悪魔の弁護人
J・G・フレーザー/永橋卓介訳
目 次
一 緒論
二 政治
三 所有権
四 結婚
五 人命の尊重
六 結論
解説
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一 緒論
迷信の暗黒面
われわれは迷信といえば、本質的に邪悪なもの、虚偽にみちたもの、そして害毒を流すものと、一も二もなく考えがちである。確かに迷信はこれまでいたるところで大きな禍《わざわい》をかもしだしており、どうしてもこの事実を否定する事はできない。幾多の生命を奪い、莫大な財宝を浪費し、人々の間に剣を、否それ以上のものを投げることによって民族をかき乱し、友を別れさせ、夫と妻、親と子をあいそむかせた。また罪なき犠牲者、欺かれた人々をもって、いつも牢獄や精神病院を満員にしてきた。さらにまた、多くの人々の静かな心情を乱し、その全生涯を悲惨このうえないものにしたが、生きている人間を苦しめるだけでは満足せず、死者をすらその墓場までもその先までも執拗に追いかけて、その気味悪さにせめつけられ、さいなまれる生存者の戦慄を心地よげに見守っているのである。まずざっとこのとおりであるが、まだまだこれ以上のことをいくらでもやっている。
迷信の明るい一面
しかしながら、迷信のこの犯罪事件は、証人台に立った哀れなウィンケル氏の意外な陳述の後のピクウィック氏の場合と同様に、たぶんもっと明るい光の下におかれることができるであろう。悪魔の弁護人に扮したり、青い焔と硫黄の臭気とに包まれて諸君の前に現れたりすることなしに、慈悲ぶかい人々が、もっともだとうなずくような弁護を、はなはだ、うさんくさい弁護依頼人のため、これからいたすとしよう。
つまりある民族では、また文化のある段階においては、われわれすべて、またはわれわれの大部分が有益だと信じているある種の社会制度が、いくぶん迷信の基礎の上に立っていることを実例にとって証明し、少なくともその理解に近づけたいというのである。私がここで取り扱うのは、純然たる俗的または社会的制度だけである。宗教的もしくは教会的諸制度については、いっさいここには触れないことにする。宗教ですらも全然その影響を受けていないとか、その支持を少しも受けていないとは断言できないのであって、その証明も不可能ではない。しかし今ここでは、強い常識と物事の性質のほか、どんなものにもよっていないと一般に考えられている社会的制度にその範囲を限ることとしたい。
私がこれから取り扱う諸制度は、みな今日の文化社会まで残存し、たしかに実質的根本的な理論によって擁護せられてはいるものの、未開民族の間ではもとよりのこと、すでに未開の域を脱した諸民族の間においてすら、今日われわれが遠慮なく迷信であるとか背理であるとか酷評するものによって、その権威の大部分を保っていたことは明らかである。これを証明するために私がここに取り扱うのは、政治、所有権、結婚、そして人命の尊重の四つである。そして私のいおうとすることは、次の四つの命題に要約せられる。
証明せられる四つの命題
(一) あるいくつかの民族では、そしてまたある時代においては、迷信は政治、ことに君主制政治にたいする尊重の念を強め、その結果、社会的秩序の制定とその維持とに寄与するところがあった。
(二) あるいくつかの民族では、そしてまたある時代においては、迷信は所有権に対する尊重の念を強め、その結果、その安全確保のために寄与するところがあった。
(三) あるいくつかの民族では、そしてまたある時代においては、迷信は結婚に対する尊重の念を強め、その結果、既婚未婚の区別なく、すべての人々の間にはなはだ厳格な性的道徳を確立することに寄与するところがあった。
(四) あるいくつの民族では、そしてある時代においては、迷信は人命に対する尊重の念を強め、その結果、その安全確保のために寄与するところがあった。
予備的注意
さて、以上の四つの命題を別々に取り扱う前に、まず二つの注意事項をあげて、心にとめておいてもらいたいと思う。第一に、私がここであるいくつかの民族と歴史のある時代とに範囲を限定するのは、私の時間も私の知識も人間の全民族と歴史の全時代について述べることを許さないからである。この限られた民族と限られた時代の研究から導きだされる限定せられた結論が、どの程度までその他のものに適応できるかは、なお今後の研究の結果をまってみなければならない。第二は、次の点である。たといある民族とある時代において、まえに述べた諸制度がいくぶんか迷信によって基礎づけられているとしても、その同じ民族においてすら、その他のものによっては、まったく基礎づけられてはいない、とはいえないのである。反対に、今ここで取り扱おうとしている諸制度は、みな強固であり恒久的であることが証明せられているので、これになにか、迷信以上のものと実質的なものとによって立っているとの仮説すらあるくらいである。いかなる制度でも、まったく迷信のみのうえに立っている場合には、いいかえると、まったく虚妄のうえにのみ立っている場合には、決して恒久的なものであることはできない。もしそれが、人間のある実際の要求を満たすことができず、その基礎が事物の本質のなかに広く深く根をおろしていないとすれば、それはかならず消滅してしまうはずである。その消滅は早ければ早いほどよい。
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二 政治
政治の支柱としての迷信
前掲の二つの注意事項を念頭におきながら、これから第一の命題を検討することにする。すなわち、あるいくつかの民族では、そしてまたある時代においては、迷信は政治、ことに君主政治に対する尊重の念を強め、その結果、社会的秩序の制定とその維持とに寄与するところがあった、という命題についてである。
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メラネシアにおける酋長に対する迷信的尊崇
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多くの民族の間において、その統治者は一般の庶民とはまったく質の異なった種類の人間であって、一般庶民がとうてい窺《うかが》ったり抵抗したりすることのできないある超自然的な、あるいは呪術的な威力を持っているとの迷信によって、政治の仕事がいちじるしくつごうよく運ばれることになった。これについてコドリントン博士は、次のようにいっている。すなわち、メラネシア人では、「これまでは酋長たちの権威は、彼らが交通した精霊または霊魂から超自然的な威力を授けられているという信仰に基礎をおいてきた。ところですこしまえにバンクス諸島で実際におこったように、この信仰が消滅してしまったので、酋長の地位は曖昧になってゆく傾きを生じるにいたった。そして今では一般にこの信仰が動揺してきたので、ここに新しい種類の酋長が起こらなければならない。そうでなければ、無政府時代がやってくるにちがいない」
メラネシア原地民のいうところによると、酋長たちの権威は、まったく彼らが力のある霊魂と交通して、超自然的な威力、つまりマナ mana と呼ばれているものを授かり、一般庶民の生命を圧迫するためにその霊魂の力を自由に駆使することができるとの信仰によって保たれている。酋長が罰金を命じる場合には、民はすぐそれを、とどこおりなく支払う。酋長は彼に抵抗したものに災禍や病気をもたらす、と信じて疑わないからである。この民の多くの者が酋長と霊魂との特殊関係を疑い始めるやいなや、課金の権威はたちまち地に堕ちてしまった。このように、メラネシアでは宗教的懐疑がただちに俗的社会の基礎を転覆せしめる傾向をもっているのである。
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フィジーにおける酋長に対する迷信的尊崇
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バシル・トムソン氏も同様に次のようにいっている。「メラネシアの政治組織の秘密を解く鍵は祖先崇拝である。フィジー人の生活のすべての行為が不可視の威力に対する恐怖によって左右せられていると同様に、彼らのいだく人間的権威の観念は宗教に基礎をおいている」死んだ酋長は今なおその民を嫉妬ぶかく監視していて、もし彼らがその墓に供物を供えず、彼の霊をなだめない時には、飢饉、暴風雨、洪水などを起こし民を罰すると信じられていた。そして、彼の子孫、つまり今生きている酋長は神聖であるとせられていた。そしてタブー taboo の呪圏にとり囲まれていて、さわりでもすればたちまち不可視の威力の怒りをうけるのであった。
「酋長の権威に対する最初の打撃は、宣教師たちによって無意識のうちに加えられた。宣教師たちも酋長たちも、フィジー人の政治がいかにその宗教と密接にむすびついているかに気がつかなかったのである。ある宣教師がある大きな村に足場をうるやいなや、タブーの運命は尽きてしまった。そしてタブーによって保たれていた権威に対する尊崇は、たちまちがたおちになってしまった。この種の当然の運命として、タブーはほとんど消滅してしまったのである。初穂を酋長にささげることはつづけられたが、それを宮へ持っていって供えることはもう行われなくなった。供物をして祖先から豊かな収穫を与えていただく、という信仰が滅んでしまったからである。祭司の支持を失った神聖な酋長は、こうして落ち目に向かっていたのである」なんとなれば、他のところと同様にフィジーでは、祭司と酋長とは一人で二つの職能を兼ねている場合は別として、お互い助け合わなければその地位を保つことができないのを知っているので、相互にぐるになって利益をはかり合うからである。
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ポリネシア一般、とくにニュージーランドにおける酋長に対する迷信的尊崇
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ポリネシアでも事情は同様であった。そこでも酋長の権威は、主としてその超自然的な威力、祖先の霊との特殊な関係、タブーの呪術的な力などによっているが、このタブーは酋長の人物のうちにみちわたっており、そして彼らと一般庶民との間に、それをこえるとたちまち死をもって酬いられる不可視のおそるべき防塞を築いているのである。ニュージーランドでマリオ人の酋長たちは、生けるアッツア、すなわち神々であるとみられている。
それについて、三十年以上もニュージーランドに宣教師として滞在していたリチャード・タイラー師は、次のようにいっている。ある酋長は「宮廷語の一種として、彼自身に自然でない語の調子を用いた。彼は食事をするにも別にして、目下の者との区別をはっきりとたてた。彼の人格は神聖であって、神々と語る力をもっており、実際彼ら自身も神々の一人と主張して、人民とその財産とに対する支配権をうるために、タプ tapu を有力な助け手とした。その威厳をうるためには、あらゆる手段が講じられた。もっとも重要なのは、肉体の巨大なことであった。それで、この番外の肉体をうるために、酋長の子どもはたいてい数多くの乳母によって養われることになっていたが、乳母たちは実子の栄養分までも奪って、それを酋長の子どもに与えた。その結果、哀れな実子の方は半分うえかかっているのに、ひとり酋長の子どもだけは丸々と肥え太ってゆくのであった。こんな考えは、単に肉体の方面にだけ限られてはいなかった。酋長たちはアッツアであった。しかしながら、神々にも強い者と弱い者とがあった。もちろん、誰しも強い神になりたがる。そこで彼らが考えだしたのは、彼ら自身の霊と他人の霊とをいっしょにむすびつけることであった。どうしてするかというに、勇士が酋長を殺すとすぐに相手の両眼をえぐりだして呑み下してしまうのである。つまり、この目にアッツア・トンガ、すなわち神性が宿っているからである。こうして、彼は敵の体を殺すばかりでなく、その敵の魂をまでわがものとするので、酋長をたくさん殺せば殺すほど、彼の神性は増し加わってゆくのである……。酋長たるものの他の大きな特徴は弁舌である。雄弁家はニュージーランドでもっとも美声の小鳥コリマコになぞらえられた。雄弁家に仕上げられるため、若い酋長はその小鳥の肉を食べさせられて、その素質を受けるよう試みられ、りっぱな雄弁家はコリマコと呼ばれた」
また、他の記者のいうところによれば、マオリの酋長の意見は、「彼らが神化せられた人間らしく発音すると信じられただけの理由で、他の酋長たちの意見より尊重せられた。彼は目を奪うような飾り物でもって取りまかれているわけではなかったが、その人格は神聖であった……。彼らの多くは、自分でも霊感をうけていると信じこんでいる。タウポの大酋長で大祭司を兼ねていたテ・ヘウ・ヘウは、地滑りのため呑みこまれてしまう直前、あるヨーロッパの宣教師に向かって、『おれのことを人間だとか、地から生まれた者だとか考えてはいけない。おれは天からあま下ってきた者だ。おれの祖先たちは皆そこにいる。彼らは神なのだ。おれもそこへ帰って行くのだ』と語った」
マリオの酋長の人物の神聖なことはたいへんなもので、彼に触れることは許されず、その生命を救うためであってすらそれは禁じられている。ある酋長が魚の骨を喉《のど》につまらせて、窒息しそうになっていた。たくさんの家来達は彼を取り囲んで嘆いていたが、誰一人として手をかけようとする者もなく、近づこうとする者すらなかった。なぜかというに、酋長に触れると生命がなくなると信じられていたからである。おりよくその辺を通りかかった一人の宣教師が、その骨を抜きとって酋長の一命を救ってやったのである。酋長はものの半時間ほどものをいうこともできなかったが、ようやく口をきくことができるようになったとき、まず彼の口から出たのは、なんと魚の骨を抜きとるために使用した外科器械をこっちへよこせという命令であった。神聖な血を流し、神聖な頭に触れて害を与えた賠償として、当然それは没収されねばならないというのである。
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マオリの酋長との接触に対する迷信的恐怖
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マオリ人の信じたところによると、マオリの酋長はその身がらだけではなく、彼が触れたものはことごとく神聖であって、それに手をつけようとする冒涜者は誰でもその生命を失う。酋長の食べた物の残りを知らずに食べたり、彼の所有物の何かに触れたことを後になって知り、驚懼《きょうく》のあまり頓死した人も相当の数にのぼった。
これについて次のような話がある。ある女が籠のなかのおいしそうなモモをいくつか食べたあとで、それがタブーと決まった場所になったものであったことを知った。女はたちまち籠をとり落とし、アッツアが、つまり酋長の神性が自分を殺してしまうだろうと、身をもだえて絶叫した。酋長の神聖を冒涜したからである。それは午後のことであったが、翌日のお午《ひる》までにその女はとうとう息を引きとってしまったのである。
また、酋長の|ほくち《ヽヽヽ》によって、何人かの者が命を失った例もある。それを見つけてキセルに火をつけたあとで、持ち主が酋長であることを知り、恐怖のあまり死んでしまったのである。
それで、思慮ぶかい酋長は、不要になった衣類や敷物などを人目にふれないところに捨ててしまう。誰か家来の者がそれを見つけ出して、その中に宿る神性のショックによって命を失わないように、という思いやりからである。同じ理由から、彼らは決して自分の口で火を吹かない。なぜかというに、彼が火を吹けば神聖な息がその性質を火に伝え、そして火はその上で料理せられる肉にそれを伝え、肉はそれを食べる人の腹に伝え、その結果、その人は死んでしまうからである。このように、マオリの酋長を一般庶民からさえぎっている神性は、それにふれる者をことごとく焼き枯らす貪欲の炎である。このような人間が絶対的服従をえたことにふしぎはない。
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トンガとタヒチのおける酋長と王とに対する迷信的恐怖
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ポリネシアの他の地方でも、この状態はまったく同様である。たとえばトンガの民たちは、もし神聖な酋長の身がらに触った手でもってものを食べた者は、体が腫れ上がって死んでしまうと信じた。酋長の神性は毒のように家来の者の手に伝染し、手を通して食べ物に伝わっていくために、ある特別な方法で酋長の足に触れることによって一種の消毒を行わないかぎり、食べた者の生命を冒すことになるのである。
タヒチのある王は、その位にのぼったとき、赤い羽根でできた神聖な帯を身につけたが、これは地上における最高の位にのぼったことを示すばかりでなく、神々と同じものであることを示した。このために、「王または王妃が少しでも触れた物は、なんでも残らず――身につけた衣類、彼らの住まった家、航海に使った丸木船、陸をゆくとき彼らを運んだ人々などは、なにもかにも神聖なものとなった。はなはだしいのは、王や王妃の名を構成している音ですらも、決して通常の語の音として用いることができないものとなってしまった。それで、ひとびとに親しまれている事物の大部分の原名も、ときどき著しい変更をよぎなくせられることがあった。土地もまた、彼らによって偶然にでも踏まれたところは神聖となった。そして彼らの入った家からは、その持ち主は永久に引き払わなければならず、以後こんな神聖な人物のようにのみ供せられることとなった。誰でも王や王妃の体にさわることは許されず、彼らの上位に立ったり、その頭上に手を差し伸べたりした者は、自分の生命をもってその冒涜行為の償いをしなければならなかった。特別に作られて庶民をいっさい厳禁した家を別とすれば、王や王妃は他の家には、入ってはならず、またその世襲の土地のほか、島のどんな地区にも足を入れてはならないとされたのは、一にこの人物の神聖性によるものであった。
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アフリカとマレーにおける王との接触に対する迷信的恐怖
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同じように、アンゴラ内地のカゼムベ人は次のように信じていた。すなわち、彼らの王はこのうえなく神聖であるため、誰でも彼に触れた者は、その神聖な身がらから発出する呪力によって殺されてしまう。ただし、誤って、あるいは必要かくべからざる事情から接触した場合には、ある特別な方法でその手にさわることにより死をまぬがれることができる。
同様な信仰が、マレーでも一般に行われている。そこでも王を神々と見る考えは、世界の他の地方と同様に強く支持せられている。「王の人物が神聖であるばかりでなく、その身体の神聖性は彼の王権まで及んでいて、王のタブーを冒す者はその生命を失うと信じられていた。王の身がらに対して非道を行った者、たとえちょっとの間でも王権に属するものに触れたり、たとえ王の許可をえてそれを模倣した者、王のシンボルや特権を悪用した者は、マレー人達が王の人物の中に宿っていると信じ、かつダウラトすなわち王的神性と呼んでいる心的な威力の電撃に似たショックのためにケナ・ダウラトされる、つまりうち殺されるとかたく信じられた。
さらにマレー人は、たとえば農作物の成長や果樹の実りなど、自然の働きに王が人格的な影響を与える力をもっていると信じている。サラワクの山ダイヤ人(Hill Dyaks)のある者は、ブルク王のもとにイネの種を持参して、その実を豊かにしてもらう習慣をもっていた。ある部族の収穫が不良だったとき、酋長はその原因をほかでもなく王がその部族を訪問しなかったためであるとした。
中部セレベスのトラジャ人の間で、「ルーウーの王の力は、主として迷信と伝統とによっている。その昔、祖先たちは心から王に仕えたので、もし子孫がその心がけを失えば、彼らに向かって怒りを発するのである。トラジャ人はしばしば『ルーウーの王は我らの神さまだ』とわれわれにいった。古くからの諸制度は、ことごとく形をとって王に宿っていると彼らは考えた。王の血管には白い血が流れており、また王のうちには神秘的な威力が宿っていて働くのであるが、それは非常に強力なもので、下々のものが彼を見れば、かならず腹が腫れて死んでしまうくらいであった」
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アフリカの王に帰せられた呪術的な力
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同様にアフリカでも、王は雨を降らせたり農作物を実らせたりする呪力をもっていると一般に信じられた。干ばつと飢餓とは、王の無力か悪意によるものであるとされ、そのため彼は罰せられたり、位を追われたり、はなはだしい場合には殺されることすらあった。たくさんのうちから、二、三の例をひいてみよう。
十八世紀のある記者は、西部アフリカのロアンゴの王国について、次のように記している。「この部族の政治は純粋に専制的である。一般庶民の生命財産は王のものである。王はべつに手続きもせず、人民に文句もいわせないで、自分の気分のおもむくまま庶民の生命財産をかってに処置したり剥奪したりすることができる。庶民は王の前に出ると、崇拝にも似た尊敬をささげる。下々の民は王の力はこの地上に限られないことや、王が天から雨を降らす力を与えられてることなどを教えこまれている。そこで干ばつが続いて収穫が心配になってくると、民どもは国王に水を与えてくれなければ人民は餓死してしまい、貢物《みつぎもの》を奉ることもできなくなると王に申したてるである。王は民をなだめるために、べつに天に訴えることなどしないで、この願いを大臣の一人にまかせてしまい、作物を実らせるに充分なだけの雨をすぐ国中に降らせるようにせよと命じる。大臣は雨をもってきそうな雲の出るのを待って、いかにもこれから王の命令を実行するぞよというように、威厳をつくって人民の前にたち現れる。女子どもは彼を取り巻き『雨をくれ、雨をくれ』と声をかぎりに叫ぶ。そこで彼は胸を張って、よろしい、引き受けた、と約束するのである」
他の昔の記者によれば、ロアンゴの王は「人民から神のように尊崇されている。そしてサムビーと呼ばれパンゴと呼ばれている。ともに王という意味である。王は意のままに雨を降らせることができると人々は信じている。そして、年に一度、きまって十二月、雨のほしい時期に彼らは王のもとへやってくる。そのとき、彼らは王に贈り物をするのであるが、空手《からて》でやってくるような不心得な者は一人もいない」定められた日になると酋長たちは手勢を引き連れ、戦いのような行列をつくって集まり、太鼓をたたき角笛を吹き鳴らす。そこで王は、大空高く、つぎつぎと矢を打ち上げる。この矢が雨を降らせると信じられているのである。
古いポルトガルの歴史家ドス・サントスは、東部アフリカの同様な習慣について報告している。彼はいう、「内部およびソフィラ川流域全地方の王は、毛ぶかいカフィール人であって、何物もいっさい崇拝せず、また神の知識をもたない異教徒である。ところで、彼は自分をその全領土の神であると考え、その人民によっても実際そう考えられ、また崇拝せられている」「人民は物がほしくてたまらなくなったり、欠乏して困ってきたりすると、それを王に訴える。王は彼らの望む物や必要なものをなんなりと与えることができるし、死んだ祖先たちと交通しているので、何でも彼らから受け取ることができると固く信じてのことである。こんなわけで、人々は農作物のために雨のほしい時には雨を、天気のほしい時は天気を王に願い求めるのであるが、その際にはかならずりっぱな贈り物をもってくることを忘れない。王はそれを受け取り、願いの筋はどうにかしてききとどけてやるから、ひとまず家へ帰っておれという。このカフィール人は非常に蒙昧《もうまい》であるため、自分たちの求めたものを王がすぐには与えなかったとしても、決して悟ることができず、ますますりっぱな贈り物をもって、何日間かいったりきたりして日をつぶす。こうしているうちに天気は変わって雨となる。雨さえ降れば人々は満足である。王が彼らの願いを今まで聞いてくれなかったのは、贈り物もたらず熱心もたりなかったためだと考える。王は王で真相を知られては困るので、それにちがいないとうなずいてみせるのである」
それにもかかわらず、「この地方の王たちは、なにかの災害に見舞われたり、虚弱、伝染病、容貌をそこなうような前歯の脱落、奇形、または苦悩などのような自然の肉体的欠陥に見舞われたときには、これまで毒を仰いで自殺する習慣であった。このような欠陥を絶滅させるために、王はいかなる欠点をも、もつべきでないとして、自殺してしまったのである」しかしながら、ドス・サントスの時代には、ソフィラの王は、前歯を一本失った後も、陋習《ろうしゅう》打破のためとあって、平気で生きつづけ、政治をとりつづけた。そればかりか、歯が一本抜けたとか、白髪が一本できたとかいうような些細なことで、これまで王たちが自殺したことなど、ばかげていると嘲笑したうえ、彼自身はその民の幸福のためにできるだけながく生きのびるつもりだと宣言した。
イギリス領東部アフリカの一部族であるナンジ人の大呪医は、全部族の大酋長でもある。彼は占易者でもあって、未来のことを予言する。女や家畜を多産にすることもできる。干ばつのときには自分自身でか、雨司の仲介によるかして雨を呼ぶ。ナンジ人は酋長のこんな驚くべき力をかたく信じて疑わない。一般に彼の人物は絶対に神聖であると考えられている。武器を持って彼に近づいてはならない。向こうから話しかけられないかぎり、決してこちらから口をきいてはならない。もっとも慎まねばならないのは、酋長の頭にさわることで、もしそんなことがあれば占易その他の威力は逃げ去ってしまう。
アフリカにあまねく見られるこの王の神聖は、古代エジプトにおいてすでに遠い昔、いちじるしく表れていた。エジプトでは、王たちは生前も死後も、神として尊崇をうけ、彼らを礼拝するために神殿がささげられ、礼拝を司るために祭司が任命せられていた。そして収穫が失敗した場合には、ちょうど今日の黒人のように、その失敗の責任を彼らの君主に負わせたのである。
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ペルーのインカに対する迷信的尊崇
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迷信的尊崇の後光は、インカ人、すなわち古代ペルーの支配階級をも取り巻いていた。これについて、彼自身インカ王女の子であった古代の歴史家ガルキラッソ・デ・ラ・ヴェガは次のようにいっている。「王族の出のインカが罰せられたというようなことは、少なくとも公に罰せられたということはないようだ。インディアンはこんなことがこれまで行われたことを否定する。インカ人は、後になって改めなければならないような過ちをけっして起こさなかったといわれる。どうしてかというに、彼らの両親の教訓と、彼らは神の子であるとの一般の信仰とは、インカ人というものは一般庶民を教えて彼らに善いことをしてやるために生まれたものだと信ぜしめる結果、社会の恥辱ではなくてその亀鑑であるとの誇らしい確信を与えたからである。またインディアンのいうところによれば、インカ人は女に対する欲望、嫉妬と貪欲、復讐心などのような、罪悪に引きずりこむ誘惑にかかることは絶対になかった。美しい女がほしければ何人でも望むがままにもつことを許されていたし、美しい処女に惚れたとすれば断られるどころか、もったいなくもインカさまが自分の娘を婢《はしため》として使ってくださるそうなと、親なる人はこのうえない感謝の念をもってその娘をささげたからである。彼らの財産についても、まったく同様なことがいわれる。彼らはけっしてものの不足を感じないので、他人の所有物をむさぼるはずがなかった。彼らは為政者としては、太陽とインカの全財産をつかさどっていた。その財産をあずかっていた者は、太陽の子どもとして、またインカの兄弟として、要求せられたものをなんでも彼らに与えなければならなかった。彼らはまた、復讐のためや怒りによって、人を殺したり傷つけたりする誘惑をうけなかった。誰も彼らを怒らせる者がなかったからである。怒らせる者がないばかりでなく、王につぐ尊崇をすらうけるのである。もしどんなに高位の者でも、インカの誰かを怒らせたとしたら、涜聖の罪として扱われ、非常にきびしく罰せられた。ここに注意しなければならないのは、インカの人物、名誉、財産を侵した罪によって、いまだかつてインディアンが罰せられた例のないことである。インディアンはインカを神と同じものと信じていたので、このような罪をけっして犯さなかったのである」
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古代インドにおける王に対する迷信的尊崇
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このような迷信は、けっして世界の果ての未開人や、それと同じような他の民族のみに限られてはいない。インドからアイルランドにいたる全アーリア人種の祖先たちもまた、同様にこのような迷信をもっていたらしい。
その例として、マヌの律法と呼ばれる古代インドの律法書には、次のように記されている。「王は神々の貴き分子によって創られたものであるため、天の下なるあらゆる創られたものを凌ぐ。そして太陽のように、目や心を燃やす。地上の何物も彼を凝視することはできない。その(超自然的)威力のゆえに、彼は火であり風である。太陽であり太陰である。正義《ヤアマ》の主である。クベラである。ヴァルナである。偉大なインドラである。幼少な王といえども、(単なる)人間であると(の考えから)、これを軽蔑してはならない。なんとなれば、彼は人間の形をとった大神であるからである」そして、同じ律法書に善い王の政治の結果について、次のように記されている。「(死すべき)罪人たちの財産を奪うことを避ける王のある(国)では、人間が(適当な)ときに生まれ、(そして人間は)長寿である。農夫の作物は、播かれたとおり生長し、子どもたちは死なず、不具(の子どもは)は生まれない」
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古代ヨーロッパにおける王に対する迷信的尊崇
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同じように、ホメロスの物語のなかのギリシアでも、王たちや酋長たちは神聖または神的であると記されている。そして善い王の御代には、黒土からオオムギ、コムギが豊かに実り、樹々には果実がたわわになり、家畜はどしどし増殖し、海からは魚介がたくさんとれると信じられた。
スウェーデン人もまた、収穫の良否はその王の善悪によるものだと信じ、飢餓のときにはよい実りを求めるため、王を神々に犠牲として供えたともいわれている。
また、古代のアイルランドでも、王たちがその祖先の習慣を守るなら気候はきわめて穏和で、農作物は豊かに実り、家畜は増殖し、海や川には魚介が多くなり、果実は支柱をしなければ枝が折れるほど実を結ぶと信じられた。聖パトリックの作になるといわれるある聖典のなかには、義《ただ》しい王の御代に伴う種々の祝福のうちに、「うるわしい天気、静かな海、豊かな実り、たわわに果のなる樹」と付け加えて列挙している。
何世紀もまえにアイルランドのケルト人の間に行われたこのような迷信は、ジョンソン博士の時代にいたるまで、スコットランドのケルト人の間にも残存していたようである。というのは、マックレオド人の酋長がながい旅の後にダンヴェガンに帰ってくるとニシンの大漁があると、その時でもなお信じられているのを、スキー地方に旅行した博士は聞いたのである。そして、それからさらに後の時代に、ジャガイモのできの悪いことがあると、このマックレオド氏族は、酋長のもっているある神聖な旗をあげてもらいたいと願ったのである。明らかに、この呪旗だけがジャガイモの豊作をもたらすことができると信じたからである。
瘰癧《るいれき》の接触治療
イギリスの諸王に長く関係のあったこの種の迷信の最後の遺物と考えられるものは、王はその手を触れて瘰癧《るいれき》をなおすことができるという考えである。そのため瘰癧は「王の病気」(the King's Evil)といわれた。
私がすでに述べたポリネシアの迷信とこれとの類似からして、たぶんこの病気は王が手を触れることによって癒されたと同様に、本来は王が手を触れることによって起こされたと仮定することができるようである。たしかにトンガでは、原地民が非常によくかかる一種の瘰癧と肝臓の硬化は、類感原理によって、まったく同じように、酋長が手を触れることによって起こり、彼が手を触れることによって癒されると信じられていたのである。
同じようにロアンゴでは、中風が王の病気と呼ばれたが、それは黒人達がその病気を王に対して犯した反逆の天罰であると想像しているからである。
王は手を触れることによって病気を癒すことができるとの信仰は、十一世紀以来フランスとイギリスとにおいて行われてきたことが知られている。最初にこの方法で病気をなおしたのは、フランスでは敬虔者ロベール王、イギリスでは告白者エドワード王であった。イギリスでは、王はその手を触れることによって瘰癧を癒すことができるとの信仰は、十八世紀まで残存していた。ジョンソン博士は瘰癧をなおしてもらうため、子どものじぶんアン王女に手を触れていただいた。ジョンソン博士のような代表的な健全な常識の持主が、このように子どものじぶんにも老後も、イギリスだけでなくスコットランドでも、古めかしい王にまつわる迷信に接触したとは、まことになんとも奇妙千万なことである。
この迷信は、フランスではさらにながく存続した。イギリスではアン王女が瘰癧にさわった最後のおかたであったが、フランスではルイ十五世とルイ十六世とがその即位式のときに何千人という患者にさわり、さらに下ってシャルル十世は一八二四年その即位式にさいしてこの荘厳な道化を行ったのである。ルイ十六世のときのある懐疑的な目撃者が、即位式にさいして王が手を触れたすべての人の病状を調査したところによると、二千四百人のうち全快したものはわずか五人だけであったという。
結論
以上述べた事実は、簡単ではあるが、多くの民族が酋長であれ王であれ、その統治者を一般庶民とは次元の異なった人間であり、絶大な威力を持った者として、ある種の宗教的畏怖の感を持ってみていることを証してあまりあるものと思う。統治者に対するこのような徹底した尊崇と、その威力についての誇張せられた考えとを骨の髄まで浸みこまされているので、統治者といえども一般庶民とまったく同じ人間に過ぎないと知っている場合よりも、はるかに確実で絶対的な服従を行うのは、きわめて自然なことである。
もしこれに誤りがないとすれば、私がまえに掲げた第一の命題――あるいくつかの民族では、そしてある時代においては、迷信は政治、ことに君主制政治に対する尊重の念を強め、その結果、社会的秩序の制定とその維持とに寄与するところがあった――ということを証明することができたと信じるものである。
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三 所有権
所有権の支柱としての迷信
次に第二の命題に移る。すなわち、あるいくつかの民族では、そしてまたある時代においては、迷信は所有権に対する尊重の念を強め、その結果、その安全確保のために寄与するところがあった、ということを検討してみよう。
ポリネシアにおけるタブー
おそらく、タブーの組織が最高の発展に達しているポリネシアにもまして、これが明らかにされているところは他にないであろう。原地民の信じるところによれば、事物をタブーとすることは、それに超自然的な威力もしくは呪力を与えることであって、その結果所有者のほかは、なんぴとといえども絶対に近づくことのできないものとなるからである。こうしてタブーは、所有権の絆を強めるための、あるいは社会主義者のいいそうな言葉を借りると、所有権の鉄鎖を釘づけにするための、強力な手段となったのである。
実際ポリネシアのタブーの働きを現地で直接に見聞し観察した信ずべき権威者たちは、タブーが本来この目的のために考案されたものであることを主張している。たとえば一マオリ人として数年間マオリ人といっしょに生活し、彼らを親しく知っていたあるアイルランド人は、次のように記している。「普通のタプの本来の目的は、財産の保存というところにあるらしい。この性質を濃厚にもっているのは、普通の個人タプである。タプのこの形のものは恒久的であって、それは酋長の人物に付着してけっして失せることのない、ある神聖な性質によって成りたっている。この神聖な性質は酋長が生まれながらにしてもっている権利であり、事実彼の一部をなしているものであって、彼からそれを剥ぎ取ることはできず、酋長ならこれを持つことが当然だというふうに、いつの場合でも理解せられ承認せられているものである。戦士や、小酋長、それからランガチラの称号――こんな場合には紳士というほどの意味――をうけることのできる者どもは、みなこの神秘的な性質をある程度まで、多かれ少なかれもっているのである。この性質は、とくに彼らの衣服、武器、装身具、器具などの動産や、彼らの触れるあらゆるものに拡充し伝達せられる。そのために、酋長の家畜が盗まれたり迷わされたり、子どもたちにいたずらをされたり、他人によっていろいろな方法で使われたり扱われたりすることが防止せられるのである。そして、私がすでに述べたように、古代においてこの種の財産は、鉄器のなかったところから、その製造には多大な労力と時間とを要する結果すこぶる貴重なものであり、したがってタプのこの形のものは、はなはだ大きな利益のあるものであった。タプを犯した者はいろいろとおそろしい神秘的な罰を受けなければならないが、死病にとりつかれるのがその一例である」タブー破りの犯人は、私刑とでも呼ばれるものを受けなければならない。これは略奪せられることと、なぐられることである。しかしながら、私が今引用した記者のいうところによると、タブー破りに対する刑罰のもっともおそろしいのは、むしろ神秘的な方面である。それがまったく無意識のうちに行われた場合でも、犯人は自分のしたことに気がつくと、驚愕のあまり死んでしまうことが証明せられるのをみてもそういえるのである。
他の記者もまた、マオリ人について、同じようにこういっている。「タプ破りは神々によって罰せられ、人々からも罰せられた。神々は病気と死を与え、人々は犯人を死刑にしたり、財産を没収したり、その社会から追放したりした。タプを守らせるものは、人間に対する恐怖よりも、神々に対する恐怖であった。人の目は欺くこともできようが、神々の目はけっして欺きおおせるものではないからである」
「酋長たちは、ある程度までタプが法律を作る権力を彼らに与えてくれ、タプの基礎となっている信仰がその法律を守らせることを請け合ってくれるのをみて、当然のことながら、タプのありがたさを痛いほど承知している。もしタプを犯すものがあれば、アッツアすなわち神が彼を殺すと信じている。そして、この信仰は、冒涜をあえてしようとする者がきわめてまれにしかいないくらいに、広く深く行われている。いや、行われていたといったほうが正しいかもしれない。このような影響をこれほどまでに徹底的に、本来このていどの心と頭の働きしかない民族に与えるためには、いうまでもなくそれを従来の様式と承認せられた様式以外の方法で適用しないよう、大きな注意をはらう必要があった。この反対をやれば、タプはしばしば犯されることになる。その結果効力を失ってしまうことになるのである。原地民がヨーロッパ人と接触するまえには、タプはもっと効果的にその威力を発揮したようである。それを無視すればかならずアッツアの怒りをまぬがれることはできず、その結果は死であるという信仰は万人のいだくところであった。しかしながら、これらの人々の神秘的恐怖からえている力とは関係なく、タプは必要の場合には、多くの他の法律と同じように、実質的な力を現す。タプを犯した者が発見せられると、犯人の所有物は一つ残らず奪い取られのである。それが奴隷であればかならず殺される。実際こんなことは、何度となく起こったのである。このような迷信的想像は非常に強く、奴隷たちは主人と同じ食べ物を食べようとはせず、同じ火で料理しようとすらしない。もしそんなことをすれば、アッツアが彼を殺すと信じているからである。酋長に関するすべてのもの、または彼に属するすべてのものは神聖であると奴隷たちは考えている。彼らはタバコが、だいの好物であるが、酋長の家の屋根の上に見せびらかしておいても、決してなくなることはない。恐がって誰も触れようとしないのである。彼らを試みるために、私の友人が少しばかりのタバコをひとりの奴隷に与えた。そして彼がそれを喫《の》んでしまったあとで、タバコは酋長の屋根の上にあったものだと告げた。すると哀れなやつ、びっくりぎょうてんして酋長のところへとんでゆき、一部始終を説明して、悪いたたりが残らないようにタバコからタプを取りのぞいてもらいたいと懇願したということである」
財産の保護者としてのタブー
こんなことから、次のようなことがいわれるのも道理である。「タプのこの形のものは、財産の強力な保護者である。もっとも貴重な品物は、その所有者が不在の場合には、どんなに長い間でもタプの保護にまかせておけば、普通の社会状態のときならまったく心配はない」誰でも彼の農作物、家、衣類、その他なんでも大切なものを保護しようと思えば、ただそれをタブーとすればよく、他人は手をだそうともしないのである。タブーとされたものであることを知らせるためには、それにあるしるしをつける。たとえば、丸木船をつくるために林の中の木を用いたいと思えば、その幹に草の束を結びつける。沼沢地のなかのアシ草の原を自分のものとしたければ、そこに棒を立て、棒の先に草の束を結びつけておく。貴重な家財をおいたままで家を留守にする場合には、アマ(亜麻)でもって扉を動かないようにしておく。そうすれば、たちまちそこは犯すべからざるところとなり、誰もけっして触れようとはしないのである。
