フロイト自伝
フロイト 著
生松 敬三 訳
[#改ページ]
T
この『|自 伝《ゼルプスト・ダールシユテルンゲン》』叢書に執筆しておられる他の方々は多く筆をおろすに当って、まず、自分の引受けた課題の特殊性と困難さとについて二三の思慮深い言葉を費されている。この課題はわたくしの場合、更に一段と困難の度を加えていると言っても許されることだろう。それというのは、ここに要求されているような仕事をわたくしはもう既に幾度か公けにしてきたからである。対象の性質からして、いきおいわたくしはそこにおいて、通例世間で行われており必要と思われている程度以上に、わたくし個人の演じた役割について語ることになってしまったのである。
精神分析学の発展と内容とをわたくしが最初に述べたのは、創立二十周年記念に招聘されたマサチューセッツ州ウースターのクラーク大学での五つの講演においてであった(1)。またごく最近には、あるアメリカの論集に勧誘に応じて同様の内容の一文を寄稿した。それは、この『二十世紀の発端について』"Uber die Anfange des 20. Jahrhunderts"という論集が精神分析学の意義を認めて、特に一章を設けてくれたからであった(2)。この二つのものの間に『精神分析学の運動の歴史のために』"Zur Geschichte der psychoanalytischen Bewegung." 1914.という論文がある(3)。これには現在のところわたくしが述べなくてはならぬと考える本質的な事柄はすべて記されている。前に書いたことと矛盾してはならないし、かといってそっくりそのままの繰返しは厭だから、ここでまた改めてわたくしは主観的叙述と客観的叙述、伝記的興味と歴史的興味、これをいかに織り交ぜたものか、その程合《ほどあい》を見出すべく試みなくてはならないわけである。
[#ここから1字下げ]
(1)英語では「アメリカ心理学雑誌」American Journal of Psychology. 1910.に、ドイツ語では『精神分析学について』"Uber Psychoanalyse" (F. Deuticke, Wien, 7.)の表題の下に発表。全集第八巻に所収。
(2)These eventful years. The twentieth century in the making as told by many of its makers. Two Volumes. London and New York. The Encyclopaedia Britannica Company. わたくしの論文はA・A・ブリル博士によって翻訳され、第二巻の第七十三章を成している。
(3)「精神分析学年報」Jahrbuch der Psychoanalyse.第六巻に発表。全集第十巻に所収。
[#ここで字下げ終わり]
わたくしは一八五六年五月六日、今日のチェコスロバキアの一小都市、メーレン地方のフライブルクに生まれた。両親はユダヤ人であった。わたくしも亦依然ユダヤ人であることに変りはない。父方の一族についてわたくしが知っているといえることは、彼らがライン河畔(ケルン)に永いこと生活していたが、十四・五世紀のユダヤ人迫害のため東方に逃れ、十九世紀には再び逆に、リタウエンからガリシアを経てドイツ語を話すオーストリーに舞い戻ったということである。わたくしは四歳の時ヴィーンに来、ここで学業をすべて終えた。高等学校《ギムナージウム》は七年間首席で通し、優遇される位置にあって、辛い目には一度も遭わなかった。生活は困窮を極わめていたにも拘らず、父は、わたくしの職業の選択にはただわたくしの好むところに随うようにと言った。わたくしは当時、医者という地位や仕事をとりわけ好む気持は持っていなかった。序でに言っておけば、後になってもやはりそうであった。むしろわたくしはある種の知識欲に駆られていた。知識欲といっても、これは自然対象よりも人間関係に関するものであり、それを満足させる主要な一方法としての観察の価値なども認めてはいないものであった。字を読むことができるようになるや否や早くも聖書の物語に読み耽ったことは、ずっと後になってから分ったことだが、わたくしの関心の方向を後々までも決定してしまった。後に政治家として有名になった何歳か年長のある学友との交際から大きな影響を受けて、わたくしも法律学を学び社会的に活躍しようと思った。とかくするうちに、当時行われていたダーウィンの学説にわたくしの心は強く惹きつけられた。それが世界の理解を著しく促進すると約束したからである。そしてカール・ブリュール教授がある通俗講演においてゲーテの美しい論文『自然』"Die Natur"について述べたことは、高等学校の卒業試験の直前、わたくしに医学に進む決心をつけさせた。
一八七三年、わたくしは大学に入学したが、直きにいたく幻滅を感じた。第一、わたくしがユダヤ人であるゆえにわたくしは下等な人間であり、国民には所属せぬ人間であると考えなくてはいけないというようなことが要求されたのである。ユダヤ人なるゆえに下等であるということ、わたくしは断固としてこの考えを拒否した。わたくしには、自分の血統或いは、そろそろ使われはじめていた言葉でいえば、種族《ラツセ》をどうして恥じねばならないのか理解できなかった。ユダヤ人なるゆえに国民には所属せぬということ、これはたいして遺憾とすることなくあきらめた。たとえ国民の一人に数えられないとしたところで、わたくしは人類という枠の中で一つの場所を熱心な協力者として見出さねばならないのだと考えた。しかしこの大学で蒙った最初の印象が後に齎らした重要な結果は、わたくしがかくも早くから、反対者の位置に身を置いて「固く結んだ多数者」から追放せられるという運命に親しみなじんだことであった。判断の自主独立性とでもいったものがこのようにして準備された。
なおわたくしはこの最初の大学時代に、自分の天稟の特性と狭さとが、これまで若気の熱心さのあまりに首を突込んできた多くの学問分野での成功を許さないことを経験せねばならなかった。かくてわたくしはあのメフィストフェレスの警告の真なることを学び知ったのである――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
君がいくらあちこち学問をしようとしてさまよっても、
それは駄目だ。てんでに学ばれる事しか学ばれない。 (森 鴎外 訳)
[#ここで字下げ終わり]
漸くにしてわたくしはエルンスト・ブリュッケの生理学研究室に落着き、十分の満足を得た。それに、尊敬し模範としうるような人々にもめぐり会った。ブリュッケ先生その人及び彼の助手であるジークムント・エクスナー、エルンスト・フォン・フライシル‐マルコフである。この最後に名を挙げた人は素晴らしい人格の持主で、わたくしに彼の友人たる価値を認めてくれさえした。ブリュッケは神経系統の組織学中の一問題をわたくしに課題として与えた。わたくしはこれを彼の満足をうるほどに解決し、独力で更に押し進めることができた。この研究所においてわたくしは、その間わずかの中断はあるが、一八七六年から一八八二年まで仕事をした。そして次にはこの研究所の助手に任命されるものと一般に見做されていた。本来の医学の諸分科は――精神病学を除いて――わたくしの関心を惹かなかった。医学的研究は全然おろそかにしていた。それでも一八八一年には、従ってかなり遅れたことになるが、医学全般の学位を授与された。
転機は一八八二年に訪れた。誰よりも尊敬する先生がわたくしの父の軽卒な寛大さの誤っていたことを言い、わたくしの悪い物質的条件を顧慮して学究としての行路は断念するようにとしきりに忠告してくれたのである。わたくしは彼の忠告に従い、生理学研究室をやめて、見習生《アスピラント》として|一 般 病 院《アルゲマイネ・クランケンハウス》に入った。暫くしてわたくしはそこの代診医(インターン)に進められ、種々の部局に勤務したが、既に学生の頃からその仕事と人格とによってわたくしを魅惑していたマイネルトの許には半年以上もいた。
けれどもわたくしは、ある意味においては、はじめにとった仕事の方向をなお変えてはいなかったのである。ブリュッケはかつてある深海魚(|やつめうなぎの稚魚《アムモコエテス・ペトロミゾン》)の脊髄を研究対象として指示してくれたが、わたくしは今度は人間の中枢神経系統へと移って行った。その錯綜せる繊維形成には非同時的髄鞘形成というフレヒジッヒの発見が当時まさに光明を投じたところであった。まず最初に自分独りで|延 髄《メドウラ・オブロンガータ》を対象に選んだということもまた、わたくしの出発点からの継続であった。はじめ大学時代にはわたくしの研究が拡散的であったのと丁度反対に、今やわたくしはある一つの素材なり問題なりに専ら仕事を集中する傾向を示しはじめた。この傾向はずっと続いて、後には一面的であるとの非難を招くことにもなった。
前の生理学研究所におけると同様、わたくしは脳解剖研究所においても熱心に仕事をした。延髄における繊維経路と核の起源に関する小さな労作がこの病院時代に出来て、これがともかくもエディンガーによって認められた。マイネルトはわたくしが彼のもとで勤務していない時でも研究室を解放してくれていたが、ある日彼は脳解剖をやることに決めてはどうかとわたくしに言った。新しい方法を用いるには自分は年をとり過ぎたから講義を君に譲って引退しようと彼が言うのである。わたくしは課題の大きいのに驚いて断った。それにまたわたくしはその独創的人物が決してわたくしに好意を抱いてはいないことを既に推察しえていたのである。
脳解剖は、実際的観点からみて、たしかに生理学にとってはなんの進歩でもなかった。わたくしは神経病の研究をはじめながら、必要な研究材料の点を考慮してみた。この特殊部門は当時ヴィーンにおいては殆んど手をつけられていなかった。材料は内科の諸分科に散らばっており、研究を完成させるよいチャンスもなく、自分でやる以外には就いて学ぶべき先生もいなかった。|脳の機能局在《ゲヒルン・ロカリザチオーン》に関する著書のゆえに少し前に招かれたノートナーゲルでさえ、神経病理学を他の内科医学の諸分野から区別してはいなかったのである。遠方には偉大なるシャルコの名が輝いていた。それでわたくしはこういう計画を樹てた、神経病の大学講師の資格をここでとったら、それからはパリに行って更に研究を重ねよう、と。
その後代診医時代にわたくしは、神経系統の器質的疾患に関する症例報告的観察をいくつか発表した。わたくしは次第にこの領域に精通するようになって行った。病理解剖学者が何もつけ加えることのなくなるほど正確に、わたくしは延髄における病巣の所在を指摘することができたし、またヴィーンではじめてある症例に急性多発性神経炎の診断を下して解剖に送ったのもわたくしであった。屍体解剖によって確認されたわたくしの診断が評判となって、アメリカ人の医者達が集まって来た。わたくしは彼らにわたくしの受持った患者に関する講義めいたものをブロークンな英語で行なった。神経症についてはなにも分っていなかった。ある時わたくしが固定的頭痛を伴う一人の神経症患者を限局性慢性脳膜炎の症例として説明したら、彼らはみな正当にも批判的反対意見をとってわたくしから離れ去った。かくて時期尚早なわたくしの教授活動は終りを告げたのである。一言弁解のために言わせてもらえば、その頃はヴィーンのもっと権威ある先生方でも神経衰弱を脳腫瘍として診断するのを常とするような時代であったのである。
一八八五年の春、わたくしは組織学及び臨床上の業績によって神経病理学の講師資格を獲得した。その後間もなく、ブリュッケの温かいとりなしによって、かなり多額の遊学補助金が与えられることになった。この年の秋、わたくしはパリへ行った。
わたくしは見習《エレーヴ》としてサルペトリエールに入ったが、はじめのうちは外国からの多くの同輩の中にまじって格別注意もされなかった。ある日わたくしはシャルコが戦争以来彼の講義の独訳者が全然消息を絶ってしまったのを嘆き、誰かが彼の『新講』"Neue Vorlesungen"のドイツ語訳を引受けてくれればありがたい、と言うのを聞いた。わたくしは手紙でその仕事をしようと申出た。その手紙には運動性失語症Aphasie motriceだけは責任をもってやるが感覚性失語症Aphasie sensorielle du fransoisの方はやらない旨を認《したた》めておいたことを覚えている。シャルコはわたくしの申出を承諾し、個人的な関係が結ばれた。それ以後臨床講義で行なわれたすべてのことにわたくしは十分関与することになった。
いまこれを書いている間に、わたくしはフランスから多数の論文や新聞記事を受取ったが、それらは精神分析の流行に対する烈しい反対を表明しており、そして屡※[#二の字点、unicode303b]わたくしとフランスの学派との関係についてまるで見当違いの主張をしている。たとえば、わたくしのパリ滞在はP・ジャネの学説にわたくしが精通するに役立ち、わたくしがこれを盗んで逃げたのだというようなことが書かれている。だからわたくしはここではっきりと述べておくが、ジャネという名はわたくしがサルペトリエールにいた間には一度も聞き及ばなかった名前である。
わたくしがシャルコの許で見たことのうち、最も大きな感銘を与えられたのは、ヒステリーに関する彼の最後の研究であった。しかもその一部はわたくしの眼前で行われたものであった。要するに、ヒステリー現象(「|汝ら入れよ、ここにも神々あり《イントロイテ・エト・ヒク・デイ・スント》」)、男性におけるヒステリーの頻繁な発生の真正性と合法則性の証明、催眠術の暗示によるヒステリー性麻痺・攣縮の現出、しかもこの人為的に作り出されたものが自然発生的な、屡※[#二の字点、unicode303b]外傷によって惹起される発作と、微細な点に至るまで同様の諸特徴を示すという結論。シャルコの実地教授のうち多くのものは、他の聴講者におけると同じくわたくしにも、はじめ怪訝の念と反駁したい気持をかき立てた。われわれはある支配的な理論に拠ってこの反対論を弁護しようとする。すると彼は何時もこういう疑念を親切に、辛抱強く、しかもまた極めて明晰に晴らしてくれた。あるこうした議論の際に吐かれた「|でも事実そうなんだから仕方がない《サ・ナンペーシユ・パ・デグジステー》」という言葉は、忘れがたくわたくしの脳裡にきざみ込まれている。
周知の如く、当時シャルコが教えてくれたすべてのことが今日ではもはや正しいわけではない。あるものは不確実となってしまったし、あるものは明らかに時の吟味に耐ええなかった。しかしその中の多くのものが今日なお残って、科学の永続的な所有財として評価されているのである。わたくしはパリを去る前に、ヒステリー性麻痺と器質的麻痺との比較研究の計画を先生と申合せた。ヒステリーの場合には、身体各部の麻痺や感覚喪失の境域設定は普通の(解剖学的でない)人間表象に対応するという命題をわたくしは貫徹しようと思った。彼はこれに同意した。けれども彼が根本においては神経症の心理学に深入りすることに格別の関心を向けてはいないことは容易に見てとれた。やっぱり彼は病理解剖から出て来た人であった。
ヴィーンに帰る前にわたくしは、小児の一般的疾病についていくらかの知識をうるため、数週間ベルリンに滞在した。公立小児病研究所の所長をしていたヴィーンのカソヴィッツがわたくしにそこの小児神経病部門を受持たせようと約束してくれていたのである。ベルリンにおいてはAd・バギンスキイの許に好意的に迎え入れられ、研究の援助を受けた。このカソヴィッツの研究所からわたくしは翌年中に小児の脳の一側性・両側性麻痺に関するかなり大きな業績を相当多数発表した。その結果、後になっても一八九七年ノートナーゲルは彼の大きな『一般的・特殊的治療法便覧』"Handbuch der allgemeinen und speziellen Therapie"中の当該題材の仕事をわたくしに委託してくるようなことにもなった。
一八八六年の秋に、わたくしは医者としてヴィーンに居を定め、遠く離れた都会で四年以上もわたくしのことを待っていた少女と結婚をした。想い起こせば、既にあの青年時代においてわたくしの名が挙がることのなかったのは、このわたくしの花嫁のせいであったと言うことができる。横道ではあったが深い興味を抱いていたところから、一八八四年に当時殆んど知られていなかったアルカロイド・コカインがメルクによってわたくしに託され、その生理学的作用を研究することになった。ところがこの研究の最中に、二年間離れて会えずにいたわたくしの許嫁のところに行って会えるという見込が立ったのである。コカインの研究は早々に切りあげて、わたくしの出版物にはこの薬品が間もなくもっと広汎に利用せられるに至るであろうという予言を書きとめた。しかし友人の眼科医L・ケーニヒシュタインにわたくしは、病気の眼に対してコカインの麻酔剤としての特性がどの程度利用されるものか検討してみることを勧めた。休暇から帰って来てみると、彼ではなく、やはりわたくしがコカインについて話をした他の友人カール・コラー(現在ニューヨーク在住)が動物の眼について決定的な実験を行い、それをハイデルベルクの眼科医師会議で実証していた。これにより当然のことながらコラーは、小さな外科手術にとって非常に重要なものとなったコカインによる局部麻酔の発見者とされているわけである。しかしこのわたくしの花嫁による当時の妨害をわたくしは決して恨みに思ったことなどはない。
