TITLE : 芸術論
芸術論
フロイト 著
高橋 義孝 訳
目 次
空想することと詩人
小筐選びのモティーフ
ミケランジェロのモーゼ
『詩と真実』中の幼年時代の一記憶
無気味なもの
フモール(ユーモア)
ドストイェウスキーと父親殺し
あとがき
空想することと詩人
詩人という奇妙な人間は――たとえば例の枢機官がアリオストオに向って発した質問の意味でなのだが――どこからその素材をとってくるのか、またどんな具合にして彼はその素材でこれほどにもわれわれの心を捉え、そんなことが可能だとはおそらくわれわれが思ってみもしなかったような感動を、われわれの裡によびおこすことに成功するのだろうか。われわれ素人はいつもこれを知りたがってきた。たとえそう尋ねてみても、詩人自身は、われわれに全然、或いはなんら満足するにたる答をしてくれないのだから、この問題に対するわれわれの関心は益々高まるばかりなのである。それに、芸術家が素材を選択する諸条件を、芸術創造技術の本質を、どれほどよく知ったところで、そんなことは絶対にわれわれ自身を詩人にしはしないということがわかっているとしても、やはりわれわれとしてはぜひその辺のことが知りたいのだ。
せめてわれわれの内部に、或いはわれわれの周囲の人々の間に、とにかくも芸術創造に似たような活動能力を見出すことでもできたら話は別だろうが。もしそうだったとしたらそれを調べてみさえすれば、詩人の創造を少しばかりでも垣間見ることができようというものであるが。さてところが、事実そういう見込もないことはないのだ。――つまり詩人たちだって、かれらの特異な性質と、ごく当り前の人との間の距離をへらしたがっているのである。かれらはしばしばこう断言する、どんな人間のなかにも一人の詩人が棲んでいる。だから、詩人がいなくなるとしたら、それは最後の人間が死ぬときであろう、とまあこんな風にいってくれる。
われわれは詩的活動の最初の現われのいくつかを、既に子供において見出すべきであろう。子供が最も好んで且つ熱心にすることは何かといえば、それは遊戯だ。遊んでいる子供というものはみな、一つの独特な世界を創り出すことによって、或いは正しくいうなら、自分の世界の事物を、自分の気に入った、ある新しい秩序に置き換えることによって詩人と同じように振舞っているといっても差し支えなかろう。遊ぶ子供はその世界を真剣に受け取っているのではない、と思うのは誤りであろう。どうしてどうして子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている、遊びというものにたいへんな情熱をそそいでいるのだ。そして遊びの反対物は真剣ではない。――現実である。子供は遊びにどんなに情熱をそそいでいても、遊びの世界を現実からはっきりと区別しているし、また好んでその想像上の対象や状況を、現実世界の、手に触れ目にみえる事物に仮託する。そして子供の「遊ぶ」ことを大人の「空想する」ことから区別するものは、この仮託ということ以外にはなにもないのである。
ところで、詩人はこの遊ぶ子供と全然同じことをする。詩人も、一つの空想を截然と現実から区別しながら、非常に真剣に、つまり、たいへんな情熱をそそいで、その空想世界を創りだす。そして言語は、表現可能な具体的な対象への仮託を必要とする詩人の、そのような行為を、劇、つまり喜劇、悲劇と名づけ、またそれらを演ずる人物を演劇者・俳優と名づけることによって、子供の遊戯と詩的創造とのそういう類縁性を保持している。ところでしかし詩的世界の、こういう非現実性から、芸術家の技術というものを考える上に非常に重要な結果が出てくる。というのは、もしそれが本当のことだったら到底楽しみなど与える筈のないような多くのことも、空想の遊びにおいては楽しいものとなるし、また多くの、現実には不快極まりない興奮の数々も、それが文学の作品の中に出てくると、楽しみの源泉となることができるからである。
さてもう一つ別の関係のために、もう少々この現実と遊びとの対立という問題を眺めてみよう。子供が成長して遊ぶことを止め、何十年かの間、人生の実際をそれに必要な真剣さで把握しようと気持の上で苦労してみると、ある時またふと遊びと現実との対立をなくしてしまうような心理的な状態に陥ることがある。かつて自分が子供の頃どれほど真剣に遊びを行ったかということを、成人がふと顧みることがある。そして、自分のいわゆる真剣な営為をあの子供の頃の遊びと比較してみて、彼は人生の余りにも重い圧迫をかなぐり棄て、フモール(ユーモア)という高級な快楽を手に入れるのである。
成人になりつつある者、青年は、こうして遊ぶことを止める。彼は表向きは子供の遊びからえた楽しみを断念する。が、人間の心理生活を知るほどの者なら、人間にとってひとたび味った快楽の断念くらい難しいものはないことを知っていよう。元来われわれはなにも断念することなどできはしないのだ。われわれはただあるものを他のものと取り替えるにすぎないのである。断念と見えるものも、実のところは元のものの代用、或いは補償構成物なのである。そこでまた青年も、たとえ遊戯は止めても、止めたのはただ実際の対象への仮託ということだけなのである。すなわち遊ぶ代りに彼はいまは空想するのである。空中に楼閣を築き、白昼夢と呼ばれるものを作り上げるのである。そしてこのようにして大抵の人間は折々色々な空想を描き出すことがあるものだと私は信じている。これは、永いこと人々によって見過されてきて、したがってその意味が充分に評価せられることのなかった一事実である、としなければなるまい。
しかし成人の空想は、子供の遊びほどには容易に観察せられえない。なるほど子供は、独りきりで遊びもするし、また他の子供たちと一緒に、遊びの目的の為に、ある特定の心的体系をつくることもあるが、たとえ大人たちに何も演じてみせなくとも、それでも子供はその遊ぶところを大人の前で隠しはしない。成人はしかしその空想を恥じ、それを他人に対して隠す。彼ひとりきりの内緒事としてそれを胸に懐いている。普通には、自分の空想を人に伝えるくらいなら、いっそ自分の罪を白状した方がましだくらいに考えているものなのである。だから、そんな空想を画くのは自分だけだと思いこんで、他人もみんな全く同じようなことをやっているのだとは思っても見ないといった次第なのである。遊ぶ子供と空想する大人との、この態度のちがいはこれら二つの相連続する行為の動機のなかにこそ、その原因を持っているのである。
子供の遊びは色々の願望によって操られているものであるが、その願望も本来はただ一つの、子供を教育するたすけになっている願望、すなわち、大きくなりたい、大人になりたいという願望によって動機づけられている。子供はいつも「大人である」ふりをして遊ぶ。大人たちの生活を見て知ったことを遊びのなかで模倣する。ところで子供には、この願望を人に隠すいわれはないわけだ。ところが大人はちがう。大人は、世間が自分に対してもはや遊びもせず、或いは空想しもせずに、実際世界のなかで行動することを期待しているのを知っているし、又、彼の空想を生み出す色々の願望の中には、一般にそれを是非とも隠さなければならないものもかなり沢山あるのである。だから大人は自分が空想することを、子供っぽいこと、許されていないこととして恥じるのである。
諸君はきっとこうお尋ねになるだろう、人間がもしその空想をそんなに一所懸命に隠しているのだとしたら、それについて、どうしてそんなに精しい知識がえられるのだろうか、と。待ち給え、人間の中には特別な種類の人々がある。彼らに対しては、むろん神ではないが、ある峻厳な女神、すなわち必然が、彼らは何に悩んでいるか、彼らは何を愉快としているかを口に出していうべき命令を授けているのである。つまり神経症の患者たちなのである。彼らは、精神分析による自分たちの治療を期待している医者に対しては、自分たちの空想をもまたはっきりと告白しなくてはならない。つまりわれわれの精しい知識はここに由来しているのである。そんなわけで、われわれは次のような、ちゃんとした根拠のある推測に到達した。すなわち、患者たちがわれわれに伝えることはすべて、われわれが(もしそれが可能なら)健康人からもききうるであろうようなことばかりなのである、と。
つぎにこの空想するということの特徴の若干を調べてみることにしよう。第一に幸福な人間は決して空想しない。空想するのは不満な人間だけだといっていい。充たされなかった願望こそ空想を生み出す原動力であって、空想というものはどれもこれも、願望充足であり、人を満足させてくれぬ現実の修正を意味する。空想へと人を駆りたてる願望は、その人の性別、性格、生活事情によってそれぞれに異なるが、しかし、たやすく二つの主なグループに分類することができる。すなわちそれは、人格高揚に奉仕する名誉心的願望か、性的な願望かである。若い女性にあっては、その名誉心の方は通例性的努力によって啖《くら》い尽されているから、性的願望が殆んど決定的であるし、若い男性にあっては、性的なそれと並んで、利己的な名誉心的な願望が強くはたらく。が、そうはいうもののわれわれは、これら二つの傾向の対立をではなく、むしろしばしばそれらが一致することを強調したいと思う。丁度、多くの祭壇画の隅の方には寄進者の顔が描かれているように、大抵の名誉心的な空想のどこか一隅には、空想者がそのためにそれらすべての英雄的行為を遂行し、またその一切の成果をその足許にささげようとしている女性の影がちらついているものである。これで諸君は、ここには人前を憚るに充分な理由のあることがおわかりであろう。とはいえむろん、いい教育を受けた女性には一般に性的欲望は最少限にしか認められないし、また若い男は、彼が甘やかされた幼年時代から、いまだに引き摺り持っている自己感情の過剰を、彼同様に「己が、己が」という気持を持っている人間の多い社会に適合して行くという目的のために、抑制することを学ばねばならないことになる。
ところでこの空想活動の所産、つまり一つひとつの空想、空中楼閣、或いは白昼夢を、固定した不変なものと考えてはならない。むしろそれらは、変転する生活の諸印象に順応して行くものであり、一寸した生活状態の変動に会ってもすぐに変化を起し、有力な新しい印象からその都度いわゆる「時代の刻印」をうける。時代や時間に対する空想の関係は一般に極めて重要である。一つの空想は同時に三つの時間、われわれの表象行為の三つの時間契機の間を漂うといってもいいだろう。心の働きは、現在において、個人の大きな願望の一つを呼び起しえたある動機、ある積極的な印象において発動し、そこから、かつてその願望が充たされたずっと以前の、大抵は幼時の体験の思い出へと移り、それから未来に関係づけられた一状況、その古い願望の充足として現われる一状況を、つまりほかならぬ白昼夢を、或いは現在的動機の刻印と過去の思い出の痕跡とをそれ自身に担っているところの空想を作り出すのである。そんな風に過去のものと、現在のものと、未来のものとは、一筋の願望の糸となって綯《な》い交ぜられているのである。
以上のことをよくおわかり願うために、ごく卑近な実例をあげてみよう。孤児となった貧乏な若者の場合を考えてみよう。諸君が彼に、ある地位が見出せるかもしれぬある雇主の所番地を知らせてやったとする。彼はそこへゆく途中で、そういう状況からいかにも生じそうなある白昼夢に耽るであろう。彼の空想の内容はたぶんこんなものであろう、彼はそこで採用せられる、新しい主人の気に入る、仕事の上でなくてはならない存在になる、主人の家庭に近づきになる、そこの美しい令嬢と結婚する、そしてやがて店の共同経営者となり、のちには後継者として業務を指揮するようになる、と。そして、こんな夢をみながら、実はこの夢想者は、かつて幸福な幼年時代に所有していたもの、すなわち保護してくれる家、愛してくれる両親、彼の愛情の最初の対象などの代用品をつくり上げるわけである。この例によっても、いかに願望が、過去の手本に従って未来像を描き出すために現在のきっかけを利用するかがおわかりになったであろう。
空想についていうべきことは多々あろうが、ごく簡単な暗示にとどめておこう。空想の肥大化と強大化とは、神経症と精神病になる諸条件を作り出すものである。また空想は、われわれの患者たちが訴える苦痛の諸徴候に一番近い心理的前段階でもある。ここからは病理学へ広い側道が通じている。
しかし夢に対する空想の関係に触れぬわけにも行かない。夢の解釈によって明らかにしうるように、夜みるわれわれの夢もやはり空想に外ならない。言葉は空想者の空中楼閣的な創造物を「白昼夢」とも呼んでいるが、これによって言葉の卓絶した叡智が夢の正体如何の問題をとうの昔に決定したものとしていい。この指示にも拘らずわれわれのみる夢の真意は大抵はわれわれにとって不明瞭なものであるが、それは次のような事情に因っている。つまりそれは、われわれがそれを恥じて、自分自身に対してすら隠さざるをえないような願望、従ってまさにそのゆえに、抑圧せられ無意識のうちに押しやられているような願望さえも、夜の夢の中に動き出すからなのである。そういう抑圧せられた願望やそれから派生したものには、ひどく歪められた表現しか許し与えられえないのである。さて学問が夢歪曲の説明に成功した現在では、夜の夢は、昼間の夢、すなわちわれわれすべてによく知られている空想と同じような、願望充足であることを認めるのはもはや困難とはいえまい《*》。
* 拙著『夢判断』初版、一九〇〇年。
空想についてはこれだけにしておいて、つぎには詩人に移ろう。われわれは詩人を「白昼の夢想者」に、また彼の作品を白昼夢に比較しようとして差し支えないものであろうか。するとまず最初の区別が必要になる。われわれは第一に古代の叙事詩人や悲劇詩人のように、既成素材を料理する詩人と、素材を自由に創り出すようにみえる詩人たちとを区別しなければならない。まず後者の方を問題にしてみよう。われわれの比較のためには、批評によって高く評価せられている高名な作家たちは選ばず、もっと手軽な、長篇中篇小説、物語などの作者、ただその代り、最も多数の熱心な男女読者をもっている連中を選んでみることにしよう。そういう小説家たちの作品において、まずわれわれの目につく一特色がある。それは、作家はみな、興味の中心点に立つ一主人公をこしらえて、この人物のためにありとあらゆる手段を講じてわれわれの同感をえようと努め、またその主人公を世の常ならぬ配慮をもって保護しようとしているらしいということだ。小説のある章の終で、主人公が意識を失い重傷を負って血塗れになったまま見捨てられているとしても、次章の初めでは必ず手篤い看護を受けて恢復の途上にあるという風になっているし、また第一巻が海の嵐のうちにわが主人公の乗っている船が沈むところで終ったとしても、第二巻の初めでは、奇蹟的に救われることは確実である。もっともそうででもなかったならば、小説はそれ以上進行しないわけだ。私が常に主人公の危険な運命を見守って行くこの安心感は、現実の英雄が、溺死しかかっている人を救おうとして水中にとびこんで行く時の感情、或いは砲台を占領しようとして敵の砲火に身を曝すあの感情と全く同じものである。それは、われわれの最良の作家の一人が見事に表現したような、「君は絶対に大丈夫だ」(アンツェングルーバー)という、あの英雄固有の感情である。しかし私は思うのだが、絶対自分だけは大丈夫だという、この暴露的特色に、ひとは苦もなくかの自我皇帝陛下を――あらゆる小説の、またあらゆる白昼夢の主人公を認め知るであろう。
こういう自己中心的な物語の他の若干の典型的な特色も、これと似たり寄ったりのもので、小説中のあらゆる女たちが、いつも主人公に恋するというようなことも、到底現実とは受け取れない。しかし白昼夢の必然的な筋道としてならよく納得できる。また現実には人間というものは多種多様なものであるにもかかわらず、そういうようなことは一切ぬきにしてしまって、小説中の主人公以外の人物が悉くきちんと善玉と悪玉とにわけられているのも、これと全く同じである。「善玉」とは、ほかならぬ主人公となった自我の救助者であるが、「悪玉」とは、その敵であり競争者なのである。
むろん、単純な白昼夢の原型から、はるか距ったところにある作品も無数にあるということを、決して認めないわけではないが、それにも拘らず、たとえその最も極端な場合をとってみても、脱漏のない推移をつらねてみれば、どんな作品も結局はこの原型に還元せられるとしか思われない。多くのいわゆる心理小説においてさえ、一人物だけが、御他分に洩れず主人公だけが、内部から描かれていることに気づく。作家はいわばかれらの心のなかに坐っていて、外部から他の人物たちを眺めている。総体に心理小説はその独自性を近代詩人の一傾向に――その自我を自己観察によっていくつかの部分的自我に分割し、それに従って彼の心的生活の相矛盾する流れを、幾人かの人物のうちに人格化するという傾向に負っている。ところで白昼夢の典型に対して全く特別に対立していると思われるのは、「エクセントリック」小説とでも呼んでしかるべき小説で、主人公として出てくる人物が殆んど積極的な役割を演ぜず、むしろ傍観者のように、他人の行為や苦悩を見過して行く小説である。ゾラの後期の小説にはこういうのがある。しかし、創作こそしないが、色々の点でいわゆる常軌を逸しているような個人を精神分析してみると、彼らにも、白昼夢の変形したものが認められる。それらの白昼夢においては、自我が傍観者の役割に甘んじているのである。このことをここに注意して置く。
詩人と白昼夢想者との比較、詩人の作品と白昼夢との比較が、もし価値多いものとなるべきならば、何よりもまず何らかの実績を挙げねばならない。そこでまず、たとえば過去・現在・未来に対する、及びそれらを一貫してはたらく願望に対する空想の諸関係について立てた命題を文学作品に適用し、それからその助けをかりて、作家の生活とその創作との関係を探究することにしよう。通例今までは、この問題と取り組むことによってどういう収穫がえられるのかということが真剣に考えられたことはなかったし、この関係はしばしば余りにも簡単に考えられてきた。しかしわれわれは空想についてえられた洞察からしてつぎのような事態を期待すべきであろう。すなわちある強い積極的な体験が詩人の裡に、多くは幼年時代に属する古い体験を呼び醒す。この体験から、作品の中でそれが充たされるところの願望が生ずるのである。そして作品そのものは、古い思い出の諸要素と新鮮な現在的動因の諸要素とをわれわれに示しているのである。
この命題の込み入っているのに尻込みしないでいただきたい。たしかに実際の場合に適用してみると、この命題は余りにも貧弱な図式だということになるであろうが、それでも現実の事態への一歩前進が多分この中に含まれているのではないかと思う。そしていま私が企てた二三の試みを見ていただければ、詩的創造をこのように観察する方法が相当の実績を挙げうるものであることがおわかりであろうと思う。ただその際に私が不思議なほどに詩人の生活における幼時の思い出を強調するのは、つまるところ、文学作品は白昼夢と同様にかつての子供の遊びの継続であり代用物であるという前提に導かれてのことだということを忘れないでいただきたい。
では早速つぎの、自由な創作ではなく、既成の既知の材料の料理と認められるような種類の作品に戻ることにしよう。ここにも、素材選択や、しばしば非常に広範囲に亙る素材修正において発現しうる若干の自由が詩人に許されてはいるが、しかし既成既存の素材というものは、神話、伝説、童話など、――民族の文学的財宝から出ているものである。このような民族心理学的形成物の研究は、今日決して完結してはいない。しかしたとえば神話についていえば、それらが諸国民全体の願望空想の歪曲せられた残滓、若い人類の現世的な夢を物語っていることはどうやらたしかである。
とにかく私はこの講演の題目にかかげておいた詩人についてよりは、空想について多くを語りすぎたと諸君はいわれるかもしれない。私もそれは承知している。そして、それに対しては、われわれの認識の現況を指摘することによって諸君の寛恕を乞おうと思っている。私がここでなしえたことは、ただ諸君を、空想の研究から文学的素材選択の問題へと移って行くように刺戟し勧誘することであった。もう一つの問題、つまり詩人はいかなる手段をもって、その作品によって呼びおこす感動効果をわれわれに与えうるかの問題には、これまでのところ全然触れなかった。ただすくなくとも諸君に、空想に関する以上の議論から、詩的効果の諸問題へと、どういう路が通じているかを示しておきたいと思う。
われわれは既にこういった、つまり白昼夢想者は他人に対してその空想を注意深く隠す。それを恥じるだけの理由を彼が感じているからなのである。その上私は、万一彼が空想をわれわれに伝えるようなことがあったとしても、そういう打ち明け話は、われわれにいささかの快感をも与えないであろうということを附け加えたい。たとえそれを知っても、それによってわれわれは不快にさせられるか、或いは、せいぜいのところそれに対して冷淡に構えるだけであろう。ところが詩人がその遊びをわれわれの前で演じてくれたり、或いは彼が、彼自身の個人的な白昼夢として、われわれが解釈したいようなことを話してくれると、われわれは高度の、おそらく多くの源泉から合流して出来上ったような快楽を感ずるのである。いかにして詩人がこれに成功するか、これは詩人の最も深い秘密である。個々の独立した自我と自我との間にある柵とたしかに関係のある、あの嫌悪感を除去する技術のなかにこそ本来のars poetica(作詩術)があるのだ。われわれはこの技術の二種の手段だけを推測することができる。すなわち詩人は利己的な白昼夢の性格を修正と隠蔽とによって和げる。それから詩人は、その空想描写によってわれわれに提供しているような、純形式的な、つまり美的な快感によってわれわれを籠絡する。われわれが詩人とともに、心のごく深いところにある源泉からきわめて大きな快感を汲みとってくることができるために、われわれに提供せられているところの、そのような快楽の獲物は誘惑謝礼金、或いは前快感と名づけられえよう。私見によれば、詩人がわれわれに与えてくれるあらゆる美的快感は、みなこのような前快感の性格を具えており、文学作品を味わう場合の固有の楽しみは、われわれの心の中にある色々の緊張を解き放つところから生ずるのである。それに又、詩人がわれわれを今や天下晴れて、もはやどんな非難をも受けず、羞恥を覚えることもなくわれわれ自身の空想を享楽しうるような状態においてくれることが、詩人のこのような成功に少なからず役立っているのだ。ここで今やわれわれは、新しい・興味ある・複雑な諸探究の入口に立つことになるのであるが、しかしすくなくとも今回のところは、これでわれわれの論究は終るわけである。
小筐選びのモティーフ
シェイクスピアの二つの場面が――一つは明朗な、一つは悲劇的なものだが――最近私に一寸した問題を提出し、ついでそれを解決する機縁を与えてくれた。
明朗の方は、『ヴェニスの商人』で求婚者たちがする三つの小筐選びの一件である。美人で賢いポーシャは、父君の意志によって、求婚者の中から、差し出された三つの小筐のうち正しい小筐を選んだ男を、夫とすることになっている。三つの小筐は金・銀・鉛でつくられていて、正しいのは、中に彼女の肖像の入っている小筐である。既に二人の求婚者が空しく斥けられた。金のと銀のとを選んでしまったのである。三人目のバッサニオは鉛の小筐をとろうと決心する、そしてこの決心のおかげで彼は、既に運命に試みられる以前にその愛情をかちえていた花嫁を手に入れる。候補者はどれも、他のふたつの金属を貶しながら、自分に一番気に入った金属をほめ称える口上をのべて、それぞれに決心の理由を説明した。そして最も困難な課題が、幸福な三番目の求婚者に与えられる。金と銀とに対して彼が鉛を讃美するためにいいえたことは、僅かなものだったし、またわざとらしい。さて、もし精神分析による治療を行っている時に、患者のそういう説明に出会ったとしたら、われわれはその不充分な根拠づけの背後に、患者が隠したがっているなんらかの動機を嗅ぎつけるというわけなのである。
この小筐選びの神託というモティーフはシェイクスピアの独創ではない。ゲスタ・ロマフルム中のある物語、王の息子を手に入れようと少女がこれと同じ選択をする物語からこれを借用したのである《*》。その話でもやはり三番目の金属、鉛が幸運を齎すことになっている。これが解釈、推論、還元を要する古いモティーフであることは推察にかたくない。そして、金・銀・鉛を選ぶことは恐らく何事かを意味しているのではあるまいかという最初の推測は、ほどなく、同じ問題をもっと広い関連で取り扱ったシュテュッケン《**》の研究によって確められた。彼はこういっている、「あの三人のポーシャ求婚者の何者であるかは、彼らが何を選ぶかということから明らかになる。モロッコの王子は金の小筐を選ぶ。彼はつまり太陽である。銀の小筐を選ぶアラゴンの王子は月である。バッサニオは鉛の小筐を選ぶ。すなわち彼は星の子である。」この解釈のよりどころとして彼はエストニアの民族叙事詩『カーレヴィポエーク』から一挿話を引用している。そこでは三人の求婚者は、一切の粉飾を払いのけてそれぞれ太陽、月、星の若者(「北極星の長男」)として登場し、花嫁はそこでもやはり三人目の男に与えられている。
* G・ブランデス、『ウィリアム・シェイクスピア』(一八九六年)。
** Ed.シュテュッケン、『星の神話』六五五頁、ライプツィヒ(一九〇七年)。
というわけで、われわれの小さな問題は星の神話にまで通じているわけだが、残念ながらこれだけの説明ではまだ完全とはいいがたい。疑問は更に続く。というのは、われわれは幾人かの神話研究者たちのように、神話が天から降ってきたとは信じないからである。むしろわれわれはオットー・ランク《*》とともに、神話は天以外の何処か別の所で、純人間的な諸条件のもとに成立し、しかるのちに天に向って投影されたものと信ずるからである。ところでわれわれの関心はまさしくこの人間的内容にむけられているのである。
* O・ランク、『英雄誕生に関する神話』(一九〇九年、八頁以下)。
ここでもう一度われわれの問題を注視しよう。エストニアの叙事詩においてもゲスタ・ロマノルムの物語においても、一少女の三人の求婚者選びが問題となっている。『ヴェニスの商人』においても外見上は同じことが問題となっているが、それと同時にこの最後の場合には、なにかモティーフの裏返しのようなものが現われている。つまりここでは一人の男が三つ の――小筐を選ぶ。これが夢のことならば、直ちにわれわれはすぐ小箱や小容器やボール箱や籠などと同様、その小筐もまた女なのだ、女における本質的なものの象徴、だから女そのものなのだと考えたことであろう。それで、そのような象徴的代用品を神話にも想定して差し支えないとすれば、『ヴェニスの商人』における小筐の場面は、さきにわれわれが推測したように実際裏返しになる。まるで嘘のようにわれわれはあっという間にわれわれの主題から星の衣を剥ぎとり、いまや一箇の人間的なモティーフ、すなわちひとりの男が三人の女たちのどれかを選ぶということが問題になっているのをみるわけだ。
同様のことがしかしシェイクスピアの戯曲の最も感動的な作品の一つの一場面の内容をなしている。こんどは花嫁選びではないが、極めて多くの隠れた相似点によって、前の小筐選びと結びつけられる場面である。老いたるリア王はまだ存命中に領土を三人の娘に、娘たちが彼に向って表明する愛に比例して分割する決心をする。上の二人ゴナリルとリーガンはここぞとばかり愛情の表明と誇示をやるが、末娘のコーディーリァはそれを拒否する。王は末娘のこの外に現われぬ無言の愛を認めて、これに報いるべきであったのだが、しかし誤解してコーディーリァをつきのけ、領地を他の二人に分けてしまう。これが彼とみんなの不幸の因となるのである。これもまた、そのうちの一番年若な者が最も善良で優れた者である三人の女の誰かを選ぶという一場面ではなかろうか。
こうなるとわれわれは忽ち、これと同じ状況を内容にもつ他の場面を、神話や童話や文学の中から思いつく。羊飼いのパリスは三人の女神の中から一人を選ぶことになって、その三人目の女神を一番美しいと断言するし、灰かぶり姫も同じように一番年若の娘で、王子は上の二人の娘をさしおいて彼女を選びとるし、またアプレイウスの話の中に出てくるプシケェは、三人姉妹のうち一番年若で一番美人である。プシケェは、一方では人間となったアプロディテとして崇拝されるが、他の一方では、丁度灰かぶり姫が継母に虐められるように、この女神に虐待せられて、ごちゃまぜにされた穀物の山をふるいわけることを命ぜられ、その仕事を小さな動物(灰かぶり姫では鳩、プシケェでは蟻)に助けられてなしとげる。だからもしもっと博捜しようと思ったならば、きっとこれと同じ本質的特色を保存している、これと同じモティーフの他の物語がいくつも見出されることであろう。
われわれはさしずめコーディーリァ、アプロディテ、灰かぶり姫、プシケェで我慢するとしよう。その三人目のが一番優れた女であるこれら三人の女たちは、彼女たちが姉妹として持ち出される場合には、きっと何らかの意味で同質のものとして解釈せられる。リア王の場合にそれが選ぶ男自身の三人の娘となっていても、それに惑わされてはならない。これはおそらくリア王が老人として登場してこなければならないことを意味するだけなのだ。これを別の具合にして、老人が三人の女たちを選ぶとしたら、どうしてもそれは老人が父親でなければ恰好がつかない。だからこそこの女たちは老人の娘ということになったのである。
さてこの三人姉妹は何者であるのか。なぜいつも三人目の女が選ばれることになるのか。もしこの疑問に答えることができたならば、求められた解釈がえられたことになる。ところで、先にわれわれは、三つの小筐を象徴的に三人の女として説明した時、既に一度精神分析技術を用いた。そこでいままたあのような方法を続ける勇気を出すとすると、われわれが踏み込んで行く道は、最初は予期しなかったもの・不可解なものへ通ずるようだが、廻り道をした末におそらくはある目標へと通じている道なのである。
あの優れた三人目の女が大抵の場合その美しさのほかになお若干の特異性をもっていることは、われわれの注意を惹いてしかるべき事実であろう。それらはつまり、何かひとまとめになりそうな特性である。もっともそれらがすべての例で同じように見事に出ているとは期待できない。コーディーリァは鉛のように目立たず見すぼらしい。彼女はいつも押し黙っている、「心で愛して黙っている」。灰かぶり姫は隠れてしまうので見つけだされない。われわれはたぶん「隠れる」ことを「黙っていること」と同一視していいだろう。むろんこういう風に同一視していい場合は、われわれがここに探し出してきた五つの場合のうち二つしかないが。しかし面白いことにその気配は他の二つの場合にも見出される。われわれは既に剛情に拒否するコーディーリァを敢えて鉛に比較してみた。鉛については、小筐選びの間バッサニオがいう短い口上のなかで、まったくだしぬけにつぎのようにいわれている。
そなたの蒼さ(Paleness)は雄弁以上に私の心を動かす(他の版では率直 Plainnessとなっている)。
ということはつまり、お前の飾り気なさは他の二つの金属の騒々しい性質よりも私の心に触れる、という意味だ。金と銀とは「声高」であるが、鉛は「心で愛して黙って」いるコーディーリァそのままに物をいわない《*》。
* シュレーゲルの翻訳ではここのところの暗示の意が全く失われている。というよりもむしろ逆の意味になっている。
「お前の飾り気なさは、雄弁に私に語りかける。」
パリスの裁判の古代ギリシアの物語では、アプロディテにはこういう慎み深さが全然ない。三人の女神がひとしく若者に話しかけて、色々の甘言によってその心をえようとする。しかし同一場面のひどく近代的なある改作では、われわれの注意を惹いた三人目の女のあの特色が、奇妙にもふたたび現われ出ている。オッフェンバッハの『美しきヘレナ』の歌劇脚本の中でパリスは、他の二人の女神の求愛について語ったのち、美人賞をめぐるこの競争でアプロディテがどんな様子であったかをこう物語っている。
そして三人目――そうだ、三人目の女神は――
並んで立って、黙っていた。
林檎は彼女に与えられざるをえなかった云々。
さてこんな具合にして、わが三人目の女の特性は「沈黙」に要約せられると決定することにすると、精神分析がわれわれに告げることはこうである、沈黙は夢においては死の最も普通の表現である《*》、と。
* シュテーケルの『夢言葉』(一九一一年)でも死の象徴としてあげられている(三五一頁)。
十年以上も以前のことだが、高い教養ある一人の男が、私にある夢の話をした。この男はそれを夢の精神感応的性質の証明と見ようとしたのである。彼はもう長いこと便りひとつよこさないでいた遠方の一友人を夢みたのだが、彼は夢の中で彼の無音信を烈しく非難した。友人は何とも答えなかった。やがてその後、患者がこの夢を見た丁度そのころ、その友人の自殺したことが判明した。精神感応の問題はさておき、夢の中での沈黙が死を現わしていることは、疑う余地がないように思われる。童話の王子は灰かぶり姫が「見つけ出せない」のと「隠れる」のとを三度経験するが、これもまた、夢のなかでは、とり違えようもない死の象徴である。シェイクスピアの原典のある異本に見られるあの鉛の「蒼白さ」で思い出させられるはっきりとした顔色の蒼さもこれと同じことである《*》。そして夢言葉から、現在われわれが直面している神話の表現方法へと、これらの諸解釈を翻訳することは、もしわれわれが、夢ではない他の場合でも沈黙は死んでいることの徴《しるし》として解釈せられねばならぬということを確かなものにしうるならば、実に易々たることになるであろう。
* シュテーケル、同書。
私はここにグリム童話の第九番目、『十二人の兄弟』という標題をもった話を採り上げることにする《*》。ある王様とお妃が男ばかり十二人の子供をもっていた。そこで王が、もし十三人目の子が女ならば、男の子たちはみんな殺してしまおうという。王は女の子の生れるのを期待して十二の棺をつくらせる。十二人の息子たちは母君に助けられて、森の奥深く遁れ、もし女の子に会ったら必ず殺してしまうというのである。
* レクラム版、第一巻、五〇頁。
一人の女の子が生れる。生長し、やがて母から、自分が十二人の兄たちをもっていたことを知らされる。そこで兄たちを探し出そうと決心して、森の中で一番年下の兄を見出す。彼はそれが妹だと知ったが、兄弟の誓いのことを考えてかくまおうと思う。妹はいう、わたくしが死んで十二人のお兄様たちをお救いできるのなら、喜んで死にましょう。が、兄たちは彼女を心から迎え入れる。彼女は彼らのところに留まって、彼らの家の面倒をみる。
家の傍の小さな庭に十二本の百合の花が咲いている。兄たちに一本ずつ贈ろうと、少女はそれを手折る。と、この瞬間兄弟たちは鳥に姿をかえられて、家や庭と一緒に消え失せる。――鳥は霊鳥である。妹による十二人の兄たちの殺害が、物語の初めに棺と兄弟の消滅とが描かれたように、またも新らたに描かれる。こんども兄たちを死から救いたいと思った少女は、七年間黙っていて、ただの一言も口を利かないということを条件としてその願いが叶えられることを知る。少女は、この試煉を甘受するが、そのため彼女自身の生命が危険に曝される。つまり彼女は、かつて兄たちとめぐり会う前にそれを神に約束したごとく、いま兄たちのために彼女自身死ぬのである。沈黙を守り通して、ついに彼女は兄たちの救済に成功する。
