TITLE : 日本の父へ
日本の父へ   グスタフ・フォス
目次
T 父ありき――私は父からこう学んだ
人生の先輩
自立へのしむけから
スパルタでも放任でもなく
威厳には厳しさが伴う
父権は放棄できない
話す父より話せる父
親とは親しさ
父の手
純潔は戦いで
放蕩《ほうとう》息子であっても
天を仰ぐ心
わが身よりわが子
涙をこらえて
U おやじさまざま――私は教え子の父とこう語る
父と母と
わが子はわが手で
頭から水を
先生はよろず屋ではありません
おやじの株が下がっては
女々しい男をつくるな
「みんなそうしている」で育つと
ピーナッツ教育はだめだ
父親族よ、団結せよ
ポルノ時代の親とは
六落七当
大学は通過点
美田ではなく美心
V 明日の父に――私は教え子の結婚式でこう話す
父親の使命を
わかち合うこと
もう二人ではない
地震・雷・火事・おやじ
大黒柱
教育パパにおなりなさい
家庭人であれ
あたたかい信頼を
妻は夫をつくる天才
見合結婚からも愛は生まれる
妻と子を仲間に
歌は愛の言葉
文部大臣の役割だけは
家庭は社会の揺りかご
自分自身を燃やし尽くせ
日本の父へ
T 父ありき――私は父からこう学んだ
人生の先輩
家庭教育とかしつけ、あるいは父母の役割などについて講演した後で、たまに、「先生はどの大学で、なんという教授について教育学を勉強なさったのですか」と、訊《き》かれることがある。私は全く答えに困ってしまうのである。教育学は私の専攻ではないし、児童心理とか教育理論とか教育史などの勉強を専門的にやったこともない。むろん、それらの単位はとったことがあるが、私にとって特に役立ったとはいえないし、私の考え方に強い影響を与えたとも思えないのである。
しかし、こういったからといって、大学の教育、あるいは大学の教授を非難するつもりではない。私がいいたいのは、私の教育学の教室は大学よりも私を育ててくれた家庭であったということである。だから、「どちらで勉強なさったのですか」と質問される方には、次のように答えることにしている。
――今、皆さんにお話したことの大部分は両親に習ったのです。父や母の教育に対しての信念とか熱意、あるいは暖かい愛情のこもったしつけや指導、それらを私は身をもって体験したのです。専門的な勉強よりもこの身をもっての体験が、私の教育に関しての考え、自信をつくりあげたのです……。
それは言い過ぎではないかと思われるかもしれないが、そうではない。教育とはどういうものであるか、どうあるべきかということを、私は両親から、しらずしらずのうちに教えられたのである。
いうまでもなく、親と子のつながりは、他の人、たとえば学校の先生とのかかわりよりも深いもので、教育をし、教育を受けるのに最も自然な環境をつくるものである。わが子をよい子に育てあげたいという抑えがたい親心、そして親に愛してもらいたい、親に頼りたいという子供の欲求――この二つは互いに影響しあって、他にあり得ない人間教育のよき条件となる。子供の教育における両親の役割は、実に類のない、最も重視すべきものなのである。
主に男子の教育に三十年ほどたずさわってきた私の経験では、男の子の教育の場合は、父親の役割がとりわけ大きいと思う。しかも、家庭にまで激しい変動をもたらしている現代社会では、その役割は以前にもましてはるかに大きくなっている。今日こそ、父親はわが子の教育の傍観者であってはならず、直接参加しなければならないのである。これは父親の特権なのであって、母親、ましてや学校の先生に委《ゆだ》ねてはいけない尊い任務なのである。
この父親の教育参加は難しい注文だとよくいわれている。これに対して、私はやろうと思えばできることだと断言したいのである。そのために、私は、私の父についての懐かしい思い出を記してみた。さまざまなエピソードや出来事にすぎないものであるが、それに私の反省や感想をつけ加え、教育に対する父親の役割について、読者の参考に供したいと思う。
教育というものは、時代や国境を超越するものである。もちろん、教育は時代の特色、国の歴史や伝統、家庭の宗教、親の人生観など、さまざまな条件に影響されて成り立っているものではあるが、変わることのない普遍的な要素もある。なぜなら、教育の対象は人間だからである。教育の出発点は人間であり、その到達点は、人間――正しい人間、よりよい社会人、しっかりした国民なのである。私は、時代や国境を越えた教育的視野こそ、今日の国際社会に必要であると深く信じている。このような意味で、私のささやかな思い出――四、五十年前のドイツのある父と子についての思い出が、読者のお役に立てば望外の幸せであると思う。
私は父の姿をありのままに描いたつもりであるが、読み返してみると、父を多少理想化してしまったのではないかと感じないこともない。そんなことは全くないとは言い切れない。父親をみる目は、年が経つにつれて変わっていくからである。
父親の真の父性がわかるのは、おそらく子供が三十歳を過ぎてからであろう。
「父親になってはじめて、おやじが私のためにたいへん苦しんだことがわかりました。私のために、それほど心を砕いてくれたとは知りませんでした。おやじの有難みが、今になって漸《ようや》く身にしみてきました。……」
というような率直な話を、よく卒業生から聞かされる。
結局のところ、父親というものは、自分のなしたこと、なしつつあること、そしてなしたいと思うことを、そうたやすくは身内の者にも話さない場合が多いのである。男には誇りや自尊心、そして微妙なはにかみもあるし、困難に逢着《ほうちやく》しても自分ひとりの胸に秘めておこう、自分ひとりで何とか切り抜けてみせようという自覚が強い。母親にも子供にも、理解しづらい点がある。二十年間も父と一緒に生活した私自身も、父の本当の姿を識《し》るには、やはり長い年月が必要であった。
父と別れて三十数年後のある日の出来事である。所用で暫《しばら》くの間ドイツに滞在して、再び日本へ帰る二、三日前、もう一度、両親の眠っている墓地を訪ね、最後の挨拶をしたいと思った。その折、父の墓前で静かに祈っている見知らぬ老人に出会った。
「私の父を御存知でしたか」と私が尋ねると、その老人は私の全く知らなかった父の一面を語ってくれたのである。
――私は、あなたのお父さんとは古くからの知り合いであった。何十年も一緒に仕事をした間柄です。知り合いと言いましたが、むしろお父さんは私の恩人でした。何時《い つ》までも忘れられないいい人でした。
私には苦しみが多かったのです。ナチスに逮捕されて、財産全部、家まで没収されてしまいました。われわれユダヤ人は大変だったのです。妻は牢屋《ろうや》で死にました。殺されたのかもしれません。そういう私をあなたのお父さんが助けてくれたのです。お父さんの助けがなかったら、私はこうして生きていないでしょう。独りぼっちで、最後まで生き抜くことはできなかったでしょう。しかも、私一人だけではないんですよ、助けてもらったのは。
だから、よく墓参りに来ます。いくら感謝してもしきれないのですから……。
そして、私が神父の服を着ているのに気付いたらしく、次のように言った。
――あなたは神父様ですね。外国のどこかで教会の仕事をなさっていると伺っていましたが。そうですか。それもお父さんのお蔭《かげ》ですね。何時も、他人のことを考えていた人でしたからね……。
私は、自分の父がこのように同僚のために尽力したとは全く知らなかった。私の妹にこのことを確かめようとしたが、彼女にとっても初耳のことであった。子供というのは、たいてい、父親の表の姿しか見ていないのである。しかし、父親の人格を完全に量り得なくとも、父親の心は子供の性質や人生観、あるいは心の持ち方や生活態度を育てていくのである。
今日の、父をみる私の目は青少年時代のそれとたいして違っていないと思う。たとえ違っていたとしても、子供の頃、よき強きおやじとして尊敬した父は、大人になってから今までずっと、よき人生の先輩として私の心を支えつづけているのである。
自立へのしむけから
私の家は特に貧乏だというわけではなかったが、息子をギムナジウム(大学進学者を対象とした中高等学校)へやれるほどの家庭ではなかった。炭坑夫としての父の収入では、無理なことであった。私自身でも、ギムナジウムに行けるとは夢にも思っていなかった。従って、ある日、突然、父から、
「どうだ? 入学試験を受ける気はあるのか」
と訊かれたときは、実に驚いてしまった。あまりにも不意のことで、返事に困ってしまった。まごついている私を、父は目を細めて眺めていたが、
「先生の勧めがあったんだよ」
「でも……、全然考えたこともないし、それにお金も大変でしょう」
父はにっこりして、ゆっくり顔を横にふりながら、
「学資のことだったら、お父さんやお母さんに任せておけばいい。おまえにやる気があるなら……、あるか?」
私は躊躇《ちゆうちよ》した。しかし、私をのぞき込んでいる父のやさしい眼差《まなざし》に促されるように言った。
「やる気はありますが」
「それなら、入学試験を受けたらいい」
そして、父は私の両肩に大きな手をのせて、
「でも試験は直ぐだ、来週のことだぞ」
私は、両肩から伝わってくる父の温かみを感じながら、武者震いしたくなる気持をじっと抑えたのだった。
小学校四年の終りの入学試験に無事合格して、理科系の九年制の中高等学校に入学した。制服はなかったが、学帽があった。その色は学年によって違っていて、毎年四月になると新しい帽子をかぶることになっていた。緑、赤、青、黄などの虹の七色で、通学や集合のときなどは、たいへん鮮やかな明るい光景であった。一年生の帽子は緑色だった。入学式が終って、その帽子をかぶって家に帰ったときには、両親も喜んでくれた。とりわけ、母は涙を流さんばかりに私を抱きしめた。息子の頭をいつかこの帽子で飾ってやることが、母の若き日からの夢だったらしい。
その時、父は私に言った。
「お父さんは、中学生になったおまえをもう教えることはできない。自分でやるほかはない。自力でやるんだ」
そして、入学祝として目覚し時計をくれた。翌朝から、母は私を起こしてくれなかった。自力でやれ! というわけである。
ギムナジウムでの勉強は厳しく、ストレートに、一回も落第しないで九年後に卒業できるものは三分の一に満たぬほどだった。同情点をくれる先生がいないので、努力しつづけない限り、不安がつきまとうのである。私の成績は恥ずかしいことながら、かなり波があった。上がったり下がったりで、コンスタントではなかった。通信箋《せん》という、うれしくもあり、恨めしくもある決算書に父のサインをもらう時には、いつも胸がどきどきしたものである。しかし、こんどこそかみなりが落ちるぞと覚悟を決めた時でも、とくに叱られたことはなかった。「勉強せよ、もっと点を上げろ」と言われた覚えもない。また、「宿題をやったか?」とか、「試験はどうだった?」とかいったような、今日の日本のお母さん特有の台詞《せりふ》の如きうるさい質問もなかった。たまに、父に言われたのは次のようなことだった。
「このくらいの成績でいいのかどうかしらないが、あんまりのんきに考えてはだめだぞ。落第したら終りだよ。勉強がつらいというなら、石炭を掘ることだ!」
そして、私はこの言葉がすこしの甘えも許さない、口先だけの言葉ではないことをよく承知していた。
十年ほど前、私は三十二年振りでドイツへ行った。二カ月余りの滞在のある日、高校時代の同級生の家庭を訪ねた。彼は開業医をしていた。二十二歳の長男は、中学を卒業した後、ある日刊新聞社に勤めて、スポーツ担当の記者として活躍していた。二十歳の次男は高校を卒業したが、自分の手で仕事をしたいというわけで大学へは進まず、ある電気会社の技術職員になって職業訓練を始めたばかりだった。末っ子は十一歳の中学二年生で、父親である私の友人は、「医者になってくれるといいのだが、音楽の才能があるらしく、本人はその方面に行きたいと言っている」と語っていた。子供に自分の考えを強制してはいないようだった。うえの二人も成績はよかったそうだが、大学出の開業医である父親は、彼らが好きな道に進むことを抵抗せずに許したのだった。この話を聞いた時、ドイツと日本の親の考え方が非常に異なっていることに、たいへん驚いたものだった。
日本では社会的構造からいって、そうはいかないだろう。親は学歴社会、学歴偏重を無視することができず、温かい親心から、息子をなんとかして大学へ、それも立身出世の早道である有名大学へ進ませたいと思う。また、父親の仕事を継いでもらいたいという望みも強い。そして何よりもヨーロッパと違って、家のめんつという精神的な重圧がある。これらのことから、日本の親が子供の就学や勉強あるいは成績について、私の親よりも心配せざるを得ないのは無理からぬことであると思う。しかしそこから、子供の心の中に自分自身に対して、特につらくなる勉強に関して一種の甘えが生じるのである。子供は前に述べた社会的現実や両親の親心に甘えやすい。そしてしかるべき張り合いや自主性を発揮しないで、のんびりムードで学生時代を空《むな》しく過ごしてしまうことが多いのである。
たとえば、親は子供にとって国立大学が無理なら、私立大学のために多額の入学金や校納金を出す。場合によっては、借金をもいとわない。そのうえ、一年あるいは二年間の浪人をも認めてくれるということが、子供に大きな甘えをひき起こすのである。子供は言う――今は青春を楽しむ時期だから、それほど勉強しなくてもいい。僕が大学へ行かれるように、親はなんとかしてくれるだろう……。
このようなことを口に出さなくとも、実際そう考えている子供が多い。高校や大学の間、平気で「親のすねを齧《かじ》る」学生が実に多いのである。親は子供のこの甘えを感じて、心配で堪《たま》らない。そこで、「勉強せよ」というような、親子の間柄を冷たくする不快な小言が多くなるのである。
私は、幸か不幸か、このような甘えに惑わされたことはなかった。よく冗談をいい、大声で笑う父ではあったが、こと勉強に関しては、口出しすることはまずなかった。「大学へ行きたいなら、行かれるようにやれ。自力でやることだ。辛いと思うなら行かなくともよい……」という考え方は、当時のドイツの親たちの常識だった。私の父も母も、私を無理やりに大学に行かせようという考えを持っていないことを私はよく知っていたし、大学への進学は自分の努力次第であるということも充分自覚していた。
人間は誰でも自分の幸福の鍛冶屋《かじや》である――この昔からの諺《ことわざ》を父からよく聞かされたものである。炭坑夫になる前、長年にわたって、鍛冶屋の重い金鎚《かなづち》と熱く燃える火の力とでものをつくりあげてきた父は、他人に甘えたり、他人を甘やかしたりすることをひどく嫌った。その中に潜んでいる人間の弱さを知っていたからである。だから、この諺は正に父の生活原理そのものだった。現在では流行語になっている主体性とか、自主性とかいう言葉は、五十年前にはなかった。しかし、そういう言葉の精神を、勉強には滅多に口を出さなかった父にしっかり教えられた。父は自分の息子を教育する出発点に、この自立・独立の精神をおいたのである。私は、この親の期待を裏切らぬように、今でも努めている。
スパルタでも放任でもなく
――先生は戦前、ドイツで教育をおうけになったのですから、きっと、厳しいスパルタ式教育をおうけになったのでしょうね……。
私は幾度も、このような質問をうけた。現代はレッテル貼《は》りの時代ではあるが、私は自分のうけた教育に対して、厳しいとか甘いとか、あるいはスパルタ式だとかいうようなレッテルを貼りたくない。私の両親も、自分たちが厳しいか厳しくないか、そんなことは全く考えなかったと思う。また、教育学や心理学、家庭教育の手引なども、もちろん読まなかった。そのような教育ママ用の読み物に惑わされることなく、常識で私を育ててくれたのである。
よく耳にすることであるが、最近の若者には昔ほどしつけが行き届いていないと言われている。そして、その責任は社会のだらしなさ、あるいは学校教育の怠慢にあると非難するのである。しつけのない原因を社会に押しつけるのは、自分に逃げ道を準備する卑怯《ひきよう》なやり方だし、しつけを学校に期待するのは、非現実的な虫のいい話である。親として、家庭で行なうべきしつけまで他人に任せてしまうのは、それこそ非両親的なことである。
しつけを学校に委《ゆだ》ねたいということの動機の一つには、しつけ教育に当然なくてはならぬ厳しさから免れたいという考えがある。よきパパ、よきママというイメージをなんとかして維持したいと願う気持もあるだろうし、子供をきつく注意することによって、親子の間に溝《みぞ》ができるのではないかという不安もあるだろう。どんな理由があるにせよ、家庭のしつけになくてはならぬ厳しさを避け、憎まれ役から逃がれようとする傾向が世の親のなかに強まっている。
これは、実に危険なことである。昨今では、さらに無責任な傾向が生じている。学校の先生がしかるべき指導をやろうと思っても、できない場合が多くなってきた。生徒を強く叱ったりすると、必ずといってよいほど、ある決まったタイプの親から文句が出るので、先生の方は萎縮《いしゆく》してしまって、なにもできなくなっている。こんなことになるのも、生徒の背後にいる親がしつけを先生に委ねながらも、しつけに不可欠の厳しさに全く盲目になっているからなのであって、先生の手を縛ると同時に、結果的に子供をひどくスポイルすることになるのである。このことはともかくとして、忘れてならぬことは、子供を叱るのは先生の仕事であるよりも、むしろ親のやるべき務めだということである。
子供をしつける方法にはいろいろあるが、そのなかで、親にしかできない罰がある。たとえば、外出を禁ずる、小遣いを減らす、好きな娯楽を止めさせる、嫌いな仕事をやらせる、おどかして従わせる、時には叩く――こういうことは親にしかできないことである。そして、このような罰は不要であるとか、してはならないという考えこそ、子供の心にとんでもない甘えを生じさせてしまうのである。
こうした罰を与えることは、スパルタ式と思われるかもしれないが、実はまるで違う。自分の愛する子供の教育に関して、親の持つ決定的な切札なのである。子供の個性を見きわめ、そして不従順、または違反の程度や性質を考えたうえで、適切な方法で子供に反省を促すことは、親に任せられた務めなのである。
ある夕方、私は母とひどい口喧嘩《げんか》をしてしまった。命ぜられた仕事をやりたくなかったからである。私は癇癪《かんしやく》を起こし、大声をあげて母に悪口を浴びせてしまった。すぐに父がとび出して来て、私の腕をつかまえ、強い声で、
「口をしめろ。自分の部屋へ行け! いますぐだ」と言った。
私が母に言った悪口は、たしかに言い過ぎであった。いくら詫《わ》びても、それだけではすまされないと覚悟していたが、やがて、なんにもなかったように夕食に呼ばれた。もちろん、食事中の話はよそよそしいもので、私は砂を噛《か》む思いで食事をすますと、そそくさと自分の部屋に戻ろうとした。そのとき、驚いたことに、父から、
「散歩に行かないか」と、誘われたのである。
私は初めは、先刻のことでいつ叱られるかと、重い足をひきずっていた。しかし、近くのモミの疎林を歩いているうちに、いつの間にか、父のおかしい世間話にのせられてしまい、身も心も軽やかになってしまった。私たちは夕日に輝くモミの梢《こずえ》を見上げたり、ねぐらに帰る小鳥の声にあわせて口笛を吹いたりして歩いた。重苦しい心のわだかまりは消えてしまっていた。
散歩が終って玄関に入る時、父は手を私の頭において言った。
「さっきのことだが、お父さんは本当に残念だった。おまえがあんなひどい言い方をするとは思わなかった。二度としてはいけないぞ、特にお母さんに対しては。絶対になあ。本当の男のやることじゃない、全く」
父はやさしく微笑していたが、その目は、じっと私を見つめていた。
「お父さんは、お母さんともう十五年も一緒に暮らしてきたが、お母さんに向かって怒鳴ったりしたことはない。失敬なことを言った覚えもない。おまえは一度でも、お父さんの口からそのようなことを聞いたことがあるか?」
私は首を振った。すると、本当に悪いことをしてしまったという思いとともに、涙がこみあげてきた。
「癇癪は抑えるものだ。反抗にも限度がある。特にお母さんに対しては、たとえどんな理由があっても、あんな振舞いをしてはならない」
今でも、その時の父の声が耳の底から響いてくる。おやじは本当に悲しんでいたのだとしみじみ感じたものであった。
「鞭《むち》の音、心に響く」という諺がある。この諺が貴重な教育経験に即していることは、私自身の体験からでも証言できる。しかし、父のその日の戒めは、鞭よりも強く私の心を打ったのである。「私を鏡にせよ」と言うことができる父親の信念は、子供の心に深く永く生き続けるものなのである。
「先生、子供のお尻くらい叩いてもかまいませんか」と、しばしば質問される。このことについて、父親としてまた先生として教育に長い経験のある人が次のように答えた。
「神様は、せっかく訓育の丘、すなわち、お尻をおつくりになったのですから、遠慮はいらないでしょう」
その通りだと思う。また、私たちが毎日使っている漢字の中に、おもしろい歴史を見出すことができる。たとえば、「教」という字の昔の形は、当時の東洋人の教育観が前に述べた考え方とたいして違わないことを示している。周知のように、旧《ふる》い「教」という文字の偏は聖賢の道に従いならわせることを示し、旁《つくり》の方は鞭を加えることをあらわしているのである。
しかし、鞭というものは、たとえそれが愛の鞭であっても、惜しんで使うべきものである。どんな罰を与えるにしても、その罰は親の怒りのはけ口、あるいは興奮している心の鎮静剤であってはならない。「愛の鞭」が「愛の無知」にならないように。罰の狙いは、あくまでも、悪かったことを理解させ、悪への心の傾きを正し、心に反省を促すことでなくてはいけない。そのうえに、悪かったことに対して責任をとる心構え、そして償いをする正義感を子供の心に植えつけることができるならば、罰を与えることは、社会性のある人格へのすばらしい踏み台となるのである。
子供を叱ると、親と子の間の親密感が薄れてしまうという心配が、最近、親を思い誤らせている。それは迷信にすぎない。このことを、私は、若い頃、身をもって体験した。
叱られたあと、私の心が再び青空のようにすがすがしくなったときに、
「どうだ、わかったか?」
と、父によく訊《き》かれたものだった。
「ええ、わかりました」
「お父さんの気持もわかったか?」
私は快活に答える。
「もちろんですよ」
父は、やっとにっこりして、
「それじゃ、トランプでもやろうか」
「うん。でもやっつけるよ。復讐《ふくしゆう》戦だ」
「そのくらいの復讐なら……」
とうとう、二人は笑い出すのであった。母はいつも、男同士の独特の心の触れ合いに驚いていた。
このような親と子の間の心の触れ合いは、知らず知らずのうちに、子供の心の中に親の指導を受け入れようという姿勢を育てていくのである。子供が「厳しいな」と思うときも。
誰しも覚えのあることであろうが、私も幼い頃、部屋を駆け廻り、ころんで泣くことがよくあった。あたりかまわず大声で泣き出すと、母は心配して抱き上げようとする。父は、
「立て! 泣くのはよせ! ころんだくらいでなんだ、めめしい!」
と、怒鳴りつけるのであった。
叩かれたこともある。また、風邪をひいて微熱のあるとき、父は、「そのくらい、なんでもないじゃないか。いくじのない男は大嫌いだ」と言った。しかし、その夜になって、熱がないかと心配して私の寝室に入って来て、手を私の額にのせたことを覚えている。
私の父には厳しすぎる面があったかも知れないが、私はその厳しさのなかに、いつでも父の愛情を感じとることができた。父は私を男にしたかったのだと思う。
父は幾度も、「男には弱さがあってはならない」と言った。男! この言葉は、私にいろいろの懐かしい思い出を喚《よ》び起こさせる。その一つは、私が中高校生時代によく歌った青少年団の歌である。父も一緒によく歌ってくれた歌でもある。
男は内に籠《こも》っているものではない。
外へ出て行くのだ、力瘤《ちからこぶ》をつくりに。
冒険を愛し、
困難にぶつかっていくのだ。
雨にうたれ、風に吹かれても、
嵐に向かって立つのだ。
誇りをもって進むのだ。
強いもの、それは男だ。
昭和五十年(一九七五年)の夏、西ドイツへ行く機会があり、この歌を妹の三人の息子たちと歌うことができた。妹はしみじみと、子供たちにこう語った。
「お兄さんとお父さんがよく歌った歌なのよ。子供の頃、二人が合唱しているのを聞くと、いつでも羨《うらや》ましいと思ったの。男に生まれていたらなあって思ったわ。本当に懐かしい思い出ね」
時折考えることであるが、もし私の父が現代の父親たちに何か言うとしたら、次のようなことではないかと思う。
――遠くとも歩かせよ。雨が降っても迎えに行くな。電車では立たせよ。高い山に登らせよ。朝、子供を起こしてやるな。遠慮なく使いに出せ。子供の部屋の整理を手伝うな。仕事をやらせよ。仕事がなければ捜させよ。……一言でいえば、「甘えん坊をつくるな」。
厳しいことであると思う人がいるかもしれない。しかし、男である父親は、男である息子を男らしい男に育てなくてはならない。男同士であるから、荒っぽい言葉遣いや、やり方があるのは当然である、母親は賛成しかねても。
つまり、父親の愛の構造は、母親のとはちがうのである。母親にとっては、子供が自分の膝元《ひざもと》から離れるのを認めることはむずかしいことなのである。わが子をいつまでも無事に守っていきたいというのが、母親の愛である。父親は、わが子の心に自分自身を守ろうとする意欲や決断を呼び起こし、わが子が他人にも自分自身にも負けないように成長することを願う、さらに、「より強く、もっと強く」と、わが子を強い心を持つ男に育てていきたいと望む。これが、あらゆる弱さを憎む父親の、わが子に対する愛なのである。
