歌う白骨
オースティン・フリーマン/大久保康雄訳
目 次
オスカー・ブロズキー事件
1 犯罪の過程
2 捜査の過程
計画された事件
1 プラット氏抹殺さる
2 警察犬の敵手
反抗のこだま
1 ガードラー燈台上の死
2 『歌う白骨』
落魄《らくはく》紳士のロマンス
1 招かれざる客
2 粒々《りゅうりゅう》辛苦の賜《たま》もの
老いたる前科者
1 変化した指紋
2 砂漠の船
解説
[#改ページ]
オスカー・ブロズキー事件
1 犯罪の過程
良心ということについて、ばかげたことが、おどろくほどふんだんに語られている。一方では悔恨《かいこん》(極端なチュートン民族学者一派は「呵責《かしゃく》」と呼びたがるようであるが)、他方では「やすらかな良心」――このようなものが、幸福か否《いな》かを決定する要因とされているのである。
もちろん「やすらかな良心」という見方にも一理はあるが、しかしこれは、まるで仮説を論拠とした議論にすぎない。ある独特の強い良心は、きわめて不利な条件――もっと薄弱な良心が「呵責」のためにはげしく苦しめられるような条件のもとでも、平然としてやすらかでありうる。さらに、ある幸運な人たちは、実際まるで良心なんぞ持っていないようでもある。この持たざる天分によって、彼らは一般人類の精神的な栄枯盛衰から超然と遊離しているのである。
サイラス・ヒックラーは、まさにその実例だった。その陽気な丸顔が、慈悲ぶかそうにかがやき、たえず微笑をたたえているのを見ていると、だれも彼が犯罪者であるとは想像もしないであろう。わけても、いつも愛想のよい彼に接し、家のまわりで心も軽やかに歌いつづける彼の聖歌を聞き、食事時には熱心に料理を賞味するのを心にきざみつけていた彼の優秀な、高教会派の家政婦にいたっては、そんなことは夢想だにしていなかった。
しかもサイラスが、つつましやかながら、安楽に暮らせる生活費を、みやびやかな夜盗の技術でかせいでいたのは事実なのである。これは不安定な、危険の多い職業ではあるが、思慮分別をもって、つつましやかにやれば、それほどあぶなっかしくもないのだ。そしてサイラスは非常に思慮分別のある男だった。いつも彼は、ひとりきりで仕事をやったし、自分ひとりで考えた。危機にのぞんで不利な共犯の証言を申し立てるような共犯者をもっていなかった。かんしゃくを起こしてロンドン警視庁へ駆けこむような仲間も一人もいなかった。多くの犯罪者とちがって、彼は強欲でもなく、金づかいも荒くなかった。「大もうけ」をやる場合は、きわめてすくなく、長い時日をへだてて、慎重に計画し、ひそかに決行していた。そして、その収入を賢明にも「毎週利益のあがる不動産」に投資していたのである。
若いころ、ダイヤモンドの取引きに関係していたサイラスは、現在でもすこしばかり、いささか不規則な取引きをやっていた。同業者間では、ダイヤモンドの不正買入れをやっていると見られていて、ある業者のごときは「故買《こばい》」という不吉な言葉までささやくようになっていたのであるが、サイラスは慈悲ぶかげな微笑を見せて、あいかわらずわが道をたどっていた。彼は、みずから万事を心得ていたし、オランダの首都アムステルダムの彼の得意さきの連中も、せんさく好きではなかった。
サイラス・ヒックラーは、こうした人物だった。十月の夕方のたそがれどきに庭さきをぶらついている彼は、つつましやかな中流階級の裕福な人間の典型のように見えた。ヨーロッパ大陸へ小旅行に出かけるときの旅行服をまとい、カバンは、ちゃんと荷づくりされて居間のソファーにおいてあった。ダイヤモンド(サザンプトンで、さしでがましく、よけいな質問はしなかったというだけのことで、これは正直に買いとってきたものなのである)の小さな包みは、チョッキの内ポケットにはいっており、もっと貴重な一包みは右の深靴《ブーツ》の踵《かかと》の空洞のなかにしまいこまれていた。あと一時間半すれば、臨港列車に乗りこむために連絡駅へ出かける時刻だった。それまでは、光の薄れてゆく庭をぶらついたり、こんどの取引きの収益をどんなふうに投資するかを考えるよりほかに、何もすることはなかった。家政婦はウエラムへ一週間ぶんの買物に出かけていて、十一時ごろまでは帰ってきそうもなかった。彼は、ただひとり庭にいて、ほんのすこしばかり退屈ぎみだった。
ちょうど家のなかへはいろうとしかけたとき、庭の端《はし》の向こうがわに通じている未完成の道に足音がするのを彼の耳は聞きつけた。彼は、たたずんで聞き耳をたてた。近くに人家はないし、しかも、この道は、どこといって到達点はなく、家の向こうの荒地へ消え去っているのだ。訪問者だろうか? いや、そうではなさそうだ。サイラス・ヒックラーの家を訪れるものなど、ほとんどいなかったからだ。そのあいだに足音は次第に近づき、石の多い固い小道に、だんだん高くひびいてきた。
サイラスは、ぶらぶら門のところまで行って、それによりかかりながら、多少の好奇心をもって外をのぞいて見た。まもなく、パイプにでも火をつけたのか、ぱっと見えた光が一人の男の顔を照らしだした。それから、ぼんやりした一つの人影が、あたりをつつむ暗がりから、こちらへ近づいてきて、庭の向こうに立ちどまった。そして、口から巻煙草をはなし、雲のように煙をはきだしながら、たずねた――
「この道を行けばバザム連絡駅へ行けますかね?」
「いや」ヒックラーは答えた。「しかし、もっと向こうに駅へ通じている野道がありますよ」
「野道ですって?」相手は、うなるように言った。「いや、もう野道には堪能《たんのう》しましたよ。わしはロンドンからキャトリーまできて、連絡駅へ歩いて行くつもりだったのです。それで道路を歩きはじめたところが、どこかの阿呆が近道を教えてくれました。おかげでわしは、この半時間、暗がりのなかをうろつきまわらねばならん仕儀となったのです。なにしろ、わしは眼があまりよくないもんですからね」そう言い足した。
「どの列車に乗るつもりですか?」ヒックラーはきいた。
「七時五十八分の列車です」そう返事した。
「わたしもその列車に乗るんです」サイラスは言った。「しかし、あと一時間ほどたたないと出かけません。ここから駅までは、わずか四分の三マイルですからね。うちへはいって、ひと休みされてはどうですか。そうすれば、いっしょに出かけられるし、あんたも道に迷われる心配はない」
「ご親切に、どうもありがとう」相手は眼鏡をかけた眼で暗い家のほうをのぞきながら言った。
「それにしても――どうも、わしは――」
「駅で待つより、ここで待ったほうがいいでしょう」門をあけながらサイラスは独特の愛想のいい調子で言った。相手は一瞬ためらってから門をはいり、巻煙草をすてて、サイラスのあとから小別荘風の家の扉までついてきた。
居間は暗くて、消えかけている炉の火が、にぶく光っているだけだったが、客人よりもさきに部屋にはいったサイラスは、天井からさがっているランプにマッチで灯をともした。その光が小さな部屋の内部を照らし出すと、二人の男は、たがいにまじまじと相手をながめた。
「おや、ブロズキーじゃないか」客人を見てヒックラーは心の奥でつぶやいた。たしかに、おれに気づかないらしい――もちろん気づくまい。もう長い年月がたっているし、あんなに眼がわるいのだから――
「さあ、どうぞおかけください」声に出してそう言った。「時間つぶしに軽く一杯いかがですか?」
ブロズキーは小声で、いただきましょう、とぼんやりした口調で言った。そして主人が向こうをむいて戸棚をあけたとき、ブロズキーは帽子(かたい灰色のフェルト帽)を隅の椅子の上に、カバンをテーブルのはしにおいて、コウモリ傘をそれにもたせかけ、小型の肘掛け椅子に腰をおろした。
「ビスケットあがりますか?」ヒックラーは言いながら、テーブルの上に、ウイスキーの壜《びん》と、星模様のついた一番上等のグラス二つと、サイフォン壜《びん》をおいた。
「ありがとう、いただきましょう」ブロズキーは言った。「なにしろ、汽車に乗ってきて、おまけに、さんざん歩かされたものだから――」
「そうでしょうとも」サイラスは、≪ばつ≫をあわせた。「空腹で出かけるのはいけませんよ。オートミールの堅焼きビスケットで、がまんしていただきましょう。いまビスケットはそれしかないようです」
ブロズキーは、「オートミールのビスケットは特別大好物です」とそそくさと言って、その言葉を裏づけるように、みずからグラスに強いのを一杯つくり、いかにもおいしそうにビスケットをかじりはじめた。
ブロズキーは慎重にものを食べるたちで、それに現在はいささか空腹でもあるらしかった。規則的に、ぼりぼり、むしゃむしゃやっているので、会話には不向きだった。だから、おしゃべりの大部分はサイラスが引きうけねばならぬ羽目になった。このときばかりは、さすがに愛想のよいこの犯罪者も、その役割に困惑をおぼえた。自然のゆきかたからすれば、客人の行くさきをたずねたり、旅行の目的を話しあったりすべきであったろう。だが、ヒックラーが断乎《だんこ》としてさけたのは、そういうことだった。彼は行くさきも目的もちゃんと知っていたし、そして自分の知っていることは胸にしまっておこうと本能的に考えたからである。
ブロズキーは、かなり著名なダイヤモンド商人で、大規模な商売をやっていた。おもに未加工の石を買いつけ、その鑑別にかけては、実にすぐれた眼力をもっていた。彼が、いささか異常な大きさと価値の石を好み、十分な量を買い集めると、みずからアムステルダムへ出かけて行って、未加工の石の細工を指図するのをならわしとしていることは、ひろく知られていた。それはヒックラーも知っていた。いまブロズキーが、またしても周期的な旅行に出発しようとしており、その少々着ふるした服のどこか奥深いところに、おそらくは数千ポンドの価値の紙包みがかくされていることも彼は疑わなかった。
ブロズキーはテーブルのそばに坐《すわ》り、ぼりぼりむしゃむしゃと単調に口をうごかしつづけていて、ほとんど話をしなかった。ヒックラーは、その向かいがわに坐って、神経質に、ときには狂おしげにしゃべりつづけながら、客人を見つめているうちに、だんだん強く心をひきつけられてきた。宝石、とくにダイヤモンドは、ヒックラーの専門だった。金物――銀器類は、てんからとりあわなかった。金《きん》は、貨幣以外のものを、たまに手がけた。しかし、全部の品物を深靴にしまいこんで運ぶこともできるし、絶対安全に処分もできる宝石こそ、彼の商売の主要商品となっていた。ところが、いま、彼がもっとも成功した「大もうけ」の一ダースぶんぐらいの包みをポケットに入れた男が、真向かいに坐っているのだ。その宝石の価値は、おそらく――そう考えかけて、彼は急に自制して、早口にしゃべりはじめたが、あまり理路整然とした話しぶりではなかった。しゃべっているあいだも、意識下でつくりあげられた別の言葉が、しゃべる言葉のすきまへ忍びやかに割りこんできて、一連の想念を並行的に進展させているようであったからである。
「もう夜になると、だいぶ冷えびえとしてくるようですね」ヒックラーは言った。
「まったくですな」ブロズキーは、ばつをあわせてから、またゆっくりとむしゃむしゃやりだしながら、鼻の孔《あな》から音をたてて息づいた。
(すくなくとも五千ポンド)意識下の想念が、またあらわれてきた。(おそらく六千か七千、一万ポンドぐらいかもしれない)サイラスは椅子のなかでそわそわして、なにか興味のある話題に観念を集中しようと懸命になった。新しい異常な心的状態が、次第に不快に意識されるようになっていた。
「園芸に興味をおもちですか?」と彼はたずねた。ダイヤモンドや毎週利益のあがる「不動産」のつぎに彼がたえず心を奪われていたのはフクシヤ〔熱帯アメリカ原産の赤・白・紫の花の咲く観賞植物〕であった。
ブロズキーは、おもしろくもなさそうにふくみ笑いをした。「ハットン園《ガーデン》へ行くのが一ばん手っとり早い――」ふいと言葉をとぎらせてから、彼はつけくわえた。「なにしろわしはロンドン人ですからね」
急に言葉がとぎれたのに、サイラスは注意をひきつけられた。その理由も、ぞうさなく当たりがついた。巨大な財宝を身につけている人間は用心ぶかく口をきかなくてはならないのだ。
「なるほど」うわの空でサイラスは返事した。「園芸はロンドン人の道楽にはならないようですな」それから半意識的に、すばやく計算しはじめた。かりに五千ポンドと見つもれば、毎週利益のあがる不動産にして、どのくらいのものになるか? この前に買った一連の家々は、一戸あたり二百五十ポンドで、それを一週十シリング六ペンスで貸した。その率でいけば、五千ポンドなら二十軒の家が買える。一戸あたりの家賃が一週十シリング六ペンス――まず一週十ポンドと見て――一日一ポンド八シリング――一年間に五百二十ポンド――一生涯これがはいりこんでくることになる。相当な財産だ。これを、すでに所有しているものに加えたら、たいした財産になる。これだけの収入があれば、商売の七つ道具を河へ投げすてても、これからの生涯を無事安泰に安楽に暮らすことができる。
彼はテーブルごしに、ちらと客人のほうを盗み見た。そして、まぎれもなく生まれつき身にそなえているある種の衝動が自分の内部にわき立っているのを感じると、すばやく眼をそらした。こんな気分は消し去らなくてはいけない。肉体にたいする犯罪は、つねづね彼が狂気の沙汰《さた》とみなしているものだった。たしかにウエイブリッジの警官をちょっとやっつけた経験はあるが、あれは予想外の、やむをえないいきさつで、結局あの巡査のせいだったのだ。それに、エプソム市での老家政婦の件もあるが、あれはいうまでもなく、あのばかな老いぼれ女が、あんな気ちがいじみた金切り声をあげようとしたからで――そうだ、きわめて遺憾な偶然の事故というべきだろう。あれを、おれ以上に不幸な出来事と悔やんでいるものは、だれもいないにちがいない。それなのに、計画的な殺人!――その身につけたものを奪いとる! そんなことは、まったく狂人の所業だ!
もちろん、おれがそんな種類の人間なら、ここに一生に一度の機会がある。獲物は莫大だし、家は空っぽだ。近隣に人影はなく、本街道からもほかの人家からも離れているし、この時刻、この暗がり――だが、もちろん死体のことを考えなくてはならない。昔から、こいつがいちばん厄介なのだ。死体をどうするか――このとき、家の裏側の荒地を通っている鉄道線路のカーヴを曲がりながら急行列車が鋭く放つ汽笛の音が耳にひびいてきた。その音から新しい想念が彼の心にあらわれた。それを追いながら彼の眼は、なにも気づかずにだまりこんでいるブロズキーに釘づけになっていた。考え深げにウイスキーをすすっているブロズキーだった。しまいに、サイラスは、やっとのことで視線をそらして、ふいに椅子から立ちあがり、マントルピースの上の時計に眼をうつしながら、消えてゆく炉の火に向かって両手をひろげた。奇怪な激情に心が乱れて、家を出たほうがいい、と思った。冷たさよりも熱っぽさを感じているのに、彼は、かすかに身ぶるいした。頭をまわしてドアのほうを見やった。
「ひどく隙間風が吹きこむようだ」ふたたび、かすかに身ぶるいして彼は言った。「ちゃんとドアをしめなかったのかな」大またに部屋を横ぎって、ドアを大きくひらいて外の暗い庭を見やった。とつぜん、道へ――大気のなかへ出て行って、いま彼の脳髄《のうずい》の扉をたたきつづけている狂気を発散させてしまいたいというはげしい衝動におそわれた。
「もう出かけてもいいころじゃないですかな」暗い星のない空に、あこがれるような眼《まな》ざしを向けながら彼は言った。
ブロズキーは、ふと気がついたようで、ふりかえった。「その時計は合っていますか?」
サイラスは、しぶしぶながら、合っている、と答えた。
「駅まで歩いてどのくらいかかりますか?」ブロズキーはたずねた。
「まず二十五分から三十分でしょうな」サイラスは無意識に距離を誇張して答えた。
「そうですか」ブロズキーは言った。「それなら、まだ一時間以上あるし、駅でぶらついているより、ここのほうが愉快ですよ。必要以上に早く出かけても、なんの益もありますまい」
「さよう、もちろんそうです」サイラスは同意した。半ば残念なような、半ば勝ち誇ったような、奇妙な情感が脳髄に波うった。ちょっとのあいだ、彼は敷居に立ったまま、夢みるように外の夜に見入っていた。それから、静かにドアをしめた。そして意志を働かせるようすもなく錠《じょう》にさした鍵が音もなくまわった。
彼は椅子へもどり、だまりこんでいるブロズキーと話をしようとしたが、口ごもって言葉がとぎれとぎれになった。だんだん顔が熱くなり、脳髄がはちきれるように緊張して、両耳がかん高く、かすかに鳴りだすのを感じた。新たな、ぞっとするような関心をこめて、自分が客人を見つめているのに気づき、ひたむきな意志の力で眼をそらした。だが、一瞬後には、その眼が無意識のうちに、ひときわ怖ろしいはげしさで、なにも気づいていない男に釘づけになっているのを知った。そして絶えず心のうちに、血みどろの暴力を好む人間が、こんな場合にやりそうな事柄の想念が、すさまじい行列のように、うごめきつづけた。そのものすごい合成体が、こまかい点からすこしずつ犯罪構想の一部分になり、適当に配置されて、やがて合理的な、整然と筋道の立った一連の事件を構成して行った。
彼は眼を客人に釘づけにしたまま、落ちつかなく椅子から立ちあがった。もはや彼は、貴重な宝石の包みをかくしもっている男の真向かいにじっと坐っていることにたえられなくなったのである。おそれ、おどろきながら、彼の確認した衝動は、一瞬ごとに、しだいにおさえきれなくなりつつあったのだ。じっとしていれば、まもなくそれは彼を圧倒してしまいそうだった。そして彼は――そのすさまじい思いから、ぞっとして後ずさったが、彼の指さきはダイヤモンドをいじりたくてむずがゆくなった。結局サイラスは天性と習性からして犯罪者だった。猛獣だった。これまで彼の生活費は、労働によって獲得されたものではなくて、ひそかに、あるいは必要ならば、暴力によって獲得されたものなのだ。彼の本能は掠奪《りゃくだつ》的だった。そしていま身近にあらわれた無防備の宝石は、論理的な結果として、抜きとりか強奪を彼に示唆したのであった。このダイヤモンドを自分の手のとどかぬところへはやりたくないという思いが、急速に圧倒的な力にふくれあがりつつあった。
しかし彼は、もう一度だけ努力して、この誘惑からのがれたいと思った。外出する瞬間がくるまでブロズキーの前から離れていようと考えた。
「失礼ですが」と彼は言った。「あちらで、もっと厚い靴にはきかえてきたいと思います。こんな日照りつづきのあと、どう天気が変わるかもしれませんし、旅行中に足がじめじめするのは、ひどく不愉快なものですからね」
「そしてまた危険でもありますよ」ブロズキーは言った。
サイラスは、となりの台所のほうへ歩いて行った。そこにともっている小さなランプの光で、丈夫な田舎風の深靴が、ちゃんとみがいて、すぐにはけるようにしてあるのを彼は見ていたので、椅子に腰をおろすと、はきかえにかかった。もちろん彼は、この田舎風の深靴をはくつもりはなかった。いま彼のはいている深靴のなかにダイヤモンドがかくしてあったからである。だが、はきかえてから、また考えなおすことにするつもりだった。そうすれば時間つぶしにもなるだろう、と思った。彼は深々と息をすいこんだ。とにかく居間から出てきたので、ほっとした気分だった。このままずっと台所にいたら、きっと誘惑も消えてしまうだろう。ブロズキーは勝手に出かけるだろう――ひとりで行ってほしいものだ――そうすれば、すくなくとも危険は去るだろう――そして機会が消えたならば――ダイヤモンドは――
ゆっくりと深靴のひもをほどきながら彼は眼をあげた。彼が腰をおろしているところから、ブロズキーが台所の入口に背をむけてテーブルのそばに坐っているのが見えた。もう食べるのは一段落らしく、おちついたようすで煙草を巻いていた。サイラスは重苦しく呼吸しながら片方の靴をぬぎ、しばらく身うごきもせずに、じっと相手の男の背中を見つめていた。それから、もう一方の靴のひもをほどきながら、心をうばわれたように、何も気づいていない客人を見つめ、そのまま靴をぬぎ、そっと床においた。
ブロズキーは静かに煙草を巻きおわり、その紙をながめて、煙草入れをしまいこみ、煙草の粉くずを膝《ひざ》から払いおとし、ポケットのマッチをさがしはじめた。急に、おさえきれぬ衝動にかられて、サイラスは立ちあがって、そっと廊下を居間のほうへ忍び足で近づいて行った。靴下だけの彼の足は、すこしも音をたてなかった。猫のように音もなく忍び足で歩いて行って、ひらいた唇から、そっと呼吸を洩《も》らしながら、居間の敷居に立った。彼の顔は薄黒くあからみ、両眼は大きく見ひらかれてランプの光にきらめいた。急速に体内を駆けめぐる血潮が耳に高鳴った。
ブロズキーはマッチをすった――それが短い木軸のマッチであることにサイラスは気がついた――巻煙草に火をつけると、ブロズキーはマッチを吹き消し、炉格子のなかへ投げこんだ。それからマッチ箱をポケットへしまって巻煙草をふかしはじめた。
そっと音もなくサイラスは猫みたいな忍び足で、一歩一歩、部屋のなかへはいって行き、ブロズキーの坐っている椅子のすぐうしろに立った――ひどく間近だったので、相手の男の頭髪を息でそよがせないように顔をそむけていなくてはならなかった。サイラスは、半分間ばかり、殺人を象徴する彫刻のように、身じろぎもせずに立っていた。そして、きらめく怖ろしい眼で、知らぬが仏のダイヤモンド商人を睨《にら》みおろしながら、ひらいた口から音もなくせわしく息づき、巨大なヒドラの繊毛のように、そろそろと指をくねらせていた。それから、やはり音もたてずにドアのほうへ後退し、すばやく身をめぐらして台所へもどった。
彼は深々と息をすいこんだ。きわどいところだった。ブロズキーの命は、まさしく風前の灯《ともしび》だった。実にやすやすとやれたからである。事実、相手の男の坐っている椅子のうしろに立ったとき、もしサイラスが凶器――たとえばハンマーなり、あるいは一個の石でももっていたなら――
彼は台所を見まわして一本の鉄棒に目をとめた。新しい温室をつくった職人が残して行ったもので、角ばった鉄の仕切り棒の切れ端であった。長さ一フィート、厚さ四分の三インチばかりの鉄棒である。まったく、もしも一分間まえに、この鉄棒を手にもっていたなら――
彼は鉄棒をとりあげ、手であやつりながら、自分の頭のまわりをふりまわしてみた。怖るべき凶器であり、音もたてなかった。彼の心のなかにつくりあげられていた計画とも、ぴったり適合していた。ばかな! こいつはすてたほうがいい。
だが彼はすてなかった。台所の入口へ歩いて行き、ふたたびブロズキーを見つめた。あいかわらずブロズキーは台所に背をむけて腰をおろしたまま、瞑想《めいそう》するように巻煙草をふかしていた。
とつぜんサイラスに変化があらわれた。顔があかくなった。陰惨なしかめ面をすえて、頸《くび》の血管が浮き出た。懐中時計を引き出し、はげしくそれを見て、しまいこんだ。そして大またに、すばやく、しかも音をたてずに廊下をすすんで居間へはいって行った。
犠牲者の坐っている椅子から一歩手前で立ちどまると、彼は注意ぶかくねらいをつけた。鉄棒が、さっとふりあげられた。しかし、それがヒュッと空を切った瞬間、すばやくブロズキーがふり向いたので、身をうごかしたときのかすかな衣《きぬ》ずれの音がした。そんなふうに身をうごかしたので、下手人のねらいは狂い、鉄棒は犠牲者の頭をかすめて、ほんのすこし傷を負わせたにすぎなかった。すさまじく震えるような叫びをあげて、ブロズキーは、ぱっと立ちあがった。そして、びっくり仰天、死にものぐるいになって襲撃者の両腕にしがみついた。
ものすごい格闘がはじまった。必死に取っ組みあった二人の男は、前進したり、後退したり、よろめいたり、押したり、突かれたりしながら、ここを先途《せんど》とたたかった。椅子が引っくり返り、空っぽのグラスがテーブルからはねとばされ、ブロズキーの眼鏡が足の下でふみくだかれた。おそろしく哀れっぽい震え声の叫びが、三度も外の夜気へひびきわたった。相手をやっつけようと狂い立っていたサイラスも、だれか通りがかりの旅人にでもその声を聞きつけられはしまいかと、ひやりとした。懸命に最後の力をふるいおこした彼は、ぐいと犠牲者の背中をテーブルに押しつけ、卓布の一端をつかんで相手の顔に当てがい、ふたたび叫び声をあげようとして開いた口のなかへ、それを詰めこんだ。こうして二人は、たっぷり二分間、なにか悲劇的な寓話《ぐうわ》のなかの戦慄すべきひとかたまりのように、ほとんど身うごきもしなかった。やがて、最後のかすかな痙攣《けいれん》が消えうせると、サイラスは、つかんでいた手をゆるめ、ぐったりとした相手の肉体を、そっと床の上へ倒れさせた。
事は終わった。よかれあしかれ、仕事はやってのけられたのである。サイラスは重苦しく息をはずませて立ち、顔から汗をぬぐいながら時計を見やった。針は七時一分前をさしていた。これだけの仕事に三分とすこしかかったわけである。これをすっかり片づけてしまうのに、あと一時間ちかい時間があった。彼の計画にはいっている貨物列車は七時二十分に通過するはずであり、その線路までは、わずか三百ヤードであった。それにしても、やはり時間を浪費してはならなかった。もう彼は、すっかり落ちついていた。ただブロズキーの叫び声を聞きつけられたかもしれないということが気になるだけだった。だれにもそれを聞かれていなければ、すべては順調に運ぶはずだった。
彼は身をかがめ、死んだ男の歯のあいだから、静かに卓布をはずし、相手のポケットを注意ぶかくさぐりはじめた。それほど時間もかからぬうちに、もとめていたものを見つけた。その紙包みを手にして、内部に小さな固い粒がすれ合うのを感じたとき、こんどの事件にたいするかすかな悔いも、しめたという歓喜にのまれてしまった。
彼はマントルピースの上の時計に注意ぶかく眼をやり、てきぱきと事務的に仕事を片づけて行った。卓布に二つ三つ大きな血の滴《しずく》がかかっており、死体の頭のそばの絨毯《じゅうたん》に小さな血痕がついていた。サイラスは台所から水と爪ブラシと乾いた布をとってきて卓布のシミを洗いおとし――卓布の下の松板のテーブルの上も注意ぶかく点検して――絨毯の血痕もきれいに洗い去り、ぬれた個所をふいて乾かし、死体の頭の下に一枚の紙をさし入れて、それ以上よごれないようにした。それから卓布をきちんと敷き、椅子を立て、こわれた眼鏡をテーブルの上におき、格闘中にふんづけた巻煙草をひろいあげて炉のなかへ投げこんだ。そしてガラスの破片を、ちり取りへはき集めた。その一部分は、くだけたグラスの破片であり、残りは壊れた眼鏡の破片だった。彼はそれを一枚の紙にうつし、注意ぶかくあらためて見て、眼鏡のレンズと見きわめのつく大きい破片をひろい出して、別の紙へとりのけ、ちらばっているこまかい破片も集めた。あとの残りは、ちり取りへもどし、いそいで靴をはいて家の裏のごみだめへ持って行った。
もう出かける時刻だった。大いそぎでヒモ箱からとり出したヒモを切りとった――彼は物事をきちんとやる男で、多くの人びとが半端もののヒモで間に合わせたりするのを軽蔑していたのである――そして、そのヒモで死んだ男のカバンとコウモリ傘を結びつけ、それを肩に引っかけた。それから、ガラスの破片を入れた紙をくるんで眼鏡といっしょにポケットへ入れ、死体をかかえあげて肩にかついだ。ブロズキーは小柄な、ほっそりした男で、九ストーン〔一ストーンは十四ポンド〕もないくらいだったから、サイラスのような筋骨のたくましい大男には、それほどたいした重荷ではなかった。
この夜は漆黒《しっこく》の闇だった。サイラスが黒い門から鉄道線路へとひろがる荒地を見やると、二十ヤード前方もよく見えなかった。用心ぶかく耳をすまし、なんの物音もしないのをたしかめてから、彼は外へ出て、そっと背後の門をしめた。そして、でこぼこの地面に気をくばりながら、かなり早い足どりで歩きはじめた。だが、歩行は思うほど静かにはいかなかった。砂利の多い地面を貧弱な芝草がおおっていて、どうにか彼の足音を消してはくれたものの、ゆれるカバンとコウモリ傘が、いらだたしく音をたてた。じっさい彼の足どりは、重い死体よりも、その音のためにさまたげられたのであった。
線路までの距離は三百ヤードばかりで、ふつうの場合なら、三分か四分で歩いて行けただろうが、いまは重荷をかついで用心ぶかく進み、ときどき立ちどまっては聞き耳をたてるので、荒地から線路をへだてている三本の横棒の柵のところまで行くのに、ちょうど七分かかった。そこへたどりつくと、ちょっと立ちどまって、もう一度注意ぶかく聞き耳をたて、四方の闇に眼をくばった。この陰気な場所には、人の影は見えず、人のいる気配もなかった。遠くかなたから鋭くひびいてきた汽笛が、さいそくするように彼をうながした。
やすやすと死体をかついで柵をこえた彼は、数ヤード向こうの、線路が急カーヴしている個所へ運んで行った。そして、そこに死体をうつ伏せにして横たえ、左側のレールの上に頸《くび》をすえた。小さなナイフをとり出して、カバンとコウモリ傘を結びあわせたヒモを、コウモリ傘のほうの端のところで切った。そしてカバンとコウモリ傘を線路の死体のそばに放り出し、注意ぶかくヒモをポケットへしまいこんだが、ヒモの端を切ったときに地面へ落ちた小さな輪だけは拾わなかった。
近づいてくる貨物列車の急速な蒸気の音や金属性の轟音《ごうおん》が、もうはっきりときこえはじめた。手早くサイラスはポケットから、つぶれた眼鏡とガラスの破片を入れた紙包みをとり出した。そして眼鏡を死体の頭のかたわらへ投げだし、紙包みを手のなかへあけてガラスの破片を眼鏡のまわりにまきちらした。
すばしこくやったが、けっして早すぎるほどではなかった。機関車の急速な、はげしい蒸気の音は、もう間近くせまってきていた。彼は衝動的に、このままここにいて眺めていたい気持ちになった。殺人を事故か自殺に転化する最後の幕を目撃したかったのである。しかし、そうするのが、はたして安全であるかどうか。自分の姿を見られずに引きあげることができなくなる恐れがある。だから、なるべく近くにいないほうがよさそうだ。いそいで彼は柵を乗りこえて、大またに荒地を横ぎって立ち去った。そのあいだに貨物列車は蒸気の音をひびかせ、轟々《ごうごう》とどよめきながらカーヴの地点に向かっていた。
家の裏口へたどりつこうとしたとき、彼は線路からひびいてきた音響に急に足をとめた。長く引っぱった汽笛につれて、ブレーキのうなる音、車輛《しゃりょう》が接触し合う大きな金属性のひびきだった。機関車の音はやんで、噴出する蒸気の刺しつらぬくようなシューッという音がした。
貨物列車が停車したのである。
ほんの一瞬、サイラスは息をのみ、石化したように口をあけて立ちすくんでいたが、すばやく大またに裏口へ行き、家へはいって音もなくドアに錠をさしこんだ。たしかに彼は胆《きも》をひやしていた。いったい線路にどんなことがあったのだろう? 死体が見つけられたことは確実である。だが、いまどんなことがもちあがっているのだろう? 警察の連中がこの家へやってくるだろうか? 彼は台所へはいりこみ、もういちど立ちどまって聞き耳をたてた――いつ、だれかがきて、扉を叩かぬともかぎらない――彼は居間へはいって、あたりを見まわした。すべてがきちんと片づけられているようだった。だが、取っ組みあいをしているうちにとりおとした鉄棒が、そのまま横たわっていた。彼は、それをとりあげてランプの下につき出して見た。血はついていないが、頭髪が一、二本くっついていた。すこしぼんやりした調子で、それを卓布でぬぐい、それから台所を駆けぬけて裏庭へ出ると、塀ごしに向こうがわのイラクサの茂みのなかへ投げこんだ。その鉄棒に罪証めいたものがあるとは思えなかったが、それを凶器として用いた彼の眼には、なんだかそれが不吉な影を宿しているように見えたのである。
もうこれで、すぐ駅へ出かけてもよさそうに思えた。まだ時刻は早かった。やっと七時二十五分になったばかりである。しかし、だれかがやってきた場合、家のなかにいるのを見つけられたくなかった。彼のソフト帽はカバンといっしょにソファーの上においてあったし、コウモリ傘も革ヒモでカバンに結びつけてあった。彼は帽子をかぶり、カバンをとりあげて、ドアのところへ行った。それからランプのところへ引きかえし、シンを引っこめて暗くしようとした。ランプのネジに手をやって立っていた瞬間、ふいと薄暗い部屋の隅に眼をやった彼は、ブロズキーの灰色のフエルト帽が椅子の上にあるのを見つけた。あの死んだ男が、この家へはいってきたときに、おいたままになっていたのである。
サイラスは、ちょっとのあいだ石化したように立ちすくみ、恐怖の冷たい汗の玉を額に浮かべていた。すんでのことにランプを暗くして出かけてしまうところだった。もしそうしていたなら――彼は大またに椅子のところへ行き、その帽子をつかみあげて内側を見た。まぎれもなく彼の名前があった。「オスカー・ブロズキー」と裏張りにはっきりと書かれていたのである。もしも、これをこのままにしておいて出かけてしまい、あとで発見されたなら、確実に身の破滅となったであろう。まったく、いまでも捜査隊がこの家へ乗りこんでくれば、これで絞首台へ送られることは必定である。
そう思うと、ぞっとして手足がふるえた。しかし、胆はつぶしたものの、冷静さはうしなわなかった。彼は台所へ駆けこんで、火つけ用の乾いた粗朶《そだ》を一つかみとってきた。そして、それを居間の煖炉《だんろ》の、もう火は消えているがまだ熱い灰の上におき、ブロズキーの頭の下に敷いてあった紙をもみくしゃにして――それに小さな血痕がついているのを、彼は、いまはじめて気がついたのであった――それを粗朶の下へおしこみ、マッチをすって火をつけた。粗朶が燃えあがると、小型ナイフで帽子をずたずたに切りきざみ、ぼろくずにしたやつを炎のなかへ投げこんだ。
そのあいだじゅう、見つかりはしまいかという恐怖に、心臓がどきどきと高鳴り、両手はふるえつづけた。フェルトのぼろくずは決して燃えやすいものではない。ぱっと燃えて灰になってしまわずに、燃えかすのようなかたまりになって、煙をあげたり、いぶったりするのである。そればかりでなく、彼がうろたえたことには、燃える毛の臭気とともに、きつい樹脂の悪臭を放つのであった。彼は、その悪臭を退散させるために(表の扉はあける元気がなかったので)台所の窓をあけなくてはならなかった。しかも、こまかく切ったぼろを火で燃やしながら、じっと耳をそばだてて、粗朶《そだ》のはじける音よりも、おそろしい足音――運命の神の呼出し状をもたらすドアのノックの音を、けんめいに聞きとろうとしていた。
時間も急速に過ぎ去りつつあった。もう八時二十一分前になっていた! あと数分で家を出て行かなければならない。さもないと列車に間に合わなくなる。切りきざんだ帽子のつばを燃える粗朶の上へ落としておいて、彼は二階へ駆けあがって窓を一つあけた。出て行く前に台所の窓はしめておかなければならないからである。もどってみると、すでに帽子のつばは、真黒な、金くそみたいなかたまりにちぢんで、脂肪のように泡をふいたりシューシュー音をたてたりしながら、えがらっぽい煙を、のろのろと煙突へ送りこんでいた。
八時十九分前! もう出て行く時刻である。彼は火かき棒をとって、注意ぶかく燃えかすを小さくたたきつぶし、それを粗朶と石炭のあかあかとした燠《おき》にまぜた。うち見たところ、煖炉のようすには、なんの異常もなかった。居間の炉の火で手紙類や不要なものを燃やすのは、いつもの彼のならわしだった――だから家政婦だって何も変わったことに気づきはしないだろう。それに、彼女が帰るまでには、燃えかすも、すっかり灰になってしまっているだろう。燃え残るような金属製の付属品などが、なにも帽子についていないことも、ちゃんと気をつけてたしかめてあるのだ。
ふたたび彼はカバンをとりあげ、最後に、もういちどあたりを見まわし、ランプを暗くした。そして表のドアをあけ、ちょっとのあいだ、そのドアをあけたまま支えていた。それから外へ出てドアに錠をおろし、鍵をポケットへ入れた。(もう一つの鍵は家政婦が持っていた)そして、きびきびした足どりで駅へ向かった。
結局、ちょうどよい時刻に彼は駅へついた。切符を買って、ぶらぶらプラットホームへ出た。列車到着の信号は、まだ出ていなかったが、あたりには異常な興奮がただよっているようだった。乗客たちはプラットホームの端により集まって、みんな線路の一つの方向を見つめていた。あるはげしい、吐き気をおぼえるような好奇心にかられて、彼が乗客たちのほうへ歩みよったとき、闇のなかから二人の男があらわれて、防水布をかぶせた担架を運びながら、ゆるい斜面をプラットホームへあがってきた。乗客たちは左右にわかれて担架を運ぶ男たちを通し、粗布ごしにほのかに見える死体に魅せられたように眼を向けた。そして、担架が信号室へ運びこまれると、担架のあとから手さげカバンとコウモリ傘とを持ってついてきた赤帽に、注意を集中した。
そのなかの一人が、ふいに前へとび出して叫んだ。
「それがあの人のコウモリ傘ですか?」
「そうですよ」赤帽は答えて、立ちどまり、それを相手につき出して見せた。
「おや、これは!」その乗客はわめいて、間近に立っていた長身の男のほうを向き、興奮した調子で言った。「これはブロズキーのコウモリ傘です。断言できます。あなたもブロズキーをおぼえていらっしゃるでしょう?」長身の男はうなずいた。すると、その乗客は、ふたたび赤帽に向かって言った。「このコウモリ傘を私は知っている。これはブロズキーという紳士のものだ。あの人の帽子を見れば、名前が内側に書いてあるはずだ。いつも帽子に自分の名前を書いておくのだから」
「まだ帽子は見つからないのです」赤帽は言った。「でも、いま駅長が線路をこちらへやってきますから」駅長がたどりつくのを待って赤帽は告げた。「このかたが、このコウモリ傘を知っておられるそうです」
「なるほど」駅長は言った。「あなたは、このコウモリ傘を認知されるのですね。では、ちょっと信号室へおはいりになって、死体を確認できるかどうか、見てくださいませんか」
乗客はおどろいた顔つきで、たじろいだ。「いや、それは――その人は――とてもひどくやられているんですか?」びくびくした調子できいた。
「まあ、そういえるでしょうね」という返事だった。「なにしろ、機関車と六輛の貨車が、被害者の上を通過してから、やっと停車したのですからね。事実、きれいに首をはねられていますよ」
「ぞっとします。まったくぞっとする!」その乗客は息をはずませた。「さしつかえなかったら――私は――どうも気がすすみません。ねえ、博士、あなただって、私が見に行くことが必要だとは、お考えにならないでしょう?」
「いや、必要だと思いますね」長身の男は答えた。「一刻も早く確認することが、もっとも重要なことかもしれませんからね」
「では、やっぱり見ないわけにはいかないでしょうね」と乗客は言った。
ひどく気がすすまぬようすで、乗客は先に立って行く駅長について信号室へはいった。そのときベルが鳴って列車の近づくのを知らせた。サイラス・ヒックラーは、物見高い群衆のあとからついて行って、しめられたドアの外側に立った。やがて例の乗客が、蒼《あお》ざめた顔で、ふるえおののきながら、とび出してきて、長身の男のところへ駆けもどった。
「やっぱりそうです!」息せき切って彼は叫んだ。「ブロズキーです! 気の毒なブロズキー。身ぶるいがする! 私とここで落ち合って、いっしょにアムステルダムへ出かけることになっていたのです」
「彼は何か――商品を持っていましたか?」と長身の男はきいた。サイラスは、その返事を聞きとろうと耳をそばだてた。
「なにか宝石類をもっていたにちがいありませんが、何をもっていたか、私は知りません。もちろん彼の店の番頭なら知っているでしょうがね。ところで、博士、私からもお頼みします。ぜひ、この事件を見きわめてください。これが本当の事故なのか、それとも――あれなのか、そのことだけでも、たしかめていただきたいのです。なにしろ、私どもは古くからの友人で、同じ町の人間でもありますし、二人ともワルソーの生まれですからね。ぜひともあなたに、この事件に眼を向けていただきたいのです」
「いいですとも」相手は言った。「自分で満足の行くまでやってみて――見かけ以上には何もひそんでいないことをたしかめたら、あなたに報告しましょう。それでいいですね」
「ありがとう。ご好意に感謝しますよ。おお、汽車がきました。ここにとどまって調べていただくのは、さだめしご迷惑なことだとは思いますが――」
「いや、すこしも」博士は答えた。「私たちは明日の午後までにウォーミントンへ到着すればいいのだから、知る必要のある事柄をすっかり調べあげてからでも、十分あちらの約束も果たせると思います」
サイラスは、その長身の堂々とした男を、ながいこと念入りに見つめていた。いまや将棋盤に向かって腰をおろし、自分を相手に、こちらの生命を賭けた一局を受けて立とうとしている男。鋭く、考え深そうな顔、決然として落ちつきはらっていて、まことに怖るべき敵手に見えた。サイラスは列車へ乗りこんでから、ふりかえって自分の敵手を見ながら、ブロズキーの帽子のことを、ひどく不快な気持ちで思いめぐらし、ほかに何も手抜かりをやっていなければいいのだが、と考えた。
2 捜査の過程
(医学博士クリストファ・ジャーヴィス記)
ハットン・ガーデンの著名なダイヤモンド商人、オスカー・ブロズキー氏の死をめぐる特異な実情は、つねづねソーンダイクが主張している法医学の実際面での一、二の点の重要性が十分理解されていないことを、きわめて力強く例証した。それがどんな点であるかは、私の師友に適当な個所で語ってもらうことにして、まず私は、この事件が最高度に啓発的であると思うので、そのいきさつを順を追って記録することにしよう。
十月の夕方の薄暗がりがせまるころ、二人きりで客車内の喫煙室にいたソーンダイクと私は、ルーダムの小駅へ近づいているのに気がついた。そして列車が停車しかけたとき、プラットホームで列車を待っている一群れの田舎の人びとを、私たちは、のぞいて見た。とつぜんソーンダイクがびっくりしたような口調で叫んだ。「おや、あれはボスコヴィッチにちがいない」ほとんど同時に、きびきびした敏捷《びんしょう》そうな小柄な男が、私たちの車室のドアへ走ってきて、文字どおりころがりこんだ。
「せっかく先生がたがお話をしていらっしゃるところを、お邪魔して申しわけありません」
彼は熱っぽく握手をすると、衝動的に荒っぽく旅行カバンを網棚へ放りあげながら言った。「それにしても、先生がたのお顔を窓からお見かけしては、こんな楽しいかたがたと道づれになれるチャンスにとびついたというのも、これまた当然のいたりというべきでしょう」
「なかなかお世辞がうまいですな」ソーンダイクは言った。「あまりお世辞がうますぎるから、こちらは何もいうことがない。だが、どんな運命のめぐり合わせで、こんな――なんというところかな――そうか、ルーダムか――ルーダムあたりで、何をしているのですか?」
「ここから一マイルばかりのところに、私の弟が、ささやかな田舎屋敷をもっていますので、そこで二日ほど、いっしょにすごしていたのです」ボスコヴィッチ氏は説明した。「私はバザム連絡駅で乗りかえて、臨港列車でアムステルダムへ出かけるのです。それにしても、あなたがたはどちらへ? 例の神秘的な小型の緑色トランクが帽子掛けにかけられているところを見ると、なにか秘密の探求らしいですな。ちがいますか。なにか複雑怪奇な犯罪の謎《なぞ》を解きにお出かけになるのでしょう?」
「いや」ソーンダイクは答えた。「きわめて平凡な用事でウォーミントンへ行くところですよ。グリフィン生命保険会社から、あそこで明日おこなわれる検死法廷の情況を観察してほしいと依頼をうけましてね。いささか荒野横断旅行じみているので、今夜こうして出かけてきたわけですよ」
「では、どうしてあの魔法のトランクをお持ちなのですか?」ちらと帽子掛けを見あげながらボスコヴィッチはたずねた。
「私はあれを持たずに家を出ることはないのです」ソーンダイクは答えた。「どんな出来事が起こるか、わかったものではありませんからね。これを持ち運ぶめんどうさも、突発事件の場合に自分の器具を手もとにもっている心強さにくらべたら、とるにたらんですよ」
ボスコヴィッチは目をみはって、ウィルズデン・ズックにおおわれた四角い小型トランクを見あげていた。そして、やがて彼は言った。
「あの銀行殺人事件に関連して、あなたがチェルムスフォード市へおいでになっていたころ、いったい、あれには何がはいっているのだろうと、よく私は頭をひねったものですよ――そういえば、あれはまったくおどろくべき事件でしたね。そして、結局あなたの捜査方法が警察をびっくり仰天させたわけですがね」いつまでも彼が、あこがれるようなまなざしでトランクを見あげつづけているので、ソーンダイクは、気さくにそれをとりおろして錠をあけた。実のところ、彼はその「携帯用実験室」を、いささか誇りとしていたのである。たしかにそれは圧縮の極致だった。小さくて――縦横一フィート――深さ四インチにすぎなかったけれど――そのなかには、予備調査に必要な器具や用品が、かなり完全にとりそろえてあったのだ。
「すばらしいものですね!」トランクが眼の前でひらかれると、ボスコヴィッチは声をあげて感嘆した。トランクのなかには、試薬の小壜や小さな試験管がならび、小型のアルコール・ランプ、小さな顕微鏡、各種の器具も小型のものがそろえてあった。「まるで人形の家みたいだ――なにもかも望遠鏡で逆さにのぞいて見るようだ。しかし、こんな小さなものが、すべて実際に役立つのですか? この顕微鏡にしても――」
「倍率はさほど大きくないが、完全に機能を発揮しますよ」ソーンダイクは言った。「おもちゃのように見えるが、そうではない。レンズは世界でも最も優秀なものです。もちろん大型の顕微鏡のほうが、はるかに便利ではあるでしょうが――しかし、大型を持ち歩くわけにはいきませんから、どうでもポケット・レンズで間に合わさなくてはなりません。そこで、こんなふうに小型の器具をそろえたのです。まあ、何も器具をもたぬよりは、このほうがましというものです」
ボスコヴィッチはトランクのなかのものをのぞきこんで、はれものにさわるように器具に指をふれながら、しきりに、それらの使用方法をたずねた。半時間ほどして、彼の好奇心が、やっと半分ばかり満たされたとき、列車が速力をおとしはじめた。
「おや」彼は声をあげて立ちあがりながら旅行カバンをつかんだ。「もう連絡駅です。あなたがたも、ここでお乗りかえになるのでしょう?」
「そうです」ソーンダイクは答えた。「ここから支線でウォーミントンへ行くのです」
プラットホームへおりたとき、私たちは何か異常な出来事が起こっているか、もしくは起こったことに気がついた。すべての乗客、大部分の赤帽や駅員が、駅の一端に集まって、いずれも暗い線路のほうに目をこらしているのだ。
「なにかあったのですか?」ボスコヴィッチ氏が駅の監督にたずねた。
「そうです」監督は答えた。「一マイルほど向こうの線路で、貨物列車に人がひかれましてね。駅長が担架をもって死体収容に出かけているのです。あそこに、こちらへやってくる角燈《ランタン》が見えるでしょう。あれが、そうだろうと思います」
ゆれている角燈が、一瞬あかるくなって、光るレールに、ちらちら反射しているのを、私たちは見つめていた。すると切符売場から一人の男がプラットホームへ出てきて見物人の群れにはいりこんだ。彼が私の注意をひきつけたのは、あとで思い起こしてみると、二つの理由からだった。まず第一に、その陽気そうな丸顔が、ひどく蒼ざめて、ひきつり、けだものじみた表情をしていたこと。第二に、はげしい好奇のまなざしで闇に見入ったくせに、その男は何もたずねなかったこと。
ゆれている角燈が、次第に近づいてきた。ふいに二人の男が視界にあらわれ、粗布をかぶせた担架を運んできた。粗布ごしに人間の姿がぼんやりと見てとれた。二人は、ゆるい斜面をプラットホームへあがり、担架を信号室へ運んで行った。すると、乗客たちのせんさくするようなまなざしは、あとから手さげカバンとコウモリ傘をもってきた赤帽と、しんがりに角燈をもってやってきた駅長へうつった。
赤帽が通りすぎようとしたとき、ボスコヴィッチ氏は、ふいに興奮したようすで前へとび出した。
「それがあの人のコウモリ傘ですか?」彼はきいた。
「そうですよ」赤帽は答えて、立ちどまり、それを相手につき出して見せた。
「おや、これは!」ボスコヴィッチはわめいて、ソーンダイクのほうをふり向いて叫んだ。「これはブロズキーのコウモリ傘です。断言できます。あなたもブロズキーをおぼえていらっしゃるでしょう?」
ソーンダイクはうなずいた。するとボスコヴィッチは、ふたたび赤帽に向かって言った。「このコウモリ傘を私は知っている。これはブロズキーという紳士のものだ。あの人の帽子を見れば、名前が内側に書いてあるはずだ。いつも帽子に自分の名前を書いておくのだから」
「まだ帽子は見つからないのです」赤帽は言った。「でも、いま駅長が線路をこちらへやってきますから」そして赤帽は駅長に告げた。「このかたが、このコウモリ傘を知っておられるそうです」
「なるほど」駅長は言った。「あなたは、このコウモリ傘を認知されるのですね。では、ちょっと信号室へおはいりになって、死体を確認できるかどうか、見てくださいませんか」
ボスコヴィッチ氏は、おどろいた顔つきで、たじろいだ。「いや、それは――その人は――とてもひどくやられているんですか?」彼はびくびくした調子できいた。
「まあ、そういえるでしょうね」という返事だった。「なにしろ、機関車と六輛の貨車が、被害者の上を通過してから、やっと停車したのですからね。事実、きれいに首をはねられていますよ」
「ぞっとします。まったくぞっとする!」ボスコヴィッチは息をはずませた。「さしつかえなかったら――私は――どうも気がすすみません。ねえ、博士、あなただって、私が見に行くことが必要だとはお考えにならないでしょう?」
「いや、必要だと思いますね」ソーンダイクは答えた。「一刻も早く確認することが、もっとも重要なことかもしれませんからね」
「では、やっぱり見ないわけにはいかないでしょうね」ボスコヴィッチは言って、ひどく気がすすまぬようすで、先に立って行く駅長について信号室へはいった。そのとき音高くベルが鳴って臨港列車の近づくのを知らせた。ボスコヴィッチの死体検分は最短時間のものであったにちがいない。やがて彼は蒼ざめた顔で、ふるえおののきながら、とび出してきて、ソーンダイクのところへ駆けもどった。
「やっぱりそうです!」息せき切って彼は叫んだ。「ブロズキーです! 気の毒なブロズキー。身ぶるいがする! 私とここで落ち合って、いっしょにアムステルダムへ出かけることになっていたのです」
「彼は何か――商品を持っていましたか?」ソーンダイクはきいた。そのとき、さっきから私の注意をひきつけていた未知の男が、ボスコヴィッチの返事を聞きとろうとするように、じりじり近づいてきた。
「なにか宝石類をもっていたにちがいありませんが、何をもっていたか私は知りません」ボスコヴィッチは答えた。「もちろん彼の店の番頭なら知っているでしょうがね。ところで、博士、私からもお頼みします。ぜひ、この事件を見きわめてください。これが本当の事故なのか、それとも――あれなのか、そのことだけでも、たしかめていただきたいのです。なにしろ、私どもは古くからの友人で、同じ町の人間でもありますし、二人ともワルソーの生まれですからね。ぜひともあなたに、この件に眼を向けていただきたいのです」
「いいですとも」ソーンダイクは言った。「自分で満足の行くまでやってみて――見かけ以上には何もひそんでいないことをたしかめたら、あなたに報告しましょう。それでいいですね」
「ありがとう」ボスコヴィッチは言った。「ご好意に感謝しますよ。おお、汽車がきました。ここにとどまって調べていただくのは、さだめしご迷惑なことだとは思いますが――」
「いや、すこしも」ソーンダイクは答えた。「私たちは明日の午後までにウォーミントンへ到着すればいいのだから、知る必要のある事柄をすっかり調べあげてからでも、十分あちらの約束も果たせると思います」
ソーンダイクが話していたとき、あきらかにこちらの会話を聞きとるつもりで間近に立っていた未知の男は、実に奇妙な眼つきで念入りにソーンダイクを見つめていた。そして列車が到着してプラットホームにぴったりととまってから、はじめてその男は、あわてて車室を求めて去って行った。
列車が駅を出てしまうと、ソーンダイクは、すぐ駅長のところへ行き、ボスコヴィッチから依頼されたことを話した。「もちろん」と最後に彼はつけくわえた。「警察がくるまでは手をつけるべきではありません。報告はすんでいるのでしょうね?」
「それはもう」駅長は答えた。「すぐに州警察部長に知らせておきました。もう警察部長か警部かが見えるはずです。実は、ちょっとそのへんまで出かけて行って、たしかめようと思っていたところです」あきらかに駅長は、なにか言質《げんち》をあたえないうちに、まず警官と内密に話したいと思っているようであった。
駅長が行ってしまうと、ソーンダイクと私は、もう人影もなくなったプラットホームを、行ったりきたりしはじめた。新しい調査にはいるときには、いつもそうするように、私の友人は、考え深げに、事件の特質をあらまし話した。
「この種の事件では、可能な三つの解釈のうちのどれかに決定しなければならない。事故か、自殺か、他殺かだ。そして、その決定は、三種の事実からの推理によって引きだされる。第一は事件の一般的な事実。第二は死体の検査から得られる特殊な資料的事実。第三は死体の発見された場所の調査から得られる特殊な資料的事実。
ところで、現在、私たちの握っている一般的な事実は、故人がダイヤモンド商人で、特定の目的をもって旅行しており、かさばらないで、しかもすばらしく大きな価値のある品物を身につけていたらしいということだけだ。このような事実は、いささか自殺説には不利で、他殺説に有利だ。事故の問題についての事実としては、問題の線路に通じる踏切、街道、小道の有無、木戸つきの、あるいは木戸なしの柵があるかどうか、そのほか死体が発見された場所へ偶然に被害者の足を向けさせるような、あるいは向けさせないような事実などだが、このような事実は、まだつかんでいないのだから、私たちとしては、さらによく知ることが望ましいわけだ」
「例のカバンとコウモリ傘をもってきた赤帽に、慎重に、もうすこし質問してみたらどうかしら?」と私は言ってみた。「いま彼は切符係と熱心に話しこんでいる。だから、新しい聞き手をつかまえたら、きっとよろこぶにちがいないと思うよ」
「それはなかなかいい思いつきだね、ジャーヴィス」とソーンダイクは答えた。「どんなことを話すか、あたってみよう」
私たちは赤帽に近づいた。すると、私の予想したとおり、赤帽は、悲劇的な話をぶちまけたくてむずむずしていた。
「ざっとまあこんなふうにして起こったんですよ」ソーンダイクの質問に答えて、赤帽は言った。「ちょうどあの場所で線路が急にまがっているんですが、そのカーヴを貨物列車がまがろうとしたときに、急に機関士が何かレールに横たわっているのを見つけたのです。機関車がまがり、ヘッドライトがそれを照らし出して、はじめて人間だと気がつき、すぐに機関士は蒸気《スティーム》を切って汽笛を鳴らし、はげしくブレーキをかけたのですが、ご承知のように貨物列車は停車にすこし時間がかかりますのでね。ぴったり停車させるまでに、機関車と半ダースの無蓋《むがい》貨車が、あの可哀そうな男の上を通っちまったというわけですよ」
「機関士には、あの男がどんなふうに横たわっていたか、見えたのかね?」ソーンダイクがきいた。
「さよう、はっきり見えたそうです。ヘッドライトが、まともに照らし出したわけですからね。下り線の左側のレールの上に頸をのせて、うつ伏せに横たわっていたのです。首はレールの外側にあるし、胴体はレールのそばにあって、どうもわざわざそういうかっこうで寝ていたみたいでしたよ」
「そのへんに踏切はあるのか?」ソーンダイクはきいた。
「いいえ、踏切もなければ街道もありません。野道もないし、まるでなんにもありやしねえ」赤帽は強調しすぎて口調がぞんざいになった。「あの荒地を横ぎってきて、柵をのりこえてレールへたどりついたのにきまっています。どうも思いつめた末の自殺らしいですな」
「そういうことを、どうして君は知ったのかね?」ソーンダイクはたずねた。
「機関士と相棒が死体を線路からどけて、つぎの信号所へ行き、電信機で知らせてきたのですが、それをすっかり駅長が、線路を歩いて行く途中、話してくれたのです」
ソーンダイクは赤帽に礼を言い、信号室のほうへ歩いてもどりながら、新しく耳にした事実の意味を語った。
「赤帽の意見も、一つだけ当たっている。それは偶然の事故ではなかったということだ。被害者が近眼か、つんぼか、白痴でないかぎり、柵をのりこえて列車にやられるということはありえないだろう。しかし、線路に横たわっていた姿態から考えると、二つの仮説のうち、一つしか成りたたない。つまり、赤帽がいうように、思いつめた自殺か、さもなければ、すでに死んでいたか、意識をうしなっていたかだ。しかし、推論はこのくらいにしておいて、はっきりしたことは死体を見るまで待つしかないだろう。といっても、警察が私たちに死体を見せてくれればの話だがね。とにかく、駅長が警官と一緒にやってきたから、なんというか、あたってみよう」
あきらかに駅長と警官は、どんな外部の助力もことわるつもりのようであった。警察医が必要な検査をするから、ありきたりの方法で、十分知識は得られる、というのである。しかし、ソーンダイクが名刺を出すと、すこしばかり形勢が変わった。名刺を手にして、警部は、ふむ、ええ、などと煮えきらないことをつぶやいていたが、やがて、やっと私たちに死体を見せることに同意した。そこで私たちは、いっしょに信号室へはいった。駅長がさきにはいって行って、ガス燈を明るくした。
担架は壁のそばの床においてあって、不気味な死体は、まだ粗布でかくされていた。手さげカバンとコウモリ傘は、レンズがとれてしまった眼鏡のつぶれたワクといっしょに、大きな箱の上においてあった。