タブーの価値
このように、タブーの与える束縛は、ときとして迷惑な、そして弊害のあるものであり、そしてヨーロッパ人はタブーの全組織をまったく有害な迷信であると非難するけれど、もう少し深く調べた観察者たちは、主として想像的ではあるが、しかし強力な命令によって強制せられるその法律が、多くの有益なものであることを、いみじくも看取したのである。
ある記者はいっている。「ニュージーランド人は、タプ類似の法律のある法典なしには統治できなかった。戦士たちは、人間の命令を軽蔑をもって拒絶したが、神々の想定の命令には屈服した。そして一般庶民が残忍な権力によらないで、迷信によって治められるのは、むしろよいことであった」
また、マオリ人をよく知っているある経験の深い宣教師はいっている。「多くの例によってみれば、タプは有益であった。法律のないところや、原地民の猛悪な性質などの、その社会状態を考えると、それは政治の独裁形式の代用物としては、まんざら悪いともいわれないし、また社会の組織せられた状態にもっとも近い接近をもたらしたのである」
マルキース諸島におけるタブー
ポリネシアのその他の地方でも、このタブーの組織は、その利益と不利益、その効用と弊害などの点にいたるまでまったく同様であって、ニュージーランドの場合のように、いたるところで完全に所有権の絆を堅めてしまった。実際これこそ、この制度のもっとも明らかな効果であるといえよう。
マルキース諸島では、タブーは祭司たちに啓示された神々の遺志の表現としての神的な性質をもつものだと考えられ、いろいろな有害な放逸を制し、略奪を防ぎ、人々を一致団結せしめるものだと考えられたといわれている。とくにそれは、タブーとされた階級、または特権階級を地主とする力をもっていた。その結果として、土地はすべて彼らとその子孫とにのみ属することになったのである。こうして、一般庶民は労働と漁業とによって生計をたてるほかはなかった。タブーは地主の砦であった。タブーのみが一種の神権によって、一般庶民の手の届かないような豊富と奢侈との位置に一部の者を押し上げてしまったのである。また、彼らの安全を保証し、貧乏で嫉妬ぶかい隣人から彼らを守りえたものは、このタブーの他にはなかったのである。以上の観察を述べた記者は、それから次のようにいっている。「疑いもなく、タブーの第一の使命は、全社会の基礎である所有権の確立であった」
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サモアにおける財産の保護としての迷信的恐怖
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同様にサモアでも、迷信は所有権に対する尊重の念を培《つちか》ううえに重要な役目を果たした。この点について、われわれは長年サモア人の間に生活し彼らの習慣についての貴重な資料をもたらした一宣教師ジョージ・ターナー博士の証言をもっている。博士は次のようにいっている。
「私がすでにあげた第二のもの、すなわち迷信的恐怖が、サモアにおいて平和と秩序維持のための力であったことの説明を急ごう。もし酋長や家族の長が、窃盗事件その他の隠された事件の取調べにあたって犯人をつきとめることのできない場合には、すべての容疑者に彼らが無罪であることを誓わせる。容疑者たちは酋長の前で誓いを立てるとき、村の神を表すところの石、または他の物の上に一握りの草を置き、それに片手をのせて、『お集まりになられた酋長さま達の前で、今私はこの石の上に手を置きます。もし私が盗みをいたしましたなら、今たちどころに死んでしまうでしょう』と、いわねばならない。これは誓いの一般の形式である。草を一握り石の上に置くのは、もし私に罪があるとすれば家族一同死に絶えてしまい、その住まいには草が生えるであろうという呪詛を意味するものである。こうして、すべてのものが誓い終わって、なお犯人が発見せられない場合には、酋長たちは犯人が早く滅ぼされるよう厳かに祈って、事件をひとまず村の神に一任して、取り調べを終わるのである。
しかしながら、事件を酋長に訴えて誓いをたてさせるかわりに、多くの者は盗人を威嚇して窃盗を予防するため、めいめいがくふうを凝らしたり、呪いをかけたりする。たとえば、自分の畑に行ってココナッツやバナナが盗まれているのを発見すると、立ち上がって声を限りに、『火よ、おれのバナナを盗んだやつの目をえぐりだせ! 火よ、やつの神の目も焼いてしまえ!』と二、三べん叫ぶ。その呪いの声はそのあたりに響きわたって、盗人を慄えあがらせる。原地民はこのような言葉の呪詛を極度におそれるのである。……しかし、もっと広く行われている呪詛が他にある。これも同様にひどくおそれられていて、すべての窃盗、とくに畑や果樹の荒らされるのを防ぐために力のあるものである。それは、言葉にだしていわれない象形的タブー、原地民によってタプイと呼ばれているものである。これにはたくさんの種類がある」
サモアのタブーの種類
サモアで、財産保護のために用いられたタブーは、次のようなものである。
(一) カマス(seapike)タブー。パンの実が盗まれるのを防ぐためのもので、ヤシの木の葉を編んでカマスの形をつくり、保護しようとする木にこれを一つ、あるいはもっと多くつるすのである。普通の盗人なら、こうして保護せられた木にはおそれをなして決して近づかない。
(二) 白ザメタブー。ヤシの葉をサメの形に編んで、それを果樹につるす。これは、つぎに漁に出たとき、サメに食わしてやる、という呪詛を表す。
(三) 棒タブー。これは樹上に水平につるされた一本の棒で表す。誰でもこの木の実を盗んだものは体を横に貫かれて激しく膿を出し、ついには死にいたるという呪詛。
(四) 潰瘍タブー。ハマグリの貝殻をいくつか土中に埋め、人間の頭のように上部を房の形に結び合わせたアシをその上に何本かたてる。盗人が全身潰瘍におおわれてしまうようにとの、所有者の呪詛を表す。盗んだものが腫れ物に悩まされることがあれば、その罪を告白して所有者に贈り物をする。これに対して相手方は盗人に、一つには薬用としてまた一つには謝罪のしるしとして、一種の薬草を送るのである。
(五) 雷電タブー。ヤシの葉を小さな正方形の敷物の形に編み、それを果樹からつるし、合わせて粗布でつくったいくつかの白い吹流しをつける。この木をおかすと、おかした当人または子どもたちが雷にうたれ、あるいは盗人自身の果樹が雷にうたれて引き裂かれるという。
ターナー博士は結論のなかでいう。「これら数例をみてもわかるように、サモア人もまた、いちじるしくひろく行われている迷信的なタブーについて、まったく同じことをやっていた。それで、異教的諸民族の間でどの程度それが行われているか、その範囲や度合いなど、容易に想像することができよう」
トンガにおけるタブー
トンガでは、窃盗その他の罪を犯したものはタブーを破ったとされ、こんな人はとくにサメに食われることが多いといわれた。そこで疑いをかけられたものは、サメの出没する海のなかへむりに追いこまれる。もしここで咬《か》まれるか食われるかすれば、一も二もなく罪を犯したものと断定せられるが、さいわいにのがれることができた場合には、無罪ということになるのであった。
メラネシアにおけるタブー
メラネシアにもタブーの組織(そこではタムブーとかタプとか呼ばれる)は存在する。これは「表現せられた呪詛、または暗示せられた呪詛を伴う禁止」であり、タブーを設定する酋長あるいは他の人物は、威力のある霊魂または精霊(これをチンダロという)の保護を受けているとの信仰にその権威の源をおいている、とせられている。もし一般庶民の誰かが、何物かをタブーとするためにこの方法をとる場合には、そのタブーを破った者が病気になるかどうかを他の人々はじっと注視している。病気になれば、タブーの主は強力な霊によって保護せられていることが証明されるので、彼の評判はたちまち高まるのである。霊どもは、それぞれ特別な木の葉に関係を持つので、その木の葉が霊のタブーのシンボルとなるとされている。
ニューブリテンでは、畑、ヤシの木その他の財産は、それらのものにつけたタブーのシンボルによって盗まれないように保護されており、誰でもこのタブーを犯した者は、病気その他の災害に見舞われると信じられていた。この際もたらされる病気や災害の性質は、タブーの神秘的な威力を代表するシンボルや呪的な事物の性質によって異なる。この目的のために使用せられる一種の植物は、盗人に頭痛をもたらし、他の物は盗人の腰を腫《は》れあがらせ、あるものはその脚を折る、というぐあいである。また垣根に呪文を呪いかけておくだけで、そこから棒を盗み去った者の頭を必ず腫れあがらせることができるものとも信じられている。
フィジーでも、タブーの制度は権力の秘密であり、専制政治の権力の源でもあった。これは大小さまざまなことに関して、驚くほど広範囲にわたって行われてきた。ニワトリの孵卵について注意を与えるというようなことから、一つの王国の盛衰を決定するというようなことにいたるまで、その機能は及んでいるのである。そして、この組織はまったく酋長たちの側につごうよくできており、彼らは自分の側の利をはかり、一般庶民に対しては圧迫を加えるようなぐあいに、うまくこれを使役した。彼らはこれによって権力を獲得し、その不足をみたし、意のままにその民に号令した。タブーを実施する場合に酋長の心得ておかなければならないただひとつのことは、古来の先例を重んじるという点である。一般庶民はどうかというに、彼らはこのタブーの助力によって、聖なる杙《くい》をめぐらしたなかにいも畑やバナナ畑を苦心してつくるのである。
マレー半島におけるタブー
迷信を基礎とするタブーの組織は、マレー半島の全島嶼にもひろく行われている。そこでは、パマリ、ポマリ、ペマリなどがタブーを意味する普通の語であるが、ある地方ではポソ、ポツ、ボボソなどが同じ意味に用いられている。この広大な地方でも、タブーと関連した迷信は、所有権を強化する有力な手段である。
たとえば、チモールの島では「ポマリの慣習が行き渡っているが、これは太平洋島嶼人のタブーとまったく同じ組織であり、同様に尊重せられている。これは日常もっともありふれたことに用いられる。たとえば、庭の外側にポマリのシンボルであるシュロの葉を少しだしておけば、作物を襲う盗人を防ぐことができるのであって、これはわれわれにたいして人罠《ひとわな》、据え銃、あるいは猛犬のようなものが与えると同じくらいな効果を発揮する」
アンボイナでは、タブーに相当する語はパマリである。果樹その他の所有物を盗人に襲われないようにするためには、いろいろな方法でパマリを設定する。たとえば、壺に白い十字の形を記して、それを果樹の枝につるしておく。そうするとその木から実を盗んだ者は癩病になる。またハツカネズミの形をこしらえて、それを果樹の根元においておく。実を盗んだ者の鼻や耳にはネズミの咬《か》んだような傷跡が表れる。またサンゴヤシの乾いた葉でもって二つの円盤を編み、それを果樹の枝につるしておく。このパマリを犯した者は、その身が腫れあがり、ついには張りさけてしまうのである。
シラムでも、財産を盗人からまもる方法は同様である。例をあげてみると、果樹の枝の上に豚の顎骨《あごぼね》をのせておく方法がある。果実を盗んだ者は、イノシシのために八つ裂きにせられるのである。赤いもめん糸を首に巻き付けたワニの形をこしらえて、それを果樹の枝にのせておいても効果がある。盗人はワニに食われてしまうのである。木でヘビの形をつくってこしらえたタブーを犯した者は、毒蛇に咬まれてしまう。赤い輪を首につけたネコの形を置いておけば、よこしまな心をいだいて木に近づいてくる者の腹に、ちょうどネコが腹の中を引っ掻きまわすような激痛を覚えさせる。ツバメの形は目をツバメにつつかれるような痛みを与えるし、棘の多い木片と赤い軽石とは盗人の身を刺し通すような痛みを起こさせると同時に、全身が赤くなって小さな孔でおおわれるような苦しみを与えるし、燃え切れた木片は失火したり放火せられることがなくても、盗人の家を焼いてしまうなど、いろいろである。
同時にシラム・ラウト諸島でも、ヤシとかサンゴヤシの根もとに呪いをかけたものを置いて、盗人に襲われるのを防いでいる。たとえば、魚の形をつくってそれを木の根もとに置き、「おじいさんの魚よ、私のヤシの実を盗む者を病気にして嘔吐させてやってください」という。そうすると盗人は腹が痛くなる。この苦痛はヤシの持主のほか、誰も癒すことができない。盗人が願い出てくれば、持主はビンロウジの果汁を患部と耳のなかとに吹きこんで、「おじいさんの魚よ、海へお帰りなさい。そこは広くてサンゴ礁があり、自由に泳ぎまわることができます」といって呪詛を解いてやるのである。また、棺《ひつぎ》の模型をつくって、それを果樹の根もとに置くこともある。このタブーを犯した者は、棺の中に閉じこめられたように、呼吸困難と窒息感に悩まされるのである。無遠慮な隣人たちが果実を略奪するのを防ぐために、この他いろいろなくふうがなされている。いつでも呪いをかけたものを木の根もとに置くか、それを木に結びつけるかするのであるが、この呪いをかけたものは超自然的な威力をもっていると信じられ、持主はその財産を保護してもらうよう、これに対して祈願するのである。
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中部セレベスにおける果樹保護のための呪符
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中部セレベスのトラジャ人は、いろいろな護符や呪符を幹につけることによって、盗人がシリー樹やアシを荒らすのを防ぐ。呪符はある植物の葉でつくったり、動物のある部分を葉に包んでこしらえたりする。呪符を幹につけるときその持主は、「おお呪符よ、この実を盗む者を病気にしておくれ」という。原地民たちは一般に、このタブーを無視して実を盗む者は病気に見舞われると信じている。犯人を見舞う病気や災害の種類は、呪符の性質いかんによって異なるとせられている。幹に結びつけられた呪符の性質が犯人の体内に入り、それが彼を侵すと信じられているのである。
たとえば、その呪符が特殊の鋭い葉でできている場合には、盗人は体内に鋭い疼痛《とうつう》を覚えるし、呪符がシロアリ塚の一部からなっている場合には、犯人は癩病にかかる。また、実の落ちやすいある種の海草でできておれば歯がぼろぼろ脱落してしまうし、触れると痒《かゆ》くなる葉の植物を用いてあれば全身が痒くてたまらなくなり、ドラセナでできている場合には戦争で死んでしまうなど、いろいろある。果樹を保護するための呪符には、きわめてたくさんの種類がある。めいめいその信頼するものをもっているわけである。
ところでトラジャ人は、タブーを犯せば必ず自動的に病気や災害が降りかかってくると信じている反面、呪符の威力や呪詛を巧みにさけてすこしも害を受けることなしに禁断の実を食う方法を知っていると主張する。そのために工夫された方法の一つは、次のようなものである。まず一握りの土を木に向かって投げつける。それから小刀でもって幹を少し削りとる。そうしておいて、「まず土を病気にせよ。次には小刀を、最後にわれを」と保護呪文を唱えるのである。こうすれば、呪符などすこしも恐くない。果実を盗んでたらふく食べることができるのである。ところが、もっと凄いのがある。いっそう滑稽な盗人は、呪符に反抗してそれをまったく無力にするだけではなく、改めてその力を復活させて果樹の持主に向かって反対に働かせるのである。この効果はまったく著しいので、考えのあるトラジャ人はけっして呪符によって果樹を保護しようとはしないのである。自分自身をたおすため、わざわざ敵の手に武器を与えるようなものだからである。
このような悪辣な盗人がタブーを犯す他の方法は、次のようなものである。まず目的の果樹に大胆にのぼっていって、そこに置かれてある呪符をはずし、それをどこか他の場所につるす。そこから一枚の板を、その一端が幹に触れるようにして地上に置き、板を踏み伝わって樹にのぼっていって、しずかに果実を盗み取るのである。呪符はもう木の上にはないので、もちろんなんの役にもたたない。盗人は盗みたいだけ盗んで呪符をまたもとのところへもっていって戻し、根元の板を取りはずすのである。こうなると、保護呪符はまたもや手も足も出ない。板を取りはずしてしまって木からの出口を失ってしまったので、逃げてゆく犯人を目の前に見ながらどうすることもできないのである。こうして、いわば忠実な護衛者であるべきものが、せっかく護衛を頼まれていながら、その城の中に閉じこめられてしまうのである。幽閉された呪符はいたしかたなくそこで気をもんだり怒ったりしているが、とうとうその怒りはつぎに果樹の見まわりにやってくる持主自身のうえに爆発する。おそらくこれこそ、果物つくりが人を呪って自分がその穴に落ちこむ最も簡単で容易な方法であろう。
しかしながら、この目的を果たすもっと他の方法がある。そのうちの一つをあげてみると、まず果樹にのぼっていって足を枝に掛けて逆さにぶら下がり、そのままひりひりするイラクサの根を噛む。こうすると果樹の持主は、ワニに食われて死ぬか戦争に出て死んでしまうかである。
中部セレベスの山トラジャ人の使うもっとも普通の呪符は大トカゲの頭か脚であって、保護しようと思う果樹にそれをつるすのである。その頭は盗人の頭を噛み、その脚は盗人の脚をかきむしって、体のその部分に狂おしいほどの痛みを感じさせる。しかし大トカゲの骸《むくろ》を丸々つるしておけば、盗人はひとたまりもなく死んでしまう。
マダガスカル島のタブー
マダガスカルには、ファディと呼ぶ入念なタブーがある。これはA・ファン・ゲンネップ教授のりっぱな論文のなかに取り扱われているが、教授は本来すべての所有権は宗教を基礎としており、財産のシンボルはタブーのシンボルであると述べている。しかしながら、資料によって判断されるかぎりにおいては、ポリネシア人、メラネシア人、インドネシア人などによってなされたと同じ程度で、このタブーが財産保護のためにマダガスカル人によって使用せられているようには見えない。とはいえ、マダガスカルの呪符が畑に置かれて、作物を盗む者に癩病その他の病気を与えるとの報告がないではない。また、ファディすなわちタブーのある種のものは、
「マダガスカル人の先代に、所有権についての道徳的な法典に関して、一種特異な基礎を提供したようである。すべての窃盗がファディだというのでなく、ある特別なものを盗めばファディに触れるのであって、それには種々の刑罰が伴ったとみられている。たとえば、卵を盗めば犯人は癩病になり、ランディ(土地産の絹)を盗めば盲目になったり他の病気になったりするし、鉄を盗めばまた何か別の病気にとりつかれるというぐあいであった」といわれている。
マダガスカル人が盗まれたものを取り戻そうとする場合には、ラマナンズロアニーと呼ばれる神に祈願するのであった。持主は盗まれたものの残片を集め、それを偶像に供えて、「おお、ラマナンズロアニーの神よ。私のものを盗んだものは誰であっても昼間は殺し、夜は滅ぼし、絞め殺したまえ。彼のごとき者を人の世から断ち絶やしたまえ。一銭といえども彼が富を増やし加えることを許さず、穀粒をついばみ食らうニワトリのように一粒一粒その糧を拾い上げるよう呪いたまえ。その目を盲目にし、その膝を腫れあがらしめたまえ。おお、ラマナンズロアニーの神さまよ」と訴える。この呪詛はかならず盗人のうえに実現するものと信じられた。
その他の世界における例
迷信的恐怖の助けによって、私有財産の所有権を強化する方法は、このほか世界のいたるところで行われている。この問題は、道徳観念の起源とその発展に関するエドワード・ウェスターマーク博士の非常な労作のなかに、おびただしい実例をもって解説されている。そのうちから、ほんの数例をひいてみよう。
タイ国境のラオスのコウイ人は、きわめて簡単な方法で、盗人が畑を荒らすのを防ぐ。彼らは保護しようとする土地に「慄《ふる》え呪符」を置くのである。そうすると、作物を盗もうとしてそれに手を触れた者は、たちまち濡れた犬のように慄えの発作に襲われて、その場から動くことができなくなる。サンキーの漁師の一人がこの呪符を使って、もののみごとに盗人を捕まえた。いつも据え網のなかの魚を盗まれるので、ある日のこと、これをあの呪符で守ってやろうと思いついたのである。呪符は魔法のように働いた。盗人は例のように川の中へはいっていって、魚のいっぱいはいった網を引き上げる。ところが、岸へ上がるか上がらないかに、雫のたれる網とその中でぴちぴち跳《は》ねる魚をいだいたまま慄え始め、激しく戦慄をつづけた。それから二日後、網の主が見回っていくと、盗人はもとのところでなおも盛んに慄えつづけていた。死んで腐った魚の網をしかといだいたままで。
インド中部地方の原始的山間民族カワル人では、「剣、銃、斧、槍などはそれぞれ特別な神をもっているとされ、さらにいっそう未開なカワル人の住まっているバンガワン地方では、家の中すべての道具類は精霊のすみかであると信じられ、その持主の許可を受けないで盗み去ったり破壊したりすれば、精霊は復讐のためなんらかの災害を与えると信じられている。そこには盗人などというものはいないとのことであるが、これは一つにこの信仰のためであり、また原地民たちが盗む価値のあるようなものを持っていないためでもあるらしい」
セイロンでは盗人が果樹を荒らすのを防ぐため、ある怪奇な像を果樹園の周囲にぶら下げ、これを悪魔どもにささげる。こうしておけば、どんな原地民でも果実を盗もうとはしない。そればかりでなく、祭司によってこの呪符を取り除いてもらうまでは、持主自身ですら果実をとろうとはしない。ここで祭司は、呪符の取りかたづけをした御礼として、いくつかの果実をもらうことになっている。
南アメリカのクマナ・インディアンは、その畑を一本の木綿糸でもって取り巻くが、これだけで保護の役目を十分にはたすことができる。これを犯せば死んでしまうと信じられているからである。ブラジルのジェリ人は、垣根の穴を防ぐため同様な簡単な方法を用いる。
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アンナンにおける財産の霊魂と呪詛とによる保護
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トンキン内地のアンナン人は、住居の隅に埋められた少女の死霊は、不寝番の役をつとめると信じている。もし夜盗が侵入して盗んだものを持って逃げようとすると、その耳には盗まれたものを一つ一つ数え上げる死霊の声が聞こえてくるので、胆をつぶしてなにもかも放り出したまま逃亡するという。それでも、ときによってはまんまと盗み去られることもあるが、その場合にはつぎのようにして盗まれたものを容易に取り戻すことができる。すなわち、台所からとった一塊の土と、一つまみの米と、卵の白身と、少しのアルコールとでもって、盗人の頭になぞらえた球をこしらえる。そしてこれを炉の火に投げこみ、線香をたきながらこのように呪文を唱える。「某年某月某日、何の某《それがし》はこれこれのものを盗まれた。犯人はわからない。厨房の守護霊よ、盗人の頭を炉の中に入れて、これを焼き尽くせ」これでも盗んだ物を返してこなければ、盗人は一カ月のうちに死んでしまう。
ニアスにおける盗人への呪詛
同じように、スマトラ西方のニアスの島でも、盗人がどうしても発見されない場合には呪詛がかけられ、この呪詛を強めるために生きたイヌが焼かれる。盗まれた人は、火の中で悶え苦しむイヌを眺めながら、盗人がこれと同じように悶死するように呪うのであるが、こうすれば、盗人はたいてい叫喚しながら死んでしまうといわれている。
この種の呪詛は、ボルネオの海ダイヤ人によっても同じ目的のために用いられて、著しい効果をおさめている。この事実について、ある宣教師は次のような証拠をあげている。
「ボルネオに二十年近くも住まって、その間に数え切れないほどの人々に接したが、ダイヤ人の間で窃盗事件はわずか二件しか起こらなかった。その一軒は米の盗まれた事件であった。米を盗まれたある女が、いともおごそかに、しかも公に、誰ともわからない盗人を呪った。するとその次の夜、その米はこっそりと戸口のところへ返されてあった。他の一件は銭の盗まれた事件であった。この場合にも盗人に呪いがかけられた。すると盗まれた銭の大部分は、もとその銭を入れてあったはこの中へまもなく返された。これはいずれも、ダイヤ人が呪詛を非常にこわがることを示している。まったく理由のない不当な呪詛でも恐いものと考えられており、ダイヤ人の律法によれば、全然理由のない呪詛をかける者には罰金が課せられることになっている。
ダイヤ人の呪詛は、聞くだに身の毛がよだつ思いがする。私はただ一度だけこれを聞いたことがあるが、もう二度と聞く気にはなれない。当時私はサリバス地方を旅行していたが、そこのダイヤ人の多くはコーヒー栽培に従事していた。ところで、ある女が自分のコーヒー畑の熟した豆を誰かが何回も盗んでいったと私に訴えた。熟したのを盗んでいったばかりでなく、盗人は、まだ青い豆を摘んではそれを地べたにまき散らし、そのうえまだ木の枝まで何本も折っていったというのである。私はたくさんのダイヤ人の男女に取り囲まれて、とある家の広間にすわっていた。話がふとコーヒー作りのことにふれた。すると、そこに居合わせた彼女がその経験を語り、盗人によってコーヒー豆の盗まれた顛末を語った上、その盗人は今晩ここにすわっている者のうちの誰かにちがいないといった。そしておごそかに犯人を呪い始めたのである。初めのうちは静かな声でやっていたが、しだいに狂乱の態《てい》となっていった。われわれ一同は、どうなることかと、ただ恐ろしさに呆然として聞いていた。誰一人として口出しをする者はなかった。その女は事件の顛末から説き始め、このような窃盗が長い間くり返し行われていることを訴えた。女のいうところによると、盗人が自分の行いの非を悟って悔い改めてくれることを願いつつ、初めのうちは誰にもいっさいそのことについては話さなかった。しかし窃盗はずっと引きつづいて行われ、どんな手段でもこの非行をやめさせることはできないとわかったので、とうとうやむをえず盗人に呪詛をかける、というのである。女は呪詛の言葉を一同に聞いてもらい、また助けてもらうために、水の精霊、山の精霊、空の精霊などを呼び出した。はじめは静かに呪っていたが、進むにつれてしだいに興奮していった。女はだいたいこんなことをいった――
『盗人が男なら、彼の行うすべてのことに不幸であれ。そのものは病気にかかれ。すぐには死なず、失望落胆し、いつも苦しみ悶えて、他人に迷惑を掛けるような病気にかかれ。そのものの妻はそむき去り、その子たちは今の彼のように懶惰《らんだ》な不正直者になってしまえ。そのものが戦いに出るときは敵のために殺され、その首は敵の手によっていぶされよ。船を漕ぐときには船が転覆し、そのものは水の底に呑まれてしまえ。魚を釣りにゆくときには突然ワニに襲われ、遺族たちがその死骸を見つけることができないようになれ。林で木を切るときには、大木が彼の上に倒れかかって圧しつぶれてしまえ。神々はそのものの畑を呪い、収穫をあげさせず、食物を与えず、乞食になればみなの者から断られ、最後には飢え死にしてしまえ』
『盗人が女であれば、そのものは子なしとなれ。よし懐妊するとしても、そのものは失望せよ。子を死産せよ。お産で死ねばさらによい。そのものの夫は不貞となり、彼女を軽蔑し、また虐待せよ。そのものがさいわいにして老人になるまで生きながらえるとすれば、子どもたちは皆そろって彼女を悲惨にしてしまえ。女の病気に悩まされ、歳とともに目はうすれ、まったく見えなくなったときにも、誰ひとりとして助け導く者もなくなってしまえ』
以上は彼女のいったことの内容にすぎない。すわってこれをじっと聞いていた人々の不気味な沈黙、それから恐怖にうたれた顔色を私は決して忘れることができない。私はその翌朝は早くその家を辞したので、犯人がその罪を告白したかどうか、呪詛の結末については知ることができなかった」
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古代ギリシアにおける盗人に対する呪詛
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古代ギリシア人は財産を保護するための安くて効果的な方法として、きわめて積極的に呪詛を用いたようである。これさえ心得ておけば、被害者の側では、くどくて金がかかって必ずしも効果の上がらない法律の手続きなどにたよらなくてもすむのであった。彼らはこの呪詛を、鉛その他の材料でできた板に彫りつけ、略奪せられるおそれのある場所、または犯人がその慈悲に委ねられている神の宮にこの呪詛を置くのである。
たとえば、デメテル、ペルセポネ、プルトンその他のきびしくて不屈な神々にささげられたナイダスの聖域内では、種々の犯人を二人の悪女神、デメテルとその娘との復讐に導く呪詛を彫りつけた鉛板がたくさん発見された。「彼はまた彼女は永遠にペルセポネの慈悲を受くることなかれ」とは、これらの呪詛の祈りのなかで必ずくり返される折り返しである。そして、この呪詛の祈りのなかで、罪人はただこの世で交わりを絶たれるばかりでなく、来世でも絶えることのない責め苦を受けるものと断罪せられている。このような呪詛をかける人物は、貴婦人である場合がしばしばである。ある怒った婦人は、その腕輪を盗んだ犯人や、下着を借りたまま返してこない不届き者を、地獄におちよと呪っている。スミルナで発見せられた一枚の大理石板に刻まれてある呪詛は、ある女神の聖なる器具を盗んだり、聖なる魚に傷を付けたりした者は、誰であろうと苦しい死に方をする、すなわち魚に食われてしまうと告げている。
あきらかにこのようなギリシアの呪詛は、今日のダイヤ人のそれと同じように、ときおりは罪人の改心ために効果をもたらした。その証拠として、メン・アジオッテノスという名の小アジアの月神にささげられた奇妙な題起文を読んでみると、ある罪人が神によって罰せられた結果、なだめの供物をささげて今までの罪を悔い改めた文句が見えているのである。
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神々と呪詛とによって保護せられる境界石
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境界石を移動することによって人々が隣人の所有地を侵略するのを防ぐため、ギリシア人は地界標をゼウス大神の特別な守護にゆだねた。プラトンは、このような聖なる石を移して事をたくらむ罪人が、神的人間的二重の罰を受けることを熱心に説き教えている。
ところが、ローマ人はさらに進んでいる。彼らは地界標を守護させるだけの目的で、一つの神を創りだしたのである。隣人の境界石を動かしたすべての者に向けられた呪詛をはじめとして、隣人の土地を耕すために使った牛に向けられた呪詛にいたるまで一つ一つききとどけていたとしたら、この神さまは、さぞかし目のまわるほど忙しかったことであろう。
ヒブル人の申命記法典は、隣人の地界標を移動した者にたいして、おごそかに呪詛を宣言している。
バビロニアの王たちは、土地の所有権を無視した無頼の悪人にたいして呪詛の洪水を氾濫せしめようと、想像をたくましうした。今日残存している一例によって判断することが許されるとすれば、失脚前のネブカドネザル王は、とくにその呪詛の豊富さと多種とによって有名であったようである。この資料からの簡単な抜萃は、王の威嚇的雄弁の形式がどんなものであったかを示してくれる。すなわち、大胆な悪人について、「たとい牧者であろうと統治者であろうと、代理人であろうと摂政であろうと、収税人であろうと長官であろうと」すべていかなる人間でも、「未来永劫に人類の世があるかぎり」王がいま区画した土地に手を触れる者があれば、「境界と境界石との主なるニニブの神は、その者の境界石を引き裂くであろう。大女神ダラは、その者の体の中に業病を送り入れ、黒血赤血を水のように流れださしめるであろう。国々の女神、その怒りは洪水となって表れるイシタルは、その者のうえに苦難をもたらし、災難から逃れえぬようにするであろう。偉大な主、強き火神、わが創造主なるヌスク神はその者の悪しき悪魔となり、その根を焼き尽くせ。誰でもこの石を移動したもの、土中に隠し、火に焼き、水に投げ入れ、垣のなかに閉じこめ、愚者、聾者、痴人をしてこれを取り去らしめ、見えざる所に隠す者を、この石の面に名の記された大神たちは呪いに呪い、その土台を引き裂き、その子孫を絶滅せしめるであろう」
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アフリカにおける所有権の保護者としての迷信
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アフリカでも同様に、迷信は私有財産の所有権の強力な味方である。たとえばバロンダ人は、森林のなかの喬木の木末にミツバチの巣を置き、その木の幹に呪符または「呪薬の一片」を結びつけて、巣を盗まれないようにする。これは十分有効な保護の役をつとめるのである。
リヴィングストンはいっている。「原地民はめったに他人のものを盗まない。それは、ある呪薬が病気と死とをもたらすと信じているからである。そして原地民は、この呪薬はただごく少数の者たちに知られているだけだと考えているけれど、ただもうさわらぬ神に祟りなしという態度でそれに対しているのである。これらの森林の暗い気味悪さも、人々の迷信的な恐怖を強めている。この威力を信じない人々のいる他の地方で、作物が盗み去られたある畑に、真正の呪薬をしかけたという布告を酋長が出したのを聞いたことがある。まえにそのところにしかけられた普通の呪符の力を冒して盗人たちが仕事をやったからである」
東部アフリカのワニカ人
東部アフリカのワニカ人は、「呪符と護符との力と効験とを信じ、種々さまざまなものを身につける。病気をなおすためやその予防のために、悪霊の駆逐または回避のために、蛇や野獣その他あらゆる禍を寄せつけないために、彼らは呪符や護符を脚、腕、首、腰、毛髪そのほか体のいたるところにつけている。盗人をよけるためには、色とりどりの瓢《ひさご》を小屋の入口のバオバブの木にぶら下げる。海岸筋のワナ・チュニ(書物の子たち)がアラビア文字をなぐり書きした貝殻、人形、卵などを畑のなかや果樹の枝につるして、これをおかした犯人には死が見舞うと信じている。ニワトリの脚に結びつけた呪符は、村に十分な守護を与えるものとせられている。住民はいちじるしく迷信的であるため、僅少な利得のため大きな冒険をすることをおそれるのは疑いのないところである。そこでこのような呪符が目的どおり役だつわけである」
上コンゴのボロキ人では、泉にカッサバの根を浸しておいた女がそれを盗まれたときには、ゴム樹脂を少々とって棒の割れ目につめこみ、その棒を泉の傍らに立てて、盗人に向かって呪いの言葉を叫ぶのである。そうすると、盗人が男であれば、それから後、漁運がなくなり、女であればいっさいの収穫がなくなってしまう。
南部ナイジェリアのエコイ人は、オクパタというシュロの葉の束をつかって、自分の畑が盗人に荒らされるのを防ぐ。このようにして保護せられている畑から盗む者は病気にかかり、やはりオクパタという踊りを踊らなければ病気はなおらないとされている。
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ダアフーにおける財産の守護霊ダムゾグ
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ダアフーの一地方、マルラア山岳地方では、家や品物や家畜などは、ダムゾグと呼ばれる激しくて危険な守護霊によって盗難から保護せられている。このダムゾグというのは、番犬を買うように買うことができるのである。このような霊的な保護者の守りのもとに、羊や牛どもは自由に野放しにされる。もし誰かがこのけものを盗んだり殺したりするような大それた真似をする者があったとすれば、その手は刃物を握ったまま獣の喉の辺りに金縛りとなり、持主がきて彼をひっ捕らえるまで身動きすることもできないので、まったく心配は無用である。
ダアフーを旅行したアラビア人の一商人は、この霊験あらたかな守護者を手に入れる方法について、このような話を一人の友人から聞いたという。
「私がはじめてこの商売をはじめたころ、ダムゾグを売ったり買ったりすることができるということをたびたび耳にし、それを手に入れるには、ダムゾグの持主のところへ申しこんで、値だんを取り決めなければならないのだと聞いた。取引が決められると、大きな瓢《ひさご》にいっぱいの乳を売り手に贈らなければならない。売り手はいくつかのダムゾグの置いてある彼の家へ、それを持って帰るのである。家に戻ると彼はダムゾグどもに一礼してその前に進み、持参したものを釘に掛けていうのである。『私の友だちの一人、大金持ちの某は盗人をおそれ、守護霊を送ってくれるように私に頼んだ。あなたがたのうちの誰か、彼の家へ移って住まってやってはくれまいか。あの家は恵まれた家だから、乳ならふんだんにある。私が今ここに持参した乳がその証拠だ』ところが、初めのうちはダムゾグどもはその招きに応じようとしない。『いやいや』彼らはかぶりを振る、『誰もいってはやらないよ』。そこで、小屋の主人は彼らが彼の願いを聞いてくれるよう懇願していう、『おお、誰かゆきたい者を瓢《ひさご》のなかにくだらせよ』。そしてちょっとの間その場をはずすと、たちまちダムゾグの一つがポチャンと乳のなかに飛びこむ音が聞こえる。えたりとばかり飛び出していって、乳の器にナツメヤシの葉でつくった蓋をパタリとするのである。こうして蓋をしてから乳の器を釘からはずし、それを買い手に渡す。買い手はそれを持ち帰って自分の小屋の壁に掛け、奴隷かその妻かにいっさいの世話をまかす。世話をする者は毎朝その瓢を取りはずして乳を捨て、よく洗ってからまた新しい乳を入れ替え、またそれをもとのところに掛けておく。その後この家は盗人にはいられることもなく、他の災厄を受けることもないのである」
この商人の話し相手、シリイフ・アアメド・ベダウイその人も、このような守護霊の一つを買ったのであるが、職務の遂行にはまことに忠実で、りっぱな効果をあげた。どちらかといえば、その熱心さは極端にすぎるほどであった。というのは、主人の者を盗もうとした奴隷どもを何人も殺したばかりでなく、シリイフの息子で親不孝の若者が父親の店の物を盗もうとしたというので、これも容赦なく殺してしまったのである。シリイフもこれにはまいってしまった。そこでこの乱暴な守護霊を追い払うために力をかりようと、多勢の友達にきてもらった。彼らは鉄砲でもって武装し、弾薬をたずさえて馳せ参じ、店を包囲して一斉射撃をくり返した結果、ようやくその霊を退散させることに成功したのである。
鍛冶屋と陶工の呪詛
英領東部アフリカのナンジ人では、誰も鍛冶屋のものを盗もうとはしない。なぜかというに、もし盗んだ者があったら、鍛冶屋はその炉に火を入れ、鞴《ふいご》を盛んに動かして火炎をあげながら、盗人が死んでしまうようにと呪うからである。
この原地民の間では陶工は女ときまっているが、誰もその持ち物を盗もうとしない。それはその復讐として陶器を灼熱して盗人を呪い、「壺のように爆《は》ぜよ、家は赤くなれ」という。すると呪われた犯人は死んでしまうからである。
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西部アフリカにおける財産保護の呪詛
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ロアンゴでは、人がしばらくの間その家を留守にしようとする場合には、木の枝にいくつかの瀬戸物の破片か、まあそれに類する屑物をつけてこしらえた呪符または呪物を家の前に置いて、盗人の侵入を防ぐ。聞くところによれば、もっとも凶悪な盗人でも、このような神秘的なシンボルによって保護せられている戸口を侵そうとはしないということである。
ギニアの海岸では、ある種の窃盗の探知と刑罰の目的で、しばしば呪物が用いられる。その場合、ただに犯人が罰せられるだけでなく、犯人の罪を知りながらそれを通告しなかった者もまた、この呪物によって罰せられるのである。このような呪物が設置せられたときには、全部族民に対して警告が発せられるので、これをおかす者はあらかじめ危険を覚悟しなければならない。一例をあげると、ヒツジの盗難を防ぐ呪物が設置せられ、例のように警告が発せられたことがある。ところで、たまたまこの警告を知らなかった奴隷がヒツジを盗んで友人と分けるつもりでそこへ持っていったのである。この友人はこれまでにもたびたび盗品の分けまえにあずかったことはあったが、今度は呪物の脅威が胸にぴんときて、分けまえにあずかる気にはならなかった。彼は盗人を密告してしまった。その結果盗人は裁判にまわされ、長い苦しい病気の後に死んでしまったのである。この地方の人々は、呪物が彼を殺したとかたく信じて疑わなかった。
西アフリカ海岸のユウ諸族では、家屋と家財は護符によって守られている。この護符は、神々にささげられたものである、あるいは神々に属するものであるところから、その威力をそなえている。森林のなかの空き地の農作物もこのような護符の保護のもとにおかれるが、これはおおむねどこか目立つような場所の、長い棒に結びつけておかれる。このようにして守られたものは、略奪からまったく安全である。また、小径の傍らに食べ物やシュロ酒のようなものをむきだして売りにだしてあるが、用心のために呪符を一つ置くだけで、なんの設備もしてない。それぞれの品物の上には、いくつかの貝殻をおいてその値段を表示してある。けれども誰ひとりとして、代金をそこへ置かずに食べ物や酒などを取ろうとする者はない。呪物の主である神が、盗みの罰として与える神秘的な災難をおそれるからである。