さて再び一八八六年ヴィーンに神経医として定住した時のことに戻ろう。シャルコの許で見たり学んだりしたことを「医師会」において報告する責務がわたくしに課せられた。しかしわたくしの報告は評判が悪かった。会長である内科医バムベルガーの如き権威ある人々が、わたくしの語ったことは信じ難いと言った。マイネルトはわたくしの述べたような症例をヴィーンで探し出して、医師会の面々の前に提出することを要求した。わたくしは実際にそれを試みたが、そういう症例をわたくしが発見したところの部局の医長は、わたくしがそれを観察したり手を触れたりするのを拒んだ。彼らのうちの一人、ある年老いた外科医は面と向ってこう叫んだ。「まあ君、よくもそんな馬鹿げたことが言えたもんだね。ヒステロン(彼のお言葉通り!)とは子宮のことだよ。一体どうして男がヒステリーになれるんだい。」(訳註・ギリシヤ語で子宮は、正しくは「ヒステラ」)わたくしはただ症例を自由に診させてもらえばよいので、わたくしの診断に同意してもらう必要はないのだからと言い張ったが、無駄であった。とうとうわたくしは病院外で一人の男性の典型的なヒステリー性半身麻痺の症例を探しあて、これを「医師会」で実証してみせた。今度は賛同の拍手は得られたが、それ以上わたくしになんの関心も払ってはくれなかった。偉い権威ある先生方がわたくしの新奇な見解を斥けられたという印象は揺がなかったのである。わたくしは男性のヒステリーと暗示によるヒステリー性麻痺の現出を言うことで反対者の位置にまで突き進んでしまっていた。その後間もなく、脳解剖研究室から閉め出され、学期中に講義をする場所もえられなくなった時、わたくしは大学及び団体の生活から身を退いた。「医師会」にはもう約三十年来顔出しをしていない。
もし神経病患者の治療で生計をたてようとするなら、明らかに患者に対して何事かをなしえなければならなかった。わたくしの治療学上の兵器庫には、ただ二つの武器、電気療法と催眠術療法としかなかった。なぜなら、一度対診して水治療養所に送ってしまうのでは大した収入にならなかったからである。電気療法においてはW・エルプの便覧に拠り、神経疾患のあらゆる徴候の治療に対するその詳細な処方を駆使した。だが遺憾ながら間もなくわたくしは、この処方に従うことが決して役立たず、精確な観察の結果だと考えていたものが実は空想的な仮説であった、ということを知らねばならなかった。ドイツの神経病理学の第一人者の著書が、たとえば巷間の書店で売っている「エジプトの」夢判断の書以上には、現実との関わりをもっていないと知るのは痛ましいことであった。しかしこのことは、わたくしがまだそれから自由になってはいなかった権威への素朴な信頼感をまたここで一つ剥ぎ取るのに役立った。そこでわたくしは遂に電気療法の器械を片づけてしまった。それはまだメービウスが、神経病患者における電気療法の成果は――ともかく成果があるとした場合――医者の暗示の効果であるという救いの言葉を発する以前のことであった。
催眠術については事情はもっとよかった。まだ学生の頃わたくしは「催眠術師《マグネテイズール》」ハンゼンの公開上演に行き、実験台になった女が張硬症的麻痺状態に陥った時、死人のように蒼白となり、その状態の持続する間ずっとそのままであったのを見た。これによって催眠現象の真正性に関するわたくしの確信は確固たる基礎を与えられた。その後ほどなくこの見解はハイデンハインに学問的代弁者を見出したが、精神病学の教授連はこの見解をとりあげることなく、催眠術とはなにか眩暈《めまい》のようなもので、おまけに危険なものであると説明し、催眠術家《ヒプノテイズール》を下賤なものに見下していた。パリでは、患者に諸徴候を現出せしめそれを再び取除くための方法として、催眠術が躊躇することなく使われているのをわたくしは見て知っていた。それから、ナンシーでは学校が建てられて、催眠術を用いる暗示や用いない暗示が大規模に治療に利用され、非常な効果をあげているという情報も入って来た。こういうわけで至極当然の成行きとして、この医師活動第一年目においては、より偶然的・非組織的な精神療法を度外視すれば、催眠術による暗示がわたくしの最も主要な治療方法となったのであった。
従ってもちろん器質的神経病の治療は断念することとなったが、これは大してこたえなかった。どうしてかといえば、一方においてはこれに対する治療法が一般に有望なものでなかったからであり、他方においては都会に個人で開業している医者にとって器質的神経病患者の数は神経衰弱の多数なのに比べれば無いに等しいほど少数であり、しかも後者は癒らずに医者から医者へと渡り歩いて、その数は数倍にものぼっていたからである。ところが催眠術による仕事は当時まことに魅惑的であった。ひとははじめて自分の無力感を克服した。奇蹟を行う人だという評判が非常にくすぐったかった。この方法の欠点はなんであるかをわたくしは後になって発見せねばならなかったのであるが、さしあたりは次の二つの点に不満を覚えたのみであった。第一に、あらゆる患者を催眠術にかけることはできないということ。第二に、各人その望み通りの深さの催眠状態におくことが自由にはならないということ。この催眠技術を完全にしようと思ってわたくしは一八八九年の夏にナンシーに赴き、数週間滞在した。労働者の貧しい婦人や子供を治療している高齢のリエボーの感動的な姿を見、ベルネームが病院患者に行なった驚くべき実験を目撃して、わたくしは人間の意識には隠されている強力な精神過程がありうるのではないかとの強い印象を与えられた。わたくしは教える目的で一人の女の患者に後からナンシーへ来るようにと勧めておいた。その患者は優れた、独創的天分に恵まれたヒステリー患者で、どうにも他の人には手の施しようがなくなってわたくしにまかされることになったのであった。わたくしは催眠術による感化で彼女に人間らしさを取戻し、何度も何度も悲惨な状態から助け出すことができた。彼女が何時も暫く経つと再発してしまうということは、その催眠状態が記憶喪失を伴う夢遊症の段階にまで到達しないためなのだ、と当時の不案内なわたくしは考えた。ベルネームが彼女について繰返し実験してみたけれども、一向にきき目はなかった。彼は率直に打明けて、暗示による治療で大きな成果をあげたのは病院患者の場合だけであって、やはり個人的な患者の場合にはそう行かなかったと語った。わたくしは彼と多くの刺戟に富んだ会話を交わし、暗示とその治療効果に関する彼の二著作をドイツ語に飜訳することを引受けた。
一八八六年から一八九一年の間はわたくしは学問的な仕事は殆んどしなかったし、刊行物も出さなかった。そのためわたくしは新しい仕事をえて自分と急速に増加してゆく家族の生活を確保する必要に迫られた。一八九一年にわたくしの友人で助手であるオスカー・リー博士との共同で、小児の脳の麻痺に関する第一の労作が出版された。この同じ年に医学辞典に執筆を依頼されて、失語症の理論の解説をした。当時はヴェルニッケ・リヒトハイムの純局所的視点が支配的であった。『失語症理解のために』"Zur Auffassung der Aphasie"という批判的・思弁的小著がこの時の努力の所産であった。しかしながらここでわたくしは、いかにして学問的研究がまたもやわたくしの生活の主たる関心事となるに至ったのかを跡づけてみなくてはならない。
[#改ページ]
U
これまでの叙述に補足して、わたくしははじめから催眠術による暗示のほかにもう一つ別の仕方で催眠術を利用していたことを言っておかねばならぬ。わたくしは患者の諸徴候が形成されてくる過程を探究するために催眠術を用いたのであった。この徴候の形成過程というのは多くの場合、覚醒状態にあっては患者が全然語ることができないか或いはごく不完全にしか語ることができないものなのである。この方法は単なる暗示による命令とか禁止とかよりも効果があるように思われたばかりでなく、医者の知識欲をも満足させてくれた。とにかく医者には単調な暗示という手段で除去しようとしている諸現象の由来について多少なりとも知る権利がある。
ところでこの方法に行きついたのは次の如くにしてであった。まだブリュッケの研究室にいた頃、わたくしはヴィーンの最も声望高き医師ヨーゼフ・ブロイアー博士の面識を得た。彼はまた学問的業績もあった人で、呼吸の生理学及び平衡器官に関する永続的な価値のある労作をかなり多数出していた。極めて優れた頭脳の持主であって、わたくしより十四歳年長であった。われわれの交際は間もなく一そう親密となり、彼は困難な生活状況にあるわたくしの友人兼援助者となってくれた。お互いに学問的関心はすべて共に分つのを常としたが、もちろん二人の間ではわたくしが与えられる方であった。ところが精神分析学の発展に伴い、わたくしは彼の友情を失わねばならなかった。精神分析学のためにこれほどの代償を支払うことはわたくしにとって決して生やさしいことではなかったが、しかしやむをえぬことなのであった。
ブロイアーはわたくしがパリに行く前に既に、一八八〇年から一八八二年まで特別な治療を施したヒステリーの一症例についての話をわたくしにしてくれた。この治療の際彼はヒステリーの諸徴候の原因と意味とを深く洞察することができたのであった。それはまだジャネの諸労作が発表される以前のことである。彼は何遍も病歴の記事を読み聞かせてくれた。わたくしはこれまでよりもずっと神経症の理解が押し進められているという印象を受けた。パリに行ったらこの発見をシャルコに知らせようと心に決め、実際にそうした。ところがシャルコはわたくしの最初の示唆に対して全然関心を示さなかった。それでわたくしはもう二度とそのことに立戻って話をしなかったし、また自分でも忘れてしまっていた。
ヴィーンに帰ってからわたくしは再びブロイアーの観察に注意を向け、この観察についてもっと多くのことを聞かせてもらった。患者は普通以上の教養と天分を具えた一少女で、彼女の愛するやさしい父を看病している間に発病したのであった。ブロイアーが彼女を引受けた時には、攣縮を伴う麻痺と抑制と精神錯乱の種々な症状を呈した。彼女がまさにそれによって支配されている感情的幻想を言葉で表現する機会が与えられると、彼女はその意識の混濁から解放されるということが、ある偶然の観察によって認識された。ブロイアーはこの経験から一つの治療方法を獲た。彼は彼女を深い催眠状態に置いて、その度毎に彼女の心情を抑えつけているものについて語らせた。このようにして抑鬱症的混乱の発作が排除された後、彼は同じ方法を抑制と身体障碍を取り除くのに適用した。覚醒状態にあっては他の患者達と同様その少女は、自分の諸徴候がいかにして生じて来たかを殆んど言うことができず、またその諸徴候と彼女のこれまでに受けたなんらかの印象との間のつながりも見出せなかった。催眠状態に入ると直ぐさま彼女はこの求められている関連を発見した。その結果、彼女の示している徴候はすべて病気の父の看護中の印象的な体験にまで遡る、従って意味のあるものであって、その感情的状況の残滓即ち追想に相応ずることが明らかになった。通例そうであるように、彼女は父の病床においてはある考え乃至衝動を抑圧せねばならなかった。そこにこの考えなり衝動なりの代理としてあの徴候が後から現われて来たのである。しかし大抵はこの徴候は個々の「外傷性の」出来事の結果ではなく、無数の相似的状況の総和の結果であった。ところでこの患者が催眠状態において幻覚的にこういう状況を想起し、その時は抑圧されてしまった精神的活動を自由な解きほぐされた感情の中でなし終えた時、徴候は消え去り、二度と現出しなかった。この方法によって根気強く努力を重ねたブロイアーはその患者のすべての徴候をなくしてしまうことができたのである。
患者は快癒し、その後ずっと健康であり、しかも重要な仕事さえできるようになった。しかしこの催眠術療法の出発点には、一つブロイアーが決してわたくしに明かさなかった秘密があった。実際どうして彼がその測り知れぬほどに価値のある――とわたくしには思えた――認識によって学問を豊かにすることなく、永い間それを隠しておいたのか、わたくしには理解できなかった。だが次に来る問題は、彼がたった一つの症例で発見したことを一般化してよいものかどうか、ということであった。わたくしには彼の発見した事態はまったく根本的なものだと考えられたから、それが一つの症例において一度立証されたからには、ヒステリーのいかなる症例の場合にも見失われることがあろうとは信ずることができなかった。しかしこの点について決定しうるものはただ経験のみであった。そこでわたくしはブロイアーの研究を自分の患者について繰返しはじめ、特に一八八九年のベルネーム訪問によって催眠術による暗示の効能の限界が明らかにされた後は、ただこれだけを試みた。多年にわたる研究を通じてわたくしはますますその正しさを確認するに至り、またこの方法で治療されるヒステリーのあらゆる症例に関して彼のと類似した観察の素晴らしい材料が自由に駆使されるようになった時、わたくしは彼に共著の出版を提案した。彼はこれに対してはじめは烈しく反対したが、遂には折れて同意した。というのも、その間にジャネの労作は彼の結論の一部、つまりヒステリーの諸徴候を生活からの印象に帰せしめ、それを催眠術により|発生の状態において《イン・スタトウ・ナスケンデイ》再生せしめることによって除去すること、を先に発表していたからであった。われわれは一八九三年に『ヒステリー現象の心的メカニズムについて』"Uber den psychischen Mechanismus hysterischer Phenomene"という暫定的な報告を発表した。一八九五年にはこれに続いてわれわれの共著『ヒステリー研究』"Studien uber Hysterie"が出された。
以上述べたことから読者が、『ヒステリー研究』はその実質的内容の本質的なところはすべてブロイアーの精神的所有財であろうという予想を抱かれたとしたら、まさにそれこそわたくしが何時も主張してきたことであり、今度もここで云っておきたいと思ったことにほかならないのである。その著書で説かれている理論に、わたくしは今日となってはもはや識別しがたい程度にまで協力した。この理論は謙虚なもので、観察をそのまま表現したものにちかかった。ヒステリーの本性を究明しようとするのではなく、たんにヒステリーの諸徴候の生成を解明しようとする。そしてその際感情生活の意義及び無意識的精神活動と意識的(よりよい言い方をすれば意識可能的)精神活動との区別が強調せられ、感情を堰き止めるために徴候が現出せしめられるとすることによって一つの動力学的《デユナーミツシユ》視点が導入せられ、またその同じ徴候は普通なら別様に用いられるエネルギー量の置換(所謂|転 化《コンヴエルジオーン》)の結果と見做されることによって一つの静力学的《エコノーミツシユ》視点が導入せられている。ブロイアーはわれわれの方法を浄化的《カタルテイシユ》方法と名づけた。その治療法の狙いとしては、徴候の維持に使われている感情は間違った道にはまり込み、いわばそこで狭めつけられているのであるから、それを正常な道につれ戻して流れ去ることができるようにする(|鎮静させる《アツプレアギーレン》)ことが指示せられた。浄化的方法の実際的成果は目覚ましかった。後に明らかとなった欠点はあらゆる催眠術療法の欠点であった。今日でもなお、ブロイアーの意味での浄化《カタルシス》に留まってそれを推奨している多数の精神療法家が存在する。世界大戦中のドイツ軍隊における戦争神経病患者の治療にあたり、E・ジンメルの手によって改めてそれが簡約療法たることが確認された。この浄化理論には性慾についてはあまり述べられていない。わたくしが『ヒステリー研究』に寄せた病歴の中では性生活からの諸要素がある役割を演じているけれども、そのほかの感情的刺戟と異る評価が下されているわけではない。有名になった彼の最初の患者についてブロイアーは、性的なものが彼女の場合は驚くほどに未発達であったと語っている。神経症の病原学にとって性慾がいかなる意味をもっているかは『ヒステリー研究』によってはなかなか推測しがたいことであったであろう。
この後の発展、即ち浄化から本来の精神分析への移行については既に何度かごく詳細な記述をして来たところであるから、ここで何か新しいことを述べるのは困難である。この時期のはじめに起った事件はわれわれの共同作業からブロイアーが手を引いたことであった。そのためわたくしは独りで彼の遺産を管理せねばならなくなった。既に以前からわれわれの間に意見の相違はあったけれども、これは決して不和を齎らしはしなかった。精神的な経過がいつ病的になるか、云い換えれば正常な解決をなしえなくなるに至るかという問題において、ブロイアーは好んで所謂生理学的理論をとった。このような異常な――催眠状態《ヒプノイド》の如き――精神状態において生起する現象は正常の過程を逸脱するのだと彼は言った。だが、そうだとするとこのようなヒプノイドの由って来るところは如何という新しい問題が生ずる。わたくしはそれに対してむしろ、正常な生活において観察されうる意思とか傾向の作用、さまざまな力の活動を推定した。かくて「ヒプノイド・ヒステリー」に「拒否性神経症」が対立した。しかしこのような類いの対立も、もし他の要因が加わらなかったら、彼を問題から背かせることにはならなかったであろう。その要因の一つは恐らく、彼が内科の開業医として要求せられること大きく、わたくしのようにその全力を挙げて浄化という仕事に没頭できなかったことであったろう。更にまた彼は、われわれの著書がヴィーン及びヴィーン外の国内で蒙った評判に左右された。彼の自信と抵抗力は、彼の他の精神的諸力ほどに確固たるものではなかったのである。たとえば『ヒステリー研究』がシュトリュムペルによって手ひどく却けられたような時、わたくしはその無理解な批判を笑殺することができたが、彼はそれを気に病んで勇気が挫けてしまうのだった。だが彼に離反する決心を固めさせた要因の最も大きなものは、わたくし自身のその後の研究の辿った方向に彼が近づこうと努めても駄目だったということであった。