これと全く同様に『六羽の白鳥』の童話では、鳥に姿をかえられた兄弟が妹の沈黙によって救われる。すなわちいのちを取り戻す。少女は「たとえ命にかかわろうとも」兄たちを救おうと確く決心した。そして誣告に遭ってもその沈黙を破ろうとしなかったために、またしても彼女は、王妃の身でありながら彼女自身の一命を危くするのである。
探す気なら童話の中からまだまだこの他にも沈黙が死の表現として解せられねばならぬ証拠を、いくらでも挙げ示しうるであろう。そしてもしこれらの徴候に従って判断することが許されるならば、その中から選択が行われる姉妹のうち三人目の女は、死んだ女なのであろう。しかし彼女は或いはなにか全く別のものでもありうる。つまり死そのもの、死の女神でもありえよう。よく行われる「置き換え」ということによって、神が人間に賦与する諸々の特性は、神自身に帰せしめられる。ともあれ死の女神におけるそのような置き換えこそ最も自明なことだといっていいだろう。なぜなら近代的見解や表現(これはここではすでに説明の済んだこととして)においては、死それ自身は単に死者であるにすぎないからである。
しかし、もし姉妹のうち三人目の女が死の女神であるとしたら、われわれには上二人の姉が誰であるかがわかる。これら三人は運命(の神)の姉妹たちだ。モイラ、パルカエ、ノルネンの姉妹たち、その三人目がアトロポス、すなわち苛責なき者とよばれているあの姉妹たちなのである。
こういう解釈がわれわれの色々な神話にどういう風に適用せられるかという心配はひとまずわきへ除けておくことにして、神話学者たちに、運命の女神の役割と素姓とについて教えを乞うとしよう《*》。
* 以下はロッシァーの『ギリシア・ローマ神話辞典』のそれぞれの項目による。
ギリシア最古の神話には、遁れ難い運命の人格化としてただひとりのモイラしかなかった(ホメロスにおいて)。ひとりのモイラの三人(稀に二人)の女神姉妹群への発展は、おそらく、モイラに近い他の神々、カリスやホラを引き寄せることによってなされたのであろう。
ホラはもともと雨や露を恵む天界の海の、また雨を降らせる雲の神々であって、この雲が織物と考えられたところから、これらの神々には紡ぎ女の性格が生れ、この性格がやがてモイラに定着せられるのである。太陽に恵まれすぎた地中海の国々において、大地の豊饒は一にかかって雨にあり、このためにホラは植物の神に変化する。ひとは彼女らに花の美を、果実の潤沢を感謝し、彼女らにたくさんの愛くるしい快い特色を賦与する。彼女たちは神の代表者となって四季を司り、おそらくこの関係によってその三という数をうるのである(もっとも三という数の神聖な性質はそれらの女神の説明に充分でないかもしれないが)。なぜならこれらの古代諸民族は最初ただ三つの季節、すなわち冬、春、夏を区別しただけであったからである。秋はギリシア・ローマ時代後期になって初めて附け加えられたのであって、これ以来美術はしばしばホラを四人に描いた。
時に対する関係は、ずっとホラたちに保存せられていた。彼女たちは最初は一年の時間、つまり季節を司っていたが、後には一日の時刻をも司った。そして最後には彼女たちの名前は、各時間の呼名たるにすぎなくなった。ドイツ神話のノルネンはこのホラやモイラたちと本質的には同類のものであって、この時間的意味をその名に示している。しかしこれらの神性の本質はより深く把握せられ、時代の変遷とともに規則的なものへと移し置かれざるをえなかった。こうしてホラは自然法則の保護者、又、不易の順序で自然界のうちに同じものを回帰せしめる聖なる秩序の保護者となったのである。
ところで自然のこのような認識は、人間生活の理解ということに逆に働きかけた。自然神話が人間神話に変った。つまり天気の女神は運命の女神へと転身した。しかしホラのこの一面はモイラにおいて初めてはっきりしたものとなったのであって、モイラは、ホラが自然の規則正しさを司るのと同じように厳格に、人間生活における必然的秩序を司るのである。不可避の法の厳しさ、これまではホラの愛らしい姿ゆえに避けられていた死と没落とへの関係が、いまやモイラにはっきりと現われてくる。あたかも、人間は、わが身を自然の法則に屈せしめなければならぬ時になって初めて自然の法則の本当のすさまじさを感ずるとでもいうように。
三人の紡ぎ女の名前は神話学者によっても意味深い解釈を下されている。二番目の女神ラケシスとは、「運命の法則性の内部なる偶然なるもの」を指しているようである《*》――われわれならさしずめ「体験」とでもいうところだろう――丁度アトロポスが避けえぬもの、死を示しているように。それからまたクロトには、持って生れた禍多き素質の意味があるように。
* 同じくロッシァーによる。但しこれはプレラー・ローベルト『ギリシア神話』よりの引用。
さて以上のことが判った今こそ、三人姉妹選びという、われわれの解釈の俎上にのせられているモティーフに立ち戻ることができる。が、ここでわれわれが非常な不満をもって気づくことは、発見されたこの事情をここに嵌めこんでみると、今まで観察されてきた諸状況がてんで訳のわからぬものとなり、またこの状況のうわべの内容に非常な矛盾が生じてくるということである。姉妹のうち三人目の女は死の女神、死そのものでなければならぬことになるが、パリスの裁判ではそれが愛の女神であり、アプレイウスの物語ではそれがこの愛の女神にも比すべき美人であり、『ヴェニスの商人』においては世にも美しく賢明な女性であり、『リア王』では唯一人の誠実な娘である。これ以上に申し分のない矛盾が考えられるであろうか。ところが、このいかにもありそうにない「転身」が、実は行われているのである。われわれのモティーフにおいてはいつも三人の女たちの中から自由に一人が選ばれるのであり、恐らく誰だって選びはしない死、宿命によって人がその犠牲となる当の死が選び出されることになる場合、以上のようなすり換えは実際に行われるのである。
しかしながらある種の矛盾、正反対のものによる置き換えということは、精神分析学の解釈上では、大した困難を意味しはしない。ここでわれわれは、無意識界の自己表現の諸手段中に見られる撞着は、たとえば夢におけるように、きわめてしばしば、常に同一のものによって表現せられるということを、指摘するまでもあるまい。むしろここでは、人間の心理生活中には、いわゆる反動形成として、反対のものによる代用を招致するような諸契機があるということをいっておきたい。われわれの研究の収穫物は、まさしくこのような隠されたモティーフの発見に求められるのである。人間がモイラという女神を創り出したことは、人間もまた自然の一部分であり、それ故に避くべからざる死の法則の支配下にあることを人間に教える洞察の成果である。が、不承不承にしか自己もまた例外でないということを悟らぬ人間の、ある何ものかがこの屈服に反抗したに相違なかったのだ。人間は、現実において満足せしめられなかった願望を充たそうとして、空想を働かせるということをわれわれは知っている。そこで人間の空想はこんな風にして、モイラ神話に具現せられた洞察に反抗し、又、そこから派生してきた神話を、つまり死の女神が愛の女神によって代用せられているような、または何かそれに似た、人間の姿をしたものによって代用せられているような神話を創り上げたのだ。姉妹のうち三人目の女性は、もはや死などではない。彼女はいまやありとあらゆる女のうちで最も美しく、最も善良な、最も渇望に値する、最も愛するに値する女性である。そしてこのすり換えは技術的に決して困難ではなかった。それは古い感情双価性によって準備せられていた。それは、忘れられ始めてまだまもない原始の一関連になぞらえて実現されたのである。いまや死の女神に代って登場した愛の女神自身が、かつては死の女神と同じものであったのだ。ギリシアのアプロディテは、その冥府における役割をとうの昔に他の神々、ペルセフォネ、三通りの姿を持つアルテミス・ヘカテに譲り渡してしまってはいたものの、それでもなお冥府に対する彼女の関係が完全に断たれていたわけではない。しかし東洋諸民族の偉大な母性神たちは、みな破壊者であるとともに生産者であり、死の女神であると同時に生命と受胎の女神だったようである。そういう次第で、われわれのモティーフにおける、願望がその反対のものによって代償されるということは、原始の同一物に還元せられるのである。
さて以上と同じ吟味が、どこから選択ということが三人姉妹の神話に入り込んできたか、という疑問に答えてくれる。ここでも願望逆転が行われたのである。必然、宿命の代りにここには選択があるのだ。このようにして人間は、思考上は既に承認している死を克服する。これ以上強烈な願望充足の勝利は考えられまい。実際には強制に従うよりほかはないところで選択する。そして選択されるものは、怖ろしき女神ではなくて、最も美しい、最も渇望に値する女神なのである。
もっとくわしく見つめれば、むろんこの原始神話歪曲も充分徹底的ではなく、その本体をちらつかせてしまうような痕跡がなくもない。自由に三人の姉妹の中から選ぶといっても、それは本来決して自由な選択ではない。なぜなら、例えばリア王の場合のように、ありとあらゆる不幸がその選択から発生することを避けようと思っても、必ず三人目の女を選ばなければならないからである。死の女神の代りに登場した最も美しい最も優れた女神といえども、無気味なものを匂わせる特徴をとどめているのであって、さればこそわれわれもその特徴を手がかりに隠されたものを推測することができたのである《*》。
* アプレイウスのプシケェもまた死への関係を思い出させる特色を沢山持っている。彼女の結婚式は葬式のように準備せられ、彼女は冥界まで下り、それから、死者のような眠りの中に沈まなければならぬのである(O・ランク)。
春の神、および『死の花嫁』としてのプシケェの意味については、A・チンツォォの『プシケェとエロス』(ハレ、一八八一年)を参照せよ。
別のグリム童話(一七九番、『泉のほとりの鵞鳥飼いの少女』)には、灰かぶり姫と同じく、三人目の娘の美しい姿と醜い姿との交替がみられるが、おそらくここにその二重性の(代用以前と以後との)暗示を認めてよかろう。この三人目の娘はリア王の場合と殆んど同じ試みをうけて父親から斥けられる。彼女は、どんなに父親が好きかを他の姉たちのように口にいわなければならないのだが、彼女はそれを塩と比較するより外に愛の表現を知らぬのである(ハンス・ザックス博士の好意ある教示による)。
以上、われわれは神話とその変遷とを追尋して、その秘められた理由を示しえたと思う。さていまは詩人がこのモティーフをどう利用するかに関心を寄せてしかるべき頃合でもあろう。われわれがうける印象からいうと、詩人たちにおいてはもとの神話へとこのモティーフが還元せられて行くようであって、その結果、歪曲によって弱められた神話の感動的な意味がふたたびわれわれによって感じとられるのである。詩人がわれわれに与えるあの深い勁い印象は、部分的には原型への復帰であるところのこの歪曲還元のためであるかもしれない。
誤解を避けるためにいっておくが、私はリア王の戯曲が二つの賢明な教訓を――すなわち、生存中その財産と権利とを放棄すべきではないということ、また阿諛追従を真にうけてはならないということ――厳しく教えこもうとしていることに、とやこういおうとするものではない。これらの警告或いはこれと似たり寄ったりの警告は実際に作品を一読すれば明らかなのだが、このドラマの圧倒的な印象をこういった思想内容の印象から説明したり、或いは、詩人の個人的諸動機がこれらの教訓を見物人に吹きこむという意図に尽きているなどと思ったりすることは、私には全然不可能だと思われる。また詩人は、恐らくわれとわが身に味ったらしい忘恩の悲劇をわれわれに見せようとしたのだし、そしてこの戯曲の効果は芸術的衣装という純形式的な契機に基づくというような説明も、三人姉妹選びのモティーフを正しく評価することによって、われわれに啓かれるような理解にとって代りうるものではないと私には思われるのである。
リア王は老人である。それ故に三人姉妹はその娘として登場するということはさきにいった。極めて多くの効果的な戯曲的なエネルギーが流れ出ることもできたのであろうと思われるこの父子関係は、この戯曲ではこれ以上に利用されてはいない。しかしリア王は単なる老人ではなくて、死にかけている人間でもある。そしてこれによって、遺産分配という奇妙な前提も、別段不審なものとも思われなくなる。しかし、死の手に落ちかかっているこの老人は、女の愛を断念しようとはしないのだ。彼は自分がどんなに愛されているかを聴きたがるのだ。この辺で、近代戯曲における悲劇のクライマクスの一つ、つまりリア王がコーディーリァの屍を舞台に運んでくる、あの震撼的な最終場面を思い出していただきたい。コーディーリァは死である。状況を逆にしてみれば、彼女は、われわれに理解しうるもの、親しいものとなる。すなわちそれは、ドイツ神話の『ワルキューレ』のように、死せる英雄を戦場から運び去る死の女神なのである。原始神話の衣をまとった永遠の叡智が、老人に、愛を断念し、死を選べ、死ぬという必然性と和解せよ、と勧告しているのである。
詩人は、三人姉妹選びを老衰して死にかかっている者の手で行わせることによって、古いモティーフをわれわれに親しいものとする。彼が願望逆転によって歪曲せられた神話をもって企てたこの復帰的改作は、その古い意味をこれほどまでにも透き通らせるので、われわれにもどうやら、このモティーフに現われた三女性の表面的な譬喩的な解釈が許されるのである。こういうこともできるだろう。ここに描かれている三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女に対する三通りの関係なのだと。或いはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷して行く三つの形態であるということもできよう。すなわち、母それ自身と、母の像を標準にして男が選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。しかしかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努めるのだ。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神のみが、彼をその腕に迎え入れるであろう。
ミケランジェロのモーゼ
私は自分が芸術研究家ではなく、ずぶの素人であることを予め断っておきたい。私はしばしば自分が、芸術作品の形式上・技術上の特色(芸術家が第一に重要視するのはいうまでもなくこれだが)よりも、その内容に一層強く惹きつけられることに気づいてきた。芸術の数多くの手段や色々の効果に対して、元来私には正確な理解力が欠けている。私のこの試論に寛大な御批判を願うためにまずこのことをいっておかなければならない。
しかし芸術作品、特に文学と彫刻作品とは私に強くはたらきかける。そういうことは絵画ではあまりない。私は適当な折があると、ついそれらの前に長らく立ち止まる気になった。そして私なりにそれらを理解したいと思った、つまりそれらは何によって私にはたらきかけてくるのかを納得しようと思った。それができない場合、たとえば音楽などでは、私は殆んど愉快を感じない。私にはある合理主義的な、もしくは分析的な素質があって、そのせいか、自分が感動していながら、しかも他面その感動の理由、感動の根拠がわからないままでいるということに対して腹立たしい気持になるのである。
ところがそのようにして感動の原因を探っているうち、私は、二、三のまさに最も雄大な最も圧倒的な芸術作品ほどかえっていつまでもわれわれの理解力には不解明のままに残っているという一見逆説的な事実に気づくようになった。私はそれらの作品に驚嘆する、自分がやられるのを感ずる。が、それらが何を現わしているのかはいうことができないのだ。寡聞にして私は、このような事実が既に気づかれているのかどうか、それとも、われわれの悟性がそのように理解しあぐむということが、芸術作品の喚び起すべき最高の効果のためには是非とも必要な条件でさえあるなどといっている美学者がいるのかどうかも知らない。よしんばそんな風であるにしろ、私にはどうもそんな条件を信ずる決心はつきそうにない。
とはいうものの私は、芸術鑑賞家や熱狂家たちは、われわれに向ってそういう作品を讃美するとき、実はいうべき言葉を知らないのだろう、などといっているのではない。それどころか、彼らはなかなかうまくいうことができると思っている位だ。しかしそういう芸術家の傑作に対しては、大抵みんなが何か他人と違ったことをいい、そして誰も、素朴な鑑賞者の疑問を解いてくれるようなことはいってくれないのである。私見によれば、われわれをそれほどにも力強く捉えるものは、何といおうとただ芸術家の意図あるのみだろう。(むろんそれは芸術家がその意図を作品中に表現し、それをわれわれに捉えさせることに成功した場合にかぎるわけだが。)単なる知的理解だけではどうにもならないことは私も重々承知してはいる。芸術家を創造へと駆り立てた当の原動力を生み出したのと同じ感動状態、心的状況がわれわれの側においても再びよび醒まされなければならないわけだが、しかしなぜ芸術家のそういう意図というものは、心的生活の他のなんらかの事実のように、口で述べることのできないものなのか、なぜ言葉で捉えられないものなのか。これは多分、偉大な芸術作品においては分析を経ずしてはうまくゆかないことなのであろう。なぜかというと、もし作品にして芸術家の諸々の意図や感動の効果的表現であるならば、作品それ自体はかかる分析を可能にするものでなければならぬからである。ところで、この意図を探り当てるためには、まず第一に私は芸術作品のうちに表現せられたものの意味と内容とを見つけ出さなければならぬ。従って、そのような芸術作品が解釈を必要とすること、そしてこの解釈をなしとげた後に初めて、なぜ私がそれほどにも強い印象を受けたかというその理由を知ることができるのだ。しかし私自身は、幸にそういう分析が成功しても、そのためにこの印象が弱められるようなことはあるまいという見込みを懐いているのである。
さて試みに三世紀以上も昔のシェイクスピアの傑作『ハムレット』のことを考えてみよう《*》。精神分析学の文献を色々調べてみると、この悲劇の効果の謎は、精神分析がこの素材を、例のエディプスの主題に帰着せしめたことによって初めて解かれたという説に左袒したい。しかしそれ以前にどれほど沢山の種々雑多な、互いに相容れぬ解釈が試みられたことであろうか。主人公の性格と詩人の意図に関してどれほど沢山の説があったことであろう。一体シェイクスピアは、ハムレットという人物を描き出したことによって、病人に対して、或いは社会に生きて行く能力のない劣等者に対して、或いは現実世界では余りにも人の善すぎる理想家に対してわれわれの同情を惹こうとしたのであろうか。そしてこれらの解釈の大部分はわれわれに鼻白むような想いをさせ、作品の効果をわれわれに説明してくれることには何らの寄与もなしえず、かえってわれわれに、作品の魅力を唯ただ思想の印象と言葉の光耀とに基礎づけてみるようにさせる。それにも拘らず、まさにこれら幾多の努力こそ、この作品の魅力の更に深い泉を見つけだすことの必要が感じられていることを、われわれに語り告げているのではなかろうか。
* 初演は恐らく一六〇二年。
ミケランジェロ作の『モーゼ』像も、これら謎にみちた偉大な芸術作品の一つである。これはミケランジェロがローマ市ヴィンコリの聖ピエトロ寺院の内部に置いた大理石に刻み上げた巨像である。周知の如くこれはミケランジェロが、勢力を揮った法王ユリウス二世のために建設する筈だったというあの巨大な霊廟のほんの一部分にすぎない《*》。
* ヘンリー・トーデによれば、この石像は一五一二年から一六年までの間に刻み上げられたということである。
これこそ「近代彫刻の王冠」(ヘルマン・グリム)だというような、この石像についていわれた言葉を読むたびに私はいつも喜びを感ずる。というのは、およそいかなる造型美術品からも、私は、この作品から受ける以上に強い印象を受けたことがないからである。一体私はこれまでに、何度美しくもないコルソ・カヴールの急な階段をのぼり、ひっそりと立っている礼拝堂を訪れて、モーゼの侮蔑と憤りとを浮かべた眼差しをわが身に受けたことであろうか。そして、あたかも私自身が彼の怒りの眼差しの向けられている愚民共の一人ででもあるかのように、内陣の薄明りから外へ遁れ出たこともいく度かあった。彼らは、確信というものを、持ち通すことができず、何ものをも待とうとせず、信じようとせず、まやかしの偶像を再び手に入れたとなると有頂天になって歓呼の声を挙げたのであった。
しかしなぜ私はこの塑像を「謎に充ちた」というのか。これがモーゼを、聖なる十戒を記した板を携えたあのユダヤの律法者を表わしていることは解り切った話である。それだけは確かなのだが、それ以上のことになると確かではない。ごく最近(一九一二年)になって初めて、ある美術評論家(マックス・ザウアーラント)が、次のような意見を発表した位のことにとどまっているのだ。「およそ世界のいかなる芸術作品についても、羊牧神の頭をもったこのモーゼに関して位、相矛盾した意見が述べられているものはない。既にこの像の単純な解釈さえも、全くの矛盾の海の中を泳いでいるという有様なのである。……」。で、私は、五年ほど前にでたある論文集を基にして、モーゼ像の解釈にはいかなる疑問があるかを述べてみるとしよう。そして、この芸術作品を理解するのに本質的な、役に立つものが、それらの疑問の背面に隠されていることを示すのはさして困難ではないように思う《*》。
* ヘンリー・トーデ、『ミケランジェロ――その作品に関する批判的研究』、第一巻、一九〇八年。
ミケランジェロのモーゼは、胴体を前にむけ、力強い髯をもつ頭部と眼差しとを左方に向けた坐像である。右足は静かに地面に置いているが、左足はもたげられて、地に触れているのは足指だけである。右腕は聖板と髯の一部とに接触している。左腕は膝におかれている。これ以上精しい記述を行おうとすると、私は結論を予めいってしまうことになる。これまで色々の人がモーゼ像について書いてきたことは、時として奇妙に明確さを持たない。理解せられなかったことは、精確に見られなかったことでもあり、或いはまた正しく記述せられてもいない。ヘルマン・グリムは、「その腕の下に十戒の表のある」右手は「髯をつかんでいる」といい、同じくリュプケは「彼は興奮して右手で立派な、見事に垂れ下っている髯を握っている……」といい、シュプリンガーは「一方の手(左手)をモーゼは躯におしつけ、もう一方の手で彼は無意識にそうしているかのように、堂々と波うつ髯を掴んでいる」といい、C・ユスティは、「丁度文明人が興奮しているとき時計の鎖を弄ぶように」、(右)手の指で髯を弄んでいるとみる。この髯を弄んでいることはミュンツもまた指摘している。ヘンリー・トーデは「脇に立てた板の上にある右手の、落ち着いた、しっかりとした形」について語る。彼は右手に、ユスティやボワトオのように、興奮の弄びを認めない。「この手はこの巨人が頭をわきに向ける前と同じ姿勢で、現在も髯を掴んでいる。」ヤーコプ・ブルクハルトは「有名な左手は結局のところ、この髯を身体に圧しつけておく以外、別に何もしていない」と非難している。
こんな具合で手の描写一つだって諸家の見解が一致していないのだから、塑像の個々の特徴の把握が種々雑多であるのも一向驚くに足らない。ところで私の思うのに、われわれはモーゼの顔の表情をトーデ以上に見事に描き出すことはできなかろう。彼は「憤怒と苦痛と軽蔑とのあの混合」をそこに読みとる。「憤怒は脅かすように寄せ合わされた眉根に、苦痛はその眼差しに、軽蔑は前につき出された下唇と引き寄せられた口の端に。」ところが他の讃嘆者たちはまた別の眼をもって眺めたのに違いない。たとえばデュパティはこう判断した、「この荘厳な顔は、巨大な精神を辛うじて覆っている透明なヴェールにすぎぬように思われる《*》。」これに対しリュプケはこう考える、「果してこれより高い知性の表現が頭部にかつて描出せられたことがあったであろうか。皺の寄せられた額には、途方もない憤怒と、すべてを貫かねばやまぬ精力とが最高度に表現せられている。」この顔の表情の解釈においてギヨーム(一八七五年)はもっと違っている。彼はそこに興奮など認めず、「ただ誇りかな単純さ、活きいきとした威厳、信仰の力勁さ」を見出す。「モーゼの眼差しは未来に走っているのであろう。彼は彼の民族の繁栄を、彼の十戒の不変なることを予見しているのであろう。」同様にミュンツも、「モーゼの眼差しは、人類の上を遠く超えて漂い、彼のみが認めた神秘に向けられている」といっているし、のみならずシュタインマンにとってこのモーゼは「もはや峻厳な律法者でも、エホバの怒りをもてる罪悪の怖るべき敵でもない。彼は老いさえも近付きえぬ王者の如き僧侶である。祝福しつつ、予言しつつ額に永遠の照り返しを受け、その民族に最後の別れを告げる僧侶なのである。」
* トーデ、上掲書、第一章、一九七頁。
そうかと思うとまた、ミケランジェロのモーゼからはそもそも何の印象をも与えられないというような人もある。またそれを正直に表明している人々もある。現に一八五八年の『クォータリー・リヴュー』の一批評家はこういっている、「全体の着想に、ある無意味なものがあって、それが全体を自足的なものにしようとする考えを妨げている。」また更に、モーゼに何ら感嘆すべきものを見出さぬどころか、むしろ反撥を感じ、形態の野蛮さと頭部の動物じみた点を非難する人もあると聞いて私はひどく驚かされた。
では実際この巨匠は、余りにも不明瞭な、或いはあまりにも曖昧な文字を石に書いたために、かくも種々様々な読み方を可能にしたのであろうか。
しかしここにある別の疑問が頭をもたげてくる。その疑問の前には、上述したような疑問の数数はすべてその影が薄くなってしまうのである。それはこうだ、一体ミケランジェロはこのモーゼ像において、ある「時間を超越した性格像、感情像」を表現しようとしたのであろうか、それとも、モーゼの生涯中の一定の、そしてもしそうだとしたらその極めて重要な瞬間におけるこの英雄を表現しようとしたのであろうか。批評家の殆んどはこの第二の見解を採っている。そして彼らには、ミケランジェロがここに永遠のものとしたこの場面を、モーゼの生涯から挙げ示すこともできるのだ。つまりそれは、彼が神に十戒板を授けられたシナイ山から下りてきて、ユダヤ人たちが彼の留守の間に作って置いた黄金の犢《こうし》のまわりを歓呼の声をあげながら踊り狂っているところを目撃した瞬間なのである。彼の眼はこの光景に釘づけにせられている。そしてこの光景こそ、いま彼の顔付に表われている諸々の感情を、この巨大な存在を忽ちのうちに最もすさまじい行為へ移すであろうその感情を喚び起したものなのだ。ミケランジェロは、この最後のためらいの、嵐の前の静けさの瞬間を選び出したのだ。次の瞬間、モーゼは跳び上るだろう――左足は既に地面からもち上げられている――板を地面に叩きつけるだろう。背信者への憤怒を爆発させるだろう。
が、こういう解釈では一致していても、その細部においてはまたしても諸説紛々という有様なのである。以下それをあげて見よう。
ヤーコプ・ブルクハルト――「このモーゼは、黄金の犢崇拝を瞥見して、今まさに跳び上ろうとしている。その瞬間のモーゼであろう。彼の姿には次ぎの怖ろしい躍動への準備が動いている。彼に与えられている肉体的力から、およそひとが、戦慄なしには想像しえないような強力な運動への準備が。」
W・リュプケ――「恰も現にこの炯々たる両眼が、黄金の犢崇拝の涜神行為を見てでもいるかのように、ある内的な動きが烈しくこの像全体に閃き通っている。激しく心を動かされて、右手で彼は見事に垂れ下っている髯を掴む、恰ももう一瞬間だけ自分自身を抑えようとでもいうかのように。しかし、それも徒労に終って、抑えただけ一層猛烈に彼は爆発するのだ。」
ある疑念の表明とともにシュプリンガーもこの見解に同意している。われわれはのちに彼のこの疑念を問題にすることになろう。「力と憤怒に灼かれて、主人公は辛うじてその内心の興奮を抑えているにすぎぬ……だからわれわれは思わず知らず劇的な場面を想像してしまう。そしてこう考える、モーゼは、黄金の犢崇拝を目睹して憤怒のあまり跳び上ろうとしている。この像はその瞬間を表現しているのだと。しかしこれがミケランジェロの真意であろうとは思われない。というのもモーゼは、上部建築《*》にある爾余五つの坐像と同じく、主として装飾的な効果を挙げるという意図の下に刻まれたものだからだ。だがしかしこの解釈も、モーゼ像の生動性と個性との素晴らしい証左としてはこれを妥当なものとしてよろしい。」
* すなわち法王の霊廟の。
黄金の犢の場面という解釈にこそ賛成はしないが、まさに跳び上って行為へ移ろうとしているモーゼだという本質的な点では同意見の人も若干ある。
ヘルマン・グリムは、「ある高貴さが、ある自己意識が、ある感情がこれを(この像を)充たしている、恰も、天の雷さえもこの男の意の儘になるのだが、その雷を解き放つ前に、今まさに滅ぼそうと思っている敵が彼に敢えて襲いかかってくるかどうかを待ちながら、じっと自制しているとでもいうように。彼はそこに腰を下している、恰もまさにとびかかろうとしているかのように。頭を誇りかに両肩から上へ伸ばし、腕に十戒板を抱えたその手で、重い流れをなして胸に垂れている髯を掴みながら、深く息づいている鼻孔と、まさにその唇の上には言葉が慄えているかのような口つきで」と述べている。
ヒース・ウィルソンはいう、モーゼの注意力は何ものかによって刺戟せられている。彼は今まさに跳び上ろうとしてる。が、まだそれをためらっている。憤激と軽蔑の混合している眼差しには、いまのところはまだ同情に変る可能性もある。
ヴェルフリーンは「抑圧せられた動き」ということをいっている。ただここでは抑圧の根拠はモーゼ自身の意志のなかにある。つまりこれは爆発寸前の、すなわち跳び上る寸前の自己抑制の最後の瞬間だというのだ。
C・ユスティは最も詳細に黄金の犢を認めたところに解釈を基礎づけて、従来誰にも顧みられなかった塑像の個々の細部を、この観点に連関させている。彼は今にも石の座に滑り落ちそうになっている二枚の十戒板の、そういわれれば実際その通りの状態にわれわれの注意を向ける。「従って彼が、不吉な予感の表情で眺めているのは、騒ぎの聞える方向であるか、或いは、麻痺させる眠りのように彼を撃った忌むべき光景そのものであるか、そのいずれかであろう。嫌悪と苦痛とに苛まれて彼は腰を下してしまった《*》。彼は山にまる四十日間いたのである。だから疲れている。そういう状態だから、怖しいもの、巨大な運命、犯罪は、いや幸福すらも、なるほど一瞬にしてそれとはわかろうが、しかしその本質・深さ・結果まではもとより咄嗟にわかろう筈はない。瞬時、彼は自分の事業が水泡に帰してしまったのではないかと思う。彼はこの民族に絶望する。内心の激動は、そんな瞬間には、我知らずするふとした動きに現われるものだ。彼は右腕に抱えていた二枚の板をつい石の腰掛に滑らせてしまう。板は前膊で胸のわきにおさえつけられて、角《かど》のところで落ちずにとまった。しかし手は腕と髯とをさわっている。もし首を右にねじ曲げたら、手は髯を左側に引き、この幅の広い男性的な飾りであるところの髯のシンメトリーは崩れてしまうであろう。指は丁度文明人が興奮している時に時計鎖を弄ぶように、髯を弄んでいるようにみえる。左手は下腹部の長袍のなかに入っている。(旧約聖書では内臓は情念の場である。)しかし左足は既に後に引かれ、右足は前に出されている。次の瞬間彼は跳び上るだろう。肉体の力は感情から意志へととび移るだろう。右腕は動き出すだろう。板は地に落ち、血の流れが背教の汚辱を償うだろう。……」「ここにあるのはまだ行為の緊張した瞬間ではない。まだ魂の苦痛が殆んど心身を麻痺させんばかりに支配している。」
* 坐像の脚部にマントを丁寧にまきつけてあることが、ユスティの解釈のこの最初の部分を根拠なきものとしていることに注意せられたい。むしろ心静かに何ら期待するところもなく坐っているモーゼが、突然何事かを認めてびっくりしたところが表現せられようとしたのだとする方が当っているであろう。
フリッツ・クナップは殆んどこれと同じことをいっている。ただ違うのは、彼の方はユスティによって表明せられた疑問から初めの方の状況を全くとりのけている点と、ユスティが示唆した板の動きを更に徹底的に追求している点とである。「地上の騒ぎが、つい今しがたまで神とたった二人きりでいた彼の注意を逸らせる。彼は騒音を耳にする、歌い踊る声が彼を夢想から呼び醒ます。眼と頭がそちらの方へ向けられる。驚き、憤怒、荒々しい情熱の怒濤が、その瞬間この巨人の内部を走りぬける。十戒板が滑り落ち始める。板は地に落ち壊れてしまうだろう、もし彼が、雷の如き憤りの言葉を、裏切った民衆の群に投げつけようと跳び上ったとしたら、板は地に落ちて、壊れてしまったことだろう。……この極度の緊張の一瞬間が選ばれているのである。……」つまりクナップは行為への準備という点を強調して、このように烈しい興奮があってみれば、抑制を描こうとしたものとは思われないと考えているわけである。
このようなユスティやクナップの試みた解釈がなかなかうがったものであることを否定しようとは思わない。彼らがこういう効果をあげえたのは、彼らが塑像の全体印象だけに立ち止まらず、その個々の特徴を重視したからなのである。彼ら以外の者はその全体印象に圧倒せられ、いわばぼうとなってしまって観察を蔑ろにしてしまうので、そういう細部にまで眼が行き届かなかったのである。坐像の全体が前に向いているのに、眼と頭だけがはっきりとわきに向いていることは、何か突然この休息している男の注意を惹くものが認められたのだという仮定と一致する。足が地面からもたげられていることは、跳び上る準備と解釈するよりほかはないし《*》、また何といっても板は極めて神聖なものであって、どこかそこらの隅に適当に突込んでおいてもいいような単なる添え物とはわけが違うのだから、板のこの全く奇妙な位置は、やはりそれは、本人の興奮の結果滑り落ちたのであって、今にも地面に落ちかかっているのだという仮定によって説明されるより他はない。つまりそういうわけで、どうやらわれわれは、このモーゼ像はこの男の生涯のある一定の重要な瞬間を現わしているといってよく、またこの瞬間の意味をとり違える危険もなさそうに思う。
* メディチ礼拝堂のジュリアノの静止的な坐像でも、左足は同様もたげられているのであるが。
ところがトーデの二つの意見が、既に手に入れたと思いこんでいたものをわれわれから再び奪ってしまう。「私には板が滑り落ちそうになっているとは見えない。板はしっかり止っていると思う」と彼はいっている。彼は「立てた板の上に右手は静かにしっかりと載っている」としている。成程、自分の眼でよく眺めてみると、われわれはトーデの意見を全面的に正しいとしないわけには行かない。板はしっかりと立てられていて、滑り落ちそうな気配は見えぬ。右手が板を支えているから、或いは板に凭れかかっているからだ。しかしむろん右手が板を抑えているというだけでは板が立っていることの説明にはならないが、しかし板が立っていては、ユスティその他の人々の解釈には都合がわるいことになる。
