中国梵鐘殺人事件
ファン・フーリック/大室幹雄訳
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
第十三章
第十四章
第十五章
第十六章
第十七章
第十八章
第十九章
第二十章
第二十一章
第二十二章
第二十三章
第二十四章
第二十五章
[作者解説]
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登場人物
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ディー・レンチエ……江蘇《キアンス》省内の県、蒲陽《プーヤン》の新任知事。 「ディー判事」また「判事」とも呼ばれる
ホン・リャン……ディー判事の信頼する相談役
マー・ロン……ディー判事の副官
チャオ・タイ…ディー判事の副官
タオ・ガン……ディー判事の副官
■「半月小路暴行殺人事件」関係者
シャオ・フーハン……肉屋、殺された娘の父親。
純玉《じゅんぎょく》……その娘、暴行殺人の犠牲者
ロン……シャオ肉店の向かいに住む仕立屋
ワン・シェンジュン……文学士
ヤン・プー……その友人
カオ……殺人のあった街区の区長
ホワン・サン……流れ者
■「寺の秘密」関係者
聖徳《せいとく》……普慈寺の管長
全啓《ぜんけい》……同寺の元管長
バオ……退役した将軍
ワン……隠退した元府法廷判事
リン……金工|同業組合《ギルド》親方
ウエン……大工同業組合親方
■「謎の骸骨」関係者
リャン夫人……本姓オウヤン、広東《カントン》の豪商の未亡人
リャン・ホン……その子、盗賊に殺害さる
リャン・コーファ……夫人の孫
リン・ファン……広東《カントン》から来た豪商
■その他
ションパ……乞食|同業組合《ギルド》の相談役
パン……武義《ウーイー》県の知事
ルオ……金華《チンホア》県の知事
杏花《きょうか》……金華《チンホア》県の娼婦
翠玉《すいぎょく》……その妹
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第一章
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鑑定家は骨董店で奇異な体験をし
ディー判事は蒲陽《プーヤン》知事に就任する
判事は人民の父にして母たるべし
善意と誠実をあわれみ、病いと老いをたすけ
罪には厳しき罰もて臨むとも
主眼とするはこれを防ぐにあり、懲《こ》らすにあらず
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父から引き継いで成功させていた茶商の経営から身をひき、東の城門外にある田舎の別荘で静かな隠棲にはいってから六年になる。そこで私はやっとわが一番の楽しみ、犯罪とその解明の歴史にかんする資料の蒐集に専念する時間を得た。
今日、輝かしい明《みん》王朝のもとにあって、帝国には平和と秩序があまねくゆきわたり、犯罪や暴力事件はめったに起らないので、謎にみちた犯罪行為や、明敏な知事による手並み鮮やかな解決についての資料を得るには過去の時代に向かうしかないことを、ほどなく私はさとった。この興趣つきない研究に没頭して何年か経つうちに、私は有名な犯罪事件にかかわる確かな文書類、残忍な殺人に実際に使用された武器、古めかしい盗賊の七つ道具、そのほか犯罪史にかかわる多数の遺品などのかなりなコレクションを築きあげた。
私の最も珍重する品の一つに驚堂木《けいどうぼく》があったが、それは黒檀《こくたん》製の細長い板きれで、わが高名の名探偵であったディー判事が、何世紀も前に実際に用いたものなのである。この驚堂木にはさきに掲げた詩が刻まれていた。ディー判事は法廷を主宰するたびこの驚堂木を用い、つねに国家と人民とに対する自己の神聖な義務に思いをいたしたと記録は述べる。
この詩は記憶に頼って書いた、というのはその品物がもう手許にはないからである。この夏、つまり、ふた月ばかり前に味わった身の毛のよだつような体験が、これを限りに犯罪学研究をなげうち、昔の血なまぐさい犯罪にかかわりのある物件のコレクションをそっくり処分する気持ちにさせた。今では関心を青磁の蒐集にうつし、こういう落ち着いた趣味のほうが、生来平穏を愛する私の性向にはずっとかなっているという心境でいる。
しかし、静かな生活にしんそこ安住しきるために、しなければならぬことがまだ一つある。今なお私につきまとって離れず、眠りを乱しに来る記憶のすべてから脱けださなくてはならない。繰りかえし襲ってくるあの悪夢から免れるには、どうしてもあの奇怪な秘密をあばかねばならない。あんなにも不可思議なしかたで啓示されたあの秘密、それを明らかにすることによって、私に深甚な衝撃を与えて生死の瀬戸際まで追いやったあの恐怖の体験から、私ははじめて放免されるのだ。
世にも美しいこの秋の朝、風雅な庭の四阿《あずまや》にすわり、愛する二人の妾《しょう》がたおやかな手で菊の手入れをする優しさにみとれ――この明るい静けさのなかで、私はようやくあの不吉な日の出来事を思い返す勇気を得た。
陰暦八月九日の午后もおそいころ――この日付は永遠に私の記憶に刻みつけられて離れまい。日中はたいそう暑く、暮れかかるにつれて蒸し暑さが増した。うっとうしくてたまらず、とうとう輿《こし》で出かけることに決めた。どこへ行きましょうかと輿丁《こしかつぎ》がきいたとき、はずみで私はリウの骨董品店へと命じた。金龍洞というごたいそうな名前のこの店は孔子廟の真向かいにあった。亭主のリウは欲の皮の張った男だが商売のほうの目は確かで、犯罪と探偵の歴史に関係する興味深い骨董品をときおり見つけだしてくれた。品ぞろいのよい彼の店で、私はたびたび楽しい時をすごしたものだ。
はいっていくと店先には手伝いだけがいた。リウはすこし気分が悪くて、二階の、やや値の張る品をしまっておく部屋にいるということだった。
リウは不きげんなようすをしていて、頭痛がするとこぼした。息づまるような熱気を入れないために、鎧戸《よろいど》が閉めてあった。薄暗がりのせいか、いつも見なれた部屋も私に対してよそよそしく敵意を抱いているように感じられたので、すぐ出ようと思ったが、外の暑さが思いだされ、しばらくここにいて、リウに何か二、三点見せてもらうことにしようと決めた。私は鶴羽扇《かくうせん》を盛大にあおぎたてながら、大きな肘掛椅子に腰をおろした。
リウはとくにお見せするほどのものはないとか何とかつぶやいて、これという当てもなさそうに見まわしていたが、やがて片隅から黒漆で塗られた鏡台を持ち出してきて、私の前のテーブルにのせた。
塵を払ったのを見ると、あたりまえの姫鏡台で、磨かれた銀の鏡が四角い箱の上にすえつけられているとでもいおうか。その種の鏡は官吏が黒い紗《しゃ》でできた帽子をかぶるとき使うものだ。枠《わく》の漆の細かなひびわれから察するに、相当古いしろものらしかったが、その手の品はごくありふれていて、好事家にとってたいした値打はない。
ところが、ふと私の目が、枠にそって銀象眼された一行の小さな文字に吸いつけられた。顔を寄せてみると「蒲陽《プーヤン》 ディー氏公舎用」と読めた。
驚きと喜びで叫びだしそうなのを、私はやっとの思いでこらえた。あの名高いディー判事の姫鏡台にほかならないのだ! 歴史記録によれば、江蘇省《キアンス》の小県|蒲陽《プーヤン》の知事をつとめていたとき、少なくとも三件の奇怪な犯罪をディー判事が不思議な手並みで解き明かしていることを私は思いだした〔知事は判事を兼任する。巻末の作者解説を参照〕。だが残念ながら、それらの功績の詳細は伝えられていない。ディーはあまりそこらにころがっている姓ではないから、この姫鏡台がディー判事のものだったのは確かだ。私のけだるさはすっかりけしとんでしまった。これがわが中華帝国最大の探偵の一人の、値のつけようもない遺品であることに気づかなかったリウの無知を、私はひそかに祝福した。
つとめてなにげないふうを装いながら私は椅子によりかかり、リウに茶を一杯所望した。リウが階下に下りて行くやいなや、私はとびたって姫鏡台におおいかぶさるようにしながら夢中で調べた。鏡の下のひきだしを何の気なしに開けてみると、判事の黒紗の帽子が畳んで入れてあるではないか!
私は気をつけて古びた絹をひろげた。細かなほこりがその間から舞いたった。二、三の虫喰い穴はあるものの、帽子はまだちゃんとしていた。私はふるえる両手にうやうやしくそれを捧げ持った。他ならぬこの帽子を戴いて、偉大なディー判事は法廷に采配をふるったのだから。
どうした気まぐれからこの貴重な遺品を手にとり、それに値せぬ私の頭にのせる気になったのかは、まさに至高の天のみぞ知る。似合うかしらと、私は鏡をのぞきこんだ。磨かれた鏡面も年古《としふ》りて曇り、ただぼんやりした影を映すばかりだった。だがその影が、にわかにはっきりした形をとった。見知らぬ、もの凄い顔が、炎のような眼差《まなざ》しで私をみすえているのがみえた。
その刹那《せつな》、聾《ろう》せんばかりの雷鳴が私の耳のなかで轟いた。すべては闇に沈み、私は底知れぬ穴に落ちこんで行くようだった。時と所の感覚もすべて消え失せた。
濃い雲の塊のなかを私は漂って行った。それはしだいに人間の形をとりはじめ、ぼんやりと見定められたのは、裸の若い娘が顔の見えない男に狂暴に襲われている姿だった。助けに走ろうとしたのだが動けない。救いを求めて叫ぼうとしても声が出ない。やがて私はつぎつぎ起こる身の毛もよだつような感覚の中にまきこまれ、あるときは無力な目撃者、またあるときは苦痛のいけにえとなった。まがまがしい匂いのするよどんだ水たまりにゆっくり沈んでいったときには美しい若い娘が二人助けに来たが、それはどことなくわが愛する二人の妾に似ていた。だが、さし伸べられた手をつかもうとしたその時、強い流れが私を押し流して、泡立つ渦に巻きこんだ。その中心に、私はゆっくりと吸いこまれた。気がつくと暗い狭いところにいて、押しつぶすような重さが私の上に無慈悲にのしかかっていた。やっきになってその下から脱け出ようとしたが、まわりを探る私の指はすべすべした鉄の壁に触れるばかりだった。いまにも窒息しそうになったときに圧迫がゆるみ、私の肺は新鮮な空気をむさぼり吸った。だが、体を動かそうとして私はぞっとした、手足をひろげて床に縛りつけられているのだ。太い綱が手首足首に結びつけられ、その先は薄暗がりのなかに消えている――。綱がぴんと張る感じがして、身を切ような激しい苦痛が手足に走った。言いようのない恐怖が私の心を締めつけた。そうだ、私の体がゆっくり八つ裂きにされようとしているのだ! 断末魔の叫びをあげたとき、私は正気にかえった。
びっしょりと冷汗をかいて、私は床に横たわっていた。リウが傍らに膝をつき、あわてふためいた声で私の名を呼んでいた。古い判事の帽子は私の頭からすべり落ち、こわれた鏡の破片の間にあった。
リウに助けられて起き上がり、震えながら肘掛椅子に倒れこんだ。すぐにリウが茶を口もとにもってきた。
彼が茶をとりに下りるとすぐに雷鳴がし、続いてしのつく雨が降りだした。鎧戸《よろいど》を閉めに二階へ駆けあがって、私が床に倒れているのを見つけたのだそうだ。
かなりのあいだは口もきけずに、香り高い茶をそろそろとすすった。それから、急に発作が起きて苦しむことが時たまあるのだということをくだくだと話してきかせ、輿《こし》を呼んでもらった。どしゃ降りのなかをかつがせて家に帰った。輿丁《こしかつぎ》が輿を油布でおおってくれたのだが、それでも家に着いたときはぐっしょりだった。
へとへとに疲れて消耗しつくし、頭が割れるように痛むので、寝床に直行した。びっくり仰天した第一夫人が呼んだ医師は、私が譫妄《せんもう》状態にあることを見てとった。
六週間というものは重病人だった。どうにかやっと本復できたのは、ひとえにわたしが薬の神様の廟で毎日香をたき、一生懸命お祈りしたからですよと第一夫人は主張する。だがどちらかといえば、交替で私の寝床に付きそって、博学の医師が処方した煎じ薬の面倒を見てくれた二人の妾の、辛抱強い心尽くしのおかげだと私は感じている。
起きあがっても大丈夫なほどになったとき、医師がリウの骨董店で何が起こったのかとたずねた。あの奇怪な体験を思い起こすのも忌まわしく、ふいにめまいがしたのだとだけ言った。医師は妙な顔をしたが、それ以上きくのをやめた。帰りしなに、彼はさりげなく感想を述べた――ああいう発熱性の脳炎は、凄惨な死にざまに関係のある古い品物にさわった時などにしばしば起こりますな。その種のしろものは邪気を発していて、あまりに身近な接触を持った人たちの精神に危険な影響をおよぼすのです。
この炯眼《けいがん》の医師が去ると、私はすぐさま執事を呼んだ。そして犯罪学コレクションのすべてを四つの大箱につめ、第一夫人の伯父ホワンのところへ送り届けるよう命じた。第一夫人はたえずほめちぎってやまないのだけれども、実のところこの伯父は陋劣《ろうれつ》な鼻もちならない人物で、訴訟を起してはうれしがる。私は鄭重な手紙を書き、伯父上の民法刑法の両者にわたる該博な知識に対する深い崇敬のしるしとして、粗末ですが私の犯罪学コレクションをそっくりお贈りしたいと述べた。いい値になる土地を一か所、法律上の小理窟でだまし取られてからというもの、私の心中にホワン伯父を激しくいみきらう気持ちがあったことは言っておくべきだろう。彼が蒐集品をあれこれ調べているうち、いつの日にか無気味な遺品のどれかと密着しすぎ、私がリウの骨董店で遭遇したようなひどい目に会えば気味がいいと、内心ねがってさえいるのである。
さて、ディー判事の帽子をかぶっていたほんのわずかな時間に体験した顛末を、筋を追って述べてみることにしよう。こんな途方もないしかたで私に啓示された昔の犯罪三件の、どこまでが実際に起ったことであり、どこまでが熱に冒された私の妄想なのかを決めるのは、読者の好みにおまかせする。事実を歴史と照らしあわせるような面倒なことはやめにした。なぜなら、前にもいったように、私はもう犯罪と探偵の研究を一切やめた。今やっている宋代の精妙な磁器類の蒐集が楽しくて、もうこんな縁起の悪いことには興味がないのである。
新任の地|蒲陽《プーヤン》での第一日の夜おそく、ディー判事は政庁の法廷の奥にある執務室で、県関係の書類|綴《つづり》を読むことに没頭していた。二本の大きな銅の燭台が、原簿や文書類のうず高く積まれた机を照らしている。知事の緑地の錦の官服と、光沢のある黒い帽子の絹地に、光がちらちらと戯れかかる。ときどき彼はたっぷりある黒いあごひげをしごき、長い頬ひげをなでるけれど、前におかれた書類から視線が離れて長くさまようことはない。
向い側の小ぶりな机では無二の友のホン・リャン警部が、公判記録を調べてふるいわけている。まばらな白い口ひげと薄い山羊ひげのやせた老人で、色あせた茶色の長衣に小さなお碗帽子をかぶっている。もうそろそろ真夜中になると思いながら、彼は向うの机の丈高くがっしりした肩つきをちらちら見やった。自分は午後ゆっくり昼寝をしたけれど、ディー判事はまる一日全く休んでいない。鉄のような主人の体を承知してはいても、ホンは気がもめた。
以前ホンはディー判事の父の従者で、判事がまだ幼かったころには抱いて歩いたものだった。その後判事が学業の仕上げをするため都に上るのにしたがって行き、地方に赴任する時も随行した。蒲陽《プーヤン》はディー判事の県知事として三番目の任地であった。その間ホンはつねに頼りになる友として相談役として行動した。ディー判事は公事私事を問わず彼と忌憚《きたん》ない意見を交わすのを常とし、ホンが有益なアドバイスをすることもよくあった。判事はホンに公《おおや》けの身分を与えるため政庁の警部に任じたから、人々は「ホン警部」と呼んだ。
記録の山に目を通しながら、ホン警部はディー判事の過ごした慌ただしい一日を思った。朝、判事と妻子たち、使用人らの一行は蒲陽《プーヤン》に到着し、判事はただちに政庁構内の応接室へ、一行の他の者は構内北側の知事公舎にはいった。そこでディー判事の第一夫人は執事に手伝わせながら貨車の荷の積みおろしを監督し、新居の整備にかかった。ディー判事に家のほうを見ている暇はなかった。彼は前任者のフォン判事から政庁の印章を引き継がねばならなかった。その儀式がすむと政庁の常任職員を、上級書記官、巡査長から牢番、守衛にいたるまで召集した。昼にはしきたりによって、離任する知事に敬意を表して豪華な会食に主人役をつとめ、それからフォン判事一行を市の外まで見送った。政庁に戻ると、今度は歓迎の意を表しに訪れる蒲陽《プーヤン》のおもだった市民たちの挨拶をうけなければならなかったのだ。
自分の執務室でそそくさと夕食をとった後は、そのまま裁判記録にかかりきりになり、事務官に革製の書類箱を文書庫から次々と運ばせた。事務官たちは二時間ほどで去らせたが、自分は引きあげることなど思いつきもしないようすだった。
だが、とうとうディー判事は手もとの原簿を押しやって椅子の背にもたれかかり、濃い眉をあげてホン警部を見やりながらにこやかに言った。
「さて、警部、熱い茶でもどうかな?」
ホン警部はすばやく立ちあがって、傍らのテーブルから茶瓶をとってきた。茶が注がれるのを待ちながら、ディー判事は言った。
「天はこの蒲陽《プーヤン》県に恵みを垂れたもうた。記録によれば地味は肥え、洪水も旱魃《かんばつ》もなくて、百姓たちは潤っている。帝国を北から南へとよぎる大運河に面しているため、蒲陽《プーヤン》は盛んな通商から大きな利益をあげている。西門の外の良港には官有民有の船がいつも停泊していて旅行者の往来も絶えないから、商人宿は繁昌している。このあたりは運河にも、それに流れこむ河川にも魚が多いので、貧乏人も生計を立てていけるし、かなりの規模の守備隊が駐屯しているから、小商人や飲食店は結構な商いになる。だからこの県の住民は豊かで満ち足りており、税もきちんと納めている。
最後に、前任のフォン判事は間違いなく熱心かつ有能なお方で、記録文書は最新のまでそろっているし、登記簿も完璧だ」
ホン警部は顔を上げてこたえた。
「県政は実に申し分ない状態にあるようですね。前の漢源《ハンユアン》のあの調子では、いつも閣下のご健康が気づかわれたものでしたが」
薄い山羊ひげをひっぱりながら彼は続けた。
「公判記録に目を通しておりますが、この蒲陽《プーヤン》では犯罪はめったに起こらないようです。起こった場合も適切に処理されておりますが、一つだけ決裁待ちになっているのがあります。かなり卑劣な暴行殺人事件ですが、フォン閣下が日ならずして解決しておいでになります。明日関係書類をお調べください、未処理事項がほんの少々残っておりますので」
ディー判事は眉を上げた。
「警部、そういう未決事項から問題が出てくるのはよくあることだよ。その件について話してくれたまえ!」
ホン警部は肩をすくめてみせた。
「実にまったくわかりきった事件なのです。小さな商店主、肉屋のシャオですが、その娘が自分の部屋で強姦殺人死体で発見されました。娘にはワンという堕落書生の恋人がいたとわかり、シャオ肉屋はその学生を訴えて出ました。フォン判事が証拠調べをし証言を聴取しまして、ワンが加害者なのは明白なのですが、自白しようとしません。そこでフォン判事がワンを拷問にかけましたが、自白するまえに気絶してしまいました。出発がさし迫っていたため、フォン判事はこの件をそこまでにしていかれたのです。
加害者が発見され証拠もあがっていて、拷問にかけて尋問すればすむのですから、この件は事実上終わったようなものです」
ディー判事はしばらく黙りこんで考えこむようにひげをしごいてから言った。
「その件を全部聞きたいものだね、警部」
ホン警部はがっくりしたようすだった。
「もう真夜中になりましょう、閣下」と彼は口ごもった、「もうお休みになったほうがよろしくはないでしょうか? 明日ゆっくり時間をかけてこの件を再検討することになされば」
ディー判事はかぶりを振った。
「君が今教えてくれたあらましだけでも、妙に腑におちないところがある。行政関係の文書をさんざ読まされた後では、犯罪の難問題で頭をすっきりさせることも必要だよ。君も茶を飲みたまえ、警部、ゆっくり腰をおちつけて事件の概要を話してほしい」
こうなったらもうしかたがなかった。ホン警部はあきらめたように自分の机にもどって、数枚の書類を調べてから話しはじめた。
「ちょうど十日前、今月の十七日ですが、市の西南の隅の半月小路で小さな肉屋を開いているシャオ・フーハンという者が、この政庁の昼の公判のとき、涙ながらにとびこんで来ました。証人が三人ついてきました。南区の区長カオ、シャオの店の向かいの仕立屋ロン、それと肉屋|同業組合《ギルド》の親方です。
肉屋のシャオは文学士ワン・シェンジュンに対する訴状を提出しました。このワンというのはやはり肉屋の近所に住む貧乏書生です。シャオはワンが一人娘の純玉《じゅんぎょく》を寝室で絞殺し、金のかんざし一揃いを持ち去ったと申し立てました。肉屋のシャオはワン学土がもう六か月も前から娘と密通していたとのべています。その朝、娘がいつもの時間に仕事に出てこなかったので、はじめて殺人が発覚しました」
「その肉屋のシャオはよっぽどの愚か者か欲の張った悪党に違いない!」とディー判事が口をはさんだ、「自分の屋根の下で若い娘が色事するのを許して、家を売春宿にまでおとすとはな。暴力だの殺人だのが起こっても不思議はない」
ホン警部は首をふった。
「いいえ、閣下、シャオ肉屋の説明では、この犯罪はまったく別の見方もできるのです!」
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第二章
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半月小路暴行殺人事件を取り調べ
意想外の発言でホン警部を驚かす
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ディー判事は寛《ゆる》い袖の中で腕を組んだ。
「続けなさい!」
「純玉に男がいるということを、肉屋のシャオはまさにその朝までまるきり知らなかったのです。店とは少々はなれた物置の上の、洗濯や縫いものをするとき使う屋根裏部屋に娘は寝ておりました。使用人はいませんので、家の仕事はすべて妻と娘でやっております。フォン判事の命令で行われた現場検証によれば、娘の部屋で叫び声がしても、シャオの寝間や近所の家からは聞こえません。
ワン学士について申しますと、彼は都ではよく知られた一族のものですが、両親ともに亡く、家庭争議があったのでいまは無一文です。文学科の二次試験の試験勉強をする傍ら、半月小路の商店主のこどもたちに勉強を教えて、なんとか細々と暮らしを立てています。シャオ肉店のすじ向かいの老仕立屋ロンの店の二階に間借りしております」
「いつから情事は始まったのか」とディー判事がたずねた。
「半年ほどまえワン学士は純玉と恋におち、二人は娘の部屋で密会しました。夜中にワンが窓から忍びこみ、夜が明けないうちに自分の住まいにこっそりもどっていたのです。仕立屋のロンは十日ばかり前にこの秘密を知り、肉屋のシャオにこの不面目な事実を教えるぞと、厳しくワンをとがめたと申し立てております」
判事はうなずき、満足げに言った。
「仕立屋の言うとおりだ!」
警部は前にひろげた書類を調べた。
「ワンというのはたしかに悪賢いやつです。彼は仕立屋ロンの前にひざまずいて、純玉と自分は深く愛し合っていると断言し、二次試験に合格したらすぐ彼女と結婚すると誓いました。そうすれば肉屋のシャオにしかるべき結納をさし出すことができようし、花嫁に家を与えることもできよう。しかしこの秘密が人に知られたら彼は文学の試験を受けることを禁じられてしまい、事は関係したものすべてにとって不面目な結果に終わるだろうともつけ加えました。
仕立屋のロンはワンが勉強家の青年で、この秋の試験には必ず合格すると信じていましたし、遠からずお役人になろうというりっぱな家の子弟が近隣の者の娘を未来の花嫁に選んだことをひそかに誇りに思う気持ちもありましたから、半月ほどのうちにワンが純玉に結婚を申しこむならば事は円満におさまるはずだと考えることで自分の良心をなだめ、結局秘密を明かさない約束をしました。しかし、純玉がふしだらな女でないことを確信するために、仕立屋のロンはそれ以来肉屋の家を見張っていましたが、純玉の知り合いの男はワン一人に相違なく、娘の部屋に近づいたのはワンだけだったと証言しています」
ディー判事は茶をすすり、不快そうに言った。
「それはそれとしてだ、この三人――純玉、ワン学士、ロン仕立職のしたことがふとどき千万だという事実は残るな」
「その点については、ロン仕立屋が見て見ぬふりをしたことと、肉屋のシャオが家庭の監督をおろそかにしたことが、当然ながらフォン判事から厳しく指弾されております。
さて、十七日の朝、純玉が殺されたことを知らされたとき、ワンに対する仕立屋ロンの好意は激しい憎悪に一変しました。彼はシャオ肉店に駆けつけ、純玉とワンの情事をすっかり打ち明けました。言葉どおりに言ってみましょう――あのワンの犬畜生が純玉をずっと下劣ななぐさみものにしてきたのを、みじめな恥知らずのこのわしは見逃してやっていた。あの子が結婚してくれと言い張ったので、あいつはあの子を殺して、金持ちの妻を買うために金のかんざしを盗んだのさ!――
肉屋のシャオは怒りと悲しみで気も狂わんばかりになり、カオ区長と組合の親方とを呼んでもらいました。みんなで協議したすえ、殺したのはワンだということで一致し、親方が訴状を書いて、そのあとでそろって政庁ヘワンの卑劣な犯行を訴えて出たのです」
「その時ワン学士はどこにいた。市内から逃げてしまったのか?」とディー判事がきいた。
「いえ、すぐつかまりました」と警部、「フォン判事はシャオ肉屋からの聴取を終えると、さっそく巡査をワン逮捕に向かわせました。彼らが発見した時、もうとっくに正午をまわっているというのに、ワンは仕立屋の屋根裏部屋でぐっすり眠っていました。巡査たちが彼を裁判所へ引っ立てて来て、そこでフォン判事がシャオ肉屋の訴状を突きつけました」
ディー判事は身を起こした。机にひじをのせてよりかかると、興味深げに言った。
「ワン学士がどう抗弁したか、大いにききたいものだな!」
ホン警部は二、三の書類を選び出し、ざっと目を通してから話を続けた。
「その悪党は、何でもひととおり釈明しています。要点はというと――」
ディー判事は手を上げた。
「ワン自身の言葉でききたいね。速記録を読んでくれないか」
ホン警部はびっくりしたようだった。何か言いたそうだったが、考え直してやめ、書類の上にかがみこむと、ワン学士の供述の速記録を単調な声で読みはじめた。
「この愚かな書生は閣下の御前にひざまずき、恥と無念の思いでいっぱいでございます。悪い評判の一つもないおとめと情事を持ったという、最も非難さるべき罪を認めます。私が毎日すわって古典の書を読む屋根裏部屋が純玉の部屋と向かい合っていたことが、そもそもの始まりでした。その部屋は半月小路の横丁の袋小路の隅にあり、娘が窓辺に立って髪をすいている姿を私はたびたび見かけ、私の妻となるべきはただあの娘だけと心に決めたのでした。
そう決意するだけで、試験が終わるまでそれ以上に事を進めなければ、すべては円満に運んだでしょうに! そうすればしかるべき結納金を用意して仲人に頼むことができ、純玉の父親にもしきたりどおりの恥ずかしくないやり方で私の気持ちを知ってもらうことができたでしょう。ところが、ある日私は純玉が一人で路地にいるのに会い、我慢しきれず言葉をかけてしまいました。私の思いが報いられるとわかった時、この無垢《むく》のおとめを教え導くべきであった私めは、自分の情熱で娘の情熱までもあおりたて、路地でまた会う手はずをしてしまいました。そして人目を忍んで一回だけ娘のところを訪ねることを承知させ、約束した夜おそく、娘の部屋の窓に梯子をかけて中に入れてもらいました。こうして、操《みさお》正しい娘を相手にするときは、婚姻の儀礼により正式なものとしたうえでなければならぬと天帝の掟《おきて》が戒めている歓《よろこ》びを、私は楽しんだのでした。
油を注がれた火がさらに高く燃え上がるように、私の罪深い情熱はますます度重なる密会を必要としました。梯子が夜回りやおそい通行人の目にとまるとまずいと思い、純玉に頼んで白い長い布を窓から垂らし、一方の端を寝台の脚に結びつけてもらいました。私が下で布をひと引きすると、彼女は窓を開けて布をたぐり、私が上るのを助けてくれるのです。この布だけを見た人は、誰かが取りこみ忘れた干し物だと思ったでしょう」
ここでディー判事はこぶしで机を打ち、警部が読むのをさえぎった。
「ずるがしこい悪党めが!」と彼は腹立たしげに叫んだ、「いやはや、あきれたもんだ。文学士さまが、こそどろ押し込みのわざに身を落とすとはな」
「前にも言いましたように、閣下」とホン警部が言う、「ワンは卑劣な犯罪者です。が、まあとにかく供述を続けましょう。
ところが、ある日仕立屋ロンさんが私の秘めごとを知り、正直者の彼は肉屋のシャオさんに話すといっておどしました。しかし向こう見ずな愚か者の私は、恵み深き天が用意したに違いないこの警告を無視してロンさんを説き、結局ロンさんは黙っていてくれることになりました。
こうして情事は半年近く続きました。ここに至高なる天は、聖なるおきての冒涜を黙許するのにもはやたえられず、恐るべき鉄槌《てっつい》を罪なく哀れな純玉と、みじめな罪人の私との上にくだされたのでしょう。十六日の夜も娘のところへ行くことになっていました。ところがその午後、学生仲間のヤン・プーが訪ねてきて、都にいる父親が誕生日祝いに銀五枚を送ってくれたと話し、市内の北区にある五味軒で催すささやかな祝宴に招いてくれたのです。宴会ではもうとても飲めなくなるまで酒を過ごしました。ヤン・プーに別れて冷たい夜の空気の中に出たとき、すっかり酔ってしまったことに気づきました。酔いをさましてから純玉を訪ねるように、帰って一時間ばかり寝ようと考えたのですが、いつしか道に迷ってしまいました。今朝早く、ちょうど夜明け前でしたが、気がついてみると、古い屋敷あとのとげだらけのやぶの真ん中に寝ているではありませんか。なんとか起き上がりましたが、頭がまだずきずきしていて、ろくろくまわりを見もしないで歩き回るうち、どうにか大通りに出ました。家まで歩くと自分の部屋に直行し、寝床に倒れこむとそのまままた眠りこんでしまいました。巡査が私を連行するために来て、私ははじめて哀れな許婚者に恐ろしい不運が見舞ったことを知りました」
ホン警部は読むのをやめ、ディー判事のほうを見て苦笑した。
「このあと、聖人づらの猫かぶりめが締めくくりの熱弁をふるいます
この不幸な娘に対する許し難い行為、もしくは間接的に彼女の死を招く結果となった行為のゆえに、私が極刑に値すると閣下が決定なさいますのならば、私は喜んでご裁断に従います。愛する人を失って、永遠に闇に閉ざされて暮らす堪え難い日々から、それが私を解放してくれましょう。ただ、彼女の死の仇をうつため、およびわが一族の名誉のためにも、私が訴えられている暴行ならびに殺人の罪については、断然否認しなくてはなりません」
警部は書類を置くと、指先で叩きながら言った。
「卑劣な犯罪に対する処罰から免れようとするワンの意図は明白です。娘を誘惑した罪のほうを強調し、殺した罪のほうは断固否認するのです。未婚の娘を誘惑した者の刑は、娘のほうも納得ずくで事が運んだ場合竹叩き五十回だが、殺人者には刑場での屈辱的な死が待つことをあいつは十分心得ています」
ホン警部は主人の言葉を待つらしかったが、ディー判事は何も言わず、お代わりの茶をゆっくり飲んでからきいた。
「ワンの供述に対して、フォン判事はどう言っておられる?」
警部は書類を調べてみてから言った。
「フォン判事はその公判の場でそれ以上ワン学士を問いつめておられません。ただちに型通りの取り調べを始められました」
「賢明な処置だ」とディー判事は満足げに言った、「犯罪現場へ行かれた折の記録と、検屍官の検視結果を探してもらえるかな?」
ホン警部はさらに書類を繰った。
「はい、閣下、ここに全部くわしく記録してあります。フォン判事は副官たちと半月小路へ行かれました。屋根裏には十九歳ばかりの、発育のよい娘の裸の死体が、寝台の上にのびていました。顔はゆがみ、頭髪は乱れ、寝床の敷物は曲がり、枕がゆかに落ちていました。片ほうの端を寝台の脚に結びつけた白い長い布きれは、ゆかに丸まって落ちており、純玉が乏しい衣裳をしまっていたたんすが開いていました。寝台の反対側の壁には大きな洗濯用のたらいが立てかけてあり、片すみの小さな古机に欠けた鏡がのっていました。そのほかには、寝台の前にひっくりかえっている木の足のせ台があるだけでした」
「下手人を示す手がかりは何もなかったのか」とディー判事が口をはさんだ。
「何もありません、閣下、徹底的に念を入れて調べましたが、わずかな手がかりさえ発見されませんでした。見つかったのはただ純玉にあてて書かれた愛の詩の一束で、もちろん娘には読めやしなかったのですが、ていねいに包んで化粧机のひきだしにしまっておいたのです。これらの詩にはワン学士の署名がありました。
検屍のほうは、首を絞められた結果死に至ったものであると、検屍官が述べています。犠牲者ののどには下手人の手が絞めつけたあとの長いあざが二つ見える。そのほか胸や腕に青いふくれた斑点《はんてん》がたくさんあるが、それは彼女が能うかぎり抵抗したしるしである。娘が首を絞められる前、あるいはその間に暴行された形跡が認められると、おしまいに検屍官は述べています」
警部は巻物の残りの部分にすばやく目をとおし、さらに続けた。
「続く何日かは、フォン判事はあがった事実すべてを実に念入りに検証されました。人をやって――」
「細かいところは飛ばしていいよ」とディー判事が口をはさむ、「フォン判事がこの仕事を完璧に遂行されたことを私は確信している。要点だけ話してくれたまえ。例えば、ヤン・プーが例の酒場での祝宴についてどういっているかなどはききたいね」
「ワンの友人のヤン・プーは、申し立ての細かな点まで裏づけています。ただ、ワンと別れたとき、彼がひどく酔っているとは思わなかったという点は異なります。ヤン・プーは「ほろ酔い」という表現を用いています。ついでに言うと、申し立てのなかで酔って寝こみ、目覚めてそこにいるのを知ったという場所を、ワンは確定できませんでした。フォン判事はできるだけの事をし、街中の荒れた屋敷跡でそんなことの起こりそうなところを巡査に連れ回らせ、ワンがそのうちどれかの細かいところに触れてそれと確認するのをまったのですが、無駄骨でした。ワンの体には深いひっかき傷があちこちにあり、長衣にも新しい引き裂きがあります。当人は、いばらのやぶでふらふらしていたときできたと申し立てています。
その後フォン判事は、ワンの住居やその他考えられる場所を、二日かけて徹底的に捜しましたが、盗まれた金の簪《かんざし》一対はみつかりませんでした。シャオ肉屋が記憶にたよって略図を描き、その図は記録のここのところに添付してあります」
ディー判事が手をさし出したので、ホン警部は文書から薄い紙きれをはずし、判事の机の上においた。
「古風ないい細工だ」とディー判事は評した、「番《つが》いの飛ぶ燕をかたどった二つの留金は、手のこんだ造りになっている」
「シャオ肉屋の話では、この簪《かんざし》は家に伝わるものだそうです。これをつけた人に不幸をもたらすといわれていて、平生はシャオの妻がしまいこんでいたのですが、二、三か月前、純玉がつけさせてほしいとしきりにねだるものですから、ほかに安物の装身具を買ってやる余裕もないところから、母親が渡してしまったのでした」
判事は悲しげに首をふり、「可哀そうな娘だ」と感想を述べた。しばらくして彼はたずねた。
「で、フォン判事の最終判断はどうなんだ」
「一昨日、フォン判事は収集した事実の要点を反復しました。なくなった簪《かんざし》はまだ発見されていないことが最初に述べられましたが、それがべつにワンにとって有利に働くとは考えておられたかったようで、つまりどこか安全な場所にかくす時間はたっぷりあっただろうというわけですね。ワンの抗弁がよくできていることは認められましたが、高い教育を受けた学士なら、まことしやかな話を仕立てあげるのは、十分あり得ることだと言われました。
渡り者の強盗によって犯罪が行なわれたという考えは、妥当性がないとして却下しました。半月小路の住人が貧乏な小商人ばかりだということは誰でも知っていることだし、たとえそこへ盗っ人が品物あさりに来たとしても、肉屋の店か物置に押し入るはずで、屋根裏の小部屋などをねらいはしまい。密会の事実を知るものが恋人同士とロン仕立屋だけだったということは、ワン自身のを含めてすべての証言で確かなところです」
記録文書から顔を上げ、ホン警部はちょっと笑った。
「ロン仕立職というのは七十に手のとどく年配のよぼよぼ老人ですので、すぐに嫌疑からはずされています」
ディー判事はうなずいた。そして、
「フォン判事は起訴事実をどう述べている? できれば言葉どおりにきかせてほしいね」といった。
ホン警部は再び文書にかがみこんで読んだ、
「被告がまたもや無実を言い立てた時、閣下はこぶしで机を叩いて叫ばれた。この犬畜生め、この知事は、真実を知っているぞ! お前は酒場を出ると、まっすぐ純玉の家に向かった。酒が卑怯者に必要な勇気を与え、しばらく以前からそうしようと考えていたことを娘に言ったのだ、つまり、もうお前にはあきたから関係を断ちたいとな。言い争いになり、とどのつまり純玉は親たちを呼びに戸口へ向かった。お前は娘を押しもどそうとし、もみ合いを続けるうち劣情を発して、娘の意志に反して情交を行なったうえで絞殺した。この悪辣《あくらつ》な行為を果たしたのちに、衣裳戸棚を荒らして金《きん》の簪《かんざし》を盗み、盗賊が犯罪を行なったようにみせかけたのだ。さあ、罪状を認めよ!」
記録からこのように引用すると、ホン警部は顔をあげて言葉を続けた。
「ワン学士が無実を言い張ると、フォン判事は巡査に、重い笞で五十回打てと命じました。しかし三十回目でワンは法廷の床に倒れてしまいました、鼻の下で酢を燃やして正気づかせてもぼうっとしているので、フォン判事はそれ以上尋問するのをあきらめました。その夜フォン判事の転任にかんする辞令がとどき、わかりきった本件にけりをつけることができなくなりましたが、最後の公判の記録に簡単なメモを添え、ご自分の意見を述べておられます」
「見せてくれたまえ、警部!」とディー判事は言った。
ホン警部は書類の最終ページを開き、判事に渡した。
巻物を目に近づけて、ディー判事は読みくだした。
「学土ワン・シェンジュンの有罪は、疑いようもなく確定的であるというのが、本官の結論である。彼の自白をまったうえで、この犯罪に対してはより厳しい方法での死刑を提起されることをお勧めする。蒲陽《プーヤン》県知事フォン・イー自署」
ディー判事は書巻をゆっくりとまきもどした。玉《ぎょく》の文鎮を手にとって、しばらくのあいだ何とはなしにもてあそんでいた。ホン警部は机の前に立ち、判事を見つめて何かを待っていた。
ふいに文鎮を置き、椅子から立ち上がると、ディー判事は助手をじっと見すえた。
「フォン判事は有能で良心的な知事だ」と彼は言った、「出発がさし迫っていて事務が錯綜したために、早まった判断をしたのだろう。もしたっぷり時間があり、落ち着いてこの件を手がけていたら、まったく違う結論になったに相違ない」
警部のまごついたようすに、ディー判事はかすかな笑いを見せ、すぐ続けた。
「ワン学士が優柔不断きわまる無責任な若造で、厳しいお灸《きゅう》をすえてやらなきゃならんということは認めるよ。だが、そいつは純玉を殺しちゃいない!」
ホン警部は口を開いて何かを言いかけたが、判事は手をあげた。
「ここまでにしておこう、実際に関係者に会って、犯罪現場を自分で調べるまではね。明日、政庁の午後の公判でその件を再審問しよう。私がどう判断したか、そのとき君にもわかるだろう。さて、いま何時だね、警部」
「もうとうに真夜中をまわりました、閣下」ひどく疑わしげな表情で、警部は続けた、「正直なところ、ワンに対するこの件に不備があるようには思えません。明日、頭がはっきりしているときに記録をそっくり読み返してみます」
ゆるゆる頭をふりながら彼は蝋燭《ろうそく》をとりあげ、北側の一廓にある住まいに向かって暗い回廊を行く判事の足許を照らそうとした。
しかし、ディー判事はその手をおさえた。
「構わないでくれたまえ、警部。こんなに夜おそく、家の者を騒がせたくないのでね。みんな一日大変だった――君だってそうだろう。もう下がっていいよ。私はこの執務室の寝椅子で休む。じゃあお休み!」
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第三章
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ディー判事が初めての公判を開き
タオ・ガンはある寺院の話をする
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翌日の明け方、ホン警部が朝食の膳《ぜん》を持って執務室に来てみると、判事はもう身じまいをすませていた。
ディー判事は湯気の立つかゆを二杯に漬物を少々食べ、警部のいれた熱い茶を飲んだ。朝日の赤い光が窓の紙にさしてくると、ホン警部は蝋燭《ろうそく》を吹き消し、判事が緑地の錦のどっしりした長い官服を着るのを手伝った。召使が姫鏡台を脇机の上にすえていくのを満足げに眺めていたディー判事は、やおら鏡台のひきだしをあけ、堅い紗《しゃ》で造った二つ尾のある判事帽をきちんとかぶった。
この間に巡査たちは、政庁正門の銅の飾り鋲《びょう》をうった堂々たる扉を開いた。早い刻限だというのに、傍聴者が外の通りにむらがっている。肉屋の娘の暴行殺人事件が静かな蒲陽《プーヤン》の市街に興奮をまきおこし、新任の知事が事件に決着をつけるのを、市民たちは待ちかまえているのだ。
頑丈な体つきの門番が入口の青銅の銅鑼《どら》を打ち鳴らすと同時に、傍聴者が列をなして院子《なかにわ》にはいり、さらに広々とした廷内に進んだ。広間のはずれに一段高くしつらえられ、赤い錦をかけた高い判事席にすべての目が釘づけになった。間もなくそこに新知事が姿を現わすのだ。
上級書記官が判事の七つ道具を机上に並べた。右手には二寸四方の知事印章と朱肉、中央に朱と黒の墨をするための二槽の硯《すずり》とそれぞれ色別の筆、左には記録係の書記官が使う白紙や書式用紙。
判事席の前には六人の巡査が、三人ずつ左右に分かれて立った。彼らは笞や鎖、指しめ器そのほか、この役所を畏怖《いふ》させる小道具類を手にしていた。巡査長は彼らからすこし離れ、判事席に寄って立っていた。
ついに判事席の奥の仕切りが片寄せられて、ディー判事が姿を現わした。彼は肘掛椅子にすわり、ホン警部がその傍らに立った。
ゆっくりあごひげをなでながら、満員の廷内をしばらく見まわしていたディー判事は、やがて驚堂木《けいどうぼく》で机を打って宣言した。
「当政庁、朝の公判を開廷する!」
見物人のがっかりしたことに、判事は朱筆に手を伸ばさなかった。被告を判事席の前に引きだすことを牢番長に命ずる書式に記入しようとしてはいないのだ。
ディー判事は上級書記官に命じて、県の行政関係の日録を提出させ、落ちついた態度でそれを処理した。次に巡査長を前に出させて、政庁職員の経費をいっしょに検討した。濃い眉の下からむずかしい顔つきで巡査長をにらむと、判事はいらだたしげに言った。
「銅貨が一《ひと》さし足りない! どこへやったか言いたまえ」
巡査長は不足額のもっともらしい言い訳を思いつかず、へどもどした。
「君の給料からさしひいておこう」と判事はそっけなく言った。
肘掛椅子に体をもたせかけてホン警部のさし出す茶をすすりながら、ディー判事は傍聴者の中から苦情を申し立てて出るものがあるかどうかと待った。誰も進み出るものがいないので、彼は驚堂木をとりあげて閉廷した。
ディー判事が壇をおりて執務室に去ると、群衆は不満の声を立てはじめた。
「出て行け!」と巡査がどなる、「おまえら、見たいものは見たんだろ。だったらさっさと出ていって、おれたち巡査をお役目から解放してくれや」
法廷に人がいなくなると、巡査長は床にぺっとつばを吐き、情けなげに首を振って、まわりにいる若い巡査たちに言った。
「君ら若い者は、違う仕事を探したがいいぜ。こののろわれた蒲陽《プーヤン》政庁じゃ、分相応の暮らしもできねえよ。ここ三年フォン閣下の下で勤めてきて、銀の小粒がなくなるたびに誰かが説明しろといったかい? きちょうめんな知事さんの下で、おれは十分勤めを果たしてきたと思っていたよ。それがどうだ、そのあとディー判事が来たと思ったら、天よお恵みを、銅貨一さしにもお目玉だものな。おれたち巡査にとっちゃひどいことになったもんだ。なあ、袖の下のきくいいかげんな知事さん方はどうして蒲陽《プーヤン》には来なさらんのかな」
巡査たちがぶつぶつ言っている時、ディー判事は、簡素な青服に茶色の帯をしめたやせた男に手伝わせて、楽な普段着に着換えていた。その男は陰気な馬面《うまづら》で、左頬に銅貨ほどのほくろがあり、そこから五、六寸もある黒い毛が三本生えている。
これがタオ・ガン、ディー判事の信頼する副官の一人だ。二、三年前まではいかさま師の危い橋を渡って暮らしていたのだから、いんちきさいころ賭博や二重契約、印判や署名の偽造に錠前破り、そのほか都会のならず者の手口ならなんでもお手のものだった。かつて判事に厄介《やっかい》な状況から救い上げてもらって以来、タオ・ガンは立ち直り、忠誠ひとすじにディー判事に仕えている。その機敏さと臭いものをかぎ出す才能とは、判事にとってただ犯罪の解決に役立つばかりではなかった。
ディー判事が机に向かってすわったとき、がっしりした体格の男が二人はいってきてうやうやしく挨拶した。二人とも茶色の長衣を黒い帯で締めて、頭に先のとがった黒い小さな帽子をのせていた。これがマー・ロンとチャオ・タイ、やはりディー判事の副官である。
マー・ロンは身の丈たっぷり六尺余、熊のような肩をして、肉厚の大きな顔は短い口ひげだけ残してきれいに剃りあげていた。大きな体をしていても動作がすばやくてしなやかなところは、彼が拳法の達人であるしるしだ。若いころは腐敗官吏の用心棒をしていた。かつて主人が寡婦から金をゆすり取ったとき、マー・ロンはかっとなって主人を半殺しの目にあわせた。当然ながら己れの命を守るため逃亡せねばならず、そこで緑林《りょくりん》の兄弟に加わった、つまり追剥《おいはぎ》になったというわけだ。あるとき首都郊外の街道でディー判事の一行を襲い、その際ディー判事の人柄に強く感銘をうけ、ただちに仲間を捨てて判事の忠実なしもべとなった。その勇敢と非凡な強さゆえに、ディー判事はしばしば彼を凶悪犯の逮捕その他の危険な仕事に用立てるのであった。
チャオ・タイは、マー・ロンが緑林の兄弟であった時からの仲間である。マー・ロンのようななみはずれた拳術家ではないが、弓の手だれ、剣の達人であるうえに、犯罪の解明に大切なねばり強さを備えている。
「さて、勇士たち」とディー判事は言いだした、「すでに蒲陽《プーヤン》の市内を見て回ったことと思うが、どんな印象だったかな?」
「閣下」とマー・ロンが答えた、「フォン閣下はよい知事であられたに違いありません。ここの住民は豊かで、満ち足りています。酒場ではいける食い物を納得のいく値で出しますし、地酒の味もなかなかです。ここならのんびりやれそうですよ!」
チャオ・タイもうれしそうに同意した、が、タオ・ガンが長い顔にうさんくさそうな色を浮かべ、何も言わないが、頬のほくろに生えた長い毛をゆっくりと指の間ですべらせている様子に、ディー判事は目をつけた。
「タオ・ガン、異論がありそうだね」
「実を申しますと」と彼は切りだした、「徹底的に調査してみる必要のありそうなことに出くわしました。
このまちの大きな茶店を見て回っていましたとき、いつものくせが出て、この県の豊かさの源を探ってみました。するとすぐ知れたことなのですが、運河による輸送を扱っている十人ほどの富裕な商人と、四、五人の大地主がいるにはいます。ですが市の北の郊外にある普慈《ふじ》寺の管長|聖徳《せいとく》の財産に比べれば、彼らの富などとるに足らないものだというのですな。聖徳というのはその建ったばかりの大寺院の管長で、約六十人の僧侶を抱えています。ですがその坊主どもは精進しておつとめをするどころか、酒池肉林の日々を送り、土地のあがりで豊かな暮らしをしているのです」
「自分としては、仏教徒連中と交渉をもつ気はない」とディー判事が話の腰を折った、「たぐいなき賢人|孔夫子《こうふうし》とその尊い弟子たちの聡明な教えに、私は完全に満足している。黒い衣《ころも》の異国人がインドから持ちこんだ教義をひねくりまわす必要など感じない。ところがわが帝国宮廷におかせられては畏《かしこ》くも、一般大衆の道義を高めるためになら、仏教教義も役に立つと判断され、仏教僧侶および寺院に対して恵み深い加護の手をさしのべられた。もし彼らが栄えるなら、それは帝《みかど》のご意向によるものであり、それをとやかく言うことは慎しまねばならんぞ」