われわれが『ヒステリー研究』において打ち樹てようと試みた理論は、もちろんまだ非常に不完全なものであった。特に病原学の問題、いかなる基礎に基づいて病的事象が生ずるのかという問題はそこでは殆んど触れられていなかった。いまや急速に増大しつつあった経験により、神経症の発生の背後に働いているのは任意の感情的刺戟ではなくして、大抵は性的性質のもの、現にある性的葛藤か或いは以前の性的体験の余波かであることが明らかとなった。わたくしはこのような結論が出て来ようとは思ってもいなかったのであって、わたくしの予想がこれに関与したというようなことは全然ない。わたくしはただただ無心に神経症患者の研究にたずさわったのみなのである。一九一四年に『精神分析学の運動の歴史』を書いた時、わたくしの脳裡にブロイアーやシャルコやクロバークの二三の言葉の記憶が甦って来た。それらの言葉によってわたくしはもっと早くこのような認識に達することができたであろうのに、当時のわたくしにはこの偉大な先生方が何を言っているのか理解しえなかったのである。彼らは自覚している以上のこと、言おうと考えている以上のことをわたくしに告げたのであった。彼らから聞いた言葉は、浄化の研究をきっかけとして一見独創的と思われる認識が出現するに至るまでは、なんの働きもすることなくわたくしの中にまどろんでいたわけである。またわたくしは、ヒステリーを性慾に還元することによって古代の医学にまで立ち帰り、プラトンと結びついたのだとは当時気がついていなかった。これは後にハヴェロック・エリスの論文によってはじめて知らされたことである。
わたくしは自分の驚くべき発見に導かれて次の重大な一歩を踏み出した。ヒステリーを越え出て所謂神経衰弱患者の性生活の探究をわたくしは開始したのである。これらの患者は診察時間には何時も多数やって来ていた。この実験のためもちろん医者としての人気は失われたが、しかしわたくしには確信が得られた。この確信は約三十年後の今日でもなお弱められてはいない。幾多の嘘や隠し事に打克たねばならなかった。しかし一旦これに打克ちうれば、これらの患者がみな性機能の非常な濫用を行なっていることが明らかにされた。一方に性機能の頻繁な濫用がみられ、一方に神経衰弱があって、両者が屡※[#二の字点、unicode303b]一致するというだけではもちろんたいした証明力はもっていない。しかしとにかくこれが一つの明白な事実であるということは動かなかった。更に綿密に観察してみると、神経衰弱という呼称で包括されている種々雑多な症状から二つの根本的に異る類型をとり出すことが出来ることが分った。この二つの類型はさまざまに混ざり合って現出しうるけれども、純粋な形において観察さるべきものであった。その一つの類型にあっては苦悶の発作が中心的な症状であって、それの等価物、未発達の形態、慢性的代用徴候もそこに含まれる。だからわたくしはこれを苦悶神経症《アングスト・ノイローゼ》と名づけた。神経衰弱症《ノイラステニー》という名称はもう一つの類型だけに限定した。ところで、このそれぞれの類型が病原学的要因としての性生活の異った病的状態(後者は性交中断、昂奮挫折、断交、前者は過度の手淫、度重なる遺精)に相応していることは容易に確かめられた。一つの類型から他の類型への病状の驚くべき転回が行われた二三の教訓的な症例においてはまた、それに相応する性的基盤の変化が根抵に存することを証明することができた。もし濫用を匡正し正常な性行為におき換えることができれば、病状は目に見えてよくなるのであった。
かくてわたくしは神経症すべてを一般に性機能の傷害として、しかも所謂現実神経症をこの傷害の直接的毒素的表現、精神神経症をそれの心的表現として認識するに至った。わたくしの医者としての良心はこの意見を提示することによって満足を覚えた。生物学的に極めて重要な機能に伝染とか解剖学的な外傷とか以外の危害を認めようとはしない医学の一間隙を充たし得たとわたくしは思った。のみならず、性慾は決してたんなる心的問題ではないということが医学上の見解に役立った。性慾はまた肉体的側面を有するものであって、特殊な化学作用をこれに帰せしめ、まだ未知であるにしてもある一定の物質の現存から性的昂奮を導出してよいこととなった。真の自然発生的な神経症は、ある有毒作用をもつ物質の導入及び欠乏によって惹き起こされる中毒症状及び禁断症状や、或いは甲状腺の分泌物によるものであることが知られているバセドー氏病などに対して示すほどの類似性を他のいかなる疾病群に対しても示さないということにも、十分の理由がある筈であった。
その後わたくしには現実神経症の研究に立戻る機会は二度となかった。わたくしの仕事のこの部分は他の人によっても継続されなかった。今日からその当時の結論を振り返って見れば、それは恐らくはるかに複雑な事態に関する最初の粗笨な図式化であると見ることができよう。しかし大体においては今日でもなお正しいように思われる。もしできればわたくしはその後もなお喜んで純若年性神経衰弱の症例を精神分析によって吟味したことであったろう。だが遺憾ながらそうは行かなかった。誤解を防ぐため、わたくしはなにも神経衰弱における心的葛藤と神経症的コンプレックスの存在を否定しているのではないということを強調しておこう。主張したいことはただ、これらの患者の諸徴候は心的に決定され、分析的に解消されるのではなく、性的化学作用傷害の直接的・毒素的結果と理解されねばならぬということなのである。
『ヒステリー研究』を出した翌年に神経症における性慾の病原学的役割についてのこのような見解を得た時、わたくしは医師協会においてこれに関する二三の講演を行なった。しかしただ不信と反対を招いたのみであった。ブロイアーはなお一二度わたくしのためにその個人的名声の大きな力にものを言わせようと試みてくれたが、どうにもならなかった。それに性的病原学を是認するのが彼の好むところでもなかったことは見易い道理であった。性的要因がなんの役割をも演じてはいなかったと報告されている彼自身の最初の患者を引合いに出して、彼はわたくしを打ちのめし狼狽させることができたであろうに。ところが彼はそうしなかった。わたくしがこの症例を正しく解釈し、彼の以前の若干の言葉によってその治療の出発点を再構成しうるに至るまでは、永いことわたくしは何故彼がそうしなかったのかを解しかねていた。それは、浄化の仕事が片付いたかに見えた後、突然この少女に「|愛 の 転 移《ユーバートラーグングスリーベ》」の状態が生じたのである。彼はもはやこれを彼女の病気と関係づけることなく、吃驚して手を引いたのである。この災難とも思われる事実を想起せしめられることは明らかに彼には辛いことなのであった。彼のわたくしに対する態度は暫くは是認と厳しい批判との間を動揺していたが、緊迫した状況には何時もついてまわる偶然事がつけ加わり、われわれは袂を分ってしまった。
ところでわたくしは一般的な神経衰弱の諸形態を研究した結果、更に浄化という技術にも変更を加えねばならぬことになった。わたくしは催眠術を放棄し、それを他の方法で置き換えようと努めた。というのは、わたくしは治療がヒステリー型の症状だけに限られているのを克服したいと思ったからである。また経験が増してくるにつれて、浄化のためにでさえ催眠術を利用することに二つの重大な疑惑が生じて来た。その第一は、患者に対する個人的な関係が曇りを帯びると、最良の結果ですらたちまちに一掃されてしまうかに思われるということであった。なるほど和解の道が見出されればその良い結果に再び戻ったのであるが、このことにより個人的な感情の関係の方があらゆる浄化の仕事よりもとにかく強く、まさにこの要因こそどうにもならないものであることが教えられたのである。それから次に、わたくしはある日永い間自分が推測していたのがなんであったのかを白日の下に曝して見せてくれるような経験をなめた。ある時、催眠術が最も著しい効果を示したわたくしの最も従順な一人の女の患者の苦痛の発作をその誘因にまで還元することによって彼女を苦しみから解放してやった時に、眼を覚ました彼女はわたくしの頸を抱きしめた。思いがけず一人の使用人が入って来てくれたので患者との間の煩しいやりとりを免れたが、それ以来われわれは暗黙裡の同意によって催眠術療法を継続することを止めてしまった。わたくしはごく冷静にこの偶然をわたくしの個人的な不可抗事とすることなく、これで催眠術の背後に働らいている神秘的要素の本性を把捉しえたのだと考えた。この要素を取除くため、或いは少くとも隔離しておくためには、わたくしは催眠術を棄てなければならなかった。
しかしながら催眠術は患者の意識の領域を拡大し、目覚めている時ではどうにもならなかった知識を患者の自由にさせることによって、浄化的治療には非常に役立ったのであった。その点において催眠術を他の方法と取換えることは容易でないと思われた。こうした窮境にあった時、わたくしが屡※[#二の字点、unicode303b]ベルネームの許で見たある実験の記憶がわたくしを助けてくれた。実験台の女が夢遊症状態から醒めると、彼女はこの状態にある間の出来事を全然忘れてしまっているように見える。ところがベルネームは彼女は知っているのだと言った。そして彼女に思い出すことを求め、あなたはすべてを知っているのだからただそれを口に出して言えばよいのだと断言した時、彼女はまだ手を額にあてていたが、次第に忘れ去っていた記憶が本当によみがえり、はじめはごくとぎれとぎれであったのが後には奔流の如くになり、しかもそれが極めて明瞭なのであった。わたくしは同じことをやってみようと決心した。患者は今までは催眠術によってはじめて到達することのできたすべてのことをやはり「知っている」に相違ない。わたくしは断言したり、頭に手をのせて励ましたりして、忘れられた事実や関連を意識の中にひき出すことが出来る筈である。これはもちろん催眠術にかけるよりも骨が折れると思われたが、たしかに教えられることは沢山あった。こうしてわたくしは催眠術を放棄した。ただ患者が休息用ベッドの上に横になり、わたくしはそのベッドの後ろにこちらからは見えて患者からは見えないように坐る点だけは催眠術の場合と変らなかった。
[#改ページ]
V
期待はみたされ、わたくしは催眠術から自由になった。しかしこの技術の変化と共に浄化の仕事もその相貌を変えた。催眠術は諸力の活動を蔽い隠したが、今度はそれが明るみに出され、それを把握することによって理論に確固たる基礎が与えられることとなった。
患者が多くの外的・内的な体験的事実を忘れ去り、しかも先に述べたような技術が用いられるとそれを思い出すことができるというのは、一体どうしてなのか。この問題については観察によって十分な解答が得られた。忘れ去られたことはすべて、人格の要求にとって恐ろしいとか苦しいとか恥かしいとか、とにかく心を痛ましめるものなのであった。おのずからにその考えが湧いてくる、まさにその故に忘れられるのであり、意識のうちに留められなくなるのである。これを再び意識せしめるためには患者におけるある反抗的なものを克服しなければならないし、彼を追い詰め強要するには自分が緊張しなければならなかった。医者に要請せられる緊張の度合は症例の異るに応じて異り、丁度想起さるべき事柄の困難の度に比例して大きくなった。医者の側の力の消費量が明らかに患者の|抵 抗《ヴイーダーシユタント》の尺度となった。いまやこれまで薄々感付かれていたことを言葉に置きかえればよかった。かくて|抑 圧《フエアドレングング》の理論が得られるに至ったのである。
ここにおいて病気の経過は容易く再構成された。簡単な例で説明すれば、精神生活の中にある一つの願望が生れる、と、これに他の強力な願望が対抗する。そこに生じた精神的|葛 藤《コンフリクト》の成行は我々の予想するところでは次の如くであった。二つの力――これを我々の目的のために衝動と抵抗と名づける――は意識の強い関与の下で暫く相戦うが、遂には衝動が斥けられ、その願望のエネルギーは奪い取られてしまう。これが正常の解決といえよう。ところが神経症の場合には――まだ理由は分らないが――この葛藤が別の結着を見るのである。自我はいわばその最初の出遭いの際に不快な衝動から手を引いてしまい、この衝動の意識への、また直接的・動力的拒否への通路を遮断する、しかもその際衝動には全エネルギーが保持されている。こういう経過をわたくしは抑圧[#「抑圧」に傍点]と名づけた。これは全く新しいものであって、これまで精神生活の中にこれと似たものはなにも認められていなかった。この経過は明らかに逃亡の試みにも比すべき本源的な防禦のメカニズムであり、後の正常な判断による解決の先駆現象であった。抑圧という最初の活動には更に続きがある。まず自我は、抑圧された衝動が持続的な力の消費によって絶えず準備している圧迫、|反 撃《ゲーゲンベゼツツング》に対して身を護らねばならぬ。こうして自我の力が弱められる。他方において、ここに無意識化した抑圧されたものは廻り道を通って運び出され、代用の満足を得、かくして抑圧の企図を水泡に帰せしめることができる。転化ヒステリーにおいてはこの廻り道が身体の神経分布に通じ、抑圧せられた衝動が何処かで爆発して諸徴候[#「諸徴候」に傍点]が現出せしめられる。従ってこれは和解の結果であり、代用の満足であるのだが、歪曲されたそれであり、自我の抵抗によって目的から逸らされたそれなのである。
この抑圧理論は神経症理解の基礎となった。治療学上の課題はいまや別様に理解されねばならなかった。その目標はもはや間違った道にはまり込んだ感情を「|鎮静させること《アツプレアギーレン》」ではなく、抑圧を発見し、その時に斥けられていたものを容認或いは否認することのできる判断によってそれを解消してしまうことであった。わたくしは新しい事態を考慮に入れて、この探究と治療の方法をもう浄化《カタルシス》とは呼ばないで精神分析《プシヒヨアナリーゼ》と名づけた。
抑圧はいわば一つの中心点であるから、ここから出発して、精神分析理論のあらゆる部分をそれに結びつけることが可能である。しかし予め論争的内容をふくむ注意をもう一つ書きとめておこう。ジャネの見解によると、ヒステリー患者は体質的な欠陥のために精神活動を統御することのできない憐れむべき人である。だからヒステリー患者は精神分裂と意識の狭隘化に陥るのであるとされた。ところが精神分析の研究の結論からすれば、この現象は動的要因、精神的葛藤、抑圧の実行の結果なのであった。思うにこの両者の相違は非常に重要であって、精神分析に価値ありとすればそれはジャネの思想からの借りものだけだ、というような何時も繰返されている譫言《たわごと》に止めを刺すべきものである。わたくしの叙述により、精神分析は歴史的観点からみてジャネの発見とは全然無関係であり、内容的にもまたそれとは異り、それを遥かに超え出ていることが読者には明らかとなったに違いない。更に、精神科学にとって精神分析を非常に重要なものとならしめ、一般の関心を払わしめた幾多の結論は、決してジャネの労作からは出て来ようのないものなのである。彼の発見は彼より早くなされながら発表の遅れたブロイアーの発見と広く全体にわたって一致していたから、わたくしはジャネその人は何時も尊敬の念を以って扱って来た。しかし精神分析がフランスにおいても論議の対象となった時、ジャネのとった挙動は卑劣であり、また専門の知識も少く、用いる論法はきたなかった。しまいにはその本性を暴露して、「無意識的」精神活動という場合それは何を意味しているのでもなく、たんに「|一つの言い方《ユヌ・フアソン・ドウ・パルレー》」にすぎないと公言したから、彼の仕事自身も価値を失ってしまったとわたくしは思うのである。
だが精神分析は、病的な抑圧やその他のなお言及すべき諸現象の研究によって、「無意識」という概念を真剣に考えざるをえなかった。精神分析にとっては精神的なるものすべてはまず無意識なのであり、意識という性質は後からつけ加わったり、つけ加わらなかったりすることのできるものであった。これは、「意識的《ベヴスト》」と「|心 的《プシーヒツシユ》」とは同じであり、「無意識的なる精神的なもの」というような不合理なものは表象しえないと断言するかの哲学者達の反対論とは明らかに衝突した。しかしなにを言っても無駄であった。この哲学者達の病的嫌悪は肩をすぼめて無視するのほかはなかった。全然知られていない、外界の事実と同様に解明せられねばならないこのような衝動が、頻繁に生じてしかも強力なものであることは、哲学者達の関知せぬ病理学的材料による経験であり、選択の余地はなかったのである。それで、既に他人の精神生活に対していつも行なって来たことをただ自分の精神生活において行うのだと主張することができた。他人の心的活動はわれわれに直接に意識されるのではなく、言葉や行為から推測せられねばならないにも拘らず、やはり他人にも心的活動があるとされている。ところで他人において真実であることはまた自分の場合にも正当であらねばならぬ。もしこの議論を更に押し進めて行って、そこから自分の隠れた活動はまさしく第二の意識に属するのであるという結論を引き出そうとすれば、それについてわれわれがなにも知らない意識、ある無意識的な意識という考えに突き当る。これはしかし、無意識的なる心的なものという仮定より格別優れたものではあるまい。だがもし他の哲学者達と共に、病理学的事象はどう解釈しようと構わないが、ただその根抵にある活動は|心 的《プシーヒツシユ》ではなく準心的《プシユヒヨイト》と名づけられねばならぬと言うならば、この相違は不毛な言葉の上の争いとなってしまう。そしてこの場合もとにかく「無意識的・心的」という表現をとることに決めるのが一番好都合なのである。ところでこの無意識的なものそれ自体とはなにかと問うことは、意識的なるものとはなにかというもう一つの以前からの問い以上に賢明でもなければ多望でもない。
