舞姫タイス
アナトール・フランス/岡野馨訳
目 次
第一部
蓮華《ロータス》篇
第二部
紙草《パピルス》篇
饗宴篇
第三部
大戟《ユーフォルビア》篇
解説
[#改ページ]
第一部
蓮華《ロータス》篇
その頃、砂漠には隠遁者たちが住んでいた。ナイル河の両岸には隠遁者たちが柴や粘土で手ずから結んだ無数の草庵が、独居の生活をわずらわされぬとともに時に応じては互いに助け合うこともできるように、ある距離を置いて散在していた。ところどころ、屋根に十字架をあげた聖堂が、草庵の上にそびえていた。聖祭日のたびに、修道士たちは、その聖堂におもむいてミサに列し、秘蹟をさずかるのであった。ずっと河にのぞんで、また幾つかの修道院があったが、そこに住む修道士たちは、めいめい、その手狭な独房に深くこもっていて、時々集まりはしたが、それは更に孤独を味わおうとするためであった。
隠遁者や修道士たちは、禁欲の生活を営み、日没後でなければ食物もとらず、食事としては、パンに少しばかりの塩とヒソップ〔ミントの一種〕とを添えて食べるだけであった。中には、砂漠の奥深くへはいって行き、洞窟や墓穴を宿にして、更に変わった生活を送る者もあった。
いずれもみな、邪淫の戒を守り、身には苦行帯や道服《キウキウル》をつけ、深夜まで勤行《ごんぎょう》しては地面へじかに眠ったり、祈祷したり、聖詩を唱えたりしていた。つまり、日ごと日ごとに贖罪《しょくざい》苦行の立派な仕事をなしとげて行った。人間には原罪〔人間の祖アダムの犯した罪〕というものがあるというので、快楽や満足ばかりか、俗世間の眼で見れば欠いてはならぬと思われる身の養生までも、しりぞけていた。四肢《しし》の患いは霊魂をすこやかにするものであり、腫れ物や傷こそ肉体にとって最もすぐれた飾りであると、彼等は信じていた。こうして預言者たちの「砂漠は花もて蔽《おお》われん」と言った言葉は、実現されて行った。
この神聖なテバイドの住民のうち、ある者は苦行と瞑想とに日を消し、ある者は綜欄《しゅろ》の繊維をあんで生計を立てたり、刈入れ時には近隣の農家に雇われたりしていた。異教徒たちは、この人びとの中には追はぎをしたり、隊商《キャラバン》を襲っては掠奪《りゃくだつ》をこととする浮浪のアラビア人と組んだりしているものがあると、無実の疑いをかけていた。けれども、実際のところ、修道士たちは富を蔑視し、彼等の徳の香は天上までも立ち昇っていたものだ。
若者の姿をした天使たちが、旅人のように手に杖を持って隠遁者たちを訪れて来るかと思えば、また一方では、悪魔たちはエチオピア人や畜類にばけて彼等を誘惑しようとして、そのまわりをうろついた。朝、泉の水を水甕《みずがめ》に汲みに行くみちすがら、修道士たちは半人半山羊《サチール》の魔神や半人半馬《サントール》の魔神の足跡が、砂上に印せられているのを見た。実際上から言っても精神的な点から言っても、テバイドの地は、天国と地獄とのもの凄い戦闘が絶えず行われる修羅場であった。ことに夜はそうであった。
隠遁者たちは、悪魔の群れにはげしくせめたてられたが、神と天使たちとに助けられ、断食、悔悛、難行苦行などをして身を守ることができた。時には、無慙《むざん》にも肉欲の激しい衝動に責めさいなまれて、苦しさの余りにわめき叫び、もだえる呻《うめ》きが、星空の下で餓えた山狗《イーヌ》の啼き声とこだまし合うこともある。その時こそ、悪魔が、妖艶な姿をして彼等の前に現われるのであった。総じて悪魔は、実際はどれほど醜いものでも、時によっては本性が見分けられないほど美しい姿をすることがある。テバイドの隠遁者たちは、その独居のうちにあって、俗世間の耽溺《たんでき》生活を送っている者さえしらぬほどの淫靡《いんび》歓楽の影像を驚き恐れながら眼にした。しかし十字架が彼等の上に置かれていたので、誘惑に陥ちなかった。それで悪魔たちはもとの姿に戻って、東が白んで来ると、恥辱と憤怒とに心をみたして帰って行った。夜明けがた、泣き濡れて逃げて行く悪魔に出会うことは珍しくなかった。そして、わけを訊ねる人があると、こう答えた。「俺はここに住むキリスト教徒の奴に、笞《むち》で叩かれ、不面目にも追っ払われたので、泣いたりうめいたりするのだ」
砂漠の長老たちは、罪人や不信者の上に、権力を持っていた。彼等の慈愛は、時とすると恐ろしいものになった。彼等には、真の神に対して不敬を働いた者を罰する権能が使徒たちから与えられていたので、彼等から罰せられた者は、もう救われる術《すべ》はなかった。彼等の笞《むち》で叩かれた悪人を呑み込むために大地が裂けた、と、村々や遠くはアレクサンドリアの町の人々まで、恐ろしげに物語っていた。それゆえ彼等は、素行のおさまらない人、ことに狂言師、道化役者、妻帯の僧、娼婦などから恐れられていた。
これら修道士の徳は、猛獣をさえもその力の下にしたがえたくらいであった。ある隠遁者が死に瀕したとき、一頭の獅子がその聖者のところへ来て爪で穴を掘った。聖者は、それによって神がお召しになっていることをしり、仲間の人の頬へ接吻しに行き、それから、主主の胸に眠るために、歓喜にみちて身を横たえたことがある。
さて、百余の齢《よわい》を重ねたアントニウスが、その鍾愛《しょうあい》する弟子マカリウスとアマタスとを伴ってコルザン山に隠遁してからというもの、テバイドじゅうにアンチノエの院長パフニュスよりも多くの善行を積んだ修道士はなかった。もっともエフレムとセラピオンとは、もっと多くの修道士の上に立ち、修道院の霊肉両面の教導には優れていたけれども、パフニュスとなると、非常に厳格に断食を守り、時によるとまる三日間何も食べないことがあるくらいであった。ひどく硬い毛でできた苦行衣をつけ、朝夕に身を笞《むち》打ち、地に額《ぬか》づきひれ伏していることが多かった。
彼に随《したが》う二十四人の弟子は、師の独房の近くにめいめいの小舎《こや》を建て、その苦行を見習っていた。パフニュスは、その弟子たちをキリストの御名においていつくしみ愛し、絶えず悔い改めるように説きすすめた。その求道の弟子のうちには、長年の間強盗ばかりしていたが、この聖者の説教を聴いて感動し、翻然《ほんぜん》と修道生活に入った者もいた。しかもその後の彼等の生活の清浄なことは、他の信徒を教化するほどであった。昔はアビシニア女王の料理人をしていたがやはりアンチノエの院長の手でキリスト教徒となり、いつも涙にむせんでいる男や、聖書にくわしく話術も巧みな助祭のフラヴィアンなどは、多くの弟子の中でも際立っていた。しかし、パフニュスの弟子のうちで一番感心なのは、その性質が極めて質朴なので『愚鈍《サンプル》』とあだなされているポールという若い農夫であった。人々はその愚直さを嘲《あざけ》ったが、神は彼に、幻影を見る眼を授け、預言の力を与えて加護された。
パフニュスは、弟子の教育や苦行によって、自分の生活を聖化した。また、主の寓意を見出すために、幾度も聖書の言葉を思索した。それがために、まだ若年ながらも善行を積んでいた。善良な隠遁者たちを激しくせめたてる悪魔も、さすがに彼には近寄ろうとしなかった。夜、月光をあびて、七頭の小さな金狼《ジャッカル》が彼の独房の前にうずくまり、身じろぎもせずに黙々と耳そばだてて控えていた。これこそ、彼の清浄の徳のために、内へ入ることのできない七つの悪魔であった、と世に信ぜられている。
パフニュスは、アレクサンドリアの貴族の出で、両親は彼に俗世間の教育を受けさせた。彼は、詩人の虚言にさえ惑わされ、その青年期に入った頃には、思想は乱れ精神は錯誤にみちていて、人類がデウカリオンの時代にノアの洪水で溺れてしまったと信じ、学友と、神の本性や、その属性や、存在をすら論議したほどであった。当時彼は、異端者のならいにしたがって遊蕩三昧に暮らしていた。その頃のことは、彼にとっては思い出すたびに、羞恥不面目のたねであった。
「あの頃は、私は虚偽の歓楽の釜の中で煮えくり返っていた」と、彼はよくその仲間の修道士に言ったものだ。
それはうまく料理された肉を食べたり、公衆浴場に通いつめたことを言うのである。実際、二十歳になるまで、彼は、生というよりも死といった方がずっと似つかわしいような俗世間の暮らしをして来たが、司祭マクランの教えを受けてからは、全く別人になってしまった。
真理が彼の体全体にしみ込んだのである。それを彼は、真理がまるで剣のように身うちに入った、と口癖に言っていた。彼は、カルワリオ〔キリスト磔刑《たっけい》の地名。十字架への信仰の意〕の信仰を奉じ、十字架に釘付けられたキリストに対して熱い愛を捧げた。洗礼を受けた後、なお一年は、因習の絆《きずな》にひきとめられて、俗世間の中で邪宗の徒と交っていたが、ある日、教会へ入って行ったとき、折から助祭が聖書の次の一節を読んでいるのを耳にした。『爾《なんじ》もし、全《まった》からんと思わば、往きて爾の所有《もちもの》を売りて、貧しき者に施せ』彼は直ちに自分の財産を売り払い、その代価を布施し、そして修道生活に入って行った。
俗世間を離脱して十年この方、もはや彼は、肉の快楽の釜の中で煮えくり返ることもなく、苦行の香油の中にひたって、身を修め徳を積んで来た。
ある日、信心深い日ごろのならわしで、少しも神をしらずに生活していた頃を回想しながら、自分の犯した罪を一つ一つ、その醜さをはっきりと知るためにしらべていると、かつてアレクサンドリアの劇場で、タイスという艶麗|妖美《ようび》な舞姫を見たことが思い浮かんだ。その女は、舞台で、もの恐ろしい愛欲の身振りを思い出させる巧妙過ぎるほど整ったしぐさのある舞を、はばかるところなく、平気で踊っていた。またその女は、ウェヌスやレダやパシパエがしたと異端者の神話が伝える、あの恥ずべき動作を真似たりした。こうして彼女は誰彼の差別なく、観客を淫蕩の火で燃え立たせ、眉目《みめ》美しい若者や裕福の老人が、愛恋の想いを胸にたたえて彼女の家の戸口に花をかけに来ると、彼女は、その人をもてなし、自分の身を任せた。それで彼女は、自分の霊魂を地獄に堕《おと》すとともに、他の多くの人の魂をも堕落させた。
パフニュス自身も、その女に誘惑され、危く邪淫の罪におちいるところであった。タイスは、パフニュスの血管の中に情欲を燃え立たせたので、彼はあるとき、彼女の家へ近づいて行った。けれども、その娼婦の家の前までは行ったが、ごく若い者(当時、彼は十五歳であった)には当然の臆病さや、また金がたりないために(彼の両親は、彼が大金を使うことのできないようによく注意していた)もしや追い帰されはしまいかとの懸念などがあったので、彼はついにその家の閾《しきい》はまたがなかった。神は、いつくしみの御心をもって、彼を大罪から救うためにこの二つの方法をとられたのだ。しかしパフニュスは、最初このことについて、神に対し何の感謝の念も抱かなかった。それはその当時、本当に自分のためを思うということができなかったし、また、虚偽の幸福をのみ渇望していたためであった。
さて、独房のうちで、あたかも秤《はかり》にのせられたようにこの世の罪のつぐないのかかっている尊い十字架の形の前に跪《ひざま》づいて、タイスのことを思いはじめた。というのは、タイスは、彼の罪に当るものだったからである。そして彼は、苦行の方式にしたがって、無智と煩悩の時代にあの女からその味を感得させられた肉の歓楽の恐ろしい醜さを、長い間深く考えた。数時間そうして瞑想していると、タイスの面影が、実にはっきりと彼の前に現われて来た。彼は、かつて誘惑を受けた時に見たままの、肉体的に美しい彼女をまた眼にした。最初は、レダ〔ユピテルに愛された女。ユピテルは彼女の愛を得るために白鳥に変身したと言われる〕のような容姿で、ヒヤシンスの花の床にしだらなく身を横たえ、首を仰向けにして、眼はうるんで輝き渡り、鼻孔はひくひく小ゆるぎさせ、口は心もち開け、花のような胸を見せ、その腕は、二筋の小流れのように水々しかった。これを見てパフニュスは、己れの胸を打ちながらこう言った。
「おお神よ、私はあなたにお誓いしますが、私は今、自分の罪の醜さをじっと考えているのでございます!」
そのうちに女の姿は、いつとなくその表情を変えて行った。タイスの唇は、口の両隅でさがりながら、少しずつ、ある不思議な悩みをもらして来た。見ひらかれた眼は、涙とにぶい光にみちていた。太息にふくらむ胸からは、嵐の吹き始めのような息吹が昇って出た。それを見てパフニュスは、心の底までかき乱される気がした。彼はひれ伏して、こう祈りを上げた。
「牧場《まきば》にそそぐ朝露のごとく、われ等の心に御あわれみを垂れたまうた主よ、御いつくしみ深き正しき神よ、願わくは御名の祝福せられんことを! 御名のたたえられんことを! 主の僕《しもべ》から邪淫の心に誘うあの偽りの愛情を遠ざけたまえ。御名によってのみ万物を愛しますよう、聖寵《せいちょう》を垂れたまえ。万物は変転いたしましても、主は永遠にましますものでございますから。私があの女に心ひかれますのも、それはあの女が、主の御手になったものだからでございます。天使たちでさえ、ねんごろにあの女へお目をかけておいでになります。おお主よ、あの女はあなたの御口の息によって生命を授かったものではございませんか? あの女が、ああ多くの市民や異邦人と罪を重ねて行きますのはいけない事でございます。あの女に対して、大きなあわれみが私の心に起こって来ました。あの女の罪悪は憎むべきものでございます。それを思うだけでも、おそれに総毛立つくらい身ぶるいがいたします。けれども、あの女に罪があればあるだけ、私はあの女をあわれんでやらなければなりません。悪魔が永久にあの女を苦しめるものと考えますと、涙がこぼれます」
そうした深い想いにふけっていると、一頭の小さな金狼《ジャッカル》が自分の足下に来て坐っているのが眼についた。彼は非常に驚いた。独房の戸口は朝から閉めきってあったのだから。この獣は、院長の心のうちを読んでいるらしく、犬のように尾を振っていた。パフニュスは十字の印《しるし》を切ると、その獣は消えてなくなった。そこで、始めて悪魔が自分の部屋の中へもぐり込んだことを知って、彼は短い祈祷を上げ、それがすむと、また、考えをタイスに運んだ。
「神のお力添えを得て、私はあの女をどうしても救ってやらねばならない」と、心に言った。そして、彼は眠りについた。
その翌朝、祈祷を済ますと、彼は、少し離れたところに隠遁生活を営んでいる聖者パレモンの許におもむいた。行ったときその聖者は、愉快らしく、心静かに、いつもの通り地を鋤《す》いていた。パレモンは老人であった。彼は小さな菜園を耕していた。野に棲む獣がその手をなめに来たり、悪魔も彼を苦しめることはなかった。
「神は崇《あが》めたたえられん! いやこれはパフニュスさん」と、聖者は鋤《すき》にもたれて言った。
「神は崇めたたえられん! そして願わくは、平和があなたとともにありますことを」と、パフニュスが答えた。
「パフニュスさん、あなたの上にも平和がありますように!」と、パレモンは答えて、袖で額の汗を拭いた。
「パレモンさん、我々の話は、わが名によりて集まる者の間には我もその中に在らん、と約されたお方の賞讃の外に出でてはならないものです。そこで私は、天主の栄光のために案じ出したある目論見《もくろみ》を、あなたにお話しに上ったのです」
「では、パフニュスさん、あなたの目論見の上に主の祝福がありますように。ちょうど私の萵苣《ちしゃ》を祝福していただけたようにな! 主は、毎朝露をもってこの私の園へ恩寵をおかけ下さる。その御いつくしみの心に感銘して、私はお授け下さる胡瓜や南瓜のうちにも主をたたえておりますのじゃ。天主の平和のうちにわれらをお護り下さるよう、お祈りを上げようではありませんか! 心を惑わす放恣《ほうし》な情ほど恐ろしいものはありませんからな。そうした情に動かされると、われわれは、まるで酔《よ》い痴《し》れた者のようになり、右に左によろめいて、絶えず、今にも面目なくころんでしまいそうに歩いて行くものです。時によると、そうした狂熱は、淫《みだ》らな喜悦にわれらを沈めてしまうことがありますぞ。そしてそこに溺れる者は、汚れた空気のうちに、禽獣のような重苦しい笑いを鳴り響かせますて。この痛ましい喜悦は、罪人を、あらゆる放埓《ほうらつ》に引きずり込みますよ。が、時にはまた、この霊魂と官能との惑乱が、喜悦より幾層倍もわざわいの不信仰な哀愁にわれらを投げ込むこともあるものです。パフニュスさん、私はただ不幸な罪人に過ぎません。けれども、自分の長い生涯の間に、修道士にとって、哀愁よりも悪い敵はないということを味わいました。それ、狭霧《さぎり》のように霊魂をおおい包み、神の御光を見せなくする、あの執拗《しつよう》な憂鬱、あれを言うのですよ。救霊に対して、これくらい有害のものはありませんぞ。修道士の心に、つらい暗鬱な気分を拡げることは、悪魔の最大の勝利なのです。悪魔がわれらにただ愉快な誘惑ばかりをくれるものでしたら、その恐ろしさとて、今の半分もありますまい。ああ! でも悪魔は、われらを悲しませることに妙を得ています。そうそう、悪魔は、師父アントニウスに、見る眼に涙をわかすほど美しい黒ん坊の子供を見せたことがあったではありませんか。神のご加護を得て、師父アントニウスは悪魔の係蹄《わな》を避けられた。私は、あの方がわれらの間においでの頃にお知りしたが、あの方は、御弟子と賑やかに元気よくしていられて、決して憂鬱に陥られたことはありませんでしたよ。ところであなたは、何か目論見を思い立たれて、それを私に話しに来られたのではなかったかな。ともかくその目論見が、神の栄光のためのものであるとしたら、どうぞその事柄を私にお話し下さい」
「パレモンさん、いかにも私は、主を崇《あが》めたたえることを思い立っているのです。どうぞご助言下さいまして、私を強くして頂きたい。と申すのも、あなたは光明を多くお持ちですし、それに、あなたの理智の光は、罪のために一度だって曇らされたことはおありでないんですから」
「パフニュスさん、私は、あなたの草鞋《わらじ》の革帯を解く値打ちもないものですよ。そして私の罪業は、砂漠の真砂のように数知れない。けれども、私は年をとっております。それで、経験上のお力添えなら、なんなりとお望みに応じましょう」
「では、お打ち明けしますが、パレモンさん、私は、アレクサンドリアにタイスという娼婦《あそびめ》がいて、これが、罪障の中に生き、衆人の堕落のたねとなっているという想いに、たまらなく苦しんでいるのです」
「パフニュスさん、それこそ悲しむにふさわしい冒涜《ぼうとく》な行いです。異端者の間では、多くの女子《おなご》が、今言われた女子《おなご》のようにして生きております。この大不幸に当てはまるような救済方法を、あなたは、思いつかれましたのかな」
「パレモンさん、私はその女に会いにアレクサンドリアに行ってみます。そして神のご助力を得て、その女を改宗させてやるのです。というのが、私の目論見《もくろみ》なのです。どんなものでございましょう?」
「パフニュスさん、私は、不幸な罪人に過ぎないのです。だが、師父アントニウスは、常々こう言っておられましたぞ。『いかなる場所にいようとも、よそへ行くため、そこから出て行くことを急いではいけない』とな」
「パレモンさん、私の思いついたこの企てに、何か悪いものがあるとお思いですか」
「心やさしいパフニュスさん、あなたのご意図を疑うようなことを、神よ、お守り下さい。だが師父アントニウスは、またこうも言われました。『乾いているところに引き出された魚は、そこで死ぬものだ。それと同じに、独房を立ち去って、俗衆に伍して行く修道士は、善き決心から遠ざかることがある』」
こう話すと、老パレモンは、片足かけて鋤《すき》の刃《は》を土中に押し込み、一本の若い林檎の樹の周囲を一生懸命掘り始めた。すると一頭の羚羊《かもしか》が、木の葉を曲げもせずにさっと一跳びに庭の囲いの生垣を飛び越えて来たが、びっくりして不安そうに脚をふるわせて立ちどまった。それから、二跳びして老パレモンに近づき、そのほっそりした頭を馴れた友の胸に沈めた。
「砂漠の羚羊のうちにも神は崇めたたえられん!」と、パレモンは言った。
そして、小舎に黒パンを取りに行き、それを掌《てのひら》にのせてその軽快な羚羊に食べさせていた。
パフニュスは、しばしのあいだ思いにふけったまま、じっと路上の石をみつめていた。それから、今しがた耳にした事柄を考えながら、しずかに己が独房に帰って行った。その心には、激しい葛藤《かっとう》が行われていた。
「あの隠者は、いい相手だ」と、彼は思った。「慎重の心が、あの人にはある。それであの人は、私の目論見の賢明さを疑っている。でも、これ以上タイスを悪魔に取りつかせて置くのは、余りにむごいことと思う。願わくは神よ、ご指導下さいまし!」
こうして家路をたどって行くと、一羽の千鳥が、砂上に張った猟師の網にかかっているのが眼についた。その鳥は雌であると知った。というのは、折から雄鳥が網のところに飛んで来て、嘴で雌鳥のぬけ出られそうな裂け口ができるまで、網目の一つ一つを噛み破いていたからである。聖者は、この光景を見守っていた。そして、身についている神性の徳の力によって万象の神秘的意味をたやすく悟れたので、このとらわれた鳥は、冒涜の係蹄《わな》にはまっているタイスに外ならないのであり、麻糸の網を嘴で切っている千鳥にならって、自分は、タイスを罪につないでいる目に見えない絆《きずな》を、力ある言葉によって破るべきであると知った。それゆえ、彼は神をたたえて、最初の決心にしっかりと腹をきめた。けれどもついで、雄の千鳥が自分で破ったおとし穽《あな》にその足をとらわれて困っているのを見ると、彼はまた不安になってしまった。
その夜一夜はまんじりともしなかった。明け近く一つのまぼろしを見た。タイスがまた現われた。彼女の顔には、罪の情欲の色もなく、平常のように、薄絹の着物をまとってはいなかった。屍衣《きょうかたびら》に全身を包まれ、顔の一部さえ蔽われていたので、パフニュスには、ただその二つの眼しか見えなかった。その眼は、清い重たげな涙を溢《あふ》らしていた。
これを見て、彼もまた涙に暮れはじめた。そしてこのまぼろしは、神が自分にくだしたまうたものと考えて、もう躊躇しなかった。彼は起ち上って、キリスト信仰の表象である節くれだった杖をとり、独房を出た。戸口は、砂漠に棲む獣や空飛ぶ鳥が入って来て、枕元にしまってある聖書を汚すことのないようにと、注意して固くとざした。そして、助祭のフラヴィアンを呼んで、二十三人の弟子たちの取り締りを託すと、ただ一枚の長い苦行衣を身につけただけで、ナイル河へ向って行脚についた。彼は、リビア側の岸伝いに、かのマケドニアの大王が建設したアレクサンドリアの町まで歩いて行くつもりでいた。空ほの白む頃から、彼は、疲れや飢渇はものともせずに砂上を歩みつづけた。そして、日がすでに西の地の果てに落ちて来たころ、ものすさまじいナイル河の水が、金と輝き火と燃える岩の間を血に染められたような色を呈してとうとうと流れているのを見た。彼は、その岸に沿って進んで行った。ところどころにぽつんと立っている小舎の戸口で、神の愛のためにとパンを乞うては、罵《ののし》られ、拒まれ、おどかされたりしたが、心は喜悦に浸っていた。追はぎにも野獣にもおそれは抱かなかったが、その行手にある町や村には、努めて入らぬように注意していた。彼は、子供たちがめいめいの家の前で骨細工の玩具で遊んでいるのに出会ったり、用水だめのほとりで、青色の肌着姿の女が水瓶を下におろしてほほえむのを見たりすることを恐れていたのだ。隠遁者にとっては、何もかも危険でないものはない。時には救世主が町から町へと歩き、その弟子たちと晩餐をともにしたという聖書の言葉を読むことも、彼等には一つの危険となる場合がある。孤独生活者たちが、信仰の織物の上に心をこめて縫いとりをするもろもろの善徳は、壮麗であるとともにまたもろいものである。浮世の風の一吹きに、その快い色もあせてしまうことがある。それゆえパフニュスは、もしや自分の心が、人間の姿を見て弱まりはしまいかと恐れたので、人里に入ることは避けていた。
そこで彼は、さびれた道から道へととって行った。日も黄昏《たそが》れた頃、タマリスクが、微風に優しくなぶられてはもらすさざめきを耳にすると、彼は身を顫《ふる》わした。そして、万象の美をもう眼にしまいと、頭巾を眼の上へおろしてしまった。行くこと六日の後、シルシレというところにたどりついた。そこではナイル河が、迫った峡谷の間を流れていて、その両岸には重畳《ちょうじょう》した花崗岩の山がつらなっている。エジプト人が悪魔を礼拝していた頃にその偶像を刻んだのは、そこである。パフニュスは、まだ岩の中に作りつけたままである大きなスフィンクスの首を眼にした。彼は、その首が、何か悪魔の力でも持っていはしないかと恐れて、十字の印《しるし》を切りイエスの名を唱えた。するとたちまち一匹の蝙蝠《こうもり》がスフィンクスの片方の耳から逃げ去った。それでパフニュスは、数世紀間この姿のうちにこもっていた悪霊を追い払ったと知って、一層熱心の度を増し、大きな石を拾い上げるとその偶像の顔に投げつけた。その時、スフィンクスの神秘な顔は、パフニュスの心も動かされたほどの深い悒愁《ゆうしゅう》の色を浮かべた。実際、この石の顔に印せられた超人的苦悩の表情は、どんなに感じのにぶい人をも動かしたことであったろう。それでパフニュスは、スフィンクスに向かってこう言った。
「おお獣《けだもの》よ! 我らが神父アントニウスが砂漠で会われた半人半山羊《サチール》の魔物や半人半馬《サントール》に倣《なら》って、イエス・キリストの神徳を認めよ! すれば私は、父と子と聖霊との御名においてお前を祝福してやろう」
彼がそう言うと、薔薇色の微光がスフィンクスの眼からさした。そしてその重たげな眼瞼が顫え、花崗岩の唇が、人間の声の反響のように、イエス・キリストの聖名を、骨を折って発した。それでパフニュスは、右手を延ばしてシルシレのスフィンクスを祝福してやった。
それから、彼はまた歩き出した。すると、谷がだんだん開けて来て、ある大きな町の廃墟が見えた。寺院が、まだ立ったままに残っていて、円柱代わりの偶像に支えられていたが、その牝牛の角のある女たちの首は、神の御許しを得て、パフニュスの上にじっと眼をそそいでいた。パフニュスは色を失った。こうして十七日の間、彼は歩いて来た。食物としては僅かばかりのハーブを噛むだけで、夜は崩れ落ちた宮殿の中に、野良猫やファラオの鼠と一緒に眠りをとった。そこには人魚も入り込んで来たが、パフニュスは、その半身うろこのある魚体の女が地獄から来ることを知っていたので、十字の印《しるし》を切っては追い払った。
十八日目に、人里からはかけ離れたところに、椰子の葉で作った、砂漠の風がもたらす砂に半ば埋もれている見るかげもない小舎を見出したので、この小舎こそ信仰厚い隠遁者の住み家に違いあるまいと望みをかけ、近づいて行った。戸というものがまるでなかったので、一つの水瓶と一束の玉ねぎと乾草の寝床一つといった家の中の様子がすっかりうかがわれた。
「あれこそ、隠遁者の持ち物だ。隠遁者はその独房から余り遠くへ行かないのが常だ。かならず、じきこの人に会えるだろう。私は、聖者アントニウスが求道者ポールのもとに赴むかれて三度接吻された例にならって、この人に平和の接吻を与えたいものだ。二人で永遠の事象について話しかわそう。すれば、おそらく天主は一片のパンをからすに託してお授け下さるだろう。そのパンをこの家の主は、分って共にしようと、まごころから言ってくれるに相違ない」
こうひとりごちながら、彼は、誰かいはしないかと小舎のまわりを廻って見た。百歩と行かないうちに、一人の男が、ナイル河の岸に端座しているのを認めた。その男は裸であった。髪もひげもすっかり白く、体は煉瓦よりも赤かった。パフニュスは、これこそまぎれもなくかの隠遁者だと思った。彼は、修道士が出会ったときに交わす例となっている言葉をかけて、挨拶した。
「法兄《フレール》よ、平和が、あなたとともにあらんことを。願わくは、いつの日かあなたが、天堂の醍醐味を味わわれんことを!」
その男は、何の返事もしなかった。じっと不動のままで何も耳にはいらないようであった。パフニュスはこの無言が、聖者の身にはよくある恍惚入神の境地から来るものであると思い、自分もその未知の男と並んでひざまづき、合掌して日没まで祈りつづけた。その時になっても、そばの男が動かないのを見て、パフニュスは、こう言葉をかけた。
「師父《ペール》よ、法悦に深く浸っておいでのようにお見受けしましたが、もし、それからお目醒めのようでしたら、われらが主イエス・キリストの御名によって、私に祝福をお授け下さいまし」
その男は、見かえりもせずにパフニュスに答えた。
「旅のお方よ、わしにはお前さんのいう言葉の意味が分りませんわい、その主イエス・キリストなんて、まるで知りませんがな」
「ええッ!」と、パフニュスは叫んだ。「預言者たちが告げたあのお方です。殉教者のむれは、その御名を公言し、皇帝すら礼拝されたあのお方です。つい今しがたも、私はシルシレのスフィンクスに、そのお方の栄光をたたえさせて来たばかりです。あなたがあのお方を知らないなんて、そんなことがあり得ることでしょうか?」
「そうかもしれない」と相手が答えた。「また、確かなことでさえあるかもしれんて、もしこの世に確実性といったものが何かあるとしたらばね」
パフニュスは、この男のあまりにもひどい無智さに、驚きもし、心痛ましくも思った。
「あなたがもしイエス・キリストをご存じないとすると、あなたのなさるわざは何の役にも立たないし、あなたは永遠の生命を得られませんよ」
老人は言い返した。
「動くということも動かないということも、むだな事さ。生きるも死ぬのも同じことだ」
「なんですって! あなたは永遠の中に生きたいとは望まれないのですか? だが、ねえ、あなたも隠遁者たちのように、この砂漠の中の小舎に住んでおいでではないのですか?」
「そうかもしれない」
「裸で、すべてを無いものにしてお暮らしではないのですか?」
「そうかもしれない」
「草根木皮《そうこんもくひ》を身の糧となし、純潔を守っておいでではないのですか?」
「そうかもしれない」
「この世のありとあらゆる虚栄を捨てられたのではないのですか?」
「いかにもわしは、普通に、人間の心づかいとなるような空《くう》な事柄は、みな、棄ててしまった」
「それで、あなたは、この私のように貧しく、廉潔《れんけつ》で、また孤独でおいでだ。けれども、それは私のように、神の愛のため、天の福祉のためにそうしているのではないのだ。そこが私には合点《がてん》が行きかねるのです。イエス・キリストを信じないとしたら、なぜあなたは徳を守っておいでなのです? 天国の至福を得ることをねがわれないとしたら、この世のあらゆる幸福を、なぜ、あなたはお断ちになっておいでなのです?」
「旅のお方よ、わしは、幸福を何ひとつ断ってなどいない。わしは、十分満足の行く生活方法を、見出したと喜んでいる。もっとも厳密に話せば、いい生活も悪い生活もあったものではないがね。本来、事物それ自身においては名誉とか恥ずべきとか、正しいとか不正とか、快いとか苦しいとか、善であるとか悪だとかいうものは、何も無いものだ。事物に性質を与えるのは見解がするのだよ。ちょうど、塩が食物に味をつけるようにな」
「としますと、あなたのお説にしたがえば、確実というものはないことになりますね。あなたは、偶像崇拝の徒さえ探し求めた真理を否定しておいでだ。あなたは、まるで、泥のなかに眠る疲れた犬のように、無智の中にころがっておいでだ」
「旅のお方よ、犬をののしったり、哲学者をののしったりすることも、同様に空《くう》なことだ。われわれは犬がなんであるか、われわれがなんであるかも知っていやしない。われわれは、なんにも知っていやしない。われわれはなんにも知らないのだ」
「ご老人、ではあなたは、あの馬鹿げた懐疑学派に属しておいでなのですか? するとあなたは、運動と休止とを等しく否定し、太陽の光明と夜の闇との区別のまるでつかないあのみじめな狂人の一人なのですか?」
「そのとおり、わしは懐疑論者だ。わしの一派を、お前さんは馬鹿げたと判断されるが、わしには賞賛すべきもののように思われるのだよ。これも、同一の事物が、種々異なった外観を持っているためだ。メンフィスのピラミッドは、夜の引き明けには、薔薇色の光の円錐に見えるが、日の暮れ時になると、燃え立つような空の上に、真黒な三角となって現われる。けれども、誰一人、その本来の実体を看破するものはありやしない。お前さんは、わしが仮象《かしょう》を否定するといってとがめ立てなさるが、その仮象こそ、わしが認める唯一の実在なのだよ。太陽は輝やかしいものに見える。しかし、その本体は、わしは知らない。火は熱いと感じる。でも、それがなぜだか、どうしてだかは分らない。お前さんは、ひどくわしを誤解していられる。だが、どう解されようと、かまったことではない」
「もう一言おたずねしますが、なぜあなたは、この砂漠でナツメヤシの実や玉ねぎを食べて生きておいでなのです? なぜ、大苦行に忍従しておいでなのです? 私もまた、あなたと同じくらいの大苦行に堪え忍び、やはり、孤独のうちに禁欲生活を守っております。けれどもそれは、神の御こころにそわんがためであり、無窮の幸福を得ようがためなのです。それこそ、合理的な目的です。なぜといえば、ある大きな幸福のために苦しむのは、賢いことですから。けれども、自分勝手に、無用の疲労やいたずらな苦難に身を置くことは、愚かなことです。もし私が――おお創られざる光明よ、この冒涜《ぼうとく》をお許し下さいまし――もし私が、預言者たちの言葉によって、御子キリストの模範によって、使徒たちの行跡によって、教議会の威信によって、また、殉教者たちの証言によって、神がわれわれに教え給うた真理を信じないとしましたなら、もし私が、肉体の苦痛は霊魂の健康に必要であると知っていないとしましたなら、もし私が、あなたのように、聖なる神秘について全く無智の状態に沈んでいるものでありましたなら、私は、すぐさま世俗の人間に帰って行くでしょう。私は、浮世の幸福な人のように安逸な暮らしをするために富を得ることに努めることでしょう。そして、悦楽に向って、『おいで、娘たち、おいで、召使いの女たち、みんな来て、お前たちの酒や媚薬《びやく》や香料を私にそそいでおくれ』と言うでしょう。しかしあなたは、無分別なご老人よ、あなたは、すべての利益を断っておいでなさる。あなたは、何の利得をも得ようとなさらずに失っておいでだ。あなたは、報酬の望みなしに与えていられるのです。そしてちょうど、厚かましい猿が壁に落書きしながら立派な画人の絵を写しているように思うのと変わりなく、あなたは、われわれ隠遁者のあっぱれな仕事を滑稽に真似ていられるのです。おお、人間じゅうでの愚か者、一体あなたは、どんな理屈がおありなんです?」
パフニュスは、荒っぽくこう話したのだが、相手の老人は、じっと落着き払ったままでいた。そして静かにこう答えた。
「いや、泥濘《でいねい》の中に眠る犬や悪戯《いたずら》な猿の理屈が、お前さんになんのかかわりがあろう」
パフニュスは、神の栄光のみを目的としていたので、怒りが静まると、気高い謙遜の心をもって詫びた。
「お許し下さいまし。おお、ご老人、法兄《フレール》よ、真理を思う熱情に駆られて、つい度を越したことをいたしましたが、私が憎みましたのは、あなたの謬説《びゅうせつ》であって、あなたご自身でないことは、神が証人です。私は、あなたが暗黒の中においでなのを見るに忍びないのです。イエス・キリストの御名によってあなたを愛していますし、あなたの霊を救おうとする念が心に一ぱいだからです。お話し下さい、あなたの理屈を聞かせて下さい。それを説破するために、私は知りたくてたまらないのです」
老人は、静かに答えた。
「わしは、話してもだまっていてもどちらでもいいという気になっている。では、わしの理屈を話して聞かせよう、だが、お前さんの説をそのかわりとして聞かせてもらいたくはない。お前さんは、少しもわしの関心にならないんだからね。お前さんの幸福も不幸も、わしには気にならないし、お前さんがどんな風に考えようと、わしの知ったことではない。またどうして、お前さんを好いたり憎んだりすることができよう? 反感も同情も、賢者にふさわしくないことだ。だが、訊ねられたからには、わしがチモクレスという者で、コスの、交易で富を積んだ家に生れたことを知ってもらおう。親父は、船を艤装《ぎそう》していた。その才智は、あの大王とあだなされたアレキサンドルにひどく似かよってはいたが、でも、あれよりするどくはなかった。だが要するに、憐れな人間の本性だったのさ。兄が二人いたが、どっちも親父のように船の仕事にしたがっていた。このわしは、智徳の道を修めて行った。さて長兄は、親父の言いつけで、チマエサというカリアの女を不承不精に娶《めと》ったものだが、ひどく嫌って、一緒にいると暗い憂鬱に沈まずにはいられないといったくらいだった。すると次兄の胸には、チマエサに迷う途ならぬ恋の想いがそそられて来て、やがてその愛欲は、激しい狂気の沙汰にまで変ってしまった。でもカリアの女は、二人とも嫌っていた。その女は、ある笛吹きを愛していて、夜になると、自分の部屋で逢曳をしていたものだ。ある朝、その男がいつも宴席につけて行く冠を、その部屋に忘れて行った。二人の兄はその冠を見つけて、かの笛吹きを殺してしまおうと堅く約し、時を移さずその翌日、泣きすがって詫びる言葉には耳もかさずに、笞《むち》で打って打ちのめしてその男を殺してしまった。チマエサは、絶望して、気が狂った。そしてこのみじめな三人は、禽獣と変わりないさまになり果てて、コスの岸辺を狼のように吠え立て、唇には泡を吹き、眼は地から離さず、貝殻を投げつけては囃し立てる子供たちの嘲笑にとりかこまれながら、狂態をさまよわせていた。三人とも死んだ。父は、手ずからその三人を葬むってやった。その後まもなく、父も食べ物がまるで胃に通らなくなり、アジアの市場から、どんな肉でも果物でもみな買えるだけの富を持ちながら、餓死してしまった。父は、わしにその財産を残すことを大いに悲しんだ。わしはそれを旅費にして、イタリアや、ギリシア、アフリカと遊歴したが、賢い人にも幸福な人にも出会わなかった。アテネとアレクサンドリアで哲学を研究したが、その論争の喧ましさにぼっとしてしまった。そこでついに、印度までさすらって行くと、ガンジス河のほとりで、真っ裸な一人の男を見かけた。その男は、そこに三十年来端座したままじっとしていたんだ。蔦《つた》が、そのひからびた体にからんでいたし、鳥が、その髪の中に巣食っていたよ。でも、その男は生きていた。その男を目にしてわしはチマエサを想い出し、あの笛吹きや二人の兄、それから親父を想い出した。そして、このインド人は賢者だ、と、さとった。『人間が悩み苦しむのは、それは、自分が幸福であると信じているものを欠いたり、また、それを持っていてもなくしはしないかと心配したり、もしくは、不幸と信ずるものを受け忍ぶからのことだ。こんな信念は、みんな廃してしまえ、そうすればあらゆる苦労は消えて無くなる』と、こう思った。それでわしは、どんなものも利益あるものとは決して思わず、現世の幸福を全く捨ててかのインド人をみならい、孤独不動に生きようと決心したのだ」
パフニュスは、じっと熱心にその老人の物語に聞き入っていた。
「コスのチモクレスよ、あなたのお話は、まったく無意義のものばかりでないことは確かです。いかにもこの世の幸福を軽んずるのは賢いことです。けれども、それと同様に永遠の幸福を軽んじ、神の御怒りのまととなるのは愚かなことと言わねばなりますまい。私は、あなたの無智をふびんに思いますよ、チモクレス。それで私は、今あなたが三位一体の神の実在をお知りになって、子供がその父親に従うように神に従って行かれるよう、あなたを真理のうちに導きたいのです」
すると、チモクレスは彼の言葉をさえぎった。
「旅のお方よ、お前さんの教義を述べ立てるのはつつしんでもらいたい。また、お前さんの考え方をわしに共にさせようと強《し》いないでくれ。議論は、なんによらず、無駄なものだ。意見を持たない、というのが、わしの意見だ。より好みさえしなければ、わしの生活には迷妄というものがないのだ。お前さんはお前さんの道をお行き。そして生涯のつらい仕事の後で、まるで心地よい風呂にはいってでもいるように浸っているこの幸福な無感覚の状態から、わしを引き出そうとしないでくれ」
パフニュスは、信仰についての事柄には、何にでも深く通じていた。それで、人間の心というものについて持っている知識から、聖寵が老チモクレスの上に及んでいないことを、またこの自滅に熱中している霊魂には、まだ救われる日の来ていないことをさとった。彼は、教化する事が堕落の機会になるのをおそれて、老人の言葉には何も答えなかった。異教徒と議論しながら、それらを改宗させるどころか、かえって更に罪に導き入れるようなことは、往々ある例であるから、真理を持つ人々は、用心してそれをひろめなければならない。
「ではご機嫌よう、気の毒なチモクレスよ」
そう言って、深い溜息を洩らしながら、彼はまた、夜の道を信仰に燃ゆる旅にと向った。
朝がた、水際に、一本脚ですっくりと立って動かぬ鴇《とき》を見た。その薄青くまた薔薇色をしたくびが水の面に映っていた。河辺には、柳が遠く灰色のしなやかな葉の繁りをひろげていた。からっと澄み渡った大空を、鶴の群れが、三角の形になって飛んでいた。蘆《あし》の葉がくれにアオサギのなく声があった。河は、見渡す限りはてしなく、みどりの水を洋々と流していた。その上を、帆が、鳥の翼のように静かにすべって行った。そして岸のそこここでは、白壁の家がその影を水に落していた。遠い河面には薄|靄《もや》がたなびいていたが、椰子や花や果物にどっしり蔽われた島々の蔭からは、アヒルや鵞鳥や紅鶴や小鴨などのガヤガヤともの騒がしい群れが、気ままに浮かび出て来ていた。左手には、豊穣《ほうじょう》な峡谷が、歓喜に顫えているような畑や果樹園を、砂漠までひろげていた。太陽は穂を黄金に輝かせ、地の豊かさは、かんばしい塵となって発散していた。この光景を眼にして、パフニュスは跪づき、そして叫んだ。
「この私の旅をお恵み下さった主に祝福あれ! アルシノイチドの無花果《いちじく》の上に恵みの露をたれ給う神よ、野の花や庭の樹々を作り給いしと同じいつくしみをもて作り給うたあのタイスの心に、恩寵をたれさせ給え。この私の手により、あなたの天のエルサレムに香ばしい薔薇の木のごとく、あの女が花咲くことのできますように!」
そして花盛りの樹々や、輝やかしい鳥を見る度ごとに、彼はタイスを思った。こうして、ナイル河の左側の支流に沿いながら住民の多い肥沃な地方を通り、数日にして彼は、ギリシア人から美と黄金の都とうたわれたアレクサンドリアにたどり着いた。日はもう一時間も前に明けはなれていた。そのとき彼は、ある丘の高みから、薔薇色のあさもやの中に屋根屋根のきらめく広大なその都を見出した。彼は足を止め、胸に腕を組んで独語した。
「おお、あすこだ、罪の中に私が生れたあの楽しい住居、毒の香を私が吸ったあの輝やかしい空気、人魚の唄に聞き惚れた淫蕩の海! あすこに、私の肉身の揺籃、私の浮世の故郷がある! 世俗の人の考えでは美しい揺籃、著名な故郷! アレクサンドリアよ、お前の子らが、お前を母のように慕うのも無理はない。そして私も、麗しく飾られたお前の胸に生れたものだ。けれども、隠遁者は自然を軽んじ、神秘論者は仮象をいやしみ、キリスト教徒は生れ故郷を流謫《りゅうたく》の地と眺め、修道士は浮世にとらわれない。アレクサンドリアよ、私はお前の愛から離れて行ったのだ。私はお前が憎い! お前が憎い。お前の富、学問、やさしさ、美しさのために! 呪いを受けよ、悪魔の殿堂! 異教徒のみだらな臥床《ふしど》、アリウス教徒の邪悪な教壇、呪いあれ! そしてまたあなた、師父《ペール》聖アントニウスが砂漠の奥から来て、証聖者の信仰を固め殉教者の信念を強めるためにこの偶像教の城砦に入りこまれた時、指導したまうた天使よ、主のうるわしき天使よ、見えざる御子よ、神の最初の生命の息よ、私の前に飛ばれて、御翼のはばたきにより、今、私が現世の悪魔の間に吸おうとする不浄の空気に芳香をくゆらせたまえ!」