「この眼鏡は死体のそばで発見されたのですか?」ソーンダイクがたずねた。
「そうです」駅長が答えた。「頭のすぐそばにあったのです。レンズは砂利の上に散らばっていました」
ソーンダイクは手帳に何か書きとめた。警部が粗布をとりのけた。ソーンダイクは死体を見おろした。死体は、ぐんにゃりと担架に横たわっていた。首がはずれ、手足がねじれていて、ぞっとするほど陰惨だった。警部のさし出した大きな角燈の光に照らし出されている不気味な死体を、ソーンダイクは、たっぷり一分間ほど、だまってのぞきこんでいた。それから、まっすぐに身をのばして、しずかに私に言った。
「三つの仮説のうち、二つは消してもよさそうだ」
警部が、すばやく彼を見て、なにか質問しようとしたとき、それまで台の上においてあった旅行トランクに注意をうばわれた。いま、そのトランクをひらいて、ソーンダイクは、解剖用のピンセットを二つ抜き出していた。
「検死解剖をする権限は、われわれにはないのですよ」警部が言った。
「そうです、もちろん、ありません」ソーンダイクは言った。「ただ私は口のなかを見ようとしているだけです」一つのピンセットで唇をめくりかえして、内側を調べてから、彼は、綿密に歯を調べた。
「すまないが、君のレンズをかしてくれないか、ジャーヴィス」彼は言った。私が接合レンズをひらいて手わたすと、警部は、死体の顔に角燈を近づけて、一心に身をのりだした。いつもの組織的なやり方で、ソーンダイクは、でこぼこした鋭い歯なみを、ずっと、ゆっくりレンズで見て行き、やがてレンズをもどすと、上歯の門歯を、さらに精密にしらべた。最後に、上の二本の前歯のあいだから、ピンセットで何か小さなものを、微妙な手つきではさみ出し、それをレンズの焦点にあてた。彼のつぎの行動を予想して、私は、分類表示のついた顕微鏡の載物ガラスをトランクからとり出して、切開針といっしょに彼に手わたした。彼が歯のあいだから採取した小さなものを載物ガラスへうつし、切開針でそれをひろげるあいだに、私は小さな顕微鏡を台の上にすえた。
「とりつけ液を一滴、それからカヴァ・ガラスを一枚たのむよ、ジャーヴィス」
私が壜を手わたすと、彼は例の小さなものの上に、とりつけ液を一滴おとし、その上をカヴァ・ガラスでおおい、顕微鏡の台に載物ガラスをのせて、注意ぶかく観察した。
ふと警部に眼をやった私は、彼の顔に、かすかに薄笑いがうかんでいるのを見てとった。警部は私の眼をとらえると、いんぎんにその薄笑いをおさえようとした。
「私は考えていたのですよ」警部は弁解するように言った。「この人物が夕食に何を食ったかを見つけるのは、すこしばかり本筋からそれているのではないかとね。不衛生なものを食べたために死んだわけではありませんからね」
ソーンダイクは微笑して警部を見あげた。「この種の調査では、どんなことでも、本筋からそれていると臆断するのはいけませんよ、警部。どんな事実でも、事実には、なにか意味があるにちがいないですからね」
「首をちょん切られた男の食べたものには、私は、なんの意味もくみとれませんがね」警部は高飛車に応答した。
「そうでしょうか」ソーンダイクは言った。「横死した男の最後の食事には、はたして関心を向けるべきものが何もないでしょうか。たとえば、この死んだ男のチョッキに散らばっている粉くずですが、これから何も知ることはできないでしょうか?」
「何を知ることができるか、私には見当がつきませんな」がんこな応答だった。
ソーンダイクはピンセットで粉くずを一つ一つ、つまみとり、それを載物ガラスにのせて、まずレンズで見てから、顕微鏡で見た。
「これでわかったところによると」と彼は言った。「死の直前、故人は、ある種の麦粉でつくったビスケット、どうやらオートミールのまじっているものを食べています」
「それこそ無意味というものではありませんか」警部は言った。「われわれが解決しなければならない問題は、故人がどんな茶菓を食っていたかということではなく、どうして死んだかということです。自殺したのか? 偶然の事故で死んだのか? それとも何か犯罪行為のために生命をおとしたのか?」
「失礼ながら」ソーンダイクは言った。「もはや解決しなければならない問題は、だれが、どんな動機で故人を殺したか、ということだけです。そのほかのことは、私の関するかぎり、すでに解答が出ています」
警部は、おどろいて目をみはった。信じかねるといった表情をただよわせていた。
「それはまた、早いところ結論にたどりついたものですな」
「これはかなり明白な殺人事件です」ソーンダイクは言った。「動機については、故人がダイヤモンド商人で、相当量の宝石を身につけていたと推定される。死体を調べてみてはいかがですか?」
警部は、うんざりしたような声を出した。「いやはや。しかし、それはあなたの当て推量というものです。死んだ男がダイヤモンド商人で、貴重な財宝を身につけていたから殺されたなんて」彼は、まっすぐに突っ立ち、きびしい非難の眼でソーンダイクを見ながら、つけくわえた。「それにしても、これは法律上の調査であって、新聞などによく出ている安っぽい犯人当ての懸賞などではないことを、あなたにも知っていただきたいものです。死体を調べることは、これは私がここへ出かけてきた主目的ですよ」大げさに私たちに背をむけて、彼は、死んだ男のポケットを、一つ一つ、引っくりかえしはじめた。そして、いろんな品物をとり出しては、それを箱の上の手さげカバンとコウモリ傘のそばにならべた。
彼がそうしているあいだに、ソーンダイクは、死体ぜんたいに眼をくばり、とくに深靴の底に注意をむけた。そして、レンズで、その底を、実に綿密に調べた。警部は、おかしさをかくしきれないようすだった。
「その足は、肉眼でも十分に見えるくらいの大きさがあるように思われますがね」と彼は言った。「しかし、おそらく」と駅長にこっそり一瞥《いちべつ》をなげてからつけくわえた。「あなたはすこし近眼なのかもしれませんな」
ソーンダイクは、おもしろそうにくすくす笑った。そして、警部が死体を調べているあいだに、すでに箱の上にならべられたいろんな品物をながめた。財布と手帳をあけて見ることは、当然警部にまかせたが、読書用の拡大鏡、小型ナイフ、名刺入れ、そのほかポケットに入れてあったこまごました品物を、ソーンダイクは注意ぶかく調べた。警部は、ひそかにおかしさをおし殺したような表情で、眼のすみからソーンダイクを見ていた。ソーンダイクは読書用の拡大鏡を灯にかざして、その屈折力をはかったり、煙草入れのなかをのぞいたり、一|綴《つづ》りの巻煙草用紙をめくって、その紙のすかし模様を調べたり、銀のマッチ箱の中身を観察したりした。
「その煙草入れのなかから、何が発見できるとお考えになったのですか?」死体のポケットからとり出した鍵束を箱の上におきながら警部はきいた。
「煙草です」とソーンダイクは鈍重に答えた。「しかし細刻みのラタキア〔トルコ産の高級煙草〕が出てくるとは思っていませんでしたよ。純粋のラタキアが巻煙草にして吸われているのは、まだ見たおぼえがありませんのでね」
「いろんなものに興味をおもちですな」警部は横目で、ぼんやりと立っている駅長のほうを、ちらと見てから言った。
「そのとおりです」ソーンダイクは同意した。「ところで、ポケットのなかには、ダイヤモンドはなかったようですね」
「さよう、この男がダイヤを身につけていたことは、われわれにはわかっておらんのです。しかし、ここに金時計と金ぐさり、ダイヤモンドのネクタイピン、それに」――と彼は財布をあけて中身を手のなかへうつした――「金貨十二ポンド入りの財布もあります。これで強盗説は成り立たないようですね。こうなってみると、他殺という説も、いかがなものでしょうかね」
「私の意見は変わりません」ソーンダイクは言った。「ところで、死体が発見された場所を調べてみたいと思います。機関車は点検しましたか?」と終わりの質問を駅長に向けた。
「そのほうの調査はブラッドフィールドに電報で依頼しておきました」駅長は答えた。「たぶん、もう報告がきているでしょう。線路へ行く前に眼をとおしておいたほうがいいと思います」
私たちは信号室から出た。すると駅の監督が電報を持って待ちうけていた。監督はそれを駅長にわたした。駅長は声をあげて読んだ。
「機関車ヲ注意ブカク点検シタ。前輪ノ近クニ小サナ血ノ汚点ガアリ、第二車輪ニ、ソレヨリモ小サナ汚点ガ見ラレルノミデ、他ニハ、ゼンゼン血痕ナシ」
駅長は、いぶかしげに、ちらとソーンダイクを見た。ソーンダイクは、うなずいて言った。「はたして線路も同じことを示しているかどうか、それを見きわめるのも一興かと思います」
駅長は解《げ》しかねる顔つきで、説明をもとめようとしたが、このとき、死んだ男の所持品をポケットへ入れた警部が、早く出かけようとせきたてた。ソーンダイクは、トランクをきちんとしめ、角燈を所望した。私たちは線路をたどって歩きはじめた。ソーンダイクは角燈をもち、私は私たちに絶対必要な例の緑色トランクをたずさえていた。
「この事件について、ちょっと私にはわからないところがあるのだが」警部と駅長とをさきに行かせて、もう声がとどかないと見きわめをつけると、私はソーンダイクに言った。「君は非常に早く結論に達したが、そんなに急速に意見をきめて、自殺ではなく他殺だとしたのは、どういうわけかね?」
「ささやかではあるが、実に決定的な事柄があったからだよ」ソーンダイクは答えた。「君は≪こめかみ≫の上の頭皮についている小さな傷に気がついたことと思う。あれは擦過傷だ。機関車にでも容易につけられる傷だ。しかし――あの傷口からは血が出ていた。かなり長いあいだ出血しつづけていたのだ。傷口から二筋の血が流れていて、どちらも、すっかり凝固し、一部分は乾いていた。だが、被害者は首を切りとられていたのだから、あの傷が機関車によってつけられたものとすれば、首を切りとられた後でつけられたものにちがいない。機関車が近づいたとき、傷のついているあの部分は機関車からかなり離れた個所にあったからだ。ところが、切りとられた首は出血しないものなのだ。だから、あの傷は、首を切りとられる前に、つけられたのだ。
あの傷からは、出血しているばかりでなく、二筋の血の流れが直角にながれおちている。その血の流れの様相から見て、最初に流れた血の筋は顔の側面をつたってカラーへながれおちている。つぎに流れた血の筋は、傷から後頭部へながれおちている。ところで、ジャーヴィス、君も知っているように、引力の法則に例外はない。血が顔をつたって顎《あご》のほうへながれおちたのなら、そのとき頭はまっすぐになっていたにちがいない。また、前から後頭部へながれおちたのなら、そのとき頭は水平になり、顔は仰向《あおむ》けられていたにちがいない。ところが、機関士が見たときには、被害者は顔をうつ伏せにして横たわっていたのだ。だから、こう推論するしかあるまい。つまり、あの傷をつけられたとき、被害者は、まっすぐな姿勢をしていた――立っているか坐っているかしていたのだ。そのあと、まだ生きているうちに、血が後頭部へながれおちるくらいの時間、仰向けに横たわっていたのだ」
「そうか。なるほど。自分でそれくらいの推理ができなかったとは、慚愧《ざんき》のいたりだ」私は悔やむように言った。
「すばやい観察と急速な推論は、習練によってできるものだよ」ソーンダイクは答えた。「それにしても、君は、あの顔から、どんなことを気づいたかね?」
「窒息《ちっそく》の気配が強いと思った」
「さよう、疑問の余地はない。あれは窒息した人間の顔だ。また、舌が目立って腫《は》れていたし、上唇の内側に歯できざみ目がつき、口の上からはげしく押しつけられてできたらしいいくつかの微傷にも、君は気づいたにちがいない。こうした事実や推論が、頭皮の傷と、どんなにぴったりと符合するかを、考えてみたまえ。もしも私たちが、被害者が頭に一撃をうけ、襲撃者と格闘し、やがて押しつけられて窒息させられた事実を知っていたとすれば、ちょうどあの死体で発見されたような証跡をもとめることになるだろうと思う」
「ところで、被害者の歯のあいだにはさまっていたものを何か発見したようだが、あれはなんだったのかね? 私は顕微鏡をのぞいてみる機会がなかったのでね」
「あれか。さよう、私は、あれで確証を得たばかりでなく、推論を一段階おしすすめることができたのだ。あれは織物の繊維の小さな房《ふさ》だよ。顕微鏡で見ると、いろいろに染められた数種の繊維の集まりだとわった。主要な部分は深紅色に染められた羊毛の繊維だが、青く染められた綿の繊維もまじっているし、黄色く染められた黄麻《おうま》らしい繊維もいくらかまじっていた。あきらかに、まだら染めの織物で、女のドレスの切れはしかもしれない。もっとも、黄麻がまじっている点から考えると、二流品のカーテンか敷物の類を暗示しているようにも思えるがね」
「その重要性は?」
「衣類の切れはしでないとすれば、家具調度から出たものにちがいない。家具調度は住居を暗示するというわけだ」
「しかし、あまり決定的なものとも思えないがね」私は異議をとなえた。
「そのとおりだ。しかし、貴重な確証になる」
「何の確証かね?」
「被害者の深靴の底があたえてくれる暗示の確証だ。あれを私は、こまかくしらべてみたが、砂や砂利や土の証跡は、まるで発見できなかった。被害者が、発見された場所までたどりつくには、どうでも荒地を横ぎって行ったにちがいないのにね。私が見つけたのは、こまかい煙草の灰と葉巻か巻煙草を踏みつけたような焦げ跡、それからビスケット粉、つき出た一本の針、絨毯のものらしい繊維だけだった。あきらかに被害者は、絨毯を敷いた家のなかで殺され、そこから線路まで運ばれたことが暗示されているわけだ」
しばらく私はだまりこんでいた。ソーンダイクをよく知っているはずの私だが、このときはすっかり驚嘆してしまった。それは、彼の調査について行くたびに、いつも新しく味わわされる感動だった。一見つまらない事実を総合統一し、秩序だった因果関係に調整して、それに一連の物語を語らせる彼の能力は、つねに私にとっては不思議な現象であり、その能力が発揮されるたびに私は新たなおどろきにうたれるのであった。
「君の推論が正しいとすれば」私は言った。「事件はほとんど解決されたといっていい。その家のなかには、たくさん証跡があるにちがいない。だから、いまとなっては、問題は、それがどの家かということだけだ」
「そのとおりだ」ソーンダイクは答えた。「問題はそれだよ。しかも、きわめてむずかしい問題だ。その家の内部を一瞥《いちべつ》すれば、すべての謎がとけるにちがいない。だが、いかにしてその一瞥をやってのけるか? 殺人の証跡があるかどうかを見るために、当てずっぽうにどんな家へでもはいりこむというわけにもいくまい。いまのところ、手がかりの糸は、あっけなく切断されている。その糸の別の端は、どこかの未知の家のなかにある。それと、こちらの端とをつなぐことができないとすると、事件は迷宮入りというわけだ。つまり、この問題は、だれがオスカー・ブロズキーを殺したか、ということになるのだからね」
「では、これからどうするかね?」
「つぎの捜査の段階は、この犯罪と、ある特定の家とを結びつけることだ。その目標に向かって、私としては全力をつくして入手できるだけの事実を集め、その一つ一つの事実を、あらゆる連鎖関係をたどって考察するしかない。もしも、そんなふうに結びつけることができなければ、この捜査は失敗ということになり、もう一度、新規まき直し、はじめから出なおさなければならないだろう――私の推定どおり、ブロズキーが本当にダイヤモンドを身につけていたことが判明すれば、まずアムステルダムあたりからやりはじめることになるだろう」
このとき、死体の発見された場所へついたので、私たちの会話は中断された。駅長が立ちどまって、警部とともに、角燈のあかりで左側のレールをしらべていた。
「実に血の量がすくないですね」駅長が言った。「この種の事故を、私は、たびたび見てきていますが、いつも機関車にも線路にも、たいへんな血なのに、これはまことに奇妙です」
ソーンダイクは、ほんのちょっとレールに注意を向けただけだった。そのことには、もう彼は関心をもっていなかったのだ。彼の手にした角燈は、レールのそばの地面を照らしていた――レールのそばの白堊《はくあ》の破片のまじった砂利だらけの地面だった。ついでその角燈は、レールのそばにひざまずいた警部の靴の底を照らした。
「ほら、わかるだろう、ジャーヴィス?」彼は低い声で言った。私はうなずいた。警部の靴の底には、砂利の小つぶなどが、いっぱいくっついていた。とくに、踏んできた白堊の色が、くっきりとついていた。
「帽子は見つからないのですね?」ソーンダイクはたずね、身をかがめて、線路のそばの地面におちていた短いヒモ切れをひろった。
「見つかりません」警部が答えた。「しかし、遠くにあるはずはありませんよ。おや、また何か手がかりになるものを発見されたようですな」ちらとヒモ切れを見やりながら、警部は、にやにやして言いそえた。
「いや、まだ何もわかっていませんよ」ソーンダイクは言った。「緑色のヨリ糸をまぜた白い麻ヒモの切れはしですが――ことによると、あとで何かを語ってくれるかもしれません。とにかく保存しておきましょう」彼はポケットから小さなブリキ箱をとり出した。いろんなものと一緒に、いくつかの種袋が入れてあったが、その袋のなかへヒモを入れて、外側に鉛筆でメモを走り書きした。そのやりかたを、警部は、いかにも寛大そうに微笑しながら見ていた。それから、ふたたび線路をしらべはじめた。こんどはソーンダイクも、その調査に加わった。
「可哀そうに、あの男は近眼だったらしい」警部は眼鏡のレンズの破片を示しながら言った。「そのために線路へ迷い出たのかもしれません」
「そうですね」ソーンダイクは言った。枕木の上や、まわりの砂利に、レンズの破片が散らばっているのを、とうに彼は気づいていたのだ。彼は、またブリキの「蒐集《しゅうしゅう》箱」をとり出して、なかから、もう一つ種袋を抜き出した。「ピンセットをかしてくれないか、ジャーヴィス」と彼は言った。「そして君もピンセットを持って、これらの破片をひろい集めるのを手つだってくれないか」
私が彼の要求に応じてその仕事にとりかかると、警部が、けげんそうに私たちを見あげた。
「この眼鏡のレンズが故人のものだったことは、疑う余地がないと思いますがね」彼は言った。「たしかに故人は眼鏡をかけていたのです。私は鼻にそのあとがついているのを見たのですからね」
「それにしても、その事実を立証したところで、べつに害にはならないでしょう」とソーンダイクは言った。そして声をおとして私に言いそえた。「見つかるかぎり、どんな小さな破片でも、ひろいあげてくれないか、ジャーヴィス。ことによると、きわめて重要なものかもしれないからね」
「どうしてこれがそんなに重要なのか、私にはよくわからないが」角燈のあかりで砂利のなかの微小なガラスの破片をさがしながら私は言った。
「わからないかね」ソーンダイクは言った。「これらの破片を見たまえ。いくつかは、かなり大きいが、この枕木の上にある大部分のものは、実に小さい。あきらかに、これらのガラスの状態は、周囲の状況と一致していないのだ。これは厚い凹レンズを、たくさんの小片にこわしたものだが、いったい、どんなふうにしてこわされたのか? 単に落っこちたためにこわれたのではないことだけはあきらかだ。そういうレンズは、落ちると、少数の大きな破片にこわれるのが普通だ。上を通過した車輪にこわされたのでもない。車輪にこわされたのなら、こまかい粉になっているはずだし、その粉がレールの上に見られるはずだが、実際にはその痕跡がない。あの眼鏡のワクも、君もおぼえているだろうが、同じようなチグハグな点を見せていた。落ちてこわれたもの以上に、つぶれ、そこなわれてはいるが、車輪が上を通過したほどひどい状態にはなっていなかった」
「それで君は、どういうことを暗示しようというのかね?」私はきいた。
「見かけからすると、眼鏡は踏みくだかれたもののように思える。だが、死体がここへ運ばれたものとすると、たぶん眼鏡もここへ持ってこられたものであり、しかもそのときには、すでにこわれていたのではないかと思う。殺人犯人が、ここへ持ってきてから踏みくだいたのではなく、格闘中に踏みくだかれたもののように見えるからだ。だから、どんな小さな破片でもひろいあつめることが重要なのだよ」
「それにしても、どうしてそれが重要なのかね?」実際いささか愚かしくも私はたずねたものだった。
「見つかるかぎりの破片をすっかりひろいあげれば、当然、予期しているよりもレンズの部分が足りないにちがいないが、その事実は私たちの仮説を裏づけ、足りない部分をほかの場所で見つけることになるかもしれないからだよ。これに反し、予期どおりの破片を見つければ、レンズがこの場でこわされたと結論づけなければならなくなるわけだ」
私たちがさがしているあいだに、警部と駅長は、なくなっている帽子をさがしまわっていた。やっと私たちが最後の破片をひろいあげ、レンズまで使って注意ぶかくさがしても、もう一つも見つからないという段階まできたときには、彼らの角燈が線路からすこし離れたところに狐火のように動いているのが見えた。
「あの人たちが戻ってくるまでに、私たちの成果を見きわめておこうじゃないか」ゆらめく角燈をちらりと見やりながらソーンダイクが言った。「柵のそばの草の上へトランクをおろしたまえ。テーブル代わりになるだろう」
私がそのとおりにすると、ソーンダイクはポケットから一枚の書簡紙をとり出し、それをトランクの上に平たくひろげ、この夜は風もなく静かだったけれど、二つの重い石でおさえた。それから、その紙の上に、種袋の中身をあけ、ガラスの破片を注意ぶかくひろげて、しばらくだまってそれを見つめていた。そうして見つめているうちに、はなはだ奇妙な表情が彼の顔をかすめた。とつぜん彼は大きい部類の破片をつまみあげ、名刺入れから取り出した二枚の名刺の上に、それを熱心にならべはじめた。すばやく、みごとな手ぎわで破片を寄せ合わせてゆくにつれて、二枚の名刺の上で、二つのレンズが、しだいに再構成されていった。私は興奮をつのらせながら見つめていた。友人の態度に、なにかの発見に近づいているような気配が感じられたからである。
やがて、二枚の名刺の上に、ガラスの二つの長円形が横たわり、一つ二つ小さなすき間を残して、完全な形になった。あとに残ったかなりの破片は、ひどく微小なものばかりなので、それ以上再構成するのは不可能だった。するとソーンダイクは身をそらせて、静かに笑った。
「たしかに予想外の結果だ」彼は言った。
「何が?」と私はきいた。
「わからないかね。≪ガラスが多すぎる≫のだよ。こわれたレンズを、ほとんど完全に再構成してみたが、あとに残されている破片は、すき間をふさぐ分量よりもかなり多いのだ」
かなりの量の微小な破片をながめて、私も、すぐに彼のいうとおりであることを知った。微小な破片が、あまりに多すぎるのだ。
「実に奇妙だ」私は言った。「いったい、どういうわけだろう?」
「そのことは、おそらくこれらの破片が語ってくれるだろうと思うよ」彼は答えた。「理知的にたずねればね」
彼は紙と二枚の名刺を注意ぶかく地面へおろし、トランクをひらいて小さな顕微鏡をとり出した。そして倍率最小の対物レンズと接眼レンズをとりつけた――この二つのレンズによる倍率は十倍にすぎなかった。それから微小なガラスの破片を載物ガラスにうつし、角燈で集光装置のように照明できるようにして観察しはじめた。
「うむ!」まもなく彼は声をあげた。「いよいよおもしろくなってきたぞ。ガラスが多すぎ、しかもすくなすぎるのだ。つまり、ここには眼鏡のレンズの破片は一つか二つしかない。レンズを完全に再構成するのに不十分なくらいだ。あとの破片は、軟質の、むらのある、型に入れてつくられたガラス器のもので、澄みきった硬質の眼鏡のレンズと容易に見わけがつく。これらの異質の破片は、いずれも彎曲《わんきょく》している。おそらく円筒の一部分であろう。酒のグラスか、もしくはコップの一部分と見てさしつかえあるまい」載物ガラスを一度か二度うごかしてから、彼は話しつづけた。「運がいいよ、ジャーヴィス。この破片には二本の放射状の線が食刻されているのが見える。あきらかに八本の光線を放つ星模様の一部分だ――こちらの別の破片にも三本の線がついている――これは三本の光線の末端だ。これだけわかれば、ちゃんとガラス器が再構成できるというものだ。無色の薄いグラス――たぶんコップ型のもので――星模様の飾りが散らばっていた。そういう意匠のガラス器は、君だって、いくらでも知っているはずだ。それに帯模様をつけたものもあるが、たいてい星だけが飾りになっている。まあ、この標本をのぞいてみたまえ」
私が顕微鏡に眼を当てたところへ、駅長と警部がもどってきた。顕微鏡をまんなかにして地面に腰をおろしている私たちの様子は、謹厳《きんげん》な警部にも、さすがにおかしかったらしく、彼は、長いこと、おかしそうに笑いつづけた。
「いや、これはどうも失礼しました」やがて弁解するように彼は言った。「それにしても、なにしろ、私のような古風な人間には、それはどうも少々――つまり――なんですね――いや、顕微鏡というものは、まことに興味ぶかく、おもしろいものにはちがいありません。それはわかります。しかし、こうした事件の場合には、たいして役に立たないように思われますがね」
「そうかもしれません」ソーンダイクは答えた。「ところで、結局どこで帽子は見つかりましたか?」
「それが、まだ見つからないんですよ」警部は、ちょっとまごついたように答えた。
「では、私たちも手つだって捜索をつづけましょう」ソーンダイクは言った。「ちょっとお待ちくだされば、ごいっしょにまいります」
彼はキシロール・バルサムを二枚の名刺の上へ数滴たらして、再構成したレンズを、その台紙へ定着させてから、それも顕微鏡もいっしょにトランクへおさめて、では出かけましょう、と言った。
「近くに村か集落がありますか?」彼は駅長にきいた。
「いちばん近いのはコーンフィールドです。そこまでのあいだには全然集落はありません。コーンフィールドは、ここから半マイルほど離れています」
「そして、いちばん近い道路は、どこにあるのです?」
「ここから三百ヤードほど向こうの家のそばを、未完成の道が通っています。土地建物会社がつくりかけて、そのまま立ち消えになってしまったのです。そこから駅へ通じる野道があります」
「近くには、ほかに家はないのですか?」
「そうです。この半マイル四方には、その家があるだけです。それに、この近くには、道も、それ以外はありません」
「それでは、おそらくブロズキーは、その方向から線路へ近づいてきたものにちがいない。死体はレールのそちらがわで発見されたのですからね」
警部も同意見だったので、駅長を案内役にして、私たちは、地面を捜索しながら、ゆっくりと、その家のほうへ向かった。私たちが通って行く荒地には、スカンポやイラクサなどの草むらが、いっぱいあったので、警部は両脚と角燈で、なくなった帽子をさがして一つ一つ草むらを蹴《け》とばしながら歩いて行った。三百ヤード歩いて、庭をかこんだ低い塀のところへたどりついた。塀の向こうに、こぢんまりとした家が見えた。私たちが立ちどまっているあいだに、警部は、塀のそばのイラクサの茂みにはいって行って、力をこめて、そこらを蹴りとばした。とつぜん金属性の音がしたと思うと、それにまじって、何か悪態をわめきちらす警部の声がきこえた。やがて警部が片脚をかかえたままとび出してきて、口ぎたなく悪態をついた。
「イラクサの茂みのなかへ、あんなものを入れておくなんて、まったく料簡の知れない大ばか野郎だ!」痛めた足をなでながら、彼はわめいた。ソーンダイクは、問題の品物を茂みのなかからひろいあげてきて、角燈のあかりに照らして見た。長さ一フィートばかり、厚さ四分の三インチほどの鉄棒の切れ端だった。「それほど長いこと、この茂みのなかにあったものではないようだ」綿密にしらべてみながら彼は言った。「ほとんど錆《さび》がついていない」
「しかし、すくなくとも私の脚と衝突できるだけの時間は、そこにあったわけです」警部は、ぶつくさと言った。「こんなところへ入れておきやがった人間の頭に、この鉄棒を一発ガンとくらわしてやりたいものだ」
警部の苦しみには一向に無関心で、ソーンダイクは、静かに鉄棒をしらべつづけた。やがて角燈を塀の上におき、ポケット・レンズをとり出して、レンズでまたしらべはじめた。その態度にかんしゃくを起こしたらしく、警部は大ふんがいのていで、痛めた足をびっこひきひき向こうへ行ってしまった。駅長も、そのあとからついて行った。まもなく家の玄関の扉をたたく音がきこえた。
「載物ガラスを一枚たのむよ、ジャーヴィス、取りつけ液を一滴つけてね」ソーンダイクが言った。「この鉄棒に、なにか繊維がくっついている」
私は載物ガラスをととのえ、それといっしょにカヴァ・ガラスやピンセットや切開針を彼に手わたし、塀の上に顕微鏡をすえた。
「警部には、たいへん気の毒だが」ソーンダイクは小さな顕微鏡に眼をあてながら言った。「あれは私たちにとっては幸運の一蹴《キック》だったよ。ちょっと標本をのぞいてみたまえ」
私は顕微鏡をのぞいて、載物ガラスを動かし、上にのっているものを見て、意見をのべた。「赤い羊毛の繊維と、青い綿の繊維、それに黄色い黄麻らしい植物繊維だ」
「そうだ」ソーンダイクは言った。「被害者の歯のあいだから発見した繊維の一房《ひとふさ》と同じもので、たぶん、あれと同じ布から出たものだろう。気の毒なブロズキーが窒息させられたカーテンか敷物かで、この鉄棒をぬぐったのだろう。これは、あとで照合するために、塀の上へおいておくことにしよう。まず、なんとかしてこの家のなかへはいってみる必要がある。これは、あまりにもはっきりした指針だから、無視するわけにはいかないよ」
いそいでトランクをしめて私たちは家の表へ急いだ。すると、警部と駅長の姿が、未完成の道路に、ぼんやりと見えた。
「家のなかに灯はついているのですがね」警部が言った。「しかし、だれもいないのです。十回以上もたたいてみたのですが、返事がありません。こんなところに、いつまでうろついていても意味がありませんな。おそらく帽子は死体が発見された近くにあるのではないかと思います。だから朝になれば見つかるでしょう」
ソーンダイクはそれには答えず、庭にはいりこんで、おだやかに扉をたたいてから、身をかがめて鍵穴に耳をつけ、注意ぶかく聞き入った。
「本当に家のなかにはだれもいませんよ」いらだたしげに警部は言ったが、かまわずソーンダイクがじっとそのまま耳をそばだてていると、やがて腹立たしげにぶつくさと何かつぶやいて、向こうのほうへ歩み去った。とたんにソーンダイクは角燈で扉の上や、敷居や、通路や、小さな花壇を照らして見た。まもなく彼が身をかがめて、一つの花壇から何かひろいあげるのを私は見た。
「きわめて啓示的なものがあったよ、ジャーヴィス」彼は門のところまで出てきて、ほんの半インチばかり吸っただけの巻煙草の吸い殻を見せた。
「どうしてこれが啓示的なのかね?」私はきいた。「これで、どんなことがわかるというのかね?」
「多くのことがわかるよ」彼は答えた。「これは火をつけて、よく吸わないで投げすてられたものだ。つまり急に意図が変わったことを示している。これは家の扉の前で、家のなかへはいりこもうとしただれかが投げすてたものにちがいない。おそらくそれは未知の人間だったにちがいない。さもなければ、これを持って家のなかへはいって行ったはずだ。しかし、その人間は、家のなかへはいりこむ予定ではなかった。はじめからはいるつもりだったら、これに火をつけはしなかっただろう。このようなことは一般的に考えられる事柄だが、つぎは特殊な点だ。
この巻煙草用紙は、『ジグザグ』印《じるし》という名で知られている種類のもので、実にはっきりした透かし模様が、たやすく見てとれる。ところで、ブロズキーの巻煙草用紙は『ジグザグ』印のものだった――この用紙がジグザグに引き出せるようになっているので、そういう名前がついているわけだよ。ところで、それがどんな煙草か、ちょっとしらべてみよう」彼は上衣《うわぎ》のピンをとり、巻煙草の火のつけられてない端から、にごった暗褐色の煙草をすこしばかり引き出して、私の目の前にさし出した。
「細刻みのラタキアだ」と私は、ためらいもなく言った。
「そのとおりだ」ソーンダイクは言った。「この巻煙草は、ブロズキーの煙草入れにあったのと同じあの煙草をつめたもので、ブロズキーの巻煙草用紙と同じ紙で巻かれている。三段論法の第四則に当然の敬意を表して、私は、この巻煙草がオスカー・ブロズキーの手でつくられたものであることを示唆する補強証拠をさがすことにしよう」
「それは何かね?」私はきいた。
「君も気づいているだろうが、ブロズキーのマッチ箱には、丸い短い木軸のマッチがはいっていた――これもいささか特異なものだ。彼は門からあまり遠くないところで巻煙草に火をつけたにちがいない。だから、そのマッチを見つけることができるはずだ。彼が近づいてきたと思える方向の道を、さがしてみることにしよう」
きわめてゆっくりと道を歩いて行きながら、私たちは角燈で地面をさがした。そして十数歩も行かぬうちに、私は、でこぼこの道に一本のマッチが落ちているのを見つけ、驚喜してそれをひろいあげた。それは丸い木軸のマッチだった。
ソーンダイクは、それを興味ぶかげにしらべ、巻煙草といっしょに「蒐集箱」へしまいこんでから、もういちど家のほうへ引きかえした。「これで、ブロズキーがこの家のなかで殺されたことは、もはや疑いをさしはさむ余地はない。私たちは、ついに、こんどの犯罪と、この家とを結びつけることに成功したのだ。これから家のなかへはいって行って、ほかのいろいろな手がかりをつなぎ合わさなくてはならない」私たちは足早に家の裏手へまわった。すると、そこで警部が所在なげに駅長と話していた。
「もう引きあげたほうがいいのではないかと思いますがね」警部が声をかけた。「実際、なんのためにこんなところへきたのかわかりませんよ。しかし――ちょっと待ってください、そんなことをしてはいけません!」なんの前ぶれもせずに、いきなりソーンダイクが身軽に飛びあがり、一方の長い脚を塀の向こうがわへおろしていたのだ。
「個人の屋敷内へはいりこむことは許されませんよ」警部はつづけた。だが、ソーンダイクは、静かに内側へおりると、ふり向いて塀ごしに警部と向かいあった。
「よくお聞きください、警部」彼は言った。「私には被害者ブロズキーがこの家へきていたと信じるに十分な根拠があります。事実、私は、そう誓言する用意があります。しかし、時間は貴重です。ほとぼりのさめぬうちに臭跡を追わなければなりません。それに私は、いきなり家のなかへ押し入ろうとしているのではありません。ただ、ごみだめをしらべたいだけです」
「ごみだめですって?」警部は息をはずませた。「いや、まったくあなたは風変わりな人だ。ごみだめで何をさがすつもりですか?」
「私が見つけようとしているのは、酒のグラスもしくはコップの破片です。八本の光線の小さな星模様のついた薄いガラス器です。それは、ごみだめにあるかもしれないし、家のなかにあるかもしれません」
警部はためらったが、ソーンダイクの自信満々の態度に気押《けお》されたようだった。
「ごみだめのなかに、どんなものがあるかは、いますぐしらべても一向にさしつかえありません」警部は言った。「それにしても、グラスの破片などが、この事件とどんな関係があるのか、私にはさっぱりわかりませんがね。しかし、まあ行ってみましょう」彼は塀へとびあがって庭へおりた。すぐに駅長と私があとにつづいた。
警部と駅長が通路を急ぎ足に歩いて行くと、ソーンダイクは、しばらく門のそばをうろついて、地面をしらべていた。しかし、なにも興味をひくものが見つからなかったので、鋭くあたりを見まわしながら、家のほうへ近づいて行った。私たちが通路を半分も行かぬうちに、警部が興奮した調子で呼ぶのがきこえた。
「ありましたよ。こちらです」彼は大きな声で呼んでいた。いそいで近づいて行くと、警部と駅長が、びっくりした表情で小さなごみだめを見おろしているのにぶつかった。二人の角燈のあかりが、ごみだめを照らして、星模様のついたコップ型の薄いグラスの破片が散らばっているのを私たちに示した。
「グラスの破片がここにあるのを、どうして察知されたのか、私には見当もつきません」新たに芽ばえた敬意を語調にひびかせて警部は言った。「ところで、これを見つけて、どうされるつもりですか?」
「これは証拠の連鎖の一環にすぎませんよ」ソーンダイクは言いながら、トランクからピンセットをとり出して、ごみだめの上に身をかがめた。「たぶん、なにか別のものも見つかるでしょう」彼は、いくつかの小さなガラスの破片をつまみあげ、入念にしらべてから、またおとした。ふいに彼の眼は、ごみだめの底の小さな破片を発見した。ピンセットでそれをつまみあげた彼は、角燈の強い光のなかで眼に近づけて見て、レンズをとり出し、綿密にしらべた。「うむ」やっと彼は言った。「これが私のさがしていたものです。さっきの二枚の名刺を出してくれないか、ジャーヴィス」
私は、再構成したレンズを定着させた二枚の名刺をとり出し、それをトランクの蓋《ふた》の上におき、角燈の光をなげかけた。ソーンダイクは、それをしばらくじっと見つめ、さらに目を転じて自分のもっている破片を見つめた。それから警部に向かって言った。「あなたは私がこのガラスの破片をひろいあげるのをごらんになったでしょう?」
「見ました」警部は答えた。
「そして、これらの眼鏡のレンズを、どこで発見したかもごらんになったし、眼鏡がだれのものであったかも知っていますね?」
「知っています。それは死んだ男の眼鏡だし、それらのレンズは死体が発見された場所で発見されたのです」
「よろしい」ソーンダイクは言った。「では、よくごらんください」警部と駅長が口をあけっぱなしにして首を前へさしのばすと、ソーンダイクは小さな破片を一方のレンズのすき間へさし入れてから、軽く前へ押した。すると、破片は、そのすき間にぴたりとはまり、まわりの破片の端と端とがきちんと接続して、レンズのその部分を完全な形にした。
「ほう!」警部が声をあげた。「いったい、どうしておわかりになったのですか?」
「その説明はあとまわしにしなければなりません」ソーンダイクは言った。「まず家のなかを見てみましょう。踏んづけられた一本の巻煙草がみつかるはずです――もしかしたら葉巻かもしれません。それに麦粉でつくったビスケットと、一本の丸い木軸のマッチと、それから、なくなっている帽子も見つかるかもしれません」
帽子のことが持ち出されると、警部は勢いこんで裏口へ行ったが、錠がさしてあるのに気がついて、窓をあけようとした。それも固く戸じまりがしてあったので、ソーンダイクの意見に従って表の扉へまわることにした。
「ここにも錠がおろされています」警部が言った。「厄介ですが、ぶちこわしてはいりこむよりしようがありませんね」
「ちょっと窓のほうをあたってみたらいかがですか」ソーンダイクが示唆した。
警部は小型ナイフで留金をはずそうとして、しきりに、むだ骨を折った。
「だめです」彼は扉のところへもどってきた。「どうしても、やはり――」ふいに言葉をとぎらせると、彼は、びっくりして眼をみはった。扉はちゃんとあいており、ソーンダイクが何かポケットへしまいこんでいたのだ。
「あなたの友人は、けっして時間を浪費なさいませんな――錠をあけることにかけてもね」警部はソーンダイクのあとから家のなかへはいりながら私に話しかけた。だが、まもなく警部のそのような思い入れも、新しいおどろきにのまれてしまった。ソーンダイクは先に立って小さな居間へはいりこんでいた。天井からさがっているランプが暗くされていて、ぼんやりと部屋を照らしていた。
私たちがはいったとき、ソーンダイクは灯を明るくして部屋を見まわした。テーブルの上にウイスキー壜、サイフォン壜、グラス一つ、ビスケットの箱がおいてあった。その箱を指さしてソーンダイクは警部に言った。「その箱のなかをごらんなさい」
警部は蓋をあけてのぞきこんだ。その肩ごしに駅長ものぞいて見て、二人とも目をみはってソーンダイクを見た。
「いったい、どうしてこの家に麦粉でつくったビスケットがあるとわかったのですか?」駅長が叫んだ。
「お話しすれば、がっかりなさるでしょう」ソーンダイクは答えた。「しかし、これをごらんなさい」彼は炉床を指さした。そこに半分ほど吸いさしの、平べったくなった一本の巻煙草と、一本の丸い木軸のマッチがおちていた。警部は、びっくりして声も出ず、それらを見つめていた。駅長のほうは、迷信的な畏怖《いふ》とでもいうしかない表情で、目を大きくあけてソーンダイクを見つめつづけた。
「あなたは死んだ男の所持品を持っていましたね?」ソーンダイクがきいた。
「持っています」警部が答えた。「安全のために私のポケットに入れてあります」
「では」ソーンダイクは平べったくなった巻煙草をひろいあげた。「ちょっと煙草入れを見せてください」
警部がポケットから煙草入れをとり出してひらくと、ソーンダイクは鋭い小型ナイフで巻煙草をきちんと切りひらいた。「さて、煙草入れには、どんな種類の煙草がはいっていますか?」
警部は一つまみ煙草をとり出して、それを眺め、気味わるそうにかいでみた。「これは悪臭を放つ煙草の一種、混合煙草《ミクスチュア》へ入れるやつで――ラタキアではないかと思います」
「そしてこれは?」ソーンダイクは切りひらいた巻煙草を指さしながらたずねた。
「たしかに同じものです」警部は答えた。
「では、つぎに巻煙草の用紙を見てみましょう」
ささやかな一|綴《つづ》りの巻煙草用紙――別々の紙で成り立っているのだから、むしろ束というべきかもしれない――が警部のポケットからとり出された。そのうちの一枚を見本として警部は引き出した。ソーンダイクは、半分吸いさしになっている紙を、そのそばにおいた。警部は、その二枚をくらべてみてから、灯の光にかざした。
「『ジグザグ』の透かし模様は、まず見まちがいようがありませんね」警部は言った。「この巻煙草は故人の手で巻かれたものです。ぜんぜん疑いの余地はありません」
「もう一つ」燃え残りの丸い木軸のマッチをテーブルにおきながら、ソーンダイクは言った。「例のマッチ箱をお持ちでしたね?」
警部は小さな銀の箱をとり出し、それをひらいて、そのなかの丸い木軸のマッチと燃え残りのものとをくらべてみた。そしてパチリとその箱をとじた。
「あなたは徹底的に立証されました」彼は言った。「帽子さえ見つかれば、これで犯罪事実は完全に証明されることになります」
「帽子が見つかっていないとは断言できないようですよ」ソーンダイクは言った。「あの炉格子のなかに、石炭でない何かが燃やされているのにお気づきでしょう」
警部は勢いこんで炉のところへかけより、興奮した手つきで、火の消えたあとに残っているものをひろい出しはじめた。「燃えがらは、まだあたたかい」彼は言った。「たしかに、これは石炭だけの燃えがらではない。石炭の上で粗朶《そだ》が燃やされているが、これらの小さな真黒なかたまりは、石炭でもないし、粗朶でもない。帽子を燃やした燃えかすかもしれません。それにしても、こんなことまで、いったいだれにわかるでしょう。こわれた眼鏡のレンズの破片は寄せ集めることができますが、すこしばかりの燃えかすから帽子をつくりあげることは、おそらくだれにも不可能でしょう」彼は一つかみの小さな、真黒な、海綿状の燃えかすを見せて、悲しげにソーンダイクをながめた。ソーンダイクはそれを受けとって一枚の紙の上においた。
「もちろん、帽子を再構成することはできません」ソーンダイクはうなずいた。「だが、これらの燃えかすの根源を突きとめることはできるかもしれません。結局、帽子の燃えかすではないかもしれません」彼は蝋《ろう》マッチをともし、真黒な燃えかすの一つをとりあげて、炎をあてた。たちまち燃えかすのかたまりは、ぷすぷすと煮えるような音をたてて溶解し、濃い煙をあげた。またたく間に空気は、きつい樹脂の悪臭に満ち、それに動物性の物質の燃える臭気が入りまじった。
「ワニスみたいなにおいがしますね」駅長が言った。
「さよう、シェラック・ワニスです」ソーンダイクは言った。「これで最初のテストは肯定的な結果が出たわけです。つぎのテストは、もうすこし時間がかかるかもしれませんよ」
彼は緑色のトランクをあけ、小さなフラスコ、安全じょうご、逃がし管、小さな折りたたみ三脚台、アルコール・ランプ、伝熱砂盤に使う石綿の平盤などをとり出して、マーシュの砒素《ひそ》テストの準備をした。注意ぶかく燃えがらを見きわめてから、彼はいくつかのかたまりを選び出してフラスコへ入れ、それにアルコールを満たして、石綿の平盤の上におき、その平盤を三脚台にのせた。それから、その下のアルコール・ランプに点火し、腰をおろして、アルコールが沸騰するのを待った。
「ちょっとここで解決しておいたほうがよいと思われる事柄がある」まもなくフラスコのなかが泡だちはじめたとき、彼は言った。「取りつけ液をつけて、載物ガラスを一枚たのむよ、ジャーヴィス」
私が載物ガラスをととのえているあいだに、ソーンダイクはピンセットで卓布から小さな一房の繊維を抜き出した。「この織物は、これまでに見たことがあるような気がします」そう言いながら、彼は小さな一房を取りつけ液のなかにおき、載物ガラスを顕微鏡の載物台へそっとのせた。
「そうです」接眼レンズからのぞきこみながら彼はつづけた。「やはりこれはおなじみの織物でした。赤い羊毛の繊維、青い綿と黄色い黄麻の繊維です。すぐに分類表示を記入しておかなくてはならない。さもないと、ほかの標本と混合するかもしれないからね」
「どうして故人が死ぬにいたったかについて、どうお考えですか?」警部がたずねた。
「そうですね」ソーンダイクは答えた。「私の考えるところでは、殺人犯人は被害者をこの部屋へ誘いこみ、軽い飲食物を出した。犯人は、いまあなたが坐っている椅子に坐り、ブロズキーは、その小型の肘掛け椅子に腰をおろしていた。それから、あのイラクサの茂みのなかで発見された鉄棒で、犯人はブロズキーを襲撃し、最初の一撃で殺しそこない、格闘して、とうとう最後にこの卓布で窒息させたものと思われる。ついでに、もう一つだけ申しあげておきましょう。あなたは、このヒモの切れはしをおぼえているでしょう?」彼は「蒐集箱」から、線路のそばでひろった麻ヒモの短い切れはしをとり出した。警部はうなずいた。「うしろを振り向いてごらんになれば、この出所が見てとれると思います」
すばやく警部は振り向いた。その眼はマントルピースの上のヒモ箱にぶつかった。彼がそれをおろしてくると、ソーンダイクは、そのなかから、緑色のヨリ糸をまぜた白い麻ヒモを引き出して、自分の持っている切れはしとくらべて見た。「緑色のヨリ糸からして同一のものであることは、まずまちがいがありますまい」彼は言った。
「もちろんコウモリ傘と手さげカバンを結びつけるために使ったのです。死体をかついでいたので、手では、そういうものを運ぶことができなかったのです。ところで、もうこちらの標本のほうもできあがったでしょう」
彼は三脚台からフラスコをとりあげ、はげしく振りうごかして、その中身をレンズでしらべた。アルコールは暗褐色になって、ずっと濃くなり、ねばねばした濃度のものになっていた。
「大ざっぱなテストとしては、これで十分な結果が得られたと思います」そう言いながら彼は、トランクから小管《ピペット》と載物ガラスをとり出した。そして小管《ピペット》をフラスコへさし入れ、底から数滴のアルコールを吸引し、載物ガラスの上に、吸引した液体をおとした。
そのアルコールの小さな池の上にカヴァ・ガラスをかぶせ、載物ガラスを顕微鏡の載物台にのせると、彼はそれを丹念にしらべた。かたずをのんで私たちは黙々と彼を見まもっていた。
やがて彼は顔をあげて警部にたずねた。「フェルト帽は何でつくられているか、ごぞんじですか?」
「知っているとはいえませんな」警部が答えた。
「そうですか。上等の部類の帽子は、飼い兎《うさぎ》と野兎の毛でつくってあります――やわらかい下毛です――それをシェラック・ワニスで固めてあるのです。ところで、これらの燃えかすがシェラック・ワニスをふくんでいることは、ほとんど疑う余地がありませんし、また顕微鏡でのぞくと、野兎の小さな毛がたくさん見てとれます。だから、これらの燃えかすは、かたいフエルト帽の残滓《ざんし》であると断言してもいいだろうと思います。また、これらの毛は染められているようには見えませんから、おそらく灰色の帽子であったといえるでしょう」
このとき庭の通路をいそいで近づいてくる足音に話は中断された。私たちがいっせいに振り向くと、相当な年輩の女が部屋へかけこんできた。
彼女は一瞬、びっくりして声も出ないようすで立ちすくんでいたが、一座を一人一人ながめまわしてから、はげしい口調できいた。「あなたがたは、どなたですか? ここで何をしているのですか?」
警部が立ちあがった。「私は警察のものです」彼は言った。「いま、くわしいことはお話しできませんが、失礼ながらあなたはどなたですか?」
「わたしはヒックラーさんの家政婦です」彼女は答えた。
「そしてヒックラーさんは、まもなくお帰りになる予定ですか?」
「いいえ」彼女は、そっけなく返事した。「ヒックラーさんは、いま外出していらっしゃいます。今晩、臨港列車でお出かけになりました」
「アムステルダムへ行かれたのですね?」ソーンダイクがきいた。
「そうだと思います。それがあなたにどんな関係があるのか、わたしにはわかりませんけれどね」家政婦は答えた。
「たぶんダイヤモンド・ブローカーか商人かだろうと思いましたよ」ソーンダイクは言った。「そういう人たちは、あの列車で出かけるのが相当多いのです」
「そうですよ」女は言った。「とにかくあの人は、何かダイヤモンドに関係がありますわ」
「そうですか。では、もう私たちはおいとましなくてはなるまいね、ジャーヴィス」ソーンダイクは言った。「ここの仕事はすんだから、ホテルか宿屋を見つけなくてはならない。警部、ちょっとあなたにお話があるのですが」
警部は、もうすっかり謙虚な、うやうやしい態度になっていた。彼は、私たちにしたがって庭へ出て、ソーンダイクが言い残す助言を聞いた。
「すぐにこの家を押さえて、家政婦を出してしまったほうがいいでしょう。何も動かしてはいけません。あの燃えかすを保存し、ごみだめには、だれにも手を触れさせないようにして、とくに部屋を掃かせないようにすることです。駅長か私かが警察に連絡して、あなたと交代する警官をよこしてもらうようにしましょう」
ねんごろな「おやすみなさい」の声とともに、私たちは駅長に案内されながら、その家を離れた。
このようにして私たちのこの事件との関係は終わりを告げた。ヒックラー(洗礼名はサイラスと判明)は、汽船から上陸したとたんに逮捕され、身につけていた一包みのダイヤモンドは、あとでオスカー・ブロズキーのものであることが確認された。それは事実だが、しかし、彼は公判に付せられなかった。帰国の途中、船が英国の海岸に近づいたとき、彼は一瞬、護送者たちの目をかすめて逃れ、三日後、オーフォードネスのほとりのうらさびしい浜辺に、手錠をはめられた死体がうちあげられるまでは、当局もサイラス・ヒックラーの運命を知るところがなかったのである。
「特異な、しかも常道的な事件にふさわしい劇的な結末だったよ」新聞を下におきながらソーンダイクは言った。「この事件は君の知識の拡大に役立ったことと思うよ、ジャーヴィス、そして君も一つ二つは有益な推論をやれただろうと思うよ」
「それよりも私は、君が法医学の讃歌をうたうのを聞きたいよ」と私は答えながら、天下周知のうじ虫みたいに彼に向かってからかうように、にやにやした(これはうじ虫のやらないことだ)。
「それは先刻承知さ」ひどくしかつめらしい顔つきをして見せながら、彼は切り返した。「私は君がイニシアティヴをとる精神に欠けているのを悲しむよ。それにしても、この事件が例証する点は、こういうことだ。まず第一に遅延の危険。はかなく消え去りやすい手がかりが蒸発してしまわないうちに、ただちに行動することの重要性。あの場合にしても、数時間も遅延すれば、ほとんど何ひとつ資料は残されていなかっただろう。第二に、きわめて微小な手がかりを徹底的に追及することの必要。あの眼鏡の場合に例証されたようにね。第三に、訓練された科学者が警察に助力することの急務。そして最後に」彼は微笑して、しめくくりをつけた。「底知れぬほど貴重な緑色のトランクを持たずには、けっして外へ出て行くべきではないと身にしみて知ったことだ」
[#改ページ]
計画された事件
1 プラット氏抹殺さる
優良ぶどう酒を注文してその代金を払ってくれたお客さんに、委託販売の下等のぶどう酒をとどけたりしたら、その酒屋は、たちまち指弾のまととなるにちがいない。いや、それどころか、法律的な懲罰すらもまぬがれないだろう。しかも、一等の料金を支払った乗客を、彼が相乗りしたくないと思っている種類の乗客と同じ車室へつめこむようなことをする鉄道会社にしても、実質上その酒屋と変わりはあるまい。だが、法人の良心というものは、ハーバート・スペンサー〔英国の哲学者、社会学者。一八二〇―一九〇三年〕がくりかえし説いているように、個人の良心よりも格段に低級な産物なのである。
ケント州の首都メイズストン市の西駅から列車が発車しかけた瞬間、一人の下品な、たくましい男(あきらかに三等客)を車掌が車室へおし入れたとき、ルーファス・ペンベリー氏は、そんなふうなことを考えたのであった。高い料金を払ったのは、クッションのついた座席に坐《すわ》りたいためではなく、隔離されていたいため、すくなくとも高級な乗客と同車したいためなのだ。それなのに、こういう下品な男がはいりこんできてしまったので、ペンベリー氏は、すっかりふきげんになった。
だが、この未知の男の出現が会社側の契約違反であるとすれば、この男の行為そのものは真っ向からの侮辱であり――まことに許しがたいふるまいというべきだった。というのは、列車が発車したとたんに、男は無礼な眼つきでペンベリー氏を見すえ、それからポリネシアの偶像みたいにじっとまたたきもせず睨《にら》みつづけていたからである。
いいかげん腹にすえかねるばかりでなく、ひどく不安をそそるふるまいでもあったので、ペンベリー氏は、いらだたしさをつのらせ、かんしゃくを起こしながら、座席でそわそわとおちつかず、手帳をのぞきこんだり、手紙を読んでみたり、名刺を整理したりしていた。コウモリ傘をひらいてみようかとも思ったりした。とうとうしまいに、がまんしきれなくなり、怒りが煮えくりかえってきたので、彼は未知の男に向かって、冷たく抗議した。
「このくらい熱心にごらんになったら、こんど会っても、わけなく私だということがわかると思います――二度と会いたくもないが」
「十万人のなかでも、おれは君がわかるよ」意外な返答にペンベリー氏は唖然《あぜん》とした。
「なにしろ」未知の男は、きめつけるような調子でつづけた。「おれは人の面相を記憶する天分をそなえているのでね。忘れはしないよ」
「それはまたお楽しみなことですな」ペンベリーは言った。
「おれには非常に役に立つのだよ」未知の男は言った。「すくなくとも、おれがポートランド刑務所〔ドーセットシア州南端にある刑務所〕の看守だった時分には、そうだった――たぶん君もおれをおぼえているはずだ――名前はプラットというのだ。君がいたころは看守補だったがね。神に見すてられた地獄、ポートランド刑務所、あそこから面通《めんとお》しのために上京させられるときには、おれは、いつもうれしかった。あのころ未決監はホロウェイにあった。君もおぼえているだろう。ブリクストンへ移る前さ」
プラットは思い出ばなしに一息入れた。愕然《がくぜん》として蒼《あお》ざめ、息をはずませていたペンベリーは、ぐっと立ち直った。
「あなたは何か人ちがいをしているんじゃありませんか」
「いや」プラットは答えた。「君はフランシス・ドッブズ――それが君の正体さ。十二年ばかり前の晩、ポートランド刑務所から逃亡し、あくる日、その衣類は岬へうちあげられたが、脱獄囚は影も形も見つからなかった。無類の達者な逃亡ぶりだ。だが、常習犯記録課には、二枚の写真と一そろいの指紋がある。君だって記録課まで行ってみたいと思うだろう?」
「どうして私が常習犯記録課へ行ったりしなければならないのですか?」ペンベリーは消え入るような調子でたずねた。
「まったくね。どうしてそんなことをしなければならないのだろうね。資産家でもあるし、分別よく投資もやっている君には、そんな必要はすこしもないだろうにね」
ペンベリーは窓の外を見やり、しばらく石のようにだまりこんでいた。やがて、いきなりプラットに向かって言った。「いくらだ?」
「一年二百ポンド程度なら、君のふところにもこたえないと思うがね」プラットは落ちつきはらって答えた。
ペンベリーは、ちょっと思案した。「どういうわけで、私を資産家だと思うのですか?」
プラットは気味のわるい薄笑いを見せた。「あんたも相当の役者だね、ペンベリーさん」彼は言った。「おれは君のことを、すっかり知っているんだよ。なにせ、この六か月間というもの、おれは君の家から半マイル足らずのところで暮らしていたのだからね」
「そうか!」
「そうよ。刑務所を退職してから、オゴーマン将軍がベイスフォードの屋敷の執事か管理人みたいな役にとり立ててくれたのだ――ごくたまにしか、将軍自身は、あそこへは来やしない――ところが、おれが屋敷へお目見得《おめみえ》したその日に、ぽっかり君と出くわしてしまった。すぐに君だと当たりをつけたわけだが、当然こっちは君に姿を見られないようにしていた。君と話をする前に、君が何かの役に立つかどうかを知っておかなくてはならないと思ったものだから、おれは聞きこみ調査に血道をあげた。そして、とうとう、君が一年二百ポンドの貢《みつ》ぎ役になれると知ったわけさ」
ちょっと沈黙の間をおいてから、前看守は、また言った。「それも人の面相を記憶していられる天分の功徳というものさ。げんにジャック・エリスを見るがいい。二年このかた、目と鼻のさきに君の姿を見てきているにちがいないのに、まだそれと気づいてはいないじゃないか――いつまでたっても奴は気づきはしないだろうよ」虚栄心にかられて、ついぶちまけたのを早くも後悔しながらも、プラットはそうつけくわえた。