精神分析によって認識された無意識を更に分類して前意識《フオールベヴステス》と本来の無意識《ウンベヴステス》とに分つところまでどのようにして到達したのか、これを手短かに述べることは尚更困難なことになろう。経験の直接的表現であるような理論を、素材の処理に役立つ仮説、また直接観察の対象とはなりえない事態に関係をつける仮説によって補足するのは正当なことと思われた、とだけ書き記しておけば足りよう。古来の学問においても常に同様の方法がとられているのである。無意識の分類は精神の装置をいくつかの検問所《インスタンツ》或いは体制から構成されたものと考えようとする試みと関聯している。このインスタンツ或いは体制相互の関係については空間的な表現法で語られているが、実際の脳解剖学とのつながりは求められていない。(所謂|局所的《トーピツシユ》観点。)これと同種の表象が精神分析学の思弁的な上部構造には属しているが、そのうちのどれでも、もし不十分なことが明らかにされれば、直ぐさま取除き取換えられて一向に差支えないのである。なおこれより観察可能な範囲内の事柄で言うべきことがまだかなり残っている。
神経症の誘因と根拠を探究して性的衝動と性慾への抵抗との間の葛藤にぶつかることが益※[#二の字点、unicode303b]頻繁になったということは既に述べた。性慾が抑圧せられ、抑圧せられたものの代償形成としてそこから諸徴候が出てくるような病的状況を探ってゆくと、患者の生活を前へ前へと遡ることになり、遂にはそのはじめの幼年時代に行きついてしまった。詩人や人間通が何時も主張してきたことであるが、人生におけるこの幼い頃の印象は、大抵は記憶されていないけれども、個人の発育に消し難い痕跡をとどめているということ、就中それは後年の神経症発病の素質を決定するということが明らかになった。しかもこの小児の体験においては常に性的な刺戟とそれへの反作用が問題であったから、ここで小児性慾[#「小児性慾」に傍点]という事実に直面したのである。またもやこれは新事実であり、人間の最も強い偏見の一つへの反対を意味した。幼年時代は性的欲望とは無縁な全く「無邪気な」時代であり、「肉慾」という悪魔《デーモン》との戦いは春機発動の疾風怒濤時代《シユトウルム・ウント・ドラング》と共にはじめて始まると言われてきた。時折は小児に認められたに相違ない性的活動は変性、時期尚早の堕落のしるしとして、或いは珍らしい自然の気まぐれとして理解されていた。精神分析が発見したことのうちで、性機能は人生の初めから始まっており、既に小児時代において重要な現象として現われるというこの主張ほど一般的な拒否を蒙り、烈しい憤激を招いたものは殆んどなかった。だがまたこれほど容易にしかも完全に証明せられる分析的発見もほかにはないのである。
この小児性慾の評価をもっと立入って行う前に、わたくしは一つの誤謬、暫くの間わたくしが落ち込んでいてやがてはわたくしの仕事全体に宿命的なものとなったかも知れない誤謬のことを書いて置かねばならない。わたくしの当時における技術的方法であった強要により、大抵の患者は大人によって性的誘惑を受けたという幼年時代の出来事を再現して物語った。女性の場合はこの誘惑者の役割は殆んど何時でも父親に割り当てられていた。わたくしはこの報告を信用して、幼年時代におけるこの性的誘惑の体験に後年の神経症の原因が見出されたと考えた。父親なり伯父なり兄なりへのこういう関係が記憶の確かになる年頃まで続いていたいくつかの症例によってわたくしの信念は更に強められたのである。わたくしが軽々しく信じ過ぎるといって頭を振り不信の念を表明される方があれば、わたくしはその方が全く不当であるとすることはできない。ただその頃、わたくしは日々出くわす新事実を公平に受容れることができるように自分の批判力を故意に拘束していたのだということは言っておきたい。この誘惑という出来事が決して事実起ったことではなく、患者が創り出した幻想、恐らくわたくしが患者に無理強いした幻想に過ぎないことをその後にどうしても認識せねばならなかった時、わたくしは暫くの間途方に暮れてしまった。わたくしの技術及びそれによって得られる結果への信頼の念は痛烈な一撃を蒙った。とにかくわたくしは正しいと信ずる技術的方法によってこの出来事を得たのであったし、その出来事の内容は研究の出発点であった諸徴候と見まごう方なき関係をもっていたのである。心を落着けてよく考えてみた時、わたくしは自分の経験から、神経症の諸徴候は直接に現実の体験と結びつくのではなくて希望的幻想と結びつくのであり、神経症にとっては精神的実在は物質的実在以上のものを意味するという正しい結論を引出すに至った。わたくしが患者にあの誘惑の幻想を押しつけ「暗示」したのだとは、今日でもわたくしは思っていない。ここではじめてわたくしはエディプス[#「エディプス」に傍点]・コンプレックス[#「コンプレックス」に傍点]にぶつかったのである。これは後に非常に重要な意味をもつものとなるのだが、まだ当時はその幻想的な扮装のために十分認識しえなかった。幼年時代における誘惑にはまた、僅かばかりではあったが、病原学に関与するところのあることも認められた。しかし実際には誘惑者は大抵の場合年上の子供であったのである。
だからわたくしの犯した誤謬は、リヴィウスの物語るローマ王制時代の伝説的歴史を伝説的歴史としてではなく、つまり恐らくは必ずしも常に栄光にみちてはいなかったであろうみじめな時代・状態の追憶に対する反対形成物としてではなく、それを歴史的真実と考えようとするのと同一の誤謬なのであった。この誤謬が明らかにされてからは、小児の性生活研究への道を遮るものはなくなった。ここにおいて精神分析を他の知識分野に適用し、その資料から今まで知られなかった一部の生物学的事実を推測することができるようになったのである。
性機能ははじめから存在し、最初は生活に必要な他の諸機能に依存しているが、次第にそれから独立する。大人の正常な性生活と認められるものになるまでには長い複雑な発展過程を経なければならない。まず性機能は一連の部分衝動《トリープコンポネンテン》の活動として現われる。これは身体の色情帯[#「色情帯」に傍点]に依存し、一部は対をなす反対現象(サディズム――マゾヒズム、観察衝動――露出慾)となって現出し、相互独立的に快感を得ようとする、そしてその対象は大抵自分自身の身体に求められる。従って性機能ははじめは集中的なものではなく、また著しく自己性愛的《アウトエローテイツシユ》である。後にそれが集中されてくると、その最初の組織段階では口唇《オラール》部分衝動が支配的であり、次にサディズム的‐肛門《アナール》段階が続き、その後に到達する第三段階ではじめて生殖器《ゲニターリエン》が優先し、性機能が生殖の用を果たすに至るのである。この発展過程において多くの部分衝動はこの目的に役立たぬものとして棄てられるか、或いは別途に利用され、他のものはその目標からそらされて生殖器組織の中へ引き入れられてしまう。わたくしは性慾のエネルギーを――ただこれだけを――リビド[#「リビド」に傍点]と名づけた。いまやわたくしはリビドが以上の如き発展過程を必ずしも無事に通過するのではないと仮定せねばならなかった。個々の部分衝動が強過ぎるために、或いは以前に満足した体験のために、発展経路上のある場所にリビドが|固 着《フイクスイールング》してしまうことがある。するとこの場所に後の抑圧の場合にリビドが逆戻りしてきて(|退 行《レグレシオーン》)、そこからまた徴候が現出してくることになるのである。なお後になって分ったことをつけ加えれば、神経症のどれが選ばれるかということ、後に発病する際にいかなる形態をとるかということも、この固着する場所の位置如何によって決定されるのである。
リビドの組織化と並行して対象発見の過程が進行する。これには精神生活における大きな役割があてられている。自己性愛《アウトエロテイスムス》の段階の後に最初の愛の対象となるのは、男女何れの性にあっても母親である。母親の哺乳器官は恐らくはじめのうちは自分の身体と区別されていない。後になると、といってもまだ初期の小児時代のことであるが、エディプス・コンプレックスの関係が現われてくる。すると小児は自分の性的願望を母親自身に集中し、競争相手としての父親に対する敵対的衝動を示す。幼い少女の場合もそれと類似しており(4)、エディプス・コンプレックスのあらゆる変化と順序が意味あるものとなり、生来の両性的体質が力を得て、同時的に存在する性向の数を増大せしめる。これは男女の性別がはっきりするまでずっと続く。この性的探究[#「性的探究」に傍点]の時代に典型的な性理論[#「性理論」に傍点]がつくられるが、この理論は自己の身体組織が不完全なため真偽を混同し、性生活の諸問題(スフィンクスの謎:子供はどこからやって来るか)を解くことができない。小児の第一の対象選択は従って近親相姦的[#「近親相姦的」に傍点]なものである。以上述べた全発展過程は迅速に通り過ぎてしまう。人間の性生活の最も注目すべき性格は、その間に休止期を置く二期の発端[#「二期の発端」に傍点]があることである。四歳か五歳の頃に第一期の頂点に到達するが、その後この性慾のはじめの開花期は過ぎ去り、今まで生気のあった性向は抑圧せられて、春機発動期に至るまでの潜伏期[#「潜伏期」に傍点]に入る。この潜伏期間に道徳、羞恥、嫌忌等の反作用的形成物が打立てられるのである(5)。性的発展における二期性はすべての生物中人間だけにしかないと思われる。恐らくはこれが神経症になる人間の体質の生物学的条件である。春機発動期と共に以前の性向や対象決定が再び甦り、エディプス・コンプレックスの感情的束縛もまた再生する。春機発動期の性生活においては小児時代の刺戟と潜伏期の抑制とが相戦うことになる。小児の性的発展の頂点においても一種の生殖器組織はつくられていたが、ただ男性の生殖器だけがある役割を演じ、女性のそれは発見されることがなかった(所謂男根の[#「男根の」に傍点]優位)。両性の対立はその時期においてはまだ男性[#「男性」に傍点]か女性[#「女性」に傍点]かを意味せず、男根を持っているか|切り取られ《カストリールト》ているかということであった。いまここにつけ加えた|去 勢《カストラチオーン》コンプレックスは更に性格や神経症の形成にとって重要なものとなるであろう。
[#ここから1字下げ]
(4)(一九三五年)小児性慾に関する調査は男性においてなされたものであり、そこから引き出された理論は男性の小児に向けられたものであった。当然、男女両性間の一貫した平行関係が十分期待されたわけであるが、それの中《あた》らぬことが立証された。その後の研究と吟味により男性と女性との性的発展における甚だしい差異が発見されたのである。幼い少女にとっても母親が最初の性的対象ではあるが、正常な発展の目標に達するためには、女性はたんに性的対象のみならず支配的な生殖器区域を変えねばならない。ここからして男性の場合にはない困難や可能的抑制が生じてくるのである。
(5)(一九三五年)潜伏期とは生理学的現象である。しかしながらそれが完全に性的生活を中断せしめうるのは、小児性慾の圧伏をその計画中にとり入れたところの文化的な組織の中においてのみである。大抵の原始人の場合には、これは当てはまらない。
[#ここで字下げ終わり]
人間の性生活に関するわたくしの所見を上に略述する際、わたくしは理解し易いようにと、いろいろな時に出来上りわたくしの『性慾理論への三つの論考』"Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie"の相継ぐ諸版において補足或いは訂正として採り入れた事柄をあれこれ寄せ集めて述べてみた。屡※[#二の字点、unicode303b]強調され異議を唱えられる性慾概念の拡張が何処に存するかはこれによって容易に推察されると思う。この拡張は二重の拡張である。第一に、性慾はあまりに狭い生殖器との関係から解き放たれ、もっと包括的な快感を求める身体機能として提出されている。従ってこれは生殖作用にとってはさしあたり第二義的なものとして現われて来るのである。第二に、たんなる優しさとか親しみの衝動がすべて性的衝動の中に入れられ、これに多義的な「愛情」という言葉が用いられている。しかし、思うにこの拡張は革新ではなくて復古であり、概念の不都合な狭隘化の廃止を意味する。性慾を生殖器から引離すことには、小児と性的倒錯者の性的活動を正常な大人と同一観点から見ることを可能にするという利点が伴う。従来は小児の性的活動は全然等閑に附せられていたし、また性的倒錯者のそれは道徳的な怒りの念をもってはとりあげられていたが、まるで理解を欠いていたのであった。精神分析によって解釈すれば、極めて異常なまた極めて厭わしき性的倒錯も、生殖器の優位を忌避してリビドの発展過程の端初における如く独立に快感を得んことを求める性的部分衝動の発現として説明せられる。この倒錯の中で最も重要な同性愛は決してその名に価するほどのものではない。これは体質的な両性性と男根優位の余波にまで還元されてしまう。精神分析によればあらゆる人になにほどかの同性愛的対象選択を認めることができるのである。小児を「多形性倒錯」と名づけたとしても、それはただ一般に用いられている表現で記述したまでのことであって、それによって道徳的評価が表明されているととるべきではない。総じてかかる価値判断というものは精神分析とは無縁なのである。
もう一つの所謂拡張は、すべてこの優しさの感情衝動が根源的には全くの性的性向であり、それが後に「目標に向って抑制され」「昇華され」るものであることを明らかにする精神分析の研究を指示することによって、その正当性が承認せられる。性衝動はこのように感化され誘導されうるが故に、幾多の文化的事業に役立てることができ、極めて重要な寄与をさえなしうるのである。
小児の性慾に関する驚くべき発見はまず大人の分析によって得られたが、後には、というのはほぼ一九〇八年以降、小児を直接観察することによって個々の点についてすべてこれを適宜確認することができた。事実、小児の規則的な性的活動を納得せしめるのはいとも容易いことであるから、どうして人間はこの事実を見逃がして性的でない幼年時代というような希望的伝説をこれまで永い間固持するようになってしまったのだろう、と人は怪しんで尋ねざるをえないほどなのである。これは、大抵の人が大人になると自分の子供の頃のことを忘れてしまうということに関係するに相違ない。
[#改ページ]
W
抵抗と抑圧に関する学説、また無意識・性生活の病原学的意義・幼時体験の重要性等に関する学説は、精神分析学の体系の主要構成部分である。遺憾ながらここではただその個々の部分を叙述しえたのみで、それらが相互に如何に組合わさり噛合っているかは述べることができなかった。次には分析的方法の技術が徐々になし遂げた変貌に眼を向けてみなくてはならない。
はじめ行われた強要と断言による抵抗の克服は、予期さるべき事態において医者が最初の方向づけをなしえんがためには、不可欠のことであった。しかしそれが長く続くと何れの側にも過度の緊張を必要としたから、それにまつわるある不安を免れぬように思われた。そこでこの方法は他の、ある意味では正反対の方法に取り換えられることになった。患者に特定の主題に関する事柄を言わせるように仕向ける代りに、今度は「自由な連想」に身を任せることが要求された。つまり、何か意識的な目標を考えるのをやめた時に何時も頭に浮んで来ることを言わせるのである。ただ患者は自己観察から出て来た事は必ず全部をそのまま報告せねばならないのであって、一つ一つの思いつきを、これは大して重要ではないとか、必要でないとか、全然無意味であるとか、その動機づけによって片附けてしまおうとする批判的な反論に支配されてはならなかった。報告が正直なものであるを要するということはことさら繰返すまでもない。それこそ分析による治療の前提であったのであるから。
精神分析の原則[#「精神分析の原則」に傍点]を厳守しながらこの自由連想の方法によって、期待されていること、つまり抑圧されて抵抗のために遠くに追いやられている材料を意識にまでもたらすこと、を実現しようとするのは奇妙なことと思われるかも知れない。けれども自由な連想が実際には自由ではないのだという点をよく考えなくてはならない。患者は自分の思考活動を特定の主題に向けていない時でさえ、分析的状況の影響下にある。患者にはこの状況と関係のある事柄以外の事は何一つ思い浮ばないと想定して差支えないのである。抑圧せられたものの再生に対する抵抗が今や二様の仕方で現われてくるであろう。第一は精神分析の原則がまさしくそれに向けられているかの批判的反論によって。しかしその原則に従ってこの妨害が克服されると、抵抗はまた別の表現をとって現われる。分析されている人間には抑圧されている当のものではなく、ただ暗示的にそれと近い事柄だけが思い浮べられるということは一貫して変らないであろう。そして抵抗が大きければ大きい程、報告される代用の思いつきは求められている実際のものからかけ距ってゆくだろう。分析者は精神を集中し、しかも固くるしく緊張することなく耳を傾け、出てくる事柄については一般に経験を通して心構えができているのだから、患者が明るみに出した材料を今や二つの可能性によって利用することができる。大した抵抗を受けない場合にはそこにほのめかされた言葉から抑圧された事実そのものを推察することができるし、強い抵抗があった場合には主題とは遠く離れていると見える思いつきの中にこの抵抗の性質を見きわめ、これを患者に言うことができる。ところでこの抵抗の発見ということはその克服への第一歩なのである。かくて分析の仕事の枠内において一つの|解 読 術《ドイトウングスクンスト》が現われてくる。この技術を成果の挙がるように使うにはもちろん気転と習熟が必要であるが、それを呑み込むのはむつかしいことではないのである。自由連想の方法が前の方法よりもずっと優れているのはたんに労力の節約という点ばかりではない。この方法によれば分析されている者は殆んど強制を受けることはないし、現在の現実との接触を失うこともない。そして分析する者には神経症の構造における如何なる要素も見逃さず、自分の予想をその中に持ち込むこともないという広汎な保証が与えられるのである。この方法においては分析の道筋を定め素材の配列を決めることは全く患者に委ねられてしまうから、個々の徴候とコンプレックスを体系的に編成することは不可能となる。催眠術或いは強要による方法の場合の経過と全く反対に、一緒にさるべきものが治療中の異った時に異った所で現われてくるのである。従って傍聴者――実際にはかかるものの存在は許されないが――にとっては分析的治療は全くわけの分らぬものとなるであろう。