彼はまた歩き出した。そして、太陽門から町にはいった。この門は石造りで、傲然《ごうぜん》と高く立っていた。けれどもその門の陰には、貧しい者がうずくまっていて、通行人にシトロンや無花果をすすめたり、泣き声を立てながら一文二文の金をねだっていた。
ぼろをまとってそこにひざまづいていた一人の老婆が、パフニュスの苦行衣を引きとめ、それに接吻して言った。
「主につかえたまうお方よ、神様がこの私に御恵みをたれたまうよう祝福して下さいまし。私は、この世で随分と苦しみました。それで、来世ではあらゆる喜びを受けたいのでございます。おお聖者よ、あなたは神からおつかわしのお方でいらっしゃいます。ですから、あなたの御足の塵は黄金よりも尊いものでございます」
「主はたたえられん」と、パフニュスは言った。
そして彼は、半ば開いた手で、その老婆の頭の上に贖罪《しょくざい》の印《しるし》を切ってやった。
しかし、町にはいって二十歩も行ったか行かないかに、一群の子供たちが、ののしりながら、わめいて彼に石を投げはじめた。
「やあい、意地悪坊主! あいつめ、狒々《ひひ》よりも黒いぞ。山羊よりひげもじゃだ。のらくら者め! どうしてあいつをかかしのプリアブ〔果樹園や葡萄園の神〕のように、どこかの果樹園にもって行って鳥おどしにぶら下げてやらないのだろう? いけないや、あいつは花の開いた巴旦杏《はたんきょう》の樹に霰《あられ》を降らせるかもしれないからな。あいつめ、縁起の悪い奴だ。磔刑《はりつけ》にしちまえ! あの坊主を! 磔刑《はりつけ》にしちまえ!」
叫びと一緒に石が飛んだ。
「神よ! このあわれなる子供たちに御恵みをたれたまえ」と、パフニュスは呟《つぶや》いた。
そして彼は、こう考えながら道を進めて行った。
「私は、あの老婆には畏敬され、この子供たちにはあなどられている。このように同一の対象が、判断に定まりのつかぬ、ともすれば錯誤におちいりやすい人間によって、種々評価されるものだ。だから老チモクレスも、異教徒としては思慮のある人間と思わなくてはいけない。めくらであるあの男は、自分が光を奪われていることを知っている。理屈としてはあの男は、深い闇の奥底にいて『俺は光を見ているのだ』と叫び立てるかの偶像崇拝者たちに、打ち勝っている! この世における万物は、蜃気楼のようであり、散りやすい砂のようだ。恒久というものは、ただ神の中にのみ存するのだ」
それでも彼は、急ぎ足で町を横切って行った。十年ぶりではあったが、この町の石の一つ一つを見覚えていた。そしてどの石もどの石も彼に一つの罪を想い起こさせるつまずきの石であった。で彼は、広い通りの敷石を、素足で激しく踏み叩きながら、肉の破れた踵《かかと》の血まみれなあとをつけて快く感じていた。セラピの寺院の壮麗な柱廊を左に見て通りながら、彼は、芳香の中にまどろんでいるような豪奢な邸宅が立ち並んでいるある路《みち》にはいって行った。そこには、松や楓《かえで》やテレビンの樹が、その梢を赤い軒蛇腹《のきじゃばら》や黄金の露盤よりも高くのばしていた。少し開かれている門から、大理石の玄関に据えた青銅の立像や、繁みの中央に設けられている噴水などが見えた。これらの美しい隠宅の静安を乱すような音は何もなかった。ただ、笛の遠音が聞えて来るだけであった。パフニュスは、若い女のように優美な円柱に支えられている、かなり小さくはあるが品よく釣合いのとれたある家の前に立ちどまった。その家は、ギリシアの最も知名な哲学者たちの青銅の半身像で飾られていた。
その中には、プラトン、ソクラテス、アリストテレス、エピクロス、ゼノンの像のあるのを彼は知った。そして、叩槌《マルトー》で扉をたたくと、こう考えながら待った。
「金属が、これらにせ賢人に栄光を与えているが、無駄なことだ。彼等の虚偽はくじかれている。彼等の霊魂は、地獄に沈湎《ちんめん》してしまっている。そして、かの有名なプラトンさえも、雄弁の響きある声で地球を蔽うたものだが、その後は、ただ悪魔と論争しているだけにとどまっている」
一人の奴隷が、戸を開けに出て来た。そして、素足の男が入口の寄木細工《モザイク》の上に立っているのを見て、つっけんどんにこう言った。
「よそへもらいに行け、乞食坊生め。ぐずぐずしていると、棍棒で引っぱたいて追い払うぞ」
「私は、お前さんに何ももらいに来たのではない。ただ、お前さんの主人のニシアスのところへ案内だけしてくれればいいんだ」と、パフニュスは答えた。
奴隷は、なおも怒り立って答えた。
「うちの旦那様はな、貴様のような犬めらにはお会いにならないんだ」
「おいおい、どうぞ私の頼みをきいてもらいたい。私が会いたがっていると、お前さんの主人に取次いでもらいたい」と、パフニュスは言った。
「出て行け、乞食坊主め!」と、怒りたけった門番が叫んだ。
そしてパフニュス目がけて棒を振り上げた。彼は、胸にぴったり腕を組み合せて顔色も動かさず、まともに顔を打たれた。それから、穏やかにこう繰り返した。
「私の頼んだことをやってもらいたい、お願いだから」
門番は、がたがたと身をふるわせて、呟いた。
「この男は、苦しみをなんとも思わないが、一体、何者だろう?」
そして、主人に取り次ぐために走り入った。
ニシアスは風呂から上って来たところで、美しい女奴隷たちが、彼の体を掻いていた。ニシアスは、にこにこした優雅な男で、その顔には、柔らかい皮肉な表情がみなぎっていた。修道士の姿を見ると、立ち上り、腕を開いて近寄った。
「おお、君か、パフニュス、あの勉強友達の、仲のよかった、兄弟のようにしていた! 君だってことは、分るよ。ほんとのことを言うと、君は人間より獣に近くなっているがね。さあ、僕を抱いてくれたまえ。一緒に文法や修辞学や哲学を勉強した、あの頃のことを覚えているかい? あの頃から君は、もう、人づきあいの嫌いな、暗い気持ちの人に見られていたが、でも僕は、君が実に誠実だったので好きだった。僕たちは、君が馬のようにけんかいな眼で宇宙を見ていると言ったり、だから君が疑り深いのも無理はないなどと言ったものだ。君には、典雅なところは少し欠けていたが、寛大なことといったら、際限がなかったね。自分のいのちにも、金銭《かね》にも執着がなかった。そして、とても僕の興味をひき起こした、ある妙な天分、不思議な資質があったよ。よく来てくれたね、パフニュス。十年ぶりだ。君は砂漠を去って来たんだね。キリスト教の迷信を捨てて、昔の生活に甦るのだ。僕は、きょうの日を記念するために、白い小石を一つとって置こうよ」〔昔ローマ人は幸福を記念するために白い石をとった〕
そう言ってから、彼は女の方に振り向いて、こう付け足した。
「クロビール、ミルアタル、僕の大切なお客様の足や手やひげに、香料をつけて上げておくれ」
女はもうほほえみながら、水差しや硝子瓶や、金属製の鏡などを持って来ていた。けれどもパフニュスは、おごそかな身振りで女の近寄るのを留めた。そして、見ないようにと眼を伏せた。女たちが裸だったからである。ニシアスは、しきりに椅子をすすめたり、種々な料理や飲みものを出したが、パフニュスは、いずれも軽蔑してしりぞけた。
「ニシアス、私は君が、不当にもキリスト教の迷信と言っている事柄を、棄てたのではない。しかもそれは、真理中の真理なのだ。はじめにことばがあった、ことばは神とともにあった、ことばは即ち神なのだ。よろずものこれによって造られている。造られた者に一つとしてこれによらないで造られたものは無い、これにいのちがあり、この生は人間の光であったのだ」
「パフニュス」と、香料の薫りゆかしい寛衣《チュニック》をつけ終わったニシアスが答えた。「技巧もなく、ただ寄せあつめたいたずらなつぶやきに過ぎない言葉を暗誦して、僕を驚かせると思っているのかい? 君はまた少々ながら、僕も哲学を噛《かじ》っていることを忘れたのかい? そして無智の輩《やから》がアメリウスの緋《ひ》の衣から引きちぎって来たいくらかの切れ端のようなもので、僕を満足させられると思っているのかい。アメリウス、ポルヒュリオス、プロチノスが、栄光に輝いているとしても、なお僕を満足させないのにさ。賢人たちの作り上げた学説は、人間の永遠の子供らしさを喜ばせるための架空の物語に過ぎないよ。アーヌやキュヴィエやマトローヌ・デフェーズの物語、その他、ミレトス人の種々なお伽噺のように、気晴しの種にすべきなんだ」
ニシアスは、パフニュスの腕をとりながら、幾千巻のパピルスに書いた写本が、籠の中にころがっているひとまに案内した。
「これが僕の図書室だ。ここには、哲学者たちが宇宙を説明するために組み立てた学説の、ごくわずかなものがおさめてあるのだ。もっとも、セラペイアムの殿堂の豊かさをもってしても、すべてをおさめるわけにはいかないからね。ああ、だが、みんな病人の夢に過ぎないよ」
ニシアスは、無理にパフニュスを一つの象牙の椅子に坐らせて、自分も腰をおろした。パフニュスは、陰鬱なまなざしを図書室の書籍の上に流して、言った。
「これは、みんな焼いてしまわなければいけない」
「おいおい、そりゃ、ちと惜しかろうね!」とニシアスが答えた。「病人の夢も、時には面白いもんだからね。それに、もし人間のあらゆる夢やまぼろしをこわしてしまわなければならないとしたら、この世は形も色もなくなって、僕たちはみな、陰気なぼんやりした中に眠り込んでしまうだろうよ」
パフニュスは、前の自分の考えを言いつづけた。
「偶像教徒の教理が、空《くう》な虚言に過ぎないことは確かだ。だが、真理にまします神は、奇蹟によって人間の前に顕現したまい、肉体を持ってわれらの間に住ませ給うたのだ」
ニシアスは答えた。
「神が肉体を持ったとは、ねえ、パフニュス、うまく言ったよ。考えたり、行動したり、話したり、紺碧の海上を歩いた昔のウリッセス〔オデュッセウス〕のように、宇宙を漫歩する神というものは、全く、人間だよ。アテネの子供が、ペリクレスの時代にもうユピテル〔ゼウス〕を信じなくなっていたのに、今更どうして君はその新ユピテルを信じようなんて思うのだい? いや、しかしそれはそれとして、君は、その三位の神体について議論しに来たんじゃないんだろう。ねえ、どういう用件かね?」
「非常に善いことだ」と、アンチノエの院長は答えた。「君が今着たような、いい匂いのする寛衣《チュニック》を貸してもらいたいのだ。それに、済まないが金色の草鞋《わらじ》と、ひげや髪につけるのだから香油を一瓶添えてもらいたい。それから、千ドラクム入れた財布をくれればまたいいんだが。ニシアス、君に頼みに来たのは、そういうことさ。神の愛のために、そして昔の友情の記念に」
ニシアスは、クロビールとミルタルに命じて、自分の持っている一番立派な寛衣《チュニック》を持って来させた。それには、アジア風に、花と動物との縫いがあった。二人の女は、それをひろげてたくみに、その派手なぱっとした色をひらめかせながら、パフニュスが足までも蔽うている苦行衣をとり去るのを待っていた。けれども彼が、法衣をとられるくらいならむしろ肉をもぎとられたい、と言ったので、女は、その上から寛衣を着せた。この二人の女は美しいので、奴隷の身ではあったが男を恐れなかった。二人は着かざった修道士の不思議な顔を見て笑い出した。そしてクロビールは、鏡を捧げながら彼を大切な太守様と呼べば、ミルタルは、彼のひげを引っ張ったりした。けれどもパフニュスは、主に祈りながら彼女らを見ないでいた。金色の草鞋を履き、帯に財布を結びつけると、面白そうな眼つきで彼を眺めているニシアスに言った。
「ニシアス、今、君の見ているこの事柄を、悪くとってくれてはいけないよ。このきものやこの財布やこの草鞋は、私が信心深いことに使うんだということをよく承知していてくれ」
「君、僕は、悪くなんてとりはしない。僕は、人間というものが、善事をなすことも悪事をなすことも、できないものと信じているのだから。善といい悪といい、それは人の見解の中にだけ存在しているものなんだ。賢人は、行動する理由として、慣習とか風習とかのほかには何も持っていやしないよ。僕は、アレクサンドリアに行われている慣例に随っている。それで、僕は、正しい人間として通っているのだ。行って、楽しんで来るがいいよ」
しかしパフニュスは、この家の主人に自分の計画を告げたほうがいいと考えた。
「君は、芝居へ出ている、あのタイスを知っていたね?」
「美人だ」と、ニシアスが答えた。「あの女が、僕には大切だった時もあった。あの女のために、僕は、水車一つと麦畑を二つ売ってしまった。僕は、タイスをたたえて、コルネリウス・ガリウスがリコリスを讃美したあの実に優しい唄を忠実に真似て、哀歌を三巻も作った。ああ! ガリウスは、あの黄金時代に、古代イタリアの詩の女神たちに見守られて歌っていたのに、この僕は、野蛮な時代に生れて来て、ナイル河の蘆で、正脚韻詩や六脚韻詩を書いたのだ。今日、この国にできる作品は、忘れられてしまうものだ。美人というものは、たしかに、この世で最も力のあるものだ。我々が常に美人を所有するように作られているとしたら、デミウルゴス〔プラトン派哲学における造物者たる神の名〕、ロゴス〔プラトン哲学においては思想の泉としての神。キリスト教神学においては神のことば。新プラトン派哲学においては神性の一面〕、アイオーン〔神と物質世界の中間にあるもの〕そのほか哲学者の抱くあらゆる夢想などは、ほとんど気にかけないようになるだろう。だが、パフニュス、君が、テバイドの奥からタイスのことを話しに来たとは、感心するね」
こう言うと、ニシアスは静かに嘆息した。パフニュスは、男が、こうも落ち着いてこれほどの罪を打ち明けられるものとは考えつかなかったので、ニシアスを、嫌悪の眼でじっと見守っていた。
彼は、大地が裂けて、ニシアスがほのおの中に落ち込んで行くに違いないと思っていた。けれども、大地は依然として小ゆるぎも見せず、口をつぐんだそのアレクサンドリアの住人は額に手をあて、過ぎ去った若き日の影を思い返しては、わびしそうに微笑を浮かべていた。修道士は立ち上ると、おごそかな声で言った。
「おお、ニシアス、それではいうが、私は神の庇護を得て、そのタイスをこの世の不浄な恋から奪いとって、イエス・キリストに花嫁として捧げるつもりだ。もし聖霊が私をお見捨てでなかったら、タイスは、今日、どこかの修道院に入るため、この町を去って行くだろう」
「ウェヌス〔アプロディテ〕を怒らせないようにしたまえ」と、ニシアスが答えた。「ウェヌスは、力強い女神だよ。もし君が、あの女神の一番優れた侍女を奪いとったりすると、女神の怒りが君の上にふりかかるぞ」
「神がこの身をお護り下さるだろう。ああニシアス、願わくは神が君の心を照らし、君を、その沈み込んでいる奈落から引き出したまわんことを!」
そう言って、パフニュスは部星を出て行った。ニシアスはその後を送って出て、戸口近くで追いつくと、パフニュスの肩に手をかけ、耳に口を寄せながら、同じ言葉を繰り返した。
「ウェヌスを怒らせないようにしたまえ。あれの復讐はおそろしいぞ」
パフニュスは、こんな浅薄な言葉を軽蔑して振り向きもせずに出て行った。ニシアスの言葉は、パフニュスにただ軽侮の念を吹き込んだだけであったが、しかし、自分の昔友達がタイスの愛を受けたという想いは、彼には堪え難いことであった。その女と罪を犯すことは、他のどの女と犯す罪よりももっと憎むべきものとパフニュスには思われた。それ以来、ニシアスは彼の憎悪の的《まと》となった。彼は常に不浄を憎んでは来ていたが、しかしこの悪徳の姿がこれほど憎むべきものであるとは、かつて思っても見なかった。このような心をもって、イエス・キリストの怒りや天使たちの悲しみを分けたことは、今までに無いことであった。
そういう事で彼は、異教徒の間からタイスを引き出そうとする熱意を一層強め、彼女を救うために一刻も早く会いたいと気をいらだてた。けれども、彼女の家に入り込むには、真昼の激しい暑さが落ちてしまうのを待たねばならなかった。が、日はようやく午後になったばかりで、パフニュスは、人通り繁き街を歩いていた。彼は、救世主に願っているみ恵みに叶うように、その日一日は、何も食べないことに決心していた。心は晴れやらぬ憂悶に閉ざされてはいたが、彼は、この町のどの会堂にも入ろうという気にはなれなかった。というのは、どの会堂もアリウス教徒たちにけがされ、その祭壇は覆《くつがえ》されていることを知っていたからである。実際、東方の皇帝の援助を受けて、これらの邪宗の門徒は、総主教アタナシウスを主教の地位から放逐して、アレクサンドリアのキリスト教徒たちの間に不安と混乱とを溢《あふ》らせていた。
それで彼は、ある時は謙遜の心から伏し眼となり、ある時は法悦にひたっているもののように、天を仰いで、あてもなく足に任せて歩いて行った。こうしてしばらくさまよっているうちに、町の、ある岸壁の上に出た。人工のこの港は、彼の前に暗い喫水部を持った数しれぬ船をとまらせていたが、沖合いでは、不実な海が、群青と銀の色の中にほほえんでいた。船首に|海の精《ネレイデス》の像をつけた一隻の巨船《おおふね》が、折から錨《いかり》を揚げたばかりのところであった。船子は唄いながら櫂《かい》で波を打って行った。やがて、濡れた真珠に蔽はれたその水の真白い少女は、わずかに、おぼろな横顔だけしか見せなくなってしまった。その船は、水先案内《パイロット》に導かれ、ユノストの碇泊地に通ずる狭い水路を越えて、後に花のような船跡を残しながら、大海に乗り出して行ったのだ。
「私もまた、昔は、あのように歌を唄いながら浮世の大海に乗り出したいとねがったことがあった。だが、間もなく、自分で自分の愚なことを知ったので、|海の精《ネレイデス》に連れ去られずに済んだ」と、パフニュスは考えた。
そうした夢想にふけりながら、彼は、積み重ねた綱具の上に腰をおろして眠り込んでしまった。その眠りの間に、一つのまぼろしを見た。激しいラッパの音がするように思えた。すると、空が血のように真赤に染まったので、いよいよ世の終りが来たのだ、と、さとった。心をこめて神に祈っていると、一頭の巨獣が、額に光明の十字を戴いて、自分の方にやって来るのを見た。シルシレのスフィンクスだと分った。その獣は、傷をつけないように彼を歯でくわえ、まるで猫が仔猫を運ぶ時やるように、口に彼をぶら下げてどこともなく運び去った。こうしてパフニュスは、河を渡り山を越えて多くの王国を通り過ぎ、ついに、ものおそろしい形相の岩や熱灰に蔽われている荒地にたどりついた。土地は、ところどころ裂けていて、その裂け口からは、炎の息を吹き出させていた。獣は、パフニュスを静かに地上におろすと、こう言った。
「見なさい!」
そこでパフニュスは、この地獄の淵に身を屈めて、地中の二つつらなる真黒な岩壁の間を流れている火の河を見た。そこでは、蒼白い光のうちで冥鬼どもが霊魂を責めさいなんでいた。その霊魂は、かつて包まれていた肉体の外形を保っていて、着物のぼろさえまだそこにくっついていた。それらの霊魂は、呵責の中にいても、平静に見受けられた。中でも、大きな白い一つは、眼を閉じ、額に細紐を巻き、手に笏《しゃく》を握って歌っていた。その声は、不毛の河辺に快い響きをみなぎらせていた。そして、神々や英雄のことを歌っていた。小さな青鬼どもが、その心霊の唇や喉に、赤熱した鉄の棒を突き差していたが、それでも、ホメロスの亡霊は、なお歌いつづけていた。その近くに、禿げて白髪の老アナクサゴラスが、コンパスで、砂塵の上に円形を描いていた。一匹の鬼が、彼の耳に煮えくりかえる油をつぎ込んでいたが、その賢人の瞑想をさえぎることはできないでいた。パフニュスはまた、焦熱の河に沿った仄暗い岸辺で、静かに読書したり瞑想したり、あるいは、まるで、アカデミー〔プラトンによってアテネに立てられた哲学の学校〕の篠懸《すずかげ》の樹陰を行く師や弟子たちのように、逍遥しながら話し合っている一群の人々を見つけた。ただ一人、おいたるチモクレスは、群れを離れて孤坐し、否定する人間のように首を振っていた。悪鬼がその面前で炬火《たいまつ》を振っていたが、チモクレスは、その悪鬼をも炬火《たいまつ》をも見ようとはしなかった。
この場の有様に驚いて、口もきけずにパフニュスはスフィンクスの方を振り返って見ると、その姿は消え失せていて、その代りに、画紗《ベール》をかぶった一人の女がいた。その女は彼にこう言った。
「ご覧になって、そして会得なさい。これら不信者たちの執拗なことは、地獄におちても、まだ裟婆でまどわされた迷いの犠牲になっているという有様です。死は、彼等を悟らせません。なぜと言いますと、神を見るためには、死ぬことだけで不十分なのは、明らかなことなのですから。生きていた間に、真理を知らなかった人たちは、永久に知ることはありません。あの霊魂たちの周囲に激しく付きまとっている悪鬼どもは、神の正当な形に外ならないのです。ですから、あの霊魂たちには、それが見えず、また感じないでいるのです。全き真理に無智である彼らは、自身の上にかかっている刑罰を、まるで知らないでいるのです。神でさえ、しいて彼等を苦しませることはできません」
「神は全能です」と、アンチノエの院長は言った。
「不条理なことはおできになりません」と、面紗《ベール》をかぶった女が答えた。「彼等を罰するには、彼等を照らし導いてやらねばいけないでしょう。そして、彼等が真理を握りましたなら、神に選ばれたる人たちと同じようになるでしょうよ」
そう耳にしながら、パフニュスは、不安と恐怖にみたされて、また深淵の上に身をかがめていた。と、ニシアスの影が、眼にうつって来た。額に花を帯び、焼けて灰になっているギンバイカの樹の下に、ほほえんでいた。その傍には、羅紗《らしゃ》のマントに姿優しくくるまったミレトスのアスパジアがいて、一緒に、愛を語り哲学をはなしているように見えた。それほど彼の顔の表情は、優しくもあり、気高くもあった。二人の上に降りかかる火の雨は二人にとっては、清涼な露であり二人の足は、柔らかな草を踏むように、焼土を踏んでいた。これを見たパフニュスは、激怒して叫んだ。
「打って下さい、神よ、打って下さい! ニシアスです! あいつが、泣きますように! 悲鳴を上げますように! 歯ぎしりしますように!……あいつは、タイスと罪を犯したのです!」
その時に、彼は、ヘラクレスのように頑健な一人の船頭に抱かれて眼をさました。その男は、砂上に彼を引っ張って叫んでいた。
「これはこれは、鎮まんなさい、鎮まんなさいよ。お前さんは、あばれ廻って寝ているんだね。あっしが引きとめなかったら、ユノストの海へ落っこちていたぜ。うちのお母《ふくろ》が、塩魚を買っていたのがほんとのように、あっしは、ほんとにあんたの命を助けてあげたんだ」
「神に感謝をいたします」と、パフニュスは答えた。
そして起き上がると、彼は、まどろんでいる間に見たまぼろしに深く想いふけりながら、まっすぐに歩き出した。
「あのまぼろしは、明らかに悪いものだ。あれは、地獄を現実のものでないように現わして、神のめぐみにそむいている。きっとあれは、悪魔から来たものに違いない」
彼は、神の示す夢と悪魔のつくり出す夢とを見分けることができたので、そんな風に考えてみた。こうした見分けは、絶えずまぼろしに取り囲まれて暮らしている孤独生活者には、役に立つものだ。なぜなら、人間を逃避するものは、必ず幽霊に出遇うものだから。砂漠は不思議にみたされている。巡礼者たちが、求道者聖アントニウスの幽棲《すま》っていた城址に近づいて行くと、祭の夜、街の辻に起こるような騒音が聞こえた。それは、その聖者を誘惑している悪魔の立てるものであった。
パフニュスは、あの忘れる事のできない例を思い出した。彼は、エジプトの聖ヨハネを思い出した。六十年にわたって、悪魔は、その聖者を誘惑しようとした。しかしヨハネは、地獄の悪計の裏をかいてしまった。でも一日、悪魔は、人間の仮面をつけて、この尊いヨハネの石洞にはいって行き、こう言った。「ヨハネよ、お前の断食を明日の晩までつづけなさい」ヨハネは、天使のお告げと思い悪魔の声に服従し、その翌日の晩の祈祷の時まで断食した。これこそ悪魔が、エジプトの聖ヨハネからかつてかち得た唯一の勝利である。しかもこの勝利はちいさなものだ。だから、パフニュスが、その睡りの間に見たまぼろしの虚偽なことを、瞬時に見破ったとしても驚くことはない。
彼が、神に向って、自分を悪魔の手に委ねられたことをものやさしく責めている間に、彼は、みな同じ方向に走って行く群集に、押されたりひきずられるのを感じた。彼は長いこと町中を歩きつけていなかったので、生気のない何かの塊りのように、人波の間をあっちこっちともまれ、寛衣《チュニック》の襞《ひだ》にひっかかってあがきがとれず、何度か転びそうに思った。この人たちが、どこを目当てに行くのか知りたかったので、一人の男に、急いで行くわけをたずねた。すると、その男は答えた。
「旅の人、あなたは知らないんですか、これから芝居が始まろうというのですよ。そして、タイスが出るのですがね。この人たちは、みな、芝居小屋へ行くのです。私もやっぱりそうなのです。よかったら、一緒に行きませんか」
タイスを演技中に見ることは、自分の目論見《もくろみ》に好都合である、と、不意に考えついたので、彼は、その知らない人について行った。と早や、その劇場は、彼等の前に、輝きわたる仮面に飾られた柱廊や、無数の立像を並べた広い円形の囲壁をそびやかせていた。群集について、二人は、狭い廊下に入って行った。その廊下の尽きたところに、光りまばゆい円形劇場が設けられていた。二人は、段になっているある席に座を占めた。座席は、舞台に向って一段々々と低く下って行っていた。その舞台には、まだ役者は出ていなかったが、実に立派に飾りつけられてあった。その場の景を隠す幕といったものが何もなかったので、舞台に、昔の人々が英雄の霊に捧げたような墓のあるのが見えた。この墓は、野営の中央にむっくりと盛り上っていた。その天幕《テント》の前には、槍がたばねてあり、金の楯が、月桂樹の小枝や樫の葉の冠の間の旗にかけられてあった。そこでは、すべてが沈黙と眠りにおちいっていたが、しかし、蜜房の中で蜜蜂が立てるざわめきに似たかまびすしさが、観衆で一ぱいな半円形の観客席をみたしていた。その人々の顔は天幕の反射をうけて赤く照り映えていたが、それがどれも固唾《かたず》をのんで心待ちする色を浮かべながら、墓と天幕とにみたされた静寂な大きな舞台に向っていた。女たちは、シトロンを食べながら笑っていたし、定連は、お互いの座席から、賑やかに言葉をかけ合っていた。
パフニュスは、心の中で折りを上げ、無益な言葉を口にするのは慎んでいたが、隣りに坐った連れの男は、劇の衰えて行くのを嘆いて語り出した。
「昔は、うまい役者が、面をつけて、エウリピデスやメナンドロスの詩を朗読したものですが、いまは、もうそれがなくなって、所作をするようになって来たのです。アテネでバッカスが面目を施した神々しい演劇の中で、今ここに残っているのは、野蛮人、スキタイ人でも合点のいけるようなものだけです。所作と身振りだけしかないのです。口に、金属製の槍形のものをつけて、声音を高めていた悲劇用の仮面、役者の背丈を神々と同じ高さに見せようとする履物、悲劇的の荘重さ、立派な詩を唄うこと、そういったものはみんな、なくなってしまいました。身振り役者や踊妓《おどりこ》たちが、面をつけずに、パウリュスやロシウスの代りをやっています。ペリクレス時代のアテネの人たちが、もし女が舞台に登るのを見たら、なんと言ったことでしょう? 女が公衆の前に現われるなんて、無作法至極です。けれども、それを許すんですから、我々も随分堕落したものですね。私がドリオンという名の者であることがほんとのように、女は、男の敵であり、この世の恥辱に相違ありません」
「あなたのいうことに間違いはない」と、パフニュスは答えた。「女は、我々の最も悪い敵です。女は我々に悦びを与えます、そこが、女の恐ろしいところなのです」
「動かざる神々にかけて言いますが、女が男に持って来るのは、悦びではありません。悲哀ですよ、不安ですよ、暗い悩みを持って来るのですよ!」と、ドリオンが叫んだ。「恋はわれらの最もひどい禍《わざわい》の種です。まあこうなのです、私は、若い頃アルゴリスのトロゼーンへ行きましたが、そこでとても大きなギンバイカの樹を一本見ましたよ。ところが、その木の葉の一枚々々に、針で刺したような孔が数しれずあるではありませんか。トロゼーンの人の間には、そのギンバイカについてこんな言い伝えがあるのです。ファイドラ女王が、ヒポリュトスに恋していた頃、一日中、今に残っているそのギンバイカの樹の下で、ぐったりと寝そべっていたものなんだそうです。そして、どうにもならない所在なさから、女王は、ブロンドの髪をとめている黄金のピンをぬいて、香り高い実をみのらした灌木の葉を、一つ一つ突き刺していたんですね。それで葉という葉が、小さな孔をあけられてしまったというのです。不倫な恋をしかけて、追いかけまわした、その罪のない青年の身を失なわせてしまってから、ファイドラはご承知の通りみじめな死に方をしました。女王は、婚姻記念の間に閉じこもって、自分の黄金の帯を象牙の釘にかけて縊《くび》れて死んだのです。それで神々の思召しからこうまで痛ましく悲しい事実を見たそのギンバイカの木が、新しい葉にも針で刺した痕《あと》を残して行くようにされたということなのです。私は、その葉を一枚つんで来て、枕元に置きました。それを見て、恋の熱情にかられないように絶えず諌《いさ》められていたからでもあり、また、欲望は恐るべきものであると教えられた我が師尊いエピクロスの教えをますます固く信じたいからでもあるのです。けれども、適切に言えば、恋は肝臓の病気ですし、人間誰しも、この病気にかからないとはかぎりませんね」
パフニュスはたずねた。
「ドリオン、あなたの楽しみとは、どんなものです?」
ドリオンは、ものはかなげに答えた。
「私には、たった一つの楽しみしかないのです。しかもそれが、活気のないものであることは、自分でも承知しています。瞑想にふけることなのです。胃が悪くては、他の楽しみを求むべきではありません」
この最後の言葉を利用して、パフニュスは、このエピクロスの学徒に、神についての静観から得られる霊的歓喜を教えてやろうと思い立った。それで、彼は話しはじめた。
「ドリオン、真理を聞いて、光明をお受けなさい」
そう叫んだ時、彼は、四方から自分の方に顔や腕が差し向けられるのを見た。それは彼に、黙れと命じているものであった。劇場の中は実にしんとしていた。やがて、勇壮な楽の音が起こった。
演技は始まった。兵士たちが天幕から出て来て出発の用意にとりかかった。すると、恐ろしい奇蹟により一かたまりの雲が生じて、墓の頂きをおおった。ついで、その雲が消えてしまうと、アキレスの亡霊が、黄金の甲冑《かっちゅう》に身を固めて現われた。そして、戦士たちの方に腕を延べながらこう言うように見えた。
「こは何事だ! ダナオスの子らよ、お身たちは発《た》って行くのか。わしがもう二度と見られぬ祖国へ帰って行くのか、わしの墓に何の供え物なしで置くのか?」ギリシア軍の主だった隊長たちは、墓の下にその時早くも駈けつけて来ていた。テセウスの子のアカナスや老ネストル、額に細紐の飾りをつけ笏《しゃく》を手にしたアガメムノンは、この不思議さにじっと見入っていた。アキレスの若き息子ピルウスは、砂塵の中に平伏していた。ウリッセス〔オデュッセウス〕は、縮れた髪の毛が帽子からはみ出ているのでそれと分ったが、その身振りで、英雄の亡霊に同意していることを示していた。彼は、アガメムノンと言い争った。その意味は、見る人には容易に想像できた。
「アキレスは」と、イタケの王ウリッセスが、言った。「ヘラス〔ギリシア〕のために名誉の死を遂げたあの人は、われらの間でうやまわれる価値のある人だ。あの人は、プリアモスの娘、処女ポリュクセネを犠牲《にえ》に供えて欲しいと言っている。ダナエの民よ、英雄の霊を満足させるがいい。ペレウスの子〔アキレウス〕を冥府で喜ぶようにしてやるがいい」
すると、王者の中での王が答えた。
「祭壇からわし達が奪って来たトロイの娘たちは救ってやろう。名門プリアモスの一族は、もう十分に不幸に襲われているのだから」
王がこう言ったのは、ポリュクセネの姉と寝床をともにしていたからで、賢人ウリッセスは、王がアキレスの槍よりもカサンドラの寝床を選ぶものだといって、王を非難した。
すべてのギリシア人は、武器を打ち合って激しい音を立て、その言葉に賛意を示した。ポリュクセネの死は定められた。するとアキレスの満足した亡霊は、姿を掻き消した。ある時は激しく、ある時は嘆きかこつように音楽が舞台の上の人物の心につれて奏でられていた。観客は、どっと拍手喝采した。
パフニュスは、万事を神の真理に帰していたので、こう呟いた。
「異教徒の上にひろがる光と闇よ! 各国民の間におけるこうした犠牲は、神の御子の有難い犠牲を、ひどく下卑た調子でしらせ、形に表わして見せたものなのだ」
「どの宗教も、罪悪を創り出すものです」と、エピクロスの学徒が答えた。「幸いなことに、この上もなく賢い一人のギリシア人が、未知なものに対するいたずらな恐怖から、人間を解放させに出て来られました」
その時、白髪を振り乱し、ぼろを身にまとったヘクバ〔プリアモスの妻〕がとらわれていた天幕の中から出て来た。薄運そのままの姿が現われたのを見た時、観客は長い溜息をもらした。ヘクバは預言の夢のお告げを受けて、娘の身の上、そして自分自身の身の上を嘆き悲しんでいた。と、早くもウリッセスはその女の近くに行って、ポリュクセネを渡せと求めていた。老いたる母は、髪をかきむしり、われとわが爪で頬を引き裂いたりしては、その惨酷な男の手に接吻していた。その男は、冷たい静けさを少しも失わずに、こう言っているようであった。
「おとなしくしなさい、ヘクバ、そして必要には屈服するがいい。われわれの家にもまた、イダの山の松の樹の下に永眠する子供たちのために涙を流している老いた母親たちがいるのだ」
すると昔は栄華なアジアの女王、いまは奴隷の身のヘクバは、薄命な頭を砂塵に汚していた。
このとき天幕の入口の垂れ幕を上げて、処女ポリュクセネが現われた。観客はみな、一様に、ゾッとあるわななきにとらわれた。タイスと知ったからだ。パフニュスは、探し求めて来ていたその女を、また見たのであった。白い腕で、タイスは、重い垂れ幕を頭の上に支えていた。美しい立像のようにじっと動かず、ただ紫色の、優し味のある、しかし誇らしいその眼の静かな視線を、自分の周囲に動かしながらタイスは、観客のすべてに美の起こす悲壮な戦慄を与えていた。
称賛のざわめきが湧き上った。パフニュスは、不安になり両手で胸をしかと抑えながら、太い息をもらした。
「おお神よ、一体、なぜあなたはこんな力を、お造りになったものの一つに、お与えになったのですか?」
彼よりも平静なドリオンは、こう言った。
「たしかに、あの女を形づくるため一時的に集合している原子は、見る眼にこころよい一つの組み合わせを見せています。これは自然の一つの遊びに過ぎないのであって、それらの原子は、自分たちが何をしているか知らないのです。で、いつかは、集まり合った時と同じ無関心さで離れ離れになって行きますよ。ライスやクレオパトラを形造った原子は、今、どこにあるんでしょう? 女は時として美しいということを、私も認めます。けれども彼女は、恰好は崩れ、厭な不便に服さねばなりません〔妊娠のことを言う〕。その点ですよ、瞑想的の心を持った人たちが考えるのは。ところが、卑俗な人間になると、まるでその点には注意しません。女を愛する事は不条理きわまる事でありながら、恋を感じさせられます」
哲学者と隠遁者とはこうした風にタイスに見入りながら自分自身の考えを追っていた。二人ともヘクバが娘の方を向いて身振りでこう言うのを見ていなかった。
「ウリッセスのむごい心が折れるようにおつとめ。お前の涙や、美しさや、若さにものを言わせるのだよ!」
タイスは、いやむしろポリュクセネ自身は、天幕の垂れ幕をばたりと落した。彼女は一歩進み出た。と、すべての人の心は、抑えられるように感じた。彼女が上品な、軽い足取りでウリッセスの方へ進み寄って来たとき、笛の音を伴うその動きの旋律は、種々と調和あるものを思わせた。タイスが、この世の調和の神々しい中心であるかのように思えた。誰の眼にも、もうタイスのほかは映らず、その他のすべては、彼女の輝やかしさの中に姿をひそめてしまった。そして劇の筋は運ばれて行った。
用心深いラエルテスの子〔ウリッセス〕は、憐れみを切願する娘の眼差《まなざし》や接吻を避けようとして、顔をそむけ、手をマントの手に隠していた。少女は、もうこわがってはいけない、という様子を彼にして見せた。その静かな視線は、こう物語っているようであった。
「ウリッセス、必要に従うため、そして私は死にたいのですから、あなたのお言葉通りにいたしましょう。プリアモスの娘、ヘクトルの妹である私の寝床は昔は王者にふさわしいものとされていたもので、異国の主人をお迎えはできません。私は、自分から進んで、日の光を捨ててしまいます」
砂塵の中にぐったり倒れていたヘクバは、起ちあがると、娘を、絶望的に抱きしめた。ポリュクセネは、自分にからみつく老いの手を、決意の見える優しい様子でほどいて言った。
「お母さん、この強者のはずかしめに会うようなことをなされますな。手間どって、私から引き離され、この人に無法にもひきずられて行くようなことを遊ばしてはいけません。それよりも、いとしいお母さん、その皺《しわ》寄られたお手を、私にお差し伸べ下さい。あなたの落ち凹んだ頬を私の唇にお寄せ下さいまし」
苦悩の色も、タイスの顔では美しかった。観衆は、このように超人的な美で人の生命の種々な形や働きを包んでくれたことを、彼女に感謝していた。パフニュスは、やがて彼女が謙譲の生活に入るべきものとして現在の輝かしさをゆるしてやり、自分の手で神に捧げようとする聖女を、今から身の誇りとしていた。
劇は終りに近づいていた。ヘクバは死人のように倒れ、ポリュクセネはウリッセスにつれられて、精鋭な戦士にとりまかれている墓の方に進んで行った。彼女は、哀悼《あいとう》の歌の音につれて、塚の上に登って行った。その頂きではアキレスの子が、黄金の杯で英雄の精霊に灌奠《かんてん》の酒をそそいでいた。生贄《いけにえ》を供える祭司たちが彼女を捕えようと腕を上げたとき、彼女は、幾多の王を出した家の娘としてはずかしからぬよう、自由に死にたいという身振りをした。それから、着ている寛衣《チュニック》をひき裂いて、心臓のあるところを示した。ピルウスは、顔をそむけながら、そこに剣をつき刺した。すると、少女のまばゆいような胸から、たくみな仕掛けで、血汐がさっとほとばしり出た。女は、首を仰向けにそらせ、眼を死の恐怖の中に泳がせながら、とり乱した様もなく倒れた。戦士たちが、その生贄《いけにえ》に布をかけ、百合やアネモネの花でその上を蔽うていると、恐れの喚き声やすすり泣く声が、空気を引裂いて流れ渡った。その時パフニュスは、腰掛けの上に身を起こし、轟き渡る声で預言した。
「異教徒よ、悪魔を礼拝する卑しき者よ! 偶像教徒にもまして穢《けが》らわしきアリウス教徒よ! 知れ! 今、お前たちが見たことは一の比喩であり象徴であるのだ。この物語には一つの神秘な意味が含まれている。やがて、お前たちがそこに見ている女は、幸福な犠牲となって、甦りたもうた神に供えられるのだ!」
観客の群れはもう、黒い波のように、出口の方へどっと流れ出ていた。アンチノエの院長は驚いているドリオンを離れて、なおも預言しながら出口へ行った。
それから一刻の後、彼は、タイスの家の戸口を叩いていた。
当時、その舞姫は、アレキサンドル大帝の陵墓に近い、富裕なラコチスの町に住んでいた。その家は、木立の繁った庭にかこまれていて、その庭には、人工の岩石がそびえていたり、ポプラにふちどられた小川が流れていたりした。幾つもの環をはめた黒奴の老婆が門をあけに出て来て、来意をたずねた。
「タイスに会いたいのだ。タイスに会いたいばかりにここへ来たことは、神様が証人になって下さる」
彼が、豪奢な寛衣を身にまとっていたし、横柄なもの言い振りをしたので、奴隷はすぐ彼を中に通した。そして言った。
「タイスは、ニンフの岩窟《いわや》においでです」
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第二部
紙草《パピルス》篇
タイスの両親は、奴隷ではなかったが貧乏で、偶像教信者であった。彼女がまだ幼少の頃、父親は、アレクサンドリアの月輪門の近くで、一軒の居酒屋を営んでいた。お客は、おもに水夫たちであった。その幼いころの記憶の幾つかは、きれぎれではあるが、なおはっきりとタイスの心に残っていた。彼女の眼には、炉の片隅に脚を組み合せて腰をおろしている大柄な、もの恐ろしい、けれどもゆったりした、ちょうど辻で盲人が唄う哀歌にたたえられている老ファラオの一人といった形の父の姿が、まざまざと見えた。また家の中を、かん高い声でがみがみ言いながら、燐《りん》のような眼の光をきょろつかせて、餓えた猫のようにうろついていた痩せひからびて見すぼらしい母の姿も、眼にあった。場末に近いその界隈《かいわい》では、母親が魔法使いで、夜になると、梟《ふくろう》に身を変えて情人に会いに行くなどと噂したものだが、それは、嘘であった。タイスは、たびたび母の様子を窺《うかが》っていたので、母親が魔法を使うことなどは少しもないが、ただ、貪欲に心をむしばまれていて一晩じゅう、昼の儲けの金勘定をしているのを、よく知っていた。このぐうたらな父親と、がつがつしている母親とは、てんでタイスのことなど構わず、まるで家畜小屋の動物のように自分で口を過ごさせていた。それでタイスは、子供らしい歌を唄ったり、意味は知らずにみだらな文句を口にしたりして、酔いどれ水夫たちを興がらせながら、その手合いの帯の間から小銭を一つ一つ抜きとるのに、ひどく巧みになっていた。彼女は、醗酵した飲みものや脂《やに》を塗った革の酒|嚢《ぶくろ》などの匂いがしみこんでいる部屋で、男の膝から膝へと移って行っては、頬を、麦酒《ビール》でニチャニチャよごされたり、こわいひげで突っつかれたりして、小銭を小さな手に握りしめると、その場を脱れ出て、月輪門の下で菓子籠の後ろにうずくまっている老婆のところへ、蜜菓子を買いに走って行くのであった。毎日、同じ場面がくり返された。水夫たちは、東風《ユーロス》が海底の藻草を揺り動かす時の航海の危険を語ったり、骰子《さい》や小骨をもてあそんだり、神々に悪態をつきながら、キリキアの極上の麦酒を注文していた。
毎晩のように、タイスは、酒飲み連中の喧嘩で眼をさました。牡蠣殻《かきがら》が卓上《テーブル》の上を飛んで、喚き叫ぶただ中で人の額を裂き割ったりした。時には、くすぶったランプのにぶい明りで、タイスは、刀物がきらめき、サッと血のほとばしり出るのを見た。
幼いタイスは、人の親切というものを、ただ優しいアーメスによってのみ知らされていた。この親切は、アーメスにとっては、ごく軽い気持のものだった。アーメスは、タイスの家の奴隷で彼が鹿爪らしく浮き泡をすくいとっている鍋よりも真黒なヌビア人であったが、その性質は、安らかな眠りの夜のように善良であった。よく、彼はタイスを膝にのせ、昔話を語って聞かせたが、その中には、貪欲な王たちのために造られた財宝のみち満ちている地下の宝庫の話、そしてそれを造った建築師や左官がその王たちに殺された話などがあった。また、ピラミッドをつくらせた娼婦や、王女を娶《めと》った腕の凄い盗賊たちの話もあった。幼いタイスは、アーメスを父母のように、乳母のように、そしてまた犬のように、好いていた。彼女は、その奴隷の腰巻にかたくしがみついて、二つ柄《え》の壷の並んだ酒蔵や、養鶏場の、痩せ衰えてとげとげしい、ほんとに嘴《くちばし》と爪と羽根ばかりの若鶏の中へもついて行った。その鶏たちは、黒んぼの料理人の包丁の前を、鷲の子よりもたくみにチョコチョコと逃げ廻っていた。夜、藁《わら》の上で、眠ろうともせずにアーメスは、タイスのために、小さな水車や、手首ほどの大きさの、ちゃんと索具《つなぐ》までつけた船を造っていたことも度々あった。
