裂け、あの子は破滅してしまうだろう……駄目だ、私を傷つけないでくれ、どうか。私はそなたの言うがままにする、私を傷つけることだけはしないでくれ……宜《よろ》しい、私は書くであろう。
書く、眠れぬ夜毎に私は書く、そなた、私を見守っている冷酷な死刑執行人とともに。他の人たちにそなたは見えないのだとそなたは言う。だが、だれかが死に取り憑《つ》かれれば、他の人たちには、彼にその印があるのが見えるというのは真実ではないのか? 今では人気《ひとけ》の無くなっている回廊で、私がわが妻たち、妾《しょう》たちのたれかに出会うと、そのつど彼女らはすっと顔を背《そむ》ける。役所で書類から顔を上げると、屡々《しばしば》私は書記どもが私を凝視しているのを発見する。彼らが慌ててまた書類に身を屈めるので、連中がちかごろ身に帯《おび》るようになった魔除けの護符をこっそり握り締めるのが私には判《わ》かるのである。漢源《ハンユアン》訪問から帰って来た後に、私が単にひどく病んでいただけでないことを、連中は察知したのに相違ない。病んでいる人は憐れまれるものだ。取り憑かれた者は忌《い》み避けられるのである。
彼らには判からない。連中はただ私を憐れみさえすればいいのだ。ずるずるとやって来る死を自身の手で自分に科する者、即ち、その死刑執行人によって、自身の肉を一片《ひときれ》ひときれ無理やり臠《きざ》み取らされる冷酷な罰を宣告された者を、人は憐れむものなのだから。これら最期《さいご》の日々に私が書いた書簡、私が暗号にして発送した通信は、どれもみな私の生きている肉を一片ずつ臠《きざ》み取ったものなのだ。かくて、帝国全域に私が根気強く編みめぐらしていた、精巧な網の糸が一本また一本と断ち切られてしまった。切られた糸は、それぞれいずれも、砕かれた希望、妨げられた幻影、荒らされてしまった夢想を表わしているのである。いまとなっては、あらゆる痕跡が一掃されてしまっている。誰ひとりとして決して知りはしないであろう。私は予想さえしているのだ、「帝国官報」は私の訃音《ふいん》を載せて悼《いた》むだろう、前途を嘱望《しょくぼう》された若き官吏が夭逝《ようせい》した、長く続いていた病によって、と。長く続いていた、まことに、今まで長く生き続けて来て、この血まみれの屍体を除いては、私のものは何ひとつとして残っていない。
これは、死刑執行人が短刀を責め苛《さいな》まれた罪人の心臓に突込んで、慈悲深い止《とど》めの一撃を与える瞬間である。されば、恐ろしい影よ、そなたは何ゆえに私の苦悶を長引かせようとするのか? 花の名を自《みずか》ら名のるそなたなのに。そなたは何だって私の心をきれぎれに裂いてしまおうとするのか? 私に私の可哀そうな娘の魂を無理無体に殺させることによって。あの子は何の罪も犯しはしなかった、あの子は決して知らなかった……そう、私にはそなたの言うことが聞える、恐ろしい女よ。そなたは言う、私はまだ書かねばならぬ、わが娘に判からせるために、すべてのことを書き記さねばならぬのだ、と。あの子に告げよ、天がどのように私が自ら選んで速やかに終るのを拒んだかを、そして天がいかように、私がそなたの残忍な手の裡《うち》で苦悶しつつ緩慢《かんまん》に死ぬるよう宣告したかを。しかも、私にほんのちらっと……どんなことがあり得るのかを見させた後に、だ。
いかにも、私の娘は知るだろう。あの湖水の岸辺でそなたに邂逅《かいこう》したことについて、そなたが私に語った古い物語について、何もかも。だが、私は断言する、天というものがわれらの上にまだ在《いま》すのなら、娘は私を恕《ゆる》してくれるだろう。反逆者や殺人者でも、あの子は恕すだろう、そうだとも。しかし、そなたは別だ! おまえは別だ、おまえは憎悪、憎悪の権化《ごんげ》でしかないからだ、そしておまえは私とともに死ぬ、永劫《えいごう》に死ぬるのだ。止せ、私の手を今は引き離すな。おまえは「書け!」と私に言った、だから私は書くのだ。願わくは天が私に憐憫《れんびん》を賜《たま》わらんことを……そして、そう、そなたにもだ。何となれば、今は――もう遅すぎるにしても――私はそなたが本当は何であるかを認めているし、招かれなければ、そなたが決してやって来ないことを知っているからである。自分自身の暗い行為によって、そなたを喚《よ》び出す人々だけを、そなたは取り憑き悩ませ、死ぬまで責め苛むのだ。
これは、されば、偶々《たまたま》起こったことなのである。
首都裁判所は私を漢源《ハンユアン》に出向させた。政府基金の横領に関する錯雑した事件を調査するためであるが、それには地方当局が絡《から》んでいる嫌疑があったのである。今年は春が早く訪れて来たのを憶《おぼ》えていられるであろう。期待に満ちた想いが暖かな大気に震えていた。私は向う見ずな気分になって、その漢源《ハンユアン》の旅にわが娘を伴なって行こうと思いさえしたのである。だが、そんな気分は消えてしまって、代りに菊花《きくか》を、一番年若い妾《しょう》を私は連れて行った。そうすることで、私の懊悩する魂に平安を取り戻すことを私は望んでいたのである、というのも、私にとって菊花はたいそう愛《いと》しいものであったから――以前には。漢源《ハンユアン》に到着すると、しかしながら、私はそれが愚かしい希望であったことを覚った。後へ残して来たあの子が、それまで以上にぴたりと私に寄りそっていたのである。あの子の姿が私たちの間に立って、私は菊花の撓《しな》やかにほっそりした肩に触れる気にさえなれなかった。
熱に浮かされでもしたように、私は事件に全精力を傾注して忘れようと努めた。一週間のうちに、私はそれを解決した。犯人は首都出身の一書記だったことが判明して、彼は自白したのだった。漢源《ハンユアン》滞在の最後の夕べには、私に感謝して、地方当局者たちが素晴しい送別の宴を開いてくれた、柳街《りゅうがい》、つまり百年からの評判のある、歌姫たちの住まいにおいてである。彼らは、あの苛立《いらだ》たしい事件を私が迅速に解決したことに対して、感謝と賞讃を並べ立てることを吝《お》しまなかった。彼らは言った、私のために杏花《きょうか》に舞わせられなかったことだけが残念だ、と。杏花は柳街で最も美しい、嗜《たしな》みのある芸妓《げいぎ》であり、彼らの言うところでは、往昔《おうせき》の名高い美女に因《ちな》んで、そう愛称されているのだった。不運にも、不可解なことに、その娘は消えてしまった、ほかならぬ、その日の朝にである。仮に私が漢源《ハンユアン》滞在を数日間延期することができさえすれば、と彼らは不満そうに言いそえた、疑いもなく、彼らのために、私がその不可思議も解決しただろうに! 連中のお世辞は私を喜ばせた。で、常にもなく酒を過ごして、夜も晩《おそ》くなって、気ままに居暮らしていた贅沢な宿舎に帰ったときには、私ははなはだ昂揚した気分のうちにあった。万事がうまくいくだろう、と私は感じた。あの呪縛を破るであろう!
菊花が私を待っていた。彼女は薄紅の一重の服をまとっていたが、それがその若々しい姿をあでやかに引き立てていた。彼女は愛らしい眼差しで私を瞶《みつ》めた。それで、私は彼女を腕に抱きたいと思った。すると、不意に、もう一人が、禁じられたものが、そこに現われて、私は抱くことができなかったのである。
劇《はげ》しい身震いが私の身体をゆるがした。何と詫びたらいいのか分らないとぶつぶつ言いながら、私は庭へ走り出た。窒息しそうな気がした。空気が欲しかったのだ。しかし、庭の空気はむしむしと暑かった。私は外へ出て、湖水に行かずにはいられなかった。居眠りをしている門番の前をこっそり通り抜け、人気《ひとけ》のない街路へ出て行った。湖畔に辿《たど》りつくと、私は立ちつくして、静かな湖を長いこと眺めわたしていた、心に深い絶望を懐《いだ》いたまま。私が入念に積み上げてきた計画が、私にとって何の役に立つのか? 自分が人間でないのに、誰が人を治めることができるのか? とうとう私はたった一つの解決しかないことを覚ったのであった。
一旦《いったん》、そう決心してしまうと、心が安らぐのを覚えた。紫色の長衣の前を緩《ゆる》めて、高くて黒い帽子を汗ばむ額から後ろへ押しのけた。私はゆったりした歩調で徘徊《はいかい》した、目的にふさわしい場所をどこか岸辺に求めながら。私は歌を口ずさんでさえいたと思う。赤い蝋燭《ろうそく》がまだ燃えている時、金色の高杯の中で酒がまだ熱い時こそ、鮮やかに彩《いろど》られた広間を離れるのに最良の時ではないのか? 私は魅惑的な周囲の情景を楽しんでいた。左手には杏《あんず》が白い花をいちめんにつけていて、その香は暖かな春の大気にこまやかに籠《こも》っていた。そして右手には、湖水が月光を映して銀色に拡がっていた。
曲りくねった道の、とある角を回ったとき、私は彼女を見たのであった。
彼女は岸に、湖水にごく近く立ち、白絹の長衣を着け、緑の飾帯を締め、白い睡蓮《すいれん》を髪に挿していた。私を顧みると、月の光がその愛らしい顔を照らした。その時、ある閃きの裡《うち》に、私には判かったのである。ここに、ついに、私を廃疾者にする呪縛を破ってくれる女、天が私に運命として授け給うた女がいるのだ、と。
女にもそれが判かったのであった、というのも、私が彼女のほうへ登って行っても、通常の挨拶や丁重な問いかけなどはまるで無かったのである。彼女はただこう言った、
「杏《あんず》の花がとても早く咲きました、この春は!」
で、私は言った、
「それは想いもよらない喜び、このうえない喜びです!」
「いつもそうなんですの?」と彼女は揶揄《やゆ》するように頬笑みながら尋ねた。「いらっしゃい、つい今しがたまであたくしが坐っていた所を教えてさしあげましょう」
彼女は木立の中を進んで行った。私は道からわずか離れた、小さな空閑地までついて行った。低く盛り上がった所の高い草の中に、私たちは並んで腰を下ろした。重たく花をつけた杏の枝が、天蓋さながらに私たちの頭上に垂れていた。
「何て不思議なんだろう!」女の小さくて冷たい手を取りながら、楽しい気分で私は言った。「まるで二人して別世界にいるようだ」
女はちょっと頬笑むと、ちらと流し目に私を見た。私は彼女の腰に腕を回して、その湿って赤い唇に口を圧《お》しつけたのである。
かくて、彼女は私を廃疾者にしていた呪縛を除き去ってくれた。彼女の抱擁は私を治癒し、私たちの燃え熾《さか》る情熱は、私の魂にぽっかり空いている傷口を焼灼《しょうしゃく》してくれたのであった。何もかもまだうまくいくだろうと、私は昂《たか》ぶって思った。
最上の白玉《はくぎょく》のように滑らかに白い、女の美しい身体に、花咲く杏の枝が投げかける影を指でもの憂くなぞっているとき、私はふと、自分が彼女の破ってくれた呪縛のことを彼女に語っているのに気づいた。女はその整った胸に散りかかる花びらをゆったりと払いのけていた。身体を起こして、彼女はゆるゆるとこう言った、
「いつか、ずっとまえ、よく似た話を聞いたわ」それから、少しためらって、「言って、あなたは判事じゃないの?」
私は低い枝に掛けておいた帽子を指さした。月の光が官職を示す金色の記章に照っていた。私は苦笑して答えた。
「それよりずっとましなのさ、私は首都裁判所調査官だ」
思慮深そうに頷《うなず》くと、女は草の中に仰向けになった、形のいい頭の下に円い腕を組み合わせて。
「あの古い話は」と、彼女はもの思いに沈んで口を開いた、「きっとあなたには興味があるわ。一人の秀れた判事の話で、その人は、もう何世紀も前のこと、この漢源《ハンユアン》で知事を勤めたのです。そのころ……」
私は知らない、どれほど長い間、柔らかな、抗《あらが》いがたい女の声に自分が耳を澄ませていたかを。だが、彼女が沈黙したとき、冷たい恐怖が私の心臓を掴《つか》んでいた。不意に起《た》ち上がって、私は長衣を着て、長い飾帯を胴に巻きつけた。帽子を頭に載せながら、かすれた声で私は言ったのである。
「でたらめな話でからかうまでもないぞ! 言え、女よ、どのようにして、おまえは私の秘密を知ったのか?」
けれども、彼女は私を見上げているだけだった。蠱惑《こわく》的な口もとは微笑しようとして震えていた。
彼女のこのうえない可憐さが私の怒りを払いのけてしまった。そばに跪《ひざまず》いて、私は叫んだのだった。
「おまえがどうやって知ったかが、何だというのだ! おまえが誰なのか、誰であったのか、どうだっていい。言っておくが、私の計画は、おまえが話したのより巧妙に立ててあるし、誓って言うが、おまえ、ただおまえだけが私の女王であるからだ」私は優しく女を瞶《みつ》めながら、女の衣裳を取り上げて言いそえた、
「そよ風が湖から吹いている、寒いだろう」
彼女はゆるゆると頭《かぶり》を振った。しかし、私は起《た》ち上がって、彼女の裸の身体を絹の衣服で被《おお》ってやった。その時、近くで出しぬけに大きな声が聞えた。
男たちが六、七人、空閑地に踏み込んで来た。ひどく困惑して、私は草の中に横たわっている女の前に立ちはだかった。一人の初老の男が、私には漢源《ハンユアン》の知事だと判かったのであるが、素速く私を一瞥《いちべつ》した。そうして丁重に一礼すると、感服しきった声音で言うのであった。
「それでは、貴下がこの女を発見なされたわけですな! 今夜、私どもは柳街にある彼女の部屋を調べ、書きおきを発見したものですから、こちらの方面へ探索に参ったのです。何しろ、湖には、この入江に流れ込んでおる水流があるものですからな。私どもより前に、かかることどもを見事に発見なさるとは、まことに驚くほかはありません。とは申せ、わざわざ水辺からここへ引き揚げて下さるには及びませんでした」
知事は部下を顧みて命令した。
「担架を運んで来い!」
私は振り返って見た。白い衣裳は屍衣《しい》のように女の身体にぴたりと貼りついていて、それがぐっしょり濡れているのであった。そうしてどろどろの水藻がふさふさした髪ともつれ合って、女の生命の無い静かな顔にまつわりついているのであった。
*
夕闇が落ちかかっていた。政庁の二階に張り出した開け放ちのテラスに腰をおろして、ディー判事は茶をすすっていた。彫物をほどこした、大理石の低い欄干に近い肘かけ椅子に、身をまっすぐに立てて坐ったまま、前方にひらけた光景を彼は丹念に眺めていた。
屋根屋根が密集した下方の町には、ひとつ、またひとつと灯火が連なりつづいていて、それよりもっと低くには、湖が、滑らかで暗い水の大きなひろがりがあった。対岸は向いに連らなってそびえる山々の麓にただよう煙霧に隠されていた。
蒸暑かった一日がいまはうっとうしい夜に変わろうとしていた。下の街路の木立は、葉一枚、そよとも動くではなかった。
判事はごわごわした錦織りの正装をつけていたが、不快そうに両肩をずらせた。かたわらに黙って立っている老人が、気づかわしげに主人を見やった。その夜、漢源《ハンユアン》の名士たちが湖水に画舫《フラワーボート》を浮べて、ディー判事に敬意を表する酒宴を催すというのだった。天候が変わりでもしないかぎり、それはほとんど楽しいことではあるまいと判事は思った。
長く黒い顎ひげをゆっくりと撫でながら、判事はぼんやり一艘の舟の進行を、遠方の小さな点を追っていた。帰り遅れた漁師が舟着場に向って漕いでいるのである。それが視界から消えると、判事はふいに目をあげて言った。
「私はまだ城壁に囲まれていない町の暮しには慣れていないね、警部。どういうものか、それは人に感じさせる……おぼつかない感じだ」
「漢源《ハンユアン》は首都からたった三十里ほどです、閣下」と年輩の男は言った、「ですから、ここなら、首都近衛連隊が容易に到着する範囲内にあります。そのうえ、州の駐屯地が……」
「むろん、私は軍事上の問題について言っているのではない」と判事はいらいらしてさえぎった。「この町の内部の状況について話しているのだ。われわれが知らされないでいる沢山のことが、この町には起きているという感じがするのさ。城壁に囲まれた都市では、城門が夕暮には閉じられる。それで、人はその状況が、いわば手中にあって自由にできるという感じがする。ところが、山の麓へ野放図にひろがっているこの町、それに湖の岸に沿っているあの郊外ときたら……。どんな種類の人たちだって、ここでは勝手気ままに出て行ったり入って来たりできるのだよ!」
相手はすりきれたような顎ひげを引っぱっていた。彼は何を言ったらいいか分からなかったのだ。彼の名はホン・リャンといって、ディー判事の誠実な助手である。昔は判事の家の従者で、判事がまだ子どもだったころ、彼を養育したのだった。三年前、ディー判事が地方勤務の最初の任地である平来《ポンライ》の県知事〔知事は判事を兼任する〕に任命されると、ホンは高齢であるにもかかわらず伴《とも》をして行くと言いはった。それで判事は彼を政庁の警部にしたのだが、主としてホンに官位を与えてやるためにそうしたのだった。ホンのおもな仕事は、ディー判事が何でもうちあけられる助手として働くことで、判事はどんな問題でも彼とならこころおきなく話し合うことができた。
「ここへ着いてから、二か月が過ぎたな、ホンよ」とディー判事はまた話し始めた、「それなのに、重大な事件は何ひとつこの政庁に報告されたことがない」
「それはつまり、漢源《ハンユアン》の市民が法を遵守《じゅんしゅ》する人びとだということですよ、閣下」
判事はかぶりを振った。
「ちがうよ、ホン。彼らが自分たちの事情を、私たちに分からせないようにしているということさ。おまえの言うとおり、漢源《ハンユアン》は首都の近くにある。しかし、この山中の湖の岸に位置していることによって、多かれ少なかれ、この町はずっと孤立してきた。よそから来た人たちは、ほとんどここに住みつかなかった。仮にこういう緊密に編み合わされた共同体に何かが起きたにしても、人びとはいつだって、せいぜい知事に隠しておこうとするだけだ。知事はよそものだと連中は考えているのだからね。くりかえし言うよ、ホン、私たちの目に触れる以上のことがここでは起きている。そのうえ、ここの湖に関する、気味悪い話は――」
彼は言い終わらなかった。
「閣下はそういった話を信じていられるのですか?」と警部が早口で尋ねたのである。
「信じているだって? いいや、そんなことまでは言ってないさ。しかしこの一年の間に四人が湖で溺れて、死骸が見つからなかったというのを聞いたとき、私は――」
ちょうどそのとき、簡素な褐色の長衣を着て、小さな黒い帽子をかぶった二人の壮漢がテラスへ歩み出て来た。マー・ロンとチャオ・タイ、ディー判事の他の二人の助手だった。二人とも六尺を越える背丈で、老練な拳法家の広い肩と太い頸《くび》をしている。判事にうやうやしく挨拶してから、マー・ロンが言った、
「宴会へおいでの時間が迫っております、閣下! 輿《こし》はもう下に用意してあります」
ディー判事は起ちあがった。ちょっとの間、前に立っている二人の男に目をとめた。マー・ロンとチャオ・タイはどちらも、もとは「緑林《りょくりん》の兄弟」――追剥《おいはぎ》に対するほめ言葉だ――だった。三年前、彼らは淋しい街道で判事を襲ったことがあった。だが、判事が恐れを知らぬ力強い人柄で感動させたものだから、二人は荒っぽい生業を棄てて、雇ってくれるように請うたのだった。ディー判事は二人の誠意に動かされて、願いを聴きいれてやった。彼の判断は正しかったことが判明した。この並はずれた二人組は忠実に仕えて、危険な犯罪者の逮捕や、そのほかのむずかしい仕事の遂行にきわめて役立つことを証明したのである。
「ちょうどいま、警部に話したところだ」とディー判事は言った、「この町ではいろいろなことが起きているのに、われわれには隠されたままだとね。画舫《がぼう》で宴会が進んでいる間、君たち二人は画舫の使用人や船頭たちに酒のつきあいをさせて、連中に少しばかり無駄話をさせてやるがいい」
マー・ロンとチャオ・タイはあけっぴろげに笑って喜んだ。どちらもちょいとした酒盛りがきらいではなかったのである。
四人の男たちは、政庁構内の中央|院子《なかにわ》へ下っている石の広い階段を降りて行った。判事の儀式用の輿《こし》が用意されてあった。ディー判事がホン警部といっしょに乗ると、十二人の輿丁《こしかつぎ》たちが、たこのできた肩に長柄をのせた。走使いが二人、「漢源《ハンユアン》政庁」と記した大きな提灯《ちょうちん》をかかげて先導する。マー・ロンとチャオ・タイが輿の後ろを歩いて行った、赤い飾帯のついた皮上衣を着て、頭に鉄の兜をかぶった巡査を六人従えて。
守衛が政庁の鉄鋲を打ちつけた重い門を開くと、行列は街路に出た。輿丁《こしかつぎ》たちはしっかりした足どりで市内へ向う急な石段を降りて行った。間もなく、一行は孔子廟《こうしびょう》の前の市場に入って行った。おびただしい人の群が夜店の油ランプのまわりをぶらついていた。走使いが銅鑼《どら》を鳴らして叫んだ、
「道をあけろ、道をあけろ! 知事閣下のお通りだ!」
群衆はうやうやしく引きさがって、老いも若きも、行列が通り過ぎるのをこわごわと見まもった。
再び下りになって、貧民街を通りぬけると、湖の岸に沿って走っている広い街道に着いた。二町ほど進んでから、行列はある通りに入って行った。両側には優雅な柳が並べ植えられている。芸妓《げいぎ》や歌姫の住まいが柳街《りゅうがい》という名で呼ばれているのは、こうした柳に因《ちな》んでいるのだった。彼女たちの家は色絹《いろぎぬ》の小さな提灯《ちょうちん》で陽気に飾られていて、行き迷う唄のひと節、ふた節、絃楽器のつまびきが夜の大気の中に漂っていた。華やかな衣裳をまとった若い淑女たちが、赤い漆塗の露台《バルコニー》に群れて、生きいきとおしゃべりしながら行列を見おろした。
酒と女の目利きを自認するマー・ロンは熱心に見あげて、勢ぞろいした美人たちをつらつらと眺めやった。うまいぐあいに、いちばん大きい家の露台で欄干によりかかっていた、気持のいい円顔のふっくらした娘の目をとらえた。骨を折ってこしらえたウインクを送ると、はげますような微笑で酬《むく》いられたのである。
輿丁たちがディー判事の輿を桟橋《さんばし》に降ろした。きらきら光る錦織のたっぷりした長衣をまとった一群の紳士たちが立って待っていた。金色の花模様を浮かせた、紫の長衣を着た長身の男が進み出ると、深々と拝礼をして判事に挨拶をした。富裕な地主ハン・ユンハン、漢源《ハンユアン》の指導的な市民であった。その一族は何世紀にもわたって、政庁と同じ高さがある山の中腹に広大な屋敷を構えて住んでいた。
ハンは桟橋に横づけされている、前甲板が埠頭と同じくらいに高い、堂々たる画舫に判事を案内した。おびただしい数の色提灯が主船室の庇《ひさし》一面に掛け並べられていて、画舫はその光で照りかえっていた。立派な入口をぬけて、ディー判事とハンが食堂に入って行くと、入口近くに坐っている楽団が陽気な歓迎の曲を演奏し始めた。
ハンは厚い絨毯を横切って、部屋の奥にすえられた高いテーブルの上席へ判事を導いて行って、自分の右に坐るように請うた。ほかの客たちは二つの次席のテーブルに坐ったが、それらは判事のテーブルとは直角に、互いに向い合って両側に置かれていた。
ディー判事は興味ぶかく周囲の様子を観察した。漢源《ハンユアン》の有名な画舫のことはよく耳にしたことがあった。それは縹客《ひょうかく》が女性の伴侶と祝宴や飲食を楽しんで、湖上で夜をすごすことのできる水上に浮ぶ一種の密会の家だった。豊富で惜し気のない設備は彼の予想を越えていた。部屋は三十尺もの長さがあって、赤漆塗の天井からは、彩りあざやかな絹の大きな提灯が四張り吊されていて、ほっそりした木の柱は、入念な彫物をほどこした上に金箔がかぶせてあった。
かすかに揺れる動きがあって、船が埠頭を離れたのが分かった。音楽がやむと、下の船倉で船頭たちのあやつる櫂《かい》が一定の諧調で水をはねる音が聞えた。
ハン・ユンハンが他の客たちを手みじかに紹介した。右手のテーブルでは、やや猫背ぎみの痩せた初老の男が先頭にいた。裕福な絹商人カン・ポーだと分かった。カンが起立して判事に三度礼をしたとき、ディーはその口が神経質に引きつって、両目がちらりと動いて左右を見たのに気がついた。彼の次に坐っている、自足しきった顔つきのふとった男が、その弟のカン・チュンであると分かった。ディー判事は、二人の兄弟は外見も人柄もまるっきり似ていないと何とはなく思った。そのテーブルの三人目の客はもったいぶった態度のひどく肥満している男で、金細工師|組合《ギルド》の親方ワンだと紹介された。
向いのテーブルの先頭は背が高くて肩の広い男で、金の刺繍をした褐色の長衣を着て四角い紗《しゃ》の帽子をかぶっていた。その重苦しく黒っぽい顔は、威厳のある空気をそなえていた。それは、剛《こわ》くて黒い顎ひげと長い頬ひげとともに、彼を官吏のように見せていたが、ハンは首都から来た裕福な商人リウ・フェイポだと紹介した。彼はハン家の屋敷の隣にすばらしい別荘が建ててあって、いつも夏をそこですごすのだった。リウ・フェイポのテーブルのほかの二人の客は、ポンとスー、それぞれ銀細工師|組合《ギルド》と宝石細工師|組合《ギルド》の親方であった。判事にはこの二人の親方が対照的なのが印象的だった。ポンは肩が狭くて、長くて白い顎ひげの痩せた初老の紳士だった。反対に、スーは闘技士の重々しい肩と太い頸を持った若くて屈強な男だったのである。スーのどちらかというと粗野な顔は不機嫌を表わしていた。
ハン・ユンハンが手を叩いた。楽団がまた陽気な曲を始めると、四人の召使いがディー判事の右手の戸口から入って来て、冷たい料理と、あたたかい酒の白鑞《しろめ》の酒注《さけつ》ぎをのせた盆を運んで来た。ハンが歓迎の乾杯の音頭をとって、酒宴が始まった。
冷やした鴨《かも》と鶏《とり》をつついている間に、ハンが品のいい会話を始めた。あきらかに彼は趣味と教養のある男だったけれど、その丁重な話しぶりには何となく誠意というものが欠けているのに判事は気づいた。彼はひどく気をおいていた。よそものが好きでないらしかった。けれども、大きな高杯をたてつづけに何杯かあけると、彼はいくらかくつろいで、微笑しながらこう言った、
「閣下が一杯めしあがられるのに対して、私は五杯も飲んでいると信じます!」
「私は良い酒の一杯が好きなのです」とディー判事は応じた、「ただし、本席のように楽しいおりに飲むだけですが。まことに、これはたいそう豪勢なおもてなしです」
ハンは会釈をして言った、
「私どもは、閣下が私どもの小さな県のご滞在を楽しまれますことを希望し、かつ信じておるのでございます。ただ遺憾に存じますのは、私どもはなにぶん当地の田舎者でございまして、閣下の高尚なるご交友にはそぐわぬことでございます。しかも私は危惧いたすのでございます、閣下がいささか単調な生活をすごされるであろうと。と申しますのも、当地ではほとんど何ごとも起こらぬからでございます」
「たしかに政庁にある関係書類を見たところ、漢源《ハンユアン》の人びとは勤勉で遵法《じゅんぽう》的、知事にとっては万事が喜ばしい状態にありますな。しかし、秀れた人物がいないと言われるのは、はなはだご謙遜がすぎておられる。ご自身の秀れた品性はおかれても、かの高名な帝室顧問官リャン・モンクワンは、漢源《ハンユアン》を隠棲の場所に選んだのではありませんでしたか?」
ハンはまた判事のために祝杯をあげて、
「顧問官のおられますことは私どもの名誉でございます! 私どもが深く懸念しておりますのは、この六か月、かのお方のご健康が一進一退、ためにかのお方のご教示に与《あずか》りますことが妨げられておることでございます」
彼はながながと一息に高杯をからにした。ディー判事はハンはまったくよく飲むと思った。
「二週間前」と判事は言った、「老顧問官に表敬の訪問を申し入れましたところ、ご病気であるとの知らせを受けました。重くなければよいと願っておりますが?」
ハンが探るように判事を見た。
「かのお方はやがて九十歳におなりでございましょう。ではございますが、リューマチの発作と、お目に若干さわりがありますほかは、つねづね、ことのほかおすこやかのご様子でございます。とは申せ、この半年ほどは、ご神気が……。さよう、リウ・フェイポにお聞きになられるのがよろしゅうございます。庭が隣り合っておりまして、私よりもたびたびお目にかかっております」
「私は少々驚きました」と判事は言った、「リウ・フェイポが商人だと知りましてね。彼にはまったく生まれついての官吏のような印象がある」
「ほとんどさようなのですよ」とハンは声をひそめて言った。「リウは首都の古い家の出でございまして、官吏になるべく教育されました。でございますが、文官の二次試験に通りそこね、それでいたく失望しまして、学問をすべて棄てて商人になりましてございます。そういたしましたら、みごとに成功いたしまして、今日ではこの州でも最も裕福なものの一人でございまして、事業は全地域にひろがっております。それがひんぱんに旅して回っておる理由でございますが、私がお話し申しあげましたとは、彼にはけっしておっしゃらないで下さいまし。と申しますのも、以前の失敗がいまだにうずいておるからでございますよ」
ディー判事はうなずいた。ハンが飲みつづけている間、判事はそばのテーブルで進んでいる会話に注意ぶかく耳を澄ませた。リウ・フェイポに向って酒杯をあげて、上機嫌なカン・チュンが呼びかけた。
「ここで若いお二人に乾杯! とも白髪《しらが》まで、お二人がしあわせに暮されるよう!」
みんなが拍手したが、リウ・フェイポは頭をさげるだけだった。ハン・ユンハンがあわてて判事に、リウの娘の月仙が、隠退した古典文学教授チャン博士の一人息子のもとへ前の日に嫁《とつ》いだのだと説明した。婚礼は町の向う側にあるチャン博士の家で祝われたが、いたってにぎやかなものだった。そう語って、ハンは大声で言った、「今夜はわが博識なる博士がおらぬのが淋しいですな! 来ると約束したのに、最後になって欠席させてくれと言ってきたのですわ。自分の家の酒が強すぎたのでしょう」
この意見はみんなを沸かせたが、リウ・フェイポはうんざりというふうに肩をすくめた。おそらくリウ自身が婚礼の祝宴のおかげで二日酔いなのだ、とディー判事は思った。彼はリウに祝いを述べて、言葉をそえた、「この機会に博士にお会いできなかったのは残念です。博士の談話は疑いもなく有益であったでしょうに」
「私ごときつまらぬ商人は」とリウ・フェイポが無愛想に言った、「古典文学が分かるふりなどいたしません。けれども、書物の学問が必ずしも高い人格を表わすわけではない、と言われるのを耳にしたことがございます」
人びとは臆して口をつぐんだ。すばやくハンが合図すると、給仕たちが竹の簾《れん》を巻きあげた。
一同は箸を置いて眺めを嘆賞した。月はもうすっかり湖水の上に昇っていて、ひろびろとつらなる水のかなたに漢源《ハンユアン》の無数の明りが遠くきらきらまたたいている。画舫はいま静かにとどまって、ゆっくりとさざ波に揺れている。船頭たちは夕食をとっていた。
ふいにディー判事の左で、水晶の簾がちりちりちりと音たててかきのけられた。六人の芸妓が入って来て、栄誉ある賓客に深々と礼をした。
ハン・ユンハンが二人を選んで、自分と判事の相伴をさせ、ほかの四人は横のテーブルへ行った。ハンがディー判事の隣に立っている娘を有名な舞姫の杏花《きょうか》だと紹介した。娘はつつましやかに目を伏せていたが、たいへん整って美しい、けれども少々冷たい顔だちをしているのを判事は見てとることができた。もう一人の銀蓮花という娘はもっと陽気な気だてに思われる。判事にひき合わされると、彼女はいちはやく頬笑みかけたのである。
杏花が判事に酌をしたときに、何歳なのかと彼は尋ねた。やわらかな洗練された声で、もうじき十九歳になると杏花は答えた。彼女はディー判事に郷里の州を思い出させる抑揚で話した。愉快な驚きを覚えて、彼はきいた、
「ひょっとすると山西《シャンシー》省の出身ではないのかな?」
彼女は顔をあげてきまじめにうなずいた。きらきら光る大きな目を見て、判事はほんとうにきわだった美人であることを覚った。と同時に、そういう魅力的な若い娘にはそぐわないような、どこか暗くて鬱屈《うっくつ》した輝きが目にあるとちらっと思った。
「私は太原《タイユアン》のディー家のものだ。郷里はどこかな?」
「手前は平陽《ピンヤン》の出でございます」と娘はものやわらかに答えた。
ディー判事は自分の杯で娘に酒をすすめた。彼女がなぜそんな不思議な眼差しをしているのかが分かった。太原《タイユアン》の南数里にある県、平陽《ピンヤン》の女たちは昔から呪術や妖術に習熟しているので良く知られている。彼女らは呪文や祈祷で病気をなおすことができ、中には黒呪術を行なうと見なされているものさえいるのである。判事は杏花が、美しい、あきらかに良家の出と分かる娘が、それも山西《シャンシー》省といった遠方の州から、どうして漢源《ハンユアン》みたいな小さな県に来て、こんな不運な職業に堕ちてしまっているのかいぶかしく思った。平陽《ピンヤン》の素晴しい風景や数多い歴史的な記念物について、彼は娘と語り合い始めた。
その間、ハン・ユンハンは銀蓮花と酒令《しゅれい》の遊びを競っていた。かわるがわる一つの詩から一句を引いて朗誦し、即座にそれにつづけられないほうが、罰として酒杯をひとつあけなければならないのである。ハンがちょいちょい負けているのはあきらかだった。声音《こわね》があやしげになっていた。彼はもう自分の椅子にそっくり返って、大きな顔におだやかな笑みを浮べて仲間を見まわしている。その重くまぶたの垂れた目が、ほとんど閉じそうになっているのに判事は気づいた。うとうとしそうになっているらしい。銀蓮花がテーブルの前に回って来て、ハンが懸命に目を覚ましていようとするのをおもしろそうに見まもった。ふいに彼女はくすくす笑った。
「この人のかわりに熱いお酒を飲んだほうがいいわ」と彼女はテーブル越しに杏花に言った。杏花はハンと判事の間に立っていた。銀蓮花は振り向いて、カン兄弟のテーブルへ軽やかに歩みよった。召使いがちょうどそこへ置いた大きな酒瓶から、彼女はハンの高杯に酒を満たした。
ディー判事は広口の酒杯を取りあげた。ハンはやすらかにいびきをかいている。判事はむっつりとして思いめぐらした、たとえ一同が酔っぱらっているのだとしても、この宴会はうんざりするだけでなく、何か張りつめたところがある、早目に引きあげなければならない。ちょうど酒をすすっているとき、かたわらで、ふいに杏花がやわらかな、けれどもたいへんはっきりした声で話しかけるのを彼は聞いた。
「私はのちほどお目にかからねばなりません、閣下。危険な陰謀がこの町で企てられているのです」
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第二章
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ディー判事は雲上仙女の踊りを見て
とつぜん無気味な発見によって驚く
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ディー判事は酒杯を置いて女をかえりみた。だが、その目を避けて、彼女はハンの肩に屈みこんだ。ハンはいびきをかくのを止めていたのだ。銀蓮花がふちまで酒を満たした広口の酒杯を両手で持って、またテーブルへ近づいてきた。やはり判事を見ずに、杏花《きょうか》がはや口に言った。
「閣下が囲碁をなさるとよろしいのですが、と申しますのは……」彼女は言葉をとめた、銀蓮花がもう彼らのテーブルの前に立っていたからである。杏花は身をのりだして、銀蓮花から酒杯を受け取った。彼女がそれをハンの口もとへ持っていくと、ハンはあわててぐいぐい一息に飲んで、笑いながら言った。
「は、は、おせっかい女! 私がもう自分の杯も持ちあげられないと思っているのか?」杏花の腰に腕を回すと、ぐっと引き寄せて、「もうこのへんで、閣下に評判のすばらしい踊りをお見せしてはどうかね、ええ?」
杏花は頬笑んでうなずき、ハンの抱擁から上手に脱け出すと、低くお辞儀をして、水晶の簾《れん》をくぐって姿を消した。
ハンは漢源《ハンユアン》の芸妓たちが演ずることのできる古い時代のさまざまな舞踊について、いささか混乱した講釈を始めた。ディー判事は心をそらにしてうなずいていた。杏花が告げたことについて考えていたのである。退屈はきれいさっぱりけし飛んでいた。そう、直観は正しかったのだ、この町ではたしかに何か邪悪なことがたくらまれている。踊りがすんだら、杏花とだけ話せる機会をすぐにも見つけるようにしなければならない。頭の切れる芸妓ならば、呼ばれた宴席で客たちの会話から多くの秘密を知ることができるものなのだ。
楽団が太鼓の音で明快に強弱をつけられた魅惑的な旋律を奏《かな》で出した。二人の芸妓が部屋の中央に進み出て剣の舞を演じ始めた。どちらも長い剣を持っていて、軍楽の伴奏に合わせて剣を高く打ち鳴らしながら、さまざまな撃剣の型を迅速に組んだり解いたりした。
太鼓の演奏による終局は熱狂的な拍手喝采でかき消されてしまった。ディー判事は演技についてハンに讃辞を述べた。しかしハンは見さげるような口調でこう言った、
「あれはわざを見せたにすぎません、閣下。芸術とはまるでかかわりがないのです。杏花が踊るのをごらんになるまでお待ちなさることですよ。ほら、まいりましたよ!」
杏花は絨毯の中央に進み出て立った。袖が引きずるように長く広い、薄い白絹の一重の長衣を裸身にまとって、腰には緑の飾帯を巻いている。肩のまわりには緑色の紗の長い肩かけをはおっていたが、その両端は床まで垂れていた。髪は高い髻《まげ》に結いあげられていて、白い睡蓮をさしてあるのが特異な風情をそえている。彼女が袖を振って楽団に合図すると、笛がこの世のものとも思われない不気味な旋律を吹き始めた。
杏花はゆるゆると両腕を頭上にあげた。足は動かなかったけれど、腰が音楽に合わせて揺らぎ出した。薄物の長衣が若々しい姿態をひき立てていた。こんなにも完璧に形づくられた女体はほとんど見たことがないと判事は思った。
「雲上仙女《うんじょうせんにょ》の踊りです」とハンがかすれた声で彼の耳にささやいた。
拍板《はくはん》が鳴り始めると、踊子は肩の高さに両腕をさげ、ほっそりした指で肩かけの先端をつまみ、両腕をそよがせながら、上半身を前後に波うたせて薄い紗を身のまわりに渦のようにうねらせた。琴と琵琶が打楽器のリズムのまま旋律をひきつぐと、両膝を揺らし始めた。小きざみにそよぐ動きが全身にひろがったが、彼女はその場所をまだ一寸も動かずにいた。
ディー判事はそれほど蠱惑的《こわくてき》な踊りを見たことがなかった。目を伏せて、無感動で、かすかに高慢な気配さえうかがわれる女の表情は、しなやかな姿態の、燃えあがる情熱の炎の具象化とも見える悶えを対照的にきわだたせていた。白絹の長衣がはずれて、完璧に整った乳房があらわになった。
判事はこの女から強烈な官能的な魅力が溢れ出るのを感覚した。彼は凝視している目を客たちに移した。老カン・ポーは踊子をまるっきり見ていなかった。思いはどこかほかにあって、自分の酒杯に見いっている。だがその弟の目は彼女のすべての動きにぴったり貼りついていた。その凝視をそらしもせずに、彼は脇にいるワン親方に何か感想を耳うちして、二人は秘密めかしく笑った。
「あの二人が踊りのことを話しているとは思えん」とハン・ユンハンがそっけなく言った。酩酊していても、ハンの観察力がだめになっていないのはあきらかだった。
組合親方のポンとスーは踊子にうっとり見惚れている。ディー判事はリウ・フェイポの奇妙な緊張した態度に強い印象を受けた。彼は身じろぎもせずに坐っていて、尊大な顔はすわり、薄い唇は漆黒の口ひげの下で引き締まっていたのである。けれども、その焼きつくような目に、判事は奇妙な表情を認めた。荒々しい憎悪が、しかしまた、何かしら深い絶望のようなものも、その中に感じ取れると彼は思った。
音楽がおだやかになった。ささやきにも似た、やわらかな旋律に変わったのである。白い長い袖と緑の紗の肩かけの先端をひらひらなびかせながら、つまさき立ちで広い円を描いて、きりもなく旋回をつづけている。リズムが急迫した。旋回は速度を加え、ますます急速になっていき、ついには軽快な足が床についているようには見えなくなった。緑の肩かけと翻える白い袖の渦巻く雲の中に、仙女さながらひらひら漂っているかのようだった。
突如、銅鑼《どら》の耳を聾《ろう》する響きが鳴って、ぴたっと音楽が止んだ。踊り手はつまさきいっぱい高く静止して立ち、両腕を頭上にかざして石の彫像のように動かなかった。ただ裸の胸が波うっているのだけが見えた。部屋はひっそり静まりかえっていた。
それから、女は腕をおろし、肩のまわりに肩かけを引きあげて、ディー判事のテーブルに向って一礼した。雷鳴のような拍手喝采が湧き起こると、彼女は足ばやに戸口に向い、水晶の簾《れん》をくぐって姿を消した。
「まことにすばらしい演技でした!」と判事はハンに感想を述べた。「あの娘なら皇帝陛下の御前でも十分踊れるでしょう」
「まさしく、いつぞやリウの友人がそう申しておりました。その方は首都から来られた高官で、彼女の踊りを柳街の宴席でごらんになったのです。その方はさっそく彼女の抱え主に、皇帝の後宮の女官長に紹介してやろうと申しいれました。ところが、杏花は漢源《ハンユアン》を離れることを断固として拒否いたしておりまして、私ども、この町のもの一同は彼女に感謝しておる次第でございます」
ディー判事は起《た》ちあがって、自分のテーブルの前に立った。酒杯をあげると、漢源《ハンユアン》の魅力的な芸妓のために乾杯しようと提案した。人びとは熱烈に賛同した。それから彼はカン・ポーのテーブルに歩み寄って、丁重に談笑を始めた。ハン・ユンハンも席を起ち、楽師のところへ行って楽長にお愛想を言っていた。
老カン・ポー氏はあきらかに飲みすぎていた。赤い斑点が痩せた顔に現われて、眉の上に汗をいっぱい浮べている。けれども、漢源《ハンユアン》の商業の状況について、ディー判事が質問することには何とか筋のとおった返答をするのだった。少しすると、老カンの弟が微笑しながら言った、
「間の良いことに、兄はただいま少々ご機嫌になっておるのでございます。この数日、どこから見ても安全な商取引のことで、兄は四六時中やきもきしっぱなしだったのです」
「安全だと?」兄のカンが怒って言った。「おまえは、あのワン・イーファンて男に貸付けするのが安全な取引きだと言うのか?」
「良い利益を産むためには、危険を冒す心がまえをせねばならぬと言いますな」とディー判事がなだめるように言った。
「ワン・イーファンはやくざもんです」カン・ポーは不平たらしく言った。
「ばかだけが街のうわさを信じるのさ!」とカン・チュンが鋭く言った。
「私は……私は断じて自分の弟に私の悪口は言わせないぞ!」老カン・ポーはかんかんに怒ってどもった。
「あんたの弟には、あんたにほんとのことを告げる義務があるんでさ」カン・チュンがやりかえした。
「おいおい!」とディー判事のそばでふとい声がした。「おまえさんらの口喧嘩はたくさんだ。閣下が私たちのことを何と思われることか!」
それはリウ・フェイポだった。彼は手に酒瓶を持っていて、すばやく二人の兄弟の杯に満たした。二人はおとなしく互いに乾杯し合った。ディー判事は、リァン顧問官が病気だという最近の風聞についてリウ・フェイポに尋ねた。
「ハンさんが話してくれたのだが」と彼は言いそえた、「あなたは顧問官の隣にお住まいで、よくお会いになるそうですな」
「近ごろはめったに」とリウは答えた。「半年前でございました、さよう。そのころ、閣下は、庭を散歩なさる折には私もごいっしょするようにとよくお求めでした、私どもの地所が小さな門でつながっておるからでございます。ですが、たいそうはっきりせぬご様子になられて、お話がますます混乱するようになられました。私がだれなのかお分かりにならないこともしばしばございます。もう何か月もお目にかかっておりません。悲しいご容態です、閣下。偉大な魂の没落で」
組合親方のポンとワンが仲間に加わった。ハン・ユンハンが酒瓶を持ってきて、自分でみんなの杯につぐのだと言いはった。親方たちと話を交わしてから、ディー判事は自分のテーブルにもどった。ハンはもうそこに坐っていて、銀蓮花と冗談を言い合っていた。腰をおろしながら、判事はきいた。
「杏花はどこにいるのかな?」
「ああ、すぐにここへまいりましょう」とハンはむとんちゃくに答えた。「ああいう娘たちは、いつだっておめかしに恐ろしく手間どるものでございましてな」
ディー判事はさっと部屋を見まわした。客たちはみんな自分の席にもどって、なかつぎの詰物をした魚料理にとりかかっている。四人の芸妓が新しい酒をついでいたが、杏花はどこにも見あたらなかった。ディー判事はそれとなく銀蓮花に言った。
「化粧室へ行って、私たちが待っていると杏花に言っておくれ」
「ははあ!」とハンが大声で言った。「漢源《ハンユアン》にとってたいへんな光栄ですぞ、わが娘どもの素朴な魅力が閣下の特別なご関心を引きつけるとは!」
ディー判事は逆らわずにみなといっしょに笑った。
銀蓮花が帰って来て言った。
「とてもへんですわ、しばらくまえ、杏花はとっくに化粧室を出たとお仮母《かあ》さんは言うんです。部屋をみんなのぞいて見ましたけど、見つかりませんでした」
判事は小声でハンにわびると、席を起《た》って右手の扉から部屋を出た。右舷を船尾のほうへ歩いて行った。
船尾では、にぎやかな酒盛りの真最中だった。ホン警部、マー・ロン、チャオ・タイは船室を背にして腰かけに坐って、とりどりに酒注《さけつ》ぎを膝の間に置いて、手には杯を持っていた。召使いたちが六人、彼らの向いに半円に坐り込んで、熱心にマー・ロンの話を聞いている。そのがっしりした男が拳で膝を打って話を結んだ、「そして、ちょうどその瞬間に寝台がぶっこわれたってわけだ!」
連中がいっせいに騒々しく笑い出した。ディー判事がホンの肩を叩いた。仰ぎ見ると、ホンは急いで二人の友だちをつついた。彼らは跳びあがって、右舷の甲板へ判事について行った。
そこでディー判事は、踊子がいなくなったが、事故に遭ったかもしれないと心配していることを話した。「だれかが娘の通るのを見たかね?」と彼は尋ねた。
ホン警部は首を振った。
「いいえ、閣下。私たち三人は船尾に向って坐っておりました、厨房と船倉へ通ずる階段口の前です。給仕が行ったり来たりするのを見ただけで、女は一人も通りませんでした」
二人の給仕がスープの鉢を運んで甲板に降りて来た。食堂へ行く途中だった。衣裳をかえに部屋を出て行ったあとは踊子を見なかった、と二人は言った。「それに手前どもにはどのみちあまり機会がございません」と年長の給仕が言いたした。「手前どもは右舷だけを使うのがきまりでございますので。ねえさんがたは左舷側に化粧室がございまして、主船室もそちらにございます。手前どもは呼ばれないかぎり、あちら側へは行かぬことになっております」
ディー判事はうなずいた。三人の助手をともなって船尾にもどった。召使いたちは舵手《だしゅ》と話していた。彼らは何かが起きているのを知ったのだった。
判事は船尾を横切って左舷側へ行った。主船室の扉は半開きになっていた。彼は内部を見た。側壁を背に彫刻をほどこした紫檀の広い長椅子があって、錦織のおおいがかけてあった。奥の壁ぎわには、銀細工の燭台に二本の蝋燭が燃えている高いテーブルが見える。左には、紫檀の優雅な化粧台と腰かけが二つあった。だが、だれもそこにはいなかった。
ディー判事は急いで先へ進んで、隣り合った船室を、窓をおおった紗のカーテン越しにのぞき込んだ。それはあきらかに芸妓たちの化粧室だった。黒い絹物を着た、でっぷりした年輩の婦人が肘かけ椅子にいねむりをしていて、女の召使いが色物の長衣をたたんでいた。
最後の窓は、休憩室のだったが、開いていた。だれもそこにはいなかった。
「上甲板は見られましたか?」とチャオ・タイがきいた。
判事は頭を振ると、急いで昇降口へ行って、急な梯子をのぼった。おそらく杏花は新鮮な空気を吸いにそこへあがって行ったのだろう。しかしひとめ見ただけですぐに、上甲板にまるで人気《ひとけ》がないのが分かった。また下へ降りると、昇降口に立ちどまったまま、思いに沈んで顎ひげをしごいた。銀蓮花がすでに右舷の船室は見て回っている。踊子は消えてしまったのだ。
「ほかの船室を全部見て来てくれ」彼は三人の補佐に命令した、「それに手洗所もだ!」
ディー判事は左舷側の甲板にもどって、舷門の隣にある欄干のそばに寄って立った。広い袖の中に腕をこまねいて、暗い湖を見わたした。空気はそよとも動いていなかった。暑くて、うっとうしかった。食堂の祝宴はまだたけなわだった。ぼんやりした人声や切れぎれの音楽が聞えて来た。
ディー判事は欄干越しに色提灯の光が映っているところを見おろした。ふいに彼はこわばった。水面のすぐ下で、蒼白い顔が動かない開いた目で彼を見あげていた。
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第三章
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異常な状況のもとに法廷が設けられ
下女は忌《いま》わしい幽霊のことを述べる
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ひとめ見るだけで十分だった。彼は踊子を見つけたのだった。
判事が舷門へ足を踏みおろそうとしたところへ、マー・ロンが角を回って現われた。ディー判事は黙ったまま発見したものを指さした。
マー・ロンは罵《ののし》り声をあげた。急いで舷門に降りると、水に膝までつかって立ち、死体を両腕で抱きあげて甲板に運んだ。判事は彼を主船室へ導いて行き、死骸は長椅子に横たえられた。
「思ったより重いですよ」と袖をしぼりながらマー・ロンが言った。「上着の中に重いものが入れられているんでしょう」
ディー判事には彼の言うことが聞えなかった。立ちつくして死人の顔を見おろしていた。動かない目がひたと彼を見あげている。女は白絹の舞踊の衣裳を着ていたが、そのうえに緑色の錦織の上着をつけていた。濡れてはりついた長衣は、ほとんどみだらなまでに美しい身体を見せている。ディー判事は身ぶるいした。ほんの少しまえには、蠱惑的な踊りを舞って彼女は旋回していたのだ。それなのに、これは何と思いがけない最期《さいご》なのだ。
彼はこうした陰鬱な思いから奮い起った。死体の上に身を屈めて、右のこめかみにある青黒い打撲傷を調べた。それから両目を閉じてやろうとしたが、瞼は動こうとせず、死んだ女は彼をじっと凝視したままだった。袖から自分のハンカチを取り出して、動かない顔にひろげてやった。
ホン警部とチャオ・タイが船室に入って来た。二人を振り返って、判事は言った、
「これは芸妓の杏花だ。彼女は殺された、ほとんど私の目の前でだ。マー・ロン、外で甲板を監視して、だれも通すな。私は妨げられたくない。このことについては何も言うな」
ディー判事は死体のぐんにゃりした右腕を持ちあげて袖の中をさぐった。少々手間どって丸い青銅の香炉を引き出した。灰はねずみ色の泥に変わっていた。香炉をホンに渡して、壁ぎわのテーブルへ行った。二本の燭台の間で、赤い錦のおおいに三つの小さなくぼみがあるのが見えた。ホンをさし招いて、香炉をテーブルに置かせた。三本の脚がぴったりとくぼみにはまった。ディー判事は化粧台の前の腰かけに坐り込んだ。
「簡単で効果的だ」と、ホンとチャオ・タイに苦々しく言った。「女はこの船室に誘い込まれ、殺害者は背後から殴って気絶させ、重い青銅の香炉を袖に入れ、外へ運び出して水中に降ろしたのだ。そうすれば水音が起《た》たず、まっすぐ湖の底へ沈むはずだった。ところが、急ぐあまり、やつは女の上着の袖が舷門の釘に引っかかったのに気がつかなかった。それなのに女は溺れた。重みのかかった袖が水面下何寸かまで、彼女の顔を沈めていたからだ」。彼は疲れた身ぶりで顔を手でこすった。そうして命令した、「もういっぽうの袖に何があるか見てくれ、ホン」
警部は袖を裏返した。杏花の小型の赤い名刺の包みと、畳んだ一枚の紙だけが入っていた。警部は判事に手渡した。
ディー判事は注意して紙をひろげた。
「碁の問題だ!」ホンとチャオ・タイが同時に叫んだ。
判事はうなずいて、芸妓の最後に言った言葉を思い出した。「君のハンカチをくれ、警部」濡れた紙片を包むと、袖におさめ、起ちあがって外へ出た。
「君はここに留まって、船室を警備しろ」判事はチャオ・タイに命令した。「ホンとマー・ロンは私といっしょに食堂へもどってくれ。そこで予備捜査をやる」
三人で歩いて行く間に、マー・ロンが意見をのべた、
「どっちみち遠くまで調べる必要はないでしょう、閣下。殺害者はこの船に乗っているにちがいありません」
ディー判事は何も言わなかった。彼は水晶の簾をくぐって食堂に入った、二人の助手を従えて。
食事は終りかかっていて、それがきまりの最後の飯を客たちは食べていた。生きいきとした談話がはずんでいた。ハンが判事を見て大声で言った。
「ちょうどいい! 私どもは屋上にあがって月を楽しもうと話し合っているところでした」
ディー判事は返事をしなかった。拳骨で鋭く音たててテーブルを叩くと、大きな声で呼びかけた、
「お静かに!」
みんなは仰天して彼を見た。
「まず第一に」とディー判事は凛《りん》とした声で告げた、「私は、あなたがたの客として、この豪華な饗応に対して心から礼を申しあげたい。不幸にも、この楽しい集いは解散されなければなりません。ただいまから私が客としてではなく知事としてあなたがたにお話しても、そうすることが、国家と、あなたがたも含めた本県の人民に対する私の義務にほかならぬことはお分かりいただけるでしょう」ハンのほうに向いて、彼はつけくわえた、「あなたにはこのテーブルを離れていただかねばなりません!」
ハンは茫然とした表情で腰をあげた。銀蓮花が彼の椅子をリウ・フェイポのテーブルに持って行った。目をこすりながら、ハンは腰をおろした。
ディー判事はテーブルの中央に移った。マー・ロンとホン警部が入って来て、彼のかたわらに立つと、判事はゆっくりした口調で言った、
「私、知事はここに、杏花なる芸妓の謀殺を捜査すべく召集せられた臨時法廷を開くものである」
判事はすばやく傍聴人をさぐり見た。ほとんどは言葉の意味が呑み込めないらしく、驚きのあまりぼうっと彼を見ていた。ディー判事は船の主《あるじ》を呼んで来るよう、また筆記用具一揃を持って来るようにホン警部に命じた。
ハン・ユンハンがやっと我にかえった。リウ・フェイポとこそこそ相談して、相手がうなずくと、起立して言った。
「閣下、これははなはだご勝手ななされようでございます。私ども漢源《ハンユアン》のおもだった市民の願いますことは――」
「証人ハン・ユンハンは」とディー判事は冷たくさえぎった、「席にもどって、発言するよう命ぜられるまで沈黙すべきである!」
ハンは顔をまっ赤にして、また椅子にどっかと腰をおろした。
ホン警部があばた面の男をテーブルの前に連れて来た。判事は船主に、ひざまずき、船の見取図を画くように命令した。船主が手を震わせて仕事をしている間、ディー判事は一座をぐるりと冷たく見つめた。浮かれた酒宴が突然、犯罪捜査に変わったので、一同はすっかり酔がさめて、みじめな状態に落ち込んでいる。略図を書きあげると、船主はうやうやしくテーブルの上に置いた。ディー判事は図面をホンに押しやって、テーブルの位置を加えて客の名前を書き込むよう命じた。警部は給仕を招き寄せ、彼が指さすのに従って、給仕はそれぞれの客の名を小声で告げた。それがすむと、判事は断固たる声音で一同に呼びかけた。
「芸妓杏花が踊り終って、この部屋を退出したのち、かなりの混雑が起きた。諸君全員が動き回ったのである。私はいま諸君一人ひとりに、あの特別な時間に何をやっていたかを詳しく述べるように求める」
組合親方ワンが起ちあがった。テーブルによたよた歩み寄ってひざまずいた。
「手前は」と彼は形式ばって言った、「一言申しのべさせていただきたく、おそれながら閣下にお願い申しあげるものでございます」
判事がうなずいたので、肥満した男は始めた。
「私どもの高名な踊子が卑劣にも殺害されたと、仰天すべきことを聞きまして、私ども全員、当然ながらいたく動顛いたしましてございます。ではございますが、この出来事がいかほど恐ろしかろうと、私どもの正気が失せてしまったわけではございません。
私は、多年にわたってこの格別な画舫の宴席に加わってまいりましたので、わがたなごころの如く良く存じておるとあえて申しあげます。おそれながら閣下にお知らせいたします、下の船倉には十八人の船頭がおりますが、実際には十二人が漕いで、六人がときおり交替するのでございます。仲間の市民を中傷するつもりはございませんが、いずれ遅かれ早かれ閣下もお分かりになりましょう。こういった船の船頭どもは概して飲酒と賭博に溺れる悪い徒輩であります。さようでございますから、殺害者はかの者どものうちに尋ねらるべきなのでございます。この徒輩のうちでも、姿かたちの良いならず者が芸妓と良い間柄とあいなりまして、女が関係を断ちたがりますれば、乱暴に及ぶということも稀ではございません」
ここでワン親方は言葉を切った。外の黒い水の塊に不安そうにちらっと目をやると、話しつづけた。
「そのうえ、他にも考慮せねばならぬ面がございます、閣下。いつとも知れぬ昔から、私どもの湖は不思議に囲まれておりまする。湖の水は地中奥深くから湧き出まして、その折には、まがまがしいものどもが、測りがたい深みから現われて生きている人びとを害すると一般に信じられております。本年は少なくとも四人が溺れましたが、どの遺体も収容されませんでございました。後になりまして、溺死した者どもが生きている人びとの中を、うろつき回っているのを見たというものもございました。
この殺害事件の、こうした二つの面に閣下のご注意をお向けいただき、それによりまして、この恐ろしい犯罪を独特の背景の前に置かれて、ここにおります私の友人どもが、通常の犯人の如く尋問を受けるといった、その要もない、厳しい試練をお許しいただくのが私の義務であると愚考いたす次第にございます」
賛同のつぶやきが傍聴人からあがった。
ディー判事はテーブルを叩いた。しっかりとワンを見すえて、彼は言った。
「適切な方途によって提出される助言は、何であれ、ありがたく思う。殺害者が船倉から来たかも知れぬことは、すでに私も思いついた。追って乗組員に問いただすであろう。また、私は神を敬《うやま》わない人間ではないから、邪悪な力がこの事件にかかわっている可能性を無視するものではない。
証人ワンが用いた|通常の犯人《ヽヽヽヽヽ》なる言いまわしに関しては、私は指摘したい。この法廷にあってはすべての人が同等なのである。殺害者が発見されるまでは、ここに会した諸君全員が、船倉の船頭や厨房の料理人にひとしく嫌疑のもとにあるのだ。
ほかにだれか発言したいものはあるかな?」
組合親方ポンが起ちあがり、テーブルの前に行ってひざまずいた。
「恐れいりますが」とポンは不安そうに尋ねた、「不幸な娘が死に遭遇いたしました様子をお教えいただけませんでございましょうか?」
「その委細は」とディー判事はすぐさま言った、「いまの段階では漏らすわけにはまいらない。他にだれか?」だれも何も言わないので、彼はつづけた、「諸君全員が自分の意見を申し出る機会は存分あるのであるから、以後は沈黙を守って、知事たる私が思うとおりに、この件を処理するのにまかされたい。私が必要に応じて進めるであろう。証人ポンは自分の席にもどり、証人ワンは前に来て、問題の時間中の挙動を述べよ」
「閣下がかたじけなくも漢源《ハンユアン》の踊子どもに乾杯を提案されましたのち」とワンは言った、「私は左の戸口からこの部屋を出て休憩室にまいりました。そこにだれもおりませんでしたので、廊下を通って手洗所へ行きました。そこからこの部屋へもどりますと、カン兄弟が口論しておるのが聞えましたので、リウ・フェイポ氏が二人をなだめました後に、二人のところへ行ったのでございます」
「あなたは廊下か手洗所で、だれかに出会わなかったか?」と判事が質問した。
ワンはかぶりを振った。ホン警部がワンの証言を書きつけるのを待ってから、ディー判事はハン・ユンハンに合図した。
「私は楽長のところへ行って、ねぎらいの言葉をかけました」ハンはぶっきらぼうに始めた、「そのとき、ふと少し目まいを感じましたので、前甲板に出まして、正面入口の右側にもたれかかって、しばらく立っておりました。水上の眺めを楽しんでおりますと、少々気分が良くなりましたので、そこに置いてあります陶器の腰かけに坐りました。そこへ銀蓮花が私を呼びに来て、私を見つけました。その余のことは、閣下がご存じでございます」
