ボヴァリー夫人
フローベール/白井浩司訳
目 次
第一部
第二部
第三部
解説
訳者あとがき
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パリ弁護士会会員/元下院議長/元内務大臣
マリ=アントワーヌ=ジュール・セナールに
高名にして親愛なる友よ、
本書の巻頭、しかも献辞《けんじ》に先立てて、貴殿の名を記させていただきます。この本の出版は何よりも貴殿のご尽力のおかげだからです。力強い貴殿の弁護によって、この作は私自身にとっても意外な権威を持つに至りました。私の感謝をお受け取りください。私の感謝がどんなに深くとも、貴殿の雄弁と献身には及びませんが。
ギュスターヴ・フローベール
一八五七年四月十二日 パリにて
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第一部
一
ぼくたちが自習室にいたとき、校長が、平服を着た「新入り」と、大きな机をかついだ小使いを連れてはいってきた。居眠りしていた連中は目をさまし、みんな勉強中に不意をつかれたみたいに立ち上がった。
校長はぼくたちに着席するよう合い図をした。それから、自習の先生を振り返って、
「ロジェ先生」と小声でいった。「これは、二年編入の生徒なんだがね、ひとつたのむよ。もし、この生徒が、学力、操行共に申し分なければ、年齢相当の上級に上がることになろう」
新入りは、戸のかげの隅《すみ》にいたので、よく見えなかったが、十五歳ぐらいの田舎《いなか》っぺで、ぼくたちのだれよりも背が高かった。彼は、村の聖歌隊のような坊ちゃん刈りにしていたが、かしこまった様子で、すっかりドギマギしているようだった。肩幅は広くはないのに、黒ボタンのついた緑のウールのチョッキは、袖《そで》付けが窮屈《きゅうくつ》そうだし、袖の縁《ふち》取りのスリットからは、いつもむき出しにしているらしい赤い手首が見えた。ズボンつりできつくつり上げた黄色のズボンからは、空色の靴下をはいた足がのぞいていた。それに頑丈《がんじょう》なよく磨いていない、鋲《びょう》打ちのしてある靴をはいていた。
暗誦《あんしょう》の時間が始まった。彼は、お説教でも聞いているように、足も組まず、肱《ひじ》をつこうともせず、耳をすまして聞いていた。二時に鐘《かね》が鳴ると、先生は、彼もぼくたちの仲間にはいって、列を作るようにと注意したほどだった。
ぼくたちは、教室にはいるときにはいつもすぐに手ぶらになれるように帽子を床に投げつけた。入り口から、椅子《いす》の下をねらって投げると、もうもうとほこりをあげて壁にぶつかるのだ。それが「かっこいい」のだ。
しかし、新入りは、気がつかないのか、それとも真似《まね》してみる勇気がないのか、お祈りがすんでもまだ両|膝《ひざ》の上に帽子をのせていた。その帽子というのが、材質は毛だとわかるのだが、槍騎兵帽《やりきへいぼう》だとか丸帽、かわうそ帽、ナイトキャップだとかの入り混じっているような代物《しろもの》だった。白痴《はくち》の顔が深刻そうに見えることがあるが、それと同じようにこの帽子の物いわぬ醜《みにく》さが、なにかしら深刻さを秘めていると思える、そんな世にも哀れな珍品だった。楕円《だえん》形をしていて、鯨《くじら》の骨がはってあるのだが、まず一番下には螺旋《らせん》状の三段の縁《ふち》取りがしてあり、ついでビロードのダイヤ模様が赤い線でしきられて兎《うさぎ》の毛とたがいちがいに並び、その上は多角形の厚紙のついている袋のようなものになっていた。厚紙には、手の込んだ飾りひもで一面に刺繍《ししゅう》がほどこされてあった。そこから金の糸を房《ふさ》にした飾りが非常に細長いひもの先にぶらさがっていた。帽子は新品で、ひさしが光っていた。
「起立!」と先生がいった。
彼は立ち上がった。帽子がころげ落ちた。クラスの全員が笑いだした。
彼は身をかがめて帽子を拾ったが、隣の生徒が肱で帽子を突き落とした。彼は、もう一度拾い上げた。
「まあ、かぶとは放したまえ」と頓知《とんち》のある先生がいった。
生徒はどっと笑いこけた。かわいそうな少年はすっかりまごついてしまい、帽子を手に持っているのがいいのか、床に置くべきか、かぶったほうがよいのかわからなくなった。彼はまた腰をかけたが、今度も膝《ひざ》の上に帽子を置いた。
「立って、名をいいたまえ」と先生が命じた。新入りは聞きとれぬほどの早口で、わけのわからぬ名をつげた。
「もう一度!」
教室いっぱいの笑い声の中から、同じ早口の言葉が聞こえてきた。
「もっと大きな声で、もっと大きく」と先生が叫んだ。
新入りは、そこで、一大決心をし、口を開くと、声をかぎりにだれかを呼んでいるように「シャルボヴァリ!」と叫んだ。
とたんに大騒ぎが起こり、野次《やじ》と共に騒ぎは次第に高まった。(みんなはわめき、どなり、足を踏みならし、「シャルボヴァリ! シャルボヴァリ!」とはやした)それから、やっとのことで騒ぎはおさまり、きれぎれにわっとわく程度になったが、ときどき、突然座席の列のあちこちから、燃え残りの花火のように、忍び笑いがわき上がった。
しかし、情容赦《なさけようしゃ》なく与えられる罰課〔罰として課せられる宿題のこと〕によって、教室はだんだんに静かになった。先生は、新入りに書き取らせたり、綴《つづ》り字をいわせたり、発音させたりして、やっとシャルル・ボヴァリーだとわかったが、すぐにこの哀れな生徒を教壇のそばの劣等生の席に着くよう命じた。生徒は動こうとしたが、またもじもじしだした。
「何してるんだ?」先生が聞いた。
「ぼくの帽……」と新入りはあたりをこわごわと不安そうに見回していった。
「全員、詩五百行!」と先生は激しい声で叫び、新たにわき上がる騒ぎをしずめた。それはちょうど嵐《あらし》をどなりつけてしずめる海神ネプチューン〔ローマ神話の海神。白馬のひく車に乗り、海原をかける〕といったところだった。「静かにせんか!」と先生はなおも叱りつけた。そして帽子の中からハンカチを取り出して額をふいた。「新入生、君は動詞 ridiculus sum(我は笑い者となれり)を二十回書きたまえ」それから声をやわらげて「なに、君の帽子はすぐ見つかるよ。だれも盗んだりはせんからな」
またもとのように静かになった。みんなは頭を紙ばさみの上にかがめ、新入りは二時間もお手本になるほど行儀よくしていた。ときどき、ペン先ではじきとばされた紙玉があたって、顔にインクがつくこともあったが、それでも彼は手でふくだけで、目を伏せたまま動かなかった。
夜の勉強時間になると、彼は自分の机から袖《そで》カバーを取り出し、細々《こまごま》したものを整理し、丁寧《ていねい》に紙に線を引いた。ぼくたちが見ていると、単語をいちいち辞書でひき、苦心して勉強していた。多分、このように熱心なことを示したおかげだろう、彼は下のクラスに行かないですんだ。もし彼が文法をかなりよく知っていたなら、あんなにひどいいい回しをしなかっただろう。彼にラテン語を手ほどきしたのは村の神父さんで、両親は節約を旨としていたため、できるだけ就学をのばしたのである。
父親のシャルル=ドニ=バルトロメ・ボヴァリーはもと、外科軍医の助手をしていたが、一八一二年ごろ、徴兵事件に巻き込まれ、職を免じられた。だが、持ち前の美貌《びぼう》を餌に、すっかりのぼせ上がっている持参金六万フランのメリヤス業者の娘を瞬《またた》く間に手に入れてしまった。彼は美男子で大ぼら吹きだった。拍車を高々と鳴らし、口ひげと頬ひげとが豊かに連なり、いつも指輪をいくつもはめ、はでな服を着込んでいた。うわべは立派《りっぱ》だが、セールスマン特有のうわ調子の快活さを持ちあわせていた。結婚してしまうと、二、三年は妻の持参金で暮らした。満腹するまで食い、朝寝をし、大きな陶器のパイプをくゆらし、夜のご帰還は芝居がはねてから、カフェ通いはちょくちょくといった具合《ぐあい》だった。舅《しゅうと》は死んでも、たいした物を残してはくれなかった。くやしまぎれに「事業」に手を出してみたものの損をしてしまい、つぎに田舎にひきこもって「一財産作ろう」とした。しかし、農業もインド更紗《さらさ》の製造同様、皆目《かいもく》見当がつかず、耕作に使うべき馬は乗り回す、樽詰《たるづ》めで売るリンゴ酒は飲んでしまう、よくこえた鶏《にわとり》は食ってしまう、豚《ぶた》のラードは猟靴《りょうか》に塗るで、間もなく、いっさいの事業に関係しないのが得策と判断した。そこで、年二百フランの約束で、コー県とピカルディー県との境に半分農家で、半分はお屋敷といった家を借りることにした。不平を抱いていらいら暮らし、後悔し、神をうらみ、世の人びとをねたみ、まだ四十五歳という若さで、人間などいやになり、心安らかに暮らすのだといって、そこに引きこもってしまった。
彼の妻は、昔は彼に夢中だった。彼に奴隷《どれい》のごとくつかえたが、かえってそれが逆効果で、夫はますます妻から離れた。かつては快活で陽気で愛らしかったのに、齢《とし》とるにつれて(ちょうど気の抜けたブドウ酒が酢《す》になるように)気むずかし屋で絶えず文句をいう、神経質な女になった。夫が田舎娘の尻《しり》を追っかけ回すのを見たり、夜になってほうぼうのいかがわしい所から、ぐでんぐでんに酔い、くさい臭《におい》をプンプンさせて帰ってきたときには、はじめはとてもいやだったが、一言も文句をいわずに我慢《がまん》した。しかし、自尊心が反発した。そこで、彼女は口には出さず、無言の陰忍の中に怒りをおしかくし、それを死ぬまで続けた。彼女は始終用事で駆けずり回った。代訴人や裁判長の所へ行き、手形の期日を思い出しては延期してもらい、家にいればいるで、アイロンをかけ、裁縫し、洗濯《せんたく》をし、使用人に目を光らせ、請求書には金を払った。ところが、この家の主人ときたら、なんにも気にかけず、しょっちゅう居眠りをし、目をさませば妻に罵声《ばせい》を浴びせかけ、炉辺《ろばた》の隅で灰に唾《つば》を吐いては、タバコをふかしているだけだった。
子供が生まれると、里子に出された。手もとに帰ってくると、その子はなに様の坊っちゃまみたいに甘やかされた。妻のほうは子供にジャムを食べさせ、夫のほうははだしで遊ばせるというふうだった。彼は、啓蒙思想家ぶって、動物のようにまっ裸《はだか》で過ごさせるのもよいといった。母親の傾向とは反対に、彼は子供に対して一種の男性的理想を持ち、その理想に基づいて、スパルタ式に子供を厳しく育て、体格のいい子にしようとした。子供を火の気のない所で寝かし、ラム酒のガブ飲みや、宗教上の行列を罵《ののし》ることを教えた。だが、生まれつき、この子はおとなしかったので彼の期待に反した。妻のほうは、いつも子供を連れ歩き、厚紙を切ってやったり、お話を聞かせたり、わびしげな陽気さや、甘やかしに満ちた一人芝居を、子供を相手に果てしなく続けた。これまで孤独だった彼女は、こなごなに砕かれた夢の実現を彼に託した。子供の立身出世を望み、彼がすでに大きくなって、美男子の上に才知があり、土木局か法曹界で活躍している姿を想像するのだった。彼女は、彼に読み方を教え、持っている古ピアノで二、三の小歌をうたうのも教えた。しかし、こういうことに対して、文芸に興味のないボヴァリー氏は、「つまらないことだ」といった。子供を官立学校に行かせたり、地位だとか商売の元手を買ってやるだけの物があるものか! それに「男は度胸《どきょう》さえあれば、うまいことやっていけるものだ」ともいった。ボヴァリー夫人は唇《くちびる》をかみ、子供は村をほっつき歩いた。
彼は百姓のあとをついて歩き、土塊《つちくれ》を投げては、飛んでいるカラスを追っぱらった。溝《みぞ》に沿って植わっている桑《くわ》の実を食い荒し、長い棒で七面鳥の番をした。収穫期には干し草を作り、森の中を駆けまわった。雨の降る日は、教会のポーチで石けりをして遊び、大祭のときには、寺男に鐘《かね》をつかせてくれとたのみ、綱にぶら下がっては綱が動くにつれ、自分のからだも同じように揺れ動くのを感じて愉快だった。
このようにして彼は樫《かし》の木のようにすくすくと成長した。頑丈《がんじょう》な手になり、血色もよくなった。
十二の年に、母親は彼に勉強させる許しを得た。勉強は神父さんにみてもらうことにしたが、勉強時間は短く、首尾一貫したものではなかったので、大した効果は上がらなかった。勉強をするのは、神父さんが暇なときだけで、洗礼と葬式の合い間に聖具室であわただしく立ったままで行なわれたり、でなければ、お告げの祈りが終わって、外出する用のないときに、生徒を呼びにやるのだった。神父さんの部屋に上がって行ってすわる。蚊《か》や蛾《が》がろうそくのまわりをとび回っている。暑いので、生徒は眠りこけてしまう。そうすると、この神父さんも手を腹において居眠りし、とたんに鼾《いびき》をかきだす、ときには、神父さんが近所の病人の家に聖餐《せいさん》を授けに行った帰り道に、野良《のら》をほっついているシャルルを見ると、呼びつけては十五分もお説教し、この機会を利用して木陰で動詞の活用をいわせる。だが、雨が降ったり、知り合いの人が通りかかったりして邪魔《じゃま》がはいる。しかし、たいてい神父さんはいつも彼に満足し、物覚えのいい子だとほめさえした。
シャルルの勉強はそれにとどまってはいなかった。母親は強硬だった。父親のほうは気弱になったのか、というよりめんどうになって、文句もいわず母親のするにまかせた。子供が初聖体〔カトリック教会で、神父から初めて聖体(パンとブドウ酒)を拝領する儀式〕を受けるまでもう一年待った。
さらに半年たった。そして翌年、シャルルは、とうとうルーアンの中学にやらされた。十月の末ごろ、聖ロマンの市が立ったときに、父親が中学まで自分で連れて行った。
今では、もうぼくたちの仲間には、彼について何か覚えている者はいないだろう。彼はおとなしい子で、休み時間に遊び、自習室では勉強し、授業はよく聞くし、寝室ではよく眠り、食堂ではたらふく食った。ギャントリー街の金物問屋が彼の保証人で、月に一回、日曜日に、店をしめると、彼を連れ出して港に船を見に行かせた。それから夕食に間に合うように七時には学校まで送ってきた。彼は毎週木曜日の夜には母親宛に長い手紙を赤いインクでしたため、封印を三つ押した。それから、歴史のノートをひろげるか、部屋にほうり出してある古本の「アナカルシス〔バルテルミー神父作。紀元前四世紀のギリシアの賢人、アナカルシスを主人公にして、ギリシア各地を旅行させ、ギリシア風俗を描いたもの〕」を読んだ。散歩に出たときには、自分と同じように田舎出の小使いと話をした。
勉強のおかげで、彼の成績はいつもクラスの中位だった。一度なぞは、博物学で一等賞の褒美《ほうび》をもらったこともあった。だが、四年の終わりに、両親は彼が大学資格試験を独学でパスできるだろうと思い、中学を退学させ、医学を勉強させた。
母親は、知り合いの染物屋のロード・ロベック川に面した五階に下宿を選んでやり、下宿代を取りきめ、テーブル一卓、椅子《いす》二脚からなる家具類を手に入れ、自宅から桜材の古いベッドを取りよせ、そのうえさらに息子が暖かいようにと鋳物《いもの》の小さなストーブと薪《まき》を多量に買ってやった。週末になると、これからは一人でやっていくのだから、まじめに暮らすのですよと何回もいい置いて帰っていった。
掲示されている授業項目を見て、彼は茫然《ぼうぜん》となった。衛生学、薬学はいうまでもなく、解剖学、病理学、生理学、調剤学、化学、植物学、臨床《りんしょう》学、治療学などの講義がならんでいる。どの名も彼は語源も知らなかったし、そういった名まえは、荘厳な闇の中に閉ざされた聖域の扉のように思われた。
彼は何もかもわからなかった。授業を耳をすまして聞いても理解できなかった。そのために勉強はよくし、よくノートをとり、授業はかたっぱしから出席し、回診には必ずついて行った。彼は、毎日のささやかな日課を、ちょうど調教中の馬が、目かくしされて、くるくる回っているように、何を懸命にしているのか少しもわからずに果たした。
失費を少なくするために、母親は、毎週、駅馬車の馭者《ぎょしゃ》にことづけて、ロースト・ビーフを送ってよこした。病院から帰ってくると、彼は壁を靴の底でけってからだを暖めながら、その肉で朝食をとった。それから、いろいろの道を通って、授業へ、解剖教室へ、救済病院へと駆け回り、家へ帰らねばならなかった。夜、下宿のまずい食事をすますと、自分の部屋へ上がって行き、湿った服のままでまた勉強にとりかかるので、まっ赤にもえているストーブの前では、全身から湯気が上がった。
夏の晴れた夕暮れ、まだ暖かい街路には人もまばらで、女中たちが戸口で羽根つきをしているころ、彼は窓をあけ、肱《ひじ》をついた。川は、ルーアン市のこの界隈《かいわい》をきたない小ベニスとし、彼の目下に低く、黄や、紫や、青に染まって、橋と水門の間を流れていた。労働者は、川辺にしゃがみ、川の水で腕を洗っていた。屋根裏部屋から突き出ている竿《さお》には、木綿《もめん》糸の≪かせ≫が干してあった。目の前に、家並のかなたに、澄みきった大空が広がっていた。ちょうど陽《ひ》の入りだ。あそこにいたら、さぞいい気持ちだろう、ぶなの木陰は涼しいだろう。彼は野原のかぐわしい匂《にお》いをかごうと鼻孔《びこう》をふくらませた。だが、その匂いは彼のところまでとどかなかった。
彼はやせ、背が高くなった。それで表情が、一種の哀愁を帯びてきたので、まあ、少しはましな顔になった。ひとりでに、ずぼらな気持ちから、彼は、自分に課したすべての戒めを解いてしまった。一度、回診をなまけると、次の日には授業をさぼり、すっかりなまけ者になり、だんだん学校にも行かなくなった。
キャバレー通いと同時に、ドミノ〔二十八枚の骨製(主としてぞうげ製)の札で遊ぶ西洋カルタ〕に熱中した。毎晩、きたないたまり場に腰をすえ、黒い点々のついた羊の骨のドミノ札を大理石のテーブルにたたきつけるのは、自由の尊い行為であり、なんだか自分がひとかどの人物になった気がした。それが、世の中に目を開く手引きとなり、禁断の快楽に近づくことになった。入り口で、ぞくぞくするほどの肉感的喜びを感じて、戸口のブザーを押した。そうなると、今まで内におさえていた多くのものが口を開いた。彼は、歌を暗記してそれをうたうと、女たちがはやしたてた。ベランジェ〔十九世紀の人気歌謡作家〕に熱中し、パンチ〔熱したブランデー、ラム酒に砂糖、肉桂等を入れた飲みもの。当時の医学生はこのパンチを頭蓋骨の中に入れて飲んだという〕を作ることをおぼえ、ついに色事を知った。
こんな受験勉強のため、医師免許試験をすべってしまった。ちょうどその日、家では、合格祝いをしようと彼を待っていたのだが。
彼は歩いて帰ってき、村はずれまでいった。そこに母親にきてくれるようにたのんでおいた。彼は、母親になにからなにまで話した。母親はその失敗を試験官の不公平のせいにして許してくれ、そのうえ、あと始末までしてくれるというので、彼も少しは安心した。五年もたってから、父のボヴァリー氏は、事の真相を知った。なにぶん、もう昔のことだし、それに、自分の血を分けた子がバカだなんて、てんで信じられなかったので、息子の失敗を受け入れた。
シャルルは、また、勉強を始めた。試験科目をわき目もふらずに詰め込み、前もって試験問題を暗記した。彼はかなりいい点で合格した。母親にとって、どんなにすばらしい日だったろう。盛大な晩餐《ばんさん》会が開かれた。
さてどこで開業させよう。トスト〔ルーアンの北〕だ。あそこには、老いぼれ医者が一人いるだけだ。前々からボヴァリー夫人は、彼の死を待っていたが、まだ老いぼれがあの世にいかないうちに、シャルルが彼の後継者として目前に乗り込んできた。
息子を育て、医学を学ばせ、開業地を選んでやっただけではまだだめだ。嫁が要《い》る。彼の母が彼に見つけてやった嫁さんは、ディエップ〔ルーアンの北、イギリス海峡に面した町〕の執達吏の未亡人で、齢《とし》は四十五、年収が千二百フランあった。
嫁は不器量で、薪《まき》のようにかさかさしていて、木の芽時のように、吹出物がいつもできているけれど、デュビュック夫人には選ぶべき結婚相手がたしかにいないわけではなかった。ボヴァリー夫人は、目的を達するまで、数あるライバルを押しのけ、神父さんたちがあと押ししている豚肉屋の陰謀の裏をうまくかくことさえやってのけた。
シャルルは、結婚すれば、今より生活がもっとよくなるだろうと予想し、もっと自由になって、自分のからだも、金も思いのままにできるだろうと思っていた。しかし、女房が主人《あるじ》づらをして、あれこれと指図した。人様の前ではああいい、こういってはいけません。毎週金曜日は肉を断つのです。私がいう物を身につけなさい。支払いの悪い患者は払うようにさせなさい等々、女房は彼宛の手紙は開封するし、彼の行動は探る、女の患者がきて、診察室で見ていると、壁の向こうで、聞き耳を立てるというふうだった。
朝は、チョコレートを作ってやらねばならず、とてつもなく世話がやけた。絶えず、やれ神経がどうの、胸がへんだの、気分が悪いのとこぼした。足音がしただけで気持ちが悪くなった。それなのにそばに彼がいないと、たまらなくさびしくなる。彼女のもとに戻ってくると「きっと臨終を見にきたのね」とうらみをいうのだ。夕方、シャルルが帰ってくると、細長い腕を彼の首に巻き、ベッドの縁《ふち》にこしかけさせては「あなたは、あたしを忘れて、だれか他の人を愛しているのだわ」とか「昔、あたしに不幸になる相だといった人がいたのだけど……」とか文句をならべた。そしてしまいには必ず、からだのために舎利別《しゃりべつ》〔シロップ〕と、もう少しの愛とが欲しいというのだ。
二
ある晩、十一時ごろ、夫妻は馬蹄《ばてい》の響きに目をさました。それはちょうど門の前に止まった。女中は屋根裏部屋の窓をあけ、しばらく、下の往来にいる男と押し問答をした。これは医者を迎えにきた男で、手紙を持っていた。女中のナスタジーは寒さにふるえながら階段を下り、錠《じょう》をあけ、閂《かんぬき》を一つずつはずした。男は馬を往来に乗り捨てたまま女中についてすばやくはいってきた。そして灰色の房のついた毛の縁なし帽の中から布に包んだ手紙を取り出し、うやうやしくシャルルに渡した。シャルルはまくらに肘《ひじ》をついて手紙を読んだ。ナスタジーはベットのそばに明かりをかかげ、夫人は羞恥《しゅうち》心から壁のほうを向き、こちらには背中を見せていた。
小さな青い封蝋《ふうろう》で封印してあるこの手紙には、足を骨折したのでボヴァリー先生に急いでベルトー農場まで往診されたし、としたためてあった。とはいえ、トストからベルトーまでは、ロングヴィル、サン・ヴィクトール経由で行くとしても、少なくともたっぷり二四キロはあるし、月のない晩でもあることだしで、ボヴァリー若夫人は、シャルルにもしものことがあってはと心配した。そこで馬丁が先に帰ることになった。シャルルは月の出を待って三時間後に出かけた。途中、少年が迎えにきて、農場まで道案内し、柵《さく》を開く手はずになっていた。
朝、四時ごろ、シャルルは外套《がいとう》でしっかり身を包み、ベルトーへと出発した。まだからだはポカポカと暖かく、眠りからさめていないシャルルは、馬の歩むにまかせ、ゆっくり揺られていった。馬が畑の縁に掘ってある茨《いばら》の生《お》い茂った溝の前でぴたっと止まると、シャルルははっと目をさまし、そのとたんに、骨折した足のことを思い出した。そして彼の知っているかぎりの骨折を思い出そうとした。雨はやんでいた。夜明けももうじきだ。葉を落としたりんごの木に鳥がじっと止まり、朝の冷たい風に羽根を逆立《さかだ》てていた。見渡す限り平らな野原が続き、遠くから見ると、農家のまわりの防風林は、大地の上で黒っぽい紫色の点に見えたがこの大地は地平線で灰色の空にまじわっていた。シャルルは、ときどき、目を開いた。が、気疲れと、自然な眠けにおそわれて、やがて、一種の半睡状態にはいると、最近の感覚と過去の思い出とが混ざり合い、自分が二重に感じられた。彼は同時に、学生でもあり、妻帯者であり、ついさっきまでのようにベッドに眠っているようでもあり、昔のように手術室を通っているようでもあった。湿布薬《しっぷやく》の暖かい匂いが、頭の中で、露の青くさい匂いと混じっていた。病室のカーテンレールに鉄の輪がころがる音と妻の寝息が聞こえた。ヴァンビルを通っていくと、一人の少年が掘割りのほとりの草の上にすわっていた。
「先生ですか?」と、その少年が聞いた。
シャルルがそうだと答えると、木靴を手に持って、先に立って走り出した。
先生は、道すがら、この道案内の少年から、ルオーじいさんがかなり裕福な百姓であることを聞き出した。じいさんは、昨晩隣家に、公現祭〔キリストの光栄が三人の博士の姿をとって現われた日を記念する日。一月六日に行なわれる〕の祝いに行った帰り道、足をくじいたのだった。二年前に奥さんに死に別れ、家には、お嬢さんがいるきりで、お嬢さんが世帯の切り回しをしていた。轍《わだち》の溝が深くなりベルトーが近くなってきた。少年は、垣根の穴にすべり込むようにして姿を消した。そして、中庭の端に現われ、柵《さく》をあけた。犬小屋につながれている番犬が鎖《くさり》をいっぱい引っぱって、吠《ほ》えついた。ベルトーにはいると、シャルルの馬は、おびえて大きく跳《は》ねた。
立派な構えの農場だった。馬小屋には、あけっぱなしになっている入り口越しに、新鮮な秣《まぐさ》を静かに食っている大きな農耕用の馬がみえた。建物に沿って、多量の堆肥《たいひ》が広げてあった。その上から、湯気が立ちのぼり、鶏《にわとり》や七面鳥に混じって、コー地方の飼育場にしては贅沢《ぜいたく》な孔雀《くじゃく》が餌《えさ》をあさっていた。羊小屋は長く、穀物倉は高くそびえ、壁は人の手のように、きれいに洗われていた。納屋《なや》には、大きな荷馬車二台、鋤《すき》四つ、鞭《むち》、頸木《けいぼく》、その他の馬具一式がはいっていた。その馬具の青色の羊の毛は、屋根裏から落ちるこまかいほこりでよごれていた。中庭は上り坂になり、両側に木が等間隔に植えてあった。鵞鳥《がちょう》の群れの賑《にぎ》やかな鳴き声が沼の近くで響いていた。
襞《ひだ》が三つついている青いメリノの服〔メリノ種の羊毛で織られるウール〕をつけた若い娘が、ボヴァリー先生を戸口まで出迎え、台所に招じ入れた。台所には火が燃えさかっていた。大小さまざまの鍋《なべ》に、雇い人の朝食が、煮えたぎっていた。湿った衣服が暖炉の中に干してあった。シャベル、火箸《ひばし》、鞴《ふいご》の口、どれもこれもばかでかくて、磨いた鋼鉄のように光っていた。壁に沿って台所道具がたくさん並び、暖炉の明るい炎が、窓ガラス越しにさし込む日の出の光りに混じってとりどりに照り映えていた。
シャルルは、患者を見に二階へ上がった。患者は、ベッドに寝て、ふとんをたくさんかけて汗をかき、ナイトキャップを遠くに投げ飛ばしていた。ルオーじいさんは、五十代の太った小柄な男で、色が白く、目は青く、額は禿《は》げ上がり、耳輪をしていた。そばの椅子《いす》の上にコニャックの大びんを置いて、ときどき、腹に力をつけるんだといって流し込んでいた。先生の顔を見ると、気強くしていた気分も消し飛んでしまい、十二時間もどなりつけていたのも忘れて、か細くうめき始めた。
簡単な骨折で、併発症の恐れもなく、シャルルが、簡単でありますようにと祈るまでもなかった。さて、怪我《けが》人のベッドのそばで先生たちがしていたことを思い出し、冗談《じょうだん》をいっては患者を力づけた。それは、メスに塗りつける油のようなもので外科的愛撫だった。副木を作るために、納屋《なや》から貫板の束を持ってこさせた。シャルルは、そのうちの一つを選び出し、小さく割り、ガラスのかけらで磨《みが》いた。その間、女中は布をひき裂いて包帯を作り、エンマ嬢は当て物を作ろうと、長いことかかって針箱を捜していたがみつからなかった。じいさんは腹を立てた。彼女は口答えをしなかったが、縫っているうちに、針でつつき、指をすぐに口に持っていき、血を吸った。
シャルルはその指の白さに驚いた。艶《つや》がよく、先が細く、ディエップの象牙細工《ぞうげざいく》よりもきれいに磨いてあり、アーモンド型に切ってあった。だが、手のほうはきれいとはいえなかった。そう白くもなく、指骨もごつごつしていた。それに長過ぎるし、全体に丸みに欠けていた。彼女の美しいところは目だった。茶色ではあったが、まつげのおかげで黒目に見えた。そして率直に無邪気な大胆さで相手を見つめた。
先生が手当てをすますと、ルオーじいさんは、自分から、お帰りになるまえに「ちょっと召し上がって行きませんか」とすすめた。
シャルルは下の広間に降りて行った。銀盃と二人前の食器が大きなベッドのそばのテーブルに用意してあった。ベッドにはトルコ人模様のインド更紗《さらさ》をかけた天蓋《てんがい》がついていた。窓と向かい合っている柏の木の背の高いたんすからは、イリス根〔日本名「いちはつ」の根〕の香料の匂いと湿ったシーツの匂いがもれてきた。床の四隅には、小麦の袋が立てかけてある。それは、石段を三段ばかり上がったところにある倉庫にはいりきれなかったものだ。青いペンキがはげ落ち、硝石の出ている壁のまん中に、部屋のアクセサリーのつもりらしく金メッキしてある額に入れて、黒鉛筆画のミネルヴァ〔ローマ神話で知恵・戦争の女神〕の顔が釘にかけてあり、その絵の下のほうにはゴチック文字で「親愛なるパパへ」と書いてあった。
二人は、最初は怪我《けが》人のことを、しばらくすると、きびしい寒さについて、夜、野原を駆け回る狼《おおかみ》について話し合った。ルオー嬢は、今では農場の世話を一手に引き受けているために、田園生活など少しもおもしろくなかった。部屋が寒々しているために、彼女は食べながらふるえていた。そのために、だまっているときにはいつも軽くかんでいる肉づきのいい唇がちょっと見えた。
白の、折り襟《えり》から首が見えた。髪をまん中で分けていたが、両側とも黒くなめらかでひと続きのように見えた。分け目の細い筋が頭のカーブそのままに軽くくぼんでいる。耳たぶを少し見せて、こめかみのほうへウエーブし、後ろで大きな髷《まげ》にまとめていた。こんな髪型などこの田舎医者は今までお目にかかったことなぞなかった。頬はばら色で、まるで男のように、胴衣の二つのボタンの間に鼈甲《べっこう》の鼻めがねをさしていた。
シャルルがじいさんの部屋に別れの挨拶をしにいって戻ってくると、エンマは立ったまま窓に額をあて、庭を眺めていた。庭には、風のためいんげんの添え木が倒れていた。彼女は振り返り、
「なにかお忘れ物でも?」と聞いた。
「鞭《むち》なんですが……」と彼は答えた。
彼はベッドの上や、扉の裏側や椅子の下を捜した。鞭は小麦の袋と壁の間の床に落ちていた。エンマがそれを見つけ、袋の上に身をかがめた。シャルルは紳士らしく駆けより、同じように腕を伸ばすと、下で身をかがめているエンマの背に自分の胸がちょっと触れた。彼女はまっ赤になって身を起こし、鞭を差し出しながら、肩越しに彼を見た。
三日後にベルトーに往診にくる約束だったが、翌日やってきた。それから、きちんきちんと週二回はやってきた。ほかにときどき、うっかりきてしまったというふうに、不意に現われることもあった。
それに、万事うまくいって、怪我《けが》は、順調に治《なお》っていった。そして四十六日目にルオーじいさんが彼のいう「あばら屋」で一人歩きの練習しているのを見た者は、ボヴァリー先生の腕前は大したものだと思うようになった。ルオーじいさんは、イヴトー〔トストの西、ルーアンの北西にある町〕の町どころか、ルーアンの町の一流の医者だってこんなにうまく治せるものじゃないといっていた。
シャルルは、なぜこんなにベルトーにくるのがうれしいのか、考えてもみなかった。が、考えたところで、この熱心さを大怪我のせいか、それとも、それによって得られるはずの謝礼のせいにしたことだろう。しかし、彼の生活の味気ない仕事の中で、農場へ往診に行くことが、楽しい例外となっているのははたしてそのためだけであろうか。往診に行く日には、早起きをして、ギャロップででかけ、馬を急がせた。そして馬から降りて、草の上で足をふき、内にはいる前に黒い手袋をはめた。
彼は庭にはいって行くのがうれしかったし、柵《さく》が肩の上でくるりと回るのを感じるのが好きだった。塀の上で鶏《にわとり》が鳴くのも、迎えにくる少年もうれしかった。納屋も馬小屋も、彼を救い主だといって手をたたくルオーじいさんもうれしかった。台所の洗ったタイルの上を歩くエンマの可愛《かわい》らしい木靴もうれしかった。かかとが高いので彼女はちょっと背が高く見えた。彼の前を彼女が歩くとき、木靴の裏底がすぐ持ち上がって、中にはいっている半長靴の皮にあたると、かたかたと乾《かわ》いた音をたてた。
彼女は、玄関先の階段までいつも彼を送ってきた。まだ馬を回していないときには、そこでしばらく待つのだった。挨拶《あいさつ》をし終わったあとだけに、もう話すこともなかった。ひどい風が彼女を包み、うなじのおくれ毛を乱したり、エプロンのひもを腰の上で揺り動かしては、ふき流しのようにはためかした。あるとき、雪解けのころで、庭では木の皮が雫《しずく》を落とし、建物の屋根の雪が溶けていた。彼女は戸口に立っていたが、傘《かさ》をとってきて、それを開いた。玉虫色に光る絹の傘を太陽の光が通って、彼女の白い顔に揺れ動く影を落とした。彼女は、戸外の暖さに思わず微笑を浮かべた。水滴がぽつりぽつりと張ってある木目模様の布地に落ちるのが聞こえていた。
ベルトーへシャルルがひんぱんに通い始めた当初、ボヴァリー若夫人は欠かさず容体をたずね、そのうえ、自分が複式につけている帳薄にルオー氏の欄としてまるまる一頁をとっておいたほどだった。ところが、ルオー氏に娘があるとわかると、さっそく調査を開始した。ルオー嬢がウルスラ派〔一五三七年設立された女子修道会。おもに教育事業にあたる〕修道院で教育を受け、いわゆる立派なしつけを受けたことを知った。だから、ダンスもできるし、地理も知っているし、絵もかけるし、刺繍《ししゅう》もできるし、ピアノもひけるのだ。がまんできない!
「そのためなんだわ。あの女に会うというと、うれしそうな顔をするし、雨でだめになるかもしれないのに平気で新しいチョッキを着込んで行く! ああ、あの女め! あの女め!」
彼女はエンマを本能的に憎んだ。はじめ彼女は当てこすりをいっては、せいせいした気分になった。が、シャルルは察してはくれなかった。そこで悪口を話の中にはさんでみたが、シャルルは妻にがみがみいわれると思って口出ししなかった。ついに、ぴっしゃりと文句をいわれたが、これにはシャルルは返答のしようがなかった。――ルオーじいさんがなおってしまったというのに、それに、まだ支払いもすませてもらってないのに、どうしてベルトーへたびたび行かねばならないんですか? ああ、あそこには「いい人」がいらっしゃるんだったわね。口のきき方がおじょうずで、刺繍《ししゅう》もおできになって、才女のかたがね。あなたはそのかたが好きなんでしょ。町娘がお望みなのね!――夫人はなおも続けた。
「ルオーじいさんとこの娘が町娘ですって! おかしいたらないわ! ご先祖は羊飼いじゃありませんか! それに、けんかの最中にひどいことをしたとかで裁判|沙汰《ざた》になった男が親類にいるんですよ。日曜日に教会に伯爵夫人きどりで、絹物なんか着てきて、見せびらかさなくてもいいじゃないですか! あのじいさんだって、昨年菜種がとれなかったら、利子を払うのも困っただろうという家なんですからね」
あまりがみがみいわれるので、シャルルはベルトー通いをやめた。エロイーズは、彼に愛情をほとばしらせ、泣いたり、接吻したりしたあげく、聖書に手を置かせて、もう決して行かないと誓わせた。彼はいいなりになった。自分のふがいなさに腹が立ったが、そのかわりに欲望が強くなった。こんなに好きなことを禁じられたので、彼女に会ってはいけないというのは、とりもなおさず、彼女を愛する権利を得たことになると自分勝手に解釈した。後家《ごけ》上がりの女房はやせていた。長い歯を持ち、四季に関係なく、黒くて先が肩甲骨にとどくほど長いショールをかけていた。非常にやせているそのからだを刀のさやのように、着物で包んでいたが、その着物というのがおそろしく丈《たけ》の短い代物なので、くるぶしを灰色の靴下の上で交差している大きな靴のリボンとが見えた。
シャルルの母親はときどきふたりに会いにやってきた。が三、四日すると、嫁が刃をとがらせているのではないかと思われた。そこで二人の女は二丁の小刀のように、シャルルをやりだまにあげて、悪口や小言を降りかけた。そんなにたくさん食べるもんじゃありません。どうして客に酒をだしてやるの? ネルを着なさいといっているのになんて強情な人だろう! といったぐあいだ。
春先に、アングーヴィルの公訴人で、デュビュック未亡人の財産管理をやっていた男が事務所の有り金全部を持ち出し、いい潮どきとばかりに姿を消してしまった。エロイーズには、それでもまだ六千フランはする船株とサン・フランソワ街の家があった。しかし、あれほど声高く吹聴《ふいちょう》されていた財産の中から持ってきたものは、わずかに家具と衣類だけだった。事実を明白にしなければならなくなった。その結果ディエップの家というのはまるっきり抵当に出されていたことがわかった。公訴人に預けてあったものだって、ほんとのことはだれにもわかりはしないし、船株も千エキュ〔金貨の単位で、一エキュは約三フラン〕以上とはなかった。あのばばめ、だましていたんだ! 怒り狂って、ボヴァリー老人は椅子を石床にたたきつけ、馬具のほうがよっぽど立派《りっぱ》な駄馬に息子をおっつけ、さんざんな目に合わしたといって妻を責めた。二人はトストにやってきた。押し問答が重ねられ、口げんかが続いた。エロイーズは泣きじゃくってシャルルの腕に身を投げ、両親にとりなしてくれとたのんだ。シャルルは一言いおうとしたが、二人は怒って帰ってしまった。
しかし、この打撃は大きかった。一週間後、庭で洗濯物をほしていると、急に吐血して、翌日、シャルルが窓のカーテンをしめようと、後ろ向きになっていた間に「ああ、神様、お助けください」といって吐息をつき、気絶した。もう死んでいたのだ! なんという驚きだろう!
墓場でなにもかもすんでしまうと、シャルルは家に帰った。だれも下にはいなかった。彼は二階に上がって行った。寝室には、まだ、彼女の服がかかっていた。
そして、机にもたれて、夜まで悲しい思いにふけった。ともかく、彼女は自分を愛してくれていたのだ。
三
ある朝、ルオーじいさんがシャルルの所へ、四十スー〔一スーは二十分の一フラン〕貨幣で七十五フランと七面鳥の雛《ひな》一羽を持って足の治療代を払いにやってきた。じいさんは、彼の不幸を知っていて、できるかぎり慰めてくれた。
「わしにもおぼえがありますよ」といってシャルルの肩をたたいた。「わしも先生と同じだったよ。おっかあにいかれたときには、一人ぼっちになりたいばっかりに畑によく行ったもんでしたよ。木の根にぶっ倒れて泣いたり、神様の名を呼んで、恨み言をいってみたり。わっしゃ木の枝にいるもぐらになりたかった。腹をごろごろいわせて食い、とうとう腹がパンクしてしまったあのもぐらにね。世間のやつらは今ごろは女房を抱いているのかと思うと、杖で地面をぶんぶんなぐりつけましたよ。わしはまるで気違いのようになって食事も食えなくなりました。カフェに行く気にもなれませんでしたよ。先生は信じられないかもしれないけどもね。それでも、ゆっくりと日がたち、冬が過ぎ、春となり、夏が秋になるうちに少しずつ悲しみもおさまっていき、なくなり、消えましたよ。落ち着いたのですね、いつもなにかが底に残っているんです。なんだか、おもりがここに、胸の上にのしかかっているみたいなんでさあ! でも、人にはみな寿命があるものだからね、そうくよくよしてはいけませんよ。人が死んだからって、自分も死のうなんて……。先生、ボヴァリー先生、元気をだしてください。苦しいのも一時ですよ。家へおいでなさい。娘もときどき先生のことを思っては、先生はもうお忘れになったんじゃないかと話しているんです。もうじき春になったら、気晴らしに兎《うさぎ》狩りにでも行きましょうよ」
シャルルは忠告に従って、ベルトーに行った。みな、なにもかも前と同じで、つまり五か月前と同様だった。梨《なし》の木にはもう、花が咲いていた。ルオーじいさんは、いまでは起きて、動き回っていた。そこで農場は以前にまして活気づいていた。
ルオーじいさんは、先生の悲しい身の上に同情してできるだけ力をつけてあげることが自分の務めだと思い、帽子は脱がなくともようござんすよといったり、病人のように小声で話しかけたり、命じておいたのに、クリームの小びんだとか、煮詰めた梨のようなごく軽い物が用意してなかった場合には、怒った振りをしたりした。彼は世間話をし、シャルルは思わず笑いだす。だが、急に妻のことを思い出すと、憂鬱《ゆううつ》になった。コーヒーが出た。するともう、妻のことなど思い出しもしなかった。
一人で住まうのになれると、もう妻のことなぞ考えなかった。わがままのできる新しい気安さから、やがて、寂しさは堪えやすいものになった。いまは食事の時間も、出かける時間も、帰宅時間も理由なしに変えることができ、疲れたときには、四肢《しし》をのびのびと伸ばして、ベッドに大の字になって寝ることもできた。彼はわが身を大事にし、自分を甘やかし、人のしてくれる慰めを受けて得得《とくとく》としていた。一方、妻の死んだことは商売には何のさしさわりにもならなかった。世間の人は、一か月間「ほんとにお若いのに! なんてかわいそうな!」といってくれた。そのために彼の名は広まり、患者がふえた。そして、彼はベルトーへは、好きな時に行けた。彼は、これといった目的のない希望を抱き、漠然《ばくぜん》とした幸運を夢見た。鏡の前で頬ひげの手入れをしながら、ちょっと男前になったと思った。
ある日、彼は、三時ごろベルトーに着いた。みんなは畑に出かけていた。台所にはいったが、最初エンマには気がつかなかった。窓がしまっていたためである。板戸のすき間から、太陽の光がもれ、石床の上に幾条もの細い光の線となり、家具の角にあたって屈折し、天井にちらちらと照り映えていた。テーブルの上では、はえが、下げ忘れたコップのまわりをはい回り、飲み残したリンゴ酒の中に溺《おぼ》れて羽音をたてていた。煙突から落ち込んできた陽《ひ》の光が、暖炉のふたの煤《すす》の色を柔らげ、冷たい灰に少し青味を帯びさせた。窓と暖炉の間にエンマがすわり、縫い物をしていた。彼女はネッカチーフをしていなかった。何もかけていない露《あら》わな肩には小さな汗の玉が浮かんでいた。田舎のやり方に従って、彼女は飲物をすすめた。彼はことわったが、強《し》いてといいリキュールをご一緒《いっしょ》につきあってくださいといって笑った。彼女はキュラソー〔オレンジの皮を加えてつくった甘味の洋酒〕のびんを戸棚に取りに行き、グラスを二つとってきて、一つにはなみなみとつぎ、もう一つにはまねごとのように入れ、二つのグラスを乾杯《かんぱい》みたいにあわせてから口に持っていった。彼女の分は、ほとんど空《から》同然だったので、飲むときに頭をそらした。頭を後ろに引き、唇をつきだし、首をのばしながら、彼女は、口の中に何も感じないのをおかしがった。そうすると、歯並びのよい歯の間から、舌の先が見え、それがグラスの底をペロペロとなめた。
彼女はまた腰をかけ、仕事を始めた。彼女は白いもめんの靴下をつくろっていた。彼女はうつむいて仕事をし、話をしなかった。シャルルも黙っていた。戸の下から吹き込んでくる風が、石床の上に、かすかにほこりを舞い上げた。彼はほこりが舞うのを凝視《みつ》めていた。彼にはただ頭の中でズキズキ鳴っている音と、遠くで卵を生んでいる雌鳥《めんどり》の鳴き声とが聞こえるだけだった。エンマはときどき、手のひらを頬にあててさまし、それからその手を大きな薪掛《たきぎか》けの鉄の頭で冷やした。
彼女は、春先からめまいがして困りますといい、海水浴はどうでしょうかとたずねた。それから修道院の話を、シャルルは中学時代の話を始め、いつしかうちとけて語り合っていた。二人は彼女の部屋に上がった。そして昔の楽譜帳や、褒美《ほうび》にもらった本や、戸棚の下にしまい込んであった樫《かし》の葉で作った冠だとかを見せてくれた。また母のこと、墓のことに話が及び、庭の花壇まで彼に見せ、毎月、月はじめの金曜日に、そこから花をつんで母の墓に供えるのですの、といった。家の庭師といったら、こっちのいうことを一つもわかってくれないんで、ほんとうに困ってしまいますの! わたし冬だけでもせめて町に住みたいと思いますの! といっても夏のほうが晴れた日がずっと続いて、田舎《いなか》暮らしは退屈なんですけれど。――しゃべっている事柄によって、声は明るくなったり、鋭くなったり、あるいは急に物憂《ものう》くなって、ひとり言をいうときなどほとんどつぶやきとなるような抑揚が続いた。――あるときは、無邪気に目を見開いたり、またあるときは瞼《まぶた》を半ばとじ、物憂い目つきをして物思いにふけっているようでもあった。
その晩、帰る道々、シャルルは彼女のいった言葉を一つ一つ取り上げ、思い出し、その意味を補って、彼がまだ知らなかったころの彼女の生活を思い描こうとした。だが、はじめて会ったときの姿か、それとも今しがた別れてきた姿しか頭の中に浮かんでこなかった。これから彼女はどうなるだろう。結婚するのだろうか。だれと? ああ、ルオーじいさんは大変に金持ちだし、彼女は……あんなに美しい。しかしエンマの顔がつねに目の前に浮かび、独楽《こま》の唸《うな》りのような単調な声が耳に響いた。『では、おまえが結婚したら! 結婚したら!』と。その晩、彼は眠れなかった。喉《のど》がつかえてカラカラに渇《かわ》いた。水差しの水を飲もうと思って起き上がり、窓をあけた。一面の星空だった。暖かい風が吹き抜け、遠くで犬が吠えていた。彼はベルトーのほうを眺めた。
とにかくやってみることだと思って、シャルルはチャンスがあったら求婚する気になった。だが、チャンスが到来するたびに、うまい文句が浮かばないのではないかと心配になり、言葉が口から出なかった。
ルオーじいさんは娘をかたづけることには異存はなかった。娘は家では全然役に立たなかった。しかし心の中では娘は百姓にしては才気があるし、この百姓という神様に呪《のろ》われた仕事をやって百万長者になったなぞ聞いたためしがなかったので娘のわがままを許していた。百姓で一財産作るなんてとんでもない話で、彼は毎年損をしていた。じいさんは商売にかけては一流で、駆け引きはおもしろかった。そのかわり、いわゆる耕作とか、農場経営などは、彼には不向きだった。ポケットから銭を出すのはきらいだったが、生活に関係のあるものなら、どんどん金を使った。うまいものを食べ、よく暖まり、安らかに眠るのが好きだった。濃いリンゴ酒、血のしたたる羊の股肉《ももにく》、ブランデー入りのよくいったコーヒーが好きだった。台所で一人暖炉にあたり、まるで芝居でのようにすっかりお膳立てのできた小さなテーブルをはこばして食事をした。
娘のそばにいるときにシャルルが頬を赤らめるのに気づき、求婚するのも近いうちだろうと見通しを立てると、前もってあれこれと考えてみた。シャルルはいささか醜男《ぶおとこ》だし、婿《むこ》に望んでいたのはこんな型の男ではなかったのだが、品行方正で、倹約家で、学問もたいそうあるということなので、持参金についてあれこれ文句をつけることもないだろう。それに近く、財産のうちの二十二エーカーを売らねばならず、左官にも馬具屋にも支払いが残っているし、リンゴ酒の圧搾《あっさく》機の軸も取り変えねばならないというので、
「もし嫁にくれといったら、くれてやろう」と思った。
サン・ミッシェル祭〔大天使、聖ミカエルを祝う祝祭日。九月二十九日にあたる〕のころ、シャルルはベルトーにやってきて、三日間過ごした。最後の日も前の二日同様、十五分ごとに尻ごみして過ごした。ルオーじいさんは彼を送ってきた。二人は窪地《くぼち》の道を歩いて行き、別れようとしていた。今だ。シャルルは垣根の角でいおうと思ったが、結局、垣根を通り越してから、
「あの、ルオーさん。お話ししたいことがあるんです」とモソモソいった。
二人は立ち止まった。シャルルはなかなか口を開かなかった。
「さあ、話というのをしてごらんなせえ。わしがなにも知らないとでも思っておいでですかい」と静かにルオーじいさんは笑いながらいった。
「ルオーさん、ルオーさん」とシャルルは口ごもった。
「わしは、いいと思いますよ。娘もいやとはいわないでしょうがね。ともかく娘の意見を聞いてみなけりゃ。さあ、向こうへ行ってください。わしは家に帰りますよ。答がイエスなら、ようござんすか、世間の目が光っていることだし、娘も恥ずかしがることだしで、戻ってくることはありませんよ。そのかわり、先生にわかるように、窓のひさし戸を壁までいっぱいにおろしておきますよ。垣根の上からのぞけば裏から見えますからね」そういってルオーじいさんは遠ざかった。
シャルルは馬を木につないだ。彼は細道に駆けこんで待った。三十分たった。それから彼の時計で十九分過ぎた。突然、壁にあたる物音がし、ひさし戸がおろされ、まだカタカタと鳴っていた。
翌朝九時に、シャルルはもう農場に行った。エンマは彼が入ってくると、平気を装ってちょっとほほえもうとしたが、顔を赤らめた。ルオーじいさんは未来の婿《むこ》にキスした。金銭的な取りきめは後回しにした。というのは、結婚式はシャルルの喪《も》のあけるまで、つまり来年の春までできないので、あわてることはなかった。
待っているうちに冬が過ぎた。ルオー嬢は支度《したく》に忙しかった。調度類の一部はルーアンでととのえ、シュミーズやナイトキャップ類は借り物の流行デザインでルオー嬢が作った。シャルルがベルトーに通うたびに、婚礼の準備について話し合いがなされ、どの部屋で宴を開こうとか、何品ぐらい出そうとか、アントレ〔主菜。おもに肉料理〕は何にしようとかなどと相談した。
エンマは反対に、真夜中に松明《たいまつ》の明かりで婚礼したいといった。だが、ルオーじいさんにはそれがなんのつもりなのか少しもわからなかった。四十三人の客が押しかけて、十六時間もテーブルについたままで、それが翌日まで持ち越し、そのうちの幾人かはさらに続けて二、三日間も居残るという婚礼を挙《あ》げることにきまった。
四
お客は、朝早くからやってきた。その乗り物も、一頭立の幌《ほろ》馬車、二輪の乗合馬車、古ぼけた無蓋《むがい》軽装馬車、皮のおおいのついた乗合い等と種々雑多だった。ごく近辺の若者たちは、二輪荷車でやってきた。馬が早く走ったり、車がひどく揺れるので、連中は落ちないようにしっかり手すりにつかまり、一列に並んでいた。そんな乗物で、ゴデルヴィル、ノルマンヴィル、カニイから四十キロも飛ばしてやってきた者もいた。両家の親類はみんな呼ばれていた。これを機会に仲たがいしている友とは仲直りし、もう長いこと音信不通の知人にも招待状が出された。
ときどき垣根の向こうから鞭《むち》の鳴る音がし、やがて柵が開き、馬車がはいってきた。馬車は玄関先の石段の上り際《ぎわ》まではいってきて、ぴたりと止まり、お客をはき出す。お客はほうぼうの口から膝《ひざ》をこすり、伸びをしながら降りてきた。婦人たちはボネット帽をかぶり、都会ふうの衣服をまとい、金時計の鎖をつけ、ケープを胸の所で端を合わせたり、そうかと思うとピンで色物のスカーフを背中にとめ、首筋をひきたたせていた。子供たちは、父親たちと同じ服を着ていたが、おろしたてらしく窮屈そうだった。(この日生まれてはじめて長靴をはいた子も多かった)また子供たちのわきには、彼らの従妹《いとこ》か姉さんだろう、十五、六歳の娘が一言もいわずに立っていた。娘たちは今日《きょう》のために丈《たけ》をのばした初聖体のときに着た白い服をつけ、顔を赤らめ、ぼうっとし、バラのにおいのするポマードを髪にぬりたくり、手袋をよごしはしないかとびくついていた。すべての馬車から馬をはずすには馬丁の数が足りなかったので、旦那方も袖《そで》をまくり上げて、みずからそんな仕事をやった。
彼らは、めいめい身分に応じて、燕尾服《えんびふく》、フロックコート、長上着、短上着などを着込んでいた。一家の尊敬の的になるような燕尾服、これは儀式でもなければ戸棚から引っぱり出されることなどないのだ。風にひるがえる長いたれ、円筒形の襟《えり》、袋とも思えるくらい大きいポケットのついたフロックコート。荒いラシャ地の背広にはひさしを銅線で縁どってある帽子がつきものだ。短上着は非常に短く、背中にまるで目のようにボタンが二つ並び、垂《た》れは、大工の斧《おの》で切り落としたのではないかと思われた。またある者は、(きっと宴席では末席にすわらされる連中だろう)儀式用の上っ張り、つまり、襟《えり》は肩の上まで折り返り、背中に小さいひだをたくさんよせ、腰には縫いつけられたバンドといった格好の服を着込んでいた。
そしてワイシャツは胸で鎧《よろい》のようにふくらんでいた。みな髪が刈りたてなので、耳が頭から突き出て見えた。顔は入念に剃《そ》ってあった。夜明け前から起きだし、よく見えずに剃ったため、鼻の下に斜めに切り傷をこしらえた者や、あご沿いに三フラン金貨大にすりむいた者などがいた。それが道すがら大気にあたってまっ赤になり、みなの晴れ晴れとした白い大きな顔の上でかすかなバラ色の斑点《はんてん》となっていた。
結婚式を教会で終えると、役場は農場から二キロの所にあるのだが、そこまでみな徒歩で往復した。一行は青い麦畑の中をくねる小道に沿って、一色のサッシュのように畑の中を波打って進んだ。やがて、その列は長くのび、いくつにも分断され、それぞれの塊《かたまり》がいつまでも話を続けた。柄にリボンの飾りをつけたバイオリンを手に持って、バイオリンひきが先頭にたち、続いて結婚したばかりの夫妻、親せき、そして友人たちが順不同に続いた。子供たちは後からカラス麦の穂をちぎったり、見えないようにふざけっこをしながらついてきた。エンマの服は長すぎて、裾《すそ》が少しひきずっていた。ときどき彼女は立ち止まってたくしあげ、それから手袋をはめた手で、あざみだの、とげのある雑草を服からそっとはらい落とすのだった。その間、シャルルは手持ちぶさたそうにして待っていた。ルオーじいさんは、頭にま新しいシルクハットをのせ、爪先《つまさき》まで隠れるほど丈《たけ》の長い燕尾服をつけ、シャルルの母に、腕を貸していた。ボヴァリーの旦那は、心の底からこうした連中を軽蔑していたので、ただ軍隊ふうに作ったシングルのフロックコートを着用していただけだった。彼は若い金髪の百姓娘に酒屋じこみのお世辞をいったが、こちらはおじぎをしたり、顔を赤らめたりしてうけ答えもよくできなかった。婚礼にきていた他の人々は、商売の話をしたり、うしろでいたずらをしあったり、もう、浮かれだしていた。しかし耳をすませば、必ず、野原の中をひき続けるあの安バイオリンの音が聞こえてくるのだった。
バイオリンひきは、一行がはるかおくれてくるのがわかると、立ち止まって一息入れ、弦がもっとよく鳴るように丁寧《ていねい》に弓に松|脂《やに》をひいた。それから、からだで拍子がよくとれるように、バイオリンの柄を上げたり下げたりしながらまた歩きだした。バイオリンの音は遠くの小鳥を飛びたたせるほどだった。
宴会の席は荷車小屋にしつらえてあった。
テーブルには、サローイン四皿、ひな鶏のフリカッセ六皿、子牛のシチュー、羊の股肉三皿と、まん中にスカンポ入り腸詰が四つそえてある子豚の丸焼きがのっていた。四隅にはブランデーのびんが置いてあった。甘口のリンゴ酒はびんの栓《せん》のまわりに泡《あわ》が厚く立ち、グラスにはブドウ酒が縁までなみなみとついであった。テーブルをちょっとでも動かすと波立つ黄色のクリームの大皿には、その表面に唐草《からくさ》模様で新夫婦の頭文字が砂糖菓子で書かれていた。果物《くだもの》入りパイやヌガーを作るためイヴトーから菓子屋が呼ばれていた。この地方では初仕事なので菓子屋は念には念を入れて作り、デザートに自分でデコレーションケーキを運んできて一同をあっと驚かした。まず一番下は、青いボール箱が寺院を型どり、回廊や列柱や、まわりのしっくいの小立像が金色の紙の星をちりばめた龕《がん》の中におさまっていた。その上には、カステラの天守閣があり、アンジェリカ、アマンド、干しブドウ、四半分のオレンジで小さな砦《とりで》がまわりを取り巻いていた。そして一番上は青い草原で、岩があり、ジャムの湖にははしばみの実の殻《から》の舟が浮いていた。愛の天使がチョコレートのブランコに乗っているのが見え、ブランコの二本の柱の頂には、球のかわりに本物のバラの蕾《つぼみ》が二つついていた。
みなは夜になるまで食った。すわり疲れると庭を散歩したり、納屋でコルク倒しをしてまたテーブルに戻ってきた。終わり近くなると、眠りこけ、いびきをかく者さえあった。しかしコーヒーが出ると、またもやにぎやかになり、歌をうたう者、力くらべをする者、おもりを持ち上げる者、軽業《かるわざ》をして見せる者、肩に荷車をかつごうとする者、みだらな冗談を浴びせ婦人たちにキスをする者など現われる始末だった。夜になって、帰る段になると、まぐさを腹いっぱい詰め込んだ馬は梶棒《かじぼう》の間になかなかはいろうとはしなかった。
馬はあと足でけり、棒立ちになって馬具を跳ね飛ばした。旦那たちは悪態をついたり、笑いこけたりした。こうして、その晩は一晩中、月光の照るもとで、早足で駆け、溝に落ち込み、幾メートルもの高さの小石を飛び越え、斜面につまずき、猛スピードで飛ばす馬車が見うけられた。昇降口から半身をのり出し、手綱《たづな》をつかまえようとする婦人たちもあった。
ベルトーに残った者は、台所で飲み明かした。子供たちはもうベンチの下で眠りほうけていた。
花嫁は、婚礼にはつきもののあの悪ふざけをされないようにしてくれと、父親にたのんでおいた。しかし親類の魚屋(この男は祝いに二ひきの舌平目を持ってきてくれた)が鍵穴から口にふくんだ水を吹き込み始めた。ちょうどそのとき、ルオーじいさんがやってきて、うちの婿《むこ》さんの地位が地位なので、そのような失礼なことはしてもらっては困るといって止めさせた。しかし、魚屋はなかなかいうことをきかなかった。心の中ではルオーじいさんがお高くとまっていやがると考え、隅《すみ》にいる四、五人の客の仲間入りをして悪口をいった。この客たちは、偶然、たてつづけに肉の悪いところが出たため、冷遇されていると思い込み、ルオーじいさんをなにかと非難し、ひそかに破産でもすればいいのにと思っていた。
ボヴァリー老夫人は、その日一日中、口をきこうとしなかった。花嫁の衣裳についても、宴のとりきめについてもなにも相談されなかったからだ。そこで彼女は早めに切り上げた。が夫のほうは、夫人を送って行くどころか、サン・ヴィクトールまで葉巻を買いに行かせ、キルシュ酒入りのグロッグを飲みながら夜明けまで葉巻をふかしていた。田舎の連中は、こうした混合酒に縁がないので、それがボヴァリー氏を尊敬する種になった。
シャルルは、陽気な性質ではなかったから、婚礼中でもちっとも目立たなかった。ポタージュがでるころに、お義理のようにみなが彼に向かって放つ地口にも、しゃれにも、きわどい冗談にも、ひやかしにも即妙に受け答えできなかった。
ところが、翌日になると、人が違ったかと思われるほどだった。きのうの処女はむしろ彼のほうで、花嫁はすきを見せず、なにか見抜かれたりする所はみじんもなかった。どんなにいたずら好きでも声のかけようがなく、そばを彼女が通るとただ緊張してまじまじと見つめるだけだった。しかし、シャルルは人目をはばからなかった。彼は、彼女を家内と呼び、おまえと呼びつけにした。少しでも姿が見えないとだれにでも彼女のことを聞き、至るところ捜し回った。そしてしばしば、中庭に連れて行って、彼女の腰を抱き、彼女に半ばよりかかって歩き回っている姿が木立ちの間に見えた。そのため、彼女のドレスの胸のひだ飾りはしわくちゃになってしまった。
婚礼から二日後、夫妻は出発した。シャルルは、患者を持つ身なので、これ以上留守することはできなかった。ルオーじいさんは二人を自分の馬車に乗せて行き、ヴァッソンビルまで送っていった。そこでお別れのキスを娘にすると、車から降りて帰って行った。百歩ほど行ったところで、彼は立ち止まり、ほこりをもうもうとまき上げて、車が遠ざかって行くのを見ると、大きな吐息をついた。彼は自分の婚礼を、自分の若かりし日々を、妻のはじめての妊娠を思い出した。妻を馬の尻にのせて雪の中を実家に連れて行ったときは、同じようにうれしかった。もうクリスマスも間近で、一面雪野原だった。妻は片手で彼につかまり、もう一方の手には籠《かご》を持っていた。風が吹いて、コー地方独特の帽子についている長いレースを吹き上げ、それがときどき、口をかすめた。彼が振り向くと、帽子の金の飾りの下で静かにほほえんでいる小さなバラ色の顔が肩越しに見えた。ときどき、妻は彼の胸に指を持ってきて暖めた。それもみんな昔のことだ。息子も、今、生きていれば三十になる。そこで彼は振り返ってみた。路上にはもう何も見えなかった。家具のない、がらんとした家のような寂しさを彼は感じた。飲みすぎでぼんやりした頭の中では、甘い思い出が、寂しい思いと混ざり、ふと、教会のほうへ回りたくなった。だが、教会を見れば、なおいっそう寂しくなると思いなおして、まっすぐ家に帰った。
シャルル夫妻はトストに六時ごろ着いた。隣近所の者は、先生の新しいお嫁さんを見ようと窓際に立っていた。
老女中が現われて、お祝いをいい、まだ夕飯の支度ができていないことをわびた。そしてその間に奥様は家の中をごらんなさいませといった。
五
レンガ作りの家の正面はちょうど通りの、というよりむしろ国道ぎりぎりに建てられていた。戸をあけると、小さな襟《えり》のついたマント、手綱《たづな》、黒い皮の縁なし帽がかかっていた。土間の隅には、まだ乾《かわ》いた泥がついたままになっている革脚絆《かわきゃはん》一足が置いてあった。右手はいわゆる食堂兼居間用の広間だった。かもいの所に、青い花の花飾りのついた、カナリア色の壁紙が張ってあったが、張りかたが悪いのでぶらぶらになっていた。赤い打ちひもで縁飾りしてある白いキャラコのカーテンが、窓のところで重なりあっていた。狭い炉飾りには卵形のガラスの容器に包まれた、銀メッキの二つの燭台の間に古代最大の医学者ヒポクラテスの頭のついた振子時計が置かれてあった。廊下の反対側にはシャルルの診察室があったが、そこは幅がほぼ六フィートほどの部屋で、テーブル一卓、椅子三脚、診察用肱掛椅子一脚が置いてあった。まだページは切ってないが、手から手へと渡ってきたために仮|綴《と》じが崩れている医科学辞典の全巻が、樅《もみ》材製の書棚六段をそれだけでほとんど占領していた。この部屋には診察の間中、壁越しにブラウン・ソースの匂いが漂ってくるからには、診察室で患者が咳《せき》をしたり、相談している話など台所につつ抜けになっているに相違なかった。台所の先は馬小屋のある中庭に面してかまどの置いてある大きな荒れた部屋となっていた。ここは今では薪小屋、あるいは貯蔵室、物置となっていて、古鉄だとか空《から》の樽《たる》、使いものにならない農具だとか、なんの役に立つのか見当もつかないほこりをかぶった物などがいっぱいはいっていた。
庭は広いというより細長く、墻《しょう》作りのアンズをはわせた粗壁《あらかべ》の間で茨《いばら》の垣根まで広がっていた。垣根から先は畑になっていた。庭のまん中には、石台の上にスレートの日時計があり、か細い野ばらの花壇が、もっと実用的でまともな野菜の植わっている四角い土地を左右対称に取りかこんでいた。ずっと奥の柊《ひいらぎ》の下には、聖務日課を読んでいる神父さんの石膏《せっこう》像が立っていた。
エンマは二階に上がっていった。はじめの部屋はがらんとしていた。が、つぎの部屋が夫婦の寝室となっていて、赤いカーテンの下がっている寝床にマホガニー製のベッドが置かれてあった。貝殻細工の箱がたんすを飾っていた。実際にある文机の上には、白いサテンのリボンでゆわえたオレンジの花束がガラスびんの中にはいっていた。花嫁の花束だ! 前の奥さんのものだった! 彼女はみつめた。シャルルは気がついて、それをつかむと屋根裏部屋に持って行った。その間エンマは肱掛椅子に腰掛けて(彼女の荷物がまわりに運び込まれていたのだが)、ボール箱にはいっている自分の花束のことを思い、もし急にあたしが死んだら、これをどうする気かしらと考えていた。
最初の数日間、彼女は家の模様変えで頭がいっぱいだった。ランプの火屋《ほや》をとり除き、壁紙を張り替え、階段のペンキを塗り替え、日時計のまわりにベンチを置いた。魚を泳がせる噴水のある池を作るにはどうしたらいいのかたずねさえもした。そしてシャルルは、彼女が馬車での散策が好きだと知ると、うまいぐあいに「ボック(小型馬車)」を見つけてきた。これに新しいランプと合わせ縫いをした皮の泥よけをつけさえすれば、「ティルビュリー(二人乗り二輪馬車)」だといえるものだった。
シャルルはしあわせで、なんの心配事もなかった。さし向かいの食事、夕方街道のそぞろ歩き、髪の毛をなでつけるエンマの手つき、窓の掛け金に掛ったエンマの帽子、それからそんなものにシャルルが喜びを見いだすことなぞかつてなかったその他の種々の物が、今ではつきることのない幸福の源泉となった。朝はベッドで、同じまくらに頭をのせているシャルルは、ナイトキャップの薄いひだ飾りに半ばかくれている妻の金色の頬のうぶ毛に光がさすのを見るのだった。近くで見ると、彼女の目は大きく見えた。ことに彼女が起きるとき、幾度もまばたきをするときには大きかった。影の中にいるときには黒く、日のさす所では濃い青になり、段々と変わっていく色の層のように、奥が一番濃く、エナメルのような表面になるほど淡くなっていた。彼自身の目はその深さの中にのみ込まれ、絹のネッカチーフを頭に巻き、寝巻きの襟《えり》をはだけた彼の姿が肩の辺まで小さく映っていた。彼は起き上がった。彼女は窓辺に立って見送った。彼女は二つのジェラニュームの鉢の間に、ゆったりしたガウンを着て頬づえしていた。シャルルは、車よけの石に足をのせて拍車の鋲《びょう》をとめる。彼女は夫に上から引き続き話しかけながら、口で花びらや葉をちぎっては彼のほうへ吹き送ったりした。花びらは鳥のようにひらひら飛び、空中に半円を描いては漂って下に落ちて行き、門の前で待っている白い牝馬の梳《す》きの悪いたてがみの上に止まる。シャルルは投げキスを送る。エンマは身ぶりで答え、窓をしめる。彼は出かけて行く。果てしなく続くほこりっぽい道を、並木がたわんでアーチを描いているくぼんだ道を、膝まで麦がとどく小道を通って朝日を肩に浴び、鼻いっぱいに朝の空気をかぎ、胸いっぱいに夜の悦びを抱き、心は安らかに、肉体は満足し今食べたばかりの松露の味を楽しんでいる人のように、自分の幸福をかみしめかみしめ進んで行った。
今までの生活の中に楽しい日があったろうか。中学時代だったろうか。高い壁の中に閉じ込められ、教室では自分より力が強かったり、金持ちだったりする友だちから仲間はずれにされ、アクセントがおかしいと笑われ、身なりがへんだとばかにされたのは。あのころの友だちの母親たちは、こっそりマフにお菓子をしのばせてきたものだった。楽しいと思ったのはそれとももっとあとになって、医学生だったころだろうか。あのときにはすぐにでも情婦になりそうな女工たちをカドリール〔男、女四人ずつ一組になっておどるダンス〕に誘うためのお金にさえ不足していた。それからあの未亡人と暮らした十四か月。あの人ときては、ベッドにはいっても、冷たい氷のような足をしていた。しかし、今ははげしく愛するこの美しい妻が一生彼のものになったのだ。彼にとって世界とは、彼女のペチコートの絹のような手ざわりのほかにはなかった。彼は、まだ愛し足りないのではないかと思い、妻にまた会いたくなった。それで、急いで帰ってくると、胸をときめかして階段をのぼった。エンマは部屋で化粧をしていた。足音をしのばせて近づき、背中にキスをした。エンマは叫び声をあげた。
彼は、彼女のくし、指輪、ネッカチーフに絶えず触れずにはいられなかった。ときどき、口いっぱいのキッスをエンマの頬にして、激しい音をたてたり、細かいキッスの雨を肩から指先まで、むき出しの腕に降らしたりした。そんなとき、エンマは、つきまとう子供を押しやるようにかすかに微笑を浮かべていやがって、彼を押しのけるのだった。
彼女は結婚するまで、自分は恋をしているのだと思い込んでいた。しかし、その恋の当然の結果であるべき幸福感が抱けなかった。間違ったのだと彼女は思った。それで彼女は、世の人のいう「幸福」だとか、「情熱」だとか「陶酔」だとか、本ではあれほど美しく思われたその言葉の本当の意味を知ろうと努めた。
六
彼女は昔、『ポールとヴィルジニー』〔フランスの作家ベルナルダン=ド・サン=ピエールの作品〕を読んで、竹の小屋や黒んぼのドミンゴや犬のフィデール〔どちらも「ポールとヴィルジニー」中に登場する〕にあこがれ、とりわけ、教会の鐘楼《しょうろう》より丈の高い大きな木に登って、赤い実を取ってきてくれたり、砂浜をはだしで走り回って鳥の巣を持ってきてくれる、あの愛すべき兄弟のような男友だちの優しい友情を夢に描いた。十三の年に、父親は、僧院付属の学校に入れるために町まで彼女を連れて行った。二人はサン・ジェルヴェ街〔ルーアン市内の町の名〕に宿をとった。そしてド・ラ・ヴァリエール姫〔ルイ十四世の侍女。王より愛されたが、寵愛が他にうつったため、三十歳で尼僧になった〕の生涯を描いた彩色された皿で夕食をとった。もっとも、その説明の文字は、ナイフがあたって削られ、あちこちがうすれてはいたが、信仰と心のやさしさと宮廷生活の壮麗なことがたたえられていた。
僧院での最初のころは退屈するどころか、心やさしい尼さんたちといっしょに暮らすのが楽しかった。尼さんたちは彼女を慰めるため礼拝堂に連れて行った。そこからは長い廊下をつたって、食堂に行けた。彼女は遊び時間にもほとんど遊ばず、教理問答をよく勉強した。それで司祭様のむずかしい質問に答えられるのは、いつも彼女に限られていた。教室の暖かな雰囲気の中で銅の十字架のついたロザリオを身につけた心の清い尼さんたちにかこまれて暮らし、彼女は、祭壇の芳香、聖水盤のさわやかさ、大ろうそくの火などがかもし出すあの神秘的なものうさの中でまどろみを続けた。彼女はミサに参列せず、本の中の青い縁どりのしてある聖画に見いった。彼女が気に入っていたのは悩める子羊、鋭い矢のささっている主の心臓、十字架をかついで歩みつつよろめきたもう主・イエズス・キリストの絵だった。彼女は苦行に一日中食事抜きで過ごそうとしたり、何か果たすべき誓いはないかと思いをめぐらした。
告解《こくかい》〔罪をざんげし、告白すること〕するときには、このうす暗い中にひざまずき、長いこと手をあわせ、顔を告解格子に向け、司祭のささやきを聞きたいばっかりに、ちょっとした罪を犯したという話を作り上げた。お説教の中で繰り返しいわれる婚約者や夫、天の恋人や永遠の結婚といったたとえは、彼女の心の奥底に予期せぬ喜びをかき立てた。
夕方、礼拝の前に宗教書講読が自習室で行なわれた。一週間は、聖史の概略と、フィレシヌス〔ナポレオン時代、政治、宗教界で大活躍した大司教〕の『法話集』、日曜日には、骨休めに『キリスト教精髄』のうちの数節が使われた。最初はなんどうっとりして彼女は、この地上と永遠界のすべてのこだまに答えるロマン派の憂鬱《ゆううつ》の、響きのよい嘆きに聞きほれたことだろう! もし彼女が商店街の店の奥で幼年時代を過ごしたとすれば、そのときは自然界の叙情的な滲透に身を任したことだろう。これは普通、作家の筆ではじめてわれわれに伝えられるものなのだ。しかし、彼女は田舎を知りすぎるほど知っていた。羊の群れの鳴き声も、乳しぼりも耕作も知っていた。静かな明け暮れに慣れているために、逆に荒々しさを好んだ。海が好きなのは嵐があるからだし、草木の緑が好きになるのは、それが廃墟《はいきょ》にちらばっているときに限られた。物事から、自分の利益になるものだけを取り出すことが彼女にとって必要なことだった。自分の心がすぐに燃え上がる、そういうことに役立たなかったものはなんでも捨ててしまった。彼女は、芸術家的であるよりも感傷的で、風景よりも情緒を追い求める性質だった。
僧院に毎月一週間ほど、下着を作りにくる老嬢がいた。大革命によって落ちぶれた古い家柄の貴族の出だというので、大司教から庇護《ひご》され、食事のときには尼さんと同じ席にすわり、食後、仕事にとりかかりに二階に行く前に尼さんたちとちょっとした世間話をした。時々、寄宿生はそっと自習室を抜け出ると、彼女に会いにいった。彼女は古い昔の粋《いき》な小|唄《うた》をおぼえていて、仕事を続けながら小声でうたってくれた。彼女はお話をしてくれ、世間の噂《うわさ》を教えてくれたが、町で用足しもしてくれたし、上級生にはいつもエプロンのポケットにしのばせてある本をこっそり貸してくれ、自分自身も仕事の合い間に長い章をむさぼり読んでいた。それは、恋、恋する男女、寂しい離れで気を失うまで責めさいなまれる貴婦人、宿場に着くごとに殺される馭者《ぎょしゃ》、ページをくるたびに乗りつぶされる馬、ほの暗い森、悩める魂、愛の誓い、すすり泣き、涙とキス、月下の小舟、木立ちでさえずるナイチンゲール、ライオンのように気高く、子羊のごとく優しく、徳は人並みはずれ、いつも身だしなみがよく、しかも涙もろい騎士の話にきまっていた。十五の年の六か月というもの、エンマは古い貸し本屋のこんなほこりで手をよごしていた。その後、ウォルター・スコット〔「湖上の美人」「アイヴァンホー」などで著名なイギリスの作家〕に手を出すと同時に歴史的事柄に熱中し、中世の衣裳だんすやら、番小屋や吟遊詩人に憧れた。長い胴衣を着、尖塔の三葉飾りの下で石の上にひじをつき、あごに手をやって、白い羽根飾りをつけた騎士が野原の向こうから黒駒に乗って駆けつけてくるのを日がな一日待っているお姫様のように、どこかの古い館に住みたいと思った。当時彼女は、メリー・スチュアートを崇拝し、有名な、それとも、不運な女性たちに対して熱狂的な尊敬の念を払っていた。ジャンヌ・ダルク、エロイーズ、アーニェス・ソレル、モナ・リザ、美女フェロニェール、クレマンス・イゾール〔いずれも薄幸の美人。アーニェス・ソレルはシャルル七世の寵姫。ボーテの君ともいわれている。美女フェロニェールはフランソワ一世の愛妾。イゾールは十四世紀南仏ツールーズにいたといわれている貴夫人〕などは、彼女にとっては、歴史の奥深い闇《やみ》の中から彗星《すいせい》のように、浮かび上がって見えた。樫《かし》の木陰の聖ルイ王、瀕死《ひんし》のバイヤール将軍〔ルイ十二世などにつかえた武人〕、ルイ十一世〔在位一四六一〜八三。王権拡大や王領伸張のためにはいかなる手段をもじさなかった最も中世的な王〕の残虐行為のかずかず、聖バーテレミーの虐殺のいくつかの光景、アンリ四世の帽子の羽根飾り、そしてルイ十四世をたたえた絵皿のいつもの思い出などがそれぞれ互いに少しの関連もなく、ここかしこ闇の中に前よりもぼんやりと浮かんでくるのだった。
音楽の時間に、エンマがうたう歌曲は、金の翼を持った小さな天使、マドンナ、ヴェニスの入江、ゴンドラの船頭等であった。これらのおだやかな曲は、文句はくだらなく、節回しはへんだったが、彼女に感情の世界の魅力的な変幻自在の姿をかいま見せた。友人のうちには、新年の贈物にもらった本を僧院に持ち込んだ者もいた。隠しておくのが一仕事だった。みなは寝室で読んだ。サテンでできた美しい製本をそっと手でなでながら、本の一番下にたびたび伯爵《はくしゃく》だの子爵《ししゃく》だのと印されている名も知らぬ作者の名まえを、彼女はまぶしいものでも見るような目つきで見つめるのだった。
彼女はふうっと息をふきかけてさし絵にかかっている薄紙を持ち上げては身をふるわせた。薄紙は半ば折れて浮き上がり、しずかにページの上に落ちた。それは、バルコニーの手すりのむこうで短いマントを着た若い男が、腰に網細工の袋を下げ、白い衣をつけた娘を腕に抱いているのやら、あるいは丸い麦わら帽をかぶった金髪をカールしたたくさんのイギリス婦人が大きな澄んだ瞳《ひとみ》でこちらを見ている無名の肖像画だった。そのなかのある女は公園の中をすべるように進んで行く馬車にこれ見よがしに乗っていて、白いズボンをはいた二人のかわいい馭者《ぎょしゃ》がトロットで走らせている二頭の馬の前にはグレーハウンドが飛び跳《は》ねていた。また他の女は、開封した手紙をそばに置き、夢見る目つきでじっと月を眺めていた。半ば黒いカーテンで覆われていた窓は半開きになっていた。あどけない娘たちは頬を涙でぬらしながらゴチック調の鳥籠の棧《さん》の間から雉鳩《きじばと》にキスしたり、首を肩にかしげて微笑《ほほえ》みながら爪先が尖《とが》っている靴のように先細りの、尖った指で雛菊《ひなぎく》の花弁《はなびら》をむしっていた。そこには亭《あずまや》で舞姫に身をもたせかけ、陶然となりつつ長パイプでタバコをふかしているサルタンたち、異教徒たちがおり、トルコ剣、ギリシア帽があった。そしてとくに酒池肉林的な国々の柔らかな光あふれる風景画があった。それはしばしば一度に、ヤシの木、樅《もみ》の木、右手に虎《とら》、左手にライオン、地平線のかなたにはダッタン人の尖塔、前景にはローマ式の廃墟、その後にはラクダの群れを見せてくれた――この全体は洗ったようにきれいな前人未踏の森にかこまれ、水面には真上からさす日の光が揺れ、灰色のはがねのような水底には、ときどき泳ぎ回る白鳥の影が、かすり傷のように白く浮かび上がっていた。
エンマの頭の上の壁につるしてあるケンケ灯〔ケンケ氏の製作にかかるランプで、軸の両側に心と灯油入れとがある〕の笠《かさ》が、世の中のすべてこうした情景を描いた絵を照らし、それが目の前を一つまた一つと物音一つしない寝室の中を通り過ぎて行った。遠くからまだ大通りをかけて行く帰りそびれた辻馬車の音がした。
彼女の母が死んだとき、はじめてエンマは泣けるだけ泣いた。彼女は形見の髪で哀悼《あいとう》の絵模様を作らせ、ベルトーに送った手紙に人の命のはかなさに対する悲しい思いを書きつらね、後になって私が死んだら同じ墓に埋めてほしいと書き送った。ルオーじいさんは娘が病気になったのかと思い、見舞いにやってきた。エンマは、凡人には思いつきもしない青白い現実の類いまれな理想に一きょに到達できたと感じて心の底ではうれしかった。こうして彼女はラマルティーヌふう(感傷的な)の心の迷いに身をゆだね、湖上の竪琴《たてごと》、瀕死《ひんし》の白鳥の歌、枯葉の音、天に召されて行くけがれない乙女、谷間に向かってお説教をする永遠なる天のみ声などに耳を傾けた。彼女はやがてそれにあきたが、すぐにほうり出そうとはせずに、惰性《だせい》で、つぎには虚栄心から続けていたが、しまいにはその気分がうすれて行くのを知って驚いた。だが、顔にしわがないように心の悲しさなどもはや消えていた。エンマが生まれながら信仰に篤《あつ》い娘だと早合点していた尼さんたちはルオー嬢が彼女らの力の及ばない所にいるのを知って驚いてしまった。それで、彼女におつとめや修業、九日間の祈祷《きとう》、説教をおしまずやらせ、聖人や殉教者を尊敬するようにすすめ、肉体の節制と魂の救済を忠告した。そのためかえって手綱《たづな》で引っ張っている馬のように彼女は、急に立ち止まったとたんに、轡《くつわ》がはずれてしまった。熱狂しやすい性質である反面、実際的な彼女の心情は、花があるから教会を、唄《うた》の詞《ことば》が好きだから音楽を、情熱的刺激をそそるから文学を愛していたのに、宗教の教義に対しては懐疑的になり、同様に何かしら自分の性質に合わない規律にはいらだった。ルオーじいさんが娘を寄宿から引き取りにきたときに、彼女の去るのを惜しむ者はひとりもいなかった。僧院長などは、エンマはこのごろでは修道院を侮蔑《ぶべつ》していると思っていた。
エンマは家に帰った当座、雇い人に命令するのがうれしかった。だが、すぐに田舎にいや気がさし、僧院生活がなつかしくなった。シャルルがベルトーにはじめてきたときには、世の中に自分は幻滅しているから、もうなにも得ることも感じることもないだろうと思っていた。
しかし、新しい生活への不安、あるいは男の存在によってかきたてられる胸のときめきは、今までただバラ色の羽をした鳥のように、詩的なすばらしい空を舞うだけのためにあるものだと思っていた、あのまばゆい情熱をとうとう自分は抱いたのだと思わせるに十分だった。それが今になってみると、彼女の生活のおだやかさが彼女の望むあの幸福であるとはどうしても思えなくなるのだった。
七
ときどき彼女はこれでも生涯のうちでもっとも楽しいときなのか、いわゆる新婚時代なのかと思った。その楽しさを満喫するには、おそらく名を発音してみても耳ざわりのいいあの国々へ旅行するべきだった。そこでなら結婚の翌日のとろけるようなけだるさもなおいっそう快いことだったろう。馬車に乗り、青い色の絹のカーテンの陰に身を落ち着け、きりたった山道をゆっくりのぼっていく。山羊《やぎ》の鈴の音と共に山にこだまする馭者《ぎょしゃ》の歌声とにぶい滝の音が聞こえる。日没になると、入江のほとりで、レモンの木の匂いをかぎ、夜は別荘のテラスに、二人っきりで、指をからませ合わせ、これからの生活について話し合いながら星を眺めるのだ。土地を選んで生《は》え、他の土地では枯れてしまう植物があるように、幸福を生み出す特定の場所があるのだと彼女は思った。なぜ彼女はスイスの山小屋ふう別荘のテラスに肱《ひじ》をつくことが、あるいはなぜスコットランドの瀟洒《しょうしゃ》な別荘にとじこもって悲しみにひたりきることができないのだろう。そしてそばに裾《すそ》の長いビロードの上着を着て、山高帽をかぶり、柔かい皮靴をはき、カフスをつけた夫がいないのはなぜだろう。
おそらく、彼女はこういった胸のうちをだれかに話したかったのだろう。だが、雲のように姿を変え、風のように通り過ぎて行くいわれない焦燥《しょうそう》をなんと説明したらいいのかわからなかった。彼女は言葉にも、機会にも大胆さにも恵まれていなかった。
しかしもし、シャルルがその気持ちをわかろうとしてくれたなら、こちらを思いやってくれたなら、たったの一回でも、彼のまなざしが彼女の気持ちを受けとめてくれたなら、ちょうど手をふれれば落ちるとり入れごろの果物のように、たちまちに不意におそってくるいわれない思いも雲散霧消してしまっただろう。しかし、二人の生活が軌道に乗るにつれ、内的隔絶が生まれ、彼と彼女をいっそう遠ざけることになった。
シャルルの話すことばは通りの歩道のように平坦で、意見といえばそこいらの人びとと変わりなく、ありきたりで、熱情をかきたてることも笑い出すことも、夢想にふけることもなかった。ルーアンに住んでいる間、パリの芝居を見に行こうという気さえなかったと彼はいった。彼は水泳もフェンシングも、ピストルの射ち方も知らなかった。彼は、エンマが小説で読んだ馬術用語を聞いても、説明できなかった。
男というものは、まったくその反対でなんでも知り、多種多様なスポーツに秀《ひい》で、熱情を傾けることにも、洗練された生活の仕方にも、どんな秘密でも教えてくれるものではなかろうか? なのに、あの人はなんにも教えてくれない。なにも知らないし、なにも望まない。あの人はわたしが幸福なのだと思っている。それで彼女は、このように安閑と暮らしていることに、のどかにどっしりと構えていることに、その上、彼をしあわせにしてやっていることに腹を立てた。
彼女は、ときには絵を描いてみた。シャルルにとっては、じっと立って、妻の作品をよく見ようと目を細めてみたり、親指でパンくずを丸めたりしながら、エンマがかがみこむようにして絵を描いているのを眺めるのは大きな楽しみだった。ピアノをひけば、指が動くのが早ければ早いほど感心した。彼女は鍵盤《けんばん》を落ちついてたたき、高音から低音までとぎれることなく、ひきまくった。このようにひくと、窓をあけておけば、線のゆるんだこの古いピアノの音は、村はずれまで聞こえた。ときには、通りかかった執達吏《しったつり》の書記が書類を手にしたまま、立ち止まって聞いていることもあった。
一方、エンマは家政のほうにもおこたりなく、うまく切りもりし、患者には請求書とは思えないほど婉曲《えんきょく》な文面で勘定書を送った。日曜日に近所のだれかを夕食によんだ。そんなとき、彼女はしゃれた料理をくふうし、ブドウの葉の上にすももをピラミッド形に積み上げるこつをおぼえ、壺《つぼ》のジャムをお皿に入れて出した。そのうえデザート用にフィンガー・ボールを買おうと思っているとさえいった。こういったことはすべてボヴァリー先生の評判を高めることになった。
シャルルはしまいには、このような妻を自分が持っているのは、自分が偉いからだと思うようになった。彼はエンマが木炭で描いた二枚のクロッキーを大きな枠に入れさせ、壁に緑の長いひもでつるし、広間で客に得意になって見せた。ミサ帰りの人びとはとても立派《りっぱ》なつづれ織のスリッパをはいて戸口に立っている彼を見かけるのだった。
ときどき、シャルルの帰りは十時か十二時になった。するとすぐに食事をしたがった。女中がもう寝ているので、エンマがお給仕をした。彼はフロックコートをぬぎ、くつろいで食べた。そしてそれからそれへと今日《きょう》はだれに会ったの、どこの村へ行ったの、どんな処方|箋《せん》を書いたのとしゃべりまくり、自分で自分に満足し、シチューの残りを食べ、チーズを切り、リンゴをかじり、卓上びんを空《から》にしてベッドについた。あおむけにひっくりかえると、すぐにいびきをかき出した。
長いことナイトキャップをする習慣だったので、絹のネッカチーフは耳にうまくとまっていなかった。髪も、朝になると顔がバラバラに乱れかかり、羽根まくらのひもが夜のうちにとけてしまうので、毛で髪がまっ白になっていた。彼はいつも頑丈な靴をはいていた。それは足首からくるぶしに向かって深いヒダが二本はいり、残りの甲の部分は木型がはいっているかのようにつっぱっていた。田舎ではこれで十分だと彼は言っていた。
彼の母親は、彼のこういう倹約に賛成していた。彼女は家でちょっと争いが激しくなると、昔のように避難しにやってきた。が、彼女は嫁に対してははじめから悪感情を抱き、嫁が「分に過ぎるほど贅沢《ぜいたく》だ」と思った。というのは薪でも、砂糖でもろうそくでもまるでご大家のようにどんどんなくなったからである。これだけ火をおこしていたら、二十五人分の料理ができるのに! 彼女は下着類を整頓して戸棚に入れ、肉を持ってきたら、肉屋に目をひからすことを教えた。エンマはその教えをだまって聞いていると、それからそれとボヴァリー老夫人は注意した。一日中、「娘や」という言葉や、「お母様」という言葉が聞こえ、やさしい言葉がかわされていたが、その声は怒りにふるえていた。
デュベック夫人の時代には、まだ自分のほうが息子に愛されていると思っていた。が、現在では息子のエンマに対する愛が強いため、自分が見捨てられるのではないか、自分の持ち物を横取りされるのではないかと思った。そこで彼女は、破産した人がかつての自分の家で食事をしている人々を窓越しに眺めるように、息子の幸福を寂しそうに黙って見守った。思い出の形で、自分のした苦労や犠牲を話し、それとエンマの勝手なやり方とをひきくらべて、あんなにエンマを夢中になって可愛《かわい》がるのはおかしいじゃないかという話にもっていった。
シャルルは返答するすべを知らなかった。彼は母をうやまい、妻をこよなく愛していたからだ。そこで母の意見はもっともと思い、妻のいい分を聞けばそれも無理からぬことだと思った。ボヴァリー老夫人が帰ってしまうと、彼はおそるおそる、母親のいった文句のうちで二、三のあたりさわりのないことを、同じ言葉を使って切り出した。エンマは一言でそれをはねつけ、患者のもとに彼を追いやった。
しかし、彼女は、自分の正しいと信じている方法に従って、恋に身をゆだねたいと思った。庭で、月の光を浴び、思い出せる限りの情熱的な詩を吟じてみたり、訴えるような調子で憂鬱《ゆううつ》な緩徐調《アダジオ》を夫にうたいかけてもみた。だが、自分は前と同じに平和に暮らしているし、シャルルはそれで前より熱烈になったり、心動かされたとも見えなかった。
彼女は夫の心にちょっと火打ち石を打ってみたが、そこからは火花をほとばしらすこともできなかった。そして、きまった型で示されてないものを信じられないし、体験しないことは理解できないので、エンマは苦もなくシャルルの情熱には激しいところが少しもなくなってしまったのだと納得した。夫が愛情をほとばしらすことは定期的になり、ある特定の時刻に彼女を抱くだけになった。それはいろいろの習慣の一つであって、ちょうど単調な夕食後の、前もって知っているデザートのようなものだった。
先生の治療で肺炎がなおった狩場番人が奥様にといってイタリー種のかわいらしいグレーハウンドの雌を贈ってくれた。彼女は犬を散歩に連れて行った。一人きりにちょっとなりたかったし、それに変わりばえのしない庭やほこりっぽい道路を見るのにはあきあきしていたために彼女はよく外出した。
彼女は野原のかたわらにあり、お館の壁の隅にある住む人もない亭《あずまや》のそばにあるバンヌビルのぶな林まで行った。堀の中には、種々の雑草と混ざって触れれば手の切れる長い芦《あし》がおい茂っていた。
彼女はまずあたりを見回し、この前きたときと変わりないかと調べた。同じ場所にジキタリスやニオイアラセイトウが咲き、小石のまわりにはイラクサが茂り、三つの窓に沿って苔《こけ》が群生していた。窓の鎧戸《よろいど》はいつもしまっていたが、さびた鉄の棧《さん》の上でくさってぼろぼろになっていた。彼女の考えは、はじめはあてもなく、偶然に浮かび上がった。それはちょうどグレーハウンドが、野原を駆け回り、黄色い蝶《ちょう》をほえたり、麦畑のへりのひなげしをかみかみ、地鼠《じねずみ》を追いかけたりするのに似ていた。それから、しだいにエンマの考えは焦点を定め、芝生に腰を下ろし、日|傘《がさ》の先で芝生を掘りかえしながら、こう繰り返すのだった。
「ああ、なぜあたしは結婚なんかしてしまったのかしら」
彼女は別のめぐり合わせで、もっと別の男と会う方策はなかったものかと思い、実際には起こらなかったそういう出来事を、違った生活を、自分の見知らない夫を想像してみた。実際、世間の夫は彼女の夫とは異なっている。美しく、才知に富み、上品で魅力あふれる男が自分の夫であるかもしれない。修道院での友だちの結婚した相手はきっとそういう人だろう。今、友だちは何をしているだろう? 都会で、通りの音、劇場のざわめき、舞踏会の光に包まれ、楽しく、酔いしれて暮らしているのだ。それなのに彼女の生活は、北向きの天窓のついている屋根裏部屋のように寒々しく、倦怠《けんたい》は心の隅々にまるで物言わぬ蜘蛛《くも》のように巣をめぐらしている。彼女は賞状授与式の日を思い起こした。小さな冠をいただきに階段を上って行った日を! あの日、髪をお下げにして、白い服《ドレス》を着て、黒い毛織の靴をのぞかした様子はかわいらしかった。そして先生のほうは、席に戻ってくると身をかがめてお祝いをいってくださった。学校の庭は四輪馬車でいっぱいだった。みな、馬車のドアから彼女にお別れの挨拶《あいさつ》をしてくださった。音楽の先生はバイオリンのケースをかかえ、おじぎをしながら通って行った。遠いことだ! みんな遠いことだ!