シエラレオネでは、呪符はグリイグリイと呼ばれているが、これはしばしば盗難予防のために畑に置かれる。また、「オレンジの樹につけられたすこしばかりの古いぼろ切れは、かならずとまではゆかないにしても、だいたいヘスペリデスの竜どもによって守られていると同じくらいたしかに、果実を安全にしてくれる。誰かが病気にかかり、もし数カ月まえに果実その他のものを盗んだことを、あるいは原地民の言いならわしに従って『やわらかに』取ったことを思いだすとすれば、すぐにワングカが彼を捕らえたと想像する。そして病気を治すためには盗んだ物の持主のところへ自身でゆくか使者をたてるかして、相手方の要求するどんな償いでも応じなければならない」といわれている。
西インドにおける財産保護の呪符
同じような信仰が黒人によって西インド諸島に移入せられた。そこでは呪術はオビ、呪術師はオベエと呼ばれた。伝えられるところによると、この地でもさすがに心臓の強い黒人ですら、「略奪を防ぐためにアシ草のなかに置かれたり、小屋の入り口に掛けられたり、果樹の枝に結びつけられたりしてあるぼろ切れの束や、卵の殻などを見ただけでふるえあがる。……黒人がニワトリやブタを盗まれたときには、すぐ男か女の呪術師に訴える。ここで村じゅうの黒人たちに、犯人には呪術のかけられたことが通知せられる。この恐ろしい通知を聞いた黒人たちは、たちまち想像力を働かせ始める。こうなっては、その呪術師の呪術を破るほどすぐれた術を心得た隣村のさらにえらい呪術師の力にたよるほかにのがれる道はないのである。しかし、もしこのような位が高くて術のすぐれた呪術師を見つけてくることができなければ、また、もしこのような助け手をうることができたとしても、なおも呪いが解けていないように感じる者は、切迫した災難の絶えざる恐怖におののきながら、たちまちぐんぐんと衰弱してしまうのである。頭、腹、その他の部分のごく微妙な痛みの感じ、原因のわかりきっている損失や負傷のようなものまでが、彼の不安感を助長してゆき、不可視の恐ろしい力のまえに屈服していく。睡眠も食欲も、元気も彼を見すててしまう。体力は消耗し、歪められた想像力は休みなく駆けめぐり、顔色は絶望の深い凄惨さを刻み、汚物その他の不潔なものだけ食べるようになって、体の病的悪癖をつのらせてゆき、しだいしだいに墓場の中へと沈んでゆくのである」すなわち、迷信が彼を殺してしまうのである。
結論
このような実例は、おそらく枚挙に暇のないほどあるであろう。しかし、多くの民族、世界の各地において、迷信的恐怖が窃盗から人を遠ざける強力な動機として働くことを証明するためには、以上あげたいくつかの例で十分であろう。
もしこれに誤りがないとすれば、私の第二の命題――すなわち、あるいくつかの民族では、そしてまたある時代においては、迷信は所有権に対する尊重の念を強め、その結果、その安全確保のために寄与するところがあった、ということは証明せられたと考えてよろしいであろう。
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四 結婚
性的道徳の支柱としての迷信
私はつぎに第三の命題に移る。すなわち、あるいくつかの民族では、そしてまたある時代においては、迷信は結婚に対する尊重の念を強め、その結果、既婚未婚の区別なく、すべての人々の間にはなはだ厳格な性的道徳を確立することに寄与するところがあった、という命題を検討してみよう。これが真実であることは、以下の諸例によってあきらかにせられると思う。
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姦淫または私通が農作物をそこなうと考えるカレン人
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ビルマのカレン人では、「姦淫または私通は、農作物をそこなう強い影響をあたえるものであると信じられた。それで村の農作が一年または二年にわたって不作であったり、雨が降るべきときに降らなかったりすれば、原因はこの種の秘密な罪にあるとせられ、天と地の神はこの罪を憎んで人々を怒るといわれる。このために村人たちはこぞって神をなだめる供物をささげるのである」また姦淫や私通事件が明るみに出たときには、「長老たちは次のようなことを決議する。すなわち犯人どもはブタを買って、それを犠牲として屠《ほふ》らなければならない。そして女がブタの脚を一つ、男も同様に一つとって、それでもって地面に溝を掘り、溝をブタの血でみたす。次に自分たちの手で地面を引っかきまわして、次のように祈る。『天の神、地の神、山と丘の神。私は土地の実りをそこなってしまいました。私は今、山々を贖《あがな》い、丘々、河川、土地と和解いたします。この土地に農作の失敗あらしめたもうな。この地を、その果てまでも豊かならしめたまえ。あなたの水田を豊かに実らしめたまえ。青物をしげらしめたまえ。耕さずとも、なお幾分のものを恵みたまえ』おのおのこう祈ってから家へ帰り、地を贖ったと告げるのである」
このように、カレン人によれば、姦淫または私通は、ただ単に犯人とその家族だけに関する道徳的な罪悪というにとどまらず、それは土地を疲弊せしめ、その豊饒性を破壊することによって、実質的に自然の運行を妨げるのである。それは、食糧供給の道を根本から断絶することによって、社会全体の存在そのものを脅かす由々しい公的犯罪なのである。しかしながら、これらの罪が土地に与えた実質的な害は、ブタの血を土に浸みこませることによって、再び実質的に贖うことができるのである。
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アッサム、ベンガル、アンナンでは性的犯罪が破壊的結果をもたらすと信じる
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アッサムの諸部族のうちのあるものは、同様に農作と人間の性的行為との間の関係を認める。彼らは、作物の収穫の終わらないまえにすこしでも不節制があれば、すっかり収穫をそこなってしまうと信じている。
また、ベンガルのラジャマハル付近の山間民族は、姦淫が行われてそれが明るみに出されず、そして贖われない場合には、そのために村人たちは疫病に襲われるか、トラその他の猛獣に襲撃されると信じている。このような災害をさけるためには、罪を犯した女がその罪を告白しなければならない。男のほうはブタをもってこなければならない。ここで男女の者は、彼らの罪を洗い清め神の怒りを和らげると信じられているブタの血を振りかけられるのである。村が疫病に襲われたり野獣の襲撃を受けたりしたような場合、人々はこの災厄は秘密の不道徳に対する神罰であると信じて疑わない。そして、この災厄は正しく贖わなければならないので、犯人どもを発見するために奇妙な占易の方法を用いるのである。
アッサムのカアシ人は多くの氏族に別れ、諸氏族は外婚を行う。つまり、男子はすべて彼自身の氏族の女子とは結婚しない。もし男が同じ氏族の女と同棲したことが露見すれば、それは近親相姦として取り扱われ、大きな災厄の原因になると信じられた。氏族員は雷にうたれ、あるいはトラに食われ、女は産褥中に死んでしまうなどである。罪を犯した男女は、氏族員の手によって祭司のもとへ連行され、ブタと山羊とを犠牲にして供えさせられる。それがすむと二人は放逐される。彼らの犯した罪はどうしても贖うことができないからである。
アンナンの山間の野蛮な部族であるオラング・グライ人も同様に、密通はトラによって罰せられ、罪人はトラに食われると信じている。もし娘の身でありながら妊娠していることがわかったなら、その家族は怒っている諸霊をなだめるために、ブタやニワトリや酒でもって酒盛りを行わなければならない。
スマトラのバッタ人のいだく同様な見解
スマトラのバッタ人も同様に、もし未婚の女が妊娠すれば、その相手が低い階級の者であっても、すぐに結婚しなければならない。そうしなければ農民たちはトラに襲われ、畑の作物は不作に終わるからである。また彼らは、人妻の密通はトラやワニその他の野獣の禍いを招くと信じている。彼らの考えるところによると、近親相姦はその罪をすぐに贖わなければ、収穫をすっかりしなびさせてしまう。部族全体を襲う疫病その他の災厄は、ほとんどつねに近親相姦のせいにせられる。ここで近親相姦とは、彼らの慣習にふれる結婚のことである。
スマトラの西にあたるニアスの島の原地民は、豪雨を姦淫または私通に対して泣く川の涙によって起こされたものであると想像する。この罪に対する罰は死である。二人の犯人、すなわち男と女とは、それぞれの頭だけ地面に出るようにして、一つの狭い墓穴に埋められる。そして槍でもって喉を突かれるか、刀で切られるかして、全体に土をかけられる。しばしば生きながら埋葬されるともいわれている。しかしながら、裁判人たちはつねに清廉であると決まっておらず、被害者の家族たちも必ずしも利得の誘惑に負けないではない。そこで、傷つけられた名誉に対する十分な贖いとして、金銭的賠償が、ときとして受け取られるのである。しかし、被害者が酋長である場合には、犯人はどんなことがあっても死刑をうけなければならない。おそらくこのような厳格さのためであろう、姦淫と私通の罪はヨーロッパよりニアスのほうがはるかに少ないといわれている。
ボルネオの諸部族における同様な見解
同じような見解が、ボルネオの多くの部族でもあまねく行われている。たとえば、海ダイヤ人について、副監督パアハムは次のようにいっている。「未婚の男女間の不道徳は、ペタラのもたらす罰として、地上に雨の災害をもたらすと信じられている。この罪は供犠《くぎ》と罰金とによって贖わなければならない。良い天気を求めるためにときどき行われる祭儀にあたって、長雨は若い二人の不道徳の結果だと述べられている。それで、ペタラがなだめられ、罪人たちがその家庭から放逐されると、悪い天気は回復するといわれる。姦淫した者たちの通っていった地方はどこでも、適当な犠牲がささげられるまでは、神々の呪詛をうける」
くる日もくる日も雨が盆をくつがえすように降りつづき、作物が畑で腐ってしまうようなことがあると、このダイヤ人は誰かが肉の欲にふけりつづけているとの結論をくだす。長老たちは鳩首凝議して、近親相姦や重婚をことごとく審判処分したうえ、ブタの血をもって地を清める。この未開人にとってブタの血は、ちょうど古代ヒブル人が羊の血をそう考えたように、道徳的罪科を贖う尊貴な特質をもつものである。その昔は、全地方を危殆《きたい》におとしいれるような淫蕩の罪を犯した者は、死刑に処せられるか、かるくて奴隷に落とされたうえ罪をうけなければならなかった。
ダイヤ人は地からの悪い影響をさけるため、バアガプトと称する特殊な儀典をとり行ってからでないと、その初|いとこ《ヽヽヽ》とは結婚しない。二人の者は水の畔におもむいて、小さな壺に身のまわりの飾り物を入れ、それを川の中に沈めるのである。壺のかわりに小刀と皿とが水の中に投げこまれることもある。その後でブタが岸辺で犠牲とせられ、血ぬられた屍が壺のあとから投げこまれる。つぎに二人は友達によって水の中へ押しこまれ、いっしょに沐浴するよう要求される。最後にタケの筒の中にブタの血がみたされ、二人はその血を地に振りかけながら、あたりの村々を巡り歩く。こうしてすべてのことがとどこおりなく終了すれば、初めて自由に結婚することが許されるのである。この儀典はいとこ同士の結婚によってイネが不作とならないように、その地方全体のためにとり行われるものだといわれている。
サラワクのダイヤ人部族の一つであるシビヨウ人は、娘達の貞操をきわめて厳格に監視する。もし未婚の女が妊娠するようなことがあれば、天なる諸々の力に対して罪を犯すことになり、その力は犯人をこらしめるかわりに、つねにいろいろな災厄を人々に与えて部族全体を罰すると信じるからである。それで、このような罪を犯した者のあることがわかれば、部族民は当の男女に罰金を課し、怒っているもろもろの力をなだめ、降りかかってくる病気その他の災厄をさけるために、ブタを犠牲としてささげるのである。部族民はなおそのうえに、犯人の家族に対して、この供犠のとり行われるまえ一カ月間に起こったすべての事故や溺死のために罰金を申しつける。犯人の家族は、このような災厄に対して責任があると考えるからである。重大な、あるいは致命的な事故に対して課せられる罰金は重く、単純な負傷に対しては軽い。目の前に見せつけられた刑罰のおそろしさから、両親はその娘の行動についても監視を怠らない。
バタング・ルパア河畔のダイヤ人は、未婚の女の貞操をさほど厳格に監視しない。しかし、卑しからぬ家庭にあっては、もし娘の不貞操が露見すれば、その罪を洗い清めるためにブタを犠牲として、その血を戸に振りかけるのである。
ボルネオの山ダイヤ人は、近親相姦をおそれて、|いとこ《ヽヽヽ》同士の結婚をすら許さない。一八四六年のこと、バダット・ダイヤ人はヒウ・ロウ氏に向かって彼らの酋長の一人が実の孫娘と結婚して村の平和と繁栄とを妨害したと不平をもらしたことがある。彼らのいうところによると、あのいやらしい出来事のあってこのかた、明るい天気は一日としてその地方には恵まれなかった。毎日毎日雨と暗闇ばかりで、もしこの禍根を断ってしまわなければ、部族はすぐにも滅亡してしまうばかりになった。そこで、この老いた罪人はその位を剥《は》がされてしまったのである。その妻をそのままにしておくことはひとまず許されたけれども、この不釣合いの夫婦の間のいさかいは、品行方正な村人たちに大きな苦痛を与えることとなったのである。
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近親相姦の罪人を死刑に処するボルネオの諸部族
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ボルネオの異教的諸部族一般、わけてもサラワクの諸部族の間では、「ほとんどすべての罪咎《つみとが》がただ罰金によってのみ罰せられる。これよりも重い刑罰が必要だとされているいくつかの罪悪のうち、最悪と考えられているものが近親相姦である。これは部族全体にゆゆしき危機を、とりわけパディの作物の失敗による飢餓の危機をもたらすといわれている。
この罪に対しては通例二つの罰が定められている。もし犯人の罪が明白でいなみがたい場合には、彼らはその家から少し離れた川の畔に引かれる。そこで男女は地上に重ねて横たえられ、鋭く切りそいだタケでもって体を刺し貫かれ、そのまま地面に串刺しにされるのである。このタケはやがてそこに根をおろして繁茂し、その辺を通りかかる人々に無言の警告を与える。その場所がすべての人々によって恐がられ、忌み嫌われるようになるのはいうまでもない。刑罰のもう一つの方法は、丈夫なヤナギの籠に罪人たちを押しこめ、それを川の中へ投げこむのである。前者が同族の血を流すことに関しているため、死刑執行人の役を引きうけて罪人たちに竹槍を突き通す人をうることがむずかしいので、それにかわるものとして後者の選ばれることがあるのである。
もっとも普通に行われる近親相姦は、養父と養女の場合である。そして(あきらかにこの例がはなはだ多いので)、これはもっともきびしく禁止されている。近親相姦の二人に対する刑罰は、なお彼らが社会全体に与えた危険を払いのけるに十分ではない。その一家は数匹のブタと何羽かのニワトリの血でもって清められなければならない。そのために用いられる動物は、罪人またはその家族の所有である。罰金はこの方法で課せられる。
カヤン人は、何ごとか災厄が家族を脅かしたり降りかかってきたりした場合、わけても家屋やその一家の墓が流れてしまうほど川が氾濫するような場合には、彼ら自身の家かその隣家で近親どもが不倫の罪を犯したものと考える。そしてその証拠を捜しまわり、普通ならけっして露見しないような事件をときおりあばきだすのである。このカヤン人の場合と、うえに述べた二つの刑罰の様式の後者との間には、ある密接な関係がありそうにみえる。しかし、この関係についての確証はない。
プナン人を除くこの地方のすべての部族は、死をもって近親相姦を罰する。海ダイヤ人の間でもっとも普通な近親相姦の型は、若者とその|おば《ヽヽ》との間のそれであって、これはその他のすべての型と同様に重大視されている」
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悪と混乱とが姦淫によってもたらされるとのダイヤ人の見解
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海ダイヤ人の見解によれば、全社会を危機におとしいれるものは、ただ醜悪きわまる近親相姦の罪ばかりではない。同様なおそるべき結果は、未婚の女の妊娠が露見して、その情夫の名をいうことができないか、いおうとしないかという場合にも降りかかってくるのである。聞くところによれば、「もっとも不名誉なことは、女の妊娠が発覚し、しかもその情夫の名を告げることのできない場合である。そこでこの恥をさけるため、自ら毒をあおることもけっして珍しくない。このような状態を発見せられた女は、ブタその他のものを持って罰金を支払わなければならない。部族民すべての者、酋長たちですら、重大な責任を負わないですむ者はない。ここで女の父親になぞらえたブタが屠られる。他により良いものはないと考えられているからである。その周囲の人々は、それぞれ罰金を分け払わなければならない。もしそれが支払われない場合には、女は自分の部屋に閉じこもって出てこようとはしない。このような女は住民とその持ち物に悪と混乱とをもたらすと信じられているために、外出すれば虐待されることをおそれるからである」
オランダ領ボルネオにおける同様な例
以上述べたいくつかの例は、とくに英領ボルネオ諸部族に関するものであった。ところが同じような考えかたや慣習が、オランダ領ボルネオの同種諸部族でもあまねく行われている。たとえば、その島の内地のカヤン人またはバハウ人は、姦淫が精霊によって罰せられ、その罰としては部族全体に作物の凶作その他の災厄が降りかかってくると信じている。それで、部族内の罪なき人々がこのような災厄を免れるため、二人の犯人はその持ち物もいっしょに、川の真ん中の砂州に移される。彼らを孤立せしめ、部族から絶縁せしめて、道徳的あるいはむしろ物理的伝染の蔓延を防ぐためである。次にブタとニワトリとが何匹か犠牲とされ、その血を女祭司たちが犯人の持ち物に塗りつけて消毒する。最後に男女の者は筏《いかだ》にのせられ、卵を十六個だけもって川を流れ下るにまかされる。彼らは水中にとびこんで岸に泳ぎつき、その命を自ら救ってもよいことになっている。おそらくこの筏流しの刑は、水中に投じて死刑に処した昔の刑罰の緩和であろう。というのは、恥じらってぬれネズミとなっている二人に向かって、若者たちは槍になぞらえた長い草の茎を、雨とそそぐのである。
ダイヤ人のある部族が、近親相姦の罪を罰するため、石を入れた別々の籠に男と女を押しこめ、それを川に投じて溺死させる方法をとっていたのは、これを裏書きするものである。彼らが近親相姦ととなえているのは、親子の間、兄弟と姉妹の間、おじ・おばと甥《おい》・姪《めい》の間の性的関係である。この地に住まっていたあるオランダ人は、不倫関係のゆえに命を奪われようとした|おじ《ヽヽ》と姪とを助けるために非常な苦心をした。最後に彼は二人のものを、ボルネオの奥地に逃亡させることができたという。
ボルネオ内地の他の部族であるブル・ウ・カヤン人は、未婚の男女間の不品行は精霊によって罰せられ、その罰として収穫、漁、狩りなどが不成功に終わると信じている。このため犯人どもはブタを一匹犠牲として供え、ある定められた量の米をそなえて、精霊の怒りをなだめなければならないのである。
東部ボルネオのパシル地方では、近親相姦は飢餓、疫病その他あらゆる災厄をその地にもたらすと考えられている。シラムの島では、不貞であることを確認された男は、ブタとニワトリの血を村の各戸に塗りつけねばならない。これが彼の罪をぬぐい去り、村から災厄を追いはらうと信じられている。
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凶作その他の災厄を近親相姦の結果とみるセレベス人
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南部セレベスでは、農作物が凶作であった場合には、マカッサル人やブギタ人たちは、それを近親相姦が行われ精霊たちが怒っている確実なしるしであると考える。一八七七年とその翌年とにわたって、西の季節風が少しも吹かず、そのため稲作は皆無となり、かてて加えてウシがマラリアのためにばたばたたおれてしまうという惨事が起こった。ちょうどこのころ、カタラルの牢獄に近親相姦のかどで一囚人が投獄されていた。地方の人々のある者たちは、この囚人の引き渡しをオランダ総督に願い出た。一般の意見によれば、その罪人が相当の刑罰を受けるまでは、この災厄はいつまでも続いて起こるというのである。総督は百方説得したすえ、ようやく彼らを静かにその村へ引き取らせることができた。この囚人は間もなく刑期を終えて出獄はしたが、土地にいては生命が危ないと感じて、自ら願い出て遠くの島へ逃亡する機会を与えられた。
たとえ不倫の男女を裁判にかけるようなことがあっても、彼らの血を流してはならないとされている。もしこのような罪人の血で土地が汚された場合には、川は干あがって魚の供給が不足するようになり、田畑の収穫や菜園のものなどがそこなわれ、食用の果実類が不作となり、家畜や馬などに疫病が流行し、村には紛争が絶えぬようになり、その地方全体にわたってあらゆる災厄に悩まされると信じられているからである。それで、罪人に対する刑罰は、その血を流すことをさけるようなものでなければならない。普通は罪人二人を一つの袋に詰めこみ、それを海中に投じて溺死させるのである。このとき死出の旅路になくてはならない糧食、米、塩、干魚、ヤシの実などの入った袋を持たせてやり、キンマの葉を三口ほどつけてやることも忘れない。
われわれはここにおいて、古代ローマ人が国賊を袋に入れて海中に投げこむさい、イヌ、おんどり、毒蛇、サルなどを二匹ずつ同じ袋に入れてやったわけを理解することができるようである。彼らはおそらく、このような凶漢の血を地上に流すことによって、イタリアの国土を汚すことをおそれたのであろう。
中部セレベスのトモリ人では、近親相姦の罪人は絞殺された。たとえ一滴といえどもその血を地上に流すことは許されない。そんなことがあれば、イネはけっして二度と生育しないのである。おじと姪の関係は、彼らによっても近親相姦とされているが、しかしある供物によって贖われることができる。すなわち、男女の衣服を一枚ずつ銅の器にのせる。犠牲動物、それはヤギかニワトリかであるが、その血を衣服の上にそそぎ、銅器をそのまま川に浮かべて流すのである。
中部セレベスの他の部族であるトロラキ人は、近親相姦の罪を犯して自分を汚した者を、籠に押しこめて溺死させる。この種の罪人の血は、たとえ一滴といえども地上に流してはならない。そんなことがあれば、地からの収穫は永久に断たれてしまうような悪影響をうけるからである。
中部セレベスのトラジヤ人は、親と子、兄弟と姉妹の性的交渉を近親相姦とするが、それに対する刑罰は死である。そして、単純な姦淫に対する死刑が槍、または刀をもって執行せられるに反し、近親相姦に対する死刑は、島嶼諸部族では一般に撲殺によるか絞殺によって執行せられる。それは、犯人の血が地上にしたたれば、その地は不毛となってしまうからである。海岸地方では、この種の罪を犯した男女を一つの籠に押しこめ、重りとして石をつけて海中に投げこむ。近親相姦の罪人に対する死刑のこのような定型は、聞くところによれば、その刑の執行を非常に残酷なものとする。しかしながら、われわれにこのような資料を与え、長年にわたって彼らといっしょに生活してきた記者たちは、「近親相姦は稀有のことである。あるいは、むしろ露見する場合がきわめてまれである」と付け加えている。
中部セレベスのある地方では、いとこ同士の結婚は、彼らが二人の姉妹の子どもである場合には、死の苦痛において禁止されている。このような結婚は精霊を怒らせ、イネやトウモロコシはそのため不作になってしまうと人々は考えている。厳格にいえば、罪を犯したいとこたちは、いっしょに縛りあげられ、石を重りにつけられ、水の中へ投げこまれねばならない。しかし実際には、罪人たちの命は助けられ、スイギュウかヤギの血を流すことによってその罪は贖われる。その血と水と混ぜ合わせ、稲田にふりかけたり、トウモロコシ畑にそそぎかけたりするのであるが、これはあきらかに怒っている精霊をなだめ、不毛となるおそれのある土地の豊饒性を回復するためである。この地方の原地民は、兄弟と姉妹とが不倫の罪を犯したなら、その部族の住まう土地は陥没してしまうと信じている。それで、もしこのような罪を犯す者があれば、二人をいっしょに縛りあげ、足に石の重りをつけて、海中に投げこむのである。
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ハルマヘラでは長雨、地震、火山の噴火などは近親相姦によって起こされると信じられている
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インドの東の他の大きな島であるハルマヘラのガレラル人は、雨が滝のように降ってやまないときには、兄弟と姉妹、父親と娘、すなわち簡単に言えば誰か近親の者たちが密通しているからだといい、すべての人の前に罪を告白しなければならないとしている。そうしてこそはじめて雨の降るのがやむからである。迷信はくり返しくり返し、あるときは正しく、あるときは不当に、血族の者どもを近親相姦のかどで処罰されるように仕向けた。さらに人々は、たとえば激しい地震であるとか、火山の噴火であるとかいうような恐ろしい自然現象は、同じ種類の罪悪によってひき起こされるものと信じている。このような罪に対して罰を宣告された者はタアネエトに連れてゆかれる。以前はそこへの途中でしばしば溺死せしめられ、あるいは拘引の途中で火山に投げこまれたといわれる。
セレベスの東にあたるバンガイ半島では、地震は不義密通にふけったことに対する悪魔の処罰であると説明されている。
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アフリカでは性的道徳の無視は地の実りをそこない、自然の運行を妨げたりすると考えられている
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アフリカのある地方でも、性的道徳の破壊は自然の運行を妨げ、とくに土地の実りを衰弱せしめると信じられている。おそらくアフリカ大陸では、われわれに与えられた断片的な証拠によって想像されるよりも、このような見解はさらにひろく行われていると思われる。
たとえば、西部アフリカのロアンゴの黒人たちは、まだ幼い少女との性的関係は神によって罰せられ、干ばつとそれに続く飢餓とがもたらされる信じ、この状態は王と民の集会の前で裸踊りをおどって罪を贖うまで続いて起こると信じている。この裸踊りにあたって、群衆は鞭で打たれている二人の罪人に向かい、焼けた小石やガラスの破片などを投げつけるのである。この国では九月が雨期となっているが、一八九八年には長い干ばつがつづいた。十二月も終わりに近づいたころには、太陽にやかれて実を結ぶことのできなかったインドムギは、枯れた葉茎を風にサラサラと鳴らせるだけであり、豆は赤く乾ききった土のうえに枯れて黒くなり、サツマイモのつるは枯れ果てている。民衆はその統治者に対して、土地の根本的な力に関する職務怠慢を責めたてる。占いを求められた聖なる森林の祭司たちは、神と国の伝統と律法を守らなかったある不明の人々の不道徳のゆえに、神がその地に怒りをくだしているのであることを発見した。臆病な老王は逃亡してしまった。しかし王の部屋で摂政の役をつとめていた一人の奴隷は、その国の酋長たちに布告をだして、神の怒りの原因をなしている者どもがその村にいることを告げ知らしめた。そこで酋長たちは民衆を呼び集めて必要な糺明をしたところ、三人の娘たちが国の慣習を破っていたことが発見されるにいたったのである。その三人の娘たちは、「彩られた家」と呼ばれているものを出ないさきに妊娠していたのである。「彩られた家」というのは、年ごろに達したしるしとして、ある一定の期間、赤く塗られて隔離されることを意味するのである。民衆は激昂して娘たちの処刑を要求し、死刑を主張する者すらあった。この事件を報じたイギリスの記者は、犯人たちが長官の前に連行されたその朝になって雨が降ったということは、つけ加えておく価値が十分にあるといっている。
ロアンガのバヴィリ人はトーテム民族に分かれていて、男はその母の氏族の女と結婚することをけっして許されない。この結婚の律法を犯せば神は彼らを罰し、雨のなくてならぬ季節にも雨を降らせないと信じられている。
性的な罪悪が農作物を枯死させてしまうような影響を与えるという同様な考えが、イギリス領東アフリカのナンジ人にもあるようである。その証拠として、次のようなことが報告されている。もし戦士が娘を妊娠せしめた場合には、その娘は「罰として絶交され、お産をして生まれた子を葬ってしまうまでは、どんな女友達でも彼女に話しかけたり見たりしてはならない。また彼女は生涯人々の白眼視のうちに過ごさねばならず、穀物を汚すおそれがあるためけっして穀倉の中を見ることを許されない」
バスト人も同様に、「穀物が外にひろげられてある間、すべての汚れた人間は細心の注意をもってそこから遠ざけられる。収穫物を家へ持ち帰るため、このような状態にある人々の助けを要する場合には、彼は袋に穀物を入れる間やや距たったところにおり、それをウシに背負わせるときになってはじめて近づくことを許されるのである。そして荷物が家に下ろされるやいなやその場を退き、たとえどんな口実がつけられるにせよ、穀物を貯蔵用の籠に詰める手助けをしてはならない」
このように穀物を取り扱うことに関して人間の行動を制限する汚れの性質については記されていないが、おそらく不貞の罪こそそれであろうと推測される。なぜかというに、バスト人では子供の生まれたときに木片の摩擦によって新火をその家におこす習慣があり、これは童貞の若者によってなされねばならないとされているのである。ところで、童貞を失ったあとで偽ってこの神聖な役目を引き受けた者は、天寿を全うすることができず、かならず夭折すると信じられているからである。
モロッコでは、穀倉にはいる者は誰でもまず履き物をぬがねばならず、性的に清潔でなければならないとされている。もし不潔な者がそこにはいれば、穀物がその祝福された力を失うばかりでなく、彼自身も病気になるといわれている。あるバーバリ人はウェスターマーク博士に向かって、清からぬ身で穀倉にはいったがためにひどく痛い腫れ物に悩まされたと話したとのことである。モロッコでは、この同じ掟が野菜畑にも適用される。ただ性的に清潔な人だけがそこにはいることを許され、これに反すれば野菜も当人もそのためにそこなわれるのである。
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ジンカ人は近親相姦の罪が不妊となって現われると信じた
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上ナイルのジンカ人の信じているところによると、近親相姦は祖先の霊を怒らせ、その罰として女は不妊となる。結婚したとしても、その罪を懺悔し罪の贖いがなされるまでは、子供をもつことができない。その情夫は、犠牲として、牛を提供しなければならない。男の父親がこれを犠牲として屠殺すれば、女の父親は犠牲動物の大腸から少しばかり内容物をとって、それをわが娘の腹の上と、その罪の友人の腹の上とに塗るのである。こうして初めて罪の汚れはぬぐいさられ、女は子どもを産むことができるとされている。
トンガの北に当たる地方に住む二つの部族、マルーレク人とヘレングー人とは、若者が自分の妻でない娘を妊娠させたときには、その村でたくさんの人々が死ぬと信じている。それで、娘の妊娠が露見すれば、その恋人は罰金の形式で娘に償いをしなければならない。
幸運獲得の手段としての近親相姦
しかしながら、全般的に近親相姦を強く排撃する諸部族で、その強い排撃にもかかわらず、ある特殊な事情のもとにおいては、幸運を獲得する一つの手段として、かえって積極的に近親相姦の行われることのあるのは、非常に注目すべきことである。
たとえば、東南アフリカのデラゴア湾沿岸のトンガ人部族のなかには、カバを狩ることを仕事としている一群の人々がある。彼らはその仕事に従事するにあたって、いろいろ奇妙な信仰を重んじる。それは彼らの社会において、父から子へと代々伝承されたものである。その一つとして、彼らは仕事するときある種の薬物を自分の体に注射するのであるが、この方法はいざカバを狩るという場合、カバがあまり遠方まで逃げのびることができず、猟師たちがそれを追いかけてたちまち仕止めることができるという物凄い力を与えてくれると信じられているのである。猟師たちは昼間、川で釣りなどをしながら、ぶかっこうな怪物が水の中で戯れたり、両岸の茂みの中をよたよた歩き回ったりするのを、怠らずじっと監視する。「いよいよ時期が到来して、一カ月にわたる遠征を決行する準備がととのうと、彼は自分の娘を小屋の中へ呼びこんで、これと性的関係を結ぶのである。日常生活では強くタブーであるこの不倫行為は、ここで彼を『屠殺者』としてしまう。彼は自分の家庭で、いま何者かを殺して、川で大仕事する勇気を与えられたわけである。その後遠征の終わるまでは、彼はその妻とは性的関係をむすばない。娘との関係のあった直後、即夜、彼は息子たちを伴って出発する。彼らは丸木船を横たえて、カバどもが陸から水へとはいる道を遮断してしまう」
一方カバどもは、この時にはまだ例の不器用さで、森林のなかの若葉や新芽を食べたり、畑で作物を踏みにじったりしている。やがて群をなして川の岸まで戻ってみると、通路には丸木船が横たわっていて通れない。そうしてぐずぐずしているうちに、その辺に待伏せしていた猟師たちが躍りいで、カバどもの厚い背中に槍を雨と降らすのである。槍の柄《つか》は穂先からすぐぬけるよう軽くつけられてあるが、そのかわりにこの二つは長い紐でもって連結してある。それで手負いとなったカバが怒り狂って茂みを突き抜け、ざんぶざんぶと川の中へ躍りこんで水中に姿を没しても、槍の柄は穂先から離れて浮票《うき》のように川面に浮かび、カバの逃げていく方向をあきらかに示してくれるのである。カバに向かって槍を投げた猟師は、すぐ家へ駆け戻って、このことを妻に告げる。彼女はその後、小屋の中へ引きこもって、飲み食いせず、トウモロコシを引き割ることもやめて、ひたすら無言の行を続けなければならない。というのは、もし彼女がこの禁を一つでも犯せば、カバは怒ってその夫を殺すであろうし、もし無事に過ごせば、カバもまたじっとして動かないからである。次に村中の猟師たちが呼び集められ、みんなが丸木舟に乗り組んで、手負いの獲物を追跡してゆく。獲物の逃げてゆく先は、水面に浮かんでいる槍の柄の浮票《うき》の動きと、ときおり呼吸のために現わす大きく扁平な鼻とによってわかるのである。いよいよ獣をしとめてその死骸を岸に引き上げると、彼らはそれを仰向けに横たえ、かの猟師がまず後ろ足の間から匍《は》い上がって腹、胸そして口のところまで匍い上がってゆく。そしてその場を立ち去ってしまう。この儀典によって猟師はカバの汚れ、あるいはむしろカバの性質をその身にうけ、その後にカバに出会ったとき、カバは彼が人間であるとは悟りえず、彼もカバであると、錯覚せしめるような動きをするのである。このようにして、彼は錯覚に陥った獲物を首尾よく仕止めることができるというのである。
トンガの儀典の説明
このような奇妙な儀典の意味から推察せられるかぎりにおいて、猟師たちのねらうところは、動物に打ち勝つ大きな力を彼ら自身に与えるために、彼ら自身その家族たちとを獲物と同一視することであるらしい。これはカバが手負いとなって逃げ回っている間の、猟師の妻の行動によって表されている。彼女は自分のすることはすべてカバも同じようにするというくらい徹底的に自分自身とカバとを同一視しているのである。もし彼女が活溌に仕事を行ない、飲んだり食べたりして元気づくと、カバも同じように活溌になり元気づいて、猟師に向かって逆襲してくるのである。その反対に、もし完全にじっとしておればカバはすこしも抵抗しないばかりか、屠所《としょ》のヒツジのように猟師たちについてくるのである。猟師が遠征に出発するまえにその娘と行なう不倫行為も、おそらくは同じような思惟の脈絡によって、ある程度まで説明することができよう。しかし、娘に暴力を加えることによって、獣に打ち勝つ力を獲得することができると信じているのだとの説明は、はたして妥当なものであろうか。それならなぜ暴力がこの特殊な形をとらなければならないか、そして、その目的のためには類感呪術または模倣呪術の原理にたって、槍でもってその娘を傷つけたり殺したりする擬行為のほうが、さらに有効ではないかとの疑問が残るのである。
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マダガスカルにおける近親相姦に対する特殊な見解
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ある特殊な事情のもとにあっては、近親相姦が幸運をもたらす方法であると考える他の未開民族は、東南マダガスカルのアンタムバホアカ人である。狩り、漁その他の仕事に出発するまえに、彼らはその妹やもっと近親の女と性的関係をむすぶ。遠征の成功はこの方法によって確実になるというのである。
いかなる思惟の脈絡によって、このような例外的でしかも作為的な倒錯が道徳の普通一般的規律から引き出されたかは理解しがたい。私がこのような例をとくにここにあげたのは、あきらかにこれが一般未開人の行動とは矛盾したものであり、また未開人の心理の不可思議な働きに関して、いかにわれわれの知るところが少ないかを示すに役立つからである。
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古代文明社会における性的罪悪の異常な結果についての同様な信仰
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このような、異常でしかもいまだ十分な説明のえられない例外的な事例の報告から離れるにさいして、われわれは一般に次のようなことをいうことができる。すなわち、多くの未開民族の間で、結婚の規律を犯すことは、もっとも深刻な性質の公的災厄を全社会にもたらすと信じられ、そして、とくにこの種の罪悪は、過度の降雨や日照りによって、農作物を凶作に終わらせると信じられているということである。
同様な信仰の痕跡は、古代文明人たちのうちにも、おそらくは探りだすことができるようである。たとえば、ヒブル人について考えてみるに、かのヨブは神のまえに強く自分の無罪を主張するにあたって、彼が姦淫者でないことを宣言しているのである。「そは是は」と彼はいっている、「重き罪にして裁判人に罰せらるべき悪事となればなり。是はすなわち滅亡にまで燬《や》いたる火にして我が産をことごとく絶やさん」この聖句のうち「産」と訳された語は、普通「土地のなりいでもの」を意味するのである。それで、もしこの語をここで普通の意味にとれば、ヨブは姦淫が土地の実りを絶滅させてしまうといっているのであって、今日なお多くの未開人が信じていることとまったく一致するのである。ヨブの言葉のこのような解釈は、「創世記」に見える一つの説話によって強く支持せられる。すなわち、アブラハムの妻であるサラが、ある王の閨房に引き入れられたこと、その後に神がその王とその家族とにおそろしい災厄をもたらし、とくに王妃と婢《はしため》たちの腹をふさいで子供を産むことのできないようにしたことが記されている。この王の女たちが再び子供を産むことのできるようになったのは、王がその罪を悟ってその懺悔をなし、アブラハムがその王の赦しを神に祈願してから後のことである。この説話は、姦淫はたとえ無意識のうちに行われたとしても禍いの原因となり、とくに女を不妊とする原因となることを示すようである。また「レビ記」にも、性的罪悪をながながと列挙した後、次のように記されている。「汝らはこのもろもろの事をもて身を汚すなかれ、わが汝らの前に逐ひはらう国々の人々はこのもろもろの事によって汚され、その地もまた汚れる。是をもってわれその悪のために是を罰す。その地も亦自らそこに住める民を吐きいだすなり」この句は、性的罪悪によって土地そのものが幾分か実質的に影響をうけ、もはやその住民をささえることができなくなることを示すもののようである。
あきらかに古代ギリシア人も、近親相姦の破壊的な結果について、同様な見解をもっていた。ソポクレスによれば、オイディプス王の治世にテーバイの国は、農作物の枯死、疫病、女と家畜の不妊に悩まされた。この王は知らずして父を殺し、知らずして実の母をめとった人である。国の民はいちじるしく減少し、デルポイの神託は、国の繁栄を回復する唯一の方法は罪人を追放することだと告げた。この詩人とその聞き手とが、このような公的災厄の原因を、ある程度までオイディプスによる親殺しの罪に帰したことは明らかである。しかし彼らは同時に、災厄の大部分の責めを、王がその実母とむすんだ不倫の罪に帰したことは疑いないところであろう。
またローマ皇帝クラウディウスの治世、ある貴族がその妹と不倫関係をむすんだかどで訴えられた。貴族は自殺し、その妹は逃亡したが、皇帝はセルウィウス・トゥリウス王の律法から伝承したある古式の儀典をとり行うべきことを命じ、そしてこの贖罪はディアナの聖なる森の祭司たちによって行われねばならないと命じた。ディアナはすべてのことに関する多産豊饒の女神であり、とくに子授けの女神であったようである。それゆえ、この女神の聖所でとり行われた贖罪の儀典は、他の民族と同じように、ローマ人もまた性的不道徳が土地と腹との実をしぼませてしまう傾向をもっていると考えた証拠とみられるのである。