二番目の意見はそれよりも更に決定的なもので、トーデは「この像が六つの像の一つとして考えられたものであること、また坐像として作られていること」を指摘している。「これら二つの事実は、ミケランジェロがある一定の歴史的瞬間を捉えようとしたのだという仮定と矛盾する。なぜなら、第一についていえば、人間性(活動的生、静観的生)の典型として互いに相並ぶ坐像をつくるという課題が、特定の歴史的事件という観念を排除してしまうからである。また第二に関しては、坐っているところを捉えること(霊廟全体の芸術的構想に制約された)が、あの事件の性格に、つまりシナイ山から宿営地へ下りてくることに矛盾するからである。」
トーデのこういう反対説を採用するとすれば、私が思うのに、われわれはこの反対説を更に有力なものとすることができそうだ。このモーゼは五つ(後の設計では三つ)の他の像とともに、霊廟の台座を飾ることになっていた。実際には作られなかったが、パウロの像がこのモーゼ像の対となることになっていた他の一対、活動的生と静観的生とは、現存しているが、極めて惨めなものとなっているあの記念建築物に、レア及びラケルとして実現せられた。もっともこれらは立像としてである。このようにモーゼ像が一つの群像体に属しているという事実は、この像はいま直ぐにもその席から跳び上って、いわばそこから走り出して、独りで大騒ぎを演ずるだろうというような期待を見物人の心に喚び起すようなものであるべきだという例の仮説を不可能にする。そこでもし他の諸像がまさしくその通り、そんな荒々しい行為へと身構えたりなどしていないのに――また実際にそうはありえないが――まさにその中の一つだけが、今にも席を蹴って仲間を見棄ててしまいそうな、つまり霊廟全体のまとまりによって制約せられている使命を拒みそうな、そういった幻覚を与えるとしたならば、これは見た眼にはなはだ不都合なことであろう。こんなことは、よほどさし迫った必要でもなければミケランジェロのような大芸術家が仕出かすはずのないような、そういった不手際であると考えざるをえない。ひとつでもそんな荒っぽい像があったとしたら、その一体が霊廟全体の喚び起すべき気分とそぐわぬこともはなはだしいといわなければなるまい。
そういうわけで、このモーゼに跳び上られては困るのである。モーゼは、他の像と同じように、また計画せられていた(が、ミケランジェロによっては完成されるに至らなかった)法王自身の像と同じように、崇高な静止状態のうちにとどまりうるものでなければならぬ。が、もしそうだとすると、現にわれわれが見ているこのモーゼは、シナイの山を下ってきて、民衆の裏切りを認め、烈しく聖板を投げて壊してしまうあの憤怒に捉えられた男を表わしたものであることはできない。そして事実私は、かなり昔いくどかヴィンコリの聖ピエトロ寺院を訪れた時に、今にもこの像が身を起して跳ね上り、板を地面に投げつけて怒りを爆発させるのがみられるだろうと予期して、この像の前にたたずんだ時の自分の失望を思い出すことができる。そんなことは全然起らなかったのだ。その代りに大理石像はいよいよ不動のものとなって行った。大理石像からは、殆んど威圧的な神聖な静けさが流れ出てくるのであった。そこで私は、どうやらここには何かいつまでも変らずこのままにとどまっていることのできる何物かが表現せられているのだ、このモーゼは未来永劫に亙ってここにこうして坐って、こうして憤っていることだろうと感ぜざるをえなかったのである。
しかしこのモーゼ像は、偶像の犢を目撃して、憤りを爆発させる寸前の瞬間を捉えたものだとする解釈を放棄しなければならないことになると、われわれにはもはや、この像を性格像とする見解を採用するよりほかにまず手がないことになる。さてそうなるとトーデの判断が最も忠実に、また最も見事に像の動きの諸動機を分析したものに見えてくる。「いつもと同様、この場合もまた彼(ミケランジェロ)の問題は、性格典型の描出なのである。彼は人類の情熱的な指導者の像を、神聖な律法者としての使命を自覚した者が人間の無智な反抗に遭遇しつつあるところの像を創り上げようとするのである。このような行動的人間を特徴づけるには、その意志力を鮮やかに描き出すより他に手段はなかったのだ。そしてこれは、頭を曲げたところや、色々の筋肉の緊張や左足の位置などに現われてくるような、外見上の平穏の蔭にちらつく動きを捉えてみせることによって可能とせられたのであった。これらはメディチ礼拝堂のジュリアノの『活動人』に見られるのと全く同じ現象なのである。この一般的性格描写は、しかしここでは、人類を教育するほどの天才が、一般人と接触する時に起る葛藤を際立たせることによって、一層鋭いものになっている。憤怒、軽蔑、苦痛の感情はのっぴきならぬ表現に到達している。こういう風に表現しなければ、これほどの超人の本質は明らかにすることができなかったのだ。歴史像ではなく性格像を、――反抗する俗世を屈服せしめる不敗の力をもった性格像をこそミケランジェロは創り上げたのである。既に聖書中に記されている色々の特徴や、彼自身の内的体験、ユリウスの人格からうけた諸印象、その上どうやらたしかにサヴォナロラの闘争活動からうけた感動などをそこに籠めて。」
クナックフースの見解は、ほぼこの議論に近いものとすることができる。つまり彼は、モーゼ像の与える感動の主な秘密は、内心の火熱と、外的姿勢の平穏との間の芸術的対立にあるといっている。
私としてはこれといってトーデの説明に反対する理由はもたないが、しかし何か物足りない気持がする。多分それは、主人公の魂の状態と、彼の姿勢のうちに表現せられている「見かけだけの平静さ」と「内面の激動」の対立との関係をもっと突込んで説明できまいものかという気持なのである。
私が抑々心理分析などということについて何事かを耳にすることのできたずっと以前に聞き知ったことだが、ロシアの一芸術鑑識家イワン・レルモリエフ(その最初の諸論文は一八七四年から七六年にかけてドイツ語で発表せられた)が、多くの絵画の、これまで普通にはその作者とせられてきた画家の再吟味を行い、本物と模写とを確実に区別することを説き、それまでその絵に貼られていたレッテルを剥いで新しい芸術家の作品と鑑定することによって、ヨーロッパ各地の美術館に革命をまき起したことがあった。彼は、絵の全体印象や主要な特徴を度外視せよといい、第二義的な細部の、たとえば指の爪、耳朶、光輪、その他これまで見過されていたような事柄など、つまり模写画家がそこまで正確に模写しなくともと考えたような部分、しかも芸術家たる者ならば彼独特のやり方で描き上げるような部分、そういう些細な点の特色的な意義を強調することによって、この仕事を成し遂げたのである。ところがこのレルモリエフというロシア名は実は偽名で、本当はモレルリというイタリアの医者であった。私はあとでこのことを知ってひどく興味を覚えた。この人は一八九一年イタリア王国元老議員として死んだ。私は彼のやり方が医学的精神分析技術にきわめて近いものだと思う。精神分析もまた普通大して重要視せられていないような、或いは余り注意せられていないような諸特徴から、観察の残り滓から、秘密を、隠されたものを判じあてるのが常である。
ところでモーゼの像に戻ると、ここには二箇処、従来観察せられなかった、いや碌にまだ正しく記述せられさえしなかった細部がある。それは、右手の恰好と、二枚の板の位置とである。この手は、非常に風変りな、無理な、何とか説明されたがっているような具合に、板と――憤れる英雄の髯との間をつなぎ合わせているといってよかろう。この手が、小指の先を板に置きながら、他の指を髯のなかにつっこんで、髯の巻毛を弄んでいることは既にいった。ところが明らかにこれは正しくはない。この右手の指は何をしているのかをもっと念入りに見て、また指が弄んでいる髯を正確に記述することが必要である。
よく見るとはっきり次ぎのようになっているのだ、――親指は隠れていて、人差指だけが髯に実際に触れている。人差指は柔い髯の房のなかに極めて深く挿し込まれているから、髯の塊はその上と下に(抑えている指からみて頭の方と腹の方とへ)ふくらみ出ている。他の三本の指は、第二関節で曲って、胸壁に突き立てられている。これらの指は、髯の右手の端の巻毛に僅かに触れているだけで、巻毛はそのまま指を超えて垂れ下っている。これらの指はいわば髯を避けたようである。従って、右手は髯を弄んでいるとか、髯の中に突込まれているとかいってはならないわけだ。ただ人差指だけが髯の一部分の上に置かれていて、髯の中に深い溝をこしらえているだけのことだ。一本の指で髯を抑える。これはたしかに奇妙なそしてたやすく理解しがたい身振りである。
モーゼのこの有名な髯は、頬から、鼻下から、頤から、幾筋もの太い縄のようになって垂れ下っていて、房になったそれぞれの線は互いにはっきりと区別せられている。頬から生えている右手の一番外側の髯の房の一つは、重く圧しつけている人差指の上端まで流れて、そこで人差指におしとどめられる。この房は人差指と隠れている親指との間をくぐって更に下の方へ垂れ下っていると見ることができる。これに対応する左側の巻髯は殆んど進路を曲げられることなくずっと胸まで垂れ下っている。最も目立つ扱いをうけたのは、前述の左側の巻髯から内側へかけての、つまり中心線のところまでの幅を持った太い毛の房である。これは頭が左方に向いたのについて行くことができないので、余儀なく、ゆるやかに巻き上げられている弧状を、つまり内側右手の髯の房を横切る花環の一部分を成している。というのは、つまりこれが、中心線から左側に生えていて、本来は左半分の髯の大部分であるにも拘わらず、右の人差指によってしっかりと抑えられているということなのである。このため、頭部ははっきりと左に向けられているのに、髯はその大部分が右側に掻きよせられているようになっている。そして右手の人差指が抑えている丁度その箇処には、なにか毛の渦のようなものが出来上っている。ここで左側の巻髯は、右側の巻髯の上に横たわって、双方がこの無法な人差指によって抑えられている。この箇処をすぎて初めて、その方向を曲げられた毛の房がのびのびと自然の姿勢に返って、垂直に垂れ下り、やがてその端が膝の上の開かれた左手に受け止められているのである。
私は自分の記述が正確だなどと思い込んではいないし、またこの芸術家が髯にあるあの結ぼれの解決を容易にしてくれているかどうかについて敢えて判断を下す自信もない。しかしこのような疑いは抜きにしても、つぎの事実だけは間違いない、すなわち、右手の人差指の圧力が主として左の房のような髯の大半にかかっていること、そのために髯は頭と眼差しとが左側に向いた時、それと一緒に左の方へ向くことができなかったということで、これを承知した上で次ぎにこう質ねてみたいのだ、こういう構図は一体何を意味するのか、又この構図がこういう風になっているのはいかなる動機によるものなのであろうかと。もし本当にこれが線を描き出したり、空間を充填したりする単なる配慮からであり、そのことが作者に、左を眺めているモーゼの波打ち垂れ下っている髯の塊を右の方へ掻き戻そうという決心をさせたのだとしたならば、たった一本の指でそれを抑えるとは、そういうことのための手段としてはいかにも奇妙、いかにも不適切ではあるまいか。そしてまた誰かが何かの理由で自分の髯を反対側に押しやろうとする場合、指一本で抑えて髯の大半を他の半分の上に置きとどめておくなどという気になるであろうか。それともこんな、結局は些細な点は実は何事をも意味してはいないのであって、われわれは芸術家が気にもかけなかったことで頭を悩ましているのにすぎないのであろうか。
われわれはしかし、この細部にもやはりある意味があるという前提のもとに、更に考えを進めて行くことにする。そうすると、困難の数々を取りのぞいて、われわれにある新しい意味を予感させる一つの解決が出てくるのだ。モーゼ像において左の巻髯が右の人差指に抑えられているという事実はおそらく、右手と左半分の髯との間のある関係、現に認められているよりも以前の瞬間ではずっと密接なものであったらしいある関係の名残りとして解釈せられる。少し前には右手はおそらく髯を今よりももっとしっかりと握っていたのだ。手は髯の左端の方にまでのびていたのだ。そして現にわれわれがモーゼ像において見ている姿勢にまで手が退いたときに、髯の一部分がそれに従ってきて、こうしてすぐそれ以前ここに行われた一つの動作の証拠を残すこととなったのである。されば花環形を形成している髯はこの手が動いて行った軌道を示すものなのであろう。
そんな具合にわれわれは右手の後退運動を推定できそうに思う。するとこの一仮定が必然的に別の一仮定を招き寄せる。髯の軌跡によって証明せられた運動がその一部をなしているところのこの一動作を更に想像で補って行くと、われわれは無理なく、休息していたモーゼが民衆の騒ぎと黄金の犢の認知とによって突然驚かされたという、あの見解に連れ戻されて行く。彼は頭と波打つ髯を前に向けて、静かに腰を下ろしていた。手は恐らく髯を握ってはいなかったのだ。と、騒音が彼の耳を打つ。彼は頭と眼差しとをそちらの方へ向ける。そしてその情景を見、その意味を了解する。憤怒と激昂とが湧き上ってくる。なろうことなら跳び上って、裏切り者を罰し、やつけてやりたい。が、相手との距離が大きすぎるのを知って、激怒はその間に身振りとして彼自身の身体に向けられる。焦々とした、むずむずする手は、前に突き出されて、頭が向けられたときそれについて行っていた髯を掴む。指をぴったり合わせて親指と掌とでそれをぎゅっと締めつける。ミケランジェロの他の作品をたやすく思い出させるような、烈しさと力とに溢れた一ポーズだ。しかしそれから、――なぜか、どうしてかは分らぬが――気持の上に変化が起る。前に突き出されて髯のなかにもぐっていた手がすばやく引込められる。握りしめた手がゆるむ。髯は自由になる。指が髯から離れる。が指は余り深く髯のなかにつっこまれていたので、後退する際に左側の可成りの巻髯が右側に引き寄せられ、そこで、一番長い一番上にある人差指に抑えられて、右側の髯の房の上にとめおかれざるをえなかったのである。そしてこの新しい位置が――これはそれに先行する位置があって初めて正しく理解せられるのだが――現に見られるような形をとっているわけなのである。
今こそじっくりと考えてみるべき時だ。われわれは最初右手は髯とは別にあったと仮定した。それから烈しい興奮緊張の瞬間に、さっと左方へ動いて、髯を掴んだと仮定した。そして最後には再び後戻りして、その際一緒に髯の一部分を連れてきたと仮定した。われわれはまるでこの右手を自由勝手に動かしても差支えないように扱ってきたが、さてそういうことをしてもいいのであろうか。一体この右手は自由だったのであろうか。この手は聖板を抑えて、或いは抱えていなければならないのではないか。この手には重大な任務があって、そんなひとり歩きは禁じられているのではなかったか。更にまた、ある強い動機によってその最初の位置を見棄てたのだとしたら、何がまたこの手を引込めさせることになったのか。
新奇な難問が続出してきた。何といっても右手は聖板のものである。またわれわれはここで、先に推定せられた後退へと右手を促しえたような動機が、われわれに欠けていることを否定することもできないのである。ところでもしこれら二つの難問が一挙に解決せられるとしたら、そして、その時になって初めてこの経過全体が完全に明らかになるとしたら、まさに聖板に起ったその何事かが、また手の動きをも説明してくれるとしたら。
従来は別にこれを観察する必要はないと思われていたことが、この板に二、三認められる。(附図をみよ。)この板については、手が板に凭れているとか、手が板を支えているとかいわれてきた。この二枚の直角の重ね合わされた板は、その角《かど》のところで立っていることはたやすくわかる。近づいてもっとよくみると、板の下辺は、斜め前方に傾いた上辺とは違って作られているのがわかる。上辺は直線で限られているが、下辺はしかしその前方の部分に角《つの》のような突起があって、板はまさにこの突起で右の腰掛に接触している。この細部にはどういう意味があるのか。序でにいうとヴィーンの造型美術アカデミー所蔵品中の大石膏コピーには、この細部が全く誤って模写せられている。この角《つの》は聖書にいわれている通り聖板の本来の上辺を示すものであることは明らかだ。こういう四角な板は上辺だけが円く、或いは波形にせられているのが普通であるから、この板は頭を下にして立てられているわけである。これほどにも神聖な物の持ち方としては甚だ合点の行かぬことではないか。聖板は逆立ちをして殆んどその尖端で平均をとっているのだ。どんな形式上の動機がこういう形をとらせることができるであろうか。それともこのデテイルもまた作者にはどうでもいいことだったのであろうか。
さてこの板もまた、その直前に過ぎ去った一つの動作によってこの位置にきたものであって、またその動作は、さきに解明せられた右手の場処移動の結果起ったものであり、この動作はまたこの動作でのちになって逆に右手を後戻りさせざるをえなかったのだという解釈が成り立ってくる。すなわち、手に起ったことと板に起ったこととはつぎのようにしてひとつになったのだ。つまりまず初めにモーゼが静かに坐っていた時は、板を真直ぐ右腕の下に抱えていた。右手は板の下辺を掴んでいて、その場合は前方に出ている突起を支えにしていた。そんな風にすれば持ちやすいわけだから、これによってなぜ板が逆さまに持たれていたかが説明せられる。それから静寂が騒音によって乱される瞬間が来る。モーゼは頭を左に向けた。そしてその場面を見たとき、足は跳び上りそうになった。手は掴んでいた板を離す。そして左上方へ走って、手の怒りを自身の肉体で証明しようとするかのように、髯を掴んだ。今や板は腕で抑えられているだけになったので、腕はそれを胸壁に圧しつけていなければならなかった。しかし抑え方が不充分だった。板は前下方へ滑り落ち始めた。前には水平に保たれていた上辺は、前下方へ下って行った。下辺は支えを奪われて、その前方の尖端が石の腰掛に近づいた。もう一瞬間で板は、新たに見出された支持点を中心に一転回し、これまでの上辺がまず地面に達し、木葉微塵になっていたであろう。そうなっては困るから、これを予防するために、右手がさっと戻ってくる。掴んでいた髯を離し(髯の一部分は無意識裡に一緒に引張られてきた)どうやらやっと板の上縁を抑えて、その後側の、今では一番高くなった角《かど》の近くで板を支えた。このように、髯と手と、尖端で立たされた一対の板との、この妙にぎこちないひとかたまりは、手の烈しい動きと、唯ただそれに起因する諸結果に導かれて、こういう現在の形になったのである。だからもしこの過ぎ去った一動作の嵐の痕を逆に辿ろうとするならば、まず板の前の角を上へあげて、それを水平になるまで押し戻し、それから前下方の(突起のある)角《かど》を右の腰掛から離し、手をおろして、それを今や水平に保たれている板の下辺へもって行かなければならない。
私はこの説明をはっきりさせるために、ある画家にたのんで三枚の図を描いてもらった。図の第三番目は現在のままの像をうつしたものだが、他の二つは私の解釈が仮定する前二段階を描いたものである。第一図は静止段階、第二図は極度の緊張の段階、つまり今にも跳び上ろうとし、板から手を離し、板が滑り落ち始めているところだ。ここに注意すべきは、画家の手で補足されたこれら二つの推定図が、昔の幾人かの解釈者たちの意見の正しかったことを証明していることだ。ミケランジェロの同時代人コンディヴィは「ヘブライ人の君主にして族長なるモーゼは、瞑想する賢者の姿勢で腰かけ、右腕の下に十戒板を抱え、右手で頤を(!)支えている、恰も疲れ、悩みに充てる者の如くに」といっている。むろんこんな様子はミケランジェロの塑像に見うけられはしないが、しかしこれは第一図の基礎となっている推定と殆んど一致している。W・リュプケは他の観察者と同様に「心を動かされて彼は右手で見事に垂れ下っている髯を掴む……」といった。これはむろん、像の模写と照し合わせてみれば間違いであるが、われわれの第二図には一致する。ユスティとクナップとは、既にいったように、板は滑り落ちかかっていて、今にも壊れる危険にあると見た。彼らはトーデによって、板は右手によってしっかり定着されていると訂正せられなければならなかったが、もしも彼らが現在われわれが見ている像をではなくて、二枚の補足図が示しているような中間段階を記述したのだとしたら、彼らは正しかったわけである。これらの解釈者たちは現在あるがままの像から離れて、自らはそれとは知らずに、像の動きの動機を分析し始めていたのだとさえいえぬこともあるまい。そしてそういう分析によって、今われわれが彼らよりも更に意識的に、更に明確に示してみせたのと全く同じ結論に到達していたのだと考えることも不可能ではないのである。
この辺でこれまでのしめくくりをつけて見ることにしよう。このモーゼ像に感動を受けたいかに多くの人々の頭に、これは堕落したその民が偶像を中にして踊り狂っている光景を眺めているモーゼを現わしているのだという解釈が浮かんできたかをわれわれはよく承知しているのだが、この解釈は廃棄せられねばならなかった。なぜなら、この解釈を更に推し進めて行くと、次の瞬間にはモーゼは跳び上り、板を叩きつけ、復讐をやりとげるだろうと期待するということになってしまう。ところがこれは、他の三体或いは五体の坐像同様のユリウス二世霊廟の一部分品というこの像本来の使命にもとるからである。ところが今われわれにはこの一度放棄した解釈を再び取りあげることが許されるのだ。というのは、このモーゼは跳び上りもせず、板を投げつけもしないだろうからだ。われわれがこの像に見てとるのは、暴行への序曲ではなく、過ぎ去ったある動きの名残りである。憤怒の発作が起った時、むろんのこと彼は跳び上ろうとし、復讐しようとし、板のことを忘れそうになった。が、彼はその誘惑に打ち克った。今は彼は制御せられた激怒、軽侮とまざり合った苦痛のうちに、いつまでもこのまま静かに坐っていることであろう。彼はまた板を投げとばして、それを石に打ちつけて壊すこともないであろう。なぜならまさしくその板ゆえに彼は憤怒に打ち克ったからなのだ。板を救うためにこそ情熱を抑えたのだ。情熱的な激昂に身をまかせた時、彼は板のことを忘れて、それを抱えていた手をそれから離さざるをえなかった。板は滑り落ち始めて、すんでのところで壊れそうになった。このことが彼を我に帰らせた。モーゼは自己の使命を思い出し、その使命のために、感情を爆発させることを断念した。手は走り戻り、板がすっかり落ちてしまわぬ以前に落ちかかっているその板を救った。そしてそのまま彼のポーズは凝固した。ミケランジェロが大理石に刻み上げたのは、霊廟の守護者としての、そういうモーゼなのである。
この像には、垂直の方向に三様の層が表現せられている。顔面の表情には、像全体の支配的感情となった諸感情が現われている。像の中程には、抑制せられた動きの痕跡が見うけられる。しかし足は、恰も抑制が上から下へと順に進み下ってきたかのように、もと意図せられた行為の姿勢をとっている。今まで左腕には触れずにきたが、これも解釈を要するもののようだ。左手は優しい身振りで膝の上におかれ、愛撫するかのように、垂れ下った髯の末端を受けとめている。左手は、一瞬前に別の手が髯を乱暴に取り扱った償いをしようとしているかのような印象を与える。
ところで、こう異論をとなえる人があるかもしれない。成程その通りだろう、しかし、それではこれはつまり聖書のモーゼではないことになるではないか、聖書では実際に彼は憤怒の余り聖板を投げつけ、壊してしまったのだ。とすればこれは芸術家が勝手に作り上げた全然別のモーゼなのか。ミケランジェロはこの像を作る際に勝手に聖書の本文を改変し、この神人の性格を偽造したのか、ミケランジェロともあろう者がそんな勝手な、殆んど聖物冒涜といってしかるべきことを仕出かしたと考える自由が、果してわれわれにあるのだろうか、と。
黄金の犢の場面におけるモーゼの態度を描いている聖書の箇処は、つぎのようになっている。(お許しを乞うておくが、私は時代錯誤的なやり方でルター訳を使用する。)
(『出エジプト記』第三十二章)「七ヱホバ、モーセに言《いひ》たまひけるは汝《なんじ》 往《ゆき》て下《くだ》れよ汝《なんぢ》がエジプトの地《ち》より導《みちび》き出《いだ》せし汝《なんぢ》の民《たみ》は悪《あし》き事《こと》を行《おこな》ふなり 八彼《かれ》等《ら》は早《はや》くも我《わ》が彼《かれ》等《ら》に命《めい》ぜし道《みち》を離《はな》れ己《おのれ》のために犢《こうし》を鋳《い》なしてそれを拝《をが》み其《それ》に犠牲《いけにへ》を献《さゝ》げて言《い》ふイスラエルよ是《これ》は汝《なんぢ》をエジプトの地《ち》より導《みちび》きのぼりし汝《なんぢ》の神《かみ》なりと 九ヱホバまたモーセに言《いひ》たまひけるは我《われ》この民《たみ》を観《み》たり視《み》よ是《これ》は項《うなじ》の強《こは》き民《たみ》なり 一〇然《され》ば我《われ》を阻《とゞむ》るなかれ我《われ》かれらに向《むか》ひて怒《いかり》を発《はつ》して彼《かれ》等《ら》を滅《ほろぼ》し尽《つく》さん而《しか》して汝《なんぢ》をして大《おほい》なる国《くに》をなさしむべし 一一モーセその神《かみ》ヱホバの面《かほ》を和《なだ》めて言《いひ》けるはヱホバよ汝《なんぢ》などて彼《か》の大《おほい》なる権能《ちから》と強《つよ》き手《て》をもてエジプトの国《くに》より導《みちび》きいだしたまひし汝《なんぢ》の民《たみ》にむかひて怒《いかり》を発《はつ》したまふや」
……「一四ヱホバ是《こゝ》においてその民《たみ》に禍《わざはひ》を降《くださ》んとせしを思《おも》ひ直《なほ》したまへり 一五モーセすなはち身《み》を転《めぐら》して山《やま》より下《くだ》れりかの律法《おきて》の二枚《まい》の板《いた》その手《て》にあり此《この》板《いた》はその両《ふた》面《おも》に文《も》字《じ》あり即《すなは》ち此面《こなた》にも彼面《かなた》にも文《も》字《じ》あり 一六此《この》板《いた》は神《かみ》の作《さく》なりまた文《も》字《じ》は神《かみ》の書《しよ》にして板《いた》に彫《ほり》つけてあり 一七ヨシユア民《たみ》の呼《よば》はる声《こゑ》を聞《きゝ》てモーセにむかひ営《えい》中《ちゆう》に戦争《いくさ》の声《こゑ》すと言《いひ》ければ 一八モーセ言《い》ふ是《これ》は勝《かち》鬨《どき》の声《こゑ》にあらず又《また》敗《ま》北《け》の号呼《さけび》声《ごゑ》にもあらず我《わ》が聞《きく》ところのものは歌《うた》唱《うた》ふ声《こゑ》なりと 一九斯《かく》てモーセ営《えい》に近《ちか》づくに及《およ》びて犢《こうし》と舞跳《をどり》を見《み》たれば怒《いかり》を発《はつ》してその手《て》よりかの板《いた》を擲《なげう》ちこれを山《やま》の下《した》に砕《くだ》けり 二〇而《しか》して彼《かれ》等《ら》が作《つく》りし犢《こうし》をとりてこれを火《ひ》に焼《や》き砕《くだ》きて粉《こ》となしてこれを水《みづ》に撒《ま》きイスラエルの子《ひと》孫《》に之《これ》をのましむ」……
……「三〇明日《あくるひ》モーセ民《たみ》に言《いひ》けるは汝《なんぢ》等《ら》は大《おほい》なる罪《つみ》を犯《をか》せり今我《いまわれ》ヱホバの許《もと》に上《のぼ》りゆかんとす我《われ》なんぢらの罪《つみ》を贖《あがな》ふを得《う》ることもあらん 三一モーセすなはちヱホバに帰《かへ》りて言《いひ》けるは噫《あ》呼《ゝ》この民《たみ》の罪《つみ》は大《おほい》なる罪《つみ》なり彼《かれ》等《ら》は自己《おのれ》のために金《きん》の神《かみ》を作《つく》れり 三二然《され》どかなはゞ彼《かれ》等《ら》の罪《つみ》を赦《ゆる》したまへ然《しから》ずば願《ねがは》くは汝《なんぢ》の書《かき》しるしたまへる書《ふみ》の中《なか》より吾《わが》名《な》を抹《けし》さりたまへ 三三ヱホバ、モーセに言《いひ》たまひけるは凡《すべ》てわれに罪《つみ》を犯《をか》す者《もの》をば我《われ》これをわが書《ふみ》より抹《けし》さらん 三四然《され》ば今《いま》往《ゆき》て民《たみ》を我《わ》が汝《なんぢ》につげたる所《ところ》に導《みちび》けよ吾《わが》使者《つかひ》汝《なんぢ》に先《さき》だちて往《ゆか》ん 但《ただ》しわが罰《ばつ》をおこなふ日《ひ》には我《われ》かれらの罪《つみ》を罰《ばつ》せん 三五ヱホバすなはち民《たみ》を撃《うち》たまへり 是《こ》はかれら犢《こうし》を造《つく》りたるに因《よ》る 即《すなは》ちアロンこれを造《つく》りしなり」……
近代聖書本文批判の影響で、われわれはこの箇処がいくつかの原典から不器用に合成されたものであることを示しているような徴候を認めずには素直にこれを読むことができなくなっている。第八節では主自らがモーゼにその民の堕落したこと、偶像を作ったことを告げている。モーゼは罪人のために赦しを乞う。しかるに彼は第十八節では、ヨシュアに対してまるでそんなことは知らなかったかのように振舞っているのである。そして偶像礼拝の光景を見て(第十九節)、突然の憤怒を爆発させている。現に彼は第十四節で罪ある民に対して神の赦しをえているのに、第三十一節以下ではこの赦しを乞うために再び山へ赴き、主に民の堕落を報告して、罰の猶予の確約をえている。二十節と三十節との間にはモーゼ自身が行った裁きが記述されているのに、三十五節は神によって民が罰せられたことに触れていて、しかもこの懲罰については何ら記述がない。また周知の如く、聖書中出エジプトのことを扱っている歴史的な諸部分は、更に明らかな不統一や矛盾に満ちているのである。
ルネサンス期の人々にとって、聖書の本文に対する如上の批判的見地はむろん存在しなかった。彼らはこれらの記述を、相連関せる一つの全体として理解しなければならなかった。そしてその結果きっとこれが芸術に表現するのには都合のわるいものであることを発見したのである。聖書に記されたモーゼは既に民の偶像崇拝について知らされていた。そして彼らの味方になって神の仁慈と赦しとを乞うていたのに、その彼は、黄金の犢と踊る人々の群とを見た時、突然憤怒の発作に捉われるのである。であるから、芸術家が、このように傷ましい不意打を受けた主人公の心の動きを現わそうとして、内的な動機から、聖書の本文を離れたとしても、さして驚くには当らぬわけである。この場合よりもより微弱な動機から聖書の文句から離脱するような場合の例も決してなかったわけではないし、また芸術家に禁ぜられていたわけのものでもなかった。パルミジァノの有名な絵(これは彼の生れ故郷にある)は、山上に坐っているモーゼが板を地面に叩きつけるところを描いているが、聖書はモーゼは板を山の麓で壊したとはっきりいっているのである。腰かけているモーゼということからして既に聖書の本文に背馳するものであるし、それは逆に、ミケランジェロのモーゼ像はモーゼの生涯中のある特定の瞬間を現わそうとしたものではないと見る人々を是認することになるもののように思われる。
われわれの解釈によれば、ミケランジェロはモーゼの性格の変更を企てたらしいが、この方が聖書の本文からの離脱ということより恐らく遥かに重要ではあるまいか。伝説の幾多の証拠によれば、モーゼは人となり怒りっぽく、また激情に駆られやすかった。そういった神聖な憤怒の発作に襲われた時に、彼はイスラエル人を虐待したエジプト人を打ち殺してしまい、そのために国を出奔して荒野に逃れねばならなかった。これと同じような激情の爆発のために、彼はかつて神自らが彼に書き記し与えた二枚の板を粉砕してしまったのだ。そのような性格上の特徴を語り伝えている伝説は、おそらく公正なものであって、かつて生きていた一人の偉大な人物の印象をそこにとどめ伝えていると見てもいいだろう。が、ミケランジェロが法王の霊廟に据えたのは、この歴史的或いは伝説的なモーゼより一段と立ち優った別のモーゼであったのだ。彼は十戒板の破壊という趣向を作り変えて、怒ったモーゼに板を壊させず、逆に、板が壊れるかもしれぬという危懼によってこの憤怒を鎮めさせる、鎮めさせないまでも少くともそこへ行く途中で阻止させたのである。こうすることによって彼はモーゼ像に何か新しいもの、超人間的なものを創り入れたのであり、かくてこそまたこの石像の巨大な肉体力に充ち溢れた筋肉の全体は、人間の身としてなしうる最大限の精神的行為を現わす絶好の具象的表現手段となり、又、自己をささげたその使命を慮り、またその使命の委託の下に自己自身の激情を抑制するという行為を表現する無比の具体的表現手段となることができたのである。
ミケランジェロのモーゼ像の解釈はここで終りに達したといってよかろう。なおしかしつぎのような問題がまだ起ってくるかもしれない。つまりミケランジェロがこのモーゼを、しかもこんなに変えられたモーゼ、法王ユリウス二世の霊廟のためにこんなに改変せられたモーゼ像を刻み上げる決心をしたのには、そこにいかなる動機がはたらいていたのであろうか、という問題である。諸家の一致した見解によれば、この動機は法王の性格と、法王に対するミケランジェロの関係とに求められるという。ユリウス二世は、大きなもの、強力なものを、なかんずく、広大なものを実現しようとした点でミケランジェロに似ていた。法王は行為の人であった。その目的は明らかであった。彼は、法王制の支配下に全イタリアを統一しようとしたのである。更に幾世紀かの星霜を閲して、しかも他の諸勢力と相語らって初めて成功するようなことを、彼は独力で成就しようとしたのだ。彼に与えられていた短い人間の生涯と支配期間との間に、彼はこれを自分一人で性急に暴力的に成し遂げようとしたのだ。彼はミケランジェロを自己に近い人間として尊敬してはいたが、他面また彼はいつもその怒りっぽい向う見ずな人柄でミケランジェロを苦しめていたのである。この法王に見られるような渇望の激烈さは、またこの芸術家にも無縁のものではなかったが、普通の人間よりもより深く物事を見る内省家として、ミケランジェロの方は法王の企ての不成功を既に予感していたのかもしれぬ。そしてこの二人はともに実はそのような宿命を負っていたのである。こうして彼は、自分自身の性質にこの作品創造という途を通じて批評を加えることによって、自己自身を高めつつ、法王霊廟にこのようなモーゼ像を据え置いたのだ、亡き法王への非難なしにではないが、それよりもおのれ自らを警告するという気持で。
一八六三年、英人W・ワットキス・ロイドが、ミケランジェロのモーゼに一巻の小冊子を献じた《*》。やっとのことでこの四六頁の論文を手に入れた私は、複雑な感情を味わいつつその頁を繰った。その時私は、実に詰らぬ子供染みた諸動機が、意義ある事柄に捧げられたわれわれの仕事に寄与することがよくあるという事実を、またしてもわが身にしみじみと経験したのである。私はロイドが、私の研究結論の多くをとうの昔に述べているのを発見してがっかりしてしまった。そして少し気が落ち着いてからやっとのこと私は、自分の結論がこんなに思いがけないところで確められているのを喜ぶことができた。とはいえ、ある決定的な一点においてわれわれの道は分れていたのである。
* W・ワットキス・ロイド、『ミケランジェロのモーゼ』、ロンドン、ウィリアムズ・エンド・ノルゲイト版、一八六三年。