この方法のもう一つの長所は、この方法が拒否されるということは決してありえないという点である。特定の種類の思いつきが要求されるのでない場合、なにか一つくらい思いつきが浮ぶということは理論的には常に可能な筈である。ところがある一つの場合にはきまってそれも拒否される。しかしこの場合も、まさにそれが一つであることによって解釈可能なものとなるのである。
さて次に、この分析のイメージにある本質的な特徴を附加し、技術的にも理論的にもきわめて重大な意味をもつと言わるべき一要素について述べることにしよう。あらゆる分析的治療の場合、医者はなにもしないのに患者の医者に対する強い感情的関係が現われてくるが、これは現実の事態においては説明することのできないものである。この感情的関係は|陽 性《ポジテイーフ》である場合もあり、|陰 性《ネガテイーフ》である場合もあり、激情的・肉感的な恋情から反抗・憤怒・嫌悪の極端な表現に至るまで種々様々である。これは簡単に「|転 移《ユーバートラーグング》」と名づけられるが、患者にあっては間もなくこれが快癒後の願望となり、それが優しく程よいものである間は医療の力の担い手となり、共同の分析作業の真の推進力となる。後に激情的なものとなったり敵対的なものに変ったりした時には、今度はそれが抵抗の主要手段となってしまう。それからまた、それが患者の思い浮べる活動を萎えさせたり治療の成功を脅かしたりすることもあるのである。しかしそれを斥けようとするのは無意味であろう。感情転移なしには分析は不可能なのであるから。分析が転移を創り出すのだとか、それはただ分析の際にのみ現われるのだとか考えてはならない。転移は分析によってのみ発見されとり出されるのであり、これは人間に普遍的な現象であって、あらゆる医療の成否を決するものである。しかのみならず一般に、一人の人間の人間的環境に対する関係を支配するものなのである。この転移の中に、催眠術家によって催眠可能性と呼ばれ、催眠的相互関係を可能ならしめている動的要素、浄化の方法によっては捉えることのできなかったあの動的要素を認めることは容易である。早発性痴呆《デメンテイア・プレコツクス》(精神分裂病)や偏執病《パラノイア》の場合のように、この感情転移への性向がなかったり或いは全く陰性となっている時には、患者の心的感化の可能性もまた無くなってしまうのである。
精神分析の仕事も他の精神療法と同様に暗示[#「暗示」に傍点]という手段を用いて行われるのだと言うことは全く正しい。しかし両者の区別は、精神分析においては暗示或いは転移に治療の成否の決定が委ねられてはいないということである。暗示或いは転移が使われるのはむしろ、患者を動かして心的活動を行わしめ、転移の抵抗を克服せしめるためである。これは患者の精神の配置の持続的変更を意味する。転移は分析者によって患者に意識せしめられる。その転移の状態において再体験する[#「再体験する」に傍点]ものは幼時の抑圧期のごく初期の対象設定に由来する感情的関係であるということを患者に納得せしめることによって、この転移は解消してしまう。このような転回によって、転移は抵抗の最強の武器から分析的治療の最上の道具となるのである。とにかくこの転移の処理が分析技術の最も困難なそして最も重要なところである。
自由連想の方法とそれにつながる解読術とによって、精神分析は一見実際的な意義はないかに見えながら真実には科学的活動における全く新しい立場と効果を齎らすべき業績をなしとげたのである。夢に意味のあることを証明し、その意味を読みとることが可能となった。古典古代においてはまだ夢は未来の告知として高く評価されていた。近代科学は夢についてなにも知ろうとせず、これを迷信に委ね、夢とは単なる「身体の」活動であるとか、その他の点では眠っている精神生活の一種の痙攣であるとか説明した。真面目な科学的仕事をして来た者が「夢判断家」として現われ出るなどということは全くあり得べからざることと思われていた。しかしこのような夢への断罪にわずらわされず、夢をある理解し難い神経症的徴候、幻想或いは強迫観念として取扱い、その表面上の内容から眼を転じて個々の映像を自由連想の対象とした時、われわれは一つの別の結論に行きついたのである。夢を見た人間の幾多の思いつきを通じて、もはや不合理とか混乱とか名づけられないある思想像を認識することができた。この思想像は十全の価値をもつ心的活動に相応し、表面にはっきり現われる[#「はっきり現われる」に傍点]夢はそれの歪曲され・短縮され・誤解された飜訳、大抵は視覚的映像への飜訳なのであった。この潜在的な夢思想[#「潜在的な夢思想」に傍点]の中に夢の意味があり、表面に現われた夢の内容は一つの欺瞞なのであって、連想はもちろん真正面からそれに取りつくことができるが判断にはそうはゆかぬものなのである。
そこで一連の問いへの答えがすべて与えられることとなった。とりわけ重要な問いは、夢形成の動機というものが一体あるのかどうか、如何なる条件の下で夢は形成され得るのか、どういう経路を経て常に意味のある夢思想が屡※[#二の字点、unicode303b]意味のない夢へと変えられるのか、等々である。一九〇〇年に公刊された『夢判断』"Traumdeutung"において、私はこれらすべての問題を解決しようと試みた。ここにはこの研究の極く簡単な抜萃をするだけの余地しかない。もしも分析によって知られる潜在的な夢思想を検べてみるならば、その中には夢を見ている当人が熟知している他の理解可能な夢思想とは截然と区別される一つの夢思想が見出される。ここにいう他の理解可能な夢思想というのは、目覚めて生活している時の残滓(昼の名残り)である。ところが分析してみるとその中に、夢を見ている人間の覚醒時の生活とは無関係な、従って当人もまた怪しんだり驚いたりして否定するような、屡※[#二の字点、unicode303b]非常に不快な一つの願望衝動が認められる。この衝動こそ真に夢を作り出すものであって、夢の産出に要するエネルギーを調達し、昼の名残りを材料として使うのである。こうして出来た夢はその衝動の満足する状況を描き出す。夢はこの衝動の願望充足[#「願望充足」に傍点]である。この現象は、もし睡眠状態の性質中の何かに庇護されるのでなかったら、起りえなかったであろう。睡眠の心的前提は、自我を睡眠の願望に調節し、生活上のあらゆる関心を働かせぬようにすることである。これと同時に筋肉の可動性への入口は閉じられるから、自我は何時もは抑圧の維持に使っている力の消費量を低減することができる。無意識的な衝動は、この抑圧の夜の弛緩を利用して夢と共に意識の中に顔を出すのである。しかし自我の抑圧・抵抗は眠っている時にも全然無くなってしまうのではなく、ただ低減されているだけである。それの残余が|夢の検察官《トラウムツエンズール》として留まり、無意識的な願望衝動が本来それにふさわしい形で表現されることを禁止する。この夢検察官の力のために潜在的な夢思想は変更せられ弱められねばならず、かくて夢の禁ぜられた意味が認知され難いものとなってしまう。これが表面に現われた夢の著しい特徴をなす夢の歪曲[#「夢の歪曲」に傍点]の説明である。従って次の命題が正しいことになる、夢はある[#「夢はある」に傍点](抑圧された[#「抑圧された」に傍点])願望の[#「願望の」に傍点](仮装せる[#「仮装せる」に傍点])充足である[#「充足である」に傍点]。以上で、夢が神経症的徴候と同じように構成されること、夢は抑圧された衝動と自我における検察力の抵抗との間の妥協から生まれたものであることが知られる。かかる発生の故に、夢も徴候と同様にそのままでは理解されず、解読を必要とすることになるのである。
夢を見ることの一般的機能を見出すのは容易である。夢は眼を醒まさせようとする外的・内的な刺戟をある種の宥和策によって禦ぎ、そうして睡眠を妨害されないようにするに役立つ。外部からの刺戟は、それが解釈し直されて何かある無害な状況の中に織り込まれることによって防がれる。衝動の要求から来る内部的刺戟は放任され、潜在的な夢思想が検察官による制御から逸脱しない限りは、夢を作ることによって満足せしめられる。しかしこの危険が切迫し、夢があまりにも明瞭となる時には、夢は破られ、驚いて眼が醒める(恐怖の夢[#「恐怖の夢」に傍点])。外的な刺戟があまりに強く、もはや斥けられない程になった時も、同じ夢機能の拒否が現われる(目の覚める夢[#「目の覚める夢」に傍点])。夢検察官との共働の下に潜在的思想を表面にはっきり現われる夢の内容にまで導く経過を、わたくしは夢作業《トラウムアルバイト》と名づけた。その作業の核心は前意識的な思想材料の独特な処理にある。これによって思想材料の構成部分は凝縮され[#「凝縮され」に傍点]、精神的アクセントはずらされる[#「ずらされる」に傍点]、しかる後に全体が視覚的映像に移され、劇化され[#「劇化され」に傍点]、誤れる二次的な編集[#「二次的な編集」に傍点]を経て完成されるわけである。この夢作業は精神生活のより深い無意識層における進行過程の最も優れた範型であって、われわれの熟知している正常の思考過程とは著しく相違している。夢作業はまた多数の古代的特徴を現出せしめる。たとえば極めて性的な象徴[#「象徴」に傍点]が使われること、これは精神的活動の他の諸領域においても再び発見されるものである。
夢の無意識的な衝動が昼の名残り、覚醒時の生活のある未処理の関心事と結びつけられることにより、その衝動から作られた夢は分析の仕事にとって二重の意味をもつものとなる。夢を解読すると、一方ではそれが抑圧せられた願望の充足であることが示され、しかも他方ではそれが昼間の前意識的な思考活動の継続であり、任意の内容で満たされていて、ある意図、警告、思慮、そしてまた願望充足、に表現を与えているということがありうる。分析は夢を二方向に、つまり分析される人間の意識的事象と無意識的事象との認識に利用する。またここから、夢においては幼時の生活の忘却された素材への道が通じ、従って幼時の記憶喪失は大抵は夢判断との関連によって克服されるという利益が分析によって引出されて来る。ここにおいて夢は、以前には催眠術に課されていた役割の一部を果たすことになる。けれども私は、夢判断によってあらゆる夢が性的内容のものであるかあるいは性的な衝動の力に還元されるものであることが明らかにされたというような、屡※[#二の字点、unicode303b]わたくしに帰せられる主張をしたことは一度もない。空腹や渇えや排泄衝動が、性的或いは利己的衝動と同様に、それの満足の夢を産み出すことは容易に知られることである。幼児の場合には我々の夢理論の正しさが楽に吟味される。そこではまださまざまな心的体制が明確に区別されておらず、抑圧もまだそんなに深くは行われていないから、見られる夢も屡※[#二の字点、unicode303b]昼間達せられなかったある願望衝動の明らさまな充足にほかならない。命令的な要求によって大人もまたこのような小児型の夢を産み出すことができるものである(6)。
[#ここから1字下げ]
(6)(一九三五年)夢の機能が屡※[#二の字点、unicode303b]失敗に終ることを考慮に入れるならば、夢は願望充足の試み[#「試み」に傍点]であるとすることによって適切に性格規定がなされ得る。夢は睡眠中の精神生活であるというアリストテレスの古い定義は依然として正しい。わたくしの書物の表題が『夢』ではなく、『夢判断』であることには意味がないのではない。
[#ここで字下げ終わり]
夢判断と同様のやり方によって、分析は人間が屡※[#二の字点、unicode303b]犯す小さなやり損ないや徴候的行為の研究にも用いられる。わたくしは一九〇四年にはじめて書物として公刊した研究『日常生活の精神病理』"Zur Psychopathologie des Alltagsleben"でこれを行なった。広汎な読者を獲たこの著作は、これらの諸現象が偶然的なものではないこと、生理学的説明では尽されない・意味のある・解釈出来るものであること、結局は引留められ抑圧せられた衝動や意図によるものであることを証明している。夢判断並びにこの研究の高い価値は、これが分析の仕事に与える支持にではなく、それの別の特性の中に存する。これまでは精神分析はたんに病理現象を解消することだけに従事し、その説明のためには扱われている素材の重要性如何とは関係のない仮説を屡※[#二の字点、unicode303b]立てねばならなかった。しかしここで精神分析が手をつけた夢は病的な徴候ではなく正常な精神生活の一現象であって、あらゆる健康な人間に起りうるものであった。夢が徴候と同様に構成され、夢の解明には同じ仮説、即ち衝動の抑圧、代償形成及び妥協形成、意識及び無意識を納めるためのさまざまな心的体制等の仮説が必要であるとするならば、精神分析はもはや精神病理学の一補助科学ではなく、むしろ正常人の理解にも不可欠となる一つの新しいより根本的な心理学の端緒なのである。われわれはその前提や結論を精神的事象の他の領域に持ち込むことを許される。こうして精神分析学の前には広大な領域に達する道が、そして人類的関心へと通ずる道が開かれたのである。
[#改ページ]
X
精神分析学の内的な発展の叙述をやめ、ここでその外的な運命に眼を向けてみよう。精神分析学の成果についてこれまで述べて来たことは、大体においてわたくしの仕事の成果であったが、それと関連してなお後に挙げ得た成果は、わたくしの弟子並びに同調者の寄与と切り離せないものであった。
ブロイアーと分れて後十年あまり、わたくしには一人の同調者もなかった。わたくしは全く孤立していた。ヴィーンでは忌避されたし、外国には知られていなかった。一九〇〇年の『夢判断』は専門雑誌において一顧だに与えられなかった。論文『精神分析学の運動の歴史のために』の中にわたくしはヴィーンの精神病学者仲間の見方の実例として一人の助手、わたくしの学説に反対する一冊の書物を著したが、『夢判断』は読んでいなかった、ある助手との対話を記しておいた。臨床講義の時に彼はそんな仕事は骨折り甲斐のない仕事だと言われたというのである。後にこの人は員外教授となり、非礼にもあの会話の内容を否定し、わたくしの記憶の真実性一般を疑おうとした。わたくしは当時のわたくしの報告の一語一語がその通りであったことを主張する。
如何なる運命とわたくしがぶつかっていたのかを理解した時、わたくしの痛苦は軽減された。次第にわたくしの孤立的状態も終ることとなった。まず初めにヴィーンで少人数の弟子達がわたくしの囲りに集まってきた。一九〇六年以後、チューリヒの精神病学者E・ブロイラー、その助手C・G・ユングその他の人々が精神分析学に強い関心を示した。個人的な関係が結ばれ、一九〇八年の復活祭にはこの若い科学の友達がザルツブルクに相会した。そしてこのような私的集会を規則的に繰返すことを約し、「精神病理学・精神分析学研究年報」"Jahrbuch fur psychopathologische und psychoanalytische Forschungen"の表題でユングが編集する雑誌を刊行することを取極めた。発行人はブロイラーとわたくしとであったが、世界大戦の勃発と共にこの雑誌は廃止された。スイスの人々の加入と同時にドイツ国内でも到る処に精神分析学への関心が喚び醒まされ、これが数多の文献上の陳述の、また学会における喧しい論議の対象となるに至った。何処においても快よく好意を以って迎えられはしなかった。精神分析学とほんの僅かの面識を得ただけなのに、もうドイツの科学は一致してこれを投げ棄ててしまったのである。
もちろん今日でも、わたくしは精神病学、心理学、精神科学一般に対する精神分析学の価値について後世の決定的な判断が如何なるものとなるかを知ることはできない。しかしわれわれが生き抜いて来た段階をもしも歴史家が他日見ることがあったなら、彼らは当時の代表的学者達の態度はドイツの科学にとり名誉あるものでなかったことを認めざるをえないだろうと思う。この場合わたくしは拒否という事実、また拒否する際の果断さを言っているのではない。その何れも容易に理解されうるし、全く予期された通りであって、少くとも反対者の性格に些かの陰影を投ずるものでもありえない。けれどもあまりの傲慢さ、破廉恥なまでの論理の無視、攻撃の粗野俗悪さ加減については弁解の余地はない。十五年も経ったのにこのような鬱憤を今更吐き出すのは子供じみている、とわたくしを非難する人があるかもしれない。わたくしとてなお他に附け加うべきものがなかったら、こんなことはしなかったであろう。何年か後に、大戦中敵側からドイツ国民は野蛮人であるとの非難の声が揚がった時、それは上に述べた諸点すべてへの非難であったのだが、ひとは自分自身の経験からしてそれへの一言の反駁もなしえなかったということ、これは全く心底から悲しむべきことであった。