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近親相姦に関する古代アイルランド人の同様な見解
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アイルランドのある古い伝説によれば、三世紀のころ、ミュンスターは農作物の凶作その他の災厄に見舞われた。貴族たちはこの出来事を取り調べた結果、禍いは彼らの王がその娘とむすんだ不倫関係によるものと知ることができたのである。そこで禍いの根を断つために、貴族たちは不倫の結果である二人の王子たちの引き渡しを王に要求した。火にかけて焼き殺し、その灰を川の中へ投げようというのである。
またアイルランドの他の伝説によれば、ケヤバア・ムスクは「その妹によって二人の息子をえた。妹の名はジュベン、息子たちはそれぞれコルク、コルマクと呼ばれた。二人は双生児であったが、その出生にからまる話はかのダイランとルレウの出生物語に劣らず奇怪をきわめ、その一人は出生に先だって他の一人の両耳を咬《か》みきっていたのである。両親の罪は、古代アイルランドにあまねく行なわれていた見解によれば、その自然の結果として農作物を凶作におわらしめたのである。そしてケヤバアは、彼の領土内の貴族たちの前に罪を告白せしめられ、貴族たちは双生児が出生したとき、国内に不倫の罪を残しておくことはできないというので、二人の子どもを焼き殺すことを命じたのである。ケヤバアについていたドルイド僧は、『余にかのコルクを与えよ。国のうちに不倫の罪をとどめざらんために、我、彼をエリンの外におかん』といった。コルクはドルイド僧に渡され、僧は彼をボイと呼ばれるその妻とともにある島に移した。僧は耳の赤い白ウシを一頭買い求め、コルクをその背に乗せて朝な朝な斎戒沐浴せしめた。こうして満一年目になると、白ウシは海の中にとびこみ、そこで一つの岩と化してしまった。コルクに宿っていた異教的な罪がウシの中へ転移してしまったことを証《あかし》するのである。この岩がボ・ブイすなわちボイのウシと呼ばれ、この島がイニス・ブイすなわちボイの島と呼ばれるゆえんである。その子どもは後にエリンへ連れ戻された。以上はコルクがいかにしてその原罪の汚れを洗い清められたかという伝説であって、その舞台はケンメア・リヴァと呼ばれる湾中のダアシイ島からほど遠からぬところにある雄《お》ウシ、雌《め》ウシ、子ウシと名づけられた三つの島の中の一つである」
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性的混乱は全社会を危機におとしいれるとの見解
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このように多くの民族の考えるところによれば、それが既婚の場合であろうと未婚の場合であろうと、あらゆる性的混乱は直接それに関係した数人のものだけに影響を与えるところの、単純な道徳的罪悪というようなものではない。それはじつに、直接には一種の呪術的な影響により、間接にはかかる行為を憎む神々の怒りを惹起することによって、全民衆を危険と災厄のなかにまきこむと信じられているのである。いな、土地の生産物を枯らせ、食糧供給の道を断絶せしめることによって全社会の存在そのものをすら危機におとしいれるとまで、しばしば想像されているのである。
どこでもこのような信仰の行われているところでは、公的意見と公的裁判とは性的犯罪を極度に峻厳に取り扱う。それは、このような不行状を公的な問題と考えるよりはむしろ私的な問題と考え、犯罪であると考えるよりもむしろ罪悪であると考え、死後の生活においてその罪人一個の永久的安寧を破壊することはあっても、罪なき全社会の今日の実生活上の安寧を破壊することはけっしてありえないと考える、高い文化段階の民族の取り扱い方とは、まったく次元を異にする。これを逆にいってみれば、近親相姦、姦淫、私通などが極端にきびしく社会全体から取り扱われている地方では、このような処置の本来の動機はかならず迷信であると結論してもむりではないのである。言葉をかえていえば、このような罪悪をただ被害者側の復讐に任せておかないで、部族ないし民族全体が極端な峻厳さをもって罰するような地方では、その処分の理由というものはおそらく、すべてこのような罪悪の結果は自然の運行を妨げるので、全民族が危険にさらされる、そこで全民衆は、いきおいもっとも有効な方法で犯罪者を罰し、必要とあらば犯人を殺して社会を守らねばならぬ、との信仰であったのである。
たとえばインドのマヌの律法が、姦淫の女は公衆の面前で火に食わせなければならず、姦淫の男は灼熱した鉄板の上で焼き殺さなければならぬと宣言している理由はこれによって説明せられ、またバビロニアのハムラビ法典が、不義の男女は絞殺して川に投げこまねばならぬとした理由、母親と不倫の罪におちた者を母親とともに焼き殺して罰しなければならないとした同じ法典の精神などもまた、これによって説明が付くのである。同じ仮説のもとに、モーセの律法がある種の性的罪悪に対して行った刑罰の峻厳さも理解することができる。すなわち、一、二の例をあげてみれば、モーセの律法によれば、姦淫の女とその情夫とは死刑に定められ、結婚の初夜に処女でないことを看破された女は石でうち殺され、祭司の娘で不貞な者は焼き殺され、一人の女とその娘とをともにめとった場合には、男女とも同じように焼き殺されたのである。
アフリカにおける峻厳な刑罰
アフリカの多くの部族は、峻厳な刑罰をもって性的犯罪を抑制する。ヨーロッパ人との接触によって彼らの道徳的標準がかえられるまでは、少なくともそうしていたのである。
中央アフリカのバガンダ人の社会では、「姦淫に対する刑罰は一般に死刑ときまっていたけれど、犯人の生命は時として赦され、もし金を払うことのできる人間なら罰金を支払わせた。しかしながら、犯人は不具にされねばならなかった。手足の一本を切り取られるか片一方の目をえぐりぬかれるかして、ひと目で罪悪を犯した人間と識別できるようにされた。奴隷が主人の妻の一人と姦淫中捕らえられた場合には、赦される道もなくかならず死刑に処せられた。女は拷問によってその情夫の名をむりやりに白状させられた。もし訴えられた男がその責任を否定する場合には、女は何か証拠となるようなその男の人物的特徴、あるいは身体的特徴のようなものを告げねばならない。もしこのような特徴を持った男が見つかれば、どのみち罰金か死刑をのがれることはできなかった。真相をつかむために、その訴えられながら無実を主張する男を、土中深くうちこんだ棒杭に手足を縛ってはりつけとし、樹皮布の一片を男根に巻いて火をつけ、じわりじわりと燻《いぶ》すこともあった。火が肉につくやいなや、たいていの者はその痛みに耐えかねて、拷問をすこしでも早くのがれるため、犯した罪を白状してしまう。結果は死刑か罰金かがいい渡されるのであった。
姦淫者は人殺しと呼ばれている。こんな男はその情婦の夫の死を心のなかで計画しているとみられているからである。すなわち、直接的には武器を呑んで女のもとへ忍んでゆくので、もし邪魔がはいれば夫を殺すことを躊躇しない。また間接的には、自分が設けた呪物でもって夫なる男を呪うのである。男たちは、もし姦淫中に捕えられた場合には、暴行を受けた者の親族でないかぎり、罰として死刑に処されることを承知している。被害者が彼の親族である場合には、死刑にするかわりにすすんで罰金を受け取り、犯人を不具にするだけで満足するのである。被害者である夫の身の上に起こる最悪の結果は、その呪物と神々の怒りとである。夫の呪物や神々は、その妻が扱うことになっているので、夫は妻の不貞によってそれらの不きげんをかうことになるのである。そこで彼は、すべての敵の悪意に直接その身をさらすこととなり、とくに戦争にでもなれば、危険はますます増大するわけである。神々はもう彼を守護しないようになっているからである」
このようにバガンダ人では、姦淫は単なる社会的罪悪であると考えられているだけではなく、神々の罰を、われわれの考えとは逆に、姦淫の罪を犯した当人のうえではなく、迷惑をうけた夫その人のうえにもたらすところの、一種異様な罪であると考えているのである。なおバガンダ人はおびただしい数のトーテム氏族に分かれていて、同一氏族の成員は、おたがいに結婚したり性的交渉をもったりすることを厳禁されている。「同じ氏族の者、または母かたの氏族の女との性的交渉は、双方を死刑として罰することになっている。罪を犯した者どもは、氏族全体のうえに神の怒りをもたらしたと考えられるからである」
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アフリカの諸部族における私通、姦淫、近親相姦に対する刑罰
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東部においてバガンダ人と境を接しているバソガ人では、男が処女を妊娠させた場合には、罪を犯した二人はヌタクエ川へ引かれてゆかれることになっていた。そこで石が彼らの踝《くるぶし》と脚とに結びつけられ、犠牲のヒツジといっしょに川の中へ投げこまれて殺されるのであった。しかしながら、この地がイギリス領となる前に、このような峻厳な刑罰は廃止されて、そのかわり罰金が課せられることになった。
東部においてバソガ人と境を接するカヴィロンド人では、「ごく最近まで人妻の不義は死をもって罰せられた。姦淫の罪を犯したことの発覚した若者や娘達も同様に死刑に処されるのであった。結婚の初夜、花嫁が処女でないことを看破されるのは、このうえない恥であると考えられた」
東北でカヴィロンド人と境を接しているナンジ人では、「継母、養女、いとこ、その他の近親者の不倫関係を意味する近親相姦は、インジョケトという方法で罰せられる。これは人々が群れをなして犯人の家の前へ押しかけ、彼を引きずり出し、女たちが刑罰を加えるものである。このとき女は、老若の別なく裸にされてしまう。不義の男は笞打たれ、家と農作物とはめちゃめちゃに荒らされ、所有物のあるものは没収されるのである」
アビシニア国境地界バレエ人では、娘でも寡婦でも独身の女の妊娠が露見した場合には、その父または兄弟によって絞殺せられる。その情夫にも同様な罰が与えられる。また不義の関係によって生まれた子は、刺し殺されるのである。この慣習は峻厳に行われたが、情夫が貴族であり情婦が婢《はしため》である場合には、罪人達の生命は助けられるのであった。しかし生まれてきた子供は殺された。
同じ地方の他の部族であるベニ・アマア人でも、妊娠していることを看破された未婚の娘は、たといどんな階級の者であっても、その兄弟によって殺され、情夫のほうも彼の兄弟によって殺され、同時に生まれてきた子も殺されるのである。しかし、同じ罪を犯した場合でも寡婦と出戻り女に対しては律法がややゆるやかで、情夫が罰金を支払うだけでよいことになっていた。ただし、生まれてきた子は生き埋めにされた。ベニ・アマア人は私生児を生かしておくことを許さなかったのである。
イギリス領中部アフリカのアニァンジヤ人たちは、姦淫の罪を犯した者を溺死か射殺によって罰した。犯人の一人が酋長の妻のうちの一人であれば情夫の体に縛りつけられ、二人はいっしょに川の中へ投げこまれて溺死せしめられた。あるいは村の広場に投げ出されて、飢えと暑熱とのため絶息するまで捨ておかれるのであった。強姦の罪を犯した者は、縛られ、石の重りをつけられ、湖の中へ投げこまれた。
北部ローデシアのアウェムバ人は、妻の姦淫中を取りおさえたとき、妻と情夫とをその罪ゆえに殺した。こうしても故殺殺人の罪に問われることはなかった。彼は血のしたたる槍を殺した妻の父親に返すのであるが、父親は結婚式にあたって「汝の妻を汚す男をこの槍で刺し殺せ」といっている手まえ、殺された娘の讐《かたき》を取ることを禁止せられた。もし罪を犯した男女がいったんその夫から赦免せられた後、再び妻が姦通するようなことでもあれば、今度は村人たちが変わって刑罰を加える。不貞な妻とその情夫とは村の外に引きずり出され、群衆の罵詈《ばり》嘲弄を身にあびつつ、するどくきりそいだ杙《くい》でもって刺し殺されるのであるが、群衆は体をねじ曲げて悶え苦しむ罪人の息の絶えるまで、嘲弄をやめない。
ある昔の記者は次のようにいっている。「ホッテントット人は、初いとこ、あるいは再いとこ同士の結婚を許さない。彼らのもっている伝統的な律法によれば、おたがいに近い血のつながりにありながら、結婚か私通かによって結合したことがわかった男女は、撲殺の刑に処すべきものと定められている。伝えられるところによれば、この律法は彼らが祖先代々みな守ってきたものである。そして彼らは、罰が定まれば、その富、権力あるいは姻戚関係のいかんにかかわらず、即時、刑を執行したと伝えられている」
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東インドにおける近親相姦と姦淫に対する峻厳な刑罰
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われわれはすでに、東インドにおいて性的犯罪ことに近親相姦、姦淫、私通などが、社会全体に対して神の怒りをもたらすと一般に信じられているところから、しばしば激しい非難の的となっていることを見た。このためにこの種の罪悪が憎むべき謀叛であるとされ、犯人が死をもって罰せられたのは当然であろう。一般の刑罰は溺死である。
たとえば、スマトラの未開原地民であるクブ人の社会では、親と子、兄弟と姉妹の不倫関係が露見すれば、犯人をフジまたはタケでつくった魚籠《びく》の中に押しこめ、それを川の中に沈めるのである。しかし犯人は縛られない。いな、そればかりか、なまくら刀までそえてもらって、さいわいにして籠を切り裂いてぬけだし、泡だつ水をかき分けて水面に浮かびあがり、岸に泳ぎつくことができれば生命は助けてもらえるのである。
バリ島でも近親相姦と姦淫とは溺死によって罰せられる。犯人どもは、半分くらいまで石と米とを入れた袋の中に縫い込められ、そして海の中へ投げこまれるのである。より下の階級の男と姦淫した女も、同様な運命をになわなければならず、ときとしてはさらにいっそうおそろしい死をとげなければならない。生きながら焼き殺されるのである。これら両方の処刑方法は、罪人たちの血を流すことをさけるために選ばれたものであろう。というのは、このバリ島で犯人を死刑とする普通の方法は、短刀もしくは曲がったマレー刀でもって犯人の心臓を一突きに刺し通すことだからである。すでに見たように、セレベス島では、ある性的犯罪のため汚された人物の血は、それがしたたり落ちた土地を汚すと信じられている。それでこういう場合には、溺死または焚殺などのような、血を流すことのない処刑方法の選ばれるのは自然である。
セレベスの西岸地方マモエジヨウでは、父と娘、兄弟と姉妹の間の不倫の罪は、犯人どもの手足を縛って石の重りをつけ、それを海中に投げこむ方法で罰せられる。南部セレベスのブギヌ人では、このような罪悪を犯した王族の者は、タケの筏に乗せて海上に流されることになっている。
スマトラのセメンド地方では、近親相姦と殺人とに対する刑罰は、犯人を生きながら埋めてしまうことであった。そして犯人が刑を受けるまえに、村人たちは戸ごとにニワトリを屠り、そのために葬いの宴を設けてやるのがならわしであった。それから村人こぞって犯人どもを村はずれの墓場までひいてゆき、彼らの上に土のかけられるのを眺めた。一八六四年のこと、タンジオング・イマムの村で、死んだ妻の妹との不倫関係を看破された男とその女とが、このようにして死刑をうけた。この事件について、ある同情ぶかいオランダ総督は語っている。「このような罰を宣告した酋長たちといっしょに、こうして埋められた哀れな罪人たちの墓の側に立ったとき、私の義憤は、おさえることのできないほど激しいものとなった。私はわかりやすい言葉で、こんな不十分な証拠によって(その家族どものいうところによれば)こんな残酷きわまる死刑の宣告をした裁判人たちは、彼ら自身これと同様な刑罰をうけなければならない、といって聞かせたのである」。この後オランダ政庁は、どんな人間でも生き埋めにしてはならないというきびしい禁令を出し、命令にそむいた者はことごとく死刑に処すと威嚇した。
近親相姦に対して同様な刑罰が、スマトラの他の部族であるパセムハア人によっても選ばれている。かつては選ばれていたといったほうがよいかもしれない。しかし彼らはセメンドの人々より少々慈悲ぶかく、少なくとも犯人たちをすぐ殺してしまうようなことはない。罪を犯した男女は背中合わせに縛られ、深い穴の中に埋められるのである。しかし二人の口のあたりから、節《ふし》をぬいたタケの筒が墓の外まで通じている。七日の後に墓を掘り返してみて、はるかに死にまさる長い苦しみによく耐えて生きていた場合には、二人の生命は許されるのである。
このようなおそろしい刑罰も、スマトラの人々が性的道徳を破った犯人に加える刑罰の最悪なものとはいえない。中部スマトラのバッタ人またはバタク人は、姦淫の犯人を罰するのにそれを殺して食べてしまうのである。正しくはまず槍で刺し殺しておいて、あとでそれを食べるのであるが、一般に被害者である夫とその友人とが裁判人であり死刑執行人でもある関係上、憤慨した彼らは自然に律法の原文など完全に無視してしまって、ひと思いに刺し殺して犯人どもの苦痛をやわらげるまえに、まだ生きている男の体から肉片を切り取って、目の前でそれを食べて怨みを晴らすということが起こりがちである。ときには罰金を支払ってこの刑をまぬがれることもできないではないが、それにはかならず相手の女が酋長の妻でない場合に限られている。相手が酋長の妻であれば、どんなことがあっても殺して食べねばならない。
峻厳なロンボックの性道徳
インド群島では、われわれから見ればまったく何でもないような、ごく些細な不行状や動作でも、考えのない、不謹慎で軽率な人間に対して、相当な刑罰をもたらす理由となるのである。
たとえば、記されるところによれば、ロンボックの島では、「男という男は例外なくみな極端に嫉妬ぶかく、その妻に対して非常に峻厳である。既婚の女は未知の男からタバコやシリイ葉などもらってはならず、この掟にそむけば死の苦しみをうけなければならない。それについてこういう話がある。数年前のこと一人のイギリス商人が良家の出であるバリヌ人の女をえて同棲したが、原地民たちはこの結合を非常に尊敬すべきものと考えていた。ところがある祭りの日のこと、この女は他の男から一輪の花かなんか、それに類するつまらぬものをもらって、つい戒律を破ってしまったのである。このことはラジャに報告せられた(女はこのラジャの妻の一人の親族であった)。そこで彼はイギリス人の家へ使者をやって、女は『お仕置き』にあわねばならぬからだしてしまえと命じた。商人は百方願ったり頼んだりして、ラジャの命じる罰金ならいくらでも払うとさえ申し出たが、彼は頑として聞きいれない。そこで女がそんなにほしければ腕ずくでとってみるがよいと、断然その命令を拒絶してしまったのである。さすがにラジャも暴力に訴えるようなことはしなかった。イギリス人の名誉のことも考えて女を処罰しようとしているのだ、と反省したからである。ここでラジャは事件をそのままうち切るようにみえた。ところが、それからしばらくしてからのこと、家来の一人を商人のところへつかわした。家来のものは女を戸口まで呼びだして『ラジャがこれをくださるんだ』と叫ぶなり、心臓を一突きに殺してしまったのである」
もっとひどい不貞にはいっそう残酷な刑罰があって、女とその情夫とを背中合わせに縛り、飢えた巨大なワニがいつも大きな口をあいて人肉を待っている水の中へ投げこまれる。私がアムバナムにいたじぶん、このような死刑が一度行なわれた。しかしそれがすっかり済んでしまうまで、私はかかわり合いとなることをさけるため田舎のほうへ旅をしたのであった。
信仰にもとずく刑罰の峻厳性
インド群島のマレー人は――以上の諸例は彼らから引かれたのであるが、相当の文化程度に達しているので、その性的道徳の戒律を破った犯人に対する極端な峻厳さは、単なる原始的信仰から来るよりも、むしろ彼らの感情の非常な清純さからきていると考えてよいように思う。もちろんマレー人が感じやすいところの名誉に関する極端な鋭敏さというものは、多くの場合において、正義の剣をいやがうえにも鋭くし、新しい攻撃力を与える傾向をもっているようである。しかし、この鋭敏な感受性の底には、信仰あるいは迷信の深い基礎がかならず横たわっているのである。これらの未開民族の信じているところによれば、性的罪悪は犯人ども自身に報いをもたらすというよりも、農作物が畑で腐ってしまうまで天から豪雨を降らせたり、人間の立っている大地を底から揺り動かしたり、火山はその眠りからさめて大爆発を起こし、降りかかる灰の暗い天蓋は白日を覆い隠して、ために天地は闇となり、夜は大地の底から吹きだす熔岩の気味悪い光がはためきふるうというふうに、全自然界に想像を絶する破壊的な影響を与えることができるのである。
そしてまた、たとえ感情の過度の潔癖というようなもので、マレー人の性的道徳の戒律の超清教徒的峻厳さの説明はいちおうつくとしても、われわれが正確な報告を与えられているところの、全人類中おそらくは最下等でもっとも未開であるといわれているオーストラリアの未開民族どもの間で、同様な性的道徳がもたらすと信じられている同様な恐怖の感情の説明のためにこれを適用することはできない。
このオーストラリアの未開民族も、そこがイギリス領となるまでは大陸の隅々まで網の目のように張りめぐらされて、男性と女性を締めつけていたさまざまな戒律を破った者を、想像にあまる峻厳さをもって罰したのである。部族または民族の全体は、数多くの小団体に分割されているのが普通であるが、われわれは普通この小団体のことをその組織の形態のいかんによって、級もしくは氏族と呼ぶ。その地では誰も彼自身の属している級または氏族の女と結婚してはならない。男性の配偶者選択の自由は、複雑な結婚に関する戒律と、部族のなかのある定められた小団体のなかで妻をもとめることを拒否する家系なるものによって、さらに狭く制限を受けなければならないので、おびただしくある氏族のうちただひとつの氏族からのみようやく妻を捜すことを許されるような場合もしばしばある。こういう戒律を破った者に対する刑罰は、普通は死刑であった。犯人であって、身に槍傷を受けながらも命乞いして逃亡することのできた者は、まことに幸運な人といわなければならない。
ヨーロッパ文明との接触によってまず混乱におとしいれられ、次に破壊されてしまうまえの未開なヴィクトリア原地民を知っていたある人が、次のように述べている。
「双方の側の酋長の同意なしでは、結婚も許婚もできない。酋長たちはまず二人の間に『血族』関係のないことを確かめた上で初めて許可を与えるわけで、その許可に対して双方の両親は報酬を与えなければならない。結婚の戒律はきわめて峻厳に遂行され、もし『血族』内の男女の間に恋愛関係や性的関係のちょっとしたしるしでも見えると、女の兄弟かその親族の男が罪を犯した女をひどく打ちたたくのである。相手の男は酋長の前へ引かれ、血族と関係したかどで譴責せられ、部族全体の者からきびしいこらしめを受ける。もし彼が抵抗して、不義の相手といっしょに逃亡するような場合には、人々は彼をなぐりつけ『その首をすっぱりと斬ってしまう』。そして、もし女が同意でそうしたとあらば、彼女は半殺しにされる。その刑罰がもとで女が死ぬようなことがあれば、親族どもは男に付加的な打擲《ちょうちゃく》を与えて讐《かたき》をとってやる。女に対する刑罰が合法的なので、これ以上の復讐は許されないのである。このような状態のもとで生まれた子はその両親から引き離され、祖母の養育にゆだねられる。誰も引き取る者がないので、祖母に押しつけて育てさせるわけである。私生児が稀有であり、私生児など産めば女はかならず親族どもによってひどくぶたれ、ときとしては殺されて焼かれると定められていることは、原地民たちの道徳と戒律とがどんなものであるかをよく説明している。私生児はときとして殺され、その母といっしょに焼かれることもある。私生児の父親も重く罰せられ、ときとして殺される。たとえ刑罰のために死ななかったとしても、相手の女の親族どもはそれから後、彼を絶交し、贈り物をしても刎《は》ねつけたり火に投げこんで焼いたり、和解の道はまったく閉ざされてしまうのである。彼らの間にヨーロッパ人が現れてこのかた、この賞賛すべき結婚の戒律はときおり無視されるようになったが、同時に彼らの子どもが非常に弱くて不健康になってしまったのは、ほかでもないこの破戒の報いであると考えている」
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クイーンズランドのワケルブラ人において性的破戒者に加えられた峻厳な刑罰
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また東部クイーンズランドのワケルブラ人でも、あまりに近い血族関係にある男女間の不義の結合や駆落ちに対する戒律の裁きはきわめて峻厳である。このような関係を禁止されている人々は、たとえば父方と母方の|いとこ《ヽヽヽ》、それに禁断の氏族に属する者どもである。もしこのような男が、他の男と許婚《いいなずけ》の間柄である女を奪って逃げるようなことがあれば、彼はその女の親族の男たちおよび許婚の夫によって追跡されるだけでなく、結婚の戒律を破られたことを怒る彼自身の氏族の男たちからも追跡される。そして、彼らが追いついたところで、彼はみんなの者を相手として格闘しなければならない。彼の実際の兄弟ですら、投げ武器その他の武器を取って挑戦してくる。そしてもし彼がこの挑戦に応じないときは、みんなの者は女に襲いかかって、森林の中へでも逃げこまないかぎり、不具にするか殺してしまうのである。遅かれ早かれ、強奪者は被害者である男と一騎打ちの勝負をしなければならない。双方とも楯、槍、投げ武器、刀などでもって十分に武装する。投げ武器を投げつくしてなお勝負が付かなければ、刀を抜いて接近する。このおもしろい勝負を見ようと、二人の周囲を人々が黒山のように取り囲むのが普通である。このような格闘では、部族の戒律を破った者のほうがかならず負ける。というわけは、もしさいわいにして彼が相手をたおすことができたとしても、他の男たちや彼自身の兄弟たちまでもがつぎつぎと敵かたの助太刀に出てきて、とどのつまりは、彼をたおしてしまうからである。もちろんこの格闘で致命傷を負うこともあるが、しかし普通には見物人が中に割って入り、双方の手から武器を取りあげてしまって、最後まではたたかわせないようである。しかし、男のほうはどうなろうと、駆け落ちの女はかならず刀でもってひどく傷つけられ、さいわいにして命を取り止めたとすれば、彼女がすてた男の手によって神明裁判にかけられねばならない。
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オーストラリアの他の地方における同様な刑罰
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西北クイーンズランドの中央部に住んでいる諸部族では、合法的に結婚する可能性はあっても、なんらかの理由で部族会議の結果彼と結婚することを許されない独身の女と駆け落ちした男は、つぎにその妻を連れて村へ戻ってきたとき、そのことで憤激している部族民の挑戦をうけねばならない。彼らは刀でもってその男の臀と肩とをめった斬りに斬りさいなみ、棒や投げ武器でもって頭や手足を打ちたたき、股の肉の厚い部分を槍でもって刺し貫く。しかし、血の復讐をおそれて、致命傷を負わせないように気をつけてやるのである。もし彼と駆け落ちした女が、その男と結婚することを禁じられている氏族の者であった場合には、犯人たちはどちらも殺され、双方の親たちは暗黙のうちにこの処刑に賛成する。
ニューサウスウェールズのユイン人では、男が彼自身の氏族の女と駆け落ちすれば、氏族内すべての男たちが彼を追跡する。そしてもし彼がその女を手放すことを承知しない場合には、その土地の魔法使いが、「このものは極悪非道なことをした。よっておまえ達はこの者を殺せ」というように宣言する。そこで誰かが彼を槍でもって刺し殺すのであるが、親族の者どもは同じ運命にあうのをおそれてそれを妨害しない。
同様な刑罰が、西北ヴィクトリアのウォチョバルク部族によって、同様な罪人に加えられた。しかし、彼らの西隣のムクラジャラワイント部族は、犯人を殺すだけでは満足せず、両大腿部と上膊部の肉を切り取って、それを焼いて食べるのである。死体の残りは細かく切りきざんで、一本の丸太の上に並べておくのである。
ジュパガルク部族も、同様な慣習を守ってきたといわれている。
西部オーストラリアの多くの部族は、この大陸の他の地方と同じように、同じ族名をもっている人々は結婚を禁止せられている。このような結婚はすべてを近親相姦とみなされて、厳罰を受けねばならない。たとえば、「ブウロングとブウロングとの結合は、よしその間に事実上何らの血族関係はないとしても、原地民たちにとっては兄弟と姉妹との結婚を意味し、この種の結合は恐怖の念をもって見られている。そして違反者はきびしく罰せられたうえ、結合は引き裂かれることになっている。もし重ねて同じ罪を犯すようなことがあれば、二人とも殺されるのである」
その大陸の向こう側、ニューサウスウェールズのカミラロイ人もまた、男かたの親族の男たちは彼を殺し、女かたの親族の女たちは彼女を殺すのであった。グワイダア川のカミラロイ人はさらにいっそう峻厳であった。彼らは義理の母と話したり交際したりする者までも殺してしまったのである。この原地民の作法上のもっとも峻厳な律法の一つは、男子とその妻の母との直接の社交を厳禁することだからである。この戒律はいろいろと説明せられてきたが、この相互的回避の慣習は、単に二人の間の不義を防止する手段に過ぎぬとみられる証拠がたくさんあがっている。ここでそれについて簡単な考察を試みることもむだではなかろう。というのは、この慣習は実際上健全なものであり有益なものではあっても、まったく迷信にもとづいているからである。しかし、こう推理する理由を述べるまえに、原地民の作法についてうとい人々のために、少しばかり例をひいて作法そのものを説明することもまたむだではないと思う。
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コンゴのボロキ人における義母回避の慣習
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上部コンゴのバンツー部族であるボロキ人について、経験のある宣教師ジョン・H・ウィークス氏は次のように記している。
「今ここで義理の母について二、三の注意をしておくのは、もっとも適切なことであると思う。彼女とその義理の息子とは、おたがいにけっして顔を見合わせないのである。私はときどき『何某よ、あそこへお前の義母がやってくるよ』と人々が注意するのを聞いた。注意を受けた男は私の家の中へ駆け込んで、妻の母親がゆきすぎてしまうまで隠れているのであった。彼らは用事があればおたがいに後ろ向きになって少しばかり離れてすわり、その状態で話を交わすことはかまわないのである。ボキロ bokilo という語は、義理の母、義理の娘、義理の兄弟、義理の父、義理の姉妹、義理の兄弟、妻の兄弟の妻など、およそすべての義理の仲を意味する。ボキロは名詞であるが、禁じる、防ぐ、タブーとすることを意味する動詞キラ kila を語源としており、すべてボキロの関係にある者は、近親相姦の罪を犯すことになるから、おたがい親密な関係をつくってはならない、という意味を示すものである。原地民の考えるところによると、嫁がその夫の父と話したり、彼を見たりすることは、婿がその妻の母と話したり、彼女を見たりすることとまったく同様である。ある原地民は私に向かって、これは同棲のすべての誘惑に対する警戒であって、『相見ることのない者どもの間にはけっして罪の生まれることはない』と語った。また他の一人ははいった、『そう、私の妻が彼女の腹から生まれたのですからね』と。前者が真実の理由であるという意見に私は賛成するものである」
この記事によってみれば、日常の交際においておたがいに回避しなければならないのは、男子とその妻の母親だけではないことがわかる。すなわち、社交回避の同様な戒律が、男子とその息子の妻と、さらに結婚によって相互につながる異性全体に適用せられているのである。そして彼らに関するかぎり、たとえどんなことでもおよそ親しい交わりはすべて近親相姦であるとされている。それゆえ、ここが注意すべきたいせつな点であるが、男子とその妻の母親とに適用されているこの社交回避の戒律は、けっして他から独立したものではなくて、その他の人々の間に守られている回避の戒律のおびただしい例から切りはなして考えることはできないということがわかる。ヴィクトリア・ニアンザ湖の北に位する地方、ブソガのバンツー部族であるバタムバ人の慣習のうちにも、この種の戒律はひろく現れているのである。九年間もバタムバ人に伝道したあるカトリック宣教師は、これに関する彼らの慣習について次のように述べている。
「そこには次に述べるような、まことに不可思議な慣習がある。もし息子が結婚するか娘が結婚した場合、息子または娘の結婚したその日から、双方の側の父母、双方の側の兄弟と姉妹たちは、同じ屋根の下に眠ることを許されない。男が結婚して彼自身の家を建て、その両親が彼のもとに住むか、兄弟または姉妹がそこに住む場合には、彼らは近所に別棟の家を建てなければならない。彼らは新夫婦を訪れてもよいが、そこに泊まることは許されない。その理由は、もしこの戒律を破れば、エンジヴァデ・ヤ・ブコという病気、直訳すれば『親族病』というのに冒されるからである。この病気はブジュグミロ、すなわち『慄え』とも呼ばれている。これは慄える、震えるを、意味する動詞クジュグミラを語源としている。この迷信は彼らの頭からどうしても取り去ることができず、いくら説いても論じても、この迷妄を打ち破ることはできない。私はこの病気にかかった患者を数多く診療したが、なおった者は一人もなかった。
またいったん結婚してしまえば、花嫁花婿の父母やその|おじ《ヽヽ》、|おば《ヽヽ》たちは、どんな場合でも彼ら夫婦とは手を握り合ったり、彼らにさわったりしない。注意しなければ例のブジュグミロにかかってしまう。この病気に対する恐怖から、彼らがおたがいに触れ合って罪を犯すことは、もちろんきわめてまれである。兄弟と姉妹、|おば《ヽヽ》と甥、|おじ《ヽヽ》と姪とが罪を犯したというようなことは、かつて聞いたことがない。彼らがこの祟《たた》り病をおそれることは非常なもので、この地の七十歳をこえた一老人が私に語ったところによると、彼はその長い生涯を通じてただの一度もこのような不行状を聞いたことがない、というほどである。原地民たちの語をかりていえば、『ジェキインジカ』である。つまり『こんなことの起こりようがない』のである。彼らが細心の注意を怠らないのは、まったく感心なものである。この祟り病は、神々から刑罰としてくるものではなく、再び原地民の言葉をかりていえば、『エンズワダ・エジヤ・ヨッカ』である。『その病気はひとりでにくる』のである」
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血族関係者の相互回避と親戚関係者の相互回避
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上述したところによって、バタムバ人の社交回避は、兄弟と姉妹、|おじ《ヽヽ》と姪、|おば《ヽヽ》と甥、など異性の血族の間と、結婚によって生じた姻戚の間とにおいて守られていることがわかる。これは心にとどめておかねばならない社会回避の戒律のいっそう広い適用である。われわれはこのへんでその問題に立ちかえろう。われわれの当面の目的に対して、この慣習を破れば慄え病によって罰せられると信じられていること、その病気はたぶんまったく罪人の想像から起こるものではあるけれど、つねに致命的であること、を心に留めておくこともまたたいせつである。さらに、この病気に対する単なる恐怖が、たがいによって、あるいは結婚によってつながる人々の間の不義な関係を防ぐもっとも有力な抑制となっていることも記憶さるべきである。
アカムバ人における義母と娘の回避
イギリス領東部アフリカのバンツー部族の一つであるアカムバ人では、「男子が道で義理の母親に出会うと、双方おたがいに顔を隠し、道の両側の茂みの中を通ってゆきすぎてしまう。もし男がこの慣習を守らず、そしていつか他の女をめとろうとするような場合には、これが非常な汚名となってさわり、その両親ですらも彼と絶交してしまう。そればかりでなく、妻が、その母親と自分の夫とが道で立ち話をしたと聞けば、彼女はただちにその夫から去ってゆくのである。義理の母親と話し合わねばならない用件のある場合には、夜を選んで彼女の小屋を訪れる。そのとき、彼女は小屋の奥のほうから話をする……。年頃になった娘が道で自分の父親に出会えば、そこらに隠れて父親をやり過ごす。村にいても、父親が彼女に向かって、どこどこの若者と結婚させるよう取り計らったからと告げる日のくるまでは、けっして彼の傍らにいってすわったりしない。ところが、結婚後はまるで一変して、どんな場合でも父親を回避するようなことはないのである」
このようにアカムバ人の社会では、男はその妻の母親を避けるとまったく同じように、婚期にはあるが未だ結婚していない自分の娘を避けねばならないのである。しかし、娘が結婚してしまえば回避はやむ。この戒律を自分の娘に適用することと、それを娘が年ごろであって、しかも未婚である期間を限って適用することはもっとも意味の深いところである。すなわち、あきらかに、父親と娘との不倫関係の恐怖を示すものである。この点については、再び後段に述べることにしよう。
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中部、東部アフリカにおける義理の両親回避の慣習
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ヴィクトリア・ニアンザ湖の中の肥沃な島に住んでいるバンツー部族の一つ、バケレウエ人では、「妻は夫の家族と関係のない家族の者でなければならない。結婚は親族の間がらでは取り決められないからである。そしてまた、新家庭はどんなことがあっても、妻の両親のじき隣には営まれない。その理由は、彼らの慣習によれば、義理の息子と義理の母とはおたがい顔を見合わせたりしてはならないからである。そこで、すべての人々が極度に重要視するこの戒律を破ることのないように、新婚夫婦はできるだけ遠方に避けて住むのである」
その昔ザンジバルの回教王の保護領であった東アフリカのあるいくつかの部族では、若夫婦は子供の生まれるまで義理の父にも義理の母にも会わない。若夫婦は彼らを回避するために、よけいな遠回りをしなければならない。そうする暇のないときは、義父や義母の通りすぎるまで地面に伏して、その顔を隠していなければならないのである。
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中央アフリカと北部ローデシアにおける同様な慣習
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イギリス領中央アフリカのバンツー部族であるアニァンジヤ人では、「最初の男子をもうけるまでは、けっして義理の母親と話してはいけないことになっていた。男もその妻も、子供が生まれるまでは義父、義母といっしょに食事をしない。もし男がその義母と食事をしているところを見れば、それは彼女を侮辱したことになり、賠償金を支払わねばならないことになっている。もし男が道の向こうからやって来る義母に出会いながらそれと気のつかないときには、彼女のほうで合図をして地面に倒れ伏すのである。これを見た男は逃げていってしまう。同様な場合に義父はその嫁に向かって同じ合図をする。すべてこれらのことは、夫婦の者が子供をもうけることができるということを証明するまでは、親たちに顔を合わせる資格がないということを意味する」しかしながら、三年たっても妻が妊娠しないとなれば、若夫婦と義理の親たちの間の回避の規定は撤回される。この点から考えると彼らの守っている回避の慣習は、妻の出産に大きな関係がある。
同じように、北部ローデシアのバンツー部族であるアウェムバ人でも、「若者が自分の行く道の向こうから義母がやってくるのを認めたなら、茂みの中に身を隠して彼女に道をゆずらなければならない。だしぬけにぱったりであった場合には、目を地面にじっとそそいでいなければならない。子供が生まれると、はじめておたがい話をしてもよろしいのである」
イギリス領中央アフリカの他のバンツー部族であるアンゴニ人では、男がその義理の息子の家にはいることは、とんでもない不作法であるとせられている。戸口から十歩のところまではよろしいが、それ以上近づいてはならない。女はその義理の息子の家に近づくこともできず、彼と話すことなどけっして許されない。もし偶然に道で出会うようなことがあれば、義理の息子は義母と直接顔をあわすのを避けるため、わき道へ入って迂回する。われわれはここに、あまり厳格ではないが、男はその義母を回避すると同時に、その義理の息子をも回避するのを知ることができるのである。
デラゴア湾のトンガ人の回避
デラゴア湾に沿うて住むバンツー部族トンガ人の社会では、男が道でその義理の母か彼女の姉妹かに出会えば、右側の森林の中へはいっていってそこへすわる。女もまた同じようにする。そして慣習に従って、おたがいに手をうって挨拶するのである。話すことがあれば、それからである。男が小屋にいる場合は、義母はそこへはいってはならず、彼を見ないようにして外にすわっていなければならない。そういうふうにして、「だれだれの息子さん、おはようございます」と挨拶するのである。このとき女は向こうさんの名を呼んではならない。しかし、男が結婚してもう何年にもなるような場合には、義母もさほどおそれるようなことはなく、彼のいる部屋へ入っていって話をしたりさえする。