彼女は小犬のジャリを呼び、膝の間に入れ、上品な長い鼻先をなでてやり、話しかけた。
「さあ、キスしておくれ。おまえには悩みがないんだねえ」
それから、のんびりあくびをしているこのほっそりした動物の憂鬱《ゆううつ》そうな顔つきを眺めては感動し、自分と比較しては、悩める人を慰めているように犬に大声で語りかけた。
ときどき海から突風がコー地方の高原を一時に吹きまくり、この高原の奥深くまで塩からい香りを運んできた。い草は地面におおいかぶさり、ぶなの木の葉はちぢに乱れ、いつも揺らいでいる柏の木はガサゴソと大きな音をたてた。エンマは肩にショールをしっかりかけ、立ち上がった。
道すがら、木の葉を映した緑の日の光が、たけの短い苔《こけ》を照らし出していた。苔は彼女の足もとに静かな音をたてた。日没だった。木の間がくれの空は赤々と輝やき、まっすぐに植わった並木の同じような幹は、褐色の円柱となって、金色の背景から浮かび上がって見えた。彼女は恐怖にとりつかれ、ジャリを呼んだ。大通りを通ってトストに急いで帰ってくると、くずれるように肱掛《ひじかけ》椅子にすわった。その晩、彼女は一言も口を開こうとしなかった。ところが、九月の終わりごろ、彼女の生活に一大事件が起きた。ヴォビエサール〔実名エロン。ルーアンの北東〕のダンデルヴィリエ侯爵邸に招かれたのである。
侯爵は王政復古のときには国務大臣を務めていたが、また政界に返り咲かんと前から国会議員への立候補を準備していた。冬には、薪を大量にくばり、県会では、口から泡《あわ》をとばし、いつも郡のために道をつけろと要求していた。その侯爵が夏の盛りに口におできができたのを、シャルルがたまたまうまい時機に切開して奇跡のようになおしたことがあった。治療代を支払いにトストにきた執事が、夕方になって家に帰り、医師の所にすばらしい桜んぼがなっていたと話した。ヴォビェサールでは桜んぼのできが悪かった。侯爵はボヴァリーに挿《さ》し枝を少々分けてもらい、自分でお礼をいうべきだと思ってやってきた。エンマを知り、なかなか姿もよいし、百姓女らしからぬ挨拶もすると思った。この若夫婦をよんだところで礼儀の範囲を越えるわけでもないし、うかつだとも思われないだろうと考えた。
ある水曜日の三時、ボヴァリー夫妻は「小型馬車《ボック》」に乗り込み、ヴォビエサールに向けて出発した。大きなトランクをうしろにゆわえつけ、帽子の箱を前に置き、おまけにシャルルは、両足でボール箱をはさんでいた。
二人は日も暮れて、馬車を照らすために庭にあかりをつけ始めたころになって到着した。
八
邸はイタリアふう近代建築で、前に張り出した翼が二つ、階段が三つついており、ひろびろとした芝生の裾に広がっていた。いろんな種類の巨木の間で牛が草を食《は》み、籠《かご》型に刈った灌木《かんぼく》、シャクナゲ、バイカウツギ、肝木《かんぼく》などが、曲がりくねった砂利《じゃり》道に沿って、大小さまざまな緑の茂みをこんもりとふくらませていた。川が橋の下を流れていた。霧を通して、平原に点在しているわらぶき屋根が見えた。平原は森におおわれたなだらかな二つの丘で縁どられ、後方の茂みの中には古いこわれた邸の名残りの車庫と馬小屋が並んで建っていた。
シャルルの小型馬車はまん中の階段の前で止まった。すると下男が姿を現わし、侯爵が進んできて医師の妻に腕を貸し、玄関に招じ入れた。
玄関は大理石が敷きつめてあり、天井が高くて、人の足音や話し声が教会のように鳴り響いた。正面はまっすぐ階段となり、右手は庭に面し、玉突き部屋に通じる廊下となっていた。そして戸口に立てば、象牙《ぞうげ》の玉を突く音が聞こえた。エンマがサロンに行こうと廊下を通って行くと、ゲームをかこんでいるいかめしい顔つきの男たちが見えた。人びとは高く結び上げたネクタイの上にあごをのせ、みな勲章《くんしょう》をつけ、静かに笑ってキューを突いていた。壁の黒ずんだ羽目板の上に大きな金縁の額がかかっていた。その縁の下には、黒文字で名まえが書かれてあった。彼女が読んでみると、「ジャン=アントワーヌ・ダンデルヴィリエ・ディヴェルボンヴィル。ラ・ヴォビエサール侯爵にしてラ・フレネー男爵。一五八七年十月二十日、クートラ戦役にて没」と書いてあり、もう一方は、「ジャン・アントワーヌ=アンリ=ギィ=ダンデルヴィリエ=ド=ラ=ヴォビエサール。海軍大将。サン=ミッシェル勲章|佩用《はいよう》者。一六九二年五月二十九日、ラ=ウーグ=サン=ヴァースト戦役にて負傷。一六九三年一月二十三日、ヴォビエサールにて没」となっていた。そのほかのものは読みづらかった。というのは、玉突き台の緑色のラシャを照らすようにできているランプの光は部屋にはただ影をただよわすばかりだったからである。横に並んでいる油絵を褐色に染め、光りはワニスのひびにそって細い線となって絵を映していた。それで金色で縁どりされたこの黒い大きな四角形のすべてから、そこここで、絵の中でもっとも明るい部分、青白い額、こちらをまっすぐ見つめている二つの目、赤い衣服の肩に髪粉を降らせて広がるかつらだとか、まるまるとしたふくらはぎの上についている靴下止めの止め金などが浮き出していた。
侯爵はサロンの扉をあけた。大ぜいの婦人の中から一人の婦人が(侯爵夫人自ら)エンマを迎え自分の近くの長椅子に腰掛けさせ、まるで昔からの知人とでもいうように親しげに話しかけた。この婦人は年のころはおよそ四十くらい、美しい肩を持ったわし鼻の人で、元気のない話し方をした。その晩は、栗色の髪に、背中へ三角にたらしている糸レースの簡単なスカーフをかけていた。金髪の若い婦人がそばの背の高い椅子に掛けていた。殿方は、みな上着のボタン穴に小さな花をさし、暖炉をかこんで婦人たちと話し合っていた。
夕食は七時に始まった。殿方の人数が多かったので玄関に置かれた第一テーブルに、婦人たちは侯爵夫妻といっしょに食堂の第二テーブルについた。
エンマが食堂にはいると、花の香り、すばらしいテーブルクロスやナプキンの匂い、肉の匂い、松露《しょうろ》の香りなどの入り混じった、ムッとする暑気が押し寄せてくるのを感じた。柄つき燭台《しょくだい》のろうそくは銀のおおいの上で炎をならべ、湯|気《げ》でくもったカット・グラスは青白い光を反射してきらめいていた。花束はテーブルの長さいっぱいに一列にならび、広縁の皿には、七面鳥の尾のように折られたナプキンが置いてあり、その二つの折り口のそれぞれに卵形のパンがはいっていた。伊勢えびの赤い足は皿からはみ出て、すかし編みのかごには、苔を敷いた上に多量の果物がピラミッド型に積み上げてあった。うずらは羽根つきで、湯気が上がっていた。そして絹の靴下をはき、半ズボンに白いネクタイといういでたちの給仕頭が、裁判官のようないかめしい顔つきで客の肩越しにあらかじめ切ってある料理をさし出し、スプーンをたくみに使って好みの肉をさっと取り分けてくれた。銅の飾りで縁どった陶器のストーブの上には、あごまでひだのついた服をつけた女の像がじっと客のたて込んでいる部屋を眺めていた。
ボヴァリー夫人は、数人の婦人がワイン・グラスに手袋を入れていない〔手袋を入れるのは酒を断るしるし〕のに気づいた。
一方、婦人たちの間に混じって上席には、大盛りのお皿に身をかがめ、子供のように背中でナプキンをゆわえつけている一人の老人が、口からソースをだらしなくこぼしながら食べていた。老人の目は血走って赤く、髪を弁髪《べんぱつ》にして、黒いリボンでゆわえていた。この老人は侯爵の舅《しゅうと》、ラヴェルディエール老公であり、コンフラン侯のヴォードルイユで狩りの会がもよおされたころには、アルトワ伯〔後のシャルル十世〕のお気に入りの人物で、噂《うわさ》ではコワニーとかローサン〔ともにルイ十六世に仕えた将軍〕などとともにマリー・アントワネット妃〔ルイ十六世の妃〕の恋人だったという人物であった。決闘、賭け事、奔放な女で色どられた放蕩三昧《ほうとうざんまい》の日を送り、財産を使い果たし、一族をふるえ上がらせた人物であった。彼の椅子の後ろに召使いが立ち、回らぬ口でしゃべりながら指さす料理の名を大声で耳もとから告げていた。エンマのまなざしは何か珍しく尊いものでも見るように、絶えずこの唇のたれ下がった老人にひとりでに戻ってしまうのだった。このかたは宮廷生活をなさったのだ! そして女王様のベッドでおやすみなされたのだわ!
氷で冷やしたシャンペンが出された。エンマは口にその冷たさを感じると、全身をふるわせた。彼女はざくろの実を見たことも、パイナップルを口にしたこともなかった。粉砂糖でさえ、よそのより白く、より細かく見えた。
食後、婦人たちはダンスの身支度をしにめいめい部屋に引き上げた。
エンマは初舞台の女優さながら、特別念入りにお化粧した。髪結いのいうとおりの髪型にし、ベッドに広げてあるバレージュ織のドレスに身を包んだ。シャルルのズボンは腹を締めつけた。
「足止めがきつすぎて踊りにくいな」と彼はいった。
「踊るおつもり?」エンマが聞き返した。
「そうさ!」
「まあ、あなたどうかなさったのじゃなくて? 笑われましてよ。だからじっとしていらっしゃいまし。そのほうがお医者様らしくてよ」と彼女はつけ加えた。
シャルルは黙ってしまった。そして部屋を歩き回り、エンマが身支度を終えるのを待った。
彼は、後ろから、二本の燭台の間に立っている鏡に映るエンマの姿を見つめた。目はいつもより黒く見えた。髪はまん中で分け、耳にかけてふくらましてあったが、青白い光に輝やいていた。髷《まげ》に挿したバラの花が葉の先に光る人工の露をのせ、ゆらいでいる茎の上でかすかにふるえていた。彼女のドレスは淡いサフラン色で、三束の緑の葉をつけた南京《ナンキン》バラの花束でアクセントをつけてあった。
シャルルは彼女の肩にキスした。すると、
「ああ、やめて、しわになるわ!」と彼女は怒った。
バイオリンの前奏とホルンの音が聞こえてきた。彼女は駆け出したいのをぐっとおさえて、階段を下りた。
カドリールが始まっていた。人が集まってきて、押し合っていた。エンマはドアのそばの長腰掛に席を占めた。
カドリールが終わると、広間の床があいたので、殿方たちはいくつものグループになって立ち話を始め、召使いたちは大きな皿を持ち込んできた。腰掛にすわった婦人たちの列では絵扇が動き、胸に挿した花束の陰に笑顔がのぞく。香水の金栓《きんせん》が半ば開いた手の中で回されていた。その白い手袋は指の型がくっきり見え、手首の肉を締めつけていた。レース飾り、ダイヤモンドのブローチ、ロケットのはいった腕輪が、胴にふるえ、胸にきらめき、むきだしの腕に鳴っていた。額にぴったりなでつけ、うなじで束ねた髪には、輪にしたり、房にしたり、または小枝のままで、忘れな草、ジャスミン、ざくろの花、麦の穂だとか矢車菊を挿していた。どっかり席に腰を落ちつけ、しかめっつらをした母親たちは赤いターバンをつけていた。
踊りの相手が彼女の指先を持って、一列に並び、踊りはじめのバイオリンの音が聞こえてくるのを待っているとき、エンマの心ははずんだ。だが、やがてその興奮もおさまった。オーケストラのリズムに乗り、軽く首を振り振り、足をすべらした。ときどき、他の楽器が鳴りをひそめ、バイオリンだけがデリケートな旋律をかなでると、彼女の唇はほころびて微笑を浮かべた。横のテーブルのラシャの上にルイ金貨が軽い音をたてて投げ出されるのが聞こえた。それから一時に全奏にもどり、コルネットが重々しい音をたてた。するとまた、拍子をとって踊りだし、スカートがふくれ、軽く触れあい、手と手を組んではまた離れ、目もまた伏目になったかと思うと、こちらをじっと見つめていた。
二十五から四十くらいまでの年配の(およそ十五人ばかりの)男たちの中には、踊り手に混じっているのもあり、戸口の入り口で立ち話をしている者もあるが、年齢、身だしなみ、顔つきはいくらか違っていたが、人群れの中にいると、同族だと思える共通の振舞いで目立っていた。
彼らの服は他の人のより仕立てがよく、生地もずっとしなやかに見え、こめかみにかけてウェーブした髪も、上等なポマードを塗って光らしてあるように見えた。彼らは金持ちらしい青白い顔色だった。その白さは陶器の白さ、しゅすの光沢、立派な家具のニスなどによく引き立ち、健康のために上等なものをごくわずかに口にする習慣による白さだった。首はゆるく結んだネクタイの上で楽に回り、長い頬ひげは折り返った襟《えり》の上にたれ、頭文字を大きく刺繍《ししゅう》したハンカチで唇をふくと、甘い香水の匂いがした。老年期にはいりかけた人々には若さが感じられ、かえって青年には老成したところが見られた。彼らの冷淡な視線《まなざし》には欲情を日ごとに満たしているためによる落ちつきが見受けられた。そのもの柔らかな物腰を通して独特のあらっぽさがすけて見えたが、それは乗馬だとか、あばずれ女とつき合うといった、さしてむずかしいとはいえないがけっこう体力もいるし、虚栄心の満足にもなる種類の事がらをお手のものにしていることからきていた。
エンマから三歩ばかり離れた所に、青い服を着た一人の男が、真珠の装身具をつけた顔色の悪い娘とイタリアの話をしていた。二人はサン・ピエトロ寺院の円柱の太さや、チボリ、ヴェスビィオス火山、カステルラマール温泉だとかカシーネの遊歩場〔フィレンツェにある〕、ジェノアのバラや月下のコロセウムをたたえていた。エンマはもう一方の耳でわけのわからない言葉が不断に飛び出してくる会話を聞いていた。先週、「ミス・アラベル」と「ロミュラス」〔どちらも競走馬の名〕をまかし、溝を跳び越えて賞金二千ルイを勝ちとったというまだごく若い男を一同は取りかこんで話し込んでいた。ある者は自分の馬がふとって困るといい、またある者は自分の馬の名が誤植のおかげでへんてこになったとぼやいていた。
舞踏場の空気はよどみ、ランプの光もぼけてきた。玉突き場に引き上げる者もいた。召使いが椅子に乗って窓ガラスを二枚たたき破った。そのこわれる音にボヴァリー夫人が振り向くと、窓格子にとりついて庭からこちらをのぞいている百姓の顔を認めた。すると、すぐにベルトーの思い出がよみがえった。
農場、泥深い沼地、りんご園にたたずむ仕事着を着た父の姿、そして昔のように、搾乳《さくにゅう》場で鉢《はち》いっぱいにはいった牛乳から指でクリームをすくい取っている自分の姿を思い浮かべた。しかし、現在のこの光に照らされると、今まであれほどはっきり映っていた過去の生活は瞬《またた》く間に姿を消し、ほんとうにそんな暮らしをしたのかと疑うほどだった。彼女はじっと立ちつくしていた。そして舞踏場は闇だけになり、あたり一面に広がった。そのとき、彼女はめっきした銀の貝型皿を左手に持って、桜酒入りアイスクリームを食べた。そして匙《さじ》をくわえたまま、目を細く閉じた。
そばにいた婦人が扇を落とした。一人の男が通りかかった。
「あの、ごめんあそばせ。私の扇、拾っていただけませんかしら? 長椅子のうしろなんですけれど」とその婦人がいった。
紳士は身をかがめた。腕をのばそうとしていると、その婦人が紳士の帽子に、三角にたたんだなにか白い物を投げ入れるのをエンマは見た。紳士は扇を拾い上げ、うやうやしく婦人にさし出した。婦人はお礼に軽い会釈《えしゃく》をして、花束をかぎ始めた。
多量なスペイン酒、ライン酒、アマンドの乳液入りの濃厚スープ、トラファルガー・プディング、皿の中でふるえているジェリーをまわりにつけた各種冷肉などの出た夜食のあとで、馬車が三々五々帰り始めた。モスリンのカーテンの隅をあけると、馬車のランタンがしだいに闇に溶けてゆくのが見えた。ベンチにも人影が少なくなり、賭け事をしている人が数人まだ残っていた。楽士たちは舌に指先をあてて冷やしていた。シャルルは戸にもたれて居眠りしていた。
午前三時にお別れのコチヨン〔舞踏の一種〕が始まった。エンマはワルツは踊れなかった。ダンデルヴィリエ嬢も、侯爵夫人まで加わって、みんな踊った。この時間まで残ったのはおよそ十二人くらいで、邸に泊まっていく客だけだった。
ところが、みなからくだけた調子で、「子爵」と呼ばれ、胸元を広くあけ、からだにぴったりとあうチョッキを着た踊り手の一人が、うまくリードするから大丈夫だといって、ボヴァリー夫人を再び誘いにきた。
二人ははじめはゆっくりと、ついで速く踊り始めた。二人は回った。まわりのものが、ランプも家具も天井もなにからなにまで軸を中心に回る円盤のようにまわっていた。扉のそばを通り過ぎるとき、エンマの服の裾《すそ》がズボンにまとわりつき、足がからみ合った。相手はエンマを見おろし、彼女は彼を見上げた。彼女は気が遠くなって立ち止まった。二人はまた踊りだした。今までより速いテンポで子爵は彼女を引っぱって行き、廊下の端に二人は姿を消した。エンマは息をはずませ、今にも倒れそうになり、彼の胸に頭をもたせかけた。やがて、あいかわらず旋回して、しかし、ずっとゆるやかに踊り、子爵は彼女を席にもどした。エンマは壁に背をもたせかけて、片手で目をおさえた。
目をあけると、サロンの中央の腰掛けにすわった一人の婦人が、前に三人の踊り手をひざまずかせていた。婦人は子爵をえらんだ。バイオリンがまた鳴り始めた。
みなはこの二人を注目した。二人は行きつ、戻りつした。婦人は身体を動かさず、つねに同じ姿勢で身をそらし、肱《ひじ》をまるめ、唇を前につき出していた。この婦人こそはワルツの名手だった! 二人は長いこと踊り、みなをあきあきさせた。
それからもうしばらく雑談をした。そして、おやすみの、というよりは朝の挨拶をして、邸に泊まる人々は寝室に引き上げた。
シャルルは手すりにつかまって階段を上った。膝が「胴にめり込みそう」だった。彼は五時間もぶっ続けにゲーム台前に立ちつくしたまま、わけもわからずホイスト遊びを眺めていた。だから、長靴をぬいだときには、ほっと大きな吐息をついた。
エンマは肩にショールをかけ、窓を開いて肱をついた。
まっ暗な夜だった。小雨だった。彼女は冷たい空気を吸い込んでまぶたを冷やした。ダンス音楽がまだ彼女の耳に聞こえていた。彼女はもうすぐあきらめなくてはならないこの甘い生活の幻を長びかせようと努めて、眠るまいとした。
夜が白《しら》んできた。彼女は長いこと邸の窓を見つめ、昨晩会った人々のやすんでいる部屋はどれだろうと考えてみた。彼女はあの人たちの生活を知り、そこにはいり込み、混ざってしまいたかった。
だが、彼女は寒さにふるえていた。彼女は服をぬぎ、毛布にくるまり、眠っているシャルルに身をよせ、ちぢこまった。
昼食には人が大ぜい集まった。食事は十分で終わった。食後のリキュールが出なかったので、医師は驚いた。食後、ダンデルヴィリエ嬢はパンくずをかごに集め、池の白鳥にやりに行った。みなは温室まで散歩した。温室には毛を逆立てた奇妙な植物がピラミッド型に重なり、その上には、巣からはみ出た蛇《へび》のように長いひも状の根が縁からもつれ出ている植木鉢が吊《つ》り下げてあった。奥にあるみかん畑からは邸の一角まで渡り廊下が通じていた。侯爵は医師の新妻をもてなすために馬小屋に連れて行った。かご型の秣棚《まぐさだな》の上には、陶器に黒々と馬の名が示されていた。馬を通りすがりにあやすと仕切りの中でうれしがって動いた。馬具置き場の床はサロンの寄せ木の床のように光っていた。馬車用馬具一式はまん中にある二本の回転柱に掛けられ、轡《くつわ》、鞭《むち》、鐙《あぶみ》、轡鎖は壁に一列にならべてあった。
一方、シャルルは召使いに彼の小型馬車に馬をつけてくれとたのんだ。召使いが馬車を玄関先まで引き出し、荷物をすっかり詰め込んでしまうと、ボヴァリー夫妻は侯爵ならびに侯爵夫人にお礼をいい、トストへと帰って行った。
エンマは黙り込んでわだちの回るのを眺めていた。シャルルは座席の隅にすわり、腕を思いきり広げて馭者《ぎょしゃ》をつとめていた。小馬は、そのからだには大きすぎる梶棒の中で側対歩《アンブル》で走った。たわんだ手綱が馬の尻にあたり、馬の汗にぬれた。馬車に綱でしばりつけてあるトランクが車体にあたり、同じ間隔で大きな音をたてていた。
ティブールヴィルの丘〔ヴォビエサール近郊の丘〕に登ったときに、二人の目の前に、忽然《こつぜん》と、笑いさざめき、口には葉巻きをくわえた乗馬姿の一団が現われた。エンマは子爵を見かけたと思い、振り返った。だが、彼女には速歩《はやあし》、あるいは駆歩《かけあし》の歩調のままに上り下りする頭だけが、はるかかなたに見えるだけだった。
そこから一キロ行った所で切れた尻帯を綱で繕《つくろ》うため馬を止めた。
シャルルは馬具の仕上げを点検すると、馬の足の間になにか地面に落ちているのに気づいた。それは青い絹でぐるりを縁取った葉巻き入れで、まん中に四輪馬車の扉のように紋章がうってあった。
「おまけに葉巻きが二本はいっている。今夜、食後に一服やるか」と彼がいった。
「あなたたばこをおすいになるの」と彼女はたずねた。
「時と場合によってはね」
彼はその宝物をポケットにしまい込み、小馬に鞭をかけた。
夫妻が帰ってきてみると、まだ夕食の支度がしてなかった。奥様はカッとなった。ナスタジーは平然といい返した。
「出て行っておくれ。人をばかにして! おまえにひまをやります!」とエンマはどなった。
夕食はオニオン・スープにスカンポを添えた子牛の肉だった。シャルルはエンマと差し向かいにすわり、ご満悦の様子でもみ手をしながらいった。
「やっぱり家はいいなあ」
ナスタジーの泣き声が聞こえてきた。シャルルはこのかわいそうな女がちょっと好きだった。彼女は、昔、やもめ暮らしのつれづれに、幾夜も幾夜も話相手になってくれた。また、彼のはじめての患者でもあり、ここの一番の古なじみだったのである。
「君、ほんとうにひまを出したの?」としまいに彼は聞いた。
「ええ。それがどうかしましたの?」と彼女が答えた。
二人は、ナスタジーが寝室の用意をしている間、台所で暖をとった。シャルルは葉巻きを吸い始めたが、口をとがらせ、始終つばを吐き、一吹きするごとに尻込みするといったすい方だった。
「気持ちが悪くなりますわよ」とつっけんどんにエンマがいった。
彼は葉巻きを置くと、ポンプの所へ走って行き、冷たい水をいっぱい飲み込んだ。エンマは葉巻き入れをつかむと、いきなり戸棚の奥にしまい込んだ。
その翌日の一日の長かったこと! 彼女は庭を歩き回り、同じ小道を行ったりきたりし、花壇の前に、果樹|墻《しょう》の前に、石膏の坊さんの像の前に足をとめ、あれほどよく、昔から見知っている物を仰天《ぎょうてん》して見つめるのだった。舞踏会がなんと昔のことに感じられたことだろう! おとといの朝と今日《きょう》の晩とでは、なんでこんなにも差があるのだろう。ヴォビエサールへの訪問はちょうど嵐が、たった一夜で山中に大きな亀裂を作ってしまうように、彼女の生活に穴をあけた。しかし、彼女はあきらめた。彼女はたんすに美しいイヴニングからしゅすの靴にいたるまでうやうやしくしまい込んだ。靴の裏は床の滑りをよくするためのワックスで黄色にそまっていた。彼女の心もそれと同様で、贅沢《ぜいたく》さに染まって消えることのない何物かが残った。
この舞踏会を思い出すことがエンマの日課になった。毎週、水曜日がめぐってくると、朝、目ざめると同時にこういうのだった。「ああ、一週間前には……二週間前には……三週間前には、わたしはあそこにいたのだ!」いつしか、彼女の思い出の中で人びとの顔は混ざり合い、カドリールの調子も忘れてしまった。もうはっきりとはおしきせを着た召使いや部屋部屋の様子を思い浮かべることもできなかったし、細かいことは消えうせてしまった。だが、やるせない思いは消えなかった。
九
シャルルが外出すると、エンマはよくたんすからたたんだナプキンの中にしまい込んでおいたあの絹の葉巻き入れを取り出した。
彼女は見つめ、蓋《ふた》をあけ、クマカズラとタバコの匂いの混ざった裏蓋《うらぶた》の匂いまでも嗅《か》ぐのだった。これはだれのだろう? 子爵様のだわ。きっと恋人から贈られた物だ。そのかたが紫檀《したん》の刺繍《ししゅう》台の上でお刺しになったのだ。だれにも見せない可愛い刺繍台。でき上がるまでに長時間かかり、その上に物思いにふける人の柔らかい巻き毛がたれかかったことだろう。恋の吐息がこの布地の目の間を通りぬけたのだ。刺す針の一目一目に希望とか思い出が刺し込まれているのだ。その上この交錯しあった絹糸はみな同じ黙った人の情熱にほかならないのだ。それから、子爵様はある朝、これを持ってお出かけになった。大きな縁のついた暖炉の上の、数個の花|瓶《びん》とポンパドール・スタイル〔ルイ十四世の寵妃で、美貌のほまれ高かったポンパドール夫人の名をとったあでやかなスタイル〕の置時計の間にこの葉巻き入れが置いてあったとき、二人は何を語り合ったことだろう? 彼女はトストにいる。それなのに今、子爵様はパリに遠くのパリにいらっしゃる! パリとはどんな所だろう? なんと大きな感じの名まえだろう。彼女は小声でその名を繰り返し呼んでは楽しんだ。その名は、彼女の耳には大寺院の鐘の音のように鳴り響き、ポマードのびんのレッテルに書かれていても輝いて見えるのだった。
夜、漁師が馬車に乗って窓下を「マヨラナの花」を歌いながら通り過ぎて行くと、目をさまし、輪だちの音に耳をすました。その輪だちの音は町はずれにくると、土の道になるので急に聞こえなくなった。
「あの人たちは、明日《あす》はパリだわ」とエンマは思った。
彼女の頭の中で、彼らの後ろについて、丘を登っては下り、村を横切り、星明かりの街道を走った。果てしなく走った末、いつもどこにいるのかはっきりとはわからない所に着くのだ。そこで彼女の夢はしぼんでしまうのだった。彼女はパリの地図を買い、指で地図の上をたどり、都じゅうを駆け回った。町角で、道筋と道筋の間を、家を示す白い四角の前に立ち止まっては大通りを上って行った。しまいに目が疲れると、まぶたを閉じ、風にゆらめくガス灯の灯、大きな音をたてて、劇場の正面列柱の前で下ろされる馬車のステップなどを闇の中に見るのだった。
彼女は婦人新聞の「籠」や「サロンの精」をとって読んだ。彼女はすみからすみまで読んで、芝居の初日、競馬、パーティーに関する記事などはかならず読んだ。また、新人歌手のデビューや商店の開店などもおもしろかった。彼女は最近のモードやら一流洋裁店の所番地やら、ブローニュの森やオペラ座のにぎわう日を知っていた。ウージェーヌ・シュー〔フランスの通俗作家。主著「パリの神秘」〕の小説では、家具の描写に注目し、バルザックやジョルジュ・サンド〔フランスの女流小説家。「魔の沼」「愛の妖精」などの傑作を書いた〕を読んでは、彼女の欲望を満たす空想の糧《かて》を求めた。食卓にも本を持ち込み、シャルルが話をしているというのにページを繰った。子爵の思い出をいつも本の中に引き入れ、作中人物として考えた。子爵を中心にした円はしだいに拡大し、他の夢を照らし出すために、子爵の持っていた後光は彼の頭から離れ、遠くまで広がった。
とにかくエンマには、パリは大洋より広く、赤色のもやの中で光り輝いていた。しかし、この喧騒《けんそう》の都でうごめいている数々の生活は部分に分けられ、はっきりした区分けができていた。エンマはそのうちの二、三しか知らなかった。それが残り全部を隠してしまい、それだけで人類全体を代表していた。大使の社会では人びとは鏡をはめ込んだサロンで、金縁をつけたビロードの布をかけた卵形のテーブルをめぐらしながら、ピカピカに磨いた床の上を歩いていた。そこには裾の長いドレスを着た人びと、大きな秘密、微笑の奥に秘められている不安などがあった。その次は公爵夫人の社会だ。そこでは一様に青白い顔で、お目ざめは午後の四時。婦人たちはあわれにもペチコートの裾までイギリス・レースをつけ、紳士たちは、くだらない外見にあたら才能をうもれさせ、遠出をするたびに馬を乗りつぶし、夏はバーデン・バーデン〔ドイツの有名な温泉地〕に出かけ、四十歳になって、ようやく財産のある娘と結婚するという社会だ。夜中過ぎに夜食を出すレストランの別室では、文士や女優の混然一体となった一団がろうそくの光の下で笑いさざめいていた。文士たちは王侯貴族のごとく金を使い、夢のような野心と異様な熱狂に満ち満ちていた。彼らは、天と地の間で、他から抜きんでた存在であり、この世の嵐の中ではなにか崇高なものであった。その他の社会といえば、はっきりとした居場所もなく、存在してもいないようであった。一方、物事が身辺にあればあるほど、エンマの考えはそれからそれていった。彼女を現在取りまいているもの、退屈な田舎、ばか者ぞろいの町の人びと、単調な生活などは、世の中では一つの例外、あるいはたまたま自分が捕われた特別な偶然であって、この生活のかなたには、限りなく幸福と情熱の世界が広がっていると思うのだった。彼女は自分の欲望の中で、贅沢《ぜいたく》によって得る官能と心の喜びを混同し、習慣による優美さと繊細な感情の動きとを混同していた。インド産の植物のように、愛情にも、あらかじめ用意された土地と特別な気温が必要ではないだろうか? 月下の吐息も長い抱擁《ほうよう》も、はなしたばかりの手にかかる涙も、肉の悶《もだ》えも恋の悩みも、静けさに満ちた大邸宅のテラスや、分厚いじゅうたん、絹のカーテン、花でいっぱいの花籠、上段の間にベッドを置いた部屋や宝石の輝き、召使いのおしきせについている飾りひもなどと切り離して考えることはできなかった。
毎朝、馬の手入れをしにきてくれる宿場の小僧が大きな木靴をはいたまま廊下を歩いていた。その仕事着は穴だらけだった。これがわが家の半ズボンの馬丁で、これに甘んじてもらわねばならないのだ! その仕事がすむと、その日はそれで帰ってしまう。というのは、シャルルは帰ってくると、自分で馬小屋に入れ、鞍《くら》をはずし、綱をつけたし、女中もわら束《たば》を運んできて、なんとか秣桶《まぐさおけ》に投げ込んだからである。
ナスタジーと交代に(ナスタジーもついには泣く泣くトストから去って行った)、エンマは孤児でやさしい顔をした十四になる娘を雇い入れた。彼女は娘に木綿《もめん》の頭布《ずきん》をかぶるのを禁じ、よそのかたとお話しするときには「あなた様」とおっしゃいといい、水を持ってくるときにはコップをお皿にのせること、部屋にはいろうとするときにはノックをすること、その他アイロンのかけ方、糊つけ、着付けの仕方を教え、自分の小間使いにしようとした。新しい女中はひまを出されないように文句をいわず、ハイハイと従った。が、奥様がいつも戸棚の鍵《かぎ》をそのままにしておかれるので、毎晩フェリシテは砂糖を少し盗み出しては、お祈りをすましてからこっそり食べた。
午後になると、ときどき彼女は向かいの馭者《ぎょしゃ》の所におしゃべりをしに行った。奥様は二階のご自分の部屋にこもりっきりだった。エンマは胸を大きくあけた部屋着を着ていた。その襟元《えりもと》からは上着のショール襟が見え、それからは金ボタンが三つついたタックのあるブラウスがのぞいていた。部屋着の帯は大きな房のついた打ちひもだった。暗紅色の小さなスリッパには広幅のリボンの房がついており、それが足首まで覆《おお》っていた。彼女は手紙を書き送る相手もいないのに、吸取紙やら、便箋やら、ペン軸やら、封筒までも買いこんだ。本棚にはたきをかけ、一冊の本を取り出しては、行間に夢をはせ、本を膝に取り落としてしまうのだった。旅行するか、あるいは修道院生活をまた送りたいと思った。同時に死んでもみたかったし、パリにも住んでみたかった。
シャルルは雨の日も、雪の降る日も休みなく間道に馬を駆った。農家でオムレツをご馳走《ちそう》になり、腕をしけった寝床の中につっ込み、顔は刺絡〔治療のため静脈を切って一定量の血を取り去ること〕のなま暖かいしぶきをあび、患者のあえぐ声を聞き、金だらいの中を検査し、きたないシャツのそでをよくまくり上げた。けれど晩になれば、炎をあげて燃えさかる暖炉の火や、食べるばかりに準備のできたテーブルや、柔らかい椅子、そのうえ、みだしなみのいい妻が彼を待っていた。妻は美しく、さわやかな香りがした。それはどこから匂ってくるのか、それともシュミーズに移り香したのかと思われる、みずみずしい匂いだった。
エンマは数々の洗練された趣味で彼を魅了した。あるときは新たな方法で紙のろうそく立てを作ってみたり、ひだ飾りをドレスにつけてみたり、あたりまえの料理にごたいそうな名をつけてみた。シャルルは、そんな料理を、たとえ女中が作りそこねても喜んで平らげた。エンマはルーアン市で婦人たちが懐中時計に飾りを束にしてつけているのを見た。そこで彼女も飾りを買った。マントルピースの上に青ガラスの大きな花瓶を二つ置きたがるかと思うと、しばらくすると今度は象牙の針箱と金メッキした銀の指貫《ゆびぬき》をほしがった。シャルルはこういった気のきいたものがとんとわからなかっただけに、よけいにその魅力を感じた。そういった物は感覚の喜びと炉辺の楽しさになにものかを加え、彼の生活の小道にどこまでも散りまかれた、いわゆる金の真砂《まさご》であった。
彼は至極元気で、顔色もよかった。世の中の彼に対する評価もすっかり固まってきた。えらそうな顔をしないから、百姓にも人気があり、子供は可愛がるし、酒場には足を踏み入れようとせず、そのうえ、身持ちがいいときているので人びとから信用された。とくに、カタル性炎症と胸部疾患がうまかった。その実は、患者を殺すのがこわくて、鎮痛剤かときには吐剤の服用、足湯、瀉血《しゃけつ》をすすめるのが関の山だった。とはいえ手術をこわがっていたわけではなく、刺賂するときには、馬のようにたっぷり取ってくれたし、抜歯にはばか力をふるった。
それから、彼は「世の流れに乗って行くため」、「医学|論叢《ろんそう》」の予約を申し込んだ。これは見本を送ってきた新刊の雑誌だった。彼はこの雑誌を夕食後ちょっと読むのだが、部屋は暖かいし、おまけに腹もきついことだしで、五分もすると居眠りを始めた。あごを両手にのせ、髪の毛は鬣《たてがみ》のようにランプの台の所までなびかせたままもう動かなかった。エンマは肩をすくめて彼を眺めていた。せめて、夜を徹して本に埋もれて過ごし、ようやく六十歳、リューマチにかかる年ごろになってはじめて、できの悪い燕尾服《えんびふく》に十字の勲章掛けをつける、そんな黙々とした情熱の持ち主が夫であるならばどんなにうれしいだろう! 彼女はこのボヴァリーという名が、自分の姓が有名になってほしかった。それが本屋の店頭を飾り、新聞紙上に毎日書きたてられ、フランスの津々浦々まで知れ渡ってほしいと思っていた。しかし、シャルルには野心はひとかけらもなかった。最近、診療に立ち合ったイヴトーの医師が、患者が臨終だというのに、その枕辺《まくらべ》に集まった人びとを前にしてシャルルに少しばかり恥をかかせた。その晩、シャルルがその話をしてやると、エンマは大声でその医師に罵声《ばせい》を浴びせかけた。シャルルはそれを見て感激し、涙を流して彼女の額にキスした。しかし、彼女は恥ずかしさにいらだち、なぐってやりたいと思った。彼女は廊下に出て、窓をあけ、冷たい空気を吸い込んで心を静めようとした。
「なんて情けない人、情けない男なんでしょう!」と彼女は唇をかみながら小声でいった。
その後、彼女はますます夫にいらいらした。年とるにつれ、夫の動作はにぶくなってきた。食後に空《あき》びんのコルクの栓《せん》をナイフで切ったり、舌で歯をほじくってみたり、スープを一口飲むたびに喉をならし、生まれつき小さい目は、頬が太るにつれ、こめかみのほうへつり上がっていた。
エンマは、ときどき、夫のジャケットの赤い縁をチョッキの中へ折り込んだり、ネクタイを直してみたり、夫がはめようとしている色のあせた手袋をそばに投げたりした。しかし、これはシャルルの思っているように、彼のためにやっているのではなかった。それは自分のため、自尊心を満足させるため、神経がいらだつためであった。今でもときどき、彼女は、読んだもの、小説の一節だとか、新作の芝居、文芸欄で読んだ「上流社会」の秘話などを夫に話して聞かせた。とにかく、夫はいつも喜んで話に耳を傾け、すぐにも合い槌《づち》の打ち役になった。彼女はよく犬に打ち明け話をした! 彼女は暖炉の薪や時計の振り子にまで打ち明けかねなかった。
しかし心の底では、事件が起こるのを待ち望んでいた。難破した水夫のように、彼女は孤独な生活に絶望の目をそそぎ、靄《もや》でかすんだ水平線のかなたに、白い帆影を捜し求めた。その偶然はどういうものか、それを自分の所まで運んでくるのはどこから吹いてくる風であるのか、そしてどこまで連れて行ってくれるのか、ランチなのか三層デッキの巨船なのか、舷窓《げんそう》まで積んであるのは苦しみなのかしあわせなのか彼女にはわからなかった。それでも毎朝、目がさめると、今日《きょう》こそはと願い、物音に耳をすまし、跳《は》ね起きるのだが、それがこないのに失望した。毎日、日暮れにはますます悲しくなり、明日《あす》に望みをかけるのだった。
春がまためぐってきた。梨《なし》の花がほころぶと、春さきの暖かさにエンマはたびたび、息苦しさを感じた。
七月の初めから、彼女は十月になるまであと何週間あるのか指折り数え、ダンデルヴィリエ侯爵はまた、ヴォビエサールで舞踏会をきっと開くだろうと思った。しかし九月は一枚の手紙も舞い込まず、訪問客一人訪れるでなく、過ぎて行った。
失望の苦《にが》さを味わった後、彼女の心は新たに、虚《うつろ》になり、ついでまた単調な明け暮れが始まった。
こうして今やひとつながりの日々がいつも同じように、なにももたらさずに続いて行くのだろうか! 他の人たちの生活には、たとえそれがどんなに平坦なものであっても、事件の起こるチャンスはある。ときには、あるできごとが限りなく激変を生み、背景が一変するものだ。しかし、彼女にはなにも起こらなかった。神様のおぼしめしなのだろう! 未来はまっ暗の廊下で、その奥には戸がしめたててあった。
彼女は音楽をやめてしまった。ひく必要がどこにあるというのだ。だれが聞いてくれるというのだろう? 短い袖のついたビロードのドレスを着て、演奏会で、エラール〔フランスの一流ピアノ及びハープ製造業者〕のピアノに向かい、象牙のキーを軽くたたきながら、陶酔のささやきがまわりで、そよ風のようにかわされるのを感じることができないのなら、どうして苦労して練習することがあるだろう。彼女は戸棚にデッサンの紙ばさみや刺繍《ししゅう》をしまい込んだ。なんになるのだろう? そんなことをしてどうなるのだ? 裁縫もいらいらした。
「なにもかも読んでしまった」と彼女は思った。
そして火箸《ひばし》を赤く焼いたり、雨が降るのを眺めていた。
日曜日に、晩鐘が鳴ると、彼女はどんなに寂しかったことか。彼女は、ぼんやりひびのはいった鐘の音が一つずつ鳴るのを聞いていた。家々の屋根をのろのろ歩いているどこかの猫《ねこ》が入り日に背をまるめていた。街道を吹き抜けて行く風がいくすじも塵《ちり》をまい上げていた。ときどき、犬の遠|吠《ぼ》えが聞こえた。鐘の音は、同じ間隔を置いて単調に鳴り続け、野原に響き渡っては消えていった。
そのうちにみなが教会から出てきた。光った木靴をはいている女、新しい上着を着ている男、そして帽子なしで彼らの前を飛びはねている子供たち。みなが家路をさして帰って行った。ただ、日暮れまで、五、六人の常連たちが居酒屋の大きな戸口の前に残り、コルク倒しをして遊んでいた。
その年の冬はきびしく、毎朝、ガラス窓には氷花《ひばな》が咲いた。そのおかげで、陽《ひ》の光も、すりガラス越しに見たときのようにうすかった。ときには、そのまま一日中続くこともあった。午後の四時には、もうランプをつけねばならなかった。
晴れた日には、エンマは庭に下りた。露がキャベツに下りて銀のレースをかけ、その美しい長い糸が次から次へと広がっていた。鳥の声も聞こえず、すべての物が眠りこんだようだった。垣《かき》にはわせた果樹にはわらがかけてあり、ぶどうなどは塀《へい》の笠《かさ》石の下では、のたうちまわる蛇《へび》と見えた。しかし、近づいて見ると、足のたくさんついたわらじ虫が無数にうごめいていた。垣根のそばのつがの林には、教務日課を読んでいる三角帽の神父さまの右足が欠け、そのうえ、あまりの寒さに石膏がはげ落ちたため、顔に白いあばたができた。
それからまた二階に上がっていき、戸をしめきり、火をかきたてた。暖炉の暖かさに気がくじけ、ますます重く倦怠《けんたい》感がのしかかってくるのを感じた。できれば降りて行って女中と話をしただろうが、気おくれして、尻込《しりご》みしてしまった。
毎日、同じ時間に絹の黒い縁なし帽をかぶった小学校の先生が自分の家の鎧《よろい》戸をあけ、畑にパトロールに行く巡査が百姓っぽい上着にサーベルを下げて通った。朝晩、宿場の馬が三頭ずつ道を横切って沼へ水を飲みに行った。ときどき、居酒屋の戸の鈴が鳴った。風があると、床屋が看板がわりに使っている真鍮《しんちゅう》の金だらいが二本の金棒と摩擦し合うきしんだ音が聞こえてきた。この床屋の飾りというのが、ガラスに張ってある古いモードの絵とろう細工でできている金髪の乙女の胸像であった。床屋の親方も、行く先のきまった商売を、見込みのない将来を悔い、たとえば、ルーアンのような大都市の港のそばか、劇場の近くに、なにがしかの店を開くことを夢想していた。彼は一日中、暗い顔つきをして、役場から教会までの道を歩き回り、そうして客を待っていた。ボヴァリー夫人が目を上げると、灰色の帽子を目深にかぶり、羅紗《らしゃ》の上着を着込んだ彼の姿が、見張りに立つ歩哨《ほしょう》のようにいつもそこにあった。
午後になると、ときどき広間のガラス窓の向こうに、陽《ひ》に焼けた顔の、頬《ほほ》ひげの黒い男が姿を見せ、白い歯を見せてはのどかにほほえんだ。やがて、ワルツが始まり、手回しオルガンの上にある小さなサロンでは、人の指ぐらいの踊り手が、バラ色のターバンをまいた婦人や、モーニング・コート姿のチロルの人たちや、黒の燕尾服を着た猿《さる》や、短いズボンをはいた紳士たちが肱掛椅子、長椅子、渦《うず》形の足をした小さなテーブルの間をくるくる舞っていた。その姿が、金紙を細く切って角角をつなぎ合わせた鏡の中にうつっていた。男は、右や左の窓をながめながらハンドルを動かしていた。ときどき、男は車よけの石に遠くから茶っぽい痰《たん》を吐きとばし、楽器を膝で持ち上げた。それは楽器の負い革《かわ》がきつく肩にくいこむためであった。その木箱の音楽は、あるときはもの悲しい単調な調べで、あるときは明るくはずむテンポで、唐草の真鍮の鈎《かぎ》に掛けてあるバラ色のタフタの幕の向こう側から低く聞こえてきた。この曲は他の所、劇場で聞く曲、サロンでうたう曲、夜になって明るいシャンデリアの下で踊る曲であり、エンマの所まで聞こえてくる社交界の木霊《こだま》であった。サラバンドの曲が彼女の頭の中で果てしなく鳴り響き、彼女の思いは、じゅうたんの花模様を踏んで舞うインドの舞姫のように、曲の調べに合わせて踊り、夢想から夢想へ、悲想から悲想へと揺れ動いた。男はほどこし物を帽子で受け取り、ぼろになった青い羅紗のカバーをかけると、手回しオルガンを背負い、とぼとぼと遠ざかって行った。彼女はその姿を見送っていた。
とくに、エンマががまんできなかったのは一階の小さな部屋での食事のときだった。くすぶっているストーブ、音を立ててきしんでいる扉《とびら》、汗をかいている壁、じとじとしている石畳。生活の苦しさが皿に盛られているように思えた。ゆでた牛肉から湯気が立ちのぼるのを見ると、心の底から、それとは違った胸の悪くなるような湯気が立ち上った。シャルルは時間をかけて、ゆっくり食事をした。エンマのほうははしばみの実を少しずつかじったり、肱《ひじ》をついて、手持ちぶさたにナイフの先で油布に筋をつけたりした。
今では、彼女は家事をなげやりにした。ボヴァリー老夫人がトストに四旬節〔復活祭前の四十六日間の精進期間のこと〕の二、三日を過ごしにやってきたときに、この変わりようにあきれはててしまった。かつてはあれほど細かいところまで気を配り、あれほど趣味のよかったあのエンマが、実際、今では、なん日も着替えをしなかったり、木綿の灰色の靴下をはいたり、裸ろうそくをともしたりした。彼女は繰り返し、うちは金持ちじゃないのだから節約しなくてはといい、さらに、わたしは満ちたりています、しあわせ者です、トストの町が気に入りました、だのと言い、姑《しゅうとめ》があきれて物もいえなくなるような、今までとうって変わった口のきき方をした。それに、エンマはもう人の教えなど聞こうとしなかった。ただ一度、ボヴァリー老夫人がおそるおそる、主人というものは召使いの信仰に気を配っていなければときり出すと、おこった目つきをし、ぞっとするような笑いを浮かべたので、老夫人はそれには触れないことにした。
エンマは気むずかしくなり、移り気になった。自分だけに別の料理を命じておきながら、さじをつけてみようともせず、ある日は一日中牛乳ばかり飲んでいるかと思うと、次の日には茶を十二杯も飲んだ。頑固《がんこ》に外に出ないとがんばったかと思うと、息苦しいといって窓をあけたり、うすい服を着た。女中にガミガミどなったと思うと、プレゼントをしたり、近所に遊びにやったりした。同様に、生来情け深い性質ではないのに、それに他人の感情に染まりやすいほうでもないのに貧しい人のために財布の底をはたいたりすることもときにはあった。百姓の子に生まれたものは、だれでも親爺《おやじ》の手のひらの≪たこ≫みたいなものを心の底にとどめているものなのだが。
二月の末ごろ、ルオーじいさんが全快祝いに婿《むこ》の家に立派《りっぱ》な七面鳥を自分でとどけにきて、トストに三日|逗留《とうりゅう》した。シャルルは患者があるので、エンマが話し相手になった。じいさんは部屋の中でタバコをふかし、薪架《たきぎか》につばを吐きかけ、野良《のら》のこと、子牛のこと、牝牛のこと、鶏や村会のことまでしゃべった。じいさんが帰って行くと、ほっとして家の戸をしめた。そんな自分に彼女は我ながら驚いてしまった。そのうえ、なにに対しても、だれに対しても軽蔑《けいべつ》の念を隠そうともせず、ときには変わった意味をいい、人がよしと認めているものもまちがっているといい、不正なことや不道徳なことをいうようになった。これにはシャルルもまいってしまった。
このみじめな気持ちはずっと続くのだろうか? そこから抜け出ることはできないのだろうか。自分は幸福に暮らしている人たちとくらべたって、決してひけをとらない女なのに! ヴォビエサールで侯爵夫人を見たが、あの人たちのからだつきもわたしよりなよやかというわけではなし、物腰だって品があるというわけではなかった。彼女は神の不公平をのろい、壁に頭をもたせかけて泣いた。彼女ははなやかな生活をうらやみ、仮面の夜を、ひそやかな快楽を、それらが与えてくれる彼女のまだ体験していない狂熱をうらやんだ。彼女は青白くなっていき、動悸《どうき》がした。シャルルは鹿子《かのこ》草とカンフル浴を処方した。あらゆる治療もますます彼女をいらだたせた。
ある日は熱にうかされたようにしゃべりまくったかと思うと、突然、その興奮がしずまって、無気力な状態がくる。一口もしゃべろうとも、動こうともせず、じっとしていた。そんなときに彼女を元気づけるのは、腕にオーデコロンを一びんぶん吹きかけてやることだった。
たえず彼女がトストの悪口をいうので、シャルルはきっとなにかこの地方独特のものが病気の原因なのだろうと思った。それにきめこんでしまい、彼は真剣に転地することを考え始めた。
その後、彼女はやせるために酢《す》を飲み、軽い力のない咳《せき》をし、本当に食欲をなくしてしまった。
四年もいて、「やっと社会的地位も確固となりかかった」のに、トストを離れることはシャルルにとって大打撃だった。でも、それしかないのだ! 彼はエンマをルーアンに連れて行って、旧師に相談した。旧師は、これは神経性のものだから転地がよかろうと教えてくれた。
ほうぼう調べた結果、シャルルは、ヌシャテル郡にヨンヴィル・ラベイという大きな村があり、そこの医者はポーランドからの亡命者で先週引き上げたばかりだということを聞いた。そこで彼は村の薬剤師に手紙を出し、人口はどれぐらいなのか、一番近くの医者までどれぐらい離れているか、前の先生の年収などを問い合わせた。返答は満足できるものだったので、もしエンマの健康がまだ回復しないのなら、春ごろ引越ししようときめた。
ある日、引っ越し準備のために、引き出しの中をかたづけていると、なにかで指を突いた。それは彼女の結婚の花束についている針金だった。オレンジの蕾《つぼみ》はほこりをかぶって黄ばみ、銀の縁どりをしたサテンのリボンも縁がほつれていた。彼女はそれを暖炉に投げ入れた。それはかわいたわらよりすばやく燃え、灰の上で赤い茂みとなり、しだいに崩《くず》れ落ちていった。彼女は燃えるのを眺めていた。ボール紙の小さな実は音をたてて裂け、真鍮の針金は曲がりくねり、打ちひもはとけた。紙の花冠はちぢくれ、暖炉の鉄板に沿って黒い蝶《ちょう》のようにゆらいでいたが、ついには煙突から飛び去った。
トストを三月に立ったとき、ボヴァリー夫人は妊娠していた。
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第二部
一
ヨンヴィル・ラベイの村はルーアンから三二キロ、アブヴィル街道とボーヴェ街道の間にあり、リェール川が流れている谷間の奥にあった。この川は小さな川で、合流点近くで風車を三台回し、やがてアンデル川に注いでいた。この辺では虹鱒《にじます》がいるので、日曜日には、子供たちが釣をしていた。
ラ・ボワシェールで街道を離れ、平坦《へいたん》な道をつたって、レ・ルーの丘の頂まで出ると、谷間が開ける。谷を貫通している川がはっきり外観の異なる二つの地域に谷を分けている。左岸全体は牧場、右岸は畑となっている。草原はなだらかに続く丘陵の下まで伸びていき、その先はブレー地方の放牧地となっている。一方、畑は東のほうでしだいに高くなって広がり、見渡すかぎり黄金色の麦畑が続いている。草原の裾《すそ》を流れる川が白線となって緑の牧場の色と黄色の畑の色とを区切っている。こうしてこの平野は銀の打ちひもで縁どった緑のビロード襟《えり》のついた大きなマントを広げたように見えた。
下ってみると、地平線の後方にアルグイユの森の柏《かしわ》の木や、サン・ジャンの丘のきりたった斜面が目の前に見えた。この斜面には上から下へ不ぞろいの赤い細長い筋が幾本も見えた。この筋は雨がうがったものであり、灰色の山|肌《はだ》にくっきり映《は》えているレンガ色は、近接地域で鉄分を含んだ鉱泉がたくさん湧いているためである。
ここは、ノルマンディ、ピカルディ、イル・ド・フランスの三つの州が境を接している地域で、風景が個性的でないのと同様、言葉にもなまりがなかった。ここはこのあたりではもっともまずいヌシャテル・チーズの産地であり、砂利と小石だらけの不毛の土地をこやすには肥料がたくさんいるところから、農業もここでは金がかかった。
一八三五年までは、ヨンヴィルへ行くのに道らしい道など一本もなかった。このころになると「村道」が作られ、アブヴィル街道とアミアン街道を結び、ときどき、荷車引きがルーアンからフランドル地方〔ベルギー西部、フランス北部、オランダ南西部を含む地方〕へ行くのにこの道を通った。しかし、ヨンヴィル・ラベイは「新しい出口」ができたのに、旧態依然として、農業改良に乗り出すどころか、今では価値が半減している牧畜にしがみついていた。それで、この無精《ぶしょう》な村は牧場には手をつけず、自然と、川に向かって広がっていった。そのために遠くから見ると、川辺で昼寝している牛飼いのように川岸沿いに長々と寝そべっているように見えた。
丘の麓《ふもと》で橋を渡ると、ポプラの若木を植えてある土手道が始まり、村はずれの家並みまでまっすぐ伸びている。家々は生垣《いけがき》をめぐらし、中庭には圧搾場《あっさくば》だとか荷車置場だとかブランデー蒸溜場だとかが茂った木立ちの陰に散在している。木の枝にははしごや竿《さお》やかまが掛けてある。わらぶきの屋根は、目深《まぶか》にかぶった毛皮の帽子のように、低い窓のほぼ三分の一までかぶさっている。ふくらんだ厚いガラスは、ちょうど酒びんの底のようにこぶがついている。黒い梁《はり》受けを斜めに渡してある漆喰《しっくい》の壁には、か細い梨《なし》の木がところどころからんでいる。一階では戸口に回転|柵《さく》があり、りんご酒に浸したパンのかけらを敷居のところまで、漁《あさ》りに来るひよこが中にはいれないようにしてある。村の中へはいっていくとしだいに庭は狭くなり、家と家とがくっつき、垣根もなくなっている。窓の下につるしてあるほうきの柄の先にしだの束が揺れている。蹄鉄《ていてつ》屋の店だ。その隣は車大工で、二、三台の新品の荷車が外の通りまではみ出している。鉄柵越しに、一軒の白い家が現われる。その家の向こうは、指を唇にあてているキューピット像が置いてある丸芝の庭となっている。鋳物のかめが二つ石段の両側にあり、扉には楯《たて》形の表札がきらめいている。これが公証人の家であり、ここでは一番|立派《りっぱ》な家である。
教会は、そこから二十歩ほど行った道の片側、広場の入り口にあった。教会を取りかこむ小さな墓地には肱《ひじ》の高さの壁がめぐらしてある。墓がひしめきあい、地面に横倒しになった古い墓石が敷石のようになり、雑草が一定の間隔をおいて自然に緑の四角の輪郭を描いていた。その教会はシャルル十世時代〔一八二四〜三〇〕の末年に再建されたもので、木製の丸天井が頂からくさりかけ、ところどころにその青い色の中に黒いくぼみができている。入り口の上方、パイプオルガンがあるはずの場所は、男子席になっていて、木靴の音がよく響くまわり廊下がついていた。
一色のステンドグラスから差し込む昼の日ざしが、壁と直角にならべてあるベンチを斜めに照らし出している。ベンチにはここかしこで、釘づけのマットが張ってあり、その下に「……様お席」と大文字でしたためてある。もう少し奥にはいり、内部が狭くなった所、マリア像の前が告解室になっていた。マリア様はしゅすの衣《ローブ》をつけ、銀の星を散りばめたチュールのヴェールをかむり、サンドウィッチ島〔ハワイ諸島のこと。サンドウィッチ伯爵がはじめて発見したのでこの時代にはこの名でよばれた〕の女神のように頬をまっ赤に塗ってある。そのまた奥は「内務大臣閣下寄贈の聖家族の図」が四本の燭台の間から主祭壇を見おろし、それより奥の見通しをさえぎっていた。聖歌隊の席は樅《もみ》の木でできていたが、白木のままだった。
市場、すなわち二十本ばかりの柱でささえてあるだけの瓦《かわら》屋根がヨンヴィルの広場のおよそ半ばを占領していた。「パリの建築学の設計通りに」作られた役場はギリシア神殿の様式で、これが薬屋の家とならんで通りの角をなくしている。役場の一階はイオニア式(アテナイ全盛時代の建築用式)円柱が三本、二階には半円形の張り出しのついている廊下がある。その欄間のはしからはしまで片足でフランス憲章(ルイ十八世公布)を踏んづけ、もう一方の足には正義の秤《はかり》を掛けているゴール(昔のフランス)のシンボルの雄鳥《おんどり》が刻まれてあった。
しかし、とくに人目をひくものは、宿屋「金獅子《きんじし》館」の真向かいにある薬屋、オメー氏の家だ! とくに晩方になってからだ! ケンケ灯がついて、店頭を色どる赤や緑のガラス球がはるか路上に二色の光を映すころ、その光の向こうに、ベンガル花火の中にいるかのように、机に肱をついている薬屋の影がちらっと見える。家は上から下まで斜体、立体、活字体で書かれたビラがはりつけてある。たとえば「ヴィシー水、セルツ水、バレージュ水、浄化水、ラスパイル氏薬、アラビア粉、ダルセ咳《せき》止めボンボン、ルニョーハップ、包帯、湯の花、滋養チョコレート、等々」店の間口いっぱいの看板には金文字で「薬剤師、オメー」とうたってあった。そして店の奥に、カウンターにとりつけてある立派な秤のうしろのガラス戸には「調剤室」という文字が上方に記され、中ほどには黒地に金でまた「オメー」と印されていた。
これ以上ヨンヴィルには見るべき物はなにもない。通り(一本だけしかない)は銃を「ずどん」とうてばとどくぐらいの長さだし、それに両側に店舗がならんでいると思う間もなく、角を曲がればと切れてしまう。街道を右手に見て、サン・ジャンの丘の麓《ふもと》を通って行くと、やがて墓地に出る。
コレラ騒ぎのときには、墓地の壁をこわし、隣接している土地を三エーカーほど買い入れたが、この新しい土地にははいり手がなく、墓は、以前のように入り口のほうでひしめいていた。そこで、墓掘り兼教会の小吏の墓守りは(こうして、彼はこの地域の死人から二重の利益をあげていた)空《あ》き地を利用して馬鈴薯《じゃがいも》のまきつけをした。とはいえ、年々、彼の土地は狭くなっていった。そこで、流行病があると、死人があるのを喜んでいいのやら、墓地が広がっていくのを悲しむべきなのかわからなくなった。
「おまえは死人を食い物にしているのじゃよ、レスティブードワ!」と、とうとう、ある日、神父がいった。
この不吉な言葉を聞いて彼は考えこんでしまった。しばらくはいも作りもやめていた。しかし、今日でもまだいも作りを続け、あまつさえ、いもは自然に生えるのだといいはっている。
これから物語る事件以来、ヨンヴィルでは実際、なにも変わってはいない。ブリキの三色旗は教会の鐘楼の頂で今も変わりなくはためき、小間物屋の店先では二本のインド更紗《さらさ》の吹き流しが風になびき、薬剤師の胎児見本はにごったアルコールの中でしだいに腐っていく。宿屋の大戸の上の古い金の獅子は、雨にたたかれてペンキがはげ落ち、旅人にいつもムク犬のようなちぢれ毛を見せていた。
ボヴァリー夫妻がヨンヴィルに到着するはずのその晩、この宿のおかみの後家《ごけ》のルフランソワはたいそう忙しく、シチュー鍋《なべ》をかき回すと玉の汗が出た。明日は市の立つ日で、今から、肉を切り、若鶏《わかどり》をこしらえ、スープやコーヒーの準備をしておかねばならなかった。おまけに泊まり客の食事から、新しいお医者さまと奥様と女中のお食事がある。玉突室は笑い声でわきかえっていた。小部屋に陣どった三人の粉屋がコニャックを持ってこいとどなっていた。薪は燃え、おきがはぜていた。台所の長テーブルの上には、四半分に切った生《なま》の羊肉に混じって、皿が山と積まれ、ほうれん草を刻むまな板が動くたびにぐらぐら動いた。養鶏所からは女中が首を切ろうと追いまわしている鶏の鳴き声が聞こえてきた。
緑色の毛皮のスリッパをはき、うすいあばたづらに金房のついたビロードの帽子をかぶった男が暖炉で背中を暖めていた。彼の顔には自己満足以外のなにものも浮かんでいなかった。彼の頭上につり下がっているやなぎの籠の中のごしきひわ同様、世にものんきに構えていた。この男が例の薬屋である。
「アルテミーズ!」と宿屋のおかみがどなった。「柴を折っておくれ! それがすんだら水さしに水を入れて、コニャックを持っておいで! 大急ぎだよ! 旦那さん、お待ちかねのお客様には、どんなデザートを差し上げたらいいのかしらね、おや、まあ、引越し屋の若い衆が玉突室で大騒ぎを始めたよ。馬車をまた門の前にほったらかしといて? 『つばめ』がついたらどてっ腹に穴があいちまうよ! ポリットを呼んであれをかたづけさせな! ねえ、オメーの旦那、あいつらときたら、朝から始めて、これで十五回目ですよ。それにりんご酒は八本もあけちまったんだよ。ほんとに! あんなにやったら玉突台のラシャがきれちまうよ」としゃくしを片手に、連中を遠くから見ながらおかみはがなり立てた。
「たいしたことでもないさ。まあもう一台買うこったな」とオメー氏が応じた。
「もう一台だって?」とおかみが叫んだ。
「ありゃもう使い物にはならんよ、おかみさん。くどいようだが、あんた損しとるよ。大損だ。近ごろでは、|球受け《ホール》が小さく、キューも重いのがはやっとる。球受けに入れる遊び方がはやらなくなったんだ。なんでも変えるもんだ。ご時勢に遅れちゃいかんよ。それより、まず、テリエをごらん」
おかみはくやしさに顔を赤らめた。薬屋はすかさず、
「あんたがなんといおうと、あそこはこっちよりずっとおもしろいからな。それに、ポーランド援助のためとかリヨン市水害|義損《ぎえん》金募集の賭け玉端きなんぞの思いつきにしても……」
「あんなやつ、ちっとも恐ろしくあるもんですか!」とおかみは大げさに肩をすくめて話の腰を折った。「いいえ、オメーの旦那さん『金獅子館』がある限り、お客はやってきますよ。なにしろうちは屋台骨がしっかりしていますからね。それにひきかえ、今にあの『カフェ・フランセ』なんかは店をたたんで、ひさしに結構なはり紙をつけかねないからね。玉突台をかえるんだって? あれは調法していますよ。洗濯物を干すにもってこいだし、狩りのシーズンには、あの上に六人もお客を寝かしたんだから。あのイヴェールのぐずときたらまだこやしない」
「あいつを待って夕食というわけか」と薬屋がたずねた。
「あいつを待つんだって? ところがビネーさんがいますよ。六時を打てば必ずやってきますからね。あんなきちょうめんなかたみたことありませんよ。すわるのも必ず小部屋のあの席なんですからねー。よそで食事されるくらいなら殺されたほうがましなんだそうですよ。それに注文のうるさいことといったら! りんご酒にはとくにうるさくてね、レオンさんのようにはいきませんからね。レオンさんときたらときには七時に、それも七時半になることもあるけれど、食事には少しも気にとめようとはなさらないのですからねー。お若いのに感心ですよ。それに決して大声をお出しになりませんしね」
「そりゃちがうわけさ、ほら、一方は教育を受けた人で、もう片一方は騎兵上がりの収税吏だからな!」
六時が鳴った。ビネーがはいってきた。
青のフロックを着ていたが、やせた彼のからだのまわりでそれがひとりでにたれ下がっていた。両側のたれをてっぺんでひもで結びつけてある毛皮の帽子はひさしがはね上がっているためにはげ上がった額が見えた。かぶり物を常用していたためにはげたのである。彼のいでたちといえば、黒ラシャのチョッキにバリバリに糊《のり》をきかせた硬い襟、灰色のズボンに四季を通じてよく磨いてある靴であった。その靴も足指が出っぱっているため、二本並んでふくらみができていた。一本の毛もはみ出さずに整えられたブロンドのひげは顎《あご》をとりまき、花壇の縁のように、目の小さな鼻の曲がった生気のない馬づらを飾っていた。トランプならどんな勝負に強く、すばらしい狩人であり、筆跡の美しいこの男は家にろくろを持っていた。それを使ってはナプキンリングをおもしろ半分に作り、とうとう家中ナプキンリングだらけにして、身の置き所がなくなってしまった。それというのも彼が芸術家に対する羨望《せんぼう》とブルジョワのエゴイズムとを合わせ持っていたからであった。
彼は小部屋のほうへ歩いて行った。だが、まず第一番目に粉ひき屋を三人追い出さねばならなかった。食卓の支度ができる間、彼はストーブのそばのいつもの席にむっつりとすわり込んでいた。支度ができると扉をしめ、帽子をいつものようにぬいだ。
「挨拶したってなにも舌がへるわけもなかろうに」と薬屋はおかみをつかまえるとすぐにいった。
「いつもしゃべろうとは決してしないんですからね」とおかみが答えた。「先週も二人組のラシャ売りがここにきましてね、それがとてもひょうきんな人たちで、晩におかしなことばかりいうので、あたしなんか涙の出るほど笑ってしまいましたよ。だのに、あの人ときたら、一言もいわずにむっつりそこにいるだけですからね!」
「そうさ。想像力もなければウィットもなし、てんで社交向きにはできてないというわけだ」と薬屋がいった。
「でも、金はあるっていう話ですよ」とおかみが口を入れた。
「金!」とオメー氏が叫んだ。「あんなやつに! 金が? 商売が商売だから有りうるかもしれんな」ともうちょっと落ち着いた調子でつけ加えた。
そしてまた言葉をついで、
「お得意の多い商人や、法律顧問だとか、医者、薬屋なんかは忙しすぎて変わりものになったり、気むずかしくもなるものだ。わしも経験したことだがね。そんな話はよく聞くもんだよ。だが、それは少なくとも考えごとをしているからなのだ。わしなんかもレッテルに書こうと思ってえんぴつを何度も机の上を捜し回ったあげく、結局、自分の耳にはさんでいたことなんぞ何度あったか知れんよ!」
一方、ルフランソワのおかみさんは『つばめ』がこやしないかと戸口まで見に行った。おかみははっとした。台所に突然、黒服の男がはいってきたからである。たそがれのうす陽《び》でも、その男のあから顔と筋骨たくましいからだがはっきりわかった。
「なにかご用でございますか? 神父様」そういっておかみは暖炉の上に手をのばし、ろうそくごと柱のように一列にならべてある真鍮《しんちゅう》の燭台のうちの一つを取りながらいった。「なにか召し上がりませんか? カシス酒をほんの一口、それともブドー酒一ぱいでもいかがですか?」
神父さんは至極|丁重《ていちょう》にことわった。先日、エルヌモン修道院〔在ルーアン〕に忘れてきた傘《かさ》を取りにきたのだった。ルフランソワのおかみに、晩にでも司祭館に持ってきてくれとたのむと教会へ戻っていった。教会では「お告げの鐘」がちょうど鳴っていた。
薬屋は神父の足音が広場に聞こえなくなると、すぐさま神父の態度は失敬だと文句をいった。飲み物をことわるのはもっとも憎むべき偽善だ。坊主というものは人が見ていなければ飲み回り、十分の一税のご時世を取り戻さんとしているのだといった。
おかみは神父の弁護をして、
「それでもあのかたはあんたのような四人や五人、膝の上でへし折ってしまいますからね。あのかたは力持ちでいらして、去年なんかもわら束を運び入れる手伝いをしてくださったのだけど、一度に六束もお持ちになったんですからね」
「それは、それは。ではせいぜいお宅の娘さんたちを、そんなすばらしいおかたの所に告解におやりになるんですな。わしが、もしわしが知事なら、月に一回坊主どもに刺絡をさせる法律を作る。そうだとも、おかみさん。毎月、治安と風紀維持のためたっぷり悪血を取ってやるのだ!」と薬屋がいい返した。
「おだまりなさい、オメーさん! あんたは不謹慎です。無信心です」
薬屋はいい返した。
「わしは信心をしとるよ。わしなりに。あの子供だましのペテン師どものだれよりも深い信仰の持ち主じゃよ。それどころか、わしは神を信じている! わしは絶対なる者を信ずる。それがなんであろうとかまわん。市民としての、または家長としての義務を遂行させるためにわしらをここにおつかわしになった創造主の存在を信ずるのだ。しかし、教会に行って銀のお皿にキスしたり、お布施をはずんであのわしらより肥えておるあのペテン師どもを太らしてやることはないのだ! なぜなら、神は森にいても、畑にあっても、古代人のように青天井を仰いでもたたえられるものなのだ! わしの神は、わしの信じている神はソクラテスの、フランクリンの、ヴォルテールの、ベランジェ〔四人とも当時反道徳的・反宗教的だとされていた人々〕の神なのだ。わしは『サヴォア人助任司祭の信仰宣言(ルソーの「エミール」の中にある)』と八九年の不朽の原理(人権宣言)を認める者だ! ゆえにわしは、杖をつきながら花壇を歩きまわったり、鯨の腹の中に友人を泊めたり、一声大きく叫んで死んだかと思うと三日目によみがえるようなあのキリストなんていうとぼけたやつを認めることは金輪際《こんりんざい》できんのだ。そんなのはそれ自体不合理であり、まったく物理的原理に反しておるのだ。はっきりしていることはだ、あれでとおっているのだから、坊主どもは、日ごろ恥ずべき無知の泥沼に漬かり込んでおって、あまつさえ、その中に世の人びとを道連れにひっぱり込もうとしておることだ」
彼は口を閉じて、まわりに聴衆はおらんものかと目で捜した。薬屋は興奮して、一瞬、満員盛況の村会にいるのではないかと思った。だが、おかみはもう彼のいうことなど聞いてはいなかった。彼女は耳を澄まして遠くから聞こえてくる車輪の音を聞いていた。地面を打つゆるんだ蹄鉄《ていてつ》の音に混ざって馬車の音もはっきり聞こえてきた。そしてとうとう『つばめ』は宿の前についた。
それは黄色の大箱を二つの大きな車輪でささえた代物《しろもの》だった。車輪が幌《ほろ》の高さなので、乗客は、外も見えず、肩まではねが上がった。幅の狭い回転窓のガラスは、しめてあるときには、枠《わく》の中でガタガタと音をたて、雷雨でも急には洗い落とせない昔からのほこりの層の上に、泥のはねが、あちこちに飛び散っていた。馬車は三頭立てで、二頭並べたその前に頭をとび出たせてつないであった。丘を下るときに、車体が揺れて、台尻が地面につくこともあった。
ヨンヴィルの村人が数人、広場に集まってきた。みなが一時に、ことづてだとか、遅れた理由だとかをたずねたり、籠を渡せなどと口々に叫んだ。イヴェールはどの質問にも答えられなかった。この男はこの地方の便利屋だった。ほうぼうの店に行って、靴屋には巻いた皮を、蹄鉄《ていてつ》屋には古鉄を、おかみさんにはニシンを一|樽《たる》、帽子屋には布帽子を、床屋にはかつらを持ってきた。帰りすがら、街道に沿って、包みを配達するのだった。しかし、それも、馭者《ぎょしゃ》台に立ち、何やら大声で叫びながら、塀《へい》越しに投げ込むというやり方だった。その間、馬は勝手に走っていた。
イヴェールが遅れたのは事故が起こったからだ。ボヴァリー夫人の子犬が畑をよぎって逃げたからだ。十五分も口笛を吹いて呼んだり、イヴェールも後に半マイルも戻った。しょっちゅう子犬を見かけたような気がした。だが、街道を空《むな》しく捜し続けなければならなかった。エンマは涙にくれ、カッとなり、こんなになったのもみんなシャルルのせいだといった。呉服屋で、ちょうど馬車に乗り合わせていたルウルウ氏は、いなくなった犬が長い年月の後、主人をおぼえていた例をいくつもあげてエンマを慰めた。ある犬はコンスタンチノーブルからパリまで帰ってきたということだし、またある犬は四つの川を泳いで渡り、直線コースをたどって四十マイルもの道を踏破してきたという。ルウルウ氏の親父《おやじ》もむく犬を飼っていたが、十二年もいなかったのに、ある晩、町に夕食をとりにでかけたところ、突然、父の背中にとびついてきたのだと話してくれた。
二
最初にエンマが、つづいて女中のフェリシテ、ルウルウ氏、乳母《うば》の順でおりた。シャルルは暗くなると、片隅でぐっすり眠り込んでしまったので起こさねばならなかった。
オメーが進み出て、夫人に敬意を表し、先生に挨拶し、お役に立つことができたのは無上の幸福であるといった。そして、なにしろ妻が留守なものですから、ずうずうしくもまかり出てきました、といいそえた。
ボヴァリー夫人は台所にはいると、暖炉に近寄った。指先でドレスの膝《ひざ》あたりをつまみ上げ、くるぶしまで裾《すそ》をからげると、くしを回して焼いている羊のもも肉の上から、黒靴をはいた足を火にかざした。火が彼女の全身を照らし、まばゆい光で、ドレスの横糸を、彼女の白い肌《はだ》のなめらかな毛穴を、ときどき、彼女がまばたきするまぶたの中までも刺しつらぬいた。半開きの扉から風が吹いてくるたびに、大きな赤い色が彼女を包んだ。
暖炉の向こう側から金髪の青年が彼女をじっと見つめていた。
公証人、ギョーマン氏の書記であるレオン・デュピイ君(これが「金獅子館」の第二の常連である)は、夕方、宿に泊まる者の中でだれか話相手になってくれる者はいないかと心だのみにして、夕食の時間を遅らせるのだった。仕事が終わってしまった日などは、何をしていいのやらわからないままに、定刻にやってきては、ビネー氏とスープからデザートまで同席するのだった。だから、新来のお客をかこんでの夕食に誘われると喜んで受けた。みなは大食堂にはいった。ルフランソワのおかみは見栄《みえ》をはって四人分の準備をしていた。
オメーは鼻カタルの用心のため、ギリシア帽をかぶったままで失礼しますよといった。
そして隣席を振り向くと、
「奥さん、さぞお疲れでしょうな。まったくわれらの『つばめ』は恐ろしく揺れますからな!」
「ほんとうに揺れますわね。でも、あたくしいつも騒ぎが好きなんですの。引っ越しなぞ大好きですわ!」とエンマが答えた。
「同じ所に釘《くぎ》付けになって暮らしていると、気がめいってしまいますな」と書記がため息まじりにいった。
「僕のように、しょっちゅう馬に乗っていなければならないのも……」とシャルルが口ばしを入れた。
「それにしても」とレオンはボヴァリー夫人に向かって「ご主人のようにそれができるご身分というのはうらやましいと思いますね」といいそえた。
「もっとも」と薬屋がいった。「当地では医者稼業もさほどつらいものではありませんな。道がいいので馬車が使えるし、百姓は暮らし向きがよいから、たいてい払いはいいですよ。医学的見地からいいますと、だいたいが腸炎、気管支カタル、肝臓病などであり、ただときどき、取り入れの時期に断続的熱病が発生するくらいなもんですな。しかし、総じて重大な症状、特筆すべきものは何もありませんよ。ただ、るいれきはたくさんあります。これは農家の嘆かわしい衛生状態が原因だと思われますがね。ボヴァリー先生、とにかく戦わねばならない多くの偏見《へんけん》にぶちあたられるでしょうな! この根強いしきたりに、毎日、全力をあげて挑戦なさるでしょうがね。このあたりのやつらは医者だとか薬屋に素直《すなお》に行くどころか、九日間の願かけだの、聖遺物だので坊主《ぼうず》のところに飛んで行くんですからな。しかし風土は、正直いって、決っして悪いほうじゃありませんよ。村には九十歳台の人が数人いるくらいですからな。寒暖計は――数度にわたる観察の結果わかったことですが――冬には摂氏四度に下がり、大暑のころにはだいたい、摂氏二十五度、最高三十度を指します。つまり最高が列氏の二十四度、もっと違ういい方をすると華氏――英国流にいえばですな――の五十四度以上になることはまあないですな。というわけは、一方ではアルグイユの森が北風をさえぎり、もう一方にサン・ジャンの丘があって西風を防いでいるからでしょうな。しかるに、この暑さはというと、川から水蒸気が上がってくるのと、牧場のおびただしい数にのぼる家畜が、ご存じのように多量のアンモニアガス、つまり、窒素《ちっそ》、水素、酸素、(窒素と水素だけではありませんぞ)の化合物を発散するためにできるんですが、この暑さ自体が地面の腐食《ふしょく》土を吸い上げ、こういった種々のガスをことごとく混合し、いわば一つの物にまとめ上げる。そして、大気中で放電が行なわれている場合には、自然と化合し合い、長い間それが行なわれれば、熱帯地方のように、非衛生的な毒ガスが発生するのもあり得ることですな。しかるにこの暑さは、吹いてくる方向というより、吹いてくるはずの方向、つまり南ですな、南東の風によってやわらげられるのです。南東風はセーヌ川を越えてくるときに、自然に冷たくなり、ときおり、ロシアの微風のように、サッと一吹き村をおそってきますよ」
「この辺に散歩できるような所ぐらいはございまして?」とボヴァリー夫人はなおも青年に話しかけた。
「ほとんどありません。森のはずれの丘の上に『牧場』と呼んでいるとこがあるんですが、日曜日にそこにときどき行って、本を読んだり、入り日を見たりするのです」と青年が答えた。
「わたくし、入り日よりすばらしいものはないと思っておりますの」とエンマは話を続けた。「とくに海辺の入り日はすてきですわ」
「ああ、ボクも海が大好きです」とレオンがいった。
「それではあなたはいかがかしら?」とボヴァリー夫人がたずねた。「この果てしない大|海原《うなばら》の上を心はいっそう自由に駆けめぐり、じっと見つめていると魂が高まり、無限とか理想に対する考えを与えてくれるようにわたくしには思えるのですけれど?」
「山の景色もそれと同じですよ」とレオンが答えた。「昨年、従兄《いとこ》がスイスに行ってきたのですが、湖の詩情だとか滝のすばらしさ、氷河の巨大な印象はなんといっていいのかわからないくらいだそうですよ。とてつもない大きな松が急流のこちら側まで枝をのばしているのも見たし、山小屋が絶壁の上にちょこんとのっかっているし、雲が切れると、足下、何千フィートのところに谷をすっかり見おろせる。このようなすばらしい景色を見たら、さぞかし夢中になることでしょうし、祈りたくもなり、酔いしれることでしょう。ですから、有名なある音楽家が、想像をかきたてるために、すばらしい風景を前にしてピアノをひくという話を聞いてもさもあろうと思いますよ」
「音楽はなさいますの?」と彼女が聞いた。
「しません。ですが大好きです」と彼は答えた。
「真に受けてはいけませんよ、奥さん」とオメーは皿の上にかがみ込んだまま口を入れた。「それは謙遜というものですよ。どうしたんだ、レオン君。この間、君の部屋でうっとりするような『守護の天使』をうたっていたではありませんか。わしは仕事場で聞いておったが、ありゃ、くろうとはだしでしたよ」
実際、レオンは薬屋の家に下宿していた。彼は三階の広場に面した部屋を借りていたのだった。彼は家主のこのお世辞に赤くなったが、家主はもう先生のほうを向いて、ヨンヴィルのめぼしい人たちを一人一人数え上げていた。彼は逸話《いつわ》を語ったり、ためになる話をした。公証人の財産は正確なところはだれにも謎《なぞ》だとか、「テュヴァッシュ家というのがあるが」、大へんな羽振《はぶ》りだそうだとか話していた。
エンマは言葉をついで、
「どんな音楽がお好きなんですの?」
「ドイツ音楽ですね。夢想にかりたててくれますから」
「イタリア座はごらんになりまして?」
「いえ、まだです。でも、来年になったら、法律学の勉強の仕上げにパリに出ますから、そうしたら見るつもりです」
「ご主人には申し上げといたのですが」と薬屋がいった。「夜逃げをしたあのポーランド人の医者のヤノダのことですがね、あいつが気違いじみて豪勢な暮らしをしたおかげで、奥さんはヨンヴィルでは居心地のいい家におはいりになれますよ。医者にとって都合のいいことには、戸が並木道に向かってついていますから、患者に見られずに出入りできます。それに家事をなさるのに重宝《ちょうほう》なものはなにからなにまでついていましてね、洗濯場から小部屋付きの台所、居間、果物貯蔵室までありますよ。まったく金に頓着しないやつでしたよ。夏、その下でビールを飲むんだといいましてね、庭のすみの水際にわざわざ青葉棚まで作らせましたよ。もし奥さんが畑いじりがお好きなら……」
「家内はてんでそのほうはだめでして」とシャルルがいった。「口をすっぱくして運動しろというんですが、いつも部屋にいっきりで、本ばかり読んでいますよ」
「ボクもそうなんです」とレオン君が仲間入りをした。「夜、風がガラス窓を打ち、ランプが音をたてて燃えているとき、炉辺《ろばた》で本を読みふけるよりすばらしいことがあるでしょうか」
「ほんとね」とエンマはつぶらな黒い瞳《ひとみ》を青年の上にそそいでいった。
「時のたつのも忘れてしまいます」と彼は続けた。「じっとしたまま、まざまざと目に見る思いでさまざまの国をさまよい、そして思いは本の中の物語にからまり、細部にわたり、筋をおっていきます。または登場人物と一体になって、まるで自分が彼らの衣裳をつけ、自分の心が躍るように思えるのです」
「ほんとですわ。そのとおりですわ」と彼女は叫んだ。
「こんなことは奥さんにはおありになりませんか」とレオン君が言葉をついでいった。「本を読んでいると、昔、自分が漠然《ばくぜん》と考えていたことや、心の遠くにしまいこんでおいた影像が蘇《よみがえ》ってくることや、繊細な感情が明らかに示されていることにお気づきになったことが?」
「ありますわ」と彼女が答えた。
「それだからボクはとりわけ詩人が好きなのです。散文よりずっと韻文のほうが味わい深いところがありますからね。気持ちよく泣かされますよ」
「でも、詩は長いこと読んでいますとあきますわ。今では、わたくし、はらはらしながら一気に読んでしまえるものを愛読しておりますの。わたくし、実際にいそうなあたりまえの主人公や、穏和な感情は大きらいですの」
「実際、そういう読み物は感動を与えることもないし、芸術の本質とはかけ離れているのではないでしょうか。人生で味わう数々の幻滅のさ中にあって、気高い性質や、清らかな愛情、幸福そうな情景を心に描けるのは楽しいことです。自分の事で恐縮なんですが、こんな所にいて世捨て人同様に暮らしていますと、これだけが最大の楽しみです。でもヨンヴィルではそれさえもうまくいかないのですからね!」
「トストもそうでしたわ」とエンマは答えた。「ですからわたくし貸し本屋から借りていましたの」
「もし奥さんがいやでなかったら」と言葉尻を小耳にはさんだ薬屋がいった。「わしの所には有名な作家のものはとりそろえてありますから、ご利用ください。ヴォルテール、ルッソー、ドリル、ウォルター・スコット、『新聞小説集』などとりそろえてあります。そのうえ、新聞雑誌も各種とっています。その中には『ルーアンの灯』もあります。これはわしが、ビュシー、ノォルジュ、ヌシャテル、ヨンヴィルとその周辺の地区の通信員をしている関係で手にはいるのですが」
もう二時間半も食卓についていた。というのも女中のアルテミーズが古い布靴《ズック》の足をだらしなくひきずっては皿を一つずつ運び、なんでも度《ど》忘れし、人のいうことはちっとも耳にはいらなかったからだった。玉突き室の戸はきちんとしめないし、戸の掛け金の端が壁にあたって音をたてていた。
話に夢中になって、レオンは知らずにボヴァリー夫人の腰掛けている椅子の棧《さん》に足を乗せた。夫人は水色の絹のボウを結んでいた。そのために白麻上布《バチスト》の丸|襟《えり》が昔の襞襟《ひだえり》のように立っていた。頭を動かすたびに、顔の下の部分が襟の中に優雅に見えがくれした。シャルルと薬屋が話しこんでいる間、二人はこのように寄りそいながら、言葉のふとしたはずみで必ず共感の焦点に結びつけるあのとりとめのない話にふけったのである。パリの芝居、小説の題名、新しいダンス、二人の知らない社交界、彼女が住んでいたトストの町、二人が今いるヨンヴィルの村、二人は夕食の終わるまでいろいろと考察したり、語り合ったりした。
コーヒーが出ると、フェリシテは新しい家へ部屋の用意をしに出かけた。そしてやがて会食者も席を立った。ルフランソワのおかみさんは炉辺で眠り込んでいた。馬丁《ばてい》はランプを手にして、ボヴァリー夫妻を送ろうと待っていた。その赤い髪の毛にはわらくずがついていた。左足はびっこだった。彼がもう一方の手に神父さんの傘を持つと、みなは歩き出した。
村は眠っていた。市場の柱が大きな陰を落としていた。地面はまるで夏の夜のように一面に灰色だった。
とはいえ、医者の家は宿から五十歩ばかりの所にあった。人びとはおやすみの挨拶をかわし、散り散りに帰って行った。
エンマは玄関にはいるやいなや、ぬれた布のような漆喰《しっくい》の冷たさが身にせまるのを感じた。壁は塗り変えたばかりだったし、階段はキイキイ音をたてた。二階の部屋にはいると、白々とした光がカーテンの掛けてない窓からさしこんでいた。そして木々の梢《こずえ》が見えた。そのはるかかなたには、霧にかすんだ牧場が、川の流れに沿って月光にけむっていた。部屋の中は、めちゃくちゃで、たんすの引き出しがころがっているかと思うと、酒びんやらカーテン・レールがころがっている、椅子の上には金色の棒とマットレスが、床には金だらいが置いてあるといったありさまだった。――家具を運び込んだ二人の男がほっぽり出して行ったのだ。
エンマが見知らぬ土地で寝るのはこれで四度目だった。一度目は修道院にはいったとき、二度目はトストについたとき、三度目がヴォビエサールで、そして今晩が四度目だ。どれもこれも彼女の生涯には、新しい転期となった。彼女は異なった土地で同じようなことが起こるとは思われず、今まで過ごしてきた部分が不幸なものであるからには、必ずや今後の生活はもっとすばらしいものであろうと信じこんでいたのである。
三
翌日、目をさますと、彼女は広場に書記の姿を見かけた。彼女は寝間着のままだった。書記は上をあおいで挨拶した。彼女も軽くお辞儀《じぎ》をすると、窓をしめた。
書記のレオンは一日中、六時になるのを待ちかねていた。しかし、宿にはいって行くと、食卓についているのはビネー氏だけだった。
昨日の晩餐《ばんさん》は彼にとって重大事件だった。今まで一度も彼は「淑女」と二時間もぶっ続けに話し合ったことはなかった。今まであれほどうまくいえなかった種々なことを、しかもあれほど気安く、どうして話しをすることができたのだろう? 彼は生来、内気で、羞恥心《しゅうちしん》ともなにか感情を隠しているのだとも思える慎しみ深い態度をとっていた。そのため、ヨンヴィルでは「模範的な」人柄だとの評判だった。彼は老人のいうことをもっともだといってよく聞き、政治に熱中している様子もなかった。これは若い人には珍しいことだ。おまけに、多才で、水彩画を描けば音譜も読める。夕食後に、トランプ遊びをしないときには文学書を読みふけった。オメー氏は彼に教養があるので尊敬し、オメー夫人は彼が親切なので好きだった。ときどき、彼は庭で子供たちを遊ばしてくれるからだ。どの子もどの子もいつもよごれた顔をしていて、躾《しつけ》が悪く、彼らのお母さん同様、腺《せん》病質気味だった。オメー家では、子供の世話をするのに女中のほかにジュスタンという見習いを使っていた。この男は、オメー氏の遠縁にあたる者で、かわいそうだというので引き取り、下男がわりに使っていた。
薬屋は最良の隣人ぶりを示した。彼はボヴァリー夫人に出入りの商人はどれがいいのか教えてやり、取りつけのりんご酒屋をわざわざよこしたり、自分でその味を味わってみたり、酒倉にはいって樽の置き具合《ぐあい》を調べて見てくれたりした。また、バターを安く買う手段を教えてくれたり、寺男のレスティブードワにかけあって有利な、取り決めをしてくれたりした。レスティブードワは寺男と墓守りをするかたわら、ヨンヴィルのめぼしい家の庭を、先方の都合によって時間ぎめかあるいは年ぎめで、手入れをしていた。
薬屋が他人の世話をするのは、ただたんに、彼がおせっかいだからというわけではなく、その裏にはちゃんと下心があったからである。
かつて彼は免許なき者に医術の施行を認めずという革命暦十一年風月十九日付、法令第一条に違反したことがあった。そのため、何者かの密告によって、オメーはルーアンの検事に呼びだされた。検事は立ったままで、肩に白|貂《てん》がついた服をつけ、頭には縁なしの法帽をのせたまま彼を呼び入れた。審問《しんもん》の始まる前の朝のことだった。廊下では憲兵の頑丈《がんじょう》な靴音が響いていた。遠くに大きな錠のしまる音がした。薬屋の耳は卒中になったのではないかと思うほどガンガン鳴った。彼は底の底にある地下|牢《ろう》や、泣きくれる家族や、売りに出された店や、そこらにころがっている薬びんなど目のあたりに見えた。帰りがけにセルツ液割りのラム酒をキャフェでひっかけねば、気を取りもどせなかったほど動転してしまった。
少しずつ、この譴責《けんせき》を受けた思い出も薄らいで行き、また昔のように、彼は店の奥で毒にも薬にもならない診療をしていた。しかし、村長はうさんくさい目つきで見守っているし、同業者はやっかむしでびくびくしていなければならなかった。ボヴァリー先生を丁寧《ていねい》に扱っているのも、先生に恩を売っておけば、なにか気づいたとしても文句のいえないようにしておくためだった。こうして、オメーは毎朝例の新聞、『ルーアンの灯』を届け、ときどき、午後店をあけて先生の所へおしゃべりに行くのだった。
シャルルはふさぎ込んでいた。患者がこないからである。何時間もものもいわずに腰掛けていたり、診察室に行って居眠りをしたり、女房の針仕事をぼんやりみつめたりしていた。気晴らしに大工仕事をしてみたり、ペンキ屋が残して行ったペンキの残りで屋根裏を塗ったりもしてみた。しかし、金のことで不安になった。トストの家の修繕や、妻の化粧代やら、引っ越しやらで使ってしまい、三千エキュ以上もあった持参金も二年の間に消えてしまった。おまけにトストからヨンヴィルまで運んでくるときに破れたり、なくなったものがかなりあった。神父様の石膏像も馬車のひどい揺れのあおりをくって落ち、カンカンポワ村の道の上でこなごなに砕けてしまった。
もっと楽しい不安が起きて気分がまぎれた。妻が妊娠したのである。臨月が近づくにつれ、彼はいっそう妻を愛した。新たな肉体の絆《きずな》が生まれ、よりこまやかな結びつきを感じさせるものが生じたのである。遠くから妻のもの憂げな歩き方や、コルセットをはずした腰の上で大儀そうに胴体が動くのを見ると、または差し向かいですわり、妻をじっと見つめ、妻が長椅子に疲れた様子ですわっていると、彼はうれしくてうれしくてたまらなかった。彼は立ち上がって妻を抱きしめたり、顔をなでたり、ちっちゃなママさんと呼んでみたり、ダンスさせようとしたり、思いつくままにやさしい冗談を、笑い声とも泣き声ともつかない声でしゃべった。子供ができると思うとうれしくなった。今やたりない事などなくなったのだ。彼は人生の隅から隅までわかったのだ。そこで彼は食卓に心静かに両|肱《ひじ》をついたのである。
エンマは初め、非常に驚いた。やがて早くすましてしまって、母になるとはどんな気持ちなのか知りたいと思った。しかし、思いのままに金を使うこともできず、バラ色の絹カーテンのついた船型のゆりかごも、縫い取りをした帽子を買うこともできないので、彼女は怒り狂って支度をするのをすっかりあきらめ、選んだり、相談もせずに村の仕立屋へ一括してたのんでしまった。そんなわけで、母性愛がかき立てられるあの出産の準備を楽しむこともなかった。おそらくはそのために彼女の子供に対する愛情は初めから何かがかけていたのである。
しかし、シャルルが食事のたびに子供の話をするので、やがて彼女も今までより真剣に考えるようになった。
彼女は男の子が欲しかった。その子はじょうぶで、髪の毛は黒く、ジョルジュという名だ。彼女が男の子であって欲しいと思うのは、彼女がしたいと思ってできなかった過去の望みに対する復讐《ふくしゅう》のようなものだった。男はとにかく自由だ。情念を渉猟《しょうりょう》し、国々をめぐり、障害物を乗り越え、どんなはるかな幸福でも味わうことができるのだ。だが、女はたえず閉ざされている。女は消極的であると同時に順応性に富むから、その意志に反してからだが弱く、法律にがんじがらめにされる。女の意志は帽子にひもで結びつけてあるヴェールのように、どんなふうにでもなびく。いつも押し流す欲望があるかと思うと、それをおしとどめる世間というものがある。
彼女は、ある日曜日の夜明けの六時ごろ分娩《ぶんべん》した。
「女の子だよ」とシャルルがいった。
彼女は顔をそむけ、失神した。
ほとんど同時にオメー夫人と「金獅子館」のおかみとが駆けつけ、彼女にお祝いのキスをした。薬屋は、さも礼儀正しい人物らしく、半開きの戸からそっとお祝いを述べた。彼は赤ん坊を見たいといい、とても体格のよいお子さんですといった。
産褥《さんじょく》期に、エンマは娘の名まえを選ぶのに心をくだいた。まず、彼女は雑誌に目を通し、クララ、ルイザ、アマンダ、アタラといった語尾がイタリアふうの名まえを捜した。ガルシュアンドもかなり気に入ったが、それよりもイズーやレオカディーのほうが好きだった。シャルルは自分の母親の名をつけたがったが、エンマははねつけた。二人は暦〔暦には聖人の祝祭日がのっている〕をはしからはしまで調べたり、人に相談したりした。
「そのことで先日もレオン君と話し合ったのですがね」と薬屋がいった。「レオン君はどうしてマドレーヌになさらないのか不思議だといってましたよ。この名は今、大へん流行しているんだそうで」
しかし、この罪深い名(マリア・マグダレナから派生した名まえ)には、ボヴァリー老夫人が大声を上げて反対した。オメー氏は、個人的には、偉大な人物、有名な事件、高潔な思想を思わせる名まえならなんでも好んでいた。自分の四人の子供に名づけるときにも、この方針で行なった。すなわち、ナポレオンは栄光を、フランクリンは自由を象徴していた。イルマはきっとロマン主義への譲歩を表わしているのだろうが、アタリーとなると、フランス演劇史上不朽の名作への賛美にほかならない。つまり、彼の哲学的見解は芸術的感動を毒するものではなく、瞑想《めいそう》人としての彼は決して感覚の人である彼をおさえつけなかった。すなわち、彼はけじめのつけられる男だったから、想像と狂信とを弁別できた。たとえばこの悲劇にしても、その思想を非難する一方、その文体に感心した。観念をののしるものの、細部についてはことごとく拍手し、登場人物に憤激すると同時に、そのせりふに感動した。名文句を読むと夢中になった。が、坊主どもがこれでもうけているのだと思うと、いまいましかった。この混乱した考えに困った彼は、作者のラシーヌに自分の手みずから月桂樹の冠をかぶせてやりたいと思いながら、同時に、ラシーヌを敵に回してひとしきり舌戦を展開したいものだとも思った。
結局、エンマがヴォビエサールの館で、侯爵夫人がある若い婦人をベルトと呼んでいたことを思い出した。それでその名が選ばれた。ルオーじいさんがこられないので、オメー氏に代父を依頼した。オメー氏は、ありったけの自家製品を贈り物とした。咳《せき》止め棗糖《なつめとう》六箱、滋養糖を一びん、立葵《たちあおい》のはり薬六箱、戸棚の中にあったキャンデー六本だった。洗礼の晩には大宴会が開かれた。神父様もその席につらなった。人びとは陽気になり、食後のリキュールがでるころには、オメー氏は「われらの神」をうたい、レオン君は舟歌を、代母のボヴァリー老夫人は帝政時代の小唄《こうた》をうたった。最後にボヴァリー老人が子供を連れてこいとどなり、シャンペンを高い所から頭にふりかけて洗礼した。この七つの秘蹟〔キリストが制定した洗礼、悔悛、堅振、聖体、婚姻、品級、終油をいう〕の第一を冒涜《ぼうとく》されてはブールニジャン神父も激怒した。ボヴァリー老人は「神々の戦い〔十八世紀の詩人バルニーの恋愛詩〕」を引用して応戦した。神父様は帰ろうとし、婦人たちがひきとどめた。オメーがなかに割ってはいり、ようやく神父様を席に戻すことができた。神父様はゆうゆうと皿から飲みかけのコーヒーを取り上げた。
ボヴァリー老人はヨンヴィルにその後一か月滞在した。村の人びとは老人が毎朝広場にタバコをふかしにくるのに、銀モールのついた立派な軍帽をかぶってくるのには驚いた。また、ブランデーの痛飲癖のために、女中を「金獅子館」にやって、一びん買ってこさせた。その代金は息子につけた。ハンカチをいい匂いにするために嫁のオーデコロンをすっかりからにしてしまった。
エンマは彼といっしょにいるのは決していやではなかった。彼は世界中をまわったことがあり、ベルリンやウィーンやストラスブルグのこと、将校時代のこと、昔の彼の女たちのこと、大宴会を饗したことなど話してくれた。それから愛想よくしてくれ、ときには、階段や庭で彼女の腰をとらえ、こういうのだった。
「シャルル、用心しろよ!」
そこで、ボヴァリー老夫人は、息子の幸福のために心配し、夫が、長い間には嫁の考えに、非道徳的な影響を与えはせぬかと思い、あわただしく帰って行った。というより、彼女にはもっと重大な心配があったのだろう。ボヴァリー老人は見さかいのない人間だったからである。
ある日エンマは、急に指物師《さしものし》の女房に預けてある娘にむしょうに会いたくなった。産後六週間の休養期間がまだ続いているかどうか暦も確かめずに、ローレの家へと歩いて行った。ローレの家は村はずれの丘の麓《ふもと》にあり、ちょうど街道と牧草地との中間にあった。
真昼だった。家々の鎧戸《よろいど》はしまり、スレートぶきの屋根が青空の強い光に輝き、屋根の頂から火花が飛んでいるように見えた。重苦しい風が吹いていた。エンマは歩むにも力なく、道の小石が足にあたって痛かった。彼女は引き返したものか、それともどこかの家にはいって休もうかと思った。
このとき、レオン君がすぐそばの家から、書類の束を小脇にかかえて出てきた。彼は近寄って挨拶《あいさつ》し、ルウルウの店の張り出した灰色の日よけの下へと導いた。
ボヴァリー夫人は子供に会いにきたのですけれど、疲れてきたようですわといった。
「もし……」とレオンはいったもののその先が続かなかった。
「どこかにご用でもおありになりますの」とエンマが聞いた。
書記が答えると、いっしょにきてくれないかと彼女はたずねた。夕方までには、このことはヨンヴィル中に広まり、村長の妻のテュバッシュ夫人は女中がいるのに、「ボヴァリーの奥さんは、あれじゃ旦那さんのつらよごしだよ」とはっきり断言した。
乳母《うば》の家に行くには、通りを後にして、墓地に行くときと同じように左へ曲がり、たくさんの小さな家と庭の間を抜け、いぼたを両側に植えてある小道を通って行かねばならなかった。いぼたは咲き乱れ、大いぬふぐりも、野ばらも、いらくさも藪《やぶ》から枝を伸ばしているたよやかな木いちごも花が咲いていた。生垣《いけがき》の穴から、「あばら屋」の家中が、堆肥《たいひ》の上で寝ている豚や、帯革《おびかわ》でつながれた牛が木の幹に角をこすりつけているのが見えた。二人とも並んで静かに歩いていた。エンマは彼の腕にすがり、彼は彼女の足どりに合わせて歩調をゆるめた。二人の前にははえの群れがとび回り、蒸し暑い空気の中で羽音をたてていた。
乳母の家は影を落としているクルミの古木ですぐそれとわかった。低い家で、茶色の瓦をふいてあったが、外には、玉ねぎをじゅずつなぎにして、屋根裏の天窓の下につるしてあった。垣根にたてかけてある小枝の束がレタスの畑や、数株のラベンダーや支柱にからまっている花えんどうのまわりをとりまいていた。きたない水が草にしぶきを上げながら流れ、そのまわりには、得体のしれないぼろきれだとか、手編みの靴下、赤い更紗《さらさ》の上っ張り、生垣いっぱいに広げてある厚地のタオルのシーツといったものがちらばっていた。柵《さく》の開く音がすると、乳母が片腕に乳を飲んでいる子供をかかえ、もう一方の手で顔中るいれきのできている子供の手を引いて現われた。この子は、ルーアンのメリヤス屋の息子で、両親が商売に忙しいところから、里子に出されたのだった。
「おはいりくださいまし。お嬢ちゃまはあちらでねんねでごぜえますだ」
一階にあるこの部屋は、この家の唯一の部屋で、奥の壁に寄せて、大きなカーテンのない寝台が置いてあった。そして窓側はパン粉の練桶《ねりおけ》が占領していた。その窓ガラスの破れたところは青い紙を丸く切って継ぎはりをしてあった。隅のほうには、戸の裏に光る鋲《びょう》の打ってある編上靴が洗い場のタイルの下の、口に羽根を詰めて、油をいっぱいに入れてあるびんのそばに、並べて置いてあった。「マチゥ・ランスベルグ暦〔十七世紀から十九世紀にかけてはやった民間の暦〕」も火打ち石だとか燃えさしのろうそく、火口の≪おき≫ともどもほこりだらけの炉の上に散らかっていた。そして、この部屋のよけいなものといったら、トランペットを吹いている「名声」の女神の絵姿である。多分、香水の広告のちらしから切り抜いたものであろうが、木靴用の釘《くぎ》で壁に打ちつけてあった。
エンマの子供はやなぎの揺りかごに入れて床に置いてあった。彼女は子供に掛けてある毛布ぐるみ抱き上げ、からだを揺りながら静かにうたい始めた。
レオンは部屋の中を歩き回っていた。彼には、この南京もめんのドレスを着た美しい婦人をこんなきたならしい所で見るのが不思議に思えた。ボヴァリー夫人は赤くなった。彼は失礼な目つきをしたのだろうと思って、背を向けた。その後夫人は子供をもとに戻した。子供が彼女の襟《えり》に何かを吐いたからである。やがて乳母がやってきて、ふきとってくれ、しみにはなりませんよといった。
「わたしにはもっとひどいこともやりますだよ。しょっちゅう洗ってなければならないんだよ。ごめんどうでも雑貨屋のカミュに、わたしが要《い》るときにはいつでも、せっけんを出してくれるようにいってもらえんものだろうかね。そのほうがいちいちご迷惑かけねえで、奥様にもご都合がいいのじゃないんかね」といった。
「いいわ、そうしましょ」とエンマはいった。「さよなら、ローレのおばさん」
そして彼女はしきいの上で足をふいて外に出た。
乳母は庭先まで送ってきたが、その間中ずっと夜中に起きなければならないつらさをこぼして、
「くたくたにくたびれてしまって、よく、椅子に掛けているのに、眠ってしまうだよ。だから、いったコーヒーを半ポンドばかりいただけないものかね。それだけあれば一か月もちますだよ。毎朝、ミルクに入れて飲みますだー」
お礼をくどくど聞かされて、ボヴァリー夫人は出て行ったが、小道を少し歩いたと思うと、木靴の音がした。振り返って見ると、乳母であった。
「なんなの?」
すると百姓女は彼女を道|端《ばた》の楡《にれ》の木陰に引っぱって行き、亭主の話をしだした。指物師としての収入以外に消防組長としての年間六フランのみいりがあり、……
「はっきりいいなさいよ」とエンマがいった。
「へえ、わたしばかりコーヒーを飲んでいたら、つまらなかろうと思ってね。奥様もご存じのように、男というものは……」
「あげるといってるじゃないの。うるさい人ねェ」とエンマは繰り返した。
「それがねェ、奥さん。主人は怪我をしてから胸のところが恐ろしくけいれんしますんで。りんご酒がからだに合わないんだともいうんですがねー」
「早くおっしゃいよ。ローレのおばさん」
「そんなわけで」とおばさんは丁寧《ていねい》なお辞儀をして続けた。「あんまりお宅にご迷惑かけるのはなんですが」ともう一度頭を下げて、「おついでのときに」と目にものをいわせ、「ブランデーの小びんを」と、とうとういった。「それでお嬢ちゃまの足《あんよ》をさすってさしあげますだよ。ほんに舌のように柔らかいあんよだす」
乳母をやっとのことで追っ払うと、エンマはレオン君の腕をとった。初めのうちは足早やだったが、そのうちに歩調をゆるめた。自分の前をぼんやりと眺めていた。彼女の視線はふとその若い男の肩先に止まった。男のフロックには黒いビロードの襟《えり》がついていた。男の栗色の髪は、まっすぐな毛で、きれいになでつけられていた。彼女は爪《つめ》にふと目をやった。ヨンヴィルでは見かけない長さの爪だった。爪の手入れをするのが書記の大切な仕事の一つだった。それで、彼はそのための特別なナイフを隠しの中に持ち歩いていた。
二人は川辺の道を伝ってヨンヴィルに帰って行った。暑い季節で、土手の道は草を刈って広げてあり、家々の庭の石垣の足元まで見えた。石垣には川辺《かわべ》に下りる石段が二、三段ついていた。川は音もたてず、速く、見るからに冷たげに流れていた。葉の細長い草が、流れにまかせて川面《かわも》に伏し、捨てられた緑の髪の毛のように、澄んだ水の中になびいている。ときどき、藺草《いぐさ》の葉先や睡蓮《すいれん》の葉に細い肢《あし》の虫が歩き回ったり、止まっていたりした。水が砕けるごとにできる漣《さざなみ》の小さな青い水玉に日の光が輝いていた。枝を払ったやなぎの古木が灰色の樹皮を川面に映していた。向こう岸一帯の牧場には人影もなかった。農家では今、夕食の時間で、この若い人妻とそのつれが歩くたびに聞こえてくるのは小道の土を踏む二人の足音と、かわす言葉とエンマの身のまわりでかすかな音をたてるドレスの衣《きぬ》ずれの音だけだった。
びんのかけらを冠石にうえた家々の石垣は温室のガラスのように厚かった。垣のレンガの間にニオイアラセイトウが植えてあり、ボヴァリー夫人が通ると、開いた日がさの縁があたって、枯れた花が二つ三つ、黄色の粉となってハラハラと落ちた。あるいはまた、道にはり出したすいかずらや野ぶどうの枝が、日がさの縁飾りにひっかかって、しばらく絹地の上をかすったりした。
二人は近くルーアンの劇場で上演するはずのスペイン舞踊団の話をした。
「いらっしゃいますの?」とエンマがたずねた。
「できれば」とレオンは答えた。
二人は他のことを語り合うことはなかったのだろうか? 二人の目はもっと真剣な語り合いに満ちていた。二人はつとめて平凡な話題を捜してはいるものの、同じ一つの思いにとらわれるのを感じていた。それは、声に出されるささやきよりももっと深い、絶えることのない魂のささやきであった。この新たな甘美さにうっとりとした二人は、そのことについて語り合おうとも、原因を探《さぐ》ろうともしなかった。未来の幸福は、南国の浜辺のように、その国特有の放逸さを、かぐわしいそよ風を果てしなく続く大海原に投げかける。そして人びとははっきりとは見えない水平線を気にかけるでもなく、ひたすらこの酔い心地の中に息づくのである。
ある所では、家畜の足跡が地面に大きな穴をあけていたので、泥の中に間隔をあけて置いてある苔《こけ》のついた大きな石を伝って歩かねばならなかった。ときどき、エンマはどこに足を下ろすべきかしばらく見回した。ぐらぐらする石の上でよろめきながら、両|肱《ひじ》を張り、上体をかがめ、不安な目つきで、水たまりに落ちはしまいかとこわごわ微笑《ほほえ》んだ。
家の庭の前に着くと、ボヴァリー夫人は柵《さく》をあけ、石段を駆け上がり、姿を消した。
レオンは事務所に戻った。主人はいなかった。彼はちらっと訴訟記録に目を走らすと、ペンをけずり、とうとう帽子を取って、出て行った。
彼は森の入り口にある、アルグイユの丘の頂にある「牧場」に登り、樅《もみ》の木陰に身を横たえ、指の間から空を見た。
「ああ、退屈だ、退屈だ」と彼はひとりごちた。
オメーのような男を友人にして、ギョーマンのような人物を主人として、こんな村に生活しているのがつまらなかった。このギョーマン氏は金の柄の眼鏡をかけ、白のネクタイの上に赤い頬ひげをはやし、万事厳格で英国ふうを気どり、初めは書記の目を見張らしたものだが、およそ人の心の機微は理解できる人物ではなかった。薬屋の女房はというと、ノルマンディー一の世話女房、羊のように優しく、子供、父、母、従兄《いとこ》を愛し、他人の不幸に涙を流し、家事をいっさい引き受け、コルセットが大きらいときている。とはいえ、動作は鈍重、話はつまらない、顔つきは平凡で、たとえ彼女が三十歳で、自分が二十歳であり、戸を接して眠り、毎日言葉をかわしているものの、彼女がだれかにとって女であること、ドレス以外も女性だとはとうてい信じられなかった。
それからだれがいるだろう? ビネーと数人の商人、二、三の居酒屋、神父さんに村長のテュバッシュ氏と二人の息子だ。この三人は、金持ちで気むずかしい鈍物で、自分で土地を耕やし、家でご馳走《ちそう》を食い、そのうえに信心深く、全くつきあいきれない連中であった。
しかし、こうした顔からなる平凡な背景の上に、エンマの顔が一つだけとび離れて浮かび上がったが、それははるかかなたにあった。彼は彼女と自分の間に漠然と断層を感じていた。
初めのうち、彼は薬屋にくっついて幾度も彼女の家を訪れた。だが、シャルルは彼を迎えても格別喜ぶ様子もなかった。で、レオンはあまりぶしつけでは悪いと思う気持ちと、自分でも不可能だとはわかっているのだが、親しくなりたいと思う気持ちとの板ばさみになってどうしたらよいものかわからなくなった。
四
寒くなり始めると、エンマは居間からおりてきて、広間にいるようになった。これは天井の低い、細長い部屋で、暖炉の上には珊瑚樹《さんごじゅ》が鏡に立て掛けてあった。エンマは肱掛椅子にすわり、道を行く村人を眺めていた。
レオンは、日に二度、事務所から「金獅子館」へ通った。彼女は遠くから彼の足音を聞きつけると、身をかがめ、耳を澄ますのだった。青年はいつも同じような身なりで、振り返ろうともせず、カーテンの向こう側に見えなくなった。しかし、たそがれ時、左手で頬づえをつき、やりかけの刺繍を膝にのせたままにしていると、エンマは急に、通り過ぎて行くその人影に幾度も身をふるわせた。彼女は立ち上がると、夕食の支度を命じた。
オメー氏は夕食の最中にやってきた。ギリシア帽を手にしたまま、だれにも手数をかけないように足をしのばせてはいってくると、いつも「みなさん、こんばんわ!」ときまり文句を繰り返すのだった。それから夫妻の間のいつもの席に落ち着くと、患者の様子を医者に聞いた。医者は医者で礼金の見当をたずねた。それから「新聞」にのっていることを話し合う、オメーはこの時間までにはほとんど暗記しているので、新聞記者の意見をまじえた、国内および国外の某氏の破局の顛末《てんまつ》をすっかり話してくれた。しかし、話の種がなくなると、オメーはすぐさま目の前の料理にけちをつけ始める。ときには、中腰になって、夫人に一番柔らかい所の肉を親切に指し示してくれたり、女中のほうを向かって、シチューの扱い方、調味料の衛生的用法について注意をした。彼は香料、エキス、肉汁、ゼラチンについて語り、みなを唖然《あぜん》とさせた。すなわち、彼の頭の中には、彼の薬局が薬びんでいっぱいになっている以上に物の作り方がつまっていて、ジャムや酢や甘口のリキュールを作るのがうまかった。そのうえに、各種新発明の経済こんろやら、チーズの保存法やすっぱくなったブドー酒の処置法まで知っていた。
八時に、ジュスタンが店をしめるので、彼を迎えにきた。するとオメーは、前々から見習生が医者の家が好きなのを知っているので、フェリシテがその場にいたりすると、からかうような目つきをした。
「こいつ、色気づきやがって、さては、女中さんにいかれているな!」
しかし、彼の重大な欠点は、オメーがいつも叱っているのだが、人の話を聞きたがることだった。たとえば、日曜日に子供たちが肱掛椅子で眠りこけてしまい、大きすぎるキャラコのカバーを背中でずってはずしてしまうので、オメー夫人が子供たちを運ぼうとジュスタンをいくら呼んでも、いっこうにサロンから出て行こうとしなかった。
薬屋の晩の集《つど》いには客が少なかった。彼の毒舌と政見のおかげでしだいに各方面のお歴々は遠のいていった。だが、書記は必ず出席していた。レオンは呼び鈴《りん》が聞こえると、ボヴァリー夫人の前に走り出て、ショールを受け取り、雪が降っているときには、靴の上にはいてきた縁飾りのついた大きな上靴を薬屋のカウンターの下の片隅に片づけるのだった。
まず、みなで「三十一」を数回やり、ついで、オメーはエンマと「エカルテ」をした。レオンは彼女の後ろに立って、忠言をした。彼女の椅子の背に手をのせて立ったまま、彼女の髷《まげ》にくしの歯がしっかりささっているのを見ていた。彼女がトランプを投げるたびに、右側のドレスがもち上がった。束ねた髪から、背中に黒い影が伝い、しだいに薄れながら陰の中に消えていった。それからひだをたくさん寄せてふくらましたドレスが椅子の上に両側からたれ、床の上にひきずっていた。ときどきレオンは自分の靴がドレスの裾《すそ》を踏んだと感じると、まるで人の足を踏んだかのように飛びのいた。
トランプ遊びにけりがつくと、薬屋と医者はドミノをした。エンマは席を変え、テーブルにもたれて「イリュストラシォン(絵入り週間誌)」にざっと目を通した。このモード雑誌は家から持ってきておいたものだった。レオンは彼女のそばにすわり、いっしょにさし絵を眺め、ページの下まで読むと待ち合わせた。彼女はよく詩を朗読して欲しいといった。レオンは詠嘆調で吟じ、愛のくだりには、心をこめてうたい上げた。ところが、ドミノのパイの音がその気分をぶちこわした。オメー氏はドミノが強くて、シャルルは六のダブルに完敗した。一〇〇点勝負を三回すると、二人とも暖炉の前にどっかり陣どり、たちまち眠り込んでしまった。火は灰の中でかすかに残り、紅茶わかしもからっぽだった。レオンは読み続け、エンマは、馬車に乗ったピエロやバランス棒を持っている綱渡りの女の子が紗《しゃ》の布に描いてあるランプシェードを機械的に回しながら聞いていた。レオンは寝込んでいる聞き手を指さして読むのをやめた。そして二人は低い声で語り合った。二人がかわした会話は聞いているものがなかっただけにそれだけ楽しかった。
こうして二人の間には一種のなれあいの関係ができ上がり、たえず本や恋歌集の貸し借りが行なわれた。ボヴァリー氏は嫉妬《しっと》深いほうではないので、怪しみもしなかった。
彼は誕生日のお祝いに、胸部にまで数字が打ってあり、青色に塗ってある骨相学用の髑髏《どくろ》を送られた。書記の心尽くしだった。書記はこのほかにもいろいろと好意を示し、ルーアンにまでお使いに行ってくれた。ある小説家の本のせいでサボテンがはやると、レオンは夫人のために買いに行き、『つばめ』に乗って、その硬《かた》い針に刺されながら、膝にのせて持ち帰った。
彼女は窓辺に、植木鉢をのせる手すりのついた棚を作らせた。書記も植木棚をつけた。こうして二人は窓辺で花の世話をする姿を互いに眺め合った。
村にある数々の窓辺の中で、いつも人影の認められる窓があった。日曜日には朝から晩まで、午後は、お天気がいいと、屋根裏の天窓から、ろくろの上に身をかがめているビネー氏の痩身《そうしん》が見えた。ろくろの単調な音は「金獅子館」まで聞こえてきた。
ある晩、レオンが帰ってくると、青色の地に木の葉模様のビロードと羊毛の混紡のじゅうたんが部屋に置いてあった。彼はオメー夫妻から、ジュスタン、子供たち、料理女まで呼びいれた。主人にもこの話をした。だれもがこのじゅうたんのことでもちきりだった。なぜ、先生の奥さんはこれほど書記に「気前のよさ」を示すのか。ちょっとおかしいぞ。そこで人びとは奥さんは書記の「いい人」にちがいないときめこんでしまった。
レオンのほうも信じられても仕方がないほど、たえず、夫人の美しさ、才知を吹聴《ふいちょう》していた。とうとうビネーに、あるときぶっきら棒にこういわれてしまった。
「そんなことおれとは関係ないね。第一、おれはそんな人は知らんからな」
レオンはどうやって「自分の思いのたけを告白しようか」と悩んだ。いつも、彼女にきらわれるのではないかという心配と、意気地《いくじ》ないのが恥ずかしいのとにはさまれていいよどみ、失望と望みに泣いた。それから力強く決意を固めた。彼は手紙を書いては破り、いったん延ばした時機をまた先に延ばした。思いきって出かけてみるのだが、エンマの前に出ると、その決意もすぐに砕けてしまい、シャルルが急に現われて、「小型馬車」に乗って、いっしょに近所の患者を見舞いに行かないかと誘われると、すぐさま同意して、夫人に挨拶し、立ち去るのであった。彼女の夫も、彼女の一部でなかろうか?