普通行われているモーゼ像の記述が正しくないこと、モーゼは立ち上りかかっているのではないこと《*》、右手は髯を掴んではいないこと、ただその人差指だけがまだ髯の上に残っていること《**》などにロイドは初めて気がついたのだ。彼はまた(この方がずっと重要なことなのだが)つぎのようなことをも見抜いた。すなわち、モーゼ像の現在の姿勢は、それより以前の、ここには現わされていない一瞬間へ戻してみることによってのみ正しく説明されうること、それからこれは左の髯の房が右へ移っている事実によって暗示せられているのであるが、右手と髯の左半分とは、以前にはもっと密接な、自然に媒介せられた関係にあった筈だということなどである。しかし彼はこの理詰めに論証せられた右手と左髯との親近関係を再現するために、別の途をとっている。彼は手を髯のなかに行かせずに、髯が手のところにあったとする。彼は、「頭部は、突然襲ってきた混乱の一瞬前には、その時も今と同じように十戒板を抱えていたその手の上の方にあって、全く右の方に向けられていたと考えざるをえぬ」と説明している。手の平は(板によって)圧されているために、指の方は自然と垂れ下っている巻髯の下で開かれている。さて頭が突然左の方へ向いたので、その結果、髯の房の一部分は一瞬間だけ、動かなかった手に引きとめられて、軌跡と解せらるべき髯の花環模様を形成するのであるといっている。
* 「しかし彼は立ち上りかけてもいないし、また立ち上ろうと用意してもいない。胸部は完全に正面を向いていて、こんな運動の準備をしてバランスを変えるために前方に傾けられているのではない。」(上掲書、十頁)。
** 「そういう記述はみな間違っている。髯の房は右手で引きとめられてはいるが抑えられてはいないし、掴まれてはいない。握られてもいない。ほんの一瞬引きとめられているだけである。――そしてすぐまた離れようとしているのである。」(上掲書、十一頁)。
右手と左半分の髯とは、以前にはこれとは別の仕方で接触していたということもありうるが、ロイドは、一考の結果この解釈を斥けている。その考慮などは、彼がいかにわれわれの近くにいたかを証明するものである。モーゼが、とロイドはいっている、たといそんなにひどく興奮していない時だったとしても、髯をわきに引き寄せるために手を前に突き出すというようなことは、ありえないことだ。そんな場合には、指の恰好は全然別のものになっていることだろうし、のみならずこの動作の結果、ただ右手の圧迫によってのみ抑えられていたにすぎぬ板は、どうしたって下へ落ちてしまっただろう。なぜかというと、もしそうでなかったとすると、そのときでもなお板を抱えているためには、この像にひどくぶざまな恰好をさせなければならないわけだ。しかしそんな恰好を想像してみることは、このモーゼ像に対する冒涜である。
この著者の手ぬかりがどこにあるかはたやすく見てとることができる。彼は、髯の形の風変りなのはまさしくある過ぎ去った動作の痕跡と解釈したのであるが、ほかならぬその結論を、板の位置に看取せられる、それに劣らず不自然な個々の点に適用することは怠ったのである。彼は髯に残っている痕跡の方だけを採り上げて、板に看取せられる痕跡の方をも同時に採り上げて解釈を加えなかった。彼は板の位置を元から現在のままであったと見ているのである。こうして彼はわれわれと同じ見解に到達する道を自分で塞いでしまうのである。そしてわれわれは、まさにいくつかの目立たぬ細部を採り上げたおかげで、像全体とその諸々の意図との、人の意表に出るような解釈に到達したのである。
だが、もしわれわれが二人とも道を誤っているとしたら、どうであろうか。作者の方ではどうでもいいとしているような細々したことを、われわれが重大に、意味深長にとりあげているのだとしたら。そんな細々したことなどは、作者が、そこに何か秘密を閉じこめたりせず、ただ全くきまぐれに、或いは全く形式上の必要から、現在のような風にしてあるのだとしたら。芸術家が意識的にも無意識的にも創ろうと欲しなかったような、つまり存在しもせぬものを見てとっているような、実に多くの解釈者と同じ運命にわれわれも見舞われているのだとしたら。私にはこれを何とも決定することができない。作品中にあれほどにも豊富な思想内容を盛り込ませたミケランジェロのような芸術家に、このような単純なふたしかさがあると信じていいものかどうか、またそういうふたしかさが、場処もあろうにモーゼ像の人目につきやすい奇妙なところに認められるとしていいものかどうか、私にはそれをいうことができぬ。ただ最後に一つだけ、このようなふたしかさの罪は芸術家と解釈者との双方で分け合わなければなるまいということをおそるおそるつけ加えておいてもいいだろう。ミケランジェロは、いくたびか芸術的表現のぎりぎりの線にまで薄《せま》った人である。だから、烈しい興奮の嵐を、その嵐が過ぎ去ったあとの静寂のうちに残された痕跡から推測させるというのが、もし彼の意図であったとしたならば、おそらくこのことはモーゼにおいても完全には成功しなかったといってよかろうと思う。
『詩と真実』中の幼年時代の一記憶
「幼年時代のごく初めの頃のことを思い出そうとすると、他人からきいたことと、われわれが親しく実際に経験したこととを、混同するようなことがよくあるものだ。」
これは、ゲーテが六十歳のとき書き始めた自伝の冒頭にある言葉である。この言葉の前には、自分が「一七四九年八月二十八日、正午の十二点鐘」とともに生れたことについての二三の報告があるだけである。星辰の配置は彼に好意を寄せていた。ひょっとするとこれが彼の命をとりとめたそもそもの原因であったのかもしれない。というのは、ゲーテは「死児として」生れたのであって、色々と手を尽してやっとのこと陽の目が見られるようになったのだから。そのあとに、家と、子供たち――つまり彼と妹――に一番気に入っていた場処との短い叙述が続く。それからしかしゲーテは、「幼年時代のごく初めの頃」(四歳以前?)に起ったらしい、そして彼自身が覚えていたらしい、たったひとつの事件を物語るのである。それはこういう記述である。「そして、向う側に住んでいた、故市長の遺児であるフォン・オクセンシュタイン三人兄弟は私を大変かわいがるようになって、何かと私を相手にしてからかった。」
「平素は真面目で、寂しそうであったその人たちは、私をけしかけて種々のわるさをさせたが、それを私の家人はよく話の種にした。そういういたずらを一つだけここに挙げておこう。陶器市の時だった。台所のために当座の必要な物が調えられたほかに、私たち子供のおもちゃとしても小さな品々が買い入れられた。家中が静まり返っていたある日の午後、私は格子の間《ま》(つまり上にいった、通りに面した、子供たちのお気に入りの部屋)で皿や壺をおもちゃに遊び耽っていたが、ただそれだけでは何のこともないので、皿を一枚外へ投げつけて、それが面白くこわれるのを見てよろこんだ。オクセンシュタイン兄弟たちは、私が嬉しそうに小さな手を拍って面白がっているのを見て、『もっとやれ』と叫んだ。私はすぐさま壺を一つ投げた。そうしてひっきりなしに『もっとやれ』と叫ぶ声に応じて、つぎつぎに小皿、小鍋、小瓶を一つのこさず舗道へ叩きつけた。隣人たちは喝采をつづけてやまぬ。私は彼らを喜ばせることができて、ひどく上機嫌になった。だがほどなく私の貯えは尽きた。それでも彼らは『もっとやれ』とたえず叫んだ。そこで私は台所へ駈け込んで、大きな皿を取ってきた。それが壊れる時はたしかに一入面白かった。私はいくたびも往きつ戻りつして、皿棚の上の手の届くかぎりのものを順々に一つずつ持ってきた。オクセンシュタイン兄弟はそれでもまだ『もっとやれ』というので、私は自分で持ち出せるだけの瀬戸物という瀬戸物を全部外へ投げて全部壊してしまった。誰かがやってきて私をとめたのは大分たってからのことだった。不幸はすでに起ってしまったのちだった。そうしてそんなにたくさんの陶器が壊された代りには、せめて一つの面白い話が得られたのである。殊にいたずら者の、この事件の張本人たちは世を去るまでこの話を面白がった。」
精神分析学が世に出る以前ならば、誰しも別に渋滞もなく、またここに立ち止る気にもならずに読みとばしたところであろうが、のちに私はこの箇処がふと気がかりになってきた。われわれは幼年時代のごく初めの頃の記憶に関しては一定の意見や期待をかたち作ってしまっていて、この期待や意見に対して普遍妥当性を要求したがる。けれども幼年時代の生活細部のいかなるものが、幼年時代の全般的忘却から免れているか、これはどうでもいいこと、或いは無意味なことである筈がない。それどころか、記憶にとどめられたことこそはその一時期の最も重要なことと見ていいのだ。それは幼年時代に既にそういう重要性をもっていたのか、それとも、それ以後の諸体験の影響によって、あとからそういう重要性を獲得したのか、むろんそのいずれかであろうが。
いずれにしても、そのような幼年時代の記憶の高い価値はごく稀な場合にしか明らかでなかった。大抵の場合、それらはどうでもいいこと、いや無意味なことと思われていたし、なぜまさにそれらの記憶が忘却に反抗することに成功したかという、そのこと自体の意味はこれまで誰にも解らなかったのである。それらを自分自身の記憶として永年保存してきた御当人さえ、それをきかされる他人と全く同様に、その値打ちを推しはかることができずにいたのである。その重要さを充分に認識するためには、ある種の解釈操作が必要であった。そしてこの操作は、いかにしてその記憶内容が他のものによって代用せしめられるかを証明してみせるか、或いは、その記憶の、他の明白に重要な体験(記憶はいわゆる隠蔽記憶としてこの体験の代りに登場したわけである)への関係を示すかした。
ある伝記を精神分析的に取り扱う際、幼年時代のごく初めの頃の記憶の意味を上述のような方法で解明してみると必ず成功する。そうすると大抵の場合、分析せられる者が真先きに話し出す記憶、彼が人生告白を始めるきっかけとして使う記憶は、すなわち彼の精神生活の秘密の抽斗を開ける鍵の納われている記憶、つまり最も重要な記憶であることがほどなく証明せられるものである。しかし『詩と真実』中に語られているあの一寸した事件は、われわれの期待に応えてくれそうには見えぬ。患者たちが相手なら大いに役に立つ手段や道は、ここでは当然用をなさぬ。この小事件それ自体は、後年の重要な生活諸印象に対して何らの関係を持っていないように思われる。ひとにおだてられて、結局家庭経済に損失を与えることとなった、こういう悪戯は、ゲーテがその豊かな生涯から伝えようとしていること一切の皮切りとしては、たしかにあまりぱっとしたものではない。どう考えても、この幼年の記憶は、全然無邪気な、他に関係のないものだと見做さざるをえない。そんなわけでわれわれはここでは、何でもかでも分析にかけたりしてはならぬ、又、場合々々をわきまえて分析をしなければならぬという警告を受け入れた方がよさそうに思う。
というわけでこの小問題を永いこと私は考えずに放っておいた。ところが偶々私のところへきた患者に、同じような幼年時代の記憶がもっとはっきりとした関連をもって現われている者があったのだ。二十七歳の教養もあり才能もある男性だったが、その頭の中は母親とのいざこざで一杯になっていて、このいざこざがこの男の全生活上にはびこってしまったというような有様で、そのために恋愛能力も、独立で生計を立てて行くことも、ひどい影響を蒙っていたのである。この葛藤は遠く幼年時代に(四歳まで、ということができよう)遡るものであった。それまで彼は極めてひ弱な、病気勝ちな子供だった。ところが彼の記憶は、この悪い時代を理想化して、天国《パラダイス》に化していた。というのが、その当時彼は母親の優しい愛を無制限に誰とも分ち合うことなく専有していたからである。彼がまだ四歳にならぬ前に、弟がひとり――現在まだ生きている――生れた。そしてこの妨害に対する反動から、彼はいつも母親を焦立たせる我儘な、いうことをきかない子供に変ってしまった。そしてそれ以来もう二度と元の道には戻らなかったのである。
彼が私の治療をうけにやってきた時――少くともそれは、彼の頑迷な母親が精神分析を嫌っていたからわざわざやってきたというのではない――弟への嫉妬はとうに忘れられていた。尤もこの嫉妬は、以前にはまだ揺籃にいる乳児の弟を殺そうという計画とさえなって現われたのである。現在では彼は弟を非常に注意深く扱っていた。しかし、たとえば自分の猟犬とか、丹精して飼っている小鳥とか、そういう不断は可愛がっている生《いき》物《もの》を、とつぜんひどくいじめたりする奇妙な発作的行為があった。これはおそらく、小さな弟に対するあの敵意衝動の名残りと解しえられるものであった。
ところでこの患者がこういうことをきかせてくれた。憎らしい弟を殺そうと計画していた頃のことだが、ある時、彼は手当り次第の瀬戸物をのこらず家の窓から外へ投げとばしたことがある。つまりゲーテが『詩と真実』中に幼年時代のこととして語っているのと寸分違わぬ事件ではないか。念のためいっておくと、この患者は外国籍の人間で、ドイツで教育を受けた人ではない。ゲーテの自伝は一度も読んだことがないのである。
この報告は、ゲーテの幼年時代の記憶を、この患者の話のおかげで疑いの余地なきものとなったその意味において解釈しようという気を起させずにはおかなかった。しかし、ゲーテの幼年時代に、そういう見解を形成するために必要な条件が見出されるであろうか。ゲーテ自身は、むろんあの悪戯の責任者はオクセンシュタイン兄弟の示嗾だといっている。しかし、彼の叙述そのものが、この大人の隣人たちはただ少年ゲーテのやっていることを続けさせるために励ましただけだったことを示している。それは、抑々の初め彼が自発的にやり出したことなのだ。なぜそんなことをし出かしたかをゲーテは「ただそれっきりでは(遊んでいるだけでは)何ということもなかったので」と動機づけているが、この説明は、彼の行為の実際の動機がゲーテがこの文章を書いていた時も、またそれ以前にもずっと彼には知られていなかったということを暴露するものと解釈せられる。
周知の如くヨーハン・ヴォルフガングと妹コルネーリアは、非常に身体の弱い大勢の子供たちの中からどうやら生きのびた二人兄妹である。ハンス・ザックス博士の親切な教示によって、ゲーテの早世した弟妹のデーターを書いてみるとこうなる。
一、ヘルマン・ヤーコプ。一七五二年十一月二十七日(月曜日)洗礼。六歳六週間で歿、一七五九年一月十三日埋葬。
二、カタリーナ・エリーザベタ。一七五四年九月九日(月曜日)洗礼。一七五五年十二月二十二日(木曜日)埋葬。(一歳四カ月)
三、ヨハンナ・マリーア。一七五七年三月二十九日(火曜日)洗礼。一七五九年八月十一日(土曜日)埋葬。(二歳四カ月)(兄が賞めていた非常に美しい魅力ある女児はこの子のことであろう)
四、ゲオルク・アードルフ。一七六〇年六月十五日(日曜日)洗礼。一七六一年二月十八日(水曜日)、八カ月にして死亡、埋葬。
ゲーテの直ぐ下の妹、コルネーリア・フリーデリカ・クリスティアーナは、彼が一歳三カ月の時、一七五〇年十二月七日に生れた。歳がこんなに少ししか違わないのだから、この子は嫉妬の対象として問題にはならぬ。周知のように子供というものは、その情念が目覚めてきた時、既に自分より前にいる同胞には決して烈しい反応を示さないで、その敵意を新来者に向けるものである。それにまた、現在われわれが解釈しようとしている例の場面も、コルネーリアの生れた時、或いはその後間もなくのことと見るのはゲーテがまだ極めて幼なかったことを考えれば正しくはない。
最初の弟ヘルマン・ヤーコプの生れた時、ヨーハン・ヴォルフガングは三歳三カ月であった。それからほぼ二年後、彼が約五歳だった時、二番目の妹が生れた。これら二つの日附のいずれもあの瀬戸物壊しの出来事を考える際に問題になりうるが、どうやら前者の方が真実に近いらしい。またこの方が例の患者の場合(弟が生れた時に約三歳と九カ月)ともよりよく一致するように見える。
またその上、このようにしてわれわれの解釈の試みが向けられる彼の弟ヘルマン・ヤーコプは、その後の弟妹たちのように、決して束の間だけのゲーテの子供部屋の客ではなかった。びっくりなさるかもしれぬが、偉大な兄の伝記が回想のたった一言を以ってしてもこの弟にふれていないのは不思議である《*》。彼は六歳以上も生きていた。そして彼が死んだ時、ヨーハン・ヴォルフガングは十歳に近かった。ヒッチュマン博士は、親切にもこれに関する覚書を私に見せて下さったが、博士はこう考えておられる。
「また幼いゲーテは小さな弟が死んだのをみて嬉しい気がしないこともなかったのだ。少くとも、彼の母親は次のようなことをいったとべッティーナ・ブレンターノは語っている、『遊び仲間の弟ヤーコプの死んだ時、彼がちっとも涙を流さないどころか、両親や弟妹たちの悲歎に対して一種不興気な様子さえしていたことが、母親の眼には奇妙に映った。で、後になってこの剛情張りの長男に、お前は弟を好いていなかったの、と訊いてみると、彼は自分の部屋に走って行って、課業のことだとかお話などの書き込まれた一束の紙をベッドの下からとり出してきて、これはみんな弟に教えてやろうと思って自分で作ったのだと母に告げた。』どうやらこの兄は、弟に対して父親の役割を演じ、弟に自分の優越性をみせたがっていたように思われる。」
* この機会に私は以上のうっかりして間違えた正しくない主張(回想のたった一言さえ云々)を撤回したい。『詩と真実』第一章のあとの方でこの弟ヘルマン・ヤーコプのことがやはり言及描写せられている。ヤーコプもまた「少からず苦しんだ」厄介な小児病の思い出の序に、この弟のことが書かれているのだが、次のような箇処がそれだ。「弟は華《きや》車《しや》で、黙りこんでいて、我儘者だった。私たちはついぞ本当の兄弟の気持を感じないで終った。それに弟は幼年期を出るか出ないかで死んでしまった。」(以上一九二四年に補遺)。
従って、この瀬戸物壊しの一件は、子供が(ゲーテも私の患者も)、邪魔な闖入者を取り除こうという願望を力強く表現したところのある象徴的な、より正確にいうならば、呪術的な行為であるという意見をわれわれは作り上げていいようだ。品物を壊してよろこぶ子供の満足を否認する必要は少しもない。既にある行為がそれだけで楽しみを与えてくれるものなら、これは、それをまた他の意図に役立てて繰り返すことを妨げるものではなく、むしろ誘うものである。しかしわれわれは、そういう悪戯を大人の記憶の中にいつまでもとどめておくことのできた原因が、品物のがらがら壊れることによって与えられる快感だけだったとは信じない。またわれわれは、行為の動機づけを更に一層複雑にして行くことにさからう者でもない。瀬戸物を壊す子供は、自分が何か悪いことをしているのであって、大人に叱られるだろうということをよく承知しているのである。それを承知しているくせにやめられないとすれば、子供はおそらく両親に対して何か忿懣をもっていて、それを晴らしてやろうとしているのだ。子供は自分を悪い子にみせようというのである。
物を壊したり、壊されたものをみたりする快感だけが問題だったら、子供は単に壊れ易い物を地面に投げさえすれば、その快感を満足させることができたであろう。がそれでは窓から外へものを投げるということが説明せられない。しかしこの「出て行け」こそ、この呪術的行為の本質的な部分であって、これは行為の隠れた意味から発しているように思われる。新しく生れてきた子供は片づけてしまわねばならぬ。それもできることなら窓から外へ。なぜかというと、子供は、窓から家の中へ入ってきたのだから。とすれば、この行為全体は、鸛《こうのとり》が弟妹を連れてきたと知らされた時に、子供が示すところの、あの周知の文字通りの反応と等価的なものではなかろうか。「じゃまた鸛が連れてかえればいいじゃないか」というのが子供の肚である。
とはいえわれわれは、たった一つの類似に基づいて子供の行為を解釈することがいかに危険なことであるか――内的な不確実さはすべて抜きにしても――を隠そうとは思わぬ。だからこそ私は『詩と真実』中のこの小場面についての意見をも永いこと発表せずに置いたのだ。するとある日、私のところに患者が一人やってきた。彼は以下に記するような言葉でその自己分析をし始めたのである。
「私は八人か九人《*》の兄弟姉妹の一番上なのです。私の最初の記憶の一つは、父が、寝衣をきてベッドに腰かけながら、笑って、お前に弟が一人できたよ、といったことです。私はその頃三歳と九カ月でした。私と私のすぐ下の弟との間にはそんなにも年齢の開きがあるのです。それからその後間もなく(それとも一年前だったかな《**》?)ある時いろんな物や、たくさんのブラッシュや――それとも一つだったかな?――靴や、その他いろんなものを、窓から往来へ投げとばしたことを覚えています。そう、それより前のことも覚えています。二つの時、ザルツカンマーグートへ行く途中、リンツのある宿屋へ両親と泊りました。その時私は夜になるとしきりにぐずついて、あんまり大きな叫び声をあげたものですから、父親からしたたかぶん殴られました。」
* 八人か九人とはちょっとした間違いのようだが、実は重要な性質の間違いである。弟を除けものにしたいと思っているところからして、こんな間違いが生じたということは否まれない(フェレンチ『分析中における過渡的徴候形成について』、『精神分析中央機関誌』第二号、一九一二年、参照)。
** この疑問は抵抗としてこの報告の本質的な点に噛みついて行くものであるが、その後まもなく患者によって自発的に撤回せられた。
この証言の前に私の一切の疑惑は消えた。精神分析的観点においては、二つの事柄が相ついで、恰も一息に出てきたかのように現われたら、われわれはこの接近を一つの連関せるものと解釈し直すべきなのである。だからこれはまるで患者がこういったようなものなのだ。私は弟ができたと知ったので、それでそれから暫くしてあの色々な物を往来に投げ棄てたんです、と。つまりブラッシュや靴などを放り投げることは、弟の生れたことへの反応としてその本心を現わすわけである。また投げ出された物がこの場合には瀬戸物ではなくて他の物、恐らく子供がさしあたり手に入れることのできた物品だったことも、都合の悪いことではない。……つまりこれで(窓から往来に)放り出すことこそこの行為の本質的な点であることが証明せられるからである。そして壊したり、がちゃんといわせたりする快感や、それによって「処刑が執行される」品物の種類などは、不定のもの・非本質的なものであることがわかるのである。
むろんこの連関の要求は、一番早期のものでありながら、僅かしかない記憶の例の最後に押しやられているところの、この患者の幼年時代の記憶の三番目のものについても妥当する。解決は容易である。この二歳の子供は、父と母とが一つベッドにいるのを好まなかったために、そんなにむずがったのだ。旅行中のこととて、二人が一つベッドの中にいるところを子供にみせないわけには行かなかったのであろう。そして、当時この幼い嫉妬者の裡に動いていた感情のうち、女性に対する苦い感情だけが彼に残ったのであって、この感情が彼の恋愛の発展を持続的に妨げる結果となったのである。
これら二つの経験に基づいて私は精神分析学会の会合で、このような種類の出来事は幼児において決して稀なことではないらしいと述べたところ、博士フォン・フーク・ヘルムート夫人はつぎの如き二つの観察を私に提供して下さった。
一
約三歳半の時、幼いエーリヒは「全くだしぬけに」自分に気にいらなかったものを何でもかでも窓から投げ出してしまう習慣をつけてしまった。何ら彼の邪魔にならぬもの、彼に関わりのないものでも、やはりそういう風に投げ出した。丁度父親の誕生日に彼は――その時三歳と四カ月半だった――大急ぎで台所から部屋のなかに引きずって来た重い麺棒を、四階にあったその住居の窓から往来に投げ出した。それから二三日経つとこんどは大槌を、それから父親の重い登山靴一足を同じようにして外へ投げ棄てた。しかも登山靴の方はまず箱から取り出してこなければならなかったのである。(この子供はいつも重たい品物を選んだ。)
その頃母親は妊娠七カ月か八カ月で流産した。すると子供はその後「まるで人が変ったようにおとなしく優しく」なった。しかし五カ月か六カ月かの頃には彼は繰り返し母親にこういっていた、「ママ、僕、ママのお腹の上へ跳び上るよ」、「ママ、僕ママのお腹を押すよ。」そして流産の少し前には、「どうしても弟ができるんなら、なるべくクリスマスのあとの方がいいなあ。」
二
十九歳の若い一婦人が一番早い頃の幼年時代の記憶として、自発的につぎのようなことを話してくれた。
「とてもひどいお行儀のわるい恰好で、直ぐにも這い出せるようにして、食堂のテーブルの下に坐っていたのを覚えています。テーブルの上には私のコーヒー茶碗があるのです。――今でもその焼物の模様をはっきりと憶えております――お祖母さんが部屋に入ってきた時、すぐそれをその窓から投げとばしてやろうと思ったのです。
というのは誰も私のことを構ってくれなかったからなのです。だからその間にコーヒーの上には『皮』ができてしまいました。これが私はいつもとてもいやだったのです、今でも嫌いですわ。
その日は私より二歳半位年下の弟が生れたので、それで誰も私をかまってくれる暇がなかったのでしょう。
今でもみんなにいわれますが、その日は私は実にいけなかったそうです。お昼には父の愛用のグラスをテーブルから投げとばしてしまったり、一日に幾度も着物を汚したりして、朝から晩までとても不機嫌だったそうです。怒って、お風呂に入る時のお人形も滅茶滅茶に壊してしまったそうです。」
これら二つの場合は殆んど註釈を必要とすまい。別に分析してみるまでもなく、これらは、競争者が登場しそうなこと、或いは登場したことに対する子供の立腹が、窓から物を投げとばしたり、或いはその他不快と気晴らしの悪戯行為をすることのうちに表現せられることを証明している。第一の観察では、「重い物」とは多分母そのものを象徴しているのだ。新しい子供がまだ生れ出ていないと、子供の憤りは母親に向けられる。三歳半の男の子は母親の妊娠を知っている。そして母親がその腹の中に子供を隠していることを些さかも疑わない。ここで思い出さざるをえないのは、あの『小さなハンス《*》』のことと、重荷を積んだ車に対する彼の特別な不安である。第二の観察の場合は、子供が特に幼いこと、二歳半という年齢が注目に価する《**》。
* 拙著『五歳男児の恐怖症の分析』参照。
** こういう妊娠象徴について、私はごく最近ある五十歳を越した婦人から更に別の確証をえた。彼女が繰り返し幾度も話してきかされたことだが、彼女はまだ碌に口を利くこともできなかった幼い頃、重い家具を積んだ車が往来を通りすぎると、すっかり興奮して、父親を窓際までひっぱって行ったものだという。当時の住居に関する記憶から推すに、そのころ彼女は二歳九カ月以下の幼児であった。この頃、彼女のすぐ下の弟が生れ、こうして人数がふえたために、住居が変えられたのである。ほぼこれと同じ頃、彼女は眠り入る前によく、何か途方もなく大きなものが彼女の方に寄ってくるような不安な感じを覚えた。そしてその時に「手がとても太くなった」。
さてここでゲーテの幼年時代の記憶に戻って、今他の子供たちの観察から推測しえたものを『詩と真実』のその箇処に適用してみると、他の方法では到底発見しえられないような、完璧な一つの関連がそこに現われているのだ。つまりこういうことである。「私は幸福児だった。私は死児として生れたにも拘らず、運命が私を生かしておいてくれた。しかし運命は私の弟を片づけてしまったので、私には母の愛を彼と相分つ必要はなくなった。」するとそれから考えは更に進んで、ゲーテがごく幼い頃に死んだ別の一人、やさしい静かな精霊のように、別の一部屋に住んでいた祖母のところへ赴くのである。
しかし、既に別の箇処で充分いっておいたことだが、かつて母親の絶対的な寵児であった者は、生涯あの征服者の感情を、あの成功の確信を抱きつづけるものである。そしてこの確信は、実際に成功を自分の方へ引き寄せてくることがよくあるのだ。だからゲーテは「私の強さは、母親に対する私の関係のうちに根ざしている」というような言葉を、その自伝の冒頭に書こうと思えば書けたことであろう。
無気味なもの
精神分析をする人は殆んど美学的研究をしようという気を起さないもので、これは、美学が美についての説に限定せられず、われわれの感情の質についての説とせられる場合でもやはりそうなのである。彼は心霊生活の別の層のうちではたらいているのであって、普通に美学の題材となっているところの、あの目標から阻まれた、抑圧せられた、あれほどにも多くの附随的諸事情に依存した感情のうごきには殆んどかかわり合わない。それでも時には、精神分析をする者が美学の一定領域に関心を持たざるをえないような場合も起ってくるのであるが、しかしそういう領域は、美学本筋のものではなく、脇の方に置かれ、美学の専門文献から軽んじられたものであるのが常である。
その一つが「無気味なもの」である。これが、恐ろしいもの、不安と恐怖を喚び起すものに属することに疑う余地はない。またこの言葉が必ずしもいつも厳密に限定された意味で使われてはいず、従って、一般に大抵は「不安を喚び起すもの」と同一視せられていることも同様に確かである。しかしそれにも拘らず、そこにはある特別な核心が――つまりこの特別な抽象名詞の使用を正当化するようなある核心が存在しているらしい。「不安なもの」の内部で「無気味なもの」を区別することを許すような、この一般的核心とは果してどういうものであろうか。
ところが概して美学の精密な研究は、矛盾した・厭わしい・苦痛なものによりは、美しく・壮大で・魅力的な、従って積極的な種類の諸感情や、その諸条件、諸対象などにばかり向けられているから、われわれがここに提起したテエマを取り扱ったような専門文献はないも同然という有様である。医学的・心理学的文献では、私はただ、イェンチュ《*》の内容豊富な、しかし充分とはいえぬ論文を知っているにすぎぬ。が、むろん私は、容易に推測せられる現代的理由から、私はこの小論文起稿に際して徹底的に文献を、なかんずく外国語の文献を探し出すことをしえなかった。それ故にこの論文は、この領域での一番乗りの功名を要求するものでは更々ないということをいっておく。
*『無気味の心理学』、『精神病学・神経病学週報』(一九〇六年)、第二二号、第二三号。
無気味なものを研究する際の困難として、イェンチュは、この感情価に対する鋭敏度が各人まちまちであることを強調している。全くその通りである。実際、この新しい計画を企てた筆者自身、この領域における特別な鈍感さを嘆かざるをえない。むしろ非常な敏感さがあってしかるべき領域なのである。私はもう永い間、無気味な想いをさせられたようなこともなければ、又無気味なものに出会うこともなく過してきた。であるから今になって改めてその感情の中に入りこんでみなければならず、またその可能性を私の中によび醒さなければならぬ有様なのである。ともあれこの種の困難は、美学の他の多くの領域においても強いものだ。だから、大抵の人によってこの怪し気な性格が何の矛盾もなく承認せられるようないくつかの場合を取り出してみることもできぬわけではない。
ところで二つの道を進むことが可能である。すなわち、言語の発達は「無気味な」という言葉にこれまでどういう意味を与えてきたかを調べるというのが第一の道である。それから、人物、事物、感覚印象、体験、諸状況における何がわれわれの裡に無気味なものの感情を喚び起すかを蒐集し、これらすべての場合に共通するものから無気味なものの隠された性格をさぐり出すというのがその第二の道である。結論をさきにいってしまえば、これら二つの道は結局同じ結果に到達する。無気味なものとは結局、古くから知られているもの・昔からなじんでいるものに還元せられるところの、ある種の恐ろしいものなのである。どうしてそんなことが可能なのか、どういう条件のもとに親しいものが、無気味な・恐ろしいものになりうるのかは、以下次第に明らかになって行くであろう。なおここで附け加えておくが、この研究は実際には、個々の場合を蒐集するという道をとって行われたもので、それから後に初めて用語上の裏づけによって固められたものである。しかしこの論文ではその順序を逆にする。
ドイツ語の「無気味な」unheimlichは明らかに、heimlich(一、秘密の、私の、内密の、知られない、二、(方言)家庭の、馴染の、親しみある、)heimisch(一、土着の、故郷の、自由の、二、気が置けぬ、馴れた、居心地よい、)vertraut(一、親しい、親密な、二、熟知せる、精通せる、)の反対物であり、従って、何事かが恐ろしいのは正にそれがよく知られ馴染まれていないからである、と直ちに結論を下すことができる。むろんしかし新しく・親しまれていないもの全てが恐ろしいものではないから、この関係を逆にすることはできない。ただこういうことがいえるだけだ、新しいものは容易に恐ろしいもの、無気味なものとなる。若干の新しいものだけが恐ろしいので、すべての新しいものがそうなのではない。新しいもの、親しまれぬものは、そこにそれらを無気味なものにする何ものかが附け加わって初めて無気味なものになるのである。
イェンチュは、大ざっぱにいえば、無気味なものの、新しい・親しまれぬものに対するこの関係で立ち止まってしまった。彼は、無気味な感情の成立するための本質的条件を知的不確実さの中に認める。無気味なものとは元来いつも、ひとがいわばそれに通暁していないような何ものかではなかろうか。人間はその環境に通じていればいるほど、その環境中の事物や出来事から無気味という印象を受けることが少いであろう。それがイェンチュの考えである。
この定義が不充分であることを判断するのはたやすい。われわれはだから無気味なものイクォール親しみのないものというこの方程式を越えて進んで行ってみよう。まず外国語に目を向けてみよう。ところが、われわれが当ってみる外国語の辞書は、何も新しいことを教えてくれない。おそらくそれはわれわれ自身が外国語を話すから、外国語からは何も教えられるところがないのであろう。それどころか、多くの外国語には、ドイツ語でdas Schreckhafte(恐ろしいもの)という、この特別なニュアンスをもつ言葉がないという印象さえ受けるのである《*》。
* 以下の引用はライク博士の御好意によるものである。
ラテン語では(K・E・ゲオルゲの小独羅辞典〔一八九八年〕による)
「気味悪い場所」は――locus suspectusまた「気味悪い晩に」は――intempesta nocta
ギリシア語では(ロースト及びシェンクルの辞典による)
χενοζ――すなわち、見なれぬ、或いは外国風の、珍らしい。
英語では(ルカス、ペロウ、フリューゲル、ミュレー・ザンデルスなどの辞典による)
uncomfortable, uneasy, gloomy, dismal, uncanny, ghastly. 家についてはhaunted人についてはa repulsive fellow.
フランス語では(ザックス・ヴィラットによる)
inqui師ant, sinistre, lugubre, ma l son aise.
スペイン語では(トルハウゼン、一八八九)
sospechoso, de mal agu喪o, lugubre, siniestro.