主人夫婦から虐待され通しのアーメスは、片方の耳は引き裂かれていたし、身に創痕《きずあと》の絶え間が無かった。けれども彼の顔には、いつもたのしげな平和な色が浮かんでいた。ところで彼の身近にいる人たちで、どこから彼が、そうした魂の慰めや心の静けさを得ているのかと考えてみるような者は、一人も無かった。アーメスは、子供のように単純であった。卑しい仕事を果して行きながら、彼は、細い鋭い声で讃美歌を唄っていたが、その歌は、タイスの心に感動と夢とを作っていた。彼は、重々しい、けれども楽しげな調子で、こう呟いた。
「語れよ、マリア、来たれるかの地に、何を見たるぞ? 屍布《しふ》と麻布と、御墓の上にいます天使を。よみがえりし君の栄光を、われ見ぬ」
タイスは彼にたずねた。
「爺や、なぜ、お墓の上に坐った天使のことなんか歌うの?」
すると、アーメスは答えた。
「私の可愛い眼の光さん、私はね、我が主イエスが天国に昇られたので、それで天使のことを歌うのですよ」
アーメスはキリスト教徒であった。彼は洗礼を受けていて、奉教者の集まりの時にはテオドールと呼ばれていた。彼はその集まりに、眠る時間を盗んではこっそりと出かけていた。
その当時、聖教会は最後の試練を受けていた。皇帝の命令で巨刹《きょさつ》は打ち倒され、聖書は焚《た》かれ、祭器や燭台は熔かされてしまっていた。キリスト教徒は、身についた名誉を奪われて、ただ、死を待つばかりであった。恐怖が、アレクサンドリアの信徒たちの上にかぶさっていた。牢屋はどこも捕われた者で一ぱいだった。シリア、アラビア、メソポタミア、カッパドキア、皇帝の治下の到るところで、司教や処女が、笞《むち》で打たれ拷問に責められ、鉄の蹄《ひづめ》でさいなまれたり、十字架につけられたり、または猛獣の爪牙《そうが》にかけられて肉をずたずたにされたと信者の間に戦慄しながら話されていた。その時、まぼろしを見ることや孤独な生活で既に名高い、エジプトにおける信者の長《おさ》で預言者たるアントニウスが、鷲のように険しい岩根の高みからアレクサンドリアの町に襲いかかり、会堂から会堂を飛び廻って、その信仰の火で全信徒たちを激しく燃やし立てた。彼は、異端者には姿が見えなかったが、同時に、あらゆるキリスト教徒の集まりにのぞみ、その一人ひとりへ、自分自身が勢いづけられていた力と徳との精神を吹き込んでいた。迫害は、奴隷に対してことにきびしかった。その幾人かは恐れて信仰を捨てた。他の多くは、あるいは瞑想に生きようとし、または賊の群れに投じて生きようものと、砂漠に逃げて行った。しかしアーメスは前のように集まりに出たり、囚人たちを見舞ったり、殉教者たちを葬ったり、キリストの教えを喜んで奉じていた。この真実な熱誠を目撃した大アントニウスは、砂漠に帰るに先だって、その黒んぼの奴隷を抱きしめ、平和の接吻を与えたものだ。
タイスが七つになった時、アーメスは神について彼女に話し始めた。
「善き主なる神さまは、エジプト人の王ファラオが奥殿の幕の下やお庭の木の下においでのように天国にお住いだったのです。神さまは、昔の昔の人たちよりももっと昔のお方で、この世界よりももっとお年寄りだったのです。そして御子はイエス様お一人きりでしたが、この御子を神様は心からご寵愛で、またこのイエス様のお美しさといったら、どの処女も天使もとてもかなわないものでした。その善き主なる神様が、ある時イエス様にこうおっしゃりました。
『この奥殿や宮殿や、このナツメヤシの木立や、水を噴く泉に別れて、人間の幸福のために下界へくだってお行き。そして下界では、おさな児のようになって、貧しい者の間に貧しくお暮らしなさい。悩みをお前の日々のパンとし、お前の涙が河となって、疲れた奴隷たちがよろこんでつかるくらいに、限りなくお泣きなさい。お行き、我が子よ!』
イエスさまは、善き主の御言葉にしたがって下界にくだられ、ユダヤのベツレヘムというところにおいでになったのです。そして、アネモネの花の咲いている牧場をさまよい歩かれながら、みちづれのひとたちに、こう言っておいででした。
『餓えたる者は幸いである。私はその人をわが父の食卓に連れて行こうから! 渇いている者は幸いである。その人は天堂の泉の水を飲むことができようから! 涙を流す者は幸いである。私はその人の眼を、エジプトの舞姫の手にある布帛《きぬ》よりももっといい布帛で拭《ぬぐ》ってあげようから』
それだから、貧しい人たちはあの方を愛し、信じていました。けれども、富んだ人たちは、イエスさまが、貧しい人たちを自分たちより上の方へ登らせはしまいかと恐れて、あのお方を憎んでいたのでした。その頃は、クレオパトラとカエサルとが、地上に勢力を振っていました。その二人ともが、イエスさまを憎んでいて、審判人《さばきびと》や祭司に、あのお方を殺すようにと言いつけたのでした。シリアの貴族たちは、エジプトの女王の命にしたがうため、高い山の上に一本の十字架を立て、その十字架の上であのお方を殺してしまいました。けれども、ある女たちが、イエスさまの体を洗い、そして埋葬したのでした。そこで御子イエスは、墓の蓋を破られて、父なる善き主の許に昇天して行かれたのです。
それからというもの、あのお方を信じて死んで行くものは、みな、天国にはいれるのです。
主なる神さまは、腕をひろげて、こうおっしゃります。
『よく来た。お前たちが、わが子イエスを愛しているからには、沐浴《ゆあみ》をおし、それからお食べ』
みなは、楽の音を耳にしながら沐浴し、食事しながらエジプトの舞姫のやるような舞を眺め、話しの尽きるということのない噺家《はなしか》の物語を聞いたりするのです。善き主なる神さまは、みなが天国のお客なのですから、ご自分の眼の光よりもみなを大切になさるでしょうし、そしてみなは、神さまのお宿の毛氈《もうせん》や、お庭の柘榴《ざくろ》の実を分けて頂けるでしょう」
アーメスは、幾度かそうした風に話して聞かせたので、タイスは、こうして真理を知るようになり、すっかり感じ入って、いつもこう口にしていた。
「私、神さまの柘榴が食べたいなあ」
アーメスは、それに答えた。
「イエスさまの御名において洗礼を受けたものだけが、天国の果物を食べることができるのです」
それでタイスは、洗礼を受けたいと願っていた。それによって、彼女がイエスを信じているのを見てとり、奴隷アーメスは、タイスが洗礼を受けて聖教会へはいれるように、前よりも更に深く彼女を教え導こうと決心した。そして彼は、タイスを、自分の魂の娘《こ》のように、いとしみ可愛がった。
タイスは、絶えず没義道《もぎどう》な両親に嫌われ追い払われて、家のうちに寝る床《とこ》もなく、家畜小屋の隅に家畜と交わって眠っていた。そこへ夜になると、アーメスが、こっそり会いに来るのであった。
彼は、少女の眠ってる筵《こも》へ静かに近寄って行って、それから、彼の種族に遺伝的な姿勢をとって、上半身をまっすぐに、膝を折り曲げ、踵の上にきちんと坐った。体も顔も一面真黒なので夜陰のうちではそれと分らなかったが、ただその白い大きな眼だけはぎらぎら輝やいていて、そこからは、戸の裂け目から射す暁の光に似た微笑が流れ出ていた。彼は細く鋭い、歌うような声で話したが、その軽く鼻へかかった調子には、暮れがたの街上に聞く音楽のようなうら寂しい柔かみがあった。どうかすると、ロバの息づかいや牛の穏やかな鳴き声が、闇に隠れた精霊の合唱のように、福音を説くその奴隷の声に連れて行くことがあった。彼の言葉は、なごやかに闇を流れて、その闇を熱情と聖寵と希望とに浸した。新たに信徒になった少女は、アーメスの手に己れの手を託し、単調な声音に心をゆられ、おぼろなまぼろしを見ながら暗夜と神秘との調和の中に、小屋の梁《はり》の間にまたたく一つの星に見守られて、安らかにほほえみながら寝入って行った。
信仰への教えは、まる一年、キリスト教徒が歓喜して祝う復活祭の催される頃までつづいた。その栄光ある祭の週のある夜のこと、タイスは、すでに納屋の筵《こも》の上で眠りについていると、その奴隷に抱き起こされるような気がして目をさました。奴隷の眼は、新らしい光に輝やいていた。彼はいつものようなぼろぼろの腰巻をしていないで、真白な長い外套を着ていた。その外套の中に、少女を抱きしめて、ごく低い声でこう言った。
「おいで、私の魂よ! おいで、私の眼よ! おいで、私の可愛い心よ! 洗礼の聖衣を着においで」
そして彼は、少女を胸にしっかと抱えて連れ出して行った。こわくはあったがまた好奇の心にもとらわれていたタイスは、首だけ外套の外に出し、両手で、闇路を走って行く仲好しの男の頸にしがみついていた。二人は、暗い小路について行ったり、ユダヤ人の住む町を通りぬけたり、雎鳩《みさご》が不吉の叫びを立てている墓地に沿って行ったりした。ある辻では、十字架の下を通り過ぎた。その十字架には、死刑になった人の体がぶら下っていて、腕木の上には、烏がむらがり、嘴を鳴らしていた。タイスは、奴隷の胸にぴったり顔を伏せ、その後はもう何を見ることもできなかった。すると、ふと、地下におろされて行くように思われた。眼をあけて見ると、そこは樹脂《やに》の炬火《たいまつ》に照らされた狭い穴蔵の中で、壁には、大きな人の立ち姿が描かれていたが、それが炬火のいぶる煙の中にいきいきと動き出しそうに思えた。そこには、また長い寛衣《チュニック》を着て、手に棕櫚《しゅろ》をたずさえ、小羊や鳩や野葡萄の蔓にとりまかれている男たちの姿も描かれていた。
タイスは、それらの姿のうちにナザレのイエスのいるのが分った。その足下に、アネモネの花が咲いていたからだ。部屋の中央、ひたひたとふちまで水をみたした石の大桶の傍《そば》に、低い司教冠を戴き、金糸の繍《ぬ》いのある猩々緋《しょうじょうひ》の助祭服をまとった一老人が控えていた。その痩せた顔から、長いひげが垂れていた。立派な衣服は着ていたが、容姿は、素朴で優しかった。この人は、司教ウィウァンティウスであった。キュレネの会堂を逐《お》われた彼は、生きて行くために、機織の工人となり山羊の毛で粗末な毛織物を造っていた。司教の両側に、可憐な子供が二人立っていた。そのすぐ近くに、一人の黒んぼの老婆が、可愛らしい一枚の白衣をひろげて捧げていた。アーメスは、少女を下におろして、司教の前に跪づき、そして言った。
「神父様、これが、小さな魂、私の魂の娘なのでございます。お約束にしたがい、また、もしあなた様の御心に添いますならば、生命の洗礼を与えて頂きたいと存じまして、連れて出ましてございます」
この時、司教は両腕を開いて、傷ついているその手を見えるがままにした。彼は迫害の来た時にも信仰を公言してやまなかったので、爪をむしりとられていた。タイスは、恐ろしくなって、アーメスの腕に身を投げかけた。しかし司祭は、優しい言葉をかけて、少女を安心させた。
「何も心配することはない、可愛い子や。ここには、お前の霊の上でのお父さんであるアーメスがいます。アーメスは、信者の間ではテオドールと言われているのだ。それから、神の御恵みに生きている優しいお母さんがおいでだ、そのお母さんは、手ずから、お前に白い着物を支度して下さったよ」
そして、黒んぼの女の方に身を向けながら、
「あの人はニチダと言うのだよ」と、言いたした。「あの人は、この世では奴隷だが、イエスさまは、天国ではあの人を、花嫁たちの列にお引き上げ下さるであろう」
それから彼は、聖教を奉じようとする少女に、こうたずねた。
「タイス、お前は全能の父なる神を、われらの魂をお救いになるために死なれた神のおひとり子を、使徒たちが教えたすべての事を信じますか?」
「信じます」と、手をとりあっている黒んぼの男女が一緒に答えた。
司教の命令で、ニチダは跪づいて、タイスの着物をみな脱がせた。少女は、頸《くび》に護身符を掛けただけで、丸裸になってしまった。司教は三度、少女を洗礼の水|槽《おけ》につけた。侍童の捧げる聖油をとると、ウィウァンティウスはこれをタイスの体に塗ってやり、塩をとると、その一粒を受洗者の唇にのせてやった。それから、幾多の試練を経た後で、永遠の生命に入ることに定められたその少女の体を拭ってやると、奴隷のニチダは、自分が手織りした白い衣を着せてやった。
司教は、並みいるすべての人に平和の接吻を与え、そして式が済むと司教の服を脱いだ。
みなと一緒に地下の聖堂を出たとき、アーメスが言った。
「善き主なる神に一つの魂を捧げたことを、今日は大いに喜ばなくてはいけませんですね。今から牧師ウィウァンティウスさまのお住居に伺って、一晩じゅう楽しもうではありませんか」
「それはいい、テオドール」と、司教は答えた。
そして司教は、この小人数の群れを、そこからほど遠くない自分の家へ案内した。その家は、たった一間きりで、家財としては、二台の織り物の機械と、粗末な卓子《テーブル》一脚と、すっかり擦り切れた敷物があるだけであった。そこにはいるが早いか、ヌビア人のアーメスは、こう叫んだ。
「ニチダ、手鍋と油壷を持って来ておくれ。ご馳走をしようよ」
こう言いながらアーメスは、マントの下からかくして持っていた小魚をとり出した。ついで、カッカと火を起こしてその小魚を油で揚げた。みんな、司教も、少女も、二人の童児も二人の奴隷も、敷物の上に車座になり、主を祝福しながらその揚げものの魚を食べた。ウィウァンティウスは、自分が耐え忍んで来た殉教の苦難を語り、聖教会の来たるべき勝利を告げたりした。彼の言葉はごつごつしたものではあったが、洒落や比喩にみちていた。彼は、正しい人の一生を高貴な緋の織り物にたとえ、洗礼を説明するために、こういうことを言った。
「聖霊は水の上にうかばれた。だから、キリスト教徒は水で洗礼を受けるのだ。けれども、悪魔もやっぱり小川に住んでいる。妖精《ニンフ》にささげられた泉は、恐るべきものだ。それに、ある水は魂や肉体の種々な病気を持ち来たらすようなこともある」
時には、比喩で自分の考えを示したりしては、少女の心に、深い賞讃の念を吹き込んでいた。食事の終りに、彼はみなに少量の葡萄酒をすすめた。みなの舌は、その葡萄酒にほぐれて、哀歌や讃美歌を唄い始めた。アーメスとニチダはたち上って、子供時代に習い覚えたヌビアの踊りを舞ったが、この踊りは、恐らく、世の初めからヌビア民族の間で舞われたものであろう。これは恋慕を表わした舞踊で、腕を振り、全身を拍子をとって揺り動かしながら、かわるがわる追いつ迫われつする風をするのであった。二人は、大きな眼をくるくる廻したり、笑って、輝やかしい歯並を見せたりした。
タイスはこうして神聖な洗礼を受けたのである。
彼女は娯楽が好きであった。そして、大きくなるにつれてぼんやりとしたねがいが、心のうちに生れ出て来た。一日じゅう、街をほっつき歩いてる子供たちと一緒に、輪舞曲を舞ったり唄ったりしていて、夜になって、家に帰って来る時もまだ、小声にその歌を口ずさんでいたものだ。
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トルチ・トルチュ、どうしてお家にひっこんでるの?
ミルトスの糸や羊の毛を繰《く》ってるのさ。
トルチ、トルチュ、どうしてお前の子は死んだのさ?
白いお馬の上から落ちて、海にはまった、家の子は。
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今となっては、タイスは、優しいアーメスと一緒にいるよりも、男の児や女の児たちと一緒にいる方が好きになっていた。タイスは、仲好しの奴隷が、前ほどは繁く自分の側にいないことを、少しも気がつかなかった。迫害がゆるんで来たので、キリスト教徒の集まりは今までよりも規則的になって、かの奴隷のヌビア人は、欠かさずにそうした集まりに出ていたのであった。彼の熱情はいよいよ度を増して、時とすると、意味ありげな脅喝《きょうかつ》がその口からもれた。彼は、富者たちがその富を持ちつづけて行けまい、と、言っていた。彼は、貧しい身分のキリスト教徒がいつも集まっていた町の広場へ出かけて行って、古い壁の陰に寝そべっている悲惨な人たちを寄せ集め、奴隷解放や正義の日の近く来ることを告げていた。
「神の王国においては」と、彼は言っていた。「奴隷たちは、新しい葡萄酒を飲み、うまい果物を食べるんだ。しかるに、富める者はその時、奴隷たちの足下に犬のように身を横たえて、食卓からこぼれ落ちるパン屑をがつがつとむさぼり食うようになるんだ」
こうした言葉は、みなもれてしまって広く場末にまで知れ渡り、奴隷を持っている主人たちは、アーメスが奴隷たちに反抗を煽動しやしないかと恐れていた。アーメスの主人は、それに深い怨恨《うらみ》を感じたが、つとめて顔に出さないでいた。
ある日、祭壇用の銀の塩壷が、この居酒屋で見えなくなった。これはアーメスが、主人や帝国の神々を嫌うあまりに盗んだのだ、ということになった。この訴えには、何の証拠もなく、アーメスもはっきりとこれを否認した。が、やはり法廷に引き出され、不忠実な奴隷であるという評判があったために、判事は、彼を極刑に処した。そしてこう言った。
「お前がいい使い道をしらなかったそのお前の手は、やがて磔刑《はりつけ》に釘づけになるんだ」
アーメスは、この判決を静かに聴き取ると、丁寧に判事に一礼して獄屋に曳かれて行った。繋《つな》がれていた三日の間、その間も彼は同囚の人たちに福音を説くことをやめなかった。後になって、人の話によると、罪人たちから獄丁さえもが、彼の言葉に動かされて、十字架上のイエスを信ずるようになったとのことである。
彼は、辻に引き出された。そこは、二年ばかり前のある夜、真白な外套の中に自分の魂の娘、最愛の花である幼いタイスを抱えて、喜び勇んで通って行ったあの辻だった。十字架にかけられ、手に釘をうたれたが、苦しみの声一つ洩らさず、ただ、「私は渇《かわ》く」と、二三度つぶやいただけであった。
彼の刑苦は三日三晩つづいた。肉体が、こんなに長い苦痛に耐え得るものかと誰も驚いていた。何度か、彼はもう死んだ、と思われた。蝿が、眼瞼の眼やにをぴちゃぴちゃなめていた。が、突然、彼は血走った眼をあけた。四日目の朝、彼は、小児の声よりも清純な声で、歌った。
「語れよ、マリア、来たりしかの地に何をか見し?」
ついで微笑して、こう言った。
「あの方がおいでになった。善き主の天使たちが! 私に、葡萄酒と果物を持って来て下さる。ああ、天使の翼のはばたきの、何て清々《すがすが》しいことであろう!」
そして、彼は絶息した。
彼の顔は、死のうちにも、幸福な無我の境にいるような表情を残していた。十字架をまもっていた兵士たちは、感嘆の念にとらわれてしまった。ウィウァンティウスが、奉教者の幾人かを連れて、バプテスマの聖ヨハネの聖墓の中の他の殉教者の遺骨の間に葬るために、その亡骸《なきがら》をもらいに来た。かくて、聖教会は、ヌビアの聖テオドールの貴い記念を保存することになった。
それから三年の後、マクセンティウスに勝ったコンスタンティヌス大帝は、勅令を出してキリスト教徒に平和を保証した。それ以来、信者たちは、異教徒たちからの外には、何の迫害も受けなくなった。
タイスは、仲好しの奴隷が苦悶のうちに死んだ時には、ちょうど、十一の歳を終るところであった。少女は、その奴隷の死から打ち克ち難い悲しみと恐れとを感じた。彼女は奴隷アーメスが、生によっても死によっても聖人であったことを会得し得るまでの清純な魂を持ってはいなかった。それで、最も恐ろしい苦痛を払わなければ、この世で善人にはなり得ないという観念が、その小さな魂の中に芽ぐんで来た。そして彼女は、善人になることをおそれていた。その華奢な肉体が苦痛に堪え切れそうに思えなかったからである。
彼女はまだ、年端《としは》も行かぬ頃から、港の若者たちに身を任せたり、日暮れになると場末をうろつき廻る老人たちにつれられて行ったりしていた。そして彼等からもらうもので、菓子や身の飾りの品を買っていた。
儲けたものを少しも家には持って帰らなかったので、母親は、タイスを虐待しぬいた。その打擲《ちょうちゃく》を受けまいと、タイスは、跣足《はだし》で、町の城壁のところまで走って行って、トカゲと一緒に石の裂け目に身を隠したりした。そこで、彼女は豪奢に身を飾り、奴隷に取り捲かれた輿《こし》に乗って通り過ぎて行く女を見ては、羨望の念に燃え、うっとりと、もの思いにふけったものだ。
ある日、常よりもひどく打ち叩かれたタイスは、ふて腐って動こうともせずに戸口の前にしゃがんでいると、一人の老婆がその前に立ち止って、やや暫らく口もきかずにしげしげと眺めていたが、やがてこう叫んだ。
「おお、綺麗な花だこと、子柄《こがら》のいい子だ! お前さんをこさえたお父さんや、お前さんを生んだお母さんは、幸福な人だわね!」
タイスは、口をつぐんで、じっと地面を見つめていた。その眼瞼は真赤になっていて、一目で泣いていたのが分った。
「真白な菫《すみれ》さんや」と、老婆はまた言いつづけた。「お母さんは、お前さんのような可愛い女神を育てて幸福と思わないのかね。お前さんのお父さんは、お前さんを見て、心の底で喜んでいないのかい?」
その時、少女は、独り言のように言った。
「お父さんは、お酒でふくれた革嚢《かわぶくろ》だし、お母さんと来たら、がつがつした蛭《ひる》なのよ」
その老婆は、誰か見ていはしないかと、左右を見廻してから、優しい声でこう言った。
「やさしく咲いたヒヤシンスの花、光を吸う美しい娘や、私と一緒においで。そうすれば、ただ踊ったり笑ったりするだけで暮らしていけるんだよ。蜜のお菓子で、お前さんを育ててあげるよ。そして私の息子は、私のほんとの息子は、自分の眼のようにお前さんを愛してくれるよ。うちの息子は、いい男だよ、そして若いんだよ。顎《あご》に薄い毛が生えてるだけでね、肌が柔らかで、そら、世間でいう、アシヤルネの可愛い豚のようなのだよ」
タイスは答えた。
「私、小母《おば》さんと一緒に行ってもいいわ」
少女は立ち上って、その老婆について町の外へ出て行った。
このメロエという女は、多くの少年少女に踊りを仕込んでは国から国へと連れ渡り、宴席に侍らせるために金持連中に貸して暮らしていた。
タイスが、やがて、女たちの中でも一番美しい女になるだろうと推測して、その老婆は、鞭で打ちながら、タイスに音楽や唄を教え込んだ。タイスの綺麗な脛《すね》が、六絃琴の音につれて上がらないと、革紐でぴしりぴしりと打ちもした。老婆の息子というのは、発育のよくない早老の人間で、大人か子供か男か女か分らなかったが、女性全体に対する憎しみをタイスにぶっつけて、存分にタイスを虐待した。舞妓《まいこ》たちの競争者で、その婀娜《あだ》な様子を気取っていたこの男は、タイスに、顔の表情や身振り、体のこなしで、人間のあらゆる感情、ことに愛慕の情熱を現わすことを教えた。彼は、いやいやながらも名師匠らしい注意をタイスに与えていたが、その弟子を妬《ねた》んで、彼女が男の快楽のために生れて来たということが、余りにはっきり眼につくや否や、すぐに、意地の悪い女たちがするように、頬をひっ掻いたり、腕をつねったり、また、針で背後から突きに来るようなことがあった。だがその稽古のおかげで、タイスは、じきに、音楽にも、所作《しょさ》にも、舞踊にもすぐれて来た。
抱え主たちのこの意地悪さも、タイスには少しも意外には思われなかった。彼女には、虐待されることが当り前のようにさえ思えた。彼女は、音楽を知っていたり、ギリシアの酒を飲んだりする老婆に、ある尊敬の念さえ抱いていた。メロエは、アンティオキアに巡業していたが、その弟子を、折から宴楽を催していた町の富裕な商人たちに、踊り子として、また笛吹きとして貸した。タイスは踊って、そして気に入られた。中でも富豪の銀行家たちは食事が済むと、オロント河岸の木立の陰にタイスをつれて行った。そこで彼女は、恋の値段を知らなかったために、誰彼なしに身を任せた。ところがある夜、町で一番|瀟洒《しょうしゃ》とした若人たちの前で踊っていると、総督の息子が若さと悦びとに輝やく様子をして、タイスに近寄り、接吻にうるんだような声音で言った。
「ねえ、タイスや、どうして私は、お前の髪をとり巻く冠や、お前の惚れ惚れするような体を包んでいる寛衣《チュニック》や、お前の美しい足の履物でないのだろう! ああ、私は、お前の足で、履物のように踏みにじられたいよ。私の愛撫が、お前の寛衣、お前の冠になって欲しい。おいで、タイス、私の家へおいで、そして、この世界を一緒に忘れてしまおう!」
タイスは、男が話している間に、その容姿《ようす》を眺めて、美しい男と知った。突然、冷汗が額ににじみ出て来るのを感じた。彼女は、草のように青くなり、よろよろよろめいた。ぼうッと雲のようなものが、眼瞼の上におりて来た。男はなおもタイスに願ったが、彼女は男について行くのを断った。男は女に、燃えるような限差しや、焔《ほのお》のような言葉を投げかけても無駄であった。そして、彼が、連れ去ろうとつとめて女を強く抱きかかえたとき、女は、荒々しく彼を突きのけた。そこで男は、嘆願したり、涙を見せたりしたが、ある未知な、新しい、打ちかちがたい力に支配されてタイスは反抗した。
「なんて馬鹿なんだ!」と、宴席に並いる人々が口々に言った。「ロリウスは貴族だし、美男だし、金持だのに。それに、笛吹き女が馬鹿にして相手にならないなんて!」
ロリウスは、独りすごすごと家に帰った。そしてその夜は、全身を情火で熱せしめていた。朝になると、早速彼は、色蒼ざめ、眼を真赤にして、その笛吹き女の住居の戸口に花を懸《か》けに来た。一方タイスは、混乱と恐れにとらわれてロリウスから逃げて来たが、その面影は、絶えず彼女の心に映っていた。彼女は苦しんだ。けれども、その苦しみの原因は分らなかった。彼女は、自分がどうしてこうも変ってしまったのか、この憂鬱はどういうわけからか、と、考えたりした。タイスは、あらゆる愛人をしりぞけてしまった。その男たちにつくづく厭気がさしたのだ。彼女は、もう日の光を見ようとしないで、一日じゅう寝床の上に横たわり、枕に顔を埋めて、むせび泣いていた。ロリウスは、タイスの家に無理にはいり込むことができたので、何度か、この片意地な少女の許に、泣きくどきに来たり、呪いに来たが、タイスは、ロリウスの前に立つと、まるで処女のようにおずおずと硬くなって、こう繰り返していた。
「いやです、いやです!」
それから二週間たって、とうとうロリウスに身を任せてしまうと、彼女は自分が、その男に恋していたことを知った。タイスは、ロリウスの家について行って、もうその側を離れなかった。それは、甘美を極めた生活であった。二人は、一日じゅう家に閉じこもり、眼と眼とを見合わせ、子供にでもなければ言わないような言葉を、お互いに交わし合って暮らしていた。灯《ひ》ともし頃になるとオロント河のさびしい岸辺をそぞろ歩いて、月桂樹の林の中に姿を消したりした。時とすると、夜明けに起き出て、シルピウスの坂に素馨《ジャスミン》の花を摘みに行ったりした。二人は一つコップで共に飲み、タイスが一粒の葡萄を口にくわえていると、ロリウスが女の唇から、その一粒を自分の歯でとったりした。
ある日メロエは、喚き立てて、タイスを引き戻しにロリウスの家にやって来た。
「これは私の娘なんですよ、私の娘をとっちまって。私のかんばしい花、可愛い子供なんですよ!」
ロリウスは、大金をつかませてメロエを追い返した。けれども、また、幾らかの金貨をせびりにやって来たので、青年は怒って、その老婆を牢屋へぶち込ませた。司法官たちは、老婆の旧悪を発見したので、これに死罪の刑を課し、野獣の爪牙《そうが》にかけさせてしまった。
タイスは、空想から来るあらゆる狂熱と、無邪気の生むあらゆる驚異の念を抱いて、ロリウスを愛した。彼女は、心底からこう言っていた。
「私は、あなたより外、誰のものでも無かったのです」
ロリウスはこう答えていた。
「お前は、他のどんな女にも似ていないよ」
恋の幻惑は半年つづいた。それも、一日で破れてしまった。ふと、タイスは、うつろな一人ぼっちの感じがした。ロリウスを、もう今までのロリウスと見ることができなくなってしまった。それで、こう考えた。
「誰があの人を、一瞬の間にこんなに変えてしまったんだろう? どうしてあの人は、さっきから、他の男たちと同じようになってしまい、今までとは別人になってしまったんだろう?」
こうして彼女はロリウスに別れた。ロリウスのうちにロリウスを見出せなくなったからには、誰か他の男のうちにロリウスを探し出そうと考えていた。自分が到底好きになれそうもない男と暮らす方が、自分がもう愛していない男と暮らすより、もの憂い思いが少なかろう、と。そして彼女は、富裕な遊蕩児に伴われて、当時行われたかの聖祭に姿を見せた。その祭では、赤裸の処女の合唱隊が聖堂の中で踊ったり、娼婦の群れがオロント河を泳いで渡ったりしたものだ。彼女は、この優雅でしかも奇怪な町にある、ありとあらゆる快楽を心ゆくまで楽しんだ。ことに、劇場には欠かさず出入りしていた。そこでは、諸国から集まって来たたくみな所作役者が、熱心な観客の拍手を受けて、出演していた。
タイスは、注意を払って、所作役者や、踊り手や、役者に見入っていたが、ことに、悲劇の中で、若い男の愛人になっている女神や、神に愛される人間の女などに扮する女優を観るのを怠らなかった。その女優たちが、群衆を魅惑している秘密をそれと知り得たタイスは、自分がその女たちよりは美しいのだから、もっとよく演じられるだろうと心に言った。彼女は、この一座の座頭の許へ行って、仲間に入れてもらいたいと頼んだ。その美しさと、メロエ婆さんに仕込まれた芸のお蔭で、申し出は承認され、そしてディルセの役を振られて舞台に立つことになった。
初舞台での人気は、一向に栄《は》えないものであった。タイスが舞台に経験が無かったからでもあるが、また、前ぶれが無かったので観衆の賞賛を湧かせ得なかったからでもある。けれども、ぱっとしないこうした初舞台から何ヶ月かの後、彼女の美の力は、町全体が動かされたほどの力強さをもって舞台の上に発揮された。アンティオキア中の人々が、彼女の出ている劇場へひしひしと詰めかけた。帝国の裁判官や一流の市民たちも、世論に押されて出かけて来た。人足や掃除夫や港で働く仲仕たちは、場代を払うために韮《にら》やパンを節約した。詩人たちは、彼女を讃美した詩をつくった。ひげもじゃの哲学者たちは、浴場や競技場で彼女を弾劾《だんがい》したし、彼女の輿《こし》の通るのを見ると、キリスト教の僧たちは顔をそむけてしまった。彼女の家の入口は花に飾られ、熱情を表わす血がそそがれていた。彼女が情人たちからもらう金子《かね》は、一つ一つ勘定などをするのでなく、桝《ます》にはかって受け取った。そして、倹約な老人たちが集めたすべての財宝は、大河のように流れ込んで、彼女の足下に消えて行った。それゆえ、彼女の魂には曇りがなかった。彼女は、非常な人気と神々のめぐみとを、静かな得意の気特の裡《うち》にうけ楽しんでいた。そして、そんなに人から愛されるので、彼女は自分で自身を愛していた。
数年の間、アンティオキアの人々の恋や賞讃を楽しんだ後、タイスは、アレクサンドリアに帰って、まだ幼少の頃、埃っぽい路の真ん中をイナゴのように痩せ細って、飢えを忍びながら、貧苦と恥辱に打ちのめされてさまよい歩いたあの町に、自分の栄光を示してやりたい希求にとらわれた。黄金の都は歓呼して彼女を迎え入れ、新たな富で彼女を満悦させた。彼女が舞台に現われたとき、それは一つの凱旋であった。無数の讃美者や愛人ができた。彼女は、その人々を、心にかかわりなく一様に受け入れていた。ロリウスを見出すことを、ついに断念してしまったからである。
その多くの人々の中にまじってニシアスという哲学者がいた。彼は、希望なしに生きることを標榜《ひょうぼう》していたにも拘らず、彼女を得たいと願っていた。彼は、富者であったが、悧巧で優しかった。けれども、その繊細な心、その優雅な感情をもってしても、タイスの心を捕えることはできなかった。彼女はニシアスを好いていなかった。そして時によると、その洒脱な皮肉にむっとすることさえあった。彼の永久の疑惑は、タイスの心を傷つけていた。彼は何ものをも信じていないのに、女の方はあらゆるものを信じていたからである。彼女は、神の摂理を、悪霊の全能を、呪いを、呪詛を、神の審判を信じていた。彼女は、イエス・キリストを信ずるとともに、シリアの善き女神を信じていた。また彼女は夜陰の女神ヘカトが四辻を通ると、牝犬が吠えると信じ、牝羊の血まみれな毛で包んだ杯の中に媚薬をそそぐと、めざす男に恋慕の情をそそらせることができると信じていた。彼女は、未知のものを渇望し、得体のしれぬものを呼び、無限の期待の中に生きていた。未来が、彼女には恐ろしかった。それで、彼女は、未来を知りたがっていた。彼女のまわりには、エジプトの国神イシスの神につかえる僧とかカルデアの博士たち、調薬師、黒んぼの妖術者たちが集まって来ていて、いつも彼女を欺《あざむ》いていたが、それでも彼女はこりなかった。彼女は死をおそれていた。そして、到る処に死の影を見ていた。淫楽にふけっている最中に、ふと、冷たい指が自分のあらわな肩にさわったような気がして色を失い、引き寄せる腕に抱えられたまま恐怖の叫びを立てた。
ニシアスは、タイスにこう言った。
「我々の運命が、頬を落ちくぼませ、白髪となって、永久の暗夜の中に下って行かねばならぬものであろうと、また今、この広々した大空に笑っているこの日そのものが、我等の最後の日であろうとも、別に構わないではないか、タイス! 生命を享楽しよう。多く感じたとしたら、多く生きたことになるのだ。五官の知能を他にして知能はない。即ち、愛するということは、理解することなのだ。我々が知らないものは、存在していないのだ。ある虚無のもののために苦しむなんて、愚かではないか?」
タイスは怒ってニシアスに答えた。
「あなたのような、なんの希望もなんのおそれも持たない人を、私は軽蔑します。私は知りたいのです。知りたいのです!」
生命の秘密を知ろうとして、タイスは、哲学者たちの著作を読みはじめたが、でも、書いてあることがわからなかった。幼少時代が遠ざかって行くにつれ、彼女は、その頃のことを、更にこころよく心に想い返していた。彼女は、日が暮れると姿を変えて、昔、自分が情けない有様で育った小路や城壁の裏道や広場などを歩き廻るのを好んだ。そして、両親を失ったことや、ことにその両親を愛し得なかったことを残り惜しく思っていた。キリスト教の僧に行き会う度に、思いは自分の洗礼のことに運ばれ、心の乱れるのを感じた。ある夜、長い外套に身をくるみ、黒い頭巾にブロンドの髪の毛を隠して、常のように、町の場末を徘徊していると、どうして来たかは自分にも分らなかったが、見るかげもないバプテスマの聖ヨハネの会堂の前に出て来た。内に歌声のするのが洩れ聞こえ、戸口の隙間からは、ぱっとした明りがすべり出ていた。これには何の不思議をさしはさむこともなかった。ここ二十年来、キリスト教徒は、マクセンティウスを打ち破った大帝に保護されて、公然と、聖祭を行えるようになっていたのだから。ところで、その歌は、心霊への熱烈な訴えを意味したものであった。タイスは、弥撒《ミサ》に招かれたかのように、腕で扉を押して会堂の中にはいって行った。そこには、多勢の会合者、女や子供や老人などが壁につけてある墓石の前に跪づいていた。その墓石は、ただほんの石甕《いしがめ》に過ぎないもので、葡萄の蔓と房とが荒彫りにしてあった。とはいえ、それは、非常に手厚く祀《まつ》られていて、椰子の緑葉や、真紅の薔薇の花輪に蔽われていた。それをとりまく無数の法灯は、闇にきらきら星と輝やき、そこには、アラビアゴムの煙が、まるで天使の衣の垂れ布のように見えていた。壁画には、天国の幻影かと見える絵姿がかすかにうかがわれ、白衣の僧たちが、石龕《せきがん》の前にひれ伏していた。彼等が衆人と歌っていた聖歌は、苦痛の歓喜を表わしているものであり、また、勝利の死の中に多くの歓喜と多くの憂苦とを交えていたことは、タイスが、それを聴いていながら、自分の甦った感覚に、生の快楽と死の憂悶とが同時に流れて行くのを感じたくらいであった。
歌い終ると、信徒たちは、墓石に接吻しに列をつくって行くために起ち上った。その人たちは、淳朴な、労働に馴れている人たちであった。みな重い足どりで、眼を散らさずに、口をだらりと開き、純潔な容姿をして進んで行き、順次に、石棺の前に跪づいてはそれに唇を押しあてた。女たちは、めいめいの子供を抱き上げて、そっと、その頬を墓石にあてがわせた。
タイスは、驚きまどって、なぜこの人たちはこんなことをするのか、と、助祭にたずねた。すると助祭はこう答えた。
「お前さんは知らないのですか、今日私たちは、ヌビアの聖テオドールを偲《しの》んで、そのお祭をしているのです。あの方は、ディオクレティアヌス帝の時代に、信仰のために御難にお会いになったのです。あの方は、清浄な生を送られ、殉教者として死なれました。それで私たちは、白衣をまとって、栄光の御墓に赤い薔薇を供えに行くのです」
この言葉を聞いているうちに、タイスは、跪づいて涙にかきくれた。アーメスについての半ば消え去った思い出が、心のうちに甦って来た。この暗い、やさしくもまた悩ましい思い出の上に、蝋燭のまばたく光や、薔薇の薫香、立ちこめる香の煙、聖歌の諧調《メロディー》、心霊の篤信さなどが、栄光の魅力を投げかけていた。タイスは、くらくらとした気持にとらわれながらこう考えていた。
「あの人は卑しい人であった。けれども、それが今は、偉大な、立派な人になっている! どうしてあの人は、人間以上のものになったのであろう? 富や快楽よりももっと値打ちのあるこの知れないものは、一体、何なのだろう?」
彼女は、おもむろに起ち上って、かつては自分を可愛がってくれた聖者の墓の方へ、菫色の眼を向けた。その眼には涙の玉が蝋燭の光に輝やいていた。それから首をたれ、つつましやかに静々と、一番最後に、多くの人の愛欲の想いが懸けられたその唇で、その聖者の墓石に接吻した。
家へ帰って見るとニシアスが来ていた。彼は、髪を馥郁《ふくいく》と匂わせ、寛衣《チュニック》を解きひろげ、倫理学の書を読みながらタイスの帰りを待っていた。彼は、腕をひろげてタイスの方に進み出て、にこにこした声でこう言った。
「人じらせのタイスめ、お前がぐずぐずして帰って来ない間に、私が、ストア学派の一番の大家が書かせたこの写本の中に、どんなものを見ていたかわかるかい? 徳義の掟や気高い箴言《しんげん》かな? 違うんだ! この厳かな写本の上に、数しれない可愛いタイスが踊っているのを見ていたんだよ。どれも、指ぐらいの背丈だがね。でも、その容姿の美しさといったら限りないほどで、しかもそのどれもが、みなタイスばかりなんだ。金色と緋色のマントを長くひいているのもあれば、まるで一かたまりの白い雲のように、薄絹の面紗《ベール》をかぶって、空中をふわふわ舞っているのもあったし、快楽をより多く起こさせるために少しも動かず、神々しいほどの裸身でいて、何の思想も表わしていないのもあった。また、そうした中に二人、手をとり合って、どちらをどっちと区別のできないほど似寄っているのがいたが、二人ともほほえんでいて、一人は、『私は愛です』と言い、一人は、『私は死です』と言っていたよ」
こう話しながら、彼はタイスを抱きしめていた。そしてじっと下を見つめているタイスの怒った視線が眼に入らなかったので、彼は、無益に終ることなど気づかずに、なおも感想に感想を付け加えて行った。
「そうだ、『何ものも汝の心霊を開拓することから汝を遠ざけることがあってはならない』と書いてある行を目前にしたとき、私には、『タイスの接吻は、焔よりも熾烈で蜜よりも甘い』と、こう読めたよ。さあ、今日、一哲学者は、性悪なお前のおかげで、そんな風に哲学書を読みこなしている。もっとも、我々誰でもが、他人の思想の中に見出すものといったら、自己本来の思想ばかりであること、そしてまた誰しも、私が今しがたこの本を読んだように書物を読む傾きを、幾分持っていることは事実だがね」
タイスは、ニシアスの言葉など、聞いてはいなかった。その心は、なお、かのヌビア人の墓前にあった。ニシアスは、タイスが溜息をもらすのを耳にしたので、その首筋に接吻し、こう言った。
「ねえ、さびしがってはいけないよ。人間というものは、この世を忘れてしまうとき、はじめてこの世に幸福でいられるのだ。それには、我々は秘術を持っている。おいで、人生をまぎらせてしまおうじゃないか、いずれ、人生は我々につらくあたるに違いないから。おいで、愛し合おうよ!」
しかし、彼女は彼を押しのけた。そして、にがにがしげに叫んだ。
「愛し合うなんて! でもあなたは、誰を愛したこともありはしないのです。そして私は、あなたを愛してはいませんよ。そうですとも、愛してなんかいるものですか! 私は、あなたを憎んでいるのです。出て行って下さい! 私はあなたが憎い。私は、あらゆる幸福な人、富んでいる人を憎み軽蔑するのです。出て行って下さい! 行ってしまって下さい!……親切というようなものは、不幸な人たちの間でなければありはしません。私がまだ小さい頃のこと、私は、十字架の上で死んだ黒んぼの奴隷を知っていました。その奴隷は善い人でした。愛にみち、生命の秘密を持っていました。あなたなんか、その奴隷の足を洗う資格もありはしません。行って下さい! もう、あなたになんか会いたくないんですよ!」
彼女は、敷物の上に腹這いに身を横たえ、これからは聖テオドールのように清貧と素朴との中に生きて行こうと計画をたてながら、その夜一夜を泣き明かした。
でも翌日になると、今までの通りの快楽に、再び戻ってしまった。
まだ衰えの色は見えないが、自分の美もこの先もう長くは続くまいと知っていたので、彼女は焦って、早くその美からすべての悦びや栄誉を、とり得てしまおうとしていた。舞台には、今までになく稽古を積んで登場し、彫刻家や画家や詩人の想像を、生あるものに現わしていた。タイスの形や姿勢、動作や足どりの中に、宇宙を律する神々しい調和の一観念を認めて、学者や哲学者は、こうまで完全な風情を徳の一つと数えて、こう口にしていた――『タイスもまた幾何学者だ』。無智の者や貧しい人々、名もないいやしい者、また臆病な人たちは、タイスが自分たちの前でも出演してくれているので、彼女を、天の恵みのように祝福していた。けれども、こうした賞讃のまっただ中にいて、彼女はさびしい気持ちを抱いていた。そして、今までになく死をおそれた。何をどうしても、その不安からまぎれることができないでいた。町で諺にまでなっているほど有名なその住居も庭も、それには役立たなかった。
庭には、彼女が大金をかけて印度やペルシアから取り寄せた樹木が植えさせてあった。噴水が、唄いながらその樹々をうるおしていた。たくみな建築家の手で模造された廃墟の円柱や岩組が、湖に影を落していたが、また、幾つかの立像もその姿を映していた。庭の中央にはニンフの岩窟《いわや》が立っていて、その名の由来は、入口のとっつきにあるいろどられた蝋細工の、大きな三つの女人像から出ていた。その女人たちは、沐浴《ゆあみ》しようとして着物をぬいでいる形で、不安そうに、誰か見てはいないかと気づかいながら、横に顔を振り向けて、まるで生きているものとしか見えなかった。日の光は、この隠れ家に、細々と落ちる水簾《みずすだれ》を通してだけさし込んで来て、水にその強さをやわらめられ、五彩の虹をつくっていた。岩窟の内壁には、まるで神洞の内部のように花冠や花飾り、タイスの美をたたえる絵馬《えま》などが一面に懸けつらねられてあった。その間にはまた、強い色で塗られた喜劇や悲劇に使う仮面、舞台面や道化姿、神話や伝説に出て来る獣などを描いた絵もあった。中央の石柱の上に、時代のついた、作の精緻《せいち》な、象牙細工の小さい愛神エロスの像が立っていた。これはニシアスの贈ったものだ。ある凹みには、黒大理石の山羊が置いてあったが、その瑪瑙《めのう》の眼は輝やきを放っていた。雪花石膏《アラバスター》でできた六頭の小山羊が、母山羊の乳房のまわりに押し合いへし合いしていた。しかし母山羊は、蹄を挙げ、鼻の低い首をもたげて、岩上によじ登ろうと焦っている風をしていた。地面は、ビザンチンの絨毯《じゅうたん》や支那人の刺繍した枕や、リビア地方の獅子の皮で蔽われて、黄金の香炉は、ほのかに不断の煙をたて、ところどころ、縞《しま》瑪瑙の大花瓶の上には、ペルセアスの花がすっくと枝を出していた。岩窟《いわや》の一番奥まった緋色のカーテンの暗い陰のところに、印度の巨大な亀の甲羅へ打った鉄《くろがね》の釘が光っていた。この亀は、仰向きに返してはタイスの寝床に使われた。タイスはここにぐったりと身を横たえ、香や花にとりまかれ、水のささやきを耳にしては友達と話し合ったり、またはたった一人、舞台の技巧や年月の逃げるように過ぎ行くことを思いふけったりしながら、夕食の時を待つのであった。