ところで、トンガ人の社会では、男がもっともきびしく回避しなければならないのは、その妻の母親ではなくて、むしろ妻の兄弟の妻である。もし彼らが道で会えば、おたがいに注意深く避けあう。男が道をよけると、女はすたすたと通りすぎてしまう。女に道連れがあれば、その間立ち上がって男と談笑しているのである。川を渡るにも、彼女はなるべく彼と同じ舟に乗らないようにする。また彼と同じ皿から食べるようなことはしない。男が話しかけてくると、気がねして当惑しながらそれに応じる。男は彼女の小屋には、はいっていかないで、戸口のところにうずくまり、興奮して上ずった声で用をたすのである。誰も彼に食物を持っていってやるものがいなければ、いやいやながらも彼の留守の間を見計らって、それを小屋の中に押しこんでやる。これは何もおたがいに嫌いというわけのではなく、一種の精神的な恐怖を感じあうからである。
しかしながら、トンガ人の社会の、結婚によって生じた親族間の回避の戒律も、時代とともにその峻厳さは緩和されてきている。男子とその妻の母親との緊張した関係が緩和されてきたのである。つまり彼は彼女を「母」と呼び、彼女は彼を「息子」と呼ぶようになった。この変化は、ある場合には男がその妻の両親の村へ行って住むという程度にまで進展するが、彼が子供をもち、その子どもが成長すれば、とくにいちじるしくなってくるのである。
ドイツ領西南アフリカのバンツー部族であるオヴァムポ人では、男は彼の未来の義母と話す場合には、相手の顔を見ないで目をじっと地面に伏せていなければならない。ある場合には、この回避はさらにいっそうきびしい。もし偶然に出会うようなことがあれば、すぐに別れてしまわなければならない。しかし、結婚の式が終われば、義母と義理の息子との社交は、どちらの側でもずっと容易になるのである。
バンツー部族以外における回避の慣習
以上にあげた義理の母親と義理の息子の間の儀礼的回避の例は、すべてバンツー部族からとられた。しかし、アフリカにおいてこの慣習は、あきらかに大バンツー系統の諸部族にもっともあまねく認められ、かつもっともいちじるしく現れてはいるけれども、けっして彼らだけに限られてはいないのである。
イギリス領東部アフリカのマサイ人でも、「義理の母親とその義理の息子とは、できるだけおたがいに避けなければならない。そして義理の息子が義母の小屋へはいってくるようなことがあれば、彼をその部屋に残しておき、自分は奥の部屋へはいって寝床のうえにすわらなければならない。話をするのはそれからである。自分の義理の兄弟と義理の姉妹ともおたがいにさけあわなければならないが、この規定は半義兄弟と半義姉妹の間には適用されない」
アビシニアの外辺に住まっているボゴ人でも同じように、男は自分の義母の顔をけっして見ず、またけっしてその名を呼ばない。二人は会わないように気を配っている。
ドナグラ人では、夫は結婚後「一年間その妻の家に住まうことになっているが、その間、義母を見ることは許されない。彼女と普通の関係にはいるのは、夫婦の間に長男が生まれてからのことである」
ダアフウでは、若者が娘と結婚すれば、これまではその両親とどんなに親密な間がらであったとしても、結婚式が終わるまでは会わず、道でも彼らを避けるようになる。向こうでもまた、偶然その若者に会うようなことでもあれば、その顔を隠してみせないのである。
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スマトラとニューギニアにおける姻戚関係者相互の回避
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これからアフリカの地を離れて、世界の他の部分について記してみるが、スマトラの熱帯林に住まっている未開部族であるルーブー人の社会では、女がその義父と交際することも、男がその義母と交際することも慣習として禁止されている。たとえば、男が道でその義理の娘に出会えば、彼女をなるべく自分から遠く離れさせるため、道の反対側にさけなければならない。道が狭すぎる場合には、ちょっとの間、道の外に出るように心をつかう。しかし、義父と義理の息子、義母と義理の娘の間には、このような遠慮はまったく規定されていないのである。
ドイツ領ニューギニアのメラネシア部族の一つであるブカウア人では、結婚によってつながる人々の間の回避の規定は、きわめて峻厳である。彼らはおたがいに触れ合うことも、その名を呼ぶことも許されない。ところが、他の多くの一般の例と異なって男性と女性との場合と同じように、同性間の回避の規定もすこぶる峻厳である。少なくとも、この慣習を報告した記者は、主として男子とその娘の夫との間に守られる作法によってこれを説明している。男は自分の義理の息子の前で食事をとる場合には、その顔に面衣をつける。そうしていてもなお自分のあけた口を見られたときには、たいそう恥ずかしがって森林のなかへ逃げ込んでしまうのである。義理の息子になにかビンロウジとかタバコとかいったようなものをくれるときには、けっして直接手渡すようなことはしないで、それを木の葉のうえにのせておく。そうすると息子はそれを持ってゆくのである。二人でいっしょにイノシシ狩りにいっても、義理の息子は義父にさわるといけないというので、獲物を捕まえたり縛ったりすることを遠慮する。このように注意していても、なにかのはずみで手や背中が触れると、義父のほうが大きな恐怖で青くなる。そしてその場で犬を屠《ほふ》って、自分の尊厳を汚した穢《けが》れをぬぐい去るため、それを義理の息子に与えるのである。もしこの二人が仲違いでもするようなことが起これば、息子のほうは村を捨てて去ってしまう。そして、それでは残された生みの親が不憫だというので義父が彼を呼び戻すまで、どこか遠方に滞在しているのである。同様に男は、その義理の娘にもけっして触れないのである。
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アメリカ・インディアンにおける親戚回避
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カルフォルニア半島の未開人では、男はある期間その義母の顔、妻の近親の顔を見ることを許されなかった。こういう女に出会えば、道をゆずって避けるか、隠れるかしなければならなかった。
フロリダのイスラ・デル・マルハトのインディアンの社会では、義父と義母とは義理の子の家へ入ってはならず、後者もその義父と彼の親族の前へ出てはならなかった。偶然彼らが道で出会った場合には、双方とも頭をずっと垂れて目を地面に落とし、矢の届くくらいの距離までゆきすぎなければならなかった。しかし、女はその夫の父母と話すことを許された。
ユカタンのインディアンでは、許婚の男が未来の義父と義母とを遠くに認めると、すばやく身を翻《ひるがえ》して隠れてしまう。彼らに会うと子どもが生まれないと信じているのである。
イギリス領ギアナのアラワク人では、男は自分の妻の母親の顔を決して見てはならない。彼と彼女とがもし一つの家にいなければならぬ場合には、幕か壁によって間を距てられねばならず、彼と彼女とが一つの丸木舟で旅をするときには、彼女は義理の息子に背を向けていられるよう、まず先に乗りこむのである。
カリブ人では、女は結婚後でもその父の家を離れない。こうすることによってどんな人にでも話しかけてかまわないという利益をうることができ、夫に対して有利な立場に立つことになるのである。夫のほうは、若すぎるか、泥酔して節制を失った結果大目に見てもらうのでないかぎり、妻の親族達と話してはならないからである。夫は妻の近親に会うことを非常に忌み嫌い、そのため大きな遠まわりをする。もしやむえぬ場所で偶然おち会えば、話しかけられる方は相手の顔を見なくてもすむように横を向く。
チリのアラウカン・インディアンでは、男の妻の母親は結婚式のとり行われている間は、彼に話しかけてならないばかりでなく、その顔を見ようともしない。そして、「この体面を重んじることは、ある場合には非常にきびしく行われ、結婚して何年かたった後でも、彼女は面と向かって彼に話しかけない。もっとも、彼に背を向けたり、垣や壁のような中間物をおけば、自由に話をするのである」
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姻戚間の回避と血族間の回避とは不当な性的関係の禁止を目的とする
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結婚によって密接に関係している人々の間の回避の同様な実例は、あげようとすればいくらでも容易にあげることはできるが、参考としては以上で十分であろう。
さて、このような慣習の意味を決定するについて非常に重要なことは、同様な回避の習慣が、ただ単に結婚によって相互に関係している人々の間だけではなく、性の異なった近い血族の間、たとえば両親と子ども、兄弟と姉妹の間でも守られている事実に注意することである。また、これらの慣習は酷似していて、それらを区別することも、結婚による関係者達の回避にある説明を与え血族間の回避にそれと異なって説明を与えることも、困難というよりは不可能であるという点に注意すべきである。ところで、この回避の説明を試みたある人は、この種の冒険をあえてしたのである。あるいはむしろ、彼らはその注意を、結婚による関係者たちだけに、もしくは義理の母親だけに限るというふうですらあった。実際において、このような回避の慣習一般に説明の鍵を与えるのは、血族間の回避の慣習であろうと考えられるにもかかわらず、彼らはまったくこの血族間のことを無視してしまったのである。
私がすでに述べたようにこのような回避の慣習の真実の意味は、その結婚が何かの理由で社会の道徳観念にもとるような人々の間の性的関係をしりぞけるためにくふうされたものである。このような解釈は、机上の理論家によって拒否せられたけれど、その意見が最高の権威として迎えられるような、鋭い未開人の観察者のあるものによっては支持せられているのである。
バッタ人における回避の例
もっとも近い血族の間にすら起こる不当な交わりに対する恐怖が、文化程度の低い民族ではけっして根拠のないものでないことが、すでに相当に未開の域を脱しているスマトラのバッタ人もしくはバタク人についてのあるオランダ人宣教師の実験によって証明せられると思う。バッタ人は
「血すじまたは結婚による近親たちに関する回避の、ある規定を守る。ところで、このような回避は、彼らの道徳観念がきびしいから生じたわけではなく、反対にそれが弛緩しているから起こるのだといわれる。バッタ人は、男女が二人きりであうことは、不義の仲となるものだと決めているそうである。同時に近親相姦は神々の怒りを引きおこし、同時にあらゆる災厄を呼ぶことになると信じている。それで近親の者たちは、この誘惑に負けないために、おたがいに避けあわねばならないのである。たとえば、夜会のために兄が妹を同伴してゆくのは、ぞっとするようなことだとせられている。他人の見ているまえにあってすら、兄弟と姉妹とはおたがいにどぎまぎしている。一方が家へはいれば一方は出て行く。さらに父親はけっしてその娘とだけで、母親はその息子とだけで、同じ一つの家にいるようなことはしない。男はけっしてその義母に、女はけっしてその義父に話しかけない。この慣習について報告したオランダの宣教師は、彼がバッタ人について知っているところからいえば、このような戒律の大部分を残しておくことは残念ながら、ぜひとも必要であるとつけ加えている。同じような理由から、バッタ人の少年が年ごろになると、彼はもう家族と一緒にその家にねることを許されないで、隔離小屋で寝泊まりさせられ、妻に死に別れた男も同じようにその家族の家から追い出されてしまう、と彼は述べている」
メラネシアにおける回避の例
同様にバンクス諸島やニューヘブリデスのメラネシア人では、男は自分の義母を避けねばならないだけではない。彼が年ごろに達するか、年ごろ近くなって、今まで裸で自由に跳ね回っていた者が衣服を身につけるようになると、その母親や姉妹を回避しなければならなくなるし、もう彼女らと同じ屋根の下に住まうことは許されなくなるのである。彼は自分の身のまわりのものをまとめ、独身の若者達の共棲小屋に宿替えして、三度の食事も寝るのもそこでするようになる。何か食べ物をもらいに父親の小屋へいっても、そこに姉妹がおれば食べずに逃げなければならない。姉妹がいなければ戸口のところにすわって食べてもよい。兄弟と姉妹が偶然道で出会えば、姉妹のほうが逃げるか隠れるかする。もし砂の上を歩いていて、自分の姉妹の足跡だとわかるのがあれば、少年はそれを辿っていったりしない。少女のほうでも同じである。この相互的回避は生涯つづく。少年は姉妹の身がらを避けねばならないだけでなく、その名を口にしてもいけない。その名のどこかの部分に偶然一致するような音をもった普通の語を口にすることすら遠慮しなければならない。少年が衣服を身につけるようになってから後の、その母親に対する回避もまことにきびしいもので、これは少年が大人になるに従ってますますその度を加えるのである。息子が小屋へ戻ってなにか食べ物を求めると、母親はそれを戸口のところまで持ちだしてやるのであるが、直接手渡しすることはなく、そこに置いて取らせる。母親が息子を呼ぶ場合には、「おまえおいで」とはいわないで、「おまえさんたちおいで」というふうに複数の形にしてよそよそしくする。二人で話をするときには、母親のほうが少し離れて向こうむきにすわる。大きくなった息子を見るのが恥ずかしいのである。コドリントン博士の見るところでは、「すべてこれらのことの意味は、明らかである」
バンクス諸島のメラネシア人は、結婚すればその義母を避けねばならない。この回避の戒律は非常に厳格で煩わしいものである。身がらの回避についていえば、男は義母の近くへやってきてはならない。義母も同様である。もし道で出会うようなことがあれば、義母は道の外へ歩み出て、彼がゆきすぎてしまうまで向こうむきになっている。あるいは場合によっては、男の側で道をあけることもある。ポート・パタソンのヴァヌア・ラヴァでは、砂の上に印された先の者の足跡が波によって洗い消されるまでは、男は浜でその義母の通ったところを歩いてゆかず、義母のほうでも同様である。また男とその義母とは、相当な間隔をおいてでなければ話をしない。
回避が年ごろに及んで開始される理由
これらのメラネシアの回避の慣習が他と同種類のものであることは明らかである。したがって、男の例で避ける女が義母、実母、姉妹のいずれであるにしても、他の例と同様な解釈を与えねばならないのである。ここでとくに次の点に注意しよう。すなわち、東部アフリカのアカムバ人で父と娘の相互回避が年ごろになったころ始まると同じように、メラネシア人では息子とその母親またはその姉妹の相互回避が息子の年ごろになったころ始まるという事実である。
これによってみれば、いずれの民族にあっても、もっとも近い血族間の回避は、男女とも性的交渉が可能となりはじめる危険な年齢に達してはじめて開始せられるのである。それゆえ、この相互回避は、社会の一般的意見が近親相姦として排撃する性的交渉の機会をできるかぎり少なくするために案出されたものであって、その他の理由によるものではないとの結論を否認することは不可能のようにみえる。そして、メラネシアの少年が年ごろに達したとき実母と姉妹とを回避する理由がここにあるとすれば、彼が成長して結婚した後に、その妻の母親といっしょにいることを回避するのも同じ理由によると結論するのは、自然であると同時にほとんど必然的であると見られるのである。
カロリン群島における回避の例
母親と息子、父親と娘、兄弟と姉妹の間の同様な回避の慣習は、カロリン群島の原地民たちの間にも行われているが、この慣習を観察した記者の報告によれば、その動機は近親相姦に対する恐怖である。彼は述べていう。
「同一部族内の親族間の結婚と性的交渉の禁止は、神の命令だと中部カロリン原地民は信じている。彼らの意見によれば、その戒律を犯せば神によって罰せられ、破戒者は病気にかかるか死ぬかである。この信仰は原地民たちの社会生活全般にわたって特異な姿をとって影響を与える。すなわち家族内の異性の者は、幼少の頃からおたがいに寄りつかないよう数々手を尽くして分離されるのである。未婚の男と少年とは、言葉を語り始めた頃からずっと、夜分は両親の小屋に寝泊まりすることを許されず、会合小屋 fel に泊まらなければならない。夕方になると、彼らの食事は母親か姉妹かがそこまで運んでやる。ただ息子が病気のときだけは小屋へ連れ戻って、そこで母親が看病するのである。一方、女や娘たちは会合小屋にはいることを許されない。彼女たちがそこへはいってもかまわないのはプワリク祭のときだけで、そのときには他の部族の女たちでも自由に出入りしてよいことになっているが、私の知っているかぎりでは、まずめったに女たちのくることはない。未婚の娘たちは両親といっしょにうちの小屋で寝ることになっている。
慣習と伝統とが家族のうちに持ちこんだこのような束縛は、家族員相互の行動にも反映している。つぎの人々は注意して交わりをしなければならない。すなわち、娘に対しては父親が、息子に対しては母親が、兄弟に対しては姉妹が、それぞれ敬遠の態度をとらなければならない。このような人物の前では、ちょうど酋長の前に出たときと同じように、立っていたりなどせずきちんといずまいを正さねばならない。狭い道で彼らの前を通るときには、まずごめんくださいと挨拶してから身をかがめ、あるいは匍《は》うようなかっこうをしてゆきすぎなければならない。いっしょに歩くときには後からついてゆく。彼らが使ったばかりの器物で飲むことも避けねばならない。彼らにさわったりしないで、いつでも一定の間隔を保つ必要がある。ことに頭は神聖な部分とせられている」
他の諸部族における同様な回避
以上述べたすべての例において、相互的回避の慣習は、肉体的には性交が可能であるけれど、伝統や社会的意見によってこのような関係をもつことを禁止される異性の人々によって守られている。ここで一人の男子が結婚することを禁止せられ、また回避しなければならない血族は、彼自身の母親、娘、姉妹である。ある民族はこれに少なくとも彼自身の女の|いとこ《ヽヽヽ》、またはそのうちのある者を加える。というのは、多くの民族は二人の兄弟の子どもであるか、二人の姉妹の子どもであるか、兄弟と姉妹の子どもであるかによって、|いとこ《ヽヽヽ》に判然とした区別をつけ、ある|いとこ《ヽヽヽ》たちの間の結婚が許されるばかりでなく奨励さえせられるに反し、他の|いとこ《ヽヽヽ》たちの結婚は絶対的に禁止せられるからである。
さてここで非常に注意しなければならないのは、男とその|いとこ《ヽヽヽ》のある者との結婚を禁止する部族が、その同じ部族または他の部族において彼が同様に結婚を禁止せられているその義母、実母、実の姉妹などに対して守ることを命じられている社交回避を、そのいとこのある者に対して守ることを命じている点である。たとえば、ニューアイルランド(ニューメックレンベルグ)中央部の諸部族では、男(いとこ《ヽヽヽ》と女|いとこ《ヽヽヽ》、すなわち兄弟の子と姉妹の子との結婚はかたく禁止せられている。実際この場合の禁止は、他のいかなる場合よりも峻厳で、「いとこは神聖なり」という諺があるくらいである。
さて、これらの部族で、男は女いとこ、すなわち父親の姉妹の娘または母親の兄弟の娘との結婚を禁止せられているばかりでない。他の部族で男がその実母、義母、自分の娘、自分の姉妹を回避しなければならなかったと同じように、女|いとこ《ヽヽヽ》とのつき合いをも回避しなければならないのである。|いとこ《ヽヽヽ》たちはおたがいに接近してはならず、握手することも、触れ合うことも許されず、贈り物のやりとりもいけないし、名を呼び合うこともいけない。しかし、何歩か離れていれば、話し合うことはかまわないとなっている。兄弟の子と姉妹の子である|いとこ《ヽヽヽ》たちのこのような回避の戒律や、その間に設定せられる社会的防壁とでもいうべきものが、彼らの間の性交渉が一般の社会的意見によって深刻な罪だと考えられるような男女の交わりの危険性を除くための予防策であることは、ごく自然にそして簡単に理解せられることである。
この報告をもたらしたあるカトリック宣教師は、くどくど論議を尽くす余地のないほど明白だとでもいうように、ごくあっさりとこの解釈をとっている。彼によれば、すべての回避の慣習は、「この結婚禁止の外的シンボルとして守らしめられる」のである。彼はさらにつけ加えて、「原地民たちがまことに執拗に固守している結婚禁止のこの外的シンボルが、万一破棄せられるか弱められでもしようものなら、たちまち結婚の取り決めの非常な危機がやってくるにちがいない」といっているのである。
これ以上の結論をくだすことは、理性を持った人間にとっては困難のようにみえる。もしこれらに対して確証が必要だとあらば、つぎの事実によって与えられるであろう。ニューアイルランドのこれらの部族では、兄弟と姉妹とはまったく同様な相互的回避の戒律に従わねばならない。兄弟と姉妹との不倫は、絞殺をもって罰せられるほどの罪である。彼らは接近してはならず、握手してはならず、おたがいさわってはならず、贈り物のやりとりも許されない。しかし彼らは、何歩かの間隔をおいて話をすることはできる。娘との不倫の罪に対する刑罰も同様に絞殺と決まっている。
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バガンダ人における男いとこと女いとこの回避
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同様に中央アフリカのバガンダ人でも、男はその|いとこ《ヽヽヽ》すなわち父親の姉妹の姉か母親の兄弟の妹かと結婚したり性的交渉をもつことを禁止せられ、この禁を犯した場合には死刑に処せられた。このような|いとこ《ヽヽヽ》たちは、おたがい接近したり、物を手渡したり、同じ家に中へはいったり、同じ皿のものを食べたりしてはならなかった。もし|いとこ《ヽヽヽ》たちがこの戒律を破れば、言葉をかえていえば、おたがいに接近したりなにか手渡したりすれば、二人は病気にかかり、手が慄えたり、なんの仕事にも役だたぬ人間になってしまうと信じられている。すなわちこの場合にも、社交の禁止はあきらかに死刑をもって罰せられることになっていた種類の性的交渉に対する単なる予防策である。このバガンダ人で、男が自分の妻の母親に対して行う回避についても同じことがいわれる。「誰もその義理の母親を見たり、面と向かって話をしたりしてはならない。彼女は向こうからやってくる義理の息子とすれちがうときは顔を隠し、向こうから義理の母親がやってくるのを認めたなら男は道をよけて回り道をする。義母が家の中におれば男はその中へはいってはならない。しかし遠くから話しかけることは許されていた。これは彼女の娘、つまり自分の妻の肌を見たことがあるという理由からだといわれる。もし偶然に義母の胸を見たとすれば、慄え病のようなものにとりつかれないようにというので、償いのため彼女に樹皮布を贈るのであった。近親相姦の罰は死刑であった。氏族のなかの誰一人として、このような罪を犯した者をかばってはくれない。罪人は氏族全体から排撃され、その地の酋長の審問を受け、死刑に処せられるのであった」
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南アフリカにおけるいとこ間の結婚禁止
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ある形のいとこ相互間の結婚禁止は、バンツー系のアフリカ諸族の間にひろく行われているようである。たとえば、南アフリカのバンツー人について、次のような報告がある。
「海岸部族の人々は、父かたの|いとこ《ヽヽヽ》、|またいとこ《ヽヽヽヽヽ》、第三|いとこ《ヽヽヽ》などとわれわれが呼んでいる女性の保護者をもって任じ、ある人々は母かたの同様な親族に対して同じような感情をいだき、彼女たちすべてを姉妹として取り扱っていた。彼女たちの誰かとの不道徳なおこないは近親相姦と認められ、まことにおそろしい口では言えような恥ずかしい特別なこととされていた。昔はこれに対する刑罰として男のほうが殺されることになっていたが、今日では重い罰金が申しわたされることになっている。一方、女の罪は、部族の祭司のとり行うありがたい儀典によって贖《あがな》い清められねばならない。そうでないと、呪いが永久に彼女とその子孫とに残ると信じられている……。このような例とは反対に、内陸地方の原地民たちはほとんど規則的にといってもよいくらいに、その父親の兄弟の娘たちと結婚するが、伝えられるところによれば、これは財産の失われるのをその家族に引き止めておくためである。なによりもこの慣習のために、彼らは海岸部族から嫌悪され軽蔑せられるようになった。海岸部族はこのような結合をイヌの結婚と呼び、内陸地方の諸部族に近ごろ狂人や白痴のふえてきたのは、まったくこのせいだとしているのである」
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供犠を条件としていとこ間の結婚を許すアフリカ部族
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デラゴア湾沿岸の一バンツー部族であるトンガ人では、|いとこ《ヽヽヽ》間の結婚は原則として禁止せられ、このような結婚からは子どもが生まれないと信じられている。しかし、この|いとこ《ヽヽヽ》たちの間の結婚も、妻に対する不妊の呪詛を消すという贖いの儀典をとり行なうという条件つきで許されることもある。贖いの儀典とは、ヤギが犠牲として屠《ほふ》られ、男女の者はヤギの胃の中にある半消化の草を絞ってとった緑色の液汁をからだに塗られるのである。そして次にヤギの皮に一つの穴をあけて、そこから二人が首だけだす。それからまったく生のままの肝臓がその孔を通して手渡されるのであるが、二人は小刀を使わずに歯でもってそれを噛み裂かなければならない。噛み裂いてそれを食べるのである。肝臓 shibindji という語は、「忍耐」とか「決心」とかいう意味を持っている。そこで人々は二人の者に向かって、「おんみらは強い決心を持って行動した。今、肝の臓を食べよ。それを昼の真ん中に食べよ、夜の闇にでなく。それは神々への供物となるであろう」という。それを受けて家族祭司が祈っていう。「汝われらの神々よ、見よ。われらこのことを白昼になせり。秘密のうちになされしに非ず。このものどもを祝して、子孫を栄えしめたまえ」この祈りが終わると、助祭たちがヤギの胃の中から半消化の草をすっかり取りだし、「ゆけ、産めよ」といいながら、それを妻の頭にのせるのである。
ドイツ領東部アフリカのワゴゴ人では、二人の兄弟の子である|いとこ《ヽヽヽ》たち、二人の姉妹の子であるいとこたちの結婚は禁止せられているが、兄弟と姉妹の子である|いとこ《ヽヽヽ》たちの結婚は許されている。しかし、この後の場合には、普通妻の父親がヒツジを屠って、おそらくその皮でつくった腕甲をつけることになっている。こうしなければその結婚は子どもをもうけることができないといわれているのである。これでわかるように、トンガ人と同じようにワゴゴ人は、贖いの犠牲が供えられ、犠牲動物の皮をある特別な方法で処理しないかぎり、|いとこ《ヽヽヽ》たちの結婚は子をもうけることができない運命にあると信じているのである。
また、イギリス領東部アフリカのアキクユ人は、|いとこ《ヽヽヽ》と|またいとこ《ヽヽヽヽヽ》、つまり兄弟と姉妹の子と孫との結婚を禁止する。もしこの間がらの人たちが結婚すれば、大きな罪を犯したことになり、生まれてくる子はかならず死んでしまう。というのは、この罪悪によってもたらされた呪詛、または儀礼的不潔は、洗い去ることができないからである。ところが、男子がその間がらに気がつかずに|いとこ《ヽヽヽ》あるいは|またいとこ《ヽヽヽヽヽ》と結婚するようなことがたびたび起こる。たとえば、家族の一部がよそへ移住したような場合に、その中の男子が知らない娘と恋におち、親族であることをおたがいに知らないで結婚してしまうようなことも起こりうるのである。このように、知らないで罪が犯された場合には、贖いの儀典をとり行うことによって、呪詛を取り除くことができる。長老たちはヒツジを女の肩にのせる。ヒツジはそのまま屠られて、内臓が取り出される。長老たちは林から切り取ったある種の鋭い木片でもって内臓を切りながら、「今ここで氏族のクチャンヤルリラを切っていると宣言する。それは二人の間にある親族の絆を切っているという意味である。次に呪医がやってきて、二人の者を清めるのである」
すべてこのような実例から、相当強い蓋然性をもって、われわれは次のように結論することができよう。すなわち、|いとこ《ヽヽヽ》たちの間の結婚禁止の古い戒律はしだいに崩壊しつつあり、このような結婚の行われたときとり行われる贖いの供犠は、古いタブーを犯したことに対する良心の呵責を和らげるものである。
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男いとこ女いとこたちの回避は罪の予防策
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|いとこ《ヽヽヽ》たちの間の結婚の禁止と、|いとこ《ヽヽヽ》の間がらである男女の者が守らなければならぬ儀礼的回避の規定は、それが正しいか間違っているかは別として、このような結婚が呪われた結果をもたらすとの信仰、ならびにそれを避けたいという願望から出発したもののようである。|いとこ《ヽヽヽ》たちの相互的な回避は、二人の間の度をすぎた危険な親密さを防ぐ予防策にほかならない。この見方が正しいとすれば、血族関係にある男女の間の、または結婚によって親族の間がらとなった男女の間の、儀礼的回避のあらゆる慣習が、単に近親相姦の恐怖にもとづいたものであるとの説を裏書きするものである。
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男とその妻の親戚との相互回避は妻の不妊の恐怖にもとづく
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おそらくこの説は、次の事実によって確認せられるであろう。すなわち、ある部族では、男とその妻の母親との回避は、ただその妻が子どもをもうけるまでの期間に限られている。他の部族では、回避がより長期にわたってつづく場合でも、男女の者が老いてゆくにつれて齢とともに弱くなる。またさらに他の部族では、単に男とその未来の義母との間だけで守られ、しかも男が結婚すれば回避もそれきりになるのである。
これらの慣習は、妻の親族を回避することと、結婚が不妊におわるという恐怖とが、人々の心の中でいっしょになっていることを示している。すでに述べたように、ユカタンのインディアンは、許婚《いいなずけ》の男が未来の義父義母に会えば、子供をもうける力を失うと信じている。このような恐怖は、この章の始めの部分でわれわれがすでに取り扱ったところの、そして再びこれから説明しようとしているところの、不倫な性的関係の呪われた結果に関する信仰の誤った推理による単なる延長にすぎないのである。
特定の人々の間の性的交渉が非常な危険をもたらすという考えの当否は別問題として、とにかくそうした考えかたから未開民族は、彼らの間の社交もまた、単純な接触をとおして働き、あるいは接触しないでも働く一種の物理的伝染のおそれがあるため危険であるとの結論に飛躍したのである。あるいは、多くの場合そうであるが、男が単にその義母を見たりさわったりしただけでかならず妻の妊娠の力が枯らされてしまうとまでは考えないにしても、さらに強い確信をもって、彼と彼女との親密な社交は過失を起こしやすいと考え、このような過失を予防するには彼ら二人の間に強い儀礼的な防塞を築くのが最上の策であると考えたにちがいないのである。しかし、もちろん、このような回避の戒律を、考えたうえの立法の結果として現れたものと思ってはならない。むしろ、未開民族自身はおそらくほとんど意識していないところの、感情と思想との自然的漸進的な成長であるとみるべきであろう。以上において私は、われわれにわかる言葉をもって、道徳的社会的発展の長い過程の結果を要約してみたわけである。
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同性間の回避は異性間の回避の誤った類推にもとづく
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このような推論は、これまでに主張せられてきた説に横たわるただ一つの困難な点を、ある程度まで緩和するであろう。回避の慣習がもし近親相姦の危険を考慮して現れたものとすれば、なぜしばしば同性のものに対して適用せられるのであろうか。たとえば、男がその義母を避けると同じように、義父をも避けるのはなぜであろうか。この困難はたしかに重大である。しかし、この説明のため私が提出しうるただ一つの解釈は、まえにすでに述べたところのものにほかならない。血族でも姻戚でも、ある種の人々の結婚の致命的な結果についての未開民族の確固不抜の信仰は、その心の内に漸次《ぜんじ》発展していって、男と女の関係と同時についに男と男の関係をも包含するにいたったものと考えられる。
たとえば、義父を見たり義父に触れたりすることは、義母に触れたり不倫な行為をするのと、ほとんど、またはまったく同様に危険であるとの確信に進んだものであろう。この推理過程にあるむりをさぐりだすことは、われわれにとってはもちろんなんでもない。しかしわれわれは、この非合理的な未開民族を嘲笑することはできない。われわれ自身が後生大事と抱きしめている確信の大部分も、あるいは、いや、おそらくは、これと同じように根拠に乏しいものであろうからである。
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近親間の回避は近親交配の禁圧に寄与した
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このような見解からすれば、未開民族間の儀礼的回避の慣習は、多くの場合気まぐれで、ばかばかしく見えがちな外見とはおおいに異なって、まことに深刻な問題をもっているのである。この慣習が近親交配、つまり近親間の結婚を禁圧した点については、もちろんこの慣習がそのためあずかって力のあったことは疑いを入れないが、もし多数の威厳ある生物学者のいうように、動物でも植物でも連続的な近親交配を行なうことはその種にとって有害このうえなく、ついには繁殖不能となって種の断絶を来たすものとすれば、その努力はおおいに賞揚しなければならぬというべきであろう。しかしながら、血族結婚の結果に関する科学者の意見は決して一致しておらず、現存の一権威者は最近この問題に関して次のような結論を発表している。――「動物や植物に関する実験、ヒューズらの研究の結果、高率の血族結婚を示している社会の実例や反例などを考慮した結果、近親間の結婚に対する多くの民族の偏見と戒律とは、生物学的基礎に立つというよりも、むしろ社会的基礎の上に立つものと結論せざるをえない」
この未解決の問題に関する科学の最後の断定はどうあろうとも、人類の歴史の長い過程において、迷信が道徳のうえに与えたところの、深くてひろい影響のみを考える当面の研究の結果には、別にたいした関係はない。その影響が全体として善であったか悪であったかは、今、われわれの問うところではない。われわれの目的とするところは、迷信が道徳の推進力となったことを示すにあたって、そのために道徳が徳の公道をつき進んだか、あるいはそのために道徳が泥水の中へ突きとばされたかは、当面の問題ではないのである。論は枝葉にわたったが、今、本論にたち返るにあたり、義母との対話の罰として男に死の苦痛をなめさせるオーストラリアの原地民は、はたして賢明であるか暗愚であるかの問題を、われわれは疑問のうちに残さなければならない。
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性的犯罪に対する峻厳な刑罰の例の追加
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つぎに、ある部族たちが不当と認める男女関係に対して加えた極端な峻厳さの例をすこしばかりつけ加えて、研究のこの部分の結論にしたいと思う。
十六世紀の中頃、リオ・デ・ジャネイロ付近のブラジル海岸に住んでいたインディアンの間では、私生児を産んだ既婚の女は死刑に処せられるか、妻をもつことのできない若者たちの情欲に任せられるかであった。生まれてきた子は生き埋めにされた。成長してもただ生みの親の赤恥をさらすだけと考えられたからである。こうして生まれてきたものは、たとえ大きくなったとしても、他のものどもといっしょに戦場へ出ることことを許されなかった。彼が出征すれば一同のうえに不幸や災厄が降りかかってくるおそれがあった。この哀れな除け者の手に触れた食べ物は、シカ肉であれ魚肉であれ、他人はいっさい食べようとしなかった。
中央アフリカのルアンダ地方では、子どもを孕《はら》んだ未婚の女は、さきごろまで子どもが生まれていてもいなくても、その子どもと一緒に殺されるのであった。アカンヤル川口のある場所がこの処刑場にあてられ、罪の女と罪なき子とはいっしょに川の中に投げこまれた。ところで、道徳のこの超清教徒的峻厳さは、例によって例のごとく、ヨーロッパ人の影響によって緩和された。その後も不義の子は殺されたが、生みの親はウシ一頭の罰金で助命されることになったのである。
聖ボニファティウスのときまで、サクソン人の間では、姦淫の女や父親の家をけがした娘は、むりに縊死させられて焼かれ、その情夫は燃えさかる薪の上につるされた。そんな女は村中の女たちによって、ずたずたに斬りさいなまれて殺されることもあった。
バルカン半島のスラブ人では、たしかに不貞を働いたことのわかった女は、石でうち殺されることになっていた。一七七〇年のこと、ダルマティアのカッタロの近くで娘が妊娠したという理由で、若い許婚の男女がこうして殺された。若者は結婚することを申し出て、祭司は無期限追放に減刑することを提議した。しかし人々は、その村に私生児を入れることはできないといい張った。そこで不幸な男女の父親達は、やむをえず第一の石を投げたのである。M・エディス・ダラハム女史がこれをモンテネグロの百姓たちに話したところ、彼らはいちように、不貞の女に対する昔の刑罰は投石に決まっていたと述べた。その情夫は彼が誘惑した娘の親族によって射殺されることになっていたとのことである。「かの現代のメッサリナ」〔ローマ皇帝クラウディウスの三人目の妻で、淫蕩で知られた〕セルビアのズラガ王妃が暗殺されたとき、ある一人の敬虔な百姓女は、「彼女は石積みの下になるべきだ」といった。ダラハム女史から暗殺の報を受けたモンテネグロの田舎者たちは、「この暗殺を清め(汚染の除去)であるとなし、ヨーロッパもこの行為を賞し、この罪の女の暗殺によって国土は繁栄に向かうにちがいないと真面目に考えた」
十九世紀の後半にいたるまで、南スエズ人では不貞の問題の起こった場合、二人の犯人をいっしょに石でうち殺すことになっていた。こういう事件は、たとえば、一八五九年ヘルツェゴヴィナで起こったことがある。それはミルチンという若者が、三人の娘を誘惑して、いや誘惑せられたといったほうが正しいが、娘たちを妊娠させたことから起こった。人々は罪人たちを取り調べ、ある長老は犯人どもを石でうち殺すことを提議したが、結局、裁判はやや軽い刑を申しわたした。若者は娘たちの一人と結婚し、他の二人の子どもを自分の子として養育する義務を負わされ、なおつぎにトルコとの間に戦争が起こった場合には、武器を持たずに敵の真っ只中に躍りこんで敵の武器を奪い取り、生死にかかわらずその勇武を示さねばならぬことに決まった。刑は確実に履行されていったが、最後の一項を成就するまでにはなお数年かかった。しかし時期は到来した。一八七五年、ヘルツェゴヴィナはトルコに対して反乱を企てたのである。ミルチンは身に寸鉄も帯びないで敵の大軍の只中へおどりこみ、あっぱれトルコ軍の銃剣のもとに英雄的な最期を遂げたのである。
今日でも南スラブの古風なカトリック信者たちは、不貞事件が村に起こり、男がその犠牲となった女とむりにでも結婚させられなかったら、村は雹《ひょう》と長雨で罰せられると信じている。この迷信ゆえに彼らはお隣のややもののわかったカトリック信者の嘲笑をかっているが、おもしろいことにこのお隣さんも、雷鳴や稲妻を給料の支払いを理由なくとどこおらせた腹いせに村の祭司が起こすものだと、前者に比べてやや、もっともらしいことを信じているのである。大降雹は村の祭司にとってはほとんど命取りである。こういう場合には、憤激した信徒達によってさんざん叩きのめされ、半死半生の目にあわされるからである。
これらの、あるいは類似の場合において、社会が性的犯罪人にこのような峻厳きわまる刑罰を加えるのは、これによってそこなわれるものが単に二、三の者の利益ではなくて、じつに全社会そのものの安寧《あんねい》が脅かされると信じこんでいることを認めないかぎり、ほとんどまったく理解しがたいことである。
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なにゆえに両性間の不義な関係が自然の平衡を妨げるか