「ジャック・エリスというのは、だれですか?」ペンベリーが鋭くきいた。
「なに、ベイスフォードの警察署の臨時雇員みたいなもので、半端《はんぱ》仕事をやっているんだ。田舎まわりの刑事をやったり、事務を手つだったりな。君がいたころは、ポートランド刑務所で警備員をやっていたんだが、左の人さし指をちょん切ったものだから、恩給つきで退職になり、ベイスフォード出身なので、いまの仕事にありついたんだ。それにしても、こんりんざい奴は君には気づきゃしないから、その点は安心するがいい」
「あんたの差金《さしがね》がないかぎりね」
「その心配は無用というものさ」プラットは笑った。「おれを信頼して、君はおれの巣守《すも》り卵の上にそっと坐っていれば、それでいいのさ。それに、奴はおれとあまり仲がよくないのだ。あの野郎、将軍の屋敷の小間使いの尻を追いまわして、うるさくつきまとうものだから――女房があるのによ――まもなくおれが奴を追っぱらってやったんだ。だから、いまでは、ジャック・エリスの奴、おれが気に入らないのさ」
「なるほどね」ペンベリーは思いめぐらすように言った。そして、ちょっと間をおいてから、たずねた。「そのオゴーマン将軍というのは、どんな人ですか? 名前だけは私も知っているような気がするのだが」
「知っているはずだよ」プラットは言った。「将軍はダートムア刑務所〔デヴォンシア州にある刑務所〕の所長をしていたんだもの――おれがあそこにいた時分さ。あそこを最後に、おれはやめたんだ――ついでに言っておくがね、もし君がいたころポートランド刑務所に将軍がいたら、いくら君でも、おそらく逃亡できなかったろうと思うよ」
「それはどういう意味?」
「将軍は警察犬にかけては屈指の大家だということさ。ダートムア刑務所では警察犬を飼っていたし、囚人どもも、それを心得ていたから、将軍の所長時代には、一人も逃亡をくわだてた奴がなかった。逃げきれる見こみはなかったろうからね」
「いまでも飼っているでしょう?」ペンベリーはきいた。
「そうとも。ふんだんに時間をかけて、犬どもの訓練をやっているよ。あの近隣に押込み強盗か殺人でもあれば、その犬どもを実地に使ってみたいというので首を長くしてお待ちかねなのだが、まだその機会にぶつからないんだ。悪党どもも、おそらくあの警察犬の噂を聞きこんでいるのだろう。ところで、さっきの取りきめのことに話をもどそうじゃないか。二百ポンドを年四回払いということで、どうだね?」
「即座にはきめられないよ」ペンベリーは言った。「いくらか考える時間をあたえてくれなくちゃ」
「いいとも」プラットは言った。「あしたの晩、おれはベイスフォードへ帰る。そうすれば、まる一日、君に考える時間をあたえることになる。あしたの夜、君の家へ顔を出すことにしようか?」
「いや」ペンベリーは答えた。「あんたが私のところで顔を見られるのはまずい。私もあんたのところで顔を見られたくない。どこか静かな、だれにも見られない場所で会いたい。そうすれば、二人が会ったことを、だれにも知られずに、話をきめることができる。それほど時間もかかるまいし、なんといっても用心が肝心だから……」
「もっともだ」プラットは同意した。「では、こうしよう。おれのいる屋敷の玄関に通じる並木道――あれは君も知っているだろう――あそこには門番小屋も何もないし、門も、夜以外はいつもあけっ放しになっている。おれは下り列車で六時三十分にベイスフォードに着く。駅から屋敷までは十五分だ。あの並木道で七時十五分前に会うことにしよう。どうかね?」
「私のほうは、それで結構だ」ペンベリーは言った。「警察犬どもが、あそこの地所うちをうろつきまわっていないのがたしかであるならね」
「とんでもない」プラットは笑った。「将軍が、大事な犬どもをうろつかせて、ケチな悪党に毒入りのソーセージを食わされるような無分別な真似をすると思うかね。犬どもは家の裏の犬小屋に入れて、ちゃんと鍵がかけてあるよ。おや、もうスワンリー駅へ来たようだ。おれはここで喫煙車に乗り換えて、君に、ひとりきりでとっくりと考えるゆとりをあたえることにしようよ。それじゃ、あしたの晩七時十五分前に並木道で会おう。そのとき、最初の四半期分――五十ポンドを、こまかい紙幣か金貨で持ってきてもらいたい」
「よろしい」ペンベリーは言った。はなはだ冷静な口調だが、頬はあからみ、眼は憤《いきどお》ろしげに光っていた。たぶん前看守もそれに気づいたのだろう。車室を出て扉をしめたが、すぐに窓から首をつっこんで威嚇《いかく》するように言った――
「ひとこと、つけくわえておくがね、ペンベリーことドッブズさん、変な真似をしてはいけないよ。おれは古狸《ふるだぬき》だ。抜け目はないからね。おれに向かって、へたなことは仕掛けねえことだ。それだけさ」彼は首を引っこめて姿を消した。あとにペンベリーは、ひとり思いめぐらした。
どんな性質のことを彼は思いめぐらしたか。もし精神感応術師が、かくされたトランプの絵札や行方不明になった指ぬきから、一瞬もっと実際的な問題に注意を移し――それをプラットの心に伝えたなら、この前看守も、いささかおどろき、たぶんいささか不安もおぼえたことだろう。長年、刑務所で服役中の犯罪者をあつかってきた体験から、彼は世間に解放された場合の犯罪者の行動について、いささか見当はずれの考えを抱くようになっていた。実のところ彼は、相手の前科者を、かなり過小評価していたのである。
ルーファス・ペンベリー――このほうが実名で、ドッブズというのは根も葉もない変名だった――は強い性格の、知的な男だった。だから、犯罪の道をたどってみて、それがやりがいのない仕事だと見きわめると、さっさとそれを放棄してしまった。ポートランド岬の沖で彼を救いあげてくれた家畜輸送船によってアメリカの港へ運ばれると、彼は自分のすべての才能と精力を合法的な商業方面の仕事にうちこんだ。それが目ざましい成功をおさめ、十年ほどたつと、彼は相当な資産をもってイギリスへ帰ることができた。それから、ベイスフォードの小さな町の近くに、手ごろな家を手に入れ、そこで過去二年間、貯蓄の金で静かに暮らしてきた。そして、いささか排他的な傾向のある土地の社交界から、たいして苦労もなく完全に孤立して生活していたのである。そして、そのまま生涯平和に暮らしたかもしれないのだが、不運にもプラットという男が身辺にあらわれた。プラットの出現は、彼の安全な生活を、根こそぎくつがえした。
恐喝して他人から金品をまきあげるような男には、まことにおもしろくない点がある。それは、どんな取りきめをしても、恒久的な効力がないことだ。恐喝者は、どんな了解事項を持ち出しても、それをみずから守ろうとはしないのである。いったん売ったものでも、いつまでも自分の持ちものと心得ていて、二度でも三度でも売りつける。解放する約束で身代金《みのしろきん》は受けとるが、足ぐさりの鍵は、みずから握っていて離さない。要するに恐喝者というものは、まったくやりきれない人間なのだ。
このようなことを、ルーファス・ペンベリーは、プラットが取りきめのことを言っているあいだも、心のなかで考えていたのであった。そして、そのような提案を受け入れるつもりは全然なかった。前看守が言い残して行ったように「とっくりと考える」必要など、すこしもなかったのだ。すでに彼の心はきまっていたのである。彼の決意は、プラットが正体を暴露した瞬間に、ちゃんとできあがっていた。結論は自明だった。プラットが出現するまでは、自分は平和で安全だった。プラットが存在するかぎり、自分の自由は一瞬一瞬、危険へ追いつめられてゆく。プラットが消えさえすれば自分の平和と安全は復活するだろう。したがってプラットは消されねばならない。
これは論理的な帰結だった。
だから、それから旅路の終わりまで、ペンベリーが瞑想《めいそう》に沈みながら思いめぐらしていたのは、年四回にわけて払ってやる金のことなどではなかった。プラット前看守を抹殺するについての事柄にほかならなかったのだ。
ところで、ルーファス・ペンベリーは、獰猛《どうもう》な人間ではなかった。残酷ですらなかった。ただ、ある種の大らかな犬儒《けんじゅ》哲学的精神の持ち主で、小さな感情を無視し、大筋の主要な点だけを注視した。熊蜂《くまばち》が茶碗の上をぶんぶん飛びまわったなら、彼はその熊蜂をたたきつぶすだろう。だが素手では、やることはしないだろう。熊蜂は攻撃手段をそなえている。それをどう用いるかは熊蜂の関心事であり、そして彼の関心事は刺されるのを避けることである。
プラットの場合も同じだ。あの男は、自分自身の利益のために、ペンベリーの自由をおびやかそうと乗り出してきたのである。よろしい。みずからの危険を覚悟の上で、やってきたのである。その危険はペンベリーの関心事ではない。ペンベリーの関心事は自分の身の安全である。
ペンベリーはチャリング・クロス駅で下車すると、(プラットが駅から出て行くのを見守ってから)バッキンガム街へ足を向け、ストランド街の静かな予約制のホテルへ行った。女支配人が、待ちうけていたようにあいさつして鍵をわたしてくれた。
「ご滞在ですか、ペンベリーさん」
「いや」と彼は答えた。「あすの朝帰るのだが、すぐまた来るかもしれない。ところで、どこかの部屋に百科事典が備えつけてあったようだが、ちょっとあれを見せてもらえるかね」
「応接室にありますわ」と女支配人は言った。「ご案内しましょうか――でも場所は知っていらっしゃいますわね」
もちろんペンベリーは知っていた。二階だった。気分のいい旧式な部屋で、静かな古い街を見おろしていた。小説本のならんだ書棚に、地味な装幀のチェンバー百科事典がそろっていた。
田舎から上京した紳士が、「猟犬」の項をひらいて見たところで、むとんちゃくな人の眼には、さほど不自然には映らないであろう。だが、研究心のつよい紳士が、猟犬から血の項目へ、さらに香水のことばかり書きならべた項目へと移って行くとすれば、どんなむとんちゃくな人でも、いささかびっくりするにちがいない。さらにまたその人が、それからのペンベリー氏の行動を観察しつづけたとすれば、わけてもそれが、地上の人口のなかのよけいな一人を排除することを直接目的とする男の行動であると考えたとすれば、そのおどろきを、いよいよ強めたことであろう。
ペンベリーは自分の部屋にカバンとコウモリ傘をおいて、はっきりした目的をもつ人間らしい態度でホテルを出た。彼の足は、まずストランド街のコウモリ傘屋へ向かった。その店で彼は太い籐《とう》のステッキを選び出した。それには何も異とする点はなかったが、そのステッキが不似合いの太さのものであったので、店員が反対した。「いや、私は太いステッキが好きなのだよ」とペンベリーは言った。
「はい、それにしましても、あなたさまの背丈の紳士がお持ちになるにしては」(ペンベリーは小柄な、華奢《きゃしゃ》な体格の男だった)「どうも――」
「私は太いステッキが好きなのだよ」ペンベリーはくりかえした。「これを適当な長さに切って、石突きを鋲《びょう》留めにしないでもらいたい。家へ帰ってから自分でくっつけるからね」
つぎに彼が買った品物は、より一層目的に合致しているように思われた。もっとも、意外に無骨な手段を思わせるものではあったが、それはノルウェー風の大型ナイフだった。しかし、それに満足した彼は、すぐにまた別の刃物屋へ行って、もう一本、まったく同じナイフを買った。いったい、なんのために、まったく同じナイフが二本必要なのか? そして、その二本を、なぜ同じ店で買わなかったのか? 実に奇妙なことではあった。
ルーファス・ペンベリーは根強い買いもの熱にとりつかれているようだった。それから半時間のうちに、彼は、安物のハンドバッグ、黒|漆《うるし》塗りの絵筆箱、三角ヤスリ、棒状の弾性ニカワ、ルツボ用の鉄バサミなどを買いこんだ。しかも、まだそれにあきたらず、横町の旧式な薬剤師の店へ行って、吸着性の脱脂綿を一包み、過マンガン酸カリ一オンスを仕入れた。そして薬剤師が、巫術《ふじゅつ》師じみた神秘的な薬剤師特有の態度でそれらの品を紙にくるんでいるのを、無表情に見つめていたペンベリーは、さりげなくたずねた。
「麝香《じゃこう》はないだろうね?」
薬剤師は封蝋《ふうろう》の棒をあたためていた手をとめ、呪文でもとなえようとするかに見えたが、ただこう答えただけだった。「ございません。純粋の麝香は非常に高価なものですから、おいてありませんが、香水ならございます」
「それは純粋のものに劣らず香気が強いだろうね?」
「いいえ」奇妙な微笑をみせて薬剤師は答えた。「それほど強くはございませんが、かなり強うございます。このような動物性の香水は、非常に滲透《しんとう》性がありますし、それに永続性がございます。食卓用のスプーンに一杯、この香水を、セント・ポール寺院のまんなかにふりまくといたしますと、まず六か月のあいだは寺院に香気が立ちこめていますでしょう」
「まさか」ペンベリーは言った。「しかし、まあ、だれが用いるにしても、その香水で満足しなければならないだろう。すこしばかり、それをもらおうか。壜《びん》の外側にくっつかないように気をつけてもらいたい。それは私が用いるんじゃないのだ。それに私は、麝香猫みたいなにおいをさせながら歩きまわったりするのは、まっぴらだよ」
「ごもっとも」薬剤師は言ってから、一オンス壜と、小さなガラス漏斗《ろうと》と、「麝香香水」とレッテルが貼ってあって栓をした壜を持ち出してきて、ちょっとばかり手品じみた芸当をやってのけた。
「このとおり」芸当がすむと薬剤師は言った。「壜の外側には一滴もこぼれておりません。これにゴム栓をしっかり詰めておけば、まず無事安泰というものでしょう」
ペンベリーの麝香にたいする嫌悪は極端なもののようであった。薬剤師が、おなじみの死霊と会話でもするかのように、(実は半クラウン銀貨の釣り銭を出すためだったのだが)しめきった小部屋へはいってしまうと、ペンベリーは自分のカバンから絵筆箱をとり出して蓋《ふた》をあけ、鉄バサミを用いて香水の壜をカウンターから潔癖らしくはさみとり、そっと絵筆箱のなかへすべりこませ、蓋をしめて、また絵筆箱と鉄バサミをカバンのなかへ入れた。それから、ほかの二品の包みをカウンターからとりあげて、ポケットのなかへおとしこんだ。そして、魔術師さながら、一枚の半クラウン銀貨を奇蹟的に四枚の一ペニー銅貨に変化させた主人が、釣り銭を手わたすと、ペンベリーは、その店を出て、思案するような足どりでストランド街のほうへ引きかえした。ふいに何か新しい名案が浮かんだらしく、彼は立ちどまって、しばらく考えこみ、それから大股《おおまた》で北へ向かって行った。すべての買いもののうちでも、もっとも奇妙な買いものをするためだった。
その取引きは、セヴン・ダイアル地区の一つの店でおこなわれた。その店の風変わりな商品は、巻貝からアンゴラ猫にいたるまで、動物界の全域におよんでいた。ショウ・ウィンドーの籠《かご》のなかの天竺鼠《てんじくねずみ》をちらと見てから、ペンベリーは店のなかへはいった。
「死んだ天竺鼠はないかね?」と彼はきいた。
「いえ、うちのはみんな生きていまさ」主人はそう答えて、にやにや不吉に笑いながら言いそえた。「でも、死なねえ奴らじゃござんせんがね」
ペンベリーは、虫が好かぬような顔つきで主人を見やった。天竺鼠と恐喝者とのあいだには、たしかに大きな距離がある。「小さな哺乳動物なら、なんでもいいよ」
「あの籠に鼠が一ぴき死んでいますよ。もしあれで間に合うんでしたらね」主人は言った。「けさ死んだばかりで、まだホヤホヤですよ」
「あの鼠をもらおう」ペンベリーは言った。「あれでじゅうぶん間に合うだろう」
かくて、その小さな死体は包みこまれ、カバンに入れられた。いくばくかの礼金を出して、ペンベリーはホテルへもどった。
軽く昼食をとってから彼は外出し、今度の上京の目的だった用件を片づけながら、ずっと日中をすごした。レストランで夕食をして十時までホテルへ帰らなかった。帰ると、鍵をとり出し、持ってきた買いものを小脇にかかえて、寝るために部屋へはいった。だが、衣類をぬぐ前に――ドアに鍵をかけてから――彼は、まことに奇妙な、不可解なことをやった。新しく買ってきたステッキから、ゆるい石突きを抜きとり、その下端にヤスリの尖ったさきで穴をあけた。それからヤスリを掘鑿《くっさく》器のように使って穴を大きくし、最後に下端の底のまわりにせまいふちだけが残るようにした。つぎに脱脂綿を小さな玉にまるめ、それを石突きの穴のなかへ詰めこんだ。そしてステッキの下端に弾性ニカワを塗りつけ、石突きをはめこんで、ガスの火であたためてニカワをくっつけた。
ステッキの細工をすませると、今度はノルウェー風のナイフの一本に心を向けた。まず、刃が折り入れてある木製の柄から、けばけばしい黄色いワニスをヤスリで注意ぶかくこすりとった。
すっかりこすりとってしまってから、刃を起こして、買いこんできた包みのヒモを切り、動物商から買った死んだ鼠をとり出した。そして、それを一枚の紙の上に横たえて首を切りおとし、しっぽをつまんでぶらさげながら、首の切口から流れ出る血をナイフへたらし、指さきでその血を刃の両面や柄にひろげた。
それからナイフを紙の上におき、そっと窓をあけた。下方の暗がりから猫の声がきこえた。どうやら半音階の発声法を完璧化しようと努力しているようであった。その方向に向かってペンベリーは鼠の胴体と首を投げてやり、窓をしめた。最後に、両手を洗い、包み紙を炉のなかへ放りこんでからベッドへはいった。
あくる朝になってからの彼の行動も、やはり謎めいていた。早く朝食をすませると、寝室へもどり、鍵をかけて閉じこもった。そして新品のステッキを、化粧テーブルの脚へ、握りのほうを下にして、しばりつけた。つぎに、絵筆箱から香水の小壜を鉄バサミではさんでとり出し、クンクンかいでみて、じっさいに壜の外側に香気がついていないのをたしかめてから、ゴム栓を抜いた。そして、ゆっくりと、きわめて注意ぶかく、香水を数滴――茶さじに半分ぐらい――ステッキの石突きの穴からふくれ出している脱脂綿にそそぎ、この吸着性の脱脂綿にすっかり香水がしみ通るのを、慎重に見まもった。それが滲透してしまうと、彼はナイフにも同じように処置をほどこしはじめた。木製の柄に香水を一滴おとすと、香水は、たやすくしみこんで行った。これが終わると、そっと窓をあけて、外を見た。真下の小さな庭に、色のあせた月桂樹が二本しげっていた。というよりも、おぼつかなく命脈をたもっていた。例の鼠の死体は、どこにも見あたらなかった。どうやら夜のあいだに神隠しにされたようである。彼は鉄バサミではさんだ小壜を月桂樹の茂みのなかへおとし、ゴム栓も投げおとした。
つぎに、自分の化粧カバンから、チューブ入りのワセリンをとり出した。そして、すこしばかりしぼり出して指につけ、絵筆箱の容器の部分の肩や蓋の内部に念入りに塗りつけ、合わせ目から空気が洩《も》れないようにした。指をぬぐってから、鉄バサミでナイフをはさみ、絵筆箱へ入れると、すぐに蓋をしめた。そして、鉄バサミのさきをガスの炎で熱し、香気を消し去ってから、鉄バサミと絵筆箱をカバンのなかへ入れ、しばりつけておいたステッキを――注意ぶかく石突きにふれないようにして――ほどいた。そして二つのカバンを持ち、ステッキのなかほどを握りながら、彼は部屋を出ていった。
朝のこうした時間には、一等の乗客は、ほとんどいなかったので、ぞうさなく空いている車室を見つけることができた。ペンベリーは、車掌の笛が鳴るまでプラットホームで待っていて、鳴ったとたんに車室へはいり、ドアをしめてステッキを座席におき、その石突きを向かい側の座席の窓の外へ出した。列車がベイスフォード駅に着くまで、そんなふうにしておいた。
ペンベリーはカバンを手荷物預り所にあずけ、やはりステッキのなかほどを握りながら、駅を出た。ベイスフォードの町は、駅の東方半マイルほどのところにあり、彼の家は街道を西へ一マイル行ったところにあった。そして、彼の家と駅とのほぼ中間にオゴーマン将軍の屋敷があった。彼はそこをよく知っていた。もとは農場付属の屋敷で、ひろびろとした平坦な牧草地の端に建っていて、街道から並木道が通じていた。ほとんど三百ヤードにわたって老樹の立ちならぶ並木道だった。街道から、この並木道へはいりこむところに、両開きの鉄門があったが、これは単なる装飾にすぎなかった。屋敷には塀がなく、だから、まわりの牧草地から、わけなく行くことができた――事実、道ともいえぬような小道が牧草地を横ぎって並木道のなかほどを横断していた。
いま、ペンベリーは、並木道を目ざして小道をたどりながら、そこへ近づいて行った。小道の段や土手を越えるたびに、彼は立ちどまって、あたりの田舎風景を見まわした。やがて、せまい小道の前方に並木道が見えてきた。二本の木のあいだを抜けて彼は並木道へはいりこみ、足をとめて、あたりを見まわした。
しばらく耳をすまして立っていたが、木の葉のかすかな音がするだけで、ほかに物音は何もきこえなかった。あきらかに、だれも近くにはいないようだった。プラットが平気で外をうろつきまわっている点から考えても、将軍は屋敷にいないらしかった。
そこでペンベリーは、異常な熱意を見せて近くの木々を検討しはじめた。彼が通りぬけた二本の木は、一方がニレ、一方が短く刈りこんだカシワの巨木だった。イボの多いカシワの巨大な幹は、地面から七フィートほどのところで三つの枝に分かれており、しかも、その一つ一つの枝が相当な太さの木の幹ぐらいあった。そのなかのいちばん大きな枝が大きく弧を描いて並木道の半ばくらいまで張り出していた。この元老株の巨木に、ペンベリーは、とくに注意を向けた。まわりを一周して見てから、カバンとステッキを下においた。(ステッキはカバンの上に横たえた。だから、石突きの部分は地面から離れていた)そして、でこぼこしたコブを足がかりにして、その木へのぼり、樹冠をしらべはじめた。ちょうど三つの枝の中間までのぼったとき、鉄門のきしる音がして、急ぎ足の足音が並木道にきこえてきた。すばやく彼はすべりおりて、自分の携帯品をつかみ、巨大な幹のかげに身を寄せて立った。
「見られないほうがいい」と思い、木の幹にからだをつけて待ちながら、用心ぶかく幹のかげからのぞいていた。まもなく、動く人影がのびてきて、だれかが近づいたことを知らせた。彼は、くるりとまわって、自分自身と邪魔者とのあいだに幹が立ちはだかるようにした。足音が近づいて木の向こう側へきた。そして通りすぎて行くと、ペンベリーは幹のかげからのぞいて、向こうへ去って行く姿を見た。郵便集配人にすぎなかった。それにしても、その男はペンベリーを知っていたので、やはりかくれていてよかったとペンベリーは思った。
どうやら、このカシワの木は、彼の注文に合わないようだった。彼は木のかげから出て、あちらこちら見まわした。そして、ニレの木の向こうに、短く刈りこまれたシデの老樹を見つけた。奇妙な、風変わりな木で、幹がラッパ型に上方にひろがって広い樹冠になっており、その端から、たくさんの枝が、不気味な木の精の四肢のように出ていた。
ひとめ見るなり、彼はその木が気に入ったが、まだそのままカシワの木のかげに身をひそめて、例の郵便集配人が、きびきびした足どりで陽気に口笛をふきながら並木道を通って行ってしまい、ふたたびあたりが寂寥《せきりょう》の境にかえるまで待っていた。それから決然とした態度でシデの木に向かった。
シデの木の樹冠は、地面からわずか六フィートばかりで、たやすくとどくことがわかった。木にステッキを――こんどは石突きを下にして立てかけ――カバンから絵筆箱をとり出し、蓋をあけ、鉄バサミでナイフをはさみ出して、それを樹冠の上へ下から見えないように横たえた。鉄バサミも――やはり見えないように――ナイフをはさんだままそこへおいた。絵筆箱をカバンへもどそうとしかけたが、ちょっと考え直したらしく、鼻でクンクンかいでみて、胸がわるくなるような臭気を放っているのを知ると、蓋をしめた絵筆箱を木のなかへ放りこんだ。それが幹のまんなかにあいている洞穴のなかへころがりこむ音を彼は聞いた。それからカバンをとじ、ステッキの握りをつかんで、ニレとカシワの木のあいだをぬけて並木道から去った。そして、もときた方向へと、ゆっくり引きかえして行った。
たしかに彼は特異な歩きかたをしていた。ステッキを地面に引きずりながら、極度にゆっくりと歩き、数歩行くごとに立ちどまっては、しっかりと石突きを地面へおしつけた。だれが目撃したにしても、まるで深い瞑想にふけっているような姿だった。
こうして彼は、牧草地から田畑のあいだを通りすぎて行ったが、しかし、街道へはもどらずに、さらにずっと田畑のあいだを通って行き、やがて本通りへ通じるせまい細道へ出た。細道の真向かいに警察署があった。近くの田舎家と異なっているのは、ただ軒燈《けんとう》と、あけ放たれている扉と、貼り出されている掲示だけだった。ペンベリーは、やはりステッキを引きずりながら、まっすぐに道を横ぎって行って警察署の玄関に立ちどまり、上り段にステッキをついて掲示を読みはじめた。扉のあけ放たれた入口の向こうに、机に向かって書きものをしている一人の男の姿が見えた。こちらに背を向けていたが、まもなく身を動かすと、その男の左手が見えてきた。その手に人さし指がないのを、ペンベリーは見てとった。では、あれがポートランド刑務所の前警備員ジャック・エリスか。
ペンベリーが見つめているうちに、男がこちらへ顔を向けたので、すぐにわかった。ベイスフォードと隣接しているソープ村とのあいだの小道で、いつも同じ時間に、しばしば顔を合わせたことのある男だった。どうやらエリスは毎日ソープ村へ出かけるらしかった――たぶん駐在所の巡査の報告を聞きに行くのだろう――三時から四時までのあいだに署を出て、七時から七時十五分までのあいだに戻ってくるのだ。
ペンベリーは自分の時計を見た。三時十五分だった。何か思いめぐらすような表情で、彼は警察署の前から(こんどはステッキのなかほどを握りながら)引きあげ、ゆっくりとソープ村の方向へ――西へ向かって歩きはじめた。
しばらくのあいだ、彼は深く考えこんでいて、顔に困惑のしわをきざんでいた。だが、やがてふいにその顔は晴れやかになり、一段ときびきびした足どりで大股に歩いて行った。ほどなく生垣のすきまから小道に並行した畑のなかへはいりこみ、財布――豚革の小袋をとり出した。中身をあけて、数シリングだけ残しておき、ふつう金貨か紙幣を入れるようになっている小さな仕切りのなかへ、ステッキの石突きをおし入れた。
こんなふうに下端に財布をかぶせた恰好《かっこう》のステッキのなかほどを握りながら、ゆっくりと彼は歩きつづけた。
やがて、小道が急角度に二度まがり、後方が、かなり遠くまで見通せる個所へ出た。ここで彼は、生垣の蔭の小さなすきまを前にして坐りこみ、待ちうけた。生垣の蔭にいるので、ごくまれに通る通行人の眼からは完全にさえぎられていた。しかも見通しはきくのである。
十五分すぎた。彼は不安をおぼえはじめた。見当ちがいをしたのだろうか? おれが考えたように、エリスは毎日出かけるのではなく、時たま出かけるだけだったのだろうか? そうだとすると、手ひどい破綻《はたん》にはならないにしても、めんどうなことになるかもしれない。そんなことを考えていたとき、威勢よく道路を進んでくる人間の姿が見えてきた。ペンベリーは、それがエリスであることに気がついた。
ところが、このとき、もう一人の人間が、反対の方向からやってきたのである。労働者らしかった。ペンベリーは場所を変えようとしかけたが、もう一度見ると、どうやら労働者のほうがさきに通りすぎるらしいとわかったので、そのまま待ちうけることにした。やがて労働者がやってきて、生垣のすきまの前を通りすぎた。そのとき、一瞬、エリスは道路のまがり目に姿を消した。すぐにペンベリーは、生垣のすきまからステッキを突き出し、財布を振りおとして、それを道のまんなかへ押しやった。そして、生垣の蔭をこっそりと、近づいてくるエリスのほうへ近づき、そこへ坐ったまま待ちうけていた。それとは知らぬエリスの、しっかりした足音が近づき、そして通りすぎたとき、ペンベリーは、前をさえぎっている枝をかきわけて、向こうへ行く彼の後ろ姿をのぞいた。エリスは、あの財布を見るだろうか? それが眼前の問題だった。あまり目立つ財布ではなかったのだ。
ふいに足音がとまった。ペンベリーが見ていると、その警察署員は、身をかがめて財布をひろいあげ、中身をしらべて、最後にそれをズボンのポケットへ入れた。ペンベリーは安堵《あんど》のため息をついた。そして、次第に遠ざかって行くエリスの姿が小道をまがって消えると、ペンベリーは立ちあがり、ぐっとのびをして、元気にそこから歩き去ろうとした。
生垣のすきまの近くに、一群れの藁《わら》の山があった。そこを通りすぎたとき、ふと一つの考えが浮かんだ。すばやくあたりを見まわして、彼は、一つの藁の山の向こう側へまわり、そのなかへ深くステッキをさしこみ、そばにあった棒切れをひろいあげて、それでぐっと奥のほうへ押しこんで、ステッキの握りが藁のなかにかくれてしまうようにした。もう手に残っているのはカバンだけであり、それも空っぽになっていた――ほかの買いものは、すべて化粧カバンのなかに入れてあったからだ。その化粧カバンも駅からとってこなくてはならなかった。彼は手にしたカバンをあけて内部のにおいをかいでみた。なんの臭気もかぎとれなかったが、できればすててしまおうと心をきめた。
生垣のすきまから出ようとしたとき、一台の荷車が、ゆれながら、のろのろと通りすぎた。大きな袋を高く積みあげていて、尾板がおろされていた。小道へ出た彼は、すばやく荷馬車に追いつき、ちらりとあたりを見まわしてから、カバンを軽く尾板の上においた。そして駅へ向かって行った。
家へ帰ると、まっすぐ寝室へあがり、呼鈴を鳴らして、家政婦に、≪こく≫のある食事の支度を命じた。それから、衣類をすっかり脱ぎ、シャツや靴下やネクタイまでも、一つのトランクへ入れた。そのトランクには、虫がつかぬように、ふんだんにナフトールをふりまいて、夏服がしまってあった。化粧カバンから過マンガン酸カリの包みをとり出すと、隣の浴室へはいり、浴槽へこの結晶を放りこんで湯を入れた。まもなく浴槽は過マンガン酸カリのピンク色の溶液に満たされた。彼は、そのなかへとびこみ、全身を浸した。髪もすっかりつけた。それから浴槽を空っぽにし、清らかな湯で全身をすすぎ、きれいにふいて寝室へもどり、別の衣類をまとった。やがておいしい食事をとり、そのあと長椅子に横たわって、会いに出かける時間まで休息した。
六時半に、彼は駅の近くの道ばたの蔭にひそんで、一つの灯のほうを見ていた。列車が到着した音がきこえた。乗客の群れが流れ出してきた。そのなかの一人が、群れから離れて、ソープ村へ通じる街道へ向かうのが見えた。灯のあかりで、プラットとわかった。プラットは、満足げな元気のいい格好で、なみはずれて背丈が高く、深靴《ブーツ》の音をたてながら大股に、会う場所へと向かって行くのであった。
ペンベリーは、安全な間隔をおいて、相手の姿よりも、むしろその足音について行った。やがてプラットは小道へはいりこむ段の前を通りすぎて、だいぶ進んで行った。それで鉄の門に向かって歩いていることが明白となった。ペンベリーは段をおどり越えると、大急ぎで大股に暗い牧草地を横ぎって行った。
並木道の濃い暗がりへはいりこむと、まず手さぐりでシデの木に近づき、樹冠へ手をのばして、例の鉄バサミが、さっきおいたままになっているかどうかを、たしかめた。指さきに鉄の輪形がふれたので、彼は安心して、きびすをめぐらして並木道をゆっくりと歩いて行った。同じ型のもう一本のナイフは――ちゃんと刃を起こして――左の胸の内ポケットに入れてあった。彼は歩きながら、その柄を握っていた。
まもなく、鉄門が悲しげにきしって、律動的な深靴の音が並木道を近づいてくるのがきこえた。ペンベリーは、ゆっくりと進んで行って、ひときわ黒い人影が暗がりのなかからあらわれてくると、それに向かって呼びかけた――
「そこへきたのはプラットか?」
「おれだよ」前看守は陽気に、ぞんざいに答えながら近づいてきた。「おい、現ナマは持ってきたか?」
人をくった相手のなれなれしい口調が、ペンベリーには、おあつらえ向きだった。彼の神経は強化され、心は冷酷になった。「もちろんだ」と彼は答えた。「だが、はっきりと取りきめをする必要があるからね」
「おいおい」プラットは言った。「おれは、しゃべっているひまはないんだ。もうすぐ将軍がここへやってくるんだ。いま将軍はビングフィールドから友人を案内して馬をとばしているところなのだ。さあ、金をわたしてくれ。話はまた別のときにしよう」
「それも結構だ」ペンベリーは言った。「しかし、わかっていてもらいたいのは――」彼は急に言いよどんで立ちどまった。いま二人はシデの木のすぐ近くにいた。ペンベリーは立ちどまって、シデの木の暗い茂みをじっと見あげた。
「なんだ?」プラットがきいた。「なにを見ているんだ?」彼も立ちどまって、熱心に暗い茂みを見つめていた。
すると、いきなりペンベリーはナイフをとり出し、全力をふるって、前看守の広い背中の、左の肩甲骨の下へぶちこんだ。
すさまじい叫び声をあげると、プラットは立ち直って襲撃者につかみかかった。強力な男で、相当レスリングの心得もあるので、プラットは、素手ならとてもペンベリーの対抗できる相手ではなかった。たちまちプラットはペンベリーの咽喉《のど》をしめにかかった。だが、相手にしっかりとくらいついたペンベリーは、押したり突かれたり、ぐるぐるまわったりして取っ組み合いながらも、サソリのように毒々しく幾度も幾度もナイフで相手を刺しつづけた。プラットの叫び声は、だんだん咽喉にひっかかり、しゃがれて行った。二人は、はげしく地面にぶっ倒れた。ペンベリーは下になったが、もう闘いは終わっていた。最後に泡をふくようにうめいたプラットは、つかんでいた手をゆるめ、たちまち力が抜けて、ぐったりとなってしまった。ペンベリーは相手を突き放して立ちあがり、身をふるわせながら苦しそうに呼吸した。
だが、ぐずついてはいなかった。予想していたよりも、どたばたをやりすぎてしまったのだ。すばやく彼はシデの木に近づいて鉄バサミに手をのばした。彼の指は輪形の把手《とって》にすべりこんだ。鉄バサミはナイフをはさんだ。かくしておいた場所からナイフをとり出した彼は、それを死体の横たわっているところへ持って行って、死体から数フィートの地面においた。それから木のところへもどり、注意ぶかく鉄バサミを樹冠の洞穴のなかへ押し入れた。
そのとき、並木道の突きあたりのところから、女の声が鋭くひびいた。
「プラットさんですか?」と、その声は問いかけてきた。
ペンベリーはぎくりとして、すばやく爪先立って死体のところへもどった。同じ型のもう一本のナイフを、なんとしても持って行かなければならなかったのだ。
死体は仰向《あおむ》けに横たわっていた。ナイフは柄まで刺しこまれて死体の下側にあった。彼は両手を使って死体を持ちあげなければならなかった。さらに、その凶器を引き抜くのにも、ちょっと苦労した。そのあいだにも、女の声は同じ問いかけをくりかえしながら、だんだん近づいてきた。
やっと彼はナイフを引き抜いて自分の胸ポケットへさしこんだ。死体はまたぐったりと横たわった。息をはずませながら彼は立ちあがった。
「プラットさん、そこにいるんですか?」女の声が、ずっと近くにきこえたので、ペンベリーは、ぎくりとしてふり向いた。木々のあいだに灯がちらつくのが見えた。そのとき、音高く門のきしる音がして、砂利道を駆けてくる馬の蹄鉄《ていてつ》のひびきがきこえてきた。一瞬、彼は困惑して立ちすくんだ――まったく不意うちをくらったのだ。馬のことは計算にはいっていなかった。彼は牧草地を横ぎってソープ村のほうへ逃走するつもりだったが、もはやそれは実行不可能だった。追いつかれたら身の破滅である。ポケットにナイフをさしこんでいるのは別としても、衣服に血がついているのがわかっていたし、両手もぬるぬるしていた。
だが、彼の混乱は、ほんの一瞬で終わった。彼は例のカシワの木を思いだした。並木道から出ると、カシワの木のところへ駆けより、できるだけ血まみれの手でふれないようにして、すばしこく樹冠へのぼった。水平にのびた太い枝は、直径が三フィート近くもあったので、その上に横たわって外套《がいとう》を身のまわりへ引きしめると、下方からはまるで見えなかった。
かろうじて彼が身を落ちつけたとたんに、さっきちらついた灯が視野にあらわれ、厩舎《きゅうしゃ》用の角燈を手にして歩いてくる女の姿が見えた。ほとんど同時に、もっと輝かしい一条の光が反対の方向からひらめいてきた。馬上の人物は自転車に乗った一人の男を同伴していた。
二人は急速に近づいてきた。馬上の人物は女を見ると声をかけた。
「どうかしたのかね、ミセス・パートン?」
その瞬間、自転車のランプの光が、ころがっている死体を照らし出した。二人の男は同時に、おそろしげな叫び声をあげ、女は金切り声をあげた。馬上の人物は鞍《くら》からとびおりて死体のところへ駆けよった。
「おや」身をかがめて死体を見ながら彼は声をあげた。「プラットだ」
自転車の男が近づいてきた。ぎらぎらしたランプの光に大きな血だまりが照らし出されると、老紳士はつけくわえた。「まぎれもなく犯罪だよ、ハンフォード」
ハンフォードは死体のまわりにランプをきらめかしながら、周囲数ヤードほどの地面を照らした。
「オゴーマン、あんたのうしろにあるのは何かな?」ふいにハンフォードが言った。「ナイフとちがうか」すばやくそのほうへ行きかけると、オゴーマンが片手をあげてとめた。
「さわってはいかん!」と彼は叫んだ。「警察犬に、この臭跡をつけさせよう。すぐに犬どもは悪党をつきとめてくれるよ。それがどんな人間であろうとな。そうだとも! ハンフォード、犯人はもう捕えられたも同然だよ」
ちょっとのあいだオゴーマンはナイフを見おろしながら、異様に勝ち誇った色を見せていたが、やがて友人に向かって言った。「なあ、ハンフォード、できるだけ早く警察へ自転車をとばして行ってくれぬか。わずか四分の三マイルだから、五分で行けるだろう。そして警官をよこすか、いっしょにつれてくるかしてもらいたい。そのあいだに、わしは大急ぎで牧草地を捜査しよう。君がもどってきたときに、わしが悪党をつかまえていなければ、警察犬どもに、このナイフの臭跡をつけさせ、犯人を追いつめることにしよう」
「よろしい」とハンフォードは答え、ひとことも言わずに、くるりと自転車をまわし、それに乗って暗闇のなかに姿を消した。
「ミセス・パートン」とオゴーマンは言った。「このナイフの番をしていてほしい。わしが牧草地を調べに行っているあいだ、だれにもさわらせないようにな」
「プラットさんは死んでいるんでございましょうか?」
ミセス・パートンは鼻声で言った。
「なるほど。そうだった。そこまで考えおよばなかったな」と将軍は言った。「ちょいと調べてみてくれぬか。だが、いいかな、あのナイフには、だれにもさわらせないように。臭跡を混乱させてしまうからね」
彼は鞍《くら》へまたがり、牧草地を横ぎってソープ村のほうへ疾駆《しっく》し去った。だんだん遠ざかって行く馬蹄の音を聞きながら、ペンベリーは、いきなり逃走しようとしなくてよかったと思った。ソープ村のほうへ逃走するつもりだったのだから、きっと追いつかれていたにちがいない。
将軍が行ってしまうと、すぐにミセス・パートンは、おぞけをふるったようなまなざしを幾度も肩ごしに投げながら死体に近づき、死んだ男の顔に角燈を近づけた。とつぜん、はげしく身をふるわせて彼女は棒立ちになった。並木道を近づいてくる足音がきこえたからである。だが、聞きおぼえのある声に彼女はほっとした。
「どうかしたのですか、パートンさん?」そうたずねたのは女中の一人だった。年長の家政婦をさがしに、ひとりの若い男につきそわれて、やってきたのであった。やがて二人はあかりの円内へはいってきた。
「おや」男が叫んだ。「それはだれですか?」
「プラットさんよ」ミセス・パートンが答えた。「殺されたんですわ」
若い女が金切り声をあげた。二人の召使いは、恐怖に魂を奪われたように、死体を見つめながら、爪先立って近づいた。
「そのナイフにさわらないでね」ミセス・パートンが言った。男が、それをひろいあげようとしかけたからである。「将軍は警察犬に、その臭跡をつけさせようとしておられるのだから」
「じゃ、将軍は、こちらへ見えているんですね?」男はたずねた。そのとき牧草地から、一瞬高らかにひびいてきた馬蹄の音が、彼に解答をあたえた。
死体のまわりに召使いたちが寄り集まっているのを見て、オゴーマン将軍は、馬の手綱を引きしめた。
「やはり死んどるかね、ミセス・パートン?」と彼はきいた。
「はい、そうではないかとぞんじます」
「そうか。それでは、だれか医者を呼びに行かないといかんな。だが、君は行ってはいかんぞ、ベイリー。君は犬の用意をして、この並木道の突きあたりに、わしが呼ぶまで待機していてほしいのだ」
ふたたび彼はベイスフォード側の牧草地へ疾駆して行った。ベイリーは急いで立ち去った。あとに残った二人の女は、眼をみはって死体を見ながら、小さな声で話し合っていた。
苦境に追いこまれたペンベリーは、はなはだ居心地がよくなかった。下にいる女たちは、十二ヤードと離れていなかったので、彼は身うごきもできず、ほとんど呼吸もできなかった。まもなく、ベイスフォードから通じている街道を、一群れの灯が急速に近づいてくるのを、彼は自分がかくれている高い場所から望み見て、安堵《あんど》と懸念の入りまじり合った気持ちになった。やがて、その灯は木々にさえぎられたが、すこしたつと、自転車の走る音が並木道にひびき、いくつかの光が木々の幹にきらめいて、新手の到来を告げた。三台の自転車でやってきたのは、ハンフォード氏と警部と巡査部長だった。彼らが近づいたとき、将軍が馬蹄をとどろかせて並木道へ駆けもどってきた。
「エリスもいっしょか?」ぐいと馬をとめながら将軍は声をかけた。
「いいえ、われわれが署を出るときには、まだ彼はソープ村から帰っていませんでした。今夜は少々おそいようです」
「医者を呼びにやったか?」
「ヒルズ先生を呼びにやりました」警部がそう言って自転車をカシワの木にもたせかけた。ペンベリーは身をちぢめた。ランプの臭気がかぎとれた。「プラットは死んでいるんですか?」
「そうらしい」オゴーマンは答えた。「しかし、そのほうは医者にまかせておいたほうがいいだろう。そこに殺人犯人のナイフがある。だれもそれには手をふれておらぬ。わしは、これから警察犬をつれてこよう」
「それはいい。この場合、まさしくうってつけの方法ですよ」警部は言った。「犯人は遠くへ逃げているはずはありません」満足したように彼が両手をよりあわせているあいだに、オゴーマンは馬を走らせて並木道を屋敷のほうへ去った。
一分間たたぬうちに、暗黒のなかから、太く低くほえる犬の声がきこえ、つづいて砂利をふむ足音がした。そして、あかりの円のなかへ、たるんだような四肢の、やせた不気味な姿をした三頭の犬があらわれ、二人の男が、よろめくように早足で近づいてきた。
「さあ、警部」将軍がわめいた。「一頭たのむよ。わしも二頭は持ちきれんでな」
警部は走り出て一本の革ヒモをつかまえた。将軍は自分の犬を、地面に横たわっているナイフのところへ引っぱっていった。ペンベリーは、枝のかげから下をのぞきながら、ほとんど第三者のような好奇心をもって、大きな犬の姿を見つめた。高い後頭部、しわのよった額、陰気な顔の犬は、身をかがめて、うたぐり深そうに、地面に横たわっているナイフを嗅《か》ぎはじめた。
しばらく犬はナイフを嗅ぎながら身うごきもしなかったが、やがて身をひるがえすと、鼻さきを地面につけて、あちこち動きまわった。とつぜん犬は、頭をあげて、声高くほえたかと思うと、鼻を地面におろし、将軍を引っぱってカシワとニレの木のあいだを駆け出した。
ついで警部が、あずけられた犬をナイフのところへつれて行った。そして、まもなく革ヒモに引っぱられて、将軍のあとから飛ぶように走って行った。
「この犬どもは、けっして勘ちがいするようなことはありませんよ」三番目の犬をつれ出したベイリーが巡査部長に話しかけた。「まあ、見ていてごらんなさい――」言いおわらぬうちに、彼は、はげしく革ヒモに引っぱられて、つぎの瞬間、将軍や警部のあとからすっとんで行った。そのあとからハンフォード氏がついて行った。
巡査部長は手ぎわよく金環をつかんでナイフをとりあげ、ハンカチに包んでポケットへ入れた。そして彼も犬どもを追って走って行った。
ペンベリーは不気味な微笑をもらした。予想外な困難にぶつかったものの、みごとに計画は図にあたったわけである。あのいまいましい女どもさえ退散すれば、いまは逃げ道があけっぱなしになっているのだから、このあいだにいくらでも脱出できるのに、と思いながら、だんだん遠くかすかになって行く犬どもの吠え声に聞き耳をたて、医者がまだ現場付近にぐずついているのを呪った。このタケノコ医者め! これが生死の瀬戸際だということが、きさまにはわからないのか。悪質な医者は、まるで責任感がないのだから困る。
とつぜん、彼の耳は自転車のベルの音を聞きつけた。新しい光が並木道にあらわれて、一台の自転車が惨劇の現場へかけつけ、初老の男が死体のそばへとびおりた。男は自転車をミセス・パートンにあずけると、死体に身をかがめ、手首を握ってみて、まぶたをおしあげ、その眼の前にマッチをさしつけた。それから立ちあがった。「とんだことだね、ミセス・パートン」彼は言った。「気の毒だが絶命している。屋敷へ運んだほうがいいが、あんたたちも手をかしてくれないか。あんたたち二人で両足をもってくれないか。私は肩のほうをもとう」
彼らが死体をもちあげて、よろよろと並木道を運び去って行くのを、ペンベリーは見ていた。彼らのよろめく足音が消え、やがて屋敷の戸がしまる音がきこえた。はるか遠くの牧草地のほうから、ときどき犬どもの吠《ほ》える声がきこえてくるだけで、ほかにはなんの物音もしなかった。まもなく、あの医者が自分の自転車のところへもどってくるだろうが、さしあたり邪魔者はいないわけだ。ペンベリーは硬《こわ》ばったからだを起こした。つかまっていた個所に両手がくっついていた。まだじめじめとねばついているのだ。彼は、すばやく地面へすべりおり、一瞬、聞き耳をたててから、自転車のランプの光をよけて、すこし迂回《うかい》し、そっと並木道を横ぎって、忍びやかにその場を立ち去った。そして、ソープ村側の牧草地を突っ切って行った。
この夜は、ひどく暗く、牧草地には人っ子ひとりうろついていなかった。大股に足を速めながら、暗闇のなかに目をすえて、時おり立ちどまっては聞き耳をたてた。しかし、遠くの犬どものかすかな吠え声のほか、なんの物音もきこえてこなかった。彼の家からほど遠くないところに、木橋のかかった深い小川があったのを思い出して、そのほうへ足をむけた。ひとめで犯人と断定されそうな自分の格好に気づいていたので、小川へたどりつくと、身をかがめて両手から手首を洗いはじめた。前に身をかがめたとき、ナイフが胸のポケットから川岸の浅い水のなかへ落ちた。彼は、それをさがして見つけだすと、できるだけ向こうの泥のなかへ深く押しこんだ。それから水草で両手をぬぐい、橋をわたって、家のほうへ向かった。
裏口から家へ近づき、家政婦が台所にいるのをたしかめてから、こっそりと表の扉を鍵であけてはいりこみ、すばやく寝室へあがった。そして全身を浴槽で洗い――変色した湯が残らないように始末してから――衣服を着かえ、脱いだ衣服を旅行カバンに詰めた。
こうしたことをすっかりすませたとき、ドラが鳴って夕食を知らせた。きちんと清潔に身なりをととのえて、食卓に向かって腰をおろした彼は、もの静かな、陽気な態度で家政婦に話しかけた。「ロンドンで用件が片づかなかったものだから、明日また出かけなくてはなるまいと思うよ」
「日帰りでございますか?」家政婦はたずねた。
「そうするかもしれないし」彼は答えた。「そうしないかもしれない。まあ、そのときの事情によってだね」
どういう事情なのか、それについては何も言わなかった。家政婦もたずねなかった。ペンベリー氏はうち明けて話すたちではなかった。思慮ぶかい人間だった。そして思慮ぶかい人間は、あまり話さないものである。
2 警察犬の敵手
(クリフトファ・ジャーヴィス博士記)
炉の火が、いわば本調子になり、朝のパイプが香煙を舞いあがらせる朝食後の半時間は、まず一日じゅうで、もっとも快適なときだろう。陰気な空がロンドンをおおっていて、冷たい空気が街路にみなぎっているのを思わせ、テームズ河の曳《ひ》き船の不服そうな汽笛が、霧――消えて間もない夜の置土産《おきみやげ》――がただよっていることを知らせるような折には、とくにその感が深い。
その秋の朝はひえびえとしていて、炉の火が陽気に燃えていた。スリッパをはいた両足を、炎のほうへつき出した私は、猫のような満足感を味わいながら、とりとめもない瞑想にふけっていた。やがて、ソーンダイクが不満そうに何かぶつくさ言っている声に、私は注意をひかれた。そこで、ものうげにそのほうを振りかえった。彼は事務用のハサミで朝刊の目ぼしい部分を切り抜いていたのだが、その手をとめて、小さな切抜きを人さし指と親指でつまんでいた。
「また警察犬だ」彼は言った。「やがて、火のなかへ手をいれる試罪法の話を聞かされるようなことになるだろう」
「こういう朝には、しごく快適な試罪法でもあるわけだ」私は満足そうに両足をさすりながら言った。「ところで、いまの話はどんな事件かね?」
彼が答えようとしたとたんに、小さな真鍮《しんちゅう》ノッカーの音が鋭くひびいて、私たちの平和をかきみだす攪乱《かくらん》者の来訪を告げた。ソーンダイクが扉口まで出て行って、制服の警部を部屋へ導き入れた。私は立ちあがって、炉の火に背を向け、肉体的な快適さとともに、用件のほうにも注意を集中しようとした。
「ソーンダイク博士でいらっしゃいますね」と警部は言い、ソーンダイクがうなずくと、すぐに言葉をつづけた。「私はフォックス……ベイスフォード警察のフォックス警部です。朝刊をごらんになったことと思いますが――」
ソーンダイクは例の切抜きをつまみあげ、椅子を火のそばへ引きよせて、朝食はおすみですか、と警部にきいた。
「ありがとう。朝食は、もうすましてきました」フォックス警部は答えた。「朝早くこちらへ参上できるようにと思い、昨夜おそい列車で上京して、ホテルで一泊いたしましたものですから。新聞でご承知のように、われわれは自分たちの仲間の一人を逮捕しなければならなかったのです。これはいささかまずいことで――」
「はなはだまずいですな」
「そのとおりですよ。警察のためにまずいばかりでなく、一般民衆のためにもよくありません。しかし、われわれは、あえてそれをやらなければならなかったのです。ほかに方法がなかったものですからね。それにしても、われわれとしては、警察のためにも容疑者自身のためにも、できるだけの機会を容疑者にあたえてやりたいのです。それで州警察部長は、この事件について、あなたのご意見をうかがいたい、おそらくあなたなら、容疑者のために助力してくださるだろうと、こう考えた次第です」
「詳細をお聞きしたいと思います」ソーンダイクは引出しからメモ用紙をとり出して、肘《ひじ》掛け椅子に腰をおろしながら言った。「発端からはじめて、知っておられることを全部お話しくださいませんか」
「そうですね」咳《せき》ばらいをしてから警部は話しはじめた。「まず被害者から申しあげましょう。被害者はプラットという男で、退職した看守ですが、先ごろからオゴーマン将軍に執事として雇われていました。将軍は前職が刑務所長で――一群の警察犬を飼っていることで知られています。あるいは、あなたも耳にされているかとも思いますが。
ところでプラットは、昨日の晩、ロンドンからの列車で六時三十分にベイスフォードに着きました。車掌も改札係も赤帽も、彼の姿を見ています。彼が六時三十七分に駅から出て行くのを、赤帽は、はっきり見たと言っています。オゴーマン将軍の屋敷は、駅から半マイルほどのところにあります。七時五分前に、将軍とハンフォードという紳士と将軍邸の家政婦ミセス・パートンとが、屋敷へ通じている並木道で、プラットが死んで横たわっているのを発見しました。彼は刺されていました――あたりは血だらけで、ナイフ――ノルウェー風のナイフが死体の近くの地面に横たわっていました。ミセス・パートンは、だれか並木道で助けをもとめて叫んでいるような気がしたので、ちょうどプラットが帰ることになっている時刻でもあり、角燈をもって出て行き、将軍とハンフォード氏に出会いました。そして、三人が同時に死体を発見したらしいのです。すぐにハンフォード氏が自転車で警察へ走ってきて知らせました。われわれは医者を呼びにやり、私は巡査部長をつれてハンフォード氏と一緒に現場へ向かいました。
七時十二分に現場へ着きますと、将軍は、自分の飼っている警察犬をつれ出してきて、そのナイフのにおいをかがせました。それまで将軍は並木道の両側の牧草地を馬で駆けまわっていたのですが、ついに何者も見つけることはできなかったのです。三頭の犬は、すぐに臭跡をかぎつけ――私も一頭の革ヒモをもっていました――一瞬もためらわず、立ちどまりもせずに、牧草地を横ぎり、山道の段や土手を越えて私たちを引っぱって行きました。町へはいりこみますと、犬どもはつぎつぎと一直線に道を横ぎって警察署へ向かいました。そして、あけ放たれていた玄関からおどりこんで、エリスという臨時雇員が書きものをしていた机のところへ、まっすぐに進んで行ったのです。犬どもは、エリスに飛びかかろうとして、えらく騒ぎたてますので、私たちは、やっきとなって引きとめました。エリスは幽霊のように真っ青になっていました」
「そのとき室内には、ほかにだれかいましたか?」ソーンダイクがきいた。
「おりました。巡査が二人と小使いがいたのです。私たちは、彼らのほうへ犬どもをつれて行ってみましたが、まるで見向きもしません。犬どもはエリスだけをねらっているのです」
「それで?」
「もちろんわれわれはエリスを逮捕しました。ほかにどうしようもなかったのです――なにしろ将軍がそこにひかえていましたのでね」
「将軍が、そのことと、どういう関係があったのですか?」ソーンダイクはきいた。
「将軍は治安判事で、もとダートムア刑務所の所長ですし、彼の警察犬がエリスに当たりをつけたわけなのです。われわれとしては、どうでもエリスを逮捕しないわけにはいかなかったでしょう」
「その容疑者には、なにか不利な事実があるのですか?」
「あります。彼とプラットはあきらかに仲がよくなかったのです。二人は古い友人でした。プラットがポートランド刑務所の看守だったころ、エリスは警備員をしていたのです――エリスは左の人さし指を切ってしまったので、恩給つきで退職になったのですが――近ごろ二人は、ひとりの女――将軍邸の小間使いの女のことで何か悪感情を抱くようになっていたのです。どうやら、妻のあるエリスが、その若い女に、あまりに心を向けすぎたらしく――とにかく、プラットはそう考えたものですから――もう二度と屋敷へ足ぶみするな、とエリスをどなりつけました。それから二人は、口もきかぬような仲になってしまったのです」
「エリスというのは、どういう人物ですか?」
「たいへん好人物のように、われわれは思っていましたがね。おとなしくて、根気がよくて、やさしくて、蠅一ぴき痛めつけそうもない男なのです。われわれのあいだでも、みんなに好かれていまして――事実プラットよりも、ずっとみんなから好かれていたでしょう。殺されたプラットは、いわゆる海千山千で――ずるくて――すこしばかり卑劣な男でした」
「もちろん、エリスの身体検査をして、調べてみたのでしょうね?」
「調べてみました。しかし、何も疑わしいものは身につけていませんでした。ただ、財布を二つもっていました。一つは豚革の小袋で――昨日ソープ村へ行く小道でひろったものだと彼は言っていました。しかも、それを否定する根拠がありません。ともかくその財布はプラットのものではなかったのです」
ソーンダイクは、それをメモに書きこみ、それからたずねた。「エリスの衣服には血痕とか証跡とか、そういうものは何も発見できなかったのですね?」
「そうです。なんの証跡もありませんでしたし、なんら異常は認められませんでした」
「エリスのからだに、たとえば切り傷とか、引っかかれた跡とか、打撲傷とか、そういうものは?」
「ぜんぜんありません」警部は答えた。
「何時にエリスを逮捕したのですか?」
「きっかり七時半です」
「彼が、どんな行動をとっていたか、その点をたしかめてみましたか? 殺人現場の近くへ行っていたのですか?」
「彼はソープ村へ行っていましたので、並木道の門のあたりを通ったかもしれません。そして、いつもより帰るのがおそかったのです。もっとも、もっとおそく帰ることも、これまでしばしばあったようですがね」
「つぎに、その被害者についてだが、死体の検査はすみましたか?」
「こちらへまいる前に、ヒルズ医師の報告も受けとりました。いずれも背中の左側に、ナイフの深傷《ふかで》が七か所もあります。地面に血が多量に流れていましたので、プラットは一分か二分のうちに出血多量で死亡したものにちがいないとヒルズ医師は推測しています」
「その傷の状態は、発見されたナイフと合致していますか?」
「私もそれと同じ質問をいたしましたところ、医師は『ナイフの刺傷であることはまちがいない』と言っていました。もっとも、どの特定のナイフとも断定しようとはしませんでした。しかし、それはたいして重要視するにもあたりますまい。そのナイフには血がいっぱいついていたし、しかも死体のすぐそばで見つかったのですからね」
「ところで、そのナイフは、どのように処理されましたか?」ソーンダイクがきいた。
「私がつれて行った巡査部長が拾いあげ、自分のハンカチにつつんでポケットへ入れて持ってまいりました。私はそれを、そのまま受けとって、ハンカチもいっしょに送達箱へ入れて鍵をかけておきました」
「そのナイフは、エリスの所持品と確認されたのですか?」
「いいえ」
「現場には、確認できる足跡とか、格闘の証跡とか、そういうものがありましたか?」