さて、その日もタイスは、舞台を済ますとそのニンフの岩窟で休んでいた。しげしげと眺め入る鏡の中に、己が美の衰えの初影を窺《うかが》いしって、遂には自分にも白髪と皺の寄る時代が来るのか、と思って、恐れにとらわれていた。容色の水々しさをとり戻すには、呪文を唱えて、ある種の草を燃やせばいいのだ、と心に言いきかせては、いたずらに安心を得ようとした。けれども、残酷な叫び声が耳についた。「お前は年をとるのだ、タイスよ、お前は年をとるのだ!」彼女の額には、恐怖の汗が冷たくにじんだ。それから、も一度、限りない優しさをこめて鏡の中をじっと眺めながら、自分がまだ美しく、人の愛を受けるにふさわしいものと考えた。独りほほえみながら、彼女はこうつぶやいた。「このアレクサンドリアには、誰一人、この私と、体つきのしなやかさや仕草の優美、腕の美しさで争うことのできる女はいやしない。そして、腕は、おお私の鏡よ、腕は恋の真実の鎖なのだよ!」
こうして想いを運んでいると、一人の見しらぬ男が、自分の前に立っているのを知った。その男は、痩せ細っていて、眼は火のように輝やき、汚なく、ひげをもじゃもじゃ生やしていたが、豪奢な刺繍のある衣服をまとっていた。思わず鏡を手から落して、タイスはおびえた叫びをあげた。
パフニュスは、身じろぎもしないで、いかにその女が美しいかを見なから、心の奥底でこう祈りを上げていた。
「おお神よ、この女の顔が、あなたの僕《しもべ》に邪念を起こさせるどころでなく、かえって善心を起こさせますようになさしめ給え」
それから、口をきこうと心を励ましながら、こう言った。
「タイス、私は、ある遠い国に住んでいる者だが、お前の美しいという評判にひかれてここまでやって来た。人の話では、お前は歌い女のうちでも最も優れたものであり、女の中でも一番強い媚惑の力を持っているとのことだ。お前の富、お前の多くの恋についての噂は、まるで物語にでもありそうなことで、ナイル河を往来の船頭は、誰でもあの不思議な話を覚えている昔の娼婦ロドピスを想い起こしている。それで、私は、お前を知りたいという望みに駆られたのだが、実際を見ると、評判以上だ。お前は、世間で言い伝えるより千倍も賢く、また、美しい。今、お前を目の前にして、私は、こう心に言っている。『酔いどれた男のようにふらふらしないで、お前の傍に寄りつくことはとてもできない』」
この言葉は虚飾されたものではあったが、信仰の熱情に鼓舞されていた修道士パフニュスは、非常な熱烈さをもって口にした。ところで、タイスは、一時は自分をこわがらせたその奇妙な人間を、不快にも感じずに眺めていた。ごつごつした野生のままのその容姿、視線にみちている暗い火のようなもので、パフニュスはタイスを驚かしていた。彼女は、自分の知っているどの男とも全く似寄っていないこの男の身分や生活を知って見たくなったので、やさしくからかいながら、こう答えた。
「まああなたは、すぐにお賞《ほ》めになるんですね。この私の眼差しに会って、骨まで焼きつくされないように、お気をつけなさい。私に惚れないようになさい!」
「おお、タイス、私はお前を愛している! 私は、自分の生命よりも、自分自身よりもお前を愛しているのだ。お前のために、残り惜しい砂漠を、私は去って来た。お前のために、沈黙に捧げた私の唇が、俗世間の言葉を吐いた。お前のために、見てはならないものを見、聞くことをとめられているものを耳にした。お前のために、私の魂は迷い乱れ、心は開き、そこからは種々な考えが、まるで鳩が喉をうるおす清冽な泉のように、ほとばしり出た。お前のために、私は、昼となく夜となく、怨霊《おんりょう》や吸血鬼のみちている砂漠を横ぎって歩いて来たのだ。お前のために、私は、蝮《まむし》や蝎《さそり》の上を跣足《はだし》で踏みもしたのだ! そうだ、私はお前を愛している! 私はお前を愛している、だが、肉欲の念に身をこがして、餓えた狼のように、あるいはまた、猛り狂った闘牛のようにお前に寄り添って来る男たちとは、わけが違うぞ。あの男たちにとっては、お前は、獅子に対する羚羊《かもしか》のように可愛いのだ。おお女よ、彼等の肉欲の愛は、お前の魂までも貪り食うのだ! この私は、精神的に、真理においてお前を愛する。唯一の神の御名において、永遠にお前を愛するのだ。お前に対して私が胸に抱いているものは、真の熱情、神々しい慈愛というものだ。私は、花のような陶酔や、短い一夜の夢よりもずっといいものを、お前にやることを約束する。私はお前に、神聖な饗餐《きょうさん》、天国の婚姻を受けられるように約束する。私の持って来る幸福は、決して終りのないものだ。それは、かつて聞きもしなかったもので、また、とても口でどうと言えないものだ。もしこの世の幸福な者が、その影を一目見るだけでもできたなら、即座に驚いて死ぬかと思われるくらいなものなのだ」
タイスは、拗《す》ねた容姿をして笑いながら言った。
「ねえ、あなた、では、そうおっしゃるほど素晴らしい愛というのを、見せて下さいな。早く早く! 余り長ったらしいお喋りは、私の美しさを傷めるかもしれませんからね。少しも早く。私、あなたがおっしゃるその幸福を、早く知りたくって仕様がないんです。でも、実を言いますとね、私はどうやらその幸福を一生知らずに済ますんじゃないかと思いもしますし、あなたが私に約束して下さることはみな、言葉だけで消えてしまうんではないかと気がかりにもなるんですよ。大きな幸福を約束することは、本当に与えるよりはずつとらくなことですものね。誰しも、めいめいの才能を持っているものです。あなたのは、お喋りすることですのね。あなたは、未知の愛についてお話しですが、人間が接吻し合うようになってから、もうずいぶん長い時代が経っていますのに、まだ愛の秘密が残っていますのでしたら、ほんとに大珍事というんでしょうね。このことについては、愛人たちの方が博士たちよりずっとくわしゅうござんすよ」
「タイス、愚弄してはいけない。私はお前に、その未知の愛を持って来ているのだ」
「あなた、ちとおいでになりようが遅うございましたわ。私は、愛という愛を知っていますよ」
「私がお前に持って来ている愛は、栄光にみちているものだ、だが、お前の知っているという愛は、どれも恥より外に生まないものだ」
タイスは、暗い眼をしてパフニュスを眺めた。けわしい一本の皺《しわ》が、その可愛い額へ縦についた。
「この家の主人を侮辱するなんて、ほんとに、あなたは無遠慮きわまる方ですね。私をよく見て下さいな。その上で、私が汚辱にみちた人間に似ているかどうか、言ってご覧なさい。いいえ! 私は恥かしいことはない。また、私と同じようにして暮らしている他のどの女でも、たとえ、私より綺麗でなく富んでいなくても、やはり、恥かしいことはありはしない。私は、自分の一歩々々に快楽を蒔《ま》いて来ました。そのために、私は、この世界に有名な者となっているのです。私はこの世の支配者たちよりももっと力を持っています。あの人たちは私の足下に平伏したんですよ。私を、そして、この小さい足を見てごらんなさい。何千という男が、この足に接吻する幸福を得るためには、自分の血潮ででも購《あがな》おうとすることでしょう。私はそんなに大きくはないので、地上に広い場所はとっていません。私が町を通りますとき、セラペイアムの殿堂の高みから私を見る人にとっては、私は米粒のようなものです。けれども、その一粒の米が、男の間に地獄《タルタラス》の底を一杯にするほどの死や、失望や、憎悪や、犯罪を惹き起こしたものです。あらゆる人たちが、私の周囲で栄光を叫んでいますのに、私に恥辱の話をなさるなんて、あなた、気が違っておいでじゃないのですか?」
「人間の眼に栄光であるものは、神の御前では汚辱なものだ。おお女よ、私たちは、同じ言葉も同じ思想も持たないことが驚くに当らないほど、お互いに、ひどくかけ違った国で育《はぐく》まれて来た。けれども天は、お前と一致して行こうとする私の心や、二人が同じ感情を持つまではお前の側を離れまいとする私の決心の証人になっておいでだ。おお女よ、お前が私の息で蝋のように熔け、私の希望の指が思いのままにお前を形づくることができるように、誰が私の身に火のような弁舌を与えてくれよう。おお、魂の中でのいとしき者よ、私を力づけている精神が、お前を新たに創り変えて、お前に新しい美を刻みつけ、そしてお前が、歓喜の涙にむせびながら、『今日はじめて私は生れたのだ』と、叫ぶためには、いかなる徳の力がお前を私に任せてくれるであろうか? 誰が、私の心から、シロアムの泉〔聖書にある奇跡の行われたエレサレムの泉〕を噴き出させてくれよう? その泉に浸ってこそ、お前が最初の純浄さをとり戻すことができるのだ。誰が、この私をヨルダン河〔キリストが洗礼を受けた河〕に化身させてくれよう? その水がお前の上にそそがれれば、お前に永遠の生命を授けてくれるというものだ」
タイスは、もう怒っていなかった。そしてこう考えていた。
「この人は、永遠の生命について話している。そしてこの人の言うことはみな、護符《ごふ》の上に書かれているように思われる。この人は博士で、老衰や死を防ぐ秘法を持っているに相違ない」
そこで彼女は、彼に身を与えようと決心した。そして、わざと彼を恐れるような容姿を作りながら後退りして岩窟の奥へ行くと、寝床の縁に腰をおろし、手際よく寛衣《チュニック》を胸の上にたくし上げ、じっとして口をつぐみ、伏し眼になって待っていた。長い睫毛《まつげ》が頬の上にやわらかい影を作っていて、どこから見ても羞恥《しゅうち》の思いを表わしていた。あらわな足がだらりと揺れていて、その有様は、河のほとりに腰をおろして、もの思いに沈む少女のようであった。
けれどもパフニュスは、彼女を眺めたまま動かずにいた。膝ががたがたふるえてもう身を支え切れず、舌は口の中で乾いてしまい、頭は恐ろしく混乱して来た。急に眼がかすんで、自分の前に、濃い雲のほかもう何も見えなくなってしまった。彼は、女を見ないようにと、キリストが自分の眼の上に手を置かれたのだ、と思った。そうした助けに安心を得、落着き、心がしっかりして来たので、砂漠に棲む長老にふさわしいおごそかな調子で、こう言った。
「お前は私に身を任せようなどと、一体お前は、それが神の眼に触れないとでも思っているのか」
女は首を振った。
「神ですって! 何もしょっちゅうこのニンフの岩窟《いわや》に神の眼をそそがせることはないじゃありませんか? もし私たちが神を汚すというのだったら、神さまの方で引きさがったらいいじゃありませんか? ですがなぜ、私たちが神を汚すようなことがあるのでしょう? 私たちをつくって下さったのですもの、作られたままの私たちをごらんになり、与えられたままの本性にしたがって動く私たちをごらんになった神様がお怒りになったり、お驚きになるわけがありません。世間の人は、あまり多く神様のために話し過ぎますよ。そして、神様がお持ちになったこともない考えを、これは神様のものだなんてよく言っています。ねえ、あなたご自身、神様の本当の特質をご承知なんですか? 神の御名で私に話しかけるというあなたは、一体、誰なんです?」
そこで修道士は、借り着を少しひろげ、苦行衣を示して言った。
「私は、アンチノエの院長パフニュスだ。私は、神聖な砂漠からやって来たものだ。カルデアからアブラハムを遁れさせ、ソドムからロトを遁れさせたあの御手が、私を、浮世からへだてさせて下さった。私は、もはや、他の人間のためには生存していなかった。けれども、お前のまぼろしが、砂漠のわがエルサレムで私の前に現われた。そして私は、お前が腐れきっていることを知り、お前の身中には死のあることを知ったのだ。それで私は今ここに、おお女よ、ちょうど墓の前に立っているように、お前の前に立ってこうお前に叫ぶのだ。『タイスよ、起て!』」
パフニュスという名、修道士という名、院長という名を聞いて、タイスは恐れに色を失った。そして、髪をふり乱し手を合し、泣きうめいて、聖者の足下にいざり寄った。
「私を苦しめないで下さい! なぜ、あなたはいらしったのです? 私にどんな御用がおありなのです? 私を苦しめないで下さい。私は、砂漠の聖者様たちが、私のように快楽のために作られている女をお嫌いになることをよく存じております。私は、あなたが私をお憎しみになりはしないか、私をお苦しめになるのではないかと思って、こわうございます。ほんとに、私は、あなたのお力を疑いはしません。けれども、パフニュスさま、私を蔑《さげす》んだり憎んだりはして下さいますな。私は、自分の付き合っている多くの男のように、あなたが甘んじて受けておいでの貧しさを嘲《あざけ》ったりしたことは、一度もございません。ですからあなたも、私の富を責めて下さいますな。私は美しく、そして演技が上手なのです。私は、自分の性質を選り好みしませんでしたように、何も選り好んで今の身分を選んだわけではございません。私は、自分の今していることのために作られたものです。男を魅惑するために生れて来たのです。あなただって、さっき、私を愛しているとおっしゃっておいででした。私に対して、あなたのお知りの術をお使いにならないで下さい。私の美しさを打ち砕いたり、私を塩の像にしてしまうような魔法の言葉を、お口にしないで下さい。私を怖がらせないで下さい! 私はもう恐れ過ぎるほど恐れています。私を死なせないで下さい! 私はほんとに死が怖いのです」
彼は、女に起き上るように合図をして、言った。
「安心おし、私はお前に、侮蔑の言葉も恥辱も投げかけはしない。私がお前のところに来たのは、井戸のふちに腰をおろされて、サマリアの女が差し出す壷の水を飲まれ、シモンの家で夕食をとられた時にマリアの香油を受けられた、あのお方の代りに来たのだ。私は、最初の石をお前に投げつけられるような、罪のないものではない。私は、唯一の神が私の上におかけ下さった豊かな聖寵を、何度か悪く使ったことがある。怒りではない、あわれみの心が、私の手をとってここへ導いて来てくれたのだ。私は、詐《いつわ》ることなしに、愛の言葉をもってお前に近づくことができた。なぜなら、心の熱情が私をお前のところに連れて来たのだから。私はいつくしみの火に燃えている。それで、もし、肉欲のみだらな光景ばかり見馴れているお前の眼が、万象を、その神秘な姿の中に見ることができたなら、私はお前の眼に、主が山上で昔のモーゼにお示しなされた火焔につつまれた荊棘《いばら》の一枝のように映ることであろうに。あれは、主がモーゼに、真の愛を、我々を消耗させずに燃やす愛、あとに炭や無駄な灰を残すどころか、永遠にその貫徹するものすべてを薫《くゆ》らす愛を了解させるために、お示しになったものだ」
「修道士さま、私はあなたを信じます。もう、あなたからの呪詛も陥穽《おとしあな》も恐れません。私は、よく、テバイドの隠遁者たちの話を聞いておりました。アントニウスやパウロの生涯について人から聞いたことは、実に立派なことでございます。あなたのお名前も、私は知らないことはございませんでした。人の話では、あなたはまだお若いのに、有徳な点では、一番年寄られた隠遁者の方々と同様のお方だ、とのことでした。一目見たその時から、あなたをどういう方とは存じませんでしたが、でも、ただのお方ではないと思いました。ねえ、あなたは、イシスやヘルメスや、女神ユノなどに仕える坊さんや、カルデアの占易者や、バビロンの博士たちもできなかったことを、私のためにおできになれましょうか? 修道士様、もし私を愛して下さるなら、私を死なないようにして頂けましょうか?」
「女よ、生きようとねがうものは生きて行ける。永久にお前を殺す汚らわしい快楽から逃げるがよい。唯一の神が、その唾《つば》にてこね上げ、その息で生命を授けられたその体を、恐ろしくも焼こうとしている悪鬼の手から引き離すがよい。疲労にやつれたお前を元気づけるように、孤独の祝福された泉へおいで。砂漢の中に隠された、天までも高くほとばしり登る噴泉を飲みにおいで。悩める魂よ、お前の望みに望んでいたものをとりにおいで! 喜びを熱望する心よ、真の喜びを味わいにおいで。つまりそれは、清貧とか遁世とか忘我とか、全身を神の御胸におまかせすることなんだ。今はキリストの敵で明日はその最愛のものとなる者よ、キリストの許においで、おいで! すれば、探し求めていたお前は、『私は愛を見出した』と言うであろう」
だがタイスは、何か遠いところのものを、じっと見つめているような風をしていた。そしてこうたずねた。
「修道士様、私がこの楽しみを棄てて悔い改めをいたしましたら、私の今の美しさを少しもなくさずに無疵《むきず》のままの体を持って天国に生れかわって行けるというのは、真実でございましょうか」
「タイスよ、私は、お前に永遠の生命を持って来てやったのだ。私を信じなさい。私の告げることは、真理なのだから」
「でも誰が、それを真理だと保証してくれましょう?」
「ダビデや預言者たちや聖書や、それから、やがてはお前が目にする不思議などがだ」
「修道士さま、私はあなたをお信じ申したいと思います。なぜなら、実際を申し上げますと、私は、この世に幸福というものを見出せなかったのでございます。私の運命は女王の運命よりも立派なものでした。けれども人生というものは、私に、多くのさびしい愁いやつらい苦しみをもたらしましたので、今はもう、ほとほと疲れてしまっているのでございます。女という女が私の宿命を羨んでおります、それなのに私はどうかすると、まだ自分の小さかった頃、町の人口の門の下で蜜菓子を売っていた歯の抜けたお婆さんの境涯を羨しく思うことがあります。貧しい人たちだけが善良であり、幸福であり、祝福されているものであり、そして、謙譲に生きて行くところに大きな幸福があるものだ、という考えが、よく私の頭に起こりました。修道士様、あなたは、私の魂の波をゆり動かされ、その底に眠っていたものを表面にお出しになりました。ああ、誰を信じたらよいのでしょう。どうなることなのでしょう。そして、人生とは何なのでしょうか」
彼女がこう話しているうちに、パフニュスの表情は変わり、神聖な喜悦がその顔一ぱいに溢れていた。彼はこう言った。
「お聞き、私は、たった一人でお前の住居にはいって来たのではないのだ。ある他の方が、私と一緒においでになり、今ここに、私と並んで立っておいでだ。その方を、お前は見ることはできない。なぜなら、お前の眼は、その方を挑めるには、まだふさわしくないからだ。だが、じきにお前は、美しい輝やかしさのうちにその方を見て、『この方だけが愛することのできる方だ』と、言うようになるだろう。先程も、その方が優しい御手で私の両眼を塞いで下さらなかったら、おおタイス、恐らく私は、お前と一緒に罪に陥っていたかもしれない。もともと私自身としては、弱い、迷える者に過ぎないのだから。けれども、その方は私たち二人を救って下さった。その方は、力がおありであると同様に善良でいられる。そしてその御名を、救世主というのだ。その方は、ダビデと預言者とによってこの世に約束された方で、揺籃にあって牧羊者や博士たちにあがめられ、パリサイ人によって十字架にかけられ、聖女たちに葬むられ、使徒たちによりこの世に顕現《けんげん》せられ、殉教者たちによって証明されたお方だ。そして今その方は、お前が死をおそれているとご存じになって、おお女よ! お前を死なせないようにとこの家に来られたのだ。おおイエス様、かつて星の群れがベツレヘムの高台で母たちの腕に遊ぶ聖童たちの手でつかみ得たくらいにあなたと一緒に地上近くくだって来ていたあの不思議な日に、あなたがガリラヤの人々に現われ給うたと同じように、今、あなたは私に現われ給うているのではないのですか。イエス様、今、我々はあなたと共に在って、あなたは私に、その尊い体の真のお姿をお示しになっているのではないのですか。そこにあなたのお顔があり、その頬を流れ落ちている涙は、真の涙ではございませんか! そうです、永遠の正義の天使は、その涙をお受け入れになりましょう、そしてそれこそ、タイスの心霊の償いとなるものでしょう。そこにおいでになるのは、イエスさまですね? イエスさま、あなたの崇むべき唇がほころびています。お話しになってよろしうございます。さあ、お話し下さいまし。私は、伺っております。そしてお前、タイス、幸福なタイス、救世主がご自身でお前にお話しに来て下すったことをお聞き。話しているのはあの方で、私ではないのだ。あの方はこうおっしゃる。『私はお前を長いこと探した、おお、さ迷える小羊よ! が、とうとう探し当てた! もう、私を逃げて行っていけない。私の手に取られるままになっておいで、可愛い者よ。すれば、私はお前を、私の肩にのせて、天の羊小舎に連れて行ってやろう。おいで、タイス、おいで、選ばれた者よ、私と一緒に泣きにおいで!』」
言い終るとパフニュスは、法悦のみなぎった眼をして跪づいた。その時タイスは、聖者の顔に生けるイエスの反影を見た。
「ああ、過ぎ去った幼なき日よ」と、タイスは涙にむせびながら言った。「おお、あの優しかったアーメス爺や! 善良な聖テオドール、夜明けのほのぼのとした光の中を、まだ洗礼の水の乾き切らぬほどのこの身を、お前が抱いて行ってくれていたあのとき、いっそどうして私は、お前の真白な外套の中で死ななかったのでしょう!」
パフニュスは、タイスの方に駈け寄りながら、こう叫んだ。
「なに、お前が洗礼を受けている!……おお、神の叡智よ! おお、摂理よ! 善なる神よ! 私はいま、自分をお前に引きつけていた力の何であるかを知った。私は、私の眼にお前を実に美しく、実に得がたく見せていたものの何であるかを知った。俗世間の汚れ果てた空気の中へお前を迎えとりに行くため、私を、住んでいた神のご加護の下から去らせたのは、その洗礼の水の徳の力だ。お前の体を洗った水の一滴、きっとその一滴が、私の額にほとばしったに違いない。おいで、法妹よ、そしてお前の法兄からの平和の接吻をお受け」
修道士は、娼婦の額にその唇を軽く当てた。
そして、あとは神の語るに任せて彼は黙ってしまった。ニンフの岩窟《いわや》の中には、流れる水の唄にからんで行くタイスの啜り泣く音の外、もう何も聞こえなかった。
タイスは、落ちる涙を拭おうともしないで泣いていた。その時、二人の黒んぼの女奴隷が、布や香料や花飾りを捧げてやって来た。
「泣いているべき時ではありませんでした」と、タイスは強いてほほえもうとしながら言った。「涙は眼を赤くし、顔色を悪くするものです。今夜は、お友達のところで夕食をする事になっていました。ですから、私は綺麗でいたいのです。だってその席には、私の顔に疲れの出ているのを探ろうとする女の人たちがいるでしょうから。この奴隷たちは、私の着付けに来たのです。神父様、どうぞ席をおはずし下さいまして、この女たちのするがままにさせて置いて下さいまし。この女たちは器用で経験も積んでいるのです。それで私、ずいぶん高いお金を払ったんですの。こちらの、あの女をご覧あそばせ、大きな金環をつけ、あんなに真白な歯を見せているあの女を。私、あれを、総督の奥さんから奪って来たのですよ」
最初パフニュスは、どんなにしてでも、タイスがその夜食の席に出ることを止めさせようと考えたが、用心深く事を行おうと決心して、どういう人にその席で会うのか、とタイスにたずねた。
タイスは、そこでは、宴会の主人役の海軍長官の老コッタ、ニシアス、議論に倦くことをしらない大勢の哲学者たち、詩人カリクラート、セラピスの大司教、馬の教練に特に力を入れている金持の青年たち、それに、これといって何一つとりたてていうこともできないただ若いだけの女たちなどに会うだろう、と、答えた。そこで、ある超自然の霊感を得て、修道士は言った。
「その連中のところへおいで。だが、私はお前の側を離れない。私は、お前と一緒にその宴席に行こう。私は、何も言わずにお前の側についていよう」
タイスは、ほがらかに笑い出した。そして、二人の黒んぼの女奴隷が、自分の身のまわりにいそいそと着付けに努めている中で、こう叫んだ。
「私が、テバイドの坊さんを情夫《いろ》に持ってるのを見たら、あの人たちはなんて言うでしょう?」
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饗宴篇
パフニュスをつれてタイスが宴席に入って行った時には、お客の大部分はもう長椅子に肱をついて、きらきらする食器類に蔽われた半円形の食卓の前に陣どっていた。食卓の中央には、銀の水盤が置いてあり、その上には革嚢《かわぶくろ》を傾けている四つの半人半山羊神《サチール》がのせられていた。革嚢からは塩水が流れ出て、水盤の中に、泳いでいるように見せかけた煮魚の上にそそがれていた。タイスが入って来るや、四方から歓呼の声が湧いた。
「|美の女神《カリテス》の妹に敬意を表わす!」
「その眼差しで総てを表現することのできる沈黙した悲劇の女神メルポメネに敬意を表する!」
「神々と人間の最愛なる者に敬意を表わす!」
「心から熱望される女に!」
「苦悩と快癒とを授ける女に!」
「ラコチスの真珠に!」
「アレクサンドリアの薔薇の花に!」
タイスは、この賛辞の奔流が過ぎ去るのを、いらいらしながら待っていた。それから、当夜の主人役のコッタに言った。
「リュシウス、私は砂漠の修道士アンチノエの院長パフニュスをお連れしました。この方は偉い聖者で、その言葉は、火のように熱く燃えておいでです」
海軍長官リュシウス・アウレリウス・コッタは、起ち上って言った。
「パフニュス、キリストの信仰を奉ずるあんた、よくおいでじゃ。自分も、近頃、帝国の宗教となったあなたの宗教に、敬意を払っていますじゃ。神聖なるコンスタンティヌス帝は、あんたの同宗門の人々を、帝国の第一の友の列に置かれた。ラテン人種の叡智は、いかにもあんたの信奉するキリストを我々のパンテオン〔神々を祀る殿堂〕に加えねばならないはずじゃった。いかなる神にも、何か神々しいものがあるというのが、我々の先祖の訓言じゃ。が、それはそれとして、なお時のある間を、飲んだり楽しんだりしよう」
老コッタは、晴ればれした調子でこう話した。彼は、軍艦の新しい型を研究したところで、また、カルタゴ人の歴史の第六巻目を書き終えたところであった。それで、自分の一日を空費しなかったことの確信があったから、自己についても神々に対しても満足していた。彼はこう付け加えた。
「パフニュス、ここには、愛せらるる値打ちのある人が幾人もおる。セラピスの大司教エルモドール、哲学者のドリオン、ニシアス、ゼノテミス、詩人のカリクラート、また青年のシェレアス、アリストブール、この二人は、ともに私の若い時の親友の息子さんたちじゃ。その側にいるのがフィリナとドロゼ、二人の別嬪のことは、大いにたたえてやらねばいかんて」
ニシアスは、パフニュスを抱擁しに来て、その耳にささやいた。
「ねえ君、僕は君にウェヌスは非常な力を持っている、とあんなに注意しておいたのに、あの女の優しい脅迫に会って、君は心にもなくここへ連れて来られたのだね。いいかい、君は、敬虔の念にみち満ちている男だが、ウェヌスが神々の母であることが分らないと、君の破滅は明らかだよ。老数学家のメランテスが口癖に、『私は、ウェヌスの助けなしには、三角形の特質を証明することはできなかろう』と言っていた言葉を、知っておき給え」
しばらく前から新来の客をじっと眺めていたドリオンは、突然、手を叩いて賞嘆の叫びを発した。
「この人だ、諸君、あの視線、あのひげ、あの寛衣《チュニック》、たしかにこの人だ。僕は、ちょうどわがタイスがたくみな腕を示していた時この人に劇場で会ったんだ。この人は恐ろしく昂奮して、僕は証明するがね、烈しく攻撃したもんだ。この人は真面目な人だ。今に我々みなを罵倒するぞ。その弁舌は恐るべきものだ。マルクスがキリスト教徒のプラトンだとすれば、パフニュスは、そのデモステネスだな。エピクロスは、あの小さな学園の中で、あんな言葉を聞いたことは、決してありゃしなかったぞ」
その間に、フィリナとドロゼは、貪るようにタイスを眺め廻していた。タイスは、ブロンドの髪にうす紫の菫《すみれ》の花輪をつけていた。その花の一つ一つは、彼女の瞳の色を想い偲ばせていたが、その眼の色よりはほのかに薄い色をしていた。それほど、花は弱々しい眼差しに似ていたし、眼は色の強まった花に似ていた。それがこの女の生れながらの長所であって、身についているすべてのものが、生きていて、霊魂ともなり調和を持っていた。銀箔のついた赤柴の長衣は、その長い襞《ひだ》の中に、うらぶれたさまに近い情趣をたたえていて、腕環も頸環も、その情趣を引き立ててはいなかったが、そのあらわな両腕は、彼女の装いの一切の光彩となっていた。心にもなく、タイスの衣裳や髪飾りに見|惚《と》れながらも、二人の女は、そのことを口には出さなかった。
「ほんとにあなたはお綺麗ですこと!」と、フィリナが言った。「アレクサンドリアにお見えになった当座は、こんなにお綺麗ではなかったんですのに。それでも私の母は、その頃あなたをお見受けしたことを思い出しては、あなたにくらべられるような女はまずなかった、と、よく申しておりましたわ」
「今夜お連れのあの新しい愛人は、一体、どなた?」と、ドロゼが訊ねた。「風変わりな無骨な様子の方ね。象飼いと言うものがあるとしたら、きっと、あの人のようなんでしょうね。どこであんな無粋なお友達をお見つけなんでしたの? もしや地の中に住んで地獄《ハデス》の煙にくすぶりきっている穴居人たちの中からではございませんの?」
するとフィリナが、ドロゼの口の上に指を置いた。
「お黙りなさいよ。恋の神秘というものは、秘密のままにして置かなければいけませんし、それを知ることは御法度ですよ。私でしたら、たしかに、あの男の唇で接吻されるよりも、煙の絶えないエトナの噴火口に接吻される方がずっといいと思いますがね。けれども、綺麗で、女神のように愛らしい私たちの優しいタイスは、私たちとはまた違って、可愛い男の願いばかりでなく、やはり女神のように、すべてのものの願いを叶えてやらなくてはいけないのでしょうよ」
「お二人とも、お気をつけなさいよ」と、タイスが答えた。「あの人は博士で、妖術者ですよ。小声で話しても、あの人には分ってしまうんです。頭の中のことさえ分ってしまうんですよ。あなた方が寝入っている間に、あなた方の心臓を抜きとって、代りに海綿を入れて置くことができるんですよ。そうなると翌日、あなた方は、水を飲むと息がつまって死んでしまいますから」
タイスは、二人の女が顔色を変えるのを眺めると、彼女らには背を向けてパフニュスと並んで、長椅子に腰をおろした。すると、不意に老コッタの親切気な、けれども横柄な声が、みんなの打ち解け合った話のさざめきの上に響いた。
「諸君、どうか席について下さい! 奴隷ども、甘い酒をお酌しろ!」
それから、主人は杯をあげて言った。
「まず、神聖なるコンスタンティヌス帝と帝国の守り神のために乾杯しよう。祖国はすべての上に、神々の上にさえ置かれねばならんもんじゃ。というのは、祖国はそれらすべてを包含しているものじゃからな」
客は、なみなみとつがれている杯を唇に持って行った。ただ一人パフニュスは、コンスタンティヌスがニケアの教理を迫害したし、キリスト教徒の祖国は地上のものでないという理由から、少しも飲まなかった。
ドリオンは、飲んでしまうと、こう呟いた。
「祖国とは一体なんだ? 流れる河だ、その両岸は絶えず変り、波は不断に改まる」
「ドリオン」と、海軍長官が答えた。「君が公徳を軽んじて、賢人は、俗事を離れて生活すべきものであると信じているのを、私は知っている。けれども、それと反対に、立派な人物というものは、国家における大任務を果たすことを一番多くねがうものじゃ。国家というものは、立派なものじゃよ!」
セラピスの大司教エルモドールが口を開いた。
「今ドリオンは、『祖国とは何ぞや?』とたずねられたが、私はこう答えたい。祖国を作るものは、神々の祭壇であり祖先の墳墓である、とな。回想と希望の共通なことによって、私たちは同国民なのだ」
青年アリストブールが、エルモドールの言葉をさえぎった。
「実は、僕は今日、立派な馬を見たんです。デモフォンの馬なんです。頭が細くて、下顎のごく小さい、四肢は肥っていましたが、まるで牡鶏のように誇らしげな長い頸をしていましたよ」
ところが、シェレアス青年は首を振った。
「アリストブール、君の言うほどいい馬でも無いよ。爪が薄いや。そして踵が地面にくっつくくらいだから、ありゃじき不具になってしまうよ」
彼等がその議論を続けていると、急にドロゼがするどい叫びを立てた。
「あらまア! 私もう少しで短刀よりもっと長い、先の尖った骨を飲み込むところでした。でも幸いに、咽喉にかからないうちにとれました。神々が私をお愛し下さるからですよ!」
すると、笑いながらニシアスが訊ねた。
「ねえ、ドロゼ、神々がお前を愛していると言ったね? もしそうなら、神々は、人間の弱点をも分けて共に持つと言うわけだね。愛は、愛を感じる人の心境に、あるひそやかな味気なさの感じを伴うものだよ。万物の弱味は、愛によって暴露されるものだ。だから神々がドロゼに対して愛を感じたことは、神々が完全でない証拠だ」
この言葉を聞いて、ドロゼはひどく怒った。
「ニシアス、あなたのおっしゃっていることは愚かなことで、ちっとも当っていませんよ。それに人の言うことがちゃんと腹に入らずに、無意味な返事をなさるのは、あなたの癖よ」
けれどもニシアスは、なお笑って言った。
「お話し、お話しよ。ドロゼ、どんな事を話すにしても、お前が口を開ける度に、僕は感謝しなければならないね。お前の歯は、実に美しいなア!」
この時、身なりもかまわぬ鹿爪らしい老人が、のっそりした歩みで、傲然と部屋のなかにはいって来た。そして、座にいる群客を、静かな眼差しで見まわした。コッタは自分の長椅子に並んで席をとるようにと老人に合図をして、こう言った。
「ユークリート、よく来てくれた。今月も何か新しい哲学書を編まれたのかな。もし自分の計算に間違いがないとしたら、たしかその本は、あんたの上品な手でナイル河の蘆《あし》の先から書き出される第九十二巻目の著述になるはずじゃね」
ユークリートは、その銀髯をなでながら答えた。
「鶯は唄うために作られ、私は、不死の神々をたたえるように作られておりますのじゃ」
ドリオン――「ユークリートを、ストア学派の最後の学徒として、深い敬意を表そうではないか。おごそかで白髪なあの人は、私たちの真ん中に祖先の面影のように立っている! あの人は群衆に伍していて孤独であり、そして少しも人には解されない言葉を発している」
ユークリート――「その考えは、間違っておいでじゃよ。ドリオン。徳の哲学は、この世に亡びてはいない。アレクサンドリアやローマや、コンスタンチノープルには、私の弟子が大勢ある。奴隷の中や皇帝の甥の中にある数名の弟子は、今も、自己を支配することを知っておるし、自由に生き、事物を離脱して無限の福祉を味わうことを知っている。ある者たちは、エピクテトスのような人物であり、またマルクス・アウレリウスのような人物じゃ。けれども、徳が永久にこの世から消滅してしまったことが真実であるとしても、そういう滅失が、私の幸福に何のかかわりがあろう。もともと、徳が永存しようと滅失しようと、それは私の知ったことではないのじゃよ。ドリオン、狂人だけが、その幸福を自己の力の及ばないところに置くものじゃ。私は、神々の欲しないものは、何も希求しないし、神々の欲するものなら、何んでも希求しておりますのじゃ。それによって、私は自分を神々に似通わせて行き、その確実な満足をともにするのじゃ。徳が滅失するとあるなら、私は、その滅失に同意する。そしてこの同意は、まるで、自分の理性、もしくは自分の勇気の至上の努力のように、私をよろこびにみたしてくれる。あらゆるものにおいて、自分の智能は神の叡智を模写して行くのじゃ。模写したものは、手本より貴重じゃろう。一層の決意と、一層の労作が入用なんじゃからな」
ニシアス――「分りました。あなたは神の摂理に和合しておいでなのですね。けれども、ユークリート、もし徳がただ努力の中に、つまりゼノンの弟子たちが、神と同じものになろうとするあの緊張の中にのみあるとしたら、牛と同じ大きさになろうとして身をふくらます蛙は、ストア主義の傑作を完成しているわけですな」
ユークリート――「ニシアス、君は、茶化しているな。相変らず、君は嘲笑するのがうまいな。だが、君の言う牛が牛神アビスのように、また、ここにその大司教がいられるが、あの人のつかえている地中の牛のように真実の神であるとして、それから、賢い考えの結果、蛙が、ついにその牛と匹敵するまでに到達し得るとしたならば、その蛙は、実際、その牛よりも、有徳なものではないじゃろうか? そして君は、そのようにあっぱれな小動物を、感心せずにいられますかな?」
四人の召使が、まだ剛毛に蔽われているままの猪を卓上にのせた。捏粉《ねりこ》の焼きものでできた仔猪が、さながら乳を飲もうとするかのように、親猪の周囲に集まっているのは、それが牝猪であることを示していた。
ゼノテミスは、修道士の方に身を向けながら、こう言った。
「諸君、今日は、一人の客人が自らすすんで我々の仲間にはいって来られました。かの有名なパフニュス、砂漠の中に奇蹟のような生活を送っているその人が、今日の思い設けぬ客なのです」
コッタ――「まだ言葉が足りんよ、ゼノテミス。お招きせんのに見えたのじゃから、当然のこと、首席におつけすべきだ」
ゼノテミス――「それは、リュシウス、私たちは、特別な友情をもってこの珍客をもてなし、この人が最も愉快であるように努めなければいけますまい。が、こうした人は、肉の煙よりも美しい思想の香の方に感じ易いことは確かですから、私たちは、この人が奉じている教理、つまり十字架上のキリストの教理そのものに話を向けて行きましたら、きっと、この人をよろこばせることと思います。私としては、この教理が、その内容に持っているところの寓喩《ぐうゆ》の豊富でかつ多種多様なことに、ひどく興味を感じていますので、それだけに、喜んで、そうした話をやってみたいと思います。文字に潜んだ精神を推察しますと、それは、真理にみたされているもので、私は、キリスト教徒の聖典は、神々しい啓示に富んでいるものと、考察いたします。けれども、パフニュス、私は、同様な価値をユダヤ人の聖典にはあたえかねるように思うのです。あれは、世間で言われているように、神霊の託示を受けたものでなく、悪霊にそそのかされたものです。あれを口授したエホバは、下層の天界に住み、私たちが苦しんでいる不幸の大部分を惹き起こす悪霊の一つでしたが、無智なことと残忍なことにかけては、他のすべての悪霊を遠くしのいでいました。これと反対に、智慧の樹の周囲に紺青の渦を巻いていた黄金の翼ある蛇は、光明と愛とを練り合わせたものでした。それで、この二つの力、一つは輝やかしく一つは暗いこの二つの力の間には、争闘が避け難いものであったのです。その争闘は、創世後すぐに起こりました。神が、ようやく安息に戻られたばかりのことでした。最初の男と女であるアダムとイブは、エデンの園で裸形のまま幸福に暮らしていました。その時、二人にとって不幸なことには、エホバは、彼等二人、そしてイブがすでにその立派な胎内にいだいていた子孫のすべてをも支配しようという企てを立てたのです。ところがエホバは、コンパスも持たず七絃琴もなくまた、命令を下す智慧も、説き伏せる術をも知らなかったので、この二人のあわれな者を、異形の妖怪や勝手気ままな脅威や雷霆《らいてい》によって畏怖させました。アダムとイブは、自分たちの上にエホバの影を感じて、互いにぴったり抱き合い、そしてその愛は、恐怖のうちにますます強まって行ったのでした。蛇は、二人を可哀想に思い、智慧の力では二人が以後はもう決してだまされないように教育してやろうと決心しました。この企てには、非常な慎重さが入用でした。そして、人間の最初のこの夫婦の弱さは、その企てをほとんど絶望に近いものにしたのでした。けれども、親切な悪魔は、その企てを捨てませんでした。エホバは、なんでも見えると言い張っていましたが、実際の視力はそんなにするどいものではなかったので、その知らないうちに、蛇は二人に近づき、その甲のかがやかしさとその翼の閃めきとで、二人の眼を魅惑してしまいました。それから、蛇は二人の前に、例えば円か楕円とか渦形とか、その後ギリシア人によって、その嘆賞すべき特性を認められた正確な形を作って、二人を面白がらせてやりました。アダムは、イブよりも熱心に、じっとそれらの形を見つめていました。しかし、蛇が話しはじめて、表示することのできない最高の真理を教えた時に、赤土で練り上げられたアダムは、そうした精細な知識を受けいれるには余りに性質がにぶく、かえってイブの方がより動かされやすく感受性に富んでいたので、容易にその知識を受けいれられることを、蛇は認めたのでした。それで蛇は、夫の留守の間に、まず彼女に伝授しようと、イブに話をしました……」
ドリオン――「ゼノテミス、ここで、僕に口を入れることを許してくれ給え。君が説かれる神話の中に、僕は先ず、巨人に対するミネルウァ〔智慧や芸術の女神〕の争闘の一挿話を認めたのだ。エホバはテュフアオン〔神話中にある、百頭の眼の恐ろしい声の凄い怪物〕に非常に似ているよ。アテネの人たちはミネルウァの姿を写す時は、蛇を添えて表わしている。しかし、君の今言われたことは、急に、君の話の蛇の理智あるいはその善意というものについて、疑いを抱かせた。その蛇が、真に智慧を持っていたとしたら、果して、その智慧を受けいれて置くことの不可能な女性の小さな頭に、それを託したであろうか? 僕はむしろ、その蛇が、エホバと同じように無智で嘘つきで誘惑しやすかったからイブを選んだので、アダムをより以上に理智や省察のあるものと想ったのだ、と信じるね」
ゼノテミス――「ドリオン、至高至純な真理に到達するのは省察や理智によってではなく、全く感情によってであることを知ってほしいですね。ですから、普通一般に男より省察することは劣っているが、しかし感じやすいことにかけては優っている女が、神聖なる事象についての知識に一層たやすく達することができるのです。女には、預言の能力があるものです。ですから、時々、竪琴を手にしたアポロやナザレのイエスにふわふわした長衣を纏わせて表わすことがありますが、あれは理由がなくもないのです。で、あなたがどう言われようと、あの教導者の蛇が、その光明の仕事のために、粗野なアダムよりもこのイブ、牛乳よりも星よりも白いイブの方を選んだのは、悧巧でしたよ。イブはおとなしく蛇の言うことを聴いて、枝を天までも高く伸ばして、聖霊が露のようにしっとりとうるおしている智慧の樹のところへつれて行かれたのです。この樹は、未来の人間のあらゆる言葉を話す木の葉に蔽われていて、その声音の一つは、集まって完全な協和音を作っていました。たわわに実っている果実は、これを食べる神秘の伝授を受けたものに、金属とか、鉱物とか、植物、並びに物質的精神的両方面の法則についての知識を与えているものであったのです。けれども、その果実というのは、焔となって燃えていたので、苦悩や死をおそれるものは、あえて口に持って行けなかったのでした。そうして、蛇の教えを従順に聴き終ると、イブは、空《くう》な恐怖を押しのけて、神の知識を授けるというその果実を味わいたい念にかられたのでした。けれども、愛しているアダムを自分より劣ったものにしたくはなかったので、その腕をとって、例の不思議な樹のところにつれて行きました。そこでイブは、燃ゆる林檎の実を一つつまんで一口かじると、それを夫に渡しました。ところが不幸なことには、偶然にも、その園を逍遥していたエホバが、二人を目にし、二人が物知りになるのを見て、非常な憤怒にとらわれたのでした。エホバは、ことに嫉妬を起こす時にこわいのです。彼は、全力を集中して、その力のない二人が呆然自失してしまったほどの喧擾を下層の天界に巻き起こしました。林檎は男の手からころがり落ち、女は、この不幸な男の頸にしがみついて、『私は無智でいたい、あなたと一緒に苦しみたい』と、こう言ったのです。凱歌をあげたエホバは、アダムとイブとその子孫のすべてを、驚愕と恐怖の中にとじこめてしまいました。天変を作り出すだけになっていたエホバの技術が、音楽家であり幾何学者の蛇の知識に打ち勝ったのです。彼は人間に、不正とか、無智とか、残忍なことを教え、地上に悪を漲《みなぎ》らせました。彼はカインとその息子たちを迫害しました。その者たちが、器用な腕を持っていたからなのです。彼はまた、オルフェウスの音楽のような詩歌を作り、イソップの話のようなお伽噺を作るからと言って、ペリシテ人を根絶やしにしてしまいました。彼は、智慧と美との執念深い敵であったのです。それで人間は、何世紀かにわたって、血と涙とのうちに、翼のある蛇の失敗を贖《あがな》って来たのです。幸いなことに、ギリシア人の間に、ピタゴラスとかプラトンとかいった聡明な人間が出て来まして、その天才的の力によって、かつてエホバの敵が最初の女に教えようとして失敗した思想とか表象とか見出すことができました。あの蛇の精神が彼等のうちにあったので、アテネ人は、ドリオンが先刻いったように蛇をほめているのです。が、それよりずっと近い時代になって、三つの聖霊が人間の姿となって現われました。ガリレアのイエス、バシリデス、ウァレンティヌスで、この三人に、根は地を貫ぬき梢は天頂に達している智慧のこの樹の一番輝やかしい果実を摘みとることが許されていました。これは、余りにしばしばユダヤ人の過失の罪を背負わされすぎているキリスト教徒の恨みを晴さんがために、私が言わねばならなかったことです」