エンマは、彼を愛しているのかどうなのか考えてみようとはしなかった。愛とは、突然、電光石火、雷鳴と共にきたるものであり、人生をおそい、打ち倒し、木の葉のように人の意志をもぎり、心全体を深淵《しんえん》に運びさる台風のようなものだと信じていた。家のテラスの上でも樋《とい》がつまれば雨水も湖になることを知らなかった。だから、彼女はこうして安心しきって暮らしていたのだろう。だが、突然、彼女は壁に亀裂《クレバス》を発見したのである。
五
ある二月の日曜日の雪の降っている午後のことだった。
ボヴァリー夫妻、オメー、レオンはそろってヨンヴィルから半マイルの谷間に建設中の製麻工場を見物しに行った。薬屋はナポレオンとアタリーを運動させに連れて行った。ジュスタンは肩にこうもりをかついでついてきた。
とにかく、こんなつまらない見物はなかった。だだっ広い空き地で、砂利や小石の山の間にもうさびついている歯車がごちゃごちゃに置かれ、小さい窓がたくさんついている四角の建物をとりまいていた。まだ建物はできあがってはいず、屋根組みの梁《はり》の間から空が見えた。切妻の梁につけてある穂の混じっている麦わらの束が、三色のリボンを風に鳴らしていた。
オメーはしゃべりまくった。彼は「一同」にこの建設が将来いかにたいしたものになるであろうかと説明し、床の耐久力や壁の厚さを推量し、ビネー氏がとくに自分用に持っているようなメートル尺がないのを残念がった。
エンマはオメーに腕をかし、彼の肩にちょっともたれ、はるか遠く、霧の中にまぶしい青白い光を放つ太陽の円盤を眺めた。しかし振り返ると、そこにシャルルがいた。シャルルは眉《まゆ》の上まですっぽり帽子をかぶり、分厚い唇をふるわしていた。それが彼の顔になにかしら間の抜けた感じを与えていた。鈍重そうな背中を見るのさえ腹立たしかった。フロックコートにも彼という人間の凡俗さがうかがわれた。
こうして腹立たしさの中にも一種よこしまな快感を味わいながら、シャルルを見つめていると、レオンが一歩進み寄ってきた。彼の顔は、寒さのために青ざめ、一段と甘い悩ましさをたたえているかに見えた。ネクタイと首の間の、心持ちゆるいシャツのカラーから肌が見えた。一房の髪の毛の下から耳たぶがのぞいていた。雲を見上げている大きな青い瞳が、エンマには、空を映す山の湖より澄んだ青い色に見えた。
「こいつめ!」突然、薬屋が叫んで息子のところに駆け寄った。息子は靴を白くしようと、石灰の山に飛び込んだのである。お小言をさんざん聞かされて、ナポレオンは大声で泣きわめいていた。その間、ジュスタンはわらを束にして靴をふいた。しかし、小刀がないととれそうもなかった。シャルルは自分のナイフをさし出した。
「ああ、この人はポケットにナイフを入れている。まるで百姓だわ!」とエンマは思った。
みぞれが降ってきたので、一同はヨンヴィルへと引っ返した。
ボヴァリー夫人はその晩はオメーの家に行かなかった。シャルルが出かけて、やっと一人になれたと思うと、またいつもの比較が始まった。彼女の心に思い浮かぶものは、手で触れればさわれそうなほどはっきりとしているくせに、追憶の中の事物に特有なあの深い奥行をもっていた。ベッドにはいって、あかあかと燃える暖炉の火を見ていると、さっきのように、レオンが突っ立ち一方の手でステッキを折り曲げ、もう片方の手で、だまって氷をしゃぶっているアタリーの手をひいている姿が浮かんできた。あの人はすてきだとエンマは思った。エンマはその考えから抜け出せなかった。彼女はほかの日の彼の態度を、彼のいった言葉を、彼の声を、彼のすべてを思い出した。彼女はキスするように唇をつき出してこう繰り返した。
「そう、すてきな、すてきなかただわ! あのかたは恋をしているのではないかしら」と彼女は自問した。「いったいだれを? きっとわたしだわ!」
一どきにそのすべての証拠が眼前に繰り広げられ、彼女の胸はおどった。暖炉の炎は天井に明るい光をふるわせていた。彼女は寝返りを打って、腕を広げた。
すると、いつもの愚痴が始まった。「ああ、もし運さえよかったら、どうしてそうならなかったのだろう? いったいなんのために……?」
シャルルが真夜中に帰ってくると、目覚めた振りをした。彼が服をぬぐときに音をたてると、頭が痛いといった。そして何気なく晩の集まりはいかがでしたかとたずねた。
「レオン君は早目に切りあげて行ったよ」
彼女は思わず微笑し、新たな喜びに浸りきって寝入った。
その翌日の日暮れ時、小間物屋のルウルウのおやじがやってきた。このおやじはなかなか抜け目ない男だった。
ガスコーニュ生まれで、ノルマンディー育ちのこの男は南仏人の饒舌《じょうぜつ》とコー地方人の抜け目なさを合わせ持っていた。油ぎってたるんだひげのない顔は薄い甘草の煎《せん》じ薬を塗ったのではないかと思うほど黒かった。白い髪の毛が彼の小さい黒い目の鋭い輝きを一段と強調していた。彼の前身はだれにもわからず、小間物の行商人だという者がいるかと思うと、ルートーで金貸しをしていたという説もあった。ただ、わかっていることは、ビネー氏もたじたじとするほど複雑な計算を暗算でやってのけることだった。彼は、おもねっていると思えるほどバカ丁寧《ていねい》で、いつもお辞儀や案内をする姿勢で、腰をかがめていた。
クレープのリボンをつけた帽子を戸口に置き、緑色の箱をテーブルにのせると、彼はお世辞たらたら、今日までごひいきにあずかれなかったことをこぼし始めた。――手まえどものような取るにたらない店は「洗練されたかた」のご愛顧を得ることはできませんです、といい、この「洗練されたかた」という言葉に力を入れた。とにかく、奥様がお申しつけさえくだされば、小間物でも、下着類でも、編物類でも最新流行の布地でも、お望みの品を持ってきますです。というのは、週に一度は必ず町に行っておりますから。それにうちは一流の店と取り引きをしているので、「三兄弟商会」、「金髯《きんひげ》屋」、「野人商店」なんかでも、うちの名をいってくだされば、うちのことは隅から隅まで知っていますよ。さて、今日は、奥様に、珍しく手に入れました品々をついでにお目にかけにまいりましたと、箱から半ダースばかりの刺繍したカラーを取り出した。
ボヴァリー夫人はよく見て、
「何もいりません」といった。
すると、ルウルウのおやじは、アルジェリアのスカーフを三本、英国の針を幾包みか、麦わらのスリッパを一足、最後に囚人が透《すか》し彫りをしたヤシの実のゆで卵器を丁寧に並べて見せた。それから、彼はテーブルに両手をのせ、首をつき出し、上体をかがめ、口をあけたまま、品物をなんとはなしに眺めているエンマの視線を追った。ときどき、彼はほこりを払うように、広げたスカーフの絹を爪ではじいた。スカーフは軽い音をたててかすかに揺らぎ、黄昏《たそがれ》の緑がかった光に、地の金粉地が、小さな星のようにきらめいた。
「これ、おいくら?」
「わずかなもんで」とルウルウが答えた。
「ほんとにわずかなもので、いや、お急ぎになることはございません。ご都合のよろしいときでよろしいのでして。手まえどもはユダヤ人ではございませんから!」
エンマはしばらく考えていたが、ルウルウにお礼をいって断わった。だが、ルウルウは少しも騒がず、答えた。
「よろしゅうございます。いずれまたお願いしましょう。手まえはご婦人とはいつもうまくいきますから。もっとも女房は別でございますが!」
エンマは微笑した。
「奥様だから申し上げるのでございますが」と冗談をいったあとで、人の好さそうに、「手まえは、金などどうでもよろしいのでして、ご入用でしたら、ご用立てもいたしますです、はい」
彼女は驚いたふうをした。
「いえ」と、ルウルウは急いで、低い声でいい添えた。「簡単にご用立ていたしますから。どうぞご利用ください」
そのあと、彼はそのころ、ボヴァリー先生が診《み》ている「カフェ・フランセ」の亭主のテリエじいさんの容体を聞き始めた。
「あのテリエのじいさん、いったいどうしたのでございましょう? 家中が揺れるほど、咳《せき》をしているのだそうでございますよ。おそかれ早かれ、フランネルの寝間着よりも棺桶《かんおけ》の外套《がいとう》がいりそうでございますね。あのじいさまは若いころは大へんな道楽者でございましたよ! ああいったってあれは、奥様、だらしないものでしてね! あの人などもブランデーに殺されたのでございますよ。でも、とにかく、知り合いに先立たれるのは悲しいものでございます」
そして箱のふたをしめながらも、ルウルウは先生の患者についてしゃべっていた。
ルウルウはしかめっ面をして、窓を見ながら「ああいう病気になるのも、きっと、陽気のせいでございますよ。手まえも、からだの調子がおかしくて。背中が痛くて困っていますんです。そのうちに先生に診《み》ていただかなくてはと思っているのですが。では、ボヴァリー先生の奥様、失礼いたします。どうぞ、なんなりとお申しつけください」といった。
そして静かにドアをしめて出て行った。
エンマは、居間の暖炉のそばに、夕食を大きな盆にのせて運ばせ、長いことかかって食事をした。なにもかもおいしかった。
「買わなくてよかったわ」と彼女はスカーフのことを考えながら思った。
階段に足音が聞こえた。レオンだ。エンマは立ち上がり、たんすの上に積み上げてあるへり飾りをする布のうち、一番上にあるのを取り上げた。レオンがはいってきたとき、彼女は一心不乱にやっているように見えた。
話は少しもはずまなかった。ボヴァリー夫人はすぐに話を途切らしてしまうし、レオンは当惑して黙りこくってしまう始末だった。彼は炉辺の低い椅子に腰掛け、象牙の箱をいじくり回していた。彼女は針を運び、ときどき、つま先で布にひだをつけていた。彼女はしゃべらなかった。彼は彼女の言葉と同様に彼女の沈黙にも心奪われて、黙っていた。
「かわいそうな人」と彼女は思った。
「なにか気に入らないことでもしたのだろうか」と彼は考えた。
とうとう彼は、この二、三日のうちに事務所の仕事でルーアンに行かねばならないといった。
「奥さんの音楽雑誌の予約購読がきれているのですが、続けますか」
「いいえ」とエンマは答えた。
「なぜです?」
「だって……」
彼女は唇をすぼめて、ゆっくりと針に通した灰色の長い糸を引いた。
この針仕事にレオンはいらだった。エンマの指先にすり傷ができるのではないかと思うほどだった。ふと女に言えば喜びそうな文句が頭に浮かんだ。だが、彼はいい出さなかった。
「それじゃ、おやめになるのですか」
「なにを?」と彼女は聞き返した。「音楽? ええ、そうですわ。家の用事だの、主人の世話だの、その他いろいろなことがあるでしょ。それよりまず、しておかねばならないことが」
彼女は時計を見た。シャルルの帰りがおそかった。彼女は心配そうにして、二、三度、次のように繰り返した。
「あの人はいい人よ」
書記はボヴァリー先生が好きだった。しかし、彼に対するこのような愛情が彼を驚かし、不快だった。けれど、彼の賛美を続け、だれもかれもが、とくに薬屋が先生をほめているといった。
「ああ、立派なかたですわ」
「まったくですね」
レオンはオメー夫人のことを話題にした。いつもなら、みだしなみの悪い夫人が二人の笑いの種になるのである。
「それがどうしたの?」とエンマはさえぎった。「良妻賢母というものはおしゃれなど気にしないものよ」
そういって彼女は再び黙りこくってしまった。
くる日もくる日も同じだった。彼女の話も、態度も、何から何まで変わってしまった。エンマは家事にせいを出し、日曜日には必ず教会に行き、女中を今まで以上に厳しくしつけた。
彼女はベルトを乳母のところから引き取った。お客がくるとフェリシテに子供を連れてこさせた。ボヴァリー夫人は、赤ん坊の手足を見せようと服をぬがせた。夫人は子供が大好きだといった。子供は彼女の慰めであり、喜びであり、楽しみだともいい、ヨンヴィル村の住人以外なら、だれしも「ノートルダム・ド・パリ」〔ユーゴーの代表作。これによって小説家としての地位を確立した〕のサシェットを思い出すような、心情あふれた述懐を愛撫《あいぶ》に加えた。
シャルルが帰ってくると、スリッパが暖炉の灰のそばで暖めてあった。今やチョッキは裏地がきれていることもなく、下着のボタンがとれていることもなかった。戸棚の中に、ナイトキャップが全部、同じ高さに並べてあるのを見るのもうれしかった。エンマは、昔のように、庭を散歩するのをいやがらなくなり、夫のいうことなら、文句もいわず従い、たとえ夫の真意がわからなくとも、いつも賛成した。レオンは、夕食後など、シャルルが炉辺で、腹に両手をのせ、両足を薪置きにのせ、食後の上気した顔に幸福そうな目をうるませて、じゅうたんをはいまわっている子供や、安楽椅子の背越しに額にキスしてくれるたおやかな妻にかこまれているのを見ると、
「なんと気違いじみたことを! とうてい望みのない高嶺《たかね》の花だ!」と思った。
彼女は、実際、貞淑で近寄りがたい存在に見えた。それゆえ、彼のすべての望みも、わずかな望みでさえもなくなってしまった。
しかし、このあきらめによって夫人を特別の位置に祭り上げることになった。レオンには夫人の肉体的美しさを何一つとして得られないだけに、夫人はその肉体から抜け出したのである。夫人は、彼の心の中で、飛翔《ひしょう》する神々《こうごう》しい天女さながらに、高くのぼってはまた飛びのいていった。それは、日常の生活のいとなみを乱すことなく、しかもその珍しさゆえに、人のいつくしみはぐくむものであり、それを失うことの悲しみのほうが、それを享楽する楽しみよりも大きいような、そんな純粋|無垢《むく》な感情の一つとなったのだ。
エンマはやせた。頬は青ざめ、顔はとがってきた。
黒い髪の毛に大きな目、まっすぐな鼻、小鳥のような物腰で、今や毎日おしだまっている彼女は生活をしていても、生活に手を触れることはないかのように、額になにか崇高な宿命の目に見えぬ護符《ごふ》をつけているかのように思われた。彼女は悲しげで静かであり、優しくもあり、またしとやかだった。で、彼女のそばにいる者は、ちょうど教会で大理石の冷たさと混じった花の香りに身をふるわせるように、冷ややかな魅力のとりこになるのを感じるのだった。他の者でさえ、この魅惑からのがれられなかった。薬屋は、「すばらしい女だ。郡長夫人にはもってこいだわい」と思った。
おかみさんたちは彼女の質素なことを、患者は丁寧さを、貧乏人はその思いやりに感心した。
ところが、彼女は渇望と、怒りと、憎しみでいっぱいだった。きちんとした衣服に荒れ狂う心を隠し、つつましい唇は悩みを語ろうとはしなかった。エンマはレオンに恋をしていた。そして彼の面影を思いのままいだこうと孤独を求めた。彼の姿を目にすると、この瞑想《めいそう》の喜びが乱された。エンマは彼の足音に心をときめかした。だが、彼に面と向かうと、そのときめきは地に落ち、あとには深い驚きが残り、それが悲しみに変わっていった。
レオンは絶望して彼女の家から帰って行くとき、エンマがその後について立ち上がり、道を行く自分を見送っているのを知らなかった。彼女は彼の様子が気がかりになり、顔色をうかがった。あらゆる作り話をこしらえ、部屋に行く口実にした。彼女は、同じ屋根の下で眠る薬屋のおかみさんはしあわせ者だと思った。思いはたえずこの家の屋根をうろつき、ちょうど、樋《とい》の中にピンクの足や白い翼を浸しにそこにやってくる「金獅子館」の鳩《はと》のようであった。エンマは自分の恋心を知れば知るほど、外に現われないように、弱まるように、押えつけた。レオンにはそのことをわかってもらいたいと思った。そこで彼女はそのきっかけともなる偶然や事件を期待した。彼女を押えたものは、恐らく怠惰か恐怖か、あるいははじらいからだったろう。彼女は、あの人を遠ざけてしまった、もうおそい、すべては終わってしまったのだと思った。すると、思い上がった気分が、「わたしは貞淑《ていしゅく》だわ」といい得る喜びが、あきらめきった姿の自分を鏡に映す喜びが、自分がしたと思っている犠牲を少しは軽くしてくれると思った。
そこで、肉欲も金銭欲も情熱の悲しさも、すべてが一つの苦しみのうちに合わさり、――思いをそらすどころか、悩みを刺激し、至る所で機会を求めては、悩みを深めるのだった。彼女は料理が気に入らなくとも、戸が半開きでもいらだち、ビロードを持っていないことを、幸福を手にしていないことを、高すぎる理想を、狭すぎる家を嘆いた。
彼女をいらだたせたのは、シャルルが彼女の苦しみにまったく感づいていないことだった。彼女を幸福にしているという彼の自信が、彼女にはばかげた侮辱《ぶじょく》に見え、それに安心していることがとんでもない仕打ちに思えた。いったいだれのためにわたしはおとなしくしているのだろう? かえって、あの人はすべての幸福を邪魔し、すべてのわたしの悩みの種であり、わたしを二重三重にがんじがらめにする複雑な革帯の、そのとがった針のようなものではないだろうか、と思った。
それゆえ、彼女の悩みのために起こる数々の憎悪《ぞうお》を彼にだけ受け持たせた。そこで憎しみの心を押えようとする試みもことごとく憎しみをつのらせる原因となった。このむだな努力は絶望のほかの原因といっしょになって彼女の心をいっそう彼から引き離した。彼女自身の優しさまでが彼女の気に入らなかった。家事の単調さに、彼女は華美な幻想を描き、夫婦愛から、不倫の恋を望んだ。道理にかなって、シャルルを憎み、シャルルに復讐できるよう、いっそのこと、彼が打ってくれればよいのにと思った。ときには、自分の心に浮かぶよこしまな推測に驚くこともあった。ほほえみ続け、自分は幸福なのだと繰り返し聞かされ、そのように見せかけ、相手にも信じさせなければならないのだ!
しかし、彼女はこの偽善がいやだった。レオンとどこか遠くに逃げだし、新しい運命を切り開く誘惑にかられた。だが、彼女の心の中に、まっ暗なはっきりとは見えない深淵《しんえん》がポッカリ口を開くのだった。
「それに、あのかたはわたしをもう愛していないのだ」と思った。「どうなるだろう? どんな救いが待っているというのだろう? どんな慰めが、どんな気晴らしが?」
彼女はつかれはて、あえぎ、力なく、しのび泣き、涙をこぼした。
「どうして旦那様におっしゃらないのですか?」と女中は、こうした発作《ほっさ》の最中にはいってくると、聞いた。
「ただ神経なのよ。旦那様にはいわないでね、心配なさるから」
「ああ、そうそう」とフェリシテは言葉を続けた。「奥様はゲリーヌそっくりでございますよ。ほら、こちらにうかがう前にディエップで知り合いになった、ポレの漁師のゲランじいさんとこの娘の。それは陰気な娘でございましたよ。戸口の所に立っているのを見ると、戸口に葬式の幕でも張ってあるみたいでした。なんでも、頭の中にもやのようなものがかかっているとかいう病気で、お医者様も神父様も手をこまねいていらっしゃいましたよ。その病いが高ずると、娘は一人波打ちぎわへ行ったもんでした。税関のお役人さんなんかは、見回りの最中、よく娘が腹ばいになって浜辺の小石の上に涙をこぼしているのを見かけたそうでございますよ。ところがお嫁に行ったら、なおってしまったそうでございます」
「でもわたしがこうなったのは結婚後のことなのよ」とエンマは答えた。
六
ある夕暮れ、エンマはあけ放した窓辺にすわり、寺男のレスティブードワがつげの木を刈っているのを見ていた。と、突然「お告げの鐘」が聞こえた。
四月の初めのころのことで、桜草が咲いていた。生暖かい風が手入れされた花壇の上をそよぎ、庭は、まるで女のように、夏の饗宴《きょうえん》のための粧《よそお》いをこらしているかに見えた。アーチ形の門越しに、その向こう一帯の牧場を流れる川が見えた。川は草原に気まぐれな曲線を描いていた。夕|靄《もや》は葉を落としたポプラの木立ちにもおり、その輪郭を、枝に掛けた天女の衣よりなお薄く、すきとおった紫色でぼかしていた。かなたでは家畜がうごめいていた。が、その足音も、鳴き声も聞こえなかった。そして鐘は鳴りやまず、空に静かな愁嘆を繰り返していた。
この繰り返す鐘の音に、若い人妻の思いは少女時代の、寄宿生時代の古い思い出の中にさ迷い込んだ。彼女は大きなシャンデリアを思い出した。あれはミサ台の上を照らしていたが、花をいっぱいに生けた花びんよりも、小さな柱のついた聖櫃《せいひつ》よりもなお高くそびえていたっけ。彼女は昔のように白いヴェールの長い列の中にまじってしまいたかった。祈祷《きとう》台に身をかがめている尼僧たちのつっぱった頭布《ずきん》が一団の白いヴェールの中で黒点となっていたわ。日曜日のミサのときなど、頭を上げると、立ち上がる青い香の煙の中に、聖母マリアの美しい顔が見えたわ。すると、感動が彼女をおそった。自分が嵐の中を舞う鳥の羽根のように心細く、うら寂しく感じられた。そして知らないうちに教会に向かっていた。どんな宗教でもかまわなかった。ただそこに魂を打ち込むことができ、全生活を忘れられればそれでよかった。
彼女は広場で、教会から戻ってくるレスティブードワに会った。この男は一日の手当が減らないように、仕事のきりのいいところで中座し、「お告げの鐘」を鳴らすと、帰ってきてまた仕事をするのだった。もっとも、時間前に鐘を鳴らすのは、子供たちに教理問答の時を知らせる結果にもなった。
もう集まっていた子供たちは、墓地の舗石の上でおはじきをしているかと思うと、塀《へい》に馬乗りになって、足をブラブラさせ、この小さな塀と一ばん塀際にある墓との間に生えた丈の高いいら草を木靴でなぎ倒していた。ここだけが青々と草の生えている所で、その他は全部墓石となっていた。だが、その墓石も、納室にはほうきがあるというのに、いつもこまかいほこりにまみれていた。
布靴をはいた子供たちは、自分たち専用の床といわんばかりに駆け回っていた。そのはじけるような声は鐘が鳴っていても聞こえた。鐘の音は、鐘楼の天頂から下り、地面にその先を引きずっている太いロープの動きが鈍くなると同時に小さくなっていった。つばめが小さな鳴き声を上げて通り過ぎ、その羽根で空《くう》を切っては急いで軒下の黄色い巣へと帰って行った。教会の中では、ランプが、つまり吊りガラスの中でお燈明の芯《しん》が燃えていた。その明りは、遠くから見ると、灯油の上に揺らめく白っぽい斑《はん》点と見えた。太陽の長い日ざしが内部を照らし、側廊や隅々をよけいに暗く感じさせた。
「神父様は?」とボヴァリー夫人は、軸受けの穴が大きくなりすぎてしまった回り木戸を揺すって遊んでいる子供に聞いた。
「すぐくるよ」とその子は答えた。
そのとおり、司祭館の戸がきしんで、ブールニジャン神父が現われた。すると、子供たちはあわてふためいて教会の中へかけ込んだ。
「腕白《わんぱく》小僧めが! いつも同じじゃ」と神父はつぶやいた。
そして、足にあたったボロボロになった『公教要理』を拾い上げると、
「まったく物を大事にせん!」といった。
ところが、ボヴァリー夫人に気づくと、
「失礼しました。奥さんがいらっしゃっているとは思いませんでしたよ」
彼は『公教要理』をポケットに入れると、立ち止まり、納室の重たい鍵《かぎ》をつまんではブラブラ振っていた。
夕日の光が、彼の顔を照らし、僧服の布地を白く見せていた。僧服は肱《ひじ》の所が光り、裾《すそ》が切れていた。広い胸に、油やタバコのしみがボタンの列にそってついていた。しみは胸飾り以外の所になるともっとひどくついていた。胸飾りのたくさんついているひだの間から赤い肌が見えた。その肌にも黄色のしみがついており、硬《こわ》い白髪のひげの中にかくれていた。彼は食事をし終わったばかりで、息をはずませていた。
「お元気ですかな」と彼はいい添えた。
「よくありませんの、苦しんでおります」とエンマがいった。
「それは、それは。わしも同様ですじゃ」と神父が答えた。「この暑さでは、からだがだるいのじゃな。でも、しかたがないですな。パウロもいわれたように人間は生まれつき苦しむものなのじゃよ。して、ボヴァリー先生はどうお考えかな?」
「あの人なんか!」と彼女は軽蔑《けいべつ》した様子でいった。
「なんですか、先生は診《み》てくださらんのかね」とこの好人物は驚きあきれて聞いた。
「ああ、わたしに必要なのはこの世の薬ではありませんわ」
しかし、司祭はときどき教会の中をのぞき込んでいた。
「わたしが知りたいのは……」とエンマがいった。
「待った、待った、リブーデ、ひどいめにあわせるぞ、いたずらっ子め!」と神父はおこった声で叫んだ。
そして、エンマのほうを向いて、
「あれは大工のブーデの息子でしてね、両親がだらしのないほうなので、息子も気ままにしていますのじゃ。ですが、その気になれば、覚えも早いほうでしてね、なにしろ頭のいい子ですから。それで、ときどき、ふざけてリブーデと呼んでいるのですがね、(マロームへ行くときに通る丘の名ですがね)ときにはリブーデ≪さん≫とも呼んでますよ。リブーデ≪山≫とね。先だっても、大司教様にそのお話をしたところ、笑いましたよ……いや、お笑いなされましたよ。ところで、先生はお元気ですかな」
エンマが聞いていないようなので、彼はまた続けて、
「毎日、お忙しいことでしょうな。この教区で、仕事が手いっぱいなのは先生とわしでしょうな。もっとも、先生はからだのお医者様のほうで、わしは魂のほうじゃがね」と薄笑いを浮かべていった。
エンマは神父に哀願するような視線を注いだ。
「そうですわ。悩みはなんでもやわらげてくださいますわ」といった。
「ああ、ボヴァリーの奥さん、おっしゃらないでください。今朝も、バ・ディオーヴィルに行かされましたよ。牛が『腫《は》れ病』になったというのでね。やつらはなんかのたたりだというんですよ。どうしてだかわからないんですがね、牛という牛が…………失礼しますよ。ロングマールにリブーデ、こらっ、黙れ! 黙れっというのに!」
彼は一|跳《と》びに教会の中に駆け込んだ。
そのとき、子供たちは大きな聖書のまわりにひしめき合い、聖歌隊の腰掛に這《は》い上がり、ミサ祈祷書《きとうしょ》を開いていた。ある者は、こっそり、奥にしのび入り、告解室にまではいり込んでいた。しかし、司祭は、突然、みなに平手打ちを食わせた。上着の襟《えり》がみをひっつかむと、かかえ上げ、まるで植物でも植えるように、ドスンと内陣の石畳にひざまずかせた。
「ほんとに、百姓どもはかわいそうでございますよ」彼はエンマのそばに戻ってくるといい、インドの更紗《さらさ》の大きなハンカチを広げ、その角を歯でかんだ。
「ほかの者もおりますわ」とエンマが答えた。
「そうですね! たとえば、町の労働者なんかも」
「そんな人ではありませんわ」
「いやいや、そういう所で、貧しい家庭婦人が、真《まこと》の聖女のような貞節な婦人が、その日のパンにもこと欠いているのを知っていますよ」
「でも」とエンマは反駁《はんばく》した。(と、しゃべりながら、口元をゆがめた)「神父様、パンはあっても、ほかの物がない人がありますわ」
「冬に火のない人が」と神父がいった。
「ええ! それがどうしたというのでしょう?」
「なに? そんなものが? 人はよく暖まり、たらふく食べておれば……、というのは……」
「ああ、ああ」と彼女はため息をついた。
「お気持ちでも悪いのですかな」と、不安げな様子をして歩み寄っていった。「消化のせいですな? 奥さん、お宅にお帰りになって、お茶を少しお飲みなさい。すっきりされますよ。あるいはおひやに赤砂糖を入れて一ぱい飲まれることですな」
「なぜですの?」
彼女は夢からさめた人のようだった。
「額に手をお当てになりましたからな。目まいでもなさったのかと思いましたよ」
そして、思い出したように、
「ところでなにかご用でも? なんでしたかな? ど忘れしてしまいましてな」
「わたしが? いいえ、なにも……なにも」としどろもどろにエンマは繰り返した。
自分のまわりを見回している彼女の視線はそっと僧服の老人の上に落ちた。二人は、黙って、互いに顔を見合わせた。
「それでは、ボヴァリーの奥さん、失礼します。まず、なによりも務めですからな。あのギャングどもを片づけてきますか。初聖体がもうじきですからな。今年もいざとなってあわてることじゃろうて。そこで、昇天祭からというもの、『きちんきちん』と毎水曜日、一時間もよけいに教えているのですよ。かわいそうな子供たちじゃ! だが、神の道を教えてやるのに早すぎることはないとは、神おんみずから御《み》子キリストのお口を通じて、おさとしなすったことですじゃ。では奥さん、ごきげんよう。ご主人によろしくな」
そういって神父は、戸口で礼をして中へはいって行った。
エンマは神父が重々しい足どりに、頭を肩にちょっとかしげ、両手を心持ち広げて前に突き出して歩いて行き、二列に並べてあるベンチの間に姿を消すのを見ていた。
それから彼女は、回転する彫像のように、クルリと踵《きびす》を返すと、家路についた。だが、まだ、神父の太い声と、子供の澄んだ声が彼女の耳にまで聞こえ、後方で続いていた。
「汝ハキリスト教徒ナリヤ?」
「ワレハキリスト教徒ナリ」
「キリスト教徒トハ何ゾヤ?」
「キリスト教徒トハ、洗礼ヲ受ケ、洗礼ヲ受ケ……」
エンマは手すりにすがって階段をのぼった。居間にはいると、安楽椅子に倒れ込んだ。
窓から差し込む薄日が静かに波打って沈んでいった。いつもの場所にある家具はいつもより不動に見え、まっ暗な大海のような闇《やみ》の中に消えていた。暖炉の火も消えていた。時計の振り子がたえず時を刻み、事物の静けさに彼女は驚いた。それほど、彼女の心は騒がしく揺れ動いていたのである。窓と手芸台との間に、小さなベルトが毛糸の靴をはいてよちよち歩きをしていた。ベルトは母に近寄って、エプロンについているリボンの先をつかもうとしていた。
「あっちへお行き!」とエンマは手で遠のけた。
娘はやがて、膝《ひざ》に近づき、腕をついて、青い大きな目で彼女を見上げた。すると、清らかな一筋のよだれが唇からエプロンにたれた。
「あっちにお行き!」と母親はいらだって繰り返した。
その顔に子供はおびえ、泣き出した。
「あっちにお行きってば!」と肱《ひじ》で押しのけた。
ベルトはたんすの足元に倒れ、真鍮《しんちゅう》の鈎《かぎ》にあたった。頬が切れ、血が流れた。ボヴァリー夫人は急いで抱き上げ、呼び鈴のひもをちぎるほど引っぱり、声をかぎりに女中を呼んだ。シャルルが現われたときには、今にも自分を呪うばかりであった。夕食の時刻なので、シャルルは帰ってきたのである。
「あなた、見てくださいな」とエンマは冷静な声でいった。「遊んでいる最中、床で怪我《けが》をしましたの」
シャルルは、傷はたいしたことはないといって彼女を安心させ、鉛硬膏を捜しに行った。
ボヴァリー夫人は食堂におりてこなかった。一人で子供の看病をしたいといった。子供の寝顔を見つめているうちに、不安だったものがしだいに姿を消し、こんなつまらないことに全く度を失ってしまった自分がばからしくもあったし、お人好しだとも思った。事実、ベルトは泣きやんでいた。今では、呼吸するたびに、もめんの布団をわずかに持ち上げていた。大粒の涙が半ばあいたまぶたの端に宿っていた。まつげの間にくぼんだ、色の薄い二つの目が見えた。頬にはった絆創膏《ばんそうこう》で、肌が斜めにつっぱっていた。
「おかしいわ。なんてこの子は不器量なのかしら」とエンマは思った。
夜、十一時にシャルルが薬屋から帰ってくると、(夕食後、彼は鉛硬膏の残りを返しに行ったのである)妻は揺籃《ゆりかご》のそばに立っていた。
「なんともないといったじゃないか」と彼は妻の額にキスしていった。「心配しなさんな、おまえのほうが病気になってしまうよ!」
彼は長いこと薬屋の所にいた。オメーは非常に心配しているとは見えなかったが、それでも、彼が気をとりなおせるよう、「元気づけよう」と心をくだいた。そこで、子供をおそういろいろの危険だとか、女中の不注意だとかを話題にした。オメー夫人もそれには覚えがあり、昔、料理番が十能の炭火を取り落としたのが上っぱりの襟もとにはいり、その痕《あと》がまだ胸に残っていた。それで、彼女の両親は何につけても警戒し、ナイフを研《と》いだことも、部屋を磨いたこともなく、窓には鉄格子を、戸の枠《わく》には棧《さん》をはめてあった。オメーの子どもたちは、わがままいっぱいに過ごしているものの、後ろにはたえず看視の目が光っていた。ちょっとでも風邪をひくと、父親は薬をふんだんに飲ませた。そして、四歳になるまでは、どの子もどの子も容赦《ようしゃ》なく厚ぼったい怪我よけ帽をかぶらされた。実は、これがオメー夫人の趣味であった。亭主のほうでは、内心それがおもしろくなく、こんなふうに頭を圧迫することが、知能器官に重大な影響を与えるのではないかと思っていた。そして、がまんできなくなるとこういった。
「おまえは、あいつらをカライブ人〔小アンチル諸島に住む未開民族〕やボトキュドス人〔南米アマゾン流域の原始林に住む未開民族〕のような低能にするつもりなのか?」
しかし、シャルルは幾度となく、そのような会話をさえぎろうとした。
「ちょっと、君に話したいことがあるんですが……」とシャルルは階段を先におりて行く書記の耳にそっとささやいた。
「気づかれたかな」とレオンは思った。胸がふるえ、あれやこれやと臆測してみた。
やっとシャルルは戸をしめると、ルーアンで、上等の写真の値段はどれほどなのか見てきてくれないかとたのんだ。それは、自分の妻に贈る心をこめた贈り物、気のきいた心づくし、燕尾服を着た自分のポートレートであった。それにしても前もって「見当」を知りたかった。それにレオンはほとんど毎週町に行っているのだから、こんなことをたのんでも迷惑にはならないだろうと思っていたのである。
なんのために行くのか? オメーはその裏になにか「若気のいたり」、浮かれたことでもと疑ってみたのだが、見当はずれだった。レオンは浮いた恋などしてはいなかった。今までよりもいっそう、彼は寂しそうだった。それはルフランソワのおかみには、彼が残す食べ物の量でよくわかるのだった。その心底をよく知りたいと思って、おかみは収税吏に聞いてみた。ところが、ビネーはとりつくしまもなく、自分は「警察から金をもらっているわけではないからな」と答えた。
しかし、ビネーの目にも友だちの様子はおかしいものに思えた。というのは、レオンはときどき腕を広げ、椅子にすわったままそり身にし、なんとはなしに生活についてのぐちを並べるからだった。
「ちっとも遊ばんからだよ」と収税吏がいった。
「どんな?」
「おれだったら、ろくろを買うんだがね」
「買ったところで、ぼくは使い方も知らんですよ」と書記が答えた。
「そうだったな」とこちらは満足と軽蔑の入りまじった気分で顎《あご》をなでながらいった。
レオンは実の結ばぬ恋にあきていた。そして、生活を導く興味も、支えてくれる希望もなく、ただ繰り返しにすぎない生活がもたらすあの憂愁を感じ始めていた。ヨンヴィルにも、ヨンヴィルの村人にもいやけがさし、ある人にあったり、ある家を見たりしただけでもぞっとした。薬屋は全く好人物であるけれど、がまんできなかった。しかし、新しい生活の前途を思うと、それは彼を魅惑すると同時に恐れさせた。
この恐ろしさはただちにいらだたしさに変わった。そうなると、パリははるかかなたで仮装舞踏会の吹奏楽やお針子娘たちの笑い声を彼に向かって吹きつけてきた。勉学の仕上げをあそこでするつもりなのに、なぜ出発しないのだろう? だれが邪魔をするというのだ。そして彼は心の準備にとりかかった。前もって仕事をとりきめた。部屋に家具を入れることまで想像した。あそこで芸術家の生活を送るのだ! そしてギターを習う! 部屋着を買う! ベレーも青ビロードのスリッパも! また、暖炉の上にX字形に置いたサーベルを飾り、その上に髑髏《どくろ》とギターを置くことまで夢見ていた。
あやぶまれるのは母の意向だった。でも彼のいい分ほどもっとも至極なものはないだろうと思われた。主人でさえ、もっとためになる事務所に行くようにいってくれているのだから。そこで折衷《せっちゅう》案をとって、レオンはルーアンに書記補の口を捜したが、みつからなかった。そこで彼は母親へ一部始終を告げた長文の手紙を書き送り、すぐにパリに行かねばならない理由を述べつらねた。母親も承諾してくれた。
しかし、彼はなかなか出発しようとはしなかった。一か月もの間、毎日、イヴェールはヨンヴィルからルーアンへ、ルーアンからヨンヴィルへ、彼の箱やら鞄やら包みやらを運んでくれた。レオンは衣服類を新調し、肱掛椅子三脚のつめかえをさせ、絹のマフラーをしこたま買い込み、一言でいうなら、世界旅行のためよりもっと入念に支度をととのえたのに、一週間、また一週間と日をのばし、とうとう母親から、夏休み前に試験にパスしたいのなら、早く出発しなさいという手紙をもらった。
別れの挨拶のときがくると、オメー夫人は泣き、ジュスタンはすすり泣いた。オメーは男らしく、こらえていた。彼は友の上衣を公訴人の門の所まで持って行きたいといった。そこから公訴人が馬車に乗せてルーアンまで連れていってくれることになっていた。最後にやっとのことでボヴァリー先生に挨拶しに行った。
階段をのぼりつめると、立ち止まった。あまり息が切れたからである。はいって行くとボヴァリー夫人が待ちかねたように勢いよく立ち上がった。
「また来ました」とレオンがいった。
「そうだと思っておりましたわ!」
エンマは唇をかんだ。すると血が激しく肌の下を流れ、髪のつけ根から襟《えり》もとまでまっ赤に染まった。彼女は羽目板に肩をもたせ、立ったままでいた。
「先生はいらっしゃらないのですか?」レオンが聞いた。
「往診ですの」
彼女は繰り返した。
「往診ですの」
すると言葉がとぎれた。二人は見つめ合った。一つの苦しみにとけ合った二人の心は、おののく二つの魂のように、かたく抱き合った。
「ベルトちゃんにお別れをしたいのですが」レオンがいった。
エンマは階段を二、三段おり、フェリシテを呼んだ。
彼はあたりをじっと見つめた。まるですべてを見通し、すべてを持ち去って行くように、壁や、飾り棚や、暖炉を見つめていた。
しかし、エンマは戻ってきた。女中がベルトを連れてきた。ベルトはひもの先につるした風車をさかさにぶらさげて振っていた。
レオンは幾度も幾度も首筋にキスをした。
「さようなら、お嬢ちゃん、さようなら」
そういって彼はベルトを母親に返した。
「あちらに連れて行っておくれ」母親がいった。
二人きりになった。
ボヴァリー夫人は、背中をこちらに向け、顔を窓に押しつけていた。レオンは帽子を手にして、軽く腿《もも》をたたいていた。
「雨になりそうですわ」エンマがいった。
「外套がありますから」
「そうですの」
彼女は顎《あご》をひき、額を前につき出して、こちらを向いた。日の光は大理石の上をすべるように射し、眉《まゆ》の曲線まではっきり見せていた。とはいえ、エンマが遙かかなたに何を見ているのか、心の底で何を考えているのかは分からなかった。
「それでは、さようなら」彼は嘆くような調子でいった。
彼女ははっとして顔を上げた。
「ええ、さようなら、いってらっしゃいませ」
二人は歩み寄った。彼は手を差し出した。彼女はためらった。
「では英国流にね」彼女は強いてほほえもうとしながら、手をまかせた。
レオンは指の間に彼女の手を感じた。すると自分の全存在が、骨の髄までこのしっとりとしめった手の平の中に吸い込まれて行くような気がした。
それから彼は手を開いた。再び、目と目がかち合った。彼は出て行った。
市場までくると、レオンは立ち止まった。そして柱の陰に身を隠し、これが最後とばかりに、青い鎧戸《よろいど》が四枚はまった白い建物をじっと見つめた。彼は、部屋の窓辺に人影を見たと思った。しかし窓のカーテンはまるでひとりでのように留め房《ふさ》をはずれ、ななめのひだをゆっくりとふるわしたかと思うと一時に窓全体をおおい、そのまままっすぐにたれて、漆喰《しっくい》の壁のように動かなくなった。レオンはかけだした。
遠くの路上に主人の馬車が見え、そのかたわらには馬のくつわをとっている前だれを掛けた男がいた。オメーとギョーマン氏が話をしていた。レオンを待っていたのだった。
「キスしておくれ!」と薬屋は涙ぐんでいった。「ほら、君の上衣だよ、レオン。風邪をひかないようにな! たっしゃでな! からだには気をつけるんだよ!」
「さあ、レオン、乗ったり乗ったり!」公訴人がいった。
オメーは泥よけの上に身をかがめ、涙で口ごもりながらこの悲しい言葉をかけた。
「元気でな!」
「さようなら!」ギョーマン氏が答えた。
「そらっ! 行けっ!」
二人は出発した。オメーは店へと戻って行った。
ボヴァリー夫人は庭に面した窓を開き、雲を眺めていた。
雲は西のほう、ルーアンのあたりに層をなしてわき上がったと思うや黒い渦巻を立ちのぼらせていた。が、その後ろで太陽が、吊《つ》りさげてある戦勝牌の金の矢のような光を降りそそいでいた。ところが、あとの表情のない空は陶器のような白さだった。しかし、突風が起こって、ポプラの葉をそよがせ、驟雨《しゅうう》となり、青い葉の上でぱちぱちと音をたてた。そのうちにまた太陽が照らし、雌鳥《めんどり》がないた。すずめはぬれそぼった木立ちの中で翼をふるわせ、砂の上の水たまりは流れの間に、アカシアの桃色の花を運んで行った。
「ああ、もうずいぶん遠くに行ってしまっただろう」とエンマは思った。
オメー氏はいつものように、夕食の最中の六時半にやってきた。
「さて、さて」彼は席に着くなり、いった。「午後、あの若者を見送りましたよ」
「そうでしたってね」と医者が相づちを打った。
ついで医者は椅子にすわったなりで向きを変え、
「なにか、変わったことでも?」
「たいしたことではないんですがね、ただ女房のやつが午後、ちょっとばかり興奮しましてね。どうも、女というもんはつまらないことに気をもむもんで。家内はそれが一段と強いほうでしてね! あれには歯がたちませんや。神経の組織がわれわれのより繊細にできてるというんでしょうな」
「レオン君も大へんですな、パリでどう暮らすんでしょうな。慣《な》れますかな?」とシャルルがいった。
ボヴァリー夫人は吐息をついた。
「なあに!」薬屋は舌打ちをして、「料理屋で豪勢な宴! 仮装舞踏会! シャンペン! そんなもんがきっと次から次へと続くことでしょうよ」
「しかしレオン君が身持ちを悪くするとは考えられませんな」ボヴァリーが反対した。
「わしだって思いませんや」オメーがすかさずいった。「けれども、人のやるようにしてないと変人扱いされるもんでして。先生などにはおわかりにならんでしょうが、ラテン区でそういったくだらん人間が女優を相手に送っている生活ときては、いやはや…………。とにかく、パリでは学生はもてますからな。ちょっとでも才覚のある者は、上流社会に招かれる。そうすると、そんなのに惚《ほ》れる貴族の奥方などがいるもんでして。つまるところ、うまい結婚相手が見つかるということになりますからな」
「しかし、ぼくが彼のために心配していることは……あそこでは……」と先生がいった。
「そうですな」薬屋が口を入れた。「そういいことばかりないもんで、あそこではいつもポケットをしっかりおさえていなければなりませんからな。たとえば、先生が公園にいらっしゃる。そこへ一人の、風采のいい、勲章までつけた、まるで外交官かなにかのように見える男が現われ、近づいてくる。ちょいとおしゃべりをする。その男は先生の関心を買うように努め、かぎたばこをすすめたり、帽子を拾ってくれる。そうして親しくなりますな。カフェに連れて行ってくれたり、田舎の家に招んでくれ、酒の席ではいろんな人に紹介してくれる。ところが、とどのつまりは財布を空《から》にされるか、危い仕事に引き込まれるのがおちですからな」
「そうでしょうね。ですがぼくがとくに気にしていたのは病気、たとえば腸チフス性の熱だとかなんとかで、これは田舎出身の学生はよくかかるんですよ」とシャルルは答えた。
エンマはぞっとした。
「食事が変わるせいですな」薬屋が先を続けた。「そのためにからだ全体の調子が狂ってしまうんですな。それに、あのパリの水ときたら! 料理屋の料理も、あんなに薬味がかかっていたらのぼせてしまいますよ。だれがなんといおうと、手作りのシチューにはかないません。わし個人としては田舎ふう料理が好きですね。からだのためにいいですからな。昔、薬学の勉強にルーアンにいたときも、賄《まかない》付き下宿にいて、教授がたと食事をしたもんでしたよ」
そうして、彼は滔々《とうとう》と自分の一般的意見だの、個人的|嗜好《しこう》だのについてしゃべりまくった。ついに、ジュスタンが卵入り牛乳を作らなければといって彼を捜しにきた。
「少しも休めませんなあ! いつも鎖《くさり》につながれっぱなしだ!」とどなった。「一分たりとも外へ出られない! 耕作用の馬みたいに汗水たらして働かねばならん! まったく働いても働いてもですよ!」
そして戸口の所まで行くと、
「ところで、ご存じですか?」と聞いた。
「なにを?」
「これはかなりたしかな話なんですがね」そういって薬屋は眉をつり上げ、真剣な面持ちになった。「なんでも、下《しも》セーヌ県の農事共進会が今年はヨンヴィル・ラベイで催されるそうですよ。少なくともその噂《うわさ》は広まってますよ。今朝《けさ》、新聞でもそのことについてちょっと触れてありましたが。そうなったら、この郡にとっては重大事件ですよ! このことはまたいずれ。いや、大丈夫、見えますから。ジュスタンが角灯を持ってきていますから」
七
翌日は、エンマにとってお通夜《つや》のような一日だった。彼女の目にはすべてが暗澹《あんたん》たる雰囲《ふんい》気に包まれ、その暗さが事物の表面にぼんやり浮かび上がって見えた。木枯らしが廃墟と化した城を吹きすさむように彼女の心に悩みがうめき声を上げて吹きあれていた。それはもはや帰ってこないものに対する夢であり、すでに終わりを告げてしまったものを思うときに人をおそうやるせなさであり、つまり、習慣となっている行動が中断するときや、長いこと引き続いている動作を急にやめるときに感ずる苦痛であった。
ヴォビエサールからの帰り道、カドリールの曲が頭の中で旋回していたときのように、憂鬱《ゆううつ》な気分になり、しびれるような絶望を感じた。レオンは今まで以上に大きく、美しく、やさしく、ぼんやりと見えた。彼と彼女は離れているとはいうものの、彼は彼女の心から去らなかった。彼はそこにいた。家の壁は彼の面影を宿しているかに見えた。彼女は彼の踏んだじゅうたんや、彼が腰をかけていた今はだれもすわっていない椅子から視線を離すことができなかった。川はいつも流れ、すべりやすい土手に小波が静かに寄せていた。二人はこの小波のささやきを聞きながら、苔《こけ》むした砂利道を幾度散歩したことだろう。なんと美しい落日を眺めたことだろう。二人きりで庭の奥の木陰でなんと楽しい午後を過ごしたことだろう。あの人は声を上げて本を読んだわ。丸太を組んだ椅子に帽子もかぶらずすわっていたわ。牧場から吹いてくるさわやかな風が本のページや青葉棚のノウゼンハレンを動かしたわ。ああ、あの人は行ってしまったわ! 私の生活でたった一つの喜びも、しあわせへのたった一つの望みも行ってしまった! 幸福があったときになぜつかまえとかなかったのだろう! 幸福がすり抜けて行こうとしたとき、なぜ両手両足で押えつけようとしなかったのだろう? 彼女はレオンを愛さなかったことを悔んだ。そこで彼の唇に憧《あこが》れた。彼に駆け寄り、腕に身を投げかけ、「あたしよ。あたしはあなたのものよ」といいたかった。しかし、エンマはそれに先立つ数々の障害を思うと困惑してしまった。後悔によって高まる欲望は、そのためかえって激しくなった。
それ以後、レオンの思い出は彼女の悩みの中心となった。ロシアの大草原の雪の上に旅人が残していった焚火《たきび》よりも強く、その思い出はきらめいた。彼女は思い出に飛び込み、それに身を寄せ、消えようとする火をそっとかきたて、身のまわりに、なにか火をもえ上がらせるためのものでもないかと捜し回った。つまり、はるか遠くのかすかな思い出も、ごく最近の機会も、経験したことも空想したことも、散り散りになって行く快楽の望みも、枯れ枝のように風に折られる幸運の希望も、実のならぬ貞節も、地に落ちた希望も、家庭内のわらくずも、すべてを拾い、すべてを取り上げ、彼女の憂愁を強めるのに用いた。
燃え代《しろ》が尽きたのか、それとも薪を積みすぎたためか、その炎はおさまっていった。恋心はその人がいないためしだいしだいに消えて行き、悔恨《かいこん》の情は習慣の下に窒息して行った。彼女のどんより曇った天空をまっ赤に焦《こ》がした火事の炎も闇の中に没して行き、しだいに消えて行った。昏迷《こんめい》する意識のうちにあって、彼女は夫に対する軽蔑を恋人への憧れと取りちがえ、胸を焦がす憎しみを愛情の暖かさだと思い込んだ。しかし、いつも嵐は荒れ狂い、情熱は灰と化すまで燃えつき、救いはこず、太陽は現われなかった。いつもあたりはまっ暗闇だった。そして彼女は身をおそう恐ろしいほどの寒さの中であてどもなく立ちつくしていた。
さて、トストの恐ろしい日々が再び始まった。現在のほうがもっと不幸だと思った。すでに悩みの経験があり、この悩みが消えないことを確信していた。
このような大きな犠牲を自分に課した女には、多少の気ままは許されるだろうとエンマは思った。彼女はゴチックふうの祈祷台を買い、爪を磨くためにレモンをひと月十四フランも使った。青いカシミアの服をあつらえるためにルーアンへ手紙を書いた。ルウルウの店で、もっとも美しいスカーフを選び、部屋着の上に帯がわりに結んだ。鎧戸《よろいど》をしめ、手に本を持ち、そんな身なりで長椅子に横たわっていた。
ときどき、彼女は髪の結い方を変えた。彼女は支那ふうに、柔らかい巻き毛にしたり、おさげにしたかと思うと、男のように横分けにし、下になでつけてみたりした。
彼女はイタリア語を習いたいと思った。辞書や文法書や紙を多量に買い込んだ。歴史や哲学などの堅い本も読もうと思った。ときどき、夜などシャルルははっとして目をさました。急患が出て呼びにきたのだと思い、
「行ってくるよ」と口の中でもぐもぐいった。
実はエンマがランプの火をつけようとしてすったマッチの音だった。読書も、やりかけのまま、戸棚いっぱいにほうり込んである刺繍《ししゅう》同様、始めたかと思うと、やめて、次に移るといった始末だった。
彼女は発作《ほっさ》をたびたび起こし、そうなるとまわりの人の応対によっては何をやり出すかわからなかった。ある日、彼女は夫にコニャックをコップ半分飲んでみせるといいはった。シャルルがそれを挑発《ちょうはつ》するようなくだらぬことをいったので、コップ一ぱい飲みほした。
ヨンヴィルのおかみさん連の表現を借りると、エンマは「はすっぱな」様子をしてはいたが、しかし心から快活そうには見えなかった。そして毎日毎日、オールドミスや失意の野心家の顔に浮かんでいる不遜《ふそん》のゆがみを口の端に浮かべていた。彼女はいたるところ青白かった。シーツのようになま白かった。鼻の皮膚は鼻孔のほうへひきつり、視線もうつろだった。こめかみに白髪を見つけると、あたしも年とったわ、といった。
彼女はよく気絶した。ある日などは吐血までした。シャルルが心配でたまらず、うろうろすると、
「あら、いやだ、これがなんだっていうの?」と答えた。
シャルルは診療室に逃げ込み、テーブルに両|肱《ひじ》をつき、椅子にすわり、骨相学用の髑髏《どくろ》の下で泣いた。
そこで彼は母親に手紙を書いて、きてくれるようにたのんだ。そして二人は長いことエンマについて相談した。
どう決めたらいいのか? 手当てをさせない以上、何をしたらいいのか?
「おまえの嫁の一番の良薬はなんだか知っているかい」ボヴァリー老夫人がいった。「無理でも仕事をさせることだね。手仕事だよ。他の人のようにパンをかせがねばならないのなら、ふさぎの虫にかかりゃせん。頭の中にいろんな妙な考えをつめ込んで、のらくら暮らしているせいだからだよ」
「でも忙しいようですよ」シャルルがいった。
「へっ、忙しいだって? なんで忙しいのさ? 小説やとんでもない本を読むことがかい? 神の教えに反し、ヴォルテールから引用した文句で神父様を愚弄《ぐろう》するような本をさ。ほんとうに、おまえ、大へんなことになりますよ。信仰を失った者はいい死に方はしないんだからね」
そこで、シャルルはエンマに読書を禁止することにしたが、容易にできるとは思えなかった。老夫人はそれを引き受けてくれた。ルーアンを通りかかったら、貸本屋に自ら行き、エンマの購読を打ち切る旨を伝えることになっていた。それでも本屋が害毒を流す仕事を続けるつもりなら、警察に告発する権利があるのではなかろうか?
姑《しゅうとめ》と嫁との間の別れの挨拶《あいさつ》は簡単なものだった。二人がいっしょに暮らした三週間もの間、食卓で顔を合わせる時と、晩寝る前にからだの具合《ぐあい》を聞いたり、挨拶する以外、ほとんど言葉をかわさなかった。
ボヴァリー老夫人は水曜日に出発した。ヨンヴィルに市の立つ日だった。
広場は、朝から荷車の列でこみ合っていた。荷車は、みな、尻を地につき、長柄を上にあげて、教会から宿屋まで家並みに沿って続いていた。向かい側には、テント張りの店が出て、綿織物や掛ぶとんや毛織りの靴下や馬の端綱《はづな》や青リボンの束などを売っていた。リボンの先が風にひらめいていた。大きな金物類は、卵の山とチーズ籠の間の地べたに並べてあった。チーズ籠からはべとべとしたわらくずがはみ出ていた。もみがら取り機のそばで、雌鳥《めんどり》がかごの編み目から首を出してないていた。群衆は同じ所にとどまり、動こうとしなかった。ときどき、薬屋のショウ・ウィンドウは破れそうになった。水曜日になると、お客でいっぱいになった。人びとは薬を買うよりもむしろ診察を受けにつめかけた。それほどオメー先生の名は近郷の村々に有名だった。彼のくそ落ち着きが田舎者の信用を買い、彼をどんな医者よりも偉い先生だと思わせていた。
エンマは窓辺に肱《ひじ》をついていた。(彼女はよくそこにいた。田舎では、窓が劇場の散歩場の代わりになるものである)そして、田吾作《たごさく》どもの群れを眺めては楽しがっていた。と、青いビロードのフロックを着た紳士に気がついた。その人は丈夫《じょうぶ》なゲートルを巻いているうえに黄色い手袋をはめていた。そして、百姓を連れて医者の家へ向かってきた。百姓は考えごとでもしているようにうなだれて歩いていた。
「先生はご在宅かな」と戸口でフェリシテと話していたジュスタンに聞いた。
ジュスタンをこの家の下男だととり違えて、
「先生に、ユシェットのロドルフ・ブーランジェがうかがったといってください」
この来訪者が名に固有名詞をつけたのは領地を自慢するためではなく、よく知ってもらうためであった。ユシェットは、実際、ヨンヴィルの近くの土地で、最近ブーランジェ氏が館《やかた》と二つの農場を買い入れたばかりだった。彼は農場をそう困らずに自分で経営していた。やもめ暮らしで、「少なくとも、年収一万五千フランはある」といわれていた。
シャルルは広間にはいってきた。ブーランジェ氏は下男を紹介した。なんでもこの男は「からだ中がむずむずするので」刺絡してほしいのだそうで、といった。
「それをすると、でも血がきれいになります」と、この男はいくらいい聞かせても自説を主張した。
そこでボヴァリーはバンドと金だらいを持ってきて、ジュスタンに持っていてくれとたのんだ。それから、もう青ざめている男に向かって、
「ちっともこわくないからね」
「なーに、どんどんやってくれ!」と相手は答えた。
強がって、男は太い腕をのばした。針を刺すと、血が飛び散り、鏡にはねた。
「たらいをもっと前に!」とシャルルは叫んだ。
「うへっ! まるで噴水《ふんすい》だ! なんておれの血は赤《あけ》えんだ! こりゃきっといいしるしだね?」と男はいった。
「初めはなんでもなくて、あとから気絶する者もある。ことにこちらのように体格のよろしい者はそうですな」
田舎者はそれを聞くと、いじっていた針のケースを落とした。肩がけいれんして、椅子の背がギシギシ音をたて、帽子が落ちた。
「言わんこっちゃない」とボヴァリーは血管に指を当てながらいった。
金だらいがジュスタンの手の中で揺れだした。膝がぐらぐらし、顔色が青くなった。
「家内を! 家内を!」とシャルルが呼んだ。
ひとっ飛びにエンマは階段をかけおりた。
「酢をたのむ! ああ、一度に二人も!」
シャルルはあわててしまって、湿布もなかなか当てられなかった。
「なんでもありませんよ」ブーランジェ氏はジュスタンをかかえて落ち着いていった。
そして、テーブルにジュスタンをすわらせ、壁にもたせかけた。
ボヴァリー夫人は彼のネクタイをはずし始めた。シャツのひもに結び目があった。彼女は若い男の首筋に指を軽く動かせていた。ついで彼女は麻のハンカチに酢をたらし、それでこめかみをはたいてぬらした。彼女はその上にそっと息を吹きかけた。
荷車ひきは目をさましたが、ジュスタンはなおも気を失っていた。彼の瞳《ひとみ》は、牛乳の中に沈んだ青い花のように白目《しろめ》の中に没していた。
「それを彼に見せないようにしなくちゃ」とシャルルがいった。
ボヴァリー夫人は金だらいを取り上げ、テーブルの下に置いた。身をかがめて働くと、彼女の服(それは黄色の夏服で、ひだ飾りが四本ある、丈の長い、たっぷりした服だった)は、裾《すそ》が広間の石畳の上で彼女のまわりに広がった。――彼女が身をかがめ、腕を広げたときにちょっとよろめくと、布地のふくれ上がったところがところどころ、腰を曲げたことによって、つぶれた。それから水差しを取りに行った。薬屋がやってきたときには、彼女は砂糖をとかしていた。大騒ぎの最中、女中が彼を呼びに行ったのである。弟子が目をあけているのを見るとほっと息をついた。そして弟子のまわりを回りながら頭のてっぺんからつま先までじろじろ眺め回した。
「この間抜けめ、正札付のばかだよ、おまえは」とがなり立てた。「ただ、血が出ただけじゃないか。普段の強がりはどうした? こいつはりすのようなやつでして、目の回るように高い木に登ってくるみを落とすんですからねー。いってみろ、自慢してみろ! そんな結構な気分で行く行くは薬剤師になろうてんだな。重大な用件で裁判所にひっぱり出され、釈明しなくてはならんときもある。だから冷静で、話のわかる、男らしい男でなくてはならんのだ。さもないとばかにされるぞ」
ジュスタンはだまっていた。薬屋は続けて、
「いったいだれにたのまれてここにいる? おまえはいつも先生や奥様にご迷惑ばかりおかけしている! そのうえ、水曜日には家にいてくれなきゃ困るんだ。家には今、二十人ばかりのお客がたてこんでいるというのに、おまえのためにほうり出してきたんだぞ。さあ、帰れ! 走って帰るんだぞ。わしの帰るまで薬びんでも見張ってろ!」
ジュスタンが身じまいをして、帰って行くと、しばらく気絶の話が話題になった。ボヴァリー夫人は一度も気絶したことがないといった。
「ご婦人にしては珍しいことですな」とブーランジェ氏が口を入れた。「もっとも、男でも気の弱いのがいるもんでして。私の知っているのでも、決闘で、ピストルに弾丸《たま》をこめる音を聞いただけで気絶した立会人がいるくらいですからね」
「わしは」と薬屋がいった。「他人が血を流すのを見てもなんでもありませんが、わしの血が流れると思っただけで、よくよく考えてみますと、気絶しそうですな」
その間、ブーランジェ氏は、おまえの気の病ももうおさまったのだから安心しなさい、といって下男を帰した。
「あの男の気病みのおかげでこちらとお近づきになれましたな」といい添えた。
そういいながらも彼はエンマを見つめていた。
そしてテーブルの角に三フラン置くと、軽く一礼して帰って行った。
やがて彼は川の向こう岸にいた。(それがユシェットへ帰る道であった)エンマは彼が牧場を、ポプラの木の下を行き、ときどき、考え事でもしている人のように歩調をゆるめて歩いて行くのを目にした。
「美しい人だ! あの医者の女房は! きれいな歯、黒い目、魅力ある足、パリ娘のような物腰。どんな家の出なのだろう。あの太っちょはどこで掘りあてたのだろう」
ロドルフ・ブーランジェは三十四歳であった。気質は激しく、頭が鋭かった。おまけに女との交際も頻繁《ひんぱん》だったので女に関してはなかなか眼がきいた。それでもエンマは美しく彼には映った。彼は彼女を、彼女の夫を思いやった。
「ありゃ、ばかな男だ。きっとあきたらないことだろう。あいつは爪をきたなくしているし、三日もひげを剃《そ》ってなさそうだ。患者の家をこまめに歩いている間、彼女は靴下なぞをつくろっているのだろう。あきあきしているだろうな。町に住み、毎晩ポルカを踊りたくなるだろう。かわいそうな女《ひと》だ! きっとまな板の鯉《こい》が水を欲しがっているように、あの女は恋に渇《かつ》えていることだろう。ちょっと甘い言葉でもかけてやりさえすれば、もうこっちのものだ。優しく、かわいいことだろう。だが、あとで手を切る段取りが問題だ」
そうして、快楽の障害を予想すると、反対に今の恋人を思い浮かべた。彼はルーアンにある女優を囲っていた。その姿を思い浮かべると、思い出してもうんざりした。
「ああ、ボヴァリー夫人はあいつよりきれいだし、新鮮だ。ヴィルジニーは全く、太りだしてきたし、あいつの冗談は退屈だ。それになんて小|海老《えび》ばかりを食いやがるんだ」
野原には人影がなく、ロドルフには、ただ同間隔に、彼が踏みつける草の倒れる音とはるか遠くで、からす麦の畑で鳴くこおろぎの鳴き声が聞こえるだけだった。彼は広間にいるエンマを思い描いてみた。見たとおりの服をつけたエンマを、そして服を脱がしてみたエンマを。
「いや、手に入れよう」彼はステッキを振り上げ、目の前の土塊《つちくれ》をこわしながらいった。
そして、彼はその目論《もくろ》みのうち、策略を弄《ろう》する部分を考えてみた。そして一人ごちた。
「どこで会おう? どういうふうにして? いつでも子供や女中や夫のことが気になることだろう。つまらないことが多いもんだ」
「ああ、時間のむだというものだ!」
とはいえ、考え直して、
「彼女の目は、錐《きり》のように心にやきつく。そしてあの青い色ときたら、……それにおれは青い目の女が好きだときている!」
アルグイユの丘の頂にきたころには、彼の決心は固まっていた。
「あとは機会を捜すだけだ。そうだ! ときどきたずねてやろう、狩りの獲物《えもの》や鶏《にわとり》を送ってやろう。必要なら、刺絡もしよう。われわれは仲よくなり、家に招いてもやろう。ああ、そうだ!」彼はつけ加えた。「もうじき農事共進会だ。あの人もそこにくるだろう。そしたら会える。それで始まり、始まりだ。そしたら、押すことだ。それが一番だ」
八
いよいよ、農事共進会の当日となった。祝典の日は朝から、村人は各々《おのおの》、戸口に出て支度について話し合った。役場の正面をキヅタで飾り、牧場には宴会用のテントがしつらえられた。広場のまん中に、教会の前に、臼砲《きゅうほう》のようなものがすえてあり、知事の入場のときだとか表彰される百姓の名を読み上げるたびに発砲されることになっていた。ビュシーの国民軍(そんなものはヨンヴィルにはなかったので)がやってきて、ビネーの率いる消防隊に加わっていた。ビネーは、この日、いつもより高いカラーをつけ、腰を締めつけた服を着込んでいたため、彼の上半身は恐ろしく出っぱり、きゅうくつそうだった。彼のうちでいきいきしている部分は両足に集中されたようで、サッとばかり、調子をとって立ち上がった。ビネーと軍団長とは互いに張り合っていたので、腕前を見せようと、それぞれ部下を動かした。そのためかわるがわる赤い肩章や黒い胸当てが行ったりきたりするのが見えた。それは終わることなく、何度も繰り返された! こんなにはでな行列は今までに見たことがなかった。前日から、家の外側を水で洗った者もたくさんいた。三色旗が半開きの窓にはためいていた。居酒屋はどこも立て混んでいた。お天気のよい日で、糊《のり》のきいた帽子や金の十字架や色つきのスカーフが雪より白く見え、明るい日の光にきらめき、フロックや青い作業服の暗い単調さをとりどりの色彩によってひき立てていた。近郷の百姓女は、馬からおりると、服がよごれないようにからだにまきつけるためにとめてあった、ピンをはずした。反対に亭主のほうは、帽子をよごさぬように、上にハンカチをかぶせ、その角を口にくわえていた。
人びとは村の両端から大通りを目ざして集まってきた。路地から、並木道から、家々から人がはき出され、手袋をはめた奥様が見物に行こうと家を出たあとで、門のノッカーの音が聞こえた。とくにみなが感心したのは、お偉方が並ぶ席の左右に並べてあるランプをたくさんつけた二つの高い灯火台だった。それから、役場の四本の柱には四本の長い竿《さお》のようなものが結んであり、それぞれ、金文字で何か書いてある青い小旗がつけてあった。一つには「商業万才!」と、別のには「農業万才!」と、三番目には「工業万才!」、四番目は「芸術万才!」とあった。
みなの顔をほころばしているこの喜びはどうも宿屋のおかみのルフランソワにはおもしろくないようであった。調理場の石段に立って、おかみは顎《あご》を動かせてぶつぶついっていた。
「ばかばかしいよ。あんなテントなんぞ張りゃがってさ! あんな所で、大道芸人みたいにテントの下で知事さんが食事をされたってお喜びになるもんか! ああいうつまんないことを村のためだというんだからね! ヌシャテルからなにも料理番をよんでくることはないのにさ。せっかくの料理をだれが食うかっていえば、牛飼いだとか、乞食《こじき》なんだからね。ばかばかしいよ」
薬屋が通りかかった。燕尾服《えんびふく》に、南京《ナンキン》もめんのズボン、海狸《ビーバー》の靴といったいでたちに、珍しく、帽子、――山の低い帽子をかむっていた。
「やあ、おかみさん、ちょっと急ぐので、失礼しますよ」
そして太った後家さんがどちらへと聞くので、
「珍しいでしょう。なにしろ、わしは年がら年中薬局に閉じこもっていますからな。話に出てくるチーズの中にとじ込められてしまったあのねずみ〔ラ・フォンテーヌの「寓話」中の「浮世をすてたねずみ」のこと〕以上ですからな」
「チーズってなんのことですの?」とおかみが聞いた。
「いや、なに、なんでもないですよ」オメーが答えた。「おかみさん、わしがいいたいのは、まったく家にいっきりだということですよ。けれど、今日は場合が場合だから、……」
「まあ、あそこに行くの?」と彼女は軽蔑しきった態度でたずねた。
「そう。行くんでさあ。少なくともわしは審査員だからな」薬屋はあきれて答えた。
ルフランソワのおかみは彼をしばらく見ていたが、笑いながらこうつけ加えた。
「それじゃ話は別だわ。でもあなたは農業とどんな関係があるんです? いったい、わかってるんですか?」
「いかにもわかっとる。わしは薬剤師、つまり科学者だ。科学というものは、おかみさん、自然界のあらゆる物体の相互的分子作用を知ることを目的としておる。それゆえ、農業もその領域にはいっておるのだ! すなわち、肥料の成分、液体の発酵、ガスの分析、毒気の影響、こういったものが、純粋化学でなくて、なんであろう」
宿屋のおかみは答えなかった。オメーはなおも続けて、
「農学者になるには、自分で土地を耕し、家禽《かきん》を肥やすことが必要だとお思いですか。それよりむしろ、問題の物質の組成を知るべきだ。その他、地層、大気の作用、地質、ミネラル、水質、いろいろの物質の密度とその毛細官現象、数え上げればきりがありません。そのうえに、みなに建物の作り方、家畜の育て方、雇い人たちの栄養にいたるまで指導、批判をするには、しっかりと衛生学のあらゆる原理を知っていなければならんのですからな! それでもまだ植物学も知っている必要があるんですよ、おかみさん。植物を見分けることですな。いいですか、どれがいいのか、どれが毒なのか、どれに栄養があって、どちらにないのか、こちらは引き抜き、あちらは種をまく、こちらはふやすし、あちらはたやす、などといったことです。一言でいうと、改良を促すためには、本や新聞雑誌を読んで時流からとり残されないように、いつも勉強していなければあかんということだな」
おかみは「カフェ・フランセ」の戸口から目を離さなかった。薬屋はなおも続けた。
「百姓どもが化学者でないなら、少なくとも科学を信じてくれればと私は念じている。先だっても、わしは大論文を書きましたよ。『りんご酒、その醸造法ならびにその効果、および当問題に関する若干の新考察』という題の七十二ページにも及ぶ研究報告ですがね。それをルーアンの農学協会に送ったところ、農業部門果樹栽培法科のメンバーに推挙されましたよ。だがその著作がもし、出版されたら、……」
薬屋は話の途中でやめた。ルフランソワのおかみが他に気を取られている様子だったからである。
「ちょっと、あれを見てくださいよ」と彼女は叫んだ。「みな、どういうつもりなのかしらね。あんな安料理屋へ行くなんて!」
セーターの編目が胸の所までひっぱられるほど深々と肩をすぼめて、彼女は商売がたきの居酒屋を両手を上げて指し示した。その居酒屋からは今しも歌が聞こえてきたところだ。
「それにしても、いまに見ていてごらん、一週間もたたないうちに、お手あげになってしまうんだから!」
オメーは仰天《ぎょうてん》してあとずさりした。彼女は階段を三段ほどさがり、オメーの耳にささやいた。
「なんですって? あの話知らないの? 今週中に差し押えられるっていう話ですよ。ルウルウが競売に付すのだそうで、証文証文でぎゅうぎゅういわしているんですよ」
「恐ろしい破滅だ!」と薬屋が叫んだ。彼はいついかなる場合にもふさわしいいい方ができた。
さて、おかみは一部始終を語り始めた。おかみはそれをギョーマン氏の下男のテオドールから聞いたのだった。彼女はテリエを憎んでいたものの、ルウルウを非難した。口先ばかりうまくて、信用ができないやつだともいった。
「あら、あいつ、役場にいるわ。ボヴァリーの奥さんに挨拶している。奥さんは緑色の帽子をかぶってるわ! それにブーランジェさんと手を組んでる」
「ボヴァリーの奥さん!」とオメーが叫んだ。「急いで行って挨拶せねば。柱廊の下の特別席をとってあげればうれしかろうて」
オメーは、そうして、話の続きをしてあげると叫んでいるおかみの言葉に耳もかさず、そそくさと遠ざかっていった。唇にほほえみを浮かべ、片足を後ろにひき、左右に愛嬌《あいきょう》をふりまき、あたりに彼の燕尾服のたれをひるがえしていた。そのたれは風に揺らいでいた。
ロドルフは、遠くからオメーの姿を認めると、歩調を早めた。しかし、ボヴァリー夫人が息を切らすので、歩調をゆるめ、笑いかけながら乱暴な口調でいった。
「あの太っちょにつかまらないためですよ。ほら例の薬屋にね」
彼女は肱《ひじ》でつっついた。
「なんの意味だろう」ロドルフは考えた。
そして彼は歩み続けながら、彼女の顔をうかがった。
彼女の顔色はおだやかで、何の意味も読みとれなかった。強い日ざしに、卵形の帽子の中で顔がくっきり浮かび上がっていた。帽子のリボンは葦《あし》の葉のように青かった。長くそったまつ毛の下で彼女の目は前を見ていた。目はぱっちりとしているが、なめらかな皮膚の下に静かに波打っている血管のために、頬骨のあたりが細く見えた。鼻の仕切りがほの赤かった。彼女は首をかしげていた。そして唇の間から真珠色に光っている白い歯の先が見えた。
「からかっているのかな」とロドルフは考えた。
しかし、このエンマの動作はただの警告にすぎなかった。ルウルウ氏が二人の後ろについてきた。彼は、ときどき、二人の会話にはいりこもうと二人にしゃべりかけた。
「すばらしいお天気でございますね! みながみな、いらしてますな! 折も折、風は東風でございまして」
ボヴァリー夫人もロドルフも彼に答えようとしなかった。二人とも少しも動かなかった。彼は「えっ、なんとおっしゃいましたか?」といいながら近づいてきた。そして手を帽子にやった。
柵《さく》の所まで行かずに、鍛冶《かじ》屋の店の前に行くと、ロドルフは、ボヴァリー夫人を導いて、小道にはいって行った。ロドルフが叫んだ。
「さようなら! ルウルウさん、さようなら!」
「うまくルウルウをおまきになりましたこと!」彼女は笑いながらいった。
「ほかの人にじゃまされたくありませんからね。それに、今日はあなたといっしょにいて、楽しいですから……」
エンマは赤くなった。ロドルフはその先を続けなかった。それで彼はお天気のことや、草の上を歩く楽しさを語った。雛菊《ひなぎく》の花が咲いていた。
「おや、雛菊も咲いていますね。これじゃ、この地方の恋している乙女たちが全部、花占いをしても十分間に合いますね」とロドルフはいった。
続けて、
「ぼくが花をつんだら、おかしいですか?」
「恋をしていらっしゃいますの?」エンマはちょっとせき払いをしながら聞いた。
「さあ、どうですか」とロドルフが答えた。
牧場には、三々五々人が集まってきた。おかみさんたちは、大きなかさやら、籠《かご》やら、子供をひき連れていたので、人にぶつかった。ときどき、青色の靴下をはいた女中たちの長い列と出会うと、左右に離れねばならなかった。女中たちは平たい靴をはき、銀の指輪をしていたが、そのそばを通ると、乳の匂いがした。彼女らは手をつないで歩き、白楊《はこやなぎ》の並木道から宴会用テントまで、牧場いっぱいに広がっていた。審査が始まった。百姓は、長いひもを棒切れに結びつけて作った競技場のような所にはいって行った。
家畜はその中に入れてあり、鼻をひものほうに向けていた。大小種々な尻が順不同に並んでいた。豚はうとうとし、地面に鼻づらをこすりつけていた。子牛はモーモー鳴き、牝《め》羊もメーメーと鳴いていた。牝牛は足を折り、芝生の上に腹ばいになって、ゆっくり反芻《はんすう》していた。まわりでブンブン羽音を立てている蚊にまぶたを重たげにしばたたかせていた。鼻孔をふくらまし、牝馬に向かっていななき、あと足で立ち上がった種馬を、馬丁が腕まくりをすると手綱をとって押えつけていた。ところが、牝馬のほうは見向きもせず、頭をのばし、たてがみもたれ下がっていた。子馬がその陰にすわり、ときどき乳を飲んでいた。この揺れ動く動物の上に風のために波のように吹き上げる白いたてがみやとがった角や駆け回る男の頭が見えた。かなたの柵《さく》から百歩ばかり行った所に、鼻輪をつけた大きな太った黒い牝馬がいたが、ブロンズ像の牛ほどにも動かなかった。ぼろを着た子供がその手綱をとっていた。
その間、家畜が二列に並んでいる間を、重い足どりで、審査員が家畜を調べ、小声で相談し合っていた。その中で、かなり偉そうな男が、歩くごとに手帳に何事か書きつけていた。この男が審査委員長、ドゥロズレ・ド・ラ・パンヴィルである。彼はロドルフを認めるやいなや、急いでやってきて、笑いながら親しげに話しかけた。
「ブーランジェさん、素通りはないでしょう」
ロドルフは今、行こうと思っていたのだと弁解した。だが、審査員長が行ってしまうと、
「とんでもないことだ。だんじて行きませんよ。あなたといっしょですからね」
農事共進会のことをとやかくいっていたくせにロドルフは、都合よく見回れるように、番人に青い券を見せたり、ときには「逸品《いっぴん》」の前に立ち止まったりもしたが、ボヴァリー夫人はぜんぜん感心しなかった。彼はそれと認めると、ヨンヴィルの女たちのおしゃれ振りをからかった。そして、自分もみだしなみがよくないことをわびた。彼の身なりはあかぬけないものと、あかぬけたものとが統一されず、雑居していた。そのため、いつも、風変わりな生き方と、奔放《ほんぽう》な感情と、芸術に対する憧景とが感じられた。そのために世のきまりをあなどっているのだと見えた。それが人をひきつけもし、怒らせもした。袖《そで》口にひだを寄せた彼のシャツは、ふいに風が吹くと、灰色のツイードのチョッキの中でふくらんだ。荒い縞《しま》のズボンの踝《くるぶし》あたりからは、ズックの半長靴が現われていたが、その靴の底に近いあたりだけがエナメル革《かわ》張りで、エナメル革は草が映るほど光っていた。ロドルフはそういう靴で馬糞《ばふん》をふんでいた。手を上衣のポケットに突っ込み、麦わらの帽子をあみだにかぶっていた。
「それに、田舎に住んでいますとね」と彼はつけ加えた。
「なにをやってみてもはり合いがありませんわ」とエンマがいった。
「そうですね。ここの連中の中でだれ一人として服のよし悪しのわかる者がいないんですからな!」
そして二人は田舎住いの単調さを語り、窒息しそうな生活と、消えて行く夢とを語り合った。
「ですから、ぼくは悲しさにうちひしがれてしまうのです」とロドルフがいった。
「あなたが?」エンマは驚いていった。「でも、陽気なかただと思っておりましたわ!」
「ええ、うわべは。人中に出ますと、おどけ者の仮面をかぶることにしているのです。しかし、月夜に、墓を見ておりますと、ぼくはあの眠っている人びとの道連れになったほうがいいのじゃないかと幾度考えたかしれんのです」
「でも、お友だちがおありでしょ。お友だちのことをお考えにならなくては」
「友だち? だれが? ぼくにありますか? ぼくを心配してくれる者なんて?」
彼はこの最後の言葉に、吐息《といき》のようなものを加えた。
しかし、二人の後ろから一人の男が、椅子を山と積み上げてかかえて運んできたので、左右に離れねばならなかった。男の運んでいるものが大きくて木靴の先と、左右にのばした手の先しか見えなかった。これは墓掘りのレスティブードワで、群衆の中へ教会の椅子を運んでいるのだった。金もうけにかけては抜けめのない彼は農事共進会をあてこんだうまい商売を考えついたのである。その考えはまんまとあたり、一人一人には返答もできないほど忙しかった。というのは、村人は暑いので、抹香《まっこう》くさい椅子をうばい合い、ろうそくのろうがこびりついた大きな椅子の背に、ヤレヤレという面持ちで寄りかかっていた。
ボヴァリー夫人は再びロドルフの腕をとった。彼はひとりごとでもいうように、
「そうです! ぼくにはいろんなものが欠けている! いつも一人ぼっちだ! 生涯に目的でもあれば、愛にめぐり合いでもしたら、だれかいてくれたら! ああ、そうしたら、力をふりしぼって、すべてを乗り越え、すべてを粉砕するのですが!」
「でも、あなたにはお嘆きになることなどなにもないとお見受けするのですけど」
「あー、そうお思いになりますか」ロドルフがいった。
「それに、……あの、お気楽な生活ですし」
エンマはためらった。
「お金持ちでいらっしゃるわ!」
「からかわないでくださいよ」と相手が答えた。
彼女はからかっていないといった。そのとき、砲声が鳴り響いた。とたんに人びとは村のほうへ散り散りに押しかけた。
だが、まちがいだった。知事はやってこなかった。審査員は困ってしまい、始めたものか、もう少し待ってみるかわからずにまごまごしていた。
ようやく、広場の向こうから、やせた二頭の馬に引かせた大型馬車が見えた。白い帽子をかぶった馭者《ぎょしゃ》が力まかせに鞭《むち》打っていた。ビネーはあわてて「ささげ! 銃《つつ》」と号令をかけた。国民軍の隊長がそれをまねた。みんなは叉銃《さじゅう》のほうへ駆けて行った。みんなあわてていた。一人の者などはカラーをつけ忘れてしまった。しかし、知事の一行はこの混乱ぶりを予想していたのか、二頭立てのやくざな馬が鎖をガチャつかせてからだを揺すりながらゆっくり走ってきて、役場の柱廊の前に止まると、ちょうど、国民軍と消防隊が、太鼓を打ちならし、歩調をとって行進しているところだった。
「足踏み!」ビネーが叫んだ。
「止まれ! 伍々《くみぐみ》左へ、進め!」と隊長は叫んだ。
ささげ銃をすると、銃身の鐶《わ》のゆれる音が、まるで銅の鍋を階段でころがしたときのような音がした。それが終わると、銃は再び下におろされた。
そのとき、馬車から銀モールの刺繍《ししゅう》を施してある短い燕尾服を着た男が下りてくるのが見えた。男は額がはげ上がり、後頭部には一房の髪が残っていた。顔色は青白かったが、優しそうだった。群衆をよく見るため、大きくて厚いまぶたにおおわれた目が軽く細くなった。同時に、彼はとがった鼻を上に向け、おちょぼ口に微笑を浮かべた。彼はつけている飾り帯で村長を認めると、知事殿はおいでになれないと説明し、自分は県参事官であるといい、二、三の弁解をした。村長のテュバッシュはそれに慇懃《いんぎん》に答えると、相手は恐縮した。二人はこうして向かい合い、まわりに審査員、村会議員、お偉方、国民軍や群衆に取りかこまれ、額もすれ合わんばかりにして立っていた。県参事は胸に黒い小さな三角帽を押しあて、挨拶を繰り返した。すると、テュバッシュもからだを弓のように折り曲げ、にっこと笑い、どもったり、口ごもったり、国に対する忠誠を誓ったり、ヨンヴィルに与えられた名誉を感謝した。
宿屋の若い衆のイッポリットが出てきて馭者《ぎょしゃ》から手綱《たづな》を受け取ると、ねじれた足を引きずって「金獅子館」の玄関下まで馬を引いて行った。そこには百姓が大ぜい馬車を眺めに集まってきていた。太鼓が響き、曲射砲がとどろいた。並んでいたお偉方は、壇上にのぼり、テュバッシュ夫人が貸してくれた赤いユトレヒト織の肱掛椅子に腰をおろした。
その人たちは互いに似ていた。生気のない白い顔は日に少し焼けて、甘口のりんご酒色に染まっていた。白いネクタイを大げさに花結びにし、硬《かた》いカラーからはふくらんだ頬《ほほ》ひげが見えた。彼らのチョッキはどれもこれもビロードで、折り返しがついていた。時計にはどれもこれも長いリボンがついていて、その先に卵形の紅玉髄の印などがさがっていた。そして人びとはズボンの股《また》を懸命に広げ、股の上に両手を置いていた。ズボンのつやけしをしていない布地は、彼らの頑丈《がんじょう》な靴の革よりも光っていた。
上流の奥様連はその後方の玄関下の柱廊の間に陣どっていた。一般群衆がその向かい側に立っていたり、椅子にすわっていた。椅子と言えば、それはレスティブードワが牧場から全部ひき上げて運んできたもので、彼は他の椅子を捜しに教会にしょっちゅう駆け込んでいた。彼の商売のために大混雑が起こり、壇上に上がる小さな階段にたどりつくのもひと仕事だった。
「手まえが思いますには……」とルウルウがいった。(ちょうどそこに席に着かんとやってきた薬屋に話しかけた)「あそこはヴェネチアふうの飾り柱を一対立てればさぞいいだろう……と。それに最近流行の布地のようないかめしく、豪華な布でも添えれば、人目にもすばらしくうつりますのになあ」
「なるほど」とオメーが答えた。「しかしどうしろというんです? なにもかも村長の思いどおりですからな。あの哀れなテュバッシュじいさんには趣味がない、つまり芸術の才というものさえぜんぜんないんですからな」
その間、ロドルフはボヴァリー夫人と役場の二階の「会議室」に上がって行った。あいているので、楽に見物ができると彼はいった。彼は国王の胸像の下の楕円《だえん》形のテーブルのまわりに並べてある床几《しょうぎ》を三脚とり、窓の一つに近寄せておいた。二人は肩を並べて腰掛けた。
壇上が色めいて、長い間ささやきが起こり、話し合っていた。ようやく、参事官が立ち上がった。リューヴァンという名だと知って、群衆の中に次から次へと彼の名が伝わって行った。彼は四、五枚の原稿をたしかめると、よく見えるように目を近づけ、演説し始めた。
≪諸君!