こう戒められても、タオ・ガンは、やはりこの問題を忘れ難いようすだった。
しばらくためらったのち、彼は話を続けた。「その管長の富み栄えていることといいましたら、まるで福の神さながらの金満家に違いありません。僧坊は王侯の宮殿のように贅沢にしつらえられているという話です。本堂の仏具はみんな金むくだし、それに――」
「そういう細かい話はたくさんだ」とディー判事は語気鋭く副官の話をさえぎった、「だいいちうわさ話にすぎないのだろう。要点をいってみたまえ!」
そこでタオ・ガンは言った。
「閣下、あたっていないかもしれませんが、その寺の財産は何かしらひどくきたない手でかき集められているんじゃないかという気がしてならないのです」
「それで話が面白くなってきた」と判事が評した、「続けたまえ、ただし手短かに!」
タオ・ガンは続けた、「普慈寺の主要な収入源が本堂にある大きな観世音菩薩だということは、誰でも知っています。白檀《びゃくだん》で彫られていて、もう百年以上は経つもののはずです。何年かまえまでは、手入れもしてない境内の荒れたお堂にあったのです。寺には三人の僧がいて、そばの掘立小屋に住んでいました。寺に参詣する人もわずかで、その賓銭では三人の僧が日々食べる水っぽいかゆにも事欠くほどでした。ですから彼らは毎日街で托鉢《たくはつ》をして歩き、乏しい収入のたしまえにしたのです。
ところが五年前のこと、一人の流れ者の僧が寺に住みつきました。ぼろはまとっているものの、背の高い男前で、押し出しのいい人物でした。自ら聖徳と名のっていました。
一年も経つうちに、白檀の観音さまは霊験あらたかだ、子のない夫婦はあの寺にお参りすれば必ず跡継ぎができるといううわさが広まりました。そのころもう自ら管長と公言していた聖徳は、子のほしい婦人は、本堂のお像の前の寝椅子で一夜祈願のおこもりをしなければならないのだと、常日頃言っておりました」
タオ・ガンはちらと聞き手のほうを見てから、続けた。
「管長はたちの悪いうわさを避けるために、婦人を入れたあとお堂の扉に紙片をはりつけ、その夫に頼んでそこに彼の印を捺《お》してもらいました。そして夫のほうもその一夜は僧坊で明かすことが求められます。次の朝、夫はお堂の封印を破るように言われるのです。この寺に行くことで得られる成果はたいそう確実なので、評判は広まり、やがて県内どこからも子のない夫婦がありがたいお像を拝みにくるようになりました。望みがかなうと、感謝感激の参詣者は高価な施物《せもつ》を贈り、高額の香華料を寄附するのです。
そのうち管長は本堂を改築して堂々たる建物にし、まもなく六十人を越すまでになった僧のために、広い坊を建増ししました。境内は金魚池や人工の岩山のある美しい庭園に姿を変えました。昨年には、寺に一夜|参籠《さんろう》する婦人たちのために風流な四阿《あずまや》をいくつも増築しました。寺域にはすっかり高い牆壁《しょうへき》をめぐらし、光り輝く三層の門を築いていて、それは私もほんの一時間ばかりまえに拝ませてもらいました」
ここでタオ・ガンはひと息ついてディー判事のことばを待った。しかし判事が黙っているので、タオ・ガンは言った。
「これについて閣下がどうお考えかは知りません。ですが、もし閣下のお考えが私と同じだとしたら、明らかにこのままで続けさせておくわけにはいきません!」
ディー判事はひげをしごき、思慮深げに語った。
「この世にはふつうの人間の理解を超える不可思議も少なからず存在する。この観世音菩薩の尊像の霊妙な力を否定しようなどという気持ちは毛頭ない。だが、さしあたり君に頼む仕事はこれといってないから、君は普慈寺にかんして細かい情報をもっと集めてみてもいい。いずれ報告を待っているよ」
ついで判事はかがみこみ、机の上に積み重ねてある中から一巻きの文書をよりだした。
「これは現在この政庁で懸案になっている、半月小路暴行殺人事件の全記録だ。私はこの件について昨夜警部とここで話し合った。今朝は諸君全員がこの記録に目を通してみることを勧める。昼の公判でこの興味深い件の審理を考えている。君たちも気づくだろうが――」
ここまで言いかけたところへ、ディー家の老家令がはいってきた。深く三度頭を下げてから執事は言った。
「第一奥様がおたずねしてくるよう申されたのですが、朝のうちにいくらかお時間をさいて、閣下のお住まいの配置をご覧になれますまいかとのことです」
ディー判事は苦笑して、ホン警部に言った。「たしかにわれわれがこの蒲陽《プーヤン》に到着してから、私はまだわが家のしきいをまたいでいない! 家の女たちが多少当惑するのも無理はない」
判事は立ちあがり、手を寛い袖の中にしまいながら、副官たちに言った。
「昼の公判では、君たちも被告ワン学士に対する告発にいくつかの弱点があることに気づくだろう」
そして彼は回廊を通って出ていった。
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第四章
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文学士が政庁において取調べられ
ディー判事は犯行現場検証に赴《おもむ》く
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昼の公判の開廷を知らせる銅鑼《どら》が鳴るよりずっと早く、ディー判事は執務室にもどった。ホン警部と三人の副官がもうそろって待っていた。
判事は官服をつけ黒い判事帽をかぶって、法廷の壇上に続く戸口から歩み出た。見たところ、朝のそっけない公判も蒲陽《プーヤン》の市民に期待を捨てさせてはいないと感じられた。法廷は傍聴者で埋められて立錐《りっすい》の余地もない。
判事席につくと、ディー判事は巡査長に命じてシャオ肉屋を連れてこさせた。
肉屋が壇に近づくのをディー判事はしげしげとみつめ、真正直だがあまり才覚のない、しがない小売商人だとみてとった。肉屋がひざまずくのへ、ディー判事は言葉をかけた。
「私はあなたが悲しい目にあったことに同情している。家庭内の監督をゆるがせにしたことについては、すでに前任の高潔なフォン判事があなたを説諭しているから、そのことはもう論じまい。しかしながら証言の中で二、三確かめたいことがある。だからこの件の結審にはまだ少し時間がかかるかもしれないことを知らせておかなければならない。ただし、必ず正道を行ない、娘純玉の仇を討つことを請け合うぞ」
シャオ肉屋はかしこまって何やら感謝の言葉をもごもごとつぶやき、判事の合図で脇へ連れていかれた。
ディー判事は、前に置かれた記録を調べてから言った。
「検屍官は前に出よ!」
判事はすばやく目を走らせた。検屍官は明敏そうな若い男だった。ディー判事が言った。
「君の記憶が新鮮なうちに、検屍結果を二、三確かめておきたい。まず、被害者の身体的特徴についての全般的な説明を君の口からききたい」
「つつしんでご報告申しあげます」と検屍官は答えた、「女は年齢の割に背が高く、体つきもがっしりしておりました。朝から晩まで家事をこなし、かたわら店の手伝いもしていたものと推測いたします。身体的欠陥はなく、健康で勤勉な娘らしい頑丈な体格をもっています」
「手はよく見たか?」とディー判事。
「もちろんです、閣下。殺人者の衣類の手がかりとなるような布地の切れ端か何かの材質が、爪の中に発見されることをフォン閣下は願っていらっしゃいましたから、その点とくに綿密にいたしました。実際には、女はその階層に通有の働きものらしい短い爪をしており、何の手がかりも発見されませんでした」
ディー判事はうなずき、さらに続けた。
「報告の中で、被害者ののどに犯人の手がつけた青い痕跡のことを書いているね。その痕跡には指の爪の押しあとも含まれると君は述べている。その爪あとについてもっとくわしく説明してくれないか」
検屍官はちょっと考えこんでから言った。
「爪あとは普通の三日月型をしていました。深く突き立ってはいませんでしたが、皮膚が二、三か所で破れていました」
「この付加的な細目を記録に書き入れておくように」と判事は言った。
彼は検屍官をさがらせ、次にワン学士を連れて来るよう命じた。
巡査がワン学士を壇の前に連れてくると、ディー判事は鋭く目を走らせた。それは文学士ふうの青い長衣を着た中背の若い男だった。堂々とふるまってはいるが、運動に縁のない人種らしく狭い胸と猫背をしていた。明らかに彼はほとんどの時間を書物に囲まれてすごしてきたのだ。額は広くて気持ちのよい知的な顔立ちだが、口もとが弱々しい。左の頬にひっかき傷のみにくいひきつれがある。
彼を壇の前にひざまずかせ、ディー判事は声を荒げて呼びかけた。
「お前は悪党のワン、読書人の名誉に泥を塗った奴だ! 経典を学ぶ特権を得て、その高邁《こうまい》な教えを吸収していながら、字も読めぬ汚れなき娘、おまえの下劣な肉欲の安易な犠牲を誘惑するという卑しい目的のために、その知識を用いることを選んだ。そしてそれでも足りないのか、おまえはそのうえ娘を暴行し殺害した。情状酌量する余地は毫《ごう》もなく、最大限に厳法が適用さるべきである。おまえの抗弁など聞きたくはない。私はそれを本件の記録の中で読んで、胸くその悪い話だと思った。いくつか付加的な尋問をするが、必ず真実のみを申し述べよ」
ディー判事は上体を傾けて一枚の文書に目をとおしてから言った。
「供述の中で、十七日の朝おまえは古い屋敷跡の中で目を覚ましたと、強く主張している。おまえがそこで見たものを正確に言ってみよ」
「閣下」とワンは口ごもった、「まことに残念ながらこの学士は、閣下のご指示にしたがうことをなし得ません。日はまだ上っておりませんでした。夜明け前の頼りない光の中に、崩れおちた壁のように見える瓦礫の山が少しみてとれたばかりで、まわりにはとげだらけの灌木《かんぼく》がびっしり生い茂っていました。この二つだけははっきり覚えています。どうにか立ちあがった時は頭がまだ重く、目がちらついて煉瓦につまずきました。いばらは着物を裂き、顔や体をひっかきました。そのとき私の心にあったのはただ少しでも早くその気味の悪い場所を離れたいということだけでした。盲めっぽうに歩いて、小路をいくつも通り抜けたことをぼんやり覚えています。首を垂れて頭をはっきりさせようと努め、また、前夜むなしく私を待った純玉を気遣いながら――」
ディー判事が合図をすると、巡査部長が間髪を入れずワン学士の口もとをなぐった。
「うそを申すな!」と判事がどなりつけた、「きかれたことに答えるほかは口をつつしめ!」そして巡査に向かって、
「この男の体の傷を見せよ」
巡査長がワンのえりもとをつかんで立ちあがらせると、二人の巡査が手荒く長衣を引きはいだ。三日前に笞うたれたときの背中の傷がまだ生々しいので、ワンは苦痛の叫びをあげた。胸や腕、肩にいくすじかの深い引っかき傷があり、打ち身のあともいくつかあるのをディー判事は見た。彼が巡査長に向かってうなずくと、巡査たちはワンを再びひざまずかせたが、長衣を肩にかけなおしてやる手間ははぶいた。
判事は尋問を続けた。
「秘密の訪問のことを知るものは被害者、おまえ、ロン仕立職のほかにいないと、おまえは前に断言している。これは明らかに杜撰《ずさん》な供述である。おまえの向こう見ずな行動が通りすがりの人に目撃されたのに気づかなかったことがあり得ないと、どうして確信できるのか?」
「仕立屋の家の戸口を出るまえに」とワン学士は答えた、「必ず通りのあちらこちらを注意深く見まわして、足音はしないかと聞き耳をたてました。夜警が近づいてくることもあり、それが通りすぎるのを待たねばなりませんでした。それからすばやく道を横切り、シャオ肉店の横の暗い路地にすべりこむのです。そこまでいけば大丈夫なのです、もし誰かが半月小路を通りかかっても、私は暗がりにかがんでいれば姿を見られないですみます。危いのはよじ登るときだけですが、でもその時は純玉が窓ぎわに立っていて、誰かが近づいてくるのが見えたら教えてくれるはずでした」
「文学土たるものが、下等な盗っ人さながらに夜のこそこそ歩きとは!」とディー判事が嘲笑《あざわら》った、「なんとまあ、ご立派なざまだ。それにしても、何かおまえを不安がらせるようなことがなかったか、頭をしぼって思い出してみよ」
ワン学土はしばらく思案したすえに、おずおず言いだした、「そういえば二週間ばかり前に、どきりとさせられたことがありました。道を渡るまえ仕立屋の戸口であたりをうかがっていたとき、夜警が通りすぎるのを見ましたが、頭《かしら》は拍子木を鳴らしていました。私は連中が半月小路をすっかり通り抜けてしまうまで待ちました。ファン医師の診療所の提灯《ちょうちん》の明かりが目じるしになっている向こうのはずれの角を曲がっていくのが、はっきり見えました。
それなのにどうしたことか、私が向かい側の袋小路にすべりこんだまさにそのとき、ふいにまた夜警の拍子木の音が、それもすぐ近くで聞こえたのです。私は壁にはりつき、暗がりに立ちすくんで恐怖にふるえていました。拍子木の音は止み、私を盗人と思った夜警が騒ぎだすと私は思いました。ところがなにも起らないのです。どこもかもしんと静まりかえったままでした。結局は気のせいか、反響が私をあざむいたのだと考えることにして隠れ場所をはなれ、純玉の部屋の窓から下がっている布切れを引いて私が来ていることを知らせました」
ディー判事は首をめぐらし、傍らに立つホン警部にささやきかけた。
「これは新事実だ、記憶しておきたまえ!」それからワン学士をにらみつけ、しぶい顔で言った、「おまえは法廷に時間を無駄づかいさせるつもりか! そんな短いあいだに夜警が遠くからもどって来られるわけがあるか!」
そして上級書記官に向かって命じた、
「被告ワンがこの公判において申し立てたことを確認させるため概要を読みあげ、拇印《ぼいん》を捺《お》させよ」
上級書記官が記録を大声で読みあげ、それは自分の述べたことそのままであるとワン学士が証言した。
「栂印を捺させよ」とディー判事が巡査に命じた。
巡査がまたワンを乱暴に立たせて濡れた硯《すずり》に親指を押しつけさせると、ディー判事が机の端に押しやった文書に捺印《なついん》するよう命じた。
ワンが震えながら命じられたようにしているとき、彼がすんなりと手入れのゆき届いた学者らしい手をしていて、そのうえ文人階級好みに爪を長く伸ばしていることを、判事は観察していた。
「被告を牢に連れもどせ!」とディー判事はどなった。そして立ち上がって長い袖を腹立たしげに打ち振りながら、壇上を去った。執務室に通じる戸口をくぐるとき、後ろで傍聴人たちのぶつぶつ言いはじめるのが聞こえた。
「退廷! 退廷!」巡査長がどなった、「はねたあともぐずぐずしていられる芝居小屋とは違うんだぜ。さっさとしろ、巡査がお茶や菓子をサービスすると思ってるのか?」
最後の傍聴人を法廷から押し出すと、巡査長は情けなげな顔を部下に向けた。
「なんてえ時に行き合わせたんだろうなあ」と彼は泣き声をあげた、「間抜けな判事は怠け者。おれ達が毎日ひたすら待ち望んでた知事なわけだよ。ですが神様、間抜けでもよく仕事をする判事の下で働かせていただきたいもんで。おまけにしみったれとくらあ。なんてえ罰《ばち》あたりだ!」
「なぜ閣下は拷問をやらないのでしょう」と若い巡査がきく、「あのへなへなの本の虫は、手やくるぶしを絞め木でつぶすまでもなく、パシッという最初の笞《むち》の音だけで吐いてしまったでしょうに。それでもうこの件に片をつけてほしいものだ!」
別のがそばから言った、「こんなにのろくさ手をつくして何になります。あのワンめはおちぶれ果てて、どぶ鼠も同然のからっけつでさあ。袖の下をひき出すあてもありゃしねえ」
「まったくのところ、てんで気の利かねえ御仁《ごじん》なのさ!」と巡査長が愛想をつかしたようすで言った、「ワンの有罪は明々白々だってのに、閣下にはまだ確かめたいことがあるんだとよ。ま、とにかく炊事場へ行って、がつがつした守衛連中が何もかも食っちまう前に、おれたちの丼によそっとこうぜ」
その間にディー判事は、茶色の簡素な長衣に着換え、執務室の机の前の大きな肘掛椅子に腰をおろした。満足げな笑みを浮かべて、彼はチャオ・タイの注ぐ茶をすすった。
ホン警部がはいってきた。
「警部、どうしてそんなにしょげている?」と判事がたずねた。
ホン警部は首を振った。
「ただいま政庁の外の人ごみにまじって人々の話を聞いておりました。率直に言わせていただきますと、閣下、彼らはこの件の初めての審理をおもしろく思っておりません。質問の真意がわからないようで、つまりワンに自分の罪を白状させるのが重要な点なのに、閣下はそこを理解しておられないと思っています」
「警部」とディー判事が言った、「君の意見がひたすら私の知事としての成功を願う気持ちに発しているのだと、私が十分承知していなかったら、君を厳しく叱りつけるところだぞ。わが至高なる帝《みかど》は正義を施すため私を任用されたのであって、群衆を喜ばせるためにではない!」
ディー判事はチャオ・タイのほうに向きなおって言った。
「カオ区長に、ここへ来るよう言いなさい」
チャオ・タイが去ったあとで、ホン警部がたずねた。
「閣下は夜警についてワンが述べた事実を重要とみておいでですが、その連中がこの犯罪に関係があるとお考えだからなのですか?」
ディー判事は頭《かぶり》を振った。
「いや、そういう理由ではない。わが同僚のフォン判事は、今日ワン学士が語った事実はまだ耳に入れていなかったにせよ、定石どおりに犯罪現場の近くにいたものたち全員について取り調べ、夜警からもきちんと聞きとりをなさった。夜警頭自身も同伴の二人も、それにはなんら関与しなかったことを証明できた」
チャオ・タイがカオ区長を連れてもどって来た。区長は知事の前に深々と頭を下げた。
ディー判事はむずかしい顔でそれを迎えた。
「君がこの恥ずべき事の行なわれた地域の区長なのだね。そこで起こる不正は万事君の責任であることを知らないのか? もっとまじめに義務をつくしなさい。昼となく夜となく見回り、酒場や賭場でお上《かみ》の時間を無駄づかいするでない!」
区長はあわててひざまずき、額で三回床を叩いた。
「では、半月小路へ案内してもらおうか、犯罪現場を一見するためにね。ただ全体のようすを把握したいだけなんだ。君のほかに、チャオ・タイと巡査四人だけが要る。私は身分を伏せて行くことにし、ホン警部に一行の指揮をとってもらおう」
ディー判事は黒い小さな帽子をかぶった。チャオ・タイとカオ区長を先に立て、四人の巡査にしんがりをつとめさせて、一行は政庁の西側の門から出た。
まず大通りを南の方角へ歩き、都市の守護神である城隍廟《じょうこうびょう》の裏の牆壁《しょうへき》につきあたった。そこで西へ折れると、まもなく孔子廟の緑のうわぐすりをかけた瓦屋根が右手に見えてくる。一行は市内の西区を北から南へ貫流している川にかかった橋を渡った。ここで舗装がきれ、スラム街にはいることがわかる。区長は左に折れて両側に小さな店やこわれかけた家の立ち並ぶ道にかかり、さらに湾曲した狭い通りにはいっていった。これが半月小路だ。カオ区長がシャオ肉店をさし示した。
一行が店の前に立っていると、野次馬が集まってきた。カオ区長がどなった。
「これは閣下のご命令で犯行の現場を調べに来られた政庁の役人方だぞ。さっさと行け! お役人の職務執行を妨害するなよ!」
その店がごくごく細い脇道の角にあり、その側壁には窓が一つもないことを、ディー判事は観察していた。物置は十尺ほどひっこんで建っている。娘の寝起きしていた屋根裏部屋の窓は、店と物置をつなぐ壁のてっぺんから二、三尺のところに見える。路地の反対側にはもう一つの角を占める同業組合《ギルド》会館の窓のない高い牆壁《しょうへき》がそそり立っている。ふりかえって通りのほうを見ると、ロン仕立屋の店は路地の入口のちょうど真向かいに位置していることがわかった。仕立屋の店の屋根裏部屋からは斜めに路地が見とおせ、娘の住む部屋の窓が見える。
ホン警部がカオ区長に型どおりの聞きとりをしている間に、ディー判事はチャオ・タイに「窓に登ってみたまえ」と命じた。
チャオ・タイはにっこりすると長衣の裾をたくしあげて帯にはさみ、跳びあがって牆壁のてっぺんをとらえた。腕の力で体を引きあげると、壁の煉瓦が二つ三つ脱け落ちたところに足がかりを見つけて右足をかけた。それから壁に体をぴったり押しつけて、手が窓枠にかかるまでそろそろと体を持ちあげた。もう一度体を引きあげると、彼は窓敷居をまたいで中にはいった。
ディー判事が下からうなずいた。チャオ・タイは窓枠をくるっとこえた。しばらく腕でぶら下がっていたが、手をはなして地面まで五尺かそこらを落ち、「花にとまる蝶」という名で知られる拳術のわざを使って、ほとんど音を立てずに着地した。
カオ区長が被害者の部屋に案内しようとしたが、ディー判事が首を振ってみせたので、ホン警部はすげなく言った。
「見たいものはすべて見た。さあ、もどろう」
一行はのんびり歩いて政庁に帰った。
区長が丁寧に別れを告げて去ったあと、ディー判事は警部に言った。
「いま見てきたことが、私の疑いを裏書きしたよ。マー・ロンを呼んできたまえ」
まもなくマー・ロンがはいって来て判事に頭を下げた。
「マー・ロン、困難なうえ恐らく危険な仕事を君に命じなくてはならない!」
マー・ロンは面を上げ、待ちかまえていたように言った。
「閣下、いつでもお役に立ちます!」
「下等な渡り者のごろつきらしく変装したまえ。市中の浮浪者どもが集まる所に出入りして、破門道士か乞食坊主、あるいはそんなふうな身なりをしているごろつきを探すのだ。君の捜す男は背が高くてたくましい奴だ――とはいえ君が緑林で暮らしていたころにつきあったような、礼節を重んじる追剥のタイプではないよ。凶暴な生活、下劣な放蕩のすえにその能力が鈍ってしまっている、救い難い人でなしだ。そいつは割れた短い爪をしており、握力がたいへん強い。君が見つけ出すとき、どんな衣服を着ているかはわからないが、たぶんおんぼろの頭巾つき外套だと思う。だがそいつは乞食坊主どもと同様に必ず木魚を携えている。つまり木でしゃれこうべの形にこしらえてあって、通行人の注意をひくため坊主が使うあれのことだよ。その人物を特定する最終的な証拠は、その持ち物のなかに細工に独特な味のある純金のかんざし一組が、現にあるか、またはごく最近まであったということだ。これがその略図だから頭に入れていきたまえ」
「みごとな人相書ですね。ですがこの男は誰で、どんな犯罪をおかしたのでしょうか」とマー・ロンが言った。
「まだ会ったことはないのでね」とディー判事は笑った、「君に名前を教えることはできないよ。ただ犯した罪のほうなら言える、シャオ肉屋の娘を暴行し殺害した卑しむべき悪党だよ」
「楽しめそうな仕事だ!」マー・ロンは興奮して叫び、あわただしく辞し去った。
ディー判事がマー・ロンに指示を与えているのを、ホン警部は仰天しながら聞き入っていたが、ここで初めて声をあげた。
「閣下、狐につままれたようです!」
しかし、ディー判事はただ頬笑みながら言った。
「私が聞きかつ見たことを、君は聞き、そして見た。自分で結論をひきだしたまえ!」
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第五章
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タオ・ガンは寺院へ参詣に出かけ
僧侶三人が巧みなペテンにかかる
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その同じ日の朝、ディー判事の執務室を出ると、タオ・ガンはいかにも品よく目立たない上っ張りに着換え、官職についていない有閑紳士が好んでかぶる黒い紗《しゃ》の帽子をかぶった。
このなりで市の北門を抜け出て、北の郊外をぶらついた。小さな料理店を見つけて簡単な昼食を注文した。
二階の窓辺にとった彼の席からは、障子ごしに普慈寺の反りかえった屋根が眺められる。
支払いをしながら、彼は給仕に話しかけた。
「ずいぶん立派なお寺だねえ。仏様からあれほどまでのご加護をいただけるとは、よほど信心深い坊さま方に違いないね」
給仕は不満げに鼻を鳴らした。
「信心深いかもしれないがね」と給仕が答えた、「あの坊主らののどをかっ切ってやれたらと思っている一家の主人が、この県にはわんさといるんですぜ」
「君、ことばに気をつけてくださいよ!」タオ・ガンは憤然としてみせる、「君は仏法僧三宝の敬虔な信者と話をしてるんですから」
給仕はふくれた顔で見かえすと、タオ・ガンが食卓に置いたチップをとらずに行ってしまった。タオ・ガンは満足げに金を袖にもどしてから料理店を出た。
少し歩いて寺の三層の門のところに着いた。彼は石段を登って門をくぐった。門衛室に僧が三人すわっているのを横目で見た。僧たちは詮索するように彼を見つめている。タオ・ガンはゆっくりと門を通り抜けると、ふいに立ち止まって袖の中をさぐり、どうすべきか決めかねるように左右を見やった。
門衛の一人、年かさの僧が近づいてきて鄭重《ていちょう》に問いかけた。
「そちらのおかた、何かお役に立てますかな?」
「これはご親切に、お坊様」とタオ・ガンは応じた、「仏道の敬虔な僕《しもべ》である私めは、悲母観世音さまに少しばかりの奉納の品をさしあげたくて、わざわざお参りにきました。ところが運の悪いことに小銭を持たずに出たので、お香を買うことができません。いったん帰らなければなりますまいが、またこちらへ参るのはだいぶ先のことになろうかと思いまして」
そういいながら袖からきれいな銀錠《ぎんじょう》を一つとりだし、手のひらにのせて重さをためすようにした。
僧はその銀錠に驚きの目を向け、あわてて言った。
「旦那様、お香の代は立て替えさせてください!」
急いで門衛室にひっこむと銅貨を五十銭ずつ通したさしなわの輪を二つ持ってあらわれ、タオ・ガンはその銭さしをありがたく押し戴いた。
最初の院子《なかにわ》にはいってみると、そこは磨きあげた平石を敷きつめてあり、両側に並ぶ客殿もまことに優雅な趣きの造りだった。前面に二丁の輿《こし》がすえられ、僧や召使がしきりに出入りする。さらに二つの院子を抜けていくと、正面に寺の本堂が望まれた。
この堂は三方に大理石の壇をめぐらし、やはり彫りのある大理石板を敷きつめた院子からそそり立っていた。タオ・ガンは広い階段を登って壇を横切り、高い敷居をまたいでほの明るく照らし出された堂内に足を踏み入れた。白檀の観世音像は高さが一間《いっけん》以上あり、金ぴかの台座の上にすえられていた。二本の大|蝋燭《ろうそく》の火影が祭壇の金の香炉や供物の器などをきらめかせていた。
タオ・ガンは三度深々と頭を下げてから、あたりにいる僧たちのてまえ右の手で大きな木の賓銭箱の中に金を入れるふりをし、一方でさっき銅銭二さしをしまった左の袖を振って賽銭箱の枠にあて、ことんとそれらしい音をさせることに成功した。
彼はしばらく手を合わせてから、また三礼して講堂を出た。右手に回ってみると、突きあたりの門は閉じられていた。押し開けてみたものかどうかと考えていると、一人の僧が出て来てたずねた。
「こちらの旦那様は、管長にお会いになりたいのですか?」
タオ・ガンはあわてて失礼をわびて引き返した。また本堂を通って今度は左手のほうへ回っていくと、屋根のついた広い回廊があり、その先は狭い階段を降りるようになっている。降りたところに小さな入口があり、注意書がしてあった。
「当寺職員以外の方はこれより先におはいりにならぬようお願い致します」
この丁寧な注意書を無視してすばやく戸を押し開けると、中は見事な造作の庭園だった。花木の茂みや手を加えた岩の間を縫って小径がかよい、かなたには小さな四阿《あずまや》の瓦屋根の青い輝きと朱塗りのたる木とが、緑の梢《こずえ》ごしにのぞいている。
これは寺を訪れた女性たちが一夜を過ごすところだと、タオ・ガンは確信した。急いで二本の大きな灌木の間にすべりこむと、上っ張りを脱ぎ、裏返して着なおした。タオ・ガンはこの上着を特別仕立てにしている。裏は労働者が着るがさがさした麻地で、不細工なみせかけのつぎはぎがいくつもある。紗の帽子を脱ぐとそれは畳めるようになっていて、彼はそれを袖の中に押しこんでしまった。きたない布切れを頭にまきつけ、長い裾をたくし上げて脚絆《きゃはん》が見えるようにした。最後に細く巻いた青い布を袖の中からとり出した。
この仕掛けはタオ・ガンの数ある独創的な考案品の一つである。ひろげると、人々が通常荷物をくるんで運ぶのに使う、ざっくり縫った布袋になる。四角な形をしているが、妙なひだや余計なへりなどがあれこれと縫いつけられている。中の十二本の細い竹の棒をそれぞれ違う組み合わせではめこんでいって、タオ・ガンはこの袋をありとあらゆる形にみせることができた――洗たくものの大きな包みから書物のつまった長方形の荷物まで。彼の多彩な人生において、このからくりが大いに役立つことがしばしばあった。
タオ・ガンは中の竹の棒をしかるべく組んで、大工道具をおさめた包みらしくした。変装はたちまちでき上がり、まもなく彼は小脇にかかえた荷物がいかにも重いというふうに、肩をいくぶんか曲げて小径を辿っていた。
道はねじくれた老松のかげに建つ優雅な四阿《あずまや》に続いている。銅の取手をつけた朱塗りの二枚扉を開け放して、二人の小坊主が床を掃いていた。
タオ・ガンは高い敷居をまたぎこえ、何もいわずにまっすぐ、正面の壁を背にして置かれた大きな寝台のところへ行った。もぞもぞ言いながらしゃがみこむと、大工用のひもをとりだして寝台の寸法を計りはじめた。
若い僧の一人が「なんだ、また道具を変えなくちゃならないのかい?」と言った。
「お節介はよしとくれ!」とタオ・ガンはつっけんどんに言った、「しがない大工に銭の二、三枚出し惜しむことないだろうが!」
二人の小坊主は笑いながら出ていってしまった。一人になるとすぐタオ・ガンは立ち上がって見まわした。
正面の壁の高い所にこどもでさえくぐりぬけられぬほど小さい丸窓があるほかは、この部屋に窓はない。仕事にかかるようにみせた寝台は堅い黒檀で作られていて、細緻な彫刻で飾られ、螺鈿《らでん》細工がしてある。寝台覆いと枕はどっしりした錦で、その傍らには紫檀に彫刻をほどこした小卓が置かれ、混炉《こんろ》と上品な磁器の茶道具が備えつけてあった。側壁の一方は絹本彩色《けんぽんさいしき》観世音像の華やかな掛軸でおおいかくされていた。反対側の壁の前には紫檀の化粧台がおかれ、その上に香炉と二本の大きな蝋燭《ろうそく》がのっていた。ほかに家具とてはただ低い足のせ台があるばかりだ。小坊主どもが掃除をして風を入れたところだというのに、何やら濃密な香りがまだ漂っていた。
「さて、秘密の入口を突き止めねばなるまいぞ」とタオ・ガンはひとりつぶやいた。
彼はまずいちばん怪しいところ――掛軸の後ろの壁――を調べた。くまなく叩いてみて、かくされた出入口の存在を示すみぞか何かを見つけようとしたが、なにもなかった。続いてほかの壁も一寸刻みに調べた。寝台を押しやって壁面を丹念に捜した。化粧台の上に登って小窓の周りをぐるっとさぐり、みかけよりも大きく開くような巧妙な仕掛けがありはせぬかと調べた。だが、ここも骨折りがいがなかった。
秘密の仕掛けにかんしては専門家と自認するタオ・ガンを、これはおおいにいらだたせた。
「古い屋敷では床に落とし戸のあることがある」と彼は考えた、「しかしこの四阿《あずまや》は昨年建てられたばかりだ。僧たちがひそかに秘密の出入口を壁に造ったことは想像がつくのだが、地下にトンネルを掘るほどの大仕事を外部に知られずにやれたはずはない。それにしても、あと考えられるのはそこだけだ」
彼は寝台の前の床をおおっている厚い敷物を巻き上げると四つん這いになった。小刀でこじ開けて、敷石を一枚一枚調べてみた。だがすべて骨折り損だ。
ここにあまり長くいるわけにはいかないので、あきらめざるを得ない。出がけにすばやく、重い二枚扉の蝶番に何か仕掛けがひそんでいないか調べた。だがそれはまったく変わったところがなかった。タオ・ガンはためいきをついて二枚扉を閉め、錠もちょっと調べてみたが、最高に頑丈な種類のしろものだった。
彼は庭の小径を辿っていったが、それと出会った三人の僧は、陰気くさい大工のじじいが道具袋をかかえて歩いているのを見たばかりであった。
入口の門の側の茂みで、彼はまたもとの服装に着替えてこっそり抜け出した。
のんびりとあちこちの院子《なかにわ》をぶらつき、僧坊も確かめたし、参籠しに来た婦人の夫たちのための客殿も見つけた。
再び大門に来ると、彼は門衛室に立ち寄り、はいる時に会った三人の僧を見つけた。
袖の中の銭《ぜに》さしをとり出そうというようすもなく、タオ・ガンは年かさの僧に向かって言った。「お金を拝借できまして、まことに有難う存じました」
お立ちになったままでは困りますと、年かさの僧は彼を招じ入れてすわらせ、茶を一杯いかがとたずねた。タオ・ガンはありがたく申し出をうけた。やがて四人は四角のテーブルを囲んですわり、仏寺で出す苦い茶を飲んでいた。
「皆さんは」とタオ・ガンは打ちとけた調子で言った、「銅銭をつかうのがひどくおいやなようですな。ご用立てくださった二つの銭さしは使いませんでしたよ。お香を買うのに銅銭をいくつか出そうと思っても、さしなわのどこにも結び目がないのでね、ほどきようがありませんでした」
「それはおかしなお言葉です。お客人、そのさしなわを見せてください」と若いほうの一人が言った。
タオ・ガンが銭さしを袖からとり出して渡すと、僧は手の上でさあっとすべらせた。
「ほらね!」と彼は得意げに言った、「これが結び目でなかったら、何を結び目というんです?」
タオ・ガンはろくに見もせず銭さしをとり返すと、年かさのほうに向かって、
「これは悪魔の妖術に違いありませんな! なわに結び目がなかったら、私に五十銭賭けますかな?」
「よしきた!」と若いほうが夢中になって叫んだ。
タオ・ガンは銭さしをとり上げると空中でくるくるとまわしてから、僧に渡した。
「さあ、結び目を見せてください!」
三人の僧は熱心に手の間でさしなわを繰《く》り、どんなに銭の間を調べても、結び目はみつけ出せなかった。
タオ・ガンは平然たる表情で銭さしを袖の中にもどした。銅銭一つをテーブルの上に投げると、彼は言った。
「あなた方のお金を取りもどす機会を提供しましょう。この銭をまわして、裏が出たら五十銭さしあげますよ!」
「ほいきた!」年かさの僧が言って、銅銭をまわした。裏側が出た。
「これで貸し借りなしだ」とタオ・ガンが言った、「しかしあなた方のご損を償うために、私の銀錠を五十銭でお譲りしてもいいと思うのですが」
そう言いながら、彼はまた銀錠をとり出して、手の平で重さをためした。
このあたりでもう僧たちはすっかり混乱してしまった。タオ・ガンの頭が少々おかしいんじゃないかと年かさの僧は考えたが、といって一パーセントの値段で銀の延棒を見逃がすつもりはなかった。そこで彼は五十銭のさしなわを、もう一つテーブルの上にのせた。
「いい取引をしましたな。これはすてきな延棒で、しかも持ち運びが楽だ」とタオ・ガンが講釈した。
ひと吹きすると延棒はひらりと舞ってテーブルに落ちた。じつは錫箔で巧みにこしらえたにせ物だったのだ。
タオ・ガンは銭さしを袖にすべりこませてから別のをとり出した。そのさしなわが特別な結び方になっているのを、彼は僧たちに示した。指先で押さえるとそれはすべる結び目になって、銅銭の四角な穴にぴったりはまる。銭を指で繰ってもその結び目は目に触れず、結び目がはまっている銭について動いていってしまう。さらにタオ・ガンはついさっきまわした銭を裏返してみせたが、それはどっち側も同じになっている。
僧たちはどっと笑った。タオ・ガンが本職のいかさま師だということをやっとさとったのだ。
「あなた方のうけた授業は、たっぷり銅銭百五十枚の値打があるね」とタオ・ガンは平然と言った。
「それでは仕事を始めさせてもらうかな。この寺に流れこむ富について人々がうわさしているのを聞き、ひと回りしてここの様子をみたいものと思ったのでね。
身分の高い参詣者がたくさんあるそうだね。たまたま私は口ききがうまくて、人を見分けるのがうまいときている。見込みのありそうなもうけ口、つまりあなた方にとってのお得意さんを見つけたり、奥方をここに一泊させることに二の足を踏んでいる連中を説き伏せたりするのに、あなた方が私をやとうのじゃないかと思ったのさ」
年かさの僧がかぶりを振ると、タオ・ガンはあわてて続けた。
「たくさん払ってもらわなくてもいいんだよ。たとえば、ほら、私が紹介する客の香華料の一割かな」
「あんた」と年長の僧が冷たく言った、「まったくまちがった話を聞いておいでだ。ねたんでいる人達が時おり悪質な流言をばらまいていることは存じておるが、それは全く根も葉もないことじゃ。あんたのようないかさま師が何ごとも悪く悪くとるだろうということは、私にも十分想像できることだが、あんた、このことは全くとり違えておるぞ。私らのお恵みはすべて悲母観世音さまから参るのじゃ。なんまいだぶ」
「悪気じゃないんだ」とタオ・ガンはとりなすように言った、「われわれのような職業のものは、ご承知のように少々疑ぐり深いのでね。それじゃ婦人参詣者の名誉を保証するためには、しかるべく予防措置を講じておられるのでしょうな」
「当然だよ」と年長の僧、「第一、管長の聖徳どのは、人の受け入れにまことに慎重だ。あの人はまず新来の方々と応接室で会われ、阿弥陀仏への信心、懐具合、それにいわゆるお身許と申しますかな、そうした点に何か疑わしいところがあれば、宿泊をお断わりなさる。ご婦人がご亭主ともども本堂で祈願をすませると、ご亭主は管長および長老がたに饗応をすることになっておる。これがいささか物入りだ、うちの厨房は控え目に見ても最上級だからな。
最後に管長はお二人を奥底にある客用の四阿《あずまや》にご案内する。あんたは見ておらんわけだが、私の言葉通りに受けとってもらって結構、極上の趣味で造られておる。建物は六軒ある。どれにも本堂で拝ましゃったありがたい白檀のお像《すがた》を等身大にして描いたものが壁にかけてあります。こうして、ご婦人方は、わが悲母観世音の御徳《おんとく》に祈りを捧げつつ、一夜を過ごされるのじゃ。なんまいだぶ! ご婦人がはいられると、ご亭主が扉を閉めて鍵をかける。管長はさらに扉に細長い紙切れをはりつけ、ご亭主の封印を求められる。この封印はご亭主以外のものが破ることはできん。翌朝扉を開くのはご亭主なんじゃ。暗い疑惑のたねとなるようなことが何もないことがおわかりかな?」
タオ・ガンは悲しげに首を振った。
「遺憾ながら、おっしゃるとおりのようですな。で、寺で願をかけて参籠しても、望みどおりの結果が得られなかったらどうなるのです?」
「それは」と僧はすました顔で答えた、「ご婦人の心が潔白でないか、阿弥陀さまを本気で信じてはおられない場合だけのことじゃ。二度こられる方もたまにはあるが、その他の方にはもうお会いすることはない」
頬の長い毛をひっぱりながら、タオ・ガンはたずねた。
「子のない夫婦が月満ちて跡継ぎを得たとき、普慈寺を忘れることはないのでしょうな」
「それはもう」と僧はにんまりした、「そうした方々からの奉納品を運ぶのに、特別な輿《こし》が要ることが時々ある。もしこのささやかな儀礼が失念されるようなことがあれば、管長どのは必ず当のご婦人のところに人を遣わして、この寺に感謝せねばならないことを思いだしていただくのさ」
タオ・ガンはまだしばらく僧たちとおしゃべりしたが、それ以上の情報をききだすことはできなかった。
やがて彼は別れを告げ、回り道をして政庁に帰った。
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第六章
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広東《カントン》の老女が恐るべき悪行を訴え
判事は憂慮すべき消息を耳打する
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タオ・ガンが帰ってみると、ディー判事は上級書記官、文書課長とともに係争中の小さな地所について協議しているところだった。
タオ・ガンがはいって来たのを見ると、判事はほかの者をさがらせ、ホン警部を呼んでこさせた。
そこでタオ・ガンは寺の探訪にかんして、まやかしの銀錠と銭さしを用いてのちょっとした手品のほかは、どんな細かなことも省かずくわしく報告した。話し終わると、ディー判事が言った。
「さて、われわれの疑念はこれで片がついた。四阿《あずまや》の秘密の入口を君が発見できなかった以上、その僧の話を認めるほかあるまい。観世音菩薩像にはほんとうに奇跡的な力があり、心から祈りを捧げる信心深い婦人に子を授けられるのであろう」
警部もタオ・ガンも、判事のこの発言にはびっくり仰天してしまった。
「あの寺の中で起こるいかがわしい事がらについてのうわさで、街中がわきたっているのですよ」とタオ・ガンは言った、「どうか私を、さもなくばホン警部をもう一度あそこへやって、もっと徹底的に洗わせてください」
しかし、ディー判事はかぶりを振った。
「富と隆盛が羨望を誘うのは、遺憾ながらよくあることだ。普慈寺の捜査はこれで打切りとする!」
ホン警部がもう一度判事を説いてみようとしかけたが、ディー判事の語気が示すものをよく心得ているので、思いなおしてやめにした。
「それに」と判事は言いそえた、「マー・ロンが半月小路の殺人者をつきとめるのにもし手助けを必要とすれば、タオ・ガンがすぐ捜査に加わることができるようにしておかなくてはならない」
タオ・ガンはがっかりしたようで、何か言いたいらしかったが、そのとき大きな銅鑼《どら》の音が政庁中に鳴りわたり、ディー判事は午後の公判のため官服をつけようと立ち上がった。
またもや傍聴人の大群衆が法廷に集まってきていた。この昼ディー判事が途中で切り上げたワン学士に対する告訴を、今回も継続審理するのだろうと、誰もが楽しみにしているのだ。
点呼をすませるとすぐ、ディー判事は広間を埋める群衆をはったとにらんで言った。
「蒲陽《プーヤン》の市民はこの政庁における裁判手続きに大変関心をお持ちのようだ。この際この場を利用して、一般的警告を発しておきたい。県内で若干の悪人どもが普慈寺にかんし悪意に満ちた流言をばらまいていることが、本官の注意をひくところとなった。誹謗《ひぼう》の流言を広め、根拠なく罪をきせる行為に対して刑法典が明らかな規定を設けていることを、本知事は諸君全員に改めて申し上げておく。法にはむかうものは法によって訴追されるであろう」
ついでディー判事は小さな地所のもめごとに関係するものたちを連れて来させ、その問題の決着に少し時間をかけた。半月小路事件の関係者は一人も呼ばなかった。
公判が終わりに近づいた頃、法廷の入口のあたりで動揺がおこった。
ディー判事が検討中の書類から顔をあげて見ると、一人の老女が人ごみをかきわけて進み出ようとしていた。判事が合図をすると巡査長が二人の巡査をしたがえていって、女を壇の前に連れてきた。
上級書記官がディー判事の耳もとに口をよせてささやいた。
「閣下、あれは何か想像上の訴えで、何か月もフォン閣下を悩ませ続けていた気違いばあさんです。取りあわれぬようご忠告いたします」
ディー判事はこれに対して何も言わず、ただ壇に近づいた女を鋭く見た。彼女はとうに初老を過ぎた年配で、歩行が不自由らしくて長い杖をついていた。長衣はすり切れているが清潔で、きちんとつぎがあててある。たいそう気品のある顔立ちをしていた。
彼女が膝をつこうとしたとき、ディー判事は巡査に合図を送った。
「老人と病人は私の政庁でひざまずくには及ばぬ。立ったままで、姓名と訴訟の内容とを述べなさい」
老女は深く頭を下げ、かすかな声で言いはじめた。
「いやしき手前の姓はリャン、本姓をオウヤンと申します。在世中は広東《カントン》市の商人でございましたリャン・イーフォンの後家にございます」
ここで彼女の声は絶え入るように消えて、涙が激しく頬を伝い、かぼそい体が嗚咽《おえつ》で揺れた。
女が彼には聞きとりにくい広東《カントン》なまりで話すことに、ディー判事は気づいた。それに、明らかに供述を行なえる状態ではない。彼は女に向かって言った。
「奥さん、あなたを長時間ここに立たせておくわけにはいきません。執務室のほうで伺いましょう」傍らに立つホン警部に向かって、「このご婦人を小さいほうの応接室にお連れし、お茶をさしあげよ」と命じた。
老女が連れ去られると、ディー判事は何件かの日常的事務を処理してから閉廷した。
ホン警部が執務室で判事を待っていた。
「閣下、あの女は精神が錯乱しているようです。茶を一杯飲むとほんのしばらく落ち着きました。そして自分と家族とがひどい不法行為を受けてきたことをわかるように話してくれました。そこでまた泣き出して支離滅裂《しりめつれつ》になってしまいました。気持ちを落ち着かせるため、私の一存で閣下のお宅から老女中に一人来てもらっています」
「いい考えだよ、警部」と判事が言った。「あの人の気持ちがすっかり楽になったうえで、聴取できるかどうか見ようじゃないか。たいていの場合、そういう人たちの語る不法行為は彼らの錯乱した精神の中にだけ存在するものだ。とはいえ当政庁へ公正な判定を求めて来た人を、私が問題についてはっきりした判断を得ないうちに追い払えるものではない!」
ディー判事は椅子を立ち、手を後ろに組んで行きつ戻りつしはじめた。何をお悩みなのかと、ホン警部がたずねようとしたとき、判事は足を止めた。
「今はわれわれしかいないから、私の忠実な友であり相談相手である君に、普慈寺にかんする最終的な話をしておきたい。ここへ、近くへ来たまえ、人に聞かれぬように」
声を低めて、ディー判事は続けた、
「捜査を続けても何にもならぬことは、君にはわかるだろう。第一、決定的な証拠をにぎることはほとんど不可能だ。その才能に大いに信を置いているタオ・ガンにも秘密の入口を発見できなかった。それに、もし僧たちが何かわからない手を使って悪評のある行為をしでかしたとしても、その犠牲者が出て来て彼らに不利な証言をすることは望めない。そうすれば婦人自身や夫を嘲笑と侮蔑の的にし、彼らの子の正統性に疑問を投げかけることになるのだからね。そのうえ、これは君一人にだけ、絶対に信頼した上で言うのだが、もっと強力な理由があるんだよ」
警部の耳もとにささやきかけるようにして、ディー判事は続けた。
「最近首都から憂慮すべき知らせがはいった。常に勢力を増しつつある仏教教団は、今や宮廷内部にまで食い入っているらしい。多数の女官たちを改宗させることから始まって、今や黒衣の徒党はわが至高なる天子の御心をとらえることにも成功した。人を惑わす彼らの教義に、陛下は配慮を与えることを請け合われた。
首都の白馬寺の総管長は枢密院の一員に挙げられ、彼および彼の一派はわが帝国の宮中の事情および一般国事に容喙《ようかい》しつつある。彼らの密偵や手先はどこにもいる。帝《みかど》の忠臣たちはみな甚《はなは》だ憂慮している」
ディー判事は顔をしかめ、低い声でなおも語り続けた。
「こういうわけだから、もし私が普慈寺の審理に手をつけなどしたら、何が起こるかわかるだろう? 通常の犯罪者に対するのでなく、強力な国家的組織にぶつかるのだからね。仏教徒連中はただちに管長の後ろにつき、最大限これを支援するだろう。彼らは宮廷内で運動を開始し、影響はこの地方にふり注ぎ、金目《かねめ》の贈り物がしかるべき所へばらまかれる。たとえ私が反駁しようのない証拠を提出したとしても、私がそういう審理に手をつけるよりさきに、辺境の遠い任地へ飛ばされることになるだろう。でっち上げの罪名で鎖につながれ都へ送られることだってあり得るのだよ」
「それでは、閣下」とホン警部は憤然とした、「私たちは全く無力だというのですか?」
ディー判事は悲しげにうなずいた。しばらく考えこんでいたあと、ためいきまじりに言った。
「その審理に着手して、解決して、犯人に有罪宣告をして、処刑して――もしこの全部を一日でやってしまえればなあ! だが、知ってのとおりわれわれの法律はそのような専断的な手段はとれないようにしている。もし私が完璧な供述をとっても、死刑宣告には首都の宮廷の認可を受けねばならず、私の報告が州と府の当局を経て宮中に届くのに何週間もかかる。それだけの余裕があれば、仏教徒連中が報告を握りつぶし、訴訟を却下し、汚名を着せて私を官職から逐《お》うのには、十分な時間と機会があるだろう。われわれの社会からこの病根を取り除くことに成功する公算がほんのかすかにでもうかがえるならば、私は喜んで官職を、いや生命すらも危険にさらすだろう。だが、どうもそんな機会は絶対になさそうなんだなあ!