このように考えると、最近よく言われている、子供の心の教育は第一に母親の役目であるということは、残念ながら大きな誤りであると言わざるを得ない。この誤った考えが、子供に甘えを植えつけているのだと思う。
大人の社会にみられる人間の弱点――わがまま、妬《ねた》み、恨み、ずる賢さ、利己主義、残忍さなどは、みな、幼い子供の心に芽生えている。これらの人間の生まれつきの持ちものをむき出しに表わしている子供さえいる。子供もまた、人間であるからである。そうした心の衝動をコントロールできない子供は、当然、非人間的、非社会的な性格を帯びてしまうから、その子供には、コントロールする力を養わせなくてはならない。しかし、その衝動を抑えさせることだけでは充分ではない。大切なことは、その衝動に潜在しているエネルギーを上手にリードしながら、プラスに転化させることである。これが父親の役目なのである。男の子の場合は、特にそうである。
父親は、家庭の外の実社会を自分の身で体験している。父親は、その辛い体験を通して、人類の進歩、及び社会の発展は人間個人の進歩によってのみ可能となることを知っている。そして、個人の進歩というものは、人間の心の向上以外にはあり得ない。これもまた、父親の個人として、社会人としての経験である。そのうえ、父親はもう一つの経験をしている。すなわち、心を清め、強め、高めることは、実に厳しい、絶え間のない涙ぐましい努力の賜物であるということである。私の父は、いつか次のように言ったことがある。
――聖書によると、天使さえも悪魔になった。人間はなおさら危ない存在である。悪魔にならないように、心にへばりついて心を窒息させてしまうたちの悪い垢《あか》は、削りとらなければならない。それをとりなさい。痛いけれどもな。
そして、父はにっこりして、つけ加えたものだった。
――お父さんにそれを削りとらせると、もっと痛いぞ。
いつの時代でも、子供の心の教育に必要なのは、父親の適度の制御である。しかし、今日の日本の家庭教育には、この是非とも必要なコントロールが欠けていると思う。「お母さん任せ主義」の今日の「民主主義パパ」のもとでは、子供は強く、たくましく育たないのである。
愛する子供の教育には、甘やかしがあってはならない。それはちょうど偏食のように、ひ弱な子供をつくってしまうのである。それに、そうした子供を溺愛《できあい》する親は、子供の精神的支えになることができないし、子供から尊敬もされない。「溺愛」という言葉は、おもしろいことに、ドイツ語では“猿の愛”という言葉であらわしている。人間の子を猿の子にしてはならないからであろう。
教育には厳しさが必要なのである。厳しさは教育される者にとってだけではなく、むしろ、教育する者にとってなおいっそう必要なのである。親が子供に期待することと、自分が行なうこと――この言行の一致の厳しさこそ、尊いものなのである。
威厳には厳しさが伴う
昭和五、六年にドイツでは、ナチスと共産党の青年団が激しく争う時期があった。秘密集会、デモ行進、すさまじい激論、そして殴り合いなど、日常茶飯事《さはんじ》だった。私たちカトリック青年団はその間にはさまれて、左からも右からも叩かれ、惨憺《さんたん》たる状態だった。ドイツはいったいどうなるのか――私たちは、自分たちが今立ち上がらないのは卑怯なことだと思って、必死になって議論を続ける毎日であった。
ある朝、父が勤めにでかける直前になって、私は思い切って言った。
「ちょっとお話したいことがあるのですが」
「なんだ、急に」
父は上衣に腕を通しながら、こちらを向いた。
「この週末に集まりがあるのですが、参加申し込みをしていいでしょうか」
「なんの集まりだ?」
「まあ、セミナーみたいなものです、ファシズムについての」
それを聞いて、父は私を見つめて、
「反対運動でも起こすつもりなのか」
「そこまでは考えていないんですが、しかし、何とかしなければならないでしょう?」
「そうか! そういう話か。でもおまえはあまりにもずるいぞ。ちょうどでかけるところなんだからな」
私は話が長びいては事が面倒になると思ったので、急いで訴えた。
「すみません。でも、申し込みは今日までなんです。申し込み料は僕の小遣いでなんとか間に合います」
父はにやりとして、私の頭を軽くおさえながら、
「金持ちだなあ、おまえは。しかし、お父さんはすこし考えたいんだ」
「先生からも、ぜひ来てくれないかといわれたんですが」
「先生に?」と、父はすこし言いよどんでから、肩をすくめてつづけた。
「先生の中にもいろいろの人がいるんだよ。思想的に染まっている人だっているんだ」
「でも、あの先生は大丈夫です。全然心配がありません。私たちの味方ですよ」
「そうかもしれない。しかし、もうすこしくわしいことを知りたいな」
そして、父は再び私の頭に手をのせて、
「それにしても、どうして、おまえは今まで何も言わなかったのか。おまえ自身迷っているからだろう? 急にそんなことを言い出したって駄目だ。今晩まで待ちなさい」
玄関へ歩き出した父に追いすがって、私は必死で頼んだ。
「友だちも行くんです。四、五人参加するんです」
「友だちが行くからおまえも行くというわけはないだろう。そんなことを認める前に、お父さんはおまえとゆっくり話がしたい。今晩でもどうだ、友だちも誘ってこい」
私はがっかりしてしまった。学校で、友だちに、
「君のおやじは頑固だな」
と言われて、憂鬱になった。友だちは、
「そうか。よし、僕らも応援しよう。今晩大いに議論して、君のおやじを説得しよう」と、励ましてくれた。
しかし、私たちは父を説得できなかった。父は、まず次のように口火を切った。
「いいかね。倅《せがれ》が何をしているのか、何をしたいのか――それはお父さんと関係のないことではないよ。倅のやりたいことを認めるか認めないか、それを決めるのが父親なんだ。父親の務めなんだよ」
それから、父はゆっくりみんなを見渡してから、
「まあ、こんな堅苦しい権利論は抜きにしてもだよ、父親には、君たちに対する責任がある。子供がやっていることに関してね。子供が親の脛《すね》をかじっている間、せめて成年に達する日までは、親の道義的責任は免れることができない。このことを忘れないでほしい。君たちがやろうとしていることはよくない、とは言わないが。でも、としはとしだ。自分たちがやることに対して、君たちはちゃんと責任がとれるかね」
「しかし、ナチスのやっていることはけしからんですよ。共産党はなおひどい。われわれ若ものが何もせず、彼らのイデオロギーや革命思想さえも勉強しないということは、あまりにも無責任ではないですか」
ここから議論が始まった。そして、母が心配するほど、私たちは激しく主張した。私たちはなんとかして父を説得したいと思って、よく準備していたのである。父は私たちの考えを最後まで静かに聞いてくれた。私たちがこれで反論の余地はあるまいと、いくらか誇らしげな面持で喋《しやべ》り終わると、父は、なるほどといった顔つきで微笑した。父はソファに腰をおろし、脚を組んで私たちの話を聞いていたのだが、私たちがさてという具合に、父の話を待ち構える気配を知って、まず、冷たくなりかけているお茶を飲むよう勧めた。それから、父は脚をほどき、からだを真直ぐに立てて反撃を始めた。
父は私たちの議論のポイントのはずれを巧みに指摘し、思いがけない質問を浴びせて私たちをハッとさせ、さらに私たちが全く考えもしていなかった問題にまで話を発展させて、結局、私たちにものも言えなくさせてしまったのである。自信たっぷりの十七歳の高校生を相手に、全然学歴のない――小学校しか出ていない父は、真正面から取組んで負けなかった。歴史、経済、政治などの勉強をしている私たちは、具体的な細かい知識の点では、たしかに父より物知りだった。それにもかかわらず、父は遠慮なく、しかも真剣になって私たちを攻撃したのである。しかも、話は一方的ではなく、私たちが言いたいことは全部言わせてくれたのである。友だちも、父は「偏狭なわからず屋」ではないということがよく分った。だから、私たちは、父が出した結論に心から納得することができた。
父は母にお茶のおかわりを命じてから、静かに言った。
「君たちが憤慨するのも無理のないことだ。でも、君たちは自分が何をすることができるか、もっと実際的に考えなさい。いま騒ぎを起こすのは、若いエネルギーの浪費になるのではないか。感情に走ってはいけないな」
それから父は大きくうなずいて、
「君たちの持っている不満や怒りは大切なものだよ。それが消えないように大事にすることだ。大人になったときにも、今の気持を失わないでいてほしいものだ」
私たちは父に“負けた”ことをべつにくやしく感じなかった。かえって、父の洞察《どうさつ》力、特にその信念に感銘をうけた。人生のひとりの先輩として、父の体験は貴重なものだとつくづく感じたのである。友だちは、もう、おやじを頑固だとは言わなかった。それどころか、父とさよならの握手をしながら、口々に、「いつかまた、是非、議論しましょう」と言って帰って行った。
最近、家庭教育の一つの欠陥として、いわゆる父親不在の家庭の問題が大きくクローズアップされている。世の父親は、勤め、出張、残業、あるいはつきあいなどの理由で、たしかに家庭にいる時間がすくなすぎる。理想的ではないが、現実の日本の社会においてやむを得ない事情であるかも知れない。私としては、この“外での用事による不在”は、それほどの問題ではないと思う。むしろ、父親の家庭における“精神的な不在”が悪影響を及ぼしているのは否定できない事実である。
レクリエーションやくつろぎを主に外で求めること、そして家にいるときには(疲れているからとかいって)、家庭にとけこまないで傍観者的な態度をとること――このような、父親の役割についての認識不足や無関心または無感動こそ、父親の“精神的な不在”の原因なのである。非両親的だと言わざるを得ない。
第二次世界大戦後の日本において、旧来の家庭の在り方に対して厳しい批判の目が向けられて、日本の民主化は、“家”の改善から始まるべきだという動きが強く現われた。その結果として、家族制度も家父長制度も廃止されたのである。その制度がなくなったこと自体は、必ずしも悲しむべきことではないが、それによって家庭が根底までゆり動かされたことは、戦後の日本のいちばん大きな禍《わざわい》である。家庭の根幹は、言うまでもなく父親である。しかし、家庭における父親の座はフラフラして、はなはだしくゆらいできた。家庭の統治者であるべき父親が、家族会議の単なる司会役または高等小使いみたいな哀れな存在になってしまったことはよく見受けられる。
もちろん、家父長制度の廃止以外に、父親の威厳を動揺させてしまった原因がいろいろある。基本的人権や男女同権や児童憲章の布告、若い世代の、封建主義や権力に対しての反発、全世界の注目を引いているウーマン・リブやウーマン・パワーの出現、はては悪名の高い教育ママ人種の増加など、さまざまな理由が挙げられるだろう。それらの善し悪しはともかくとして、父親の役割が驚くほど弱まってしまった。大ぜいの父親は、不安を感じながら、どうすればよいかお手上げの状態だ。頭をかきながら、困った、困ったといっているだけである。結果として、まるで新しいスタイルの父親が生まれてきた。すなわち、世の中の多くの父親を指して、ただよきパパにすぎないとか、ただの給料袋の運搬屋であるとか、皮肉をまじえていう人が遺憾《いかん》ながらすくなくないのである。
このような父親の新しいスタイルは父親というものの格下げであり、父親の威厳を危険にさらすことにほかならない。これこそ、家庭生活や家庭教育を乱す元凶なのである。なぜなら、父親の威厳というものは、父親としての役割の前提であって、その威厳喪失は家庭の中に甘えを生み、妻や子供たちを不幸にしてしまうからである。これは、現代の家庭にとってだけではなく、現代の社会にとっても大きな禍である。
私の父は一家を支えるよき稼《かせ》ぎ手であり、冗談や遊びや悪戯《いたずら》のよき仲間であった。それと同時にまた、行儀やしつけを重んじ、断固として悪を懲らしめ、迷わずに善を貫くおやじであった。威厳をもって家族に臨み、全力を家庭にうち込んだ父だった。そういうおやじに、もちろん私は恐れを感じる時もあった。威厳には、当然、厳しさが伴うからである。しかし、いま考えてみると、この威厳によってこそ、私の心の中におやじは頼りになるという信頼感が生まれたのである。そして、それがいつでも私を守ってくれた。私は父の強い手に導かれて、不安や迷いの錯綜《さくそう》する青春の時代を幸せにすごすことができたのである。
父権は放棄できない
「少年時代、私は父とよく腕相撲をした。当然のことながら、いつも負けていた。その度に安心をし、おやじの大きさを感じていた。しかし、ある日とうとう父を倒してしまった。それがいつの時であったか覚えていないが、妙に淋しくなって、むしょうに腹立たしかった。強いおやじのイメージが崩れ去った瞬間だったからである。父がその時どんな感じを持ったか、私にはわからない。ただ、私たちはそれ以来、どちらからも腕相撲をしようと言い出さなかった。
それでもおやじの威厳は保たれていたし、おやじは相変わらず、こわい存在であった」
この記事は、ある雑誌から書き抜いたものである。子供、特に男の子が抱いている父親像をよく描いていると思う。男の子にしろ、女の子にしろ、子供は強い男性的な父親を求める。父親のがっしりした手を握って、安心して青年期の迷いをのり越えたいという、当然の依頼心を持っている。父親の強さは、もちろん体力だけとは限らない。厚くて堅い、大きな岩盤にたとえられるような人格こそ、妻や子供を支える一家の大黒柱となるのである。
ヒットラーが政権を握る数カ月前の、ある日のことだった。当時、十二歳になったばかりの妹に、学校の先生からナチスの少女団に入るよう強い勧誘があった。しかし私の両親はそれに反対で、入団を断わった。その日の午後、父は学校に喚《よ》び出され、担任にも校長にもひどく責められたのである。もちろん、父は考えを変えず、きっぱり拒絶した。その夜の食事の時、父は先生たちとの議論の内容と、自分のとった立場について、いろいろと語ってくれた。父は、だいたい次のようなことを話した。
――国民の教育水準の維持、学習能力の向上及び学校内の規則の励行は、国家もしくは学校の責任の範囲内にあるが、私生活や家庭生活にまで影響の及ぶ政治的思想の普及を目的とする青少年団への入団は、国家や学校が強制し得るものではない。子供を社会人や国民に育てるための必要な教育は、当然のこととして国家が施さねばならないが、子供の道徳・宗教教育は、本質的に親の権利であり、かつ務めである。親が子供を学校に預けて、その教育のある部分を先生に委託しても、親は自分の教育権まで奪われてはいけない。自然法によって保障されているからである。国家もこの親の権利を認め、保護しなければならないが、残念ながらナチスの少女団には、特に、子供の最も大切な精神教育が保障されていない。それどころか、この団体の新しいモラルや民族論は、若い人々の正しい成長を阻害するものである。父親として、良心的にも入団を許すことはできない……。
事の重大性を、当時の私が正確に理解し得たとは無論いえないが、その頃すでに、私たちカトリック青年団はナチスと闘っていたので、心配になって父に言った。
「そんなことをすると、妹があとで困るんじゃないですか。やつらの仕返しはこわいですよ」
先ほどから父を見つめていた妹は、私に顔を向けて、
「そんなにこわいの?」
と尋ねた。父はすぐさま、その心細そうな声を打ち払うように答えた。
「大丈夫だよ、心配いらない。お父さんがいるからね」
妹は最初、ナチスの少女団のスマートなユニホームや派手な活動に憧《あこが》れて、友だちと一緒に入団したかったようだが、その晩、ベッドに入る前に私に言った。
「ねえ、お兄さん。お父さんはえらいのね」
そして、感に堪えないといったように、
「お父さんは、先生に頭を下げなかったのね」
私は、自分自身、ひどく誇らしい気持になり、保護者然として、
「でも、さっきも言っただろう。おまえは友だちから仲間はずれにされるかもしれないぞ。いじめられるのを覚悟しておけよ」
「心配いらないわ」
妹はそう言うと、思いきり跳び上がってベッドにとびのり、からだを揺らしながら父の声色を真似て、腹の底からの太い声を出した。
「お父さんがいるからね」
わが子を育てる教育権が与えられているのは、親に対してである。
「この権利は、いかなる社会・国家の権利にも優先し、地上のいかなる権力によっても侵害されてはならないもの」なのである。(教皇ピオ十一世・青少年のキリスト教的教育の回勅、一九二九年)
また、およそ八十五年前に、教皇レオ十三世は、その有名な社会回勅「レールム・ノヴァルム」の中で、親、特に父親の権利を次のような簡潔な言葉で表現している。
「人間は、市民である以前に、まず生存しなければならない。しかし、この生存を人間は国家から受けずに、両親から受ける。(中略)であるから、父親の権威は全く正当で、国家もこれを抑圧したり吸収したりすることはできない。人間の生命一般と同じ起源を父親の権威は持っている」
この回勅の一節は、人間の長い歴史の常識を語っているのである。
親は子供を教育する使命を帯びている。それは天から与えられた自然法的な権利及び義務である。従って、どんなことがあっても、それを放棄したり譲渡したりしてはいけない。国家や社会に対してはいうまでもなく、ひとりひとりの先生にさえ、子供の教育、特に心の教育を任せきってはいけないのである。これが私の父の教育論であり、かつ、教育に対する信念の原点であった。
昔の日本の父親にも、これと似たような強い信念があったと、よく本に書かれている。戦前には封建的家父長制があって、それによって父親の権威や権利が保障されていた。父親の戸主としての地位、権威が明確に定められていたことは、よくいわれているところである。この権威を家族制度が廃止されたときに大勢の父親が抵抗なしに放棄してしまったことが、しばしば指摘されているように、今日の家庭教育を乱してしまった最大の原因なのである。このことは、まことに残念なことである。なぜなら、父親の家庭における地位は、社会制度とか慣習、あるいは国家とか法律によって決定されるべきものではないからである。父親の父親たる権威や権利は、そのような地上の安っぽいものからの借りものであってはならない。
父親は、父親としての本当の権威と権利を自分のものとしなければならない。最近になって、父親の権威喪失に対して、「父権を回復せよ」という声が、よくきかれるようになってきた。これに対して、かつての忌わしい暴君復活論ではないかと、強く反論する人もいる。私は、違った意味で、「復権」という言葉に対して意見を持っている。父親は、生みの親である以上、父権を持っているのは当然である。そして、その父性を放棄できないのと全く同じように、自分の父権を放棄しようと思っても、放棄することはできない。父権の復活ということではなく、それよりも、父親の父親としての教育権、及び特にそれに伴う教育責任の再認識――これこそ、今日の父親にとって肝要なのである。父親の信念――子供を教育することに関する信念は、まさにそこから始まるのである。考えてみれば、親子の関係は、いうまでもなく人間性そのものに根ざした関係である。子供が親から教育を受けるという権利も、また、親がわが子を教育するという権利及び義務も、人間の自然から切り離すことのできないものである。神が親にも子供にも、お与えになったものなのである。
以上述べたことは、純粋の教育論ではないと指摘されるかもしれない。この点については、いま此処《こ こ》で論ずるつもりはない。私にとって、教育のあるべき姿とか方法とかいうものは、とにかく宗教的な世界観から切り離しては考えられないのである。教育における親の役割を考える場合には、なおさらそうなのである。
私の父の教育観も、信仰に深く根ざしたものであった。自分は神の代理として、神に委託された子供を真の人間に育てることによって、神の聖なるわざにあずかっているのだ――という使命感が、父を強い父親にしたのである。
私はよく、学校の父兄に次のように話すことがある。
――これといった決まった宗教を入学の条件にはしていません。しかし、皆さんは、是非とも根強い宗教観をもっていただきたい。宗教心の全くない家庭の子供を教育する自信は、私にはありません。宗教心が土台になっていない教育は、本当の教育ではないからです……。
私がこのように父兄に訴えるのは、現世だけに止《とど》まるような人生観はわが子の将来に役に立たないし、道案内者である親のしかるべき信念をも力のないものにしてしまうからである。
自然法に根ざす親の教育権には、もうひとつの、教育の本質に触れる研究課題がある。すなわち、親の権威と子の服従との調和である。おそらく人類の歴史の初めから、親も子もこの問題に悩まされてきたのであろうが、今日の社会状況によって、特にさしせまった問題になっている。権威や体制に対する若者の反発、及び彼らが強硬に自由を求める傾向が以前よりも強くなってきたので、大人は困惑しきっている。親の自信喪失の一つの原因もそこにある。
教育の基盤であるべき家庭は、戦争後、ひどく動揺してしまった。これは全世界的な現象であるが、日本における変化は特に著しいものがある。不慣れな民主主義の履き違え、家族及び家父長制の廃止、基本的人権の強調、そして自由主義の賛美などによって、親の権利そのものが無くなってしまったとか、本質的に変わったとかいうことはもちろんないが、曖昧《あいまい》になったことはおそらく否定できないだろう。
その親の権利は時折、特に父親によって、一方的に、ほしいままに振りまわされたということがよく指摘されている。私は評判ほど悪かったとは思わないが、「すべし、すべからず」といったようなしつけの一方的な押しつけは、たしかに今日の若者の抵抗を引き起こすものである。命令、禁止、規則、あるいは賞罰だけで子供を無理やりに従わせる、そのようなスパルタ教育は今日の時代には適合しない。どんな時代にも合わないものである。教育する者にとっては、簡明で便利であるかもしれないが、教育される者にとって実に堪え難いことなのである。
親の権利を主張できる時代は過ぎ去ったのである。しかし、それは必ずしも悲しむべきことではない。家庭教育の土台となるのは、権威よりも好意、従順よりも信頼なのである。だからといって、私は親の権威を否定したり、従順を過小評価するつもりはない。家庭にも上下があり、命令も禁止も必要となる場合がある。民主主義の時代においてさえである。私が強調したいのは、好意のない権威には独裁臭があり、信頼に支えられていない従順は奴隷的なものになりがちだということである。
人間は、人間である以上、権威対服従というジレンマは容易に解決されないであろう。しかし、お互いの理解や信頼は、悩み多き青少年時代の子供とその親の心配事を大幅に取り除いてくれる。親と子供の間の、より温かい心の触れ合い、より親しいつき合い、より穏やかな語らいによって、子供の服従とか尊敬――言葉はともかくとして、子供の協力を期待できるのである。
ある日、ひとりの高校生が困った顔をして校長室に入って来た。
「先生、すみません。正面玄関のガラスがわれてしまいました」
「あの大きなガラスが? しかし、君は自動詞を使ったけれども、他動詞で言うべきじゃないの?」
その生徒は、頭をかきながら、
「はい、そうです。友だちとふざけているうちに、わってしまいました。すみませんでした」
そして、頭を下げ、からだを固くして私の返事を待ちかまえていた。
「そんなことなら、事務室に報告することになっているでしょう。校長のところへ行くように言われたの?」
「いいえ、そうではありません。そのことについて御相談したいと思って参りました」
「その相談?」
彼は顔を上げて、私を見つめて言った。
「実は、弁償の金額が大きいので、どうも、父に言いにくいんです」
経済的に別に困っているような家庭でもないので、私は彼の話を不思議に思った。
「叱られるのを心配しているの?」
彼は恥ずかしそうに、
「はい、そうです。父に言ったら、大変なことになります。僕の責任ですから、むろん払いますが、もらっている小遣いだけではすぐ払えませんので、どうしたらいいでしょうか」
私は思わず笑い出すところだった。しかし、この生徒の真剣な気持を傷つけるわけにはいかない。私は立ち上がって、彼のお尻を軽く叩いて言った。
「叱ってもらうことも、責任をとる一つの方法だよ。でも……まあ、お金を貸してあげよう。事務室へ行って払いなさい。いそがないから、お小遣いをちゃんとためて、後で返しなさい。しかし、乱暴な悪ふざけは、絶対に止《や》めてもらうよ」
彼のほっとした顔つきは、まことに印象的だった。
この生徒と話しながら、私は自分の少年の頃の、ある日のできごとを思い出していた。この少年と同じように、不注意の過ちで、勉強も遊びもできないほど心配したことがあった。
私は登山用のジャケットが欲しかった。しかし、高価であることと、本当に必要なのかどうかということで、母となかなかむずかしい交渉を繰り返した。やっと望みを達して有頂天になっていたところ、運の悪いことに、その買ってもらったばかりのジャケットを、たまたま乗りこんだ長距離列車の中に置き忘れてしまった。家への道を歩きながら、どう詫《わ》びたらよいか、いっそ家などなくなってしまえとまで思った。どうしようもなく、思いきって父にそのことを打ち明けた。
「そういうことだったのか」
と、父はむずかしい顔にしては、やさしい声で言った。
「おまえの顔を見て、なにかあったなと思ったのだが。ついこの間、お母さんがしぶしぶ買ってくれたあのジャケットだな」
そして、父自身もため息をつくように、