ドリオン――「ゼノテミス、もし僕の聞き違いでなかったとすれば、その立派な三人、イエスと、バシリデスとウァレンティヌスは、ピタゴラスやプラトンや、その他ありとあらゆるギリシアの哲学者や、またかの神々しいエピクロスにさえ、知られないでいた秘密を発見したものだね。でもエピクロスは、人間をすべての恐怖から解放したものだぜ。済まないが、どういう方法で、その三人の人間が、賢者の思索の結果とらえ得なかった知識を獲得したのだか、言ってもらいたいね」
ゼノテミス――「では、ドリオン、智慧と思索は知識の最初の階段に過ぎなくて、法悦《エクスタシー》のみが永久の真理に導くものだということを、もう一度君に繰り返して上げねばならないのですか?」
エルモドール――「ゼノテミス、霊魂が法悦を糧とすることは、真実じゃ。蝉《せみ》が露を吸うと同じようにな。しかし、もっとつっ込んでも言えるじゃろう。つまり、精神だけが完全な恍惚境に入り得るものだ、と。なぜなら、人間は、物質である体と、一層微妙なものではあるが、矢張り物質的である霊魂と、腐敗することのない精神とから成り立っている三重のものじゃからな。ちょうど、にわかに静まり孤独に落ちた宮殿を捨てるようにその体から出て、ついで、その霊魂の国を飛び越えて、精神は神の中にまで延びて行き、まだ死なないうちに死んだ時の、いやむしろ、未来の生命の妙楽を味わうのじゃよ。死ぬということは生きることじゃからな。そして、神の清純をうけているこの状態にあって、精神は、無窮の快楽と絶対の智慧を所有するのじゃ。一切であるところの統一性にはいって、完全になるのじゃ」
ニシアス――「うん、うまく言われた。けれども、実を言うと、エルモドール、僕は、一切と無との間に大した相違があるとは思いませんね。言葉そのものが、この区別をするのに不足のように思われますね。無窮は恐ろしいほど虚無に似ています。どちらも会得の行きかねるものです。僕に言わせれば、完全はすこぶる高価なものです。それがためには、自己の全実在を代償とし、またそれを所有するためには、存在を止めてしまわねばなりません。その点が、欠点なのです。哲学者たちが、神を完全のものにしようと考え始めてからというもの、神さえこれを逃れることはできなかったのです。それで、もし僕たちが、実在していないことがどういうことかを知らないと、その結果、実在することのどういうことかも知らないことになるのです。我々は何も知ってはいないのです。人間には了解し合うことが不可能である、といわれています。でも僕は、争論がいかに闘わされようと、その反対に、ついには、一致しないではいられないものと思われるのです。それらの争論は、ちょうど、オッサ山の上にペリオン山を重ねて行くように、重ねて行った矛盾の堆積の下に埋められましてね」
コッタ――「私は哲学が大好きで、閑《ひま》の時には勉強もするがな。じゃが、キケロの書いたものの外はよく分らんよ。さあさあ奴隷ども、甘い酒をお酌しろ!」
カリクラート――「変なことがあるものですな。私は断食をすると、悲劇詩人たちが、善良な専制君主の宴席に列していた時代のことを思うのですがね。すると、よだれが出て来るのです。だが、リュシウス、あなたが私についで下さる美酒を一口味わうと、もう私は、内乱や勇壮な戦争の外は考えなくなりましてな、栄光のない時代に生きていることを恥かしく思いますよ。私は自由を主張し、そして、想像の中で、最後のローマ人と一緒に、フィリッピの戦場〔ブルトゥス等共和派が皇帝派と戦って敗けたところ〕で血を流していますよ」
コッタ――「共和制の衰凋《すいちょう》に当って、私の祖先はブルトゥスと一緒に自由のために命を落した。けれども、彼等がローマ人民の自由と呼んでいたものは、実際においては自治の権能ではなかったじゃろうか、と疑うことができる。私は、自由が、一国民に対して幸福の第一のものであることを否定はせん。しかし、私が長生きすればするほど、強力な政府だけが、国民に対し自由を保証し得るものじゃ、と納得して来た。私は、四十年、国家の最高の職務を行って来たが、この長い経験によって、政府が薄弱である時は民衆が圧迫される、ということを学んだ。じゃから、多数の修辞学者のように、政府の力を弱めるように努める者は、嫌忌すべき罪悪を犯していると言えるわけじゃ。唯一人の意志は、時として、禍いとなる方法で実施されることがあるかもしれんが、民衆の協賛によっていては、すべての決定が不可能になってしまうでな。ローマの平和の威光が世界を掩《おお》う前には、人民は、叡明な専制君主の下にあってこそ始めて幸福であり得たものじゃ」
エルモドール――「私としては、リュシウス、私は、いい政体などというものは無いと思いますよ。あの聡明な、あんなに多くの形式を生み出したギリシア人が、求めて遂に探し得なかったことから考えますと、どうもそういうものを発見し得られないように思いますがな。この点に関しては、将来、全く希望を持つことはできませんな。確実な兆候からして、この世界は、無智と野蛮との中に沈湎《ちんめん》しかかっているのが分っておりますじゃ。リュシウス、我々は、文明の恐ろしい断末魔に臨ませられていますのじゃ。理智と科学と徳とが得させてくれたあらゆる満足から、今我々に残されておりますのは、自分たちが死ぬのを見るという残忍な喜びだけですがな」
コッタ――「人民の飢餓や野蛮人の暴行が、恐るべき災害であるのは確かじゃ。が、優勢な艦隊と立派な軍隊と、そして立派な財政をもって……」
エルモドール――「そんな自慢が何になりましょう。滅びかかっている帝国は、野蛮人に手をつけやすい餌食を提供していますのじゃ。ギリシアの天才とラテンの堅忍不抜さで建立した都市は、やがて、酔いしれた未開の人間に荒らされてしまいますじゃ。地上にはもう哲学も芸術もなくなってしまいましょう。そして神々の御影は、どこの神殿でもまた誰の心の中でもくつがえされてしまう。精神の闇夜とこの世の死になるんじゃ。実際、サルマティア民族が理智の仕事に手を染め、ゲルマニア民族が音楽や哲学を研究し、カードやマルコマン民族が不滅の神々を礼拝するなどと、どうして信ぜられよう? いやいや、すべてが傾むき、沈淪《ちんりん》している。この世の揺籃であったこの長い歴史を持つエジプトは、その墓穴になるのじゃ。死の神セラピスは、人間の最後の礼拝を受けようし、私はこの最後の神の最後の司祭となってしまうことじゃろう」
この時、不思議な顔の男がカーテンをかかげた。尖《と》んがった禿頭の、佝僂《せむし》の小男がみなの前にやって来た。アジア風に空色の寛衣《チュニック》をまとい、脛《すね》には野蛮人のように黄金の星をちりばめた赤い股引をはいていた。その男を見るとパフニュスはアリウス教徒のマルクスと知って、雷火が落下して来はしまいかと恐れて、頭を両手で抱え込み、恐怖に色蒼ざめた。この悪魔の宴において、異教徒の涜神《とくしん》の言葉も、哲学者たちの空恐ろしい誤謬の観念も、彼に対しては別になんでもなかったが、ただこの異端者一人の出現は、彼の勇気を失なわせてしまった。彼は逃げ出そうと思ったが、タイスと眼を見合わすと、急に安心した気になった。彼は救霊にと選ばれた女の霊魂のうちを読みとり、そして、聖女になろうとしている者が、すでに自分を保護していることを了解したのだ。彼は、ふわりと長く延びている女の着物の襞をとらえて、心の中で救世主イエスに祈りを上げた。
嘆賞のささやきが、キリスト教徒のプラトンと言われているこの男の来たのを歓迎した。エルモドールが、最初に話しかけた。
「名声さくさくたるマルクス、あんたがおいで下すったことは、一同、お喜びじゃ。それに、ちょうどいいところへ来られたというものじゃ。我々は、キリスト教の教義については、広く公けに説かれているものの外は知っていない。が、あんたのような哲学者は、凡人が思うようなことを考えるわけのないことは明らかじゃ。そして我々一同は、あんたが奉じておいでの宗教の主要な神秘についてのご意見をしりたくてならないのじゃ。ご承知の通り象徴を好んでいる我々の親友ゼノテミスは、先刻もユダヤ人の聖典に関してあの有名なパフニュスに質問したのじゃった。けれども、パフニュスは、少しも返事をしてくれんのじゃ。もっとも、あの人は沈黙に身を捧げているんで、神があの人の舌を砂漠の中で封じ込めてしまったんじゃから、それは別に驚くわけもありませんじゃ。けれども、マルクス、あんたはキリスト教徒の宗教会議や、神聖なコンスタンティヌス帝の会議で発言されたのじゃから、あんたさえその気ならば、キリスト教徒の物語の中に包含されている哲学的真理を明示して、我々の好奇心を満足させて下さることがおできなのじゃ。この真理の第一は、唯一の神の実在ということではないかな。私としては、堅くそのことを信じていますがな」
マルクス――「そうです、敬すべきみなさん、私は、出生したものでなく、ただ一つ永遠の、そして万物の本則である唯一の神を信じています」
ニシアス――「マルクス、あなたの神がこの世を創造したことは、我々は知っています。それは確かに、神の存在中における一大変化だったのです。神は、この創造をしようと決心した以前に、もう、永久に存在していたのでした。しかし、正しくあるためには、神の地位は、極めて困難なものであったことが分ります。完全にあらんがためには無為で留まっていなければならず、自己本来の存在を自己に確認させようと思えば、行動しなければならなかったのですから。あなたのお言葉で、神が行動の決心をしたことが確実になりました。そのことは、完全な神としては許し難い軽率なことではありますが、まあ、あなたのお言葉ですから信じはしましょう。けれども、ねえ、マルクス、神は、この世を創造するためにどんなに振舞われたんですか」
マルクス――「キリスト教徒でなくとも、エルモドールやゼノテミスのように、知識の原則を知っている者は、神が、仲介者なく直接にこの世を創造したのでないことを知っています。神は、一人子を生れさせ、その御子の手で、万物は作られたのです」
エルモドール――「その通りじゃ。マルクス、そしてその御子は、あるいは、ヘルメス、あるいはミトラ、またアドニス、アポロンとかイエスとかいう名で、一様に崇拝されているものです」
マルクス――「私はキリスト教徒なのだから、その御子イエス・キリスト、救世主という名前以外の名では、お呼びすることはできない。あの方は、神の真の御子です。けれども、あの方は、始めをお持ちなのですから、永遠のものではありません。あの方が、出生前に存在していたと考えるのは虚妄なことで、そんなことは、ニケアの騾馬《らば》どもやアタナシウスという呪われた名の下に、アレクサンドリアの騾馬に任せて置くべきです」
この言葉を聞いて、パフニュスは色蒼ざめ、苦悩の膏汗《あぶらあせ》に額をびっしょり濡らし、十字の印《しるし》を切ってその崇高な沈黙を守っていた。
マルクスは言葉をつづけた。
「ニケアの愚劣きわまる信条は、神をしてその不可分の属性を、神自身の発露、即ち、万物創造の仲介者キリストと分たしめて、唯一の神の威光を害することは明らかです。キリスト教徒の真の神を嘲弄することはやめなさい。ニシアス、野の百合と同じく、神は、働きもされなければ、紡《つむ》ぎもされないことをお知りなさい。働いた人は神ではありません、その一人子です、イエスです。イエスが、世界を創造して、ついでその作ったものを改めに来られたのです。なぜなら、創造は、完全であり得なかったからです、そして、悪が必然的に善に混じっていたからです」
ニシアス――「善とはなんです、悪とはなんですか?」
ここでちょっと、沈黙があった。その間にエルモドールは、腕を食卓の上にのばして、コリントの金属でできた小さな驢馬を示した。その驢馬は、二つの籠を背負っていて、一つの籠には白い橄欖《かんらん》の実が、一つには黒い橄欖の実がはいっていた。それからエルモドールは言った。
「この橄欖の実をご覧。我々の眼には、その色の対照が心地よく映る。そして我々は、こちらが明るく、あちらが暗い色をしているのに満足しておる。けれどももし、これらに思想とか知識とかがそなえられていたとしたら、白いのはこう言うじゃろうよ。橄欖の実は白くあるがいいのだ、黒いのは悪い、と。そして黒い橄欖の連中は、白い橄欖の連中を嫌忌することじゃろう。神々が我々の上に位されていると同様、我々は橄欖の上におるので、これらをもっとよく判断することができる。万物の一部しか見られない人間にとっては、やはり、悪は悪じゃ。けれども、すべてを了知なさる神々にとっては、悪も一つの善じゃ。もちろん、醜悪は醜悪であって、美しくはないですがな。けれどももし万物が美しかったら、万物を美しいとは言えますまい。じゃから、最初のプラトンより偉大である第二のプラトンが示したように、悪の存在はいいことなんじゃ」
ユークリート――「もっと道徳的に話そうじゃないか。悪は一の悪じゃ。それは、悪が不滅の調和を破り得ない世界に対して言うのでなく、悪をなさないでいられたのに悪をなす悪人に対して言うのじゃ」
コッタ――「たしかに、立派な道理じゃ!」
ユークリート――「この世は、優れた詩人の手になる悲劇だ。これを作詩した神は、我々各自に一役を演ずるように振り当てていられる。あんたが、乞食とか王侯とか跛者《びっこ》であることを神が望まれたら、あんたは、全力を傾けて、あんたに当てられた役割をつとめなさい」
ニシアス――「確かに、悲劇中の跛者《びっこ》がヘパイストスのようにびっこをひくことはいいことだ。狂人が、アキレスのような怒りに猛り立ち、不倫な女がパイドラの罪を繰り返し、叛逆し、いかさま師が欺瞞《ぎまん》し、人殺しが人を殺したりするのは、いいことだ。そして、その戯曲が演ぜられてしまったとき、すべての役者、王も、正義の人も、血を見ることの好きな暴君も、信心深い処女も、不貞な妻も、寛大な市民も、または卑劣な暗殺者も、詩人から、同じ割合の称賛を受けるだろうよ」
ユークリート――「ニシアス、君は私の考えを変質させる。美しい処女を、みにくいゴルゴンに変えてしまうものじゃ。君が、神々の本質や正義や永久の法則を知らないのを、私は気の毒に思うよ」
ゼノテミス――「私としては、諸君、私は善と悪との実在を信ずるものです。けれども、人間の行為は、たとえユダの接吻にせよ、それ自身のうちに贖罪《しょくざい》の種を持っていないものは一つとしてないと信じています。悪は、人間の最後の救霊に協力するもので、そこにおいては、悪は善から生じ、善に付随していて、功績にあずかるものです。この点は、キリスト教徒が、師にそむくために師に平和の接吻を与え、その行為によって人間の救霊を確実にしたあの赤毛の男の昔話で、うまく説いているところです。それで、私に言わせれば、イエス自身によって告げられたイスカリオテの接吻が、キリスト教の教条にしたがえば、人間の贖罪に必要なものであり、そして、もしユダが三十シークル〔ヘブライ人の使った貨幣の単位〕の金のはいった財布を受け取らなかったら、神の叡智は打ち消され、摂理は裏切られ、その企画はくつがえされ、この世は悪、無智、死の手に戻されてしまうことを思わずに、イエスの使徒のうち最も不幸なこの男を、壁張り工パウロのある弟子たちが追及して行く憎悪くらい、不正な、無用なものはないと思います」
マルクス――「神の叡智は、ユダが、叛逆の接吻をしないでもいられるのに矢張りその接吻をするであろう、と、予見していられた。このように、神の叡智は、イスカリオテの罪を、贖罪の素晴らしく立派な建物の一箇の石として使われたのだ」
ゼノテミス――「先程、私は、人間の贖罪は、十字架上のイエスによってなしとげられたと信じでもしているように言いましたが、それは、そういったことがキリスト教徒の信念であり、そして、私が、ユダの永久の苦しみを信じている人々の欠点をさらによくとらえんがために、彼等の思想の中に入り込んで行ったからです。けれども、実際に、私の目に映るイエスは、バシリデス〔グノーシス派の哲学者。アリストテレス哲学とストア派哲学とキリスト教とを調和させた〕やウァレンティヌス〔二世紀中にエジプトに生れたグノーシス派の哲学者で、自己の一派の創始者〕の先駆者に過ぎません。贖罪の玄義については、諸君が少しでも聞いて下さるお心があるなら、私は、どうしてそれが真に地上において成しとげられたかお話ししたいと思う」
客たちは、賛成の意を示した。農業の女神セレスに供える神聖な籠をたずさえたアテネの処女のように、十二人の処女が、柘榴や林檎の入った籠を頭にのせ、物かげで奏でられる笛に拍子を合せた軽い足取りでその広間にはいって来た。その処女たちが籠を食卓の上に置くと、笛の音は止んだ。すると、ゼノテミスが次のように話し出した。
「神の思惟、即ちユーノイアが宇宙を創造した時に、ユーノイアは天使たちに地の支配を委ねられた。けれども天使たちは、支配者にふさわしい平静さを少しも保っていませんでした。人間の娘たちの美貌なのを見ては、夜、用水溜のほとりにこれを不意におそって、天使たちは結婚したのでした。この婚姻から、猛悪な民族が生れて、それが、地上に不正や残忍をみたし、路《みち》の砂塵が無辜《むこ》な血を飲むようになったのでした。これを見て、ユーノイアは限りない憂愁にとらわれました。『あれが私のしたことなのだ!』と、ユーノイアは、地上を見おろされながら、吐息をもらされた。『あわれな私の子供たちは、私の過失から、つらい生活の中に沈んでいる。あれらの悩みは、自分の罪だ、そして、私はその罪をつぐないたいものだ。神ご自身にせよ、私が無くては考えを持つことができないのだから、あれたちに、最初の清純さをとり返しておやりになることはおできになるまい。できてしまったことは止むを得ない。そして創造は、永久に失敗してしまった。せめて自分でつくったものを見捨てまい。あれたちを自分のように幸福にしてやれなくとも、私には、自分を、あれたち同様、不幸にすることはできる。私は、あれたちに、あれたちをはずかしめる肉親を与えるような過矢を犯したからには、自分自身、あれたちのに似た肉親をとってあれたちの間に生活しに行こう』
こう言うとユーノイアは、地上に降《くだ》って来て、あるアルゴスの女の胎内に宿り、かよわい少女となって生れ出で、ヘレネという名をつけてもらいました。彼女は、人生の労苦にしたがっては行きましたが、やがて、典雅と美とにつつまれて成長し、女のうちで最も想いをかけられる女になったのでした。これは、ユーノイアが前々から決心していたことであって、それも、己れの死すべき肉親に、最もひどい汚辱を受けようためだったのです。好色な激しい男たちの無気力な餌食となって、彼女は、あらゆる姦淫や暴行や、不正のつぐないをするために、誘拐や姦淫に身を任せたのでした。そして、神が宇宙の罪悪をゆるされるようにと、己れの美によって数国民の滅亡をひき起こしました。上天の思惟であるユーノイアが、女として、英雄や羊飼いに身を売っていた時ほど、崇拝すべきものであったことは、他にありません。詩人が、彼女を実に穏やかに、崇高に、そして宿命的に描き出し、彼女に、『青海原の静けさのごとくほがらかなる魂』というあの礼讃を作った時は、彼女の神性を想像したに違いありません。こういう風に、ユーノイアは、あわれみにひかれて、悪のうちに、悩みのうちに導かれていったのです。彼女は死にました。アルゴスの男たちは、これがその墓だと今だに教えてくれます。彼女は、快楽の後に死を知り、自分の蒔いた種から結んだあらゆる苦い果物を味わうべきであったからです。けれども、ヘレネの腐った肉体を脱れ出たユーノイアは、今度は、他の女の形に姿を現じ、再び、あらゆる凌辱に身を挺しました。かくて、肉体から肉体へと移り住み、我々と住んで不幸な年月を渡って行きながら、ユーノイアは、己れの上にこの世の罪業を背負っているのです。彼女の犠牲は少しも無駄ではないでしょう。肉の絆《きずな》によって我々に結びつけられ我々と一緒に愛したり泣いたりしながら、彼女は、自分の贖罪と我々の贖罪とをして行き、その真白な胸にすがりついている我々を、恢復した天国の平和の中で、うっとりさせてくれましょう」
エルモドール――「その神話は、私も知らんことはありません。その数多い変身の一つに姿を化して、神聖なヘレネがティべリウス帝の時に妖術師シモンと一緒に暮らしていた、と、人の話に聞いたのを覚えています。でも私は、彼女の堕落は本心からでなく、天使たちが自分たちの失墜の中に抱き込んで行ったものと信じておりましたじゃ」
ゼノテミス――「エルモドール、神秘をよく知らない人間は、気の毒なユーノイアが自分自身の堕落に同意しなかったと思ったことは事実です。しかし、彼等の主張するような風であったとすれば、ユーノイアは罪を贖《あがな》う娼婦でも、汚点だらけの犠牲でも、我々の恥辱の酒のしみ込んだパンでも、気持のいい供え物でも、功徳のある犠牲でも、煙を天まで登らせる燔祭〔ユダヤ人がエホバに捧げた犠牲の最も古い祭の式、牛または羊を壇上で焼き尽して犠牲とする祭〕の供物でもなくなるでしょうよ。その罪業が本心から出たものでないとしたら、徳というものを、てんで持たないことになりますな」
カリクラート――「ところで、ゼノテミス。その絶えず生れかわるヘレネが、どこの国に、なんという名で、どんな熱愛すべき姿をして今日生きているか、誰もちっとも知らないのですかね?」
ゼノテミス――「そのような秘密を見出すには、よっぽど賢くなくてはならんでしょう。そしてその賢さというものは、卑しい形而下の世界に住み、子供のように、音や空《くう》な影像を楽しんでいる今日の詩人たちには、与えられていないのです」
カリクラート――「不信仰なゼノテミス、神々を涜《けが》すことは恐れ給え。詩人は、神々の大切なものなのですよ。最初の法則は、神々自身の手で韻文に書きとられたものですし、神々の託宣は詩になっています。讃美歌は天堂に住む方々の耳には、この上もない調子のあるものです。詩人が易者であり、何物も彼等に分らないものはないことを、誰でも知っていましょう。私自身詩人であり、アポロの月桂樹を身に帯びていますので、みなさんに、ユーノイアの最近の化身をお示ししよう。永遠のヘレネは、諸君の傍にいます。彼女は、我々を眺め、我々は彼女を眺めています。その長椅子の蒲団に肱をついているあの婦人をご覧なさい。実に美しく、もの思わしげな風情で、そして眼は涙をたたえ、唇は接吻にみち満ちています、あれですよ! プリアモス〔トロイの最後の王〕の時代やアジアの黄金時代におけると同様に美わしく、ユーノイアは、今タイスと名乗っているのです」
フィリナ――「何をおっしゃるの、カリクラート。では、みんなが仲好しのタイスは、パリスを知っていたんですの。あのメネラオスを、イリオンの城の前で戦った美しい半靴をつけたアカイアの人たちを知っていたんですって! ねえタイス、トロイの馬は大きかった?」
アリストブール――「誰です、馬の話をするのは?」
「俺は、トラキア人のように飲んじゃった」と、シェレアスが叫んだ。そして彼は食卓の下にころがってしまった。
カリクラートは杯をあげて、言った。
「私は、誰の身にも必然に来る夜の暗い翼が、決して蔽い隠せぬ名誉を私に約束してくれた、ヘリコーン山の詩の女神たちのために乾杯する」
老コッタは眠り込んで、その禿頭が、幅広な肩の上でゆるやかに揺れていた。
しばらく前からドリオンは、その哲学者風の外套にくるまって、落着かずそわそわしていたが、よろめきながらタイスの長椅子に近づいて来て言った。
「タイス、俺はお前を愛するよ。女を愛するということは俺にはあるべからざることだがな」
タイス――「あなたはなぜさっき、私を愛して下さらなかったの?」
ドリオン――「だって、俺は腹が空《す》いていたんだよ」
タイス――「でも私は、ねえあなた、水ばかりしか飲みませんでしたの。あなたをお愛しできなくても、許して下さいね」
ドリオンは、それ以上聞こうとはしなかった。そして、タイスから引き離そうとして眼で呼んでいたドロゼの傍に、ぐたぐたとすべり込んで行った。その跡に、ゼノテミスが坐り、タイスの口に接吻した。
タイス――「あなたは、もっと道徳的な方と思っていましたわ」
ゼノテミス――「俺は完全だ。そして完全なるものは、いかなる法則にも縛られないんだ」
タイス――「でもあなたは、女の腕に抱かれてご自分の魂を汚すことを、恐ろしくお思いになりませんの?」
ゼノテミス――「魂は全く無関係でありながら、肉体は欲望に負けることがあるよ」
タイス――「行って下さい。私はね、体と魂とで好いてもらいたいんですよ! ここにいる哲学者は、みんな、山羊のような人たちね!」
ランプは一つ一つ消えて行き、カーテンのすき間をもれて来るほのかな朝の光が、客たちの鉛色した体や腫れぼったい眼の上に落ちていた。アリストブールは、シェレアスと並んで握りしめた拳をぐったり落し、馬丁に挽臼《ひきうす》を廻させにやっている夢を見ているらしかった。ゼノテミスは、ぐったりしたうフィリナを、しかと抱え込んでいた。ドリオンはドロゼのあらわな咽喉に、酒のしずくをそそいでいた。それが笑いにつれて動く白い胸の上から紅玉《ルビー》のようにころがって行くと、その哲学者は、唇でそれを飲もうとなめらかな肌の上を追い廻していた。ユークリートは、起ち上った。そしてニシアスの肩に腕をかけ、広間の奥に連れて行って、笑いながら言った。
「君、まだ考えているとすると、何を考えておいでじゃね?」
「女の愛はアドニス〔ウェヌスの愛人である美少女の名。その死んだ処にはアネモネや種々の花が咲いた〕の園のようだ、と、こう考えているんです」
「というと?」
「ユークリート、あなたは知らないのですか。女たちは毎年ウェヌスの愛人のために粘土の鉢へ小枝を植えて、自分たちのテラスの上に小さな園を作るものです。その小枝は、ほんの束の間緑となり、そしてまたあせて行くんです」
「構わないじゃないか、ニシアス。流転して行くものに執着しているのは愚かだよ」
「美が影に過ぎないとすると、欲望は一のひらめきに過ぎない。美を希求するのは、なんて愚かなことでしょうね? だがそれと違って、過ぎ去るものが永続しないものに行き、ひらめきが消えやすい影に夢中になるのは、当然ではないでしょうか?」
「ニシアス、私には、君がまるで小骨細工の玩具をいじる子供のように思われる。私の言うことを信じ給え。いいかい、自由に生きるんだ。それによって、我々は人間たり得るわけなんだ」
「どうして自由であり得ましょう、ユークリート、体を持っているんだもの?」
「じきにそのことが君に分るよ。そして、じきに君はこう言うじゃろう、ユークリートは自由に生きていたんだ、とな」
斑岩の円柱に背をもたせて、額を暁の光に明るく輝やかしながら、その老人は話していた。エルモドールとマルクスが近づいて来て、ニシアスと並んでその老人の前に立った。四人ともが酔いしれた人たちの笑い声や叫び声をよそに、神聖な事柄を話し合っていた。ユークリートは、非常な賢明さをもって自己の考えを説明したので、マルクスがこう言ったほどであった。
「あんたは、真の神を知る価値のあるお人だ」
ユークリートは答えた。
「真の神は賢者の心理にある」
それから、その連中は死について語った。ユークリートが言った。
「私は、私自身を矯正することに専念し、あらゆる自分の義務に意をそそいでいるとき、死が来てほしい。死の前で、自分は天にわが純なる双手《そうしゅ》をあげ、神々にこう言おう。『神々よ、私の魂の殿堂に安置なすったあなたの御影、私はそれを少しも汚さなかった。私はそこに、花飾りや飾り紐や花輪と同様に、自分の思想を懸けた。私は、あなたの摂理に随って生活した。私は十分に生活しました』」
こう話しながら、彼は、天に双手をあげた。その顔は光明に映え輝やいていた。
彼は暫らくもの思いにふけっていたが、やがて、深い歓喜を見せてまた言葉をつづけた。
「ユークリート、生命から脱離しろ、ちょうど、熟した橄欖《かんらん》の実が、自分を保持していてくれた樹木に感謝し、自分の扶養者である大地を祝福しながら落ちて行くように!」
そう言うと、彼は長衣の襞の間から短刀を引き抜き、さっと自分の胸に刺し込んだ。
彼の言葉を聴いていた三人が、一緒にその手をとらえた時には、刃先が、賢者の心臓に通っていた。ユークリートは永劫の休息にはいった。エルモドールとニシアスは、血にまみれた蒼白い死骸を、女たちの鋭い叫びや、仮睡の夢を乱された客たちのぶつぶつ言う声や、カーテンの陰にもれる快楽の息づまるような気息の中を、宴席の長椅子の一つの上に運んだ。老コッタは、その武人らしい浅い眠りから醒め、すでに死骸の傍らに寄っていて、傷口を検査しながら叫んでいた。
「おい、医者のアリステを呼んで来い!」
ニシアスは頭を振った。そして言った。
「ユークリートは死んでしまった。彼は、他人が愛することを欲するように、死ぬことを欲したのです。彼は、我々すべてのように、言いつくせない希求に随ったのです。今この通り、彼は、何ものをも求めない神々のようになっているのです」
コッタは額を叩いた。
「死ぬ! まだ国家に奉仕のできる時に死にたがるなんて、なんという非常識のことじゃ!」
パフニュスとタイスは、じっと身動きもせず黙り込んで、寄り添ったままでいた。その魂は嫌忌と恐怖と希望とでみち溢れるようになっていた。
突然、パフニュスはタイスの腕をとり、抱き合っている人たちの傍に打ち倒れている酔っぱらいを跨《また》いだり、流れただよう酒や血潮に足を踏み入れて、タイスを外につれ出して行った。
日は、町の上に薔薇色の光を投げていた。長い柱廊が、ひっそりした路の両側にずっと立ちならんで、突き当りに、遠くアレキサンドル大帝の陵の輝やかしい頂きがそびえていた。路の鋪石の上には、花をむしりとられた花輪や、火の消えた炬火《たいまつ》が、そこここに落ち散っていた。空気中に、海のすがすがしい息吹が感じられた。パフニュスは、いかにもいとわしげに、派手な自分の寛衣《チュニック》を引きちぎって、そのきれぎれの布片を足で踏みにじり、そして叫んだ。
「タイス、お前はあれを聞いたろう。あいつたちは、あらゆる愚かなことを、あらゆる汚らわしいことを吐きおった。万物の神聖なる造物主を、地獄の悪鬼どもの面前ではずかしめ、図々しくも善悪を否定し、イエスを涜《けが》し、ユダを謳歌しおった。中でも一番の人非人、地獄の金狼《ジャッカル》、鼻もちのならぬ臭い畜生、腐敗と死とにみちたあのアリウス教徒の奴めが、墓場のように口を開いた。タイス、あの邪淫なナメクジどもがお前の方にはい寄って、ねばねばする汗でお前を汚しに来るのを、お前は見ただろう。奴隷たちの踵の下に眠っていたあの人でなしの虫けらどもを、お前は見ただろう。吐いたものに汚れた毛氈《もうせん》の上で抱き合っていたあの獣たちを、お前は見ただろう。あの無分別な老いぼれめが、淫蕩の中にふりまかれる酒よりもいやしい血潮をまいて、乱痴気騒ぎの酒宴の果てに、不意にキリストの面前に身を投じて行ったのを、お前は見ただろう! 神に讃えあれ! お前は非行を眺めたのだ。そしてそれが醜いものであったことを知ったのだ。タイス、タイス、タイス、あの哲学者たちの狂気の沙汰を思い出してごらん。その上で、お前はあの手合いと一緒に狂乱したいかどうか、言ってご覧。あいつらには相応な仲間であった、あの二人の淫奔な根性曲がりの売春婦たちの眼つきや、素振りや、また笑いを思い出してご覧。そして、あの女たちと同じようにしていたいかどうか、言ってご覧!」
タイスは、その夜のいまわしさに胸を悪くし、男たちの冷淡や残忍、女たちの意地悪さ、また時の退屈さを身に感じて、溜息をついた。
「神父さま、私は死にそうに疲れております! どこに安息があるのでしょう? 額が焼けるように熱く、頭はガランとしてしまい、幸福を手の届くところへ出しに来てくれる人があっても、つかまえる力もなかろうと思われるほど、手は性根も抜けてしまっています!」
パフニュスは、いたわるように彼女を眺めていた。
「しっかりおし、妹よ。お前のために安息の時が、そら、今、庭や水の面から昇っている朝靄のように白く清らかに起き上って来ているのだ」
二人はタイスの家近くに来た。そしてすでに、ニンフの岩窟《いわや》をかこんでいる篠懸《すずかけ》やテレビンの樹の梢が露を含んで、朝の微風にそよいでいるのが、壁越しに見えていた。二人の前には、広場が開けていた。そこは、人気《ひとけ》がなく、石碑や彫像に周囲をふちどられ、端々には、怪物に支えられている半円形の大理石の腰掛けが置いてあった。タイスはその一つの腰掛けの上に、崩れるように身を落したが、ついで、修道士の方に不安そうな視線を向けながら、こうたずねた。
「どうしたらよろしいのでしょう?」
「お前を探しに来られたお方に随って行かなくてはいけない。そのお方は、ちょうど、葡萄を摘む者が、樹につけて置いては腐るかもしれないので、その房を摘みとって葡萄酒にするため圧搾器にかけに行くように、お前をこの俗界から解脱させて下さる。お聞き。アレクサンドリアから十二時間ほどの道のりのところ、西に当って、海の近くに女の修道院がある。そこの戒律は叡智の傑作とも言うべきもので、抒情詩になおし、竪琴や鼓《ドラム》の音に合せて唄われていいくらいのものだ。その掟にしたがっている女人たちは、地に足を置きながら、額を天国に入れていると言って間違いのないことだ。その女人たちは、この世にあって、天使の生活を送っている。イエスに愛されんがために貧しくあり、イエスに眺められんがために謙遜であり、イエスの配偶者とならんがために貞節でありたいと願っている。イエスは毎日園丁の身なりをして、跣足《はだし》のまま、美しき両手を開かれ、御墓への途上でマリアに現われ給うたと同じ御姿で、その女人たちを訪れになっておいでだ。タイス、私は今日すぐお前をその修道院に案内してやろう。そして、じきにその聖女たちと一緒になり、お前も、その神聖な談話の仲間入りができよう。その女人たちは、お前を妹のように待っている。僧院の入口で、みなの母である信仰深いアルビーナが、お前に平和の接吻を授け、『娘よ、よく来ました!』といってくれよう」
タイスは、思わず讃嘆の叫びを発した。
「アルビーナさま! 皇女さまが! カルス皇帝の姪《めい》のお姫さまが!」
「その人だ! 高貴の位に生れたが、粗《あら》布をまとい、この世の君主の皇女であったがイエス・キリストの下婢《しもべ》の列に並んだアルビーナだ、その人がお前の母となるのだ」
タイスは起ち上って、言った。
「では、アルビーナさまのお家へおつれ下さいまし」
パフニュスは、己れの勝利を一層完全なものにしていった。
「きっと連れて行ってやる。そしてお前を独房にとじこめてやろう。そこで、お前は自分の罪業を泣くがよい。なぜなら、お前のすべての汚れを洗いさらってしまうまでは、アルビーナの娘たちの仲にまじるのは当を得たことではないからだ。私は、お前の部屋の戸に封印しよう。そして、お前は至幸なるとらわれ人として涙のうちに、イエスご自身が赦免の印《しるし》に私のつけた封蝋を砕きに来られるのを待つがよい。疑ってはいけない。きっとおいでになる、タイス。光明の指が、涙を拭うためにお前の眼の上に置かれるのを感じるとき、どんな震えが、お前の魂の肉をゆり動かすことであろう!」
タイスは再び言った。
「神父様、アルビーナさまの家へおつれ下さいまし」
喜悦にみち溢れた心を抱いてパフニュスは、自分の周囲を見廻した。そして、ほとんどなんの恐れの念もなく、創造された象《すがた》に眺め入る愉悦を味わった。その両眼は、神の光明を心地よく飲み、これまでしらなかった息の通いを額の上に感じていた。この時ふと、広場の一角に、タイスの家に入って行ける小さな門のあるのに気がつき、自分がその梢に見惚れていたその美しい樹々が、娼婦タイスの庭にかげをつくっているのだと思うと、今は実に清くさわやかになっている空気を、かつてはそこで汚していたことのある淫猥な出来事が、脳裡にまざまざと浮かび出た。すると、苦い涙の珠が眼からほとばしり出たくらいに、にわかに、彼の心はがっかりした。
「タイス、私たちは後も振り返らずに逃げて行こう。けれども、過ぎし日に犯したお前の罪悪の諸道具、目撃者、共犯者、お前の醜名を叫ぶようなあの厚いカーテンや寝台、敷物、香料壷やランプなどを、あとへ残して置いてはいけない。お前とても、悪鬼に動かされ、悪霊につかれたその罪ある道具類が、砂漠の中までお前を追いかけて来るのは好むまい? 堕罪《だざい》の食卓や汚辱の椅子が悪魔の器具に使われて、動き、話し、地を叩き、空をよこぎって行くのを見るのは、ほんとすぎるほど真実のことだ。お前の汚行を見たすべてのものがほろび尽きてしまいますように! お急ぎ、タイス、町がまだ眠っているひまに、お前の奴隷に命じて、この広場の真ん中に火烙《ひあぶり》台を作らせなさい! その上で、お前の家にあるありとあらゆるいまわしい豪奢なものを焼き捨ててしまおう」
タイスはその言葉を承知した。
「あなたのお望み通りなすって下さいまし、神父さま、無生のものが、時には精霊の棲み家に使われることは、私も存じております。夜、ある道具類は、規則正しい間を置いてかたかたと音を立てたり、合図のような徴かな光を放って口を利きます。でも、それはまだ何でもないことす。ニンフの岩窟へおはいりになると、右手に、裸身の、浴《ゆあ》みしようとしている女の立像があったのにお気づきになりませんでしたか? ある日、あの立像が、まるで生きている人のように振り返ったかと思うと、すぐに、もとの姿勢に帰ったのを、私はこの眼で見ました。私は驚きに体も凍ったようにひやりとしました。ニシアスにこの奇蹟を話しましたら、あの人は、私のことをからかいました。でも、あの立像の中には何か魔法があるのです。なぜって、あの立像はこの私の美で動かせなかったあるダルマチアの人に、激しい愛欲の念を吹き込んだのですもの。確かに私は魔性のものの中に生活し、この上もなく大きな危険にさらされていたのです。というのは、青銅の立像に抱きしめられて窒息した男たちもあったのですからね。けれども、稀なたくみさで作られている貴重な細工物を壊すのは、惜しゅうございますわ。私のところの敷物やカーテンを焼きますのはほんとに大変な損失でございましょうよ。その中には、とても素敵な色の美しいものもありますし、私に贈ってくれた人たちにとっては、随分と高価についたものもあるのです。それからまた、私、大変な値打ちのあるコップや立像や絵を持っておりますの。そうしたものを滅ぼしてしまわなければならないとは、信じられません。でも、あなたは、必要であることをご承知の方なのですから、お心のままになさって下さいまし。師父さま」
こう語りながら、タイスは、多くの花束や花輪の懸けられている小さな門のところまで、修道士について行った。そして、その門の扉を開けさせると、門番に、家中の奴隷たちを呼ぶように言いつけた。料理場を監理している四人の印度人が、真先きに現われて来た。四人とも黄色い肌をして、みんな片目しかなかった。同じ種族の、そして同じ不具のこの四人の奴隷を集めることは、タイスにとっては大へん骨の折れたことであり、また、非常な楽しみでもあった。彼等が食卓の給仕をすると、いつでも客たちの好奇心をそそり立てた。そしてタイスは、その四人にめいめいの身の上話を強いてやらせたものであった。彼等は、口をつぐんで待っていた。すると次に、この四人の手伝いをする連中がやって来た。つづいて、厩《うまや》番、猟犬係、輿《こし》担ぎ、青銅のような脚の走り使いの男たち、果樹園の神プリアプスのように毛むくじゃらの二人の園丁、猛悪な容姿をした六人の黒んぼ、一人は文法学者、一人は詩人、また他の一人は唄い手である三人のギリシア人の奴隷が出て来た。これらすべての者が、広場に順序正しくならんだ時に、黒んぼの女たちが、好奇と不安の思いを抱いて、大きな眼をくるくるさせながら、口を耳輪のところまで裂いて、駆けつけて来た。最後に、面紗《ベール》を直し、細い金鎖を枷《かせ》につけられている足をもの憂げにひくように運びながら、六人の白い美しい奴隷が、陰気な風をして現われて来た。奴隷たちすべてが揃うと、タイスは、パフニュスを示しながら言った。
「この方がお前たちにお言いつけになることをなさい。なぜなら、心霊がこの方のお体の中においでになるのだからね。もしおっしゃることにそむくと、たちどころに死んでしまうだろうよ」
実際タイスは、砂漠の聖者がその杖で打つ不信者を、裂けて煙をはく地の中に落し込む力があると聞いていたので、そう信じていた。
パフニュスは、女たちと、女のようなギリシア人の奴隷たちは引きとらせ、他の者たちに言った。
「広場の真ん中に薪《まき》を持って来て、どんどん火を焚《た》いてくれ。そして岩窟《いわや》や家にあるものを何でもめちゃめちゃに投げ込んでしまってくれ」
その言葉に驚いて、奴隷たちは身動《みじろ》ぎもしないで、眼つきでタイスの意をたずねていた。が、タイスが何も言わずにぐたりとしたままでいたので、これは冗談事ではないのかと疑いながら、みなは、肱をつき合せて一かたまりに寄り集まった。
「私の言う通りになさい!」と、修道士が言った。
奴隷の幾人かはキリスト教徒であった。自分に与えられた命令を了解したので、彼等は、家の中に薪と炬火《たいまつ》とをとりに行った。他の者たちも、喜んでその真似をした。なぜなら、彼等は貧しかったので、富を嫌い、本能的に破壊の趣味を持っていたからだ。すでに火烙《ひあぶり》台ができ上ったときパフニュスはタイスに言った。
「私は、一度は、アレクサンドリアのある教会(もしアリウス教の畜生どもに汚されていない教会が一つでもあるなら)の会計方を呼んで、お前の財産全部を与えてやろうとも考えた。その財産を寡婦たちに分配して、罪から得た利益を正義の宝にするためにだ。けれども、この考えは神から来たものではない。それで私は、その考えを退けてしまった。淫蕩の脱殻《ぬけがら》をイエス・キリストの愛する女たちに与えるのは、余りにその人たちを侮辱することになるかもしれないから。タイス、お前の手が触れたすべてのものは、魂までもこの火によって焼き尽くされねばならないのだ。海の漣《さざなみ》よりも数多い接吻を見たこれらの寛衣《チュニック》、これらの面紗《ベール》は、天のみ恵みによって、もはや焔の唇と舌との外には何も感じられないのだ。奴隷たちよ、急げ、もっと薪をくべろ! もっと炬火《たいまつ》を投げろ! そしてタイス、お前は、家へはいって、お前のその汚れた身の飾りを振り棄て、奴隷のうちの一番卑しいものから、有難い恵みとして、その女が床掃除に着る寛衣をもらっておいで」