本日の催しの主旨を説明するに際し、諸君のご賛同をひそかに確信しつつ、まずもって上部官庁に対し、政府に対し、国に対し、諸君! 元首に対し、われらが敬愛する国王に対し、感謝の念を申し述べたい。国王陛下にあらせられては公私の繁栄にいたく御《み》心をとめたまわり、果敢《かかん》かつ賢明なる手腕をもって、荒海のせまりくる危険をものともせず、国家の兵馬を進められ、しかも、戦いも平和も、工業、商業、農業芸術も尊重されたもうのであります≫
「ちょっと後ろにさがらなくては」とロドルフがいった。
「なぜですの?」エンマが聞いた。
しかし、このとき、参事官の声は異様な調子に高まり、朗々と弁じたてていた。
≪諸君! 内乱が広場を血でぬらした時代はすでに去り、地主、商人、職工に至るまで夕べに平和の眠りをむさぼっているとき、半鐘の音に突如としてたたき起こされ、恐れおののいていた時代は去った。社会秩序を破壊する思想が大胆にも社会を根底からくつがえした時代も去ったのであります≫
「下から見られたらことですからね」とロドルフが答えた。「見つかったら、半月もいいわけをして歩かなくちゃなりません。それにぼくの評判ときたら……」
「まあ、ご自分でそう思い込んでいらっしゃるだけですわ」
「いや、私の評判はほんとうにひどいものですよ」
≪しかし、諸君!≫と参事官はなおも続けて演説していた。≪思い出のこの暗い光景から目を転じて、われらが美しき現状に目を注げば、そこに何を見るでありましょうか。至るところに商業が、芸術が花と咲き、至るところに、国という肉体における新しき動脈のごとく、交通路が開かれ、新しい交易が生まれております。製造工業のわれらが大中心地は再び活況を呈しております。宗教は一段と強固になり、万人の胸にほほえみかけ、港は船舶に満ち、自信が蘇《よみがえ》り、ついにフランスは安堵《あんど》に息づいておるのであります!……≫
「それも」ロドルフはいい添えた。「世間の目から見れば、無理もないことかもしれませんね」
「どうしてですの?」とエンマは聞いた。
「なんですか、たえず悩み抜いている人間がいることをご存じないのですか? そんな人間には夢と行為が、このうえない純粋な情熱とこのうえなく激しい喜びとがかわるがわる必要なのです。このようにして人は、果てしなき夢想と、あらんかぎりの狂気の中に身を投じてしまうのです」
エンマは、珍しい国々を通ってきた旅人を見る目つきで彼を見つめた。そして答えた。
「わたしたち女にはそんな気やすめなどないのでございますわ!」
「悲しい慰めですよ。しあわせはそこには見いだせないのですから」
「でも、しあわせというものは、いつかは見つかるものでしょうか?」と彼女が聞いた。
「ええ、いつかは見つかるものですよ」とロドルフが答えた。
≪このことは諸君たちにすでにご理解いただいたことでありましょう≫と参事官がいった。≪諸君、農民および地方労働者諸君! 文化事業の平和なる開拓者である諸君! 発展と道義の人たる諸君! あえていえば、政治の嵐が、天候の不順にもまして恐ろしいものであることを諸君らはとくとご理解くださったことでありましょう……≫
「いつかはくるものです」ロドルフは繰り返しいった。「ある日、突然に、すっかりあきらめたときに、地平線が開かれるのです。それはちょうど『ほら、そこに!』という声のようなものです。あなたはその人に身の上を打ち明け、すべてを与え、すべてを犠牲にしたくなるのです。説明しなくとも、そうだ、夢の中で会った人だ、とわかるのです。(こういって彼女を見つめた)あんなにも捜しあぐねた宝が、ほら、そこに、あなたの目の前にあるのです。宝は輝き、きらめいている。それでもあなたは疑っている。まだ信じられない。くらやみから光の中に急に出たときのように目がくらみ、見えないのです」
こういい終えるときに、ロドルフはその言葉に身振りを加えた。彼は目まいがするときのように顔に手をあてた。そしてエンマの手に重ねた。彼女は手を引っこめた。だが、参事官はあいかわらずしゃべりまくっていた。
≪そして今、申し上げましたることを意外に思う者がいましょうか? もし、あるとすれば、それは盲《めくら》か、(申し上げにくいのでありますが)農民精神を誤解する前時代の偏見に染まった者であります。実際、農民より愛国心に富み、公益に貢献《こうけん》し、一言でいうなら、知性に富んだものがどこにおりましょうか。諸君、わが輩は暇人のいつわりの飾りにすぎぬ浅薄な知性など求める者ではありません。わが輩の求めているものは各々の利益に、社会改良に、国家の安寧《あんねい》に貢献する有益な目的を追求するに用いられる深遠にして中庸を得た良識であります。かかる知性こそは法を尊重し、義務を遂行した結果生ずるものであります≫
「ああ、まただ、いつもいつも義務、義務。この言葉にはうんざりしますよ。フランネルのチョッキを着た老いぼれや、足ごたつにあたり数珠《じゅず》をまさぐる信心にこり固まった婆《ばばあ》どもが大挙して耳もとに『義務、義務』とたえずがなりたてます。ところが、実際には、義務とは偉大なるものを感じることです。美しいものを愛することであって、われわれに与える責苦を伴う社会の因習を受け入れることではないのです」
「でも、でも……」とボヴァリー夫人が反対した。
「いや、なぜ情念をののしるのです? それは地上にある唯一の美しいものではありませんか。それに英雄的行動の、熱狂の、詩の、音楽の、芸術の、その他すべての源ではありませんか?」
「それでも少しは世論と道徳に従わねばなりませんわ」
「だが、道徳にも二つあるのです」とロドルフはいい返した。「ちっぽけな、慣習的な道徳、人間の道徳、たえず変わり、大声で語られる道徳、それはあそこのばかどものように地面に低く動いていますよ。だが、もう一つのは、永遠の道徳、ちょうど僕たちを取り巻いている景色のように、僕たちを照らす青空のように、あたり一面にも、高い所にもあるのです」
リューヴァン氏はハンカチで唇《くちびる》をぬぐった。
≪諸君、ここで農業の効用をくどくど述べたてる必要がありましょうか。われわれの必需品を用立ててくるのはだれでありましょう? われわれの衣食を供給してくれるのはだれか。農民ではありませんか。農民諸君、諸君は堂々と畑の肥《こ》えた畝《うね》に種をまき、小麦を作る。小麦は粉砕され、精巧な機械で粉にひかれ、小麦粉と名づけられ、そこから都会に運ばれ、やがてパン屋に運び込まれる。それをパン屋は貧乏人にも金持ちにも等しく食物にする。また、衣服のためにも、牧場で多数の家畜を育てるのも農民ではないでありましょうか。農民がいなければわれわれはいかにして衣服をまかない、食物を手に入れ得ましょうか? 諸君、その例を遠くに求める必要がありましょうか。われらのベッドに柔らかいまくらを、食卓にはうまい肉や卵を提供してくれる家禽《かきん》中の王者であるこのおとなしい動物からわれらが引き出す重要性を考えないものがどこにありましょうか。しかし、慈愛深き母のような大地が子に惜しまず与える産物を次から次へと枚挙《まいきょ》するいとまはありません。さて、ここにブドウの木がある。あちらにはリンゴ酒用のリンゴの木が、ここには菜種《なたね》、あちらにはチーズ、そして亜麻《あま》、諸君、亜麻を忘れてはなりませんぞ! 近年これはいちじるしく増産される。ゆえに私は諸君らの注目をとくにこれに対して仰ぎたいと思っておるのであります≫
注意をひく必要はなかった。群衆はまるで彼の言葉をのみ込むかのように口をあんぐりあけていた。テュバッシュは参事官のそばで目を見張って聞いていた。ドゥロズレ氏はときどきそっとまぶたを閉じた。かなたでは、薬屋が膝に息子のナポレオンをのせ、一言も聞きもらすまいと手を耳にあてていた。他の審査員はチョッキの中で顎《あご》をゆっくり振り、同意の意を表わしていた。壇の下にいる消防隊は銃剣にもたれて休んでいた。隊長のビネーは微動だもせず、肱《ひじ》をつき出し、サーベルの先を天に向けていた。彼も聞いているのだろうが、鼻先まで帽子のひさしを下げているため、何も見えなかった。副隊長はテュバッシュの末っ子だが彼のはそれに輪をかけた代物だった。とてつもなく大きいのが、頭上で揺れていて、インド更紗《さらさ》のネッカチーフの先がちらっと見えるだけだった。彼はその下で子供らしいあまえた顔をして笑っていた。その青白い顔に、汗を浮かべ、楽しそうな、苦しいような、眠たそうな顔つきをしていた。
広場は家並みまで人でうずまった。どこの窓辺でも人が肱をつき、どの戸口にも人が立っていた。ジュスタンは、薬屋の店先で、熱心に何かを眺めている様子だった。あたりは静かなのに、リューヴァン氏の声は十分に聞き取れなかった。ただ切れ切れの言葉が聞こえるだけで、それもあちこちで群衆がたてる椅子の音にさえぎられた。突然、後ろのほうから長い尾を引く牛のなき声が聞こえてきたかと思うと、町角から互いによびかわす羊のなき声がした。というのは牛飼いも、羊飼いもそこまで動物を連れてきていたからである。ときどき、そんな動物は鼻面《はなづら》についている草っ葉を舌で取ろうと大騒ぎをした。
ロドルフはからだを寄せ、低い声で口早にいった。
「こういう世間のやつらのうまい言葉に平気でいらっしゃるのですか? やつらが責めない感情が一つでもあるでしょうか。どんなに高潔な本能も、どんなに純粋な同情も責め立てられ、中傷されるのです。たとえば、かわいそうな二つの魂が出会うとする。すると、二つが結びつかないような陰謀が仕組まれるのです。しかし、彼らはやってみます。翼をはばたき、互いの名を呼び合います。それでも、おそかれ早かれ、半年後、十年後、二つの魂は一つとなり、愛し合います。そのような運命だからです。互いのために生まれてきたからです」
彼は両|膝《ひざ》の上で腕を組んでいた。そして、エンマを見上げると、近くでまじまじと見つめた。彼女は彼の目の中に黒い瞳のまわりに放射している小さな金線を認めた。そしてまた、彼の髪を艶《つや》やかにしているポマードの匂いをかいだ。すると、エンマはうっとりとして、ヴォビエサールでワルツをいっしょに踊った子爵のことを思い出した。子爵の口ひげもこの髪のようなヴァニラとレモンの香りがした。エンマはもっとよくかごうとまぶたを閉じた。しかし、椅子にすわったままでそり返ってそうやると、古ぼけた乗合馬車の『つばめ』がゆっくりレールの丘を下ってくるのが、はるかかなたの地平線の果てに見えた。『つばめ』は後ろにほこりをもうもうと巻き上げていた。レオンがああして彼女の元に帰ってきたのもあの黄色い馬車だった。彼が永久に行ってしまったのもあの道なのだ! 彼女は窓に彼の姿が映っていると思った。すると何もかも一つに溶け込み、雲のようなものと化し、流れ去った。彼女はまだ、シャンデリアの火の下に子爵の腕に抱かれてワルツを踊っているような気分だった。それでもレオンが近くにいてすぐにやってくるような……。それなのに彼女はそばにたえずロドルフの顔を感じていた。この感覚は甘く、それゆえに彼女の昔の欲望の中にしみ込んで行った。そして風に吹かれて砂塵《さじん》が舞い上がるように、欲望は小さな粒子となってかぐわしい香気の中に舞い、彼女の魂の中にしみていった。彼女は鼻をふくらませ、幾度も、大きく、柱頭のまわりにからまっている蔦《つた》のすがすがしい香りをかいだ。彼女は手袋を取り、手をふいた。それからハンカチで、顔をあおいだ。こめかみが動悸《どうき》するあい間に、彼女は群衆のざわめきと、単調に式辞を述べている参事官の声が聞こえた。
参事官は、
≪持続せよ! 辛抱《しんぼう》せよ! しきたりにも無鉄砲な経験主義の性急な忠告にも耳をかすことなかれ! とくに土地改良、肥料、牛、羊、豚の新種開発に努力されたい! この農事共進会は諸君にとっても平和な競技場である! 勝利者は敗者に手を差しのべ、よりよい成果をめざして互いに親しみ合うべきであります! 尊敬すべき奉仕者である諸君! 謙虚《けんきょ》なる使用人である諸君! 今日までどんな政府も諸君らのつらい労働をかえりみようとはしなかった。したが、本日諸君の寡黙なる美徳の報いを受けたまえ。今後、国は諸君らを見守り、励し、援助し、諸君の正当なる要求を認め、できうるかぎり、諸君らのつらい犠牲の重荷を軽くすることを約束する≫
そういってリューヴァン氏は席についた。ドゥロズレ氏が立ち上がり、次の演説を始めた。彼の話は参事官のようにはなばなしくはなかったが、より確固たる文体、つまり、より専門的な知識とより深い観察とによって精彩を放っていた。それゆえ政府への賛辞には時間をかけず、宗教と農業がより多くの内容を占めていた。そこでは両者の関連だとか、どうしてそれらが文明につねに貢献してきたのかが説明された。ロドルフはボヴァリー夫人を相手に夢占いや、予感や動物磁気の話をしていた。社会の揺籃期に立ち帰って、演説者は人類がまだ森の奥深く、木の実を採取して生活していたあの原始時代を描いていた。それから人類は毛皮をやめ、布を身にまとい、畝《うね》を掘り、ぶどうの木を植えた。それは果たして幸いであっただろうか? その発見で、利益よりも損害のほうが多かったのではなかろうか? ドゥロズレ氏はこの問題を考えてみるのだった。催眠術の話から、少しずつ、ロドルフは親和力へと話を進めていった。審査員長が鋤《すき》を持ったキンキナトゥス〔古代ローマの道徳の見本とされている執政官〕、キャベツを植えたディオクレティアヌス〔三世紀末のローマ皇帝。ちさを植えるのを好んだという伝説がある〕、年頭に種をまいたという中国の皇帝〔古代中国の伝説的な皇帝、堯帝のこと〕の話をしている間、若い男は若い女に抗しきれない魅力というものは前世からの因縁だと説いた。
「だから、ぼくたちも……。なぜぼくらは知り合いになったのでしょう。なんという偶然でしょう? たとえ二人は離れていても、いつかは合流する二筋の川のように、特別な傾斜がぼくたちを互いに近づけたのです」
そういって彼は彼女の手を握った。彼女は手をひっこめなかった。
≪優秀農家のみなさん≫と審査員長が叫んだ。
「たとえば、さきほどお宅にうかがったときも」
≪カンカンポワ村のビゼー氏!≫
「おともできるとは思ってもいませんでした」
≪七十フラン!≫
「幾度家に帰ろうと思ったかしれません。それなのにおともしておそばに残ることになりました」
≪肥料賞!≫
「今晩のように、あすも、他の日も、一生涯ずっとおそばを離れません」
≪アルグイユ村のキャロン氏に金メダル!≫
「だれとつきあっても、これほど完全無欠な魅力を持った人にあったことはなかったのです」
≪ジブリイ・サン・マルタン村のバン氏!≫
「ですから、ぼくはあなたの思い出をいだいていくことでしょう」
≪メリノ種の牝羊に対し、≫
「でも、わたしのことなんかお忘れになりますわ、私などは通り過ぎて行く影のようなものですわ」
≪ノートル・ダム村のベロー氏≫
「いや、とんでもない。せめて、私があなたの心の中で、あなたの生活の中で、何ものかであると信じさせてください」
≪豚類。ルエリッセ、キュレンブルグ両氏に「同格として」賞金六十フラン!≫
ロドルフは彼女の手を握りしめた。彼女が熱く、逃げんとするとらわれた雉鳩《きじばと》のようにふるえているのが彼には感じられた。手を放そうとするのか、それともこの手に答えようとするのか、彼女は指を動かした。と、彼は叫んだ。
「ありがとう! いやではないのですね。ありがとう! ぼくがあなたのものだとわかってくださったのですね! お顔を見せてください。じっと見せてください!」
一陣の風が窓から吹いてきて、テーブルクロースにしわをよせた。下の広場では、百姓女のネッカチーフが、飛んで行く白い蝶《ちょう》のように舞い上がった。
≪菜種油製油装置の使用者≫と審査員長は叫んだ。
そして口早に、
≪フランドル肥料、リンネル栽培、排水施設、長期賃貸借、農場使用人永年勤務者≫
ロドルフはもうしゃべらなかった。二人は見つめあった。高まった思いに二人のかわいた唇をふるわせ、そっと、いつの間にか指と指をからませ合っていた。
≪サスト・ラ・ゲリエール村のカトリーヌ=ニケーズ=エリザベス・ルルーさん。同一農場に五十四年間の長きにわたって勤務されたのに対し、二十五フラン相当の銀メダル一個≫
≪カトリーヌ・ルルーはどこにおられるか?≫と参事官が繰り返した。
ばあさんは現われなかった。で、ささやき声が聞こえてきた。
「ほら、おまえさんだよ!」
「いやだよ」
「左に行くんだよ!」
「びくびくすんな!」
「なんてぐずなんだろう!」
「いったいきておるのか?」テュバッシュが叫んだ。
「おりますだよ。ほら、あそこに!」
「おるなら、出てこい!」
そのとき、壇上におどおどした物腰のちっぽけな老婆が近づいてきた。老婆はそのみすぼらしい服のためにしわくちゃにされたように見えた。大きな木底の靴をはき、腰のまわりに大きな青いエプロンをかけていた。縁なしの帽子をかむった彼女のやせこけた顔は、しなびたりんごよりしわくちゃで、赤い上衣の袖《そで》からは節《ふし》くれだった長い手が見えた。その手は納屋《なや》のほこりや、荷性《かせい》ソーダや羊毛についている脂肪のために、厚くなり、荒れ、堅くなって、いくらきれいな水で洗ってもよごれて見えた。長年労働に使っているので、その手は少し開きぎみであった。その手は、みずからこれまで忍んできた数々の苦しみの証拠を控え目に示しているようであった。なにか尼さんのようなきびしいものが彼女の表情を引き立てていた。悲しみも感動もこの青白い目つきを柔らげはしなかった。動物を扱いなれているため、その無言と穏やかさが彼女の身についていた。こんなに大ぜいのただなかにいるのははじめてだった。それで内心、旗や、太鼓のとどろきや、燕尾服《えんびふく》を着た人たちや、参事官の十字勲章にすっかりおじけづき、進んだものか逃げ出すものか思案にくれ、突っ立っていた。それになぜみなが自分を押し出してくれるのか、なぜ審査委員がほほえみかけているのかもわからなかった。すなわち、上機嫌のお偉方の目の前に、半世紀にもわたる奉公そのものが立っていたのである。
「こちらへどうぞ、カテリーヌ=ニケーズ=エリザベス・ルルーさん」参事官は審査員長から表彰者名簿を受け取っていった。
その紙と老婆をかわるがわる見くらべながら参事官は優しく繰り返した。
「こちらへ、お寄りください!」
「お前はつんぼなのかな」とテュバッシュが椅子の上に飛び上がりながらいった。
そうして彼は彼女の耳にどなりかけた。
「五十四年間にわたる勤務に対し! 銀メダル! 二十五フラン! ちょうだいするがいい」
老婆はメダルを受け取ると、それをじっと眺めた。喜びの微笑《ほほえ》みが彼女の顔にあふれた。そして引きさがりながら、こうつぶやいているのが聞こえた。
「村の神父様にさし上げて、ミサを上げてもらいますべえ」
「信心気違いですな」と薬屋は公訴人に身をかがめていった。
式は終わり、群衆は散って行った。演説が終わった今となっては、各人がもとの地位にもどり、すべては常態にもどった。主人は奉公人をどなりつけ、奉公人は、のん気な優勝者たちを、つまり、角《つの》の間に青葉の冠をいただき家畜小屋へと帰って行く動物たちをひっぱたいた。
その間、国民軍は銃剣に菓子パンを突き刺し、鼓手に酒びんを入れてあるかごを持たせて役場の二階に上がった。ボヴァリー夫人はロドルフの腕を取った。彼は彼女の家まで送って行った。二人は門の前で別れた。彼は宴会の時間になるまで牧場を一人ぶらついていた。
宴会は長く、騒々しく、料理はまずかった。人がたてこんで、肱も動かせず、ベンチ代わりの細長い板も人の重みで今にも折れそうだった。みなはたら腹食い、自分の割り当てをつめ込んだ。みなの額に汗が流れた。秋の朝などに川面に立ち込める靄《もや》のような乳色の湯気が、テーブルの上やつり下げてあるケンケ灯の間を漂っていた。ロドルフは背をテントのキャンバスにもたせ、一心にエンマを思い、何も聞こえなかった。後ろの芝生の上では、召使いがきたない皿を積み重ねていた。隣にすわっていた人が話しかけたけれど、ロドルフは答えなかった。盃《さかずき》を満たした。だが、騒ぎは高まる一方なのに、彼の頭の中は平静であった。彼はエンマのいったこと、彼女の唇の格好を思い出した。彼女の顔は、魔法の鏡のように人びとの軍帽の徽章《きしょう》の中で輝いていた。彼女の服のひだが壁にそって下がっていた。恋の日々が未来の遠景の中に果てしなく続いていた。
エンマには夜の花火のときにまた会った。だが、夫やオメー夫人や薬屋と連れ立っていた。薬屋は火花をしきりに危いといって、しじゅう一行を離れ、ビネーに注意をしに行った。
テュバッシュ宛に送られてきた花火の玉が用心に用心を重ねて倉に納めてあったために、火薬が湿ってつかなかった。呼び物の尾をかむ竜はぜんぜん火がつかなかった。ときどき、貧弱な打ち上げ花火が上がった。すると、口をあんぐりあけた群衆は歓声を上げた。歓声に混じって、闇にまぎれて腰をくすぐられた女の叫び声が聞こえた。エンマはシャルルの肩にそっと身を寄せた。そしてあごを上げて、夜空にカーブを描いて消えていく花火を見ていた。ロドルフは燃えているちょうちんの灯の下で彼女を見つめていた。
ちょうちんの灯はしだいに消えて行き、星が輝きだした。小雨《こさめ》が降ってきた。エンマは頭からショールをかぶった。
ちょうどこのとき、参事官の馬車は宿屋から出発して行った。酔っていた馭者は急に居眠りを始めた。その長外套を着た大きな図体《ずうたい》が、両側のランプの光の下に、馬車の揺れるごとに右や左にぐらぐら揺れる様が遠くから見えた。
「ほんとうに」薬屋がいった。「酔っ払いを厳しく取り締まるべきですよ。毎週、役場の戸の所に『特別の』掲示板を出して、それにその週酔っ払った者の名を書き入れることですな。それで、統計学的に見れば、年間の記録のようなものができ上がるから必要に応じて……ちょっと失礼」
といって彼はまた消防隊長の所にかけ寄った。
隊長は家に帰るところであった。ろくろの具合を見に戻るところだった。
「だれか隊員を見にやるか、君自身出かけて行っても悪いことないじゃないか」と薬屋がいった。
「ほっといてくださいよ」収税吏が答えた。「大丈夫だといったら大丈夫なのですから」
「ご安心ください」薬屋は友人の所に帰ってくるといった。「ビネーさんが手はずはととのっていると言明しましたからな。火の粉一つ落ちないそうで。それに消防体制はととのっているということですから。さて、帰って眠るとしましょうか」
「あら、まあ、ほんとに眠いこと」としきりにあくびをしていたオメー夫人がいった。「でもとにかく、今日はお天気もすばらしくて」
ロドルフは低い声で、やさしいまなざしで繰り返した。
「まったく、すばらしかった」
挨拶をかわすと、みなは帰って行った。
二日後の「ルーアンの灯」には共進会に関する大きな記事が載っていた。これはオメーが共進会の翌日夢中になって書いたものである。
≪なにゆえの花綱、花、花飾りか! われわれの畑に降り注ぐ灼熱《しゃくねつ》の太陽の下に怒濤《どとう》のごとく群衆はいずこにか流れ行く!≫
ついで彼は農民の現況について語り、たしかに政府は大いに援助をしているものの、いまだに十分とはいいがたい。≪勇気をもて! 幾多の改良は不可欠である。遂行しようではないか!≫そして参事官の来場のときを取り上げ、≪国民軍の勇ましい様子≫も≪はつらつとした村娘≫も≪長老らしくひかえている≫禿《はげ》頭の老人たちのことも書きもらさなかった。老人たちのあるものは≪不滅なる国軍の生き残りであり、勇しい太鼓の音に心踊らしていた≫彼は審査員の上のほうに自分の名を載せ、なお、注として、薬剤師オメー氏はリンゴ酒論を農業協会に送った旨書き添えた。表彰のくだりになると感激的な事句を使って表彰者の喜びを描き出した。≪父は息子を、兄は弟を、夫は妻を抱いた。ささやかなるメダルを誇らしげに見せる者も見られた。家に帰り、よき妻のそばで、涙にむせんで、家のささやかなる壁にかけたであろう!≫
≪六時ごろ、宴が開かれた。リェジャール氏の牧場にしつらえたものにして、式典の主たる参列者を集めた。終始一貫してなごやかなもので、乾杯が繰り返された。リューバン氏は国王陛下に! テュバッシュ氏は知事閣下に! ドゥロズレ氏は農業に! オメー氏は二人の姉妹たる工業と芸術のために! ルプリシェー氏は品種改良に杯を上げた! 夕刻、きらめく花火が夜空をこがした。万華鏡を、オペラの舞台を見るがごとく、一瞬にして、われらの小さな村も『千一夜物語』の夢の世界に運びさられた感があった≫
≪いかなる不詳事も起きずに、そのなごやかな会は閉会したことを記しておく≫
そしてまたつけ加えて、
≪ただ聖職者の欠席が人目をひいた。これはつまり、教会はわれわれとは進歩については異なる意見を持っているためであろう。ロヨラの人びとよ、ご自由になされるがよい!≫
九
六週間たった。ロドルフはやってこなかった。ある晩、とうとう彼は姿を現わした。
共進会の翌日、彼は考えたのだった。
「すぐさま行ってはならん。それは誤りというものだ」
そこで、週末には狩りに出かけた。
狩りから戻ってくると、遅すぎたのではないかと思ったが、こう屁理屈《へりくつ》をつけた。
「だが、初めから彼女がぼくを恋しているのなら、会わずにいるのでいら立ち、ますます恋心をつのらせていることだろう。まあ、やってみることだな!」
広間にはいって、エンマが青ざめるのを認めると、彼の計算があたったとわかった。
エンマは一人きりだった。日が落ちた。窓にかけてあるモスリンの小さなカーテンがたそがれの色を濃くしていた。陽《ひ》が寒暖計の上を照らし、珊瑚《さんご》樹のからまった鏡の中で、そのメッキが光っていた。
ロドルフは立ったままだった。エンマはなかなか丁寧《ていねい》に彼の挨拶に答えられなかった。
「ぼくは」ロドルフがいった。「仕事がありましたし、それに病気もしましたので……」
「ひどくご病気でしたの?」とエンマはたずねた。
「いや!」ロドルフは彼女のかたわらの腰掛けにすわって、「たいしたことありません。……おめにかかりたくなったのです」
「なぜですの?」
「おわかりになりませんか?」
彼は再び彼女の顔を見つめた。だが、見つめ方が激しかったので、彼女は赤くなって顔を下げた。彼は続けて、
「エンマさん……」
「いけません!」といって彼女はちょっと離れた。
「おわかりくださったでしょう」ロドルフは憂欝な声を出した。「ぼくがきたくなかったのももっともなことでしょう。この名まえ、ぼくの心からあふれ、もらしてしまったこの名まえ、そしていまいうなとおっしゃったその名まえのためなのです! ボヴァリー夫人!……いや! 世間の人びとはみなこう呼んでいる。……だが、それはあなたの名まえではない! 他の人の名まえなのです」
彼はまた繰り返した。
「他の人の!」
といって彼は手で顔をおおった。
「そうだ。ぼくは四六時中君を思っている! あなたを思い出すのはつらいことです。ああ! 許してください! お別れします。さようなら! 遠くに行ってしまおう……ぼくの噂《うわさ》があなたに聞こえないくらい遠くに行こう! それでも……今、……ぼくにはなんであなたに魅《ひ》かれるのかわからないのです。人は神様と争うことも、天使の微笑みに打ち勝つこともできず、ただ、美しいもの、すばらしいもの、たたえるべきものにひかれることしかできないものです!」
エンマははじめてこんな言葉を聞いた。彼女の自尊心は風呂《ふろ》にはいっている人のように、柔らかくこの言葉の熱気を受けて完全にのびきった。
「だが、もしぼくがこなかったら」ロドルフはいい続けた。「お会いすることができなかったら、ああ、せめてあなたを取り巻くものが見えたら、夜ごと、ひそかに起き上がり、ここまでやってきました。そしてあなたの家を、月光に輝く屋根を、窓辺に揺れる庭の木を、暗闇にガラス窓からもれるランプを、光を眺めていました。ああ、こんなに近くに、そしてこれほど遠くに心寂しい者がいたのをあなたはご存じなかったのです……」
エンマはすすり泣いて彼のほうを向いた。
「ああ、おやさしいかた!」
「いや、ぼくはあなたをお慕いしている。それだけです! 信じてください。信ずるといってください。一言、たった一言!」
そういってロドルフは腰掛けから知らず知らずのうちにすべり下りていた。しかし、台所で木靴の音が聞こえた。広間の戸がしまっていないのに彼は気づいた。
「どうぞ、ぼくの気まぐれを許してください」
気まぐれとは家を見たいということだった。彼は知りたがった。ボヴァリー夫人もそれはさしさわりがないと思い、二人とも立ち上がった。そんなときシャルルがはいってきた。
「こんにちは、博士」とロドルフがいった。
医師は思いがけないこの尊称にすっかり喜んで、愛嬌《あいきょう》を振りまいた。その間を利用して、ロドルフは少し落ち着いた。
「奥さんは健康のことを話してくださったので……」
シャルルはさえぎって、じつは非常に心配しているのだといった。呼吸困難がまたぶり返したのだ。そこで、ロドルフは乗馬はよくないかと聞いた。
「そのとおり、けっこう、大へんよろしい! 名案ですな! おっしゃるようになさい!」
彼女が馬を持っていないからというと、ロドルフは一頭お貸ししましょうといった。だが、彼女はことわった。ロドルフはたってすすめなかった。訪問を理由づけるために、彼の馬丁つまり、先だって刺絡した男が近ごろ目まいがするといった。
「往診しましょう」とボヴァリーがいった。
「いや、いや、うかがわせましょう。きたほうが先生にもご都合がいいでしょうな」
「そうですか、それはどうも」
夫婦きりになると、
「なぜ、ブーランジェさんの申し出をお受けしなかったのだい? ご親切じゃないか?」
エンマはすねた様子をし、いろいろ弁解したが、しまいには、「きっとへんにとられるといけないから」といった。
「なんだ! そんなことを気にするもんじゃないよ」とシャルルは片足のつま先でくるっと回っていった。「健康第一! おまえはまちがってるよ!」
「乗馬服もないのに、どうして馬に乗れますの?」
「一着作ればいいさ!」と彼は答えた。
乗馬服で彼女の気持ちはきまった。
服ができ上がると、シャルルはブーランジェ氏に手紙を出して、妻はいつでも都合がいいから、よろしくお願いする旨書き送った。
翌日の午後、ロドルフは自家用の二頭の馬を連れてシャルルの家の前にやってきた。一頭は耳にピンクの玉飾りを飾り、鹿《しか》皮の女用のくらを載せていた。
ロドルフは柔らかな長靴をはいていた。きっとあの女はこんな物を見たこともなかろうと思っていた。彼がビロードの上衣をつけ、白いジャージーのズボンをはいて踊り場に現われると、エンマは彼の姿にうっとりとした。彼女はすでに身支度ができて、彼を待っていたのだった。
ジュスタンは彼女の姿を見ようと薬屋の店から飛び出し、薬屋も仕事をやめて出てきた。そしてブーランジェ氏にいろいろと注意をした。
「事故はあっという間に起こるものですからね! ご注意なさいまし! その馬は疳《かん》が強そうですな!」
エンマは頭上に物音が聞こえた。小さなベルトをあやそうとフェリシテが窓をたたいているのだった。子供は遠くから投げキスを送ってきた。エンマも鞭《むち》の柄頭を振って、それに答えた。
「行ってらっしゃいまし」オメーが呼んだ。「よく注意なさいまし。ご注意を!」
そうして彼は二人が遠ざかって行くのを見送って、新聞を振った。
土の香りをかぐと、エンマの馬は駆け出した。ロドルフはそのそばを駆けた。ときどき二人は言葉をかわした。エンマは顔を少し伏せ、手を高く上げ、右腕を広げてくらの上で揺られるままに身をまかせた。
丘の麓《ふもと》で、ロドルフは手綱をゆるめた。二人はいっせいに駆けのぼった。丘の頂で、突然馬を止めた。彼女の大きな青いヴェールが落ちた。
十月の初めであった。野原には靄《もや》がたちこめていた。靄はむこうの丘のはしの地平線上にたなびいていた。あるいはちぎれて、高く上がり、消えていた。ときどき、雲が晴れると日の光を浴びて、遠くにヨンヴィルの家並みが見えた。川岸の庭が、中庭が、塀《へい》が、教会の鐘楼《しょうろう》が見えた。エンマは目を細めて家を見た。彼女の住んでいるこの村がこんなに小さいとは思わなかった。二人のいる頂から、谷全体が湯気を上げている大きな青い湖のように見えた。ところどころ、木立ちが黒い岩のように突き出ていた。高いポプラ並木が靄の中では、風にもてあそばれる砂浜かと見えた。
かたわらの樅《もみ》の木立ちにはさまれた芝生の上で、茶色っぽい陽《ひ》がなま暖かい空気の中で動いていた。タバコ色の赤土に足音が消された。馬は進んでいくとき、その蹄鉄の先で落ちている松かさを前にけった。
ロドルフとエンマはこうして森のほとりまで進んで行った。エンマは連れの視線を避けようとして、ときどき顔をそむけた。すると、そのとき見えるのはきちんと並んだ樅の木の幹だけで、それが果てしなく続いているのを見ると彼女はくらくらするような気持ちにおそわれた。馬はあえぎ、くらの皮が鳴った。
二人が森の中へはいったとき、ちょうど陽がさした。
「こりゃ運がいいぞ」とロドルフが叫んだ。
「そうですかしら」エンマが口をはさんだ。
「前進、前進!」
彼は舌打ちをした。二頭の馬は駆けた。
道ばたの細長い歯朶《しだ》がエンマの鐙《あぶみ》にからまった。ロドルフは進みながらも身をかがめて、そのつど抜き取った。あるときは、枝を払うために、彼はエンマのすぐそばを通った。そのとき、彼女はロドルフの膝が彼女の足にさわったと思った。空は晴れてきた。木の葉も動かなかった。ヒースの花が咲き乱れた広い土地がいくつもあった。織物を敷きつめたような紫色の草原と叢林とがかわるがわる現われた。その叢林は葉の種類の違いによって、灰色、代赭《たいしゃ》色、金色をしていた。ときどき、茂みのかげに、わずかな鳥の羽ばたきや柏の林に飛び回っているからすのしゃがれた甘い鳴き声が聞こえた。
二人は馬をおりた。ロドルフは馬を結びつけた。エンマは前に立って、苔《こけ》の上をわだちの間を歩いた。
しかし、彼女の服は、裾《すそ》をからげても長すぎて歩きづらかった。ロドルフは彼女の後ろを歩いていたが、黒い上衣と黒長靴の間に見える白ズボンの美しさを凝視《ぎょうし》していた。それは彼にはなんだか彼女の裸体と思われたのである。
エンマは立ち止まった。
「疲れましたわ」と彼女はいった。
「さあ、もう少し!」彼は答えた。「元気を出して!」
しかし、百歩ほど行ったところで、彼女はまた立ち止まった。彼女のかぶっている男帽子から腰に斜めに揺らしているヴェール越しに見ると、彼女の顔は、青い波間を泳いでいるようにすきとおった青い色の中から浮き上がって見えた。
「どちらへ行くんですの?」
ロドルフは答えなかった。エンマは息を切らしていた。ロドルフは彼女をねめ回し、口ひげをかんだ。
二人はひろびろとした所に出た。そこには苗木が切り倒してあった。二人はころがしてある木の幹に腰をおろした。そして彼は自分の恋心を告白しだした。
彼はまず大|仰《ぎょう》な賛辞をささげてエンマをおじけさせるようなことはしなかった。彼は穏やかで、まじめで憂欝《ゆううつ》そうだった。
エンマはうつむいて、爪先《つまさき》で地面に落ちている木くずをもて遊びながら聞いていた。
しかし、
「ぼくたちの運命は今や一つになったのではありませんか?」という言葉に、
「いいえ! よくおわかりでしょ。それはかなえられないことですわ」と答えた。
彼女は立ち上がって歩き出した。ロドルフは彼女の手首をつかんだ。彼女は立ち止まった。恋にうるんだ目つきをしてロドルフをしばらく見つめていたが、きっぱりいいきった。
「ああ、おやめになって、おっしゃらないでくださいまし。馬はどこにいるんですの? 帰りましょうよ」
ロドルフはおこったような、じれたような身振りをした。彼女はまたいった。
「馬はどこにいますの? どこですの?」
すると、彼は不思議な笑いを浮かべ、目をすえ、歯をくいしばり、腕を広げて進んできた。彼女はもぐもぐと、
「ああ、こわいことなさらないで! いやですわ! 帰りましょうね」
「しかたありません」と彼は顔色を変えて答えた。
やがて彼はもとのうやうやしく、やさしい、内気な男にかえった。エンマは彼に腕をとられた。二人は帰って行った。ロドルフは、
「いったいどうなさったのですか? なぜなのですか? ぼくにはわけがわからないのです。きっと思い違いをなさったのでしょうね。あなたはぼくの心の中では台座のマリア様のような存在で、高く、じょうぶな、清らかな場所にいらっしゃるのです。しかし、ぼくはあなたがいなければ生きていられないのです! あなたの目が、お声が、お心が必要なのです、ぼくの恋人、ぼくの妹、ぼくの天使になってください!」
そういって、彼は腕を回して、エンマの腰を抱いた。エンマはそっとよけようとした。こうして彼は彼女を抱いたまま歩いて行った。
しかし、二人には二頭の馬が草をはむ音が聞こえてきた。
「ああ、もう少し」とロドルフがいった。「帰らないで、ここにいましょう!」
彼は彼女を引っぱって、もう少し奥の小さな沼のほとりに連れて行った。沼は青浮草のため水面が緑色をしていた。葦《あし》の間には枯れた睡蓮《すいれん》がじっと浮いていた。草を踏む二人の足音に、蛙《かえる》は沼へ飛び込んで身を隠した。
「いけない、いけないことだわ、あなたのおっしゃることを聞くなんて、わたしどうかしているのですわ」とエンマがいった。
「どうして?……エンマさん… エンマさん!」
「ああ、ロドルフ」と若い女は男の肩に身を寄せて、そっとささやいた。
彼女の服のラシャの布地が男の服のビロードにからまった。彼女はのけぞって白い首筋を見せた。それはため息にふくれていた。彼女は泣きながらわななき、失神し、顔を隠して身をまかせた。
夕闇が降りてきた。木の枝を通してくる夕日がまぶしかった。そこここに、彼女のまわりにも、葉にも地面の上にも、飛びまわる蜂雀《はちすずめ》が羽根を散らすように、夕日の影がふるえていた。どこもかしこも静かだった。なにか甘美なものが樹木からあふれ出るのかと思えるほどだった。彼女は心臓が再び打つのを感じ、血が牛乳が流れるようにからだをかけめぐるのを感じた。そのとき、彼女は遠くの、森のかなたの別の丘の上に、はっきりしないが長く尾を引く叫び、息もたえだえの声が聞こえた。彼女は、その音楽のような、まだ波立っている彼女の神経の余波と溶け込んでいるその音に静かに聞き入っていた。ロドルフはくわえタバコをして、切れた手綱をナイフを使ってなおしていた。
二人は同じ道をとって、ヨンヴィルに帰ってきた。二人は泥道に並んでついている馬の蹄《ひずめ》のあとを、同じ茂みを、草むらの中の石ころを再び見た。まわりのものは何も変わっていなかった。だが、エンマにとっては、山が動いたよりももっと重大事件が起こったのである。ロドルフはときどき身をかがめて彼女の手を取り、キスした。
彼女の乗馬姿はすばらしかった! 細身のからだをまっすぐのばし、馬のたてがみの所で膝を折り、夕焼けに、外気にふれた顔をほんのり染めていた。
ヨンヴィルの村にはいると、彼女は敷石の上で円を描くようにして馬を乗りまわした。
村人が窓から見ていた。
夫は、夕食のとき、顔色がいいよといった。しかし、彼女は遠出はどうだったと聞かれたとき、聞こえないふりをした。彼女は燃えている二本のろうそくの間の皿の縁のそばに肱《ひじ》をついた。
「エンマ!」シャルルがいった。
「なあに?」
「いや、午後、アレクサンドルさんのところを通りかかったんだ。そしたら、膝に傷があるだけでまだしゃんとしている年寄りの牝馬がいるんだ。たしか、百エキュだそうなんだ……」
彼はなおも続けて、
「買ったら楽しかろうと思ってね……約束してきた……いや買ってしまったんだよ。どうだろうね? どうだい」
彼女は頭を振って賛成だという合図をした。そして十五分ほどたつと、
「今晩、お出かけになりますの?」と聞いた。
「出かけるが、どうして?」
「いえ、なんでも、なんでもないの」
シャルルをやっとのことで追っ払うと、彼女は二階に上がって自室に閉じこもった。
最初、めまいのようなものを感じた。ついで、木立ち、道、溝《みぞ》、ロドルフのことを思い出した。木の葉がそよぎ、葦《あし》が風に鳴る中で彼の抱擁《ほうよう》を再び感じた。
しかし、鏡を見ると、エンマは自分の顔に驚いた。これまで目がこれほど大きかったことも、黒黒としていたことも、深々とした色をたたえていたことも一度もなかった。彼女の全身にみなぎるある微妙なものが彼女を変えたのだ。
「わたしには恋人があるんだ! 恋人があるんだ!」と彼女は繰り返し思い、突然訪れた小娘のようなこの気持ちを存分に味わった。とうとう彼女も恋の喜びを、あきらめていたしあわせの暖かさを手にしたのだ。彼女は、情熱が、恍惚が、喜悦が支配する、目にもまばゆい世界にはいったのだ。青い宇宙が彼女を取り巻き、感情の頂が彼女の思考の内で光を放ち、日常生活ははるか遠くの下のほうの感情の山の峡間《はざま》の闇の中にしか見えなかった。
そして、これまで読んだ本の女主人公を思い出した。これら不倫《ふりん》の女の群れは思い出の中で、どれもみな姉妹のように似かよった声をそろえてうたいだした。彼女自身も、まさしくこうした空想の女たちの一員となり、あれほど憧《あこが》れていた恋する女に自分もなれたのだと思い、娘のときからの長い夢を実現したのだと思った。まず、エンマは復讐《ふくしゅう》の喜びを感じた。あんなに苦しんだではないか! だが、今こそ勝ったのだ。あれほど長いこといだいていた恋心が一時にあふれんばかりの喜びをもってほとばしった。彼女はそれを後悔も、不安も、悩みもいだかず満喫した。
翌日は一日中、新たな喜びのうちに暮れた。二人は誓い合った。彼女は彼に憂欝な日常を物語った。するとロドルフはキスでさえぎった。彼女は目を細めて彼を見つめ、もう一度名まえを呼び、愛しているといってくれとたのんだ。昨日のように森の中の木靴作りの小屋の中に二人はいた。わら壁に屋根が低くたれていた。そのため身をかがめていなければならなかった。二人は干し草の床の上に身を寄せ合ってすわっていた。
この日から、二人はきまったように毎晩手紙をかわし合った。エンマは手紙を川に近い庭の端の築山《つきやま》の割れ目に入れておいた。ロドルフがそこにやってきて取り出し、かわりの手紙を置いていく約束だった。いつも彼女はその手紙が短すぎるといって彼を責めた。
ある朝、シャルルは夜明け前に出かけてしまった。すると、彼女はすぐさまロドルフに会いたくてたまらなくなった。ユシェットまではすぐに行ける。一時間ほどそこにいて、みながまだ眠っているころヨンヴィルに帰ってこられるだろう。そう思うと、彼女はやもたてもたまらなくなり、息をはずませた。やがて彼女は野原を後ろをふり返ろうともせず、急ぎ足で歩いていた。
日が上がりかけていた。エンマは遠くから恋人の家を認めた。その家の燕尾形をした風見《かざみ》が二つ青白いうす明かりに黒い影となって浮かび上がっていた。
農場の庭を通り過ぎると、母屋《おもや》とおぼしき館があった。エンマは、壁が彼女が近づくと自然と開いたかのようにすっと中にはいった。大きなまっすぐな階段が二階の廊下に通じていた。エンマは戸の取っ手を回した。すると突然、部屋の奥に眠っている一人の男を認めた。ロドルフだった。彼女は叫び声を上げた。
「君か? 君なのか?」と彼は繰り返した。「どうやってきたの?……ああ、服がぬれている」
「愛してるわ!」彼女は腕を彼の首にまきつけると、いった。
最初の大胆《だいたん》な行為が成功すると、シャルルが早出をするごとにエンマは急いで服をつけ、抜き足さし足で川岸に通じる石段を下りた。
しかし、牛用の橋が上がっていると、川に沿った塀《へい》を回って行かねばならなかった。土手は滑りやすかった。エンマはころばぬよう、枯れたニオイアラセイトウの茂みにしがみついた。それから彼女は畑を横切ったが、足がはまり、つまずき、華奢《きゃしゃ》な靴がからまった。頭にかぶっているスカーフが牧場では風にはためいた。彼女は牛がこわくて、駆け出した。彼女は息を切らし、バラ色の頬をしてやってきた。からだ全体から樹液や緑や大気のさわやかな香りがした。ロドルフはそのときにはまだ眠っていた。春の朝のようなものが彼の部屋にはいってきたように思えた。
窓にかかった黄色いカーテンが金色の重い陽《ひ》の光をそっと通していた。エンマは目を細め、手探りで進んだ。顔のまわりに髪に宿った大滴の露がまるでトパーズのように輝いていた。ロドルフは笑いかけ、彼女を引き寄せ、胸に抱いた。
それから彼女は部屋を見回った。家具の引き出しをあけたり、ロドルフのくしで髪をとかしてみたり、ひげ剃《そ》り用鏡をのぞいたりした。あるときなどは、ナイトテーブルの上の水さしのそばに、レモンや角砂糖といっしょにおいてある大きなパイプをくわえてみたこともあった。
別れにはたっぷり十五分はかかった。エンマは泣いた。ロドルフのそばをもう決して離れたくなかった。なにか強い力が彼女を彼へと向かわせるのだ。だがそれがあまりたび重なるので、ある日、彼は彼女がふいにやってきたのを見ると、いらいらしたように顔をしかめた。
「まあ、どうなさったの? ご病気なの? ねえ、おっしゃってよ!」と彼女は聞いた。
しまいに、彼はこわい顔をして、こんなにたびたびくるのは不注意だ、噂《うわさ》の種になりかねないからといった。
十
少しずつロドルフの懸念がエンマにものりうつってきた。最初、彼女は恋に酔いしれ、他のことは何も考えなかった。だが、この恋が彼女の生活に不可欠なものとなった現在、彼女はその恋が幾分かでも欠けることを、いや、邪魔がはいることさえいやがった。家に帰る途中、彼女は不安そうな目つきであたりを見回し、はるかかなた、人影や彼女の姿を見かけるかもしれない村の窓あかりにも注意を払った。人の足音や叫び声や、鋤《すき》の音を聞きつけると、彼女の頭上で揺れているポプラの葉よりも青くなって、ふるえるのだった。
そうやって帰ってきたある朝のこと、エンマは突然、彼女をねらっているらしい騎兵銃の長い銃身に気づいた。銃は溝の縁の草の中に半分隠れている小さな樽《たる》の中から斜めに突き出ていた。エンマは恐ろしさに失神せんばかりだったが、進んで行った。すると、樽の中から一人の男がびっくり箱のバネ仕掛けの悪魔のように飛び出してきた。その男は膝まで毛編みのゲートルを巻き、帽子を目深《まぶか》にかぶり、赤い鼻をしていた。それは野かもをしとめようと待ちかまえているビネー消防隊長であった。
「遠くから声をかけなければいけませんよ」と彼は叫んだ。「鉄砲を見かけたら知らせるものですよ」
収税吏はそういって、ついさっきまで感じていた不安をしずめようとした。県令で、かも射ちは船でするほかは禁止されていたから、順法精神に厚いビネー氏が違法行為をしていたことになる。しじゅう彼もパトロールの巡査が来やしないかとビクビクしていた。かえってその不安は快感をかきたてた。樽の中に一人いて、彼は自分の喜びとずるさに満足していた。
エンマを見ると、重荷のおりた気持ちがして、やがて話し始めた。
「身を刺すように寒いですな!」
エンマは答えなかった。彼は続けて、
「こんな早くからお出かけで?」
「ええ」彼女は口ごもった。「子供を預けてある乳母《うば》の所へ行ってまいりましたの」
「それは、それは、わしは、ごらんのように起きぬけからここにおりますが…………お天気がこうはっきりしないと、どうも鳥が向こうからわざわざ鉄砲の鼻っ先にでもきてくれないことには……」
「ではまた、ビネーさん」と彼女は話の腰を折って、踵《きびす》を返した。
「いや、どうも」彼はぶっきら棒にいった。
そして彼は樽の中にまた戻って行った。
エンマはあんなにそっけなく収税吏を切り上げてしまったことをくやんだ。きっと彼は気を回すことだろう。乳母の話はまずい言いわけだった。ヨンヴィルでは、ボヴァリー嬢が一年も前から両親の元へ帰ってきていることは知れ渡っていた。それに、この道はユシェット行きの道だ。だから、ビネーには彼女がどこに行ってきたのかわかってしまう。そうしたら彼は黙っていない。きっとおしゃべりするだろう! 彼女はこうして、夕方まで考え得るうそのありたけを頭をしぼって考えていた。そしてたえずあの獲物袋を持った男の姿が目の前にちらついていた。
夕食後、シャルルは彼女が沈み込んでいるのを見て、気晴らしに、薬屋の家に連れて行った。薬屋の家でまっ先に目にはいったのが、またもやビネーであった。彼はカウンターの前に立ち、赤いガラス球の光に照らされていた。彼は、
「硫酸を半オンスくれ」
「ジュスタン」薬屋が叫んだ。「アシド・シュルフリックを持ってきな」
エンマがオメー夫人の部屋に上がって行こうとすると、
「いえ、どうぞそのままでお待ちください。すぐおりてきますから、そのあいだ、まあ、ストーブにでもおあたりになって……ちょっと失礼……今晩は、ドクター、(薬屋はこの「ドクター」という言葉を発音するのが気に入っていた。そう呼びかけると、その言葉の中に含まれていると彼が思っている何か偉大なものが自分にもはね返ってくると思われたからである)あ、乳鉢《にゅうばち》をひっくり返さぬよう注意しろよ! 居間の椅子を持ってこい! 広間の肱掛椅子を動かしてはならんといってあるじゃないか」
カウンターからオメーは急いで出てきて、肱掛椅子をもとの位置に戻した。そんなとき、ビネーは糖酸を半オンスくれとたのんだ。
「糖酸だって?」薬屋は軽蔑《けいべつ》したようにいった。「知りませんな、そんなの聞いたこともありませんな! ことによると蓚酸《しゅうさん》じゃありませんかな? 蓚酸でしょ?」
ビネーは猟具のさびを落とすみがき液を自分で作るために防腐剤がいるのだと説明した。エンマは身をふるわせた。薬屋は、
「実際、湿気が多くて、狩りにはむきませんな」
「いや、そのほうが具合がいいという人もいますよ」と収税吏はずるそうに答えた。
彼女は息がつまった。
「それから、……」
「まるで帰ろうとしないわ!」と彼女は思った。
「コロフォム脂《あぶら》半オンス、テレピン油半オンス、黄ろう四オンス、骨灰半オンス束三つをくれ、狩服のエナメル革をみがくのにね」
オメー夫人がイルマを抱き、ナポレオンをそばに、アタリーを後ろに従えてはいってきたとき、薬屋はろうを切り始めていた。オメー夫人は窓際のビロードばりのベンチに腰を掛けた。男の子は足台の上でうずくまり、おねえちゃまは、パパのそばのなつめの実のはいった箱のまわりをうろついていた。パパはじょうごを満たし、びんのふたをしめ、レッテルをはり、包みをこしらえた。彼のまわりではみなが黙っていた。ときどき、はかりに重りのあたる音と、弟子にさしずしている薬屋の低い声音が聞こえるだけだった。
「お宅のお嬢ちゃまはお元気?」とオメー夫人が突然聞いた。
「黙って!」帳簿に数字を書きつけていた夫がどなった。
「どうして連れていらっしゃらなかったんですの?」と彼女はまたいった。
「しいっ」エンマは薬屋を指さしていった。
しかし、ビネーは計算書を読みふけっているため、どうやら聞こえない様子だった。とうとうビネーは出て行った。そこでエンマはほっとして、大きな吐息をついた。
「大きなため息ですわね」オメー夫人がいった。
「ええ、暑いからですわ」彼女が答えた。
こんなことがあったので、翌日恋人たちは、あいびきの手はずを新しくねりなおすことにした。エンマは女中に何かやってごまかそうと思った。だが、ヨンヴィルで人目に立たない家を捜したほうがよかろうということになった。ロドルフは一軒捜すのを約束した。
冬中、週に三、四度、夜闇《やあん》にまぎれてロドルフは庭にやってきた。エンマはわざと垣の鍵《かぎ》をはずしておいた。その鍵をシャルルはてっきりなくしたものだと思っていた。
きたのを告げるために、ロドルフは鎧戸《よろいど》に向かって砂を一握り投げた。彼女はハッとして起き上がった。しかし、ときには待たねばならなかった。シャルルは暖炉のそばにいるとしゃべりまくり、きりがなかったからである。
彼女はじりじりした。もしできることなら、窓からシャルルを自分の力でほうり投げたことだろう。やっと彼女は夜の化粧《けしょう》を始めた。それから彼女は本を取り上げ、落ち着きはらっておもしろそうに読んだ。シャルルはベッドにいて、もう寝ようと彼女を呼んだ。
「おいで、エンマ、もう時間だよ」と彼はいった。
「ええ、もう少し」と彼女は答えた。
ろうそくがまぶしいので、シャルルは壁のほうを向き、寝入ってしまった。エンマはそっと抜け出し、息をとめ、微笑を浮かべ、胸をときめかして服をぬぐのだった。
ロドルフは大きなマントを着ていた。彼は彼女をそれですっぽりと包み、腰を抱いて、庭の奥まで無言のまま連れて行った。
それは青葉棚の下で、夏中、レオンがあれほど狂おしく彼女を見つめてすわっていたあの腐った木のベンチの上であった。エンマは今となっては彼のことなど考えてみもしなかった。
葉を落としたジャスミンの木《こ》の間《ま》隠れに、星が輝いていた。二人には背後に川のせせらぎが、ときたま土手の上には枯れた葦《あし》のざわめきが聞こえていた。黒々とした茂みがそこここに闇の中に浮かび上がり、ときどき、一時にうちふるえ、そそり立ったり、砕け散ったりした。それはまるで二人を飲み込もうと打ち寄せる巨大な黒い波のように見えた。夜寒に二人はひしと抱き合った。唇からもれる吐息はより激しく、闇を通して見つめあう目はより大きく感じられた。そして夜のしじまの中で小声に語り合う二人の言葉は、水晶のようなひびきをたてて、互いの心に落ちかかり、次次にこだまを呼んで心の隅々まで響き渡った。
雨の降る夜には、二人は納屋と厩《うまや》との間にある診察室に行った。エンマは本の下に隠し持った台所用の燭台に火をつけた。ロドルフは自分の家にいるようにくつろいだ。本棚や事務机や部屋全体を見ると彼は陽気になった。彼はシャルルを種に冗談をいいつのり、これにはエンマも閉口した。彼女はもっとまじめな、ときによってはあのときのようにもっと芝居がかった彼が好きだった。あのときはこうだった――ふと彼女は並木道に足音を聞いたと思った。
「だれかくるわ!」と彼女はいった。
ロドルフは火をふき消した。
「ピストル持っている?」
「どうして?」
「だって……護身のために」
「君の亭主を殺すの? おやおや」
ロドルフはそういって、「あんなのこうして踏みつぶしてやる」という身振りをしていった。
エンマはそれにまゆをひそめるような粗野《そや》で下品なものを感じたものの、彼の大胆な言動には驚いた。
ロドルフはこのピストルの一件に考えこんでしまった。彼女が本気でああいったのだとしたら事態はばかばかしく、忌《い》むべきものだとさえ思った。なぜなら、彼個人としてはあのお人好しのシャルルを憎むはずもなく、嫉妬《しっと》に身をこがすといったこともなかったのである。――この事に関して、エンマはロドルフに誓いをたてたが、彼はこれもあまりいい趣味だとは思わなかった。
そのうえ、彼女はセンチメンタルになった。肖像を取りかわさなければ気がすまなかったし、髪の毛を一房切って交換した。今度は指輪を、それも永遠の愛のしるしにほんとうの結婚指輪を欲しがった。ときどき、彼女は晩鐘だの、「大自然の声」だのの話をした。それから彼女の母のこと、ロドルフの母のことを話した。ロドルフは母を二十年前になくしていた。それで、エンマは、孤児に話すようにわざとらしい言葉を使って彼を慰めた。よく月を眺めながらロドルフにいったものだ。
「あそこで、きっとお母様はわたしたちの愛を許していらっしゃるのだわ」
とはいえ、彼女は美しかった。ロドルフはこれほど純情な女を持ったことはなかった。この遊びではない愛は彼にとって、目新しいものであった。安直ないつものやり方を彼に忘れさせ、彼の自尊心と官能とを一時に満足させた。エンマの熱烈さに彼のブルジョワ的常識が顔をしかめたものの、心の底では、相手が自分だけにうれしかった。彼は愛されていると確信しているだけに横柄《おうへい》になり、知らず知らずに態度も変わってきた。
彼はもう、昔のように彼女が泣き出すほどの甘い言葉も、彼女を夢中にさせる激しい抱擁もしなかった。彼女がその中につかって暮らしているつもりの恋も、河床に吸い込まれる川の水のように彼女の足元まで減って行き、水底の泥まで見えてきた。それでも彼女は自分の目を信じようとはせず、愛情を傾けた。ロドルフは、しだいに、冷淡なそぶりを隠そうとはしなくなった。
彼女は彼に許したことを悔やんでいるのか、逆に、もっと彼を愛したいのか自分でも見当がつかなかった。自分の気が弱まったと感じる挫折《ざせつ》感が恨みと変わったものの、それも恋の喜びにしずめられてしまった。これは愛による結びつきというよりも、引きづられているという状態だった。つまり彼は彼女を征服してしまったのである。彼女にはそれが恐ろしくてたまらなかった。
しかし、うわべは、今まで以上に穏やかであった。ロドルフが思いのままにこの恋愛関係を操《あやつ》っているからである。六か月も過ぎ、春になると、二人は、家庭の暖かさを静かに育てている夫婦のように互いを見つめ合っていた。
そんなとき、ルオーじいさんが、全快記念に七面鳥を送ってよこしたのである。この贈り物には必ず手紙が添えてあった。エンマは籠《かご》に手紙を結びつけてあるひもを切り、次のような文面を読んだ。
「拝啓 この贈り物がとどくころ、二人とも元気でいることと思う。また、今年の鳥は今までのに比べて、一段と柔らかく、一段と大きくなった。来年は、もしおまえが七面鳥のほうがいいというなら話は別だが、気分を変えて鶏《にわとり》にでもしようかと思っている。籠はついでのときに、前のといっしょに送っておくれ。家では、風のひどい晩に、荷車置場が大へんなことになって、屋根が林の中に吹き飛ばされてしまった。収穫もあまりかんばしいとはいえないし、そんなこんなで、いつそちらへ行けるか見当がつかないといったところだ。今では、エンマ、一人になってからというもの家を離れるのもむずかしくなったよ」
ここで数行あいていた。きっとじいさんはペンを置いてしばらく思い出にふけっていたことだろう。
「わしはといえば、先日、イヴトーの市に行って風邪《かぜ》をひいたぐらいで、元気でいる。イヴトーの町には、家の羊飼いがあんまり食事のことでうるさくいうもんで追い出してやったので、新しいのを雇いに行ったのだ。あんなやくざを相手にしなくてはならないとは情ない話だ。それにしても、あいつはけしからんやつだった。
「この冬、おまえのほうに行き、歯を抜いてもらったという行商人の話によれば、ボヴァリー殿はあいかわらず仕事熱心だそうで、それには感じ入った。行商人は歯を見せてくれ、二人でコーヒーを飲んだ。おまえに会ったかとたずねたところ、いや、会わなかったが、うまやに馬が二頭いたという答えだった。察するところ、万事順調にいっているようで、まことに結構だね。このうえも、おまえの上に神のお恵みのあらんことを祈っている。
「可愛《かわい》い孫のベルトの顔をまだ見ないのが残念至極。ベルトのために、おまえの部屋のすぐ下の庭にすももの木を一本植えた。この木はだれにも手を触れさせず、わしが育て、大きくなったら砂糖煮を作り、孫がきたときに好きなだけ食べられるように戸棚にしまっておくつもりだ。
「それでは失礼する。おまえも、ボヴァリー殿もお元気でな。孫には両頬にキスを送る。敬具
愛する父
テオドール・ルオー」
彼女はしばらくこのざら紙にしたためた手紙を指でもて遊んでいた。そこには誤字が入り混じっていた。エンマはいばらの垣根から半分身を突き出してしゃべっている雌鳥《めんどり》のような父の愛情を行間に感じとっていた。暖炉の灰でインクをかわかしたのだろう、彼女の服に手紙から灰色の粉がわずかにこぼれ落ちた。彼女は火|挾《ばさ》みを取ろうと炉床に身をかがめている父の姿を目前に見たような気がした。父のそばで、炉辺のスツールにすわり、パチパチはねる≪海いら草≫の炎に火ばしの先をあぶっていたのはなんと遠いことだろう! 彼女は太陽の光あふれた夏の夜を思い出した。人が近づくと、若|駒《ごま》はいなないて駆けに駆けた……部屋の窓の下に蜜蜂の巣箱がおいてあった。ときどき、蜜蜂が、陽の中で旋回し、窓ガラスに弾力のある金の玉のようにあたっていた。あのころはなんと楽しかったろう! なんという自由さ! なんと多くの夢! それが今ではもう一かけらも残っていない! 娘時代、結婚、恋愛と続くすべての境遇に彼女の心がもて遊ばれているうちに、そういったものをことごとく使いはたしてしまった。それはちょうど街道の宿ごとに金を落として行く旅人のようなものであった。
しかし、いったい何がそれほど不幸にしたのであろうか? 運命を逆転させる奇跡はどこにあるのだろう? 彼女は頭を上げ、彼女を苦しめる原因を捜すようにあたりを見回した。
四月の陽光が飾り棚の陶器にあたり、玉虫色に光らせていた。彼女はスリッパの下にじゅうたんの暖かさを感じていた。薪《たきぎ》が燃え、空気はなま暖かかった。彼女ははじけるように笑う子供の声を聞いていた。
そのとき、娘は干し草にまみれて芝生の上をころげていた。彼女は干し草の山に腹ばいになっていた。女中がスカートをおさえて娘をささえていた。レスティブードワがそばで熊手《くまで》をつかっていた。彼が近づくたびごとに、娘は身を乗り出し、両腕で空をかいていた。
「こっちに連れておいで」と母親は娘を抱こうと走り寄って、いった。「なんておまえは可愛いんだろうね、ベルトちゃんは」
耳のはしがほんの少しよごれているのを認めると、エンマは呼び鈴《りん》をならして、お湯を持っておいでといった。そして、耳の掃除をすませ、下着や、靴下や、靴をとりかえてやると、まるで旅から戻ってきたように、からだの具合をたずねた。もう一度キスをし、少し泣くと、彼女は娘を女中の手に戻した。女中はこの発作的な可愛がりようにあっけにとられていた。
ロドルフは、その晩、彼女がいつもにくらべてまじめだと思った。
「すぐにもとに戻るさ。これは気まぐれなんだ」と彼は思った。
彼は続けて三回も約束を破った。彼がまたやってくると、彼女は冷たくして、さげすんだ様子をしていた。
「せっかくの楽しい時がもったいないよ。可愛い人」
そういって彼は憂欝《ゆううつ》なため息を彼女がしても、ハンカチーフをひっぱり出しても、気がつかない振りをした。
エンマが後悔したのはこのときである!
彼女はどうしてシャルルをきらうのか、あの人を愛することができればもっといいのではないだろうかと思った。しかし、彼女が愛情をたて直してみても、シャルルは一向に気にもとめなかった。そのため彼女は何か罪ほろぼしをしようと思案にくれていた。そんなときに薬屋が一つの機会を与えてくれることになったのである。
十一
最近オメーは奇形足新案治療法の広告を読んだ。新しいものにはすぐに飛びつく彼は、「おくれをとらぬよう」ヨンヴィルでも奇形足手術をすべきであるという愛国的考えをいだいた。
「なにしろ危険は絶無」と彼はエンマにいった。「ぜひおやりなさいまし。(彼は指を折ってこの手術の利点を数え上げた)成功疑いなし、病人はなおり、きれいになり、先生はたちまち有名になる。たとえば、お宅のご主人は「金獅子館」の例のイポリットをなぜなおしてやろうとなさらないのでしょう? あいつは必ず旅行者になおったことを話しますよ。さすれば、(オメーは声を落とし、まわりを見回した)わしが新聞にちょっとした記事を送ったとしても邪魔をする者などありますまい。まあ、まったく! 記事は早く伝わるものでして、人の口にのぼり、しまいには雪だるま式にふくらんでいく! そうすればことによったら……」
実際、ボヴァリーにだってできるかもしれないのだ。夫が不器用だとはエンマにも思われなかった。彼女がすすめた仕事によって、夫の名声が上がり、財産がふえるとなれば、彼女にとってなんと幸福なことだろう。恋愛よりより強固な物にももっとかかりたい、このさい彼女はそればかりを考えていたのである。
シャルルは薬屋とエンマにせめ立てられて、しかたなく承知した。彼はルーアンからデュヴァル博士の本を取り寄せ、毎晩、頭をかかえて、読みふけった。
彼が奇足、内反足、外反足、すなわち、ストレフォカトポディー、ストレファンドポディー、ストレフェックソポディー(わかりやすくというと、足の下曲がり、内曲がり、外曲がり)あるいは、ストレフィポポディー、ストレファノポディー(いいかえると、下よじれ、上よじれ)を学んでいる間、オメーは、いろいろ道理を尽くして、宿屋の小僧に手術を受けるよう説き伏せていた。
「痛いといったってわかるかわからないほどだよ。刺絡のときみたいにただちくっとするぐらいで、まめを取るほどにも感じはせんよ」
イポリットは考え込み、愚かな目をきょときょと動かしていた。
「それに、これでわしの得になるわけではないからな! おまえのためなんだよ! 親切心からいってるんだぞ! おまえが腰を揺らして歩く、そのひどいびっこがなおればいいと思えばこそいってるんじゃないか。そんな腰じゃ、いくらおまえがいい張ったところで、仕事にも不便だろう」
そうして、オメーはどんなに元気になり、まめまめしく動き回れるか説明してやり、女にもてるようになるぞといった。馬丁はにやにやした。ついで彼は相手の自尊心に訴えた。
「おまえは男じゃないのか、ええ? 兵隊にとられて、戦争にでも行ったら、いったいどうする気だ? なあ、イポリット!」
そういってオメーは、科学の恩恵を拒《こば》もうとする頭の古い、盲目のやからの気持ちは理解に苦しむといって遠ざかって行った。
イポリットはとうとう我《が》を折った。それは陰謀のようなものであった。他人事などかまわぬビネーから、ルフランソワのおかみさん、アルテミーズ、その他の人たち、テュバッシュ村長に至るまで、だれもがイポリットをおどし、説教をし、はずかしめた。しかし、彼が決心したのは、費用がかからないからである。ボヴァリーは手術に要する器具を引き受けた。この博愛的行為はエンマが考え出したものであり、シャルルは、心の中で妻は天使のような女だと感心しながら賛成した。
薬屋の助言で、三度もやり直し、おまけに錠前屋の助けまでかりて、およそ八ポンドの箱のようなものを指物《さしもの》師に作らせた。箱には鉄、ブリキ、毛皮、ねじ釘《くぎ》、ねじ止めがふんだんに使ってあった。
しかし、イポリットのどの腱《けん》を切ったらいいものか、まず、どんな種類の奇形足だか知らねばならなかった。
彼の足はすねから一直線になっていて、しかも内側に曲がっていた。つまり、内反足の混じった奇形足、ないしは奇足がひじょうに目立つ軽い内反足であった。しかし、この足は奇形足でありながら実際、馬のように大きく、肌は荒く、強健な腱を持ち、大きな指がついていた。そのつめは黒黒としていてまるで釘のように見えた。そんなからだなのに彼は朝から晩まで鹿のように駆けずり回っていた。たえず広場には、馬車のまわりを一方の足を前に突き出して跳《は》ね回っている彼の姿が見えた。じょうぶなほうのより、片輪の足のほうが頑丈《がんじょう》そうに見えた。まともなほうの足に長年奉仕してきた結果、忍耐と労働の美徳が身についていた。何か力仕事などするときには、彼は悪いほうの足を好んでささえにした。
それでもとにかく奇形足であるから、アキレス腱を切ればいいのだが、内反足をなおすには後日、前脛骨筋《ぜんけいこつきん》を手術することにした。医師は一刀のもとに二つ手術を果たす勇気がなかったからである。手術をしない前からシャルルは自分の知らない大事な所に傷をつけはしまいかとびくびくしていた。
ケルシゥス以来、十五世紀もの間をおいて、近世でははじめて動脈結束を行なったアンブロワーズ・パレにしても、脳にメスを入れ、膿痕《のうこん》を切開したデュピイトランにしても、また、史上初の上顎骨切除を行なったジャンスールにしたところで、「腱切断刀」を手にしてイポリットに近づいたボヴァリーほど胸をどきどきさせ、手をふるわせ、神経をとがらせはしなかったであろう。病院のように、かたわらのテーブルの上にはガーゼの山、ろう布、薬屋にあるかぎりの包帯《ほうたい》が山と積んであった。薬屋は朝からこういった準備をしたのである。それは必要を予想してこうしたというより観衆にあっといわせるためであった。シャルルは肌を突いた。無気味なギリギリという音がした。腱はもう切断され、手術は終わっていた。イポリットはあっけにとられ、身をかがめてやたらにキスしようとした。
「サア、楽にして、お礼はまたあとですればいいのだから!」
そういってオメーは中庭にたむろしている五、六人の弥次《やじ》馬連に報告しに行った。連中は今にもイポリットがまっすぐ歩いてやってくるものと思っていたのである。シャルルは手術した個所を器械に納めてしっかり錠《じょう》をとめ、家へ帰って行った。家ではエンマが気をもんで、戸口の所まで出迎えていた。エンマは彼の首に抱きついた。二人は食卓についた。シャルルはたらふく食べ、デザートには日曜日に客がきたときにだけ飲むコーヒーを欲しいといった。
その晩はすばらしかった。二人はしゃべりまくり、共通の夢にふけった。将来の財産、家の改造のことなどを語り合った。シャルルは名声が広まり、生活は豊かになり、妻にはたえず愛してもらえるといった未来図を思い描いた。エンマはより健全で甘美な新しい感情の内に心気一転することや、また、自分を愛してくれるこの気の毒な男に対する愛情が感じられることがうれしかった。ロドルフの面影が一瞬頭をよぎった。しかし、彼女のまなざしはたえずシャルルの上に集まっていた。きたない歯だとは思わなくなって、自分ながら驚いてしまった。
女中のとめるのも聞かずに、オメーが部屋にはいってきたとき、二人は床についていた。オメーは書き上がったばかりの紙きれを手にしていた。これは「ルーアンの灯」に送る宣伝文であった。オメーは読んでもらおうと持ってきたのである。
「読んで聞かせて下さい」とボヴァリーがいった。
薬屋は読みだした。
「今なおヨーロッパの一部に網の目のような迷信がはびこっている。とはいえ、一条の光がわが地方にもさし込んできた。されば、去る火曜日、われらが町、ヨンヴィルで外科手術が行なわれた。それは同時に尊い博愛行為であった。ボヴァリー氏はこの地方きっての名医であり……」
「そりゃ、おおげさです、おおげさです」と感動に息をつまらせてシャルルはいった。
「いや、とんでもない! どういたしまして!……『ねじれ足の手術を行ない……』ご存じのように新聞では……世間の人にはわかりませんからなあ、科学的な用語を使いませんでした。大衆は……」
「まったくですなあ。その先をどうぞ」とボヴァリーがいった。
「読みますよ」と薬屋がいった。『この地方きっての名医、ボヴァリー氏はイポリット・トータンなる男のよじれ足の手術を行なった。この男は、アルム広場の、寡婦《かふ》ルフランソワ夫人経営の「金獅子館」に二十五年も馬丁《ばてい》として働いている者である。新しい試みによせる興味と患者に対する関心とで観衆はひきもきらず、宿屋のしきいにまで押し寄せていた。そのうえ、手術は魔術のごくとすみやかに行なわれ、血も数滴と流れず、強い腱《けん》も手腕の前にはかぶとを脱いだ体《てい》であった。(「立会人として」証言すれば)不思議なことに、患者は少しも苦しそうな色を見せなかった。今日に至るまで経過は良好で、回復期も短いものと思われる。きたる村祭りには勇敢なるイポリット青年が笑いさざめく一団の中でバッカス踊りに加われば、その元気発らつとした姿と跳ね踊りとによって、全快したことがわかるでありましょう。心広やかなる博士方に拍手を! 医学の進歩と病苦の軽減のために徹夜して励まれる疲れを知らぬその英知をたたえよう! たたえよう! 続けて三度たたえよう! 今こそ盲人は見え、つんぼは聞こえ、びっこは歩けると予言すべき時であろう。かつては神の気まぐれで特定の人になされたこの奇跡を、今では科学が万人になしとげるのである! この特筆すべき手術の経過はおって読者諸氏にお知らせするつもりである』
その言葉もさめない五日後のこと、ルフランソワのおかみが血相をかえてなにごとか叫びながら飛び込んできた。
「大へんだよ! 死にそうなんだよ! ああ、どうしょう」
シャルルは「金獅子館」へと駆けつけた。薬屋はシャルルが帽子もかぶらず飛んで行くのを見ると、店を飛び出した。彼は自分でも息をはずませ、まっ赤になり、疑心暗鬼《ぎしんあんき》にとりつかれていた。そうして階段を上がって行くだれかれに、
「いったい、われらの大切な奇形足患者はどうしたっていうんです?」と聞いた。
患者は激しくけいれんし、のたうち回り、足にはめた器械をはずそうと壁に打ちつけていた。
足の位置を変えないように十分注意して器械をはずしてみると、ひどいことになっていた。足はふくれ上がり、足の形をなしていなかった。皮膚はいまにもはちきれんばかりで、全体にそのやくざな器械のために皮下溢血をおこしていた。イポリットは前から痛いと訴えてはいたが、だれもとり合わなかったのである。イポリットのいう事ももっともなことだと思われた。そこでしばらくはそのままにしておいた。しかし、浮腫《ふしゅ》が少し見えなくなると、二人の先生は足を器械の中に納めたがよかろうと判断し、今まで以上に強く錠をしめて、経過を速めようということになった。しかし、三日後、イポリットが耐えられないというので、もう一度器械をはずしてみたのだが、その状態を見て大へんに驚いてしまった。青白い腫脹《しゅちょう》が脛《すね》の上まで広がり、ところどころ、水泡ができてて、そこから黒い液体がにじみ出ていた。由々しい事態となってきたのである。イポリットはじりじりしてきた。そこで、ルフランソワのおかみは彼を台所に近い小部屋に移し、少しは気をまぎらせようとした。
しかし、毎晩そこで食事をとるビネーがあんなのといっしょでは困ると文句をいった。それでイポリットを玉突室に移した。
彼はそこにいて、厚ぼったいふとんの下でうなっていた。顔は青ざめ、ひげはのび、目をくぼませていた。ときどき、はえのとまるきたない枕の上で汗まみれの頭を振っていた。ボヴァリー夫人は見舞いにきた。彼女は湿布用の布を持ってきてやり、慰め、元気づけた。それに見舞客も多く、ことに市の立つ日は多かった。そんな日はまわりで百姓どもが玉突きをして遊んだり、キューでフェンシングのまねをしたり、たばこをふかしたり、飲んだり、うたったり、大声で話した。
「おい、どうした」連中はイポリットの肩をたたいて、「ああ、しょげてるんだな。それも身から出たさびだ。こうしたら、ああしてみたら」などといった。
そうして他の方法でなおった人のことを話してくれた。それから慰めるつもりでこうもいう人がいる。
「おめえ、大事をとりすぎてんだよ。まあ、立ってみな! 王様でもあるめえにさ! それにしても、おめえ、くせえなあ!」
じつは壊疽《えそ》が一段と上に広がっていたのである。そのためボヴァリーも病人のようだった。彼はたえずやってきた。イポリットはおびえきった目つきで彼を見つめ、涙ながらに口ごもって、
「おらはいつなおるのでごぜえましょう……」「ああ、助けてくだせえ、なんとつらい目に合うのでごぜえましょう」
医者はいつも節食をすすめて帰って行った。
「あんなののいうこと、聞くんじゃないよ」とおかみがいった。「おまえをもういいかげん苦しめたじゃないか! そんなことじゃ、からだがまいってしまうよ。ほら、お飲み!」
そういって彼女はうまいスープを持ってきてやったり、羊のもも肉やベーコンを、ときにはブランデーを一ぱい持ってきてやるのだが、イポリットには唇にまで持って行く元気もなかった。
ブールニジャン神父は、イポリットが悪化したと聞くや、会いたいといってよこした。神父はまず彼の病気に同情したが、これも神様の思《おぼ》し召しなのだから喜んでお受けせねばならぬといい、この機会に神様と仲なおりをしたらどうだといった。
「おまえは少し務めを怠っていたようじゃな。おまえを聖堂で見かけたことはあまりないな。聖体拝領台に寄りつかなくなってから何年になる? わしにはおまえの務めが大へんで、世のめまぐるしさにかまけて救いを考えるゆとりがなかったことはよくわかっとる。じゃが、今こそ考えるべきときなのじゃ。とはいえ気を落としてはいかんぞ。わしは、神様の前に姿を現わすまぎわになって(いや、おまえがもうじきそうなるというのではないが)、神の慈悲を願い、よりよい状態で死んでいく大悪人どもを知っておる。あいつらのようにおまえもいいお手本を示してほしいのじゃ! じゃから、朝晩、必ず『めでたし清澄満ち満てるマリア』と『天にましますわれらが父よ』を唱えることじゃ! やってみることじゃ、わしのためだと思ってやってみてくれんか。損にはならんからな。約束するか?」
イポリットは約束した。神父は次の日もやってきた。彼はおかみを相手にイポリットにはわからぬ冗談やしゃれ混じりのたとえ話をした。それから状況が許せば、しかつめらしい顔をして宗教の話題に戻った。
彼の熱心さが功を奏したかに見えた。というのは、やがて患者はなおったら、ボン・セクールに巡礼に出かけたいといったからである。それに対してブールニジャン神父はいいだろう、二つの用心は一つに優《まさ》り、「何も損するわけでないからな」と答えた。
薬屋はいわゆる「坊主《ぼうず》の仕わざ」に憤慨《ふんがい》して、それはイポリットの回復を遅くするものだといい張り、ルフランソワのおかみさんに繰り返し、
「ほっときなさい! ほっときなさい! おまえらの神様とやらで病人の気持ちを乱しているのだぞ!」と言った。
だが、おかみはもう彼の話なぞ聞いてはいなかった。薬屋が「すべての原因」なのだ。彼女はあてこすりに水を満たした聖水器を柘植《つげ》の小枝につけて、患者の枕元に置いた。
しかし、宗教も、外科手術同様、イポリットを助けることはできなかった。壊疽《えそ》は暴威をふるって今では腹の辺まで上がっていた。水薬を変え、別種のあんぽうをしてみても、肉は毎日骨からはがれてくさっていった。そこでとうとうシャルルも、ルフランソワのおかみがこうなったからには名高いヌシャテルのカニヴェ先生を呼んでみたらといったとき、頭を縦に振って承知した。
先生は、年のころなら五十歳、社会的地位に満足し、自信もあるので、足が膝まで壊疽《えそ》におかされていると知ると、遠慮会釈《えんりょえしゃく》なく、笑った。つまりこれは足を切断せねばならぬと断言すると、このかわいそうな男をこんな状態にまで追い込んだばか者を罵倒《ばとう》しに薬屋の店に出かけて行った。彼はオメーのフロックコートのボタンをつかんではオメーをゆすり、店先で大声でわめいた。
「これがパリの新発明というものなのじゃ。都会のやつらの考えることなのじゃよ。いわく、斜視、クロロフォルム、肝臓の砕石術、山とある奇形|矯正《きょうせい》法。これらは政府が取り締ってしかるべきものなのじゃ。こんなものにとびつくやつにかぎって抜けめなくて、あとの結果を考えずに薬をつめ込むのじゃよ。われわれはそのようなどえらいことはやらん。学者でも、しゃれ者でも、そんな上等なもんではないからな。われわれは開業医、治療者なのじゃ。元気でやっている者に手術しようなどとは思いもよらんことじゃ。奇形をまっすぐにする? そんなことできるものかね? それは、たとえばせむしをまっすぐにしようというのと同じことなのじゃ」
オメーはこのご談議を聞きながらため息をついた。彼はへつらい笑いを浮かべ、不愉快な気持ちをかくしていた。というのはヨンヴィルにもときどき先生の処方がはいってくるため、先生を大切にする必要があったからである。そのため、ボヴァリーをかばってやることも、口を差しはさむこともせず、つまり日ごろの主義をすてて、より重大な商売上の利益のために身の尊厳などは犠牲にしたのである。
カニヴェ先生による大腿部切断はこの村の一大|椿事《ちんじ》であった。この日、村人はこぞって、朝早くから起き出し、人出の激しい大通りは死刑執行でも行なわれるかのような何かもの悲しい色を帯びていた。人びとは食料品屋でイポリットの病気について語り合い、店屋は商売を休んだ。村長夫人、マダム・テュバッシュもじりじりして窓辺から離れなかった。そこから手術をのぞこうというのである。
テュバッシュ先生は自分で馬車を走らせてきた。しかし右側のバネが長い間に彼の重い図体のおかげでたわみ、走ると車体が少しかしいでいた。彼の席のすぐそばのざぶとんの上に赤皮の大きなかばんが置いてあった。そのかばんの真鍮《しんちゅう》の掛け金がきらりと光っていた。
風のごとく「金獅子館」のポーチに飛び込むと、先生は大声に車から馬をはずすように命じた。そして馬小屋に飼葉《かいば》をよく食うか見に行った。患者の家に着くと、まず最初に馬と馬車の様子を見るのが彼のくせであった。人はこのことについて「ああカニヴェ先生、あの人は変わっているよ」といった。そうして人は彼のくそ落ち着きな態度のせいで彼を尊敬した。たとえ、地球上の最後の人まで死に絶えたところで、彼は習慣を少しも変えようとはしないであろう。
オメーが現われた。
「じゃたのむよ、準備はいいかね。では!」と先生がいった。
しかし薬屋は赤くなって、わたしは気が弱いほうなもんで、このような手術のお手伝いをするのはどうも……といった。
「ちょっと見ただけで、」薬屋がいった。「勝手に想像してびくびくしてしまいます。それに非常に神経質なほうでして……」
「なにをばかな!」と先生が口を入れた。「わしには反対に卒中持ちだと見えるがなあ。それに、これは驚くべきことじゃないからのう。なんとなれば、おまえら薬剤師は年がら年中調剤室に閉じこもっておるからじゃ。だからしまいには性格まで変わってしまうのだ。わしをごらん! 毎朝、四時に起き、冷水で顔を洗う。(ちょっとも寒いことなどありゃせん)フランネルの肌着など着けん。だから風邪一つ引かないし、胸の具合もいいのじゃよ。もう一つ主義として、ありあわせの物を食べることにしているのじゃ。おまえらのように口がおごっていないからな。それで人間を一人切るのも鶏《にわとり》を切るのも同じことなのじゃ。これも、習慣、習慣なのじゃよ!」
ふとんの中で汗を流して苦しがっているイポリットのことなどさておき、二人の男は話に熱中した。薬屋は外科医の冷静さを将軍の冷静さに比した。カニヴェ先生はそれが気に入って、医術とはなんぞやということをとうとうとまくしたてた。やぶ医者どもが医術をはずかしめているが、彼はこれを神聖な職業と考えていた。しまいに、患者のほうを向いて、彼はオメーの持ってきた包帯を調べた。それは先の手術のときにも現われたものである。先生はだれか手足を持ってくれるものはいないかと聞いた。そこで人びとはレスティブードワを捜しにやった。カニヴェ先生は袖をまくり上げ、玉突室にはいって行った。薬屋は、エプロンと同じ青い顔色をしているアルテミーズや宿屋のおかみといっしょに残り、戸に聞き耳をたてた。
ボヴァリーはこの間、家から動こうとはしなかった。彼は下の広間の火の気のない炉辺にすわり、うなだれ、手を握り合わせ、目をすえていた。なんという災難、なんという気落ちであろう! 考え得るかぎりの用心はしていたのだ。運が悪いのだ! そんなことはどうでもいい。だが、後日イポリットが死ぬようなことにでもなると、殺したのはこのおれなのだ! 往診にでも行って人に聞かれたら、なんと答えよう。しかし、たぶん何かを間違ったのだ。彼は思いめぐらしてみたが、見つからなかった。だが、どんな有名な医者にもまちがいはあるものだ。だがこんなことは人には信じてもらえまい。かえって、笑われたり、非難をあびるのがせきの山だ。この噂はフォルジュ、ヌシャテル、ルーアンまで、そこいらじゅうに広まっていくのだ! 同業者が抗議文を書かないとはだれが保証し得よう。論争が起こる。それに紙上で応戦せねばならないのだ。イポリットも訴訟《そしょう》を起こすかもしれないのだ。彼は面目《めんぼく》を失い、破産し、にっちもさっちも動きのとれぬ自分の姿を見る気がした。種々の臆測《おくそく》に責め悩まされ、彼の想像はちょうどあき樽《だる》が海に捨てられ、波間を漂うように臆測の間を浮いていた。
エンマは目の前にすわり、彼を見つめていた。彼女は彼の屈辱《くつじょく》感を感じてはいなかったが、別の屈辱を感じていた。それは、もうすでに幾度となくこの男の平凡さを知りつくしているのに、自分がこの男に何かができ得ると考えたことであった。
シャルルは部屋のまわりを歩き回っていた。彼の靴が床にあたって音を立てた。
「おすわりなさいよ。いらいらするじゃないの!」と彼女はいった。
彼は腰をおろした。
また見まちがうとは自分としたことが(この利口《りこう》なわたしが!)いったいどうしたのだろう。そのうえに、絶え間なくこんなに自分を犠牲にした生活を続けているとは、なんたる気違いざただろう。彼女は贅沢《ぜいたく》に対する本能や、魂の喪失や、結婚や家事の愚劣さや、傷ついたつばめのように土に落ちた夢や、希望や、拒絶したものを、持ち得たかもしれないものをことごとく思い出した。では、なぜそうしなかったのだろう? なぜ?