イタリア語やポルトガル語は、言い変えといってしかるべき言葉で満足しているようである。アラビア語やヘブライ語では、「気味のわるい」は「魔的な」「ぞっとする」と一致している。
以上のようなわけだから、われわれはドイツ語に戻ることにする。
ダニエル・ザンデルスのドイツ語辞典(一八六〇年)には、heimlichの項は次のようになっているが、これを私は短縮せずそのまま転載し、若干の箇処はゴチック体活字によって特に強調してみようと思う。
Heimlich形容詞。(名詞はHeimlichkeit)
〔T〕Heimelich, heimelig(家庭の、なじみの、親しみある、我家のごとき)、zum Hausegehorig(家に所属する)、nicht fremd(異国のものでない、外来のでない、疎くない、見なれぬものでない)、vertraut(親しい、懇意な、なれた)、zahm(飼いならされた、馴れた、なじんだ)、traut(愛する、敬愛する、打ちとけた、心置きない)、traulich(気持よき、のびのびした、なつかしい)、anheimelnd(故郷を偲ばせる)など。
(a)(廃語)。家又は家族に属すること、或いは、それらに属すると見做されること。ラテン語のfamiliarisと比較せよ。家の者、家の仲間などの意。(以下、引用文を省略〔訳者〕)
(b)動物について、馴れた、人間の親しい仲間となった、など。その反対はwild(野生の、野蛮の、荒々しい、人の住まぬ、荒涼たる)、例えば、なじみも(heimlich)せず荒荒しくも(wild)ない獣(エッペンドルフ)。野獣(wilde Thiere)など。(中略)かくてこの獣幼き時より人のもとに育てられければ、極めて馴れ(heimlich)親しきものとなりぬ(シュトュンプ)。または、この小羊かくも馴れて(h.)、わが手ずから餌をくらう(ヘルティイ)。鸛はつねに美しく、馴れし(h.)、鳥なり(リンク)など。
(c)traut(打ち解けた、心置きない、気楽な、呑気な、居心地よき)、traulich(気持よき、のびのびした)、anheimelnd(なつかしく思わせる、気の置けぬ)、囲む住居がよびおこすような静かなる満足、快い落ち着き、安全に保護されているなどの快感。たとえば、異邦人がお前の森を開墾しているそんな田舎にいても、それでもお前はheimlich(居心地がいい)か?(アレクシス)。彼女にとって彼の家にいるのは余りheimlichではなかった(ブレンターノー・ヴェーム)。さらさら、ざわざわ、ぴちゃぴちゃ音のする森の小川にそった……高いheimlichな(快い)影の小路で(フォルスター)。故郷のHeimlichkeit(気楽さ)を破壊する(ゲルヴィーヌス)。こんな親しいheimlichな(居心地よい)場処を私は今まで見たことがない(ゲーテ)。私たちはそこを全く気持のいい、可愛らしい、快いheimlichな(のびのびした)場処だと思った(ゲーテ)。狭き柵に囲まれし、静かなHeimlichkeitのうちにありて(ハラー)。ほんの僅かな人と満足しうるHeimlichkeit(家族のまどい、打ちとけた家庭)をつくりうる、細心な主婦に(ハルトマン)。つい先頃まではあんなにも親しみ難かった男が、彼にはいよいよheimlichな(気の置けぬ)ものに思われてきた(ケルナー)。プロテスタントの領主は、……カソリックの部下の間ではheimlichに(居心地よく)感じなかった(コール)。あたりがheimlichに(気持よく)なり、夕の静けさが、お前の小部屋にきこえるとき(ティートゲ)。静かに愛らしく快く(heimlich)、願ってもなき臥所(ヴィーラント)。その間彼は全然heimlichで(居心地よく)はなかった(ヴィーラント)。――又次ぎのような用法もある。その場処は、極めて静かで、ひっそりしていて、影になって気がおけな(schatten-heimlich)かった(シェル)。干いては上げてくる潮波は、夢みつつ、子守歌のように懐しく(wiegenlied-h.)(ケルナー)。――殊にUnheimlichを参照せよ。――又スイス及びシュワーベンの作家はしばしば三綴のheimelichを使う。例えば、彼が家でねていたとき、イヴォは夜再び何とheimelichな(心置きない)ものであったか(アウエルバッハ)。家にいて全く気楽だった(同上)。暖い小部屋、のびのびした(heimelich)午後(ゴットヘルフ)。人間が、いかに己は卑小で、主は偉大であるかを心から感ずるとき、これこそ真のheimelich(気楽)である(同上)。やがておいおいに人々は互いに暢気に、のびのび(heimelich)してきた(ウーラント)。心置きない気楽さ(同上)。ここ位居心地よくしていられるところはほかにないだろう(同上)。遠国より来る者は……普通人々と心からのびのびと(heimelich)暮すものではない(ペスタロッチ)。己が家人にかこまれて……いつもはあんなに親しく(heimelich)喜ばしかったその小舎が(ライタルト)。そのとき見張りの角笛が塔から親しげに(heimelich)ひびいて――(同上)。物みな静かに、温かく、驚くほど気楽げに(wunder-heimelich)眠っている(同上)。――
――つまり以上の(c)の意味が一般的になって、そのためにこのいい言葉heimlichは、次の〔U〕と混同せられ廃語となってしまうことから救われたのである。次の例と比較せよ。――「『ツェック』の家の人はみんなheimlich(Uの意味)だ」Heimlich?彼らのいうheimlichとはどんな意味であろうか?『そうだな……私にはあそこの人たちは、埋められた泉か、それとも干上った池みたいな気がする。この泉か池に行くたんびに、いつかはもういちど水が出てくるだろう、という気にならずにはいられない。』しかしわれわれならそれをunheimlich(気味悪い)といいます。ところがあなたはそれをheimlichというんですね。じゃ、いったいあなたはどういう点でこの家族が何か隠されたもの、信頼できないものをもっているとお思いなんですか?」(グツコー)。
(d)特にシュレージエン地方で、frohlich(喜ばしい)、heiter(快活な、明るい)の意で、天気についても使う(アーデルング、ワインホルト参照)。
〔U〕versteckt(隠れた、秘められた)、verborgen(隠しておかれた、秘密にせられた、内密にせられた。つまりあることについて他人に知らせないでおくこと、他人に隠そうとすることの意)。Geheim(2)と比較せよ。たとえば聖書において。また秘密(Geheimnis)の代りにHeimlichkeitも使われている。マタイ伝十三章三十五節など。必ずしもこれら二語ははっきりと分離せられていない。たとえば(誰かの背後で)ひそかに(heimlich)何かをする、ひそかに遁がれ出る。ひそかな(h.)意地悪な気持で見ている、ひそかに嘆息する、泣く、何か隠しておこうとするみたいにこっそり(h.)とする。内緒の(h.)恋、情事、罪。秘密(h.)の場所、秘密の小部屋(聖書)。秘密の椅子(チンクグレーフ)、秘密(Heimlichkeit)の中へなげこむ(同上)。(中略)悩める友にはあけすけで、親切で、まめまめしい如く……残酷な主人に対しては秘密でheimlich(内緒)で、うしろぐらく、悪意をもって(ブルマイスター)。私の心の秘められた(h.)一番神聖なものを知ってくれ給え(シャミッソー)。(魔法の)秘術(同上)。空気が自由に通わなくなると隠れた(h.)隠謀が始まる(フォルスター)。自由は隠れている(h.)謀叛人のかすかな合言葉(ゲーテ)。神聖な隠れたはたらき(同上)。誰にも知られず(h.)地の底深く埋めた根を私はもっている(同上)。私の内緒の(h.)悪戯(同上)。奴がそれを大っぴらに、悪びれずに受け取らないとすると奴はそれをこっそり(h.)こそこそとつかみたいのかもしれぬ(同上)。内緒で(h.)気どられぬように色収差なき望遠鏡を作らせた(同上)。今後断じてわれらのもとに秘められたること(h.)のなからんことを(シラー)。――誰かの内緒事(h.)をあばきさらす。己のうしろで内緒事をたくらむ(アレクシス)。己に対して内緒事(h.)をたくらんだ(ハーゲドルン)。秘密(h.)を手にして(イムマーマン)。隠れたるもの(h.)の力なき呪縛を解きうるは、ただ洞察の手のみ(ノワーリス)。お前が彼女をどういう秘密の場所に隠しているのかをいえ(シュレーダー)。秘密の(h.)城をこね上げるお前たち蜜蜂よ(ティーク)。世にも稀なる秘術(h.)を心得て(シュレーゲル)。合成語は〔T〕の(C)を見よ。特に反対語もそれと同じ。たとえば、Un-heimlichは、快からぬもの、不安なる恐怖を刺戟するものの意。彼にはどうも気味悪く(unh.)、お化けのようにみえた(シャミッソー)。夜の気味悪い(unh.)、不安な時(同上)。己はもうずっと前から無気味に(unh.)、そう、恐ろしく思われていたんだ(同上)。するとそれが私には気味悪く(unh.)思われ始めた(グツコー)。無気味な(unh.)恐怖を味わう(同上)。石像のように無気味に凝然と(ライス)。気味の悪い(unh.)霧(イムマーマン)。この蒼白い若者は気味が悪い(unh.)。なにかよくないことをたくらんでいるんだろう(ラウベ)。
隠されている筈のもの、秘められている筈のものが表に現われてきた時は、何でもすべて気味悪い(unheimlich)とよばれる(シェリング)。(以下略)
以上の長い引用のうちでわれわれの興味を呼ぶのは、heimlichという語が、その意味の幾様ものニュアンスのうちに、その反対語unheimlichと一致する一つのニュアンスをも示しているという事実である。すなわち親しいもの、気持のいいものdas Heimlicheが、気味悪いもの、秘密のものdas Unheimlicheとなることがそれである。たとえばあのグツコーの例をみて戴きたい。「われわれはそれをunheimlichと呼ぶのですが、あなたはそれをheimlichとよぶのですね。」そこで、われわれは、この語heimlichは一つの意味しか持っていないのではなく、二つの表象群、すなわち、親しいもの・快いものと、秘密にせられているもの・隠されているものとの二つの表象群に属し、これら二つは互いに対立的ではなく、互いに全く無縁なものだという事実に注意させられる。unheimlichはただ第一の意味の反対語として使用せられるだけで、第二の意味の反対語としては使用せられることがない。この二つの意味の間に何かの発生史的関係を想定することができるかどうか、これはザンデルスの辞典ではわからない。これに反してさきの引用文中のシェリングの言葉に注意を向けたい。シェリングの言葉は、unheimlichの概念内容について、われわれの意表に出るような、ある全く新しいことをいっている。これに従えば、無気味とは、秘密で、隠されているべき筈のものが外に出てきたような、そういったもの一切のことである。
こうして刺戟せられたわれわれの疑念の一部は、グリムの辞典において解決せられている。(ヤーコブ、ヴィルヘルム・グリム、ドイツ語辞典、ライプツィヒ、一八七七年、第四巻、第二部、八七四頁以下。)
heimlich形容詞及び副詞。vernaculus, occultus.
中高ドイツ語でheimelich, heimlich.
八七四頁。些さか違った意味で「私はheimlichである、すなわち気持がいい、具合がいい、恐怖から自由である。」
(b)heimlichとはまた幽霊じみたもののない場所のことである。……
八七五頁。(β)親しい、馴れた、なじみの、親しめる、人なつこい。
(4)故郷の、故郷のような思いをさせる、自宅での、家内での、の意から更に、人の眼に触れぬ、人の眼からかくされている、秘められているの概念が発生し、多様な関係において展開して行った。……
八七六頁。「湖の左手に
牧場は森のなかにheimlich(人眼にふれず)横たわっている」
シラー、『ヴィルヘルム・テル』第一幕、四場。
……以上はきわめて自由に使われていて、近代用語例としては異例である。
……heimlichは隠す行為の動詞の対をなす。
我をその幕屋のおくにひそかに(heimlich)かくまい、(詩篇第二十七章五節)。……人体における見えざる(heimlich)場所、pudenda(恥部)……死なざる者は隠れたる箇処を打たれ(サムエル前書、五・一二)。(グリムの引用文はLuther訳と相違している〔訳者〕)
(C)国事において重要かつ秘密を保たるべき策を議する役人をheimliche Rathe(枢密顧問官)という。この形容詞は今日の用法ではgeheim(秘密の)をもってかえることになっている。……(パラオ)ヨセフをザフナテパネア(heimlichen Rath)と名付け……(創世記第四十一章四十五節)。
八七八頁。六。認識にとってheimlichであるとは、神秘的な、比喩的なの意。mysticus, divinus, occultus, figuratus.
八七八頁。また別の意味ではheimlichは、認識せられずにいたもの、無意識な、の意。……それからまたheimlichは、探求してもせられない、閉された、見通しがたい、の意。
「君は気付いたろうね? 彼らは私を信頼しないのだ。フリートラント侯のheimlichな(底意の知れね)顔を怖がっているのだ。」 『ワレンシュタイン』、陣営、第二幕。
(9)前節に出てきた、隠されたもの、危険なものの意味は更に発展して、その結果、heimlichが、普通にはunheimlich(heimlichから作られた語、三の六、八七四欄)がもっているような意味をもつことになった。たとえば、「私は時として自分が、夜中に彷徨したり、幽霊を信じたりする人間であるような気がする、どの隅々も私にはheimlichで(気味悪く)恐ろしい。」クリンガー、『劇場』三の二九八。
であるからこのheimlichという語は、一種の双価性に従ってその意味を発展させた言葉であって、遂にはその反対語のunheimlichと合致するに至るのである。unheimlichはつまりheimlichのある一種類なのである。が、われわれはこのまだ充分には明らかになっていない結果をシェリングのunheimlichの定義と一致させておこう。無気味なものの個々の場合を一つひとつ調べて行ったら、これらの意味がわかってくるであろう。
さて特に強く、特にはっきりと無気味な感じを喚び起しうるような人物・事物・印象・事件・状況などの吟味に移ろう。すると差し当り必要なことは、とにかく好都合な例を何か一つ選ぶことである。E・イェンチュは好例として「外見上は生きているように見えるものが本当に生きているのかどうかという疑惑、また逆に、生命のない事物にひょっと生命があるのではあるまいかという疑惑」を挙げ、蝋人形、精巧な人形、自動人形などの与える印象を指摘している。彼はまたこの印象に属するものとして、癲癇の発作や、狂気の現われなどの無気味さを挙げている。それは、これらを通して観者の心の中に、ふだん見慣れている生命あるものの姿の背後に隠れているかもしれぬ自動的な――機械的な――動きの予感が呼びさまされるからである。さて、われわれは、このイェンチュの説明に全面的に賛成するわけには行かないが、しかし、われわれ自身の研究を、これに手がかりを求めつつ進めて行くことにしたい。なぜなら彼は更に、他の何人にも勝って素晴らしく無気味な効果を描き出した一詩人をわれわれに思い起させてくれるからである。
「物語によって無気味な効果を容易に喚び起す最も確実な技巧の一つは」とイェンチュは書いている、「ある人物が人間であるのか、それともたとえば自動人形のようなものであるかをはっきりさせずにおくこと、しかも、読者に直ちにこの事態を探究しはっきりさせたいというような気が起らないように(なぜといって、はっきりしてしまったら、よくいわれるように、特別な感情的効果はすぐ消滅してしまうから)このあいまいさが直接読者の注意力の焦点とならないようにしておくことである。E・T・A・ホフマンはその幻想物語のうちでこの心理作戦を繰り返し、極めて有効に利用した。」
この言葉は確かに正しく、これはなかんずくホフマンの『小夜物語』(ホフマン全集、グリーゼバッハ版、第三巻)中の『砂男』にあてはまる。オッフェンバッハの歌劇『ホフマン物語』の第一幕に出てくる人形オリンピアの像はここからとられた。しかし私はこういわざるをえない――この小説をお読みになった方はきっと私に同意して下さるだろう――生きているかのようにみえる人形オリンピアというモティーフは、決してこの小説の比類ない無気味な効果をあげるのに役立っている唯一のモティーフではない。いや唯一のモティーフでないばかりか、この効果の大半が帰せられるべきモティーフでさえもない。また作者がオリンピアの挿話を少し諷刺的なものにしていることや、若者の口を藉りて恋愛過大評価の嘲弄という役割をも負わしていることなども、この効果をあげるのに役立っていない。むしろこの小説の中心点には、ある別の契機、この小説の題名にもなっている契機、重要な箇処ではたえず繰り返し出てくる契機、すなわち子供の眼玉を抜く砂男という契機が立っているのである。
この幻想的物語は学生ナターニエルの幼年時代の思い出に始まる。彼は現在幸福であるにも拘らず、愛する父親の謎めいた怖ろしい死に結びついている思い出をどうしても払い除けることができないでいる。どうかすると母親は夜寝る時間がくると「砂男が来るよ」と脅して子供たちをベッドに追いやることがあったが、そんな時、子供たちはいつも本当に、父親を悩ましにやってくる訪問者の重い足音を耳にする。母親は、砂男について訊ねられると、いつもそんなものは本当はいはしませんよと否定するのだが、乳母が詳しい話をきかせてくれる。「悪い奴でね、子供がいつまでも寝たがらないでいるとやってくるのですよ。そうして子供の眼の中へ両手いっぱいの砂をなげつけます。そして眼玉が血だらけになって顔からとびだすと、それを袋にほうりこんで、半かけの月のなかへ持って帰って、自分の子供たちに食べさせるのです。その子供たちは、半かけの月の巣の中にいて、梟みたいに先のまがった嘴をしています。その嘴で、いうことをきかない子供たちの眼玉を突っついて、食べるのです。」
少年ナターニエルはやがて大きくなり分別もついて、砂男をそんな風の怖ろしいものに考えることはしなくなったのだが、それでも砂男に対する不安は彼の内部に根を下していた。一体砂男というのはどんな様子をしているのか、それを見てやろう、と彼は決心し、砂男がきそうに思われたある晩、父の仕事部屋の片隅に身を隠した。やってきた男というのは弁護士のコッペリウスであった。時々昼食によばれてくるごとに、子供たちが怖がった厭らしい人物である。そこでこのコッペリウスをあの怖ろしい砂男と同一視する。けれども作者はもうこの場面の先のところで、われわれが現に読んでいるのは不安に捉われた少年の最初の妄想なのか、それとも、これは小説の世界の中で事実として理解せられるべき記述なのか、その点をあいまいにし始める。父と客とは炉に焔をもえあがらせて仕事を始める。隠れている少年はコッペリウスが「眼玉をよこせ、眼玉をよこせ」というのをきいて、わっと叫び声をあげて自分のいることを暴露してしまう。コッペリウスは少年をひっつかまえて、焔のなかから真っ赤に焼けた火の粒をとりだしそれを少年の眼玉にふりかけようとする。眼玉を炉に投げ入れようというのだ。父親が少年の眼は許してくれと哀願する。そして深い失神、それに続く長期間の病気でこの体験は終る。砂男を合理的に解釈しようとする人なら、子供のこの幻想のなかにはあの乳母の話の名残りがあるのを見落さないであろう。子供が眼の中にふりかけられるのは、いまはあの砂粒の代りに真っ赤に焼けた火の粒であるが、二つの場合とも、それは眼玉をはじき出すためである。一年後、砂男が再び訪れてきた時、父親は仕事部屋で爆発によって殺される。弁護士は何の痕跡も残さずその場から姿を消す。
さて少年時代のこの怖ろしい姿を、学生となったナターニエルは、イタリア人の行商眼鏡売りギゼッペ・コッポラに認めた。彼はその大学町でナターニエルに晴雨計を買えとすすめる。断わられるとこういう、「へえ、晴雨計はいりませんか、晴雨計はいらないとね。――じゃ、上等の眼玉もありますぜ、上等の眼玉も。」ナターニエルは仰天するが、差し出された眼玉が、何のことはない当り前の眼鏡だったので驚きもいささか鎮められる。さて彼はコッポラから懐中用望遠鏡をひとつ買いとって、それを用いて向い側のスパランツァーニ教授の住居を覗いてみる。教授の美しい、しかし不思議に口数をきかぬ動かない娘オリンピアを認める。間もなく彼はこの娘に烈しく恋慕して、そのために自分の賢い誠実な婚約者のことを忘れてしまう。しかしオリンピアとは実は、スパランツァーニがその歯車装置を作り、コッポラ――かの砂男――がその眼玉を嵌めこんだ自動人形なのであった。偶々大学生は、この二人の製作者がその作品のことで争っているところに行き合わせる。眼鏡売りは眼玉のない木の人形を担いでいってしまい、学者スパランツァーニは、床に横たわっている血だらけのオリンピアの眼玉をナターニエルの胸に投げつけて、この眼玉はコッポラがお前から盗んだのだという、ナターニエルは新たなる狂気の発作に捉えられ、その錯乱のうちに、父の死の思い出が現在の鮮やかな印象と結びついて、こう叫ぶ、「おお――おお――おお――火の環よ、火の環。火の環よまわれ――愉快にまわれ!――そら、木彫り人形、くるくるまわれ、可愛い木彫り人形。――」こう叫びながら、オリンピアの父親ともいうべき教授にとびかかって、これを絞め殺そうとする。
長い重い病気からナターニエルも遂に恢復したようにみえた。彼は再会した婚約者と結婚する積りになっている。ある日二人で街を歩いて行く。高い市役所の塔が巨人のような影を広場に投げている。少女は塔に登ってみましょうと青年に提案する。その間、二人と一緒にいた未来の兄は下で待っていることになる。上に登ると、街道を何かがこちらに動いてくるような、奇妙な現象がクララの注意をひく。ナターニエルはポケットに持っていたコッポラの望遠鏡で観察する。と、彼は新たに狂気に捉えられて、「木彫り人形、くるくるまわれ」と口走りつつ、クララを下に突き落そうとする。彼女の叫び声で駈けつけた兄が彼女を救い、彼女を抱えてかけ下りる。上では「火の環、火の環、くるくるまわれ」とわめきながら、狂ったナターニエルが走り廻っている。この言葉の由来はわれわれの既に知るところである。下では、集ってきた人々の間に、突然再び出現した弁護士コッペリウスがぬっくと立っている。ナターニエルに狂気が爆発したのは、この男が近づいてくるのをみたからなのだ、と思ってもいいだろう。人々は荒れ狂う男を取り押えに上へ登ろうとするが、コッペリウス《*》は笑って言う、「まあお待ちなさいよ、今に自分で下りてきます。」ナターニエルはとつぜん立ち止ると、コッペリウスの姿を認めて、癇走った声で、「そうだ『上等の眼玉だぞ――上等の眼玉だぞ』」と叫んで、欄干から身を躍らせる。彼が頭蓋を粉砕して敷石の上に横たわった時、砂男は人混みのなかに姿を消していた。
* この名前の語源について、コッペラ(Coppella)とは坩堝のこと(父親が不幸を身にまねいたあの化学実験と関係あり)。またコッポ(Coppo)とは眼窩のこと。(ランク博士夫人の教示による。)
以上の要約によっても、無気味の感情は直接砂男という人物に、従って、眼玉を奪われるという観念に密着しており、そしてイェンチュの意味における知的不確かさは、この効果と何の関係もないことは明らかであろう。確かに人形オリンピアの場合には生命があるかないかという疑惑も問題になりうるが、無気味なものの、このもっと強い例においては、一般にその疑惑は問題にならない。なるほど作者は初めのうちこそ、しかるべく計算した上で、これは現実世界なのか、それとも作者お気に入りの空想世界なのかを、われわれに推測させないということによって、われわれを一種のあいまいさのうちにとどめおく。しかし周知の如く、そのいずれをとろうとそれは作者の勝手なのであって、もし彼がたとえば、シェイクスピアが『ハムレット』や『マクベス』において、また別の意味では『テムペスト』や『真夏の夜の夢』においてなしたように、精霊や悪霊、幽霊などの出没する世界をその小説の舞台に選んだとしても、われわれとしては苦情をいう筋はないのであって、作者に従って行く間は、われわれは作者が前提としたその世界を恰も現実世界のごとくに扱わなければならない。しかしホフマンの小説を読み進めて行くうちにこの疑惑は消滅する。そしてわれわれは、詩人がわれわれ自身にもあの怪しい眼鏡売りの望遠鏡、或いは眼鏡を通して物を見させようとしていることに気がつく。いや、彼自身がかつてはこういう器具で物を覗いて見たことのあるらしいのに気づくのである。小説の結末は、かの眼鏡売りコッポラは実は弁護士コッペリウス、従って砂男であったことを明らかにしている。
ここではもはや「知的不確かさ」の如きは問題にならぬ。ここに示されているものは、合理主義的優越のうちにその真の、面白くも何ともない実情を認めるといったような精神錯乱者の空想像ではないことを今われわれは知っているし――また無気味さは、そういう風に説明せられたからといっていささかも害われることがない。従って知的不確かさということは、この無気味な効果を理解する上に少しも役に立たぬのである。
これに反し精神分析上の経験は、子供が持つ不安の中に、眼を害い或いは失うという、怖ろしい不安があることをわれわれに教えている。この不安な気持は多くの成人にも残っていて、彼らはどんな肉体上の損傷も、眼を害われるほどにひどくは怖れない。自分の眼のように大事にするといういいまわしさえあるほどだ。ところで、夢、空想、神話などを研究してみると、眼を失う不安や失明する不安は、しばしば去勢の不安の代償となっていることがわかる。神話の犯罪者エディプスが、自分の手で自分を失明させるのは、贖罪法に従って彼に課せられることになっていた去勢の罰に対する軽減にすぎない。こういうひとは、合理的な考え方から、眼の不安を去勢される不安に帰着させることを、拒否しようとするかもしれない。確かに、眼のように貴重な器官が、それにふさわしい用心を以って取り扱われているのは、当然のことであろうから、更にこの考え方を押しすすめて、去勢の不安の背後には、何らより深い秘密も、別の意味も隠されてはいないと主張することもできよう。しかし、そう考えては、夢・空想・神話などに現われている男根と眼との間の代償関係を正しく捉えたことにはならないし、また、男根を切りとるぞという脅迫に抗してあの殊に強い暗い感情が高まってきて、そしてこの感情こそ初めて、他の器官を失うという表象にも暗い反響を与えるのだという印象には抗しがたいであろう。実際に神経症患者の分析から「去勢コンプレックス」の詳細を知り、患者の精神生活におけるその大きな役割を知らされてみると、これに関する疑念は全く消滅してしまうのである。
また私は精神分析的見解に反対する人に向って、失明の不安は去勢コンプレックスとは関係のない何ものかであるということを主張するために、ほかならぬホフマンの『砂男』物語を引き合いに出すことをすすめたくない。なぜかというと、そうなると一体なぜここで失明の不安が父の死と最も内密な関係を保っているのかがわからなくなる。なぜ砂男はいつも恋愛の妨害者として登場するのか。彼は不仕合せな大学生とその婚約者との、また彼の一番親しい友人である婚約者の兄との仲を割く男だ。彼はナターニエルの第二の恋人たる人形オリンピアを打ち壊し、またナターニエルが再び得られたクララと幸福な結婚生活に入ろうとする直前に、ナターニエルを自殺へと追いやるのである。この小説のこの点や、その他多くの特徴は、失明の不安の去勢への関係を否認すると、気儘な無意味なものに見えてくるが、砂男の代りに、去勢を実施しかねなかった恐い父親を置き換えてみると、逆に極めて意味深いものになってくる《*》。
* 事実ホフマンの空想の取り扱い方は、素材の要素をあまりひどくひっかき廻すようなことをしなかったので、その気になればその本来の秩序を再建することもできる。ナターニエルの子供時代の話に出てくる父親とコッペリウスとは、双価性によって二つの反対物に分裂せしめられた「父の姿《イマゴー》」である。一方は盲目にすること(去勢)によって脅かし、他方、善良な方の父親は、子供の眼をたすけてくれと懇願する。抑圧を最も強く蒙ったコンプレックスの部分、すなわち悪い父親が死ねばいいという願望は、善良な父親の死の中に現われている。しかもそれは、コッペリウスのせいにせられている、後年の大学生々活の話の中では、この一対の父親に該当するのは、スパランツァーニ教授と、眼鏡売りコッポラで、教授それ自体は父親系の一人物であり、コッポラは弁護士コッペリウスと同一人物とせられている。彼らは、かつて一緒に秘密の炉で仕事をしていたように、今は一緒に人形オリンピアを作りあげる。教授はオリンピアの父親とさえいわれる。このように二度も一緒にいるところからみれば、彼らが父の姿の分裂したものであることは明らかである。すなわち機械師も眼鏡売りもともに、オリンピアの父でありまたナターニエルの父なのである。幼年時代の怖ろしい場面でコッペリウスは、少年を盲目にすることを断念したのち、試しに彼の手脚をひねりまわしてみた。つまり、機械師が人形の身体でやってみるのと全く同じことをした。この完全に砂男の表象の枠内からとびだしてしまう奇妙な特徴で、去勢の新しい等価物がつけ加わることになる。しかしまたこの特徴はコッペリウスとその後年の敵役たる機械師スパランツァーニとの内的同一性をも示すものであって、かくてわれわれにオリンピアを解釈する準備をしてくれる。この自動人形は、ごく幼いときのナターニエルの、父親に対する女性的態度の物質化されたものに他ならない。彼女の二人の父親――スパランツァーニとコッポラ――は、ナターニエルの一対の父親の新版であり、再生である。眼鏡売りはナターニエルから眼を盗んでそれを人形に嵌めたというスパランツァーニの言葉は、それだけでみれば不可解だが、このようにして、オリンピアとナターニエルとの同一性を証明するものとしてその意義を獲得する。オリンピアとは、いわばナターニエルから分離せしめられたコンプレックスであって、これが人の形をとって彼に現われてくるわけである。ナターニエルがこのコンプレックスに支配せられていることは、オリンピアに対する彼の自分ではどうにもならないほどに烈しい恋心の中に表現せられている。われわれはこの恋愛を自己陶酔的恋愛とよんでよかろう。そうすると、このような恋に陥った男が、実際の愛の対象から遠ざかるわけも納得せられる。去勢コンプレックスによって父親に縛りつけられている若者が、女性を恋しえないことが、いかに心理的に正しいかは、多くの患者を分析した結果によく示されている。これらの患者の場合は、その内容はむろん小説の場合ほど空想的ではないが、大学生ナターニエルの話に劣らず悲惨なものである。
E・T・A・ホフマンは不幸な夫婦の子供であった。彼が三歳のとき、父親はその小家族から別れて、二度とふたたび彼らと一緒にはならなかった。F・グリーゼバッハがホフマン全集の序文に書いている自伝を読むと、父親に対する関係は、この作家の感情生活における最も傷つきやすい箇処の一つであった。
そこでわれわれは砂男の無気味さを敢えて小児の去勢コンプレックスの不安に帰着させようと思う。しかし、無気味な感情の成立の条件としてこういう小児的契機を設定しようとするや否や、われわれはこの結論を、無気味なものの他の例に適用してみたい衝動に駆られる。『砂男』にはこのほかにもまだ、イェンチュが重要視した、生きているような人形というモティーフがある。この著者は、何かが生きているのかいないのかはっきりしないという知的不確かさがよびさまされること、そして生なきものが、生あるものに酷似していることが、無気味な感情を喚起するための特別好都合な条件だと考えているのだが、しかし、人形を相手にする場合、われわれは子供の世界から余り距ってはいないのであって、遊戯をするごく幼い年齢の子供は、抑々生きているものと生きていないものとの間を余り厳密に区別せず、むしろ好んでその人形を生命あるものの如くに扱うものである。偶々ある女性患者からきいたことであるが、彼女は八歳になった時でもまだ、あるやり方で人形を、できるだけつよくみつめていれば、人形は生きてくるにちがいないと心から信じていたということである。だからこの場合にもやはり小児的契機は容易に証明せられるわけである。しかし奇妙なことは、『砂男』の場合は古い幼児の不安の喚起が問題となっているのに、この生きている人形に関しては不安については一言も触れられていず、子供は人形の生きることを少しも怖れなかったどころか、それを望んでいさえしていることである。従ってここで無気味な感情の源泉は、子供の不安ではなくて、子供の願望、或いは単に子供の信仰にすぎないのではないかと思う。これは矛盾のようにみえるが、おそらくは単にこれは、後になってわれわれの理解に役に立ちうるだろうと思われる一つの複雑さにすぎないのである。
ホフマンは文学における無気味なものの不世出の大家である。長篇小説『悪魔の霊薬』は、無気味な効果の帰せしめられるあらゆる種類のモティーフに充ちている。この長篇の内容は余りに豊富かつ複雑であるから、要約さえもできそうにない。終りになって、今まで読者に伏せられていた全篇の筋の諸前提が示されるが、その結果は読者に謎を解き明かすものでなくて、むしろ逆に読者を完全に混乱させる。作者は余りにも同じようなものを積み重ねすぎたのだ。そのため印象こそうすれないが、全体がわけのわからぬものとなっている。まずわれわれとしては、無気味な効果をあげる諸々のモティーフのうちから、最も目立つものをとりあげ、それを幼児期の源泉に戻して見ることができるかどうかを調べるだけで満足しなくてはならない。さてそれは、あらゆるそのニュアンスと形態とにおける二重自我人格《ドツペルゲンゲル》のモティーフである。すなわち、外見が同じために同一視せられざるをえない人物が登場すること、これらの人物の一人から他の一人へと心の中の出来事がとび移って――いわゆる精神感応である――その一人が他の一人の知識・感情・体験を共有することにより、この関係が強化せられること、自己以外の他の人物と同一化し、その結果自己の自我を見誤ったり、或いは他の自我を自己自身の自我の代りに置き換えてしまったりすること、つまり自我倍加、自我分割、自我交換――かくて終には、絶えざる同一事の反覆、相似した顔付、性格、運命、犯罪行為の繰り返し、いや相継起する幾世代もの間名前さえも繰り返されるというあの現象である。
二重自我のモティーフは、オットー・ランクの同名の研究論文《*》で、極めて詳細に論究せられている。第二の自我の、鏡にうつる像、影の像、守護神、生霊説、死の恐怖などに対する諸関係が、ここに研究せられているが、このモティーフの驚くべき発展史もまたここに明らかにせられている。というのは、ドッペルゲンゲル(二重自我)とはそもそも自我の消滅に対する保障、ランクの言葉によれば「死の偉力を断乎として否定すること」であったのだ。どうやらあの「不死の」魂こそは、肉体の最初のドッペルゲンゲルであったらしいのだ。死滅に対して防禦するための、そのような換え玉作製(Verdoppelung)は、性器象徴の倍加、或いは複数化によって去勢を表現したがる夢言葉の描写のうちに、その対応物ともいうべきものをもっている。これこそ古代エジプト文化において、死者の像を永続しうる素材のうちに形どっておく技術の原動力となったものである。しかしこれらの諸表象は、原始人や子供の精神生活を支配している無限の自己愛、原始的ナルツィスムスの基盤の上に生じきたったものであって、ひとがこの段階を克服すると、ドッペルゲンゲルの形にも変化が起って、かつては永生の保証であったものが、今は無気味な死の前触れとなるのである。
* O・ランク、『二重自我』(『イマゴー』、第三巻、一九一四年)。
ドッペルゲンゲルの表象はこの原始ナルツィスムスと共に没落することを要しない。なぜならこの表象は、自我のその後の発展段階から新しい内容を獲得しうるからである。自我のうちには徐々に、爾余の自我と対立する特殊な一部分が形成せられて、この一部分が自己観察、自己批評の役割を果し、心的検閲の仕事を行い、やがてわれわれの意識に「良心」として現われてくるに至るものなのである。監視妄想の病的ケースにあってはこの一部分が孤立し、爾余の自我から分離せられて、医師に気付かれるようになる。爾余の自我をまるで他人のものみたように扱いうるような自我の一部分が存在するという事実、つまり人間は自己観察をする能力があるという事実が、古いドッペルゲンゲルの表象を、新しい内容をもって充たし、またこの表象に色々なものをなかんずく、自己批評の眼には原始時代の、あの古い、既に克服せられたナルツィスムスに属するかのように見えるものを一切をなすりつけることを可能にするのである《*》。
* 人間の胸には二つの魂が棲んでいると詩人が歎くとき、また通俗心理学が人間内部の自我分裂について語る時、彼らにとってこれは、批評的自我と爾余の自我との間の分裂(これは自我心理学に属する)を意味しているのであって、精神分析によって発見せられた、自我と無意識に抑圧されたものとの間の対立を意味するのではないと考える。尤もこの区別は、自我批判によって非とせられたものの中には、間々抑圧せられたものの子孫が存在しているという事実によってぼかされてしまうのである。
しかし自我批評にとって不快な内容のみがドッペルゲンゲルになすりつけられるのではなくて、空想がいまだにそれに執着しているところの、運命形成の実現せられることのなかった一切の可能性、また外的な不運によって貫徹せられなかったところの、一切の自我の目標、同様にまた意志の自由という錯覚を生んだところの、あらゆる抑圧せられた意志決定も同じくこのドッペルゲンゲルに委譲せしめられるのである《*》。
* H・H・エーウェルスの作品『プラークの大学生』(ドッペルゲンゲルに関するランクの研究はこの小説から出発している)中で、主人公はその愛人に、決闘の相手を殺さないことを約束した。しかし決闘場へ行く途中で、彼は既に恋敵を殺してしまった自分のドッペルゲンゲルに出会うのである。