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両性間の不義な関係がなにゆえに自然の平衡を妨げ、とくに土地の実りを衰微せしめ、枯らしてしまうかの疑問に対しては、部分的な説明を仮説的に述べるとしよう。このような不義の関係が神々の不興をかい、神々は少数の者の罪ゆえに全社会を無差別に罰するのだと考えるのは、まだ十分ではない。われわれはつねに、神々というものが人間の想像の産物であることを心に留めておかなければならない。人間は神を人間の形につくる。そして自分自身の関心と意見の単なるおぼろげな投影を、神の関心であり意見であるかのように考える。それで、神々がそう考えるからある事がらは罪であるということを是認することは、ただ問題をもう一段押し返して、なにゆえに神々はこのような特別な行動を嫌悪し刑罰を与えるのかという、より深い別の問題を提起することにほかならないのである。
われわれが取り扱ってきた多くの事例において、未開民族の神々がおそるべき怒りをもって姦淫、私通、近親相姦などを禁圧した理由は、おそらく多くの未開民族が人類の生殖と動植物の生殖の間に認める類同のなかに発見することができるであろう。この類同はかならずしもまったく想像上のものとはかぎらず、反対に実際的であり生命的なものである。しかしながら、未開民族はそれを実際に食糧供給の増加をはかるために適用するという無益な企てのために、誤った意味をこれに与えるのである。実際において彼らは、ある種の性的行為をなすことによって、あるいはそれを慎むことによって、直接に動物の生殖や植物の繁茂を促進することができると信じているのである。
すべてこのような行為と慎みとは、あきらかに純然たる迷信であって、もとより欲せられた結果をもたらすことはできない。彼らの態度は宗教的ではなくて呪術的である。すなわち、彼らはその目的のため、神々に祈願するのではなく、物理的因果関係のある誤った観念に従って、自然のもろもろの力を操ろうとするのである。今われわれが取り扱っている例において、未開民族が動植物の繁殖を図るために用いている原理は、呪術的共感もしくは呪術的模倣の原理である。彼らは彼ら自身の間で生殖の課程を模倣したり、実行したりすることによって、自然界の生殖の課程を助成することができると考えるのである。さて、社会の進化過程において、呪術儀典をとり行うことにより直接に自然の運行を左右しようとする企ては、神々の己惚《うぬぼ》れと貪欲、善意と憐憫とに訴えて、間接にそれを左右しようとする企てに先行するもののようである。簡単にいってみれば、呪術は宗教よりも古いようである。
おおかたの民族において、確実に純粋な呪術の時代、すなわち宗教によって着色されない呪術の時代は、測り知ることのできない遠い過去に属し、ちょうどわれわれの類人猿的祖先の存在と同じように、そのような時代の存在したことはただ推測の域を出ない。歴史と世界のあらゆるところで、呪術と宗教とはあい並んで存在している。あるときは味方となり、またあるときは敵となり、今、手をとって遊んでいたかと思えば、もう呪い合って反撥し、無益にもおたがいに撲滅を企てあっているのである。一般に理性のにぶい者は、ひそかに強く呪術に執着するが、より理性の鋭い者はそのからくりを看破して、そのかわりに宗教へ転向する。その結果として、本来純粋に呪術的であった信仰や儀典は、時代の経過とともにしばしば宗教的性格をとるようになってくるのである。これらのものは、思惟の進歩に伴って変化してゆき、善であり有益であるか、悪であり有害であるか、とにかく神々と種々の霊とに関するものとして転化するのである。
この種の変化が、性的道徳の分野においても多くの民族の心のうちに起こったであろうことは、明白に証明することはできないまでも、だいたい推察されうるものと考えられる。おそらく過去の一時期において、彼らは正しかるべき類推をあまりにもゆがめすぎ、なんらかの理由により正しくて自然であると考えられるような人間の性的関係が、共感的に動植物の繁殖を促進し、よってその社会に食糧の供給を保証するというふうに考えたであろう。それとは反対に、なんらかの理由で悪であり不自然であると考えられるような人間の性的関係は、動植物の繁殖を失敗させて阻止し、よって食糧の共同供給を減少せしめる傾向をもっていると考えたらしいのである。
不義の関係の峻厳な禁圧の動因
このような信仰が、男女間の不義と目される関係の峻厳な禁圧の強い動因となったことは明らかである。そしてまたこれは、もちろん全部ではないけれど、多くの未開民族が性的不規則を深くおそれ嫌悪する事実を説明するものである。男女間の不正な性的関係が動植物の増殖を阻止すれば、罪人たちは食糧供給の道を根本から断ち切って、部族そのものの存在に致命的な打撃を与える。それで、このような迷信が部族全体に浸みこんでいるようなところでは、性的不道徳が部族そのものの存在を危険におとしいれるという理由から、このおそるべき汚れを清める目的で野蛮性を犯人たちに向け、打ったり焼いたり溺れさせたり、あらゆる方法で殺してしまうのは自然なことである。
知識の進歩につれて、人間の両性間の交渉が動植物の増殖に影響を及ぼすと想像した誤りに気がつき始めてからも、彼らは長い時代の習慣から、ある種の性的関係が自然の運行を妨げるという信仰をどうしても捨ててしまうことができなかったのである。これは彼らがその時までもっていた推理の誤りを明らかに認めた後までも、やはり同様であった。すなわち旧い理論の消滅した後までも、旧い行動は依然として存続するのである。
性的道徳の旧い戒律はこのようにして守られていくことになるが、しかしこのような戒律が社会の尊敬をつないでゆくためには、それを新しい理論の基礎のうえにおくことが必要である。そしてこの基礎は、思惟の一般的進歩に伴い、宗教によって与えられることになる。かつては動植物の自然的繁殖を妨げ、よって食糧供給を絶滅せしめると考えられるところから悪であり不自然であると排撃されたある性的関係は、こうしてつぎには、神々や霊がそのことを嫌悪すると考えられるので、排撃せられるようになったのである。つまり、理論的基礎は呪術から宗教へと転化したけれども、それに伴う道徳的行動は旧来のまま残ったわけである。こうして、あるいはほぼこんな成りゆきでカレン人、ダイヤ人その他の未開民族たちは、以上述べてきたような性的不道徳とその結果についての奇妙な観念を持つようになったと推察される。しかし、私が今ここに素描を試みた道徳説の発展は、問題の性質上、まったく仮説的であって、決して確証的ではない。
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未開民族の不道徳観に関する未解決の問題
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しかしながら、もしかりに、今しばらく、問題の未開民族たちが、私の説いたような成りゆきで現在の性的不道徳観に達したことを承認するとしても、なおここに残る問題がある。彼らは最初どうして、ある種の性的関係を不道徳であると考えるようになったか。このような不道徳が自然の運行を妨げるという考えは、あきらかに第二次的であり、そして派生的でなければならない。彼らはその結論を誤った類推によって自然界にまで延長するまえに、なんらかの独立した根拠にもとづいてある男女間の性的関係が悪であり有害であると結論したはずである。この疑問は、社会の歴史上もっとも深くてもっとも暗い問題、すなわち、現在なお文化諸民族の間で結婚と性的関係を調節している規定の起源の問題にわれわれを直面せしめる。大ざっぱにいって、このような事がらに関してわれわれ文化人の認める根本的な規定は、同時に未開人によっても認められているのであって、ただ違うのは、彼らの側では性的禁止がはるかに数多くあり、それを犯すことによって起こる恐怖の度合いがはるかに強く、犯人に対する刑罰が比較にならないくらい峻厳であるという諸点である。この問題はしばしば論究せられた。しかし、なかなか解決せられない。おそらくは、われわれが自然と名づけるかのスフィンクスに関する限りない謎と同じように、永遠に未解決のまま残されることであろう。とにかく、今はこのように錯雑した深遠な論議をする場合ではない。ここで再び本論に戻るとしよう。
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性的不道徳は犯人自身、その子孫、罪なき配偶者に災厄をもたらす
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多くの未開民族の考えるところによれば、性的不道徳の結果は農作物を枯死せしめたり、地震を起こしたり、火山を噴火させたりなどして、直接間接に自然の運行を妨害するだけにとどまらない。犯人たち自身はもとよりであるが、その子孫や罪なき配偶者たちまでも、犯された罪の報いをその身にうけなければならないのである。
たとえば中部アフリカのバガンダ人は、「姦通はその子どもたちにとっても危険であると考えている。女が妊娠中にこの罪を犯せば、子どもは生まれるまえか生まれるときに死んでしまう。ときとしては、罪を犯した女自身がお産で死んでしまう。もし幸いにして無事分娩することができたとしても、自分の産んだ子を食い殺すような気違いになり、見張りをつけなければならないような羽目になることもある」
「お産のとき難産になると、親族たちはそれを姦通のせいにする。そしてむりに情夫の名を白状させるのであるが、もし女が死ぬようなことがあれば、その女の出身氏族の者どもは、その夫に罰金を申しつける。『われわれは姦通させるために娘を与えたのではない。おまえの監督がたりなかったからだ』といって、責任を問うのである。しかし、たいていは呪医の施術によって一命はとりとめる。回復すると女はひどく叱責せられ、情夫は重い罰金を申しつけられるのである」
バガンダ人は、母親の不貞と同じく父親の不貞もまた、子どもの生命を危険におとしいれると考えた。「その妻の一人が子どもを育てている間に夫が自分の妻でない女と性的関係をむすべば、その子どもは病気にかかり、罪を懺悔して呪医から病気を治す方法を授けてもらわないかぎり死んでしまうのである」
父や母のこのような罪によって起こされる普通の小児病はアマキロと呼ばれ、次のような病状がはっきりと現れてくる。すなわち、嘔吐がつづいて、全身が衰弱してくるのである。こうなれば両親がその罪を隠さず懺悔して、呪医にある呪術的儀典をとり行なってもらうほかに、治療の道はないのである。
姦通と母と子にくだるおそるべき災厄
姦通が母親とその子に及ぼすおそるべき結果についての同様な意見が、バンツー系諸部族にひろくゆきわたっている。たとえば、北部ローデシアのアヴェウバ人では、お産で母子ともに死ぬようなことがあれば、たくさんの情夫たちと姦通したのでこんな目にあうのだと、誰もおそれおののく。人々は女が息を引き取るまでに執拗に迫って、その情夫の名を白状させる。女がそれと白状した男は「人殺し」と呼ばれ、後に女の夫に対して重い罰金を支払わなければならない。子どもが死んで生まれ、母親が命拾いをした場合でも、夫に対して不貞をはたらいたからだと断定される。人々はその子を殺した殺人者、すなわち不義をはたらいて子を死にいたいらしめた男の名を白状させるのである。
それと同じように、デラゴア湾沿岸の、南アフリカのバンツー部族であるトンガ人は、産婦の陣痛が長くつづいたり、難産で子を産み落とすことのできない場合には、姦通の罪を犯したこと疑いなしと決めてしまう。そして分娩を可能にするただ一つの方法として、その罪の告白を女に強いるのである。数人の情夫と不義の快楽にふけりながら、そのうちの誰かの名を隠しても、決して子どもは無事に生まれることはできない。姦通の罪を犯した者がお産のとき非常に苦しむことはかたく信じられているので、今度産む子が不義の子であると知っている女は、その陣痛が少しでもやわらげられ短くなることを願って、産室に移るまえにその旨を産婆にだけそっと告白するのである。
さらにトンガ人の信じているところによれば、姦通は情夫と被害者である夫との間に相互的共感の実質的関係を生ぜしめ、一方の生命はあるゆきかたで他方の生命に結びつくようになる。このような関係が実際に、同じ一人の女と性的関係をむすんだ二人の男の間に起こると考えられたのである。ある宣教師に原地民の一人が語ったように、「彼らはその女の血をとおして一つの生命にあったのである。同じ池の水を飲んだのである」ほかの言葉で言ってみれば、彼らは媒介であるその女をとおして相互に血の契約を結んだのである。「これらは彼らの間にまことに奇妙な関係をつくる。どちらか一方が病気にかかれば、他の一人は彼を見舞ってはならない。病人が死んでしまうからである。一方の誰かが足に棘を刺しても、他の一人はそれを抜いてやってはならない。タブーである。傷が癒えなくなる。一人が死んでも片方は葬式の手助けをしてはいけない。自分も死んでしまうのである。」このために、これはたびたび起こることであるが、息子が父親の妻たちのうちの若いのと不義の関係におちた場合には、この不幸な息子は父親が死んだとしても、普通なら葬式には当然務めなければならぬお務めさえも遠慮しなければならないのである。彼が葬式の手助けをしようとすれば、親族達は不憫に思いながらも彼を追い払う。この尊敬と悔恨の情がかえってその命を失う原因となるからである。
イギリス領東部アフリカのアキクユ人は、もし息子が父親の妻たちのうちの一人と不義をすれば、罪を犯した若いやくざものではなく、まったく罪もない父親が危険な汚れを受けると信じられている。この汚れはまことにおそろしいもので、呪医を迎えて、ときを移さず危険を消してもらわないかぎり病気にかかって衰弱してゆくか、疼痛の激しい病気や腫れ物にさいなまれて、悪くすると命まで落とすことになるのである。
イギリス領東部アフリカのアカムバ人の信じているところでは、女が子どもを産んだ後、最初の月経前に不貞を働けば、子どもはかならず死んでしまう。彼らはまた、女がその兄弟と不倫の関係におちいると、そのために腹にできた子を産み落とすことができないと信じている。こういう場合には、男は大きなヤギを長老のもとに贈って、罪の贖いをしなければならない。女は犠牲動物の胃の中にあるものを、儀典としてその体に塗りつけられる。
ドイツ領東部アフリカのワシャムバ人の部落で、あるとき一人の既婚婦人がつぎつぎと三人の子どもを死なせたことがあった。この不幸の原因を探るために易者が迎えられたが、易者の占ったところによると、その女が知らずに父親と犯した不倫の罪が、このおそろしい結果を招いたものであった。
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留守を守る妻の不貞は遠征の夫の身に災厄を呼ぶ
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妻の不貞はその夫が獲物を殺すのを妨げ、そして反対に、彼自身が野獣に殺されたり傷つけられたりするような非常な危険にさらされることにすらなるとの迷信も、未開民族に共通したものであるらしい。東部アフリカのワゴゴ人その他の部族、ボリビアのモコス・インディアン、アレウト列島のラッコ猟師たちは、みなこのような信仰をもっている。狩りに出ている夫の身の上になにか災厄が降りかかってくれば、それはすべて留守を守っている妻の不貞の結果だと決めてしまうのである。それで猟師は、かんかんに怒って戻ってくるなり、べつになんの不貞も働かない妻を、ただ単なる疑いだけで責めさいなみ、血を流すようなことをするのも珍しいことではない。
メキシコのフィコール・インディアンは、彼らが神聖なものとしているシャボテンを取りにいっている間、留守居役の女たちにきつい貞節を申しつける。女たちに不貞のおこないがあれば、彼らは旅先で病気にかかり、シャボテン取りの目的はとうていおぼつかなくなるのである。
マダガスカルに関して、ある昔の記者はいっている。マダガスカルの女はふだんはだらしないが、夫が戦争にでているあいだじゅうは身を慎む。このような場合に不貞なおこないがあれば、出征中の夫は負傷したり戦死したりすると信じられているからである。
中部アフリカのバガンダ人も、留守中の妻の姦通が戦いにでている夫の身に致命的な結果を与えることについて、これと同じ考えをもっている。彼らの信じるところによると、神々は妻の不貞を怒り、戦争にでているその夫に好意をよせず守護を与えないようにして、罪人のかわりに罪なき者を罰するのである。また、夫の出征中に、男の衣服に触れるようなことがあってすら、戦っている夫の武器をにぶらせ、命に関わるような結果となるとまで信じられた。バガンダ人の神々は、夫の留守中その妻がきびしくタブーを守り、そのあいだじゅうずっと他の男と関係してはならないということについては、とくにやかまし屋である。戦争から戻ってきた夫は、家の中へはいるまえに、まず妻の差しだす瓢《ひさご》の水を飲んでみて、女の貞操をためす。もし留守中妻が不貞をはたらいた場合には、その水は毒となって夫を病気にするのである。それで、瓢の水を飲んだ後で病気にかかると、妻はすぐ足枷《あしかせ》をかけられ、姦通の疑いで責めさいなまれる。ここで妻がおそれいって情夫の名を白状すれば、姦夫には重い罰金が申しつけられ、場合によっては殺されることすらある。
同じように、上部コンゴのバンガラ人、またはボロキ人でも、「男たちが遠方の村を攻めに行っているとき、妻はそこに残っている男と姦通してはならないとされている。これに反すれば、夫は敵から槍傷を負わされる。戦士の姉妹たちは、義理の姉妹が罪を犯すことのないように、あらゆる方法を尽くして警戒していなければならない」
クイーン・シャルロッテ諸島のハイダ・インディアンでも、男たちが戦争に出ている間じゅう、その妻たちは「おたがいに監視をし合うように、一つの家に同居する。夫が戦っているのに、もし妻のうちの誰かが不貞を働けば、多くは戦死をまぬがれることはできないからである」
もしダビデ王がこのような信仰をいだいていたとしたら、あのように二重の犯罪を重ねなくとも一つで満足したであろうし、自分が横取りした妻の不幸な夫を最前線に送るような、マキアヴェリ的命令をくだす必要はなかったはずである。
妻の不貞が夫にもたらす悪影響
ズル人の考えるところによると、不貞な妻がまずある種の薬草を食べずに夫の家具にさわると、夫は咳の発作に襲われてまもなく死んでしまう。さらにズル人では、「病人の妻と不義の関係にある男は、病人を見舞うことを禁じられている。もし病人が女なら、彼女の夫と不義をした女はその病気を見舞ってはならない。もしこのような人々が見舞いにゆくと、患者はたちまち冷たい発汗の発作に悩まされて死んでしまうといわれている。この禁止は妻の不貞を発見するに有効で、そのことで妻を恐怖せしめる方法でもある」
あきらかにこれと同じ理由から、カッファ人の酋長が病気である間じゅう、その部族はきびしい禁欲を守らねばならない。これにそむけば死刑である。これはすべて姦淫が、ある種の呪術的共感によって、病める酋長に致命的な影響を及ぼすというのであるらしい。
アンゴラの南の一部族オヴァクムビ人は、年ごろにも達しない子どもたちの肉体的関係は、それがきびしく罰せられないかぎり、その年のうちに王の命を取る原因になると信じている。このような反逆的罪悪に対する刑罰は死刑であった。
同様にコンゴ王国では、シトオメと呼ばれる神聖な法主が国内をおまわりになるときには、国民一人残らず厳格に清い生活をしなければならない。このような大切な時期に慎みを欠いた者は、容赦なく死刑に処されるのであった。彼らは、その宗教上の首長であり、国民の父である法主の生命を保つためには、普遍的清潔が絶対に必要であると考えた。それで法主が旅をする場合には、この戒律を破ったことに対するいいのがれに、法主が巡回中であったことを知らないといわさないため、公の口上屋によって忠実な国民に警告を与えたのである。
姦婦に与える姦通の悪影響
西部アフリカの同じ地方のことについて、ある昔の記者は次のようにいっている。
「この地方の人々は夫婦の間の貞潔をとくに尊重する。姦通はもっとも重い犯罪に数えられている。もし女が身をもちくずして不貞の罪を犯せば、もっともおそろしい禍いがふりかかってくるのであって、もしその罪を夫のまえに懺悔し、夫に与えた害について神の赦しをうけ、それを避けるようにしなければ大変なことになると、社会一般に行われている意見は女たちに警告を発している」
スマトラのルーブー人の信じるところによると、私生児を妊娠した未婚の娘は、ルウイーと呼ばれる危険な状態におちいり、そのゆくところはどこでも災厄をまき散らすのである。それで彼女が誰かの家へはいってくれば、人々は暴力で外へほうりだすのである。
ニューブリテンのスルカ人では、不貞の罪を犯した未婚の人々は、それによって致命的な汚れをその身にうけ、その罪を懺悔して公的な清めの儀典をとり行わなければ、そのまま死んでしまうと信じられている。このような人々は誰からも回避せられる。誰もそんな人間の手からものを受け取らない。親たちは彼らを指さして、近よってはいけないよと子供らにいい聞かせる。このような罪人がまき散らすといわれる害毒は、あきらかに道徳的性質のものでなくて、むしろ物理的性質のものと考えられた。その証拠として、舞踏の装飾品は細心の注意をもって彼らから遠ざけて隠し、このような汚れを持った人間がその近くにくるだけでも、道具の塗り色がくもるとさえ考えられているのである。このような汚れを受けているものは、刻んだヤシの実とショウガとを混ぜた海水を飲み、それから海水に投げこまれることによってのみ清められる。水から上がると、雫のしたたっている衣服を脱ぎすてる。それは汚れの間ずっと身につけていたものである。そのまま放っておけば罪のためにかならず滅ぼされてしまう彼の生命は、この清めの儀典によって救われると信じられている。
中央アフリカのチャド湖のブズマ人では、今日でも「結婚によらず生まれた子供は恥であるとみられ、溺死させねばならぬとせられている。もしそうしなければ、おそろしい災厄が部族にふりかかってくる。男という男はすべて病気にかかり、女やウシやヤギなどは子を産むことができなくなる」
結論
以上あげたたくさんの実例は、多くの民族の間で姦淫、姦通、近親相姦など、形のいかんにかかわらず、すべての性的不道徳がそれ自体で、自然的不可避的に、なんら社会の介入なしで、もっとも恐るべき結果を、ただ単にその犯人自身のうえばかりでなく部族全体のうえにまでも及ぼし、食糧供給の道を断ち切ることにより、その存在を脅かすようにすらなると信じられていることを証して余りあるものと思う。
すべてこのような信仰がまったく根拠のないものであることは、私が今ここにあらためて注意するまでもない。このような結果は、このような行為からはでてこないのである。一言で尽くせば、問題の信仰はまったくの迷信なのである。しかしながら、このような迷信の行われている世界で、それが姦淫、姦通、近親相姦を予防する強力な動因となったことを疑うわけにはいかないのである。
もしこれに誤りがないとすれば、私は第三の命題、すなわち、ある民族、ある時代で、迷信は結婚に対する尊重の念を強め、その結果、既婚未婚の区別なく、すべての人々の間にきわめて厳格な性的道徳の規律を確立することに寄与するところがあった、ということを証明することができたと思う。
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五 人命の尊重
人命保護の支柱としての迷信
私はつぎに、第四の、そして最後の命題に移る。すなわち、ある民族、ある時代で、迷信は人命尊重の念を強め、その結果、その安全確保のため寄与するところがあった、との命題を検討してみよう。
霊魂の恐怖
このような有益な結果をもたらす迷信は、霊魂の恐怖、ことに殺された人間の死霊《しりょう》の恐怖である。霊魂を恐怖するのは未開民族にありがちなことであって、おそらくは普遍的であるともいえよう。われわれのうちにすら、まだ幾分かは消えないで残っているのである。もしこれが消滅してしまったとしたら、あるいくつかの博学な団体はさしずめ休業ということになるであろう。
死霊にせよ生霊《いきりょう》にせよ、すべての霊魂の恐怖はけっして望ましい祝福ではなかった。実際、たくさんの信仰のあるうちで、霊魂不滅の信仰ほど、人類の経済的発展を、したがって社会的発展を阻止する力となったものは他にないということは、明らかな証拠によって主張されうるのである。というのは、この信仰は、生きている者の現実的要求を死者の想像的要求の犠牲とするように、あらゆる民族、あらゆる時代を通じて教え導いてきたからである。この霊魂不滅の信仰が招致した人命と財産の浪費と破壊とは、計り知れないくらい莫大なものであり、枚挙にいとまのないほどである。詳細にわたることを避け、ただ一つの例をもって、死者の恐怖が多くの民族にもたらした財産の組織的破壊から起こるところの、不幸このうえない経済的、政治的、道徳的結果について説明してみよう。
見聞が広くて聰明な旅行家ドルビニーは、自分の観察にもとづき、パタゴニア人について次のように述べている。
「彼らは法律をもたず、罪人に対して与える刑罰ももっていない。各人めいめいかってな生活をしているが、もっとも凶悪な盗賊はもっとも敏捷だというので、最大の尊敬を受ける。ところで、この盗みの習慣を捨て去ろうとしても、つねにそうすることを妨げ、同時に彼らの間に、固定した社会が形成されようとする動きにいつも障害を与えるとみられる原因は、彼らのうちの一人が死亡すれば、その財産を破壊しつくさねばならぬように仕向ける宗教的偏執である。白人たちのものを盗んだり、近隣部族と狩りの獲物を交換したりして、一生涯苦労をつづけて財産を蓄積しても、彼らは子孫のためになにも残してはくれない。彼らが蓄積した全財産は、当人が死ぬと同時にすっかり破壊し尽くされ、子どもたちは自身の財産を自分の力でまったく新しく積み重ねてゆかなければならないのである。この慣習は、ついでに記してみれば、オリノコのタマナク人でも見られる。彼らは死んだ者の畑を荒らしてしまい、死んだ者の植えておいた木をすっかり切り倒してしまう。ユラカル人にもこの慣習がある。彼らは死んだ者の家を閉じて捨て去り、その畑の木から果物一つとることも冒涜だと考えるのである。
いくら財産を蓄積してもそれが自分一代しか役にたたないとあれば、このような慣習によって真実の向上心を育てえないことはあまりにも明らかである。これは彼らのもちまえの怠惰の原因の一つであるとともに、存続するかぎり文化的向上を阻止する動因でもある。来世になんの希望も持たないとすれば、それについていろいろと思いわずらう必要はないはずである。彼らの目にはこの世の今こそすべてであって、ただ一つの関心は自分一個のことである。息子は父親の家畜の世話などしない。けっして自分の財産とはならないことがわかっているからである。彼は自分だけの用件に忙しく立ち回り、その心を自分自身の世話と、生活の資をうることに向けてしまうのである。この慣習は、われわれの社会ではほとんど常例とまでなっている遺産相続上の欲望のすべての動因を破壊し尽くしている点からみて、たしかに道徳的見地からこれを推奨する何物かをもっている。親が子どもたちに何物をも残さないので、親が早く死んでしまえばよいというような願いや望みの存在しようがない。もしパタゴニア人が世襲財産を保有していたとすれば、もちろん今日の莫大な家畜の所有者となっていたであろうし、したがってその勢力も今日、何倍かに増大したはずであるから、白人たちにとっては必然的にさらにいっそう大きな脅威となってきたに相違はないが、このような慣習は根本的変革の行われないかぎり、何物も彼らを救いだすことのできないような停頓状態に彼らを置去りにするのは明らかである」
このように、貧窮、怠情、濫費、政治的無力など遊牧生活のいっさいの弱点は、死者の恐怖がこの哀れなインディアンにもたらす悲惨な遺産である。その陰惨な門をくぐる者から迷信がゆすりとる通行税は、じつにかくも苛酷なものである。
殺人行為を抑制する死霊の恐怖
しかし私は今ここで、来世の信仰から実際に出てくるところの、惨憺たるいたましい結果や、言語道断な愚行、罪悪、悲劇などについて述べようとするのではない。私の当面の仕事は、かたくなな悪漢や凶漢の心情をゆり動かすような霊魂、妖怪、幽霊などの恐怖、もちろん根拠はないけれどその深刻な畏怖について、問題のやや喜ばしい一面を現わしてみせることである。彼ら未開民族がよく反省し、謹慎を大事と考えてその感情を調節しているところからみると、霊魂の復讐の恐怖と彼らの犠牲となった者の怒れる死霊の恐怖とが、無軌道な彼らの衝動に有効な抑制を与えていることは明らかである。それはまた純粋な社会的刑罰の恐怖をも増し強め、怒れる悪意の者がその手を血に染めるまえに犯行を思いとどまる新しい動因をつくるのである。これらのことは疑いの余地がない。霊魂の恐怖はまことに大きい。ゆめゆめ疑うわけにはゆかぬほどである。ことに夜更けてきたこの時刻に、その感を強くするものである。しかし、完全を期するため、あちらこちらの民族から任意にいくつかの説明的実例をひいて、この特殊な迷信がどんなにひろく行われているかを示してみよう。すべての霊魂が恐怖の対象となるなかで、とくに殺害せられた者の死霊が殺害者によっておそれられていることを証明してみたい。
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殺人者に対する死霊の怒りについての古代ギリシア人の信仰
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古代ギリシア人は、殺害せられたばかりの人間の死霊は、殺人者に対して怒りをいだき、彼を悩ますと信じた。それで、たとえ誤って人を殺した場合でも、死霊の怒りの鎮まるまで一年間は、その国から離れて暮らさねばならなかった。そして、犠牲がささげられ、清めの儀典がとり行われるまでは、国へ戻ってはいけないとせられていた。彼の犠牲となった者が外国人であった場合には、自分の国を離れると同時に死者の本国をも避けねばならなかった。
母親殺しオレステスが、自分の殺した母の死霊に追いまわされて気違いになり、あちらこちらさまよい歩いたという有名な伝説は、殺人者が死霊によって悩まされるとの古代ギリシア人の殺人者の運命観を忠実に反映しているのである。
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殺人者は死霊につかれているとの理由で恐怖排撃せられる
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しかし重要なのは、憑《つ》きまとわれる殺人者自身が犠牲者の死霊を恐怖するだけではなく、怒った危険な霊が四六時中そのゆくところへついて回るというので、彼自身が社会全体の恐怖と回避の的となることである。
アッチカの律法が殺人者を国外に追放したのは、彼のためを図ってやったものというよりも、むしろ国民の自衛手段であったにちがいない。これは律法の条文に照らして明らかである。すなわち、第一に、殺人者は国外逃避にあたって、一定の道を通らねばならなかった。怒り狂った死霊に憑きまとわれる彼を、無制限にどこでも歩きまわせることが危険このうえないのは明らかである。第二に、もし逃避した殺人者に他の疑いがかけられた場合には、彼は弁明のためアッチカへ帰ることは許されたが、一歩も陸上へ上がることは許されなかった。彼は船に乗ったまま語らねばならず、その船は錨を降ろしたり梯子をおろしたりすることすら許されなかった。裁判官たちは犯人との接触をいっさい断ち切って、浜辺にすわるか立つかして裁判を行ったのである。この規定の目的とするところは、あきらかに犯人が錨や梯子を通じて、たとい間接的にでもアッチカの国土に触れるときは、いわゆる電撃にも似たあるものによって全国に衝撃を与えるおそれがあるので、文字どおり彼を絶縁しようとするものである。
ギリシア人は、この障害は死霊との接触によって、また一種の死の放射物によってもたらされると考えたに相違ない。同じ理由から、もしこのような犯人が航海中その犯罪の行われた海岸で難船した場合には、他の船が助けに来て連れ去るまでの間その海岸に野宿することを許されたが、その間じゅう両足を海水に浸していなければならぬとせられていた。いうまでもなく、死霊の感染を中和して、それが国土に拡大してゆくのを防止するためであった。
これと同じ理由から、アルカディアのサイネエサの暴徒たちが独特の悲惨な虐殺をつづけ、そしてスパルタに使者を送ったとき、使者たちの通路にあたったアルカディアの各州は、彼らがその国土を通過するのを拒絶した。そして使者たちが去ると、マンチネア人は犠牲動物を屠《ほふ》って国民とその財産を清め、それを持って都と全国津々浦々までも巡回した。
またアテナイ人は、アルゴスにおける虐殺を聞いたとき、清めの供物をささげて全国の公共の集会に持ちまわった。
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殺人者に対する恐怖を反映するオレステス伝説
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疑いもなく、すべてこのような慣習の根本は、殺人者に憑きまとい、それに対して殺人者だけでなく全社会も自衛手段をとらねばならぬ危険な霊魂への恐怖である。このような迷信に対するギリシア人の慣習は、オレステスの伝説のなかにあきらかに反映している。オレステスの罪が清められるまでは、言葉をかえていうと、その母親の死霊の執念からのがれきるまでは、ツロエゼンの人々は、彼を自分たちの家には迎え入れなかったということである。
イギリス領東部アフリカのアキクユ人の考えるところによると、人殺しが村へ帰ってきて眠り、自分の小屋で家族の者どもといっしょに食事をすれば、彼の相伴をした人々は危険な汚染を受ける。そしてこの汚染は、すぐに呪医を迎えて清めてもらわないと、みんなの者に致命的な災厄を残すことになるのである。人殺しが横になってねた毛布は彼の汚れを吸い取り、つぎにその上で寝る者にそれを伝染させる。そこで呪医が、小屋と住居者を清めるために迎えられる。
人殺しを清めるギリシアの方式は、まだ乳房にすがっている子ブタを屠って、その血をもって罪人の両手を洗うのであった。この儀典がとり行なわれるまでは、人殺しは他の者と話をすることを許されなかった。
ベンガルのラジャマハルの近くの山間諸部族では、二人の者が争って血を流した場合には、相手を斬った者は罰金としてブタかニワトリをもってくることを命じられる。「その血が清めと、悪魔に憑かれるのを防ぐために、被害者のうえにふりかけられるのである」。この例で、血をふりかけることは、あきらかにその男が悪霊に憑かれるのを防ぐ目的をもっている。ただ異なるのは、危険な汚染を受け、そのために清めを必要とするものが、加害者ではなくて被害者である点である。われわれはすでに、あちこちの未開民族で、性的罪悪の汚れを清める方式として、ブタの血が身体や事物にふりかけられるのを見てきた。
西部アフリカのカメルーン黒人では、過失で人を殺した者は、ある動物の血でもって贖われることができるとせられている。加害者と被害者の親族たちが集まってくる。ある動物が屠られ、参集したすべての人々の顔と胸にその血が塗りつけられる。人を死なした者の罪はこのようにして贖われると彼らは考え、加害者にはべつになんの罰も加えないことにしている。
カア・ニコバルでは、悪鬼に憑かれた人は、全身にブタの血を塗りつけられ、木の葉でたたかれることによって、憑きものを落とすことができると信じられている。こうすれば悪鬼どもはハエのように人の体から木の葉に飛び移ってくると信じられて、ここで木の葉は束ねてある特別な紐でもってかたく縛られる。この|たたき《ヽヽヽ》の儀典をとり行う者は職業的除魔師であって、ひとたたきするたびごとに床の上に伏し、「悪鬼がまた落ちた」とキイキイ声をしぼって叫ぶのである。儀典は夜に行われる。夜明け前に悪鬼の憑いた木の葉の束は、残らず海の中へ投げこまれる。
ギリシア人も清めの儀典にあたって、月桂樹の葉とブタの血とを用いた。
このような例を見ると、清めは本来道徳的意味よりも実質的、物理的意味を持つもので、死霊とか悪鬼に憑かれた人々の身がらからそれらのものの汚染を洗い落とし、拭き取り、こすり落とす一種の洗浄剤のようなものであったと考えてもいいであろう。この種の清めの儀典に血を用いる動機は明らかでない。血が洗い清める力をもっているというのは、おそらく怒らされた霊が男または女の血の代償として動物の血を受納するとの信仰から出てきたものであろう。
しかしながら、清めのための血をふりかけるすべての儀典の説明に、この解釈が適用できるかどうかは疑問である。大昔、哲人ヘラクレイトスが非難したように、泥をはねかけられた者がもっとたくさんの泥を自分自身にはねかけることによってそれを清めようとするのがおかしいと同じく、血の汚れが同じ血によって取り除かれるとするのは、どうしてもおかしいのである。しかし人間のなすことは不思議なもので、ときおりはまったくわれわれの思いもよらぬようなこともあるのである。
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自分の指を噛み切ることによって正気に返ったオレステス
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オレステスは母親を殺したがために気違いとなった後、自分の指を噛み切ることによって正気に返ったという奇妙な伝説がある。こうして自分で自分を不具にしてしまうやいなや、それまでは黒く見えていた母親の怨霊はたちまち白く見えだしたのである。さながら、自分自身の血を吸ったことが怒っている霊魂をなだめ、あるいは鎮める役目をしたかのようであった。
血がこのような結果をもたらすと考えられてきた過程への暗示は、ある未開民族の慣習によって与えられている。ギアナのインディアンの信じるところによると、その仇を殺した血の復讐者は、犠牲となった者の血を飲まなければ気違いとなる。これはあきらかに、クリュタイムネストラ〔オレステスの母親〕の死霊が――この点に注意しなければならないのであるが、やはり同じく血の復讐者であったオレステスに向かってなしたように、死霊が彼を狂気せしめるというのである。このような禍いを避けるため、このインディアンの人殺しは、殺してから三日目に犠牲者の墓場へ忍んでゆき、鋭く尖った棒でもって死体を刺し貫き、棒を抜き去った傷口から流れる死人の血をすするのである。こうすれば、とるべき予防手段をとったことになり、もうなにも死霊などこわがることはないのであって、安心して自分のところへ帰ってゆくのである。
マオリ人もまた、戦争のときには同じことをやる。戦士が戦場で敵をたおすと、彼は自分がたおした敵の血をすする。こうすれば犠牲者の怒った霊の復讐を防ぐことができると信じている。というわけは、「殺人者が殺された人の血をすすった瞬間、殺された人は彼自身の一部分となり、殺された人のアッツアすなわち守護霊はこれから彼を守ってくれることになる」と考えられているからである。このように、彼らの意見によると、犠牲者の一部分を飲みくだすことによって彼は犠牲者を自分の一部と化してしまい、そのものを敵から味方へと転向させてしまうのである。言葉どおりもっとも厳密な意味で、犠牲者と血の契約を取り結ぶのである。
アリカラ・インディアンもまた、自分の殺した敵の血をすすり、この行為を公に示すために自分の顔に赤い手形をつける。おそらくこの慣習の動機も、マオリ人の場合と同じく、おそるべき敵の死霊をわがものとし、その力を奪ってしまおうとするにあるらしい。
同様に、昔スクテヤ人のある者は、彼らの殺した最初の敵の血を飲んだ。また彼らは、自分たちが契約をとりむすんだ親友の血をすすったが、それは「信任のもっとも確実な契約であると考えた」からである。これら二つの慣習の動機は、おそらく同一であろう。
「今日にいたるまで、ナンジ人が他部族の者を殺したときには、槍または刀についている血のりは注意深くガラスの杯に洗い落とされ、殺した者はそれを飲みほす。もしこれをやらないと、その男は気違いになると信じられている」
また下部ナイジェリアのある部族では、「死刑執行人は刃についた血をなめるが、慣習であると同時に必要なことである」さらに、「このあたりすべての部族では、戦争で敵を殺したとき刀についた血をなめるのは普通のことである。イボが私に与えた説明によると、こうして敵の血をなめておかないと、敵を殺したその行為がおそろしい災厄を残し、あたら勇士が味方に向かって刃を揮うような殺人狂になってしまうのである。なぜなら、血を見ることとそのにおいをかぐことが彼らをまったく無意識にしてしまい、同時に自分の行為の結果に対する判断力を失わせてしまうからである。それで、この血をなめることだけが確実な予防法であり、また正常な意識を取り戻すただ一つの方法だということになっている。この説明は一般に承認せられているものである」
ビルマのシャン人でも同様に、「死刑執行人は彼の刃にかかった者の血をすするという慣習があった。こうしないと病気にかかったり死んだりするというのである。大昔シャンの戦士は、必ず戦争でたおした者の死体を噛んだ」
このようなまったく野蛮な慣習が、今日までイタリアのようなところでも行なわれているのは、まことに驚くほかない。カラブリアでは、人殺しが逃げおおせたいと思うなら、凶行につかった刀からしたたり落ちる犠牲者の血をすすらねばならぬという迷信がひろく行われているのである。
こうしてわれわれは、母殺しオレステスが自分の指一本を噛み切るやいなや正気に返ることができた理由を、今ここにいたって理解することができるように思う。オレステスが自分自身の血をなめたことは、その犠牲者が生みの親であるところから、同時に犠牲者の血をなめたことになるのであって、こうすることによって彼は死霊と血の契約を結び、今まで敵であった者を味方につけてしまったのである。
北部ローデシアのアヴェムバ人では、「中央アフリカの諸部族に共通な迷信によって、殺人者がその血の罪から清められないかぎり気違いになると信じられている。戦士たちは戦争から帰った夜は自分の小屋には寝ないで、村の公共の集会所に泊まる。その翌日、川で身を清め、呪医の手で清めの薬を体に塗ってもらい、はじめて小屋へ帰って妻との交わりを回復することができるのである」