「しようがない奴だな」と、私の頭を軽く叩いた。
「どうも、すみません」
「すみませんでは、どうにもならないよ。駅にそれを知らせたのか?」
「見つかったかどうかきいたんですが、ないということでした」
「ちょっときいてみただけじゃ、どうにもならないよ。徹底的に調べてもらうんだ。おまえがなくしたんだから、おまえが自分でそれを見つけるんだ」
「でも、どうやって見つけるのか……」
なんとか助けてもらえるという甘い期待が打ち砕かれ、私はやけくそになって、ほとんど叫ぶように言った。父は、私の甲高い声を押えて、静かに、
「よし、お父さんが教えてやろう」と言って、どこへ、なにを、どうすればいいか、詳しく説明してくれた。そして、列車の時刻表、終点の駅の名前まで一緒に調べてくれてから、父は私に片目をつぶってみせて言った。
「見つかるまでは、お母さんには言わない方がいいな。見つからなかったら、まあ、その時考えよう」
一週間かかったが、幸いジャケットは見つかった。本当に嬉しかった。しかし、もっと嬉しかったのは、父の態度であった。私の父に対する信頼が、いっそう強まったのは言うまでもない。
このエピソード――ガラスをわって、あやまりに来た生徒が私に思い出させてくれた父の思い出話で、私の父が甘かったという印象を読者に与えてしまったならば、それは私の本意ではない。父には、子供を甘やかすということがなかった。甘やかすようにみえても、それは子供の――私の内部にある力を引き出してくれる激励であった。今にして、それが私にはよくわかる。「動作は撓《たお》やかに、ことにあたってはきっぱりと」というローマ時代の諺は、私の父の甘くて厳しい、厳しくて甘い父性をぴたりと言い当てている。まさに、私の父は文字通りの外柔内剛の人であったと思う。
私の心にある父親像は、さきに述べたような体験によって形作られた。
――父親は、世の母親とは違って、心がひろい。細かいことにこだわらない。些細《ささい》なことで怒ることはない。不平も、失敗も、過ちも、父親に率直に打ち明けていい。辛い時には、必ず助けの手をさし伸べてくれる。しかし、何でも許し、大目に見るような甘さはない。妥協はしない。言うべきことは、はっきりと言う。父親のイエスとノーは、実に明確である……。
これが、父親にあるべき権威――権利だけによるものではなく、人格や好意や温かい心遣いによって支えられる権威なのである。この権威こそ、父親を強い父親にするのである。
私が父の強さに対して、頑強に抵抗を試みたことはいうまでもない。男の子は、やはり男の子である。うまい口実や白熱した口論や無言の反抗などをもって、なんとかして父を打ち倒してやろうという気持が時にはあった。力は力を呼ぶからである。しかし、最後まで父を倒すことができなかった。もし打ち倒していたならば、腕相撲で父親を負かしたあの青年以上の淋しさや落胆を味わうことになっただろう。成功しなかったからこそ、強いおやじのイメージは今でも懐かしい思い出として残っている。
話す父より話せる父
「ほんとうに羨《うらや》ましいね、君は」
「どうしてさ」
「だって、君のおやじは一緒に遊んでくれるし、君とよく話をするんだろう。うちのおやじはなんにも言わない。『ウン、ウン』と、たったそれだけさ」
「ほんとう?」
「ほんとうなんだ。全然僕を相手にしてくれないんだ。ぼくがきいても、『お母さんにきいてごらん』だよ。たまには、『おまえの好きなように』とか、『自分でよく考えろ』だよ。だから僕もなにも言わない。いやになっちゃうんだ」
「僕のおやじだって、黙りこくってなんにも言わないこともあるよ。気のむかないときなんか」
「それでも、僕のおやじとは違うな。全く羨ましいよ」
友だちから、このような不満をよく聞かされたことを覚えている。私には、どうしても理解できないことだった。おそらく、私の父が陽気な人柄で、遊びも歌も、また話も議論も好きだったからだろう。父と一緒にいると、いつの間にか活発なやりとりが始まって、母や妹がいらいらするほどだった。
「お父さんたち、おしゃべりしすぎじゃないの。どうして女に生まれてこなかったのかしら」と、母から何度も皮肉たっぷりにからかわれたものだ。すると、父は、
「頭の中が錆《さび》つかないようにするためさ。お母さんみたいにね」といった具合に、す早く切りかえすのである。
私の家は町はずれにあったが、日曜や祝祭日には友だちがよく遊びに来た。時には、姉や妹まで連れて来る友だちもいた。家の前には広い芝生の庭があり、大きなにれの木が豊かな枝を伸ばして明るい木蔭《こかげ》をつくっていた。そこで父がアコーディオンを弾き、私たち若者が歌ったり踊ったりした。近頃、日本でもはやっているフォークダンスも、いわゆる社交ダンスも、この庭のダンス教室で父から習った。その頃私は十三、四歳で、今思っても、なんともいえない愉快な気持が生き生きと甦《よみがえ》ってくる。
母はジュースやコーヒーを用意してくれ、また時々、友だちのお母さんたちがお菓子を作って持って来てくれた。疲れたり、声が嗄《か》れてしまった時には、私たちは芝生に父を囲んで坐り、汗ばんだ肌を撫《な》でていく微風の中で、父の昔話を楽しんだ。海軍時代のことや戦争の思い出、軍艦に乗って異国の港で経験したこと、あるいは最近耳にした面白い話とか仕事場で起こった珍事など、身振り手振りよろしく、時にはおどけた顔つきで話してくれた。父の話には、「千一夜物語」にあるような信じ難いホラ話も多く、私たちは思わず吹き出すこともあった。また時折、父は私たちに考えさせるために、イソップ寓話《ぐうわ》にあるような教訓を話につけ加えた。いささかオーバーな、こじつけた教訓も多かったので、それに対して必ず威勢のいい議論が起こった。
「お父さん、そんなえらそうな教訓はやめてください。みんなが笑うよ」
と、私は父に言ったこともある。そんな時、父自身も大きなからだをゆすって大笑いして、
「いいじゃないか、笑ったって。わいわい言い合うのも楽しいじゃないか」と言うのであった。たぶん、父は活発な話し合いを起こすために、わざと議論の種をまいたのかもしれないが、他方で私たちは、そうやって楽しんでいる父とともに、話し合いの楽しさを充分に享受することができた。
考えてみると、父にはおどけ役者のような面があったが、同時に、社会常識を教える野外教室の教師のような面もあった。私たちは腹の皮をよじらせて笑いながら、学校の教室では絶対に学べない知識やインフォメーションを得ることができたのである。なるほど、大人の世界はそういうものなのかと、しばしば考えさせられたのである。父がこんなふうに喜んで私たちの相手になってくれたので、友だちに羨ましがられたのだった。
現代は親子の関係がむずかしい時代だと、よくいわれている。そんな時代だからこそ、毎日の暮しの中で大いに子供と心の交流をはかるよう、親に強く勧める人が多い。そしてその方法として、親子の話し合いということが特に強調されている。実際、話し合いという言葉は、いまや教育関係の出版物に新しい専門用語として広く使われているし、話し合いによる子供の指導があらゆる教育問題の万能薬として考えられ、とりわけ父親に強く求められている。
親子の話し合いは、もちろん、たいへんよいことであるが、話し合いについて途方もない称賛をきくと、私は時にうんざりしてしまうのである。話し合いをもってしても解決できない問題もあるし、不慣れのせいか、あるいはやり方が下手なのか、父と子が遠ざかってしまうことさえある。よく耳にすることだが、息子と話し合わなくてはならないというわけで、彼を正座させ訓話を聞かせる父親がいるようだ。そんなことは絶対にしてはならないとはいわないが、もちろん、それは話し合いではない。話し合いは単なる説教とか、小言とか、あるいは助言とかいうようなものではないからである。
親子同士が話し合いをすることができるのには、いろいろの条件が必要である。その一つは、家庭内の話し合いの雰囲気《ふんいき》である。親しく話し合う前に、親しくつき合うということだ。日常生活のなかでの自然な触れ合いを通して、親と子の間に遠慮のないつながりが生まれ、そしてはじめて気軽に語り合うことができるのである。
もう一つ、話し合いの前提に忘れてならぬことがある。よく経験することだが、親には、自分ではあまり話をしないのに、子供には大いに話してもらいたいと思う傾向がある。たとえば、勉強はどうだった? 試験はできた? 先生に叱られなかった? どんなことをして遊んだ?――などのような、子供にとって煩わしさ以外の何ものでもない質問をして、無理やりに報告させる。幼い子供ならそれでもかまわないだろうが、子供には、それを強く嫌う時期が遠からずやってくる。また、子供がそのような取り調べに応えてくれるとしても、そんな質疑応答は決して話し合いとはいえない。それは親の好奇心、あるいは過剰保護のあらわれにすぎないのであって、子供は親のこのような余計な口出しをひどく嫌悪し、心の中で反抗してしまうことが多いのである。従って、子供の反抗心を刺激せずに、家庭の自然なコミュニケーションや温かいつき合いをすすめるためには、親自身も話をする親でなくてはならない。
私にはこんな経験がある。ある日の父母会の席上で、次のように訊《き》かれた。
「先生、うちの子供は最近、少しも口をきいてくれないのです。何も話しません。話し掛けられても、ほとんど返事をしません。親は、いったいどうしたらいいのでしょうか」
「そうですね。十四、五歳の子供はそんなものです。それほどの心配事ではありません。どうしたらいいかというと、さあ――親のおしゃべりを普通よりも多くしたらいかがでしょうか。子供の無口を全然気にしていないかのようにね」
「そのことを試してみたのですが、全く反応がありませんでした。勉強とか読書とかスポーツのこと、そして、先生方や友だちのことなどを尋ねて聞き出したかったのですが……」
「ちょっと待って下さい、奥様。『聞き出したかった』と仰《おつ》しゃったんですね。子供は、いやがるに決まってますよ、そんな身の上の取り調べみたいでは。それは、子供をしゃべらせるような方法ではありません。私は親と子供がもっとおしゃべりになることをすすめたい」
私がこう言った時、両親は二人とも驚いた顔をした。
「恐縮ですが、お父さんとお母さんにちょっとおききしたいことがあります。子供がいる時に、そして子供の前で、たとえば食事の時など、お二人で話をなさることは多いでしょうか、少ないでしょうか」
「どんな話です?」
「どんな話でもいい。自分のこと、たとえば、仕事や買物やお知り合いや友だちなどについて。滑稽な出来事があれば、そのことを。または面白い経験など。お互いを笑わせ、楽しませる冗談や世間話。そのような話はお持ちでしょう。それをもっと多く話されたらいかがでしょうか」
「そのような話はあまりありません。主人は、そのようなことは嫌いなようです」
「では、ご主人におききします。どうして、そのような話はいけないのでしょうか」
「いけないとは言いませんが、そんなくだらない話はできません。第一、不自然だと思うのですが」
「私は不自然だとは思いません。日常の話なのですから、かえって、ごく自然ではありませんか。子供は親を真似て成長していく。おしゃべりすることも、笑うことも、人間同士の正しいつきあいも、温かい家庭の雰囲気を通して親から習うことこそ自然です」
簡単に言わせてもらえば、親子同士の話し合いは、親同士の話し合いから始まる――と、こういっても過言ではない。父親や母親は、その日にあったこと、失敗したこと、楽しかったこと、悩んだり心配していること、あるいは今度やってみたいと思っていることなどを、子供の前で、子供をまじえて語り合うべきなのである。これは子供を信頼していることのあらわれでもある。そのような世間話や報告、相談や雑談などをするなら、子供は、人間は話す動物だとか、家庭のなかの対話はごく当り前のものだとか、自分もこの家庭の構成メンバーの一員だということが自然とわかってきて、次第に自分自身のことも喜んで話すようになるだろう。たいていの子供は、家族の一員として、その日その日の哀歓を共にしたいと願っているのである。
もっとも、気楽におしゃべりできる温かい雰囲気があり、かつ親子の間がしっくりいっていても、子供が自分のことを総《すべ》て話してくれるものと期待してはいけない。自分のプライバシーを守りたい、自分の問題はやはり自分で解決しなければならない――という独立心が強くなってくるからである。また、場合によっては、自分の心を苦しめている不安や悩みが実に語り難い、時には全く話すことのできないこともあるからである。親にとっては堪え難い事実であるかもしれないが、子供が親に話せることは、おそらく一部分でしかないであろう。友だちに裏切られたこと、恥をかかされたこと、恋愛や失恋、セックスなどのことを話したがらないのは、ティーン・エージャーの健全な心理である。このようなことを無理にきき出そうとするのは、全くお節介にすぎない。子供が親に対して秘密をもっていてもおかしくはないのである。話せる父親に恵まれた私自身にしても、たとえば、女友だちのことなどは話せなかった。しかし、自分でそのような悩みを解決できないならば、その時には父が必ず相談にのってくれるという信頼感が、いつも私の不安をとり払い、力を与えてくれたのである。
世の中には、いろいろな性格の人間がいる。よく話をする人もいるし、無口の人もいる。父親についても、同じことがいえるだろう。話をあまりせず、歌も歌えない父親、あるいはユーモアや冗談もわからず、つき合いの下手な父親がいる。口数が少ないから父親としての資格がないなどとは、無論いえない。無口でも、立派な父親はたくさんいる。いてもいいのである。というのも、妻や子供の支えとなるのは、父親の口ではなく人格だからである。子供のことをいつも考えている父親なら、家庭にいるというそのことだけで、自分の生きていく姿勢や、日々の表情などを以て、家族の信頼を得るのである。
よく話をする父親は家庭にとって有難い存在であるが、最も大切なのは、話をする父親よりも、話せる父親なのである。
親とは親しさ
その当時、子供の最大の関心の的であったハーゲンベックサーカスが、いよいよ私たちの町にやってくることになった。
「連れて行ってやろう」と、父が妹に約束した時、妹は飛び上がるほど喜んだ。しかし、待ちに待った日がきて、父と妹が家を出ようとした時、突然、父の友人が訪ねて来た。よく家にくる人だったので、私はまたかと思い、時間のかかる用事ではないかと心配になった。妹は失望の涙をこらえて、楽しみにしていたサーカスを諦《あきら》めるほかはないと、そっと私に向かって肩をすくめてみせた。ところが、父は先約があるからと言って、二、三分で話を打ち切ってしまったのである。母が、
「お客様に失礼じゃありませんか。サーカスはいつかまた来るんですから、なにもお客様を断わらなくたってよかったでしょうに」
と言うと、父は、
「それはそうさ。サーカスはまた来るだろう。でも、少女時代は再び来《きた》らずだ」
と答え、待ちかまえている妹を呼んだ。
「さあ、早く出かけよう。またお客が来ないうちに逃げ出さなくちゃ」
母と私は、妹を腕にぶらさげるようにして家をとび出して行った父の恰好がおかしいといって、二人の姿が町角の向うに見えなくなるまで、笑いこけていた。
父は、少年時代は二度と来ないのだから大いに楽しむことだ――と、よく言ってくれたものである。そして、家族と一緒に楽しむことは、父親としての大切な役割と考えていたらしく、よく私たちと一緒に遊んだり歌ったり、あるいはハイキングやゲームの仲間になってくれた。私にとって、誰しもそうであろうが、実に懐かしい思い出となっている。
「お父さん、ボール投げをしようよ」
と、時折、帰宅しただかりの父をつかまえて外へ連れ出そうとする。すると、いつも母は笑いながら、
「もう夕方よ、よしなさい。お父さんはお疲れよ」
と、ブレーキをかける。しかし、そのたびに、父は着替えたシャツ姿で腕を振り廻しながら言うのだった。
「よし、ちょっとならいいぞ。やろう」
そして、私の額を指で軽くつついて、
「こいつめ! おまえの笑い顔を見ると、疲れも吹き飛んでしまうよ」
こんな具合に一緒に楽しみながら、言うに言われぬ温かい親しみが生まれてきたのである。時に起こる親子の間の不和――たとえば、親にとっても子供にとっても辛い、反抗時代の感情の行き違いや言い争いなども、このような親しいやりとりのうちに、造作もなく消えてしまった。
今日、時代のズレとか、断絶とかいうことがよく話題になる。「親は自分のことを全然わかってくれない」と子供が言うと、これに対して親は、「子供は何を考えているのか、さっぱりわからない」と嘆く。実際、このような泣き言はしょっちゅう耳に入ってくるのである。
私の子供の頃にも、やはり世代のずれというものはたしかにあった。しかし、今日のようにマスコミによって喧伝《けんでん》され、無理やりに大袈裟《おおげさ》なものにされることはなかった。いつの時代にも、意見の相違、激しい討論、沈黙の抵抗、喧嘩などあったのである。しかも、このような親子の衝突は、子供の成長に伴って必然的に生じるもので、場合によっては子供の社会性を鍛えるものとして、必ずしも心配する必要はない。世代のズレは、言うまでもなく、人生の先輩後輩の関係を示し、人間の成長や生活環境に、そして歴史の動きにもかかわるものなのである。
この新旧世代の隔りは、最近、歴史の動きや社会の急速な発展によって、特に深刻なものになってきている。歴史や社会の発展という点だけから考えても、まことに類のない激しさである。今日の物質的、技術的文明は、わずか二、三十年の間に、以前の百年間に相当する速度で進展してきたとよくいわれる。とりわけ、科学の分野における知識の開発は恐るべきもので、十年毎に倍になるのではないかという説すらある。
こうした時代の中で、若い世代は学校では無論のこと、テレビ、ラジオ、映画、新聞、雑誌、はては漫画本に至るマスメディアを通して、実に厖大《ぼうだい》な知識を吸収しているのである。ぞうきんの絞り方は知らなくとも、最新の宇宙科学や公害などについては専門家のように堂々と論ずることができるし、衣食住の近代化とか余暇の利用について懸命に語る。また、脱税、性犯罪、汚職、差別などのあらゆる社会悪について、くわし過ぎるほどの知識を持っている。
こうしたことから、現代っ子の特徴の一つ――自分たちは親よりはるかに進んだ現代人であるという自負が生まれるのである。従って、若い人たちのなかには、親は新時代に理解がなく、歴史に追い越されていて考え方が堅く、とても話し相手にはなり得ないと思い込んでいるものが多い。このことは別に驚くべきことではない。驚くべきことは、息子が自信たっぷり威張りくさって自分の意見を通そうとする時に、父親は返事に困って、すぐ手を上げてしまうことである。全く残念なことだと思う。なぜならば、子供の断片的で消化不良の知識は、父親の権威を失墜させ得るものではないはずだからである。
父親は大人であり先輩であり、そして親として社会人として、実に貴重な経験を持っている。その経験は当然生かされるべきものである。たとえ、原子や分子の構造を知らなくとも、ビートルズの音楽に鈍感であっても、父親は人生の優れた経験者なのである。父親が自分の身を以て得た体験に相当するものは、子供は漫画や新聞のスポーツ欄、あるいはテレビや深夜放送のジョッキーたちからは絶対に得られないのである。母親は単に母であって、時に微力であり、経験も乏しいので、頼りにならない場合が多いかもしれない。しかし、父親は単に父ではない。常に、家の外で「公人」としての役目をも果たしている。だから、その資格によって、子供にものを正しく見る目、ものを正しく判断する力を育ててやらなければならないのである。そうしない限り、子供は混乱した知識の泥沼の中で溺《おぼ》れてしまうであろう。父親は勇気をもって、遠慮なしに子供にぶつかっていかなくてはならない。そうすることによって、男同士の親密な心の触れ合いが生まれるのであり、ひいては、正しい家庭教育が実現されるのである。
多種多様の価値観の原始林の中で、子供のために道しるべを立てることのできるのは、まさに父親であると、私は繰り返し強調したい。
ところで、幼少年時代は第二の胎内児であると言っても、決して言い過ぎではない。この第二の胎内児が頼る母胎は、ほかならぬ、自分の成長を見守ってくれる家庭である。父親も母親もともに、人生経験の豊かな教師として、子供の力不足を補ってやらなくてはならない。家庭は、子供の生活能力を結実させる人生の最初の教室なのである。
家庭の中で子供は、日一日と、歩き、食べ、生きる能力を身につけていくばかりでなく、正しく生きること、そして環境への適応を学んでいく。成長に伴って、子供は独立性が強くなり、外の社会からの影響で不安や迷いが多くなるにつれて、親の指導を受け入れる姿勢にも微妙な変化が現われてくる。疑い、不信、対立などは、子供の成長をあらわす現象そのものにほかならないのであるから、それらが、将来、親と子の心を悩ませる隔りとならないように、早い時期から適切な予防手段を講ずべきであることは論をまたぬことである。
先日、ある高校二年の生徒と雑談した時、彼に尋ねた。
「将来、何をしたいのですか。だいたい決まった? もう高二も終りに近いんだからね」
彼は、真直ぐ頭を上げて言った。
「以前にお話した通りです、先生。やっぱり、小学校の先生になりたいと思います」
私は、彼のさわやかな言い方に、思わず微笑してしまった。
「それは結構なことだ。でも、お父さんは? お父さんは、あまり喜ばないんじゃないか。お父さんの希望とは違うのだろう?」
彼はうなずいて、
「初めはそうだったんです。しかし……」と頭をかき、にっこりしてつづけた。
「ちょっと、ずるいことをしました。父とは小学校の頃から、よくハイキングをするんです。父も山が好きなもんですから。この間、一緒に山へ行った時、僕の志望を話しました。寛《くつろ》いだ気持で、ゆっくり話ができました」
そして、彼は胸を張って、
「父の気持もわからないことはないのです。相当考えさせられました。でも、父は僕のことを理解しているようです、前よりも。父とは仲がいいから、何とかなるでしょう」
私はこの生徒の話を聞いて、この親子の間には、感覚のズレとか断絶というものは全くないのだと、しみじみ思った。意見の違いがあっても、話し合える前提があるから、妥当な解決がつくのである。
この例でもわかるように、家庭での温かい心の触れ合いがあの堪え難い親と子の気持の隔りを避けるための最良の予防手段なのである。母親だけでなく、父親も子供の幼少時代からそのことを心掛け、子供と一緒に若い世代の青春を楽しみながら、家庭内の親しさ、そして信頼感を育てていくのが、とりもなおさず、すばらしい親心なのであると思う。
“親”と“親しさ”の二つの言葉が、同じ文字で書かれることは決して偶然ではない。さまざまな反省を喚び起こす文字であると思うのである。
父の手
私の父は第一次大戦後、鍛冶屋《かじや》から炭坑夫に転職して、炭坑の技術職員になった。仕事は坑内の竪坑《たてこう》掘削だった。
五十年前の炭坑の穴掘りは、周知のように、健康にとって実に恐ろしい仕事であった。とりわけ、まいあがる岩石や石炭の微細な塵《ちり》は珪肺《けいはい》病の原因となり、多くの炭坑夫を死に至らしめた。父は、設備をもっと改善できさえすれば、健康にそれほどの害を及ぼさないだろうと考え、現場での体験や多くの実験によって、その改善の試みに成功した。やがて、父はその改善案を採用した下請会社の現場責任者となった。私が十六歳の時である。
辞令をもらったその日の夜のこと、父が私の部屋に来て言った。
「これから毎月、事業報告書を書かなくてはならないんだが、その報告書を、おまえ、書いてくれないか。職員の給料計算もだよ。なあに、十二、三人だけだ、たいしたことじゃない」
私は父の仕事がこれまで以上に忙しくなることは知っていたが、こんなふうに突然に、しかも面倒くさそうな仕事の手伝いを頼まれるとは思ってもみなかった。それで、降りかかる火の粉でも打ち払うように、
「さあ。どうして、お父さん、自分でやらないの」
「まあな。お父さんは文章もあまりうまくないし、計算も苦手だ。おまえはちゃんとやれるだろう、頼むぞ」
「お父さんはうまいや。なにかあると、すぐにおだてるんだから」
私はくすぐられていることがわかっていながら、いささか得意になりかけていた。しかし、ただでさえたいへんな学校の勉強のほかに、わけもわからない仕事がふえるのはえらいことだと思い、なんとか、ごまかして逃げることにした。
「でもね、ぼくにできる?」
初めは上機嫌だった父は、あまりぐずぐずしている私をみて、逃げようとする気持がわかったらしく、急に厳しい顔つきになった。父は太い眉をしかめて、
「できないのなら、学校なんてやめた方がいい。おまえは、いったい何を習っているんだ。抽象論だけか? そんなら全く役に立たんじゃないか」
いつもそうなのだが、この時も、到底父からは逃げきれないことを悟った。あとは突撃あるのみである。私は頭をかきながら、
「やられたなあ。はい、はい、お手伝い致しますよ」
そして、反撃に移った。
「ところで、聖書にも書いてあるように、働く人がその報酬を受けるのは当然ですよね。お父さん、ぼくの給料は?」
父はにやりとして、
「ちゃんとだすよ」
「いくらもらえるの?」
「そうだな……」
と、父は得意の冗談を思いついた時いつでもやるように、もうだいぶ薄くなった頭を撫《な》でて、
「まあ、お母さんと同じくらいの月給ならどうだ?」
私はがっかりする前に、吹き出してしまった。
「お父さん、それじゃゼロだ。まるで、産業革命時代の年少労働者だな。まあ、いいや。恩返しだから」
「恩返しだって? とんでもない。おまえは、恩返しがそんな安っぽいものだと考えているのか」