しかしこのようにしてドッペルゲンゲル像の顕在的動機づけを観察し終えた今、われわれは、以上すべてのどの一つも、この像につきまとっている、ある異常に強い無気味さを説明してはいないといわざるをえぬ。そして、病理学的心理現象に関するわれわれの知識によって、こう附け加えて差支えなかろう、この内容のうちどれ一つとして、これを何か無縁なるものとして自我から外へ向って投影させるあの防禦努力を説明できそうなものはないと。何といおうとも無気味なものの性格は唯ただ、ドッペルゲンゲルが既に克服された心理的原始時代に属する形成物(むろんその当時はもっと親しいものであったのだが)であることに由来するのである。神々が、彼らを支えていた宗教の滅亡以後は悪霊となるように、ドッペルゲンゲルは恐怖像となったのである。(ハイネ、『流竄の神々』参照。)
ホフマンに使われているそれ以外の自我妨害は、このドッペルゲンゲルのモティーフの例にならって容易に説明せられる。その場合問題になるのは、自我感情の発達史における個々の段階への立ち戻り、時代を逆行することである。自分がまだ外界や他の諸自我から截然と区別せられていなかったような時期への遡行である。私はこれらのモティーフが無気味なものの印象喚起に与って力あるものと信じている。但しこの印象中におけるそれらの参加を分離して取り出すことは容易ではない。
同種のものの繰り返しというこの契機を無気味な感情の源泉と見ることは、必ずしもすべての人の賛成をうるわけには行かぬであろう。私の観察したところによれば、この契機は一定の諸条件のもとに、また一定の事情と結合して、疑いもなく無気味の感情を喚び起す。(この感情はまた夢の中での、あの途方にくれたような感じをも思い出させる。)ある暑い日の午後、イタリアの小都会の人通りの少い、未知の通りをぶらぶら歩いていた私は、とある一角に踏み込んだが、そこがどういう性質の場所であるかは一見してすぐにわかった。小さな家々の窓に見うけられるのは、化粧した女ばかりだったので、私は急ぎ足に、すぐの曲り角をまがってその狭い通りを立ち去った。ところが、しばらくの間、道を知らず歩いていると、突然またしても自分がさっきと同じ通りにいることに気づいた。そうなると私の姿は人眼を惹き始めたので、急いでまたそこを遠ざかったのだが、急いだ結果は、新しい廻り道をした挙句に三度同じ通りに入りこむことになっただけであった。すると私は無気味なというよりほかにいいようのないある感情に捉えられた。そこで、それ以上道をさがしまわることを諦めて、つい今しがた立ち去ったばかりの広場に戻った時はほっとした。他の点でこの話とは根本的に違っていても、意図せずして同じ場所へ戻ってくるという点では共通の他の諸状況も、やはりその結果としてはこれと同じような、途方にくれた感じ、無気味な感じを起させるものである。たとえば山の森の中で霧などに襲われて道に迷い、何とかして道標のある道、或いは既知の道へ出ようとするが、それでも相変らず、もとの地点に戻ってきてしまうような場合、或いは、未知の真暗な室内で、ドアや電燈のスイッチなどを探そうと思って歩きまわるが、その度毎に、いつも同じ家具にぶつかるといったような場合だ。マーク・トゥエーンがグロテスクに誇張することによって、ひどく滑稽なものとして描いている状況もそれと同じものである。
不断ならただの「偶然」と片づけてしまうような何でもないことを、無気味な、宿命的な、遁るべからざるもののように思い込ませるのは、意図せざる繰り返しという契機であることは、他の系列の経験においても苦もなく認められる。たとえば衣服預所に預けた衣類の預り証としてある数字――かりに六十二としよう――の番号札を受け取ったり、割り当てられた船室番号がこれと同じ六十二号なのを発見したりしても、それだけでは別にどうということもない経験である。しかし、これら二つの、それ自体では無気味な出来事が相ついで起って、同じ日のうちに六十二という数字に何度も出会ったりすると、そしておよそ数のついた一切のもの、番地とか列車番号とかなどが繰り返しくりかえし同じ数字を、少くともその構成部分として、持っていることに気がついたりすると、この印象はまるで変ったものになってくる。つまり「気味が悪い」のだ。そして、迷信の誘惑に対して断乎たる態度をとることのない人であると、特定数のこの頑固な繰り返しに、ある秘密の意味を、たとえば自分の寿命の暗示を読みとるような気持にもなるのである。或いはまた偉大な生理学者ヘーリングの著書を読んでいるような時、わずか一両日中に相ついで別々の国からこれと同じ名の、しかもそれまでは一度もつき合ったことのなかったような、そういう同じ名の人から手紙を受け取ったりするような場合がそれである。ごく最近ある優秀な一科学者が、無気味さの印象を解消せしめることができるかもしれぬというので、こういう種類の出来事を一定の法則の下に分類しようと試みた。その成否は私には何ともいいがたい《*》。
* P・カムメレル、『連続の法則』(ヴィーン。一九一九年)。
同種のものの繰り返しの無気味さがいかにして幼時の心的生活から演繹せられうるかを、ここではただ示唆するにとどめて、その代りこれについては既に、これを別の関連において詳細に論じた仕事があることをお知らせしておく。つまり心的無意識のうちには、本能活動から発する反覆脅迫の支配が認められる。これは恐らく諸本能それ自身の最も奥深い性質に依存するものであって、快不快原理を超越してしまうほどに強いもので、心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、又、幼児の諸行為のうちにはまだ極めて明瞭に現われており、神経症患者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反覆脅迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う。
さてつぎにわれわれは、とにかく判断に困難なこれらの諸関係を離れて、明々白々な無気味な場合を挙げ示さねばなるまい。そういういくつかの場合を分析することによって、われわれの仮定の妥当性を最後的に決定することができると期待してもよさそうである。
『ポリュクラテースの指輪』においては、友人の願望がどれも即座に充たされ、心配のどれもが運命の手で直ちに除かれるのに気づいた客人が、恐ろしくなって友人の許を去る。その友人が彼には「気味悪く」なったのである。彼が自分にいってきかせる「余りにも幸福な者は神々の嫉妬を招く」という考えは、われわれにはまだよく分らないように思われるし、その意味は神話的に秘められたままでいる。だからわれわれはもっと簡単な状況に例をとることにしよう。私はある脅迫性神経症患者の病歴中に、この患者はかつて水浴療養所に逗留したことがあって、そこで非常によくなったと書いたことがある《*》。しかし怜悧な彼は自分がよくなったのは、水浴のためではなく、部屋の位置のためだ、自分の部屋が愛らしい看護婦の小部屋にすぐ接していたからだとした。それから二度目にこの療養所にきた時、彼は前と同じ部屋をとろうとしたが、その部屋には既にある老紳士が入っているときかせられた。すると、彼は自分の不満を次ぎのような言葉で現わした、「ふん、卒中にでもなるがいい。」二週間後その老人は本当に卒中の発作にかかった。患者にとってこれは「気味の悪い」体験だった。もし彼のあの言葉と発作の間がもっとずっと短かい時間だったら、或いはこの患者が全く同じような経験を無数に知っていたとしたら、無気味の印象はずっと強いものであったであろう。事実彼はそのような証拠には事を欠かなかったのだ。しかしそれは彼一人ではない。私が扱った限りの神経症患者はみなこれに類したことを体験している。彼らは丁度いま自分たちが――多分長い間をおいてだろうが――考えていたその人間にばったりと出会ったとしても、全然びっくりさせられなかった。また彼らは、前の晩に「だがあれのことも久しく耳にしないが」などといっていると、極まってその翌朝にはその友人から手紙を受け取ったりするのである。殊に不幸の場合とか死の場合には、ほんの少し前に彼らの念頭をその考えがかすめ過ぎなかったことなど、殆んどないといってよかった。彼らは、このような事情に、「大抵は」的中する「予感」を持つというような、きわめて控え目な表現を与えるのが常であった。
* 『脅迫神経症の一ケースに関する所見』。
最も気味悪い、最も広く行われている迷信の一つは、悪い眼つきに対する不安である。ハンブルクの眼科医S・ゼーリヒマンがこれを徹底的に研究した《*》。この不安の由来する源泉は一度も見誤られたことはないようである。何か貴重なもの、しかも壊れ易いものを持っている人は、他人の嫉妬を怖れる余り、自分が他人の立場にあったら感じたであろうような嫉妬を他人の上に投射する。そういう心の動きは、たとえ口に出されなくとも、眼にあらわれてくる。そしてもし誰かが人眼に立つ(特に願わしからぬ)特徴によってわれわれの注意を惹いたとすると、われわれは必ず、その人間の嫉妬は特に強いものであろうし、それが行動になって出てくるだろうと思い込んでしまう。このようにしてわれわれは、われわれを害おうとする隠れた意図を怖れ、やがてある種の徴候を見ただけでわれわれは、その意図は力をさえその意のままにするだろうと思うに至る。
* 『悪い眼つき。及び類似のこと』、二巻、ベルリーン(一九一〇年及び一一年)。
無気味さの上述の諸例は、ある患者の示唆に従ってかつて私が、「思考の全能」と名づけた原理に依存している。今はもうわれわれがいかなる地盤の上に立っているかを見紛うことはあるまい。無気味なるものの個々の場合の分析は、われわれを古代の世界観・アニミズムへ導いた。世界を人間の霊で充満せしめることによって、また自己自身の心の内部の出来事を自己陶酔的に過大評価することによって、思考の全能およびその上に打ち立てられた呪術のテクニックによって、また念入りに段階づけられた魔法の諸力を他の人物や事物(マナ)に配分することによって、或いはまたこの発展段階にある無制限のナルツィスムが、それを以って、現実からの間違えようのない抗議に対して抵抗するところの、あの創造物のすべてによって、特徴づけられている、あのアニミズムである。そしてわれわれすべてはそれぞれの個人的発展のうちに、原始人のアニミズムに相当する一時期を通過しているのであって、またこの一時期は、いまだに何かの折に外に現われる力を持った残滓や痕跡などを残すことなくしては、われわれすべてから消えてなくなることのないようなものなのである。今日われわれが「無気味」と見えるものすべては、このアニミズム的な心理活動の残滓に触れこれを刺戟して外に外出させる条件を充たしているように思われるのである《*》。
* この点に関しては拙著『トーテムとタブー』(一九一三年)第三章『アニミズム、呪術、思考の全能』参照。そこには次ぎのようにもいってある。「一般に思考の全能やアニミズム的思考方法を是認するような諸印象こそ、われわれは『無気味なるもの』の性格を附与するようである。既に判断のなかではそういうものを見棄ててしまってはいるが。」
さてここで私は二つの所見を述べて、そのなかにこの小論文の本質的内容を盛りたいと思う。第一、もし精神分析理論の主張するが如く、どのような種類のものであれ、感情活動のいずれも抑圧によって不安に変化せしめられるのだとすれば、そのような「不安なもの」の色々な場合の中には、この不安なものが何か繰り返し現われてくる抑圧せられたものであることを示しうるような一群があるにちがいない。こういう種類の「不安なもの」こそ、まさにあの無気味なものなのであろう。またそれ自体が元来不安なものであったか、或いは別の感情に発しているものであるかは、その際どうでもいいとしなければなるまいということ。第二、そしてもしもこれが本当にあの「無気味なもの」の秘められた性質であるとすれば、言葉の慣用が「親しいもの」をその反対物・「無気味なもの」へと移行せしめる理由が理解せられる。なぜなら、この「無気味なもの」は実際には何ら新しいものでもなく、又、見も知らぬものでもなく、心的生活にとって昔から親しい何ものかであって、ただ抑圧の過程によって疎遠にせられたものだからである。またこの抑圧への関係こそ、今われわれにシェリングの定義――無気味なるものとは、秘め隠されてあるべき筈のものであって、しかもそれが外に現われた何ものかである――をも明らかにしてくれる。
残された仕事は、今われわれが獲得した見解を「無気味なもの」の若干の場合に適用してそれらを解釈しうるかどうかをみることだけである。
多くの人々にとって最も無気味に思われるのは、死、屍体、死者の再来、精霊、幽霊などと関連のあるものである。われわれの知っている通り、多くの近代語は、ドイツ語でein unheim―liches Haus(無気味な家)というところを、そこに幽霊の出る家、というように書き直すより外の表現方法を識らない。そもそもわれわれはこの研究を、「無気味さ」の、恐らくはその最も強い例をもって始めてもよかったのであろうが、われわれはそうはしなかった。なぜかというと、ここでは「無気味なもの」があまりにもしばしば「ぞっとするようなもの」(das Grauenhafte)と混同せられて、部分的にはそれによって覆われているからである。しかし、死に対するわれわれの関係におけるほどに、われわれの思考と感情が原始時代から変化しなかった領域は殆んどないのだ。この関係におけるほど、古いものが薄い被膜の下によく保存せられてきた領域は殆んどないのである。なぜこんなに変らないできたかを見事に説明してくれるものとして、二つの契機を挙げることができよう。すなわち、われわれの本源的感情反動の強さと、科学的認識の不確実さとである。死はすべての生物の必然的運命であるのか、それとも生の内部における規則的な、しかし避けることのできる偶然事なのか、これをわれわれの生物学はいまだに決定できずにいる。すべての人間は死なねばならぬという命題は、なるほど論理学の教科書に一般的断言の標本としてのせられているが、しかし誰一人として真実のところはわかりはしないのである。そしてわれわれの無意識は、今でも昔と同じように、自分自身が死ぬことを、殆んど表象しえないでいる有様である。宗教は相変らず個々人の死という否定しがたい事実の意味に難癖をつけて、現実の生命の終末の向う側にその生存を続けさせようとしているし、国家権力は、もし人間がよりよき彼岸によって現世の生活を修正することを諦めてしまったら、人間共の間に道徳的秩序を確立して行くことなどは到底できない相談だと考えている。またわが大都市の広告塔には、死者の霊魂と交渉することのできる手段を教えようという講演会の広告が出ているし、また最も精密な頭脳をもった学者、最も鋭い思想家の幾人かさえ、殊に彼ら自身の生涯の終りに臨むと、死者との交渉のそういう可能性もないことはないなどと考えていたりする有様である。こんな具合にわれわれの殆んどすべての者がこの点に関しては今なお野蛮人と同じように考えているのだから、死者に対する原始的不安がわれわれの間にはまだ極めて強く、何物かによって触発せしめられたならば、すぐにも外へ現われ出ようとしていることも決して驚くには当らないのである。恐らく今でもなおこの不安は、あの古い意味を、すなわち死者は生き残った者の敵となってしまい、死者というその新しい生存の仲間として、生き残った者をたえず一緒に連れて行こうとしているのだというあの意味を持っているのである。このように死に対する関係が昔と少しも変っていない以上、むしろわれわれは、原始的なものが何か無意味なものとして再帰しうるために必要であるところのあの抑圧という条件など実はありはしないのではないかと質問することだってできるかもしれぬ。しかしその条件はやはり存在するのである。いわゆる教養ある人々は、表向きはもはや死者が霊魂として眼に見えるようになってくることなどは信じていないし、そういう現象をごく稀な、容易なことでは実現し難い諸条件に結びつけてしまっている。そしてもともとひどくあいまいな、双価的な死者に対する感情関係は、心的生活の上層諸部分にとっては、敬虔という、はっきりした感情関係へと弱められているからであ《*》る。
*『トーテムとタブー』中のタブー及び双価性参照。
今はもうこれ以上多くを補足する必要を見ない。なぜなら、アニミズム、呪術と魔法、思考の全能、死への関係、意図せられぬ繰り返し、去勢コンプレックスなどによって、われわれは「不安なもの」を「気味の悪いもの」とする契機のあらましを究め尽したことになるからである。
われわれは生きている人間についても「気味が悪い」ということがある。むろんそれは、その人間が何か悪い意図をもっているとわれわれが思う場合なのであるが、しかしそういうだけでは充分ではない。更にこれに、われわれを害しようとする彼のこの意図は特別な力に助けられて実現せられるだろう、と附け加えねばならぬ。「ジェッタトーレ」はこの好適例であるが、この無気味な、ローマン民族の迷信上の人物を、アルブレヒト・シェッファーは『ヨーゼフ・モンフォール』の中で、詩的直観と深い精神分析的理解力をもって、われわれが共鳴しうるような人物につくりかえた。が、この隠秘な諸力を問題にする時は、われわれはまたしてもアニミズムの地盤に立つことになる。敬虔なグレートヒェンがメフィストをあれほどにも気味悪く思ったものは、彼にそのような隠秘な力を予感したからである。
「あの娘は俺が慥に霊だということを
多分悪魔だということを感づいているのだ。」
癲癇や狂気の気味悪さは、これと全く同じ起源をもっている。素人はそこに、ある力の現われを見てとるのである。その力は、まさか彼の隣人のうちにあろうとは思ってもみなかったものであり、又しかし自分自身のどこか片隅にその気配をぼんやりと感ずることができるような力なのである。中世はこのような病気の現われをすべて悉く悪魔の仕業に帰したが、これは心理的に殆んど正しいし、また条理にも適っている。いや、多くの人々が精神分析そのものを気味の悪いものと思ったのは、それがまさにこれら隠秘な力の発見に従事するものであるからなのであろう。数年来患っていた一少女の治療に――非常に早くというわけではなかったが――成功した時、私はそういうことを、その少女が癒ってからかなり後に、少女自身の母親からきかされたことがある。
ハウフの童話に出てくるような、切り離された手足、斬られた首、腕から離れた手、又は既述のシェッファーの本に出てくるような踊る足、こういうものには、何かこうひどく無気味なものがある。殊に最後の例のように、それらに更にそれ自身の活動が成り立つ時はなおさらのことである。これらの気味悪さは、われわれが既に知る通り、去勢コンプレックスへの接近から起ってくるのである。また恐らく多くの人々が、最も無気味なものとして考えていると思われるのは、仮死のまま埋葬されることであろう。しかし精神分析は、この怖ろしい空想は単に別の空想の変形せられたものであり、その別の空想とは元々少しも怖ろしいものではなく、むしろある快楽の味を持っているもの――すなわち母胎内生存の空想の変形されたものであることを教えている。
厳密にいえば、アニミズムと、既に克服された心理の装置のはたらき方とに関する上来の主張のうちに含まれているのであるが、それでもしかし特に強調する価値があると思われるある一般的なことを書き足しておくことにする。つまり、空想と現実との間の限界が消し去られる時や、われわれがそれまで空想的と思っていた何かが、現実としてわれわれの前に現われる時や、或いはある象徴が、象徴せられたものの機能と意義とを完全に所有し始める時、その他の場合には、屡々、そして容易に無気味な印象が生ずる。呪術行為につきまとうあの無気味さの大部分は、ここに由来する。ここに存する何か小児的なものは、(神経症患者の心的生活も大体そうであるが)物的現実に比較して余りにも心理的現実を強調しすぎるということである。例の「思考の全能」ということに結びついているあの特徴である。私は前大戦の通信杜絶状態のさなかに、英国の雑誌『岸辺《ストレンド》』の一号を入手したことがあるが、その中のつまらぬ小説の中にまじって一つの小説があった。若夫婦が家具付の住居に引き越す。その家には奇妙な木彫りの鰐のついたテーブルがあった。ところが、いつも夕方になるとその家中に耐え難い、独特な悪臭が拡がる。暗い中で何かに躓く。何ともいいようのないものが階段をさっとかすめて昇って行くのを見るように思う。要するに夫婦は、このテーブルがあるところから、この家には鰐のお化けが出る、或いは、暗くなると木彫りの怪物が生き出すとか何とか、そんなことを考えざるをえないのである。非常に単純な話だが、無気味な印象はきわめて明瞭に感じられた。
これでは確かにまだ実例蒐集が充分でないが、結論として、精神分析的研究からえた一経験をお伝えしておきたい。これがもし偶然の一致でないとしたならば、無気味なものに関するわれわれの見解の正しさを極めて見事に証明してくれるものである。神経症患者が、女の性器はどうも何か気味が悪いということがよくある。しかしこの、女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知ってる場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それは必ず女の性器、或いは母胎であると見ていい。だから無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。そしてこの言葉(unheimlich)の前綴unは抑圧の刻印である。
さて既に以上を読み進まれた間にも、読者の念頭には既に色々の疑念が浮んできたことと思うが、今それらを整理してみることにしよう。
無気味なものとは、一度抑圧を経て、再び戻ってきた「馴れ親しんだもの」であり、そしてすべての無気味なものはこの条件を充たしていることはどうやらたしかであるようだ。しかしこれだけの材料では無気味なものの謎は解かれないようである。明らかにこの命題の逆は成立しないからだ。従って、個人的な過去および民族的原始時代の、抑圧せられた願望活動や超克せられた思考方法を思い出させるものはすべて無気味なものだというわけには行かない。
またわれわれは、われわれの命題を証明すべき殆んどすべての実例に、それに矛盾するような類似の実例が見出される事実について口をぬぐっていようとも思わない。たとえばハウフの童話『切り離された手の話』の切り離された手は、確かに気味が悪い。そしてわれわれはこの気味悪さを去勢コンプレックスに帰せしめた。しかし、ヘロドトスの『ラムプセニトの宝』物語では、王女がその手をしっかりと掴もうとした盗賊の首領は、弟の切り離された手を残して行く。そして、恐らく誰でも私と同じように判断すると思うが、この話は全然無気味な印象を喚び起さない。また『ポリュクラテースの指輪』における迅速な願望充足は、あのエジプト王と同様に、確かにわれわれにも無気味に作用する。しかしドイツの童話には、そのような即座の願望充足の話は棄てるほど沢山あって、しかもそれらには無気味なものは全然ないのである。三つの願いの童話で、女房はソーセージを焼くいい匂いについつり込まれて、私もあんなソーセージがほしいという。すると、それは直ちに彼女の前に皿に盛られている。亭主は腹を立てて、そんなものなんか出しゃばり野郎の鼻の先にでもぶら下がれと願う。ソーセージはすぐさま女房の鼻の先にぶら下る。確かに非常に印象的だが、しかし無気味ではない。一般に童話は公々然と「思考や願望の全能」のアニミズム的観点に立っているが、真の童話といわれるようなもので、しかも何かしらそこに無気味なものが出てくるような童話を挙げることは到底できまい。またわれわれは上に生命なき事物、絵画、人形などがいのちを持ってくると、非常に気味の悪い印象を与えるといったが、アンデルセンの童話では家具や什器や錫の兵隊などはみな生きている。しかもこれらほど無気味さから遠いものはない。またピュグマリオンの美しい像が生きてくるのを、誰も無気味とは感じないであろう。
仮死や死者の生き返りをわれわれは上に非常に無気味なものとした。しかしそういうことは又しても童話の中では至極当り前のことなのである。たとえば、白雪姫が再び眼を開くのを、誰が気味が悪いというであろうか。又たとえば新約聖書の奇蹟の話にある死者の目覚めも、無気味なものとは何の関係もない感情を喚び起す。同一事の意図せざる回帰は、さきに極めて疑わしい気味の悪い印象を与えるものとしたが、ある種の場合にあっては、別の全然ちがった印象を与えるものである。既にわれわれは、それが滑稽感を喚び起す手段として使われている一つの場合を知っているし、またこの種の例ならいくらでも引くことができる。他の場合にはそれは強調その他としてはたらく。それでは、静けさ・孤独・暗黒の無気味さはどこからくるのか。これらの諸契機は、よしんばそれが、子供たちが最もしばしば不安を表明するまさにその条件であるとしても、やはり無気味さが成立するに当っての危険の役割を示唆するものではあるまいか。そしてわれわれは既に死の気味悪さに対する知的不確実さの意味を認めたのであるが、それにもかかわらず本当に知的不確実の契機を全然軽視してしまってもいいのであろうか。
そういうわけで、われわれは、無気味な感情が出現するためには、やはり以上挙げた材料的諸条件以外のものも決定的だとしなければならぬようである。むろんここで、あの最初の論究を以って「無気味なもの」という問題に対する精神分析的関心は片づいたのであって、残余のことは恐らく美学的研究に俟つほかはないといえばいわれないこともなかろう。しかしそんなことをいうと、無気味なものの由来は抑圧せられた親しみ馴れたものにあるというわれわれの見解に一体どれほどの価値があるのかという疑念に門戸を開いてしまうことになるであろう。
一つの観察が、これらの不確実さを解決する道をわれわれに示してくれる。われわれの期待に矛盾する実例の殆んどすべては、物語、文学の領域からとってこられたものである。この事実は実際に経験する無気味なものと、単に思い浮べるだけの、或いは読むだけの無気味なものとを区別せよとわれわれに暗示しているのではあるまいか。
体験する無気味なものは、その条件ははるかに単純であるが、しかし実例はそんなに広範囲に亙るものではない。けれども私の信ずるところでは、それらは例外なくわれわれの解決の試みに一致するし、またその都度古くから馴れ親しんだ抑圧せられたものに帰しうるのである。尤もここでもまた材料のある重要な、心理学的に意味深い区別を行わねばならぬけれども、しかしそれはそれぞれ好例について承知するのが最も都合よかろうと思う。
思考の全能、迅速な願望充足、危害を加える隠秘な力、死者の生き返りなどをとりあげて見よう。これらの場合にあっては、無気味なものの感情の成立する条件の誤認せられる気づかいはない。われわれは――或いはわれわれの原始的祖先は――かつてこれらの可能性を現実と考えていた。これらの出来事の事実なることを確信していた。今日われわれはもはやさようなことを信じない。われわれはこれらの思考方法を克服してしまったのだ。しかし、われわれはまだこれらの新しい確信を完全にわがものにしてはいない。古い確信はまだわれわれのうちに生き続けていて、自分の存在の確証せられる機会を待ち伏せている。この古い、脱ぎ棄てられた確信をたしかめるような何事かがわれわれの生活のうちに起ると、忽ちわれわれは無気味なるものの感情が舞い戻ってくるのである。そしてわれわれはこの感情に次ぎのような判断をつけ加えることができる。そうか、それではやはりあれは本当だったのだ、ただ心に願っただけで他人を殺すことができるというのは、死人が生き続けていて、そして彼が以前に活動していた場所に姿を現わすというのは、等々。逆に、これらのアニミズム的な確信を徹底的に完全に払い落してしまった人、そういう人にはこの種の無気味なものは存在しない。願望と充足との最も不思議な合致、同一の場所或いは同一の日附における同じような経験の神秘的な繰り返し、最も間違い易い視覚認知、最も疑わしい物音など、これらすらも彼を迷わせるようなことはなく、又、一般に「無気味なもの」への不安として特徴づけられるような不安を彼のうちに喚び起すようなことはないであろう。従ってここで問題になるのは、現実吟味という事柄なのである。物的現実性の問題なのである《*》。
* ドッペルゲンゲルの無気味さもこの種のものであるから、われわれが自分自身の姿に思いもかけずに出会ったりする時の効果を経験するのは興味がある。マッハはそのような種類の観察を『感覚の分析』(三頁、一九〇〇年)の中で二つ書いている。彼は現に自分の見ている顔が自分自身のだと知った時は、少なからず驚かされたという。これがその一つ。もう一つは、彼の乗っているバスに乗りこんできた他人(と思われた)に、はなはだ面白からぬ判断を下す、「なんてまあみすぼらしい校長さんが乗ってきたことだろう。」――私自身にもそれと同じような経験がある。ひとりっきりで寝台車の一室にいた時、汽車が烈しくゆれた際に、隣の洗面所に通ずるドアが開いて、旅行帽をかぶり、寝間着をきた一人の老人が私の室へ入ってきた。便所はちょうど二つの車室の間にあったから、私は、彼がそこを出た時に方向を間違えて、誤って私の室に入ってきてしまったのだと思った。私は彼に説明してやろうと思って立ち上った。が、まもなく、その闖入者が実はドアの硝子にうつった私自身の姿であることを知って呆然とした。私はいまでも、この現象が非常に不愉快なものであったことを覚えている。つまりわれわれ二人――マッハと私はドッペルゲンゲルにびっくりする代りに、それを承認しなかったまでのことである。しかし、その際感じた不愉快さは、ドッペルゲンゲルを無気味なものと感ずる、あの原始的反動の残滓だったのである。
抑圧せられた小児的コンプレックス、去勢コンプレックス、母胎空想などから発する無気味なものについては、些か事情が異なる。ただこの種の「無気味」を喚び起す現実の諸体験はそうざらにはないということはある。実際に体験せられる「無気味」は、大抵はこの第一のグループに属している。しかし理論にとっては二つを区別することは重要なのである。小児的コンプレックスから生ずる「無気味」においては、物的現実性の問題は全然考慮に入ってこない。その代りに心的現実性が問題になる。つまりそこで問題になるのは、ある内容の現実的抑圧や抑圧せられたものの回帰であって、この内容の現実性に対する信仰の廃棄ではない。だから、前者の場合にはある一定の表象内容が、後者の場合にはその内容の(物的)現実性への信仰が抑圧せられているといってもいい。しかしこの後の場合の表現方法は、恐らく「抑圧」という言葉の正当な使用限界を越すことを意味する。ここに感じられる心理的相違を考慮して、文化人のアニミズム的確信が存在するその状態を、ある――多かれ少なかれ完全な――克服状態といった方がより正確である。そこでわれわれの結論はこうなる、実際に体験せられる「無気味」が成立するのは、抑圧せられた小児的コンプレックスがある印象によって再び活動し出すか、或いは、克服せられた原始的確信が再びたしかめられるように見える時である。最後にわれわれは、きれいに割り切ってしまおうと思ったり、はっきりと叙述しようとしたりするあまりに、これまで見てきた二種類の「無気味」は、体験上では必ずしもいつも判然と区別せられるものではないという内心の声に耳を塞いではならぬ。原始的確信がその最も深い部分において小児的コンプレックスと関連し、元来その中に根ざしていることをとっくりと考えてみるならば、こういう風に限界がぼやけることもさして不思議ではなかろう。
フィクション(空想や文学などの)の「無気味」は、事実上別箇に取り扱うべきである。何よりもまずこれは体験上の「無気味」よりも遥かに内容豊富であり、体験上の「無気味」を含むのみならず、体験という諸制約の下には現われてこない他のものをも含んでいる。抑圧せられたものと克服せられたものとの対立は、よほど大きな修正を加えないかぎり文学における「無気味」の上に移すことができない。なぜなら、空想の領域は、その内容が現実による吟味に拘束せられていないという前提によって初めて可能になるからである。従って、やや逆説めくが、こういうことになる、多くの、もしそれが実生活で起ったならば無気味に思われるようなことも、文学のなかでは必ずしも無気味ではないし、また文学には、実生活には存在しないような無気味な効果を生む多くの可能性がある。
これは作家に許容せられている数多くの自由の一つなのであるが、作家は自分の好むがままに、その描写世界を、われわれに親しい現実と合致するように選ぶこともできるし、またそれとは何らかの形で喰い違ったものとなるように選ぶこともできる。われわれはそのいずれの場合にも彼に随いて行くだけである。たとえば童話の世界は、最初から現実の地盤を捨ててしまって、公々然とアニミズム的確信の採用を宣言している。願望充足、隠秘な諸力、思考の全能、生なきものを生あるものにさせることなどは、童話のなかではごく普通のことであるが、それらは何ら無気味な印象を与えはしない。というのは、無気味な感情が成立するためには、既にわれわれが見てきた通り、かの克服せられた「信ずるに足らぬもの」が本当に現実的に不可能なものであるのかどうか、という判断の迷いが、――つまり暗黙の約束によって一般に童話世界には最初から取りのけられていることが必要だからである。こうして、われわれの「無気味」の解決策に沢山の反対例を提供してくれた童話は、われわれが最初に言及したケース、すなわち実生活上に起ったならば無気味に作用してくるに違いないような多くのものも、フィクションの領域では無気味ではないというケースを実現しているわけである。もっとも童話にはなおこの上、のちに少々触れようと思っている他の諸契機も入ってくるわけである。
作家はまた、より高級な霊的存在・悪霊・死人の霊魂などを採りあげることによって、童話世界ほどには空想的でないが、それでも実際世界からは区別せられる一世界を創り出してきた。これらの創造物にも、無気味なものがまつわりつくことはできるかもしれぬが、しかしこの「無気味」は、それが上述の詩的現実の諸前提下にあるかぎりは、無気味ではなくなってしまうのである。ダンテの地獄の霊たちや、シェイクスピアのハムレット、マクベス、ジュリアス・シーザーなどの幽霊現象は、なるほど陰惨でもあり怖ろしくもあるが、結局のところはたとえばホメロスの明るい神々の世界と同様にあまり無気味ではない。われわれがわれわれの判断を作家の設定する現実の諸条件に順応させ、これらの霊たちや亡霊や妖怪などを、現実世界におけるわれわれ自身と同じく完全な実在物ででもあるかのように取り扱うからである。
ところで、作家が日常の現実の面に立っているように見える場合は話がちがう。むろんそういう場合には、詩人は、実際上の体験において無気味な感情を生ぜしめるのに必要なあらゆる条件を受け入れるのであり、又、実生活において無気味に作用するものは、すべてまた作品の中でも同じ作用をする。しかしその場合、詩人は、実際生活では全然経験せられないか、或いはごく稀にしか経験せられないような事件を起させることによって、実際の経験上で可能な限度を越えて、「無気味さ」を高め倍加することができる。そういう時、詩人は、いわばわれわれを裏切って、既にわれわれが克服したと思いこんでいる迷信に売りつける。詩人はわれわれを欺いて、これはごく普通の現実だと約束しておいて、やがてしかも現実を踏みこえるのである。われわれはわれわれ自身の体験に対する場合と同様に、詩人のフィクションに反応する。そして詩人の欺瞞に気付く時は、もう遅いのである。詩人は既にその意図を果しおえたあとなのである。しかし詩人は純粋の効果を挙げたのではないと私は主張せざるをえない。われわれにはある不満の感じが残るのだ、いわば一杯喰わされたことに対する一種の忿懣が。私はシュニッツラーの『予言』や、その他これに似たような、好んで奇蹟的な題材を扱っている作品を読み終る時に、殊にはっきりとそれを感ずる。ところが詩人はそういう時もう一つ別の手段を用意している。そして、これによってわれわれの反逆に肩すかしを喰わせ、同時にその意図を達成するための諸条件を改善することができる。その手段とはこうである。つまり、作家が描き出す世界のためにどんな前提を選んでいたのかを、長いことわれわれに推測させないでおくか、或いは、極めて巧妙狡猾に、そのような決定的な説明を、最後まで回避するかの、いずれかである。しかしここで全体としては、さきほど一寸いっておいた場合、つまりフィクションは、実際の体験においては現われてこないような無気味な感情の新しい諸可能性を創り出すという場合が実現せられるわけである。
厳密にいえば、これらすべての多様性は、既に克服されたものから生ずる「無気味」だけに関係する。抑圧せられたコンプレックスから生ずる「無気味」は、もっと抵抗力を持っていて、文学においても――ある一条件を度外視すれば――実際の体験におけると全然同様に無気味である。克服せられたものから生ずる他の「無気味」は、実際の体験においても、また物的現実の地盤に立つ文学においてもこの性格を示すものであるが、しかし、作家によって創造せられた虚構の現実の中ではこの性格を失うこともありうる。
詩人の自由、従ってまた無気味な感情を喚び起したり阻止したりするフィクションの諸特権は、以上の説明によって尽されていないことは明らかである。実際の体験に対してわれわれは大体一様に受身であって、又、素材的なものに左右せられる。われわれは詩人に対しては特別従順であって、彼がわれわれを移し置くその気分によって、また彼がわれわれのうちによび醒ます期待によって、詩人はわれわれの感情の推移を一効果から逸らして他の一効果に振り向けることもできるし、また往々にして同一素材から非常に相異なった効果をうることができる。これはすべて昔からよく知られていることであり、また恐らくは職業的美学者によって詳細に論じられているものである。「無気味」に関するわれわれの推論に反対する実例、若干の矛盾を解明しようとしているうちに、われわれは思わず知らずこの研究領域に導かれてきてしまった。であるからわれわれはもう一度これらの例の一つひとつに立ち戻ろうと思う。