判事は楽長を呼んだ。彼は楽師たちといっしょに部屋の離れた隅に立っていたのである。
判事は尋ねた。
「ハン氏がずっと前甲板を離れなかったと、君は確証できるかな?」
その男は楽師たちを見た。彼らが頭を振ると、男は面目なさそうに返答した。
「いいえ、閣下。私どもは楽器の調律に忙しうござりまして、銀蓮花さんがハン氏を探しに来るまでは外を見ませんでござりました。それから私は銀蓮花と外へ出まして、私どもはハン氏が樽型腰かけに、ただいま氏が申されましたとおり、坐っておられるのを見ましてござります」
「さがってよろしい」とディー判事はハンに言った。彼はリウ・フェイポをテーブルの前に来させた。リウはいまは前ほど冷静ではないように見えた。口が神経質にぴくぴくしているのに判事は気づいたのである。しかし口を開いたときには、その顔は落着いていた。
「芸妓の踊りののち、隣席のポン親方が具合が悪いらしいのに私は気づきました。ワンがこの部屋を去りましたすぐあとに、私は左の戸口からポンを右舷の甲板へ連れて出ました。彼が欄干にもたれております間に、廊下を通って手洗所にまいりまして、またポンといっしょになりました、だれにも行き会わずにです。ポンが気分が良くなったと申しましたので、私たちはともにここへ帰ってまいりました。カン兄弟が口論しているのが見えましたものですから、私は酒を一杯やって仲なおりするよう提案いたしました。これだけでございます」
ディー判事はうなずいて、ポン親方に確かめさせた。ポンはリウ・フェイポの供述を全面的に確証した。そこで判事はスー親方を前に呼んだ。
スーは濃い眉毛の下から判事をむっつりと見た。広い肩をゆすってから、抑揚のない声で始めた。
「手前は、最初にワンが、そのあとリウ氏がこの部屋を出て行くのを見たことを確証いたします。私どものテーブルに一人残りまして、私はしばらく剣舞を踊った二人の芸妓と話しておりましたが、その一人が、私の左袖が魚の煮汁でべったり染みができているのを教えてくれました。私は席を起って、廊下沿いの二番目の船室へまいりました。その船室は予約してありまして、下僕がきれいな衣服と洗面具の包みを置いておいたのでございます。私は急いで着替えをいたしました。廊下に出て来たところで、私は杏花が休憩室を抜けて歩いて行くのを見ました。私は昇降口で追いついて、讃辞をのべました。ところが、杏花はいささか心が乱れている様子で、のちほどすぐに食堂で私に会いたいと早口に申しました。それからあれは左の、左舷側の角を曲って行きました。私は右舷の戸口を通ってこの部屋に入りました。ワン、リウ、ポンがまだもどっていないのが分かりましたので、二人の芸妓と話をつづけたのでございます」
「あなたが会ったとき、杏花はどんな衣服を着ていたか?」とディー判事がきいた。
「まだ踊りの白い衣裳をつけておりました、閣下。ですが、そのうえに緑色の錦の短い上着を着ておりました」
ディー判事はスーを自分の席にかえらせて、マー・ロンに命じて化粧室から女将《おかみ》を呼んで来させた。
そのでっぷりした婦人は、夫が柳街に娼家を所有していて、杏花と他の五人の芸妓を抱えていると言明した。判事が杏花を最後に見たのはいつかと尋ねると、女は言った。
「踊りから帰ってまいりましたとき、閣下、あの子はきれいに見えませんでござりました。あたしは言ったんでござんす、早く着替えたほうがいいよ、おまえ、びっしょり濡れてると風邪をお引きだよって! そいであたしは女中に言いつけまして、すてきな青い長衣を出させたんでござります。ところが杏花ったら、だしぬけに女中を押しのけると、緑の上着をはおって、出てっちまったのでござんす! それがあの子を見た最後でござりました、閣下、誓言《せいごん》いたします! なんだって、かわいそうなひよ子は殺されちまったんでござんしょう? あの女中はこんなふうな妙な話を言っております、その、こう申すのでござります――」
「ありがとう!」とディー判事は彼女をさえぎって、マー・ロンに下女を前に連れてくるよう言いつけた。
娘が激しくすすり泣きながらやって来た。マー・ロンが背中を叩いて元気づけても、あまり効果がなかった。彼女は声をたてて泣きながら言った。
「湖から来た、あの悪い怪物があの人を連れてったんです、閣下! お願いです、閣下、あたしたちをおかへ帰して下さいまし、あれがこの船を引き込まないうちに! あの恐ろしいお化け、この目であたしは見たんです」
「どこでそのお化けを見たのだ?」と、びっくりしてディー判事はきいた。
「それがあの人に窓の外から合図したんです、閣下! ちょうど、仮母《かあ》さんが青い着物をひろげなさいって、あたしに言いつけたときにです。そして杏花ねえさんもそれを見ました。それがねえさんを手招きして呼んだんです、閣下! 幽霊が呼んでいるのに、ねえさんがどうやって従わないでいられたでしょう?」
声を抑えて傍聴人がささやきかわした。ディー判事はテーブルを打って、
「それはどんな様子をしていたのかね?」
「とても大きな黒い怪物でした、閣下。紗の窓掛け越しに、はっきり見えたのです。片方の手に、短剣をおどかすようにひらひらさせて、もう片方の手には……来いって呼んだんです」
「それがどんな着物や帽子をつけているか、分かったかな?」
「怪物だって言ったじゃありませんか」と娘はむっとして答えた。「はっきりした形はしてませんでした。ただ、恐ろしい、ぞっとする黒い影だったんです」
ディー判事はマー・ロンに合図した。マー・ロンは女中を連れ去った。
そのあと判事は銀蓮花とほかの四人の芸妓の話を聴取した。判事がみずから踊子を探しにやった銀蓮花を除くと、だれも食堂を出て行ったものはなかった。仲間やスーとおしゃべりをしていて、ワン、リウ、ポンが出て行ったのを見ていなかったし、スーが正確にはいつもどって来たのかについてもまるではっきりしないのだった。
ディー判事は起《た》ちあがって、上甲板で給仕や船頭たちから聴取すると告げた。
ホン警部を従えて急な階段を登って行く間に、マー・ロンが船主を連れて乗組員全員を呼びに行った。
判事は欄干のそばの樽型の腰かけに坐った。額から帽子を押しあげて、彼は言った、「中と同じで、ここも蒸暑いな」
ホンが急いで自分の扇をさし出して、落胆した口ぶりで言った。
「あの聴取は何も進展させませんでしたな、閣下」
「うーん、何とも分からん」とディー判事はばたばたあおいだ。「それでも状況ははっきりしたと思うよ、ある程度までだが。そう、ワンが船頭たちが悪い連中だと言ったのは、うそをついたわけではない。連中がそんなに人好きがするとは思えないからね」
ちょうど一群の船頭が甲板に現われた。彼らは仲間うちで怒ってぶつぶつ文句を言い合っていたが、マー・ロンと船主に怒鳴りつけられて、すぐに慇懃《いんぎん》な態度になった。給仕と料理人たちは彼らと向いあいに立たされた。ディー判事は、舵手と客たちの下僕全員は聴取するまでもないと考えた、というのも、ホンが保証したのだが、彼らはマー・ロンのぴりっと気のきいた話を一生懸命聞いていたから、だれ一人として自分の場所を起《た》とうとは思わなかったのである。
判事は給仕たちから始めたが、彼らはあまり話すことがなかった。踊りが始まると、彼らは軽食を食いに厨房へ降りて行ったのである。一人だけ、何か客が求めていないかどうかを見るために、食堂をのぞきにあがって来た。彼はポン親方が欄干によりかかって、ひどく吐いているのを見た。だが、そのときは、リウはポンといっしょにいなかったという。
料理人と船頭たちを徹底的に尋問した結果、彼らが一人として船倉を離れなかったことがあきらかになった。舵手が階段口から休憩してよいと叫ぶと、船頭たちは賭博を始めて、だれも勝負を離れようなどと思わなかったのだ。
ディー判事が起ちあがると、空模様を心配そうな表情で調べていた船主が言った。
「嵐に遭う恐れがございます、閣下! 船をはやく帰したほうがよろしゅうございます。荒天に船をあやつるのは容易ではございません」
判事はうなずいて、階段を降り、まっすぐに主船室へ行った。そこには芸妓の死体を守って、チャオ・タイが立っていた。
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第四章
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判事は死んだ女のために夜を徹して
詩と情熱的な手紙を調査する
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ディー判事が化粧台の前の腰かけに坐ったとたんに、雷鳴が大気を引き裂いた。滝のような雨が屋根にばしゃばしゃと音をたて、船が揺れ始めた。
チャオ・タイは、雨よけを結びつけに外へ跳び出して行った。ゆっくりと頬ひげを撫でながら、判事は黙って前方を見つめていた。警部とマー・ロンは、長椅子の上の動かない姿を見ながら立っていた。
チャオ・タイが帰って来て、扉に錠を掛けると、ディー判事は目をあげて三人の補佐を見やった。
「そう」と、わびしげに微笑して彼は言った、「たった数時間前、ここでは何も起こらないと私はぼやいたばかりだった」彼は頭を振って、きびしく話をつづけた、「いま私たちは殺人事件に直面している、あらゆる角度から疑い、怪しむにたる、超自然の要素さえ含んでいる事件だ」マー・ロンがチャオ・タイを不安そうに見やったのに気づいて、判事は急いで言葉をついだ、「尋問の間に、幽霊のようなものがこの犯罪に関係しているという考えを却《しりぞ》けなかったが、それは犯罪者の猜疑をやわらげるためにすぎなかったのだ。私たちが死体を、どのように、どこで発見したかをそいつが知らないことを忘れるな。死体が湖の底に沈まなかった事実に、彼は大いに頭を悩ませているにちがいない。というわけは、君たちに保証できるが、殺害者は血と肉を持った人間なのだ。それに彼がなぜ踊子を殺さなければならなかったのかも、私には分かっている」
それから判事は、杏花《きょうか》の驚くべき知らせについて話してやった。「当然ながら」と彼は結論した、「ハン・ユンハンが最もそれらしい容疑者だ。眠っているふりをして、彼女が私に言ったことを漏れ聞きできたのは、たった一人、彼なのだからね。そうだとしたら、彼は熟練した役者であるにちがいない」
「ハンには機会もありましたね」とホン警部が意見を述べた。「彼が前甲板をぶらついていたという話はだれも確証できませんでした。おそらくハンは左舷を船尾のほうへ歩いて行って、窓の外から踊子について来るように合図したのでしょう」
「しかし、女中が話していた、あの短剣はどんなことになるのでしょう?」とマー・ロンが尋ねた。
ディー判事は肩をすくめた。
「そこのところは、想像が重要な役を果たしたのだよ。踊子が殺されたと聞いたあとになって初めて、あの女中がお化けの話を語り出したのを忘れるな。現実に彼女が見たのは、われわれみんなが着ているような、袖が広くて長い長衣を着た男の影だったということさ。彼は手招きした、そしてもう片方の手には扇子を持っていた。それが女中の話していた短剣だったにちがいないのさ」
船はもう荒っぽく揺れていた。大きな波が横腹にぶちあたって、音をたてて砕けた。
「残念ながら」と判事はまた話し出した、「容疑者はとてもハンだけにかぎられないのだ。彼女の言葉を漏れ聞くことができたのがそいつだけだというのはほんとうだ。しかし客のうちのだれかは、彼女が私に何か耳うちしたのが見えたから、私がいま話したように、私を見てさえいなかった彼女の秘密めかした素振りによって、彼女が私に重大な情報を渡したのだと結論したのだ。それだから彼は決心して、いちかばちかやったのさ」
「それだと」とチャオ・タイが言った、「ハンについで、ほかに四人の容疑者がいることになりますね、つまり組合親方のワン、ポン、スー、それとリウ・フェイポです。カン兄弟だけが入りません、閣下のお話だと、二人は部屋を出なかったからです。ほかの四人は、短い間か長い間か、みんな部屋を離れた」
「そのとおりだ。ポンはたぶん潔白だろう、理由は単純だ、踊子を殴り倒して、舷門まで運んで行く力が彼には欠けている。私が乗組員たちを尋問したのは、そのためにほかならなかった。つまり、ポンは連中のなかに共犯者を持っているのかもしれない、と私は考えたのさ。しかし、連中はだれも船倉を離れなかった」
「ハンとリウ、それと組合親方のワンとスーは、彼女を殺せる力が十分あるようですな」とチャオ・タイが意見を述べた。「ことにスーです、あれは屈強な男だ」
「ハンのつぎには、スーが一番の候補だと思われる。彼が殺害者だとすれば、あれは危険で冷血な犯罪者にちがいない。杏花がまだ踊っている最中に、彼はこと細かに殺害計画を立てたに相違ないからだ。彼は袖をわざと汚したにちがいない。食堂を離れたことを、後になってうまくいいわけし、それと同時に、死体を水に落とすさいに着物が濡れたら、それを着替えるうまい口実にするためにだ。そうしておいて、スーはまっすぐ化粧室の窓へ行き、踊子を手招きし、殴って気絶させて、水中に入れたのに相違ない。自分の船室へ行って着替えたのは、そのあとにすぎない。あの船室へ行って、スーの脱いだ長衣が濡れているかどうか見てくるがいい、チャオ・タイ!」
「私が行きます、閣下」マー・ロンが急いで言った。彼はチャオ・タイが蒼白になっているのに気がついていた。親友があんまり船に強くないことを彼は知っていたのである。
ディー判事はうなずいた。彼らは黙ったまま、マー・ロンがもどって来るのを待った。
「どこもかしこも水だらけです!」と、マー・ロンが帰って来て、ぶつくさ言った。「スーの長衣のほかは、いたるところです。長衣はからからに乾いてました」
「けっこうだ」とディー判事が言った。「それがスーの潔白を証明するわけではないが、心に留めておくべき事実ではある。いまのところ容疑者は、ハン、スー、リウ、ワン、それとポンだ――この順序でね」
「なぜ閣下は、ワンよりもリウを前になさるんです?」とホン警部が尋ねた。
「踊子と殺害者の間には」と判事は答えた、「色恋沙汰があったと思うからさ。そうでなければ、そいつが呼んだとき、きっとすぐにそいつのところへ行きはしなかったろうし、この船室へそいつとだけで来はしなかっただろう。芸妓の立場というのは、代金を払いさえすればだれにでも身をまかせる通常の娼婦とはまったく異なっているものだ。客は芸妓の特別な好意をかちとらなければならず、もしそれがうまくいかなければ、どうしようもないのだ。芸妓は、杏花のようにとりわけ有名な芸妓は、客と寝ることよりも歌と踊りで、もっと多くの金を稼ぐものだから、芸妓が客に特別に好意を持つように抱主《かかえぬし》が強いることはない。だから、ハンやリウは、どちらも世故にたけて年より若く見えるから、ああいう美しくて芸の達者な踊子の愛情をかちとれたのだと十分想像されるように私は思う。それにまた、スーだ。女たちが魅力を感じる、一種の荒っぽい力強さを彼は思い浮かばせるね。だが、でぶのワンだの、やせっぽちのポンはまずだめだ。そう、ポンは名簿から完全に削ったほうがいいと思うよ」
マー・ロンは判事の終りの言葉を聞いていなかった。彼は恐怖で言葉もなく死んだ女を見ていたが、ふいに大声で言った。
「女が頭を振ってる!」
全員が長椅子をかえりみた。頭があちこち転がった。ハンカチはずり落ちていて、蝋燭のちらちらする光が濡れた髪を照らしていた。
ディー判事は急いで起《た》ちあがって、長椅子に近寄った。深く衝撃を受けて、彼は白い顔を見た。目は閉じていた。枕の真ん中に頭をのせて、彼はすばやくハンカチでおおいなおしてやった。腰をおろすと、平静な声で彼は言った。
「われわれが第一にやるべきことは、いまいった三人のうちで、だれがあの芸妓と親密な関係にあったかを見つけ出すことだ。おそらくいちばん良いやりかたは、彼女の家の他の娘たちに尋ねることだろう。ああいう女たちはふつうお互いに隠しごとをやらないものだ」
「でも、そういうことについて、外のものに向って話させるのは」とマー・ロンが言った、「まったく別問題ですよ」
雨はやんで、船はもうずっとゆっくり進んでいた。チャオ・タイの顔色は良くなっていた。彼は言った。
「私は思います、閣下、さしあたりもっとずっと緊急にやるべきことがありますよ、つまり、柳街の家の踊子の部屋を調べることです。殺害者は、この船に乗ってから、拙速に犯行に走らなければなりませんでした。だから、もし杏花がそいつとの関係の証拠になる手紙か何かを部屋にとっといてあれば、そいつはそういう手がかりをぶちこわすために、船を降りたら即刻ふっとんで行くでしょう」
「まったく君の言うとおりだよ、チャオ・タイ」とディー判事は賛成した。「われわれが陸へあがったら、すぐさま、マー・ロンはまっさきに柳街へ駆けつけて、踊子の部屋に入ろうとするものはだれでもいいから逮捕せよ。私は輿《こし》でそこへ行き、彼女の部屋を皆で調べよう」
外で大きな叫び声がして、上陸場所に接近しているのが分かった。ディー判事は起《た》ちあがって、チャオ・タイに言った。
「君はここで巡査たちを待て。彼らに言ってこの船室に封印させ、そのうち二人に明日の朝まで、この部屋の前で立番させるのだ。私が死んだ女の家の抱主に言って、死体を納棺するために、明日、葬儀屋をよこさせる」
甲板に歩み出ると、月がまた姿を現わしていた。月光は凄惨な情景を照らしていた。嵐が色提灯を全部吹き飛ばして、食堂の竹の簾をめちゃめちゃに引き裂いてしまっていたのだ。陽気な船がいまはみじめたらしい姿をさらしていた。
人びとは上陸場所にかたまり、ひどく沈んだ様子で判事を待ちうけていた。嵐の間、客たちは休憩室に逃げ込んで、そこのよどんだ空気が、船が揺れるのといっしょに、彼らをいっそうみじめな気分にさせたのだった。ディー判事が家へ帰ってよろしいと告げると、一同はさっそく自分たちの轎子《かご》に駆け寄った。
判事は輿《こし》に乗った。客たちが呼んでも聞えないくらい遠ざかってから、柳街へ連れて行くように輿丁《こしかつぎ》たちに告げた。
判事とホン警部が杏花の家の第一|院子《なかにわ》に入って行くと、向うの食堂から高い笑い声が聞えて来た。遅い時刻なのに、そこでは宴会がまだ行なわれているのだった。
その家の番頭が予期しない訪問者を出迎えに飛び出して来た。判事だと分かると、彼はひざまずいて、床に三回頭を打ちつけた。それから、へつらう声を出して、知事閣下にはどんなお楽しみに見えられたのかと尋ねた。
「私は芸妓杏花がいる部屋を調べたい」そっけなく判事は言った、「案内せよ!」
番頭はあわてふためいて一同をよく磨いた木の広い階段へ導いた。二階にはぼんやり明りに照らされた廊下があった。番頭は赤い漆塗の扉の一つの前に立ちどまると、蝋燭をつけるためにまっさきに中へ入った。彼は恐怖で叫び声をあげた。鉄の手がむずと彼の腕をつかんだのだ。
「それは番頭だ、はなしてやれ!」ディー判事は早口に言った。「どうやって君はここへ来たのだ?」
マー・ロンが笑いながら言った。
「私が入るのをだれにも見られないほうがいいと思いまして、庭の牆壁《しょうへき》を跳び越えて、露台《バルコニー》に攀《よ》じ登りました。隅っこで女中が眠っているのを見つけましたから、踊子の部屋を教えさせたんです。ここの扉のかげで待ってましたが、だれも来ませんでした」
「みごとなはたらきだ」と判事は言った。「君はもう番頭といっしょに下へ行っていいぞ。入口から目を離さないでいてくれ」
ディー判事は彫物のある黒い木の化粧台の前に腰をおろして、引出しを調べ始めた。警部は、大きな長椅子のそばに四つ積んである、赤い漆を塗った皮ばりの衣裳箱に歩みより、「夏」と印がつけてある、いちばん上の箱をあけてなかみを調べていった。
化粧台の上の引出しにはふつうの化粧品のほかは何もなかったが、下のは紙片と手紙でいっぱいだった。判事は手ばやく目を通した。手紙の何通かは山西《シャンシー》にいる杏花の母親からのもので、娘が送った金の受取りと、幼い弟が学校でよく勉強しているという便りであった。父親は死んだらしい。母親は洗練された文学的な様式で書いていて、良家に生まれた一人の娘を、こんないかがわしい仕事に無理に入らせた残酷な運命が何だったのか、判事はまたいぶかしく思った。ほかはすべて贔屓《ひいき》が贈った詩と手紙で、つぎつぎに見ていくうちに、ディー判事は、ハン・ユンハンも含めて、宴会に出席していたすべての客の署名を見つけ出した。それらの文書はすべて、ふつうのきまりきった様式で書かれていて、宴会に出るよう招いたり、彼女の踊りを誉めたりで、それ以上に親密な様子を表わすものはなかった。だから、あの紳士たちと芸妓との関係を正確に判断するのはたいへん困難だった。
判事は文書をみんな集めて束ねると、もっと良く調べるために袖の中に納めた。
「ここにまだありますよ、閣下!」ふいにホン警部が大声をあげて、薄葉紙《うすようし》にていねいに包んだ手紙の束を判事に見せた。ホンはそれを衣裳箱の底で見つけたのである。ひとめ見てディー判事は、それが情熱的な言葉で綴られた、ほんものの恋文であることが分かった。すべて同一の雅号が署名してあった、「竹林書生」と。
「この男は恋人だったにちがいない」と判事は熱っぽく言った。「だれが書いたのか、身もとを知るのは、そんなにむずかしくないはずだ。文章と筆跡は秀れている。この町の小さな学者仲間に入っているに相違ない」
さらに調べたが、ほかに手がかりは出て来なかった。判事は露台《バルコニー》に歩み出て、しばらくたたずんだ、下の風景庭園を眺めやりながら。花々の中に小さな蓮池がしつらえてあって、月光がその水に映っている。さぞかしあの踊子は、いくたびとなくここに立ちつくして、郷愁をかきたてる同じこの情景を眺めたことだろう! 急に彼は庭に背を向けた。美しい女が突如として死んだことに心を乱さないでいられるほど、彼は知事としてながく仕事をやってきたのではなかったのである。
判事は蝋燭を吹き消した。そうしてホン警部を従えて階下へもどって行った。
マー・ロンは番頭と話しながら入口に立っていた。判事を見ると、番頭は深々と礼をした。
ディー判事は袖の中で両腕を組んだ。
「これは殺人事件の捜査であるから」と彼はきびしく番頭に向って言った、「巡査たちに家中を引っくり返して、客を一人残らず尋問させることもできたのだということを心得よ。それを控えたのは、そういう手段がさしあたり必要だとは思われず、また、私は十分な理由もなしに人びとに強要することはしないからだ。しかし、死んだ踊子について君が知っているすべてのことも含めて、詳細な報告書をただちに作成してくれ。彼女の本名、年齢、いつ、どんな事情のもとに君の家に入ったのか、いつもつき合っていた客はだれか、どんな遊戯ができたかなどだ。明朝早く、私のもとへ報告書が届くようとりはからいたまえ、三通そろえてだ」
番頭はひざまずいて、ぺらぺらと長たらしい感謝を並べ始めた。だが、ディー判事はさえぎって、いらだたしげに、
「明日、葬儀屋を画舫にやって、死体を運んで来させよ。そして平陽《ピンヤン》にいる家族に、彼女が亡くなったことを知らせるようにとりはからって欲しい」
判事が入口に向うと、マー・ロンが言った、
「あとから閣下を追いかけさせて下さい」
ディー判事はマー・ロンの意味ありげな表情をとらえた。うなずいて、判事はホン警部といっしょに輿に乗った。巡査たちが松明《たいまつ》をともした。ゆっくりと行列は人気《ひとけ》の絶えた漢源《ハンユアン》の街を進んで行った。
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第五章
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マー・ロンは踊子の秘密を報告して
教授は非道な犯罪の咎《とが》で告訴される
[#ここで字下げ終わり]
翌朝、明るくなって間もなくホン警部が出勤すると、ディー判事は法廷の後ろの執務室に、すでに身じまいして坐っていた。
芸妓の衣裳箱から見つかった手紙が整理されて、判事の机の上にきちんと重ねてあった。警部が茶を判事の茶碗についでいると、
「この手紙を全部、注意して読んだよ」と判事が言った。「いうところの竹林書生との関係は、半年ぐらいまえに始まったのにちがいない。初めのころの手紙は、友情がしだいに育っていくのをそれとなく示しているが、あとのほうのは熱烈な愛を語っている。けれども二か月ほどまえ、その情熱が衰えたらしいのだ。言葉の調子にきわだった変化があるのだよ。つまりここかしこに、手がかりとして解釈できる、いくつかの表現が見あたるのさ。この男はきっと見つかるだろう、ホンよ」
「わが政庁の上級書記は素人《しろうと》詩人ですよ、閣下」とホン警部は熱くなって言った。「余暇にこの地の文芸愛好会の記録係をやっているんです。あの男ならおそらくその雅号の主が分かるでしょう」
「そいつはうまい具合だ。すぐに記録室へ行って、その男に尋ねてくれ。だが、そのまえに、これを見てくれ」
彼は机の引出しから薄い紙を一枚取り出して、のしてひろげた。死んだ娘の袖から見つかった囲碁の問題であった。それを人さし指で叩きながら、判事は言った。
「昨夜、柳街から帰って来たあと、この囲碁の問題をよくよく眺めてみた。奇妙なことに、これがまるっきり分からないのだな。
私がこの遊びに精通していないのは認めるが、学生のころはよくやったものだ。知ってのとおり、正方形は縦横《たてよこ》どちらの方向へも十八本の線によって区切られて、線が互いに交差する二八九の目を作り出している。差し手の一人は一五〇の白い駒を持ち、相手は同数の黒い駒を持つ。駒は小さい丸い石で、すべて同じ資格を有している。何も置かれていない盤から始めるが、二人の差し手は一つの点に一つの石を置いて、交互に差して行く。ねらいは相手の石を、単独か塊かで完全に囲み込んで、できるだけ多く取ることだ。こうして取られた石はただちに盤から除かれる。盤上の点の数をうまくいちばん多く占めたものが勝ちなのだ」
「きわめて簡単そうですな」とホンが感想をのべた。
ディー判事は微笑して答えた。
「規則はたしかに単純だ、しかし遊びそのものはこの上なしに複雑なのさ。一生かけても、その機微をわがものにするには十分でないそうだ。
われらの偉大な囲碁の名人たちはこの遊びの指導書を少なからず刊行している、興味深い布石の譜、それにまた詳しい解説を付した問題の挿図入りでね。この紙片は、そういう冊子から剥ぎ取られたものにちがいない。これはその最後のページだ、左の隅の下に終《ヽ》という文字が刷られているのが見られるからね。不運なことに、本の題名が示されていない。おまえはこの漢源《ハンユアン》で碁の上手なものを捜し出してみなければならないよ、ホン。そういう人なら、確実に、この紙片がどんな本から剥ぎ取られたか教えてくれるだろう。この特殊な問題の解説は、終りから二ページ目に印刷されているはずだ」
マー・ロンとチャオ・タイが入って来て、判事に挨拶をした。二人が机の前に腰をおろすと、判事がマー・ロンに言った。
「ゆうべ君は情報を集めるために、あとに残ったのだと思う。結果を教えてくれ」
マー・ロンは大きな拳を両膝に置いていた。微笑しながら話し始めた。
「きのう閣下は、あの芸妓の個人的な生活について、彼女の家の他の同居人たちから情報が得られるだろうと言われました。昨夜、私たちが湖へ行く途中で、ちょうどあそこを通りかかったときです、一人の娘が露台《バルコニー》に立っていまして、ちょいと私の興味を引いたんですな。で、私たちがあとであの家へ行ったとき、私がその娘のことを番頭に話しましたら、あの世話好きの男がすぐに出ていた宴席から呼びだしてくれました。娘の名は桃花、ほんとにいちばんぴったりの呼び名ですよ!」
マー・ロンは言葉を切って、口ひげをひねくりまわした。話をつづけるにつれて、彼のにやにや笑いはだんだんおおっぴらになった。
「あの子はほんとに何とも魅力のある娘で、どういうもんか私のほうもあの子をいやな気にさせなかったらしいですよ。少なくとも、あの子は――」
「かんべんしてくれ」とディー判事が不平たらしくさえぎった、「君の色っぽいお手柄の詳細はね。君ら二人が、お互いうまくいったのはもちろんだとわれわれは思うよ。それで、死んだ踊子について、彼女は君に何を話してくれたのかね?」
マー・ロンはえらく傷ついたらしかった。吐息をつくと、あきらめたようにしぶしぶ話をつづけた。
「ええとですね、閣下、この桃花って子は死んだ芸妓の親しい友だちだったんですよ。踊子は一年ほど前に柳街に着きました、女郎買いが首都から連れて来た四人の組の一人でした。彼女が桃花に話したところでは、不幸な出来事が理由で山西《シャンシー》省の故郷を出て来たので、そこへ帰ることはできなかったのだそうです。どっちかというと彼女は変わってました、つまり大勢の上等の客たちが懸命に彼女の気を引こうとしたけれども、そういう連中をみんな丁重に袖にしたんですな。とくに組合親方スーがいちばんご執心で、高価な贈物をたくさんやったけれど、まるで見込みがなかったって話です」
「そのことは」とディー判事がさえぎった、「スーに対する要点として書き留めておこう。侮辱された恋というのは、おうおうにして強力な動機になるものだ」
「しかし」とマー・ロンはつづけた、「杏花はけっして冷たいだけの女ではなかった、と桃花は信じています。事実は、杏花には秘密の恋人があったにちがいないってことなんですよ。少なくとも週に一度は、買物に外出する許可を番頭に頼んでいました。杏花はしっかりした、柔順な娘で、逃げようなんて素振りはこれっぽっちも見せたことがないから、番頭はいつもいいよと言ってました。彼女はひとりで出かけました。で、友だちはこっそり逢曳《あいび》きに行くのだと思っていたんですな。しかし相手がだれなのか、どこで会うのやら、あの子には見当がつかなかったんです。ためしてみる機会がなかったわけじゃないんだけれどもですよ、私はそう思いますね!」
「杏花はいつも、どのくらい外出していたのかね?」
「いつも昼食後すぐに出かけて、夕食が出る直前には帰って来たそうです」
「それなら、杏花は町の外へは出て行けなかったことになるな。警部、書記にあの雅号について尋ねて来てくれ」
ホンが出て行くと、事務官が入って来て、判事に封印した大きな封筒を手渡した。判事はそれを開いて、長い手紙を机の上にひろげた。それには二通の写しが添えられていた。頬ひげを撫《な》でながら、彼はゆっくりと読んでいった。椅子の背にもたれかかろうとしたところで、ホン警部がもどって来た。頭を振りながら、ホンは言った、「上級書記は確言しています、閣下、この県に竹林書生という筆名を使う学者や文人はいないそうです」
「それは残念だ」とディー判事は言った。それから身体を立てて、前にある手紙を指さしながら、きびきびした声でつづけた。「いまここへ芸妓の家の番頭の報告が届いた。杏花の本名はファン・ホーイと言って、首都の斡旋人から七か月前に買い取られた。桃花だったか、どういう名だったか、その娘がマー・ロンに話したとおりだ。値段は金ののべ棒二本だった。
斡旋人は、杏花は尋常ではない事情によって自分で身売りしたと述べた。彼女は自分から彼に話をもちかけ、金ののべ棒一本と銀の粒五十で自身を売ることに同意した、ただ漢源《ハンユアン》でだけ転売して欲しいという条件つきでなのだ。この娘が両親や仲介人を通さないで、自分で取引きするのを女衒《ぜげん》は変に思った。しかし姿かたちが良いし、歌と踊りが上手なので、良い儲けを見込んで、彼はわざわざ彼女に問いただしはしなかったのだ。彼は金を払い、彼女は自分でそれを処置した。だが、柳街の家は上得意だったから、女衒は考えたのだ、普通ではないやり方であの娘を手に入れたことを番頭に知らせておいたほうが賢明だ、そうしておけば、たとえ後になって、何かごたごたのたねがもちあがったところで責任を負わないですむとね」
ここで判事は言葉を切り、怒ったように頭を振った。そうしてまた話し始めた、
「番頭は直接関係のある質問をいくつかしてみたが、彼女がはぐらかしてまっすぐ答えないので、そのことは問題にしないでおいたのだ。よこしまな恋愛沙汰が理由で両親に勘当されたのではないかと、番頭は言っている。あの家での彼女の生活に関する他の詳細は、マー・ロンがあの娘から聞いて来たことに一致している。番頭はここに杏花に特別な関心を示した市民の氏名を記している。その名簿には漢源《ハンユアン》のおもだった市民のほとんど全部が入っているが、リウ・フェイポとハン・ユンハンがのっていない。ときおり番頭は彼らのうちのだれかを情人として受け容れるよう迫ったけれど、杏花は頑固に拒絶した。彼女は踊りだけでも大した金をもたらしたから、番頭は強要はしなかったのだ。
さて、報告の末尾に、杏花は文芸的な遊びが好きで、文字が達者だったし、並みの画工よりも上手に花鳥画を描いたと述べている。だが、番頭がとくに書いているのだが、彼女は囲碁が好きでなかったというのだ」
ディー判事は口をつぐんだ。それから補佐たちを見やりながら、
「そこでだ、杏花が私に、私が碁をやるといいのだがと言ったこと、それに袖の中にこの囲碁の問題を持っていたことを、君たちはどう説明するかね」
マー・ロンは困ったように頭をかいた。チャオ・タイがきいた、
「その問題を見せていただけますか? その遊びがちょっと好きだったことがあるんですよ」
判事は彼のほうへ紙片を押しやった。チャオ・タイはしばらく問題を調べてから、
「これはまるっきりでたらめな布石ですよ、閣下! 白はほとんど盤全体を占めています。白はおそらく何手か置きなおして、黒が進むのを阻止できるかも知れませんが、黒の布石には筋道も根拠もありませんな」
ディー判事は眉をしかめて、少しのあいだ考えこんだ。
彼はもの思いから我にかえった。正門に吊された大きな青銅の銅鑼《どら》が三回打ち鳴らされ、政庁中に反響して、朝の公判が開かれようとしていることを知らせたのである。
判事は囲碁の問題を引出しにしまうと、嘆息して起《た》ちあがった。ホン警部が暗緑色の錦織の長い正装に着替えるのを手伝った。翼状の|※[#「巾+僕のつくり」、unicode5e5e]《ぼく》のついた判事の帽子をきちんとかぶりながら、ディーは三人の部下に言った。
「最初に画舫上の殺人事件を吟味しよう。さいわいなことに、他に懸案の事件は何もないから、この厄介な殺人事件に集中することができる」
マー・ロンが判事の執務室を法廷から隔てている重い垂幕《たれまく》を引き分けた。ディー判事はそこを通りぬけて壇上に登って、緋色の錦におおわれた高い裁判官席の奥に坐った。マー・ロンとチャオ・タイが判事の椅子の後ろに立ち、ホン警部はディー判事の右手のいつもの場所についた。
巡査たちが、鞭、棍棒、鎖、手枷《てかせ》、そのほか彼らの仕事用具一式をたずさえて、壇の前に二列に並んで立った。上級書記とその助手たちが、壇の両側の低いテーブルに、公判記録を書き留める用意をしてひかえていた。
ディー判事は法廷を見まわして、大勢の見物人が群れ集まっているのに気づいた。画舫の殺人事件の風聞が野火のようにひろまって、漢源《ハンユアン》の市民たちはその詳細を熱心に知りたがっているのだ。前列には、ハン・ユンハン、カン兄弟、それに同業組合《ギルド》の親方のポンとスーの姿が見える。リウ・フェイポとワン親方がなぜそこに来ていないのか、判事はいぶかしく思った。巡査長が彼らを全員に出廷すべきことを通告してあったのである。
判事は驚堂木《けいどうぼく》を裁判官席に打ち鳴らして開廷を宣言した。そうして点呼を開始した。
ふいに一群の人びとが法廷の入口に現われた。リウ・フェイポが先頭に立っていたが、彼は昂奮して叫んだ。
「私は正義を要求する! 卑劣な犯罪がなされたのだ!」
ディー判事は巡査長に合図した。巡査長は新来者たちを迎えると、壇の前に導いた。
リウ・フェイポは敷石の床にひざまずいた。簡素な青い長衣を着て、小さな黒い縁なし帽をかぶった、長身で中年の紳士が彼のそばにひざまずいた。他の四人の男たちは巡査たちの列の向うに立った。その一人が組合親方ワンであることをディー判事は認めた。ほかの三人がだれかは分からなかった。
「閣下!」とリウが叫んだ、「私の娘が婚礼の夜にむごくも殺害されました!」
ディー判事は眉をあげた。そっけなく彼は言った。
「告訴人リウ・フェイポは正確に順序だててすべてのことを報告せよ。私は昨夜宴席で、あなたの娘の婚礼が一昨日取り行なわれたことを聞き知った。その祝いの二日後だというのに、いま、あなたはなぜ本政庁に来て彼女が死んだと報告するのであるか?」
「それは万事、ここにおります、この悪人の邪悪なたくらみによるのでございます!」と、横にひざまずいている紳士を指さしながらリウは叫んだ。
「あなたの姓名と職業を言いなさい」判事はその中年の男に命令した。
「この微々たる者は」と男はもの静かに言った、「姓名はチャン・ウェンチャンと申して、文学博士でございます。怖ろしい災禍がわが家を襲いまして、私の愛する一人息子とその若い花嫁とを同時に奪い去ったのです。まるで十分な理由もありませんのに、この男リウ・フェイポは二人の父である私を責めるのでございます。おそれながら、この恐るべき誤りを正して下さいますよう、閣下に請い願いあげます」
「このあつかましい悪党!」とリウ・フェイポは怒鳴った。
ディー判事は驚堂木を鳴らした。
「告訴人リウ・フェイポは」と彼はいかめしく言った、「本法廷では悪口をひかえよ! あなたの言い分を述べなさい」
リウ・フェイポはやっとのことで自分を抑《おさ》えた。明らかに彼は悲しみと怒りのあまりすっかり我を失なっていて、前夜とはまるっきり別の人間のように見えた。少しして、彼はいくぶん抑えた声で言った。
「至高の天がそれを望まれたがために、私は男児を授かりませんでした。私のたった一人の子は娘で、名を月仙と申しました。ですから、男子に恵まれなかったことを、私はこの一人娘で埋め合わせしなければならなかったのです。娘は人を惹《ひ》きつける、気だてのやさしい子でした。あの子が美しく聡明な若い婦人に成長していくのを見ることは、私の人生の大きな喜びでございました、つまり私は――」
彼はふいに黙った。嗚咽《おえつ》で声が出なくなったのだった。何度か喉をごくりごくり鳴らすと、声を震わせながら話をつづけた。
「昨年でございました。この教授が自宅で若い婦人たちの仲間に授けている古典文学の内輪な授業にくわわっても良いかと、娘が尋ねました。私は同意いたしました、と申しますのも、それまで娘はおもに乗馬と狩猟に興味を持っておりましたから、芸術と文芸にも魅力を感ずるようになったのが嬉しく思われたのでございます。それにつづいて災厄が起こるなどと、どうして私が予見できましたろう? 月仙は博士の家で彼の息子、文学士チャン・フーピアオに会って、彼と恋に落ちました。私は両人の婚約を決定するまえに自分でチャン家について調べようと思いましたが、月仙はすぐにも婚約を発表したいとせがみまして、私の第一夫人が娘の願いを立ててやったのです……ばかな女が! もっと良く知るべきだったのに……。
私が同意いたしますと、仲人が選ばれて、婚約が成立いたしました。しかしながら、そのときになって、私の友人で取引斡旋人のワン・イーファンが私に警告いたしました、チャン博士は道楽者で、いつぞや以前にワンの娘を卑《いや》しい欲情の具にしようとして失敗したことがあったと言うのでございます。ただちに私は婚約を無効にしようと決しました。ところが、そういたしましたところ、月仙は具合を悪くいたしまして、第一夫人が娘は恋の病なのだ、もし私が決定を考えなおさなければ、きっと死ぬだろうと言いはったのでございます。おまけに、チャン博士が、えじきが逃げるのを見るのがいやさに、婚約破棄を拒絶いたしました」
リウは毒のこもった目つきを博士に投げ、それから話しつづけた。
「それで、このうえもなく不本意ではありましたが、私は婚礼を取り行なうことを許したのでございます。一昨日、赤い蝋燭がチャン家の屋敷にともされ、先祖代々の位牌の前にて婚礼が祝われました。祝宴には三十人からのおもだった市民が列席され、画舫の宴に出た客人たちもくわわっておりました。
けさ早くでございます、教授がいたくとり乱して私の家に駆け込んでまいり、昨日、月仙が新床で死んでいるのが見つかったと知らせたのです。すぐ私は、どうして即刻知らせてくれなかったのかと尋ねました。彼が返答しますには、新郎たる彼の息子がいなくなっていたので、そちらの所在をまずつきとめようとしたかったと申すのです。娘の死んだ原因は何かとただしましたが、教授はただもうわけの分からぬ言葉を口ごもっておりました。私は彼といっしょに娘の死体を検分しに行こうといたしました。すると、何と、この男は、娘はすでに棺に納めて、仏寺に預けたと落ちつきはらって申すではありませんか!」
ディー判事は身体をぴんとさせた。リウの話を中断させようと思ったが、考えなおして終りまで聴取しようと決めた。
「恐ろしい疑いが私に起こりました」とリウはつづけた。「私は急ぎ隣人のワン親方に相談に行きました。ワンはすぐに、娘は口には言えぬ罪の犠牲になったのだと私に賛成してくれました。私はチャン博士に、政庁に手続きをして正式に告訴を提起すると言ってやりました。ワン親方は、証人として立つようにワン・イーファンを呼びに行きました。いま、私、リウ・フェイポは閣下の裁判官席の前にひざまずきまして、邪悪な犯人が正当なる処罰を受け、それによりまして私のあわれな娘の魂が安らかに憩えますよう、お取りはからい下さることを懇願いたすものでございます!」
このように述べると、リウは石だたみの床に額を三回つづけざまに打ち当てた。
ディー判事はゆっくりと長い顎ひげを撫でた。ちょっと考えて、質問した。
「あなたはチャン学士が花嫁を殺して、そのあと失踪したと言うつもりなのか?」
「ご容赦下さいますよう、閣下!」とリウはあわてて答えた。「まったく動顛いたしておりまして、私の言葉は明晰でございません。あの優柔不断の若者、チャン学士は潔白でございます。犯人は父親、あの好色漢でございます! 彼は月仙が欲しくてたまらず、酒に昂奮したあまり、月仙が自身の伜の花嫁になるべき夜に、彼女に手をかけたのです。可愛そうな娘は自殺いたし、チャン学士は、自分の父親の恥ずべき行為に畏怖して絶望のあまり逃げたのです。翌朝、よこしまな教授は、邪淫から目を覚まして娘の死体を見つけ、自分の陋劣《ろうれつ》な行為の結果が恐ろしくなって、即刻死体を棺に納め、娘が自殺した事実を隠したのでございます。それゆえに、私は博士チャン・ウェンチャンを、私の娘月仙を凌辱し、死に至らしめたかどにより告訴するものでございます」
ディー判事は上級書記に命じて、リウの告訴を記録したとおりに読みあげさせた。リウはそれが正確であることを承認して、記録に拇印《ぼいん》をおした。それから判事が発言した。
「被告チャン・ウェンチャンは、何が起こったかについて意見を申しのべよ」
「手前は」と教授はいささか衒学《げんがく》的な口調で始めた、「穏当《おんとう》を欠きましたる振舞いにつき、閣下のご寛恕《かんじょ》を請うものでございます。自身が愚かに行動したと十分悟っておりますことを、私は申しあげたいのであります。書物に囲まれておる平穏な生活は、突如としてわが陋屋《ろうおく》に降りかかりました、かくの如く恐ろしき危機を有効に処理いたしますには、悲しいかな、私を無能にいたしておるのでございます。さりながら、愚息の嫁につき、この者がかほどまで品性よろしからぬていに考えておることを、私は断固として否定するものでありまして、嫁を辱め云々《うんぬん》につきましては申すに及ばぬのであります。以下に申しあげますのは、現実に起こりましたことの完全なる説明でありまして、委細ことごとく、これ真実でございます」
博士は、考えを集中するために、一瞬言葉を切り、また話しつづけた。
「昨日の朝、私が庭の亭《ちん》で朝食をとっておりますと、下女の牡丹《ぼたん》がまいりまして、花嫁の部屋の扉を叩き、大声で朝食を持って来たと告げても、何の返事もなかったと報告いたしました。私は二人を妨げてはならぬと申し、一時間もしたら再度行ってみよと言いつけたのでございます。
午前も遅くなりまして、私が花に水をやっておりますところへ、牡丹が再度、部屋からは依然として返事がないと知らせてまいりました。私はいささか胸さわぎを感じ始めましたので、若夫妻に当ててあります離れの院子《なかにわ》にみずから赴《おもむ》きまして、したたかに扉を叩いたのでございます。何の応答もありませんので、私は何度も伜の名を大声で呼びましたが、返答はございませんでした。
そこで、何か不都合が起きたに相違ないと知りました。急ぎ隣人にして友人の茶商人コンを呼びにやって助言を求めましたところ、力ずくで扉を開けるのが私の義務であると申します。で、執事を呼びまして、斧で鍵を破壊せしめたのでございます」
チャン博士は話をとぎらせ、つばを呑み込むと、抑揚のない声でつづけた。
「月仙の裸身が血まみれで寝椅子に横たわっておりました。愚息はどこにも見あたりませんでした。急ぎ歩み寄り、月仙に布団を掛けてやりましてから脈を探ってみますると、脈拍は停止いたし、腕はさながら氷の如く冷く、絶命しておったのでございます。
即刻、コンが近くに居住しおります学識豊かなる医師ホワを迎えにまいりまして、検屍を依頼いたしましたところ、死因は破瓜《はか》が惹起《じゃっき》いたしましたおびただしい出血である旨、ホワは告げたのであります。で、私には得心いたされました、伜めは悲しみに神気動顛《しんきどうてん》いたし、悲劇的な悲運の場より逃走いたしたのである、と。伜めはどこぞ淋しい場所へ自裁せんがために行きおったものと信じ込み、即刻、探索に出て、さような絶望的行動に走りますのを防ぎたいと存じましたけれども、ホワ医師が、かかる暑気にては、すぐにも死体を納棺するがよろしいと意見を申しますので、葬儀屋を呼ばせ、死体を洗滌し、間に合わせの棺に納めしめたのであります。コンが、棺は埋葬地が決定いたすまで、仏寺に預けるよう教えてくれましてございます。その場に居合わせました人びとには、伜めの生死にかかわらず、伜めが発見せらるるまで、事件は内密にとどめおくよう頼みまして、コンと執事に伴なわれて、私は愚息を捜しに家を出たのでございます。
終日、私どもはありとあらゆる所を捜し、市内、郊外と歩き回りましたが、夕闇が降りる刻限に至っても、手がかりは毫《ごう》も得られずじまいでございました。帰宅いたしますると、一人の漁師が門前に待ちおり、湖にて釣をしておって鉤《はり》に掛かったのだと申して絹の帯を渡してよこしました。裏地に縫いつけてあります姓名を調べる要もございません。即座にあわれな伜めのものと分かりました。この再度の衝撃は重すぎました。私は失神し、昏倒《こんとう》してしまったのでございます。コンと執事とがベッドに寝かせてくれまして、疲労|困憊《こんぱい》の極、私は今朝まで眠ってしまったのであります。
気力を回復するや、私は花嫁の父親に対する責務を思い出しました。リウの屋敷に駆けつけ、恐ろしい悲劇を知らせたのでございます。しかるに、この無情な男は、手前どもの子らを奪った残酷なる悲運をともどもにうち歎きますどころか、このうえもない野鄙《やひ》な非難を手前の頭上にあびせかけ、果ては手前を脅迫して当政庁へ告訴に及びし次第にございます。請い願わくは、閣下には、同一日に、唯一の男児とそのうら若き嫁とを失ない、因《よ》ってもって家系が断絶するやの恐るべき予測に直面しおります手前に、正義の行なわれますよう、ご高配をたまわりたく存ずるものにございます!」
述べ終わると、教授は床に額を何回となく打ちつけた。
ディー判事が事務官に合図を送った。事務官がチャン博士の供述の記録を読みあげ、博士はそれに拇印《ぼいん》をおした。そこで判事が言った、
「これより、原告と被告双方の証人を聴取する。取引斡旋人ワン・イーファンを前へ!」
ディー判事は証人に鋭い眼差しを投げた。昨夜、カン兄弟の口論中に、その名が出て来たことを思い出した。ワン・イーファンは四十ばかりの男で、顎ひげのない、つるっとした顔をして、その青白さが短く黒い口ひげのおかげで引き立っている。
ワンは供述した。二年前、チャン博士の第二夫人が死んだが、それ以前に第一夫人と第三夫人が亡くなっていたから、以来博士は独り身である、彼はワンに持ちかけて、ワンの娘を妾《しょう》にもらいたいと申し込んだことがあったのである、ワンは特別な仲人を立てもせずに行なわれた、その申込みを憤然として拒絶した、すると、欲情を満たすことを妨げられたチャン博士はただちに悪質なうわさをひろめ、ワンはいかさま師であって、彼の取引きなどは昼の光に耐えられるものではないのだと断言した、このように教授の邪悪な人柄が分かってしまったからには、リウ・フェイポに、彼が一人娘をゆだねようとしている家がどんなものであるかを警告するのが、自分の義務であるとワンは考えた次第である。
ワン・イーファンが述べ終わると、すかさずチャン博士が憤然と叫んだ、
「閣下に懇願申しあげます、真偽を混淆《こんこう》せる、かかる不条理をお信じになられませんように! ありようは、不本意ながら私がしばしばワン・イーファンを論評いたしたことでございます。私はここで公式に申しのべるのを躊躇《ちゅうちょ》いたしません。この男は盗《ぬす》っ人《と》であり、ぺてん師であります。彼こそ、私の第二夫人の死去後、自分の娘を妾にさしあげたいと手前に言い寄ってまいったのです。妻が死んだので、娘の面倒が見きれないのだと彼は申しました。あきらかに、私から金銭をゆすり取るつもりであり、彼のいかがわしい商売のやりかたを、私がそれ以上批判するのを妨げる魂胆だったのです。手前のほうこそ、さような不謹慎きわまる申込みを即座に拒絶いたしたのでございます!」
ディー判事は拳をテーブルに叩きつけて大声で言った、
「知事たる本官を軽んずるとは! 二人のどちらかが、あつかましいうそをついているのは明白である。この件を本官が徹底的に調べあげることを分からせてやろう。本官を愚弄せんとするものに災いあれ!」
怒りのあまり顎ひげを引っぱりながら、判事はワン親方に前へ出よと命じた。
ワン親方の供述は、事実に関するかぎり、リウ・フェイポを支持するものだった。だが、チャン博士が犯罪を犯したのだというリウの見解について意見を述べるだんになると、ワン親方はひどくおじけづいた。ただ単に、リウ・フェイポが昂奮しているのを鎮《しず》めるために同意しただけなのだし、婚礼の夜に実際に何が起こったのかについては意見を保留したいと言うのだった。
そこでディー判事は被告側の二人の証人を聴取した。初めは茶商人のコンで、出来事に関するチャン博士の供述を確証したうえで、教授は倹約家であり、人格者であると言った。ホワ医師が敷石の床にひざまずくと、ディー判事は巡査長に政庁の検屍官を呼ぶよう命じてから、厳しくホワ医師に呼びかけた。
「医を業とする者として、あなたは知っていたはずである、急死人が出た場合には、例外なく、その詳細な情況を本政庁に報告する以前に、また検屍官が調査する以前に、死体を棺に納めてはならぬことをだ。あなたは法に違反したのであるから、それによって罰せられるであろう。が、ただいまは検屍官の面前で、あなたが目睹《もくと》したさいに、死体がいかなる状態にあったか、また死因に関して、どのようにして結論に達したのかを申しのべよ」
ホワ医師は死んだ娘に見られた兆候について早口にこと細かに述べ始めた。彼が話を終わると、ディー判事はもの問いたげに検屍官を見やった。
「つつしんで閣下に報告申しあげます」と検屍官は言った、「述べられたるごとき状況下において処女の死が起きることは、稀有《けう》でありますが、私どもの医書には過去における少数の症例が現に引用されてございます。失神が長びきますと、引きつづき、たまたま死に及ぶことがさらに普通に起こるのは疑いを容《い》れぬところでございます。ホワ医師により述べられました兆候は、詳細にわたって、権威ある医学宝典に記録せられたるものと一致しております」
ディー判事はうなずいた。ホワ医師に重い罰金を申しわたすと、傍聴人に呼びかけて言った。
「今朝は芸妓の事件を審理する予定であった。しかし、この新たな事件は、問題の犯行現場をただちに捜査することを必要としている」
驚堂木を打ち鳴らして、彼は閉廷を告げた。
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第六章
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ディー判事は学生の書斎を調査して
荒れ果てた寺では検屍が行なわれる
[#ここで字下げ終わり]
回廊へ出ると、ディー判事はマー・ロンに指示を与えた。
「私はチャン博士の家へ行く。巡査たちに輿《こし》の仕度をさせ、四人で仏寺へ行って、検屍を行なう準備を万端ととのえておくように申しつけてくれ。教授のほうをすませたら、私はすぐにそっちへ行く」
それから判事は執務室に入って行った。
ホン警部が判事に茶を一杯いれるために茶卓に寄った。チャオ・タイはディー判事が腰をおろすのを待って立っていた。けれども、判事は後ろ手を組み、額に深い皺を刻んで床を歩き回り始めたのである。ホンが茶をすすめたときにだけ、立ちどまり、何口か茶をすすると、彼は口をきった。
「何がリウ・フェイポにあんな奇怪な告訴を申し出るようにさせたのか、私には想像できない。死体を急いで納棺したのがうさんくさく思われるのは認めるが、正気の人間ならだれだって、あんな深刻な告訴を提起するかわりに、まず第一に検屍することを主張しただろう。それに昨夜、リウは非常にもの静かで、自制のきく人間だと強く私に印象づけたのだ」
「さきほど法廷で、彼はまるで正気を失なっているように見えました、閣下」と警部が意見を言った。「手が震えているのが分かりましたし、口には泡を吹いておりました」
「リウの告訴はまるでばかげていますよ」チャオ・タイが発言した。「仮に教授が人格劣等な男だとほんとうに確信していたのなら、リウはなぜ結婚に同意したんでしょうな? 教授は妻や娘を虐《しいた》げて、勝手気ままをやる種類の男にはほとんど見えません。それにその気になれば、リウは婚約を一方的に破棄することだって簡単にできたんです」
ディー判事は考えに沈みながらうなずいた。
「あの結婚の背後には目に映る以上のものがあるにちがいないよ。それに、チャン博士だ。彼の家を襲った災厄《さいやく》を歎いて人を感動させたにもかかわらず、彼はむしろ平静に悲歎を装っているように見えた。私はこう言わざるをえないね」
マー・ロンが入って来て、輿の支度ができたと報告した。ディー判事は院子《なかにわ》に出て行き、三人の補佐が従った。
チャン博士は、政庁の西方の山の斜面を背にして建てられた、感じのいい屋敷に住んでいた。
執事が重い観音開きの扉を開け、ディー判事の輿が中に運び込まれた。
教授は判事が輿を降りるのを丁重に手助けすると、判事とホン警部とを応接室へ案内した。マー・ロンとチャオ・タイは、巡査長と二人の巡査と一緒に第一|院子《なかにわ》に残った。
茶卓をはさんで教授と向い合っている間に、判事は主人をまじまじと見た。チャン博士は長身で体格が良く、鋭い知的な顔をしている。すでに年金を受けているにしては、むしろ若くて五十がらみに見える。彼は黙ったまま判事に茶をいれると、また腰をおろして、高貴な客が会話を始めるのを待った。ホンはディー判事の椅子の後ろに立っていた。
判事は良くそろった書棚を眺めて、教授が文学上のどんな課題にとくに興味を持っているのかと尋ねた。チャン博士はたくみに言葉を選んで、自分が追究している古代文献の批判的な研究について簡潔に説明した。ディー判事がいくつかの点について細かな質問をしたが、それに対する博士の答は、彼がその主題に完璧に習熟していることを証明していた。さまざまに論議されているある章句の真偽について、あまり知られていない古い注釈をそらで自由に引用して、いくつかのまったく独自な見解を述べたのである。教授の道徳的な高潔さを疑うものはいるかもしれないが、彼が偉大な学者であることを疑うのはまず不可能だった。
「なぜ」と判事は尋ねた、「あなたはまだそんなお年でもないときに、孔子廟の学校の椅子を放棄なさったのか? 七十歳、あるいはそれ以上になるまで、名誉ある、その地位に留まっている人はいくらもおりますよ」
チャン博士は判事に探るような眼差しを投げると、かたくるしく返答した。「私は自分自身の研究に全時間をささげるほうを選んだのです。この三年間、教えるほうは、拙宅にて、少数の進んだ学生に、古典文学の個人的な授業を二つ授けるのみにかぎってまいりました」
ディー判事は席を起《た》って、悲劇の現場を見たいと申し入れた。
教授は無言のままうなずいた。屋根だけの回廊を通って、二人の客を第二の院子《なかにわ》へ導いて行くと、開いたままになっている優美な弓型の扉の前に立ちどまって、教授はゆっくりと言った、
「あちらが伜に当てがいました院子《なかにわ》でございます。棺が移されたのちはだれも入ってはならぬと、厳重に申しつけてございます」
内部は小さな風景庭園だった。中央には田舎風の石のテーブルがあり、そのかたわらにふたむらの竹がさらさらと緑の葉をそよがせていて蒸暑さを忘れさせた。
狭い戸口を入ると、チャン博士はまず左手の扉を押し開けて、小さな書斎を見せた。窓の前に書きもの机、それに古びた肘かけ椅子があるだけの場所だった。書架には本と手稿の巻物が山積みになっている。教授はもの静かに言った、
「愚息はこの小さな書斎をことのほか好いておりました。彼は竹林書生という筆名を選びました、外にあります竹の群は、ほとんど竹林とは呼べなかったにもかかわらずです」
ディー判事は中に入って、書架の本を調べた。チャン博士とホン警部は外に立ったままでいた。二人を顧みて、判事はさりげなく教授に言った、
「書物の選びようから、ご子息が幅広い興味をお持ちだったことが分かります。それが柳街の姫君にまでひろがっていたのは遺憾ですな!」
「いったいだれが」とチャン博士は怒って大声をあげた、「そんなばかばかしい誤りを閣下にお教えしたのか! 伜はことのほかまじめな性質でした。夜間に他出したことなどありません。だれがそんなばかげたあてこすりを申しあげたのです?」
「さような趣旨の意見をどこかで耳にしたことがある気がするのですよ」ディー判事は曖昧《あいまい》に答えた。「おそらく私は話した人の言うことを誤解したのでしょう。さように勤勉な学徒でおられたのなら、子息はみごとな文字を書かれたことでしょうな?」
教授は机の上の紙の山を指さして、そっけなく言った、
「これは伜が『論語』につけた注釈の草稿です。ちかごろ、あれはこれにかかりきっておりました」
ディー判事は草稿をぺらぺらめくった。「たいへん表現力のある筆跡ですな」と、入口へ歩み寄りながら感想を述べた。
博士は向いにある居間へ二人を連れて行った。ディー判事が息子の放蕩生活を口にしたことに、彼はまだ不平を抱いているらしかった。
「回廊を降りていらっしゃれば」と言ったとき、顔がはっきりとそれを表わしていた。「寝室の扉がお分かりになりましょう。閣下がいらしっている間、私はこちらでお待ちいたします」
ディー判事はうなずき、ホン警部を従えて、ぼんやり光の射している回廊を通って行った。その端れのところに、蝶番《ちょうつがい》がゆるんだまま立てかけてある扉があった。判事はそれを押しあけ、敷居から薄暗い部屋の中を検分した。それはかなり小さくて、たった一つ、格子に半透明の紙を貼った窓を透かして射し入る日の光に照らされているだけだった。
ホン警部が昂奮した口調でひそひそ言った、
「それでは、チャン文学士が杏花の恋人だったんですな!」
「そして彼は身投げした!」とディー判事はつっけんどんに返答した。「私たちは竹林書生を発見した、と同時に失なったのだ。ひとつ奇妙な点があるのだがね、彼の筆跡が恋文のとはまるっきりちがっているのさ」屈み込んで話をつづけた、「ごらん、埃《ほこり》がうっすらと床をおおっている。月仙の死体が移されたあと、この部屋にはだれも入れなかったと教授が言ったのは、たしかにほんとうだったのだ」