それから父は、最後の締めくくりだといわんばかりに、腕を大きく広げ、肩をすくませて言った。
「貸付金の利息返済だよ」
ことは、私の返り討ちで終わった。もとより、からかい半分のお説教だったが、しかしからかいは、まさに半分だけであった。あとの半分は、家庭を家庭たらしめる協力や思いやりへの厳しい呼びかけであったのである。
父の代筆係や秘書になって、父の仕事への熱情、ひたむきの努力、そしてそこから湧《わ》き上がる生き甲斐《がい》や誇りを目《ま》のあたりに見ることができたのは、私にとって深い感動を伴った体験となった。
たまには、年に二、三回のことだったが、かなり細かい事業報告書を提出しなければならなかった。そのためには、設備や仕事の実情を現場で確認する必要があったので、私は父と一緒に坑内に入り、地下八、九百メートルのすさまじい湿度と熱気の仕事場で資料を集めたものであった。いまでも、父や他の坑夫たちの働くなまの姿、彼らのきつい労働、そしてカーバイドランプで光っている汗みどろの真黒な顔――そういった情景が、ありありと脳裏に甦《よみがえ》ってくる。
父の職場の「見学」は、私にとって実社会への貴重な覗《のぞ》き窓となり、教科書よりもはるかに優れた生きた教材になった。炭坑夫の苛酷《かこく》な労働、それにもかかわらず、懸命に生きていく彼らの姿を見て、私の心の扉は狭い自分の世界から外に向かって開かれたのであった。さらにまた、父は自分が勉強や仕事に全力を傾注している姿を示すことにより、勉強の辛さに愚痴をこぼしたり、学校の勉強の意義について否定的な言辞を弄《ろう》したりすることは、まさに自分自身を甘やかしているのにほかならないということを私にわからせてくれたのであった。
今日、労働形態や条件が大きく変わって、子供は父親の仕事をする姿を間近に見ることができない場合が多く、働く父親を通して生活とは何であるかを学ぶチャンスが少なくなった。そして、このことが原因の一つであるかどうかはともかくとして、現代っ子の大部分が労働の尊さを見失い、仕事に対して正しく価値判断することができなくなる危険が生じてきた。そのうえ、アパート住い、レジャーブーム、インスタント料理、そして成績のみを心配して子供の召使になってしまった教育ママの過剰な世話やきなどのような理由で、自分の身で労働を体験する若い人が、年年減りつつあるようである。学校での掃除当番、部室の整頓、ゲームの後片付け、あるいは合宿中の手仕事などの状態から、子供の仕事嫌いをはっきり証明することができるし、また同時に、家庭での世話のやき過ぎをも見抜くことが可能である。
特に、からだを使い、手をよごす仕事を卑しいものと考え、そのような辛い仕事から逃れようとする傾向が強くなっている。この傾向は若者だけではなく、一般の大人にも見られるもので、労働軽視の恐るべき偏見といわざるを得ない。聖書の「額に汗してパンを食べ……」という言葉は、まるで過ぎ去った時代の教訓のようにさえ思われる。
子供に仕事とは何かということを理解させ、可能なかぎり体験させることは、全人教育の大切な一部分である。仕事は、生計に必要であるということは言うまでもないが、それと同時に、人間性に直結した、当然なくてはならぬものであることを忘れてはいけない。勤めも、義務も、なんらの強制のない生活というものはあり得ない。人間の自然にあわないからである。無為安逸な生活ほど、人間を堕落させるものはない。人間というものは、自分の力を活かし、なにかを造り、なにかを為《な》し遂げていく――一言でいえば仕事をするものである。その仕事への打ち込み方や努力、さらにそこから湧《わ》き上がるエネルギーやバイタリティは、人間に言い知れぬ喜びと充実感を与えてくれる。そして、人間を育ててくれるのである。
このような仕事観は、プレーボーイ主義に迷わされている大勢の若者にとって、あまり魅力のないものかもしれない。それだけに、若い世代にとって、できるだけ早く、人生における仕事の意味を知る必要があるし、仕事を体験することが大切になるのである。これこそ、家庭の外の世界で活躍している父親が、最もよく子供に理解させ得ることではないだろうか。
学校では、到底そこまでは教えられない。もちろん、先生は授業の折、あるいは課外活動を指導しながら、労働や仕事の尊さについて話すけれども、先生の話というものは、えてして単なる抽象論、お説教、はなはだしきはテレビのコマーシャルのようにみなされがちなものである。生徒は、先生は職業柄、そういわざるを得ないのだと考えて、素直に耳を傾けない。
しかし、父親の立場は違う。父親は、社会の実態を知っており、厳しい条件のもとでもまれているひとりのプロフェショナルである。父親には、子供に興味や関心、場合によっては、驚きをも喚び起こす体験が山ほどある。この父親の体験は、子供にとってまことに貴重な贈りものになるはずである。私はよく思うのだが、父親は、たまには自分自身の自己紹介を子供にしなければならない。自分の親が何によって生計をたてているのか、子供は当然知っておかなくてはならない。自分がしている仕事の内容、その面白さや辛さ、その社会的価値、あるいはその仕事に伴うさまざまの前提や条件――それらを子供に理解させることは、大人の社会へのオリエンテーションともなるし、さらに大切なことだが、父親と子供との親密度を強めるものともなるのである。
私が教えている高校生で、父親の「仕事場」を見学したことのある者はほとんどいない。父親の仕事の内容を知っている生徒もすくない。先日も、ひとりの生徒を呼んで、伝言を頼んだ。
「二、三日前に、君のお父さんから、会社でやっている公害防止研究について話をきいたんですが、たいへん面白かった。もうすこし詳しくききたいので、いつかお宅へ伺いますと、そうお父さんに伝えてください」
その生徒は、一瞬、とまどった表情を示して、逆に私に尋ねてきた。
「僕の父は公害防止の研究をしているのですか」
それから、生き生きとして、
「そうですか。それじゃ、先生、是非いらっしゃってください。僕もその話をきくつもりです」
なんとも皮肉な光景だった。たとえ公害防止といった高度の研究でなくとも、父親は自分が額に汗してやっている仕事の価値を、そしてまた、その仕事によって家族も世の中の人々もともになんらかの恩恵を受けていることを、自分の子供に教えるべきなのである。
あるフランスの雑誌で、次の話を読んだことがある。それを読んだ時に、私の心に、まざまざと父親の姿が浮かんできた。
――パリのノートルダムの大聖堂の建築で、三人の職人が一緒に仕事をしていた。三人の中の一人は無気力な男で、やっている仕事のことをたずねられると、うんざりした顔つきで、
「おれは、石を切っているんだ。食うために働く必要さえなけりゃ、こんな仕事はすぐにでもやめてしまうさ」と、いつも言っていた。
もう一人の職人の仕事は、聖堂に使う材木を切ることだった。この男もまた、仕事に無関心で、たえず不平を言っていた。自分のしている仕事がいやで、少しも喜びを感じていないという様子だった。
三番目の男の仕事は、他の二人と比べて、はるかに地味で、ただ、他の人が切った石や材木を運ぶだけであったが、歌を歌ったり、口笛を吹いたりしながら、いつでも気持よく働いていた。仲間たちが、「おれたちはいやで仕様がない。どうして、お前は、そんな下働きのくだらない仕事を、そんなに愉快そうにやっているのだ?」とたずねたところ、「なに、くだらない仕事だって! 大聖堂を作っているんだよ。ちっともくだらないことはないよ」と答えた……。
実際、彼は、大聖堂を作っていたのである。大きな計画の中での彼の役割は小さいものかも知れないが、それでも、彼はどうしてもいなくてはならない存在であった。彼がいなければ、あるいは彼がしていた仕事をする人がいなかったら、大聖堂は出来あがらなかったに違いない。彼は、そのことを知っていたのである。つまり、どんな仕事をしているのか、それは大した問題ではない。いかにその仕事をしているかによって、その仕事は充実したものとなるし、人間の喜びや、自己のそして人間の社会的価値も決まってくるのである。そのことを、父親は自分の身をもって、具体的に示さなくてはならないのである。それによって、家庭のため、社会のために努力している父親の本当の姿を子供に認識させることができれば、父親を単なる月給運搬人だとする悪口は自然に消えてしまうだろう。
子供は父親を知り、誇りにしたいものなのである。その点から考えても、家庭人と社会人である父親の仕事を子供に理解させることこそ、子供の正しい人生への、また望ましい社会性への、このうえない呼びかけとなるのである。
ある日、二、三人の友だちを食事に招待した時、私は母にそっと言った。
「お母さん、いつでも困ってるんだけど」
母は台所でデザートにするアップルパイを作っていたが、手を休めずにふり向いた。
「ねえ、お母さん。お父さんの手は、いつもきたないでしょう。爪なんか、黒く染まったようでしょう。一緒に食事するんだし、恥ずかしいよ」
母は、きっとこちらへ向き直った。そして、眼鏡越しに大きな目で私をまじまじと見つめて、
「なにを言うの、おまえは。お父さんの手は素晴しいじゃないの。仕事をする手なのよ。それをおまえ、恥ずかしいって?」
母は大きく首をふった。
「とんでもないことよ。お母さんは、ちっとも恥ずかしいことなんかない。その手のきたないお父さんのところへ、お嫁にきたのだものね」
恥ずかしさに下を向いてしまった私にかまわず、母は再び粉をねり始めた。
この時ほど、母の後姿が大きく見えたことはない。私には忘れられないやさしい言葉であった。母は、父のきたない、たこのできている手を愛するのだと教えてくれたのである。そして、その年の誕生日に私が母からもらった贈物は、有名なデューラーの銅版画「祈る手」のプリントであった。私はそれを勉強部屋に飾って、母の愛情の深さを想った。
またある日、父と同じ仕事をしている叔父が家に来た。叔父は私の手を見て、
「なんだ、おまえは全然仕事をしていないのか。手に一つもたこができていないじゃないか」
と言った。傍らにいた父は、私に片目をつむってみせてから言った。
「手にはたこがなくてもいいさ。頭にちゃんとできてるならな。心にできてもいいと思うよ」
純潔は戦いで
私の父はよく私の勉強部屋に来て、私を相手に世間話をしたものだった。
ある夜、父がやって来て、いつものようにベッドに腰をおろした。そして、机のそばにあった薄っぺらな本に手を伸ばし、ページをめくり始めた。突然、父は本を閉じて立ち上がり、困惑しきった顔を私に向けた。なんだか雲行きがあやしいぞ――と思った途端、父は言った。
「おまえは、こんな本を読んでいるのか」
「あっ、それ? いや、まだみてません。さっき、友だちが忘れていったの」
父はうなずいて、
「あんまり感心できない本だな。みていかんとは言わないが、品のないものだ」
そう言って、肩をすくめてから、
「まあ、いっぺん読んでみてもいいだろう。つまらんものだと、自分でもわかるよ。ただし、お母さんの目に触れないようにな。また心配するからな」
その夜の勉強が終わったあと、読んでみた私は、ひどく恥ずかしい気持になった。二、三日して、父が私の部屋に入って来たとき、私は例の本のことについて叱られるかと思って、息をこらして父の顔色をうかがった。
「この間の本は読んでみたか」
「ええ。やはりつまらない本でした」
父はにっこりして、
「おまえはそう言うだろうと思ってたよ」
と言いながら、ベッドに腰掛けて、私をのぞき込むようにして続けた。
「どうして、性というものをあんなに汚く扱うのかなあ。お父さんには、そういう人たちの気持がわからない。あんな本に惑わされないようにな。恥知らずほど、いやな奴はいない」
憤慨している父の気持が私の胸に伝わって来たのを、私はよく覚えている。
時たま、私は学校の父兄に訊《き》かれる。
――先生、性教育なんですが、先生の若い時にはどうだったのでしょうか。お父さんやお母さんが、そのような話をされたのでしょうか……。
正式にという意味では、そのようなことは一度もなかったと思う。私の子供の時代には、性教育はそれほど重要視されていなかったし、また、今日ほど大騒ぎする必要もなかった。もちろん、そう言ったからといって、性教育とか純潔教育とかいうものがなかったというわけではない。そうした教育は、人間教育の一部分として行なわれたのである。性に関しての知識は学校で、性の個人的しつけや指導は家庭で、そして性の倫理的宗教的な面は教会でというように、それぞれの役割が欧米諸国でははっきりしていた。
しかし、日本には、そのような三つの指導分担は存在していなかったし、現在もしていない。従って、家庭と学校、とりわけ家庭が重要な役割を果たさなくてはならない。しかも、“性の解放”という叫び声が強くなっている現代であるだけに、特にしっかりした、遠慮のない指導が必要になっているのである。
性の問題に関しては、現在の日本が過渡期にあることは誰しも否定できないだろう。今日の社会をつつんでいるセックス的雰囲気《ふんいき》は、マスコミの影響によって、家々の奥まで、そして人々の心の底まで入りこみ、当然のこととして、子供の世界にも深く滲透《しんとう》している。
男女交際に関してのインフォメーションもそうである。昔は、「男女七歳にして席を同じゅうせず」という旧式の男女観があったが、今の若者はごく当り前のことのように、ボーイフレンドやガールフレンドのことを話しあっている。そして、どの新聞、どの雑誌も、異性との交際についての記事や小説で溢《あふ》れている。品のない、淫《みだ》らなものが多い。その影響によって、本当の恋愛及び健全な結婚観とは全く無関係の、あるいはそれらを破壊するような過度の性の自由が唱えられている。子供がその幼さを持ちながらも、性に対しても、男女関係に対しても、異常な関心を向けるようになったのは、いまさら驚くべきことではない。それだけに、この現代の性についての主張や、子供の性意識に対応して、親がその問題と積極的に取り組み、適切な援助の手をさしのべることは、子供の精神の健康のためにも不可欠となるのである。
まず両親の肩にかかってくるのは次のことである。すなわち、子供の年齢や性格、あるいは発育段階を念頭に置いて、必要な知識、そしてしかるべき性に関しての価値観を子供に与える任務である。しかし、この仕事について、むずかしく恥ずかしいことと思って戸惑い、遠慮してしまう親が非常に多い。
私の父もこの問題に関しては、たしかに遠慮がちであったが、次のようなことを二度、三度、私に話してくれたのを覚えている。
――友だちの間で、恋愛とかセックスの話がよくでるだろう。お父さんの経験だが、そういう話は、ややもするとみだらな冗談に流れるものだ。おまえも耳にしたことがあるだろう。耳をふさぐことはできないからな。しかし、そんな時は、勇気を出してケチをつけなければならない。そういう話には反発しなければならない……。
また、こうも言ったことがある。
――お父さんは口下手で、こういう問題はうまく説明できない。神父様にききなさい。適当な読みものがあるはずだから、推薦してもらうといい。ただひとつ、お父さんから言っておきたいことがある、自分の経験からな。それは、女の子はいつか母親になるものだということだ。これだけは忘れないでほしい……。
女の子はいつか母親になる! この女性観は、性と人間の生命の秘密とを示し、女性の偉大さの一面を美しく表わしている。しかし、現代においては、この女性観はうすれつつあるのではなかろうか。広く宣伝されている露骨なポルノ、映画のどぎついポスター、あるいはたくさんの雑誌がカバーにしている極めて淫らな裸体などは、女性の格下げをもたらすものにほかならない。そして、人間の低俗な好奇心に強くアッピールするものである。「清純なる者にとりて、清純ならざるものなし」とよくいわれているが、今日の男性が以前よりもはるかに激しく、女性を快楽の対象として眺めるようになったことは否定できない事実である。表現や収益の自由の名において、性は一つの商品として、また女性は一つの遊びの道具として描かれているからである。実に、さしせまった問題であると思う。
ウーマン・リブの旗幟《きし》を掲げる婦人連盟は、どうしてこの女性の格下げに対して警鐘を打ち鳴らさないのか。女性の人間として、そして母親の生命の泉としての尊厳、どうしてそれを守ろうとしないのか。これこそ、いわゆるウーマン・リブ運動の一番の狙いにすべきところであると、私は思っている。
女性の他のリブはともかくとして、プレーボーイの奴隷であるかのような、実に軽蔑《けいべつ》に値する状態から、ぜひとも女性をリブレイト(解放)してもらいたいものである。
このような社会の趨勢《すうせい》を考えると、わが子の健全な成長を祈っている親たちも、そして特に最近、性教育を強く提唱している教育界の人たちも、ともに奮い立つべき時節が到来している。若い世代を育てていくわれわれ親や先生の、教育の自由や権利を絶対に放棄してはならないのはもちろんのこと、マスメディアが口実にしている言論や商売の「自由」に汚染されてはならないからである。
なにはともあれ、性教育、特に男子の性教育の場合、正しい女性観を培うことこそ肝要である。これは、周囲の環境にも、自分自身にも打ち勝つ力を与えてくれるものであるし、また、家庭をも、社会をも支える最も大きな力となるのである。
ある日、父は私に次のような経験談をしてくれた。
――海軍にいた時、スペインとイタリアとギリシャへ航海したことがある。どこの港町も雰囲気はあまりよくなかった。港町というのは、どこでもだいたいそういう所なのだ。誘惑が多いのだ。長い間、船の中に閉じこめられていた水兵にとってはな。お父さんは、その頃、もうお母さんと婚約していた。お父さんは、お母さんのことを思って、崩れなかったよ……。
この父の話を思い出すと、いつも私の胸にゲーテの有名な言葉が浮かんでくる。「ファウスト」の最後の幕、最後の二行である。
――永遠の女性は、高い空へわれわれを導く。
この言葉は、女性のうちにある「永遠なもの」への賛美であるという説、また聖母マリアの栄光の称賛であるという説、いろいろあるが、それはともかくとして、女性の美しさや淑《しと》やかさ、やさしい慎しみ深い心、か弱さの中に潜む男性の憧れを浄《きよ》める力、これらは女性らしい女性の永遠の魅惑である。
私の父は「ファウスト」を読んだことがなかったと思うが、かつて、詩的ではないが自分独自のことばで、同じことを私に語ってくれた。
――青年は誰でも、ある日ある時、女性の魅力にひかれ、女性の伴侶《はんりよ》を求めるものだ。おまえも、いつか、結婚したいと思うようになるだろう。それも、純潔な女の子とな。おまえの子供の母親になる妻に対しての誠実さは、もうすでに始まっているのだよ。おまえもきっと理解できるだろう。純潔というものは、容易に守っていけるものではない。純潔は、戦いによって勝ちとるものなのだ……。
おそらく、父はてれくさくて、このようにしか話してくれなかったのだろう。しかし、もし父が今日の七〇年代の父親であったならば、もっとはっきりと、つつみ隠しのない話をしてくれたにちがいない。
愛とか恋とかセックスは、大勢の父親にとって、話しにくい話題であることは事実である。他人の子供に対してなら、たとえば教師の場合、平気であっても、自分の息子にははっきりした話をするのをためらう。問題があまりにデリケートであるとか、手加減がわからないとか、あるいは親の生活のプライバシーを保ちたいとかいうような懸念があるからであろう。その場合には、理想的なことではないが、ふさわしい人に援助してもらう必要がある。
最後に、一つだけ、あまり自信のない親に指摘しておきたいことがある。それは次のことである。家庭での親による教育、つまり、しつけ教育、道徳宗教教育、性教育とか純潔教育などは、言葉による指導だけではなく、態度、行動による指導でなくてはならないことである。子供は両親に最も強く影響され、無意識のうちに、あるいは意識的に、親の考え方や生活態度を自分のものにしていくものである。従って、性教育、純潔教育においても、大切なのは、さまざまな知識を与えることよりも、よき家庭を通して、人間や家庭のあるべき姿を示すことなのである。人間の生きるべき道すじ――性の正しいモラルも、若い人びとの心に形成される男性像、女性像も家庭内から学びとるものである。健全な家庭生活や、父母の間の美しい間柄を心に植えつけられた青年男女は、自然に、性も純潔も尊いものとして、また畏敬《いけい》の念をもって受け入れてゆくにちがいない。この点においてこそ、私は父にも母にも心から感謝しているのである。
放蕩《ほうとう》息子であっても
ある晩のこと、父は激しく戸を閉めて、なにもいわずに家を出ていってしまった。もう二、三時間も前からいらいらして、私が話しかけても、全く反応を示さない状態だった。私は母に尋ねた。
「お父さんはどうしたの? ひどく昂奮《こうふん》しているみたい。呑みに行っちゃったのかな? おかしいな」
母もうなずいて、
「ほんとうにね。お母さんもよくわからないけど、すぐ前の家に不幸があったでしょう。そのせいかしら? ほんとうに怒っているみたいだわ」
「怒っている? だれに怒っているの?」
母は声を低めて言った。
「おまえはまだ知らないだろうね。話しちゃいけないことだけど、自殺だったらしいの」
「自殺?」
私は驚いてしまった。
「自殺なんて! この間、結婚したばかりの人でしょう。でも、お父さんとは全然関係のないはずなのに、どうしてあんなに昂奮しているの?」
「亡くなった人の父親をけしからんといって、考えこんでしまったようなの。その理由は、お母さんにもわからない」
その夜遅く、私は父に事情を訊いた。父はいくらか落着きをとりもどしていたが、まだいらいらしているらしく、気ぜわしく、パイプに火をつけて、
「なにが起こったかというのか?」
そして、私を睨《にら》みつけるようにして話し出した。
「おまえは知らないだろうが、亡くなったあの若い人は、前から当てにならない奴だった。最近もまた、会社のお金を着服してしまったそうだ。それで、父親が物凄《ものすご》く憤慨してしまったんだな。『家を出て行け』といった。そのうえ、『正直にやることができないなら、死ぬ方がましだ』とさえ、言ってしまったそうだ」
それから、父はしみじみと、
「かわいそうにな。それで自殺してしまったのだよ。後に残った若い奥さんも気の毒にな」
「でも、その父親の気持は、僕にはわかるような気がするな」
と私が言うと、父は、また、声を荒らげて、
「なに? おまえにはわかるだって? お父さんには、どうしてもわからん。父親として最低だぞ。自分の息子に、『死んでしまえ』なんていう父親が、どこにいるものか!」
私の仰天振りをみて、父は苦笑し、小さな声でつづけた。
「お父さんは死んだ息子に甘いかな? 感情家すぎるかな?」
父は、黙っている私の目をじっと見つめて、
「会社のお金をだましとるなんて、そんな不正は実によくない。それは無論のことだ。しかし、あのおやじもいかん。怒りには限度がある。世の中には放蕩息子がいるものなのだ、残念ながらな。ときには、許し難いこともあるだろうさ。でも、自分の子供に、全然助けの手を出さないのは……」
父は声をとぎらせ、それから悲しみをこめて言った。
「あのおやじが、自分の子供を死なせたのだ」
私の父が「放蕩息子」と言ったのは、おそらく父の頭のなかに、キリストがなさった譬《たと》え話の中の主人公の父親――あの情《なさけ》ない不良息子を愛した父親のことがあったにちがいない。この譬え話で描かれた父親のイメージは、あるべき父親の一面しかあらわされていないが、私の父の心には、このイメージが深く刻まれていたのである。
――ある人に息子が二人あった。弟が父に向かって、「父よ、私のもらうべき財産の分け前をください」と言った。そこで、父はその身代を二人に分けてやった。
幾日もたたないうちに、弟は自分のものをとりまとめて、遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩に身を持ちくずし、財産を使い果たした。その後、その地方にひどい飢饉《ききん》が起こって、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある地主のところへ行ってすがりつくと、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は、豚の食べるいなご豆で空腹を満たしたいほどであったが、食べ物を与えてくれる人はだれもいなかった。
そこで、彼は本心に立ちかえって言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、食べ物があり余っているのに、私はここで飢えて死に瀕《ひん》している。さあ、出かけて、父のもとに行こう」そして、父の家に帰った。
まだ遠く離れていたのに、父は息子を認めて哀れに思い、走り寄って首を抱き、口づけを浴びせた。
息子は父に言った。「父よ、私は天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。どうか、あなたの雇い人のひとりにしてください」
しかし、父は召使たちに言った。「いそいで、いちばんよい着物を持ってきて、この子に着せなさい。それから、手には指環《ゆびわ》をはめ、足にははき物をはかせなさい。そして、肥えた子牛を引き出して屠《ほふ》りなさい。食事をして喜びあおうではないか。この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」
それから祝宴が始まった――。
妻や子をリードし、家や世の中の秩序を支えている父親は、子供の過失をかばったり、見逃してはならない。断固たる処置をとるのは父親の役割である。悪を憎む父の心は、子供の大切な道しるべとなるからである。しかし、父親には、赦《ゆる》す心もなければならない。間違いを起こした子供の、再生力のかなめとなるものである。「子、子たらずとも、親、親たるべし」。