ところで警部、いま打ち明けたことは一言たりとも口外せぬこと、二度とこれについて質問せぬことを命ずるぞ。この政庁の職員の中にも管長のスパイはいるに相違ないと思う。普慈寺について何か口にすることは一言たりともならぬ。
さあ、老夫人に訊問できるかどうか、見てきてくれたまえ」
ホン警部が老女を伴ってもどってくると、ディー判事は机の向かい側のすわり心地のいい椅子にかけさせた。そして優しく語りかけた。
「奥さん、あなたがそんな苦境におられるのを見るのは非常に心苦しいのです。先ほどご主人の名前がリャンだということをおっしゃったが、その死の有様やあなたの蒙った不法行為についてはまだ詳しくお聞きしていない」
老女はふるえる手で袖の中を探って、色あせた錦の布で巻いた手書きの書類をとり出し、うやうやしく両手でディー判事に捧げた。彼女はつかえつかえ言った。
「何とぞ、これらの文書をお調べになってくださいませ。私の老いた頭は近ごろすっかり混乱して、はっきりとものを考えることは、ほんのわずかの間しかできなくなりました。私自身と私の家族がうけてきたひどい不法行為について、とおしてご説明することはもうできません。その文書の中から、すべてをお読みとりくださいませ」
椅子に体をあずけて、彼女はまた涙を流しはじめた。
濃い茶をさし上げなさい、とホン警部に命じておいて、ディー判事は包みを解いた。中には年月を経《へ》て、使い古されて黄ばんだ文書のぶあつい一巻がはいっている。最初の一枚をひろげてみると、明らかに学識豊かな人物が美しい文体、品のいい書体で書いた長文の訴状であった。
ひととおり眺めると、それが広東《カントン》の富裕な商家、リャンとリンの二つの名家の間の血なまぐさい確執を記述したものであるとわかった。事はリンがリャンの妻を誘惑した時に始まる。それ以来リンは無慈悲にリャン一家を迫害し、その財産を奪いとった。文書の終わりに来て日付を見たとき、ディー判事は驚いて顔を上げていった。
「奥さん、この文書の日付は二十年以上も前のものではありませんか!」
「無慈悲な犯罪は時が経っても忘れ去られることはありません」と老女は静かな声で答えた。
判事は他の文書に目を通したが、みな同一事件の、その後のさまざまな時期のもので、最も新しいのは二年前の日付だった。しかし新旧を問わずどの文書の末尾にも、「証拠不十分につき棄却」という知事の決裁が朱筆で明記してあった。
「これは全部|広東《カントン》市で起こったことのようですが」とディー判事は言った、「なぜあなたは、家族の故地を離れたのですか?」
「私が蒲陽《プーヤン》に参りましたのは」と老女が言った、「主犯のリン・ファンが、たまたまこの県に定住することになったからです」
以前にこの名前を聞いたことがあるかどうか、判事には思い浮かばなかった。書類を片づけながら彼は優しく言った。
「これらの記録はよくよく注意して読みますよ、奥さん。何らかの結論に達したらすぐまたここに来ていただいて、さらに相談いたしましょう」
老女はゆっくり立ちあがり、深く頭を下げて言った。
「このひどい不法行為に対し補償の道を講じてくださる知事様を、私は多年待っておりました。天の神様のお情けで、その日がやっと参りました!」
ホン警部が彼女を連れて行った。もどってくると、ディー判事が言った。
「まず見たところ、目はしが利いて教育もある悪漢が他の多くの人々を破滅させて自分の財をふやしながら、自分が処罰をうけるべきところをいつも免がれているという、よくある厄介な事例の一つだろうな。悲嘆と絶望があの老婦人の精神を乱してしまったのははっきりしている。被告側の論拠に不備を見出だせるかどうか疑わしいが、この書状をよく読んでやるのが、あの女のためにできるせめてものことだろう。少くともこの件は、現在首都の宮廷に籍をおく卓越した法律家の某知事の手をとおっているのだから」
それから、ディー判事はタオ・ガンを呼ばせた。助手の意気消沈した顔を見ると、彼はにこやかに言葉をかけた。
「元気を出せ、タオ・ガン。仏教徒連中のまわりにつきまとっているよりもましな仕事を見つけてあげたよ。あのリャンばあさんの住んでいる所に行きたまえ、彼女と家族にかんして集められる限りの情報を集めるのだ。それから、この市内のどこかに住んでいるはずの、リン・ファンという金持ちを探し出してほしい。それについても報告をくれたまえ。両人とも広東《カントン》の出身で、二、三年前当地に住みついたという事実が手がかりになるだろう」
ディー判事はホン警部とタオ・ガンをさがらせたあと、上級書記に命じて県行政の日常事務にかんする書類をもって来させた。
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第七章
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マー・ロンは無住の道観を発見し
すさまじい乱闘がくり広げられる
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その午後ディー判事の執務室を出たあと、マー・ロンは自分の部屋に行き、多少の手を加えることによって風采《ふうさい》を変えた。
帽子を脱いで髪をざんばらにしてから、汚れたぼろ布でゆわえなおした。だぶだぶのズボンをはき、そのすそを足首にわらなわでくくりつけた。それからつぎはぎだらけの短い上着を肩にはおり、最後に布底の靴をわらじとはき替えた。
このかんばしからぬ風体で政庁の脇門から抜け出ると、彼は通りの人ごみにまぎれこんだ。彼に目を向ける人々があわてて道を譲るのを見ておおいに満足した。大道商人たちはマー・ロンが近よるのを見ると、本能的に売り物を腕でかかえこむ。マーロンはわざと恐ろしげな顔つきをし、いくぶんかはそれを楽しんでもいた。
しかし、仕事が思ったほど簡単でないことはすぐわかった。浮浪者の出入りする道ばたの露店でまずい飯を食い、すぐ隣のごみ溜めの匂いがしみついている穴ぐらのような場所で粕酒を飲み、悲しい身の上話を聞かされ、わずかな借銭の頼みごともさんざん聞かされた。だがそれらはみなどこの都市の裏通りにもいる比較的罪のない人間のくずども、かっぱらいにすりといったところにすぎない。きちんと組織をもち、暗黒街《アンダーワールド》で何が起こっているかを正確につかんでいる土地の下層のやくざたちにはまだ接触していないなと、彼は感じていた。
マー・ロンがやっとかすかな手がかりをつかんだのは、日も暮れようとするころだった。道ばたのとある屋台で、ひどい液体を我慢してまた一口のどに流しこんでいた時に、そこで食事をしていた二人の乞食の会話の一部を小耳にはさんだ。着物を盗むのにいい場所を一方がきくと、もう一方が返答した、
「赤道観《あかどうかん》の連中なら知ってるよ!」
下層の犯罪者たちが荒れ道観〔道教の寺院〕の周辺に集まりたがることはマー・ロンも心得ていた。しかしたいていの道観には朱塗りの門や扉があるものだし、着いてからまだ二、三日にしかならぬこの市内で、ほかならぬその道観をどうつきとめたものか途方にくれた。市の北門に近い市場に行く途中で、彼は一人の浮浪児の首根っこをぐいととらえ、赤道観へ案内しろと荒っぽく命じた。ぼろをまとった小僧は一言も問いかえさず、狭くて曲りくねった迷路のような路地をぬけて薄暗い一画に連れていった。そこまで行くと小僧は身をよじらせて手から脱け出し、一目散に逃げていった。
道観の大きな赤い門が夜空にそそり立っているのが正面に見えた。左右には古い屋敷の牆壁《しょうへき》が高くそびえ、その根かたに沿って木の掘立小屋が並んでいるが、どれも壁がかしいでしまっている。道観が繁昌していたころは信心家相手の行商の露店だったが、今では町の無法者が占拠しているのだ。
庭は汚物とごみでいっぱいだ。その臭気が、ぼろを着た老人が間に合わせの炭火で餅を揚げている安油のむかむかする匂いと混じり合う。いぶるたいまつが壁の割れ目にさしこまれ、そのおぼろげな明かりで、マー・ロンは一団の人々が輪になってうずくまり、賭けごとに夢中になっているのを見た。
マー・ロンはこの群れのまわりをぶらぶら歩いた。上半身裸で便々たる太鼓腹の肥大漢が、伏せた酒がめに腰を下ろし、背を壁にもたせかけていた。のびた髪とぼうぼうのあごひげは、脂と垢《あか》でかたまっている。左手で腹をかきながら、彼ははれぼったい目で勝負を追う。帆柱のように太いその右腕はこぶつき棍棒《こんぼう》の上におかれていた。三人のやせた男が地べたのさいころ板を囲んでしゃがみ、他の者は離れて、あたりの暗がりにひそんでいた。
マー・ロンはしばらくそこに立ってさいころの動きを追っていた。わずかにでも彼に注意を向けているものはいないようだった。どう話のきっかけをつかんだものかと考えあぐんでいた折も折、酒がめの上の大男が顔を上げもせずいきなり言った。
「上着を貸してもらおうかな、兄弟!」
にわかにマー・ロンは、自分が注目の的になっていることに気づいた。博奕《ばくち》打ちの一人はさいころをかき集めて、かがみこんだ姿勢から立ちあがった。マー・ロンほどの背丈はないが、むき出しの腕は筋金入りに相違なく、腹巻きから匕首《あいくち》のつかが突き出ている。にたにたしながらマー・ロンの右側ににじり寄ると、匕首をもてあそんだ。肥大漢は酒がめからはなれてズホンを揺《ゆす》り上げ、楽しげにつばを吐くと、こぶ棍棒を握りしめてマー・ロンの正面に突っ立った。
流し目をくれて彼が言い出した。
「兄弟よ、霊智観へようこそ! 信心深いお気持から供え物でもするつもりで、このありがたい場所にお出ましと考えたは間違いかな。あんたのその上着は有難く受納されること請け合いだぜ、兄弟!」
しゃべりながら彼は打ちかかる構えをした。
一目でマー・ロンは状況を読んだ。さし迫った危険はでぶの右手の剣呑《けんのん》な棍棒と、右にいる男が引き抜いた匕首である。でぶが話し終えると同時に、マー・ロンの左腕が飛び出した。でぶの右肩をつかんで親指で正確な場所を押さえつけ、棍棒を持っている腕を一時的に利かなくさせた。でぶはすばやく左手でマー・ロンの左手首をつかみ、前に引き寄せて膝で蹴り上げようとした。だが、ほとんど同時にマー・ロンは右肘を曲げて上げた。それを力の限り後ろへ振ると、肘は匕首を持つ男の顔に激突し、男はかすれ声をたててぶっ倒れた。さらに、一《ひと》続きの動作でマー・ロンの腕は前に動き、でぶの無防備な横隔膜あたりに強烈な一撃をくらわせた。でぶはマー・ロンの左手首をはなし、地べたに二つ折りになってあえいだ。
匕首を持った男にもっと気配りが必要かどうかふりかえってみようとした時、マー・ロンは背中に押しつぶされるような重さを感じた。絞殺魔の万力のようにたくましい腕が後ろから彼ののど首にまきついてくる。
マー・ロンは強い首を曲げてあごで相手の腕を押さえつけ、同時に背後を探った。左手は襲撃者の服を引きちぎっただけだが、右手が足をつかんだ。それを力の限り前に引き寄せながら、右側へ急に体を倒した。二人は地面に崩れ落ちたが、マー・ロンのほうが上にいた。尻に全身の体重をかけたので、相手の腰骨はくだけんばかり。万力はゆるんだ。マー・ロンははね起き、この間に何とか起き上がっていたやせた男が突き出してくる匕首を危うく避けた。
身をかわしながらマー・ロンは匕首を握っている手首をつかんだ。相手の腕をひねって肩に背負うと、すばやくひょいと体をすくめ、空《くう》に大きく輪をかいて相手を投げとばした。男は壁にどんとぶつかって空《から》の酒がめの上に落ち、粉みじんにしてしまった。そのまま微動だにしない。
マー・ロンは匕首をつまみ上げて、壁越しに投げこんだ。表だたずに並んでいるぼんやりした人影のほうに向き直りながら言った。
「ちょいと荒っぽかったかな、兄弟、だが匕首を使う連中にはどうにも我慢ならねえんだ!」
ぶすぶすと、否とも応ともつかぬ声が返ってきた。
でぶはまだときどき唸り声や悪態をまじえながら、地べたでしきりに吐いていた。
マー・ロンがそのひげをとって引き起こし、背中を壁にぶち当てるように投げた。でぶはどすんと落ちて尻餅をついた形で沈みこみ、マー・ロンに向かって目をぎょろつかせた、まだ息を切らしてあえいでいる。
かなり経って、いくらか回復するとでぶはかすれ声で言った。
「その、つまり、挨拶をおうけくださった上は、ご立派なあんさんのお名前とご商売をお聞かせ願いたいもので」
「おれの名前はロン・バオで」とマー・ロンは即妙に応じた、「正直な大道商人、街道沿いに品物を商って歩くのさ。今朝、日の出のころ金持ちの商人に会ったら、おれの商品がお気に召して銀三十粒でそっくりお買い上げだ。そこでおれはお礼のしるしに神様に香を上げるつもりで、急いでここへやってきた」
一同はげらげら大笑いし、未来の絞殺魔がマー・ロンに晩飯は食ったかと声をかけた。マー・ロンがまだだというと、でふが揚げ餅売りに向かってどなり、一同は炭火のまわりに集まって、強いにんにくの匂いのする揚げ餅を食べた。でぶはションパというのだと知れた。まちのならず者全部から推されて頭《かしら》をつとめ、同時に乞食|同業組合《ギルド》の相談役でもあると、彼は得意そうに自分を紹介した。彼と子分たちは二年来この道観の門前に住みついている。以前は相当に繁昌した場所だったが、何かの問題が起こったらしい。道士たちは去り、道観の扉は当局の手で封鎖された。閑静ですてきなところでさ、それでいて町の中心からそんなに遠くない、とションパは言った。
マー・ロンはちょっぴり厄介な立場にあるのだと、ションパに打ち明けた。銀三十粒は安全な場所にかくしたが、できるだけ早くこの町を離れたい。まきあげられた商人が政庁に訴えて出たかもしれないからだ。重い銀の包みを袖に入れて街なかを歩くことなど考えたくもない。何かこう身につけて隠せるちっぽけな貴金属に取り換えたいものだ。その取引で多少は損がいってもいい。
ションパはもっともらしくうなずいて言った。
「それはあんさん、用心がいい。だが、銀てえのはすごく珍しい売り物だ。おれたちはもっぱら銅銭だけで取引している。それはさて、銀をもっとかさが少なくて、値打が同じものと取り換えるとなりゃあ、やっぱり金しかあるまいて! ほんとんところを言えば、あんさん、おいらの仲間じゃそういう運のいい黄色いしろものにお目にかかるのは、あったところで一生に一度さね!」
金はめったにない宝だと同意したあとで、マー・ロンはつけくわえて、誰かいい家の女衆が輿《こし》から落っことした小さな金の飾りを乞食が拾うなんてことが折よくあるかもしれない、「そんな運のいい拾い物の情報は伝わるのが速いさ。あんたが乞食組合の相談役なら、すぐ耳にはいるだろう」
ションパはのんびり腹をかきながら、もしそんなことが起きるなら、それはあり得ないことではないと同意した。
あまり気乗りがしていないなと、マー・ロンは見てとった。
彼は袖を探り、一粒の銀をつまみ出した。それを手の平にのせて重さをためし、またたいまつの光をうつしてちらちらさせた。
「三十粒の銀を隠したときに」と彼は言った、「お守りにと思って一つとっといたのさ。取引話の仲介をしてもらうとして、手数料の前渡しにこれを受け取ってもらえるかな」
ションパはあきれたすばしこさで、マー・ロンの手から小粒銀をひったくった。
顔中で笑いながら彼は言った。
「あんさん、あんたのために何ができるかやってみましょう。明日の夜またおいでなさい!」
マー・ロンは礼を言い、新しい仲間たちと陽気な挨拶を交わして別れた。
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第八章
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判事は同僚を訪問することに決め
半月小路暴行殺人事件を解説する
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政庁に帰りつくとマー・ロンはさっさと服装を替えて本|院子《なかにわ》へ行った。判事の執務室にはまだ明かりがついている。
ディー判事とホン警部は協議中だった。マー・ロンがはいってくるのを見ると、判事は話を打ち切った。
「さて、わが友、なにか報告があるのか?」
マー・ロンはションパとの出会いを手短かに報告し、彼との約束について話した。
ディー判事は喜んだ。
「もし君がしょっぱなから犯人を発見したとなれば」と彼は述べた、「これはたいへん幸先《さいさき》がよさそうだね。君はすばらしい出足を切った。噂は暗黒街の特別なルートを通してすばやく伝わり、今ごろは当の人物と連絡がついていると思うよ。いずれションパが、紛失した簪《かんざし》の手がかりを知らせてよこし、それが君を殺人者のところへ導くことは確実だよ。
ところで、君の来るまえ相談していたことだが、明日あたり私が近県の同僚たちに表敬訪問をするために出発するという名案があるのだ。慣例でおそかれ早かれそうしなくてはならないのだったら、今が時機を得ていると思う。私が二、三日|蒲陽《プーヤン》をあける。その間、君は半月小路の犯人逮捕のため努力を続ける。もし君が必要とするなら、チャオ・タイに捜査に協力するよう命じよう」
マー・ロンは一人でやるほうがいいと思っていた。二人の人間が同じことをかぎ回るのは、疑いを招くかもしれないからである。判事も賛成し、マー・ロンは辞去した。
「時期はちょうどよさそうですね」とホン警部は考え考え言った、「もし閣下が一日|二日《ふつか》お留守となれば、政庁は閉まります。そうすればワン学士の訴訟事件を中断する正当な理由ができます。ワン学土は知識階級なのに被害者はただの貧乏小売商の娘だというので、閣下がワンをかばっていらっしゃるという流言が広まっています」
ディー判事はちょっと肩をすくめてみせてから言った。
「ともあれ、私は明朝|武義《ウーイー》へ向かって発つ。次の日はそこから直接|金華《チンホア》へ行き、三日目にここに帰る。私の留守中マー・ロンとタオ・ガンが指示を求めてくるかもしれないから、警部、君は同行しないほうがいいね、ここに残って政庁の印章の管理を頼むよ。それから武義《ウーイー》の同僚パン君と金華《チンホア》知事のルオ氏のために、適当な儀礼的贈呈品を調えるように指図しておいてくれたまえ。旅行用の輿に荷物を積みこんで、明朝早く本|院子《なかにわ》に待機させておくように!」
ご命令は間違いなくやっておきますと、ホン警部は判事に約束した。ディー判事は校閲を求めて上級書記官が置いていった書類を調べようと、机に身をかがめた。
警部は立ち去りかねるように、ディー判事の机の前に立ったままでいた。
しばらくして判事が顔を上げてたずねた。
「何か気がかりか、警部?」
「閣下、私はあの暴行殺人事件について考え続け、記録を繰り返し読みました。しかしどうやってみてもあなたの推理について行けないのです。時刻が遅いですが、明日のご出発をひかえて、もし閣下がもうすこし何か説明してくださいますならば、お留守のふた晩というものを、私はどうにか安眠できるだろうと思うのです」
ディー判事はにっこりして、机の書類の上に文鎮をのせた。そして椅子の背に身をもたせた。
「警部、召使に茶を新しく入れてくるように言ってきてから、ここの腰掛にすわりなさい。宿命的な十六日の晩に、本当のところ何が起こったと考えているのか説明してあげよう」
濃い茶を一杯飲んでから、判事は語りはじめた。
「この件の主要事実を君からきいた時すぐに、私は純玉に暴行した人物からワン学士をはずした。女というものがしばしば奇妙に残忍な考えを男に起こさせるのは事実だ。孔子が『春秋』の中で、折にふれて女性を[あの魔力を持つ生きもの]と呼んでいるのも、故なきにあらずさ。
しかし、そのような邪悪な考えを行動に移す人々には二つの種類がある。第一は下層民の、堕落しきった常習犯罪者だ。第二は長い放蕩生活のすえ倒錯的な性癖の奴隷となってしまった金持ちの好色家たち。ワン学士のように謹直な性格の勉強家の青年でも、もし恐怖のあまり逆上すれば娘を絞め殺すこともあると想像できる。しかし暴行することは、ましてもう六か月以上も親密な関係にあった娘が相手なのだから、私には絶対あり得ないことだと思われる。そこで私はいま挙げた二種類の人々の中から真犯人を見つけなければならなくなった。
富裕な堕落者の可能性はすぐに捨てた。そうした手合は、金《かね》で支払う用意さえあればどんな悪習、どんな邪道でも思いのままという秘密の巣窟に出入りする。半月小路のような貧しい小売店の並ぶ区画があることに、金持は恐らく気づいてもいないだろう。そういう連中がワンの訪問について知ることがあろうとは全く考えられないし、布切れの端につかまって軽業をする能力なんぞはいわずもがなだ。こうなると、あとは下層の常習的犯罪者だけになる」
ここで判事はちょっと黙った。そしてきつい調子で続けた。
「そういう見下げはてたならずものたちは腹をすかせた犬のように町中をうろつきまわる。暗がりの小路で無防備の年寄りに出くわせば、なぐり倒して、持っているわずかな銭《ぜに》さしを奪う。一人歩きの女に会えば、なぐって気が遠くなったところを暴行し、耳から耳輪を引きちぎり、溝に転がしたままにして行ってしまう。貧乏人の家の間をこそこそ歩き、鍵のかかっていない戸や開け放しの窓があれば、忍びこんでたった一つの銅のやかんか、一枚こっきりのつぎはぎの長衣を盗んで行く。
そんな奴が半月小路を通りかかって、ワンが純玉をこっそり訪ねるのを見かけたと仮定するのは理窟に合わないだろうか? 秘密の恋人の持ち場を侵害する者に対して不服を言えない女をものにする機会を、その暴漢はすぐさま見ぬいた。だが純玉は自分を守った。たぶん娘は叫んだか、両親を起こしに戸口へ走ろうとした。そこで男は娘を絞殺した。この憎むべき行為を犯しておいて、彼は図々しくも金目のものを求めて被害者の部屋を荒らし、娘の持つ唯一の装身具をさらって行った」
ディー判事は話を終え、茶のお代わりを飲んだ。
ホン警部はゆっくりうなずいた。そして言った。
「ワン学士がこの二重犯罪を犯したのでないことを、閣下は確かに説き明かされました。それでも、法廷で使える明確な証拠が、まだ私には見えてきません」
「確実な証拠をというなら」と判事は答えた、「あるんだよ! 第一に、君は検屍官の証言を聞いたろう? もしワン学士が純玉を絞殺したのならば、長い爪が娘ののど首に深い切れ目をのこしたはずだ。皮膚があちこち傷ついてはいたが、検屍官はただ浅い爪跡を認めただけだ。これはごろつき浮浪者の短くてでこぼこな爪を示している。
第二に、純玉は襲われたとき力いっぱい抵抗した。しかしそのすり減った爪では、ワンの胸と腕にあるような深いひどいかき傷は絶対にできない。ちなみに、あの引っかき傷はワンの考えているようにいばらでできたものではないのだが、それはいずれ考え直してみようと思っている小さな問題さ。ワンが純玉を絞殺した可能性については、ワンの体格を見、それから検屍官が娘について述べたことを聞いたとき、もしワンが娘を絞め殺そうとしたら、すぐ窓から押し出されてしまっただろうと確信したことも、ついでにつけ加えていいね。だがまあ、それはどうでもいい。
第三、十七日の朝、犯罪が発覚したとき、ワンが窓に登るのに使った布のひもは娘の部屋の床にかたまって落ちていた。もしワンがこの犯行を行なったのなら、いや、ともかくもその部屋に行ったのなら、間に合わせの綱なしで彼はどうやって出られたのか? 彼は運動好きなタイプではなく、窓を登るには娘の助けを必要とした。しかし押込み強盗の体験を積んだたくましい男ならば、急いでその場を離れねばならぬ時、わざわざひもを使うことはあるまい。君も見たとおり、チャオ・タイがしたと同じようにするだろう。ひらりととびこえて、まず窓枠に両手でぶら下がり、そこからとびおりる。
こうやって私は私なりの犯人像をつかんだのさ」
ホン警部は満足そうににこにことうなずいた。
「閣下の推理が信頼できる事実にもとづいていることが、ようやく私にもよくわかりました。犯人がつかまった場合には、必要なら拷問も加えながら十分な証拠をつきつけて自白を迫ることができましょう。確かに奴はまだこの市中におります、不安を感じてどこか遠くへ逃げだすはずはありません。フォン判事がワン学士の有罪を確信していて、閣下はその判断に同調しているというふうに、市中に知れ渡っているのですから」
頬ひげをなでながらディー判事はおうようにうなずいた。
「その悪党は金の簪《かんざし》を手放そうとし、そのため本性《ほんしょう》をあらわすことになるだろう。マー・ロンは簪《かんざし》が秘密の泥棒市場で売りに出された時にそれを知り得る人物と渡りをつけた。いつでも盗品の説明書が政庁からまわるとわかっている金細工師や質屋には、犯人は近づこうとはしないだろう。彼はまず犯罪者仲間のうちで運を試してみるはずだから、お偉いションパの耳にはすぐはいるだろう。そうして筋書どおりにマー・ロンは首尾よく求める人物をおさえるわけだ」
ディー判事はもう一口茶をすすってから、朱筆をとり上げて、前に置かれた書類にかがみこんだ。
ホン警部は立ち上がった。考えこむように口ひげをひっぱっていたが、しばらくして言った。
「閣下がご説明にならなかったことが、まだ二つあります。どうして閣下は犯人が乞食坊主の着物を着ていると知られたのでしょう。それから夜警にはどんな意味があるのでしょう」
ディー判事はしばらく黙ったままで、調べもののほうに集中していた。余白にちょっと意見を書きこむと、筆を置いて書類を巻いた。そして濃い眉の下からホン警部を見つめて言った。
「今朝ワン学士が話していた、夜警をめぐる妙な出来事が、私の心の中の犯人像に、仕上げの一刷毛《ひとはけ》を加えたんだよ。君も知るように、下層の悪党は道教や仏教の托鉢僧のなりをすることがよくある。昼といわず夜といわずいつも市中をほっつき歩くのには一番いい変装さ。だから、ワンが二度目に聞いたのは夜警の拍子木ではなかったので、つまり――」
「托鉢僧の木魚だ!」ホン警部は叫んだ。
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◆参考資料
中国の家屋について
四合院と呼ばれるコートハウス形式を基本単位とすることが多い。すなわち牆壁で四角に囲んだまんなかに庭(院子《ユワンズ》)があり、それを取り囲んで三方または四方に部屋が並ぶ。それを一つの単位として奥へ奥へと重ね延ばしていくことで家の構えが大きくなる。上図では前院子《まえなかにわ》と第一、第二院子までしかないが、大邸宅や寺院、ディー判事の場合のように役所と住居を兼ねる場合などではさらに複合と拡張の度を加え、その中に広い庭園を包みこんだりもする。正門に近い院子は公共性があるが、あるところから奥の院子は私的な生活の場として家族以外の男子を入れないのが原則であった。
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第九章
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重大な用向きを携えて二僧は訪れ
判事はルオ知事の宴席で歌を披露
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翌朝、判事が旅行服を着けていたとき上級書記が来て、普慈《ふじ》寺から管長の伝言を持って二人の僧が政庁に来ていると告げた。
ディー判事は正装に着替え、机の前にすわった。年輩の僧と、やや若い連れとが案内されてきた。彼らがひれ伏して頭を三度床につけている間に、判事は彼らの黄色の衣《ころも》が上等の緞子《どんす》で、紫の絹裏つきであるのを観察していた。手には琥珀《こはく》の珠数《じゅず》を持っている。
「普慈寺管長|聖徳《せいとく》殿は」と年輩の僧が朗唱した、「鄭重《ていちょう》なるご挨拶を閣下にお伝え申しあげるよう愚僧らに命じました。とりわけ着任早々のこの時節は、公務が閣下を求めることの如何に重いかを、猊下《げいか》は十分に心得ておられます。ゆえに自らここに手間ひまかかる訪問はいたされません。しかし、いずれ折を見て閣下に拝顔の栄をうけ、ご教示の恩恵に浴するつもりでおられます。それまでは、もし知事閣下への敬意を欠くとお思いになられては困りますので、何とぞささやかな儀礼上の贈物をお納め願いたく、つまらぬ値打のものではございますが、その中にみなぎる畏敬の念をおくみとりくださいますように」
こういいながら合図をすると、若いほうの僧が立ち上がり、高価な錦で包んだ小さな包みをディー判事の机に置いた。
判事が贈物を断わるものと、ホン警部は考えていた。ところがあきれたことに、ディー判事はそんなたいそうな光栄に値しないと型通りのお世辞をもごもごつぶやいただけで、格別包みを返そうという動きは見せなかった。そして椅子から立ち上がり、丁寧に礼を述べた。
「猊下《げいか》のお考えの深さに大いに感じ入り、かつご親切な贈物に感謝しておりますことをお伝えください。しかるべき折に答礼申し上げるつもりです。私は釈迦牟尼《しゃかむに》の道の信者ではございませんが、仏道の教義に強く関心を寄せており、聖徳どののごとき大徳からその深遠な教えをくわしくご教授いただく機会もあろうかと大いに期待しておりますことも、必ず申しあげてください」
「私どもは謹んで閣下の仰せのとおりに致します。あわせて、猊下は閣下に対しある事実についてご報告するようにと申しました。それ自体は些細な事でございますが、当政庁にご報告申しあげるだけの重大性が十分にあると思われます。まして閣下はお優しくも昨日午後の公判において、私ども貧しい寺院がこの県の善良なる市民すべてと同じく、閣下の貴い庇護《ひご》をうけることを明言してくだされたのでございますから。最近私どもの寺は、寺の正当な財産であるところの数さしの銭を愚かな僧から奪おうとはかったうえに、いろいろと無礼な詮索をする詐欺師どもの訪問をうけております。閣下にはこれら執拗な悪漢の活動を制するため、適切な指令をお出しくださいますようにと、猊下《げいか》は希望しておられます」
ディー判事は頭を下げ、二人の僧は帰っていった。
判事はひどくいらいらしている様子だった。タオ・ガンが昔のわざをまた使ったことがわかったし、またさらに悪いことに、彼は政庁まで尾けられたのだ。ためいきをつきながら、ディー判事はホン警部に包みを開けるよう命じた。
念のいった包装を解くと、輝く純金の延棒三本と、同じ数のずっしりした銀がはいっていた。
ディー判事はもとどおり包みなおして袖にしまった。明らかに賄賂であるものを判事が受納するのをみたのは初めてだったから、ホン警部は大いに悩んだが、判事の先刻の指示があったから僧たちの訪問についてあえて何も口にせず、黙って判事がまた旅装に着替えるのを手伝った。
ディー判事が広い応接室の前庭にゆったりと歩み出ると、公式の供ぞろいがすでに待機していた。旅行用の輿《こし》は段の下にすえられ、六人の巡査が前に、六人が後に随い、先頭のものたちは、「蒲陽《プーヤン》知事」としるした長柄の看板を手にしていた。たくましい輿丁《こしかつぎ》が六人、輿の担い棒について立ち、控えの十二人は判事の手荷物をかついでいる。
万事整っているのを見とどけてディー判事が輿に乗ると、輿丁たちはたこのできた肩に担い棒をかつぎ上げた。行列はゆるゆると院子《なかにわ》を横切り、二枚扉の門を抜けて行く。
行列が政庁の正面にかかると、弓と剣で武装したチャオ・タイが判事の輿の右側に馬を進め、巡査長がやはり騎乗して左側に位置をとった。
行列は蒲陽《プーヤン》の市中を通って出発した。二人の使丁が手にした銅鑼《どら》を打ち鳴らしながら先を駆け、「道を開けろ! 道を開けろ! 知事様のお成りだ!」と叫んだ。
ふつうなら群衆のなかから歓声がわくのに、それが全く起こらないのにディー判事は気づいた。輿の窓の連子《れんじ》格子ごしに見ると、大勢の通行人たちは一行に陰気な眼差しを向けている。ためいきをついて小布団によりかかり、判事は袖からリャン夫人の書類をとり出して読みはじめた。
蒲陽《プーヤン》を出てから行列は平坦な稲田ばかりの間の街道を何時間も通っていった。ふいに判事は巻物を膝におとし、単調な風景を見るともなく見やった。いま考えている行動の成りゆきを見通してみようとしたが、結論に達することができなかった。振り子のような、輿丁の調子のよい動きが眠気を催させ、とうとう判事は眠りこんだ。彼が目覚めたのはもう夕闇が迫り、一行が武義《ウーイー》市内にさしかかったときだった。
県知事のパン判事は政庁の大応接室でディー判事を迎え、地方紳士の有力者が陪席する晩餐でもてなした。
パン知事はディー判事より何歳か年長だが、文官試験に二度失敗しているため、昇進しなかった。
ディー判事はパンが学識豊かで自尊心の強い謹厳な人物であることを理解し、彼が試験に失敗したのは学識の不足のためではなく、むしろ文学の時流にしたがうことを拒んだためだと納得がいった。
食事は簡素なもので、おもなよびものは主人役の才能輝く座談であった。ディー判事はこの地方の行政に関して多くを学んだ。宴会が終わり、彼のために用意された客室に退いたのは、もう夜も更けたころだった。
翌朝早くディー判事は別れを告げ、一行とともに金華《チンホア》に向かった。
松におおわれた小山と、優しく波うつ竹林とがよい調和を見せる丘陵地帯の間を縫って道が続いている。すばらしい秋の日で、ディー判事は輿の垂幕《たれまく》をまき上げてうららかな風景を楽しんだ。しかし、その眺めも、彼の頭を占める難問を忘れさせることはできなかった。リャン夫人の法律的問題につきあれこれ思案することにもやがて倦《う》み、彼は巻物を袖の中にもどした。
彼の安まることを知らぬ心から、この件がはなれたと思うと、とたんに今度は半月小路の殺人者を、マー・ロンがしかるべき時間内に発見することに成功するかどうかを気に病み始めた。今となっては、チャオ・タイを蒲陽《プーヤン》にのこして別口で殺人者の探索にあたらせなかったことが悔まれた。
行列が金華《チンホア》にさしかかる頃、ディー判事は疑惑と懸念に悩まされてひどく不安な気持でいた。そのみじめな気分に輪をかけるように、一行は市の手前を流れる川の渡船に乗りおくれてしまった。それで一時間以上のおくれが出た。やっと市内にはいった時はとうに日が暮れていた。
火をともした提灯を手にして巡査たちが一行を出迎え、大応接室の前でディー判事が輿から降りるのを手伝った。
ルオ知事はおおぎょうな挨拶で迎え、ディー判事を贅沢なしつらえの大広間にいざなった。ルオはパン判事と全く反対のタイプだと、ディー判事は心の中で思った。背の低い、太って陽気な若い男で、長い頬ひげは生やさず、当節都で流行のとがった口ひげと短いあごひげ姿である。
彼らがお定まりの外交辞令をとり交わしていたとき、隣の院子《なかにわ》から微かに楽の音がもれ聞こえてきた。ルオ知事は馬鹿丁寧に謝ったうえで、ディー判事を迎えるため二、三の友人を招いておいたと説明した。予定していた時刻をすっかり過ぎた頃、ディー判事が武義《ウーイー》に引き留められたと考えて食事を始めてしまった、私たち二人は応接室の脇部屋で食事をとり、共通の関心事である公務について静かに話し合いましょうとルオ知事は申し出た。
礼儀正しい言葉つきにもかかわらず、静かな談話がルオ知事の考えている楽しい一夜ではないことはたやすく見てとれた。ディー判事自身も誰かと真剣に議論をする気分ではなかったから、彼は言った。
「実を申すと私は少々疲れております。で、浮いたことまではせぬとしても、どちらかといえばもう始まっている晩餐に加えていただき、お友たちとお近付きになる機会を得たいと存じます」
ルオ知事は驚きまた喜んだ様子で、さっそくディー判事を第二|院子《なかにわ》の宴席に導いた。そこでは三人の紳士が食卓を囲んで浮かれ騒ぎ、楽しげに酒杯をあげていた。
一同は立ち上がって頭を下げ、ルオ知事がディー判事を紹介した。最年長の客ルオ・ピンワンは有名な詩人で、主人の遠縁にあたる。二番目は画家、その作品は首都で人気が出ている。三番目は見識を広めるため地方を視察旅行している官吏候補生。この三人はまぎれもないルオ知事の遊び仲間だ。
ディー判事の登場で、一座の酔いがさめた。お定まりの辞令がひと通り取り交わされたあと、会話がはずまなくなった。ディー判事はすばやくその様子を見てとって、続けざまに三回杯をまわした。
暖かな酒が気分を軽やかにした。判事は古い歌謡に調子をつけてうたい、一座の賞讃を浴びた。ルオ・ピンワンが自作の抒情詩をいくつか歌い、酒がもう一まわりしたあとで、ディー判事が恋愛詩を朗唱した。ルオ知事は大いに喜び、手を叩いた。それを合図に広間の奥の衝立《ついたて》のかげから、さっきルオ知事とその賓客がはいってきたとき、遠慮して引き退っていたらしい、上品なよそおいの芸妓が四人立ち現れた。二人は酒をつぎ、一人は銀の笛を吹き、四人目は長い袖を空にひるがえして優雅な舞を舞った。
ルオ知事は上機嫌で友人たちに話しかけた。
「見たまえ、諸君、うわさとは何とあてにならないものだろう。考えてもみたまえ。ここにおられるディー判事は、都ではやかまし屋の評判をお持ちだ。それが実はどんなに陽気な宴客であられるかは、いま諸君も見たとおりだ!」
ついでルオは四人の女の名を呼んで紹介した。彼女たちはチャーミングな上によくしつけられており、彼の詩と同じ韻を踏んで詩を作ったり、よく知られている曲に合わせて即妙に歌詞をあてはめたりするのが巧みなことに、ディー判事は驚嘆させられた。
時のたつのが早く、夜もかなりふけた頃、客たちはうまくグループに分かれた。酒の酌をしていた二人の女はルオ・ピンワンと画家の特別なお相手だったらしくて、仲間たちと別れて去った。官吏候補生は音楽家と舞踊家とをほかの屋敷での宴会に連れていく約束になっていた。それでディー判事とルオ知事の二人だけが宴席に残された。知事はディー判事をわが腹心の友ととなえ、うるさい形式は抜きにして互いに兄、弟と呼び合おうと、ほろ酔い気分で言い張った。二人はテーブルを離れ、テラスに歩み出て涼風を楽しみ、秋の満月を嘆賞した。彫りのある大理石の欄干に寄せて置かれた腰掛に二人は腰をおろした。ここからは、優雅な庭園の美しい風景が見おろせるのだった。
去っていった芸妓たちの魅力について活発な会話が交わされたのに続いて、ディー判事が言った。
「今日が初めての出会いだというのに賢弟よ、生まれてこのかたずっと知り合いだったような気がします。ですからどうか、ごく内密のことでご意見をきかせてください」
「喜んで!」とルオが真剣な顔で答えた。「私ごとき未熟者の意見が、あなたのような円熟した知恵者のお役に立つとはとても考えられませんけれども」
「実を申しますと」ディー判事は内緒ごとを打ち明けるように声をひそめた、「私は酒と女を大いに愛好しております。同時に私は変化を好むのです」
「すばらしい、すばらしい!」ルオ知事が叫んだ、「この含蓄あるご意見に私は全く賛同いたします。いかに最高の珍味とて、毎日供されればうんざりいたします!」
「不運なことに」とディー判事は続けた、「現在の私の地位は、私が県内の花柳の楼にときおり出入りして可憐な花を選びとり、つれづれの時をにぎわすことを許しません。市中にどんな醜聞が広まるか考えてみてください。私の役所の権威をそこないたくはありません」
「そのことは」と相手は嘆息した、「政庁の雑務ともども、われわれ高官につきまとう不都合の一つですなあ」
ディー判事は体をよせて声を落とした。
「仮にですね、よく治まっているこのあなたの県内に咲くすばらしい花を、私がたまたま見つけ出したとしたらどうでしょう。十分慎重なご裁量をもってそれら若枝を私の貧しい庭に移すよう手配していただけるだろうと確信するのは、あまりにもあなたの友情に甘えすぎるというものでしょうか?」
ルオ知事はとたんに熱意を示し、席を立って深々とディー判事の前に一礼するとねんごろに述べた。
「ご安心ください、大兄。当県に与えられた栄誉を私は心からうれしく思っております。拙宅に二、三日ご滞在くださいますならば、この重要な課題をご一緒にあらゆる角度からじっくり検討できましょう」
「たまたま明日、蒲陽《プーヤン》で私の出席を必要とする大事な公務がありますので」とディー判事は答えた。
「だが、まだ宵の口ですし、もしかたじけなくもご援助とご忠告をたまわることができますなら、いまから夜が明けるまでの間に、たっぷりやってしまえましょう」
ルオ知事は夢中で手を打って叫んだ。
「ご熱意はロマンチックなご気性をものがたるものです! あなたが女性を口説きおとすのに、あとわずかな時間しかのこされていないわけです。たいていの女たちはもうこの土地で馴染み客を得ておりますから、それをほかへ誘い出すのは容易ではありません。しかしあなたは堂々たる物腰をお持ちです。もっとも、率直に言わせていただくと、そういう長い頬ひげは、この春以来、首都ではすっかり流行らなくなってしまいましたが。とにかく、最善をお尽くしください。私のほうも上物中の上物を連れて参るよう計らいましょう」
広間のほうへ向きなおると、彼は召使に向かって叫んだ。
「執事を呼べ!」
まもなく狡滑そうな顔つきの中年者が現われた。彼はディー判事と自分の主人の前に深く頭を下げた。
「輿を連れてすぐに出かけ」とルオ知事が言った、「これから秋の月を賞《め》で唱う相手をさせるため女を四、五人連れてきてほしいのだ」
この種の命令に明らかに馴れっこの執事は、さらに深く頭を下げた。
「それでは、高貴な御趣味をお教えください。どのようなタイプがお好みか、姿形の美しいこと、情熱的な性格、あるいは上品な芸術に堪能な女でしょうか? それともしゃれた会話を楽しむのがお好きですかな? この時刻だともうたいていの妓《こ》は帰宅しているでしょうから、選択は自由です。お好みをお申しつけになれば、私の執事がご希望どおりにいたします」
「賢弟よ」とディー判事は言った、「私とあなたの間に秘密は抜きにしましょう。率直なところを申しますと、首都滞在中そうした芸の達人たちとのつき合いや、彼女らの行儀のよさにはあきあきしましてね。口にするのは少々恥ずかしいのだが、今はどちらかといえば悪趣味なほうに傾いています。正直言いますと、われわれの階層のものがふつう避ける区画に咲く花々に、いちばん引きつけられるのです」
「はあ」ルオ知事は驚きの声をあげた、「極限の陽は極限の陰に転ずると、わが国の哲学者が申しておりましたな。才貧しきものがただ卑《いや》しさしか見ないところにも美を見出ださしめる、崇高な悟りの境地に大兄は到達なさったのですな。兄の命ずるところ、弟は従うのみです!」
彼はさっそく執事をさらに近くに招き寄せ、その耳に何事かをささやいた。執事は驚いて片方の眉を上げた。彼はもう一度深々と頭を下げてから姿を消した。
ルオ知事はディー判事を導いて広間にもどり、召使にあらためて料理を運ぶよう命ずると、ディー判事に向かって杯を挙げた。
「大兄、あなたの新しいご趣向はまさに刺激的です。新奇なご体験を切に期待しておりますぞ!」
それほどは待たせないで、入口の水晶玉の簾《れん》がチリチリと鳴り、女が四人はいってきた。派手な衣裳に濃すぎる化粧をしている。二人はまだほんの若い妓《こ》で、こしらえの下品な割には悪くなかったが、少し年かさの二人の表情には不運な勤めからくる荒廃がはっきりと表われていた。
しかし、ディー判事は実にうれしそうだった。こんな品のよい環境にはなじめないで女たちがたじろいでいるのを見ると、彼は席を立って、慇懃《いんぎん》に彼女たちの名前をたずねた。若いほうの二人は杏花《きょうか》と翠玉《すいぎょく》、他の二人は孔雀《くじゃく》に牡丹《ぼたん》と言うのだった。ディー判事がテーブルに導いてきたが、女たちはどうしていいやら何を話せばいいやらわからず、目を伏せて立ったままでいる。
ディー判事はいろいろな料理を食べてみるようすすめ、ルオ知事は酒の注ぎ方をやってみせた。やがて女たちもずっと気が楽になり、周りの見たこともない様子を見回して感嘆しはじめた。
もちろん歌ったり踊ったりできるものは一人もなく、字の読めるのもいない。しかしルオ知事は箸を煮汁にひたして彼女らの名前の文字をテーブルに書いてやって喜ばせた。
女たちが酒を一杯ずつ飲み、上等のごちそうを少しずつ味わったところで、ディー判事は友の耳もとに何事がささやいた。ルオ知事はうなずいて執事を呼んだ。何やら指示を与えると、執事はまもなく立ちもどって、孔雀と牡丹に家で帰ってきてほしがっているという伝言をもってきた。
ディー判事がめいめいに銀一粒ずつを与え、二人は引きあげた。
そのあとディー判事は杏花と翠玉を自分の両側の腰掛にすわらせて乾杯のしかたを教え、またとくに変わったところもない会話を交わしていた。判事が頑張って次々と杯を空にするのを、ルオ知事はひどく面白がって見ていた。
ディー判事の巧みな問いかけに、杏花はもううちとけて応えていた。妹の翠玉と彼女とは、湖南《フーナン》地方の農家の娘だったらしい。十年前、壊滅的な洪水が農民たちを餓死寸前に追いこんだ。親は娘たちを首都から来た女衒《ぜげん》に売った。彼はまず二人を女中として使い、成長すると金華《チンホア》の親戚に売った。つらい稼業がまだ生得の誠実な心をむしばんでいないことを見てとったディー判事は、優しく接して適切な指導を加えるならば、伴侶として大いにふさわしいものになると考えた。
真夜中にかかる頃、ルオ知事はついに限界に達した。椅子の中で体をまっすぐにしていることも難しく、話もほとんどはっきりしなくなってしまった。その様子を見てディー判事はお引きとりを願うことにした。
ルオ知事は二人の召使にたすけられながら退席した。彼は判事にもごもごとお休みの挨拶を述べ、
「ディー閣下のご命令は私の命令だ!」と執事に言いのこして行ってしまった。
陽気な知事が連れ去られると、ディー判事は執事をすぐそばに招きよせ、低い声でいった。
「この杏花と翠玉の二人を買い請けたいと思う。すべて君の裁量で、現在の抱え主とのあいだの細かい話を全部つめてもらえまいか。君が私の代理で動いていることを絶対|漏《も》らしてはならないぞ!」
執事は心得顔で笑ってうなずいた。
ディー判事は袖から金錠二本をとり出して執事に手渡した。
「身請《みう》けを済ませても、この金はまだ余るだろう。残りは女二人を蒲陽《プーヤン》の私の住まいへ移す費用にあてなさい」
さらに判事は銀錠をもう一本のせた。
「このささやかな進物を、この仕事の手数料としてうけとってもらえるかな?」
礼儀作法の定めるとおり再三辞退したうえで、執事は銀をうけとった。なにもかもご命令通りに調《ととの》えますでしょうと判事に約束し、さらに、蒲陽《プーヤン》への旅には自分の妻たちにつけてやりますと言いそえた。
「これからこの二人を」と彼は結んだ、「閣下の客室に宿らせるよう、命じて参りましょう」
しかしディー判事は疲れているし、明朝帰りの旅に出発するにあたり、十分に寝て休んでおかねばならぬと言った。
杏花と翠玉は別れを告げて去り、ディー判事は客用の部屋に案内された。
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第十章
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タオ・ガンは区長に古い話をきき
暗い廃墟で気味の悪い時をすごす
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その頃タオ・ガンは、ディー判事の指示どおり、リャン夫人についてさらに詳しいことを知るために出かけていた。
彼女は半月小路から遠からぬ所に住んでいたから、タオ・ガンはまずカオ区長を訪問した。訪問には、昼食の刻限に向こうへ着くように時間を選んだ。
タオ・ガンは区長に対して、最高に心のこもった挨拶をした。ディー判事から叱られたばかりでもあり、新しい知事の副官とは親しくしておいたほうが賢明だと考えたカオ区長は、簡単な食事をご一緒しましょうとタオ・ガンを誘った。タオ・ガンは即座に承知した。
食欲旺盛にタオ・ガンが食べ終わると、区長は戸籍簿を持ち出してきて、リャン夫人が二年まえ、孫のリャン・コーファを伴なって蒲陽《プーヤン》に着いたことを説明した。
リャン夫人は自分を六十八歳、孫を三十歳と登録している、リャン・コーファはそれよりずっと若く見え、どちらかといえば二十《はたち》かそこらの青年みたいだと思っていたと、区長は述べた。
だがむろん少くとも三十歳にはなっていたに違いない、なぜなら彼はもう二次試験に合格していると、リャン夫人がいっていたから。気持ちのいい男で、街をぶらぶら歩きまわって過ごすことが多かった。とくに西北区に興味をもっていたようで、水門のそばの運河に沿って歩いているのをよく見かけた。
到着から二、三週間後にリャン夫人は、孫がこの二日というもの行方が知れない、孫の身に何か不都合なことが起こったのではないかと心配していると区長に申し出た。区長は型通りの調査を行なったが、リャン・コーファの痕跡は発見されなかった。
その後リャン夫人は政庁に行き、広東《カントン》から来て蒲陽《プーヤン》に住み着いている金持ちの商人リン・ファンが自分の孫をかどわかしたとフォン判事に訴え出た。あわせて彼女は古い文書をたくさん提出した。リャンとリン両家の間には長期にわたる確執の存在することが知れた。しかしながら、彼女の孫の失踪にリン・ファンが関係していることの証拠のかけらも提出することはできなかったので、フォン判事はその件を棄却した。
年輩の女中がいるほかは、リャン夫人はたった一人でその小さな家に住み続けた。高齢な上に、不運をくよくよと悩み続けたことが老女の頭を少々おかしくした、リャン・コーフアの失踪について、区長としての特別の見解はない。おそらく運河に落ちて溺れでもしたのだろう。
こうしたことを聞き終えると、タオ・ガンは区長のもてなしに誠心誠意礼を述べてから、リャン夫人の住まいを見に出かけた。
南の水門からほど遠からぬ、さびれた狭い裏通りに、タオ・ガンはそれを捜しあてた。小さな平家《ひらや》が並ぶ中の一軒だった。せいぜい三部屋あるかないかだなと、彼は見積もった。
飾り一つない黒い表戸を叩いてみた。だいぶ待って、足をひきずって歩く音が聞こえ、のぞき窓が開いた。相当な年の老女のしわくちゃ顔がのぞき、不満そうなとがった声できいた。
「何かご用?」
「リャン奥様はご在宅でしょうか?」タオ・ガンは丁寧にたずねた。
老女は疑わしげな目つきで彼を見た。
「あの方は病気で、誰にもお会いしませんよ!」しゃがれ声で言うなり、のぞき窓をぴしゃりと閉めた。
タオ・ガンは肩をすくめた。向きを変えると近所を調べてみた。ひどく静かで、あたりには人影もなく、乞食や物売りの姿さえない。ディー判事はリャン夫人の誠実をすんなり信じてよかったのだろうかと、タオ・ガンは考えた。夫人とその孫とは抜け目のない役者で、たぶんリン・ファンとも通じ合ったうえで、何かよこしまな企みをかくすため悲しい身の上話を使っているのかもしれない。こういうさびれた土地柄は、秘密の企みの格好の隠れみのになるものだ。
リャン夫人の家の真向かいは、ほかより大きくてしっかりした煉瓦造りの二階屋であるのがわかった。雨風にさらされた看板が、かつて絹物屋であったことを告げている。だがどの窓にも雨戸が閉められ、人は住んでいないらしい。
「ついてないね」とタオ・ガンはつぶやいた、「リン・ファンとその家のことで、何かわかるか調べに行くほうがよさそうだよ」
彼は西北区に向かい、長い道のりを歩きはじめた。
リン・ファンの住所は政庁の戸籍簿で見つけてあったが、その家をつきとめるのは思いのほかの難事だった。リン邸は市内の旧市街区域の一つにあった。古くは地方紳士たちが多く住まっていたのだが、今ではずっと当世風の東区に移ってしまった。かつては堂々としていた住宅のまわりを、狭くてくねくねと迷路のように入り組んだ裏通りが走っている。
たびたび見当違いの方角に回り道させられたあげくに、とうとう人目をひく門構えのリンの大邸宅をつきとめた。その門はどっしりした二枚扉で、朱漆で塗られ銅細工の飾り鋲《びょう》がびっしり打ってある。両側の高い牆壁《しょうへき》はみごとに修復されてあたりをしのいでいた。大きな石の獅子が門の両脇に立っていた。その一画には敵意に満ちた険しい空気があった。勝手口をさがすついでに、リン邸の規模をつかむため外壁に沿って歩いてみようと考えた。だがそれはできないこととわかった。右の方には隣接する屋敷の牆壁が行く手をさえぎり、左の方には廃屋の瓦礫《がれき》の山がある。
彼はまたもどって角を曲がり、小さな八百屋に来た。漬物を少々買って金を払いながら、商売のことを気安くたずねた。
青物商は前掛けで手を拭きながら言った。
「たんともうかる土地柄じゃありません。が不平も言えませんしね。わしも家のもんも力はあるし達者だから、朝から夜まで働けます。そうすれば毎日のかゆに店からの野菜を少々と、週に一度は豚肉一切れが口にはいります。それ以上の暮らしといっても無理ですからな」
「角を曲がった、ついそこにあんな大きなお屋敷があるところを見れば」とタオ・ガンがいう、「お宅にはいいお得意さんがあると、誰でも思うがねえ」
青物商は肩をすくめた。「この界隈の二つのお屋敷のうち一方は長年空っぽ、一方はよそ者の住まいだというのがわしの運の悪さでさあ。広東《カントン》から来てますんでね、あの仲間うちの言葉ときたら、からきしわかりゃしません。リンさんは西北郊外の運河沿いに少し地所を持っていて、百姓が毎週自家用の野菜を荷車一杯運んできます。びた一文だってうちの店でなんか費《つか》いやしませんよ」
「ふうん」とタオ・ガンは言った、「私はしばらく広東《カントン》にいたことがあって、広東《カントン》人はとてもつき合いのいい性格と思っていたんだが。リン氏の使用人たちがたまにはここへ寄っておしゃべりして行くだろう?」
「たったの一人も知りませんね!」青物商はうんざりしたふうに答えた。「連中は連中で勝手にやっていて、自分たちはわしら北方の人間よりまさっていると考えているようです。だけど、それがどうだというんで?」
「実を言うと」とタオ・ガンは答えた、「私は腕ききの表具師なのさ。表具屋町からうんと離れたところにあるこういう大きな屋敷には修理の必要な画幅があるものだと思ってね」
「だめでしょうなあ、あんた」と青物商が言う、「行商だって渡り人夫だって、あそこの敷居《しきい》をまたいだことはないんですよ」
だがタオ・ガンは、容易なことでは望みを捨てなかった。角を曲がると、彼の小さな仕掛け袋を袖からとりだし、中の竹棒を操作して、表具屋の糊の壷と刷毛《はけ》がはいっているように見せかけた。それから門の段を登り、音をよく響かせて扉を叩いた。しばらくすると、小さなのぞき穴が開き、気むずかしげた顔が格子ごしに彼を見つめた。
タオ・ガンは若い頃帝国中をまたにかけて放浪したから、たくさんの方言を操《あやつ》った。だから彼は門番に向かってみごとな広東《カントン》語で話しかけた。
「私は広東《カントン》で修業した腕ききの表具師です。こちらにお直しものはございませんか?」
生地の言葉を耳にした途端、門番の表情が輝いた。彼は重い二枚扉を開いた。
「それは聞いてみなきゃならんがな、友達! だが、君がまともな言葉を話し、わが五羊城の大都市に住んだことがあるからには、とにかくはいって私の部屋で腰をおろして行くがいい」
低い建物で囲まれた前|院子《なかにわ》には手入れが行きとどいていた。彼は門番の部屋で待つあいだ、この屋敷全体をおおう深い静けさに驚いていた。使用人の叫び声もなければ、人々の動きまわる気配もない。
門番がもどってきた時、彼は前よりむずかしい顔をしていた。そのあとに広東《カントン》人好みの黒い緞子《どんす》の服を着た、ずんぐりと肩巾の広い男がついてきた。その男は醜い大きな顔に細い不ぞろいな口ひげを生やしている。その権柄ずくな様子は、彼が屋敷の執事であることを示していた。
「どういうつもりだ、ごろつきめが!」彼はタオ・ガンに向かってわめいた、「こんなところにはいりこみおって! 表具屋が必要なら自分で連れて来られるわ。さっさと出て行かんか!」
タオ・ガンはなすすべもなく、もごもごとわびごとを言って出た。重い扉が彼の背後でずしんと閉まった。
そこからのろくさ離れながら、タオ・ガンは真っ昼間にまた来てみても意味がないと考えた。からりと晴れた秋の日だったから、西北の郊外に出て、リン農場をちょいと見てくることに決めた。
北門を抜けて城外に出た。半時間ほど歩くと運河に着いた。広東《カントン》人は蒲陽《プーヤン》では珍しい。リン氏の農場は、何人かの百姓に聞いてさほど苦労せずにみつかった。
それは運河沿い一里以上にわたる、相当に広くて肥沃な土地だった。きれいに漆喰《しっくい》を塗った農家が中ほどにあり、大きな納屋が二つついている。そこからずっと道が続いて水辺まで出たところに小さな波止場があり、ジャンクが一隻もやっている。三人の男が菰《こも》包みの荷をジャンクに積みこむのに忙しいほかは、そのあたりに人影はなかった。
この平和な田園風景の中に、疑念を起こさせるものは何もないと確信して、タオ・ガンは引き返し、再び北門から市中にはいった。彼は小さな居酒屋を見つけてつましく米の飯と肉スープ一椀を注文し、給仕にせがんで生《なま》玉ねぎの小皿をおまけにつけさせた。歩き回って食欲は旺盛だった。彼は飯を丹念に一粒残さずつまみ上げ、汁椀の最後のしずくまで飲みほした。それから腕を重ねて枕にし、頭を食卓にのせると、たちまちいびきをかきはじめた。
目が覚めた時は暗くなっていた。タオ・ガンはやたらと給仕に礼を言ってからそこを出たが、置いていった心付けがあまりに少ないので、腹を立てた給仕が彼を呼びもどそうとしたほどだった。
タオ・ガンはまっすぐリン邸へ向かった。運よく空に秋の明月があり、道を見つけるのにあまり苦労はなかった。八百屋はもう店じまいし、周辺に全く人影はなかった。
タオ・ガンは門の左の廃墟のほうに行った。深い下生えと崩れ落ちた煉瓦の間を気をつけて一歩一歩進むうち、第二の院子《なかにわ》へ通じる古い門を見つけることができた。戸口をふさいでいる瓦礫をのりこえると、院子の塀の一部はまだ崩れずに立っている。そのてっぺんに登れるなら、リン邸の外廓を見わたす位置に立てるだろうとタオ・ガンは考えた。
二、三度やりそこなったすえ、崩れた煉瓦の間に足をかけて、牆壁《しょうへき》のてっぺんに体を押し上げることに成功した。長々と腹ばいになったこの危なっかしいとまり場所からは、邸内が実によく見わたせた。邸内は三つの区画から成り、どの院子も堂々とした建物で囲まれ、華やかな回廊で連結されている。だが屋敷全体は死んだようだった。何の姿も見えず、門番部屋を別にすれば明かりの見えるのは奥院子の窓二つだけだった。タオ・ガンにはこれがひどく不思議に思えた。これほどの大きな屋敷は、夜のまだ早いうちならふつうはかなりにぎやかなものだからだ。
タオ・ガンは一時間以上|牆壁《しょうへき》のてっぺんで頑張っていたが、下の屋敷では何の動きもなかった。一度前|院子《なかにわ》の暗がりで何かがひそかに動くのを見たような気がしたが、かすかな音さえも聞こえてこなかったので、自分の目の迷いだったろうかと思った。
とうとう彼は見張り場所を離れることに決めた。おりようとした時、ゆるんでいた煉瓦が足の下からすべり落ちた。彼は下生えの中に落ち、煉瓦の山がガラガラと音をたてて崩れた。タオ・ガンは思いっきり悪態をついた。膝はぶつけるし、長衣はひどく破けてしまったからだ。ようよう起き上がって、もどる道を見つけようとした。ところがあいにくその瞬間、月が雲にかくれ、あたりは墨のように暗くなった。
へたに歩けば腕か足を折っちまうぞ、とタオ・ガンは観念した。そこで彼はその場にそのままうずくまって、月がまた現れるのを待った。
程無《ほどな》く、彼はふと自分が一人きりではないことに気づいた。かつての運《うん》任せの生活の中で彼は危険を知る本能を身につけており、いま廃墟のどこかで誰かが自分を見つめていることは確かだった。タオ・ガンは動きをとめ、耳を最大限に働かせた。しかし何か小さな動物がたてるらしい、下生えがかさこそ鳴る音以外は何も聞こえない。
月が再び現れたが、彼は用心してしばらくは動き出さず、注意深く自分の周りを探った。それでも格別なにも目にとまるものはなかった。
彼はそろそろと立ち上がり、体を低くしたまま用心に用心して動き、できるだけ暗がりを選んで、やっとのことで荒れ果てた屋敷跡から脱け出すことができた。
路地にもどったとき彼はほっと安堵の息をもらした。静まりかえった無人の区域でひどくぞっとさせられたので、八百屋を通りすぎると足を速めた。
ふと方角をあやまったことに気づいて、彼は狼狽《ろうばい》した。彼はいま、まるでなじみのない狭い路地にいる。
方向を見定めようとしてあたりを見まわしたとき、覆面した二つの影が背後の物陰から立ち現れるのを見た。それが彼のほうへ向かってくる。タオ・ガンは能《あた》う限りの速さで駆けた。追手を振りきるか、襲撃者が追跡する気をなくすような大通りに出たいとねがいながら、角をいくつも曲がった。
運の悪いことに、大通りに出るどころか、タオ・ガンは狭い袋小路にはいってしまった。ふりかえると、追手がもうそこにきている。袋小路に追いつめられたのだ。
「待ってくれ、あんた方!」タオ・ガンは叫んだ、「穏やかに話し合えばすむことだろ!」
覆面の男二人は耳もかそうとしなかった。彼に追いすがると、一人が頭をねらって激しく打ちかかってきた。
窮地に立つとタオ・ガンはふつう手よりも舌に頼る。彼の拳術修業は、マーロンやチャオ・タイ相手の遊び半分の試合だけだった。だが決して臆病者ではないから、タオ・ガンのもの静かな外見にだまされれば、悪漢とてもときにはこっぴどい目に会う。
彼は一撃をかわして初めの襲撃者をやりすごし、もう一人の足をすくおうとした。だが足場を失い、バランスをたてなおそうとしたとき後ろから腕をつかまれた。
襲撃者の目の中にちらつく凶悪な光に、タオ・ガンは賭けられているのが自分の持ち金だけではないと悟った。この二人は自分のいのちをねらっている。
彼は声を限りに助けを呼んだ。後ろの男がタオ・ガンを引き回して万力のような力で両手を背におさえつけ、もう一人が匕首《あいくち》を抜いた。これがたぶんディー判事のためにする最後の仕事だという考えが、タオ・ガンの頭をかすめた。