判事は奥の壁ぎわにある広い寝椅子をちらっと見た。葦のマットがかかっていて、それには赤黒い斑点がいくつか浮いていた。右に化粧台があり、左には衣裳箱が積み重ねてある。寝椅子のそばには小さな茶卓があり、腰かけが二脚ついている。部屋の空気はひどくむれていた。
ディー判事は窓に歩み寄って開けようとした。しかし窓には木の閂《かんぬき》がかかっていて、埃をかぶっていた。彼は骨おってそれを押しもどした。鉄の格子越しに、高い煉瓦の牆壁《しょうへき》に囲まれている菜園の一角が見える。小さい戸口があって、あきらかに料理人が野菜を採りに来るとき使うものだった。
判事はとまどったように頭を振って、
「扉は内側から鍵が掛けられていたのだよ、ホン、窓には頑丈な鉄格子がはまっていて、とにかく少なくとも五、六日は開けられずにいた。天の名にかけて、いったいチャン文学士はあの不運な夜に、どうやってこの部屋を抜け出したのだろう」
警部は困惑して主人を見やった。
「何とも奇妙ですな」それから、ちょっとためらって、「おそらくこの部屋には秘密の戸口があるのでしょう、閣下」
ディー判事はさっと起《た》ちあがった。二人は壁から寝椅子を押し離し、壁と床を一寸きざみに調べた。それから他の面の壁も、床も残らず点検した。が、むだだった。
ディー判事はもとの席へもどった。膝の埃をはらいながら、
「居間へもどって、教授に命じて、彼自身と息子の友人や識り合い全部の名簿を書き記させてくれ。私はしばらくここに留まって、あたりを調べよう」
警部が出て行くと、ディー判事は腕を組んだ。そう、いまや解くべき新しい謎が現われたのだ。死んだ踊子の事件には、少なくともいくつかの明白な手がかりがあった。動機ははっきりしていた。殺害者は、踊子が秘密の計画について判事に警告するのを妨げたかったのだ。疑わしい人物は四人いる。彼らと芸妓との関係を組織的に捜査すれば、だれが犯人であるか、それからまた彼がどんな陰謀をたくらんでいるのかはすぐに知られるだろう。その捜査はうまく進んでいる。そこへいまこの奇怪な出来事がひょいともちあがった、この事件には重要人物が二人ある、ところが、そのどちらも死んだ! そのうえ、こちらにはまるで何ひとつ手がかりがない。教授は風変わりな男だが、猟色漢のタイプとは思われない。いっぽう、見かけというのは当てにならないものだ、だから、ワン・イーファンは娘の件について、法廷であえてうそをついたのではあるまい。だが、教授にしても、彼の息子が柳街に出入りしたことはないと言ったとき、あえてうそをつきはしなかっただろう。チャン博士は、そういう事柄が簡単に調べがつくものだと分かっている程度の分別は持っているだろう。たぶん博士自身が踊子と関係を持っていて、自分の恋文に息子の筆名を使ったのだ! 彼はもうそんなに若くはないけれど、強烈な個性があり、しかも、いずれにせよ、女の好みというのはいつだってわけの分からぬものなのだ。ともあれ、博士の筆跡を恋文のそれと比較してみることだ、ホンが彼に書き留めさせている名簿が見本を提供してくれるだろう。けれども教授は踊子を殺せはしなかった。彼は船に乗っていなかったのだから。おそらく結局のところ、踊子の情事は彼女が殺されたこととは無関係なのだろう。
ディー判事は椅子の上で身じろぎした。ふいに、自分が見まもられているという不安な気分になった。開いている窓を振り返った。
青白い、痩せこけた顔が目をいっぱいに開けてこっちを見ていた。
判事は躍りあがって窓に駆けつけたが、二つめの腰かけにつまずいた。急ぎ起《た》ちあがって窓にとりついたが、そのときには、庭の壁にある戸口が閉まったのがどうやら見えただけだった。
彼は第一|院子《なかにわ》に猛烈な勢いで走って行くと、マー・ロンとチャオ・タイに、外の通りで、中背で、僧侶のように頭を剃った男をさがせと命じた。それから巡査長に、一家中の人びとを残らず応接室に呼び集め、そのあとで家のどこかに隠れているものがいないか調べるように命令した。彼自身は眉を険しく寄せて、応接室へゆっくりと歩いて行った。
ホン警部とチャン博士が、いったい何の騒動がもちあがったのかと跳び出して来た。二人の質問を無視して、ディー判事はそっけなくチャン博士にきいた。
「なぜあなたは、新婚夫妻の部屋に秘密の戸口があると私に言われなかったのか?」
教授は驚きのあまりぽかんと判事を見つめた。
「秘密の戸口ですと? 平穏裡《へいおんり》に暮す隠退した学者たる私が、何のために、さような奇怪な仕掛けを必要とするのです? この家の建築は私自身が監督いたしました。この建物のどこにもさようなものはないと、私は閣下に保証できます!」
「それがほんとうなら」とディー判事は冷淡に言った、「子息がどのようにして部屋を抜け出すことができたのか、その説明を見つけ出されるがよい。たった一つの窓には格子がはまっていて、扉は内から鍵がかかっていたのですよ」
博士は自分の額を手でぱしっと打った。腹を立てて、彼は言った。
「そのことに気づきもしなかったとは!」
「その謎をとくとお考えになる機会をさしあげましょう」判事はそっけなく言った、「おってお知らせするまで、この家を離れてはなりません。私はいまから仏寺へ行って、月仙の死体の検屍をやらせます。思うに、この手続きは裁判のために必要であり、そうすれば、あなたは抗弁するてまがはぶけるというわけです」
チャン博士は激怒したように見えた。だが、彼は自分を抑えると、身をひるがえして何もいわずに応接室を出て行った。
巡査長が十数人の男女を応接室に先導して来た。「これで全員であります、閣下!」と彼は報告した。
ディー判事はさっと一同を見わたした。窓の外に彼が見た人影との類似を示しているものは一人もいなかった。女中の牡丹《ぼたん》に、新婚夫妻を起こそうとしたときの様子を質問したが、答えは教授が行なった供述とぴったり合っていた。
判事が一同を解散させたところへ、マー・ロンとチャオ・タイが入って来た。マー・ロンが額の汗をぬぐって報告した。
「隣近所を残らず調べました、閣下、ですが、むだでした。蜜柑水《みかんすい》売りが、自分の手押車のそばに坐って居眠りしているほかは、一人も見つかりませんでした。日中の暑さで、通りに人気《ひとけ》はありません。庭の戸口の脇に薪が二束ありまして、あきらかに薪売りがそこへ置いて行ったものですが、その男はどこにも見あたりませんでした」
ディー判事は窓の外から見まもっていた怪しい男について、彼らにかいつまんで説明した。それから巡査長に、リウ・フェイポとワン親方の家へ行って、検屍のために仏寺へ召喚するよう命令した。マー・ロンもまた寺へ行き、巡査たちが万事をきちんとやってあるかを確かめることになった。チャオ・タイに向って、判事は言った、「君は二人の巡査とここに残って、チャン博士が家を離れぬように気をつけてくれ。そうして私をのぞき見した、あの奇妙な男を見張るのだ」
判事はぷりぷりして袖を振りながら輿へ行って、ホン警部といっしょに乗り込んだ。そして寺へ運ばれて行った。
門房の広い石段を登りながら、あたりに雑草が生い茂って、堂々たる門の高い柱は赤い漆がはげ落ちていることにディー判事は気づいた。数年前、僧侶たちがいなくなり、いまでは年とった世話人が管理していると聞いたことがあるのを思い出した。
彼はホンといっしょに崩れかかった回廊をぬけて、脇の講堂へ歩いて行った。そこには、マー・ロンが検屍官や巡査たちとともに待っていた。マー・ロンは他の三人の男を、葬儀屋と助手だと紹介した。右に高い祭壇があったが、完全に剥《む》き出しになっていて、その前には脚つきの台の上に棺が安置されてあった。講堂のもういっぽうの側には、巡査たちが仮設の政庁として大きなテーブルを、そのそばに事務官用にもっと小さいテーブルをそえて据え置いてあった。テーブルに向うまえに、ディー判事は葬儀屋と二人の助手を呼んだ。彼らがひざまずこうとすると、葬儀屋に尋ねた、
「あんたが死体を洗った新婚部屋の窓が開いていたか、それとも閉まっていたか、覚えているかね?」
男は驚いてものも言えずに助手たちを見た。若いほうの助手がすかさず返答した、
「閉まっておりました、閣下。部屋の中が少し暑かったので、開けようといたしましたが、掛金が固くなっておりまして、押しもどせなかったのです」
判事はうなずいて、
「死体を洗っている間に、何か暴力をくわえた痕《あと》に気がついたかな? 刃物による傷、打撲傷、または変色した斑点とかにだが?」
葬儀屋はかぶりを振った。
「それより私はたいへんな血に驚きました、閣下、ですから、特別に注意して死体を調べましたが、傷は何もございませんでした、ひっかき傷さえも! あの娘さんは丈夫な身体つきだったと申しそえてもよろしゅうございます。あの身分の若いご婦人としては、むしろお強かったに相違ございません」
「洗って屍衣を着せたあとは、すぐに死体を棺に納めたのかね?」ディー判事が質問した。
「さようでございます、閣下。コンさんが私どもに仮の棺を持って来るようにと注文されました、親ごさんはのちほど、いつ、どこへ埋葬なさるかをおきめにならねばなりませんでしたから。棺は薄い板でできておりまして、蓋を釘づけするにも、ほとんど時間はかかりませんでございました」
その間に検屍官は、棺の前の床に厚い葦のむしろをひろげ終わっていた。彼は湯を入れた銅の鉢をそばに置いた。
そこへリウ・フェイポとワン親方が入って来た。二人がディー判事に挨拶すると、判事はテーブルに行って、その奥の肘かけ椅子に腰をおろした。拳固で三回テーブルを打ち鳴らして、彼は言った。
「政庁によるこの特別な公判は、チャン・フーピアオ夫人、旧姓リウが死に遭遇せる様子に関して起きた、若干の疑問を解決するために召集されたものである。棺は開かれ、本政庁の検屍官が検屍を指揮するであろう。これは死体発掘ではなくして、単に慣例による予備調査の続行にすぎないのであるから、両親の同意は必要とされない。しかしながら、死者の父たるリウ・フェイポには証人として、また同業組合親方ワンには同一の資格において立会いを求めた。チャン・ウェンチャン博士は、自宅において拘禁せられているゆえに、参加するをえないのである」
判事の合図で検屍官が二束の線香に火をつけて、一束はディー判事のテーブルの端に置き、もう一束は、棺の脇の床に置いた花瓶に立てた。濃厚な灰色の煙が刺すような匂を講堂いっぱいに満たすと、ディー判事は葬儀屋に棺を開くように命令した。
葬儀屋は蓋の下にたがねを刺し込んだ。助手がこじって釘をゆるめ始めた。
二人の助手が蓋をあげかかったとき、ふいに葬儀屋が息をつまらせてあとじさった。助手たちはびっくりして音をたてて蓋を床にほうり出した。
検屍官が急いで棺に歩み寄って中を見た。
「恐ろしいことが起こりました!」と彼は叫んだ。
ディー判事はすかさず席を起《た》って、そばへ駆け寄った。ひと目見て思わず身を引いた。
棺の中にはきちんと服を着た男の死体が横たわっていた。その頭は凝固した血の塊だった。
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第七章
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恐ろしい発見がまた事態を複雑にし
判事は二人の主だった人物を訪ねる
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一同は無言のまま棺を囲んで立ち、信じられない目つきで恐ろしい死骸を見つめた。前額は恐るべき一撃で割られていた。乾いた血におおわれて、頭は吐気をもよおさせる様相を呈していた。
「娘はどこだ?」と、突如、リウ・フェイポが金切り声をあげた、「娘を返してくれ!」ワン親方が打ちひしがれた男の肩に腕を回して、その場を離れさせた。リウは荒々しくすすり泣いていた。
ディー判事はふいに身をひるがえして席にもどった。激しく音をたててテーブルを叩くと憤激して言った。
「全員、所定の場所にもどれ! マー・ロン、行って、この寺を調べろ! 葬儀屋、助手に死体を棺から出させよ!」
二人の男はのろのろと硬直した死体を棺から持ちあげると、葦《あし》のむしろの上におろした。検屍官はそのそばに膝をついて、注意深く血の染みこんだ衣服を取り去った。上着とズボンは粗い綿で、無細工につぎがいくつも当てられていた。それらを畳んで、きちんと積みあげてから、検屍官は指示を仰ぐように判事を見あげた。
ディー判事は朱筆を取りあげて、「身元不明の一男子」と公式の用紙の冒頭に記し、それを事務官に渡した。
検屍官は銅の鉢に手ぬぐいをひたすと、死体の頭から血を取り除いた。ぽっかりあいた無惨な傷が現われた。そのあと身体中を洗って、一寸また一寸と調べていった。ついに起《た》ちあがって検屍官は報告した。
「男子の死骸一体、筋肉組織の発達良好、推定年齢五十歳。爪の割れた荒れた両手、右|拇指《おやゆび》に顕著なたこあり。薄く短い顎ひげ、白毛まじりの口ひげ、禿頭《とくとう》。死因――前額部中央に幅一寸、深さ二寸の傷、双手剣もしくは大型斧による打撃と推定される」
事務官が用紙にこれらの詳細を書き込むと、検屍官は拇印《ぼいん》をおして、それを判事に提出した。ついで、ディー判事は死者の衣服を調べるように命じた。検屍官は上着の袖の中に木製の定規と汚れた紙片を見つけてテーブルの上に置いた。
判事はむとんちゃくに定規を見やると、紙片をのばした。彼は眉をあげた。紙きれを袖に入れながら、
「さて、出席者は全員、順次、死体のそばを通りぬけて、身もとを確認せよ。リウ・フェイポとワン親方から始める」
リウ・フェイポは損傷した顔をそそくさと見ると、頭を振って急いで通りすぎた。顔は死人のように蒼白だった。ワン親方はその例にならおうとしたが、ふいに驚きの叫びをあげた。嫌悪感を抑えて、死骸の上に身を屈めると、大声で叫んだ、
「この男を知っている! 大工のマオ・ユアンだ。先週、私の家へ来て、テーブルを修繕しました」
「どこに住んでいたのか?」すぐさま判事がきいた。
「存じません、閣下」とワンは返答した。「ですが、私の執事にきいてみます、この男を呼んだのは執事でございました」
ディー判事は無言で頬ひげを撫ぜた。そうしてだしぬけに葬儀屋を怒鳴りつけた、
「おまえは玄人《くろうと》の葬儀屋だ、自分の仕事は分かっているはずなのに、棺にみだりに手を加えられていたことを、なぜ、ただちに報告しなかったのか? それとも死んだ女を納めたのと、同じものではないのか? 白状せよ、真実を言え!」
恐れのあまり、どもりどもり葬儀屋は答えた、
「私は……私は誓います、それは同じ棺でございます、閣下! 手前は二週間前自分でそれを買いまして、手前の焼印をおしました。ですが、それは簡単に開けられたのでございます。それはただ間に合わせの棺でございましたから、私どもは十分注意して釘を打ち込みませんでしたし――」
ディー判事は我慢ならないという身振りで話をうちきらせた。
「この死体は」と判事は告げた、「適当に屍衣を着せて、棺に納めなおせ。埋葬については故人の家族と相談する。それまでは、巡査が二人で立番をせよ、この死体までが消え失せぬようにだ。巡査長、この寺の世話人を呼んで来い! どっちにしても、その犬あたまは何をやっているのだ? そいつはここに出頭していなければならないはずだ」
「世話人はたいへんな老人なのです、閣下」と巡査長があわてて言った。「門房の隣の小部屋で、信心深い人たちが日に二度持って来てくれる、一碗の飯で生きております。聾《つんぼ》で、ほとんど目も見えません」
「盲目で聾か、いかにもな!」判事は怒ってぶつぶつつぶやき、リウ・フェイポに向ってそっけなく言った、
「私はお嬢さんの遺骸の所在を遅滞なく捜査し始めるつもりだ」
そこへマー・ロンが帰って来た。
「おそれながら報告いたします」と彼は言った、「背後の庭も含めて寺中を調べましたが、死体を隠したり、埋めたりした形跡はまるでありません」
「ワン親方と帰って」とディー判事はマー・ロンに命令した、「大工の住所を聞き出して、ただちにそこへ向ってくれ。この数日間、彼が何をやっていたか知りたい。だから、彼に男の近親者があれば、政庁へ連行して尋問したいのだ」
こう語ってから、ディー判事はテーブルを打ち鳴らして閉廷を告げた。
講堂を立ち去るまえに、彼は棺に歩み寄って内部を細かに調べた。血の染みはなかった。それからまわりの床を調べたが、埃の上にごちゃごちゃかたまってある足跡にも、染みや、血を拭いとったあとは見つからなかった。明白に大工はどこかよそで殺されて、血がすでに凝固した後に、死体は講堂に運ばれて棺に入れられたのだ。一同に別れを告げると、ホン警部を従えて講堂をあとにした。
帰る道すがら、ディー判事はずっと黙っていた。しかし執務室に入って、ホンに手伝われて、心地よい部屋着に着替えたときには、鬱屈《うっくつ》した気分は消えていた。机の奥に腰をおろすと、微笑しながら彼は言った、
「やれ、ホンよ、解決すべき問題がどっさりあるよ。それにしても、チャン教授を自宅に拘禁しておいて良かったと思う。大工が袖の中に持っていたものを見てごらん!」
彼は紙きれをホンに押しやった。驚いてホンは大声を出した。
「チャン博士の名と住所が書いてありますね、閣下!」
「そのとおり!」ディー判事は満足そうに言った、「わが博識の博士がそれを見のがしたのは明白だ。彼に書かせた、あの名簿を見せておくれ」
警部は袖から畳んだ紙を取り出し、判事に渡しながら気落ちしたように言った。
「私に分かるかぎりでは、閣下、博士の筆跡は恋文のとはまるでちがいます」
「おまえの言うとおりだ。ほんのわずかな類似もないね」紙をテーブルに投げると、言葉をついだ、「昼食がすんだら、ホンよ、記録室で、リウ、ハン、ワン、スーの筆跡の見本をつきあわせてみたらどうかね。彼らはみんな、いろんなおりに政庁に書簡を送ってきているはずだ」彼は引出しから、大きな赤い公式の訪問用の名刺を二枚取り出して、警部に手わたすと、「この名刺を、ハン・ユンハンとリァン顧問官に届けさせてくれ、本日午後、私がお訪ねしたいという挨拶をそえてだ」
ディー判事が起《た》ちあがると、警部がきいた、
「チャン夫人の死体にいったい何が起きたのでしょう、閣下?」
「無益だよ、ホン」と判事は返答した、「関連している部分がどれもまだ組み合わされていないのだから、わけの分からない難問をあれこれ考えてもね。いまのところ問題全部をいっしょには考えないことにしている。これから自分の家で昼食をとり、妻たちや子どもたちがどんな具合か見るつもりだよ。先日、第三夫人が、二人の伜がもうほんとにみごとな文章を書いたと話した。でも、あの子たちは悪童二人組だからね」
午後も遅く、ディー判事が執務室へもどると、ホン警部とマー・ロンが彼の机のそばに立って、何枚かの紙の上に屈み込んでいた。ホンが顔をあげて言った。
「ここに四人の容疑者の筆跡の見本があります。しかしどれも踊子の手紙のには似ていません」
ディー判事は腰をおろして、さまざまな書簡を注意深く比較した。しばらくして彼は言った、
「そう、何もない。リウ・フェイポ一人が、筆勢が竹林書生のものをちょっと思い出させるだけだ。リウは恋文を書いたとき、自分の手をいつわったと想像することもできるだろう。筆というのは、はなはだ敏感な用具だからね。自分の筆づかいをうっかりさらけ出さないというのは、実際たいそうむずかしい、ちがった書体を用いるときにでもだ」
「リウ・フェイポは娘を通してチャン文学士の筆名を知ることはできましたよ」と警部は熱心に言った、「そしてべつに良い名がないので、自分の手紙に署名するのにそれを使ったんですよ」
「そう」と判事は考え込んだ。「リウ・フェイポのことを、もっと良く知らなければならない。それが、ハンと顧問官を引っぱり出そうと企てている動機の一つなのだ。つまり、彼らはリウについて、もっと多くのことを私に教えられるだろう。ところで、マー・ロン、大工についてどんなことが分かったかね?」
マー・ロンは悲しげに大きな頭を振った。
「あそこで分かったことはあまりないんです、閣下。大工のマオ・ユアンは湖近くへずっと下った魚市場のそばのあばら家に住んでいます。年とった女房だけがいますが、あんなにみっともなくて、年くった口うるさい女に、お会いになったことはないでしょうな! 亭主の留守をまるっきり心配しちゃいませんでした。というのも、仕事のときは、奴が何日も外へ行きっぱなしってことがちょいちょいあったからです。しかし、あの男を責める気もありませんね、あんな女に苦しめられてたんですからな。ええと、三日前です、チャン博士の家に、婚礼用の家具をなおしに行くと言ってマオは出かけました。仕事が何日かかかりそうだから、そこの召使いのところで寝場所を見つけるつもりだと女房に話したんです。それが女房が亭主を見た最後でした」
マー・ロンは顔をしかめて話をつづけた。
「奴のつれあいに悲しい知らせを告げましたら、こう言うだけでした、亭主が悪い終りかたをするだろうってことはとっくから予測していた、亭主はいつだって従弟のマオ・ルーと酒場や賭場へ入りびたってたんだからと言うんです。それからあの女ときたら、慰謝料を請求しました!」
「なんとあつかましい女だ!」ディー判事は怒って大声を出した。
「私は言ってやりました。殺害者が捕まって有罪がきまるまでは、もらえないんだって。あの女は私のことを名指しで呼び始めると、その金を私が猫ばばしたんだと非難するんですよ! とにかく、業《ごう》つく婆をほったらかして、隣近所へ聞き込みに行きました。そこの連中の言うことには、マオ・ユアンは気だてのいい働きものの男で、たまにちょいと飲みすごしたって、悪く言うものはいないそうです。あんな女を女房にしたら、男にはちょいと慰めが必要だというわけですな。しかし、従弟《いとこ》のマオ・ルーはほんとにごろつきだと、ついでに言ってました。マオ・ルーも職業は大工なんですが、住所は不定、金持の家のはんぱ仕事を見つけちゃ、県中をほっつき歩いて、そういうところで、ちょいとすきを見ちゃ何でもくすねてるんです。金は全部、飲むのと打つのに使ってしまう。近ごろは、あの界隈でだれも奴を見なかったそうで、酔ったあげくに喧嘩をやって、刃物でほかの大工を傷つけたものだから、大工の同業組合《ギルド》から追い出されたという話です。マオ・ユアンにはほかに男の近親者はありませんでした」
ディー判事はゆっくりと茶をすすった。それから口ひげを拭って言った、
「良くやったよ、マー・ロン。これで、少なくとも、殺された男の袖の中で見つかった、あの紙きれの意味は分かった。君はこれから教授の屋敷へ行って、そこで見張っているチャオ・タイといっしょに、マオ・ユアンがいつチャン博士の家に着いたか、どんな仕事をやったのか、そこを出たのが正確にはいつだったかを探り出すがいい。それからまた、あの近所を見張ってくれ、ことによると、窓から私を見まもっていた、あの怪しい男がまだ見つかるかもしれないからね」彼は起《た》ちあがり、警部に向って言葉をつづけた、「私が留守の間、ホンよ、君はリウ・フェイポが住んでいる街区へ行って、その辺りを調べてみてくれ。近所の店で彼と家人のうわさ話を集めてごらん。彼はリウ対チャンの件の告訴人だが、同時に殺された踊子の事件のおもな容疑者の一人だからね」
茶碗をからにすると、判事は院子《なかにわ》をつっきって門房へ歩いて行った。そこでは輿《こし》が待っていた。
外の通りはまだひどく暑かった。助かったことに、ハン家の屋敷は政庁から遠くなかった。
ハン・ユンハンは堂々たる門の内に立って判事を待っていた。通常の丁重な挨拶をかわしてのち、ハンは二つの円い鉢に盛った氷の塊で冷房されている、薄明るく光を入れた応接室へ客を案内した。ハンは茶卓の隣のゆったりした肘かけ椅子をディー判事にすすめた。ハンがいかにも柔順そうな執事に茶と茶菓子を言いつけている間に、判事は周囲を見まわした。家は百年以上は十分たっていると彼はふんだ。太い柱と彫物で飾った天井の梁の木材は年ふりて黒ずみ、壁を飾っている何点もの軸物の絵は、古い象牙のやわらかにくすんだ色合いを帯びている。部屋には独特の静かな雰囲気がしみわたっていた。
卵の殻のような陶器の古物の茶碗で香のよい茶をすすめてから、ハンは咳ばらいをして重々しく言った、
「私は昨夜の見苦しい振舞いを、閣下にいくえにもお詫び申しあげます」
「事情が事情でした」とディー判事は微笑して言った、「あのことは忘れましょう。ところで、ご子息は何人おありですか?」
「娘が一人だけでございます」ハンは冷淡に応じた。
気まずく話がとぎれた。さいさきのよい出だしではなかった。だが、まず自分におちどはないと判事は思いなおした。ハンほどの地位があって、大勢の妻たちと妾《しょう》たちがいる男なら、何人もの息子がいると、だれでも当然考えるだろう。気にしないで話をつづけた。
「率直にお話ししたほうが良いでしょう。画舫での殺人事件と、リウ・フェイポの娘さんの事件にはほとほと困却しています。この二つの事件にかかわりのある人びとの性格と背後関係について、あなたのご意見をとくとお聞かせいただきたい」
ハンは丁重に頭をさげて返答した、
「私は何なりと閣下のお役に立ちます。友人のリウとチャンの争いに、私は深く衝撃を受けました。両人ともわが小さな町の重要な市民でございます。閣下には友好的な決着をおつけ下さることと、私は希望もし、信頼申しあげてもおるのでございます。そのことはおそらく――」
「和解させようと考えるまえに」とディー判事はさえぎった、「私はまず、花嫁が自然死であったのかどうかを決定し、もしそうでなければ、殺害者を処罰せねばならないのです。けれども、死んだ踊子の事件から始めましょう」
ハンは両手をあげ、いらだって大声で言った、
「ですが、あの二つの事件は天と地ほども隔っております! あの芸妓は美しい女、多芸な女でございましたが、つまるところは職業的な踊子にすぎませんでした。ああいった娘たちといいますのは、おうおうにして、ありとあらゆる種類の好ましからぬ事柄にかかわりのあるものでございまして、天はあのものたちのいかに多くが暴力によって死ぬるかをご存じです!」判事のほうへ身を曲げると、彼はないしょ話のようにつづけた、「私は閣下にうけ合えます。もし政庁があの事件を少々、その……表面的に処理されるなら、当地でものの数に入るものはだれ一人、不服を唱えませんでしょう。それに、上《うえ》つ方《かた》が取るにたらぬ女の死に興味を示されるとは、まず思われないのでございます。さりながら、リウとチャンの対立の件は――はてさて! わが市の評判にひびきます、閣下。当地の私どもはあげて衷心《ちゅうしん》よりありがたく存ずるでございましょう、仮に閣下が示談に合意するよう両人を説得なされえますならばでございます、おそらくは示唆を――」
「法の施行に関する当方の見解は」とディー判事は冷たくさえぎった、「はっきり申して、みのりの多い話し合いを許すにはほど遠いものなのですよ。私は少々お尋ねするだけに留めます。第一に、踊子|杏花《きょうか》とあなたとの関係はいかなるものであったのか?」
ハンは顔が赤くなった。怒りを抑えるあまりに声を震わせながら、こう彼はきいた、
「その質問に返答を期待されておられるのか?」
「むろんですとも」と判事はものやわらかに言った、「でなければ、お尋ねはしなかったでしょうよ」
「ならば、私は拒否する!」ハンは怒鳴った。
「いま、ここでは、それはあなたの立派な権利です」判事は静かに意見を述べた。「私は政庁で同じ質問をあなたに提起します。そうすれば、あなたはそれに答えなければならないでしょう、法廷侮辱罪――鞭打ち五十の罰を受けないためにはです。いま私がこの質問をするのは、ただあなたのお気持を考慮してのことなのですよ」
ハンは灼《や》きつくような目をして判事を見た。ようやっとのことで自分を抑えると、抑揚《よくよう》のない声で返答した、
「芸妓杏花は美貌の女でございました。あれは達者な踊子で、あれの会話は人を楽しませてくれました。ですから、雇って、客人をもてなすにはまことにふさわしいと私は考えたのです。そのほかには、彼女は私にとって何ものでもありませんでした、あれが生きていようと、死んでいようと、私にはまったくどうでもよろしいのです」
「さきほど、お嬢さんがおありだと言われませんでしたか?」とディー判事は鋭く尋ねた。
ハンはあきらかに判事が話題を変えようとしてこう質問したのだと考えた。慎重に離れて侍立している執事に、砂糖漬の果実や甘いものを持ってくるように命じた。それからハンはうちとけて言った、
「さようでございます、閣下、名は垂柳《すいりゅう》と申します。自分の子をほめるべきではありませんけれども、あえて申しますれば、優れた娘でございまして、書画に大変な才能を見せております。しかも娘は――」そう話すとすぐにはにかんで自分で言葉をひかえた、「ですが、私の家のことなど、閣下は興味をお持ちではありますまい」
「二番目の質問をいたします」とディー判事は言った。「組合親方のワンとスーの人柄を、どのように見てらっしゃるか?」
「何年も以前に」とハンは形式ばった声で返事をした、「ワンとスーは同業組合《ギルド》の会員により全員一致で、彼らを代表して行動し、彼らの利益の面倒をみるよう選ばれました。品位のある人柄と申し分のない行ないのゆえに選ばれたのです。それ以上申しあげることはございません」
「つぎの質問はリウとチャンの争いの事件に関してです。教授はなぜあんなに早く辞職したのでしょう?」
ハンは椅子の上で居心地悪そうに身じろぎした。
「あんな昔のことをほじくり返さねばならぬのですか?」と、つっけんどんに尋ねた。「あの苦情を持ち出した女生徒が気がふれていたことは、疑問の余地なく完全に立証されております。それにもかかわらず、みずから言いはって、チャン博士が辞職を申し出ましたのは、何とも感にたえないことです。と申しますのも、孔子廟の学校の教授たるもの、たとい完全に潔白であることが照明せられたにもせよ、人にとやかくうわさを立てらるべきではないというのが博士の意見であったからです」
「その件については、役所の書類にあたってみましょう」
「ああ、関係書類にあたられても、そのことについては何も発見なされますまい」と、ハンは早口に言った、「さいわいにも、その件は政庁に持ち出されませんでした。手前ども、漢源《ハンユアン》のしかるべきものどもは、当事者たちが心を砕き、学校の校長ともども、かの件を収拾いたしたやに仄聞《そくぶん》しております。お上《かみ》に不必要なおてまをおかけ申しあげぬことが、閣下、手前どもの務めであると、愚考しおる次第にございます」
「私の気づいたところでは、そのようですな」と冷淡に言って判事は席を起《た》った。親切なもてなしに感謝すると彼はハンに言った。ハンに案内されて輿へ向いながら、この会見によって、ハンとの間に長い友情が結ばれることはまずありえまいと、顧みて判事は思った。
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第八章
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ディー判事は鳥や魚たちと話し合い
助手たちを前にして自説を要約する
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ディー判事が輿《こし》に乗ると、輿丁《かつぎて》たちが顧問官の家は角を曲ったすぐそこだと告げた。今度の会見は、ハン・ユンハンとやったばかりのより有益であるように、と判事は願っていた。自分と同じように、リャン顧問官は漢源《ハンユアン》ではよそものだから、漢源《ハンユアン》の市民に関して情報を提供することに、ハンみたいな良心のとがめに取りつかれてはいないだろう。
顧問官の家は立派な門を備えていた。観音開きの扉をはさんだ両側の太い柱には、雲と鳳凰の入りくんだ図柄が彫り込まれてあった。
古い木立が日ざしをさえぎっている前|院子《なかにわ》で、悲しそうな、長い顔の若い男がこの身分の高い客を迎えに出て来た。彼は、リァン・フェンといって、顧問官の甥で、その秘書を務めていると自己紹介し、顧問官が自身で知事に歓迎の挨拶を述べに出て来ないことについて、ごたごたと陳謝し始めた。ディー判事はさえぎって言った。
「閣下がご不調でいらっしゃることは承知している。緊急の公用について閣下と話し合わねばならぬのでなければ、私はあえて閣下にご面会を願いはしなかったのです」
秘書は深々と礼をすると、広々とした、少々薄暗い回廊に判事を案内して行った。召使いの姿は見られなかった。
小さな庭を横切ろうとしたとき、リァン・フェンがふいに足をとめた。神経質そうに両手をこすり合わせながら、彼は言った。
「私はこれがまことに変則的であることは存じております、閣下。かようなあわただしいやりかたで、かかるお願いを申し出ねばならぬことを、深く遺憾に思っておりますが……主人と会見なされましたのちに、恐れ入りますが、少々私とお話し合い下さる機会をお許し願えませんでしょうか? 大変な難儀にあっております。私にはほんとうに分からないのです――」
若者はうまく言葉を結ぶことができなかった。彼に探るような眼差しを投げると、判事はうなずいて承諾した。若者はあからさまにほっとした表情になった。彼は庭をつっきり、大きな入口に判事をいざなって重い扉を開いた。「閣下は間もなくおいでになりましょう」と若者は告げた。それから後ろへさがると、判事の背後で音もたてずに扉を閉めた。
ディー判事はまばたきをした。広々とした部屋にはほの暗い拡散した光が行きわたっていて、初めは奥の壁に白い四角形があるのしか見分けがつかなかった。ややあって、灰色がかった紙を貼った、低くて広い窓であることが分かった。
彼は家具に向う脛《ずね》をぶつけないように用心しながら、厚い敷物の上をそろそろと進んだ。しかし目が暗がりに慣れてきたとき、それが根拠のない用心だということが分かった。部屋にはほとんど家具がなかったのである。窓の前に高い机があって、その奥に大きな肘かけ椅子がそなえられており、それと隣り合って、側壁を背に、本がびっしりつまった一揃の書架のすぐ下に、背もたれの高い椅子が四脚あるのが家具のすべてだった。ほとんどからっぽも同然の部屋には、現実にはだれもそこに暮していないような、奇妙な寂寞《せきばく》たる雰囲気がただよっていた。
彩色陶器の大きな金魚鉢が、机のそばにある、彫物をほどこした黒い木の台にのっているのに気づいて、判事は歩み寄った。
「坐りなさい!」出しぬけに、甲高い、きいきい声が叫んだ。
ディー判事はよろめいてあとじさった。
けたたましい笑い声が窓から響いて来た。まごついて、彼はその方角を見た。そして微笑した。銀の針金でできた小さな鳥籠が、窓の片側に吊りさげられているのが見えたのだった。中には一羽の九官鳥が翼をばたつかせ、昂奮してぴょんぴょん跳ね回っていた。
判事は近寄ると、銀の鳥籠をつついて叱るように話しかけた、
「えらくびっくりさせたな、いたずら鳥め」
「いたずら鳥め!」と九官鳥はきいきい声で言うと、小さい、すべすべした頭をぴっと立てて、きらきらする片方の目で抜け目なさそうに判事をうかがった。「坐りなさい!」と、また甲高い声をあげた。
「はい、はい」と判事は言った。「けれど、もしよろしければ、そのまえに、あの金魚をちょいと見てみたいのですよ」
金魚鉢に身を屈めると、長い尾と鰭《ひれ》を引きずった黒金斑《くろきんまだら》の金魚が六、七匹、水面に現われて来て、大きな出っぱった目でまじめくさって彼を見あげた。
「おまえたちにやる餌がなくてごめんよ」とディー判事は言った。鉢の中央に、花の仙女の小さな像が岩の形をした台にのって、水の上に姿を現わしている。像は彩色陶器で繊細に形づくられていて、微笑している女神の顔は、頬には品よく紅《べに》がはかれ、その麦わら帽子はほんもののように見える。それに触れようとしてディー判事が手をのばすと、憤然として金魚たちは騒ぎたち、えらく昂奮して水面近くに水をはねかして泳ぎ回った。そんなに大事に養われている高価な生きものが、どれほどひどく昂ぶっているかを知って、判事は、そんなに激しく泳ぎ回っていては、長い鰭《ひれ》をだいなしにしてしまうだろうと気がかりになった。で、急いで書架のほうへ歩いて行った。
すると、扉が開いて、リァン・フェンが年老いて腰の曲った男を片腕に支えながら入って来た。判事は深く拝礼をして、秘書が主人を一歩また一歩と肘かけ椅子へ導いて行く間、立ったままうやうやしく待っていた。左手で若者の腕をつかんでもたれかかる一方で、顧問官は右手にした柄の曲った長い赤漆塗の木の杖で身を支えていた。ごわごわした褐色の錦織の、たっぷりした長衣を着て、大きな頭には、金糸で紋様を織り込んだ黒い紗の高い帽子をのせていて、前額には三日月型をした黒い前びさしをつけていた。それで、判事は彼の目を見ることができなかった。老人の豊かな灰色の口ひげ、長い頬ひげ、それと胸もとを三本の太い房になっておおっている純白の顎ひげに、彼は感銘を受けた。老顧問官が机の向うの肘かけ椅子にのろのろと身をまかせたとき、九官鳥が銀の籠の中で羽をばたつかせ始めた。「五千、現金だ!」と、ふいに金切り声を出した。老人は頭を動かした。秘書はあわててハンカチを鳥籠にかぶせた。
顧問官は両肘を机の上にのせて、大きな頭を前へ突き出した。ごわごわした錦織が一対《いっつい》の翼のように肩の両側に突っ立って、そのかがまった姿が窓を背にして浮きあがっているのを見ると、まるで巨大な猛禽がねぐらについているさまに似ていた。けれども、老人がもぐもぐ話し出すと、声は弱々しくて、はっきりしなかった。
「お坐り、ディー。君はわしの同僚、故ディー国務長官の息子じゃと思うが、うん?」
「おおせのとおりにございます、閣下」判事はうやうやしく答えた。彼は壁ぎわの椅子の一つに浅く腰をおろした。リァン・フェンは主人のかたわらに立ったままでいた。
「わしは九十じゃよ、ディー」と顧問官はまた話し始めた。「目が悪く、リューマチだ……それなのに何を期待できる、わしの年で?」
老人の顎はいっそう深く胸もとに沈み込んだ。
「手前は」とディー判事は始めた、「あえて閣下をおわずらわせいたしますことを、衷心《ちゅうしん》よりお詫び申しあげます。可能なかぎり簡潔に用件を申しのべたく存じます。私はただいま二件の不可解な犯罪事件に当面いたしております。疑いもなく、閣下は、漢源《ハンユアン》の市民たちがあまり開放的でない事実にお気づきでいらっしゃいます。彼らは――」
判事はリァン・フェンが彼に向って狂ったように頭を振っているのに気づいた。若者はすっと彼のところへやって来ると、こうささやいた。
「顧問官は眠ってしまわれました。近ごろでは、よくこうなられます。いまは何時間かひきつづき眠られましょう。私の書斎においで下すったほうがよろしゅうございます。私が召使いどもに注意いたしておきます」
ディー判事は老人に憐れみをこめた一瞥《いちべつ》を投げた。もう老人は身を曲げて机の上につっぷしていた、頭を両腕にのせて。ディーはその不規則な呼吸を聞いた。そこで彼はリァン・フェンの後に従った。若者は家の背後にある小さな書斎へ導いて行った。入口は開け放されていて、高い牆壁《しょうへき》に囲まれた、小さいが、手入れのゆきとどいた花園に面していた。
秘書はディー判事を、登記簿や帳簿が山積みになっている机のそばの大きな肘かけ椅子に坐らせた。「ただいま、閣下の世話を見ております老夫婦を呼びます」と彼はあわただしく言った。「そのものたちが閣下を寝室へお連れして行きましょう」
静かな書斎に一人残されて、ディー判事はゆっくりと顎ひげを撫ぜた。今日はついていないとがっかりして思った。
リァン・フェンが帰って来て、急いで茶の仕度をした。やけどをするほど熱い茶を判事にいれると、彼は腰かけに坐って、みじめな様子で言った。
「せっかく面会においでなされましたのに、折悪しく閣下が発作を起こしまして、まことに申しわけなく存じます。あるいは私でもお役に立つことができましょうか?」
「さよう、いや」と判事は返答した。「いつから顧問官はあのような発作を起こすようになられたのか?」
「半年ほどまえに始まりました、閣下」とリァン・フェンは溜息をついて言った。「首都におります顧問官の長子が、父親の私的な秘書を務めるよう、私を当地へよこしましてからもう八か月になります。私にとりまして、この地位を得ましたことは天の賜物《たまもの》でございました。真実を申しあげますと、私はこのリァン一族の零落した支族の一人だからでございます。ここで私は食べものと住む場所、それに第二次文官試験の準備をする十分な時間のゆとりを見出しました。初めの二か月は万事が順調でした。顧問官は毎朝、一時間ばかり私を書斎に呼びまして、手紙を筆記させたり、気分のよろしい折には、その長い閲歴から、あらゆる種類の興味深い逸話を語ってくれたものです。彼はたいへんな近視ですので、衝突するのを避けるために、家具をほとんど全部、あの部屋から移させました。いつもリューマチをこぼしてもおりましたが、精神は驚くほど明晰でした。大規模な所有地の運営は自身で監督し、しかもきわめてたくみにやっておりました。
ですが、六か月ほどまえでございます、夜の間に発作にかかったに相違ありません、にわかにものを言うのが困難になり、しばしば完全にうつけてしまうように見えました。ほぼ一週間に一度だけ私を呼びまして、それから話し合っております最中に、いつもうつらうつら眠り込んでしまうのです。それにまた、自分の寝室に何日間も籠もろうとすることがよくあります、ただお茶と松の実だけをとり、自身で用意した草木の煎薬を飲むだけなのです。不死の霊薬を発見しようとしているのだと、あの老人夫婦は思っております」
ディー判事は頭を振って、溜息といっしょに言った。
「あのような高齢に達することがめでたいとはかぎりませんな」
「災厄でございます、閣下!」若者は大声を出した。「私が閣下の助言をお願い申しあげますのも、そのためなのです。病気にもかかわらず、自分の財産に関する事柄は、万事自身で指揮すると言いはっております。私には見せない手紙を書きますし、リウ・フェイポ氏が少しまえに紹介しました、取引斡旋人のワン・イーファンと長い談合をいたしました。私はそうしたことに加わることを許されておりません。けれども、私は帳簿をつけねばなりませんので、近ごろでは顧問官が法外な商取引きに従事していることに気づきました。非常に多くの良い耕地をばかばかしい安値で売っております。あの人は財産を売りつくしてしまいます、閣下、とほうもなくばか安い値でです。家族は私に責任を持たせようとしています。しかし私に何ができましょう。あの方が望みもしない忠告を私がやるなんて、彼らは私に期待できはしません!」
判事はものわかりよくうなずいた。それはほんとうに微妙な問題だった。少しして、判事は言った。
「それは容易な仕事でも、気持よい仕事でもないでしょうね、リァンさん。だが、あなたは顧問官の子息に、この状況を知らせなければならないでしょう。どうして彼に一、二週間ここへ来るよう申し入れないのです? そうすれば、彼は自身で、自分の父親が耄碌《もうろく》しているのを見るでしょうに」
リァン・フェンはこの助言をうまい考えだとは思わないらしかった。判事は彼を気の毒に思った。あのような赫々《かくかく》たる人物の貧しい縁者にとって、一族の長に関する歓迎されない知らせを家族に送ることがどれほどやりにくいか、彼は十分に察した。
「仮にあなたが顧問官の誤った管理の実例をいくつか私に示せるのなら、私は喜んで、顧問官にはもはや業務を差配する能力がないと、知事たる私自身が私個人《わたくしこじん》として確信している旨、あなたのために覚書を作ってやりましょう」
若者の顔がぱっと明るくなった。感謝して彼は言った、
「それはこのうえない助けになると存じます、閣下。ここにもっとも新しい、顧問官の取引きに関する要約がございます、それを私は自分自身の方針をきめるために作成いたしました。そしてここには、あの方の指示が欄外に自筆で書かれている登記簿がございます。筆跡は近視のせいで非常に小さいのですが、書かれていることは十分判読できます。その地所に対する申込み価格が、実際の価値よりずっと低いことがお分かりでしょう。買手が金ののべ棒で現金払いしたのはほんとうです、ですけれども――」
ディー判事はリァンが手渡した要約に深く気を奪われているように見えた。だが、彼はその内容を理解してはいなかった。ただ筆跡だけを見ていた。それは竹林書生が死んだ踊子に送った恋文の筆跡にそっくり似ていたのである。
彼は顔をあげた。
「もっと良く調べるために、君の要約は持って行きますよ」巻いて袖に入れながら、彼は言った、「文学士チャン・フーピアオの自殺は、君にとって大きな打撃だったにちがいない」
「私にとってですって?」リァン・フェンは驚いて尋ねた。「それについて世間が話しているのは聞きました、もちろん。ですが、私はあの不運な若者に会ったことがありません。この町では、ほとんど識り合いがいないのです、閣下。私はたまに外出いたします、ただ孔子廟へ行くだけですが。そこの図書館の本にあたるためにです。私は自分の自由時間はすべて勉学に使っているんです」
「でも、君は柳街訪問の時間は見つけるのでしょう?」とディー判事は冷淡にきいた。
「だれがそんな中傷話をひろめているんです!」リァン・フェンは憤慨して叫んだ。「私は夜はけっして外出いたしません、閣下、ここの老夫婦がそのことを確証するでしょう。ああいう浮いた婦人たちには、これっぽちの興味もありません。私は……そのうえ、そんな逸脱行為のための金を、私がいったいどこで手に入れるのでしょう?」
判事は返事をしなかった。起《た》ちあがって、庭に面した戸口へ行った。彼は尋ねた、
「顧問官は、まだお元気だったころは、いつもあそこへ出ましたか?」
リァン・フェンはすばやい眼差しで判事を射た。それから返答した。
「いいえ、閣下、これは裏庭にすぎませんので。あちらの小さな門は家の背後の露路に通じております。主要な庭は屋敷の向う側にございます。閣下は私に関するそのような悪いうわさを信用なさらないと存じますが? ほんとうに想像できません。だれが――」
「たいしたことではありませんよ」とディー判事はさえぎった。「ひまなおりに君の要約を調べて、いずれ君に知らせましょう」
若者はやたらと礼を述べてから、第一の院子《なかにわ》に判事を導き、輿に乗るのを助けた。
ディー判事が政庁に帰ってみると、ホン警部とチャオ・タイが執務室で待っていた。ホンが昂奮して言った、
「チャオ・タイがチャン博士の家で重要な発見をしました、閣下!」
「それはうれしい知らせだね」机の奥に坐りながら、「話してくれ、何を発見したのだ、チャオ・タイ?」
「それほどではないんです、実際は」とチャオ・タイは困ったように言った。「肝腎《かんじん》の仕事では、何の前進もえられなかったんですよ。新婚部屋で閣下をうかがっていたへんな男を探す二番目のほうをやったんです。仏寺からもどったあと、マー・ロンが手伝ってくれましたが、あの男についても、その所在についてもわずかな手がかりも見つかりませんでした。大工のマオ・ユアンについても、特別なことは見つけ出せなかったんです。執事は婚礼の二日まえに大工を呼びました。最初の日、マオは楽隊のために木の壇を作って、門房で寝ました。二日目には、家具をいくつかと、新婚部屋の屋根を修繕しました、雨漏りしていたからです。また門番のところで寝て、翌朝は大きな食卓を修理しました。そのあとは、台所で手を貸して、婚礼の宴が始まると、召使いたちが残り酒を飲むのを助けて、ひどく酔っぱらって寝に行ったんです。つぎの朝、花嫁の死骸が発見されると、マオは好奇心から、教授が息子を探して見つからずに帰って来たときまで、ずっと留まっていました。それから執事が、マオが外の通りで、チャン学士の帯を見つけた漁師と立ち話しているのを見ました。マオは道具箱と斧をもって出て行きました。この間、チャン博士はマオと話をしませんでした。マオに指示を与え、賃金を払ってやったのは執事だったのです」
チャオ・タイは短い口ひげを引っぱって、また話をつづけた。
「今日の午後、教授が昼寝をしているとき、教授の本の蒐集を見てみました。私にはたいへん興味深い弓術に関する挿絵入りのすばらしい古書を見つけましたが、それをもとにもどしたとき、一冊の古い本がその奥にあるのを見つけたのです。囲碁の手引書でした。ぺらぺらめくって見ますと、最後のページに、死んだ踊子が袖の中に持っていたあの問題が見つかったんですよ」
「すごいぞ!」とディー判事は叫んだ。「その本を持って来たか?」
「いいえ、閣下。それがなくなっているのを発見したら、教授が疑い深くなるかも知れないと思いました。マー・ロンを残して家を見張らせて、孔子廟の向いにある本屋へ行きました。本の標題を告げましたら、本屋はまだ一冊あると言って、さっそく、あの最後の課題のことを話し始めたのですよ。本屋の話だと、あの本は七十年まえに、ハン・ユンハンの曽祖父が刊行しました。人がハン隠者と呼びならわしていた調子っぱずれの老人でしたが、碁の名人として有名で、彼の手引書はいまでも広く研究されています。囲碁愛好者たちは二世代にわたって、あの最後の問題をあれこれ考えましたが、まだだれ一人、その意味を見つけ出すのに成功していないんです。本は何も説明してませんから、いまでは一般に、印刷者があの終りのページをまちがって加えたのだと、いちおう考えられているそうです。ハン隠者は印刷がまだ進行中に急死しました。校正刷も見なかったわけですな。その本を買って来ました。自身でごらんになれますよ」
チャオ・タイは判事に古ぼけた黄色い本を手わたした。
「何ておもしろい話だ!」ディー判事は叫んで、熱くなって本を開くと急いでまえがきに目を通した。
「ハンの祖先はすばらしい学者だった」と彼は感想を述べた。「このまえがきは非常に風変わりな、しかしすぐれた文体で書かれている」終りまで本をめくって行くと、引出しから囲碁の問題の紙片を取り出して印刷された本に並べて置いた。「そうだ」と彼はつづけた、「杏花はこの本からこの紙を剥《は》ぎ取ったのだ。しかし、なぜだ? 七十年前に印刷された碁の問題が、いまこの町でもくろまれつつあるたくらみにどう関連しているんだ? わけの分からないことだ!」かぶりを振りながら、彼は本と紙片を引出しに納めた。そうして警部に尋ねた、「リウ・フェイポについて、何かもっと見つかったかね、ホン?」
「われわれの事件に直接関係を有するものは何もありません、閣下」とホンは返答した。「もちろん、リウの娘の急死と死体の紛失は、あの界隈で話のたねになっています。リウはあの結婚が不幸に終わるだろうと予感した。で、それを取り消そうとしたにちがいないと言ってます。私はリウの屋敷の近くの角にある居酒屋で、リウの輿《こし》の輿丁《かつぎて》の一人といっぱいやりました。その男が言うには、リウは雇人にはひどく好かれています。少々厳格ですが、ひんぱんに旅に出ているので、雇人たちは総体に安気に暮していると言うのですな。ですが、その男は奇妙なことを話しました。男は言いはるんです、リウがときどき隠身《おんしん》の術を使うと」
「隠身の術だって?」と、びっくりして判事がきいた。「その男はそれで何を言おうとしたんだ?」
「さよう」とホンは言った、「リウが書斎に退いたあと、執事がそこへ何か尋ねに行ったところ、部屋がからっぽだったことが何度も起きたらしいのですな。執事はそれで家中くまなく主人を探したけれど、どこにも見あたらず、おまけにだれも主人が外出するのを見たものがなかったのです。そのあと、夕食時に、いつも執事は回廊か庭で、リウが歩いているのにぱったり出会いました。そういうことが初めて起きたとき、執事がリウに至るところを探したが見つからなかったと告げると、リウは激怒して、老ぼれのばかもので、蝙蝠《こうもり》のようにめくらだと執事を罵ったそうです。そしてリウはずうっと庭の亭《ちん》に坐っていたのだと言いましたが、その後、同じことがくりかえし起きても、執事はもう何も言わなかったというんですな」
「おそらく」とディー判事は言った、「その輿丁はいい機嫌になりすぎていたのさ。さて、この午後に私がやった二つの訪問についてだが、ハン・ユンハンがうっかりして口外した。チャン博士が定年前に退職したのは、女生徒の一人が道徳に違背したというかどで彼を告発したのが理由だったというのだよ。ハンは教授は潔白だと言いはったけれども、彼によれば、漢源《ハンユアン》のおもだった市民はみんな高潔な人物ばかりなのだそうだ。というわけだから、リウが自分の娘にチャン博士が乱暴したと告訴したのは、つまるところ、即座にわれわれが思ったのとはちがって、ありえないことではないのかもしれないのだ。第二に、リァン顧問官にはいっしょに暮している甥があって、その甥の筆跡が、われらの、とらえがたい竹林書生のそれにそっくり似ていると私には思われる。その手紙を一通くれ」
ディー判事はリァン・フェンがよこした要約を袖から出して、ホンが彼の前に置いた手紙とつき合わせて調べた。それから、拳でテーブルを打つと、ぶつぶつ不機嫌に言った、
「ちがう。こいつは、このいらいらさせる事件で、私たちがいつも出くわすのと同じことだ! ぴったり合致しないのだ。見ろ、これは同じ書体の筆跡で、同じ墨と同じ種類の筆で書いてある。だが、筆勢が同一ではない、まるでちがう」。頭を振って彼は話しつづけた、「とはいえ、全体には符合するだろう。老顧問官は耄碌《もうろく》していて、年よりの夫婦のほかは、あの大きな邸宅に他に召使いはいない。あのリァン・フェンという男は小さな裏庭に面した一角にいて、裏の露路に出る戸口がある。だから、外から来る女と秘密の逢曳《あいび》きをするのに、理想の状態にあるわけだ。たぶん、死んだ女がいつも午後をすごしたのはそこだったのだ。彼はどこかの店で彼女と知り合うことができた。リァン・フェンは文学士チャンを知らないと言いはったけれども、そのことを私たちが照合できないことは十分承知している、チャンは死んでいるのだからね。教授が君のために作った名簿にリァンという名はのっているかね、ホン?」
警部はかぶりを振った。
「たとえリァン・フェンが杏花と恋仲だったにしても」とチャオ・タイが考えを述べた、「彼には彼女を殺せなかったでしょう、船にいなかったのですから。そしてチャン博士にも同じことが言えますね」
ディー判事は腕組みをした。顎を胸に埋めて深く考え込んでいたが、ついに口を開いた。
「率直に認めると、それについては目鼻もつかないのさ。君ら二人はもう食事に行っていい。そのあと、チャオ・タイはチャン博士の家にもどって、マー・ロンと交代して見はってくれ。出かけるついでに、警部、君は事務官に私の夕食はこの執務室へ運ぶように伝えてくれ。今夜、二つの事件に関する記録を全部読みなおして、手がかりが見つけられないかどうか調べるつもりだ」彼は怒ったように口ひげをぎゅっと引っぱった。そしてまた、「さしあたり、われわれの理論がそれほど見込みがあるとは思われない。第一に、画舫上の殺人。一人の踊子が殺された、彼女が私に犯罪計画を漏らすのを防ぐためにね。四人の男にその機会があった、つまりハン、リウ、スー、ワンだ。その計画は、七十年もたっているのに、まだ解決されていない囲碁の問題と何か関係がある。踊子には秘密の情事もあった――たぶん彼女の殺害とは無関係だろうが。彼女の恋人は、恋文に見つかった筆名になじんでいたチャン博士か、あるいは同じ理由に加えて、筆跡が近似しているリウ・フェイポか、あるいはまた、筆跡の近似とともに自分の住まいで彼女と秘かに会える絶好の機会があったリァン・フェンかである。
第二、学識は豊かだが、道徳は疑わしい一人の教授が義理の娘に乱暴し、娘は自殺する。その花婿もまた自殺する。教授は検屍を受けずに死体を埋葬させようとする、だが、一人の大工が真実を疑う、一人の漁師と話をしたためにだ――この男の所在をつきとめてみることを心に留めておいてくれ、ホンよ――そうしてその大工がたちまち殺害される、明らかに彼自身の斧でだ。そして教授は、花嫁の死体があとかたもなく消えてしまうようにとりはからう。
以上だ。だが、君たち二人はここで何かが起きているとは考え始めるな。ありがたいことに、そうではない。ここは眠ったような小さな町だ。ここでは何事も起こりはしない――ハン・ユンハンがそう言うのさ。では、おやすみ!」
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第九章
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判事は大理石の露台上に月を楽しみ
夜の視察に出かけて奇異な話を聞く
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夕食を終えると、ディー判事はテラスへ茶を持って来るように事務官に言いつけた。
判事は広い石の階段をゆっくりと登って、坐りごこちのいい肘かけ椅子に腰をおろした。涼しい夜風が雲を吹きはらってしまっていた。満月が湖のひろびろとした水面に異様な輝きを投げかけている。
彼は熱い茶をすすった。事務官はフェルトの靴で音もたてずに立ち去って行った。判事は広いテラスにまったくひとりだった。満ちたりた歎息をつきながら長衣をくつろげると、椅子に身を沈めて月を仰ぎ見た。
彼は過ぎた二日間の出来事を再検討しようとした。けれども自分が意気阻喪《いきそそう》していて、考えを集中できないことに気がついた。脈絡のない映像が、心の目をつぎつぎにかすめて行った。水の中からじっと彼を見つめている死んだ芸妓の顔、殺された大工の損傷された恐ろしい頭、新婚部屋の窓の外の憔悴《しょうすい》した顔――こういったものがすべて、迅速に連続しながらぐるぐる回転しつづけた。
ディー判事は我慢できなくなって起きあがった。大理石の欄干に寄って立った。下方の町は人びとの活動で息づいている。孔子廟の前の市場から、かすかに昇ってくるざわめきを聞くことができる。これは私の町だ、私の庇護を信頼している何千もの人びとがいるのだ。けれども、陋劣《ろうれつ》な殺人者たちが、ひょっとすると何か新しい犯罪をたくらみながら、あそこをこっそり歩き回っている。そして私は、知事であるのに、それをとめることができない。
ひどくいらいらして、判事はテラスを歩き回り始めた、手を後ろに組んで。
ふいに彼は足をとめた。ちょっと考え込むと、くるりと向きを変え、急いでテラスを立ち去った。
人気のない執務室で、彼は廃棄された衣類の入っている箱を開け、色あせた青木綿の古いぼろ長衣を選び出した。その何ともみっともない服を着た上に、古ぼけてつぎのあたった上着をつけると、腰のまわりに縄を結んだ。紗《しゃ》の帽子をぬぎ、髻《まげ》をほどいて、汚れたぼろで髪を縛った。二緡《ふたさし》の銭を袖に入れると、外へ出て、暗い院子《なかにわ》を忍び足で横切って、脇の戸口から政庁をすべり出た。
外の狭い露路で、土埃をいっぱいすくいあげて、顎ひげや頬ひげにすり込んだ。それから通りを渡ると、市中へ向う階段を降りて行った。
市場に着くと、たちまち彼はごったがえす人混みに呑み込まれた。人を押しのけて屋台に近づいて、いやな臭いのする脂《あぶら》で焼いた油菓子を買って無理をして一口噛み取ると、その脂を口ひげや頬いちめんになすりつけた。
あちらこちらぶらぶら歩き回りながら、その辺をうろついている浮浪者のどれかと話を始めようとしたが、みんな自分の仕事に夢中のように見えた。彼は肉団子売りに話しかけようとした。だが、彼が口を開くより先に、その男は急いで銅銭を一つ彼の手に押しつけると、あわただしく景気よく怒鳴った、
「最上の肉団子だよ、一個がたったの五銭!」
安い食い物屋なら、暗黒街に接触するもっと良い機会があるにちがいないとディー判事は考えなおして、「熱い麺」と書いてある赤い提灯が見える狭苦しい横丁に入って行った。
入口の汚れた垂幕《たれまく》をかきわけると、焼けている脂肪と安酒の臭いが判事を迎えた。十数人の苦力《クーリー》たちが木のテーブルを囲んで、さわがしい音をたてて麺《めん》をすすり込んでいる。ディー判事は隅のテーブルの奥のベンチに腰をおろした。きたならしい給仕が寄って来ると、判事は麺を一杯注文した。暗黒街のしきたりを調べたことがあったから、彼は自由に隠語を使えたが、それでも給仕は彼に怪しむ目つきを投げかけた。
「どっから来なすったんで、よそのお人?」と給仕は愛想のない声できいた。