村を支配する静けさを破って、悲鳴が聞こえてきた。ボヴァリーは失神せんばかりに青ざめた。彼女はいら立たしそうにまゆをひそめたが、まだ考え続けていた。こんなになったのもこの人のおかげなのだ。才覚もなく感じもにぶいこの男のためなのだ! この人の感じがにぶい証拠には、こんなに落ち着きはらってすわり込んでいる。自分がもの笑いの種になり、そのとばっちりがこの人だけじゃなくあたしにまで及んでいることなど考えてもみないのだ。かつてはこの人を愛そうとつとめ、涙ながらに他の男に身をまかしたことを悔やんだこともあったのだ。
「それとも、あれは外反足だったのかな」と考え込んでいたボヴァリーが突然叫んだ。
銀の皿の上に落ちる鉛の玉のように、彼女の思いに落ちかかるこの唐突《とうとつ》な言葉にエンマは身をふるわせて頭を上げ、彼の真意を見抜こうとした。二人はだまったまま見つめ合った。そして互いの気持ちがどんなに遠く離れ離れになっているかがわかって、ビックリした。シャルルはエンマをよっぱらいのような濁った目つきで見つめ、身動きもせずに、長く尾をひいて続き、ときどきするどい悲鳴を上げる足を切断されたイポリットのうめきの最後のなごりを聞いていた。それはちょうど屠殺《とさつ》される家畜の遠くに聞こえる悲鳴に似ていた。エンマは青ざめた唇をかみ、折った珊瑚《さんご》樹の小枝をまさぐりながら、シャルルの顔を、今にもうち放たれんばかりの火矢のような瞳の激しいきっ先でねめつけていた。彼の内のすべてのものが、顔、衣服、なにもいわないことから、彼の全人格、存在そのものまでがいらだたしかった。彼女は罪悪のように、過去の貞節さを悔い、今でもなお残っている貞節な気持ちも怒り狂った自尊心の一撃のもとに崩《くず》れ去った。彼女は勝ち誇る不義の、悪意に満ちた皮肉を心から楽しんだ。恋人の思い出が目もくらむような魅惑《みわく》を伴ってよみがえってきた。彼女はそこに魂を投げ込み、新たな感激によって恋人の姿のほうへと運び去られていった。そして彼女にはシャルルが彼女の生活とは切り離され、死んでしまったか、まさに死なんとしている人のように、存在しない人、あり得ない人、姿なき者と見えた。
舗道に足音が聞こえた。シャルルは外を眺めた。おろしたブラインド越しに、広場の端に、太陽の光をさんさんとあびて、ネッカチーフで額をぬぐっているカニヴェ先生の姿が見えた。オメーが後ろから片手に大きな赤いトランクを下げてついてくる。二人は薬屋の店のほうへと運んで行った。
するとシャルルは急に愛情にかられ、同時にがっくりして妻のほうを向いていった。
「サア、おまえ、キスしておくれ」
「ほっといてよ!」と彼女は怒りにまっ赤になって叫んだ。
「どうしたんだ? どうしたんだ?」彼はびっくりして繰り返した。「落ち着くんだよ! 気をしずめるんだ! おまえを愛していることは知っているじゃないか。……だからさあ」
「もうたくさん」とエンマは恐ろしい顔つきで叫んだ。
広間をすり抜けると、エンマはバタンと音を立てて戸をしめた。そのために壁から寒暖計が落ちて、床にあたって砕けた。
シャルルは椅子にくずれるようにしてすわり込み、いったいエンマはどうしたのだろうと考えた。神経病だろうと思い、泣いた。すると、なにかわけのわからぬ不吉なものがあたりに渦巻いているのだと、ぼんやり感じとった。
その晩、ロドルフが庭にやってくると、愛人が石段の一番下の段に立って待っているのが見えた。二人は抱き合った。互いの恨みごとなぞは雪のように、熱いキスの下でとけていった。
十二
二人はまた愛し始めた。ときには昼日中《ひるひなか》でもエンマはロドルフ宛に手紙を書き、窓越しにジュスタンに合い図した。するとジュスタンは急いでエプロンを取り、ユシェットまで飛んで行くのだった。ロドルフがきてみると、用事とは彼女が退屈していること、夫があきたらないこと、生活がどんなに堪えられないものか告げることであった。
「いったいぼくにどうしろっていうんだ!」とある日、彼はたまりかねて聞いた。
「ああ、あなたさえその気になってくだされば……」
エンマはロドルフの膝にはさまれて床にすわっていた。彼女の髪はほどけ、目はうつろだった。
「その気になるって、どういうことなんだい?」
彼女はため息をついた。
「どこか……よそでいっしょに暮らすの……」
「おいおい、しっかりしてくれよ。無理と思わんかね?」と彼は笑いながら聞いた。
彼女は重ねていったが、ロドルフは取りあわず話題を変えてしまった。
ロドルフにわからなかったのは、こんな恋愛のような簡単なことにこれほどごたごた騒ぎたてることであった。エンマにはその動機と理由が、彼女の愛情の裏づけともなるものがあった。
実際、その恋心は夫に対する嫌悪《けんお》によって、日増しに大きくなっていった。一方に傾けば傾くほど、一方がうとましくなった。ロドルフと会ったあとでシャルルと顔を合わせると、シャルルがこれほどいとわしく、指がきたなく、鈍重で、態度がありふれて見えたことはなかった。貞淑な人妻らしくふるまっているものの、彼女は、日に焼けた額に黒い髪が渦を巻いてたれたあの頭を思い、頑丈《がんじょう》でありながらしかも品のいいあの人の姿を思い、判断力には経験の重みを見せ、情熱にはあれほどの激しさをたたえたあの人を思っては胸を焦《こ》がした。彼女が細心の注意を払ってつめにやすりをかけるのも、肌に「コールド・クリーム」をたっぷりすり込むのも、またハンカチに香水をふりかけるのも彼ゆえであった。腕輪や指輪や首飾りを彼女は身につけた。彼がくる日には、青い大きな花びんにバラをいっぱい生け、部屋も人も、サルタンを待つ後宮の女といったふうで飾り立てた。女中は四六時中洗濯をせねばならず、フェリシテは一日中台所を離れなかった。台所にはジュスタンがよくきて、フェリシテの話し相手になり、仕事する様子を見ていた。
ジュスタンはフェリシテがアイロンをかけている長い台に肱《ひじ》をついて、まわりに広げてある女用の細々《こまごま》としたもの、あや織のペチコート、ネッカチーフ、レースの飾り襟《えり》、腰のまわりの広い、裾のすぼまった縁飾りのついたひもつきズロースなどを熱心に見つめていた。
「これはなんだい?」と小僧はクリノリン・スカートやホックにさわりながら聞いた。
「じゃ、まだ見たこともないのかい? ご主人のオメー夫人はこういうものはつけないのかい?」とフェリシテは笑いながら答えた。
「ああ、奥さんかい!」
そういって彼は考え深そうな調子でつけ加えた。
「こちらの奥さんのようではないからな」
しかし、フェリシテはこの小僧にまわりでうろうろされるとイライラした。彼女は六つも年上でギョーマン氏の下男のテオドールが口説きかけていたからである。
「静かにおしよ!」といいながら、フェリシテはのり壺《つぼ》を置きかえた。「それよりアーモンドでもすりつぶしに帰ったほうがいいよ。いつも女のまわりをうろついてさ、そんなことをするのは、顎《あご》にひげでも生えてからだよ」
「まあ、おこるない、靴を磨いてやるからさ」
というが早いか小僧は戸棚から泥まみれのエンマの靴――ランデブーの泥――彼の指がふれると、粉々にとれ、日の光にそのほこりが静かに上がってゆくのが見えた――を取り出した。
「いやにこわごわ扱っているじゃないか!」と女中がいった。というのはエンマは布地が古くなるとすぐくれるので、彼女は自分で磨くときにはさほど丁寧に扱わなかったのである。
エンマは戸棚に靴をたくさん持っていて、ひっきりなしにおろしていた。シャルルはそのことで少しも文句をいったためしがなかった。
エンマがイポリットに贈ったのがよかろうというのでシャルルが三百フランも使って義足を購入したのもそういうわけだったのである。義足の心棒はコルク張りで、バネつきの関節がある複雑な器械で、黒いズボンに包まれ、先にエナメルの靴がついていた。しかし、イポリットはこんな立派なのを毎日使うわけにはまいりませんから、もっと手ごろなのをくださいと夫人にたのんだ。話のわかる医者が今度もその費用を持った。
こうして馬丁は少しずつ仕事を始めた。昔のように村をかけ回る彼の姿が見受けられた。しかし、シャルルは遠くから彼の義足のコツコツという音が舗道に響いてくると、すばやく道を変えた。
義足のご用を承ったのは商人のルウルウであった。ルウルウはこれを機会にちょくちょくエンマの所にやってきては、パリから新しくとどいた品だとか、女用の珍しい物の話をし、丁寧にふるまい、決して金のことはいい出さなかった。エンマは自分の気まぐれを満足させてくれるこの便利さに、ついついいい気になってしまった。こうして彼女はルーアンの傘《かさ》屋で見つけたすばらしい鞭《むち》をロドルフに贈るために欲しいと思った。ルウルウは、次の週、その品をテーブルの上に置いた。
ところが、翌日、ルウルウは二百七十フラン余りの請求書を持ってやってきた。机を全部ひっかきまわしても一文もなかった。レスティブードワには二週間も借りているし、女中の支払いは三か月も滞《とどこお》っている。その他にも借金がいろいろあって、ボヴァリーは、ドゥロズレ氏の送金を待ちかねているところだった。ドゥロズレ氏は毎年聖ピエール祭のころになると金を送ってよこすのである。
最初、エンマはルウルウをうまく追っ払った。だがしまいには彼も業《ごう》を煮やした。自分は目下訴えられているところで、資金もなくなったし、幾分かでも回収できないとあれば、こちらに持ってうかがったものを全部返していただかねばなりませんといった。
「じゃ、持っておいきなさいな!」エンマがいった。
「いや、冗談《じょうだん》ですよ。ただ鞭《むち》だけは惜しいものでして。旦那《だんな》様にお願いして返していただきましょう」
「いえ、いけません!」
「ははあ、しっぽをつかまえたぞ」と彼は考えた。
そして彼は、エンマの秘密を知ったことを確信して、小声でいつものしゅーしゅーいう声で、
「では、そのうちに。そのうちに」と繰り返して帰って行った。
彼女がどうやってこの場を切り抜けようかと思案をしているちょうどそのとき、女中が「ドゥロズレ様からでございます」といって、暖炉の上に青い小さな巻紙を置いた。エンマはそこに飛んで行って、あけてみた。ナポレオン金貨で三百フランはいっていた。ルウルウへの支払いにちょうどぴったりだ。彼女はシャルルの足音を階段に聞いた。そこで金を引き出しの奥にしまい込んで鍵をぬいておいた。
三日後ルウルウがやってきた。
「お願いしたいことがございます。奥様にお約束の金高を払っていただきますかわりに、奥様が……」
「ほら、これでいいんでしょ」エンマはルウルウの手に十五枚のナポレオン金貨を渡しながらいった。
商人はびっくりしてしまった。そして狼狽《ろうばい》の色を隠そうとして、いいわけやらご用があったらなんでもといった口上を並べたてた。しかしエンマは全部はねつけた。しかし、彼女はおつりの二枚の百スー金貨をエプロンのポケットの中でまさぐりながらしばしそこに立っていた。これからは帳尻を合わせるために倹約をしょうと彼女は思った。
「でもいいわ、あの人はいつかは忘れてしまうのだから」
頭球を銀メッキした鞭《むち》のほかに、ロドルフは「愛を胸に」と銘《めい》の刻まれてある印形を受け取った。そのうえに首まきにするようにとスカーフを贈られ、しまいには昔、シャルルが道ばたで拾い、エンマがしまっておいたあの子爵の葉巻き入れとまったく同じものまでもらった。しかし、こうした贈物にロドルフは気を悪くした。何回も断わったのだが、彼女がどうしてもというので、ロドルフもわがままで、失礼な女だと思いながらも、エンマの言葉に従った。
それに彼女は奇妙なことを考えた。
「十二時になったら、あたしのことを考えてね!」
考えなかったといおうものなら、文句たらたらで、いつも必ずきまりきった、
「あたしを愛している?」という言葉で終わるのだった。
「むろん愛しているさ!」と彼が答える。
「ものすごく?」
「そうだよ」
「昔、他の女を愛したことなんてないわねえ?」
「そんなにぼくが品行方正だとでも思っていたのかい?」とロドルフは笑いながら聞いた。
エンマは泣きだした。ロドルフはだじゃれまじりに愛の誓いをたて、懸命に彼女のごきげんをとった。
「これもあなたを愛しているからだわ!」彼女は続けて、「あなたなしじゃいられないほど愛しているのよ、わかって? あたし、ときどきあなたにお会いしたくて、胸もはりさけそうになるの、そうして思うのよ『あのかたは今、どこにいらっしゃるのかしら。だれか他の女に話しかけていらっしゃるのだわ。あの女たちはあなたにほほえみかける。あなたは近づいて行く、そして……』ってね。あら、いやねェ。そんなことないわね。だれも愛してはいらっしゃらないわね。あたしよりきれいな人はいるわ、でもだれよりもあなたを愛しているのよ! あたしはあなたの下僕《しもべ》、あなたの心の妻ですわ! そしてあなたはあたしの王様、あたしの崇《あが》めるかたですわ! あなたはすばらしいかた、きれいなかた、賢い方、強いかただわ!」
ロドルフはこうしたことばなどは聞きなれているため、べつに珍しいとも思えなかった。エンマも彼の今までの情婦たちと変わりがなかった。目新しさの魅力が少しずつ衣服のようにずり落ちていき、情欲の永劫《えいごう》に変わることない単調さがむき出しになって現われた。情欲といっても結局そのありさまと言葉とはどれもこれも同じものにすぎないのだ。経験豊かなロドルフも、類似した表現の下にひそむ感情の相違には気がつかなかった。奔放《ほんぽう》な、金で買える唇がかつて同じ言葉をささやくのを聞いたことがあるために、少しもエンマの純真さを信じようとはしなかった。ありふれた愛を秘めている大げさな話は割引きして考えねばならんと彼は思った。心がいっぱいになると、ありふれた表現しかできないものだということを知らなかった。だれだって、自分の欲望、思想、悩みを正確には測れぬものである。人の言葉というものは鍋のようなもので、たとえ星を感動させようとして鍋をたたいてみても、たかだか熊《くま》を踊らすくらいの音しか出せないのである。
しかし、ロドルフはどんなに夢中になっていても、冷静でいられるたちの男で、すぐれた批判力を持っていたから、この恋愛にもまだ開拓されるべき享楽《きょうらく》があることを見抜いていた。彼は貞淑《ていしゅく》さというものを不用なものだと思っていた。そこで彼女を無作法に扱った。そこで、彼のいうがままになる、堕落《だらく》した女にしてしまった。それは彼にとっては感嘆よくあたわぬものであり、彼女にとっては官能の極みともいうべき痴情めいた愛情で、そして、彼女をしびれさせる完全な幸福であった。そして彼女の心はこの陶酔《とうすい》の中にとけ込み、甘いブドー酒の樽《たる》の中に投げ込まれて処刑されたというクラレンス公〔イギリス国王エドワード四世の弟〕のようにその中に溺《おぼ》れ、身をちぢこまらせていた。
ただ恋をしているというだけで、ボヴァリー夫人の態度は一変した。目つきが大胆になり、おしゃべりになった。彼女は「世間の人を侮るかのように」くわえたばこでロドルフと散歩さえしてみせた。しまいには、信じようとはしなかった人たちでさえ、ある日、彼女が男のようにからだにぴったりしたチョッキを着て『つばめ』からおりてくるのを見ては、もう疑わなかった。夫と一|悶着《もんちゃく》起こして、息子の所に逃げてきたボヴァリー老夫人にしても口さがない村人と同意見であった。なにからなにまで気に入らなかった。まず小説を禁じなさいといったのにシャルルがそれを聞き入れなかったことが気に入らないし、「家風」が気に入らなかった。そこでがみがみと小言をいった。エンマも黙ってはいなかった。そこで一度などはフェリシテのことでいがみ合った。
ボヴァリー老夫人は前の晩、廊下を渡ろうとして、男と連れ立っているフェリシテを見かけた。男は労働者風で四十歳ぐらいだった。そして、夫人の足音を聞きつけると、台所から飛び出して行った。その話をすると、エンマは笑い出した。老夫人はかっとなって身持ちなどどうでもかまわないというなら別だが、そうでないなら女中の風儀ぐらいは気をつけていなくてはいけませんとどなった。
「それではあなたはいったいどんな大そうな身分のかたですの?」と嫁はいい返した。その目つきがあんまり無作法なので老夫人も、女中のふしだらをかばうのは自分にもやましいところがあるからだろうといった。
「出ていってくださいな」若夫人は飛び上がって叫んだ。
「エンマ!……お母さん!……」とシャルルは二人を和解させようとして呼んだ。
ところが二人は怒り狂って、もう自室に閉じこもってしまっていた。エンマは足を踏みならしながら、こう繰り返した。
「なんて世間知らずな! 百姓ばばあめ!」
シャルルは母親の所に駆けて行った。老夫人はむかっぱらをたてて、ぶつぶついっていた。
「わがまま者! はねっかえり! いやもっと性悪《しょうわる》女だろうよ」
老夫人はエンマが謝《あやま》りにこなければ、すぐにでも帰るといった。シャルルは妻の所に戻り、謝ってくれとたのんだ。膝までついて見せると、エンマも、
「いいわ、いくわ」と答えた。
実際、彼女は老夫人に手をさし出すには出したのだが、まるで伯爵夫人かなにかのように、威厳をもって、
「お許しあそばせ!」といった。
エンマは部屋に戻ると、ベッドに身を投げ出し、枕に顔をうめて子供のように泣いた。
エンマとロドルフの間には、何か変わったことでも起きた場合、鎧戸《よろいど》に白きれをつけておけば、偶然ロドルフがヨンヴィルにいる場合にはすぐさま家の裏の路地のところまで飛んでくるという約束ができていた。エンマは合い図を出しておいた。四十五分もたつと、急に広場の角にロドルフの姿が見えた。そこで窓をあけて呼ぼうと思っていると、もう彼の姿は見えなくなってしまった。エンマはがっくりして、また倒れた。
しかし、やがて、彼女は舗道をだれかが歩いているような気がした。きっとロドルフだ。彼女は階段を駆けおり、中庭を横切った。ロドルフは、外に立っていた。彼女は彼の腕に身を投げた。
「ほら、注意して」と彼がいった。
「ああ、ひどいのよ」
彼女は一部始終を口早に、脈絡《みゃくらく》もなく、尾ひれをつけたり、嘘《うそ》をいったり、ロドルフにはわけのわからぬほど注釈を入れて話し出した。
「さあ、勇気を出して。あきらめるんだ。辛抱するんだ」
「でも、あたしもう四年間も辛抱したし、苦しんできたわ。あたしたちのような愛こそ神様の前で告白すべきものなのよ! あの人たちはあたしをいじめようとしているわ。もうがまんできないわ! 助けてください!」
彼女はロドルフにすがりついた。涙にうるんだ彼女の目は水中の炎のように輝いていた。のどは激しく波打っていた。ロドルフはかつてこれほどエンマが可愛いと思ったことはなかった。そのため、彼もわが身を忘れて、
「どうすればいいの? どうして欲しいんだい?」と聞いた。
「あたしを連れて行って!」と彼女は叫んだ。「あたしをさらって行って!……ねえ、お願い!」
こういって彼女は急いで彼の唇に自分のを重ねた。それはまるでキスに含まれている思いがけない同意をそこにとらえようとしているようであった。
「だが……」ロドルフが答えた。
「なあに?」
「子供はどうする?」
彼女はしばらく考えていたが、こう答えた。「しかたがないわ。連れて行きましょ」
「なんという女だ!」とロドルフは遠ざかって行くエンマを見つめながら思った。
エンマは呼ぶ声がしたので、庭に駆け込んで行ったのである。
ボヴァリー老夫人はその日から嫁の態度が一変したことに驚いた。実際、エンマはやさしくなり、きゅうりの漬け方をたずねるほどの変わりようを見せた。
これは夫と姑《しゅうとめ》をだますためなのであろうか? それとも、一種の被虐《ひぎゃく》的な気分から、まさに捨て去ろうとしている苦しさをより深く味わいつくそうとするためであろうか? 実際には反対に、彼女はそんなことには頓着《とんちゃく》していなかった。ただ目前に控えた幸福の味に酔いしれて暮らしていた。それがロドルフとのいつに変わりない話題であった。彼女は彼の肩によりかかり、ささやきかけた。
「ねえ、馬車に乗り込んだら……そんなことを考えたことある! 夢みたいね。馬車が走りだしたとたん、気球に乗って、雲の上まで上っていくような気がすると思うの、わたし、日数を数えて待っているのよ。あなたは?」
ボヴァリー夫人がこのときほど美しかったことは二度となかった。彼女は喜びと情熱と成功から生ずる美しさ、気質と環境の調和から生まれるいうにいわれぬ美しさを持っていた。彼女の希望や苦しみや快楽の経験や、つねに若々しい夢が、ちょうど肥料や雨、風、太陽が花を育てるように、しだいに彼女を開花させ、ついに天性そのままに咲き誇らしめるのである。彼女のまぶたは、恋の長いまなざしのために作られたと思えるほどで、瞳はうるんでじっと相手の心にしみ込むような眼だった。激しい息づかいが細い鼻孔を広げ、肉づきのよい唇の角がもち上がった。うなじのほつれ毛は女性画の得意な画家の手になるものと思われた。髪はぞんざいに大きく束ねられて、渦を巻き、欲情の赴《おもむ》くまま、毎日ほどかれた。今では、彼女の声は柔らかみを帯び、からだつきも丸くなってきた。人をはっとさせる何か微妙なものが彼女の服の裾《すそ》からも、足の土踏まずからも発散しているようであった。シャルルは、新婚当初のようにうっとりとしては、優雅でどうしようもないほど美しい妻だと思った。
シャルルは真夜中に帰ってくると、起こそうとはしなかった。陶器《とうき》の豆ランプが天井に揺らめく光を丸く映していた。小さな揺籠《ゆりかご》のしめてあるカーテンが、ベッドのそばの闇の中で白い小屋のように浮かび上がった。シャルルはカーテンを見つめた。と、子供のかろやかな吐息《といき》が聞こえたように思った。子供はどんどん大きくなっていく。季節ごとにすくすく大きくなっていくことだろう。彼には今から夕暮れに、服をインクだらけにして、バスケットをさげ、大声で笑いながら学校から帰ってくる様子がありありと見えた。それから寄宿舎に入れなくてはならぬ。金がかかることだろう。どうしたらよかろう。シャルルは考え込んでしまった。彼は近所の農園を借りることを考えついた。毎朝、往診に行きがてら自分で監督するのだ。その収入は倹約して、銀行に預金しよう。それから、どれでもいいから、何か株を買おう。それに患者もふえるだろう。彼はそれを当てにしていた。というのは、ベルトを立派に教育し、いろいろの芸を仕込み、ピアノを習わせたいと思っていたからである。ああ、この子も大きくなって、十五くらいになる。母親似だから、夏になって、大きな麦わら帽子でもかぶったら、さぞ可愛いだろう。姉妹だとまちがわれることだろう。彼は自分たちのそばの、ランプの下で手仕事をしている娘の姿を思い描いた。彼のスリッパに刺繍《ししゅう》してくれ、家事にせいを出すだろう。家中を彼女のやさしさと陽気さとでいっぱいにしてくれるのだ。そして嫁入りだ。しっかりした地位にある善良な男を捜してやるのだ。その男は娘を幸福にしてくれ、それがいつまでも続くのだ。
エンマは眠っていなかった。眠った振りをしていただけである。シャルルがそばに眠ると、彼女は夫とはまるで違った夢想に目覚めるのである。
四頭の馬が疾走《しっそう》する。彼女は一週間も前から、そこからもう帰ってはこない未知の国へと運ばれている。二人は、腕を組み、言葉もなく、進んで行く。ときどき、山の頂から、突然壮大な都が見える。その教会堂《ドーム》、橋、船、レモンの森や白い大理石の大|伽藍《がらん》も見える。伽藍の光った鐘楼《しょうろう》にはこうのとりの巣がかかっていた。二人は敷石づたいに歩いた。道には、赤い上衣を着た人が差し出す花束が落ちていた。鐘の音が、ろばのいななきが、ギターのささやきや泉のつぶやきともども聞こえた。飛び散るしぶきが、噴水《ふんすい》の下でほほえむ青白い彫像の足もとでピラミッド型に積まれた果物の山を冷やしていた。そして二人は夕暮れにとある漁村に着く。そこでは断崖や道具置場のまわりに茶色の網が風にかわかしてある。二人が落ち着くのがこの村なのだ。二人は海辺にある、入り江の奥の、棕櫚《しゅろ》の木陰にある平たい屋根の、軒の低い家に住まうのだ。ゴンドラで舟遊びをし、ハンモックにも揺られてみよう。二人の生活は絹の服のように、楽で、豪華なのだ。二人が見つめる静かな夜のように、暖かく、きらめいているのだ。しかし、彼女が繰り広げる果てしない未来には、これといって独特なものがなかった。すばらしい日々は海の波のように似かよっていて、なだらかで、青色にかすみ、陽光に満ちた果てしない水平線のかなたで揺れていた。というところで子供が揺籃《ようらん》の中で咳《せき》を始めたり、シャルルが大いびきをかきだすので、エンマは朝まで眠れない。窓ガラスが曙《あけぼの》の光に白みかけ、広場では、小僧のジュスタンが薬屋の雨戸をあけるころであった。
エンマはルウルウを呼んでいった。
「コートがほしいの。大きな襟《えり》のついた、裏つきの大きなコートが」
「旅行でもなさるので?」
「いいえ、でも……そんなことどうでもいいでしょ。きっとたのみますよ。ね、ほんとよ!」
ルウルウはおじきをした。
「それから」と彼女は続けた。「トランクはあまり重くなくて、使いやすいのがいいわ」
「ヘイ、ヘイ、わかりました。おおよそ、九十二センチに五十センチぐらいの、当節の流行のような品ですね」
「それに、小物入れもね」
≪きっと一|悶着《もんちゃく》あるな≫とルウルウは考えた。
「ああ、それから」ボヴァリー夫人は帯の間から時計を取り出していった。「これをとっといて、お勘定《かんじょう》にしてね」
しかし、商人はそりゃいけませんといった。奥様にはご眤懇《じっこん》にしていただいているのに、どうしてお疑いなぞいたしましょう。そんな子供らしいことはおやめくださいといった。それでもエンマは頑張《がんば》って、せめて鎖なりと取ってくれといった。そしてもうルウルウがポケットにそれを納めて出て行こうとしたとき、エンマが呼び止めた。
「全部お宅においといてね。コートは」とちょっと考えて、「それも持ってこないで。ただ職人の番地を教えてくださいな。職人には都合のよいときに取りにやらせるからといっといてね」
二人は来月駆け落ちすることになっていた。エンマはルーアンにでも買物に行くふりをしてヨンヴィルを出る。ロドルフはあらかじめ席の予約をし、パスポートを取り、パリに手紙を書いてマルセイユまで郵便馬車を借り切る予約をとっておく。マルセイユで馬車を買い、そこからずっとジェノア街道をひた走る。エンマは大事をとって、トランクをルウルウの店に運んでおく。そこからじかに『つばめ』に運び込まれるから、だれ一人として疑う者はいないだろう。いろいろ考えをめぐらした中に子供のことははいってなかった。ロドルフもそれは避けていたし、彼女も子供のことなど念頭になかったのだ。
ロドルフは、仕事のかたをつけるためにもう二週間ほしいといった。そして一週間目には、もう半月といい、仮病《けびょう》を使い、それから旅に行った。そうこうしているうちに八月は過ぎて行った。こうして出発を延期していたが、ついに九月四日の月曜日に出発することに決めた。
出発の前々日の土曜日がついにきた。
ロドルフはその晩、いつもより早めにやってきた。
「準備はいいの?」とエンマが聞いた。
「ああ」
そして二人は花壇のまわりを歩き、築山のそばの塀の縁石に腰をおろした。
「悲しそうね」エンマがいった。
「いや、どうして?」
彼はやさしく、いつもとは変わった目つきでいった。
「遠くへ行くのが悲しくて? あなたの愛しているものや、あなたの生活をすてて行くから? ああ、わかったわ! でもあたしにはこの世になにもないのよ。あなたのすべてになってさし上げるわ、家族にも、故郷にもなりますわ。あなたのお世話をし、いつまでも愛しますわ」
「可愛《かわい》い人だ」と彼は彼女を胸に抱き締めながらいった。
「ほんとう?」エンマはなまめかしくほほえんでいった。「あたしを愛しているの? だったら誓って」
「ああ、愛しているとも、愛しているとも。気も狂わんばかりに!」
まん丸い紫色の月が牧場の奥の地平線すれすれに顔をのぞかせた。するするとのぼって、ポプラの枝にかかり、ところどころでは陰にかくれて、まるで穴のあいた黒いカーテンのように見えた。それから月は輝き、天空を白く染めた。ついで空に上がる速度はおそくなり、川面に大きな影を落とした。と、影は数々の星くずとなった。銀色のこの月の光は川底でも揺らめき、まるで、輝くうろこを持つ頭のない蛇《へび》かと思われた。それはまた、溶けたダイヤモンドの雫《しずく》が枝を伝って光っている大きな枝つき燭台と見まごうばかりだった。穏やかな夜が二人のまわりに広がっていた。影が広がって、木の葉を包んだ。エンマは目を軽く閉じ、吹きつけるさわやかな風を大きく吸い込んだ。二人はそれぞれの思いにふけって、言葉をかわさなかった。かつての日の愛がよみがえってきて胸にそばを流れる川のように豊かに、音もなく、バイカウツギの香りのように甘くせまってきた。その愛は二人の思い出の中に、牧場に一列に並んで植えてある巨大な柳の影よりも大きく、暗い影を落とした。ときどき、夜行性の動物――そろそろ餌をあさるはりねずみやいたち――が木の葉を動かしたり、あるいは熟《う》れた桃がポタリと自然に棚から落ちる音が聞こえた。
「ああ、美しい夜だ!」とロドルフがいった。
「これからは毎晩こんなですわ」エンマが答えた。
そして自分に言い聞かせるように、
「そう、きっとすばらしい旅になるわ。それなのに、どうして心が痛むのかしら。未知の世界にはいっていくのがこわいからかしら? それとも見なれたものと別れるのがつらいのかしら? いいえ、しあわせすぎるからよ! あたしなんて弱いのかしら、ごめんなさいね」
「まだ時間はあるさ!」とロドルフが叫んだ。「後悔しているんだろ?」
「いいえ、ちっとも!」エンマは強く否定した。
そしてロドルフに近づいて、
「どんな障害があるというのでしょう? あなたとなら、砂漠だって、絶壁だって、海だって渡るわ! あたしたちがいっしょに住めば住むほど、あたしたちの絆《きずな》は日増しに強く完全なものとなるのです。あたしたちには悩みもないし、不安もない。何の邪魔者もないのですもの。二人だけで住み、永久に二人だけで暮らすのです……。ねえ、何かあなたもいってよ。答えて!」
ロドルフはきまった間隔を置いて「ああ、うん!…」と答えていた。
エンマは両手でロドルフの髪をなで、流れる涙をふこうともせず、子供っぽい声で繰り返しささやいた。
「ロドルフ、ロドルフ!……ああ、ロドルフ、大事なかた」
十二時を打つ鐘の音が聞こえた。
「もう十二時ね。じゃ、またあしたね! もう一日あるのね!」とエンマがいった。
ロドルフは帰ろうと立ち上がった。それがエンマには二人の駆け落ちの合い図に見え、急にはしゃいで、
「パスポートは?」
「あるよ」
「忘れ物はない?」
「ないよ」
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ」
「お昼に私を『プロヴァンス・ホテル』で待っていてくださるのね」
ロドルフはうなずいた。
「また、あしたね!」とエンマはお休みのキスをしながらいった。
彼女は彼を見送っていた。
ロドルフは振り返らなかった。彼女は彼のあとを追い、川辺のやぶ陰から身を乗り出して、
「あしたね!」と叫んだ。
ロドルフはもうむこう岸に渡って、牧場を足早に歩いていた。
しばらく行くと、ロドルフは立ち止まった。白い服のエンマが幻《まぼろし》のように少しずつ姿を消して行くのを見ると、激しく動悸《どうき》がし、倒れないように、木によりかかった。
「おれはなんというばかだ!」彼は思いつくかぎりの悪口をいって自分を責めた。「だが、可愛い女だった」
やがて、エンマの美しさが、この恋のあらゆる快楽ともどもよみがえってきた。はじめのうちは感激していたのだが、そういった思いに反発した。
「要するに、おれは国を離れたり、子供までしょいこむことはできないのだ」とロドルフは身振りをまじえていった。
彼はそんなことをいって、決心を固めようとした。
「そのうえに、ごたごたするだろうし、金はかかる。ああ、だめだ。絶体にだめだ。そんなことは狂気の沙汰《さた》だ」
十三
ロドルフは家に帰るとすぐさま、飾りに壁にかかっている鹿《しか》の頭の下の文机に向かった。しかし、ペンを手にしてみても、どう書いたらいいのかわからなかった。そこで、両|肱《ひじ》をついて、考え始めた。彼の決心がエンマとの間に急に深い溝を作ったようで、エンマははるか遠くの過去に押しやられてしまった。
彼女からきたものを読み返そうと、彼はベッドの枕元にある戸棚の中をひっかき回し、いつも女から来た手紙を入れておく、ランス〔大聖堂で有名な北部フランスの宗教都市。その他、陶器、菓子などでも有名〕名産のビスケットがはいっていた古い箱をひっぱり出した。すると、湿ったほこりの匂い、枯れたバラの匂いがした。彼はまず薄い色のしみが一面に飛んでいるハンカチを見つけた。エンマのだ。いつか散歩していた時、鼻血を出した彼女が使ったものだったが、もうそんなことは忘れていた。その他に四隅の折れたエンマの肖像画が出てきた。化粧をこらした、その「横目づかい」は品がなかった。この絵をよく見て、その人を思い出そうとするのだが、生の顔と描かれた顔とが互いに摩擦し合って、互いに消し合うのか、彼女は彼の思い出の中でかすれてしまった。最後に彼は一通の手紙を読んだ。手紙には二人の旅のことばかり書かれてあった。それは商用文のように短く、しかつめらしく、しつこいものであった。彼は長い、昔の手紙を読みたいと思った。箱の底にあるはずだと思って、ロドルフは他のをかき混ぜた。機械的に、手紙や品物の山の中を捜し始めると、花束、靴下止め、黒い仮面、ピンや髪の毛がからまって雑然と出てきた。――髪の毛! 栗毛もあるし、金髪もあった。そのうちの数本は箱の金具にひっかかり、あけると、切れた。
こうして思い出の中をさまよいながら読んでいると、手紙は字のつづりが違っているように、字体も書き方も違っていた。やさしいのもあればうれしそうなのもあり、ふざけたのもあれば悲しそうなのもあった。中には愛を求めるのもあれば金を求めているのもあった。書かれたひとことから、彼は女の顔や動作や声の調子を思い出した。しかしときには何も思い出せないこともあった。
しかし、一時にどっと彼の頭の中にはいってきたこういう女たちは、ちょうど恋愛水準器の下に均一化されたようにおし合いへし合いをして、そこに身をちぢめていた。ロドルフは乱雑に置いてある手紙を一つかみ握ると、しばらく右手から左手へ滝のように落として遊んでいた。それにもあきて、心の落ち着いたロドルフは箱を戸棚の中にしまい込んだ。そうして、
「がらくたばかりだ!」といった。
この言葉は彼の恋愛に対する考えを要約していた。なぜなら、快楽は、まるで校庭で遊ぶ生徒たちのように彼の心を踏みつけにしたので、そこからは青いものはなにも生えず、そこを横切るものは、子供たちよりももっとすげなくて、子供たちがよくするように壁に名まえをほってゆくことさえもしなかった。
「さあ、始めよう!」
ロドルフは書き始めた。
『勇気を出してください、エンマさん、あなたの生活を不幸にしたくないのです……』
「とにかく、本当なのだ」とロドルフは考えた。「これも彼女のためだ。おれは正直なんだ」
『あなたはあなたのご決心をとくとお考えになりましたか? わたしがあなたをお連れしようとするのが奈落《ならく》の底に落ちることだということがおわかりなのでしょうか? いいえ、いけません、あなたは、未来と幸運を信じて、疑おうともせず、われを忘れていらっしゃるのです! ああ、ぼくたちは不幸なもの、無分別なものなのです!』
ロドルフはここで、何かいい口実はないものかと考えていた。
「全財産をなくしたといったらどうだろう? ああ、いけない。それぐらいじゃあの女は思い切るまいし、またはじめからのむし返しだ。あの女に、道理を聞かせるのは容易なこっちゃない」
彼は考え込んだ。そしてつけ加えて、
『あなたを決して忘れたりはしません。ぼくはあなたにいつに変わらぬ深い愛をいだいております。しかし、この愛も、おそかれ早かれいつかは衰えるものなのです!(それが人の世の定めなのです)ぼくたちを倦怠《けんたい》がおそうのです。ぼくにはあなたが後悔されるのを見るのがつらいのです。それにぼくがその原因だとすれば、ぼく自身もつらいことでしょう。あなたが苦しまれると考えるだけでぼくは苦しいのです。エンマさん! ぼくを忘れてください! ぼくたちはどうして知り合ったのでしょう? なぜあなたはそんなに美しいのでしょう? それがぼくの罪なのでしょうか? いや、違う。運命をお責めください!』
「この言葉はいつもききめがある」とロドルフは考えた。
『あなたがそこいらにいるようなはすっぱな女だったら、ぼくの楽しみを満足させるために、あなたの不幸など考えずに、駆け落ちをしてみたでしょう。しかし、あなたを魅了《みりょう》し、同時にあなたを苦しませるこの目もくらむような恋心ゆえに、あなたのような聰明《そうめい》な人でさえ、行く末、立場が困難になることがおわかりにならないのです。この私でさえ、はじめは考えても見ず、結果がどうなるか予想だにせず、マンチニール樹の木陰に憩《いこ》うように理想的な幸運の木陰にくつろいでいたのです』
「きっと彼女は、金惜しさのあまりに捨てるのだと思うのだろう……ああ、どうでもいい、かまうものか! それで万事解決だ」
『世の中は酷《こく》なものです、エンマさん。ぼくたちがどこへ行っても追手はあとを追ってくるでしょう。ぶしつけな質問にがまんしなければならないのですよ。中傷、軽蔑、侮辱《ぶじょく》まで受けるのです。あなたが侮辱される! 思っても恐ろしいことです。それどころかぼくはあなたを王座にすわらせたいと思っているのです。あなたの思い出をお守りのように考えてぼくは持って行きます! ぼくはあなたにした罪のつぐないにここを立ち去ります。どこか遠くに行くのです。どこへ行くのかぼくにもわかりません、ぼくは狂っているのですから! さようなら! いつまでもお元気で! あなたを失ったこの不幸な男のことをおぼえていてください。そしてお子様にぼくの名を教えてあげてください。お祈りのときにその名を唱えてくださるように』
二本のろうそくの芯《しん》が揺れていた。ロドルフは立ち上がって、窓をしめた。そして再び腰をかけると、
「これで十分だ。ああ、そうそう『追い回され』ないように一本くぎをさしておかなくちゃ」
『あなたがこの悲しい手紙をお読みになるときには、ぼくはもう遠くにいることでしょう。というのはあなたにお会いしたい気持ちに駆られないようにできるだけ早く逃げ出したかったのです。気をしっかりお持ちください! ぼくはいつかまた戻ってまいります。そしていつの日にかごいっしょに昔の恋を静かに語り合えることでしょう。さようなら!』
彼は最後の言葉を二つに区切って「神のみもとに」としたためた。自分ではしゃれたつもりであった。
「サインはどうしよう? あなたを心より愛する……あなたの友?……これだこれだ」
『あなたの友』
ロドルフは手紙を読み返した。なかなかのできばえだった。
「かわいそうに」彼は気の毒だと思った。「あの人はこのおれを木石《ぼくせき》よりもつれないやつだと思うだろう。涙も少しはほしいところだ。だが、おれには泣けないのだ。泣けなくったっておれの知ったことじゃない」そこでロドルフはコップに水を満たし、そこに指を突っこんで高い所から一滴落とした。するとインクの上に水色の斑点《はんてん》ができ上がった。それから手紙の封印を捜すと「愛は永久に」の印が出てきた。
「この場には合わないが……なに、かまうもんか!」
そのあと、彼はパイプを三服ふかし、床についた。
翌朝、起きると(寝るのがおそかったので、二時ごろだったが)、あんずを一|籠《かご》つませた。彼は手紙を籠の底にぶどうの葉の下に置き、馬丁のジラールに、すぐにこれをボヴァリー夫人までとどけてこいと命じた。ロドルフは季節に従い、果物や狩りの獲物を送ってはエンマとの連絡をとっていた。
「もし、わしのことをお聞きになったら、旦那様は旅行に行かれましたというのだ。籠は奥様の手にお渡しするのだぞ……じゃ、行ってこい、たのんだぞ!」
ジラールは真新しい上着を着込み、あんずのまわりにハンカチをゆわえ、どかどかと鋲《びょう》を打った木底靴で歩き、ゆうぜんとヨンヴィル街を進んで行った。
行ってみると、ボヴァリー夫人はフェリシテと台所のテーブルの上で洗濯物をよりわけていた。
「これを奥様に差しあげてこいと主人が申しまして」と馬丁は口上した。
彼女は胸騒ぎをおぼえた。ポケットに小銭はないものかとさぐりながら、彼女はものすごい目つきで百姓を見つめた。百姓のほうもこんな贈り物ぐらいでどうしてこんなにあわてるのか合点がいかず、エンマを見つめていた。そして百姓は帰って行った。だが、まだフェリシテがいた。エンマはもはや、がまんしていられなくなり、あんずを持って行くようなふりをして広間に駆け込み、籠をあけ、葉をつかみ出し、手紙を見つけて封を切った。まるでものすごい火事がついそこまで迫ってきたかのように、自分の部屋のほうへおびえきって逃げて行こうとした。
しかし、シャルルがそこにいた。エンマはそれに気がついた。シャルルは彼女に話しかけたが、てんで聞いてはいなかった。そして彼女はあわてて、息を切らし、度を失い、酔ったようにあの恐ろしい手紙を手にしたまま階段をのぼり続けた。手紙は手の中でまるでブリキ板のように音を立てた。三階にくると、彼女は屋根裏部屋の前で立ち止まった。扉はしまっていた。
彼女はそこで気を静めようと思った。手紙のことを思いだした。最後まで読んでしまわなきゃ、でもその勇気がなかった。それにどこで読んだらいいのだろう、どうやって? 人に見つかる。
「いいえ、ここならだいじょうぶだわ」と彼女は考えた。
エンマは扉を押して中にはいった。
中はスレートの屋根の照り返しがじかに伝わってきて、むっとするほど暑かった。そのためエンマのこめかみはずきずきいたみ、息苦しくなった。彼女はからだをひきずるようにして、明かり窓の所まで行き、その止め金をはずした。すると、一度にまぶしい光がはいってきた。
家並みの向こうは、見渡す限り草原が広がっていた。すぐ目の下の村の広場は人っ子一人見あたらず、舗道の小石が輝き、家々の風見は止まったままだった。町角の地下室からはごろごろいう物音がかん高い抑揚《よくよう》をつけて聞こえてきた。ビネーがろくろを回しているのだ。
エンマは明かり窓のしきいにもたれて、怒り狂ったあまり冷笑を浮かべて手紙を読み返した。しかし、注意をして読めば読むほど、頭が混乱した。エンマにはロドルフの姿が見え、その声が聞こえた。彼女は彼を両腕に抱きしめた。牝羊のように大きく波うつ胸の鼓動は不規則な間隔をおいてしだいに早くなった。彼女は地球が崩れよと祈りをこめてあたりを見回した。なぜ死なないんだろう? いったいだれがとめるというのだろう。何をしたっていいはずだ。そう思って彼女は前へ進んで行き、下の舗道を見つめて、
「さあ、やるのよ」と自分にいい聞かせた。
下から照り返す日の光が彼女の五体を奈落《ならく》の底へ引きつけた。彼女には、広場の土地がぐらぐら揺れて壁沿いにせり上がり、天井もまるで縦揺れする船のように一方に傾いたかと思った。彼女は縁際に、ほとんど宙|吊《づ》りという格好で、広々とした空間に取りかこまれて立っていた。彼女は青空にとけこみ、からっぽの頭の中では風が舞っていた。彼女は、ただ身をまかし、されるがままになっていた。ろくろの音はとだえることなく続いていた。それは、まるで彼女を呼ぶ恐ろしい声かと聞こえた。
「エンマ! エンマ!」とシャルルが呼んだ。
彼女は踏みとどまった。
「どこにいるんだい? 早くおいで!」
死を免れたんだと思うと、恐ろしくて、あやうく失神するところだった。エンマは目を閉じた。それから、人が袖をさわるのでぎょっとした。フェリシテであった。
「奥様、旦那様がお待ちかねでございます。スープも冷《さ》めてしまいます」
それではおりて行って、テーブルにつかねばならないのだ!
彼女は食べようとするのだが、のども通らなかった。それで、彼女はかがり細工を調べるようにナフキンを広げてみた。ほんとうにこの仕事をしたいと思い、糸目を数えた。すると、急に手紙のことが記憶によみがえってきた。あれはなくしてしまったのかしら? どこにあるのだろう? 彼女は気がくじけてしまい、テーブルを立つ口実も考えつかなかった。それに、臆病にもなり、シャルルがこわくなった。あの人は何もかも知っているのだわ、きっと。げんに、彼はいつになくへんないい方をした。
「ロドルフさんにはどうやらしばらく会えなさそうだな」
「だれにそんなことを聞いたの」エンマは身をふるわせて、聞いた。
「だれがいったかって?」シャルルはエンマの剣幕にちょっと驚いていった。「ジラールだよ。『カフェ・フランセ』の戸口の所で会ったときにそういってたよ。旅行に行ったんだとか行くんだとかいう話だ」
エンマはすすり泣いた。
「どうしてそんなに驚くんだい? ときどき、こうして気晴らしに出かけるんだとさ。それももっともなことさ! 財産はあるし、それに独身ときてる。そのうえ、相当なもんだということだよ。放蕩者《ほうとうもの》だってさ! ラングロワさんの話では、なんでも……」
シャルルは、女中がはいってきたので、礼儀を守って、口をつぐんだ。
女中は籠《かご》に棚の上に散らばっている杏《あんず》の実を入れた。シャルルは、妻が赤面したのにも気がつかずに、あんずを持ってこさせ、一つを取って、すかさずかぶりついた。
「うん、うまい! おまえも食べてごらん」といった。
彼は籠をさし出した。エンマはそっとそれを押し返した。
「まあ、嗅《か》いでごらんよ。いい香りだから」そういって、彼は杏を彼女の鼻先に何度も押しつけた。
「息がつまるじゃないの!」とエンマは飛び上がりざま叫んだ。
しかし、その痙攣《けいれん》は意志の力で押えつけた。そして、
「なんでもありません、なんでもないといったでしょ。ただ神経なのよ! すわって、召し上がって!」といった。
というのも、うるさく質問されたり、看病されたり、つきっきりになられるのがいやだったからである。
シャルルはエンマのいうとおりにまた腰をおろし、手に杏の種を吐き出し、皿に入れた。
突然、青い馬車が広場をギャロップで通り過ぎていった。エンマは叫び声を上げ、あお向けにバッタリ倒れた。
実は、ロドルフは考えあぐねたあげく、ルーアンに行く決心をつけた。だが、ユシェットからビュシイーまで行くにはヨンヴィル街道しかなかったので、しかたなく村を通り過ぎたのである。エンマはたそがれの中をいなずまのように走るランプの光でロドルフの姿を認めたのである。
薬屋は家の中が騒がしいので、いそいでやってきた。テーブルは、お皿がのったままひっくり返り、ソース、肉、ナイフ、塩入れ、薬味《やくみ》入れなどが部屋じゅうに散らばっていた。シャルルは助けを呼んでいるし、ベルトはこわがって泣きわめいている。そのうえ、フェリシテまで、ぶるぶるふるえる手で、からだじゅう痙攣《けいれん》を起こしている奥様のコルセットのひもをほどいているというありさまであった。
「ひとっ走りして、薬局から芳香酢酸を少量取ってきましょう」と薬屋はいった。
そして、気つけ薬の匂《にお》いで、エンマが目を開くと、
「まさしく、妙薬ですな」といった。
「何かいってごらん、しっかりするんだよ。僕だよ、おまえを愛しているシャルルだよ。わかるかい。ほら、ベルトだよ。抱いておやり」
子供はエンマの首に抱きつこうと腕をのばした。しかし、エンマは首を振り、息も絶え絶えに、
「いや! いや! だれもいや!」といった。
エンマは再び気を失った。そこで、みなでベッドまで運んで行った。
彼女は口をあけ、目を閉じ、手を広げたまま動かなかった。そしてろう人形のような青い顔をして横たわっていた。目から涙が流れ、枕にゆっくりと伝わった。
シャルルは突っ立ったまま寝間の奥のほうにいた。薬屋はそのそばにいて、人生の重大な場面にふさわしい瞑想《めいそう》的な沈黙を守っていた。
「ご安心なさい」とシャルルを肱《ひじ》でつついていった。「発作《ほっさ》もしずまったようですぞ」
「ええ、今は少ししずまったようです!」とエンマの寝姿をうかがっていたシャルルが答えた。「かわいそうに!……かわいそうに……再発したんだ!」
そこでオメーはどうしてこんな騒ぎになったのかたずねた。シャルルは、エンマが杏《あんず》を食べている最中、発作に襲われたのだと答えた。
「不思議なことですな!」と薬屋が相槌《あいづち》を打った。「しかし、杏が失神を起こすこともあり得ることです。ある特定の香りに生まれつき弱い人もいるものでして。これは生理学上からも病理学上からも研究せねばならん課題です。坊主どもはこの問題の重要性をよくわきまえておりましてな、それでいつもミサには香をたきますのじゃ。理性を失わせ、恍惚とさせるには絶好のものでして、とくに男性より神経が繊細《せんさい》な女性の心を簡単に操るのです。物の本によりますと、動物の角を焼く匂い焼きたてのパンの匂いだけで失神してしまう例もあるということですな」
「しっ! 静かに!」とボヴァリーは低い声でいった。薬屋はなおも、
「このような異常体質《アレルギー》になるのは人間ばかりではなく、動物もなるのですぞ。そのいい例が、それ、世にいう猫じゃらし、つまり「ネペタ・カタリア」が猫族に及ぼす不可思議なる催淫《さいいん》的効果です。その他、わしが保証する実際の例としましては、ブリドー……ほれ、わたしの旧友の一人でして、今はマルパリュ通りに住んでおりますが……そいつは犬を一匹飼っておるんですが、その犬はたばこ入れをさし出すと、たちどころに痙攣《けいれん》して倒れてしまうんだそうですよ。ときどき、彼はギィヨームの森の別荘に友だちを集めてはその実験をやってみせますがね。かぎたばこのようなたかがくしゃみをおこさせるようなものが四足動物のからだにこのような害を及ぼすとは信じられますか? ほんとに不思議なことですな」
「そうですな」とちっとも聞いてはいなかったシャルルが答えた。
「これはですな」薬屋は罪のない自信たっぷりの笑《え》みを浮かべてまたしゃべりまくった。「これはですな、神経組織に異常をきたしているからです。お宅の奥さんについていわせていただけば、お見受けしたところ大へん感受性の豊かなかたですな。そんな人にはいわゆる薬などは何も必要ないのです。薬などというものは病気を退治《たいじ》するといって、その実、体質に打撃を与えてしまうものですぞ。むだな治療なんぞもいりません! ただ食事療法あるのみ、それだけですぞ! 鎮痛性、緩和《かんわ》性、甘味のある食物をとるべし。それから、想像力を働かしてみることも有効ではありませんかな?」
「そりゃまたどういうわけで? どうしてですか?」とボヴァリーが聞いた。
「それが問題ですな! それが実際、大問題というものでして。この間読んだ新聞ではないけれど、ザット・イズ・ザ・クェスチョンですな」
ところで、エンマが目をさまし、叫んだ。
「手紙は? 手紙は?」
二人はエンマがうわごとをいっているのだと思った。しかし、本当にそうなったのは真夜中だった。脳炎が起こったのである。
四十三日間というもの、シャルルは彼女のそばを離れなかった。患者などは忘れられた。彼は眠らないで看病した。彼はたえず脈搏《みゃくはく》をとり、芥子《からし》や冷水の湿布をした。またジュスタンをヌシャテルまでやって氷を取り寄せた。氷は途中でとけてしまった。するとまた行かせた。彼はカニヴェ先生を呼んで相談し、ルーアンから恩師のラリヴィエール先生を呼んだ。彼はもうだめだと思っていた。一番気にかかるのはエンマの衰弱であった。なにしろおしゃべりはしない。人の話を聞いている様子もない。それに苦しんでいそうにもなかったのである。――心もからだもその機能を停止しているようであった。
十月の中旬ごろ、エンマは枕を背中にあてがって、ベッドに起き上がっていられるようになった。シャルルはエンマがはじめてジャムつきパンを食べるのを見ると涙がこぼれた。彼女は体力を回復し、午後はしばらく起き出た。ある日、気分がいいというので、腕をかして庭を散歩させた。落葉で並木の地面が見えなかった。エンマはスリッパを引きずって、そろそろ歩いた。彼女はシャルルに肩をあずけたまま、ほほえみ続けていた。
二人はこうして庭の奥の築山《つきやま》近くまで歩いて行った。彼女はそっとからだを伸ばし、手をかざした。見渡すかぎり、地平は草を焼く野火で、丘の頂から煙が立っていた。
「つかれるよ、おまえ」とボヴァリーがいい、そっとエンマを押して青葉棚の下に入れようとした。
「このベンチにおすわり。つかれがなおるから」
「ああ、そこはいや、いや!」とエンマはか細い声でいった。
彼女は目まいがした。その晩から病気はぶり返し、実際、前より病状は変わりやすく、それだけにこみ入ってきた。心が苦しければ苦しいだけ、胸も頭も手足も痛くなり、シャルルが癌《がん》の初期の徴候だと判断するほど、ふいに嘔吐《おうと》におそわれた。
かわいそうにシャルルはそのうえ、金の心配もあったのである。
十四
まず、オメーに薬代をどうやって支払ったものかわからなかった。医者だというので、払わないでもすまされないこともないのだが、それでも借りっぱなしもいささか気がひけた。また家のかかりも、今では何ごとも女中まかせなので莫大《ばくだい》なものになっていた。勘定書が雨あられと降ってきた。出入りの商人たちは苦情をいった。中でもルウルウはきびしかった。事実、ルウルウはエンマの病が最悪のときに、もうけるのはこのときとばかりに、例のコートやらスーツケースを持ち込み、一個でいいのにトランクを二個も、その他数々の品を大量に持ってきた。シャルルがいくら、こんなものはいらないからといっても、横柄《おうへい》に構えて、でもこれは奥様のご注文ですから、持って帰るわけにはまいりません。それに奥様がお元気になられたらお気を悪くされるでしょうし、旦那様もよくお考えくださいましといった。つまり、ルウルウは自分の権利を放棄し、品物を持ち帰るくらいなら、いっそのこと法廷へ持ち出して決着をつけたほうがましだと思っていたのである。シャルルはあとで品物をルウルウの店へ返してきておくれといいつけたのだが、フェリシテは忘れてしまい、シャルルも忙しさに取りまぎれて、つい忘れていた。すると、ルウルウはまた勘定取りにやってきた。彼はおどしたり、泣き落としをしたりして、結局、シャルルに六か月期限の手形に署名させた。この手形に署名すると、シャルルにはある大それた考えが浮かんだ。つまり、ルウルウから千フラン借りることである。そこで、彼はおずおずと、さしつかえなくば貸してほしいとたのんだ。それに支払いは一年後、利子はそちらのいうとおりにするとつけ加えた。ルウルウは店にとって返し、金を持ってきて、もう一つの手形に署名させた。ボヴァリー氏は手形の記載にもとづき来年九月一日に千七十フラン支払うべしということになった。これにすでに規定済みの百八十フランを加算すると、千二百五十フランになる。こうして年六分の割りで貸し、四分の一の手数料をとれば、納品代のうち少なく見積もっても三分の一は利益として計上できるから、結局一年おくだけで百三十フランの利潤を生むことになる。ルウルウはそれでおしまいにはならんだろうと思っていた。シャルルは支払い能力はないだろうから、手形更新ということになるだろう。こうしてわずかな金が医者の家で、まるでサナトリュウムにいるように栄養をたっぷり与えられ、肥えてはちきれんばかりになってルウルウの手元に帰ってくるのだ。
そのうえ、万事が順調にいっていた。ヌシャテルの病院にりんご酒を入れる権利も落札して取ることができたし、ギョーマン氏はグラムニィル炭坑の株を分けてくれることになっていた。ルウルウはアルグィユ=ルーアン間の駅馬車新設を考えていた。そうすれば「金獅子館」のぼろ馬車などはたちどころにお払い箱になり、速力は出るし料金は安い、荷物はたくさんつめるというので、ヨンヴィルの商品を一手にあつかえるのだ。
シャルルは何回もどうしたらこの莫大な借財を払えるかと考えてみた。そして、父親に援助を求めるとか、何かを売るといったことを考えてみた。しかし、父親は耳をかそうとしないだろうし、売るといっても何もなかった。そこで彼は全く困ってしまい、こんな不愉快なことを思いわずらうのはめんどうだとばかりたちまち頭の中から追い払ってしまった。そして、そのためにエンマのことを忘れていたのをすまなく思った。それはまるで、彼の全精神を傾けてエンマを思うべきであって、少しでも忘れているというのは、彼女のものを何か盗むようなものだとでも思っているようであった。
その冬はきびしい寒さだった。夫人の回復は長びいた。天気がいいと、すわっている椅子を広場に面したほうの窓ぎわに押してもらった。今ではもう庭はきらいになり、庭側の鎧戸《よろいど》はしめっぱなしになっていた。夫人は馬を売ってほしいと思った。かつて好きだったものが今ではいとわしかった。彼女は自分のことだけしか考えなかった。彼女はベッドで軽い食事をとり、鈴をならして女中を呼び、煎《せん》じ薬の用意をたずねたり、世間話をした。その間、役場の屋根につもった雪が部屋に動かぬ白い反射を投げかけていた。それから春雨の季節となった。エンマは毎日毎日繰り返しているにすぎない些細《ささい》なできごとを自分には関係のないことなのに、じりじりとして待ち暮らしていた。一日じゅうで一番の大事件は、夕暮れの『つばめ』の到着であった。『つばめ』がくると、宿のおかみが何事かどなり、だれかが答える。馬車の屋根に上ってトランクを捜しているイポリットの角燈が闇の中では星のように見えた。正午にはシャルルが帰ってきて、再び出かけて行く。そして、エンマはスープを飲む。五時ごろには、木靴をひきずって行く学校帰りの子供が、順々に定規でひさしをたたいて通る。
ブールニジャン神父が現われるのもこの時刻であった。からだの調子をたずね、世間話をしてくれ、その楽しいとりとめのないおしゃべりのうちに彼女の信仰心を促《うなが》した。彼女は僧服を見ただけで慰められた。
ある日、ことのほか病があつく、エンマはもうだめなのだと覚悟して聖体拝領をしたいといった。部屋で、秘蹟の準備がされ、水液がたくさんのっているたんすを祭壇にされ、フェリシテが床にダリアの花をまくと、エンマは何か力強いものが彼女のからだを吹き抜けて行き、そのために悩みからも、あらゆる感覚、感情からも解き放たれる思いがした。身が軽くなり、思いわずらうこともなくなった。新たな生活が始まった。彼女の存在そのものが、煙となって消えて行く香のように、神に向かって、この愛そのものの中に溶けこんでいくように感じられた。ベッドのシーツに聖水が振りまかれ、神父は器の中から白い聖体を取り出した。エンマはこの世のものとは思われぬ喜びに身をふるわせて唇を突き出し、今にも差し出されんとするキリストのおからだを受けようとした。寝間のカーテンがそっとふくらんで、彼女のまわりで雲のようにたなびいた。たんすの上で燃えている二本のろうそくは彼女にはまばゆい栄光と見えた。彼女が頭をたれると、天空にセラフィナの竪琴《たてごと》のような歌が聞こえ、青空に緑の棕櫚《しゅろ》の葉を手にした聖人をしたがえ、金色の王座の上に威風堂々とあたりを払う神がしろしめしていた。神は炎の翼を持つ天使に、地上に下りてエンマを腕に抱いてくるようにと指《さ》し図《ず》されていた。
このすばらしい幻影《げんえい》はエンマの思い出の中で夢で見られるかぎりでもっとも美しいものとなった。そこでこの感覚を再び味わおうとすると、それはあのときほど絶対的ではないにしても、深い喜びがよみがえってくるのだった。思い上がった気分にこっぴどくやっつけられた彼女は、キリスト教的謙譲の気分のうちに安らいだ。弱き者である楽しさを味わい、自身の内に意地がくじかれるのが感じられ、神の恩寵《おんちょう》を受け入れるべく心に大きな入り口が開かれた。ほんとうに、幸福というより、より大きな至福が、すべての愛以上の、絶えることも終わることもない、日増しに大きくなっていく愛があるのだ。彼女は自分の希望が描き出す幻影の中に、地上に漂《ただよ》いながらも天界と混じる清浄な境地をかいま見て、そこに住みたいと思った。エンマは聖女になりたいと思った。彼女は数珠《じゅず》を買い、お守りを身につけた。その他、居間の枕元にエメラルドをちりばめた聖遺物箱を置き、毎晩それにくちづけしたいと思った。
神父は彼女のこういった変化に驚いたものの、熱心さのあまりに異端におちいったり過激に走ったりするのではないかと危ぶんだ。神父はこの方面には経験を積んでいないので、やがて彼女が度をすごしたと見ると、司教|猊下《げいか》お出入りの本屋、ブーラール氏に「教養豊かな女性に適当な本」を送ってほしい旨書き送った。本屋は、黒人に金物でも売りつけるように無神経にその当時流布していたものをいろいろつきまぜて送ってよこした。いわく、問答形式の小型本だったり、メーストル氏ばりの尊大な口調のパンフレットだったり、バラ色クロースの製本で甘ったるい調子の小説めいたものだった。この小説のたぐいは南欧|吟遊《ぎんゆう》詩人きどりの神学生や悔悛《かいしゅん》した文学少女の手になるものであった。「よく考えよ」だの「数々の勲章拝領者ド・……氏作、マリア像の台下にひざまずける社交界紳士」だの「青少年のためにヴォルテールの過失をあばく」などであった。
ボヴァリー夫人はまだ何かに熱心に取り組めるほど頭が回復していなかった。それなのに彼女ははやって、こういう書物にとりかかった。礼拝の規律にはいらいらしたし、論争記事はたけだけしく、彼女の知らない人びとをよく問題にするので気に入らなかった。宗教をとり扱ったくだらぬ話は世間知らずが書いたのではないかと思われた。そのため、無意識に、エンマが証明がほしいと思っている真理から彼女を遠ざける結果となった。だが、彼女は、執拗《しつよう》に読み、本をふと手から取り落とすと、清純な心だけが感じ得るもっとも繊細なカトリック的憂愁にとらわれたのだと思うのだった。
ロドルフの思い出はというと、彼女の心の奥深く秘められていた。ロドルフはそこで地下|廟《びょう》に納められている王のミイラより荘重に微動だにせず生きていた。このかぐわしい大きな愛から一つの香りが生まれ、それが万物を越えて、エンマが住まおうとした清浄|無垢《むく》な雰囲気を愛で薫《かお》らせた。彼女はゴチック風の祈祷台《きとうだい》にひざまずくと、かつての日、彼女が不倫《ふりん》の恋に溺れて、恋人にささやいたあの甘い言葉を神に語りかけた。それは信仰を得んがためのものであった。しかし、どんな歓喜《かんき》も天からはおりてこなかった。彼女は手足がつかれ、ぼんやり大きな詐欺《さぎ》にひっかかったという気分をいだいて立ち上がった。しかしこうしてかいなく信仰を求めるのも一つの善根にはなるだろうと思った。彼女は自分の熱心さを誇りに思い、昔、ラ・ヴァリエール公爵夫人を描いた焼絵皿を見てその栄華を思い描いたあの貴婦人たちと自分とをひき比べてみた。――威厳をもって長い裾をひきずり、孤独のうちに暮らしてはキリストの足下に傷心の涙を流したあの貴婦人たちに。
そこでエンマは行き過ぎだとも思えるほどの慈善に熱中した。貧しい者には服を縫ってやり、産褥《さんじょく》にある女には薪《たきぎ》を送った。ある日、シャルルが帰ってみると、浮浪者が三人台所でスープを飲んでいた。エンマは、病気中乳母の元に預けてあった子供を家に呼び戻した。彼女は子供に読み方を教えようとした。ベルトはよく泣いたが、エンマはおこらなかった。それは忍従の境地に至り、心が広くなったためであった。なんによらず彼女の言葉は理想的な表現に満ちていた。子供にまでも、
「わたしの天使ちゃん、ポンポンの痛いのはなおりまして?」と聞いた。
ボヴァリー老夫人も、エンマが自分の家の雑巾《ぞうきん》にはつぎもあてないでいるのに、孤児のためにセーターを気狂いのように編んでいる以外には文句のつけようがなかった。この老夫人はたび重なる夫婦げんかにほとほと嫌《いや》気がさし、この静かな家が気に入り、ボヴァリー老人の嫌味を避けて、とうとうすぎこしの祝い日〔キリスト教では復活祭、ユダヤ教では祖先がエジプトからパレスチナに帰着した祝典で、四月第二週に行なう〕まで滞在していた。ボヴァリー老人は、精進《しょうじん》すべき金曜日には必ず、ソーセージが食いてえ、などという男であった。
判断の的確なことと堂々とした態度に、エンマは今さらながら姑《しゅうとめ》を頼もしいと思った。そのほかにも彼女には、ほとんど毎日お客があった。ラングロワ夫人、カロン夫人、デュブルイユ夫人、テュバッシュ夫人などであった。そうして二時五分になると、好人物のオメー夫人がやってきた。夫人はいくら人がエンマのことで陰口をたたこうが信じようとはしなかった。オメーの子供たちもやってきた。子供たちにはジュスタンがついてきた。彼は子供たちとエンマの居間に上がり、戸口に立って、動こうともしゃべろうともしなかった。ときどき、ボヴァリー夫人はそれにはかまわず、化粧を始めた。くしをまず抜いて、頭をさっとばかりに振った。黒い渦を巻いて膝頭《ひざがしら》のところまでたれ下がる髪全体をはじめて見たとき、この哀れな少年は、何か不可思議な世界の入り口に立ったような気がして、そのすばらしさゆえに恐ろしかった。
エンマにはおそらく、ジュスタンの無言の思慕の情にも、それゆえのおずおずした気持ちもわからなかったのであろう。彼女の生活から消えてしまった恋が、すぐそばの、ごわごわした布のシャツの下の、彼女の美しさに感動しているこの若い心に脈々と波打っていることなど思ってもみなかった。それに、彼女は今では万事に冷淡であり、言葉つきはやさしいが、目つきは大胆だし、態度はつねに変化に富んでいるために、人は、勝手なのか慈悲深いのか、あるいはすれっからしなのか、つつましいのか見分けがつかなかった。たとえば、ある晩、外出させてほしいといって、口実はないものかと口ごもっている女中にかっとなったと思うと急に、
「おまえ惚《ほ》れているんだろ」といった。
赤くなったフェリシテの返答も待たずに、悲しげな様子でこうつけ加えた。
「さあ、行っておいで! 楽しんでくるんだよ!」
エンマは春先に、シャルルが止めるのも聞かずに庭を隅《すみ》から隅まで模様変えをさせた。しかし、シャルルは彼女が何らかの意欲を持ったことがうれしかった。彼女は健康を取り戻すにつれ、ますます意欲を示した。まず、彼女は乳母のローレおばさんを追い払った。おばさんは回復期間には里子二人と預りっ子を連れては台所にきていた。この預りっ子というのが人食い人種顔まけの大食らいであった。ついで、オメー一家からも遠ざかり、じょうずに他の訪問客にもおひきとりを願った。教会にもそう足しげく通わなくなった。これにはオメーも大賛成で、親しげに、
「奥さんもそうとう坊さんにはかぶれておいででしたな」といった。
しかし、ブールニジャン神父は変わりなく、教理問答をすますと、毎日やってきた。彼は「森の中で」外気にあたっているほうが好きなのですといった。神父は青葉棚のことを森と呼んだのである。ちょうどシャルルも帰ってくる時間であった。二人は暑がり、甘口のリンゴ酒がでると、夫人の全快を祝って乾杯した。
ビネーもそこにいた。というより、少し下の築山の壁にもたれてざりがにを釣っていた。ボヴァリーはいっしょに涼まないかと誘った。ビネーは酒びんの栓《せん》を抜く名人であった。
「まず」と彼は満足そうな目つきをすると自分のまわりからはるか地平の果てまで見わたしていった。「テーブルに置いたびんをこう持ち、ひもを切ったら、コルクを少しずつ、そっと、そっと押し出します、ちょうどレストランで岩酸水を抜くときの要領ですな」
しかし、リンゴ酒は、ビネーの実演の最中往々にして顔にまともにかかった。すると、神父は、うすら笑いを浮かべ、すかさず冗談《じょうだん》をいった。
「これはこれは、目にもご馳走ですかな」
実際世事にたけた神父さんであった。ある日、薬屋がシャルルに、奥様をお連れになってルーアンの劇場にかの有名なテノール歌手のラガルディーを見に行っていらっしゃればといったときにも、そばに居合わせていながら眉ひとつひそめなかった。オメーは、神父が黙っているのに驚いて、ご意見をうかがいたいといった。すると、神父は音楽は文学ほど良俗には悪い影響を与えなかろうと断言した。
すると、薬屋は文学の肩を持ち、演劇は世の偏見を打破するのに役立ち、快楽の仮面をかぶっているものの、その実、徳を教えているじゃないかといった。
「Castigat ridendo mores(笑いのうちに風俗を正す)ですな、ブールジニャン神父。まあ、ヴォルテールの悲劇をご覧なすってみることですな。うまいこと哲学的考察がなされ、そのため、民衆に道徳と世間知の本当の意味の学校となっているのです」
「わしはですな」とビネーが口をはさんだ。「昔、≪パリの悪たれ小僧≫という芝居を見たことがあるんですが、老将軍をやった役者がなかなか達者でしたよ。老将軍はお針娘を誘惑した良家の息子をこらしめ、最後には……」
「たしかに」オメーはなおも続けて、「悪い薬剤師がいるのと同様、悪い文学があるもんでして。しかし、だからといって、最高傑作の芸術作品まで十把一からげにして禁止してしまうのはまるで気違いざたですな。前時代の思想、ガリレオを投獄したあの憎むべき時代の思想ですな」
「もちろんよい作品もあればよい作者もありますな」神父は反論した。「しかし、はやりのデコレーションのほどこされた劇場という心も浮きたつような場所に男女が一同に会するんですからな、そのうえに、異教徒風の扮装《ふんそう》を、紅白粉《べにおしろい》、光、ひそやかな声、こういったものがついには不道徳の種をまき、けしからぬ考えや、不純な誘惑を与えますのじゃ。少なくともそれが枢機卿《すうききょう》がたのご意見なのじゃ」そういって神父はかぎたばこを一つまみ親指の上にころがしながら急に神秘的な口調で、「教会が芝居を禁じたのは、それだけの理由があったからじゃ。われわれはただそのおいいつけを守っていればいいのじゃよ」といいたした。
「では、なぜ教会は俳優をしめだすのです」と薬屋が聞いた。「かつては、俳優は宗教の儀式に公然と一役かったのですぞ。さよう、合唱隊の中で、聖劇と呼ぶ一種の道化芝居を演じたのですぞ。それにはときには礼儀の掟《おきて》を破るものがありましたぞ」
神父はただうーんとうなるだけであった。すると、薬屋はたたみかけるように、
「聖書についても同じことがいえますな。つまり、……ほら……きわどい……細かすぎた個所が……さよう…猥《わい》せつなところが」
ブールニジャン神父がいらだたしげにすると、なおも、
「ああ、神父も、この書物が若い娘に読ませられるような本ではないことをお認めになりますな。このわしだっておこりますな、もしアタリーが……」
「いや、聖書をすすめるのはわれわれでなくて、新教徒じゃ!」とたまりかねて神父が叫んだ。
「それはともあれ、この時代に、この文化はなやかなるこの時代に、片意地に、害毒のない、教訓的でときには衛生的でもある知的な楽しみをつみ取ろうとする人がいるとは驚きましたな。ねえ、先生、衛生的ですな?」
「そうですねえ」と医者は、同意見なのだが、だれの気分をもこわしたくないためか、それとも意見などないのか無造作《むぞうさ》に答えた。
それで話にけりがついたかに見えた。するとオメーは最後の打撃を与えるのはこのときとばかりに、
「神父さんの中には、女の子の踊りを見に平服に着がえて行く人もよくいますな」
「とんでもない!」と神父が叫んだ。
「いや、ほんとですよ」
そして、オメーは一言一言言葉をきって、
「ほ、ん、と、う、で、す、よ」と再びいった。
「そうだとしたら、そりゃ悪いことじゃ」とブールニジャン神父は言葉少なに答えて、オメーにしゃべらせた。
「実際、その他のもっともっと悪いことまでしてますよ!」薬屋が声高にいった。
「オメーさん!」と神父がたしなめた。だがその目つきがものすごいので、薬屋も恐れをなし、やさしい口調で、
「ただ、わしがいいたかったのは、寛大こそは、人を宗教に導く最良の方法だということですよ」
「しかり、しかり」神父は気をとりなおして椅子にすわりなおした。
しかし、神父はその後十分といなかった。神父が出ていくと、オメーは医者に向かって、
「舌戦とはこのことですな。坊主《ぼうず》をやっつけてやりましたよ。それもさんざんにね……悪いこといいませんから、奥さんを是非オペラにお連れなさい。一生に一度、ああいう坊主をおこらせるのもまたいいことじゃないですか。もしだれか留守番でもいれば、わしもお伴したいところですがね。早く行っていらっしゃい。ラガルディーはこれが最後の公演ですからね。イギリスにいい条件でひっぱられたそうですから。なんでも大へんな男だそうです。金はうなるほどあるし、恋人三人と料理人を連れて歩いているということですよ。ああいった連中の生活ははでですからな。多少想像力をかきたてるには恋愛|三昧《ざんまい》の生活も必要ですよ。だから、若いときに金をためようなんて気が少しもないものだから、死ぬのは施療《せりょう》院ですよ。さて、お食事ですな。それではまた明日」
この観劇の考えはすぐにシャルルの頭に根をおろしたとみえ、すぐさま夫人に相談した。夫人ははじめ、つかれるとか天気の具合がどうだとか、もったいないとかいって断わった。しかし、いつになくシャルルは譲らなかった。それほど彼はこのリクレーションがエンマには効果的だと思っていたからである。それに今のところ何もさしさわりがなかった。思いがけず母親から三百フラン送ってきたし、当座の借金もたいした金額ではなく、ルウルウへの支払いもずっと先のことだとすれば、何も悩むことがなかったからである。シャルルはそのうえ、エンマが遠慮をしているのだと思ったので、余計すすめた。それでエンマもついにはしかたなく行くことにした。翌日二人は八時に『つばめ』に乗り込んだ。
ヨンヴィルにはひき止める用とて何もないくせに、動けぬものと決めているオメーが見送りにきて、ため息をついた。
「ああ、いってらっしゃいまし。なんともはや羨《うらや》ましいことで」
それから、ひだ飾りの四つついた青い絹の服をつけたエンマに向かって、
「じつにお美しいですな。ルーアンで評判になりますよ」といった。
馬車はボーヴォワジーヌ広場の「赤十文字ホテル」に止まった。これは大きな馬小屋と小さな寝室がいくつもあり、中庭では行商人の泥だらけの馬車の下で鶏《にわとり》がオート麦をあさっているといった、どこの地方都市の場末にいってもあるような安宿であった。――使い古された木のテラスのついた古い宿、冬の夜は風にきしみ、いつも客がたてこんで騒々しく飲み食いしているといった宿。黒いテーブルはブランデー入りコーヒーでべとべとし、分厚いガラス窓ははえの糞《ふん》で黄ばみ、ぬれたナフキンにはブドウ酒のしみがついているといった宿である。都会ふうの衣服を身につけてもなお、馬丁には田舎《いなか》くささが消えないように表はカフェーでも、畑に面した裏のほうは菜園になっているといったような宿であった。シャルルはすぐに、切符を買いに飛び出して行った。彼は前|棧敷《さじき》と並等席、正面棧敷と平土間席とを混同し、説明してもらってもわからずに、切符係からマネージャーのところにやられ、宿に帰っては切符売場にとんぼ返りをし、こうして、幾度となく彼は劇場から小路まで町中を走り回った。
夫人は帽子を買い、手袋や、花束を買い求めた。夫のほうは幕あきを見落とさないかとはらはらしていた。そこで二人はスープを飲むのもそこそこにして、劇場の戸口にきてみると、まだしまっていた。
十五
群衆は壁ぎわに、鉄柵の間に一列に並んで立っていた。町々の角にかけてある大きなポスターには、花文字で、≪ルュシィ・ド・ランメルムーア……ラガルディー・……オペラ……云々≫と印刷されていた。天気のよい、暑い日で、汗が髪を伝わった。人びとはハンカチを取り出して、日に焼けて赤くなった額をふいた。ときどき、川からふきつけてくる生暖かい風が、喫茶店の入り口につけてあるキャンバスの日よけの縁を、ものうく動かしていた。しかし、そこから少しおりると、脂《あぶら》や、皮や油の勾いのする冷たい風に吹かれて涼しくなった。この匂いは黒々とした大きな倉庫がたち並び、だれかがいつも大樽をころがしているシャレット通りからやってくる匂いだった。
あまり早くから棧敷《さじき》にはいって人から笑われないように、エンマは劇場にはいる前に港を一回りしたいといった。ボヴァリーは用心して、ズボンのポケットに手を入れ、切符を握りしめていた。そしてその上に握ったその手を腹に押しあてていた。
入り口をはいると、彼女の胸は高鳴った。自分は階段をのぼって二階に行くのに、群衆は別の廊下を通って右手のほうへ行くのを見ると、思わず得意のほほえみが浮かんだ。彼女は子供のように喜んで、刺繍《ししゅう》のしてある大きな扉を指で押した。廊下のほこりっぽい匂いも胸いっぱい吸った。そして自分のボックスにすわると、まるで公爵夫人のように無造作に身をそらした。
劇場に人がはいりだした。サックからオペラグラスを取り出す者もいれば、常連同志で遠くから挨拶をかわしている者もいた。日ごろの商売の疲れを芸術でいやそうときているのだ。だが、それでも商売は忘れず、もめんや、酒や、藍《あい》染料のことを話し合っていた。老人の姿も見えたが、無表情で穏やかな顔つきをしていた。髪も顔色も白く、鉛の蒸気でいぶした銀メダルに似ていた。めかしこんだ青年たちは「平土間」を気どって歩いていた。チョッキの胸からバラ色や薄緑色のネクタイがのぞいていた。ボヴァリー夫人は、黄色い手袋をきっちりとはめた手に金の丸い握りのついた細身のステッキをついている青年の姿を好ましげに眺めていた。
そのうちに、オーケストラ・ボックスのろうそくに火がともり、シャンデリアが天井からおりてきた。シャンデリアのカットグラスに火がともると、場内が急にはなやかになった。そこへ楽士がぞろぞろとはいってきた。初めは、調音するコントラバスのぶんぶんうなる音、バイオリンのキーキーいう音、トランペットの高鳴る音、ピーピーいうフルートやフラジオレットの音が長く聞こえていた。舞台に拍子木の音が三つなると、ティンパニイの連打が始まり、管楽器が吹奏《すいそう》された。すると、幕がするすると上がって、第一場が現われた。
場は森の中の四つ辻で、左手は柏《かしわ》の木陰が泉となっていた。弁慶縞《べんけいじま》のマントを肩にかけた百姓や貴族が狩りの唄を合唱する。すると、一人の士官が出てきて、両手を天に上げ、悪魔に祈る。別の男が出てくる。二人退場。狩人の合唱再び始る。
彼女は娘のころの本の世界、ウォルター・スコットの世界そのものの中に帰っていた。もやを通して、ヒースの花咲く草原にこだまするスコットランドの風笛の音が聞こえてくるように思えた。そのうえ、小説を読んでいたので脚本もよくわかり、一言一言筋を追っていった。胸にふとわき上がる漠然《ばくぜん》とした思いも、やがて、どっと押し寄せる音楽の嵐に吹き飛ばされた。エンマは音楽に揺られるままに身を任せ、バイオリンの絃が彼女の神経の上で踊っているかのように、彼女のからだ全体が揺れていた。彼女は、衣裳、背景、登場人物、歩くたびに揺れるはりぼての木、ビロードの帽子、マント、剣といった、別世界のもののような調和した世界の中でうごめくこれら空想の所産のすべてに目をこらすいとまがなかった。そこへ、緑の服をつけた従者に財布を投げつけながら、うら若い乙女が登場した。その乙女が一人きりになると、フルートが泉のささやきか、小鳥のさえずりのように響く。ルュシィはりりしくト長調のアリアをうたう。恋を訴え、翼あらばと嘆く。エンマも、今の生活からのがれ、熱い抱擁の中に飛び込んで行きたいと思った。と、突然、エドガール・ラガルディーが現われる。
ラガルディーは南仏人特有の熱っぽさに大理石のような重々しいところを加えた、あのすばらしく青白い顔をしていた。彼はたくましいその身を茶色の胴衣に包んでいた。短刀が左ももでがちゃがちゃ音をたてる。彼は白い歯を見せ、恋のまなざしであたりを見回す。世間では、この男がビアリッツ海辺でボートを修理していたとき、さるポーランドのお姫様がその声を聞きつけ、すっかりのぼせ上がってしまい、財産までもなくしたというのに、このお姫様をそこにすてて、他の女のもとに走ったという話が評判であった。しかし、そんな艶聞《えんぶん》も、彼の名声を高めこそすれ、落とすものではなかった。この小才のきく旅役者は、宣伝文句には必ず詩的文章で、魅惑的な肉体、多感なる気質をうたわせた。美声、押し出しの良さ、知的であるというより情熱的、叙情的というより誇張といった特質は、床屋とか闘牛士とかいった人種にあるあの驚くべき的屋《てきや》根性を一段とひきたてていた。
第一場から、彼は熱っぽく演じた。彼は腕にルュシィを抱き締め、ついと離したかと思うと、かけ戻り、絶望の身振りをした。怒りにかられたかと思うと、今度はどこまでも甘い悲痛な叫びと変わった。その歌声はすすり泣きとキスに満ちたあらわなのど元からあふれ出た。エンマはよく見ようと身を乗り出し、ボックスのビロードにつめをたてた。彼女はコントラバスの伴奏に合わせ、荒れ狂う嵐の中で泣き叫ぶ遭難者のような長く尾をひいて歌うこの悲痛な叫びで胸がいっぱいになった。彼女は自分があわや死にかけた苦しみと陶酔とをそこに見いだしていたのである。ルュシィの歌声は彼女の心のこだまでしかなく、彼女の生活の幻にすぎなかった。それにしても、だれもこんなに彼女を愛してくれた人など一人もいなかった。最後の晩、月の光をあびてあの人が、≪また明日、また明日ね≫といったときにも、あの人はエドガールのように泣いてはくれなかった。場内はブラボーの声で破れんばかりだった。それで終楽章は二度演奏された。恋人たちは、自分たちの墓に添える花を、誓いを、追放、宿命、希望を語った。そして二人が最後の別れの言葉をかわしたとき、エンマは声を上げた。しかし、それは最終部の音に混じってかき消されてしまった。
「いったいどうして、あの男はああまでいじめるんだい?」とボヴァリーが聞いた。
「そうじゃないのよ。恋人なのよ」
「それでも、あいつは彼女の家に復讐《ふくしゅう》するんだといっているし、もう一人の男は≪ぼくはルュシィを愛しているし、愛されていると思っていた≫といってるんだよ? それにあいつは父親と腕を組んで出て行ったじゃないか。あの帽子に鶏《にわとり》の羽根をつけた小柄な醜い男が父親なんだろ?」
エンマがいくら説明してやっても、シャルルは、ジルベートが主人・アシュトンに憎むべきしわざを告白する二重唱になると、ルュシィを欺《あざむ》く贋《にせ》エンゲージ・リングを見て、エドガールから送られた愛のかたみだと思った。シャルルは音楽のおかげで、台詞《せりふ》がだいなしになり、筋がどうなっているのかわからないとこぼした。
「かまわないじゃありませんか。静かにしていらっしゃいな!」とエンマがいった。
「ぼくは性分としてわかりたいほうでね」とシャルルは彼女の肩に身を寄せていった。
「しっ! 静かに!」彼女はじりじりした。
ルュシィは侍《じ》女に半ばかかえられるようにして歩み寄った。髪にはオレンジの王冠をつけ、白|繻子《じゅす》の衣裳よりも青白い顔をしていた。エンマは自分の結婚式の当日を思い出した。麦畑の中の小道を通って教会に行く自分の姿が見える。どうして、この女のようにいやだといい、哀願しなかったのだろう? 反対に自分はうれしかった。自分が奈落《ならく》の底へ急いでいるのだとは気がつかなかったのだ。ああ、若く、ういういしかったあのころ、まだ結婚生活のいとわしさも、不義の幻滅も知らずにいたころに、だれか頼もしい高貴な人に自分の命を預けていたなら、そうしたら、徳も、愛も、欲も義理も一体となって、その幸運の高みからころげ落ちることもなかったろうに。しかし、この幸福というのも、希望とはかなえられないものゆえに、考えられた嘘にちがいない。今となってみれば、彼女は文学が誇張する情熱というものの頼りなさがよくわかった。エンマはそこから考えを変えて、自分の悩みを再現する芝居をただ目を楽しませるだけの作りごととして見ていた。そして、舞台の奥手のビロードのカーテンの下から黒いマントを着た男が現われると、心からさげすんだような笑いを浮かべた。
その男が動くと、スペイン帽が落ちた。そしてやがて、楽器も歌手も六重奏曲を奏し始めた。怒りにかられたエドガールはそのさえた声音で他を圧していた。アシュトンは低声《バス》で決闘をエドガールに挑戦した。ルュシィはかん高く嘆願した。アルチュールは傍《かたわら》でバリトンで歌い、神父のバス・バリトンはパイプオルガンのように響き、その歌を女性合唱で繰り返し、美しく歌っていた。彼らはみな、一列に並び、身振りを始めた。怒り、復讐《ふくしゅう》、嫉妬《しっと》、恐怖、哀れみ、驚きが一同の口から一時にほとばしった。侮辱《ぶじょく》された恋人は抜き身の剣を振り回した。すると、その胸が動くにつれ、レースの襟飾《えりかざ》りがぐいと飛び上がった。彼は大|股《また》で左右を歩き回り、踝《くるぶし》のところでらっぱ形に開いている赤い靴の拍車を床に鳴らした。観衆の情熱をこんなにもかきたてるのだから、この人にはつきせぬ愛の泉があるのではないかとエンマは思った。すると彼の演ずる詩的な役の前ではこの芝居にけちをつけた気持ちも雲散霧消《うんさんむしょう》してしまい、役によってそそられる夢によって、役者自身へと思いを馳《は》せ、彼の生活を想像してみようと思った。それははでやかで、常とは違うすばらしい生活。そんな生活を自分も、運がよければ送り得たかもしれないのだ。知り合って、愛し合ったかもしれないのだ。あの人といっしょにヨーロッパの国々を、町から町へと歩き回り、疲れも名声も共にし、人びとがあの人に投げつける花束を集め、手ずから衣裳に刺繍《ししゅう》してあげるのだ。毎晩、ボックスの奥に、金の格子を背にして、彼女のためだけにうたってくれるあの人の声に聞きほれ、あの人の心を聞き分けるのだ。そうすれば舞台から、あの人はわたしを見てくれるに違いない。そこまで想像すると、狂おしいほどの喜びを感じた。ほらあの人はわたしを見ている! エンマは力かぎり逃げて行って、愛の化身《けしん》そのもののような彼の腕の中に飛び込んで行き、こういいたかった。
「わたしを連れて行って、さらっていって! 逃げましょう! わたしはあなたのものよ。わたしの熱い思いも、夢もみんなあなたのものです」
幕がおりた。
ガスの匂いが人いきれに混じっていた。扇子《せんす》の風があたりの空気をいっそう暑くるしくしていた。エンマは外に出たいと思った。人びとは廊下にひしめいていた。そこで彼女は息のつまるような動悸《どうき》がして椅子にすわった。シャルルは彼女が気を失うのではないかと心配して食堂にオレンジエードをとりに行った。
席に戻るのも一仕事だった。手にコップを持っているために一歩歩くごとに人にぶつかった。そのあげく、袖の短い服を着たルーアン女の肩に中身の半分以上をこぼしてしまった。女は冷たい水が流れるのを感じると、首をしめられたくじゃくのような声を出した。夫の製糸工場主はその不手際《ふてぎわ》をなじり、ハンカチで桜色のタフタの服についたしみをふき、気むずかしそうな口調で、やれ、賠償《ばいしょう》の、費用の、払い戻しだのと叫んだ。やっとのことで妻のもとに戻ると、息を切らして、
「あそこで立ち往生するかと思った。なんていう人ごみだ!」といった。
それにつけ加えて、
「あそこでだれに会ったと思う? レオン君だよ」
「レオン君ですって?」
「そうだよ。今、おまえに挨拶《あいさつ》にくるとさ」
この言葉が終わるか終わらないうちに、もとヨンヴィルの書記がボックスにはいってきた。
レオンは貴族のように気軽く手をさし出した。ボヴァリー夫人も機械的に手をさしのべた。それはより強い意志の力にひきずられたためであろう。この人の手を握るのは、窓辺《まどべ》に立って別れの挨拶をかわしたあの青葉に雨の降っていた春の宵以来のことだった。しかし、すぐにその場所がらに気づき、思い出の中にひたり込もうとする気持ちをひきたてひきたて口早にしゃべった。
「あら、今晩は、でもどうしてこちらへ?」
「しーっ」平土間から声がした。第三幕が始まろうとしていたのである。
「ではルーアンにおいでですの?」
「ええ」
「いつから?」
「外に出ろ? 出て行け!」
みながこちらを振り返った。二人は黙った。
しかし、そのときから、彼女は何も聞いてはいなかった。客の合唱も、アシュトンとその従者の場も、ニ長調の二重唱も彼女には遠くに感じられた。楽器の音はかすれ、登場人物もはるか遠くに押しやられたかのようであった。彼女は薬屋の家でのトランプ遊びや、乳母《うば》の家までの散歩や、青葉棚の下で本を読んだことなどを、また炉辺《ろばた》の語らいを、忘れていた秘めやかな、つましくやさしいあの恋を思い出した。なんだってこの人は戻ってきたのだろう? どんな絆《きずな》があってこの人はわたしの生活に再びはいってきたのだろう。レオンは壁にもたれ、エンマの後ろに立っていた。ときどき、彼の生暖かい鼻息が髪の毛にあたるとエンマは身ぶるいした。
「おもしろいですか?」彼は近々と身をかがめると、そういった。すると彼の口ひげの先が彼女の頬に軽く触れた。
彼女は無造作に、
「いいえ、ちっとも」と答えた。
するとレオンはここを出て、どこかでアイスクリームでも食べませんかと誘った。
「いや。もうちょっとここにいようよ」ボヴァリーがいった。「髪を振り乱したから、おもしろくなるぞ」
狂乱の場面はエンマにはちっともおもしろくなかった。歌手の演技は大げさだった。
「あの人、誇張しているわ」と彼女は聞きいっているシャルルのほうを向いていった。
「ああ。まあ、そのようだな」とシャルルは心から楽しんでいる気持ちと妻の意見を尊重する気持ちとの板ばさみになってあやふやに答えた。
レオンはため息をついて、
「なんて暑いんだろう」
「たまらないですわね。ほんとうに」
「おまえ苦しいのかい?」ボヴァリーが聞いた。
「ええ、息がつまりそう。出ましょう」
レオン君はそっと長いレースのショールを彼女の肩にかけた。彼らは連れだって、港ぞいの戸外コーヒー店のガラス戸の前にすわった。はじめはエンマの病気が話題になったが、エンマはときどき、レオンさんにはつまらない話でしょうといって、話の腰を折った。レオンは、パリとノルマンディーとでは事務の取扱い方が違うので、大きな事務所に二年間つとめる計画でルーアンに勉強しにきているのだと語った。ついでベルトのこと、オメー一家のこと、ルフワンソワのおかみの安否をたずねた。夫が目の前にいては、レオンとエンマは語り合うこととてなく、やがて談話はとだえた。
劇場から出てきた人びとは「おお、美しき天使、ルュシィよ」と口ずさんだり、声高にうたいながら舗道を通って行った。すると、レオンは通《つう》ぶって、音楽のことを語りだした。タンブルニもルビニもペルシアニもグリジーも見たが、あの人たちに比べると、ラガルディーははでにははでだが、たいした歌手ではないといった。
「しかし、噂《うわさ》によると、大詰めは実にすばらしいということですな。見そこなったのが実に残念。これからおもしろくなるというところでしたからな」とシャルルはラム入りシャーベットをちびりちびりやりながら口をはさんだ。
「しかし、近いうちに再演するそうだということですし」と書記はいった。
しかし、シャルルは明日は帰らねばならないからと答えた。
「もっとも」シャルルは妻のほうを向いて、「おまえが残るというなら別だがね」とつけ加えた。
レオンは、望みをとげる思いがけないこの機会を目前にして、策を変え、ラガルディーを絶賛し、みごとだ、すばらしいといった。するとシャルルは調子にのって、
「日曜日に帰ってくればよいからな。さあ、決めておしまい。少しでもからだによいと思ったら、遠慮することはないのだよ」とすすめた。
その間、まわりのテーブルはかたづけられ、一人のボーイがそっと三人のかたわらに立った。シャルルはそれに気がつき、財布を出した。書記はその腕を押え、勘定の他に、銀貨二枚を大理石のテーブルの上にちゃりんと投げ出した。
「これは困りましたな。払いをあなたに……」とボヴァリーは口ごもった。
相手は気さくな身振りで、なんのこれしきのことという態度を示し、帽子をとって、
「では明日、六時に、きっとですよ」といった。
シャルルは再度、自分は長居はできないからといって断わり、でもエンマには用がないからというと、エンマは不思議なほほえみを浮かべて、
「でも、わたし、どうしたらよいかよくわかりませんの……」といった。
「それでは、よく考えてみることだ。そのうちに決心がつくさ。一晩寝れば、よい考えが浮かぶものだというからね」
二人についてきたレオンには、
「今では、君もこちらにお住まいなのだから、ときには家に夕食にでもいらっしゃい」
書記は、きっとまいります、そのうえ、ヨンヴィルには事務所の用事で行く用がありますからといった。三人はサン・テルブラン街で別れた。ちょうど、寺院では十一時半の鐘が鳴っていた。
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第三部
一
レオンは法律の勉強をするかたわら、ちょくちょく「|わらの家《ラ・ショノミエール》〔モンパルナスにあった野外舞踊場。学生や女工の遊び場であった〕」にもかよい、浮気な女工たちに、「上品だ」というので、かなりもてた。しかし学生らしい学生で、髪も長すぎず、短すぎず月はじめに一学期分の月謝を使ってしまうこともなく、教師たちともうまくいっていた。放蕩《ほうとう》はというと、生まれつき臆病《おくびょう》で気が弱いため、さし控えていた。
部屋や、あるいは夕方、ルュクサンブール公園の菩提樹《ぼだいじゅ》の木陰で、本を読んでいると、六法全書を手からすべり落としたまま、エンマの思い出にふけることがよくあった。しかし、しだいにその感情はうすれ、そのうえに他の欲望が重なった。しかし、それでもなおその感情は息づいていた。つまり、レオンは希望をすっかり失ったわけではなく、彼の目には空想の木の葉にみのる金色の果物と見える、不確かな見込みのようなものが未来の中に揺らいでいたのである。
三年の間をおいて、またエンマに出会うと、彼の情熱は再び燃え上がった。今度こそは必ずあの女を手に入れようと、彼は心に誓った。それに、遊び者の友だちとつきあうようになってさほど内気でもなくなっていた。そして、田舎に帰ってくると、舗装道路を歩いたこともないような田舎者どもを軽蔑するまでになっていた。おそらく、この男は、勲章《くんしょう》も馬車もある著名医のサロンで、レースずくめのパリ女に出会えば、まるで子供のようにふるえたであろう。だが、このルーアンという港町で、一介の田舎医者の妻君相手では、はなから自信たっぷりで、落ち着き払っていた。人の落ち着きというものは、その人物のいる場所によるものである。アパートの中二階と五階では物の言い方も違ってくる。金持ちの女ともなれば、貞操を守るため、コルセットの内に、まるで鎧《よろい》のように金を巻きつけていると思えてくるものである。
昨夜、ボヴァリー夫妻に別れると、レオンは二人をかなり遠くからつけていった。二人が「赤十文字ホテル」に逗留《とうりゅう》しているのを見とどけると、レオンは踵《きびす》を返して帰って行き、一晩中策をめぐらしていた。
翌日、レオンが五時ごろ、宿屋の台所にはいって行くと、のどはつまり、頬は青ざめた。しかし、心には、是が非でもという、臆病もの特有の堅い決心をいだいていた。
「旦那はお帰りになりましただよ」との女中の答えに、レオンは幸先《さいさき》いいぞと思い、二階に上がって行った。
エンマは、レオンがはいってきても驚かなかった。それどころか反対に、宿を教えるのを忘れてごめんなさいねとあやまった。
「だいたい見当がつきましたよ」とレオンが答えた。
「あら、どうしてですの?」
彼は自然になんとなくこちらのほうにきてしまったのですと嘘《うそ》をついた。エンマはほほえんだ。するとレオンはへまを償うように、今まで町中のホテルというホテルを一軒一軒あたっていたのですといった。
「とうとうお残りになることになさったのですね」
「ええ、でも、やっぱりよくなかったと思いますわ。やるべき仕事がある身なのに、とうてい無理な楽しみにへたになれるとあとで困りますもの」
「いや、思うんですが……」
「でも、あなたは女ではないから、おわかりにならないんですわ」
しかし、男にも悩みがあるということから、話は哲学的問題で始まった。エンマはそれからそれへと地上の愛のむなしさを、心を開くこともない永遠の孤独を語った。
立派《りっぱ》に見せんがためか、それともエンマの憂愁にそそられ、まねてみたのか、レオンは勉強がいつも退屈でたまらなかったといった。彼は訴訟《そしょう》手続きの勉強がめんどうでいらいらしたこと、もっと他の職に気をひかれたこと、母親に、手紙をよこすごとにたえず責めたててきたことなどを語った。こうして二人はしだいしだいに悩みの種明《たねあ》かしまでするようになり、話につれて、その打ち明け話に少し興奮していった。しかし、二人は、ときどき、本当の考えを披瀝《ひれき》しかね、なにか他のうまい表現はないものかと考え込んだ。エンマは他の男を恋したことをいわなかったし、レオンもエンマを忘れていたとはいわなかった。
きっと、彼は、舞踏会のあとで、仮装した女たちと〔一八三〇年ごろ、荷上げ人足ふうに仮装することがはやった〕夕食をとったことを忘れていたのだろうし、彼女のほうも、朝、恋人の館へ草原を駆けて行ったあのかつてのあいびきのことなど思い出しもしなかったのだろう。町の騒音は二人の所まで聞こえてこなかった。また、この部屋も、二人の孤独をなおいっそう閉じ込めるようにわざと小さく作られたかに見えた。エンマは綾織《あやおり》のガウンをまとい、髷《まげ》を古びた肱掛椅子の背にもたせていた。彼女が前にいると、黄色の壁紙が後光に見違えるほどだった。彼女の頭が鏡にうつり、まん中から分けた白い分け目や、お下げの下にのぞいている耳朶《みみたぶ》を見せていた。
「あら、ごめんなさい」とエンマはいった。「わたしばかでしたわね。くどくど繰り言をならべて……おあきになったでしょう」
「いや、どういたしまして」
「わたしがどんな夢を見ていたかおわかりなりませんわ!」とエンマは涙をたたえたその美しい目を天井にやっていった。
「いや、ぼくも、ぼくも悩んでいたのです。ときどき、群衆の騒がしさに気をまぎらそうと外に出かけ、河岸を歩き回ったのです。それでもぼくにつきまとう妄執《もうしゅう》を払い落とすことができませんでした。大通りの木版屋にイタリア製の詩の女神を描いた版画がかかっていました。女神は衣をまとい、月を眺めていました。ほどいた髪に勿忘《わすれな》草がさしてありました。なにかぼくはその絵にひかれて、何度も見に行きました。ぼくはそこに何時間も立たずんでいました」
そしてふるえる声で、
「その女神はどこかあなたに似ていたのです」
ボヴァリー夫人は顔をそむけた。思わず唇に上がったほほえみをレオンに見とられないようにそうしたのである。
「時おり、あなたあての手紙を書きましたが、破ってしまいました」
彼女は答えなかった。レオンはなおも、
「ぼくは、偶然あなたにお会いできると思っておりました。町角であなたを見かけた気もしました。入り口に、あなたのしていらっしゃったショールやヴェールのひらめいている辻馬車を見れば必ずあとを追いました」
エンマは口をはさまずに、レオンにしゃべらしておくことにしたようであった。腕を組み、顔を伏せ、彼女は靴についた飾りのバラを見ていた。彼女は繻子《しゅす》の靴の中でときどきそっと足の指を動かしていた。
彼女は、しばらくするとため息をついた。
「一番残念なのは、わたしのように役にも立たない生活を送っていることではないでしょうか? もし、わたしたちの悩みがだれかの役に立つことができるのなら、犠牲だと思ってがまんもできるでしょうに!」
レオンは貞操や、義務や、沈黙の犠牲をたたえ始めた。彼自身、満たすことのできない献身の欲求を強く感じているのですともいった。
「わたし、施療院《せりょういん》の尼さんになりたくてしかたありませんの」とエンマがいった。
「ああ、男にはそういう聖なる職などないのです。おそらく医者以外には」
エンマは軽く肩をすくめて、レオンの話をさえぎり、自分が死にかけた病気のことを嘆き、残念でしたわ、死んでしまえばよかったのにといった。レオンはただちに「墓地の静けさ」をうらやみ、ある晩、遺言状をしたため、彼女から贈られたビロード縁の膝掛けで遺体を包み、埋葬してほしいと書いたと告白した。というのも二人は過去がそういうものであればよかったと思っていたからである。そのため互いに理想像を作り上げ、そこから彼らの過去を理想にあてはめようとしたのである。それゆえ、言葉はつねに、感情を引き伸ばすローラーとなった。
しかし、この膝掛けの作り話に、
「でも、どうしてですの?」とエンマはたずねた。
「どうして?」
レオンはいいよどんだ。
「あなたをとてもお慕いしているからです」
やっとの思いでやってのけたことに満足して、レオンは横目で彼女の顔色をうかがった。
一陣の風が吹いて、雲をはらいのけた空のような顔つきであった。影を落としていた憂鬱《ゆううつ》な思いが彼女の青い目から姿を消し、顔全体が輝いていた。
レオンは待っていた。彼女はついに答えた。
「そうかと思っておりましたわ」
それから二人は今、二人がたった一言、喜びや悲しみという言葉で表現したばかりの過去の生活の一部始終を語り合った。レオンは野ぶどうで作った揺籠《ゆりかご》や彼女が着ていた服を、部屋の家具を、家全体を思い出した。
「あのサボテン、どうしました?」
「今年の冬、寒さにやられてしまいましたわ」
「ああ、ぼくはどんなにあのサボテンを思ったことでしょう。夏の朝など、太陽が芝生にさすと昔のようにサボテンの姿が目に浮かんでくるのです。そして花の手入れをするあなたのむきだしの腕が見えるのです」
「ああ、おやさしいこと」そういってエンマは彼に手をさし出した。
レオンはすばやくその手にくちづけをした。そして大きく息をつくと、
「あの当時、ぼくにとって、あなたはぼくの生命《いのち》をとりこにするある神秘的な力でした。たとえば、一度、お宅にうかがったときのことですが、でもおぼえておいでではないでしょうね?」
「いいえ、おぼえておりましてよ。それで?」とエンマがいった。
「あなたはお出かけになるところで玄関の次の間の階段の一番下の段のところにおいででした。青い小花のついた帽子をかぶっていらっしゃいました。お誘いを受けもしないのに、ぼくはついついお伴してしまいました。一分ごとに自分のばかさ加減がよくよくわかるのですが、思いきってお伴をする勇気もなく、そうかといってお別れするわけにもいかず、おめおめとおそばを歩き続けたのでした。あなたがお店におはいりになると、ぼくは道端におりました。ショーウィンドーから、手袋をぬぎ、カウンターの上でお金を数えていらっしゃるお姿が見えました。それからテュバッシュ夫人の家の呼び鈴をお鳴らしになりました。だれかが戸をあけました。それなのにぼくはばかみたいにしまった重たい戸の前に立っておりました」
ボヴァリー夫人は、話を聞きながら、いまさらのようにふけたことに驚いてしまった。再び現われたすべての事物が彼女の生活を広げるかに思われた。それは、果てしない感傷のようなもので、彼女は繰り返し思い返していた。そして彼女はときどき、小声で、まぶたを半ば閉じ、
「ほんとうですわ、ほんとうですわ!」とささやいた。
二人は、ボーヴォワジーヌ街にあるほうぼうの大時計が八時を打つのを聞いていた。ボーヴォワジーヌ街には学校や教会や空家《あきや》になっている大邸宅がたくさんあった。二人はもう話をやめていた。見つめ合っていると、見つめ合った瞳から何か荘重な響きが流れ出てくるようで、頭の中でかすかなざわめきが感じられた。二人は手を重ね合わせた。過去も未来も、思い出も夢も、すべてがこの恍惚《こうこつ》の楽しさのうちにとけ込んでいた。夜の影が、まだ日があたっている壁にも濃くおりていた。影に半分かくれた所では「ネール塔」〔大デュマとガイヤデル合作の伝説にもとづく歴史劇。一八三一年初演〕の四場面を描いた四枚の版画のどぎつい彩《いろどり》が光っていた。絵の下にはスペイン語とフランス語で説明がついていた。上げ下げ窓から、まっ黒な空がとがった屋根の間からほの見えた。