彼は力の限り後ろへ足を蹴りあげ、腕を振りほどこうとしたが、すべて空しかった。
まさにそのとき、ぼさぼさ髪の大男が路地へ駆けこんできた。
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第十一章
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図《はか》らずも第三の男が乱闘に加わリ
判事の副官は頭を集めて評議する
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タオ・ガンはにわかに腕が自由になったのを感じた。後ろの男は新手の男の手をすり抜けて、小路の入口へ向かって逃げ出した。第三の男は、匕首《あいくち》を持つ男の頭をめがけて猛烈な一撃をくり出したが、かわされて腕は空を切った。その間にそいつも逃げ出し、新手の男が後を追った。
タオ・ガンは吐息《といき》をつき、額の汗をぬぐって長衣をまっすぐに直した。そこへ背の高い男がとって返してつっけんどんに言った。
「また昔の手を使ったってことか!」
「私はいつだって君との交友を評価しているが、それにしても、こんどくらいその価値を認めたことも珍しいね」とタオ・ガンは言った、「だけどそんな奇妙な風体で、ここいらで何をしているんだい?」
マー・ロンはぞんざいに答えた。
「おれは道観で友達のションパに会って帰るとこだったんだ。このいまいましい入り組んだ道で迷ってしまってさ。この路地を通ったら誰やら助けを求めてメエメエ鳴いてる。それで駆けこんで、火急に必要と見えた力を貸したんだ。あんただけだとわかっていたら、いつも人をたぶらかす報いに、あんたがたっぷりぶちのめされるまで、ちょっぴり待ったに違いないね」
「ちょっぴり待ったら」とタオ・ガンは憤然として叫んだ、「ちょっぴり待ちすぎたことになってたろうよ!」彼はかがんで二番目の襲撃者が落としていった匕首を拾いあげ、マー・ロンに手渡した。
マー・ロンは凶器を手の平にのせて重さをためし、月光をうけて光る長くて薄気味悪い匕首を調べた。
「大鎌が草を切り裂くように、こいつはあんたの腹を切り裂いたろうなあ、兄弟」と、彼はほれぼれしたように言った、「あの野郎どもをつかまえそこねたのが返す返すも残念だ。あいつらはいまいましいが、このあたりをよっぽどよく知りつくしているに違いない。暗い横丁にすべりこんで、おれには何が何だかわからないうちに完全に消えちまった。けんかをしかけるのに、あんたはまたどうしてこんな陰気くさいところを選んだのだ?」
「けんかをしかけたわけじゃない」とタオ・ガンは不満そうに言った、「私は閣下の命令で、広東《カントン》人の犬野郎リン・ファンの屋敷を偵察していたんだ。帰り道でいきなりあの二人の首切りどもが襲ってきたのさ」
マー・ロンは再び手の中の匕首を見つめた。
「危い連中の調べは、今後はおれとチャオ・タイに任せたほうがいいぞ。明らかにあんたはその屋敷を偵察中に見つけられて、リン氏には君がお気に召さなかったんだ。言わせてもらえば、二人にあんたの後を追わせて消させようとしたのはそいつだよ。この変わった形の匕首はふつう広東《カントン》のごろつきが持ってるものなのさ」
「そういうことなら」とタオ・ガンは叫んだ、「あん畜生のうちの一方には、見覚えがあるようだよ! 顔の下半分を首巻で隠していたが、体つきと身のこなしはリン邸の無愛想な執事を彷佛《ほうふつ》させるね」
「そうだとすると、あの連中は何か悪質な企みをもっている」とマー・ロンが言った、「そうでもなければ、あいつらのしていることを誰かがあばこうとしたからって、そう悪くとることはないはずじゃないか。まあ来なよ、帰ろう!」
二人はまた曲がりくねり入り組んだ路地をぬけて、とうとう大通りを見つけ、政庁までぶらぶら歩いて帰った。
彼らが帰ってみると、ホン警部が人気《ひとけ》のない上級書記官の事務室に一人きりですわり、碁盤をにらんでいた。
警部は二人をすわらせて茶を勧め、タオ・ガンがリン邸への探索とマー・ロンのタイミングのいい介入について全貌を語った。
「まだ心残りなのは」と彼は結んだ、「閣下が普慈寺の調査停止を命じられたことです。こんな広東《カントン》人のごろつきを扱うよりも、あの頭の悪い坊主どもとつきあうほうがましですよ。それに少なくとも、寺では少々もうかりましたしね……」
ホン警部が感想を述べた。
「もし閣下がリャン夫人の告発にもとづいて裁判を始めようと思っておられるならば、大至急にやらなくてはならないな」
「なぜ、急ぐんです?」とタオ・ガンが問い返した。
「今夜の冒険で気が転倒していなかったら、君だってこのことを覚ったに違いないよ」と警部は答えた、「リン氏の屋敷は大きいし手入れも行き届いているのに、空屋も同然だということを君は見た。これが示すのはただ一つ、すなわち彼とその一家がこの町を去ろうとしていることだ。女家族と使用人のほとんどはもう先に送り出されたに相違ない。明かりのついている窓の位置は、門番は別として、リン・ファン自身と信頼できる二、三の助手しか残っていないことを示している。君がリン農場の近くで見たジャンクに南方へ出帆する用意がすべて調っているとしても、私は驚かないね」
タオ・ガンは拳固をテーブルに叩きつけて叫んだ。
「勿論そのとおりですよ、警部! それで何もかもわかる! そうだ、閣下はごく近日中に決定を下さなくてはいけない。そうすればわが友リン・ファン氏に、彼に対する訴訟が起こっているから、今のところに留まらねばならぬとお知らせできるというものだ。あんな悪党に、そんなお知らせがしたいわけじゃないがね! ですが、正直言うと、あいつが隠しだてしたがる仕事とリャン婆さんがどんな関係があるのやら、全然思いつきませんな」
「閣下はリャン夫人から受けとった書類を旅行中携えて行かれた」と警部が説明した、「私もまだそれを見てないのだが、判事のふとした発言からみて、リン氏に対するなんらかの明確な証拠はその中にはないと私は理解しているよ。まあこうしている間にも、閣下は何か賢明な計画をたてておられるに違いない」
「明日またリン邸へ行ってみますか?」とタオ・ガンがたずねた。
「私の考えでは」とホン警部は応じた、「当分の間リン・ファンとその屋敷は構わずにおいたほうがいい。閣下が君の報告を聞かれるまで待とう」
タオ・ガンは承知し、マー・ロンに霊智観で何があったのかたずねた。
「今夜、いい知らせをもらった」とマー・ロンが言った、「お偉いションパさまが、ひょっとしてすてきな金の簪《かんざし》一本に関心がおありかなと声をかけてきた。はじめおれはそんなに気のないふりをして、簪なら一組なくては役に立たんし、どちらかといえば金の腕輪か何かそんなようなもので、袖の中につけて持ち歩けるもののほうが望みだといってやった。簪は簡単に腕輪に直せるとションパが言い張るので、結局おれもそう信じることにした。明日の晩、ションパが相手と会う手はずを調えてくれることになっている。
一本の簪《かんざし》があるところには、必ずもう一本が発見できるはずだし、もしおれが明日の夜、当の人殺しに会うことができないとしても、そいつが誰で、どこへ行けば見つけ出せるかを知っている奴ではあるだろう」
ホン警部はうれしそうだった。
「うまくやったな、マー・ロン! それからどうした?」
「そこをすぐには立たないで」とマー・ロンは答えた、「仲よく博奕《ばくち》の輸にはいって五十銭がとこ勝たせてやったさ。ションパと仲間は少々ごまかしをやってたな。ここにおられる友人タオ・ガンのご親切な指導で、おれにはなじみの手だったがね、ご懇意《こんい》にしときたかったから、何も気付かないふりをしていたよ。
そのあとはとりとめのない話をして、連中は霊智観についてぞっとする話をいろいろ聞かせてくれた。神殿の脇扉をこっそりこじ開けて、道士たちが引き払ったあとの僧房を使えば快適に雨風をしのげるのに、どうしてあの連中が門前のあんなみじめな掘立小屋に住んでいるのかと、ちょいと聞いてみたときのことを話してみようか」
「私もそれを不思議に思っていた!」とタオ・ガンが言った。
「そうなんだ」とマー・ロンは続けた、「あの道観に化け物が出ることさえなければ、ほんとにそうしたいんだがとションパは言ったよ。夜おそく、封印した扉の奥で、ときどきうなり声や鎖を鳴らす音がするんだそうだ。一人の奴はある時窓が開いて、緑の髪に、赤い目をした悪魔がそいつに向かってあかんべをするのを見た。ションパの仲間の悪党連中は一筋縄ではいかぬ相手だとおれが言ったら信じてもらえるだろうが、その連中でも幽霊や悪鬼とかかわり合いになるのは喜ばない」
「何て気味の悪い話だ」とタオ・ガンが言った、「道士たちはなぜ道観を離れたのだろう。一旦ぬくぬくと居ついた場所から、ああいう怠け者の集団を去らせるのは、ふつうはそんなに簡単なことじゃない。悪魔か凶悪な狐にでも追い出されたんだろうかね?」
「そのことは知らない」とマー・ロンは言った、「おれの知ってるのは、ただ道士たちがそこから消えただけで、どこへ行ったかは神のみぞ知るってことさ」
そこで警部が、すてきな若い娘と結婚した男をめぐる身の毛もよだつ話をした。娘は後に狐の精の正体をあらわし、夫ののどをかみ破った。
彼が話し終えると、マー・ロンが言った。
「こういう怪談をきくと、おれはいつでも茶よりもっといい飲物がほしくなる」
「そうだ、思い出した!」とタオ・ガンが言った、「リン・ファン邸の近くで、青物屋と話をするきっかけを作るために、木の実と野菜の漬物を買ったんだ。一杯の酒とよく合うだろうよ」
「さあ、これは天の下《くだ》したいい機会だ」とマー・ロンが断言した、「君が普慈寺でくすねてきたあの金を始末するためのさ。寺からとったあの金は、無理して持っていると悪運がふりかかるんじゃないか」
タオ・ガンは、珍しく不服を唱えなかった。よい地酒一升を、眠たがる召使に買いに行かせた。焜炉《こんろ》の上でそれがあたたまると、彼らは何度も杯を回し、真夜中すぎまで寝なかった。
翌朝早く、三人の仲間は政庁の記録室で再び顔を合わせた。
ホン警部は監獄の査察に出かけた。タオ・ガンは、リン・ファンと蒲陽《プーヤン》における彼の活動について記した書類を検討するため文書庫へ消えた。
マー・ロンはぶらぶらと守衛詰所まで歩いていって、そこで巡査たちがのらくらし、守衛と使丁とが賭けごとに興じているのを見ると、全員に前庭集合を命じた。そして二時間にわたる猛烈な教練をやらせたので、連中はすっかり肝をつぶした。
それから彼はホン警部、タオ・ガンと共に昼食をとり、快い午睡をとるため宿舎にもどった。今夜は相当に骨が折れるだろうなと、彼は予期していた。
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第十二章
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二人の道士が深遠な教理問答をし
死闘のすえにマーは男を逮捕する
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夜になるとマー・ロンはまた変装した。政庁の金庫から銀三十粒をマー・ロンに支給するよう、ホン警部が経理部長に認可を与えた。マー・ロンはそれを布切れにくるんでから、袖の中にしまった。そして再び霊智観に出向いた。
ションパはいつもの場所で背を壁にもたせ、裸の胴をボリボリかいている。彼はすっかり賭けに気をとられているように見えた。
しかし、マー・ロンを見ると彼は丁寧に挨拶してすわるように言った。マー・ロンはそのそばにしゃがみこんだ。
「兄弟、この前の晩おれからまきあげた銭で、あんたはすてきな上着を買うんだと思ってたんだがな。冬が来て、何も着るものがなかったらどうするつもりだい?」
ションパは彼をとがめるような目つきで見た。
「兄貴、あんたはわしをなめたことをおっしゃる。わしは乞食組合の相談役だと言わなかったですかな? 買うなどという、わしの大きらいな金銭ずくの手続きで、着るものの切れっ端だって手に入れるなあとんでもない話さ。まあとにかく、当座の仕事にかかりましょうや」
頭をマー・ロンの耳もとによせると、彼はかすれ声でささやきかけた。
「万事|調《ととの》ってます! 今夜のうちに市を出られますよ。金の簪《かんざし》一本を銀三十粒で売りたいと言っているのは渡り者の乞食道士です。そいつは今夜|鼓楼《ころう》の後ろのワンルーの茶館で兄貴を待っています。すみっこのテーブルに一人だけですわっているといってましたから、すぐわかりまさ。そいつの前の茶瓶の口の所に、からの茶椀が二つ置いてあって、その茶椀について何とか言うのがあんただということになっています。あとはお任せしますよ」
マー・ロンはたっぷり礼を言い、また蒲陽《プーヤン》に来たら間違いなく挨拶によると約束した。そして早々に別れを告げた。
彼は張りきって速足で関帝廟へ向かった。鼓楼が黒々と夜空にそびえている。道ばたの浮浪児が彼を鼓楼の真うしろの、狭いが、にぎやかな商店街へ導いた。騒々しい通りを見渡すと、ワンルーの看板はすぐ見つかった。
マー・ロンはきたないのれんをかき分けた。十人そこそこの人が、がたぴしする茶卓のまわりに群れている。たいていはぼろをまとっていて、吐き気を催すような臭いがあたりにたちこめていた。戸口から一番はなれた隅のテーブルに、道士が一人ですわっているのが目にはいった。
近づいていきながら、マー・ロンは疑念に襲われた。待っている男は確かにぼろぼろの道士の頭巾つき外套を着こみ、頭には脂じみた黒い道士帽をかぶって木魚を帯につるしている。だが丈高くたくましいどころか、この男はちびででぶなのだ。だらけた薄汚ない顔つきは十分|芳《かんば》しからぬ人柄だが、ディー判事が描いてみせたような狂暴な悪党では決してない。とはいえ、これが彼の求める人物だということに間違いはないのだろう。
マー・ロンはテーブルににじり寄って、気安く声をかけた。
「兄弟、からの茶椀が二つ並んでいるからには、おれはあんたと一緒にすわって、からからののどを湿らせてもらっていいのかい?」
「おお」と太った男はうなった、「きたか、わがご同門! 腰をおろして茶を飲みなされ。有難い書物を持ってきたかね?」
腰をおろす前に、マー・ロンは左腕を伸ばして袖の中の包みを触らせた。見知らぬ男の指がすばしこく動いて、銀の粒の形を確かめた。男はうなずいて、マー・ロンに茶を注いでやった。
二人とも少しずつすすったところで、太った男が言いだした。
「では、究極の無の教えが最もわかりやすく説かれている章をお見せしよう」
そう言いながら、彼は汚れた書物をふところからとり出した。マー・ロンは角のめくれた厚い書物を受けとり、有名な道教の経典『玉帝《ぎょくてい》秘伝』であることを認めた。
ひととおりめくってみたが、普通と違ったところは見あたらなかった。
「読んでほしいのは十章だよ」と道士は小ずるく笑った。
マー・ロンはそこを開き、もっとよく見ようと本を掲げて目をよせた。長い金の簪《かんざし》が一本、背に沿って本の中心にさしこんである。簪の頭部は、ディー判事が見せてくれた略図のとおりの飛燕の形をしていた。その細工の見事なことにマー・ロンは注意をひかれた。
彼は急いで本を閉じると袖にしまった。
「この本はまぎれもなく、大いに難問を解くかぎとなるものだ。では先日あんたが親切にもわしに貸してくださった書物をお返ししよう」
そういいながらマー・ロンが金包みをとり出して太った男に渡すと、男はあわてて外套のふところにしまいこんだ。
「もう行かねばならん」とマー・ロンは言った。「また明晩ここで会って、問答を続けるといたそう」
でぶがもごもごと何か挨拶めいたことをつぶやき、マー・ロンは立ちあがって茶館を出た。
通りを見まわすと、大道易者のまわりに物見高い野次馬が集っているのが目にとまった。マー・ロンはその群にまじり、ワンルー茶館の入口に目をつけていられる場所に陣取った。まもなく小柄なでぶ道士が戸口から出てきて、狭い通りを跳ぶように歩いていった。マー・ロンは大道商人の脂燭《しそく》が照らす光の輪を避けながら、距離をおいてあとをつけた。彼の獲物は短い脚の及ぶ限りの速さで、北門のほうに向かって大またに歩いて行く。ふいに男は狭い横道に折れた。角のところでマー・ロンは周りを見た。そこらに人影はない。小さな男は小さな家の前に立ち止まって戸を叩こうとしている。マー・ロンは音を立てずにその後ろに駆け寄った。
太った男の肩にばんと手をのせるとぐいと引いて向きをかえさせ、のどもとをつかんで声を低めてすごんだ。
「ちょっとでも声を立てたら、おしまいだぞ!」
そういうと、彼は男を道に引きもどし、隅の暗がりまで引きずっていって壁ぎわにおさえつけた。でぶは体中がたがた震えながら、哀れっぽい声を出した。
「あんたの銀はみんな返すよ! どうか殺さないでくれ!」
マー・ロンは包みを取りあげて、自分の袖にもどした。それから誰とも知れない男を手荒くゆさぶった。
「この簪《かんざし》をどこで手に入れたか言え!」と彼は問いつめた。
相手はどもりどもり言いはじめた、
「溝の中で見つけた。きっと、どこかのご婦人が――」
マー・ロンは再び男ののど首をつかみ、頭を壁にぶつけた。石にあたって、それは鈍い響きをたてた。
マー・ロンは歯の間から押し出すような声でおどかした。
「本当のことを言え、この犬めが、命だけは助けてやるから!」
「言わせてくれ!」と相手はあえぎながら頼んだ。
マー・ロンはのどの手をゆるめ、脅かすように前に立ちふさがった。
でぶ道士は哀れっぽい声を出した、「わしは乞食道士の姿をした無宿者六人組の仲間で、市内の東の城壁の下の、空いてる番小屋に住んでいる、わしらの頭《かしら》は、ホワン・サンという荒っぽい奴だよ。
先週、わしらが昼寝をしていた時、ひょっと目を開けたら、ホワン・サンが上着の縫い目から金の簪《かんざし》を一組《ひとくみ》出して調べているのを見ちまった。わしはまた目をつぶって、眠ってるふりをした。かなり前からわしは組を脱けることを考えていた。あいつらは乱暴すぎて、わしの趣味には合わないのさ。必要な元手を得るいい機会だと思ったんだ。おとといホワン・サンがぐでんぐでんに酔って帰った時、あいつがいびきをかきはじめるまで待って、あいつの上着の縫い目を探って、やっと簪一本を見つけた。あいつが動いたのでもう一本を捜すのはやめて逃げ出したのさ」
マー・ロンはこの情報を得て、内心大いに喜んだ。しかし猛烈に恐ろしい表情をくずしはしなかった。
「その男のところへ案内しろ!」と彼はどなった。
でぶはまた体中がたがたと震えてべそをかいた。
「頼むから、わしをあいつに引き渡さないでくれ! あいつはわしをなぐり殺しちまう!」
「貴様が恐れなければならんのはおれのほうだ!」マー・ロンはとりつくしまもなく言った、「裏切るようなふりでも見せたら、静かなとこへ引きずっていって、きたならしいのど首をかっ切ってくれるぞ。さあ行け!」
でぶの案内で大通りをもどり、少し歩くと入り組んだ路地にはいって、やがて城壁沿いの暗くて人気《ひとけ》のない地域に着いた。マー・ロンの目はおぼろげに、壁を背にした崩れおちそうな小屋の形を認めた。
「ここだよ」とでぶは泣き顔で逃げもどろうとした。しかし、マー・ロンは彼の外套の衿がみをとらえて、小屋の前まで引っ立てていった。マー・ロンは戸を蹴とばして叫んだ。
「ホワン・サン、金の簪《かんざし》を一本持って来てやったぞ!」
中でごとごとぶつかる音がし明かりがついて、まもなく骨太の大男が現われた。マー・ロンと同じほどの背丈だが、彼ほどの重みがない。
男は手燭をかかげて、小さい陰険な目で訪問者をうかがった。それから勢いよく悪態をつき、マー・ロンに向かってかみつくように言った。
「つまりけちな鼠がおれの簪をちょろまかしたのか。で、貴様はそれとどうだってんだ?」
「おれは揃いで買いたいんだ。この悪党が一本だけ出して見せたんで、こいつがおれをかついでいると気づいた。もう一本はどこにあるのか言えと、穏やかに聞き出したのさ」
相手は大笑いした。そいつはぎざぎざの黄いろい歯をしていた。
「取引をしよう、兄弟。だがまずこのでぶのこそ泥のあばらを蹴とばさせてくれ。兄|弟子《でし》に対する行儀を、ちょいと教えてやるだけさ!」
彼は行動の手始めに、手燭を下に置いた。でぶはいきなり驚くべきすばしこさで燈火を蹴とばした。マー・ロンが衿をつかんだ手をはなすと、おびえきった悪党は弓を離れた矢のように一目散に逃げていった。
ホワン・サンが毒づいて追っていこうとしたが、マー・ロンはその腕をとらえて、すかさず言った。
「けちな奴はほっとけ! あとであいつとはけりをつけるさ。おれは貴様と大至急取引しなくちゃならんのだ」
「おおさ」とホワン・サンがうなる、「貴様がここに金《かね》を持ってるんなら、取引できようさ。おれの生涯はいつもつきが悪くて、あの縁起の悪い簪《かんざし》も早く手離しちまわねえと、なんだか面倒にまきこまれそうな気がしているんだ。片方は見たんだろ、もう一本もそっくり同じさ。貴様は何を出す?」
マー・ロンは用心深く周囲を見まわした。もう月が上っており、あたりには全く人気がないらしいのを見てとった。
「他の奴らはどこだ?」と彼はきいた、「証人のいる前で取引したくはないからな!」
「心配するな」とホワン・サンが保証した、「あいつらはみんな商店街回りに出ている」
「そういうことなら」とマー・ロンは冷やかに言った、「簪《かんざし》はとっとけ、このけちな人殺しめが!」
ホワン・サンはすばやく跳びしさった。
「おまえは誰だ、悪党め!」と彼は腹を立ててわめいた。
「おれはディー判事閣下の副官だ。貴様を純玉の殺害者として政庁に連行する! さあ、ついてくるか、それともいっそこてんぱんにやっつけてやろうか?」
「そんなあまは知らねえ」とホワン・サンがわめいた、「だが、貴様ら、こぎたねえお巡り連中や、貴様が犬みてえに仕えている腐れ判事のことなら知ってるぞ! おれを政庁に連れていったが最後、貴様たちは未解決の犯罪をおれに押しつけて、白状するまで責め立てるのさ。さあ、一か八かやってやるぜ!」
最後の言葉を口にしながら、彼は卑劣な一撃をマー・ロンの胴めがけてくり出した。
受け流したマー・ロンは、ホワン・サンの頭めがけて大きく腕を振った。
だが相手はしたたかな腕前で強打を防ぎ、ついでマー・ロンの心臓に突きを入れてきた。強打に強打の応酬だが、どちらもなかなか命中しない。
マー・ロンはこのわざで自分に匹敵する男を発見したと実感した。ホワン・サンはひょろりとしているが異様に骨太だったから、二人の体重はほぼ同じになるだろう。ホワン・サンの拳術は、八級、つまり最高級に次ぐとマー・ロンが見定めたほどにすぐれたものであった。マー・ロン自身は九級の腕前だったが、ホワン・サンがこの場所に通暁《つうぎょう》していて、再三にわたりマー・ロンをでこぼこの、あるいは滑りやすい足場に立たせたことでこの差は相殺《そうさい》された。
激しい闘いののち、マー・ロンは大きくひじつきをくらわせてホワン・サンの左目に目つぶしをくれることに成功した。ホワン・サンは逆襲してマー・ロンの腿に蹴りを入れ、それがマー・ロンの足の動きを封じた。
次にホワン・サンはいきなりマー・ロンの股間をねらって蹴ってきた。マー・ロンは跳びしさって、右手で相手の足をつかんだ。そして左手で相手の膝をおさえて曲げさせず、そばへ引き寄せられないようにしておいて、敵のもう一方の足を下から蹴とばそうとした。だが足もとがすべってやりそこなった。ホワン・サンはただちに膝を曲げ、マー・ロンの横首に恐るべき一撃を加えた。
この一撃は必殺の九手の一つに数えられている。もしマー・ロンがひょいと頭をそらして、あごに強打の半分を受けるにとどめなかったら、彼はたちどころに一巻の終わりとなっていただろう。じっさい彼はホワン・サンの足を放して、ふらふらと後ろにさがった。血の循環が途絶したため目がくらんだ。その瞬時、彼は完全に相手のなすがままの状態だった。
しかし古代の大拳術家がかつて説いたように、力も重量も技量も同じ二人の間の闘いは精神によって決せられる。ホワン・サンはこの武術の身体的な面のすべてに精通していたが、精神は低劣で凶悪だった。マー・ロンが無防備の状態にいたのだから、必殺わざ九手のうちのどれでも使えたのだが、ホワン・サンの卑劣な本能が彼にとらせたのは、マー・ロンの股間をねらう悪辣《あくらつ》な蹴りであった。
同じ手を二度くり返すのは、拳法では初歩的な誤りである。マー・ロンは血のめぐりがひどく混乱していて、何か複雑な動作をする余裕がなかった。そんな状況でできることだけをした。まずホワン・サンのすねを両腕でつかんで力の限りひねった。膝の関節がはずれたホワン・サンは耳ざわりな叫びを発した。同時にマー・ロンは身をのり出してホワン・サンと一緒に倒れ、膝で相手の腰にのしかかった。その時マー・ロンは自分の力が尽きたのを感じた。ふりまわして打ってくるホワン・サンの腕の届かないところまでごろごろと転がっていった。仰向けに寝たまま、マー・ロンは正常な血液循環を回復するための、秘伝の呼吸法に精神を集中した。
頭がはっきりし、神経系統が正常に復したことをさとると、マー・ロンはがばとはね起きてホワン・サンに向かった。彼の敵は立ち上がろうとして、半狂乱の試みの最中だった。マー・ロンがホワン・サンのあごに正確な蹴りを入れると、頭がのけぞってごつんと地面にぶつかった。そこでマー・ロンは犯人捕縛に用いる長くて細い鎖を自分の腰からほどき、ホワン・サンの両手を背にまわしてしっかりしばった。そしてそれを肩の上にできるだけ高く引き上げると、鎖の一方の端をのばして結び目の動く輪を作り、ホワン・サンの首にかけた。両手を自由にしようとして少しでも動くと、細い鎖がのどに食いこむのだ。
マー・ロンは相手のそばにかがみこんだ。
「危なくやられるところだったぞ、悪党め! 閣下やおれにこれ以上余計な手間ひまとらせないで、自分の罪を白状しろよ!」
「縁起でもねえ悪運が、またぞろおれにつきまといさえしなかったら」とホワン・サンがあえいだ。「貴様は今ごろおだぶつだったぞ、この犬野郎! おれが何かの罪を白状するかどうかは、貴様の腐れ主人しだいさ」
「勝手にしろ!」とマー・ロンは言い捨てた。
彼は一番手近な小路にはいっていき、とある家の戸を、眠い目の男が開けるまで叩いた。マー・ロンは男に身分を告げ、その地域の区長に人足四人と竹ざお一組そろえてすぐ来るようにと伝えさせた。
そうしておいて、彼はまことに下品な悪態を吐き続ける捕虜の番をしにもどった。
区長と男達が到着し、さおでホワン・サンを運ぶ担架を作った。マー・ロンが小屋の中で見つけた古い上着をかぶせてやり、一行は政庁に帰った。
ホワン・サンは、牢番に引き渡された。マー・ロンはホワン・サンの膝をなおすため整骨師を呼ぶように言い付けた。
ホン警部とタオ・ガンはまだ寝ないで記録室で待っていた。犯人逮捕の報をうけて、彼らは大喜びだった。
警部はにこにこ顔で言った。
「これは二、三杯ひっかけたい気分だな!」
三人は中心街に出かけて、終夜営業の料理店にはいった。
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第十三章
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判事は半月小路の殺人事件を解き
文学士はおのが運命の冷酷を嘆く
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翌日の午後おそく、ディー判事が蒲陽《プーヤン》にもどってきた。
ホン警部がその後の進展をひととおり説明するのをききながら、執務室であわただしく食事をとり終えると、判事はマー・ロンとタオ・ガンを呼び入れて報告をさせた。
「さて、わが勇士」とディー判事はマー・ロンに呼びかけた、「目当ての男を見つけたそうじゃないか。すっかり話してくれたまえ!」
マー・ロンは前二夜の冒険について語り、こう締めくくった。
「あのホワン・サンという男は、すべての点で閣下が私に話してくださったとおりの奴でした。それにこの簪《かんざし》二本も、この書類の中の略図とそっくり同じです」
ディー判事は満足そうにうなずいていた。
「もし私がそれほど大きく読み違えていなければ、この件は明日にも結審となるだろう。警部、明朝の公判に半月小路暴行殺人にかかわるものは全員出廷するよう手配しておいてほしい。
それではタオ・ガン、リャン夫人とリン・ファン氏について、判明したことをきかせてくれたまえ」
タオ・ガンは彼の調べた事を詳細に説明し、彼への襲撃と、マー・ロンがタイミングよく介入したこともまじえて話した。
ディー判事は、彼の帰任まではリン邸の調査を続行しないというタオ・ガンの裁断に同意を示した。
「明日ここで全員そろって、リャン対リンの事件に関して協議することにしよう。私が文書を検討して得た結論についてそこで話し、今後とるべき行動について説明する」
判事は副官たちを去らせ、上級書記に命じて不在中にたまった公文書を持って来させた。
半月小路の犯人逮捕の知らせは、野火のように蒲陽《プーヤン》中にひろまった。翌朝早く、定刻のずっと前から、政庁には黒山の人だかりがしていた。
ディー判事が席につき、朱筆をとり上げて牢番長に渡す伝票に記入した。二人の巡査がホワン・サンを引っ立ててきて、壇の前で押しつけひざまずかせた。膝を曲げるときホワン・サンは痛さにうなり声をあげたが、巡査長が叫んだ。
「黙って閣下のお言葉をきけ!」
「名は何といい、どういう罪でこの政庁に連れて来られたのか?」とディー判事がただした。
「おれの名は――」とホワン・サンが口を切った。巡査長が棍棒を頭にくらわしてどなりつけた。
「犬め、閣下の御前だ、つつしんで申しあげろ!」
「いやしい手前は」ホワン・サンはむすっとした声で言った、「姓をホワン、名をサンと申します。世事をすべて捨てた正直な乞食道士にござります。昨夜私はいきなりこの政庁の使いっ走りに襲われ、わけもわからず牢獄に、引きずりこまれました」
「この犬畜生めが!」とディー判事がどなった、「純玉を殺害した件はどうなのだ!」
「純玉やら鈍玉やら存じませんが」とホワン・サンは無愛想に続けた、「つまりあんたはパオ婆《ばば》あんところの売女《ばいた》が死んだ件をわしにおしつけようとしているのじゃないんですかい? あれは自分で首吊って死んだんで、わしはあの時あそこにいなかったんです。証人だって何人もいまさあ」
「おまえの下劣な話を聞く耳は持たぬ」とディー判事はしぶい顔で言った、「本知事は、十六日の夜、お前が悪辣《あくらつ》にも肉屋シャオ・フーハンの一人娘純玉を殺した話をしているのだ!」
「閣下、わしは暦なんぞ持っちゃおりませんし、おっしゃるその日にわしがしたやらしないやらの事を、まるきり想像もつきませんな。それにあんたの言う名前も、わしには何のことやらわかりません」とホワン・サンは言い返した。
ディー判事は椅子に背をもたせた。考えこむように、彼はあごひげをしごいた。あらゆる点でホワン・サンは彼の考える暴行殺人者の像に合っているし、簪《かんざし》が所持品の中にあった。それでもなおホワン・サンの否認には紛れもない真実の音色がある。ふと、判事の頭に閃《ひらめ》いたものがあった。彼は体を前方に傾けて言った。
「私がおまえの記憶を新たにしてやるから、この知事の顔を見てよくきけ。この市の南西の隅、川向こうに小さな小売店の並ぶ通りがあるな。それが半月小路だ。その通りと狭い路地との角に肉屋がある。肉屋の娘は店の奥の物置の屋根裏に住んでいた。さて、おまえは窓の外に垂《た》らしてあった布のひもを頼りに、娘の部屋にはいりこむことができたのではなかったか? そしてその娘を暴行して絞殺し、娘の金の簪をとって逃げたのではなかったか?」
まだ開けていられるホワン・サンのよく動く片目の中に、ディー判事は了解の閃きを見てとった。やはりこの男だと判事はさとった。
「罪状を認めよ!」とディー判事は叫んだ、「さもなくば、拷問《ごうもん》にかけてききだすぞ!」
ホワン・サンは何かぶつぶつ言ってから、今度は大きな声ではっきりと言った。
「犬役人奴、なんでも貴様の好きな罪で責めるがいいさ。だがやってもいない犯行をおれに白状させるにはだいぶ手間ひまがかかるだろうぜ!」
「その恥知らずに、重い笞《むち》で五十打を行なえ!」とディー判事が命令した。
巡査がホワン・サンの長衣を引きはいで、そのたくましい胴をむき出しにした。重い革ひもがヒュッと被告の背にふりおろされた。やがてホワン・サンの背中は引き裂かれた肉の塊となり、舗石は彼の血で染まった。それでも彼は低くうめくばかりで、叫び声一つあげない。五十回目の鞭《むち》打ちが終わると彼は気を失い、頭が垂れて石の床にあたった。巡査長が鼻の下で酢《す》を燃やして息を吹き返させ、濃い茶を一杯さし出したが、ホワン・サンは傲然《ごうぜん》と断わった。
ディー判事が言った、「これは手始めにすぎぬ。もし白状せぬならほんものの拷問を課するであろう。おまえの体は強健であり、時間はまる一日ある」
「もしおれが白状すれば、貴様たちはおれの首をぶち落すのだろう」とホワン・サンはかすれた声でいった。「白状しなければ拷問にかけられて死ぬさ。おれはそのほうがいい。ちっとぐらい痛いのを我慢しても、犬役人の貴様を面倒にまきこむほうがおもしれえぜ」
すかさず巡査長が鞭の握りでホワン・サンの口を打った。重ねて打とうとすると、ディー判事が手を上げた。ホワン・サンは床に歯を吐き出し、すさまじい悪態をとばした。
「この傲慢無礼な奴を、もっとよく私に見せろ」とディー判事が命じた。
巡査たちがホワン・サンをつり上げて立たせると、その冷酷な片目を、判事はのぞきこんだ。もう一つの目はマー・ロンとの闘いで一撃をくらって、腫れ上がった肉塊と化している。
これこそ偏執狂的な常習犯罪者であり、まさにその言葉どおりに、自白よりは拷問で死ぬほうを選びもしようと、判事は心中考えた。彼はすばやく頭の中で、ホワン・サンとの昨夜の出会いとその折の会話についてマー・ロンが語ったことを思い出していた。
「被告をもう一度すわらせよ!」と判事は命じた。そして机にのせてある金の簪《かんざし》を取りあげ、机の向う側へ投げた。簪はカタリと音を立ててホワン・サンの目の前に落ちた。ホワン・サンは輝く金製品を陰気な目つきでながめた。
ディー判事は巡査長に命じて、シャオ肉屋を前に連れ出させた。
肉屋がホワン・サンと並んでひざまずくと、ディー判事が言った。
「この髪飾りには不吉な運命がついてまわるときいた。しかしまだくわしいことを話してもらっていない」
「昔、まだ私ども一家がよい暮らしをしておりました頃に、私の祖母がこの簪《かんざし》を質屋で買いました。その不運な行ないのため、祖母は私どもの家に恐るべき呪いを招き入れたのでございます。ひょっとすると身の毛のよだつような犯罪が昔あって、それに由来する恐しい宿命がこの簪にまといついているのです。祖母がそれを手に入れた数日後に、二人の泥棒が部屋に押し入って祖母を殺し、簪を盗みました。二人はそれを売ろうとしてつかまり、処刑場で首をはねられました。もしそのとき私の父がこの災いの源を消滅させておいてくれましたなら! しかし父は――どうかあの人の冥福を!――徳高い人で、孝心がその分別にうちかちました。
次の年、私の母が病気になり、謎めいた頭痛を訴え続けて、ながらくわずらった後に死にました。父は持っていた僅かばかりの財産もなくし、すこしおくれて死にました。私は簪《かんざし》を売ろうと思いましたが、愚か者の妻はひどく困った時のためにとっておくべきだと言い張りました。そしてそのまがまがしい品をしっかりしまっておかないで、わが家の一人娘につけさせたのです。そのためにまあなんと悲惨な運命が哀れな娘にふりかかりましたことか!」
ホワン・サンは自分と近い身分のふつうの人の口から語られる話にじっと耳を傾けていた。
「極楽も地獄もあるものか!」と彼はいきなり口を切った、「その簪を盗んだのがおれだったとはな!」
傍聴者の群からざわめきが起こった。
「静粛に!」とディー判事がどなった。
彼は肉屋を去らせ、ホワン・サンに向かって語りかけるように言った。
「天命からのがれることのできる者はいない。おまえが白状しようとしまいと構わないぞ、ホワン・サン。天の手はおまえを助けず、おまえは決して救われぬであろう――ここでも、冥界でもだ!」
「結局どうなろうが構やしねえが、これを片付けてけりをつけることにしようぜ」とホワン・サンは答えた。そして巡査長に向かって「そこの野郎、さっきのうすぎたねえ茶を持ってこい!」とどなった。
巡査長は大いに憤慨したが、ディー判事の有無を言わさぬ合図をうけて、ホワン・サンに茶碗を渡した。
ホワン・サンはごくごくと飲みほし、床にぺっと唾を吐いてから語りはじめた。
「貴様らが信じようが信じまいが勝手だが、生涯を悪運につきまとわれる男がいるとすれば、それはおれのことさ。おれほど力があって肝のすわった男なら、相当な盗賊一味の頭《かしら》として一生を終えても不思議はない。それがどうだ? おれは帝国きっての拳術家の一人で、あらゆる技に通じた師匠についていた。だが、そこにも悪運がひそんでいたんだろう、師匠に器量《きりょう》よしの娘がいて、おれは好きだったが向うがおれを好いてくれなかった。女からくだらないことを言われて我慢がならず、そのばかなあまっちょを手ごめにして、命がけでとんずらしなけりゃならなかった。
そのあとおれは道中で一人の商人に会った。それはどこから見ても福の神そのものに見える奴だった。おとなしく言うことをきかせるつもりで、ほんの一発くらわせただけなのに、そいつはたちまちお陀仏《だぶつ》しちまった。それでそいつの腹巻の中にあったのは何だったと思う? 糞っくらえの領収書の束だったさ。そのあともいつもそういう具合だった」
ホワン・サンは口の端からしたたる血をぬぐって、話を続けた。
「一週間かそこら前、おれは南西区の小さな町を、夜ふけて通りかかるやつをおどしてお布施《ふせ》をまきあげるつもりで歩きまわっていた。ふいに道を横切って狭い路地に消える奴を見かけた。盗っ人ならついていって盗品を分けてもらおうと考えた。だがおれがその路地にはいったときそいつの姿はどこにもなく、真っ暗でシーンと静まりかえっていた。
二、三日あと――貴様たちが十六日というなら十六日だろうが――おれはまたその近辺に来ていた。路地の中をもう一度調べてみてもいいなとおれは思った。全然|人気《ひとけ》はなかったが、高い窓からいい布切れの長いのが垂れ下がっているのが見えた。誰かが夜とり入れるのを忘れたんだなと思い、少なくとも骨折り賃にはなるから、持っていこうと近寄った。
壁ぎわに立って、引き下ろそうとして静かに力を入れて引いた。ところが急に上のほうで窓が開き、女の優しい声がしてひもがゆっくり引きこまれていくじゃないか。その女が間男《まおとこ》とあいびきの約束をしているんだとすぐわかり、何でもよりどりみどり盗む好機到来だと思ったぜ、そのあまが騒いで人を呼んだりするはずはないものな。そこでおれはひもにつかまって窓わくの上まで上がった。女がまだせっせとひもをひっぱりこんでいるうちに、おれは部屋の中にはいった」
ホワン・サンは皮肉なながし目をくれた。
「若くてめんこい娘《こ》だったぜ。それはすぐわかった、つまり、着るものをろくに着てなかったんだからな。そんな機会を見のがすようなおれじゃないから、すばやく手でそいつの口をふさいで言ったんだ。口をきくなよ。目をつむって、おれを貴様の待っていた奴だと思えって。ところがそのあまは雌虎《めすとら》みたいに逆らいやがって、おさえつけるのにしばらくかかった。ことを済ませてからだっておとなしくしていようとはしなかった。戸口にかけよってわめき始めたから、すぐさま絞め殺した。
いろが上がってこられないように布のひもを引っぱりこんでおいてから、金はないかと持ちもの全部かきまわして捜した。自分の運の悪さをおれはよくわきまえておくべきだったと思うね。銅銭一枚見あたらず、ただあのいまいましい簪《かんざし》しかなかったんだ。
さあ、そっちのらくがき屋が書いている紙っぺらにつめ印を押させろ。またぞろ話したことを読み上げるのは聞きたくもねえ! 女の名前は好きなように何とでもしとくがいいや。牢に帰してくれ、背中が痛い」
「犯人は自分の口述書の朗読をきいてから栂印を捺《お》すことと、法には定めている」とディー判事は冷たく言った。
彼は上級書記に命じて、ホワン・サンの告白を書きとめたとおりに大声で読み上げさせた。
ホワン・サンが仏頂面でそのとおりだと認めると、紙がその前におかれ、栂印が捺《お》された。
判事がおごそかな声で宣した。
「ホワン・サン、本官はおまえに暴行ならびに殺人の、二重の犯行による有罪を宣告する。情状酌量すべき事情はなく、著しく残忍な殺人である。しかるが故に、上級官庁からは厳しい手段による極刑が科せられるであろうことを警告しておこう、それが私の義務である」
彼が巡査に合図を送ると、ホワン・サンは独房へ引かれていった。
ディー判事はもう一度肉屋のシャオを呼び出させた。
「いずれあなたの娘の殺害者を連れてきて裁判にかけようと、数日前に約束した。いまあなたはその告白を聞いた。至高の天がその金の簪《かんざし》に負わせた呪いは、かほどにまで恐ろしいものだ。あなたの哀れな娘は、その名前も知らず、どうなろうとかまいもせぬ下劣なならずものに犯され殺された。
簪はここにおいていくがよい。金細工師に目方を量らせ、政庁がそれに値する量の銀を支払うこととしよう。
あの見下げ果てた犯人は財産を持たぬので、あなたに慰謝料を払うことはできない。だがあなたの損失を償うため、私のとる手だてをこれからきかせよう」
肉屋のシャオは判事に向かってしきりに礼を述べはじめたが、知事はそれをさえぎり、下がって立っているように言った。それから巡査長に、ワン学士を前に引き出すよう命じた。
判事はワン学士をよくよく見つめ、いま暴行殺人の二重犯行の嫌疑が晴れたことが、なんら彼の悲嘆を軽くしていないのを認めた。反対にホワン・サンの告白は彼に強い衝撃を与え、涙が頬を流れ落ちていた。
「ワン学士」とディー判事は重々しく言った、「肉屋シャオの娘を誘惑したかどで、私はおまえを厳しく罰することもできただろう。しかしおまえはすでに三十打をうけているし、被害者を深く愛していたというおまえの言葉を信じているゆえに、私はこの悲劇の記憶がもたらす罰は、この政庁が科する刑罰よりずっと重いであろうと想像する。
それにしてもこの殺人による損失を取り返し、被害者の遺族へ補償を行なわねばならぬ。そこで本官は、おまえが純玉を第一夫人として死後婚礼を挙げることを定める。政庁は適当額の結婚資金をおまえに貸与し、純玉の位牌を花嫁の席にすえて、正式に結婚式を行なわせよう。おまえが試験に合格してから、借金を月賦《げっぷ》で政庁に支払うがよい。なおそれとあわせて、おまえの官給にもとづき私の定める額を、総計で銀五十粒に達するまで、肉屋のシャオに対して月ごとに支払うこととする。
やがてこれら二つの負債を払い終えたうえで、おまえには第二夫人をめとることが許される。しかしその妻も、さらに次の妻も純玉の座を奪うことは決して許されず、純玉はおまえの生涯の終わりまでおまえの第一夫人とみなされるものである。肉屋のシャオは誠実な人柄であり、おまえは忠実な義理の息子となってシャオとその妻を崇《あが》め仕えなければならない。夫婦のほうでもおまえを許し、もしまだこの世にあるならばおまえの実《じつ》の両親がされたであろう如くに、おまえの助けとなるであろう。さあ、ただちに勉学にいそしめ!」
ワン学士は思いのたけ泣きむせびながら、何度も何度も叩頭《こうとう》した。シャオ肉屋がそのそばにひざまずいて、賢明な処置により一家の面目を回復してもらったことを、ディー判事に感謝した。
彼らが立ち上がると、ホン警部が判事のほうへ身をかがめて何事かをささやいた。ディー判事はかすかに笑って言った。
「ワン学士、君を行かせるまえにはっきりさせておきたい小さなことが一つある。君が十六日から十七日にかけての夜をどう過ごしたかについての供述は、君が固く信じてした一つの誤りを除いては、どの点も真実である。
最初に記録を読んだときから、私は茨の茂みが体にそんなに深い裂傷を生じさせるはずがないと感じていた。夜明けの薄明りの中で煉瓦の山と下生えとを見て、君はごく自然に、古い屋敷跡にはいりこんだと考えた。しかし、実を言うと、君は新しく家を建てている所にはいったのだ。
外壁用の煉瓦がまわりに積み上げてあり、左官屋の手で漆喰《しっくい》塗りの内壁の下ごしらえが、定まりどおりに細い竹の棒を並べて組んで漆喰を塗る土台にするという方法で仕上がっていた。君はその鋭い切先《きっさき》に倒れかかったに違いない、それなら確かにそのような裂傷ができる。そうかもしれぬと思うなら、五味亭の近辺でそういう宅地を捜してみるがよい。そうすれば君が宿命の一夜を過ごした場所が見つかるに相違ないと思う。さあ、行ってもよいぞ」
ディー判事もそこで腰を上げ、副官たちをしたがえて壇を下りた。
執務室に通じる仕切りをくぐったとき、傍聴者の群れから賞讃のざわめきが起こった。
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第十四章
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判事が古い確執の沿革をもの語り
殺人者鼠とり作戦の大綱を述べる
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ディー判事は上級官庁へあてて半月小路殺人事件の詳細な報告と、犯人に対する極刑の提議とを書くのに、午前の残りの時間を費やした。死刑宣告はすべて皇帝の承認を得なければならないので、ホワン・サンが処刑されるまでには何週間もかかるのだ。
昼の公判では県内行政の日常事務を二、三扱った。そのあと公舎で昼食をとった。
執務室にもどると、彼はホン警部、タオ・ガン、マー・ロン、チャオ・タイを呼び入れた。一同がかしこまって判事に挨拶すると、彼は全員に向かって言った。
「今日は諸君四人にリャンとリン両家の件について、すっかり話してきかせよう。茶を新しくいれるように言って、君たちは楽にしなさい。長い話になるよ」
全員がディー判事の机に向かって席をとった。彼らが茶をすすっている間に、判事はリャン夫人の提出した書類の包みを解いた。文書を区分けし、文鎮でおさえると、椅子によりかかった。
彼は話を始めた。「君たちは卑劣な殺人と無情な暴力行為の物語を長々ときくことになり、至高の天がなにゆえにかくも残酷な不正を許し得たのかと、不審に思うことも少なくなかろう。私自身、これほど興奮させられる記録を読んだことは滅多にない」
ディー判事は黙りこみ、ゆっくりとあごひげをなでた。副官たちは彼を見つめて待ちうけた。
やがて判事はすわったまま背すじを伸ばした。
「便宜上、こみいった材料を二つに分類する」と、彼はてきぱきと言った、「第一は広東《カントン》での宿怨《しゅくえん》の始まりと展開を、第二にはこの蒲陽《プーヤン》で、リン・ファンとリャン夫人が来てから起こった事柄を含む。
厳密に言えば、私は第一の局面を論ずるのに適任ではない。それらの諸件は広東《カントン》の地方政庁と広東《カントン》府の府裁判所により却下されているので、その裁定を論評することはできないのだ。しかしこの確執の第一の局面がわれわれに直接関係を有しないとしても、それがこの蒲陽《プーヤン》における展開の素地をなしている以上、無視するわけにはいかない。
そこで私は、裁判関係の専門用語、名称その他の細かい事項で、主題に直接的関係のないものを省略して、第一の部分を要約するところから始める。
五十年ばかり前、広東《カントン》にリャンという裕福な商人がいた。同じ町内にもう一人、リンという裕福な商人がいた。二人は互いに最も親密な友であった。両人ともに経営の才があり、誠実で勤勉な人物だった。彼らの家は繁昌し、その持船は遠くペルシャ湾まで航行した。リャンには息子が一人あってリャン・ホンといい、娘はリンの一人息子のリン・ファンにめあわせた。その少しあとでリン老人が死んだ。彼はその死の床で息子のリン・ファンに、リンとリャン両家の間に存する友情のきずなを末永く育てるよう、厳粛に申し渡した。
ところがその後の年月を経るうち、リャン・ホンは父親そのままの性格だったが、リン・ファンのほうは卑劣で強欲な性分の人非人であることを示しはじめた。老父が実務から退いたあと、リャン・ホンはそのあとを引きついで商会の健全な経営方針を保ったが、リン・ファンは回転の速い不正な利益を得たいがため、いろいろと怪しげな取引に手を出した。その結果リャン家は繁栄し続けたが、リン・ファンは父から受け継いだ莫大な資産の大半を失った。リャン・ホンは常に忠告を惜しまず、請け負った契約を守らないと訴えてくる他の商人たちに対して弁護するなどして、およぶ限りリン・ファンを助け、相当多額の金を融通したことも一再ならずあった。ところがこの寛容さえも、リン・ファンにとっては侮《あなど》りと恨みの種を増すばかりであった。
リャン・ホンの妻は二人の男子と一人の女子を産んだが、リン・ファンにはまだ子がなかった。羨望の念が、リン・ファンのリャン・ホンに対する侮りの心を憎しみに変えた。リャン家こそ自分の失敗と不運すべてのもとなのだと、リン・ファンは思いこむようになり、リャン・ホンが援助すればするほど、リン・ファンの憎しみは増した。
たまたまある時リン・ファンがリャン・ホンの妻に出会ってにわかに激しい情欲を抱いたことから、事態は重大な局面を迎えた。同じ頃リン・ファンは危険な商取引に失敗し、多額の負債を背負いこむことになった。リャン夫人は貞潔な女性で、夫を裏切ることなどはあり得ないとわかっていたから、リン・ファンは力ずくでリャン・ホンの妻と富とを一挙に奪いとるという、卑劣な企てを編みだした。
リン・ファンは後ろ暗い仕事で、広東《カントン》の暗黒街と結びつきを持っていた。一部はリャン・ホン自身の営業の関係だが、むしろ広東《カントン》の他の三大貿易商の代行で、彼が多額の金《きん》を集めに近隣の町に出張する予定があると聞いたとき、リン・ファンは盗賊を雇って、帰途リャン・ホンを市外で待ち伏せさせた。盗賊どもはリャン・ホンを殺して金を奪った」
ディー判事は厳粛な面持ちで副官たちを見てから、すぐ続けた。
「その邪悪な計画が実行された日、リン・ファンはリャン家を訪れて、火急かつ内密の用件でリャン夫人にお目にかからねばならぬと言った。夫人が面会するとリン・ファンは、彼女の夫が道中で襲撃され、金を盗まれたと告げて、こう言った。リャン・ホンは手傷を負ったが生命に別条はない、召使がとりあえず北郊外の無人の寺に連れこみ、リャン・ホンはそこから秘かにリン・ファンに相談をもちかけてきた、家の資産をいくらか処分することにより、三つの商会から集めてきた金の欠損を補償するに足るだけの資金を、妻と父とが用意するまで、彼の災難は厳に伏せておきたいというのがリャン・ホンの希望である、損害が公けになると彼および家の信用にかかわる、また、リャン夫人はリン・ファンに同行してただちに寺まで来てほしい、どの資産がすぐ処分できるか協議したいとリャンが言っている、とね。夫の慎重な性格にかなったその作り話を信じたリャン夫人は、裏口から家を忍び出てリン・ファンと出かけた。
無人の寺に着くとすぐリン・ファンはリャン夫人に、彼の話がただ部分的に真実であることを打ち明けた。夫は盗賊に殺された、しかし、自分は夫人を愛していて面倒を見る意志があると告げた。リャン夫人は憤怒のあまり言葉もなく、のがれでてリン・ファンを訴えて出ようとした。しかし彼は夫人をひきもどし、その夜無理無体に我がものにしてしまった。翌朝早くリャン夫人は指に針をさし、ハンカチに血で舅《しゅうと》にあてて詫び状を書いた。それから帯を梁《はり》にかけてくびれて死んだ。
リン・ファンは遺体を捜して遺書を記したハンカチを見つけると、彼の罪を隠す工夫が思い浮かんだ。遺書にはこうあった。
「リン・ファンがわたくしをこの淋しい場所にさそい出して犯しました。あなた様の家名に恥をもたらしましたうえは、あなた様のしもべ、そしていま不貞となりました寡婦は、死のみを罪の償いと存じております」
リン・ファンはハンカチの右角の、遺書の一行目に書かれているところを破りとって燃やしてしまった。文言の残りの、「あなた様の家名に」からあとの部分は死んだ女の袖の中にもどしておいた。
そのあとリン・ファンはリャン邸にもどり、リャン家の老夫妻がリャン・ホンの死と金の喪失とを嘆き悲しんでいるのを見た。通りがかりの人がリャン・ホンの死体を発見して犯罪を知らせたのであった。リャン・ホンの老親の悲しみをわけ合うように装いながら、リン・ファンは未亡人の様子をたずねた。見あたらないのだと知らされると、リン・ファンはさんざんためらうふりをしたあげく、リャン夫人には情人がおり、よく荒れ寺で密会していたことを知っている、それをお知らせするのは私の義務と心得ると言った。リャン夫人はその会合場所にいるだろうともほのめかした。リャン老人は寺に急行し、嫁の屍体が梁から下がっているのを発見した。彼は遺書を読んで、嫁が夫の殺された事をきき、にわかに良心のとがめを感じて自殺したものと考えた。こうした悲嘆に堪えられず、その夜リャン老人は毒を仰いで自殺した」
ディー判事は話を止め、ホン警部に茶を注ぐよう合図した。判事は二口三口すすってから言った、「ここからは、現在|蒲陽《プーヤン》に住んでいるリャン老夫人が、この件の中心人物となる」彼はさらに続けた。
「リャン老人の妻はたいそう活動的で聡明な婦人で、それまでも婚家の問題には積極的にかかわってきた。亡き嫁の貞節を確信していたから、裏切り行為に疑念を抱いた。三商会の欠損を償うため、リャン家の資産を処分するのに必要な指示はすべて老夫人が下した。同時に信頼のおける家令を荒れ寺へ探索にさし向けた。さて、リャン夫人が手紙を書いたとき、ハンカチを枕の上にひろげたから、血がところどころ枕おおいにしみついた。このかすれたあとから、手紙の第一行が復元できた。家令がこれを報告したとき、リャン老夫人はリン・ファンがリャン・ホンの妻を犯したばかりか、リャン・ホンの殺人をも仕組んだとさとった。遺体が発見されるより前に、彼はリャン・ホンの死をその妻に知らせていたのだ。そこでリャン老夫人は、リン・ファンのこの二重殺人を広東《カントン》政庁に訴え出た。しかしリン・ファンはまさに悪辣な手段により高額の金を手に入れたばかりだった。彼は土地の役人に賄賂《わいろ》をおくり、証人たちには偽りの証言をさせ、また不良少年の一人を故リャン夫人の情人として名乗り出させなどした。訴えは却下されてしまった」
マー・ロンが質問をしようとして口を開きかけたが、ディー判事は手を上げて、そのまま続けた。
「同じころリン・ファンの妻、つまりリャン・ホンの妹が失踪し、どこにも発見されなかった。リン・ファンはいたく悲しんでいるふうに見せかけたが、彼が妻を殺してその死体をどこかへ隠したことはだいたい察しがついた。彼の子を生まなかった妻も含めて、リャン家一族のものすべてを彼は憎んでいたのだ。
リャン老夫人の記録の第一部で、事件はこのように説明されている。二十年前のことだ。
それでは、この確執のその後の展開にうつる。リャン家は老夫人と二人の孫、一人の孫娘だけになった。三商会に弁済したことで資本金は十分の一に縮小したが、リャン家の名声は衰えず、多数の支店は相変らず繁昌した。リャン夫人の才覚ある采配を得て、本店は急速に欠損をとり返し、一家は再び繁栄しはじめた。
その間もリン・ファンは、常に不正な利殖を追求しつづけて大きな密輸組織を作り上げ、ついに地方当局がその活動に疑いを抱くまでになった。密輸は地方当局が扱い得る犯罪ではないが、自分の力もそこまでは及ばない府の裁判所に上告されるかもしれないことを、リン・ファンは感じていた。またもや彼は当局の注意をそらすと同時に、リャン家を破滅させることも計算に入れた邪悪な企みを練りあげた。
彼は港の監督を買収し、リャン商会のジャンク二隻の積荷の中に、ひそかに禁制品の箱いくつかを置かせた。そして人を使ってリャン老夫人を告発させた。当然のこと、のっぴきならない証拠が発見され、リャン商会とその支店の全資産は政府により押収された。リャン夫人は再びリン・ファンを訴えて出たが、訴件はまず地方の法廷で、さらに府の法廷でも却下された。
自分の家族すべてが根絶やしになるまで、リン・ファンの手はやむことがないであろうことを、リャン夫人はさとった。そこで彼女は自分のいとこの所有地である郊外の農場に難を避けた。この農場は荒廃した要塞跡にあり、古い石造のとりでがまだ残っていて、百姓が穀物倉庫に使っていた。リン・ファンが盗賊を雇って襲撃をかけでもしたとき、このとりではよい隠れ場所になるだろうと考えて、リャン夫人はそこに緊急の場合の設備をととのえた。
二、三か月後、リン・ファンはほんとうに無法者の一団をさし向けて農場を破壊し住人を殺害した。リャン夫人と三人の孫、老家令と六人の忠実な使用人が、食糧と水を貯えておいたとりでにたてこもった。悪党どもは戸口を叩き破ろうとしたが、固い鉄の扉が彼らの猛攻に耐えた。そこで彼らは乾いた木を集め、そだの束に火をつけて窓の桟の間から投げこんだ」
ここでディー判事はちょっと黙った。マー・ロンは膝の上でこぶしを固く握りしめている。ホン警部は腹立たしげに薄いあごひげを引っぱった。
「中のものたちは煙にまかれ、脱出せざるを得なかった。リャン夫人の下の孫、孫娘、老家令と六人の召使は、盗賊どもの手にかかってめった切りにされた。しかし大ぜいがもみ合う中で、リャン夫人と年長の孫のリャン・コーファとはいっしょに逃がれることができた。
ごろつきどもの頭《かしら》はリン・ファンに全部死んだと報告し、リン・ファンはこれでリャン家一族を根絶やしにしたと思いこんだ。この九重殺人は広東《カントン》全市に深い憤りをまき起こし、両家の間の確執に気づいていた何人かの商人は、この極悪非道の犯罪の責めを負うべきはまたしてもリン・ファンであることをさとった。
しかしその時すでにリン・ファンは広東《カントン》市で最も裕福な商人の一人となっており、彼にたてつこうとするものはいなかった。そのうえ彼は事件に甚しく心を痛めていると公言してはばからず、盗賊どもの所在を知らせた者にかなりの額の賞金を出そうと申し出た。盗賊の頭はリン・ファンとひそかに話をつけ、四人の部下を犠牲にした。その四人は逮捕されたのち有罪を宣告され、鳴物入りで首をはねられた。
リャン夫人と孫のリャン・コーファは広東《カントン》に住む遠い親戚を頼り、仮名を名乗ってしばらく身をかくしていた。彼女はリン・ファンに不利な証拠を集めることに成功した。五年前のある日、彼女は隠れ家から姿を現わし、リン・ファンの九重殺人を訴えて出た。
この犯罪はあまねく知れ渡っていたから、土地の知事はリン・ファンをかばうのをしぶった。世論はリン・ファンに批判的になっていたのだ。この訴訟を棄却に持ちこむのに、リン・ファンは多額の金を使った。二、三年姿を隠していたほうが賢明だろうと彼は考えた。とりわけ廉直《れんちょく》で名高い人物が新たに府の総督に任命されてきていた。そこで彼は営業を信頼する執事の手に委ね、使用人と妾たちも少数にかぎって、大ジャンク三隻に乗せ、ひそかに広東《カントン》をはなれた。
リャン夫人がリン・ファンの行先を見つけ出すのに三年かかった。リン・ファンがこの蒲陽《プーヤン》に落着いたことを知ると、リャン夫人はただちにそのあとを追い、復讐の手だてを講じようとした。孫のリャン・コーファが彼女に同行した。子は父を殺した者と同じ天を戴《いただ》かぬと、書物にもあるではないか。二年まえ、祖母と孫とはこの土地にやってきた」
ここでディー判事はしばらく話をやめ、茶のお代わりをしてからまた続けた。
「今度はこの件の第二部にはいる。それは二年前にリャン夫人がこの政庁に対して行なった提訴の中で扱われている。この文書だ」と彼は、前にある書類を叩いてみせて言った、「リャン夫人は、リン・ファンが孫のリャン・コーファを誘拐したといって訴え出ている。到着するとすぐリャン・コーファは、ここ蒲陽《プーヤン》でのリン・ファンの活動について調査を始め、彼に対し訴訟をおこすに十分な事実を発見したと祖母に告げた。
運の悪いことに、そのとき彼は自分の発見についてくわしく話さなかった。リン邸の周辺で調査していた最中に、リン・ファンが彼を捕えたのだとリャン夫人は主張している。しかしながら、この告訴を正当化するためには、両家の間の昔からの確執の話にもどらねばならなかった。リン・ファンがリャン・コーファの失踪に、何かの点で関わっているという証拠を提示できる状況ではなかったのだ。そういう次第だから、私の前任者のフォン判事がこの件を却下したからと言ってとがめるわけにはいかない。
それでは、これからどんな方策で進めるか、君たちに概略を話してきかせよう。武義《ウーイー》と金華《チンホア》への長旅を輿の中で過ごすあいだ、この問題についていろいろ考えた。この地でのリン・ファンの悪事については一つの仮説にたどりついた。この仮説はタオ・ガンの報告にあった事実により証明されている。
まず第一に、リン・ファンが隠れ場所として、なぜこの蒲陽《プーヤン》という小さな県を選んだかと自問してみた。彼ほどの富と勢力を有していれば、人目をひかずに気楽で快適な生活をしようとするなら、普通は大都市か、いっそ首都をさえ選ぶものだ。
リン・ファンと密輸業者との結びつきを考え、彼の恐ろしく強欲な性格を念頭においてみて、この県が塩の密輸に最も便利な位置にあることが、ここを選ばせたのだという結論に達した!」
それでわかったという表情が、タオ・ガンの面に浮かんだ。判事がさらに続けるのを、タオ・ガンは考え深げにうなずきながらきいた。
「塩はわが栄光の漢王朝以来、帝国政府の専売品である。蒲陽《プーヤン》は運河沿いに位置し、沿海地方の塩田から遠くない。だからリン・ファンは塩の密貿易をやって、もっともうけるつもりでこの地に住み着いたのだと考えられる。首都で金のかかる快適な生活をするより、辺鄙《へんぴ》な土地でも利益の上がるほうを選ぶというのは、彼の卑しく強欲な性格によく合うではないか。