そういう自足した小さな世界では、よそ者はだれでもすぐ気づかれてしまうことを見のがしていたのを覚って、判事は狼狽した。彼はあわてて返事をした。
「今日の午後、彊北《チアンペイ》からここへ着いたばかしよ。どっちみち、おめえにゃかかわりのねえこった。麺を食わせりゃ、銭《ぜに》は払うぜ。急いだ、急いだ!」
男は肩をすくめると、奥の調理場に注文を大声で伝えた。
ふいに入口の垂幕が荒っぽくかき分けられて、二人の男が入って来た。前のは背の高い、たくましい男で、だぶだぶのズボンをはいて、胴体をおおった袖なしの上着からは、長くて、筋肉の張った腕が剥《む》き出しになっていた。顔はほとんど三角で、こわくて短い顎ひげと逆立《さかだ》ちの鼻ひげがついている。もう一人はつぎのあたった長衣を着た痩せた男で、左目には黒い絆創膏を貼りつけていた。男は連れを肘で突いて判事を指さした。
二人はさっとテーブルに歩み寄ると、両脇に座り込んだ。
「だれがてめえっちにここへ坐ってくれと頼んだ、ええ、犬あたま?」と判事は唸《うな》った。
「うるせえ、うすぎたねえ場所ふさぎ!」背の高い男が鋭い声で言った。判事は匕首《あいくち》の先が脇腹に突きつけられるのを感じた。片目の男がぴたりと身を寄せた。にんにくとすえた汗の刺すような臭気が発散していた。男はあざ笑った。
「市場でおめっちが銭をちょろまかすのを見たぜよ。わいら、おもらいさまがよ、おれっちの飯碗から、うすぎたねえ場所ふさぎがぺろぺろやんのを許してくれると思ってんのかえ?」
判事は即座に自分がどれだけばかげたへまをやったかが分かった。連中の組合《ギルド》に入ってもいないで乞食を仕事にすれば、連中の古くからの不文律を深刻に犯したことになるのだった。
匕首の先がいちだんとはっきり感じられて来た。長身の男がいらだって、「外へ出ろ! 後ろに静かな庭がある。わいらの匕首が、てめえにここにいる権利があるかねえかを決める」
ディー判事はすばやく考えた。彼は優秀な拳闘士で、習練を積んだ剣士だったが、暗黒街で行なわれている匕首の戦いにはまるっきり無知だったのである。身分証明書を出して見せるのは、言うまでもなく問題外だった。州全体のお笑い草になるくらいなら、死んだほうがましだ。最上の策は無頼漢たちを挑発して、いま、ここで喧嘩をすることだ。たぶん苦力《クーリー》たちが乱闘に加わるだろうから、活路は見つかるはずだ。力まかせに一突きして、彼は片目の男を床に引っくりかえした。同時に右肘で後ろを一撃して匕首を打ちはらった。脇腹に鋭い痛みを感じた。だが、もう躍りあがることができた。彼は匕首使いの顔面に拳を強力に叩き込んだ。ベンチを蹴とばして、走ってテーブルの向うへ回った。腰かけをつかみあげると、脚を一本むしり取って棍棒《こんぼう》にして、楯のように腰かけをかざした。大声で罵りながら、二人の無頼漢は先を争って判事に向って行った。二人とももうおおっぴらに匕首を見せつけている。苦力たちが振り向いた。乱闘に加わるどころか、いい勝負がただで見物できることに満足を決め込んだのだった。
長身の男が匕首を構えて突いて出た。判事はその突きを腰かけで受け流すと、間に合わせの棍棒をもう一人の男の頭に打ち込んだ。男が敏捷に頭をひょいとさげてかわしたとき、獰猛《どうもう》な声が入口から叫んだ、
「ここで騒ぎを起こしてるなあ、だれだ?」
ちょっと猫背の青ざめて痩せた男が近づいて来た。二人の無頼漢はあわてて匕首を引っ込めて礼をした。節くれだった杖に手をおいて、その年とった男はその場に立ったまま、灰色のふさふさした眉毛の下から、ずるそうな目で三人をじろじろと見た。古びた茶色の長衣を着て、脂《あぶら》光りのした頭巾をかぶっていたが、まちがいようもなく、男には重々しい雰囲気があった。がっしりしたほうの男を見て、彼は不機嫌に言った。
「何をやってるんだ、マオ・ルー? 市中で人殺しするのは、わしが好かねえってことは知ってるはずだ」
「場所ふさぎを殺すな、きまりですぜ」と相手はぶつくさ言った。
「そいつを決めるな、わしだ!」と老人はぶっきらぼうに言った。「乞食組合《こじきギルド》の長として、わしにはわしの責任があるんだ。わしは話も聞かずに人をとがめたりはせん。おい、おまえさん、何か言いぶんがあるかね?」
「あんたに会いに行くめえに、ちょいと腹に入れてえと思っただけでさ」とディー判事はむっつり言った。「あっしはほんの二、三時間めえに、このやかましい町に来たばかしでしてね、だけど、ここではおだやかに麺も食えねえってのなら、もとんとこへけえったほうがましでさ」
「そりゃ、ほんとですよ、親分」とあの給仕が話しに加わった。「たったいま、あっしが話しかけたら、やつは彊北《チアンペイ》から来たんだって言いましたぜ」
灰色の顎ひげは思いをめぐらすように判事を見てきいた。
「銭はあるのかね?」
判事は袖から一緡《ひとさし》の銭を取り出した。相手は驚くべきはやさで、彼の手からそれをひったくると、落着きはらってこう言った。
「入会金は半|緡《さし》だがの、まるまる取っておく、おまえさんの善意の印にだ。毎晩、|赤い鯉《ヽヽヽ》ってえ旅籠《はたご》に来て、わし杭にかせぎの一割を渡すんだぜ」番号と何か組合の印を書いた薄ぎたない木の札をテーブルに投げ出して言葉をそえた、「これがおめえの鑑札よ。うまくやんな!」
背の高いごろつきが胸くその悪くなる目つきで男を見て、
「あんたが頼んだって――」と話しかかった。
「かっこつけるんじゃねえ!」と乞食の親分は噛みつくように言った。「おめえが大工組合を叩き出されたとき、おめえを拾ってやったのがわしだってことを忘れるんじゃねえ。どっちみち、てめえはここで何かやってるんだ。てめえが|三※[#「木+諸」、unicode6AE7]島《さんしょとう》へ行ったってことは聞いたぜ!」
マオ・ルーはまっさきに友達を見やって何かぶつくさ言った。片目の男はうすら笑って言った、
「裳裾《もすそ》をひいたお友だち! 野郎ったら、あまを連れて来たんだけどよ、そいつが病気のふりしてるんでさ。そいでもって、やっこさん、あんなに荒れ模様なんで!」
マオ・ルーは罵って、
「きやがれ、どあほう!」と唸った。親方に頭をさげると、二人は出て行った。
ディー判事は灰色の顎ひげをもっと何か話に引き込んでおきたかったが、そのお偉いさんはもう彼には関心がなくなっていた。男は向きを変えると、給仕にうやうやしく入口へ送られて行った。
判事はもとの席へもどった。麺のどんぶりと酒のとっくりを前に置いて、給仕が話しかけた。不親切な調子ではなかった。
「不幸な誤解ってやつよ、兄弟! ほれ、亭主からあんたに酒を一杯だ、ただだぜ。ちょくちょく来いや!」
ディー判事は静かに麺を食った。麺はびっくりするほど食欲をそそった。あれはいい勉強だったと胸の中で考えた。仮にもしまた変装して外出することがあれば、旅渡りの医師か易者《えきしゃ》のかっこうを選ぼう。そういう連中は一つところへ数日間しか留まらないのが原則だし、同業組合に組織されていないからだ。麺を食い終わったとき、脇腹の傷が出血しているのに気がついた。銭を払って外へ出た。
彼は市場の薬屋へ行った。傷を洗いながら、薬屋の助手が言った、
「ついてたね、にいさん! ただのかすり傷だよ、今回は。おまえさん、相手をこっぴどくやっつけたね」
助手は傷に油の膏薬を貼った。判事は銅銭五枚を払って、また街へ出た。政庁のある街区へあがっていく石段をゆっくり登って行くと、商店ではもう木の鎧戸を閉めかけていた。政庁の前を走っている平らな通りに来たとき、彼はほっと吐息をついて、その辺りに番人が一人もいないのを確かめてから、急いで通りを横切って、脇の入口がある狭い露路にすべり込んだ。ふいに彼は立ちどまり、それから壁にぴたりとはりついた。ずっと前方、脇の入口の前に黒い服を着た人影を見たのだった。男は前屈みになって、あきらかに鍵を調べている。
ディー判事は男が何をやっているのか見ようとして目を緊張させた。急に男は身を起こして、露路の入口を振り返った。判事にはその顔が見えなかった。男は黒い布を頭に巻きつけていたのである。判事を見ると、あわてて身を翻《ひるが》えして逃げようとした。だが、ディー判事は三歩|跳《と》んで男に追いつき、腕をつかんだ。
「はなして!」と黒い姿は叫んだ。「でないと、大声を出します!」
仰天して、判事は手をはなした。それは女だった。
「こわがることはない」と彼は急いで言った。「私は政庁のものだ。あんたはだれだ?」
女はためらった。それから震え声で言った。
「あなたは追剥ぎみたいよ」
「特別な使命で変装して出かけたのだ」判事はいらいらして言った。「さ、言え、ここで何をしている?」
女は肩掛けをさげた。聡明そうな、たいそう魅力的な顔をした若い娘だった。娘は言った、
「私は緊急の用件で知事に会わなければならないんです」
「それなら、なぜ正門に出頭しないのかね?」とディー判事はきいた。
「職員には、私が知事に会いに来たことを知られてはならないんです」娘は早口で言った。「下女の注意を引いて、知事の官邸へ連れて行ってもらおうと思ったんです」探るようにこちらを見て尋ねた、「あなたが政庁の人だと、どうして私に分かります?」
判事は袖から鍵を取り出して扉を開けた。彼はそっけなく言った、
「私が知事だ。ついて来なさい」
娘は息をのんだ。判事に近づきながら、せかせかしたささやき声で言った、
「私は垂柳《すいりゅう》、ハン・ユンハンの娘でございます、閣下! 父が私をよこしました。父は襲われて傷を負ったのです。急ぎおいで下さるよう願っております。閣下しかこのことを知ってはならぬのだと申しました。このうえなく重大なことなのです」
「だれが父上を襲ったのか?」驚いてディー判事はきいた。
「芸妓の杏花を殺した者でございました! どうぞすぐに私どもへおいで下さいまし、閣下、遠くはございません」
判事は中へ入った。庭の壁沿いに伸びている植込みから、赤い薔薇を二本|手折《たお》った。そして露路へもどると、扉に鍵を掛けて、二本の花を娘に手わたした。「これを髪に挿しなさい」と言いつけた。「そして家へ道案内なさい」
娘は言われたとおりにしてから、露路の入口へ歩いて行った。判事は数歩おくれてついて行った。夜警か、夜おそい通行人に出会ったとしても、娼婦が客を引いて家に帰るところだと思うだろう。
ハンの邸宅の豪華な門まで、わずか歩いただけだった。娘は家を回って、さっさと厨房の入口へ判事を導いて行った。胸から取り出した小さな鍵で扉を開くと、ディー判事をぴたりうしろに連れて中に入った。二人は小さい庭をつっ切って、側面の建物へ向った。垂柳が扉を押し開けて、中へ入るように判事に合図した。
小さいが贅《ぜい》をこらした部屋の奥の壁は、彫刻をほどこした白檀《びゃくだん》の大きくて高い長椅子がほとんど全面を占めている。その長椅子に、いくつもの大きな絹の枕に埋まって、ハンはあおむけに横になっていた。窓ぎわの茶卓の上の銀色の蝋燭が、青白い、やつれた顔を照らしている。異様ないでたちをした判事を見ると、彼は驚きの叫びをあげて起きあがろうとした。ディー判事は急いで声をかけた、
「恐れるな。私だ、知事だ。どこを負傷なさった?」
「こめかみを撃たれて倒れたのです、閣下」と垂柳が言った。
判事が長椅子のそばの腰かけに坐る間に、彼女は茶卓に寄ると、湯の入った洗面器から手ぬぐいを取った。父の顔をぬぐってやってから、その右のこめかみを指し示した。ディー判事は屈み込んで、現に気色の悪くなるような青黒い打撲傷があるのを見た。垂柳は熱い手ぬぐいを注意深く傷にあてた。もう黒いおおいを脱いでいたから、彼女がほんとうにいたって優雅で魅力的な娘であることが判事には分かった。父を見る心配そうな眼差しは、彼女が父をとても好いていることを明かしている。
ハンは大きく開いた、驚いた目で判事を見つめた。彼は午後とはまるっきり異なった男だった。傲慢な空気はすっかりなくなっている。うつけた両目の下には、皮膚のたるみが、口のまわりにはひきつった筋ができている。ハンはかすれ声でひそひそ言った、
「閣下がおいで下さいまして、このうえもなくありがたく存じます。私は今夜、誘拐されたのです、閣下」扉と窓に不安げな眼差しを投げてから、低い声でつけくわえた、「白蓮教団《びゃくれんきょうだん》によってです」
ディー判事は腰かけの上で身を正した。
「白蓮教団ですと!」信じかねて彼は大声を出した。「つまらぬたわごとを! あの教派は何十年もまえに審問されたのですよ」
ハンはゆっくりと頭を横に振った。垂柳は茶をいれにテーブルへ行った。
判事はきびしい油断のない目つきで主人を見やった。白蓮教団とは、皇帝家を転覆させようとした全国的規模の陰謀だった。その運動は、何人かの不平不満をもつ高級官僚たちが指導したのだが、彼らが公然と主張したところによると、天が超自然的な力を彼らに授け給い、確かな前兆によって、皇帝家の天命が撤回されつつあるゆえに、彼らが新たな王朝を建てるべきことを覚らしめたというのだった。じつに多数の、過剰な野心を抱く官吏や不正官吏だの、盗賊団の指導者、逃亡兵、脱獄囚だのがその秘密結社に加入していた。それは帝国中に組織をめぐらせていた。だが、叛乱の計画が漏れて、当局は強硬な対策を講じて、その陰謀をつぼみのうちに摘みとってしまった。指導者たちは家族ともども死刑に処せられ、団員はすべて容赦なく追求され殺された。このことはすべて先皇帝の治世に起きたのだが、未遂に終わった叛乱は帝国を核心まで震撼《しんかん》させたから、今日でも、危険で恐れられている、その名をあえて口にするものはほとんどいなかった。それで、判事は王朝を倒す運動を復活しようとする試みのことなど聞いたことがなかったのである。彼は肩をすくめて尋ねた、
「で、何が起きたのです?」
垂柳が判事に茶をささげた。それから父親に与えると、ハンはむさぼるように飲んでから話し始めた。
「夕食後、私はよく仏寺の前をぶらつきます。夜風を楽しむためで、供《とも》は連れてまいりません。今夜、例によって、そこに人はほとんどおりませんでした。ただ、山門の前を通り過ぎましたところで、六人の輿丁《かつぎて》が窓をとざした輿《こし》をかついでいるのに出会ったのです。すると、出しぬけに厚い布が背後から私の頭上に投げかけられました。何が起きたのやら分かりもせぬうちに、両腕を後ろ手に縛られて、持ちあげられて輿に投げ込まれました。それから縄で両脚が縛《しば》りつけられますと、輿は速い足どりで運ばれて行きました。
何か聞くにも厚い布が邪魔になって、そのうえほとんど息がつまりそうでしたから、輿の側面を両足を縛られたまま蹴り始めました。するとだれかがわずかに布をゆるめてくれて、また息がつけるようになりました。その遠出がどのくらいかかったか、分かりません、少なくとも一時間はかかりましたでしょう。輿がおろされると、二人の男が荒っぽく私を引っぱり出して、階段を運びあげて行きました。扉が開くのが聞えますと、私をおろして、足首のまわりの縄を切り、歩いて入らせました。肘かけ椅子に押し坐らせますと、私の頭から布を取りました」
ハンは深く息をした。それから、またつづけた、
「私は小さい部屋の四角い黒木のテーブルに坐っておりました。向いには緑の長衣を着た男が坐っていましたが、頭と両肩は白い頭巾ですっぽりおおわれ、目のところに二本の切れ目があいているのみでございました。まだ半ば茫然としておりましたが、どもりながらも私は抗議を始めたのです。ですが、その男は怒って拳でテーブルを叩き――」
「その手はどんなふうに見えました?」とディー判事がさえぎった。
ハンはためらい、一瞬考えてから返事をした。
「ほんとうに私には分かりません、閣下。狩猟用の厚い手袋をつけておりました。私にその男の身もとが分かるようなものは、まるでございませんでした。緑色の長衣が身のまわりにたっぷり掛っておりましたから、身体にはまったく形がありませんで、声は覆面でくぐもっておりました。どこまでお話し申しあげました? ああ、さようでございました。その男は私の抗議をさえぎって言ったのです、『これは警告である、ハン・ユンハン! 一昨夜、一人の踊子が人に言ってはならぬことをおまえに告げた。女の身に何が起きたか、おまえは知っている。知事に話さなかったのは、おまえにとって非常に賢明なことだった、ハンよ、非常に賢明なことだったのだ! 白蓮教団は強いのだ、われらがおまえの情婦杏花を処刑したのから分かるようにな!』と」
ハンは指でこめかみの打撲傷にさわった。垂柳が急いでそばへ寄ったが、かぶりを振って、あわれっぽい声で話をつづけた、
「その男が何を話しているのやら、まるっきり見当もつきませんでした。あの踊子が私の情婦だと、何ともはや! しかも、ご存じのように、あの宴会のあいだ、あれはほとんどまるで私に話しかけはしなかったのです。さよう、私は怒って、おまえの言うことはばかげていると言いかえしました。その者は声を出して笑いました。覆面の奥から、それがぞっと恐ろしく聞えたと申しあげてもようございます。その男は言いました、『うそをつけ、ハン! むだだ! 女がおまえに言ったことを、そっくりおまえに言ってやろうか? 聞け! 私はのちほどお目にかからねばなりません、危険な陰謀がこの町で企てられております、と女は言ったのだ』そのばかばかしさに唖然として男を見ますると、いやな冷笑を放って話をつづけました、『これに対して、おまえは何も言えまい、え、ハンよ? 白蓮教団は何もかも知っているのだ! そのうえ、われらは全能なのだ、今夜、おまえに分かったようにだ。私の命令に従え、ハンよ、そして女の言ったことは忘れろ、きれいさっぱり、これを最後にだ!』と言うのです。私の椅子の後ろに立っていたにちがいないだれかに合図をすると、男はつづけました、『この女好きが忘れるのを手伝ってやれ、やさしすぎぬようにだ、いいな!』私は恐ろしい打撃を頭に受けました、そして失神したのでございました」
ハンは深い溜息をついて、話を結んだ、
「気がつくと、わが家の裏口の前に横になっておりました。さいわいなことに、辺りに人はおりませんでした。私は匍《は》いあがって、やっとのことでこの小さな書斎にたどりつきました。娘を呼びにやりまして、ただちに閣下のもとへまいるよう言いつけたのです。ですが、私がこのことを報告申しあげましたことは、だれも知らぬに相違ありません、閣下。私の命がかかっておるのです。それに白蓮教団は、至るところに間諜を放っておると私は固く信じております――政庁の内部にさえもでございます!」
ハンは枕によりかかって目を閉じた。
ディー判事は考えにふけりながら頬ひげを撫《な》ぜていた。それから尋ねた、
「その部屋はどんなふうでした?」
ハンは目を開いた。顔をしかめ、深く考えるように見えた。ややあって彼は返答した、
「私の前にあった部分しか見えませんでしたが、小さな、六角形の部屋であったという印象がございます。庭園の亭《ちん》だったと思われもいたしますが、それにしましては空気が非常に蒸暑すぎました。家具は四角いテーブルのほかに、黒い漆塗の用箪笥が壁ぎわにございました、覆面の男の椅子の後ろにです。壁が色あせた緑の垂幕《たれまく》におおわれておったと覚えている気もいたします」
「思いあたりますか」とディー判事がまた質問した、「誘拐者たちがどの方角へあなたを連れて行ったか?」
「ぼんやりとした印象のみでございます。初めは襲われたことに混乱しておりましたから、あまり注意を払えませんでしたが、慨して東の方角に向っていたのは確かでございます。坂道を登ったと思います。その後、四分の三の道は、平坦な土地を進んで行きました」
ディー判事は起《た》ちあがった。脇腹の傷がうずいていた。家に帰りたかった。
「あなたがこの件をたいへんすみやかに報告なすったことを、ありがたく思いますよ。私はだれかがあなたにいたずらをしたのだと信じたい。こんな時宜《じぎ》を失した、完全に無責任な悪ふざけをしでかせる敵が、あなたにはだれかおありですか?」
「私に敵などありません!」ハンは憤然と叫んだ。「いたずらですと? その男はまったく真剣だったと、私にうけ合わせて下さい!」
「私は悪ふざけのことを考えていたのです」とディー判事はおだやかに言った、「結局のところ、あの芸妓を殺したのはたぶん船頭の一人だという結論に達したからですよ。連中のうちに一人、私が聴取したとき、そわそわとたいへん落ちつかないように見えるごろつきがいるのに気がつきました。政庁で法律どおりのきびしい手続きによって、その男を尋問するほうが良いと思っています」
ハンの表情がぱっと明るくなった。
「私がすぐに申しあげませんでしたでしょうか、閣下?」ハンは勝ち誇ったように大声で言った。「人が殺されたと聞いた最初の瞬間に、私どもには、犯人はあの船頭どもの中に見つかるであろうと分かっておったのです。さよう、考えてみますると、私を誘拐したのはただのいたずらだったというご意見に、同意いたしたい気がされます。あんなひどい仕打ちを、ぜんたいだれが私にやれるものか、ひとつ考えてみましょう」
「私のほうでも二、三捜査をやりましょう」と判事は言った。「きわめて慎重にです、もちろん。あなたにはお知らせをつづけます」
ハンは嬉しそうな表情をした。微笑しながら娘に言った、
「門番はもう眠っているだろう。閣下を正門にご案内しなさい、嬢や。わが家の裏口から泥棒みたいに出てお行きなさるのは、私たちの知事さんにふさわしくないからね」
ハンはまるまるした両腕を組むと、深く溜息をついて枕にもたれかかった。
[#改ページ]
第十章
[#ここから1字下げ]
すてきな道案内は過去の遺品を見せ
仏陀の眼下で親密な会話が交される
[#ここで字下げ終わり]
垂柳《すいりゅう》がディー判事に合図した。彼女のあとについて、判事は漆黒の回廊へ出て行った。
「蝋燭はお持ちいたしません」と彼女はささやいた。「父の下女が近くで眠っておりますが、あたくしがご案内申します」
判事は垂柳の小さな手が自分の手を探るのを感じた。彼女に手を引かれて行くと、その絹の衣服が彼の上着に触れて、しゅしゅという音をたてて、垂柳が蘭の繊細な香を用いているのに気がついた。これはめったにない立場だなと彼は思った。
敷石をしいた、大きな院子《なかにわ》に出て来ると、垂柳は手を放した。月明りが十分にあって、あたりを見まわすことができた。判事は右のほうに半開きになっている扉があるのに気づいた。灯火の光がそこから外部へ射している。インド渡りの香の濃厚な匂いが空中に漂っている。彼は立ちどまってささやいた。
「だれにも気づかれずに、あそこを通りぬけられますか?」
「ええ、もちろんです!」と娘は応じた。「あれはうちの持仏堂です。父の曽祖父が建てたのです。その方は篤信《とくしん》の仏教徒でしたから、昼も夜も灯明《とうみょう》を祭壇のそばにともしておいて、扉はけっして閉めてはならないという教えをのこされました。あそこにはだれもおりません。中をごらんになりますか?」
ディー判事はすぐに同意した、ひどい疲れを覚えていたのだが。あのわけの分からない囲碁の問題の作者についてもっと良く知ることのできる、この好機を逸してはならないことが分かっていた。
小さな堂の内部は半分以上の場所が、奥の壁を背に建てられた煉瓦の高い四角の祭壇で占められていた。祭壇の前には四尺四方以上もの緑の玉《ぎょく》の板碑があり、銘文が刻まれてあった。祭壇の上には、蓮座に結跏《けっか》した仏陀の壮麗な金箔おしの像が置かれている。天井下の高いうすくらがりのうちに、判事は静かに微笑している仏陀の顔をかすかに見わけることができた。四壁には仏陀の生涯から取った場景が描かれている。祭壇の前の床には、祈祷用の丸い座布団が置かれていた。油ランプが鉄細工の燭台にともされていた。
「このお堂は」と、はっきりと誇らしげに垂柳が言った、「ご先祖が自身で監督して建てられました。あの方はそれほど賢くて善い人でございました、閣下。あの方はわが家では一種の伝説になっております。文官試験はけっして受けようとせずに、ここに引退して暮らし、多彩な趣味にふけるほうがお好きだったのです。ですから、ここの人たちはハン隠者と呼びました」
ディー判事は彼女の熱狂ぶりを喜びをもって理解した。今日では、家の伝統にそんなに理解を持っている若い婦人はめったにいないのだ。
「ハン隠者は偉大な碁打ちでもあったように覚えていますが、父上か、あなたも碁がお好きですか?」
「いいえ、閣下」と娘は答えた。「私どもはカード遊びとドミノが好きです。囲碁は時間がかかりすぎますわ、ね、それにたった二人しか、それでは遊べませんもの。あの碑文をごらんになります? ハン隠者はとても手さきが器用でした――ほんとうに彫物の名人だったんです。それで、あの碑文も自分で刻みました」
判事は祭壇近くに歩み寄り、声を出して碑文を読んだ、
[#ここから1字下げ]
悟達せる人はかく語った。若《も》し汝《なんじ》 我に従はんと欲せんか、
汝 至高の真理を宣《の》べ弘《ひろ》め、まさに万人をして我が告知を理解せしむべきである、
彼等を圧《お》し堕《お》とす苦痛と悲哀とは本質的に非在なりといふ告知を。
これらの語は至高の真理を表はすがゆゑに。かくて汝、
すべての他者を救ひしによりて、汝みづからもこの涅槃《ねはん》の門に入りて、
永劫につづく平安を見出すであらう。
[#ここで字下げ終わり]
彼はうなずいて、
「ハン隠者はこの作品をみごとに作りあげた、そして隠者が選んだ文は崇高な思想を表現している。私自身はわが偉大な先生、孔子の忠実な学徒だが、仏教の信条にも多くの賞讃すべき点のあることは喜んで認めますよ」
垂柳はうやうやしく玉《ぎょく》の板碑を見て言った、
「もちろん一個でこんなに大きい玉を見つけることはできませんでした。それで、ハン隠者は小さな四角の玉片に一字一字べつべつに彫って、あとから寄木細工のように組み合わせました。あの方はほんとうに並の人ではなかったのです、閣下。巨大な富がありましたけれど、急死されたのちに、金ののべ棒を蓄えておいた金庫はからなのが分かりました。存命中に、あの方はそういう金を全部、いろいろな慈善団体にこっそりやってしまわれたのだと思われております。どちらにせよ、私の家でそれが必要だったのではありません、あの方は価値の高い土地をたくさん持っておりまして、それがいまでも私どものものですから。そこからの収入は必要を満たす以上に十分あるのです」
ディー判事は興味をもって彼女を見やった。ほんとうに、たいそう魅力のある娘だった。その刻んだようにととのった、繊細な顔だちには天性の美質がある。
「歴史的な事柄にそれほどご熱心なら、リウ・フェイポ氏のお嬢さんの月仙を知ってらっしゃるでしょうね? 父親は、彼女にも学問好きの気質があったと私に語りましたよ」
「ええ」と、垂柳はものやわらかに言った、「とても良く存じておりました。ここの私たちの女棟《おんなむね》に、よく私を訪ねてまいりました。お父さまがひんぱんに旅行をなさっているので、淋しく思っていたのですわ。それはもう、とても強くて積極的な女の子だったのです、閣下。狩猟と乗馬が得意でした、男の子に生まれるべきだったんです。それでお父さまはいつも彼女を励ましていました、とても自分の娘がお好きだったのですわ。何で彼女が亡くなったのか、私にはほんとに分かりません、まだとても若かったのに!」
「それを見つけるために、私は最善を尽しています。それで彼女のことをもっと話して下されば、あなたは私に手助けできるのですよ。運動がとても好きだったとおっしゃるが、彼女はチャン博士のところで授業に出ていたんじゃないですか?」
娘はちょっと微笑した。
「あの、お話し申しあげてもかまわないと思いますけど、女棟《おんなむね》ではだれでも知っておりました。月仙が文学に興味を持っていたのは、チャン学士に会った日から始まったのです。彼が彼女にちょっとした印象を与えたのですわね、それから、あの授業に参加させるようにお父さまを説得して、それでもっとちょいちょいチャン学士に会えたのですわ。あの二人はほんとにとても好き合っておりました。それなのに、いまは二人とも――」
彼女は憂鬱そうに頭を振った。判事は少し待ってから、
「実際のところ、月仙はどんなふうだったのです? 彼女の死体が消えてしまったのはお聞きでしょう」
「おお、彼女は美人でしたわ!」垂柳は叫んだ。「そしてあたくしほどやせっぽちではありませんでした。体格のいい女の子でした。あの気の毒な踊子の杏花《きょうか》に似てましたわね」
「あの芸妓をご存じか?」ディー判事はびっくりして尋ねた。
「いいえ」と垂柳は返事をした、「私はあの人に話しかけはしませんでした。ですけど、父が大広間でお客さまをおもてなしするのに、この家によく呼ばせましたので、できるときはいつでも窓からのぞき見したのです、あの人はあんなに踊りが上手だったのですもの。杏花は月仙と同じように、三日月のような眉の、卵型の顔で、同じように美しい姿をしておりました。二人は姉妹にだってなれたでしょう! 踊子の目だけがまるで異なっていました。それには、あたくし、少しびっくりさせられましたわ、閣下。私はいつも外の暗い回廊に立っていましたから、彼女には私が見えなかったはずです。それなのに彼女は、踊りながら窓を過ぎるとき、よく私の目をまっすぐに見透しました。突き刺すようにじっと見る、神秘的な眼差しをしていたのです。可哀そうな女の子、あの子にはどんな人生があったのでしょう! いつだって仕方なく、あの人たちだれにでも、自分を見せなければならないなんて……そしてもう、あんなぞっとするやりかたで終わってしまったなんて。閣下は、湖が……そのことに何かかかわりがあるとお考えでしょうか?」
「そうは思わない」と判事は答えた。「彼女の死は、スー親方にはたいへんな打撃だったと思う。彼はほんとに彼女が好きだったらしいですからね」
「スーは遠くから彼女を崇拝していただけですわ、閣下」娘は微笑して言った。「私が思い出せるかぎりでは、スーはうちへ来ようとしていました。彼はおそろしく恥ずかしがりやなので、いつも自分のとてつもない力強さにおそらくとまどっているのです。いつかなど、父のすてきな時代ものの茶碗の一つを、うっかり握りつぶしてしまったのですよ! スーはまだ結婚しておりません。あの人は婦人を死ぬほどこわがっているんです。ワン親方は――ええ、まるでちがう人です。女あそびがたいへん好きだと、世間は言っています。でも、あたくし、やめたほうがいいですわ。閣下が、私のことをたいへんなおしゃべりだとお思いになります。もう閣下をお引きとめしてはなりません」
「逆ですよ!」とディー判事は急いで言った。「この話し合いはとてもためになります。私はいつだって、犯罪事件に関係ある全部の人の背景について、できるだけ多く学びたいのですよ。まだ、リウ・フェイポについてはお聞きしてません。死んだ踊子について、彼はもっと多くのことを私に話せたとお考えですか?」
「私にはほとんどそう思いません、閣下。彼は、もちろん、彼女を知っていたに相違ありません、彼女はいつも宴席で踊っておりましたから。ですけど、リウさんは、あのとおりまじめで口数の少ない人です。軽薄な楽しみには、ほんのわずかの興味も持っていません。この漢源《ハンユアン》に夏の別荘を建て始めるまえ、リウさんは一週間ほど私どもの家に滞在いたしました。宴会があるときには、どちらかといえば、むしろうんざりだという感じで坐っているのに私は気がつきました。商売を除けば、古い本と手稿にしか興味がありません。首都の自分の家に、厖大《ぼうだい》なコレクションを持っているという話です。そして、もちろん、娘さん! 父が彼女のことを尋ねると、すぐに元気になったものです。それがあの二人を結ぶ絆《きずな》だったのですわね、父も私しかいないのですもの。月仙の死はリウさんをこなごなに打ち砕いてしまったのです。人が変わってしまったと父は申しております……」
彼女は燭台に近寄って、その下にある陶器の瓶から油をつぎたした。ディー判事は思いに沈んで、その繊細な横顔とほっそりした手の優雅な動きを見ていた。あきらかに彼女は父親ときわめて親密だった――しかしハンは十分注意して、自分の邪悪な心を彼女に隠しているのだろう。ハンの話を聞いたあと、判事は、芸妓を殺害したのは彼で、脅迫されたというのはずるい芝居だと疑いをかけたのだった。未練がましい溜息がもれかかるのを抑えて、彼はきいた。
「私たちの名簿を完成するとして、老顧問官リァンか、その甥にお会いになったことがありますか?」
ふいに垂柳は顔を赤らめた。
「いいえ」と早口に彼女は答えた。「父が顧問官を儀礼上訪問したことがありますけれど、あちらはこちらにいらっしゃいませんでした。もちろん、そうなさる必要もなかったのですが、あんなに位の高い官人なのですもの……」
「私は聞きました、彼の甥はふしだらな若者だと」
「たちの悪い中傷です!」垂柳は怒って大声をあげた。「リァン・フェンはたいへんまじめな若者です。孔子廟の図書館で規則正しく勉強しているんです」
ディー判事は探るような目で彼女を見た。
「どうしてそれをご存じです?」
「ああ、ときどき私は母と廟の庭へ散歩にまいります。それでリァンさんがあそこにいるのを見たのです」
ディー判事はうなずいた。
「さて、ハンお嬢さん」と彼は言った、「こういったきわめて有益な情報に対して、私はたいへん感謝していますよ」
彼は戸口へ引き返した。が、垂柳はすばしこく歩み寄ると、ものやわらかに言った、
「父をひどい目に合わせた恐ろしい人たちを閣下がお見つけなさるよう、私は心から願っております。それがいたずらだったとは信じられません。父は少々厳しくて固苦しい人です、閣下。でも、あんなに善い人なのです。父はだれのことも悪く思っておりません。私は父のことがとても心配なのです。自分では疑ってもいないのに、だれか敵があるのに相違ございません。その人たちは、父を傷つけようとやっきになっているのです、閣下!」
「その問題は私が十分注意していますから、安心なさい」
垂柳は感謝をこめて判事を見て言った、
「あたくし、閣下がハン隠者のお堂を訪ねて下さいましたから、ちょっと記念品のようなものをさしあげたいのです。ですけど、そのことを父におっしゃってはいけません、ほんとうは、うちの家族にだけやるべきものなのですから」
垂柳は急いで祭壇に近づくと、そのかたわらのくぼんだところから一巻きの紙を取り出した。一枚を剥《は》ぎ取ると、深々と礼をしながら、それを判事に贈った。祭壇の上の碑文の、入念に写し取られた拓本《たくほん》だった。
ディー判事は紙を折りたたんで袖に納めると、きまじめに言った、
「私はこの贈り物を非常に名誉に思いますよ」
彼は垂柳がまだ二本の薔薇をつけているのを見て喜びを感じた。薔薇は彼女をたいそうみごとに引き立たせていた。娘は長いくねくねした回廊を通って、判事を門房まで案内して行った。彼女は重い扉の鍵を開けた。判事は無言で頭をさげると、人気《ひとけ》のない通りへ歩み出た。
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第十一章
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マー・ロンはがっかりする経験をし
ディー判事は県の視察に町を離れる
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翌《あ》くる朝、夜が明けてすぐに、召使い二人がディー判事の執務室に床掃除に来ると、判事は長椅子でぐっすり眠っていた。二人はあわてて引きさがって、朝の茶を用意しに来た事務官に注意した。
一時間後、ディー判事は目を覚ました。長椅子の端に腰かけたまま、膏薬の隅をはがして脇腹を調べてみた。傷は良くなりつつあるのが分かった。しっかりと起《た》ちあがると、無造作に身づくろいをしてから、机の奥に腰をおろして手を鳴らした。事務官が現われると、朝食を持って来るよう、それから三人の補佐を呼ぶよう言いつけた。
警部、マー・ロン、チャオ・タイが腰かけに坐った。判事が飯を食べている間に、ホンが茶商人コンを訪ねた結果を報告した。コンは、自分とチャン博士はチャン学士の帯が見つかったことに心痛するあまり、それを発見した漁師に名を尋ねることを思いつかなかったし、その男の所在を見つけるのは容易ではなかろう、と言った。
それから、マー・ロンが、夜の間、チャンの屋敷では話すほどのことは何も起こらなかったと報告した。朝になってから、二人の巡査を見張りに残して、そこを離れたのだった。
ディー判事は箸を置いた。茶をすすりながら、麺食堂での冒険を話して聞かせた。話し終わると、マー・ロンが失望の色を顔に表わして大声で言った、
「どうしてその外出に私を連れてって下さらなかったんです?」
「いや、マー・ロン」と判事は言った、「私だけでも注意を引きすぎたよ。それに君はどっちみち、マオ・ルーに会うさ、君に奴をここへ連れて来てもらいたいのだからね。そうすれば、従兄《いとこ》が殺された晩に、奴が従兄に会ったかどうか、また月仙の死について何か知っているかどうかを確かめることができる。旅籠《はたご》|赤い鯉《ヽヽヽ》へ行ってくれ、マー・ロン。乞食の親分に、マオ・ルーがどこで見つかるか聞くのだ。奴をつかまえて、しょっぴいて来い。同時に、あの灰色ひげに、この銀粒を二つやってくれ、あの男は私に親切にしてくれたからね。この金《かね》は政庁から賞与としてやるのだと言うのだ、彼が乞食の仲間に厳格な規律を維持していることが私に分かったからだとね」
マー・ロンが身を翻《ひるが》えして出て行こうとすると、ディー判事が手をあげた。
「ちょっと待て! まだ話は終わっていないぞ。きのうはちょいと夜が長かったのだよ」
そこで彼はハン・ユンハンとの会話について話した。白蓮教団のことは語らなかった。その恐るべき名は軽々しく口にすべきではなかったのである。ハンの誘拐者はある強力な盗賊団の首領だと公言していたとだけ、彼は語った。語り終わると、チャオ・タイが大声を出した。
「そんなたわけた話は聞いたこともない! 閣下はその悪党の言うことなど、一言も信用なさらなかったでしょうな?」
ディー判事は冷淡に言った。
「ハン・ユンハンは冷血で、狡猾な犯罪者だ。むろん、あの夜、画舫《がぼう》で踊子が私に言ったことを、彼は盗み聞きしたのさ。眠っているふりをしていただけなのだ。それでハンは、自分が取りかかっている極悪な計画について、彼女が私に告げようとしているのを知った。きのうの午後、訪ねたさいに、彼は私を説き伏せて、芸妓の殺害をもみ消させようとかかった。私を説得できないと分かると、私を脅してみようと腹を決めたのだよ。昨夜、彼はそれをやった、それもはなはだ巧妙にね。わざとまるでありそうもない話をした。私の目をくらますためではなかった。いいかね、ハンはただ、私を脅そうとかかったのだ。私が告発できないように、擬装して私を脅迫したかっただけなのだ。仮に私がそんなたわけた話をひっぱり出してハンを告発したら、上層部が私のことをどう思うか、君らには想像できるだろう。ハンがもしほんとうに私をだまそうとしたのなら、きっともっとうまい話をでっちあげたはずだと、上層部は主張するだろうよ。そうしてそれは巧妙にお膳立てされていた。娘がいるまえでその話を私に語り、娘と私に打撲傷を見せたのだよ――そいつが自分でつけた傷なのはむろんさ。あの男がどんなに危険な奴か、君たちには分かるな」
「あの太ったぺてん野郎を拷問にかけましょう!」とマー・ロンが怒って叫んだ。
「残念ながら、ぴたっとくる証拠がひとかけらもない」とディー判事は言い返した。「有罪だという信ずべき証拠がなければ、君は拷問して尋問してはならないのだ。それにだ、その証拠を集めるまえに、困難な仕事がいくらもあるだろう。そう、私はハンに、彼のほのめかしをそのまま受け取ったと思わせ、画舫の船頭の一人に疑いをかけているのだと話してやった。ハンはいまごろ私を脅迫するのに成功したと思っているから、いずれ無用心になって、ぽかをしでかすだろうと私は期待している」
ホン警部は一心に聞いていたが、ここで質問した。
「杏花が閣下に話しかけたとき、テーブルの後ろにはだれもいなかったと確信をお持ちですか? あるいは給仕か、芸妓の一人かが?」
ディー判事は真剣にホンを見やった。それからゆっくりと返答した。
「いいや、ホン、それについては、私が確かだとは言えないのだよ。少なくとも給仕に関しては不確かだ。芸妓でなかったことだけは分かっている、芸妓は五人ともちょうど私の前にいて、見えていたからね。しかし給仕たちとなると……連中がいるかいないかなど、気にするまでもないことだと、私たちは考えがちだから……」
彼は思いに沈んで口ひげを引っぱった。
「それがほんとうなら、閣下」とホン警部がまた発言した、「ハンの話が真実である可能性を考慮に入れなければならないと思います。給仕の一人が踊子の言ったことを盗み聞きしたのかも知れません、けれども彼女がハンに話しかけていると勘ちがいをした。杏花は二人の間に立っていて、後ろからでは、ハンがうとうとしているのがその男には見えなかった。その給仕は、踊子が触れた犯罪計画に関係している男の共犯者だったに相違ありません。彼が主犯の人物に警告して、その男は彼女を殺害した。そのあとで、殺害者は、ハンが杏花の警告を閣下に報告しようとはしなかったことを確かめなければならず、それでハンを誘拐して脅迫したのです」
「まったくそのとおりだ、ホン!」とディー判事は言った。しかしすぐに急いで、「いや、待て! その給仕は勘ちがいのしようがなかったのだ。はっきりと覚えている、杏花は私に閣下《ヽヽ》と話しかけたのだった」
「おそらく、その男は杏花の言ったことを全部聞き取ったのではありますまい。彼女の初めの言葉を盗み聞きすると、すぐに立ち去ったにちがいありません。彼女が囲碁について話したのは聞かなかった。というのは、ハンの誘拐者はその言葉を持ち出さなかったからです」
ディー判事は返答をしなかった。彼はふと非常な驚きを感じた。仮にハンの話が真実だとすれば、白蓮教団が復活したというのも真実なのだ! どれほど不敵な犯罪者であっても、あえてその恐ろしい名まえをみだりに使おうとはしないだろう。とすれば、あの芸妓は皇帝家に対する裏切りの陰謀を発見した。天よ、これは殺人事件どころではない、これは国家の安全に影響する全国規模の陰謀である! ようやっとのことで心を鎮《しず》めると、彼は落着いて口を開いた、
「だれかが私の背後に立っていたかどうかの問題に決着をつけられるのは、たった一人、銀蓮花だけだ。マオ・ルーを逮捕したら、マー・ロン、君は柳街へ行って、銀蓮花と話をしてよろしい、褒賞としてだ! ハンが居眠りしているのにどうやって気づいたのか、どうやってハンに酒杯を持って行ったのか、くわしく説明させろ、何もかもだ。そしてその間に、そのとき私の背後にだれが立っていたかをさりげなく聞き出すのだ。最善を尽してくれ」
「絶対に、閣下!」マー・ロンは楽しそうに言った。「私はもう出かけたほうがいい、マオ・ルーがねぐらを出ちまわないうちにですな」
扉を開けたところで、マー・ロンは書類を腕いっぱいかかえて来た上級書記にぶつかりそうになった。書記が書類を机上に置くと、ホン警部とチャオ・タイは椅子を引き寄せて選り分け始めた。それから、二人は判事が検討するのを手伝った。さし迫った行政上の案件がたくさんあったので、ディー判事が最後の書類を閉じたときには午前もかなり過ぎていた。
判事は椅子によりかかって、ホンが茶をいれるまで待ってから口をきった。
「あの誘拐の話が忘れられない。マー・ロンが銀蓮花という娘から聞いてくるのとはべつに、私たちにもハンの話を調べる手段がある。ホン、記録室へ行って、県の良い地図を持って来てくれ」
警部はわきの下に太い巻物をかかえてもどって来た。チャオ・タイが手伝って、二人は巻物を机の上にひろげた。極彩色で描かれた、漢源《ハンユアン》県の詳細な絵地図であった。ディー判事はていねいに調べてから、人さし指で示して言った。
「ごらん、ここがハンが誘拐されたという仏寺だ。ハンが言うには、そのとき、連中は東の方角へ進んで行ったそうだが、そのとおりらしい。まず山の手の別荘地区を水平に伸びている道を取ると、山の斜面を平地に下る。仮にハンがほんとうのことを言ったとすれば、連中が取ることのできた道はこれだけだ。というのは、連中が下町へ行ったのなら、ハンは連中がこの辺の急な階段を下ったのに確実に気がついたはずだし、また北か西へ行ったとすれば、連中はどんどん山深くへ入って行ったことになる。だが、ハンの言うところでは、坂を下ったのちに、連中はしまいに平地の道の角を三度回ったのだ。そのことはここにあるこの街道にそっくりあてはまる。この街道はわが県の東半分にある稲作地をつっ切って、そのまま、漢源《ハンユアン》と隣県の彊北《チアンペイ》の境の川に架かっている橋のたもとにある軍の屯所《とんしょ》を通りぬけているが、もしこれが通常の城壁に囲まれた都市であるならば、われわれの問題はすぐに解決するだろう。東の城門の守衛を簡単に尋問するだけで、決着するはずなのだ。ともあれ、われわれが実情に迫ることは可能だよ。ハンは一晩のうちに、市とそのわけの分からない家との間を輿で運ばれて往復した。会見がそんなに長くつづいたはずはないから、その遠出が約一時間かかったと仮定しても、ひどい誤りにはなるまい。この道路を通って、一時間で、市中から、どのくらい輿が進めたと君は思う、チャオ・タイ?」
チャオ・タイは地図の上に屈み込んだ。
「夜はもっと涼しいですな。輿丁たちは良好な歩調をつづけることができました。この辺だろうと思います、閣下」
彼は指で平地の村を囲んで円を画いた。
「それなら十分行けるな。ハンがうそをついたのでなければ、その辺りに田舎の別荘が見つかるにちがいない。門までたくさんの階段をあがって行ったと言っていたから、おそらく小高いところにあるだろう」
扉が開いて、マー・ロンが入って来た。がっかりした様子で判事に挨拶すると、腰かけにどっかり坐りながら、唸るように言った、
「今日は何もかもうまくいきませんでしたよ!」
「たしかにそうらしいな。何が起きた?」
「はあ」とマー・ロンは始めた、「最初に魚市場へ行きました。迷路みたいな臭い露地に旅籠|赤い鯉《ヽヽヽ》をつきとめるまで、百回も道をきかなければなりませんでしたよ。へっ、旅籠だって? そいつは壁にあいた穴も同然なんでさ! あの老いぼれは隅っこで居眠ってましてね、銀二粒を渡しました、申しつけられた通りの口上をつけてです。奴は喜んだ? とんでもない。あのとんちきときたら、おれがあいつに汚ないぺてんをかけてると思ってるんでさ。私は奴に通行証を見せなければなりませんでしたよ。それでもまだあいつときたら、銀を噛んで、腐れかかった歯をぼろぼろにしかかりました、銀が贋《にせ》じゃないか見ようってんですよ! ええ、しまいにゃ受け取りました。そのあとで、マオ・ルーは女と近くの女郎屋に泊ってると言うんで、灰色ひげのところを出たんです、まだそいつがいるものと信じてです。
で、女郎屋へ行きました。天よ、何とまあ汚い穴ぐら! 苦力《クーリー》と轎夫《かごかき》たちがずっと長いこと専用にしているんですよ。その溜りを持っている意地悪ばばあから聞けたのはたったひとつ、けさ早く、マオ・ルーと女と片目の仲間が彊北《チアンペイ》へ発っちまったってことだけでした。ざっとこんな始末でした。
そこで柳街へ行きました。私はおかるい男ですよ、そこを訪ねるってのでご機嫌になってたとすればですがね! いや、どういたしまして。あの銀蓮花って娘は、どっちも二日酔いの仮父《とう》さん、仮母《かあ》さんを抱えていて、癇癪《かんしゃく》を起こしてたんですよ。でも、あの娘から、ことによると、閣下のうしろにだれかが立っていたかもしれないことは聞き出しました。しかし、それが給仕だったか、帝国の宰相だったかってだんになると、あのとろいおひきずりときたら、何も言えなかったんです。ええ、これで全部です」
「私は思っていたんだがね」とディー判事が言った、「たぶん君は、それとはべつに、例の女友達とも、死んだ踊子について話をしてくれるだろうとね」
マー・ロンはとがめるような眼つきで判事を射た。
「あの娘は」と彼は不機嫌にぼそぼそっと言った、「銀蓮花の仮父《とう》さん、仮母《かあ》さんより、ずっとひどい二日酔いだったんですよ」
「けっこうだ」とディー判事はおかしそうに目をまたたきながら言った、「毎日が晴天というわけにはいかないからね、マー・ロン。さて、ここを見てくれ、われわれは県の東部をひとまわりして視察するつもりだ。そしてハンが話していた家の所在を確かめられるかどうかを見る。もしだめだったら、ハンがうそをついたことが分かるわけだし、その地域を視察する機会を持ったことにはなるさ。そこは県の穀倉地帯なのに、これまで視察する時間がなかったからね。東の境界まで行って、夜はそこの村ですごそう。そうすれば、少なくとも田園の楽しみがえられて、われわれの頭から蜘蛛の巣を払えるだろうよ。行って馬を三頭選んでくれ、マー・ロン。そして今日の政庁の公判を取り消して来てくれ。どっちみち、市民たちに二つの事件の進行状況は知らせられないのだ」
マー・ロンはチャオ・タイといっしょに部屋を出て行った。ちょっぴり機嫌が良くなっているように見えた。判事はホン警部に言った。
「暑い平地を遠乗りするのは、おまえには骨がおれるだろう、ホン。ここに留まって、記録室を調べていたほうがいいよ。おまえなら、組合親方のワンとスーに関するすべての記録をわれわれの文書に蒐集できるだろう。昼食後、ワン・イーファンが住んでいる街区へ行ってほしい。ワンはリウとチャンの紛争事件に関係しているし、顧問官の荒っぽい金づかいの件にも関係がある。リウ・フェイポほど豊かで著名な人物が、ワン如き怪しげな取引斡旋人を保護するのが私には解せないのだ。とりわけ、ワンが娘について言った話を点検しておくれ」
ディー判事は顎ひげを撫でつけて、また話し始めた。
「私はリァン顧問官が心配だよ、ホン。甥が顧問官の現状について私に知らせた以上、彼の一族は今後は私にも責任があると思って、あの老紳士が全財産を蕩尽《とうじん》するのを防ぐ適切な手段を私が取ることを期待するだろう。けれども、雇い主の金をかすめているのが甥ではないかどうか、また、彼が踊子の殺害にかかわっているかどうかを確かめるまでは、それについて私は何もできないのだ」
「午後、私が行って、その若者に会ってみましょうか、閣下?」と警部はきいた。「私ならば彼と勘定を全部検討して、この件でワン・イーファンがどんな役を演じているのか、見つけることができましょう」
「すばらしい提案だ」
ディー判事は筆を取りあげて、リァン・フェンにあてて、警部を紹介する短い手紙を書いた。それから公用の便箋を一枚選ぶと、数行書きつけた。それに政庁の大きな赤い印章を押しながら、
「同僚の、|山 西《シャンシー》省|平 陽《ピンヤン》県知事あての依頼状だよ。ファン家に関する、とりわけ、ここで杏花と呼ばれていたファン・ホーイ嬢に関する詳細な情報を、返りの急便で送って欲しいと書いた。漢源《ハンユアン》のような、こんな遠い町に売ってほしいと、彼女が言いはったのはきわめて奇妙なことだ。おそらく彼女の殺害事件の根は彼女が生まれたところにあるのだ。特別な使者を立てて、この手紙を急ぎ送らせてくれ」
彼は起ちあがって、こう言葉を結んだ、
「軽い狩猟服を出しておくれ、ホン、それと乗馬靴だ。私は仕事を離れたほうがいい。うまく気分を変えられそうな気がするのさ」
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第十二章
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二人の助手は無法な群衆を解散させ
詐欺師は秘密の誘拐方法を解説する
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マー・ロンとチャオ・タイは馬を三頭引いて、院子《なかにわ》で待っていた。
ディー判事が馬を点検したのち、三人の男はひらりと鞍に跳びのり、守衛が重い門を押し開くと、政庁を出発した。
東へ向って馬を駆り、町を離れるとすぐに、一種の岬とでも呼べる台地の鼻に着いた。下方には、肥沃な平野が見わたすかぎりひろがっている。
急速度で平野に駆け降りると、道路の両側に波うっている緑の田園の海をディー判事は興味深げに眺めやった。
「見通しは明るいようだね!」と彼は満足そうに感想を述べた。「この秋は豊作だろう。しかし、田舎の別荘は見あたらない」
一行は小さな村で馬をとめ、ひなびた宿屋で簡単な昼食をとった。村長が敬意を表しにやって来ると、ディー判事は田舎の別荘について質問をした。しかしその老人は頭を横に振って言った。
「この辺り一円に、煉瓦造りの家はございません。地主衆は山地に住んでおります、そちらのほうが涼しゅうございますから」
「ハンはぺてん野郎だって、言いませんでしたかね」とマー・ロンがぶつくさ言った。
「先へ進めば、もっとうまく行くかもしれないさ」と判事が応じた。
半時間後、一行はつぎの村に着いた。両側にあばら家が建ち並んでいる狭い道を通って行くと、前方で大きな叫び声があがっているのが聞えて来た。市場に入ると、中央の老木の下に農民が群れ集まって、杖だの棍棒だのを振り回し、声をかぎりに叫んだり罵ったりしていた。判事は馬上にのびあがって、群衆が木の根かたに横になっている男を打ったり蹴ったりしているのを見た。男は血まみれになっていた。
「ただちにやめろ!」とディー判事は叫んだ。だが、彼にちょっとでも注意を向けるものは一人もいなかった。判事は怒って鞍上で振り返り、二人の助手に命令した、「あの田舎者の群れを解散させろ!」
マー・ロンは馬から跳びおり、チャオ・タイを従えて勢いよく群衆の中に突っ込んで行った。マー・ロンは首とズボンの尻に手がとどいた最初の男を引っつかむと、頭上にさしあげて、群衆の真ん中へ投げ飛ばし、その後につづいて躍り込んで、右に左に拳で殴り、肘で突いて道をあけて行った。チャオ・タイが後詰めを務めた。数瞬のうちに、二人は悪戦苦闘して木にたどりつき、呻き声をあげている犠牲者から攻撃者たちを引き分けた。マー・ロンが叫んだ。
「やめろ、田舎っぺども! 知事閣下が到着されたのが分からないのか?」彼は後方を指さした。
群衆の頭がいっせいに振り返った。堂々たる馬上の姿を見ると、彼らはあわてて武器をさげた。一人の年輩の男が進み出て、ディー判事の馬のそばにひざまずいた。
「手前は」とうやうやしく男は言った、「この村の長《おさ》でございます」
「何がここで起きているのか報告せよ!」判事は命令した。「おまえたちが打ち殺そうとしている男が罪人であるのならば、おまえは漢源《ハンユアン》の政庁へその男を連れて来るべきであった。法を自分で気ままに無視するのは重大な犯罪であることを、村長たるおまえは知っているべきである」
「閣下のお許しをお願い申しあげます」と村長は言った。「手前どもは無分別に振舞っておりましたが、ことがことなのでございます。この村の手前どもは、その日その日、わずかな食いぶちをひねり出すために、朝から晩まで汗水たらして働いておりますが、そこへあのぺてん師が来て、手前どもからかすめ取るのでございます。あちらの若い者どもが、ぺてん師が詰め物をしたさいころを使ったのを見つけましてございます。閣下にはよろしくご裁決くださいますよう、請い願いあげます」
「詐欺を発見した男を前に出させよ!」とディー判事は命じ、マー・ロンに向って、「あの傷ついた男をここへ連れて来い」
すぐに頑丈な農民と、くたびれた、だらしないかっこうの年輩の男が路上にひざまずいた。
「おまえはこの男が詐欺を働いたと証明できるか?」と判事は尋ねた。
「証拠はここにございやす!」と、袖から二個のさいころを取り出しながら、農民は答えた。農民が判事に手わたそうと起《た》ちあがると、負傷した男も起ちあがって、驚くべき敏捷さで農民の手からさいころをひったくった。それを片手でぽいぽいと手玉に取りながら、男は昂奮したように叫んだ、
「この二個のさいころに、よし詰め物がしてあれば、天と地のありとある呪いがこのあわれな男の上に降りかかるがいい!」
男は深々と礼をして判事にさいころを手わたした。
ディー判事は掌のうえにさいころを転がして注意ぶかく吟味した。判事は告発された男を鋭い眼差しで射た。五十がらみの痩せこけた男だった。白毛が縞のようにまじった髪は、前額に受けた傷から流れた血で無惨に歪んだ、深く皺のよった長い顔にかかっている。左の頬には銅貨ほどの大きさのほくろがあって、それから数寸もある三本の毛が生えていた。ディー判事はそっけない口調で農夫に言った、
「このさいころに詰め物はしてないぞ。ほかにも手を加えてはない」判事はさいころを村長に投げやった。村長は受け取って、驚きのあまりぶつぶつ言いながら、ほかの連中といっしょに調べにかかった。
判事は厳しい声で群衆に呼びかけた。
「このことを教訓とせよ! 盗賊に圧迫されたり、地主に不法に扱われたならば、諸君はいつ何時《なんどき》でも政庁へ来るがよい。そうすれば、私は心をこめて諸君の訴えを考慮する。だが、ふとどきにも法を勝手に無視することは、二度と再びやってはならない。さもないと、諸君は厳重に罰せられることになる。さあ、仕事にもどれ、君たちの時間と金を賭博で無駄づかいをするな!」
村長はひざまずいて、額を地面に打ちつけて、この寛大な処置に対して感謝を述べた。
ディー判事はマー・ロンに命じて、負傷した男を彼の後ろの馬上に乗せさせた。それから、騎馬の一行はまた進んで行った。
つぎの村で停止すると、男に井戸で身体を洗わせ、衣服をきれいにさせた。ディー判事は村長を呼んで、その辺りで、ちょっとした台地に建てられた別荘を知っているかどうか質問した。村長は何も知らないと返答した。別荘がどんな様子であるのか、持ち主はだれなのかと尋ねて、その道をずっと行けば、そんな家があるかもしれないと言うのだった。ディー判事は先へ進んでみようと言った。
負傷した男が判事の前で深々と礼をして、辞去したいと申し出た。しかしディー判事は、男がびっこを引いて顔が死人のように青白いのに気がついて、そっけなく言った。
「私たちといっしょに県境の屯所《とんしょ》まで行け、君。君は医者が必要だ。賭博を業とするものは認めないが、このまま君をここへほって行くことはできない」
午後も遅くなって、彼らは県境の村に到着した。ディー判事はマー・ロンに、負傷した男を土地の医者へ連れて行くよう命じ、自分はチャオ・タイを伴なって、橋のたもとにある警備兵の屯所を視察に行った。
当番の伍長が十二人の兵士に整列を命じた。判事は兵士たちの鉄兜と鎧が良く磨かれているのを見た。兵士たちはきちっと整って、有能らしく思われる。判事が兵器庫を視察している間に、県境の川は、隣の彊北《チアンペイ》県を貫流している黄河の支流でしかないけれども、交通が活発であると伍長は語り、川のこちら側は万事平穏であるが、彊北《チアンペイ》では武装した強盗の事件が四、五件も起きていて、そこの駐屯地は最近になって補強されたのだと報告した。
伍長は一行を小さな旅宿へ護衛して行った。腰の低い亭主が迎えに出て来た。馬丁が馬を引いて行くと、亭主は自分で判事が重い乗馬靴を脱ぐのを手助けした。はきごこちのいい藁の草履を提供されて、ディー判事は二階の、ろくな家具はないけれど、掃除の行きとどいた部屋へ案内された。亭主が窓を開けると、人家の屋根越しに、沈んで行く太陽の赤い輝きを映して、川が伸び広がっているのが見えた。
召使いが火をともした蝋燭と、熱い手ぬぐいを入れた洗面器を運んで来た。判事が顔や身体をぬぐっているところへ、マー・ロンとチャオ・タイが入って来た。判事に茶をいれてから、マー・ロンが言った。
「あの賭博師は奇妙な奴ですよ、閣下。若いころは、絹物の店で店員をやっていたと言ってました、南に下ったところでですが。番頭が奴の女房が気に入って、やつに対して盗みの告訴をでっちあげ、巡査が鞭打ちをくれたけれども、うまいこと逃げたんです。やつがいないあいだに、番頭は女房を妾《しょう》に取っちまいました。追及がおさまってから、こっそり帰って、女房にいっしょに逃げてくれろと頼んだんですが、女房は笑って、いまいるところのほうが言いとぬかしやがったそうで。奴が言うには、そのあと何年も、帝国中をさまよい歩いたってことです。あいつったら、文学の博士みたいな口きいて、自分じゃ、問屋だと言ってますが、私の勘じゃ、|江湖の客《ヽヽヽヽ》、分かりやすくいや、どさまわりのぺてん師以外ではありませんね!」