もちろん、その反面には、「親、親たらずとも、子、子たるべし」という、親孝行の義務のあることは言うまでもない。
その翌日、不幸にも自分の命を断った若者の葬式に、私は父と一緒に参列した。家へ帰る途中、父は、前夜の話に戻って言った。
「お父さんは、おまえについては全く心配していない。そして、お父さんも、いつまでも、今のようなお父さんでありたいものだ。でも、人生には思いがけない落し穴がある。いいか、おまえ。どんなことがあっても、互いを見捨てないで、励みあってやっていこう」
父の言葉は、強く私の心をうった。そして、父に大人として認められたような気がした。とても嬉しかった。私が十六歳の時であった。
天を仰ぐ心
私は、中学校の新入生のために、毎週一回オリエンテーションの授業をする。この間、うちの学校の生徒手帳の巻頭言になっている「われわれ栄光生徒」という文章を生徒に読ませたところ、その中にある「父母に愛と従順」という言葉について、ひとりの生徒から質問を受けた。
「先生、この文章はいつごろ書かれたのですか」
「さあ、いつごろだったかな? 二十四、五年前だったでしょう。でも、どうして、そのような質問をするのですか」
その生徒は胸を張って答えた。
「従順という言葉ですが、今の時代には合わない表現ではありませんか」
「古くさいとでもいいたいのですか」
「まあ、そうですね。今は民主主義の時代でしょう」
まだティーン・エイジャーにもなっていない子供でさえ、民主主義、平等、自由、人権などの言葉をズバリ言う。訊《き》いてみると、その言葉の本当の意味は全然知らない。自分に都合のいいようにそれらを解釈して、平気で使うのである。やはり七〇年代の子供である。彼等に対する指導のどこかに盲点があったのだろう。
最近、ある中学生の母親から次のような話を聞いた。
――小学校六年の弟が学校から帰ってきて、本当に困った顔をしていた。「なにがあったの」ときくと、その日の社会科の時間に、先生が言ったことを話してくれた。
「今の社会は悪い。大人はそれをたて直すことができない。みな、古い考えしか持っていないからだ。社会を改善するのは、いまの若者だ。だから、よく勉強するように。そして、自分で考えるように。親はいろいろのことを言うが、でも親は古い。納得がいかないことがあるだろう? そういう時には従わなくともよい」……
「奥さん、それは大げさな話なんでしょう」と私が言うと、すぐ五、六人のお母さんたちが、それと似通った体験を話してくれた。
極端な例だと思うが、子供の生きている世界には、このような“自由主義”を奨励するものがたくさんある。学校なり友人同士の話なり、あるいは漫画なり大人の態度なりには、子供の素直さを奪い、親の指導をむずかしくしてしまう危険な種が伏在しているのである。
親にとって、わが子の教育はたしかに困難になっている。しかし、問題になるのは、前に述べたような家庭の外にある事情だけではない。親の信念喪失も大きな原因なのである。戦争に敗れた大人の中には、もう何も言う資格がないと思い込んでいる人がいる。昔の古い考えはよくないと思って、子供の思い通りに自由にさせてしまう親もいる。親自身、それでいいとは決して考えないが、時代遅れだと言われたくないからである。今の時代だから仕方がないと諦《あきら》めてしまう。
こうした親の信念喪失は、家庭教育にとって非常なマイナスであるということを、特に親は銘記すべきである。親は親なのである。わが子の教育は譲渡すべからざる権利と義務である。親自身やるべき仕事なのであって、その仕事を他人に、たとえば学校の先生にも、任せてはならない。この当然親が持つべき責任感、使命感を復活させなくてはならない。日本の教育の改善、及び若い世代の幸せは、一に、親の教育的信念にかかっているのである。
不完全であろうと未経験であろうと、なんであろうとも、子供の最初の教師は親である。第二バチカン公会議(一九六二年〜六五年)の「教育宣言」にも指摘されているように、「両親は子供に生命を授けたのであるから、子供の教育という極めて重要な義務を持っている。それ故、子供の第一の重要な教育者であると認められなければならない。(中略)従って、家庭は、あらゆる社会が必要とする社会上の諸徳の最初の学校である」
ある教育評論家は、この引用文の「家庭」という「ファミリー」の訳語は不適切で、むしろ「家族」と訳すべきものだと指摘している。家庭教育という言葉は、教育の場所だけを意味するような誤解を招くからである。実際考えてみると、この誤解は、今日の家庭教育の実態をゆくりなくも示していると思われる。勉強にせよ、しつけにせよ、あるいは余暇の利用にせよ、親は自分なりの教育についての考え、方針を持たず、家庭は学校教育の下請機関になりつつある。さらに、学校の教室や進学塾の延長になってしまった家庭もすくなくない。これほど非教育的な傾向はないであろう。
家での教育ではなく、家族による教育――父、母、兄弟、さらに祖父母に至る家族の協力による人間対人間の教育、これこそが「教育宣言」の狙いであり、いわゆる家庭教育のあるべき姿を示しているのである。この家族の中心は、いうまでもなく父親及び母親なのであって、専門家、すなわち先生とか心理学者とかいうような人たちに頼る必要はすこしもない。子供のしつけ教育、道徳教育、宗教教育、一言でいえば、心の教育は、専門家を必要とするような特殊で、むずかしいものではない。
子供を産むのは、親にとって最も自然な、実にたやすいことである。しかし、自分が産んだ子供をしかるべき人間に育てていくのが、親自身ができないほど大変なことであるならば、神の摂理に大きな不合理があるといわなければならない。だが、そうではないのである。子供の教育は案外常識的なものなのであって、大部分の親は、この常識を持っていると思う。問題は、その常識を生かす信念や勇気があるかどうか――そのことだけなのである。
教育とは何であるか、どうあるべきなのか――それを私に教えてくれたのは、冒頭の話で触れたように、父や母であった。私の両親の教育に対する熱意、信念、そして特に常識は、私のやってきた専門的な勉強よりも、私の教育観を培ってくれたのである。
私の両親の信念や勇気の根元は信仰にあった。数代にわたって、カトリックであった私たちにとって、宗教は単なる伝統的な、いわゆる“家の宗教”のように継承されてきたものではなく、自分自身の持ちものだった。
信仰というのは、信ずることだけではない。また、「すべし」とか「すべからず」という命令・禁止に従ったり、日曜や祝日の務めを果たすことばかりでもない。それは、毎日、その日その日の生活において、神の思召《おぼしめ》し――人生の常識ともいうべきこと――を身をもって実践しようとすることなのである。これが生きた信仰なのである。この日々「神とともに生きる」という人生観が私の両親にあった。一緒に御ミサにあずかったり、神父の説教について議論したり、月に一度ぐらい一緒に告解しに行ったり、あるいは皆揃《そろ》って食前食後のお祈りをしたりしながら、両親の人生観とその実践は、知らず知らずのうちに私自身のものにもなったのである。
私は先に、神の思召しは常識そのものだと述べたが、父によくそう言われたものだった。「人生とは何ぞや」、「人の人としての道をどう歩むべきなのか」、あるいは「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよとは、どういう意味なのか」――このような人生の謎《なぞ》となり得る難問に関して、聖書、公教要理、聖歌や典礼などは、両親にとって大切な人生の手引だった。確実で信頼できる道しるべであるということが、両親とともに生活しながら、私にも自然とわかるようになった。
子供は子供である。いたずらやいけない遊びをしたり、つまみ喰いなどをする時がある。
「悪いじゃないか。誰もいないと思っても、神さまがみていらっしゃるのだよ」と、まだ小学校に入る前に、このような小言をよくきかされたものである。それは、いわば、「人生のルールを守りなさい」という優しい戒めなのであった。人間の行いの規範となるものは、その時の楽しみとか利益とか都合とか、あるいは迷惑の有無とかいうようなものではなく、神の変わらぬ掟《おきて》なのである。どこにでもいらっしゃる神、なんでもご存知である神、なんでも統《す》べておられる神、罪を嫌っておられる神――この神のイメージを、母は子守歌や童謡を歌ったり、祈りを教えたり、御絵を見せたりして、幼いときから私の心に植えつけた。だから、「神さまは、そんな悪いことはお嫌いですよ。よしなさい」といわれれば、心から納得できて、人生のルールも、正しい生活態度も、知らず知らずに身についたのである。
幼児の時から、たえず親の人生観に触れることは、母乳と同じように、貴重な生命力となって子供の心を育てていくものである。
第一次大戦のあと、ドイツは戦勝国の進駐軍に占領された。私が小学校二、三年の頃のことである。フランスの兵隊の中には、黒人兵もいたが、彼等は特に嫌われていた。
ある日、四、五人の黒人兵が家の前を通るのを見て、私は友だちと一緒に弥次《やじ》をとばして、彼等をからかった。父はそれをききつけて、私を家へ呼び入れた。そして、厳しい顔をして私に言った。
「おまえは、主祷文《しゆとうぶん》を知っているか」
「ええ、知っています」
「それを唱えてごらん、初めの文だ」
「いま? どうして?」
私は、一瞬、黒人兵に悪態をついたことと、主祷文――片言まじりに口がきけるようになってからというもの、からだの隅々にまでしみ通っているこのお祈りと、いったい、どういう関係があるのだろうと考えた。しかし、父はすぐに、
「どうして――と言わないで、それを唱えるんだ」
「天にましますわれらの父よ……」
「もういい。いまの言葉の意味がわかるか。神は私たちの父だ。だから、みんな兄弟だ。黒人だってそうなのだよ。さっきみたいな悪さは二度とするんじゃないぞ」
いわれてみれば、ごく当り前の注意かもしれないが、この戒めは、今でも私の心に残っている。
また、ある日、学校で愛の運動の募金があったので、父に頼んだ。
「お金をすこし下さい」
父は三マルクくれた。そして尋ねた。
「おまえはいくら出すんだ?」
「小遣いはもうないんです。全部使っちゃった。だから、お父さんに頼んだんです」
とたんに、父の太い眉毛がピクリと動いた。
「ずるいぞ、おまえは。お父さんの金で、自分が献金したふりをするとは、とんでもないことだ」
それから、父はにやりとして人差指を立てて、
「よし、もう一マルク。ただし、今週のおやつを節約するんだ。一マルクの分だけ我慢すること。そうすれば、このお金はおまえの献金になるというわけだ」
こういうことが、聖書の精神であると思う。これ以上の立派な教育学がほかにあろうか。
私の父は、言うべきことは遠慮なく言うおやじだった。今になって思い当たるのだが、父は、体験談、世間話、そしてユーモア、冗談をまじえながら、時にはやさしく、時には厳しく、また、若い世代の不安や悩みにも、世代のズレにも深い理解をもって、それとなく私を導いてくれた。しかし他方では、自由放任は絶対に認めず、甘えを許さない姿勢を頑固に押し通した。母もそうだった。父と母の、親としての自覚がそうさせたにちがいないと思う。
この親としての自覚というのは、自分が産んだ子供は神が親にお預けになったものであって、親には神の代理者として、自分の子を自分の手で、しかるべき人間に教育していく権利と義務があり、子供の心の教育こそ親の最大の役目である――ということにほかならない。そして、その心の教育は、信仰に導かれた常識によってはじめて可能となるのである。私の両親の信念の根元はそこにあったのである。
今日、しつけとか道徳とか、そういうものを押しつけてはいけないという教育放棄の傾向が強くみられるが、私の両親は、自分の人生観、価値観を子供に押しつける勇気を持っていた。
あるとき、私は父と冗談をかわしながら、次のように父を攻撃した。
「子供には父母を尊敬し、父母に従わなければならない親孝行が義務づけられていますが、この第四戒の掟は不公平じゃありませんか」
父は、即座に威厳たっぷりに言い返してきた。
「父たる者よ。子供を怒らせることなく、主の規律と訓戒とのうちに彼等を育てよ」
私は、父がこの聖書の文句を暗記していたことに驚いた。この驚きに父は気づいたのか、にっこりして続けた。
「お父さんも、この第四戒を守らなければならないわけだ。尊敬に値する親になれという意味もあるからな。でも、これは厳しいことだよ」
そして、父は私に片目をつむってみせて、
「おまえも、いつかそれを経験するだろう」
この言葉には、これ以上なにもつけ加えることがない。この父にならついていける――そういう喜びを感じたことを、私は今も忘れることができない。自信に満ちた親の謙虚さ――これこそ、いつの時代にあっても、子供を育て導く力であり、親の行動原理ではなかろうか。
私がこれまで述べてきたことに対して、次のような批判があるかもしれない。
――先生が育った家庭は神を信じる家庭であったから、宗教教育は当然のことだっただろう。しかし、日本の家庭の大部分は、これといった宗教をもっていないので、宗教に関する教育ができない。宗教心を養うことは、たしかに望ましいのだが、神を知らない私たちにとっては、到底、実現できない理想論である……。
神を知らないということだけが理由になっているのだろうか。それとも、現代社会の一つの風潮となっている奇妙な科学信仰が理由になっているのだろうか。その理由はともかくとして、たくさんの家庭に神棚や仏壇が置いてあっても、そして親は親なりの信仰を持っていても、子供に神仏について語ることはあまりないようである。お寺詣《もう》で、神社参拝、お墓参りなども、単なる伝統とか家の習慣、あるいは祖先に対しての尊敬や供養にすぎないというような、本来の意義を無視する解説は、子供の心に内在している宗教的な情操を根こそぎにしてしまう。
今日、信仰は、非科学的なものの象徴としてよく非難されているので、「目に見えないもの」に対しての信仰を伝えるのは容易ではない。しかし、中国の古い言葉にもあるように、「その睹《み》ざるところを戒慎し、その聴かざるところに恐懼《きようく》する」のが、人生の正しい在り方なのである。
私は、宗教心を養うことは、どの家庭でも可能であると思う。「目に見えない神」を全く知らない人間はいないからである。
使徒聖パウロがギリシャのアテネ人に話されたことが、聖書に次のように記されている。
「あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、私はみている。実は、私は道を通りながら、『知られざる神に』と刻まれた祭壇があるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま教えてあげよう」(使徒行伝、十七―二十二〜二十三)
無神論者といわれるドイツの哲学者F・M・ニーチェは、神から逃れようとしながら、逃れることができないので、自分の心の奥に神のための祭壇を設けたと言って、「知られざる神へ」という詩の中で、人間の不滅への、永遠への、そして神への憧《あこが》れをうたっている。
また、鎌倉時代の歌人西行法師の歌にも、日本人の宗教心をあらわすものがある。
なにごとのおはしますかはしらねどもかたじけなさになみだこぼるる
伊勢の神苑に佇《たたず》んで、理屈抜きに身の引きしまる思いで、この歌を詠んだという。西行は、心のうちにある「なにものか」を慕い敬ったのである。
「主の御許《みもと》に近づかん」という抑えきれない衝動が、私たちの心の中に存在している。私たちは、自分以外の、そして自分以上の「力」が自分の運命を支配していることを認めざるを得ない。その「力」を神と呼ぶか、仏と呼ぶか、あるいは天または宇宙を貫く原理と呼ぶかはともかくとして、脆弱《ぜいじやく》で、迷いに迷う束の間の人生しか望み得ない私たちは、その人生のはかなさを超える絶対的なものを求める。人生の謎を解き、人生に存在意義を与えてくれるものへの憧れ――そこに宗教心の根元があるのである。
前に、「知られざる神」という言葉を使ったが、神は決して知られざるものではない。なぜなら、神は私たちの心に絶えず働きかけているからである。この働きかけは、良心の戒めであり、指示や呼びかけであり、また心に深く刻みこまれている人生の立法者の思召しである。これは自然法とも、良心とも呼ばれているものであって、私たちにあるべき善を示すものである。そして、「善をなすべし」という強い意識とともに、「善を欲す」という、より全きものへの希求も私たちの心に宿っているのである。
詩人も次のように歌っている。
およそ、人の清らなる胸のうちには、
つねに波うつあこがれひとつあり。
より高き、より浄《きよ》らかな、知られざる者にむかひ、
感謝をもちて、ひたすらに、
わが身をささげむとする――。
これぞ、
永遠に未知なるものを明かし解くみち。
われらは、
これを“神を敬ふ心”といふ。(ゲーテ)
しかし、私たちには、このように美しく浄らかなるものを愛する心とともに、醜いものに引かれる心もある。私たちは、「欲している善をしないで、欲していない悪を行なっている」(ローマ書、七―十九)。つまり、人間の心には二つの面がある。心には善も悪も宿っている。人間は真心を持っていながら、悪く傾く面もある。これが人間の現実である。そういう人間を悪から遠ざけ、善に方向づけて善をなす習慣をつける――これが宗教心に導かれた良心の教育であり、人間教育のすべてなのである。
これといった宗教、たとえばキリスト教をもっていない家庭でも、子供の心にある、より高く、より正しく、より清くという全きものへの向上心を育てていくことはできる。授かった恵みに対して感謝し、過ちや罪があった場合には詫《わ》び、悩みや絶望のときには助けを祈ること――これこそ、親がつくる、否、つくらねばならぬ家庭の在り方なのである。この点で、今日の社会及び今日の学校に頼ることはできない。公立の学校では、宗教について教えることが禁じられている。一般の私立学校は宗教を教える自由を持っているが、実際は教えていないし、かつ、教えてもらいたいという希望も多くの場合、無理な注文である。宗教学校、いわゆるミッションスクールのうちでも、創立時代の教育理念と隔たること遠い学校が多い。個人の自由を過度に尊ぶ今日の日本の社会風潮に惑わされて、宗教学校の当局者も、また、自信をもって指導に当たるべき教師も、極めて消極的になってしまったことは悲しむべき事実である。結論すれば、心の教育の最も大きな要素の一つである宗教は、親以外に教えるものがいるとしても、きわめて少ないのである。
おしえるという言葉に抵抗を感ずる親がいるかもしれない。たしかに、神、または神仏の存在を子供が理屈のうえで納得できるように証明することは容易ではない。たくさんの親がこの辛い経験を持っていると思うが、すでに小学校の上級学年の時から、無神論やいわゆる進歩的科学信仰を吹き込まれている理屈っぽい現代っ子は、このような話には簡単に耳を貸さない。そしてまた、親がやたらとこのようなことを子供に強いることは、逆効果をもたらすことにもなりかねない。しかし、親は、自分自身が信仰の心を持っていることを、遠慮なく日常の態度によって子供に示し、「見えざる世界」への関心を育て、子供の道しるべになることができるのである。
私は、若い時、毎日曜日父と教会で御ミサにあずかった。祭壇に向かって手をあわせて祈っている父の姿を後ろから見て、強く逞《たくま》しい父であったからこそ、信仰の力や尊さやありがたさを感じとることができた。父親というものは、面と向かって息子を論破することもあろうが、後姿でも息子を強力に引っ張ることができるのである。
正しい家庭生活のうえにたって、人を愛し人に愛され、奉仕を喜び、そして自分というものを完成していく張り合いをはじめとして、信念をもって善に向かって行動し得る人格を創《つく》ることは、親の尊い使命であり、それはまた、宗教心を持つことによって、はじめてできることなのである。
わが身よりわが子
私は、初め理科系の学校に入学したが、七年生の終りに、神父になりたいと思うようになった。しかし、神父になるにはどうしてもラテン語の勉強が必要である。高校卒業後にその勉強を始めると、すくなくとも二年以上かかるときいて、私は理科系から文科系へ移ることができたらと思った。だが、次の学年よりラテン語のコースのある学校に転校したとしても、すでに七年間ラテン語の勉強をしてきている他の生徒に追いつくことができるか、そして卒業できるような成績をとれるか、また、距離的に遠くなる学校までの高い通学費を父に頼むのはどんなものか、さらに――このことが最も大きな問題だったのだが――一人息子である私が神父になるのは、これまで私のために苦労して高い学費を出してくれた両親に対して、親孝行とはいえないのではないか……私はあれこれと悩みに悩んだ。
私は父の機嫌のよい日を狙って、なんとか、納得させようと、父に心を打ち明けた。十六歳の初秋の、ある夕方のことであった。
父と二人で庭の木の手入れをし終えて、私たちは芝生に腰を下ろし、快い疲労感のなかで母が食事に呼んでくれるのを待っていた。
私は自分の気持をよくわかってもらいたかったので、自分の夢や憧れ、自分自身が考えた理由、そして親として当然するはずの心配の点に至るまで、ひとつひとつ、私はためらいながら、しかしはっきりと話した。父はたくましく日にやけた顔をこちらに向け、なかば目を閉じて、一言もいわずに最後まできいてくれた。
私が話し終わった時、父はパイプの火が消えてしまったらしく、ゆっくりとまた火をつけながら言った。
「のどがかわいたな。ビールを持ってきてくれないか。それとコップ二つだ」
そして、ビールを持ってくると、父ははじめてにっこりした。
「どうだ、おまえも一杯」
のど元を通るビールの冷たさに、私の緊張もようやくほぐれてきた。空はあくまでも澄みわたり、短く刈り込まれた庭の木々は、西日をうけてきらきらと輝いていた。ビールを味わいながら、私たちはしばらく黙っていた。やがて、父が言った。
「お母さんは、おまえの心がよめたね」
「お母さんが? でも、お母さんには何もいわなかったよ」
「お母さんは勘がいいよ。お父さんだって、いつおまえが言い出すか待ってたんだ。だっておまえ、最近、おまえの本棚の本の種類が、以前と違ってきたのを知ってるからな」
父は、どうだいといわんばかりに、私に片目をつぶってみせた。私は思わず笑ってしまった。
「お母さんはどう? びっくりしましたか。心配してる?」
「まあ、そうだな。この間、おまえが神父になると言い出したらどうしようって言ってたよ」と、父は笑いながら、
「でも、女のいうことは、そう気にすることはないさ。おまえもそのくらいのことは知っているだろう」
私は、父の冷静な、しかもおどけた口振りに驚いた。
「しかし、お父さんはどうなんです? がっかりじゃないんですか」
父は真面目な顔に戻って、じっと私を見つめ、
「がっかりというわけじゃないが、しかし、お父さんは、おまえの将来については別の考えを持っていた。親だって夢をみるんだからな。でも……」
と言いさして父は顔を振り、
「今日は、この『でも』は抜きにしよう。お父さんにしばらく考えさせてくれないか。そのうえで、いつかゆっくり話をしよう。いいたいことが山ほどあるからな」
それから、父は私の肩に手をあてて、
「今日のところは一つだけ言っておこう。おまえは神父になりたいと言うんだが、なりたいということは問題じゃない。やれるか? お父さんがまず知りたいのは、そのことだよ。取消しのできない決定だからね、他の職業と違うんだよ」
「お母さんに話してもいい? お母さんにも僕の考えていることを知ってもらいたいから」
「よしたほうがいい。まずはおまえともっと話したいからな。当分、お母さんには内緒だよ。約束だぞ」
私たちは黙ったまま、光を失ってやがて夜の暗闇に移っていこうとしている庭のたたずまいの中に身を沈めていた。
しばらくして、あかりのついた家の中から母の呼ぶ声がしたのをしおに、私たちは立ち上がった。ビールのコップを台所に持って行くと、母はエプロンで手を拭きながら、
「お父さんは、よくおごってくれたわね。でも、ずいぶんと長いお話だったことね」
と、ほほえみながら私の顔をのぞきこんだ。
「いや、べつに。たいしたことじゃない」
母は、流し場に向き直って、コップを洗いながらつづけた。
「この間、おまえの本棚でラテン語の本を見かけたのよ。そのことについてのお話じゃなかったの?」
私は、あらためて母親の勘の鋭さに驚きながら、つとめて冷静に答えた。
「お母さん、お母さんの息子は勉強家なんだよ。フランス語も英語もみんな、ラテン語と深い関係があるでしょう。よく勉強したければ、どうしてもラテン語から調べなくちゃ」
母は顔だけこちらに向けて、
「おまえは、相変わらず口がお上手ね」
と、私の表情をうかがいながら、皮肉っぽい微笑を浮かべた。私は退却は最良の防衛だと、母の笑い声を後ろにして、そそくさと台所を脱け出した。
それから以後、幾度となく、父と将来について話し合ったり、議論したりした。議論になかなか負けない父とのやりとりは、激しいものであった。父は、折にふれて、「おまえの考えは、まだまだ幼稚だよ。まだまだ賛成できないな。理想と現実とは違うのだよ」と、言うのだった。けれども、無理やりに息子を自分の考えに引きずりこもうとはしなかった。
長い期間にわたる哲学や神学の勉強のつらさ、他の職業の価値や魅力、実社会の有様とそれに対しての適応の問題、自分の家庭をつくれない神父の生活の寂しさ、そしてさらに、神父が場合によっては断念せざるを得ない趣味や楽しみなど、あらゆる観点から、父は体験を交えて話を持ち込んだのである。もう、とてもかなわないと思うほどだった。