警部は気が弱そうに、にやにやした。「もちろん私は現場を調べたわけではありませんが」彼は言った。「しかし、将軍の馬のあとから、徒歩になった将軍やら私やら園丁やら巡査部長やらが踏みつけ、ハンフォード氏などは行ったりきたりして二回も踏んでいるのですから、まるで現場は、ご推察のように――」
「なるほど」ソーンダイクは言った。「よろしい、警部、容疑者のために助力することを快諾いたしましょう。どうも私には、エリスに不利な事実というのが、ある点で、すこしく決定的でないように思えますのでね」
警部は率直におどろきの色を見せた。「まるで私には、そんなふうには思えませんがね」
「そうですか。いや、しかしそれは単に私個人の見解にすぎません。ところで、最善の方法は、私があなたといっしょに出かけて行って、現場でいろんな問題を調査することでしょうね」
警部は、よろこんで賛成した。警部に新聞を当てがっておいてから、私たち二人は研究室へ引きさがって、列車の時間表を見たり、捜査の準備をしたりした。
「君も行ってくれるだろうね、ジャーヴィス」ソーンダイクが言った。
「なにか役に立つのならね」私は答えた。
「もちろん、役に立つよ」彼は言った。「二つの頭は一つよりましだし、情況から察すると、私たちの頭だけが、いくらか思慮のある頭ということになるらしいからね。もちろん、あの調査用トランクは持って行くとして、カメラも持って行ったほうがいいと思う。いまから二十分後にチャリング・クロスから出る列車があるよ」
列車が発車してから半時間ほど、ソーンダイクは車室の隅に腰をおろしたまま、メモに見入ったり、考えこむようなまなざしで窓の外を見つめたりしていた。この事件を彼は気に入っているらしいと私は見てとったので、なるべく彼の想念の流れを邪魔しないように気をつけていた。しかし、やがて彼はメモをかたわらへおき、のんびりした表情でパイプに煙草をつめはじめた。すると、待ちかねてもじもじしていた警部が、さっそく口火を切った。
「エリスの容疑を解く方法があるとお考えになりますか?」
「その容疑者のために主張すべき事柄がたくさんあるように思います」ソーンダイクは答えた。「実のところ、彼に不利な証拠は、いささか薄っぺらだと申しあげたい」
警部は息をはずませた。「しかし、ナイフは? ナイフのことはどうなりますか?」
「ナイフには、どんなことがからんでいるのか? それは、だれのナイフだったのか? ナイフには血がいっぱいついていたが、それは、だれの血なのか? そういうことが一向にわかっていないのです。かりに、それが殺人犯人のナイフだと仮定して検討してみましょう。そうすると、それについていた血はプラットの血ということになる。だが、それがプラットの血であったなら、犬どもがそれを嗅いだとき、血は強い臭跡となるものですから、犬どもは、あなたがたをプラットの死体へと導いて行くはずです。ところが犬どもは、そうはせずに死体を無視して行ってしまった。この事実から推定すると、ナイフについていた血は、プラットの血ではなかったのです」
警部は制帽をぬいで後頭部をなでた。「まったく、おっしゃるとおりです」彼は言った。「われわれはだれも、そこまでは気がつきませんでした」
「さらに」ソーンダイクはつづけた。「そのナイフがプラットのものだったと仮定してみましょう。そうするとナイフは自衛のために使われたことになります。だが、それはノルウェー風のナイフで、あつかいにくい道具です――まるで武器にはならぬような代物《しろもの》です――なにしろ、刃を起こすのに時間がかかるし、あいている両手を使って起こさなくてはなりませんからね。ところで、プラットの両手は、あいていたか? 襲撃がはじまってからは、もちろんあいていなかった。七か所の傷があって、それがいずれも背中の左側を刺された傷だという事実は、彼が犯人を両腕でしめつけ、彼の背中へ犯人の両腕がまわっていたことを示しています。付随的に、またそれは犯人が右ききであることも示しています。だが、やはりそのナイフがプラットのものだったと仮定してみましょう。そうすると、それについていた血は犯人の血ということになる。すると犯人は傷をうけているにちがいない。ところがエリスは傷をうけていなかった。だから、エリスは犯人ではないということになります。つまり、そのナイフは、ぜんぜん私たちの役には立たないのですよ」
警部は両頬をふくらませて、そっと溜息をついた。「どうも私にはだんだんわからなくなってきましたよ」彼は言った。「いずれにせよ、あの警察犬どもの行動を否定するわけにはいきますまい。犬どもは、あのナイフがエリスのものであると明白に告げているのですからね。それに対する回答が、どうも私には出てきませんよ」
「陳述のないところに回答はありませんよ。警察犬どもは、あなたに何も語ってはいません。あなたは犬どもの行動から、ある推測をしているが、その推測は、あるいは全面的にまちがっているかもしれません。ですから、犬どものことは、まるで証拠にはなりませんよ」
「あなたは警察犬というものを、あまり高く評価しておられないようですね」警部は言った。
「犯罪捜査の手先としては役に立たないと私は考えます」ソーンダイクは答えた。「警察犬を証人台に立たせることはできません。意味のわかる陳述も引き出せません。警察犬が何かを知っているとしても、それを伝える手段を彼らは持っていないのです。実のところ、警察犬を犯罪捜査に使用するという方式が錯誤を土台にしているのです。アメリカの農場では、逃亡した奴隷をつきとめるのに、あの動物どもを使用して、非常に効果をあげました。しかし、奴隷は既知の人間ですから、その所在だけをつきとめれば、それでよかった。犯罪捜査の場合は、問題の性質がちがいます。捜査係は既知の人間の所在を確認しようとするものではなく、未知の人間の実体を発見しようとするものです。ですから、この目的のためには、警察犬は役に立ちません。犬どもは、そのような実体を発見するかもしれないが、知ったことを伝えることができません。犯人が未知であるならば、犬どもは、その人物を確認できないし、既知であるならば、警察は警察犬どもを必要としないわけです」
一息入れてからソーンダイクはつづけた。「こんどの事件では、私たちの捜査の手先は――警察犬どもが手先として使用されたわけですが――心霊論者流にいえば、私たちと『感通』しませんし、そこに介在する『霊媒』もありません。警察犬は、特殊な感覚――嗅覚《きゅうかく》をそなえており、それは人間にあっては、きわめて未発達な状態にあります。警察犬は、いわば臭気の言語で考えるが、その思考の結果を、嗅覚の未発達な人間に翻訳することができないのです。一本のナイフを示された警察犬は、ある臭気の特性がそれにあることを発見し、それと同一または関連のある臭気の特性が、連続している地面や特定の人間――エリスにもあることを発見しても、私たちには、その発見を立証することも、その発見の性質をたしかめることもできません。それでは私たちには何ができるか? 私たちとしては、そのナイフとエリスとのあいだに、なにか臭気の面での関連が存在するらしいといえるだけです。しかし、その関連の性質がたしかめられないかぎり、証拠としての価値とか意義とかを考量することはできません。そのほかのすべての『証拠』なるものは、あなたがたと将軍の想像の産物にすぎません。現在のところ、エリスに不利なものは何もないのです」
「殺人がおこなわれたとき、彼は、その現場の近くにいたにちがいないのですよ」警部は言った。
「たぶん、ほかの多くの人びとも、そうだったと思います」ソーンダイクは答えた。「それにしても、エリスには、手を洗って衣服を着かえるだけの時間がありましたか? 犯人だとすれば、おそらくその必要があったと思いますがね」
「それはまあ、そうですね」警部は、疑わしげに同意した。
「疑う余地はありません。七か所もの傷があったのです。それだけ傷を負わせるのには、相当手間がかかったものと思います。プラットにしても、おとなしく立ったまま相手の男に刺されつづけていたとは考えられませんからね――いや、事実、さっきも言ったように、傷の位置が、決してそうではなかったことを示しています。格闘がおこなわれて、二人の男は取っ組みあっていたのです。犯人の片手はプラットの背中へ行っていた。おそらく両手が背中へ行っていて、片手でつかまえながら、もう一方の手で刺したのでしょう。片手には血がついていたにちがいない。いや、おそらく両手についていたでしょう。ところが、あなたの話によると、エリスには、ぜんぜん血がついていなかった。しかも、洗う時間も機会もなかったらしい」
「どうも、不思議な事件ですな」警部は言った。「それにしても、警察犬の行動をどう説明するか、それがどうも私にはわかりません」
ソーンダイクは、いらだたしげに肩をすくめた。「警察犬どものことは妄想ですよ。真実の問題はナイフが中心になっています。つまり、それはだれのナイフだったか、それとエリスのあいだには、どんな関連があったか、ということです。ねえ、ジャーヴィス」と彼は私に呼びかけた。「ここに一つ、君に考えてもらいたい問題があるのだ。おそらく、出てくる解答のなかのあるものは、きわめて奇妙なものではないかと思うよ」
私たちがベイスフォード駅から出たとき、ソーンダイクは、自分の時計を見て、時間に注意した。「プラットが歩いて行った道を案内してくださいませんか」
「それについては」警部が言った。「彼は街道を行ったかもしれませんし、あるいは小道を行ったかもしれないのです。しかし、距離としては、ほんのわずかの差異しかありません」
ベイスフォードに背を向け、私たちは街道を西へ、ソープ村のほうへ向かって行った。やがて右側に、小道への入口になっている段があるところを通りすぎた。
「あの小道は並木道の中ほどを横断しているのです」警部が言った。「しかし、ずっと街道を行ったほうがいいと思います」
それから四分の一マイルほど進むと、両開きの、さびた鉄門の前へ出た。片方の扉があいていた。そこからはいって行くと、そこは両側に木々が立ちならんだ広い車道になっていて、木々の幹のあいだから、ひろびろとした牧草地が両側にひろがっているのが見えた。すばらしい並木道で、時季も秋だったので、黄色い葉が頭上に深々と茂っていた。
門から百五十ヤードばかり歩いたところで警部は立ちどまった。
「ここが現場です」彼は言った。ソーンダイクはまた時間を見た。
「ちょうど九分だ。そうすると、プラットは七時十四分前ごろに、ここへきて、七時五分前に死体が発見されたのだから――到着後九分ということとなる。そのときには殺人犯人はまだ遠くまで去っていたはずはない」
「そうです、かなり新しい臭跡でした」警部は答えた。「まず死体を見たいとおっしゃいましたね?」
「そう。それに、できたらナイフもね」
「ナイフは本署へとりに行かせなければなりません。事務室にしまいこんで錠をおろしてありますのでね」
警部は屋敷へはいって行って警察署へ使いを出してから、ふたたび戻ってきて、死体が安置してある離れ家へ案内した。ソーンダイクは、すばやく傷と衣服の穴をしらべた。しかし、とくに何かを示唆しているような点はなかった。使用された凶器は、ミネの厚い片刃のナイフで、警部の話した型のものだった。傷口のまわりが変色している点から見て、凶器はノルウェー風のナイフのように際立《きわだ》って肩の分厚いもので、それが荒々しい激しさでぶちこまれているのがわかった。
「なにか真相をあきらかにするような点がありますか?」調べがすむと警部がたずねた。
「ナイフを見るまでは、なんともいえません」ソーンダイクは答えた。「ナイフがとどけられるのを待っているあいだに、惨劇の現場へ行ってみましょう。これがプラットの深靴《ブーツ》ですね?」しっかりしたヒモのついた一足の深靴を、彼はテーブルからとりあげて、底のほうを警部に見せた。
「そうです。これが彼の深靴です」フォックスは答えた。「犯人がこれをはいていたのであれば、わけなく突きとめることができるのですがね。このブレイキー式の靴|鋲《びょう》は、商標みたいによく目立ちますからね」
「とにかく持って行きましょう」ソーンダイクは言った。警部がその深靴を受けとると、私たちは外へ出て、また並木道のほうへ足を向けた。
殺人現場は、並木道の片側の砂利に、黒ずんだ大きな≪しみ≫がついていたので、すぐにわかった。それは二本の木――短く刈りこまれたシデの老木とニレの木の中間にあたっていた。ニレの木の隣には、イボイボの多い、ずんぐりした、七フィートばかりの幹の、短く刈りこまれたカシワの木があって、三本の太い幹のうちの一本は、並木道の中ほどまで傾斜して張り出していた。そしてこの二本の木のあいだの地面には、馬の蹄鉄の足跡の上に、人間や犬の足跡が、いちめんについていた。
「ナイフが発見されたのは、どこですか?」ソーンダイクがきいた。
警部は並木道のまんなかに近い、ほとんどシデの木の前の個所をさし示した。ソーンダイクは大きな石をとって、その個所においた。そして考え深げに現場を観察し、並木道からそれに面して立っている木々を見まわした。やがてニレとカシワとのあいだをゆっくりと歩きながら地面を調べた。「足跡に不足はない」ふみにじられた地面を見おろして、彼は、重々しい表情で言った。
「しかし、それらが、だれの足跡かということが問題なのですよ」警部が言った。
「さよう、それが問題ですな」ソーンダイクは同意した。「では、プラットの足跡をつきとめて、解決にとりかかりましょう」
「プラットの足跡がどうして役に立つのですか?」警部は言った。「彼がここにいたのは自明なのですよ」
ソーンダイクは、おどろいて警部を見た。実のところ私も、その間の抜けた意見にびっくりした。これまでロンドン警視庁の明敏な警官たちとばかり接していたからである。
「叫喚《きょうかん》と追跡の一行は、このニレとカシワのあいだから進発したらしい。ほかのところの地面は、かなりきれいなようだ」ソーンダイクはニレの木の周囲を歩いてまわりながら、熱心に地面を見つめていたが、やがて口を開いて言った。
「うむ、この草地との境目のやわらかな土の上に、とがった靴をはいた、すこし小さな足跡がある。足の大きさと歩幅からすると、あきらかに小柄な男で、追跡者の一行のなかの一人ではないようだ。しかし、プラットの足跡が一つもない。固い砂利道のほうばかり歩いていたのかもしれない」
地面を見すえたまま、彼は、ゆっくりとシデの木のほうへ歩きつづけた。やがて急に立ちどまって身をかがめ、熱心なまなざしを地面へ向けた。フォックスと私が近づくと、彼は身をのばして指さした。
「プラットの足跡がある――かすかな、きれぎれのものではあるが、まぎれもなくプラットのものだ。これで、警部、この足跡の重要性がわかると思います。これはほかの足跡と関連して時間的要素を提示しています。これを見てから、あれを見てごらんなさい」彼は死んだ男のかすかな一つの足跡を示し、さらにもう一つの足跡を指さした。
「格闘の証跡があるとおっしゃるんですね?」警部が言った。
「そればかりではありません」ソーンダイクは答えた。「ここではプラットの足跡の一つが、小さなとがった足跡へふみこんでいます。向こうの砂利道の端では、もう一つのプラットの足跡が、とがった足跡にふまれて、ほとんど消されかけています。あきらかに、最初のとがった足跡は、プラットの足跡よりもさきにつけられたものであるし、二番目の足跡はプラットのものよりもあとでつけられたものです。だから、とがった足跡の男は、プラットと同時にこの場にいたと推測しなければなりません」
「では、その男が殺人犯人にちがいありません」フォックスが声をあげた。
「どうやらそのようですね」ソーンダイクは答えた。「では、その男がどちらへ行ったかを見きわめましょう。まず第一に、その男は、この木の近くに立っていた」――と彼はシデの木を指さした――「それから、あのニレの木のほうへ行った。この足跡をたどってみましょう。見てごらんなさい、ニレの木を通りすぎています。この足跡が、シデの木からずっとつづいていて、格闘の足跡と入りまじっていないのが、はっきりと見てとれます。だから、おそらくこれは、殺人が遂行されてから、つけられたものちがいありません。また、この足跡が木々のうしろ側――並木道の外側を通っていることも、はっきりと見てとれます。これは、どんなことを暗示しているのか?」
「私にはこう思える」完全にお手あげのていで警部が首を横にふったとき、私が言った。「その男が忍びやかに立ち去って行くとき、だれかが並木道にいたのではないだろうか」
「そのとおりだ」ソーンダイクが言った。「プラットがやってきてから、わずか九分後に死体が発見されたのだが、殺人にはかなり時間がかかったにちがいない。そのうちに家政婦が、だれかが呼んでいる声を聞いたように思い、角燈をもって出てきた。同時に将軍とハンフォード氏が車道を近づいてきた。だから、その男は、見られるのを避けるために、木々のうしろ側を忍びやかに立ち去ったのではないだろうか。この足跡をたどってみよう。この足跡はニレの木を通りすぎ、つぎの木のうしろを通りすぎている。いや、待てよ。これはちょっと変だ」彼は刈りこんだカシワの巨木のうしろをまわり、その根のそばのやわらかい地面を見おろした。「ほかの足跡よりもずっと深い足跡が、ここに二つある。爪さきが木のほうに向いているから、これはずっとつづいている足跡の一部ではない。これを君はどう考えるかね?」返事を待たずに彼は、その木の幹、わけても地面から三フィートばかりのところにある、イボイボのついている大きな木のコブを、綿密に調べはじめた。その上部の皮に、何かが木をこすって降りたような垂直のキズがあって、イボから出ている小さな枯枝が新しく折られて地面に横たわっているのだ。それらの証跡を指さしながら、ソーンダイクはコブに片足をかけて木にのぼり、三本の太い枝が出ている樹冠の上へ眼をもって行った。
「おお!」彼は声をあげた。「ここにずっと明確な証跡がある」もう一つのコブに足をかけて樹冠へよじのぼると、彼はすばやく振り向いて私たちを手まねいた。私がコブに足をかけて樹冠の上まで眼をもって行って見ると、その端に褐色の光沢をおびた手の跡があった。樹冠へのぼった私のあとから、すばやく警部がつづいた。二人はソーンダイクのそばの、三本の枝の中間に立った。そこから、並木道の上へ張り出している枝の上側を見ると、地衣《こけ》のはえた表面に、ひらいた両手の赤褐色の跡がついていた。
「小柄な男であることがわかる」その枝の上へ身を乗り出しながらソーンダイクは言った。「私では、こんなに下のほうに、うまく手をおくことができない。しかも、両手の人さし指がちゃんとそろっています。だから、これはたしかにエリスではありません」
「これらの手の跡が殺人犯人のものだとおっしゃるのでしたら」フォックスは言った。「私は、そんなはずはないと申したい。お説のとおりだとすると、私たちが警察犬をつれてその男を探しているのを、当の本人は、ここから見おろしていたということになりますからね。警察犬がいたという事実が、その男が殺人犯人であるはずはないことを証明しています」
「逆に」ソーンダイクは言った。「血まみれの手をしたその男がいたという事実が、ほかの証拠を裏づけているのです。つまり、犬どもが全然殺人犯人の跡をたどっていなかった証拠を裏づけているのですよ。いいですか、警部。ここに一人の男が殺されている。殺した犯人が両手を血まみれにしていることは、ほとんどまちがいない。そして、血まみれの手をした一人の男が、死体から数フィートしか離れていない木の上に、死体が発見されてから(足跡が示しているように)五、六分しかたっていないときに、身をかくしていたのです。これを合理的に考えたら、どういうことになりますか?」
「しかし、あなたは警察犬のことを忘れていらっしゃる。それから犯人のナイフのことも」
「弱ったな。いいですか、警部」ソーンダイクは言った。「警察犬のことは、しつこい妄想にすぎませんよ。おや、いま巡査部長が車道をやってくるのが見えます。ナイフを持ってきたのでしょう。おそらくそれが謎をといてくれると思います」
小型の文書箱をもった巡査部長は、ちょっとおどろいたらしく、木の前に立ちどまった。そのあいだに私たちは降りて行った。彼は軍隊式に敬礼をして進み出て、文書箱を警部に手わたした。すぐに警部は鍵でその蓋《ふた》をあけ、ハンカチで包んだものを私たちに見せた。
「これがナイフです。私が受けとったときのままになっています。ハンカチは巡査部長のものです」
ソーンダイクはハンカチをとって大型のノルウェー風のナイフをとり出し、鋭いまなざしで見つめてから、それを私に手わたした。私が刃を検討しているあいだに、彼はハンカチを振ってひろげ、両面をよく見て、それから巡査部長に質問した。
「何時にこのナイフを拾いあげたのですか?」
「七時十五分ごろ、犬どもが走り去った直後です。私は注意ぶかく金環を持って拾いあげ、ただちにこのハンカチに包みました」
「七時十五分ですね」ソーンダイクは言った。
「殺人後まだ半時間とたっていないときだ。これは、実に異常だ。このハンカチはどうだ。まるで痕跡が残っていない。ぜんぜん血痕がついていない。これは、ナイフが拾いあげられたとき、それについていた血が、すでに乾いていたことを物語っている。ところが、秋の夜の湿度の高い空気のなかでは、たとえ乾くにしても、乾くのがおそいものだ。見たところ、ナイフについていた血は、ナイフが放り出されたとき、すでに乾いていたように思える。ところで、巡査部長、あなたはハンカチに、どんな香水をつけますか?」
「香水ですって?」巡査部長はびっくりして、腹立たしげに問いかえした。「ハンカチに香水をつけるなんて、とんでもありませんよ。私は、生まれてこのかた、断じて、一度も香水なんぞ使ったことはありませんよ」
ソーンダイクは、黙ってそのハンカチを巡査部長の前にさし出した。信じかねるような表情で巡査部長はそれを嗅《か》いでみた。「たしかに香水のにおいがします」と彼は確認した。「しかしこれはナイフのせいにちがいないと思います」私も同じように思ったので、ナイフの柄《え》を鼻に近づけてみた。たちまち胸がわるくなるような甘ったるい麝香《じゃこう》のにおいを嗅ぎとることができた。
「問題は」みんなが二つの品を嗅いでみてから警部が言った。「ナイフがハンカチに香気をつけたのか、それともハンカチがナイフに香気をつけたのかということです」
「巡査部長の言ったことをお聞きになったでしょう」ソーンダイクが答えた。「ナイフを包んだとき、ハンカチには、なんの香気もついていなかったのですよ。ねえ、警部、この香気は、実に奇妙な暗示を私にあたえてくれるようです。この事件をめぐるいろいろな事実を考えてごらんなさい――明確な臭跡がエリスへとつらなっていて、しかもエリスには掻《か》き傷も血痕も見つからなかったという事実。列車のなかで私が指摘したような矛盾した事実。こんどは、ついている血が乾いていたと思われるこのナイフが、麝香の香気をつけてほうり出されていたという事実。これらは慎重に考えられ冷静に計画された犯罪を暗示しています。殺人犯人は将軍のところで飼っている警察犬のことを知っていて、自分から注意をそらすために、その犬どもを利用したのです。その男は、ナイフに血をぬり、麝香の香気をつけ、臭跡をつくるために、これをおいておいたのです。疑いもなく、やはり麝香の香気をつけた何かを、地面に引きずって行って、臭跡をつらねたものと思われます。もちろん、これは暗示にすぎませんが、考えてみる価値はあると思います」
「しかし」警部は、けんめいに反論した。「殺人犯人がナイフをもちあつかっていたとすれば、彼自身にも香気がついていたと思いますがね」
「そのとおりです。だから、その男が愚かものではないと仮定してかかっている以上、ナイフをもちあつかうようなことはしなかったと仮定していいと思います。あらかじめ、このへんのどこかにかくしておいて、そこから、ナイフには手をふれずに、たとえば棒ぎれでうちおとすというようなこともできたと思います」
「おそらくこの木ではないでしょうか」巡査部長がカシワの木を指さしながら、意見を言った。
「いや」ソーンダイクは言った。「ナイフをおいておいた木に、自分までがかくれるということは考えられません。犬どもが、すぐに臭跡をたどって行くかわりに、その場所を嗅ぎつけるかもしれませんからね。もっともナイフをかくしておいたらしく思える場所は、ナイフが見つかった個所に、もっとも近いところですよ」彼はその個所においてある石のところへ行って、あたりを見まわした。「そのシデの木が、もっとも近いようですな。その平らな樹冠も、たいへん都合よくできている――小柄らしいその男にも、たやすく手がとどきます。そこに何か証跡があるかどうか見てみましょう。梯子《はしご》がないから、いかがでしょうね、巡査部長、背中をかしていただけませんか」
巡査部長は、かすかに苦笑して、木のそばに身をかがめ、馬飛びを思わせる格好で、両手をしっかりとひざ上に突っぱった。ソーンダイクは、がんじょうそうな枝をつかんで、身をおどらせて巡査部長の広い背中へのぼり、樹冠を見おろした。それから、枝をかきわけて樹冠の端にあがり、まんなかの洞穴のほうに姿を消した。
ふたたびあらわれたとき、彼は、たいへん風変わりな二つの品物を両手にもっていた。ルツボ用の鉄バサミと黒|漆《うるし》塗りのブリキの絵筆箱だった。彼は鉄バサミを私にわたしたが、絵筆箱のほうは、注意ぶかく針金の把手を持ってぶらさげながら地面へおりた。
「このようなものが、どんなことを意味するかはあきらかだと思います」彼は言った。「鉄バサミはナイフをもちあつかうのに使われ、絵筆箱は、それを持ち運ぶのに使われたのです。つまり、そんなふうにして衣服やカバンに香気がつかないようにしたのです。実に慎重に計画されています」
「そうだとすれば」警部が言った。「その絵筆箱の内部は麝香のにおいがするはずですね」
「もちろんです」ソーンダイクは言った。「しかし、これをあける前に、いささか重要な問題をかたづけておかなくてはなりません。ジャーヴィス、例の粉を出してくれないか」
私はズックでおおわれた「調査用トランク」をあけ、小さな胡椒《こしょう》壜のようなもの――実はヨードホルムの粉振り器――をとり出して彼に手わたした。絵筆箱の針金の把手をしっかりと握って、彼は、淡黄色の粉末を粉振り器から、絵筆箱の蓋いちめんにふりかけ、頂上を指の関節で軽くたたきながら、こまかい粉末がよくひろがるようにした。それから、よけいな粉末を吹き払った。すると二人の警官は、同時にはっと歓喜に息をはずませた。いまや黒漆塗りの表面に、たやすく完全な隆線模型がつくれるほど明確な指紋が、くっきりといくつも浮き出ていたからである。
「おそらくこれは、その男の右の手であろうと思う」ソーンダイクは言った。「こんどは左の手だ」彼は絵筆箱の容器のほうの部分を同じように処理してから、粉末を吹き払った。すると全面に黄色い楕円形の斑点があらわれた。「それでは、ジャーヴィス」と彼は言った。「手袋をはめて蓋を引きあけてくれないか。内部を調べてみよう」
蓋をあけるのは、ぞうさなかった。空気が通らないようにするためらしく、容器の肩の部分にワセリンが塗ってあった。うつろな音をたてて蓋があくと、内部から、かすかに麝香の香気が流れ出た。
「このあとの調査は、警察でおやりになったほうが上策というものです」ふたたび私が蓋をしめると、ソーンダイクは言った。「そちらで指紋の写真もとれるしね」
「牧草地を横ぎって行くのが一番の近道です」フォックスが言った。「警察犬どもがたどっていった道筋ですよ」
それで私たちはその道を通って歩いて行った。ソーンダイクは絵筆箱の把手をもって、そっとそれを持ち運んでいた。
「どうしてエリスがこの事件に巻きこまれたのか、どうも私にはよくのみこめません」歩いて行きながら、警部が言った。「よしんばエリスがプラットに恨みを抱いていたとしても。たしかにエリスとプラットは仲がよくなかったのですがね」
「私にはよくわかるような気がする」ソーンダイクは言った。「あなたの話によると、二人は同じころにポートランド刑務所の職員だったというではありませんか。こんどの事件は、当時その刑務所にはいっていたある種の囚人――しかも、その正体を突きとめられて――プラットに、あるいはエリスにも――恐喝された囚人が、やったことではないでしょうか。そこで、この指紋がものをいうわけです。その男が以前の囚人であるならば、その指紋が警視庁にあるはずです。そうでないとすれば、この指紋は、手がかりとしては、たいして価値はありません」
「まったくそのとおりです」警部は言った。「あなたはエリスにお会いになりたいでしょう?」
「あなたがさっきお話しになった財布を、まず見たいのですよ」ソーンダイクは答えた。「たぶん、それが臭跡の終点になっているのではないかと思います」
警察署へつくと、すぐに警部は金庫をあけて一つの包みをとり出してきた。「これがエリスの所持品です」包みをひらきながら言った。「そしてこれが例の財布ですよ」
彼は豚革の財布をソーンダイクにわたした。ソーンダイクはそれをあけ、内側のにおいをかいでみてから、私にまわした。麝香の香気が、とくに財布の背の小さな仕切りのなかに、はっきりと嗅《か》ぎとれた。
「この香気は、この包みのほかの品物にもうつっているだろう」ソーンダイクは一つ一つ順々に嗅いでみた。「だが、私の嗅覚はあまり鋭くないから、すこしも香気を嗅ぎとれない。どれもこれも無臭のような気がする。しかし、財布だけは、実にはっきりと香気がわかる。では、エリスをつれてきていただきましょうか」
巡査部長が鍵のかかった引出しから一つの鍵をとり出して留置場のほうへ出て行った。やがて、ふたたび戻ってきた彼は、容疑者エリスをともなっていた――強そうな、たくましい男だが、すっかりしょげきっていた。
「おい、元気を出せ、エリス」警部が言った。「こちらはソーンダイク博士だ。われわれに助力してくださるためにおいでになったのだ。一つ二つ、君に質問したいとおっしゃっている」
エリスは哀れっぽくソーンダイクを見て言った。「私は、この事件のことは、まるで何も知りません。ほんとうです。神に誓います」
「はじめから私は君が知っているとは思っていなかったよ」ソーンダイクは言った。「しかし、一つ二つ君に話してもらいたいことがある。まず、この財布だが、どこでこれを見つけたのかね?」
「ソープ村へ行く道でです。小道のまんなかに落ちていたのです」
「そのとき、だれかほかの者が、その場所を通りすぎなかったかね? 君は、だれかに会うか、行きちがうかしなかったか?」
「その財布を見つける一分ほど前に、ひとりの労働者に出会いました。その労働者が、どうしてそれを見つけなかったのか、どうも不思議でならないのですが」
「たぶん、財布がそこになかったからだろう」ソーンダイクは言った。「そこには生垣がなかったかね?」
「はい、低い土手に生垣があります」
「そうか。うむ。ところで、君がプラットとポートランド刑務所にいっしょにいたころ知っていただれかが、このへんにいないか? ぶちまけていえば――以前の囚人――君やプラットがしめつけていた相手だ」
「いいえ、誓っていないと思います。しかし、プラットは知っていたかもわかりません。あの男は、すごく人の顔をよくおぼえていますから」
ソーンダイクは何か考えめぐらしているようだった。「君のいたころ、ポートランド刑務所から逃亡したものがいるかね?」
「一人だけいます――ドッブズという名前の男です。急に立ちこめてきた霧のなかを、海のほうへ逃げて、溺死《できし》したものとされました。衣類は岬へうちあげられましたが、死体はあがりませんでした。いずれにしても、それっきり消息を絶ってしまいました」
「ありがとう、エリス。君の指紋をとらせてもらってもいいだろうね」
「結構ですとも」ぜひとってもらいたいというように彼は答えた。事務室のスタンプ台を運んできて、一通りエリスの指紋をとった。ソーンダイクが、その指紋と絵筆箱にあらわれた指紋とを比較してみると、相似点はすこしもなかった。エリスは、すっかり浮き浮きした気分になって留置場へ戻って行った。
絵筆箱の指紋の写真を数枚とって、その晩、私たちはそのネガを持ってロンドンへ帰ったが、列車を待っているあいだに、ソーンダイクは警部に指示を言い残した。「その男は、人前へ出るまでに、手を洗ったにちがいないから、近隣のすべての池や溝や小川の岸をさがして、あの並木道にあったような足跡を見つけてください。見つかったら、そこの水の底を、すっかり捜索してみてください。どうもナイフを泥のなかへおとしこんだ確率が大きいですからね」
私たちが警視庁へわたした写真によって、同夜、専門家たちは、その指紋が、逃亡した囚人フランシス・ドッブズのものであることを確認した。彼の記録に添付されていた二枚の写真――横と正面の顔写真が、人相書とともにベイスフォードへ送られた。そして、当然の筋道をたどって、その男が、いささか謎めいた人物、ルーファス・ペンベリーという名前で二年ばかり隠退生活をつづけている紳士であることがわかった。しかしルーファス・ペンベリーの姿は、その上品な家にもなかったし、どこにも見つからなかった。判明したのは、殺人のあったあくる日、彼が全「人格」を「無記名債券」に変えて、老少不定《ろうしょうふじょう》の人間界から消えうせたことだけだった。そして、今日にいたるまで、まったく消息不明のままなのである。
「まあ、ここだけの話だが」と、しばらくたってから、私たちがこの事件のことを語りあっていたとき、ソーンダイクは言った。「あの男は、のがれてもいいだけの資格をもっていたよ。あれはあきらかに恐喝だったのだ。そして、恐喝をやる男を殺すのは――ほかに防衛方法がない場合――ほとんど殺人ではない。エリスは、けっして有罪の宣告を受けなかっただろうし、ドッブズ、つまりペンベリーも、それを知っていたにちがいない。だが、エリスは巡回裁判にはまわされていただろうから、そうしているうちに、すべての証跡が消えうせるはずだった。いや、ドッブズというのは、勇気があり、創意に富み、まことに機略縦横の男だった。そして何よりも、警察犬にまつわる途方もない迷信を打破してのけたわけだよ」
[#改ページ]
反抗のこだま
1 ガードラー燈台上の死
幼児や下等動物は、おとなの推理力のおよばないある種の超自然的な能力をそなえている、と一般に信じられている。そして、その能力による判断は、ありきたりの経験の教えるところを、けっきょく圧倒するものと受けとられがちである。
こんなふうに信じられていることが、一般的な奇説好み以外の何かの理由のためかどうかは、せんさくする必要はない。これは、きわめて広く、わけてもある社会的地位の婦人たちには、つよく信じられているのである。そしてミセス・トマス・ソリーにいたっては、これを生活信条の一つとして、忠実に信奉しているのである。
「そうなのよ」彼女はいうのである。「小さな子供たちや、口のきけない動物たちが、どんなによく知っているか、ほんとにおどろいてしまうわ。でも知っているのよ。≪彼ら≫をだますなんて、そんなこと、できるもんですか。たちまち黄金と浮きかすとを見分けてしまうし、人間の心を本みたいに読みとってしまうんですものね。あたし、ほんとに不思議だと思うのよ。本能とでもいうんでしょうかね」
このような貴重きわまりない哲学的思想の真髄をぶちまけてから、彼女は泡だった洗濯だらいのなかへ、ひじまで両腕をおし入れた。そして、片方のひざに生後十八か月の幼児を、それから片方のひざに見事なぶち猫をのせて、出入口に坐《すわ》りこんでいる下宿人のほうを讃嘆するように見やった。
下宿人のジェームズ・ブラウンは、相当な年輩の船乗りであるが、小柄で、やせぎすで、ものやわらかに、抜け目なくふるまい、そしてすこしばかりずるそうだった。だが、船乗りらしく子供や動物が好きで、彼らに気に入られるようにする船乗りらしいコツを心得ていた。だから彼が、何もつめてないパイプを歯のない歯ぐきにくわえて、ゆらゆらさせていると、赤ん坊はしめっぽい微笑を浮かべるし、猫は綿毛の玉のように丸くなり、メリヤス機械みたいに咽喉《のど》を鳴らしながら、新しい手袋のはめごこちをためしているように、うっとりと指をうごかすのであった。
「あんな遠くの燈台で生活していたら、死ぬほどさびしいでしょうね」ミセス・ソリーは、また言った。「男三人きりで、話しかける隣家ひとつないんですものね。それに、世話をやいてくれたり、片づけものをしてくれたりする女が一人もいないときては、まるでめちゃくちゃだわね。でも、こういう日の長い時季には、ねえ、ブラウンさん、あんまり働きすぎないようにすることよ。晩は九時すぎても、まだ明るいんだものね。あんたなんか、どうして暇をつぶすつもりかね」
「なあに、いくらでもすることはあるよ」ブラウンは言った。「ランプやレンズをふいたり、鉄金物にペンキを塗ったりね。そういえば」と振り向いて、柱時計を見ながら言いそえた。「もうそろそろ時間だ。午前十時半が高潮だが、もう八時になっちまった」
ほのめかされて、ソリーのおかみさんは、洗った衣類を手早く引っぱり出し、短い縄の恰好《かっこう》にしぼりあげはじめた。それをすませると、エプロンで手をふき、だだをこねている赤ん坊をブラウンの手から受けとった。
「あんたの部屋は、ちゃんと用意しとくからね、ブラウンさん」彼女は言った。「休みで陸へあがれる番になったら、ぜひきておくれ。あたしもうれしいし、トムも、あんたがもどったらよろこぶだろうからね」
「ありがとう、ソリーのおかみさん」そっと猫を床におろしながらブラウンは答えた。「あんたよりも、おれのほうが、ずっとうれしい気持ちになるだろうよ」彼は、あたたかく女主人と握手をして、赤ん坊に接吻《せっぷん》し、猫のあごの下を軽くつつき、把手《とって》綱をつかんで小型の衣服箱を持ちあげ、それをぐいと肩へ引っかけると、その家を出た。
彼の行く道は沼沢地を横ぎっていた。彼は沖合の船のように、陸地の端に異様な姿で立っているリカルヴァ沿岸警備所の双子塔《ふたごとう》を目じるしにして進んで行った。ぶわぶわする草原を踏んで歩いていると、トム・ソリー坊やのうちの羊どもが、うつろに彼を見つめて、お別れの鳴き声をあげた。堤防の水門のところへたどりつくと、ちょっと立ちどまって、うつくしいケント州の風景をふりかえった。セント・ニコラス寺院の灰色の塔が、木々の上にそびえ、遠くにサールの製粉所の水車が、夏の微風のなかで、ゆるやかにまわっていた。とくに、波瀾にみちた彼の生涯において、しばらくのあいだ、しずかに、なごやかな家庭的なくつろぎをあたえてくれた、一軒ぽっつりと立っているトム・ソリーの家を、しばらく彼はながめていた。当分あの家ともお別れだと思うと、これから出かけて行く燈台のことが、ぼんやりと心にうかんだ。小さく溜息をついて、彼は水門を通りぬけ、リカルヴァ沿岸警備所に向かって足をはこんだ。
お役所風の黒い煙突のついた白塗りの小さな建物の外側で、上役の沿岸警備員が、旗竿《はたざお》の揚げ綱をつくろっていたが、ブラウンが近づくと、陽気に声をかけた。
「やあ、きたね」警備員は言った。「ちゃんと新調の服なんぞ着こんでさ。だが、弱ったな。なにしろ今朝はウイッツタブルへボートで出かけなきゃならないものだからね、君に一人つけてやるわけにもいかないし、ボートを貸すわけにもいかないんだ」
「それじゃ、わしは泳いで行かなきゃならねえんですかい」ブラウンは言った。
警備員は、にやにや笑った。「その新調の服では、泳いで行くわけにもいかないだろう」彼は答えた。「あそこにウイレットおやじのボートがある。今日は使わないんだ。おやじはミンスターへ娘に会いに出かけるそうだから、あのボートを貸してくれるだろうと思うよ。しかし、弱ったことに、君について行くものがいないんだ。私は、あのボートについては、ウイレットに責任を負わなきゃならないんだけどね」
「そんなこと、なんでもないじゃないか」遠洋航路の船乗りらしい(多くの場合、かんちがいの)帆走船をあやつる能力への自信を見せて、ブラウンは言った。「わしがボートをあやつれねえとでも思っているんですかい。十歳になるかならずの餓鬼《がき》の時分から海になじんできたこのわしがさ」
「いや」警備員は言った。「しかし、だれがボートをこちらへもどしてくれるんだい?」
「わしと交代に上陸する相手の男さ。奴だって、わしと同様、泳いでわたりたいとは思わねえだろうからね」
警備員は望遠鏡を通過する艀《はしけ》のほうへ向けながら、ちょっと思案した。「そうか。それでいいわけだな」と、しめくくりをつけた。「それにしても、あちらから専属船をまわしてよこさないのは、すこしひどいね。しかし、君がボートをもどしてよこすことを引きうけるなら、あれを使うことにしよう。もう君も出かけなくてはならない時間だからね」
彼は建物の裏へ行って、まもなく二人の仲間といっしょに引きかえしてきた。そして、四人の男たちは、浜辺を歩いて行って、高水標《こうすいひょう》のすぐ上に横たわっているウイレットのボートのところまできた。
エミリー号というそのボートは、この地方で「相乗り早舟」と呼ばれる幅の広い小舟で、オーク材で堅牢につくられ、ワニス塗りの板が張ってあって、大マストと後マストには縦帆《じゅうはん》がとりつけてあった。ボートは、四人の男たちの手で、やっと動いた。そして、やわらかな白堊《はくあ》の岩の上をすべりながら、妙にうつろな音をたてた。そこで警備員たちは、底荷になっている小石袋を引き出したほうがいいのではないか、と論じあった。しかし、とうとう底荷もろとも水際まで引きおろされた。ブラウンが大マストを立てているあいだに、例の上役が注意をあたえた。
「いいか、上げ潮を利用するんだぞ。舳先《へさき》を北東に向けたまま、こんなに北西風が吹いているのだから、その風をうけて帆走し、燈台へたどりつくんだ。ボートを燈台の東へやるのは禁物だぞ。そんなことをすると、引き潮になったとき、ひどい目にあうからな」
このような忠告を、ブラウンは気にもとめずに軽く聞きながしながら、帆をあげて、押しよせてくる潮が波打際へはいあがるのを見つめていた。やがてボートが、おだやかなうねりにもちあげられると、彼はオールで、強く岸を突いた。ボートは底をきしらせながら浜辺を離れた。それから彼は、舵《かじ》を艫《とも》へさしこみ、ゆっくりと大マストの帆綱を巻きつけてとめた。
「あんなことをしやがる」警備員が言った。「帆綱をとめてしまった。ああいう連中のやりそうなことだ」(しかし、彼自身も、いつもやっていたのだ)「あんなことをするから事故が起きるんだ。ウイレットおやじが、無事にもどってきた自分のボートを見られればいいが」
なめらかな水面を斜めに突っ切りながら、だんだん小さくなって行くボートを、警備員は、しばらくながめていた。だが、やがて仲間のあとを追って警備員詰所へ引きかえして行った。
ガードラー砂州の南西端、ちょうど二|尋《ひろ》の圏内に、細長い紡錘《ぼうすい》のような形をした燈台が、鉄骨の梁材《りょうざい》に支えられて、奇怪な赤い胴体の渉禽《しょうきん》のように立っていた。もう半分近く潮が満ちてきていて、いちばん高い砂州も、とうに潮にかくれ、なめらかな海面の上に、燈台はしょんぼりと孤影をさらしていた。大西洋のどまんなかの「中間航路」で風が落ちて立ち往生した奴隷貿易船にも似ていた。
燈室の外側の展望回廊に二人の男がいた。この燈台に勤務する二人きりの燈台守《とうだいもり》で、そのうちの一人は、ぐったりと椅子に腰をおろし、もう一つの椅子に枕をおいて、その上に左足をのせていた。ほかの一人は、望遠鏡を欄干にすえ、それをのぞきながら、遠くの陸地のかすかな灰色の線や、リカルヴァの双子塔を示す小さな二つの突起を眺めていた。
「ボートなんぞ、影も形も見えないぜ、ハリー」
ハリーはうめくように言った。「これじゃ上げ潮に乗りそこねてしまうよ」彼はこぼした。「するとまた一日むだにすぎてしまうことになる」
「バーチントンへ行けばいいさ。あそこから汽車に乗るんだ」
「汽車になんぞ乗せてもらいたくないよ」足を痛めているハリーはうなった。「ボートにしたって、やりきれないんだ。どんな船でもいいが、こちらへ向かってくるやつはいないのかい、トム?」
トムは東のほうに顔をむけて眼の上に手をかざした。「北から帆船が一隻、潮を横ぎってくる。石炭船らしいな」近づく船に望遠鏡を向けて彼は言いそえた。「前マストの下から二番目の横帆《おうはん》の両端に、二枚の新しい帆布をつけているぜ」
ハリーは、けんめいに身を起こした。「小縦帆《トライスル》は、どんなふうかね、トム?」
「よく見えないんだ」トムは答えた。「うん、見えてきた。渋色だよ。あれは例のユートピア号だぜ、ハリー。おれの知るかぎり、渋色の小縦帆《トライスル》をつけているのは、あの船だけだからな」
「なあ、トム」ハリーは叫んだ。「ユートピア号なら、おれの故郷へ向かっているのだから、どうでもおれは乗りこむぜ。モケット船長は、おれを乗せて行ってくれるにきまっている」
「君の交代がくるまでは、ここから離れるのはまずいぜ、バーネット」トムは心配そうに言った。「持ち場を空っぽにして出かけてしまうのは規則にそむくことだからな」
「規則なんぞ、かまうもんか」バーネットは叫んだ。「足のほうが、規則なんぞよりも、おれには大事だよ。一生びっこにはなりたくないからね。それに、おれは、ここでは役に立たないのだし、新任のブラウンという男も、もうまもなくやってくるんだ。トム、親切な海の仲間らしく、信号をあげて、その石炭船を呼んでくれよ」
「まあ、そいつは君自身の問題だがね」トムは言った。「おれにしても、君の立場にいたら、機会が見つかり次第、早いとこ故郷へ帰って、医者にみてもらう段どりにするだろうからね」彼は、ぶらぶら信号旗格納所へ行き、二つの信号旗を選び出して、ゆっくりと綱へ結びつけた。そして石炭船が連絡圏内にはいりこんでくると、その小さくまるめた信号旗を旗竿のてっぺんにあげ、綱を引きうごかして二つの旗を風になびかせながら、「助力ヲ求ム」の信号を発した。
すぐに、石炭船の大マストの頂上のトラックに、石炭によごれた応諾の長旗がひるがえった。それから石炭船は、すこしぐずぐずながら、潮の流れるほうへ船首をまわし、船尾を燈台の方向に向けて、ゆっくりと近づいてきた。そして舷門《げんもん》から一隻のボートをおろした。二人の乗組員が力強くオールを漕いできた。
「おおい、燈台!」ボートが声のとどく距離までくると、乗組員の一人がどなった。「いったい、どうしたというんだ?」
「ハリー・バーネットが足をくじいたんだ」燈台守は叫んだ。「モケット船長にウイッツタブルまで乗せて行ってもらいたいのだが、ひとつ船長の気持ちをきいてくれないか」
ボートは石炭船へ引きかえして行った。そして大きな声で、ほんのちょっとのあいだ相談してから、また燈台のほうへ漕いできた。
「船長は承知したと言っているぞ」きこえるところまでくると乗組員はどなった。「ただ、上げ潮をやりすごしたくねえから、手っとり早くやってくれと言っている」
足をくじいた男は、ほっと安堵《あんど》の溜息をついた。「よかった。それにしても、いったい、どういうふうにして梯子《はしご》をおりたものか、見当がつかない。どうしたものかね、ジェフリーズ?」
「おれが滑車でおろしてやろう」ジェフリーズは答えた。「ロープの端にぶらさがるんだ。そして、紐《ひも》でからだをロープにしばりつければいい」
「そうだな。それでいいよ、トム」バーネットは言った。「しかし、たのむから、静かにロープをおろしてくれよ」
すばやく用意がととのえられたので、ボートがぴったりと横づけになったときには、準備万端できあがっていた。そして一分後には、足をくじいた男は滑車のロープの端に、大きな蜘蛛《くも》のようにぶらさがり、滑車のきしる音につれて、しきりに何か罰《ばち》あたりなことをつぶやきながら、ゆっくりとおろされて行った。そのあとから、彼の衣服箱やカバンがおろされ、それらが滑車のカギからはずされると、すぐにボートは石炭船に向かって漕ぎ去って行った。石炭船は船尾をさきにして、ゆるやかに燈台の正面を過ぎて行った。足を痛めた男は舷側《げんそく》から引きあげられた。衣服箱なども運ばれた。そして石炭船はケント平瀬《ひらせ》を突っ切って南へ向かって行った。
ジェフリーズは展望回廊に立って、去って行く船を見つめ、だんだん遠ざかるにつれて、しだいに小さくかすかになってゆく乗組員の声を聞いていた。口やかましい仲間が行ってしまったあとの燈台には、奇妙なうらさびしさが落ちかかっていた。帰路の船舶は、もうとうにプリンシズ水道を通過してしまって、しずかな海は荒涼として、うつろだった。鏡のような海面に小さな黒点をちらばらせている遠くの浮標《ブイ》も、目に見えない砂州に立っている紡錘型の標識も、空虚な海の寂寥《せきりょう》感を強めるばかりだった。そしてシヴァリング砂州の波にゆられる打鐘浮標《ベル・ブイ》の音が、かすかに風におくられてきて、不気味に悲しげにひびいた。今日一日の仕事は、もう全部かたづいていた。レンズは磨かれていたし、ランプの手入れもすんでいた。霧笛《むてき》を鳴らす小型モーターにも油がさしてあった。燈台での常道で、まだいくつかこまごました仕事をしなければならなかったが、いまのところジェフリーズは働く気分になれなかった。今日は新しい同僚がジェフリーズの人生にはいりこんでくるはずだった。一か月ぶっ通しに、夜も昼も、二人きりで、ここにとじこめられていなければならない未知の相棒。その気質や趣味や習慣によって、楽しい相棒ともなれば、果てしもない口論やいがみ合いの相手ともなる男だった。ブラウンという男は、いったい何者だろう? 何をやっていたのだろう? どんな人物だろう? こんな疑問が、当然ながら、ジェフリーズの頭のなかに去来し、いつもの考えや仕事から彼の気分をそらしていた。
まもなく、陸地のほうの水平線上に、小さな一つの点のようなものを、彼の眼はとらえた。望遠鏡をとりあげて、彼は熱心に眺めた。たしかに一隻のボートだった。だが、彼が見張っていた沿岸警備隊の監視船ではなかった。あきらかに漁民のボートで、一人の男が乗っていた。がっくりした身ぶりでジェフリーズは望遠鏡を下におき、パイプに煙草をつめながら、欄干にもたれて、夢みるような眼を、陸地のかすかな灰色の線に向けた。
長い長い三年間、彼は、このうらさびしいところですごしてきたのであった。じっとしてはいられない行動的な彼の性格にとっては、まことにいやなところだった。空虚な、いつ終わるとも知れぬような三年をすごすあいだに、わずかに心に残っていることといえば、果てしもなくつづいた夏の凪《なぎ》と、暴風雨の夜と、冬の冷たい霧くらいのものだった。霧の深い夜は、姿の見えない汽船が、空虚のなかから汽笛をひびかせると、霧笛が、しわがれたような警告を発したものだった。
このような神に忘れられた場所へ、なぜおれはきたのか? 広い世界が呼びかけているのに、なぜここにとどまっていたのか? そう思うと、これまでにもよく心の眼で見ていた光景が、あざやかに記憶のなかからうかびあがってきて、静かな海や遠くの陸地の眺めをさえぎってしまった。それは強烈な色彩にいろどられた光景だった。雲もない大空の下に、熱帯の濃紺の海が横たわり、そのなかで、白く塗られた三本マストの帆船が、静かな大波のうねりに、上下にゆれ動いていた。
船の帆は、ぞんざいに下の隅を帆桁《ほげた》に引きあげられており、帆桁は綱がゆるんでぐらぐらゆれ、投げ出された舵輪が、舵の動揺につれて、あちこちころげまわっていた。
甲板には十数人の船員たちがいるのだから、遺棄された船ではなかったが、船員たちは、みな酔っぱらって眠りこんでいた。そして、そのなかには一人の高級船員もいなかった。
つぎに、ある船室の内部の場面がうかんできた。海図台、羅針儀、経線儀などが、船長室であることを示していた。そこには四人の男たちがいた。そのなかの二人は死んで床に横たわっていた。あとの二人のうち、一人は小柄な、悪がしこい顔つきの男で、そのとき彼は、一つの死体のそばに膝《ひざ》をついて、その上衣《うわぎ》でナイフをぬぐっていた。四番目の男はジェフリーズ自身だった。
さらにうかびあがってきた光景のなかでは、この二人の殺人犯人が、ひそかに船尾のボートに乗りこんで逃げ、酔っぱらった乗組員を乗せた帆船のほうは、河口の砂州に寄せてはくだける波の方向へただよい流れていた。やがて、その帆船が、日光のなかの氷柱のように波のなかに消えうせるのが見えた。その後、「船が難破して、吹きさらしのボートでのがれてきたのだ」というふれこみで二人は救いあげられ、あるアメリカの港へ上陸させられた。
ジェフリーズがここへきているのは、こういう理由のためだった。つまり彼が殺人犯人であったからだ。もう一人の悪党、エイモス・トッドは、減刑してもらいたいばかりに共犯証言をした。そして悪事の張本人はジェフリーズだと申し立てた。だからジェフリーズは、苦労に苦労をかさねて逃亡しなければならぬ羽目となったのである。それいらい、彼はこの広大な世界から身をかくしてしまった。そして、ここにかくれつづけていなければならなかったのである――もはや彼の人相などは知られていなかったし、あの帆船の乗組員の連中も死んでしまっていた。だから、彼が身をかくしていなければならなかったのは、官憲からというよりも、あの犯罪の相棒からだったのだ。彼がジェフリー・ロークという名前をトマス・ジェフリーズと変え、このガードラー燈台へやってきて、まるで終身禁固刑を受けた人間のように暮らすことになったのも、トッドを怖れたためであった。トッドは死ぬかもしれない――もういまごろは死んでいるかもしれない――だが、おれは、そのようなニュースを耳にすることはあるまい。奴が自由の身になった知らせを聞くことも、おそらくないだろう。
現実にかえった彼は、もう一度、遠くのボートに望遠鏡を向けてみた。もうボートは、かなり近づいていた。どうやらこの燈台をめざしているようであった。たぶん、ボートに乗っている男は、何か訓令でもとどけにきたのだろう、と彼は思った。とにかく、沿岸警備隊の監視船の姿は、どこにもなかった。
彼は、なかへはいり、台所へ行って、簡単な食事の支度にとりかかった。だが、何も調理したりするにはおよばなかった。きのう調理した冷肉の残りがあるから、それと、ジャガイモのかわりにビスケットでも食べれば、それで十分、間に合いそうだ。彼は落ちつかなく、心が乱れるのをおぼえた。孤独感がせまり、ひっきりなしに鉄骨の脚にあたって砕けつづける波の音が神経にくい入るようだった。
ふたたび展望回廊へ出て行ったときには、はげしい引き潮になっていた。例のボートは一マイルほどのところまで近づいてきていた。いま、望遠鏡で見ると、ボートに乗っている男は、水先案内協会の制帽をかぶっていた。すると、あの男は、今日からおれの同僚になるブラウンという奴にちがいないが、それにしては、すこしばかり変だ。いったい、あのボートを、どうしようというのだろう? あれをもどしに行くものが、だれもいないじゃないか。
微風は、もうなくなっていた。彼がボートを眺めていると、乗っている男は、帆をおろし、オールをつかんだ。押しよせる潮を乗り切ろうとして漕ぐ男のようすに、なにかあわてているような気配を見てとってので、ふとジェフリーズは水平線を見まわした。とたんに、はじめて彼は、東から霧が忍びよってきて、すでにすぐそこまで近づき、東ガードラー砂州の標識すら消えていることに気がついた。いそいで彼はなかへはいり、空気を圧縮して霧笛を鳴らす小型モーターを動かした。そして調子のいい機械の回転ぶりを、しばらく眺めていた。それから、霧笛のとどろく音に床が震動すると、もういちど展望回廊へ出て行った。
もう霧は燈台の周囲にせまってきていた。例のボートは視野からかくされていた。周囲をとりかこむ霧の壁は、目に見えるものばかりでなく、音をも遮断したかのようであった。ときどき霧笛が警告の曲調をとどろかせたが、あとはしんと静まりかえり、ただ鉄脚に砕ける低い波の音と、シヴァリング砂州の打鐘浮標《ベル・ブイ》の悲しげに鳴る音とが、かすかに遠くきこえるだけだった。
そのうちにオールの鈍い音がきこえてきた。やがて、目の下の霧のなかへ浮かびあがった、灰色の海面の円のいちばん端のところへ、霧のなかからボートが、死にものぐるいに漕いでいる影のような男の姿を乗せて、蒼白《あおじろ》く亡霊のようにあらわれた。霧笛が、しわがれたわめき声を発した。ボートの男は、あたりを見まわして、燈台を見てとり、方向を変えて燈台に向かってきた。
ジェフリーズは鉄の階段をおり、下の回廊を歩いて行った。そして、梯子《はしご》の頂上に立って、近づいてくる未知の男を熱心に眺めていた。もう彼は、ひとりでいることに、うんざりしていたのである。バーネットが行ってしまってから、仲間をもとめる気持ちが、つのりにつのっていたのだ。だが、彼の人生へはいりこんできて、きわめて重要な位置を占めようとしている未知の男は、どんな種類の同僚なのだろうか? これは彼にとって、まことに重大な問題だった。
ボートは潮の急流をななめに突っ切って急速に漕ぎよせてきた。次第にそれは近づいてきた。だが、まだジェフリーズには、新しい同僚の顔を見てとれなかった。やがてボートは、ほとんど横づけになり、鉄骨の脚柱にぶちあたった。未知の男は一方のオールを引っこめて、梯子の丸い横棒をつかんだ。ジェフリーズは巻いてあったロープをボートのなかへおとしてやった。やはりまだ男の顔はかくされていた。
ジェフリーズは、梯子の上に身を乗り出して、けんめいに相手を観察した。男はロープをしばりつけ、すべり環から帆をはずし、マストを檣根座《しょうこんざ》から抜いていた。すっかりかたづけてしまうと、小型の衣服箱を持ちあげ、それを肩へ引っかけて、梯子に足をかけた。からだに重荷がかかっているので、ゆっくりと一本ずつ横棒を踏みしめながら、一度も上を見あげずにのぼりつづけた。ジェフリーズは、いよいよ熱心に相手の頭のてっぺんをじっと見おろしていた。やっと相手が梯子の頂上までたどりつくと、ジェフリーズは身をかがめて手をかした。すると、はじめて相手は顔をあげた。とたんにジェフリーズは蒼白《そうはく》な顔になり、ぎょっとして身をひいた。
(おや!)彼は息がつまった。(エイモス・トッドだ!)