さきにわれわれは、なぜ『ラムプセニトの宝』の切り離された手は、たとえばハウフの『切り離された手の物語』におけるように無気味でないのかと質問した。抑圧せられたコンプレックスという源泉から生ずる「無気味」の極めて大きな抵抗力を認識した今、この問題はわれわれには前よりも重要に思われる。しかしその答は簡単である。つまりわれわれは、ここで王女の感情にではなく、「盗賊の首領」の並はずれた狡猾さの方に気をとられるからなのだ。むろんその際王女に無気味な感情がなかったわけではなかろう。彼女が失神して倒れたとしても決して不思議ではない。けれども、われわれがここに何らの無気味なものを感じないのは、われわれが彼女の身になって感じようとせず、ほかの者の身になって感じてしまうからである。またネストロイの笑劇『取り乱した男』のなかで、自分を人殺しと思いこんで逃げ廻る男が、どの落し戸の上げ蓋をあげてみても、殺された男とおぼしき幽霊が出てくるのを見て絶望して、「殺したのはたったひとりなんだぜ。何だってこうやたらに出てくるんだ」と叫ぶ時、前のとは別の状況によってわれわれは「無気味」の印象を受けない。われわれはこの場面の前提諸条件を知っているから、「取り乱した男」と間違いを共にしない。だから彼にとっては無気味であるに違いないことも、われわれには噴き出す程の滑稽としてはたらきかけてくるのである。またオスカー・ワイルドの『カンタヴィルの幽霊』の話にあるような「本物の」幽霊にしても、もし作者がそれを皮肉ったり茶化したりして面白がったら、幽霊の要求はすべて、少くとも恐怖を喚び起そうという要求だけは無効になってしまわざるをえない。このようにフィクションの世界では、感情のはたらきは、素材から全く独立しているのである。童話の世界では不安の諸感情、従ってまた無気味の感情は抑々よび醒まさるべきではない。われわれはよくそれを承知しているから、そしてそれ故にまた、何かそういったものが可能になるようなきっかけに出会ってもこれをやり過してしまうのである。
孤独・静寂・暗黒についていうならば、これは実際に、大抵の人間において決して完全にはなくなっていない幼児の不安が結びついているところの諸契機であるというよりほかはない。精神分析的探究は、別のところでこの問題をしかるべく論じておいた。
フモール(ユーモア)
私は旧稿『機智とその無意識に対する関係』(一九〇五年)の中では、フモールというものを、ただ、精神的エネルギーの節約という観点からのみ論じた。私の関心は、フモールによる快感の源泉を発見することに向けられていたのであって、私としては、それが感情の消費の節約にあることを示しえたつもりである。
フモールが起るのには二つの筋道がある。すなわち、フモールの中心となるのが唯一人の人物で、この人物自身がフモール的な精神態度を持し、いま一人の人物は傍観者乃至は受益者の役割を果す場合と、中心人物が二人あって、その中の一人は当のフモールには全然関係がなく、いま一人の人物がこの人物をフモール的な観察の対象とする場合とである。一番手取り早い例を挙げるならば、月曜日、絞首台に引かれて行く罪人が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」といったとする。この場合には、フモールを惹き起したのは当の罪人自身であり、このフモールは彼だけで完結しており、それが彼にある種の満足を与えることは明白である。一方このフモールには何の関係もない傍観者たる私は、この罪人が惹き起したフモールからはある程度の間接的な影響を受ける。すなわち私は、恐らくはその罪人が覚えるのと同じような、フモールから来る快感を感ずるのである。
第二の場合とは、たとえば、作家とか報告者とかが、現実の乃至は架空の人物の行状をフモールをもって描写するような場合である。その場合には、これらの人物自身がフモールを示すことは必要ではなく、フモール的な精神態度を必要とするのは彼らを描写する側に廻っている人々だけであって、第一の場合と同じくこの場合にも、読者ないし聴き手は、このフモールの惹起する快感にあずかりうるのである。以上を概括して次ぎのようにいってよいであろう。フモール的な精神態度は、その内容の如何を問わず、自分自身に対してもまた他人に対しても向けられうる。かかる態度をとる人にとってそれは快感の源泉であるらしい。そして、そのフモールに関係のない聴き手にも同じような快感が与えられる、と。
フモールから得られる快感がいかにして発生するかを一番良く知るには、他人のフモールを聞いている人にいかなることが起るかを見るにしくはない。聴き手の判断に従えば、この他人は今にも興奮のきざしを現わしそうに思われる。聴き手は、この男が怒り出すだろう、嘆くだろう、苦痛を訴えるだろう、驚くだろう、おじけをふるうだろう、ことによると絶望のどん底に沈むことだってあるだろう、と思って耳をすましている。そして、そうなった場合にはその男に追随して、自分自身の中にもそれと同じ感情の興奮をまき起してやろうと待ち構えている。けれどもこの期待は欺かれる。その男は、ちっとも興奮した様子を見せないで冗談をいうのである。そして聴き手は、このようにして感情の消費を節約したことが原因となって快感を覚える。これがフモールによって得られる快感なのである。
ここまでは比較的簡単である。ところがそのあと直ちに、この他人、すなわちフモリストの方の事情はどうなっているのかということの方がもっと重要なのではないかという疑問も起ってくる。いうまでもなく、フモールの本質は、四囲の情況からいえば当然起るはずの興奮を起さずにすませ、そのような感情の表出が許されそうな事態を冗談で乗り切ってしまうことに存する、その限りでは、事情はフモリストにおいても聴き手においても全く同一であるはずである。もっと正確にいえば、聴き手の側に起ることは、フモリストの側に起ることのコピーであるはずである。けれども、興奮をそのまま発散させることを不必要とするそのような心理的態度がフモリストに可能であるのはどのような原因に基づくのであろうか。精神のいかなる動的構造によって、いわゆる「フモール的精神態度」が可能となるのであろうか。この疑問の解決は、勿論これをフモリスト自身において求めなければならぬ。聴き手において見られるものは、おそらく、謎に包まれたこの過程の反響であり、コピーであるにすぎないのである。
さていよいよ、フモールの性格の中の若干を明らかにしておくべき段階に到達した。フモールは、機智や滑稽と同じく、何かしらわれわれの心を解放するようなものを持っているのみならず、何かしら太っ腹のところ、何かしら魂を昂揚させるようなところを持っている。同じく頭脳の働きによって快感をえさせるものであるとはいっても、それは機智や滑稽には存しないものなのである。何が太っ腹であるかといえば、明らかにそれは、ナルツィスムスの勝利、自我の不可侵性の貫徹に存する。この場合、自我は、現実の側からの誘因によってみずからを傷つけること、苦悩を押しつけられることを拒み、外界からの傷《トラウマ》を絶対に近づけぬようにするばかりでなく、その傷も自分にとっては快楽のよすがとしかならないことを誇示するのである。この最後の点こそ、フモールにとってまず第一に不可欠な点である。たとえば、月曜日、処刑のために引かれて行く犯罪人が次ぎのようにいったと仮定しよう。「こんなことは己には何でもない。己みたいな奴が吊されたところで何でもないじゃあないか。まさかそのために世界が滅びるわけでもあるまいし。」――その場合のわれわれの判断は、この言葉はなるほど現実の情況に対する太っ腹な優越性を示している、本当のことをいっているし筋もとおっている、けれどもまた、そこにはフモールの片鱗も認められない、いやそれどころか、この言葉はある現実評価にもとづいて発せられたものであり、したがってフモールとは全然相容れないものであるということになろう。フモールの中に含まれているのは諦めではなくして反抗である。それは、自我の勝利のみならず快楽原理の勝利をも意味しており、この場合、快楽原理は、自分にとって不利な現実の情況に対抗して自己を貫徹する能力を持っているのである。
いま述べたこれら二つの特色、すなわち現実の側からの要求の拒否と快楽原理の貫徹とによって、フモールは、精神病理の分野においてわれわれが頻繁に出くわす、後退的ないしは反動的現象に類似したものとなってくる。フモールが、自分を苦しめそうな現実をわが身に近づけないようにする機能を持つということは、それが、強制的な苦しみを逃れるために人間精神が編み出したあの諸方法の系列、神経症に始まり、精神錯乱に極わまり、陶酔、自己沈潜、恍惚境などをも含んでいるあの系列に属するものであることを意味するのである。それ故にこそフモールには、たとえば機智などにおいては全然見られない一種の威厳が備わっているのである。なぜなら、機智とは、ただ快感をうるためだけのものであるか、乃至はその得られた快感を利用して後退現象を促進するだけの意味しか持たないのであるから。ところで、フモール的精神態度の本質は何であろうか。人々はこの態度を持することによってわが身から苦しみを遠ざけ、自我が現実世界によっては克服されえないことを誇示し、堂々と快楽原理を貫きとおす。けれども、さればとて、同じ意図に出た他の方法のように、そのために精神的健康の土台を掘り崩すようなことはないのである。快楽原理の貫徹と精神的健康というこの二つのものは通例互いに相容れがたいと思われているのであるから、このことは一層不思議に思われる。
誰かが他人に対してフモール的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次ぎのような解釈が出てくる。すなわち、この男はその他人に対してある人が子供に対するような態度に出ているのである。そして子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。私は、機智に関する著作の中においてすでにこの種の解釈の可能なることを、控え目にではあるが暗示しておいた。この解釈が許されるとすれば、フモリストがみずからを優越的な地位に置きうるのは、彼がみずからをある人の位置にいわば父親と同一の地位におき、その反面、他人を子供の地位にまで引き下げるからなのである。こう仮定すれば一応の説明はつく。しかしさればとて、この仮定が全然疑問の余地のないものとも思われない。すなわち、ではなぜフモリストはこのような役割を、あえて僭するに至るのであろうかという疑問が起るからである。
けれども、フモールに関しては、いま一つの、恐らくは上に述べた例よりもフモールの本質に近い、より重要な場合のことを想起していただきたい。それはすなわち、ある人間がフモール的な精神態度をわれとわが身に向け、それによって自分にふりかかってくるかもしれぬ苦悩を防ごうとする場合である。一体、自分自身を子供のように取り扱い、それと同時に、自分自身であるところのその子供に対して大人としての優越した役割を演ずる、などということに何らかの意味があるのであろうか。
けれども、病的な例を実地に取り扱うことによってえられた自我の構造に関する知識を援用するならば、この一見はなはだ信じがたく思われる想定には強力な根拠が与えられることになるであろう。すなわち、この自我なるものは決して単一なものではなく、その中核体として、われわれが超自我と名づけている特殊の検問所《インスタンツ》を内蔵しているのである。そして、場合によると自我はこの超自我と合流して、われわれの眼には両者が分ちがたく映ることもあるほどだが、また場合によっては、両者がはっきりと分離することもある。超自我は、その発生史からいえば、両親が子供に対して持っているインスタンツとしての意味を受け継いだものであり、自我の独立性を全然認めないことも往々にしてあり、事実、依然として自我をかつて幼年時代に両親ないしは父親が子供を取り扱っていたように取り扱うのである。そこで、フモール的精神態度をその動的機能の面から説明しようとすれば、次ぎのような仮定を立てればよい。すなわち、かかる態度の本質は、フモリストその人が、心理的なアクセントを自我から引き上げて、それを、超自我の方へ転移したという点に存する、と。このように膨脹した超自我にとってこそ、自我は取るに足らぬほど小さなもの、自我の有する関心などはすべて吹けば飛ぶようなものと映ずることが可能になるのであり、又、フモリストの人格の内部における自我と超自我とへのエネルギーの配分がこのように新しいものとなったならば、超自我としては、安んじて自我の外界の現実に対する反応可能性を抑圧してしまうことができるのかもしれない。
われわれが使い馴れている用語を厳格に守って行こうとすれば、心理的アクセントの転移というかわりに、大きな実動エネルギー群の転移というべきである。そしてその次ぎの問題は、精神という器官の中の一つのインスタンツから別のインスタンツへそれほど多量のエネルギーが転移するものと考えてよいかどうかという点である。いまわれわれが使っている仮定は、まるでこの目的充足のために新たにでっち上げられたものであるかのようにみえる。けれども、われわれとしては、精神現象を超心理学《メタプスユヒヨローギー》の立場に立って解釈して行くというわれわれのこれまでの試みにさいし、充分の回数とはいえぬまでも、再三再四にわたって、上述の仮定に含まれているようなファクターを当然のものとして予想しつつ研究を進めてきたものであることを想起しても差支えないはずである。たとえばわれわれは、性愛の対象にエネルギーを出動させる普通の場合と惚れこんだ状態との差異は、後者の場合には前者と比較にならぬほど多量のエネルギーが対象に向って出動し、そのため自我は、いわば自分を空っぽにしてそっくり対象に移ってしまう点に存すると仮定した。又、偏執病の若干例の研究によって私が確めえたところによると、被害妄想が形成されるのは早い時期においてであって、その妄想は、別段人眼につくほど外部に現われることもないまま長期にわたって潜在をつづけ、それが、ある一定の動因を契機として実動エネルギー群を得ると、そこで初めて顕在化してその人の精神生活において威を振うにいたるのである。そして、かかる偏執病発作の治癒には、妄想を解消させたり矯正したりするよりも、むしろ、かかる妄想に出動しているエネルギーを引き上げる方が効果的だといいうるであろう。憂鬱症と躁狂病との交替、および、超自我によるむごたらしいまでの自我抑圧と、かかる抑圧の後での自我の解放との交替という現象は、われわれに、ここにも以上にのべたような実動エネルギー量の変化がはたらいているのであろうという印象を与えてきた。そして、ついでながらいっておけば、この実動エネルギー量の変化という仮定は、正常な精神生活に現われる幾多の現象の解釈にも援用されて然るべきものと思われる。従来なぜこのことが小規模にしか行われなかったかといえば、それは、われわれの方で遠慮していたからであり、このわれわれの遠慮はむしろ諦められてよいのである。われわれが確実な地盤に立っているのは、精神病理学の領域においてだけである。この領域においてこそわれわれは、実地に観察し、確実な結論に到達することができる。われわれが正常な精神生活についても敢えて判断を下しうるのは、いまのところ、分離せられ歪曲せられた病的なものの中に正常なものを推知しうる限りにおいてのみである。われわれの遠慮の因をなしているこの臆病さが克服された暁には、われわれは、精神現象の理解にあたって、実動エネルギー量の静的関係および動的変化がいかに大きな役割を演じているかを認識するであろう。
されば、私としては、ここに開陳せられた可能性、すなわち、人間はある一定の状態において、突然その超自我に過分のエネルギーを出動させ、この過剰エネルギーを持った超自我を通じて、自我の外界に対する反応様式を変化させるものであるという可能性はすでに確実なものと称して差支えないと思う。私がフモールに関して推定したこととの著しい類似は、フモールに親近した領域である機智についても認められる。すなわち私は、機智の発生を考察するにあたって、前意識的な意志が、一瞬、無意識による加工に委ねられる、従って機智とは、無意識によって惹起せられる滑稽であると想定せざるをえなかった。これと全く同じく、フモールとは超自我の媒介によって生ずる滑稽であるといってよかろう。
われわれの通念によれば、超自我とは口喧ましい主人である。従ってその超自我が、自我に一寸した快楽を与えることに甘んずるなどとは、この超自我本来の性格にふさわしくないではないかという異論が出るかもしれない。事実、フモールから得られる快感が滑稽なものや機智から得られる快感ほどの強さに高まることは決してなく、腹からの笑いとなって爆発することも決してない。そして又、フモール的な精神態度をとる時の超自我が、現実を拒否してイリュージョンに奉仕することも事実である。けれども、その原因はよく分らぬながら、われわれはこのあまり強くない快感をきわめて価値高いものであるとし、この快感が特にわれわれを解放し昂揚せしめるものであると感ずるのである。もちろんフモールによって惹起される冗談が本質的な意味を持つものではないこと、単なる探りとしての価値しか持っていないこともまた確かである。けれども大事なのは、それが自分自身に向けられたものであれ、また他人に向けられたものであれ、フモールが遂行しようとする意図なのである。いってみれば、フモールとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危っかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことだって朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。
おびえて尻込みしている自我に、フモールによって優しい慰めの言葉をかけるものが、超自我であることは事実だとしても、われわれとしては、超自我の本質について学ぶべきことがまだまだ沢山あることを忘れないでおこう。ついでながらいうと、人間誰しもがフモール的な精神態度を取りうるわけではない。それは、まれにしか見出されない貴重な天分であって、多くの人々には、よそから与えられたフモール的快感を味わう能力すら欠けているのである。そして、最後にいっておくが、超自我がフモールによって自我を慰め、苦悩から守ろうとするということと、超自我は両親が子供に対して持っているインスタンツとしての意味を継承しているということとは矛盾しないのである。
ドストイェウスキーと父親殺し
内容豊かな人格を持ったドストイェウスキーを前にして、われわれは、四つのものを区別して考えようとする。すなわち、詩人としての彼、神経症患者としての彼、倫理家としての彼、及び、罪人としての彼である。われわれの頭を混乱させるかくも複雑な人格を統一的に解釈するのには、一体どうしたらよいのか。
疑問の余地の最も少いのは詩人としての彼である。詩人としての彼は、シェイクスピアに比較してもさして劣ってはいない。『カラマーゾフの兄弟』は、古今東西を通じて最も大規模な小説であり、そこに挿入せられている大審問官の話は、世界文学における最高傑作の一つであり、いかほど賞讃しても賞讃し過ぎることはないといってよい。ただ残念なことに、詩人というものが問題となる限り、精神分析的な方法は手を挙げるほかはないのである。
一番手取りばやくわれわれの疑惑の対象となりうるのは、倫理家としてのドストイェウスキーである。最も深い罪の領域を通ったことのある者のみが最も高い倫理の段階に到達するということを論拠として、彼を倫理的に高く評価しようとするのは、重大な疑点を看過する態度である。すなわち、倫理的な人間とは、誘惑というものに、それが心の中で感じられた途端に直ちに反応し、しかもそれに屈服することのない人間の謂である。さまざまな罪を犯し、然るのち後悔して、高い倫理的要求を掲げるにいたった人間は、楽な道を歩んだのだという非難を免れることはできない。そのような人間は、倫理の本質的な部分をなすもの、すなわち断念というものを遂行することが出来なかったのである。けだし倫理的な生活を送るということは、実際の人間生活の関心事なのだ。ここのような人間のやり口は、民族大移動時代の野蛮人を思わせる。すなわち、当時の野蛮人たちは、人を殺し、然るのちその懺悔をするのであるけれども、それもその懺悔が、当の殺人を可能ならしめる直接の手段となっているからのことにすぎない。イヴァン雷帝の振舞もまた同様である。いやそれどころか、このようにして倫理の要求と妥協するやり口は、すぐれてロシア的な特色といっても差支えない。ドストイェウスキーが倫理的苦闘のすえ到達した最後的な結果にしたところで、決して賞讃に価するようなものではない。個人的な衝動の掲げる要求と人間社会が有するもろもろの要求とを宥和させようとして、悪戦苦闘のすえ彼が到達したところのものは、相も変わらず、世俗的ならびに宗教的権威のもとに身を屈すること、すなわち、ツァー及び基督教の神に畏敬の念を捧げ、偏狭なロシア的ナショナリズムに沈潜することであって、この程度の結果に到達するためには、ドストイェウスキーほどの天才も、また彼が閲したほどの苦労もいらないのである。これが、偉大なる人格ドストイェウスキーの弱点である。彼は、人類の教師や解放者になろうとはせず、人類の典獄の一人になったのである。将来の人類文化が彼に負うところはほとんど皆無であるといってよい。彼がこのように蹉跌をすべく運命づけられた原因がその神経症にあったことを証明することはおそらく可能であろう。あれほど高い知性を持ち、あれほど強い人類愛に燃えていたのであるから、普通ならもっと違った人生行路、たとえば使徒のような聖なる生涯を歩んだことであったろう。
ドストイェウスキーを罪人ないしは犯罪者とみなそうとすれば、激しい反対を惹起せずにはおかない。しかもその反対は、必ずしも犯罪人概念の月並な解釈に基づいているとは限らないのである。この反対の真の動機を知るには、手間はかからない。すなわち犯罪者の本質的特色をなすものは、飽くことを知らぬ我欲と、強度の破壊的傾向という二つのものである。そして、この二つに共通であり、且つこの二つが外部に現われるための前提をなすものは、冷酷さ、すなわち対象(ことに相手が人間である場合)を評価するにあたって感情の要素を交える能力の欠乏である。すると直ちにわれわれの頭に浮ぶのは、これとは丸で正反対なドストイェウスキーの性格である。彼は、あれほどまでに強く人々の愛を求めたではなかったか。また、たとえば最初の妻およびその情人に対する関係においてのように、憎みかつ復讐する権利が自分にあった場合ですら彼は愛したり援助の手を差し伸べたりし、お人好しに過ぎる態度をすら示して、人を愛する能力の巨大さを実証しているではないか。そこで当然、では一体、人々はどうして彼を犯罪人の一人に数えたいという誘惑を感ずるのであるかという疑問が起らざるをえない。そしてこの疑問に対する答えは、この詩人の素材の選択の仕方である。すなわちドストイェウスキーは、その素材として、乱暴者、殺人犯、我利々々亡者などを特に好んで取り上げており、このことから、同様な傾向が彼自身の内部にも潜んでいたことが察知されるというのである。それから又、彼の生涯中の若干の事実、たとえば彼の賭博癖が挙げられるし、或いは又、一人前になりきっていないある少女を強姦したというあの事件(この事件については彼自身の告白がある《*》)も、恐らくこの疑問に対する答えの中に含められるであろう。この矛盾は、彼自身をたやすく犯罪者にしたであろう極めて強い破壊衝動も、ドストイェウスキーの現実の生活においては、主として彼自身の人格に対して(すなわち外に向けられるかわりに内に対して)向けられ、その結果マゾヒズムおよび罪の意識となって発現したことを承知すればおのずから氷解する。いずれにせよ、彼の性格の中には、サディスト的な要素も多分に残存しており、それは、彼が自分の愛している人々に対してさえ示した短気、意地悪、不寛容などに現われており、或いは又、作家としての彼が読者を取り扱うそのやり口にも示されている。従って彼は、小さな事柄においては外に対するサディストであったが、大きな事柄においては、内に対するサディスト、すなわちマゾヒストであり、最も心の弱い、最もお人好しな、最も慈善心に富んだ人間だったのである。
* 『知られざるドストイェウスキー』(一九二六年)中のこの点に関する論述参照。――シュテファン・ツヴァイク、「ドストイェウスキーはブルジョア道徳の埒を超えることを意に介さなかった。彼がその生涯中にどの程度まで法律の限界を超えたか、彼の作品の主人公たちが持っている犯罪的本能がどの程度まで彼自身の中の現実であったかを正確にいえる者は一人もいないのである。」(『三人の巨匠』一九二〇年)ドストイェウスキーの作品中の人物と彼自身の体験との間の緊密な関係については、ルネ・フュレップ=ミラーの『ルレットをするドストイェウスキー』(一九二五年)の序章中の記述を参照。この記述のもととなったのはニコライ・ストラコフである。
われわれは、複雑な構造を持ったドストイェウスキーの人格の中から、量的な要素を一つと質的な要素を二つ、合計三つの要素を拾いだした。すなわち、異常な高度を持ったその情感性、彼にサド・マゾヒスト乃至は犯罪者たるの素質を与えずにはいなかった錯倒的本能、及び分析的解釈を施すことが不可能な芸術家としてのいい分がそれである。これら三つの要素の共存は、神経症患者の場合でなければ恐らく不可能であろうと思われる。事実、完全な意味でのマゾヒストはすべて神経症患者である。衝動の側からの要求とこれに対立する抑止(それにプラスするに、その場合に利用可能な昇華方法)との間の力関係だけに注目すれば、ドストイェウスキーを、いわゆる「衝動的な性格の人物」だといって分類してしまうことも依然として許されるかもしれない。けれども、神経症もまたこれに加わっていたとなると、話は曖昧になってくる。そして上述せる如く、この彼のような場合、神経症の同時存在は充分考えられることであろうし、しかも神経症は、人格という自我によって統一せられるべき複合体の内容が豊富であればあるだけ、一層たやすく発生するものなのである。蓋し神経症とは、そのような統合をなし遂げることが自我の力に及ばなかったということ、すなわちそのような試みをすることによって自我の統一に破綻が来たことを示す一つの徴候にほかならないからである。
ところで、厳格な意味では、神経症の存在は何によって証明されるのであろうか。ドストイェウスキーは、みずからを癲癇持ちと呼んだし、他人もまたこれを認めていた。それは、彼が屡々酷い発作に襲われ、それと同時に意識を喪失したり、筋肉痙攣を起したり、そのあとで不機嫌な状態に陥ったりしたという事実に基づいている。そして、このいわゆる癲癇が、彼の神経症の徴候の一つに過ぎなかったこと、従ってヒステリー癲癇――すなわち重症のヒステリー――の中に入れられても良いほどのものであることはいかにもありうることなのである。但し、次ぎに挙げる二つの理由からして、まだ断定を下すことはできない。すなわち、一つには、いわゆるドストイェウスキーの癲癇についての病歴日誌が不完全かつ不確実なものであるからであり、さらには、彼の場合、類癲癇発作に伴って起ったといわれる病的状態をどう解釈すべきかの点がいまだにはっきりしていないからである。
差し当って第二の点をさらに論じよう。癲癇の病理学を始めから終りまでここに繰り返すことはそれによって何も決定的な結論が出るわけではないから無駄である。ただ次ぎのことはいえる。すなわち、古くからモルブス・サケル(神聖な病気)と呼ばれているこの癲癇という病気は、こんにちでも依然、明白な臨床的統一体をなして現われるのである。つまり、この無気味な病気には、全然予測不能で、一見なんらの誘因もなくして起るかに思われる痙攣発作、性格が変化して怒りっぽくなったり攻撃的になったりする現象、及び、あらゆる精神能力の漸進的減退が附随して現われる。けれども、これらの徴候のどれ一つを取りあげてみても、それだけでは、癲癇という病気の全体像を捉えるには曖昧すぎる。舌を噛んだり尿を排泄したりするようなすさまじい様相で現われる発作は、度重なると、われとわが身に重大な危害を加えるに至るスタトゥス・エピレプティクス(重積癲癇)となって生命にも危険を及ぼすけれども、この状態が緩和されて短時間の小康状態をえたり、眩暈がしてもそれがほんの一時的な性質のものに過ぎなくなったりすることは可能であり、また発作の代りに、患者が、まるで無意識の支配下にでもあるかのように自分でも不思議に思われるような何事かをするといったふうの短い時期が繰り返し現われるような状態になることも可能である。発作は、他のあらゆる点では純肉体的な原因に基づいている(その真相はわれわれには未知であるが)にしても、その最初の発生だけはこれをある純心理的な影響(すなわち驚駭)に負うているということもありうるし、或いはまた、更にその後も、心理的な刺戟に反応しつづけてゆくということもありうるのである。圧倒的大多数の場合、知的能力の減退ということが特色となっているにしても、少くとも一つの例においては、この病患によっても最高度の知的能力は損われ得なかったことが知られている(ヘルムホルツの場合)。(同様のことが主張せられているその他の事例においては、その事例自体が不確実であったり、ドストイェウスキー自身の場合と同じような疑惑の余地をとどめている。)癲癇の発作を起す人々は、愚鈍であるような印象、発育障害を起しているような印象を与えたり、もちろん常に必ずそうだという訳ではないにしても、甚だしい場合には、この病患の附随現象として、極めて明瞭な白痴性や極度の頭脳的欠陥が現われたりすることさえある。けれども、これらの発作は、そのあらゆるヴァリエイションともども、もっと別の種類の人々、すなわち、精神的機能の発育は完全であり、情感もむしろ過多で、ただ大抵の場合それが充分に制御せられていないといったような種類の人人にも見受けられる。従って、かかる状況を前にして、人々が、臨床的に実証しうる「癲癇」という統一的な病的興奮状態の存在を不可能視するのも敢えて異とするには足りないといえよう。外部に現われた諸種の徴候が同一であるところを見ると、その背後に、衝動を病的手段を通じて排泄する機構として、何かある器官が存在し、この同一の器官が、全然異なった事情のもとにおいてもその機能を発揮し、組織学的ないしは毒物学的重症による脳機能の障害の場合においても、また、精神的エネルギーの配分管理が完全に統御されておらぬ場合、すなわち、精神機能を司っているエネルギーの運営が危機に瀕している場合においても、それらの現象の原因として一役買っているというふうに、機能的な解釈を施さざるをえないかに見える。すなわち、現象形態は二つに別れていても、その背後に潜んでいる衝動排泄機構は同一であるような気がするのである。そして、この衝動排泄機構は、窮極においては毒物学的な原因に基づいている性的な事象とも無縁ではない。すでに最古の医者たちも、性交を軽度の癲癇と呼んでいた。すなわち彼らは、性交が、癲癇的な刺戟排泄の緩和であり調節であることを認識していたのである。
以上のすべてに共通する点は、これを「癲癇的反応」と名付けて差支えないと思われるけれども、この「癲癇的反応」は、疑いもなく神経症によっても利用せられるのである。神経症の本質は、みずからの力では心理的に処理しえないだけの量の刺戟を肉体的な手段によって解消しようとする点に存する。癲癇の発作がヒステリーの一徴候とせられるのはかかる理由に基づくのであり、それは通常の性交による場合と同様、ヒステリーによって調節せられ変形されるのである。従って、器官的な原因に基づく癲癇と「心理的」癲癇とを区別することは全く正当であり、この区別には実際的な意味がある。すなわち、前者を持っているものは脳に故障のある人間であり、後者を持っているものは神経症患者なのである。前者の場合、その精神生活を操っているのは、心的生活とは無縁の外部的障害であり、後者の場合に見られる障害は、心的生活自体の一つの実現である。
ドストイェウスキーの癲癇は、おそらくこの第二の種類のものであったと思われる。厳密な意味での証拠を挙げることはもとよりできない。そのためには、発作の最初の発現およびその後における不規則なその反覆と彼の心的生活との間の関係を残らず明らかにする必要があるけれども、それをするには、われわれの知識はまだ余りに少いのである。発作それ自体の描写は、われわれにとっては何の足しにもならない。しかも、発作と彼の生活体験との間の関係についての資料は不充分であり、互いに矛盾していることさえ稀ではない。そこで、結局、次ぎのように想定するのが一番真実に近いように思われる。すなわち癲癇の発作は、ドストイェウスキーの遥か幼年時代にまで遡る、しかもこの発作は、最初の中は、もっと他の、もっと穏やかな形の徴候で代用せられていた。そして、十八歳の時のあの震撼的な体験、すなわち父の殺害を経てのち初めて癲癇という形態を取るに至ったのである《*》、と。シベリア流刑時代には発作が全然止んでいたということがもし証明せられたらまことに都合がよいといってよい。けれども、これに関しては他に反証がある《**》。『カラマーゾフの兄弟』の中に出てくる父親殺しとドストイェウスキー自身の父親の運命との間にまぎれもない関係のあることに眼を留めた伝記作者の数は一二に止まらない。そして、彼らはこの事実を根拠として、「ある種の近代的・心理的方法」なるものを云々するに至った。そして、この心理分析的観察方法は、この事件こそはドストイェウスキーの魂が受けた最も重大な外傷《トラウマ》であり、そして、この事件に対する彼の反応こそ、彼の神経症の謎を解く鍵であるといいきってしまいたいという誘惑に直面している。
* この点については、『知識と生活』一九二四年、第十九号ないし第二十号所載のルネ・フュレップ=ミラーの論文『ドストイェウスキーの神聖な病患』参照。特に興味を惹くのは、ドストイェウスキーの幼年時代に「何かしら恐ろしいこと、忘れることができないこと、苦しいこと」が起ったのであって、彼の病患の最初の徴候は幼年時代のその事件にまで遡りうる、という記述である。(『ノヴォイェ・ヴレーミヤ』の記事中のスヴォーリンの文章〔一八八一年〕。『ルレットをするドストイェウスキー』の序文四五頁所載の引用による)。更に、オレスト・ミラー著『ドストイェウスキーの自伝的作品』中には次ぎのような文章が見られる。
「フョードル・ミハイローヴィッチの病気については、勿論更にいま一つの特別な説があって、それは、彼の極く小さい時のことを引き合いに出し、この病気とドストイェウスキーの両親の家庭生活における悲劇的な一事件との間に関連を認めようとする。私はこの説を、フョードル・ミハイローヴィッチと極く親しい間柄であった人の口から直接聞いたのではあるけれども、何一つとしてこの噂を実証する材料はないので、ここにその説を詳細且つ正確に伝える勇気を持ちえないのである。」伝記研究家の立場からいっても、また神経症研究の立場からいっても、このような遠慮はつまらぬ隠し立てであるといってよい。
** ドストイェウスキー自身の報告をも含めて、大抵の人々のいうところは寧ろこれとは反対で彼の病気が始めて決定的、癲癇的性格を帯びるに至ったのはシベリア流刑の時代においてであるという。然し、残念ながら、神経症患者の自伝的言説には信を置き難いのである。経験の示すところによると彼らの記憶には、自分にとって好ましくない種類の因果の連鎖を滅茶々々に切断してしまうような改竄を試みる傾向がある。けれども、シベリア監獄がドストイェウスキーの病状にも根本的な変化を与えたことは事実らしい。この点に関しては『ドストイェウスキーの神聖な病患』一一八六頁を参照。
けれども、このような主張に精神分析学の面からの基礎づけを与えようとするにあたって私が危惧する点は、私のいうところが、精神分析学の用語や理論に馴染みのない人々には遂に分らずじまいになりはせぬかということである。
ただし、確実な手懸りが唯一つある。すなわちわれわれは、ドストイェウスキーがまだ若くて、「癲癇」の症状の現われる遥か以前に彼を襲った最初の発作がいかなる意味を持っていたかを知っているのである。これらの発作は、死としての意味を持っていたのであって、死の不安をもって始まり、最高潮に達すると、昏睡病のような睡眠状態を伴ったのである。最初この病気が彼を襲った時には、彼はまだ少年で、彼は突然何の理由もないのに憂鬱状態に陥ったのであった。彼がのちに友人であるソロヴィヨフに語ったところによると、それは、まるで自分が直ぐにでも死ななければならないかのような感じであったという。そして、そのあとでは、事実、本当の死にそっくりの状態が続いて起りもしたのである。……弟アンドレーの報告によれば、フョードルは、子供の時からしてすでに、自分は夜中に仮死状態に似た睡眠に陥るかもしれないがその際には五日間を経過してから埋葬するようにしてくれ、と書いた小さなビラを眠りに入る前に置くようにしていたということである(『ルレットをするドストイェウスキー』序文六〇頁)。
われわれは、かかる仮死状態の発作がいかなる意味と意図とを持つものであるかを知っている。それは、自分を死者と同一視すること、すなわち自分を現実に死んでいる、乃至は死んで貰いたいと思っている人物と同一視することである。より重要なのはあとの方の場合である。その場合には、発作は、罰としての意味を帯びてくる。ある他人が死んでしまえばいいと思っている。ところが今は自分がその他人になって死んでいるのである。この点に関する精神分析学派の主張に従うと、少年の場合、この他人というのは通例父親であり、したがって、このいわゆるヒステリー発作は、憎らしい父親が死んでしまえばよいと思ったことに対して、自己自身に下す罰なのである。