「そういう連中はいつも悲しい身上話を用意しているものさ」とディー判事が感想を述べた。「二度と会うことはあるまいよ」
扉が叩かれた。二人の苦力《クーリー》が、四つの大きな手さげ籠を持ってはいって来た。一つの籠には生姜《しょうが》のたれで煮たみごとに大きな魚が三尾、もう一つには飯と塩漬け卵の大きな鉢がはいっていて、赤い名刺が伍長からの贈物であることを告げていた。他の二つの籠には焼いた鶏が三羽、豚と野菜の煮物が三皿、それに汁が一壺あって、こちらは村長と村の長老たちからの歓迎の贈り物だと分かった。給仕が宿の亭主の好意にかかる酒壺を三つ運んで来た。
料理がテーブルに置かれると、ディー判事はそこばくの銀を赤い紙に包んで返礼として苦力に与えた。それから二人の助手に言った。
「私たちはいっしょに地方巡視をしているのだから、形式ばることはないぞ。坐ってくれ、いっしょに食事をしよう!」
マー・ロンとチャオ・タイは猛烈に異議を唱えた。だが、判事が言いはって、とうとう二人は向い合いに腰をおろした。遠乗りはすばらしい食欲を与えてくれた。三人はいかにもうまそうに食った。ディー判事は昂揚した気分にあった。ハンの話はうそだと判明した。いまやハンが犯人だということを彼は知った、遅かれ早かれ、ハンを逮捕する方途は見つかるであろう。白蓮教徒が復活したという憂慮はもう忘れ去ることができる。すべて捏造《ねつぞう》にすぎなかったのだ。
食後の茶を楽しんでいるところへ、給仕がディー判事にあてた大きな封筒を持って入って来た。中には、タオ・ガンなる人物が知事閣下を訪問することを許されたいと申し入れる、優雅な措辞と整った筆跡で書かれた書状があった。
「村の長老の一人だろう」とディー判事が言った。「その紳士をお呼びせよ」
驚いたことに、扉を開けて現われたのは、あの賭博師の痩せこけた姿だった。医者へ行ったあと、きっと村の店をうまくまるめ込んだのだ、額に包帯を巻いてはいたが、いまはたいへんすっきりした外見を整えていた。黒絹の紗の襟がついた簡素な青い長衣を着て、頭には有閑を楽しむ年輩の紳士が好むような、黒い紗の高い帽子を自信たっぷりにかぶっていたのである。深々と拝礼をしながら、男は洗練された声音でこう言った。
「この微々たる者は、名をタオ・ガンと申しまして、おそれながら閣下にご挨拶申しあげます。いかようなる言辞も十全には表現いたしかねるのではございますが――」
「もういい、君!」とディー判事は冷淡に言った。「私に礼など言うな、君を救った神に感謝せよ! 私が君に同情しているなどと思うな。君が受けた打擲《ちょうちゃく》はおそらく、受けるべきであったものよりひどかったわけではないぞ。君は何かしら百姓たちをだましたのだと私は確信している。だが、わが県に無法が行なわれることを私は欲しないのだ。それだけが君を守ってやった理由だ」
「さようではございましょうが」と、この無情な言葉にいっこうへこたれもせずに、やつれはてた男は言った、「深甚なる感謝のささやかな印といたしまして、賤微《せんび》なる助力を閣下に捧げますることをお容《い》れ下さいますよう、小生は望むものでございます。何となれば、閣下には誘拐事件の捜査にたずさわっておられると、愚考しおるからでございます」
ディー判事はやっとのことで驚きを隠した。
「何のことを話している、君?」そっけなく彼は質問した。
「小生の仕事を実践いたしますには」と苦笑しながらタオ・ガンは返答した、「推論の力を尖鋭にするよう助長いたしますことが不可欠なのでございまして、小生、閣下が田舎の別墅《べっしょ》につき問い合わせておられるのをたまたま漏れうかがいましてございます。さりながら、小生、気がつきました、即ち、閣下には件《くだん》の別墅の外観にも、その持ち主の姓名にも詳しい知見をお持ちではいらっしゃぬ、と」
彼は頬に生えている長い毛をゆっくりと人さし指に巻きつけた。そうして落ちつきはらって話しつづけた。
「誘拐者なるものどもは犠牲者に目かくしいたしますると、遠方へ連れてまいり、したたかに脅迫して家族に書信を送らしめ、巨額の身代金を送付するよう頼ましめるものでございます。金を受け取りましたのちは、犠牲者を殺害するか、もしくは前同様に目かくしをして送り返すかいたします。後者の場合、さような悲運の人は自身の連れ行かれました方角につき、漠とした印象を抱くやも知れません。さりながら、無論、かの家のいかにあるや、また、その所有者のたれなるやは分からぬのでございます。かかる陋劣《ろうれつ》なる犯罪の犠牲とあいなりましたものが閣下の政庁に報告をいたしましたものと、推論いたされましたがゆえに、小生、無謀にも助言を申し出ました次第にございます」
再びやつれはてた男は深々と一礼をした。
ディー判事は、これはおそろしく抜け目のない男だとひとりごちた。
「議論のために、君の推論が正しいと仮定しよう。として、君は何を助言したいのかね?」
「まず第一に」とタオ・ガンは答えた、「小生、この県なれば、どこもかしこも足をのばしたことがございます。この平野にはさような家はございません。他方、さような別荘が漢源《ハンユアン》の北と西の山中にあるのを存じております」
「では、犠牲者が、その行程の大部分は平坦な道路を通って行ったと明確に覚えているとしたら?」と判事がきいた。
いたずらっぽい微笑がタオ・ガンの冷笑的な顔にひろがった。
「さような場合はですな、閣下」と彼は答えた、「その家は市内に位置しているのでございますよ」
「何て理屈に合わない意見だ!」ディー判事は怒って大声を出した。
「どういたしまして、閣下」と相手は冷静に言った。「さような悪党どもが必要とする唯一のものは、すてきに広い庭と小高い土壇のある家なのです。輿《こし》で犠牲者を屋敷内に運び込みましたら、連中、一時間がほどもその辺をゆっくりと運び回るものです。連中ははなはだ巧妙でして、土壇を昇り降りしながら、ときどき、あそこの谷に気をつけろだの何だのと、ま、似たような言葉を言いかわしまして、山地を通っている印象を作り出すものなのです。ああした盗人どもは、さような技術を周到に研究しておきまして、閣下、時と場にもっともかなったやりかたで実行に移すのでございます」
判事はゆっくり頬ひげを撫《な》でながら、考え込んで痩せた男を見やった。ややあって、彼は言った。
「おもしろい説だ! 先々の参考までに心に留めておくぞ。行くまえに、私の忠告を聴け。君の生活を変えろ、わが友よ、君は頭が良い。見苦しくない方法で十分暮して行けるはずだ」彼は男を去らせようとしたが、ふと尋ねた、「ついでだが、君はどうやってあの農夫たちをだましたのかね? ちょっとそれが知りたい。とがめはしないぞ」
痩せた男はかすかに頬笑んだ。給仕を呼んでいいつけた。
「下へ行って、閣下の右の乗馬靴を持って来てくれ!」
給仕が靴を持ってもどって来ると、タオ・ガンは機敏に指を使って、靴の折り返した縁《ふち》から二個のさいころを取り出して判事に手わたした。彼は言った。
「この詰め物をしたさいころを、閣下に手わたそうとしたあの田舎者からひったくりましたあと、掌に隠し持っておりました一対《いっつい》の普通のさいころを、点検いただくために、閣下にさしあげたのです。閣下がそちらのさいころを点検なさっていらっしゃるのを、一同が一心に見まもっております間に、小生は閣下のお靴に贋物をお預けする自由を得たわけでして、ま、ほんの間に合わせに、さよう希望いたしました次第です」
ディー判事は声を出して笑わないではいられなかった。
「自慢するわけではありませんけれど」とタオ・ガンはまじめな顔で話しつづけた、「暗黒街のぺてんや策略に関する知識にかけてなら、帝国中に小生に匹敵する者はまずおらないと申しあげられます。文書ならびに印章の偽造、どうとも取れる契約書および申告書の作成、戸口や窓や金庫の通常ならびに秘密の鍵のあらゆる種類をはずすことに、小生は完全に習熟しておりますが、他方で小生は隠された通路、秘密のはねあげ戸、さような類の仕掛けの精通者でもあります。そのうえさらに、小生は遠く離れている人びとが何を話しているのか、その唇を注視することによって理解いたし、小生は――」
「待て!」とディー判事は急いでさえぎった。「君の立派な目録の終りの項目が現にほんとうだと、君は言うつもりなのか?」
「さようです、閣下! 婦人や子どもの唇を読むことは、さよう、たとえば、濃い顎ひげや口ひげの生えた老人のよりは、容易であるとのみ申しそえればよろしゅうございましょう」
判事は何も意見を言わなかった。そのやりかたでなら、あの芸妓の言葉が、ハン・ユンハン以外でも、あの部屋にいた他の者によって横取りされた可能性がある。彼が目をあげると、タオ・ガンが低い声でこう言った。
「私はすでに閣下の補佐の方に、私を無情な人間にした不幸な出来事をお話しいたしました。その苦悩の体験より以降、私は同胞に対する信頼を完全に喪失したのでございます。ほぼ三十年の間、私は帝国を放浪いたしまして、私にできます相手なら欺《あざむ》き騙《だま》すことを喜びとしてまいったのでございます。さりながら、誓って申しあげます、私は何人《なんぴと》に大しても重大な身体的危害を加えたことはございませんし、また、取り返しのつかぬ損害を与えもいたしませんでした。本日、閣下のご親切は、私に新たな人生観を与えて下すったのです。つまり、私は|江湖の客《ヽヽヽヽ》としての経歴を放棄いたしたいのでございます。私のさまざまな技能は、私の職業を遂行しますうえで不可欠だったのでありますが、推測いたしますに、犯罪の探索と極悪人の逮捕にも適用可能でございます。かようなわけをもちまして、閣下の政庁に私がお仕え申しあげますことをご許可下さいますよう、私の取るにたらぬ請願を閣下の前に申し出ました次第にございます。私に家族はございません――ずっと以前、家族が愚妻を味方につけましたとき、私は縁を切りました。それにまた、私にはいささかの蓄《たくわ》えもございます。でございますから、私の望みます唯一の報酬は、私自身を有為ならしめ、閣下の教示をお受けできる機会のみなのでございます」
ディー判事はこの奇妙な人物をきびしく見つめた。その世をすねた冷笑的な顔のうちに、真正な感情の印が見出せると彼は思った。しかも、この男は二つの重要な情報をすでに提供してくれたし、ほかの助手がだれも持っていない特殊な知識と体験の蓄えを所有している。適切な監督のもとでなら、この男は私の個人的な部下に加わって、ほんとうに有能であることを証明するかもしれない。ついに判事は話しかけた。
「理解して欲しい、タオ・ガンよ、私は、いま、ここで君に明確な返答は与えられない。しかし、君が誠実であると確信しているゆえに、二、三週間ほど私の政庁で、君が志願者として働くことを許そうと思う。そのあとで、君の申し出を受けいれるか否かを決定しよう」
タオ・ガンはひざまずいて、床に額を三度触れて感謝を表わした。
「この男たちは」と判事はつづけた、「私の二人の補佐だ。能力の最善を尽して二人を助けよ、そうすれば彼らのほうも、政庁の仕事で君にいろいろと教えてくれるだろう」
タオ・ガンは二人の前でいちいち礼をした。チャオ・タイは、どっちつかずの曖昧な表情で、やつれはてた男をじろじろ眺めまわしたが、マー・ロンはその骨ばった肩をぱんと叩き、ひどく喜んで大声で言った。
「下へ来いよ、兄弟! おまえさん、おれにいんちき賭博の手を二つ三つ教えてくれるだろ!」
チャオ・タイは一本だけ残して蝋燭を吹き消した。それから判事にお休みを告げ、ほかの二人について階下へ降りて行った。
彼が去ったあと、ディー判事はテーブルに向ったままでいた。長いこと、蝋燭の焔の周囲に羽虫が群らがって飛び回っているのを、深く考えに沈んでぼんやり眺めていた。
タオ・ガンがハンの話が真実でありうることを示したからには、ハンが誘拐された家をつきとめられなかったにしても、白蓮教団が実際に叛逆と腐敗の邪悪な網を帝国中に張りめぐらしつつあるという可能性を、再び考慮に入れなければならなかった。漢源《ハンユアン》は小さな孤立した町であるが、戦略的な位置を占めて、国土の中心、帝国の首都にきわめて近いのだ。とすれば、玉座に対する陰謀の本拠としては最適の場所である。それから、漢源《ハンユアン》に着くとすぐに、何か邪悪なことが隠されているような、圧迫される雰囲気を本能的に感じたこともこれによって説明される。
すでに私が知っているように、画舫《フラワーボート》の食堂にいた客のだれかが、踊子の言葉を彼女の唇から読み取ることができたのなら、彼らのうちのだれかが白蓮教徒の一員で、彼女を殺そうと決心したことはありうる。ハン・ユンハンが潔白だということはありうる、あるいは彼が連中の指導者なのだということも! そうしてリウ・フェイポにもその可能性がある。リウの巨大な財産、彼のひんぱんな旅行、政府に対する彼の怨恨――こうしたすべての要素が、彼が容疑者らしいことを指し示しているように思われる。天よ、あの宴席につらなった全員が、芸妓を殺害することを共謀した可能性もあるのだ!
彼は憤怒のあまり頭を振った。白蓮教団の恐るべき脅威はすでに効果を現わしつつあったのであり、そのことが彼が論理的に考えることを妨害したのだ。彼はもう一度すべての事実を考えなおさなければならなかった、そもそもの発端から始めて……。
蝋燭がぱちぱちと音をたて始めた。判事は歎息して起ちあがった。上着と帽子をぬいで、木の長椅子にながながと寝そべった。
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第十三章
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ホン警部は不似合いな意図を疑われ
贋僧侶は新発意《しんぽち》といっしょに捕まる
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翌朝、夜明けとともに、ディー判事と三人の仲間は県境の村をあとにした。活発に馬を走らせて、正午前には町に帰った。
判事はまっすぐ官邸に行って熱い風呂を浴びると、薄い青木綿の夏服を着た。それから執務室へ行って、タオ・ガンをホン警部に引き合わせた。そこへマー・ロンとチャオ・タイも入って来た。みんな思いおもいに、ディー判事の机の前の腰かけに坐った。判事は、タオ・ガンが新参者に期待されているつつましさで、とはいえ、過度にへりくだるふうもなく振舞っているのに気がついた。この奇妙な男は、どうやらどんな状況にもすぐに溶け込むことができるらしかった。
ディー判事はホンに、田舎の別荘が見つからなかったが、タオ・ガンの説が新しい可能性を開いたことを語った。それから警部に報告するよう命じた。
ホンは袖から一枚の覚書を取り出して始めた。
「文書庫には、ワン親方に関して、いくつかのきまりきった書類しかありません。子どもたちの出生届とか納税申告書などです。しかし上級書記が彼のことは良く知っております。書記の話では、ワンはたいへん裕福で、町ではもっとも大きい金と宝石の店を二軒所有しています。自他ともに認めているほど酒と女が好きですが、健全な商人と見られていて、すべての人に信用されています。近ごろ何か金融上のつまずきがあったらしく、彼に金の備蓄を供給している仲買人たちに対する相当多額の支払いを延期しなければなりませんでした。ですが、彼らは遠からずワンが欠損を埋めあわせるだろうと承知して、少しも心配しておりません。
スーも良い評判です。けれども、芸妓の杏花にひどく惚れ込んだというので、人びとは彼をばかにしておりました、彼女のほうは気にかけていなかったのですからね。スーはそのことで非常にまいっていました。彼女が死んで良かったのだと世間では申しております。スーが、悲しみを克服したら、まともな、しっかりした女を嫁にもらえばいいと世間では望んでおるのです」
警部は覚書に目を落として話しつづけた。
「そのあと、私はワン・イーファンの住んでいる通りへぶらぶら出かけました。彼の評判はあまり芳《かんば》しくありません。自分にだけ有利に契約をまとめたがる、不正な男だとみなされています。リウ・フェイポに雇われた一種の何でも屋で、ときにはリウのために小額の貸金を集めて回るんですな。むろん、私はあちこちの店で、ワンの娘のことを尋ねようとはしませんでした、彼女の評判を落とさないためにです。ところが、町角で櫛だの、口紅だの、お白粉だのを売っている年とった婆さんを見かけたので、ひょいと話を始めました。ああいう女たちというのは、女棟《おんなむね》に出入りして、そこで起こっていることには精通しているのが普通ですからね。ワンの娘を知っているかどうか、尋ねてみました」
警部ははにかんだような目つきで判事を見て、さりげなく話をつづけた。
「その老婆はすぐに言いました、その年でまだまだ大した元気ですね、旦那さん、ええ、ええ、あの子は宵の口だけなら銭二緡《ぜにふたさし》、一晩中なら四|緡《さし》ほしがります、でも旦那がたはいつもたいそう満足なさりますよ、と。私は結婚仲介人で、西街区の食品雑貨商に頼まれているが、その辺りでは、ワン嬢さんのことを話のたねにしているのだと女に説明しました。すると、西街区の人たちゃ、自分たちの話してることが分かっちゃいないんでござりますよと、とりもち婆さんは言うんです。つまりですな――おふくろさんが死んだあと、ワン嬢さんがかって気ままに暮し始めたのを、ここでは一人残らず知っております、ワンが娘をある教授に売ろうとしましたが、その男は良く知ってたんでさ、いまじゃあの娘は自分で稼いで、おやじさんは見て見ぬふりをしてるんですよ、ワンはけちだから、親子でそうやってるわけで、娘を養わずにすむというんで、おやじはとても喜んでいるんでござりますますよ、と言いました」
「それでは、あの不謹慎な悪党は法廷でうそを述べたことになるぞ」とディー判事は怒って大声をあげた。「奴にはそれを分からせてやる。それで、顧問官リァンのところではどうだったかね?」
「リァン・フェンは教養のある若者だと思われます。二時間以上も彼といっしょに会計を調べました。たしかに、あらゆる点から、顧問官が大量の金を急いで手に入れるために、荘園をかなりの損をしながら売り飛ばしているという結論が出ました。ですが、顧問官がその金を全部どうしているのかはあとづけられませんでした。あの秘書が心を痛めているのが、私にはよく分かりますね」
タオ・ガンは熱心に聞いていたが、ここで意見を述べた。
「数字はいつわらぬと申します、閣下、しかし、これほど真実でないものもございません。数字が真実であるか否かは、すべてそのあつかいようにかかっているのです。おそらくその甥は、自分の使い込みを隠すために帳簿を操作したのでしょう」
「その可能性はすでに私たちも思いついたことがある」判事は言った。「そうだとすれば、腹立たしいがね」
「けさ町に帰るあいだに」とタオ・ガンはまた言った、「マー・ロンが、リウ対チャンの争いについて話してくれました。あの寺に、老人の世話人以外、ほかに僧侶が住んでいないのはほんとにたしかでしょうか?」
ディー判事は問いたげにマー・ロンを見た。マー・ロンはすぐに答えた、
「絶対にたしかだ。おれは寺中を調べた、庭もひっくるめてね」
「そりゃへんだ!」とタオ・ガンが言った。「いつかこの町へ来たとき、私はたまたまあそこを通りかかって、一人の坊主が山門の柱のかげに立って、首をのばしてのぞき込んでいるのを見た。私は何でも知りたがるたちだから、その坊主のところへ行って、のぞき込むのを手伝ってやったのさ。そしたら奴はびっくりした顔でこっちを見て、あわてて立ち去った」
「その僧は蒼白くて痩せこけた顔をしていたか?」とディー判事は熱くなって尋ねた。
「いいえ、閣下」とタオ・ガンは返事をした、「むくんだ顔の屈強な男でした。じつのところ、ほんものの僧のようには見えませんでした」
「だとすれば、私が新婚夫婦の窓に見た男ではあるまい。で、君向きの仕事があるのだ、タオ・ガン。大工のマオ・ユアンがチャン博士の家を出たときには、金をもらったばかりだということが分かっている、それにマオが酒と賭博が好きだったということもだ。彼は金のために殺されたのかもしれない。というのは、死体には一銭も見つからなかったからだ。彼の殺害に関連して、私がチャン博士に疑いをかけているのが分かるだろうが、私たちはあらゆる可能性を調査しなければならない。この町の賭場を回って来てくれ。マオ・ユアンについて探るのだ。そういった場所をどうやって探すか、君は知っていると思う。マー・ロン、いますぐ旅籠《はたご》赤い鯉へ出かけて、マオ・ルーが彊北《チアンペイ》のどこへ行ったのか、乞食の親分にきいてくれ。そば屋で彼がそれを言ったのだが、何という場所か忘れてしまったのだ。ホンよ、昼の公判では、どんな案件を処理しなければならないかね?」
警部とチャオ・タイがいくらかの書類を机上に並べ始めると、マー・ロンとタオ・ガンはいっしょに執務室を去って行った。
院子《なかにわ》でタオ・ガンがマー・ロンに言った。
「さっそくあの大工に関する仕事ができるなんて、私は嬉しいよ。うわさというのは、暗黒街では急速にひろがるものだ。私がいまでは政庁のために働いてるってことは、じきに知れわたるだろう。ところで、その旅籠赤い鯉っていうのはどこにあるのかね? この町ならもう何でも良く知ってるつもりだが、そんな所は見たことがない」
「あんたが何か見おとしたってことはないだろう」とマー・ロンは返事した。「うすぎたないあいまい宿でね、魚市場の裏手の辺だ。うまくやれよ!」
タオ・ガンは下町へ行って、西街区へ入って行った。狭苦しい露路裏のごみごみした街を通って、小さな八百屋の前で足をとめた。漬菜の桶の間を用心しいしい通り抜けながら、店の親父にはっきりしない挨拶をして、裏の階段へ急いで行った。
二階は漆黒の闇だった。タオ・ガンは蜘蛛の巣だらけの漆喰の壁を手さぐりして進み、やっと戸口を見つけた。扉を押し開けると、その場に立ちどまったまま、ぼんやり明るく、天井の低い部屋を見まわした。二人の男が円いテーブルに坐って、さえない様子で、さいころ博奕《ばくち》をやっている最中だった。一人はがっしりした顎の、むっすりした顔の肥えた男で、頭をつるつるに剃っている。賭場の差配だった。もう一人は目立ってやぶにらみの痩せた男である。こうした欠点のある男は、いんちきをやるものが、自分が見まもられているのかどうかさっぱり見当がつかないところから、賭博遊びの見張りとして大そう重宝がられているのだった。
「これはこれは、タオ兄貴!」と肥えた男がまるで気のないふうに言った。「そんなところにぶらさがってねえで、中へ来いや。勝負にゃ早すぎるが、もうじき人が来るだろうぜ」
「いや」とタオ・ガンは言った。「私はちょいと急いでるんでね。ここに大工のマオ・ユアンがいるかどうか、のぞいただけさ。あいつに貸した金を集めたいのさ」
二人の男はげらげら大笑いした。
「そんなら」とふとった差配はくすくす笑った、「あんた、遠くまで行かにゃなんねえだろうよ、兄貴! 地獄の王さまんところまでもよ。マオ親父がくたばったのを知らねえのかえ?」
タオ・ガンはぺらぺらと悪態を並べたてて、ぐらぐらの竹の腰かけに坐り込んだ。
「そいつは、いまいましいめぐりあわせってもんだ!」怒って彼は言った。「ちょうど、金が必要だってときなのに。あのごろつきに何があったんだね?」
「町中が知ってるぜ」と、やぶにらみの男が言った。「あいつぁ、お寺でめっかったんだ、頭におめえの拳がへえるくれえの穴をあけられてよ」
「だれがやったんだ? そいつに渡りをつけて、私に金を払えってゆすってもいいんだよ、縁起を祝ってちょっぴり色をつけてね」
ふとった男は肘で脇の男を突いた。二人はまたばか笑いを始めた。
「何かおもしろいことでも言ったかね?」とタオ・ガンは苦りきってきいた。
「おもしろいなあ、おめえよ」と差配が説明した、「たぶんマオ・ルーが、その殺しに巻き込まれているってこった。何なら、|三※[#「木+諸」、unicode6AE7]島《さんしょとう》へ飛んでよ、タオあにい、やつをゆすりな!」
「また、あいつにいっぱい食わしてやんだよ、親分!」やぶにらみの男が大笑いしながら怒鳴った。
「何てばかげたことだ!」タオ・ガンは大声で言った。「マオ・ルーは大工の従弟《いとこ》なんだよ」
太った男は床に唾を吐いて、
「きけよ、タオあにい。注意して聴くんだ、そうすりゃ、おめえでも分かるだろうさ。三日めえだ、午《ひる》すぎおそく、ここへマオ・ユアンが来た。仕事を終えたばかしで、袖ん中に金があったわ。ここでいい仲間をめっけたってわけだ、あの野郎、ついてて、うまいこと、ちょいとかせえだからね。そこへだれでもねえ、従弟がへえってきた。きょうびじゃあ、マオ・ユアンはあの野郎にあんまり執心じゃなかったんだがね、何しろ腹ん中にゃ酒あり、袖ん中にゃ銭ありで、長いこと行きかた知れずだった弟みてえに、奴を迎えたってわけだ。やつら、最上等のを、いっしょんなって四|壺《こ》飲んじまった。それからマオ・ルーが、どっか外でいっしょに飯を食おうってマオ・ユアンを誘った。そんで、それがおれたちが二人を見た最後ってわけよ。いいかえ、おめえ、おれはマオ・ルーに分《ぶ》の悪いこたあ、何ひとつ言いやしなかったぜ。おれはぴったし、あったことを話しただけだよ!」
タオ・ガンは納得したというふうにうなずいた。
「ついてないね」とあわれっぽく彼は言った。「じゃ、ぼちぼち行くか」
彼が起《た》ちあがりかけたところへ、扉が開いて、ぼろぼろの僧服を着た逞しい体格の男が入ってきた。タオ・ガンは急いでまた腰をおろした。
「よう、坊主か!」と差配が叫んだ。呼びかけられた男は、不服らしくぶつぶつ言いながらも坐り込んだ。差配は茶碗を坊主のほうへ押しやった。僧は床に唾を吐いた。
「こんなけちなもんじゃなく、もっとましなもんは出せねえのか?」と荒っぽくきいた。
肥えた男は右手をあげて、拇《おや》指と人さし指で輪を作った。
僧はかぶりを振って、
「手はねえや!」うんざりしたように言った。「あの青二才を叩きのめしてやるまで待ちな、すりゃ、ほんものの銭をおがましてやるわさ」
差配は肩をすくめると、冷淡に言った。
「そんなら茶でがまんすんだ、坊主!」
「いつか、おまえさんに会ったことがある気がするが」と、タオ・ガンが話に加わった。「寺の前でおまえさんに会わなかったかね?」
新顔は探るような目つきでタオ・ガンを射た。
「このかかしはだれでえ?」と彼は差配にきいた。
「ああ、タオ兄貴よ。いいやつだぜ、あんまり利口《りこう》たあ言えねえがよ。おめえ、寺で何やった? 本気で頭をまるめようと思ってんのか、坊主?」
やぶにらみの男が大声で笑った。坊主が大男に咆えた、「阿呆みてえにくすくす笑うな、やめろ!」差配がむずかしい目つきで見たので、もっとおだやかな声をして、「そうよ、おれはむしゃくしゃしてたから、だれかがそれを知ってるなんざ、気にかけなかったのよ。おとついのこった、おれはあのマオ・ルーって野郎に会った、なにの裏……ええと、どこだったったけ? そうよ、魚市場の近くのあるところよ。野郎の袖ん中で銭がうなってたと思いねえ。宝のなる木がどこにあるのかね、兄弟って、友だちめかしてきいたもんだ。それがなるところにゃ、もっとたっぷりあるぜ、とやつは言った、おめえ、ちょっくら行って、寺ん中をのぞいてみなとね。で、おれはそこへ行ったのよ」
坊主は茶をがぶがぶ飲み、顔をしかめて、つづけた。
「そんで、おれがそこでなにを見つけたと思う? おれよりよっぽどすかんぴんのよぼよぼの年よりと、棺桶よ!」
ふとった差配が笑いだした。坊主は目が怒りでぎらぎら光ったが、悪態をつこうとはしなかった。
「やれ、やれ」と差配は言った、「おめえ、そんなら、このタオあにいと|三※[#「木+諸」、unicode6AE7]島《さんしょとう》へ行ったがいい。兄貴もマオ・ルーと話したがってんだ」
「そいじゃ、おめえも野郎にゃとさかにきてんのか、え?」ちょっと機嫌をなおして坊主が尋ねた。
タオ・ガンはぶつくさ言って同意した。
「あんたが話してた若い男ってのをしぼるのは大賛成だね」とタオ・ガンはそっけなく言った。「マオ・ルーをとっつかまえるより、そのほうがちょっぴりやさしかろうよ」
「それがおめえの考えていることか、兄弟!」と僧はむかっ腹を立てた。「おれはその若いのに真夜中に会ったのさ、閻魔さんがすぐ後ろを追っかけてるみてえにつっ走ってやがった。おれはそいつの首をひっつかんで、どこへ走ってくのかきいた。離してくれ、とやつは言った。金持ちの若旦那で、銀の箸で飯を食ってる弱虫だと見た。何かまちげえをやらかしたと分かったんよ。そんで、そいつの頭を叩いて、肩にかけると、おれの家までずっと運んでったってわけあいさ」
僧はさわがしく咳ばらいをして隅っこに唾を吐いた。茶瓶を手で探ったが、思いなおして話をつづけた。
「思ってもみな、そいつったら、わけを話そうたしねえんだ。で、あげくはそいつの面倒を見ることになっちまったのよ。うめえ脅《おど》しのたねをがっちり握ってるってのに、そいつがしゃべりたがらねえときた。話して聞かすのがたらねえってんじゃねえぜ」むごい笑いを浮べて男は言いたした。
タオ・ガンが起ちあがった。
「さて、と」と、あきらめたような溜息をついて彼は言った、「あたしら庶民にゃ、いつもそんなもんだよ、坊さん。ただついてないだけさ。私があんたみたいに強い男なら、今夜、銀三十粒になるんだがな。ま、とにかく、うまいことおやり」
タオ・ガンは戸口へ向った。
「おい!」と僧が大声で呼んだ、「なんだって急ぐ? 銀三十と言ったか?」
「あんたにゃ関係ないよ!」タオ・ガンはぴしゃっと言って扉を開けた。
僧は躍りあがって、彼の襟をつかんで引きもどした。
「手をはなせ、坊主!」と差配が鋭く言った。そして、タオ・ガンに、「何で聞きわけがねえんだ、タオあにい? その仕事が自分でできねえのなら、どうしてこの坊主を仲間にして、手間をやらねえ?」
「もちろん、そのことは考えたさ」タオ・ガンはじゃけんに言った。「だけど、知ってのとおり、あたしゃ、ここじゃ新しくてね、連中が集まる場所の名が聞き取れなかったのさ。連中は喧嘩のできる頑丈なやつが必要だと言ってたから、それ以上、きかなかったのさ」
「とんまな犬っころ!」と僧がわめいた。「銀三十だぜ! 考えてみろ、ててなしっ子」
タオ・ガンは眉を寄せると、肩をすくめた。「むだだよ。ただ、鯉とか何とかいうのを覚えてるだけなんだ」
「そいつぁ、旅籠赤い鯉のこった!」と差配と坊主が同時に大声を出した。
「そこへ行きゃ、分かるよ」タオ・ガンは言った。「しかし、どこにあるのか私は知らないんだ」
僧は起《た》ちあがって、タオ・ガンの腕を取った。
「いっしょに来いよ、兄貴! 知ってるぜ」
タオ・ガンは身を振りはなし、掌を上にして片手をあげた。
「おれの取り分の五分だ」僧は荒っぽくいった。
タオ・ガンは戸口に向った。
「一割五分じゃなきゃ駄目だ」と肩ごしにタオ・ガンは言った。
「おめえが七分で、おれが三分だ」と差配がさえぎった。「さ、それできまった。おめえは坊主をそこへ連れてけ、タオあにい、そして、坊主の仕事の手なみはおれさまがうけあうとそいつらに言うんだ。さ、行った!」
タオ・ガンと僧はいっしょに部屋を出た。
二人は魚市場の東の貧しい地区へ行った。悪臭のひどい狭苦しい横丁へタオ・ガンを引き込むと、坊主はいまにも崩れそうな木造小屋の戸口を指さして、
「おめえ、先にへえれ」とかすれた声で耳うちした。
タオ・ガンは扉を開けて、ほっと安堵の溜息をついた。マー・ロンがまだそこにいて、乞食の親方と隅に坐っていたのである。家具をしつらえた広い部屋にいるのは二人だけだった。
「調子はどうかね、兄弟!」と、タオ・ガンは本心からマー・ロンに呼びかけた。「これがぴったり、あんたの親分が捜してる男だよ」
坊主は取り入るように笑いながら頭をさげた。
マー・ロンは席を起《た》って、坊主に歩み寄り、上から下まで眺めて尋ねた。
「何だって親分が、この汚ねえ犬あたまを捜してるってんだ?」
「奴は寺の人殺しのことを知りすぎてるのさ」とタオ・ガンが急いで言った。
僧はあわててあともどったが、遅すぎた。彼が両手をあげるより早く、マー・ロンが心臓部へ一直線に打撃を加えて、小さなテーブルの上へあおむけに引っくり返した。
だが、坊主はそんな場には慣れていた。起きあがろうともせず、電光のようにすばやく匕首《あいくち》を引き出すなり、マー・ロンの喉を狙って投げた。マー・ロンは頭をひょいとさげ、匕首はどすっと鈍い音を起てて戸口の柱に突き立った。マー・ロンは小さいテーブルをひっつかむと、半分あげた坊主の頭にたたきつけた。テーブルは床を打ち、坊主はのびて動かなくなった。
マー・ロンは腰に巻いて持っている細い鎖をほどいた。坊主をうつぶせに引っくり返すと、両手を後ろ手にしっかりと縛った。タオ・ガンは昂奮して言った。
「奴はマオ・ユアンと従弟について、口でいうより良く知っている、おまけに誘拐をやった一味の仲間だ」
マー・ロンは歯を見せて笑った。
「みごとな働きだよ」と彼は感心して言った。「しかし、どうやってこの悪党をここへ連れて来たんだね? あんたはこの宿屋を知らなかったと思うが?」
「ああ」とタオ・ガンはけろりとして答えた、「奴にお話を聞かせてやったら、自分からここへ連れて来てくれたのさ」
マー・ロンは相手を横目で見た。
「あんた、そんなに悪気があるとは見えないがね」と考え込んで言った。「しかしまあ、あんたはあんたなりに、えらく底意地が悪いという気がするぜ」
この感想を無視して、タオ・ガンはつづけた。
「奴は最近、良家の若い男を誘拐したのだよ。たぶん、こいつは、ハン・ユンハンが報告したのと同じ一味の一人だ。こいつに彼らの隠れ家へ私たちを連れて行かせよう。そうすれば、何か報告しがいのあることが手に入る」
マー・ロンはうなずいた。気を失なっている男を引きずり起こすと、壁ぎわの椅子へ投げやった。それから、灰色ひげに、線香を持って来いと怒鳴った。老人はあわてて部屋の裏へ消えると、鼻につんとくる臭いを放つ二本の線香を持ってもどって来た。
マー・ロンは僧の頭をぐいと引きつけると、鼻の下へ燃えている線香を持っていった。すぐに男は咳込んで、激しくくしゃみを始めた。男は血走った目でマー・ロンを見あげた。
「おまえの家が見たいんだ、蛙《かえる》づら!」とマー・ロンは言った。「言え、どうやってそこへ行くんだ?」
「差配がこのことを聞いたら、てめえらひどい目に合うぜ」坊主はだみ声で言った。「てめえらの胆を引き裂くぜ!」
「自分の面倒は見られるさ」マー・ロンは愉快そうに言った。「さあ、きかれたことに答えろ!」
彼は線香をあげて坊主の頬に近づけた。それを気がかりそうに見て、坊主はあわててぼそぼそ口の中で説明した。仏寺の裏のどこかから始まる小道を取って、町を離れなければならないのだった。
「やってみるさ」とマー・ロンがさえぎった。「あとは、おまえがおれたちに教えるんだ」
マー・ロンは灰色ひげに言いつけて、古毛布を持って来させ、二人の苦力《クーリー》に担架を運んで来させた。
マー・ロンはタオ・ガンといっしょに坊主を頭から足まで毛布に包み込んだ。僧はひどく暑いと文句を言ったが、タオ・ガンが肋骨を蹴とばして、「おまえ、熱があるのが分からないのかい、ててなしっ子?」
坊主が担架に載せられると、一行は出発した。
「いきゃあがれ、犬あたま!」と坊主は噛みつくように言った。
「用心しろよ!」とマー・ロンが苦力たちに怒鳴った。「友達はひどい病気なんだ」
寺院の裏の松林に着くと、マー・ロンは苦力に担架を降ろさせ、駄賃を払ってかえした。苦力たちが見えなくなるとすぐ、僧を毛布から出してやった。タオ・ガンが袖から油の絆創膏を取り出して、僧の口にぺたりと貼りつけた。
「そこの近くへ行ったら、とまって、その場所を指して教えるんだ」と彼は僧に命じた。僧はやっとのことで攀《よ》じ登った。「ああいう悪党どもは、特別の合図とか、急を知らせる信号を持っているものだ」とタオ・ガンがマー・ロンに解説した。マー・ロンはうなずいて、きちんと間をおいて蹴とばしながら僧を急がせた。
僧は小道を登って、山の中へ二人を連れ込んだ。それから小道を離れると、茂った森の中へ道を辿《たど》って行った。坊主は足をとめて、木立を通して前方にぼんやり見える崖を頭で指し示した。タオ・ガンが坊主の口から絆創膏をはがして脅すように言った。
「私たちは自然愛好家じゃない。家を捜してるんだよ」
「おれにゃ、家なんぞねえよ」と坊主はむすっと言った。「あすこの洞穴《ほらあな》に暮してるんだ」
「洞穴だって?」マー・ロンが怒って大声を出した。「おれたちをこけにできると思ってんのか? おまえの仲間の根じろへ連れていけ、でなきゃ、絞めあげるぞ」彼は僧の喉に手をかけた。
「誓うよ」僧はあえいだ。「おれのへえってる仲間ってば、ばくちのだち公《こう》だけなんだ。このひでえところへ来てからってもの、おれはずっと一人であの洞穴で暮してるんだ」
マー・ロンは僧を先へ行かせた。彼は僧が投げつけた匕首を取り出した。意味ありげにタオ・ガンを見やって尋ねた、
「やつをちょいと刈り込むかい?」
タオ・ガンは肩をすくめて、
「とにかく、まずあの洞窟を見ようや」と言った。
坊主は二人を岩壁へ連れて行った。ぶるぶる震えて歩きながら、足で下生《したば》えを踏み分けた。人の背たけほどの暗い岩の裂け目が見えた。タオ・ガンは腹ばいになると、細い短剣を危なっかしげに口にくわえて中へ匍《は》い込んで行った。
少しすると、今度はまっすぐ立って歩いて出て来た。
「めそめそ泣いてる若僧のほか、だれもここにゃいないよ」と、がっかりした声で報告した。
マー・ロンはタオ・ガンについて中へ入って行った、僧を後ろに引きずりながら。
暗い隧道《すいどう》を十数歩進むと、大きな洞窟が天井の割れ目で明るんでいるのが見える。右手には、粗雑な作りの木の寝台とひしゃげた皮ばりの箱があり、別の側には、一人の若者が、腰をおおっただけのかっこうで床に横になっていた。手と足は縄で縛られている。
「行かせてくれ! どうか、行かせてくれ!」と若者は呻き声を出した。
タオ・ガンが縄を切った。若者はかろうじて身を起こすと、坐った姿勢を取った。背中に生々しい打たれた傷痕が見える。
「だれがあんたを打っていたんだ?」マー・ロンがあらっぽく尋ねた。
若者は黙って僧を指さした。マー・ロンがゆっくりと振り向くと、僧はへなへなとくずおれた。
「ちがいます、閣下、どうぞ! やつはうそをついてるんでさあ!」
マー・ロンは軽蔑の目つきで坊主を見ると、冷たく言った。
「おまえを巡査長にとっといてやる。あれはこういった類の仕事が好きなんでな」
タオ・ガンは若者を助けて寝台に坐らせた。彼は二十歳くらいに見えた。頭は乱暴に剃られていて、顔は苦痛のあまりねじくれていたが、良家の教育のある男だということはすぐに分かった。
「君はだれだね、それにどうしてこんなことになったのだ?」とタオ・ガンが好奇心をむき出しにきいた。
「その男が私をさらって来たんです! どうぞ私を、彼から離して連れて行って下さい」
「もっとうまくやってやる」とマー・ロンが言った。「知事閣下のところへ連れて行くのさ」
「いけない!」と若者は叫んだ。「私を行かせてくれ!」
彼は起《た》ちあがろうとした。
「まあ、まあ」マー・ロンがゆるりと言った。「そうやってなりゆきを見ようってのさ。政庁にいっしょに来るんだ、若いの!」マー・ロンは坊主に咆えた、「おい、そこの! おまえが誘拐団の仲間でないんなら、だれかがおれたちを見はってるかもしれんなんて、気にかけないですむんだ。今度はだっこして運びゃしないぞ!」
マー・ロンは弱々しく逆らう若者を寝台から抱えあげて、坊主の肩にのせてまたがらせた。そして血まみれの柳の枝を隅っこから取りあげると、坊主のふくらはぎをひっぱたいた。
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第十四章
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若い学者は極めて驚くべき話を語り
ディー判事は娼家の主人を尋問する
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午前も遅くなって、昼食の少しまえに、ディー判事は政庁の公判を開いた。法廷は混雑した。漢源《ハンユアン》の市民たちは、そんな普通でない時刻に法廷が開かれるのは、彼らのど真ん中で起きた二つの大事件について、重大な新事実が明るみに出たことを意味しているに相違ないと考えたのである。
ところが、判事はさっそく、その朝、ホン警部とチャオ・タイ相手に調べた案件の一つを審理し始めて傍聴人をがっかりさせた。それは漁師と魚市場の経営者との間に、価格の取りきめをめぐって起きた紛争であったが、双方の代表者に、それぞれの立場を改めて説明させてから、ディー判事は妥協案を提起し、若干のやりとりののちにそれを承認させた。
ちょうど租税の案件にとりかかろうとしたとき、外で騒がしい叫び声が聞えた。マー・ロンとタオ・ガンが、てんでにとりこを引っぱって入って来た。途中でいっしょになった群衆が、後からぞろぞろついて来ている。傍聴人たちが殺到して、昂奮して口々に問いかけた。法廷は混乱した。
ディー判事は驚堂木《けいどうぼく》を三回打ち鳴らした。
「静粛に!」雷鳴のような声で彼は叫んだ。「これ以上、ひとことでも聞えれば、法廷から全員を退去させるであろう!」
人びとはみな黙り込んだ。すでに壇の前にひざまずいている、ふつりあいな二人組が尋問されるのを、だれもが聞き漏らすまいとした。
判事は無表情に逮捕者を見やった。しかし心の中では平静どころではなかった、彼はその若者がだれか即座に分かったのである。
マー・ロンがタオ・ガンとともに二人の男を逮捕した次第を報告した。顎ひげを撫でながら、ディー判事は黙って傾聴していた。そのあと、若者に呼びかけた。
「姓名と職業を述べよ!」
「この微々たる者は」と若者は低い声で返答した、「おそれながら申しあげます。姓名はチャン・フーピアオと申して、文学士にございます」
驚きのつぶやきが法廷に起きた。判事は怒って顔をあげると、驚堂木を打ち鳴らして、「これが最後の警告である!」と叫んだ。若者に向って、「文学士チャンは四日以前に湖に投身自殺したと報告されている!」
「閣下」若者は口ごもりながら言った、「私の愚かさゆえに、さような誤解を引き起こしましたことを、言語に絶して私は心苦しく存じております。私はおのれがきわめて軽率に振舞い、何らの決断をも示すことなく、はなはだ非難さるべきであることを十分に承知いたしております。唯一《ゆいいつ》私が願い得ますことは、閣下には特殊な事情をご斟酌《しんしゃく》あって、ご仁慈をもって私の件をご寛大にお調べ下さることにございます」
ここで彼は言葉を切った。深い沈黙が法廷中に広がった。それから、彼は話しつづけた。
「新婚の夜に私の経験いたしました如き、最も高い歓喜が最も深い絶望へ、潰滅《かいめつ》的に変化してしまう経験が余人には決して起こりませんように! わが愛するものときわめて短い瞬間むつみますと、ほかならぬ私の愛が彼女を殺したことを私は発見いたしました」
彼はやっとのこと唾を呑《の》み込むと、話を進めた。
「悲しみと恐れに取り乱して、私は彼女の動かぬ身体を見つめました。そのとき、混乱が私をつかんだのです。どうやって父に顔を合わせられよう? 父はつねに唯一の男児である私に、このうえなく大きな愛情と関心を注いでいた――私、私は父から、子孫が永続して行くのを見る希望を奪ってしまった。私にできることは、おのれのみじめな生命を終らせることだけだったのです。
急いで軽い長衣を着ると、私は戸口に向いました。しかしそのとき思い返したのです、祝宴がまだ行なわれており、家は客人であふれているのだということを。人に気づかれずに出て行くのは不可能だと思いました。はからずも私は、いつか私の部屋の屋根が雨漏りするのを修繕に来た老大工が、天井板を二枚打ちつけずにおいたのを思い出しました。貴重品を納めておくのに役に立つ場所だと、大工は言ったのでした。私は腰かけの上に立ち、梁《はり》に攀《よ》じ登って屋根裏に匍《は》い込みました。板をもとどおりに置いて屋根に出てから、街路へ降りたのです。
夜ふけでしたから、辺りに人影はありませんでした。自分で気づかぬうちに湖の岸に着いておりました。水上に突き出ている大きな丸石の上に立って、絹の帯をはずしました。裸になろうとしたのです、衣服を着ていては浮いてしまい、死ぬのが長びいてもがき苦しむであろうと懸念されたからです。そうして暗い水を見おろすと、あわれにも、臆病な私は怖くなってしまったのでした。忌《いま》わしい生き物が湖をうろつき回っているという気味悪い話を思い出したのです。何かぼんやりした形がいくつも動き回って、凶々《まがまが》しい目が私を凝視しているのが見分けられる気がいたしました。非常に暑いにもかかわらず、身震いしながら、そこに立っておりました。歯は口の中でかちかち音を起《た》てていました。私には計画を実行できないことが分かったのです。
帯は水の中へ落ちてしまっていましたから、長衣を引き合わせると、湖から逃げ出しました。おのれの足がどこへ向って行くのか、分からなかったのです。寺の山門が前方にぼんやり見えたとき、やっとわれに返りました。すると、そこのその男が出しぬけにものかげから現われて、私の肩をつかみました。泥棒だと思って、振りほどこうとしたのですが、頭を打たれて意識を失なってしまいました。気がついたときには、あの恐ろしい洞窟に横になっておりました。翌朝になると、さっそく、あの男は、私の名だの、どこに住んでいるのか、どんな罪を犯したのかを尋ねました。私や気の毒な父を脅迫する所存でいるのが分かりましたから、返事を拒みました。すると、彼は歯をむき出して笑い、彼が私をその洞窟へ運んできたのは私にとって幸運なのだ、そこなら巡査たちに決して見つかる気づかいはないからだと言うのです。私が抗議するのもかまわず、私の頭を剃《そ》りました。そうすれば私は彼の新発意《しんぽち》で通用し、私だと認められることはないだろうと言うのでした。私に焚木《たきぎ》を集めて、粥《かゆ》を煮させると、彼は出て行きました。
その日はずっと、いかにすれば良いか思案してすごしました。私はどこか遠い土地へ逃げて行こうと決心したり、家に帰って、父の憤怒に相対《あいたい》したほうが良いだろうと考えなおしたりしたのです。夜になると、男が酔って帰って来て、また質問を始めました。拒絶して何一つ教えないと、彼は縄で私を縛り、柳の棒で無慈悲に私を打ちすえました。その後、彼は生きているというより死んだようになった私を、床に寝ころがしたまま放置したのです。私は恐ろしい夜をすごしました。次の朝、僧は縄を解いて、水を飲ませ、私がいくぶん回復しますと、焚木を集めて来いと命じました。その残酷な男から逃げようと私は決心いたしました。焚木を二束集め終わるとすぐさま、私は急いで町に逃げ帰りました。頭は剃られ、長衣はぼろぼろになっておりましたから、途中、だれ一人、私だと気づくものはなかったのです。私はほとんど疲労|困憊《こんぱい》の極にありました、足と背中が炎症を起こして痛んでいたのです。けれども、もう一度父を見たいという思いが力を与えてくれて、私どもの街区へたどり着きました」
文学士チャンは顔の汗をぬぐおうとして言葉を切った。判事の合図で、巡査長が苦い茶を一杯与えた。それを飲み終えてから、また彼は話し出した。
「わが家の門前に、政庁の巡査たちを見たときの私の恐怖をだれが述べられましょう! それはただ、私が帰って来るのが遅すぎたことのみを、すなわち、私がわが家にもたらした恥に耐えきれず、父がみずからわが生命を終わらせてしまわれたことを意味したのでした。私は確かめねばなりませんでした。それで、外の通りへ薪の束を置いて、庭の戸口から中へすべり込んだのです。私の寝室の窓をのぞき込みました。すると恐ろしい幽霊が見えたのです! 冥府の王が燃える目で私をじっと見つめておりました。地獄の幽鬼どもが私を責めておりました、父親殺しを! 私は完全にわれを失ないました。また人気のない通りへ走り出ると、森へ逃げたのです。森中をさんざ捜した末に、ようやっと洞窟が見つかりました。
男は待っていました。私を見るなり、乱暴な怒りに駆られて、私を裸にすると、罪を白状せよと終始叫びながら、再びむごく打擲《ちょうちゃく》しました。拷問に耐えきれなくなって、とうとう私は失神いたしました。
その後につづいたのは、ぞっとする悪夢でした。熱が出て、私は場所と時間の観念をすべて喪失したのです。男は水を飲ませ、そのあとでまた打擲《ちょうちゃく》するためだけに、私を目覚めさせました。縄をはずしはしませんでした。かような肉体的苦痛をべつにしても、熱に冒された頭には、自分がもっとも好きな二人の人、わが父上とわが花嫁とを殺してしまったという恐ろしい思いが、かたときも離れずにあったのです……」
声が弱まって途切れた。立ったままふらふら揺れたと思うと、意識を失なって床にくずおれた。疲労困憊していたのだ。
ディー判事はホン警部に彼を執務室へ運ぶように命じた。「検屍官に言いつけて」と彼は言いそえた、「この不幸な若者を蘇生《そせい》させ、傷の手当てをさせよ。そのあとで、鎮静剤を与え、身分にふさわしい長衣と帽子を整えてやれ。回復したら、ただちに報告せよ。家に送り返すまえに、一つ質問をしたいのだ」
判事は前に身をのり出して、冷やかに僧に質問した。
「おまえは自分のために何か言いたいことがあるか?」
これまで僧は波瀾に富んだ生涯を通じて、ずっと官憲を何とかうまく避けて通って来たのだった。だから、政庁の厳しい規則や、そういう規則を実施するのに用いられる徹底的な方式になじみがなかった。チャン文学士の供述の半ばあたりから、僧は憤慨してぶつぶつ文句を言っていたが、巡査長に荒っぽく蹴りつけられて黙り込んでいた。いま彼は尊大な声で思い切って話し出した。
「拙僧は抗議申したい――」
ディー判事が巡査長に合図した。巡査長は鞭の太い柄で僧の顔をひっぱたいて、叱りつけた。
「閣下に対しては丁重な口をきけ!」
憤怒のあまり青ざめて、僧は身を起こして巡査長に躍りかかった。けれども巡査たちはそんな事態には十分に備えていたから、棍棒を揮《ふる》っていっせいに襲いかかった。
「その男が市民らしく口をきくのを覚ったら報告せよ」とディー判事は巡査長に命令して、目の前の書類をかたづけ始めた。
しばらくすると、石で畳んだ床が水でびしゃびしゃになった。巡査たちが桶で水を僧にぶっかけて息を吹きかえさせている印であった。やがて、僧が尋問に応じられると巡査長が報告した。
ディー判事は裁判官席越しに見やった。僧の頭はたくさんの裂け目から血を流し、左目はつぶれている。あいている右目はぼうっとして判事を見つめていた。
「私は聞いている」と判事は言った、「おまえは何人かの賭博師に、おまえがマオ・ルーという男とつき合いがあることを語ったそうだな。私はいまほんとうのところが知りたい、完全な真実がだ。何もかも言ってしまえ!」
僧は血を口いっぱい床に吐き出した。そうしてもつれた舌で話し始めた。
「先だって、第一鼓が鳴ったあと、町へ散歩に行こうと思いまして、ちょうど寺の裏の小道を降りて来たところで、一人の男が木の下で穴を掘ってるのを見ました。月が昇って来て、マオ・ルーだと分かったんです。斧を鍬《くわ》みたように使って、精《せい》いっぱい急いでました。わしはマオ兄弟が何か汚い計略をたくらんでるのだと思ったです。だけど、素手か匕首《あいくち》ならいつでも備えができてやしたが、斧は好きじゃなかったんで、自分の場所に立ちどまってました。
そうです、穴ができあがると、奴は斧を、それから木の箱を投げ入れました。両手で土をすくってそん中へ入れ始めたので、わしは外へ出てって、マオ兄弟よ、手伝おうか、と声をかけやした、冗談めかしてで。出て来ようが遅いぜ、坊主、とだけ、奴は言いやした。そこへ何を埋めてんだときくと、古い道具だけいくつかよ、したが、向うへ行きゃ、寺ん中にもっとましなもんがあるぜ、と言って袖を振ってみせ、わしにはほんものの銭がちゃらちゃら歌ってんのが聞えました。貧乏人に分けまえってのはどうかね、ときくと、奴はこっちをじろじろ見て、言いました、今夜はおめえついてるぜ、坊主、あすこの連中は、獲物の分け前を持っておれが逃げるのを見ると、追っかけちゃ来たが、森ん中でまいてやった、いま寺には一人しか残ってねえ、ちょっくら急いであすこへ行って、連中がもどってくるめえに、つかめるものをつかんで来い、おれは自分で運べるだけのもんはみんな持ってるって、奴は行っちまいやした」
僧ははれあがった唇をなめた。判事の合図で巡査長が苦い茶を一杯与えた。一息に飲み乾《ほ》すと、唾を吐いて彼はつづけた。
「初めにわしは、奴が言い忘れたことがねえか確かめようと、そこを掘り始めやした。しかしあの男はうそをついてませんでした、そんときだけはです。見つかったのは大工の古い道具が入った箱だけだったんで。で、わしは寺へ行きやした。わしはもっと良く知ってなきゃならなかったんでさあ! 見つかったのは、何もない門房の中で眠りこけている年とったはげ頭と、空っぽな本堂にある棺桶だけでやした! あの犬っころが、わしをどかそうと作り話をしたんだと分かりやした。それだけでさ、判事。もっと良く知りたければ、あのマオ・ルーって野郎をとっつかまえて、野郎にききゃあいい!」
ディー判事は頬ひげを撫《な》でていたが、そっけなく質問した。
「おまえは、あの若い男を誘拐して虐待したと白状するか?」
「わしは、あんたの巡査たちから、あの男を逃がしてやれなかったじゃねえですか?」と僧は不機嫌にきいた。「それに、あんたは、人がただで食いもんと宿をくれるなんて期待するわけにはいかねえんで。あいつは働くのを承知しなかった、そいで自然とちょっぴり活《かつ》を入れてやらなけりゃならなかったんだ」
「言い逃れはやめろ!」と判事が怒鳴った。「おまえが力ずくで彼を洞窟にかどわかし、柳の棒で何べんも打擲《ちょうちゃく》したことを、おまえは認めるか?」
僧は横目でちらっと巡査長を見た。巡査長は鞭を指でひねっていた。僧は肩をすくめ、ぶつくさと言った、「おおさ、おれは白状する!」
判事が合図すると、事務官が僧の供述の記録を読みあげた。チャン文学士に関する部分は、僧自身が話したのよりも積極的に述べられていたけれど、僧はそれが正しいことを認めて記録に拇印《ぼいん》をおした。そこで判事が言った。
「おまえは世間が考えているよりもっと厳しく罰することができるのだ。しかしながら、マオ・ルーに出会ったというおまえの供述を確証するまで、裁決は延期しよう。いまはおまえに入牢を申しつける。もしおまえが偽りを述べたと判明すれば、いかなることがその身に起こるかをよくよく考えよ!」
僧が引いて行かれると、ホン警部が入ってきて、チャン文学士がいくぶん回復したと報告した。二人の巡査が裁判官席の前へ彼を連れて来た。彼はもうさっぱりとした青い長衣を着て、黒い帽子をかぶって剃《そ》った頭を隠している。憔悴しきった様子にもかかわらず、彼がきれいな若者であることは十分に見て取れた。
チャン文学士は事務官が彼の供述の記録を読みあげるのを注意ぶかく聞いてから、それに拇印をおした。ディー判事は厳しく彼を見つめて、
「君自身が述べたとおり、文学士チャンよ、君ははなはだ愚かしく振舞い、それにより正義の道をいちじるしく妨げた。さりながら、過去数日間の君の悲惨な経験は、そのことに対する罰として十分であったと私は判断する。ところで、君にとって良い知らせがあるのだ。父上は存命しており、かつ君を責めてはいない。反対に、君が死んだと思ったときには、痛切な衝撃を受けたのである。君の花嫁の死に加担したというかどで、父上は本政庁に告訴された。それが君の家に巡査たちがいるのを君が見た理由である。君の部屋で君が見た幽霊というのは、私だったのだ。混乱した心理状態にあったから、君には私がいくぶん険悪に見えたのに相違ない。
遺憾ながら、君の花嫁の遺骸が不可解にも消え失せてしまったことを君に知らせねばならない。本法廷は、儀礼どおりに埋葬せられるよう、それを取りもどすべく力の及ぶかぎり努めているのだ」
チャン文学士は手で顔をおおって、小さな声で泣き出した。ディー判事は少し待ってから語りつづけた。
「君を家に帰らせるまえに、一つ質問をしたい。父上のほかに、君が竹林書生なる筆名を用いているのを知っているものがいたか?」
チャンは抑揚のない声で返答した。
「私の嫁だけでございました、閣下。私がその筆名を使い始めましたのは、彼女に出会いまして以後で、彼女に贈る詩にはそれで署名したのでございます」
ディー判事は椅子に身をそらせた。
「それだけだ。君を虐げた男は投獄された。いずれ彼はしかるべき処罰を受けよう。君はもう行ってよろしい。文学士チャン」
判事はマー・ロンに、垂幕《たれまく》を下ろした輿《こし》で若者を家に送り、家を監視している巡査たちを呼びもどし、チャン博士に自宅拘束が解かれたことを告げるよう命令した。
それから驚堂木《けいどうぼく》を打ち鳴らして公判を閉じた。
再び執務室に坐りながら、ディー判事は元気のない笑いを浮べて、その向いに、ホン警部とチャオ・タイとともに腰をおろそうとしたタオ・ガンに言った。
「君はみごとに仕事をやった、タオ・ガン。リウ対チャンの事件はもう解決した。消えた死体の問題を除けばね」
「マオ・ルーがそれについては万事を教えてくれるでしょう、閣下」と警部が言った。「あきらかにマオ・ルーは金が目あてで従兄を殺しました。彼を逮捕すれば、チャン夫人の死骸をいかがしたのか話すはずです」
ディー判事は同意したように見えなかった。ゆっくりと彼は言った。
「マオ・ルーはなぜ死体をほかへ移そうとしたのだろう? どこか寺の近くで従兄を殺害したのちに、マオ・ルーは寺の中で死体の隠し場所を捜して、脇講堂に棺のあるのを見つけたのだと想像すれば想像できる。棺を開けるのは簡単だった。彼には従兄の道具箱があったのだよ。だが、いったいなぜ、彼はあの女の死体の上に大工の死体を入れるだけにしなかったのか? なんで彼女の死骸を移したのか?――それではまえとまったく同じ問題が、つまり死体をいかに処理するかが残ってしまうのに」
黙って聞いていたタオ・ガンが、頬から生えている三本の長い毛をもてあそびながら、ふいに発言した。
「私たちにはまだ知られていない第三の人物が、マオ・ルーが棺を見つけるまえに、おそらく花嫁の死体を移したのでしょう。それは、何らかの理由で、死体が調査されるのを何としてでも妨げたかった人物に相違ありません。死んだ女が自分で歩いて行ってしまったなんて都合のいいことはありえないのですからね」
ディー判事は鋭い眼差しをタオ・ガンに投げた。袖の中で腕を組んで、肘かけ椅子に身を丸めると、しばらく深く考え込んだままでいた。
突然、彼はまっすぐに身を起こした。テーブルを拳で打つと叫んだ。
「まさしく彼女がそうしたのだ、タオ・ガン! というのも、あの女は死んでいなかったのだ」
補佐たちはびっくり仰天して彼を見た。
「どうやったらそんなことがありえます、閣下?」とホン警部が言った。「専門の医師が彼女は死んだと断言したんですよ。経験のある葬儀屋が彼女の死体を洗ったんです。それから半日以上も閉じた棺の中に横たわっていた」
「ちがうのだ」と判事は昂奮して言った。「良く聴け! あのような場合に若い女が気絶することは良くあるが、それで死ぬのはまれだと検屍官が言っていたのを忘れるな。いいか、考えてみろ、彼女は失神した、それも神経の衝撃が仮死状態に陥れたのだ。医学書にはそういった状態になったものの例が記録されている。呼吸は完全に停止し、手首の脈搏はなく、両目は輝やきを失なって、ときには顔が死相を呈することさえあるのだよ。この状態は四、五時間つづくことが知られている。
いま、われわれは、彼女が大急ぎで納棺され、ただちに寺に運ばれたことを知っている。さいわいなことに、棺は薄い板でできた間に合わせのものにすぎなかった。私自身、いくつも割れ目があるのに気づいた。さもなければ、彼女は窒息して死んでいただろう。さて、棺が寺に置かれ、人びとがみな去ってしまってから、彼女は意識を取りもどしたにちがいない。大声で呼び、木の牢獄の壁を叩いただろう。しかし彼女は人気のない寺の脇講堂にいて、世話人はつんぼだった!