タオ・ガンの報告は、私の疑惑を裏づけた。さびれた区域で、水門に行くにも便利な場所にある古い屋敷をリン・ファンが選んだのは、その場所が塩の秘密輸送に好適だからだ。彼が市外に買った地所もこの計画の一環だろう。リン邸からそこへ歩いて行くには、回り道して北の城門を抜けて行かねばならないから、けっこう時間がかかる。だが市街の地図を見ると、水路を使えば非常に近いことがわかる。水門の重い格子が船の通過を防止しているのは事実だが、小形の荷物なら格子越しに、船から船へ簡単に移すことができる。リン・ファンがジャンクを用いて、どこでも好きなところへ塩を輸送する手だてを、運河が与えていたのだ。
リン・ファンが目下彼の密輸業を中止し、故郷の都市に帰る準備をしているというのは大いに不都合なことである。彼に不利な証拠がまだ収集できるかどうか疑わしい。彼は非合法な取引の痕跡をすっかり抹消してしまっただろう」
ホン警部がここで口をはさんだ。
「閣下、リャン・コーファが密輸の証拠をあげ、その線からリン・ファンを攻めるつもりだったのは明白です。もう一度リャン・コーファの徹底的捜索を始めることはできますまいか? たぶんリン・ファンがどこかに監禁しているのです!」
ディー判事はかぶりを振った。
「リャン・コーファはもはや生きていないのではないかと恐れている」と彼は重々しく言った、「リン・ファンはまったく無慈悲な男だ。タオ・ガンなら思いあたることがあるな。先日リン・ファンは、タオ・ガンをリャン夫人の手の者と思ったのだ。マー・ロンが運よく行き合わせたおかげで、タオ・ガンは危うく闇討ちから免れた。そうなんだ、リン・ファンがリャン・コーファを殺してしまったのではないかと案じているのだよ」
「それではリン・ファンを捕える望みはほとんどありません」と警部が言った、「もう二年も経過しているのですから、その殺人の証拠をあつめるのはほとんど不可能です」
「残念ながらその通りだ」とディー判事は答えた。
「そこで私は次のような方策を決定した。リャン夫人だけが自分の相手と思っている限り、彼女の計画に対抗してどんな手をうつべきかリン・ファンは正確に知っているから、へまをしでかさない。しかしこれからさきは私を相手にすることになるのだと、わからせてやろうと思う。彼が驚いてあせり、追いこまれて何か破れかぶれの手段に訴えた時、われわれには彼を攻略するきっかけがつかめるだろうというのが、私のねらいだ。
では、私の指示をよくきいてくれたまえ。
第一に、今日午後、警部は私の名刺をリン氏にとどけ、私が明日ごく非公式な訪問をすることを告げる。その訪問で、私は彼に対してなんらかの容疑を抱いていることを明かし、彼は市を去ることができないとわからせる。
第二、タオ・ガンはリン邸の隣の地所の所有者を見つけ出す。そして、その屋敷跡が浮浪者の隠れ家になっているから、とり片付けるべしという政庁の命令を所有者に知らせる。費用の半分は県当局でもつとしよう。タオ・ガン、君は人夫を採用し、巡査二人に補佐させ、君が監督して明朝から仕事を始める。
第三、ホン警部、リン邸訪問のあと、その足で駐屯軍本部に行き、市内に出入する広東《カントン》人はみな取り調べる必要があるので、何とか口実をつけて引き止めておくよう、四つの城門の守備兵に命ずる私の指示書を隊長に渡してくるのだ。なお、数人の兵を昼夜なく水門警備にあたらせよう」
ディー判事は満足げに手をこすり合わせた。
「リン・ファンが考えこむための材料はたっぷりだろうよ。君たち、何かほかに案はないか」
チャオ・タイがにやりとして言った。
「あいつの農場にも、何か手が打てそうですね! 明日私がリン・ファンの農場の向かい側にある、市外の官有地へ出向くというのはどうでしょう。そこに軍隊のテントを張って、運河で釣りでもしながら一日二日がんばっていましょう。あそこなら水門と農場とを見張ることができますし、わざと目立つようにやれば、農場にいる連中が気づくはずです。彼らはきっと私のスパイ活動をリン・ファンに報告するでしょうから、奴の心配の種がふえます」
「いいねえ!」と判事は声をあげた。頬の長い毛を引っ張りながら深く考えこんでいるタオ・ガンのほうに向きなおって言葉をかけた。
「何か提案があるか、タオ・ガン」
「リン・ファンは危険な人物です」とタオ・ガンが言った、「自分に圧力がかかってきたことに気づいたら、彼はリャン夫人を消しにかかるでしょう。告発者の死とともに、彼に対する訴訟は消滅するのです。夫人に護衛をつけることを私は提案します。あの家に行ったとき、向かいの絹物店が空家になっているのを見てきました。あの婆さんに何か不都合なことが起こらぬよう、マー・ロンに一人か二人巡査をつけて、あそこに配置することをお考えいただけないでしょうか」
ディー判事はちょっと考えてから、答えた。
「そう、これまでのところリン・ファンは、この蒲陽《プーヤン》においてリャン夫人に危害を加えようとはしていない。しかしわれわれはどんな機会も見のがさぬほうがいい。マー・ロン、今日からそこへ行ってくれ。
さて、仕上げの策として、私は当市南北の運河沿いの守備隊番所に回状をまわし、リン商会の屋号をつけたジャンクはすべて止めて、禁制品の捜査をするよう依頼しよう」
ホン警部が笑った、「さよう、リン・ファンは二、三日うちに、ことわざにある、熱いフライパンの中の蟻同然の気分になるでしょうね」
ディー判事はうなずいた。
「こうした策のすべてに気がついたら、リン・ファンはわなにかかった気持ちだろう。ここは彼の勢力の行きわたっている広東《カントン》からは遠いし、手下の多くはもう帰してしまった。しかも、彼は私が不利な証拠の一片だにつかんでいないなどとは知らない。リャン夫人が何か彼の見のがした事実を私に教えたか、私が彼の密輸の証拠をにぎったか、さもなくば私が広東《カントン》の同僚から彼に不利な情報をいろいろ入手したかもしれぬと、ひとりで案ずるだろう。
こうして疑心暗鬼になった彼が性急な動きに出て、われわれに手掛りを与えてくれるとうまいんだがね。見込みが薄いことは認めるが、それでもさしあたってわれわれにできることはこれしかないのだ!」
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第十五章
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判事は広東《カントン》出身の紳士の家を訪れ
若いご婦人ふたリがお着きになる
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翌日、政庁の昼の公判をすませると、ディー判事は略装の青い長衣に着替え、黒い小さな帽子をかぶった。それから輿《こし》に乗り、巡査二人だけをしたがえてリン邸におもむいた。
大門の前に着く頃、ディー判事は輿の垂れ幕を掲《かか》げて、十人ばかりの人夫が左隣の屋敷跡を整理しているのを眺めた。タオ・ガンは門についているのぞき窓から十分見える位置の煉瓦の山に腰を下ろして彼らの仕事を監督しており、大満悦のようすだった。
巡査が戸を叩くと、すぐリン邸の二枚扉が大きく開き、ディー判事の輿は正|院子《なかにわ》にかつぎ入れられた。判事が降り立つと、すらりと背の高い堂々たる物腰の男が段の下で彼を待ちうけていて、応接室へ案内した。
ディー判事が執事だろうと見た肩巾の広いずんぐりした男の他には、使用人の姿を見かけなかった。
背の高い男は深く頭を下げ、低い単調な声でしゃべった。
「手前は商人のリン、名をファンと申します。閣下には、私の貧しいあばら屋へようこそお越しくださいました」
二人は段を上がって、簡素ながら上品にしつらえた大広間にはいった。彫りのある黒檀《こくたん》の椅子に二人はすわり、執事が茶と広東《カントン》風の砂糖菓子をすすめた。
お決まりの挨拶がとり交わされた。リン・ファンは北の地の言葉を流暢《りゅうちょう》に話すが、はっきりと広東《カントン》なまりがある。話をしながら、ディー判事はそれとなく主《あるじ》の人柄をさぐった。
リン・ファンは五十歳ほどに見えた。長い細い顔に、薄い口ひげと灰色の山羊ひげを生やしていた。ディー判事はとりわけリン・ファンの眼つきに強い印象をうけた。すなわち、妙に固まったようにじっと見つめ、それが頭といっしょに動いていくような感じがある。もしこの眼つきがなかったら、この堂々として礼儀正しい紳士が、少なくとも十二人の悪辣《あくらつ》な殺人の責めを負うと信ずることは難かしかろうと、判事は考えた。
リン・ファンは、地味であっさりした黒っぽい長衣を着て、広東《カントン》人好みの黒い緞子《どんす》の上着に、黒い紗《しゃ》の略帽をかぶっていた。
「私がうかがったのは」とディー判事は口を切った、「全く非公式なことなのです。ある問題についてあなたとごく内輪の話し合いをしたいと存じます」
リン・ファンは最敬礼し、低く単調な声で言った。「愚かでとるに足らぬ商人めには何の力もございませんが、かしこまって閣下の仰せにしたがいます」
「二、三日まえ」と判事は続けた、「リャンと申す広東《カントン》人の老女が政府に現われ、あなたが彼女に対してなしたと称するありとあらゆる犯罪について、支離滅裂な長い話をして行きました。それがどういうことなのか、私にはまるで納得がいきませんでした。あとで私の補佐官の一人が、あの婦人は精神が錯乱しているのだと教えてくれました。婦人は書付けを一揃い置いて行きましたが、哀れにも狂った精神の世迷い言ばかりでしょうから、面倒でまだ読んではいないのですがね。
あいにくなことに、法の定めによれば、少くとも一度は審理の手続きを踏まなければ訴えを却下することはできません。それであなたにこの友好的な訪問を行ない、あの老女になんらかの満足感を与え、互いに時間の節約になるようにするにはこの件をどう処理したらいいか、内々にご相談することにしたのです。
私の立場からすると甚だ破格なやり方だと思われましょうが、あの老女が精神に変調を来たしているのは明白なことであり、いっぽうあなたは議論の余地なく誠実であられるから、この際こういう段取りで行くのが妥当だと思うのです」
リン・ファンは席を起って判事の前に最敬礼し、謝意を表した。再び席につくとゆっくりとかぶりを振りながら言った。
「これは悲しい悲しい話です。今は亡きわが父は、リャン夫人の亡き夫の最もよき友人でした。私自身、両家の伝統である絆《きづな》を保ちまた強めようと、多年粘り強く努めて参りました。それがまことに苦しい課題となる時もございましたけれども。
私の事業が栄えるかたわらで、リャン家の事業は確実に傾いていったことを閣下に申しあげねばなりません。ある程度までは避けようのなかった不運や災難が続いたためでしたが、いくぶんかはわが父の友人の息子リャン・ホンが、健全な商才を欠いていたためであることも事実です。たびたび私は彼らに援助の手をさしのべましたが、明らかに天がリャン家に背を向けたもうたのです。リャン・ホンは盗賊に殺され、老夫人が商会の指揮を引き継ぎました。不幸にも夫人は重大な判断を誤り、多大な損失をきたしました。そして債権者から激しく責めたてられるうち、夫人は密輸団に誘われて仲間になったのです。それが明るみに出て、一家の資産は没収されました。
そのうち老夫人は田舎にひっこんで暮らすようになりましたが、そこで彼らの農園は山賊一味の手で放火され、夫人の孫二人、使用人数人が殺害されました。密輸事件のあと、私は両家のつながりを断たざるを得なかったのですが、かつて私の家と非常に親密であった家族に対してなされたこの非道は我慢できませんでした。私は賞金を気前よくはずみ、殺害者どもを審判に下すことでやっと安心しました。
しかし、そうこうする間に、こうしたすべての不幸がその精神に作用して、リャン夫人は私が万事の原因であるという考えを抱くに至ったのです」
「なんとばかげたことを!」とディー判事が口をはさんだ、「あなたはあの人の最良の友人であられた」
リン・ファンは静かにうなずき、ためいきをついた。
「そうなのです。この事件がどんなに私を悲しませたか、閣下ならおわかりいただけましょう。老夫人は私を執拗《しつよう》に苦しめ、中傷し、あらゆる手を使って人々を私に背かせようとしました。
私が数年|広東《カントン》を離れていようと決心した主要な理由はリャン夫人の策動であったことを、私は確信をもって申し上げられます。閣下は私の立場をご理解くださいますでしょう。一方では、じっさい姻戚関係にある家の家長である、あの夫人のあらゆる虚偽の告発に対して、私は法の保護を求めないわけに参りませんでした。といって、もし私が告発に対し何の反駁《はんばく》もしなければ、広東《カントン》市における私の信用に影響いたします。私はこの蒲陽《プーヤン》で安らぎを求めようとしたのでしたが、夫人は私を追ってきて、孫を誘拐したといって私を訴えました。フォン閣下はただちにその訴訟を却下してくださいました。リャン夫人はこの同じ訴えを、今また閣下に持ちこみましたのですな?」
ディー判事はこの問いかけにすぐには答えず、リン・ファンの執事がすすめた菓子をつまんで、二口、三口茶をすすった。そして言いだした。
「こういうわずらわしい訴えでも、ただ却下するわけにいかないというのは実に遺憾です。あなたにご面倒をかけるのは好ましくないのですが、いずれ政庁に出頭願って、あなたのご弁明をおききしなくてはなりますまい。もちろん形式上だけのことです。そのうえでなら、本件を却下できると確信をもっております」
リン・ファンはうなずいた。彼の奇妙に動かぬ眼が、じっとディー判事にすえられていた。
「閣下はいつこの件の審理を提議なさるのでしょうか?」
ディー判事はしばらく頬ひげをなでていたが、やがて答えた。
「それはどうもたいへん申しあげにくいですな。懸案になっている事柄が多々ありますし、前任者が県政の問題をいくつか未処理のままにしていきました。そのうえ体面を整えるため、上級書記がリャン夫人の書類を検討し、私のために抄本を作らなくてはなりません。さよう、正確な日取りを申し上げたくはありません。しかしなるべく迅速《じんそく》に運ぶようにしますのでご安心ください」
「ご配慮には深く感謝申しあげたいのでございますが」とリン・ファンは言った、「実を申しますと、いくつかの重要な問題のため、私が広東にいることが必要となりましたので、執事を管理のためここにとどめて、私は明日出発する計画でおりました。このあばらやがこんなにも人気《ひとけ》がなく、たいへん申し訳ないことながら貧弱なおもてなししかできませんのは、私の出発がさし迫っているからでございます。使用人の大部分は一週間前に発ちました」
「もう一度申しあげるが、ごく近い時期にこの問題が落着するよう専心努力いたしましょう」とディー判事は言った、「あなたがわれわれのもとを去られるとは、甚《はなは》だ残念なことだと白状せざるを得ませんが。わが国の名だたる南方の商都から、こんな立派な方がおいでになったことは当県の名誉です。広東《カントン》の都市でなじんでおいでの豪華さや洗練された趣味など、私どもはろくろくご用立てできません。こんなにすぐれた方が、かりそめの隠れ家として蒲陽《プーヤン》を選択されたのはどうしたわけかと、むしろ不思議に思っておりました」
「それはすぐ説明できます」とリン・ファンは答えた。「亡父は非常に活動的な人でした。家のジャンクで運河を上下し、じきじき各地の商会支店を視察してまわりました。
蒲陽《プーヤン》を通った折に、父はそのうっとりする風景に強い愛着を寄せ、隠居したらここに別荘を建てて住むことに決めておりました。ああ、まだ計画を実行にうつすに至らぬ働き盛りの年配で、天は父を奪い去ったのです。リン家が蒲陽《プーヤン》に邸宅をかまえるよう計らうことが父への孝養のつとめであると、私は考えました」
「このうえなく賞讃に値する孝養のおこないです!」とディー判事は評した。
「いずれはこの屋敷を、わが亡き父に捧げる記念堂にしようかと思っております」とリン・ファンは続けた、「古い建物ですがよく出来ておりますし、私の限りある財力の許す範囲で手を入れました。閣下にこのあばら屋をご案内して回る光栄を、お与えくださいませんでしょうか?」
ディー判事が同意すると、主《あるじ》は知事を案内して第二|院子《なかにわ》を横切り、いましがたのよりまだ大きい儀式用の広間にはいった。
この広間のため特に織らせたに違いない厚い絨緞《じゅうたん》が床にしきつめられていた。柱と梁は一面精巧な彫刻でおおわれ、螺鈿《らでん》がちりばめられている。家具はかぐわしい白檀《びゃくだん》製、窓に張ったのも紙や絹ではなくて貝がらの薄い切片を組み合わせたものなので、広間中に柔かな光が広がりみなぎっている。
他の部屋も同様に優雅な豪奢《ごうしゃ》を示していた。
奥|院子《なかにわ》に来たとき、リン・ファンはかすかに笑って言った。
「もう女たちはすぺて発ってしまいましたので、家族の住まう部屋までお見せできるのです」
ディー判事はいんぎんに断わったが、リン・ファンは何もかもお見せすると言い張り、どの部屋もすっかり連れて通った。リン・ファンが彼の家には何もないこと、かくす必要がないことを示そうとしているのだと、ディー判事は理解した。
広間にもどると、ディー判事は茶をもう一杯飲み、主《あるじ》ととりとめのない話をした。
リン・ファンの商会が首都の高い身分の人々を相手に銀行業をつとめていること、リン家の支店は帝国の主要都市のほとんどにあることが明らかになった。
やがてディー判事は別れを告げた。リン・ファンは鄭重に彼を輿のところまで導いていった。
輿に乗ろうとしてディー判事はもう一度ふり返り、リャン夫人の件がなるべく早く片付くよう、及ぶ限りのことをしようとリン・ファンに請けあった。
政庁に帰ると、ディー判事はすぐ執務室にはいった。机の側に立ったままで、不在中に上級書記が置いていった書類にざっと目を通した。しかしリン・ファンヘの訪問がなかなか彼の念頭を去らなかった。莫大な資力を思うがままに操る、非常に物騒な敵を向こうにまわしたと彼は感じた。自分のかけたわなにリン・ファンがかかるものかどうか、なんとなく確信がもてなかった。
あれこれと考えていたとき、家令がはいってきた。ディー判事は顔を上げた。
「なぜまた君がこの記録室へ来たのかな?」と彼はたずねた、「家のほうは万事うまくいっていると信じているが」
家令は気まずそうで、明らかになんと切り出したものかわからない様子だった。
「さあ、君」と判事はもどかしげに言った、「言ってみたまえ!」
家令はやっと言い出した。
「閣下、つい先刻、戸を閉めた輿《こし》が二つ第三院子に着きました。初めの輿には年配の婦人が乗っており、閣下のご命令で二人の若いご婦人を連れて来ていると私に申されました。それ以上は何ともご説明いただけません。いま第一奥様はお休み中で、お騒がせしたくありません。第二と第三奥様にご相談いたしましたが、何の指示もうけてはいらっしゃらないそうです。そこで思い切ってこちらに参上し、閣下にご報告申しあげた次第です」
ディー判事はこの知らせを聞くと喜んで言った。
「若い婦人お二人を第四院子へお連れしなさい。めいめいに女中一人ずつをつけるように。連れてきてくれたご婦人には、私が感謝していることを伝えてから引きとってもらいなさい。その二人には午後あとで私が会う」
家令はほっとした様子で、深く礼をしてから立ち去った。
ディー判事はその午後を上級書記、文書課長と同席し、ある相続財産の分割に関する面倒な民事訴訟の解決にあたった。彼が家族のいる公舎に帰ったのはずいぶんおそかった。
判事はまっすぐ第一夫人の部屋に行った。彼女は家令とともに家計簿を点検していた。
判事がはいってくるのを見ると、彼女はあわてて立ち上がった。彼は家令を去らせ、四角のテーブルのそばに席を占めると、妻にまたすわるようにと言った。
家庭教師について勉強している子どもが上達しているかどうかをたずねると、妻は礼儀正しく彼の問いに答えた。しかし彼女が目を伏せたままなので、判事には彼女が困惑していることがわかった。
しばらくしてディー判事が言った。
「今日の昼すぎ、二人の娘がここに到着したことを聞いていると思うが」
「私のつとめと心得まして」と妻はさりげなく言った、「あの方々の必要なものがみな揃ったかどうか確かめに、自分で第四院子に行って参りました。女中の紫苑《しおん》と菊花をお二人に付かせました。菊花のほうは料理が上手なことはご存じですね?」
ディー判事はうなずいて同意を示した。間《ま》をおいて、妻は続けた。
「第四院子へ参ったあとで思ったのですが、もし旦那様に家族を拡張するお心がおありなら、前もって私にそれをお知らせくださって私の選択にお任せくださいましたならば、よりよい助言をしてさし上げられたかと存じます」
ディー判事は眉を上げ、
「私の選択に同意してもらえないとは困った」と言った。
「決してお好みに不服を唱えるような出すぎた真似はいたしません」と第一夫人は冷たく言った、「私が案じているのは、あなたの家庭の和やかな雰囲気です。新参の方々が、あなたの家の他の夫人方とどこか異質であることを無視できませんでした。たしなみや趣味の不一致は、これまでのところあなたのお家に行きわたっていた好ましい人間関係を保つうえで、ためにはなるまいと心がかりです」
判事は立ち上がり、そっけなく言った、「その場合、あなたがしなければならないことははっきりしているよ。この不一致は、それがあることは私も認めるので、できるだけ短期間に正さねばならぬ。あなたは自分であの二人の若い婦人を教育するのだ。刺繍その他淑女にふさわしい技芸、手習いの初歩も習わせなさい。もう一度言うが、あなたの意向はよくわかった。だから、さしあたりあの二人はあなたとだけ交際させることにする。彼女たちの進歩の度合を、いつも私に直接報告してもらいたい」
判事が立ち去ろうとすると、第一夫人も立ち上がり、すばやく言った、
「私たちの現在の収入は、あなたの一家の現状の規模での出費をまかなうのがやっとだということを思い出していただくのも、私の務めかと存じます」
判事は袖から銀錠一本をとり出し、卓上においた。
「あの娘たちの着物の材料を買ったり、その他家族が増えたため必要になった諸費用に、この銀を用立てなさい」
妻は深く頭を下げ、ディー判事は部屋を出た。深く吐息をつき、難事は始まったばかりだということを実感した。
屈曲する回廊を通って第四院子に行くと、杏花《きょうか》と翠玉《すいぎょく》が新しい家に心を奪われているところだった。
二人は判事の前に膝をつき、彼の恩恵に感謝した。
ディー判事は、二人に立つように言った。
杏花は封をした書状をうやうやしく両手に捧げ持ってさし出した。ディー判事が開いてみると、二人の娘の属していた妓楼の身請け証文に、ルオ知事の執事の鄭重な手紙がついていた。
判事は手紙を袖に入れた。証文のほうはまた杏花に返し、前の持主が何か難癖《なんくせ》でもつけてきた時のために大事にしまっておくようにと命じた。それから彼は言った。
「君たちが気持よく暮らせるよう、私の第一夫人がじきじき面倒を見てくれ、この家のきまりで知っておかねばならぬことを教えてくれるだろう。新しい着物の材料も買ってくれる。そうしたものがそろうまで、十日くらいはこの院子に引きこもっていることになる」
二言、三言優しいことばをかけると、彼は自分の執務室にもどり、召使に命じてそこの寝椅子に寝支度を整えさせた。
なかなか寝つかれなかった。
疑わしいことだらけで、すこしやりすぎではあるまいかと不安な気持になった。リン・ファンはたいそうな財力と勢力とを持つ、危険かつ無慈悲な相手である。また判事は、彼と第一夫人との間に疎隔が生じたことをしみじみと感じていた。彼が公務の重荷に苦しみ、また難解な犯罪に悩まされるとき、つねに彼の家庭生活の和合は楽園の平安とはほど遠い存在となるのであった。
こうした不安にさいなまれ、第二鼓を告げる夜警の声が響くまで判事は眠れなかった。
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第十六章
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裕福な商人は応接室で茶を召され
ディー判事が易者に変装して出る
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続く二日、リャン対リンの事件には何の進展もなかった。
ディー判事の副官たちは定期的に報告に来るが、リン・ファンはなんの動きも見せない。彼は書斎にとじこもって過ごしているようだ。
タオ・ガンは屋敷跡を整理している人夫たちに、崩れていない第二|院子《なかにわ》の古い壁を残しておくように命じておいた。彼らはそれに簡単な足場を刻みつけ、てっぺんを平らにした。タオ・ガンはそこを格好の監視所にして、日なたぼっこをしながらリン邸を見張り、例の執事が庭に出てくるたびにしかめ面をしてみせた。
リン農場には三人の男が住み、野菜の世話をしたり、まだ波止場にもやってある大型のジャンクの上で仕事をしたりしていると、チャオ・タイは報告した。彼は運河でみごとな鯉を二匹とって、ディー家の厨房《ちゅうぼう》に進呈した。
マー・ロンは、リャン夫人の家の向かいの絹物店の広い屋根裏で、見込みのある若い巡査に拳術やすもうを教えて喜んでいた。リャン夫人は一度も外出しない、例の鬼婆が野菜を買いに出るだけだと彼は報告した。怪しい人物がそのあたりをうろつくこともなかった。
三日目には南門の守傭兵が市内にはいろうとしていた広東《カントン》人を、南の郊外の押込み強盗に連座の疑いありとして収監した。彼はリン・ファンにあてたぶ厚い書状を携えていた。
ディー判事が丹念に目をとおしたが、疑わしいことは何も見つけ出せなかった。それは他の都市のリン商会代理人から届けられた、商取引の完了にかかわる詳細な収支決算書だった。それに伴う金額の大きさに、ディー判事は驚嘆した。この取引だけで銀何千粒もの利益が上がるらしい。
手紙の写しをとったのちに使いは放免された。その午後にはリン邸に姿を現わしたことを、タオ・ガンが知らせてきた。
四日目の夕方、チャオ・タイがリン・ファンの執事を運河の堤防でとり押さえた。彼は川を泳いできて、番兵に気づかれずに水門の格子の下をもぐってきたに違いなかった。
チャオ・タイは追剥《おいはぎ》の役回りを演じた。執事をなぐって気絶させ、首都の高官にあてた手紙を奪ったのだ。蒲陽《プーヤン》の知事は早々に他の職に転ぜらるべきであると、それとなく暗示している手紙だということがよみとれた。意味深長にも五百個の金錠の支払いを認める手形が同封されていた。
翌朝、執事が強盗に襲われてものを奪われたことを報告するリン・ファンの手紙を、リン邸の使用人が判事に届けに来た。ディー判事はこの卑劣な暴力行為に関して情報を寄せた者に、銀五十粒を賞金として与える旨の触れ書を出させた。盗んだ手紙はいずれ役に立てるためしまいこんだ。
これが最初の朗報だったが、これで最後とも思われた。新たな展開も起こらぬままに一週間経った。
判事が不安な気持ちでいることは、すぐホン警部に通じた。いつもの落着きが全く見られぬばかりか、ひどくいらいらしているのだった。
判事は軍事問題に異常な関心をもつようになり、同じ地方の知事たちから回ってくる報告を何時間もかけて検討した。この地方の南西のはずれで、新興宗教集団の狂信者たちが山賊の一味と結びついて起こした武装蜂起については、念入りなメモもとっていた、この騒動が蒲陽《プーヤン》にまで及ぶことはとてもありえなかったから、ディー判事がこの問題になぜそんなに関心を持つのやら、ホン警部にはさっぱりわからなかった。軍事的才能はいざ知らず、相当に退屈な人物である蒲陽《プーヤン》駐屯軍の司令官とさえ、判事は交友関係を結んだ。当地の兵力の配分について、長々と会話を交えたのである。
判事は警部に向かって何の説明も与えなかった。秘密を打ち明けてもらえないことを警部は悲しみ、ディー判事の家庭内にもめ事があるのにも気づいていたから、なおさら情けない気持ちでいた。
ディー判事は第二、第三の夫人の住む院子《なかにわ》で夜を過ごすこともあったが、たいていは執務室の寝椅子で寝た。
第四院子へは一、二度昼前の訪問をして、杏花、翠玉とお茶を飲んだ。彼女たちとひとしきりおしゃべりをして、政庁にもどった。
ディー判事のリン・ファン訪問から二週間後、リン・ファンの執事が主人の名刺を持ってやってきて、午後主人が判事にお目にかかりに来てもよろしいかとたずねた。判事は大いに光栄に思うであろうと、ホン警部が執事に告げた。
その午後リン・ファンは戸を閉めた輿に乗ってやってきた。ディー判事は彼を心から歓迎した。政庁の大応接室で自分の脇にすわらせ、果物や菓子をつまむように言ってきかなかった。
単調な声音でごきげんうかがいの挨拶をするリン・ファンの無表情な顔は、相変らず何を考えているのかわからなかった。
続いてリン・ファンは、彼の使用人を襲った悪者の手掛りはあったかとたずねた。
「執事は私の農場まで伝言を届けに参るところでした。北門を通って市外に出て、水門の外の河沿いに歩いていたところを、悪漢がなぐり倒してものを奪ってから河に投げこみました。幸いこちらの者は岸にはい上がることができましたが、さもなくば溺れ死んだことでございましょう」
「はあ、悪党めが!」ディー判事は憤慨してどなった、「まず暴行を加え、そのうえ溺死させようとするとは! 私は賞金を銀百粒に値上げします」
リン・ファンは鄭重に礼を述べた。動かない目で判事を見つめてきいた。
「閣下には、私に関する件の審理の下調べをなさる暇がおできになりましたでしょうか?」
ディー判事は悲しげに首を振って答えた。
「上級書記が例の書類と連日とりくんでいます。リャン夫人に確かめねばならない点がいくつかあるのですが、ご承知の通り、あの人の頭が完全にはっきりしているのはまったくわずかの間だけです。それでも、もうすぐ全部整理がつくと信じています。いつも気にかけております」
リン・ファンは最敬礼をした。
「この二点はほんの些細なことにすぎません」と彼は続けた、「私が難題に直面していて、それを解決して下さることのできるのはただ閣下ばかりだというのでないならば、私は閣下の貴重なお時間に割りこんで参ったりはいたさなかったでしょう」
「なんでも気安くおっしゃってください」とディー判事は言った、「いつでもあなたのお役に立つつもりでいるとお考えください!」
リン・ファンは独特の寒々とした笑みを浮かべた。そしてあごをなでると語りはじめた。
「常日ごろ国家の上級官庁と接触をお持ちの閣下は、当然帝国内外の事情に精通しておられましょう。私ども商人がそうした問題にどんなに無知であるかをお考えになったこともございますまい。しかもそうした知識があれば、銀何千粒もの損をせずにすむことも間々あるのでございます。
このたび広東《カントン》市におります私の代理人から、競争相手の商会があるお役人に名誉顧問となっていただき、非公式な助言を確保することに成功したと知らせてきました。私どものささやかな商会もそのひそみにならうべきだと存じます。不幸にも手前のごとき貧乏商人は、官界に全く何のゆかりもございません。そこで、もし閣下がかたじけなくもどなたかのお名前を私にお教えくださいましたら、どんなにか有難いことでございましょう」
ディー判事は頭を下げ、本気らしく言った。
「とるに足らぬ私の意見をご丁寧にお求めくださるのは甚だ名誉に存じますが、それにしてもくやまれますのは、私は小県のしがない知事にすぎませぬため、リン家のごとき大商会の名誉相談役となるに足るほどの経験と学識をもつ友人も知人も思い当たりません」
リン・ファンは茶をすすった。
「私の競争者は、その名誉顧問に収入の一割を提供すると聞き及んでおります」と彼は静かに言った、「それはその方《かた》の助言が商会の業務に及ぼす利益を評価するささやかなしるしなのです。むろんこの率は、高位の方にとって大した額ではありませんが、その程度でも月々五千粒の銀にはなりますので、暮らし向きの多少のお手助けとはなりましょう」
ディー判事はあごひげをしごいてから述べた。
「このことでお役に立てないのをどんなに遺憾に存じているか、おわかりいただけるでしょうか。私があなたをこんなに高くかっているのでなければ、私の同輩の誰かをご紹介することもできましょうに。しかし私の見るところ、最良の人物でもリン家の御用には足りそうにありません」
リン・ファンは立ちあがった。
「あまりにも唐突にこの問題を切りだしましたことを、閣下にお詫び申しあげます。ただ、私が思いつきで申しあげました金額が概算にすぎないことはぜひ申しておきたいものです。すなわち実際にはその倍にはなるかと思われます。それであらためてお考えいただけば、たぶん閣下はどなたかのお名前を思い出してくださいますでしょう」
ディー判事も立ちあがって言った。
「非常に残念なことですが、私の限られた友人の中では、お求めの高度な適性を持った者を見出すことは決してできますまい」
リン・ファンはもう一度最敬礼をしてから辞去した。ディー判事はみずから彼を輿のところまで送っていった。
この来訪のあと、ディー判事が上機嫌でいることにホン警部は気づいた。彼は警部にリン・ファンとの会話を話してきかせてから、こう評した。
「鼠はつかまったことに気づいて、わなをかじりはじめた!」
しかし次の日、判事はまた元気をなくした。リン家の執事をどんなにじりじりさせているかという、タオ・ガンの有頂天な報告でさえも、ディー判事の口もとをほころびさせるには至らなかった。
さらに一週間が経《た》った。
政庁の昼の公判のあと、ディー判事はひとりで執務室にこもり、気乗りせぬ様子で公文書に目を通していた。
外の回廊でささやき合う声がかすかに聞こえた。事務官二人がとりとめのない立ち話に余念がない。ふとディー判事は蜂起という言葉を聞きつけた。
彼はとびたって、抜き足さし足、紙の障子に寄っていった。
事務官の一人が話していた。
「――だから、この蜂起がこれ以上広がる気遣いはないんだ。しかしきいたところでは、この府の総督は用心のため十分な兵力を金華《チンホア》近辺に集結したいと思っているようだ。住民に向けての見せかけだね」
ディー判事は紙に耳を押しあてて熱心にきいた。別の事務官が言っていた。
「それでわかったよ! 友人の伍長に聞いたんだが、緊急の行動で、この近県の守備隊はすべて今夜|金華《チンホア》へ向けて出発すべしという命令をうけたそうだ。はて、それがほんとなら、この政庁にも公式連絡が届くはずだし、そしたら――」
ディー判事はもうきいていなかった。急いで機密文書を入れてある鉄製の箱の錠前をはずすと、大きな包み一つと書類何枚かをとり出した。
ホン警部がはいってきた時、判事の変貌ぶりに仰天した。無感動なようすはすっかり消え、彼はきびきびと話した。
「警部、私は非常に重要な秘密調査のため、ただちに政庁を出なければならない! 私の指示をよくきいてくれ。繰り返したり、説明したりするひまがないんだよ。私の命令をそのまま正確に遂行すること。それがどういうことなのかは、明日になればわかる」
判事は警部に四通の封書を渡した。
「ここにこの県の指導的民間人四人にあてた私の名刺がある。みな申し分のない誠実さで、土地の人々から大いに重んじられている。私は深く熟考したすえにこれらの人物を選び出したが、それぞれの家の位置も考えに入れた。
パオ氏は左近衛《さこんえ》の退役将軍、ワン氏は府裁判所の退役判事、リン氏は金工|同業組合《ギルド》親方、ウエン氏は大工同業組合親方だ。今夜君は私の代理で方々《かたがた》に面会に行く。明朝日の出の一時間前に、非常に重大な犯罪の証人になっていただくことを私が必要としていると伝えるのだ。それについては誰にも一言も漏らさないでいただきたい、それぞれのご自宅の院子《なかにわ》で、輿《こし》とふさわしい供回りをそろえて待っていていただきたいとね。
そのあとマー・ロン、チャオ・タイ、タオ・ガンを、持ち場からこっそり呼びもどしなさい。代わりには巡査たちを配置すること。副官たちは明朝日の出の二時間前、この政庁の正|院子《なかにわ》で待機しているように。マー・ロンとチャオ・タイは騎馬で完全武装、弓と剣を帯びるのだ!
君たち四人は政庁の全職員、事務官から巡査、使丁まで全部を静かに起こしたまえ。私の公用の輿は正|院子《なかにわ》に用意する。職員はそれを囲んで定位置につき、巡査は棍棒、鎖、鞭を携帯。万事、できるだけ静かに行なうこと。提灯《ちょうちん》をともしてはならない。君は私の官服と官帽を輿の中に入れておいてくれ。政庁の警備は監獄の職員にまかせる。
さあ、出かけなくてはならぬ。明朝日の出の二時間前に会おう!」
警部が何か言うひまもあたえず、判事は包みをさげて執務室を出た。
ディー判事は公舎に急ぎ、第四院子に直行した。そこでは杏花と翠玉とが長衣に刺繍をしているところだった。
彼は二人と半時間ほどまじめな話をした。そのあと包みを開けた。そこには他のもろもろのものといっしょに、易者の用意一式、高い黒い帽子から職業を示す貼札までそろっていて、貼札には大きな字でこう記されていた。
帝国にその名|遍《あまね》き 彭《ポン》先生は
黄帝の 秘伝にもとづきつつ
誤つことなく 未来を告げる
杏花と翠玉が判事の変装を手伝った。貼札を巻いて袖におさめると、判事は娘たちをじっと見つめ、杏花に向かってゆっくりと言った、
「あなたと妹さんとに、心からの信頼をおいている」
二人の娘は、深々とお辞儀をした。
ディー判事は小さな裏木戸から出た。彼がこの第四院子を特に杏花と翠玉の住まいとして選んだのは、それが邸内の他の人々から多少離れていると同時に、そこには政庁の後ろの公園に抜けられる小さな裏口があり、誰にも気づかれず屋敷を出ることができたからなのであった。
大通りに出ると、ディー判事はすぐに貼札を解き、群衆の中にまぎれこんだ。
その午後いっぱいは町の裏通りをぶらついて過ごし、小さな居酒屋や道端の屋台で、何杯となく茶を飲んだ。運勢を見てくれといってくるものがいると、いま大事なお客と約束があって行く途中だからといって失礼した。
暗くなると、北門から遠からぬところにあるまあまあの料理店で簡単な食事をした。まだひと晩たっぷりあるのだからと考えめぐらした。給仕に金を払っている時、ちょいと霊智観まで行って見てくるのもいいなという考えが浮かんだ。マー・ロンが生き生きと描いてみせたションパの様子とその怪談とが、ディー判事の好奇心をゆさぶったのだ。それはここから遠くないと給仕が言った。
何度も道をたずねて、ディー判事はやっと道観に通じる小路を見つけた。前方に見える明かりを頼りに、彼は一歩一歩注意深く暗がりをたどっていった。
道観の庭にはいった途端、マー・ロンの説明で彼にはなじみの光景が目についた。
ションパは塀を背にしていつもの場所に腰をすえ、子分どもがそのまわりに集まってさいころの動きを見つめていた。
彼らはディー判事を疑わしげに眺め、その貼札を見た。
ションパは軽蔑したようにペッと唾を吐いて不愉快そうに言った。
「さっさと行っちまえって、おいおまえ、さっさとだよ! 昔のことを思ってみるだけで十分|憂鬱《ゆううつ》なのに、未来を眺めておれが楽しいはずがあるかよ。一角獣みてえに壁につっこむなり、龍みてえに天に舞い上がるなり、どうにでもして消え失せやがれ。おれのつつましい意見では、おまえを見るだけでも憂鬱なんだよ!」
ディー判事は丁寧にたずねた。
「ションパというお方には、ここらでお会いできますかな?」
ションパは驚くべきすばやさで跳び上がった。手下二人がディー判事のほうへ、脅かすように近づいてきた。ションパが荒々しくどなった。
「おれはそんな名前の奴は知らないぞ! この悪党め、おれたちにきいてどうする気だ!」
「まあまあ」と判事はおとなしく言った、「興奮しないでくださいな。私の同業者にたまたま出会いましたらね、こっちの方角に向かっているのを知って、銅銭二さしを私に渡しました。乞食同業組合員の友だちから、ションパという人のところへ持っていってくれ、この道観の庭にいるからといって頼まれたんだそうです。しかしその人がここにいないとなれば、私はその話をそっくり忘れてしまったほうがいいようですな」
そういって判事はきびすを返して立ち去ろうとした。
「やい、根性曲がりの畜生め!」ションパは怒ってわめいた、「おれがションパさまだ! 乞食同業組合の相談役がもらうはずの金《かね》を、お前はねこばばする気じゃあるめえな!」
ディー判事がさっそく銭二さしをとり出すと、ションパが手からひったくった。そしてすぐさま数えはじめた。
しっかりそろっていることがわかると、彼は言った。
「兄弟、荒っぽいことを言ってすまない。ちゃんと届けてくれてありがとうよ。どうも最近妙な客がここへ現われるんでな。一人などひどく感じのいい悪党で、面倒な立場からおれが助け出してやったんだと思っていたら、そいつはまっとうな奴どころか、政庁の手のもんだといううわさがとんでいるのさ。友だちが信じられないとすりゃ、お国はどうなっていくんだい。あいつはいっしょにさいころをやるにも面白い奴だった!
さて、あんたには世話をかけたから、腰をおろしてしばらく休んでいかないか。未来を読めるあんたと賭ける金が、わしらにあるとは思わねえがね」
ディー判事は腰をすえて、とりとめもない話に加わった。彼は暗黒街のしきたりに深く通じていたから、彼らの隠語を使いこなしながら話をしてきかせて歓迎された。
そのうち判事は、薄気味悪い怪談を始めた。
ションパは手を上げて彼をさえぎり、断固たる調子でいった。
「兄弟、黙りなよ! おれたちのお隣りさんも、その罪な仲間だぜ。おれの目の前でそういう連中を悪く言っては困るんだ!」
この意見に対してディー判事が驚いてみせると、ションパはすぐ後ろにある無人の道観について、判事が先刻承知のことそのままに語った。ディー判事は言った。
「まあ私としても連中の損になることを言おうとは思わない、或る意味では幽霊や小鬼は私の商売仲間だものね。易者として私はあれたちと相談することがよくあって、結構もうけさせてもらっている。私のほうでもあの連中がよく来る淋しい場所に油菓子を置くとかして、いつも多少の親切はしているがね。あれたちはそれが大好物なのさ」
ションパは膝を打って叫んだ、
「ゆうべおれの油菓子がなくなったのはそういうわけだったのだ! そうかそうか、毎日新しいことを覚えるもんだよ!」
ションパの取巻きの一人がくすっと笑ったのをディー判事は見つけたが、気づかないふりをして続けた。
「あの道観にもっと近づいてみてもさしつかえないかな?」
「あんたは幽霊だの小鬼だのの扱いようを心得ているんだから」とションパが言った、「ぜひとも行くさ。おれたちまともな人間が、まっとうに働いて手に入れた夜の安らぎを、お化けなんぞに出て騒がせてほしくないんだと言ってきてくれ!」
ディー判事はたいまつを借り、道観の正面入口へ一直線に通じる階段を昇った。
重い木の扉に鉄製のかんぬきがかけてある。判事はたいまつをかかげて、錠前の上に紙片が貼りつけてあるのを認めた、「蒲陽《プーヤン》政庁」と記され、印は彼の前任者フォン判事のものだ。日付は二年前になっていた。
ディー判事は土壇を歩きまわって小さな脇門を見つけたが、やはりかんぬきと錠前がかけてあった。ただその鏡板はすかしの格子細工になっていた。
判事はたいまつを壁に押しつけて消し、爪先立ちして真っ暗な道観の中をのぞきこんだ。
彼は静かに、耳をすまして立っていた。
道観のずっと奥のほうで、足をひきずって歩く音がかすかにしたように思ったが、それは飛びまわっているこうもりのたてた音かもしれなかった。しばらくまた、何の物音もしなかった。自分の耳の迷いだったのかどうか全く自信がなかった。
彼は辛抱強く待った。
その時、かすかに戸をたたく音が聞こえて、突然に止んだ。
判事は長い間立ったまま耳をすましていたが、どこも墓のように静まり返っていた。
ディー判事は頭をふり、この道観は確かに調査を必要とすると考えた。足をひきずるような音は自然現象で説明されもしようが、あの戸をたたく音は不思議なことだと思った。
下の庭にもどると、ションパがたずねた。
「おや、えらく長いこといたじゃないか。何か見たかね?」
「とり立てて言うほどのことはないが」とディー判事が答えた、「ただ青鬼が二匹、人の生首でさいころ遊びをしていたよ」
「おお神様!」ションパが叫んだ、「なんて奴らだ! だが運の悪いことに、お隣りさんを自分で選ぶわけにゃ行かねえんだよな!」
ディー判事は別れを告げ、ぶらぶら歩いて中心街にもどった。
横丁に八仙館という、小さいがまあまあ清潔な宿屋があった。一晩泊りで部屋を借り、熱い茶を入れた茶瓶を運んできた給仕に向かって、朝は非常に早く発つ、市の城門が開くとともに出て、街道に向かうからと告げた。
茶を二杯飲み終えると、彼は長衣の前をしっかり合わせ、ぐらぐらする寝台に横になって数時間の眠りについた。
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第十七章
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珍しい客人たちが払暁《ふつぎょう》寺院に集い
仏殿の正面で政庁法廷が開かれる
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第四鼓が鳴り響くと、ディー判事は起きて冷たい水で口をすすいだ。それから長衣のしわを伸ばし、八仙館を出た。
人影のない通りを足ばやに歩いて政庁の正門に着くと、眠たそうな門番がディー判事の妙な姿をびっくりして見つめながら入れてくれた。
一言も口をきかずに判事はまっすぐ正|院子《なかにわ》に行き、黒々とした大勢の人影が公用の輿《こし》を囲んでひっそり立ち並んでいるのを闇の中に見わけた。
ホン警部は紙提灯を一つだけともして、判事が輿に乗るのを助けた。その中でディー判事は茶色の上っ張りを脱ぎ、官服に着替えた。
判事用の黒い官帽をかぶると、彼は垂幕《たれまく》を掲げてマー・ロンとチャオ・タイとを手招きした。
二人の副官は堂々たる装いだった。騎兵隊長の着る長くて重い鉄の鎧をつけ、頭には尖った鉄兜《てつかぶと》をかぶり、それぞれ長い剣と大きな弓を携え、箙《えびら》には矢をいっぱい入れていた。
ディー判事は、小声で彼らに命じた。
「われわれはまず退役将軍の屋敷に向かって進む、次に判事、終りに親方二人の家だ。君たち両人は騎馬で先導せよ」
マー・ロンが一礼した。
「われわれは馬のひづめをわらで包みました」と彼は答えた、「物音一つたてさせません!」
ディー判事は満足そうにうなずき、合図によって行列は政庁を出た。音も立てずに一行は西に進み、政庁の建物の外壁に沿って曲がると、今度は北に向かって将軍の邸宅まで来た。
ホン警部が戸を叩いた。すぐに二枚の扉が引き開けられた。
将軍の軍用|輿《こし》が準傭を整えて庭先にすえられ、将軍の従者約三十人が取り囲んでいるのが警部のところから見えた。
ディー判事の輿がかつぎこまれた。彼は乗物から降りて段の下で将軍の出迎えを受け、応接室に案内された。
将軍はこの日のために儀仗《ぎじょう》用の装束をつけ、七十歳を越えているのだが体つきは非常に堂々としていた。金糸で刺繍した紫の絹の長衣に金色の鎧をつけ、宝石をちりばめた大きな剣を帯からつり、金色の兜《かぶと》のてっぺんから、かつて彼が中央アジアで大勝したとき指揮した五つの軍団の、色どり鮮やかな三角旗が扇のように開いていた。
互いに礼を交わした後、ディー判事が述べた。
「このような常ならぬ刻限にご迷惑をおかけ致すことを、深く遺憾《いかん》に存じます。ある悪質な犯罪行為を摘発するために、閣下のご臨席がどうしても必要なのです。後日法廷にて証言がいただけますように、行列に加わってくださることをお願い申し上げます」
将軍はこの夜歩きに加わるのがお気に召したらしい。軍人らしい早口で答えた。
「あなたはここの知事であられる。ご命令どおりに致します。さあ、出発しましょう!」
ディー判事は、退役判事、続いて二人の同業組合親方のところでも、同じ口上を繰りかえした。
今は五つの輿に百を越える人数から成る行列が北門に近づいた時、判事はマー・ロンを輿のわきに呼んだ。そしててきぱきと命じた。
「われわれが城門を過ぎたら、君らはすぐに命令を発し、何人《なんぴと》もこの行列から離れてはならぬ、従わぬものは殺すと伝えよ。君とチャオ・タイは騎乗して、隊列の両側を往き来せよ。弓に矢をつがえてだ。列を離れようとするものはその場で射よ。さあ、先に行って、守備兵に門を開けるよう命じたまえ!」
間もなく、二人の兵士が北門の鉄鋲をうった重い扉を開く中を、行列は通り抜けた。
一行は東に曲がり、普慈寺を目指した。
大門に着くとホン警部が扉を叩いた。眠そうな坊主の頭がのぞき窓の格子の向こうに現われた。
ホン警部がどなった。
「われわれは政庁の巡査、おまえたちの寺域にはいった盗賊をとらえに来た。門を開けよ!」
かんぬきを押しもどす音がして、扉が細く引き開けられた。門の外に馬をつないできたマー・ロンとチャオ・タイがいちはやく二枚の扉を押して開け放った。そして、びっくりしている二人の僧を門番室にとじこめ、ちょっとでも声を出したら首が飛ぶぞと言いきかせた。続いて全隊列は庭内に移動した。ディー判事は輿から降り立ち、四人の証人もそれにならった。
ディー判事は小声で、本|院子《なかにわ》までいっしょに来てほしいと頼んだ。それ以外の者たちはその場にとどめておかれた。タオ・ガンが先導し、マー・ロンとチャオ・タイが殿《しんが》りをつとめて、人々は黙ったまま本堂の前まで歩いて行った。
広々とした院子《なかにわ》は、観世音菩薩の尊像の前に終夜ともされている青銅の燈籠の光でほの明るい。
判事が片手を上げた。一行は立ち止まった。まもなく尼僧用の頭巾付き外套をまとったほっそりした姿が暗がりから現われ、判事の前に深く頭を下げてから何事かを耳打ちした。
ディー判事はタオ・ガンに向かって言った、「われわれを管長の居室に案内せよ!」
タオ・ガンは段を登って土壇に上がり、本堂右手の回廊にはいった。彼はその奥の閉ざされた扉を指さした。
ディー判事がマー・ロンにうなずいてみせた。肩の一突きでマー・ロンは扉を押し開け、わきにさがって他の人々を通らせた。
二本の大|蝋燭《ろうそく》で照らし出された豪華な部屋であった。香煙や香水の匂いが重くたちこめている。管長は彫刻した黒檀の寝台に華やかな刺繍のある絹のふとんをかけ、いびきをかいて寝ていた。
「そのものを縛り上げよ!」判事が命じた、「両腕をしっかり後ろにまわしておけ」
マー・ロンとチャオ・タイは管長を引きずり出して床に転がし、彼が目を覚ましきらないうちに腕を背にまわして細い鎖で縛った。
マー・ロンは管長をぐいと引っ立て、「知事様に頭を下げろ!」とどなりつけた。
管長の顔は真っ青になった。にわかに地獄に連れ去られ、鉄の鎧の二人は冥界の閻魔様《えんまさま》の従卒だと思ったようだ。
ディー判事は証人たちに言った。
「どうかこのものをよく御覧ください。とくに坊主頭のてっぺんにご注目を!」
そういってから、彼はホン警部に命じた。
「大至急、前|院子《なかにわ》の巡査たちのところに行き、すべての僧の手を縛りあげるよう命じよ。もう提灯をつけてよろしい。僧たちの居住するところは、タオ・ガンが教える」
またたき一つするあいだに院子は「蒲陽《プーヤン》政庁」と大書した提灯でいっぱいになった。
命令が叫ばれ、戸が蹴りこまれる。鎖ががちゃがちゃと鳴る。巡査たちが棍棒をふりまわし、抵抗するものを重い鞭の柄で打ったびに、恐怖の悲鳴が空に響きわたった。ついに六十人ばかりの驚愕した僧侶の群れが、本院子の中央に集められた。
この光景を段の上から見渡していたディー判事が、そこで声を放った。
「その者たちをこの壇に向かって六列に並べ、ひざまずかせよ!」
この命令が果たされると、判事は言った。
「われわれと共にここに来たもの全員を、この庭の三方に整列させよ」
そのあと彼はタオ・ガンを呼び、隔離された庭に案内するよう命じた。本堂の前で待っていた尼姿の娘に判事が声をかけた。
「君は杏花のいる離れを教えてくれるね、翠玉!」
タオ・ガンが庭の門を開き、人々は曲がりくねった小径をたどった。タオ・ガンと娘が手にする灯火のゆらめきのなかで、優雅な庭園は西方浄土を夢見るようであった。
翠玉は篠竹《しのだけ》の林に囲まれた小さな四阿《あずまや》の前で立ち止まった。
ディー判事は証人たちを招き寄せて、錠をかけた扉の封印が破られていないのを見させた。
彼は翠玉にうなずいてみせた。彼女は封印を破り、持っている鍵で錠をあけた。
ディー判事は戸を叩いて大声で呼んだ。
「知事が参ったぞ!」
そうして彼は退いた。
朱塗りの扉が開いて、薄い絹の夜着をまとい燭台を手にした杏花が姿を現した。
将軍とワン判事を先頭に立てた一団を見ると彼女はあわてて引っ込み、頭巾つきの外套で体を包んだ。やがて全員は小さな四阿に入り、壁にかけたみごとな観世音菩薩図や錦の覆いのある大きな寝台、その他豪奢な室内調度品を観察した。
判事は杏花の前にうやうやしく頭を下げ、他の人々もおのずとそれにならった。将軍の兜《かぶと》の三角旗が空《くう》に揺れた。
そこでディー判事が言った。
「それでは、秘密の入口を教えてもらおうか!」
杏花は扉のところへ行き、漆塗りの表面に散在する多くの銅の鋲の一つをまわした。扉の真ん中の狭い鏡板が開いた。
タオ・ガンが額を手で叩いた。
「私としたことがこのしかけにごまかされたとは!」彼はとても信じられないというように叫んだ、
「どこもかも調べたのに、一番目に立つところだけ見なかった!」
杏花に向かって、ディー判事はたずねた。
「他の五つの四阿《あずまや》にもみな人がはいっているか?」
杏花がうなずくと、ディー判事は続けて言った。
「翠玉といっしょに第一院子の客殿に行き、四阿の鍵を開けて奥さん方を連れて行くようにと、関係の御夫君連中に知らせてくださらないか。そのあと御夫君だけは本院子に来て、この訴訟の予備審問の場に臨席してほしいのだ」
杏花と翠玉は四阿を出ていった。ディー判事は念入りに室内を調べた。寝台のわきに立つ小さなテーブルを指し、彼は四人の証人に向かって言った。
「皆さん、そのテーブルの上にある練口紅《ねりくちべに》を入れた小さな象牙の箱にご注目ください。とくにその位置を覚えておいていただきたい! 将軍はこの箱に封印願います。いずれ証拠物件として提出いたしますので」
杏花がもどるのを待つ間、タオ・ガンは扉の隠し羽目板を入念に調べた。それは銅の飾り鋲の一つを回すことで、音も立てずどちらからでも操作できるのだ。
やがて杏花がもどり、他の五つの四阿の利用者が第一院子に連れてゆかれたことを告げた。その夫たちは本堂の前で待っているという。
ディー判事は連れの人々を全部の四阿へ順に案内した。どこでもタオ・ガンは隠し戸口を苦もなくつきとめた。
ディー判事は証人たちのほうに向きなおった。
「皆さん」と彼は静かに言った、「温情的な行為として、ある事実を偽ることにご賛同を得たく存じます。これらの四阿のうち、どの場所のと明示は致しませんが、ただ二棟だけには隠し戸口がなかったと審理の場で申し述べることにしたいのです。皆さん、ご同意いただけますか?」
「よいご措置です、知事」と退役判事が評した、「人々の安寧を十分に顧慮されていることを示すものです。事実を司法当局専用の別記事項として記録し、添付するという条件で、同意します」
この意見にディー判事と他の面々が賛意を表明した後、ディー判事が言った。
「皆さん、では本堂の前の壇まで参りましょう。あそこで、この件の予備審問を挙行いたします」
一同が土壇の上に立ったとき夜が明けそめ、薔薇色の輝きが眼下の広庭にすわる僧六十人の坊主頭にひろがった。
判事は巡査長に命じて、大きなテーブルと椅子何脚かを寺の食堂から運ばせた。仮法廷が設けられると、マー・ロンが管長を判事席の前に引いてきた。
朝の冷気に震えている管長は、判事を見るとチッと声を立てた。
「この犬役人め、私の賄《まいな》いをうけたろうが!」
「それは違う」と判事は冷やかに言った、「ただ借りただけだ。おまえが私によこした資金は、銅銭一枚に至るまでおまえ自身を破滅させるために使った」
ディー判事は、将軍と判事を判事席の右手に、親方二人を左手にそれぞれ着席するよう指示した。杏花と翠玉とは、ホン警部が判事席のそばに腰掛を置いてすわらせ、自分は二人の娘の後ろに立った。
上級書記とその助手たちは小さな脇机の席についた。マー・ロンとチャオ・タイは土壇の左右に立って見張っている。
全員が定位置につくと、ディー判事はしばらく異様な光景を見回していた。人々は何の物音もたてない。
やがて、ディー判事の厳しい声が響いた。
「本知事は、普慈寺管長ならびに不特定数の僧侶に対する件の、予備審問を開廷する。既婚婦人との姦通、既婚婦人強姦、世に認められている尊崇の場の冒涜、及び財物強要の四重の嫌疑である」
判事は巡査長のほうをちらりと見て命じた。
「申立人を連れてきなさい!」
杏花が判事席の前に連れられてきてひざまずいた。
ディー判事が言った。
「これは政庁の臨時公判である。申立人はひざまずかなくてよい」
杏花は立ち上がり、頭をおおっているフードを後ろへはねた。長い外套をまとい、目を伏せて立つほっそりした姿を見つめて、ディー判事の厳しい顔つきが和らいだ。彼は優しく言った。
「申立人は姓名を述べ、告訴を提出しなさい!」
杏花は口ごもりがちに言った。
「賤しき手前は姓を楊《ヤン》、名を杏花と申し、湖南《フーナン》地方の生まれでございます」
上級書記がそれを書きとめた。
判事は椅子にもたれかかった。
「続けて!」と彼は命じた。
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第十八章
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可憐な娘が驚くべき事実を証言し
ディー判事は副官らに顛末を語る
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はじめ杏花はどちらかといえばおずおずと話したが、度胸がつくにつれて彼女の澄んだ声は無言の聴衆の上に響き渡った。
「昨日の午後」と彼女は語りはじめた、「私は妹の翠玉に付き添われて、このお寺に参りました。私は管長さまに会わせていただき、霊験あらたかな私どもの観音さまに祈りをあげさせてくださいとお願いしました。管長さまは、私がこのお寺で一夜を明かし、菩薩さまの限りないご慈悲を思い願わなければ、祈りの効験はあらわれないとおっしゃいました。そして、おこもり料は前金でとおっしゃるので、私は金錠を一本さしあげました。
昨夜、管長さまは妹と私とを、奥底の小さな四阿《あずまや》に連れていきました。そこで私は一夜を過ごし、妹はそのあいだお寺の客殿に宿をとるのだと言うことでした。うわさをまき散らして歩く連中がするかもしれない中傷から私の名誉を守るためだといって、私の部屋の戸締りを妹の手でさせました。妹は紙片に自分の印を押し、それを錠に貼りつけて、戸締りをしました。管長さまはその鍵を妹に持っているようにと言われました」
「閉ざされた四阿《あずまや》に一人きりで」と娘は続けた、「私はまず壁にかかっている観音さまのお像《すがた》の前に長い祈りを捧げました。疲れを感じて、燃えている蝋燭を化粧台の上に置いたまま、私は寝台に横になりました。
第二鼓をまわった頃に違いありません、私は目をさまし、寝台の前に管長さまが立っているのを見ました。あの方は、私の望みが叶うようじきじきに保証すると言いました。それから蝋燭を吹き消し、むりやり私を抱きました。たまたま練口紅の箱を開いたまま、枕許のテーブルに置いてありましたから、気どられずに剃った頭のてっぺんに練紅《ねりべに》でしるしをつけました。私を犯し終わると管長さまは、[さあ、そのうちあなたの願いが叶えられたら、この貧しい寺に応分の進物をすることを忘れなさんなよ! もし私がそれをもらいそこねたら、あなたのお偉い旦那様は面白くない知らせを聞くことになるだろうさ!]と。次に気づいたのは、あの人がどのようにしてか部屋から姿を消したということでした」
杏花が話を進めるにつれ、群衆からかなりの動揺とざわめきが起こった。
「私は暗闇の中に横たわって、激しく泣いていました。ふいに一人のお坊さんが私の部屋に現れました。そして[泣くなよ、おまえさんのいい人が来たんだぞ]と言い、私の抗議も懇願も無視して、やはり私を手籠《てごめ》にしました。私はたいへん辛うございましたが、それでもなんとか、管長にしたようにしるしをつけてやることができました。適当なきっかけさえ得られたら、この極悪非道なしわざに復讐するため、証拠を集めるのだと心を決め、私はかなり愚かしげなこの坊さんを好きになったふりをしました。私は焜炉《こんろ》の燃えさしで蝋燭をともしました。ねだったりおだてたりしてまるめこみ、とうとう扉の隠し羽目板の秘密を聞きだしました。
その男が去ると、三人目の坊さんが訪れてきましたが、私は気分が悪いふりをしました。それでもそいつを押しのけながら、それにも口紅のしるしをつけてやりました。
一時間まえ妹が戸を叩き、この県の知事さまが調べに来られたと知らせてくれました。私は訴えて出たいから、すぐそう申しあげてくれと妹に頼みました」
ディー判事が厳しい声で言った。
「証人の方々は、第一の被告の頭の印を確認してください!」
将軍とその連れたちは立ちあがった。
朝日の光が剃りあげた管長の頭のてっぺんの赤い斑点をくっきりと照らし出した。
ディー判事は巡査長に向かい、すわりこんでいる僧侶の列の間を歩いて、頭に同じような斑点のある者を引きだすよう命じた。
間もなく巡査たちは二人の僧を壇上に引きずり上げ、管長のそばに膝をつかせた。彼らの頭の赤いしるしは誰の目にも明らかだった。
ディー判事が宣言した。
「この三人の犯人の有罪は、疑念の余地なく証明された。申立人はさがってよろしい!