タイスはしたがった。印度人が、跪づいて燃えさしの薪を吹き煽《あお》っていると、黒んぼは、火烙《ひあぶり》台に、象牙や黒檀や柏香樹《レバノンスギ》などの筥《はこ》を投げ込んでいた。筥は、口を開いて、冠や花飾りや首輪をこぼれ散らした。煙は旧約の神に悦ばれる燔祭《はんさい》におけるように、黒い柱となって立ち登って行った。間もなく燻《いぶ》っていた火が、にわかにぱっと燃え上り、怪獣の唸きのようなうなりを立てて高貴な餌を食べはじめた。すると召使たちは、一層活気づいてこの仕事に従事した。彼等は、立派な絨毯《じゅうたん》や銀の縫いのある面紗《ベール》や派手な美しいカーテンを、元気よくひきずって来た。重い食卓や肱付き椅子、ふっくらと厚い座蒲団や黄金の釘のついた寝台などを軽々と担いで跳ねていた。頑健な三人のエチオピア人は、彩色のあるニンフの三つの立像を抱え込んで駆けて来た。その一つの像は、生きている女のように愛されたものであった。この三人の奴隷は、まるで、女を略奪して行く大きな猿のようであった。そしてその三人の怪物の腕から落されて、美しい裸女たちの姿が敷石に当って砕け散ったとき、悲鳴が聞こえたように思えた。
この時タイスが、解きほぐした髪の毛を長い波のように流して、跣足《はだし》のまま、不恰好で粗末な、けれども、彼女が触れただけで神々しい快楽が浸み込んでいる寛衣《チュニック》をまとって現われた。その背後には、一人の園丁が、象牙でできたエロスの像を、波打つようなその長いひげの中に隠して持って出て来た。
タイスは、その男に止るように合図をしてパフニュスに近づき、その小さな神を示して訊ねた。
「神父さま、これもやっぱり火の中に投げてしまわなければいけませんか。実によくできている古い作り物なのです。重さの百倍ぐらいの黄金に価するものです。これの無くなることは、とり返しのつかぬことでございましょうよ。この世に、こんな立派なエロスを作れる芸術家は、もう二度と出ないでしょうから。それにまた、神父様、この像の小さな子供は、愛の神で、これをむごたらしく取り扱ってはいけないことを、お考え下さい。私のいうことをお信じ下さいまし。愛は徳の一つです。私が罪を犯しましたとて、それは愛によってしたことではなく、愛に背いてしたことなのです。愛が私にさせたことを、私、ちっとも後悔いたしませんが、愛が禁じたのに、自分の心からこうしたことになると、私、情けない悲しい気がします。愛は、愛の名によって来ない人に身を任せることを、女に許しておりません。ですからこそ、愛は尊ぶべきものなのでございます。ご覧なさい。この可愛いエロスは、なんて綺麗なのでしょう。この園丁のひげの中に隠れた容姿の、なんて優しいことでしょう! いつぞや、ちょうどそのころ私を愛していたニシアスが、これは私のことをお前に話してくれるよ、といって私のところへ持って来てくれたのです。ですが、このいたずらっ子は、私が前にアンティオキアで知り合った若い男の話をして、ニシアスのことは話してくれませんでした。あの火烙台では、もう沢山の富が焼き亡ぼされています! このエロスをとって置いて、どこかの修道院に安置して下さいまし。この姿を見る人たちは、心を神様の方に向けましょう。無論のこと、愛は、神様のみ心まで向上して行くことのできるものですものね」
園丁は、もう小さなエロスが助かったものと思って、まるで子供に笑いかけるように、その像にほほえみかけていた。その時パフニュスは、園丁の腕からその像を奪いとって、こう叫びながら火焔の中に投げ込んだ。
「ニシアスが手を触れたというだけで、あらゆる害悪をこの像が伝播《でんぱ》するに十分なものだ!」
それから、今度は自分自身で、きらきらする衣裳や真紅の外套、黄金の履物、櫛、肌掻《はだか》き器、鏡、ランプ、竪琴、七絃琴などを、手一ぱいに掴んで、アッシリア王のサルダナパールの火烙台にもまして豪勢な烈火のうちに投げ込んだ。その間、破壊の喜悦に酔った奴隷たちは、火花と灰の雨をあびて、吼えるような叫びをあげながら、踊りまわっていた。
この物音に付近の者が眼をさまし、次々に窓を開けて、眼をこすりながら、どこからこんなにも煙が来るのかと探した。そして、半ば裸身のまま広場に出て来て、火烙台に近づいた。
「なんだろう」と、その連中は思った。
その中には、タイスが香料や布類を買いつけている商人がいたが、彼等は、ひどく心配して、黄色いひからびた顔を差し延べながら、事情を知ろうと努めていた。朝帰りの途中、奴隷を先に立たせてそこを通りかかった若い道楽者たちは、花冠を額に戴き、寛衣《チュニック》を朝風に揺がせながら立ちどまり、大きな叫びをあげた。絶え間なく増して来る物見高い群集は、やがて、タイスが、アンチノエの聖者のすすめを受けて、修道院に隠棲するに先だち、その財宝を焼いているのだと知った。
商人たちは考えた。
「タイスがこの町を離れると、俺たちはもう何もあの女に売れなくなる。こりゃ思っても恐ろしいことだ。あれがいなくなったら、俺たちはどうなるんだ。あの坊主が、タイスを気違いにしてしまったんだ。あいつが俺たちを亡ぼすんだ。なぜ、あいつのするがままにさせておくんだ? 法律は何の役に立つんだ? 一体、アレクサンドリアには裁判官がいないのか。このタイスは、俺たちのことも、家内たちのことも、可哀そうな倅たちのことも気にかけてはくれないんだ。あの女のやることは、世間の面汚しだ。あの女の気持なんかどうだっていいが、無理にもこの町にいるようにしてやらなくちゃいけない」
若者たちは、彼等らしく考えていた。
「タイスが芝居をやめたり、恋を捨てるとしたら、俺たちの一番大切な娯楽がなくなってしまうぞ。あれは、劇場の美しい光栄であり、やさしい名誉であった。あれと関係しなかった者たちにさえ、喜びになっていたんだ。みなが誰か女を愛する時には、タイスを偲び起こさせたものだ。あの女の面影が全くなかったら、そんな接吻は誰も交わしはしなかった。なぜなら、あの女は快楽中の快楽だからな。あの女が、俺たちの間にいるという考えだけで、俺たちはよろこびに昂奮させられるんだ」
こういう風に若者たちは考えていた。そしてその中の一人セロンというのは、前にタイスと懇《ねんご》ろにしたことがあったので、誘拐だと叫び立て、キリストという神を罵倒した。群集すべての間に、タイスのこの行いが、きびしく批判された。
「恥ずべき逃亡だ!」
「卑怯な打っちゃりっぱなしだぞ!」
「あいつは、俺たちの口から、パンをとり上げてしまうんだ!」
「あの女は、俺たちの娘の嫁入り支度を持って行ってしまいやがる!」
「せめて、俺の売った花輪の代は払って行ってもらわなくちゃ!」
「俺に注文のあった、あの六十枚の着物の代ももらわにゃならん!」
「俺たちみんなに、借金があるのだ!」
「あいつがいなくなったら、誰が、イピゲネイアやエレクトラやポリュクセネの役をやるんだ? あの美しいポリーブだって、あの女のようにはうまくやれやしない」
「あの女の家の戸口が閉ったら、生きてるのがさびしくなるなあ」
「あの女は、アレクサンドリアの空の、明るい星だった。やさしい月だった」
町のおも立った乞食たちや、盲人や躄者《いざり》中風やみなどが、広場に集まって来て、裕福な人々の陰を大儀そうに歩いては、こう呻《うめ》いていた。
「タイスがいなくなって、私たちを養ってくれなかったら、私たちはどうしてこのさき暮らして行けましょう? あの女の食卓から出るパン屑は、毎日々々、二百人の不幸な者たちを養ってくれていました。満足してタイスと別れて帰る愛人たちは、通りすがりに、銀貨を幾握りも投げてくれていたものです」
群集中に入り込んでいた盗賊たちは、耳も聾《ろう》するような喚声を立てて混乱を大きくし、その隙に、何か貴重な品を盗みとろうとの魂胆から、周囲の人たちを、押しのけまわしていた。ただ一人、ミレトスの羊毛やタレントの麻を売っていてタイスに莫大な貸しのあるタデウス老人だけは、この喧騒のただ中で、静かに黙りかえっていた。彼は耳をそばだて、横眼でじっと見入り、山羊ひげをなでながら、何か考えているようであった。やがて、若いセロンに近寄って行くと、その袖を引き、ごく小声に言った。
「旦那、あんたはタイスのお気に入りだ。あんな坊主なんかにタイスをとられて、指をくわえている奴があるもんですか」
「ポリュックスとその妹の名にかけて、あいつにそんな真似をさせるものか!」と、セロンが叫んだ。「私はタイスに話してやろう、自惚じゃないが、あの煤《すす》だらけのラピートよりは私の言うことを聴いてくれると思う。これこれ貧民ども、道を開けろ、道を開けろ!」
そう言って、無暗に拳で男たちを擲《なぐ》りつけたり、婆さんたちを突き転ばせたり、子供たちを足で踏み倒したりしてタイスのそばまで行きつくと、わきへ引き寄せて、こう言った。
「ねえ、別嬪《べっぴん》さん、私を見ておくれよ。思い出しておくれよ。そして、本当にお前、恋を捨てる気かどうか言っておくれよ」
するとパフニュスは、タイスとセロンの間に飛び込んで叫んだ。
「不信者め! この女に指でも触れて見ろ、死ぬことになるんだぞ。この女はきよめられているんだ、神に属しているものなんだ!」
若者は怒って言い返した。
「行っちまえ、狒々《ひひ》め! 俺の恋人に話している邪魔をするな。でないと、ひげを引っ張って、貴様の淫《みだ》らな体をあの火の中にひきずり込み、豚の腸詰めのように火|炙《あぶ》りにするぞ」
そして彼は、タイスの上に手を差し出したが、思いも寄らぬ強さで修道士に押しのけられ、ひょろひょろと、四歩ばかり背後の火烙台の下の崩れ落ちた焔の中に、倒れて行った。
その間に、老タデウスは、奴隷の耳をひっぱったりその主人たちの手に接吻したりして、めいめいにパフニュスに対する敵愾心《てきがいしん》を煽《あお》りながら、歩きまわっていた。そしてすでに、決然とパフニュスに突撃しようとする小さな一団をつくっていた。セロンは、顔を黒く燻《いぶ》され、髪を焼かれ、煙と怒りに息づまらせて起き直った。彼は、神をののしり、パフニュスに迫ろうとする者たちの間に跳び込んで行った。その人たちの背後には、乞食たちが、松葉杖を振りまわしながら這っていた。やがてパフニュスは、突き出された拳《こぶし》や、振りかざされた棒や、死の叫びの圏内に、閉じこめられてしまった。
「鴉《からす》に喰わしてしまえ! その坊主を鴉に喰わせろ!」
「いや、火の中にほうり込んで、生きながら火炙《ひあぶ》りにしてしまえ!」
パフニュスは、その美しい餌物タイスをつかんで、胸にしかと抱きしめていた。
「不信心者め」と、彼は、雷のような声を出して叫んだ。
「主の霊鷲《れいしゅう》の手にある鳩をもぎとろうなどとするな。それよりもむしろこの女に見ならえ。そしてこの女のように、お前らの汚れを黄金に代えろ。この女を手本に、自分で所有していると思っていながら、その実、逆に自分が所有されている偽りの富を捨ててしまえ。急げ。世の終りは近づいている。そして神は辛抱しきれなくなっておいでだぞ。悔い改めて、汝らの恥辱を告白し、泣いて祈れ! タイスに見ならえ。この女の罪と同じくらいに大きいお前たちの罪をいとえ。汝らのうち誰か、貧しき者、富める者、商人、軍人、奴隷、著名な市民のうち誰か、神の御前で、己れが一娼婦よりまさっていると敢えて自ら言い得るものがあろう。お前たちはみな、生きている汚物に過ぎないのだ。お前たちが急に泥土の流れとなって流れないのは、ひとえに天の慈悲の奇蹟によることだぞ」
こう話している間、彼の瞳からは火焔が迸《ほとばし》り出て、紅熱した火の塊りがその口から出て来るように思われた。それで、彼を取りかこんでいた連中も、心にもなくその言葉を傾聴していた。
しかし、老タデウスだけは少しもじっとしてはいなかった。石や、牡蠣殻《かきがら》を拾って、寛衣《チュニック》の襞の中に隠し、自分で投げつけることはなし得ないで、それを、乞食の手にそっと握らせていた。間もなく小石が飛び出した。そして手際よく投げつけられた貝殻が、パフニュスの額を傷つけた。血はこの殉教者の暗い顔を流れ、新たな洗礼として、悔悛者タイスの首の上にしたたり落ちた。タイスは、修道士に息苦しいまでに抱きしめられ、硬い苦行衣にその華奢な肉身をこすられながら、身うちに、驚愕と恐怖との顫動が走るのを感じた。
その時、額にオランダミツバの花冠を巻いた、瀟洒な身なりの一人の男が、怒り立つ群集を分けて出ながら、こう叫んだ。
「やめてくれ、やめてくれ! その修道士は私の兄弟なんだ!」
これはニシアスであった。彼は、ちょうど、哲学者ユークリートの末期の水をとってやってから、この広場を通りかかって、煙を吐いている火烙台や、粗《あら》布を身につけたタイスや、石に打たれたパフニュスを見たのであったが、さほどに驚きもしなかった(彼は、何事にも驚かない人物であったから)。
ニシアスは繰り返して言った。
「やめてくれと言ってるのに、私の昔の学友を赦してやってくれ。パフニュスの大切な首に手をつけないでくれ」
けれども、賢者たちの微妙な会話に馴れていた彼は、群集の精神を押さえ得る威圧的な精力《エネルギー》を持ち合せていなかった。誰も彼の言葉に耳をかす者はなかった。小石や貝殻は霙《みぞれ》のように修道士の上にそそがれた。パフニュスは、身をもってタイスを庇《かば》いながら、主をたたえていた。パフニュスにとっては、主のみ恵みによって、その傷が愛撫に代えられていたのである。自分の言うことを聞いてもらえず、力によってもまた説き伏せることによっても、その友を救い出し得ないことが余りに確かなのに失望して、ニシアスは、自分はほとんど信頼していない神々のなすがままに任せて、諦らめてしまった。その時、人間に対して抱いていた彼の軽蔑が不意に暗示したある計略を用いてみようと思いついた。彼は、酒色にふけるが、慈悲深い男の財布らしい、金貨や銀貨で一ぱいな財布を、帯からとり出して、石を投げている者たちの傍に駈けつけ、その耳元で金子《かね》の音を立たせた。が、初めのうちは、誰もそれに注意をしなかった。それほど、みなの怒りは強かった。けれども、みなの眼は、だんだん鳴る黄金の方に向けられ、やがて、その腕は萎《な》えたようになって、もう、パフニュスを脅やかさなくなった。ようやく、みなの眼や心を牽《ひ》きつけたのを見て、ニシアスは、財布の口を開いて、群集の中へ幾つかの金貨や銀貨をほうりはじめた。すると忽ち、貪婪《どんらん》な者どもは、それを拾おうと身をかがめた。哲学者ニシアスは、この最初の成功を喜んで、たくみに、そこここへと、ローマやギリシアの貨幣を蒔き散らした。敷石に跳ねかえる金貨や銀貨の音を聞いて、迫害者の集団は地におそいかかった。乞食や奴隷や商人たちが、先を争って地上を転がり廻っていると、一方、貴族たちは、セロンの周囲にかたまって、笑い興じながらこの光景を見物していた。セロン自身も、これに怒りをまぎらされてしまった。その友の貴族たちは、俯伏せになっている競争者たちを激励したり、選手を選び出したり、賭けをしたり、奪い合いが始まると、まるで、闘犬に向ってするように、その哀れな連中をけしかけていた。躄者《いざり》が一ドラクム〔古ギリシアの銀貨〕の金子《かね》を掴み得たときには、褒めそやす音が空高く立ち昇っていった。青年たちは、自分らも金子を投げはじめた。そして広場じゅう、目に入るものはただ限りない人の背の波で、それが銅貨の雨の下に、まるで荒海の怒濤のようにぶつかり合っていた。パフニュスは、全く忘られてしまっていた。
ニシアスはパフニュスの許へ駈け寄って、自分のマントで蔽うと、タイスも一緒に、小路から小路へと連れ込んで行ったが、後を追って来る者もいなかった。こうして、暫らくの間、黙ったまま駈けつづけた。それから、もうここなら安全と見はからったころ、三人は歩みをゆるめた。ニシアスは、少し悲しみを帯びた嘲弄の調子で言った。
「それではもう決まってしまったのか! プルトン〔黄泉の国の支配者〕がプロセルピナを誘拐してしまったのだね。タイスは遠く僕たちを離れて、この猛々しい友達と一緒に行こうというのだね」
「そうです、ニシアス」と、タイスが答えた。「私はあなたのような、にこにこして香料を身にくゆらし、愛想よくて自分勝手な男たちと生活するのに、疲れてしまったのです。私、自分の知っているものなんでもに、飽き飽きしているのです。それで、未知のものを探しに行くんです。私は喜びが喜びでなかったことを味わったのです。そこへこの方が、真の喜びというものは、悩みの中にあることを教えて下さったのです。私はこの方のお言葉を信じます。この方は真理を握っておいでですもの」
「僕だって、お前」と、笑いながらニシアスが答えた。「僕だって沢山真理を持っているよ。パフニュスは一つしか持っていないが、僕はあらゆる真理を持っている。僕は、パフニュスより富んではいるが、実際を言うと、それがために得意だというわけでもなく、また幸福でもない」
そう言って、修道士が燃えるような視線を自分に投げているのを見ると、また言葉をついだ。
「パフニュス、僕が君をひどく滑稽なもの、また、全く狂気じみているものと思っているなどとは、思わないでくれ。自分の暮らしを君のにくらべて見ると、どっちが好ましいものか、言い得ないかもしれない。僕はじきにクロビールとミルタルが支度しておいてくれる風呂に入り、ファーズの雉《きじ》の翼を食べるだろう。それから、もう百遍にもなるが、アプレイウスの何かの寓話か、ポルピュリオスの本でも読むだろう。だが君は、独房に帰って行き、そこで、おとなしい駱駝のように跪づいて、どういう呪文だか僕は知らないが、長い間繰り返されて来た呪文を唱えるのだろう。そして夕べになると、油もつけずに蕪菁《かぶら》を呑みこむのだろう。ねえ君、外観はまったく違っているこうした行動をしながらも、我々二人は、人間のあらゆる行動の唯一つの原動力や同じ感情に服しているのだ。我々はお互いに我々の快楽を求め、共通の終局、つまり幸福に達しようとしているのだ。到底不可能な幸福に! それで、ねえ君、僕は自分を正しいとする以上、君を間違っているとするのは不当なことになるね。
それからタイス、行って楽しむがよい。もしできるなら、お前が富や歓楽の中で幸福であったよりも、もっと禁欲や苦行の中で幸福におなり。結局のところ、お前は羨ましい身分のものなんだ。なぜなら、我々の全生涯を通して、パフニュスにしろ僕にしろ、自分の本性にしたがって行きながらただ一種類の満足しか追えなかったのに、お前は、生涯のうちに、性質の相反した快楽を味わうだろうから。そうしたことは、一人の人間に対して、稀にしか与えられていないものだよ、実際、僕は、一時間だけパフニュスのような聖者になって見たいものだ。が、それは僕にはてんで許されないことだ。では、ご機嫌よう、タイス、お前の本性とお前の運命とのひそやかな力が導いて行ってくれるところへ、お行き。そしてニシアスの祈願を遠く持って行っておくれ。その祈願の空《くう》なことは僕も知っている。けれども、昔この身を包んでくれていた、またその影のなお僕の心を去らずにいる、あのこの上ない幻影の代価として、何にもならぬ愛惜や空《むな》しい希望以上のものを、僕がお前に与えられようか。ご機嫌よう、僕の恩人のタイス、ご機嫌よう。己れをしらぬ慈愛よ、神秘な徳よ、人間の快楽よ! ご機嫌よう。大自然が、偽瞞をこととするこの世に、未知の目的のために投げた影像の中で一番熱愛すべきものよ」
ニシアスがそう話していると、修道士の胸には、ある陰鬱な憤怒がこもって来た。その怒りは呪咀となって爆発した。
「去れ、呪われし者よ! 俺はお前を軽蔑し、かつ憎む! 去れ、地獄の餓鬼め、貴様は、先刻この俺に悪口雑言と一緒に石を投げつけていたあの哀れな血迷える者より千倍も心の悪い奴だ。奴等は、自分で自分のしていることを知らないでいたのだから、奴等のためを思って俺が嘆願している神の恩寵は、いつか、奴等の胸裡に降臨されることもある。けれども貴様は、ああ憎悪すべきニシアス、貴様は不実な悪意、苛酷な毒薬に過ぎない。貴様の口を出る息は、失望と死とを発散している。貴様の微笑の唯一つが、悪魔の煙を噴く唇から一世紀にわたって出るものよりももっと多くの涜神《とくしん》の意を含んでいる。さがれ、神に見棄てられた男め!」
ニシアスは、優しくパフニュスを眺めていた。
「さようなら、君」と、ニシアスはパフニュスに言った。「最後の息をひきとるまで、君の信仰の、君の憎悪の、そして君の愛の宝を持ちつづけて行けるように! さようなら、タイス! 僕を忘れようとしても駄目だよ、お前の思い出が僕の心にあるからにはね」
そして二人に別れると、ニシアスは、アレクサンドリアの大墓地に接した、葬具屋たちの住んでいる曲りくねった町々を、もの思いに沈みながら歩いて行った。葬具屋の店は粘土でできた人形で一ぱいだった。みな、薄色にいろどられていて、神々や女神、狂言師や女、翼ある小さな妖精などの形につくられていた。これを死者と一緒に埋葬するのが習慣になっていた。彼は、恐らく今自分の眼で見ているこの軽い偶像のどれかが、自分の永眠の伴侶となるのであろうと考えた。すると、寛衣《チュニック》をたくし上げている小さなエロスの像の一つが、嘲るような笑みを見せているように思えた。今から、もう眼にちらつく自分の葬式ということについての考えは、彼には苦しかった。自分の哀愁を癒《いや》そうとして、彼は、哲学的考察を試み、一の理論を立てた。
「確かに、時間は実在性を持っていない。時間は、吾人の精神の純粋な一幻影だ。そこで、時間は存在していないとしたら、どうして時間が俺に死を持ち来たすことがあろう?……これは、俺が永遠に生きるということになるのだろうか? いや違う、俺はこう結論する。俺の死は、それが今後未来に存在すると同様に、現在にもあり、また常に過去にもあったのだ。俺はまだ死を感じはしないが、でも存在はしているのだ。そして、それを心配するには当らない。なぜなら、すでに来てしまっているものの来るのを恐れるのは愚かなことだからな。死はちょうど、俺が今読んでいてまだ終らない本の最後の頁のように存在するのだ」
この理論は、家に着くまでの間中、彼を晴ればれしくさせることなく、その心にこだわっていた。彼が、暗い心を抱いたまま、家の入口にさしかかると、彼の帰りを待ちながらボール遊びに興じていたクロビールとミルタルの明るい笑い声が耳にはいった。
パフニュスとタイスは、月輪門から町を出て、海岸づたいに歩いて行った。
「女よ、この青海原の全部も、お前の汚れを洗い去ることはできない」と、修道士は言った。
それから、憤怒と軽蔑の念を持ってタイスに話しかけた。
「牝犬や牝の猪よりも邪淫なお前は、永遠の神が幕屋を築くために形づくられたその体を、異教徒や信仰のない者にひさいだ。お前の汚らわしさは、真理を知った今となって、お前が自己嫌悪の念に胸を悪くせずには、もはや、唇を合せることも、合掌することもできなくなっているくらいだ」
タイスは、烈日の下を、凸凹した路を歩んで、おとなしくパフニュスに随って行った。疲労に膝がぬけるようになり、喉が渇いて、息が焔《ほのお》のように熱かった。けれども、パフニュスは、世俗の人間の心をほろりとさせるあの偽りのあわれみを味わうどころか、罪を犯したタイスの肉体がつぐないの苦しみに悩むのを喜んでいた。神聖なる熱情の陶酔裡に、彼は汚辱のはっきりした証拠のようになおその美を保っているタイスの肉体を、笞《むち》で引き裂いてやりたいくらいに思った。彼の瞑想は、その敬虔な念から起こった憤怒を持ちつづけた。そして、かつてタイスがニシアスをその寝間に迎えたことがあったのだと想い返すと、実に厭わしい想像が頭の中に作られて来て、血潮という血潮が心臓に逆流し、胸も張り裂けるばかりになったほどであった。呪咀の言葉は、喉につまってしまい、ただ歯ぎしりばかりしていた。彼は跳び上り、顔蒼ざめ、もの凄い形相となり、神霊にみたされてタイスの前に突っ立ち、心の底までじっと見据えてその顔に唾を吐きかけた。
タイスは歩みもとめずに静かに顔を拭った。今度はパフニュスが、まるで深淵にでも見入るようにタイスを見つめながら、その後に随って行った。彼はなお清い怒りに燃えながら歩いて行った。彼は、キリスト自身が復讐しないように、自分がキリストになり代って復讐しようと考えふけっていた。ふと、一滴の血潮が眼に映った。タイスの足から地上に流れたのだ。その時、まだしらなかった清々しい霊気が、自分の明るくなった心に入って来るのを感じた。嗚咽が絶えず唇に登り、彼は泣いた。そして、タイスの前に駈けて行って跪づき、姉妹と呼び、血のにじみ出ている足に接吻した。彼は何度となくこう呟いた。
「妹よ、姉よ、母よ、いと聖なる者よ!」そして彼は祈った。
「天使よ、この血の滴を大切にお収め下さいまし。そして、主の宝座の御前にお持ち下さいまし。また、タイスの血のそそがれた砂上には、奇蹟のアネモネの花が咲き出ますように! それは、その花を見る誰でもが、心と官能との純潔さを恢復することができるようにです。おお、聖なる者よ! 聖なる女よ! いと聖なるタイスよ!」
彼が、こういう風に祈ったり預言したりしていると、ロバに乗った一人の若者が、たまたまそこを通り過ぎようとした。パフニュスは、若者にロバから降りることを命じ、タイスをその上に乗せ、自ら手綱をとって道をつづけて行った。夕方になると、蔽い繁る樹々の陰になった運河に行き当ったので、彼はロバをナツメヤシの幹につなぎ、苔むした石の上に腰をおろして、タイスと一緒に、塩とヒソップの葉とで風味をつけたパンを食べた。二人は、掌《てのひら》に清澄な水をすくって飲み、永遠の事物について話し合った。タイスは言った。
「私、今までに、こんな綺麗な水を飲んだこともありませんし、こんなにさやさやした空気を呼吸したこともございません。吹き通って行く風の中に神様が浮いておいでのようですわ」
パフニュスが答えた。
「ごらん、夕方だ。夜の青い影が丘を蔽うている。だがやがてお前は、暁の光の中に、生命の幕屋が輝やくのを見るだろう。やがて、永久の朝の薔薇色が燃え上るのを見るだろうよ」
夜を徹して二人は歩いた。三日月が大海原の銀色の波頭にすれすれになって行くとき、二人は、聖詩を唱っていた。日が上ると、砂漠が、リビアの土地の上にひろげた獅子の広大な皮のように、二人の前に拡がっていた。砂漠になるところにある椰子の樹の近くに、暁の光に浸って、真白な草庵が何軒も立ち並んでいた。
「神父さま、あすこにありますのが、生命の幕屋でございますの?」
「その通りだ、娘よ、妹よ、あれこそ、私のこの手でお前を閉じこめようとする救いの家だ」
やがて二人は、ちょうど巣の周囲に群がる蜜蜂のように、精舎《しょうじゃ》の近くで熱心に働いている女たちを、到るところに見出した。パンを焼いているものもあれば、野菜の調理をしているものもあった。数人は羊毛を紡《つむ》いでいた。そして、空の光は神の微笑のように、彼女たちの上へ降りそそいでいた。またある者は、タマリスクの樹陰《こかげ》で黙想に沈んでいた。彼女たちの雪白の手は、両側にだらりと垂れさがっていた。それというのも、彼女たちは、愛にみたされていたので、マグダラのマリアのようにしていようとしたからで、祈祷と黙想と三昧境《ざんまいきょう》に入ることの外には、何の仕事をもしなかった。それで、その女たちはマリアたちと呼ばれ、白い衣を身につけていた。手で働く女たちは、マルタと呼ばれ、青い衣をまとっていた。みな面紗《ベール》をつけていたが、若い女たちは、その額に、捲毛をすべり出させていた。が、これは意識してしたものと思ってはいけない。なぜなら、掟では許されていないことであったから。ごく年をとった大柄な、顔色の白い一人の婦人が、独房から独房へと、堅い木の笏《しゃく》に身をもたせて歩いていた。パフニュスは、うやうやしくその婦人に近づき、衣の端に接吻して言った。
「尊きアルビーナさま、主の平和があなたとともにありますように! あなたが女王でいられるこの蜜蜂の巣へ、私は、花のない路上にさ迷っている蜜蜂を一匹見つけてつれて来ました。私は、その蜂を自分の掌の中にとり、私の息で暖めてやりました。それをあなたにお渡し申します」
そう言って彼は、指で、アルビーナの前に跪づいたタイスを示した。
アルビーナはちょっとの間、その鋭い視線をじっとタイスにそそぎ、やがて、起き上るように命じて、その額に接吻してやると、修道士の方に身を向けて言った。
「この女《ひと》は、マリアたちの間に入れるとしましょう」
そこでパフニュスは、どうした経路をたどってタイスがこの救いの家に導かれて来たかを話し、まず最初は、独房の中に深くこもらせるようにと願った。院長はその言葉に同意して、かつて処女レータが聖化し、その死後、空《あ》いたままになっていた一つの小舎へ、悔悛者タイスを案内した。手狭なその部屋には、寝台一台、テーブル一脚と水甕一つの外には何も無かった。タイスは、部屋の閾《しきい》に足を置いたとき、限りない喜悦の情が身にしみ入るのを感じた。
「私自身でこの戸を閉ざし、イエスが御手ずから破りに来られる封印をしたいものです」と、パフニュスは言った。
彼は、泉の縁《ふち》に一握りの粘土をとりに行き、自分の髪の毛の一筋を少しの唾と一緒にそれへ混ぜ、戸の隙間の一つにつけた。それから、タイスがもの穏やかに満足して身を寄せている窓近くに行って跪づくと、三度主をたたえ、そして叫んだ。
「生命の小径を歩むこの女は、なんと愛すべきものであろう! あれの足はなんという美しさだ、あの顔のなんという輝やかしいことだ!」
彼は起ち上って、頭巾を眼深《まぶか》におろすと、静かに遠ざかった。
アルビーナは尼僧の一人を呼んで、こう言った。
「あなた、タイスに入用な品を持って行っておやりなさい。パンと水と、それから三つ孔のある笛とを」
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第三部
大戟《ユーフォルビア》篇
パフニュスは砂漠の聖地に帰って行った。彼は、アントリビスに向って、院生セラピオンの僧院へ食糧を運んで行くためナイル河を逆航する船に乗った。下船すると、彼の弟子たちは非常な喜びを見せて、彼の前に進み出て来た。ある者たちは手を高くあげ、またある者たちは、地に平伏してパフニュスの履《は》いている草鞋《わらじ》に接吻したりした。みなは、聖者がアレクサンドリアでなしとげた事蹟を、もうすっかり知っていたのであった。修道士たちは、常にこのように何かしれない早い方法で、聖教会の安全や栄誉に関する通告を受けていた。その消息は熱風のような速さで砂漠の中を走ったものだ。
さて、パフニュスが砂漠の奥に進んで行くと、その弟子たちは、主をたたえながらその後に随った。法兄弟じゅうでの年長者であったフラヴィアンは、不意にある敬虔な感激にとらわれ、霊感を得た歌を唄いはじめた。
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めでたき日かな! 今しわれらの父帰り来ましぬ! 父帰り来ましぬ、
新たの功徳《くどく》を背負われて。余慶《よけい》ぞあらん、われらの上に!
さなり、父の御徳は子たちの富、師の身の聖さは修道の家々をくゆらせば。
われらの父なるパフニュスは、イエス・キリストに、今しささげぬ新嫁を。
不思議のわざもてわれらの父は、黒き羊を白き羊の姿にかえぬ。
かくて今、父帰り来ましぬ、新たの功徳を身に背負われて。
さながらに、花蜜に身も重たげのアルシノイチードの蜂のごとく。
またたとうれば、ようやくに豊かなる毛の重味に耐ゆるヌビアの羊さながらに。
ともに祝わん、きょうの日を、油もてわれらの食事に味をつけ。
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パフニュスがその独房の前にたどりついた時、弟子たちはみな、跪づいて口々に言った。
「父よ、われらに祝福を与え給え、われらめいめいに、あなたのお帰りを祝うため、油を少し、お恵み下さいまし!」
その中で唯一人、『愚鈍《サンプル》』と言われているポールだけは、突っ立ったまま「この男はなんだ」といって、パフニュスであることを見分けられないでいた。けれども、誰もその男の言うことは意にも留めなかった。もともとその男が、信仰心は厚いにしても、理智を欠いているのを知っていたからである。
アンチノエの院長は、その独房に閑じこもると、こう考えた。
「さて、とうとう私は、自分の安息と幸福の隠れ家へ戻って来た。自分の満足の城砦に帰って来たわけだ。だがこのいとしい蘆《あし》の屋根が親しみを見せて私を迎えてくれないのは、なぜだろう。壁が、『よくお帰りになりました!』といわないのは、またなぜだろう。自分の出立後、何一つこの選ばれた住居のうちに変えられたものはないのだ。ここにテーブルがある。寝床がある。ここに、あれほど有益な考えを私に吹き込んでいてくれた木乃伊《みいら》の首がある。私がよく神の御影を探し求めた書籍がある。それだのに、自分が出て行くとき残して行ったものと、みな異なっているように思われる。何も彼もが、見馴れた美しさを痛ましくもはぎとられているように見える。なんだか、今日はじめて見るもののような気がする。かつてこの自分の手で作ったあのテーブルや寝床、黒く干乾びたその首、神の御言葉にみちている何巻もの紙草《パピルス》の巻き物を眺めていると、死人の道具のように思われる。あんなによく知っていたのに、今はどれも見覚えていない。ああ! 実際、周囲のものがどれ一つ変っていないからには、この自分が、もう昔の自分ではないのだ。私は別なものになっているのだ。死者は、即ち私なのだ! ああ、どうなったのだ? 何を持ち去られてしまったのだ。私に何を残して行ってくれたのだ? そしてこの私は誰なのだ?」
パフニュスは、その独房が小さなものに見えるのを、ことに不安に思っていた。信仰の眼をもって眺める時は、その独房は、神の無辺性が始まるところである以上、無限の大きなものに見えるべきはずであった。
地に額《ぬか》づいて祈り出してからは、幾分、喜悦をとり返した。一時間ほども祈りに耽っていたかと思うと、ふと、タイスの幻影が眼の前を過ぎた。パフニュスは、神に感謝した。
「イエスさま! あなたはこの女をおつかわし下さいました。そこに私は、あなたの広大ないつくしみの御心を知ることができます。あなたは、自分があなたにお捧げ申したあの女を私が見て、心喜び、安心して、気もさわやかになるようにとお望みなのです。あなたは、私の前に、今は清くやわらいだあの女の微笑を、罪の濁りのなくなった雅《みや》びやかさを、この手で刺をとってやった、あの美しさを見せて下さいます。神よ、あなたは私をよろこばせて下さいますために、私があなたの御意にしたがって、あの女を清め飾ったそのままの姿を、私にお見せ下さいます。それはちょうど、ある人が友人からもらった嬉しい贈り物を、その友人にほほえみながら思い出させるのと同じことでございます。だからこそ、私は、そのまぼろしがあなたの手から来たものと確信して、喜んでこの女を見るのでございます。イエスよ、私がその女をあなたにお捧げした事を、あなたはお忘れにならないで下さる。あなたの御意にかないますからには、お手許におまもり下さいまし。そしてその魅惑が、あなたより他のもののために輝やくことをお許し下さいますな」
一夜中、彼は眠りにもつけず、ニンフの岩窟《いわや》で見た時よりも一層まざまざとタイスの姿を見た。彼は、自分のためにこう言って心の證《あか》しとした。
「私のしたことは、神の栄光のためにしたのだ」
だが、驚いたことには、少しも心の平和を味わうことができなかった。彼は吐息をもらしていた。
「俺の魂よ、なぜ、お前はそうさびしいのだ。なぜこう私をかき乱すのだ?」
彼の魂は、不安のままでいた。彼はひと月の間、わびしい沈んだ気持を持ち続けた。こうしたことは、隠遁者にとっては恐るべき試練の前兆なのである。タイスのまぼろしは、昼となく夜となく彼の側にあった。でも彼は、そのまぼろしを神から送られたもの、聖女のおもかげと今なお思い込んでいたので、少しも退けようとはしなかった。ところが、ある朝タイスは、髪のまわりに菫《すみれ》の花をつけ、もの恐ろしいまでのしとやかさで彼の夢のうちに現われた。パフニュスは驚きの叫びを立て、冷汗にびっしょり濡れて眼ざめたくらいであった。眼はまだ睡気《ねむけ》にまばたいていたが、自分の顔の上を、湿っぽい熱い息が通うのを感じた。見ると、一匹の小さな金狼《ジャッカル》が、寝台の枕木の上に両足を置いて、パフニュスの鼻に臭い息を吹きかけ、喉の奥で笑っていた。
パフニュスは、非常な驚愕を感じ、一つの塔が自分の足下に崩れ落ちでもしたような気がした。実際、彼は崩壊した自己の信仰の高みから落ちて来たのだ。暫らくは、ものを思うこともできなかった。が、やがて我に返りはしたが、その後の思索は、ただ、不安をまさせるだけのことであった。
「二つの中の一つだ」と、彼は思った。「あるいはこのまぼろしも前のものと同様に神から来たものかもしれない。やはりいいものであったのだが、自分の本性の背徳が、それを悪くしてしまったのだ。ちょうど、酒が不純な杯の中で酸《す》っぱくなるように。自分の下劣なために、私は善を悪にしてしまった。それを、この悪魔のような金狼《ジャッカル》が、たちまちに転用して勝利を獲たのだ。あるいはまたこのまぼろしは、神からではなくその反対に悪魔から来たのだとすれば、腐敗しきったものだ。それならば、前に見たまぼろしは、自分が信じたように天から来たものかどうか、今は疑わしくなって来た。すると私は、禁欲生活者に必要な明察といったものができないことになるのだ。どっちにしても、神は私から遠ざけられたことを示しておいでなのだ。どういう原因だか分らないが、とにかくその結果を私は感じている」
そうした推理をして、憂いに悩みならこう願っていた。
「正しき神よ。あなたは、どういう試練に僕《しもべ》たちをお会わせになろうというのです? あなたの聖女たちの出現が、僕《しもべ》たちにとって危険であるとしましたら。わかりやすい印《しるし》をもちまして、あなたから来るものと、あの他の者から来るものとを、私に見分けられるようにして下さいまし」
しかし、人間には測りしれないみ心の神は、この僕《しもべ》を啓発することはよくないと判断されたので、パフニュスは、疑惑に沈湎しながら、もう二度とタイスを想うまいと決心した。が、その決心は何にもならなかった。まぼろしは彼につきまとっていた。彼が書を繙《ひもと》く時も思索している間も、祈っている時も瞑想している時も、彼女は彼を見守っていた。夢幻の彼女が近づいて来る時には、まず女が歩むにつれて立っている衣《きぬ》ずれの音に似た軽い音が前にあった。そして出て来るまぼろしはいつも、現実のものの持っていない精密さをそなえていた。現実のものは、すべて自ら動き錯雑しているが、孤独から生ずる幽霊となると、その深刻な特性を身につけていて、かつ、力強い固定を現わしているものである。まぼろしは種々な姿で彼の前に現われた。ある時は、アレクサンドリアの饗宴の夜のときのように、銀糸の花をちりばめた薄紫の長衣をまとい、額には現世の滅びやすい最後の花冠をつけ、もの思わしげな風情をして現われたし、ある時は、軽やかな被衣の雲に淫《みだ》らな姿をつつみ、まだニンフの岩窟《いわや》のしっとりしたあたたかみのある陰に浸っているさまを見せ、ある時は、粗衣を着て、法悦に輝く敬虔な姿を現わし、またある時は、死の恐れの中に泳ぐ眼をして、切り開かれた心臓の血汐に飾られた胸をあらわに示す悲壮な容姿を見せていた。こうしたまぼろしの中で、一番彼を不安にさせたことは、自分自身の手で焼き捨てた花輪や寛衣《チュニック》、被衣《かずき》などがこのようにまた戻って来られるということであった。彼には、そうした品物は、不滅の魂を持っていることが明らかになって来た。それで彼は叫んだ。
「見よ。タイスの罪の数限りない魂が私のところにやって来る!」
振り向くと、タイスが自分の背後にいるように感じた。それは、一層彼に不安を募《つの》らせた。彼の苦しみは、痛ましくも激しかった。しかし、この誘惑のさ中にあって身も魂もまだ純真のままでいたので、彼は、神に祈願をこめ、時には優しい咎めだてを神に向ってしていた。
「神さま、異教徒の中に、あんな遠くまであの女を探しに参りましたのも、みな、あなたのためにであって、自分のためにではありませんでした。あなたのためを計って私のいたしましたことで私が苦しみますのは、正しいことではないように思われます。私をお護り下さいまし、やさしいイエスさま! 救霊主よ、私をお救い下さい! 肉体がなし終らずに済んだことを、あの幽霊が成しとげるようなことをおさせにならないで下さい。私は肉に打ち勝ったのですから、幽霊に打ちのめされるようなことがないようにお護り下さい。今、私は、これまでにない大きな危険に臨んでいることを承知しております。私は、夢というものが、現実よりも力強いことを味わい、知っております。夢自身一の崇高な現実であるからには、どうしたってそうならないではいますまい? 夢は事物の魂です。プラトンでさえもが、たとえ彼が一の偶像教徒に過ぎないものであったにせよ、理想の本来の実在を認めております。主よ、あなたが私をお伴れ下さいましたあの悪魔たちの饗宴の席で、罪には汚されておりますものの、知識に乏しくない人々が、我々は孤独のうちに、瞑想のうちに、忘我のうちにあって真の対象を認識するものだ、ということを、一致して認めている言葉を聞きました。そして、あなたの聖書は、神よ、夢の力を、また光輝あるあなたの御手か、あるいはあなたの敵によって形づくられたまぼろしの力を、幾度か証明しております」
今までと異なった新しい人間が、パフニュスの身内にあった。そして彼は、今、神と議論を闘わすようになって来たが、神は、急いで彼の心を明るくしてやろうとはされなかった。夜は、彼にとっては、もはや長い夢のつながりに過ぎなくなり、昼とてもまた、夜と変りがなくなって来た。ある朝、あたかも、罪の犠牲者を埋めた墓場から、月光を浴びて出て来るかのように、深い吐息をつきながら、彼は眼ざめた。タイスは、血に染まった足を見せながら現われて来て、彼が泣いていると、その間に彼の寝床にするすると入り込んでしまった。タイスの幻影が不純なまぼろしであることは、もう彼にとっては疑いのないところであった。
嫌悪に胸を悪くして、彼は汚れた寝床から跳ね起きるや否や、もう日の光を見まいと、両手で顔を蔽った。時は、彼の恥辱を持ち去りもせずに流れて行った。独房の中にあっては、すべてが静まり返っていた。久しぶりにはじめて、パフニュスは、たった一人になっていた。幽霊は遂に彼を離れたが、そのいなくなったことが、また恐ろしい気がした。何ものも、あの夢の記憶から彼の心をまぎらせてくれるものはなかった。彼は、恐怖にみちた心を抱いてこう考えていた。
「どうして俺は、あれを押しのけなかったのだろう? どうして俺は、あの冷たい腕や燃えるような膝から離れなかったのだろう?」
この忌《いま》わしい寝床のそばにあっては、彼はもう神の名を口にする勇気も持てなかった。そして自分の独房が汚されてしまったので、悪魔が、いつでも自由にはいって来はしまいかと恐れていた。その心配は、果して間違いなくその通りになった。かつて閾《しきい》の上に控えて入れずにいた七頭の小さな金狼《ジャッカル》が、列をつくって入って来て、寝台の下にうずくまりに行った。晩課の時刻に、また一頭ひどく臭い匂いのするのがやって来た。その翌日は九頭になり、やがて、三十、六十、八十頭と、その数がまして来た。数がますにしたがって、その体が段々小さくなって行った。そして遂には鼠ほどの大きさになって、床《ゆか》や寝床や腰掛けの上を一面に蔽ってしまった。その一頭は、枕元の木の置き板の上へ跳び乗り、骸骨の上に四足を揃えて身を置き、火のような眼で修道士を見守っていた。こうして、毎日々々、新らしい金狼の群れがやって来た。
パフニュスは、あの忌《いま》わしい夢をつぐない、汚れた思いから逃げようとして、今は汚《けが》れたものとなっている自分の独房を去り、砂漠の奥で難行苦行に努め、異常な業を修め、これまで無かったような作業にしたがおうと決心した。しかし、その企てを決行する前に、意見を仰ぎに老パレモンの許へ赴いた。
訪ねて行くとパレモンは、菜園の中で、萵苣《ちしゃ》に水をやっていた。日は西に傾いていた。ナイル河は青々とした水をたたえて、紫色に染まった丘の麓を流れていた。聖パレモンは、自分の肩にとまった一羽の鳩を驚かすまいと、静かに歩いていた。