しかし、父の議論に攻めまくられながらも、私がありがたく思ったのは、それが私の決心を打ち倒すためのものではなく、かえって、その決心を現実的に裏付けるための心温かい攻撃であることであった。父と語り合うことによって、朧気《おぼろげ》であった自分の将来が、くっきりと目の前に浮かび上がってくるのだった。
父は一度、笑いながら言った。
「どうしても冒険したいのなら、せめて、開いた目でその冒険にのり出すことだ」
また、驚いたことには、父のいう反対の理由の中には、父自身のことは無論のこと、母のこと、家のことなどに関したものは一つもなかった。
〈わが身よりもわが子〉――この自分を没却した親心で、何週間にもわたった相談や激しいやりとりの結論として、父も母も私の夢を心から祝福してくれたのであった。
「おまえのしたいことをやりなさい。なにも心配することはない」と、父はやさしく私の肩を抱いて許してくれたのである。
今年(一九七六年)の春の、ある昼休みに、私は校庭に出たところで、高校三年になったばかりのA君がぼんやり佇《たたず》んでいるのを見かけた。級友たちが大声をあげてバスケットをしているのに、それに加わらず、ただじっと立って見ているばかりなので、私は通りすがりに声をかけた。
「おい、A君。君も一緒にやらないのか」
彼は振り向いて、かすかに、いつものやさしい微笑を浮かべただけであった。
「なんだか元気がないようだが、どうしたの?」
「べつに……。ちゃんとやっています」
「ちっとも気乗りがしないようじゃないか。なんでもないならいいんだ」
A君は、ちょっと目を伏せて、それから恥ずかしそうに言った。
「なんでもない――というわけではないんです。実は、おやじとひどい喧嘩《けんか》をしてしまったんです。進学についてです」
「進学について? もう決まっていると思ったんだが。君はこの間、教師になるといってたんじゃなかったの?」
彼は私に視線を当てたまま、
「それなんです。僕自身の志望であるし、校長先生も是非やりなさいと仰しゃったんで、昨日、父に話したんです」
そして、彼はまた伏し目になって、
「だめでした。父は絶対に許さないって言うんです」
「どうして?」
「そんなつもりで、この学校に入れたんじゃない、無茶な考えだって言うんです」
彼の声は、次第にうるんできた。
「いったい、なんのために苦労してきたと思うかって、問い詰めてくるんです。おやじは、先生になるなんて、とんでもないって言うんです」
明るい春の陽差《ひざ》しと、若者たちのにぎやかな喚声のなかで、私たちのまわりだけが陰気に沈んでいくのを感じた。
成績がいいのだから、もっとお金になる職業を選べ! 教職は出世コースではない! おまえは親孝行をしらないのか!――このような父親としての考え方は、子供に対しては無論のこと、その子供を長い年月にわたって育ててきた先生たちに対しても、ひどい侮辱だと言わざるを得ない。許すべからざる偏見でもある。このような父親がいるからこそ、すべり止めで教師になる人が多くなり、また、今日の教育が問題になるのである。
進路に関しては、特に男の子はさまざまな夢をみるものである。そのなかには、とんでもない夢、あるいは希望的観測にすぎないものもある。また、親の経験からみて、是非とも正さなくてはならないような非現実的な幻想もあるかもしれない。親として、それらを抵抗なしに受け入れてはならないことは言うまでもない。子供がわからないことはわからせ、批判すべき点は容赦なく批判し、攻撃すべきところは力強く攻撃する――これは父親の大切な役目である。しかし、子供の希望を全く無視して、子供の人生を一方的に決めてしまう権利は、親にはない。進路の決定に際して、親のエゴイズムは、子供の無知と同じように、取返しのつかない不幸をもたらすのである。
親が、なんとかして自分の子供のために、よい大学を、さらによい就職を、そして不安のない将来性のある道を選んでやりたいと考えるのは、もっともなことである。親心とは普通、そういうものなのかもしれない。
しかし、今日の若者の中には、そのような「出世主義」、または「安全第一主義」に対して、強い反発を示すものが多い。まだ社会的経験がないとか、自分の考えをやり通してみたいとかいう理由もあるのであろうが、幸いに、実に賢明に考えている若者も多い。自分の人間としての価値、及び自分の将来の幸福は、一流会社への入社とか高い給料などだけによらないことをよく知っている。そして彼等の心を最も強くとらえているのは、「親の虚栄心」、あるいは「家のめんつ」といった親のエゴイズムに支配されることを拒否する若者らしい潔癖感、正義感である。
もう一つ、是非ともつけ加えたいことがある。それは、現代社会の実態が、文化というものをますます疎外させている単なる物質文明になりつつあるということである。精神的な価値を忘れている今日の文明が進めば進むほど、これまでなかったさまざまな悩みがあらわになってくる。私たちの生活が豊かに便利になってきても、私たちの苦悩はすこしも解決されないのは事実である。それどころか、物質的な繁栄に反比例して、産業、工業社会の生存競争、労働争議、公害、差別、そしてひどい利己主義や道徳低下などが、おそろしくなるほど顕著になってきた。物質的進歩のみを追求する現代は、ひとりひとりの人間からも、人間の社会からも、あるべき人間らしさを奪っているのである。
この欠陥だらけの社会を受け継いで、しかもその社会の護《まも》り手になるだけならば、それは非社会的で、無責任ではないか――と、悩んでいる若者が大学紛争以来、多くなっている。幸いなことだと思う。
彼等は今の状態に満足していない。よりよい社会ができるように貢献したい、他人のために尽くしたい――こんな夢をみているのである。このような個人を越えた社会的な視野は、実にすばらしい。是非とも生かしてやりたい使命感である。
しかしながら、他方には残念ながら、どうしようもないと思って諦《あきら》めている若者もいるのである。
この間、就職試験を受ける卒業生に会った。
「どこを受ける? だいたい決まっているの?」
「まあ、だいたいのところは。商社に決めたいと思います。公害をおこしてない会社に決めています」
「どうして? おかしいじゃないか」
「でも、先生。水俣《みなまた》病などの公害はひどいでしょう。病気になった人、死んでしまった人もいるんです。そんな会社では働きたくない」
「ああ、そうですか。でも、私に言わせれば、とんでもない考えだよ。君には、是非ともそのような会社に入ってもらいたい。必ずね」
相手は驚いてしまって、返事に窮していた。やがて、ためらいがちに言った。
「給料は、すこしは高いかもしれないが」
「給料の問題じゃない。君は社会に対して、全然思いやりがない。もちろん、公害はよくない。公害はなくなるようにしなくちゃならない。だから、そのような会社に行くのです。君は頭がいい、能力がある、研究心もある、私が知っている範囲で。だから、会社をよくするために尽くすのです。社会をよくする――それは、特別な、社会的地位の高い人だけによるものではない。これという特殊な職業にもよらない。自分の能力、学問、努力、生き甲斐《がい》、そして特に、自分の人格や信念をもって、世の光、地の塩となることによって、それは可能となるんですよ。もっと深く考えなさい。新聞や週刊誌の宣伝に惑わされないように」
人のためになる人でありたい――という若者の純粋な意欲は、是非とも生かしたいものである。世の大人たちも応援すべきである。特に、社会人である父親は! とりわけ、子供が自分の進みたい方向を定める時には、〈わが身よりもわが子〉の親心を忘れてはならない。わが子の幸福のために、よりよい社会のためにも。
涙をこらえて
昭和七年の三月のある夜、私たち二十四名の若者は、校庭の隅で高く燃え上がるキャンプファイアを囲んで、飲みかつ語り、そして歌を歌ったりしたのち、「われらの歩む道を照らせ!」と一段と声を張り上げて、私たちが誇りにしていた最高学年のあの白い学帽を火の中に投げ込んだ。卒業前夜祭のクライマックスであった。それに比べて、次の日の卒業式は極めて簡素なもので、ほとんど記憶に残っていない。
卒業後すぐに、私はイエズス会に入会した。修練二年、大学七年、教育実習一、二年、さらに一年の修養という、一人前のイエズス会員になるまでの神学生の課程を私はヨーロッパですごせると思っていたのだが、その翌年の九月のある朝、突然、修練長のところへ呼ばれた。
「日本に行きたいなら、いま、いいチャンスがあります。今朝、電話で長上から、行きたい者がいたらすぐにでも送るように頼まれました。どうですか、行きたくありませんか」
私は日本へ行くことなど、それまで考えたこともなかったし、また、日本についてはほとんどなにも知らなかった。当時のヨーロッパの大部分の人たちと同じように、私の場合も日本に関する知識といったら、正直にいって、火山島で恐ろしい地震が多い国だとか、勇ましい侍の腹切りや、かわいらしいゲイシャがいるとか、箸《はし》を使って食事をするとかいうこと、そして三、四百年前のキリシタンの時代には、たくさんの殉教者を出していること――精々《せいぜい》、そんなものにすぎなかった。だから、日本へ行きたくないかと問われても、どう返事してよいやら、私の心の中は全く混乱してしまった。やっとのことで、
「どうしても行ってほしいというなら、行ってもかまわないのですが」
と答えた。私は今でも、この妙な言いまわしを思い出すと、自然と笑いがこみあげてくるのを禁じ得ない。
修練長はその返事を待ちかまえていたように、うなずきながら、
「できたら、あなたに行ってもらいたいのです。非常に急なことで、お願いするのはたいへん心苦しいのですが。ご両親にとってもショックでしょう。なにしろ、すぐ出発してもらわなくてはならないのだから」
「すぐ……といいますと?」
修練長は穏やかだった表情をひきしめ、私を注視して言った。
「そう、すぐです。今日、これから立ってほしいのです」
再び、驚きが襲ってきた。イエズス会の歴史には、かつてこんなこともあったということは知っていたが、それは昔話のことで、まさかこの現代で、しかも自分自身の身に生じるとは思ってもみないことであった。それが現実のものとなったのであるから、私はしばらく、呆然としていた。しかし、誰かが行かなくてはならない緊急の事情があったらしいし、それに私への温かい信頼に応えなくてはならない。そして、両親も必ず賛成してくれると思ったので、直ちに家へ電報をうった。私には忘れることのできない電信文である。
――アシタノヨニホンニタツ。キヨウ五ジウチニツク。
当時、私はオランダにいたが、一時間もたたないうちにドイツ行きの列車に乗り込み、日本への長い旅に出発した。
夕方近くなって家に着いたとき、父は妹と一緒に地図を広げて、大海の中の小さな島影を捜しているところだった。私からの電報に仰天してしまったという両親は、こんどは、
「こんなに遠いとは思わなかったよ」と、あきれ返ってしまった。しかし、同時に父は、「やっぱり遺伝かな? おまえにも、彼方《かなた》の海を憧《あこが》れるお父さんの若い時の船乗りの血が流れているんだな」と、口元にほほえみを浮かべて言った。
当時は日本まで四十日以上もかかったのであるから、おそらく両親の心の中は、いつまたこの一人息子と会うことができるかという不安でいっぱいになったことだろう。もちろん、私は勉強のために何時《い つ》かまたドイツに帰っていいといわれていたが、それとても何年先のことになるやら、誰にもわからないのである。それにもかかわらず、父も母も不平ひとつ言わずに、私の決意を承知してくれた。
食卓についてお祈りがすむと、父は静かに、隣に坐っている私に向かって言った。
「別れるのは辛いことだが、ひとのために生きるということは、たいへん立派なことだからな。でも、やさしいことじゃないぞ」
それから、父は私の肩に手を置いて、
「しかし、おまえにはできるだろう。われわれもお祈りして助けてあげよう」
私は、肩の上の父の手に自分の手を重ね、涙ぐんで私を見つめている母と妹に黙って頭をさげた。
父にしても母にしても、私の日本行きについては、賛成せざるを得なかったのだと思う。なぜなら、私の両親は常日頃繰り返し、喜んで人のために尽くさねばならないと、私に教えていたからである。よくあることであるが、親が子供の将来について描く設計図と、子供自身の夢との間に、大きな隔りの生じることがある。これは当然のことであって、たとえ子供の歩もうとする道が親の希望と異なっても、その道が子供にとって幸せへの道ならば、それを選ばせるべきなのである。己《おのれ》の幸せを開拓するのは己自身をおいてほかにはないのである。私は、両親は心から喜んだとは思わないが、しかし、辛さに堪え、自分たちの犠牲を忘れて、私の進む道を祝福してくれた。「人間は誰でも、自分の幸福の鍛冶屋《かじや》である」。
次の日の夜、いよいよ家を出る時、父は私の肩をしっかりと抱きながら、ゆっくり玄関へ歩いた。そして、父はまっすぐ前を見つめたままで言った。
「神さまとともに行きなさい。そうして、どこへ行っても、なんであっても、立派に仕事を果たしなさい」
私には、この言葉が必死になって涙をこらえている父の、心の底からのはなむけであることがわかった。
私が両親に会ったのは、これが最後であった。長い間の専門的勉強、第二次大戦、そして戦後の混乱や仕事のため、私は両親が生きている間に、ついに故郷へ帰ることができなかった。
昭和四十年、私は三十二年ぶりにドイツへ行く機会に恵まれた。予定した仕事をすべて終えて、日本へ戻る前の日、私は父と長年親交のあった老神父のところに立ち寄って、別れの挨拶をした。
「散歩しましょう」と誘われて、私たちは教会の裏手にある墓地へ行った。思いがけず、再び父の墓に別れを告げることができた後で、老神父は静かな秋の陽差しの中で話し始めた。
「何も言わないで、黙って聞いてください。言っていいことかどうかわからないが、私はあなたの先輩なのですから、言わせてください」
老神父は、父の墓に向かったまま軽く頭を下げて、
「あなたは、日本で大きな仕事をしているそうですね。立派な、大切な仕事だと聞いています。たいへん結構なことです」
それから私の方へ向き直り、私にじっと視線を当てて言った。
「しかし、あなたは、それがどれほどお父さんのお蔭《かげ》を蒙《こうむ》っているか知っていますか」
そして、「あなた」から、親しみをこめた「おまえ」に言い換えて続けた。
「おまえのおやじはえらかった。おまえに会いたくてたまらないと、時折私に洩らしていた。いつかまた会えるだろうと、死ぬまで思っていたようだ。でも、残念に思わないでほしい。おまえのおやじは、自分の犠牲は必ず神様が祝福してくださると堅く信じていたのだ。自分の祈りや犠牲によって、おまえの仕事を助けてやりたいと、口ぐせのように言っていた。おまえのおやじは、ほんとうに立派だった」
老神父はゆっくり私に近づき、私の手をとって、
「あなたは力いっぱいやってきたでしょう。しかし、その力はまた、おやじの力でもあることを忘れないでください」
その日、父の墓の前に立って、私は初めて涙を流した。
最近、ある友人に勧められて、「父ありき」という作品を読み、深い感銘をうけた。四十年も前に上映され、評判になった笠智衆《りゆうちしゆう》さん主演の映画の脚本である。私はそれを、たまたま学校の近くにお住まいであり、また卒業生の御父兄でもある笠さんその人からお借りすることができた。この昔の脚本を読んで、父と子の、まことに自然な、すこしのてらいもない心の温まる触れ合いに胸をうたれたのである。話をすこし紹介したい。
主人公堀川は息子良平と二人きりの家庭であった。妻はすでに亡い。彼は中学教師であったが、修学旅行中に生徒の一人が事故死したため、責任を感じて辞職する。中学生の良平は、父と別れて寮生活を続ける。地方の大学を卒業した後も、父のいる東京から遠く離れた町の中学教師となって、引き続きひとり暮しの辛い生活をしている。ある年の晩秋、この父と子は、塩原の温泉で久し振りに一緒に週末をすごすことになった。その夜、食事の後で、子は父に向かってためらいながら、自分が心から望んでいることを打ち明けたのである。煩を厭《いと》わず、次に父と子のやりとりを引用する。
――僕は中学の時から随分長い間、お父さんと暮すのを楽しみにしてゐて、こんどこそ一緒に暮せると思つたら、又秋田県の方へきまつてしまつて、僕はもうお父さんと別れて暮すのがとてもたまらなくなつたんです……。そりや僕だつて折角学校を出して頂いて、その上、こんな我儘《わがまま》云つて申しわけないと思つてるんですが……。この際東京へ出てお父さんの傍で、仕事を見つけたいと思つてるんですが、ねえお父さん、どうでせう。(中略)
――そりやいかん、そんな事は考へる事ぢやない。そりやお父さんだつてお前と一緒に暮したいさ、だが、そりや仕事とは別の事だ。どこでどんな仕事だつていい。一たん与へられた以上は天職だと思はにやいかん。不平は云へんのだ。人間には皆分がある。その分は誰だつて守らにやいかん。どこまでも尽さにやいかん……。私情は許されんのだ。やれるだけやんなさい。どこまでもやりとげなさい。それでこそ分は守れる。(中略)ましてお前の仕事はやり甲斐のある立派な仕事だ。大勢の生徒をあづかつて、父兄の方はみんな苦労されて大事な息子さん達をお前に委《まか》せてをられるんだ。さき〓〓、良くなられるも悪くなられるも皆お前の考へ一つだ。お前のやる事はどんな些細《ささい》な事でも皆、生徒たちにひゞくのだ。軽々しく考へてはいかん。責任のある大きい仕事だ。……お父さんは出来なかつたが、お前はそれをやつてくれんけりやいかん。お父さんの分までやつて欲しいんだ。やりとげて欲しいんだ。
離れ離れに暮してゐたつて会ひたきや、又、かうやつて会へる。これでいゝぢやないか。お互にやれるだけのことをやつて、これで愉しいぢやないか。……どうだらう……。いゝぢやないか、これで。(小津安二郎・池田忠雄・柳井隆雄作、「父ありき」より)
この一節を読んで、私はいいようのない感動を覚えた。私の目の前に父の姿が甦《よみがえ》り、その在りし日の父と語り合っているような気持がした。私は、私の父も言ったにちがいない言葉によって、父への想いをいっそう深めたのである。
父と母と
――現代は母性の時代だと一般に言われていますが、先生の育った家庭はそうではなかったようですね。お母さんではなく、お父さんが家庭の中心だったのですね……。
これは、この本の原稿を読んでくれた四、五人の方々の感想である。たしかに、そのような印象を読者に与えるかもしれない。私自身の父を例にして、父親の尊さや父親自らの役割を繰り返し語ってきたからである。私の父はたしかに強い父親であった。しかし、父親には父親として放棄してはならない役割があると同様に、母親にもまた母親なりの役割があるのである。この二人の親の役割の違いは単に程度の相違ではなく、本質的な相違なのであって、いうまでもなく、両方とも子供の完全な成育に不可欠なものである。従って、その二つのうちの一つだけを過大に評価するのは、バランスのとれた人格形成をむずかしくするばかりである。幼児期やティーン・エージャー時代の“人格づくり”は、二人の産みの親の共同参加や協力によるものであって、このことは子供の人間としての正しい成長の大切な条件となる。この人間の自然が求めている親の教育的チームワークは、残念ながら今日の教育ママの時代においては、おどろくほど忘れ去られている。
私の両親は、それを忘れてはいなかった。私の母は父親としての務めまでやろうとか、“父に代わろう”とか、そういうことは絶対にしなかった。かえって、仕事でいつも忙しかった父を、しつこくといっていいほど私たち子供に差し向けてくれた。顧みると、母は父の役割を奪わなかったばかりでなく、父がたやすくそして楽しく、私たちに接することができるように心を砕いてくれた。
「本ばかり読まないで、少しお父さんのそばに来なさい」
と、よく言われたものである。また時には、
「一緒にゲームでもやりましょう、お父さん。たまには仕事を忘れて、くつろいでみんなで遊びましょう」
と父を誘って、楽しい一家の団欒《だんらん》のために心を配ってくれた。妹がピアノを弾くようになったとき、彼女の伴奏に合わせて一緒に民謡などを歌うこともよくあった。妹のピアノはたいして上手でもなかったし、私たちの声も――母を除いて――いいとはいえなかったが、その折の一心同体の家庭の団欒は、いまでも楽しく心に浮かんでくる。
母と別れてからもう四十数年にもなるが、母の姿が時にふと甦ってくることがある。いつも私の脳裏に映る母は、部屋の片隅でゆり椅子に座り、編物をしている。とても厚いレンズの眼鏡越しに、トランプをしたり議論したりしている父と私を眺めて、冗談をとばし、私たちをからかうのである。
「だめじゃないか、あみ目をおとしてしまうよ」
と母に言うと、
「あなた方が何をしているか、いつでも心配ですからね。誰かが見張ってないと……」
と、すぐはね返ってくる。
父と私が議論をするようなときには、母はいつも嬉しそうな顔をしたものだった。母は、今日のはやりの言葉でいえば、父親と息子の「話し合い」の舞台を意識的に工夫したのではないかと感じたこともある。しかし、なにもかも父に依頼したり、任せてしまったりすることはなかった。母は、有名な社会学者マックス・シェラーの著作を読むようなことはもちろんなかった。けれども、「母親は子供にとって家庭を意味し、父親は子供に世界への道を示す」というシェラーの言葉の意味を、親の常識として深く理解していた。日々の生活に起こる出来事や身近な問題、あるいは家庭のもめごとや兄妹喧嘩などは、母は母親として当然のこととして担当した。遠慮なく、たまにはやさしく、ときに厳しく。他方、政治や社会のこと、子供の将来のこと、物事の道理を教えることなど――それらは父親の責務であるというのが母の常識であった。
私の母は用事のために、ときどき家をあけることがあった。母方の祖母がはやく亡くなっていたため、母は七人兄弟の長女として、時折弟や妹たちの面倒をみてやらねばならなかったのである。父はお手伝いさんが大嫌いで、母が留守の間はいつでも、掃除も食事の準備も母代わりにやった。
「お母さんは、また出掛けているの」
と、私は文句を言ったことがある。すると父は言った。
「いいじゃないか、二人でやろう。お父さんはお母さんのようにケチじゃないからな、毎日ご馳走を作ろうじゃないか」
母はたいてい妹を連れて出掛けたので、父と二人で男だけの世界を楽しむことができた。父は料理がたいへん上手で、二人でいろいろなメニューを計画し、普通の料理の本にないような献立までも作った。今思ってみても、おいしかった。しかしそれ以上に、父と台所に立っておしゃべりをしたり歌を歌ったり、あるいはお互いにからかいあったりした思い出は、決して私の心から消えないだろう。そうした折の「スキンシップ」は、いつまでも断ち切られることのない精神的きずなとなった。
無論父との協同生活がすべてうまくゆくとは限らない。あるときなど、母が帰宅する前の日の夕方になって、お金を使いすぎたことがわかった。肉屋からきた請求書を前にして、私たちは思わず顔を見合わせた。その夜、私たちはどちらからいうともなく、たまっていた洗いものを一生懸命になって片付けた。油でぬるぬるした皿や、こげついたフライパンをすっかり磨いて水をきった後で、父は片目をつぶって言った。
「あす、おまえはお母さんを上手に出迎えるんだぞ。お父さんも一工夫しよう……」
次の日の夕方、玄関に母の靴音を聞くと、私はすぐさまとび出していって母と妹を迎えた。学校の演劇部でめい優のひとりだった私は、うやうやしく片膝《かたひざ》をついて言う。
「母上様、まことに淋しい思いでした」
妹、そして母も大きなからだをゆすって吹き出した。母は私の挨拶に応えて、
「おやまあ、お出迎えご苦労さま」
と腰をおとしてしなをつくった後で、笑いながら言う。
「ほんとに淋しかった? お父さんと男同士のつきあいができて楽しかったんじゃない? 口うるさいお母さんがいない間、二人でなにをしていたの。鬼のいない間の……じゃない?」
そして母はすぐ夕食の仕度にとりかかった。やがて台所から母の声がする。
「どうお? 食べるものは十分にあったの」
私はあわてて答える。
「あったよ。でもね、お父さんが作ったものより……」
と言いながら、父への裏切りを心の中で謝って、
「やっぱりお母さんの料理の方がうまいよ」
すぐ母の答えが返ってくる。
「変ね。今日は初めから変ね、おまえは。それに、台所はなんだかきれいすぎるようだし……」
母にはその理由がすぐわかってしまった。
「しょうがないのね。男というものはほんとにしょうがないわ」と、母は眼鏡越しに私を睨《にら》んでから、そばの妹に言った。
「ねえ、この世の中に女がいなかったらね……」
父は勤めの帰りに、母の好きなバラの花束を買ってきた。その「贈呈式」はなかなかのできばえだった。父は、
「お母さんとのハネムーンは、もう何年も前に終わってしまったものと思っていたのだが……」
と、もったいぶった様子で花束を渡し、
「お母さんはこの花のように、いつまでも美しい」と言って、そそくさと庭へ出て行ってしまった。
母のお小言は、父を裏切った罰のせいか、私ひとりで背負わねばならなくなったのだが、その日の冗談や皮肉で味つけられた母の注意は、親子の心の触れ合いをいっそう暖かいものにしてくれた。
「この世の中に女がいなかったら……」と母は言ったのだが、家庭の中にも、いや家庭の中にこそ、子供にとっても夫にとっても、“女”が欠けていては絶対ならないのである。母親は家庭の心だからである。勿論《もちろん》、女らしい、そして母親らしい母親!