このあとは推論にすぎない。マオ・ルーは従兄を殺してその金を盗んだ。死体を隠す場所を寺で捜していると、棺から声が聞えて来た」
「彼はひどく驚いたにちがいない」とタオ・ガンが意見を述べた。「奴はできるかぎりはやく逃げ出したのではありませんか?」
「彼はそうではなかった、と考えなければならない」ディー判事は言った。「マオ・ルーは従弟の道具を取って棺を開けたのだ。女は起こったことを奴に話したに相違ない、そうして――」声がとぎれた。彼は眉をしかめ、それから腹立たしそうにまた話し始めた。「いや、そこのところで私たちは暗礁にのりあげてしまう。彼女の話を聞きながら、マオ・ルーは、チャン博士が娘を助けてもらった礼にたっぷり報酬をくれるだろうと、即座に思いつかなかっただろうか? なぜ彼はただちに彼女を連れかえらなかったのだ?」
「彼女は大工の死体を見たのだと思います」とタオ・ガンが言った。「それで彼女はマオ・ルーの犯行の証人になったわけで、奴は彼女が告発するのを恐れたのです」
ディー判事は激しくうなずいた。
「そうにちがいない。マオはきめたに相違ない、どこか離れたところへ彼女を連れて行き、棺が埋められたと聞くまで、彼女を留めておこうとね。そうなれば、彼女をどうするかは彼女に選ばせることもできるわけだ。娼婦として売るか、あるいは家に連れ返すか、チャン博士には、マオ・ルーが彼女を助けたことについて、何か作り話をすると彼女が約束するという条件でだがね。そうやれば、どっちに転んでも、マオ・ルーは金ののべ棒二本は儲かるわけだ!」
「ですが、マオ・ルーが道具箱を埋めたとき、チャン夫人はどこにいたのです?」とホンが質問した。「坊主が寺中をくまなく捜して、彼女を発見しなかったことはたしかですね」
「マオ・ルーを捕えたときに、すべてははっきり分かるさ。けれども、マオ・ルーがこの数日間、あの不幸な女をどこに隠していたかはすでに分かっている、つまり魚市場の裏の娼家にだ! |マオ・ルーのあま《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》と片目の男が呼んでいたのは、チャン夫人以外のだれでもない」
事務官がディー判事の昼食をのせた盆を運んで来た。事務官が食事をテーブルに並べているあいだに、判事はまた始めた。
「チャン夫人に関する推論は容易に確かめることができる。君ら三人もいまは昼食をとるがいい。そのあとで、チャオ・タイはその娼家へ出かけて、主人をここへ連行してくれ。その者はマオ・ルーがそこへ連れて行った女のことを述べるはずだ」
判事が箸を取りあげ、三人の補佐は辞去した。
ディー判事はろくに味わいもせずに食事をとった。新たに明らかになった諸事実を咀嚼《そしゃく》しようとしていたのである。いまやリウ対チャンの事件が解決したことには、ほとんど疑いの余地がなかった。いくつかの細部だけが満たされずに残っているにすぎない。ほんとうの問題は、この事件と芸妓の殺害との連関を見出すことだ。教授は潔白だと仮定してもいまではさしつかえない。だが、リウ・フェイポには事態全体がうさん臭い光を投げかけている。
事務官がテーブルをかたづけて茶をいれると、判事は画舫の殺人事件に関する書類を引出しから出して、頬ひげをゆっくりと撫《な》でながら読みなおし始めた。
四人の補佐が執務室に入って来たとき、彼はそのまま書類を読んでいた。マー・ロンが言った。
「でもまあ、あの教授がほんとうの気持を表に出すのをやっと見ましたよ。息子を見て、何て喜んだことか!」
「ほかの諸君がもう君に話したと思うが」とディー判事がマー・ロンに言った、「われわれには、チャン文学士の花嫁も生きていると仮定する強力な理由があるのだよ。君は娼家の主人を連れて来たかね、チャオ・タイ?」
「連れて来ましたよ」とかわりにマー・ロンが返事をした。「美人が外の回廊で待っているのを見ました」
「中へ呼んでくれ」とディー判事は命令した。
チャオ・タイは粗野な、平たい顔をした、背が高く痩せて骨ばった女を連れてもどってきた。女は深く礼をすると、すぐさま、鼻にかかった、あわれっぽい声で話し始めた。
「あの人ってば、あたしが着物を着替えるひまも下さらなかったんでございますよ、閣下。こんな恐ろしい姿で、どうやって閣下の前にまいれましょう! あたしゃ、あちらに申したんでございます――」
「静かにして、知事の言うことを聞くのだ」判事は女をさえぎった。「私がその気になれば、いつでもおまえの家を閉じることができるのを知っているな。それなら用心して、何もかもほんとうのことを話すほうが良い。マオ・ルーがおまえのところへ連れて行ったのはだれだったのか?」
女はひざまずいた。
「あの悪党があたしを面倒に巻き込むのは分かっておりました!」と女は泣き声を出した。「ですが、かよわい女に何ができましょう、閣下? あいつはあたしの喉をかき切ったでしょう、閣下。お許し下さいまし、閣下!」
大声で叫びながら、女は床に額を打ちつけた。
「そのように騒ぐのは止めろ!」と怒って、ディー判事は命令した。「吐いてしまえ、その女はだれだった?」
「どうして、そのあまを知ってるはずがござんしょう!」女は叫び立てた。「マオ・ルーがあたしんとこへ真夜中に連れて来たんです。誓言《せいごん》します、あたしゃ、その女をまえに見たことはなかったんです。その女は変てこな一重の長衣を着て、何だか動顛《どうてん》してるふうでござんした。マオにいさんは言いました、ひよっこは何が自分にいいことなんか分からねえのだ、おれみてえないい亭主をあいつがいやがるなんざ、おめえ、想像できるかえ? けど、あいつに教えてやるさって! あたしにゃ、あのかわいそうな娘がほんとに具合が悪いと分かりました。そいで、その夜はあの子をひとりにしとけって、マオ・ルーに言ったんでござんす。それがあたしってもんなんでございます、閣下。いつだってあたしは信じております、ああいう人たちに親切にしてやるもんだって。あたしゃ、あの子をすてきな部屋に置いてやりました。いい米のお粥と茶瓶いっぱいお茶をやりました。良く覚えております、あたしがあの子に言ったことをでござんす、閣下。おやすみ、ひよっこちゃん、心配するこたないよ、あしたんなりゃ、何もかもうまく行くってことが分かるさって、言ったんでござんすよ」
女は深い溜息を吐いた。
「おお、閣下はああいう娘たちをご存じないんでございます。つぎの朝になれば、あの娘がせめてありがとうぐらいあたしに言ったと人は思うざんしょう。けど、とんでもない! あの娘は家中を起こしてしまったんでさ、扉を蹴っとばしたり、ありったけの大声で怒鳴ったりして。そいであたしが娘のところへあがって行くと、あたしとマオ・ルーに悪態ついて、自分がかどわかされただの、いい家の娘だのってばかみたいなことをずらっと並べ立てたんです――そんなたぐいの話は、ああいう娘たちがいつも話すもんなんでござんすよ。そうざんすとも、ああいうあまっ子たちに道理を分からせるには一つ道があるんです。縄きれの味を覚えさせてやるんでございますよ。それでもって、あの娘は黙りました。それで、マオにいさんが来たときにゃ、おとなしくいっしょに出かけたんでございます。誓言いたします、これで全部でございます、閣下」
ディー判事は蔑《さげす》みをこめて女を見た。一瞬、娘を虐待したかどで女を逮捕しようと思ったが、女は自分の考えに従って行動したにすぎないのだと思いかえした。そういう下級の娼家というのは必要悪なのだ。当局は行き過ぎを防ぐべく抑制することはできても、不運な娘たちがむごくあつかわれるのを完全に排除することはできない。彼は厳しく言った。
「おまえも良く承知しているとおり、家出娘をおまえの家に泊めるのは許されていない。しかし、今回は許してやろう。だが、おまえの話を検討して、もしほんとうのことを言ったのでなければ、おまえは終わりだ」
女は再び床に頭を打ちつけ始めた、感謝の言葉を述べたてながら。判事の合図で、タオ・ガンが女を連れ去った。
ディー判事はけわしい表情で言った。
「そう、われわれの推論は正しい。文学士チャンの妻は生きている。だが、おそらくマオ・ルーの手中に落ちるよりは死んだほうが良かっただろう。われわれは可能なかぎりすみやかにマオ・ルーを逮捕して、あの悪党から彼女を救い出さなければならない。彼らは彊北《チアンペイ》県の|三※[#「木+諸」、unicode6AE7]島《さんしょとう》というところにいる。それがどこか、だれか知っているかね?」
タオ・ガンが言った。
「行ったことはありませんが、閣下、いろいろと聞いたことはあります。それは島々の群、というより、むしろ沼沢地で、黄河の真ん中にあります。その沼沢地は密に繁茂する藪におおわれ、一年の大半は水をかぶっておりまして、高いところは古木の厚い森からなっています。そこに集まって来た犯罪者や無法者たちのみが、その地へ通じている水路と沼沢地をぬっている流れを知っているのです。連中は船が通りかかれば一艘残らず通行料を取りたて、沿岸の村々を襲うこともしばしばでして、そんな盗賊仲間は四百人以上にものぼると言われています」
「なぜ政府はその盗賊の巣をきれいにせずにいるのだ?」と驚いて判事がきいた。
唇をすぼめて、タオ・ガンが返答した。
「それは容易な仕事じゃありませんな、閣下。それには多くの人命を犠牲にする覚悟で、水軍を出動する必要がありましょう。沼沢地には小型の船で接近しなければならんでしょう、軍船はそういった浅い水路では使用不能だからです。しかも、さような軍船の兵士は容易に無法者どもの矢の標的にされてしまいましょう。仄聞《そくぶん》するところでは、軍隊が沿岸に設置された一連の屯所《とんしょ》に配備され、兵士がその地域一帯を巡回しています。沼沢地を封鎖して、無法者たちを降服せしめようという考えですな。ところが、どういたしまして、連中ときたら、もう長年そこにいついていますから、民衆の中に多くの秘密の連絡経路を持っておって、追跡するのはきわめて困難なんですな。今日までのところ、盗賊たちに食糧その他の必需品が欠乏しているといった兆候は何ひとつありません」
「まったくひどいようだな」とディー判事は言って、マー・ロンとチャオ・タイを見ながら尋ねた、「君たちなら、マオ・ルーと女をそこから連れ出せると思うかね?」
「チャオ兄弟と私で何とかやりましょう、閣下!」とマー・ロンが上機嫌になって答えた。「おれたちにうってつけの仕事ですよ。いますぐに出かけたほうがいいでしょう、状況を判断したところ!」
「よろしい! 同僚の彊北《チアンペイ》県知事あてに紹介状を書いて、あらゆる援助を与えてくれるよう依頼しよう」
判事は筆を取りあげて、公用箋に手ばやく数行書き下すと、政庁の大きな四角い印章を押して、マー・ロンに手渡して言った、
「無事でな!」
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第十五章
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警部とタオ・ガンは重要人物を訪ね
取引斡旋人は正に最期の取引を結ぶ
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マー・ロンとチャオ・タイが出て行ったあと、ディー判事はホン警部とタオ・ガンを相手に話をつづけた。
「われらの勇者が彊北《チアンペイ》へ行っているあいだ、私たちがのんびりしているわけにはいかないな。昼食をとりながら、私はずっと、芸妓殺しの二人のおもな容疑者、リウ・フェイポとハン・ユンハンについて考えてみた。どう考えても、ここにじっと坐って、あの二人の紳士がつぎに動くのを待っているわけにはいかないよ。今日リウ・フェイポを逮捕しようと決心した」
「おそらくそれはむりでしょう、閣下!」と、びっくりしてホンが大声をあげた。「われわれにはいくつかの漠とした疑惑があるにすぎません。どうやってわれわれにできる――」
「私はまちがいなくリウを逮捕できるし、またやるつもりだ」と判事はさえぎった。「リウはこの法廷で、チャン博士に対する容易ならぬ告訴を提出したが、その告訴が誤りであったことがいまは証明された。あの事件の審理を中止しても、だれも非難しないだろうことは私も認める。というのは、何よりも、告訴をしたとき、リウは悲しみのあまりわれを忘れていたし、また教授が名誉毀損で彼に対して告訴をもちだしはしなかったからだ。しかしだよ、いつわって他人を重罪のかどで告訴したものは、そのもの自身がその罪を犯したかのように処罰されると法律は定めている。法律は、この条文の適用にさいしては、広範な裁量の自由を許容しているが、この事件の場合、私は字義通りに条文を解釈するほうをとるのだ」
ホン警部は心配そうな顔をしたが、ディー判事は筆を取って、リウ・フェイポ逮捕の命令書を書き下した。それからべつの用紙を選び、それに書き込みながら言った、
「同時に私はワン・イーファンを逮捕させる。法廷で彼の娘とチャン博士に関して虚偽の証言をしたからだ。君たち二人は四人の巡査を連れてリウの家へ行き、彼を逮捕せよ。そのついでに、ホンよ、巡査長に、二人の部下を率いて、ワン・イーファンを逮捕しに行くよう命令してくれ。二人の逮捕者は目かくしした輿《こし》でここへ連行し、引き離して独房に拘禁するのだ。牢獄で厚遇をあてにできるなどと、彼らに思わせてはならない。夕方の公判で二人から聴取する。そうすれば、一つや二つ、何か分かるだろうと思うのだ」
警部はまだ疑わしげな表情をしていたが、タオ・ガンはにやりと笑って感想を述べた。
「賭博と同じことですな。さいころを上手にしゃかしゃか混ぜ合わせれば、すてきな目が出るのは良くあることです」
ホンとタオ・ガンが辞去すると、ディー判事は引出しを開けて、囲碁の問題の紙片を取り出した。二人の助手に信じさせたほど、自信があるのではけっしてなかった。けれども、攻撃を開始し、先手を取らなければならないのだと感じていた。二人の逮捕は、その目的を遂げることが可能な唯一の道なのだった。椅子に坐ったまま振り向いて、背後の食器戸棚から碁盤を取って、問題に示されているとおりに黒石と白石を置いて行った。死んだ踊子が発見した陰謀を解く鍵は、この囲碁の課題に隠されているのだと彼は確信していた。これは七十年以上もまえに作られ、最良の碁の名手たちが解《と》こうと試みて失敗したのだ。杏花《きょうか》は、自分では碁を打たなかったのだから、彼女がこれを取り出したのは、囲碁の課題としてではなく、それにはまるで関係のない、もう一つべつの意味が盛り込まれている可能性があるからに相違ない。これは一種の判じものなのか? 眉をしかめたまま、判事は石を動かして、隠された通信を読み取ろうとした。
いっぽう、ホン警部はワン・イーファン逮捕に関する指示を巡査長に与えると、タオ・ガンといっしょにリウ・フェイポの家へ向った。四人の巡査が慎重に間を置き、おおいをした輿をともなって二人の後ろについて行った。
ホンは高い朱塗りの門を叩いた。横木を渡したのぞき穴が開くと、通行許可書を示して言った。
「知事閣下の命令によって、リウ氏に面会したい」
門番は門を開いて、二人の男を門房の小さな待合室に招じ入れた。すぐに初老の男が現われ、リウ・フェイポの執事だと名のった。
「私でも」と執事は言った、「お役に立てると存じます。主人はただいま昼の休息中でございまして、妨げるわけにはいかぬのでございます」
「われわれはリウ氏に個人的に話すよう厳命を受けている」と警部は言った。「行って起こしたほうがいい」
「とんでもない!」と執事は恐ろしそうに叫んだ。「そんなことをしたら、職を失ないます」
「われわれを彼のところへ連れて行け」タオ・ガンが無愛想に言った。「そうすれば、われわれが自分で起こす。案内するんだ、おまえさん。公務の執行を妨害してはならないよ」
執事は向きを変えた。白毛まじりの山羊ひげを怒りで震わせながら、執事は彩色タイルを敷いた院子《なかにわ》を横切り、ホンとタオ・ガンがぴたりと後について行った。四棟の曲りくねった回廊を通り抜けて、壁に囲まれた大きな庭に着いた。珍しい花を植えた陶器の壺が広い大理石のテラスを囲んで並べられている。その向うには、中心に蓮池をしつらえた精巧な風景庭園があった。蓮池をぐるりと回って、執事は庭の奥の、さまざまな形と色の、趣きのある大石を集めて漆喰《しっくい》で固定した人工の岩山へ二人を連れて行った。その向うに、竹を編んだ骨組みに蔦《つた》がびっしりと匍《は》い登っている亭《ちん》があった。その亭を指さして、執事はつっけんどんに言った。
「中に主人はおりましょう。手前はこちらでお待ちします」
ホン警部は緑の葉をかき分けて行った。涼しい内部には籐《とう》の安楽椅子と小さな茶卓しか見あたらず、人はだれもいなかった。
二人の男は急いで執事のところへ引きかえした。ホンがいらだって執事に言った。
「われわれを愚弄するな。リウはあそこにいないぞ」
執事はおびえた表情でホンを見た。ちょっと考えてから、彼は言った、
「書斎へ行かれたのでしょう」
「では、われわれもそうしよう」とタオ・ガンが言った。「案内しろ!」
執事はまた長い回廊を通って二人を案内して行った。執事は複雑な花模様を表現した金属の細工で飾られた黒檀の扉の前で足をとめた。何回も扉を叩いたが、応答はなかった。そこで押してみたが、扉には鍵がかかっている。
「どけ!」と、我慢できなくなってタオ・ガンが怒鳴った。何でも入っている袖《そで》から鉄の器具の小さな包みを取り出すと、彼は鍵にとりかかった。すぐにかちりと音がして、扉が開いた。豪華な家具をしつらえた、広々とした書斎が目に入った。重厚な椅子とテーブルも、高い書架もすべて、入念に彫物がほどこされた黒檀製だった。だが、だれもいなかった。
タオ・ガンはまっすぐ書きもの机に歩み寄った。引出しは残らず開け放しになっていて、厚い青の絨毯の上に書類ばさみや手紙が散らばっている。
「泥棒が入ったんだ」と執事が叫んだ。
「泥棒なもんか!」とタオ・ガンがぴしゃりと言った。「引出しはむりにこじあけたんじゃない、鍵でだ。金庫はどこにある?」
執事は震える手で二つの書棚の間にかかっている古い絵の軸を指さした。歩み寄ると、タオ・ガンは絵を引いて脇へのけた。背後の壁にある四角い鉄の扉は鍵がかけてなかった。しかし金庫はからっぽだった。
「この鍵もこじあけたんじゃない」タオ・ガンは警部に言った。「家の中を捜そう。でも、鳥は飛び去っちまったって気がするね」
ホンが四人の巡査を呼び入れて、一同は女棟《おんなむね》も含めて屋敷中を捜し回った。けれどもリウ・フェイポはどこにもいず、昼食後はだれも彼を見たものがないのだった。
二人の男はむっつり不機嫌に政庁に帰って行った。院子《なかにわ》で巡査長に出会うと、ワン・イーファンは難なく逮捕されたと告げた。ワンはもう牢獄に閉じこめられていた。
ディー判事は執務室で、まだ囲碁の問題の研究に夢中になっていた。
「ワン・イーファンは厳重に拘禁いたしました、閣下」ホン警部が報告した、「ですが、リウ・フェイポは痕跡もなく失踪しておりました」
「失踪した?」と、驚いて判事がきいた。
「おまけに金と重要な書類をごっそり持ち去ったんです」とタオ・ガンがつけたした。「庭の戸口から抜け出たに相違ありません、だれにも告げずにです」
ディー判事は拳でテーブルを叩いた。
「遅すぎたか!」とくやしそうに叫ぶと、跳びあがって、大股に部屋の中を歩き回り始めた。少しすると足をとめて、
「何もかも、あのばかで、とんまなチャン文学士の責任だ! もっとはやく教授の潔白が分かっていたら――」彼は怒りにまかせて顎ひげを引っぱった。それからふいに言った、「タオ・ガン、顧問官リァンの秘書を連れて来てくれ、すぐにだ! 法廷が始まるまでに、まだ彼を尋問する時間はある」
タオ・ガンが急いで出ていくと、つづけてホン警部に言った、
「リウを逃がしたのは痛い失策だよ、ホン。殺人は重大だ。しかしもっとずっと重大なことがあるのさ!」
ホンはその意見について、もっと説明を求めようと思ったが、ディー判事の固く唇を結んだ顔を見て考えなおした。判事はまた部屋の中を歩き回り始めた。それから後ろ手を組んで窓の前にたたずんだ。
驚くほど早く、リァン・フェンを連れてタオ・ガンが帰って来た。若者は、判事がこのまえ会ったときよりも、ずっと神経質になっているように見えた。ディー判事は机によりかかった。リァン・フェンに坐るように求めなかった。胸に両腕を組んで、きわめて慎重に話しかけた。
「今回は率直な言葉で言おう、リァン君。君が卑劣な犯罪に関係していると疑っていることを、私は君に告げる。間もなく始まる法廷の公判のかわりに、ここで君を尋問するのは、老顧問官の感情を傷つけたくないからだ」
リァンの顔が蒼白になった。何か話し出そうとしたが、判事は手をあげて制した。
「まず第一に、顧問官の野放図な浪費に関する君のあわれをさそう話は、彼の状態を利用して君が彼の金を着服している事実を隠蔽する試みだと解することもできる。第二に、私は死んだ踊子、杏花の部屋で、君の筆跡で書かれた恋文を発見したが、いちばん新しい手紙は、君が関係を切りたがっていたことを証明している。察するに、君が垂柳《すいりゅう》、ハン・ユンハンの娘と恋仲になったためにだ」
「どのようにして、それに気づかれたのですか?」とリァン・フェンは大声をあげた。「私たちは――」
しかしディー判事はまた彼をさえぎって、
「君は踊子を殺せはしなかった。画舫《がぼう》に乗っていなかったのだからね。しかし君は彼女と関係を持っていたし、君の部屋で彼女と人知れず会っていた。小さな庭の裏の出入口から容易に彼女を中へ入れることができたのだ。いや、まだ終ってはいないぞ! 君の個人生活に、私がいささかの興味も抱いていないのは保証していい。私にとっては、柳街のお嬢さんがたみんなを、君が喜ばせてやっていたっていいのだ。しかし、死んだ踊子とのことは何もかも、私に話さねばならぬ。すでに一人の愚かな若者が捜査を妨害した。そのうえ、そんな障害をさらにまたくり返して欲しくないのだ。言ってしまえ、真実を言うのだ!」
「それは真実ではありません。誓います、閣下!」と若者は泣き叫んだ、絶望のあまり腕をよじって。
「私はその芸妓を知りません。それに主人の金を一銭だって着服したことはありません! ですが、私は認めます、喜んでそういたします、垂柳を愛しております、そして私の気持が報いられていると信じられる理由もあるのです。彼女に話しかけたことはありませんが、孔子廟の庭でしばしば彼女に会って――。ですが、閣下がこのことを、私のもっとも深い秘密をご存じでおられるのなら、そのほかのことがすべて真実でないこともご存じのはずです!」
ディー判事は死んだ踊子の手紙を一通手わたして質問した。
「君がこれを書いたのかどうか?」
リァン・フェンは注意ぶかく検討した。それを判事に返しながら、静かに言った。
「筆跡は私のに似ております。いくつかの私の癖さえも再現してあります。しかし私が書いたのではありません。捏造《ねつぞう》した人物は、私の筆跡をたくさん自在に手本にしたに相違ありません。私が申しあげられるのは、これだけです」
判事は悪意のこもった眼差しで青年を見て、そっけなく言った。
「ワン・イーファンは逮捕された。間もなく彼を尋問する。君は公判に出席せよ。もう法廷に行ってよろしい」
若者が辞去すると、ホン警部が意見をのべた。
「リァンはほんとうのことを話したと思いますよ、閣下」
ディー判事は何も答えなかった。警部に合図して制服に着替えるのを手伝わせた。
銅鑼《どら》が三点鳴って、夕べの公判を知らせた。ディー判事は、ホンとタオ・ガンを従えて執務室を出た。裁判官席の奥に腰をおろすと、十数人の傍聴人しかいないのが分かった。漢源《ハンユアン》の市民たちが、さしあたっては、耳目を衝動させる知らせを聞く希望を棄てたのは明白だった。しかしハン・ユンハンとリァン・フェンが前列に立ち、その後ろにスー親方がいるのに判事は気がついた。
点呼を終えるとただちに、ディー判事は牢番あての書類に記入して巡査長に手わたし、ワン・イーファンを裁判官席の前に連れて来るように命じた。
ワン・イーファンは、逮捕されてもいっこうに狼狽していないらしかった。彼はあつかましい目つきでちらっと判事を見やると、ひざまずいて、型どおり姓名や職業を質問されるのへ、しっかりした声音《こわね》で返答した。それからディー判事が話しかけた、
「本官は、あなたが本法廷で虚偽を陳述した証拠を得ている。チャン博士に、あなたの娘を買うようにもちかけたのはあなたであった。その委細をあなたは聞きたいか、それとも白状するか?」
「手前は」とワン・イーファンはうやうやしく応答した、「閣下を欺き申しあげましたことを認めるものでございます。手前は友人にして庇護者なるリウ・フェイポ氏が教授に対して起こしましたる一件に関し、氏を助けんとする熱意のあまり、己れをしてかかる虚偽に導いた次第にございます。法律によりますれば、この罪状につきましては、罰金の支払いが決定いたしますまでは、保釈金を出すことによって私は釈放されることを得るのでありまするから、私は閣下に金額をご決定なされますよう願いあげるものであります。リウ・フェイポ氏が喜んで保釈金を積むであろうこと、また要求された金額を支払うであろうことは疑念に及びません」
「第二に」とディー判事は言った、「あなたが、顧問官が第二の幼児期に陥っているのを良いことに、彼に奨《すす》めて、あなた自身の個人的な利得のために、野放図な金融上の取引きに従わせている証拠をも本法廷は有している」
この二番目の告発もワンに何か影響を及ぼしたようには見えなかった。彼は落ちつきはらって応じた。
「手前がリァン顧問官閣下に、これまでに金融上の損害を与えたなんどということは、断固として否定いたします。リウ・フェイポ氏が手前を顧問官閣下に紹介してくれたのでありまして、手前が顧問官閣下に荘園の若干を売却されるよう奨めましたのも、リウ氏の助言によるのでございます。リウ氏の専門的意見によりますと、荘園は遠からずかなり価格が下落するはずなのでございます。閣下には、リウ氏に証言せしめられますよう、願いあげるものであります」
「本官にはそれがかなわないであろう」ディー判事はそっけなく言った。「リウ・フェイポ氏は、あらかじめ何も予告することなしに出かけてしまった、動産と重要書類をたずさえてだ」
ワン・イーファンは跳びあがった。死人のような顔色になって叫んだ、
「どこへ行ったんです? 首都へですか?」
巡査長がワンを押えつけて、もとどおりひざまずかせようとしたが、ディー判事はすばやく首を横に振って制した。
「リウ氏は失踪した。しかも家人は所在をまるで知らないのだ」
ワン・イーファンは急速に自制心を失なっていった。大粒の汗を額に浮かべ、半ば自分に向ってつぶやいた、「リウが逃げた……」そうして判事を見あげて、ゆっくりと言った、「あの件につきまして、私はさきほどの供述を、いくぶん考えなおさねばならないでしょう」彼はためらってから、言葉をつづけた、「私に反省する時間を下さいますよう願いあげます」
「願いは認めよう」即座にディー判事は応じた。ワンの目の中に狂わんばかりの懇願の表情が見えたのだった。
ワンがまた牢獄へ引かれて行くと、ディー判事は公判を閉じようとして驚堂木を取りあげた。が、そのとき、スー親方が、二人の同業組合仲間といっしょに進み出た。一人は玉《ぎょく》細工師、もう一人は玉の卸商と分かった。卸商が細工商に玉《ぎょく》の原石を売ったのだが、それを割って小片にしたところ、欠陥があると分かって、細工師が支払いを拒絶した。だが、原石を切った後に初めて欠点のあることを見つけたのだから、細工師も卸商に原石を返せないのだった。スーが二人に妥協案を受けいれさせようとしたけれど、どちらも彼の提案を拒絶したのである。
ディー判事は、双方の長ったらしく曲りくねった説明を辛棒づよく傾聴した。目を法廷にさまよわせているうちに、ハン・ユンハンが立ち去っているのに気づいた。スーが改めて局面をまとめると、ディー判事は卸商と玉細工師に話しかけた、
「本法廷は両人とも誤っていると判定する。卸商は、専門職として、原石を売却するさいに、欠陥があることに気づくべきであったし、玉細工師は、経験を積んだ職人として、原石を割らずとも欠点を発見すべきであった。卸商は原石を銀十粒で買って、玉細工師に銀十五で売った。本法廷は、卸商は玉細工師に銀十粒を支払うよう裁決する。切った原石は双方で均等に分けよ。こうすれば、それぞれが職業上の伎倆の欠如に対して銀五粒の罰金を支払うことになる」
判事は驚堂木を打ち鳴らして閉廷した。
執務室にもどると、ディー判事は満足そうに警部とタオ・ガンに言った。
「傍聴人のいる公判では、あえて暴露しようとしなかったが、ワン・イーファンは何か私に話したがっている。収監者を私的に尋問することは規則に違反しているが、この件については、例外としてあつかっても合法化されるように思う。いま、ここへ彼を連れて来させよう。リウ・フェイポが逃げたとワンが言ったのに気がついただろう。さあ、そのことについてもっと良く聞こう――」
ふいに扉が勢いよく開いて、牢番を従えて巡査長が駆け込んで来た。あえぎながら、彼は報告した、
「ワン・イーファンが自殺しました、閣下!」
ディー判事は拳をテーブルに叩きつけた。牢番を怒鳴りつけた。
「おまえは囚人を身体検査しなかったのか、おい、犬あたま?」
牢番はがっくり膝を折った。
「誓います、私がのぞいて見たときには、ワンは菓子を持っておりませんでした、閣下! だれかがあの毒入りの菓子をこっそり独房へ持ち込んだに相違ありません」
「それなら、おまえが牢獄へ訪問者が入るのを許したのだな!」と判事は大声で言った。
「だれひとり外部から牢獄へは入りませんでした、閣下!」牢番は泣きわめいた。「私にはまるで謎でございます」
ディー判事は躍りあがって、戸口へ向った。ホンとタオ・ガンを従えて、院子《なかにわ》をつっきり、記録室の後ろの回廊を通りぬけて獄舎に入った。牢番が火をともした提灯を掲げて先導した。
ワン・イーファンは寝台を兼ねた腰かけの前の床に倒れていた。提灯の光が歪んだ顔を照らした。唇は泡と血でおおわれていた。牢番は無言で、ワンの右手のすぐそばの床に転がっている小さな丸い菓子の切れはしを指さした。もう半分はなくなっていた。ワンがたった一口だけ菓子を食ったのは明白だった。ディー判事は身を屈めた。それは砂糖煮の豆を詰めた丸い菓子で、町のどんな菓子屋でも売っているものだった。けれども、そのてっぺんには、通常の菓子屋の印のかわりに、蓮の花の小さな絵が押してあった。
判事はハンカチに菓子を包んで袖に納めた。向きを変えると、黙々と執務室へもどって行った。
ディー判事が机の奥に腰をおろすと、ホン警部とタオ・ガンがそのこわばって、けわしい顔を心配そうに見た。判事には蓮の印がワンに向けられたのでないことが分かっていた、使者がワンに死の贈物をとどけたとき、独房の内部は真暗だったのだからだ。蓮の印は知事たる彼に向けられている! それは白蓮教団からの警告だった。彼は疲れた声で言った、
「ワンは口を封ずるために殺された。毒菓子は仲間の一人が彼に与えたのだ。私自身のこの政庁の内部で叛逆が行なわれている!」
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第十六章
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二人の放浪者は彊北《チアンペイ》県で騒ぎを起し
平和な河船で卑怯な攻撃を仕掛ける
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マー・ロンとチャオ・タイは記録室で省の地図を調べ、あわただしく遠征旅行の計画を立てた。
良い馬を二頭選んで、二人は東の方角に向って町を離れた。平野に下ってのち、半時間ほど街道を進んでから、マー・ロンが馬をとめて言った、
「ここで右へ田圃《たんぼ》をつっ切っていけば、すぐに県境の川に着くと思わないか? 橋のところの軍隊の屯所《とんしょ》から、まあ、六里ぐらい下流じゃないかな?」
「だいたいそんなところだろうさ」とチャオ・タイが同意した。
二人の男は田圃の中を走っている狭い小道を馬を駆って行った。その辺りはひどく蒸暑かったから、小さい農園が見えたときには喜んだ。百姓がくれた井戸水を手桶からたっぷり飲んで、一握りの銅銭で、馬の面倒を見るように百姓と話をつけた。その男が馬小屋へ馬を引いて行くと、すぐさま二人の友は髪をほどいて、ぼろきれで結んだ。それから、乗馬靴を鞍袋に入れて持って来た草鞋《わらじ》にはきかえた。袖をまくりあげながら、チャオ・タイが呼びかけた、
「ははん、兄弟! こりゃ、まだ緑林《りょくりん》の仲間だった昔みたいだな!」
マー・ロンはチャオ・タイの肩をぽんぽん叩いた。そうしててんでに垣根から太い竹を引き抜くと、川のほうへ小道を下って行った。
年をとった漁師が網を乾していた。銅銭二個で、漁師は二人を舟で渡してくれた。銭を払いながら、マー・ロンが尋ねた。
「このあたりにゃ、兵隊はいねえんだろうな?」
老人は怯《おび》えた目つきで二人を見てかぶりを振ると、舟を漕いで帰って行った。
二人の男は背の高い葦原を抜けて、曲りくねった田舎道に出た。チャオ・タイが言った。
「気をつけろよ。地図だと、この道は村につづいている」
二人は竹の棒を肩にかつぎ、げびた歌を元気よく合唱しながら、どんどん歩いて行った。半時間ばかりすると、村が見えて来た。
マー・ロンが先に行って、小さな市場に面した宿屋に入った。木の腰かけにどっしりと坐ると、大声で酒を注文した。そこへチャオ・タイが入って来た。友達の向いに腰をおろしながら、彼は言った。
「まわりを見て来たよ、兄弟。万事安全だ!」
ほかのテーブルにすわっている四人の年とった農民が、びっくりした表情で新来者を見た。一人が手をあげて、人さし指と小指を曲げて、追剥《おいはぎ》を表わす印を作ると、仲間は分別ありげにうなずいた。
宿屋の亭主が酒注《さけつ》ぎを二つかかえて走り寄って来た。その袖をむずっとつかんで、チャオ・タイがいらだたしく言った。
「そんなもんで、どういう了見だ、え、犬あたま! そんなあわれっぽい酒注ぎはよしにしな、壺ごと持って来いって!」
亭主はすり足で部屋を出ると、倅と二人で、高さ三尺もある酒壺と長い柄のついた竹のひしゃくを運び込んで来た。
「こうこなくっちゃ!」とマー・ロンが怒鳴った。「碗だ、酒注ぎだと、つべこべぬかすこたあねえのよ」ひしゃくを壺の中へ突っ込んで、二人はぐいぐいむさぼり飲んだ、散歩のおかげで喉が渇いていたのだ。亭主が漬物の大皿を持って来ると、チャオ・タイは鷲づかみにすくい取った。にんにくと赤い唐辛子がたっぷり混ぜてあるのに気づいて、舌つづみを打つと、彼はしあわせそうに言った。
「兄弟、おまえが町で買う見かけだおしのうまいもんよりましだぜ」
マー・ロンが口いっぱいほおばってうなずいた。酒壺が半分もからになると、二人は大きな鉢で麺を食い、田舎の茶で口をすすいだ。それは快適な苦い味だった。起《た》ちあがって、帯から金を出そうとすると、亭主はあわてふためいて受け取ろうとせず、二人が自分の家に立ち寄ってくれたのはたいへんな光栄なのだとうけ合った。しかしマー・ロンが言いはって、たっぷり心づけを加えて勘定をした。
二人の友は外へ出た。大きな樅《もみ》の木の下に寝ころがると、たちまち高いいびきをかき出した。
マー・ロンは脚を蹴られて目を覚ました。身体を起こして、まわりを見て、チャオ・タイの脇腹を突っついた。棍棒で武装した四人の男が、立って二人を見おろしている。村人たちが群がって、ぽかんと口をあけて取り囲んでいた。二人は起ちあがった。
「われわれは彊北《チアンペイ》政庁の巡査だ!」とずんぐりした男が咆えた。「おまえたちは何者か、どこから来たのか?」
「おまえはめくらか」とマー・ロンが横柄に尋ねた。「おれがこの省の長官で、お忍びで旅行してるのが分からんのか?」
群衆がげらげら笑い出した。巡査長は脅すように棍棒を振りあげた。マー・ロンはさっと男の上着の前襟をひっつかみ、足が地面を二尺も離れるほど持ちあげ、男の歯がかたかた鳴るまでゆさぶった。巡査たちが助けようとしたが、いちばん背の高い男の両脚の間に、チャオ・タイが竹棒を突っ込んで転ばした。車輪のようにぐるぐる振り回しながら、彼はほかの男たちの頭すれすれに竹棒をひゅうひゅう飛ばした。巡査たちは逃げ出した。群衆が野次った。チャオ・タイは大声で罵りながら、追いかけて行った。
巡査長は臆病ではなかった。マー・ロンがつかんでいるのを振りもごうと激しく争い、マー・ロンの脚を荒っぽく何度か蹴った。マー・ロンはどさっと彼を放り出すと、急いで竹棒を取った。巡査長が棍棒で頭をねらった。マー・ロンは竹棒で棍棒を受け流して、巡査長の腕に鋭い一撃を打ち込んだ。男は棍棒を取り落としたが、マー・ロンにつかみかかろうとした。けれども、マー・ロンは頭をかすめて何回か竹棒を打ち込んで、相手を寄せつけなかった。巡査長は勝負にならないことを見て取った。急に身を翻えすと逃げて行った。
少しして、チャオ・タイがもどって来た。
「悪党どもめ、逃げやがった」と息を切らせながら言った。
「連中にゃ、いい稽古でさ」と老人の百姓が満足そうに感想を漏らした。
宿屋の亭主は安全な距離をとって群衆の後にくっついていたが、チャオ・タイに近づいてくると、切迫した口調で耳うちした。
「お二人さん、急いで離れたがよござんす。知事の兵隊がここにいるんでさ。連中はじきに捕まえに来ますぜ!」
チャオ・タイはぽんと自分の頭を叩いて、
「そいつあ、知らなかったぜ」と後悔しているように言った。
「心配しなさんな」宿屋の亭主がささやいた。「伜に田ん中をつっ切って、黄河までお連れさせやしょう。そこに舟があります。一、二時間で|三※[#「木+諸」、unicode6AE7]島《さんしょとう》に着きまさ。そこの連中があんたがたを助けてくれましょ。老《ラオ》シャオがあんたたちを送ってよこしたと、言いなせえ!」
二人はあわてて礼をのべると、若者について田圃の中をこっそり進んで行った。泥田の中を長いこと歩いてから、若者は足をとめ、前方に並んで立っている木立を指さして言った。
「あすこの水路《クリーク》に舟が隠してあります。心配はいりません。水流がうまくそこへ運んでくれます。ただ渦巻だけは警戒して下さいよ」
マー・ロンとチャオ・タイは藪の中で簡単に小舟を捜しあてた。乗り込むと、低く垂れさがった枝の下から、マー・ロンが竹棹《たけざお》を突いて舟を出した。ふいに黄河が見えた。
マー・ロンは棹《さお》を置いて櫂《かい》を取った。茶色に泥にごりした流れを漂いながら下って行った。岸がみるみる遠ざかって行くように見えた。
「あんな大きな河に、この舟じゃ小さすぎないか?」と、舟べりをしっかりつかんで、チャオ・タイが心細そうに尋ねた。
「心配するなって、兄貴!」マー・ロンは笑った。「おれが江蘇《キアンス》省の生まれだってことを思い出せ。舟ん中で育ったんだぜ」
マー・ロンは力強く漕いで渦巻を避けた。もう黄河の真ん中に出ていた。葦の茂った岸が遠くに細い線のように現われて来た。それから完全に見えなくなって、まわりは茫々たる褐色の水の広がりのほか何もなくなった。
「水ばっかり見ていると、眠くなる」とチャオ・タイは怒ったように言って、あおむけにひっくり返った。そうして一時間以上ものあいだ、二人とも一言も口をきかなかった。チャオ・タイは眠り込み、マー・ロンは注意力を集中して舟を操らなければならなかった。急にマー・ロンが叫んだ。
「見ろ、緑色のものがある!」
チャオ・タイは身体を起こした。前方にたくさんの小さな緑の斑点が見えた。水面からわずか一尺ほど浮かび出て、雑草が生い茂っているのだった。半時間後、二人は灌木におおわれた、もっと大きな島々の間に辿り着いた。夕闇が落ちかかっていて、辺りいちめん、水鳥たちの気味悪い呼び声が聞えた。チャオ・タイが耳をそばだてた。ふいに彼は言った、「あの鳥の呼び声はふつうじゃない! 軍隊が偵察のときに使うような秘密の合図だぜ」
マー・ロンが何かぶつくさつぶやいた。曲りくねった水路《クリーク》を、舟を操って進むのがむずかしかったのだ。出しぬけに櫂が引っぱられて手から離れた。小舟が荒っぽく揺れた。濡れた頭が船尾近くに水中から現われ、ほかにも二つ、その後ろにぽっかり浮きあがった。
「おとなしく坐ってろ、さもなきゃ舟をひっくりかえすぜ!」と一声唸った。「おまえたちゃ、だれだ?」
声の主《ぬし》が舟べりに手をかけた。泥水がしたたり落ちていて、邪悪な水棲の子鬼のように見える。
「上流の村の老《ラオ》シャオがここへ来るように言ったんだ」とマー・ロンが言った。「おれたちがそこの巡査たちと、ちょいとしたごたごたに巻き込まれたもんでね」
「話は大将に言え!」と男は言った。櫂を返すと、「あっちに見える明りまで、まっすぐに漕ぐんだ」
武装した男が六人、粗雑に作られた船着場に立って待っていた。その指揮者がたずさえている提灯の明りで、彼らが軍隊の制服を着ているのにチャオ・タイは気づいた。だが、階級章は何もつけていなかった。連中は二人の男を深い森の中へ連行した。
間もなく木々の間に明りがちらちらしているのが見えた。広い空閑地に出た。百人ほどの男たちが篝火《かがりび》のまわりに群がって、鉄鍋で米の粥《かゆ》を炊いていた。全員が完全武装している。二人は空閑地のもう一方の端れへ連れて行かれた。見るからに年ふりた三本の槲《かしわ》の木の下に、四人の男がかたまって脚立《きゃたつ》に腰かけていた。
「これが歩哨から報告のあった二人の男です、大将!」と、二人を拉致して来た連中の指揮者がうやうやしい態度で報告した。
大将と呼びかけられた男は幅広い肩をしたやつで、鎖かたびらの上着をびっしり着込み、だぶだぶの黒い皮ズボンをはいていた。髪は赤い襟巻きではではでしく束ねている。ちっちゃな残忍そうな目で二人をじろじろ見て、彼は咆《ほ》えた。
「吐いてしまえ、悪党ども! 名まえは? どこからだ? どうしてだ? 何もかもだ!」
男は将校のきびきびした語調で話した。たぶん脱走兵だろうとチャオ・タイは思った。
「私の名はヨン・バオです、大将」とマー・ロンは媚びるような笑みを浮べて言った。「私と仲間は緑林《りょくりん》の兄弟なんです」彼は自分たちが巡査たちと争いを起こし、宿屋の亭主がそこへ送ってよこした顛末《てんまつ》を語って、もし大将が配下に加えてくれるならたいへん光栄に思うと言いたした。
「そのまえに、きさまらの話を検査する」と大将は言って、二人を護衛して来た連中に向って命令した、「こいつらを、ほかの奴らがいる囲いへ連れて行け!」
二人はそれぞれ米の粥が入った木の椀を与えられた。それから森を通って、べつのもっとずっと狭い空閑地へ連れて行かれた。松明《たいまつ》の光が丸太で建てられた小屋を照らしていた。その前に一人の男が草の中にうずくまって飯を食っていた。囲いの隅には、百姓女の青い上着とズボンをはいた娘が木の下に坐り込んで、同じように箸を使うのに忙しかった。
「ここを離れちゃならないぜ」と護衛は警告して立ち去った。マー・ロンとチャオ・タイはうずくまっている男の向いに胡座《あぐら》をかいて坐り込んだ。男は気むずかしい顔つきで二人を見やった。
「おれの名はヨン・バオってんだ」マー・ロンが誠実そうに声をかけた。「あんたは?」
「マオ・ルーよ」と男は不機嫌な声で応じた。彼はからになった飯椀を娘に投げて怒鳴った、「洗っとけ!」
何も言わずに起《た》ちあがると、娘は椀を取りあげて、マー・ロンとチャオ・タイが食い終わるのを待った。そうして二人がからにした椀も手に取った。マー・ロンは了解のしるしに目くばせした。彼女は悲しそうな顔をしていて、つらそうに歩いた。しかしたいへん美しい娘であることは一目で見て取れた。マオ・ルーは怒ったしかめ面でマー・ロンの表情を追っていた。荒々しく彼は言った、
「てめえの知ったこっちゃねえ! ありゃ、おれのかかあよ!」
「きれいなすけだ」とマー・ロンは知らんぷりして感想を言った。「おい、あいつら、何でおれたちをここへ離しとくんだ? 人はおれたちを罪人だと思うだろうぜ」
マオ・ルーは地面に唾を吐いた。さっと周囲のものかげを見まわしてから、押し殺した声でこう言った、
「あいつら、まるでつれねえのよ、兄弟。数日めえ、おれはここへ来た、だち公とだ、いいやつよ。おれたちゃ仲間になりてえんだ、と言ったんだ。大将が根ほり葉ほり聞きゃがった。だちが面倒くさくなって、一つ二つ、まっ正直なとこを言ったもんだ。どうなったと思う?」
マー・ロンとチャオ・タイは頭を横に振った。マオ・ルーは人さし指を立てると、喉にさっとよぎらせて、
「こんなあんべえよ!」と苦々しげに言った。「やつらぁ、おれをここに置いた、まるで牢ん中みてえによ。ゆんべなんざ、二人の野郎が女房をかっさらいに、こそこそ来やがった。で、おれはそいつらと渡り合わなきゃなんなかった、見張番が来て、ひっ捕まえるまでよ。あいつらにゃ規律がある、そいつは言わなきゃならねえ。でもな、そのほかはいやな連中だぜ。だから、ここへ来て、しまったと思ってる」
「奴ら何をたくらんでるんだ?」とチャオ・タイがきいた。「あいつら、おれたちを喜んで迎えねえなんざ、けっこうな盗《ぬす》っ人《と》どもだと思えるね!」
「おめえ、行って、あいつらにきいてみな!」マオ・ルーはあざ笑った。
娘がまた現われて、椀を木の根かたに置いた。マオ・ルーが怒鳴りつけた。
「おれに口をきけねえのか?」
「ひとりでお楽しみ!」と落ちついて答えると、娘は小屋の中へ入って行った。マオ・ルーは憤怒のあまり赤くなったが、彼女の後を追おうとはしなかった。彼は罵《のの》しって、言った。
「おれがあのずべこうの命を助けてやったんだ。それで何の得があった? こむずかしいつらだけよ! 縄っきれで、いいかげんひっぱたかれても、まるでききめがねえときた」
「女ってのは、ものを分からせようってのなら、そいつの尻に何里もある縄をからげとく必要があるのさ」とマー・ロンが達観しているように意見を述べた。マオ・ルーは起《た》ちあがって、大木の根かたへ歩いて行った。葉を山のように蹴り集めると横になった。マー・ロンとチャオ・タイは、囲いのべつの側で、乾いた葉の中に場所を見つけた。じきに二人はぐっすり眠り込んだ。
チャオ・タイは、だれかに顔を叩かれて目を覚ました。マー・ロンが耳のそばでひそひそ言った、
「偵察して来たぜ、兄弟。二艘の大型ジャンクが中央の水路《クリーク》につないである、あしたの朝、出帆する準備を全部すませてだ。見張りは一人もいない。やろうと思えば、おれたちの友達マオ・ルーの頭をぽかりとやって、あいつと娘を片方のジャンクにのせられる。だが、おまえとおれじゃ、あの重量のあるジャンクを水路《クリーク》から河へは、たぶん出せないだろう。航路が分かってなきゃならないってことはべつにしてもだ」
「船倉に潜んでいよう」とチャオ・タイがささやいた。「あした、悪党たちがジャンクを河に乗り出したあとで、飛び出して不意を衝《つ》くんだ」
「すてきだぜ!」マー・ロンは満足そうに言った。「おれたちがやっつけるか、あいつらがやっつけるかだ。そういう簡単な策がおれは好きなんだ。そう、原則として、やつらは夜明けまえには出発しない。まだ眠る間は十分あるよ」
すぐに二人はいびきをかき始めた。
夜明けの一時間まえ、マー・ロンが起きあがった。マオ・ルーの肩をゆすった。マオ・ルーが身を起こすと、マー・ロンはそのこめかみに激しい一撃をくれて気絶させた。腰のまわりにからげていた細い綱でマオ・ルーの手足を固く縛って、その上着から裂いた布切れで猿轡《さるぐつわ》をかませると、チャオ・タイを起こし、二人して小屋に入って行った。
チャオ・タイが火口《ほくち》を取り出して火をつけた。その間にマー・ロンが娘を起こした。
「私たちは漢源《ハンユアン》の政庁から来たのだ、チャン夫人」と彼は言った。「あなたを町へ連れもどせと命令を受けている」
月仙はかすかな明りで疑わしそうに二人を上から下まで見まわした。そっけなく彼女は言った。
「言いたいほうだい言いなさい。触わりでもしたら、叫ぶわよ」
マー・ロンは吐息をついて、髪を縛ったぼろの中にたたみ込んで隠し持っていた、ディー判事の手紙を取り出した。それを一読すると、月仙はうなずいて早口に尋ねた、
「どうやってここから脱け出すんです?」
マー・ロンから計略の説明を聞いて、彼女は意見を言った、
「夜が明けると間もなく見張りが朝食を持って来ます。私たちがいなくなったのを見つければ、警報をあげるでしょう」
「夜のうちに一時間ばかり、おおいそがしで森を抜けるにせの足跡をつけておいた、反対の方角へだ」とマー・ロンが返答した。「おれたちの仕事ぶりを知ったら、あんた、おれたちを信頼できるよ、かわい子ちゃん」
「礼儀正しい口をききなさい!」娘はぴしゃりときめつけた。
「気の強いあまだ」と、チャオ・タイに言って、マー・ロンは歯を見せて笑った。三人は小屋を出た。マー・ロンがマオ・ルーを肩にかつぎあげた。マー・ロンは森林の作業には熟練していた。チャオ・タイと娘を的確に導いて、暗い森を通り抜けて水路《クリーク》に出た。二艘の大型ジャンクの真黒な船体が、ぼんやりと目の前に浮かびあがって来た。
手前の船に彼らは乗り込んだ。マー・ロンは船尾にある階段口へ直行すると、マオ・ルーを険しい梯子からすべり降ろさせた。それを追って彼が跳び降りると、チャオ・タイと月仙が後につづいた。狭い厨房の中だった。前方は船倉で、太いわら縄でからげた大きな木の箱が天井まで積みあげられている。
「あそこへ登れ、チャオ・タイ」とマー・ロンが言った、「そして二列目の上のほうの箱がちょっと押しのけられるかためしてみろ。ちょうどいい隠れ場所になる。おれはすぐもどって来る」
隅に置いてある道具箱をつかむと、マー・ロンは梯子を登って行った。娘が厨房の中を調べているあいだに、チャオ・タイは箱の山に攀《よ》じ登って、天井と箱のあいだの狭い隙間に潜り込んだ。上のほうの箱を動かしにかかって、彼はぶつぶつつぶやいた。
「こいつはめっぽう重い。やつら石を詰め込んだのにちがいない」
四人に十分な場所を作ったところへ、マー・ロンが帰って来た。
「あっちのジャンクにゃ、二つばかり穴をあけてやったぜ」と彼は満足そうに言った。「いまごろ、連中は船倉が水びたしなのに気がついたろう。そんな簡単には穴が見つかりゃしない」
チャオ・タイがマオ・ルーを箱の上に引きあげるのを手伝った。マオ・ルーは意識を回復していて、目をむいてぎょろぎょろ見まわした。「窒息しないでくれよ、どうか!」とチャオ・タイが言った。「おまえが死ぬまえに、おれたちの知事が尋問したがっているのを覚えておくこった」
マオ・ルーを二つの箱の間に埋めるように置くと、マー・ロンが最初の列まで匍《は》い出て、両手を差しのべ、
「ここへあがってこい!」と月仙に言った。「手をかしてやる」
しかし娘は応じなかった。唇を噛んで考えていたが、出しぬけに尋ねた、
「こういうジャンクには何人、乗り組むんですか?」
「六、七人だ」マー・ロンがいらいらして答えた。「さあ、おいで!」
「私はここにいます」と娘はきっぱりと言った。鼻に皺をよせて、言いたした、「そんなきたない箱の上に潜り込むなんて、夢にも思いません」
マー・ロンが大声でののしった。
「おまえがもし――」
ふいに重い足音が甲板上に響いた。命令を叫ぶのが聞えて来た。月仙は船尾の窓を押しあけて外をのぞいた。箱の山に歩み寄ると、声をひそめて、
「四十人くらいの武装した男たちが後ろのジャンクに乗り込んでるわ」
「ここへあがってこい、すぐにだ、おい!」とマー・ロンが鋭く声を飛ばした。
娘はからかうように声をたてて笑った。上着を脱ぐと、上半身裸のまま、彼女は鍋を洗い出した。
「すばらしい姿だ」とマー・ロンはチャオ・タイにささやいた。「しかし天の名において、いったいぜんたい、あのおひきずりは何をやらかすつもりなんだ?」
太い綱がずしんと重い音を起てて甲板に引き揚げられた。ジャンクが動き始めた。棹を差しながら、船頭たちが単調な歌を唄い始めた。
急に、梯子が軋《きし》んだ。たくましい男が降りかかって立ちどまり、ぽかんと口を開けたまま、半分裸の女をまじまじと見た。女はあだっぽい目つきを投げて、気さくに尋ねた。
「手伝いに来てくれたのね?」
「おれ……おれは積み荷を調べにゃならんのだ」と男は言って、両眼は娘の円い胸にぴたり貼りつけになった。
「へえ」と月仙は鼻を鳴らして言った、「あんなきたない箱と仲良くするほうが好きだってのなら、ご勝手に! あたしは一人だって十分うまくやれるんだ」
「とんでもねえ!」と男は大きな声で言った。急いで降りて娘に近寄ると、「べっぴんじゃねえか!」と、歯をむき出して笑った。
「そんないけない人とはとても思えないのにさ」月仙は言った。ほんのわずかなあいだ、男が身体を撫《な》でさするままにしてから、押し離して言った、「お楽しみは仕事のあとに来るもんさ。水桶を取っておくれよ!」
「どこにいるんだ、リウ?」荒っぽい声が階段口から呼んだ。
「積み荷調べで忙しいんだ!」と男は叫び返した。「すぐに上へ行く! おめえは帆の支度ができたかどうか見てくれ!」
「何人の男たちにご飯を炊かなきゃなんないの?」と娘はきいた。「兵隊たちも乗ってるのかい?」
「いや、あいつらは後ろのジャンクに乗ったさ」リウと呼ばれた男は、水桶を手わたしながら返事した。「おまえ、おれにゃ何かうまいものを作ってくれよ、かわい子ちゃん。おれはここじゃ、航海士で船長なんだからな。舵手と四人の水夫は残り物を食えばいいのよ」
武具の鳴る音が甲板に響いた。
「あんた、兵隊は乗ってないって言ったんじゃないの?」
「最後の物見台にいる見張りたちさ。船が河へ出るまえに調べに来るんだ」
「あたしは兵隊が好きさ。あの人たちをここへお呼びよ」
男は急いで梯子を登って行って、階段口から頭を突き出すと叫んだ、
「船倉は全部、おれが調べ終わったぜ、みんな! この下はまるで地獄みてえに暑いや!」
ちょっと口論がもちあがった。それから男は満足そうにうすら笑いを浮かべながら降りて来た。「あいつらを追っぱらってやったぜ。おれも兵隊だったことがあるんだ、かわい子ちゃん。力いっぱいやってやるよ」男は娘の腰を抱きかかえて、ズボンの紐を探りにかかった。
「ここじゃだめ」月仙は言った。「あたしはまともな女なんだよ。あそこの箱の上を見ておいでよ。あの上にゃ、あたしたちにぴったりの、気持のいい、ちっちゃな片隅があるかもしれないよ」
リウはあわてて箱の山に近寄って、攀《よ》じ登った。マー・ロンが男の喉をつかんで、箱の上に引きずりあげ、締めつけて気絶させた。そうして厨房に跳び降りた。月仙は急いで船窓を閉めて、再び上着を着た。
「あっぱれなはたらきだったぜ、おねえちゃん!」とマー・ロンは昂奮してささやいた。それから梯子のかげに潜り込んだ。重い靴音が昇降口から降りて来た。「地獄ん中で何をやってるんだ、リウ!」と怒った声が尋ねた。マー・ロンが後ろから男の両脚をぐいと引いた。男は転倒して、頭がぐしゃっと鈍い音をたてて床を打った。動かなくなった。チャオ・タイが上から両手をさしのばし、二人でいっしょに失神した男を箱の上に引っぱりあげた。