エンマは立ち上がって、たんすの上に置いてある二本のろうそくに火をつけ、またすわった。
「それで?」とレオンが聞いた。
「それで?」とエンマが答えた。
レオンは途中でとぎれた話の継ぎ穂を捜していた。そのときエンマが、
「今まで、どなたもあなたのような感情を語ってくださったかたはございませんでしたわ」といった。
書記は生まれつきやさしい性格は理解されにくいものですと語った。しかし彼はべつで一目で好きになりました。神様のおぼしめしで、もっと早く出会い、互いに堅く結びついていたなら、どんなにしあわせだろうと考えると、気もそぞろになります、と打ち明けた。
「ときどき、わたしもそれを考えておりましたわ」とエンマが答えた。
「すばらしい夢だ」
そして、彼女の白くて長い帯の青い玉縁飾りにそっとさわりながら、
「もう一度やり直したところでだれが文句をいいましょう」
「いけませんわ。わたしはふけすぎていますわ。それにあなたは若すぎますわ。どうぞわたしを忘れてくださいな。他の女があなたを愛してくれますわ。そしてあなたもそのかたを愛すようになりますわ」
「でも、これほどじゃありませんよ!」
「坊やねえ! さあ、おとなしくして、お願い!」
彼女は二人の恋が不可能であること、だから昔のように兄弟のような友情で結び合わねばならないと説き聞かせた。
このようにエンマはいうのだが、果たして本気なのであろうか。エンマは多分、誘惑の魅力にひかれ、身を守るのに夢中のあまり自分では何もわからなかったのであろう。やさしい目つきで若い男を見つめると、エンマはふるえる手でこわごわ愛撫《あいぶ》しているその手をそっと押しとどめた。
「ああ、ごめんなさい」といって、レオンは身をひいた。
そしてエンマは、ロドルフが腕を広げて追いかけてきたときの大胆な行動よりも彼女にとってより危険なこの臆病さを前にすると、漠然とした恐れにとらわれた。これほど男が美しく見えたことがなかった。デリケートな率直さが彼の物腰からもうかがわれた。レオンはそり返っている細長いまつ毛を伏せた。なめらかな彼の頬が赤らんだ――きっと、わたしが欲しいからだ――と彼女は思った。エンマはやもたてもたまらず、頬に唇を寄せたくなった。そこで、時刻を見るためか、振り子のほうを身を乗り出すようにして、
「まあ、遅くなりましたこと。しゃべりすぎたんですわ」
レオンはその意味がわかり、帽子を捜した。
「芝居を忘れるところでしたわ。そのためにボヴァリーはわたしを残してくれましたのに。グラン・ポンのロルモーさんが奥さんともどもわたしを連れて行ってくださることになっていたのでしたけれど」
機を失ってしまった。彼女はあすはもう帰る身だからである。
「ほんとですか?」とレオンが聞いた。
「ええ」
「それでも、またお目にかからなくては、お話したいことがあるんですけれど……」
「何を?」
「重大な、まじめな話です。そうです、まず、お帰りになってはいけませんよ。そんなこと不可能です。ああ、わかってください。ぼくの話を聞いてください。ぼくのいうことがわからないのですか? 察してはくださらないのでしょうか?」
「よくわかりましたわ」とエンマがいった。
「ああ、冗談《じょうだん》ですね。結構です。お願いです。せめて、一度だけ会ってください」
「いいですわ」
彼女は思いとどまり、そしてうっとりして、
「でも、ここでは困りますわ!」
「どこなりと結構です」
「では」
彼女は考え込むようにして、ぶっきらぼうに、
「あす、十一時、聖堂で」といった。
「まいります」とレオンは彼女の手をつかむなり叫んだ。彼女はその手をひっこめた。二人ともしばらく立っていた。レオンはエンマの後ろにいた。レオンは顔を伏せている彼女の首に身をかがめ、項《うなじ》にながながとキスした。
「あら、ばかなことを、いけません」と彼女はキスが重ねられる間、よく通る小さな笑い声をたてながらいった。
さて、エンマの肩越しに頭をめぐらし、彼女の目に承諾の色を捜した。だが、その目は氷のような威厳に満ちていた。
レオンは三歩下がって、出て行こうとした。彼は戸口に立ち、ふるえる声でささやいた。
「またあしたね」
彼女はうなずいて答え、小鳥のように次の間にはいって行った。
エンマは、その晩、書記にあてて、あいびきを断わるとりとめのない手紙を書いた。もう、今となってはすべては終わってしまったのでございます。ですからお互いの幸福のために、お会いしないほうがよいのでございます、と書いた。しかし、手紙に封をすると、レオンの住所を知らないため、困ってしまった。
「手渡しすればいいわ、どうせくるのだから」と思った。
翌朝、レオンは窓をあけ、バルコニーで鼻歌をうたった。自分で靴にエナメルを塗り、それも何回も塗った。白いズボンをはき、華奢《きゃしゃ》な靴をはき、青い上衣を着、ハンカチーフにありったけの香水をふりかけた。そのうえ、髪に自然な優雅さを与えるために、カールをかけたり、といてみたりした。
「まだ早すぎる」とレオンは床屋の鳩《はと》時計を見上げて思った。時計は九時をさしていた。
彼は月おくれの流行雑誌を読み、外に出た。たばこをふかし、三町ほど先に進むと、もう時間だと思い、ゆっくり、ノートル・ダム大聖堂の中庭へと進んで行った。
夏の晴れた朝であった。金銀細工商の店先で銀の器が輝いていた。聖堂に斜めにさしこむ日の光に敷石の割れ目がまぶしいほど輝いていた。一群の鳥がクローバ形の飾りのついた鐘楼《しょうろう》のまわりの青空を舞っていた。人声でわき返っている広場からは、舗道を飾る花――バラ、ジャスミン、カーネーション、水仙、オランダ水仙――の匂《にお》いがかおってきた。そういった花々の間には、ところどころにみずみずしい犬薄荷《いぬはっか》やはこべといった草が生えていた。広場のまん中にある噴水が音をたて、ピラミッド形に積み上げたメロンの山の間に、大きなパラソルを立てて、女たちが紙ですみれの花束をくるんでいた。
レオンは一束買った。女に花を買うなどこれがはじめてだった。すみれの香りをかぐと、この男の胸は誇らしさにふくらんだ。女にこのように敬意を表すれば、その敬意がそのまま自分に帰ってくるのではないかと思われた。
しかし、人に見られたら恥ずかしいので、彼は思い切って聖堂の中にはいって行った。
堂守りは左手の扉のまん前に、「踊るマリアンヌ」の下の入り口に立っていた。堂守りは帽子に羽飾りをつけ、ふくらはぎには長剣をきらめかし、握りのあるステッキを持ち、その姿は枢機卿《すうききょう》よりはるかに麗々しく、まるで聖体器のように輝いていた。
その男はレオンの方に近づいてきた。そして神父さんが子供に問いかけるときの、あの、口先だけやさしい微笑を浮かべると、
「そちらは、さだめし、この土地のかたではいらっしゃらないようですな。中の宝物をごらんになりませんか?」と聞いた。
「いや、結構」と相手が答えた。
そこで、まずレオンは側廊を一回りし、次に広場に見に行った。エンマはこなかった。そこで彼は内陣まではいって行った。
満々と聖水をたたえた聖水盤に教会の中央広間が影を落とし、尖塔や一部のステンド・グラスまで映っていた。しかし、ステンド・グラスの像は大理石の縁に当たって砕け、その向こうの敷石の上に色とりどりのじゅうたんのように続いていた。外の強い日ざしが、開いた三枚の扉から幅の広い三筋の光線となって堂内にさし込んでいた。ときどき、奥を、寺男が通り過ぎた。その男は祭壇の前を通り過ぎるとき、いそいでいる信者のように軽く膝を折った。カットグラスのシャンデリアが静かに下がってきた。内陣では銀のランプに火がともっていた。横手の礼拝所や内部の暗い所からときどき、しまる格子の音といっしょに一種のため息のような声がもれてきた。格子の音は高い丸天井に響いていた。
レオンは落ち着いた足どりで壁伝いに歩いていた。これまで人生がこれほど美しく見えたことがなかった。エンマはすぐにやってくる。すばらしい美しさで、どきどきしながら、人目をしのんでやってくるのだ。風にひるがえる服、金ぶちめがねを胸につるし、華奢《きゃしゃ》な靴、まだ見たこともない優雅《ゆうが》なものに包まれ、あわや操を落とさんとする者のえにもいえぬ魅力をたたえて、やってくるのだ。聖堂が彼女のそばではまるで大きな部屋となるのだ。あの高い丸天井も身をかがめ、彼女の愛の告白を聞くのだ。あのつり香炉も、香の煙の中で、彼女を天使にも見たてようと燃えるのだ。
ところが、エンマはやってこなかった。レオンは一脚の椅子に腰をおろした。かごを持った一人の漁師を描いた青いステンド・グラスが目についた。彼は長いことじっと見つめていた。そして、魚のうろこの数を、船頭の胴衣のボタン数を数えていた。だが一方、内心は、エンマを求めてうろついていたのである。
そばにいる堂守りは、案内も頼まず自分勝手に堂内を観賞しているこの男を内心ではおこっていた。彼にはレオンが、物を盗んだり、冒涜《ぼうとく》をおかすことにも匹敵するとんでもない罪深いしわざを行なっているように見えた。
そのとき、敷石に衣《きぬ》ずれの音が聞こえ、帽子のつばと黒いケープが見えた。エンマだ! レオンは立ち上がり、出迎えに駆け寄った。
エンマは青ざめていた。そしてせかせかと歩み寄った。
「お読みになって!」彼女はそういって、彼に紙きれを手渡した。「いえ、およしになって!」と、彼女は急に手をひっこめ、聖母の礼拝所に飛び込むなり、椅子のそばにひざまずいて祈りだした。
レオンは、この熱心な信者ぶりにいらだった。それにしても、あいびきの最中、アンダルシアの某公爵夫人のように、われを忘れて祈っているエンマを見ると、それなりに魅力があった。それにもすぐにあきた。彼女の祈りがなかなか終わらなかったからである。
エンマは祈っていた。というよりむしろ、突然、天から何か決心がおりてくるのを望んで、祈ろうとつとめていたのである。神の助けをかりるために、彼女は大きな花びんの中に、生けてある白い銀木犀《ぎんもくせい》の花の匂いを吸いこんだ。そして、堂内のしじまに耳を傾けた。だが、それは彼女の心をいっそう乱すことになった。
エンマは立ち上がった。二人は出て行こうとした。そのとき堂守りが近づいてきて、
「どうやら奥さんは見学のおかたのようでございますな。拝観はいかがですか?」とたずねた。
「いや、結構だ」と書記がいった。
「どうしてですの?」
エンマは、この貞操の危機に、マリア様であろうと、彫刻であろうと、墓であろうと、チャンスとあればいずれにも手を伸ばしてすがりつこうとしていたのである。
さて、堂守りは、「順序どおりに」進んで行こうとして、二人を広場のそばの入り口まで連れて行った。彼は杖で、黒い敷石で描かれた大きな円をさした。それには、銘も、のみもはいっていなかった。
「これはアンボワーズの名鐘の周囲をかたどったものでございます」と堂守りはおごそかな声で説明しだした。「重さ四万ポンド。ヨーロッパ全土に二つとなかった鐘だそうでございます。これを作りました職人は狂気のあまり悶死《もんし》したそうでございます」
「行きましょう」とレオンがいった。
堂守りのじいさんは歩きだした。聖母の堂に戻ってくると、全体をまとめるように腕を広げ、果樹|墻《しょう》を見せる田舎の地主よりもはるかに誇らしげに、
「この聖母《マリア》様のお像の下には、一四六五年七月十六日、モントレリイの戦役で戦死なされた、ポワトゥーの大元帥にしてノルマンディーの総督であった、ヴァレンヌおよびブリサックの殿様、ピエール・ド・ブレゼ様が埋葬されてあるのでございます」
レオンは唇をかみ、足を踏みならした。
「右手の、鉄の鎧《よろい》に身を固め、後ろ足で立った馬にうちまたがったご人《じん》は、その孫、ルイ・ド・ブレゼ様でございます。ブレバレおよびモンショーヴェの殿様にて、モールヴニェ伯、モーニイ男爵。王の侍従にして、叙勲《じょくん》の騎士、祖父君に同じくノルマンディー総督であられ、そこに書かれていますように、一五三一年七月二十三日、日曜日におかくれあそばされたかたでございます。その下の、今にも墓所におりて行かれんとする姿を刻みましたのもお察しどおり、同じかたでございます。これほど諸行無常のことわりを正確に表わしたものはほかにはないのではないでしょうか?」
ボヴァリー夫人は眼鏡を取り出した。レオンは突っ立ったまま夫人を見つめていた。彼は一言もいおうともせず、微動だにしなかった。しかし、心の中では一方のおしゃべりと他方の人の冷淡さにがっかりしていた。
とめどもなく、案内人はしゃべりまくっていた。
「そのそばで、ひざまずいて泣いていらっしゃるのが奥方様、ディアーヌ・ド・ポワチエ様、ブレゼ伯爵夫人、ヴァランティノア公爵夫人でございまして、お生まれは一四九九年、一五六六年にご逝去《せいきょ》なさりました。左手の子供を抱いていらっしゃるのが聖母マリア様でございます。それではこちらへお回りください。ここがアンボワーズ家のお墓でございます。このお二人とも、枢機卿とルーアン大司教をなさいました。このかたはルイ十二世の宰相《さいしょう》をなされ、この聖堂にたいそうご寄進されたかたでございます。ご遺言には、貧者に三万エキュおくるべしと書かれてあったのでございます」
よどみもなく、説明し続け、彼は二人を手すりのこわれたのがいっぱい詰め込んである礼拝堂の中に入れた。二、三手すりを動かして、その中から、できそこないの像らしい土くれのようなものを取り出してきた。
「かつては、イギリス国王であり、ノルマンディー公であらせられました獅子王・リチャードの墓を飾ったお品でございましたのですが」とながながと嘆息をついた。「このようにしたのも、はい、カルヴァン一派のしわざでございます。やつらはわざと大司教|猊下《げいか》のご座所の下の地の中に埋めたのでございますよ。さあ、これが、猊下《げいか》のお住まいに通じる扉でございます。それでは『怪獣』のステンド・グラスをご案内いたします」
すると、レオンはポケットから銀貨を一枚取り出すと、エンマの腕を取った。堂守りはあっけにとられ、まだ見物するものがたくさんあるのに、なぜふいにこんなときに心づけをくれるのかわけがわからなかった。そこで、二人に、
「もし、尖塔が、まだ尖塔が」と呼びかけた。
「いいんだよ」
「それはいけません。塔の高さは四四〇フィート、エジプトの大ピラミッドより九フィートほど低いだけです。総|鋳物《いもの》製にして……」
レオンは逃げ出した。これでかれこれもう二時間も堂内に石のように動きを封じられてきた彼の恋心は、今度は、煙となってあの尖塔から、気まぐれな鋳物師が試しに作ってみたできそこないの管のような細長い鐘楼、無格好《ぶかっこう》にも聖堂の上にあぶなっかしい様子でのっかっているあのすかし彫りの煙突から立ちのぼって消えてゆきそうな気がしたのである。
「どこにまいりますの?」エンマが聞いた。
それには答えず、レオンはずんずん歩いて行った。ボヴァリー夫人が聖水に指をひたしていると、二人の後ろから規則正しく響く杖の音に混ざって、息をはずましている大きな息づかいが聞こえた。レオンは後ろを振り返った。
「もし!」
「なんですか?」
くだんの堂守りだった。二十冊ばかりの仮綴《かりとじ》本を腕にかかえ込み、今や、下腹にのせて平均をとっていた。「聖堂に関する参考資料」であった。
「いいかげんにしろ!」とレオンはどなりつけ、堂内から飛び出した。
道で子供が遊んでいた。
「辻馬車を呼んできてくれないか!」
子供は弾丸のように、カートル・ヴァン通りに飛び出して行った。すると、しばらくは二人だけになり、顔を見合わせて、ばつの悪そうにしていた。
「ああ、レオン!……ほんとうに……困ってしまいますわ……失礼しなくては」エンマは口ごもった。やがて、真剣な顔つきになって、
「いけないことですわ、わかるでしょ」
「ええ、なにが。パリではこんなこと日常|茶飯事《さはんじ》ですよ」
この反論もできぬ正論のようなこの言葉にエンマの心も決まった。
それでもまだ辻馬車はやってこなかった。レオンはエンマが堂内に駆け込むのではないかと心配になった。とうとう馬車がやってきた。
「せめて、北の門から出て、『復活』や『最後の審判』、『天国』、『ダビデ王』、『地獄の火に焼かれる罪人』を見ていらっしゃいまし」とまだ入り口に立っている堂守りが叫んだ。
「旦那、どこに行くかね?」馭者《ぎょしゃ》がいった。
「好きな所にやってくれ」レオンはエンマを馬車の中に押し入れた。
重たい車が回り始めた。
グラン・ポン通りを下り、アール広場を通り、ナポレオン河岸、ポン・ヌフを通り、ピエール・コルネーユの像の前で止まった。
「続けてやってくれ!」中から声がした。
馬車は再び動きだした。ラファイエット交差点を過ぎると、下りにまかせて、そのまま鉄道の駅に駆け足ではいって行った。
「いや、ずっとまっすぐだ」と同じ声が聞こえた。
馬車は柵《さく》を出て、やがて公園にはいった。にれの並木道を静かに走った。馭者は額をふき、皮の帽子を膝にはさみ、車を歩道の外側、川にそった、芝生近くまで進めた。
車は川に沿った、砂利の敷いてある曳船《ひきぶね》道を走り、島の向こうのオワセルへ長いこと走って行った。
しかし、突然、馬車は方向を転じ、カトルマール、ソットヴィル、グランド・ショウセエルブフ通りを走り抜け、植物園の前で三度目の停止をした。
「ええ、どんどんやらんか!」前よりこわい声が聞こえた。
やがて馬車は動きだし、サン・セヴェールからキュランディエ河岸へ、ミュル河岸へ行き、もう一度ポン・ヌフを渡ってシャン・ド・マルス広場を通った。病院の裏庭では、黒っぽい上着を着た老人たちが太陽を浴びて、キヅタで青々とした築山を散歩していた。それから、ブーブルィユをのぼり、コーショワーズ大通りを通り抜け、リブーデ山を越え、ドヴィルの丘に着いた。
そこで馬車は引き返した。今度はどことも行先を決めず、気ままに走っていた。サン・ポルやレスキュー、ガルガン山でも、ルージュ・マールやガイヤールヴォワ広場でも見かけた。マラドルリー通りにいたかと思うとディナンドリー通り、サン・ロマン教会、サン・ヴィヴィアン教会、サン・マクルー教会、サン・ニケーズ教会にもいた。――税関の前にも――バス・ヴィエイュ・トゥール、トロワ・ピップやモニュマンタル墓地にもいた。ときどき、馭者は馭者台の上からうらめしそうに酒屋を眺めた。どこまで行ってもこのお客さんは馬車を止めようとはしないとは、いったいどんな奇病に取りつかれたものやら納得がいかなかった。ときどき、止めようとすると、たちまち、背中から罵声《ばせい》が聞こえてきた。そこで汗だくの二頭の馬にはげしく鞭《むち》をあびせた。しかし、もう車の揺れなどに注意を払おうとはせず、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりし、のどの渇《かわ》きとつかれと、情なさに泣き出さんばかりであった。
こうして港では、荷馬車や大樽の間で、街路では車よけ石の角で、人びとは驚きの目を見張り、この地方ではめったに見かけぬ珍しいしろものを、日よけをおろしたまま、何度も何度も現われ、墓より閉ざされ、船のように揺れる馬車を見送っていた。
一度、真昼どき、野原のまん中で、太陽が古ぼけた銀色の角灯に強く当たるころ、黄色いカーテンの外に手がつき出され、こまかく引きさいた紙きれがすてられた。紙は風に飛ばされ、遠くに飛んで行った。それは花盛りのまっ赤なクローバー畑の上を舞う白い蝶と見まごうばかりだった。
夕方六時ごろ、車はヴォーヴォワジーヌ街のとある路地に止まった。一人の婦人が降りてきた。婦人はヴェールを下ろしたまま、振り返ろうともせず去って行った。
二
ホテルに帰ってみると、ボヴァリー夫人は駅馬車が見えないのに驚いてしまった。イヴェールは一時間近く待っていたのだが、とうとう帰って行ったのである。
強いて帰らなければならない用事はないのだが、夕方には帰るといってあることだし、そのうえ、シャルルも待っていることだろう。エンマも、多くの女同様、不貞の罰ないしは代償に卑怯《ひきょう》にもおとなしくしていようと思っていたのである。
彼女はきびきびと手荷物をまとめ、勘定を払い、中庭に馬車をひき出させた。馬丁を励まし励まし、先を急がせ、一分おきに今は何時だの、どのくらい走っただのと聞いた。そして、カンカンポワの町にはいりかけたころ、ようやく『つばめ』に追いついた。
馬車の隅に身を落ち着けるなり、エンマは目を閉じた。まぶたをあけると、遠くから蹄鉄屋の前に突っ立っているフェリシテの姿が見えた。
女中は窓まで背伸びをし、意味ありげな口調で、
「奥様、オメーのお店までおいでくださいまし。急用があるそうでございます」
村は平常どおり深閑《しんかん》としていた。町角には、バラ色の山ができ上がり、芳しい匂いを放っていた。ちょうどジャムを作るころのことで、ヨンヴィルでは、こぞって同じ日にジャムを作っていた。しかし、薬屋の店先には他の家よりもはるかに大きな山が人目を驚かしていた。それは薬屋のかまどが一般の人のより大きいためであり、公共的需要が個人的好みにまさるためである。
エンマが店にはいると、大きな肱掛椅子はひっくり返り、「ルーアンの燈」さえ床の上の二本の乳棒《にゅうぼう》の間に散らばっていた。廊下の扉を押すと、台所のまん中に、つんだスグリの実のつまった茶色の壺《つぼ》や粉砂糖、砂糖の塊《かたまり》、テーブルの上には秤《はかり》、かまどの火の上には手鍋。オメー一家がおとなも子供も、あごまでエプロンをかけ、手に手にフォークを持って立っていた。ジュスタンは突っ立ったままうなだれ、薬屋はガミガミどなっていた。
「だれが研究室を捜せといった?」
「なんですの? どうしたんですの?」
「どうした?」薬屋が答えた。「ジャムを作って、煮つめていたんですが、ジュースが多すぎて、ふきこぼれてしまいました。そこで鍋をもう一つ買ってこいといったら、こいつめ、なまけやがって、無精《ぶしょう》から調剤室の釘にかかっている研究室の鍵を取りに行きやがったんですよ」
薬屋は商売道具や薬品をいっぱいにつめ込んだ屋根裏の一室を研究室と呼んでいた。ときどき、薬屋は何時間もこの部屋にこもり、レッテルをはったり、他のびんに移し変えたり、ひもでくくったりした。彼はこの部屋をたんなる物置きとは考えずに聖地だと考えていた。そこから、彼の手になる大きな丸薬《がんやく》、小さな丸薬、煎じ薬、洗浄剤、水薬が出て、近郷に名声を広めるのである。薬屋はここにだれも足を踏み込ませなかった。それほど大事に考えていたため、掃除まで自分でした。やってくる者全部に開放されている薬局が彼の誇りを見せびらかす場所ならば、研究室はオメーがただ一人で熱中し、好き勝手に動き回っては楽しむ避難所であった。ジュスタンの軽はずみは彼にしてみれば無礼きわまりないものであった。そこで彼はすぐりの実より赤くなって、繰り返した。
「さよう。研究室の鍵。酸類も腐食性のアルカリ類を入れてある部屋の鍵じゃ。予備の鍋を取りに行くんだと! 蓋《ふた》つき鍋を! あれはこのおれでさえ一生使わないかもしれんのだ! われらの調剤術という仕事には、何一つとしてぞんざいにできるものはないのだ! それなのになんというやつだ! 物にはけじめをつけなくてはならん。調剤用と定められたものを家庭用として使ってはならんのじゃ。それはメスで鶏《にわとり》を切るようなもんじゃ。それにまた、司法官が……」
「まあ、落ち着いて!」とオメー夫人が叫んだ。
アタリーはオメーのフロックを引っぱり、
「パパ、パパ!」
「いや、かまうな!」薬屋が叫んだ。「かまうなというのに! ばかめ! おまえなんぞは食料品屋になればよかったのだ! さあ、出て行け! 何も大切にするな! こわせ! 割れ!蛭《ひる》を放せ! 立葵《たちあおい》を焼け! 薬びんにきゅうりを漬けろ! 包帯を裂け!」
「何かご用だとか」とエンマがいった。
「ちょっとお待ちを! ――おまえはどんな危険に身をさらしたのか知っているのか? 三番目の戸棚の左隅を見なかったのか? さあいえ、答えろ、なんとか返事をしろ!」
「し、しりません」と小僧はささやいた。
「しりませんだと! このわしは知っているぞ。おまえは黄ろうで封をしてある青いガラスびんを見たはずだ。白い粉のはいっているやつをな! それにわしは「劇薬」と書いておいたのじゃ。それがなんだかおまえは知っとるか? 砒素《ひそ》だぞ! それにおまえはさわったのだぞ!隣にある鍋を取ろうとして!」
「となり!」とオメー夫人は手を合わせて、叫んだ。「砒素? みなを毒殺するところだったんだよ」
すると、子供たちは、まるで腹の中に激しい苦しさを感じたように、いっせいに金切り声をはり上げ始めた。
「あるいは患者を殺したかもしれんのだ!」薬屋はなおも小言を続けた。「きっとおまえはこのわしを重罪裁判所の被告席にすわらせたいのだな? 絞首台に上がらせたいのか。もう慣れきっているこのわしでさえ、取扱いには細心の注意を払っておるのだぞ。ときどき、自分の責任を考えると、自分でも恐ろしくなるほどなのじゃ。政府はわしたちには過酷だからじゃ。わしたちを支配する不都合な法律はわしたちの頭にかかるダモクレスの剣〔紀元前四世紀のシラクサのディオニュシオスの臣下にダモクレスという者がいた。王はこの男を宴《うたげ》に招いたが、頭上に剣をつるし、王の身の栄華のはかなさを教えようとした〕のようなものなのだぞ!」
エンマはなに用あって呼ばれたのかともはや聞こうとはしなかった。薬屋は息を切らしながら、いい続けていた。
「これがおまえにしてやったことに対する恩返しなのか? おまえを親身になって、世話をしてやった、そのお礼なのか? このわたしがいなければ、おまえはどこにいて、何をしているのか、わかったものじゃないのだぞ。だれがおまえに食事をさせ、教育を授け、服を着せてくれ、いつか社会の序列に伍《ご》して立派《りっぱ》にやっていける方法を考えてくれたのだ? だが、仕事には汗はつきものなのじゃ。よく人がいうように、手にたこをこしらえたうえでなくては話にならん。Fabricando fit faber, age quod agis(人は鍛冶《かじ》をすることによって鍛冶屋となる。すべからく汝のなすところをなせ)」
彼はラテン語まで引用した。もし知っていたなら、中国語やグリーンランド語までも引用したことであろう。つまり、彼は一種の発作状態にあり、ちょうど嵐のさなかに大洋が裂け、岸の藻《も》から深海の砂子にいたるまで見とおせるように、彼の心全体のなにからなにまで区別なく、見せていたのである。
そしてまた、
「おまえのような人間をひき受けてわしは後悔《こうかい》の臍《ほぞ》をかんでおるわい。あのとき、おまえを生まれたままの赤貧《せきひん》洗うがごとしの貧乏生活においておけばよかったのだ。おまえは牛飼いなどがちょうど似合いだったのだ。てんで科学には向いておらんからのう。レッテル一つ満足にはれないくせして、まるで何様のように、ご馳走をつめ込んでらくな気分で暮らしているのだ!」
と、エンマはオメー夫人を振り向いて、
「お呼びというのは……」
「ああ、お気の毒に! なんと申し上げたらよいでしょう。悪いしらせですよ」とこの気のいい夫人はいいかけてやめてしまい、その先をしゃべろうとはしなかった。
薬屋は雷のように、
「その鍋をあけろ! 洗え! そして、置いてこい。さあ、とっととやれ!」とどなった。そしてジュスタンの仕事着の襟《えり》がみをつかんで揺すぶっていると、ジュスタンのポケットから一冊の本が落ちた。
小僧は身をかがめた。だが、オメーのほうがすばやかった。本を拾い上げると、目を大きく見開き、口をあけたままじっと見ていた。
「夫婦……愛」彼はこの二つの言葉をゆっくり一言一言切って発音した。「ああ、ご結構な、たいそうなもんだ。おまけに絵までついている。あっ! これはひどい」
オメー夫人が近寄った。
「いや、さわってはならん!」
子供たちはさし絵を見たがった。
「あっちにお行き!」彼は断固としていい放った。
みなは出て行った。
薬屋は指の間に本を開いたまま、目をきょろきょろ動かし、息をつまらせ、怒りにふくれ上がり、かんしゃくをおこしながら、部屋中を大|股《また》に歩き回っていた。それから、まっすぐ小僧に向かって行き、その前に腕を組んですっと立った。
「おまえは悪さという悪さはなんでも身につけているのだな、オイ。おまえは堕落《だらく》しかかっているのだぞ。こののろわしい本がもし子供らの手に回ったら、もし彼らの頭の中に悪い芽を吹き込んだら、などと考えても見なかったのだな。アタリーの純潔をけがし、ナポレオンを堕落させることになるんだぞ。ナポレオンはもういっぱしになっておるからのう。少なくとも、あいつらには読ませなかったろうな。保証できるか?」
「あの、もし、何かご用だとか?」とエンマが聞いた。
「いや、ほんとに。奥さんのお舅《しゅうと》さんが亡くなられたのです」
事実、老ボヴァリー氏は、晩餐《ばんさん》の帰りにふいに卒中の発作に襲われ、一昨日急死したのである。シャルルは、エンマが神経質なのを考えに入れて、あらかじめこの恐ろしいニュースを細心の注意を払って知らせてほしいとオメーにたのんでおいたのである。
彼は文句を考えたあげく、遠回しで丁寧な、そのうえ口調のよい文句を作り上げた。それは慎重《しんちょう》で変化に富み、やさしいいい回しで繊細な彼の傑作であった。だが、怒りのために口調が変わってしまった。
エンマは詳しいことは聞かず、薬屋の店を離れた。オメー氏が怒りの発作に再び襲われたからである。そのうち彼も落ち着き、今度は父親のような声音で、ギリシア帽であおぎながらつぶやいた。
「この本も何から何まで悪いわけではない! 作者は医者ではあるし、科学的部分もそのうえあるわけだから、知って悪いわけはない。だが、今は早すぎる。早すぎる! それはおまえが一人前になってから、からだもでき上がってからのことだ!」
エンマのノックの音に、エンマを待っていたシャルルが腕を広げて近づいてきた。そして声をふるわせながら、
「ああ、エンマ!」といった。
シャルルは身をかがめて、エンマにキスした。しかし、彼の唇に触れると、レオンのことが浮かんできた。彼女は身をふるわせて顔に手をあてた。
しかし、エンマはつとめて、こう答えた。
「ええ、わかっています。わかっておりますわ!」
彼は彼女に、いささかの感傷を混じえずに事件を伝える母親の手紙を見せた。ただ、昔の将校仲間との愛国的晩餐のあとで、ドゥードヴィルの路上で、とあるカフェの入り口で死んだため、秘蹟を受けられなかったのが残念だと書いてあった。
エンマは手紙を返した。夕食のときには、お体裁《ていさい》に、食べたくなさそうにした。しかし、シャルルが一生懸命にすすめるので、思い切って食べることにした。シャルルは彼女と向かい合い、つらそうにして身動きもしなかった。
シャルルはときどき頭を上げると、悲しそうな目つきをして彼女を見つめるのだった。彼はふとため息をもらした。
「もう一度会いたかった!」
エンマは黙っていた。だが、何かしゃべらなくてはまずいと思うと、
「お父様はおいくつでしたの?」
「五十八だったよ」
「そうでしたの」
それでおしまいだった。
しばらくすると、シャルルは、
「母がかわいそうに、…これから、どうするのだろう」とつけたした。
エンマはわからないわという身振りをした。
エンマがこれほど黙りこくっているのを見るとシャルルは彼女もきっとつらいのだろうと思い、妻を包んでいるその悲しさをかきたてないようになにもいわなかった。そして、自分の悲しみをふり落とすと、
「きのうはおもしろかったかい?」とたずねた。
「ええ」
テーブル・クロースが取りはずされても、ボヴァリーは立ち上がろうともしなかった。エンマも立たなかった。だが、夫と面と向かっていればいるほど、相手の凡庸《ぼんよう》な姿がしだいしだいに彼女の心から憐憫《れんびん》の情を押しのけて行った。彼女にはシャルルがぱっとしない、弱々しい、くだらない、つまりどこからみても哀れな男と映った。どうやってこの人を追っ払おう? なんて長い晩だろう! だが、阿片《あへん》の煙のようななにか麻痺《まひ》させるものが彼女の感覚を奪っていた。
二人は玄関の石段のコツコツという物音を聞いた。イポリットが夫人の荷物をとどけにきたのである。
イポリットは荷物をおろすのに、大儀《たいぎ》そうに義足で四分の一の円を描いた。
「この男のことももう忘れてしまったのだ!」とエンマは思った。そして赤いふさふさした髪から汗をたらしているこの哀れな男を見つめていた。
ボヴァリーは財布の底で小銭を探っていた。彼は、この男が、シャルルの手ひどい無能ぶりを示すようにそこに立っていること、エンマにとってそのこと自体が苦痛の種であろうことがわからないようであった。
「おや、おまえきれいな花を持っているんだね」シャルルは暖炉の上にのせてあるレオンからもらったスミレの花束を見つけると叫んだ。
「ええ、買ったんですの……あの、乞食《こじき》女から」エンマは落ち着きはらって答えた。
シャルルは花束を取り、涙に赤くはれた目にあてて冷やし、そっと香りをかいだ。エンマはシャルルの手から花束をとり返すと、コップに生けに行った。
次の日、ボヴァリー老夫人がやってきた。夫人と息子は思いきり泣いた。エンマはいいつけることがありますからといって、席をはずした。
翌日、三人は揃って、葬式の支度をしなければならなかった。二人は針箱を持って、川のほとりの青葉棚の下に行った。
シャルルは父親のことを思った。死んだ父親にこれほど愛情を感じるのかと思うと驚いた。今までさほど好きだと思ったことはなかったのである。老夫人も夫のことを考えた。かつての一番不幸だった時期でさえ懐《なつ》かしかった。つまり、これほど長いこと習慣になっていたことを本能的に惜しむ気持ちから、すべてが水に流されたのである。ときどき、針を運んでいるときに大粒の涙が鼻をつたい、しばらくそこからたれ下がっていた。
エンマは、四十八時間前には、あの人といっしょにいて、世間の騒がしさからのがれ、恋に溺《おぼ》れては、あかずに見つめ合っていたのだと考えた。彼女はもう過ぎ去った一日のごくこまかいできごとまで思い返そうとした。だが、姑《しゅうとめ》と夫が目の前にいるのでは、それもかなわぬことだった。そこで彼女は恋心をじっくり味わうためになにも聞きたくも、見たくもなかった。しかし、その恋の味わいも、いくら彼女がつとめたところで外界の刺激によって消えていってしまった。
エンマは喪服《もふく》の裏地をほどいていた。そのため、彼女のまわりには布切れが散乱していた。老夫人は目も上げず、はさみを使っていた。シャルルは縁飾りのついた靴をはき、部屋着にしている古い茶色のフロックを着て、ポケットに手を突っ込んだまま、だまっていた。三人のそばに、白いエプロンをつけたベルトが道の泥をシャベルでかいていた。
突然、庭木戸から呉服屋のルウルウがはいってくるのが見えた。
彼は「お弔《とむらい》の」ご用を承りにまいりましたといった。エンマは何もいらないと思うと答えた。だが、ルウルウはそれで引っ込んでしまうような人間ではなかった。
「恐れいりますが、ちょっとお話したいことがございまして」といった。
それから、声を落とし、
「あの件でございます」
シャルルは耳まで赤くなった。
「ああ、それか……そうか」
シャルルは当惑して、妻を振り返った。
「ねえ……おまえお願いだ……」
エンマはシャルルのほのめかしがわかったようで、すぐに立ち上がった。シャルルは母親に、「いや、なんでもありませんよ。なに家政のちょっとしたことでしょうよ」
シャルルはお小言を食うのが恐ろしくて、手形の話は知られたくなかったのである。
二人きりになると、ルウルウはエンマにかなりはっきりと財産相続の祝いをのべた。それから、どうでもいい果樹墻《かじゅしょう》のこと、収穫のこと、自分のからだの具合のことをのべたて「可もなし、不可もなし」でその日その日を「どうにかこうにか」暮らしておりますといった。世間の噂《うわさ》とは違って、パンに塗るバターほどもうけるために苦心|惨憺《さんたん》しておりますともいった。
エンマはルウルウにしゃべらせておいた。彼女はこの二日間というものたまらないほど退屈していたからである。
「ところで、おからだはすっかりよろしいので? ご主人はたいそう心配していらっしゃいましたよ。なに、ちょいと手まえとはごたごたいたしましたが、ほんとうにいいかたでいらっしゃいますねえ」
エンマはどうしたのだと聞いた。シャルルは品物のことでもめたことは彼女には伏せといたのである。
「ご存じのくせに! ほら、ご注文のトランクのことでございますよ」
ルウルウは帽子を目深くかぶり、手を背中に回し、にたにたしながら口笛を吹き、彼女の顔をがまんできないほどまじまじと見つめていた。なにか気づいたのだろうか? エンマは心配にかられた。しかし、ようやくルウルウは話しだした。
「でも、旦那様とは仲なおりをいたしましたから。それでこうしてご相談申し上げにまいりましたので」
つまり、ボヴァリーがサインした手形を書きかえることであった。それも旦那のお好きなようになさればいいのです。今はことにおやりになることがたくさんあるのだから、こんなことで旦那によけいな心配をかけたくないともいった。
「そしてだれかに、たとえば奥さんにそのことについては、おまかせなさればよろしいのでございます。委任状一つでことは簡単に運びます。あとは手まえと奥様とでかたをつければよろしいので……」
エンマにはよくのみこめなかった。ルウルウは黙っていた。それから商売の話になって、何かご入用のものがないはずはないといい、ドレス用に黒|薄紗《パレージュ》を十二メートルお送りいたしますといった。
「今着ていらっしゃるのは、ご家庭用にはよろしいですが、外出用にもう一つお作りなさいまし。はいってくるなり、すぐにそう思いましたよ。手まえはなにしろ抜け目のないほうでして」
ルウルウは布地を送らずに、自分で持ってきた。それから寸法をとりにやってきた。その後もなんだかんだといってやってきた。そのたび、愛想よく丁寧にして、オメーの言いぐさではないが、忠実につかえ、エンマに委任状のことについて常に耳打ちした。そして手形のことは決して口に出さなかった。エンマのほうも忘れていた。シャルルは彼女の回復期にその話をしたのだが、頭の中が混乱していたので、今ではもう何もおぼえていなかったのである。そのうえ、彼女は金銭のことを口に出すのを控えていたのである。老夫人はそれで大へん驚いていた。そしてエンマの気分が変わったのは、病気中に得た信仰のためだと思っていたのである。
しかし、老夫人が帰ってしまうとエンマは経理の才を発揮してボヴァリーを驚かせた。照合し、抵当物件を調べ、競売|措置《そち》および決算措置などが必要かどうか調べなければならないといった。
彼女は専門用語をやたらと使い、整理だの、将来だの、予見などといった大げさな言葉を使い、たえず、遺産相続の手続きの煩雑《はんざつ》さを吹聴《ふいちょう》した。そしてある日、シャルルに委任状のひな型を見せた。それは「事務を管理し、借金を行ない、手形の署名裏書きを行ない、金を払う、等々」の全般にわたる委任状であった。エンマはルウルウのおしこみよろしくやっていたのである。
シャルルは天真爛漫《てんしんらんまん》に、どこからこの用紙を手に入れたのかと聞いた。
「ギョーマンさんからいただきましたの」
それからエンマはまたとなく落ち着きはらって、
「でも、あのかたはあまり信用しておりませんのよ。公訴人などというのにはあまり評判のいいのはおりませんもの。でもどなたかにご相談しなくては……わたしたちの知人に……ああ、だれもいないわ!」
「ただ、レオン君だが……」とよくよく考えたあげくシャルルが答えた。
しかし、手紙では、お互いのいっていることが通じないこともある。そこでエンマは、自分が行ってくると申し出た。シャルルはいいよといったが、エンマはなおもいい張った。そこで思いやりの見せ合いになった。最後にわざとてきぱきと、
「いいえ、わたしが行ってまいります」といった。
「じゃ、たのむよ」とシャルルは妻の額にキスをしながらいった。
翌朝、彼女はルーアンにいるレオンに相談に行くため『つばめ』に乗り込んだ。彼女はルーアンに三日間いた。
三
充実した、得もいわれぬ、すばらしい三日間、ほんとうの蜜月《ハネムーン》であった。
二人は港に望んだ「ブーローニュ・ホテル」に泊まり、鎧戸《よろいど》をしめきり、扉にも鍵をかけ、床に花をまいた。そして朝から冷たいジュースを取り寄せて飲んだ。
夕方には、帆かけ船を雇い、島に夕食をしに行った。
ちょうど造船所では、填皮《まいはだ》工の木槌の音が聞こえてくる時間であった。タールの煙が木の間に流れ、川面に油が浮き、フィレンツェのブロンズ青銅の板金のような太陽の緋《ひ》色の光を受けて不規則に波打ち、流れていた。
二人の小舟はつないである船の間を下って行った。長く斜めに張った錨綱《いかりづな》が小舟の屋根をかすかにかすめていた。
町の騒音は、いつとはなしに遠ざかり、馬車の走る音も、人声も、船の甲板《かんぱん》で鳴く犬の鳴き声も聞こえなかった。エンマは帽子のリボンをほどいた。島に近づいたのである。
二人は、黒い綱を戸口にかけてある、とある居酒屋の一段さがった部屋に落ち着いた。鱒《ます》のフライやクリームや桜んぼうを食べた。それから草原に寝ころび、かたわらのポプラの木陰で抱き合った。二人は、二人のロビンソン・クルーソーのようにいつまでもこの小さな所に住んでいたいと思った。彼らには、ここがその楽しさゆえに、地上でもっともすばらしい所と見えたのである。彼らが樹木や、青空や、芝生を見るのも、川の音や木の葉をそよがす風の音を聞くのはこれがはじめてではなかったが、これほど美しいと思ったことはなかった。それはあたかも自然が前には存在していなかったようであり、あるいは、二人が欲望を満足させたとき以来、美しくなったかのようであった。
夜になると、二人は帰って行った。小舟は島に沿って進んだ。二人とも舟底の闇にかくれ、話もかわさなかった。四角いオールがオール受けの間で鳴っていた。その音はあたりの静けさに、メトロノームの音のように拍子を打っていた。しかし艫《とも》では、たれた艫綱が水の中でたえずやわらかい水音をたてていた。
一たび月が上がると、二人は必ず美辞麗句をつらねた。気どった話し方をし、月はもの悲しく、詩情にあふれているといった。そしてエンマは歌までうたった。
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夕まぐれ、思い出さずや、君と漕《こ》ぐ……
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エンマの美しくも、鈴を振るような声は波間に消えて行った。風が吹き、旋律《せんりつ》はレオンのまわりを翼のはばたきのように通り過ぎて行った。
エンマは舟の仕切りにもたれ、レオンと向き合っていた。月の光が明けてある扉からさし込んでいた。下のほうで扇型に広がっている黒い服がエンマをスマートに、丈高く見せていた。彼女は頭を上げ、手を合わせ、空を仰いだ。ときどき、やなぎの影が彼女をすっぽり包んだかと思うと、急に、まるで幻のように月の光の中に姿を現わすのだった。
エンマのそばにすわっていたレオンが、ふと手の下に赤い絹のリボンを見つけた。
船頭はそのリボンをじっと見ていたが、やがて口を切った。
「ああ、これはこの間、おのせしたかたがたのものですぜ。女のかたも男のかたもおもしろいかたぞろいでしたよ。菓子やら、シャンペンやら、トロンボーンや、その他いろいろと持ち込んでいましたよ。その中でもとりわけ、チョビひげをはやした、背の高い立派なかたがめっぽうおもしろかったですよ。みなさんは≪サァ、なにか話せ……アドルフ……いやドドルフかな≫などとはやしておいででしたよ」
エンマは身をふるわせた。
「どうかしたの?」とレオンはエンマに寄りそった。
「いえ、なんでもありませんわ。きっと夜風のせいですわ」
「そのかたも、どうやらご婦人にはもてるかたのようでしたが」と、船頭は、お客にお世辞のつもりで静かにつけ加えた。
そして手に唾《つば》して、オールを使い始めた。
しかし、別れのときがきた。別れはつらかった。二人は手紙をローレおばさん気付でかわすことにした。そしてエンマは二重封筒にすることを何度も念をおした。レオンはエンマの、愛ゆえの狡滑《こうかつ》さに感心した。
「それから、あのことはよろしくね?」と彼女は最後のキスをしながらいった。
「大丈夫!」――「しかし、なんだって委任状のことにこだわるのだろう?」とレオンは帰る道すがら考えた。
四
やがて、レオンは朋輩《ほうばい》たちに思い上がった態度をとるようになり、交際も絶ち、訴訟書類もぜんぜんかえりみなくなった。
ただ、エンマからの手紙を待ちこがれ、手紙がとどくと何度も読み返しては、返事を書いた。そして、希望と思い出とを力のかぎりつき合わせ、エンマの姿を思い描いた。彼女に会わないでいると、気持ちが日々に薄れていくどころか、再び会いたいと思う気持ちはかえってたかまった。そこで、とうとう、ある土曜日の朝、事務所を抜け出してしまった。
丘の頂から、谷間を見おろし、風に回るブリキの風見のついた教会の鐘楼を見ると、レオンは故郷に錦《にしき》を飾る百万長者の喜びを感じた。――勝ち誇った気分と個人的な感動とが入り混じったあの複雑な喜びである。
彼はエンマの家のまわりをうろつき回った。台所に明かりがついていた。カーテンの向こうに、彼女の姿をうかがった。しかし、なにも映らなかった。
ルフランソワのおかみは、レオンを見ると、大声で騒ぎ≪背丈が伸び、やせたね≫といった。しかし、アルテミーズは、これとは反対に≪からだがじょうぶそうになり、日にやけたね≫といった。
彼は昔のように例の小部屋で夕食をとった。しかし、ビネーはいず、一人きりであった。ビネーは『つばめ』を待つのに「あきあきして」、夕食の時間を一時間早くし、近ごろでは五時きっかりに食べていたのである。それでも彼は、ほとんど毎日「あのオンボロ馬車め、また遅れやがって!」と文句を並べた。
レオンは、しまいには決心をし、医者の家の戸をたたいた。夫人は居間にいたが、おりてきたのは十五分もたってからのことだった。先生はレオンの来訪を喜んで、その晩は一歩も動かなかった。次の日も同様だった。
エンマに会えたのも、夕方もずっと遅くなってから、庭の裏の小路であった。前の恋人と同じ小路で! 嵐の晩のことで、二人はいなづまの走る中を傘《かさ》の中で語り合った。
別れはつらかった。
「いっそ死んだほうがましだわ」とエンマがいった。
彼女は泣きながら、彼の腕の中で身もだえた。
「さようなら……さようなら……いつまたお目にかかれるでしょう?」
二人はかけ寄って、抱き合った。エンマはそのうち、どんな方法でもいいから、せめて一週間に一度は自由に会えるきまった機会を作るとレオンに誓った。エンマはきっとできると思っていた。それに、希望もあった。近いうちに金がはいることになっていたのである。
金がはいると、彼女はまたもや、居間用に黄色の太縞《ふとじま》のカーテンを一対買った。ルウルウの自慢するお買得品である。その他、じゅうたんも欲しいといった。ルウルウは≪海の水を飲みこめとおっしゃるなら別ですが≫そんなことでしたらお安いご用ですからお届けいたしましょう、といって丁寧に請け合った。彼女はもうルウルウなしではすまされなかった。日に二十回も呼んでも、彼は文句一ついうでなく、仕事を投げうってやってきた。村人はなぜローレおばさんが毎日エンマの所に昼食によばれるのか、なぜ特別にエンマのもとに通うのかいぶかしんだ。
ちょうどこのころ、つまり初冬のころ、エンマは音楽熱にとりつかれた。
ある晩、シャルルが聞いていると、彼女は同じ個所を四度もひき、それでも満足しなかった。だが、一方、夫のほうはその違いにも気がつかず、
「ブラボー!……上出来……いやだめだよ……その先、その先」と叫んだ。
「いえ、とんでもない。ぜんぜんだめだわ! 指が堅くなってしまって」
翌日、シャルルは「またなにかひいてくれ」といった。
「いいわ、あれでいいのなら!」
シャルルは、ちょっと手が落ちたようだねといった。実際、エンマは音譜を読み違え、でたらめにひいていたのだ。彼女は、ふいにやめると、
「あら、だめだわ! お稽古《けいこ》に行かなくては、でも……」
そして唇《くちびる》をかんで、
「一回二十フランじゃ、高すぎるわ!」
「ああ、そうだね……ちと……」とシャルルはばかばかしそうにあざ笑った。「しかし、もう少し安い人もいそうに思うけどね。有名人より腕は上だけど、無名だという人が何人もいるもんだよ」
「それじゃ、捜してよ」
翌日、シャルルは帰ってくると、ずるそうな目つきでエンマを見つめていたが、がまんしきれなくなったのか、とうとう、
「おまえも、ときには強情になるんだねえ。今日、バルフゥシェールに行ったんだ。するとミエジャールの奥さんがいわれたんだがね、奥さんは修道院付きの女学校に行っていらっしゃる三人のお嬢さんにピアノを習わせているそうなんだ。だが、一回二フラン半だそうだ。それに有名な先生だってさ!」
エンマは肩をすくめ、ピアノをあけようともしなかった。
しかし、そのそばを通ると(ボヴァリーがいるときには)ため息をついて、
「あーあ、ピアノもかわいそう」といった。
そしてお客があると、必ず、もう音楽をやめてしまいましたの、余儀ない事情でもう続けられないのだというのだった。すると、人びとは同情して、それはお気の毒ですとか、あんなに才能がおありになるのに! とかいうのだった。中にはボヴァリーにそのことをいって、恥をかかせた人もいた。ことにオメーが激しかった。
「先生、それは無茶《むちゃ》というものですよ。天性備わっているというのに、ほうっておくことがありますか。よく考えていただきたいのは、ですな、奥さんに稽古をおさせになれば、やがて、お子さんの音楽教育の費用がはぶけるというものです。愚見をいわせていただけば、子供の教育は母親がすべきものなのです。これはルソーの意見です。少し新しいですかな。しかし、母乳主義や予防注射同様、今に必ずや勝利を得る意見ですぞ」
そこで、シャルルは再びピアノのことを持ち出した。すると、エンマはいっそのこと売ってしまえばいいのよと、とげとげしい口調で答えた。シャルルに数々の誇らしい喜びを与えてくれたこのピアノが出て行くのを見るのは彼にとってとりもなおさず、エンマの一部が自殺してしまうようなもので、いうにいわれぬ恐ろしいことだったのである。
「おまえがしたいというのなら、ときどきレッスンに行くさ。それなら、たいしたこともなかろう」
「でもレッスンは続けなくてはうまくなりませんわ」
こうして彼女は週に一度、恋人に会うために町に出かける許しを得たのである。月末には、かなりうまくなったという人さえいた。
五
毎週木曜日、エンマは起き上がり、シャルルの目をさまさぬようにそっと着替えをすます。きっとシャルルは、こんなに早くから支度をするのを見れば、小言をいうだろう。それから、彼女は部屋の中を歩き回り、窓の前に立ち止まり、広場を見おろした。朝の薄明かりは役場の円柱の間にもれ、薬屋の鎧戸《よろいど》はまだしまったままで、曙光《しょこう》の白っぽい明かりに、看板の大文字が浮き出ていた。
時計が七時十五分を打つと、彼女は「金獅子館」へと出かけて行った。すると、アルテミーズがあくびをしながら戸をあけ、奥様のためにといけてある火をかきたててくれた。エンマは調理場に一人いて、ときどき外に出てみた。イヴェールは、フランソワのおかみさんのいいつけを聞きながら、ぐずぐず馬車に馬をつけていた。おかみはナイトキャップの頭を小門から突き出して、ことづてをたのんだり、他の人ならわからないほどのくどくどしい説明をした。エンマは靴底を中庭の敷石に打ちつけて寒さをこらえた。
イヴェールはやっとのことで、食事をすませ、外套《がいとう》をはおると、パイプに火をつけ、鞭《むち》をつかむなり、落ち着きはらって馭者台に上った。
『つばめ』は≪だく足≫で駆け、約四キロほどはところどころで止まり、道端の木戸の前で待っているお客を乗せた。前月から予約してある者はなかなか出てこない。まだ眠っている者もいて、イヴェールは呼んだり、どなったり、わめいたりするのだが、最後には馭者台をおりて、扉をドンドンたたくのだった。馬車のひびのはいった窓から風が吹き込んだ。
しかし、四つの座席がいっぱいになると、馬車は動きだした。リンゴの木が一列になって続いて行く。両側にあふれんばかりの濁水をたたえた溝の間に、道がはるかかなたまで先細りになって続いていた。
エンマはこの道のことならなにからなにまで知っていた。牧草地のあとには道標があり、楡《にれ》の木立ちや、納屋、道路工夫の小屋があるのだ。ときには、ふと驚いてみたいためにわざと目をつぶってみた。しかし、どんなにしても、その後どのくらい走ったのか、はっきりわかるのだった。
しかし、レンガ作りの家並みが近くなり、道に車の音が響き、『つばめ』は家々の庭の間を縫って走った。そんな庭には、垣根越しに、石像やら、築山やら、刈り込んだイチイの木やぶらんこが見えた。やがて、ぱっと市街が現われた。
町は段々になって下り、霧に埋もれ、橋の向こうにぼんやり広がっていた。そこから野原は単調なカーブを描いて高くなり、その先はほの白い空と混じっていた。このように高みから見おろすと、景色全体は、まるで絵のように静かだった。錨《いかり》をおろした船が片側に集まり、川は緑の丘の麓《ふもと》で蛇行《だこう》し、長方形の形をした島々が川面に大きな黒い魚が止まっているかのように並んでいた。工場の煙突からは茶色の煙が吐き出され、次から次へと風に吹かれて飛んで行った。霧の中にそそり立つ教会の澄んだ鐘の音とともに製鉄所のごうごうという物音が聞こえてきた。並木の木立ちは葉が落ち、家並みのただ中に、紫色の茂みとも見えた。家々の屋根は雨で洗われ、街区の高さによって高くなったり低くなったりしてまちまちに光っていた。ときどき、一陣の風が吹いて雲をサン・カトリーヌの丘のほうへ運んでいった。それは、まるで音もなく断崖にたたきつける空の波のようであった。
エンマには、ここにつどうすべてのものから目の回るような物がわき上がってくるように思われた。そのため、彼女の心はふくれ上がった。――あたかも、そこで高鳴る十二万人の心がいだいた情熱のもやを一時に吹き込むかのようだった。エンマの恋心はこの広い眺めを前にして高まり、上がってくるぼんやりした物音におどった。恋心を外に向け、広場に、散歩道に、街路に恋心を注いだ。彼女の目には、この古いノルマンディーの都が途方もなく大きく映り、まるでバビロンの都にでもはいっていくような気分だった。彼女は窓に両手をついて身を乗り出し、風の匂いをかいだ。三頭の馬は疾駆《しっく》した。すると、泥《どろ》の中で小石が軋《きし》み、乗合馬車は揺れた。そしてイヴェールは遠くから道を行く馬車に声をかけた。ボワ・ギョームで夜を明かした人びとが小さな自家用馬車に乗って、ゆっくり丘を下っていたからである。
馬車は入市税取立所の前で止まった。エンマは木底の雨靴をぬぎ、手袋を取り替え、ショールをかけなおした。そして二十歩も行った所で『つばめ』をおりた。
このときには町はもう目ざめていた。灰色の頭布《ずきん》をかぶった店員たちが店のガラスを磨いている。腰に籠《かご》を下げた女たちがときどき、街角で黄色い声を張りあげている。エンマは目を伏せ、黒ヴェールを目深にかぶり、快楽を思い描いてほほえみながら壁ぎわを歩いて行った。
人目を避けて、たいていは近道を通らず、薄暗い小道にはいり込む。汗びっしょりになって、ナショナル通りのはずれの泉のほとりにやってくる。ここは劇場とバーと夜の女たちの町である。ときどき、エンマのそばを馬車が、揺れている書き割りを積んで通って行く。エプロンをつけたボーイが敷石の上の、緑の植木の間に砂をまいて行く。アブサン酒やたばこ、牡蛎《かき》の匂いがする。
エンマはとある角を曲がる。すると、レオンが見える。帽子からはみ出しているちぢれ毛で彼だとわかるのだ。
レオンは舗道を歩き続ける。エンマは後をつけてホテルにはいる。彼が階段を上がって、ドアをあけ、部屋にはいってくる……激しい抱擁《ほうよう》!
キスに続いて言葉がそれからそれへと飛び出してくる。一週間中に感じた苦しみ、胸さわぎ、手紙を読んで感じた不安を語り合う。だが、もう今はなにもかもが忘れられ、顔を見つめ合い、官能の喜びにほほえみ、愛に満ちて名まえを呼び合う。
ベッドはマホガニーの大きなもので、舟形をしていた。レバノン織の赤いカーテンが天井から下がり、朝顔型に開いた枕元のそばに、ごく低い所で左右に開いていた。――エンマが恥ずかしがって、手で顔をおおい、裸の両の腕を合わせているとき、真紅《しんく》のカーテンに浮き出た彼女の褐色の髪の毛と白い肌ほど美しいものはなかった。
渋い色の絨毯《じゅうたん》にはでな飾り、穏やかな光線のはいるこの暖かい部屋は、秘めたる恋を語り合うにはもってこいの場所だった。先が矢型の棒や真鍮《しんちゅう》の房掛けや薪掛けの大球は、日がはいると、急に輝いた。暖炉飾りの枝付き燭台の間には大きなバラ色の貝殻《かいがら》が置いてあり、そこに耳をあてると、潮騒《しおざい》が聞こえた。
豪華というにはいささか色あせていたけれど、この楽しい部屋が二人は大好きだった。いつでも家具は同じ場所にあり、ときには前の週に忘れていったヘアー・ピンが時計の台石の上に置いてあった。二人は炉辺で、紫檀《したん》を象眼《ぞうがん》したテーブルをかこんで朝食をとった。エンマは思いつくかぎり甘い言葉をかけ、肉を切ってはレオンの皿に入れた。シャンペンの泡《あわ》が軽いグラスからあふれ、指輪にかかると、大声で、下品に笑った。二人は互いにむさぼり合うのに夢中なあまり、二人の特別の家にいるように思った。二人は若夫婦のように死にいたるまでそこに住まうのではないかと思った。二人はわたしたちの部屋、わたしたちの絨毯、わたしたちの肱掛椅子といい、エンマは、気まぐれに買ってもらった、レオンからの贈り物さえ、わたしのスリッパともいった。それは、バラ色の繻子《しゅす》で白鳥の飾りで縁どったものだった。彼女がレオンの膝《ひざ》にすわると、足が床にとどかず、宙ぶらりんになった。すると、踵《かかと》をささえる革がないので、かわいらしいスリッパは足のつま先にかかっているだけだった。
レオンははじめて女の優雅さのいい表わしようもないすばらしさを経験した。今まで彼はこれほど洗練された会話にも、衣服の好みにも、はとのようなひかえ目な態度にも出会ったことがなかった。そして彼女の心ばえを、ペチコートのレースまでも賞《ほ》めたたえた。そのうえ、エンマは「上流婦人」だ。人妻だ! これこそほんとうの恋人ではないか!
彼女は気分屋で、かわるがわる神秘的になったりうれしがったり、おしゃべりになったかと思うと無口になり、おこりっぽくなったかと思うとのん気になった。そのうえ、彼女は彼に数限りなくどうしてほしいの、ああしてほしいのといい、本能や思い出を目ざめさせた。彼女はすべての小説の恋人であり、すべての芝居の女主人公であり、すべての詩集の漠然《ばくぜん》たる「彼女」であった。レオンは彼女の肩に「水浴みするハレムの女」の琥珀《こはく》色の肌を見た。ときどき、見つめていると、レオンの心は彼女に向けられたまま、波のように彼女の顔のまわりに広がり、白い胸に吸い寄せられた。
レオンは彼女の前の床にひざまずいていた。両|肱《ひじ》を膝に置いたまま、ほほえみながら彼女を見つめ、額を突き出していた。
エンマは彼のほうに身を乗り出し、熱に浮かされたようにささやいた。
「ああ、動かないで! しゃべらないで! わたしを見て! あなたの目からなにかやさしいものが見えるわ、わたしにはそれがうれしいの」
エンマは彼を坊やと呼んだ。
「坊や、あたしを愛してる?」
エンマはその答えを待たず、唇《くちびる》を急がせ、彼の口に唇を重ねた。
時計の振り子に小さなブロンズのキューピッドがついていた。キューピッドは金色の花飾りの下で腕を丸め、作り笑いをしていた。二人はこのキューピッドのことでよく笑っていた。しかし、別れは、すべてがつらかった。
二人は向きあったまま動かず、繰り返していた。
「また木曜日ね……木曜ね」
突然、彼女は両手でレオンの頭をかかえ、すばやく額にキスをして叫んだ。「さようなら!」というなり彼女は階段を駆けおりた。
エンマはコメディー街の美容院に寄って、髪をなおさせた。宵闇《よいやみ》がせまり、店舗には明かりがついた。
役者に開演時間を伝える呼び鈴《りん》が聞こえた。彼女の目の前をおしろいを塗った男や色あせた衣裳を着た女が通り過ぎて行き、楽屋口から中にはいって行った。
天井の低すぎるこの部屋は暑く、かつらやポマードの中でストーブが盛んに燃えていた。ここの匂いや、彼女の頭をいじる大きな手が彼女をすぐにぼーっとさせ、化粧着をきたまましばしうつらうつらしていた。ときどき、頭の手入れをしてくれる美容師が、仮装舞踏会の切符を売りつけたりした。
それから、彼女は帰って行った! 坂を登り「赤十文字ホテル」にたどりついた。座席の下に朝方隠しておいた靴と取り替え、いらいらして待っている客の間を縫って、自分の席に落ち着いた。丘の麓でおりる者が多く、彼女だけが一人馬車に残った。
角を回るたびに、村の明かりがしだいしだいに全部見え、はっきりとはわからぬ家並みの上に光のもやとなっていた。エンマはクッションに膝をのせ、このまぶしい光を漠然と眺めていた。彼女はすすり泣いて、レオンの名を呼んだ。甘い言葉をかけ、キスを送った。しかしキスは風のまにまに消えて行った。
丘には乗合馬車の間を杖をついてうろつき回る一人の乞食がいた。乞食はぼろを身にまとい、つぶれて、金だらいのように丸くなった古い海狸《ビーバー》帽を顔が見えないほど目深《まぶか》にかぶっていた。帽子を上げると、まぶたの所に、ぽっかり口のあいたまっ赤な眼窩《がんこう》が二つ見えた。肌は赤いぼろぼろにただれていた。そしてそこから膿《うみ》が流れ、鼻のところまでかさぶたように固まっていた。黒い鼻は痙攣《けいれん》するようにふくれ上がっていた。人に話しかけるときには、乞食は白痴《はくち》のような笑いを浮かべて顔をのけぞらせた。――すると、青味がかった目玉がこめかみのほうまでつり上がり、生々しい傷の縁にぶちあたるのだった。
乞食は馬車を追いながら小唄をうたった。
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うらら、うららに誘われりゃ、
娘さんにも恋の夢。
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それから、鳥や太陽や青葉が出てきた。
ときどき、彼は突然にエンマの後ろから、帽子もかぶらず、ぬっと顔をさし出した。エンマは金切り声を上げて身を引いた。イヴェールがやってきてからかう。サン・ロマンの祭りに見世物小屋を出したらどうかとか、にやにやしながら、おまえのいい娘《こ》はどうしたとか聞くのだった。
ときには、走っている最中、窓から急に乞食の帽子がつき出されることもあった。乞食はもう一方の手で、車のはねを浴びながらステップにとりついていた。はじめはか細く、泣き声のようであったその声も鋭くなり、なにを嘆くか、かすかな哀歌となって、闇の中に長く尾を引いて聞こえた。鈴の鳴る音、木立ちのざわめき、馬車のうつろな音のほかになにかエンマを動転させるような遠くから響く音が聞こえていた。それは彼女を海底の嵐のように心の奥底におりて行き、彼女を果てしのない憂愁に誘いこんだ。しかし、イヴェールは重いのに気がつくと、乞食に鞭《むち》を何度も食わした。鞭の先端が傷にあたり、乞食は悲鳴を上げて泥の中にころがり落ちた。
やがて『つばめ』のお客は眠ってしまう。口をあけている者もいれば、頭をたらし、隣の人の肩によりかかる者もあり、つり革に手を通している者もいた。みな、馬車の揺れにつれて、同じように揺れ動いた。外では馬のしりの上で揺れている角灯の光が、チョコレート色のキャラコの幌《ほろ》を通して内部までもれ、この動かぬ人影を赤く染め上げていた。エンマは、悲しみに酔いしれ、服を着ているのにふるえていた。しだいに足が冷たくなり、心も凍っていった。
家ではシャルルがエンマを待っていた。『つばめ』は毎木曜日には必ずおくれた。エンマがやっと帰ってきた! だが、娘にキスするのがやっとのことだった。食事の支度もしてない。そんなことなんでもないことだ! 彼女は女中に文句もいわない。今では、この娘にすっかり任せきりのようである。
ときどき、夫は顔色の悪いのに気がつくと、どこか悪いのではないかとたずねた。
「いいえ」
「でも、今晩なんだかおかしいよ」
「なんでもないわ! なんでもないといったら!」
帰ってくるなり、自分の部屋に閉じこもってしまうことさえあった。すると、ちょうどきていたジュスタンがしのび足で進み寄り、一流の小間使いよりもじょうずにエンマの世話をした。マッチや手燭や本を置き、寝間着を置き、ふとんをはねた。
「さあ、いいわ、行ってちょうだい!」
そうでもいわない限り、ジュスタンは帰ろうとはしなかった。彼は急に夢におそわれ、無数の網の目に捕われたかのように、手をさしのべ、目を見開いたまま突っ立っていた。
翌日はぞっとするような一日だった。それからの毎日はただじりじりしてしあわせを再び手にするのを待っているだけに一段とつらかった。――それは思い出すことによってかきたてられる激しい欲望であった。そして欲望は七日目には思いのままにレオンの愛撫《あいぶ》のうちに、どっと吹き出されるのである。レオンの熱い思いは感嘆と感激の言葉の中にいい尽くされていた。エンマはこの恋心を秘めやかに、そして情熱的にかみしめる一方、持っているだけの愛の技巧をあるだけ使ってこの恋を長びかせてはいるものの、いつかは失うのではないかと少し不安だった。
よく彼女は甘くやるせない声で、
「あなたもわたしをいつかは捨てるわ。あなたもよ!……そして結婚するわ。……みなと同じに」といった。
レオンは、
「みなって?」と聞いた。
「いえ、一般の男性のことよ」
そして物憂げな様子でレオンを押し返しながら、
「あなたたち男はみな人でなしなのよ!」
ある日、二人が地上の幻滅について哲学的な話をしているときに、彼女はとうとう、(レオンの嫉妬《しっと》心を試すためか、それとも激しくなにもかも打ち明けたくなったのか)昔、レオンの前に好きだった人がいたのよと告白してしまった。「でも、あなたほど好きじゃなくてよ」と彼女はいそいでつけ加え、自分の娘の首に誓って「何事もなかった」といった。
若者は彼女の言葉を信じた。しかし、職業は何だったのかと聞いた。
「船の艦長だったわ!」
この答はこれ以上の追求を防ぐためのものではなかったろうか。それに、本来果敢な性質で世の尊敬の的となる人物を魅了したことで彼女自身をも引き上げることとなったのではなかろうか。
そのとき、書記は自分自身の地位の低さを痛感し、肩章《けんしょう》や十字勲章や称号がほしくなった。こういったものがエンマは好きだろう。エンマの贅沢癖《ぜいたくぐせ》からそう思っていたのである。
エンマは贅沢な望みを口にこそ出さなかったが持っていた。ルーアンにくるのに、イギリスの馬にひかせた青い軽二輪馬車が欲しかった。それを上が折り返った長靴をはいた馬丁が手綱《たづな》をとるのだ。そんな考えを彼女に吹き込んだのはジュスタンであった。彼はボーイとして使ってほしいといっていた。馬車がないことであいびきにやってくる楽しみが減るものではなかったにしても、たしかに自分の馬車がないだけに帰りのつらさはひとしおだったのである。
二人はよくパリのことを話題にした。そして最後にこうささやいた。
「ああ、パリに行って、暮らせたらどんなにいいでしょうね!」
「今ぼくたちはしあわせではないの?」と若者は彼女の髪を愛撫しながらおだやかにきいた。
「あら、そうだわ。わたしってばかねえ。さあ、キスして!」
彼女は今まで以上に夫にやさしくし、ピーナッツ・クリームを作ったり、食後にワルツをひいたりした。シャルルはそこで自分を世界一幸福な夫だと思っていた。エンマも不安なく暮らしていた。だが、ある晩、シャルルはやぶからぼうに、
「おまえが習っているのは、たしかランプルールさんだったねえ」と聞いた。
「ええ」
「それじゃ、その人に今日《きょう》の午後、リエジャール夫人の所でお会いしたよ。おまえのことを話したんだが、知らないというんだ」
青天の霹靂《へきれき》であった。しかし、エンマはさりげなく、
「あら、きっとわたしのことをお忘れになったのよ」
「それに、ルーアンにはピアノの先生でリエジャールさんというのが何人もいるだろうしね」
「そうだわね」
それから、きっとなって、
「あら、そうだわ、受取をいただいたのがあるわ、待って! ごらんになって!」
といって、彼女は文机の所に飛んで行った。引き出しを全部捜し、書類をごちゃごちゃにし、とうとうヒステリーまで起こした。シャルルはたかが受取ぐらいで大騒ぎすることはないといった。
「でも、見つけるわ」
実際、次の金曜日、シャルルの服を入れておく小部屋の中でシャルルが長靴をはくと皮と靴下の間に何だか紙きれのようなものがはいっているのに気づいた。拾って読んでみると、
≪三か月分の月謝、ならびに教材費、合計六十五フラン確かに受け取りました。音楽教師、フェリシー・ランプルール≫
「どうしてこれがこの中にはいっているのだろう」
「きっと棚の縁にある勘定書入れの箱から落ちたのでしょ」
このときから彼女の生活は嘘で固められた。自分の恋を隠すためにヴェールにくるむように嘘の中に包みこんだ。
嘘が彼女の必要物であり、狂癖であり、楽しみであり、目的となった。そのため、昨日《きのう》もし彼女が道の右側を通ったといったなら、左側を通ったと信じなければならないほどであった。
ある朝、エンマはいつものように、かなり薄着で出かけて行った。すると、急に雪が降ってきた。シャルルが窓から外を眺めていると、ブールニジャン神父がルーアンに行くテュバッシュ村長の馬車に乗り込んでいるのが見えた。そこで彼は下におりて行き、神父に「赤十文字ホテル」についたらエンマに渡してもらえまいかと大きなショールを託した。神父は旅館に着くとすぐにヨンヴィル村の医者の妻君はどこだね、とたずねた。奥さんはあまりこちらにはお見えになりませんとの答だった。そのため、夕方『つばめ』でエンマと会うと、困りましたよと話した。しかし、そんなことは大したことではないと思っているようで、その当時、大聖堂ですばらしい説教をし、ルーアン中の婦人が競って聞きに行くという説教師のことをほめたたえた。
それはともあれ、神父さんがわけを聞かなかったにしても、他の人が今後もっとぶしつけに聞くかもしれないのだ。そこでエンマは毎週「赤十文字ホテル」に一応宿をとるのがよかろうと思った。そうしておけば、階段で村人に出会ったところで疑われることなど何一つないのだ。
しかし、ある日、レオンと腕を組んで「ブーローニュ・ホテル」から出てくると、ばったりルウルウと出会った。彼女はしゃべられるのではないかと思ったが、ルウルウはそんなばかではなかった。
ところが三日後、ルウルウが部屋にやってきて、戸をしめ、
「お金がいることになりました」といった。
エンマは払えないと答えた。すると、ルウルウは嘆息まじりにとうとうと苦情をのべ、今までどんなに親切にしてきたかを並べたてた。
実際、シャルルの書いた手形のうち、現在までに一枚しか払ってなく、残りの一枚も、エンマのたのみで二枚の手形に書き替え、それでさえ、支払期日を延期した手形に書き替えてあった。ルウルウはそれから念のため未払いの納入品のリストをポケットから取り出した。カーテン代、絨毯代、肱掛椅子の張り替え代、洋服数着、各種化粧品、これだけでもおよそ二千フランになっていた。
エンマは頭をたれた。すると、ルウルウは、
「奥さんは現金はお持ちにならなくとも、財産がおありではございませんか」といって、オーマル近郊のバルヌヴィルにあるたいした収入もあがらない小さなあばら屋のことを持ち出した。この家はもと老ボヴァリー氏が売った小さな農場に付随していたものであった。ルウルウは何から何まで調べてあり、坪数はどのくらいで、隣人はどんな人かまで知っていた。
「手まえが奥さんでしたら、これを売って借金を返し、そのうえ余分の金まで手に入れるのですがねえ」
エンマは買い手がなかなか見つからないだろうといった。すると、ルウルウは、まあ見つかるでしょうと安心させた。しかし、エンマは売るにはどうしたらいいのかと聞いた。
「委任状がおありじゃありませんか?」とルウルウが答えた。
この一言は一陣の涼風であった。
「さっきの請求書を置いていってくださいな」
「いや、そんなにしなくてもよろしいのでして」
ルウルウは次の週にもやってきた。偉そうな顔をして、やっとのことで、前々から買い値はまだわからないが、土地を買いたがっているラングロワとかいう男を見つけたといった。
「値段はいくらでもいいわ」とエンマは叫んだ。
いや、その前にこの男を調べなければなりません。行ってみるだけのことはありますといった。奥様がご自分でお出かけになるわけにもまいりますまいから、代わりに手前が出かけて行って、ラングロワと話をきめてまいりましょうとルウルウがいった。帰ってくるなり、四千フラン出そうといっていると伝えた。
エンマはこの知らせに狂喜した。
「ほんとに、いい値でございますよ」
エンマはその半金をその場で受け取った。勘定を払おうとすると、商人は、
「まったく、そのような莫大な金を一時に取りあげてしまうのはお気の毒なことで」
そこで彼女は紙幣をしみじみと見つめた。この二千フランで数限りなくランデブーができるのだと思うと、
「でもねえ、いくらなんでも」とつぶやいた。
ルウルウはお人好しらしく笑いながら、
「なに、勘定書にはなんとでも書けますからね。手まえが家政のことは暗いとお思いですか?」
ルウルウは手に長い手形を二枚持ち、指でまさぐりながら、彼女をじっと見つめた。しまいには、紙ばさみをあけて、一千フランずつの約束手形を四枚、テーブルに並べて見せた。
「これにご署名願います。ですからお金は全部とっておきなさいまし」といった。
彼女はそれではあまりだからといって辞退した。
「ですが、差額の分はさし上げるのですから奥様のおためにしているのではございませんか」とルウルウは厚かましくも答えた。
そういうと、ペンをとるなり、明細書の下に≪金四千フラン、正に受け取りました。ボヴァリー夫人≫と書きつけた。
「半年もたてば後金がはいるのですし、最後の手形の期日を金がはいる後にするのですから、なにも危いことはありません」
エンマは胸算用にしばし考え込んでいた。金貨の袋が裂けて彼女のまわりの床に音高く金貨がこぼれているように耳がガンガン鳴った。ルウルウは手前の友人にルーアンで銀行をやっているヴァンサールという者がおりますから、その男にこの四枚の手形を割り引いてもらいましょう。そして残りの二千は手まえがじきじきにお届けいたしますと説明した。
しかし、ルウルウは二千フラン持ってくるはずのところ、千八百フランしか持ってこなかった。ヴァンサールが(当然の権利を行使し)手数料ならびに割引料として二百フランを天引きしたからである。
それからルウルウはつまらないことだといわんばかりの調子で受け取りを書いてほしいといった。
「ご存じでしょうが……商売には……必ず……ああ、日付けを、日付けをお願いします」
夢が夢でなくなって、生活の新たな展望がエンマの目の前に開かれるかと思われた。彼女もかなり慎重にして、千エキュ〔三千フラン〕を残しておき、その金で、初めの三通の手形を払った。しかし、最後には偶然に、ある木曜日に家に舞い込んできた。シャルルは気も顛倒《てんとう》して、しんぼう強く妻の帰りを待ち、説明を求めた。
エンマはこの手形のことを話さなかったのは家のこまごましたことであなたをわずらわしたくなかったからですと、エンマはシャルルの膝に乗って、愛撫をしながら語り、甘い言葉をかけては、つけで買ったどうしても必要な品々をながながと並べたてた。
「これだけ買ったのですもの、そう高い買物ではないでしょ」
シャルルは考えあぐねて、いつものルウルウの所に駆け込んだ。ルウルウは万事落着するために、二枚の手形にご署名をくださいましといった。そのうちの一枚は、三か月期限付七百フランであった。ついに策に困って、彼は母親に悲痛な手紙を書き送った。母親は返事を書くかわりに、みずからやってきた。エンマがお母様にいくらか出していただけますかと聞くと、
「いや、明細書が見たいのだとおっしゃるのだよ」と答えた。
翌日、エンマは起きぬけにルウルウの店に飛んで行き、千フラン以下の明細書を一通作ってほしいとたのんだ。四千フランの書きつけを見せたら、三分の二は払ったこと、不動産を売り払ったことを話さなければならないだろう。ルウルウにしてもらった商談はうまくいって、実際このことが知れたのもずっとあとのことだった。
一つ一つの品はたしかに安いけれど、こんなに贅沢《ぜいたく》しなくてもとボヴァリー老夫人はすかさずいった。
「絨毯なしではすまされなかったのかい? 肱掛椅子の布を張り替えたのはなぜかね? あたしの若いときには、肱掛椅子などは家にたった一つあるだけ、それも老人用にあるだけだった。――少なくともあたしの母はそうだったよ。あれはほんとに立派な人だった。――世間は金持ちばかりじゃないのだからね。いくら金があったって、浪費したのではたまらないよ! わたしだったら恥ずかしくてあんたのようにのらくらしていられませんよ。老人のあたしが、いたわってもらいたいこのあたしがこういうんですよ。おや、あらあら、服にアクセサリーかね。なんだって! 絹の裏地が二フラン!……十スーか八スーも出せば、結構立派なのが買えるのに!」
エンマは長椅子にそりかえり、つとめて冷静に、
「ああ、もうたくさん、たくさん」と口答えした。
相手はまだ説教し続け、こんなではおまえたちはゆくゆく施療院で死ぬことになるからねといった。それというのも、シャルルが悪いのだ。幸いにしてあの子は委任状を無効にしてくれる約束をしてくれましたがね……。
「なんですって?」
「ええ、あの子は約束しましたよ」と老夫人がやり返した。
エンマは窓を明けてシャルルを呼んだ。かわいそうにシャルルはおそるおそる母親に誓ったことを打ちあけた。
エンマはついと立って、すぐに戻ってくると老夫人におごそかに大きな紙きれを渡した。
「あら、どうも」と老夫人がいった。
そうして委任状を火中に投げ入れた。
エンマは鋭く、つんざくばかりの声で続けざまに笑った。ヒステリーが起こったのである。
「ああ、大へん!」とシャルルが叫んだ。「お母さん、お母さんもいけないよ。エンマとけんかしにきたのですか!」
すると母親は肩をすくめて、「あれはみんな仮病ですよ」といった。
しかし、シャルルははじめて母親に反対してエンマの肩を持った。そのため、母親は帰りますよといい出した。そして翌日早々に帰って行った。玄関でシャルルが引き止めようとすると、母親はいい返した。
「いやですよ! おまえはわたしよりあれのほうが可愛いんだろ。それがほんとうだよ。あたりまえのことですよ。それに、気の毒だけど、今におまえもわかりますよ。からだに気をつけるのですよ。おまえがいったように、けんかしにはこないからね」
シャルルはエンマに面と向かうと、面映《おもは》ゆかった。エンマが夫に信用されなかったことを恨みに思い、しかもその恨みを隠そうとしなかったためである。そこで何度もお願いしたあげく、委任状を受け取らせた。そのうえ、彼はエンマについて、ギョーマン氏の所に行き、前のと同じ書類をまた作ってもらった。
「わかりました」と公訴人がいった。「えてして学者というものは日常のこまごましたものを持てあますものでして」
シャルルはこのお追従《ついしょう》に気が軽くなった。自分の弱点を神聖な職業というきれいな外見でおぎなってもらったわけである。
翌週の木曜日、ホテルの二人の部屋にレオンといっしょになると、エンマはなんと感情を爆発させたことだろう! エンマは笑い、泣き、うたい、踊り、シャーベットを持ってこさせ、たばこをふかしたがった。レオンには彼女がどうかしているのではないかと思った。しかし、美しく、すばらしかった。
彼には、エンマの全存在にどんな反動があって、彼女を人生の亨楽に走らせるのかわからなかった。彼女はいら立ち、食い気も色気もつのってきた。彼女は堂々と大通りを通り、彼女のいいぐさではないが、世間の目もはばからずにレオンと歩き回った。しかし、ときには、エンマは突然ロドルフと出っ食わすのではないかと思うとからだがふるえた。彼女には、二人は永遠に別れてしまったのだが、完全に自由の身になったのではないような気がした。
ある晩、彼女はヨンヴィルには帰らなかった。シャルルは度を失い、幼いベルトはママがいっしょじゃなければねんねしないといって、胸のつぶれるほど泣きわめいた。ジュスタンは盲《めくら》めっぽう街道を駆け出し、オメーは調剤室から飛び出してきた。
とうとう十一時になると、シャルルはがまんしきれなくなって、馬車に馬をつけて、飛び乗るなり、鞭を振るって先を急ぎ、午前二時ごろ「赤十文字ホテル」に着いた。しかしだれもいなかった。ひょっとしたらレオン君が家内を見かけたかも知れぬとシャルルは考えた。しかしレオン君はどこに住んでいるのだろう? 幸いにも彼はレオンの主人の住所をおぼえていた。シャルルはそこに駆けつけた。
もう夜が明け染めようとしていた。シャルルは門の上の標識をあらため、ノックをした。だれかが戸もあけないまま、きかれた所番地を教え、こんな夜中に起こすなんてといって悪口雑言を浴びせかけた。
レオンの住んでいる家には呼び鈴もノッカーもなく、門番もいなかった。そこでシャルルは鎧戸《よろいど》をこぶしでドンドンたたいた。警察官が通りかかった。すると彼はこわくなって、逃げ出した。
「おれもどうかしているな」とシャルルは思った。「きっとロルモーさんの家のディナーに行って、引き止められたのだ!」
だが、ロルモー家はもうルーアンを引き払っていた。
「デュブルィユの奥さんの看病をしているのかな、いや、デュブルィユさんは十か月も前に死んだのだ……それじゃ、いったいどこにいるのだろう!」
ふと思いあたることがあった。彼はカフェにはいり「年鑑」を借り、ランプルール嬢の名を捜した。ランプルール嬢はルネル・デ・マロキニエ街七十四番に住んでいた。
その道に行くと、エンマが向こう側からやってきた。シャルルは彼女を抱くというよりも彼女に飛びつくようにして叫んだ。
「きのうはどうして帰らなかったんだ?」
「具合が悪くなりましたの」
「どこが?……どこで……どんなふうに?……」
エンマは額に手をあて、答えた。
「ランプルール先生の所で」
「だと思っていたよ。ちょうど行こうと思ってたんだ」
「いいの。そんなになさらないで」とエンマがいった。「先生は今しがたお出かけになったわ。でも、これからは心配なさらないで。ちょっとおくれたくらいで、こんなに大騒ぎされるとわたし、窮屈だわ!」
これで、自由に外泊する許可がとれた。エンマはそれを思うまま利用した。レオンに会いたくなると、なんとかかんとか口実を設けて出かけていった。そんな日には、レオンは彼女を待ってないので、事務所に押しかけた。
はじめのうちは、それが大へんうれしかった。しかし、やがて彼はありのままを話した。主人がこう邪魔がはいっては仕事にならんといったからである。
「でも、いいじゃない、いきましょうよ」
レオンは抜け出した。
けっきょくエンマは彼に全身黒ずくめにさせ、顎《あご》にひげをはやさせ、ルイ十三世の肖像に似せたがった。そのうえ、下宿を見たいといった。見ると殺風景ねといった。レオンはその言葉に赤くなったが、エンマは気がつかなかった。そして彼女と同じカーテンを買うようにすすめた。レオンがもったいないというと、
「あら、ずいぶんこまかいのね」といって笑った。
会うごとにレオンはこの前のとき以来やったことを何から何まで報告させられた。彼女は詩を、自分のための詩、つまり自分をたたえた「愛の歌」を贈ってほしいといった。けれど、二行目の押韻《おういん》でもうまごついてしまい、贈答本の十四行詩を写すことになった。
これは見栄《みえ》のためというよりも、エンマに気に入られたいがためであった。レオンは彼女の考えにはさからわず、彼女の趣味ならなんでも受け入れた。彼女の愛人というより、彼が彼女の情人になった。彼女は甘い言葉とキスで彼の心をあやつった。いったいどこで彼女は、奥深く秘められているためにほとんど形をなさないあの妖艶《ようえん》さを身につけたのだろう。
六
レオンはエンマに会いに行くと、よく薬屋の家でご馳走《ちそう》になった。それで儀礼的にも今度はこちらからよばなければならないと思った。
「喜んで行くよ!」とオメーは答えた。「このわたしだって少しは気晴らしをしなければ。かびがはえてしまうからな。芝居にもレストランにも行こう。羽目をはずして遊ぼうではないか!」
「まあ、あんた!」とオメー夫人は夫がしようとしていることに漠然《ばくぜん》と恐ろしくなって、やさしくいった。
「えっ、なんだ? おまえはしょっちゅう薬の中にこもって暮らして俺《おれ》がからだをこわさんとでも思っているのか! もっとも、これが女の気持ちというのかもしれん。学問にまで嫉妬《しっと》するし、ちょっとした気晴らしにまで反対するんだからな。なあに、レオン君、そのうちに出かけて行くからあてにしていてくれよ。そうしたら『お大尽《だいじん》気どりで』遊ぼうじゃないか」
昔の薬屋なら、こんな言葉を使わなかったことだろう。しかし、近ごろ、調子のいいパリふうにかぶれ、それが粋《いき》ないい方だと思っていた。オメーもまたとなりのボヴァリー夫人同様、書記に都の風俗を根掘り葉掘りたずねた。おまけに田舎っぺどもを驚かそうと隠語《いんご》まで使い「ドヤ」だの「あいまい屋」だの「トッポイやつ」だとか「イカス」「赤線」だとかいい、「帰る」のかわりに「ずらかる」などといった。
そのため、木曜日にエンマは「金獅子館」の台所で旅支度のオメーに会うと驚いてしまった。オメーはだれにもオメーとは思われない古ぼけたマントを着込み、片手にスーツケースを下げ、もう一方の手に店ではいている裏毛のスリッパを持っていた。彼は自分がいないことでみなが動揺するのを恐れて、だれにも遠出のことを話さなかった。
青春時代を過ごした場所に行くと思えば、興奮してくるのか、道すがらずっとしゃべりっぱなしであった。だが、着くやいなや、馬車からいちばん先に飛び出し、レオンを捜しに行った。レオンがなんだかんだというのもかまわず、彼を大カフェ「ノルマンディー」に引っぱって行った。オメーは店にはいるにも帽子もとらず、いばってはいっていった。大ぜいの人が出入りするのに脱帽するなどとは田舎っぺのすることだというわけである。
エンマは一時間近くもレオンを待っていたが、ついには彼の事務所まで駆けつけた。そうしてああではないかこうではないかと思いあぐね、彼の冷たさをうらみに思い、自分自身の弱さもうらめしかった。彼女は窓に額をおしつけたまま午後を過ごした。
二人の男は二時になってもテーブルをかこんでいた。広いホールはガランとしてきた。棕櫚《しゅろ》の木型のストーブの煙突は白い天井でその金色の葉の束をまるく曲げてあった。二人のそばのガラスケースの中で日を浴びて大理石の受け皿に小さな噴水が音をたてて降り注いでいた。その皿には、クレソンやアスパラガスの間に、生きのいい伊勢えびが三匹、すぐそばに山と積まれているうずらのほうまで身を伸ばしていた。
オメーは心から楽しがっていた。彼はおいしいご馳走にというより贅沢《ぜいたく》な雰囲気に酔っていたのだが、実際にはポマード酒でごきげんになっていたのである。そしてラム酒入りのオムレツが出るころには、卑猥《ひわい》な女談義をしていた。何よりもいいのが「シック」な女である。すてきな調度の部屋にエレガントな粧いの女などはいいものだ。肉体的にいうなら、小柄な女も悪くない。
レオンはがっかりして時計を見つめていた。薬屋は大いに飲み、食い、しゃべった。
「君もルーアンでは不自由だろ。もっともいい人が遠くにいるわけではないがね」と突然いいかけてきた。
一方が顔をあからめると、
「さあ、白状しちまえよ! 君も否定しないだろ、ヨンヴィルで……」
若者は口ごもった。
「ほら、ボヴァリーさんのところの、口説いたろうが?」
「いったいだれのことです?」
「女中さ!」
冗談《じょうだん》でいっているのではなかった。しかし、誇りのために日ごろの慎重さも忘れて、おこった。それにぼくは褐色の髪の女しか好きじゃないといった。
「そりゃわかる」と薬屋がいった。「情が濃いからな」
それから身をかがめて、レオンに女の情の濃さを示す特徴を耳打ちした。それから人種学の蘊蓄《うんちく》まで傾けた。ドイツ女は陰気臭い、フランス女は浮わき者、イタリア女は情熱的だといった。
「黒ん坊はいかがです?」と書記が聞いた。
「絵描き好みだな」とオメーがいった。「ボーイ! 食後のコーヒー二つ!」
「出ませんか?」とレオンはしびれを切らしてとうとう聞いた。
「イェス」
しかし、立ち去る前にオメーは店の主に会って挨拶して行きたいと思った。
二人きりになると、若者は用事があるからといいわけをした。
「それじゃ、送って行くよ」とオメーがいった。
オメーと道を下ってくる途中、妻のこと、子供のこと、子供の将来について、薬局のことをしゃべりまくり、昔あの店がどんなにさびれていたか、そして今、どんなに成功しているのかを語った。
「ブーローニュ・ホテル」の前にくると、レオンはつとオメーのそばを離れ、階段を上がった。恋人は思案にくれていた。
オメーの名を聞くと、彼女はかっとした。しかし、レオンもいいわけを並べたてた。ぼくのせいじゃない。オメーという人物はあなたもよく知っているではないですか。あの人のそばのほうがいいなんてだれが信じられますか? しかし、彼女は顔をそむけた。彼は彼女を抱きよせた。ひざまずくと、両腕で腰を抱き、情欲と嘆願の入り混じった物憂いポーズをした。
エンマは突っ立っていた。きらめく大きな目で彼を真剣に見つめ、恐ろしいほどであった。ふとその目が涙にくもり、赤くなったまぶたをおろした。彼女は手をまかせた。すると、レオンはそれに唇を持っていった。そのときボーイがやってきて、旦那に面会のかたがありますと告げた。
「帰ってくるわね?」
「うん」
「でも、いつ?」
「今すぐ」
「なに『気をきかした』のさ」とレオンを見るなり、薬屋がいった。「君は不愉快そうだったろう。だから会談を切り上げさしてあげたんだ。さあ、ブリドーの所へ行って、ガリュス酒〔サフラン、肉桂、などで作った薬用酒〕でも飲もうじゃないか」
レオンは事務所に戻らねばならないからといった。すると、薬屋は書類や訴訟手続きなどについて軽口をたたいた。
「キュジャス、バルトリ〔十六世紀のフランスのローマ法学者〕などなにするものぞ、そんなものは少しはほっておけばいいのさ! だれがいけないなんていうものかね。勇気を出して、さあ、ブリドーの所に行こう。あそこには犬がいてね。そいつがおもしろいんだ」
書記がそれでもというので、
「それじゃ、わしも行こうじゃないか。待っている間、新聞を読んだり、法典でもひもといているとしよう」
エンマの怒り、オメーのおしゃべりに昼食のもたれも手伝って、レオンは気のきまらぬまま、立ちつくしていた。どうやら繰り返し、誘うオメーに憑《つ》かれている模様であった。
「ブリドーの所へ行こう! ここからはほんの一足のマルパリュ街なんだから!」
ついに、レオンは気がくじけたのか、軽率なのか、それともわれわれの意志とは反対の行動に誘いこむあのなんともいいようのない感情からか、導かれるままブリドーの家まで行ってしまった。ブリドーは中庭で息をはずましている弟子を三人督励してセルツ水を作る機械のハンドルを回させていた。オメーはこうしたらいいとか、ああしたらいいのといいだし、そのあげくブリドーを抱いた。みなでガリュス酒を飲んだ。レオンは幾度も腰を上げた。すると、オメーがその腕を押えて、
「もう少し。わしも帰るよ。『ルーアンの灯』社によって、みなに会って行こう。君にトマサンを紹介するから」
やっとのことでオメーをまくと、彼は一足とびに駆けつけた。エンマはもういなかった。
彼女はプリプリして帰ったばかりであった。今ではレオンが憎かった。わざわざ会いにきたのに、こんなにほうっておくなんて、あんまりだと思った。そこで、レオンから遠ざかるほかの理由を見つけようと思った。あの人はりんとしたところがない。女々《めめ》しくて、平凡で女より優柔だ。そのうえ、けちで意気地《いくじ》なしだ。
しかし、落ち着いてみると、けなしすぎてしまったと悟った。愛している者をけなせば、心が遠のくものである。あがめるものは手に触れてはならない。金箔《きんぱく》がはがれて、手につくものである。
二人は恋とは全く無関係なものを話題にするようになった。彼女がレオンに書き送る手紙でも花や詩や月や星のことが主《おも》なるテーマとなった。それは弱まっていく愛を外側からいろんなものを注入して盛りたてていこうとする無邪気な手段であった。彼女は深い喜びを次回に期するのだが、これといって変わったものは味わい得なかった。しかし、この失望もすぐに新たな希望にかき消され、レオンのもとにより熱っぽく、よりがつがつして戻って行くのだった。彼女は乱暴に服を脱ぎ、コルセットの細いひもを引き抜いた。ひもはすべるように進む蛇《へび》のようなしゅーしゅーという物音をたてた。彼女は素足でつま先立ち、もう一度戸がしまっているかどうか見に行った。それからさっと服をぬいだ。――青い顔をして、一言も口を聞かず、真剣な顔をして、レオンの胸にわななきながら倒れかかった。
しかし、この冷汗を浮かべているこの額にも、何事かつぶやく唇にも、とまどっている瞳にも、この腕の抱擁にも何か異常な、とりとめのない悲しみの影が見えた。レオンにはそれが二人の間にそっとはいり込み、二人を別れさせようとしているもののように見えた。
しかし、彼女に思いきって聞きただそうとはしなかった。しかしエンマがこれほどまでに老練であるところを見ると、酸《す》いも甘いも知り抜いているに違いないと思った。かつて彼を魅了したものもいまではそら恐ろしかった。そのほかにも、日ごとに激しく自分という人間が彼女に吸収されて行くのが腹立たしかった。エンマに牛耳られっぱなしなのがうらめしかった。そこで愛さない努力までしてみた。しかし、彼女の靴音を聞いただけで、強い酒を見た飲んだくれのように気がくじけてしまうのだった。
事実、エンマは彼のためにいろいろと心を配った。料理を凝《こ》ることから粋《いき》な服装やものうい目つきまですべては彼ゆえであった。彼女はヨンヴィルからバラを胸にかかえてきて、彼の顔に投げかけたり、彼の健康を心配したり、彼のふるまいについて注意をしたりした。それから、彼をもっと引き止めておくために、神様のご加護を念じて、レオンの首に聖母マリアのメダルをかけた。貞潔な母親のように友だちのことを聞き、こういった。
「その人たちと会ってはだめよ。出かけてもいけません。ただわたしたちのことを考えるのよ。さあ、わたしを愛して!」
エンマは彼の生活を見張りたいと思った。ふと後をつけさせてみたらと思った。いつも、ホテルの近くに、旅人には必ず声をかける浮浪人らしい男がいた。この男にたのんだら、ことわらないだろう……。しかし、彼女の自尊心が許さなかった。
「まあ、いいわ! だまされたって、かまわないわ!」
ある日、二人は早めに別れた。エンマは街路を一人で帰ってくると、昔自分のいた修道院の壁が見えた。彼女は楡《にれ》の木陰のベンチに腰を下ろした。あのころはなんと穏やかだったろう。書物から手を離しては、恋のいうにいわれぬ感情をどんなに思い描き、どんなに知りたいと思ったことだろう。
新婚時代の数か月、森へ馬で散策しに行ったこと、ワルツを踊る子爵様、うたうラガルディー、すべてが彼女の目の前に立ち現われた。が、レオンも他のもの同様、突然、遠くに感ぜられた。
「でも、わたしはあの人を愛しているのだわ!」と思った。
それでも、彼女はしあわせではなかった。しあわせだったこともなかった。どこからこの生活に対する不満が生まれ、どこから彼女が頼りにしているものが、一瞬のうちに腐敗してしまうのであろうか。……しかし、もしどこかに立派で美しい男が、激しくてしかも洗練された雄々《おお》しい男、天使の姿に詩人の心を宿し、哀調を帯びた祝婚歌を天にうたいあげる、青銅弦の竪琴《たてごと》のような心をもった人がいたならば……、なぜ、偶然にめぐり合わないことがあろう。でも、それは不可能なことだ! それに、苦労して捜すこともないのだ! すべては虚構なのだ! どんな微笑にも倦怠《けんたい》のあくびが、喜びには呪《のろ》いが、快楽にはむなしさが隠されているものなのだ。どんなに甘美なキスさえ、唇にはより高い悦楽へのかなわぬ望みしか残さないものである。
金属的な物音が空にながながと尾をひいて響き渡った。修道院から鐘が四つ聞こえてきた。四時だ! 彼女はもうずっと前からここに、このベンチにすわっていたような気がした。群衆を狭い所に集められるようにわずか一分間の間に無数の情念を持つこともできるものである。
エンマは自分の情念に首までひたって暮らしていた。そして大公妃のように金のことなどに頓着《とんちゃく》しなかった。
ところが、ある日、はげで赤ら顔の貧相な男が彼女の家にやってきた。男は、ルーアンのヴァンカール氏の使いの者だといった。裾の長い青いフロックの脇ポケットにとめてあるピンをはずすと袖に止め、うやうやしく一通の書類をさし出した。
それはエンマの署名がある七百フランの手形であった。ルウルウはあれほど堅く約束したのにヴァンカールに譲渡したのである。
エンマはルウルウを呼びに女中を走らせた。だが、彼はこられないといってよこした。
すると、見知らぬ男は立ったまま、金髪の太い眉毛の影にかくれて見えない目をもの珍しそうに左右に動かし、愚直そうにたずねた。
「ヴァンカール氏にはなんと伝えましょう?」
「ええ、そうねえ!」とエンマが答えた。「こういってください。……きょうは持ち合わせがありませんから……週末まで……お待ちください……週末になったらきっと」
男は一言も文句をいわずに帰って行った。
しかし、翌日のお昼に彼女は拒絶証書を受け取った。印紙を張った書類に何度も大文字で≪ビュシーの執達吏《しったつり》、メートル・アラン≫としたためてあるのを見ると、恐ろしくなって、取るものもとりあえず、呉服屋の店に駆け込んだ。
ルウルウは店で包みにひもをかけているところだった。
「いらっしゃいまし。すぐにまいります」
ルウルウは、心持ちせむしの十三ぐらいの女の子に手伝わせて、仕事の手を休めなかった。その子を彼は店員兼女中として使っていた。
それから、店の床に木靴の音を響かせて、夫人を前に立てて二階へ上がり、狭い小部屋に招じ入れた。樅《もみ》の大きな文机に帳簿が数冊のせてあった。帳簿は斜めに南京錠《ナンキンじょう》のかけてある鉄棒で押えてあった。壁側のインド更紗《さらさ》の布地の下に金庫がのぞいていた。これほど大きいのだから、この中には手形や金以外のものもはいっているのだろう。事実、彼は抵当付きで金貸しをしていた。ボヴァリー夫人の金も、テリエじいさんの耳輪もこの中にしまってあるのだ。じいさんは店を売らなくてはならない破目になり、カンカンポワで雑貨商の権利を買って小さな店を出したが、店で売っているろうそくよりも黄色い顔をしてカタルで死にかけていた。
ルウルウはゆったりしたわらの肱掛《ひじかけ》椅子に腰を下ろすと、いった。
「で、どうなさいました?」
「これを見て」
「それで、どうしろと?」
エンマはかっとなって、手形は人手に渡さないといったじゃないのといった。ルウルウはその約束を認めた。
「でも、手前もせっぱつまって、しかたなしにしたのです。なにしろ背に腹はかえられませんからな」
「それで、どうなるの?」
「そりゃ簡単です。裁判所で判定をうけて差し押え……、しかたありませんな」
エンマはなぐってやりたいのをおさえて、穏やかにヴァンカール氏をなだめる方法をたずねた。
「ああ、そうですか! ヴァンカール氏をなだめる? 奥さんにはあの男がどんな男だか知らないから、そんなことをおっしゃるのです。あいつはアラビア人よりもしぶとい男ですよ」
しかし、あなたのお力をお借りしてというと、
「よくお聞きくださいよ、今まで奥さんにはかなりおつくししてきたと思うんですがね」
そういって彼は一冊の帳簿を広げた。
「ご覧ください」
それから指でページを逆にたどりながら、
「ほら、これです。八月三日二百フラン、六月十七日百五十……三月二三日四十六……四月……」
ルウルウはばかなことでもしでかしはしないかと、口をつぐんだ。
「これでも旦那がお書きになった手形は入っていないんでして、七百フランのと三百フランですが。それに奥さんがちょびちょびお入れになったのやら、利息やら、きりがありません。どうしたらいいのか手まえもわからなくなります。ですからもうごめんこうむりたいですよ」
エンマは泣いて≪ご親切なルウルウさん≫とまでいった。しかし、ルウルウはあいかわらず≪ヴァンカールのやつ≫のせいにした。そのうえ、手まえには一文もありません。今、支払いをしてくれる者など一人もいない。自分のものまではぎ取られてしまいそうなありさまでして、手まえどものようなちっぽけな商人にはとてもお金など貸してさしあげられませんといった。
エンマは黙っていた。ルウルウは鵞《が》ペンの先をかじっていたが、彼女の沈黙を不安に感じたのか、こう切りだした。
「せめて、近いうちにはいりましたら……してさしあげるのですが……」
「もっともわたしのほうも、バルヌヴィルの後金さえはいってくれば……」
「なんですって?」
ラングロワがまだ金を送ってよこさないと聞くと、ひどくびっくりした様子だった。そして猫なで声で、
「どういたしましょう?」
「そちらのいいようにしてちょうだい」
すると、ルウルウは目を閉じて考えていたが、数字を書きつけた。そして大犠牲だ! あぶない仕事だとか、血の出る思いがするなどといって、エンマにそれぞれ一か月おきの期限つきの二百五十フランの手形を書かせた。
「ヴァンカールが承知してさえくれればいいんですが! とにかくわかりました。手まえはぐずぐずいたしませんし、腹に一物あるほうじゃありませんから」
それから彼はのそのそと新着の品物を見せた。しかし、彼のいいぐさをかりれば、どれも奥さんには不つり合いの品物ばかりですといった。
「ほら、これが一メートル七スーの服地で、しかも染めは保証付きというのですからなあ。でも、みなさん買っていらっしゃいますよ。お察しのとおり、本当のことは申し上げませんから」と他の客に対する悪どさを告白してみせて、ルウルウはエンマには自分が誠実であることを認めさせようとした。
それからルウルウはエンマを呼んで、最近≪競売で≫手に入れたという三オーヌ〔三メートル強〕のレースを見せた。
「立派なものでございます。当節ではこういうのを椅子の背掛けにお使いになるようでして。それが流行でございます」
そういって彼は手品師よりも手早くレースを青い紙でくるみ、エンマの手に押しつけた。
「でも、おいくらですの……」
「いいえおついでで結構です」といってルウルウは向こうを向いた。
夜になると、エンマはボヴァリーにがみがみいって手紙を書かせ、相続財産の残り分を早く送ってほしいといわせた。姑《しゅうとめ》はもう何もやるものはない。……清算は終わったのだ。おまえたちにはバルヌヴィルの土地以外に年六百フランやります。これはきちんと送るからといってきた。
そこで夫人は二、三の患者の家に請求書を送った。やがてこの手を大いに利用すると、うまくいった。彼女は必ず「ご存じのように主人はああいう人ですから、主人にはおっしゃらないでくださいまし。なにとぞお願いいたします。……かしこ」と書き添えるのを忘れなかった。
金を作るため、古手袋や古帽子や古くなった金物まで売った。彼女は強欲に商売をした。――百姓の血が彼女を儲《もう》けに走らせたのである。町に出るついでに、つまらぬがらくたを買いあさってきた。買手がなくとも、ルウルウが必ず引き取ってくれた。自分のためには駝鳥《だちょう》の羽と中国ふうの磁器と櫃《ひつ》を買った。彼女はフェリシテにもルフランソワのおかみにも「赤十文字ホテル」のおかみにも、だれでも、所かまわず金を借りた。バルヌヴィルから送ってきた金で、彼女は手形を二枚支払った。だが、残りの千五百フランは使いはたしてしまった。そこでまた借金をこしらえる。いつもこの調子であった!