「主があんたとともにあらんことを、パフニュスさん!」と老人は言った。「神のお恵みを有難いと思わねばなりませんな。神は、そのお手でお創りになった動物たちを私の許にお遣わしだ。それは私が、その動物たちと神の御業を語り合い、空飛ぶ鳥の中に神をたたえることのできるようにですぞ。この鳩をごらんなさい。この頸《くび》の変りやすい色合いに注意してごらんなさい、これが神の立派な御業でないと言えますかな。ところであんた、何か信仰上の問題を私に話されに来たのではありませんか。もしそうなら、私は如露《じょうろ》を置いて、お話を聴くとしましょう」
パフニュスは、その老人に、自分の旅のこと、帰って来たこと、昼のまぼろしや夜の夢や、罪に陥ったあの夢のことから金狼《ジャッカル》の群れに至るまで仔細に物語った。そしてこう付け加えて言った。
「異常な業を成しとげ、難行苦行で悪鬼外道を驚かしてやりますために、私は、砂漠の奥に入って行かねばならない、と、あなたはお考えになりませんか?」
「私は憐れな罪人に過ぎませんし、一生をこの園の中で、羚羊《かもしか》や可愛い兎や鳩と一緒に過ごして来ましたので、人間のことはよく知りません。が、あんたの苦しみは、ことに、俗界の喧騒から孤独の静寂へ、何の用心もなくにわかに帰って来たというのが原因のように、私には思われます。そうした激しい変化は、魂の健康を害するだけのことですよ。あんたの場合は、ちょうど、ほとんど同時に酷熱と厳寒とに身を晒《さら》している人と同じようなものじゃ。咳に身をゆり動かされ、熱に苦しむ。パフニュスさん、もし私があんただったら、私は、恐ろしい砂漠のどこかに引きこもるようなことはしないで、修道士や、聖僧にふさわしい慰安を求めますがなあ。私だったら、まず近所の僧院を訪れましょう。人の話では、なかなか立派なものがあるそうです。セラピオン聖者の僧院には、千四百三十二もの独房があるそうで、そこの修道士たちは、ギリシアのアルファベット文字と同数の群に分れているという話じゃ。またこうも言われているほどです、修道士たちの性質とその修道士たちの所属を示す文字との間には、何かの関係があって、例えば、Zの記号の下に置かれている人たちは、ひねくれた性格を持っているが、Iの下に属している人たちは、まっすぐな精神を持っている、とな。もし私があんただったら、私はこの眼でそうしたことを確かめに行くでしょうよ。ナイル河の岸に点在する種々な信者たちの組織を、その相互の比較ができるよう研究せずには置きますまい。そういうことこそ、あんたのような修道士にふさわしい仕事じゃ。院長エフレムが非常に立派な精神的規範をあまれたことは、あんたもお聞きにならぬことはあるまい。あんたは書に巧みだから、あの聖者の許しを得てうつしとることもできよう。この私にはできなかろうがな。私の手は、鋤《すき》を使うのに馴れていますので、パピルスの上に著述家の細い蘆の筆を走らせるのに必要な軟かさを持っていますまい。だがあんたは、文字を知っていられる。そのことだけでも神に感謝すべきです。なぜかと言えば、美しい筆跡ほど賞嘆すべきものはないのですからな。書きものをしたり読んだりすることは、悪い考えを撃退するのに非常に役立つものですからな。パフニュスさん、われらの神父パウロとアントニウスの教訓を、なぜ、書きものとして残されないのです? だんだんと、あんたは、そうした信心深い仕事の中に、霊魂と感情との平和を見出して行かれましょう。孤独が再びあんたの心に好ましいものとなって、そしてじきに、あんたは、旅で打ち断たれた昔のあんたの修道士生活の仕事にまたとりかかれるようになれましょう。が、過度なある苦行から大きな善事を期待してはなりませんぞ。われらの師父アントニウスが、われらの間においでの時代に、よくこう言われていました、『極度の断食は弱さを生ぜしめ、弱さは無気力を産むものだ。無暗に長い斎戒によって己れの体を壊して行く修道士がある。そういう人は、胸に短剣を突き刺し、無気力となって悪魔に身を委《ゆだ》ねる者ということができる』とな。私は無智のものに過ぎませんが、神のみ恵みをもって、われらの師父アントニウスの話は心にとめてありますよ」
パフニュスはパレモンに礼を言って、その忠告を深く考えようと約束した。パレモンの小園をめぐっている蘆の柵《さく》を越えると、彼は後ろを振り返った。見ると、善良な園丁パレモンは、サラダ菜に水をやっていた。そしてかの鳩が、その丸い背の上でゆらりゆらりと身をゆすっていた。その情景を見てパフニュスは、泣きたいような気特にとらわれた。
独房に戻って来ると、何やら不思議にうようよとうごめいているものがあった。烈風に吹き動かされている砂粒のようでもあったが、彼にはそれが、無数の小さな金狼《ジャッカル》の群れであることが分った。その夜、彼は、夢に一本の高い石柱を見た。その柱の上には、人間の顔がのせられてあった。そして、
「この柱の上に登れ!」
と言う声のするのを耳にした。
眼ざめると、この夢は天から送られたものと思い込み、パフニュスは弟子たちを集めて、次のように話した。
「愛する子供たちよ、私は、神が私をお送り下さるところに出かけて行くため、みなに別れる。私の留守の間は、私にしたがうようにフラヴィアンに従いなさい。そして、ポールの面倒も見てやっておくれ。どうぞみなに祝福があるように。では、さようなら」
彼が遠ざかって行く間、弟子たちは地上に平伏していた。そして、みなが頭をあげたとき、砂漠の地平線にあたって、パフニュスの大きな黒い姿が見えた。
彼は、その昔、偶像教徒によって建立《こんりゅう》されたあの神殿の廃墟にたどりつくまで、昼となく夜となく歩んだ。その廃墟は、あの霊妙な旅路にあったとき、彼が蝎《さそり》や人魚の間に眠ったことのあるところであった。魔術の符号に蔽われた壁が立っていた。先端が人間の首や蓮の花になっている三十本の大円柱が、未だに石の素晴らしく大きな梁《はり》を支えていた。殿堂の端に当ってただ一本だけ、古い重荷をすっかり振い落して、楽々と立っていた。その柱には、頭部に、眼の長い、まん丸な頬の、微笑して、額に牝牛の角を持っている女の首があった。
パフニュスは、その首を見て、これこそ夢想裡に自分に示された柱だと知り、三十二クーデばかりの高さと心のうちで測った。近くの村に出かけて行ってその高さの梯子を作らせ、それを円柱に立てかけると、彼は登って行き、頭部の上に跪づいて主に言った。
「神よ、今私はあなたがお選び下さいました住居に参りました。み恵みに浸って、我が最期の時までここにいることができますように」
彼は、神の摂理に一切を任せ、また、慈善心の強い農夫たちが何か生命をつなぐものをくれるだろうと考えて、食糧は何も持って来なかった。が、予想通りその翌日、九時課の頃に、子供とつれた女たちが、パンやナツメヤシの実や清水を持ってやって来た。そしてその品々を、子供たちは円柱の頂上まで運んで来た。
頂上は、パフニュスが身を長々と伸ばして横になるだけの広さがなかった。それで彼は、脚を組み合せ、首を胸につけて眠った。そのために、彼にとっては、眠りが夜明しよりも辛かった。夜が白んで来るころ、隼の群れがその翼で彼の身を掠めて行った。すると彼は、悩みと恐れに胸一ぱいになって眼を醒ました。
彼に梯子を作ってやった大工は、神を恐れている者であった。聖者が照りつける日や雨に晒されているという想いに心動かされ、眠っている間に落ちるようなことがあってはと心配して、この信心深い男は、円柱の上に屋根と欄干とを作った。
そのうちに、こうした不思議な生活の評判は、村から村へと伝わって行って、日曜日には、山峡の農夫たちが、妻や子供をつれて、柱上に苦行する修道士を眺めに来た。パフニュスの弟子たちは、このけだかい隠遁の場所を聞いて讃嘆し、パフニュスの許に赴いて、その円柱の下に小舎を建てる許しを得た。毎朝、師の周囲に円形に並んで、教化の言葉を聞かせてもらっていた。
「みなの者よ、イエスが愛された嬰児のようにしておいで。そこに救霊があるのだ。肉の罪は、あらゆる罪の源で、またその根本となるものだ。すべての罪は、父親から出るように肉の罪から出て来る。傲慢、吝嗇《りんしょく》、怠惰、憤怒、羨望は、肉の罪が寵愛する子孫だ。私はアレクサンドリアで、淫蕩に巻き込まれた富者たちを見た。悪は泥波のみなぎる大河のように、その富者たちを苦しい深淵の底に押しやっていた」
院長エフレムとセラピオンは、そうした変わった噂を聞き知って、自分の眼でその事実を確かめようと思った。河上遥かにこの二人を乗せて来た船の三角帆を見出して、パフニュスは、神が自分を隠遁者に対する模範に選ばれたのだと考えずにはいられなかった。二人の聖者は、彼を見てその驚きを少しも隠さなかった。相談の上、こうした異常な難行苦行を非難しようということに一致して、パフニュスにおりて来ることを熱心に勧告した。
「このような生活は慣習に反するものだ。余り奇異なことで、宗律にはずれたことだ」と二人は言った。
しかしパフニュスは、こう答えた。
「一体、修道生活と言うものは、奇蹟的な生活ではありませんか。修道士の行は、修道士自身のように変わったものであるべきではありませんか? 私がここに登ったのは神のお示しによってです。ですから、神のお示しがないうちは、ここから私は下りません」
日毎々々に、修道士たちは、群れをなしてパフニュスの弟子たちと一緒になりに来た。そして、空中の独房の周囲には、だんだん沢山の小舎が建てられていった。その人々の中のある者は、聖者を真似て神殿の廃墟の上によじ登って行ったが、友達に非難されたり疲労に敗けたりして、じきにその苦行を止めてしまった。
巡礼者が潮のように来た。ある者たちはごく遠い国から来て、飢渇に悩んでいた。そこで、ある貧しい寡婦が、その人たちに清水や西瓜を売ろうと思いついた。円柱に背をもたせ、赤土の瓶や茶碗、果物を前に並べて、青と白との縞目のある天幕《テント》の下に陣どり、「水はいかが?」と、叫んでいた。この寡婦を見ならって、一人のパン屋が煉瓦を運んで来ると、すぐその傍に竈《かまど》を作って、旅人に菓子やパンを売りつけようと考えた。参拝の群集は絶えず増してゆき、エジプトの大都市の住民までもが来はじめたので、金儲けに血眼になっていたある男は、参詣人をその従者や駱駝《らくだ》やラバもろとも宿泊させようと、隊商宿を建てた。間もなく円柱の前には市場が開かれ、ナイル河の漁夫が魚類を持って来ると、百姓たちはその作った野菜を持って来た。野天でお客のひげを剃っては、面白い話をして人々を喜ばせている者もあった。
長い間、沈黙と平和につつまれていたこの古い殿堂は、今や、生命の限りない動きとさわがしさにみたされてしまった。居酒屋の親父たちは、殿堂の地下室を酒庫とし、古代からの柱には、聖者パフニュスの肖像をつけた看板を釘づけにした。その看板には、ギリシア語とエジプト語で、こう書いてあった。『柘榴酒や無花果酒、キリキアの正銘|麦酒《ビール》あり』。古人の顔が浮彫りにされている壁には、商人たちが、玉葱の束や、燻製の魚や、死んだ兎や、皮をはいだ羊などをつるしていた。夕方になると、この廃墟の古くからの客であった鼠は、長い列をつくってナイル河の方へ逃げて行ったし、紅鶴の群れは、不安そうに頸を延ばして、高い殿堂の軒の上に危うげに一本足を置いていた。そこへは、料理の煙や、酒飲みたちの喚き声や、女中たちの叫び声が立ち昇って来ていた。この周囲一帯に、測量師は道路を作り、土工は修道院や礼拝堂や教会を建てたりした。半年の後には、一つの町ができ上がり、衛兵所や裁判所、監獄、また盲目の老法律家が経営する学校もそなわった。
巡礼者は数限りなく来た。司教や司教代理が感嘆しきって馳せ集まって来た。その頃エジプトにいたアンティオキアの主教は、教区の修道士全部を随えて来た。彼は、柱上の修道士の特異な業を高らかに称讃した。そして、リビアの聖教会の司教たちは、アタナシウスがいなかったので、アンティオキアの主教の考えに随った。そうしたことを聞き知って、院長エフレムとセラピオンとは、最初の疑心をパフニュスの足下に詑びに来た。パフニュスは二人に答えた。
「兄弟よ、私が耐え忍んでいる苦行は、私に送られる誘惑、その数と力の強さに私の驚いている誘惑に、辛うじて匹敵しているのです。一人の人間というものは、外から見れば小さなものです、神につれて来ていただいたこの石の台上から、私は、人間たちが蟻のように動いているのを見おろしています。けれども、内面からこの人間を考察して見ますと、それはまた巨大なものです。宇宙のようにね。なぜなら、人間の心の中には宇宙も容れ得るからです。自分の前に広がっているすべてのもの、修道院、宿屋、河上を往来する船、村々、それからまた、遠い彼方に見える畑、運河、砂漠、山々、これらすべてのものは、自分のうちにあるものに比べれば何でもないものです。私は、自分の心のうちに無数の町々、はてしない砂漠を持っています。それから悪や死は、この無際限の上に広がって、あたかも夜が土地を蔽うようにその上を蔽うています。私は自分の身一つに、広大無辺の悪念を持っているのです」
パフニュスは、女に対する愛欲が身内にあったので、こう語った。
七ヶ月目に、アレクサンドリアやビュバスティスやサイスから、長い間子供のなかった女たちが、聖者のとりなしと円柱の功徳によって子供を生むようになりたいと願ってやって来た。その女たちは、石柱に、子供の宿らないめいめいの腹を擦《す》りつけていた。そうした願掛けの人たちは、眼の届くかぎり馬車や輿《こし》や担架《たんか》の長い列をなして、神人の下のところで止まり、先を急いで押し合いへし合いしていた。その中からは、見るも恐ろしい病人が出て来た。母親たちは、四肢《しし》がねじれたり、眼が飛び出したり、口に泡を吹き、声の嗄《か》れた嬰児たちを、パフニュスの前に連れて出た。パフニュスは、そうした病人の上に手をのせて祈ってやった。盲人たちは、腕を伸ばし、血がしたたるような二つの穴の開いた顔を、彼の方と思うあたりに仰向けていた。痛風患者は、その四肢の重く動かなくなったさまや、死んだように痩せ衰えた有様や、見苦しく縮んだ恰好などを示した。跛者《びっこ》はその鰕《えび》足をパフニュスの前に出して見せた。女の癌《がん》病人たちは、両手で胸をつかみ、眼に見えない禿鷹にでも咬みとられたような胸をあらわに見せた。水腫病の女たちは、地面に坐り込ませてもらったが、まるで、革嚢《かわぶくろ》をおろしたような形だった。パフニュスは、それらすべてを祝福した。象皮病にかかったヌビアの男たちは、重い足を一歩進み出で、生気のない顔に涙のみちた眼をしてパフニュスを眺めていた。パフニュスは、その病人たちの上に、十字の印《しるし》を切ってやった。血を吐いてから三日眠りつづけのアフロディトポリスの少女が、担架にのせられてやって来た。その少女は蝋の像のようで、両親は、もう死んだものと思ったか、その胸に椰子の葉が置いてあった。パフニュスが神に祈ると、少女は頭をもたげて、眼を開けた。
到るところに、聖者の行う奇蹟が言い伝えられていったので、ギリシア人が天刑病と呼んでいる病気にかかった不幸な人たちは、エジプトの到るところから駆け集まって来た。彼等は、円柱を認めるや否や、痙攣して、地上を転がりまわり、狂い喚き、球のようになったりした。不思議なことには、これを見た人々も、やはり、激しい狂熱に揺り動かされて、癲癇《てんかん》病者のおかしな身振りを真似ていた。修道士も巡礼者も、男も女も、手足をねじ曲げ、口に泡をたたえ、手に握った土を呑み込み、何か預言をしながら泥の中をはい廻り、入り乱れてもがき合っていた。パフニュスは円柱の高みからこれを見て、戦慄に四肢ががたがたするのを感じ、神に向って叫んだ。
「私は、罪を負うて追い立てられた山羊です。私は、自分の中に、この人々のあらゆる汚れを引き受けております。それ故、主よ、私の体は悪性な精神にみたされているのです」
病人が全快して立ち去って行くたびに、居合せた人々は賞讃し、凱歌をあげてその人たちを持ち運び、こう繰り返して止めなかった。
「わしたちは今、もう一つシロアムの泉を見たのだ」
すでに数百の松葉枝が、この奇蹟の円柱にかけられた。感謝の念にみちた女たちは、花輪や絵馬をそこに吊した。ギリシア人は巧妙な対聯《ついれん》の詩句を円柱に刻んだ。それに、巡礼者たちがその名を彫りつけて行ったので、石は、やがて人の背丈の高さだけは限りなく、ラテン語やギリシア語、コプト語、カルタゴの言葉、ヘブライ語、シリア語、その他魔術的の文字で蔽われてしまった。
復活祭が来たとき、この奇蹟の町には、非常な人出があって、老人たちは昔の神秘の時代に還ったと信じたくらいであった。広々とした土地の上には、コプト人の雑色の長衣、アラビア人の外套、ヌビア人の腰巻、ギリシア人の短いマント、ローマ人の長い襞のある寛衣《チュニック》、野蛮人たちの深紅の鎧合羽《よろいがっぱ》や襁褓《むつき》、娼婦たちの金襴の寛衣などが入り交じり、乱れ合っていた。被衣《かずき》をかむった女たちは、ロバに乗り、棒で路を開いて行く黒んぼの従者を先にたたせて通って行った。軽業師は、地上に敷物を敷き、黙って眺め入る見物に囲まれて、鮮やかに手品をやったり、洒脱に手際のいいところを見せていた。蛇つかいは、腕を延ばし、その生きている帯のような蛇を解いて見せたりした。この群集全体が、輝やき、きらめき、埃を立て、叫び喚き、叱咤していた。駱駝《らくだ》を叩く駱駝ひきの呪咀《じゅそ》の声、癩病や悪魔の眼を避ける護符を売る商人の叫び声、聖書の数節を歌う修道士の声、お告げの発作に陥った女たちの哀れっぽい声、閨房《けいぼう》の古歌を繰り返す乞食たちの金切声、羊の啼き声、ロバの声、遅れて来るお客を呼ぶ船頭たちの叫び、すべてこれらの物音が入り交じって、耳も聾するばかりの喧騒を惹き起こしていたが、なおその上に、その物音を圧するように、とりたてのナツメヤシの実を売ろうとして到るところを駆けて歩く裸体の黒んぼの少年たちの鋭い声が響いていた。
そしてこれらすべての種々な人間たちは、白い空の下、女の匂いや黒んぼの臭味、揚げ物の煙、参詣人が聖者の前で燃やすため羊飼いから買うゴムの匂いなどのこもる重く澱《よど》んだ空気の中で、息づまるようになっていた。
夜になると、到るところに火が燃やされ、炬火《たいまつ》や提灯がともされた。そしてすべては、赤い陰影と黒い形だけになってしまった。うずくまった聴衆の輪の真ん中に立って、一人の老人が、油煙の立つカンテラに顔を輝やかしながら、昔ビシウが、自分の心臓に魔法をかけて胸から引きずり出し、それを一本のアカシアの樹に入れ、彼自身その樹に化身してしまった成行きを物語っていたが、話につれてする大げさな身振りを、その影が、滑稽な形で繰り返していた。聴き惚《ほ》れた聴衆は、感服した叫びを発していた。居酒屋では、長椅子の上に寝そべった酒飲みが、麦酒や葡萄酒を注文していた。眼を彩どり、腹部をあらわに見せた踊子たちは、その連中の前で、宗教的な、また淫猥な場面を踊って見せていた。他のところでは、若者たちが骰子《さいころ》勝負やイタリア拳に興じていたし、老人連は暗いもの蔭へ売春婦を追って行ったりした。こうした動揺して止まぬ形態の上に、ただ一つの不動の円柱だけは、微動もせずにそびえ立っていた。牝牛の角を持った首はじっと闇を眺め、その上にパフニュスは、天と地との間にあって夜を徹して行った。月が、女神の赤裸な肩のような姿で、不意にナイル河の上に昇った。丘という丘に、月光と瑠璃色とがしたたるように流れた。その時パフニュスは青玉のような夜色の、河水のほのかな光の中に、タイスの肉体のきらきらするのを見たように思った。
日はどんどん経って行った。聖者は円柱の上にとどまったままでいる。雨季が来た時に、天水は、屋根の裂け目から洩れて来て、彼の体をぐっしょり濡らした。痺《しび》れ切った彼の手足は、動きが取れなくなってしまった。日に焼け、露に腐蝕され、その肌にひびが切れた。大きな潰瘍《かいよう》が腕や足を蝕《むしば》んで来た。しかしタイスに対する愛欲は、内的に彼の身を滅ぼし尽くし行きつつあった。それで彼は叫んだ。
「力ある神よ、まだ十分ではありません! もっと誘惑を送って下さいまし。もっと穢《けが》れた考えを起こさせて下さいまし! もっと奇怪な愛欲を! 主よ、私の中に人間のあらゆる淫佚《いんいつ》を入れて下さいまし。それらすべてを私がつぐなうことのできますために! 私が、ある偽りの話の作者から聞きましたような、スパルタの牝犬が世界の罪を身に引き受けたというあのことは嘘だとしましても、ともかくあの話には、隠された意味が含まれています。私は今日、その確かなことを知りました。俗人の不浄は、聖者の魂の中へ、ちょうど、井戸の中で消えて行くように入って来るのは事実なのですから。それ故、正しき者の魂は、罪ある者の魂の中に含まれたことの無いくらいな沢山の穢れでよごされているものです。ですから、神よ、私を宇宙の下水として下さいましたことで、あなたをたたえる次第でございます」
ある日、この聖都に非常な噂が立って、それが隠遁者パフニュスの耳にまで聞こえて来た。ある高位高官の、世に著名な人の一人、アレクサンドリアの海軍長官、リュシウス・アウレリウス・コッタがじきに来る、来つつある、近づいている、というのであった。
その噂は真実であった。老コッタは運河やナイル河の水運を視察に来たのであったが、幾度となく、柱上の修道士と、スチロポリスと呼ばれる新しい町とを見たいとの望みをもらしていた。ある朝スチロポリスの住民は、ナイル河が一面に帆で蔽われるのを見た。深紅の布を張りまわし、金色に塗られた軍艦に乗り込み、コッタは、麾下《きか》の一隊を率いて現われた。彼は上陸した。そして、手帳板を持った秘書一名と、好んで話し相手にしていた侍医のアリステを伴って町に進み入った。
大勢の従者が彼の後方について来た。河岸は、元老や軍人の制限で、一ぱいになっていた。円柱から数歩のところで、コッタは立ちどまり、寛衣《チュニック》の裾で額を拭いながら、柱上の修道士をしげしげと見究め出した。生来の好奇な精神から、その長い旅路の間、コッタは、種々と観察をして来た。彼は回想するのが好きで、カルタゴの歴史を書き終ったら、自分の見聞した変わった事柄を書きまとめて本にしたいと思っていた。それで、今、自分の前に展開している光景に甚だ興味を感じているように見えた。
「こりゃへんてこなものじゃわい!」と、彼は、汗まみれになり息をはずませながら言った。「いい土産話じゃな。この男はわしの客になったことがある奴じゃ、そうじゃ、この修道士は、去年、わしの家の晩餐に来たよ。それから、あいつめ、ある歌い女《め》を拐《さら》って行ったんじゃ」
そして、秘書の方へ振り向きながら言った。
「おい、これをわしの手帳板に書きとっておけ。円柱の大きさもな、柱頭の形も書き落すなよ」
そう言うと、また、額を拭いながら、
「信用の置ける人たちの確言したことじゃが、この修道士は円柱に昇ってから一年も経つが、一刻もあそこを離れんそうじゃよ。アリステ、一体、そういうことができるもんかな?」
「狂人や病人にはできるものです」と、アリステが答えた。「しかし、体や精神の健全なものにはできないことでしょう。リュシウス、あなたはご存知ありませんか、魂や、体の病気というものは、時とすると、その病気にかかっています者に、健康な人間が所有していない能力を生じさせるものであることを。また、実を言えば、健康のいい悪いということは、実際には無いものです。ただ器官の異なった状態があるだけです。病気と名づくるものを研究した結果、私は、病気なるものが、人生には必要な形式であることを考えるに至りました。病気と戦うよりは、病気を研究する方がずっと面白いです。病気のうちには、感心しないでは観察のできないような、外見は乱雑でいて深刻な調和を隠しているものもあります。四日熱のごときは立派なものです! 時とすると、ある体の疾患は、精神の能力を不意に発揮させるものです。あなたクレオンをご存知でしょう。あれは子供の時は、吃《ども》りで痴呆でしたが、階段の上から落ちて頭蓋《ずがい》を割ってからというもの、ご承知の通りの立派な弁護士になりました。この修道士は、どこか見えないところに異常があるのでしょう。それに、こうした生活は、あなたがお考えのように変なものでもありません。印度の裸行者をごらんなさい。あの連中は、一年はおろか、二十年も三十年も四十年も不動のままでいることがありますよ」
「ユピテルの名にかけて言うが、そりゃ、甚しい錯誤だわい! 人間は働くために生れて来ておるのだからな。国家に損害を与えるからには、働かないという事は許すべからざる罪悪じゃよ。こういう忌わしい行いがいかなる信仰に生ずるものか、余りよく知らんが、アジアのある宗教に結びつけらるべきものらしいな。わしがシリアの総督をしていたとき、ヘラの町の柱廊の上に、男根を立ててあるのを見た。一人の男が、一年に二度そこに昇って七日の間こもっているんじゃ。民衆は、その男が神々と言葉を交じえ、神の摂理からシリアの繁栄を得て来ると思い込んでいるのじゃが、こうした習慣は、わしには、正気の沙汰とは思えんよ。だが、わしは、それを破壊しようとは思わなかったよ。為政者は民衆の習慣を廃止しないばかりか、かえって、その遵守を確実にすべきものじゃと思うているからじゃ。信仰を強制することは、政府の権能にはないことじゃ。政府の義務は現存する信仰、いいにせよ悪いにせよ、時代と場所と民族との特性によって制定された信仰に、満足を与うべきじゃよ。もし政府がそれらの信仰を打ち倒そうと試みる時には、精神的に自己が革命的であることを示し、行為の上においては暴君であって、嫌われるのは当然のことじゃ。しかも、凡俗の者の迷信を理解し容認してやってこそ、始めてその迷信の上に出ることができようというものじゃ。アリステ、わしは、この雲上の修道士を、あのまま空中に静かにしておいて、ただ、鳥類につつかれるままに任しておこうと思うよ。彼を強制したって何も得るところはあるまい、彼の思想なり信仰なりをよく理解して、始めてそれができようからな」
彼は息を切らし、咳をし、手を秘書の肩に置いた。
「おい、キリスト教のある宗派では、遊女を誘拐したり円柱の上で生活したりすることが賞むべきことになっている、と書いて置け。それから、こう書き添えて置いてくれ。こうした慣習は、生殖神崇拝の存在を暗に示すものだ、とな。しかし、この点に関しては、あの男に訊ねてみねばならない」
そこでコッタは、頭をもたげ、日光の刺激に眼をくもらされないように手を額にあてながら、声を張り上げてこう言った。
「おーい、パフニュス! わしの客となったことを忘れなかったら、返事をして下さらんかな。その高いところで、何をしておいでじゃ? なぜそこへ昇ってじっとしていられるのかな? あんたの考えでは、この円柱が、何か生殖神崇拝の意味でもあるのかな?」
パフニュスは、コッタが偶像教徒であると考えたので、返事をしてやろうとは思わなかった。しかし、彼の弟子のフラヴィアンが近づいて来て、言った。
「閣下、この聖者はこの世の罪業を一身に背負われ、病気を癒されるのでございます」
「こりゃどうじゃ! なんと聞いたか、アリステ。雲上の修道士は、君のように魔術を行うそうじゃよ。あんな高いところにいる同業者についてどう思うかね」
アリステは首を振った。
「あの男が、私以上にある病気を癒すことはありましょう。例えば、俗に天刑病と言われる(もっとも、どんな病気だって神業なんですから、天刑病に相違ないんですが)例の癲癇《てんかん》といったようなものです。けれども、この病気の原因は、一部は想像にあるのです。そこで、お分りになることとは思いますが、この女神の首の上に宿っている修道士は、薬局で、乳鉢や、薬瓶の上に身をかがめている私には、できそうにもないほど強く病人の想像を打つのです。世の中には理性や科学よりも、無限の力強い力があるものです」
「どんな力が?」と、コッタは訊ねた。
「無智と狂痴とです」と、アリステが答えた。
「わしは、いま眼にしているものより奇妙なものをほとんど見たことがないよ。他日巧みな文人がスチロポリスの町の起源を書けばいいと思うよ。しかし、いかに稀有《けう》な光景であっても、真面目な勤勉な人間を、法外に長く引き留むべきではないわい。さあ、運河を視察に行こう。さようなら、パフニュス! いや、また会おうよ! いつか地上におりてアレクサンドリアに戻って来たら、お願いじゃが、きっと家へ晩餐に来てくれ給え」
この言葉は、居合せた群集の耳に入り、口から口へと伝えられ、信者たちによって世にひろめられ、パフニュスの光栄にこの上もない輝やきを添えた。信心深い想像がその言葉を飾り、形を変えてしまい、聖者が円柱の上から、海軍長官を使徒やニケアの学者たちの信仰に改宗させたと語られるようになった。信者は、アウレリウス・コッタの最後の言葉に、特別な意味をつけて解釈した。コッタがパフニュスを招いた晩餐は、信者の口にかかると、聖体拝受となり、精神的の会食となり、天堂の饗宴となってしまった。この会見の物語は、素晴らしく立派な光景を添えて豊富にされて行ったが、そうした光景を空想|裡《り》に編み出したものが、真先に、それを真実に信じ切ってしまった。そうした話によると、長い議論の後、コッタが真理を告白したその時に、天使が天堂からコッタの額の汗を拭いに来た、と言われていた。また、海軍長官の侍医や秘書も、コッタを真似て改宗したと言い足された。この奇蹟は顕著なものであるために、リビアの主要な教会の助祭たちは、その公正の記録を編纂した。その時以来、全世界の人々が、パフニュスを見たいという念に駆られ、西欧においても東邦においても、すべてのキリスト教徒がそのまばゆげな眼を彼の方に向けたといっても誇張ではない。イタリアの主要な都市はパフニュスの許に大使を送り、ローマの皇帝コンスタンスは、正統派のキリスト教を支援していたので、彼に一書を送り、それを特派使節が盛大な儀式のうちに彼に手渡しした。ところが一夜、足下に開けて行った町がまだ露の中に眠っているとき、ある声がパフニュスの耳に響いて来た。
「パフニュス、お前は幾多の善行によって有名となり、言葉によって力強くなっている。神は、その栄光のためにお前を出現させたのだ。神は、奇蹟を行い、病人をいやし、異教徒を改宗させ、罪ある者の心を照らし、アリウス教徒の鼻を挫き、教会の平和を再興するために、お前を選ばれたのだ」
パフニュスは答えた。
「願わくは神意の行われんことを!」
声はまた続いた。
「立て、パフニュス、そしてかの宮殿の中に不信なるコンスタンティウスに会いに行け。彼は、その弟コンスタンスの賢徳を真似ることなく、アリウスや、マルクスの謬見を擁護している。行け! 青銅の扉はお前の前に開かれるであろう。そしてお前の草鞋《わらじ》は、帝座の前、大伽藍の黄金の敷石の上に鳴り響くであろう。そしてお前の恐ろしい声は、コンスタンティヌスの子の心をひるがえさすであろう。お前は、平和にみちて力のある聖教会を統制するであろう。魂が肉体を導くと同様に、教会が帝国を支配するに至ろう。お前は、元老たちや大名や貴族の上に置かれるのだ。お前は人民の飢餓の叫びや野蛮人の暴行を鎮まらせるであろう。老コッタは、お前が政府の首脳であることを知って、お前の足を洗う名誉を求めに来るであろう。お前が死ぬと、お前の苦行衣はアレクサンドリアの主教の許に選ばれて、栄光の中に白髪となった大アタナシウスは、聖者の遺物としてそれに接吻するであろう。行け!」
パフニュスは答えた。
「願わくは神意の成就せられんことを!」
ようやく、努めて起ち上り、おりようと身支度した。するとその声は、彼の考えを推測してこう言った。
「ことに、その梯子から降りてはいけない。それでは普通の人間のように振舞うことになり、お前の中にある天賦の力を認めないことになろうぞ。お前の力をもっとよくはかって見よ。天使のようなパフニュスよ、お前ほどの大聖者というものは、空中を飛ぶべきである。飛べ! そこには天使たちがお前を支えようとしている。さあ、飛べ!」
パフニュスは答えた。
「神意が地上をもまた天をも統《す》べ給わんことを!」
病める巨鳥のやつれた翼のように両腕を伸ばして調子をとり、彼は正に身を投じようとしたその刹那、不意に卑し気な嘲笑が、彼の耳に鳴り響いた。驚いて彼は訊ねた。
「一体、そんな笑い方をするのは誰だ?」
声は、金切り声を出した。
「アッハハ! まだ友達になったばかりだが、おっつけ、お前は俺ともっと仲好く付き合うようになろうぜ。ここにお前を登らしたのは、この俺だよ。俺はお前が俺の思う通りにやってくれた柔順さに満足しきってることをお前に表明すべきだね。おい、パフニュス、俺はお前に満足してるよ!」
パフニュスは、恐怖に締めつけられたような声でつぶやいた。
「退《さが》れ! 退れ! 俺にはお前が分った。お前は、イエスを堂の棟の上に連れて行って、この世のあらゆる王国を見せたあいつなのだ」
そう言うと彼は、仰天して石の上に再び身を落した。
「どうしてもっと早く『あれ』と分らなかったのであろう? 俺の中に希望をかけているあの盲目たち、聾《つんぼ》、中風病みよりもっとみじめに、俺は、超自然の事象についての判断力を失ってしまった。土を食い死骸に近づく狂人よりももっと苦しんで、俺は、地獄の叫びと天国の声との識別がつかなくなってしまった。乳母の乳から引き離すとき泣き喚く赤ん坊や、主人の跡を嗅ぎ分ける犬や、太陽に向って伸びる植物などが持つ弁別力までなくしてしまった。俺は悪魔の玩具だ。では、悪魔がここへ俺をつれて来たのだな。奴が俺をこの頂きに立たしたとき、淫佚《いんいつ》と傲慢とが俺と並んで昇って来ていたのだ。俺を吃驚させるのは、俺の誘惑の偉大さではない。アントニウスだって、山上でこうした誘惑を受けられた。俺は、誘惑の槍が、天使の面前で俺の肉を貫いて欲しい。俺は自分の苦悶をいとしく思うまでにさえなった。けれども神は黙していられる。その沈黙が俺を驚かすのだ。神は俺を離れておしまいになる。あの方以外に誰も持っていなかった俺を、神は、俺を神の在《いま》さぬ恐れの中に唯一残しておいでだ。神は俺を逃げてしまわれる。神の後を追って行きたい。この石は俺の足を燬《や》き爛《ただ》らす。さあ急いで出かけよう。神に追いつこう」
すぐ、彼は円柱にもたせかけたままになっていた梯子に手をかけ、足を置いた。そして一段おりると、石彫りの獣の首と顔が合った。その首は、にやにやと奇怪な笑みをもらした。その時、彼には、自分の休息と栄光の席とみなしていたものが、惑《まど》いと堕地獄の罪との悪魔的器具であったことが確かになった。彼は急いで段々をくだって、地におり立った。彼の足は地を忘れていて、ひょろひょろよろめいた。けれども、自分の上に呪いの円柱が蔽いかぶさっているのを感じて、彼はその弱っている足を強いて駈けさせた。すべては眠っていた。彼は、人目に触れずに、居酒屋や旅舎、隊商の宿に囲繞《いにょう》されている大広場を横切ると、リビアの丘々の方に登って行くある小路にはいり込んだ。一匹の犬が吠えながら後を追って来たが、砂漠にかかると漸く足をとめた。かくてパフニュスは、野獣の足跡の外には路もない地方を歩き廻って行った。贋金造りたちの見捨てて行った小舎を後にして、夜となく昼となく痛ましい逃避をつづけて行った。
ついに、飢餓と疲労とに息も絶え絶えになったとき、まだ神の居場所は遠いかどうかも分らなかったが、彼は沈黙の町を見つけた。その町は左右に広がっていて、地平線の深紅の色のうちに消え入るようにかすんで行った。広い隔りの置かれたいずれも一つ形の住居が、高さの半ばで切りとられたピラミッドの様子をしていた。これは墓であった。その戸口々々は打ち壊されていて、内部の闇のうちに仔を育てている山狗《イエース》や狼の眼が光っていたし、閾《しきい》の上には、死骸が、盗人に衣類をはぎとられ、獣たちに肉を喰われて横たわっていた。この墓場の町を通りぬけようとした時、パフニュスは力尽きて、ある墓の前に倒れてしまった。その墓は一つ離れて棕櫚の樹に囲まれた泉のほとりにあった。これは非常に飾り立てられてあったが、もう扉がなくなっていたので、外から、蛇の巣くっているのや、画に彩どられた内部を見ることができた。
「ああ、これこそ俺に選ばれた住居、俺の悔い改めと苦行の殿堂だ」と、彼は吐息をついて言った。
彼はその墓の中へはうようにして入り込み、蛇を足で追い立て、敷石の上に十八時間、じっと額づいたままでいた。その後で、彼は泉に行って掌に水をすくって飲んだ。それから、ナツメヤシの実を摘みとり、蓮の幾茎かを折りとってその実を食べた。こうした生活の仕方を善良なものと考え、彼はこれを、自分の生活の規範とした。朝から晩まで、彼は石の上から額をあげることがなかった。
その日も彼は、常のように額づいていると、一つの声が響くのを聞いた。
「お前を教導するために、ここにある絵を見よ」
それで、首をあげて、彼は部屋の壁面にある数々の絵画に眼をやった。その絵は、微笑《ほほえ》ましげな親しみのある情景をうつし出したものであった。ごく古いものだが、素晴らしく正確に描かれていた。その中には料理人の姿があった。その人たちは、頬をすっかりふくらまして火を吹いていた。またある者たちは、鵞鳥の羽をむしったり、鍋の中で羊肉の塊を煮ていた。それより遠くには、一人の猟師が、肩に矢を射貫かれた羚羊《かもしか》をかついで来る姿があった。またこちらでは、農夫たちが種蒔きや刈り入れに働く姿があり、別なところでは、女たちが、胡弓や笛や竪琴の音につれて踊ったり舞ったりしていた。一人の少女が古代の竪琴を弾いていた。蓮華がこまかく編んだ黒髪の中に輝やいていて、その透き通るような薄衣の下には、肉体の美しい形が窺われた。胸も口も、盛りの花のようで、横顔に見せた美しい眼は、まっすぐ前を見守っていた。その顔は、なんとも言えずうるわしかった。パフニュスはその姿に見入っていたが、やがて眼を伏せ、耳に聞こえる声に答えた。
「なぜ、この多くの絵姿を見ろと言うのですか。きっとこの数々の絵は、今ここに、自分の足の下に、深く掘られた穴の底の黒い玄武石の棺の中に憩《いこ》っている肉体の持ち主、偶像崇拝者のこの世に在った日々の生活を描き出しているものでしょう。これらの絵はある死者の生活を想起させます。そして強い色彩がありますのに、一つの影の影に過ぎません。ある死者の生活! ああ、空《むな》しきことよ」
「彼は死んだ。けれども彼は生きたのだ。お前も死ぬだろう。けれどもお前は、生きたとは言えない」
この日から、パフニュスはもう一刻も安息というものを持たなかった。絶えず言葉が彼に話しかけて来た。竪琴をひく女は、長い瞼《まぶた》の眼で、じっと彼を見守っていた。今度は、その女が話しかけた。
「ご覧なさい。私は神秘的で綺麗ですよ。私を愛して下さいな。あなたの心を苦しめるその愛を、私の腕の中で涸《か》らしておしまいなさい。私を恐れたって何になりますの? あなたは、私から脱れられないのですよ。私は女の美なのですもの。あなたは私から逃げて、どこへ行こうとお思いなの? 分らない方ね。花のひらめきの中にも、(棕櫚)しゅろ)の木立の美しさの中にも、鳩の飛ぶ姿の中にも、羚羊の跳躍の中にも、小川の漣たてて流れ去る中にも、月の柔らかな光の中にも、私の姿をごらんでしょうよ。そして、眼をおつぶりになれば、あなたのお身の内に私をごらんになるでしょう。ここに、黒い石の寝台の中に布につつまれて眠っている人が、私を胸に抱きしめたのは、千年も前のことです。私の口から最後の接吻を受けたのも、千年も前のことです。でも、この人の眠りはその接吻に今なお香っています。あなたは私をよくご承知なんですよ。どうして私が分らなかったんでしょうね。私は、タイスの数限りない化身の一つなんです。あなたは教養があり、事象についての知識に大変富んでおいでの修道士です。あなたは旅をなさいました。ものを一番学びますのは、旅路にあってのことです。一日外で過ごしますと、十年家に閉じこもっておりますよりも、もっと新しい知識を得ることは、よくある例でございます。そこであなたは、昔、タイスがヘレネという名でギリシアのスパルタの町に住んでおりましたことを、お聞き及びになったに違いありません。タイスはテーベ・エカトンピロスにも、他の姿で生きておりました。そのテーベのタイスというのが、私なのです。どうしてそうとあなたにお分りにならなかったのでしょうね。私は、生きていましたとき、この世の罪業の多くを引き受けました。そして今、ここに影の有様になってはおりますが、あなたの罪を身に受けることはまだまだ十分できるのです。どうして、そんなに吃驚なさいますの? だって、あなたがどこへ行かれたところで、タイスにお会いになることは、確かなことだったのですのに」
パフニュスは、敷石に額を打ちつけ、驚愕の叫びをあげた。そして毎夜のように堅琴を弾く女は、壁面を離れて近づいて来て、水々しい息を交じえた朗らかな声で物語った。聖者が女の与える誘惑に抵抗しているので、女は彼にこう言った。
「私をお愛しなさいよ、私の言うことを聞いて下さい。あなたが抵抗なさる限り、私はあなたを苦しめますよ。あなたは、死者の辛抱強さがどんなものか、ご存知じゃありません。仕様がなければ、あなたの死ぬのを待ちますよ。私は、魔法使いですから、死んだあなたの体に、その死骸をまた動かす霊を入れさせることができるんです。その霊は、私がいくらあなたにお願いしても聴いて下さらないことを、厭だとは言いません。ねえ、あなた、あなたの聖なる霊魂が、天国の上から、罪に身を任せて行く自分の体を見たら、へんてこなものじゃございませんの。最後の審判と世の終りの後にその体をあなたに返すと約束された神様ご自身、ひどく当惑なさることでしょうよ! 悪魔が巣喰い、魔法使いに守られた人間の体を、どうして神様は上天の栄光の中に置くことができましょう? あなたは、この難関をお考えにならなかったのですね? 神様だって、やはりお考えにならなかったのかもしれませんわ。ここだけの話ですが、神様は大して悧巧じゃありませんよ。ごく駆け出しの魔法使いでもやすやすと神様を欺せます。神様が、あの雷火や天の大滝を持っておいででなかったら、村の悪戯っ子たちはそのひげを引っ張るかもしれませんよ。確かに神様は、その古い敵である蛇ほどの機転もありはしません。蛇は立派な芸術家です。あの蛇が私の身の飾りのために働いてくれたからこそ、私はこう綺麗なのです。あの蛇が、私に髪を編むことを教え、指を薔薇色にし、爪を瑪瑙《めのう》色にしてくれたのです。あなたは蛇を見損なっていたのです。あなたがこの墓場に宿りにおいでになったとき、あなたは、ここに住んでいる蛇たちが、あの蛇の一族であることを知ろうともなさらずに、足で蹴散らしておしまいになり、玉子を踏みつぶしておしまいでしたね。私、何か面倒な恨みをお受けになりはしないかと、心配しているんですよ。それでも、蛇が音楽家で恋を知っているものであることは、あなた、お聞き及びになっていたでしょう。あなたは科学と美とに仲違いをしてしまっているんですのね。ほんとにあなたはみじめですこと。しかもエホバはあなたを助けに来やしませんわ。きっと、来やしないでしょうよ。万物と同じだけ大きいため、余地がないので動きがとれないのです。もし万一、ごく些細な動きでもしようものなら、創られたものすべては混乱してしまうことでしょうよ。ねえ、この世を捨てた修道士様、私に接吻して下さいよ」
パフニュスは、魔術によって行われる奇蹟を知らないことは無かった。彼は、非常な不安のうちにこう考えていた。
「恐らく、俺の足下に埋められている死者は、ここから程遠からぬ王家の陵の奥深くに隠されたままになっているあの神秘な書籍の中に書いてある言葉を、知っているのかもしれない。その言葉の力で、死者たちは、生きていた日の形をとって、太陽を見、女たちの微笑を見ることができるのだ」
彼の恐れは、あの堅琴を弾く女と死者とが、在りし日のように一緒になることができて、抱擁し合うのを見はしないかということであった。時とすると、接吻の軽い息づかいを耳にしたような気もした。
すべてが彼にとっては混乱であった。そして今は、神がいないので、彼は、感じることも考えることも同じ程度に恐れていた。ある夜、いつも通りに地面に平伏していると、かつて聞かぬ声が耳にはいって来た。
「パフニュス、地上にはお前が思っているより多くの人間がいるのだ。自分の見たものをお前に示したら、お前は驚死するであろう。額の真ん中一つ目の人間もいるし、一本脚で跳び歩く人間もいる。性を変えて、女から男になる人間もいるし、地下に根を張って育っている樹人もいれば、首が無くて胸に二つの眼と一の鼻と一の口の人間もいる。お前は本心から、イエス・キリストがこうした人間の救霊のために死んだとお思いかな?」