「そいつを縛りあげて、ここへ降りて来い、チャオ兄貴」とマー・ロンがひそひそ声で言った。「おれは船窓から甲板へあがる。ほかの悪党どもをここへ送り込むから、おまえは受け取る用意をしててくれ」
マー・ロンは、船窓にあがって抜け出ると、錨索《いかりづな》にぶらさがって船体の外側を攀じ登って、音もなく甲板に踏み込んだ。だれも見たものがいなかったのを確かめてから、舵手のほうへぶらぶらと近づいて行った。舵手は両手で太い舵棒をつかんでいた。
「下の船倉はもう暑すぎるぜ」とマー・ロンは言って、すでに船が河の真ん中に出ているのを見た。二番目のジャンクは後ろにあった。甲板にあおむけに寝て、思いきり手足をのばした。
舵手は仰天した表情でマー・ロンを見ると、警笛を吹いた。三人の頑丈な水夫が船尾へ駆けて来た。
「てめえはどこの餓鬼《がき》だ?」と先頭の水夫がきいた。
マー・ロンは頭の下に両手を組んだ。ばかでかいあくびをしながら、
「おれは護衛だ。積み荷を見張ることになってる。老《ラオ》リウと箱を検査し終わったところさ」
「航海士はおれたちにゃ、なんにも説明しねえんだ!」と、最初の水夫が反感を見せてぶつくさ言った。「自分だけが大事だと思ってやがる。ちょいと行って、どのくらい航程をあげるつもりなのか、きいて来る」彼は階段口へ向った。マー・ロンは跳び起きて、ほかの二人といっしょについて行った。
男が階段口に立って見おろすと、いきなりマー・ロンが男を蹴って、まっさかさまに階段から転落させた。稲妻のように敏速に振り返ると、後につづいていた水夫の顎に一発ぶち込んだ。水夫がよろめいて欄干によりかかるのにつけ入って、その心臓の辺りをぐいと押し、欄干越しに河の中へ送り込んだ。三番目の水夫が短刀を構えて、マー・ロンめがけて突進した。マー・ロンはひょいと身を屈め、短刀を背後に流すと、相手の腹に頭突きを食らわせた。男はあえいでマー・ロンの背に倒れかかった。マー・ロンは身を起こし、男を欄干の向うへ放り投げた。
「みんな魚のいい餌だ!」と彼は舵手に向って叫んだ。「舵を取りつづけるんだ、わが友よ、さもないと、おまえもあいつらの仲間入りだぜ!」
彼は二番目のジャンクを凝視した。それはすでにずっと後方に落伍して、右舷に激しく傾き、斜めになった甲板の上には人びとが群がり、混乱して駆け回っていた。「やつら、下着を濡らさないわけにゃいかないな」と、彼は上機嫌に感想を述べると、大きな葦の帆を調節しに行った。
チャオ・タイが階段口に頭を突き出した。
「おれには一人しかよこさなかったな。ほかのはどこだ?」
マー・ロンは河を指さした。彼は帆を正すのに集中していたのである。チャオ・タイは甲板にあがって来た。「チャン夫人がおれたちの昼飯を作っているよ」
微風が強く吹いていた。ジャンクは快適な速度で走った。チャオ・タイは遠くの両岸をうかがって、舵手に尋ねた。
「いつ、屯所へ着く?」
「二時間のうちに」男は無愛想な顔で返答した。
「どこへ向おうとしてたんだ、ててなしっ子?」またチャオ・タイがきいた。
「柳彊《リウチアン》へだ。四時間、下流だ。そこで仲間がちょいと喧嘩をやるのさ」
「おまえ、運がいいぜ。喧嘩の仲間入りしないですむんだものな」
帆のかげに腰をおろして昼食を食べながら、マー・ロンがチャン夫人に彼女の夫の冒険を話して聞かせた。話し終わったとき、彼女の目は涙でいっぱいになった。「かわいそうな、かわいそうな人!」と彼女は優しく言った。
マー・ロンはちらっとチャオ・タイと目くばせを交わして、耳うちした、
「こんなお転婆があの口先だけのの弱虫をどう思ってるか、分かるかい?」
しかしチャオ・タイは聞いていなかった。一心に前方を見つめていたのだ。彼は叫んだ、
「あの旗が見えないか? 屯所だぜ、兄弟!」
マー・ロンは跳びあがって、舵手に向って大声で命令した。そして帆をたたみにかかった。半時間後、ジャンクは波止場に接岸した。
マー・ロンは屯所に当直している伍長にディー判事の手紙を手わたして、|三※[#「木+諸」、unicode6AE7]島《さんしょとう》の盗賊四人とジャンク一艘とを引っぱってきたのだと知らせた。「船が何を運んでいるのか知らないが」と彼はつけたした、「ずいぶん重いぜ」
彼らは四人の兵士を連れて積み荷を見に行った。伍長と同じように、兵士たちも兜をかぶって革の緒《お》をしっかり締め、鎖おどしの外套をまとって、肩と腕に鉄甲をつけ、剣に並べて重そうな戦斧《せんぷ》を革帯に差していた。
「君たちはどうしてそんな金物をいっぱい引きずっているのかね?」と、びっくりしてマー・ロンが質問した。
伍長は当惑した表情で彼を見ると、ぶっきらぼうに返答した、
「下流のほうで武装した集団とこぜりあいがあるといううわさなんです。ここで私に残されているのは、この四人の兵だけなんです。あとは全員、隊長に率いられて柳彊《リウチアン》へ行ったものですからね」
そのあいだに、兵士たちが箱の一つをこわして開けた。鉄兜、革上着、剣、弩弓《いしゆみ》、矢といった武具が詰め込まれていた。兜は前面に小さな白い蓮の花の印がついていて、同じ紋章をかたどった、小さな銀色の記章が何百と入っている袋があった。チャオ・タイはそれを一握りつかんで袖に入れた。彼は伍長に言った、
「このジャンクは柳彊《リウチアン》へ向うところだったのだ。そうして二艘目のには、武装した四十人の盗賊が乗り込んでいた。しかし上流で浸水して沈没した」
「それはいい知らせだ!」と伍長は叫んだ。「さもなきゃ、隊長は柳彊《リウチアン》でごたごたに巻き込まれましたからね。隊長はたった三十人の部下を率いて、そこへ下って行ったんです。で、何かお手伝いができますか? 河を渡れば、あんたらの漢源《ハンユアン》県の南端を守っている屯所があります」
「急いでそこへわれわれを渡してくれ」マー・ロンが言った。
自分たちの領域にもどると、マー・ロンは四頭の馬を徴発した。当直の軍曹の話では、湖水を回って行けば、二、三時間で市中に着けるだろうということだった。
チャオ・タイはマオ・ルーの口から猿轡《さるぐつわ》をはずした。マオ・ルーは悪態をつきかかったが、舌が腫れあがっていて、かすれた声で粗っぽい言葉を二、三|吐《は》けただけだった。マオ・ルーの両足を鞍帯に縛りつけながら、マー・ロンはチャン夫人にきいた。
「馬に乗れるかい?」
「何とかやってみるわ」と彼女は言った。「でも、ちょっと痛いの。あなたの上着をかして!」
彼女はマー・ロンのたたんだ上着を鞍壺にかぶせると、自分でひらりと馬に跳び乗った。
騎馬の一行は町へもどる道を走り出した。
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第十七章
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証人は仏寺での殺人について証言し
ディー判事は昔の謎の解答を見出す
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マー・ロンとチャオ・タイが、チャン夫人ととりこを連れて、漢源《ハンユアン》に帰る道に馬を走らせていたころ、ディー判事は政庁で午後の公判を開いていた。
ひどく暑かったから、判事は厚い錦織の衣裳の中がじっとりしているのを感じていた。疲れて、いらいらした気分だった。前の夜とその日の午前中いっぱいをついやして、ホン警部とタオ・ガン相手に、政庁の職員一人ひとりの経歴や生活ぶりを調べたが、何の手がかりも得られなかったのである。巡査や事務官に分相応以上に金を使っているものはいなかったし、だれもひんぱんに休みを取ったり、何か他の点で疑わしいものはいなかったのだ。判事はワン・イーファンの殺害を自殺だと公表させた。死体は間に合わせの棺に納めて、検屍を延期したまま独房に置いてある。
公判は数多いありきたりの案件でだらだらつづいた。どれ一つとしてとくに重要というのではなかったが、すぐに裁決しなければ行政に停滞を引き起こしただろう。判事を補佐しているのはホン警部だけだった。タオ・ガンは命ぜられて、その午後は下町へ出かけ、市中の様子をそれとなく探っているのだった。
やっと公判を閉廷できるときになると、ディー判事はほっと安堵の吐息をついた。執務室でホンに助けられて着替えているところへ、タオ・ガンが帰って来た。心配そうな口調で彼は言った。
「下町には、何やらまえぶれめいた気配があります、閣下。ちょっと茶店を回って来ましたが、人びとは騒動が起きるのを期待しています。しかしそれが何なのかはだれも分かっちゃいません。隣県の彊北《チアンペイ》に盗賊団が集結しているという、漠然としたうわさがありますし、武装した盗賊どもが河を渡って、こちらへ、漢源《ハンユアン》にやって来るとこそこそ話している連中もいます。もどってくる途中、商店ではもう鎧戸《よろいど》をおろしておりました。こんなに早く店を閉めるのは、いつでも悪い印ですな」
判事は口ひげを引っぱった。ゆっくりと二人の助手に言った。
「それは二週間まえに始まっていたのさ。ここへ到着するとすぐに私はそれを感じたのだが、それがいま、はっきりした形を取りつつあるのだ」
「私はあとをつけられているのに気づきました」とタオ・ガンがまた話を始めた、「予期していたとおりのことにすぎません。私は下町では大勢と顔見知りですし、あの坊主の逮捕に私がかかわっていたことは話のたねになっていますからね」
「つけてきた男を知っているのかね?」
「いいえ、閣下。がっしりした身体つきの長身の男で、赤い顔をして、ぐるりと顎ひげをはやしていましたな」
「政庁の門に着いたとき、守衛にその男を逮捕させたか?」と、判事は熱心にきいた。
「いいえ、閣下」タオ・ガンはなさけない様子で返事をした。「それがうまくいかなかったんです。孔子廟の近くの裏通りにさしかかると、もう一人の男がいっしょになって、連中、私に迫って来ました。私が一軒の油屋の前の、道端に置いてある大きな油壺のそばに立ちどまると、大男が向って来たものですから、小股をすくうと、そいつは油壺に倒れかかって引っくり返したんです。油が道路一面に流れ出し、頑丈な油搾りが四人、店から飛び出して来ました。悪党は、私が奴を攻撃したのだから、すべて私の過失なのだと言いましたが、私たち二人を一目見て、油搾りは奴がうそをついたときめ込んで、そっちへかかって行きました。私が最後に見ましたのは」とタオ・ガンは満足そうに話を結んだ、「連中が背の高い男の頭に石の壺を叩きつけて、もう一人の悪党がうさぎみたいに逃げて行くところでした」
ディー判事は探るような眼差しで痩せた男を見やった。タオ・ガンが囮《おとり》で坊主を宿屋へおびき寄せたことについて、マー・ロンが語ったことを思い出した。一見したところ罪のなさそうな、このかかしみたいな男が、はなはだきたない敵である可能性も十分あるのだと改めて思った。
ふいに扉が開いて、マー・ロンとチャオ・タイがチャン夫人をはさんで入って来た。
「マオ・ルーは牢に入れておきましたよ、閣下!」マー・ロンが勝ち誇ったように報告した。「この娘が消え失せた花嫁です!」
「でかしたぞ!」と、あけっぴろげに笑いながらディー判事は言った。娘に合図して坐らせると、優しく話しかけた、「さぞかし早く家へ帰りたいでしょう、奥さん。いずれ、あなたには政庁で証言していただく。いまはただ、あなたが仏寺に安置されたあとで何が起きたのかを説明して欲しい。そうすれば、そこで起きた殺人事件を調べることができるのです。あなたを窮地に陥れた不幸な出来事はもう分かっています」
月仙の頬がぱっと赤くなった。少したって気持を鎮めると、話し始めた。
「あの恐ろしい瞬間、棺はすでに埋められてしまったのだと私は思いました。そのあと板の隙間から空気がかすかにかよって来るのに気づいたのです。力のかぎり蓋を押しあげようとしましたけれど、びくとも動きませんでした。助けを呼びながら、板を蹴ったり、叩いたり、とうとう手足から血が出ました。空気がたいへん詰まってきて、窒息するのが心配でした。そういう恐ろしい状態にどのくらいいたのか、私には分かりません。
それから、ふいに笑い声が聞えました。私はできるだけ大声で叫び、また板を蹴ったのです。急に笑い声がやむと、中にだれかいるぜ、と粗野な叫び声がして、ありゃ幽霊だ、逃げよう、と言いました。幽霊ではない、生きたまま棺に納められたんです、助けて、と無我夢中で叫びました。すぐに金槌で棺を叩く音がして、蓋があげられ、ようやっと私はまた新鮮な空気を吸うことができました。
職人らしい二人の男がおりました。年上の男は優しそうな、皺《しわ》だらけの顔をしていて、もう一人は陰気臭く見えましたが、赤くほてった顔からすると、二人ともひどく酔っていたと申しあげて良いと思います。けれども、思いもよらないものを見つけて、酔いが覚めてしまったようでした。助けられて棺から出ますと、二人は寺の庭に私を連れ出して、蓮池のそばの石の腰かけに坐らせました。年とった男が池から水をすくって、顔を濡らしてくれました。若いほうの男は、持っていた瓢箪《ひょうたん》から、何か利き目のある酒を飲ませました。いくぶん気分が良くなりましたから、私は自分がだれで、どういうことが起きたかを話したのです。すると年上の男が、自分は大工のマオ・ユアンで、その日の午後はチャン博士の家で仕事をしていたのだと申しました。彼は町で従弟に出会ったのでした。二人は食事をともにして、夜がふけてから、人気《ひとけ》のないお寺で夜を過ごそうときめたのでした。さあ、あんたを家へ連れてってあげましょう。そうしたら、チャン博士が何もかも話してくれますぜ、と大工が申しました」
月仙はちょっとためらった。そして落ちついた声で話しつづけた。
「従弟は何も言わずに、ずっと私を見つめておりましたが、こう言ったのです、せくこたあねえぜ、兄貴! この女が死んだと思われてんのは、運がきめたこった、高いところできまったものを、何でおれたちがじゃまだてすることがある? その男が私を欲しがっていると気づくと、また私はすっかり恐ろしくなり、老人に、私を守って、家へ連れて行ってくれと哀願しました。大工は従弟を厳しく叱責しましたけれど、相手は恐ろしく憤激して、ひどい争いが始まったのです。とつぜん、従弟が斧を振りあげると、恐ろしい勢いで老人の頭を打ちました」
彼女は顔が蒼白になった。ディー判事が目くばせして、警部が急いで熱い茶を彼女にすすめた。それを飲みほすと、彼女は大声で言った。
「その恐ろしい光景に私は耐えられなかったんです! 私は失神して倒れました。気がつくと、マオ・ルーが、むごい顔に、よこしまな、いやらしい目つきで、私を見おろして立っていました。おまえはおれと来るんだ、口を閉じてろ、一声でも出したら、おめえを殺すといがみました。裏口から庭を出ると、お寺の裏の森の松の木に私を縛りつけました。もどって来たときには、もう道具箱も斧も持っていませんで、暗い通りを抜けて、下級の宿屋らしいところへ私を連れて行きました。恐ろしい女が出迎えると、二階の小さい汚ならしい部屋へ案内したのです。ここでおれたちは新婚の夜をすごすんだ、とマオ・ルーが言いました。私はその女を振り返って、私を一人で置いていかないでくれと頼みました。女は少し事情がのみ込めたようでした、ひよこは一人にしといておあげよ、とマオ・ルーに荒っぽく言ったのです、あしたになりゃ、あんたのものになりたがるさ! マオ・ルーは、それ以上何も言わないで出て行きました。女が古い長衣をくれましたから、あの恐ろしい屍衣を脱ぎ捨てられました。女は一鉢のお粥を持って来てくれました、そうして翌日の昼まで私は眠ってしまいました。
目が覚めたときには、ずっと気分が良くなっていましたので、できるだけ早くそこを立ち去ろうと思ったのです。でも、戸には鍵がかかっておりました。戸を蹴って、女が現われるまで叫びまして、私がだれであるか、マオ・ルーが私を誘拐したこと、私をすぐに帰すべきことを話したのです。しかし女は笑って、それはあの子たちが、だれでもいうことさ、今夜、おまえさん、マオ・ルーの嫁になるのさ、と大声で言いました。私は怒って女を叱りつけ、女とマオ・ルーを政庁に訴えてやると言いました。私を下品ないいかたで罵ると、女は長衣を引き裂いて、私を裸にしました。でも、むしろ私のほうが力が強かったのです。それで、女が袖から縄を一本取り出して、私を縛ろうとするのを見て、女を突き飛ばすと、そばをすり抜けて出口へ向おうとしました。でも私は女の敵ではなかったのです。ふいに女は私のおなかを激しく撃ちました。私が身を折りまげてうめいているあいだに、私の両腕を後ろ手に取って、あっという間に縛ってしまい、髪をつかんでひざまずかせると、頭を床に押しつけたのです」
月仙は深く息を吸い込んだ。話をつづけるにつれて、憤怒のあまり両頬が赤く染まって行った。
「女は縄の結んでないほうのはしで私の腰を激しく打ちすえました。痛さと怒りで大声をあげて、匍《は》って逃れようとしましたが、あの恐ろしい女は私の背中に骨ばった膝を立てると、左手で私の頭を引っぱりあげ、もういっぽうの手にした縄を振りまわして、むごたらしく打擲《ちょうちゃく》しはじめました。夢中になって大声で憐れみを乞《こ》いながら、血が腿にしたたるまで、私はその屈辱的な懲罰を忍ぶしかありませんでした。
それから女は私を離しました。息を切らせながら、私を引き起こして、寝台の柱を背に立たせて縛りつけると、けがらわしい生きものは出て行きました、戸に鍵をかけてです。立ったまま残されて、私は苦痛にうめいておりました、時間が果てしもなくつづくように思われました。とうとうマオ・ルーが入ってきました、あの女を連れて。私を憐れに思ったようでした、声をひそめて何かつぶやくと、縄を切ったのです。足が腫れて私は身体を支えられませんでした。マオ・ルーは私を助けて寝台に寝かさなければならなかったのです。私に濡れ手ぬぐいをよこしてから、長衣を私の上に投げかけて、眠れ、あした、おれたちは旅に出るんだ、と言いました。二人が出て行ってしまうと、私は完全に疲れ果てて、じきに眠りに落ちました。
翌くる朝、目を覚まして、ちょっとでも身体を動かすと、焼けつくように痛みました。恐ろしいことに、あの女がまた入って来たのです。けれども、こんどは親切な気分になっていて、マオ・ルーがだまくらかしに、気まえよく銭を払ったってことは、あたしゃ、いわなきゃなんないよ、と言うと、お茶を一杯くれて、傷に膏薬を塗りました。そこへマオ・ルーが入って来て、私に上着とズボンを着させました。階下では、片目の男が待っていました。外へ連れ出されると、一歩ごとに痛みましたが、二人の男が恐ろしい脅しでさいなみながら、私を歩かせつづけましたので、私は通りで人びとにあえて呼びかけようとはしませんでした。百姓の荷馬車に乗って平地をびくびく旅してから、舟で島へ行きました。最初の夜、マオ・ルーは私を自分のものにしようとしましたが、私は病気なのだと言ってやりました。そこへ、あの盗賊団の仲間が二人、私を奪いに来ましたが、マオ・ルーが闘って近づかせないでいるうち、見張りがやって来て二人を連れ去りました。次の日、こちらの二人の将校が来られて――」
「そこまででよろしい、奥さん」とディー判事が言った。「あとは二人の補佐から聞きましょう」ホンに合図して、彼女にもう一杯茶をすすめさせた。それから厳粛な調子で言葉をつづけた、「きわめて耐えがたい状況にありながら、あなたはみごとに貞節を示された、チャン夫人。あなたも夫君も、わずか数日のあいだに、もっとも恐るべき精神的かつ身体的な苦痛を体験した。しかしあなたがたはどちらも不屈の精神を示されたのです。いまや、災厄はすべて過ぎ去った。この厳しい試練を通り抜けたからには、あなたがた二人の前途には、長く幸福な未来があるものと私は確信します。
あなたにお知らせしなければならないのだが、父上リウ・フェイポが、嫌疑を受けている身でありながら、突如、出かけてしまった。なぜ彼がにわかに出発したのか、何か考えがおありかな?」
月仙は心配そうな表情をして、のろのろと言った。
「父は仕事のことはついぞ私に話しませんでした、閣下。私は父の商売はたいそううまくいっているといつも思っておりました。私どもに金銭上の心配ごとなどなかったのです。父は少々誇りが高くて、身がってなんです。ですから、いっしょに暮すのは容易ではありません。私の母と父の他の婦人たちが、あまりしあわせでないことは存じております。彼女たちは――ですけれど、父はいつでも私にはとても優しいのです。ほんとうに、私、想像もできません――」
「よろしい」と判事はさえぎった、「私たちがいずれ捜し出しましょう」ホンに向って、「チャン夫人を門房へお連れして、目隠しをした輿の仕度をいいつけてくれ。前もって巡査長を馬で走らせ、チャン教授父子に、おっつけ夫人が到着すると知らせるのだ」
月仙はひざまずいて、判事に感謝をのべた。ホン警部が彼女を連れ去った。
ディー判事は椅子に深くもたれかかって、マー・ロンとチャオ・タイに報告するよう求めた。
マー・ロンは自分たちの冒険について詳しく説明した、チャン夫人の勇気と気転を強調して。武装した男たちをのせた二番目のジャンクと武器の積み荷に話がおよぶと、判事は身体をまっすぐに起こした。マー・ロンは話をつづけて、柳彊《リウチアン》の不穏な動きについて伍長の語ったことを引き合いに出した。彼は兜の白い蓮の記章のことはのべなかった。それの重大性を知らないという単純な理由からだった。しかし彼が話し終わると、チャオ・タイが銀色の白い蓮の印をいくつかテーブルの上に置いて、心配そうに言った。
「われわれが発見した兜にも、これと同一の印がついていたんです、閣下。私は聞いたことがあります、ずっと以前、政治的な秘密結社の危険な叛乱があり、それが白蓮《びゃくれん》と自称していたと。彊北《チアンペイ》の盗賊たちは民衆をてなずけるために、あの古い恐るべき象徴を現在使用しているのだと思われもするんです」
ディー判事は銀色の印に一瞥《いちべつ》を投げた。そして躍りあがると、部屋の中を大股で歩き回り始めた、怒りのあまりぶすぶす独り言をつぶやきながら。助手たちはびっくりした視線を交わし合った。そんなふうになった判事を見たことがなかったのである。
ふと自分を取りもどすと、助手たちの前に静かに立ちどまり、生気のない笑みを浮かべて彼は言った、「静かに熟慮しなければならない問題があるのだよ。諸君はちょっと気ばらしをやりに行ってくれ。みんな休息する資格があるからね」
マー・ロン、チャオ・タイ、タオ・ガンは黙ったまま戸口へむかった。ホンは数瞬間、決心がつかないで立っていたが、主人の憔悴しきった顔を見ると、彼もまた三人のあとを追った。彊北《チアンペイ》への使命が上首尾にいった幸福な昂奮はすっかりどこかへ行ってしまった。もっと、しかもきわめて深刻な災厄が前途に横たわっていることが彼らには分かった。
皆が立ち去ったあと、ディー判事はゆっくりとまた腰をおろした。腕を組んで、顎を胸に落とした。私が恐れていた最悪のことがほんとうになっていたのだ。白蓮教団が復活して、行動を起こす準備をしている。そして彼らの根拠地の一つは私自身の県、漢源《ハンユアン》にあって、そこへは皇帝が私を任命したのであり、私がそれを発見できなかったことが明白になったのだ。血なまぐさい内戦が勃発しようとしている。無辜《むこ》の民衆が殺害され、繁昌している多くの都市が破壊されるだろう。むろん、私は国全体の惨害をふせぐには無力だ、教団は帝国中に網の目のように勢力を張りめぐらしているだろうし、漢源《ハンユアン》は数多い根拠地の一つでしかないのだから。けれども漢源《ハンユアン》は首都に近接しており、叛乱者たちを拒絶できる重要な地点は、帝国軍隊にとって利点である。だが、漢源《ハンユアン》で起こりつつあることに関して、私は政府にまだ何も警告していない。私は誤りを犯した。私の全生涯でもっとも重大な課題に直面して錯誤したのだ! 彼は絶望にうちひしがれて手で顔をおおった。
けれども、間もなく、彼は落ちついた。おそらく時間はまだあるだろう。柳彊《リウチアン》での争いはたぶん叛徒たちの最初の小手だめしなのだ、帝国軍隊の反応を観測するための。マー・ロンとチャオ・タイのすぐれた活躍のおかげで、柳彊《リウチアン》の叛徒たちへの増援隊は到着しなかった。どこか別のところで、謀叛人どもが観測のための攻撃を組織するには一両日はかかるだろう。柳彊《リウチアン》の地方司令官は上級当局に報知したであろうし、当局は捜査を開始したにちがいない。しかしそれには万事時間がかかりすぎるだろう! 柳彊《リウチアン》の叛乱が地方の事件以上の重大事であることを、それがもっと大きな運動の一部、息を吹き返した白蓮教団が組織した全国規模の造反であることを政府に警告するのは、私、漢源《ハンユアン》の知事の責務である。私はこのことを当局に証明しなければならない。今夜のうちに、打ち消すことのできない証拠の裏づけをそろえて、それを証明するのだ。だが、私にそんな証拠はない!
リウ・フェイポは失踪したが、ハン・ユンハンはまだつかまえられる。ただちにハンを逮捕して、拷問にかけて尋問しよう。そんな極端な手段に訴えてよい十分な証拠はない。しかし、この場合、国家の安全がかかっているのである。それに囲碁の課題がまっすぐハンを指し示しているのだ。疑いもなく、彼の祖先、ハン隠者は、昔日《せきじつ》、何か重大な発見をして、ある巧妙な工夫を思いつくと、その鍵を囲碁の問題の中に秘め隠した――その発見がいまや、隠者の堕落した子孫によって、邪悪な陰謀のために利用されようとしている。とはいえ、その発見とはいったい何だったのか? 哲学者で囲碁の名人であったほかに、ハン隠者は良い建築家でもあった。あの持仏堂は彼みずからの監督のもとに建てられたのだ。それにまた彼は異常に手先が器用でもあった。祭壇にある玉碑《ぎょくひ》の銘文も自分の手で刻んだのだった。
ふいに判事は椅子の中で身体をまっすぐに起こして、テーブルの縁を両手で固く握りしめた。両眼を閉じて、夜ふけに持仏堂で交わした対話をありありと思い浮かべた。彼の心の目の前に、あの美しい娘を、彼に向かい合ってそこに立ち、すらりとした手で祭壇上の碑文を指さしている姿のまま呼び起こした。碑文は正方形を占めていた。そのことを彼はありありと思い出した。そうして、一字一字が別々の玉片《ぎょくへん》に刻まれたのだと、垂柳《すいりゅう》は語ったのだった。だから碑文全体は四角形で、さらに小さな四角形に区分される。そして老隠者のもう一つの遺品、囲碁の課題も、多くの四角形に区分される一個の四角形からなっている……。
彼は引出しを開けた。中の書類を乱雑に床に投げ出しながら、熱にうかされたように大急ぎで垂柳がくれた碑文の拓本《たくほん》を捜した。
それは引出しの奥に巻いて入れてあった。急いで机の上にひろげると、両端に文鎮《ぶんちん》を置いた。それから囲碁の問題が印刷された紙を取って碑文の隣に置き、注意をこめて両者を比較した。
持仏堂の文章はぴったり六十四文字からなっていて、一行が八字ずつ八行に配置されている。まさにそれは正方形であった。ディー判事はもしゃもしゃした眉をしかめた。囲碁の問題も四角形だが、こちらは一列が十八の四角で、十八列に区分されているのだった。そして図柄が同一であることに特別な意味があるにしたところで、持仏堂の碑銘と碁の問題とのあいだにいかなる関連がありうるのか?
判事は心を落ちつけて考えようと努力した。碑文は有名な古い仏典からそのまま取られている。文言を根本的に改変することなしに、秘められた意味を隠すために用いるのはほとんど不可能である。ゆえに、両者の関係を知る手がかりが、仮にあるとすれば、碁の問題中に含まれているのは明白だ。
彼はゆっくりと頬ひげを撫《な》ぜた。囲碁の問題が実際にはまるで問題になっていないことは、すでに疑う余地なく確認されていた。白と黒の石が盤上に気ままに布石されているらしいことは、チャオ・タイが気づいていた。とりわけ、黒の位置にはまったく何の意味もないというのだった。ディー判事は目を細めた。黒の位置に手がかりがこめられているのなら、あとから加えられた白の石は単なる目くらましなのか?
彼は黒の石が占めている点を急いで数えた。それらは八掛ける八の四角い領域にひろがっていた。仏典の六十四文字も正確に同一のやりかたで配置されている!
判事は筆をつかんだ。碁の問題を参照しつつ、黒石が指示している場所にある仏典中の十五の語のまわりに円を画いた。彼は深々と歎息した。十五の語はいっしょになって、たった一つの意味のみを表わす文章をなしていることが読み取られた。謎は解けた!
彼は筆を投げ出して、額の汗をぬぐった。白蓮教団の本部がどこにあるのか、いま彼には分かった。
起《た》ちあがると、勢いよく入口に歩いて行った。四人の助手は外の回廊の隅にかたまって、ディー判事の絶望を引き起こした原因を、みじめな気分で声をひそめて、あれこれと話し合いながら立っていた。判事は中へ入るよう合図した。
執務室へ入ると、ただちに助手たちは危機がのり越えられたのを理解した。ディー判事は机の前に両腕を袖の中に組んですっくと立っていた。燃える目で彼らを見すえると、彼は語った。
「今夜、私は絞殺された芸妓の事件を解決する。いましがた、ついに彼女の最後の通信の謎が解けた!」
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第十八章
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奇怪な事故が邸宅の一部を破壊して
判事はついに求める部屋を発見する
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自分のまわりに四人の助手を集めて、ディー判事は計画を早口にささやくようにうちあけた。「十分に注意してくれ!」と彼は話を結んだ。「この政庁内で叛逆が行なわれている。壁に耳ありだ!」
マー・ロンとチャオ・タイが飛び出して行くと、判事はホン警部に言った、
「門房へ行け、ホン、そして守衛と巡査から目をはなすな。外部から人が来て、だれかに接触するのを見たら、ただちに両方とも逮捕するのだ!」
それから判事は執務室を出ると、タオ・ガンをともなって政庁の二階へ階段を登って行った。二人は大理石のテラスに出た。
ディー判事心配そうに空を見あげた。月が明るく輝いていて、大気は暑くよどんでいる。彼は片手をあげた。そよとの風も吹いていない。ほっと溜息をついて、欄干の近くに腰をおろした。
重ね合わせた手に顎をのせて、判事は暗い町を眺めやった。町の第一鼓の時報は過ぎていた。町の明りが一つ、また一つと消えて行く。タオ・ガンはディー判事の椅子の後ろに立ったままでいた。頬から生えている長い毛をもてあそびつつ、遠くをじっと見つめていた。
長いあいだ、どちらもそのまま無言だった。下の街路から拍子木の音が聞えて来た。夜警が巡回しているのである。
ディー判事が出しぬけに起《た》ちあがった。
「遅すぎる!」と彼は感情をむき出しにして言った。
「容易な仕事ではないのです、閣下」とタオ・ガンが安心させるように言った。「私たちが考えているよりも時間はかかりましょう」
ふいに判事がタオ・ガンの袖をぎゅっとつかんだ。
「見ろ!」彼は大声を出した。「始まったぞ」
東の方角で、灰色の煙が家々の屋根の上に柱のように起ち昇って来た。細い火焔があがった。
「ついて来い!」ディー判事は叫んで、階段を駆け降りた。
二人が下の院子《なかにわ》に着くと同時に、政庁の門で青銅の銅鑼《どら》が鳴り出した。二人のたくましい守衛が太い撞木《しゅもく》で打ち鳴らしていた。火事が発見されたのだ。
巡査と守衛たちが詰所から、兜の緒を結びながら走り出して来た。
「全員、火事場へ行け!」とディー判事は命令した。「守衛が二人、ここに残って門を守るのだ!」
そうして彼は街路へ走り出た。タオ・ガンが後を追った。
ハンの屋敷の大きな門は開け放たれていた。最後まで残っていた召使たちが、自分の持ちものをからげた荷物を抱えて走り出て来た。火焔は家の後ろにある蔵の屋根を舐《な》めている。一群の市民が外の通りに集まり、鎖のようにつらなって、街区の区長の指揮のもとに、庭園の牆壁《しょうへき》の上に立っている巡査たちに、水の入った桶をつぎつぎに手わたしていた。
ディー判事は門前に立ちどまって、大音声で呼ばわった。
「巡査が二人、ここに立番せよ。泥棒や略奪者を潜り込ませるな! 私はまだ中にだれか残っていないか見に行くぞ!」
彼はタオ・ガンとともに、がらんとした邸内へ飛び込んで持仏堂へ直行した。
祭壇の前に立つと、ディー判事は碑文の拓本を袖から取り出して、筆で印をつけておいた十五の文字をすばやく指さした。
「見ろ! この十五文字からなる文章が玉《ぎょく》の板碑にこめられた錠を開ける鍵なのだ!「若《も》し汝《なんぢ》我が告知を理解し、これらの語を押さば、汝この門に入りて平安を見出すであらう」これこそ、玉の板碑が秘密の部屋に近づくことのできる扉であることを意味する。紙を持っていてくれ!」
判事は「若《もし》」の語が彫ってある、一行目の玉板に人さし指を押しつけた。玉板が少し引っ込んだ。両手の拇指《おやゆび》を使って、もっと強く押した。玉板は半寸ほど引っ込み、それ以上は動こうとしなかった。判事はつぎの行の「汝《なんじ》」の語に進んだ。その玉板も押し込むことができた。最後の「安」の文字を押すと、ふいにがちっという音がかすかに聞えた。板碑を押すと、それはゆるゆると内側へ回転して行った、四尺四方の暗い入口を現わしながら。
ディー判事は、タオ・ガンから提灯《ちょうちん》を受け取って中に潜り込んだ。
つづいて潜り込んだタオ・ガンは、扉が再び閉まるのに気づき、あわてて内側の把手をつかんで回した。それで扉がまた引き開けられることが分かって、彼はほっとした。
判事は低い隧道《すいどう》を前進して行った。十歩ほどで隧道は高くなり、身体を起こすことができた。提灯の明りが、急な階段が下方の暗闇の中へ降っているのを照らし出した。判事は下りて行った。二十段を数えたとき、固い岩壁に掘鑿《くっさく》した十五尺四方くらいの穴ぐらに立っていた。右手の壁ぎわには十数個の大きな素焼の壺が並び、口にはどれもぶ厚い紙で封がしてあった。一つの壺の封が裂けていた。判事は手をつっ込んで、乾飯《ほしいい》を掌にいっぱいすくい出した。左側には鉄の扉が見え、その奥には暗いアーチ型の入口があって、もう一本の隧道に通じていた。判事は鉄の扉の把手を回した。蝶番《ちょうつがい》には十分油がさしてあって、扉は音もなく内側に開いた。彼はその場に立ちつくした。
小さな六角形の部屋が、壁の蝋燭で照らされていたのだった。中央の四角いテーブルに、一人の男が坐って記録の巻物を読んでいた。判事にはその広い背中を丸めた肩しか見えなかった。
タオ・ガンがぴたりと後について、判事がつまさき立ちで忍び込むと、男は出しぬけに振り返った。組合親方のワンだった。
ワンは躍りあがって、ディー判事の脚をめがけて後ろざまに椅子を投げつけた。判事が跳ねあがると、ワンはテーブルを回って長い剣を引き抜いた。ディー判事がその憤怒に歪んだ顔を見た瞬間、何かがひゅっと肩をかすめた。ワンは、そんなどっしりした男にしては驚くべき身軽さでひょいと身を屈めた。どすっと音を起てて、匕首《あいくち》が奥の壁ぎわの食器戸棚の扉に突き刺さった。
ディー判事はテーブルから大理石の重い文鎮《ぶんちん》をつかみ取った。ワンが胸を狙って突き出した剣を半身に開いてそらすと、力いっぱい押してテーブルをひっくり返した。ワンはすばやく一歩あとじさったが、テーブルの縁が膝を打った。ワンは前にのめった、が、同時に判事を目がけて突きを入れた。鋭い刃が袖を裂くのと同時に、判事はワンの後頭部に文鎮を叩きつけた。ワンはひっくり返ったテーブルに倒れかかり、砕かれた頭蓋から血がにじみ出た。
「私の匕首《あいくち》がはずされた」とタオ・ガンがあわれっぽい声を出した。
「しっ!」とディー判事が鋭く言った。「ほかにもいるかも知れないぞ」
判事は身を屈めてワンの頭を調べた。「この文鎮は思ったよりも重かった。死んでいる」
身を起こしたとき、扉の両側の壁を背に重ねあげられている、黒い革張りの箱の二つの山が目についた。二十個以上もあって、いずれも南京錠がほどこされ、運搬用の皮紐がかけられている。
「この種の箱は、われわれの祖先が金ののべ棒をしまっておくのに使ったものだ」と、驚いて判事は言った。「しかし、どれもからっぽらしいな」急いで部屋を調べて、「ハン・ユンハンは知っている、最大限に真実を混ぜてうそをつけば、最良のうそがつけるということをだ。誘拐について話したとき、ハンは自身の家の地下にある、この白蓮教団の秘密の根拠地のことを語ったのだ。ハンがその首領にちがいない。それで、各地の謀叛の指導者たちに最後の指示を伝えるために、リウ・フェイポを派遣したのだ。それに、ワンも結社の中で高い地位についていたに相違ない。ワンの頭がひどく出血している、タオ・ガン。君の首巻きで飛んだ血をぬぐって、やつの頭に固く巻きつけろ。すぐに死骸を隠すのだ。ここへわれわれがやって来た痕跡を残してはならないからな」
判事はワンが夢中になっていた記録の巻物を取りあげた。蝋燭に近づけて見ると、整然とした筆跡の細字がびっしりと書き込まれてあった。
タオ・ガンはテーブルと文鎮の血をぬぐい去り、その布で死んだ男の頭を包み、死体を床に横たえた。彼がテーブルをもとの位置に正していると、ディー判事が昂奮して言った、
「これは白蓮教団の叛乱の全計画だ! ただし残念ながら、人と場所の名は全部、暗号文字で書かれている。これを解く手引きがあるはずだ。そこの奥の壁ぎわにある箪笥の中を調べろ」
タオ・ガンは扉から匕首を引き抜いて、箪笥の中を見た。下の棚には大きな石の印章が並んでいて、一つ残らず白蓮教団の標語が彫ってあった。上の棚から彫物をほどこした白檀の小さな文箱を取ると、彼は判事に手渡した。それはからっぽだったが、二本の小さな記録の巻物を納める場所があった。ディー判事は床から取りあげた記録を巻いた。紫の錦で表装してあったが、巻物は箱の中にきっちり納まり、それに並んで、ちょうど同じ大きさの巻物がもう一つ入る余地があるのだった。
「もう一本の巻物を見つけなければならない」昂奮した声でディー判事は言った。「それに暗号の手引きが書かれているはずだ。壁の中に金庫が隠されているかどうか調べてくれ」
彼は自分で絨毯を持ちあげて、石の床を細かに調べた。タオ・ガンは朽ちかかった壁の垂幕《たれまく》をのけて壁を調査した。
「固い岩のほかは何もありません。あの上のほうに、いくつか割れ目があります。空気がそこから入ってくるのが感じられますよ」
「通気孔だ」判事はいらいらして言った。「家の屋根のどこかへ出ているのだろう。革張りの箱を調べて見よう」
二人は箱を一つひとつ揺すってみたが、どれもからだった。
「では、べつの隧道へ行こう!」と判事が言った。タオ・ガンが提灯を取りあげ、外へ出て、もとの穴ぐらに入った。暗いアーチ型の入口のそばの床にある四角い穴を指さしながら、
「井戸のようですな」とタオ・ガンが言った。
ディー判事はちょっと目をやってうなずいた。
「そう、ハン隠者は万事周到に考えていた。この穴ぐらが、災厄が起きたときの用意に、家族が隠れる場所として作られたのは明白だね。ここに彼はすべての財宝や、食糧の乾飯《ほしいい》や飲料水をたくわえていた。ちょっと照らしてくれ」
タオ・ガンが提灯を高く掲げたので、光がアーチ型の入口の内部を照らし出した。
「この第二の隧道は、ずっとあとになって作られたにちがいないですよ、閣下! 岩はここで終って、隧道は土壁だし、木の支柱はまっさらです」
ディー判事はタオ・ガンの手から提灯を取って、壁に接近して隧道の床にある長方形の細い箱に光を落とした。「その箱を開けてみろ」と彼は命令した。
タオ・ガンはしゃがみ込んで、蓋の下に匕首を差し込んだ。蓋をあげた途端、彼は急いで顔を背けた。吐き気を呼ぶ悪臭が箱から起《た》ち昇ったのだ。ディー判事は首巻きを引っぱって口と鼻をおおった。箱の中には、長々とのびて腐りかかった死骸が見えた。頭はにたりと笑いを浮べた骸骨に変わり、虫どもがおびえて、朽ちかかった死体にからんだぼろぼろの長衣の上を匍《は》い回っていた。
「蓋をもどせ」と判事はそっけなく言った。「いずれこの死骸を検査しよう。いまはその時間がない」
階段を十段降りて、六十尺ばかり進むと、高くて狭い鉄の扉に進路がさまたげられているのが分かった。判事は把手《とって》を回して押し開けた。外を見ると、視線が月光に照らされた庭園に引き込まれた。すぐ前に蔦《つた》におおわれた亭《ちん》が見えた。
「リウ・フェイポの庭です!」と背後でタオ・ガンが声をひそめて言った。首を突き出して見まわすと、言葉をついだ、「この扉の外側は、表面に岩のかけらを貼りつけておおってありますな。向うの亭で、リウはいつも昼の休息をとっていたんです」
「この秘密の扉で、リウが姿を消したからくりがはっきりと分かる。さあ、もとへもどろう」
しかしタオ・ガンはもどりたがらない様子で、あけっぴろげに感嘆して扉を見つめた。遠くに、ハンの屋敷で消火にあたっている人びとの叫び声が聞えた。
「扉をしめろ」ディー判事がささやいた。
「たいへんな細工だ!」扉を引いてしめながら、タオ・ガンは心残りらしく言った。判事について隧道をひき返して行くと、彼がさげている提灯の明りが窪みに落ちかかった。彼は判事の袖をつかまえ、無言で窪みの中にある白骨を指さした。頭蓋骨が四つあるのを調べて、判事は言った、
「白蓮教団が穴ぐらで犠牲者を殺したのはあきらかだ。この骨はもうかなりのあいだ、ここに置かれていたにちがいない。箱の中の死体がいちばん新しい犠牲者だね」
急いで階段を登り、六角形の部屋に入った。
「ワンの死体を井戸へ落とすのを手伝ってくれ」
二人はぐったりした死体を穴ぐらに運び、暗い穴の中へ落とし込んだ。ずっと下のほうから水音が聞えた。
ディー判事はまた六角形の部屋に入って行き、壁の蝋燭を吹き消すと、外へ出て扉を引いて閉じた。二人は穴ぐらをつっきり、祭壇の隧道へ急な階段を昇って行った。再び持仏堂に出ると、玉の板碑が音もなく閉まった。
その前に立って、タオ・ガンは碑銘の何文字かをでたらめに押した。しかし一つの文字を押して、すかさず二番目のに取りかかっても、最初のがもちあがって板碑の表面と水平な位置に落ちついてしまうのだった。
「ハン隠者は、何て達者な細工師だったんだ」とタオ・ガンは嘆息をもらした。「鍵の文章を知らなければ、髪が白くなるまで、文字板を押していられるってわけだ」
「あとにしろ!」とディー判事が小声で言って、タオ・ガンの袖を引いて持仏堂の戸口へ向った。
院子《なかにわ》で町からもどって来たばかりの下僕の一団に出会った。
「火事はおさまったぞ!」と二人は叫んだ。
街路に出たところで、部屋着のままのハン・ユンハンに会った。彼はディー判事に感謝を述べた。
「部下の方々の迅速な働きのおかげで、火事はさしたる損害になりませんでした、閣下。倉庫の屋根の大部分は失なわれ、米梱《こめこうり》はすべて水でだめになりましたが、それだけでございました。軒下の乾草が熱をもったのが原因で、火事になったのだと存じます。閣下の将校が二人、あっという間に屋根に登って、それで火がひろがるのを防げたのでございました。そよとの風もないのがさいわいでございました。それを私はいちばん恐れておったのですが」
「私もそうでした!」と、心から判事は言った。
丁重な言葉をいくつか交わしたあと、ディー判事はタオ・ガンとともに政庁に帰って行った。
ディー判事は執務室で、二つのぞっとするような人影が待っているのを見出した。彼らの衣服はぼろぼろに裂け、顔は煤煙で汚れていた。
「最悪なのは」とマー・ロンがしかめっ面で言った、「鼻と喉がいまいましい煙にあぶられることでした。火事を起こすほうが、消しとめるのよりよっぽどやさしいってことが分かりましたね」
ディー判事は力なく微笑した。机の奥に腰をおろすと、二人の男に言った、
「再度、君たちはみごとにやってくれたよ。だが、残念ながら、君たちに休息を取らせてやれないのだ、二人とも十分それに値するのにね。最大の仕事はまだこれからなのだ」
「縁日のどたばた芝居ほどじゃありませんよ!」と上機嫌でマー・ロンが言った。
「君とチャオ・タイは身体を洗って来るがいい。そして軽く食事をとることだ。そのあと鎖帷子《くさりかたびら》と兜をつけて、ここへもどって来てくれ」タオ・ガンに向って、「ホン警部を呼んでくれ!」
一人きりになると、ディー判事は筆を濡らし、使ってない巻紙を選び出した。そうして穴ぐらで発見した記録の巻物を、袖から取り出して目を通し始めた。
ホンとタオ・ガンが入って来ると、判事は顔をあげた。
「死んだ踊子の件に関する書類を全部まとめて、この机に持って来てくれ。そうすれば、私が必要とする個所を君らに読んでもらえる」
二人の男が仕事に取りかかっているあいだに、ディー判事は書き始めた。習練しきった草書体で、敏速に巻紙を埋めて行った。筆が紙をよぎって飛んでいるように見えた。ときおり筆をとめて、報告の中に一言一句もたがえずに記録から引用したい個所を、音読するよう助手たちに頼んだ。
ついに筆をおいて、判事は深い溜息をついた。穴ぐらで見つけた記録といっしょに、報告をしっかりと巻いて油紙で包みあげると、ホンに言いつけて、政庁の大型の印章で封印させた。
マー・ロンとチャオ・タイがはいって来た。鉄製の肩あてと先端のとがった兜をつけ、思い鎖帷子《くさりかたびら》をまとって、平生よりも丈が高く見える。
ディー判事は二人に銀三十粒ずつを手わたした。それから、真剣な眼差しで二人を見つめながら語った。「君たち二人は即刻騎馬で首都へ行くのだ。ひんぱんに馬をかえろ。宿駅に馬がなかったら、借りることだ。この銀で十分たりるはずだ。何も事故がなければ、夜明けまえには首都に着くだろう。
首都裁判所長官の公邸に直行せよ。銀色の銅鑼《どら》が門に吊りさげてある。帝国の市民は何人《なんぴと》であろうとも、夜明け後一時間以内なら、その銅鑼を打ち鳴らして、長官に苦情を持ち込む権利が与えられている。その銅鑼を打ち鳴らせ。公邸の執事に、君たちに加えられた重大な不正を報告するべく、遠方から来たのだと告げろ。長官の前にひざまずいているときに、この巻物を手わたすのだ! これ以上の説明は不要だ」
ディー判事が封印した巻物を手わたすと、マー・ロンは微笑して言った。
「容易なことのように思えますよ。軽い狩猟服を着て行ったほうがいいのではないでしょうか? この金物で馬に乗るのはたいへんです」
ディー判事は厳しい表情で二人の補佐を見やった。それからゆっくりと言った、
「容易であるかもしれないし、非常に困難になるかもしれない。道中で君らを待ち伏せしている連中がいないとはかぎらない。だから、そのかっこうで行ったほうが良い。どんな将校にも加勢を求めるな。万事、独力でやるのだ。もし君たちを引き留めようとするものがあれば、斬って捨てろ。仮にも君たちのどちらかが殺されたり、負傷したら、他の一人が前進をつづけて、首都に巻物を届けるのだ。長官にわたせ、他のだれにもわたしてはならぬ」
チャオ・タイは剣帯をきつく締めた。静かに彼は言った。
「きわめて重要な書類に相違ないですな、閣下!」
ディー判事は袖の中で腕を組み、緊張した声で返答した。
「天命にかかわっている」
チャオ・タイは了解した。彼は肩をそびやかして叫んだ、
「皇帝家に万歳を!」
マー・ロンはとまどった顔で友達を見た。が、彼は自動的に昔ながらのきまり文句を仕上げた、
「そして皇帝に長寿を!」
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第十九章
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恐ろしい人物がディー判事を訪問し
危険な犯罪計画はついに暴露される
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つぎの朝はめったにない晴れやかな夏の一日を約束していた。夜の間中、冷たい霧が山々から降りて来て、陽に照らされた朝の大気にはその爽涼《そうりょう》がまだ消えやらずにあった。
ホン警部はディー判事がテラスで見つかると思い込んでいた。しかし二階に通ずる階段を昇りかかったところで事務官に出会うと、判事は執務室にいると告げられた。
判事を見て、ホンは仰天した。判事は背を丸めて机によりかかり、目の縁を真赤にして前方を凝視していたのである。室内の空気が悪くなっているのと、長衣がくしゃくしゃなのとが、彼がまるっきり寝にも行かずに、一晩中机に向ってすごしたことを語っていた。警部のまごついた表情に気づくと、ディー判事は弱々しい微笑を浮べた。
「昨夜は、われわれの勇者を首都に送り出したあと、まるで眠れないのが分かったのだよ。それで、ここに残って、もういちど、全状況を現在われわれが握っているとおりに検討しなおしたのさ。ハン・ユンハンの秘密の根拠地と、それがリウ・フェイポの庭園と地下で結ばれているのを発見したことは、ハン、リウの両人が犯罪計画で重要な役割を演じていることを証明した。もう、おまえに言っていいだろう、ホンよ。それはわが皇帝家に向けられた叛逆なのだ。しかも帝国全土に惨禍が波及するほどのものだ。状況は深刻だ。けれども、私にはそう希望する理由があるのだが、まだ救済できないわけではない。いまごろは、私の報告が首都裁判所の長官の手中にあると思う。そして確実に政府はただちに必要な手段いっさいを講ずるだろう」
判事は茶を一口すすって、言葉をつづけた、
「昨夜は一つの輪がまだ失なわれたままだった。この数日のあいだに一度、何かちょっと不調和な点のあることに気づいたことを、ぼんやり思い出したのだ。それはほんの一瞬、私を衝《つ》いたのだけれど、そのあとで私はきれいに忘れてしまったのさ。それはどうでもいいことだったのだ。しかし、ゆうべ、ふと私は感じた。それは非常に重要であり、私が思い起こすことができさえすれば、私の謎の失なわれた部分を補うことになるはずだとね!」
「閣下はそれを発見された?」と警部は熱くなって尋ねた。
「うん」と判事は返事をした。「私は発見した! けさ、夜が明けるほんの少しまえ、それが忽然《こつぜん》と心に浮んだ――ただし、雄鶏《おんどり》が時《とき》を告げ始めたときだけだったがね。ホンよ、雄鶏は最初の曙光が現われるまえでも時を作るものだと思ったことはないかね? 動物というのは鋭敏な感覚を持っているものさ、ホン。さて、窓を開けてくれ。青い唐辛子の漬物と塩漬けの魚をそえて、飯を持って来るよう事務官に言いつけてくれ。食欲をそそるものを食いたい。それから大きな茶瓶に強い茶をいれてほしい」
「けさは政庁の公判を行ないますか、閣下?」とホンがきいた。
「いや、マー・ロンとチャオ・タイが帰りしだい、われわれはハン・ユンハンとリァン顧問官を訪問に行く。いますぐにでもそうしたいのだ、ときが逼迫《ひっぱく》しているからね。しかし芸妓の殺害が国家の重大事だと判明したからには、一介の地方知事にすぎない私には、もはやそれを思うとおりに処置する資格はない。首都からの指示がなくては、先へ進むことができないのだ。私たちにできるのは、マー・ロンとチャオ・タイが早く帰って来るのを望むことだけさ」
朝食をすませると、ディー判事はホン警部を記録室へやって、タオ・ガンといっしょにそこで行なわれている通常業務を監督させ、自身は二階のテラスに昇って行った。
彼は少しのあいだ大理石の欄干のそばに立って、足もとの平和な情景をつくづくと眺めた。漁師の小舟が波止場に数えきれないくらい集まり、灰色にくすんだ湖に沿った路上には農夫たちが忙しく往き来して、市中に野菜や肉類を運び込んでいる。いつもと何の変わりもなく、働きものの田舎の人びとが急いで仕事に出かけていた。さし迫っている暴動の危機でさえ、人びとが一日の糧《かて》のために、休みもせずに骨折っているのを中断させることはできないのだった。
判事は片隅の日かげに、肘かけ椅子を引っぱって行って坐り込んだ。じきに睡眠不足が出しゃばって来た。彼はいびきをかき出したのである。
ホン警部が昼食の盆を運んで来るまで、彼は目を覚まさなかった。起きあがると、欄干に歩み寄って、目の上に扇子をかざして遠くを眺めやった。しかしマー・ロンとチャオ・タイが帰って来る印は何もなかった。落胆して彼は言った、「いまごろまでには、帰って来てるはずだな、ホンよ」
「たぶん当局が二人を尋問しているんですよ、閣下」と警部は元気づけるように言った。
ディー判事は心配そうな表情で頭を振った。急いで飯を食べると、執務室へ降りて行った。その向いに坐って、ホンとタオ・ガンは協力してその朝届いた書類にとりかかった。
半時間ほどすると、重い足音が回廊に響いて、マー・ロンとチャオ・タイが入って来た。暑そうで疲れはてた様子だった。
「天よ、感謝されてあれ! 帰ったな!」とディー判事は叫んだ。「長官に面会したか?」
「しました、閣下」マー・ロンがしゃがれ声で言った。「われわれが書類を手わたすと、長官はわれわれの面前で目を通しました」
「何と言った?」緊張して判事が尋ねた。
マー・ロンは肩をすくめて、
「長官は書類を巻いて袖に入れ、いずれそれを調べるつもりであると閣下に告げよ、と申しました」
ディー判事は顔を伏せた。これは悪い知らせだった。彼は、むろん、長官が自分の助手と問題を話し合うとは期待していなかった。けれども、そんな手軽な反応をするとも期待していなかったのだ。じっと考えてから、彼は言った。
「そう、ともあれ、君たち二人が無事で私は嬉しい」
マー・ロンは汗の流れる額から重い鉄の兜を後ろへ押しのけて、がっかりした様子で言った。
「ええ、ほんとうに何も起こりませんでした。しかし、状況はいっこうに良くないようにまだ私には思えます、閣下。けさ、私たちが首都の西の城門を出たとき、騎馬の男が二人、私たちに追いつきました。両人とも年輩でしたが、西方の諸省へ行く途中の茶商人だと言って、漢源《ハンユアン》まで同道してもよいかと尋ねたのです。たいへん丁重に話しかけて来たし、武器は携帯していませんでした。それでは、よいと答えるしかなかったでしょう? しかし年上のほうは、目がかち合うたびに、背筋が悪寒でぞっと震えるのを感じるような、まるっきり卑《いや》しい顔をしてました。ですが、連中は何も面倒を起こしはしませんでした。道中ずっと一言も口をきかないのには驚きましたがね」
「君たちは疲れていた」とディー判事は感想を述べた。「おそらく、少々疑い深くなりすぎていたのだよ」