新来者の足が回廊を踏んだ瞬間、霧笛が飢えた怪物のようなわめき声をとどろかせた。一言も何もいわず、無愛想に向きを変えて、ジェフリーズは、鉄の階段のほうへ歩きはじめた。トッドが、あとからついてきた。二人の男は黙々として、空虚な足音を階段の鉄板にひびかせながら、のぼって行った。だまりこんだまま、ジェフリーズは、ゆっくりと居間にはいり、相手があとからはいってくると、くるりとそのほうを向いて、衣服箱をおろすようにと身ぶりで示した。
「お前さんは、あまり口数が多くねえほうだな、兄弟」珍しそうなようすで部屋を見まわしながらトッドは言った。「『よくきたな』くらい言ってくれてもいいじゃねえか。おれだって、お前さんのいい仲間になりたいと思っているんだ。おれはジム・ブラウン。ほんの新米さ。お前さんの名前は、なんていうんだい?」
とつぜんジェフリーズは、トッドを窓のところへ引っぱって行った。「おれをよく見なよ、エイモス・トッド」彼は、するどく言った。「それからお前自身に、おれの名前をきいてみることだ」
その声の調子に、ぎくりとしてトッドは眼をあげ、死人のように蒼ざめた。「まさか」ささやくような声で言った。「まさか、ジェフ・ロークじゃないだろうな」
相手の男は、しんらつに笑った。そして身をのり出しながら低い声で言った。「不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵《きゅうてき》よ。お前は、とうとうおれを見つけたな」
「そんなことは言わねえでくれ」トッドは声をあげた。「おれを仇敵だなどときめつけるのはやめてくれよ、ジェフ。おれは、正直お前に会えて、よろこんでいるんだ。もっとも、お前は顎《あご》ひげがなくなっているし、そんなゴマ塩頭になっているから、言われなかったら、こんりんざいお前とは気づかなかったろうがね。おれが悪かったんだ、ジェフ、それはおれも知っている。だが、昔の恨みつらみをいまさら言ってみたところで、なんの役にも立ちゃしねえ。過ぎ去ったことは水に流そうじゃねえか、ジェフ。そしてまた以前のように仲のいい相棒になろうじゃねえか」彼はハンカチで顔をぬぐい、気づかわしそうに相手を見つめた。
「まあ、坐れ」みすぼらしい織物を張った肘掛け椅子を指さしながら、ジェフリーズは言った。「坐って、あの金をお前がどうしたか、それを話してくれ。おそらく、でたらめに使っちまったんだろう。さもなけりゃ、こんなところへくる気にゃなるまいからな」
「とられちまったんだよ、ジェフ」トッドは答えた。「一文《いちもん》残らず、とられちまったんだ。あのシー・フラワー号での仕事は、まったく運がなかったよ。しかし、もうすんでしまったことだし、忘れるのが利口というものさ。おれたちをのぞいて、ほかの乗組員は、みんな死んじまったんだよ、ジェフ。だから、おれたちさえ口をつぐんでいれば、万事安心していられるんだ。みんな海の底へ沈んでしまった――連中にはおあつらえ向きのところさ」
「まったくだ」ジェフリーズは答えた。「いきさつをすべて知っている乗組の奴らには、まったくおあつらえ向きのところさ。海の底へ行かせても、絞首綱にぶらさがらせてもな」彼は大股《おおまた》で早足に、せまい部屋のなかを行ったりきたりした。ジェフリーズがトッドの坐っている椅子へ近づくたびに、トッドは、おっかなびっくりの表情で身をちぢめた。
「そうおれを睨《にら》んでばかりいるのはよしてくれ」ジェフリーズは言った。「煙草を吸うなり何なりしたらどうだい」
トッドは、いそいでポケットからパイプをとり出し、もぐらの毛皮の煙草入れから煙草をつめ、そのパイプを口にくわえてマッチをさぐった。マッチを、≪ばら≫でポケットに入れているらしく、まもなく一本――赤い頭のマッチをとり出した。壁でこすって青白い火をともし、パイプの先へもって行って、ジェフリーズにじっと眼をすえながら、両頬をふくらませてパイプをすった。ジェフリーズのほうは、足をとめて、大型の折りたたみ式ナイフで固形煙草〔煙草の葉を圧縮してつくったもの〕をけずりとっていた。そして考えこむように眉をひそめてトッドを見つめていた。
「ちょっ、パイプが詰まっちまった」煙のこないパイプを吸いながらトッドが言った。「針金の切れはしのようなものはないかね、ジェフ?」
「ないな」ジェフ・ロークは答えた。「ここにはな。あとで倉庫からとってきてやるよ。そのパイプを掃除するまで、このパイプを使ったらいい。おれのは、もう一本、そこのパイプ掛けにあるんだ」一瞬、船乗りの持ち前の款待《かんたい》好きの気分が、彼の敵意を圧倒して、煙草をつめたばかりのパイプを、彼はトッドにさし出した。
「ありがとう」とトッドは、もぐもぐ言いながら、心配そうな眼を抜き身のナイフに向けていた。椅子のそばの壁に、荒けずりのパイプ掛けがあって、数本のパイプがかかっていたが、そのうちの一本を、ジェフリーズは抜きとった。椅子ごしに彼が身をかがめてそれをとっているあいだに、トッドの顔は、かなり蒼白さを深めていた。
「なあ、ジェフ」ちょっと間をおいてからトッドは、また一服分の煙草をけずっているジェフリーズに向かって言った。「お前も、以前と同じような仲のいい相棒になるつもりだろうね?」
ジェフリーズの敵意が新たに燃えあがった。「証言でおれの命を官憲の手に渡そうとした男と、仲のいい相棒になろうっていうのか」するどく彼は言った。そして、ちょっと間をおいてから、つけくわえた。「そいつはちょっと考えてみなくちゃならねえだろうな。まあ、そのあいだにエンジンでも見てくることにしよう」
ジェフリーズが出て行くと、新来の男は両手に二つのパイプをもって深々と考えこんだ。ぼんやりした手つきでジェフリーズのパイプを口にくわえ、つまったパイプをパイプ掛けへさしてマッチをさぐった。やはり、ぼんやりしたようすでパイプに火をつけ、一分か二分吸っていたが、やがて椅子から立ちあがり、念入りにあたりを見まわして聞き耳をたてながら、そっと部屋を横ぎって歩きはじめた。ドアのところで立ちどまり、外の霧を見やってから、また注意ぶかく聞き耳をたて、忍び足で展望回廊を鉄の階段のほうへ歩いて行った。ふいに、ジェフリーズの声がきこえたので、ぎくりとして彼は立ちどまった。
「おい、トッド! どこへ出かけるんだ?」
「ボートを、もっとしっかりしばりつけておこうと思ってな、ちょっと下へ行くんだ」
「ボートなんか気にするなよ」ジェフリーズは言った。「おれがちゃんとしておいてやる」
「わかったよ、ジェフ」トッドはそう言いながらも、やはりじりじりと鉄の階段のほうへ進んでいた。「それにしても、なあ、兄弟、もう一人の男は、どこにいるんだい――おれが交代することになっている相手の男さ」
「もう一人の男なんていやしないよ」ジェフリーズは答えた。「石炭船に乗りこんで行っちまったよ」
トッドの顔は、ふいにぎょっとして真《ま》っ蒼《さお》になった。「じゃ、おれたち二人のほか、だれもいねえんだな」彼はあえいだ。それから、けんめいに恐怖をかくそうとしながら、彼はきいた。「それじゃ、だれがあのボートをかえしに行くんだ?」
「そのことは、もうすこしあとで何とか考えよう」ジェフリーズは答えた。「ともかくお前は、なかへはいって、衣服箱のものでも出したらどうだ」
そう言いながらジェフリーズは、険悪に顔をしかめて、展望回廊へ出てきた。トッドは、ふるえあがって、ちらとジェフリーズを見やってから、さっと身をめぐらして、けんめいに階段のほうへかけ出した。
「引き返せ!」展望回廊をとび出して行きながらジェフリーズはわめいた。だが、もうトッドの足は鉄の階段をふみ鳴らして駆けおりていた。ジェフリーズが階段の頂上へ行ったときには、逃げた男は、階段の一番下ちかくまでおりていた。だが、そこで彼は、あわてて蹴《け》つまずいて落っこちそうになり、あやうく手すりにつかまった。立ち直ったときには、もうジェフリーズが頭上に迫ってきていた。トッドは梯子のところへ突っ走ったが、梯子の支柱をつかんだとたんに、追跡者が彼の襟首をつかんでいた。たちまちトッドは上衣の下へ片手をさしこんでふり向いた。ジェフリーズは罵声《ばせい》とともに、すばやく一撃を加えた。トッドは叫び声をあげた。ナイフが空中を舞いながら、下方のボートの舳先に落ちて行った。
「やい、この殺し屋の悪党め!」血の流れる手で相手の咽喉《のど》元をつかみながら、ジェフリーズは、不気味におさえた声で言った。「あいかわらずお前は手軽にナイフを使うんだな。この野郎、ここから逃げだして密告するつもりだったのだろう」
「いや、ちがうよ、ジェフ」トッドは息づまるような声で答えた。「誓ってちがうんだ。はなしてくれ、ジェフ。悪気はなかったんだ。ただ――」
いきなり彼は自分の咽喉にかかっている相手の手をもぎはなし、ジェフリーズの顔をめがけて狂おしげに打ってかかった。ジェフリーズはそれをかわし、相手の手首をつかむと、猛烈に突き放した。トッドは回廊を数歩うしろへよろめき、ようやくその突端で踏みとどまった。そこで、ちょっとのあいだ、ぽかんと口をあけ、眼玉をとび出させ、身をおよがせて狂おしげに虚空をつかんでいた。それから、鋭い悲鳴をあげて、うしろへころがり落ち、落下の途中で鉄骨の梁《はり》にぶちあたり、はねかえって海中へ落ちこんだ。
彼の頭が梁にぶちあたる音がきこえたが、彼は気絶もしていなかった。海面へ浮きあがった彼は、呼吸《いき》をはずませ、苦しげに声をあげて助けをもとめながら、はげしく泳ぎはじめた。ジェフリーズはトッドを見つめて、歯をくいしばって息を早めていたが、何もしようとしなかった。さざ波の小さな輪にかこまれたトッドの頭は、早い引き潮に押し流されて、だんだん小さくなり、なめらかな海面をわたってきこえてくる泡だつ叫び声も、だんだんかすかになって行った。やがて、その小さな黒点が霧のなかへ消えかかったとき、溺《おぼ》れてゆく男は、最後の力をふりしぼって、ぐいと海面に頭をもたげ、燈台に向かって最後の金切り声をあげた。霧笛が、わめきかえした。トッドの頭は海面の下へ沈み、それっきり見えなくなった。そして、海面にのしかかった怖ろしい静寂のなかで、ほのかに鳴る打鐘浮標《ベル・ブイ》の音が、遠く、かすかにきこえた。
ジェフリーズは身うごきもせず、もの思いにしずみながら、しばらくじっと立ちつくしていた。まもなく、遠くでひびく汽船の汽笛に、彼はわれにかえった。船舶が引き潮に乗ってこちらへきはじめていた。いまにも霧は晴れるかもしれず、ボートはまだ横づけになったままだった。さっそくあれを何とかしなければならない。あのボートがたどりついたのを、だれも見ていなかったのだから、燈台につないであるのを見られてはならなかった。あのボートさえ片づけてしまえば、トッドがきた証跡は、すっかり消し去られてしまうわけである。
そう思って、彼は梯子を駆けおり、ボートへとびこんだ。実に簡単だった。底荷が重いから、水を入れさえすれば、すぐに石みたいに沈みそうだった。
彼はいくつかの小石袋をとりのけ、敷板をもちあげて、栓を引き抜いた。たちまち舟底へ威勢よく水が流れこみはじめた。ジェフリーズは慎重にそれを眺めていた。そして数分後にボートが水びたしになるのを見きわめて、もとのとおりに敷板をはめこんだ。それからマストや帆を漕手座《そうしゅざ》へ帆足綱でくるくる巻いてしばりつけて流失しないようにしておいて、もやい綱をとき放った。そして梯子へあがった。
とき放たれたボートが、潮に運ばれはじめると、彼は上の展望回廊に駆けあがって、ボートが消えてゆくのを見つめていた。ふと彼はトッドの衣服箱を思い出した。まだ下の部屋にそのままになっていたのだ。あわてて霧のなかを見まわして、部屋に走りもどると、その衣服箱を引っつかんで下の回廊へ運び出した。もう一度そわそわとあたりを見まわして、一隻の船も視界にないのをたしかめてから、衣服箱を手すりごしに投げた。大きな水音をたてて海中へ落ちこむと、彼は、箱が浮きあがって、その持ち主と沈められたボートのあとを追って流れ去って行くのを見ようと待ちうけていた。だが、箱は、ぜんぜん浮きあがってこなかった。まもなく彼は上の展望回廊へ引きかえした。
もう霧は薄れてきていた。そして、流れ去ってゆくボートのすがたは、まだはっきりと見えていた。だが、彼が予期していたよりも、その沈み方はおそかった。まもなく、それがさらに向こうへ流れて行ってしまってから、彼は望遠鏡をとり出してボートのすがたを追いながら、不安をつのらせた。だれかにあれを発見されたら、えらいことになる。栓を引き抜いたあのボートが、もし、このへんで引きあげられたら、きっと厄介なことが起こるにちがいない。
彼は本当にあわてはじめた。望遠鏡で見ると、いまボートは水びたしになったように、のろのろ横ゆれしていたが、まだ数インチの乾舷《かんげん》を見せていた。しかも霧は一瞬ごとに薄れてゆくのであった。
やがて一隻の汽船の汽笛が、きわめて近くで鳴りひびいた。彼は、あわをくって見まわしたが、なにも見えなかった。そこで、だんだん小さくなってゆくボートに、ふたたび熱心に望遠鏡を向けた。だしぬけに、ほっと彼はあえいだ。ボートは舷側を下にして傾いていた。一瞬、ふらりと立ち直ったが、またゆるやかに傾いてしまい、沈みかかった舷側に水がかぶさってきた。
数秒のうちにボートはすがたを消した。ジェフリーズは望遠鏡をおろして、ふかぶかと息を吸いこんだ。もう安全だ。ボートは、だれにも見られずに沈んだのだ。いや、安全どころではない、おれは自由の身になったのだ、と彼は思った。
絶えずおれの生命をおびやかしつづけていた悪鬼が、あの世へ去り、広い世界、生き生きと活躍できる楽しい世界が、おれに呼びかけているのだ。
数分後に霧は晴れてしまった。さっき汽笛を鳴らして彼をびっくりさせた赤煙突の家畜輸送船が、太陽の光に、かがやかしく照らし出された。空も海も夏の紺青色にかえり、またもや陸地が水平線の端にのぞいた。
陽気に口笛をふきながら、彼は、なかへはいってモーターをとめた。そして、また出てきて、トッドにおとしてやったロープを巻きあげた。それから、助力を求める信号旗をあげ、ふたたびなかへはいって、ゆったりと、うれしい気分で、ひとり食事にとりかかった。
2 『歌う白骨』
(クリストファ・ジャーヴィス博士記)
すべての科学的研究には、ある程度の手仕事が必要である。そういう手仕事は、科学者自身の手ではやれない。学問は長いが、人生は短いからだ。化学的分析には、器具や実験室を「浄化」する手仕事がふくまれているが、化学者は、そんなことをしているひまがない。骸骨《がいこつ》標本の準備――その浸軟、漂白、「組合せ」、それぞれの骨の接合――などは、それほど時間を貴重としない人の手でやってもらわなければならない。ほかの科学的分野にしても同様である。知識をそなえた科学者の背後には、かならずすぐれた手仕事の技術をもっている技術者がひかえているのである。
ソーンダイクの研究所の助手ポルトンは、この種の優秀な技術者で、器用で知恵があり、工夫がうまく、うまずたゆまず仕事をやる人物だった。いささか発明家的才能ももちあわせており、その彼の発明品の一つが私たちを特異な事件に結びつけたのであった。それを私は記録しようとしているのである。
ポルトンの本職は時計師であるが、彼は、みずから進んで光学器具の仕事に身を投じたのであった。光学器具に、彼は、一代の情熱を傾注していたのである。ある日のこと、アセチレン・ガスを燃料とする燈浮標の効果を増大するために改良したプリズムを、彼は私たちに見せた。ソーンダイクは、さっそくその発明品のことを、水先案内協会の友人に知らせた。
その結果、私たち三人――ソーンダイクとポルトンと私――は、晴れた七月の早朝、ミドル・テンプル小路をたどって、テムズ河のテンプル桟橋に向かっていた。桟橋には小型の重油機動艇が横づけになっていた。私たちが行くと、艇尾の座席から、あから顔に白い頬ひげをはやした人物が立ちあがった。
「気分のいい朝ですな、博士」すばらしく強くひびく船乗りらしい声をあげて、彼は話しかけた。「ちょいと河下へ乗り出して行くには、まことにうってつけの日です。やあ、ポルトン、君は、われわれの口からパンをとりあげるためにお出ましになったのかね。ハッハッハ」陽気な笑い声は河の面《も》にひびきわたり、桟橋を離れてゆく小型の機動艇のエンジンの音と入りまじった。
このグランパス船長は、水先案内協会の長老だった。もとはソーンダイクの依頼人だったが、多くのソーンダイクの依頼人の例にもれず、やがて個人的な友人という格好になってしまい、心からの好意から、私たちのために、きわめて貴重な助力をしてくれていたのである。
「結構なことになってきたものさ」くすくす笑って船長はつづけた。「海軍専門家の団体が、弁護士さんや博士さんに、こっちのやりかたを教えてもらわなければならなくなったのだからね。貿易不振だから、『いよいよ悪魔がつけこむ』というわけだろう、ねえ、ポルトン」
「一般市民は、たいして何もやっていませんが」ポルトンが奇妙な皺《しわ》をよせて微笑しながら答えた。「しかし、犯罪者どもはいよいよさかんにやっているようです」
「なるほど、犯罪捜査課が、いよいよ繁昌というわけか。ところで、犯罪といえば、ねえ、博士、うちの連中が奇妙な問題にぶつかっているんですよ。どうも、あなたの領分のことらしい――てっきりそうだと、私は思うんです。ちょうど幸いというものです。あなたをここへ引っぱり出しておきながら、あなたの脳味噌を搾取《さくしゅ》しないという法はありませんからね」
「そうとも」ソーンダイクが言った。「いくらでも搾取したほうがいいよ」
「では、そうさせていただきましょう」船長は言った。「ひとつ腕によりをかけて搾取にとりかかりますかな」葉巻に火をつけて、船長は、まず前置きに二、三度けむりを吹いてから、はじめた。
「その奇妙な問題というのは、簡単にいうと、こういうことなのです。われわれの協会の管轄下にある燈台守が一人、行方不明になりましてね――この地上から消えうせて、なんの形跡ものこしていないのです。逐電《ちくでん》したのかもしれませんし、事故で溺死《できし》したのかもしれません。あるいは殺されたのかもしれないのです。しかし、まあ順を追って、くわしく申しあげたほうがいいでしょう。
先週末、ラムズゲート〔ケント州の海港〕へ、ガードラー砂州の燈台から一通の手紙をもって一隻の艀《はしけ》がやってまいりました。あの燈台には燈台守が二人しかいないのですが、そのなかのバーネットという男が足をくじいたので、専属船をまわして陸へ運んでもらいたいと言ってよこしたのです。ところが、そのへんをまわっている専属船ウォーデン号は、船底をすこし傷めて、ちょうど修理中で、一両日は使えないし、ことは急を要するので、ラムズゲートの係員は、あくる日の土曜日の朝ボートをやって交代させることにするから、と遊覧船に託して燈台に手紙をとどけました。さらに、新規に採用されたばかりのジェームズ・ブラウンという男が、リカルヴァの近くに下宿して、部署につくのを待っていましたので、この男にも、土曜日の朝沿岸警備隊のボートに乗って燈台へ行くようにと手紙をやり、さらにまたリカルヴァの警備員詰所へも、ブラウンを燈台へつれて行って、かわりにバーネットを陸へ運んできてもらいたいと手紙で依頼しました。ところが、いろいろと手はずが狂ってしまって、とんでもないことになってしまったのです。警備員詰所では、一隻のボートも一人の人間もやりくりがつかないものですから、漁民のボートを借りることにしました。そして、おろかしくもブラウンという男は、足をくじいたバーネットが、そのボートをもどしてくれるだろうというので、ひとりでそれに乗りこんで燈台へ出かけて行きました。
一方、ウイッツタブル出身のバーネットは、故郷の町へ向かう石炭船に信号で助力を求めて、それに乗って行ってしまったのです。だから、あとには、もう一人の燈台守のトマス・ジェフリーズが、ブラウンが行くまで、ひとりぼっちでいるようなことになってしまったのです。
しかし、ブラウンは燈台に姿を見せませんでした。沿岸警備員たちは、ブラウンが乗り出すのに手をかして、ちゃんと彼が海へ出て行くのを見ていたし、燈台守のジェフリーズも、一人の男が帆をあげたボートに乗って燈台へ向かってくるのを見たと言っています。ところが、濃い霧が押しよせてきて、そのボートをかくしてしまい、霧が晴れわたったときには、もうそのボートはどこにも見あたらなかったのだそうです。乗っていた男もボートも消えうせて、影も形もなくなっていたというわけです」
「霧のなかで衝突して沈んだのかもしれない」ソーンダイクが意見を出した。
「そうかもしれません」船長も同意した。「しかし、なんの事故も報告されてきていないのです。警備員たちは、突風に転覆させられたのかもしれないと言っています――ブラウンが帆足綱をとめたのを彼らは見ていたものですからね。しかし、あのときは突風なんか全然ありませんし、天候はきわめておだやかだったのですよ」
「乗り出すときには、ブラウンは元気だったのかね?」ソーンダイクはたずねた。
「そうです」船長は答えた。「沿岸警備員たちの報告には、実にくわしく書いてあります。まったく、なんの関係もないバカげたことまで、めんめんと書きつらねているのですよ」彼は一通の公式書簡を引き出して、読みあげた。
「『最後に望見したとき、行方不明になった人物は、ボートの艫《とも》で、舵の風上に腰をおろしていた。帆足綱をしばりつけておいて、パイプと煙草入れを両の手でもち、肘で舵をとりながら、煙草入れから煙草をパイプにつめていた』どうです、こんな調子ですよ。『パイプを手で持ち』いいですかね、足で持っていたんじゃないらしいですね。そして煙草入れから煙草をパイプにつめていた、とくるんだからやりきれませんや。まるで石炭入れか哺乳《ほにゅう》びんからでも、煙草をつめこむかと考えているみたいにね。バカバカしくて話になりませんよ」船長は、その書簡をポケットに押しこみ、いまいましそうに葉巻のけむりをはき出した。
「君は沿岸警備員に対して、あまり公正とはいえないようだね」船長の猛烈な熱弁を笑いながらソーンダイクは言った。「目撃者の義務は、すべての事実を提供することで、賢明に事実を選び出したりすることではないのだよ」
「それにしても、博士」グランパス船長は言った。「その男が何から煙草をつめたところで、そんなことはどうでもいいことじゃありませんかね」
「いや、どうでもよいこととは、だれにも断言できないだろうね。それがきわめて重要な事実であったと、あとで判明することがあるかもしれないからね。はじめは、だれにも何もわからないのだ。特定の事実の価値は、ほかの証拠との関係によってきまるのだよ」
「そういうものかもしれませんな」船長はぶつくさ言った。そして黙って考えながら煙草をふかしつづけた。そのうち、眼の前にブラックウォールの突端がはっきりと見えてくると、ふいに彼は立ちあがった。
「おや、うちの波止場にトロール汽船が横づけになっている」彼は言った。「いったい、あそこで何をしているのだろう?」注意ぶかく小型の汽船を見つめながら、彼は言葉をつづけた。「何かを陸揚げしているようだ。ちょっとその双眼鏡を貸してくれないか、ポルトン。おや、これはおどろいた。あれは死体だ! それにしても、どうしてあの死体を、うちの波止場へ揚げているのだろう? なるほど、そうか、連中は、あなたがおいでになるのを知っているのですよ、博士」
機動艇が波止場へ横づけになると、船長は身軽に飛び出して、死体のまわりに集まっている人の群れに近づいた。「いったい、これはどうしたのだ?」彼は言った。「どうしてこういうものを、ここへ運んできたんだ?」
死体を揚げるのを指図していたトロール船の親方が進み出て説明した。
「この死体は、そちらさんの人間ですぜ。わしどもが引き潮のときに標識の近くを通ったら、南シングルズ砂州の端に、この死体が横たわっているのを見たもんですから、ボートを出して本船へ引きあげたんです。身元をたしかめるものが何もないので、ポケットを見てみたら、この手紙が見つかったもんですからね」
そう言って彼は水先案内協会の封筒を船長に手わたした。それには「ケント州リカルヴァ、牧畜業、ソリー氏方、J・ブラウン殿」とあった。
「これは、さっき話していた男ですよ、博士」グランパス船長が声をあげた。「なんとまた奇妙なめぐり合わせでしょう。それにしても、この死体をどうしたものでしょうね?」
「検死官へ文書で申告しなければなるまいね」ソーンダイクは答えた。「ついでだが、君はポケットを全部引っくりかえして見たのかね?」彼はトロール船の親方に向かってたずねた。
「いや、最初にさぐってみたポケットに、その手紙が見つかりましたもんですから、ほかのポケットは、あらためてみませんでした。ほかに何かおたずねになりたいことはありませんか?」
「君の住所氏名だけを知りたい。検死官に申告しなければならないからね」ソーンダイクは答えた。すると親方は、住所氏名を告げ、検死官に「まつわりつかれる」のだけは勘弁してもらいたいものだ、と言いながら、自分の船へ引きかえし、ビリングズゲート〔ロンドンの魚市場〕に船を向けて行った。
「いかがでしょう、ポルトンに新発明品を見せてもらっているあいだに、ちょっと死体を見ていただけませんかね」グランパス船長が言った。
「検死官の命令がなければ、私としても、そう立ち入ったことはやれないよ」ソーンダイクは答えた。「しかし、君の気やすめになるなら、もちろん予備検査くらいしてもいいがね」
「そうしていただくと、ありがたいです」船長は言った。「われわれは、この不運な男が、まっとうな死にかたをしたかどうかを知りたいんです」
死体が小屋へ移された。ポルトンが貴重な模型を入れた黒カバンを持って、船長といっしょに出て行くと、私たちは小屋へはいって死体の調査にとりかかった。
死んでいる男は、相当な年輩で、海員風の、きちんとした服装をしていた。死後わずか二、三日らしく、海から運ばれてきた多くの死体のように、魚やカニに痛めつけられてはいなかった。骨折とか、そのほか、大きな傷害はなく、ただ後頭部の頭皮に、ごつごつした擦過傷《さっかしょう》があるだけだった。
「およそ死体の外見からすれば」一通り点検してみてからソーンダイクは言った。「溺死と見てよさそうだ。もちろん解剖の結果を待たないと、はっきりしたことはいえないがね」
「では、あの頭皮の傷には、なんの意味も認められないのだね?」私はきいた。
「死因としてか? そうだ。あきらかに生きているうちに受けた傷だが、ななめにきた打撃で、その影響は頭皮だけにとどまり、頭蓋骨を傷つけてはいないようだ。しかし、別の角度から見ると、これは、きわめて深い意味をもっている」
「というと、どんな角度かね?」
ソーンダイクはポケット・ケースをとり出してピンセットを抜き出した。「そのときの実情を考えてみたまえ。この男は浜辺から乗り出して燈台へ向かった。しかし燈台へはたどりつかなかったのだ。問題は、どこへ着いたかということだよ」話しながら彼は死体の上に身をかがめて、ピンセットのさきで、その傷のまわりの頭髪をつまみのけた。「頭髪や傷の内部にはいりこんでいるこの白いものを見たまえ、ジャーヴィス。これが、なにかを語っていると思うよ」
彼の指さした白っぽい断片を私はレンズで調べてみた。「貝がらや海棲《かいせい》虫類の管の破片らしい」私は言った。
「そうだ」彼は答えた。「こわれた貝がらは、あきらかにフジツボのものであるし、ほかの破片は大部分ゴカイ類の管のかけらだ。このようなものから、重要な推理ができる。この傷はフジツボやゴカイ類がくっついた物体から受けたものだ。つまり周期的に水中に没する物体から受けたものだ。ところで、それはどんな物体か? そして、どうしてこの男は、その物体に頭をぶっつけたのか?」
「この男が衝突した船の船首材かもしれない」私は言ってみた。
「船首材には、そうたくさんゴカイ類はくっついていないと思う」ソーンダイクは言った。「フジツボもゴカイ類もくっついているところから考えると、なにか潮の満干中に静止している物体、たとえば標識のようなものを暗示するように思われる。しかし、一人の人間が、どうして標識に頭をぶっつけたのか、それが理解できぬし、また浮標《ブイ》を別とすれば、ラッパ形にひらいた海のあのへんに静止していて、頭をぶっつけそうな物体は、ほかに何もない。浮標にしても、平たい表面を出しているのだから、こんな傷をつけることは、まずあるまい。ついでに、ポケットにどんなものがあるか、調べてみようじゃないか。強奪という線は、死に関係はなさそうだがね」
「そうだね」私は同意した。「おや、ポケットに時計がある。りっぱな銀時計だ」それをとり出して見ながら私は言いそえた。「十二時十三分でとまっている」
「それは重要な点かもしれないな」ソーンダイクはその事実を書きとめながら言った。「だが、ポケットを一つずつ見て、見てしまったら、品物をまた入れておいたほうがいいと思うよ」
最初に引っくりかえして見たのは、モンキー・ジャケットの左の尻ポケットだった。どうやらこれは、さっきのトロール船の親方がさぐってみたポケットらしく、二通の手紙があって、両方とも水先案内協会の封印がついていた。もちろん私たちは、読まずにもとへもどし、つぎは右のポケットを見た。そのなかに入れてあったのは、ごくありふれたもので、ブライヤのパイプ、もぐらの毛皮の煙草入れ、幾本かの≪ばら≫のマッチだった。
「これは、ちょっと気まぐれなやりかただね」私は感想をのべた。「こんなふうにマッチを≪ばら≫で持ち歩き、それもパイプといっしょに入れておくというのはね」
「そうだね」ソーンダイクもうなずいた。「とくにこんなに火のつきやすいマッチをね。この軸木の上端に、赤燐《せきりん》の頭をつける前に、硫黄《いおう》を塗ってあるのがわかるだろう。これは接触すると点火し、しかも、なかなか消えないのだ。だから、この種のマッチが、風雨のなかでパイプに火をつけねばならぬ船乗り連中には人気があるのだろうと思うよ」話しながら、彼はパイプを手にとり、引っくりかえして火皿をのぞきこんでいた。ふいに彼はパイプから死体の顔に眼をうつし、それからピンセットで唇をめくり、口のなかを見入った。
「どんな煙草を吸っていたのか、見てみよう」彼は言った。
私は、びしょぬれになった煙草入れをひらき、一かたまりの黒ずんだ刻み煙草を見せた。「下等煙草《シャッグ》らしい」
「うむ、下等煙草《シャッグ》だ」彼は答えた。「こんどはパイプのなかのものを見よう。半分ほどしか吸っていない」吸い残りを小型ナイフで一枚の紙の上にえぐり出し、それを二人で検討した。このほうは、あきらかに下等煙草《シャッグ》ではなく、荒くけずった細片で、ほとんど真っ黒だった。
「固形煙草からけずったものだ」と私は断定した。ソーンダイクも細片をパイプへもどしながら同意した。
ほかのポケットからは、小型ナイフ以外、何も興味をひくものは出てこなかった。その小型ナイフを、ソーンダイクは念入りに調べた。あまり金はもっていなかった。だが、予想した程度の金はもっており、強奪という考えは除外できた。
「ベルトには鞘《さや》ナイフがあるかね?」細い革ベルトを指さしながら、ソーンダイクが言った。私はジャケットをめくって見た。
「鞘はあるが」私は言った。「しかし、ナイフはない。落っこちてしまったのだろう」
「それはちょっと妙だ。だいたい船乗りの鞘ナイフは、なかなか抜け落ちたりはしないものだ。高い索具の上へあがって働いているときに、片手でつかまりながら、もう一方の手で引き抜いて使えるようにしたもので、たいてい刃だけでなく柄の半分くらいまで鞘へさしこまれているから、しっかりおさまっていて抜けないようになっているのだ。いまの場合、注意をひかれるのは、この男が小型ナイフを持っていて、これで、ふつうナイフを必要とすることなら全部やれるのだから、その鞘ナイフは護身用、つまり武器として持ち歩いていたらしいことだ。しかし、検死解剖をやらなくては、これ以上の推論は困難だろう。……おや、船長がやってきたようだ」
グランパス船長が小屋へはいってきて、同情するように死んだ船乗りを見おろした。
「なにかありましたかね、博士。この男が行方不明になった理由をあきらかにするようなことが」
「一つ二つ奇妙な点がある」ソーンダイクは答えた。「だが、おもしろいことに、ただ一つの真に重要な点は、君があんなにけなしつけた沿岸警備員の報告から浮かびあがってくるのだ」
「まさか」船長は声をあげた。
「いや、そうなのだよ」ソーンダイクは言った。「沿岸警備員の報告によると、この男は煙草入れから煙草をパイプにつめていたとあるが、いま見ると、その煙草入れには下等煙草《シャッグ》がはいっている。ところが、ポケットのパイプには固形煙草がつまっているのだ」
「どのポケットにも固形煙草はありませんか?」
「一かけらもない。もちろん、すこしばかり持っていて、パイプにつめてしまったのかもしれないとも考えられるが、小型ナイフの刃には、なんのあともついていない。君も知っているように、この種の、ねばつくような固形煙草は、ナイフの刃にくっきりとシミを残すものだがね。鞘ナイフはなくなっているが、小型ナイフを持っているのに、鞘ナイフを使って煙草をけずるようなことはしないと思う」
「そうですね」船長はうなずいた。「それにしても、もう一本パイプを持っていなかったとは断言できないと思いますが」
「ところが、ただ一本しか持っていなかったのだよ」ソーンダイクは答えた。「そして、使っていたのは、この男自身のものではなかった」
「この男自身のものではないとおっしゃるんですか」船長はそう叫んで、巨大な市松模様の浮標のそばに立ちどまって、ソーンダイクを見つめた。「この男自身のものでないということが、どうしてわかりますか?」
「硬化ゴムの吸い口を見ればわかる。それには深い歯形がついていて、事実、ほとんどかみ切られそうになっている。パイプをかみ切るような男には、たいてい明確な肉体的特徴があって、わけても相当よい≪歯なみ≫をしているにきまっている。ところが、この死んでいる男の口には一本の歯もない」
船長は、しばらく考えこんでいたが、やがて言った。「そこのところのつながりが、よくわかりませんがね」
「そうかね」ソーンダイクは言った。「私には、きわめて示唆ぶかく思えるのだがね。この男は、最後に望見したとき、特定の種類の煙草をパイプにつめていた。ところが、その死体を引きあげてみると、そのパイプには、まったく別の種類の煙草がつめられていたのだ。その煙草の出所はどこなのか? あきらかに、この男は、だれかに会ったらしい」
「なるほど、そんなふうに思われますな」船長はうなずいた。
「それに、鞘ナイフがなくなっているという事実がある」ソーンダイクはつづけた。「それは、なんの意味もないことかもしれないが、心にとめておく必要があるだろう。さらに、もう一つ奇妙な点がある。後頭部の傷は、フジツボやゴカイ類がくっついた物体に、はげしくぶち当たってできたものだ。ところで、ラッパ形にひらいた海のあのへんには、桟橋も波止場もない。問題は何にぶち当たったかということだ」
「それは、なんでもありませんや」船長は言った。「死体が三日ちかくも潮路にもまれていれば――」
「しかし、これは死体の問題ではない」ソーンダイクがさえぎった。「この傷は生きているあいだに受けたものだ」
「へえ、そうですか」船長は声をあげた。「そうすると、霧のなかで標識にでも衝突して、ボートに穴をあけ、頭を打ったんでしょうな。こいつはどうも、はなはだ頼りない当て推量ですがね」考えこむように眉根《まゆね》をよせて自分の爪先を見おろしていた彼は、やがて眼をあげてソーンダイクを見た。
「こうしようと思いますが、いかがでしょうか」彼は言った。「あなたのおっしゃるところからすると、この問題は、かなり慎重に調べなくてはなりません。それで、わしは今日、専属船で出かけて行って、現場を調査するつもりです。ついては、いかがでしょう、あなたとジャーヴィス博士とに、顧問として――もちろん用務関係の顧問として――いっしょにおいで願えませんでしょうか。わしは十一時ごろ出発します。三時には燈台へ着きますし、ご希望でしたら、今夜ロンドンへお帰りになれますよ。いかがでしょうね」
「こちらには何もさしつかえはありません」私は熱心に口を入れた。バグズビイズ・ホールのあたりでも、この夏の朝のテムズ河は、ひどく魅惑的に思えたからである。
「よろしい」ソーンダイクが言った。「私たちも行くことにしよう。ジャーヴィスが海の小旅行にあこがれているらしいし、その段になれば、私にしても同じことだからね」
「これは用務関係のお仕事ですよ」船長が、はっきりさせた。
「いや、そんなものではないよ」ソーンダイクは言った。「これは純然たる行楽だ。船に乗り、まことに快適な人物である君を道づれにして行く行楽の小旅行だよ」
「そんなつもりじゃなかったんですがね」船長は言った。「でも、お客さんとしておいでになるおつもりなら、ポルトンに夜のお召しものをとってこさせ、あなたがたを明日の晩お送りすることにしましょう」
「いや、ポルトンに面倒をかけることはない」ソーンダイクは言った。「ブラックウォールから汽車に乗れば、自分でとってこられるからね。十一時に出航すると言ったね?」
「だいたい、そんなところです」グランパス船長は言った。「しかし、博士、へばらないでくださいよ」
ロンドンの交通機関は、望ましくない程度にまで発展している。二人ぶんの荷物を入れた旅行カバンとソーンダイクの小型の緑色トランクとをたずさえた私たちは、鼻息の荒い汽車から、ちりんちりんと音をたてる二輪の『ゴンドラ』に乗り、ものすごい速さでロンドンを横ぎった。そして、ふたたび水先案内協会の波止場へあらわれたのは、まだやっと十一時になるかならぬときだった。
すでにボウ入江から専属船が引き出されて波止場に横づけになっていた。起重機から大きな縞《しま》模様のブリキの浮標がぶらさがっていた。舷門に立ったグランパス船長は、陽気なあから顔をたのしそうにかがやかせていた。浮標はうまく前部|船艙《せんそう》におさめられ、起重機はマストへしばりつけられて、ゆるんだ横静索《シュラウド》は締め綱をかけ直された。そして、この汽船は、ほがらかに四度ほど汽笛をならして、方向を転換し、鋭角的な船首を、上げ潮に向けて進んで行った。
次第にひろがってゆく「ロンドン河」の流れは、ほとんど四時間にわたって、動くパノラマをくりひろげて行った。ウールリッジ地区の煤煙や臭気が後方に去ると、夏靄《なつもや》にやわらげられた澄んだ大気になった。灰色の工場の群れがうしろへ過ぎ、家畜の点在する緑の平らな沼沢地が、河の流域の果ての高地までひろがっていた。樹木の茂る岸辺に、古びた練習船が市松模様の船腹をずらりとならべて、オーク材と麻の船舶時代をささやいていた。その時代には、象牙の塔のように高く帆を張った、勇姿さっそうたる三層甲板艦が、軍艦旗をなびかせて英国の納税者たちの資産をむさぼり食っている現在の泥色のシチュー鍋型の軍艦に席をゆずろうとせず、船乗りは、あくまで船乗りであって単なる海上技術者ではなかったのである。専属船は、たくましく上げ潮を乗り切りながら、果てしもなくつづく船舶のあいだを縫って進んで行った。艀船《はしけぶね》、一本マストの平底船、スクーナー、二本マストの帆船、図体の大きなアフリカ船、青煙突の中国不定期貨物船、くるくるまわる風車をのせた、古いバルト海の帆船、厄介な甲板の重装備によろめく巨大な定期船など。岸には、イアリス、パーフリート、グリーンハイス、グレーなどの町々があらわれては、後方へと去って行った。ノースフリートの林立する煙突も、グレーヴゼンドの密集する屋根も、繁華な碇泊《ていはく》地も、遮蔽《しゃへい》砲台も、うしろへ、うしろへと去り、専属船がロウワー・ホープをまわると、ひろびろとした海が、広大な紺青の繻子《しゅす》のように、私たちの眼前にあらわれた。
十二時半ごろに、専属船は引き潮に乗り、船足が早まった。遠くの陸地がすべり去ってゆく速度からも、通過してゆく大気の清新さからも、私たちには、それがわかった。
しかし、空も海も夏の凪《なぎ》に静まりかえっていた。羊毛の玉のような雲が、おだやかな青空に、じっと高く浮かんでいた。平底の貨物船は帆をたるませて、潮に乗って進んでいた。そして大きな縞模様の打鐘浮標《ベル・ブイ》は――上の鉄のやぐらに、「シヴァリング砂州」と明記されていた――太陽に照らされながら、その影すらも動かぬ水面に、じっと夢みつづけているようであった。専属船の立てる波がうちあたると、一瞬、ねむたそうに、やぐらをゆりうごかしてうなずき、おごそかな鐘の音をひびかせて、また眠りこむのであった。
この浮標を通りすぎてからまもなく、細い脚柱の上にうかんだ燈台の薄気味わるい姿が、前方に見えてきた。さえない赤い色は、午後もまだ早い太陽に照らされて、朱色に見えた。近づくにつれて、大きな白文字で書かれたガードラーという燈台名が見えてきた。照光器をめぐる展望回廊で、二人の男が望遠鏡でこちらを見ているのが望見された。
「燈台には、かなり長い時間、おいでになるのですか?」専属船の船長がグランパス船長にたずねた。「私たちは北東パン砂州へ行って、いま運んでいる新しい浮標をとりつけ、古いのととりかえたいと思っているのですが」
「それでは、燈台でわれわれをおろしたら、そちらの仕事をすませて、それからもどってきてくれないか」グランパス船長は答えた。「どのくらい時間がかかるのか、わしにも見当がつかんのでね」
専属船は停船して、一隻のボートをおろした。二人の乗組員が私たちを乗せて水面を漕いで行った。
「あなたは一張羅《いっちょうら》の服を着てこられたようですが、のぼるときによごれますよ」グランパス船長が言った――そのくせ彼自身も新しい飾り針みたいにめかしこんでいた。「しかし、そんなよごれは、拭《ふ》けばすっかりとれますよ」
私たちは骸骨のような燈台を見あげた。引き潮なので、鉄の脚柱が十五フィートばかり露出していた。脚柱にも梯子にも、海草がからみつき、フジツボやゴカイ類が、いっぱいくっついていた。だが、船長が考えているらしいほど、私たちは、お上品な町の雀《すずめ》ではなかった。だから、それほどへきえきすることもなく、彼のあとから、ずるずるすべる梯子をのぼって行った。小型の緑色のトランクを一瞬たりとも手もとから離すのをいやがるソーンダイクは、けんめいに、それを運びあげた。
「こちらの紳士がたとわしは」梯子の頂上の回廊へたどりつくと船長が言った。「あの行方不明になったジェームズ・ブラウンのことを調べるためにやってきたのだ。君たちは、どちらがジェフリーズかね?」
「私です」背の高い、たくましげな男が答えた。角ばった顎をして、眉毛がつき出ていた。そして左手には荒っぽく繃帯《ほうたい》がしてあった。
「その手はどうしたのだ?」船長がたずねた。
「ジャガイモの皮をむいていて切ったんです」相手は答えた。「たいした傷じゃありませんよ」
「ところで、ジェフリーズ」船長は言った。「ブラウンの死体が引きあげられたので、検死にそなえて、詳細を知っておきたいのだ。たぶん君も証人として召喚されるだろう。だから、向こうへ行って、知っていることを、すっかり話してくれないか」
私たちは居間へはいり、テーブルに向かって腰をおろした。船長は大きな手帳をひらいた。ソーンダイクは、この奇妙な船室みたいな部屋を、例の注意ぶかく、せんさくするようなまなざしで見まわしながら、この部屋の内容目録を心のなかでつくりあげるかのようであった。
ジェフリーズが語ったことは、すでに私たちの知っていることばかりだった。彼は一人の男を乗せたボートが燈台へ向かってくるのを見た。そのうちに霧がたちこめてきて、ボートの姿が見えなくなった。彼は霧笛を鳴らしつづけ、一生けんめいに見張っていたが、ボートは、ついに燈台までたどりついてこなかった。彼の知っているのはそれだけで、たぶんその男は燈台を見うしない、その時刻に強く流れていた引き潮にさらわれて行ったものにちがいないと思う、と言った。
「君がそのボートを最後に見たのは何時だったかね?」ソーンダイクがきいた。
「十一時半ごろです」ジェフリーズは答えた。
「どんな男だったかね?」船長がきいた。
「わかりません。ボートを漕いでいて、こちらに背を向けていたもんですから」
「旅行カバンか衣服箱をもっていたかね?」ソーンダイクがきいた。
「衣服箱をもっていました」ジェフリーズは言った。
「どういう衣服箱だったかね?」ソーンダイクがたずねた。
「小型の衣服箱で、緑色に塗ってあり、把手綱がついていました」
「細引はかけてあったかね?」
「蓋をとめるように、一本の細引がかけてありました」
「その箱は、どこにおいてあったかね?」
「船尾座においてありました」
「君が最後にそのボートを見たとき、どのくらい距離があったかね?」
「半マイルばかりです」
「半マイル!」船長が声をあげた。「半マイル向こうの衣服箱が、どういうものであるかを、どうして君は見てとることができたのだ」
ジェフリーズはあかくなって、腹立たしげに不安のまなざしをソーンダイクになげた。「私は望遠鏡で見ていたんです」彼は、むっつりと答えた。
「そうか。よし、わかった」グランパス船長が言った。「まあ、これくらいでいいだろうよ、ジェフリーズ。わしたちは君が検死法廷へ出頭できるように手はずをととのえておかなくてはなるまいと思う。スミスに、こちらへきてもらってくれないか」
調査は終わった。ソーンダイクと私は、窓のそばに椅子を引きよせた。そこから東方に海が見わたせた。だが、ソーンダイクの注意力は、海や航行する船に向けられてはいなかった。窓のわきの壁に荒けずりのパイプ掛けがあって、そこに五本のパイプがかかっていた。この部屋へはいったときから、ソーンダイクは、それに眼をとめていたが、いま話しながらも、ときどき思惑ありげにそれを見やっていることに、私は気づいた。
「君たちは慢性的な喫煙者らしいね」船長が「交代」の手はずをきめてしまうと、ソーンダイクは燈台守のスミスに言った。
「さよう、たしかに私たちはタバコ好きのほうでしょうな」スミスが答えた。「なにしろ、ここで暮らしていると、めっぽうさびしいですからね。それに、こちらでは、タバコがすごく安いもんですからね」
「それは、どういうことかね?」
「なあに、わけてもらうんですよ。ちっぽけな外国船、とくにオランダ船が近くを通るときには、たいてい固形煙草を一つ二つ投げて行ってくれるんです。私たちは陸上にいるのとちがいますから、関税を払う必要はありませんしね」
「それでは、君たちは煙草商人には、あまり世話にならなくてもいいわけだね。きざみ煙草はやらないのか?」
「きざみは、わざわざ買い入れなくちゃなりませんし、それに長持ちしませんのでね。やっぱり、ここでは堅パンを食って固形煙草をやるということになりますよ」
「ここに、ちゃんとパイプ掛けもあるし、なかなかしゃれているね」
「そうです」スミスは言った。「私が休みのときにつくったんです。どこへでもパイプを放りっぱなしにしておくよりも、こうしてかけておけば、ちゃんと片づいて、船のなかみたいに見えますからね」
「だれかパイプをおき忘れているようだな」パイプ掛けの端の青カビのはえた一本を指さしながらソーンダイクが言った。
「あれは私の同僚のパースンズのものです。一か月ちかく前、私たちがここから出て行ったときに忘れたものにちがいありません。ここは空気がしめっぽいものですから、すぐにパイプにカビがはえるんですよ」
「手をふれずにおけば、どのくらいたつとパイプにカビがはえるかね?」ソーンダイクはきいた。
「天候にもよりますが」スミスは言った。「暑くて湿気の多いときには一週間ぐらいでカビがはえはじめます。ほら、これがバーネットのおいて行ったパイプです――あの足をくじいた男ですよ――これには、早くもすこしばかり斑点ができはじめています。出て行く前の二、三日は、これを使わなかったものにちがいありません」
「そして、ほかのパイプは、みんな君のものか?」
「いいえ。この一本が私のものです。向こうの端の一本はジェフリーズのもので、まんなかの一本も彼のものだろうと思いますが、ちょっと見おぼえがありませんね」
「えらくパイプにご熱心ですな、博士」このとき、ぶらぶらやってきた船長が口を出した。「特別にパイプの研究でもしておられるみたいですね」
「人類の研究すべきものは人間さ」燈台守が引きさがるとソーンダイクは答えた。「そして『人間』という題目には、その性格が印刻されているこのような物品もふくまれているのだよ。パイプは、個人の性格をよく反映しているものだ。このパイプ掛けにならんでいるものを見たまえ。それぞれが独特の表情をもち、ある程度まで持ち主の特性を反映している。たとえば、向こうの端のジェフリーズのパイプだが、吸い口は、ほとんどかみ切られているし、火皿は、こすりまわされて薄くなっている。内側も、かき傷だらけだし、ふちは、たたかれて欠けている。すべてが粗暴な精力と荒っぽいあつかいぶりとを語っている。吸いながら吸い口をかみ、火皿をはげしくこすりまわし、無用な力をふるって灰をたたき出すのだ。あの男は、このパイプと、ぴったり合っている。たくましげで、角ばった顔をしていて、ある場合には暴力をふるう、といえそうだ」
「そうですね、たしかにジェフリーズは荒っぽい人間らしいです」
「それから」ソーンダイクはつづけた。「そのつぎにあるスミスのパイプだ。火皿のなかが、ほとんど焦げ、ふち全体が焼けている。しじゅう消えて、火をつけ直さねばならない話し好きのパイプだよ。だが、私がいちばん興味をひかれるのは、まんなかのパイプだ」
「あれもジェフリーズのものだとスミスは言っていたんじゃなかったかね」私が言った。
「そう」ソーンダイクは答えた。「しかしスミスは、かんちがいをしているのだ。あれは、すべての点でジェフリーズのパイプとは正反対のものだ。まず第一に、古いパイプだが、吸い口には、ぜんぜん歯形がついていない。パイプ掛けにならんでいるなかで、全然歯形のついていないのは、あれ一本だけだ。ふちも、まるで傷つけられていない。おだやかにあつかわれてきたパイプだよ。それに銀の帯輪が真っ黒になっているが、ジェフリーズのパイプの帯輪は、よく光っている」
「あれに帯輪がついているとは気がつきませんでしたね」船長が言った。「どうしてあんなに真っ黒になったのですかね?」
ソーンダイクは、そのパイプをパイプ掛けからとって、念入りに眺めた。「銀が硫化《りゅうか》している」彼は言った。「疑いもなく、ポケットに入れて持ち歩いている何かから発した硫黄《いおう》の気にふれたためだ」
「なるほど」グランパス船長は窓から遠くの専属船を見やり、あくびをかみころしながら言った。「ところで、それには煙草がいっぱいつめてあります。そのことから、どんな教訓を引き出せますか?」
ソーンダイクは、パイプを持ち直して、じっと吸い口を見つめた。「その教訓は」彼は答えた。「パイプがつまっていないのをたしかめてから煙草をつめなければいけない、ということだよ」そして吸い口を指さした。穴が≪けば≫でつまってしまっていた。
「なかなかいい教訓です」船長は、またあくびをしながら立ちあがった。「ちょっと失礼して専属船が何をやっているのか見てきます。東ガードラー砂州のほうへ向かっているらしいのでね」彼は棚へ手をのばして望遠鏡をとり、展望回廊へ出て行った。
船長が行ってしまうと、ソーンダイクは小型ナイフの刃を引き出し、パイプの火皿へさしこんで、なかの煙草を掌《てのひら》へ出した。
「下等煙草《シャッグ》だ。まちがいない」と私は言った。
「そうだ」答えながら、彼は、それを火皿へまたおし入れた。君はこれが下等煙草《シャッグ》だとは予期していなかったのか?」
「何も予期していなかったよ」私は、かぶとをぬいだ。「銀の帯輪のことに気をうばわれていたものだからね」
「うん、それも、なかなか興味のある点だ」ソーンダイクは言った。「だが、どんなものがつまっているのか、ひとまずこれを調べてみよう」彼は緑色のトランクをあけて、切開針をとり出し、パイプの穴から小さな≪けば≫のかたまりを手ぎわよく引き出した。それを載物ガラスの上におき、一滴のグリセリンのなかでのばし、カヴァ・ガラスをかぶせた。そのあいだに私は顕微鏡をすえた。
「パイプはパイプ掛けへもどしておいたほうがいい」彼は載物ガラスを顕微鏡の載物台にのせながら言った。私は彼のいうとおりにした。そして、ふとふりかえって、彼が、すくなからず興奮して、その標本を調べているのを見つめた。ほんのちょっと観察してから、彼は立ちあがり、顕微鏡を指さした。
「のぞいて見たまえ、ジャーヴィス。そして君のご高見をうけたまわりたいものだ」
私は顕微鏡に目をあて、載物ガラスを動かしながら、≪けば≫の小さなかたまりの構成要素を見きわめようとした。ありふれた綿の繊維は、もちろん、はっきりとわかったし、わずかばかりの羊毛の繊維もわかったが、もっとも特異なものは二、三本の毛だった――きわめて細い、明確なジグザグ型をした毛で、先端に近いところが櫂《かい》の水かきのように平たくひろがっていた。
「これは何か小さな動物の毛だ」私は言った。「二十日鼠《はつかねずみ》でもなく、どぶ鼠でもない。いや、齧歯《げっし》類ではないようだ。なにか小さな食虫動物にちがいない。うむ、そうか、これはもぐらの毛だ」私は立ちあがった。そして、その発見の重要な意味が心にひらめいたとき、だまって私はソーンダイクの顔を見つめた。
「そうだ」彼は言った。「それにまちがいない。これは論証の基調を提供するものだよ」
「では、あれは本当に死んだ男のパイプだと考えるのだね?」
「複合証拠の法則にしたがえば、事実それは確定的だといっていい。いろいろな事実を整理して考えてみたまえ。あのパイプにはカビがはえていない。だから、ほんの短い期間ここにあったもので、バーネットか、スミスか、ジェフリーズか、ブラウンかのものだ。古いパイプだが、まるで歯形がついていない。だから、歯のない男が使っていたものだ。だが、バーネットも、スミスも、ジェフリーズも、みんな歯があって、それぞれ自分のパイプに歯形をつけている。ところがブラウンは歯がない。三人の男たちは下等煙草《シャッグ》を吸わないのに、ブラウンの煙草入れには下等煙草《シャッグ》がはいっている。銀の帯輪は硫化物でおおわれており、ブラウンは上端に硫黄が塗ってある≪ばら≫のマッチを、パイプといっしょにポケットに入れて持ち歩いていた。そのパイプの穴から、もぐらの毛が発見され、ブラウンは、そのパイプを入れていたと思われるポケットに、もぐらの毛皮の煙草入れを入れて持ち歩いていた。最後に、ブラウンのポケットには、あきらかに彼のものではなく、ジェフリーズのものに酷似したパイプが入れてあったし、そのパイプには、ジェフリーズの煙草と同一で、ブラウンの煙草入れのものとは異なった煙草がつめられていた。これでまったく決定的だと私には思える。こうした証拠に、私たちの握っているほかの項目をくわえれば、いよいよ決定的だと思うよ」
「どんな項目を?」私はきいた。
「まず、死んだ男は、フジツボやゴカイ類がいっぱいくっついた周期的に水中に没する物体に、はげしく頭をぶっつけたという事実がある。そして、この燈台の鉄脚は、その物体の様相にぴったり合うし、ほかにそのような物体はこの付近にはない。標識などにしても、あの種の傷をつけるには大きすぎる。つぎには、死んだ男の鞘《さや》ナイフがなくなっている。さらにジェフリーズは手にナイフの切り傷をうけている。情況証拠が圧倒的であることは、君といえども認めないわけにはいくまい」
このとき、望遠鏡を手にした船長が、あわただしく部屋へはいりこんできた。「専属船が妙なボートを引っぱってきます」と彼は言った。「おそらく行方不明になったボートだろうと思いますが、そうだとすると、なにかわかるかもしれません。お荷物を片づけて船へ乗りこむ用意をされてはいかがですか」
私たちは緑色のトランクを、きちんと片づけて、回廊へ出た。二人の燈台守が、近づく専属船を見つめていた。スミスは、あからさまに物見高い好奇心を見せ、ジェフリーズは、落ちつかなく、そわそわして、ひときわ蒼《あお》ざめていた。汽船が燈台の真向かいまでくると、三人の男がボートへ乗り移って漕ぎよせてきた。その一人――専属船の運転士が、梯子をのぼってきた。
「行方不明になったボートか?」船長が大声できいた。
「そうです」回廊へあがった運転士は、ズボンの尻で両手をぬぐいながら答えた。「東ガードラー砂州の干《ひ》あがった個所に横たわっているのを見つけたのです。この一件には何かおかしなたくらみがあるようですね」
「悪いたくらみでもあったというのか?」
「疑う余地はありませんよ。栓が引き抜かれて、船底に捨ててありますし、鞘ナイフが舳先《へさき》の内竜骨のもやい綱《づな》のなかに突きささっているのも見つかりました。高いところから落ちてきたものらしく、固く突きささっていました」
「そいつは変だ」船長が言った。「栓のほうは、なにかの拍子に抜けたのかもしれないがね」
「いいえ、ちがいます」運転士は言った。「敷板をもちあげるために、底荷の小石袋がとりのけてあるのです。それに、船乗りはボートを水びたしにしたがらないものですから、抜けたのなら、栓を詰め直して水をかい出したにちがいありません」
「それはそうだな」グランパス船長は答えた。「それに、ナイフがあったというのは、たしかに怪しい。しかし、広い海のなかで、いったいどこから落ちてきたのだろう? しあわせなことに、ナイフが雲から落ちるということはないからね。どうお考えになりますか、博士?」
「それはブラウン自身のナイフで、たぶんこの回廊から落ちたのだろう」
ジェフリーズは、ものすごく怒って真っ赤になり、さっとソーンダイクに向かった。
「それは、どういう意味ですかね?」彼は詰問した。「ボートは、この燈台へはたどりつかなかったと、私は言ったんですぜ」
「君はたしかにそう言ったよ」ソーンダイクは答えた。「しかし、そうであるなら、君のパイプが死んだ男のポケットから発見され、死んだ男のパイプが現在、ここのパイプ掛けにかかっている事実を、どう君は説明するつもりかね?」
ジェフリーズの顔面の真っ赤な色は、あらわれたときにおとらず急速に消えうせた。「何のことを言っているのか、おれにゃ、ちっともわからねえ」彼は口ごもった。
「いいかね」ソーンダイクは言った。「それでは私がいきさつを述べるから、君は照合してみるがよい。ブラウンはボートを横づけにして、衣服箱をかついで居間へあがってきた。そしてパイプに煙草をつめて火をつけようとしたが、パイプがつまっていたので、吸えなかった。そこで君は、君のパイプに煙草をつめて貸してやった。それからまもなく君たちは回廊へ出て争った。ブラウンは自分のナイフで防禦《ぼうぎょ》した。それが彼の手からボートへ落ちこんだ。君は回廊から彼を突きとばした。彼は、鉄脚に頭をぶっつけながら落ちて行った。それから君はボートの栓を引き抜き、ボートが流れて沈むようにしておいて衣服箱を海中へ投げこんだ。このいきさつは十二時十分ごろのことだった。ちがうかね?」
ジェフリーズは眼をみはり、びっくりして胆《きも》をつぶしたように立ちつくすだけで、一言も答えなかった。
「ちがうかね?」ソーンダイクはくりかえした。
「とんでもねえ!」ジェフリーズは、ぶつくさと言った。「すると、あのとき、あんたは、ここにおいでなすったのかね? まるでそんな口ぶりだ。いずれにしても」いくらか気力を盛りかえして彼はつづけた。「あんたは何もかもすっかり知っていなさるようだが、一つだけまちがっていますぜ。争いごとなんて、何もなかったですよ。ブラウンという男は、私が気に入らなくて、ここにいるつもりがなくなったものだから、またボートを漕ぎ出して陸へもどろうとしたんです。私は行かせまいとした。すると奴はナイフで切りかかってきたんです。私がそれを手からたたきおとすと、うしろへよろめいて、ころがり落ちたんですよ」
「それを君は引きあげてやろうともしなかったのか?」船長がきいた。
「どうしてそんなことがやれますかい」ジェフリーズは切りかえした。「あんなに潮が早かったし、私は一人きりで燈台にいたんですぜ。そんなことをしたら、二度と私はもどってはこられなかったでしょう」
「だが、ボートのほうはどうなのだ、ジェフリーズ? なぜ栓を抜いたのだ?」
「正直言いますとね」ジェフリーズは答えた。「私は臆病風に吹かれて、ボートを海の底へ放りこみ、何も知らねえことにするのが、一ばん手っとり早い方法だと思ったわけですよ。しかし、私は決してあの男を突きおとすようなことはしなかったです。あれは、不意にもちあがった奇禍《きか》ですよ。誓います」
「うむ、もっともらしく聞こえるが」船長は言った。「博士、あなたはどうお考えになりますか?」
「きわめてもっともらしい」ソーンダイクは答えた。「しかし、その真実性については、私たちのかかわり知るところではないようだ」
「そうですね。それにしても、わしは君を連行して、警察へわたさなくてはならないぜ、ジェフリーズ。それはわかるだろうね?」
「わかります」ジェフリーズは答えた。
「まったく奇妙な事件でしたね、あのガードラー砂州《さす》の事件は」六か月ばかりたったある晩、私たちと顔を合わせたときグランパス船長が言った。「ジェフリーズの刑も、かなり軽いし――十八か月だったんじゃありませんか」