この件につき、市内において政庁の午後の公判で再審理を行なう。その際に、収集された全証拠を概括する。この寺の全僧侶を拷問にかけて取調べ、ほかに有罪の者をつきとめることとする」
そのとき最前列にすわっていた一人の老僧が顔をあげ、震える声で呼びかけた。
「どうか閣下、おききください!」
判事が巡査長に合図すると、老僧は判事席の前に引き出された。
「閣下」と彼は口ごもった、「愚僧は名を全啓と申し、この普慈寺の正当なる管長であると申し述べますことをお許しください。自ら管長を称しておりますその者は侵害者以外の何者でもなく、僧として戒《かい》を受けてさえおりません。その者は数年前私の寺に参り、私を脅迫して屈服させました。その後、この寺に参拝に来られる婦人方に対する悪辣《あくらつ》なふるまいに私が抗議しました時、その者は私を裏庭の牢に閉じこめました。一時間前に閣下の巡査が扉を破るまで、私はずっと囚われていたのでございます」
判事は手を上げ、巡査長に命じた。
「それについて報告しなさい!」
「この老僧は」と巡査長が声高に述べた、「じじつ外側からかんぬきをかけ、錠をおろした小房で発見されました。扉に小さなのぞき穴があり、かすかにわれわれを呼ぶ声が聞こえました。私は戸を打ち破って中にはいりました。すると抵抗はしないから閣下の前に連れていってくれと頼みました」
ディー判事はゆっくりとうなずき、老僧に言った。
「先を続けて!」
「もとからこの寺で私と共に住んでおりました二人の弟子のうち、一人はわれわれの宗派の上級機関にこのことを報告するといって管長に迫り、毒殺されました。もう一人は、現に閣下の法廷におりますが、私を裏切ったふりをいたしました。そして管長やその取巻きについて探り、わかったことをひそかに私に知らせてくれました。しかし運の悪いことに証拠をつかむのには成功しませんでした。管長はその邪悪な行為を、お気に入りの取巻き以外には秘密にしていたのです。それで私は弟子に、好機を待つこと、当局には報告しないようにと命じました、さもないとただ管長が私たちを殺すことになるだけで、この神聖な場の恐るべき冒涜をあばき出す唯一の機会をつぶしてしまうことになるからです。ですが、管長のみだらな行いに加担した背徳者どもを、その弟子が閣下にお示しすることはできると存じます。
他の僧はほんとうの信仰者か、またはこの寺の贅沢で安逸《あんいつ》な生活に魅せられた単なる怠け者かのどちらかです。なにとぞあの者たちに代わって閣下に嘆願申しあげることをお許しください」
判事の合図で巡査たちが老管長の鎖を外すと、彼は巡査長をもう一人の年配の僧のところへ連れていった。その僧は巡査長といっしょにすわっている僧の列に沿って歩いて、若い僧を十七人選び出し、その連中はすぐさま判事席の前に引っ立てられた。
ひざまずかせられると彼らは泣き叫びまた罵り、果ては聖徳が自分たちに強いて婦人方を犯させたのだと叫ぶものもいた。ほかの者たちは慈悲を乞い、また白状させてほしいと声を上げた。
「静粛に!」とディー判事がどなった。
巡査の鞭や棍棒が僧たちの頭に肩にふり注ぎ、彼らの叫びはおさえたうめき声に変わった。
秩序が復すると、ディー判事は言った。
「他の僧は鎖を解いてつかわす。全啓どのの指導のもとに、ただちに宗務を再開せよ」
庭の僧たちが退席すると、寺の中の騒ぎは何だろうと見にきた北郊外の人々でだんだんふくれ上がってきた傍聴者の群衆が、土壇に上る階段のところに押しかけ、わあわあと僧たちを罵り叫んだ。
「粛然と後ろにさがり、本知事の申すことをきけ!」とディー判事が叫んだ。
「ここにいる見下げはてた犯罪者どもは、平和なわれらの社会の根底を鼠のごとくにむしばんできたのであり、国家に対し有罪である。なんとなれば、わが国の比類なき賢人孔子は、家族は国家の基盤といわれたではないか。尊信の心をもって菩薩に祈ろうとここに来たりっぱな御夫人方を、彼らは汚した。その家族の名誉と子孫の正統性のために責任を感ずるがゆえに、抗《あらが》うすべを持たぬ婦人方をだ。
しかし幸運にも、これら悪漢どもも六軒の四阿のすべてに隠し戸口を設けることはしなかった、つまり、二軒にはそれが発見されていない。私は敬信の心なきにあらず、神仏の限りない寛容と憐れみとを信ずること深き者であるから、この寺で一夜を明かしたあとで婦人にできた子がぜったい正統の子でないとは言えないことを、みなに理解してほしいと希望する。
これら罪人については、政庁での午後の公判において私が尋問するので、そのさい彼らにも申し開きをしたり、己れの罪状を告白したりする機会が与えられよう」
巡査長のほうを向いて判事はつけ加えた。
「うちの留置場は、この悪漢どもを収容するには小さすぎるから、間に合わせに、政庁の東の塀の外の柵《さく》囲いに入れるといい。大至急移送せよ!」
聖徳は引かれていくとき判事に向かってわめいた。
「このみじめな馬鹿者めが、いずれお前は鎖につながれて私の足許にひざまずき、私がお前に引導を渡すことになると知れ!」
ディー判事は冷やかに笑った。
巡査たちは二十人を二列に並ばせ、重い鎖でしっかりつないで棍棒で突き突き追い立てていった。
ディー判事はホン警部に、杏花と翠玉とを第一|院子《なかにわ》に連れて行き、自分の輿《こし》にのせて政庁へ帰らせるようにと命じた。
それから判事はチャオ・タイを呼んだ。
「この事件の知らせが市中に広まると」と彼は言った、「憤慨した暴徒がこの僧どもを襲おうとするのが心配だ。できるだけ速く守備隊本部まで駆けつけ、司令官に槍騎兵と弓持ちの騎兵の一隊を即時柵囲いに派遣するようにと伝えよ。あの本部は政庁からそんなに遠くないから、兵隊は囚人より先にそこに行けるはずだ」
チャオ・タイがこの指示を遂行するため急いで去ると、将軍が述べた。
「周到なご措置ですな、知事!」
将軍と三人の証人に向かって、ディー判事は言った。
「皆さん、もうしばらく大切なお時間をおさき願わねばならないことを遺憾に存じます。この寺は、金銀の宝物庫であります。皆さんのお立合いのもとにすべての品の目録を作成し封印するまでは、われわれはここを離れることができません。上級官庁はこの寺の財産をすべて没収するものと予想されますし、政庁は本件に関する公式報告に、全資産の完全な一覧表を添付しなくてはなりますまい。
この寺の施物係《せもつがかり》が在庫目録を持っているとは思いますが、全品目を確かめる必要がありますし、それには何時間もかかりましょう。ですから、まず食堂で朝食をとることを提案いたします」
ディー判事は巡査を一人厨房へやり、必要な指示を与えた。全員が土壇を後にして第二院子にある広い食堂まで歩いていった。傍聴者の群れは第一院子に移って、僧たちに怒りの罵声を浴びせていた。
将軍と他の三証人に対し、ディー判事は主人役をつとめ得ないことを詫びた。時間を節約するため、彼は食事しながら副官たちにその後の指示を与えるつもりなのだ。
将軍と退役判事、二人の親方とが、誰がテーブルの主人役をつとめるかで鄭重な譲り合いをしている間に、ディー判事は少し離れた小さめのテーブルを選び、ホン警部、マー・ロン、タオ・ガンとともにすわった。
二人の小坊主が米のかゆの入った丼と漬物を彼らの前に並べた。小坊主が声の届く範囲を離れるまで、その小さな集団は黙々と食べた。
ディー判事はかゆを食べ終わり、さじをテーブルに置いて話しはじめた。
「警部、私があのあさましい管長の賄賂《わいろ》を受けとったのを見て、さぞ気分を害したろうね。黄金三錠に純銀三錠! 実を言うと、あの時はまだどういう行動をとるか決まっていなかったのだが、いずれ資金が必要になるとわかっていた。わかっているだろうが、私には役職の給料以外に収入がないし、管長のまわし者に私が何か行動をもくろんでいると気取られるおそれがあるから、政庁の経理部長から金をもらうこともできない。
結局この賄賂は、わなをかけるための出費にちょうど足りたよ。黄金二錠は娘二人を抱え主のところから請け出すのに使った。三つ目は杏花に渡し、寺に一晩泊まらせてくれるよう管長に頼みこむのに使わせた。銀一錠は優秀な同僚の金華《チンホア》知事ルオ氏の執事にやり、この取引の手数料と、娘二人を蒲陽《プーヤン》に送り届ける費用にもあててもらった。二つ目の銀錠は私の妻に渡して娘たちの新しい服を買わせた。あとの一つはあの娘たちの外套を買い、昨日の午後二人が寺に来るとき乗った上等の輿《こし》二挺を借りるのに使ったのだ。これで君の心のしこりがとれたろ、警部?」
判事は副官たちの表清に安堵の色を見た。それを受けて彼は頬笑み、続けて言った。
「金華《チンホア》であの二人を選んだのは、農民階級をわが帝国の柱石たらしめている美徳、不運な職業の勤めでさえ根本的には冒すことのなかった美徳を、二人の内に見たからだ。私の計画遂行にあたって、あの娘たちは私を助けて必ずうまくやってくれると信じた。
娘たち自身も私の家族も、私が二人を妾として買ったと思った。私は誰にも、第一夫人にすらも、秘密を明かさなかった。まえに話したように、管長が私の家の使用人の中にスパイを入れていても不思議ではなかったから、ちょっとでも秘密が漏れるようなことがあってはならなかった。計画を実行するまえに、私は二人の娘が新しい生活様式に適応し、いい家の夫人とその召使という役割をこなせるようになるまで待たなければならなかった。
第一夫人のたゆまぬ努力のおかげで、杏花はめざましい進歩を遂げ、昨日私は行動を決意した」
判事は箸で漬物を少々つまんだ。
「警部、昨日君と別れてから」と彼は続けた、「私はまっすぐ二人のいる院子《なかにわ》に行き、普慈寺にかかわる私の疑念を娘たちに話した。私は杏花に、その役割を演ずることに同意してくれるかどうかをたずね、君たちの協力を計算に入れない代案もあるから、断わるのは全く自由だと言い添えた。しかし杏花は即座に引き受けてくれた。もしその堕落僧の淫欲から婦人たちを救うこの機会を見逃しなどしたら、私は一生自分を許せまいと、憤然として言ったのだよ。
そこで私は二人に、妻が与えた衣裳のうち一番いいのを着こみ、その上に尼僧の頭巾付外套をすっぽり着てかくすようにと言った。彼女たちは政庁の裏口からひそかに脱け出し、市場で最上等の輿を二つ借りることになっていた。寺に着いたら、杏花は管長に、自分が首都の身分の高い人物の妾であること、非常な高位なので名前はどうしても出せない、第一夫人が自分にひどく嫉妬しており、そのうえ自分に対する夫の愛情が冷めてきたようで心配である、屋敷から追い出されるのではないかとおそれて、最後の頼みの綱と思いこの普慈寺に来た、主《あるじ》には子がないので、もし自分が彼の子を産めば、地位は安泰なのだ、と語るはずだった」
ここでディー判事はちょっと話を止めた。副官たちはほとんど食事に手をつけていない。
「もっともらしい話にはなっていたんだが」と判事は続けた、「管長は恐しく抜け目のない男だとわかっていたから、杏花が本名とくわしい身の上を明かさないからといって断られるのではないかと心配だった。そこで私は彼の金欲と下劣な情欲との両者に働きかけることを彼女に指示した。まずは黄金一錠を提供し、また女なら誰でも知っている手口で相手に好意をもっていると思わせながら、女性の魅力を見せつけることにした。
私は最後に参籠したときどうするかを教えた。つまるところ万事は観世音像の奇跡的な力によるものであるという可能性も、捨て切ってはいなかったからね。ましてタオ・ガンが離れの隠し戸口を見つけそこなったことが、強く気持ちにひっかかっていたんだ」
タオ・ガンはどぎまぎし、あわてて顔をかゆの丼に伏せた。ディー判事はおうように頬笑みながら続けた。
「だから私は杏花に言った、もし真の聖なるおすがたが中空に現われたもうたら、床にひれ伏して謹《つつ》しんで全事実を打ち明け、このようなうそ八百で自分がここにいるのは、ひたすら知事の責任でございますと申し述べるのだ、だがもし、ただの人が部屋に侵入してきたなら、どうやってはいったかをつきとめようと試みる――その先は状況次第で行動することになる。ともかく私は練口紅の箱を渡し、彼女を抱いた男の頭にしるしをつけるよう指示した。
第四鼓の鳴るころ翠玉は秘かに客殿を脱け出し、杏花のいる離れの扉を二回叩く。その応答に四回たたけば、私の疑惑はよしなきものだったということだし、三回ならばいまわしいことが行われたと知れる。
そのあとは、君たちの知るとおりだ」
マー・ロンとタオ・ガンは興奮して手を打った、が、警部は心配そうだった。少しためらいを見せた後、ホン警部は言った。
「先日、普慈寺の問題について何かおっしゃるのはもうこれが最後と私が思いました折に閣下の言及されたことは、まだ大いに気にかかっております。すなわち、僧侶たちに不利な証拠があがり、自白が得られたことが確かでも、仏教教団が介入して彼らを擁護し、訴訟が決着する以前にさっさと彼らを放免してしまうだろうということでしたが。この点はどう解決されるのでしょうか」
ディー判事は濃い眉を寄せ、考えこむようにあごひげを引っぱった。
ちょうどその時、ひづめの音が院子の外で響いた。チャオ・タイが食堂に駆けこんできた。
彼はすばやく見まわして知事の一団を見つけると、テーブルのところに駆け寄った。額は汗でびっしょりである。
「閣下」彼は興奮して息を切らしていた、「駐屯隊本部には歩兵四名しかおりません! 駐屯隊の他の者は総督閣下の緊急命令で、昨夜|金華《チンホア》へ向けて発ったそうです。ここへもどる途中に私が柵囲いのところを通りましたら、何百という怒り狂った群衆が柵に体当たりしていました。巡査たちは政庁の中に逃げこんでしまったのです!」
「運悪く事件が重なった!」とディー判事が叫んだ、「急いで市内にもどろう!」
彼はあわただしく将軍に状況を説明し、金工同業組合親方を補佐として、この寺で事件処理にあたってもらうことにした。ワン退役判事と大工同業組合親方には自分と同行してくれるよう頼んだ。
ディー判事はホン警部も連れて将軍の軍用|輿《こし》に乗りこんだ。老判事と組合親方は自分の乗物の中に姿を消し、マー・ロンとチャオ・タイは馬に飛び乗った。彼らは輿丁《こしかつぎ》の足の許す限りの速度で城内へ急ぎ帰った。
中心街は興奮した人波であふれ、無蓋の輿に乗ったディー判事を見ると熱狂的な歓声があがった。四方で人々は叫んだ、「われらが知事に長寿を!」「ディー判事閣下に千歳《ちとせ》の命を!」と。
しかし政庁に近づくにつれて人影が減り、外壁の北東の角を曲がると、人気《ひとけ》のない通りを不吉な沈黙が覆っていた。
柵はそこここで破壊されていた。中にはたけり狂う群衆に石を投げられ踏みにじられて、凄惨な死にざまをした罪人二十人の原形をとどめぬ残骸があった。
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第十九章
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判事は全市民に厳重警告を発令し
みずから霊智観の探索に乗り出す
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ディー判事は輿から降りなかった。手の打ちようがないことは、一目で知れた。ずたずたの胴体、ばらばらの手足は、血と泥に覆われて一つの山をなし、いのちのかけらを求めるまでもない。ディー判事は輿丁《こしかつぎ》に命じてそのまま政庁の正|院子《なかにわ》まで行かせた。
門衛が二枚扉を開け放ち、ディー判事と同行者たちの輿は正院子にはいった。
仰天した八人の巡査が出てきて、ディー判事の輿の傍らに膝をつくが早いか、頭で石畳を叩き始めた。一人がくだくだ詫びごとを述べ始めたが、判事は弁解を切り上げさせた。
「詫びることはない、お前たち八人で群衆を持ちこたえられるはずがない。それは騎兵の仕事だから呼んだのに、来てもらえなかったのだ」
ディー判事と副官二人、ワン退役判事とリン親方は輿から降り、そろってディー判事の執務室に行った。机の上には留守中に到着した書類が積まれていた。
ディー判事は、江蘇《キアンス》地方の総督の印のある大きな封筒をとりあげ、ワン判事に向かって言った。
「これがわが市の駐屯軍部隊を召集するについての公式伝達でしょう。どうか確認を願います」
ワン判事は封を切って内容に一わたり目を通すと、うなずいてディー判事に返した。
「この書状は」とディー判事は述べた、「昨夜私が緊急の秘密調査のため、政庁を出たあとで着いたに違いありません。私は当市北区の八仙館という小さな宿屋に泊りました。
夜明け前に政庁にもどりましたが、すぐさま普慈寺に向かって出発せねばなりませんでした。衣服を替えるひまもないほどで、この部屋には足さえ踏み入れませんでした。
形式上の手続きとして、あなたとリン同業組合親方が、私の家の召使、八仙館の主人、総督の伝言を持参した兵隊に、問いただしてくださるとありがたいのですが。本件に関する報告書の中にあなたのご証言を書き入れたいのです。さもないと、あの罪人たちの不運な死は私の職務怠慢のためだと言われましょう」
ワン判事はうなずいて応じた。
「首都にいる古い友人から最近来た手紙で、仏教教団が政界に対する影響力を掌握したことを知りました。教団の高僧が普慈寺についてのこの報告書を、まるで彼らの愛読する経文のように丹念に検討するのは確かですね。もし手落ちを見つければ必ずそれにとびついて、政府に対しあなたの信用を落としにかかるでしょう」
「これら極悪非道な僧侶の摘発は」とリン同業組合親方が言った、「私ども蒲陽《プーヤン》に住むものすべてに喜びと安堵とをもたらしてくれました。人々は心から感謝していると、確信をもって申しあげられます。そうであるだけに、群衆が憤りのあまりにああいう無法なふるまいに及びましたことを、まことに残念に存じます。私の同郷市民のふるまいを、深くお詫び申しあげます!」
ディー判事は両人に礼を言った。証人二人は判事の注文どおり、事情を確認するために出ていった。
ディー判事は早速筆をとり、蒲陽《プーヤン》の市民にあてて厳しい警告文を起草した。罪人の処罰は国家専有の権利であり義務であると強調し、僧たちの虐殺を痛烈に非難した。この後なお暴力行為に関与するものは、何人《なんぴと》たりともたちどころに死刑に処せられるであろうとつけ加えた。
書記と事務官はみなまだ寺にいるため、ディー判事はタオ・ガンに命じて、大きな字体の写しを五部作らせた。自分でも独特の肉太《にくぶと》の書体で五部書きあげた。この布告に政庁の大きな朱印が捺《お》されると、判事はホン警部に命じて政庁の門、そのほか市内の主要な地点に張り出させた。さらに、あとで火葬に付するため二十人の僧の死体を籠に入れさせるよう、警部に指示した。
それらの用件を手配するため警部が姿を消すと、ディー判事はマー・ロンとチャオ・タイに向かって言った。
「暴力はしばしば暴力を生む。すぐ手を打たなければ、さらに混乱が起こり得る。不法分子が商店を略奪するかもしれない、駐屯隊のいない状況では、いったん彼らが羽目をはずすと抑えるのが難しい。混乱を防ぐために、私はもう一度将軍の輿《こし》で出かけて、大通りで姿を見せようと思う。君たち二人は騎乗して私の両側につき、弓に矢をつがえて、騒動を起こそうとするものは誰だろうとその場で射ることができるようにしていてほしい」
最初に彼らは市の守護神をまつる城隍廟《じょうこうびょう》に向かった。ディー判事の乗る輿、離れず随う騎馬のマー・ロンとチャオ・タイ、そして前に二人、後に二人の巡査だけの行列であった。公式の正装に身を固め、無蓋の輿に乗った判事の姿はどこからもよく見えた。威圧された群衆はうやうやしく道を開けた。人々は歓呼しなかった。先刻行なわれた暴挙を、彼らは恥じているように見うけられた。
ディー判事は廟で香をたき、熱心な祈りを捧げて神に謝罪し、市内を汚したことについて許しを求めた。自らが支配する都市内の土地が血で汚されることを、守護神は好まないのである。だから処刑場は必ず市の門を出たところにあるのだ。
ディー判事はそこから西のほうの孔子廟に向かい、不滅の賢人とその高弟たちの位牌の前で香をたいた。その次は北に行き、政庁の外廓の北壁の外にある公園を抜けて行って、関帝廟にも香を捧げた。
街路の人々はたいそう平静だった。彼らはもう貼札を見ており、動揺のきざしはなかった。群衆の怒りは、僧の虐殺のなかで燃焼しつくしたのだ。
もう混乱の起る気遣いはないと得心がいったので、ディー判事は政庁にもどった。
まもなく将軍が普慈寺から帰り、それと共に政庁の全職員も帰任した。
将軍は判事に目録を手渡した。黄金製の祭器などの貴重品および貯蔵金はすべて寺内の宝物庫に納め、その扉は現在封鎖されていると、彼は報告した。将軍は独断で自分の兵器庫から槍と剣を持って来させ、彼の従卒や巡査に支給した。彼の部下二十人と巡査十人を寺の警護に残してきたのだ。老将軍は上きげんで、隠退生活の退屈な日常の中の突発事をすっかり楽しんでいる気配だった。
ワン判事とリン親方がはいってきて、駐屯隊の召集に関する伝達をディー判事が認知する事は不可能であったことの確証を得たと報告した。
全員打ちそろって大応接室に行き、そこで茶菓が供された。
巡査たちが臨時に机や椅子を並べ足すと、全員が席に着いて仕事にかかった。ディー判事の指示のもとに、その日の出来事の詳細な報告の草稿が作られた。
必要に応じ書記が証人たちの特別供述を書きとめる。杏花と翠玉も一貫した申し立てを行わせ、栂印を捺《お》させるため、一度判事邸から呼び寄せられた。ディー判事はとくに一条を付け加え、何百という群衆の中から実際に僧侶を殺した犯罪容疑者を発見するのは不可能であったこと、それを誘った原因が重大なものであったのだし、混乱はその後に続かなかったのだから、蒲陽《プーヤン》の市民に対し懲罰的な処置をとるべきではないことも謹んで申し述べたいと書いた。
別封分ともども報告草稿がやっとでき上がった頃には、もう日が暮れていた、ディー判事は、老将軍、退役判事、二人の同業組合親方を夕食に招待した。
疲れを知らぬ将軍は誘いをうけたい様子だったが、ワン判事と他の両人は、精力的な一日のあとで疲れているからと辞退した。それで将軍も招待を断わらざるを得ず、全員が辞去した。
ディー判事はじきじき彼らを乗物のところまで案内し、貴重なお力添えに深く感謝いたしておりますと、重ねて述べた。
そのあと判事は普段着に着替え、自分の公舎に退いた。大広間で第一夫人がにぎやかな祝宴の主人役をつとめ、第二、第三夫人に杏花、翠玉までが食卓を囲んでいた。
全員が席を起って判事を歓迎した。彼はテーブルの上席につき、湯気の立つ料理を味わいつつ、この何週間というもの得られずにいた一家和合の雰囲気を楽しんだ。
料理の皿がかたづけられ、執事が茶をすすめている時、ディー判事は杏花と翠玉に言った。
「今日の午後、上級官庁にあててこの件の報告を作ったとき、普慈寺の貯蔵金の中から黄金四錠をとって、この件の解決にあたっての君たちの協力に対するささやかな報償として二人に与えられるべき旨の勧告を書き入れておいた。
この提案に承認が得られしだい、君たちの出身県の知事に急使を送り、君たちの家族について調べてもらおう。天帝の恵みによりたぶん親御さんは生きておられよう。もしなくなられたとしても、家族の誰かの行方は知れ、君たちを受けいれてくれるだろう。湖南《フーナン》地方へ向けて兵員移動があるときに、君たちをそこへ同行してもらってあげよう」
ディー判事は二人の娘に優しく笑いかけて続けた。
「地方当局にあてて、君たちの面倒を見てくれるよう依頼する紹介状を持たせよう。政府からの報償金で土地を買うか、店を持つかすればよい。いずれ間違いなく君たちの家族が、ふさわしい結婚をとり決めてくれるだろう」
杏花と翠玉はひざまずいて床に何度も頭をつけ、感謝を表わした。
ディー判事は立ち上がり、夫人たちのもとを去った。
政庁にもどる途中で庭を横切って、屋敷の正門に向かう渡り廊下を通ったとき、ふいに軽い足音を後ろに聞いた。ふり返ると、杏花がひとり、目を伏せて立っていた。
彼女は深く頭を下げたが、何も言い出さない。
「さあ、杏花」とディー判事はうながした、「なにかまだ私にできることがあるなら、遠慮しないで言いなさい!」
「旦那さま」と杏花は静かに言った、「人の心がいつもその故郷を慕うのはほんとうです。けれども、妹と私が幸運にもあなたのお世話になりましてから、私たち両人が親しみ深く思うようになったこのお屋敷を離れる気持ちにどうしてもなりません。それに閣下の第一奥様がご親切に、私もうれしく思うだろうと言ってくださいました、つまり……」
ディー判事は手を挙げ、にっこりして言った。
「逢うは別れの始めとは、この世のさだめではないか。県知事の第四、第五夫人であるよりは、自分の村のまじめな農夫の第一の妻であるほうがずっと幸せだということを、君もやがて理解できるようになるだろう。この件が落着するまでは、君も君の妹もこの家の大事なお客様だよ」
こう言ってディー判事は頭を下げ、杏花の頬に見たきらめく雫《しずく》は、月の光のいたずらだと自分に信じこませた。
正|院子《なかにわ》にはいると、記録室はどこもまだ耿々《こうこう》と明かりがついているのがわかった。その午後したためられた草稿を浄書するために、書記と事務官はみなまだ忙しかった。
執務室には四人の副官がいた。彼らはホン警部の指示でリン・ファン邸周辺の監視所を巡回していた巡査長の報告をうけていた。しかし、彼らの不在中には何も起らなかったようだった。
ディー判事は巡査長を行かせると自分の机に向かい、届いていた他の公文書に目を通した。三通を選り出して、彼はホン警部に言った。
「これは運河沿いの軍駐屯地三か所からの報告だ。リン・ファン商会の屋号をつけているジャンクを何隻か止めて調べたが、本物の積荷以外は発見されなかったそうだ。リン・ファンの密輸の証拠をおさえるには遅すぎたようだな」
さらに判事は残りの通信文を処理し、どの文書にも欄外に朱筆で書記への指示を書き入れた。
それがすむと彼は茶を一杯のみ、肘掛椅子によりかかった。
「昨夜、私は変装して霊智観に行き、君の友人のションパ君を訪問したよ」と彼はマー・ロンに話しかけた。「無人のお堂もよく見てきた。中で何やら妙なことが起っているようだね。何だか不思議な音を聞いた」
マー・ロンはとまどったようにホン警部のほうをちらっと見たし、チャオ・タイは落ちつかなげだった。タオ・ガンは左頬のほくろに生えた三本の毛をそっとひっぱっている。誰も何も言わない。
彼らが話にのってくる様子はまるでないのだが、判事は動揺を見せない。
「あの道観は私の好奇心を刺激した」と彼は続けた、「今朝われわれは仏教寺院で豊富な体験をした。今夜は道観の実例をそのおまけにつけてもよかろうじゃないか!」
マー・ロンがうそ寒いような笑いを見せ、大きな手で膝をこすりながら言った。
「閣下、ただの闘いなら、国中の誰だってこわかありませんが――ただほかの世界のかたがたと相手になるのは……」
ディー判事は彼をさえぎった。
「私は信じやすいほうだから、命《めい》あるものの日常生活の中でときおり冥界の不思議な現象が見られることを否定する気はないね。だがその一方、明晰な意識を持っていれば幽霊とか鬼とかを恐れる必要はないと固く信じている。可視の世界でも不可視の世界でも、正義はいちばん高い地位にあるのだよ。
それに、わが忠誠な友人の君たちに本心をかくしてはおけないね。つまり、今日の出来事とそれまでの用意の時期とが、これまで私にその機会を与えなかった、あの道観の探索を済ませれば、私の心は安まるだろうと思うんだよ」
ホン警部は考えこむようにあごひげを引っぱって言った。
「もしわれわれがそこへ出かけるとすると、ションパと子分たちはどうします、閣下。われわれの探索は秘密にしておかなくてはなるまいと思いますが?」
「そのことなら考えた」とディー判事は応じた、「タオ・ガン、君はその区の区長のところへ行きたまえ、霊智観へ行ってションパにすぐその場所を離れるように通告させるのだ。あの手合はお上《かみ》が苦手《にがて》だから、区長がしゃべり終わらないうちに消え失せるさ。しかしいずれにせよ、区長に加勢が要るときの用心に、巡査長にも巡査を十人連れて出かけるように言うがいい。
その間にわれわれは目立たぬ服装に着替え、タオ・ガンがもどったらすぐ普通の輿に乗ってその近所まで行こう。君たち四人だけしか連れていかない。だが、紙提灯四つと蝋燭《ろうそく》の予備をたっぷり忘れないようにしたまえ!」
タオ・ガンは守衛詰所に行き、巡査長に巡査を十人集めるよう命じた。
帯をしめ直しながら、巡査長はあけすけに笑ってほかの者たちに言った。
「おれのように経験豊富な巡査長がいると、知事さんは不思議なくらい早いとこ腕を上げるものだなあ。見ろよ。閣下がここへ来たばかりの時、あの人はすぐさまあの半月小路の下品な殺人事件にとりついて頑張ったが、びた一文もうかりはしなかった、ところが少しすると、あの人はお寺に興味を持ち、しかもそれが福の神の住まいみたいなところときた! 上級官庁の裁定が下ったらまたあそこで仕事ができると、おれは楽しみに待っているのさ」
一人の巡査が意地悪く言う、「今日のリン・ファン邸周辺の監視所を見張る仕事だって、余禄がなかったとは思いませんでしたがね?」
「あれはただ紳士二人の間のご挨拶の交換じゃないか!」と巡査長は厳しく叱りとばす、「リン・ファン氏の執事は、おれの礼儀正しい態度に対して感謝の意を表明したんだ」
「あの執事の声は」ともう一人の巡査が感想をのべた、「銀の鈴みたいなすてきな音でしたね!」
ためいきをついて巡査長が帯の間から銀を一粒とり出して投げると、巡査はすかさずそれを受けとめた。
「おれはしみったれちゃいないんでな」と巡査長は言った、「おまえたちで分けるがいいよ。おまえたち悪党どもが抜け目なく目をつけてるんなら、話も全部聞いておくさ。執事はおれに銀を何粒かくれて、明日友だちに手紙を一本届けてくれないかと頼んだ。もし明日また来たら、きっとそうしようとおれは返答した。おれは明日あそこへ行かないからその手紙を受けとることはできないだろう。これでおれは閣下の命令に背くことはないし、鄭重な贈り物を断って紳士の気分を害しもせず、おれが自分に課した厳格な正直のおきてを踏みはずすこともない」
大いに筋の通った態度だと、巡査たちは相槌をうった。皆はタオ・ガンと同行するため守衛詰所を出た。
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第二十章
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無人の道観はさまざま人を悩ませ
荒れた院子《なかにわ》が戦慄《せんりつ》の秘密を明かす
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第二鼓が鳴るころタオ・ガンがもどってきた。判事は茶を一杯飲んだあとで、簡素な青い長衣に着替え、黒い縁なし帽をかぶった。四人の副官をしたがえて、彼は政庁の小さな脇門を出た。
一行は道端で賃轎子《ちんかご》をやとい、霊智観のすぐ近くまでかついで行かせた。そこで轎夫《かごかき》に金を払い、あとは歩いていった。
道観の前の庭は真っ暗で、静まりかえっていた。区長と巡査たちが仕事をちゃんとしてのけたのは明らかで、ションパと仲間の宿なしどもはすべて引き払っていた。
ディー判事はタオ・ガンに小声で言った。
「正門の左手の脇戸口の錠をこじあけて来たまえ。音は最小限たてるだけにして」
タオ・ガンはしゃがんで、首巻きの布で提灯を包んだ。火打石をうって点火すると、広い階段を登っていく時に足もとを照らすかすかな光が一すじもれるだけになった。
錠をおろした脇戸口を探しあてると、彼は提灯の光で仔細《しさい》に調べた。普慈寺で隠し羽目板を見つけそこなったことが彼の自尊心をいたく傷つけたから、この任務はたくみにすばやくやりとげようと心に決めていた。彼は袖から細い鉄かぎを一組《ひとくみ》とり出し、錠前の細工にかかった。錠はすぐに開いたので、かんぬきをはずした。戸をそっと押すと開いた。内側の添え木はついていない。彼は急いで引き返し、ディー判事に道観の中にはいれると知らせた。
全員が段を登った。
ディー判事は戸口の前でしばらく中の音に耳をすませた。しかし、墓場のように静まりかえっている。そこでディー判事を先頭に立て、人々は中に忍びこんだ。
ディー判事はホン警部に提灯に点火するようささやいた。それを高く掲げてみると、そこは道観の大きな前殿であることがわかった。右手に見える正面入口の三枚扉の内側には、重いかんぬきがかかっている。その正面入口の厚い扉をぶち破らぬ限り、はいる道はいま通ってきた脇扉しかないのは明白であった。左手に高さ一丈(三メートル)もあろうかという祭壇があり、道教三神のばかでかい金ぴかの像が載っている。祝福を垂れるため上げた手は見えるが、肩から頭は高みの暗がりにかくれて見えない。
ディー判事はかがんで床を調べた。木の床は厚く積もったほこりでおおわれ、ねずみの小さな足跡がついているだけだ。
彼は連れのものたちに手招きし、祭壇をまわって暗い回廊に進んだ、ホン警部が提灯をさし上げた時、マー・ロンが畜生めとうめいた。顔をゆがめ血を滴らせた女の生首が照らし出されたのだ。鉤爪《かぎづめ》のような手が、その髪をつかみ上げている。
タオ・ガンとチャオ・タイは恐怖のあまり息をのんで立ちすくんだ。しかしディー判事は落ち着いた声で言った。
「興奮するな。道観なら、この廊下には地獄の十王庁の図が、恐怖の限りを尽くして並べられているのが普通だろうが。われわれが恐れねばならぬのは生きている人間なのだ!」
安心させようとする判事の言葉にもかかわらず、副官たちは昔の芸術家が木を刻んで回廊の両側の壁に表わした戦慄の光景に、ひどくショックをうけた。それは道教の説く地獄界で悪人の魂に割当てられる懲罰のかずかずを、等身大極彩色で再現したものであった。ここでは青や赤の鬼が鋸《のこぎり》で人々を切り刻み、剣で刺し貫き、鉄の刺又《さすまた》ではらわたをかき出しており、あそこでは大勢の運の悪い者たちが煮えたぎる油の大鍋に投げこまれ、あるいは地獄の鳥に目の玉をつつき出されて喰われている。
この恐怖の回廊を通り抜け、判事は二枚扉の戸をそろそろと押し開けた。第一|院子《なかにわ》が見渡せた。おりから月が姿を現わし、廃園を照らしだした。鐘楼が真ん中に立ち、奇抜な形の蓮池がそのそばにある。鐘楼は方二丈ほどの石の台で、地面から一間《いっけん》ばかりの高さであった。緑つややかな瓦をふき、頂きを優美にとがらせた屋根を、朱塗りの四本の柱が支えていた。普通なら屋根の下の横|桁《げた》につり下げられている大きな青銅の鐘は、今は破損を防ぐため空《あ》き寺でよくやるように、台上におろされていた。この鐘は高さ一丈ばかり、表面は入り組んだ装飾模様でおおわれていた。
ディー判事は黙ったままこの安らかな光景を見まわした。それから副官たちをしたがえて院子をめぐる回廊を進んだ。
この回廊に沿って並ぶ小部屋はみんな空《から》で、床には埃《ほこり》が積もっている。この道観がまだ使われていた頃、ここは客を収容したり経典を読んだりするのにあてられていたのだ。
奥の戸をはいると第二院子で、そこは周囲に道士たちの空《から》の房が並んでいた。奥まったところに広い露天の厨房があった。
霊智観にあるのはこれがすべてと思われた。
厨房のわきに小さな戸があるのに、ディー判事は目をとめた。
「たぶんこれが」と彼は言った、「この境内の裏出口だろう。この道観の裏手はどこの町か、開けてみるのもいいね」
彼の合図をうけて、さっそくタオ・ガンが重い鉄のかんぬきを締めているさびた錠前を開けた。
驚いたことに、そこにはこれまでより倍も広い第三|院子《なかにわ》があった。石畳が敷かれ、二階建の高い建物で囲まれている。どれも完全に無人で、深い静寂に閉ざされていた。だが、この院子には最近まで人のいた形跡があり、敷石の間に草が生えていないし、建物はちゃんと手がはいっているようだった。
「じつに妙《みょう》だ!」とホン警部が声を上げた、「この第三院子は全く余計だ。いったい道士たちは何に使っていたんでしょう?」
彼らがこの疑問について思いめぐらしていたとき雲が月をかくし、あたりが真っ暗になった。ホン警部とタオ・ガンが急いでまた提灯をともしにかかった。ふいに静寂が破られた。院子の向うのはずれから扉の閉まる音が聞こえた。
ディー判事はあわただしく警部の提灯をとり、院子を駆け抜けた。そこには重い木の扉があった。油のよく引かれた蝶番《ちょうつがい》で、それは音もなく開く。提灯を高く掲げてみると、狭い廊下が通じていた。せかせか歩く足音がかすかに聞こえ、やがてばたんと扉の閉まる音がした。
ディー判事は中に駆けこんでいったが、行く手は高い鉄の扉でさえぎられていた。彼が急いで調べるあいだ、タオ・ガンはその肩越しに見ていた。立ち上がりながら判事が言った。
「この扉はまるで新品だが、どうも錠が見あたらぬし、こちら側から開けるための取っ手とかつまみのようなものがない。君によく見てもらうほうがいいな、タオ・ガン」
タオ・ガンは扉の磨かれた表面を熱心に細かく調べ、ついで側柱も見た。しかし開ける仕掛けのしるしさえ見つからなかった。
「閣下、いまこの扉を力ずくでも開けなかったら」マー・ロンが気色ばんで言った、「どんな悪党がわれわれをスパイしていたのかわからずじまいになるでしょう。すぐつかまえなければ逃げてしまいますよ!」
ディー判事はゆっくりと首を振った。彼は鉄のすべすべした表面をこぶしでコツコツと叩いてみせてから言った。
「破城槌《はじょうつい》でもないことには、この手ごわい扉は開けられまい。さあ、その建物を調べよう!」
彼らは廊下を出て、院子《なかにわ》をとり囲む暗い建物を見て回った。ディー判事が手あたりしだいに戸を押してみた。鍵はかかっていなかった。一行は床をおおうむしろのほかには何もない大きな部屋にはいった。さっとあたりを見まわしてから、ディー判事は奥の壁に立てかけた梯子に歩み寄った。登って行って天井のはねぶたを押し上げた。上がってみると、そこは広々とした屋根裏部屋だった。
四人の副官も合流し、もの珍らしげにあたりを見回した。屋根裏部屋といっても実際には長い広間で、太い木の柱が高い天井を支えている。
ディー判事があきれて言った。
「道教か仏教の寺院でこんなふうな設備になっているのを、誰か見たことがあるか?」
ホン警部はちびたあごひげをそっと引っ張った。
「この道観には以前たいへんな蔵書があったのですね」と彼は言った、「そのときこの屋根裏は書庫に用いられていたのでしょう」
「それならば」とタオ・ガンが口をはさむ、「壁に沿って書棚のあとかなにかが見えるでしょう。現状でみると、この屋根裏はむしろ品物を保管しておく商品倉庫のように思えますな」
マー・ロンが頭を振って問い返した。
「道観が商品倉庫をどうするのさ? 床に敷いた厚いむしろを見ろよ。チャオ・タイも同感だと思うんだが、これは武器庫で、剣や槍の戦闘訓練に使ったんだ」
チャオ・タイは壁を調べていたが、そこでうなずいて言った。
「ここにあるこの組になった鉄鉤《てつかぎ》を見てください。これは長い槍をかけておくのに使われたに違いありません。閣下、ここは何かの秘密結社の本拠だったのでしょう。団員たちはここでの行状を外部から疑われることなく、武術の訓練をすることができたのです。いまいましい道士連中もその仲間で、隠れみのの役をしていたんですよ!」
「君の意見はいいところをついている」とディー判事は考えこみながら言った、「見たところその陰謀家どもは、道士たちが去ったのちもずっと居残り、つい二、三日前に出ていった。見たまえ、この屋根裏はごく最近徹底的に清掃されており、むしろの上にはごみのかけらもない」。彼は頬ひげをぐいと引いて腹立たしげに言った、「そいつらは一人か二人あとに残して行ったに違いない、われわれの探索に興味を抱いたさっきの悪漢がそれだ! ここへ来るまえ市内の地図を調べなかったのは残念だ。あの鍵のかかった鉄扉はどこへ続いているものやら!」
「屋根に上がって、この寺の後ろに何があるか見てみましょう」とマー・ロンが言いだした。
チャオ・タイと二人で、彼は大窓の重い雨戸を開けて外を見た。首を伸ばしてみると頭上の軒に沿って長い鉄の忍び返しが下向きに並んでいるのが見える。境内の奥の高い牆壁が道観の後ろにある建物をまったく見えなくしていて、そのてっぺんにも同じような忍び返しが並んでいた。
退却しながらチャオ・タイが悲しげに言った。
「どうにもなりません! あそこへ上がるには攻城梯子が要ります!」
判事は肩をすくめ、憤然として言った。
「そういうわけなら、もうこの際打つ手はない。少なくとも、この道観の奥の部分は何か秘密の目的で使用されていることがわかる。またぞろ白蓮《びゃくれん》教団が動き出して、ここでも漢源《ハンユアン》の面倒の二の舞になったら大変だ(『中国湖水殺人事件』参照)! とにかく明日の日中必要な道具を持ってまたここに来て、徹底的に調べることが必要らしい!」
彼は副官たちをしたがえて梯子を降りた。
院子を出る前に、ディー判事はタオ・ガンに耳打ちした。
「鍵のかかっている扉に紙切れを貼りつけておきたまえ! 明日また来た時、少なくともわれわれが立ち去った後であの戸がまた開けられたかどうかがわかる」
タオ・ガンはうなずいた。彼は袖から薄い細い紙片を二枚とり出した。舌で湿らし、扉と柱の合わせ目にかけて一枚は高く、一枚は床近くに貼りつけた。
一行は第一|院子《なかにわ》に引き返した。
恐怖の回廊に通じる門まできたとき、ディー判事は足を止めた。ふり返って廃園を見わたした。月光が青銅の鐘の大きな半球を照らし、その面をおおう幻想的な装飾模様を浮き立たせていた。ふと判事に鋭く迫る危険の意識があった。見たところ平和なこの光景の中に、邪悪なものの存在を感じた。ゆっくりとあごひげをしごきながら、彼は虫が知らせるこの奇妙な感じを分析してみようとした。
警部のもの問いたげな様子に気づくと、ディー判事は深く考えこむようすで言った。
「ああいう重い梵鐘が身の毛もよだつ犯罪を隠すのに使われるという、恐ろしい話を聞くこともあるね。ここへ来たからにはあの鐘の下をちょっと見て、何も隠されていないことを確かめてみるのがいいようだな」
高く築いた台のほうへ引き返しながら、マー・ロンが言った。
「あの手の鐘は、銅で何寸もの厚さに鋳造されています。それをかしがせるにはてこが要りますね」
「君とチャオ・タイで前堂へ行けば」とディー判事が言った、「道士たちが悪霊|祓《ばら》いに使う例の重い鉄の槍や三叉槍がきっと見つかるよ。鐘をかしがせるのに使えるだろう」
マー・ロンとチャオ・タイが馳せもどる一方で、ディー判事と他の二人は下生えの茂みを分けて進み、鐘楼の台に登る一条の階段を見つけ出した。鐘の外周と台のへりとの間の狭い足場に立って、タオ・ガンは屋根を指さした。
「道士たちが立ちのくとき、鐘を上げるのに使う滑車を持っていったのですな。ですが閣下の言われる槍などを使って、なんとかかしがせることはできるでしょう」
ディー判事はうわの空でうなずいた。ますます強い胸騒ぎを感じていたのだ。
マー・ロンとチャオ・タイが台に上がってきた。それぞれ長い鉄の槍を携えている。彼らは上に着た長衣を脱ぎ、槍の先を鐘の縁の下に激しく突き立てた。肩を柄の下に入れると、鐘はかすかに持ち上がった。
「下に石をつっこめ!」マー・ロンがあえぎながらタオ・ガンに言った。縁の下に小石を二つつっこむと、マー・ロンとチャオ・タイは槍をさらに鐘の下へとすすめる。判事とタオ・ガンの助勢を得て、二人はもう一度力を加えた。鐘が三寸ほど持ち上げられた時、ディー判事がホン警部に言った。
「あの石鼓磴《せっことう》を下に転がせ!」
警部はすばやく台のすみに置いてあった樽《たる》形の石の腰掛を倒し、鐘のほうへ転がしてきた。すき間の高さがまだ少し足りない。ディー判事は槍から手を放して長衣を脱いだ。それからまた肩を柄の下に入れた。
彼らは最後の力をふりしぼった。マー・ロンとチャオ・タイの太い首の筋がふくれあがった。そして警部は石の腰掛を鐘の縁の下に押しこむことができた。
みなは槍をほうり出し、顔の汗をふいた。ちょうどそのとき月がまた雲にかくれた。さっそくホン警部が袖から蝋燭《ろうそく》を出して火をつけた。彼は鐘の下をのぞいた。そして息をのんだ。
ディー判事がすばやくかがみこんでのぞいた。鐘の下の地面はほこりとごみでおおわれている。その真ん中に人間の骸骨が、長々と床に伸びていた。
判事はすぐさまチャオ・タイの手から提灯をとり、腹ばいになって鐘の下にはいこんだ。マー・ロン、チャオ・タイ、警部がそれにならった。タオ・ガンもはいこもうとした時、ディー判事がどなりつけた。
「それほど場所がない。君は外にいて見張れ!」
四人は骸骨のまわりにしゃがみこんだ。白蟻とうじはきれいに骨だけしか残さなかった。手首と足首には重い鎖のかせをかけられていたが、いまでは赤錆《あかさび》の塊に変わっている。
判事は骨を調べ、頭蓋骨にはとくに念を入れてみた。だが暴力を加えられたあとはなかった。ただ左の二の腕に骨折のあとがあり、ひどい接ぎ方がしてある。
副官たちを顧みて、ディー判事は苦々しげに言った。
「この不幸な人物は、ここに閉じこめられたとき明らかにまだ生きていた。彼は飢えによる悲惨な死を迎えさせられたのだ」
警部は頸椎《けいつい》をおおう厚いほこりをはらっていた。急に彼は、ぴかぴかする丸い物を指さした。
「ほら!」と彼は声を上げた、「金のお守り札のようだぞ!」
ディー判事はそっと拾い上げた。それは丸いお守り札だった。彼はそれを袖できれいに拭き、提灯に近づけた。
表側は何もないが、裏側にはリンと彫りつけてあった。
「つまりこの人をここで死なせたのは、あのリン・ファンの悪党だったわけだ!」マー・ロンが叫んだ、
「あいつは自分のとりこを鐘の下に押しこむとき、そのお守りを落としたのに違いない!」
「では、これはリャン・コーファなんだ」ホン警部が力なく言った。
この驚くべき事実をききつけてタオ・ガンも鐘の下にはいこんできた。五人はみな傾いた青銅のドームの下に集まって立ちつくし、足もとの骸骨を見おろしていた。
「そうだ」とディー判事は沈んだ声で言った、「この罪深い殺人を犯したのはリン・ファンだった。一直線に行けばこの道観はリン・ファン邸から遠くないのだ。二つの区画は奥の牆壁《しょうへき》を共有しているに違いなく、あの重い鉄扉でつながっている」
「あの第三|院子《なかにわ》は」とタオ・ガンがせきこんで言った、「きっとリン・ファンが密輸の塩をしまうのに使っていたんです。秘密結社はずっと前に、道士たちと同時に立ち去ったに違いありません」
ディー判事はうなずいた。
「貴重な証拠が手にはいった」と彼は言った、「明日、リン・ファンに対する訴訟を開始しよう」
その時ふいに、石の腰掛ががくんとはずれた。鈍い響きとともに、青銅の鐘は五人の男たちの上にどっかりと腰をすえた。
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第二十一章
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判事と四副官は異様なわなに陥ち
危険な犯罪者は自邸で逮捕される
[#ここで字下げ終わり]
みなが怒りの声をあげた。マー・ロンとチャオ・タイは猛烈な悪態をつきながら、鐘の半球体のすべすべした内壁を気違いのように指先で探りまわった。タオ・ガンは大声で後悔し始め、自分の愚かな失策をのろった。
「黙れ!」とディー判事がほえた、「時間がない、よく聞け! こののろわれた鐘は、内側からでは絶対に持ち上げられぬ。ここから脱け出す方法は一つだけだ。この鐘を押して、二、三尺ずらしてみるのだ。一か所が台縁を越えて外に出れば、すき間ができてそこから降りられる」
「ちょうどそこが柱だったら?」マー・ロンがかすれた声で聞いた。
「わからん」と判事はつっけんどんに言った、「だが小さなすき間だけでも、少なくともわれわれを窒息から救ってくれる。灯を消せ、煙はわれわれに許されたわずかな空気をだめにする。しゃべらず、服を脱いで、仕事にかかれ!」
ディー判事は帽子を床に投げ、裸になった。右足で床をかいて石のみぞに足がかりを得ると、背を曲げて鐘を押した。
他のものたちもそれにならった。
まもなく空気が乏しくなり、ますます息苦しくなった。しかしついに鐘が少し動いた。それは一寸足らずにすぎなかった。それでも彼らの苦役が達成不可能なものでないと知って、彼らは力を倍加した。
青銅の牢獄の中でどれくらい死闘を続けていたものか、五人のうちの誰も知らなかった。汗が彼らの裸の体を流れ落ちた。呼吸はあえぎとなり、濁った空気が肺をあぶった。
ホン警部が最初に力尽きた。必死の努力が鐘を台縁から二、三寸外に押し出したその時に、彼は床にくずおれた。
小さな三日月形の穴が足もとにあらわれ、新鮮な空気が彼らの牢獄に流れこんできた。
ディー判事は警部をすき間のところへ引き寄せ、新しい空気が吸えるようにした。それから彼らは全力を集中して、いまひと頑張りした。
鐘は動いてさらに台縁から出た。もう子供なら十分くぐりぬけられるほどのすきまだった。残った力を出し切って押しに押したが、駄目だった。鐘はたしかに柱の一本につかえてしまったらしい。にわかにタオ・ガンはしゃがみこむと、両足をすき間からおろした。彼は断然通り抜けようと努力した。粗い縁石が彼の背中を深く裂いたが、それでも諦めなかった。ついになんとか肩を抜き出して、彼は下生えの中に落ちた。
すぐに槍が一本、すき間からさし入れられた。それでマー・ロンとチャオ・タイは、鐘をほんの少しまわすことができ、やがて穴はホン警部を降ろせるほど大きくなった。次にディー判事が、そしてあとの二人が続いた。
彼らは完全に疲れきって、草むらの中に倒れ伏した。
だがすぐにディー判事は起きあがって、警部の横たわっているところへ行った。心臓にさわってみてから、彼はマー・ロンとチャオ・タイに言った。
「警部を蓮池のところへ連れていって、顔と胸を濡らしてやろう。すっかりよくなるまでは、目を覚まさせるなよ!」
ふり向くと、タオ・ガンが彼の後ろにひざまずき、額を地面に叩きつけている。
「立つんだ!」とディー判事は言った、「これで覚えただろう! 私は正当な理由がなければ命令はしないのだ。それが守られないとどうなるか、君は自分でよく見たろう。さあ来い、われわれの殺害者になりそこねた御仁《ごじん》が、どうやって鐘の下から石の腰掛をもぎとることができたのか確かめたいから手伝ってくれ」
下帯をつけただけの姿で、ディー判事はひどくしおらしいタオ・ガンを随えて台に登っていった。
どうやったのかは、そこへ行ってみればすぐわかった。襲撃者は彼らが鐘をかしげるのに使った槍の一本を拾って石の腰掛の後ろに置いた。それからその先が最寄りの柱につきあたるところまで押していった。この槍をてこに用いて、彼は石をずらすことができたのだ。
この点を確めてから、判事とタオ・ガンは提灯を拾いあげて第三|院子《なかにわ》へ行った。
裏口の鉄扉を調べてみると、タオ・ガンが貼っておいた紙片は破れている。
「リン・ファンが犯人だということはこれではっきりした」とディー判事が言った、「彼はこの扉を内側から開け、こっそりわれわれをつけて第一院子に来た。われわれが鐘を傾けているあいだずっとその様子を見守り、われわれ全部が中にもぐりこんだのを見たとき、これこそ永遠にわれわれの追求から逃れる好機だと思ったのだ」
判事はすばやくあたりを見まわした。