「それだけではありませんでした、閣下」と今度はチャオ・タイが言った。「半時間後、三十人ほどの騎馬の一団が脇道から現われたのです。先導の言葉では、彼らも商人で、同じように西の諸省へ行く途中だというんです。そうです、あの連中が商人なら、私は乳母《うば》ですな! あんなにそろいもそろったすごい壮漢が集結したのを、私はめったに見たことがありません。連中は長衣の下に剣を帯びていたと私は確信しています。ですが、連中が先導になって、私たちの前を馬を走らせてからも、そんなにまずいようには思えませんでした。が、そのあと半時間ぐらいたって、もう一団、三十人の、また商人だと自称する男たちがやって来てわれわれに加わり、騎馬隊のしんがりが膨れあがったときには、マー兄弟と私はてっきり災難に巻き込まれたと思いました」
判事は椅子の中で身を正した。彼はチャオ・タイが話をつづけるあいだ、じっと彼を見まもっていた。
「すでに書類は届けてありましたから、われわれに心配はありませんでした。仮に戦闘が始まっても、少なくともわれわれのどちらかは血路を開いて道を抜け出し、畑に逃れて屯所から救援を連れて来られるだろうと考えたんです。ところが、はなはだまずいと思われたことに、連中はぜんぜん攻撃を仕掛けて来ませんでした。彼らは完全に自信を持っていました。どう見ても、二人の使者を殺すよりも大きなことに心を奪われていた。連中の唯一の狙いが、われわれが警報を発するのを妨げることにあるのは明白でした。しかしわれわれが警報をあげることはほとんど不可能だったのです。というのも、通過した看視所は、どこも人がいなかったんですからね。道中ずっと、一人の兵士も目に入らなかったんです! 湖を回っているときに、連中は五つ、六つの組になって消え失せ始め、町に入ったときには、例の年輩の男二人しかいませんでした。われわれは二人に逮捕する旨を告げて、政庁へ連行して来ました。ところが、二人はそのことをまるで意に介さないふうなんです。悪党どもときたら、無礼にも、閣下に対し直接に話したいのだと申しました!」
「われわれと騎馬で来た、あの六十人の悪漢どもは叛徒の一隊にほかなりません、閣下!」とマー・ロンが付言した。「町が近くなったとき、私は騎兵の長い縦隊が二列、馬首を町に向けて山中を通過するのを遠方に見ました。おそらく連中は奇襲攻撃でここを占領できると考えている。しかしわが政庁は堅固に建てられているし、戦略的な位置を占めています。われわれは容易に防禦できますよ」
ディー判事は拳を机に叩きつけた。
「私の報告に対して政府が何の行動も起こさぬ理由は天のみぞ知る!」憤然と彼は叫んだ。「だが、何が起ころうと、あの卑劣な叛徒どもはそうやすやすと私の町を奪えはしない。奴らは破城槌《はじょうづち》を手に入れていないし、われわれは約三十名の有能な兵を配備できる。武器の備えはどんな具合だ、チャオ・タイ?」
「兵器庫に矢がたっぷりあります、閣下」とチャオ・タイは熱烈な口調で答えた。「少なくとも一両日間は、連中を釘づけにできますし、連中にも手ひどい時間を与えることができると私は考えます」
「そのあわれな裏切者二人を、ここへ連れて来い!」とディー判事はマー・ロンに命じた。「奴ら、私と取引きができると思っているのだ。漢源《ハンユアン》は奴らの根拠地だ。だから、私が戦わずに町を明け渡すことを望んでいる。連中がどれほど誤っているかを見せてやる。だが、まずその二人の悪漢に、叛徒がどれほどの兵を有しているか、布陣がどうなっているかを白状させるのだ。ここへ連れて来い」
マー・ロンは歯を見せて嬉しそうに笑うと部屋を退出した。
マー・ロンが長い青の衣装をまとい、黒い頭巾をかむった二人の紳士を連れてもどって来た。年長のほうは背が高く、薄くて、ふぞろいな顎ひげが、冷たい、表情のない顔を取りまいていた。その瞼が重く垂れた目は半ば閉じられていた。もう一人は鋭い、冷笑的な顔の、ずんぐりした男だった。漆黒の口ひげと、硬そうな短い顎ひげを生やしていた。彼は油断のない、非常に明るい目で、判事と四人の補佐を見やった。
しかしディー判事は年長の男だけを凝視した、驚いて言葉もなく。数年まえ、首都で内閣文書局に勤務していた当時、判事はこの恐ろしい人物を遠くから一度だけ見たことがあった。そのときには、だれかが怯えたようなささやき声で、彼にその名を教えてくれたのだった。
長身の男は頭をあげて、少しのあいだ、奇妙な、青みがかった灰色の目をディー判事の上にとめた。それから判事の助手たちのほうへ向けて頭を振った。判事は有無をいわさず、彼を一人にするよう四人の男たちに目くばせをした。
マー・ロンとチャオ・タイは唖然として判事を見たが、彼がいらいらしてうなずくので、のろくさと戸口へ向った。ホン警部とタオ・ガンがそれにつづいた。
二人の新来者は、側壁を背に、重要な訪問者用に置いてある背もたれの高い一対《いっつい》の椅子に腰かけた。ディー判事は二人の前にひざまずき、額を床に三回触れた。
年長の男は袖から扇子を取り出した。ゆったりとあおぎながら、奇異な抑揚のない声で同伴者に言った。
「これがディー知事だ。彼は、ここ漢源《ハンユアン》に、彼自身の県に、彼自身の町に、危険な陰謀の根拠地があることを発見するのに二か月かかった。明白に、彼は知らないでいる、知事たるもの、自身の県に起こりつつあることを知っているはずとされている事実をだ」
「彼は彼自身の政庁で何が起きつつあるかさえ知らないのです」ともう一人が言った。「彼は報告の中で気軽にも、叛徒が彼の部下の中に間諜を送り込んでいると述べております。犯罪的な怠慢ですな」
年長の男はあきらめたような吐息をついた。
「こうした若年の官吏が首都の外部へ任命されると」と彼はそっけなく所感を述べた、「とたんに諸事万端、安易に構えはじめる。直属の上司による抑制が欠けているからだ、と私は思う。この地域の省長官を召喚するのを私が忘れぬよう注意してくれ。この不面目な件に関して彼に話さねばならぬのでな」
話がとぎれた。ディー判事は沈黙したままだった。発言するように求められたときにのみ、この高位の人物には口がきけるのだった。そして非難し批判するのがこの人物の任務なのだった。年長の男は、公式の地位は帝国検査官であるけれど、実際には最高調査官、帝国秘密調査部の恐るべき部長だったのである。彼はモン・キーといい、その名は、金糸で縫いとりをした衣装をまとう首都の最高位の官僚たちをさえ震えあがらせた。その苛烈な忠誠と完璧な清廉《せいれん》、人情や利害に超然とした酷薄《こくはく》によって、現にこの男は無制限な権威を授けられていた。帝国の文武の公務を執行する巨大な機構に対する最終的な検査、究極的な統禦を彼は一身に体現していたのである。
「さいわいにも、貴官は、いつもながら、精励|恪勤《かくごん》なさっておられました」と顎ひげの男が言った、「十日前、わが捜査官たちがこの県において白蓮教団が復活したといううわさを報告するや、総司令官は報知を受けて、ただちにすべての必要なる対策を講じたのでありました。そしてこの知事ディーがようやく快適な惰眠から目覚め、叛乱の根拠地がここ漢源《ハンユアン》にあると報告すると、首都近衛連隊は山間と湖畔にて配置についたのであります。彼らは目下のところ貴官の不意を衝《つ》いてはおりません」
「われわれはわれわれに可能なことをやるだけだ」と帝国検査官は言った。「わが行政機構にあって、地方官吏は最も劣弱なる輪である。叛乱は粉砕されるであろう。とはいえ、かなりの流血をともなってだ。仮にこのディーなる男が職務にもっと精励であったならば、われわれは即刻かの指導者どもを逮捕して、暴動を未萌《みほう》のうちに粉砕することができもしたであろうに」ふいに彼の声が金属的な響きをおびて鳴りわたった。直接に判事に呼びかけたのだ。「君は少なくとも四つ、弁明の余地なき失策を犯した、ディーよ! 一つ、君はリウ・フェイポを逃亡せしめた、彼を疑っていたと君みずから述べているにもかかわらず。二つ、君は叛徒の手先の一人が君自身の獄舎で殺害せられるのを許した、彼から正確な情報を引き出さぬうちに。三つ、君はワンを殺した、彼を存命のまま捕えて尋問すべきときに。そして第四、君は首都に不完全なる報告を送った、鍵が失なわれておるままに。ありのままに言え、ディーよ、かの鍵となる書類はいずくにある?」
「手前は罪を告白申しあげます」とディー判事は言った。「手前はかの書類を所持いたしておりません。さりながら、愚考いたしまするに――」
「君の推測は割愛せよ、ディー!」と検査官は彼の腰を折った。「くりかえす。かの書類はどこだ?」
「リァン顧問官の家にございます、閣下!」ディー判事は答えた。
帝国検査官は跳びあがった。
「正気を失なったのか、ディーよ?」憤然として尋ねた。「顧問官リァンの廉直《れんちょく》に疑いを投げてはならぬ!」
「手前は罪を告白申しあげます」と判事は作法が要求するきまり文句をくり返した。「顧問官は自身の家で起こっていることがお分かりにならずにいられたのです」
「ディーは時間をかせごうとしております」と顎ひげの男がむかむかしたように言った、「彼を逮捕して、彼自身の獄に投じましょう」
最高調査官は返答しなかった。彼はあちこち歩き始めた、長い袖を怒りにまかせてうち振りながら。それから、ひざまずいている判事の前に足をとめると、そっけなく質問した、
「あの書類は、いかにして顧問官の家に存することになったのか?」
「白蓮教団の首領がかしこへ移しました、閣下。よりいっそう安全ならんがためにでございます。手前はおそれながら提言申しあげます。閣下の部下をして顧問官の邸宅を占拠せしめ、顧問官自身ならびにそれに関知せぬ少数のものどもを除き、そこにおります全員を逮捕せしめられますよう。しかるのちに、小官が使者をハン・ユンハンおよびカン・チュンに遣《つか》わし、顧問官のもとより来たていに装い、顧問官が緊急の要件にて即刻会いたい旨を伝えさせたく存じます。しかるのちに、閣下もまたかしこへお出でなられまして、小官が閣下の随行者として行動することをご許可下さいますよう、小官は提言申しあげます」
「なぜ、さようにばかげた真似をするのか、ディーよ? 町はわが部下の掌中にある。私はただちにハン・ユンハンとカン・チュンを逮捕せしめよう。しかるのち、われわれがそろって顧問官の家に行くのだ。私が顧問官に説明しよう。君は書類がどこにあるかを教えよ!」
「手前は、白蓮教団の首領を逃亡せしめぬことを確実ならしめんと欲したのでございます」とディー判事は言った、「小官はハン・ユンハン、リウ・フェイポおよびカン・チュンを疑っておりますが、陰謀において彼らがいかなる役割を演じておるのかを存知いたしておりません。おそらく首領は、目下、われらには未知の、まったく別の人物でありましょう。他の者どもを逮捕いたせば、彼に警告することにあいなり、彼は逃亡いたしましょう」
検査官は顎のまわりを縁どる薄いひげを引っぱりながら少しのあいだ考えてから、もう一人の男に言った。
「わが部下にハンとカンを顧問官の家へ連行せしめよ。極秘に行なうよう取りはからうのだ」
顎ひげの男は眉をひそめた。彼は同意ではないらしかった。けれども、検査官がいらだたしい身振りを示したので、急ぎ起《た》ちあがると、一言もいわずに部屋を出て行った。
「起ってよろしい、ディー」と帝国検査官が言った。再び自分の席に腰をおろすと、彼は袖から書類の巻物を引き出して読み始めた。
ディー判事は茶卓へ誘《いざ》なう身振りをして、おずおずと言った。
「おそれながら、閣下には茶をお召しあがりいただけましょうか?」
検査官はいらいらした様子で書類から目をあげた。彼は横柄に言った、
「ならぬ。私は自分の召使いが用意したものしか飲み食いしないのだ」
彼はまた読み始めた。判事は両脇に両腕をのばして立ったままでいた、宮廷の儀軌《ぎき》に規定されているとおりに。自分がどのくらい長く立っているのか彼には分からなかった。帝国政府が叛乱に対して即刻適切な処置を取ったことを知ったときに、彼が感じた救われたという思いが、いまや、自分の推論が正しいのかどうか、増大して行く不安に取ってかわられていた。猛烈な速さで彼はすべての可能性を再検討しようとした、彼が看過したかもしれない手がかり、完全に正確と証明されたとは言いがたい結論を捜し求めながら。
かさかさした咳が彼を沈思から呼びもどした。帝国検査官は記録を袖にもどし、起ちあがって言った。
「時間である、ディーよ。リァン家の屋敷はここからいかほどあるのか?」
「わずか歩くばかりでございます、閣下」
「それでは歩いて行こう。注意を引かぬようにしてな」と検査官は決定した。
外の回廊で、マー・ロンとチャオ・タイがあわれっぽい表情で判事を見た。元気づけるように頬笑みかけて、判事は早口に言った、
「私は外出する。君たち二人は表門を警護し、ホンとタオ・ガンは裏の戸口を見張るのだ。私が帰るまで、何人《なんぴと》たりとも出入りさせるな」
町の通りは平常どおり仕事にいそしむ群衆でざわめいていた。ディー判事は驚きはしなかった。秘密機関が恐るべく効率的に活動すること、だから、だれ一人として町がその手中に収められていることに気づいていないことを彼は知っていた。彼は大股で急ぎ、検査官がすぐ後につづいた。簡素な青い長衣を着た、この二人の男に注意をはらうものは一人もいなかった。
痩せた無表情な男がリァン屋敷の門を開いた。判事はまえに彼を見たことはなかった。最高調査官の部下がその家を占拠しているのは明瞭だった。その男が検査官にうやうやしく言った、
「この家のものは残らず逮捕いたしてございます。二人の客が到着して、顧問官ともども書斎におります」
それから彼は無言で二人を薄暗い回廊を通って案内して行った。
仄《ほの》暗い書斎に入ったとき、判事は老顧問官が窓の前の赤漆塗の机の奥で肘かけ椅子に坐っているのを見た。反対側の壁ぎわの肘かけ椅子には、ハン・ユンハンとカン・チュンがぴんと身を立てて腰かけていた。
老顧問官は重い頭をあげた。帽子のまびさしをちょっと押しあげると、戸口の方角を見た。
「またまた訪問客よ!」と彼はもぐもぐ言った。
ディー判事は机に歩み寄って深く礼をした。検査官は入口のそばに立ったままでいた。
「私は知事でございます、閣下」判事は言った。「何とぞこの突然の訪問をお許し下さいますよう。閣下のお許しによりまして、私はただ――」
「手短かにな、ディーよ」と老人はうんざりしたように話した。「退いて薬をとる時刻なのでな」その重い頭ががくりと前に垂れた。
判事は金魚鉢に手を入れて、水中で、花の仙女の小さな像の台を探った。金魚たちが昂奮して泳ぎ回り、冷たい、小さな身体が手をすべり抜けた。台の上半分は回せるのが分かった。それが蓋で、花の仙女の彫像がそのつまみになっているのだった。彼は彫像を持ちあげた。銅の筒が現われ、その縁《ふち》はちょうど水の上に出ていた。彼は中へ手を入れて、小さな巻物を取り出した。それは紫色の錦で表装されていた。
顧問官、ハン・ユンハン、カン・チュンは微動もせずに坐っていた。「お坐りなさい!」と、ふいに銀の鳥籠の中で九官鳥が鋭い金切声をあげた。
ディー判事は戸口に近寄り、巻物を帝国検査官に手わたして、声をひそめて言った、
「鍵となる書類でございます」
最高調査官はそれを解いて、急いで初めの部分に目を通した。ディー判事は振り向いて、部屋を見まわした。老顧問官は金魚鉢を見つめて、彫像のようにじっと坐っている。ハン・ユンハンとカン・チュンは戸口のそばの長身の男を凝視していた。
検査官が手で合図を送った。突如、回廊に、きらきら輝やく甲冑で身をかためた首都近衛兵たちが集結した。ハン・ユンハンとカン・チュンを指さして、検査官が命令した。
「あの男どもを捕えよ!」兵士たちが突入すると、つづけて彼はディー判事に言った、「ハン・ユンハンはこの名簿にのっていないが、いずれは逮捕するのだ。私の後ろにつけ。私は閣下に弁明を申しあげる」
判事は検査官の後ろにひかえた。と、ふいに彼は命令もなしに前へ出て机に近づいた。机に身をのり出すと、顧問官の額から帽子のひさしをはぎ取って、きっぱりと言った、
「起て、リウ・フェイポ! 帝国顧問官リァン・モンクワン謀殺のかどで、私は君を告訴する」
机の向うの男はゆるゆると起ちあがった。彼はすくっと立って、肩をそびやかした。にせの顎ひげと頬ひげ、化粧にもかかわらず、容易にリウ・フェイポの倣岸な顔だと見分けがついた。彼は告発者を見なかった。その燃える目は、兵士によって鎖につながれているハン・ユンハンにすえられていた。
「私が君の情婦を殺したのだ、ハン!」と、リウは冷笑してハンに向って叫んだ。嘲ける身振りで顎ひげを左手で持ちあげた。
「この男を逮捕せよ!」検査官が兵士たちに怒鳴った。
ディー判事は脇へどいた。四人の兵士が机に近づき、先頭の兵士が縄を振った。リウは腕を組んで彼らに歩み寄った。
出しぬけに、リウ・フェイポの右手が袖から躍り出た。短剣が閃き、血がその喉から噴き出した。彼は立ったままぐらぐら揺れた。それから、丈高い身体は床の上にくずおれた。
白蓮教団の指揮者、龍の玉座の僭称者がみずからおのれの生に決着をつけたのだった。
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第二十章
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判事は助手たちと魚釣りに出かけて
彼は漢源《ハンユアン》の湖の神秘を明らかにする
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つづく数日間に、皇帝の手が白蓮教団の上に重くのしかかった。
首都および諸省において、地位の高下を問わず大勢の官吏と何人もの豪商が逮捕され、審理され、即決で処刑された。中央と地方の指導者たちの突然の捕縛によって、謀反の背骨は砕かれてしまった。どこにも大規模な叛乱を組織しようとするものはなかった。僻遠のいくつかの県で小さな蜂起があったけれど、現地の軍隊がほとんど損害を蒙ることもなく鎮圧した。
漢源《ハンユアン》では、最高調査官の部下が全行政をディー判事から一時的に引き継いだ。検査官自身は、リウ・フェイポの自殺の直後、急遽《きゅうきょ》首都に帰って行った。黒い顎ひげの冷笑的な男が衝《しょう》にあたって、ディー判事を雑役係、およびさまざまな助言役に採用した。県の破壊的な諸要素は一掃された。カン・チュンは白状して、政庁内部で白蓮教団の手先をやっていた事務官を密告した。そのほかに、組合親方ワンの何人かの輩下と、リウ・フェイポが荒っぽい仕事に使うために雇った十数人の無頼漢がいた。こういう犯人たちは全員首都へ護送された。
ディー判事は職務を停止されていたから、助かったことに、マオ・ルーの処刑に立ち会わないですんだ。当局は初めマオに笞《むち》打ちによる死刑を決定した。だが、マオ・ルーがチャン夫人を犯さず、また|三※[#「木+諸」、unicode6AE7]島《さんしょとう》で二人の盗賊が彼女を強奪しようとしたさいに彼女を守りさえしたことを指摘して、判事は判決を簡単な斬首刑に軽減させることに成功した。僧侶は北方の前哨地帯で十年間の重労働に服するよう判決された。
マオ・ルーが斬首された朝は豪雨が降った。漢源《ハンユアン》の市民たちは、町の守護神がその領域内で流された血を洗い浄《きよ》めようとしたのだとうわさした。雨は降り始めるとすぐにやんで、午後は涼しくなって陽が射した。
その夜のうちに、行政上の全権限が公式にディー判事に返還されるはずだった。で、その午後は、彼にとり最後の自由な時間であった。彼は湖に釣りに出ることにした。
マー・ロンとチャオ・タイが船着場に降りて行って、平底の小舟を借りた。桟橋《さんばし》に沿って舟を回して来たところへ、ディー判事が徒歩で到着した。頭に大きな日よけの丸帽子をのせて、ホン警部と釣道具をたずさえたタオ・ガンをともなっていた。
みんなが舟に乗り込むと、マー・ロンが船尾に立って櫂を握った。ゆっくりと舟はさざ波を越えて進んで行った。しばらくのあいだ、一同はみな水面を渡る爽やかな微風を楽しんでいた。
ふとディー判事が話し出した。
「この一週間、わが秘密機関がどのように活動するのかを見まもっていて、非常に興味深かった。短い顎ひげを生やしたあの男は、と言ったって、彼がほんとうは誰なのかも、何者なのかも私にはいまだに分からないのだが――初めはとっつきにくかったけれど、後になるといくらかうちとけて、私が比較的重要な書類を見るのを許してくれた。彼は優秀な捜査官だ。徹底的かつ組織的でね。私は彼からたくさん学んだよ。ところが、彼が私をえらく忙しくさせておいたものだから、いまやっと、君たちみんなと静かにくつろげるというわけさ」
判事は冷たい水の中へ手を垂らした。
「昨日、私はハン・ユンハンに会いに行った」と彼は話をつづけた。「彼はまだ自分が受けた厳しい尋問で動顛していたが、それよりはるかに、自分の町の漢源《ハンユアン》が危険な陰謀の中心であった事実に混乱していたよ。ハンは先祖が家の地下に作った、あの穴ぐらを知らなかったが、わが短い顎ひげの友人はそれをけっして信用しようとはしなかった。彼は二日つづけて尋問して、すっかり心証を悪くしていた。しかし、ようやっとハンは釈放された。白蓮教団に誘拐されたことを、恐ろしい脅迫にもかかわらず、彼が即刻私に報告したことを私が指摘したからだ。ハンは非常に感謝していたよ。それで、その機会をつかまえて、私はリァン・フェンと彼の娘がおたがい愛し合っていることを知らせてやった。初めハンはリァン・フェンは娘にふさわしくないと憤慨したが、あとでは折れて、二人が婚約することに反対はしないと言った。リァン・フェンは正直でまじめな若者だし、垂柳は魅力のある娘だ。二人は仲の良い夫婦になると思うね」
「ですが、ハンは芸妓の杏花《きょうか》と関係があったのではありませんか?」と警部が尋ねた。
ディー判事は悲しそうに頬笑みを浮べた。
「私は率直に白状しなければならないよ。ハンを徹頭徹尾まちがって判断していたのだ。彼はきわめて古風な、いささか偏屈《へんくつ》な、というより、心の狭い人間なのさ。気はいいのだが、頭が切れるというのではない。じっさい、それほど印象に残る人柄じゃない。いや、ハンは死んだ踊子と関係なんかなかったのさ。けれども、彼女は偉大な人間だった! その愛において偉大だった――憎悪においてもね。ごらん、あのずっと遠く、柳街の青々とした木立の間に、皇帝陛下の命によって立てられつつある、追悼の華表《かざりもん》の白大理石の柱が見える。それに刻まれる銘はこうなるはずだ、『国家と家族に対する忠節の模範』とね」
いまはもうすっかり湖上に出ていた。判事は釣糸を投げた。急に彼はそれを引きあげた。マー・ロンが悪態を吐いた。マー・ロンも大きな黒い影が、舟の真下、緑色の水中をよぎるのを見た。二つの小さな輝く目がきらりと閃《ひらめ》いたのだった。
「ここでは釣れないぞ」とディー判事が腹だたしそうに言った。「あの畜生が魚をみんな追っぱらってしまっただろう。ごらん! あそこにもう一匹いる」四人の伴侶がぞっとおびえた顔をしているのに気がついて、彼は言葉をつづけた、「私は初めから思っていたよ。湖で溺死した不運な人たちの身体が消えてしまうのは、ああいうばかでかい亀のせいだとね。ああいった動物はいちど人肉の味になじんでしまうと……しかし心配しなさんな、生きている人間を襲うことはけっしてない。舟をもっと出せ、マー・ロン、あっちのほうがかかりそうだ」
マー・ロンは荒っぽく漕ぎ始めた。判事は袖の中で腕をこまねいて、遠い岸辺の町をもの思わしげに眺めていた。
「閣下は、リウ・フェイポが老顧問官を殺害して取ってかわったことに、いつ気づかれたんです?」ホン警部が質問した。
「まさに最後の瞬間にだよ」とディー判事は返事をした。「マー・ロンとチャオ・タイを首都に送ったあと、机に向って眠れずに夜をすごしたときだったのだ。けれども金づかいの荒い顧問官の件は枝葉にすぎず、肝腎《かんじん》の問題は死んだ踊子の件だった。そうしてその件が現実に始まったのは、五、六年以前にさかのぼる。リウ・フェイポの挫折した野心ともどもにだよ。しかし、この漢源《ハンユアン》でわれわれが目撃した最後の局面では、リウの政治的な計画は、二人の婦人、つまり娘の月仙と情人の杏花に対する感情的な関係によって、背景に転落してしまっていた。その関係がこの事件の核心なのであって、この点を理解したとき、あとのことはすべて、たちどころにはっきりしたのさ。
リウ・フェイポは並々ならぬ才能を持ち、勇気があり、機転のきく、精力的な男、生まれついての指導者だった。だが、官吏採用試験に落第したことが彼の矜持《きょうじ》を傷つけた。それにつづく商業の世界での大成功も、その傷をいやすことはできなかった。それはひりひりとうずいてやまず、ついにわが政府に対する痛切な怨恨にまで高まった。
一つの偶然的な出会いが、昔の白蓮教の運動を再興して、わが皇帝家を打倒し、みずから新しい王朝を創建しようという野望を呼び起こした。あるとき、首都の骨董店で、たまたま彼はハン隠者が書いた古い手稿を買った。その中には秘密の穴ぐらの設計図も含まれていたのだ。この手稿は、首都の彼の屋敷で最高調査官が書類の中から見つけ出したが、ハン隠者は、その中で、世が乱れたさいに子孫が隠れひそむ避難所として、そのような穴ぐらを作ることを計画したのだと述べている。彼の記述によると、彼はそこにすべての財宝、金ののべ棒を詰めた二十個の箱を隠し、井戸を掘って、乾燥した食糧を蓄えようと企てたのだ。手稿は持仏堂の祭壇にある穴ぐらの入口を表わす文字の錠まえの設計図で終わっている。そうして隠者は、秘密はハン家において父から長子へと伝えられるべきであるという趣旨の注記を書きそえている。
これを読んだとき、最初おそらくリウは老人の心が生んだ酔狂《すいきょう》にすぎないと思っただろう。しかし漢源《ハンユアン》を訪ねてみるのもいいかもしれないと心に決めた、ハン隠者がほんとに計画を実現したのかどうか確かめるためにだ。リウはハン・ユンハンが自分を招いて、一週間ばかり、彼の家に滞在させてくれるようにうまくはからった。すると、先祖の計画のことはハンが何も知らないことが分かった。ただ、持仏堂はけっして閉ざしてはならないし、灯火を不断にともしておくようにという、ハン隠者の訓戒を知っているばかりだったのだ。ハンはこれは先祖が敬虔だった証拠だと思っていたのだが、もちろん隠者のほんとうの意図は、急に何かの非常事態が生じたさいには、昼であれ、夜であれ、いつでも子孫が秘密の入口に出入りができるようにというのだった。ある夜、リウはこっそり持仏堂にお詣りしたに相違ない。そうして穴ぐらも、ほかのものも現実に存在することを発見した、隠者が述べているとおりにだ。リウは覚ったにちがいない。老隠者が急死したために、彼の長子、つまりハン・ユンハンの祖父に秘密を漏らしそこなったということをね。けれども囲碁の手引書を印刷した人物は、わけの分からない課題のある最終ページも含めて、ハン隠者の草稿どおり正確に印行した。リウ・フェイポ、それにおそらく死んだ踊子を除けば、その問題が持仏堂にある文字の錠まえを開ける鍵にほかならぬことは、だれにも分からなかったのだよ」
「隠者は非常に頭のいい人だったんですな」とタオ・ガンが大きな声で言った。「囲碁の問題が現に刊行されたから、この鍵が失なわれずにすんだ。それでいて初心者でなくても、誰もそのほんとうの意味を推し量ることができなかったんですな」
「そのとおりさ。ハン隠者は聡明で、たいへん博識な人だった、なろうことなら、会ってみたい人だね。が、話をつづけよう。いまやリウ・フェイポはハン家の財宝から、全国規模の叛乱を組織するのに必要な資金を得た。それと同時に、秘密の根拠地かつ運動の会議室として、思いのままに使える理想的な場所を手に入れた。彼はハン家の屋敷と顧問官リァンの邸宅の間の空地に山荘を建て、四人の職人に、穴ぐらと自分の家の庭とを結ぶ地下道を作らせた。そのあとリウはその不運な四人の職人たちを自分の手で殺した、と私は推測している。その秘密の通路で四人の男の骨を見つけたからさ。
しかし、計画が拡張するにつれて、リウの出費は増大していった。腐敗した官吏に多大な賄賂を贈らなければならず、匪賊《ひぞく》の首領たちに支払い、彼らやその輩下に武器を補給しなければならなかったからだ。リウ自身の資金と隠者の財宝はみるみる消えていったから、彼は他に収入源を捜さなければならなかった。で、リァン顧問官の財宝を横領する計略をもくろんだのさ。彼はいつも老人といっしょに老人の邸宅の庭を散歩していた。だから、顧問官とその小人数の家人の習慣をのみこむことは、リウにとって造作もなかった。約半年まえだ。彼は老人を秘密の通路に誘い込んで殺害したに相違ない。彼はその死骸をそこにあった箱に入れた。タオ・ガンと私が見つけたのがそれだよ。そのとき以来、顧問官《ヽヽヽ》は病気になり、目がさらに弱くなって、物忘れがひどくなり、ほとんどの時間を寝室ですごし始めたというわけさ。こうした擬装は、リウ・フェイポが一人二役を演ずることを可能にした。穴ぐらの中で変装してから、自分の家の庭へ出て、顧問官の家へこっそり入って行ったに相違ないのだ。秘書のリァン・フェンが使っている部屋は屋敷の別の隅にあり、召使いとして働いている老夫婦は実際のところ、耄碌《もうろく》していたのだよ。というわけで、万事が彼が顧問官を演ずるのに好都合だったのだね。けれども、ときおり予想外の状況が生じて、予期していたより長いあいだ演技をつづけなければならなかった。このことが、穴ぐらの中の白蓮教団の会議室で行なわれる会合に、リウが出席していたこととあいまって――輿《こし》の輿丁《かつぎて》がホン警部に語ったように、リウの家の人びとの注意を引き始めた|隠身の術《ヽヽヽヽ》のたねをあかしているのだよ。
取巻きのワン・イーファンといっしょに、リウは顧問官の財産を注意ぶかく調べあげ、そのあとで顧問官の荘園を売り飛ばしにかかった。こういうやりかたで、蜂起の準備を完了するに要する基金をリウは獲得したのだ。すべてが順調に進んだ。彼は蜂起するのにふさわしい時機を腹心たちに諮《はか》り始めた。けれども、まさにそのときだ、面倒が起きた。それはリウの個人的な生活から始まった。芸妓の杏花《きょうか》、彼女の本名で呼べば、ファン・ホーイ嬢がここに登場する」
舟は静かに浮かんでいた。マー・ロンは船尾に胡座《あぐら》を組んでいた。彼とほかの三人は判事の話に一心に聞き入っていた。ディー判事は日よけ帽を額から後ろへずらして、また話し出した。
「陰謀は山西《シャンシー》省にもひろがっていたのだよ。ファンという名の平陽《ピンヤン》の一人の地主が仲間になった。しかしやがて、彼は悔い改めて、陰謀を当局に告発しようと決心した。白蓮教団がその計画を知った。ファンは自殺に追い込まれた。連中はファンが国家に対して罪を犯したと告白する偽造の書類にむりやり署名させたのだよ。彼の全財産は白蓮教団の掌中に落ちた。彼の未亡人、娘のホーイ、幼い息子は乞食の境遇に陥った。それで娘は進んで自分を芸妓に売ったのだ。そうやって得た金で、母は平陽《ピンヤン》に小さな農園を買うことができたが、あとになっても、杏花は収入の大部分をきちんと送っていた、小さな弟の教育のためにね。こういう情報は、秘密捜査官たちが平陽《ピンヤン》地方の白蓮教団の指導者たちを逮捕し審問して、昨日送り届けてきた報告書のうちにあったのさ。
これからあとの彼女の話は簡単に再構成できるね。死ぬまえに、父親は彼女に陰謀について何かしら話したにちがいない。根拠地が漢源《ハンユアン》にあり、リウ・フェイポが首魁《しゅかい》だということも含めてだ。そこで、勇敢で忠誠な娘は父のために復讎《ふくしゅう》し、陰謀を暴露しようと決心した。彼女が言いはって漢源《ハンユアン》に転売されて来たのも、リウ・フェイポを情人として受けいれたのも、そのためだったのは明白だよ。彼女の狙いはリウから白蓮教団の秘密を引き出し、彼と仲間の謀叛人たちを当局に告発することだった。
彼女は不思議な、忘れがたい美しさを持った女だった、しかも異常に強靭な性格の持ち主だった。彼女の一家は平陽《ピンヤン》でも良く知られた名族の一つだったと私は思う。平陽《ピンヤン》では、魔法の力を駆使する深遠不可思議な秘密を母から娘へ伝えることがあるのだ。とはいえ、彼女がリウ自身の娘、月仙にきわめて良く似ていなかったら、リウ・フェイポのような、自我が完璧に強くて、野心を抱いている男を自分に縛りつけることに彼女が成功したかどうか、疑わしいと私は思う。
人間の情熱の暗い奇異な現象を理解し、分析できるふりをするなんてつもりはない、わが天たちよ。自分の娘に対するリウの愛情には、わが神聖な社会的規範によれば、血の絆によって自身に結びついていない女子にのみ、男子が寄せてしかるべき感情が混り合っていたと述べるに留めよう。自分の娘に対するリウの激しい愛情は、その残忍冷酷の魂にあって、唯一の弱みだったのだね。彼は全力を尽して自分の罪の情熱と格闘したにちがいない。彼の娘はそれを知らなかった。この情熱が何人かの妻との関係にどのくらい響いたか知らないけれども、彼の家庭生活が非常に緊張していて、不幸なものだったとしても、私は驚かないね。としても、芸妓との情事は、彼の魂に猛威をふるっている葛藤から逃避することを許し、そうしてそのことが、それまでほかのどんな女とも、たぶん経験したことのない情熱の深さをリウの情事に与えたのだ。
二人がこっそり逢曳《あいび》きしているあいだに――その場所が組合親方ワンの庭にある亭《ちん》だったことが、いまでは分かっているが――杏花は、情人から白蓮教団に関するいくつもの事情を聞き知った。囲碁の課題の隠された意味も含めてだ。リウは彼女に恋文を書いた。そうまでして、自分に取り憑《つ》いた情熱に、はけ口を与えなければならなかったわけだね。だが、そういった手紙を自分の筆跡で書くほど、愚かじゃなかった。彼は顧問官の秘書リァン・フェンの筆跡を真似た。顧問官の家計の記録を調べるうちに、それになじんでいたのさ。自分の娘の恋人、チャン文学士の筆名を、自分自身の恋文に署名させたものが、いかなるつむじまがりの出来心だったのかは天のみぞ知る。もういっぺん言うが、そういう暗い衝動は私の理解を越えている。
リウは娘を嫁にやる気はまるでなかった。娘が彼から離れて行って、ほかの男のものになるという考えに耐えられなかったのだね。彼女がチャン文学士との恋に落ちたとき、リウは猛然と結婚に反対して、取巻きのワン・イーファンに命じてチャン博士を中傷させ、結婚の許可を保留する正当な理由を作らせた。だが、そこで月仙が病気になってしまったのさ。リウは娘がそんなに不幸になっているのに忍びなかった、猛烈な努力をはらったに相違ないのだが、彼はしぶしぶ同意を与えたというわけだ。月仙との別れがさし迫ったときの、リウの心痛が尋常でなかったことは、容易に推測できる。さらにそのうえ、踊子あての彼の恋文によると、そのころ同時に彼は踊子のほんとうの意図を疑い始めた。彼女が白蓮教団についての情報を熱心に得たがったからだ。彼は関係を切ろうと決心した。こうして愛する二人の女を同時に失ないかけていたのだから、彼の心の狼狽ぶりは容易に想像できる。あまつさえ、財政上の心配も日ごとに増大していたのだ。顧問官の役を演じてリァン家の荘園の大部分を売りはらい、叛乱蜂起に予定している日は近づきつつあった。金が、さらに多くの金が必要だった。彼は早急にそれが必要だった。それで彼は一味のワン親方の資本を取りあげ、カン・チュンに命じ、彼の兄を説得してワン・イーファンに対する多大な貸付を与えさせようとした。これが約二か月まえ、私たちが漢源《ハンユアン》に着いたばかりのころのおおよその状況だったと思う」
ディー判事はちょっと口をつぐんだ。タオ・ガンが質問した。
「カン・チュンが白蓮教徒の仲間であることを、閣下はどうやって見つけられたのです?」
「何とか貸付をさせようと彼が夢中に骨折っていたからにすぎないよ。カン・チュンほど経験を積んだ商売人が、ワン・イーファンのような、いかがわしい、ちっぽけな取引斡旋人に多額の貸付をするよう兄に助言するというのが、奇異な感じを与えたのだよ。ワン・イーファンが陰謀の仲間にちがいないと分かったとたん、カン・チュンもそれにかかわっているに相違ないことが分かった。何とか現金を手に入れようとする、リウ・フェイポの最後の死にものぐるいの努力が一つの重大な手がかりを私に与えてくれた。つまり、リウの失踪と顧問官の急病とが私を導いて一人二役を発見させたというわけさ。老顧問官の黄金への奇異な渇望を、白蓮教団の仲間であるワンが金を必要としていることに結びつけたのだ。高齢のゆえに顧問官が容疑の外にある以上、可能な結論はたった一つしかないわけだよ」
タオ・ガンはうなずいて、左の頬から生えている三本の長い毛をゆっくりを引っぱった。ディー判事は話をつづけた、
「ようやく芸妓の殺害まで来た――最後の瞬間にやっとのことで私にあきらかになった、いちばんこみいった事件だ。月仙がチャン文学士へ嫁いだ。そして、その翌日、画舫《フラワーボート》で宴会が催された。踊子に疑いを抱いていたから、リウはその夜ずっと彼女を見まもっていた。彼女が、ハンと私との間に立っていて、陰謀について私に話しかけたとき、リウは彼女の唇から言葉を読み取った。ただし、彼は彼女がハンに話しかけていたと考えちがいをやった」
「ですが、そんな誤りは起こりえなかったと思いますね」とホン警部がさえぎった。「彼女は閣下《ヽヽ》とあなたを呼んだのですよ!」
「私はそのことをもっと早く見ぬくべきだったのさ」とディー判事は弱々しく微笑していった。「私に話しかけたとき、彼女が私を見ていなかったこと、それに早口で話したことを思い出してくれ。それでリウ・フェイポは、『閣下』を『ユンハン』と、つまりハンの呼び名と読みちがったのだよ。このことはリウを冷たい憤怒に突き落としたはずだ。自分の情婦が自分を裏切ろうとたくらんでいただけでなく、秘密の恋敵、ハン・ユンハンにそんなことをやろうとしたのだからね。それに、彼女がハンを呼び名で呼んだことは、彼女がハンと親密な関係にあるのだということのほかに、どのように説明がつけられただろう? このことが、誘拐と脅迫によってハンの口をふさぐために、その次の日に彼が取った汚ないやり口を説明してくれるし、さらにまた、リウが匕首《あいくち》を喉に突っ込むまえに言った最後の言葉が、なんで恋敵だと思い込んでいたハンの損失を嘲笑するものであったのか、その理由を説明してくれる。幸運にも、囲碁について踊子が言ったことはリウの目にとまらなかった。そのときには、銀蓮花が私たちのテーブルにもどって来て彼の視線をさえぎったからだよ。もしリウがその二番目の言葉までとらえたとしたら、疑いもなく彼は穴ぐらの中の秘密の根拠地からただちに撤退しただろう。
踊子が彼を裏切ろうとした以上、リウはすぐにも彼女を殺さなければならなかった。彼女の踊りを見まもっていたとき、リウの目の中に、私は真相を見て取ることができたはずなのだ。彼は彼女を殺さなければならなかったし、また、それが目もくらみ、呼吸《いき》もとまる美しさの極点において彼女を見られる最後の時になるだろうということを、彼は知っていたのだからね。彼の目には憎しみ、裏切られた恋人の憎悪があった。だが同時に、愛している女を失なおうとしている男の深い絶望があったのさ。
組合親方ポンの具合が悪くなったことは、リウに食堂から出て行くうまい口実を与えてくれた。彼は右舷の甲板にポンを連れて行く。ポンは欄干によりかかってそこに立っている、ひどく調子が悪いのだ。そのあいだに、リウは左舷に行って、窓越しに杏花に合図して船室に連れ込む。殴って失神させ、彼女の袖に青銅の香炉を仕込むと水中に落とし入れる。それから彼はポンといっしょになる。それまでにポンは気分が良くなっているから、彼と連れだってリウは食堂へもどる。君たちは想像できるだろう、死体が湖の底へ沈まず、殺人が発見されたと聞いたときのリウの心理状態をね。
けれども、もっと悪いことがリウには起きたのだ。翌朝、彼は鍾愛《しょうあい》のわが娘、月仙が新床で死んでいるのが見つかったことを知る。彼は彼の情緒生活を支配していた二人の女を失なった。彼の偏執的な憎しみはチャン文学士ではなく、父親のほうに向う。リウ自身の禁じられた情熱が、教授も月仙に対して罪深い欲望を抱いているとすぐさま思い込ませたというわけだ。このことが、少なくとも私に理解できるかぎりでは、チャン博士を告訴したリウの異様な行動に対するたった一つの説明だよ。月仙の死はリウにとって恐るべき衝撃だった。彼女の遺骸が思いもよらずなくなってしまうと、リウはとうとう自制心を完全に失なってしまう。そのとき以来、憑《つ》かれた人間のように、リウは自分の行動にほとんど責任が持てなくなったのさ。
取巻きのカン・チュンが告白の中で述べたところでは、いちどなど、リウは部下全員に娘の死体を捜せと命令した。そのあと、彼の行動がおかしくなったから、カン・チュン、ワン親方、ワン・イーファンは自分たちの指導者のことを心配するようになった。連中はリウがハン・ユンハンを誘拐することに強く反対した。危険が大きすぎるし、芸妓が殺されたことでハンは十分警戒しているから、彼女が話したことについて口を割らないだろうと連中は言ったのだ。しかしリウは耳をかさなかった。彼は恋敵を傷つけなければならかったからだ。というわけで、ハンはリウの手下どもに目隠しした輿に押しこめられ、リウの庭に運び込まれ、あげくは自分の家の下にある秘密の部屋に連れ込まれた。ハンは六角形の部屋のことを正確にのべたし、リウの秘密の通路から穴ぐらへ通じている階段を、十段運びあげられたことも覚えていた。白い覆面をした男はリウ自身にほかならず、彼はこの好機を見逃すことなく、杏花といっしょに自分をだましたのだと思い込んでいる男を侮辱し虐げたのだ。
この陰気な話ももう終りが近い。月仙の死体は見つからない。リウは金にひどく窮迫し、私が彼を疑い始めたことを恐れてもいる。進退きわまって、彼は決心する。リウ・フェイポとしては失踪し、顧問官リァンの役割りを演じつつ、叛乱の最終局面を指揮しようとね。
私がワン・イーファンを逮捕する。リウが計画的に失跡することをワンに知らせるまえにだ。リウが逃亡したと私がワンに言うと、ワンはリウが大それた計略を捨てたのだと信じ込み、私に何もかも話そうと心を決めた。自分だけは助かりたいからだ。だが、わが政庁にリウが送り込んだ手先の事務官がリウに急を知らせ、リウは毒入りの菓子をワンに手わたさせた。菓子に押されていた蓮の花の記章はワンに向けられていたのではなかった。独房の中は暗かったことを思い出そう――そいつは私にあてられていたのだ。私を怯えさせ、混乱させよう、そうすれば、蜂起のまえの何日間か、私が妨害することはあるまいという狙いだった。
その同じ夜に、リウはワン親方とカン・チュンに、以後は顧問官の邸宅で彼と接触しなければならないと連絡した。ワンとカンは話し合った。リウは指導力を失ないつつある、ワンが取ってかわるべきだと二人は合意した。ワンは秘密の鍵を記した書類を盗みに穴ぐらへ行った、それがあれば、組織全体に対する権力を彼が握ることになるからだ。だが、リウはすでにその書類を金魚鉢の中の隠し場所に移してしまっていた。タオ・ガンと私が六角形の部屋でワンの不意を襲い、彼は死んだ」
「その書類が金魚鉢に隠されていることが、閣下にはどうして分かったんですか?」とチャオ・タイが熱心にきいた。
頬笑んで、ディー判事はこう言った、
「いうところの顧問官を訪問して、書斎で待たされていたとき、はじめ金魚はまったく自然な様子で動き回っていた。私がそばに立って鉢をのぞき込むと、連中はあっという間に水面に浮かびあがった。餌がもらえるものと期待してだね。しかし彫像に手をのばすと、俄然《がぜん》ひどく昂奮した。私はびっくりしたけれど、どうしてそうなるのか、その原因を考えようとはしなかった。けれども、リウが老顧問官のかえ玉をやっているという結論に達したあとになって、ふとその小さな出来事を思い出した。そういった魚が、飼育されているすべての動物と同じように、過度に敏感だということは知っていた。人が水の中へ手を突っ込むのが好きじゃないのだ。連中は以前にも、人の手が水の中へ入って来て何かやり、自分たちの静かな、小さい世界を乱すのを経験したことがあったのだ、と私は思いあたった。こうして私は、彫像の台座がたぶん秘密の隠し場所なのだと推論した。リウのもっとも重要な持ち物が小さな書類の巻物であるからには、彼はそれをそこへ隠したと考えたのだ。それがすべてだよ」
ディー判事は釣竿をあげて、糸をなおしにかかった。
「この重大事件で」とホン警部が満足そうに言った、「閣下の昇進が早まるのは疑いありませんな!」
「私の?」と、びっくりして判事は尋ねた。「とんでもない! あっさり免職されなかったのをありがたいと思っているんだよ。最高調査官は私が陰謀を発見するのが遅れたとして私を厳しく譴責《けんせき》したし、ここの知事として私を復職させるという公式書類もその所見をくり返している。明確に記されていて、けっして不確かな言いまわしなんかじゃないのだ。それには人事院からの注記もそえられていて、当局を動かして寛大な処置を取らせたのは、たった一つ、最後の瞬間になって、私が陰謀の鍵である書類を見つけ出したからだというのだよ。知事というのはね、わが友たちよ、自分の県に起きていることは何であれ、知っているべきだと思われているのさ!」
「まあ、ともあれ」とホンがまた発言した、「これで殺された芸妓の事件は終りましたよ」
ディー判事は黙ったままだった。彼は竿を置いて、しばらくもの思いに沈んで水面を眺めやっていた。それからゆっくり頭を振って言った。
「いや、私はこの事件はまだ終っていないという気がするのだ。ホンよ、完全には終っていない。あの芸妓はとうてい宥《なだ》めようのない憎悪に取り憑《つ》かれていて、リウの自殺も彼女を鎮《しず》めはしなかったと私は恐れている。そのような非人間的な激しさをもつ強烈な情熱というものは、いわばそれ自体の生命を得て、それを宿した人が死んでしまったあとでも長いこと害を与える力を保っているのさ。そういう暗い力はときには死んだ身体を占有して、それを邪悪な目的のために使うのだとさえ言われている」四人の仲間たちの顔に狼狽の表情が浮かんだのに気がついて、彼はあわててつけくわえた、「しかし、強力ではあるけれど、そういった幽霊のような力は、自分自身の暗い行ないによって、それを自分に呼び起こす人間だけを害することができるのだよ」
判事は舟べりに身を屈めて水中をのぞき込んだ。
彼は再び見たのだろうか、すぐ下の深みで、あの動かない顔が見えない目を瞠《みは》って、じっと彼を見あげているのを、画舫の上のあの不吉な夜のように? 彼は身震いした。顔をあげると、彼は話しかけた、半ば自分に向けて。
「悪に心が傾いている者は、夜一人でこの湖の岸辺を歩き回らないほうがいいという気がするね」 (完)
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判事と法廷[作者解説]
――ロバート・ファン・フーリック
古い中国の探偵もののすべてに共通する特色は、探偵の役回りが常に犯罪の起こった県の知事により演じられることである。
この官吏は彼の管轄下にある県――通常城壁で囲まれた一つの都市とその周辺五〇里(マイル)前後までの田園地帯から成る――の全面的管理の任にあたる。知事の義務は多方面にわたっている。租税の徴収、出生・死亡・婚姻の登録、土地登記書の管理、治安の維持など、万事に責任を負う一方で、地域法廷を主宰する判事として犯罪者の逮捕と処罰を行ない、民事・刑事万般の訴訟を審理する任務を負う。このように知事は人民の日常生活のほとんどすべての局面の監督管理にあたるため、通例「父母官」と呼ばれる。
知事はつねに変わらず過重労働の官吏である。政庁と同じ構内にある一廓で家族とともに住まい、慨して起きているあいだ中ずっと公務にあたる。
古代中国の政治組織の巨大なピラミッド構造の底辺に、県知事がいる。彼は二十余の県を監督管理する州長官に報告の義務を負う。州長官は十二余の州に責任をもつ府の総督に報告の義務を負う。総督は、皇帝をその頂点とする首都の中央官庁に報告する番に当たる。
貧富を問わず、社会的背景に関係なく、帝国の全市民は文官試験〔科挙〕に合格することによって、官途につき、県知事になることができる。そういう点から見ると、ヨーロッパがまだ封建制度のもとにあったそのころとしては、中国の制度はむしろ民主的なものとなっていた。
知事の任期は通例三年であった。その後彼は他の県に転任させられ、しかるべき時期に州長官に昇任する。昇任は実績のみにもとづく抜擢であるため、才能の乏しい人物がその生涯の大半を県知事として過ごすことはしばしばあった。
知事の一般職務を果たすうえでは、政庁の常勤職員、たとえば巡査、書記官、牢番長、検屍官、守衛、使丁の補佐をうける。だがそれらの人々はその日常職務を遂行するだけであり、犯罪の解明にはかかわらない。
この責務は知事自身が果たすものであって、信頼できる助手三、四人の補佐をうけるが、これらの人物はキャリアを始めるにあたって彼自身によって選定され、彼がどんな職に転じてもそれに随伴する。これら助手たちは他の政庁職員よりも上位に立つ。地域的な縁故がないため、仕事をするさい個人的な思惑《おもわく》から影響をうけることが比較的少ない。同じ理由から、官吏が生まれ故郷の県に知事として任命されることは絶対にないのが定則である。
この小説では、古代中国の訴訟手続の一般概念が示される。第五章の挿し絵は、法廷の設備を示している。開廷中、判事は判事席につき、助手たちと書記官たちがその左右に並ぶ。判事席は赤い布をかけた高いテーブルで、布は前に垂れて、一段高い壇上の床に届いている。
この判事席の上にはいつも同じ備品が見られる、すなわち墨と朱墨をするための硯、筆二本、それから筒に立てたたくさんの細長い竹片。この竹片は罪人のうける笞《むち》打ちの数をしるしするのに用いられる。もし巡査に十回打たせようとするならば、判事は数取り棒十本をとって、壇の前の床に投げてやる。一打ちするたびに巡査長は数取り棒一本をとりのける。
判事席の上には大きな政庁の印璽《いんじ》と、驚堂木《けいどうぼく》も見られる。驚堂木は西洋のそれのように槌の形をしてはいない。堅い木でつくられた長さ一尺ばかりの矩形の木片である。中国では示唆的に「驚堂木」とよばれている。
巡査は壇の前に、左右二列に分かれて向かいあって立つ。原告被告ともこの二列にはさまれてむき出しの敷石の上にひざまずき、開廷中ずっとそうしていなければならない。彼らには掩護してくれる弁護士もいないし、証人を呼ぶこともできないから、彼らの立場は慨して望ましいものではない。あらゆる訴訟手続はじっさい抑止力として、法律に関わりあいを持つことは恐ろしいと人々に印象づけるように仕組まれている。政庁では通例日に三度、朝と正午と午後の公判がある。
犯人が自分の罪を告白せぬうちは有罪判決を下さないというのが、中国の法の基本原則である。筋金入りの犯人がゆるがぬ証拠をつきつけられても自白を拒むことにより処罰を免れるのを防ぐために、鞭や竹杖で打つこと、手やくるぶしを締め木にかけることなどの適法な厳しい裁きを、法は認めている。これら正当と認められる拷問手段とあわせて、知事たちはしばしばもっと苛酷な方法を用いた。しかしそのような苛酷な拷問のために、被告が永続的な身体傷害をこうむったり絶命したりすることがあれば、判事と政庁職員全員が、しばしば極刑をもって処罰された。だからたいていの判事は苛酷な拷問よりも、鋭い心理洞察力や協力仲間の知識に頼ることのほうが多かった。
全般的に見て、古代中国の組織はかなりよく機能していた。上級官庁によるぬかりのない規制が権限逸脱を防いだし、不正な、あるいは無責任な知事に対しては、世論が別のしかたで抑制を加えた。死刑宣告には皇帝の裁可が必要とされ、被告は誰でも上級審に控訴でき、それは皇帝の耳にまで達するしくみになっていた。そのうえ知事は被告に内々で尋問を行なうことを認められておらず、訴件に関する尋問は、予備的な取り調べも含めて、すべて政庁の公判の場でなされねばならなかった。訴訟手続のすべては綿密に記録にとられ、これらの報告は上級官庁に送付されて、監査をうけねばならない。
速記術を用いないで、書記官がどうして正確な法廷議事録を記すことができたのか、読者は不審に思われるかもしれない。その答えは、中国の文章言語がそれ自体一種の速記術であることにみいだされる。たとえば、二十語以上もある口語的な一文を、四つの表意文字につづめることが可能なのである。そのうえ続け書きのいろいろの書体があり、十画以上の文字が一筆《ひとふで》に省略される。私自身、中国在任中よく中国人の書記にこみいった中国語の会話を書き留めさせたが、その記録は驚くほど正確なものであった。
「ディー判事」は古代中国の大探偵の一人である。彼は歴史上実在する人物で、唐代の著名な政治家であった。名は狄仁傑《ディーレンチェ》、西暦六三〇年から七〇〇年まで生きた。地方で知事をつとめた若い頃には、難しい犯罪事件を数多く解決したことで名声を博した。後代の中国の小説が多くの犯罪物のなかで彼を主人公にしているのは、主として彼の犯罪解明者としての名声に由来するものである――それらの物語では、たとえ史実を踏まえているとしても、とるに足らぬほどでしかないが……。
のちに彼は帝国法務大臣「御史大夫」となり、賢明な助言を行なって国政に有益な影響を与えた。当時権勢を有した則天武后の、正統の皇太子に代えて寵臣を帝位につけようというもくろみを放棄させたのは、彼の強硬な抗議のゆえであった。
〔この文は『中国梵鐘殺人事件』に付せられた作者解説からの抄録である〕
〔作者紹介〕
ローバート・ハンス・ファン・フーリツク Robert Hans van Gulik
一九一〇年、オランダに生まれる。幼少期をインドネシアで過ごし、ライデン大学、ユトレヒト大学に学び、中国文学博士号を取得。外交官となり、日本、ワシントン、レバノン、マレーシアなどに勤務し、一九六四年、駐日大使として来日する。その間『馬頭明王諸説源流考』、『古代中国の性生活』、『秘戯図考』、『書画鑑賞彙編』などの学術的著作、また探偵小説「ディー判事」シリーズを書きつぐ。このシリーズの主人公ディー判事は、唐代、武則天の時代に実在した狄仁傑《ディーレンチエ》(六三〇〜七〇〇)で、名宰相として中国史の上では有名な人物である。ディー判事シリーズ全十六巻は欧米に幅ひろい読者を獲得し、英語・フランス語・ドイツ語・オランダ語・中国語版などでミステリー・ファンに親しまれている。フーリックは、また語学の達人であった。その語学力は西欧諸語はいうに及ばず、日本語、中国語、インドネシア語、サンスクリット語、チベット語、アラビア語など十数ヶ国語に及んだ。一九六七年、五十七歳で没。
〔訳者紹介〕
大室幹雄(おおむろみきお) 東京生まれ。東京大学大学院卒。山梨大学教授。歴史人類学専攻。著書、『劇場都市』『桃源の夢想』『園林都市』(三省堂)『囲碁の民話学』(せりか書房)『西湖案内』(岩波書店)ほか。