「まったく、実に奇妙な事件だったね」ソーンダイクが言った。「あの『奇禍』の背後には、何かがあったにちがいないと私は思うのだがね。おそらくあの二人の男たちは、以前に関係があったのだろうと思うよ」
「わしもそう思いましたよ」船長はうなずいた。「でも、わしにとっていちばん奇妙だったのは、あなたがすっかり真相をあばき出したあのやりかたですよ。あれからわしはブライヤのパイプに深い敬意をはらうことにしているんです。まったく珍妙な事件でした。あなたが、あのパイプに人殺しの物語を語らせたやりかたは、わしには、まるで魔法みたいに思われてなりません」
「そうですね」私は言った。「まるでドイツ民話『歌う白骨』の不思議な呼子《パイプ》のように真相を語りましたからね――もっとも、このほうは煙草のパイプではありませんがね。あのドイツ民話をごぞんじですか。ひとりの農民が殺された男の骨を見つけて、それで呼子をつくり、吹き鳴らそうとしたところ、ふいにその呼子が、みずからの歌をうたいだしたという話です――
『兄者《あにじゃ》は、おいらを殺して、おいらの骨を埋めた、砂の下に、ごろ石の下に』」
「興味ぶかい民話だ」ソーンダイクは言った。「すぐれた教訓がふくまれている。つまり、私たちが注意ぶかく耳をすましておりさえすれば、周囲の生なきものの一つ一つが、それぞれみずからの歌をうたいだすだろうということさ」
[#改ページ]
落魄《らくはく》紳士のロマンス
1 招かれざる客
暮れがての夏の日がようやく暮れて、にわかに宵闇が迫るころ、夜会服の上にオーバー・コートを軽く羽織った人影が、こころよい田舎道を自転車でゆっくりと走って行った。時折り、隣町からきた馬車や自動車や箱形の辻馬車などが彼に追いつき、追い越して行った。車上の人たちのめかしこんだ様子から、彼は、その行くさきを、あれこれと抜け目なく思いめぐらしていた。彼自身の行くさきは、この道路からちょっと入ったところに相当広大な領地をもっている、ある大きな館《やかた》だったが、もともと彼の訪問をめぐる事情が事情なので、目的に近づくにつれて、自転車の進み具合は、ますますのろのろしたものとなって行った。
ウィローディル館では――これがその館の名前である。今宵、久方ぶりに過去の栄華がよみがえったかのようであった。もう何か月ものあいだ、ここは空屋同然になっていて、門番小屋のそばに立てられた告示板が、無言のうちに館のさびれたさまを見る人に告げていたものだが、今宵は、むき出しの壁に、旗や壁掛けを垂らし、床には蝋《ろう》をひき絨毯《じゅうたん》をのべたりして、館の部屋部屋は、いま、ひとたび音楽がひびきわたるや、さんざめく人々の声にこだまし、大勢の来客の足音にふるえようとしていた。それというのも、今宵はここでレインズフォード近辺の令嬢たちが舞踏会を催すことになっていたからである。令嬢たちのうちで主役をつとめるのは、ウィローディル館の持ち主であるミス・ハリウェルだった。
盛大な夜会だった。館は大きく、壮麗であり、しかも令嬢たちの数は多く、金に糸目をつけなかったからだ。大勢の来客のなかには、ほかならぬジーヒュー・B・チェーター夫人その人さえまじっていた。夫人がこの夜会に加わったことは、この盛儀に一段と光彩を添えた。というのは、この美しいアメリカ人の未亡人は、まさしく当時の社交界の獅子(牝獅子《めすじし》と呼んだほうがよいかもしれない)だったからである。
彼女の資産は、守銭奴のあくなき夢想にはほど遠いとしても、普通のイギリス流の算盤《そろばん》では到底間にあわないほど莫大なもので、彼女のダイヤモンドは、今宵の主人役たる令嬢たちの名誉でもあり、同時に恐怖でもあったのだ。
こういういろんなたのしみがあったにもかかわらず、自転車に乗った男は、いかにも気が進まない様子で、のろのろとウィローディル館の近くにさしかかった。そして、道を曲ったところで、ウィローディル館の門が視界に入ってきたとき、彼は決心がつきかねるかのように自転車を降りて立ちどまってしまった。彼は、これからいささか危険なことをやらかそうとしていたので、もともと気の弱い男では決してないのだが、さすがにいま一歩の決心がつきかねて、ためらっていたのである。
実をいうと彼は招待を受けていなかったのだ。
それなのに、なぜ彼は夜会へ行こうとしているのか? どうして館のなかへ入ろうとしているのか? こうした疑問に答えるために、ここで、いささか気のすすまぬ説明をこころみなければならない。
オーガスタス・ベイリイは彼なりの才覚で暮らしていた。自分の才覚でたつきを立てるというのは、世間でよくいうせりふだが、考えてみれば、ばかげた言葉である。なぜなら、そもそも多少の才覚をもつほどの人間は、みな自分の才覚でたつきを立てているではないか。それに、ごくありふれたごろつきになるのに、なんの特別輝かしい才覚が必要であろう? それはともかく、オーガスタス・ベイリイは、なかなかの才覚の持ち主であり、その才覚によってたつきを立てていたのであるが、これまでのところ、まだこれといった身代は築きあげていなかった。
彼がここで一仕事もくろむ気になったのは、あるレストランの食卓で今夜の夜会のことを小耳にはさみ、その上、なにげなく、食卓の上においてあった招待状に巧みにメニューをかぶせて、まんまとそれを手に入れることができたからであった。オーガスタスは(盗品の事務用品のなかのセシル・ホテルの便箋を一枚使って)ジェフリー・ハリントン・ベイリイの名で、自分あてではないその招待状に、よろこんで応じる旨、返事を出しておいた。というようなわけで、現在、彼の頭をなやましていたのは、はたして見とがめられるだろうか、それとも見とがめられずにすむだろうか、ということだった。彼は来客の数が多いことと、令嬢たちがおそらくパーティに不慣《ふな》れであろうということに望みをかけていた。招待状を見せる必要のないことはわかっていたが、一方、来客の名前をいちいち呼びあげるという具合のわるい儀式があるのだ。
しかし、ひょっとしたら、そこまで行かずにすんでしまうかもしれない。もし入口で、招かれざる客であることがばれてしまえば、たぶん、それまでのことなのだから。
ゆっくりと門のほうへ歩いて行くにつれて、不安は次第につのって行った。当面の不安に加えて、過去の思い出からくる良心の呵責《かしゃく》があった。彼は、かつて前線部隊に勤務したことがあった――それも、もちろん長い期間ではなかった。というのも、彼の「才覚」が同僚の将校たちの鼻についたからなのだが――そのころは、こういう夜会に招待客として参加したこともあったのだ。それがいまでは、一介のコソ泥に落ちぶれてしまい、他人の名をかたり、へたをすると、召使いどもにつまみ出される危険をおかして他人の館にもぐりこもうとしているのである。
ためらいながらたたずんでいると、道路に馬蹄《ばてい》の音がきこえ、そのあとから、けたたましい自動車の警笛がきこえた。カーヴのむこうから、ほの明るい馬車の灯火がちらちらするのが見え、すぐそのあとから、ぎらぎら光るアセチレンのヘッド・ライトがあらわれた。門番小屋から一人の男が出てきて、さっと門をあけた。そこでベイリイは、気をとりなおして、大胆に自転車を車道《くるまみち》に乗り入れた。
途中までのぼったところで――そこはかなり急な坂道になっていた――自動車が一台そばを通りすぎた。大型のネイピアで、若者たちの一団が、座席の背にすわったり、おたがいの膝《ひざ》の上にすわったりして、鈴なりに乗っていた。ベイリイは彼らを見ると、このときとばかり、そのあとについて行き、自転車を無事に馬車置場に預け、それから急いでクローク・ルームへ行った。さっきの青年たちは、一足さきにそこへ着いたばかりで、彼が入って行ったときには、がやがや騒ぎながらオーバー・コートをぬぎ、それをテーブルの上に投げだしているところだった。ベイリイも、彼らの例にならったが、みんなといっしょに応接間に入ろうと急ぐあまり、目さきのことが、ちょっと上《うわ》の空《そら》になった。そして、番号札をポケットにしまって急いでその場を立ち去ろうとしたとき、あわてた召使いが彼の帽子をほかの男のコートといっしょにし、それに彼の番号札をつけたことを見落してしまったのである。
「ポッドベリイ少佐、バーカー・ジョーンズ大尉、スパーカー大尉、ウォトスンさま、ゴールドスミスさま、スマートさま、ハリントン・ベイリイさま!」
将校たちの一団にくっついて、内心びくびくしながらも胸をそらして部屋のなかへ入って行ったとき、オーガスタスは、招待者側の令嬢たちが、なみなみならぬ関心をもって、一人一人の顔を見ているのを意識した。
しかし、その瞬間、馬丁《ばてい》の声が朗々とひびきわたった――。
「チェーター夫人、クランプラー大佐のお着き!」
みんなの視線が新しい来客のほうに移ったすきに、オーガスタスは軽く会釈して人ごみのなかへまぎれこんだ。彼のあぶない綱渡りも、どうやら「うまく行った」ようであった。
彼は人目に立たぬように、なるだけ人のこみあっているほうへまぎれこんで行き、令嬢たちの視線のとどかないところに身をおいた。あのお嬢さんがたは、たとえおれに気がついたとしても、じきに忘れてしまうだろう。そうしたら、さっそく仕事にとりかかるまでのことだ。彼は、まだ少々|震《ふる》え気味だった。そこで、なるべく早く飲みものにありついて神経を落ちつかせたいものだと思っていた。そんなことを考えながら、まわりの客たちの肩ごしに鋭い視線を投げていると、やがて参会者の群れがさっと動いて、チェーター夫人が主役の令嬢と握手をかわしているのが見えた。それを見てオーガスタスは愕然《がくぜん》とした。
彼女であることは一目でわかった。彼は、人の顔については、ものおぼえがよかった。ましてチェーター夫人の顔ともなれば、忘れるべくもなかった。彼は、何年もの昔、連隊の舞踏会でいっしょに踊った素直で愛らしいアメリカ人の少女を、まざまざと思いだした。それは彼がまた下級将校だった古い昔のことで、それから間もなく、あのインチキ・トランプの事件が起こって、彼の軍隊生活に終止符がうたれたのであった。忘れもしない、あの愛らしい顔をしたヤンキー娘と、彼は、たがいに憎からず思いあっていたのだ。何度もいっしょにダンスをしたり、ときには踊らずに腰をおろしたまま神秘めかした他愛もない話題に興じたものだが、それが、無邪気な年頃のことでもあり、なにか深遠な哲学のように思えたものだった。彼は、それ以後、彼女とは一度も会っていなかった。彼女は、彼の生活に入ってきたかと思うと、またすぐさっと出て行ってしまったのだ。そして彼は、かつてはあれほど熱をあげていた彼女の名前すらも忘れていたのである。ところが、その彼女が、いまここにいるのだ。もはや姥桜《うばざくら》になってしまったことは事実だが、それでもなお、やはり美しく、人々の渇仰《かつごう》を集めていることに変わりはなかった。それに、ああ、あのダイヤモンド! ところで、彼もまたこの場に居合わせているのであった。うらぶれたコソ泥になりさがり、人々のあいだに身をひそめて、ペンダントをひったくる機会はないものか、ゆるいブローチを「ちょろまかす」機会はないものか、とうかがいながら。
おそらく彼女は彼に気がつくだろう。気がつかないはずはない。彼のほうでは、ちゃんと気がついたのだから。しかし、そんなことになっては具合がわるい。そう思って、ベイリイ氏は、芝生の上でも散歩し、煙草でも一服つけようと、するりと外へぬけ出した。すると、彼よりもいくらか年長らしい、もう一人の男が、時折り、開いた窓を通して、きらきら輝く部屋のなかに目をやりながら、思案顔に行きつ戻りつしていた。一、二度すれちがってから、見知らぬ男は立ちどまって彼に声をかけた。
「こういう晩には、ここが一番ですな」と彼は言った。「部屋のなかは、もうむんむんしてきていますからね。しかし、あなたは、ダンスがお好きなのでしょう?」
「昔ほどではなくなりましたよ」ベイリイはそう答えたが、そのとき、相手が彼の煙草に、かつえたような目を向けているのに気がついて、シガレットー・ケースをさしだした。
「やあ、これはありがたい」見知らぬ男は、そう叫んで、蓋《ふた》をあけたシガレット・ケースに、むしゃぶりついた。「高級品のサマリタンですな。これはすごい。シガレット・ケースをコートのなかへ忘れてきましてな。といって、持ってきてくれるように頼むのもどうかと思って――。実は吸いたくてがつがつしていたのですがね」彼は、うまそうに吸いこみ、煙の雲をふうっと吐き出しながら、また言った。「あの小娘どもは、今夜の会を、なかなかうまくやっているじゃありませんか。こんなところを見ていると、とてもこれが空屋同然の館《やかた》とは思えませんな」
「私はまだほとんど見ていませんのでね」とベイリイが言った。「私は、その、たったいま来たばかりなのですよ」
「なんでしたら一まわりしてみましょうか」と、ものやわらかい調子で相手の男は言った。「もちろん煙草を一服吸ってからのことですが。飲みもののほうも一つやりましょう。すこしは涼しくなるかもしれません。お知り合いのかたは大勢お見えですかな?」
「一人もおりません」とベイリイは答えた。「お相手を願うご婦人が、まだ見えておらんようで――」
「いやあ、それなら、なんでもありませんよ」と見知らぬ男は言った。「私の娘も、あの令嬢たちのなかに入っておりますから――私はグランビイというものです。飲みものを一つやってから、娘に、あなたのパートナーを探させましょう――つまり、その、そういう座興がお気に召したらの話ですがな」
「多少踊ってみたい気もいたします」とベイリイが言った。「もうそんな年齢ではないような気もするんですが。でも、われからすすんで老《ふ》けこんでしまうこともないでしょうからね」
「それはもちろんですとも」とグランビイは愉快そうに相槌《あいづち》をうった。「男はいつでも気を若くもっていることが大切です。さあ、それじゃ、あちらで一杯やって、それから、うちの娘を探すことにしましょう」二人の男は煙草の吸い殻を投げすて、飲みものがおいてあるほうへ歩いて行った。
夜会のシャンパン酒は弱かったが、それでも量を重ねれば、やはりかなり酔うことができた。その点についてはオーガスタスも――グランビイも――それ相当に気をつかったので、酒のあとサンドイッチを二つ三つ手にとったころには、ベイリイ氏は、かなりいい機嫌になっていた。それというのも、ほんとうのことをいえば、最近の彼の食事は、いささかお粗末にすぎたからである。グランビイ嬢というのは、いま目の前にあらわれたところでは、招待者としての役柄を、その役柄にふさわしい威厳をもって務めあげるべく、せいいっぱい背のびをしている、芳紀まさに十七歳くらいの、金髪可憐な「おてんば娘」であった。
かくて、まもなくベイリイ氏は、器量のいい三十がらみの中年女と組んで、渦まく群集のなかで踊っているという仕儀に立ちいたったのであった。
こんなことは予想もしないことだったので、彼は、いささかめんくらった。過去何年間というもの、彼は、ほんのつまらないペテンと、あからさまな犯罪とのあいだを行きつ戻りつする、けちで下賤《げせん》な落莫《らくばく》たる生涯を送ってきたのであった。ときには法網すれすれのところで、みみっちい詐欺をやったこともあるし、切羽つまったときには本物のコソ泥にまで身を落した。詐欺師や、小悪党や、自分と同じような浅ましい無頼漢などとまじわり、賭けをしたり、金を借りたり、せびったり、そうして、どうにもならなくなると盗みをしたり、つねに「青い制服の男」にびくびくしながら街頭をほっつき歩いていたのであった。
それがいまは、ここに、かつて彼がなじんだことのある、そしていまではもう半ば忘れてしまったような環境のなかにいるのであった。にぎやかに飾りつけられた部屋部屋、リズミカルな音楽、宝石のきらめき、床をすべって行くたくさんの足のささやき、高価な衣裳の衣《きぬ》ずれの音、まるで絵に描いたような立派な紳士や美しい貴婦人たちの群れ。
汚辱にまみれた歳月はどこかへ消えうせ、あんなにもみじめに切断された人生の糸を新規まきなおしにたぐり寄せるようにと彼に呼びかけているかのようであった。とにかく、ここにいる人たちは彼の仲間なのだ。近頃、彼が仲間入りした、いやしい悪党どもは、行きずりに道で出あった赤の他人にすぎないのだ。
ひとしきり踊ったあと、そのパートナーを、名残《なご》り惜しそうに――それは相手の婦人も同様だった――どこの誰ともわからない下級将校にゆずって、もう一度、飲みもののおいてある部屋へ行こうとしたとき、ふと彼の腕に軽くさわったものがあった。彼は、くるりとうしろをふり向いた。腕にさわられるということは、彼にとってはほかの人間の場合よりも多くのことを意味していたのだ。しかし、彼の前に立っていたのは、無表情な顔をした私服ではなかった。それは普通の市民――婦人だった。手短にいえば、チェーター夫人が、落ちつきなくほほえみ、自分の大胆さに少々恥じらいながら立っていたのである。
「もうお忘れになったかもしれませんわね」と夫人は弁解がましく言いはじめた。オーガスタスは彼女の言葉を、熱をこめてうち消した。
「忘れてなんかいるものですか」と彼は言った。「お名前は忘れてしまいましたが、あのポーツマスの舞踏会のことは、昨日のことのように、よくおぼえていますよ。すくなくとも、あのときの、ある出来事だけは、はっきりとおぼえています――記憶に値《あたい》することといえば、あのことだけですからね。私は、あれ以来、なんとかして、あなたにもう一度お目にかかりたいものだと思っていました。それがいま、とうとう実現したわけです」
「おぼえていてくだすって、うれしいですわ」と彼女は言葉をつづけた。「わたしは、あれから何度も何度も、あの晩のこと、それから、わたしたちが話しあったいろんなすばらしいことを思いだしました。あなたは、あのころ、ほんとに立派な青年でした。いまのあなたは、どんなふうにおなりになったかしらなどと、よく考えたものですわ。ほんとに、ずいぶん昔のことですものね」
「そうです」とオーガスタスは重々しく相槌をうった。「遠い昔のことです。それは私もよく知っています。でも、いまこうしてあなたを見ていると、ほんとに、ついさきごろのことのような気がします」
「まあ、お上手ですこと」と彼女は叫んだ。「昔のように純真ではいらっしゃいませんのね。あのころはお世辞なんかおっしゃいませんでしたわ。でも、ひょっとしたら、その必要がなかったのかもしれませんわね」彼女は、やさしい非難をこめて言ったが、それでも、その美しい顔は、よろこびで赤くなった。最後のせりふには、あるもの悲しさがこめられていた。
「お世辞ではありませんよ」オーガスタスは、まじめに答えた。「私は、あなたがこの部屋へ入ってこられたとき、すぐにあなただと気がついて、歳月があなたに対しては非常に優《やさ》しかったことに驚いたのです。私に対しては、歳月はそれほど優しくはありませんでしたからね」
「いいえ。それは、あなたの髪には、すこしは白いものが見えますけれど、殿方にとって白髪なんて問題ではありませんわ。いわば襟章の王冠や袖口のレースみたいなもので、人間の貫禄を示すものではありませんか。地位をあらわすしるしみたいなものですわ――もういまでは大佐になっていらっしゃるのでしょう?」
「いや」オーガスタスは、すこし赤くなって早口に答えた。「軍隊は何年か前にやめましたよ」
「まあ、それは残念ですこと!」とチェーター夫人は叫んだ。「そのことを、すっかり話してくださらなくてはいけませんわ――でも、いまはいけません。わたしの相手が、わたしを探しにきますから。あとで、ダンスを一曲やすんで、いろいろとお話をきかせてくださいな。わたし、あなたのお名前を忘れてしまいましたわ――ほんとに、お顔はよくおぼえているんですけれど、どうしてもお名前が思いだせませんのよ。でも、わたしたちの親しくしている弁護士さんの言い草ではありませんけれど、『名前になんか、なんの意味もない』ですものね」
「いや、おっしゃるとおりです」とハリントン・ベイリイは言った。そして、気持ちが動くままに、こうつけ加えた。「私の名はロウランドです――ロウランド大尉。そういえば、ご記憶にあるのではありませんか?」
しかし、チェーター夫人は、その名に記憶がないらしく、おぼえていない、と言った。「六番目でよろしいかしら?」彼女はプログラムを開いてたずねた。そして、オーガスタスが承知すると、彼のかりそめの名をそこへ書き入れて、満足そうに言った。「ダンスを一曲やすんで、つもるお話をすることにいたしましょう。そのときには、あなたの身の上ばなしを、すっかりお聞かせくださいな。あなたが、いまでも、自由意志と個人の責任について、昔と同じように考えていらっしゃるかどうかもね。あなたは、あのころ、とても高い理想を抱いていらっしゃいましたわね。それは、いまでも変わりはないと思いますけれど、人間の理想というものは、人生航路でもみくちゃにされて、いつしかすり切れて行くのが普通じゃございません?」
「そうですね。残念ながら、あなたのおっしゃるとおりかと思います」オーガスタスは暗い面持ちでうなずいた。「人生の荒波にもまれると、金ぴかのメッキも、すぐにはげ落ちてしまいます。中年になると、地金がすっかりむき出しにならないまでも、相当はげちょろけになるものです」
「そんなに悲観的なことをおっしゃってはいけませんわ」とチェーター夫人は言った。「そういうことは、失意の理想家のいうことですわ。あなたなんか、ご自分に失望なさる理由など一つもないと思いますわ。あら、わたし、もう行かなくてはなりません。お話してくださることを忘れないでくださいましね。それから、六番目だということもお忘れなく」輝くような微笑と親しげな会釈を残して彼女は去って行った。それは、燦然《さんぜん》たる光彩が、かりに人間の姿をとって目《ま》のあたりにあらわれたかと思われるばかりだった。これにくらべたら、栄華をきわめたソロモン王さえ月並みな金のかたまりにすぎなかったであろう。
未知の客と有名なアメリカの未亡人とのあいだに展開された、いかにも親しげな、うちとけたようすの会談は、人目につかずにはいなかった。そして、ほかの場合なら、ベイリイも、彼を包む栄光の照りかえしを利用しようとしたかもしれないが、いまの彼は、浮き名を流すことを求めているのではなかった。さきほど彼に、ハリントン・ベイリイ氏から一転してロウランド大尉の名をかたらせた、あの人目を避けようとする本能が、いままた彼の二重人格性を多人数の凝視から遠ざけるようにとそそのかした。彼がここへきたのは、もっとのっぴきならない用件があってのことであった。何度もくりかえすようだが、彼はいま「一文なし」の境涯に落ちこみ、ここへきたのは、なにかしら「ほんのちょっとしたもの」を失敬できるかもしれないと思ったからなのである。しかし、どういうものか、その夜の雰囲気は、あまり思わしいものではなかった。機会がなかったか、それとも彼が機会をとらえそこねたかのいずれかであった。どちらにせよ、彼の夜会服の、ほかに見られぬ特色であるかくしポケットは、まだからっぽで、このぶんでは、愉快な一夜と、うまい晩餐《ばんさん》だけが、今宵期待しうるすべてであるかと思われた。それはともかく、今宵ほど彼が品行方正なことはなかったとしても、彼が招かれざる客であり、いつなんどきペテン師としてつまみ出されるかもわからないという事実には変わりがなかった。例の未亡人と親しく挨拶をかわしたということも、なんらその危険性を遠ざけてくれるものではなかった。
彼は芝生の上にさまよい出た。そこからは、どちらを向いても下り坂になっていた。そこにはダンスをすませて涼んでいる客人が群れていて、窓から洩《も》れる部屋の明りが、その群れを照らしだしていた。そのなかに、あのひどく愛想のいいグランビイの姿もあった。オーガスタスは、すばやく明るい場所から遠ざかり、ふと細い小道に足を踏み入れた。そして、前方に見える雑木林らしきもののほうへ、ぶらぶら歩いて行った。ほどなく、豆電球が二つ三つ灯っている、蔦《つた》におおわれたアーチのところまできた。アーチをくぐって、樹木や灌木《かんぼく》の茂ったなかをうねうねとつづいている小道に入った。枝に臨時にとりつけられた色電灯が小暗い光を投げているだけの小道だった。
すでに人々の群れからは、まったく遠ざかっていた。実際、こんな人の気配のない気持ちのよいかくれ場所があったとは、彼にとっては、ちょっと意外だったが、考えてみれば、空屋同然のこの館には、人目を避けたい一組の男女にふさわしい空間《あきま》や歩廊などが、ふんだんにあるのは当然のことだった。
小道は、しばらくのあいだ、だらだらと下りになっていた。それから、丸木づくりの長い踏み段があって、それを降りきったところに、二本の木にはさまれてベンチが一つおいてあった。ベンチの前で小道はまっすぐにのび、せまいテラスを形づくっていた。右側は芝生のある高台に向かって急な坂になっており、左側は領地の周囲にめぐらした塀に向かって、もっと急な坂をなして落ちこんでいた。そして右側も左側も樹木と灌木でこんもりとおおわれていた。
ベイリイは、自分の身の上ばなしを、チェーター夫人に、どんなふうに話したものかと、それを思案するためにベンチに腰をおろした。それは楡《にれ》の木でつくった気持ちのよいベンチで、片方の端と背の一部には、楡の木がそのまま利用されていた。彼は木にもたれかかり、銀のシガレット・ケースをとり出して、煙草を一本ぬきとった。しかし、煙草は、指にはさまれたまま、いつまでたっても火がつけられなかった。彼はすわったまま、自分の不面目な過去と、もっともらしい憂鬱なつくり話のことを考えていたのだ。舞踏室にみなぎっている洗練された富の雰囲気から遠ざかり、身なりのいい紳士たちや優雅な婦人たちの群れから遠ざかって、彼の心は、貧窮と不潔にとりまかれ、工場のあいだにはさまれて押しつぶされそうになり、河を行く船の煙と大きな煙突から出る煤煙にすすけたバーモンジーにある自分のむさくるしい小さな貸間へと戻って行った。それは、おそろしい対比だった。まことに犯罪者の歩む道には、花はまかれていないのである。
そんなことを考えていたとき、彼は小道の上のほうに人の声と足音を聞きつけ、つと立ちあがって小道を歩きだした。一人で茂みのなかをさまよっているところを見られたくなかったのだ。すると、今度は、どこか小道の下のほうからも女の笑い声がきこえた。そっちのほうからも人が近づいてくるらしかった。彼は煙草をケースにしまってベンチのうしろへまわりこんだ。そっちのほうへ逃れようと思ったのだが、あいにく道はすぐに行きどまりになっていて、そのさきは灌木におおわれた塀のほうへと急な斜面が落ちこんでいるだけだった。ためらっているあいだにも、踏み段をおりてくる足音と女の衣《きぬ》ずれの音がきこえ、結局、その場にじっとしているか、それとも新来者と顔をつきあわせる羽目になるか、二つに一つしかなくなった。彼は、じっとしているほうを選んだ。楡の木の背後に、ぴったりとへばりついて、彼らが通りすぎるのを待った。
ところが彼らは通りすぎて行かなかった。二人のうちの一人――女が――ベンチに腰をおろした。そのとき聞きおぼえのある声が彼の耳をうった。
「ここでしばらく静かに休んでいましょうよ。この歯がとても痛むのよ。ほんとにすまないのだけれど、行って、もってきてくださらないかしら。この番号札をもってクローク・ルームへ行って、係りの女のひとに、わたしの小さなビロードの袋を出してくれるように頼んでほしいの。その袋のなかにクロロフォルムの壜《びん》と綿の包みがあるわ」
「しかし、あなたをここへ一人でおいて行くわけにはいきませんよ、チェーター夫人」と彼女のパートナーが言った。
「わたしはいまは社交界どころではないんです」とチェーター夫人が言った。「あのクロロフォルムが必要なのよ。ねえ、お願いですから、急いであれをとってきてくださいな。ここに番号札があるわ」
若い将校の足音が遠のいて行き、小道をやってくる二人づれの話し声が、しだいに大きくなってきた。ベイリイは、こんな滑稽な具合のわるい羽目に自分をおとしいれた偶然を呪いながら、その足音が近づいてきて、やがて坂道をのぼって行くのを聞いた。二人が行ってしまうと、あとは、しいんと静まりかえり、時折りチェーター夫人のうめき声がきこえた。彼女が苦しげに体を前後に動かすにつれて、ベンチが、きいきいときしるのがきこえるだけで、そのほかは、まったく静寂そのものだった。しかし、若い将校は、チェーター夫人の依頼を、おどろくほど手早くやってのけた。二分とたたないうちに彼が上の小道を駆けぬけ、坂道を駆けおりてくる足音がきこえた。
「まあ、ほんとにすみません」と未亡人は、うれしそうに言った。「まるで風のように走って行ってくだすったのね。包みのひもを切って、それから、しばらくわたしを一人にしておいてくださいな。この歯の処置をつけなければなりませんから」
「しかし、ここへあなたを一人おいて行くわけには――」
「いいえ、いいんですの」とチェーター夫人がさえぎった。「こんなところへ誰もきやしませんわ――つぎのダンスはワルツですもの。それに、あなたは、早く向こうへ行って、パートナーを見つけなくては……」
「あなたが、どうしてもここに一人でいたいとおっしゃるのでしたら……」と下級将校は言いはじめた。しかし、チェーター夫人は、みなまで言わさなかった。
「もちろん、わたしは、一人でここにいたいのよ。歯の始末をしなくてはなりませんもの。さあ、早く向こうへいらっしゃいな。ご親切は、ほんとに感謝していますわ」
若い将校は、なにやらぶつぶつ言いながら、しぶしぶ引きあげて行った。ベイリイは彼がうしろ髪をひかれる思いで坂道をのぼって行く足音を聞いた。あとには深い静寂が垂れこめ、紙のがさがさ鳴る音と、コルク栓のきゅっときしむ音が、いやに耳についてきこえた。ベイリイは唇を開き、息を殺して、むこう向きに楡の木にへばりついていたが、このとき、そっと顔をうしろにねじ向けた。彼は、これといった理由もなくこんな罠《わな》にかかってしまった自分を何度も呪い、なんとかこの場を逃れたいとあせった。しかし、いまとなっては、気づかれずに逃げ出す方法はなかった。未亡人が行ってしまうのを待たなければならなかった。
とつぜん、木の蔭から綿の包みをもった手があらわれた。その手は、綿をベンチの上におき、一つまみ綿をむしりとって、それを小さい玉にくるくるとまるめた。手の指には、指輪がいくつもはめてあり、手首には大きな腕輪がはまっていた。木の枝につるしたわびしい豆電球の光が、指輪や腕輪にあたって、プリズムのような光芒《こうぼう》を放った。すぐに手はひっこめられた。ベイリイは四角い綿のかたまりを、ぼんやりと見つめていた。すると、また手が目にはいった。今度は、小さい壜を、そっとベンチの上におき、そのそばにコルクをおいた。そして、またしても豆電球の光が、ちりばめた宝石から、きらきら輝く光芒を照りかえした。
ベイリイの膝は、がくがくと震えはじめた。額には冷たい汗がにじみ出た。
手はまたひっこんだが、それが消えたとき、ベイリイは、頭をそっと動かして、顔を木の蔭から出した。女はベンチに背をもたせるようにしてすわっていた。頭が木の幹にもたれかかっていて、彼の顔から、わずか数インチのところにあった。宝冠の大きな宝石が、彼の目の前で、きらきら輝いた。彼女の肩ごしに、豪華なペンダントが、たえまなく色どりを変える火のような光彩を放ちながら、彼女の胸に起伏するのが見えた。上にもちあげた彼女の両手は、光沢と、きらめく輝きのかたまりのようであった。そして、それが小暗い光のなかで、いっそう深々と豊かな光彩を放っているのだ。
彼の心臓は鼓動が耳につくほど高鳴ってきた。ねっとりとした汗が顔をしたたり落ちた。歯ががちがち鳴るのを防ぐために、歯をしっかりと食いしばった。恐怖が――尋常ならざる恐怖が、しのびよってきつつあった――理性も意志も奪い去ってしまうような、おそろしい衝動に負けてしまうのではあるまいかという恐怖が。
深いしじまが、あたりを支配していた。女のかすかな息づかい、衣ずれの音が、はっきりと――大きく――きこえた。彼は窒息《ちっそく》しそうになるまで呼吸をとめていた。
とつぜん、夜の空気を通して、ワルツの夢のような音楽が、かすかに流れてきた。舞踏がはじまったのだ。遠くからきこえてくる物音は、この見捨てられた場所の孤独感を、いっそう深めるばかりだった。
ベイリイは、じっと耳をすました。手首をしっかりとつかんで、容赦なく彼を破滅へと引きずりこんで行く見えざる力からのがれようとあせった。
彼は、おそろしいものを見るように、また魅せられたように、女を見つめた。必死になって、それを見まいとした――しかし、無駄だった。
そして、ついに、汗に濡れた、わななく手が、こわごわと、しかも、こっそりと、ベンチのほうへのびて行った。その手は、音もなく綿をつかみ、また物音一つ立てずに、そろそろと引っこんだ。手が、またしても、そろそろと前にのびた。指が蛇のように壜にからみつき、それをベンチからもちあげ、蔭へ運び去った。
数秒の後、ふたたび手があらわれて、壜を、そっともとに戻した――見ると半分は空になっていた。短い間《ま》があった。ワルツの調子のよいカデンツァが静かな夜を通して、かすかに流れてきた。それは女の息づかいと調子を合わせているかのようだった。ほかに物音は何一つきこえなかった。その場所は墓場の静けさに包まれていた。
とつぜん、ベイリイは隠れ場からベンチの背のほうへ身を乗り出した。綿のかたまりが彼の手にあった。
女は、いまは両手を膝の上におき、うたたねでもしているかのように、うしろによりかかっていた。すばやい動きが起こった。綿が彼女の顔に押し当てられた。そして彼女の頭は見えざる加害者の胸にひきよせられた。押し殺したようなうめきが、彼女のふさがれた唇から洩れ、手がのびて殺人者の腕をつかんだ。それから、おそろしい死闘がはじまった。もがき苦しむ被害者の、きらびやかな、高価な装身具が、その争いを、いっそう凄惨なものにした。しかも、なお物音一つきこえなかった。ただ押し殺したような喘《あえ》ぎと、衣ずれの音と、ベンチのきしみと、かちゃりと壜の落ちる音と、それに遠くのほうからワルツの夢のようなささやきが、おそろしい皮肉をこめて流れてくるだけであった。
争いは、すぐに終わった。不意に、宝石をちりばめた手が、だらりと垂れさがり、頭は皺《しわ》になったシャツの胸にもたれかかり、ぐったりとして力をうしなった体がベンチからずり落ちそうになっていた。ベイリイは、支えをうしなった頭をつかんだまま、ベンチの背を乗り越え、女がへたへたと地面に崩れ落ちたときになって、ようやく女の口から綿を離し、その上にかがみこんだ。もはや争いは終わった。一時の気ちがいじみた興奮は、見る見るうちに冷たい死の恐怖に変わって行った。
彼は、ほんのいましがたまで、あんなに美しかった顔が、醜くふくれあがり、ついいましがた、あんなにも優しく彼にむかって微笑した目が、もはや光をうしなっているのを、幻覚ではあるまいかと疑いながら、おそろしげに見おろした。
しかもこれは彼がやったことなのである。世の中からうとんじられ、大手をふって人前を歩くこともできないロクでなしの彼が、しでかしたことなのだ。この優しい女が友情の手をさしのべてくれた当の相手である彼が、こんなことをしでかしてしまったのだ。ほかのすべてのものが、彼のことなど、とうに忘却の淵《ふち》に沈めてしまっていたときに、彼女だけは、彼の記憶を、しっかりと胸に抱きしめていてくれたのに。それなのに彼は彼女を殺してしまったのだ――この紫色の唇からは、もはや生命の息吹きは、まったくきこえないようであった。
ふいに、とりかえしのつかないことをしてしまったというおそろしい良心の呵責が彼を襲った。彼は汗ばんだ髪の毛をかきむしり、地獄に落ちた人のように、ひいひい泣きながら、そこに突っ立っていた。
宝石のことなど、もはや彼の気持ちからは遠いものになっていた。もはや、自分の犯したこのなんともいいようのない悪業の恐怖をのぞいては、一切が忘れ去られた。救いようのない悔恨と、ぞっとするような恐怖とが、彼に残されたすべてだった。
遠くの小道を歩く人の声で、彼は、はっとわれにかえった。すると、それまで彼をとりこにしていた、さだかならぬ恐怖が、浅ましい具体的な恐怖となって現実化した。彼は、ぐったりした体を道の外れまで運んで行き、灌木におおわれた急な斜面にころがり落とした。死体が仰向《あおむ》けになったとき、開いた唇から、かすかな、身の毛もよだつような溜息が洩れた。彼は一瞬はっと聞き耳を立てた。しかし、それっきり生きているらしい兆候は、なに一つ聞こえなかった。あの溜息は死体を動かしたとき、なにかのはずみで出たものにちがいない。
彼は、またちょっとのあいだ、夢でも見ているように立ちどまって、灌木に半ばかくされた死骸を見つめ、それからやっと小道に這《は》いあがった。這いあがってから、もう一度ふりかえって見たが、もう彼女の姿は見えなかった。人の声が近づいてきたので、彼は身をひるがえし、足音を立てないように気をつけながら、丸木づくりの坂の踏み段を矢のように駆けあがって行った。
彼が芝生のはずれまで駆けあがったとき、音楽がやんだ。ほとんど同時に人々の群れが家からどっとあふれ出た。ベイリイは、すっかり動転していたが、それでも自分の衣服や髪が乱れていること、自分の様子が奇異に見えるにちがいないことに気づくだけの余裕はもっていた。そこで彼は、ダンスを終えて出てきた人々の群れをさけ、芝生のはずれのほうを通って、もっとも人気《ひとけ》のなさそうな道を選んでクローク・ルームへ行った。彼は、いまにも失神しそうになっていたし、歩くにつれて手足ががくがく震えるので、できれば飲みもののある部屋へ入って行きたかった。しかし、追われているような不安がつきまとい、それは時がたつにつれて、ますますつのって行った。いまにも死体が発見されたという知らせが聞こえてくるような気がした。
彼は、よろけるようにクローク・ルームに入り、テーブルの上に番号札を投げ出し、懐中時計をとり出した。係りの男は、けげんそうに彼を見て、番号札を手にしたまま気の毒そうに言った。「ご気分でもわるいのですか?」
「いや」とベイリイが言った。「あすこはひどく暑かったものだからね」
「お帰りになります前に、シャンパンを一杯めしあがると、ご気分がよくなりますよ」と男が言った。
「そんなひまはないのだ」とベイリイは答え、コートを受けとろうと、わななく手をさしのべた。「急がないと汽車に乗りおくれるのでね」
これを聞くと、係りの男はコートと帽子をとり出し、彼がコートの袖を腕に通すのを手伝おうとした。しかしベイリイは、コートをひったくるようにして腕にかけ、帽子をかぶると、急いで馬車置場へ行った。ここでも係りの男が、びっくりしたように彼を見つめた。ベイリイは男がコートを着るのをお手伝いしましょうと申し出たのもことわり、コートを腕にかかえたまま、「変速ギヤ」のレヴァーをかちゃかちゃいわせ、トップ・ギヤにして自転車に飛び乗った。そして上衣《うわぎ》の尻尾をひらひらなびかせながら、急な車道《くるまみち》を風のように駆けおりて行った。それを見て、係りの男は、いっそう目をまるくした。
「ランプがついてませんよ」と係りの男がどなった。しかし、ベイリイには、やがて後を追ってくるにちがいない追手の叫び声以外は、なにも耳に入らなかった。
さいわいにもその坂道は、斜めに街道に入っていた。さもなければベイリイは向こう側の生垣に飛びこんでいたにちがいない。そのとき自転車は坂道を駆けおり、ものすごい速度で街道に入りこんだのだ。街道に入ってからも自転車の速度はおとろえなかった。なぜなら、死の恐怖に追われた運転者が狂気のようにはげしくペダルを踏みつづけていたからである。暗い静かな道路の上を矢のように自転車を走らせながら、彼は蹄《ひづめ》の音か自動車のエンジンのひびきが背後からきこえてきはしまいかと耳をそばだてていた。
彼は、そのあたりの地形をよく知っていた。事実、いざというときの用心に、その前日、このあたりを自転車で走ったばかりなのだ。すこしでも気になる物音がきこえたら、いつでも横道に抜けて、うまく逃げおおせる用意が、ちゃんとできていたのである。しかし、どんどん自転車を走らせて行ったが、背後からは、まだ、おそろしい発見があったことを告げる物音は、なに一つ聞こえてこなかった。
三マイルばかり走って傾斜の急な丘のふもとへ出た。自転車をおりて坂道を押しあげなければならなかった。あまり急いだので、丘の頂上へたどりついたときには息もたえだえだった。自転車に乗る前にコートを着ることにした。というのは、彼の様子は疑惑をもたれないまでも、人の注意をひくおそれがあったからである。時刻は十一時半になったばかりだった。ほどなく小さな町の通りを抜けるはずだった。自転車のランプもつけておこう。巡回の警官や土地の巡査に呼びとめられでもしたらおしまいだ。
ランプをともし、急いでコートを着て、丘の頂きからぼんやり見える背後の田園地帯をふりかえり、もう一度じっと耳をすました。動く灯火は一つも見えず、馬の蹄《ひづめ》の音もエンジンのうなりもきこえてこなかった。そこで、自転車に乗ろうとして、彼は本能的にコートのポケットに手をつっこみ、手袋をさがした。
一組の手袋が出てきたが、すぐにそれが自分のものではないことに気がついた。ポケットには絹のマフラーも入っていた。白いマフラーだった。しかし彼のマフラーは黒のはずだった。
とつぜん恐怖に襲われて、表戸の鍵を入れておいたポケットに手を突っこんでみた。鍵はなかった。これまで見たこともない琥珀《こはく》の葉巻き用パイプが入っているだけだった。彼は、しばらくのあいだ、まったく狼狽《ろうばい》しきって、その場に突っ立っていた。別のコートをもってきてしまったのだ。そして自分のコートは、あそこへおいてきてしまったのだ。それに気がついたとき、新しく不安の冷汗が顔ににじみ出た。彼のコートのポケットにはイエール鍵が入れてあったはずである。そのこと自体は、そんなに問題ではなかった。家に帰れば、同じ鍵がもう一つあるし、それに、なかへ入るためには自分専用の外側の入口もあることだし、おまけに彼の道具袋には、普通、自転車乗りの道具袋には見いだせないような、こまごましたものが一つ二つ入っているからである。問題は、あのコートのなかに彼の身もとを明らかにするようなものが入っていなかったかどうかということだ。それについては、こんなこともあろうかと思って出発前にコートのポケットを全部念入りにひっくりかえして調べておいたことを、ふと思い出し、彼は、ほっと溜息をついた。
川沿いの大工場のあいだに、ひょいと割りこんだかのような、きたない、ちっぽけな貸間のかくれ場所にたどりつきさえすれば、もう安心だ。彼自身の恐怖と、灌木のなかに宝石と絹の衣裳をつけてうずくまるように倒れている死骸のしつこい幻影さえ除けば、なに一つ心配することはないのである。
あたりに最後の一瞥《いちべつ》をくれて、彼は自転車に乗り、丘を越えて、一目散に闇のなかへ走り去った。
2 粒々《りゅうりゅう》辛苦の賜《たま》もの
(クリストファ・ジャーヴィス博士記)
片時も自分の責任から解放されることがないというのが、職業としての医師稼業の難点の一つである。商人、弁護士、官吏などは、それぞれきまった時間に、自分の机に鍵をかけ、帽子をかぶって外へ出てしまえば、あとは自由の身で、誰にさまたげられることもなく、余暇を楽しむことができる。しかし医者は、そうはいかない。仕事をしていようと、遊んでいようと、覚めていようと、寝ていようと、つねに彼は人類の下僕であり、ひとたび病人が出たとなると、親友であると未知の人であるとを問わず、唯々諾々《いいだくだく》と、その求めに応じなければならないのである。
妻といっしょにレインズフォードの令嬢たちの舞踏会に参会することを承諾したとき、私は、すくなくともその晩くらいは、医者としての義務からまったく解放されるものと空想していた。そして、第八番目のダンスが終わるまで、私はそう信じこんでいたのである。実をいえば、その空想がぶちこわしになったとき、私は、それほど残念とは思わなかった。私がお相手をした最後のパートナーは、ほとんど何を言っているのかわからないほど、ひどい俗語を使う婦人だった。だいたい植民地風の、なまりの強い英語で意見を交換するのは、なかなかの難事業であるが、その上、なんでもかんでも「破れている」とか「腐っている」とか、そういう言葉で片づけてしまう人物を相手の会話とあっては、どうしても繊細さを欠くことになりがちである。まったくのところ、私は、すっかり退屈していたのである。そこで、会話の埋め合せにはサンドイッチがいいだろうと思い、相手を飲食物が用意してある部屋へつれて行こうとすると、そのとき誰かが私の袖をひいたような気がした。私は、くるりとふりかえった。すると、不安そうな、幾分おびえたような顔が、私を見ていた。それは私の妻だった。
「ミス・ハリウェルが、あなたを探していらっしゃることよ」と妻は言った。「女のひとがご病気なんですって。あなた、ちょっと行って見てあげてくださらない?」妻は私の腕をとり、私が相手の婦人にことわりをいうのを待ちかねるようにして芝生のほうへせきたてた。
「それがおかしいのよ」と妻は言葉をついだ。「病気になったご婦人というのは、とてもお金持ちのアメリカの未亡人で、チェーター夫人とおっしゃるかたなのだけれど、エディス・ハリウェルとポッドベリイ少佐が、灌木の茂みのなかに、そのひとが、たった一人、口もきけないで横になっているところを見つけたんですって。かわいそうにエディスは、すっかりとり乱しているわ。むりもないと思うわ。こんなことが起こるなんて考えてもいなかったんですものね」
「それはおかしい」と私は言いはじめたが、そのとき、蔦《つた》を這わした丸木のアーチのところで待っていたミス・ハリウェルが、私たちを見つけて走ってきた。
「お願いです。早くきてくださいな、ジャーヴィス博士」と彼女は叫んだ。「とんでもないことが起こったのです。もうジュリエットからお聞きになったことと思いますけれど」彼女は私の返事も待たずに、アーチの下を駆けぬけ、年配の夫人によくある奇妙な、どたどたした走りかたで、私たちのさきに立って、細い小道を案内して行った。まもなく私たちは丸木の踏み段を降りてベンチのあるところへ出た。そこからは、まっすぐな小道が、ちょうと小さなテラスのように急な坂のほうへ伸びていた。右側は高く土が盛りあがっており、左側は斜面になって落ちていた。下のほうのくぼみに、首と肩を灌木からのぞかせて、一人の男が立っていた。手に木の枝からはずしてきたものらしい豆ランプをもっていた。私は、その男のいるところへおりて行った。灌木の茂みを迂回《うかい》するとき、豪華な衣裳をまとった婦人が地面に身をよじるようにして倒れているのが見えた。彼女は完全に意識をうしなってはいなかった。私が近づくと、かすかに身を動かし、なにやら、≪ろれつ≫のまわらない、はっきりしないアクセントで、二言、三言つぶやいた。私はポッドベリイ少佐とおぼしき人物から豆ランプを受けとった。そのときの彼の意味ありげな目つきと、かすかに眉をあげたことから、私はミス・ハリウェルが、この事故をどう受けとめているかをさとった。事実、ほんの一瞬ではあったが、私も彼女の想像が当たっているのではないかと思った――つまり、倒れている婦人は酒に酔いつぶれたのではないかと思ったのである。しかし、そばに近づいて、ちらちらする豆ランプの光でよく見ると、≪からし泥《でい》≫でもあてたあとのように、鼻や口をおおって四角い鬱血があるのがわかった。そして、そのときになって、はじめて私は、酒の飲みすぎというようなことよりも、もっと重大な種類の異常事態を嗅《か》ぎつけたのである。
「あのベンチへ運んだほうがいい」私はランプをミス・ハリウェルに渡して言った。「それから家のなかへ運ぶことを考えましょう」少佐と私が、ぐったりとした婦人を抱きあげ、小道を注意深くよじのぼって、ベンチの上に寝かせた。
「どうしたのでしょうね、ジャーヴィス博士?」とミス・ハリウェルが、ひそひそ声で言った。
「いまのところ、なんともいえませんね」と私は答えた。「しかし、あなたが心配していらしたこととは、ちょっとちがうようです」
「それはなによりですわ」と彼女は熱をこめて言った。「あやうく、ひどいスキャンダルになるところでしたわ」
私は、薄暗い、小さなランプを手にとって、もう一度、意識のはっきりしない婦人の上にかがみこんだ。
彼女の様子は、すくなからず私を考えこませた。婦人は麻酔からさめかけているひとのように見えた。だが、顔に残る四角い赤い斑点は、バーク殺人事件のときとそっくりで、むしろ外部的原因による窒息を暗示していた。私が、そんなことを、あれこれ考えていたとき、ランプの光が、ベンチのうしろの地面に落ちている白いものを照らしだした。ランプを近づけてみると、それは四角い綿のかたまりだった。その形と大きさが、婦人の顔に残る赤い斑点の形と大きさに一致していることが、すぐにぴんときたので、私は身をかがめて、それを拾いあげた。そのとき私は、ベンチの下にころがっている小さな壜に目をとめた。これも拾いあげてランプの光をあてて見た。一オンスのガラス壜で、なかはからっぽだが、「メチル・クロロフォルム」というレッテルが貼ってあった。これで婦人のろれつのまわらない、酔っぱらったような症状が完全に説明されたと思った。しかし、この説明には、さらにもう一つの説明が必要であった。婦人は文字どおりダイヤモンドに輝いていたから、盗みが行われなかったことはあきらかであった。さらにまた、この婦人が自分で大量のクロロフォルムを嗅いだのでないこともあきらかであった。
結局、彼女を館のなかへ運びこみ、恢復《かいふく》を待つよりほかに仕方がなかった。そこで、少佐にも手伝ってもらって、私たちは、灌木のあいだを通り、菜園を抜けて、横の入口から彼女を運びこみ、なかば調度類を取りはらった部屋のソファーに婦人を寝かせた。
その部屋で婦人の顔を水でぴちゃぴちゃ叩き、気つけ薬をたっぷり使用した甲斐があって、婦人は間もなく恢復し、やがて自分の身に起こったことを人にもわかるように話すことができるようになった。
クロロフォルムと綿は彼女のものだった。彼女は歯が痛むので、そういうものを用いていたのである。彼女がたった一人で、壜と綿をそばにおいてベンチに腰かけていたとき、ふいに、わけのわからないことが起こった。なんの前ぶれもなく、いきなり背後から手がのびて、綿のかたまりを彼女の鼻と口に押しつけたのである。綿にはクロロフォルムがひたしてあった。そこで彼女は、ほとんどあっというまもなく、意識をうしなってしまった。
「それでは、その人物をごらんにならなかったのですね?」と私はきいた。
「見ませんでしたわ。でも、その人は夜会服を着ていたように思います。といいますのも、なんだかシャツの胸に頭を押しつけられたような気がするからですわ」
「それでは」と私は言った。「その人物は、まだここにいるか、クローク・ルームへ行ったか、どちらかです。コートを着ずに、ここを抜け出すことはできませんからね」
「おっしゃるとおりです」と少佐が叫んだ。「それにちがいありません。私が行って調べてまいりましょう」少佐は、すっかり興奮しているらしく、そう言って大またに歩み去った。私も、チェーター夫人はもう大丈夫と判断したので、さっそく彼のあとを追った。
私はそのまま、まっすぐクローク・ルームへ行った。すると、そこでは少佐と、つれの将校たちが、がやがや騒ぎながらコートを着ているところだった。
「犯人は逃走しましたよ」オーバー・コートを着るために身体をよじりながらポッドベリイが言った。「一時間ばかり前に自転車で出て行ったのです。係りの話では、非常に泡をくって出て行ったようですが、それも当然かもしれませんね。われわれは車で奴のあとを追うつもりです。いっしょにおいでになりますか?」
「いや、私は患者のそばに残っていなければなりませんから。しかし、その男が犯人だということが、どうしてわかりますか?」
「ほかに犯人がいるとは思えないじゃありませんか。そいつにきまっていますよ。それに――おや、これはおかしい。このコートは私のではないぜ」彼は、そのコートを手荒く脱ぎすてて、係りに返した。係りのものは、狼狽したように、それを見つめていた。
「ほんとうでございますか?」係りのものはきき返した。
「ほんとうだとも」と少佐は言った。「さあ、早く私のコートを出してくれ」
「まことに申しわけありませんが」と係りのものは言った。「さきほど出て行かれた人が、あなたさまのコートをおもちになったようでございます。たしかあの人の掛け釘にかかっておりましたものですから、つい……まことに申しわけございません」
少佐は怒りで口もきけないほどだった。
「すみませんですむと思っているのか。私のコートを、いったいどうしてくれるのだ」
「しかし」と私は口をはさんだ。「その男が、あなたのコートをもって行ったとすると、このコートはその男のものにちがいありません」
「それはそうです」とポッドベリイは言った。「しかし私は、そんな奴のコートは着たくありませんよ」
「いや」と私は答えた。「しかし、このコートは、その男の身もとを洗うのに役に立つかもしれませんよ」
これはコートを持って行かれた将校にとっては、なんの慰めにもならなかったようである。しかし、もう車の用意ができたので、彼は、せかせかと出て行った。私は係りの男に、そのコートを安全な場所にしまっておくようにと命じて患者のところへ戻った。
チェーター夫人は、そのころには、もうかなりよくなっていた。そして、加害者に対しては、復讐心をまじえた強い関心を示していた。憎しみのあまり、せめてダイヤモンドでも盗んで行ってくれたのなら、殺人未遂の上に強盗の罪まで着せられたものを、と残念がり、将校たちが、その男をつかまえたら、犯人の扱いに手加減するような愚かな真似はしないでほしいものだ、と大まじめに希望していた。
「ところで、ジャーヴィス博士」とミス・ハリウェルが言った。「今夜の舞踏会について、ちょっとおかしなことがあるのです。セシル・ホテルから出されたハリントン・ベイリイさんというかたの招待を受諾するとの返事をいただいているのですけれど、主催者側の誰も、そんな名前の人を招待したはずはないと思いますわ」
「しかし、調べたわけではないのでしょう?」と私は聞き返した。
「それが、実は」と彼女は答えた。「主催者側の一人で、ミス・ウォターズというひとが、急に外国へおいでになることになりまして、わたしたちのほうでは、そのひとと連絡がつかなかったものですから、ひょっとしたら、そのひとが招待なさったのかもしれないと思って、あまりそのことをせんさくしなかったのです。でも、いまとなっては、よく調べなかったのが、ほんとうに残念ですわ。ひょっとすると、札つきの犯罪者を、館《やかた》のなかへ入れてしまったのかもしれませんわ――なぜチェーター夫人を殺そうとしたのか、わたしには見当もつきませんけれど」
それは、たしかにふしぎな事件だった。そして、このふしぎは、一時間後に追跡隊がもどってきたときにも、なに一つ解明されなかった。ロンドンのほうへ二マイルばかりの道には自転車のあとが残っていたらしいが、やがて十字路のあたりまで行くと、自転車の車輪のあとが、ほかの車のあとと、すっかりごっちゃになっていて、将校たちは、しばらくのあいだ、あちこち走りまわったあげく、ついに追跡を断念してもどってきたのであった。
「そんなわけで、チェーター夫人」とポッドベリイ少佐は、すまなさそうに説明した。「おそらくその男は、まる一時間も前に、高速ギヤつきの自転車で、ここを出たものにちがいありません。ですから、われわれが追いかけて行ったころには、もうかなりロンドンに近づいていたのだろうと思います」
「それでは、あなたがたは」チェーター夫人は、軽蔑をかくそうともせず、少佐を見すえて言った。「あの悪党が、ぬけぬけと逃げてしまったとおっしゃるのですか?」
「どうも、おっしゃるとおりのように思われます」とポッドベリイが答えた。「もし私があなただったら、さっそく私は、その男を見た係りのものから人相風態を聞いて、明日にでもスコットランド・ヤード〔ロンドン警視庁〕へ行くでしょうね。スコットランド・ヤードへ行けば、犯人がわかるかもしれませんし、コートをもっておいでになれば、そのコートから身もとが割れるかもしれません」
「あまりあてにはなりませんわね」とチェーター夫人は言った。そして、それはたしかにチェーター夫人のいうとおりだった。しかし、ほかによい思案もありそうになかったので、婦人は、そうすることに決心した。そして私は、これでこの事件はかたがついたと思った。
ところが、そう思ったのは、私の早合点であった。つぎの日、正午すこし前、そのとき私は、うつらうつらしながら残存取得権の問題をとり扱った訴訟事件摘要書の問題点を考えており、ソーンダイクは今週の講演の原稿を書いていたのであるが、事務所のドアに軽やかなノックがきこえて、来客の訪問を告げた。私は疲れた身体をひきずるようにして立ちあがり――ほんの四時間ほどしか寝ていなかったのである――ドアをあけた。すると、すべるように部屋に入ってきたのは、ほかならぬチェーター夫人であった。そのあとからミラー警部がつづいて入ってきた。顔に苦笑いをうかべ、茶色の紙包みを小脇にかかえていた。
夫人は、ひどいショックを受けてから、まだいくらもたっていないことを思えば、びっくりするほど元気で、きびきびしていたが、さすがにあまり機嫌はよくなかった。彼女がミラー警部に信頼をおいていないらしいことは一目でわかった。
「昨晩、わたしに対して殺人未遂事件があったことは、たぶんジャーヴィス博士からお聞きになったことと思いますけれど」私が夫人をソーンダイクに紹介すると、彼女はソーンダイクに向かって言った。「そのことは信じていただけますでしょうね。わたしは警察へ行って、その人殺しのことを話しました。そして、その男が着ていたコートまで見せたのです。ところが警察では、どうにもしようがないとおっしゃるのです。つまり、手短かに申しますと、その悪党が自由にのうのうと歩きまわっていることも許されなければならないらしいのですわ」
「まあ、聞いてくださいよ、博士」とミラー警部が言った。「このご婦人は、イギリスの中産階級の男五〇)%にあてはまりそうな人相書きをおっしゃるのです。それに、なにもこれといって特長のないコートを見せて、手がかり一つなしに、そのコートの持ち主をつかまえろとおっしゃるのです。しかし、私たちスコットランド・ヤードの人間は、魔法使いではありません。ただの警察官です。それで、勝手ながらチェーター夫人を、あなたのところへおつれしたようなわけなのですよ」彼は人のわるそうな微笑をうかべて包みをテーブルの上においた。
「それで、私にどうしろというのかね?」とソーンダイクがきいた。
「そこなんですよ、博士」とミラーが言った。「ここにコートがあります。ポケットには手袋が一組とマフラーとマッチ箱と電車の切符と、それからイエール鍵が入っています。チェーター夫人は、このコートの持ち主を知りたいとおっしゃるのです」彼は片目を、すこしばかりとり乱している私たちの依頼者のほうに向けて、包みをほどいた。ソーンダイクは、かすかに笑《え》みをうかべて彼を見まもっていた。
「すまないがね、ミラー君」と彼は言った。「そいつは千里眼のところへでも持って行ったほうがいいのではないかね」
警部は、たちまち剽軽《ひょうきん》な態度を改めた。
「まじめな話なんですよ、博士」と彼は言った。「ぜひ、このコートを見ていただきたいのです。われわれのほうでは、まったくなんの手がかりもないのですが、そうかといって、この事件を投げだしたくはありませんのでね。私は、このコートを徹底的に調べてみたのですが、手がかりらしいものを発見することができませんでした。しかし、博士の目が、特別するどいことは、われわれも、よく承知しています。ですから、私が見すごしたなにかにお気がつかれることもあるかと思います。捜査を開始するヒントになりそうな、なにかに。顕微鏡で、こいつを見ていただけませんでしょうか」彼は、哀願するような微笑をうかべて、そうつけ加えた。
ソーンダイクはコートを見ながら考えこんでいた。この事件は、彼にとって、まんざら興味がなくもないようであった。ミラーにつづいて、婦人も、ぜひにと頼みこんだ。こうなれば、ソーンダイクとしても逃げるわけにはいかなかった。
「よろしい」と彼は言った。「それでは、ともかくこのコートを、一時間ばかり私に預けてください。そのあいだに調べてみましょう。このコートから、なにかがつかめるということは、あまり期待できませんが、それにしても、調べてみるぶんには、なんの害もないでしょう。二時に、もう一度きてください。そのときまでには、うまくいかなかったと報告できるでしょう」
彼は二人の客を送りだし、テーブルにもどって、謎めいた微笑をうかべながら、コートと、それからポケットに入っていたものをおさめた大きな警察の封筒に目をおとした。
「ところで、わが学者先生の意見はどうかね?」と彼は私を見あげながら言った。
「ぼくなら、まず電車の切符を調べるね」と私は答えた。「それから――そうだね、ミラー警部が言っていたことも、まんざら無用ともいえないから、コートの表面を顕微鏡で調べてみる」