すべてこれらの例において、人殺しの狂乱の原因は、彼にとり憑いたところの犠牲者の死霊に帰せられているようである。
隔離と清めは狂気の予防策
殺人者を隔離して清める古代ギリシア人の慣習が、まったく一つの魔除けであったということ、言葉をかえていえば、その目的は犠牲者の危険な死霊に対する防御であったということは、多くの未開民族で戦勝の勇士たちが、戦いにのぞんで彼らの殺した敵の死霊からのがれる明らかな目的をもって行われねばならなかった同様な隔離と清めの儀典によって、確実に裏書きされる。次にあげる儀典は他のところでも述べたが、説明の便宜上その中の二、三をここに再録してみよう。
バスト人では、「とくに戦争から帰ったときに洗浄が行われる。戦士たちができるだけ早く、その流した血の汚れを除き去ることは、絶対に必要である。そうしなければ、彼らの殺した敵の影が絶えず憑きまとい、夜も彼らを眠らせないのである。彼らはしっかりと武装して行列をつくり、近くの川へゆく。彼らが川へはいった瞬間、上座にある占易者は清めの力をもったものを流れに投げこむのである」
バスト人の慣習についての他の報告によると、「敵を殺した戦士は清められねばならない。酋長は全軍の前で雄ウシを犠牲としてささげ、戦士たちを洗わねばならない。戦士たちは同時に犠牲動物の胆汁を塗りつけられるのであるが、これは敵の死霊がその後、彼らを追いまわすのを防ぐためである」
南部アフリカのバンツー部族、デラゴア湾沿岸のトンガ人では、「戦場で敵を殺すということは、殺したものに無上の名誉を与える。ところがその名誉は、大きな危険を伴っている。彼らは人を殺した……。それでヌルの神秘的で致命的な影響を受けるので、ある呪医的な手当てを受けねばならない。ヌルとはなにか。それは殺された人の霊であって、自分の仇に対して復讐心をもっている。ヌルはまた殺人者に憑いて、彼を発狂せしめる。彼の目は腫れてとびだし、そのうえ充血してくる。正気を失い、めまいに襲われ、血に渇いてついに自分自身の家族に襲いかかって、槍で彼らを刺し殺すようになる。このような災厄を避けるためには、特別な呪薬を飲ませることが必要である。人殺しはヌルを取り除かれねばならない。この手当てはどんなぐあいにしてなされるか。人殺しは数日の間、都に滞在していなければならない。彼はタブーである。それで古い衣服をまとい、その手は「熱い」ので特別な匙《さじ》をもって、特別な皿と壊れた鍋から食べねばならない。水を飲んではいけない。食べ物は冷たくならないと食べてはいけない。酋長は彼らのために雄牛を屠る。しかし料理せられた肉が熱かったときには、それを食べると腹の中が腫れる。「なぜなら彼らは自分のほうも熱くて汚れているからである」熱い食べ物を食べると、汚れは内部まではいってゆくのである。「彼らは|黒い《ヽヽ》ので、黒いものが取り除かれねばならない」この期間を通じて、性的関係は絶対禁止である。彼らは妻たちに会うために家へ帰ってはならないのである。
その昔バロンガ人は、片方の眉から他の眉にかけて、特殊な印を刺青《いれずみ》した。刺青にあたってはおそろしい薬が注入せられるのであって、その結果として「眉をしかめるとヤギュウのような相好を呈する」腫れ物がその部分にできるのであった。数日の後に呪医がやってきて「彼らの黒いものを除いて」清めてやる。マンクヘルに従えば、これを行なうのにはいろいろな方法があるようである。「壊れた鍋にあらゆる種子を入れ、それをいろいろな呪薬とヤギの内臓といっしょにして焼く。殺人者どもは鍋から発散する煙を吸入する。鍋のなかに手を突っこんで、その手で四肢とくに関節のところをこする……。血を流したものを脅かす狂気は早く襲ってくる。それで彼らは敵を殺した直後、まだ戦場にいる間に、まえの戦争で敵をたおした経験のある勇士の手から、一服の予防薬をもらう……。隔離の期間は最後の清めによって終わるのであって、この間に彼らが使用したすべての什器や古着の類は紐でもってひとまとめに縛られ、都の外の木にぶら下げて朽ちるにまかせられるのである」
血によって狂乱する未開人
殺人者が狂気にとり憑かれるという話は、未開人の単なる作り話としてかたづけてしまうには、あまりにもその例が多く、またあまりに首尾一貫している。このような狂乱の発作に関する原地民たち自身の解釈は肯定しがたいとしても、これらの報告は、戦争によって興奮したときに彼らを襲い、敵に対してと同様に味方に対しても危険きわまりないところの、血に対する極端な狂乱、または飽くことを知らない渇きの真相を示しているのである。これは精神病学者によって、おそらくは解決せられる問題である。
一方、家に残っていて血なまぐさい仕事にかかわらなかった人々までが、気味悪い戦利品を持って勝ち誇った戦士たちが凱旋してくるのを告げる鬨《とき》の声を聞いただけで発狂することのあるのも、また注意すべき点である。たとえば、伝えられるところによれば、中央セレベスのトラジヤ人では、遠方からの鬨の声が聞こえてくると、村中のものがこぞってかけだしていって、凱旋の勇士たちを歓迎する。彼らのうちのある者は、とくにそれは女に多いのであるが、鬨の声を聞いて狂気してしまい、飛び出していって敵の首級に噛みつくのである。こうなれば髑髏《どくろ》の杯からシュロ酒か水を飲むまでは、正気に返ることができない。ところで、もし戦士たちが手を空しうして帰ってきたとなると、この怒りは戦士たちに向けられ、その腕に噛みつくのである。血を見ることによって起こされる、あるいはただ血を思っただけで起こされるこの一時的狂乱状態を意味する特別な話がある。メラタ・ラモアンジヤまたはメラタ・ラオア――「霊魂が彼らに勝った」というのがそれで、たぶん殺された敵の霊によって狂乱がもたらされた、という意味であろう。戦士たち自身がこの狂乱の発作に襲われた場合には、殺された敵の脳髄の一片を食べるか、その血をすすればなおるのである。
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アフリカでの、殺人者が犠牲者の死霊を避ける方法
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イギリス領東部アフリカのカヴィロンドのバンツー諸部族では、戦争で敵をたおした者は、家へ帰ったときその頭髪を剃り落としてしまい、普通はウシの糞をこねて調合した薬を、友人がその体いっぱいに塗りつけてやる。これは殺された者の死霊が彼を悩ますのを防ぐためである。古代ギリシア人がブタの血を死霊の予防剤として用いたと同じように、この黒人たちは牛糞をつかうのである。
イギリス領東部アフリカのエルゴン山付近のワワンガ人では、「敵をたおし襲撃を終えて帰ってきた者は、まずウシの糞をとってそれを村の女子どもの頬に塗りつけ、ヤギを犠牲として身を清めるまでは、自分の小屋へはいってはならない。さらに犠牲動物の前額部から剥ぎとった皮の一片を、その後四晩にわたって右手首にまきつけていなければならないことになっている」
カヴィロイドのジャ・ルオ人では、この慣習は少し変わっている。戦士は戦争から帰って三日の後に、その頭髪を剃ってしまう。しかしそのまえ、村へはいるに先だって、その首のまわりに生きたニワトリを頭を上にしてぶら下げねばならない。つぎにニワトリの首が刎《は》ねられ、頭だけが彼の首にぶら下がって残る。こうして家へ帰ると、殺された敵の死霊が彼に憑かないように、犠牲者に対してなだめの宴が設けられることになっている。
以上の例でわかるように、このような場合、母殺しオレステスが正気に返った後その髪を剃ったといわれているのとまったく同様に、人を殺した者は自分の髪を剃るのである。このギリシアの伝説から推して、ギリシアの殺人者の頭髪は、まえに述べたアフリカの戦士たちと同じように、死霊の怨みをのがれる一つの方法として、いつも剃られたにちがいないことは、あながちむりとはいえないと思うのである。
コンゴ自由国のバンツー部族の一つであるバヤカ人では、「戦争で殺された者は、復讐のためにその魂を殺人者に向かって送ると考えられている。しかしながら、後者はその頭にオウムの赤い尾羽をさし、額を赤く塗ることによって、死者の復讐をまぬがれることができるのである」。すでに他のところでも述べたように、たぶんこの扮装は殺された者の霊を避けるための変装であろう。
北アメリカのナッチェツ・インディアンでは、はじめて敵の首級をあげた若い戦士たちは、六カ月間ある禁欲の規定を守らねばならない。彼らは妻と一緒に寝ることを許されず、肉を食べてはならない。食べてもよいのは魚とある種の菓子だけである。この規定を犯した場合には、彼らの殺した敵の死霊が、呪術で彼らを呪い殺すと信じられている。
カイ人の死霊に対する恐怖
ドイツ領ニューギニアのカイ人は、戦争のときに殺した敵の死霊を恐怖することはなみたいていではない。戦場から、あるいは虐殺の場から帰るとき、夜になるまえに自分の家へ帰りつくか、自分に好意をもってくれる他の村の隠れ家にゆくかして、一刻も早く安全になりたいと帰路を急ぐのである。殺された敵の霊が夜もすがら彼らにつきまとって、復讐の機をうかがうとともに、敵に致命的打撃を与えた槍や棍棒《こんぼう》などに血塊といっしょに付着している霊魂の一部分を奪い返そうと企てているからである。これに成功しないかぎり、殺された者の霊は浮かばれない。このために殺人者は、血に染んだ武器を村へ持ち帰らないよう気を配る。讐《かたき》を討とうと狂い回る死霊がまずねらうのは、その武器だからである。それで彼らは、死霊のけっして気のつかない、村からずっと離れた森林のなかに武器を隠しておく。そうすれば死霊は捜しあぐんで、たぶんは破壊し尽くされた自分の住み家あたりに横たわる自分の死骸へすごすご帰って行くのである。この後で勝った戦士たちは、武器を隠してあるところから取りだし、血糊をきれいに洗い落としてから、はじめて村へ戻ってくる。
しかし、「殺された敵の死霊はつねに多少とも勝利者に憑いているので、村の人々は誰も帰ってきた彼らには触れない。彼らは数日間、まったくその周囲の者から隔離せられる。村人たちは臆病げに彼らを避けてまわる。誰かが腹痛を起こせば、それは戦士のあとへ座ったからだといわれ、歯が痛むといえば、戦士のさわったくだものを食べたからだとされる。戦士たちの食べ残しは、残さずきれいにしまつしなければならない。これはブタが食わぬようにするためで、残り物を拾って食ったブタは死んでしまう。食べ物の残りは、焼くか埋めるかする。戦士たち自身は、ある植物の汁液で予防の処置をするので、敵の死霊をそれほど恐がらないでもすむ。しかし、だからといって、この方面からの危険に対してまったく安全だとはいわれないのである」
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イギリス領ニューギニアの殺人者の慣習
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イギリス領ニューギニアのワニゲラ河口の諸部族では、「他人の命をとった者は、ある儀典がすむまでは汚れたものとして取り扱われる。それで、凶行のあとできるだけ早く、彼は自分自身と武器を清めるのである。これを完全にすませてから村へ戻り、供犠の場の丸太の上にすわる。村人は誰も彼に近よらず、その相手にもならない。一軒の小屋が彼のために建てられ、二、三人の少年が僕《しもべ》として彼の用足しをするだけである。彼が食べてよいものは焼きバナナだけ、しかもその中ほどの部分だけで、両端は捨てられる。この隔離の三日目に、彼の友人たちはささやかな宴を設け、彼のために新しい褌《ふんどし》をつくってやる。これはイヴィ・ポロと呼ばれるものである。その翌日になると、彼はこれまでに敵をたおした功によって与えられた勲章やシンボルをはれがましく身につけ、しっかりと武装して意気揚々と村じゅうを練り歩く。またその翌日には狩りが催され、獲物のなかから一匹のカンガルーが選ばれる。人々はこれを裂いて脾臓と肝臓とを取りだし、それでもって勇士の背中をこすりまわす。これがすむと勇士は近くの川までおごそかに歩いてゆき、水中に両脚を踏ん張って背中をよく洗い清める。このとき、まだ実戦の経験のない若い戦士たちは、踏ん張った勇士の両脚の間を泳ぎぬけるのである。こうして勇士にあやかり、勇気を強めてもらうのである。次の朝、早暁、彼は完全に武装して家をとびだし、彼のたおした敵の名を声高く叫ぶ。そして死霊をすっかり調伏させたと確信のついたとき、自分が今住んでいる小屋へ帰る。床板をたたいたり、火を燃やしたりすることも、死霊を威嚇する方法である。その翌日彼の清めはまったく完了する。ここではじめて妻のいる家へ戻ることができるのである」
今、述べたこの例によって、清めと呼ばれているものの本質が明らかに示されている。すなわち、これは実際は危険な死霊を防ぐためにとり行なわれる魔除けの儀典にほかならないのである。
オマハ・インディアンの殺人者の慣習
北アメリカのオマハ・インディアンでは、人を殺したけれど犠牲者の親族からその命を許された犯人は、二年から四年にわたる一定の期間内、あるもっとも峻厳な戒律を守らねばならなかった。彼はいつも素足で歩かねばならず、暖かい食べ物を食べてはならず、声を出したりあたりを見まわしたりしてはならない。どんな熱い日でも外衣をまきつけ、それを首のところで締めていなければならない。だらしなく引っかけていたり、風にひらひらさせていることは禁物である。手は振ったり動かしたりしないで、体にぴったりとつけていなければならない。髪の毛は櫛をあててもいけないが、風にぱさぱさなぶらせておいてもいけない。誰も彼といっしょに食事をせず、ただ親族の一人だけが彼のテントに留まることを許された。部族が大挙して狩りにゆく場合には、彼だけ他の人々より四分の一マイルくらい離れたところにテントを張らねばならなかった。「彼が殺した者の死霊が大風を吹き起こして、テントを吹き倒すことのないようにという用心からである」。他の人々のテントから彼を遠ざける理由としてここに主張せられていることは、彼に加えられているすべての拘束の意味を説く鍵となるものである。すなわち、彼は死霊に憑かれているから危険である。それで怨霊に憑かれたオレステスに対してなされたように、人々は彼を敬遠するのである。
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チヌーク・インディアンの殺人者の慣習
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オレゴンとワシントンのチヌーク・インディアンでは、「人が殺された場合には、守護霊をもっている一人の老人が、殺人者に向かって働きかけることを頼まれる。彼は石炭を粉末にして、それを脂肪と混ぜ合わせる。そして、それを殺人者の顔に塗りつける。それからスギ皮の鉢巻きをさせる。なお踵、膝、手首などにもスギ皮を縛りつける。殺人者は五日間というもの、少しの水も飲ませられない。眠りもせず、横になることもしない。四六時中ずっと立ちつづけである。夜は夜もすがら歩きまわって、骨でこしらえた笛を吹く。そしていつまでもアーアーといいつづける。その五日間は顔も洗わないのである。
さて、期間満了となれば、翌朝から老人が彼の顔を洗ってやる。石炭の粉を洗い落とす。黒い塗料を落としてしまう。そしてあらためて赤い塗料を顔に塗りつける。石炭を粉末にして、それに赤い塗料を混ぜ合わせる。それを再び彼の顔に塗る。これは老人によってなされる場合と、老婆によってなされる場合がある。彼の両脚と両腕とに縛りつけられてあったスギ皮が取り除かれ、そのかわりにシカの皮の一片が腕や脚に縛りつけられる。この五日間がすぎると水が与えられる。水はバケツで与えられ、それから飲むのである。つぎに食物が彼のためにあぶられるが、それは黒焦げにされる。真っ黒に焦げたところで彼に与えられるが、彼は立ったままで食べる。五十食べたら、もうそれ以上食べてはいけない。三十日の後、彼は新しい赤い塗料で塗られる。今度は良質の塗料である。つぎに彼は鉢巻きとバケツを、モミの木の梢にぶら下げる。そしてその木を枯らせてしまう。人々はけっして殺人者と一緒に食べない。この時分になっても彼はまだ座って食べてはならず、いつも立ったままである。休息のためすわるさいには片膝をたてたままである。殺人者はけっして子どもたちをじっと見てはならず、食事中の人々を見てもいけない」
すべてこのような戒律は、たぶん殺された者の死霊が殺人者に憑くのを防ぐためのものであり、さらにこの魔除けの効果の現れるまで彼を隔離しておくためのものであろう。
とくにおそれられる近親同族の死霊
このように、殺された者の死霊はすべての者から恐れられるのであるが、とくに殺された者からなんらかの理由によって怨まれている者にとっては、いっそう強く恐怖せられるのは自然であろう。
たとえば、ドイツ領ニューギニアのヤビム人では、殺された者の親族が復讐するかわりに罰金を受け取った場合には、遺族たちはその額に白黒でもってしるしをつける。こうしておかないと殺された者の霊が現れて、復讐してくれないことを不満に思い、彼らを悩ますのである。彼らの飼っているブタを追い散らしたり、人々の歯を浮かせたりするのである。
死霊のうち、遠方の者や、未知の者が殺された場合よりも、親族や隣人が殺された方がよけいに恐怖せられるのは当然である。というのは、彼ら自身の手で相手を殺すか、当然の復讐を実行してやらないか、要するにこんな場合の不信の友に対する死霊の怒りは普通よりさらに激しく、人々に対して怒りを爆発させる機会もいっそう多いからである。実際にある人々は、ただこのような親族や隣人の怨霊だけをおそれて、その他の者の死霊などてんで問題にせず、威嚇してこようが呪いかけてこようが、なすがままに放任しておく。
たとえば上部コロンボのボロキ人では、「殺人者は彼の殺した者がどこか隣村の人であれば、すこしもその死霊をおそれない。死霊は限られたごく狭い地域しか歩くことができないと信じているからである。反対に自分自身の村の人を殺した場合には、その死霊がなにか危害を加えるにちがいないというので、極度におそれおののくのである。このような恐怖を取り除くためにとり行う儀典というものは別にないが、ただ彼は殺された家族でもあるかのように、自分の殺した者のために嘆き悲しむ。なりふりかまわず、頭をすっかりそり、ある期間にわたって断食し、号泣しながら嘆き悲しむのである」
またキクユ人は、他の部族のものを殺しても、あるいはそれが他の氏族の者であれば自分の属する部族員を殺した場合でも、汚染を受けることはないのである。ところが殺された者が殺した者と同一氏族に属する場合は、事ははなはだ重大である。しかし、ある儀典をとり行なうことによって、その死霊を働かせないようつなぎとめておくこともできる。この儀典をとり行なうには、殺された者と殺した者のいちばん上の兄たちが、べつべつのバナナの木に登り、向かい合ってそこにすわる。彼らはそのままで、二人の長老から与えられるすべての種類の野菜の食物をおごそかに食べる。この食物はあらかじめ双方の母親によって用意せられたもので、犠牲のヒツジの腹の中のものが、振りかけられてある。その翌日長老たちは、ある一本のイチジクの木のところへおもむく。この木はキクユ人の宗教的儀典に重大な役割を果たすものである。そこで長老たちはブタを犠牲とし、すこしばかりの脂肪、内臓、おもな骨などをその木の根もとに供え、自分たちはよりおいしい部分を料理して宴を設けるのである。彼らの信じるところによると、殺された人の霊はその夜ヤマネコに化けて現われ、木の根もとに供えてあるものをむさぼり食らい、こうして村へ帰って人々を悩ますことをすっかり忘れてしまうのである。
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中央セレベスのトラジヤ人の死霊の恐怖
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中央セレベスのトラジヤ人は、戦争で殺された人々の霊についていろいろと考えている。戦争で殺された人は病死した人と違って、その生命力を消耗し尽くしてはおらず、したがってその死霊は普通のよりずっと力が強いと考えられている。そして、自然な死にかたをしたのでないため霊魂が普通に帰ってゆく国へ入れてもらえないので、いつまでもふらふらと地上をさまよい歩き、その男ざかりに、ときならず彼を殺してしまった敵に向かって狂おしい怒りをいだき、そのうえ自分の友だちをせめて敵に挑戦せしめ、少しでも多く敵を殺すため毎年襲撃つづけさせると信じている。もし遺族や友人がこの血に渇いた怨霊の要求を無視すると、今度は怨霊の攻撃は彼ら自身のうえに向けられ、不信の遺族や友人に病気や死をもたらして仇をむくいるのである。それでトラジヤ人にとっては、戦争は部族全員が分を尽くすべき神聖な義務である。実戦にのぞむことのできない女子どもでも、内にあって模擬戦を行ない、タケでつくった刀でもって昔の戦利品である敵の髑髏《どくろ》をめった斬りにし、わあわあと鬨の声をあげて気勢を上げねばならないとされている。
このように彼らの間では、他の野蛮な諸部族と同じように、霊魂不滅の信仰は隣接諸部族間に絶えず戦争状態を保つことによって、流血惨事のもっとも大きな原因の一つとなっており、人々はそのため死霊のおそるべき祟りをおそれて、おたがい平和をとりむすぼうともしないようになっているのである。
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非業の死を遂げた者の死霊は危険
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しかし、友であれ敵であれ、すべて非業の死を遂げた者の死霊は、ある意味で社会的恐怖である。というのは、彼らの感情は必然的に興奮せしめられ、無罪の人と有罪の人との見定めもなく、誰でも最初に出会った者に対して怒りを爆発させがちだからである。
たとえば、ビルマのカレン人の考えるところによると、すべてこのような人々の霊は祝福の天国に上ることもできず、それかといって呪いの地獄におちるのでもなく、目に見えないさまでいつまでもこの地上をうろつきまわっている。このような死霊は人の魂を盗みとって病気にし、ついには彼をとり殺してしまう。それでこの吸血鬼的存在に対する恐怖はたいへんなもので、なだめの供物をしたり、熱心な祈願や感嘆によってその怒りをなだめたり、あるいはその残忍な脅迫を和らげようとつとめるのである。
彼らは赤、黄、白の米を籠に入れて森林の中へ置き、次のように祈ることもある。「木から落ちて死んだ者の霊、飢渇のために死んだ者の霊、トラの牙にかかり毒蛇の毒にたおれた者の霊、人の手にかかって殺された者の霊、天然痘・コレラのために死んだ者の霊、癩病のために死んだ者の霊たちに祈る。われらを脅かすことなく、われらに憑くことなく、われらに危害を加えることなかれ。汝らいつまでもこの森林の中にとどまるべし。われらここに汝らの食として、赤き米、黄なる米、白き米をもたらせり」
怒る死霊を暴力で追放する蛮人
しかしながら、このように目に見えぬ危険このうえもない曲者《くせもの》の災厄をのがれるため、彼らはいつも美辞麗句となだめの供物とを用いるとは決まっていない。場合によっては強制的な方法によることもあるのである。
北アメリカのインディアンを視察したある旅行家は次のように述べている。「ある夜私がオッタワのとある村に近づいたとき、村中の人々が大騒動をやっているのに出くわした。彼らはもっとも高くもっとも不調和な音をたてることに多忙であった。わけを聞いてみると、最近このオッタワ人とキッカプー人との間に戦争があって、今この騒々しい音をたてているのは戦死者の霊が村へはいってくるのを防ぐためだとわかった」
また北アメリカのインディアンは、罪人を焼き殺したあとで村じゅうを駆けまわり、棒でもって小屋の壁や家具や屋根などをたたき、かん高い奇声を発して殺された者の怒っている死霊を追い払うのであった。焼かれ斬られた体に加えられた危害に対する復讐をさせないためにこうするのである。
同様に、オランダ領ニューギニアのドオレエのパプア人では、村に殺人事件の起こった場合には、村人たちは幾晩か連続的に集まって、叫んだりどなったりして死霊を追い払う。こうして威嚇しないと、再び村へ戻ってこようとするのである。
ドイツ領ニューギニアのヤビム人の信じるところによると、「死者は人を益することも害することもあるが、その害に対する恐怖は著しい。とくに彼らは、殺された人の死霊が殺した人に憑いて災厄を与えるとかたく信じている。それで、叫び声を上げたり太鼓をたたいたりして、死霊を追い払う必要があるのである。この場合には、タロイモと煙草とを積んだ丸木舟の模型が、彼の逃げてゆく便宜のために用意せられる」
同じドイツ領ニューギニアのブカウア人は、敵に勝って村へ帰ったとき、村の中央に火をたいて燃えさかる木片を戦場の方へ投げつけ、同時に耳を聾するような物音をたてて、殺された敵の怒った霊の来襲を制圧する。
ビスマルク半島の人食いメラネシア人は、人肉を食ったあとで叫び声をあげ、角笛を吹き鳴らし、槍をふるい、叢林をたたきまわって、今、彼らが饗宴のさかなとしてむさぼり食った女か男の霊を追いまくる。
フィージー人は病人や年寄りを生き埋めにしたが、こうしておいて竹笛や、ほら貝を吹き鳴らし、今、生き埋めにした人々の死霊をおどろかし、彼らが家へ戻ってくるのを妨げるのであった。また生前の住み家のあたりを徘徊させないようにするため、死者の家をすっかり取り壊してしまい、そこに彼らにとってもっともいやらしいと思われるようなものをぶら下げるのであった。
ザンベシの北部に定住しているズル部族の一つであるアンゴニ人では、戦争に行って敵をたおした戦士は、その体や顔に灰を塗り、自分が犠牲とした者の衣類を身にまとう。自分の家へ帰ってから三日間はこのままのものを身につけているが、その翌朝夜明けとともに起きだして、おそろしい叫び声をあげながら村じゅうを駆けまわり、犠牲者の霊を追い払うのである。こうしないと、死霊が村人たちに病気その他の災厄をもたらすからである。
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死刑囚の死霊その他の危険な死霊に対する予防策
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ツラヴァンコアでは、溺死、縊死《いし》、その他異常な死にかたで命を落とした者の霊は悪鬼となり、いろいろな方法で人間に危害を加えようと徘徊してまわる。人殺しのゆえに絞殺せられた者の死霊は、刑場やその近所に出没すると信じられている。それでこれを防ぐため、絞殺したときに刀で囚人の踵を切るか、腿《もも》の筋を切断するのが習慣となっていた。このように死体を不具にする目的は、いうまでもなく死霊の歩きだしてくるのを防ぐところにある。腿の筋を切られたり踵を切られたりした者が、どうして歩きまわることができようか。
これとまったく同様な目的で、ある部族たちは、ただ死刑になった囚人の死体だけでなく、他の人々の死体をもいろいろな方法で傷つけて不具にする習慣をもっている。どんな人のでも死霊とあらば、多かれ少なかれ恐怖せられているからである。
その昔、ベーリング海峡のエスキモー人は、彼らのうちの悪者が死んだ場合には、「その影が死体に帰ってきて、夜分それが悪鬼となって歩きまわるのを防ぐために」その脚や脚の腱を切断してしまった。
オマハ・インディアンは、落雷に打たれて死んだ者があると、死体をうつ伏せにして葬り、その踵を切り裂くといわれている。こうしておかないと、彼の死霊が歩きまわるからである。
南アフリカのヘレロ人の考えるところによると、悪人の死霊はときどき現れてきて、彼が生きていたときとまったく同じような悪事を働く。強盗をしたり、こそ泥をしたり、女や娘たちを汚したり、ときには子供まで産ませる。このような害を防ぐため、ヘレロ人は死体の背骨をすっかり取りだして、一束にして縛りあげ、それを雄ウシの皮の中に縫いこめてしまう。
危険な死霊の力を奪うもっとも簡単な方法は、その死体を掘りだして首を刎《は》ねてしまうことである。西部アフリカの黒人たちや、アルメニア人たちはこれをやる。効果をいっそう確実にするため、アルメニア人はその首を刎ねてしまうばかりでなく、刎ねた首を打ち砕いたり、それに釘を打ちこんだり、心臓に針を刺したりするのである。
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お産で死んだ女の死霊に対する予防策
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パンジャブのヒンズー人の信じるところによると、分娩後十三日以内に死亡した母親は悪霊の姿となって戻り、その夫や家族の者を責めさいなむのである。これを防ぐため、ある人々は彼女の死体の頭と両眼に釘を打ちこみ、他の人々は家の入り口のどちらかの側に釘を打ちこむ。同じ目的を達するもっともおだやかな方法は、哀れな母親の着物に釘または鉄片を打ちこむこと、または彼女が息を引きとった所や、死体を洗って荼毘《だび》に付した場所の周囲の土に釘を打ちこむことである。ある人々は帰ってくる道を見ることができないようにするため、死体の両眼に胡椒をこすりこむこともある。
ビアスボアでは、母親がまだ幼い子どもたちを残して死ねば、埋葬のまえに彼女の両手両脚を縛ってしまって、夜中に墓からぬけだして孤児となった幼い者たちに会いにくることのできないようにしてしまう。
ベンガルのオラオン人がかたく信じているところによると、妊娠中または出産にあたって死んだ女は危険な悪霊となり、もしそれを遠ざけるくふうをしなければ帰ってきて、生前彼女がいちばん愛していたものをくすぐり殺してしまう。「それで彼女の帰ってくるのを妨げるため、できるだけ遠方へその死体を運んでゆく。しかし、それでもなお災厄に見舞われるおそれがあるので、女はいっさい彼女の最後の安息所まではついてゆかない。会葬者は埋葬の場までくると、死体の脚を踝《くるぶし》の上のほうで折って、踵《かかと》がまえに向くようにそれをねじ曲げ、さらに長い棘を両踵に打ちこむ。そしてうつぶせに土中深く埋め、ロバの骨を一緒に埋めて、『おまえが帰ってくるようなことがあったらロバに生まれかわってしまえ』と呪いをかける。またシュロの根も一緒に埋めて、『シュロの葉がしぼまないうちは帰ってくるな』という。いよいよ引きあげるだんになると、墓場から家までの道にカラシ種をまき散らしながら、『家へ帰ろうとするなら、残らず種を拾い集めてこい』という。こうして入念にくふうをしておいてこそ、家にいても夜中のおそろしい訪問をまぬがれることができると安心しておられるが、夜分にその墓場の近くを通りかかった者こそまったく災難である。死霊はだしぬけに通行人につかみかかり、その首をねじ曲げ、人事不省にして地べたにたたき倒すのである。魔法使いが呪文を唱えて正気づかせるまでは、倒れたままである」
アッサムのルーシャイ人では、女がお産で死ぬと、親族たちが集まってきてその霊に犠牲を供える。「しかし村人たちはその日を休日とし、死んだ女の霊を入れないようにするため、各戸の戸口の柱に近い壁に緑の小枝をつける」
ビルマにおける同様な慣習
ビルマのシャン人では、もし女が胎内に子をもったまま死ねば、その魂は悪霊になるという。「この霊はそれを遠ざけるくふうをしないかぎり帰ってきて、その夫の家に出没して彼を責めさいなむ。それでまず手術によって胎児が取り出される。母親と胎児とはべつべつの莚《むしろ》に包まれ、棺に入れられないで葬られる。こうしないと、その女は来世において再び同じ不幸に見舞われ、残された夫は死霊に襲われて悩まされるのである。死体を家から送り出すときには、家の横側の莚壁の一部分が取り除かれ、その穴を通して母親と胎児とが地上に降ろされる。死体を通した穴はすぐ新しい莚でもっておおわれ、どこを通って帰ったらよいのか死霊がわからないようにするのである」
ビルマのカチン人はお産で死んだ女の霊をおそれることひととおりでなく、女がこうして死ぬやいなや、その夫、子どもたち、家の中のほとんど全部の者は逃げ去ってしまう。死霊に咬みつかれるというのである。彼らは死んだ女が何も見えなくするために彼女自身の髪の毛でもってその両眼をおおう。死体を莚に包み、それを家から送り出すときには、普通の出口からではなく、壁または彼女が息を引き取った部屋の床に、そのためとくに開けた穴を通してだす。そして、それを人跡まれな山峡へ運んでゆき、死者の衣類、宝石類、その他すべての所有物を死体の上に積み重ね、火をかけてすべてを灰にしてしまうのである。「こうして彼らは、不幸な女の所有物を全部灰にしてしまうのであるが、これは彼女の霊があとになってそれに心をひかれて戻り、取り返そうとして人を咬むことのないようにするためである」これがすむと、司式者である祭司が一種のつる植物の焼いた実をいくつか播き、生前その女が米を搗《つ》くために使っていた杵《きね》を地に突き立て、「この実が芽を出し、この杵に花が咲き、シダが実をむすび、おんどりが卵を産み始めるまでは帰ってくるのを控えなさい」と、呪ったり嘲《あざけ》ったりして追儺《ついな》の式を終わるのである。その女が死んだ小屋は取り壊されるのが普通で、使ってあった古材は薪にするか畑に小屋を建てるのに使うかして、他の用途には役だてない。残された夫や子どもたちは新しい小屋のできるまで、父親や兄弟などいちばん近い親戚のやっかいになる。その他の人々は死霊をおそれて、誰も引き取ってやろうとはしない。死んだ女の宝石類は火に焼かないで、死霊の祟りなどを気にしない貧乏で欲ふかな老人どもに与えられることもある。病気中に世話をしてやり、葬式の司式をつとめた呪医が老人である場合には、宝石類は彼がその仕事の報酬として受け取ることが多い。しかしこの場合には、家へ持って帰るやいなやそれをニワトリ小屋へ入れてみる。ニワトリがばたばたしなければ吉兆であるから、安心してそれを自分のものとしてよい。ニワトリがばたばたやって鳴けば、死霊が宝石類に憑いている証拠だから、それを家族の者に返してしまう。このような死に方をした女の飾り物を手に入れた老爺老婆は、これを同じ部族の者にゆずり渡すことはできない。その出所を知っている人々は、誰もおいそれとそれを買おうとはしないからである。しかし、カチン人の死霊をおそれないシャン人や中国人の間では、買手を見つけることもできるであろう。
インド諸島における同様な慣習
インド諸島でも、お産で死んだ女の死霊はひとかたならずおそれられる。それは長い爪をもった鳥の姿をして現われ、残った夫や妊娠中の女たちにとってはとくに危険であるといわれる。この危険を防ぐ普通の方法は、死体の両腋に卵を一つずつはさませて腕を体に密着させ、両手の掌《てのひら》に針を刺すのである。彼らの信じるところによれば、こうしておけば女の死霊は飛び出してきて人々を襲うことができない。卵を落とすまいとして両腕を伸ばそうとはしないだろうし、掌に刺さっている針がもっと深くはいったら痛いので、人を引っ掻こうとはしないからである。念のため、ときにはもう一つ卵を顎の下にはさみ、手指足指のつけ根に棘を刺し、口に灰をいっぱいに詰めこみ、手、足、髪の毛を棺に釘づけにすることもある。
ボルネオの海ダイヤ人たちは、墓場ちかくの地面に、鋭い木の錐《きり》をうえつける。そこをふんだ死霊はそれが足に刺さって跛《びっこ》になるのである。
マレー半島のベシシ人は、死人を土中に埋め、墓のうえに何本かの小刀をたらしておき、霊が墓から起き上がってこられないようにする。
ツルカンクスのツングース人は、これと反対に死人を木の上にかつぎあげ、その木の枝をすっかり切り落として、霊が樹上から降りて人を追いまわさないようにする。
クイーンズランドのハーバート川原地民は、死人の腹、肩、肺に孔をあけ、その重さで霊が遠方までふらふら迷いでないように、その孔に石を詰めこむ。そのうえ霊の行程を制限するために、ふつうその脚を折ってしまう。
オーストラリアの他の原地人たちは、死んだ兄弟の両耳に熱い石炭を押しこむ。これは霊をしばらくの間死体に閉じこめ、親族たちを十分遠方まで逃がす効力をもっている。
古代ヒンズー人は、死者が再びこの世に帰ってこられないようにするため、その脚に足枷《あしかせ》をかけた。
アラスカのチンネエ・インディアンは、死体の両手に脂を塗るのであるが、これは死霊が人の魂につかみかかって持ち去ろうとするとき、魂が脂のついた手からすべって逃げることができるように、というくふうである。
死者の帰路を遮断する
ある民族は、死霊が墓からついて帰るのを防ぐために、その道に柵をつくる。ツングース人は、雪か木材でもって道に防寨《ぼうさい》をつくる。
ネパールの好戦部族の一つであるマンガル人では、「会葬者が帰るときには、そのうちの一人がまず先にいって、墓場と死んだ人の家の間の道の中ほどに、荊棘《いばら》を積んで防寨をつくる。そしてその上に大きな石を置き、左手に燃える香炉、右手にすこしばかりの毛糸を持って、その石の上に立ち上がる。会葬者は一人ずつその石を踏み、香煙の中を通って、荊棘の防寨の向こう側へおりる。そのときめいめいの者は、香炉を捧げている人から毛糸を少々もらい、それを自分の首にむすびつけるのである。この奇妙な儀典の目的は、死霊が会葬者について戻るのを防ぎ、それを本来の霊の住み家に閉じこめてしまうことである。死霊は一寸法師のようなものだから、荊棘を乗り越えて進むことはできず、どんな霊でも大嫌いな香煙の匂いは彼が会葬者の肩に乗ってこの関所をこえるのを防ぐのである」
ビルマのカチン人は、死体を焼いて土器の中にその骨を拾って入れる。その後、吉日を選んで骨壺を先祖代々の墓場へ運ぶ。墓場はふつう寂しい森林の真ん中にある。「この骨壺を墓場へもってゆくとき、人々は長いもめん糸を用意しておき、流れや川のところへ来れば必ずこちらから向こう岸までその糸を張り、今彼らについて歩いている死霊が無事に渡ることのできるように世話をやく。骨と霊と食物とをとどこおりなく墓に納め終わると、霊に向かっていつまでもそこに留まり、村へついて帰ったりしないようにいいふくめ、そして帰ってくる。そのとき、歩いて帰る道に竹を交差して、そこに垣をつくってしまうのである。このように、会葬者たちはできるだけ世話をやいて死霊が墓場へ行く便宜を図ってやるが、いったん葬儀がすめば、彼が歩いて帰るおそれのある道をすっかり封鎖してしまうのである」
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死霊を封じるアルゴンクィン・インディアンのくふう
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アルゴンクィン・インディアンは、死霊を追いはらうためその小屋をたたくだけでは満足せず、小屋の周囲に網を張りめぐらせておいて、霊が侵入してこようとすれば引っかけて捕らえてしまう。死霊を近よせないようにするため、悪臭を放つ人々もある。
オジブウェー・インディアンも死霊を追い払うため、いろいろとくふうを凝らす。これについて、オジブウェー出身のある記者は次のように述べている。「死人が夫である場合には埋葬のすんだあとで、残された妻は墓をとび越えて、ちょうどなにものかから逃げてゆくようすで、木々の間へジグザグに駆け込んでゆくことが慣習として行なわれることがある。これは夫の死霊からの逃避と呼ばれている。彼女に憑かないようにするためである。埋葬の行なわれた日の夕がた、暗くなりはじめたころ、人々は小屋の屋根にあいている穴から鉄砲を発射する。鉄砲の音がするやいなや老婆どもは戸を力いっぱいたたいて、その辺をうろつきまわっているどんな霊でも驚いて逃げゆくような物音をさかんにたてるのである。そうしておいて、次の儀典に移るのであるが、まずうすいカバの木をリボン状に細長く切り取る。そしてこれをいろいろなものの形に折って小屋の中に掛けまわし、少しの風にもひらひら動くようにしておく。このような案山子《かかし》でおどかされて、それでもなお彼らの眠りを妨げようとする霊のあるはずがない。このように手を尽くしてもまだ心細いと思うときには、しばしばシカの尾を切り取って、その毛の部分を燃やしたり焼いたりしたうえで、子どもたちが眠るまえに首や顔をこすってやる。この悪臭をかいでは、どんな悪霊といえども、はいってはこられまいというのである。私もよくこの不快きわまる煙にむせかえりながら、しかとその効果を信じて疑わなかった子どものじぶんのことを、今にいたるまでよく記憶している。死霊は最後にどこか遠くのほうへいってしまうまでは、長い間その死体のところにうろついているというので、それを追い払うためこのような方法をとるのである」
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レングア・インディアンの恐怖する死霊
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南アメリカのグラン・チャコのレングア・インディアンは、死人の霊におそれおののきながら生きている。彼らの想像するところによると、このような死霊は、もし生きている人の体をその魂がちょっと留守にしている間に占領することができれば、受肉して再び別の一生を生きのびることができるのである。他の多くの未開民族と同じく、彼らもまた魂というものは人の眠っている間は体から離れて、夢の国まで遠くさまよいだしてゆくと信じている。それで夜の帳《とばり》がおりると、死者の霊どもは、どこかに忍びこむことのできるあいた体はないものかと、村へはいってきてその辺をうろつきまわる。彼らにとって、これこそ夜の脅威であり恐怖である。夜が明けて朝になり、遠方へ狩りや漁にいった夢から醒めると、彼は自分の魂があのような遠方からまだ帰ってくるはずがないと思い、今、自分の中にいる魂は本当の家主の留守中にまんまと忍びこんで借家住いを始めた誰か他人の死霊か、悪鬼の類にちがいないと決めてしまうのである。