妻や母親の女らしさ、そして母親らしさは、夫、そして父親を育てていくものである。私の父も、母の愛情や協力、あるいは応援なしには、私が心から尊敬しているような父親にはなり得なかったであろう。私はいまもそう信じている。私は父ばかりでなく母にも、深い感謝の念を捧《ささ》げているのである。
U おやじさまざま――私は教え子の父とこう語る
わが子はわが手で
二、三年前、中学校の入学願書受付の折に経験したことであるが、何人かの志願者の父親が、自分の子供をぜひともうちの学校に入れたいと熱意をこめて言った。
――とても忙しく、夜はいつでも遅いので、子供の教育が心配なのです。中学生になると、もう母親の手には負えません。子供を信頼のできるおたくの学校に入れていただきたいのです。よろしくお願いします……。
やはり、お母さんまかせから、今度は学校まかせという考えである。わが手でわが子を育てようという意欲がない。
日本の父親、特にサラリーマンは、たしかに忙しすぎる。私は彼等に心から同情している。そして、このみじめな境遇から脱することは不可能に近いので、わが子を心配している父親の何とかしたいという気持は理解できる。しかし、父親の「何とかしたい」という気持は、えてして「してもらいたい」という他人まかせの気持になりがちである。口にしづらいことながら、自分の大事な子の大事な教育を他人に任せて、その子を「捨て子」にしてよいのだろうか。
会社あるいは社会の仕組みによる忙しさは、父親が家庭教育に参加しない一つの理由になっている。しかし、この事よりも、もっと注意を要する原因がある。それは、指導力が乏しく、自信や信念が弱く、勇気が欠如している――もっとはっきりいえば、常識及び男らしさがないということである。
私は校長として三十年の間、うちの学校関係者ばかりでなく、教育に携わる他の人々との交際のなかでも、さまざまな男親に出会った。その感想というのは、素晴しいおやじもおれば、頼りにならないおやじもいるといった、安心と心配を交えたものである。心配は、むしろ怒りといった方が私の気持をより正確に表わすかもしれない。頼りにならないおやじほど、困ったものはない。子供にとっても、そして社会にとっても。
これから述べる経験話をある知人に見せて、彼の批評を求めたところ、「素晴しいフィクションですね。小説のように面白く読める」と、からかわれてしまった。つまり、彼は信じ難いと言いたかったのだろうが、残念ながら作り事ではない。赤裸な事実なのである。「事実は時折、作り事より奇なり」というわけである。
もとより、この物語に登場する主人公はいくらか仮装されているが、万一、「これは自分のことではないか」と思われることがあったとしても、心配は無用である。ここには、いろいろのエピソードや、何人かの父親や生徒との話し合いを書き記したわけだが、それらの一つ一つは、私がこれまで何十回といってよいくらい経験したことを代表する例にすぎない。登場するそれぞれのおやじには、それぞれに、何十人もの良き友、または悪しき友の仲間がいるのである。何十羽の真黒な烏の中では、一羽の黒い烏は目立たないというわけである。
なお、もう一つ言い添えたいことがある。それは、初めおやじらしくないと思ったおやじの中には、先生方との交流や父親同士の話し合いによって、実にいいおやじになってくれた人が多いということである。この事を考えてみると、日本の家庭の将来は、それほど暗いものではないと思う次第である。
頭から水を
かつて、ある中学生の父親から次のような懇願を受けたことがある。
――子供がお風呂を好まないのです。気がつくたびに、お風呂に入るように言うのですが入らない。先生から一言でも言っていただければと思うのですが。子供が信頼している先生のおっしゃることなら……。
母親がこんなことを言うのなら、まだわかる。その場合でも癪《しやく》にさわるに決まっている。しかし、父親の話である。まさか! 恥を全く知らないのかと、やりきれなくなってしまった。私の父ならば、有無を言わせず服を剥《は》ぎとって、腕ずくで風呂に投げ込んだにちがいない。私は、「そんなつまらないことを学校の先生に頼むのはよせ。すこしは自尊心を持ったらどうか」と、口ぎたなく罵《ののし》りたくなるのを押えて、次のような話をした。
――親のなすべきことは、私は引き受けることができません。お風呂に入れというようなことは、お子さんには言えません。家庭内のプライバシーのことですし、そのうえ、親の権威を疵《きず》付けることになるのですから。
しかし、このような教育の原則論はどうせ無駄だと思って、もっと軽い話し振りで続けた。
――今、思いついたことですが、お宅には広い庭があるでしょう。子供を庭に出して、ホースで水をかけ、泥を落して下さい。いい薬ですよ。二、三回やったら、お風呂に入りますよ。試してごらんなさい。
このお父さんの驚いた顔! 大笑いで話は終わった。このお父さんは、二度とそのような相談を申し込まなかった。
二、三週間後、このお風呂の嫌いな生徒と廊下ですれちがった。私は彼に訊《たず》ねてみた。
――お風呂はどうだ? 入るようになったの。
――先生、わるいですよ。父にひどいことをおっしゃいましたね。
――あ、聞いたの? 思いつきの冗談なんだよ。たまには冗談を言わないと退屈してしまうよ。
――冗談ですって? それは残酷そのものでした。
――でも、効果はあったんじゃないか、どう?
――それは秘密です。先生の鼻がいっそう高くなったら……。
こう言って、彼はさっと逃げ去った。今の若い連中は、なかなか口が達者なものである。
先生はよろず屋ではありません
――先生、子供のあのふさふさした長い髪に注意を与えて下さいませんか。
――うちの子供は、「行ってまいります」も、「ただいま」も全然言いません。いくら注意しても駄目です。学校では、そういうことを教えていらっしゃるのでしょうか。
――深夜放送はよくないと、何度もせがれに言って聞かせたんですが、止《や》めないんです。勉強にも健康にもよくないですからね。でも、「友達も皆、聞いている」と言うんです。親として、これを禁じてもいいのでしょうか。
――子供の好き嫌いがとても激しいんです。家内は好きなものだけ食べさせているようですが、栄養を摂《と》らないと、きつい勉強に耐えられないと言っておるんですが。どうしたらいいでしょうか。
――先生、ちょっと汚い話ですが、うちの子供は、朝、トイレがものすごく長くかかるのです。皆、困っているんですが、どうも、トイレの中で英語の単語を復習しているようです。先生、単語の勉強のやり方を、もう少しはっきり学校で指示していただけたらと思うんですが、いかがでしょうか。
――二、三日前、子供がでっかい錠前を買ってきたんです。それを自分の勉強部屋のドアにつけるといっているのですが、そんなことを許してもいいでしょうか。
これらの心配ごとや願いごとは、信じ難いかもしれないが、ある日の父兄会での“収穫”である。もっとたくさんあったのだが、父親(!)の代表的な発言だけを選んで記してみた。
このような話を聞くと、私はもう黙っておれなくなってしまうのである。男親が備えていなければならない自主性、自立性、あるいは決断力は、いったいどこへ行ってしまったのか。家父長制とともに消滅してしまったのか。
この時私が言ったのは、次のようなことである。
――先生というものを、都合のいいよろず屋のように考えないでほしい。先生は親の怠慢の尻ぬぐいをするわけにはいかない。家庭の躾《しつけ》やけじめまで、手出ししてはならない。家庭の暮しの常識は、学校で教えるべきものではない。子供はその生活態度を、家族と一緒に生活しながら、家庭それぞれの雰囲気《ふんいき》の中で親に見習うものである。
もう一つ大事なことは、「現代は子供の世紀である」とか、「今は民主主義の黄金の時代である」といくらいわれても、家庭の主である父親には、命令するという権利も義務もあるということである。子供がきき入れないならば、それに対する適切な手段もある。あるはずである。とにかく、子供をきちんとした人間に育てていくその義務を怠る親は、子供ばかりか家庭も、さらに社会をも駄目にしてしまう……。
この私の話を聞いて、何人かの父親は不安を感じたらしく納得し難い顔をした。もちろん、今の時代には昔と違った面があるから、時と場合によっては子供に譲ることもあるだろう。しかし、自分の部屋に錠前を掛けて、親や兄弟をシャット・アウトするようなことは! しかるべき処置に窮していたその父親に私は言った。
――許してもいいですよ。ただし条件付きです。子供にはっきり言ってやることです。「おまえは、錠前を掛けるのなら、下宿人になるわけだ。そうなれば、お母さんは食事をおまえの部屋へ持って来てくれるだろう。朝と晩の食事はね。お昼とおやつは自分で工夫するほかはない。もっとも、お小遣いは少しふえるだろうから大丈夫だ。しかし、洗濯などはおまえ自身でやらなくちゃだめだぞ。お母さんはお手伝いさんではないからな。それからもう一つ。リビング・ルームのテレビやステレオは使用禁止だ。あれは下宿人のためではなく、うちのもののためにあるのだからな。いま言ったことでよいなら、錠前を掛けてもかまわないぞ」
そのお父さんの驚いた顔! そのような処置を取ったかどうか私は知らないが、聞いた話に依《よ》ると、子供はまだ錠前を掛けていないそうである。
いわゆる“進歩的教育者”から、時代後れの教育観だと言われるかもしれない。しかし、私はそのような非難を少しも気にしない。かえって、私にとって素晴しい勤務評定であると思う。親も――この世の親こそ、この勤務評定に値するように、ぜひとも心掛けていただきたい。
前にも指摘したのだが、現代の親が学校に対して極端な依頼心を抱くようになった原因はいろいろあるが、私はそのうちの一つに、今日の日本の社会風潮があると思う。たとえば、私たちは消防署、警察、あるいは役所から耳にたこができるほどに、さまざまのなかなか親切な呼びかけに接する。いわく、プロパンガスは危ないから家庭でよく注意するように。いわく、戸締りを厳重に。また、溝《どぶ》の掃除は定期的に。この種の家庭への呼びかけは、青少年の社会教育の一助ともなるだろうが、実際は市民に対しての保護過剰のあらわれである。人々のあるべき生活能力を弱め、依頼心を強めてしまうものなのである。こんなふうに強められた依頼心が、学校にも向けられてくるのだから、先刻の呼びかけは、学校にとっても全く余計なお節介というものだ。忙しくなるからではなく、学校の本分を不明確にしてしまうからである。
このように、今の社会には、学校をよろず屋にしてしまう傾向が非常に強く存在していて、なにもかも学校の仕事や責任にするという社会非常識は、極めて根深いものである。学校の生徒が万引とかシンナー遊びで警察の厄介になると、必ずといってよいほど、その学校の名前が新聞に出る。校長までが登場せざるをえなくなったりする。そのような誤った責任転嫁は、今日の社会の持つ異常性の一つである。
あれこれ取り沙汰されている給食も、学校に期待されているよろずのうちの一つである。戦争直後の食糧難時代には、たしかに有難い奉仕であったが、今日ではもう学校の仕事の一つとはとうてい考えられない。食事を調えることこそ家庭の仕事、いな、妻の、母親の愛の業《わざ》の一つである。
一学期の終りに、ある先生が中学校の一年生にアンケートを書かせたことがある。「中学校に入ってから、一番喜んでいることは何か」という質問に対して、先生がユーモアがあって面白い、友だちが親切である、あるいは広々とした運動場で遊ぶことなど、さまざまな答えがあったが、そのなかで七割近くの生徒が記した答えは、「母のお弁当がおいしい」ということであった。これは百以上の小学校から入学してきた生徒の、学校給食というものに対してのきっぱりした否定であると言わざるをえない。いうまでもなく、彼等はうちの学校に出入りしているパン屋さんのパンも喜ばなかった。子供たちは、お母さんの苦労や工夫や愛情を弁当の独特の味付けを通して味わっているのである。母親が作ってくれる弁当は、子供たちに舌鼓をうたせながら、彼等の心の糧ともなるのである。
昼の弁当のことはただ一つの例にすぎないが、親と子が共にすごしている家庭生活の全体において、親自身が子供の成長を見守っていく姿勢こそが、親と子を結びつける堅い絆《きずな》となるのである。親子関係の崩壊などとよく言われるが、親の子供に対する尽くす心、懲らす心、そして赦《ゆる》す心は、その子供にとってはいつまでも忘れられない思い出となり、えてして孤独感に陥りがちな今日の人生において、子供に一つの精神的拠《よ》り所を与えてくれるものである。
おやじの株が下がっては
ある冬の晩の九時すぎに、校長室に電話がかかってきた。
――お世話になっているAの父親ですが。校長先生にお会いして、お話したいことがあるのですが、伺ってよろしゅうございますか。子供についてのことなのですが。
――よろしいですよ。いつ、いらっしゃいますか。
――今晩でもよろしいですか。
――今晩? もう九時すぎでしょう。明日はいかがでしょうか。
――それでもいいんですが、できましたら、今晩お願いしたいのです。はなはだ失礼ですが……。
何か緊急なことが起こったのだろうと思って、私はすぐ来るように言って電話をきった。しかし、それほど慌てて相談しなければならないようなことでもなかった。
何が起こったかというと、子供が母親にきつく叱られ、かっとして母親を殴ってしまったというのである。その殴り方がひどくて、三、四日の怪我ではないかと、父親は恥ずかしさのためか、ためらいがちに話した。
――先生、このようなことは初めてです。どうすればいいかわからないんです。
――どうすればいいかとおっしゃるんですが、そのまま放って置いたのですか。
――そうでもありません。自分の部屋へ行って反省するように叱ったのですが。
――甘いですね。奥さんに対しても子供に対しても、無責任ではありませんか。
――そのことなんです、先生。ですから相談したかったのです。放って置くのはよくないとはわかっているのですが、どうしたらいいのでしょうか。
――そうですね。それに関しては、私は何とも言えません。お父さんのこと、奥さんのこと、家庭の雰囲気、子供の反抗や反発の具合、これまでに今日のような爆発がどれほどあったかなどのことを全然知らないのですから、何も言うことができません。たとえ、言いたいことがあっても、言ってはいけない。これはあくまでも、親が処理しなければならない問題ですよ。子供のことも、事情もいちばんよく知っているんですからね……。
この父親は、私が子供を呼んで注意することを強く希望していたらしい。それを断わられてしまったことは、父親にとって一つのショックであった。それで、自分はどの程度きつく子供を叱ったらいいか、罰していいか。どのような罰が妥当か。しかし、罰すると子供はひねくれてしまうのではないか。いろいろの本にもそのようなことが書いてある。……とにかく、迷いに迷う精神状態になってしまったようだった。万一、子供が家出でもしたら……。
――家内も、そのことを心配しています。
――家出したって構わないじゃありませんか。すぐ戻ってきますよ、外は寒いですから……。こう、私が言ったことも、父親にはまたショックになった。
――どうしたらいいか、実は申し上げたいのですが、でも言わないことにします。ただご参考までに、ひとつだけ申し上げておきます。この私が母に向かって手を上げようものなら、父は、私が二、三日は坐ることができないほど、私の尻を真赤に腫《は》れあがらせてくれたにちがいありません……。
私はこの父親を正面玄関に待たせてあったくるままで送った。彼が乗ろうとした時、私はもう一度話し掛けた。
――今日の話は内緒にして置きましょう。こんなことを校長に報告して相談したことをお子さんにおっしゃらないで下さい。絶対にですよ。私も何も言いません。おやじとしての評判を守らなくてはなりませんからね。家で、おやじの株が下がっては困りますよ……。
彼が帰った後で、私は考え込んでしまった。あの子は、別に悪い子じゃない。むしろいいやつだ。どうしたというのだろうか。ひょっとしていままで、学校では上手に猫をかぶっていたのだろうか……。
しかし、私の生徒を見る目は間違っていなかった。
二、三週間後のある日の放課後、一仕事終えての息抜きにグランドに下りて、サッカー部の練習を見に行った。あの泥だらけの連中のファイトは、私をも励ましてくれるくらい見事なものである。練習の中のちょっとした休憩に、突然ひとりの生徒が私のところへ走って来た。
――先生、この間はどうもありがとうございました。
――ありがとう? 何のこと?
――この間の晩のことです。父がご迷惑をおかけしました。どうもありがとうございました。
この間のあの“暴力少年”だった。不意をうたれてびっくりしたが、気をとり直して尋ねた。
――ちょっとききますが、君のお父さんは私に会ったことを言ったの?
――はい、言いました。
――何も言わないように私は言ったのに。それは約束違反だ!
――でも、先生、いいんですよ……。
急に彼の目に涙が浮かんできた。
――先生、あれでさっぱりしました。どうもありがとうございました。
こう言うと、彼は仲間のいる所へ走り去ってしまった。
「あれでさっぱりした」という“あれ”が何であったのか、今でもわからない。知りたくもない。しかし、彼はかなりやられたのではないかということが十分に想像される。にもかかわらず、校長のところへお礼を言いに来るのである。
男の子というのは、そんなものではないのか。このことを世の父親たちに是非伝えて置きたい。子供をがっかりさせないように、しっかりやれ! ということである。
女々しい男をつくるな
毎年一月の後半は入学願書受付の時期である。この時期になると、しばしば、志願者らしい小学生を連れた両親が、表玄関の前で広々とした明るい冬枯れのグランドを眺めているほほえましい光景を見かける。
ある日、そうした父親の一人と立ち話をした。
――素晴しい施設ですね。是非入れてもらいたいものです。しかし、バスの停留所が駅から相当離れていますね。五分ぐらいかかりましたよ。それに、バスの時間表を見ると、バスが非常に少ないようです。でも、スクールバスがあるんでしょうな……。
父親のそばにいる子供は、お相撲さんのような体格をしている。
――いいえ、スクールバスはありません。そして、定期バスに乗ってはいけないことになっています。生徒の足で、わずか十五分ですからね。
――でも疲れてしまうんじゃないでしょうか、かなり急な坂道ですから。勉強もとてもきついと聞いておりますが。子供をくるまで送ってもいいのでしょうか。
――いいえ、自家用車も駄目です。
そして、私はちょっとおどかしてやろうと思って、言い加えた。
――せめて、私が校長をしている間は。
――あ、校長先生ですか、すみませんでした。幸いに入学できましたら、もちろん、学校の方針に従いますから……。
私の学校では、学期に一、二回、平常の試験を集中的に二、三日にわたって実施することにしている。そんな試験の前日、ある生徒の父親から事務室に電話がかかってきた。事務室との話は思い通りにいかなかったらしく、校長につないでほしいということで、私が直接、このお父さんの心配事を承ることになった。話というのはこうである。試験中は遅くまで勉強しているので、子供にグリーン車を使わせたい。電車が非常に混んでいるから。子供は友だちに悪いのでいやだといっているので、担任の先生にそのことをはっきり指示してもらいたい。
――いかがでしょうか……。
というのである。私はこの話を聞いて、胸がむかむかしてきたが、じっと堪えて、ぶっきらぼうに答えた。
――担任の先生には、そんなことを指示する権限はありません。また、校長にその権限があったとしても、そのようなことを許すわけにはいきません。どうぞ、子供の正しい考えを押し曲げないように! 男の子だから……。
私は、毎朝、二階の校長室へ行く前に事務室に寄って、一日のスケジュールを連絡することにしている。この時刻はまた、外部からの電話の多い時でもある。電話というものは、実際、文明の利器でもあり、人をいらいらさせる拷問器でもある。特に、朝礼前にかかってくる電話は、たいてい後者の部類である。
その朝の電話もそうであった。ある中学生のお母さんからであった。私は交換台のそばに立っていたので、この母親と事務の先生とのやりとりを聞かないわけにはいかなかった。用件というのは、子供が熱を出しているようなので、医務室へ呼んで熱を計ってほしいという依頼であった。
――熱があるのに、どうして休ませなかったのですか。
と、事務の先生が訊く。
――今日、部活動がありますので、子供がどうしても休みたくないと申しますので。
――まあ、それほど心配しなくともいいでしょう。気分が悪くなったら、自分の方から医務室へ来るでしょう。皆そうしていますから。もう中学生なんですから、子供に任せても大丈夫ですよ。
――そうでしょうか。ちょっとお待ちになって下さい……。
どうやら、父親も私と同じように、脇に立って“盗聴”していたらしく、怒ったような調子で奥さんに話し始めた。小声ではあったが、幸か不幸か、私にはその話がはっきりと聞きとれた。
――学校でそう言うんなら、おまえ、学校へ行きなさい。熱を計ってやって、必要なら、医務室でみてやんなさい……。
これで、私の我慢は切れてしまった。受話器をとり、遠慮なく話すべきことを話して、問題は円満に解決した。円満にというと? とにかく、このお母さんは学校へ来なかった。そしてお父さんは、男の子はもっと男らしく育てなければいけないとわかったらしい。
甘やかしというか、とんでもない子供孝行というか、これは子供を駄目にしてしまう最適の方法である。
「みんなそうしている」で育つと
順一は、最近、どうやらある不良グループに仲間入りしたらしい。それで、両親は、とりわけ母親はひどく悩んでいる。
――あの順一が。まさか! とても信じられない。……という人もいるので、彼の“学びの道”を少し辿《たど》ってみたい。
八歳。ある日、お父さんと一緒にドライブに出掛けた。アルコールが少し入っていた関係かどうかわからぬが、お父さんはスピードを大幅に出し過ぎて、白バイにつかまってしまった。お父さんは、「やられた」と呟《つぶや》いて、免許証を出し、それからそっと五千円札一枚を警官に握らせた。ちょっと注意をうけただけで放免された。
再び自動車が走り出したとき、順一はお父さんに言った。
――あんなことしていいの。ワイロじゃないか。
――なあに、みんなやってるんだ。
と、お父さんは苦笑いをして言った……。
九歳。お父さんと釣りに行った。あまり釣れなかったので、お父さんは不機嫌だった。帰りの電車の切符を買う時、お父さんが言った。
――四十円区間の切符を二枚買ってこい。
――四十円区間を?
――うん。おまえも定期を持っているだろう。それで降りればいいんだ。
――でも、それはキセルじゃないか。
――いいんだよ。みんなそうしているんだ……。
十歳。ある朝、寝坊してしまった。お母さんが遅刻届を書いてくれたが、理由として「腹痛」と記した。
――お母さん、うそだよ。寝坊だよ。
――恥ずかしくて書けませんよ、お母さんも寝坊したことになりますからね。
――でも……。
――大丈夫ですよ。みんなそうしているんですからね……。
十一歳。ある日、順一は一番上の兄と喧嘩《けんか》した。兄にひどく殴られて、耳を痛めてしまった。耳鼻科に行くことになって、家を出る時に父に言われた。
――おまえは学校安全会の保険に入っているだろう。この怪我は学校でしたことにするんだぞ。そうしないと保険が使えないからな。
――でも……。
――でもじゃない。お父さんは毎年、掛け金を払っているんだぞ。大丈夫だよ。みんなそうしているんだ……。
十二歳。順一はお父さんから、素敵な模様の入った真赤なセーターをもらった。外国旅行のお土産であった。
――学校では、こんな派手なものを着てはいけないことになってるんだ。黒か紺系統の地味なものでないと先生に叱られるよ。
――まあ、そんな堅いことを言わなくたっていいじゃないか。新しいスタイルでいいじゃないか。おまえも着たいんじゃないか。町を歩いている若者を見てごらん。みんな着てるじゃないか、大丈夫だよ……。
十三歳。夏休みの間、伯母さんがやっている青物屋で手伝いをした。ある日、伯母さんから、トマトを詰めかえるように言われた。熟れすぎたトマトを箱の下の方に、よいものを箱の上において目立つようにしろというのである。順一がびっくりした顔をしたので、伯母さんは笑って言った。
――坊や、大丈夫なのよ。みんなそうやっているんだから……。
十四歳。親戚が集まった時、税金の話が出た。ちょうど、青色申告の時期であった。順一はその話を面白く聞いた。とりわけ、伯父さんの一人がした、申告を誤魔化《ごまか》す方法が面白かった。最後に、その伯父さんは笑いながら順一に言った。
――学校じゃ習わないことだよな。まあ、先生だって教えるわけにはいくまいね。でも社会常識なんだ。みんなそうしてるんだからな……。
十五歳の時、順一は万引をしてつかまった。父親は警察に呼び出され、きびしい注意をうけた。父親は、今度だけは赦してくれるように必死になって警官に頼んだ。そして順一に言った。
――お母さんやお父さんに対して、よくもこんな恥ずかしいことができたものだ。うちでは、おまえにそのようなことは何一つ教えた覚えがないぞ……。
順一の伯父も伯母も一様に強いショックを受けた。
子供の考え方というものは、自分が育つ間に見たり聞いたり、経験したりすることによって、強い影響を受けるのである。道徳的価値観も決まってくる。われわれ――親、先生、そして大人の責任は実に大きい。
ピーナッツ教育はだめだ
ある日、ひとりの父親が訪ねて来た。要件が片付いて雑談に入った時、彼は幾分ためらいがちに言った。
――先生、休みに入ってから直ぐ、子供のためにオートバイを買いました。今度必ず勉強するからと約束したものですから。なんとしてでも勉強してもらわないと困るものですからね。家内もそうしようと同意したんです。
――奥さんも? ではどうしてそのことを私にお話しになるのですか。不安があるからでしょう。ロッキード事件が起こったからね。
――ロッキード? それはどういう意味ですか。
――そうですね、お買いになったオートバイは当世風にいえば、ピーナッツだからですよ。一種のそでのしたです。
――そでのした?