「そのあとのほうを、まずやってみよう」と彼は言った。「電車の切符をさきに調べると、誤った先入観を抱かされるかもしれない。電車は、どこからでも乗れるが、ある人物のコートに附着した屋内の埃《ほこり》は、たいてい、ある特定の地点を示してくれるものだ」
「たしかにそのとおりだ」と私は答えた。「しかし、それのもたらす情報は、あまりにも漠然たるものだ」
「それは、君のいうとおりだが」彼は、そう言ってコートと封筒をとりあげ、研究室へ持って行こうとした。「しかし、それでもね、ジャーヴィス、ぼくがいつも言っているように、証拠物件としての塵埃《じんあい》の価値は、ややもすると軽視されがちなのだよ。肉眼で見ただけでは――もちろん肉眼で見るのが普通だが――はっきりしたことはわからない。たとえば、テーブルの表面から塵埃を集めてみたまえ。それは、どんなかたちをしていると思うかね。なんの特長もない灰色の細かい粉末だ。これは、ほかのどんなテーブルの表面からとった塵埃とも、ほとんど変わらない。しかし、顕微鏡を通して見ると、この灰色の粉末が、いろいろな特定の物質の細かい断片であることがわかる。そして、この断片から、往々にして、そのもとの物質を確実に推定しうることがあるのだ。こんなことは、君だって、ぼくと同じように、よく知っているはずだ」
「ぼくも、一定の条件のもとでは、塵埃の証拠物件としての価値を十分認めるよ」と私は答えた。「しかし、未知の人物のコートに附着していた塵埃から入手できる情報は、あまりにも一般的にすぎて、とてもその持主を割り出す役には立つまいと思う」
「それはそのとおりかもしれない」とソーンダイクは言って、コートを研究室のベンチの上においた。「しかし、ポルトンが、ご自慢の塵埃抽出機を貸してくれれば、すぐにわかると思うよ」
私の友がいまその名をあげた抽出機は、私たちの優秀な研究助手の発明になるもので、原理的には絨毯《じゅうたん》の掃除に使われる「真空掃除機」に似ていた。しかし、これには一つの特色があった。つまり、塵埃受けに顕微鏡のスライドをはめこむようになっていて、噴出孔から、そのスライドに、埃をふくんだ空気が吹きつけられるしかけになっているのである。
「抽出機」は得意そうな表情をした発明者の手でベンチにとりつけられ、塵埃受けにはスライドが挿入された。ソーンダイクが、この装置のノズルをコートのカラーにあて、ポルトンがポンプを動かした。しばらくすると、そのスライドがはずされ、もう一つのスライドが挿入された。ノズルは今度は右袖の肩口に近いところにあてられた。ポンプは今度もポルトンが動かした。この操作をくりかえすうちに、コートのいろんな部分から塵埃を吸いとった半ダースほどのスライドが、そこに積まれた。つぎに私たちは、それぞれ顕微鏡を操作して、その塵埃の検査にとりかかった。
ほんのすこし調べてみただけで、この塵埃が、普通には見られない物質――いずれにせよそれほど多量には見られない物質をふくんでいることが判明した。もちろん、衣服や家具などから出る普通に見られる羊毛や綿やほかの繊維の断片、それから藁《わら》くず、莢《さや》、毛髪、各種の鉱物性細片など、実際上、衣服に附着している、ごく普通の塵埃の内容をなしているものが検出されたのは、いうまでもないが、それらに加えて、もっと多量に、別種の物質が数多く附着していたのである。その大半は植物性の物質で、それぞれ、はっきりした特長を示し、種類も非常に多かったが、そのなかでも、もっとも多量にふくまれていたのは各種の澱粉粒だった。
ソーンダイクのほうを見やると、彼はもう紙片に鉛筆を走らせて、顕微鏡を通して見える物質のリストをつくっているようであった。私もすぐ彼の例にならった。しばらくのあいだ、私たちは、黙って仕事をつづけた。やがてソーンダイクは椅子の背にもたれて、リストを読みあげた。
「なかなかおもしろいリストができたよ、ジャーヴィス」と彼は言った。「君のスライドには、なにか変わったものが発見できたかね?」
「かなりいろんなものがある」と私は、リストを見せながら答えた。「レインズフォード附近の道路のものらしい白堊《はくあ》があるのは、当然といえば当然だが、そのほかに、いろいろな澱粉質がある。主として小麦と米だが、とくに米が多いようだ。それから、いろんな種子の皮の断片、さまざまな種類の種子核の細胞、鬱金《うこん》のような、なにか黄色い物質、黒い胡椒《こしょう》の樹脂細胞、『ポートワイン』用の香料の細胞、それから、すこしばかり石墨《せきぼく》の粉がある」
「石墨だって?」とソーンダイクが叫んだ。「ぼくのほうには石墨なんかないぜ。しかし、ココアの痕跡がある――螺旋《らせん》状の導管と澱粉質の粒があるからね。それからリュープリン〔あさ科の多年生草本ホップの苞に生じる腺体〕がいくらかある。ちょっとその石墨というのを見せてくれないか」
私は彼に、そのスライドを渡した。彼は、それを熱心に調べた。「ほんとうだ」と彼は言った。「これはまちがいなく石墨だ。粒が六つもある。このコートは、もう一度、系統的に調べる必要があるようだ。この物質が重要だということは、君にもわかるだろう?」
「たしかにこれは工場の塵埃だから、場所の見当はつくかもしれないが、それ以上のことが、はたしてわかるかね?」
「大事な品が一つ、ぼくらの手にあることを忘れてはいけないよ」と彼は言った。そして、私が、けげんそうに眉をあげると、彼は、こうつけ加えた。「あのイエール鍵さ。場所さえ、だいたいきまってしまえば、ミラー警部が、そのあたりの表戸を、ひとわたりあたってみることもできるというものだ」
「しかし、場所は、なかなかわからないのではないかね」と私は言った。「どうも、それほどうまくいくとは思えないがね」
「ともかく、やってみよう」とソーンダイクは答えた。「見たところ、こうした物質のなかで、あるものはコートの内側にも外側にも、まんべんなく分布しているが、ほかのもの、たとえば石墨などは、ある部分にだけしか見られない。だから、その部分を、はっきり見きわめてから、どういうわけで、そういう片よった分布が生じたのかを考えてみなくてはならない」
彼は一枚の紙の上に、上衣の各部分の位置を示す図面を、ざっと書きあげ、それぞれの部分にアルファベットの文字を書きこみ、それから、ラベルをはったスライドを、たくさん手にとって、その一枚一枚に、それらの文字をしるして行った。スライドの上に吹きつけられた塵埃は、こうして、それが抽出された場所と、容易に、しかも正確に対照することができるようになった。
私たちは、もう一度顕微鏡と取り組んだ。そしてリストに新しい発見をつけ加えて行った。ほとんど一時間にわたって熱心に観察をつづけた結果、すべてのスライドを研究しつくし、リストを比較対照し終わった。
「この研究からえられた結果は」とソーンダイクは言った。「こういうことだ。このコート全体に、内側にも外側にも、つぎのような物質が平均に分布している。そのなかでも米の澱粉が一番多い。つぎに多いのは小麦粉の澱粉だ。それから、量はすこしすくないが、生姜《しょうが》、ピメント、および肉桂の澱粉質が附着している。肉桂の内皮繊維、各種の種子の殻、ピメント、センナ、および黒胡椒などの細胞、それから、おなじような起源をもつと思われるほかの断片、たとえば樹脂細胞とか生姜の色素など――これは鬱金《うこん》ではないよ。さらに、右側の肩口と袖にココアおよびホップの痕跡があるし、背中の肩の下あたりには石墨の断片が少々ある。
ざっとまあ、こういうデータが揃ったわけだが、さて、これからどういう推理がくだせるかだ。これは単に表面的な塵埃ではなくて、何か月もにわたって蓄積されたものであり、何度も何度もブラシをかけたあげくに布地のなかへもぐりこんだ塵であって――真空装置以外のなにものをもってしても抽出することができない塵だということを頭において考える必要がある」
「はっきりしているのは」と私は言った。「コートに全面的に分布している粉末は、このコートがいつもかかっている場所の空気中にただよっている塵埃を示しているということだ。石墨は、あきらかに椅子に腰かけたときについたものだ。それから、ココアとホップは、その人物がよく通る工場から出たものと思われる。もっとも、どうして右側にだけしかついていないのか、そこのところが、ぼくには、よくわからないがね」
「それは時間に関係があるようだ」とソーンダイクは言った。「それから、その人物の日常の習慣にも、なんらかの関係がある。家から出かけるとき、おそらく彼は工場の左側を通るのだろう。そして、家へ帰るときには右側を通るのだが、そのときには、おそらく工場は仕事が終わっているのだろう。しかし、それよりも、最初にあげた物質のグループのほうが、もっと重要だと思うよ。それによって、彼が、どのへんに住んでいるかが判明すると思う――その人物が、労働者、あるいは工場関係の職員でないことは、はっきりしているのだからね。さて、それから、米の澱粉や小麦の澱粉、それに『香辛料』と総称してもいい物質のグループは、米や小麦の製粉工場と香辛料の工場に関係があることを示しているように思われる。ポルトン君、郵便局の人名簿をとってくれないか」
彼は職業欄のページをぱらぱらとめくって言った。「これによると、ロンドンには、米の製粉工場が四か所ある。一番大きいのはドックヘッドのカーバット社だ。今度は香辛料の工場をみてみよう」彼はまたページをめくって会社名のリストに目を通して行った。「ロンドンには香辛料工場が六か所ある」と彼は言った。「そのうちの一つ、トーマス・ウィリアム社は、ドックヘッドにある。それ以外には米粉工場のそばにあるのは一つもない。つぎの問題はメリケン粉の工場だ。ちょっと調べてみよう。ここに、いくつか製粉工場の名がのっているが、たった一つの例外をのぞくと、米粉工場や香辛料の工場の近くにあるものは一つもない。その例外というのは、シース・テイラー経営の聖救世主製粉工場で、これはドックヘッドにある」
「なるほど、だんだんおもしろくなってきたぞ」と私は言った。
「もうとっくにおもしろくなっているよ」とソーンダイクは言いかえした。「ドックヘッドへ行けば、このコートに附着しているいろんな塵埃を出している工場が、ずらりとならんでいる。それに、この人名簿によれば、そういう工場がかたまっているのは、ロンドン市内でも、ほかにはないようだ。それから、石墨とココアとホップが見られることも、そういう推理を裏づけているように思われる。そういうものは、みなあのへんの工場から出るものなのだ。ぼくが知っているところでは、ドックヘッドを通る電車は、ロウエル・ロードにあるピアス・ダフ石墨製造工場からあまり遠くないところを通っているはずだ。だから風向きによっては、電車の座席に石墨の粉末が附着することもあるわけだ。それから、西のほうへ行く電車の右側に――たしかゴート・ストリートだと思うが――そこにペインズというココア工場もある。それから、西に向かって、サウスウォーク・ストリートの右側に、ホップの倉庫が、いくつかあるはずだ。しかし、こういうことは、ほんの参考になる程度のもので、ほんとうに重要なデータは、米粉とメリケン粉の製造工場、および香辛料の工場だ。これはまちがいなくドックヘッドを示しているように思われる」
「ドックヘッドには個人の住宅もあるのかね?」と私はきいた。
「その点は『街路表』を見なくてはならない」と彼は答えた。「このイエール鍵は、どちらかというと、貸間のものらしい。それも一人住いの貸間だ。姿をくらましているぼくらの友人の習慣から考えても、だいたいそう推論してもいいのではないか」彼は街路表に目を走らせた。まもなく指でそのページを私に示した。
「いままで、ぼくらがひき出した事実は――必要な条件と、ふしぎにぴったり合致するのだが――それが単なる偶然の一致にすぎないとすると、ここにもまた偶然の一致が一つある。ドックヘッドの南側の香辛料工場のすぐそばに、しかもカーバット米粉工場の真向かいに、労働者の貸間建物があるのだよ。ハノーヴァー・ビルがそれだ。これは、いろんな条件にぴったりだ。このビルの貸間にコートをかけて、窓をあけておくと、(この季節には、窓は、たいていあけてあるだろう)そのコートは、ぼくらが発見した塵埃とまったく同じ性質の塵埃をふくむ空気にさらされていることになる。もちろん、ドックヘッドのこの地域にあるほかの建物でも、同じような条件は得られるわけだが、まず、このビルとにらんでいいだろう。いま言えることは、だいたいそのくらいだろうな。まだ、はっきりしたわけではない。ぼくらの推理に、なにか根本的な誤りがあるかもしれない。しかし、それにもかかわらず、あの鍵がぴったり合うドアが、ドックヘッドのどこかに――それも、たぶんハノーヴァー・ビルのなかに――あるだろうということは、大いに考えられると思うよ。そのへんの確認は、ミラー警部にまかせなくてはならないがね」
「電車の切符を調べてみたらどうかね?」と私は言った。
「そうそう」と彼は叫んだ。「すっかり切符のことを忘れていたよ。そうだ。そいつは、ぜひやらなくては」彼は封筒を開いて、中身をベンチの上にあけ、薄よごれた紙片をとりあげた。そして、ちょっとそれを見てから、私に渡した。トゥーリー・ストリートからドックヘッドまでのパンチが入れてあった。
「また一つの偶然の一致があったわけだ」と彼は言った。「おまけに、もう一つ偶然の一致だ。どうやらミラー警部がドアをノックしているらしい」
それは警部だった。そして、私たちが彼を部屋のなかへ案内しているとき、チューダー・ストリートのほうから自動車のうなりが近づいてきて、チェーター夫人の来訪を知らせた。私たちはドアをあけたまま、彼女の到着を待ちうけた。夫人は入ってくると私たちの手を強く握った。
「いかがでしたか、ソーンダイク博士」と彼女は叫んだ。「なにかおわかりになりましたか?」
「一応の推理は立ててみましたがね」とソーンダイクは答えた。「警部がこの鍵をもってドックヘッドのハノーヴァー・ビルへ行けば、たぶんこれに合うドアが見つかると思います」
「いやはや」とミラー警部は言った。「すみませんでしたね、奥さん。しかし、私も、あのコートは相当綿密に調べたつもりなんですがね。いったい私は、なにを見のがしていたのですかね、博士? コートのなかに手紙でもかくしてあったのですか?」
「君は埃《ほこり》を見のがしていたのだよ、ミラー君。それだけさ」とソーンダイクが言った。
「埃ですって?」警部は目をまるくして叫んだ。それから低い声でくすくす笑った。「そうですか」と彼は言った。「さっきも言いましたように、私は魔法使いではなく、ただの警察官ですからね」彼は鍵をとりあげてたずねた。「博士も、私といっしょに結果を見とどけにおいでになりますか?」
「もちろん博士はいらっしゃるわ」とチェーター夫人が言った。「それから、ジャーヴィス博士も、犯人を確認するために、きていただけますわね。犯人がわかったのですから、こんどは逃さないようにしなければなりませんわ」
ソーンダイクは冷ややかに微笑した。「お望みとあれば、いっしょにまいりますよ、チェーター夫人」と彼は言った。「しかし、私たちの推理が絶対正しいというわけではありません。あるいは、まったく見当ちがいをしているのかもしれない。ほんとうのことをいうと、私自身、その結果が正しいかどうかを知りたいくらいです。しかし、かりに犯人をあげたとしても、その男を告訴するに十分な証拠を、あなたが握っていらっしゃるとは思えません。あなたの証言できることといえば、その男があの館にいたということ、それから急いで館を出て行ったということだけですからね」
チェーター夫人は、一瞬だまって、軽蔑したような目つきで、私の友人の顔を見ていたが、すぐにスカートをつまみあげると、気どった足どりで部屋を出て行った。一般に女がもっとも嫌うものが一つあるとすれば、それは理づめでくる男である。
大型車は、私たちを乗せて、あっというまにブラックフライアーズ・ブリッジを越え、サウスウォーク市に入り、そこからトゥーリー・ストリートに出て、バーモンジーに向かった。
ドックヘッドが見えてくると、警部とソーンダイクと私は、車からおりて徒歩で行き、いまはヴェールできっちりと顔をかくした私たちの依頼人には、車を運転してもうすこしさきまでついてきてもらうことにした。『救世主ドック』という名の岸壁のたもとでソーンダイクは足をとめ、岸壁を見あげて、高いビルディングの裏側の出ばったところや、さらには、メリケン粉や米粉などを積みこんでいる艀《はしけ》のデッキが雪のように粉をかぶっていることに、私の注意を向けた。それから道を渡って、香辛料工場の屋根の上についている木製の角燈を指さし、その鎧板《よろいいた》が灰色のような、あるいは、にぶい黄色のような埃でおおわれていることを示した。
「こうして――」と彼はしめくくりをつけた。「商業は正義の目的に奉仕しているわけだ――すくなくとも、われわれはそうあってほしいと思うよ」彼が急いでそうつけ加えたとき、ミラー警部は建物の半地階に姿を消した。
私たちが、その建物に足をふみ入れたとき、調査からもどってきた警部と、ばったり出会った。
「そこはだめです」これが彼の報告だった。「上の階を調べてみましょう」
そこは一階とも二階ともつかない階だった。いずれにせよ、この階には、興味をひきそうなものは、なにもなかった。そこで、階段の踊り場に面したいくつかのドアに、ちらと目をやってから、彼は威勢よく石の階段をのぼって行った。つぎの階も、やはり徒労に終わった。熱心に調べてみたのであるが、口をあけている鍵穴は、どれも普通の型のものばかりだったからである。
「いったい誰をさがしていらっしゃるんですかね?」一つの貸間から顔を出した汚れた産業騎士が声をかけてきた。
「マッグスという男だ」とミラー警部は機転をきかして答えた。
「そんな人は知りませんな」と労働者は言った。「もっと上のほうじゃないですか」
そこで私たちは、さらに上へのぼって行ったが、どのドアも、変わりばえしない鍵穴が、間《ま》のぬけた面《つら》つきで、にやりと笑いながら、うんざりするほどの単調さで私たちに挨拶するだけであった。私は不安になりはじめた。そして、これといった結果も得られないままに四階まで探検し終わったとき、私は、ひどく不安になった。≪あけてびっくり玉手箱≫で、白い煙が一筋というのでは、自慢にもならないわけである。
「なにか勘ちがいをなすったのではありませんか、博士?」とミラー警部が額の汗を拭《ぬぐ》うのをやめて言った。
「そうかもしれないね」ソーンダイクは眉ひとつ動かさずに答えた。「ぼくは、ほんのためしに、ここの捜査を提案しただけだからね」
警部はうなった。彼は――私も同じことだが――ソーンダイクの「ほんのためし」が、ほかの人間の確信に匹敵することを知っていたからである。
「これで、もし犯人が見つからないというようなことにでもなると、チェーター夫人に、こっぴどくやっつけられますぜ」私たちが最後の階段にさしかかったとき、彼は、うめくように言った。「あの婦人にかかったら、まったく、くそみそですからね」彼は階段の上で立ちどまり、ちょっとのあいだ踊り場のまわりを見まわしながら立っていた。それから、急に真剣な顔つきになって、こちらをふりかえり、ソーンダイクの腕をとって、いちばん端の隅にあるドアを指さした。
「イエール鍵です!」と力をこめてささやいた。彼が、ぬき足さし足、踊り場を渡って行くあとから、私たちもついて行った。彼は、しばらく鍵を手にしたまま、満足そうに真鍮《しんちゅう》の円板を見つめていたが、やがて溝のついている鍵の鼻さきを、シリンダーの鍵穴に、そっとあてがった。鍵は根元までずぶりと入った。警部は、勝ちほこったような笑みをうかべてふり向き、静かに鍵を抜いて、私たちのところへ戻ってきた。
「博士の予言が適中しましたよ」と彼はささやいた。「しかし、ミスター狐は、いま部屋にはいないようです。きっとまだ帰ってきていないのでしょう」
「どうしてかね?」とソーンダイクはたずねた。
警部は手をあげてドアを指さした。「あのドアをいじった様子がないからです」と彼は答えた。「ペンキに傷がついていません。犯人は鍵をもっていないはずですが、鍵がなくてはイエール錠はあきません。ですから、犯人は、あの錠をこわして入らなければならないわけですが、こわした形跡がありません」
ソーンダイクは、ドアのそばに歩みより、郵便受けの蓋《ふた》を、そっと内側に押しあけ、その隙間から貸間のなかをのぞきこんだ。
「この蓋の下には、郵便受けがついてないようだ」と彼は言った。「ねえ、ミラー君、ぼくなら、一フィートの針金とひもがあれば、五分間で、このドアをあけてみせるがね」
ミラー警部は首をふって、もう一度にやりと笑った。「あなたが泥棒でなくて助かりましたよ、博士。きっと私たちの手には負えなかったでしょうからね。ところで、例の婦人に合図をしましょうかね」
私はヴェランダへ出て、下に待っている自動車を見おろした。チェーター夫人は、じっと建物を見あげていた。自動車のまわりには、すこし人だかりがして、夫人と、夫人の見あげている建物とを、交互に見くらべていた。私はハンカチで顔を拭いた――合図はこれときめておいたのである――すると彼女は、すぐに自動車をとびおりて、あっというまに踊り場に姿をあらわした。顔は蒼《あお》ざめ、息使いは荒かったが、目には険しい火が燃えていた。
「犯人の貸間を見つけましたよ、奥さん」とミラー警部が言った。「いま、なかへ入ろうとしているところです。まさかあなたは手出しなんかなさらないでしょうね」彼は婦人の剣幕におそれをなして、いささか不安になりながら、一本釘をさした。
「もちろん、そんなことはいたしませんわ」とチェーター夫人は答えた。「アメリカでは、女は自分で侮辱の報復はしないことになっています。もし、あなたがたがアメリカの男性でしたら、悪漢をベッドから引きずり出して、つるし首にしてやらなければならないところですわ」
「私たちはアメリカの男ではありませんよ、奥さん」と警部は、そっけなく言った。「私たちは法律を重んじるイギリス人です。それに、私たちはみな司法畑の人間です。この人は弁護士でいらっしゃるし、私は警察官です」
あらかじめそう注意をしておいてから、彼は、もう一度鍵をさしこんだ。彼が、その鍵をまわしてドアを押しあけたので、私たちは彼のあとについて居間へ入った。
「私が言ったとおりでしょう、博士」と警部は、ドアをそっと閉めながら言った。「犯人はまだもどってきていないのです」
どうやら彼のいうとおりらしかった。いずれにせよ、貸間のなかには誰もいなかった。私たちは、誰にもさまたげられることなく捜査をすすめた。それは悲惨な光景だった。むさ苦しい部屋から部屋へと歩いて行くにつれて、私たちが闖入《ちんにゅう》したこのあばらやに住む腹をすかした哀れな男に対する憐憫《れんびん》の思いがつのってきて、彼の犯した罪のおそろしさをやわらげるかと思えるほどであった。どちらを向いても貧困が――まったく救いのない、すさまじい貧困が――私たちをみつめていた。むき出しの床、一脚きりの椅子、小さな樅《もみ》の木のテーブル、なんの飾りもない壁、ブラインドもカーテンもない窓、このさむざむとした居間に、貧困が、うつろな目を見開いて、私たちを、じっと見すえているのだ。テーブルの上で見つけた新聞紙みたいに薄くけずったオランダ・チーズの上皮の小さい屑が、餓《う》えをささやいていた。がらあきの食器棚にも、からっぽのパン皿にも、底に埃のつもった茶筒のなかにも、わずかにパン屑がくっついているところから見て、パンの切れはしで、きれいに拭いとってしまったらしい、からのジャム壺のなかにまで貧困がひそんでいた。この貸間には、健康な二十日鼠《はつかねずみ》一匹に一回の餌をあたえるに十分なほどの食糧もなかった。
寝室も、多少の相違こそあれ、同じように貧困を物語っていた。藁《わら》のマットレスと、安物の毛布をかけた、見すぼらしい脚輪つきの寝台、立てかけて化粧台代わりにしている蜜柑《みかん》箱、それから洗面台の代わりにしている、もう一つの蜜柑箱、これが、みじめったらしい家具のすべてだった。しかし、二本の掛け釘にかけた服は、すり切れてはいるが、仕立てもよく、いきでさえあった。もう一着の服は、きちんとたたんで、新聞紙にくるんで床の上においてあった。そのほかに、もっとも場ちがいなものとして、化粧台の上に、銀のシガレット・ケースがおいてあった。
「この部屋の主は、どうしてこんなひもじい暮らしをしなくてはならないのだろう」と私は叫んだ。「銀のシガレット・ケースなら、立派に質草になるのに」
「いや、そんなことはしませんよ」とミラー警部が言った。「商売道具を質に出すようなことはしません」
目もあてられぬ貧困というものを、はじめて目の前にした金持ちの婦人らしく、口もきけないほど驚いて、あたりを見まわしていたチェーター夫人が、このとき、とつぜん警部のほうを向いて叫んだ。
「この部屋の人は犯人ではありませんわ。なにかのまちがいですわ。こんな貧しい人が、ウィローディルのような豪華な館へ入れるはずがありませんもの」
ソーンダイクは新聞紙をもちあげた。その下には、たんねんに皺《しわ》をのばして、きちんとたたんだシャツやカラーやタイといっしょに夜会服がおいてあった。ソーンダイクは、シャツをひろげて、胸のところが奇妙な皺になっているのを指さした。とつぜん彼はそのシャツに顔を近づけ、それから、まがいもののダイヤの飾りボタンから一本の髪の毛を――女の髪の毛を引きだした。
「これはなかなか意味深長だ」彼は、その髪の毛を人さし指と親指でつまんで言った。チェーター夫人も、どうやらそう思ったらしい。彼女の顔から、ふいに憐憫と後悔の色が消えた。彼女の目は、またしても復讐の火に燃えあがった。
「早くもどってくればいいのに」と彼女は憎々しげに叫んだ。「こんな暮らしをしているのだったら、監獄だって、それほど苦しくはないかもしれないけれど、それでもわたしは、その男が被告席に立つのを見たいわ」
「そうですね」と警部があいづちをうった。「こんな暮らしでは、ポートランドの刑務所に入れ替わったところで、犯人にとっては、なんということもありませんね。しッ!」
外のドアに、鍵がさしこまれるところだった。私たちがみな石像のように突っ立っていると、一人の男が入ってきて、うしろ手にドアを閉めた。彼は私たちに気づかないようで、疲れはて、がっかりしたように、足を引きずりながら、寝室のドアをあけて、そのなかへ入った。すぐに台所へ行き、なにか器物に水を入れる音がした。それから居間へもどってきた。
「さあ、行きましょう」静かにドアのほうへ歩き出しながら、警部が言った。私たちは彼のあとにつづいた。いきおいよく彼がドアをあけたとき、私たちは、彼の肩ごしに部屋のなかをのぞきこんだ。
男は食卓についていた。テーブルの上には、食パンが一塊、ひろげた包紙の上においてあり、そのそばに、水を入れたコップがおいてあった。ドアがあいたとき、彼は中腰になり、化石したように身動きもせず、蒼ざめた顔を恐怖にゆがめて、ミラー警部を見た。
その瞬間、誰かの手が私の腕にさわったような気がした。チェーター夫人が私を押しのけて部屋へ入ろうとしていたのである。しかし、敷居のところで彼女は立ちすくんでしまった。すると、男の蒼ざめた顔に、奇妙な変化が起こった。あまりの変化に、私は思わず目を、彼から私たちの依頼人のほうに移した。彼女は見る見る真《ま》っ蒼《さお》になり、その顔は、われとわが目を疑うもののように恐怖に凍りついていた。
劇的な沈黙は警部の事務的な声によって破られた。
「私は警察のものだ」と彼は言った。「おまえを逮捕する。理由は――」
チェーター夫人のけたたましいヒステリックな笑い声が彼をさえぎった。警部は驚いて夫人を見た。「待って! 待ってください!」彼女は震える声で叫んだ。
「わたしたちは、とんでもないまちがいをしてしまったようですわ。この人は犯人ではありません。この紳士は、わたしの古いお友達で、ロウランド大尉です」
「この男が、あなたのお友達とは、お気の毒です」とミラー警部が言った。「あなたには、この男に対する告訴の原告になっていただかなくてはなりませんからね」
「あなたが、なんとおっしゃろうと――」とチェーター夫人は答えた。「この人は犯人ではありませんわ」
警部は鼻をこすって食いつきそうな目で獲物を見た。「とおっしゃると」彼は硬い表情でたずねた。「つまり告訴をとりやめるとおっしゃるのですね?」
「告訴ですって?」と彼女は叫んだ。「わたしが、無実の罪で、古いお友達を告訴するとおっしゃるのですか? むろん、そんなことはいたしませんわ」
警部はソーンダイクを見た。しかし、私の友ソーンダイクの顔は、不動の状態に凝固し、オランダ時計の文字盤みたいに表情のないものとなっていた。
「いや、結構です」とミラー警部は、しぶい顔で懐中時計を見ながら言った。「それでは、私たちとしては、なにもいうことはありません。では、これで失礼します。奥さん」
「ご迷惑をおかけして、ほんとにすまなかったと思いますわ」とチェーター夫人は言った。
「まったくですよ」これが警部が返した無愛想な返事だった。それから警部は、鍵をテーブルの上に投げ出して、大股《おおまた》に部屋から出て行った。外のドアが閉まったとき、男は、困惑の面持《おもも》ちで腰をおとした。それから、とつぜん両腕をテーブルの上に投げだし、その上に顔を埋めて、はげしくすすり泣きはじめた。
それは、まことに具合のわるい光景だった。ソーンダイクと私は、そろって出て行こうとしたが、チェーター夫人は、私たちに、とどまっていてくれるようにと合図した。彼女は男のそばに近づき、彼の腕に、そっと手をふれた。
「どうして、あんなことをなすったの?」彼女は、やさしい非難の口調でたずねた。
男は坐《すわ》りなおすと、片手を動かして、みじめったらしい部屋のたたずまいや、あくびをしている食器棚を、雄弁なゼスチュアで示した。
「ほんの一時の出来心だったのです」と彼は言った。「私は一文なしだった。そこへ、あの呪われたダイヤモンドが私の目にとびこんできたのです。とろうと思えば、とれるところに、それはありました。たぶん私は気が狂っていたのでしょう」
「でも、どうしてそのダイヤをとらなかったのですか?」と彼女はたずねた。「どうしてですの?」
「わかりません。狂気が、ふっと通りすぎたのです。そして、そのとき私は、あなたが倒れていらっしゃるのを見たのです――ああ、神さま、あなたは、どうして私を警察へひき渡さなかったのですか?」彼は顔を伏せて、またすすり泣いた。
チェーター夫人は、美しい灰色の目に涙をうかべながら彼の上にかがみこんだ。「でも、おっしゃってください」と彼女は言った。「あなたは、どうしてダイヤモンドをとらなかったのですか? とるつもりなら、いくらでもとれたではありませんか」
「ダイヤをとったところで、なんになりましょう」と彼は身もだえしながら言った。「ほかのことなど、もう私の頭にはなかった。私は、あなたが死んだものとばかり思ったのです」
「いいえ、あたしは死にませんでしたわ。このとおり」彼女は涙ににじんだ微笑をうかべて言った。「わたしは、こんなおばあさんにしては上出来なくらい元気ですわ。あとで、お手紙をさしあげて、なにかよい助言をしたいと思いますから、あなたの住所をおっしゃってください」
男は、きちんと坐り直して、ポケットから、うす汚れた名刺入れをとりだした。彼が何枚もの名刺をとりだし、それをまるでホイストの手みたいにひろげたとき、ソーンダイクの目が、きらりと光るのを私は見た。
「私の名はオーガスタス・ベイリイです」と男は言った。彼は適当な名刺をとり出し、ちびた鉛筆で、住所を書きつけてから、もとの姿勢にもどった。
「ありがとう」チェーター夫人は、ちょっとのあいだテーブルのそばにたたずんでいた。「わたしたちは、もうこれで失礼します。さようなら、ベイリイさん。明日お手紙をさしあげますから、どうか昔の友達の助言を、まじめにきいてくださいまし」
私は彼女のためにドアをあけてやり、彼女のあとから出ようとして、ふとうしろをふりかえった。ベイリイは、まだ腕に顔を埋めたまま、静かにすすり泣いていた。テーブルの片隅に金貨の小さい山が立っていた。
「博士、あなたは、きっと」チェーター夫人は、ソーンダイクが彼女を自動車に助け入れたとき、静かに言った。「わたしのことを、センチメンタルなおばかさんだとお思いになったでしょうね」
ソーンダイクは、いくぶんきびしい顔を、いつになくやわらげ、彼女を見て答えた。「私はこう思いましたよ――さいわいなるかな慈悲深きものよ――とね」
[#改ページ]
老いたる前科者
1 変化した指紋
人生のささいな、しかも純粋に肉体的なよろこびの一つとして、私は、雨に濡れた冬の夜の外の暗闇から、やわらかいランプの光と、ぱちぱち燃える煖炉《だんろ》の火とであたためられた快適な室内に入るときに誰しもが経験する、あの肉体的なくつろぎの感覚を、まず第一にあげたいと思う。十一月の、ある陰鬱な夜のこと、テンプル街の事務所へ行き、わが友ソーンダイクが、パイプをくゆらし、足にはスリッパというくつろいだすがたで、ごうごうと燃えさかる火のそばに、私のために用意したアーム・チェアと向かいあって坐《すわ》っているのを見たとき、私は、まさしくそんな気がした。
私は濡れたオーバー・コートをぬぎ、けげんな面持ちで、友人を見やった。彼は手に、ひらいた手紙をもっていたが、その様子には、なにかしら瞑想《めいそう》的な、なにか自問自答しているような――要するに、なにか新しい事件が起こったことを告げるものがあるように見えたからである。
「いまちょっと考えていたところなんだがね」彼は私の、もの問いたそうな顔に答えて言った。「ぼくは、ひょっとしたら事後|従犯《じゅうはん》になるかもしれないと思ったものだからね。まあ、これを読んで、君の意見をきかせてくれないか」
私は彼が渡してくれた手紙を声を出して読んだ。
[#ここから1字下げ]
前略――
私はいま大きな危険にさらされ、困っています。まったく身におぼえのない容疑で、私に逮捕状が出ているのです。お目にかかってお話をしたいのですが、私を警察に引き渡すようなことはなさらないでしょうね。この手紙を持参したものに、ご返事をお渡しください。
[#ここで字下げ終わり]
「ぼくは、もちろん承知したと言ってやったよ。ほかにしようがなかったのでね」とソーンダイクは言った。「しかし、約束どおりその男を見のがしてやるということになると、ぼくは、事実上、その男の逃走を幇助《ほうじょ》したことになるのだ」
「そうだね。たしかに君は危険をおかそうとしているわけだ」と私は答えた。「で、その男は、いつくるのかね?」
「五分前にくることになっていたのだが――もうくるころだ――あ、きたようだ」
踊り場に忍び足であるく足音がきこえ、つづいて外側のドアをそっとノックする音がきこえた。
ソーンダイクは立ちあがって内側のドアをあけ、大きな外扉をゆるめた。
「ソーンダイク博士ですか?」息を殺した、ふるえる声が言った。
「そうです。まあ、お入りなさい。手紙をことづけたのは、あなたですね?」
「私です、博士」それが答えだった。それから男は入ってきたが、私を見ると、つと立ちどまった。
「こちらは同僚のジャーヴィス博士です」とソーンダイクは説明した。「心配するにはおよびません――」
「いや、憶えています」客は、ほっとした口調で言葉をはさんだ。「私は、先生がたお二人には、前にお目にかかったことがあるのです。先生がたも私をごらんになったはずです――たぶん、私のことは、もう憶えていらっしゃらないとは思いますが」彼は元気のない微笑をうかべて、そうつけ加えた。
「フランク・ベルフィールドだね?」ソーンダイクも笑いながら言った。
客の顎《あご》が落ちた。彼は、にわかに狼狽《ろうばい》してソーンダイクの顔を見つめた。
「君に注意をしておくが」とソーンダイクは言葉をつづけた。「困った立場にある人間としては、君は実につまらない危険をおかしているようだ。そのかつら、つけ髭、眼鏡――そんな眼鏡をかけていたら、なにも見えやしないだろう――そんな恰好《かっこう》をしていたら、まるで警察ぜんたいを手招きして呼びよせているようなものだ。そんな喜劇オペラから抜けだしてきたみたいな変装をするのは、警察に追われている人間としては、あまり賢明とはいえないようだね」
ベルフィールドは、低くうめいて、腰をおろし、それから眼鏡をとって、私とソーンダイクの顔を、呆然と見くらべた。
「さあ、それじゃ、君のその事件というのを話してみたまえ」とソーンダイクは言った。「君は自分が無実だというのだね?」
「絶対に無実なんです、博士」ベルフィールドは、そう答え、ひどく真剣な面持ちで、つけ加えた。「もし私が無実でなかったら、こんなところへ来やしませんよ。そのことから考えても、博士、私が無実だということは、おわかりになると思います。この前、私が、おそらく大丈夫だろうと思っていたときに、私を摘発したのは博士でした。私は、先生のお手並を、よくぞんじております。ですから博士をだますなどという、だいそれた気持ちは、毛頭ありませんよ」
「もし、君が無実だというのなら」とソーンダイクは言った。「ぼくは、君のために、できるだけのことはしてあげよう。もし無実でないのなら――まあ、こんなところへこないほうが賢明というものだろうね」
「それはもう、おっしゃることは、よくわかっております」とベルフィールドは言った。「ひょっとしたら、博士は、私がお話しすることを信用なさらないかもしれませんが」
「ぼくは、とにかく公平な気持ちで、君の話をきくことにするよ」とソーンダイクは答えた。
「博士がそうしてくだされば」とベルフィールドはうめいた。「こんな心強いことはありません。ご承知のように、私は、わるいことはしましたが、それでも、そのつぐないは、りっぱに果たしてきました。博士のおかげで刑務所にぶちこまれたあの事件が、私の悪事の最後なのです――ほんとうに最後だったのです。博士、どうぞ私を助けてください。私を変えてしまったのは、一人の女です――この世の中でも、一番すばらしい、一番|実《じつ》のある女なんです。私が堅気《かたぎ》になって、まじめに暮らすと約束するなら、刑務所から出てきたときに結婚する、と言ってくれたんです。女は、その約束を守ってくれました――だから、私も約束を守ってきたのです。女は私に倉庫の事務員の仕事を見つけてくれました。私は、それ以来ずっとその仕事について、まじめに働いて給料をもらい、正直な、勤勉な人間として、評判もわるくなかったはずです。私は、なにもかもうまくいっていると思っていました。これで、死ぬまで、まともに暮らして行けると思っていたのです。それが、今朝になって、なにもかも、まるでトランプ札の家みたいに、私の耳もとで、がらがらとくずれ落ちてしまったのです」
「今朝、なにが起こったのかね?」とソーンダイクはたずねた。
「勤めに出かける途中、私は交番の前を通りました。すると、『指名手配中』と書いたビラがはってあり、写真が出ているのが見えました。私は、ちょっと立ちどまって、そのビラを見ました。すると、驚くじゃありませんか、そこに出ているのは私の写真だったのです――ハロウェイでとった写真です――そして、私の名前と人相が、そこには書いてありました。私は、みなまで読まず、あわてて家に走り帰って、妻に、そのことを話しました。妻もびっくりして、交番のところまで走って行って、そのビラを注意深く読みました。なんということでしょう、博士。そこに出ている私の容疑は、なんだと思いますか?」彼は、ちょっと間《ま》をおき、息を殺して、自分の問いに自分で答えた。「キャンバーウェル殺人事件なんです!」
ソーンダイクは低く口笛を吹いた。
「妻は私ではないということを知っています」とベルフィールドはつづけた。「私は一晩じゅう家にいたのですから。しかし、妻のいうことなど、アリバイの証明には、なんの役にも立ちやしません」
「そのとおり、まず役には立たないだろうね」とソーンダイクは、あいづちをうった。「それで、君には、ほかに証人はいないのかね?」
「一人もおりません。私たちは、いつも二人きりで夜をすごしますから」
「しかし」とソーンダイクは言った。「もし君が無実なら――ぼくは無実だろうと思うが――君に対する証拠は、まったく間接的なものにちがいないと思う。だから、君のアリバイは、十分に立つはずだ。ところで、君に嫌疑のかかった理由については、なにか思いあたることでもあるかね?」
「それが、まったくないんです。新聞記事だと、警察では有力な鍵を握っているということですが、それが、なんであるかは書いてありません。たぶん、誰かが、でたらめの密告をしたのではないかと思います――」
外の扉を叩く、鋭いノックの音が会話を中断させた。客は蒼《あお》ざめた顔に大粒の汗をうかべ、驚きのあまり、ぶるぶるふるえながら立ちあがった。
「誰だか見てくるから、君は、そのあいだ事務室に入っていたほうがいい」とソーンダイクは言った。「鍵は内側からかかるようになっている」
お尋ね者は、二度と言われるまでもなく、誰もいない事務室へ駆けこんだ。ドアが閉まって鍵のかかる音がきこえた。
ソーンダイクは外側のドアをあけて、肩ごしに私のほうへ意味ありげな視線を投げた。新来の客が部屋へ入ってきたとき、私はすぐその意味をさとった。それは、ほかならぬスコットランド・ヤードのミラー警部だったからである。
「ちょっとお邪魔にあがりました」警部は、いつもの元気のいい、快活な調子で言った。「ソーンダイク博士に、ぜひお願いしたいことがありましてね。こんばんは、ジャーヴィス博士。博士は弁護士になる準備をしていらっしゃるんだそうですね。もうじき学識豊かな弁護士が誕生するわけですな。法医学の権威といったところですな。ソーンダイク博士の衣鉢《いはつ》をついで、博士のマントを、今度はあなたが着るわけですね?」
「ソーンダイク博士のマントは、これからまだまだ何年ものあいだ、博士の堂々たる体躯《たいく》を包んでくれることを私は希望しているよ」と私は答えた。「もちろん、ソーンダイク博士としても、ほんの片隅の席をあけておいてくれるだけの雅量は、もっていらっしゃると思うがね――ところで、君は、いったいそこに、なにを持っているのかね?」
この会話が行われていたあいだ、警部は茶色の紙包みを手ぎわよくほどいていたが、そのなかから、以前は白かったのだろうが、いまでは色が変わって灰色になっているリンネルのシャツを一着とり出した。
「私は、これがなんであるかを知りたいのです」片袖についた赤茶けた斑点を指さしながら、警部は言った。「これを見てくださいませんか、博士。これは血でしょうか? 血だとすると、人間の血でしょうか?」
「これはこれは、ミラー君」とソーンダイクは微笑をうかべて言った。「君も、なかなかお世辞が上手になったね。しかし、ぼくは、舌を見ただけで患者が階段を何段くらいころげ落ちたかをズバリと当てるバグダードの占い女とはちがうよ。十分調べてみてからでないと、意見をいうわけにはいかないね。で、いつ知りたいのかね?」
「今夜じゅうに知りたいのです」と警部は答えた。
「顕微鏡で見るのに、生地をすこし切ってもいいかね?」
「なるべくなら、そうしてもらいたくないんですが」というのが、その答だった。
「よろしい。それじゃ、約一時間後に、結果を知らせてあげよう」
「それはどうもありがとう、博士」と警部は言った。彼が出て行こうとして帽子をとりあげたとき、ソーンダイクは、不意に言った――。
「ついでに、ちょっと話したいことがあるのだがね。キャンバーウェル殺人事件のことだが、犯人割り出しのきめ手となる手がかりはあったのだろうね?」
「手がかりですって?」警部は軽蔑したように叫んだ。「犯人は、もうちゃんと見当がついていて、あとは、つかまえさえすればいいことになっているのです。まだ、いまのところ犯人は行方をくらましていますがね」
「犯人は何者かね?」とソーンダイクはきいた。
警部は、数秒間、うたがわしげにソーンダイクを見ていたが、やがて、いかにも気が進まなそうに言った。
「博士なら、お話ししたところで、別にどうということはないと思いますが――それに、博士は、もうとうにごぞんじなのでしょう?」彼は、そう言って、ずるそうに、にやりと笑った。「犯人はベルフィールドという名の、おいぼれ悪党ですよ」
「それで、どういう証拠があるのかね?」
警部は、またうさんくさそうな顔をしたが、今度もまた負けてしまった。
「この事件は、実にはっきりしているんです――冷えたスコッチ・ウィスキーみたいなものですよ」と彼は言った。(ここでソーンダイクは、この比喩を受けて、ガラスの壜《びん》とサイフォンとコップをとり出し、それを警部のほうに押しやった)「つまり、あの大馬鹿者は、汗ばんだ手を窓ガラスに押しつけたというわけです。そこに、はっきりと指紋が残っているのです――四本の指のと親指のと。それがまた、これ以上きれいにはいくまいと思えるほど、きれいな指紋なのです。もちろん私たちは、そのガラスを切りとって、指紋課へ持って行きました。そこでファイルを調べてもらったら、ベルフィールドの記録が出てきたというわけです。指紋と写真が、すっかり揃っていましたよ」
「その窓ガラスについていた指紋は、刑務所でとった指紋と、ぴったり一致しているのだね?」
「ぴったりなんです」
「ふむ」ソーンダイクは、しばらく考えこんでいた。警部は、コップのふちごしに、ずるそうな顔で彼を見まもっていた。
「さてはベルフィールドの弁護を頼まれていらっしゃるんですね」と、しばらくしてミラー警部が言った。
「この事件そのものを調べるように頼まれているのだよ」とソーンダイクは答えた。
「それじゃ博士は、あの悪党がかくれているところを、ごぞんじなんですね?」と警部はつづけた。
「いや、ベルフィールドの居所は、まだ聞いていない」とソーンダイクは言った。「ぼくはただ、この事件を調べているだけさ。だから、ミラー君、君とぼくの目的が相反するというようなことは、まったくないのだよ。二人とも、この事件を追っているのだからね。きみは、犯人をあげたがっているわけだが、もちろん、きみとしても、真犯人を求めているにきまっている」
「それはそうです――そして真犯人はベルフィールドですよ――しかし、博士は私たちに、どうしろとおっしゃるのですか?」
「まず、その指紋がついていたというガラスと、刑務所でとった指紋とを見せてもらいたい。そして両方とも写真にとりたい。それから、殺人が行われた部屋を調べてみたい――その部屋には鍵がかけてあるのだろうね?」
「その鍵は、私たちがもっています。そうですね、あなたに、いろんなものをお見せするのは、ちょっと具合がわるいのですが、いつもお世話になっていますから、多少のことは、かまわないでしょう。よろしい、お見せしますよ。一時間後に、博士のお調べの結果をうかがいにまいりますが、そのときガラスと指紋をもってまいりましょう。そういうものを、部外にもち出すことは禁じられているのですがね。さて、それでは失礼します――いや、もう結構です。もうこれ以上は一滴もだめです」
警部は帽子をとりあげ、大股《おおまた》に出て行った。その様子は頭脳の機敏さと肉体の力強さとを目のあたり見るような感じだった。
ドアが閉まるが早いか、鈍重なまでに落ちつきはらっていたソーンダイクが、たちまち熱狂的な精力家と化した。二階の研究室に通じている電鈴に突進して行き、ボタンを押すのももどかしく、私に指示をあたえた。
「あの血痕を調べてくれたまえ、ジャーヴィス。ぼくは、ベルフィールドとの話に、けりをつける。濡《ぬ》らしてはいけない。普通の塩水のなかに削り落してくれないか」
私は急いで顕微鏡をとり出し、机の上に必要な装置と薬品をならべた。私が自分の仕事に熱中しているとき、外の扉の掛け金がまわって、私たちの有能な助手、ポルトンが、いつものように、もの静かな、ひかえめなものごしで部屋へ入ってきた。
「ポルトン君、すまないが指紋をとる道具をそろえてくれないか」とソーンダイクが言った。「それから、九時までに、複写用のカメラを準備してくれたまえ。ミラー君が書類をもってきてくれることになっているのだ」
助手が出て行くと、ソーンダイクは事務所の扉をたたいた。
「どうやら様子がわかったよ、ベルフィールド」と彼は声をかけた。「もう出てきてもいい」
錠がまわって囚人が出てきた。滑稽なかつらとつけ髭をつけ、おかしいくらいしょげて見えた。
「君の指紋をとりたい。警察が窓ガラスについていたのを発見したという指紋とくらべてみたいのだ」
「指紋がついていたって?」ベルフィールドは、びっくりしたように叫んだ。「まさか、私の指紋だとは言ってなかったでしょうね?」
「ところが、そう言っているんだ」ソーンダイクは、じっと彼の顔を見つめながら答えた。「警察では、その指紋を、君がハロウェイの刑務所にいたときにとった指紋と、くらべてみた。そうしたら、ぴったり一致したそうだ」
「そんなばかな!」ベルフィールドは、つぶやくように言い、力なくふるえながら椅子に腰を落とした。「なにか大変なまちがいをしているんです。それにちがいありません。しかし、指紋でまちがうなんてことがあるんでしょうか」
「いいかね、ベルフィールド」とソーンダイクは言った。「君は、事件があった夜、その家にいたのか? それとも、いなかったのか? ぼくに嘘をついても無駄だよ」
「私は、あの家へ行きませんでしたよ、博士。神に誓って行きません」
「それでは、それが君の指紋であるはずはない。それだけは、はっきりしている」ここで彼は、ドアのそばまで歩いて行き、ポルトンが運んできた頑丈な箱をうけとると、それをもってきてテーブルの上においた。
「この事件について、君の知っていることを、すっかり話してもらいたい」彼は箱の中身をテーブルの上にひろげながら言った。
「私は、あの事件のことは、なに一つ知りません」とベルフィールドは答えた。「ほんとに、なにも知らないんです。ただ、その――」
「ただ……どうしたのかね?」ソーンダイクは、チューブから指紋用のインクを一滴、なめらかな銅板の上にしぼり出し、ベルフィールドの顔を見あげて問いつめた。
「ただ……その……殺されたコードウェルは前に盗品売買をやっていたことがあるんです」
「盗品売買だって?」ソーンダイクは興味ありげな口調で言った。
「そうなんです。それから、あの男は警察の犬もやっていたんじゃないかと思うんです。あいつは、大勢の人間にとって危険なくらい、いろんなことを知りすぎていましたからね」
「それでは、その男は、君のことも、なにか知っていたのか?」
「知っていましたとも。ところが、おかしなことに、奴は、警察が知っている以上のことは、なに一つ知らないんです」
ソーンダイクは小さなローラーで、インクを銅板の上にうすくのばした。それから、机のはしに、つるつるの白いカードをおき、ベルフィールドの右手をとって、人さし指を、しっかりと、しかしすばやく、まずインクのついた銅板に、それからカードに押しつけて、手ぎわよく指紋をとった。彼は、この操作を、ほかの指についてもくりかえし、さらにそれから、予備に同じものを数枚とった。
「君の人さし指には、ひどい傷があるね、ベルフィールド」ソーンダイクは、彼の人さし指を光にかざし、指さきを入念に調べながら言った。「どうしてこんなことになったのかね?」
「缶切りで切ったんです――ひどい傷になっちまって、治るまでに何週間もかかりました。まったくの話、サムプトン先生は、一時、指を切断しなくちゃならないのではないかとさえ思ったそうです」
「どのくらい前のことかね?」
「ええと、ほぼ一年ばかり前のことですよ、博士」
ソーンダイクは怪我の日付を指紋の横に記入し、それから新しくインクを銅板にのばし、テーブルの上に、数枚の、やや大きめの紙をおいた。
「今度は、親指と、ほかの四本の指の指紋を、一度にとらせてもらうよ」と彼は言った。
「刑務所じゃ、親指以外の四本の指を、一度にとって」とベルフィールドは言った。「親指の指紋は別にとるんです」
「知っている」とソーンダイクは答えた。「しかし、ぼくは、窓ガラスについていたのと同じ状態で指紋をとりたいのだ」
彼は、こうして数枚の指紋をとり、それから時計を見て、道具類を箱にしまいはじめた。そんなことをしながら、彼は、なにごとか考えこんでいるようすで、時折り、まるで苦痛と恐怖の生きた絵のように、ぶるぶるふるえながら椅子に坐って、指についた指紋用のインクをハンカチで拭きとっている容疑者のほうを、ちらちら見やった。
「ベルフィールド」と、ついに彼は言った。「君は、自分が無実だと誓ったね。それから、堅気になって暮らして行こうとしていたとも言った。ぼくは、君のいうことを信じる。おそらく、あと五、六分もすれば、はっきりしたことがわかるだろう」
「ありがとうございます、博士」ベルフィールドは、ぱっと面《おもて》を輝かして叫んだ。
「さあ、もうあの事務室へ戻っていたほうがいい」とソーンダイクは言った。「そろそろミラー警部がくるころだ。いつあらわれるかもしれないからね」
ベルフィールドは、泡をくって、こそこそと事務室にもどり、ドアに鍵をかけた。ソーンダイクは、例の箱を研究室にもどし、指紋のついた紙を引出しにしまって、私の仕事を見に近づいてきた。私は、血痕のついた衣服から乾いた血のかたまりをはがすことに成功し、これを普通の塩水の滴《しずく》のなかに溶かしこんで、顕微鏡でのぞいていたところだった。
「どんな具合かね、ジャーヴィス」と彼は声をかけた。
「楕円《だえん》形の血球で、核がはっきり見える」と私は答えた。
「そうかね」とソーンダイクは言った。「それは、どこかの可哀そうな男にとっては、吉報といっていいだろうね。寸法は、はかってみたかね?」
「はかってみたよ。長径は二千百分の一インチ、短径は、だいたい三千四百分の一インチだ」
ソーンダイクは参考資料の棚から索引つきのノートを一冊とり出し、血球の寸法を列記した表に目を通した。
「それは普通のにわとりの血のようでもあるが、うむ、ひょっとすると、いや、たぶん雉《きじ》の血だろう」彼は顕微鏡をのぞきこみ、接眼レンズのマイクロメーターをとりつけて、私の測定を確認した。彼がそんなことをしていたとき、外のドアに強いノックの音がきこえた。彼はドアをあけに行き、警部を招じ入れた。
「私がお願いして行ったものを調べていてくだすったのですね、博士」ミラー警部は顕微鏡を見やって言った。「ところで、あの血痕は、なんでしたか?」
「あれは鳥の血だったよ――たぶん雉だと思うが、ひょっとしたら普通のにわとりかもしれないね」
警部は、はたと膝《ひざ》を叩いた。「いや、これは見あげたものだ!」と彼は叫んだ。「あなたは、ほんとに魔術師ですよ、博士。正真正銘の魔術師です。容疑者は、雉の傷口の血にさわったので、あの血痕がついたと言っているんです。博士は、なんの予備知識もないのに、早くもズバリと、そのことを指摘なさった。どうも、ほんとうにお手数をおかけしました。ありがとうございます。それでは、今度は、そちらのご依頼を果たすことにしましょう」彼は手提鞄《てさげかばん》を開いて、木製の枠と青い封筒をとり出し、それを、ひどく丁寧に机の上においた。
「さあ、これですよ、博士」彼は木の枠を指さしながら言った。「ベルフィールドの登録商標が、実にはっきりと出ています。それから、封筒のなかには、比較用の指紋紙が入っています」
ソーンダイクは枠をとりあげて、それを調べた。そのなかには二枚のガラスが入っていた。一枚は例の窓ガラスの一部分で、もう一枚は指紋が消えないように保護するためのものであった。ソーンダイクは、机の上の一番あかるいところに白い紙を一枚敷き、その上に枠をかざして、黙ってガラスをみつめていたが、私は、そのとき彼の無表情な顔が、かすかにあかるくなるのを見てとった。これは、もう何度も経験したことで、私には、その意味が、わかりすぎるくらい、よくわかった。私は、うしろへまわって彼の肩ごしにガラスをのぞきこんだ。親指とほかの四本の指の指紋――開いた手の指さきの指紋が、くっきりと見事に浮き出ていた。
ソーンダイクは、しばらくのあいだ、枠をじっとみつめていたが、やがてポケットから小さな羊皮の包みをとり出し、そのなかから強力な二重レンズをとり出すと、それで、もう一度指紋を調べた。とくに人さし指の指紋に注意した。
「その指紋には、あまり問題はないと思いますがね、博士」と警部が言った。「まるで、わざわざ押したみたいに、きれいに出ていますから」
「そのとおりだ」とソーンダイクは、謎のような微笑をうかべて答えた。「まさしくこれは、わざわざつけたものみたいだ。それに、このガラスのきれいなことはどうだ。まるで指紋をつける前にみがきあげたみたいじゃないか」
警部は、はっと疑惑の色をうかべてソーンダイクを見た。しかし、そのときには、早くも微笑は消えて、木のような無表情な顔に変わり、もはや、なに一つうかがい知るすべはなかった。
ガラスを徹底的に調べてから、ソーンダイクは、封筒の指紋紙をとり出し、しばらくじっと見ていたが、やがて、指紋紙からガラスへ、ガラスから指紋紙へと、くりかえし視線を移した。しばらくたってから、彼は二つともテーブルの上におき、警部のほうを向いて、その顔を穴のあくほどみつめた。
「いいかね、ミラー君」と彼は言った。「どうやら、君に役立つようなヒントをあたえることができそうに思うよ」
「ほんとうですか、博士。それで、それはいったい、どういうことですか?」
「つまり、君が追っているのは真犯人ではないということだ」
警部は、うなった――といっても、それほど大きくうなったわけではない。そんなことをするのは失礼だし、それにミラー警部ほど礼儀正しい警察官はいないからである。しかし、その様子からは、内心の不満が、ありありとうかがわれ、それはただちに、つぎのような言葉となってあらわれた。
「まさか、そのガラスの指紋が、フランク・ベルフィールドの指紋ではないとおっしゃるのではないでしょうね?」
「いや、はっきり言って、この指紋は、フランク・ベルフィールドのものではない」ソーンダイクは、きっぱりと答えた。
「でも、博士、刑務所でとった指紋がベルフィールドのものだということは、先生だって、お認めになるでしょう?」
「それは疑問の余地がないね」
「指紋課のシングルトン氏は、ガラスについていた指紋と、記録にとってある指紋とを比較して、ぴったり一致すると言っているのですよ。それに、私も両方をくらべてみて、その二つが、まったく同一のものだと思うのですがね」
「そのとおりだよ」とソーンダイクは言った。「それは、ぼくも調べてみた。ぼくも両方の指紋がぴったり一致することは認める――だから――それだからこそ、あのガラスの指紋はベルフィールドのものではありえないというのだよ」
警部は、またうなった――今度は、いくぶん大きくうなった――そして、眉に皺《しわ》をよせて、ソーンダイクの顔を、まじまじと見た。
「まさか私をからかっていらっしゃるのではないでしょうね」彼は、すこしむっとした口調で言った。
「そんなことをするくらいなら、豪猪《やまあらし》でも突っついて怒らせるよ」ソーンダイクは、おだやかな微笑をうかべて答えた。
「そうですか」と当惑顔の警部は言った。「私が、もし博士をぞんじあげていなかったら、とんでもないたわごとをいう人だと言いたいところですが――ともかく、どういうことなのか説明してくださいませんか」
「かりに」とソーンダイクが言った。「窓ガラスについていた指紋がベルフィールドのものではないということを、君に説明してあげたとして、それでも君は、やはり逮捕状を執行するかね?」
「いったい博士は、どう考えていらっしゃるんですか?」とミラーは叫んだ。「また、あのホーンビイ事件のときみたいに、法廷に出て、今度の事件を土台からひっくり返してしまおうと思っていらっしゃるんですか――そういえば、いま思いだしましたが、あのときの事件も指紋が問題になりましたね」そう言ってから警部は、にわかに思案顔になった。
「君たちの苦情は、これまでに何度もきいている」とソーンダイクはつづけた。「ぼくが、君たちに情報をかくしておいて、裁判になってから、予期しなかったような反対証拠をもち出すというのだろう。それじゃ、君に内証で教えてあげるがね。ぼくが、君たちの手がかりの誤りを証明したら、君たちは、あの可哀そうなベルフィールドを、静かにそっとしておいてくれるだろうね?」
警部はうなった――はっきりどっちとも言いたくないときの、彼のいつものくせである。
「この指紋には」ソーンダイクは、もう一度枠を手にして言葉をついだ。「興味のある点が、いくつかある。すくなくとも、そのうちの一つは、どうやら、君もシングルトン氏も見のがしてしまったようだ。まあ、この親指を見てみたまえ」
警部は言われたとおりにした。それから警察の指紋紙に目を注いだ。「わかりませんね」と彼は言った。「なにが問題なのか、さっぱりわかりません。こちらの指紋は、記録の指紋と、まったく同じです」
「もちろんそのとおりだ」とソーンダイクは言った。「そして、その点が問題なのだよ。ほんとうはちがっていなくてはならないのだ。記録にとってある親指の指紋は、ほかの指とは別にとったものだ。どうしてか、わかるかね。それは、親指の指紋を、ほかの指の指紋と同時にとることは不可能だからだ。親指は、ほかの指の腹とは、向きがちがっている。掌《てのひら》を平らな面に――たとえばこの窓ガラスのような面に――あてた場合、四本の指の腹は、たしかにその面にぴったりふれるが、親指は、ほかの指とは向きがちがうから、その≪側面≫がふれるわけだ。ところが、これを見ると」――彼は枠にはめたガラスを指ではじいた――「この指紋は、五本の指の腹が、同時にガラスの面についている。これは不可能なことなのだ。ためしに、きみの親指を、こんなふうに押しつけられるかどうか、ためしてみたまえ。そうすれば、ぼくのいうことがわかると思う」