「さあ、もどろう」と彼は言った、「ホン警部がどんな具合か見なければ」
警部はもう意識を回復していた。判事を見ると、彼は起き上がろうとした。しかしディー判事は、そのままでいるようにと強く命じた。判事は警部の脈を見てから、優しく言った。
「今すぐ君にしてもらうことはないよ、警部。巡査たちが到着するまで、ここにこのままでいたまえ!」
判事はタオ・ガンのほうに向いた。
「この区の区長のところに走り、人を連れてここへ来るように言え。また政庁へ馬で人を走らせて、巡査二十名を呼んで来させよ。巡査は、轎子二丁《かごにちょう》を持ってすぐここへ来るようにと。これだけの指示を伝えたら、タオ・ガン、君は大至急もよりの薬局へ走れ。君は血だらけだよ」
タオ・ガンはふっとんでいった。その間にマー・ロンは、判事の帽子や長衣を鐘の下から集めてきた。衣類を払って塵やほこりをおとし、掲げて判事に着せかけようとした。
ディー判事はかぶりを振った。
マー・ロンの驚いたことに、判事はただ下着だけを着て袖をまくり上げ、たくましい腕をひじまでむき出しにした。下着の裾は帯にはさんだ。長いあごひげを分けて二本のなわに編むと肩越しに投げ、両端を首の後ろで結び合わせた。
マー・ロンは判事をしげしげとながめ、少々脂肪がつきすぎているが、とっくみ合ったら厄介な相手だろうなと結論を下した。
髪を手拭いで堅くしばってすっかり身支度を終えると、判事はマー・ロンに言った。
「私は復讐的な人間ではないつもりだよ。だがこのリン・ファンという奴は、われわれ全部を実に残酷な方法で殺そうとした。もしわれわれが鐘を台縁から押し出すことに成功していなかったら、蒲陽《プーヤン》の記録にはもう一つの世間を驚愕させる失踪が書き加えられたところさ。リン・ファンを自分の手で取りおさえる楽しみを我慢する気はないね。彼が抵抗してくることを望むよ!」
判事はチャオ・タイに向かって言いそえた。
「君は警部とここにいたまえ。巡査たちが到着したら、青銅の鐘をもとの位置に引き上げさせろ。骨は拾い集めて箱に入れるのだ。それから君は注意して鐘の下の部分の塵を調べ、ほかに手がかりがないか捜してくれ」
マー・ロンと連れ立って、彼は道観の脇入口から出ていった。
狭い通りをいくつか抜けて、マー・ロンはリン・ファン邸の正門に行き着いた。眠そうな巡査が四人、張り番をしていた。
判事はものかげにとどまり、マー・ロンが進み出て年長の巡査に耳打ちで指示を与えた。
彼はうなずき、門を叩いた。のぞき穴が開くと、巡査は門番にどなりつけた。
「門を開けろ! てきぱきやれ! 盗賊が一人、おまえの屋敷うちにはいり込んだぞ。おれたち巡査がいつも目を光らしていなかったら、このものぐさ犬め、この屋敷はどうなると思う? おまえの貯えをさらって盗っ人が逃げ出さぬうちに開けるんだ!」
門番が二枚扉を開けるが早いか、マー・ロンがとび込んで首をつかんだ。巡査が男を縛り上げて油布でさるぐつわをかますまで、彼は男の口に手で蓋をしていた。
それからディー判事とマー・ロンとは中へ突進していった。
院子《なかにわ》は無人のように見えた。出てきて行手をさえぎるものはいなかった。
第三院子で、リン・ファンの執事がいきなり暗がりから姿を現した。ディー判事がどなりつけた。
「政庁の命によりおまえを逮捕する!」
執事の手が帯に走ったと思うと、たちまち長い刃が月の光にぎらりと光った。
マー・ロンが彼にとびかかろうと身構えたが間に合わなかった。判事がもう執事の心臓めがけてすさまじい一撃をくらわせており、男はぎゃっと言って後ろに倒れかかった。そのあごをねらって判事が正確な蹴りを入れた。執事の頭ががくっとのけぞって、敷石にがんと音を立てた。彼は倒れたまま動かない。
「やったあ!」マー・ロンが小声でつぶやいた。
マー・ロンが執事の短剣を拾い上げている間に、ディー判事は奥院子に走っていった。障子窓一か所だけに、黄色の光がうつっている。マー・ロンが追いついた時、判事は扉を蹴開けた。小さいが上品な寝室は、彫刻した黒檀の台にのせた絹張の行灯《あんどん》で照らされている。右手には同じ材質の寝台をすえ、左手には凝った彫りの化粧台に、火をともした蝋燭《ろうそく》立てが二本立ててある。
薄絹の白い夜着を着たリン・ファンは、戸口に背を向けてテーブルの前にすわっていた。
ディー判事は手荒に彼をふり向かせた。リン・ファンは恐怖のあまり言葉もなく判事を見つめた。彼は戦う動きを見せない。顔は青ざめひきつっており、額に深い裂傷があった。判事がはいっていった時、彼はこの裂傷に膏薬を塗っていたのだ。左の肩が出ていて、醜い打ち傷がいくつか見えた。
相手がまるで無力なのを見てひどくがっかりしたディー判事は、吐きすてるように言った。
「リン・ファン、おまえを逮捕する。立て! ただちにおまえを政庁に連行する!」
リン・ファンは何も言わなかった。
彼はのろのろと椅子から立ち上がった。部屋の真ん中に立って、マー・ロンはリン・ファンを縛《しば》るため自分の腰から細い鎖をほどいていた。
いきなりリン・ファンの右手が、化粧台の左側に下がった絹ひもに伸びた。
ディー判事が打ちかかり、あごの下に猛烈な一撃を命中させたので、リン・ファンは背中からがんと壁にぶちあたった。ひもをつかんだ手は離さなかったから、気絶して床に倒れたとき、その体重がひもをひいた。
ディー判事が背後に罵声を聞いてふりかえると、まさにマー・ロンがなだれ落ちるところだった。彼の足の下におとし戸が口を開いている。
判事が襟首をがしっとつかんだので、彼は下の暗い穴に落ちずにすんだ。判事が彼を引き上げた。
おとし戸は四尺四方の大きさがあった。それは蝶番で下に開き、急な石段が闇に消えていた。
「よかったな、マー・ロン」とディー判事が言った、「もし君がこのまやかしもののど真ん中に立っていたら、あの階段で足を折るところだった!」
化粧台を調べて、判事は二つ目の絹ひもが右側にあるのを発見し、引いてみた。そろそろとおとし戸が上がってかちっと閉まると、床はもとどおり何でもなくなった。
「怪我人を打つのは好きではないが」とディー判事はリン・ファンのくずおれた姿を指さした、「もし私があれを打ち倒さなかったら、またどんな手を出してきたかわかりゃしないよ」
「実にあざやかなお手並でした、閣下」とマー・ロンは心の底からほめた。「それにしても、あの額のひどい裂傷と肩の打身はどうしたんでしょうか。明らかにあいつは今日なにか荒っぽい出入りをやったんです!」
「それはいずれわかる」ディー判事は言った、「さしあたりはリン・ファンと執事をしっかり縛り上げたまえ。次に巡査を正門から連れてきて邸内全部を捜索する。まだほかにも使用人がいたら逮捕して、全員政庁へ移送せよ。私はこの隠し通路を先へたどってみる」
マー・ロンはリン・ファンの上にかがみこんだ。判事は絹ひもを引いて再びおとし戸を開けた。化粧台から火のついた蝋燭《ろうそく》を取って下りていった。
急な段を十段ほどおりると、ディー判事は狭い通路にいた。
蝋燭《ろうそく》を掲げてみると、左手は踊り場になっていて、壁にうがたれた低い拱路《アーチ》の下の広い二段の階段を、漆黒の水がひたひたと洗っている。通路の右の端には大きな鉄の扉があり、手のこんだ錠前がかかっていた。
彼はまた頭が床から出る高さまで昇っていって、マー・ロンに呼びかけた。
「下に錠をおろした鉄の扉があるが、何時間かまえにわれわれが開けようとしていたのと同じやつに違いないぞ! 塩の梱包《こんぽう》は道観の第三院子の倉庫から、川の水門の外側か内側かへ続いているに違いない地下水路を通って運ばれていたんだ。リン・ファンの部屋着の袖から鍵束を探しだせたら、あの扉が開けられるんだが!」
マー・ロンは寝台の上にかけてある刺繍入りの長衣を調べた。彼は複雑な形の鍵を二つ引っぱりだして、ディー判事に手渡した。
判事はまた下りていって、それらを錠に合わせてみた。重い鉄扉は開いて、柔らかな月光の降り注ぐ霊智観の第三院子が眼のまえにひらけた。
ディー判事はマー・ロンに別れを告げ、夜の冷気の中に歩み出た。巡査たちの叫び声が遠くに聞かれた。
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第二十二章
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文書課長が古い物語を説きすすめ
ディー判事は三犯罪の嫌疑を論ず
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ディー判事は悠然《ゆうぜん》と歩み続けて、第一|院子《なかにわ》に出た。今は「蒲陽《プーヤン》政庁」と記した十張《とはり》以上の大提灯に照らしだされて耿々《こうこう》と明るい。
ホン警部とチャオ・タイの采配のもとに、巡査たちは鐘楼の横桁に滑車をとりつけるのに大忙しだ。
判事を見つけて、ホン警部が急いでその後の展開をききにやってきた。
青銅の鐘の下で生命を賭したあとでも、警部に格別具合が悪そうな様子がないのを見て、ディー判事は安心した。
判事はリン・ファン逮捕の模様と、彼の屋敷と道観とをつなぐ秘密の通路について語った。
警部に手伝わせて長衣をつけながら、判事はチャオ・タイに命じた。
「巡査を五人連れてリン・ファン農場に行きたまえ。向うにも君の後を引き継いだ巡査が四人いるだろう。農場の住人を全員逮捕せよ。桟橋にもやったジャンクにいる者たちもだ。チャオ・タイ、君には長い夜になるが、リン・ファンの手下全員をしっかり収監《しゅうかん》してしまいたいのだ!」
騒々しいことなら大好きですからと、チャオ・タイはうれしそうに返答した。さっそく彼は巡査の中から屈強な者を五人選び出しはじめた。
ディー判事は鐘楼に歩み寄った。
滑車が取り付けられた。重い鐘は丈夫な太索《ふとづな》でゆっくりと引き上げられ、床から三尺ほど上がった定位置にぶらさがった。
ディー判事は鐘の下の踏みしだかれた部分をしばしのあいだ見まわした。青銅の牢獄から脱け出そうとして過した狂乱の半刻《はんとき》に、骨はばらばらに散乱させられていた。
「チャオ・タイから私の指示は伝えたろうが」と彼は巡査長に言った、「もう一度言うぞ。骨を拾い集めた後で、最大の注意を払って鐘の下の塵やほこりを調べよ。まだ重大な手掛りが得られるかもしれない。それが済んだらリン・ファン邸の捜索を手伝うのだ。巡査四名はのこして警備にあてること。明朝私に報告したまえ!」
そしてディー判事とホン警部は霊智観をあとにした。轎子《かご》が前庭で待っていた。彼らは政庁までそれに乗って帰った。
翌朝はよく晴れた秋らしい日だった。
ディー判事は土地登記簿の中から霊智観とリン・ファン邸に関する資料を捜し出すよう、文書係に指示した。そのあと執務室の奥の庭で、ホン警部の給仕でおそい朝食をとった。
判事があらためて自分の机に向かい、茶が供されてから、マー・ロンとチャオ・タイがはいってきた。
ディー判事は二人にも茶を出すよう事務官に命じておいて、マー・ロンにたずねた。
「ところで、リン・ファンの使用人を逮捕するとき、何か面倒があったかね?」
「万事すらすらと運びました」マー・ロンが笑いながら答えた、「執事は閣下に打ち倒された場所で気を失って倒れていました。それとリン・ファンとを巡査に引き渡してから邸内をくまなく捜しましたが、みつかったのはたった一人、筋骨|隆々《りゅうりゅう》の悪党でかなり荒っぽいふるまいに出ました。ですが、ちょっと言いきかせてやったら、すぐにちゃんとお縄を頂戴しました。結局われわれのほうでは四人捕えました。リン・ファン、執事、手下、門番の老人です」
「私は囚人を一人連れてきました」とチャオ・タイが後をうけた、「農場には三人住みこんでいるとわかりました。みんな純朴な広東《カントン》人の百姓です。ジャンクには五人いまして、つまり船長と船員四人です。船員はただの愚かな水夫なのですが、船長のほうは百戦練磨の犯罪者といった印象です。百姓と水夫は区長の家で監禁し、船長だけを牢獄に連れて来ました」
ディー判事がうなずいた。
「巡査長を呼びなさい」と彼は事務官に言いつけた、「それからリャン夫人の家へ行って、私がなるべく早く会いたがっていると伝えてくれたまえ」
巡査長はうやうやしく判事に挨拶し、そのまま机の前に立っていた。疲れているようだったが、顔にはまぎれもなく得意げな色がうかがえた。
「閣下のご指示にしたがいまして」と彼はもったいぶって始めた、「私どもはリャン・コーファの骨を拾い集め籠に入れて、いま政庁に置いてございます。鐘の下の塵は丁寧にふるいにかけて調べましたが、何も発見されませんでした。さらに、私みずから指揮いたしまして、リン・ファン邸内をくまなく徹底的に調べ、各室の封鎖を行ないました。最後に私みずからおとし戸の下の水路を検分して参りました。
拱路《アーチ》の下に平底の小舟がつないでございました。私はたいまつをとり、水路に沿ってさおさして進みました。水路は川の、水門のすぐ外のところに行きつきました。その川の堤にもう一つ石の拱路《アーチ》があって、蔽いかぶさった茂みでかくされているのを発見いたしました。この拱路《アーチ》はひどく低いので舟は下をくぐれませんが、人が水にはいるならば、容易に歩いて渡れるのでございます」
頬ひげをなでながら、ディー判事は巡査長に渋い顔を見せた。
「ねえ君、あんなに夜おそくにずいぶんと熱のあるところを見せたじゃないか! 水路を探検しても隠された宝物が出てこなくて残念だったな。しかしリン・ファンの邸のほうには、君の寛《ひろ》い袖に移動させられる小さな品の二、三品は散らかっていたと信じているよ。だが君、自重したまえ。でないといつか厄介にまきこまれるぞ。さあ行ってよろしい!」
巡査長はそそくさといとまを告げた。
「あの欲の皮のつっぱった男は」とディー判事は副官たちに言った、「ともかくも先日執事が、水門の番人の注意を引くことなしに市内から抜けでた方法を明るみに出してくれた。執事は明らかにこの地下の抜け道を行き、拱路《アーチ》を歩いて渡って川の中にはいったのだ」
彼が話していたとき文書係がはいってきた。
彼は頭を下げ、一束の書類を判事の前に置いて言った。
「今日早朝の閣下のご指示に従い、土地の登記書類を検索いたしました。これらの文書をリン・ファン氏の所有に関するものとつきとめました」
「第一の文書は」と彼は固苦しく続けた、「五年前の日付になっており、リン・ファン氏が邸宅、道観、農場を入手したことを記録しています。元来その三つとも、現在市外に在住する地主のマー氏の所有でした。
この道観はある異端の秘密結社の本部だったのが、当局により閉鎖されたのでした。マー氏の母堂は道教の魔術を堅く信じておりました。彼女は六人の道士を道観に住まわせ、亡夫のため祈祷をあげさせました。深夜には道士たちに降霊の呪法《ずほう》を行なわせ、その間に死者の霊が呼び出されて、狐狗狸《こっくり》占いの方法を通じて、彼女はそれらと話をすることができました。彼女は二つの区域の間をつなぐ通路を築かせましたから、いつでも道観を訪ねることができました。
六年前に老夫人が死去しました。マー氏は邸を閉鎖しましたが、きちんと手入れをするという条件で、道観に道士たちが住み続けることを許しました。祈祷《きとう》をあげたり信者に魔除けのお守りを売ったりすることで、道士たちは生計を立てていたのです」
文書係は一息入れ、せき払いをした。そして続けた。
「五年前、リン氏が市内の西北隅一円の土地について問い合わせてきました。その後まもなく彼は屋敷と道観、農場を、いい値で購入しました。これが売買証文です。閣下は添付された詳しい土地図面をごらんになれます」
判事は証文に目を通してから、図面をひろげた。副官たちを机のそばに呼んで言った。
「リン・ファンが喜んで高い金を払っただろうということは想像がつくね! この所有地はみごとに彼の密輸計画に適している」
判事の長い指が地図の上を走った。
「この図面で見るところ、入手当時この二つの区画の間の通路は開け放しの階段だったので、鉄扉や秘密のおとし戸はリン・ファンがあとからつけ加えたものなのだ。地下水路の表示は見当たらないな。それについてはもっと古い地図を参照しなくてはなるまい」
「第二の文書は」と文書課長が続けた、「二年前のものですな。リン・ファンが署名している正式の書類で、この政庁あてになっています、道士たちが誓約を守らず、飲酒と賭博に明け暮れる怠惰な日々を送っていると報告し、そのため彼らに道観を明け渡すよう命じたから、当局の手でその境内を封鎖していただきたいと願い出ています」
「それはリャン夫人に行方を突きとめられたことにリン・ファンが気づいた時だったに違いない!」とディー判事が言った、「道士たちに立ち退くよう命じた時には、相当な見返りを支払ったはずだよ。そういう流れ道士を追跡するのは不可能だから、その連中がリン・ファンの闇行為でどんな役をはたしたか、鐘の下の殺人について知っているかどうかを調べるのは無理だろう」文書係に向かって彼はつけ加えた、「これらの文書は参考のためここに預からせてほしい。それから、だいたい百年前の状況を示している市内の古地図を探してくれたまえ」
文書課長が去ったあとへ事務官が封書を持ってきた。うやうやしく判事に手渡しながら、駐屯軍司令部から将校が持参いたしましたと言い添えた。
ディー判事は封を切って中身に目を通し、ホン警部に渡して言った。
「これはわが駐屯隊が今朝市内にもどって勤務を再開したという公式連絡だよ」
肘掛椅子にゆったりと背をもたせると、彼は茶瓶に熱い茶をいれてくるように頼んだ。「タオ・ガンもここへ来るように言いたまえ。リン・ファンに対する訴件にどうとり組むか、君たち全員と話し合ってみたい」
タオ・ガンが来てから、みなで熱い茶をすすった。ディー判事が茶碗を置いたところへ巡査長がはいって来て、リャン夫人が着いたと告げた。
ディー判事は副官たちに目を走らせた。
「厄介な対談になりそうだ!」と彼はつぶやいた。
リャン夫人はディー判事が最後に会った時よりずっと調子がよさそうに見えた。髪をきちんと結い、目の動きも活発だった。
ホン警部が彼女を机の前の掛け心地のよい肘掛椅子にすわらせると、ディー判事が重々しく言った。
「奥さん、とうとうリン・ファン逮捕に十分な証拠をあげました。同時に、彼の手によりこの蒲陽《プーヤン》で行なわれたもう一件の殺人を発見しました」
「リャン・コーファの死体を発見なさったのですね?」老夫人が叫んだ。
「あなたのお孫さんかどうかは、奥さん、まだなんとも申せません」とディー判事が答えた、「ただ骨が残っているだけで、確認するものがないのです」
「あの子に違いありません!」リャン夫人が声を上げた、「私たちがあとを追って蒲陽《プーヤン》に来たことを知るとすぐ、リン・ファンはあの子を殺す計画を立てたのです。どうかおききくださいませ、私どもが燃えるとりでから逃げ出しましたとき、落ちてきた屋根の桁《けた》がリャン・コーファの左腕にあたりました。助かってからすぐに私が折れた腕を直してやりましたが、とうとう元どおりにはなりませんでした」
判事は考えこむふうに夫人をみつめてゆっくりと頬ひげをなでていたが、やがて言った。
「遺憾ながら、奥さん、その骨には確かに左の上膊骨《じょうはくこつ》につながりかたの悪い骨折のあとがあったことをお知らせします」
「リン・ファンが私の孫を殺したことはわかっておりました!」リャン夫人は嘆き悲しんだ。全身が震えだし、涙がこけた頬を流れおちた。ホン警部が急いで熱い茶をすすめた。
ディー判事は彼女が落ち着くのを待った。その上で彼は言った。
「御安心ください、奥さん、この殺人の仇《あだ》はうってあげます。あなたをこれ以上悩ませたくはないのですが、もう少しお聞きしなければならないことがあります。あなたが提出した記録に、あなたとリャン・コーファが燃えるとりでから脱出したとき、遠い親戚のもとに隠れ家を得たとありました。襲撃した悪党どもからあなたがどうやって逃げおおせたのか、その親戚へどのようにして行ったのか、もっとくわしくご説明願えますまいか?」
リャン夫人はぽかんとした眼つきでディー判事を見た。そしてにわかにひきつけるように泣きむせびはじめた。
「それは、それは、とても怖かった!」やっとのことで彼女は言った、「私は、私は思い出したくありません、私……」声が細まり消え入りそうになった。
ディー判事の合図で、警部がリャン夫人の肩を抱きかかえて連れていった。
「無駄だな!」判事があきらめたように言った。
タオ・ガンは左頬の三本の長い毛を引っぱった。それから不審そうにたずねた。
「リャン夫人が燃えるとりでから逃げ出した時のくわしい話が、どうして重要なんですか、閣下?」
「不可解なところが二、三あるんだよ」とディー判事が答えた、「だがそれはあとで話し合えばよかろう。ではまず、リン・ファンに対してどういう手が打てるか考えよう。彼はじつに抜け目のない悪党だから、万全の注意を払って告発のしかたを考えなくてはならない」
「リャン・コーファ殺しが」とホン警部が言った、「一番いいいとぐちになるように思います。あれが一番重大な嫌疑ですから、それで彼の有罪が問えるならば、彼が私達を襲ったことや彼の密輸の件をあれこれ詮索《せんさく》するまでもないでしょう」
他の三人も賛成してうなずいた。だが判事は何も言わなかった。彼は深く考えこんでいる。そのうちようよう口をきった。
「リン・ファンには塩密輸の痕跡を消す時間がたっぷりあった。その嫌疑で有罪とするに十分な証拠を、われわれが集められるとは思わない。それに、たとえ私が彼に密輸を白状させることができたとしても、彼はわれわれの指の間から逃げ出してしまうだろう。なぜなら、国家専売権への違反行為は私の管轄外であり、ただ府の法廷だけが扱い得る。そうなると、リン・ファンに彼の代理をする友人や親戚を動員し、まけるところならどこへでも賄賂をまき散らす時間と機会を与えることになってしまう。
さらに、われわれを鐘の下に閉じこめようと企てたのは、言うまでもなく殺害を意図した暴力行為だ。しかも帝国の官吏に対してだよ! 刑法を調べてみなければならないが、記憶が確かなら、そうした暴行は国家に対する罪と称されることもある。たぶんそこらへんにうまいいとぐちがあるな」
彼は思案に暮れるように、口ひげをつかんだ。
「でも、リャン・コーファ殺しでならもっとうまい攻略法が得られるのじゃないですか?」とタオ・ガンが問いかけた。
「現在手持ちの証拠では駄目さ」と彼は答えた、「いつ、どのようにしてあの殺人が行なわれたのかを、われわれは知らない。記録には、道士たちのふしだらな行為のためにリン・ファンが道観を閉鎖したとある。彼はあの殺人について全くもっともらしい説明をするだろう、たとえば、リャン・コーファが自分をスパイしていて、その道士たちとなじみになったとか言ってね。そして、恐らくそいつらが博奕の上のいさかいで彼を殺し、死骸を鐘の下に隠したんだろうとね」
マー・ロンは不満そうだった。我慢しきれないように言いだした。
「リン・ファンがいくつあるかわからぬほど多くの罪を犯していることをわれわれは知っているのですから、法的な手続きでくよくよすることはないじゃありませんか。搾《し》め木にかけて、それでも吐かぬかどうかみてやりましょう」
「リン・ファンが年配者だということを忘れているね」とディー判事が言った、「もし彼に厳しい拷問を科すればわれわれの管理下で死ぬこともあり得るし、そうなればわれわれは非常に面倒な事態に陥る。いや、われわれにとって望ましいのは、もっとはっきりした証拠を得ることだけだ。政庁の午後の公判では、まずリン・ファンの執事と船長とを尋問してみよう。あれは屈強な男たちだから、必要とあれば合法的なきびしい手段を用いて尋問する。
さて、マー・ロン、君はホン警部、タオ・ガンといっしょにリン邸に行き、事件に関係のある文書その他、手掛りとなるものを徹底的に洗い上げてくれたまえ。また……」
不意に戸が開いて、牢番長が駆けこんできた。彼はひどくうろたえている様子だった。
彼はディー判事の机の前に膝をつくと、続けざまに何度も額を床に打ちつけた。
「話してみろ!」判事が腹を立ててどなった、「いったい何が起こったんだ!」
「この価値なきものに死罪を!」と牢番長は叫んだ、「今朝のこと、リン・ファンの執事が私どもの愚かな番人の一人に話をしかけまして、その間抜けめが、リン・ファンは逮捕され、殺人罪で裁かれるだろうと執事に教えたのでございます。ただいま私が牢内を見回りましたところ、執事は死んでおりました」
ディー判事は拳固《げんこ》で机を打った。
「畜生めが!」と彼はほえた、「囚人が毒を隠し持っていないか調べなかったのか? 囚人の腰帯をとり上げなかったのか?」
「規定の予防措置はすべて講じましてございます、閣下!」と牢番長はべそをかいた、「奴《やつ》は舌をかみきり、出血多量で死にました!」
判事は深いためいきをついた。それから落ち着きをとりもどした声で言った。
「まあ、君としてもどうしようもなかったろう。あいつは並はずれて勇気のある悪党だから、ああいう男が自殺する気になればそれを防ぎきれるものではあるまい。牢にもどって、ジャンクの船長の手と足を鎖で壁につないでおけ。歯の間にも木の歯止めをはめるのだぞ。あと一人の証人を失なうわけには行かない!」
牢番が去ると、文書係がもどって来た。彼は年月で黄ばんだ長い巻物をひろげた。それは百五十年前に描かれた蒲陽《プーヤン》の絵地図であった。市内の北西部を指さして、ディー判事は満足そうに言った。
「水路はここにはっきり示されている! 当時は無蓋の水路で、現在道観が占めている土地にあった人工池に水を送っていた。後にそれはすっかり覆われて、上にリン・ファン邸が建てられた。リン・ファンは偶然にこの地下水路を発見したに相違なく、この家は予想したよりずっと密輸にもってこいだと思っただろう!」
判事は再び地図を巻きおさめた。副官たちをみつめながら真剣な調子で言った。
「では、頑張ってくれたまえ! リン・ファン邸で何か手掛りを見つけることを期待しているよ。ほんとうにそれが必要なんだ」
ホン警部、マー・ロン、タオ・ガンは急いで退出したが、チャオ・タイは立ち去ろうとしなかった。
議論に加わらなかったが、話の内容には熱心に耳を傾けていたのだ。考えこむようすでちっぽけな口ひげをひっぱりながら、彼はようよう口を開いた。
「率直に申しますと、閣下、リャン・コーファ殺しについて論ずることをきらっておいでになるような印象をうけましたが――」
ディー判事はちらっと彼を見た。
「君の感想はあたっている、チャオ・タイ!」彼は落ち着いて答えた。「あの殺しについて語るのは尚早だと思う。それについて考えていることがあるのだが、あまりにも意想外で自分でも信じ難いほどだ。いずれ君にも他の諸君にも説明しよう。だが、今は駄目だ」
彼は机上の文書をとりあげて読み始めた。チャオ・タイは立ちあがっていとまを告げた。
一人になるとすぐに判事は書類を机の上にほうり投げ、ひきだしからリャン対リンの件を物語る厚い書類の束をとりだして読み始めた。彼の額に深いしわが刻まれた。
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第二十三章
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リンの書斎の徹底捜査が行なわれ
蟹料理屋から重大な手掛りが出る
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ホン警部と二人の仲間は、リン邸に着くと第二|院子《なかにわ》の書斎に直行した。大きな窓が風雅な眺めの庭園に向って開く快適な部屋である。
タオ・ガンはさっそく右手の窓の前にある黒檀彫刻のどっしりした机のところに行って、磨きこまれた机の上に並ぶ高価な文房具のセットを見るともなく見ていた。マー・ロンはまんなかの引出しを開けようとした。だが、錠も見当たらないのに開かない。
「待てよ、兄弟」とタオ・ガンが言った、「広東にいたから、あの土地の家具職人のだましわざならわかっているよ」
彼は引出しの前面を飾っている彫刻に沿って感度のいい指先を滑らせた。かくしばねはすぐ見つかった。引出しを開けると、厚い書類の束がぎっしり詰まっている。
タオ・ガンはそれを机の上に積み上げた。
「これは君の仕事だよ、警部」と彼は上機嫌で言った。
警部が机の前の小布団つき肘掛椅子に座を占めると、一方タオ・ガンは、マー・ロンに手伝ってもらって、重い寝椅子を奥の壁からずらした。彼は壁を一寸刻みに吟味した。次に二人は高い書棚から本を降ろして調べはじめた。
長い間、紙のかさかさいう音とマー・ロンのつぶやく悪態のほかは何も聞こえなかった。
とうとう警部が椅子の背にもたれかかった。
「まともな商業通信のほかは何もない!」うんざりして彼は言った、「そっくり政庁へ持って帰って、もっとよく検討してみよう、密輸についてそれとなくほのめかしているところがどこかあるはずなんだ。そっちのほうはどうだい?」
タオ・ガンが首を振った。
「何もないね!」と渋い顔で言った、「悪党の寝室に行こうじゃないか!」
彼らはぶらぶらと奥|院子《なかにわ》に行き、おとし戸のある部屋にはいった。
そこでタオ・ガンはすぐにリン・ファンの寝台のかげの壁に隠し羽目板があるのを見つけた。だがそれを開けても、複雑な仕掛けの錠前のついた鉄の金庫の扉があるばかりだった。タオ・ガンは相当の時間それにかかっていたが、結局あきらめた。
「どうやって開けるのか、リン・ファンに吐かせなくっちゃな」肩をすくめて彼はそう言った、「通路と道観の第三院子とをもう一度見てこよう、あそこは悪党めが塩の袋を貯蔵していたところだ。中身が少しはこぼれているだろう」
白昼に再訪してみると、その場所が入念に片づけられていることが、前夜よりいっそうよくわかった。むしろははき清められ、通路の舗石は堅いほうきの目が通っていて、みぞには塩の粒どころかほこりのかけらもない。
三人の仲間たちは意気消沈して屋敷にもどった。他の部屋も調べたが、無駄骨だった。どこも空《から》で、家具は婦人たちや使用人が引き払ったとき取り片づけられていた。
もう昼近く、彼らは疲れて腹ぺこだった。
タオ・ガンが言った、「先週ここで張り番にあたっていたとき、魚市場の近くに小さな蟹料理店があると巡査の一人が教えてくれた。ほぐした蟹の身に豚肉と玉葱をまぜたのを殻につめてふかすんだ。ここらの名物で、うまいそうだよ!」
「唾《つば》がわいてきたぞ!」とマー・ロンがうなった、「さあ、急ごう!」
料理店は翡翠《ひすい》軒という風流な名を持つ小さな二階建てだった。赤い長い布切れが軒につるされ、北から南までの銘酒が飲めますと大書されていた。
のれんを開けるとそこは狭い厨房だった。豚肉や玉葱をいためる食欲をそそる匂いがいっぱいにこもっていた。上半身裸の太った男が特大の鉄鍋の向うに立ち、長い竹のひしゃくを手にしている。鍋の上に竹の枠がのり、中身をつめた蟹の殻がその上に積み重ねられて蒸し上げられる。そのそばでは小僧が大きなまないたで肉を刻むのに忙しい。
太った男は顔中で笑って叫んだ。
「旦那がた、どうぞお二階へ! すぐお運びしますです!」
ホン警部が蟹づめ三十個と酒を大瓶で三本注文した。それから三人はぎしぎし鳴る階段を登った。
半ばまできて、マー・ロンは上から響いてくる騒々しい音を聞いた。後に続く警部のほうをふり返ると、彼は言った。
「二階で一連隊やってるようだ!」
だが二階には、彼らのほうに背を向けて窓際のテーブルにすわっている大男一人しかいなかった。彼はテーブルにかがみこみ、ばかでかい音を立ててさかんに蟹の殻を吸っていた。広い肩には黒い緞子《どんす》の上着を羽織っている。
マー・ロンは他のものたちに後ろで待つように合図した。そのテーブルに歩み寄ると、彼は太った男の肩に手を置いて、ぞんざいに言った。
「しばらくだったなあ、兄弟!」
男はすばやく顔を上げた。大きな丸い顔の下半分は、脂じみた濃いひげでいちめんおおわれている。彼はマー・ロンを見ると情けない顔になった。そして大きな顔を悲しげに振りながら、また食い物に向かった。食卓の上のからっぽの殻をものうげに人差指でつつきながら、ためいきまじりに言った。
「人に仲間うちの信用をなくさせちまうのは、兄弟、あんたみたいなお人さ。前におれはあんたを友達としてもてなした。今はあんたが政庁の手先だとみんなが言う。おれや子分どもをあの寺の居心地のいいねぐらから追っ払ったのはあんたじゃないかと疑ってるのさ。おまえさん、人情というものを物差しにして、自分の振舞いを考えてみておくんなさい!」
「さあさあ、気を悪くしないでくれよ!」とマー・ロンが言った、「この世じゃ誰にでも定まった務めがある。おれのはたまたま判事閣下のために町中を走りまわることだったのさ」
「では、うわさはまこと!」太っちょは嘆《なげ》かわしげに言った、「兄弟、もうあんたに好意は持ちませんぞ。このうっとうしい居酒屋の強欲亭主がご馳走してくれるつもりのささやかな一皿を前にして、正直な市民がもの思いにふけっているのを構わないでやってくださいな」
「そうだな」とマー・ロンが陽気に言った、「盛りが少なくて、もし蟹づめをもう十匹やってもいいなという気があるなら、おれたちの昼飯につき合ってくれれば、おれもおれの友達も大喜びだがな!」
ションパは指をゆっくりとひげで拭いた。やおら彼は言った。
「そうねえ、過去のことを水に流せぬ奴と言われたくはありませんな。あんたのお友達にお会いできるのは光栄です」
彼が立ち上がると、マー・ロンはもったいをつけて、彼をホン警部とタオ・ガンに紹介した。マー・ロンは四角なテーブルを選び、強くションパに勧めて壁を背にした上座につかせた。警部とタオ・ガンが彼の両袖にすわり、マー・ロンが向い側に席を占めた。そして階下に向かって料理と酒の追加をどなった。
給仕がまた降りて行き、最初の酒が一めぐりしたところで、マー・ロンが言った。
「兄弟、とうとういい上着が見つかったようで、うれしいね! その手のしろものをただで手離す奴はいないから、あんたはいい値を払ったはずだよな! きっと金持になったのに違いない!」
ションパは落ち着かない表情をした。冬が近いからというようなことをもごもごつぶやくと、あわてて自分の杯に顔を伏せてしまった。
マー・ロンはにわかに立ち上がって、彼の手から杯を叩きおとし、テーブルを壁のほうへ押してどなりつけた。
「吐け、悪党めが! どこでこの上着を手に入れた?」
ションパはすばやく左右を見た。恐るべき太鼓腹にテーブルの縁が食いこみ、壁に釘付けになってしまっているうえ、ホン警部とタオ・ガンが両側にいるので、逃げ出すすべはない。彼は大きくためいきをつくと、ゆっくりと上着を脱ぎはじめた。
「あんたら政庁の番犬たちといっしょでは、のんびり食えると思うなあ大間違いだということを、心得ておくべきだったぜ」と彼はうなった、「さあ、このみじめな上着をとんなされ。冬が来てこの年寄りが凍えて死んでも、あんたらは大してかまっちゃくれまいさ!」
ションパがひどく殊勝なのを見て、マー・ロンはまた腰をおろし、酒を一杯ついで、それを太っちょのほうへ押しやりながら言った。
「あんたに不便をさせる気はさらさらないんだ、兄弟。ただ、あんたがその上着をどうやって手に入れたか、どうしても知らなくちゃならんのだ」
ションパはひどく疑わしげな様子だった。彼は考えこんで、毛深い胸をかいた。そこでホン警部が会話に加わった。
「あなたは世慣《よな》れておられて」と愛想よく言った、「経験もたいへん豊富だ。あなたのような立場の人なら、政庁といい関係にあるほうが得策だと、よくご承知に違いない。そんなのまっぴらなどと考えてはおられまい? 乞食同業組合の相談役をしておられるということは、兄弟、言ってみれば、市中の行政の一員だ。どうしてどうして、わしはあなたを同僚と思っておりますぞ!」
ションパが杯を干した、するとタオ・ガンがすぐそれを満たした。ションパは悲しそうに言った。
「おどしとおだての両方で攻め立てられて、防ぎようもない年寄りはほんとのことを言うしかありませんや」
杯を一気に飲み干してから彼は話しはじめた。
「昨夜区長が来て、すぐに道観の庭から引き払うようにといいました。わけを言うどころか! とんでもない! わしらみたいなおとなしい市民だから動くんでさあ。しかし、一時間ばかりしてわしはもどってきました、急に入用になったときのために、銭が何さしか庭のすみに埋めてありましてね、置いといたらまずいと思ったんです。
庭は自分の手の平みたいに知っていますんで、明かりなんぞは要りやしません。銭さしを腹帯にしまった時、脇入口から男が一人出てくるのが見えました。そいつは下劣なごろつきに違いないと思います、まともな市民が夜なかに走りまわるはずはないですからな」
ションパは同意を求めるように連れを見回した。だが、励ますような意見が出ないものだから、あきらめて続けた。
「そいつが段を下りたところで、わしは足をすくってひっくり返す。まあ、なんてきたねえ根性曲がり野郎だ! はい起きると短刀を出して向かってくる! 自衛のためわしはそいつをなぐり倒す。わしはそいつをひんむいて、身ぐるみ奪うか? とんでもない、わしにはわしのやりかたがあるんでね! それでわしは上着だけひんむく、今日の昼すぎ区長さんのところへこの襲撃を知らせに行くとき持っていくつもりでね。その悪党の始末はお役所の仕事だから、おっつけなんとかしてくれると思い、そう信じてそこから離れる。それで全部さ、うそ偽りはないよ」
ホン警部はうなずいて言った。
「あんたはちゃんとした市民らしくふるまいなさった、兄弟! さて、その上着の中にあった金《かね》については何もいうまいよ、紳士の間でそんなちっぽけな事は言うに及ばぬ。だが袖の中になにか個人的な持ち物はなかったですかな?」
ションパはすぐに上着を警部に渡した。
「何でもあったらとりなされ」と彼はおうように言った。
ホン警部は両袖を調べた。どちらもすっかりからっぽだった。しかし彼が縫い目に沿って指をすべらせてみると、小さなものにあたった。彼は手を入れて玉《ぎょく》製の小さな角印をとり出した。彼はそれを二人の仲間に見せた。それには「リン・ファン実印」と彫ってあった。
ホン警部はそれを袖に収めると、上着をションパの手に返した。
「とっておきなさい」と彼は言った、「あんたが言い当てたように、それを着ていた男は卑劣な犯罪者だ。あんたに私らといっしょに証人として政庁へ来てもらわねばならないが、誓ってもいいが心配は要らないよ。さあ、冷めないうちに蟹を食おう!」
彼らは嵐のように食いはじめ、空《から》の蟹の殻《から》が驚くべき速さで食卓に積み重なった。
食い終るとホン警部が勘定を払った。ションパが亭主から一割の歩合をまきあげた。料理屋の店主は通例乞食|同業組合《ギルド》の役員に特別の袖の下を贈る。さもないと胸の悪くなるような乞食の一団がその戸口にむらがり、お客をおびえさせて追い払ってしまうのだ。
政庁に帰ると、彼らはションパを連れてディー判事の執務室に直行した。
判事が机の向こうにすわっているのを見たとき、ションパは驚きのあまり両手を上げた。
「蒲陽《プーヤン》に天帝さまの御加護を!」彼はおびえて悲鳴をあげた、「易者がわしらの知事に任命されたとは!」
ホン警部が急いで彼に事情を説明した。ションパはあわてて机の前にひざまずいた。
警部がリン・ファンの印を判事に手渡して何があったのか説明すると、ディー判事は大喜びした。そしてタオ・ガンに耳打ちした。
「それでリン・ファンは怪我をしたんだ! あいつは私たちを鐘の下にとじこめたすぐあとで、このでぶの悪漢に襲われたのさ!」ションパに向かって、「実に役に立ってくれたよ、君! それではよくきいてくれ。この政庁の午後の公判に君は出席する。ある人物が引き出され、私が君をそいつと対決させる。もしそれが昨夜君と闘った男だったら、そう言いなさい。さあ、しばらく守衛室へ行って休んでいたまえ」
ションパが行ってしまうと、ディー判事は副官に言った。
「この補足的な証拠を握ったからには、リン・ファンにわなをかけられると思うよ! あれは危険な相手だから、できるだけ不利な位置にあいつを置こう。彼は並みの罪人として扱われることに慣れていないから、われわれは彼をまさにその手で扱う! もし彼が腹を立てれば、そこで私のわなにかかると確信する!」
ホン警部は危ぶんでいるようだった。
「まず彼の寝室の金庫をこじ開けてみたほうがよくはないでしょうか、閣下?」と彼はたずねた、「それに、まずあの船長に尋問するべきだとも考えます」
判事は首を振った。
「自分のすべきことはわかっているよ」と彼は答えた、「今度の公判のために、道観の奥の屋根裏部屋から蓆《むしろ》を六枚とってこなければならない。巡査長にすぐ行ってとってくるように言いなさい、警部!」
副官三人は、驚いて唖然《あぜん》とした顔を見合わせた。だがディー判事は何の説明も与えようとしない。気まずい沈黙のあとで、タオ・ガンがたずねた。
「ですが、殺人の嫌疑はどうなんでしょう、閣下? まさにあの場所にあった彼自身の金のお守りを突きつけてやれるでしょうに!」
ディー判事は目を伏せた。濃い眉をひそめて、彼はしばらく考えこんでいた。それからゆっくりと言った。
「実を言うと、あのお守りをどう扱ったらいいかわからないのだ。リン・ファンに尋問するうちにどんな進展があるか、待ってみようではないか」
判事は机上の書類を開いて読みはじめた。ホン警部がマー・ロンとタオ・ガンに合図した。三人は黙って執務室を出た。
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第二十四章
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狡智の犯罪者は巧妙な策にはまリ
四大政治家が食後の談話を交える
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その午後、傍聴者の大群衆が法廷に集まった。霊智観での騒ぎと、裕福な広東《カントン》商人逮捕の報はもう全市に広まっており、それがいったい何だったのか、蒲陽《プーヤン》の市民たちはたいそう知りたがっていた。
ディー判事が壇上に昇って点呼を行なった。それから、牢番長にあてた伝票に書き入れた。まもなくリン・ファンが、二人の巡査にはさまれて連れてこられた。額の傷には膏薬が貼ってあった。
彼はひざまずかなかった。けわしい顔で判事を見つめ、何か言い出そうと口を開きかかったが、巡査長がすぐに棍棒の頭でその口を打ち、二人の巡査が手荒に引きすえて膝をつかせた。
「姓名ならびに職業を申せ!」とディー判事が命じた。
「私は要求する――」とリン・ファンが切り出した。
巡査長が鞭の柄で彼の顔を打った。
「謹んで閣下のご質問にお答えしろ、四つ足めが!」とどなりつけた。
額の膏薬がはがれ、リン・ファンの額の傷から血がふき出した。怒りにいらだちながら彼は言いはじめた。
「手前はリン・ファンと申し、広東《カントン》市から来た商人。私の逮捕理由をお教えねがいたい!」
巡査長が鞭を挙《あ》げたが、ディー判事が首を振った。
判事は冷やかに言った。
「われわれはすぐにその点に及ぶであろう。まずは、この品物を以前見たことがあるかどうか答えなさい」
そういいながら判事は鐘の下にあった金の護符を、判事席の机の向うへ押しやった。護符はリン・ファンの前の石の床にカタリと落ちた。
彼は気がなさそうに見た、が、にわかに真剣な顔になって拾いあげると、手の平にのせて調べた。彼はそれをつかんで胸にあてた。
「これは」と言葉が口をついて出た。しかし彼はいちはやく自分をおさえた。「これは私のお守りだ!」と彼ははっきり言った、「誰があなたに渡したのですか?」
「質問を系統立てて行なうことは本法廷の特権である」と判事は応じた。彼が合図を送ると、巡査長はすぐさまリン・ファンの手から護符をひったくって、元どおり判事席に置いた。リン・ファンは立ち上がり、怒りで顔が青黒くなった。彼は金切声をあげた。
「私に返せ!」
「ひざまずけ、リン・ファン」とディー判事がどなりつけた、「これからおまえの最初の質問に答えよう」リン・ファンがゆっくりとすわりなおすと、判事が追いかけて言った、「なぜ逮捕されたのかとおまえはきいた。本官は言ってきかせよう。おまえは国家の専売権に違反する罪を犯した。おまえは塩の密輸を行なった」
リン・ファンは落ち着きをとりもどしたようだった。
「そんなのはうそだ!」彼は平然と言い放った。
「恥知らずめが法廷侮辱罪を犯した!」ディー判事が叫んだ、「重い鞭で十回打て!」
二人の巡査がリン・ファンの長衣をひきはがし、床に腹ばいに倒した。鞭が空《くう》を切った。
リン・ファンは鞭打の刑にはまったく馴れていなかった。鞭が彼の肉に食いこむたび、彼の悲鳴は天まで上がった。巡査長が引き起こしたとき、彼の顔は灰のようで、息も絶え絶えだった。
うめき声が静まったところで、ディー判事が声をかけた。
「リン・ファン、私はおまえの密輸を実証する、信頼のおける証人を得ている。そのものから証言をひき出すのは容易ではなかろうが、重い鞭で二、三回打てば、間違いなく口をわらせられる!」
リン・ファンは血走った目で判事を見上げた。彼はまだ半ば茫然自失の態《てい》だった。ホン警部が物問いたげな目をマー・ロンとチャオ・タイに向けた。二人は首を振った。判事が誰のことを言っているのやら、皆目見当がつかなかった。タオ・ガンはものも言えないほどびっくりしているようだった。
ディー判事は巡査長に合図した。彼は巡査二人をしたがえて法廷を去った。
あたりは静まりかえった。すべての傍聴人たちの目は巡査長が姿を消した脇戸口にはりついて離れなかった。
もどってきたとき、巡査長は黒い油紙の巻いたものを持っていた。その後から二人の巡査が、巻いたむしろを重そうにかついでよろめきながら歩いてきた。驚きのつぶやきが人々の間からもれた。
巡査長が油紙を判事席の前の床に延べた。巡査たちがその上でむしろをほどいた。判事がうなずくと、三人は鞭をとり、むしろを力まかせに打ちはじめた。
判事は落ち着いてそれをみつめ、のんびりと長いあごひげをしごいていた。
やっと判事が手をあげた。三人の男は手を休め、額に流れる汗をふいた。
「三枚のむしろは」とディー判事が告げた、「リン・ファン邸の奥の秘密倉庫の床から持ってきた。では、本法廷に対し、それがどんな証拠を与えてくれるか、見てみよう!」
巡査長が再びむしろを巻いた。それから油紙の一方の端を持ち、二人の巡査に別の側を持ち上げるように合図した。彼らが油紙をしばらくあちこちと振り動かしていると、少量の灰色の粉が真ん中に寄り集まった。巡査長が自分の剣の先でちょっぴりすくい上げて、判事にさし出した。
ディー判事は指先を湿らせてそれにつけた。それをなめてみて、満足そうにうなずいた。
「リン・ファン」と彼は言った、「おまえは密輸の痕跡をすべて消したつもりでいた。だがどんなに念入りにむしろを掃き清めても、ごく少量の塩が繊維の中に浸透していることに気づかなかった。多くはないが、お前の罪を証明するには十分だ!」
大きな歓呼が群衆の中から起こった。
「静かに!」と判事が叫んだ。彼はリン・ファンに向かって尋問を続けた。
「さらに、リン・ファン、おまえに対する第二の嫌疑がある! 昨夜われわれが霊智観の捜査を行なっていた時、おまえは私と副官たちとを襲撃した。おまえの罪を白状せよ!」
「昨夜、私は自宅で」とリン・ファンはそっけなく答えた、「暗い庭でつまずいた時できた傷の手当てをしておりました。閣下が何のことをおっしゃっているやらさっぱりわかりません!」
「証人ションパを連れて来い!」と判事は巡査長に向かって叫んだ。
ションパは巡査たちに押されて、恐る恐る壇の前に進み出た。
リン・ファンは黒い緞子《どんす》の上着を着たションパを見ると、急いで顔をそむけた。
「この男を知っているか?」ディー判事がションパにきいた。
でぶは脂染《あぶらじ》みたひげを引っぱりながら、ゆっくりとリン・ファンを頭のてっぺんから足の先まで見た。それから重々しく申し上げた。
「これは、閣下さま、たしかに昨晩道観の前でわしを襲った卑怯な畜生でございます」
「うそだ!」リン・ファンが怒って叫んだ、「あの悪党が私に襲いかかってきたのだ!」
「この証人は」と判事が落ち着いていった、「道観の第一|院子《なかにわ》に隠れていて、おまえが私や副官たちをどのようにうかがっていたかを見た。また私たちが青銅の鐘の下に立っていた時、おまえがどうやって鉄の槍をとり、石鼓磴《せっことう》をもぎ取ったかをはっきりと見たのだ」
ディー判事は巡査長に合図をして、ションパを連れ去らせた。それから体を前に寄せてやや打ち解けた口調で続けた。
「もうわかったろう、リン・ファン、私を襲ったことはかくしおおせないことが。まずおまえをその罪で罰したうえで、私はおまえを府の法廷へ送り、国家専売権に違反した件の嫌疑を釈明してもらうよ」
この終わりのほうの言葉を聞いたとき、リン・ファンの目に邪心がきらめいた。彼は血のにじむ唇をなめながらしばらく黙りこんでいた。やがて彼は大きなためいきをつき、低い声で話しはじめた。
「閣下、罪を否認してもしかたがないと、いま悟りましてございます。私が閣下を襲うなどというただならぬわるふざけを致したことにつきまして、私はここに深くお詫《わ》びを申しあげます。ですが、実際のところは、このところ政庁が私に対していろいろ迷惑なことをなさるので、私は大いにいらだっておりました。昨夜、境内に人声が聞えたので調べに参りますと、閣下と補佐の方々が鐘の下に立っておられました。閣下にお灸《きゅう》をすえようというひねくれた衝動にかられて、私は石鼓磴《せっことう》をひねりとりました。そのあとで閣下を助け出すため、執事や使用人を呼びに馳せもどりました。閣下にお詫びして、閣下と副官がたを盗賊の一味と思ったと説明するつもりでいたのです。ところが、連絡口の鉄扉に行くと、驚いたことに扉はぴったり閉まっていたのです、閣下が鐘の下で窒息なさるかもしれぬとひどく気がかりで、街路を通って家に帰ろうと思って道観の正門へ走りました。ところがお堂の前の階段で、あのあさましい追剥《おいはぎ》になぐり倒されてしまったのです。気がつくとすぐ、私はできる限り急いで家に駆け帰りました。私は執事にただちに閣下をお出しするように命じ、自分はしばらく後に残って、頭の傷に膏薬を塗りました。閣下がいきなり、その……ちょっと変わった格好で寝室へはいっておいでになったとき、私は別の強盗が私を脅迫しようとしていると思ったという次第です。これで全部です。
恐るべき惨劇ともなり得る、子供じみたわるさをいたしましたことについて、私は重ねてお詫びし、また法に定める刑罰に喜んで服することをここに申しあげます」
「さよう」とディー判事はさりげなく受けた、「やっと白状してくれてうれしい。では、書記が君の供述を読みあげるから聞きなさい」
上級書記がリン・ファンの供述書を大声で読みあげた。ディー判事は進行状況に興味をなくしてしまったように見えた。椅子によりかかり、彼はものうげに頬ひげをなでていた。
書記が読み終ると、判事が定例どおりにただした。
「これはおまえの告白に間違いないことを認めるか?」
「認めます!」リン・ファンが確かな声で言った。巡査長が書類を差し出し、リン・ファンがそれに栂印を捺《お》した。
にわかにディー判事が身をのり出した。
「リン・ファン、リン・ファン!」と彼は恐しい声を出した、「長年月おまえは法網をかいくぐってきた。だが、いま法はおまえを捕え、おまえは滅亡する! たった今おまえは自分の死刑認定書に署名したのだ!