ある時は一つのまぼろしを見た。ぱっと明るい中に、幅広な一筋の大道や小川や庭園などが見えた。その路上には、アリストブールとシェレアスが、シリアの馬にまたがって疾走して行ったが、乗馬の楽しみに熱中していたので、二人の若者の頬は紅く染まっていた。柱廊の下ではカリクラートが詩を朗誦していた。満悦した傲慢さがその声の中にふるえ、その眼の中に輝やいていた。庭では、ゼノテミスが黄金の林檎を摘み、群青色をした翼のある蛇を愛撫していた。きらきら輝やく司教冠を戴き、白衣をまとったエルモドールが、神聖なペルセアの樹の下で瞑想にふけっていた。その樹は、花の代りに、エジプトの女神のように禿鷹や隼や月の輝かしい円盤に頭を飾った輪郭のはっきりしている可愛い首をつけていた。するとある泉のほとりには、群れを離れてニシアスが、渾天儀《こんてんぎ》の上で星の調和を研究していた。
ついで一人の被衣《かずき》を冠った女が、キンバイカの小枝を手に持ちパフニュスに近づいて来て、こう言った。
「ごらん遊ばせ。ある者は永遠の美を求めて、その短い露の生命に無限というものを置いています。他のものは大きな思想もなく生きています。けれども、美しい大自然にしたがうというだけで、あの人たちは幸福であり立派でいるのです。そしてただ、己れの身を生きるがままにして行くことだけで、あの人々は万物の至上の芸術家である神に奉仕しているのです。なぜなら、人間は、神の美しい聖歌なのですもの。あの人たちは誰もみな、幸福は罪のないものであり、喜びは許されていると思っています。パフニュス、もしあの人たちの考えに道理があるとすれば、あなたはなんという間抜けものになることでしょう!」
そういってまぼろしは消えてしまった。
こういう風にパフニュスは、絶えず、身に心に誘惑を受けていた。悪魔は一瞬の休息も彼には与えなかった。この墳墓の寂莫とした中は、大都市の四辻よりもごたごたしていた。悪魔は哄笑をあげていたし、幾百万の怨霊や悪霊や死霊が、この世のあらゆる仕事に似通う業を成しとげていた。夕暮れ、彼が泉に行くとき、半人半山羊神《サチール》は妖精と交じり合って彼の周囲に踊りまわり、彼をそのみだらな輪舞の中につれ込んだ。悪鬼どもは、もはや彼を恐れなくなった。悪鬼どもは、彼をからかったり、淫猥《いんわい》な罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴せたり、小づきまわした。一日、人の腕ぐらいの悪魔が、パフニュスの腰に巻いてあった綱を奪いとった。
パフニュスは考えた。
「思考よ、どこへ俺を連れて来たんだ?」
彼は、自分の精神に必要な安息を得させるために、手で働こうと決心した。泉のほとりに、広葉の芭蕉の木立が、椰子の樹蔭に生い繁っていた。彼はその茎の数本を切って、墓場の中へ持って来た。そこで、彼は石でその茎を打ち砕き、かつて綱作りのところで綱の作りかたを見ていたので、その茎を細い繊維にしてしまった。悪魔に盗まれた綱の代りに一本の綱を作るつもりでいたからである。悪鬼たちは、これには少し困って、騒ぎをやめた。堅琴を弾く女さえもが妖術を捨てて、壁面にじっとしていた。パフニュスは、芭蕉の茎を砕きながら、自分の勇気や信仰を固めていた。そしてこう心に思った。
「天の助けを得て、俺は肉に勝とう。霊魂は希望を失わずにいる。悪魔や亡者が神の本質に関して俺に疑惑を吹き込もうと思ったところで、無駄だ。俺はそやつらに使徒ヨハネの口を通して答えてやろう。『太初に道《ことば》あり、道《ことば》は神と偕《とも》にあり』と。これこそ俺が固く信じている事柄だ。自分の信じている事柄が不条理だったら、俺はなおそれを固く信じる。もっとよく言えば、不条理でなくてはいけないのだ。そうでないと、俺は信じないで知ってしまうからだ。ところで、人の知っている事は、生命を与えやしない。救ってくれるのは信仰なのだ」
彼は、繊維を陽や露にさらし、毎朝、腐らせないようにと裏返してやっていた。そして、自己のうちに少年の単純さが甦って来るのを感じて嬉しく思っていた。綱を編み上げるとすぐに、蘆《あし》を切って、蓆《むしろ》や籠《かご》を作ろうとした。墓穴の部屋は、まるで笊《ざる》屋の製作場に似ていた。パフニュスはその中で、仕事から祈祷へと安易に移って行くことができた。けれども神は、彼に優しくはされなかった。なぜなら、一夜、彼はある声に眼をさまされた。そしてその声に、彼は恐怖にぞっと冷たくなってしまった。死者の声だと推察したからだ。
その声は、せき込んだ囁きのような声だった。
「ヘレネ! ヘレネ! 私と一緒に湯を浴びにおいで、早くおいで!」
一人の女が、修道士の耳に口をすれすれにして答えた。
「あなた、私、起きられませんの。誰か男の人が、私の上に寝ているのですもの」
不意にパフニュスは、自分の頬がある女の胸の上に置かれているのに気がついた。堅琴を弾く女が、半ば身を脱して、その胸を起こしているのを知った。そこで彼は、香りの高い生あたたかなその肉の花を、絶望的に抱きしめ、堕地獄の罪の欲念に身を焦し尽くして、叫んだ。
「いてくれ、いてくれ、俺の大切なものよ!」
しかし、女はすでにそのとき閾《しきい》の上に立っていた。彼女は笑っていた。月の光はその笑顔を銀のように照らしていた。そしてこう言った。
「いたってしょうがないじゃありませんか? ある影の影で、激しい想像を持った恋人には十分です。その上、あなたは罪を犯したのです。それで十分じゃありせんか」
パフニュスは闇の中で泣いた。そして夜明けになった時、彼は嘆息よりももっとしんみりした祈りを口にもらした。
「イエスよ、イエスよ。なぜ、私をお見捨てになるのです。あなたには、私のいまの危険がお分りです。心優しい救世主よ、私を救いに来て下さい。父なる神がもはや私をお愛し下さいませんからには、私の言葉をお開き下さいませんからには、私にはあなたの外にもう何もないことをお考え下さいまし。神から私へは、何ものももう望むことができません。私には神を了解することができません。そして神には、私をあわれんで下さることができないのです。けれどもあなたは、あなたは一人の女からお生れになった方です。それで私は、あなたに希望をおかけしているのでございます。あなたが人間でいられることを思い出して下さいまし。私はあなたに懇願いたします。それは、あなたが神の神でいられるからでもなく、光の光、真の神の真の神でいられるからでもなく、あなたが、いま私の苦しんでいるこの地上で貧しく弱く生きていられたことがおありだからです。悪魔があなたの肉を誘惑しようとしたからです。臨終の汗があなたの額を冷たく凍らせたからです。私がお祈り申すのは、あなたの人間性へでございます。おおイエスよ、なつかしのイエスよ!」
両手をもがきながらこう折り終ると、恐ろしい笑いの叫びが起こって、墓の四壁をゆり動かし、かつてかの円柱の頂上で鳴り響いたあの声が、嘲《あざけ》りながら言った。
「その祈りこそ、異端者マルクスの毎日となえる祈りの文句だ。パフニュスはアリウス教徒だ。アリウス教徒だ!」
雷火に打たれたように、修道士は気を失って倒れた。
再び眼を開いた時、彼は、自分の周囲に、黒い衣をまとった修道士たちのいるのを見た。その人たちは彼のこめかみに水をそそぎ、悪魔をはらう呪文を唱えていた。数人の修道士は、棕櫚の枝を持って墓の外に立っていた。
「砂漠を横切っていますと、この墓の中に叫び声がしました。それで入って見ますと、あなたが敷石の上に気絶して倒れておいでだったのです。きっと悪魔があなたを打ち倒したのでしょう。だが、私たちが近寄って来たので、逃げてしまったのです」
パフニュスは首をもたげて、弱々しい声で訊ねた。
「みなさん、どなたです? そしてなぜ、棕櫚の枝をお持ちなのです? 私の葬いのためではないのですか」
一人の修道士が彼に答えた。
「あなたはご存知ないのですか、我等の師父アントニウスが、齢《よわい》百五歳を重ねられ、その最後の近いことの預言を受け、隠棲《いんせい》の地コルザンの山をくだって、数限りないその霊魂の子たちを祝福に来られたことを。私たちは、棕櫚の枝を持って心霊の師父のところに参るのです。しかしあなたはどうしてこんな大事件をご存知ないのでしょう? 天使がこの墓の中へあなたにそれをお告げに来なかったなんてことが、あり得ましょうか?」
「いやいや、悲しいことに、私はそうした恩寵に価しない者です。この住居の住人というのは悪魔と吸血鬼だけなのです。私のためにお祈り下さいまし。私はパフニュスです。アンチノエの院長、神の僕《しもべ》の中の一番みじめなものです」
パフニュスの名を聞くと、すべての者は手にした棕櫚の枝をふり動かして、たたえる言葉をささやいた。すでに口を利いた修道士は、嘆賞して叫んだ。
「あなたがあの聖者パフニュスでいらっしゃるのですか。いつかは大アントニウスと肩を並べられはしないかと思われているほど、多くの苦行によって有名なあの方なのですか。聖者よ、ではあなただったのですか、娼婦タイスを神の道に導き、また高い円柱に登られて、熾天使《セラフアン》〔天使中第一位にあるもの〕の群れに連れて行かれた方は。円柱の下で夜を明かしていた者たちは、あなたの幸福な昇天を見たと言っています。天使の翼が真白な雲のようにあなたを囲み、あなたは右の手を差し延べられて、人間の世界を祝福されたと言われています。翌日、人々があなたをもう見られなくなったと知ったとき、その長い嘆声が冠の無くなった円柱の上まで昇りました。けれどもあなたのお弟子のフラヴィアンは、その奇蹟を公表し、あなたに代って修道士の支配をすることになりました。ただポールという、心の愚鈍な男だけは、この誰も異議のない意見に反対したがりました。あの男は、あなたが悪魔にさらわれて行ったのを夢に見たと確言しましたので、みなは、石で撲《う》ち殺そうとしたのでしたが、死なないで済んだのが不思議です。私は、今、あなたの足下に平伏しているこれらの隠遁者の上に立つゾジムと申す者です。あなたが父をその子たちと一緒に祝福なさるように、私も、彼等同様にあなたの前に跪づきます。それから、神があなたの仲介によって成しとげられた不思議な事の数々をお話し下さいまし」
「あなたがお信じのように、主は私にお目をかけて下さるどころでなく、恐ろしい誘惑で私を試練なさいました。私は天使に連れられて行ったのではありません。けれども、ある影が壁のように私の眼の前に立ちまして、それが私の前を歩いて行きました。私は夢の中に生きていたのです。神の外にあるものは、すべて夢です。私が、アレクサンドリアへ旅をしましたとき、ごく僅かな時間に沢山の議論を聞きました。そして私は迷誤の軍の無数なのを知りました。それが私を追撃して来て、私の周囲に槍ぶすまを作ってしまったのです」
ゾジムが答えた。
「崇《あが》むべき父よ、聖者、ことに隠遁生活をする聖者は、恐ろしい試練を受けるものです。あなたが熾天使《セラフアン》たちの腕に抱えられて天に運ばれなかったとしても、フラヴィアンや修道士や衆人があなたの天使に連れられて行くのを見たのですから、主はあなたのまぼろしにそうした聖寵をお授けになったことは確かです」
その間にパフニュスは、アントニウスの祝福を受けに行こうと決心した。それで、こう言った。
「ゾジムさん、その棕櫚を一枝、私に下さい。一緒にわれらの師父のところに参りましょう」
「行きましょう。軍隊的の規律は、立派な兵士である修道士にふさわしいものです。あなたと私は院長ですから、先頭に立ちましょう。そしてこの者たちは、聖歌を唄いながら私たちについて来ましょう」
みなは歩き出し、パフニュスは話しかけた。
「神は単一性のものです。なぜなら、神は一である真理だからです。この世は多様のものです。なぜなら、この世は錯誤にみちているものだからです。自然のあらゆる情景、外観において一番無垢のものさえ、見てはいけません。情景を楽しいものとする多様性は、情景が悪いという印《しるし》です。ですから、淀んだ水に浮かぶ一かたまりのパピルスも、霊魂を憂鬱にせずには見ることができません。五官が感ずるすべてのことは嫌忌すべきものです。砂のごく小さな一粒も危険をもたらすものです。どれもこれもが、われらを誘惑します。女は、軽い空気の中に、花の咲く地の上に、清い水の上に散乱しているあらゆる誘惑の組成物に過ぎないのです。霊魂の封印された甕《かめ》である人は幸いです! 唖となり、盲となり、聾となり得る者、神を理解するためにこの世を何も理解しない人は幸福です!」
ゾジムは、この言葉を黙想していたが、やがて次のように答えた。
「崇むべき父よ、あなたがあなたの霊魂をお話し下さいましたからには、私は、自分の罪業をお話しすべきがよいと思います。こうして私たちは、使徒伝来の慣習にしたがって、互いに告白し合うことにしましょう。修道士になるまでは、私は俗世間にあって言語道断の生活を送っていました。遊女で名のしれたあのマドーラの町で、私は恋という恋を漁《あさ》りました。毎夜のように若い遊蕩児たちや笛吹きの女たちと夜食をともにし、中でも気に入った女を自宅へ引っ張り込んでいたものでした。あなたのような聖者には、私の愛欲の激しさがどこまで私を連れて行ったか、ご想像にもなれますまい。しまいには、貴婦人や尼僧の差別なく、姦通となり涜神《とくしん》の行いとなったことは申すまでもありません。私は酒で自分の五官の熱を刺激していました。世間では、マドーラ一の酒飲みと言っていましたが、その通りでした。でも私はキリスト教徒で、放蕩のうちにあっても十字架にかけられたキリストへの信仰は失わずにいました。道楽三昧に財産を蕩尽して、私はすでに、貧困の最初のものの迫って来るのを感じました。その時、自分の遊び仲間の一番丈夫な男が、恐ろしい病気にかかって、またたく間に弱って行くのを見たのです。膝は萎《な》えて利かなくなり、耳はぶるぶるふるえて役に立たず、眼はかすんでふさがってしまい、声はと言えば、喉からただ薄気味の悪いうなり声のほか出せなくなり、その心は体よりも重く、うとうとしてしまいました。畜類のように生活して来た罰として、神は彼を獣に代えておしまいになったからです。自分の財産の無くなったことが、すでに私の胸に有益な反省を吹き入れて置いてくれましたが、その友の例はなお一層貴重なものでした。それは自分の心に非常な印象を与えまして、ついに、私はこの世を捨て、砂漠に引きこもってしまったほどでした。私はそこで、二十年の間少しも悩まされずに平和な月日を送りました。私は自分の下に集まった修道士たちと、織物や建築や、大工の業を、また実際を申せば、常に思想より行動がよいと思っておりましたので、文字に対してはほとんど趣味はなかったのですが、筆耕の業もしております。自分の昼の生活は喜びにみち、夜は夢一つ見ないで過ごしています。聖寵が自分の中にあるのだと思っております。なぜなら、最も恐ろしい罪の最中にあっても、私は希望を捨てたことが無いのですから」
この言葉を開いて、パフニュスは眼を天に向け、呟《つぶや》いた。
「神よ、これほど多くの罪に汚れたこの男、この姦通者、この涜神者をあなたはおいつくしみの眼でご覧になり、私には、この私にはお目をかけて下さらない。あなたの掟を常に遵守していた私には! あなたの正義はなんと不可解なものなのでしょう! あなたの道はなんとはかりがたいものなのでしょう!」
ゾジムは腕を差しのべた。
「ごらんなさい、父よ、地平線の両側に、移住して行く蟻の黒い列のようなものが見えますね。あれは、私たち同様、アントニウスのところに行く法兄弟たちです」
みなが、約束の場所にたどりついたとき、そこに壮大な光景が展開されていた。修道士の群が三列になって、巨大な半円に拡がっていた。第一列には砂漠の長老たちが陣どって、牧杖を手にし、そのひげは地上に長く垂れていた。エフレムとセラピオンの両院長の下についている修道士やナイル沿岸のすべての隠遁者たちは、第二列に並んでいた。その背後には、遠い岩山の地方から来た隠遁者たちの姿があった。ある者たちは、干乾びて黒くなった身に、形も崩れてしまった襤褸《ぼろ》をつけ、他の者たちは、衣類としては、ヤナギで編み合せた蘆《あし》より着けていなかった。多くの者は裸身でいたが、神のご慈悲は、まるで仔羊の毛のような濃い毛で彼等の体一面を蔽って下さった。誰もみな、手に緑の棕櫚《しゅろ》の一枝を持っていたので、碧玉の虹のようでもあったし、選ばれたる者の合唱隊にも、神の都の生きたる城壁にもたとえられるものであった。
この集団の中には、完全な規律が保たれていたので、パフニュスは雑作なく自分の弟子の修道士たちを見つけることができた。彼は、誰からも認められずに、またみなの敬虔な期待を乱さないようにと、注意して衣に顔を隠してから、その弟子たちの傍に身を置いた。
「聖者だ! 聖者だ! 大聖がおいでになった! 地獄がどうしても乗ずることのできなかった、神の最愛なる聖者がおいでになった! われらの師父アントニウスだ」と、あちらこちらから叫びがあがった。
ついで非常な沈黙に陥り、すべての修道士たちの額は、砂の中に平伏した。
寂寞とした広大無辺な砂漠のある丘の頂きから、アントニウスは、鍾愛《しょうあい》の弟子マカリウスとアマタスに支えられて近づいて来た。彼はのろい足取りで歩いていたが、その体はまだ真直で、その内には超人間的な力の残りが感じられた。白髪は幅広な胸の上に垂れ、禿げた頭は、モーゼの額のように光を放っていた。眼は鷲の眼のようで、小児のような微笑が、まん丸な頬に輝やいていた。彼は、修道士たちを祝福するために、一世紀にわたる前代未聞の作業に疲れた腕をあげた。その声は、次の愛の言葉の中に最後の轟きを投げた。
「おお、あなたの幕屋のなんと美しいことであろう! ヤコブよ! あなたの天幕《テント》のなんといういとしさだ! イスラエルよ!」
たちまち、生きている人壁の全体にわたって、迅雷の調和ある轟きのように、聖歌が鳴り響いた。
「主を恐れるものは幸いなるかな」
その間に、マカリウスとアマタスを随えて、アントニウスは、長老の列、隠遁者の列、修道士の列を歩き廻った。天国と地獄とを見たこの預言者、岩の凹みから聖教会を支配したこの隠遁者、最後の試練の時代に殉教者たちの信仰を支持して来たこの聖者、その雄弁をもって異端を粉砕したこの神父は、そこへ並んだ子たちのめいめいへ優しく話しかけ、親しみある永久の告別をしていた。ちょうどその日は、彼を愛する神が、ついに彼に約束された福祉の死の前日に当っていたからである。
彼は、エフレムとセラピオンの両院長にこう言った。
「お身たちは数多《あまた》の軍を指揮しておいでじゃ、そしてお二人とも、立派な将帥じゃ、それ故、お身たちは天堂にあっても、黄金の甲冑をつけられることじゃろうよ。天使長ミカエルは、お二人に、天軍のキリアルクの位を与えられよう」
それから老パレモンを見つけて、接吻してこう言った。
「これは私の子たちの中で一番優しい、一番いい子じゃ。お身の霊魂は、お身が毎年種蒔くエンドウの花のように馥郁《ふくいく》とした香りを持っていますわい」
院長ゾジムにはこう言った。
「お身は、神のお慈悲について絶望されなかった。それで主の平和がお身の内にあるのじゃ。お身の徳の百合の花は、お身の半生の頽敗の汚穢《おえ》の上に花を開いたのじゃ」
彼は、すべての人に誤りのない叡智の言葉をかけた。
長老たちにはこう言った。
「使徒ヨハネは、神の宝座まわりに二十四人の老人が、白衣をまとい、冠を戴いて坐っていたのを見られたのじゃ」
若人たちには、こう言った。
「元気でおいで。悲哀は浮世の幸福な者たちに委ねるがよい」
こういう風にアントニウスは、その教え子たちの群の前を歩き廻りながら、訓戒を誰彼となく与えて行った。パフニュスは、アントニウスの近づいて来るのを見て、恐れと希望とに心をかき乱されて跪づいた。
「父よ、父よ」と、彼は苦しみに悶えて叫んだ。「父よ、私を救けに来て下さい。私は滅びつつあります。私は、神にタイスの霊魂を与え、円柱の頂きに住み、墓の中に住みました。私の額は、常に平伏していましたので、駱駝《らくだ》の膝のように胼胝《たこ》ができてしまいました。でも神は私からお離れになったのです。私を祝福して下さい、父よ、そうすれば私は救われます。ヒソップの葉を振って下さい、そうすれば私は洗われて、雪のように白く輝きましょう」
アントニウスは一言も返事をしなかった。彼は、アンチノエの修道士たちの上をずっと見まわしたが、その視線のひらめきの強さに、みな、眼を伏せてしまった。『愚鈍』と諢名《あだな》されているポールに眼をとめると、アントニウスは長い間じっと見守っていたが、やがて、自分の傍に来るようにと合図をした。他の者はみな、聖者がこの理智の欠けた男に話しかけたのに驚いていると、アントニウスは言った。
「神は、お身たちの誰よりも、この人に厚い恩寵を垂れ給うたのだ。眼をおあげ、ポールよ。天にお前の見えるものを言ってご覧」
ポールは眼をあげた。その顔は輝やき、その舌はなめらかに動いた。
「真紅と黄金との布に飾られた寝台が、天界に見えます。その周囲に、三人の処女が、その寝台に迎えらるべく選ばれたもの以外のいかなる霊魂をも寄せつけまいと、用心深く守っておいでです」
ポールの言ったその寝台は、自分の受ける無窮の栄光の表象と信じてパフニュスは、すでに、神に感謝していた。けれどもアントニウスは、入神の三昧境に入っているポールの呟きを、黙って聞くようにとパフニュスに身振りで示した。
「その三人の処女が私に話しかけます。こう言っています。『一人の聖女が、今、下界を離れようとしています。アレクサンドリアのタイスが死のうとしています。私たちは、その方の栄光の寝台を支度したのです。私たちは、その方の徳の、つまり、信仰と恐れと愛そのものなのですから』」
アントニウスは訊ねた。
「優しき子よ、まだ何か見えるかね」
ポールの眼は、ただ徒《いたず》らに、高い天から地の底まで、西から東へと動いた。が、ふと、その眼がアンチノエの院長パフニュスの眼と合ったとき、神々しい驚愕にポールの顔は蒼ざめ、その瞳は眼に見えない炎を反映した。そして呟いた。
「三匹の悪魔が、喜びにみちて、この男を捕えようとしているのが見えます。その悪魔は、塔のように、女のように、博士《マージユ》のように見えます。みな、真赤に焼けた鉄で烙印した名前を持っています。初めのは額に、次のは腹に、三つめのは胸に。その名は、傲慢、淫楽、疑惑の三つです。それだけです」
こう言うと、ポールは粗野な眼に返り、口をだらりとあけて元の愚鈍さに戻ってしまった。
アンチノエの修道士たちが不安そうにアントニウスを見守ったので、聖者は簡単にこう言った。
「神がその公平な審判を知らしめ給うた。我らはその審判を崇めて、黙すべきだ」
アントニウスは過ぎ去った。彼は祝福しながら行った。陽は西の方にくだって行って、栄光の中にアントニウスを包んだ。その影は、天の恵みによって非常に大きくなり、彼の背後に、際限のない敷物のように長く拡がっていた。それは、この偉大な聖者が人間の間に残すべき長い記念の印《しるし》であった。
立ってはいたが、しかし心は雷火に打ちのめされたようになって、パフニュスは、何も見ず、また何も耳に入らなかった。ただ「タイスが死のうとしている」という言葉だけが、彼の耳を満たしていた。こうした思いは、かつて彼に起こったことがなかった。二十年もの長い間、彼は木乃伊《みいら》の首を眺めて来ていたのに、今、死がタイスの眼の光を消すのだという考えが、絶望的に彼を驚かした。
「タイスが死のうとしている!」不可解な言葉だ!「タイスが死のうとしている!」この短い言葉のうちに、何という恐ろしい、新しい意味のあることであろう!「タイスが死のうとしている!」それなのに、なぜ、太陽や花や小川や、万象が存在するのだ?「タイスが死のうとしている!」この宇宙が何になるのだ? 突然、彼は跳ね起きた。「も一度逢おう、も一度逢おう!」彼は駆け出した。自分がどこにいるかも、どこへ行くのかも知らず、ただ本能が、完全な確実さを持って彼を導いて行った。彼は、ナイル河に向って真直ぐに進んだ。帆船の群れが、洋々とした河上を蔽うていた。彼は、ヌビア人の乗っていた小船に飛びのり、舳《へさき》に横たわり、空間を喰い入るように見つめながら、悩みと怒りとにこう叫んだ。
「馬鹿! まだその余裕のあったあの時に、タイスを自分のものにしなかったなんて、なんて俺は馬鹿なんだ! あの女以外に何かこの世にあると信じたなんて、なんて馬鹿だ! おお、きちがい! 俺は神を思い、俺の霊魂の救済を思い! 永劫の生命を思った。それらすべてはタイスを見た後ではなんでもないのに。幸福な永遠というものは、あの女のただ一つの接吻の中にあって、あの女が無かったら、この人生は無意味なもので悪夢に過ぎないことを、どうして俺は感じなかったのか? 馬鹿! 貴様はあの女を見たのに、他の世界の実を望んだのだ! 卑怯者め! 神を恐れたのだ! 神、天、それがなんだ? あの女が貴様にくれればくれることのできたもののごく僅かな一片に相当するものを、何か神や天がくれるとでもいうのか? 仕方のない大馬鹿者め! 貴様は、タイスの唇の上以外に、神聖な恵みを求めていたんだ。貴様の眼をふさいだのは、どいつの手だ? あの時、貴様を盲にした神に呪いあれ! 貴様は、堕地獄の価を払って、愛の一瞬を購《あがな》い得たのに、そうはしなかったのだ! あの女は、貴様のために肉と花の香で練り上げた腕を拡げていたのに、貴様は、あのあらわな腕の言うに言われぬ魅惑に身を沈めて行けなかったのだ! 貴様は、『控えよ!』と言ったあの嫉妬から来た声にしたがったのだ。欺され者め! 欺され者め! 不甲斐なくも欺されたのだ! ああ残念だ! 口惜しい! もう駄目だ! 忘れ難い時の思い出を地獄に持って行く喜びを持てないとは! そして神に向って、こう言ってやれないとは! 『俺の肉を焼いてくれ、俺の血管の血という血を乾し切ってくれ、俺の骨を裂かせろ。でもお前は、永久に俺をかぐわしくし、俺を水々しくしてくれる思い出を、俺からとることはできないんだぞ!』タイスが死のうとしているんだ! 神の馬鹿め、俺はどれくらい貴様の地獄を嘲《あざけ》っているか分らないぞ! タイスは死のうとしているんだ、あいつは永久に俺のものにならなくなるんだ、永久に、永久に!」
船が早瀬を追って進んで行く間、彼は、来る日も来る日も、腹這いになって、こう繰り返していた。
「永久に! 永久に! 永久に!」
それから、彼女が男に身を任せたことのあること、それが自分に対してではなかったこと、彼女がこの世に愛の波をまき散らしたこと、そして彼自身はその波に唇を濡らしたことのなかったことを思うと、カッとのぼせて突っ立ち上り、悩み悶えて喚いた。爪で胸を引き裂き、腕の肉を噛みしめた。彼は思った。
「ああ、あの女が愛した男全部を殺してやれたら」
この殺害の考えは、快い狂熱で彼の心をみたしてくれた。彼は、眼の底までじっと見つめながら、ゆっくりと、ニシアスの首を絞めてやろうと考えていた。が、にわかにその怒りが消えてしまった。彼は泣いた、すすり泣いた。弱い、優しい気特になって来た。まだ知らなかったもろい情が、霊魂をやわらげて行った。彼は、幼な馴染の友の首にしがみついて、こう言いたくなった。「ニシアス、お前があの女を愛したからには、俺はお前を愛するよ。あの女のことを話してくれ。あの女がお前に言ったことを話してくれ」そして絶えず、「タイスが死のうとしている!」という言葉の刃《やいば》が、彼の心に刺さっていた。
「日の光明よ! 夜の銀の影よ、星よ、諸天よ、梢そよがす樹々よ、野獣よ、家畜よ、人間の不安に閉された霊魂よ、お前がたは『タイスが死のうとしている!』という言葉を耳にしないのか? 光も、微風も、香りも、姿を隠せ! 宇宙の形も思想も消えてしまえ!『タイスは死のうとしている……』タイスはこの世の美であり、彼女に近づいたものは何でも、その美の反映で美しく飾られた。アレクサンドリアの宴席で、タイスの傍に腰をおろしたあの老人、あの賢者たちは、なんと愛すべきだったろう! あの連中の言葉は、なんと調和あるものだったろう! 微笑《ほほえ》ましげな姿の蜜蜂の群れは、あの人たちの唇の上を飛び交い、歓楽が彼等の思想すべてをかぐわしく匂わせていた。それもみな、タイスの息が彼等の上にあったからで、みなの話すものはどれも愛であり、美であり、真理であった。気持のいい不信仰さが、更にみなの議論を優美なものにしていたのだ。彼等は、やすやすと、人生の美を説いていた。ああ! しかしそれももうただ一の夢に過ぎなくなった。タイスは死のうとしているのだ! ああ! タイスが死ねば、俺も自然に死んで行くのだ! だが、干乾びた胎児、苦しみや涙のかれた愁いの中に漬けられた胎児、お前は死ぬことさえできまい? 憐れな月足らずの児よ、生命をしらなかったお前に、死を味わえると思うのか? 神が存在し、神が俺に永久の罰を授けてくれればいいが! ああ、俺はそうして欲しい、そうしてもらいたい、俺の憎悪する神よ、俺の言うことを聞いてくれ。俺を堕地獄の罪に落してくれ。貴様がそうせずにはいられぬよう、俺は、貴様の面へ唾をかけてやるぞ。俺は、自分の身内にある永久の憤怒を吐き出すために、永劫の地獄をどうしても見つけなくてはいけないんだ。
………
早暁、アルビーナは、アンチノエの院長を、修道院の門に迎えた。
「崇むべき父よ、私どもの平和の幕屋によくおいで下さいました。あなたは、きっと、いつぞやお連れ下さいましたあの聖女を祝福においでなのでございましょうね。ご承知の通り、神様は、その広き御心であの聖女をお手許にお召しでございます。天使たちが砂漠から砂漠へと伝えて行った便りを、あなたがご承知ないなんてわけはありませんが、ほんとにタイスは今その幸《さち》多い最後に臨んでいるのです。仕事は成しとげられました。私は、あの女が私どもの間でどんなに行ったかを、少しあなたに申し上げたいと思います。あなたがお立ちの後、あの女はあなたが封印された独房に閉じこもっていましたので、食糧と一緒に、あの女と同じ身分の娘たちが宴席で吹くのと同じ笛を届けてやりました。それはあの女が憂鬱に陥らないようにとの私のはからいでもあり、また、神の御前に、その優美さと才能とを、人間の前に現わしたものよりも劣って見えないようにとの私の心づかいからでもありました。私のしましたことはよかったのです。なぜなら、タイスは、一日中その笛で主をたたえていましたし、この眼に見えぬ笛の音に引き寄せられて尼僧たちは、『私どもは、聖林に鶯の啼く音を聞き、十字架のイエスの最後の御声が聞こえます』と申していました。こうしてタイスはその悔俊の業を行って、ちょうど六十日目に、あなたが封じられた扉が自然に開き、粘土の封印が誰も触らないのに砕けて落ちました。この印《しるし》に私は、あなたの課された試練が止む時で、神は彼女の罪をお赦しになったことを知りました。それ以来、他の尼僧と同じ暮らしをし、一緒に働いたり、祈ったりしています。あの女は、動作や言葉の謙譲さで他の人たちを教化して行き、みなの中で、廉恥を現わす彫像のように見えていました。時には、悲しむこともありました。が、そういう雲はすぐ過ぎ去ってしまいました。私は、あの女が信仰と希望と愛とによって神に結び着いて来たのを見ましたとき、あの女が姉妹たちの教化にその習い覚えた技術を、その美さえ使うのを恐れませんでした。それで私は、あの女に、私たちの前で、聖書に出て来る心堅固な女たちや聡明な処女たちの所作を演ずるようにすすめました。あの女は、エステルやデボラ、ユーディトやラザロの姉のマリア、イエスの母マリアなどになりました。神父さま、私は、あなたの謹厳なお心がこうした演技を気づかわれることはよく承知しております。けれどもあなたご自身でも、ああした信心深い場面で、あの女がほんとに涙を流し、棕櫚《しゅろ》の枝のようにその腕を天に延ばすのをごらんになったら、きっとお動かされになりましたでしょう。私は、長い間多くの女たちを支配して参りましたが、規則として、みなの性質に少しもさからわないようにしております。どの種もが同一の花を開くということはありません。すべての霊魂は、同じ方法で浄化されるものではありません。また、タイスは、まだ美しい時に神に身を捧げたと考えねばなりますまい。そうした犠牲は唯一のものでないまでも、少くともごく稀なものでございます。あの女の美、その生れながらの衣物は、三ヶ月熱病に犯された後でも、そのまま変りませんでした。その熱病で、あの女は今死のうとしているのです。病中、あの女は絶えず天を見たがりましたので、私は、毎朝、中庭の井戸の傍に昔からある無花果の樹の下にあの女を運び出させてやりました。あの樹の蔭は、この修道院の院生たちが、代々、その集まりを開くところになっているのです。神父さま、そこにおいでになれば、あの女にお会いになれます。が、お急ぎ下さいまし。神はあの女をお召しですし、今夜は、神がこの世の悪と善とのためにお作りになったあの顔に、屍布《きょうかたびら》がかけられるのでございましょうから」
パフニュスは、朝日の漲《みなぎ》っている中庭へアルビーナについてはいって行った。煉瓦の屋根に沿って、鳩が、真珠のような一列を作っていた。無花果の樹蔭の寝台の上に、白衣のタイスが腕を組んで休んでいた。その傍には、被衣《かずき》を冠った女たちが立って、臨終の祈りを唱えていた。
「ああ神よ、広大なる御哀憐をもって我等をあわれみ給え、数多きご仁慈をもって我等が罪を消し給え!」
パフニュスはタイスを呼んだ。
「タイス!」
タイスは瞼を重たげにあげ、声のした方にその白い眼を向けた。
アルビーナは、被衣を冠った女たちに、少し遠ざかるように合図した。
「タイス!」修道士は繰り返した。
タイスは頭を持ち上げた。軽い息がその白い唇からもれ出た。
「おお神父様ですか?……あなたは、泉の水や、二人で摘んだナツメヤシの実を憶えておいでですか?……あの日、神父様、私は愛に生れたのでした……生命に……」
彼女は黙ってしまった。そして頭は力なく落ちた。
死は彼女の上にあり、臨終の汗がその額ににじみ出ていた。この厳粛な沈黙を破って一羽の雉鳩《きじばと》が愁いのこもった声を立てた。ついで修道士の嗚咽《おえつ》が尼僧たちの讃美歌にもつれ合って聞こえた。
「わが汚れを洗い、わが罪を清め給え。われは己れの不正を知り、わが罪のやむ時なくわれに向って起てばなり」
突然、タイスは寝台の上に身を起こした。その菫色の眼はぱっちり開かれ、視線は遠い彼方にそそがれ、手を遥かの丘にさし延べて、朗らかな水々しい声で言った。
「あすこに永遠の朝の薔薇の花があります!」
タイスの眼は輝いていた。ほのかな紅がそのこめかみを染めた。彼女は今までになく美しくまた優雅であった。パフニュスは跪づいて、その黒い腕で彼女を抱きしめた。
「死んじゃいけない」と、自分で自分のものと分らなかったくらい変な声で叫んだ。「俺はお前を愛しているんだ。死んじゃいけない! お聞き、タイス、俺はお前を欺いた。俺はみじめな狂人に過ぎなかったのだ。神も天も、そんなものはなんでもない。地上の生命、生物の愛のみが真実のものなのだ。俺はお前を愛する。死んじゃいけない! そんなことはあり得るわけがないんだ。お前は余りに貴すぎるから。おいで、俺と一緒においで、逃げよう。この腕に抱いて遠いところへ連れて行ってやろう。おいで、愛し合おう。おお、俺の最愛のものよ。俺の言うことを聞いておくれ。そして言ってくれ。『私は生きよう、生きたい!』と。タイス、タイス、起て!」
タイスはその言葉を耳に入れなかった。彼女の瞳は無限の中に漂っていた。
彼女はまた呟いた。
「天が開いています、天使が見えます。預言者が、聖者たちが見えます……優しいテオドールがその中に入っています。手いっぱい花を持って……あの人は私にほほえんでいる。私を呼んでいます……二人の熾天使《セラファン》が私の方へおいでになります。近づいておいでです……なんて美しいんでしょう!……神様がお見えになります」
彼女は喜悦の吐息をもらすと、その頭は力なく枕の上に落ちた。タイスは死んだ。パフニュスは絶望的に抱きしめて、希求と憤怒と愛欲から彼女にかじりついた。
アルビーナが叫んだ。
「去れ、呪われ者め!」
そして彼女は、優しく死者の瞼の上にその指を置いた。パフニュスはよろよろと後ずさりした、眼は炎のように燃え、大地が自分の足下に裂けて行くように感じていた。
老僧たちはザカリアの頌歌《しょうか》を唄っていた。
「主にたたえあれ、イスラエルの神に」
不意にその声は、みなの喉の中でとまってしまった。みなは修道士の顔を見たのだ。そして驚きの余り、
「吸血鬼! 吸血鬼!」
と叫んで逃げて行った。
パフニュスは、手で自分の顔を撫でながらその醜さを感じたくらい恐ろしい形相になっていた。(完)
[#改ページ]
解説
今ではほとんど見られなくなったが、十八世紀の頃、フランスの子供たちの間に広く読まれた『砂漠の神父たちの伝記』という本があった。犢皮《こうしがわ》で装丁して美しい宗教画の挿し絵のある本に、『聖者パフニュス伝』というのがある。
……院長パフニュスは、その管下の修道院の周囲に住むエジプト農民に対して一種の警察権を持っていた。ある日、彼は修道院へ食糧を運ぶ船頭やロバ曳きを客に、身なりあわれな一少女が、額に銅製の飾りをつけ、きたない敷物の上で踊っているという話を耳にし、ひどく怒って、早速人をやってその少女を保護させ、これを付近の女子修道院へ収容した――と、その伝記の中にある。
アナトール・フランスの『タイス』の原拠はこれであるとされている。フランスは、その博学の力と豊かな想像力とを駆使して、西欧におけるキリスト教徒迫害時代の砂漠に逃避した信者たちの生活、文華に輝やく古代アレクサンドリアの生活などを如実にうつしてゆきながら、この数行の伝説を、「道徳的観念を目的に」敷衍《ふえん》し、変形させたのである。ここには、種々な哲学的思想、見解――互いに相反してはいるが、一の真理であることに違いのない――が羅列してある。フランスは、そのどれを採れと匂わすようなことはしていない。守るべき道徳律のいずれであるかを諭《さと》すような態度はない。断定的な結論は少しも与えていない。相違したその一つ一つを悠々と趣味深く物語っているだけで、その先は読者の頭に任せている。この点について、ある人の問いに対しフランスはこう答えた。「自分はこフ小説『タイス』の中に多くの矛盾撞着を盛っておいた。それで、教養ある人々が、この小説を読んで、自己につき、自己の見解につき、また自己の才能について疑惑を起こすことがあったら、まず役立ったものといえよう。自分の考えでは、哲学的疑惑よりいいものはないと思う。哲学的疑惑は、人間の魂の中に、寛恕とか、清浄な愛憐の心とか、その他すべての優しい徳を生ぜしめるからである」
『タイス』一巻を評して、「肉の勝利」と言い、「慢心に対する罰」と言い、また「滅びて行く旧世界の理想と生れ来る新世界の理想の表現」と言う人もある。これに対して、フランスの懐疑的なしかも聡明な眼は、静かに皮肉な微笑を浮かばせているばかりである。ただ、タイスの救霊を志してパフニュスが己れの魂を堕落させた点に関して、宗教界から非難が出たとき、「それは、神の正義は人間の正義とは違うことを示すためだ」と、彼は言った。
この小説を仔細に読んで行くと、ここには、フランスの古典文学についての豊富な学識が縦横に披瀝してあることをうかがい得る。そしてそれが、彼の敵ですら推賞してやまない平明な、しかも音楽的リズムのある名文章で物語られている。『タイス』は、確かにフランスの傑作の一として挙ぐべき作品である。
『タイス』は一八八九年、ルヴウ・デ・ドゥモンド誌に、三回にわたって『哲学的物語』という副題をつけて発行され、ついで一八九一年単行本になった。一八九四年、この小説を原拠に、ガレ作詞、マスネ作曲で三幕七場の歌劇ができている。一八二〇年、フランスは数ヶ所に筆を入れて改訂版を出した。『タイス』は各国語に翻訳されているが、日本にも、自分の知っている範囲でこれまでに二つあった。一つは森田草平氏のもので、他は望月百合子氏のものである。
さて、この傑作、また他に多くの傑作を出したアナトール・フランスとは、どんな人であったろうか?
パリ、セーヌ河左岸にマラケー河岸とよぶ河岸がある。ここは、フランスの好学の徒にとっては、忘れ難い場所である。そこには、年経た並木の繁みの下、のどかに流れるセーヌの河水に臨んで、パリの一名物、古本の「箱店」が並んでいる。そこにはまた、フランス文化の淵藪《えんそう》、学士院《アカデミー》の建物が、厳かにそびえている。眼を河むこうに走らせると、美術の殿堂ルーヴルが、黒ずんだ石の一つ一つに歴史を物語りながら、その翼を張っている。
フランスは、一八四四年、その河岸にあった一書肆に生れた。本名をジャック・アナトール・ティボーという。父は彼をスタニスラ学院に入れて、十分な古典教育を受けさせたが、彼の志は文筆にあった。父は、その文才は認めていたが、果してそれで生活を立てて行けるかどうかを危惧した。しかし彼は、店の名であり父の名であるフランスを雅号として、あるいは雑誌の編集者となり、あるいはルメル書店の編纂員となり、校正係までやったと言う。一八七四年、上院の図書館員となったが、一八八六年から一八九一年まではル・タン紙上に書籍の批評を試みて読者を喜ばせていた。かつての父の危惧は、今は昔話となって、一八九六年十二月二十四日、彼はついにフランス学士院会員に選挙された。一八九八年のドレフェス事件以来、彼の傾向には、社会主義、無政府主義的な色彩が段々強くなって来た。一九二四年、大戦後の新世界の産声《うぶごえ》を耳にしながら、彼はその一生の幕を閉じた。
文筆に志してから史的研究や詩集、物語風の作品を出していたが、一八八一年、『シルヴェストル・ボナールの罪』一巻を公刊するとともに、フランスは、一躍、文豪の列に入ってしまった。その後四十余年の彼の作品は数多い。しかも驚くことには、そのどの作品を見ても、昔の作家に劣らない簡素明快な文章で、今日の教養ある人に対して精神の愉悦となり高尚な黙想の種となり得るものを描いている。人生についての観察、歴史の知識などがもたらす哲学的教示をひとまとめにしている。現世における滑稽なもの邪悪なものを語り、人間にある崇厳なもの、労働と苦悩とにある神聖なものを語っている。『タイス』、『紅百合』〔一八九四年〕、『ペドーク女王の焼肉師』〔一八九三年〕、『神々は渇く』〔一九一二年〕、『ジェロム・コワニヤールの考え』〔一八九三年〕、『エピクロスの園』〔一八九五年〕、『我が友の書』〔一八八四年〕、『バルタザール』〔一八八九年〕、『白き石の上にて』〔一九〇五年〕等々。彼の作品は、その学者肌の皮肉と哀憐を持つ点で学識ある人々に喜ばれ、詩人的な感性の点で文学に無智な大衆の心にまで入って行った。
フランスの思想が、社会主義の最後の尖端にまで近づいて行ったのは事実であるが、しかしそれは、思想を思想として玩味していただけであったらしい。この点で、思想が直ちに行動となることを必要とする現代にあっては、彼はもう古き人である。古典文化の最後の花として見らるべき人である。彼のそうした態度は、彼の一生の前半における生活環境に影響されていることが多分にあろう、と思う。彼は、パリの下町ッ子であった。時代は、十九世紀での華美な時代、ナポレオン三世の代である。その空気は、彼の心の底まで浸さずには置かなかったであろう。父の店、ルメル書店、図書館――フランスの読書欲はそそられ、彼は万巻の書を読破して行った。しかし、その読み方には少しも学者らしい体系は持っていなかった。矛盾をそのまま受け入れて、楽しみに読んだ。思想に対しても、彼はこの態度を捨てなかったらしい。所詮、彼は聡明な感受性の強い|趣味の人《ディレッタント》である。ただ彼のディレッタンティスムには懐疑の色が濃く、優しい詩情が豊かである。フランスは、大衆のために、大衆とともに、大衆のごとく考えはしたが、ついに戦線に立つ人ではなかった。が、そうであることが、彼の作品の文学的価値を滅却するものとは思えない。過去の多くの作品が今日なお読まれるように、彼の作品は永遠に生きて行くことと思う。
最後に、この書の翻訳に際し、種々ご指導下さった丸山順太郎教授のご厚意に対して深く感謝する。(訳者)