人類を全体として見ても、また個々人として考えて見ても、その一番重要で、かつ一番最初の犯罪が父親殺しであるという主張の存在することはあまねく知られている《*》。いずれにせよ、罪悪感の主要な源泉が父親殺しにあることは間違いない。それが唯一の源泉であるか否かは分らない。いろいろの検討の結果も、罪悪と贖罪意識とが心的にいかなる源泉を有するかをいまだ明らかにするには至っていない。けれども、父親殺しが、その唯一の源泉である必要はない。この場合の心理的状況は錯綜しており、若干の説明を要する。少年の父親に対する関係は、われわれの用語でいえば、アンビヴァレント(両面的)なものである。競争者としての父親を亡きものにしたいという憎悪感のほかに、父親に対する一定度の愛情が存在するのが通常である。この二つが合併して、自分を父親と同一視するという現象が起るのである。一方では、父親を嘆美するがゆえに父親にとって代りたいと願い、他方では、父親を亡き者にしたいがゆえに、父親の如くありたいと願う。ところが、この全過程が一つの強力な障害にぶつかる。すなわちある瞬間が来ると、少年には、競争者としての父親を亡き者にしようなどとすると、その罰として、自分は父親によって去勢されてしまうであろうということが分ってくる。従って少年は、去勢されては困るという不安から、すなわち自分の男性としての存在を守りたいという利害の打算から、父親を亡き者にして母親を所有しようという願望を捨てる。この願望が無意識の中に残存し続けると、これが基礎となって罪悪感が生れるのである。われわれの見解に従えば、右に叙述したことは、正常な過程であり、いわゆるエディプス・コンプレックスが辿る正常な運命である。むろん次ぎになお一つの重要な補足的説明が附け加えられねばならぬ。
* 拙著『トーテムとタブー』参照。
すなわち、もしその少年に、われわれの術語にいわゆる雌雄両性的性格という体質的要素がかなり強く現われている場合には、事態は一層複雑化するのである。その場合には、去勢によって男性としての存在を奪われてしまうという不安から、女性としての存在の方向に逃避しよう。むしろ自分を母親の地位に置き、母親になりかわって父親の愛を受けたいという傾向が強くなってくる。けれどもかかる解決方法も、去勢に対する不安のために、不可能になってしまう。すなわち一個の女性として父親に愛して貰おうとすれば、いきおい去勢にも甘んじなければならないからである。かくして、憎悪と恋着という、父親に対するこの二つの衝動は抑圧される。その場合外部的な危険(すなわち去勢)に対する不安の結果として父親に対する憎悪が棄て去られるという点に、ある種の心理的差異が存在する。そして、父親に対する恋着は危険な内部的衝動と考えられる訳であるけれども、これとても結局は、同一の、外部的危険(去勢)に帰せしめられるのである。
父親を憎悪することを不可能にするものは、他ならぬその父親に対する不安である。去勢は、罰としてであれ、父親の愛を受ける代償としてであれ、とにかく恐ろしいものと思われる。父親に対する憎悪を抑圧する二つの要素の中、第一のもの、すなわち罰としての去勢に対する直接の不安は、正常な要素と呼ばるべきであり、病的な原因に基づく昂進は、いま一つの要素、すなわち女性的な立場に立った場合の去勢に対する不安をまって、初めてつけ加わってくるもののように思われる。かくして、甚だしく雌雄両性的な素質というものは、神経症の条件ないしは裏附けの一つとなってくる。ドストイェウスキーにこのような素質があったことはほぼ確実に推定しうるところであって、そのことは、男同士の交友関係が彼の生涯において占めていた意味から知られるような、いつ顕在化するかもしれなかった潜在的同性愛、恋仇に対する場合の異常なまでに愛情のこもった関係、及び短篇中の幾多の例からも知られるように、彼が、抑圧せられた同性愛の存在を考えて始めて納得の行くようなシチュエイションに対してすぐれた理解を示したことなどの中に現われているのである。
父親に対する愛と憎しみとの態度についての、又、それが去勢に対する不安の影響を受けてどのように変化して行くかについてのかかる叙述が、精神分析に馴染みのない読者の眼に面白くない、信をおくに足らぬものと映ずるとすれば、お気の毒には思うものの、私としてはこれを如何ともなし難い。私自身にしたところで、この去勢コンプレックスこそは、精神分析一般に対する拒否的態度の中でも、最も広範囲な支持者を持った拒否に会うことが必至であろうと予想しているといってもいいのである。けれども私としてはただ、精神分析上の経験に照して見れば、まさにこの去勢コンプレックスにまつわる諸関係こそ疑問の余地を全くとどめないものであること、及びこれらの諸関係こそあらゆる神経症の謎を解く鍵と認めるほかはないことを断言しうるのみである。従ってわれわれとしては、当面の問題となっているドストイェウスキーのいわゆる癲癇の場合にも、この鍵が役に立つか否かを試して見なければならない。けれども、われわれの精神生活中の無意識の部分を支配している事物は、われわれの意識にとっては余りにもかけ離れた存在である。エディプス・コンプレックスの中に潜んでいる父親に対する憎悪を抑圧した結果がどうなるかは、これまで述べたところによって尽されているとはいえない。自己と父親との同一視が結局自我の中に継続的な位置を無理占めするという事態が新らたな要素としてつけ加わって来る。それは、自我の中に吸収せられるけれども、特別の審判機関として、自我の中で、自我の他の諸内容に対立する。そうなると、それはわれわれの用語にいわゆる超自我となったのであり、われわれの見解に従えば、それは両親からの影響の継承者として、きわめて重要な各種の機能を果すのである。
父親が冷酷で乱暴で残忍であったとすると、超自我は、これらの諸性質をこの父親から受け継ぐ。そして、この超自我と自我との関係の中に、受動性――これこそまさに抑圧されるべきであったものであるが――再び顔を覗かせる。すなわち、超自我はサディスティッシュなものとなったのであり、これに反して、自我は、マゾヒスティッシュなもの、その根本においては女性的・受動的なものとなる。すると、その自我の中には、罰を受けたいという強い欲望が起る。そしてこの自我は、ある時には超自我をも含めた全体として外部的運命に屈従し、またある時には、超自我(罪の意識)によって虐待せられることの中に満足を見出すのである。その際当然のことながら、あらゆる罰は根本においては去勢としての意味を持っており、従ってそれは父親に対して古くから存在する受動的な態度の実現といってよいのである。そして窮極においては、運命というものも、もっと時代が下ってから発生した父親の代用物に過ぎないのである。
良心が形成せられる正常な過程も、以上に叙述した異常過程と酷似しているに違いない。両者の境界を確立しようとするわれわれの試みはまだ成功していない。ただ、この場合受動的要素に優位を占めさせるのにあずかっていちばん力があるのは抑圧せられた女性的性格であるといわれている。さらに又、あらゆる人々において畏怖の対象とせられている父親というものが、現実においても実際に特に乱暴な男であったか否かということも、附随的な要素として重要な意味を帯びてくるわけだ。そしてこのことは、ドストイェウスキーの場合はちょうどあてはまるのである。彼が人並外れた罪悪感を持っていた事実、及び彼の生活態度に見られたマゾヒスティッシュな傾向は、その原因を、彼の性格中で特に強かった女性的要素に求めることができるであろう。こう見て来ると、彼の性格を要約すれば次ぎのようになる。すなわち、彼は特に強い雌雄両性的素質を有しており、特に冷酷であった父親に対する依存関係を、特に激しく拒否することができたのである。彼の本質を構成する要素のうち従来知られているものに、この雌雄両性的性格というものを附加して考えて見よう。そうすれば、早くから彼に現われていた「仮死発作」の徴候は、自我が、超自我に許されて、罰としてみずからに課した、父親と自分との同一視であったことが理解せられるのである。お前は、父親を殺してみずからがその父親になろうとした、いまお前は希望通りその父親になった、ただし死んだ父親だぞ、というわけである。まさしくヒステリー徴候のごく普通の経過といえよう。そしてその際、こんどは父親がお前を殺す番だぞということになる。死の徴候は、自我にとっては、その男性としての願望が幻想の中で満足を見出したということであり、それは同時にマゾヒスティッシュな満足でもある。そして、超自我にとっては、それは罰することの喜び、従って、サディスティッシュな満足である。自我と超自我との両者は、ここでも引き続き父親の役割を演じているのである。――全体としてこれを見る時、人間と、その関心の的としての父親との間の関係は、その内容を変えないままに、自我と超自我との間の関係に転ぜられているのである。すなわち、同一の脚本が第二の舞台で新らたに上演せられるのだ。エディプス・コンプレックスに基づくかかる小児的反応は、現実によって引き続きその材料を供給せられないかぎり、消滅してしまうかもしれない。けれども、父親の性格はそのままの状態を続けるのである。否むしろ、年と共に悪化する。そして同じ理由から、ドストイェウスキーの場合にも、父親に対する憎悪、この性悪な父親が死ねばよいという願望は、ずっと残存しているのである。ところで、かかる抑圧せられた願望が現実によって実現されるようなことになれば危険この上もない。幻想は現実となり、そしてその反面、これを阻止しようとする機能もまたすべて強化せられる。かくしてドストイェウスキーの発作は、癲癇としての性格を帯びるようになり、確かに、依然罰としての自己と父親との同一視を意味するのであるけれども、父親の恐ろしい死それ自体のように恐るべきものとなったのである。これらの発作がそれ以外にいかなる――なかんずく性的な――意味を持っていたかは推測の限りでない。
注目すべきことが一つある。すなわち発作の前駆症状においては、一瞬ではあるが、無上の法悦が体験せられるのであって、それは多分、父の死の報知を受け取った時に彼が味った誇らかな気持と解放感とが固着したものと考えてよいであろう。そして、この法悦の一瞬の後には、喜びの後であるだけに一層残忍と感ぜられる罰がただちに踵を接してやってくるのが常であった。誇らかな気持と憂鬱、お祭り騒ぎのような喜びと憂鬱とのこのような連続は、われわれが父親を殺した原始部族の兄弟たちにおいてもその存在を推測して来たものであり、トーテム正餐式の儀式のなかには、かかる無上の法悦の瞬間が繰り返して現われているのである。ドストイェウスキーが、シベリアにおいて 発作を起さなかったというのが事実であれば、それは、彼の発作が罰としての性格を持っていたことを実証するものにほかならない。他の方法で罰せられていたとすれば、そういう発作を必要とはしなかったのである。ところが、このことについては証拠がない。それよりもむしろ、彼の魂のやりくりにとっては罰を受けることがそれほどまでに必要であったればこそ、彼は、悲惨と屈辱とのこの年月を、意気銷沈することもなく堪え通したのだと考えた方がよい。彼が政治犯として有罪の宣告を受けたのは無実の罪によることである。彼も、このことを知っていたに違いない。けれども彼は、この不当な刑罰を、自分の現実の父親に対して犯した罪にふさわしい刑罰の代償として、慈愛深き父なるツァーの手から謹んで受けたのだ。彼は、われとわが身を罰する代りに、父の地位の代行者たる皇帝が自分を罰するにまかせたのである。ここで、社会から課せられる刑罰を、それがそれ自体としては不当であるにもかかわらず是認するという心理現象の片鱗が仄見えるわけである。犯罪人の中には刑罰を課せられることを進んで欲する者がたくさんいるというのは事実である。彼らの超自我がそれを望むのであり、それによってこの超自我は、みずからに罰を課する労を免れようとするのである。
ヒステリーの徴候が有する意味は複雑な変化を閲するものであることを知っている人であれば、いまのわれわれの試みも、ドストイェウスキーの発作の意味を、かかる端緒的な点で解明する以上には出ないことを理解せられるであろう《*》。けれども、次ぎのような推定が許されさえすればそれでよいのである。すなわち、ドストイェウスキーの発作が持っていた本来の意味は、その後その上につけ加わったあらゆる堆積物によっても、少しも損われずにいた。彼は、父親を殺そうと思ったことがあるという良心の圧迫から、生涯解放せられることがなかったといってよい。そして、この良心の圧迫は、父親との関係が決定的な役割を果している他の二つの領域、すなわち国家的な権威と神の信仰とに対する彼の態度をも決定した。最初の領域において彼の到達した結論は、慈愛深き父なるツァーに対する全き服従であった。このツァーは、かつて一度、ドストイェウスキーが発作の際、幻覚の中に見るのを常としていた、自分が殺害されるという喜劇を現実に実行した。この場合には、贖罪に重点が置かれていたのである。宗教の領域においては、彼はもう少し自由であった。信頼すべきものと思われる記述によれば、彼は、最後の瞬間まで信仰と無神論との間を彷徨していたということである。彼ほどすぐれた頭脳の持主であれば、信仰から結果する論理の矛盾ぐらいは一つ残らず見抜いていたはずだ。世界歴史の発展を、個体であるに過ぎないわが身の上に再現しつつ、彼は、キリストの理想の中に、一つの活路と罪からの解放とを見ようとし、自分の苦悩自体を、キリストのような役割が自分に与えられるための請求権として利用しようとした。結局においては、彼も自由が栄える社会の実現を追求するには至らず、反動家となったのであるけれども、その原因は、宗教感情の基礎をなしている人類一般に共通な、息子としての罪が、彼においては超個人的な強さを獲得しており、彼のすぐれた知性を以ってしてもついにこれを克服することができなかった点に存するのである。こういえば、われわれは、精神分析の本質である不偏不党性を捨てて、ある一定の世界観の党派的立場に立ってのみ正当と認められるような規準をもってドストイェウスキーの価値を測ろうとしているという非難を招くことになろう。たとえば、保守的な人なら、大審問官の肩を持って、ドストイェウスキーに関しても、もっと違った判断を下すであろうというのである。この非難は正しい。われわれにできることは、ただ次ぎのようにいって、この非難を緩和することだけである。すなわちドストイェウスキーの下した結論というものは、彼の神経症の結果である思考障害によって決定せられているように思われるのである。
* 『トーテムとタブー』参照。ドストイェウスキーの発作の意味と内容とについての一番確かな報告は、彼自身の言葉である。すなわち、彼は、友人であるストラコフに向って、癲癇発作があった後で自分がいらいらしたり気が滅入ったりするのは、自分がまるで犯罪人であるかのように思われ、自分には正体の掴めない罪を背負わされて、自分を圧迫するような何かある大きな犯罪をしてしまったという感じから逃れることができないからなのだといっている(『ドストイェウスキーの神聖な病患』、一一八八頁)。精神分析学者は、このような患者の訴えの中に、「心理的な実在」の認識の片鱗を認め、この正体の掴めない罪なるものを、患者の意識面に上せようと努力するのである。
古今を通じての文学の三大傑作が、同一のテーマ、すなわち父親殺しを取り扱っているのはどうやら偶然の一致ではないようだ。ソポクレスの『エディプス王』、シェイクスピアの『ハムレット』、及び、ドストイェウスキーの『カラマーゾフの兄弟』、これら三つの作品においては、父親殺しの動機、すなわち女性をめぐる性的な競争もまたはっきりと示されている。一番正直な叙述が見られるのは、ギリシアの伝説に依拠したソポクレスの戯曲であるといってよい。この作品においては、まだ、父親殺しを実行したのは主人公自身だということになっている。けれども、ある程度までは事実を隠蔽したり緩和したりしなければ、この素材を文学作品に仕立て上げることは不可能である。もし、父親を殺そうという意図が、精神分析の結果分るのと同じように、赤裸々に語られるとすれば、それは、精神分析によってかかる事物についての予備知識を与えられていない人々には、堪えられないほどのグロテスクな印象を与えるであろう。この戯曲においてソポクレスは、事柄の本質は変えないままに、主人公の抱いている無意識の動機が、主人公とは無縁な運命の強制によって実現するという形式を採ることによって、グロテスクな印象の緩和というこの場合不可欠な要件を巧みに充たしたのである。主人公は、知らずして父親を殺すのであり、一見、そこには女性の影響はないかの如き観を呈している。けれども、女性をめぐる抗争というこの要素は、ちゃんと計算に入っている。すなわち、主人公はまず、父親の象徴である怪物を退治し、いわば第二の父親殺しを実行した後でなければ実の母親である王妃を手に入れることができないのである。われとわが罪を発見し、それを意識したのちにも、主人公は、それが運命の強制によるものであったという作者の筋書を口実として責任を他に転嫁しようとはせず、進んでその罪を承認し、意識的に罪を犯した、すなわち、完全な意味での罪を犯したかの如くにわれとわが身を罰するのである。これは、常識からいえば不当なことに思われるには違いないが、心理学的に見た場合には完全に正当なのである。『ハムレット』の場合には、描写はもっと間接的である。主人公は父親をわが手にかけたわけではなく、彼の父を殺したのは他人であり、その他人にとっては、彼の父親を殺すことは、父親殺しとはならないのである。けれども、そうだからといって必然的に、いま一つの不愉快な動機、すなわち女性をめぐる性的な抗争の方も隠蔽されているというわけではない。伯父による父親の殺害が主人公に及ぼした影響がいかなるものであったかを知ることによって、われわれは、主人公の持っているエディプス・コンプレックスをも、いわば反射鏡に映った形で見ることができるのである。すなわち本来ならば、主人公は父親を殺した伯父に復讐すべきである。ところが、不思議なことにはそれができない。われわれは、彼の気力を奪ったものが彼の罪悪感であったことを知っている。彼は、殺された父親の子として、当然伯父に復讐すべきでありながら、自分にはその能力がないことを知って、それを罪と感じた、ということになっているのである。けれどもそれは、自分にも父親を殺したい欲望があったことについての罪悪感が転移させられたものであって、このような現象は、神経症の場合にはきわめて普通に見られるものなのである。色々な徴候から察するに、主人公は、この罪を超個人的な罪と感じていたらしい。彼にとっては、他の人々も、自分自身に劣らず、軽蔑の対象である。「すべての人をその人本来の価値に応じて取り扱うとしたら、神の怒りを受けずに済む人が果して何人いるだろうか」というわけだ。『カラマーゾフの兄弟』は、この方向をさらに一歩おし進めたものといえる。この場合にも、父親を殺したのは、父親との間の性的な敵対関係がはっきりとあらわれている主人公ドミートリイではない。けれどもその他人も、ドミートリイと同じく、殺された父親の息子、すなわちカラマーゾフの兄弟の中の一人である。そして注意すべきことには、作者はこの男に自分自身の病気すなわちいわゆる癲癇を背負いこませているのであり、それはまるで、癲癇患者乃至は神経症患者としての自分は父親殺しであるということを承認しようとしているかのようである。ついで、法廷におけるあの有名な弁論の場では、いわゆる心理学的説明が両刃の剣のたとえによって嘲笑せられる。これは、大がかりな、事実の韜晦と称すべきである。なぜならこの弁論の主意を裏返しにしさえすれば、ドストイェウスキー的な考え方の一番奥深い意味を発見することができるからである。嘲笑に価するのは、心理学ではなくて、裁判上の捜査手続きなのである。犯罪を現実に実行したのは誰であるかは全くどうでもよいことなのだ。心理学にとって重要なのは、心の中でその犯罪の起ることを希望し、それが起った際に、心の中で快哉を叫んだのは誰かということだけなのである。それ故にカラマーゾフの兄弟たちは、他の兄弟たちに対して著しい対照をなしているアリョーシャを除いては、三人とも父親殺しに対して同一の責任があるのであって、この点については衝動を抑止する術を知らぬドミートリイもシニックな懐疑主義者たるイヴァンも、はたまた父を殺すに至った癲癇患者たるスメルジァコーフも同一なのである。この小説の中には、著しくドストイェウスキー的な一場面がある。すなわちかの高僧はドミートリイと話し合っている中に、自分の中にも父親殺しの素質のあることを見てとって、ドミートリイの前に身を投げ出すのである。これは彼がドミートリイを讃美したという意味では勿論なく、聖者たる彼が、殺人犯を軽蔑したい乃至は徹底的に嫌いたいという誘惑をしりぞけ、自分がそのような誘惑を感じたことに対する贖いとして、この殺人犯の前に頭を垂れたものと解すべきなのである。事実、犯人に対するドストイェウスキーの同情には際限がなく、それは、不幸な犯人に対して当然払わるべき同情の範囲を遥かに逸脱して、古代人が癲癇患者や精神錯乱者に対して抱いていた神聖な恐怖をさえ思い起させる。彼の眼には、犯人が罪をわが身に引き受けて、当然同じ罪を犯すはずであった人々を救った者とすら映じている。彼がすでに殺人の罪を犯してくれたお蔭で、他の人々は、もう人を殺す必要がなくなった。然しながらそれだけに人々は、そのことを犯人に対して感謝しなければならない。彼がやってくれなかったら、自分たちがその罪を犯さなければならなかったのに違いないのだからというわけである。ここには、好意にみちた同情以上のものが働いている。それは、自分の中にも犯人と同一の殺害衝動がはたらいていることを理由としてなされるところの、犯人と自分との同一視であり、元来は、些細な転移を閲したナルツィスムスなのである。勿論そうだからといって、この種の同情の持つ倫理的価値が動揺させられるわけのものではない。むしろ、自分以外の人間に対して向けられる好意的な同情は、一般的にかかる構造を持っており、ただそれが自責の念に駆られているドストイェウスキーのような極端な場合には、特別たやすく人眼に触れるというだけのことかもしれない。一般に、ドストイェウスキーの素材選択に決定的な影響を与えたのが、かかる犯人と自分との同一視に基づく同情であったことは疑いを容れない。ただし最初の中は、彼もごく普通の犯罪人――利己心に基づいて罪を犯した人――政治犯、及び宗教的な犯罪人を取り扱って来たのであって、その生涯の最後に至って初めて最も原初的な犯罪人、すなわち父親を殺害した男に戻ったのであり、この男の物語を通じて、文学者にふさわしい自己告白を試みたのである。
遺著およびその夫人の日記が公刊せられたことによって、彼の生涯中の一挿話、すなわち彼がドイツで賭博癖にとり憑かれていた時代のことが著しい照明を浴びることになった(『ルレットをするドストイェウスキー』)。それが、病的な情熱の発作であることについては疑問の余地がなく、この点に関しては世間一般の意見も一致している。この注目すべき、また大文学者たるにふさわしくない行為をどのように動機づけるかについての試みも、二三にとどまらなかった。多くの神経症患者の場合と等しく、ドストイェウスキーにおいても、負債の重圧が本来の罪悪感の代理をつとめていたことは明らかである。彼には、勝負によってえた金で債権者たちによって監禁せられることなく、故国へ帰るチャンスを掴もうとしているのだ、という口実があった。けれども、それはほんの口実に過ぎず、彼にはそのことを認識するだけの聡明も、又、それをみずから認めるだけの潔白さも備っていた。彼は、勝負の場合自分にとっての最大の関心事がほかならぬ勝負それ自体、勝負のための勝負であることを知っていた《*》。彼の、衝動的で全然意味のない振舞いのこまごました点のすべてが、このことを証明するばかりか、さらにそれ以上のことをも明らかにしている。すなわち彼は、一文無しになるまで気が落着かなかったのである。彼にとっては、賭博もまたみずからを罰する方法の一つであった。彼がその若い妻に向って、もうこれから先は勝負事をしないとか、きょう一日中は賭博に手を出さない、とかいって約束したり誓ったりしたことは、何度あったかしれない。しかも、彼の夫人の言葉によれば、彼はほとんどいつもこの約束を破ったのである。勝負に負けて、自分と妻とが困窮のどん底に陥ると、それは彼にとって、いま一つの病的満足の原因になるのであった。すなわちそんなときには、彼は彼女の面前で自分を痛罵し、卑下し、どうぞ自分を棄ててくれと要求したり、おいぼれの罪人と結婚したことを憾みに思ってくれと頼んだりすることができたからである。そして、このようにして良心の重荷を下してしまうと、次ぎの日には、又しても賭博が始まるのであった。そして、二人がすっかり文無しになってしまい、最後の持物までも質に入れてしまったあとほど、作品の進行――本当の意味での救いとなりうるのはこの文学活動だけであった――が旨くゆくことは決してないことに気付いたこの若い妻は、かかる一連の繰り返しに馴れてしまっていた。むろん彼女は、この間の事情を本当に呑み込んでいたわけではない。事実を打ち明けていうならば、ドストイェウスキーにあっては、みずからを罰することによって罪悪感が満足させられると、文学活動を妨げていた要因が力を失い、そこで初めて彼は文学的成功への道を少々前進しようという気になるのであった《**》。
* 彼はある手紙の中で書いている、「大事なのは、勝負それ自体なのです。誓っていいますが、その際、貪欲などということは問題ではないのです。勿論、私にとっては何よりも必要なものが金であることは間違いないのですが」と。
** 「彼はいつも、無一文になるまで、すっかり打ちのめされるまでは賭博台を離れようとしなかった。不幸が決定的となって始めて彼の心を占めていた悪霊は、創作の守護神に席を譲って立ち去るのであった。」(ルネ・フュレップ=ミラー著『ルレットをするドストイェウスキー』、八六頁)。
永いあいだ忘れ去られていた幼年時代の生活のいかなる部分がやむにやまれぬ賭博衝動となって再現されるかは、ある若い作家の一短篇から容易に察知せられる。それはシュテファン・ツヴァイクである。自分自身ドストイェウスキー論をものしている(『三人の巨匠』)この作家は、『感情の混乱』と題して三つの短篇を集めた著作の中に、『ある婦人の生活からの二十四時間』という題の物語を載せている。著者自身の言葉に従えば、この珠玉の短篇の意図するところは、女性とはいかに無責任な存在であるか、女性はふとした印象の影響を受けたら、どれほど放埒な、自身でも驚くほどの行為におよびうるものであるかを示そうとするに過ぎないという。けれどもこの短篇の含蓄するところは、さらに深いのであって、それに関しては、別段著者自身による弁解の言葉はないけれども、もしこの作品に精神分析的な解釈を施すならば、その中に表現せられているものは、著者の意図とは全然別の、人類一般に通ずる何かあるもの、といって悪ければ、男性的な何かあるものなのである。そして、そのような精神分析的な解釈が事実の真相を捉えたものであることは、あまりにも明々白々であるので、誰しもこれを斥けることはできないほどである。私とも友人関係にあるこの作家は、私の問いに答えてはっきりと、自分の作品にそのような解釈を施すことができようなどとは夢にも知らなかったし、執筆するに当って、そのようなことは少しも考えていなかった、と断言したけれども、精神分析を俟って初めて解明せられるような心理の秘密を暗示するために挿入せられたとしか考えられないような細部の描写の数々を持っているこの物語の作者が、そのように断言しうるという事実こそ、芸術創作の本来の特色を示すものである。このツヴァイクの短篇では、身分の高いある年輩の婦人が、二十年以上も前の、とある体験を作者に物語るという形式が取られている。早く良人に死別し、もう手のかからなくなった二人の息子の母親であり、将来に何の期待をも抱かなくなっていたこの婦人は、四十二歳の時、目的地も定めずにしていた数々の旅行の中の一つの途中で、ふと、モナコのカジノの賭博場に入り込み、人眼をひくその場の印象の数ある中に、間もなく二つの手を見つけて、それに魅せられてしまったのである。その両の手は、負けつつある勝負師の心に起るあらゆる感情を、涙ぐましいばかりの率直さと激しさとで、人知れず表現しているかに見えた。この手の持ち主はある美青年で、――ツヴァイクは、偶然ででもあるかのように、この若者の年齢を彼を見つめているその婦人の長男と同じにしている――すっかり財布の底をはたいてしまうと、絶望のどん底に陥りながらこの遊戯場を後にした。おそらくは、公園へ行って、望みなき生命をみずから断ち切ろうとしたのであろう。何とも説明のしようのない同情に駆られたその婦人は、咄嗟に決心して彼の後を追い、あらゆる手段を講じてこの男を救おうとする。若者の方では、この女も又、その辺りにうじゃうじゃしているお節介な女どもの仲間だろうと思い、追い払おうとする。けれども、女の方では彼の傍を離れず、その中に何ということもなくごく自然の成り行きで、彼と同じホテルに泊り、はては同じベッドに寝るという仕儀に立ち至る。このようにふとした出来心で情熱の夜を明かしたのち、婦人は、心もすでに落ち着いたかに見えるその若者に、極めて厳粛な雰囲気の中で、二度と賭博をしないという堅い約束をさせ、故郷に帰れるだけの旅費を与え、列車の発車前に停車場で落ち合うことを約束する。けれどもその後、彼女の心の中には、この男に対する大きな愛情が目覚め、あらゆる犠牲を忍んでも彼を自分のものにして置きたいと思い、彼と別れないで一緒に旅立つことを決心する。色々と不都合な偶然が重なって彼女がまごまごしている中に、汽車は出てしまう。その列車で、男が出発したものと思い込んでいる彼女は、去った男に対する愛惜の情から、再び先の賭博場を探し出すが、そこに図らずも、最初彼女の同情を唆った二つの手を又もや発見して愕然とする。約束を忘れた男は、再び賭博に走っていたのである。女は、男に約束を思い出させようとする。けれども、情熱の虜となっている男は、邪魔をするなと罵って、女に立ち去ることを命じ、女がいわば自分の身代金にしようとしていただけの額の金を彼女の前に叩きつける。酷く面目を失った女は、余儀なくその場を去るが、後になって、男の自殺を止めようとした自分の試みが失敗に終ったことを人づてに聞くのである。
素晴らしい話術で説き進められ、間然するところのない動機づけを持ったこの物語は、確かに、それだけとしても立派に通用し、必ずや読者に大きな感銘を与えるであろう。けれども精神分析の教えるところに従えば、この物語の筋書は、かなり多くの人々にあっては意識的なものとしてさえ回想せられるような、思春期の一願望空想という、ひどく古い根柢に基づいているのである。それはすなわち、自分の子供である青年を、自慰行為の恐ろしい害から守ってやるために自分の手で性生活に引き入れてやりたいという母親の欲望なのである。世上にあれほどしばしば見られる救済物語は、すべてこの同じ根柢に基づいている。自慰行為という「悪徳」は、ここでは賭博癖という悪徳にすり替えられており、このことは若者の両手の情熱的な動きが強調せられている点からもそれと察せられるのである。事実、賭博癖は、あの昔からの、やむにやまれぬ自慰衝動の代用品の一つであって、子供部屋では、手で生殖器を弄る行為は、他ならぬ「遊ぶ」という言葉で表現せられて来ているのである。抗し難いほど強い誘惑、二度とすまいという神聖な、けれども一度として守られたことのない決心、魂を蕩かすような快感、及びわれとわが身を台無しにしてしまいつつあるのだ(自殺)という良心の苛責、これらすべては、代用物たる賭博癖においてもそっくりそのままひきつがれている。ツヴァイクのこの短篇では、語り手は、息子ではなくて母親になっている。けれども、息子にしたところで、もし母親が、自慰行為によって自分が陥っている危険の大きさを知ったとしたら、自分をそれから救うために、きっとみずからの肉体を自分の思うがままの愛撫にゆだねるであろうと想像することは楽しい話であるに違いない。ツヴァイクの小説の中の青年は、母親を、淫売婦と同列に置いて考えているけれども、これも同一の幻想の系列に入るのである。容易に近づき難い淫売婦も母親の形をとればたやすく手に入るものになる。この幻想につきものの良心の苛責を現わすものは、この短篇の悲劇的結末である。作者がこの短篇に与えた外見が、いかにその精神分析上の意味を隠そうとしているものであるかを見ることもまた興味深い。なぜなら、女性の対男性関係が突然女性を襲ってくる謎めいた衝動の支配下にあるなどということははなはだ眉唾ものだからである。それまで孤閨を守って来た婦人が、なぜそのような突拍子もない振舞いに出たかの正当な理由を探るには、むしろ、精神分析的な説明に俟たねばならぬのである。死んだ良人の思い出に忠実であったこの婦人は、亡夫に似たような印象を与える男から受ける誘惑をこれまですべて撥ねつけることができた。けれども――そしてこの点では息子の幻想が正しいのであるが――息子に対する愛情が、全然無意識のうちにかの若者へと転移させられてしまっていたので、母親としての彼女は、この誘惑を逃れることができず、運命は婦人をこのアキレス腱において捉えることができたのである。何度脱却しようとしても脱却できぬこの賭博癖、みずからを罰するよき機会となるこの賭博癖が、抑え切れぬ自慰衝動の変形して再現したものであるとすれば、それがドストイェウスキーの生活においてかくまで大きな場所を占めていたのも敢えて怪しむに足りぬであろう。なぜなら、われわれの知る限りあらゆる重症の神経症においては、幼年期及び思春期の自慰行為の影響が必ず見られるからであり、これをみずから抑止しようとする努力と、父親に対する恐怖との間の関係は、すでに余りにも周知の事実であるので、ここではただそれに言及しておくだけで済ませておいて差支えない《*》。
* ここに述べた見解の大部分は、一九二三年に公刊されたヨーラン・ノイフェルトのすぐれた著作『ドストイェウスキー、その精神分析のための粗描』(イマゴー叢書第四巻)にも含まれている。
あとがき
翻訳底本にはロンドン版フロイト全集第二版(Sigmund Freud, Gesammelte Werke, chronologisch geordnet, Imago Publishing Co., Ltd., London 19472)を使用した。各論文の原語表題、発表年次はつぎの通りである。
1 Der Dichter und das Phantasieren (1908).
2 Das Motiv der Kastchenwahl (1913).
3 Der Moses des Michelangelo (1914).
4 Eine Kindheitserinnerung aus"Dichtung und Wahrheit" (1917).
5 Das Unheimliche (1919).
6 Der Humor (1928).
7 Dostojewski und die Vatertotung (1928).
『無気味なもの』の中の、ザンデルス及びグリムの両辞典からの引用文には、若干省略した部分がある。ゴチックで組んだ部分は(フロイトの指定による)むろん少しの省略もない。
フロイトには、芸術を真正面から論じた著作はない。折にふれて、他のテーマと関連して芸術を引合いに出しているにすぎない。彼の諸論文中に散見する「芸術論」の見本として、左に少々彼の言葉を引用しておこう。
「われわれがすでに早くから知りえたように、芸術はわれわれの最も古い、今日もなお相変らずわれわれが傷ましくそれを感じ取っているところの文化断念(文化形成のための衝動充足の断念)に対する代用満足を提供するものである。だからそういう文化断念のために提せられた犠牲をわれわれに甘受させるように作用する。」(『ある錯覚の未来』全集第十四巻、三三五頁)
「芸術というものは、一種独特のやり方でこれら二原理(快楽原理と現実原理――訳者)を和解させる。芸術家という存在は、抑々現実に背を向けてしまう人間なのだ。なぜ背を向けるかというと、現実は人間にまず欲望の満足を断念しろと要求する。ところが芸術家はそれが嫌なのだ。断念したがらぬ。彼は自分の性的願望や世俗的願望を空想の上で満たすのである。芸術家とはそういう人間である。しかし彼は空想の世界へ行ったきりで現実世界へ戻ってこないかというとそうではない。ではどんな風にしてその立ち戻り、現実への帰り道というものを見つけ出すのかというと、つまり彼は特別な才能を持っていて、自分の空想を一種の新しい現実へと形成する。そして芸術家が作り上げた、この新しい現実を、人々は現実の貴重な模像として通用させる。そんな風にして芸術家は実際に自分が成ろうとした英雄、王、創造者、愛人になる。しかも、現実の世界を本当に変えるという大変な迂路を経ないで、そうなってしまうのである。しかしなぜ芸術家にそんな芸当がやれるのかというと、それはこうだ、つまり芸術家以外の人たちみんなも芸術家と同様に現実から要求せられている欲望充足の断念を厭なことだと思っているからであり、また快楽原理の代りに現実原理が立てられることの結果として現われてくる、そういう不満そのものが、やはり現実の一部であるからにほかならぬ。」(『心的現象の二原理に関する要約』全集第七巻、二三六頁以下)
芸術のフロイト流の見方に対する批判の代表的なものとしては、C・G・ユングの『分析的心理学と文学作品との諸関係について』(日本教文社刊、ユング著作集第二巻『現代人のたましい』五一頁以下)、及び『心理学と文学』(エーミール・エルマティンガー編『文芸学の哲学』所載)を挙げることができる。またワ゜ルター・ムシュク『文章家としてのフロイト』(論文集『ドイツ文学の破壊』所載)も一読の価値がある。
フロイトの芸術解釈に提せられる非難批判もまた、芸術は論ずるものではなしに体験創造享受するものだという根本的一事実に胚胎するものと思われる。
一九五七年六月
訳 者
Shincho Online Books for T-Time
芸術論
発行 2000年11月3日
著者 フロイト(高橋 義孝 訳)
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.shinchosha.co.jp
ISBN4-10-861037-7 C0870
(C)Sumiko Takahashi 1957, Coded in Japan