暴力行為への刑罰は竹杖の八十打であることをおまえは熟知しており、私の巡査たちに賄賂《わいろ》をおくることで軽く打ってもらえると期待した。その後に府の法廷に転送された段階になれば、おまえの有力な友人たちがおまえに代わって行動を起こしてくれ、たぶん重い罰金刑だけですむだろうと考えた。
ここで本官は、おまえが府の法廷に姿を見せることは断じてないことを言って聞かせておこう。リン・ファンよ、おまえの首は、当|蒲陽《プーヤン》市の南門の外、刑場において落ちるであろう!」
リン・ファンは顔を上げ、まさかという目つきで見つめた。
ディー判事は続けた、「刑法の定めるところ、大逆罪、すなわち尊属殺人罪および国家に対する反逆罪は、より厳しい形態での極刑により罰せられることになっている。この「国家に対する反逆罪」という言葉を頭に入れておけ、リン・ファン! なぜなら、役人が彼のつとめを遂行しつつある時にそれを襲うことは、国家に対する反逆罪に相当すると、刑法の別の箇条で述べられているからだ。この二つの章句が互いに結びつけて読まれることを、立法者が意図していたかどうかには疑問の余地もあろう。だがとくにこの件の場合、本官は法文を文字通り解釈する立場をとる。
国家に対する反逆の嫌疑《けんぎ》は、ただちに告発し、急使により直接首都の裁判所に報告することを義務づけられている、最も重大な問題である。誰もおまえのために口をはさむことはできまい。審判は当然の経過をたどる。つまりおまえの場合は恥ずべき死で終るのだ」
ディー判事は驚堂木《けいそうぼく》を判事席に打ちおろした。
「おまえ、リン・ファンは、おまえの知事を襲撃したことを、己れの自由意思から告白したが故に、本官はおまえに国家に対する反逆行為についての有罪を宣告し、極刑を提議する!」
リン・ファンはふらふらと立ちあがった。巡査長が急いで彼の血の滴る背中に長衣を着せかけた。死刑宣告をうけた者は丁寧に扱われるのである。
ふいに、優しいが凛《りん》とした声が壇の近くで上がった。
「リン・ファン、私を見て!」
ディー判事は身をのり出した。リャン夫人が背すじをしゃんと伸ばして、そこに立っていた。多年の重荷が落ちて、彼女はにわかにずっと若返ったようだった。
長いおののきがリン・ファンの体に走った。彼は顔の血を拭い払った。彼のすわった目は大きく見開かれ、唇が動きはじめたが声は出てこなかった。
リャン夫人はゆっくりと手を上げて、責めるように、リン・ファンを指さした。
「あなたは殺したのよ――」と彼女は言いはじめた、「殺したのよ、あなたの――」急に声が細くなって途切れた。彼女は顔を伏せた。手をもみしぼりながら、彼女はとぎれとぎれにまた言いはじめた、
「あなたは、殺したの、あなたの――」
彼女はゆっくりと首を振った。涙に濡れた顔を上げてリン・ファンをじっと見つめた。それから彼女は立ったまま揺れはじめた。
リン・ファンが彼女のほうへ歩みよったが、それより巡査長のほうが早かった。彼はリン・ファンをつかまえ、腕を背にまわして押さえつけた。二人の巡査が彼を引いて行くとき、リャン夫人は気を失ってくずおれた。
ディー判事は驚堂木《けいどうぼく》を判事席に打ちおろして、閉廷を宣した。
蒲陽《プーヤン》政庁におけるこの公判の十日後、国家総務長官が首都の官邸の正殿に三人の客人を招いて、非公式の晩餐会を催した。
晩秋から初冬に移る頃おいであった。広々とした正殿の間口の扉は開け放たれ、蓮池が月の光にきらめく宮苑の眺望を、客たちは存分《ぞんぶん》に楽しむことができた。赤々と燃える炭を積んだ大きな青銅の火鉢が食卓に近くすえられている。
四人はみな六十歳をこえ、国事に尽くして円熟期を迎えていた。
彼らは珍味佳肴《ちんみかこう》を盛った最美の磁器類の並ぶ黒檀彫刻のテーブルのまわりに集まっていた。純金の杯が空になることのないよう気を配っている官邸執事の指図のもとに、十人からの召使が彼らに侍《はべ》っていた。
半白の長い頬ひげを生やし、恰幅《かっぷく》のよい重厚な首都裁判所長官を、国家総務長官は上座につけた。毎日皇帝の御前にいるために、やや前かがみの姿勢が身についてしまった痩身の帝国式部官が、彼のもう一方の隣にいた。向い側にはあごひげに眼光の鋭い長身の人物がいた。これこそは徹底した高潔と烈しい正義感で帝国中に畏《おそ》れられているクワン帝国調査官である。
晩餐は終わりに近く、彼らは酒の最後の一杯をのんびり味わっていた。総務長官が友人たちと諭じ合いたいと思っていた公事はもう食事中にかたがつき、今はとりとめのない会話が運んでいた。
総務長官は銀色のあごひげを長い指の間に滑らせながら、裁判所長官に語りかけた。
「蒲陽《プーヤン》の仏教寺院における醜事《しゅうじ》に、皇帝陛下は強く衝撃をうけられました。大僧正聖下が四日続けて帝の御前で教団の弁護をなされたが、無駄でしたね。
大僧正を枢密院《すうみついん》の一員の任から解くことを、帝が明日宣言なさるだろうと、私は確信をもってあなたに申し上げる。同時に、仏教関係の施設がもう免税の扱いをうけないことも布告されよう。これは、わが友よ、仏教徒一派が国事に容喙《ようかい》することはもはやないことを意味します!」
裁判所長官がうなずいて言った。
「幸運がとるにたらぬ一官吏をして、国家のために大いに尽くさしめるということはあるものですな。ディーという田舎知事がまことに無分別に行動して、その裕福な大寺院を襲いました。最近までの状況なら仏教徒一派全体が怒って起ちあがり、その知事は結審に持ちこまぬうちに破滅させられてしまったところでした。ところが、たまたまその当日は駐屯軍が遠方に出払っており、怒った群衆が僧たちを殺してしまったのです。このように事が重なったことが、幸運にも彼の経歴《キャリア》を救ったこと、さもなくば彼の生命すら危うかったことを、そのディーという男は知らないのです!」
「あなたがディー判事の名を出してくださってよかった、長官」と調査官が言った、「それである事を思い出しましたよ。その同じ人物によって解決された訴訟の報告が二つ、いま私の机の上にあるのです。一つは放浪の無頼漢が犯した暴行殺人事件で、語るに値しない単純な事件です。もう一つは広東《カントン》出身の豪商にかかわるものです。こちらのほうは法解釈上の計略にもとづいているだけの判決で、私は全く同意できないでいるのです。ところが、報告にはあなたやあなたの同僚諸氏の非公式な承認印がある。それで、なにか特別な事情があったのかと推量しております。もしそれを説明していただけると幸甚《こうじん》ですが」
裁判所長官は酒杯をおき、にこやかに語りはじめた。
「それは、友よ、長い話なのです! 何年も前のこと、私は広東《カントン》の府裁判所で下級判事の地位にありました。その当時首席判事をつとめていたのは例の唾棄《だき》すべきファンでして、彼はのちに政府の資金を横領し、この首都で打ち首になりました。私はその商人が高額の賄賂を支払うことによって、残忍非道の罪の刑罰から逃れるのを見ているのです。商人はその後ほかにも九人殺しなどのおぞましい犯罪を犯しました。
そのような広東《カントン》商人が政界内部に影響力を持っていることに気づいていたため、その蒲陽《プーヤン》の知事はこの件を急いで処理しなければならないと承知していました。それで彼は大きな嫌疑のほうで責めることをやめ、軽小ではあるが国家に対する犯罪と解釈できるような罪を犯人に自白させる方向に持っていったのです。二十年以上法を手玉にとってきた男は、ついに法解釈によってからめとられるのが最もふさわしいと考えたので、私たちは全員一致で知事の裁断を支持することに決定しました」
「それでよくわかりました」と帝国調査官は言った、「明朝一番の仕事に、あの報告書に署名しますよ」
式部官は興味深げにこのやりとりに聞きいっていたが、そこで口をはさんだ。
「私は法律的なことにはくわしくありませんが、ディー知事が国家的な重大事である二つの事件を解決したことがよくわかりました。片や仏教徒一派の権勢に歯止めをかけ、片やそれら広東《カントン》の豪商連中に対して政府の構えを強化したのですね。さらに彼の敏腕を揮《ふる》う余地を与えるため、その者をもっと高い官職に昇進させるべきではないですか?」
総務長官はゆっくりとかぶりを振った。
「その知事は恐らく四十歳になるかならずで、官吏としての長い生涯が彼を待っています。さきざきの年月、彼にはその熱意と才能とを証する機会がたっぷりあることでしょう。昇進があまりおくれると悪感情をつのらせますが、早すぎると法外な望みを抱くようになります。われわれ文官組織のためにはどちらの極端も避けねばならないのです」
「私も全く賛成です」と裁判所長官が言った。「ただしあの判事には奨励のため、何か正式な認可のしるしを授けてやってもよろしかろう。たぶん式部官どのならふさわしい儀礼措置をお教えくださいましょうな?」
式部官はあごひげをなでながら考えこんだ。そしてやがて言った。
「皇帝陛下は仏教寺院の一件について格別の関心を寄せることをお認めになっておられますので、私は喜んで明日|帝《みかど》にお願い申しあげ、あのディー判事に勅額を授けていただきましょう。勿論|御宸筆《ごしんぴつ》ではなく、しかるべき御文章を写して額に彫らせたものですが」
総務長官が賛同して大声をあげた。「それはまさにこの場合の要求にぴったりです! こういうことにかけてのあなたの御裁量《ごさいりょう》はまことに行き届いておりますな!」
式部官はめったに見せない笑顔を見せた。
「儀礼は私どもの複雑な政治機構に正しい均衡を保ちます」と彼は述べた、「長年私はまるで金細工職人が黄金を計るように注意深く、賞讃と非難、譴責《けんせき》と表彰とを相互に慎重に検討することに従事して参りました。塵ほどの差といえども秤《はかり》を傾けるに十分なのです」
彼らは腰を上げ、食卓を離れた。
総務長官の先導で、一同は蓮池のほとりを散策すべく、広いきざはしを降りていった。
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第二十五章
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罪人両名は南門外で刑に処せられ
ディー判事は勅額の前に跪拝《きはい》する
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三つの訴件について最終的判決が首都から届いたころ、ディー判事の補佐四人は期待はずれのうっとうしい二週間を過ごしていた。
リン・ファンが有罪を宣告された、あの大評判の公判からこっち、判事がむっつりと不機嫌に黙り込んで何か考えつめているらしいのを、四人はあれかこれかと当て推量するしかなかったのだ。いつもなら犯人の自白を得た後は、彼らとともにその件についてのんびりとふり返ってみるのがディー判事の習わしだったが、今回はただ君らの忠誠な働きに感謝していると述べたばかりで、すぐに県行政の日常雑件に没頭してしまったのである。
首都からの特別便は昼すぎに着いた。記録室で政庁の会計検査にあたっていたタオ・ガンが受けとってぶあつい封書の受取証を書き、ディー判事の執務室へ持っていった。
そこにはいくつかの文書に判事の署名をもらうためにホン警部が待っており、マー・ロンとチャオ・タイも居合わせた。
タオ・ガンは封筒に捺《お》された大きな首都宮廷の印を彼らに見せ、机の上に投げるとうれしそうに言った。
「例の三件についての最終的判決に違いないよ、兄弟! これで判事が少しは元気になるだろう!」
「上級官庁があの訴訟の処断を認可するだろうかと、われらの判事が心配しているのだとは思わない」と警部が言った、「何が気になっているのか一言ももらしてくれないんだが、何かとても個人的なことで、なんとか解き明かそうとひとりで無駄な努力をしているんじゃないのかな」
「ところでさ」とマー・ロンが口を入れた、「判事が最終判決を発表したとたん、にわかに具合よくなる人物を知ってるぜ。それは例のばあさん、リャン夫人さ! 勿論われらの財務省はリン・ファンの財産のうちからたっぷり自分の分をとるだろうが、リャン夫人に割り当てられる分でも、まだ彼女を国でいちばん豊かな女性の一人にできるはずだよ!」
「彼女にはそれが当然だ!」とチャオ・タイが言った、「あの日、まさに勝利の瞬間に、あの人が卒倒《そっとう》した姿は痛ましかった。明らかに興奮が激しすぎたためで、この二週間というものあの人は床《とこ》から離れられないらしいよ」
ちょうどその時ディー判事がはいってきたので、一同はあわてて立ちあがった。彼は副官たちにそっけない挨拶を返してから、ホン警部の手渡す封書の封を切った。
内容にひとわたり目を通すと彼は言った。
「上級官庁はわれわれの取り扱った三件の死刑判決を認可した。リン・ファンには恐怖の死が待ちうけている。私の考えではただの斬首で十分だと思うが、上の決定は受け入れなければなるまい」
さらに判事は礼部省の印のある同封物を読んだ。その文書をホン警部に回してから、ディー判事は首都の方角に向かってうやうやしく拝礼した。
「当政庁に、栄誉のしるしが下《くだ》しおかれる」と彼は言った、「皇帝陛下はかたじけなくも、朱筆を以て揮毫《きごう》したもうた御宸筆《ごしんぴつ》をもとに彫られた勅額を下賜《かし》される。警部、この御下賜品が着き次第、さっそく法廷の壇の上の名誉の場所にかけるよう手配してくれたまえ!」
一同の祝賀の言葉を軽くさばいて、判事は続けた、「死刑は定例どおりに、明日夜明けの二時間前の特別公判で言い渡す。職員に必要な指示を与えたまえ、警部。それから駐屯軍司令官に連絡して、犯人たちを刑場に移送するのを警護するため、兵隊を指定の時刻にこちらへよこしてほしいと伝えてくれ」
ディー判事はあごひげを引いて、しばらく考えこんだ。そして大きくひと息つくと、署名をもらうためホン警部が置いた県の財政関係の書類を開いた。
タオ・ガンがホン警部の袖を引いた。マー・ロンとチャオ・タイがうながすようにうなずいた。警部は咳払いをして、判事に向かっていった。
「閣下、私ども全員は、リン・ファンのリャン・コーファ殺しを不審に思っています。この件は明朝には公式に決着することになったのですから、どうか閣下、私どもに御説明下さいませんでしょうか?」
ディー判事は顔を上げた。
「明日、罪人処刑のすぐあとでだ」と彼はそっけなく答えた。そしてまた書類の検討にかかった。
つぎの朝、指定された時刻のずっと前から、蒲陽《プーヤン》の市民は暗い通りを政庁へ向かって流れていた。正門の前にはすでに群衆がぎっしりとつめかけて、辛抱強く待っている。
やっと巡査が二枚の扉を開け放つと、群衆は何十本という蝋燭《ろうそく》が壁沿いにともされた法廷にはいった。しのびやかなささやきが人々の間からもれた。多くの者は巡査長の後ろにみじろぎもせず立っている大男のほうに不安げなまなざしを投げている。彼は両手で揮《ふる》う長い刀を幅広い肩の上にかついでいた。
見物人の大半は、自分たちのあいだで起こった三つの事件の最終判決を聞きたいばかりにやってきた。だが、幾人かの年配の人たちは重い心を持ってきていた。政府が反乱煽動に関してどんなに厳しい見方をするかを彼らは知っており、僧侶たちの虐殺がその種のものとして解釈されやすいことも心得ていた。中央官庁が彼らの県に対し懲罰《ちょうばつ》的な方針を決定したのではなかろうかと、彼らは心配していた。
大きな青銅の銅鑼《どら》の太い音が三回、政庁内に響きわたった。
壇の後ろの仕切りが引かれ、ディー判事が四人の補佐をしたがえて現われた。肩にはおった深紅の肩掛けは、彼が死刑宣告を言い渡そうとしていることを示していた。
ディー判事は席に着き、点呼をとった。そのあとホワン・サンが判事席の前に連れて来られた。
監獄で待機している間に彼の傷はいえた。あぶり肉の最後の食事もさせてもらい、彼は運命にあきらめがついているようだった。
彼が判事席の前にひざまずくと、ディー判事が書類を解いて朗読した。
「罪人ホワン・サンは、刑場において斬首《ざんしゅ》されるものとする。体は切り刻まれて犬に投げ与えられる。首は城門に三日間さらされ、みせしめとされる」
ホワン・サンの腕は背にまわして縛られている。彼の姓名と罪名、刑罰を大書した白い長い看板を、巡査が彼の肩につけた。そして彼は引かれて行った。
上級書記がディー判事にもう一つの書類を渡した。それを解きながら、彼は巡査長に命じた。
「全啓殿とヤン姉妹を連れてきなさい!」
巡査長が老管長を導いて前に進み出させた。彼は教団内での地位を示す、黄色の綴《と》じ糸のついた紫の僧衣をまとっていた。ついていた朱塗りの曲がった杖を床に横たえて、彼はゆっくりと膝をついた。
杏花と翠玉とは、ディー判事の家令に伴なわれてきた。彼女たちは緑色の長衣を着て長い袖を引き、頭は未婚の娘の髪を飾る刺繍をした絹ひもで結い上げてあった。人々はこの美しい娘を感心してみつめていた。
ディー判事が言った。
「これから、普慈寺に関する件の判決を読み上げる。
政府は当該寺院の全財産を没収することに決定した。講堂と付属の側堂一棟をのこし、全寺域は今日より七日以内に破壊しつくされる。
全啓殿はただ僧侶四人のみを助けとなし、引き続き観世音菩薩に奉仕することが許される。
裁判官調書によれば、当該寺院境内の四阿《あずまや》六棟のうち、二棟には秘密の入口が設けられていなかったことが証明されているので、当寺院滞在中に婦人が懐胎したという事実は、ひとえに観世音菩薩の千万無量の御慈悲によるとみなさるべきであり、生まれた子の正統性についてゆめゆめ疑念をさしはさむことがあってはならないと、ここに明言する。
寺宝の中より黄金四錠をとり、楊《ヤン》杏花とその妹に褒賞として与えるものとする。両名の出身県の知事は、県の戸籍簿のヤン一族に関する記載事項に「国家表彰」と書き入れることを命じられている。このお上《かみ》の推挙により、ヤン一族は今後五十年間、あらゆる租税を免除される」
ディー判事はここでしばし口をつぐんだ。あごひげをなでながら、傍聴者を見回した。それから彼は一語一語ていねいに、ゆっくりと続けた。
「蒲陽《プーヤン》市民があえて国権を侵害し、二十人の僧侶を不当に襲撃し違法の虐殺を行なって、法の適正な執行を妨げたことについて、帝国政府は深甚なる不快の念をもって注目している。この不法行為は、全市の責任である。政府ははじめ厳しい懲罰措置を考慮した。しかし、この事件の特殊な付帯状況と、寛容を勧めている蒲陽《プーヤン》知事の提言とに鑑《かんが》み、政府は極めて特殊な本件に限り、例外として慈悲を正義に優先させることに決定した。政府はここに厳重警告を与えるにとどめる」
感謝の声が人々からあがった。判事万歳を叫びはじめるものがいた。
「静粛に!」ディー判事が雷のような声を響かせた。
判事が静かに書類を巻くあいだ、老管長と二人の娘は続けざまに何度も額を床に打ちつけて感謝の意を表わした。やがて彼らは連れ去られた。
ディー判事が巡査長に合図をした。二人の巡査がリン・ファンを判事席の前に連れてきた。
牢獄ですごすあいだに、彼は少なからず老けこんだ。小さな眼はやせ衰えた顔の中で落ち窪《くぼ》んでいる。ディー判事が肩にかけた真紅の肩掛けと死刑執行人の不吉な姿を見た時、リン・ファンの総身は激しく震えはじめ、巡査たちは彼が壇の前にひざまずくのを助けてやらなければならなかった。
ディー判事は袖の中で両腕を重ね、すわったままで背をしゃんとたてると、静かに読みあげた。
「犯人リン・ファンを国家に対する反逆行為において有罪と認め、法の定めるところのきわめて苛酷な形態の極刑を科する。ここに述べた罪により、リンは生きながら四つ裂きの刑に処せられるものとする」
リン・ファンは小さく、嗄《か》れた叫びをもらして床に崩おれた。巡査長が鼻の下で酢を燃やして息を吹き返させようとしている一方で、判事は読み続けた。
「当該犯罪人リンの動産ならびに不動産、流動資産ならびに固定資産は、すべて国家に没収せられる。譲渡《じょうと》が終了した段階で、前記資産の二分の一は、リャン夫人、本姓オウヤンに対し、その一家が犯人リン・ファンの手により蒙《こうむ》った、多方面にわたる不法行為の補償として与えられる」
ディー判事は息を入れて、法廷内を見回した。リャン夫人は傍聴者の中にはいないようだ。
「これは国家対リン・ファンの訴訟事件に対する公式判決である」と判事は締めくくった、「犯人は死に、リャン家に対しては慰謝料が支払われるので、これをもってリャン対リンの事件も打切りとなる」
彼は驚堂木を鳴らして閉廷を宣した。
ディー判事が執務室にもどるため壇上を去る時、見物人はどっと大歓声をあげた。ついで、宣告をうけた者をのせた荷車について刑場に行くため、先を争って通りに出ようとした。
無蓋の荷車が正門前に用意され、駐屯軍本部から来た槍騎兵がまわりを囲んでいた。八人の巡査がリン・ファンとホワン・サンを連れて出てきて、二人を荷車の中に並んで立たせた。
「道を開けろ! 道を開けろ!」と衛兵が叫んだ。
四列に並んだ巡査の一隊の先導で、ディー判事の輿《こし》がかつぎ出された。同様な一隊が後にも繰り出してきた。そのあとに宣告をうけた者の荷車が、兵隊に囲まれて続く。行列は市の南門に向かって動きはじめた。
刑場に到着し、判事が輿から下りると、きららかに光る甲冑をつけた駐屯軍司令官が、夜のうちに建てられた仮設の壇に彼を案内した。ディー判事は判事席に着き、四人の副官はそのそばに座をしめた。
死刑執行人の助手二人がリン・ファンとホワン・サンを荷車から下ろした。兵隊たちが馬から下りて警戒線をはると、矛《ほこ》に暁の薔薇色の光がきらめいた。
大群衆が警戒線の周りにつめかけていた。犂《すき》を引く四頭のどっしりした牛が、一人の農夫の与えるかいばを静かにはんでいるのを、人々は恐る恐る見つめた。
判事の合図で、二人の助手がホワン・サンをひざまずかせた。彼の背から札を抜き、衿をくつろげる。死刑執行人が重い刀を掲げて判事のほうを見上げた。ディー判事がうなずくと、刀がホワン・サンの首にふり降ろされた。
打ちあたる勢いに、彼はうつ伏せに倒れたが、首は胴体から完全には切り離されなかった。彼の骨が人並みはずれて太いのか、死刑執行人のねらいが不正確だったのか。
群衆からざわめきが起った。マー・ロンはホン警部にささやいた。
「あいつの言う通りだ。あの哀れな野郎は、まさに最後の瞬間まで悪運がついてまわる!」
助手二人がホワン・サンを引き起こし、今度は死刑執行人の猛烈な一撃で首は空を切って飛び、血を噴く胴体の何尺も先で狂ったように転がった。
死刑執行人が判事席の前にその首を捧げると、ディー判事が額に朱筆で印《しるし》を書いた。その後で首は籠に投げこまれ、後刻髪でつるして市の門に釘付けにされるのだ。
リン・ファンが刑場の中央に連れ出された。助手が手を縛った縄を切った。四頭の牛を見ると、彼は胸をえぐるか細い叫びをあげ、人にしがみつこうとした。しかし死刑執行人がえりがみをつかんで地に投げた。助手たちがその手首足首に太い縄をくくりつけた。
死刑執行人が老農夫を手招きした。農夫は四頭の牛を中央に引いてきた。ディー判事が司令官のほうに顔を寄せて何事がささやいた。司令官が大声で指示を与えると、兵隊たちは中央の一団のまわりに密な方陣を作って、そこで起こる身の毛もよだつ場面を群衆の目からさえぎった。人々は高い壇上に端然と座している判事を見つめていた。
ディー判事がうなずいた。
にわかにリン・ファンが狂おしく叫ぶ声を人々は聞いた。その叫びはやがて低く響くうめきに変った。農夫が牛をなだめる時に出す、静かな口笛が聞こえていた。平和な水田の情景を想い出させるこの音色が、いま人々を烈しい恐怖で戦慄させた。
リン・ファンの叫びが、今度は狂人の高笑いに似た声をまじえて、再びあたりの空気をつんざいた。まるで木の裂かれるような、乾いた音がした。
兵隊たちがもとの位置にもどった。死刑執行人がリン・ファンのずたずたの死体から首を切断するのを、見物人は見た。彼はそれを判事にさし出し、判事は筆でその額に印《しるし》した。それは後刻ホワン・サンの首といっしょに市の門にさらされるのだ。
死刑執行人はしきたり通り老農夫に銀一粒を与えた。しかし彼は唾を吐いて、縁起でもないその金《かね》を断った、銀が百姓の手の中を通ることなどほとんどないことなのに――。
銅鑼《どら》が鳴り、兵隊たちが武器を挙げると、ディー判事は壇を離れた。彼の顔が蒼ざめ、朝の空気が冷たいのにもかかわらず額に玉の汗を浮べているのを、副官たちは見逃さなかった。
ディー判事は輿に乗りこんで蒲陽《プーヤン》の守護神の廟に行き、香をたいて祈りを捧げた後に政庁に帰った。
執務室にはいると、四人の副官が彼を待ちうけていた。判事が無言でホン警部に合図すると、警部はすぐに熱い茶を注いですすめた。彼が静かにすすっているところへ、いきなり戸が開いて巡査長がはいってきた。
「閣下!」と彼は興奮して叫んだ、「リャン夫人が服毒自殺しました!」
副官たちからは大きな叫び声があがったが、判事は驚くようすはなかった。彼は巡査長に、検屍官を連れてそこへ行くように、そして夫人が精神を病んでいたこともあって自殺に及んだ旨を書き添えた死亡証明を作成してもらうようにと命じた。そのあと判事は椅子に背をもたせ、抑えた声でいった。
「かくしてリャン対リンの件は、ようやくここに終結した。リン家の家族の最後の一人は刑場に死し、リャン一族ただ一人の生き残りは自殺を遂げた。恐るべき連続殺人、強姦、放火、卑劣な策略と、宿怨はほば三十年にわたってずるずると続いた。そしてこれで終わった。すべての者が死んだ」
判事はまっすぐ前方に目をすえていた。四人の補佐官は目を丸くして彼を見つめた。誰も口を開こうとはしなかった。
ふいに判事は現実にかえった。袖の中で腕を組むと、淡々《たんたん》とした声で語りはじめた。
「この件を検討してみて、私はすぐ妙に腑におちないものを感じた。リン・ファンは情け知らずの犯罪者であり、リャン夫人はその最大の敵であることを知った。リンが彼女を滅ぼすため全力を尽くしたこともわかった――ただし彼女が蒲陽《プーヤン》に来る前までだ。私は自分に問うた、なぜ彼はここで夫人を殺さないのか? 最近までリン・ファンの手下はみなこの地で彼のそばにいたのだから、夫人を殺害し偶然の事故のように見せかけることはたやすくできたはずだ。彼はここでリャン・コーファを殺すことを躊躇《ちゅうちょ》しなかったし、私と君たち四人を殺す機会を得たと思ったときも、一刻たりと躊躇しなかった。だが、リャン夫人に対して指一本あげようとはしなかった――夫人が蒲陽《プーヤン》に来てからはね。私はこの事を大きな謎と感じた。その時、われわれが青銅の鐘の下で見つけた黄金の護符《ごふ》が手掛りを与えた。
護符にはリンという姓が記されていたので、君たちはみなそれをリン・ファンの物と思いこんだ。だが、あの手の護符はひもで首の回りにかけ、素肌につけて着物でかくす。もしひもが切れれば、護符はふところに落ちる。リン・ファンがなくすはずはない。骸骨の首のそばで見つかったのだから、それは被害者の持ち物だと私は判断した。被害者が着物の中につけていたから、リン・ファンはそれを見ていなかったのだ。白蟻が衣類を食い尽くし、首につるしていたひもを食い尽くした時、はじめてそれは現われた。私は骸骨がリャン・コーファのものではなく、彼を殺した人間と同じ姓を持つ人物のものではないかという疑念を抱いた」
ディー判事は一息入れて、すばやく茶碗を空にした。そして続けた。
「事件に関する自分のメモを読みかえしてみて、殺されたのは誰か違う人物だと考える二つ目の徴候を見いだした。リャン夫人がリャン・コーファの名で登録した人物は三十歳と申し立てられていたが、彼はむしろはたちかそこらの青年のようだったと、区長はタオ・ガンに話したね。
そこから私はリャン夫人を疑いはじめた。リャン夫人に似ていて、古い宿怨《しゅくえん》のすべてを知っている別の女性でもいいわけだ。リャン夫人と同じ程にリン・ファンを憎んでいる女性、だがリン・ファンが危害を加えたくないか、あるいはあえて加えようとしない女性。私はもう一度彼女の提出した確執の記録を検討し、リャン夫人とその孫を装うことがありそうな女性と青年を見つけ出そうとした。そして、はじめはわれながら全くあり得ない想像と思われた説を組み立てたのだが、その後明るみに出た事実により、それが裏づけられたのだ。
リン・ファンがリャン・ホン夫人をはずかしめた後まもなく、彼の妻が失踪《しっそう》したと記録にあったのを覚えているだろう。リン・ファンが彼女を殺害したと臆測された。しかし証拠はあげられず、死体は発見されなかった。リン・ファンが殺したのでないことは、私にはもうわかった。彼女はリン・ファンのもとを去ったのだ。彼女は深く夫を愛していた。深く愛していたから、夫が自分の兄を殺し、父の死を招く原因を作ったことを、恐らく許し得た。なぜなら、女はその夫に従うべきだからだ。しかし、夫が彼女の義妹に横恋慕《よこれんぼ》したとき、彼女の愛は憎しみに、侮られた女の恐るべき憎悪に変じた。
夫から離れ去り、夫に復讐しようと決意したとき、秘かに自分の老母のリャン夫人に近づき、リン・ファンの破滅をはかる企てに加担しようとするのは最も自然ななりゆきではないか。リン夫人は夫を捨てて去ることにより、すでに残酷な一打を与えた。だって君たち、君たちには奇妙に思えるだろうがね、リン・ファンは彼女を心から愛していたんだ。リャン・ホン夫人への欲求は彼の邪悪な気まぐれに過ぎず、彼の妻への愛――この冷酷非情な男にとっての唯一の桎梏《しっこく》――に影響を及ぼすことはなかった。
彼女を失ってから、リン・ファンの邪《よこし》まな性質は遠慮なく発揮され、リャン一族に対する迫害はますます猛々《たけだけ》しいものになった。結局彼は古いとりでで彼らを殺した。リャン老夫人から孫のリャン・コーファまで皆殺しにしたのだ」
タオ・ガンが何か言いかけたが、ディー判事が片手を上げた。
「リン夫人は」と彼は続けた、「彼女の老母のなし終えて行ったところから引き継いだ。すっかり母親の信用を得ていて、当然リャン家のあらゆる事情に精通していたから、リャン夫人を装うのは難しいことではなかった。血のつながりで似通っていて、実際より老けてみせるだけでよかっただろう。それに、母親はリン・ファンがなおも攻撃してくることを予期していたに相違なく、古いとりでに赴《おもむ》く前に、彼女は宿怨を物語るすべての書類を娘に託して行った。
その後まもなく、リン夫人は自分の正体をリン・ファンに明かしたに違いない。これは最初のよりさらに強い打撃を彼に与えた。彼の妻は死ななかった。彼を捨て去り、不倶戴天《ふぐたいてん》の仇として現れた。彼女の詐称を、彼は告発できなかった――多少とも誇りを残している男なら、自分自身の妻が自分にはむかってきたことを認められるものだろうか? 彼にできたことはただ彼女から逃げ隠れることだけだった。そこで彼はこの蒲陽《プーヤン》に逃《のが》れたが、彼女がなおも彼を悩ませたので、彼は再びどこか他の土地へ逃げる準備をした。
リン夫人はリン・ファンに対し、自分自身について本当のことを教えたが、いっしょにいる青年についてはうそをついた。それはリャン・コーファだと教えたのだ。これが私を、この陰惨で無情な悲劇のなかの、もっとも信じ難くもっとも冷酷な場面へと導くのだ。リン夫人の嘘《うそ》はその隠微《いんび》な残酷性という点で、リン・ファン自身の残虐な犯罪よりさらにやりきれない気持ちのする悪魔的な企ての一環なのだよ。青年は、リン・ファンによって得た彼女自身の息子だったのだ」
今度は四人が一度に口を開いたが、判事はまたもや手を上げて彼らを黙らせた。
「リン・ファンがリャン・ホン夫人を犯したころ、彼は知らなかったのだが、何年も望みがかなわなかった末に、彼の妻はみごもったばかりのところだった。女心の底に秘めた秘密を測ることができるなどという大それた口は、私にはとてもきけないがね、こうは言えると思うんだよ、自分たち夫婦の愛が頂点に立ったとリン夫人が考えていたまさにそのときに、リン・ファンが他の女性に心を移したことが、彼女にその気違いじみた冷酷非情の憎しみを抱かせたとね。冷酷非情と私は言った、なぜかといえば、リン・ファンを破滅させた後、彼を粉々に打ちくだく最後の一撃を与えるために、彼女は自分の息子を犠牲にした。われとわが息子を手にかけたと彼に言って聞かせるつもりだったのだ。
彼女は青年に、自分はリャン・コーファだと信じこませていたに違いない、たとえばリン・ファンの攻撃から守るために小さな子供たちが取り替えられていたのだなどと説明してね。だが彼女は二人の婚姻の日にリン・ファンが彼女に与えたお守りを、その青年につけさせていた。
リン・ファンを尋問したときに不備を補って完結することができたから、いまこの恐しい話を君たちにきかせているのだ。あの段階までは不確かな臆測にすぎなかった。最初にそれを裏付けたのは、私が護符《ごふ》を見せた時のリン・ファンの反応だ。あわや妻のだというところだったよ。二番目の決定的な確証は、男とその妻が判事席の前で対面して立っていた、あの短いが感動的な瞬間にあらわれた。リン夫人の死をかけた一瞬はついに訪れた。彼女が実にたゆみなくそのために働いた目標についに到達した。彼女の夫は没落し、刑場の露と消えようとしている。いまや彼の心を打ちくだくとどめの一撃を与える時が来た。訴えようと手を上げて、夫人は始めた、「あなたは殺したのよ――」と。しかし彼女はその時、最後の言葉、わが子を殺したという恐しい核心の言葉を口にすることができないのを知った。彼女の夫がついに敗北し、血にまみれて立っているのを見た時、すべての憎しみはにわかに彼女を見捨てた。彼女には、彼女のかつて愛した夫しか見えなかった。感動に我を失って立ったままよろめきはじめた時リン・ファンが彼女のほうへはせ寄った。巡査長や他の誰もが思ったように彼女を襲おうとしてではない。彼の目に浮んだ表情からは、ひたすら彼女が倒れて舗石でけがをしないよう支えてやりたいと思っていることが読みとれたよ。
こういうことなんだよ。リン・ファンを尋問するまえ、私がやりにくい立場にあったことがこれでわかってもらえたろう。逮捕したからには、早いところ有罪宣告をしなければならなかった、実子殺害の件は使わないでだ。リン夫人がリャン夫人の身分を詐称していることを立証するには何か月もかかるだろう。そこでリン・ファンには、私たちを襲撃した件を自白させるよう、わなをかけなければならなかったのだ。
だが、彼の自白を得ても、私の困惑は消えなかった。中央政府は間違いなくリン・ファンの没収資産の大部分を、リャン夫人と信じられている人物に供与するだろう。当然国家に帰属すべき財物を、にせのリャン夫人が獲得することは絶対に許せない。私は彼女が私に近づいてくるのを待っていた、なぜなら、燃えるとりでから脱出したときの詳細を私が質問しようとした時、彼女は私が真実を知っていると疑ったに違いないからだ。彼女が自ら来ない場合は法的な行動に出なければなるまいと、私は恐れていた。いまはその問題も解決した。リン夫人は自殺する決心をした。だが彼女は待った、夫と同じ日同じ時刻に死にたかったのだ。そして今は天が彼女を裁き給うだろう」
深い沈黙が部屋中を支配した。
ディー判事は身をおののかせた。長衣の前を深くかき合わせながら、彼は言った。
「冬が近いね、空気が冷えている。警部、出て行くついでに、事務官に火鉢を用意するように言ってくれないか」
副官四人が去ると、ディー判事は腰を上げて、二つ尾のついた判事帽を脱ごうと姫鏡台をのせた脇机に歩み寄った。鏡は彼の憔悴《しょうすい》した、苦悩の表情を映し出した。
機械的に帽子を折り畳んで鏡台の引出しにしまった。そして室内用の帽子をかぶり、手を後ろに組んで行きつもどりつしはじめた。
彼はただひたすら心を静めようとした。だが彼の乱れた思いが先ほど物語った恐怖の話題からやっとそれたかと思うと、心眼に二十人の僧侶のばらばら死体の身の毛もよだつ情景が浮び上がり、さらに耳の中では四肢を裂かれるリン・ファンの狂おしい笑いが鳴り響きはじめるのだ。如何《いか》なれば天はかくも無慈悲な苦痛を、かくもうんざりするほどの殺戮《さつりく》を欲し給うのかと、絶望のうちに自問した。
疑念にさいなまれて彼は机の前に立ちつくし、両手で顔をおおった。
手を降ろしたとき礼部省からの書状が目に止まった。わびしい吐息とともに、彼は事務官たちが額をしかるべき位置にかけたかどうか確認する義務があることを思い出した。
彼は執務室と法廷とをへだてる仕切りを引いた。壇を越えて広間に下り、ふり返った。
緋色の布でおおわれた判事席と、空《から》の肘掛椅子が目にはいった。その後ろの仕切りには明察の象徴である巨大な|※[#「けものへん+解」、unicode736c]豸《かいち》が刺繍で表わされている。そしてさらに見上げると、壇上の天蓋の上の壁面に、聖旨をしるした扁額《へんがく》が見えた。
その文章を読んだとき深く心を動かすものを感じた。彼はむき出しの石畳に膝をついた。冷え冷えとして空虚な法廷にただ一人で、彼は厳粛かつ謙虚な祈りを捧げていた。彼の頭上高く、朝の光が窓からさし入って、皇帝の完全無欠な書体で書かれた大きな四つの金文字を輝かせた。
「正義は人の生よりも重い」 (完)
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[作者解説]
――ロバート・ファン・フーリック
古い中国の探偵もののすべてに共通する特色は、探偵の役回りが常に犯罪の起こった県の知事により演じられることである。
この官吏は彼の管轄下にある県――通常城壁で囲まれた一つの都市とその周辺五〇里(マイル)前後までの田園地帯から成る――の全面的管理の任にあたる。知事の義務は多方面にわたっている。租税の徴収、出生・死亡・婚姻の登録、土地登記書の管理、治安の維持など、万事に責任を負う一方で、地域法廷を主宰する判事として犯罪者の逮捕と処罰を行ない、民事・刑事万般の訴訟を審理する任務を負う。このように知事は人民の日常生活のほとんどすべての局面の監督管理にあたるため、通例「父母官」と呼ばれる。
知事はつねに変わらず過重労働の官吏である。政庁と同じ構内に、ある一画で家族とともに住まい、概して目覚めている間中ずっと公務にあたる。
古代中国の政治組織の巨大なピラミッド構造の底辺に、県知事がいる。彼は二十余の県を監督管理する州長官に報告の義務を負う。州長官は十二余の州に責任をもつ府の総督に報告の義務を負う。総督は、皇帝をその頂点とする首都の中央官庁に報告する番に当たる。
貧富を問わず、社会的背景に関係なく、帝国の全市民は文官試験(科挙)に合格することによって、官途につき、県知事になることができる。そういう点から見ると、ヨーロッパがまだ封建制度のもとにあったそのころとしては、中国の制度はむしろ民主的なものとなっていた。
知事の任期は通例三年であった。その後彼は他の県に転任させられ、しかるべき時期に州長官に昇任する。昇任は実績のみにもとづく抜擢であるため、才能の乏しい人物がその生涯の大半を県知事として過ごすことはしばしばあった。
知事の一般職務を果たすうえでは、政庁の常勤職員、たとえば巡査、書記、牢番長、検屍官、守衛、使丁の補佐をうける。だがそれらの人々はその日常職務を遂行するだけであり、犯罪の解明にはかかわらない。
この責務は知事自身が果たすものであって、信頼できる助手三、四人の補佐をうけるが、これらの人物はキャリアを始めるにあたって彼自身によって選定され、彼がどんな職に転じてもそれに随伴する。これら助手たちは他の政庁職員よりも上位に立つ。地域的な縁故がないため、仕事をするさい個人的な思惑《おもわく》から影響をうけることが比較的少ない。同じ理由から、官吏が生まれ故郷の県に知事として任命されることは絶対にないのが定則である。
この小説では、古代中国の訴訟手続の一般概念が示される。開廷中、判事は判事席につき、助手たちと書記たちがその左右に並ぶ。判事席は赤い布をかけた高いテーブルで、布は前に垂れて、一段高い壇上の床に届いている。
この判事席の上にはいつも同じ備品が見られる、すなわち墨と朱墨をするための硯、筆二本、それから筒に立てたたくさんの細長い竹片。この竹片は罪人のうける笞打ちの数をしるしするのに用いられる。もし巡査に十回打たせようとするならば、判事は数取り棒十本をとって、壇の前の床に投げてやる。一打ちするたびに巡査長は数取り棒一本をとりのける。
判事席の上には大きな政庁の印章と、驚堂木《けいどうぼく》も見られる。驚堂木は西洋のそれのように槌の形をしてはいない。硬木で造られた長さ一尺ばかりの矩形の木片である。中国では示唆的に「驚堂木」と称されている。
巡査は壇の前に、左右二列に分かれて向かいあって立つ。原告被告ともこの二列にはさまれてむき出しの敷石の上にひざまずき、開廷中ずっとそうしていなければならない。彼らには援護してくれる弁護士もいないし、証人を呼ぶこともできないから、彼らの立場は概して望ましいものではない。あらゆる訴訟手続はじっさい抑止力として、法律に関わりあいを持つことは恐ろしいと人々に印象づけるように仕組まれている。政庁では通例日に三度、朝と正午と午後の公判がある。
犯人が自分の罪を告白せぬままで有罪判決を下さないというのが、中国の法の基本原則である。筋金入りの犯人がゆるがぬ証拠をつきつけられても自白を拒むことにより処罰を免れるのを防ぐために、鞭や竹杖で打つこと、手やくるぶしを締め木にかけることなど適法な厳しい裁きを、法は認めている。これら正当と認められる拷問手段とあわせて、知事たちはしばしばもっと苛酷な方法を用いた。しかしそのような苛酷な拷問のために、被告が永続的な身体傷害を蒙ったり絶命したりすることがあれば、判事と政庁職員全員が、しばしば極刑をもって処罰された。だからたいていの判事は苛酷な拷問よりも、鋭い心理洞察力や協力仲間の知識に頼ることの方が多かった。
全般的に見て、古代中国の組織はかなりよく機能していた。上級官庁によるぬかりのない規制が権限逸脱を防いだし、不正な、あるいは無責任な知事に対しては、世論が別のしかたで抑制を加えた。死刑宣告には皇帝の裁可が必要とされ、被告は誰でも上級審に控訴でき、それは皇帝の耳にまで達するしくみになっていた。そのうえ知事は被告に内々で尋問を行なうことを認められておらず、訴件に関する尋問は、予備的な取り調べも含めて、すべて政庁の公判の場でなされねばならなかった。訴訟手続のすべては綿密に記録にとられ、これらの報告は上級官庁に送付されて、監査をうけねばならない。
速記術を用いないで、書記がどうして正確な法廷議事録を記すことができたのか、読者は不審に思われるかもしれない。その答えは、中国の文章言語がそれ自体一種の速記術であることにみいだされる。たとえば、二十語以上もある口語的な一文を、四つの表意文字につづめることが可能なのである。そのうえ続け書きのいろいろの書体があり、十画以上の文字が一筆《ひとふで》に省略される。私自身、中国在任中よく中国人の書記にこみいった中国語の会話を書き留めさせたが、その記録は驚くほど正確なものであった。
ちなみに、昔の中国の書き言葉には通例句読点がないこと、大文字小文字の別がないことを述べておこう。第十四章に出てくる遺書の偽造は、アルファベットの文章体系の中ではあり得ないことである。
「ディー判事」は古代中国の大探偵の一人である。彼は歴史上実在する人物で、唐代の著名な政治家であった。名は狄仁傑《ディーレンチエ》、西暦六三〇年から七〇〇年まで生きた。地方で知事をつとめた若い頃には、難しい犯罪事件を数多く解決したことで名声を博した。後代の中国の小説が多くの犯罪物のなかで彼を主人公にしているのは、主として彼の犯罪解明者としての名声に由来するものである――それらの物語では、たとえ史実を踏まえているとしても、とるに足らぬほどでしかないが……。
のちに彼は帝国法務大臣「御史大夫」となり、賢明な助言を行なって国政に有益な影響を与えた。当時権勢を有した則天武后の、正統の皇太子に代えて寵臣を帝位につけようというもくろみを放棄させたのは、彼の強硬な抗議のゆえであった。
中国の多くの探偵小説のなかで、知事は同時に三件以上の全然別々の事件に携わる。この興味ある特徴を私はこのシリーズで維持し、三つのプロットを一つの連続的な物語となるように書き上げた。私の考えでは、この点中国の犯罪物はわれわれのそれより現実的である。一県には実におびただしい人々が住んでいたのだから、しばしばいくつもの犯罪事件に同時に対処せねばならないというのは、まさに理にかなったことなのである。
中国の伝統にしたがって、私は作品の終わり近くに公平な観察者による事件の概観のような部分を挿入し(第二十四章)、また罪人処刑の描写を加えた。中国人の正義感は、罪人にふり当てられた罰を詳細に述べることを求める。同時に中国の読者は、作品の最後で賞讃に値する知事が昇進し、他のすべての人々がそれぞれその価値にふさわしく報われることを求める。この特質を私は多少ひかえめに再現した。すなわち、ディー判事は勅額という形で公式のおほめにあずかり、ヤン姉妹は金銭を贈られる。
中国の明代の作家たちの、舞台はしばしば何世紀も前にとるけれども、小説を書くにあたっては十六世紀の人間と生活とを描写するという習慣を、私は採用した。同じことは挿絵についてもいえ、唐代というよりはむしろ明代の習慣と服装になぞらえている。その当時中国人は煙草も阿片も吸わず、弁髪をつけていなかった(それは一六四四年以後に征服者満州族によって強いられたのであった)。男たちは髪を長く伸ばし、髷に結った。戸外でも屋内でも帽子をかぶった。
第十三章で言及した死後婚は、中国ではかなり一般的であった。指腹《チーフー》すなわち未生児の婚約の場合に、それは最も多く見られた。しばしば二人の友人同士が子どもたちをいずれ結婚させようと定めた。よくあることで、一方の子が結婚適齢に達しないうちに死んでしまうと、死後その子は生存する相手と結婚させられた。花婿のほうが生存している場合は、これは単なる形式にすぎなかった。一夫多妻制が彼に別の一人以上の妻たちと結婚することを認めたが、戸籍上は死んだ幼い花嫁が唯一無二の第一夫人として記録に留められた。
この小説では仏教聖職者に不利な視点があてられている。この点でも私は中国の伝統に従った。昔の小説作家たちはたいてい文人階級に属しており、正統派儒教徒として仏教に偏見を抱いていた。多くの古代中国犯罪小説のなかで、仏教僧侶は悪玉なのである。
私はまた、短い前おきをつけてその中で小説中の主要事件を暗示するという、犯罪ものを語り始めるときの中国式慣行を採用した。また各章の表題を対聯《ついれん》形式とする中国式の流儀も守った。
「半月小路暴行殺人事件」のプロットはパオ判事、宋代に生きた著名な政治家|包《パオ》判事|包拯《パオチョン》(九九九〜一〇六二)が下したといわれる、非常に有名な判例のなかからとられている。ずっと後の明代になって、真偽のほどはともかく彼により解明されたと伝えられる事例が、姓名不詳の作家により「龍図公案」、別の版では「包公案」と称する犯罪物語集成にまとめられた。この小説に利用された事例は原本で「阿弥陀仏講和」と呼ばれる。この簡単な話はどうにか大すじを伝えているばかりであり、知事が真実を見いだすに到る過程もあまり納得の行くものではない。中国の探偵物によくあるモチーフで、彼は捜査官に冥界の幽鬼を演じさせることによって犯人を自白に導くのである。それに替えて私は演繹的推理を行なう才能をディー判事に与えることにより、論理的解決の手法をとった。
「仏教寺院の秘密」は「汪大尹火焚宝蓮寺」、汪《ワン》知事が宝蓮寺を焼く、と題する物語にもとづいている。十七世紀に出版された『醒世恒言《せいせいこうげん》』という犯罪および怪奇小説集中の第三十九話である。この小説集は明代の学者|馮夢龍《ふうぼうりゅう》(一六四六卒)の手で編纂された。彼は実に多作の文人で、類似の作品集二種に加えて、多くの戯曲、長編小説、学術論文をも刊行した。私は二人の娼婦の登場など、プロットの要点をすべて残した。しかしながら原作では最後に知事が寺院を焼き払い、僧侶たちを即決で処刑してしまうという、古代中国の刑法典のもとでは認められない勝手な処断が行なわれている。私は、唐王朝のある時期の大問題となった仏教教団による政治専断の企てを利用して、もっと手のこんだ解決に置き換えた。この物語でディー判事が主導的役割を演ずるのは筋違いなことではない。生涯の一時期に、邪《よこし》まな行為のはびこる数多くの寺院をディー判事が破壊させたことは、歴史的事実なのである。
「梵鐘の下の骸骨事件」の主題は中国の古い犯罪長編小説『九命|奇怨《きえん》』からヒントを得た。この小説は一七二五年前後に広東《カントン》で実際に起こった九重殺人事件にもとづいている。原作では事件は通常どおり法廷で解決をみる。私は明、清の犯罪および怪奇物語のどの集にもたいてい一度は出てくるお寺の銅鐘のモチーフをかりて、もっとセンセーショナルな結末を与えた。
第二十四章で用いた蓆《むしろ》の鞭打ちは、以下の話にヒントを得た。すなわち「後〔北〕魏朝(三八六〜五三四)の李恵《りけい》が雍州《ユンチョウ》の県知事だったとき、塩運搬人と薪運搬人とが一枚の羊皮を自分が背にかけていたものだと主張して争った。李恵は配下の役人の一人に命じた。「この皮を打って問いただせ、そうすれば持ち主が知れよう」役人たちはみな唖然としていた。李恵が羊皮をむしろの上に横たえて、杖で打たせた。すると塩粒がいくらか出てきた。彼がそれを係争人たちに見せると、薪運搬人は白状した」
本小説第十四章に描かれたように、二家族間の宿怨について細かく述べることは、西欧の読者にとって興味深かろうと考えた。中国人は本来たいそう自制心のある人々で、たいていの争いは示談により法廷外で解決をみる。しかし時に激しい怨恨関係が家族間、氏族、あるいは他の集団間に生ずると、それは悲痛な結末をみるまで苛烈に続けられる。リャン対リンの件はそうした確執の好例である。よく似た例が時おり外国の中国人移住者社会で起こった。すなわち米国における「党の争い」であり、十九世紀末から二十世紀の初めにかけてオランダ領東インドにあった「公司《コンシー》」、もしくは中国人秘密結社相互間の殺し合いである。
〔作者紹介〕
ローバート・ハンス・ファン・フーリツク Robert Hans van Gulik
一九一〇年、オランダに生まれる。幼少期をインドネシアで過ごし、ライデン大学、ユトレヒト大学に学び、中国文学博士号を取得。外交官となり、日本、ワシントン、レバノン、マレーシアなどに勤務し、一九六四年、駐日大使として来日する。その間『馬頭明王諸説源流考』、『古代中国の性生活』、『秘戯図考』、『書画鑑賞彙編』などの学術的著作、また探偵小説「ディー判事」シリーズを書きつぐ。このシリーズの主人公ディー判事は、唐代、武則天の時代に実在した狄仁傑《ディーレンチエ》(六三〇〜七〇〇)で、名宰相として中国史の上では有名な人物である。ディー判事シリーズ全十六巻は欧米に幅ひろい読者を獲得し、英語・フランス語・ドイツ語・オランダ語・中国語版などでミステリー・ファンに親しまれている。フーリックは、また語学の達人であった。その語学力は西欧諸語はいうに及ばず、日本語、中国語、インドネシア語、サンスクリット語、チベット語、アラビア語など十数ヶ国語に及んだ。一九六七年、五十七歳で没。
〔訳者紹介〕
大室幹雄(おおむろみきお) 東京生まれ。東京大学大学院卒。山梨大学教授。歴史人類学専攻。著書、『劇場都市』『桃源の夢想』『園林都市』(三省堂)『囲碁の民話学』(せりか書房)『西湖案内』(岩波書店)ほか。