これらのインディアンがいつも死霊をおそれているのはこのとおりであるが、彼らがたった今、肉体から押しだされたばかりの霊を恐怖することは、さらにいっそうはなはだしいものがある。誰か一人でも死人が出ると、村全体がたちまち無人の野と化してしまうのである。日没のすこしまえころに誰か死んだとしても、その村からはぜひとも立ちのかなければならない。そうしないと、夜の影とともに死霊が戻ってきて、村人たちを悩ませるからである。単に村を立ちのくだけでなく、小屋という小屋は一つ残らず焼き払われ、死人の所有物は残らず破って捨てられる。これらのインディアンは、今死んだ人が生前にたとえどんな善人で親切な人であったとしても、死霊は必ず生きている者の平和と繁栄を阻害すると信じられているからである。その人の死霊は死んだ当夜冷たい夜気に慄《ふる》えながら村へ戻ってきて、暖をとろうと、その辺に火の気を捜し求めてまわる。熱い石炭のかけらでもないものかと灰を掻きまわし、それを吹いて火をおこそうとする。ところが灰が冷えきってすこしも火気がなければ、それを一握りつかんで空へ振りまき、ぷりぷり怒っていってしまう。この灰を踏んだ者は運のつきで、死なないまでも生涯ひどい悪運につきまとわれるようになるのである。このような災厄を避けるため、村人たちは村を見捨てて逃げだすまえに、大騒ぎをして灰を残らず掻き集め、それを土中に埋めてしまう。死霊が戻ってきたとき、村人たちがまだ小屋に残ってぐずぐずしているところを見つかったとしたら、村にはいったいどんなことがもちあがるだろう。インディアンにとっては、まったく考えるだに身の毛のよだつことである。お午《ひる》ごろには人がいっぱい住んでいる村が、夕方にはイヌの子一匹いない荒れ野原と化するようなことがしばしば起こるのは、じつにこのためにほかならないのである。
レングア・インディアンは、病気といえばなにもかも悪霊や魔法使いの祟りにしてしまうので、病気のもとを征伐してそれを罰するために、瀕死の病人や死人の体を傷つけて不具にしてしまう。すなわち、悪霊が宿ると考えられる体の一部分を切ってのけてしまうのである。瀕死の病人や死人のからだにほどこすふつうの手術は、次のようにしてなされる。まず脇腹を小刀で深く切り開き、傷口を指でひろく押し広げ、その中へイヌの骨の一片、小石一つ、ヨロイネズミの爪などを押しこめる。彼らの信じるところによれば、この石は霊魂が体から離れるとき銀河までのぼっていって、死の責任者が発見せられるまでそこに留まっている。やがてそれは流星となって犯人の上に矢のように落下し、彼をうち殺すか、少なくとも気絶させる。インディアンが流星を恐怖するのは、まったくこのためである。ヨロイネズミの爪はなんの役にたつかといえば、それは土を掘り起こし、流星と協力して悪霊や魔法使いをたたきつぶすために力をかすのである。イヌの骨の効能については、まだ宣教師たちによって確かめられていない。
死霊のための身代わり羊
インドヒマラヤ地方に住むボホチヤ人は、死人の霊をある動物に移すため、念入りな儀典をとり行なう。最後にこの動物は村人たちによってたかってぶたれ、再び戻ってこないように追い払われる。こうして死霊を放逐しておいて、人々はあるいは歌いあるいは躍り、喜んで帰ってくるのである。ある地方では、この身代わり羊をつとめる動物は犂牛《りぎゅう》であるが、前額部と背と尾とが白くなければならない。その他の地方ではヒンドゥー教の影響から、ヒツジかヤギがその役をつとめる。
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夫の死霊に対し妻のとるアフリカの防衛策
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夫を失った妻と、妻を失った夫とは、とくに死んだ配偶者の死霊からつけねらわれるので、それに対して特別な予防法を講じなければならない。たとえば、ドイツ領トーゴーランドのアゴメのユウ黒人では、夫に死なれた妻は夫の葬られてある小屋に六週間とどまることを強制される。この場合彼女は裸体で、髪の毛を剃り落とし、夫の死霊があまりしつこく密接にしてくるときそれを追い払う棒でもって武装する。もしここで死霊の情にほだされるとたちどころに死んでしまうのである。彼女は夜分は、この棒を寝床の下に敷いて寝る。眠っている間にずるい死霊がそれを盗んでしまうかもしれないからである。食べたり飲んだりするまえには、いくつかの石炭の塊を食物や飲物の上に置いて、夫の死霊がいっしょに飲み食いしようとするのを邪魔する。いっしょに飲み食いさせたらこちらも死んでしまうからである。誰か呼ぶものがあっても返事をしない。死んだ夫がその声を聞けば、彼女は死ぬからである。豆、肉、魚を食べてはならず、シュロ酒やラム酒を飲むことも許されないが、タバコはすってもかまわない。夜になると小屋に火がたかれ、死霊を小屋に寄せ付けない効能のある悪臭を発せしめるためハッカの葉の粉末や赤|胡椒《こしょう》などをくべるのである。
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コロンビアにおける配偶者の死霊に対しての防衛策
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イギリス領コロンビアの多くの部族では、夫を失った妻と、妻を失った夫の生活は、その配偶者の死後長い期間にわたって、煩雑でいとわしい戒律によって束縛せられるが、すべてこの戒律は彼らが死霊に憑かれているので、自分たち自身が危険な状態にあるばかりでなく、他の人々をも危険にさらすおそれがあるとの配慮によるものであるらしい。
たとえば、イギリス領コロンビアのシュシワプ・インディアンでは、夫を失った妻と妻を失った夫とは死んだ配偶者の死霊を寄せつけないために、荊棘《いばら》でもって寝床に垣をつくる。実際彼らは文字どおり荊棘の上に寝るのであるが、まさかこのような寝床には死霊といえども入ってはこまいというのである。彼らは河畔に苦行小屋を建て、その中で夜もすがら難行苦行をつづけ、規則正しく川の中で沐浴《もくよく》をし、その後でモミの枝をもって体をこすらねばならない。この枝はただ一度きり用いられるだけで、使用後はみんな小屋の周囲に立てられるが、これはたぶん死霊に対する垣であろう。喪中にある者は、彼ら専用の椀や料理道具を使わねばならず、自分自身の頭や体にさわってはならない。猟師たちは彼らに近づこうとはせず、誰でも彼らの影に触れた者は、すぐ病気になってしまうのである。
またツェツアウト・インディアンでは、夫が死ぬとその弟が寡婦と結婚することになっているが、しかしそれはある一定期間をおいてからのことである。というのは、死んだ夫の霊が寡婦に憑いていて、この生ける競争相手に災厄をもたらすからである。寡婦が喪に服している間は石の皿から食べ、口の中に小石を一つふくみ、下着の首のところに野生リンゴを一つつける。そして夜も昼もまっすぐにすわる。小屋で彼女の前を横切った者は、誰でも死んでしまう。妻を失った夫に課せられる戒律もまったくこれと同様である。
バンクーバー島のルクンゲン・インディアン、あるいはソンギシ・インディアンでは、夫か妻を失った者は、髪の毛を切ることを許されない。もし髪の毛を切れば、人々に害を与え社会不安を起こすような怪力を受けるようになると信じている。彼らは自分の火のところに長い期間ただ一人でおらねばならず、他の人々の仲間入りをすることを許されない。彼らが食事をするときは、誰もそれを見てはならない。十日間はその顔をおおうて暮らさねばならない。埋葬のあと二日間は断食し、ものをいうことを許されない。それがすめばはじめてすこしばかり話してもよいが、しかし誰かに話しかけるまえに森林へいって、そこの池で沐浴をし、スギの皮で身を清めねばならない。敵に危害を加えたい場合には、断食がすんで最初の食事のときその名を呼びあげ、つよく食物を噛みしめる。これが敵を殺す方法だと信じられているが、たぶんは(これには言及されていないけれど)死霊の注意を彼に向けさせることによって、そうすることができるというのであろう。彼は水のほとりに近づいてはならず、生のサケを食べてはならない。そうするとサケが逃げてしまう。また暖かい食事を食べてはいけない。歯が抜けて落ちるからである。
ベラ・クウラ・インディアンでは、死んだ人の霊が喪に服している者の寝床を襲うのを防ぐために、その四隅の地面に荊棘《いばら》を立てる。服喪中の人は朝早く起きて森林へ入り、そこに荊棘でもって一つの囲いをつくり、その中で体をスギの枝でこすって清めるのであるが、おそらくこの囲いの中は死霊の襲撃から安全であるというのであろう。彼はまたそこにある池の中で沐浴する。それがすむと四本の小さな木を裂いて、太陽の移ってゆく方向に従って裂け目を這いぬける。その後につづく四つの朝、そのたびごとに新しい木を裂いて同じことがくり返し行なわれる。裂かれた木の間を這いぬけるのは、そこで死霊をまいてしまうという意味らしい。服喪中の人はまたその髪の毛を切り、それを焼いてしまう。このような戒律を守らないと、死んだ人の夢を見る。ところで未開民族にとって死んだ人の夢を見るということは、死んだ人の霊に見舞われたということとまったく同じである。これらのインディアンの規定した妻を失った夫、夫を失った妻の服喪心得は、とくに峻厳なものである。配偶者の死後四日間は、ひとことも口を利《き》いてはならない。もしこれに反したなら、死んだ妻や死んだ夫が現れてきて、氷のように冷たい手を破戒者の口にあてる。これで破戒者は死んでしまうのである。彼らは水のほとりへいってはならず、まる一年間はサケをとったり食べたりしてはならない。その期間内彼らは生のニシンとワカサギも食べてはいけない。また彼らの影は不吉とされているので、誰のうえにもそれを落としてはならないのである。
トムソン・インディアンの同様な慣習
イギリス領コロンビアのトムソン・インディアンでは、夫を失った妻、妻を失った夫は、夫か妻が死んだとき、すぐ外に出て、イバラの藪の間を四たびくぐり抜けねばならない。この儀典の目的についてはなにも報告せられていないが、たぶんは死霊が棘で引っ掻かれるのをおそれて生き残った者に憑くことを断念する、というところにあるらしい。妻を失った夫、夫を失った妻は、配偶者の死後四日間にわたり、夕方または夜明けごろにモミの小枝を折ってはそれで目を拭《ふ》きながら、そのあたりをさまよい歩かねばならないが、夜明けまで祈りとおしてその小枝を木々の枝に掛けてゆくのである。彼らはまた流れの底から小石を一つ拾いあげ、それで両眼をこする。そして盲にならぬように祈りながら投げ捨てる。はじめの四日間は食物に手を触れてはならないので、先端を尖らした箸のようなもので食べる。そしてどんな食物でも、はじめの四口と飲み水のはじめの四口とは火の中へぷっと吐きだすのである。その後一年間は、モミの枝でつくった寝床に眠らなければならない。寝床の脚、頭、背中の部分には荊棘《いばら》が重ねられてある。たいていの者はなおそのうえに、荊棘の枝をいくつか身につけるのである。荊棘を使うのはあきらかに、引っ掻かれるのをおそれた死霊を寄せつけないためである。彼らはその一年間は生魚と生の肉とを食べてはならないとせられている。妻を失った男は、他人の漁場で魚をとってはならない。他人の網を使用することもいけない。そんなことをすれば、漁場も網も漁期中ずっと役にたたなくなってしまうのである。妻を失った男がマスを他の湖へ移植しようとする場合には、彼が触れたために起こる悪影響を除くため、まず魚の頭を吹いてからシカの脂肪を噛み、脂を少々魚の頭に吐きかける。そしてさよならをいい、うんと繁殖してくれることを願って放流してやるのである。夫を失った妻、妻を失った夫がすわったり横になったりした草や枝は、すべて枯れてしまう。夫を失った女が棒や枝を折ろうとすれば、自分自身の手や腕が折れる。寡婦は子どもたちのために食物を料理したり水を汲んだりしてはならず、自分の寝床に子どもを寝かせたり、子どもの寝たあとへ自分が寝たりしてはならない。寡婦のなかには、枯れた草でつくった股引つきの着物を何日間かつける者がいる。これは死んだ夫の霊が関係を迫ってくるおそれがあるからである。妻をなくした男は漁をしたり狩りをしたりしてはいけない。彼にとっても他の猟師にとっても不吉だからである。彼は自分の影を他人の前には見せず、普通人より知恵も呪術もまさっていると考えられている人の前にも影は見せない。
ブリティッシュ・コロンビアのリルウエト・インディアンで、寡婦と男やもめのために規定せられているものもだいたい同様である。しかしそこでは、男やもめは食事のときに奇妙なことをする。右脚の膝を上げ、右手をその右膝の下から通して、それでもって食べる。このようなめんどうくさい方法で食物を口に運ぶ理由は、べつに報告されていない。察するところ、それは腹のへった死霊の目をごまかすためであろう。死霊はその人の食べるのを一口一口じっと見守っているのであるが、膝の下を通ってゆく食べ物が口へゆくとは、よもや気がつかないであろう。
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クアキウツル・インディアンにおける死霊予防策
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ブリティッシュ・コロンビアのクアキウツル・インディアンについて報告せられているところによれば、「喪中に守らねばならぬ規定はすこぶる峻厳である。夫か妻かに死に別れた者は、つぎのような諸規定を守らなければならない。まず死後四日間にわたって、生き残った配偶者は両膝を顎につけて身動きせずすわっていなければならない。第三日目になると、村人たちは全部、子どもたちもふくめて、沐浴しなければならない。第四日目には木製のかまに湯を沸かして、寡婦や男やもめはそれを頭に注ぎかける。疲れきって、どうしても身動きせずにすわっていることができなくなり、やむえずからだを動かすときには、まず自分の敵のことを頭におき、しずかに四度その脚を伸ばしてから、またもとの姿勢に戻るのである。そうすれば敵は死んでしまう。その後、十六日間は、やはり同じ場所にすわっていなければならないが、脚は伸ばしてもかまわない。けれども手は両方とも動かしてはいけない。誰もこのような人物に話しかけてはならず、もしこの戒律を破った場合には、罰としてその人の親族の一人が死んでしまう。
四日目ごとに彼は沐浴する。一日に二度、干潮のころを見はからって老婆が食事をさせてやるが、食物はそのまえの年にとれたサケであり、皿や匙《さじ》は死んだ人の使用したものをそのまま用いる。こうしてすわっている間、彼の心はあちらこちらとさまよい歩く。彼は自分の家や自分の友達を、ずっと遠方にあるように見る。もし幻のうちで誰かをすぐ傍らにいるように見れば、見られた人はまもなく死んでしまう。もし彼をずっと遠方にいるように見れば、見られたものはなお生きながらえることができるのである。十六日の日がたってしまえば、横になって寝てもよいのであるが、まだ長々と寝そべることは許されない。その後八日目ごとに沐浴する。こうして初めの一カ月の終わりになると、今まで着ていたものを脱ぎ捨てて、それを木の切り株に着せる。それからまた一カ月たてば、はじめて家の一隅にすわることを許されるのであるが、しかしなお四カ月は他人と交わることができない。彼はふつうの出入口から出入りすることができないので、べつに専用のが設けられる。はじめて家を出ようとするさいには、三度その出入口までいったり戻ったりしてからでないと、出てゆくことができない。こうして十カ月の月日がたつと髪の毛が短く刈られ、一年たったところでようやく喪が明けるのである」
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社会的に葬られるニューギニアの男やもめ
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ブリティシュ・コロンビアの寡婦や男やもめに命じるこのようなわずらわしい束縛の理由は、まったく報告されていないけれど、これを次のように考えてもけっして誤ってはいないであろう。すなわち、すべてこれらは、死霊に対する恐怖によるものである。死霊は生き残った配偶者に憑きまとい、危険な雰囲気、すなわち死の汚れをもって、生き残ったものを取りまいてしまうので、とくに漁場のような食糧供給の主要な源泉に近づかせず、この汚れを受けているものが歩きまわることによって毒を流すことのないように警戒する必要が起こってくるわけである。
イギリス領ニューギニアのイッスウダンのパプア人の社会に行われているところの、じつに残酷きわまる男やもめの取扱いも、こうなれば十分に理解がゆくのである。彼の悲惨はその妻の死とともに始まる。妻が息を引き取るやいなや、その妻の親族たちによって身につけているものをことごとくはぎとられ、嘲弄され、打たれ、家は略奪され、畑は踏みにじられ、誰ひとりとして食物を料理してくれるものもなくなるのである。彼は喪の明けるまで、死んだ妻の墓の上で寝なければならない。再婚など思いもよらぬ。妻の死によって、彼はすべての権利を失ってしまう。とりもなおさず、これは社会的な死である。老人であれ若者であれ、酋長であれ庶民であれ、こうなってはもう人間扱いはされず、まったく勘定にははいらないのである。狩猟も漁も他の人といっしょには出ない。彼がいっしょにゆけば不幸がふってくる。死んだ者の霊が獲物をおどかして散らすのである。なにかの相談会があっても、けっして口出しを許されない。長老たちの会議でも発言ができない。村じゅうの人々が躍っても、その仲間入りもできない。畑を所有することも許されない。自分の子どもが誰かと結婚するとしても、いっさいそれに干渉する権利もなく、またそのために贈り物をもらうこともない。死人であってすらも、これほどまで完全に無視されることはあるまい。彼は夜の動物となってしまう。公衆の前に出ることも、村へ現われることも、往来や小道を歩くことも、ことごとく禁止である。イノシシのように草を分け、林をくぐって歩くよりほかはない。もし誰かが、とくに女の人が遠方からやってくるのを聞いたり見たりすれば、木陰や茂みのなかに隠れなければならない。狩りや漁に行きたければ、夜分ひとりで出かけなければならない。もしどうしても、誰かと話をする必要があれば、たとえ相手が宣教師であっても、夜分ごく秘密にしなければならない。そういう場合には、声のつぶれた人のように、ただささやき声で話すのである。彼は頭から足の先まで、全身真っ黒に塗られる。両方のこめかみの上にぽさぽさと毛の房を残しておくだけで、頭髪はすっかり剃られてしまう。そして耳のところまでかぶさる頭巾《ずきん》をかぶる。頭巾は首筋のところで尖って終わるようにできている。腰のまわりには一つ二つ、あるときは三つの色ガラス製の飾り帯をしめる。両腕にも、そして両脚にも膝から踵まで、同じガラス製の腕甲や脚甲をつける。首のまわりにも同じものをつける。食べるものは厳格に制限せられてはいるが腹がへってどうにも耐えられなくなれば、この戒めを破ってなんでも目にふれたもの手にさわったものを秘密に食べる。「彼はどこへゆくにも、いつでも、鉞《まさかり》だけはけっして手離さない。これはイノシシの襲撃を防ぐためにも必要であるが、戻ってきてさまざまな悪ふざけをすることの好きな死霊を防ぐためにもっと必要なものである。死人の霊は例外なく戻ってくるのであるが、すべての死霊が例外なく性悪ですこしもよいことをしないばかりか、生き残った者に対しては絶対に有害なので、こんな者が戻ってくることを望む者は一人だっているわけがない。さいわいなことに、棒、火、矢、鉞などでこれは退治することができる。男やもめになってしまえば、他人からあわれみや同情を受けようなど思いもよらず、ただ恐怖と脅威の対象となるばかりである。ほとんどすべての男やもめが多少とも魔法使いだというふうに見られるようになるが、このような生活様式ではそう見られるのがむしろ自然であろう。彼らは怠け者で盗人にならざるをえない。働くことを禁じられているからやむをえない。働くことを許されていないからである。働かねば畑はえられない。畑がなければ食べるものがえられるわけがない。従って盗みをやるのである。このような窮地においこめられて、大胆不敵で不正をすることなしには為すことのできない商売があるとすれば、これよりほかにはなにもないに決まっている」
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死霊の恐怖は他人の生命をねらうことを抑制せしめる
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死霊の信仰があまねく人類の間におしひろめた恐怖に関する実例や、その信仰が現実に働いた場合にもたらされるところの、あるときは悲劇的、あるときは滑稽にすら見えるいろいろな結果に関する実例をさらに列挙することは困難ではない。しかしそれはよけいなことであろう。当面の目的、すなわちあまねく行われている迷信が、人命の神聖を強調することによって、有益な目的に奉仕することもありうるというだけのことを示すためには、おそらくこれまでにあげた実例で十分なはずである。人を殺せば、避けることも欺くこともできない怒った強力な霊の復讐を招くと信じている者が、そうでない者よりも同胞の血を流すことを嫌うとみられるのは理由のあることである。さいわいにして、これがまったくの憶測でないことを示す証拠がある。
中国の宗教に関する現存の最高権威者によって確かめられたところによれば、広い中国で死霊の恐怖は実際に、このような有益な結果をもたらしているのである。中国人の間で死者の霊の信仰と、それが親切な者には報い、反対の者には復讐するという信仰は、普遍的であるとともに根本的である。この信仰は原始時代から伝承せられ、さらに疑う余地ないものとして受け入れられている百千の幽霊話によって、各人の経験の中に、あるいはむしろ各人の心のなかに育て上げられてきたものである。人間の運命の動きにおいて、霊がつねに善悪にかかわらず干渉していることを疑う者はいない。中国人にとって彼らの死者は、われわれ西欧人の多くの者が考えている死者とは異なる。われわれにとって死者は陰惨な記憶であり、どこかはるか遠方にある影のような集まりであって、いつの日かわれわれもその仲間入りをするのであるが、彼らのほうからわれわれのほうにくることはできず、したがって生ける者の世界になんらの影響も及ぼすことのできないものである。ところで中国人の考えるところによれば、死者はこの生けるものの世界に存在しているだけでなく、生き残った人々ともっともいきいきとした交通をもち、実際的に善と悪との影響を彼らに与えるのである。もとより中国でも、人間と霊の間に、また行けるものと死者との間に境界線はあるが、しかしそれはきわめて不鮮明で、ほとんど認知しがたいといわれる。この二つの世界、すなわち物質の世界と霊の世界の間の不断の交通は、呪詛の源泉でもあるとともに祝福の源泉でもある。すなわち、死者の霊は鉄の魔杖をもってか、黄金の魔杖をもってか、人間の運命を支配するのである。多くの希望も死霊からえられるが、同時に多くの恐怖もまたこれから出てくるのである。このために、中国人が死霊や死人の魂を信仰するのは自然の結果である。中国人の宗教は、その親しい、あるいはおそろしい死霊を中心として回転するのである。霊の好意と助力とを懇願することと、その怒りとおそるべき刑罰とを避けることこそ、彼らの宗教的儀礼の最初にして最後の目的なのである。
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中国においては死霊の恐怖が人命尊重の念を強める
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報告せられているところによれば、死霊の存在とその威力に関する中国人の信仰は、「たしかに彼らの道徳の上に強力かつ有益な影響を与えている。これは人命尊重の念を強制し、弱者、老人、病人に対して情け深い取扱いを命じ、死に瀕している者に対しては、とくにそうさせるのである。このような恐怖と利己心の上に立った慈悲や道義は、われわれの目をもってすればけっして倫理的価値をもつものではない。しかし、それはともかくとして、教養が人々に善そのもののための善を培《つちか》うべきことを教えていない国にこれのあるのは、一つの祝福として喜ぶべきことであろう」このような徳は動物にまで及ぶ。実際に動物といえども、復讐をなし報酬をもたらす魂をもっているからである。しかし、死霊とその報復的正義の信仰は、なおこのほかの効果をもっている。すなわちそれは、悲惨で恐怖すべき不義の抑制である。というのは、被虐待者は自分の魂がその体を離れるときにはかならず復讐する威力をうることを確信し、いつでも自殺することによって怨霊に変わることをいとわず、それによって生前に晴らすことのできなかった加害者に対する恨みを晴らし、死んで復讐を遂げるからである。この目的のもとに行われる自殺は、中国ではけっして珍しくないといわれている。ド・グルート教授はいっている。「この宗教的変態心理は、人命の軽視に非常な圧力を加える。それはまた、アモイの貧乏人やその近くの農民たち、およびシナ大陸の他の多くの地方にあまねく行われている奇怪な風習である幼女殺しを、最も効果的に抑制する。殺された幼女達の霊が災厄をもちきたすとの恐怖があるために、多くの父親や母親は育てることのいやな幼女を殺さないで、どこかの家庭に拾いあげてもらえるような路傍に捨てるか、捨て子院に連れて行くのである」慈悲深く教養ある人々は、この迷信的恐怖を利用して、幼女を情けぶかく育てあげてやらねばならないと説きさとすのである。すなわち彼らは、殺された娘たちの霊が、鬼のような父母に与えた祟りの気味悪いかずかずの例話を記した小冊子を印刷して、それを無料で配布するのである。この刺激の強い物語は、もちろんその著者の想像的な潤色の著しいものではあるけれども、完全に所期の目的を達することができるといわれている。信じやすい彼らは、このような話をすぐそのまま信じこんでしまうのである。これまで普通のことではまったく慈悲心など起こしたことのなかったしぼめる良心も、さすがにこれによって動かされるのだという。
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死霊の恐怖が人命の尊重を強制する二つの道
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しかし、死霊の恐怖は、このように残忍な者、激情的な者、性悪な者たちが、人の血を流すのを抑制することによって直接人命の神聖の確保に寄与すると同時に、間接的にも同様に有益な結果をもたらすのである。というのは、ただ憑かれた殺人者だけがその犠牲者の死霊を恐怖するだけでなく、既述の例でもあきらかに知られるように、殺人者に憑いている怨霊は他の人々にも乗り移って苦しめるので、殺人者が介在すれば社会全体が危機におちいると信じ、また恐怖するからである。そこで社会は、これがつよい動機となって、社会全体に対し切迫した危険であり、破滅的な汚染であり、死の伝染であるとみられるものからのがれるために、犯人を隔離し、追放し、撲滅しようとするのである。いいかたをかえてみれば、社会は殺人者を罰しなければならぬと考えるのである。
部族ないし国家によってとられた殺人者の処置が、本来彼らに対する刑罰と考えられたというのではない。そうではなくて、むしろ自己防衛、道徳的遮断、精神的潔身と消毒、追儺《ついな》などの手段と考えられたのである。それは、その民一般を、ときには殺人者自身を死の汚染から清める手段であった。未開民族のみるところによれば、この死霊の汚染は、なにか物質的で触知しうるもの、水、ブタの血、ヒツジの血、あるいはその他の洗浄剤によって文字どおり洗い去り、すり落とすことの可能なものである。しかしながら、この清めが殺人者を圧迫束縛したり、国土から追放したり、あるいは彼によって殺害せられた者の霊をなだめるため犯人を殺したりするような形式をとるようになれば、もはや実際上はまったく刑罰との区別はつかず、それに対する恐怖はまったく一つの刑罰と同じように、犯罪防止策として確実に働くのである。今この場で絞め殺されようとしている者に向かって、これはけっして刑罰ではなく清めのためだといい聞かせてみても、けっしてなんらの慰めを与えるものではないのである。
しかし、一つの観念は、容易に、そしてほとんど気のつかぬうちに、他の観念に転化するものである。そこで、本来はおごそかな聖別、または供犠などのような宗教的儀典であったものが、時代とともに純然たる世俗的機能をもつようになり、社会がその秩序を乱した者に加える刑罰となるのである。供犠が死刑とかわり、祭司が後退して死刑執行人の登場を見るわけである。このように、犯罪の処罰は、法律家や哲学者たちの硬化した頭脳が、彼らのいろいろな先入観念によって、論理的にそれを堅苦しい報償説や、法律を犯罪者に対する恐怖たらしめようとするような遠視眼的政略や、犯罪者の人格を改造したり、現世において彼の体を絞め殺したり焼き殺したりすることによってその魂を来世で救おうというような親切な願望などから推定しなかったずっとまえ、すでに素朴な信仰によってだいたい基礎づけられていたとみられるのである。もしこの推定が、ただ単に刑罰の実際を理論的に弁明しようとするのであれば、それは別に正しいとも誤っているともいうほどのことはない。しかしながら、もしそれが刑罰の実際を歴史的に説明しようとするのであれば、それはたしかに誤っている。われわれは一時代の観念を他の時代に注入することによって、また、心的発展の最近の所産に属する観念をもって最初期のそれを説明することによって、過去を改造することはできないのである。こうすることによって変革をつくることはできようが、歴史を書くことはできないのである。
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死霊の恐怖の消滅後は平和の民の生命を保護するために法律の恐怖が残る
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もしこれらの見解が正しいとすれば、死霊の恐怖は人命保護のために二重のゆきかたで働くということができる。一方においてそれは、各個人が自分のために同胞を殺すことを躊躇するように仕向け、他方においては全社会が殺人者を罰するよう奨励するのである。こうして一人一人の生命を、道徳と法律の二重の囲いの中におくわけである。頭の熱した者と心の冷えた者とに、最後の致命的一線を踏み越えさせないため、二重の動機をもってそなえがなされる。人々は一方においては彼らの殺した人の死霊を恐怖しなければならず、他方においては法律の怒りをおそれなければならない。彼らは悪魔と深淵の間にはさまれ、幽霊と絞首台の間に立っているのである。そして思惟の進歩とともに幽霊の姿が消えると、迷信的な脅威の助けをかりることなく、絞首台のものすごい影だけが社会を保護するために残るのである。ある慣習が、しばしばそれを発生させた動機の消滅後も残存することのあるのは、まったくこの理由によるものである。もし一つの制度が実際上よいものであるなら、そのほんらいの理論的基礎が崩壊してしまった後までも、りっぱに存続しうるのである。そして、それを存続させてゆくために、別の新しくてより真実であるがゆえにいっそう強固な基礎がそれに与えられることになる。時代の進歩とともに、道徳はその立場を迷信の砂地から理性の岩盤に、想像から現実に、超自然から自然にと変えてゆくのである。国家は今日でも、死霊の信仰が崩壊したからといって、その平和的な人民の生命保護をやめはしない。国家は「生命の樹」をねらい寄る者を炎の剣をもって防衛するために、老婆の昔話よりもいっそう適切な理由を発見したのである。
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六 結論
研究の要約
迷信が諸制度の生成に与えた影響の検討を目的とするこの概略的な研究を要約すれば、次に述べる四つの命題を証明することができたと考える。少なくともその理解を助けえたと思うのである。
(一)ある民族の間において、そしてまたある時代において、迷信は政治、とくに君主制政治に対する尊重の念を強め、その結果として社会的秩序の制定と維持とに寄与するところがあった。
(二)ある民族間において、そしてまたある時代において、迷信は所有権にたいする尊重の念を強め、その結果としてその安全確保のために寄与するところがあった。
(三)ある民族の間において、そしてまたある時代において、迷信は結婚にたいする尊重の念を強め、その結果として既婚未婚の別なく、すべての人々の間にきわめて厳格な性的道徳の規律を確立することに寄与するところがあった。
(四)ある民族の間において、そしてまたある時代において、迷信は人命にたいする尊重の念を強め、その結果としてその安全確保のために寄与するところがあった。
迷信は文化に一大貢献をなした
政治、所有権、結婚、および人命の尊重は、俗的社会の全組織をささえている柱である。これらのものを動揺させることは、とりもなおさず社会をその根本から揺り動かすことにほかならない。それで、もし政治、所有権、結婚、人命の尊重などが俗的社会の存立に有益であり、また必須のものであるとすれば、その一つ一つを強化したという点において、迷信は文化に一大貢献をなしたということになる。
迷信は民衆に、正しい行為にたいする動機を――たしかに誤った動機ではあったが、それを提供した。誤った動機をもって正しい行為をなすことのほうが、最上の意図を持って誤った行為をなすことよりも、はるかに世界のためによいのはいうまでもない。社会の関心事は行為であって意見ではない。行為が正義にかない善でさえあれば、意見が誤っているくらいなことは、社会にとってはべつになにほどのこともないのである。誤った意見の危険なのは、これはもっとも重大なことであるが、一般にそれが誤った行為を導きだす点にある。それで論じるまでもなくそれは悪であり、その是正のためにはいかなる努力も惜しんではならない。しかしながら、これら二つの悪のうち、誤った行為のほうが誤った意見よりも、比較にならぬほどわるいのである。正しい行為よりもむしろ正しい意見のほうを重要視し、善徳よりも正統主義を重んじる宗教や哲学のすべては、このかぎりにおいて、人類最大の関心事に対しては不徳義であり有害である。彼らは思想と行為の真実の相関的重要性、すなわち真実の倫義的価値をおおい隠している。なんとなれば、同胞に対してわれわれが有用であるか無用であるか、有益であるか有害であるかは、われわれが考えることによるのではなくて、われわれが為すことによって決定されるからである。それで誤った意見の実体として、迷信は行為のもっとも危険な指導者であり、その生み出した害毒は枚挙にいとまないほどである。しかし、このような害毒がどんなに大きいからといって、迷信が無知な者、弱い者、愚かな者たちに対して善い行為への動機を与え、たとえ誤っていたにせよ、それを与えることによって社会を益した功労は没却すべきではない。
たとえてみれば迷信は一本のアシである。折れないアシである。けれども、なおよく多くのあわれな足腰たたぬ兄弟たちの、たどたどしい歩みをささえ助けている。この杖なしでは、たちまちつまずいて転んでしまう。それはまた灯にもたとえられよう。薄暗く心もとない灯である。けれども激浪にもてあそばれている限りない船乗りたちを一たび照らせば、人生の荒海に漂流している幾人かの者を安息と平和の港に導くことができるのである。しかし、ひとたび船が港の灯を望んで無事に入港してしまえば、船頭が鬼火に導かれたか星に導かれたかは、べつに問題とはならないのである。
迷信に対する死刑の宣告
紳士淑女たちよ、これが迷信に対する私の弁護である。白髪の被告が法廷に立つとき、彼に対して宣告される判決の軽減を、たぶんこれは促し求めるであろう。しかし、この判決は間違いなく死刑である。とはいっても、刑の執行はわれわれの代には行なわれまい。ながくながく延期せられるであろう。今夜私が諸氏の前に立ったのは、彼の死刑執行人としてではなく、彼の弁護人としてである。アテナイでは殺人事件は、アレオパガスのまえで夜分に審理された。私がこの闇の方のために弁護したのも夜分である。すでに夜もふけわたった。さてニワトリの鳴くまえに、そして東天に暁の光の現われないまえに、この妖異な弁護依頼人を連れて私は退散するとしよう。(完)
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解説
これは Sir James George Frazer (一八五四〜一九四一)の名著 The Devil's Advocate の全訳である。本書ははじめ Psyche's Task として出版されたものである。
著者サー・ジェームズは、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの教授をつとめ、イギリスで社会人類学会の総帥と仰がれた大学者であって、全世界の民族学(社会人類学)界、民俗学界、社会学会、宗教学界などに与えたその影響は、まことに測り知られざるものがある。
彼の代表的著作として『金技編』The Golden Bough を推すに異論はなかろう。これはじつに全十三巻からなる大著作であるが、社会人類学(民族学)と民俗学の結合を基礎として宗教学や社会学などの実証的進展を方向づけた功績は、その方法や見解の相違という理由によって無視することを許されぬほど大きい。本書は学術書でありながら同時にきわめて興味のふかい読み物でもあるため、とくに編まれた省略一巻本(筆者の拙訳あり)は、かおり高い教養書としても世界的に読まれ、さらにジュニア向きとしてレディ・リリーが編んだ『金枝の落ち葉』も出版されている。
さて、ここに訳出した『悪魔の弁護人』は、数多くある著者の著作としては、おそらくもっとも小さいものといえるが、著者の研究方法と学的意図を知るには、もっとも便利なものであり、著者の全体系が、もっとも簡明に要約され、代表作とはいえないにしても、恰好なフレーザー入門書ともいうべき価値をもつものである。たとえば『金技編』の中に堂々と展開された「王の呪術師起源」「呪術の宗教先行」などのようなきわめて注目すべき彼の学説のごときも、本書においてその一端をうかがい知ることができる。
『悪魔の弁護人』は、社会制度の発展に及ぼした迷信の影響をとりあつかったものである。著者によれば、われわれは「迷信」という言葉を聞けばすぐに「邪悪」「虚偽」「虚妄」と考える。本質的にいって、たしかにそのとおりであって、これを否定することはとうていできるものではない。人を狂気せしめ、人と人とをあいそむかせ、民族を騒乱して平和を乱し、墓場のそのさきまでも人を追いかけまわす。しかし、古代民族や未開民族においては、すなわち低文化社会においては、俗的社会のいくつかの社会制度の確立や発展のうえに、迷信が意外な働きを示しているのである。迷信によって確立された、迷信によって確立せしめられたいくつかの社会制度は、やがて理性によって支持されることになるのであるが、このときまでに果たした迷信の役割を忘れてはなるまい、と著者はいうのである。
著者はまず第一に政治を取り上げる。もっともそれは主として君主制政治である。これを確立し発展せしめたものは、超自然的な威力を持つと信じられた人神(現身神《うつしみがみ》)の信仰である。人神の信仰がなかったなら君主制政治は成立しなかった。現にその信仰の衰退とともに君主制政治は崩壊しはじめた。おびただしい実例がこのために引用されている。
第二には、所有権の問題が取り上げられる。所有権を支持するものは主としてタブーである。タブーとはマナ(神聖な威力)の消極面だと著者はいうが、それを犯す者に対しては峻烈《しゅんれつ》な神秘的報復が見舞う。この項に関しても全世界から実例がおびただしく引かれている。
第三に取り上げられるのは結婚である。未開野蛮人の性道徳について、われわれは一般にひどい誤解をもっている。彼らの性道徳は峻厳そのものであって、その戒律にそむいた場合はほとんど例外なく死である。いまここに性道徳といったが、しかしそれはわれわれの場合と同じ意味を持つものではない。彼らの戒律は倫理的なものではなくて、実質的な、あるいは物理的な汚染の防衛のためのものである。この汚染は大きくは全部族の存続をすら危うくするのである。彼らの間においては、性の純潔は迷信によってかたく維持されたのである。
さいごに人命の尊重が取り上げられる。血の色とそのにおいによって狂気しがちな未開野蛮人をして、かろうじて流血を思いとどまらせるものは、死霊――ことに自分の殺した者の死霊に対する恐怖である。死霊の信仰はわれわれ文化人の間にすら無くはない。まして未開人のこれに対する恐怖は深刻なもので、朝死人を出した村は夕方までには他に移転しなければならないとされる例すらある。ここにもおびただしい例が引用されている。人命の尊重は人権の尊重の基本であることにまちがいはなく、われわれの間では高い倫理によってそれが保証されている。しかし、こうなるまでには多く迷信によって保証されたのである。
以上のように著者は悪魔――迷信の弁護を試みるわけである。しかし、このように弁護しても、弁護人は被告に対する最終判決が死刑であることをよく知っている。けれども、刑の執行は今ただちに行われることはなかろうと、この弁護人は予想している。すなわち、迷信のこのような働きは、今日でもなお絶滅していないとみるのである。
本書の内容ははじめロンドンの王立学会で読まれ、後にリヴァプール大学で講義されたものである。
ここに「迷信」と訳したのは superstition であるが、本書のなかではむしろ「信仰」と訳したほうがよいとも思った。しかし「信仰」では「弁護人」が生きてこないのでそのままにしておいた。(訳者)