ときには彼女も計算をしてみるのだが、金額が途方もないので、信じられなかった。そこでまた、やりなおすのだが、すぐにどうしていいのかわからなくなり、そのままにして、もう考えなくなった。
今や、家中が陰気くさくなった。出入りの商人はふくれた顔して出てくるし、台所のストーブにハンカチが置きっぱなしになっていた。ベルトが穴のあいた靴下をはいているのにはオメー夫人も眉をひそめた。シャルルがおそるおそる文句をいおうとでもしようものなら、エンマはぶっきらぼうに、わたしのせいではありませんわ、といった。
どうしてこんなにおこるんだろう? シャルルはそれを昔の神経病のせいにした。そして病気なのに文句などいったことを後悔し、自分の自己主義を責め、走って行ってエンマを抱きしめたいと思った。
「いや、いや、きっとうるさがるだろう」と彼は考えた。
そしてやめにした。
夕食後、彼は一人庭を歩いた。ベルトを膝に抱き上げると、医学新聞を広げ、読み方を教えようとした。娘は今まで一度も勉強したことがないのですぐに悲しそうに大きな目を見開くと、泣きだした。すると、彼は娘を慰め、じょうろに水を持ってきてやって砂の上に川をこしらえてやったり、いぼたの木の枝を折ってきて、花壇に植えたりした。そんなことをしても、ちっとも庭を荒すことにはならなかった。雑草が生い茂っていたからである。レスティブードワにもずい分長いこと借りている! やがて子供は寒くなり、ママはといった。
「フェリシテをお呼び」とシャルルがいった「ママはご用を邪魔されるのがきらいなんだよ。よく知っているだろ、おまえ」
もう秋だった。木の葉はもう散っていた。――二年前、病気になったときと同じようだ!――いつになったら終わりになるのだろう!……彼は後ろ手に手を組んで歩き続けた。
夫人は自分の部屋にいた。だれもはいってこさせなかった。夫人は日がな一日そこにだらしない格好で、こもっていた。ときどき、ルーアンのアルジェリア人の店で見つけてきたハレムの香をたいた。夜、隣で夫に眠られるのをいやがり、しかめっ面をしてとうとう夫を三階に追っ払った。そして朝までとんでもない本を読んでいた。そんな本にはばかさわぎの場面や血なまぐさい絵がついていた。ときどき、恐ろしくなり、叫び声を上げた。するとシャルルが駆けつけた。
「あら、あっちにいらして」と彼女はいった。
あるいは、不義の心がたきつける胸の炎に燃えて、息をはずませ、興奮し、欲情をたぎらせながら窓をあけるのだった。冷たい空気をかぎ、多すぎる髪を風になびかせ、星を眺め、王子との恋にあこがれた。彼女はレオンのことを思った。彼女はレオンと会って欲望を満足させることさえできるならもうそのほかに欲しいものは何もないという気になった。
あいびきの日は彼女の祝祭日であった。せめてこの日だけはすばらしい日であってほしいと思った。レオンが払いきれないと、彼女は気まえよく足し前を出してやった。しかし、そのうちにそれがあたりまえのことになった。レオンはエンマにどこか他の、もっと安いホテルでもいいじゃないかといい聞かせたが、彼女は反対した。
ある日、彼女はめっきしたスプーンを六本手提げから取り出して、(このスプーンはルオーじいさんからの結婚のお祝いだった)すぐに質屋に持って行ってくれといった。レオンはいやいやながらその言葉に従った。人の目に触れるのが恥ずかしかった。
よくよく考えてみると、恋人の態度はへんだし、別れろと人がすすめてくれるのももっともなことだと思った。
実際、だれかが匿名《とくめい》で彼の母親の所に手紙を出し、レオンが「人妻に夢中になっている」と告げた。老夫人は家庭をおびやかすもの、つまり、愛の深みに秘《ひそ》かに住まう有毒な女、妊女《シレンヌ》〔ギリシア神話の半人半魚の海の魔女。美声で船人をおびきよせ、難破させたという伝説がある〕ないしは悪女をかいま見て、レオンの主人のデュボカージュに手紙を出した。デュボカージュはこの事件では申しぶんなくふるまった。一時間近くもレオンをひきすえ、目をあけさせようとし、事の理をさとした。このような恋は将来の仕事にもさしつかえるといった。手をきるようにいい、おまえのためにはできなくとも、おれの、このデュボカージュのためだと思ってしてくれといった。
レオンはしかたなく、二度と会わないと約束した。そこでレオンは、毎朝、ストーブをかこんで仲間にからかわれることを勘定に入れなくとも、今後、この女のために持ち上がるわずらわしさや人の噂《うわさ》に上がることを考えれば、約束を守らないことが悔やまれた。そのうえ、レオンはそのうちに一等書記になるはずであった。今が大事なときなのだ。彼はフルートを吹くことも、熱にうかされた気持ちも、空想もやめていた。――どんな平凡な人間でも、輝かしい青春時代には、一日にせよ、一分にせよ、無限の情熱をいだき、高い希望を実現できると信じない者があろうか。どんなにつまらない蕩児《とうじ》でもサルタンの后《きさき》を夢見るものである。どんな公証人もその胸のうちには詩人の残骸《ざんがい》を宿しているものである。
今では、エンマが急に彼の胸でさめざめと泣くと、あきあきした。レオンの心は、ちょうどある一定量の音楽だけしか受け入れられない人のように恋の騒ぎに冷やかに聞きながしてまどろむのであった。彼はもう恋の騒音に繊細な美しさを感じとることができなかったのである。
二人は快楽を百倍にするあの互いを占有する喜びを感じとるには慣れすぎていた。レオンがあきあきしているのと同様、エンマもレオンが鼻についていた。彼女は不義の中にも結婚生活の風俗を見いだした。
しかし、どうしたらこれを抜け出し得よう。彼女にはこのようなしあわせの俗悪さを恥ずかしいと思いながらも、なお、惰性《だせい》と自堕落な気分から続けていた。日ごとに、より大きなしあわせを望んで、その執着は強まっていったが、かえって現在のしあわせを摩滅《まめつ》していた。彼女は自分の失望を、まるでレオンが裏切ったかのように思って、彼のせいにした。そして、自分が決意する勇気もないままに、二人を別れさせる事件が起こらないかとさえ望んだ。
しかし、彼女は、女は恋人には必ず恋文を送るものであるという考えから、まだ手紙を書き続けていた。
しかし、書いているうちに、別な男、彼女のもっとも熱い思い出と、甘美な読書と、激しい望みから生まれた理想の男性を感じていた。ついにはその男が真実らしく、手にとどく所にいるような気がした。そこでエンマは胸をはずませるのだが、その人は神様のように無限の属性に飾られているため、はっきりとはその姿を思い浮かべることができなかったのである。その男はほの青い国に住んでいた。月光の下、花の匂いのたちこめた所で、絹の梯子《はしご》がバルコニーで揺れていた。彼女はその男を間近に感じていた。やってきて、キス一つで彼女の全身を包むのだ。それから彼女はあえぎあえぎ、バッタリ倒れた。おぼろげな恋ゆえの興奮は奔放な色事よりも彼女をつかれさせた。
今ではいつでも、あらゆるものにつかれた。ときどき、召換《しょうかん》状や印紙を張った書類を受け取ったが、見る元気もなかった。彼女は死んでしまうか、さもなければいつまでも眠っていたかった。
四旬節の中日に〔遊楽の日と定めてある。三月の半ばごろ〕、彼女はヨンヴィルに帰らなかった。仮装舞踊会に夕方出かけたからである。彼女はビロードのズボンと、赤い靴下をはき、項《うなじ》に髪をたばねたかつらをつけ、三角帽をあみだにかぶった。彼女は一晩中トロンボーンのすさまじい音に合わせて踊り狂った。みなは彼女のまわりを踊っていた。朝になって気がついてみると、荷揚げ人足や船頭に仮装したレオンの友だちにかこまれて劇場の柱廊の所にいた。みなは食事をしに行こうと話し合っていた。
まわりのカフェは立て混んでいた。で、港にそった平凡なレストランを見つけた。レストランの主人は一同を五階の小さな部屋に案内した。
男たちはかた隅でひそひそ相談していた。きっと金の相談だ。書記一人、二人の医学生に事務員一人という構成だった。これがエンマの連れなのか! 女といえば、すぐにも声の響きでわかった。みんな最低の階級の女たちだ。と、彼女は恐ろしくなり、椅子を引き、目を伏せた。
他の人たちは食べ始めた。エンマは食べなかった。額が火のようで、まぶたがちくちくしたが、肌は氷のように冷たかった。彼女の頭の中ではまだ踊る足のリズミックな躍動につれて、舞踊場の床が今もなお動いていた。パンチ酒の匂いやたばこの煙で頭がもうもうとし、失神しかけた。みなは彼女を窓際に運んで行った。
もう夜明けだった。まっ赤な大きな斑点《はんてん》がサン・カトリーヌの丘のほの白い空に広がっていた。鉛色の川は風に吹かれてさざ波を立てていた。橋の上にはだれもいなかった。街灯が一つ一つ消えていった。
彼女はふとわれに帰った。自分の女中部屋で眠っているベルトのことが思い出された。細長い鉄材を満載した馬車が家々の壁に耳を聾《ろう》するばかりの金属的な響きをとどろかして通り過ぎて行った。
エンマは急に立ち上がり、服を着替え、レオンにもう帰らねばならないからと断わって、「ブーローニュ・ホテル」でやっと一人きりになった。なにもかもが、自分までがいとわしかった。
鳥のようにこの地を離れ、どこか遠い清らかな土地に行きたかった。
彼女はホテルを出、街路を渡り、コーショワーズ広場や場末町を通り、家々の庭を見おろす見晴らしのきく通りに出た。彼女は足早に歩いた。すると、冷たい空気で心が落ち着いてきた。少しずつ、群衆の顔も仮面もカドリールもシャンデリアも晩餐《ばんさん》もあの女たちも、すべてが晴れて行く霧のように消えていった。「赤十文字ホテル」に着くと「ネール塔」の絵がかかっている二階の小さな部屋のベッドに身を投げ出した。夕方の四時にイヴェールが彼女を起こしてくれた。
家に帰ると、フェリシテが時計の後ろから一通の灰色の書類を取り出した。読むと、
≪判決で執行すべきと定められた正本により……≫とあった。
どんな判決だろう? 昨晩もう一通の紙が送られてきたのだが、エンマは知らなかった。だから彼女は次の文面に驚いてしまった。
≪執行命令、国王ならびに法と正義の名において、ボヴァリー夫人に命ずる……≫
二、三行とばすと、
≪二十四時間の期限内に≫――いったいなんだというのだろう? ≪全額八千フランを支払うこと≫そしてその先に、≪その場合には、あらゆる訴訟手段により、とくに家具および家財など動産いっさいの差し押えによって右の実行を強制する≫
どうしよう?……二十四時間以内……あすだ。ルウルウがまたおどかしているのだろうと彼女は考えた。一時に彼女はルウルウのいっさいのからくりを、なんのために親切にしてくれるのかがすっかりわかった。金額の大きいことが、彼女を安心させた。
すなわち、物は買っても払わず、金を借り、手形に署名し、手形を更新し、そのうちに新たな支払い期限ごとに金額がかさんで行き、とうとうルウルウに一財産作ってやったことになるのだ。
ルウルウはある投資のためにその金をじりじりしながら待っていたのである。
彼女はルウルウの店に落ち着きはらって出かけて行った。
「どういうことになったかご存じ? あれは嘘だわねえ?」
「とんでもない」
「なんですって?」
彼はゆっくりと向きなおって、腕を組みながら、
「奥さん、考えても見てくださいよ。手まえがこの世の終わりまでただで奥さんのご用をつとめ、金をご用たしするとでも思っていらっしゃるのですかい? 貸した金は返していただかねばなりませんからね、いいですか」
エンマは借金が不当だといった。
「ああ、お気の毒ですが、裁判所が承認して判決が下り、お宅に通告したのですから。しかも、これは手まえがやったことではなくて、ヴァンサールのしたことですから」
「それをどうにかして……」
「いや、それはできません」
「でも、そうおっしゃらずに……相談にのってちょうだい」
そういって彼女はとりとめのないことをいった。ちっとも知りませんでした……これは寝耳に水ですわ……。
「だれのせいでしょうな?」とルウルウは皮肉におじぎをしていった。「手まえがまっ黒になって働いているというのに、奥さんはさんざんおもしろいことをなさっていらしたのですから」
「ああ、お談義はたくさん!」
「それでも毒にはなりませんよ」とルウルウは釘をさした。
彼女は弱気になり、ルウルウにたのみこんだ。そして白くて美しいその手を彼の膝にのせた。
「よしてください。人が見たら、なんといいます」
「ひどい人ね!」とエンマは叫んだ。
「おや、おや、大へんな勢いですな!」
「村の人たちにあんたのことをいいふらしてやるわ! 夫にもいいつけるわ!」
「よろしゅうございます。それでは旦那にこれをお目にかけましょうか」
ルウルウは金庫から千八百フランの受取を出した。ヴァンサールに割り引いてもらったときに渡したものであった。
「これであのお人のいい旦那さんも奥さんにやられたとお思いになるでしょう?」
彼女は棍棒《こんぼう》でなぐられたよりも強い打撃にまいってしまった。ルウルウは文机から窓まで行きつ戻りつして、
「ああ、見せますとも、見せますとも」といっていた。
それからエンマに近づくと、猫なで声で、
「これはまあ、あまり愉快な話じゃない。だが、結局、こんなことで死ぬ人はいませんしね。それにこれが金を返していただく唯一の方法なもんで……」
「でも、どこでお金を見つけろとおっしゃるの?」とエンマは腕をよじっていった。
「ああ、奥さんのようにお友だちがたくさんあるかたには……」
そういってルウルウは彼女を刺すような目つきでにらみつけた。恐ろしくて腹の中までちぢみ上がってしまった。
「約束するわ、署名するわ」
「もうたくさんですよ、奥さんの署名は!」
「また売るわ……」
「いや、もうお宅には売る物などは何もないじゃありませんか」とルウルウは肩をすくめていった。
そして彼は店先が見えるのぞき窓から、
「アネット! 十四番の利札三枚忘れるなよ」
女中が現われた。エンマは悟って、≪追求の手からのがれるにはどれだけの金がいるか≫とたずねた。
「もう遅いですな」
「たとえば数千フラン、総額の三分の一とか四分の一とかほとんど全部持ってきたら?」
「いや、いけません。むだなことです」
ルウルウはそういって、エンマを階段のほうへ押しやった。
「お願いですから、ルウルウさん。あと二、三日待って!」
エンマは泣いた。
「へん、涙なんて!」
「ひどいかた!」
「ひどくて結構!」とルウルウはいって、戸をピシャリとしめた。
七
次の日、執達吏《しったつり》アランが立会人二人を連れて、差し押えの調書を作るためにやってきたとき、エンマは毅然《きぜん》としていた。
彼らはまずボヴァリーの部屋からとりかかった。骨相学用の髑髏《どくろ》は「職業用器材」として書き込まれなかったが、台所のお皿から鍋、椅子、燭台、寝室の飾り棚に置いてあるつまらぬものまで書きとめられた。彼らはエンマの衣服、下着、化粧室まで調べ上げた。つまり彼女の生活が、解剖に付される死体のように隅から隅まで三人の男の目前にさらけ出されたのである。
アランは、きつい黒い燕尾《えんび》服に白いネクタイをつけ、きつくズボンの止めひもをしめ、ときどき、
「ちょっと失礼、ちょっと失礼」と繰り返し、しきりに感心した。
「すばらしい……じつにみごとな品だ!」
そして、左手に持っている角のインクびんにペンをつけ、また書き入れるのだった。
部屋を全部改め終わると、屋根裏へと上がっていった。
エンマはここにロドルフからの手紙を入れておいた机をしまっておいた。それもあけねばならないのだ。
「ほう、手紙ですか?」とアランは慎しみ深い微笑を浮かべていった。「ですが、失礼しますよ。何か他のものがはいっていないか確かめますから」
といって、彼は手紙の束から金貨でも振り落とすように束を傾けた。アランの大きな手や赤くてなめくじのように柔らかい指がかつて胸をはずませて読んだ手紙を触れているのを見ると、激しい怒りがこみ上げてきた。
とうとう三人も帰って行った! フェリシテがはいってきた。フェリシテはボヴァリーが家にはいってこないように見張っていたのだ。そこで二人の女は差し押えの番人を屋根裏にすばやくかくした。番人はそこにいると約束した。
その晩中、エンマにはシャルルが心配そうにしているように思えた。彼女は不安そうな目つきで見守り、顔の皺《しわ》を見ると、とがめられるような気がした。それから、中国ふうの防火|衝立《ついたて》のついた暖炉や大きなカーテンや肱掛椅子やその他の苦しい生活をやわらげてくれる品物に目をやると、良心の呵責《かしゃく》、というより限りなくうらめしい気持ちに襲われた。そして、情熱がさめるどころかかえってかき立てられてしまった。シャルルは落ち着きはらって火をかき立て、両足を薪《たきぎ》掛けにのせていた。
このとき、番人が隠れているのにあきたのだろう、かすかな物音が聞こえた。
「上にだれかいるの?」とシャルルが聞いた。
「いいえ、あけっぱなしになっている天窓が風で動いているのですわ」
翌日の日曜日、彼女はルーアンに向けて立ち、名まえを聞き知っている金貸しをたずねた。田舎に行っていたり、旅行中だといわれたが、エンマはひるまなかった。会ってくれた人ごとに、どうしてもいるお金ですから是非とも貸してください、必ずお返ししますからと頼んだ。だが、鼻で笑う者もいた。とにかく全部に断わられた。
二時に、レオンの下宿にかけつけ、戸をたたいた。だれも出てこなかった。とうとうレオンが現われた。
「どうしたんです?」
「おじゃま?」
「いや、……だが……」
彼は大家が≪女≫を入れるとうるさくいうものでといいわけをした。
「お話したいことがあるの」
レオンは手をのばして部屋の鍵をしめようとした。すると、エンマはさえぎって、
「いえ、あそこで、わたしたちのお部屋で」
二人は「ブーローニュ・ホテル」の二人の部屋に行った。
彼女は着くやいなや大きなコップで水を一ぱい飲んだ。顔色が悪かった。エンマはいった。
「レオン、お願いがあるの」
レオンの両手を握りしめ、彼を揺すりながら、その先を続けた。
「あの、八千フラン欲しいんだけど!」
「気でも狂ったのかい?」
「いいえ、まだ狂ってはいないわ」
そして、差し押えの話をし、窮状を訴えた。シャルルは知らないのだし、姑《しゅうとめ》にはきらわれている、父には何もできない。でも、あなたレオンなら、なんとかこの途法もないお金をくめんしてくださるわねえ。
「どうして、ぼくが……?」
「いくじなし!」とエンマが叫んだ。
すると、レオンはばからしいことをいい出した。
「大げさに悪く考えているのですよ。千エキュも出せば、向こうもうるさいこといわないでしょ」
それならなおのこと奔走《ほんそう》してくださらない。三千フランの金が見つからぬわけがないわ。なんなら、あなたの名義で借りていただいてもいいんだし……。
「行って! してみて! どうしてもいるのよ。急いで!……ねえ、お願いよ! あとでうんとかわいがってあげるわ!」
レオンは出て行ったが、ものの一時間もすると戻ってきて、真剣な顔をして、
「三人たずねたが、……だめだった」といった。
やがて二人は炉辺の両端に向き合ってすわり、動きもせず、話もしなかった。エンマは地だんだを踏みながら、肩をすくめた。エンマがぶつぶついっているのが聞こえた。
「もし、私があなただったら、うまいことみつけるわ!」
「いったいどこで?」
「事務所で」
そういってエンマはレオンを見つめた。
燃えるような瞳に悪魔のような大胆さが光っていた。そしてまぶたをあだっぽく、さそうようにかすかに閉じた。青年は彼に犯罪をそそのかすこの女の無言の意志の力に気がくじけた。すると恐ろしくなった。いいわけをいわないですむように、額をたたいて、叫んだ。
「モレルが今夜帰ってくるんだった。あの男なら大丈夫、(モレルとはレオンの友人で、金持ちの貿易商の息子だった)できたら、あす持ってきます」
エンマはこの話を聞いてもレオンが想像していたほど喜ばなかった。嘘《うそ》だと思っているのだろうか。そこで、レオンは赤くなって、語をついだ。
「でも、三時までこなかったら、待たないでください。ではぼくこれで行かねばならないので失礼します。さようなら!」
彼はエンマの手を握ったが、まるで力がなかった。彼女にはどんな感情も受け入れる力がなかった。
四時の鐘が鳴った。彼女は立ち上がり、習慣の力にあやつられるまま、機械じかけのようにヨンヴィルへと帰って行った。
天気のよい日だった。晴れてはいるが、うすら寒い三月のある日のことで、太陽がまっ白い空に輝いていた。ルーアン市の人びとは日曜日の晴れ着を着て、楽しげに歩いていた。エンマは教会前広場まできた。晩のミサが終わったところで、群衆が橋の三本のアーチの下を流れて行く川のように三つの門から流れ出てきた。その流れの中で堂守りが岩礁《がんしょう》のようにじっと立っていた。
するとエンマはあの日のことを思い出した。あの日、不安と希望に胸をわくわくしながら、目の前にあるこの大きな本堂にはいって行ったのである。本堂は彼女の胸の思いに比べれば、そう奥深くはなかった。彼女はヴェールの陰で、泣きながら、ぼっとして、よろめき、失神しそうになりながらも歩み続けていた。
「あぶない!」という声が、あけてある大門から聞こえてきた。
エンマが立ち止まって、軽二輪馬車の梶《かじ》棒の中で棒立ちになっている黒馬を通した。黒貂《くろてん》の服を着込んだ男が手綱を取っていた。いったいあれはだれだろう。彼女にはその男に見覚えがあった……。馬車は駆け去り、見えなくなった。
あのかただ、子爵様だ! 振り向いて見たが、路上には人影もなかった。ただ、やるせなく、悲しかった。彼女は倒れないように、壁にもたれた。
それから、思い違いだと思った。だが、ほんとうのところは何もわからなかった。彼女の内と外のすべてのものが彼女から離れて行った。果てしない奈落《ならく》の底にはからずもころげて行く、もうだめだとエンマは思った。そこで「赤十文字ホテル」にやってくると、好人物のオメーを見かけるとホッとした。オメーは薬品類を詰め込んだ大きな箱を『つばめ』に積み込む監督をしていた。手には、絹のネッカチーフに女房へのみやげの「シュミノ」を六本包んで持っていた。
オメー夫人は四旬節に塩入りバターをつけて食べる、ターバン型の、小さいわりには重いこのパンが大好物だった。このパンは中世的な食べ物の最後の見本というべきもので、起源をさかのぼれば、十字軍の時代までたどれるだろう。勇敢なノルマン人は、昔、黄色い松明《たいまつ》の明かりに照らされて、テーブルの上に、イポクラス〔肉桂入り甘口ブドウ酒〕の酒壺や大きな豚肉のかたまりといっしょに置いてある、憎むべきサラセン人の頭にも似たこのパンを腹いっぱい食べたであろう。薬屋の女房は、歯の悪いくせに、このパンにノルマン人同様勇敢にむしゃぶりつくのだった。オメーは町に出るたびに、必ずマッサクル街の製造元から買って帰った。
「いいところでお目にかかりましたな!」とエンマに手を貸して『つばめ』に乗り込ませた。
それから彼は「シュミノ」を網棚の革ひもにつるし、帽子をぬぎ、腕を組むと、考え深そうなナポレオンのような格好をした。
しかし、いつものようにめくらが丘の麓《ふもと》に現われると、叫んだ。
「このような恐ろしい商売をまだお上《かみ》が認めているとは理解に苦しみますな! こいつらは牢《ろう》屋におしこめるか、強制労働させるべきだ! じつに、文明の進歩の遅々たることは亀《かめ》の歩み同然ですな。われわれは野蛮《やばん》社会でもがいているのですな!」
めくらは帽子を差し入れたが、扉の縁で、釘のはずれた壁掛けのたるみのように揺れていた。
「あっ、これは瘰癧《るいれき》性疾患ですぞ」と薬屋が叫んだ。
この男を前から知っているくせに、オメーははじめて会ったふりをして「角膜」だの「不透明角膜」だの「鞏膜《きょうまく》」だの「顔貌《がんぼう》所見」だのといい、やさしそうな声色《こわいろ》で聞いた。
「こんな恐ろしい病気になってから、もう大分たつのかね? 酒屋で飲んだくれているより、食養生したがいいぞ」
いい酒、いいビールを飲み、うまい肉を食えとすすめた。めくらはうたい続けていた。おまけにこの男は白痴《はくち》同然だった。オメーもとうとう財布をあけた。
「ほら、一スーやるから二リヤールつりをよこせ。今、わしがいったことを守るんだぞ、そうすればよくなるからな」
イヴェールがそれは少しあやしいのではないかと口を入れた。すると薬屋は彼の手になる消炎軟膏で絶対になおしてみせるといいはり、自分の住所を教えた。
「市場横のオメーだ。それでわかるからな」
「それではお礼に旦那方に≪芸当≫をお見せしろよ」とイヴェールがいった。
めくらは膝をついてぺったりすわったかと思うと頭をのけぞらし、青い目を回し、舌を出し、両手で胃のあたりをなでながら、飢《う》えた犬のような一種の鈍いうなり声を上げた。エンマは気持ち悪くなり、肩越しに五フラン金貨を投げてやった。これが彼女の全財産であった。彼女にはこうして投げ出してやるのが立派なことだと思えた。
馬車はまた走り出した。するとオメーは窓から外に乗り出して、叫んだ。
「殿粉《でんぷん》も乳類もとるな。毛織の服を着ろよ。そして患部は杜松《ねず》の実でいぶせ!」
見なれた景色がつぎつぎに現われてくるにつれ、エンマの現在の悩みもまぎれていった。耐えがたい疲れが彼女を襲った。家へはぼんやりして、がっかりしたまま、ほとんど眠ったようになってたどりついた。
「えーい、どうでもいいわ」とエンマは思った。
それに奇跡が起こらないとはだれが、どうしていえよう? ルウルウが死ぬことも有り得る。
彼女は午前九時ごろ、広場のざわめきに目をさました。柱にはりつけられたポスターを読もうとする人で広場のまわりがざわめいていた。ジュスタンが車よけの石にのぼってポスターをはがそうとしていた。そのとき、巡査が彼の襟《えり》がみをひっつかんだ。オメーが薬局から出てきた。ルフランソワのおかみが人込みの中で一席ぶっていた。
「奥様! 奥様! 大へんでございます」とフェリシテははいってくるなり叫んだ。
女中は、すっかり興奮して、戸口からはがしてきた黄ばんだ紙きれをさし出した。エンマは一目で彼女の全動産が競売に付されることを読んだ。
二人は黙って、顔を見合わせていた。主人も女中も互いに秘密がなかったのである。とうとうフェリシテがほっと吐息をもらした。
「あたしなら、ギョーマンさんのところに行くんだけどな」
「そうお?」
この問いはこういう意味だった。
「おまえはあの下男からあの家のことはよく聞いているのね。すると、あすこの旦那はよくわたしのことを噂しているのかしら?」
「ええ、行ってごらんなさいまし。それがよろしゅうございます」
エンマは着替えをして、黒い服と黒の玉飾りのついたフードを着けた。人に見られないように、(広場にはまだ人が大ぜいいたから)川沿いの小道を村はずれまで歩いて行った。
エンマは息を切らして公訴人の門口までたどりついた。空は暗く、小雪が降っていた。
呼び鈴の鳴る音に、赤いチョッキを着けたテオドールが玄関先に現われた。彼は知人でも迎えるかのように親しげに門をあけ、食堂にとおした。
壁の凹所《おうしょ》いっぱいにしげっているサボテンの下で、瀬戸物のストーブが音をたてて燃えていた。柏の木模様の壁紙には、黒い木の額に納まって、ストゥーベン作の「エスメラルダ」〔ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』に出てくるジプシー女〕やショパン作の「ビュティファール」〔旧約聖書に出てくるヨゼフの主人。その妻がヨゼフを誘惑しようとした〕がかかっていた。支度のできたテーブル、銀製こんろ二つ、カットグラスの扉の把手《とって》、床も家具も何から何まで英国流の細心に心をこめて掃除した清潔さで輝いていた。窓は角ごとにステンドグラスがはまっていた。
「こんな食堂がほしかったのだわ」とエンマは思った。
公訴人が左手で棕櫚《しゅろ》模様の部屋着を押えながらはいってきた。はいってくるなり、もう一方の手で茶色ビロードの帽子をぬいで、すぐ右側に気取ったかぶり方をした。すると、後頭部から禿《はげ》頭をとり巻いている金髪の先が三房見えた。
椅子をすすめると、彼はすわって無礼をわびながら、食事にとりかかった。
「あの、ギョーマンさん、お願いがあるのでございますが……」とエンマが切り出した。
「どんなことでしょうか。おっしゃってください」
エンマは事情を打ち明け始めた。
ギョーマン氏は事情を知っていた。呉服屋と秘かに結託《けったく》していたからである。彼は金を借りたいとたのまれると、いつも呉服屋の所から融通してもらっていたのである。
それで彼は(エンマ以上に)くわしくあの手形のからくりを知っていたのである。はじめ小額だったものが、裏書き人が多くなり、長い支払い期間を置き、たえず書き換えをしているうちに金額が大きくなり、ルウルウが拒絶証書をかき集め、友人のヴァンサールにたのんでヴァンサールの名まえで起訴手続きをとらせる仕組みになっていた。ヴァンサールの名義をかりたのは村人からごうつくばりといわれたくないからであった。
エンマは話の節々にルウルウの悪口をいった。公訴人はそんな悪口にときどき、あいまいな合槌《あいづち》を打っていた。肋肉《あばらにく》を食べ、紅茶を飲んでしまうと、彼はあごを空色のネクタイにうずめた。ネクタイは金鎖のついたダイヤのピン二本で止めてあった。彼は甘ったるい、どうともとれる不思議な笑いを浮かべていた。エンマの足がぬれているのに気づくと、
「ストーブにお寄りなさい。もっと上に、瀬戸物の上に」
彼女がよごれますからというと、公訴人はきざったらしく、
「美しいものでよごれることはありません」といった。
そこで彼女は彼の気を引こうとした。そして自分でも興奮して、家計の苦しいこと、苦労の多いこと、金のいることを訴えた。公訴人は、もっともなことです。美しいご婦人には! といった。彼は食べる手を休めず、エンマのほうに向きなおると、膝で彼女の靴に触れた。すると、靴底がストーブにあたって弓なりに曲がり、さかんに湯気を出していた。
三千フランの借金を申し込むと、唇をきっと結び、昔から財産の管理をさせていただけなかったのがじつに残念です。そうすれば、女にもできる金|儲《もう》けの方法がいくらでもあったのですがね。グリュメニルの泥炭坑《でいたんこう》にしてもル・アーブルの地所にしても投機するにはかっこうのものだったんですがねーといった。エンマは確実に儲けられたという夢のような金額を思うと、怒りに駆られた。公訴人はそれをじっと見ていたが、
「どうして、今までいらっしゃらなかったのですか?」といった。
「わかりませんわ」
「なぜです。このわたしがこわかったのですか? 反対におうらみしたいのはこのわたしですよ。お知り合いになっていたならなあ。わたしは奥さんに心から忠誠をささげております。それはもう信じていただけますでしょうな?」
彼は手をのばしてエンマの手を取った。そしてむさぼるようにキスすると、膝の上に置いた。甘い言葉をかけながら指をそっともて遊んでいた。
彼のこもった声は流れる小川のようにささやいていた。めがねの反射を通して、彼の目から火花のようなものが飛んだ。彼は手をエンマの袖の中に通して、腕をつかもうとした。彼女は頬に荒い息づかいを感じた。へどを吐きたいほどこの男を気持ち悪いものに感じた。
彼女は飛び上がるなり、叫んだ。
「あの、まだでしょうか」
「なにがです」と公訴人は急に青ざめていった。
「お金」
「しかし……」
やがて、激しい欲情に堪えかねて、
「ああ、よろしい……」
彼は部屋着がよごれるのにもかまわず、ひざまずき、エンマのほうへ近づいてきた。
「お願いです。行かないでください。愛しています!」
彼はエンマの腰を抱いた。
赤い血潮がボヴァリー夫人の顔にのぼった。彼女は恐ろしそうに身をひき、叫んだ。
「あなたはわたしの困っていることをだしにしていらっしゃるんですね。ほんとうに困っておりますわ、でもお金で操はお売りできません!」
そういって外に出た。
公訴人はびっくりして、自分のはいている美しく刺繍《ししゅう》されてあるスリッパをじっと見つめた。これはある女からの恋の贈り物であった。それを見ているうちにやがて気がおさまった。そして、こういう事件にかかりあうとあとあとまで大へんだぞと思った。
「なんていやらしい、下劣な男なんだろう。恥知らず!」街道の白楊《はこやなぎ》の並木をせかせかした足取りで逃げながらエンマは一人ごとをいった。金策に失敗したことがその怒りに拍車をかけた。彼女には神様が一生懸命自分を苦しめているのではないかと思われた。そのためいっそう自尊心をたかぶらせ、自分がこれほど誇りに思われ、他人をこれほど軽蔑したこともなかった。彼女はけんか腰になっていた。男どもになぐりつけ、顔につばを吐きかけ、男という男をぶちのめしてやりたかった。それでも彼女はまっすぐ足早に歩き続けていた。顔は青ざめ、ふるえ、怒り、涙ぐんだ目でうつろな地平をさぐっていた。それはまるで彼女を苦しめる憎しみの情を心から楽しんでいるかのようであった。
家が見えてくると、急に体がしびれた。もう一歩も進めなくなった。だが行かなくては。どこへ逃げよう?
フェリシテが戸口で待っていた。
「どうでした?」
「だめ!」とエンマがいった。
それから十五分ばかり二人して助けてくれそうなヨンヴィルの住人を捜した。しかし、フェリシテが名をあげるたびに、エンマが答えた。
「だめ、承知してくれるもんですか!」
「旦那様はもうじきお帰りですよ」
「わかっています。……一人にしておくれ」
エンマはやれることはみなしつくして、もう何もすることがなかった。シャルルが帰ってきたら、こういおう。
「おどきになって! あなたのお踏みになっているその絨毯はもうわたしたちのではないのよ。家の中で、家具もピンもわらだってあなたのものではないのよ。こういうことになったのもわたしのためよ。かわいそうなあなた!」
するとあの人は泣くわ。泣いて泣いて、あきらめがつくと、許してくれるわ。
「そうだわ!」と彼女は歯ぎしりしながらつぶやいた。「あの人は許してくれるわ! 私を自分の妻にしたということだけでも、何百万フランつまれたって私のほうでは許すことなんかできないのに! いやだ! ごめんだわ!」
ボヴァリーに恩を売られるのだと思うと、怒りがこみ上げてきた。彼女が白状するにしてもしないにしても、すぐに、おそくとも明日になればわかってしまう。あのすさまじい場面を待ちうけ、シャルルの雅量《がりょう》に耐えねばならない。エンマはルウルウの所に行きたくなった。だが、行ったところでなんになろう。父に手紙を出すにしたって今ではおそすぎる。なぜ先刻、あの男に身をまかせなかったのか今となれば悔やまれた。並木道に馬の足音が聞こえる。あの人だ。門をあけている。漆喰《しっくい》壁より青白い顔色だ。エンマは階段を駆けおりると、広場に勢いよく飛び出した。教会の前でレスティブードワとおしゃべりしていた村長夫人にはエンマがビネーの家にはいって行くのが見えた。
夫人は急いでカロン夫人にご注進に及んだ。二人の夫人は屋根裏に上がった。竿《さお》に干してある洗濯物のかげの、ビネーの部屋をよく見おろせる場所に陣取った。
ビネーは屋根裏部屋に一人いて、ちょうど木で彫った球が十字に組み合わされ、全体がオベリスクのようにまっすぐそびえるいわくいい難い象牙《ぞうげ》細工を木で模造しているところだったのである。しかもそれはなんの役にも立たないものなのだ。彼は最終部分に手をいれていた。これででき上がりだ! アトリエの明暗に金色のほこりがろくろからまるで早足で走る馬の蹄《ひずめ》に光る火花のように飛び散っていた。ろくろが二つ大きな物音を立てて回っていた。ビネーはほほえみ、あごをひき、鼻孔をふくらませていた。彼はわくわくした気持ちに耽溺《たんでき》していた。こういう幸福は、むずかしそうに見えるが、実際にはやさしい仕事で、知性を容易に満足させるようなもの、完成することには喜びがあるものの、それ以上には何も夢見ることがないといったような仕事につきものであるのかも知れない。
「ああ、いるいる」とテュバッシュ夫人がいった。
しかし、エンマのいった言葉は、ろくろの音で聞こえなかった。
そこで二人の婦人は「フラン」と聞こえたと思った。テュバッシュのかみさんは声を低くしてささやいた。
「きっと税金の支払いを遅らしてほしいとたのんでいるんだよ」
「という口実でね!」ともう一方がいった。
部屋を歩き回っては、壁に並べてあるナフキン・リングや燭台や手すりの玉飾りなどを見ているエンマと満足そうにひげをなでているビネーの姿が見えた。
「何かたのみにきたんだろうかね」とテュバッシュ夫人が聞いた。
「でも、あの人は売らないよ」
ビネーは目を大きく見開いて、よくわけがわからないのか、一心に話を聞いているようだった。エンマはやさしい口調でたのんでいた。彼女は近づいてきた。胸が波打っていた。二人はもう話をしていなかった。
「口説いているのかね」 テュバッシュ夫人がいった。
ビネーは耳まで赤くなった。エンマは彼の手を取った。
「まっ、ひどい!」
きっとエンマが恥ずかしいことをいったのだろう。というのも収税吏が――かつては勇敢で、ボーツェン、リュッツェン〔東ドイツの町名。ナポレオンはこの両市でプロシア・ロシア連合軍を破った〕で戦い、フランス内戦に従軍し、十字勲章《レジョン・ドヌール》名簿に名を記されたことまである男だったが――その男が蛇でも見たように後ろに飛び去って、叫んだ。
「奥さん、なんてことをおっしゃるのです?」
「あんな女、鞭《むち》で打ったほうがいいよ」とテュバッシュ夫人がいった。
「あの女、いったいどこへ行っちまったんだろう?」とカロン夫人がいった。
エンマはこのおしゃべりの間に姿を消した。やがて、大通りを縫うようにして歩いている彼女の姿が認められた。彼女は墓地にでも行くのか右に曲がった。二人の夫人はあれかこれかと想像をめぐらした。
「ローレおばさん! 息苦しいわ、服をゆるめて」 乳母《うば》の家に着くなり、エンマがいった。
彼女はベッドにくずれ落ち、すすり泣いた。ローレおばさんはペチコートをかけてやり、そばに立っていた。だが、エンマが何もいわないので、立ち去り、紡《つむ》ぎ車を動かし、麻糸を紡ぎ始めた。
「ああ、やめて!」その音がビネーのろくろの音のような気がしてエンマがつぶやいた。
「どうなさったんだろう。どうしてここにいらっしゃったんだろう」とローレおばさんは思った。
エンマは一種の恐怖にかられて、家から追いたてられるようにしてここに駆け込んできたのである。
あお向けに横たわったまま、動かず、目をすえ、ばかの一つおぼえのように注意して見ていたが、事物をぼんやりとしか見分けなかった。壁のはげ落ちた部分やくっついたままくすぶっている二本の薪や、エンマの頭上の小梁《こはり》の裂け目で歩き回っている大きなくもをじっと見つめた。とうとう彼女は考えをまとめた。彼女は思い出した……あの日、レオンと……ああ、なんと遠くのことだろう……太陽が川面に照り映え、野ぶどうの花が匂っていた…………すると、泡立って流れ行く激流のように思い出がわき上がり、やがてきのうのことを思い出した。
「何時かしら?」と彼女は聞いた。
ローレおばさんは外に出て、手の指を明るい空のほうへかざすと、ゆっくりと中にはいってきた。
「もうじき三時でごぜえます」
「ああ、ありがとう、ありがとう!」
あの人はやってくる。きっと! 金を持って。ここにわたしがきているとは知らずに、きっとあすこにきている。彼女は乳母に、自分の家に行って、あの人を連れてきてとたのんだ。
「急いでね!」
「はい、奥さま、行ってきます、行ってきます」
エンマは、今、はじめから彼のことを考えなかったことを不思議に思った。きのう、あの人は約束してくれた。けっしてたがえることはない。もうルウルウの家にいて、文机の上に三千フラン投げ出しているところを想像した。そして、ボヴァリーに説明するいいわけを考え出さねばならない。なんといおう?
しかし、乳母《うば》の帰りはおそかった。しかし、百姓の家には時計というものがないために、エンマは時間を長く感じたのだろう。エンマは庭を少しずつ歩き回った。垣根に沿って小道を行き、急にローレおばさんが他の道を通って帰ってきたのではと思って引き返した。とうとう、待っていることにもあきて、襲いかかる疑いの思いを押しのけ押しのけ、もう一世紀も前から待っているのか一分前から待っているのかわからなくなり、片隅にすわり、目を閉じ、耳をふさいでいた。垣根がきしんだ。エンマは飛んでいった。しかしエンマがしゃべる前にローレおばさんは、
「どなたもお家にはいらっしゃいませんでした!」
「なんですって?」
「ええ、どなたも! 旦那様は泣いていらっしゃいましただよ。奥様を呼んでいらっしゃる。みなで捜しているだよ」
エンマは何も答えなかった。彼女は息をはずませ、あたりを見渡した。おばさんは彼女の顔色にびっくりして、てっきり気が違ったのだと思い、思わずあとずさりした。突然、彼女は額をたたいて叫んだ。ロドルフの思い出が、闇夜のいなずまのように彼女の心を駆けめぐった。あの人は親切で、やさしい、気前のいい人だった。それに、もしいやがっても、まばたき一つで失った恋を思い出させ、無理にも承知してもらえるのだ。そこで彼女はユシェットに向かって出発した。だが、さっきあれほど彼女をおこらした行為をみずから進んで行なおうとしているのだということにも、これからしようとしているのは要するにていのいい売春だということにも、少しも気づいていなかった。
八
エンマは道々、「なんといおうか? 話をどう切り出したものか」などと考えていた。しかし、歩き進むにつれ、見おぼえのある茂みや木立ちや丘のハリエニシダやめざす館《やかた》が見えてくると、恋を知り始めたころの感覚が蘇《よみがえ》ってきた。押えつけていた気持ちが愛情豊かにふくらんだ。生暖かい風が顔にあたり、とけた雪が、木の芽から草の上に、したたり落ちていた。
エンマは昔のように庭木戸からはいり、枝のしげった菩提樹《ぼだいじゅ》が二列に植えてある中庭に出た。菩提樹は風に長い枝をゆすっていた。猟犬小屋の犬がいっせいになきだした。しかし、そのすさまじいなき声は響き渡るだけで、だれも出てきそうになかった。
彼女は、木の手すりのついた、まっすぐな広い階段をのぼった。二階の廊下は敷石を敷いてあったがほこりだらけで、その両側にまるで修道院か宿屋のように部屋が一列に並んでいた。彼女のめざす部屋は左手奥のどんづまりにあった。しかし、把手《とって》に手をかけると、急に力が抜けた。ロドルフがいないのではないか、むしろいないでほしいと思った。しかし、これがただ一つの方策であり、最後の機会であった。彼女はしばらくじっとして、身を落ち着かせ、目の前にさし迫っていることを考えては勇気を出して中にはいった。
ロドルフは暖炉の前にいた。両足を薪掛けにのせ、たばこをふかしていた。
「やあ、あなたですか!」と、急に身を起こしていった。
「ええ。わたしよ。ロドルフ、あなたに聞いていただきたいことがあってきましたの」
とはいったものの、どうしても、口に出せなかった。
「ちっとも変わっていない、あいかわらずおきれいですな」
「いいえ、あなたにきらわれたのですもの、きれいでもしかたがないじゃありませんの」とエンマは皮肉をいった。
すると、彼はいいわけをいった。だが、うまい口実が見つからぬため、あいまいないいわけだった。
彼女は彼の言葉に、というよりも、彼の声、彼の姿に酔った。そして、別れた理由を信ずるふりをした。あるいは本当に信じたのかも知れない。理由というのは、第三者の生活と名誉《めいよ》を守るためということだった。
「結構ですわ、でも、ずい分苦しみましたのよ」とエンマは彼を見つめながらいった。
ロドルフはさとったような口調で、
「人生とはそうしたものです」と答えた。
「せめて、お別れしてから、楽しく暮らしていらっしゃいましたの?」
「いや、楽しくもなし……さりとて苦しくもなしですよ」
「お別れしないほうがきっとよかったのですわ」
「そうですね……多分!」
「そう思って?」といいざま、近寄った。
そして吐息をつくと、
「ああ、ロドルフ、わかってくださったら! ……とても愛していたのよ!」
といって、エンマは彼の手を取った。二人はしばらく指をからみ合わせていた。――あのはじめての日、農事共進会の日のように! ロドルフは、自尊心から、つとめて愛情を見せないようにした。だが、エンマは彼の胸に倒れかかると、いった。
「あなたなしで、どうして生きていけとおっしゃるの? 慣れたしあわせは思い切れるものではありませんわ! 悲しくて、気違いになりそうでしたわ、死のうとも思いましたわ。でも、このことはあとでお話しいたします。あなたは、わたしの目から逃げまわっていらしたわ!」
事実、この三年、ロドルフは一生懸命彼女をさけていた。それは、男にはつきものの生来の臆病からくるものだった。エンマは頭を可愛らしくふり、雌猫《めすねこ》よりもなお甘ったれた様子で話し続けた。
「でも、白状なさいな、他のだれかが好きなんでしょ。ええ、わかりますわ、ちゃんと! その人たち、気の毒ねえ、あなたはわたしになさったように、誘惑するのね。でも、あなたは女が夢中になるものを持っていらっしゃるのですもの。また始めましょうね? 愛し合うのよ! ほら、笑ったでしょ、うれしいのよ!……ねえ、なんとかいって!」
エンマは見れば見るほどすばらしく美しかった。目に涙があふれ、まるで青い杯に洪水《こうずい》が起こったようであった。
ロドルフはエンマを膝にひき寄せ、手の甲で艶《つや》やかな髪をなでた。髪は黄昏《たそがれ》の日の光に、太陽の残光を金の矢のように映していた。彼女は額を伏せた。彼もしまいには、唇の先でそっとまぶたにキスをした。
「あ、泣いているね? どうしたの?」とロドルフが聞いた。
エンマはすすり泣いた。彼は気持ちをたかぶらせたのだと思った。だが、彼女が黙っているので、この沈黙を、最後の恥らいだと思い、叫んだ。
「ああ、許してください。君はぼくのあがめるただ一人の人。ぼくはばかでうかつだった! 愛している。これからもずっと愛する。君は? いってください!」
彼はひざまずいた。
「ああ、ロドルフ、わたし、破産してしまいましたの。三千フラン貸してくださいな!」
「でも、……だって……」と彼は少しずつ立ち上がりながらいった。しかし、顔つきは真剣だった。
「ほら、主人が公訴人の所に財産を全部あずけておきましたでしょ。その公訴人が逃げてしまいましたの。借金はかさむし、患者さんの払いは悪いときてるでしょ。でも財産整理がまだ終わっておりませんの。ですから、あとになれば必ず手にはいるんです。でも、今、三千フランありませんの。それで差し押えをされそうなの。今では一刻をあらそうありさまなんですの。せっぱつまってあなたのお情けにおすがりしようと思って、まいりました」
「ああ、それできたんだな」と思い、急に青ざめた。
そして、落ちついて、
「ぼくにもそれだけの持ち合わせはないんですよ」といった。
嘘《うそ》をいっているのではなかった。ふつう、金をやるという善行をするのは、楽しいことではないし、金の無心は恋愛の上に襲いかかる疾風《しっぷう》のうちで、最も愛を冷やし、だめにしてしまうものではあるが、それにしてもロドルフにそれだけの金があったら出し惜しみはしなかったことだろう。
まず初めに、エンマはしばらく、彼をじっと眺めていた。
「ないんですって!」
そして何度も繰り返した。
「ないんですって!……これほどわたしは恥をかかねばならないのだろうか! あなたはわたしを愛したことなどなかったのだわ! 他の人たちとちっとも変わりないのね!」
本心を明かしてしまった。彼女はわれを忘れていたのである。
ロドルフは彼女の言葉をさえぎって、自分も「金に困っている」のだといった。
「ああ、お気の毒ね。ほんとうにお気の毒さま!」とエンマはいった。しかし、武具飾りで輝いている銀を象眼《ぞうがん》した騎兵銃が目にとまると、
「でも、お金がないのなら、銀で銃の架尾なんか作らないわ、べっこう細工の時計なんかも買わないわ!」とブール象眼の時計を指さしながら、いい及んだ。「それに鞭《むち》につけた銀の呼び子も、――エンマはそれに手を触れた――時計の先につける飾りだって! まあ、なんでもあるわ! 部屋の中にリキュール・セットまであるわ! というのも、あなたは自分がだれよりも可愛いからよ。それで快適な生活を送っていらっしゃるのね。館《やかた》も農場も森もお持ちなのね。贅沢《ぜいたく》な狩りをなさり、パリに出かけるのね……へん!」暖炉の上からカフス・ボタンを取ると、「こんなつまらないものだって、お金にかえられるというのに!……いや! ほしいといっているのではないわ! とっておおきなさいまし!」
そういって、彼女は一組のカフス・ボタンを遠くになげつけた。ボタンの金鎖は壁にあたって切れた。
「でも、わたしだったら、なんでも売るわ! ただ一つの微笑のため、ただ一目見てもらえるなら、ただ一言、『ありがとう』といってもらえるなら、わたし、この腕で稼《かせ》ぎ、大道で乞食もするわ! でも、あなたは、そこにそうして安楽椅子に落ちついてすわっていらっしゃるのね。まるでわたしが苦しみたらないとでもおっしゃるみたいね。あなたを知らなかったら、しあわせに暮らせたのに! どうして、あんなになさったの? だれかと賭《かけ》でもなさったの? それなのに、わたしを愛するとおっしゃった……ついさっきも。それくらいなら、追い帰してくださればよかったのに! わたしの手はあなたのくちづけでまだ暖かいというのに! ほら、その絨毯の上で、わたしの膝元にすわり、永遠の愛をお誓いになったというのに。わたしに信じ込ませておしまいになったのに。二年も、わたしをすばらしい、甘い夢に引きずり込んだのに……そのあげくが? 旅行の計画、おぼえていらっしゃるかしら? ああ、あなたからの手紙! わたしの心を引き裂いてしまいましたわ! そしてわたしは今日お金持ちで幸福な、なんでも好きなようにできるその人の元に戻ってきました。するとだれでも聞いてくれるようなたのみだというのに、わたしのありったけの愛を抱いて帰ってきたのに、三千フラン損するのがいやさに、断わるのよ!」
「でも、その持ち合わせがないんですよ」とロドルフは、おさえた怒りを盾のようにおおう完全な冷静さで答えた。
エンマは外に出た。壁が揺れ、天井が彼女を押しつぶすかと思われた。風に散る落葉の山につまづきながら、長い並木道を帰って行った。ようやく、門前の堀に出た。急いであけようとするあまり、錠で爪《つめ》をこわした。しかし、百歩も行くと、息切れがし、倒れそうな気がして、立ち止まった。そのとき、振り返って、もう一度、庭園、花壇、三つの中庭、正面に窓のついた壮大な館が見えた。
彼女は茫然《ぼうぜん》としていた。動脈が脈打つ音のほか、もう自分という意識がなかった。彼女には野原一面に響き渡る耳を聾《ろう》するばかりの音楽が聞こえてくるような気がした。足下の地面が波のようにたよりなく思われ、畝《うね》は、砕け散る大きな茶色の波頭とも見えた。頭の中にあるすべての思い出や考えが一時にどっと、まるで数千の花火のようにわき上がった。父の姿、ルウルウの部屋、あそこの部屋、もう一つの情景が浮かび上がった。気が狂いそうになり、恐ろしくなり、やがて、混乱したまま、平静にもどった。この恐ろしい状態になった原因、つまり金の問題のことは忘れてしまっていた。自分の恋のみを嘆き、瀕死《ひんし》の負傷者が傷口から血を出して、生命が消えようとしていると感じるように、この思い出から魂が抜けていくような気がした。
夜になり、カラスが飛んでいた。
突然、火の色をした小さな球が、癇癪玉《かんしゃくだま》がつぶれたときのように、空に光った。それが、くるくる舞い、雪と混ざって、木の枝にひっかかった。どの球のまん中にも、ロドルフの顔が見えた。その数はふえ、互いに近づき合いながら、エンマのからだを貫き抜けたかと思うと、消えた。家々の灯が見えた。その灯は霧の中で遠くで光っていた。
そのとき、奈落《ならく》の底のような現状が見えてきた。胸がつぶれるかと思うほど高鳴った。ほとんど楽しいといってもいいような、悲愴《ひそう》な感激に浸って、丘を駆けおり、牛用の板張りの道を渡り、小道、並木道、市場を通って、薬屋の店の前に出た。
だれもいなかったので中にはいった。しかし、ベルの音でだれかが出てくるかもしれない。そこで、彼女は庭木戸からするりと中にはいり、息を殺し、壁をさぐりさぐり、勝手口まで出た。台所ではろうそくがストーブの上で燃え、シャツ一枚になったジュスタンが皿を運んでいた。
「ああ、ごはんだわ。少し待とう」
ジュスタンが帰ってきた。エンマが窓ガラスをたたくと、出てきた。
「鍵《かぎ》を! あれのある屋根裏の鍵をちょうだい!」
「なんだって!」
ジュスタンは彼女を見つめ、夜目にも白く、くっきりと浮かび上がるその顔の青白さに驚いた。しかし、今夜はかくべつ美しく、亡霊のようにおごそかに見えた。彼女の意とするところはわからなかったが、なにか恐ろしげなものを予感した。
エンマは、低い、とけてしまいそうな甘い声ではっきり答えた。
「それがほしいの。貸してちょうだい」
仕切りの壁がうすいために、食堂で、皿にあたるフォークの音が聞こえてきた。
ねずみのために眠れないから殺したいのだと嘘をいった。
「でも一応、主人にいわなければ」
「いえ、結構よ」
そして、さりげなく、
「だって、そんなにしなくたって、わたしがあとでいいますから、さあ、ろうそくを持って!」といった。
彼女は薬局の戸があいている廊下にはいった。壁は「研究室」と札のついた鍵がかかっていた。
「ジュスタン!」と薬屋がいらいらして、どなった。
「さあ行きましょう!」
ジュスタンはエンマについてきた。
錠の中で鍵が回った。彼女はおぼえているまま、まっすぐ三番目の棚にすすみ、青いびんをつかみ取るなり、栓《せん》を抜き、手を中につっこみ、白い粉末を手いっぱいつかみ出して、すぐ飲み込んだ。
「いけません!」とジュスタンは飛びかかって叫んだ。
「黙って! 人がくるわ!」
ジュスタンはがっくりして、人を呼ぼうとした。
「いえ、何もいわないで、みな、おまえの主人の落ち度になるんだからね」
それから、急に落ちついて、仕事を果たし終えた安堵《あんど》感らしきものを感じて帰って行った。
シャルルは、差し押えの知らせに動転して帰ってくると、エンマは出かけたばかりだった。彼はわめき、泣き、失神した。だが、まだ戻ってこなかった。いったい、どこに行ったのだろう。フェリシテをオメーの家や、テュバッシュ家、ルウルウの所、「金獅子館」やいたる所にやった。とぎれとぎれの不安の合い間に、名声が消え、財産はなくなり、ベルトの将来がめちゃめちゃになったことがわかった。何が原因で!……まるで見当もつかない! 彼は晩の六時まですわり込んでいた。とうとう、がまんできなくなって、ルーアンに行ったのだと思い、街道を二キロも行ったが、だれにも会わなかった。しばらく待ったが、帰ってきた。
エンマは戻っていた。
「どうしたんだい?……なぜだい?……わけを話しておくれ!」
エンマは文机に向かうと手紙を書き、ゆっくり封印をした。そして日付と時間を書き入れ、厳しい調子で、
「これを明日《あす》読んでくださいな。それまでは、お願いですから、何も質問しないで!……一言も」
「だが……」
「お願い、ほっといて!」
エンマはベッドにながながと横たわった。
口の中がにがいので目がさめた。シャルルを見ると、また目を閉じた。
彼女は苦しいのかどうかはっきり知りたくて、自分のからだの様子をうかがった。いや、まだだ。時計の振り子の音、暖炉の火の音、そばに突っ立っているシャルルの吐息が聞こえた。
「ああ、死ぬなんて、かんたんだわ! これから、眠って、それで一巻の終わりだわ!」と思った。
一口水を飲み、壁のほうに向いた。
いやなにがい味がまだ続いていた。
「のどがかわくわ!……ああ、のどがかわく」と彼女は吐息をついた。
「いったい、どうしたんだ?」とコップを渡しながら、シャルルがいった。
「なんでもないわ……窓をあけて!……息がつまるわ!」
彼女は急に嘔吐《おうと》を催した。枕の下にあるハンカチを取る暇もないほどだった。
「これを持って行って、すてて!」とエンマは激しくいった。
シャルルは質問したが、エンマは答えなかった。彼女は動かなかった。ちょっとでも動いたら、吐きそうな気がした。しかし、氷のような冷たさが足先から心臓までのぼってきた。
「ああ、始まったわ!」
「なにかいったかい?」
彼女は苦しそうにゆっくり顔を振り、口をあけたままだった。舌の上に何か重いものがのっているようであった。八時に嘔吐がまた始まった。
シャルルは金だらいの底に、せと物の内側についているような白い砂利のようなものを見つけた。
「これはへんだ! おかしいぞ」シャルルは繰り返した。
しかし、エンマは強い口調で、
「いいえ、なんでもないの!」
すると、そっと、まるでなでているように、彼は彼女の胃のあたりに手をあてた。彼女は金切り声を上げた。シャルルは驚いて、あとずさりした。
エンマははじめはかすかだったが、うめき始めた。激しく両肩が痙攣《けいれん》した。彼女は指でぎゅっとつかんでいる毛布よりも青ざめ、脈搏も不規則になり、今ではほとんど感じられないほどだった。
大粒の汗が青白い顔に浮き、顔は金属からたちのぼる蒸気によって凝固《ぎょうこ》されたかと見えた。歯はかちかち鳴り、大きく見開いた目であたりを見るともなく見つめていた。どんなに質問をしても、彼女は頭を振って、答えなかった。二、三度ほほえみさえ浮かべた。しだいにうめき声が高まり、低いうなり声がもれた。エンマはよくなったから、もうすぐ起き上がるといい張った。しかし、痙攣が起こった。彼女は叫んだ。
「ああ、苦しい、あーっ」
シャルルはベッドにひざまずいた。
「いっておくれ! 何を食べたんだい? お願いだから答えておくれ!」
シャルルはエンマがまだ見たこともないようなやさしい目つきで彼女を見つめた。
「あーあそこ……あそこ」彼女は今にも消え入りそうな声で答えた。
シャルルは文机に飛んで行き、封を切り、大声で読んだ。「だれが悪いというわけではありません……」シャルルは読みさし、手を目にあてた。それからまた読みだした。
「なんだって? 助けてくれ! だれかきてくれ!」
彼はこの言葉「毒を飲んだ! 毒を飲んだ!」と繰り返すだけだった。フェリシテはオメーの家に走り、オメーは広場でわめきたてた。ルフランソワのおかみはその声を「金獅子館」で聞きつけた。ある者はその声に起き出して、隣近所にふれ歩いた。村中の人びとは一晩中聞き耳をたてていた。
取り乱し、何やらつぶやきながら倒れそうになって、シャルルは部屋の中を歩き回った。家具にぶつかり、髪の毛をかきむしった。さすがの薬屋も、こんなに恐ろしい光景があり得るとは思われなかった。
彼は自分の家にとって帰ると、カニヴェ先生とラリヴィエール博士に手紙を書いた。気が転倒し、十五ページも書いてしまった。イポリットはヌシャテルに駆け出し、ジュスタンはボヴァリーの馬に拍車をあてすぎたせいか、ボワ・ギョームの丘で、つかれきり、死にかけとなって、自分のあとに残して行かねばならなかった。
シャルルは医学辞典を引こうと思ったのだが、行がおどって、何も見えなかった。
「落ち着いて!」と薬屋がいった。「ただ、強力な解毒剤《げどくざい》を飲ませることですな。で毒はなんです?」
シャルルは手紙を見せた。砒素《ひそ》だった。
「それでは、分析をせねばなりませんな」と答えた。
毒がなんであれ、分析をしなければならないと信じていたからである。相手はわからないのか、いった。
「ああ、やってください! 助けてやってください……」
それからエンマのそばに戻ってくると、床のじゅうたんの上にひざまずき、頭をベッドの縁にのせて、泣き出した。
「泣かないで、これ以上あなたを苦しめませんから」
「なぜだい? どうしてなのかい?」
彼女は答えた。
「どうしようもなかったのよ」
「おまえはしあわせじゃなかったの? ぼくがいけなかったのかい? でも、できるかぎりのことはしたんだよ」
「ええ……ほんとうに……あなたはいいかただわ!」
エンマはそっと彼の髪をなでた。そのこころよさにシャルルの悲しみはいっそう強くなった。エンマが彼に永遠の愛を誓っているというのに、反対に彼は、エンマを失わねばならないのだと考えると、絶望に身も心も押し流されるのではないかと思われた。緊急《きんきゅう》に決心をつけなければならないと思うと、気も動転し、なにもわからず、なにも思いきって、できなかった。
これで、裏切りも下劣な行為も、心を苦しめた数多くの望みも終わりなんだとエンマは思った。今となってみれば、だれも憎らしくなかった。たそがれのうす明るい光が、彼女の頭の中まで押し寄せてきた。そして地上の物の中で、遠ざかっていく交響曲最後の音のような、甘くはっきりしない、この哀れな男の繰り返す嘆きばかりが聞こえてきた。
「子供を連れてきてくださいな」とエンマは肱《ひじ》をついて起き上がりながらいった。
「では、気分がよくなったんだね」とシャルルが聞いた。
「ええ、だいじょうぶよ」
子供は裸《くるぶし》の足をつき出したままの寝間着姿で女中の腕に抱かれてはいってきた。まだ眠っているのか、むずかしい顔をしていた。散らかっている部屋を不思議そうに見つめ、家具の上で燃えているろうそくがまぶしいのか目を細めていた。元旦や四旬節中日に、朝早く、まだろうそくのともっているころに起こされ、母親のベッドに行き、贈り物をもらったことを思い出したのだろう。それで、
「ママ、どこにあるの?」と聞いた。
しかし、みなが黙っているので、
「あたちのおくつがないの!」
フェリシテはベルトをベッドのほうに向けたが、ベルトは暖炉のほうを気にしてばかりいた。
「ばあやがとっちゃったの?」とベルトが聞いた。
ばあやの名を聞くと、不倫の恋と悲運が思い出された。ボヴァリー夫人は口元にのぼってくる毒の味よりももっと強い毒気を味わったかのように顔をそむけた。その間、ベルトはベッドに乗せられていた。
「ママ、ママのおめめ大きいのね! 青いお顔ね! 汗だくね!」
ママは彼女をじっと見つめた。
「こわいっ!」子供はあとずさりした。
エンマは娘の手をとってキスしようとした。娘はいやがって、もがいた。
「もういいよ。あっちに連れてお行き!」と寝間で泣いていたシャルルがいった。
病状は一時|平衡《へいこう》状態を保っていた。彼女も落ち着いていた。シャルルは彼女がとりとめないことを口走ったり、やや平静に呼吸するごとに希望をとり戻した。とうとう、カニヴェがはいってくると、泣きながら、彼の腕に飛び込んだ。
「ああ、先生、ありがとうございます。遠方わざわざすみません。でも、少しはよくなりました。まあ、みてください」
同業者はこの見立てには反対だった。彼は自分でもいっているように、「そのものずばりの」やり方で、胃をからにするため、吐剤を処方した。
エンマは間もなく吐血した。唇はますます引きつり、手足が痙攣《けいれん》し、からだに茶色の斑点が浮いてきた。手を握ると脈が、今にも切れそうなぴんと張った糸のように、ハープの弦のようにか細く感じられた。
やがて、エンマはぞっとするほどの叫び声を上げた。毒を呪《のろ》い、ののしり、早くしてくれと叫んだ。シャルルが不安にかられ、水を飲まそうとするのだが、腕をつっぱって押し返した。シャルルはハンカチを口にあて、あえぎ、泣き、踵《かかと》まで揺れるほどすすり泣いて立っていた。フェリシテは部屋の中をあっちこっち歩き回っていた。オメーは身動きもせず大きな吐息をつき、カニヴェ先生はあいかわらず落ち着きはらってはいたが首をかしげ始めた。
「へんだぞ……しかし……下剤をかけて、もう原因をとり除いたのだから……」
「結果もなくなるはずですな」とオメーがいった。「当然のことで」
「とにかく、助けてやってください!」とボヴァリーが叫んだ。
「これはきっとよくなる徴候ですよ」となおもいい続けている薬屋のたわ言に耳もかさずに、カニヴェ先生は解毒剤を飲ませた。そのとき、鞭の音が聞こえ、窓ガラスが全部振動したかと思うと、役場の角から耳まで泥をかぶり、全速力で疾駆する三頭立ての馬車が現われた。ラリヴィエール博士である。
神の出現もこれほどの感動をひき起こさないだろう。ボヴァリーは手を上げ、カニヴェは手を休め、オメーは博士がはいってくる前に、もう灰色のギリシア帽をぬいでいた。
博士はビシャにはじまるあの偉大な外科学派に属していた。つまり、今ではもう消えさった世代、医術を熱狂的に愛し、興奮と明敏《めいびん》をもって医術を実践するあの哲学的医者に属していた! 彼がおこると病院じゅうがふるえ上がった。弟子は彼を尊敬するあまり、開業すると、できるかぎり彼のまねをしようとした。そのため、ルーアン近在の町々では、博士と同じメリノの綿入れの外套《がいとう》や大きな黒の燕尾服が、弟子たちの衣服に見受けられた。ボタンをはずしてある袖口は肉付きのいい、丈夫で美しい手をわずかにおおっていた。この手はすばやく傷口に突っ込めるためにか、手袋をはめたことなどなかった。勲章も肩書きも望まず、アカデミーの会員になることをきらい、貧しい者を歓迎し、心豊かで親切であり、徳を信ぜずして徳を実行する彼は、明敏なる頭脳によって、悪魔のように恐れられていないならば、聖人として通ったであろう。メスより鋭い彼のまなざしは心の奥深くまで見通し、どんなにいっても、どんなに潔白そうにふるまっても、嘘は必ず見破った。彼はこのようにして、才能の自覚と豊かな財力と、四十年間にわたる非難の余地のない勤勉な生活が与える温容と威厳に満ちて日を送っていたのである。
博士は、口をあけて、あお向けに横たわっているエンマの死相を見ると、入り口にはいるやまゆをひそめた。カニヴェの話を聞く様子で、人さし指で鼻の下をこすり、繰り返した。
「うん、なるほど、なるほど」
しかし、肩をそっとそびやかした。ボヴァリーはそれに気づいた。二人は顔を見合わせた。博士は痛ましい情景にはなれっこにはなっているものの、胸飾りの上に落ちる涙を禁じ得なかった。
彼はカニヴェを次の間に引っぱって行った。シャルルもついてきた。
「よほど悪いんですね? 芥子《からし》でも塗って湿布しましょうか。ぼくにはどうしたらいいのかわからないのです! どうぞなにか方法を見つけてやってください。何人も助けられてきた先生じゃありませんか」
シャルルは両の腕で博士のからだを抱いた。そしてうろたえて、懇願《こんがん》するように博士を見つめ、半ば失神して、博士の胸にもたれた。
「さあ、君、しっかりしたまえ、もう手の尽くしようがないね」
こういってラリヴィエール博士は向こうを向いた。
「お帰りになるのですか」
「またきますよ」
博士は馭者《ぎょしゃ》にいいつけるためか、カニヴェと外に出て行った。カニヴェも自分の手でエンマを死なすのはごめんこうむりたいと考えていた。
薬屋は二人に広場でおいついた。気質からいっても、有名な人をほうっておくことはできなかった。そこで彼はラリヴィエール博士に光栄にも昼食を召し上がっていただくことにした。
「金獅子館」からは鳩を、肉屋からはありったけのあばら肉を、テュバッシュ家からクリームを、レスティブードワから卵を取り寄せた。薬屋自身も手伝った。オメー夫人は上着のひもを結びながら、いいわけをいった。
「ごめんなさいましね、先生、こんな辺鄙《へんぴ》な所に住んでおりますと、前日からいっていただかないことには……」
「足付きコップを!」とオメーが耳打ちした。
「せめて、町にいるのなら、ピエ・ファルシ〔豚の足に野菜とひき肉をつめたもの〕くらいはできるのでございますが」
「黙ってろ!……先生、どうぞテーブルに!」
一きれ、二きれ食べると、オメーは事件のことを話すころあいだと判断した。
「はじめ、咽頭《いんとう》部に渇きをおぼえ、ついで上腹部の激しい苦痛、激しい嘔吐、昏睡《こんすい》となりました」
「どうして毒なぞ飲んだのかな」
「知りません。手前にはどこからあの亜比酸《あひさん》を手に入れたのかさえよくわからないのでして」
そのとき、皿を山のように持ってきたジュスタンが急にふるえだした。
「どうした?」薬屋が聞いた。
若者はこの質問に、大きな音を響かせて床に皿をみんな落としてしまった。
「ばか野郎!」オメーはどなった。「そこつ者、のろま! とんま!」
が、急に気を静めて、
「先生、分析を行なおうと思いまして、はじめに、そっと試験管の中に入れましたが……」
「いや、それよりのどに指でも突っ込んであげたほうがよかったな」
カニヴェは今しがたひそかに吐剤のことで、お小言をくったばかりなので、黙っていた。あの足の手術のときにはあれほど横柄《おうへい》で、口数の多かったカニヴェがきょうはうって変わったおとなしさだった。
オメーは主人役をしているのがうれしくてうれしくてならなかった。自分の身を利己的に振り返ってみ、かつはまたかわいそうなボヴァリーのことを思うことでなにかしら自分の楽しさが増すような気がしてきた。博士がいることが彼を夢中にし、博学な知識を披露《ひろう》し、カンタリスだとかユースパース樹〔ジャワ産イチゴ科の毒樹〕だとかマンチニール〔熱帯アメリカ産有毒樹〕だとかマムシだとかをめったやたらに引用した。
「そればかりでなく、博士、手前は中毒した人びとのこと、いぶしすぎた腸詰であっというまにやられてしまった人のことを読んだことがありますぞ。しかし、これは立派《りっぱ》な学術報告であり、わが薬学界の権威にして、われらの師でもある有名なカデ・ドー・ガシクール氏の寄せられたものですぞ」
オメー夫人がアルコールランプで暖める足のぐらぐらした道具を持って現われた。というのも、オメーがテーブルでコーヒーをわかしたがったからである。それは前もって、彼が焙《せん》じ、粉にし、かき混ぜたものである。
彼は砂糖をすすめるときに、
「博士、サッカルムをどうぞ」といった。
それから、彼は子供たちをみな、下に連れてこさせて、健康状態について外科医の意見をあおいだ。
そしてラリヴィエール氏は帰り支度をしていたとき、オメー夫人が夫をみていただきたいといった。毎晩、夕食がすむと、眠りこけてしまうので、血のめぐりが悪くなるというのである。
「いや、お宅のご主人は血のめぐりが悪いのではない」
こうして博士は相手に通じないしゃれに微笑して、戸をあけた。薬局は人で埋まり、人をかき分けるのが一苦労だった。まずテュバッシュは妻が暖炉の灰につばを吐くので肺炎じゃないかと心配していた。ついで、ときどき激しい空腹を感じるというビネー、針でさされるようにちくちく痛いというカロン夫人、めまいのするルウルウ、リューマチのレスティブードワ、なんだかえがらっぽいというルフランソワのおかみと続いた。やがて、三頭の馬が出発した。博士はちっとも親切ではないというのがみなの一致した意見だった。
しかし、ブールニジャン神父が現われると、みなの注意はそがれた。神父は聖油を持って、市場の下を通っていた。
オメーは、日ごろの信念にもとづいて、神父を死人の匂いをかぎつけるからすのようだといった。個人的な気持ちからいっても、神父に会うのは愉快なことではなかった。僧服が経帷子《きょうかたびら》を想像させるからであった。彼が僧侶をきらうのも、幾分、経帷子がこわいからでもあった。
しかし、オメーは彼のいう「使命」の前には一歩もひこうとはせず、カニヴェと連れ立って、ボヴァリーの家にとって帰した。ラリヴィエール博士は出発する前にカニヴェに是非とも臨終に立ち合うようにとすすめたからである。オメーは夫人が文句をいわなければ、二人の息子を、重大な事態に慣れさせるため、連れて行こうとした。これはよい教えとも、例ともなり、後々まで彼らの頭に残る荘厳な場面であるからというわけである。
はいって行くと、部屋は痛ましい壮重さに満ちていた。白いテーブル・クロースをかけた手芸台の上には、燃えている二本のろうそくの間に置かれた大きな十字架のそばに、銀皿に綿の玉が五つ六つはいっていた。エンマはあごをひき、目を大きく見開き、その哀れな手を毛布にはわしていた。もうすでに経帷子《きょうかたびら》をまとう準備をしているかと思える、臨終の人のあの無気味なやさしい様子をしていた。シャルルは、石像のように青ざめ、目を炭火のようにまっ赤に泣きはらし、もう涙もこぼさずベッドの足元の彼女のまっ正面に立っていた。神父はひざまずき、低い声で祈りをつぶやいていた。
エンマは顔をゆっくりとそのほうへ向け、ふと紫色の袈裟《けさ》に目をとめるとうれしそうにした。おそらく、今まさに始まろうとしている永遠の幸福の幻と共に、若いとき、神秘世界に憧《あこが》れたその忘れていた喜びを見いだして大きな慰めを得たのであろう。
神父は身を起こして、十字架をとった。すると、エンマは渇した人のように首をのばし、人にして神なるキリストの像にくちづけをした。彼女は必死の力をふりしぼって、今までにしたものの中で一番激しい愛のくちづけをした。それから神父は「哀憐《あいれん》」と「ゆるし」の祈りをとなえ、右の親指を聖油につけると、終油の儀式をはじめた。初めは、地上の豪奢《ごうしゃ》をあれほど望んだ目に、ついで生暖かい風と悩ましい匂いを好んでかいだ鼻に、開けば嘘をいい、自尊心に泣き、肉の喜びに叫んだ口に、滑らかな感触を楽しんだ手に、最後に、昔は、欲望の充足のためにあれほど早く走り、今ではもう歩くこともできない足に。
神父は指を拭い、油のついた布を火中に投じた。そして、瀕死《ひんし》の女のそばに戻ってきてすわると、彼女の苦しみをイエズス・キリストの苦しみと一つにし、神のご慈悲におまかせなさいといった。
この言葉をいい終わると、やがて彼女が包まれる神の栄光のシンボルの聖燭を手に持たせようとした。エンマは力なく、指を閉じることもできなかった。もし神父がささえていなければ、ろうそくは床に落ちただろう。
しかし、彼女はさほど青ざめなかった。秘蹟によっていやされたかのように、静かな表情を浮かべていた。
神父はそれを見のがさなかった。彼はボヴァリーにも、神はときには、救いのために適当だと思われると、その生命をお延ばしになることもあるのだといった。シャルルはかつて、エンマが死にそうになり、聖体拝領を受けた日のことを思いだした。
「そう絶望しなくてもいいんだな」と彼は考えた。
事実、エンマはまるで夢からさめた人のように、あたりをゆっくり見回した。それからはっきりした声で、鏡をとってちょうだいといった。彼女はしばらく鏡の上に身をかがめていた。やがて、大粒の涙を流した。すると、彼女は頭をのけぞらして大きなため息をつくと、ばったり枕の上に倒れた。
そのうちに、心臓が早くあえぎ始めた。舌がだらりと口からたれた。目が絶えず動き、消えて行くランプのほやのように青ずんで行った。魂が飛び立って行くかのように、恐ろしい息づかいと共に、ぞっとするほど肋骨《ろっこつ》の動きが早くなり、それがなければ、もう死んだかと思われるほどだった。フェリシテは十字架の前にひざまずき、オメーでさえちょっと膝を曲げた。カニヴェ先生はぼんやりと広場を眺めていた。ブールニジャン神父は、顔をベッドの縁にかがめて、また祈り出した。彼の黒い僧服が部屋の床にながながと裾をひいていた。シャルルはもう一方の側にいて、腕をエンマのほうに伸ばしていた。彼女の手を取り、握りしめた。そうして彼女の心臓が鼓動《こどう》するごとに、こわれ落ちる廃墟のあおりを受けたかのように、ちぢみ上がった。苦しそうなあえぎが強まると、神父は祈りの声を早めた。その声はボヴァリーの押し殺したしのび泣きと混じった。ときどき、教会の弔鐘のように聞こえるラテン語の低いつぶやきの中に、すべてがひき込まれるかと思った。
突然、舗道に大きな木靴をひきずる音と、杖をつく音が聞こえてきた。声が聞こえてきた。しゃがれた声だった。歌をうたっているのだ。
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うらら、うららに誘われりゃ、
娘っ子にも恋心
[#ここで字下げ終わり]
エンマは電気をかけられた死体のように起き上がった。髪を振り乱し、目はすわり、口をぽかんとあけていた。
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鎌が刈りとる麦の穂を
せっせ、せっせと運びましょ。
ナネット姉ちゃん前かがみ、
麦の穂のある畝溝《うねみぞ》へ
[#ここで字下げ終わり]
「めくらだわ!」エンマは叫んだ。
それから彼女は笑い出した。恐ろしい、狂ったような、心をかき乱すような笑いだった。彼女は恐ろしいばけもののようにまっ暗闇に浮かび上がった、あのめくらの恐ろしい顔が見えたような気がした。
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ところが、その日は大風で、
短い下袴《ジュポン》が飛んじゃった
[#ここで字下げ終わり]
痙攣《けいれん》がエンマをわらぶとんの上に倒した。みなが駆け寄ると、エンマはもう息をひきとっていた。
九
だれかが死んだあとには、茫然《ぼうぜん》とした気分がただようものである。不意の虚無の到来を理解することも、あきらめて信ずることもそれゆえに困難である。しかし、エンマが動かなくなったことを知ると、シャルルはエンマの上に身を投げ、叫んだ。
「お別れだ! 永遠にさようならだ!」
オメーとカニヴェはシャルルを部屋の外につれ出した。
「落ち着きなさい」
「ああ、落ち着くよ」とシャルルはもがきながらいった。「静かにするよ。へんなことはしないから。でもほうっといてくれ! あれを見たいんだ! なんといってもぼくの妻なんだ!」
そういって彼は泣いた。
「お泣きなさい!」と薬屋がいった。「思いきりお泣きなさい! 気が楽になりますぞ!」
子供のように気が弱くなったシャルルは、連れて行かれるまま、下の広間に行った。オメーもやがて家に帰って行った。
彼は広場でめくらに呼び止められた。めくらは消炎軟膏をもらいにヨンヴィルまでからだをひきずるようにしてやってきたのである。めくらは会う人ごとに薬屋の家をたずねた。
「ああ、やれやれ、忙しいときにきたなあ、悪いけれど、あとできてくれないか」
そういって、彼はせかせかと店の中にはいっていった。
手紙を二本書かねばならないし、ボヴァリーのために鎮静剤を調合し、そのうえ、毒をあおいだことを隠す嘘を考え出さねばならないし、「ルーアンの燈」用の記事も書かねばならなかった。おまけに事の真相を聞き出さんと、村人がつめかけていた。そのため、ヨンヴィルの村人には、ボヴァリー夫人はヴァニラ・クリームを作るときに、砂糖と砒素《ひそ》をまちがえたという話を聞かせて、もう一度ボヴァリーの家に戻った。
シャルルは一人、(カニヴェ先生はついさっき帰ったばかりである)窓際の肱掛椅子にすわって、広間の敷石を茫然と眺めていた。
「それでは式の時間を決めていただかねばなりませんな」
「なぜです? なんの式です?」
そして、口ごもり、恐ろしそうな声で、
「いや、いけない、いけない。あれは家においといてくれ」
オメーは平気を装って、置き棚から水さしを取って、ジェラニュームに水をかけた。
「ああ、ありがとう、ご親切だな」
彼はいい終わることができなかった。薬屋のこの動作が思い出させるたくさんの思い出に胸がつまった。
気を晴らすために、園芸の話をしたらよかろうと思い、植物には水が必要だといった。シャルルは頭を同意のしるしに振った。
「しかし、今に春がめぐってきますよ」
「そうだね」とボヴァリーがいった。
薬屋は考えがまとまらないまま、そっとガラス窓の小さなカーテンをあけてみた。
「おや、テュバッシュさんが通る」
シャルルは機械的に繰り返した。
「テュバッシュさんが通る」
オメーはあえて葬式の準備をまた持ち出せなかった。それは神父が解決してくれた。
シャルルは部屋に閉じこもり、ペンをとり、しばらくすすり泣いて次のように書いた。
≪婚礼の衣装を着せ、白い靴と冠をつけて埋葬すること。肩に髪をたらすこと。棺は三重にし、柏、マホガニー、鉛で作ること。気が弱っているから、私には何もしゃべりかけないこと。棺の上に青ビロードをかけること。以上よろしくお願いします≫
ボヴァリーの奇妙な考えに二人は非常に驚いた。そこですぐに薬屋がやってきていった。
「このビロードというのは贅沢《ぜいたく》だと思いますがね。それに費用が……」
「余計なお世話だ」とシャルルがいった。「ほうっといてください。あなたはあれを愛していないのだからわからない! あっちに行ってください!」
神父は腕をとって、庭の中を歩き回らせた。彼は地上のむなしさについて弁じたてた。神は偉大で善良であり、文句いわずに神の命令に従い、感謝すべきであるといった。
シャルルは冒涜《ぼうとく》的言葉を吐いた。
「ぼくは、あなたの神なんかきらいです!」
「反抗の精神をまだ持っておいでじゃな」と神父は吐息をついた。
ボヴァリーは歩み去った。青葉棚のそばを壁ぞいに大またに歩いていた。彼は歯ぎしりをし、呪いのまなざしで空を見上げた。しかし、木の葉はそよとも動かなかった。
小雨《こさめ》が降ってきた。胸をはだけているシャルルはしまいにはふるえだした。そして台所に帰り、腰をかけた。
六時に、広場で、金物をぶちまけたような音がした。『つばめ』が到着したのである。シャルルは額を窓ガラスに押しあて、旅人が一人一人降りてくるのを見ていた。フェリシテは彼のために客間にマットレスを敷いてくれた。彼はその上に身を投げ出して眠った。自由思想家であるとはいえ、オメーは死者を尊敬することは心得ていた。そのため、気の毒なシャルルには恨みをいだかず、その晩、本三冊と、ノートを取るための紙挾みを持って通夜にやってきた。
ブールニジャン神父がそこにいた。二本の百目ろうそくが寝間から引き出された。ベッドの枕元で燃えていた。
沈黙が苦手の薬屋はすぐさま、「不幸な若夫人」について演説をした。そして神父は今となっては夫人のために祈るしかないのだといった。
「しかし、二つに一つですな」とオメーが答えた。「夫人が恩寵《おんちょう》を受けて(教会用語を使っていえば)なくなったのなら、われわれが祈る必要もないようだし、あるいは、告解を受けずになくなったのなら(これも教会のいいぐさですな)、そうしたら……」
ブールニジャンはその言葉をさえぎって、気むずかしい口調で、それでもやはり祈らねばならないのだといった。
「しかし」と薬屋がいった。「神様がわれわれの望みをなんでも知っていらっしゃるのなら、祈りがなんのためになるというのでしょう?」
「なんですと? 祈りが? あなたはキリスト信者ではないのかな?」
「とんでもない。わしはキリスト教には敬服しておる。歴史上はじめて奴隷を解放し、人の道を示したのですからなあ」
「そんなことは問題にしておらん! 聖書の言葉はすべて……」
「ああ、聖書といえば、これは歴史を見ればよくわかること。イエズス会によって聖書が改竄《かいざん》されたことは知れ渡っておりますぞ!」
シャルルがはいってきて、ベッドのほうに向かい、そっとカーテンを引いた。
エンマは頭を右肩にかしげていた。開いた口が顔の下のほうで黒々とした穴のように見えた。両手の親指を手のひらのほうに折っていた。白っぽいほこりのようなものが睫毛《まつげ》にかかっていた。そして目が薄い布地にも似たねばねばした青い色の中に消えかかろうとしていた。ひとみはまるでくもの巣を張りめぐらしたようであった。掛け布が胸から膝にかけてくぼみ、つま先でまたもち上がっている。シャルルには大きなかたまりが、大きな重みが彼女を押しつけているように思った。
教会の大時計が二時を打った。闇の中に築山の裾《すそ》を流れる小川の大きな音が聞こえてきた。ブールニジャン神父はときどき、大きな音を立てて洟《はな》をかんだ。オメーはペンを紙の上にきしませていた。
「さあ、先生、お引き取りください。これを見ていたらたまらんでしょう」とオメーがいった。
シャルルはもう一度部屋を出て行った。すると薬屋と神父はいい合いを始めた。
「ヴォルテールをお読みなさい! ドルバック〔百科全書派の一人〕を、『百科全書』〔ディドロ・ルソー・ヴオルテール等の啓蒙思想家によって編集、執筆され、十八世紀社会に大きな影響を与えた〕をお読みなさい!」といえば、相手は、
「『ユダヤ系ポルトガル人の書簡集』〔ゲネー著、ヴォルテールの聖書に関する無知を攻撃したもの〕、前司法官ニコラの『キリスト教の本義』をお読みなさい!」とやり返した。
二人は興奮してまっ赤になり、相手のいうことなど聞かず同時に弁じたてた。神父が大胆すぎるといって眉をひそめれば、オメーはそんなばかなことがといった。シャルルが急にまたやってきたとき、あわや相手を罵倒《ばとう》するところだった。シャルルは魔力に引き寄せられるのか、たえず、階段を上がってくるのだった。
彼はよく見えるようにエンマの正面に立った。そしてわれを忘れて見入っていた。そのために悲しみもほとんど感じられないほどだった。
シャルルは全身硬直を死ととり違えた話や、磁気による奇跡的|蘇生《そせい》の話を思い出した。一心に思いをこめれば、エンマを生き返らすことができるのではないかと思った。彼はエンマの上に身をかがめ、「エンマ! エンマ!」と低く叫んだ。彼が息を強くはきかけるので、壁にろうそくの炎をふるわせた。
夜明けにボヴァリー老夫人がついた。シャルルは抱きつくと、また新たな涙にくれた。老夫人も薬屋と同じように葬式に費用がかかりすぎるといった。すると、彼はかっとした。そのすさまじさに老夫人も口をつぐんでしまった。そのうえに必要なものを買うためにすぐに町にいってくれとたのんだ。
シャルルは午後いっぱい一人で過ごした。ベルトはオメー夫人にあずけてあった。フェリシテはルフランソワのおかみと上の部屋にいた。
夜になって、弔問客がやってきた。シャルルは立ち上がって、握手をしたが口をきくことはできなかった。客は暖炉の前に半円を描いている他の人びとのそばにすわった。顔を伏せ、足を組み、足を左右に揺すっていた。そして人びとは大きなため息をついていた。みんな非常に退屈《たいくつ》していたが、しかし、だれも自分から立とうとはしなかった。
オメーは九時にやってくると、(この二日間、広場には彼の姿しか認められなかった)樟脳《しょうのう》や安息香や芳香草木を持ってきた。また、毒気を抜くために塩素水を入れたびんも持っていた。ちょうどそのとき、ルフランソワのおかみとボヴァリー老夫人とフェリシテがエンマのまわりにつどい、エンマの着替えをした。ぴんと張った長いヴェールを下すと、繻子《しゅす》の靴までおおった。
フェリシテはすすり泣いた。
「ああ、おかわいそうに奥様、奥様」
「ほらみてごらん!」とおかみはため息まじりにいった。「ほんとにまだお美しいね。今にもお起きになりそうだねえ」
そうして冠をつけるために三人は身をかがめた。
エンマの頭を少し持ち上げねばならなかった。すると、黒い液がドッと、吐いたように口から流れた。