ある反対者の一人は、自分は患者が性的な事柄を述べ始めた時には喋べるのを止めさせた、そしてこの技術によって神経症における性慾の病原学的役割に判断を下す権利を明らかに導出したのである、と声高に自慢した。感情的な反対論は精神分析の理論によりいとも容易く解明され、われわれを迷わすことはできなかったから、これを度外視すると、諒解を妨げた主たるものは、反対者達が精神分析学をわたくしの思弁的空想と考え、その建設のために使われた長期に亘る辛抱強い無前提的な仕事を信じようとしないという事情にあった。彼らの意見によると分析は観察や経験とはなんら関係のないものであったから、自分で経験してみることもなく分析を否認するのを正当と考えたのである。こういう確信を持ち合わせぬ他の人々は、自分が駁撃しているものが何であるかを見ないために顕微鏡を覗かないようにするというお決まりの反対の手口を繰返していた。一般に、ある新しい事実に自分自身の判断によって立向うとなると、大抵の人々が如何に誤った行動をとるかは注目に価する事柄である。何年もの間に、また今日でもなお「好意的な」批評家達が、精神分析はこれこれの点までは正しいけれども、それ以上は行き過ぎであり不当な一般化であると言うのを聞く。するとわたくしは考えるのである、そういう限界を決めることほどむつかしいことはないのだ、現にその批評家自身でさえ数日或いは数週間前まではその事実を全然知らずにいたのではないか、と。
精神分析学が世間一般からの破門を蒙ったことにより、分析家達は益※[#二の字点、unicode303b]緊密に結合する結果となった。一九一〇年ニュルンベルクにおける第二回目の会合では、S・フェレンチの提案により彼らは「国際精神分析学協会」"Internationale Psychoanalytische Vereinigung"へと組織された。これは地域的グループに分かたれ、一人の会長の管理下にあった。この協会は大戦中も存続し、今日も尚存在して、ヴィーン、ベルリン、ブダペスト、チューリヒ、ロンドン、オランダ、ニューヨーク、汎アメリカ、モスコー、カルカッタの地域的グループを包括している。最初の会長にはC・G・ユングを選出せしめた。これは後に明らかとなる如く全く不幸な第一歩であった。その頃精神分析学には第二番目の雑誌、アードラーとシュテーケルの編集する「精神分析学中央雑誌」"Zentralblatt fur Psychoanalyse"が出、その後間もなく第三番目の雑誌「イマーゴ」"Imago"が出来た。これは医者でないH・ザックスとO・ランクとによるもので、分析学の精神科学への応用を目指していた。やがてブロイラーは精神分析学擁護のための一書を公刊した(『フロイトの精神分析学』"Die Psychoanalyse Freuds." 1910)。闘争の最中にとにかく正しい意見、公明正大の論理が表明されたことは大層嬉しいことであったが、そのブロイラーの労作はわたくしを十分に満足せしめうるものではなかった。それはあまりに非党派的公正の外見を求め過ぎていた。雙価性《アムビヴアレンツ》という貴重な概念がまさにこの著者のお蔭でわれわれの科学に導入されたことは決して偶然ではなかった。後の論文においてブロイラーは分析の学説体系に対してごく否定的な態度をとり、その極めて本質的部分を疑い或いは非難したから、わたくしはこの体系中彼に是認されるものとしてはなにが残るのかと怪しみ自問したほどであった。だがその後もなお彼は「深層心理学《テイーフエンプシヒヨロギー》」のために実に勇敢な発言をしたのみならず、精神分裂病に関する大規模な記述をその上に基礎づけたのであった。しかしブロイラーは「国際精神分析学協会」に永く留ってはいなかった。彼が協会を去ったのはユングとの不和のためであった。分析学はブロイラーを失ってしまったのである。
一般世間の反対は精神分析学がドイツ及び諸外国に拡がって行くのを制することはできなかった。わたくしは別の所で(『精神分析学の運動の歴史のために』)その進展の諸段階を辿り、またその代表者として顕著な人々の名を挙げておいた。一九〇九年にユングとわたくしはG・スタンリー・ホールからアメリカへ招聘せられ、彼が総長であるマサチューセッツ州ウースターのクラーク大学で研究所創立二十周年記念のために(ドイツ語で)講演を一週間行なった。ホールは真にその名声にふさわしき心理学者、教育者であり、既に数年来精神分析学を講義中に採り入れていた。権威を制定しこれをまた廃立することを愛する彼にはさながら「国王擁立者」の面影があった。われわれはその地でまたハーヴァードの神経学者ジェームス・J・プトナムにも会った。彼は老齢にも拘らず精神分析学に感激し、その一般に尊敬されている全人格を傾注して精神分析学の文化的価値と目的の純粋性を擁護してくれた。強迫神経症的素質への反作用で著しく倫理的傾向を帯びたこの優秀な学者の、精神分析学をある特定の哲学体系に結びつけ道徳的教化の用に立てようという要求だけには困らされた。なお哲学者ウィリアム・ジェームスとの出会いもわたくしには消し去りがたい印象を残した。わたくしは小さな一場の光景を忘れることができない。それはある散歩の時のことである。彼は突然立止まり、手提鞄を私に渡して、わたくしに先へ行ってくれと言った。直きに狭心症の発作が起りそうだ、それが済んだら追い附くからと彼は云うのである。一年後に彼はその心臓の病で死んだ。それ以来わたくしは近き死に対して彼と同じように恐れずにいたいものだと常に願っている。
当時わたくしは漸く五十三歳で、若く健康であると感じていた。新世界への暫時の滞在はわたくしの自信を強めてくれた。ヨーロッパではわたくしはまるで破門されているような感じがしたが、ここでは最良の人々から同等の人間としての取扱いを受けた。『精神分析学五講』"Funf Vorlesungen uber Psychoanalyse"を講ずるためにウースターで講壇に登った時には、信じ難い白日夢の実現であるかの如く思われた。これで精神分析学はもはや幻影たることを止め、現実の貴重な一部分となったのである。われわれの訪問以後、精神分析学のアメリカでの地盤は二度と失われることはなかった。これは一般人の間に著しい普及を見、多くの公認の精神病理学者達によって医学の重要な一部と認められている。また遺憾なことではあるが、その地で精神分析は多く水割りをされることにもなった。精神分析学とはなんの関わりもない幾多の濫用がその名で呼ばれ、技術及び理論の根本的な形成の機会が欠けている。アメリカではまた、心理学的問題を排除したといってその直接的真実性を誇る行動主義《ビヘーヴイアリズム》との衝突も起っている。
ヨーロッパでは、一九一一年から一九一三年の間に精神分析学からの二つの分裂運動が行われた。それはこれまでこの若い科学において相当の役割を演じて来た人々によって惹き起こされたのであった。一つはアルフレッド・アードラーにより、他はC・G・ユングによる。両者共全く危険な人物であると思われた。またたく間に大きな党派をつくってしまった。しかし彼らの力は彼ら自身の内実によるのではなく、精神分析学の不快感を与える結論から、その実際の材料をもはや否定しえない時にも、免れたいという誘惑によるのである。ユングは分析的事実を抽象的・非人格的・非歴史的なものへと解釈し直し、これによって小児性慾やエディプス・コンプレックスの評価並びに小児の分析の必要を無しで済ませようとした。アードラーは更に遠く精神分析学から遠ざかってしまったと思われる。彼は性慾の意義一般を否認し、性格形成、神経症形成を専ら人間の権力追究及び体質的な劣弱性の代償物への要求に還元し、精神分析学の心理学的新発見をすべて馬耳東風と聞き流したのであった。ところが、彼によって否認されたものは別の名で彼の閉鎖的体系の中に採り入れざるをえなかったのである。彼の云う「男性的反抗」とは不当に性慾化された抑圧以外の何物でもない。この二人の異端者への批判は大層寛大であった。わたくしはアードラーとユングに彼らの学説を「精神分析学」と唱えることを断念せしめることしかできなかった。十年後の今日となれば、精神分析学に対する二人の試みはなんの害も与えることなく過ぎ去ってしまったことをわれわれは確認することができるのである。
一つの団体が二三の主要な点における意見の一致に基づいてつくられているならば、この共通の地盤を放棄した人間がその団体から離れて行くのは自明の理であろう。しかるに、わたくしの以前の弟子達が離反して行ったことはわたくしの不寛容のしるしであるとして屡※[#二の字点、unicode303b]わたくしの罪に帰せられ、或いはそこにわたくしにまつわる特別な宿命があるとされた。これに対しては、ユング、アードラー、シュテーケルその他二三の人々の如くわたくしを棄て去って行った者達に対して、アブラハム、アイティンゴン、フェレンチ、ランク、ジョーンズ、ブリル、ザックス、牧師プフィスター、ヴァン・エムデン、ライク等々約十五年来わたくしと誠実な共同作業を続けている多数の人々があり、大抵の人々とまた曇りなき交友関係をも結んでいることを指示しておけば充分であろう。ここには既に精神分析学文献において有名になっている最も古くからの弟子達の名を挙げたのであるが、他の人々を省略したのは決して軽視したわけではない。まさに若い後進の人達の中にこそ大きな希望を託すべき有能の才があるのである。わたくしとしては、こう主張しても許されるであろう、絶対に自分は間違わぬとの自信にみちた不寛容な人間は決してかかる多数のすぐれた精神の持主を自分の囲りにつなぎとめておくことができないだろう、ましてやその人間がわたくしのようにもはやなんの実際的な誘惑をする力もない場合にはなおさらのことである、と。
世界大戦により他の多くの組織はつぶれたが、われわれの「国際精神分析学協会」には何事もなかった。戦後第一回の会合は一九二〇年に中立地帯のハーグで行われた。オランダが飢えに憔悴し零落した中欧の人々を厚遇してくれた様は感動的であったし、またわたくしの知る限りではその崩壊した世界においてはじめて、イギリス人とドイツ人とが学問的関心の故に親しく同じテーブルに坐ったのである。その上、戦争は西方の国々におけると同様ドイツにおいても精神分析学への関心を高めることになった。戦争神経症患者の観察によってやっと医者の眼が開かれ、神経症的障碍に対する精神発生の意義が認められた。われわれの用いた心理学的な考え方、「病気の獲得」「病気への逃避」等二三の考えは急速に普及した。一九一八年ブダペストで開かれた瓦解前の最後の会議では、中欧諸国の政府連合は公式の代表を派遣して、戦争神経症患者の治療のために精神分析の駐屯所を設置することを承認した。われわれのよき協会員であり、ブダペストに在って分析学説と分析治療の中心地を創ろうとしていたアントン・フォン・フロイント博士の更に広汎なる計画は、その後間もなく起った政治的変革及び掛け換えのない博士の若死のために挫折してしまった。彼の提案の一部は、後にマックス・アイティンゴンが一九二〇年ベルリンに精神分析病院を創ったことにより実現せられた。ハンガリーにおける暫時のボルシェヴィキ政権期にも、フェレンチはなお大学における精神分析学の公認の代表者として教師の活動を続け、成果を挙げた。戦後にわれわれへの反対者達は経験によって分析学の主張は正しくないという適切なる反証が得られたと得々として語った。戦争神経症患者は神経症的感情の病原学における性的要因の無用であることの証明を提供したと言うのである。しかしながらそれは、軽率な・早計に過ぎた勝鬨の声であった。というのは一方において、戦争神経症の一症例についての根本的な分析を誰も行い得なかったので、その動機について確実なことは何一つ分らなかったのであり、このような無知から結論を引出すことは許されなかったからである。また他方において、精神分析学は疾くからナルツィスムス及びナルツィスムス的神経症という概念を獲得していたからである。これはある対象の代りに自分の自我にリビドを定着せしめるものを言う。従ってひとは、今までは精神分析学が性慾概念を不法に拡大したとの非難を浴びせて来たのに、論争に都合が悪いとなると、この分析学の誤謬なるものを忘れてしまって、今度は分析学の最狭義の性慾に非難攻撃の矢を向けたわけである。
浄化の方法に拠った前史を別にすれば、精神分析学の歴史は二つの時期に分かたれると思われる。第一期においてはわたくしは孤立しており、あらゆる仕事を自分で行わねばならなかった。これが一八九五・六年から一九〇六年或いは一九〇七年に至る時期である。第二期はそれ以後今日にまで至る時期であるが、この時期にはわたくしの弟子並びに同調者による寄与が次第に重要性を帯びて来た。だから現在病が重く死の近いことを警告されているわたくしは、心静かに自分自身の仕事の終ったことを考えることができるのである。まさにこのような事情あるがゆえに、わたくしはこの『自伝』においては第二期における精神分析学の進歩を、ただわたくしの活動だけに充たされている第一期における漸次的建設を扱ったほど詳細には取扱わないこととする。ここではまだわたくしが大きく関与している新たな収獲、従って特にナルツィスムス、衝動理論、精神病への応用の領域における成果に言及するに留めるのが妥当であると思う。
経験の増加すると共にエディプス・コンプレックスが神経症の中核たることは益※[#二の字点、unicode303b]明瞭となって来たことを、わたくしはここに附け加えておかねばならない。これは小児の性生活の頂点であると共に、また後のあらゆる展開がそこから出てくる結節点でもあった。しかしこれにより、分析を通じて神経症特有の要因を発見するという期待は消え失せてしまった。ユングがその分析を用いた初期において適切に表現しえたように、神経症はなんらそれ独自の固有の内容を持つものではなく、神経症患者は正常人が無事に克服するその同じ事柄に躓くのである、と言わねばならなかった。こう言うことは決して当てが外れたことを意味しない。その見解は、精神分析によって発見された深層心理学がそのまま正常な精神生活の心理学であるという、かのもう一つの見解と極めてよく合致する。われわれについても化学者の場合と同様のことが言えた。つまり、産み出されたものの大きな質的差異は、同じ元素の結合関係における量的変化に還元されたのである。
エディプス・コンプレックスにおいてリビドは父母の表象と結びついて現われた。しかしその前にはこういう対象がなにもない時があったのである。ここからリビド理論にとって基礎的な考え、つまりリビドが自分の自我を充たし、自分の自我そのものを対象とした状態という考えが生まれた。この状態は「ナルツィスムス」或いは自己愛と名づけることができる。続く考察によって、このナルツィスムスは決して完全に無くなってしまうことはなく、全生涯を通じて自我は大きなリビド貯蔵所であり、そこから対象確保のリビドが発せられ、そこへ再びリビドが対象から逆戻りして流れ込むことができることが分った。従って、ナルツィスムス的リビドは絶えず対象リビドに変化し、また逆の変化をするのである。如何なる程度にまでこの変化が行われうるものかを示す顕著な一例は、自己犠牲にまで至る性的な或いは昇華された恋情である。これまで抑圧の経過においてはただ抑圧されたものにしか注意が向けられなかったが、以上の諸表象によって抑圧するものをも正しく評価しうることとなった。抑圧は自我の中に働く自己保存衝動(「自我衝動《イツヒトリープ》」)によって実行に移され、リビド的衝動において実現されると従来は言われて来た。ところが今度は、その自己保存衝動もまたリビド的性質のもの、ナルツィスムス的リビドであることが認識されたのであるから、抑圧という事象はリビドそのものの内部での一経過と見られることになった。ナルツィスムス的リビドは対象リビドに対するものであり、自己保存の関心は対象への愛の要求から、従ってまた狭義の性慾から身を護るのである。
心理学においては、その上に更に展開してゆくことのできる基盤となるような豊饒なる衝動理論への要求以上に緊急の要求はない。しかしながらそのような理論は存在していないから、精神分析学は手探りの試みを続けつつ衝動理論の樹立に努めねばならない。はじめ精神分析学は自我衝動(自己保存、飢餓)とリビド的衝動(愛情)との対立を立てたが、後にこれをナルツィスムス的リビドと対象リビドの新しい対立におき換えたのである。もちろん、これで決定的な最後の言葉が語られたわけではないが、生物学的考察によればただ一種類の衝動の仮定で満足することは許されないように思われた。
近年の労作(『快楽原理の彼方に』"Jenseits des Lustprinzips"『集団心理と自我分析』"Massenpsychologie und Ich-Analyse"『自我とエス』"Das Ich und das Es")においてわたくしは、永らく押えて来た思弁的傾向を解き放ち、そこでもまた衝動の問題の新しい解決を見出した。わたくしは自己保存及び種族保存をエロスの概念の下に総括し、それと静かに働き続けている死への衝動或いは破壊衝動[#「死への衝動或いは破壊衝動」に傍点]とを対立させた。衝動はごく一般的に、生命あるものの一種の弾力性、かつて存在し外的な障碍によってなくされてしまったある状況の回復への止み難き心の動きとして把握された。本質的に保守的なこの衝動の性質は|反 覆 強 迫《ヴイーダーホールングスツヴアング》の諸現象によって解明される。エロスと死衝動との共働・離反が我々に生命の姿を明らかにしてくれるのである。