警部は片手をテーブルの上にひろげて、すぐに、ソーンダイクのいうことが真実であることをさとった。「すると、これはどういうことになるのですか?」と彼はたずねた。
「これは、ガラス窓の親指の指紋が、ほかの指の指紋と同時につけられたものではないことを証明している――つまり、別々につけられたものだということを示しているわけだ。そして、その事実は、この指紋が偶然につけられたものではなくて――きみがいま、はからずも言ったように――わざわざつけられたものだということを証明している」
「どういうことか、さっぱりわからなくなりましたよ」警部は困り果てたように後頭部をかきながら言った。「しかも、博士はさっき、ガラスの指紋が記録に残っている指紋と一致するところからみて、これはベルフィールドの指紋であるはずはないとおっしゃった。こんなことを申しては失礼かもしれませんが、そこのところが、どうも私には、まったくのナンセンスとしか思えないのですがね」
「ところが」とソーンダイクは答えた。「それは、まったくの事実なのだよ。この指紋は」――彼はそう言って、警察にとってあったほうの指紋をとりあげた。「これはハロウェイで六年前にとったものだ。こちらは」――枠をはめたガラスのほうを指さして――「今週のうちにつけられたものだ。これは、指紋の型からみて、もう一つのほうの指紋の完全な複写だ。ちがうかね?」
「そのとおりですよ、博士」と警部は肯定した。
「よろしい。それでは、いまかりに、過去十二か月のあいだに、ベルフィールドのある指の指紋に、かなり変化をもたらすような何かが起こったと言ったら、どうするかね?」
「しかし、そんなことがありうるのですか」
「ありうるばかりではなく、実際に起こったのだよ。まあ、見せてあげよう」彼は引出しからベルフィールドの指紋をとったカードをとり出し、それを警部の前にならべた。
「この人さし指の指紋を見てみたまえ」彼はカードを指さして言った。「全部で十二枚あるが、どれにも指紋をよぎる白い線が見えるだろう。その線は、怪我のために指紋の畝《うね》の一部分がこわれてできたもので、いまでは、それがベルフィールドの指紋の欠くべからざる一部分となっているのだ。ところで、ガラスについたこの指紋には、そのような白い線は、全然見当たらない――怪我をする前と同じように、指紋の畝が、完全にあらわれている――だから、この指紋は、ベルフィールドの指でつけたものではないということになる」
「怪我をしたというのは、たしかなのでしょうね?」
「絶対に疑問の余地はない。それを証明する傷痕があるし、ベルフィールドが怪我をしたとき治療にあたった外科医の名前をあげることもできる」
警部は、前よりももっと強く頭をかき、眉に皺《しわ》をよせてソーンダイクをみつめた。
「こいつは難題だ」と彼はうなった。「まったく難題です。博士のおっしゃることは、完全に筋が通っているようにきこえるのですが、それにしても――窓ガラスに、あんなにはっきりと指紋がついているのですからね。博士は指を使わずに指紋がつけられると思っていらっしゃるのですか?」
「それは、いくらでもできるさ」
「博士のお言葉ですが、こいつばかりは、この目で見ないうちは信じられませんね」とミラーは言った。
「それじゃ、いまやって見せてあげよう」とソーンダイクは落ちつきはらって答えた。「君は、どうやらホーンビイ事件のことを忘れているようだね――新聞では『赤い親指の指紋事件』と言っていたようだが」
「私は、あの事件のことは、ほんのすこし聞きかじっただけで」とミラーは答えた。「それに、あの事件の証拠は、実のところ、私には、よくわかりませんでした」
「それじゃ、あの事件の記念品を一つ見せてあげよう」とソーンダイクは言った。そして戸棚をあけ、棚から「ホーンビイ事件」とラベルの貼ってある小さな箱をとり出した。そのなかには、折りたたんだ紙と、赤表紙の小さな長方形の本と、それから柘植《つげ》の木でつくった大きなチェスの駒みたいなものが入っていた。
「この小さい本は」とソーンダイクはつづけた。「親指指紋表――つまり親指の指紋ばかりを集めたアルバムのようなものだ――おそらく、君も、こういうものがあることは知っていると思う」
警部は、その小さい本を見て、小ばかにしたように顎をしゃくった。
「さて、ジャーヴィス博士が目当ての指紋を探してくれているあいだに、ぼくは二階の研究室へ行って、インクをつけた銅板をもってくる」
彼は私にその小冊子を渡して部屋を出て行った。私はページを繰りはじめた――。私はその本を見て、感慨を禁じえなかった。なぜなら、その本こそは、どこかで物語ったことがあるように、私がはじめて現在の妻にめぐりあうきっかけをあたえてくれた思い出ふかい『親指指紋表』だったからである――見おぼえのある名前の上に、いろいろな指紋がならんでいた。そこにくりひろげられる指紋の果てしない多様性には、あらためて驚かないわけにはいかなかった。やがて私は求める二つの親指の指紋にぶつかった。その一つ――左手の親指――には、あきらかに傷痕と思われる白い縦線が入っていた。そして、その下には「ルーベン・ホーンビイ」という名前が書きこまれていた。
そのときソーンダイクがインクのついた銅板をもって部屋へ入ってきた。彼はそれをテーブルの上におき、それから警部と私のあいだに腰をおろして警部に話しかけた。
「さて、ミラー君、ここにルーベン・ホーンビイという名の紳士からとった二つの親指の指紋がある。ちょっと左手のほうの指紋を見てみたまえ。これは非常に特徴のある指紋だ」
「そうですね」とミラーが言った。「これだと、そらで憶えていられるくらいです」
「それでは、これを見たまえ」ソーンダイクは箱からとり出した紙をひろげて警官に渡した。それには鉛筆の書きこみがしてあり、二つばかり血痕があって、そのなかに非常に鮮明な親指の指紋が一つうつっていた。「この親指の指紋は、どうかね?」
「さあ」とミラーが言った。「これは、もちろんこれと同じものですね。ルーベン・ホーンビイの左手の親指です」
「ちがうよ、君」とソーンダイクは言った。「これはウォター・ホーンビイという器用な紳士がつけたものなのだ。(ウォター・ホーンビイというのは、君がオールド・ベイリイから追いかけてラドゲイト・ヒルで見うしなった人物だよ)しかし、これは彼の親指でつけたものではない」
「それじゃ、どうしてつけたんですか?」警部が信じられないといった顔つきでたずねた。
「こんなふうにやるのだよ」ソーンダイクは、つげの『駒』を受け台からとって、その平らな底面を、インクのついた銅板に押しつけ、それから、それをもちあげてカードの裏に押しつけ、またもちあげた。するとカードには、非常にくっきりと、親指の指紋が浮き出ていた。
「これは驚いた!」警部はカードをとりあげ、驚きの目をみはって叫んだ。「この手を使ったのにちがいありませんね、博士。こういうことになると、指紋の信憑性も、いささか怪しいものになってきますな。でも、博士、このスタンプは、どうやってつくったのですか――これは博士がおつくりになったのでしょう?」
「そうだよ。それは、ぼくらが、ここでつくったものだ。方法は、写真製版屋が銅版をつくるときに用いる方法とほぼ同じだ。つまり、ホーンビイ氏の親指の指紋を写真にとり、クローム・ゼラチンの板に焼きつけて、その板を熱湯で処理したのだよ。そうすると」――ここで彼はスタンプの浮彫りになった表面に手をふれて――「これが残ったというわけだ。しかし、このほかにも、いろんな方法が考えられる。たとえば普通の原紙と石板でだってつくることができる。実際問題として、指紋を偽造するくらい、たやすいことは、ほかにないくらいなのだよ、ミラー君。偽造といっても、二つならべて見たら、偽造した本人にさえ、自分の偽造したものと本物との区別がつかないほど巧妙にできるものなのだ」
「なるほど、これはまいりましたね」と警部はうなった。「今度という今度は、完全に一本まいりましたよ、博士」彼は、むっつりと立ちあがって出て行こうとした。「そうすると、ベルフィールドの嫌疑は晴れたことになりますから、この事件については、博士は、もう興味をおもちになりませんね?」と彼は出て行きしなにつけ加えた。
「職業的にいえば、そのとおりだ。しかし、ぼくは、この事件を、ぼくの気がすむように解決してみたいと思うのだ。ぼくは、いったい誰がこんな器用なことをやったのか、そのことに、ひどく興味を感じるのだよ」
ミラーの顔があかるくなった。「私たちは、あなたのために、どんな便宜でもはからいますよ、博士――。あ、それで思いだしましたが、シングルトンが、博士にと言って写真を二枚くれましたよ。一枚は記録にとってある指紋の写真、もう一枚はガラスについていた指紋の写真です。なにかほかに私たちにできることがあったら遠慮なくおっしゃってください」
「殺人が行われた部屋を、ちょっと見てみたいのだがね」
「どうぞごらんください。よかったら、あすにでも。もし、よろしかったら、午前十時に現場でお会いしましょう」
「それはありがたい」とソーンダイクは答えた。そこで警部は元気をとりもどして帰って行った。
ドアを閉めたとたんに、あわただしいノックがきこえたので、私は、もう一度ドアをあけた。すると、敷居のところに立っていた質素な身なりの、深いヴェールを垂れた女が、つかつかと私のそばをすり抜けて部屋へ入ってきた。
「夫はどこにいますか?」私がドアを閉めると、いきなり彼女は詰問するように言った。それからソーンダイクの姿を見て、けわしい態度で、しかも恐怖と憤《いきどお》りの入りまじった表情で、彼のほうにつめ寄った。
「わたしの夫を、どうしたのです?」と彼女は言った。「あれほど約束をしておきながら、裏切ったのですね。階段のところで警官みたいな男に会いましたよ」
「あなたのご主人は、ここにいらっしゃいますよ、ベルフィールドの奥さん。ちゃんと無事でおります」とソーンダイクは答えた。「ご主人は、あの部屋に鍵をかけて入っています」そう言って事務室を指さした。
ベルフィールド夫人は部屋を横ぎってドアを叩いた。「フランク、あなた、そこにいるの?」と彼女は声をかけた。
それに答えて、すぐに鍵がまわり、ドアが開いた。そして、ひどく蒼ざめた、疲れた面持ちで、ベルフィールドが姿をあらわした。
「ずいぶん長かったですね、博士」と彼は恨《うら》めしそうに言った。
「ミラー警部に、容疑者はほかにいるということを証明するのに手間どったのだよ。しかし、どうやらうまくいったから、きみは、もう自由だ。ベルフィールド、きみに対する嫌疑は晴れたのだ」
ベルフィールドは、しばらくのあいだ呆然と立ちつくしていた。一方、彼の妻は、一瞬きょとんとした顔つきで黙っていたが、すぐに夫の首に腕をまきつけて涙にかきくれた。
「しかし、私が無実だということが、どうしてわかったのですか、博士?」と、うろたえたようにベルフィールドはたずねた。
「どうしてわかったかというのかね。餅は餅屋さ。まあ、なにはともあれ、おめでとう。家へ帰って、たらふくうまいものを食べて、枕を高くしてやすみたまえ」
彼は、二人の依頼人と握手をかわした――ベルフィールド夫人が彼の手に接吻《せっぷん》するのをとめることは、どうしてもできなかった――。そして、二人の帰って行く足音がかすかになるまで、開いたドアのところに立って耳をすましていた。
「ジャーヴィス、けなげな可愛い婦人じゃないか」ドアを閉めながら彼は言った。「ほんのすこし前には、ぼくの顔をひっかきかねない勢いだったが――。さあ、あの婦人の幸福を台なしにしようとした悪党を、なんとしても見つけだしてやるぞ」
2 砂漠の船
私がこれから述べようとする事件は、私にとって、いつでも、ふしぎに教訓的な事件に思われるのである。それは、ソーンダイクがつねづね強調している捜査上の根本法則――どのような面からでも、事件に関係のあるいっさいの事実を、たんねんに、しかも、なんの先入感もなしに集めなければならない。そして、あらゆる事実は、それがいかにささいなものであろうと、また、一見いかに事件と無関係に見えようと、入念に研究しつくさなければならないという鉄則の価値と重要性を、雄弁に物語っているからである。しかし、私は、これから事件の記録の筆をとろうとしているのであるから、なにもここで先まわりをして、わが学識あり才能ある友人が、この問題に関して、どう述べたかを書いてしまうことはあるまい。それよりも事件そのものの記述にとりかかろう。
私は、いつも一週に二、三回は、キングズ・ベンチ・ウォークにある私たちの事務所で夜をすごすことにしているが、その夜も、そこで一夜をすごし、翌朝、居間へ降りてきてみると、いましもソーンダイクの助手ポルトンが朝食の支度を終わろうとしているところで、ソーンダイクのほうは、二枚の指紋の写真に熱心に取り組み、ヘヤー・ディヴァイダーで細かく寸法をはかっているところであった。彼は静かな、おだやかな微笑で私を迎え、ディヴァイダーをおいて朝食の席についた。
「ジャーヴィス、今日は、ぼくといっしょにきてくれるだろうね」と彼は言った。「ほら、例のキャンバーウェル殺人事件だよ」
「もちろん、君さえよかったら、ぼくも出かけるよ。しかし、ぼくは、その事件のことは、ほとんどなにも知らないのだ。わかっている事実を、あらまし話してくれないか」
ソーンダイクは、まじめくさった顔で私を見たが、目には、いたずらっぽい光をちらつかせていた。「これはまさしく狐と烏《からす》の昔話だ」と彼は言った。「君は、ぼくに話をしろという。そして、ぼくが君の耳を楽しませているあいだに、君は、ぼくを出しぬいて焼肉をかっさらおうというわけだ。なかなか手のこんだ計略じゃないか、ジャーヴィス博士」
「それはそうさ」と私はやりかえした。「犯罪者階級とつきあっていると、つい人がわるくなるもんだからね」
「なかなかうまいことをいうじゃないか」と彼は意地のわるそうな微笑をうかべて言った。「それはそれとして、ともかくそれじゃ事件の話をしよう。わかっている事実というのは、ざっとこんなことだ。殺されたコードウェルという男は、前には盗品売買などもしていたらしいし、それからまた、警察のスパイもやっていたらしい。ある小さな家に老女中と二人きりの孤独な生活をしていた。
一週間ばかり前、その女中は娘の嫁《とつ》ぎ先を訪ね、その晩はそこで泊り、コードウェルは、たった一人で家にいた。翌朝、女中が帰宅してみると、主人は事務所というか、書斎というか、その部屋の床の上で、小さな血の池のなかに倒れて死んでいた。警察医の調べでは、死後約十二時間たっていた。うしろから、なにか重い鈍器ようのもので一撃やられたのが致命傷で、死体のそばにころがっていた組立て式の金梃《かなてこ》が、その傷と、ぴったり一致した。被害者は寝間着を着ていて、カラーは、つけていなかった。その部屋には、ガスがひいてあったにもかかわらず、寝室用の燭台《しょくだい》が、床の上にひっくりかえっていた。書斎の窓は、現場で発見された金梃で破られたらしい形跡があり、窓の外の花壇に、はっきりと足跡が残っていたから、警察では、被害者は寝ようとして着替えをしていたときに窓をあける物音に気がつき、階下の事務室へ降りてきて部屋へ入ったとたんに、ドアの蔭にひそんでいた物盗りになぐられたものと見ている。警察では窓ガラスに開いた右手の、油だらけの指紋を発見した。その指紋は、君も知っているように、専門家によってベルフィールドという名の老犯罪者の指紋と一致することが確認された。それから、これも君の知っていることだが、その指紋が実はゴムかゼラチンのスタンプでつけた偽造の指紋であることは、ぼくが証明したとおりだ。これが事件のあらましだよ」
この話が終わるころ、私たちの食事も終わった。そこで私たちは犯罪現場へ行く支度にとりかかった。ソーンダイクは、奇妙な道具――地質学者の道具に似たようなもの――をポケットにすべりこませ、写真をしまいこんだ。私たちは堤防沿いに歩いて行った。
「指紋がきめ手にならぬということがわかったとすると、警察では、殺人犯人の身許《みもと》にかんしては、なんの手がかりもつかんでいないわけだね?」いっしょに歩きながら私はたずねた。
「おそらく、手がかりはつかんでいないと思うよ」と彼は答えた。「資料を調べてみれば、なにかの手がかりがつかめるかもしれないがね。ぼくは今朝、ちょっとおもしろい点に気がついた。つまり、あのにせの指紋をつくった男は、スタンプを二つ使ったはずだ。一つは親指のもの、もう一つは、ほかの四本の指のものだ。それから、その二つのスタンプの原型になったものは、警察にとってある指紋の記録だということだ」
「どうしてそれがわかったのかね?」と私はきいた。
「それは簡単だよ。指紋課のシングルトン氏が、ミラー警部を通じて、二枚の写真をぼくにくれたことを憶えているだろう。一枚は窓ガラスにうつった指紋の写真、もう一枚は記録に残っているベルフィールドの指紋の写真だ。ぼくは、その二つを比較対照し、厳密に寸法をはかってみた。その結果、この二つは完全に一致することがわかった。警察にとってある指紋には――インクのつけかたがわるいために――いろいろとこまかい欠点があるのだが、それが、そっくりそのまま窓ガラスの指紋にあらわれている。そればかりでなく、両方の指紋の四本の指の相対的位置が、百分の一インチまで、ぴったり一致するのだ。もちろん親指のスタンプは、記録のほうでは親指を紙の上にころがすようにしてとってあるのだが、その楕円形の部分だけを、そっくりとってつくってあるのだ」
「するときみは、この殺人が、スコットランド・ヤードの指紋課に関係のある誰かの手で行われたというのか?」
「そんなことは、まず考えられない。しかし、誰かが指紋の記録に近づき、どこからかそれが洩《も》れたということはいえると思う」
私たちが、被害者の住んでいた小さな一軒屋に到着したとき、玄関のドアは一人の年輩の婦人の手で開かれ、私たちの友人ミラー警部が、私たちをホールに迎え入れた
「あなたがたのおいでをお待ちしていましたよ、博士」と彼は言った。「もちろん、なにもかも、一度は調べてみたのですが、もう一度、捜査を全部やり直しているところです」彼は惨劇の行われた、小さな、調度らしきものもない書斎に、私たちを案内した。絨毯《じゅうたん》に残る黒いしみ、窓ガラスを切りとった四角い穴が、犯罪のあとを物語っており、そのほかに、犯罪に関係のあるものとしては、新聞紙をかぶせた机の上に、奇妙なとり合わせの、いろいろなものがおいてあった。そのなかには、銀の茶匙《ちゃさじ》、懐中時計、宝石をはずしてしまった各種の装身具――といっても、ろくなものはなかったが――それに、粗野なつくりの金梃がふくまれていた。
「コードウェルが、なんだって、こんながらくたをおいていたのか、理解できませんが」と警部が言った。「ここには、私の見るところでは、六件の強盗事件でとられた盗品があります――六件とも、まだ犯人はあがっていないのですが」
ソーンダイクは、そのコレクションを、気がなさそうに眺めやった。彼は、その部屋が、すっかりかきまわされてしまっているのを見て、がっかりしてしまったらしいのである。
「それで、どんなものがなくなっているか、わかっているのかね?」
「それが、まったくわからないんですよ。金庫があけられたかどうかさえわからないのです。金庫の鍵は机の上にありましたから、おそらく開けたんだろうと思います。もっとも、そうとすると、どういうわけで犯人が、こういうものを残して行ったのか、それがわからないのですが。これはみな金庫のなかにしまってあったのです」
「金梃から指紋は検出したのかね?」
警部は真っ赤になった。「やってはみたのですが」と彼はうなった。「半ダースばかりの馬鹿者どもが、私よりも前に、これにさわっていましたので――その馬鹿者どもは、この金梃で窓をあけたのかどうかを調べようとしたらしいのですがね――ですから、この金梃には、そいつらのつまらない指紋しか見つかりませんでした」
「窓は実際にはこじあけられてはいなかったのだろう?」
「そのとおりです」ミラーは驚いてソーンダイクを見ながら答えた。「見せかけの、ごまかしでした。花壇の足跡も、ごまかしです。犯人は、コードウェルの皮靴をはいて外へ出て、あの足跡をつけたのです――コードウェルが自分でつけたとは考えられませんしね」
「なにか手紙か電報のようなものはなかったかね?」
「殺人の行われた晩の九時に会おうという手紙がありました。差出人の名前も住所も書いてありませんし、筆蹟は、あきらかに変えたものと思われます」
「なにか手がかりになりそうなものは?」
「それはあります。これがそうです。金庫のなかにあったのです」彼は小さな包みをもち出し、それをほどきながら、そのあいだじゅう妙な目つきでソーンダイクを見ていた。なかには、いろいろな装身具のがらくたと、ハンカチをテープでしばった小さな包みが入っていた。警部は、その包みもほどいて見せたが、なかには同じ紋章のついた銀の茶匙が半ダースと、塩入れが二つ、それから頭文字の入った金のロケットが一つ入っていた。ほかに便箋を半分に切った紙片が入っていて、そこには、あきらかにわざと筆蹟を変えた字で、「おれの話していた品物だ――F.B.」と書いてあった。しかし、ソーンダイクと私の注意を釘づけにしたのは、ハンカチそのものであった。(あまりきれいなハンカチではなく、一つ二つ、小さな血痕がついていた)というのは、その片隅にゴムのスタンプを使って、スタンプインクで、はっきりと「F・ベルフィールド」という名前が押してあったからである。
ソーンダイクと警部は、たがいに顔を見あわせて、にやりと笑った。
「先生が、なにを考えていらっしゃるか、私にもよくわかります」と警部が言った。
「それはわかるだろう」それが答だった。「君は、ぼくの意見に賛成できないような顔をしているが、反対しても無駄だよ」
「しかし」とミラーは一徹そうな口調で言った。「そのハンカチが、トリックとして、そこに入れてあったものとすると、ベルフィールドは、それを証明できなければならないはずです。そうでしょう?」彼は説得するような口調でつづけた。「関係があるのは、この事件ばかりではないのです。あのスプーンにしろ塩入れにしろロケットにしろ、いずれもウィンチモア・ヒル強盗事件でなくなった品物の一部なのです。だから、どうでもあの押入り強盗をやった紳士をつかまえたい――なんとしてでも捕えたいですよ」
「その気持ちはよくわかるが」とソーンダイクは答えた。「しかし、このハンカチは役に立たないと思うよ。頭のいい弁護士だったら――たとえばアンスティ氏のような人物だったら――こんな証拠は五分間でひっくりかえしてしまうだろう。いいかね、ミラー君、このハンカチは、ベルフィールドに対する証拠物件としては、まったくなんの価値もないのだ。もっとも、捜査の手がかりとしては、なかなか貴重なものではあるだろうけどね。君にできる最良のことは、それをぼくに渡して、そこからどんなことが判明するかを調べさせてみることだ」
警部は、あきらかに不満そうであったが、最後には、しぶしぶながらソーンダイクのいうことに同意した。
「よろしい」と彼は言った。「それでは、一日か二日、これをお貸ししましょう。おもち帰りになって結構です。スプーンや、そのほかのものも、おもち帰りになりますか?」
「いや、ハンカチと、それから、そのなかに入っていた紙だけで結構だ」
そこで、その二つの品物がソーンダイクにひき渡された。それを彼は、いつもポケットに入れてもち歩いているブリキ缶に入れた。がっかりした様子の警部と、そのあと一言、二言、言葉をかわしてから、私たちは別れを告げた。
「今朝は、まったくがっかりだったね」道々ソーンダイクは言った。「あの部屋は、むろん、専門家が十分調査してからでないと、なに一つ動かしてはいけなかったのだ」
「それで、君は、なにか参考になりそうなものを手に入れたかね?」と私はきいた。
「ぼくの最初からの考えを確認したほかは、ほとんど得るところはなかったよ。君も知っているように、コードウェルという男は、盗品を売買していて、しかも警察のスパイだったことが、はっきりしている。コードウェルは役に立つ情報を警察に提供し、警察のほうでは、そのおかえしに、わずらわしい手入れなどしないようにしてやっていたのだ。しかし、スパイとか、警察の『犬』とか、そういう連中は、たいてい、ゆすりやたかりもやるので、この事件でも、コードウェルにちょっときつく締めあげられたどこかの悪党が、女中のいないすきをねらって、コードウェルと会う約束をし、頭に一発くらわしたという可能性も大いにあるわけだ。
この犯罪は、あきらかに前もって計画されたもので、加害者は一石で何羽も鳥を落す準備をととのえてからやったものだ。だからこそ犯人は、窓にニセの指紋をつけるためのスタンプも用意してきたし、それに、このハンカチだの、ミラー警部がひどく躍起《やっき》になっている強盗事件でとられたいろんな皿や貴金属や宝石のたぐいまで持ってきて、金庫に入れて、おとりに使ったわけだ。君も気がついただろうと思うが、いま言ったような品物のなかには、ろくなものは一つもないが、どれもこれもすぐに出所がわかってしまうようなものばかりだったじゃないか」
「そうだ、ぼくもそれには気がついていた。犯人の目的は、あきらかに、さきの強盗事件も今度の殺人事件も、いっしょくたにして、哀れなベルフィールドの仕業《しわざ》にしてしまうことにあったと見ていいようだ」
「そのとおりだ。君は、ミラー警部がどんなことを考えているか、わかるかね。ベルフィールドは手中の鳥だ。ところが、もう一人の男は――もう一人の男がいるとして――まだ藪《やぶ》のなかにかくれている。そこで、ベルフィールドを締めあげて行けば、ひょっとしたら真犯人がわかるかもしれない、と考えているのだよ。もしもベルフィールドが無実だとすれば――もちろん彼は無実だが――ベルフィールドは、そのことを証明しなければならないわけだ」
「それで、これから君は、どうするのかね?」
「ベルフィールドに、今晩ぼくのところへくるように電報をうつ。このハンカチについて、なにか知っているかもしれないし、知っているとすると、すでにぼくらがつかんでいる手がかりと合わせて、正しい線を追求するのに役立つだろうと思う。君の往診は何時だったかね?」
「十二時半だ――おや、バスがきた。ぼくは昼食までに帰ってくるよ」
私はバスのステップにとび乗った。二階の座席に坐ってうしろをふり向くと、わが友ソーンダイクが大股《おおまた》に歩き去って行くのが見えた。彼が無意識のうちに周囲に気をくばりながらも、深く思いに沈んでいることが、よくわかった。
私の診察は――かなり重症の精神病患者を診察したのだが――予定どおり終わって、昼食の時間には、きちんと事務所へ帰ってくることができた。事務所に入ったとたんに、私は、ソーンダイクの態度に、なにかしら新しいものがあるのに気がついた。複雑な、難解な事件の解決に目鼻がついたとき、しばしば彼が見せる、なんとなく得意そうな、愉快そうな態度が、かすかに見てとれたのである。しかし、彼は自分の考えをうちあけようとしなかった。その上、しばらくのあいだは、いっさいの職業上の気づかいや手続きなどから離れていたいような様子だった。
「ジャーヴィス、昼からどこかへ出かけようか」と彼は陽気に言った。「天気はいいし、いまは仕事もひまだし。動物園はどうかね。すばらしいチンパンジーがいるし、ペリオフサルモスとかいう変わった魚がいるそうだ。どうだね、行ってみないかね」
「よかろう」と私は答えた。「それから、象に乗ったり、灰色熊に葡萄《ぶどう》パンをやったりして、ひとつ鷲《わし》みたいに若返ってくるかね」
しかし、それから一時間後、動物園に到着したとき、私は、ソーンダイクが、この日の遠足に、なにかかくれた用件をもってきたのではあるまいかと疑いはじめた。というのは、彼の注意をひいたものは、チンパンジーでもなければ、あの驚くべき歩く魚でもなかったからである。反対に彼は、ラマやラクダのいるあたりを、しきりとうろつきまわっていて、その様子には、いやでも首をかしげないわけにはいかなかった。それに、ラマやラクダのいるあたりといっても、彼の興味をひいたのは、そういう動物自体であるよりも、むしろその小屋や建物であるように思われた。
「見てみたまえ、ジャーヴィス」やがて、やつれた顔つきの、鞍《くら》をおいたラクダが一頭、小屋のほうへひかれて行くのを見ながら彼は言った。「あの砂漠の船を。船の中央のやや高いところに、一等船室のデッキがある。船のなかには、ちゃんと飲料水をたくわえた部屋がそなわっている。そして、右舷の後脚には、リューマチ関節炎の影響があらわれている。ドックに入ってしまわないうちに、あそこへ行って、とっくり眺めてみようじゃないか」私たちは、ラクダがその住居へ向かう途中でうまく出会えるように近道をとった。みちみちソーンダイクは一くさり講義をこころみた。
「馬とかトナカイとかラクダとか、こういう特殊な動物が人間に飼いならされ、その特性が人間の必要を満たすように仕向けられてきた過程は、実に興味深いものがある。たとえば、ラクダが歴史のなかで果たした役割を考えてみたまえ。それから、古代の交易や――その意味では現在でも役に立っているわけだが――文化の伝播《でんぱ》に果たした役割なども。ラクダが、カムビセスのエジプト戦役からキッチナーのエジプト戦争にいたるまで、戦争や征服に果たした役割は大変なものだ。たしかにラクダは、なかなかすばらしい動物だ。もっとも、いまここにいるやつは、しけた顔をした哀れな動物だということは認めないわけにはいかないがね」
ラクダは、この失礼な批評がわかったものか、私たちのそばへ近づいてきたとき、高慢ちきに歯をむき出してソーンダイクを迎え、それからそっぽを向いてしまった。
「君の受持ちの動物は、以前ほど若くはないようだね」とソーンダイクは、ラクダをひいてきた男に、こう言って話しかけた。
「そのとおりですよ。こいつも、だいぶ年をとりましてね。まったく年は争えないもんですな」
「こういう動物は」とソーンダイクは、男の横について小屋のほうへぶらぶら歩いて行きながら言った。「ずいぶん手数のかかるものなのだろうね?」
「そうなんです。それに、こいつらは意地が悪いですからね」
「そうだってね。しかし、ラクダだのラマだのというのは面白い動物だね。こういう動物の写真をひと揃い、ここで手に入れられるかどうか、きみは知らないかね?」
「売店へ行けば、かなりたくさんありますよ」と男は答えた。「しかし、おそらく全部はないでしょうね。全部揃ったのがほしいのでしたら、ラクダ小屋にいる私どもの同僚が、なんとかしてくれると思います。その男は、自分で写真をとるんですが、なかなかうまいもんです。もっとも、いまは、ちょっと出かけていますがね」
「あとで手紙で頼みたいと思うから、その人の名前を教えてもらえないだろうか」とソーンダイクは言った。
「いいですとも。名前はウッドソープ――ジョゼフ・ウッドソープというんです。注文すれば、なんでもやってくれます。やあ、これはどうも。それじゃ失礼します」男は思いがけないチップをポケットにしまって、ラクダを小屋のほうへつれて行った。
そのときまでラクダにひどく興味をもっていたソーンダイクが、どうしたことか、すぐに、そんなことは、けろりと忘れてしまったらしく、それからあとは、園内をひっぱりまわす私のあとに文句も言わずついてきて、昆虫から象にいたるまで、園内のすべての動物に大いに興味を示し、休日を――その日を私たちの休日とするならば――小学生のように陽気に快活に楽しんだ。けれども彼は、動物の抜け毛や鳥の羽毛などを拾いあげる機会にめぐまれたときには、決してその機会をのがさずに、一つ残らず注意深くかき集めては、別々の紙に包み、明細を記入してブリキの蒐集《しゅうしゅう》箱におさめたのであった。
「比較のための見本をもっていることが、いつ、なんどき、どんなに役に立つかわからないからね」駝鳥《だちょう》の囲いから離れるとき、彼は言った。「たとえば、ここには火喰鳥《ひくいどり》の小さい羽毛が入っているし、ここには大鹿の毛が入っている。時と場合によっては、これが火喰鳥の羽毛で、これが大鹿の毛であるということがわかったために、犯人が検挙されたり、無実の人間の生命が救われたりすることも、ままあるわけだ。そういうことは、前にも、くりかえし起こったし、明日にもまた起こるかもしれないのだよ」
「君の書斎には動物の毛の厖大《ぼうだい》なコレクションがあるじゃないか」と帰途についたとき私は言った。
「それはあるさ」と彼は答えた。「たぶん世界最大のコレクションだろうね。それ以外にも、法医学的に興味のある顕微鏡的対象物、たとえば、いろんな場所、特殊な産業、工場などから採集してきた埃《ほこり》や泥などについても、あるいは繊維、食料品、薬品などにかんしても、ぼくのコレクションは、たしかにユニークなものだと思うよ」
「それで、そういうコレクションは、これまでにも、君の仕事に役に立ってきたのかね?」
「つねに役に立っているよ。そういう見本と照合してみることによって、ほとんど予想もしなかったような証拠物件を手に入れることができたという例も、一再ならずある。だから、経験をつめばつむほど、ぼくは、法医学の方面での最後のよりどころは顕微鏡であると確信するようになってきたのだよ」
「それはそうと」と私は言った。「君はベルフィールドに電報をうつと言っていたが、もううったのかね?」
「うったよ。今夜八時半にきてくれと言ってやった。そして、できたら奥さんもいっしょにつれてくるようにと言ってある。ぼくは、あのハンカチの謎を洗ってみたいのだ」
「君は、あの男がほんとうのことをいうと思っているのか?」
「それは、なんともいえない。もし、ほんとうのことを言わないとすれば、あの男はばかだ。しかし、ぼくは、おそらくほんとうのことをいうだろうと思うよ。あの男は、ぼく自身と、ぼくのやりかたを、ひどくこわがっているからね」
食事が終わって、あと片づけがすむと、ソーンダイクは、ポケットから「蒐集箱」をとり出し、その日の「獲物」の分類をはじめ、ポルトンに、それぞれの見本の処置の仕方について、こまごまと指示をあたえた。毛や小さい羽毛は顕微鏡で見られるように台にとりつけ、大きい羽毛はラベルを貼ったそれぞれの封筒におさめて、適当な箱に入れておくように指示された。そういう指示があたえられているあいだ、私は窓際に立って、ぼんやり外を眺めながら、ソーンダイクの言葉に耳を傾け、処理の仕方や保存の方法について、多くの貴重なヒントを拾いあつめ、実際問題にかんするソーンダイクの該博《がいはく》な知識と、助手を訓練する洗練された手腕とに感嘆していた。そのとき、不意に私はぎくりとした。というのは、顔見知りの人物が一人、クラウン・オフィス・ロウから、あきらかに私たちの事務所をめざして渡ってくる姿を見たからである。
「大変だ、ソーンダイク」と私は叫んだ。「これは、えらいことになるぞ」
「どうしたのだね」彼は心配そうに顔をあげてきいた。
「ミラー警部がまっすぐここへやってくる。それに、もう八時二十分すぎだ」
ソーンダイクは笑った。「これはまた、おかしなことになったものだな」と彼は言った。「ベルフィールドにとっては、ちょっとショックだろうね。しかし、心配することはないよ。まったくの話、ぼくは、警部がきてくれて、かえって好都合だと思うよ」
数分後に警部の威勢のいいノックがきこえた。ポルトンに迎え入れられた彼は、すこしおずおずしながら部屋のなかを見まわした。
「とつぜんお邪魔をして申しわけないのですが」と彼は弁解がましく言いはじめた。
「いや、ちっともかまわんですよ」ソーンダイクは、すました顔で火喰鳥の羽毛を封筒に入れ、表に名前と日付と場所を記入しながら答えた。「この事件では、ぼくは、君のお手伝いをしているだけだからね。ポルトン君、警部のためにウィスキーとソーダをたのむ」
「ねえ、博士」とミラー警部は、つづけて言った。「本庁の連中が、この事件のことで騒ぎはじめているのですよ。私が、あのハンカチと紙切れをあなたに渡したというので、私を非難しているんです。あれは重要な証拠物件だからというのです」
「反対されるだろうと思っていたよ」とソーンダイクは言った。
「私もそう思っていました。そしたら案のじょう、やられましたよ。本庁の連中は、すぐにあのハンカチと紙切れとをとり戻してくるべきだというのです。どうぞ、気をわるくなさらないでください、博士」
「なに、いいさ」とソーンダイクは言った。「ぼくは、ベルフィールドに、今夜ここへくるようにと言ってやったよ――もう五、六分したら、くるはずだ――彼から話を聞けば、もうハンカチには用はないのだ」
「まさか奴にあれを見せるのではないでしょうね!」と警部は蒼くなって叫んだ。
「見せるよ」
「それは困りますよ、博士。そんなことを認めるわけにはいきません。断然認められません」
「いいかい、ミラー君」とソーンダイクは人さし指を警察官のほうに向けて振りながら言った。「ぼくは、さっきも言ったように、この事件では、君のために働いているのだよ。だから、まあ、ぼくにまかせておきなさい。下手に反対なんかするものじゃない。そうすれば、君は、今夜ここを出て行くときには、ハンカチと紙切ればかりではなく、たぶん、この殺人事件と、それから君が躍起《やっき》となっているあの強盗事件の犯人の名前と居所まで持って帰れるだろうからね」
「ほんとうですか、博士?」と警部は、びっくりしたように叫んだ。「まったくあなたの慧眼《けいがん》には頭がさがる。おや?」扉に軽いノックの音がきこえたのだ。「ベルフィールドがきたらしい」
それはベルフィールドだった――妻がつきそっていた――二人の目が先客の上にとまったとき、彼らの驚きようは大変なものだった。
「なにも私をこわがることはないよ、ベルフィールド」と警部は、いまにも食いつきそうな顔ながらも、愛想よく言った。「私は、お前を追ってここへきたわけではないからね」それは文字どおりには真実とはいえなかったが、おじけづいた前科者を安心させるのには役立った。
「警部は、たまたまここへきあわせたのだよ」とソーンダイクは言った。「しかし、この人に、事の次第をわきで聞いていてもらうのも、わるくないと思う。君には、このハンカチを見てもらいたいのだ。そして、それが、君のものかどうかを言ってほしい。こわがることはない。ただ、ほんとうのことを言ってくれれば、それでいいのだ」
彼は引出しからハンカチをとり出して、それをテーブルの上にひろげた。そのとき私は、血痕の一つが、小さく四角に切りとられているのを認めた。
ベルフィールドは震える手でハンカチをとりあげた。ハンカチの隅にスタンプで押した名前のところへ目が行ったとき、彼は真《ま》っ蒼《さお》になった。
「私のものらしいですね」と彼は、かすれた声で言った。「お前は、どう思う、リズ?」そう言ってそれを妻に渡した。
ベルフィールド夫人は、はじめに名前を調べ、それからふちを調べた。「たしかにあなたのだわ、フランク」と彼女は言った。「これは洗濯に出したとき、とりかえられたものだわ。お聞きくださいまし、博士」と彼女はソーンダイクに向かって言った。「わたしは、六か月ほど前、この人のために新しいハンカチを半ダース買い、ゴムのスタンプをつくらせて、全部にそれを押したのです。ところが、ある日、この人の持ちものに目を通していますと、一枚のハンカチにマークがついていないことがわかりました。わたしは洗濯屋さんに、そのことを話しましたが、洗濯屋さんでも、どうしてそうなったのかわかりません。とうとう判を押したハンカチが一枚もどってきませんでした。それで、わたしは、その代わりに入っていたハンカチに、また判を押しておいたのです」
「それは、どれくらい前のことですか?」とソーンダイクはたずねた。
「わたしがそのことに気づいたのは、二か月ばかり前のことですわ」
「で、そのことについては、ほかに、なにもごぞんじないのですね?」
「なにもぞんじません。あなたも知らないわね、フランク?」
彼女の夫は、沈んだ表情で首を横にふった。ソーンダイクは、そのハンカチを引出しにしまった。
「それでは、今度は」と彼は言った。「君に別のことを質問したい。君がハロウェイにいたころ、ウッドソープという名の看守――もしかしたら助看守がいたと思うが、君は、その男のことを憶えているかね?」
「そりゃもう、よく憶えています。実をいうと、あの人が――」
「わかっているよ」とソーンダイクはさえぎった。「ハロウェイを出てから、その男に会ったことがあるかね?」
「はい、一度だけあります。復活祭の翌日、動物園で会いました。いまはラクダ小屋の番人をしています」(ここで、にわかに一条の光線がさしたような気がして、私は思わず、くすくす笑い出してベルフィールドを驚かせた)「あの人は、私の子供をラクダの背に乗せてくれたりして、すごく愛想がよかったです」
「ほかに、どんなことがあったか、憶えていないかね?」とソーンダイクはたずねた。
「憶えています。ラクダが小さな事故を起こしました。急にあばれ出して――ひどく気の荒いやつなんですが――足を杭《くい》にぶっつけてしまったのです。あいにく、その杭には釘がとび出していましたので、脚の皮を、すこしはがしてしまいました。そのときウッドソープが、自分のハンカチを出して傷口をしばったのですが、あまりきれいなハンカチではないので、私が、『そいつを使うのはよしたほうがいいよ、ウッドソープさん。わしのを使ったらどうですか』と言ってやりました。私のは、とてもきれいだったものですからね。それで、あの人は、そのハンカチをとって、ラクダの脚をしばり、私にこう言いました。『住所を教えてくれれば、あとで洗って送りかえすよ』しかし私は、その必要はないと言いました。動物園を出るとき、ラクダ小屋のそばを通るから、そのときハンカチを返してくれればいい、と言ったのです。そして、私は、そのとおりにしました。一時間ほどたって小屋をのぞきましたら、ウッドソープがハンカチを返してくれたのです。たたんでありましたが、洗ってはありませんでした」
「君は、そのハンカチが自分のものかどうかを調べてみたかね?」とソーンダイクはたずねた。
「いいえ、そのときは、ただそれをポケットにつっこんだだけでした」
「それをあとでどうしたかね?」
「家へ帰ってから、私はそれを汚れものを入れるバスケットのなかへ入れておきました」
「それがハンカチについて君が知っている全部だね?」
「そうです、それで全部です」
「よろしい、ベルフィールド。よく話してくれた。もうなにも心配することはない。もうすぐキャンバーウェル殺人事件の全貌がわかるよ――君が新聞を見ればの話だがね」
前科者と彼の妻は、ソーンダイクが保証してくれたので、ほっとしたらしく、元気に帰って行った。二人が帰ったあと、ソーンダイクは、ハンカチと便箋の半分をとり出して、それを警部に渡した。
「思ったとおりだよ、ミラー君。なにもかも、実にぴったりとつじつまが合って行くようだ。二か月前に、あの奥さんは、はじめてハンカチが入れかわっていることに気がついたのだが、復活祭の翌日――二か月よりも少し前に――あの実に意味深長な出来事が動物園で起こっているのだ」
「それはいいのですがね、博士」と警部は反論した。「しかし、そんなことがあったといったところで、それは、ただあの二人がそう言っているだけじゃありませんか」
「そうではないよ」とソーンダイクは答えた。「ぼくらは有力な証拠を握っている。君は、ぼくがあのハンカチの血痕のついた部分をすこし切りとったことに気がついただろうね?」
「気がついて、困ったことになったと思っていましたよ。本庁の連中は、きっといやな顔をするにきまっています」
「ほら、これがそうだが、ここで一つジャーヴィス博士に、これについての意見を聞かせていただこうじゃないか」
彼はハンカチを入れておいた引出しから顕微鏡のスライドをとり出し、机の上に顕微鏡をおいて、そのスライドを挿入した。
「さあ、ジャーヴィス」と彼は言った。「なにが見えるか説明してくれないか」
四角く切りとった生地の端を、(それは液体の試薬に漬けてとりつけてあった)強力な対物レンズで見た私は、しばらくのあいだ、その生地についている血の形に頭をひねった。
「鳥の血みたいだ」と、やがて私は、いくらか躊躇《ちゅうちょ》しながら言った。「しかし核が見つからない」私はまたレンズをのぞいた。それから不意に「おや?」と叫んだ。「わかった。そうだ、これはラクダの血だ!」
「ほんとうですか、博士」と警部は興奮のあまり身を乗り出すようにして問いただした。
「そのとおりだよ」とソーンダイクは答えた。「ぼくは今朝、家へ帰って、それを発見したのだ。いいかね」と彼は説明にとりかかった。「これは、まぎれもない事実なのだよ。一般に哺乳《ほにゅう》動物の血球は、まるいのが普通だが、ラクダ科の動物だけは、ただ一つの例外になっていて、その血球は楕円形なのだよ」
「ふうむ」とミラー警部はうなった。「そうするとウッドソープは、このキャンバーウェル事件に関係があるということになりますね」
「大ありだよ」とソーンダイクは言った。「君は指紋のことを忘れているようだね」
警部は、とまどったような顔をした。「指紋がどうかしたのですか?」
「あの指紋はスタンプでつけたものだ――実際は二つのスタンプでだがね――そしてその二つのスタンプは、警察の指紋紙から写真製版の方法でつくられたものだ。ぼくは、そのことをまちがいなく証明できる」
「もしそうだとしたも、それがどうしたというのですか?」
ソーンダイクは引出しをあけて写真をとり出し、それを警部に渡した。「これは」と彼は言った。「君が親切にぼくにくれた警察の指紋用紙の写真だ。その下の欄に、なんと書いてあるかね?」そう言って彼は指でその欄を示した。
警部は声を出して読んだ。「指紋係、ジョゼフ・ウッドソープ。地位、看守。ハロウェイ刑務所勤務」彼は写真をしばらくじっと見つめていたが、やがて叫んだ――。「これは驚いた。実に鮮やかなものです。それに、実に迅速だ。明日の朝、早々にウッドソープをひっとらえてやります。しかし、奴は、どんなふうにして、あんなことをやったのでしょうね?」
「彼は指紋の写しをとって、それをもっていたのかもしれない。囚人たちに怪しまれるということは、まずありえないからね。しかし、この事件では、彼は、そうやらなかったようだ。おそらく彼は、指紋用紙を担当の係りにひき渡す前に写真をとることを考えたものにちがいない――机の上に適当なハンドカメラをおいて、壁から適当な距離にはなして写すくらいのことは、熟練した写真家なら、ほんの一分か二分ですむことだ。ぼくの調べたところでは、彼は、なかなか腕のいい写真家だそうだ。彼の家を家宅捜索すれば、たぶん、写真機や写真の道具一式、それからスタンプも見つかると思うよ」
「なるほど。今日は驚くことずくめでしたよ、博士。さあ、これから帰って、逮捕状の請求をしなくちゃなりません。それでは、おやすみなさい、博士。いろいろと、お力添えをいただいて、ほんとうにありがとうございました」
警部が行ってしまったあと、私たちは、しばらくのあいだ黙って、たがいに顔を見あわせながら坐っていた。やがてソーンダイクが言った。
「この事件はね、ジャーヴィス、簡単な事件ではあったが、なかなか貴重な教訓をふくんでいるように思うよ――よく心に銘記しておかなければならない教訓をね。それは、証拠としての事実の価値は、その事実が調べつくされるまでは未知数だということだ。これは自明の理だが、ほかの多くの自明の理と同じように、実際には、つねに見すごされている。今度の事件をとってみても、今朝ぼくがコードウェルの家を出たとき、ぼくがもっていた事実は、こういうことだった。
(一)コードウェルを殺害した男は直接間接に指紋課と関係をもっている。
(二)その男は、まずまちがいなく、腕のいい写真家である。
(三)おそらくは、その男はウィンチモア・ヒル事件やそのほかの強盗事件の犯人でもある。
(四)その男はコードウェルの顔見知りの人間で、彼と商売上の取引きがあり、たぶんコードウェルにゆすられていた。
これがすべてだ。ごらんのとおり非常に漠然たる手がかりだ。
それにハンカチがあった。ぼくは、おそらく、おとりに使われたのではないかと思っていたが、それを証明することができなかった。そのハンカチにスタンプで押してあったのはベルフィールドの名前だが、ゴム印くらい誰にでもつくることができる。それから、そのハンカチは、よくあるように血で汚れていた。その血は人間の血であるかもしれないし、そうでないかもしれなかった。それが人間の血であろうとなかろうと、たいして問題になるとは思えなかった。しかし、ぼくは内心、こう思っていた。もしそれが人間の血か、すくなくとも哺乳動物の血であるとすると、これは一つの事実だ。そして、もしそれが人間の血でないとすれば、それもまた一つの事実だとね。ぼくはその事実をつかまえたことになる。その事実が、どんな価値をもつようになるかは、やがてわかるだろうと思った。ぼくは家へ帰って、その血痕を調べてみた。すると、どうだろう、それはラクダの血だった。そこで、たちまち、このささやかな事実が第一級の重要性をもつ証拠にふくれあがったのだ。ほかのことは、それほど頭をなやます必要はなかった。ぼくは指紋用紙にウッドソープの名前を見つけていたし、ほかにも何人かの看守の名を知った。ぼくの仕事はロンドンじゅうのラクダのいる場所をたずねて、ラクダに関係のあるすべての人間の名前を調べ、そのなかに写真のうまい男がいるかどうかをたしかめることだった。当然、ぼくは最初に動物園へ出かけた。そして、その最初の一針《ひとはり》でジョゼフ・ウッドソープを釣りあげたというわけだ。だから、ぼくは、もう一度いう。どんな事実にもせよ、よくたしかめてみるまでは、関係がないなどと断言することはできないとね」
この注目すべき証拠は裁判にはもち出されなかった。ソーンダイクの名も証人の名前のなかに見られなかった。なぜなら、警察がウッドソープの家を家宅捜索したとき、非常に多くの有罪を立証する証拠が発見され、(そのなかには、ソーンダイクの言っていたとおりの指紋のスタンプが一組と、指紋用紙の写真が多数ふくまれていた)彼の有罪は疑問の余地がないものになっていたからである。かくて社会は、それから間もなく、一人の非常に望ましからぬ人物を厄介払いしたのであった。
[#改ページ]
解説
倒叙《とうじょ》推理小説と呼ばれる新手法は、フリーマンの一九一二年に刊行した「歌う白骨」The Singing Bone にはじまる。これは最初に犯罪を描き、次いでその探索と解決に及ぶ従来の推理小説の逆を行くという新機軸を編み出した中篇の作品集で、「オスカー・ブロズキー事件」以下五篇を収めているが、その序文の中でフリーマンは抱負を語っている。
[#ここから1字下げ]
従来の推理小説においては、興味が「誰がやったか」という疑問に集中されている。犯罪の解決は、秘密として最後のページまで熱心に守られている。そしてその暴露が最後のクライマックスになっている。
このことを私はいつも何か間違ったことだと思っていた。現実生活では、犯罪の解決ということが実際的な理由からして、もっとも重要な問題だ。しかしそんな理由の全然ない小説というものの中では、読者の興味は主として、単純な行動の意外な結果や疑ってもいなかった偶然の関係を示すことに、またさらに外見上支離滅裂な無関係な事実の山から系統だった証拠を見つけだすことに向けられるべきだと考える。読者は「誰がやったか」という疑問には、たいして好奇心を抱いていない。むしろ「どうして発見に成功したか」というほうに興味をもつのである。言い換えれば、聡明な読者は最後の結果よりも中間の行動のほうによけい興味をもっているのである。
[#ここで字下げ終わり]
この提言に対して首をかしげる読者は多いだろうし、まず「探偵作家論」の著者ダグラス・トムスンが不満の意を表明している。彼はフリーマンが犯罪捜査の過程を興味深く描ける能力をもっているものだから独断的になってしまったのだ、自己宣伝のように聞こえるが、もちろんそうではあるまいといいながら、読者が「聡明」になったら、心配、興奮、劇的な大団円といったものを犠牲にして、その代り「涙のない科学」があてがわれるだけだと嘆いている。
推理小説の興味は確かに「誰が犯人か」だけではない。それが知りたければ最後のページをめくれば事足りるだろう。当然犯罪の発覚して行く過程、推理の部分がもっとも欠くべからざる要素だが、その上に「犯人は誰であったか」という要素がもう一つ加わることによって、一段と興味をそそり、効果を発揮するに相違ない。
「歌う白骨」の中で最優秀作の定評ある「オスカー・ブロズキー事件」は第一部を「犯罪の過程」、第二部を「捜査の過程」に分けており、前者で犯人の完全犯罪計画を描くと見せかけ、後者ではその手抜かりを科学的捜査であばいて行く面白さを狙っている。
犯人は誰かという面を重視しすぎるあまりに、奇矯《ききょう》意外な犯人を提示しようと試みる悪癖がしばしば見受けられるが、その点から見れば犯罪追及の面に重点を置くことに異存はない。ただフリーマンの創始した新形式は、分野を開拓しようとする熱烈な野心的意図に敬意を表するものの、犯人は誰かという要素を捨てて顧みなかったところに問題が残されたのである。彼自身がそれ以後この種の作品を書かなかったのは、トムスンの言うように「彼の新工夫がすぐ尽きてしまった」からより、反響の乏しかったせいであろう。
ジョン・イヴリン・ソーンダイクの生みの親であるフリーマンが、わが国に紹介されたのははやい。ドイルはホームズ誕生以後十二年経ってからだが、ソーンダイクは本国で生まれて二年目にはお目見えした。一九〇九年のことである。本国でホームズと対立していたから、一方が紹介されれば、相手までかつぎ出されたのは当然であろう。
三津木春影の呉田博士を探偵役とする一連の物語の中に、ソーンダイクの功名譚がいくつも紹介されたし、またその頃、時事新報社から発行されていた雑誌「少年」に毎月連載された「関屋新之助探偵譚」も、ほとんどその翻案であった。後に推理小説の本山となった雑誌「新青年」が創刊号から訳載したのは「白骨の謎」で、フリーマンの「オシリスの眼」The Eye of Osiris(一九一一年)であった。
本国でも「ストランド」誌がドイルを売物にすれば、「ピアソン」誌はフリーマンをかつぐといったように、当時のイギリス推理小説界の二大花形であったが、わが国でもホームズと並んでソーンダイク探偵譚が数多く紹介され、往年の読者にとってもっとも有名な探偵の一人であった。
ホームズ譚がほぼワトスン博士をわき役に、しかも筆記者にしていることに倣《なら》って、ソーンダイクのほうもジャーヴィス博士がまったくそれに倣い、わずかに助手のポルトンが加わっているにすぎない。作者自身のソーンダイク紹介によると、一八七〇年七月四日ロンドンに生まれ、同地の聖マーガレット病院付属医学校を終え、病理学と法医学に詳しく、聖マーガレット博物館の管理者を務めていることになっており、さらに一八九六年法学院から弁護士の免許を得ている。こういう純粋の科学者に仕立ててあるため、博士の犯罪捜査法は、いわゆる七つ道具の捜査用器を携え歩いて、事件の証拠物件の緻密《ちみつ》な観察分析にもとづくことになっている。しかも博士自身が温厚善良で奇矯な性癖がない。だからホームズ一流の意表に出た推理にも乏しければ、彼のような変人ぶりも窺《うかが》えない。博士が至極健全な紳士であって、種々の実験器具によって着実な推理を進めれば進めるほど、事件は急転直下解決の一途をたどることは明白な点が、ドイルと双璧《そうへき》をうたわれながら、一歩を譲らねばならなくなった原因だと思われる。ホームズの言動に稚気を感ずる読者なら、この控え目な博士に好意を寄せるかもしれないし、私などはけれん味のない人柄が好もしくて、ソーンダイクをひいきしたくなる。
リチャード・オースチン・フリーマン Richard Austin Freeman(1862〜1943)は一八六二年ロンドンに生まれた。ミドルセックス病院付属医科大学に入学、六年間修業し、医師の資格を得ると同時に、同病院の耳鼻咽喉科長に就任した。一八八七年に植民地医務副主任に任命され、西アフリカのゴールド沿岸で当時疫病の猛威をふるっていたアックラに赴いた。一年余を経てアシャンティおよびジャマン地方の探検旅行に参加したのは、医師および土地測量員兼博物学者としてで、地点測定・天文観測・博物一般に貢献した。この遠征から無事帰還するや、トーゴランド地方の英独国境確定委員に挙げられ、再三の熱帯地旅行のため疫病に冒《おか》され、一八九二年にはアフリカ駐在の任を解かれた。
本国帰還後の五年間は母校ミドルセックス病院に耳鼻咽喉科長として勤務のかたわら開業した。この開業医の仕事は一九〇四年まで続けたが、いったんそこなわれた健康はなかなか回復せず、それに個人医師としての激務が加わって、職業を棄てなければならぬ羽目にたち至ったとき、彼の着目したのは文筆上の仕事であった。すでにアシャンティおよびジャマンの探検紀行を処女出版していた彼は、一九〇二年某医師との共著で「ロムネイ・プリングルの冒険」を出版した。読書と古代宝石の収集と自転車乗りを楽しんで隠退生活をしている主人公プリングルが、実は紳士盗賊で、その死後彼が生前実際に行なった詭計《きけい》を書き残していたという構成の下における短篇集で、この時使用された著者名クリフォード・アシュダウン Clifford Ashdown がフリーマンであることを明らかにしたのはエラリー・クイーンであった。
医業を廃してはじめに書いたのは、犯罪や推理のない冒険小説「黄金の池」The Golden Pool で、一九〇五年のことである。だが彼の医学者としての素養と、ホームズ譚の成功は彼に推理小説の執筆を決意させ、一九〇七年の「赤い拇指紋」The Red Thumb Mark でソーンダイク博士の登場を見るに至った。万人不同といわれる指紋による個人鑑別法の発見は、犯罪捜査史上画期的なものであったが、早速その贋造《がんぞう》法を取り扱ってすこぶる好評を博した。それに気をよくしたのと、ドイルの対抗馬としての雑誌社の勧誘のため短篇をはじめ、「オシリスの眼」や「三十一新館の謎」The Mystery of 31 New Inn の長篇を相次いで生み、いずれもフリーマンの代表作といわれている。
一九一二年の第二短篇集「歌う白骨」が倒叙推理小説の形式を創始した記念碑的業績であることを先に述べた。フリーマンの場合はソーンダイクが登場して各種の道具を用いさえすれば、あとは一瀉千里《いっしゃせんり》に片づくという平板さ、無味乾燥に物足らぬものがある。その後のアイルズやクロフツの実作によって、必ずしも形式に重大な欠陥があったとはいえぬことが証明された。その点彼の慧眼《けいがん》は高く評価されて然《しか》るべきで、推理小説の新分野を開拓した功労者である。
第一次世界大戦がはじまると、フリーマンは国防義勇軍所属の陸軍軍医の一員となったり、また野戦病院救護班の指揮官としてめざましい活躍を示した。一九二二年軍務から解放された彼は、ケント州で再び開業しながら、創作と手工品の余技に日を過ごした。中でも彼の余技は蝋《ろう》・粘土・石膏細工から、木工・金工の技術の点で素人の域を脱していたばかりでなく、製本|装釘《そうてい》・書籍表紙の押型・カット図案の作製・真鍮《しんちゅう》押型判の彫刻などにも、あざやかな才能を発揮している点、作中人物の万能ぶりを眼前に見るようである。
彼は大戦の結果から「社会の頽廃《たいはい》と再建」という論文で、経世家的一面を示したことがあるが、推理小説も規則的に発表し、第二次大戦中のドイツ軍英本土爆撃下の地下防空壕生活を経て、一九四三年九月三十日に死去した。著作は三十九種、うち四冊を除いたものが推理小説であり、さらに六冊の短篇集を除けば、彼がいかに長篇に精力を注いだかが察せられ、その点ホームズ譚といちじるしい対照を示している。
フリーマンの作風に対して、現実派と言い、科学的と冠するのは、いずれもあたっていないことはないが、その記述の信憑《しんぴょう》性に至っては類がない。彼の手になった作品は、どれを採りあげてもすこしのごまかしも見られない。彼自身ソーンダイク探偵譚の素材が信憑すべき真実にもとづいていることは、法律並びに医学関係の人々の皆等しく認めるところだと自負している。すなわち物語全体は架空的な作り話であっても、個々の小事件はあくまでも厳正な典拠のある事実で、しかも多くの場合、学界に対して未知の新事実を提供するものであるとまでいっている。
彼は厳密な実験の結果、確認されたことを作品の中に使用する主義で、先に述べた彼の余技の多種多様にわたる器用さに助けられた学者的良心のお蔭によるもののようである。何はともあれ異常な物語を提供する推理小説にあって、彼がおよぶかぎり現実の立場を崩さなかったところに彼の長短があるわけで、彼ほどオーソドックスな方法で推理小説に挑んだ作家はない。いたずらに煽情《せんじょう》を追わず卑俗に堕することなく、他の及び難い現実派科学的推理小説の第一人者になったのは当然であった。(中島河太郎)