「あっ、大へんだよ。服がよごれるから気をつけて!」とルフランソワのおかみが叫んだ。「さあ、助けておくれ! それとも恐ろしいのかい」とおかみは薬屋にいった。
「このわしがこわがるんだと?」薬屋は肩をすくめた。
「うんにゃ、このわしがかつて薬学を学んでいたころ、こんなのはいくらでも市立病院で見たわい! それに、解剖教室でパンチ酒を作って飲んだもんだ! 哲人、死を恐れずだ! これはわしがよくいっていることだが、このわしが死んだら、死体を科学のために病院に寄付するつもりだ」
神父はやってくると、ボヴァリーの様子はどうかといった。薬屋の答えに彼は、
「なにしろ打撃をうけたばかりですからな」といった。
すると、オメーは、あなたは世の人たちのように愛妻を失う恐れがなくてよろしいですなといった。そこから二人は神父の独身生活について議論した。
「なぜなら、男が女なしに過ごすのは不自然なことだ。それだから数々の犯罪も生まれるのだ……」と薬屋がいった。
「なにを失敬な!」と神父が叫んだ。「では結婚していたら、どうして告解の秘密が守れるというのです?」
オメーは告解を非難した。ブールニジャンは告解を弁護して、告解が立ちなおらせるといった。彼は数々の逸話を披露した。急に正直になった泥棒のこと、告解にくる途中に急に迷いからさめた兵隊のことを話した。そして、フライブルグのある司祭は……
しかし、相手は眠っていた。神父は部屋の空気がよどみ、少し息苦しくなったので、窓をあけた。その音に薬屋は目をさました。
「たばこはいかがです! 気がまぎれますよ」と神父はいった。
どこか遠くで、犬のなき声がながながと尾を引いて続いた。
「犬がほえていますな」と薬屋がいった。
「犬は死者をかぎつけるといいますからな」と神父が答えた。「蜜蜂もそうです。人が死ぬと、巣から飛んでくるのです」――オメーはこの迷信には口を入れなかった。眠りこけてしまったからである。
ブールニジャン神父はオメーよりも信仰が強いために、しばらく低く唇を動かしていた。しかし知らず知らずに顎《あご》を落とし、分厚い黒い表紙の本を落として鼾《いびき》をかき出した。
二人は、腹を突き出し、むくんだ顔をし、しかめっ面《つら》をして向き合ったまま眠っていた。あれほど意見が正反対だったのに人間的な弱点の点ではようやくに一致を見たようであった。二人のそばで眠っているかに見える死人同様、二人は動かなかった。
シャルルははいってきても、二人を起こさなかった。これが最後だった。彼はエンマにお別れをしたかったからである。
芳香草木がまだかおっていた。渦《うず》を巻く青白いその煙は窓辺ではいりこむ霧ととけた。星が出ていた。おだやかな夜だった。
ろうそくのろうがとけて、ベッドの掛け布に大きな涙のようにたれていた。シャルルは燃えるろうそくを見つめていた。そのため、黄色い炎の光で目がつかれた。
月の光のように白い繻子《しゅす》の布の上で、木目模様がわずかにふるえていた。エンマはその下にかくれていた。シャルルには、エンマが彼女自身のからだの外におどり出て、まわりの物に、たとえば静寂に、夜に、吹き通る風に、立ちのぼるしめっぽい匂いにとけこんでいるのではないかと思われた。
すると急に、茨《いばら》の垣沿いのベンチに腰をおろしたエンマが、あるいはルーアンの道にいる彼女、戸口に立つ彼女、ベルトーの庭にいる彼女の姿が頭に浮かんできた。彼にはまたリンゴの木の下で踊る陽気な男の子の笑い声が聞こえた。部屋の中は彼女の髪の匂いでいっぱいだ。彼女の服が花火のような音をたてて腕の中でふるえだす。あのときの衣裳、これがあのドレスなのだ。
こうして彼は消え去ったしあわせを、彼女のしぐさを、物腰を、声を思い出していた。一つの絶望の後には、また新たな絶望が続き、打ち寄せる潮の波のようにつきることがなかった。
シャルルは急に見たくなった。彼はそっと、胸をときめかしながら指先でヴェールをはいだ。しかし、恐怖の叫びを上げた。その声に二人は目をさまし、彼を下の広間に連れて行った。
やがて、フェリシテがやってきて、旦那様が奥様の髪の毛をほしいとおっしゃっておいでですといった。
「切ればいい」と薬屋はいった。
しかし、彼女がこわがるので、彼は、はさみを持って、近づいた。ふるえていたので、こめかみのあたりを数か所つっついた。そしてやっと、ふるえる心を押えて、オメーは手あたり次第、二、三度切った。そのため、エンマのこの美しい黒髪に白い痕《あと》が二、三か所できた。
薬屋と神父は再び、それぞれの仕事に精を出した。とはいえ、ときどき、眠り込んでしまい、ハッとして目をさますと互いにとがめ合った。やがて、ブールニジャン神父は部屋を聖水で清め、薬屋は床に塩素水を少しまいた。
フェリシテは気をきかして、二人のためにたんすの上にブランデーを一びんとチーズ、大きなブリオシュを置いておいてくれた。薬屋も、さすがにがまんしきれなくなったのか、午前四時ごろになると、ため息をついた。
「まったく、栄養をとりたいものですなあ!」
神父もそれには異存がなかった。彼は教会に帰り、ミサをすますと帰ってきて、飲んだり、食ったりした。悲しいことが過ぎ去ったあとで感じるあのなんとなく陽気な気分に誘われて、二人はなぜともなく笑い合った。神父は薬屋の肩をたたきながら、
「これで仲よしになれそうですな!」といった。
二人は下の入り口でやってきた職人連中を迎えた。それから二時間、シャルルは板に打ちつける金槌《かなづち》の音に耐えねばならなかった。それからエンマを柏の棺に納め、それをまた二重の柩《ひつぎ》にいれた。
しかし一番外側のが大きすぎて、マットレスの羊毛をすき間につめなければならなかった。そして最後に三枚の蓋《ふた》が削られ、釘づけされ、ハンダづけが終わると、戸口の前に持ち出された。家はすっかり開放された。ヨンヴィルの村人がつめかけてきた。
そこにルオーじいさんが到着した。じいさんは広場で弔旗《ちょうき》を見ると昏倒《こんとう》してしまった。
十
じいさんが手紙を受け取ったのは、事件後、三十六時間しかたっていなかった。しかし、オメーは、じいさんの気持ちを考えて、どうとっていいかわからない書き方をした。
最初、じいさんは卒中の発作《ほっさ》におそわれたように、卒倒した。そしてエンマは死んではいないのだと思った。だが、死んでいるかもしれん……。そこで、上着をひっかけ、帽子をつかみ、靴に拍車をつけるなり、全速力で駆け出した。途中、ルオーじいさんは息を切らし、不安にさいなまれていた。一度、馬をおりなければならなかった。しかし、何も見えず、まわりの声も聞こえず、狂いそうだった。
夜が明けてきた。木に止まって眠っている黒い鶏《にわとり》が三羽見えた。じいさんは不吉な幻を見る思いがして、身をふるわした。そこで、聖母マリアに祈り、教会に三着の上祭服を寄進すること、ベルトーの墓地からバッソンヴィルの礼拝堂まではだしでお参りすることを誓った。
じいさんは宿屋の衆を呼びながら、マロンムの村にはいった。肩でずっと戸を押しあけるなり、からす麦の袋にとびかかり、甘口のリンゴ酒を一びん秣桶《まぐさおけ》の中にあけると、小馬に再び、またがった。馬の蹄鉄からは火花が飛んだ。
娘は必ず一命をとりとめる。医者が何かいい薬を見つけてくれるだろう。今まで話に聞いていた奇跡的になおった話が思い出された。
それから、彼女が死んだ気がした。彼女がそこに、目の前に、道にあお向けに倒れている姿が見えた。だが、手綱を締めると、その幻は消えた。
カンカンポワでじいさんは元気づけようとコーヒーをたて続けに三ばいも飲んだ。
もしや、宛名を書きまちがえたのではと思い、ポケットの手紙をさぐったが、あけて見る勇気がなかった。
ついには、これはきっと悪ふざけか、だれかに仕返しされたのか、ふざけ屋にかつがれたのかとも思った。それに娘が死んだのなら、その知らせがあるものだ。いや、死んではいない。野原には異常はないし、空は青い。木がゆらいでいる。羊の群れが通り過ぎる。村が見えた。人びとは馬にまたがり、身をかがめ、力まかせに鞭《むち》をくれているじいさんの姿が見えた。馬の革帯からは血がしたたり落ちていた。
じいさんは昏倒からさめるとボヴァリーの腕に泣きくずれた。
「娘は! エンマは! 娘は! わけを聞かしておくれ……」
相手は涙ながらに答えた。
「わかりません。ぼくにもわからないんです。これは呪《のろ》いです」
薬屋が中にはいった。
「ま、くわしいことをお話したってなんにもなりません。そのことはわしがお話しますよ。人もくることだし、とにかく、落ち着いて、気をしっかりとお持ちなさい」
かわいそうなシャルルはそれでも人目には落ち着いてうつりたかった。それで、幾度も、
「うん、しっかりするよ」といった。
「おれも神に誓って、しっかりするぞ!」とじいさんがどなった。「最後まで見とどけてやるからな」
教会の鐘は鳴った。準備はできた。行列を組まねばならない。
二人は教会の祈祷《きとう》席に並んで腰かけ、単調に歌う三列に並んだ聖歌隊が行ったり、きたりするのを見ていた。ラッパ吹きは心臓も破れよとばかり吹いていた。第一礼装に身を固めたブールニジャン神父が高い声で歌った。神父は聖櫃《せいひつ》に礼拝し、手を上に上げ、腕を広げた。レスティブードワは鯨骨《げいこつ》の棒をついて堂内を歩き回っていた。聖歌隊のそばには、四隅に置いたろうそくの間に棺が置いてあった。シャルルは立ち上がって、その火を消しに行きたいと思った。
彼は熱心に祈りをささげ、エンマに会えるあの世の希望へすがりついた。エンマはずっと前から、遠くへ旅行しているのだと思ってもみた。しかし、あれがあの中にいるのだ、すべては終わったのだ、これから埋葬《まいそう》するのだと思うと、手のつけようもない、まっ黒な、破れかぶれの怒りに襲われた。ときどき、なんにも感じなくなった。そして、彼は悪いとは思いながらも、苦痛がやわらぐのを楽しいと思うのだった。
敷石を等間隔を置いてたたく、コツコツという音が聞こえてきた。先端に金具をつけた杖の音だ。その音は奥から聞こえてきて、教会堂の側廊でピタッと止まった。茶色の大きな上着を着た男がやりにくそうにひざまずいた。「金獅子館」の下男、イポリットであった。彼はとっておきの義足をつけていた。
聖歌隊の一人が献金を集めに本堂を回った。大きな二スー銅貨が次から次へと銀のお皿に音を立てた。
「お願いだから、早くしてくれ! 苦しいんだ。このぼくは!」とボヴァリーは叫び、おこったように五フラン金貨を投げた。
教会の男はうやうやしくお礼をいった。
人びとは歌ったり、ひざまずいたり、また立ち上がったり、ながながと続けた。シャルルは新婚のころ、二人してミサにきたこと、あのときにはあちら側の(右側の)壁際《かべぎわ》にすわったことを思いだした。鐘がまた鳴った。椅子を動かす大きな音がした。棺を運ぶ者たちが棺の下に棒を三本すべりこませ、一同は教会堂を出た。
そのとき、ジュスタンが薬屋の戸口まで出てきた。そして突然、まっ青になり、よろめきながら、中へ引きこもった。
行列を見ようと人びとは窓際にいた。先頭のシャルルは身をそらしていた。彼はへこたれた様子を見せないようにしていたのである。小路や戸口から出てきて、沿道の群衆の仲間入りする人びとに彼は会釈《えしゃく》した。左右三人ずつの六人の男は小刻みに、少し息を切らしながら歩いていた。神父、聖歌隊と二人の子供の隊員は「|より深き淵より《デ・プロワインデイス》」をうたっていた。彼らの声は野原を、高く低くうねりながら、流れて行った。ときどき、シャルルの一行は小道に曲がり、姿が見えなくなった。しかし、いつでも銀色の大きな十字架が木《こ》の間《ま》隠れにそびえていた。
女たちは後ろに従い、頭巾《ずきん》のついている黒いマントを着ていた。彼らは手に手に火のついたろうそくを持っていた。シャルルはこのたえず繰り返される祈りと灯火のために、いやなろうの匂いと僧服《スータン》のために気が遠くなりそうになった。爽快《そうかい》な微風《そよかぜ》が吹き渡り、ライ麦や菜種が青々としていた。道|端《ばた》の茨の垣で露の滴《したた》りがふるえていた。野づらは楽しげな声でわき立っていた。轍《わだち》できしむ遠くの荷車の音、しきりに鳴く雌鳥《めんどり》の声、リンゴの木陰を飛んで行く若駒の足音。青空にばら色の雲が浮かんでいる。青白いうす明かりがあやめをふいたわら屋根に反射している。シャルルは通りすがりの家々を見知っていた。こんな朝、二、三の患者を見ると、外に出て、彼女のもとに帰って行ったのを思い出した。白い涙模様の黒い布がときどき、風にあおられ、棺が見えた。棺のかつぎ手はつかれ、歩みは遅くなった。棺は波が寄せるごとに縦《たて》揺れする小舟のように、たえず揺れながら進んでいった。
そしてやっとたどりついた。
男たちは奥の、穴の掘ってある芝生《しばふ》の所まで歩いて行った。
人びとは穴のまわりに集まった。神父が祈りをささげている間、穴の縁に掘り出した赤土がひっきりなしに音もなく、隅から下に落ちていた。
そして四本の綱をつけると、棺を下におろした。棺はどこまでもおりて行った。
最後に物にあたった音がした。綱はきしみながら上に上がった。すると、ブールニジャン神父はレスティブードワがさし出す鋤《すき》を取った。右手で水をまきながら、左手で土をたっぷりすくいあげ、勢いよくまいた。すると、石が棺の木にあたって、すさまじい音をたてた。その音は永遠にこだまするかと思われた。
神父は、灌水器を隣に渡した。オメーであった。オメーはそれを慎重に揺さぶると、シャルルに手渡した。シャルルは地面に膝をつき、両手でまくと、大声で叫んだ。「さようなら」。エンマにキスを送ると、墓穴に飛んで行き、彼女といっしょに埋まろうとした。
しかし、押し戻され、やがて落ち着きを取り戻した。多分、他の人たち同様、ほのぼのとした安心を感じていた。
帰りすがら、ルオーじいさんは心安らかにパイプをふかし始めた。このことをオメーは腹の中で、けしからんことだと思った。それにビネーが姿を見せなかったことも、テュバッシュがミサのあとで「抜け出した」ことも、公訴人の下男、テオドールが青い服を着ていたこともけしからんことだと思った。
≪これがしきたりなんだから、だれだって喪服《もふく》ぐらい貸してくれるというのに、なんというやつだ!≫彼は、自分の意見を伝えに人びとのまわりを歩き回った。人びとはエンマの死をいたんでいた。とくにルウルウが死者をいたむことはなはだしいものであった。彼は忘れずに埋葬式にもきていた。
「奥さんもお気の毒なことで、旦那さんもさぞお嘆きのことでしょうな」
薬屋はそれを引き取って、
「このわしがいなければ、それこそ大へんなことをしでかしたことでしょうな」
「いいかたでしたがね。土曜日に店でお目にかかったのが最後になりました」
「こう忙しくては、たむけのうまい言葉を見つけられませんな」とオメーがいった。
家に帰ってくると、シャルルは着替え、ルオーじいさんは青い上着を着た。上着は新品だった。途中、目をときどき袖でぬぐったので、顔が青色に染まった。涙の跡がほこりまみれの顔に幾筋にもなって残っていた。
ボヴァリー老夫人は二人と残った。三人ともに黙っていた。やがて、じいさんがため息をついた。
「おまえさんが前の奥さんをなくしたばかりのころ、トストにいったのを覚えていなさるだろう。あのときはお慰めもできたし、うまい言葉もいえたもんだ。だが今度は……」
それから、胸からほとばしり出るような長い嘆息をつくと、
「ああ、これでおしまいだ。はじめに女房に死なれて、次が息子、そして今度が娘だ!」
彼はこの家では眠れんからといって、すぐにベルトーに帰りたいといった。その上、孫にも会いたくないといった。
「いやいや、孫を見ればますます悲しくなりますだ。ただ、あれにたくさんキスしてやっておくれ。さようなら! おまえさんはいい人だよ。それから、あれは忘れないよ」とじいさんは膝をたたいていった。「心配しなさんな、七面鳥は毎年必ず送るからね」
丘の頂まで行きつくと、じいさんは、昔、エンマを見送って、サン・ビクトール街道で振り返ったときのように、後ろを振り向いた。村の家々の窓は、野原のかなたに沈んで行く太陽の西日を受けて、火がついたような緋《ひ》色をしていた。彼は手をかざした。かなたの石垣にかこまれた所には、木がそこ、ここにしげり、白い墓石の間でまるで黒い花束のようだった。やがてじいさんは、小馬がびっこを引くので、小走りに走らせながら道を進んで行った。
シャルルと老夫人は、つかれてはいたが、その晩、すわり込んで、長いこと話していた。二人は昔のこと、これからのことを話し合った。老夫人はヨンヴィルにきて、家事を見てやろう、決して離れないなどと語った。彼女は気のきいた、やさしい話し方をした。その実、心中では、もう長いこと逃げ去っていた愛情を取りもどすのがうれしかったのである。真夜中の鐘が鳴った。村はいつものとおり、しずまりかえっていた。シャルルは眠られぬまま、たえずエンマを思っていた。
ロドルフは気晴らしに、一日じゅう狩りに出て、静かに彼の館《やかた》で眠っていた。レオンもべつの所で眠っていた。
しかし、この時間に、眠っていない男がもう一人いた。
樅《もみ》の木にかこまれた墓のほとりで、一人の少年がひざまずいて泣いていた。すすり泣きに痛むその胸は、月の光よりも甘く、夜よりも底知れぬ、深い悲しみにひしがれて、闇の中であえいでいた。
突然、鉄格子がきしんだ。レスティブードワであった。さっき、忘れて行った鋤《すき》を取りにきたのである。彼は壁を乗り越えるジュスタンの姿を認めた。じゃがいも泥棒の張本人がとうとうわかったぞと彼は思った。
十一
シャルルは次の日、子供を連れ戻した。子供はママは? と聞いた。ママはお出かけだよ、おもちゃを買って帰ってくるからねといい聞かせた。ベルトはそのことを何度も繰り返していたが、そのうちに忘れてしまった。楽しそうな子供の姿を見るにつけ、ボヴァリーは胸をえぐられる思いがした。そのうえに、彼はオメーのいやみたらしい慰めの言葉を、がまんして聞かなければならなかった。
やがて、金の問題がまた持ち上がった。ルウルウが友人ヴァンサールをそそのかしたからである。シャルルの借金は巨大な額にのぼった。彼はエンマの物であった家具を決して売ろうとはしなかった。シャルルの母親はそれを見ておこった。すると彼はもっと激しくどなり返した。彼はまったく人が変わってしまった。母親は家を出て行った。
こうなると、だれもが「この機を利用し」だした。ランプルール嬢は、エンマに一度も教えたことがないくせに(かつてエンマはボヴァリーに領収書を見せたものの)六か月分もの謝礼を要求した。二人の女の間では話がついていたのである。貸本屋は三年間の講読料を、ローレおばさんは二十通の手紙の運び賃を請求した。シャルルがどういうわけだときくと、おばさんは慎重《しんちょう》に答えた。
「あたしにはわかりませんです。なんでも大切なご用なようでごぜえましただよ」
借金を払うたびに、シャルルは今度で終わりだと思った。しかし、他のものがつぎつぎに出てきた。
彼は古い患者の支払い残しを取り立てた。すると、人びとは妻が送った手紙を見せた。それで今度はあやまらねばならない始末だった。
今では、フェリシテがエンマの服を着ていた。もっとも全部ではなかったが……。シャルルはそのうちの二、三枚をとっておいて、彼女の化粧室に閉じこもり、眺めるのだった。フェリシテとエンマのからだつきが似ているために、シャルルはよく、後ろ姿を見ていると、錯覚して、叫んだ。
「おっと、そのまま、そのまま」
ところがフェリシテは聖霊降臨祭〔復活祭後第七日曜日……六月半ばごろ〕にテオドールにそそのかされてヨンヴィルを出奔《しゅっぽん》した。そのとき、衣服だんすに残っているものを一切合財《いっさいがっさい》さらって行った。
ちょうどそのころ、デュピュイ未亡人がシャルルに、「イヴトーの公訴人、愚息レオン・デュピュイとボンデヴィルのレオカルディー・ルブッフ嬢との結婚の儀」を知らせてよこした。シャルルは、夫人に出したお祝い状の中で、こう書いた。
「妻が生きていましたら、さぞ喜んだことでございましょう」
ある日、あてもなく、家の中をうろついているうちに、彼は屋根裏部屋に行った。すると、丸めたうすい紙を踏んだような気がした。彼はその紙を広げ、読むと、≪勇気をお持ちください、エンマさん、しっかりしてください。ぼくはあなたの生活を不幸にしたくないのです≫とあった。ロドルフの手紙が箱を積み重ねた間の床の上に落ち、そのままになっていたのだが、隙間《すきま》風で戸口のほうまで吹き寄せられたのである。シャルルは茫然《ぼうぜん》と口をあけたまま、立ちつくしていた。かつて、この同じ場所でエンマが今のシャルルよりもっと青ざめ、悲嘆にくれ、死にたいと思ったのだ。最後に彼は、次のページの下に小さなRの字を見つけた。だれだろう? 彼はロドルフがたえず姿を見せていたこと、それがバッタリ見えなくなり、その後、二、三回会うと、ぎごちないそぶりを見せたのを思い出した。しかし、手紙のうやうやしい調子に錯覚した。
「きっと、二人はプラトニックな恋をしていたのだろう」と思った。
そのうえ、シャルルは物事を奥深くまで考える性質ではなかった。彼は証拠の前にたじろいだ。そしてはっきりしない嫉妬《しっと》心はたくさんの苦しみの内に姿を消した。
男ならだれでもあれを好きになるさと彼は思った。だれだって、一目見ただけで、恋い焦がれる。そう思っただけで、狂おしいほどの、永遠の愛を感じた。それは彼の絶望に火をつけ、今や彼の思慕《しぼ》は実現不可能なるがゆえに、果てしがなかった。
エンマがまるで生きてでもいるように、彼女を喜ばせようとして、彼女の好きだったことや、彼女の考え方を取り入れた。彼はエナメルの靴を買い、白いネクタイをしめるようになった。ひげにチックをつけ、彼女のように約束手形に署名《しょめい》した。エンマは墓の中から彼を堕落《だらく》させたのである。
彼は一つ一つ銀器を売らねばならなかった。それからサロンの家具を売った。部屋は全部からになっていった。しかし、エンマの居間は昔のままだった。夕食後、シャルルはそこに上がって行った。彼は暖炉の前に丸いテーブルを押しやり、彼女の肱掛椅子を近寄せ、その前にすわった。ろうそくが一本金色の燭台にともっていた。そばにベルトがいて、版画に色を塗っていた。
あわれなシャルルは、ベルトがきたならしい格好をしているのを見るにつけ、心が痛んだ。編み上げ靴にはひもがないし、ブラウスは袖付けから袖口まで裂けていた。家政婦のめんどうが悪かったからである。とはいえ、ベルトはやさしく、おとなしかった。可愛《かわい》い顔をしとやかにかしげると、ばら色の頬に金髪の髪がかかった。それを見ると、シャルルの心はいうにいわれぬ深い喜びに包まれた。それは樹脂の匂いがするできそこないの酒のようなにがい喜びの味であった。シャルルはおもちゃをなおしてやり、ボール紙であやつり人形を作り、人形の破れたお腹をつくろってやった。しかし、針箱や、ちらばっているリボンや、テーブルの裂けめにはさまっている針が目にとまると、彼は夢想におち入り、寂しそうにした。そうすると、ベルトも同じように悲しくなるのだった。
現在では、だれ一人としてやってこなかった。ジュスタンはルーアンに逃げ出し、乾物屋の小僧になった。薬屋の子供の足もしだいに遠のいた。オメーは両家の社会的地位にへだたりができるにつれて、さほど親しくするには及ばないと思ったからである。
オメーの軟膏《なんこう》でもなおらなかっためくらは、ボワ・ギョームの丘に帰ってくると、旅行者に薬屋はへただといいふらした。そのため、オメーはルーアンに行くときには、出っくわさないように『つばめ』のカーテンの陰に身を隠した。オメーはめくらを恨んだ。そして、自分の評判のために、とにかくめくらを追っ払おうとして、偽装《ぎそう》砲台をうち立てた。それは、彼の知恵の深さ、うぬぼれの悪どさを示すものであった。引き続き六か月間、次のような記事が「ルーアンの灯」紙上に掲載された。
≪おそらくは、ピカルディ地方の沃野《よくや》に赴《おもむ》くものは、ボワ・ギョームの丘で、顔に恐ろしい傷のある乞食に気づかれたことであろう。その男はうるさく人につきまとい、責めたて、金品を真《まこと》の関税のごとく旅人から強奪《ごうだつ》する。われわれはまだ、中世のあの恐しい時代にいるのであろうか。十字軍のもたらしたる癩《らい》病、瘰癧《るいれき》を公衆の面前にひけらかす許可がおりているとでもいうのであろうか?≫
あるいはまた、
≪浮浪者《ふろうしゃ》に対する法律に反し、大都市近郊には、依然として乞食《こじき》の徒輩《やから》が跳梁《ちょうりょう》している。なかには単独で彷徨《ほうこう》している者もある。これは危険なきことといえるものであろうか? 当局は何をしているのか?≫
その後オメーは作り話をでっちあげた。
≪きのう、ボワ・ギョームの丘で、一頭の馬が……≫そうして、事件はめくらの出現によりひき起こされたものであると結んであった。
そのため、めくらは投獄された。しかし、すぐ許された。めくらが仕事を始めると、オメーも攻撃を開始した。一種の戦いである。やがて、オメーが勝った。敵は救済院に終身|監禁《かんきん》を命ぜられたからである。
この勝利はオメーを大胆にした。それからというもの、このあたりで、犬がひかれても、納屋が焼け落ちても、妻が夫にひっぱたかれても、進歩を愛し、僧侶をきらう気持ちから、必ず、公にした。彼は公立学校と教団経営の学校を比較し、この後者を文盲《もんもう》の徒だとこきおろした。教会に百フランの補助金が下りるとなると、聖バーテルミーの惨事《さんじ》になぞらえ、悪幣《あくへい》を示し、機知を飛ばした。これは本人のいいぐさである。オメーはすべてを根底からくつがえし、危険人物になった。
しかし、彼はジャーナリズムの狭い世界にあき、やがて、書物、著述が必要となってきた。彼は、「ヨンヴィル地区の一般的統計、および、気象的観測」を書いた。統計学から哲学に移り、彼は大問題に没頭した。いわく、社会問題、下層階級の道徳観念、養魚法、弾性ゴム、鉄道、等々である。彼はブルジョワであることを恥じた。「芸術家」を気取り、たばこをふかした。客間の飾りに「シック」なポンパドゥール風の彫像を二つ買った。
とはいえ、薬局をないがしろにはしなかった。それどころか、世の進歩発展の流れにのった。彼はチョコレートの大流行に乗じた。下《しも》セーヌ地方に「ショカ」〔ココア入り小麦粉〕や「レヴァレンシア(強化小麦粉)」をはじめて入れたのが彼であった。彼は、ピュルヴェルマシェールの電気健康環に熱中した。彼は自分でもそれを身につけ、夜、フランネルのチョッキをぬぐと、オメー夫人はからだ中に張りめぐらしてある金の螺旋《らせん》を見て目を見張った。そして、スキチア人〔紀元前八世紀半〜前三世紀まで黒海の北部に威をふるっていた人々を古代ギリシア人がよんでいたところからこの名が起こった〕よりがんじがらめに身を固め、東方の三博士〔キリスト降誕時に聖霊に導れて東方より祝いにつどった三人の博士のこと〕のように堂々としたこの男に、愛情が高まるのをおぼえるのだった。
オメーはエンマの墓のためにすてきな案をいろいろ思いついた。まずはじめに円柱の一部に布を巻きつけたもの、次に、ピラミッド、それから円形のヴェスタ神殿、あるいは「廃虚《はいきょ》の山」はどうですといった。しかし、どのデザインにもしだれやなぎをつけた。しだれやなぎこそはぜひとも必要な悲しみの象徴というわけである。シャルルとルーアンに行って、石屋のところで墓の見本を見た。――ブリドゥーの友、ヴォーフリィラールという、たえず、しゃれを飛ばしている男もいっしょについてきた。見本をいくつも見、見積書をたのみ、ルーアンにもう一度行ったあげく、シャルルは、「火の消えた松明《たいまつ》を持つ妖精《ようせい》」を二面にきざんだ墓に決めた。
碑銘については、オメーは「行く人よ足を止めよ」(Sta Viator)のほかに適当な言葉がみつからず、その先が続かなかった。想像力をかきたててみても、たえず、「行く人よ 足を 止めよ」しか浮かばなかった。それでも、最後に、「汝の足下に憩《いこ》うは、わがいとしの妻ぞ」(Amabilem conjugem calcas!)というのを見つけ、それが採用された。
不思議なことだが、たえずエンマを思いながらも、ボヴァリーは彼女を忘れていった。彼女の面影をいだき続けようといくら努力しても、思い出からその面影がうすれて行くのを感じて心を痛めた。しかし、毎夜、彼女を夢に見た。が、いつも同じ夢だった。エンマに近づいて、彼女を抱きしめたかと思うと、彼女は腕の中でくずれ落ちた。
一週間のあいだ、彼は夕方になると、教会に行った。ブールニジャン神父も二、三回やってきたが、それきりになった。近ごろ、神父は不寛容になり、狂信的だとオメーが文句をいった。神父は時代精神に反逆し、二週間もの間、説教では、だれでも知っている糞《くそ》を食って死んだというヴォルテールの最後を必ず語るのだった。
ボヴァリーは節約して暮らしているのだが、昔の借金はなくなるどころではなかった。ルウルウはどんな約束手形ももう更新《こうしん》しようとしなかった。差し押えももうすぐだ。そこで、彼は母親に助けを求めた。母親は財産を抵当に入れることに賛成してくれた。しかし、エンマのことをひどく悪くいった。そして、お返しにフェリシテがさらっていった残りのショールが欲しいといった。シャルルがそれをこばんだので二人は仲たがいした。
母親が子供をひきとろう、老後の慰めになろうからと申し立てて、和解の口火を切った。シャルルは賛成した。しかし、いざ手離すときになると、すっかり気がくじけた。すると、決定的な、完全な決裂となった。
妻への愛がうすまるにつれ、ますます子供への愛が強まった。しかし、娘の様子が不安だった。ときどき、せきをしたり、頬に赤い斑点《はんてん》が見えていた。
彼の目の前で、薬屋の一家は栄え誇り、にぎわっていた。世のすべてのものが彼の意のままだった。ナポレオンは薬局を手伝い、アタリーは灰色のギリシア帽に縁《ふち》どりをし、イルマはジャムをかぶせる紙を丸く切ってくれた。そしてフランクリンは一息に九九を暗誦《あんしょう》した。彼は父親の中で一番幸福な男であり、男の中で一番運のよい男のように見えた。
ところがじつはそうではなかった。人知れぬ野心が彼の心を悩ましていた。オメーはレジョン・ドヌール勲章《くんしょう》がほしかった。資格は十分なはずだった。
第一にコレラ流行に際しては、骨味惜しまず働いたこと、第二に自分で金を出して、みんなのためになる数々の著述を発表したこと。たとえば……(『リンゴ酒作製法とその効果』と題する論文。アカデミーに送った有毛油虫についての観察。統計の著述、それに薬学の卒業論文まで)、そのうえに各学会の会員なのだ。(じつはただ一つの学会の会員だったが)
「これで、火事でもおきれば、もうこっちのものだ!」とオメーは片足でくるりと回りながら思った。
そこで、オメーは権力にへつらった。ひそかに、選挙のときには知事閣下のために大いに尽力した。
ついには身を売り、節を曲げた。彼は国王に「公平なるご沙汰《さた》」を願うという請願《せいがん》状を書き送り、国王を「われらが親愛なる王」と呼び、アンリ四世になぞらえた。
毎朝、薬屋は自分の叙勲《じょくん》の報はないかと新聞に目を走らせた。しかし、出ていなかった。とうとうこらえきれず、彼は、庭の芝生を勲章の星型に刈り、その先に、リボンを模して二種の草をからませて植えた。彼はそのまわりを腕を組んで歩き回り、政府の無能と人びとの忘恩を考えあぐねていた。
エンマに対する尊敬ゆえか、それともいつでもできることをわざとしないでおくことに一種の快感をおぼえたのか、シャルルはエンマがいつも使っていた紫檀《したん》の文机の引き出しをまだ開いてみなかった。ある日、とうとう前にすわり、鍵を回し、ばねをおしてみた。すると、レオンからの手紙が全部そこにしまってあった。もう今度は疑う余地はない! 彼は最後の手紙までむさぼり読み、部屋の隅という隅を、家具という家具を、引き出しを、壁の後ろを、すすり泣き、どなり散らし、度を失い、気違いのようになって捜し回った。彼は箱を見つけ、足でふんづけてこわした。すると、ロドルフの肖像がひっくり返った手紙の中から飛びはね、彼の顔にあたった。
人びとは彼の落胆《らくたん》ぶりに驚いた。彼はもう外に出ようとしなかったし、客にも会わず、患者の往診までしなかった。「閉じこもって、酒びたりになっているのだ」という噂だった。
しかし、ときどき、おせっかいなやつがのび上がって、庭の垣からのぞいてみると、ひげは伸びほうだい、よごれて、ぼろぼろになった服を着て、大声で泣きながらうろついているのを見て、びっくりしたという話である。
夏の宵《よい》などは、娘を連れて墓に行き、帰ってくるのは真夜中で、広場にはもうビネーの家の灯だけが見えるころだった。
しかし、彼は苦しみを味わいつくしてはいなかった。それを共にする人がまわりに一人もいなかったからである。シャルルは「エンマ」の話をしたいためにルフランソワのおかみをたずねた。しかし、おかみには彼と同じように悩みがあったため、うわの空でしか聞いていなかった。とうとうルウルウが「実業通運」という馬車の新路線を開設したからである。便利屋として評判だったイヴェールは手当を増額してくれときびしくいいたて、さもなければ≪競争相手≫に雇ってもらいますぜとおどかした。
ある日、シャルルはアルグイユの市に馬を売りに行くと、――これが金になる最後の品だった――ロドルフに出会った。
二人は互いの姿を認めると、青ざめた。葬式のときにただ名刺だけを送ってよこしたロドルフは、最初、いいわけを口ごもった。それから彼は大胆になり、平静を取り戻すと(八月のころのことで、たいそう暑かったから)カフェでビールを飲みませんかと誘うまでになった。
面と向かってテーブルに肱《ひじ》をつくと、ロドルフはしゃべりながら葉巻きをくわえた。シャルルはエンマが愛したこの顔を目の前に見ると、夢見心地になった。エンマの一部を見る思いがした。それにすばらしい男だった。彼はこれが自分だったらと思った。
相手は、例の一件に関するほのめかしがさしはさまれそうなすき間すき間をありふれた言葉でつなぎながら、耕作のこと、家畜のこと、肥料のことを話した。だが、シャルルは聞いていなかった。ロドルフはそれに気がつき、無表情な顔に、数々の思い出がよぎる後をたどった。顔はしだいに赤味を帯び、鼻孔はせわしく動き、唇がわなわなとふるえた。一度などはシャルルは陰湿な怒りをこめて、ロドルフをじっと見つめることさえあった。すると、相手は一種の恐怖におそわれ、話をとぎらせてしまうのだった。しかし、やがてシャルルの顔にはいつもの暗い悲しみの表情が現われた。
「あのことではもうあなたを恨んでいません」
ロドルフは黙っていた。シャルルは両手で頭をかかえ、消え入りそうな声に、はてしない苦しみを押えた調子で、
「いや、恨んではいません!」
そのうえに彼は生まれてはじめての大言を吐いた。
「運が悪いのです」
この運を悪くさせた張本人のロドルフはこんな立場に立たされた男にしてはいくらなんでもシャルルは人がよすぎると思い、こっけいだし、そして幾分いやしいやつだと思った。
翌日、彼は青葉棚のベンチに行って腰をかけた。格子ごしに日がはいってきた。ぶどうの葉は砂の上に影を落とし、ジャスミンは咲き誇り、空は青かった。蜂がまっ盛りのゆりの花のまわりで羽音をたてていた。シャルルは青年のように、心の悩みをかきたてるほのかな愛の香にあえいだ。
七時に、お昼からずっと見かけなかったパパをベルトが夕飯に呼びにきた。
シャルルは顔をあお向けて壁にもたせ、目を閉じ、口をあけ、手に長い黒髪を一房もっていた。
「パパ、いらっしゃいってば!」とベルトが叫んだ。
ベルトはパパがふざけているのだと思い、そっと彼を押した。彼は地べたに倒れた。死んでいたのである。
三十六時間後、薬屋の要請でカニヴェ先生が駆けつけた。シャルルを解剖《かいぼう》してみたが、なにも発見できなかった。
なにもかも売り払ってしまうと、十二フラン七十五サンチーム残った。これはボヴァリー嬢が老夫人の所に行く費用にあてられた。老夫人もその年のうちに亡《な》くなった。ルオーじいさんは中風で、一人の叔母《おば》がベルトを預かることになった。しかし、この叔母は貧乏で、ベルトはもめん工場に働きに出された。
ボヴァリーの死後、三人の医者がヨンヴィルにつぎつぎとやってきたが、根をおろすことはできなかった。オメーがたちまちやっつけてしまうからである。彼の患者はものすごい数で、当局は彼をたいせつにするし、世論が後ろだてについていた。
彼は最近、レジョン・ドヌール勲章をもらった。(完)
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解説
フローベールの生涯
『ボヴァリー夫人』の作者フローベールは、近代小説の父といわれる。それは、写実主義《リアリズム》をはっきりと打ちだして従来の小説観を否定し、実作においてそのことをみごとに証明したからだ。彼以後の小説は、すべて根底においてこのリアリズムを継承しているし、よしんばリアリズムに反発する作家があらわれたにしても、その点においてフローベールを強く意識せざるをえない。これを要するに、フローベールを知らずして近代小説を論じることはできない、ということである。彼の生涯は、典型的な芸術家の生涯である。ときおり彼は、てんかん性の発作に見舞われたので健康体とはいえなかったが、妻をめとらず、クロワッセに隠棲《いんせい》して創作にふけった。彼はその一生を文学に捧げたといってもいいすぎではない。
〔生いたち〕 ギュスターヴ・フローベール Gustave Flaubert は一八二一年十二月十二日、ルーアンで生まれた。ルーアンは、ノルマンディー半島の最大の都市で、パリから北西一二三キロのところにあり、すばらしい歴史的建造物が数々ある。ここはかつて、ジャンヌ・ダルクが火刑に処せられたところであるが、十七世紀の悲劇作家コルネーユもここで生まれた。第二次大戦末期、ドイツ占領軍をたたくためにイギリス空軍が大爆撃を敢行したが、それでも十二、三世紀の大|伽藍《がらん》、十四、五世紀のステンドグラスを持つ教会などはそれほど損傷を受けなかった。
フローベールの父は、同市の市立病院の外科部長で、名医のほまれが高く、人格者でもあった。ボヴァリー夫人の臨終に立ち会ったラリヴィエール博士に、この父の面影があるといわれる。病院内の生家で病苦や死を目撃しつつ幼少年時代を過ごした彼、八歳のとき(一八二九年)、友人への手紙に、「元日なんてバカげているってほんとうだねえ」と記した彼が、陰気な、やや虚無的な人生観を持っていたことは想像に難くない。内省的であり、同時に空想の世界に遊ぶことを好んだ彼が、小説の筆をとるに至ったのは必然であった。しかも彼は、十二歳のころから、小説や戯曲を書くといった早熟ぶりであって、その後の数年間に約三十編の作品を書いた。
当時はローマン主義の全盛時代で彼もその影響を深く受けた。シャトーブリアン、ユゴー、ミュッセなどがそれで、外国文学では、シェイクスピア、バイロン、ゲーテ、セルヴァンテスが彼の愛読書であった。
〔青年時代〕 彼は一八三二年にルーアンの国立商業中学校に入学したが、そこで無二の親友ルイ・ブーイエ(一八二一〜六九)に出会った。ブーイエは、のちに詩人となり劇を書いたが、もちろんフローベールほどの盛名をえたわけではなかった。彼はフローベールの相談相手として、フローベールの傑作のいわば産婆役を果たしたようなものである。
初期の習作のなかで特にすぐれているといわれるのは、十七歳のときの『狂人の手記』と、二十一歳のときの『十一月』である。前者は、十五歳の夏、トルヴィルの海岸で出会ったエリザ・シュレザンジェ夫人への恋愛感情を謳《うた》ったものであるが、十二歳年長のこの夫人に彼は生涯、変わらぬ愛情を保ちつづけた。のちに彼らが親密な関係になったのかどうか、あくまでプラトニックな恋愛で、ある意味では一方通行的なものであったのかどうか、諸説がある。なおシュレザンジェ夫人は美貌の持ち主だったが、音楽出版者だった夫と離婚し、精神病院でその薄幸の生涯を終えたといわれる。フローベールの代表作の一つ『感情教育』の女主人公アルヌー夫人は、このシュレザンジェ夫人をモデルにしているとされ、また、フレデリックのアルヌー夫人に対する感情はフローベール自身の体験に基づいていることはたしかである。
もう一方の習作『十一月』は、前作に比べてはるかに巧妙となり、小説としての体裁をととのえるに至っているが、自伝的要素の濃いもので、作者自身とおぼしき青年の、娼婦との恋を描いたものである。もちろん稚拙《ちせつ》は免れえないが、主人公である青年の、人生に対する倦怠《けんたい》が生き生きと写しだされている。この作品に彼は自信があったらしく、妹カロリーヌやルイ・ブーイエなどに、フランスの作家の習慣に基づいて朗読して聞かせたそうである。
これ以前の、一八四〇年に、彼はパリに出て法科大学に籍をおいたが、法律を学ぶ気になれず文学修業に精をだした。シュレザンジェ家に出入りしたり、彫刻家ブラジエのアトリエに通ったりした。そのうち彼を文学の世界に釘づけにする事件が起こった。それは、一八四四年の冬(一月または二月)に、彼がてんかん性の発作に襲われたことである。専門医の診断によると、真性のてんかんではなく、ヒステリー性神経症であるということだが、この発作が起きたあと数日間は疲れてぐったりしてしまう。以後彼は学業を断念し、文学に専念することになる。
〔作家生活〕 彼は、ルーアン近郊のセーヌ河畔のクロワッセに父が買ってくれた別荘に移り住んで、そこで創作をつづけたが、最初に手がけたのは、『感情教育』であった。一八四三年に着手され、四五年に一応の完成を見たこの小説は、フローベール自身が認めているように、試作の域を出なかった。
四六年には、父が死に、また最愛の妹カロリーヌが死んで彼は悲嘆にくれたが、彼よりは十一歳年長の女流文学者ルイーズ・コレと交渉を持ったのはこの年である。多情多感なルイーズ・コレにはほかにも多くの恋人がいたが、ふたりの関係は断続的に十五年ほどつづいた。彼はコレの作品に助言を与え、また自分の仕事の進みぐあいを彼女に報告したりして、ふたりの間にかわされた膨大《ぼうだい》な書翰《しょかん》は彼を知る上の重要な文献となっている。
四七年には友人マクシム・デュ=カンとともにブルターニュを旅行、四八年には二月革命の騒動をパリで目撃した。四九年には『聖アントワーヌの誘惑』の第一稿を完成したが、意見を求めた友人たちに失敗作と断じられ、文学上の転換の必要を痛感、十一月にマクシム・デュ=カンと東方旅行に出発、エジプト、パレスチナ、トルコ、ギリシア、イタリアなどを歴訪し、五一年六月、フランスに帰った。
同年九月より市井の一事件にヒントをえて『ボヴァリー夫人』の執筆に着手、五六年四月に完成した。雑誌に連載されたとき、風俗壊乱のゆえをもって訴えられたが無罪となり、五七年四月に刊行、一躍、彼の名を高めた。
この小説の成功は、写実主義の勝利を意味する。そしてそれは同時にフローベールが、ローマン主義の影響から脱して、独自の道を切りひらいたことを示す。彼はローマン主義者の叙情性に富んだ空想があまりにも尖鋭《せんえい》化し病的となったことに気づき、その夢想を抑制して自然(事物の自然と人間の自然)を直視することによってローマン主義からの脱却を試み、『ボヴァリー夫人』によってそれに成功したといえる。「バラの花はみな似かよっているようにみえるが、一輪一輪にその個性がある」と彼はいい、自然をそれぞれ固有の性格において描こうとし、そのために自然を冷酷に直視し、没個性的で無感動に対象を描いた。
といって彼自身の心情からすべてのローマン主義的|残滓《ざんし》がなくなったとはいえない。感情の高揚、あるいはブルジョワジーに対する嫌悪《けんお》、人生の不条理性に対する反逆など、みなローマン主義的態度のあらわれといえる。
〔作家としての円熟〕 『ボヴァリー夫人』が訴訟事件をひき起こしたせいもあって彼はリアリズムの旗頭と目されるに至ったが、彼自身は、「醜悪なもの、卑小な環境にはあきあきした。おそらくこれからのち数年間は、このあきあきした現代の世界から遠く離れて、壮麗な主題の中で生活するであろう」と言明し、古代カルタゴを舞台にした『サランボー』に着手した。紀元前三世紀のカルタゴの傭兵隊《ようへいたい》の反乱を描いたこの叙事詩的歴史小説のため、彼は五八年に北アフリカのチュニジアにあるカルタゴ遺跡を実地検証しに行き、当地に二か月間滞在した。そして五年の歳月をかけてこの壮大な歴史的絵巻を完成した。専門家の批評はかんばしくなかったが、世間の評判はよく、彼の文学的地位はこれによって不動のものになった。
六四年には、初稿以来三度も途中で放棄した『感情教育』にまたもや努力を集中することになった。この小説は、彼の憧憬《どうけい》の的であったエリザ・シュレザンジェ夫人を女主人公にした作品ではあるが、同時に七月王政(一八三〇年〜四八年)と二月革命(四八年)についての作家の透徹した観察でもあった。七月王政は、保守反動の王党貴族政権を倒した、まじりけのないブルジョワ政権の確立であり、民主的君主ルイ=フィリップは、「フランス国民の王」を自称したが、結局は資本主義経済の発揚を見た時代であって、リョンにおける労働者の暴動(三四年)も、ブランキの反乱(三九年)もただちに弾圧されたのである。二月革命は、ルイ=フィリップの王政に終止符を打ったもので、『感情教育』の背景にはこの二つの政治的事件がひかえている。フローベールは、資料をあさって時代考証を完全なものにし、六九年に出版したが、内容が索漠《さくばく》としているためか、批評家からは酷評を受けた。
七〇年から七一年にかけての普仏戦争はフランスの敗北に終わり彼は深い幻滅に陥ったが、クロワッセの彼の別荘までも徴発されるという始末で、戦いに敗れることのみじめさを痛感したのである。彼はすべてを忘れるために『聖アントワーヌの誘惑』を訂正加筆する決意を固めた。彼は四九年に完成した第一稿に手をいれて五六年に第二稿を書きあげているが、それでも満足せずに第三稿に立ち向かった。紀元四世紀のエジプトの隠者の精神錯乱を描いたこの作品は、「物質になりたい!」という主人公の叫びによって終わるが、これこそ作者自身の絶望を代弁しているのではあるまいか。これは七四年に刊行されたがあまり評判はよくなかった。彼の幻滅は増すばかりだった。
〔作家の晩年〕 普仏戦争の敗北後、パリにはコミューヌの騒動が勃発《ぼっぱつ》したが、書翰にみられるようにフローベールは、コミューヌに同情的ではなかった。そのうち母が死に(七二年)、また妹が死んだのち、彼が引きとって育てた姪《めい》のカロリーヌ(妹と同じ名前がつけられたのは、妹と同様に姪に対してフローベールが深い愛着を持っていたからだ)の夫である材木商のコマンヴィルが破産し(七五年)、これを救うために不動産を売らねばならなかった。さらにルイーズ・コレとの決定的絶交後、彼女に代わって心の友となったジョルジュ・サンドが死に(七六年)、彼の寂寥《せきりょう》はとどまるところを知らなかった。すでに彼は、若いときからの親友であるブーイエ、ル・ポワトヴァン(彼の妹ロールはギー・ド・モーパッサンの母である)のふたりに先だたれ、また、テォフイル・ゴーチエ、ジュール・ド・ゴンクールなど彼と親交のあった文学者の死を見た。だが彼の周りには彼を敬愛する若い作家たちのグループができあがりつつあった。七七年五月、モーパッサン、ユイスマンスなど自然主義を標榜《ひょうぼう》する新進作家たちがゾラのために晩餐会を催し、そこにフローベールを招いたのである。翌年にはモーパッサンとともに資料集めの旅にでかけ、一八八〇年モーパッサンの『脂肪の塊』を読んで絶賛し、この作品でモーパッサンは作家として自立するに至った。この年三月、エドモン・ド・ゴンクール、ゾラ、ドーデなどがモーパッサンに案内されてクロワッセの別荘に集まりにぎやかな宴会が開かれたが、フローベールは脳溢血のため、五月八日|急逝《きゅうせい》した。五十九歳だった。
晩年の彼は、姪の夫の破産によって財産を抛《な》げうったため経済的に苦境に立ち、モーパッサンのようなすぐれた弟子をえたにしても、はげしい孤独を感じずにはいられなかった。彼の最後の書翰には、「骨の髄までけだるい」と記されていた。深い厭世《えんせい》思想が彼を支配していたのだろうか。雑誌や新聞に寄稿したのち、まとめられた『三つの物語』は、不思議な平静さに満ちた三つの短編からなる。これは小品ながら彼の技法の完璧さを示したもので世評もよかった。
フローベールの死後に刊行された重要な作品に『ブーヴァールとペキュシェ』がある。これは作者が死んだとき、机の上に書きかけのまま残された未完の小説であるが、人間の愚かしさを複雑な眼で眺めているといった趣きがある。ブーヴァールとペキュシェという独身で、老境に入りかけていた書記が、遺産相続によって勤めをやめ、一念発起して学問の道に志す。美学、地質学、衛生学等々、あらゆる分野に手をだすがいずれも成功せず、心身ともに疲れはてて、書記の職業にもどるという話である。この風刺小説には、作者が自らを嘲笑《ちょうしょう》しているといった調子がみえるが、そこにフローベールの晩年の姿が浮彫りされているともいえよう。
作品解説
『ボヴァリー夫人』は、作者であるフローベールの名を高め、写実主義の勝利を確立したばかりでなく、世界の文学にとって忘れることのできない金字塔なのである。彼はこの長編を一八五一年、三十歳のときに書きはじめ、五年後の五六年にようやく完成させた。彫心鏤骨《ちょうしんるこつ》のその制作はどのような経路をたどったであろうか。
〔『ボヴァリー夫人』成立の背景と経過〕 一八四九年、彼が苦心惨憺して書きあげた『聖アントワーヌの誘惑』(第一稿)は完全な失敗作であった。そのとき彼の友人たちは彼に、ドラマール事件のごとき市井の出来事を題材にして、淡々と事件を語ってはどうかと忠告を与えた。その後、彼は東方旅行に出発したが、帰国後材料の収集にあたり、用意万端を整えて執筆にとりかかったのである。
ドラマール事件とは、村の医師ウージェーヌ・ドラマールの二度目の妻デルフィーヌ・クーチュリエが姦通をしたあげく、一八四八年に服毒自殺をした事件で、これがルーアン市の人たちの話題になっていた。ウージェーヌ・ドラマールはフローベールの父君の門下生だったことがあり、これもフローベールの興味をそそった一つの要素であっただろう。また、彼と同年の友人で、彼に忠告を与えたブーイエもはじめは医学を修め、ドラマールのようにフローベールの父君の下でインターンを勤めたことがある。
作品の背景となる、ボヴァリー医師の住むヨンヴィル・ラベイ村は、そっくりそのままドラマールのいたリイ村をモデルにしたもので、一本だけの目抜き通りは、鉄砲を「ずどん」とうてばとどくぐらいの長さしかない、という描写も実在の通りである。医者の家、旅館、さらにはオメーやロドルフなどの登場人物も、それぞれモデルを忠実に写していることが、多くの研究によって証明された。
フローベールは『聖アントワーヌの誘惑』第一稿の失敗が、奔放な空想力の手綱を締めることを忘れ、またいたずらにアントワーヌの言動に作者を投影させた点にあったと反省して、いわば無感動に対象に立ちむかった。片田舎の、なんの取りえもない、ただ実直であるだけの医師のもとに嫁《とつ》いだ、美貌のエンマは、恋愛や華麗なものに憧れてついに身を誤り、借金の返済をせめられて自殺する。作者は、この哀れな女性を、動物を扱うかのごとく、「メスを持つようにペンを握って」(十九世紀の批評家サント・ブーヴの言葉)、非情な態度で描いている。現実を「近視眼」的に観察し、これを美化したり、理想化したりはせず、あるがままに描こうとするのが彼の意図であって、ここではじめて小説は、神話や叙事詩や史劇から遠ざかる。つまり、日常のありふれた生活を、没個性、無感動に提示すること。
「ボヴァリー夫人は、女のドン・キホーテだ」という名言を吐いたのはチボーデであったが、『ドン・キホーテ』が騎士道小説のパロディであったように、『ボヴァリー夫人』は、崇高甘美なロマン主義的恋愛小説のパロディであろう。現実は冷酷|無漸《むざん》であって、人間の夢や理想を踏みにじる。エンマの悲惨な死は、ロマン主義的なものに対する告発であり、ロマン的夢想の終焉を意味する。現実こそ唯一の対象であり、それがいかに醜くとも作家はたじろがずにそれを凝視《ぎょうし》しなければならない。フローベール自身は、『ボヴァリー夫人』のテーマに嫌悪《けんお》を抱いてる、といっているが、こうした個人的感情を抑えて対象を客観的に追いつめていった態度こそ、まさにフローベールをフローベールたらしめたものである。
エンマにはたしかにモデルがあったが、ボヴァリー夫人のモデルを詮索《せんさく》した一人の女性読者にむかって、フローベールは、「ボヴァリー夫人とは私だ」と言明したし、すべては虚構《きょこう》であって、ヨンヴィルはどこにも存在しない、ともいっていた。創作されたものは、あくまで作者自身の世界において生きているのであるが、それと同時に、それがすぐれた作品であれば、個を越えて普遍性を獲得する。「わがボヴァリー夫人は、いまこの瞬間においても、フランス中の無数の村で悩みかつ泣いていることだろう」と彼はいうが、これはエンマがある普遍的なものを代表していることを示す言葉であろう。しかし彼が、「ボヴァリー夫人は私だ」というとき、彼は彼自身の内部にボヴァリー夫人的意識がひそむことを認めたのではなかったか。遺作の『ブーヴァールとペキュシェ』もまた彼の内面に巣くうプチ・ブル意識の糾弾《きゅうだん》であったが、ボヴァリー夫人を断罪することは、同時に自己を断罪することでもあった。
フローベールがボヴァリー夫人の悲劇に共感を持っていたにしても彼はそれを抑えてこの小説を書きつづけたが、彼のこの態度は心の友であったジョルジュ・サンド宛の手紙のなかのつぎの文章で説明される。
――小説家という者がこの世界の事物に対して自分の意見を述べねばならぬとは思いませぬ……。そこで私は、事物を目に映るままの形で報告し、私自身に真実と思われるものを表現するだけにしておきます。その結果がどうであろうと、知ったことではありません……私は、愛情も、憎悪も、憐憫《れんびん》も、怒りも持ちたくはないのです。――
〔『ボヴァリー夫人』の構成〕 この小説は三部にわかれている。第一部はシャルル・ボヴァリーの生い立ち、妻の死、そしてエンマとの再婚を扱い、第二部はエンマが結婚してから夫の弱点に気がついて、夫をだんだんとうとんじるようになり、法律事務所の書記レオンに淡い恋心を抱く。レオンがパリへ勉強に行ったあと、大地主で女たらしのロドルフの甘言に乗り、ついに彼に身をまかせる。エンマは、家をすて、子どももすてて、ロドルフといっしょに出奔《しゅっぽん》しようとするが、ロドルフはエンマの積極性に恐れをなして断わる。第三部はエンマがレオンと再会し、恋に燃えて互いに愛しあうようになる。しかし、恋愛においても結婚生活と同様に倦怠が生まれ、レオンはしだいにエンマの愛が鼻についてくる。一方、エンマには浪費癖があり、見境なく物を買い、約束手形を裏書きし、ついに莫大《ばくだい》な借金をこしらえ、その返済を迫られるに至る。エンマはあらゆる知人に援助を願いでるが、だれひとり彼女を相手にせず、万策尽きて自殺する。
エンマが結婚してから数年後にこの事件が起きたのだが、それは五年後か、それとも六年後かはっきりしない。いずれにしても二十三、四の若さで死んだのだ。エンマの無智、虚栄心、浅はかさを指摘することは容易である。だが彼女の思慮のなさを笑える者が何人いるだろうか。
フローベールは、シャルルをはじめとして、副次的人物をじつにみごとに描いている。ひとりひとりが、独自の性格を持って描きわけられている。細かいことだが、エンマの服毒自殺の伏線としてある場面が書きこまれている。これなども作者の用意周到を物語っているだろう。
〔その文学史上の位置〕 フローベールの全作品はそれほど多くはない。だが一つ一つが珠玉の光りを放ってフランス文学史の上に君臨する。『ボヴァリー夫人』は訴訟事件によって有名にはなったが、彼は同時代人からそれほど高く評価されていたようにはみえない。例外はボードレールであって、彼はボヴァリー夫人のうちに作者フローベールの呻吟《しんぎん》を読みとっていた。
二十世紀初頭のジードやヴァレリーは、あまりフローベールに好意的でなかった様子だが、プルーストはフローベールの文章、ことにフランス語特有の半過去形の使用をほめた。ついでサルトルはフローベールのプチ・ブル意識を鋭く批判し、口ぎたなくののしったことがあったが、つぎの世代、俗にいうアンチ・ロマンの人びとはフローベールに最大の賛辞を呈した。アラン・ロブグリエは、『感情教育』の書きだしの部分を暗誦し、フローベールの描写法、つまり対象を没個性、無感動に描くという技法に敬意を表した。ロブグリエのあとにつづく世代である雑誌「テル・ケル」に拠《よ》る作家たちもフローベールを師と仰いでいる。また、数年前から学界でフローベール熱がおこり、いくつかの新研究が世に問われた。フローベールの位置はますます重きを加えてゆくかにみえる。
作品鑑賞
〔『ボヴァリー夫人』の独自性〕 前に述べたように、この作品の素材は、一片《いっぺん》の三面記事にすぎない。その三面記事から、作者はみごとな小説をつくりあげたのだ。
独自性の一つは、まじめさである。安易な感傷も、甘えた優雅さへの妥協もないと同時に、いわゆる問題小説、すなわち一つの理論や学説の証明のためにつくられた小説によく見かけるくさみがない。もともとこの作品は問題小説ではないのだが。全編を覆うのは、暗澹たる色調である。ややユーモアのある場面にさえも、重厚な、重苦しい調子が脈打っていて、これは最後まで変わることなくつづく。この炭色の色調の持続は、当時としては異例であった。このような表現の誠実さ、客観性への尊敬を示した作家はほかになかった。たとえばフローベールが敬愛したヴィクトール・ユゴーの作品には説教調がのさばり、あまりにも自己を売りつけようとするはしたなさが眼につく。
まじめな題材をえらび、まじめな態度で物を書く作家には、なにかを主張し、証明し、攻撃目標を持ち、改革を志すといった傾向が強い。だがフローベールはまじめであっても、そうした傾向的なところがない。彼は淡々と写実をするだけなのである。描写したり、叙述したりするというよりも、対象を模写するのだ。そのために、客観的に、精密に資料を集積して、即物性を確保する。かくて読者は、たちまち作中人物の仲間に加わり、彼らが受ける感動や印象を自分のものとする。作者その人からは直接なにも受けないのだ。
〔文体と手法〕 文体という言葉の解釈についてはさまざまな説がある。文体とは、作品によって表現された内容の外にあるもの、いわば人間の身体で筋肉や骨格を外から覆っている表皮のようなものと考えられているが、フローベールの考えはその逆であって、文体とは思想伝達の道具であった。よい文体とは、文法の規則に忠実であることではない。フローベールにとって、文体を持つというのは、思想が各人特有の「個性的」な力を帯びることであると同時に、この思想に鮮かな、豊かで美しい、人をひきつける形態を与えることだった。文体は表現内容の中核であり、鼓動であり、脈搏《みゃくはく》であり、呼吸であって、文体がなければ内容は屍《しかばね》となり、意味をなさなくなる。強い文体のないところに強い思想もない。『ボヴァリー夫人』の場合、彼が求めるものは、まず最初に「真」である。これに「美」が添えられれば文句はない。絵画でいえば、形態をきめるデッサンと、それに遠近や濃淡を与える彩色とがあるが、フローベールにとってデッサンとは文章のリズムである。一方、彩色とは、修辞上の語義の転用や、構想のさまざまな工夫がそれである。この二つの技法を十分に駆使して大きな効果をあげたのである。
〔『ボヴァリー夫人』の受けとり方〕 前述のごとくこの小説が単行本として出版される前に、マクシム・デュ=カンが編集に携わっていた「パリ評論」に連載されたとき、風俗壊乱のゆえをもって訴えられた。彼を訴えたピナール検事は、のちに、ボードレールの『悪の華』を訴えた人と同一人物である。いくつかの場面があまりにも放縦だというのであるが、これに対してフローベールを擁護《ようご》したセナール弁護士は、部分部分をひろって論難するのは誤りで、全体を考察しつつそのような場面の意味をとらえなければならないといった。結局作者には無罪の判決が下されるのであるが、判決文のなかにもつぎのような文章がある。「『ボヴァリー夫人』の違反に該当する個所は、表現の放恣《ほうし》まことに遺憾とすべきものありとはいえ、小説全体の分量に比すればなほ些少《さしょう》なるがゆえに、かつこれらの個所も誇張を含み、卑俗なるあまりしばしば眼を覆わしむべき写実主義に堕せりとはいえ、その開陳する思想において、またその提示する諸場面において、依然、著者が描かんと欲した諸性格の総体に不自然なく適合するがゆえに」無罪の判決を下した、と。
ピナール検事の論告は、日本におけるあのチャタレー裁判の論告と似ている。樹を見て森を忘れる、といった類《たぐい》であろう。『ボヴァリー夫人』のなかに放縦な個所がなかったとはいい難い。だが今日からみると、それはまったく取るに足りないし、それ以上にここにはきわめてまじめな作者の意図が存在する。世のつねの、風俗小説などとは趣きがちがうのだ。日本においては、戦前、『ボヴァリー夫人』の完訳はゆるされなかった。ところどころ空白のできた訳本を私は持っている。これもまた、健全な読み方、受けとり方ができなかった証拠だろう。
主人公のエンマ・ボヴァリーは、どうにもならない倦怠感に襲われて、ずるずると情事の世界にはまってゆく。エンマが悪いのか、夫のシャルルが悪いのか、それともヨンヴィル・ラベイが彼らをそのようにつくりあげたのか、だれも判断を下すことができない。すべてがさからうことのできない宿命によってはこばれてゆく。そしてくっきりと浮かびあがるのは、エンマの、そしてシャルルの悲劇である。彼らの愚かしさを笑うことは容易なのだが、彼らの人生は、やはり悲劇だったのだ。そしてひょっとするとエンマの悲劇は、私たちの周辺でも形を変えてくりかえされているのかもしれない。だから見方によると、この小説は、きわめて道徳的な書物だともいえる。つまり、不道徳な生活を語ることによって、逆に道徳的生き方を示唆するのだ。
すべてのすぐれた小説がそうであるように、『ボヴァリー夫人』からは思いのままにたくさんの事柄をひきだすことが可能であろう。
なお、この小説の傍題に「地方風俗」という文字がみえる。架空の村ヨンヴィルが、ルーアン市に近いリー村をモデルにしたことは多くの研究によってあきらかになったが、ボヴァリー夫人がある種の女性たちを集約的に表現しているように、北仏ノルマンディーのこの地方は、チボーデがいうように、フランスの「地方」全体を代表する。そこにこの傍題の意味があろう。
代表作品解題
『サランボー』(一八六二年)
舞台はカルタゴであるが、この国はローマとの長い確執に疲れ、ハミルカルのあやうい力によって、からくも平和を保っていた。カルタゴは貿易活動に忙しくて、戦争には外人部隊を使ったが、給料を払わなかったため傭兵隊《ようへいたい》の反乱がおき、カルタゴは彼らに包囲される。これはヨーロッパ風の都市と、烏合《うごう》の衆である蛮族《ばんぞく》の戦いという様相を帯びる。傭兵隊の指揮官はマトーと呼ばれ、豪勇の士であるが、ハミルカルの娘で美貌のサランボーに恋している。彼女は、タニット神殿の巫女《みこ》で、神秘的な聖処女といった趣きがあるが、タニット女神の衣《ころも》であるカルタゴを守護する聖なるザインフを、マトーの発散する怪しげな魔力に気押されて、マトーにうばわれるままになる。
やがて、サランボーは事の重大さに気がつき、恋されている特権を利用して単身傭兵隊の陣地に乗りこみ、ザインフを奪い返えす。かくて傭兵隊は「斧《おの》の峡道」に閉じこめられて餓死《がし》したり、殺されたりする。マトーは捕えられ、なぶり殺しにされるが、ちょうどその日、サランボーは、傭兵隊を裏切ってナルハヴァスと婚礼をあげていた。彼女は眼の前で悶絶したマトーを見て、婚礼の席上で死にたえる。これはサランボーの恋のあかしでもあった。
この作品の衣裳や人物の表現には卓抜な技法が凝《こ》らされているが、そのすばらしい独創性は、長期に亘《わた》る文献の渉猟《しょうりょう》によって裏づけられたもので、強烈な色調、猛々しさ、華麗さなどに対する作者の個人的|嗜好《しこう》が、無からこの作品をつくりだしたわけではない。出版されると、ボードレールを除いて、新聞、雑誌による高名な批評家はみな酷評したが、二日で二千部がさばけた。これは大衆に対する勝利であった。
『感情教育』(一八六九年)
主人公フレデリック・モローはパリで法律の勉強をしているが、伯父の遺産が転がりこんだので、パリ生活を享楽するようになる。そこで、画商ジャック・アルヌーの夫人に深い思慕を抱くが、貞淑な夫人は青年の気持ちを知りつつもその希望を充《み》たそうとはしない。彼は自分の気持ちを紛《まぎ》らすために、娼婦のロザネットや、上派社会の退廃した女性ダンブルール夫人と親しく交わるが、アルヌー夫人の面影が彼を去らず、やがて彼は安手なこの二つの恋愛を清算し、旅行にでかけ絶望と倦怠のなかに陥って行く。だが、何年かのちのある夕べ、パリにもどってきたフレデリックの許にアルヌー夫人が訪ねてくる。彼女は、一束の白髪を残し、「さようなら、いとしい方! もう二度とお目にかかれません。これが私の女としての最後の行動でした。私の魂は決してあなたを離れませんわ」といって去ってゆく。
彼は竹馬の友で、いまは落ちぶれたデロリエと会い、三十年の昔を回顧し、失敗した人生を互いに噛《か》みしめる。
立身出世を夢みるが、成功することのない弁護士のデロリエ、画商で放蕩者のアルヌー、軽薄なジャーナリストのユソネ、娼婦以上に低劣な閨秀作家ヴァトナ嬢などおびただしい副次的人物が登場する。これは七月王政と二月革命の時代の記録であるともいえる。また、この作品以後、数世代の作家にお手本を示すこととなる「落伍者の小説」がはじめて、しかも徹底的な形で提出されたといえる。
アルヌー夫人は作者フローベールの生涯の恋人エリザ・シュレザンジェをモデルにしたことはたしかであるが、フレデリックは作者自身ではない。もちろん彼が、単に外から観察されて描かれた人物ではなく、いわば構成された人物であり、作者の友人で批評家のマクシム・デュ=カンの性格がそこににじみでているといわれている。
『聖アントワーヌの誘惑』(一八七四年)
この長編をフローベールは三度書き直し、二十五年後にようやく完成した。壮年の隠者である聖アントワーヌの、孤独と苦行と疑惑とによって責めたてられた魂の一夜の体験がこの本の骨子である。聖者は最後に誘惑にうちかつが、この勝利には恐るべき代償が伴った。はじめに聖者の嘆きがある。この嘆きが悪魔を叫ぶ。悪魔は、戦慄《せんりつ》すべき現われ方で、その忌わしい姿を見せる。禁欲者にとっては罠《わな》であり、陥穽《かんせい》である「巷」、つぎに「女」の形をとって。シバの女王が悩ましい姿態をくねらせ、豪奢な贈り物を持って隠者を誘惑する。つぎに邪教徒の行列、マネス、オリゲネス、狂人たち、象徴のとりことなった異端者の群れ、モンタヌス、テルトゥリヤヌスとその弟子たち、嘲弄《ちょうろう》され強制された哀れな殉教者たち……魔術師シモン、仏陀《ぶっだ》、ペルシャの「善」の神オルムズ、エジプトの女神イジス。恍惚境《こうこつきょう》と催眠状態に誘う幻術者たち。信者は少数だが、なお勢力を保つ太古の神々。つぎにはギリシア・ローマ神話の神々、すなわちジュノー、ミネルヴァ、ヘラクレス、バッカスなどの一群が登場するが、これらはいずれも新たな黎明《れいめい》の前に後退し、深淵にのまれてしまう。悪魔がアントワーヌをしっかりとつかまえ、拉《らっ》し去る。大地は、隠者の眼下に球形を呈し、彼は悪魔の角にしがみついて空を翔《かけ》り、星辰《せいしん》の間を縫って天の河を遡《さかのぼ》る。悪魔は思弁の虚妄《きょもう》を説き、最後に淫楽の神と死神とが隠者に挑戦するが、聖者は、神の生ける完全無欠をたたえて対抗する。やがて太陽が昇り、キリストの優しい御《み》顔が光り輝く。
これはキリスト教に対して捧げられた詩である。キリスト教が偶像を破壊し、雑多な宗派を統合してカトリック教会の信者たらしめ、自らを一個の正統宗教と化するに要した三百五十年の狂乱の歴史を、聖アントワーヌの一夜の苦悩で表現した作品である。読み通すに困難を覚えるこの労作が大ぜいの読者を獲得しなかったとしても不思議ではないが、フランス文学史上に燦然《さんぜん》と輝く、唯一無二の書物である。
『三つの物語』(一八七七年)
総題通り三つの短編を集めたもので、執筆順にその荒筋を記すことにする。
「聖ジュリアン伝」……主人公のジュリアンは、封建城主の一子として生まれ、幼いころより狩猟の魔に魅入られ、粗剛な中世人の習性のまま、狂おしい狩猟熱に身をゆだねる。彼が倒した巨大な牡鹿《おじか》が、まさに死なんとして人語を発し、ジュリアンが将来、彼の手で実の両親を殺すであろうと予言する。彼は城をでて野武士の一群に身を投じ、戦いに加わって功績をあげ、オクシタニーの皇帝に認められ、その姫を妃とした。ある夜、これまで自制していた誘惑に負けて狩りにでかける。彼の留守中に、巡礼の老夫婦が彼の宮殿を訪ねてくる。それはジュリアンを探しに諸国を放浪していた両親だった。妃は彼らを厚くもてなし、自分のベッドに寝かせた。深夜に帰宅したジュリアンが妻に接吻しようとすると、ひげを感じた。妻が不貞を働いたと誤解して、眠る二人を滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に刺した。黒い大鹿の予言が適中したのだ。ジュリアンは再び出発し、乞食をしつつ諸国をめぐった末、渡しもりとなる。嵐の夜、対岸に渡しを求める声をきき、死の危険をおかしてその客を連れもどした。その男は見るも無残な癩《らい》病患者だった。ジュリアンは寒さにふるえるこの男を抱いてやる。すると癩病の男はキリストに変貌し、ジュリアンを両腕に抱いたまま昇天した。
「純な心」……純真さ以外、なにも持ちあわせていない忠実な女中の物語。女中フェリシテは、主人のためには水火も辞さぬ、献身的な女性で、その辛苦に満ちた生涯を通じてただ一度の恋愛を体験したにすぎないが、実ることのなかったこの恋のあと、甥《おい》に愛情を注いだが、彼に先立たれてしまう。ついで主人の子供たちを愛したが、なにひとつ報われることがなく、老後の慰めとしては、オウムのルゥルゥが残っただけだった。臨終のとき、オウムは聖霊の姿となって彼女を天に導いてゆく。
この女中にはモデルがある。一部はフローベール家の女中ジュリーであり、一部は、トルヴィルに住む親戚が引取って養女にしたある娘である。そしてフェリシテが仕えたオーバン夫人の二児は、ギュスターヴ・フローベールその人と、妹のカロリーヌであり、オウムは執筆中、フローベールの机の上に置かれた一種のマスコットだった。
この作品は、作者の敬愛するジョルジュ・サンドに捧げられるはずだったが、七六年に死んだサンドは、これを読むことができなかった。
「ヘロディアス」……これは有名な洗者ヨハネの刎首《ふんしゅ》の物語である。ローマの支配下にあって衰退するユダヤ世界の再現であるが、四分領太守ヘロデ・アンチバスは、妻のヘロディアスと先夫フィリップとの間に生まれたサロメの色香に迷い、予言者ヨハネの首を切らせる。
作者は、冷酷に、非情にこの場面を描き、逆に作品の現実感を高めている。
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年譜
一八二一 十二月十二日、ルーアン市慈善病院(日本の大学病院と施療病院との性格を兼ねたもの)内に生まれた。父はこの病院の外科医長、『ボヴァリー夫人』の中で、ラリビィエール博士として描かれている。兄弟は五人いたが、九歳年上の兄・アルシ、三歳下の妹カロリーヌの他はみな夭折している。
一八二四(三歳) 妹カロリーヌ生まれる。フローベールとは深い愛情で結ばれ、子供時代には良い遊び相手であり、のちには心の支えであった。
一八二五〜二七(幼年時代) 神経症(癲癇《てんかん》)も現われず、朗らかにすごす。一家につかえているジュリー(『純な心』のモデル)からノルマンディーの昔話を聞いたり、ミニュ氏に本を読んでもらう。中でも大のお気に入りは『ドン・キホーテ』であった。親友にエルネスト・シュバリエ、アルフレッド・ル・ポワットヴァン(この一家とは三代前からのつきあいで、父はギュスターヴの名づけ親、妹はモーパッサンの母)、ロール・ル・ポワットヴァン等、この友情は生涯続いた。
一八二九(八歳) フローベール博士は、病院が子供に及ぼす影響を考えて、田舎に家を持つことにし、ルーアン郊外のトルヴィルに別荘を買う。
一八三〇(九歳) この頃、自宅の玉突き室で芝居遊びをする。演目は「けちな恋人」「プールソニャック」であった。
一八三二(十一歳) 春、ルーアン中学第八級に二年遅れて入学。学校の成績は芳しくなく、同級生からも仲間はずれにされる。歴史に興味を持ち、王家の生涯を書くつもりで、数々の習作をする。
一八三三(十二歳) 転校してきたルイ・ブーイエと親友となる。この交友はブーイエの死(〜六九)まで続く。
一八三五(十四歳) 学校で、単独編集の新聞「芸術と進歩」を発行。この一年、英国人のアンリエット・コリエに淡い初恋を感じる。
一八三六(十五歳) トルヴィルの海岸で、生涯の恋人、エリザ・フーコー《シュレザンジェ》夫人に出会う。彼女の面影《おもかげ》は『十一月』のマリア、『感情教育』のマリー・アルヌー夫人に見られる。一八四〇年にかけて『マテオ・ファルコーネ』『マルゲリット・ド・ブルゴーニュの死』『バイロン卿の肖像』(三六年)、『王位争い』『フィリップ慎重王の秘密』『香をかげ』『社交界夫人』『五世紀ノルマンディー年代記』『鋼鉄の腕』『地獄の夢』(三七年)等の試作をする。
一八三七(十六歳) 二月、ルーアンの地方新聞ル・コリブリに『愛書狂』、三月、『博物学教程、腰弁類』を発表。その他『ルイ十一世』(ドラマ)、『愛と徳』を創作。
一八三八(十七歳) ラブレー、モンテーニュ、ユーゴー、バイロン、ルソーを愛読。六月『狂人の日記』を書く。その他、『苦悩』『懐疑断想』『死人の舞踏』を創作。一生の業病となった神経症が現われる。
一八三九〜四〇(十八〜十九歳) バカロレア(大学入学資格試験)準備中の春に『スマル』を書く。『ローマと皇帝たち』『ラブレー』『マチュラン博士の葬式』を創作。試験に関係なく古典文学の研究を続行。
一八四〇(十九歳) バカロレアに合格。合格後も何もせず、自分の好きな勉強と創作にうち込み、一年間故郷に留まる。父のすすめにより、父の友人クロケ夫妻とピレネ、コルシカ島に旅行する。マルセーユでフーコー・ユーラリーに出会ったりして予想より楽しい旅であった。
一八四一(二十歳) 五月徴兵抽籤の結果、兵役を免れる。十一月、法学部に正式に入籍。法学部は家族の希望により決定したもの。
一八四二(二十一歳) 七月、パリに出、オデオン座通りの部屋に住む。しばらくは法律に専心するが、しだいにいや気がつのり試験には出ず、トルヴィルに行く。十月、『十一月』を書き上げる。十二月、試験にパスし、ド・レスト街に移る。シュレザンジェ家に出入りする。
一八四三(二十二歳) 二月、試験準備もせず、『感情教育』の初稿にはげむ。三月、マクシム・デュ=カンと知り合い、交遊は急速に進展する。二人は彫刻家ブラジエのアトリエに出入りし、ここで少年時代からの憧憬の的であるユーゴーと知り合う。エンマ・ボヴァリーはこのブラジエ夫人からもヒントを得ているといわれる。試験の失敗と十月の神経症の悪化により、学校のほうはあきらめ、文学に専心することにする。
一八四四(二十三歳) 一月、初めての神経症(癲癇)の発作。六月、新しいクロワッセの別荘に移る。以後大部分はここで過ごす。
一八四五(二十四歳) 三〜五月、第一稿『感情教育』脱稿。妹カロリーヌの新婚旅行にギュスターヴ一家は同行して、スイス、イタリアに行く。十一月十日、父の発病。
一八四六(二十五歳) 一月十五日、父死亡(六十一歳)。一家はクロワッセに移り住む。三月、妹カロリーヌ、一女を残し、産褥熱にて死亡。七月、ブラジエ家にて、詩人ルイーズ・コレと知り合い、恋愛関係を結ぶ。この関係は途中とぎれることもあったが、十五年間も続く。九月、『聖アントワーヌの誘惑』第一稿開始。
一八四七(二十六歳) 二月、コレと不和。五月一日、デュ=カンとブルターニュ、ノルマンディーへの徒歩旅行に出発する(〜八月)。共著『野越え、磯越え』を著わす。出発から神経痛に襲われる。
一八四八(二十七歳) 国民軍に服務し、コレと不和になる。四月、旧友ポワットヴァン死す。
一八四九(二十八歳) 九月、初稿『聖アントワーヌの誘惑』脱稿。クロワッセにブーイエとデュ=カンを招き、朗読の結果、不評。かえって父の弟子であったドラマールと自殺したその妻との話(『ボヴァリー夫人』)を示される。十月末、デュ=カンと近東へ準備旅行に出発。マルセーユ、マルト、アレクサンドリア、カイロまで行く。
一八五〇(二十九歳) 近東旅行を続け、エジプト、紅海、アレクサンドリア、ベイルート、ロード島、コンスタンチノーブル、アテネへまわる。
一八五一(三十歳) 三月、ナポリに着き、母と合流する。四月、ローマで母と過ごす。フロレンスを経て、五月六日、クロワッセに帰宅。旅行中から『紋切型辞典』『ドン・ジュアンの一夜』『アニュビス』等の作品の計画を練る。七月、コレと再会。ロンドンから帰国後、九月、クロワッセにて『ボヴァリー夫人』開始(〜五六)。
一八五二(三十一歳) 生き方の異なるデュ=カンとの間に溝が深まり、六月絶交。
一八五三(三十二歳) 『ボヴァリー夫人』に苦心。
一八五四(三十三歳) コレと不和となる。
一八五五(三十四歳) 一月、コレと絶縁。
一八五六(三十五歳) 四月三十日、『ボヴァリー夫人』完成。十月、『ボヴァリー夫人』、「ルヴュ・ド・パリ」誌に掲載される。回を重ねるにつれ、編集者からの削除請求が激しくなり、憤激する。七月、『聖ジュリアン伝』着手。十二〜二月、ゴーチエの「アルチスト」誌に『聖アントワーヌの誘惑』第二稿の断片を発表。好評。
一八五七(三十六歳) 作品の不道徳性のため『ボヴァリー夫人』連載中の「ヌヴェリスト・ド・ルーアン」掲載を中止する。一月、『ボヴァリー夫人』の作者・雑誌主筆・印刷者起訴される。軽罪裁判所において裁判、六月七日、無罪の判決下る。この事件のため、フローベールの人気上がる。四月、ミシュル・レヴィ社より出版した単行本の売れ行きは上々。サント=ブーヴやボードレールにより好評を受く。九月、ゴーチエからヒントを与えられた『サランボー』に着手。
一八五八(三十七歳) 前年末よりパリに住み、文壇主流と交際する(ゴンクール兄弟、サント=ブーヴ、ゴーチエ等)。四月、『サランボー』の資料のため、チュニジアへ出発、カルタゴを見学して、六月クロワッセに帰宅。以後三か年『サランボー』に専心する。
一八六二(四十一歳) 四月、『サランボー』脱稿。六月以後、夢幻劇『心の城』執筆。十一月、レヴィ書店より『サランボー』出版。大好評を得、二日で二千部売ったという。以後、カルタゴ風俗が流行する。
一八六三(四十二歳) ロシアのツルゲーネフと知り合い、生涯の友となる。『感情教育』の準備開始。マチルド公爵夫人のサロンでジョルジュ・サンドに紹介され、文通を始める。この年、しばしばパリに出かける。
一八六四(四十三歳) 四月、姪カロリーヌ、コマンヴィルと結婚。『感情教育』開始。以後数か年はこの作品に没頭。サンドとの愛は急速に進展。
一八六六(四十五歳) 八月、レジォン・ドヌールに叙せられる。月末、サンド、クロワッセを訪れる。
一八六七(四十六歳) 一月から六月までパリに滞在。その間、セーブル、クレイュの陶器製作所を見学したり、マチルド公爵夫人と万国博に出かけたりする。
一八六八(四十七歳) 二月末より創作のため喉頭炎を研究、切開手術も見学。
一八六九(四十八歳) 五月、『感情教育』脱稿、十一月に出版、一般に不評でフローベールにはショックとなる。七月、親友ブーイエが、十月にはサント=ブーヴが死亡し、二重の打撃を受ける。十二月、サンドと会う。
一八七〇(四十九歳) 六月、ゴンクール死亡。七月、『聖アントワーヌの誘惑』決定稿に着手。普仏戦争が勃発し、クロワッセの邸はプロシア軍に接収される。フローベールは母と共にルーアンに移っていたため、無事であった。
一八七一(五十歳) 三月、撤退。四月、クロワッセに帰り、直ちに『聖アントワーヌ』にとり組む。社会嫌悪、ブルジョワ嫌悪が強まる。
一八七二(五十一歳) 四月、母病没。ブーイエの『最後の歌』を出版するため奔走、このためレヴィ書店と不和になる。六月、『聖アントワーヌの誘惑』決定稿完成。八月、『ブーヴァルとペキュシェ』に着手。十月、ゴーチエ死す。相次ぐ友の死はフローベールを寂しがらせた。
一八七三(五十二歳) レヴィ書店と契約が切れ、シャルパンチェ書店と契約。十一月、戯曲『候補者』脱稿。
一八七四(五十三歳) 三月、『候補者』、ヴォードヴィル座で上演。不評のため四回で打ち切る。四月、『聖アントワーヌの誘惑』出版。『ブーヴァルとペキュシェ』の準備のため、ラポルト(クロワッセの川向こうのクロンヌのレース工場主で、フローベール晩年の親友)とノルマンディーに旅行する。
一八七五(五十四歳) 四月、姪カロリーヌの夫コマンヴィル破産。フローベール、姪のため全財産を渡し、一挙に生活が苦しくなる。クロワッセの家の所有権を失う。『聖ジュリアン伝』執筆開始、神経症悪化。
一八七六(五十五歳) 二月、『聖ジュリアン伝』を書き上げ、『純な心』にとりかかる。三月、コレが、六月にはサンドが死亡。八月『純な心』脱稿。十一月、『ヘロディアス』に着手。
一八七七(五十六歳) 二月、『ヘロディアス』完成。四月、モーパッサン主催で自然主義の新人たちがフローベールのために宴を開く。エニック、ユイスマンス、セアール、ミルボー、アレクシス等が出席。各新聞に「自然主義派」の誕生が告げられる。同月、別々に新聞に発表していた『ヘロディアス』『聖ジュリアン伝』『純な心』を『三つの物語』と題して出版。『ブーヴァールとペキュシェ』を続け、十一月にはモーパッサンにエトルタ海岸を調べさせる。
一八七九(五十八歳) 一月、足をくじく。パリの友人の奔走で、文部省から年金が下りることになる。新らしい内閣の成立と共に、マザラン図書館の「客員司書官」に任命され、三千フランの年金を受ける。コマンヴィルが原因で、ラポルトとも不和になる。
一八八〇(五十九歳) 一月、モーパッサンの『脂肪の塊』を激賞。五月八日、脳溢血にて急死。『ブーヴァールとペキュシェ』未完の遺稿となる。
一八八一 『ブーヴァールとペキュシェ』出版。
一八八四〜九二 デュ=カンの『文学的回想』出版。
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訳者あとがき
この小説を私は中学生のころ読み、古めかしい作品だな、と思ったものである。なぜそう感じたのか。一つは、フランスの二十世紀小説に心をうばわれていたため、状況の設定や描写がまだるっこしく感じられ、いわば実物そっくりの絵をみせられた時のような味気なさを覚えたからだった。現実の再現ということがあらゆる種類の芸術家に要求された時代がある。しかし、実在するものと同じものをつくりだすことは人間には絶対に不可能なことであるのだから、せいぜいよく似たものをつくる以外はない。だが、なぜよく似たものをつくろうとするのか。われわれが芸術作品に感動するのは、ただ単にそこに現実の再現がなされているからではないだろう。われわれの感動がひき起こされるのは、芸術家の精神の緊張がそこにあるからにちがいない。精神の体操、あるいは知性の祝祭を芸術作品に求めた結果、私は写実小説にあまり関心がはらえなくなった。十九世紀のフランス小説でいえば、バルザックやフローベールよりもスタンダールのほうが好きであった。またバルザックでは、大長編よりも、『海辺の悲劇』とか、『知られざる傑作』とか、『ざくろ屋敷』などの短編が好きであった。フローベールの場合には、その書翰に興味を持てたが小説の方はいつも途中で投げだしてしまった。
戦後、私はサルトルを中心としたフランスの現代小説に仕事の対象を見出したのだが、このサルトルはいくつかの評論で、フローベールを攻撃することがしばしばだった。最近になって、フローベールについての長い評論を執筆中といわれているが、おそらくこれもフローベールに対する批判であるのかもしれない。私は必ずしもサルトルの批判に同調する者ではないが、フローベールの人気がこの程度のものかと思われもしたのである。しかしながら近年私は、フローベールの生き方、その文学観に少しずつ共鳴するようになっていった。いまから五年前に、『入門フランス文学史』という本を書いたが、そのとき私は、フローベールとボードレールに、現代文学の源泉があるのではないかと思ったのである。かてて加えて、ジャン=ピエール・リシャールの『文学と感覚』という評論集のなかにきわめて個性的なフローベール論を発見し、フローベールへの親近感がさらに増したのである。私がフローベールにおいて特に評価するのは、文章に対してのすさまじいばかりの苦心である。一語もゆるがせにしないとは、彼についての形容詞ではないかと思われるほどフローベールは文章を練りに練る。
どんな高尚な文学理論が提唱されたところで、人を感動させる作品が書かれなければその文学理論は空理空論にひとしい。フローベールは理屈はいわないが、作品にすべてを注入する。一つの作品に対する何回とない訂正、ほとんど書き直しといえる推敲《すいこう》、この刻苦精励にはまさに驚嘆すべきものがある。彼の名を不朽にした『ボヴァリー夫人』は特に重厚な傑作であり、いまここに翻訳をおえて改めてその前で脱帽する。
『ボヴァリー夫人』の邦訳は、私が目にしえたものだけでも四種類の多きにのぼる。多くの点でこれらの訳者のおかげを蒙《こうむ》ったことをここに記し、感謝の念を表明したい。
昭和四十一年十二月十五日
〔訳者紹介〕
白井浩司《しらい・こうじ》 慶大文学部教授。一九一七(大正六)年、東京生まれ、慶大仏文科卒。一九六六年辰野賞受賞、フランス語・フランス文学会、三田文学会、文芸家協会、日本ペンクラブ各会員。著書、「小説の変貌」「サルトル入門」「サルトルと知識人」訳書、サルトル「嘔吐」ほか多数。