この構想が有効なものとして確証されるかどうかは分らない。たしかにそれは精神分析学の最も重要な二三の理論的表象を確定するための努力に導かれて出て来たものではあるが、精神分析学をはるかに超え出てしまっている。精神分析学におけるリビドとか衝動とかの如く、その最上位の概念が不明確である科学には全然信用がおけないという侮蔑の言葉をわたくしは屡※[#二の字点、unicode303b]聞かされて来た。しかしこの非難の根柢には事態の完全な誤認が存在している。明確な根本概念や厳密に規定せられた定義というようなものは、事実の領域を知的体系構成の枠内で捉えようとする限りでの精神科学においてのみ可能なのである。心理学が属する自然科学においては、上位概念のそのような明確さは不用である、のみならず不可能である。動物学や植物学は動物や植物に関する正確にして充分なる定義から始められはしない。生物学は今日でもなお生命あるものという概念を確実な内容で満たすことができないのである。物理学でさえ、もしも物質とか力とか引力等等の概念に望ましき明瞭性と精確さが獲られるまで待たねばならなかったとしたら、その発展は全面的に遅らされてしまったことであろう。自然科学部門での根本的表象或いは最上位概念は、何時でもはじめは未規定のままで、さしあたりただそれの由来した現象の領域を指示することによって説明される。そして観察材料の分析が進展してはじめて明瞭な・内容のある・矛盾のないものとなって行くのである。ひとが精神分析学を他のあらゆる自然科学と同様に取扱おうとはしないことをわたくしは常に大層不当なことと感じて来た。このような拒否的態度が頑固な反対論となって現われたのである。観察に基づく科学はその結論を少しづつ引き出し、その問題を一歩一歩解決して行くほかはないにも拘らず、ひとは精神分析学が充分でない、完全でないと言って非難する。なおその上に、われわれが性機能にそれまでずっと拒まれていた承認を与えようと努力すると、精神分析理論は「汎性慾説《パンゼクシユアリスムス》」であるとの烙印が押され、従来看過されて来た幼年期の偶然的印象の役割を強調すると、精神分析学は体質や遺伝の要素を認めないのだというわれわれの思いもよらぬ言葉を聞かされねばならなかった。それは全くなんでもかでもただ反対という有様であった。
わたくしは既に活動の初期において、精神分析的観察から出発してより一般的な視点に到達しようと試みていた。一九一一年にわたくしは小論文『精神現象における二つの原理[#「二つの原理」に傍点]についての要約』"Formulierungen uber die zwei Prinzipien des psychischen Geschehens"において、恐らく独創的とはいえぬ仕方で精神生活に対する快‐不快の原理の優位及び所謂「現実原理《レアリテーツプリンツイプ》」によるそれの解消を強調した。後にわたくしは「超心理学《メタプシヒヨロギー》」という試みをやってみた。かく名づけた試みというのは、あらゆる精神的事象を動力学《デユナミーク》的要因、記述《トーピク》的要因、静力学《エコノミー》的要因の三つの要因によって解釈する一つの観察方法であった。わたくしはそれを心理学が到達し得る最究極の目標としたのである。この試みは未完成に終った。わたくしは僅かの論文(衝動と衝動の経路――抑圧――無意識――悲哀と憂鬱、等々)を書いて止めてしまった。恐らくそれでよかったのだ。何故ならそのような理論的確定をすべき時はまだ来ていなかったのであるから。最近の思弁的労作においてわたくしは、われわれの精神的装置を病理学的事実の分析による評価に基づいて分類することを試み、それを自我[#「自我」に傍点]、エス[#「エス」に傍点]、上位自我《ユーバー・イツヒ》に分った(『自我とエス』"Das Ich und das Es" 1922)。上位自我というのはエディプス・コンプレックスの後をうけたものであり、人間の倫理的要求の代弁者である。この最近の仕事をしてきた時期に、わたくしが忍耐を要する観察に背を向けて全然思弁に身を委ねてしまったと考えてもらっては困る。むしろわたくしは分析的材料と益※[#二の字点、unicode303b]緊密な接触を保ち、特殊な臨床的或いは技術的な主題を扱うことを決して止めなかったのである。観察から遠ざかった場合でさえ、わたくしは本来の哲学に近づくことは注意深く避けていたのである。体質的にできないということがこの抑制を大層容易にしてくれた。わたくしは何時もG・Th・フェヒナーの思想には理解をもっていたし、また重要な諸点においてこの思想家に依存もしていた。精神分析学とショーペンハウアーの哲学――彼は情的機能の優位及び性慾の重要な意義を主張したのみならず、抑圧のメカニズムさえ認知していた――との広汎な一致は、わたくしが彼の学説を知っていたことには帰せられない。わたくしがショーペンハウアーを読んだのはずっと後のことであった。もう一人の哲学者ニーチエの予感と洞察とは、屡※[#二の字点、unicode303b]精神分析学が苦労を重ねて獲得した結論と驚くべき程よく合致したから、わたくしはまさにその理由によって永い間彼を避けていた。もちろん先後の問題よりも、わたくしにとっては捉われぬ態度を維持することの方が大切であったのである。
神経症は第一の、また永い間唯一の分析の対象であった。これらの諸感情を精神病に帰せしめず器質的神経疾患に結びつけるような医療が正しくないことは、如何なる分析家にとっても疑問の余地はなかった。神経症学説は精神病学に属し、精神病学への入門には不可欠のものなのである。ところで精神病を分析的に研究することは、そうしても治療学的に見込がないということのために不可能であるかに思われる。一般に精神病患者は陽性的転移の能力を欠いている。従って分析技術の主要手段が適用できないわけである。だがそれでもそれへの通路は種々存在する。転移は屡※[#二の字点、unicode303b]それによって一歩も先へは進めないという程完全に欠除してしまってはいない。周期的変動や軽い偏執病的変化や部分的な精神分裂病の場合には、分析によって明らかな成果が挙げられた。また多くの場合、診断は精神神経症という想定と早発性痴呆(精神分裂病)という想定の間を暫く浮動していることができるということは、少くともこの科学にとっては一つの利点であった。実行された治療上の試みは、それが中止される前に非常に重要な事実を開示することができた。しかし大抵は、神経症では苦労して深層から掘り出されてくる多くのものが、精神病においては誰に対しても明らさまに表面に出ていることが観察されるのである。それ故、分析理論の多くの主張にとって精神病学的臨床講義が最上の実物説明となる。従って、程なく分析は精神病学的観察対象への道を発見せずにはいなかった。ずっと早い頃に(一八九六年)、わたくしは妄想痴呆の一症例に神経症におけるのと同じ病原学的要因並びに同じ感情的コンプレックスの存在を確認することができた。ユングは痴呆患者における不可解な型を患者の過去の生活経歴に関係づけることによって解明した。ブロイラーはさまざまな精神病において、分析が神経症患者の場合に発見したと同じメカニズムを指摘した。以来分析家が精神病を理解せんとする努力はもはや止むことなく続けられている。特にナルツィスムスの概念を用いて研究が行われるようになって後は、此処彼処の地点に立ってその障壁の彼方を覗き見ることに成功した。アブラハムは憂鬱症の解明において最も大きな成果を挙げた。もちろんまだ現在ではすべての知識が治療学的な力へと変えられてはいない。しかしたんなる理論的収獲でも軽視されてはならない。それは実地への応用を待機しているのである。これが続いてゆけば、精神病学者もその患者という材料のもつ証明力に抵抗することができなくなる。現在ドイツの精神病学においては、分析的観点のいわば平和的侵入《ペネトラシオン・パシフイツク》が行われつつある。自分達は精神分析家になろうとは思わないとか、「正統」学派には属さないとか、その誇張には組しない、特に性的要因が強大であることを信ずるものではないとか、口では絶えず断言しておりながら、しかも大抵の若い研究者達は分析理論のあちこちを採り込んで、それを夫々材料に適用しているのである。今後益※[#二の字点、unicode303b]この方向に進展して行くであろうことはあらゆる徴候に照らして明らかなところである。
[#改ページ]
Y
わたくしはここに遠く離れた所からではあるが、精神分析学が永い間反抗的であったフランスに入る際にはどのような反作用を惹き起したかを跡づけてみよう。それは以前ドイツの場合に体験済みの現象の繰返しのようでもあるが、やはりまたフランスなりの特色もある。信じ難い程に単純な反対論、たとえばフランス人の繊細な感情には精神分析学的命名の衒学趣味と無器用さが耳障りなのだというような反対論が公然と述べられる(これを聞くとどうしてもかのレッシングの不滅なるシュヴァリエ・リコオ・ド・ラ・マリニエールのことを想起せざるを得ぬ!)。他の意見はもっと真面目なもので、ソルボンヌの心理学の教授にさえ無価値ではないと思われた意見なのであるが、ラテン的[#「ラテン的」に傍点]精神《ジエニー》は一般に精神分析学的思惟方法には耐えられないというのである。こう云うと、精神分析学を奉じているアングロサクソン系の同盟者達は明らかに犠牲にされることになる。これを聞く者は当然、それではチュートン的[#「チュートン的」に傍点]精神《ジエニー》は精神分析学をその生誕当初から最愛の子として胸に抱きしめたのだろうと信ぜざるを得まい。
フランスにおいて精神分析学への関心は文学畠の人々から起って来た。このことを理解するためには、精神分析学が夢判断と共に純医学的な問題領域から足を踏み出したことを想い起こしてもらわねばならない。それがドイツに登場した時から今ここでフランスに登場した時までの間には、文学や芸術学の分野に、宗教史及び先史学に、神話学、民族学、教育学等々に、精神分析学はさまざまに応用されていたのである。これらすべては医学とは殆んど関係なく、ただ精神分析学の仲介によって医学とつながっているだけである。従ってわたくしは、ここでそれらを詳細に取扱う権利はない。しかしだからといって全然触れずにおくわけにもゆかない。何故なら、一つには精神分析学の価値並びに本質を正しく判断してもらうためにはそれらは不可欠のものであるからであり、また他方、わたくしの引受けた課題は私自分の生涯の仕事を叙述することだからである。それら応用の大部分のものはわたくしの労作に端を発している。わたくしはそのような医学外の関心を満足させるために、よくあちこちで脇道にそれたことをしたのである。医者のみならず他の専門の人々はわたくしの足跡を辿り、当該領域に更に深く突込んで行った。ところでわたくしは予定の計画通りに、精神分析学の応用に対するわたくし自身の寄与だけに叙述を限定しようと思うから、その範囲や意義を読者にごく不十分に描いて見せることしかできない。
わたくしにとって一連の刺戟は、その遍在性が次第に明らかとなったエディプス[#「エディプス」に傍点]・コンプレックス[#「コンプレックス」に傍点]によって与えられた。怖ろしい素材の選択、のみならず創造、それの詩的叙述のもたらす感動的効果、また一般に運命悲劇の本質といったものは、以前から謎の如くに不可解であったが、そこにおいては精神的事象の合法則性がその十全なる感情的意味において捉えられているのだという洞察によってそれらのすべてが解明せられた。宿命とか神託とかは内的必然性の具象化にすぎず、主人公が知らずに己れの意図に反して罪を犯すことは彼の犯罪衝動の無意識的[#「無意識的」に傍点]本性の正しい表現として理解される。このように運命悲劇を理解すれば、そこからハムレットの如き性格悲劇に連想を及ぼしてみるのはけだし当然のことであった。この性格悲劇は三百年来嘆賞されてはいても、その意味も解明せられず詩人の動機も知り得ずにいたのである。詩人によって創造せられたこの神経症患者が、現実世界の多数の同類と同じく、エディプス・コンプレックスに躓いていることは全く注目に価する。というのは、ハムレットはエディプスのなしたと同内容の二つの行為に対する復讐をすべき課題を負わされるが、自分自身の暗い罪悪感のためにその腕は萎えさせられてしまうのである。ハムレットはシェクスピアによって彼の父の死の直後に書かれた(7)。この悲劇の分析に対するわたくしの示唆は、後にアーネスト・ジョーンズによって十分な完成を見るに至った。更にこの同じ例をオットー・ランクは戯曲作家の素材選択に関する研究の出発点とした。「近親相姦のモティーフ」に関する大著において彼は、文学者達が如何に屡※[#二の字点、unicode303b]まさしくエディプス的状況を選んで描出しているか、また世界の文学を通じてその素材の変化・変様・緩和が如何に屡※[#二の字点、unicode303b]追究されているかを明らかにすることができたのである。
[#ここから1字下げ]
(7)(一九三五年)この構想ははっきりと撤回しておきたい。わたくしはもはやストラットフォード出のウィリアム・シェクスピアという役者が、永い間彼に帰せられていた作品の作者であるとは信じていない。I・Th・ルーニィの著書『シェクスピア検証』"Shakespeare Identified"公刊以来、わたくしはこの匿名の背後に、実際にはオックスフォードの伯爵エドワード・ドゥ・ヴェールが隠れているのだということを殆んど確信している。
[#ここで字下げ終わり]
ここから文学及び芸術の創造一般の分析に進んでゆくのは容易いことであった。空想の世界とは、快楽原理から現実原理への苦しい移行の際に、現実の生活では断念せねばならぬ衝動満足の代償を与えるために作られる一つの寛大な「いたわり」の世界であるということが認められた。芸術家は神経症患者と同じく、不満足な現実からこの空想の世界へと引籠ってしまうが、神経症患者とは異り、彼はその世界からの帰り路を見出すすべを心得、再び現実にしっかりと足を踏みしめることができるのである。彼の創作物・芸術作品は、夢と全く同様に無意識的願望の空想における満足である。それらはまた夢と同じく妥協という性格をも持っている。というのは、芸術作品もまた抑圧の力との公然たる葛藤は避けねばならないからである。しかしながら、非社会的・ナルツィスムス的な夢の所産とは異り、芸術作品は他の人間が関与することを考慮に入れて作られ、他の人間にも同一の無意識的願望衝動をかき立て、これを満足させることができる。更に芸術作品は「試食品」ともいうべき形式美という感覚的快楽を利用する。精神分析学のなし得ることは、生活の印象や偶然的運命と芸術家の作品との間の継起的関係から、彼の体質やそこに働いている衝動、つまり彼における普遍的に人間的なるものを構成することであった。そのような意図において、わたくしはたとえばレオナルド・ダ・ヴィンチを研究の対象にとりあげ、彼が伝えている二三の幼時の記憶に基づいて彼の絵「三人連れの聖アンナ」の解明を志したのであった。その後わたくしの友人や弟子達も芸術家とその作品に関する同様の分析を多数企てた。芸術作品の享受が、かく分析して得られた理解によって傷つけられるということはなかった。しかし、恐らく分析にあまりの期待をかけ過ぎる一般の人達に対しては、最も興味あると思われる二つの問題が分析によっては説明されないのだということを言っておかねばならない。分析は芸術家の天稟を解明する何事も言い得ないし、また芸術家が用いる方法・芸術的技術の秘密を暴露することもなし得ないのである。
それ自体としては特別価値はないW・イェンゼンの短編小説『グラディヴァ』"Gradiva"において、わたくしは創作された夢が実際の夢と同じく解読せられること、従って文学者の創作活動においては夢作業から知られる無意識のメカニズムが働いていることを証明することができた。
『機智とそれの無意識への関係』"Witz und seine Beziehung zum Unbewussten"に関するわたくしの著書は、直接『夢判断』から生れた副産物である。当時わたくしの仕事に関係していた唯一の友人が、わたくしの夢判断は屡※[#二の字点、unicode303b]「機智に富んだ」印象を与えるとわたくしに語った。わたくしはこの印象を解明するために機智の研究を企て、機智の本質はその技術的な手段に存し、しかもこれは「夢作業」の仕方と同じもの、つまり圧縮・歪曲・反対物による表現・最小物による表現等々であることを発見した。それには、どうして機智を耳にした者に高度の快感が与えられるのかというエネルギー量の静力学的研究が関連していた。その答えは、提供された快楽の先触れ(前快楽《フオールルスト》)によって、引きこまれた後での抑圧への力の消費が一時的に中止されるためである、ということであった。
一九〇七年に強迫的行動と宗教的慣行(儀式)との間にある著しい類似を確認することから始められた宗教心理学への寄与はもっと大きい、とわたくしは考えている。それ以上の深い関係を知らずに、わたくしは強迫神経症を歪められた個人的宗教であるとし、宗教はいわば普遍的な強迫神経症であると言った。その後一九一二年に、神経症患者の精神的所産と原始人のそれとの広汎な類似関係について重要な示唆をユングから与えられ、これがきっかけとなってわたくしの注意はこのテーマに向けられた。『トーテムとタブー』"Totem und Tabu"の表題で一書にまとめられている四つの論文において、わたくしは原始人にあっては文化人の場合よりももっと強く近親相姦への嫌忌が現われており、独特な防禦手段が編み出されていることを詳述し、最初の道徳的制限がその形で現われるタブー[#「タブー」に傍点]禁忌と感情の雙価性との関係を探究し、アニミズム[#「アニミズム」に傍点]の原始的世界体制の中に精神的実在の過重視、魔術《マギー》の根柢ともなる「|思 想 万 能《アルマハト・デア・ゲダンケン》」の原理を発見した。到る処で強迫神経症との比較が行われ、この注目すべき感情に如何に多くの原始人的精神生活の前提がまだ力を振っているかが示された。しかし、中でも特にわたくしを惹きつけたのはトーテミズムであった。この原始的種族の最初の組織体系においては、社会的秩序の始源が未発達の宗教及び数少いタブー禁忌の仮借なき支配と一致している。「崇められる」存在はここでは根源的に常に動物であり、この動物からその氏族も由来すると主張される。あらゆる民族が、たとえそれが最高の民族であろうと、かつてはこのトーテミズムの段階を経過したのだということはさまざまな標徴によって明らかにされるのである。
この領域におけるわたくしの仕事の文献上の主たる源泉は、J・G・フレーザーの有名な著作(『トーテミズムと異族結婚』"Totemism and Exogami"『金枝篇』"Golden Bough")であった。これは価値ある事実と視点の宝庫である。しかしトーテミズムの問題の解明については、フレーザーの功績は僅かである。彼はこの問題に関する見解を何度も根本的に変更しているし、他の人類学者及び先史学者もこれに関しては不確実であり一致を欠いていた。わたくしの出発点は、トーテムを殺してはならない、同じトーテム氏族の女性を性的に使用してはならないというトーテミズムの二つのタブーが、父親を殺し母親を妻とするというエディプス・コンプレックスの二つの内容と顕著な一致を示すという事実であった。そこで、元来原始人がトーテム動物をその氏族の祖先として崇拝することによって明らかにそうしているように、トーテム動物と父親とが同じであると考えてみようとした。精神分析学的側面からは二つの事実がわたくしの意見を助けてくれた。一つはフェレンチが幼児において行なった適切な観察であり、これによりトーテミズムが小児期に再来すること[#「トーテミズムが小児期に再来すること」に傍点]が認められた。また小児の初期動物恐怖症の分析により、屡※[#二の字点、unicode303b]その動物は父親の代用物であって、エディプス・コンプレックスに基づく父親に対する恐怖心がこの動物に移されていることが明らかにされた。いまや父親殺し[#「父親殺し」に傍点]がトーテミズムの中核であり、宗教形成の出発点であることを認識するには、もうそれ以上多くのことを必要としなかった。
これに欠けていた素材はW・ロバートソン・スミスの著書『セム族の宗教』"The Religion of the Semites"を知ることによって添加された。この天才的な物理学者にして聖書研究家であるスミスは、トーテム宗教の本質的部分として所謂トーテム饗宴[#「トーテム饗宴」に傍点]を提示していた。一年に一度、ふだんは神聖なものと考えられているトーテム動物がお祝いのために種族全員の参加の下に殺されて喰い尽され、しかもその後で悼み悲しまれるのである。この悲しみには大きな祝祭が続く。人間は原初には群をなして生活し、その群に属する者がみな一人の強い・暴力的な・妬み深い男の支配下にあったというダーウィン的な臆測を更に立てることによって、これらすべての部分から次のような経過の仮説、というよりむしろヴィジョンが作り出された。原初群の父は絶対的圧制者としてあらゆる女性を自分に要求し、敵対者として危険な息子達を殺したり追い払ったりした。ところがある日息子達が集まり、皆で父を、彼らの敵ではあるがまた理想でもあるこの父を倒し、殺して喰ってしまった。こうした後でも彼らはその後継者となることはできなかった。お互いに邪魔し合ったからである。この失敗と後悔の経験に教えられて、彼らは互いに和解し、かかる行為を繰返すことを禁ずるトーテミズムの規定を立てて一つの同氏族へと結合し、そして全部の者がそのために父を殺した女性の所有を放棄した。かくて彼らは他氏族の女性へと向うことになった。これがトーテミズムと固く結びついている異族結婚の起源である。トーテム饗宴はかの怖ろしき行為の追憶の祝祭である。人間の罪意識(原罪)はその行為に由来し、社会的組織、宗教、倫理的制約も同時にそこに始まったのである。
さてこのような可能性が歴史的に承認せられるかどうかはともかく、宗教形成はこれによって父親コンプレックスの基盤の上に据えられ、これを支配する雙価性の上に構築せられることとなった。トーテム動物による父親の代用が廃された後は、恐れられ・憎まれ・崇敬され・羨まれる原初の父そのものが神の原型となった。息子の父親への反抗と父親への憧れは、常に新しい妥協形成において互いに戦い合い、それによって一方では父親殺しの行為が贖われ、他方ではその行為の勝利が主張されることになるのである。宗教をこのように理解することにより、キリスト教の心理学的基礎づけはとりわけよく解明せられる。キリスト教においてはトーテム饗宴の儀式が殆んど歪曲せられずに聖餐式《コンムニオーン》としてなお生き永らえている。このことはわたくしによってはじめて認められたのではなく、既にロバートソン・スミスやフレーザーによって認められているということははっきりと言っておきたいと思う。
Th・ライク及び民族学者G・ローハイムは多数の注目すべき労作において『トーテムとタブー』の思考過程に触れ、それを前進させ、深化させ、或いは訂正している。わたくし自身も後になお何度かそこに立ち戻った。神経症的な悩みの動機の中でもきわめて大きな意義をもつ「無意識的罪悪感」に関する研究の場合、また社会心理学を個人心理学と更に緊密に結びつけようと努力した場合等(『自我とエス』―『集団心理と自我分析』)。更にわたくしは催眠可能性の説明にも、人間の原初的群生時代からの古代的遺産を関係せしめたのであった。
精神分析学のその他の応用にはわたくしが直接関与するところは少いが、それらは一般的な関心を寄せるだけの価値のあるものである。個々の神経症患者の空想から、神話とか伝説とかお伽話とかに示されているような集団や民族の空想的創作には大きな道が通じている。神話学《ミトロギー》はオットー・ランクの活動領域となった。神話の解釈、周知の無意識的な小児期コンプレックスへの神話の還元、人間的動機づけによる星の説明の置き換えは、多くの場合彼の分析の努力が成功した。また夢の象徴《ジユンボリーク》という主題についてもわたくしの周囲に多くの研究者が現われた。この象徴の問題は精神分析学に多くの敵対者を齎らした。あまりに謹直な多くの研究家は、夢判断から生れたこの象徴の問題を精神分析学の一部であると認めることができなかったのである。しかしこの象徴の発見は分析学のしたことではない。それは他の領域においてはずっと早くから知られており、そこ(民間伝承、伝説、神話)では「夢の言葉」における以上に重大な役割をさえ演じているのである。
分析の教育学への応用にはわたくし自身は全然寄与していない。しかしながら、小児の性生活と精神的発展についての分析的報告が教育者の注意を惹き、彼らの課題に新しい光を投ずることになったのは当然であった。教育学におけるこの方向の不屈の闘士としてはチューリヒの新教牧師O・プフイスターが傑出していた。彼は分析学の奨励と、あるもちろん昇華せられた宗教性の保持とは調和せしめることができると考えた。彼と並んでヴィーンのフーク‐ヘルムート博士夫人やS・ベルンフェルト博士等、多士済々である(8)。健康な児童の予防的教育に、またまだ神経症ではないがその発育過程において脇道に逸れた児童の匡正に、分析学を応用することは実際上重要な結果を齎らした。もはや精神分析を医者に使わせないようにすること、素人を分析学から閉め出すことは不可能となった。事実、特殊な教育を受けていない医者は免状を持っていたところで分析においては素人であり、医者でなくとも相応の準備があり医者に時折依存するのであれば、神経症の分析的治療をやってのけることはできるのである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(8)(一九三五年)その後、メラニー・クライン夫人とわたくしの娘アンナ・フロイトの仕事によって、この小児分析がまさに著しい飛躍を遂げた。
[#ここで字下げ終わり]
その発展の成果に抗らうことは徒労に帰するであろうが、このように発展してゆく間に精神分析《プシヒヨアナリーゼ》という言葉そのものは多義的なものとなった。元来はある一治療方法を指したものが、今では無意識的・精神的なるものに関する一科学の名称ともなった。この科学がそれだけで一つの問題を完全に解決し得ることはごく稀れである。けれどもさまざまな学問の領域に重要な寄与をするには適していると思われる。精神分析学の応用範囲は、精神分析学によって著しく重要性を増し加えられたところの心理学の応用範囲と同じ広さをもつのである。
わたくしの一生涯の仕事という一つの断片を顧みて、わたくしはこう言うことができる、わたくしは色々の緒口《いとぐち》をつくり、多くの問題提起を行なって来た、将来そこからなにものかは生まれて来るであろう、と。そのなにものかが多いか少いか、それはもちろんわたくしの知りうるところではない。しかしわたくしがわれわれの認識における一つの重要な進歩への道を開いたのだという希望的見解を表明することは許されるであろう。
[#改ページ]
一九三五年補遺
この『自伝』叢書の発行者は、わたくしの知るところでは、暫く経ってその続きを出すというようなことを考えてはいなかった。恐らくはわたくしのこれが初めてであるだろう。これを書くきっかけとなったのは、小著を新版で読者に提供しようというあるアメリカの出版者の懇望であった。この小著は一九二七年にはじめて、アメリカ(ブレンターノ出版)で『自伝的研究』"An Autobiographical Study"という表題の下に刊行されたが、まずいことにもう一つの試論と一緒にされて、それの表題『素人《しろうと》分析の問題』"The Problem of Lay-Analyses"に蔽い隠されてしまっていたのである。わたくしの小著を貫いている主題は二つある、わたくしの生涯の経緯と精神分析学の歴史と。両者は互いに緊密に結びついている。この『自伝』は精神分析学が如何にしてわたくしの人生の内容となったかを明らかにしているが、その際わたくしの一身上の出来事はわたくしの科学との関係と同等の関心に価する事柄ではないという正当なる前提の下に立っている。それを書き上げる直前には、悪質の病気の再発によってわたくしは自分が間もなく死ぬであろうと思っていた。ところが一九二三年外科医術によって生命をとりとめ、もはや苦痛なしにではないが生活を続け仕事もできるようになった。爾来十余年間わたくしは、全十二巻で完結した全集"Gesammelte Schriften" (Internat. Psychoanalyt. Verlag in Wien)が示しているように、分析の仕事をやめず、発表をやめなかった。しかしわたくしは、自分が以前とは著しく違ってしまったと思う。発展過程において相互に縺れ合っていた糸がほぐれはじめ、後に新しく得られた関心は薄れて、より古い根源的な関心が再び強くなった。もちろんこの最近十年間にも、なお『抑制・徴候・苦悶』"Hemmung, Symptom und Angst" (1926)における苦悶の問題の再検討の如く幾多の重要な分析の仕事を企て、また一九二七年には性的「呪物崇拝《フエテイシスムス》」の平易な解説もしたけれども、二種の衝動(エロスと死への衝動)を立て、心的人格を自我、上位自我、エスに分って(一九二三)後は、精神分析学に対する決定的な寄与はもはやなにもしていないと言ってよいのである。その後に書いたものは無かったとしたところでどうということはないし、間もなく他の側面から説明もせられるであろう。このことはわたくしに起った変化、言うならばある逆行的発展と関係していた。自然科学、医学や精神療法の生涯に亘る迂路を経て、かつてまだ思索力も十分目覚めていなかった青年時代にわたくしの心を捉えたかの文化の諸問題へとわたくしの関心は立ち帰って来たのであった。既に精神分析の仕事に最も脂《あぶら》ののっていた一九一二年に、わたくしは『トーテムとタブー』において宗教と倫理の根源の探究に新たに獲得された分析的洞察を利用し尽す試みを行なっていた。その後の二つの試論、『幻想の未来』"Die Zukunft einer Illusion" (1927)と『文化の居心地悪さ』"Das Unbehagen in der Kultur" (1930)とは更にこの方向を進めたものであった。わたくしは次第に、人類史の出来事、人間性と文化の発展と宗教に表現されるような原初的体験の残滓との間の相互作用は、精神分析学が個々の人間において究明する自我とエスと上位自我との間の動的な葛藤の反映にほかならず、ただその同じ事象がもっと大きな舞台で繰返されるにすぎないということを明瞭に認識するようになった。『幻想の未来』においてはわたくしは宗教を主として否定的に評価していたが、後には宗教のより以上の正当性を示す定式を見出した。つまり、宗教の力は確かにその真理内容に存するけれども、この真理は質料的なものではなく歴史的なものだというのである。
精神分析学から出立してはいるがはるかにそれを超え出てしまったこれらの研究は、世間では精神分析学そのものよりも大きな反響を呼んだようである。ドイツ国民の如き偉大な国民が好んで耳を傾ける著作家の一人という束の間の幻影をつくり出すには、これらの研究が役立ったのかも知れない。ドイツ言論界の最も名声高き代表者の一人たるトーマス・マンが、内容の充実した好意的な論文において近代精神史におけるわたくしの位置を示してくれたのは一九二九年のことであった。少し後れて、わたくしの娘アンナがわたくしに与えられた一九三〇年度のゲーテ賞を貰いに代理としてフランクフルト・アム・マインに赴いた時、そこの市庁でお祝いを受けた。それはわたくしの市民生活における頂点であった。その後程なくわれわれの祖国は自ら矮小化し、ドイツ国民はわれわれからなにも知識を求めようとしなくなってしまった。
ここまででわたくしの自伝的報告を終らせることが許されるであろう。その他のわたくしの個人的関係、闘争、幻滅、成果等に関しては、もはや世の人々がそれを知る権利はない。それでなくてもわたくしは二三の書物――『夢判断』、『日常生活の精神病理』――において、通例ひとが同時代或いは後世の人々に対して自分の生活を書き記す以上に明らさまに腹蔵なく自分のことを書いて来たのである。このことによってわたくしは殆んど感謝されたことがなかった。このわたくしの経験からすれば、わたくしはわたくしと同じようにしなさいとは誰にも勧めることができないのである。
なお最近十年間における精神分析学の運命について二言三言《ふたことみこと》書き添えておこう。それが将来も存続して行くであろうということはもはや疑い得ない。学問の一分枝として、また治療法として存続し発展する可能性のあることは既に立証せられた。「国際精神分析学協会」に所属する同調者の数は著しく増大した。ヴィーン、ベルリン、ブダペスト、ロンドン、オランダ、スイス等昔からの地域的グループに、新しくパリ、カルカッタが、また日本で二つ、アメリカ合衆国で多数、更にイェルサレム、南アフリカで夫々一つ、スカンジナヴィアで二つのグループが加わった。これらの地域的グループはそれぞれの方法で教育施設を維持しており、そこでは統一的な教育計画によって精神分析学の指導が行われている。また外来診療所を設けて、経験ある分析家や弟子達が貧窮者には無料治療を行なっている。そしてまだこれらの施設がないところでは、それの建設に努力しているのである。協会員は二年目毎に会議に参集する。この会議においては学問的講演が行われ、組織の問題が決定せられる。第十三回の会議は、私自身はもはや参加しえなかったが、一九三四年ルツェルンにおいて開催された。会員の研究方向は全部に共通のものから種々様々の多岐に亘っている。ある者は心理学的認識の解明・深化に重点を置き、他の者は内科医学と精神病学の関連の維持奨励にこれ努めるといった具合である。実際的観点から見ると、分析家中の一部の人々は精神分析学が大学に承認されて、医学教育計画の中にそれが採用されるようにすることを目標にかかげ、他の人々は大学外にあることを甘受し、精神分析学の教育的意味をその医学的意味に劣らぬものとしようと欲している。一つの分析学的発見或いは視点を他のすべてのものを犠牲にしても主張しようとして、分析の共同者の中の一人が孤立してしまうというようなことは世の常で、よく起ることである。しかしながら、全体として高い水準で真剣な学問的な仕事が営まれているとの印象を受けることは、まことに喜ばしいことに思う。
[#改ページ]
あとがき
フロイトが死んだのは一九三九年である。「三五年の補遺」の中で暗示的に物語られているドイツにおけるナチスの擡頭とそれに伴うユダヤ人迫害の激化によって、フロイト一家は一九三八年六月に永らく住みなれたヴィーンを去ってロンドンに亡命する。そしてその地で翌三九年九月二十三日にフロイトは八十余年にわたる生涯を終えたのである。従って「一九三五年補遺」を含むこの自伝は文字通り彼の全生涯を死の直前から顧みての記録であるということができる。
自分の生涯の経緯と精神分析学の歴史という二つの主題は一つに織りなされて、「精神分析学が如何にしてわたくしの人生の内容となったか」が語られることにより、ここにいわばフロイト自身の手になる彼の学問的業績のシュノプシスが与えられ、同時に、フロイトというこの十九世紀が生んだ天才的な一人の科学者・思想家の人間的な種々の姿態がおのずからに浮び上って来ている。伝記としても精神分析学入門としても極めて興味深い小著であると思う。
*
本書の本文は、もとL・R・グローテ博士の編纂による"Die Medizin der Gegenwart in Selbstdarstellungen" (Verlag von Felix Meiner, Leipzig)の第四巻として一九二五年に刊行され、ロンドン版のフロトイ全集"Gesammelte Werke" (Imago Publishing Co. Ltd., London)では第十四巻に収められている。一九三五年補遺"Nachschrift 1935"はその第十六巻に収められている。両者を合せて一書としたものとしてSigmund Freud : Selbstdarstellung (Imago Publishing Co. Ltd., London, 1946)が出ている。
*
訳者のフロイトに対する関心は高橋義孝先生によって喚び覚まされ、この自伝の飜訳も先生のお奨めにより数年前に試みたものである。この度の刊行に際しては、その訳稿をさらに原文に照らして加筆訂正を加え、十分慎重を期した積りではあるが、思わぬ誤訳・誤解があるかも知れない。大方の叱正を待つ次第である。
昭和三十四年五月
[#地付き]生 松 敬 三
この作品は昭和三十四年八月新潮文庫版が刊行された。