――そうですよ。賄賂《わいろ》そのものです。賄賂を受け取ることは犯罪とみなされているでしょう。とりわけ最近はね。でも、受け取る側よりも、贈賄する方が罪は大きいと私は思っています。私が裁判官なら、その犯人の起訴を免除するようなことは絶対にしないでしょう……。
私は冗談を交えて話したつもりだったが、このお父さんは相当驚いたようだった。
――お父さんは、来学期の勉強のことを期待していらっしゃいますね。それは希望的観測というものです。特に子供の性質を考えた場合にね。
――うちの哲夫はそんなに悪いですか。
――そうでもないんですよ。でも甘いですね、物凄《ものすご》く。しかし、哲夫君が今度それによって、以前よりも勉強するかしないかは問題の焦点ではない。私が言いたいことは、子供の努力を買ってやる、それはとんでもない甘やかしだということなんです。勉強することは、当然なすべきことなんですからね。子供の甘えは、親のそのような甘やかしによって育てられ、助長されるのではないでしょうか。
――なるほど。今度の学期の成績をみたうえで、ということにしたらよかったかもしれませんね。
――それだって同じ甘やかしですよ。第一、あんなに高価なおもちゃをですよ、十五、六歳の子供に買ってやること自体、無茶ではありませんか。
――でも、大勢の生徒が持っているんじゃありませんか。哲夫は、みんなが持っていると言っています。
――その“みんな”とは誰ですか。暴走族ですよ。学校の友達ではないでしょう。あるいは、何人かは持っているかもしれませんがね、バックボーンのないおやじがいますから。まあ、それは別にして、お父さんに提案したいことが一つあります。現代国語といいましょうか、ティーン・エージャー独特の話し振りといいましょうか、それを少し勉強したらいかがでしょうか。つまり、生徒が使う“皆”とは、一人か二人、多くても三人という意味なんですよ。「広辞苑」が今度再版されたら、そこのところを是非訂正してもらわなくちゃいけないですね。
――やはり、前以て先生に相談すればよかったですね。残念なことをしました。
――いや、そんなことについて相談する必要がありますかね。それはあくまでも家庭、特におやじの常識の問題ですよ。あなたはそのオートバイを買うときに迷ったではありませんか。自分が正しいと思っていることを、信念をもってやり通せばいいんじゃありませんか。
――全くまちがっていました。赦していただかなくてはなりません。
――いや、いや。赦すとか赦さないとかいうことではありませんよ。勿論《もちろん》、オートバイで通学することは、学校は厳禁しています。買わないようにということは、親にも生徒にも、はっきり言ってあります。でも、買う買わないは、全く親の権限ですよ。
――まあ、たしかにそうですね。
――この間、こんなことがありました。警察の方から、オートバイの正しい乗り方や交通安全などについて、高校生に話して指導したいという申し出がありました。私はそれを断わりました。当校では、父兄がオートバイを買わないことになっているし、持っている生徒もいないはずだから、そのような説明会は、かえって、オートバイを買ってもよいのではないかという印象を与えることになるといって、警察の方々に納得してもらいました。今申し上げたことは、先日の父兄会の席上で皆さんにお話ししたでしょう。
――ええ、そうでした。
――とにかく、そのような大事なことでは、家庭と学校との共通の理解、共通の言行ということを大切にしなければなりませんよ。今のオートバイのことですが、哲夫君はおそらく、自分は勝った、負けたのは学校だと思っているでしょう。あるいは、自分の親は学校の考えをあまり気にしない、もしくは学校と協力しようとしない、と感じているかもしれません。もしそうなら、自分も学校の規則とか指導、あるいは伝統に対して背を向けてもいいんじゃないかという気持になってしまうのは、別に驚くべきことではありませんよ……。
このお父さんは、ひどく深刻な顔をして帰って行った。私は、すこしやっつけ過ぎたかなと思った。しかし、しばらく経って、今度は心から感心することになった。
二、三カ月後、父兄の座談会が開かれた時、哲夫君のお父さんは自分の方からすすんで、その「事件」を皆に語って自分の過ちを批判したのである。
その報告は、父親同士の面白い意見交換の出発点となった。そして、活発にいろいろの話が出た。たとえば、全くあきれるほど利口な子供が多いというのである。彼等は自分の勉強や努力を一種の商品と考えて、その対価として実に巧みに、高級カメラやステレオ、一級品の時計などをせしめる。あるいは、ご褒美に海外旅行さえも要求する。私は、そのような「賄賂なみの取引」は立派な犯罪になると指摘した。被害者は親ではなくて、子供であるからである。ものをみる目が完全に狂っていくのである。最近、日本の経済界や政界に反省を求める声が強く出ているが、同時にまた、次の時代を担って行く経済人や政治家を育てる家庭にも反省してもらう必要がある――そんなことまで私は指摘した。
ひとりの父親が、この長い話し合いの結論を次のようにまとめてくれた。
――われわれ親たる者は、自分の子供だけではなく、子供の級友のことまで考えなければならない。とりわけ父親は、父親同士、もっと自分たちの体験を語り合わねばならない。もっと良きおやじになるために。そして、もっと正しい子供を育てるために……。
父親族よ、団結せよ
もっと正しい子供を育てるために! 父親の正しい関心は、たいていは、前に述べたような結果を生むのである。
ある日、ひとりの高校三年の生徒と立ち話をした折に、少しからかってやった。
――近頃は模範生みたいになったね、君は。やっぱり奇跡はあり得るんだな。本当に改悛《かいしゆん》したんだね。
――先生、そんな皮肉は嫌いです。止《や》めて下さい。ついでに、もう一つ止めてもらいたいことがあります。言ってもいいですか。
――いいよ。言ってごらん。
――毎月、高三の生徒の父親の集りがあるでしょう。それを止めて下さいませんか。
――君は何を言っているのか。君とは関係ないことじゃないか。
――いや、大ありなんです。大変迷惑なんです。おやじがあんなに熱心なので、こちらも何とかしなくちゃならなくなっているんです。本当に困っています。
――いま、皮肉を言ってるのは、いったい誰ですかな……。
この学年の父親たちは、実に熱心であった。高二の初めに父の会というものを作って、高三の卒業まで、十五回も集まった。顔ぶれは必ずしも固定していなかったが、平均の出席人数は四十数人であった。会合は打ちとけた雰囲気《ふんいき》の中で始まり、父親たちは、その職業を通じての話題や家庭における父の座について、そして息子たちの姿などを語るのであった。父親たちは、談笑のうちに、自分の家庭では気付かなかった事柄を我が家の教育の課題として学んだ。それにしても、そうしたところから得るものは、父親にとってよりも、むしろ子供たちにとっての方がはるかに大きかったと、私たちはつくづく感じたのである。
ポルノ時代の親とは
遠足のあったあくる日のこと、ひとりの先生が薄っぺらな本を私に渡して、次のことを報告した。
――きのう、バスで帰る途中、私の横に坐っている生徒が読んでいる本をのぞいたところ、変なものだったので、話し掛けてみました。
「君は何を読んでいるの。ちょっと貸してごらん」
その生徒はなんの抵抗もみせないで、素直に本を手渡してくれました。私はちょっと目を通しただけで、びっくりしてしまいました。
「君はこんなものを読むの? 君が読んでもいいものだと思っているの?」
「さあ、どうだか、まだわかりません。半分しか読んでませんから」
「こんな本はひど過ぎるな。これは君に返さないことにするよ」
「先生、それは困りますよ。読みたいという友だちもいるので、順番がちゃんと決まっているんです」
「そうだとしても、こういう本はあまりにもくだらないものだ。いったい、どういうふうにしてこれを手に入れたの? 友だちから借りたの?」
「それは言いたくありません。返してもらわないと困ります。先生、お願いします」
「やっぱり、返すわけにはいかない。返すとしても、お父さんか、お母さんに渡すよりほかに方法がない……」
この報告を聞きながら、私はその本のページをちょっとめくった。ポルノそのものだった。下品な写真やヌードやイラスト、あるいはセックスについての記事や冗談やさまざまな広告など、筆や口になんとも表現できないほどであった。好奇心の旺盛《おうせい》な若者、特に男の子が、こっそりと蔭《かげ》にかくれて、そのようなものを見ようとするのは別に驚くべきことではない。成長していく過程の一つだと言っていい。しかし、遠足のときに先生の側に坐って、友だちの前で平気にそのようなものを読むのは、それは大きな驚きであった。全く恥をしらないのではないか。そうなら大変である。何故《な ぜ》なら、恥をしらない若者を教育するのは非常に難しい、いや、むしろ不可能に近いといっていいぐらいだからである。
一度、その生徒と個人的に話さねばならないと思ったところ、その翌日、彼の父親が私のところへとんできた。
――あの本はうちにあったのです。誰かが子供の目につく所に置き忘れたらしいのです。どうも申し訳ありませんでした。
――その本の内容はごらんになったのでしょう。子供が読んでいい本じゃない。大人にしたところで、あんなくだらないものを読むのはどうかしていると、私は思います。親は、その点で無関心であってはならないのですよ。
――子供から話を聞いて、びっくりしました。実は、家内は泣き出してしまいました。
――先生に発見されたからですか。それとも、あのようなものを読んでいたからですか。見つけられたことについては、心配しなくともいいですよ。問題にはしませんから。しかし、今後の指導については、親は真剣に考えなくちゃいけませんね。家庭の雰囲気と親の考え方は、指導の一つの決め手になるのですから。
――家内は今後のことについて不安に思っています。母親というものは、おそらく皆そうでしょう。でも、男として考えると、そしてまた、時代が時代ですから……。
――どうもそれは、男の性の特権論のように聞こえます。そんな手前勝手な考えはよしましょう。それに、今の時代は……というとんでもない言い訳も捨てましょう。
――先生のおっしゃることはわかります。セックスの氾濫《はんらん》は、たしかにひど過ぎます。しかし、それは一つの、どうしようもない現実です。子供は、どうしてもそれにぶつかって行かざるをえないのです。何も知らないで此《こ》の社会に入って行くのは、かえって危ないんじゃないでしょうか。
――温室教育は駄目だとおっしゃりたいのですか。
――まあ、そうです。
――ご安心下さい。一つには、子供が何も知らないというのは余計な心配です。むしろ、知り過ぎることが心配です。そしてもう一つ。泥に汚れないようにする、いかがわしいことに触れさせない、ポルノを見せない、セックス犯罪を紹介しない、プレーボーイマガジンを読ませない――こういう教育が、どうして温室教育だということになるのでしょうか。温室教育であるとするのは、セックスというものを一つの商品にしている人たち、あるいは自分のだらしなさを弁護したい人たち、または人間の本能を完全に自由に生かすべきだという放埒《ほうらつ》主義を主張する人たち――そういう人たちの宣伝ですよ。人間性を無視する、いや、堕落させる無責任な宣伝です。そのような人々によって、洗脳されることのないようにしてほしいのです。このことを私は親に対して、心から願っているのですよ。
――本当のことを申しますと、私もそういうふうに思っています。いや、もっと正確にいうなら、そういうふうに思いたいと言ったらよいでしょうか。けれども、何が正しいか、何が正しくないか、どうもわからないことが多いのです。いろいろのことが言われていますからね……。
このように言う親が少なくない。現代においても性に関して、健全な考えというものはまだ存在しているのである。しかし、他方では、自分の考えは古くさいものではないだろうかとか、今の世の中では通用しないのではないかと心配しているのである。性に関する問題点は、夫婦中心から男性・女性中心へと移りつつある。避妊の知識や方法が一般に普及してきたので、性と結婚、または性と育児との間には、かつてあったような密接不離の関係がうすれてしまった。そして、それによって性の道徳観も変わってきた。性はますます解放されていく――というような、性についての「開かれた現代観」が、書物や新聞雑誌、あるいは映画やテレビによって、広く布教されているから、親が自信を失ってしまうのは無理もないことである。
親のつまずきになるもう一つのきっかけは、青少年の指導手引を装った読みものである。その中には、いろいろの疑わしい、とんでもない暗示が見受けられる。たとえば、「世の中には猥褻《わいせつ》なものはない」とか、「性の冒険をさせよ」といった見出しは、たいていの親に、控え目に言っても誤解を生じさせるものである。しかも、もしその「冒険」の中には、高校時代にはなかなか出入りできないトルコ風呂へ、父親が一緒に行くようなことが含まれているといった考えがあるならば、それこそ犯罪に近い性狂育となる。世間でもてはやされている人の書いたものの中には、残念ながらそのようなことが語られているのである。
私が親に言いたいのは、自分の良識、及び自分の良心に従って判断するならば、誤った指導をする心配はないということである。もっとも、今日のさまざまな教育論の原始林に迷ってしまわないように、真面目な勉強も必要である。しかし、こう言ったからといって、生物学とか生理学、あるいは心理学などの勉強を薦めようというのではない。道徳、倫理学、あるいは宗教、つまり心の支えとなるものの勉強、これが肝要なのである。
深く銘記してもらいたいのは、今日の親は性教育を放置するのは許されないということである。しかし、どうしたらいいかという心配は無用である。良い親であろうとする親は、親としての資格も能力も十分に持っているものである。しかも、その資格というのは、「知識」よりも「正しい価値観」を備えることにあるのであるから、性に関しても、親の最大の義務はしかるべき価値観を養うことである。そして、その価値観が夫婦同士、及び親子同士の付き合いや、毎日の生活を形作るものになるならば、わが子の性教育について心配することは全くないのである。
以前、性についての講演を高校生に聞かせたことがある。内容は、主に医学や生物学を背景にしたものであった。講演者は、もちろん、性の個人や家庭や社会にとっての意味、そしてそれに伴う各個人の責任にも触れた。私は高校生にとって適切な説明だと思った。
話が終わった後で、私は五、六人の生徒に感想を尋ねてみた。その中のひとりが言った。
――よかったと思いますが。でも、耳新しい点は別にありませんでした。
――それでは、もうだいたい知っていたの?
――まあ、そうです。だいたいのところは。
――どんなふうにして知ったの? かまわなければ、話してくれないか……。
彼は当惑して顔を伏せてしまったが、まわりの仲間に、
――かまわないだろう、ぼくらにも聞かせろよ。言いにくいことがあったら助けてやるよ……。
と、さわやかな友情に励まされて、頭をかいて言った。
――父に教えてもらいました。今でも、ときどき父と一緒に風呂に入るんですが、それで、友だちに笑われるんです。しかし、裸になると、なんでも話し合えるんです。男同士だからな――というのが、父の口癖なんです。
――じゃ、そんな折に、おやじにセックスのような、ちょっと話しづらいことも質問するの?
――ええ、そうです。ぼくなんかも、いろいろ読んだり聞いたりするんですが、その中には、それでいいのかなって、わからないことも時にあるんです。そういうことを父に尋ねるんです。父は、「おまえも、いつか家庭を持つようになるんだから」と言って、遠慮なく話してくれます……。
この生徒の話を聞いて、私は羨《うらや》ましいと思った。父と子が背中を流し合いながら、どうしても口ごもりがちになる性について、ごく自然に語り合える率直さに、私は心をうたれた。友人たちも羨ましそうな顔をした。そして、私は他方では、ヨーロッパにはお風呂という文化財産のないことを残念に思ったのである。
六落七当
ある夜遅く、東京から帰る途中、電車の中で一人の高校三年生の父親と一緒になった。子供は高三であるから、だれでも予期するように進学についての心配事が話題に上った。
――もう諦《あきら》めましたよ、先生。うちの子供は全くファイトがないんですから。
――英二君はファイトがない?
――そうなんです。つらくなるとすぐ止めてしまいます。私が帰宅する頃にはもう寝てしまっているんですよ。一時、二時まで勉強したことは一度もありません。ねばりがないんですね。“四当五落”を何べん聞かせても無駄なんですよ。
――きびしいですね、四当五落ですか。お父さんはそれを本当に期待しているのですか。
――受験戦争の常識になっていることではありませんか。
――それは常識じゃありませんよ。それは異常識です。健康の必要条件を無視していますからね。私が生徒に言うのは、“六落七当”ですよ。
――甘いんじゃありませんか。
――そうでしょうかね。でも、英二君はあなたよりも二倍ぐらいの仕事をしているのではありませんか。授業は六時間、プラス宿題、プラス予習、復習、そして進学のための科目ごとの仕上げを加えたら、何時間になりますか。計算してみて下さい。大変な労働でしょう。お宅の会社の従業員にこれほどの仕事をさせたら、労働基準法違反で告訴されますよ。どうも、今日の受験競争に巻き込まれている生徒を考えると、産業革命時代の、あの非人間的な若年労働とか、明治時代の紡績工場での女工哀史が頭に浮かんでくるんです。
――なるほど、そうおっしゃられると文句が言えなくなります。困りましたなあ。
――でも、私が言ったことを誤解なさらないで下さい。一生懸命に勉強するように、生徒の尻を叩いていますよ。私が申し上げたいのは、努力にも限度があるということです。そしてもう一つ、親の余計な口出しは、子供の反抗をひき起こすばかりだということです。
――それは、私も感じていましたが。
――お父さんと英二君のつき合いはどうですか。
――そうですね、あまりチャンスがありませんね。忙しいものですから。考えてみると、どうも最近、息子は私を避けているようです。
――無理もないですよ。一時、二時までやれと言われれば、だれだって逃げちゃいますよ……。
数日後、英二君が私のところへやって来た。
――先生、この間、父を相当しぼったようですね。父はぶうぶう文句を言ってましたよ、笑いながらですが。そして、こんどの日曜にドライブに行こうと誘われました。びっくりしてしまいました。
――いろいろ注文をつけられなかったの。
――全然ですよ。何年振りかで、ゆっくり父と話をすることができました。
――何年振りかで?
――そうです。しかし、先生。ぼくのおやじはいいおやじですよ。
――そりゃあ、私だってそう思うよ……。
彼はにっこり笑って、ぴょこんとお辞儀をすると、校長室を出て行った。おそらく、彼は自分の父親がいかにいいおやじであるかを私に納得させに来たのだろう。
大学は通過点
浩司君は、クラスの大部分の仲間から、文化祭の委員の一人に推薦された。その時までそのようなことは一度もなかったので、彼は内心非常に喜んだ。しかし、父親が反対するのではないかと不安になって、反対されても委員をやっていいのかと組主任に相談した。
――そうだな、それは君とお父さんとの間の問題だ。先生は、勿論、君にやってもらいたい。必要なら、お父さんを説得してもいいよ……。
しかし、予測した以上の反対が出て、組主任と父親との話し合いは行き詰まってしまった。その父親が言うには、委員をやるかやらないかは友達が決めることではない。また、学校もそのような役目を一方的に押しつけてはならない。何故なら、成績が下がるに決まっているからである。たとえば、進学がうまくいかない場合、学校は責任をとってくれるか。学校の指導体制はなっていない――と、まあ、こんな具合の激しい口吻《こうふん》で、説得どころの話ではなくなった。そして最後に、
――校長に抗議を申し込みたい。そのように伝えていただきたい……。
困惑した組主任からの連絡で、早速その次の日に学校に来てもらった。
浩司君が入学して以来、もう五年になるけれども、お父さんとは最初の対面であった。初めは、私も組主任と同様に、口を差し挟《はさ》むことも不可能な状態のまま、現代の日本の社会について、無料(!)で、長々と、しかも懇切丁寧に教示(洗脳?)を受けた。つまり、激しく発展していく今日の社会では、勝ち残っていくためには、充実した学力及び一般に認められている一流大学卒業という学歴は、最も重要な条件、いな、是非とも必要な武器である。それを狙いにした場合、中学校や高等学校での成績は決定的な役割を果たすことになる。従って、将来性のある生徒を厳しく鍛え上げるほかはない。学校が力強くやっている人間教育はありがたい――先生、これはお世辞ではない!――が、しかし学業以外のさまざまな活動を過剰に強調することは、進学問題や社会の現実を無視している。とにかく、自分の倅《せがれ》にはそんな余裕はない――というのである。
――でも、浩司君の学力はクラスの上の方ですよ。
――今はそうかもしれませんが、しかし安心はできません。集中力も足りないし、頑張りもきかない。ですから……。
私も浩司君と同じ様に集中力が弱いらしく、このお父さんの話を聞きながら、ふと、ある予備校のパンフレットで読んだ記事が頭に浮かんだ。それは受験生への励ましの言葉であった。「点を取れ。一点の差で君の進学が決まる。その一点の差で、君の永い人生の幸せが決まる。その一点を取れ!」
大学への進学が一点で決定され得る――それは否定できない事実であろう。しかし、その一点で永い人生の幸せも決定されるという主張は? まさか、と心の中で憤慨しているところで、私をなんとかして納得させようと思っていたおやじは、私がちゃんと聞いていないのを感じたらしく、突然、声を一段高く張り上げて言った。
――子供にはやりたいことがたくさんあるでしょう。しかし、それを全部やらせることはいけないと思います。とにかく、私は文化祭に反対です。
――というと、学校が文化祭などを止めたらいいとおっしゃりたいんですか。
――いいえ、そうではありません。しかし、うちの子供には、そのようなことをさせてもらいたくありません。やはり、私は自分の子供の将来を考えなければなりませんから。
――もうお決めになってしまったようですから、何を申し上げても無駄かもしれませんね。残念ながら、あなたが持っていらっしゃる考え方は、かなり普遍的なものです。実は、最近、小学校の親のために書かれた受験手引のような本を読みました。そこにも、あなたの考えと全く同じようなことが書いてありました……。
私は立って資料戸棚からその本を抜き出し、栞《しおり》をはさんでおいた部分を読み上げた。
――いいですか、こんな箇所があります。運動会や遠足や学校行事一般は、教育の一環ではなくて、お祭り騒ぎにすぎない。特に良くできる生徒は、いろいろな役目(たとえば班長)を負わされる。勿論、最低限、学校の規則に従わせることは必要である。しかしその規則に対しては、できるだけ、ただその内容を要領よく処理できるようにさせることである。通信簿の評価に大きくかかわってくるからである。親は子供の生活のリズムの割り振りを考えるとき、子供の余力を、試験で他の子供より一点でも余計に取らせるためのトレーニングにまわせるようにしなければならない。塾、そしてクラスの仲間は、みな“敵”であるから。
世の中が逆さまになったような、非常識そのものじゃありませんか。そのうえ別の本で、この著者は、受験生の気持を掴《つか》もうとして、プロローグに〈常識を越えなければ受験戦争には勝てない〉と小見出しまでつけています。そして、受験戦争とて戦争にかわりがないのだから、そこでは、常識や道徳、約束、同情、助け合いなど人間社会を支えているすべてのルールが通用しないと同様に、人間的に正しいとか、正しくないとかは問題にならない――と、言い切っています。
いかがですか。私はこれを読んだ時、胸がしめつけられるような思いをしました。昔なら考えもつかない、えげつないほどの出世主義ではありませんか。
――先生がお喜びにならないことはわかります。でも、子供を今日の受験競争に負けないように、なんとかしなければならないのです。
――私もその競争の厳しさをよく知っています。生徒諸君や父兄の皆さんと同じように悩んでいるのですよ。それだけに、私は生徒がその試練に負けないように、彼等を厳しく鍛えているつもりです。しかし、あなたが考えていらっしゃるような点取り虫はお断わり致します。そういう人間は大学を卒業してから出世するかもしれない。出世するからこそ怖いのですよ。日本の社会は駄目になってしまいますからね。あまりにも非人間的、非社会的な考えを押し付けられた者は、やがて自分の人間性も、そして日本の社会も滅ぼしてしまいます。これは経験済みのことではありませんか……。
良い反響も悪い反響もなかったので、私は攻撃をもう少し続けた。
――親は子供の将来を考えなければならないと、あなたは先ほどおっしゃいましたね。前に私が非難した本の中にも、「栄冠の鍵《かぎ》を握るのは両親だ」と書いてありますが、その「栄冠」とは、いったいどんなものなのでしょうか。四十年も前に日本語を勉強したときに、当時の中学校の教科書で読んだ文章をまだ覚えています。ご存知でしょう、「子孫のために美田を買わず」という西郷隆盛の名言です。大勢の現代の親の反感を呼び起こす言葉であるかもしれませんが、これこそ正しい親心であると私は思っています。あり余る物は人の心の支えにはなりません。金欲や物欲、そして出世欲に惑わされてはいけない。子供に残したい遺産は、物質的なものよりも人の心を豊かにする精神的なものであるべきです。そこに子供の「栄冠」を握る親の存在理由があるのではないでしょうか。子供は親から受け渡された精神の力で、自分で自分の将来を切り開いて行かなければならない。学校教育の狙いもそこにあるのです。学校のさまざまなクラブ活動、課外活動や行事は、実はこの役割を果たしているのです。問題は進学だけではありませんよ。あなたは、そういったものを、どこで子供に与えようと考えておられるのですか……。
いよいよ結論を出す時がきたので、私は最後に言った。
――まあ、これ以上のことは申し上げられません。精神的なものを是非とも生徒に与えてやりたいので、浩司君に委員になってもらい、もっと成長してもらいたいのです。しかし、そんなことを命じる権利は校長にはありません。親の判断に任せるほかありません……。
これで、まことに心の痛む話は終わった。浩司君は、私が予想した通り、文化祭委員に立候補しなかった。そして、その日から、学校と家庭との間は完全に断絶してしまった。浩司君にとって、実に残念な結果であった。
ハッピー・エンディングではなかったが、完全な失敗でもなかった。私の、この父親に対する話が、ところどころで知られてきたらしい。何故なら、一週間ぐらい経ってから、同級生の父親の一人から電話がかかってきた。
――先生、噂《うわさ》によると、この間は大変だったそうですね。私たち四、五人で先生を慰めてあげたいんですが、一杯飲みながらですよ。いかがでしょうか。なあに、心配はいりません、私たちの子供に文化祭の委員をやらせていいんですから。是非、いらっして下さい……。
その折の一杯は、実においしかった。
美田ではなく美心
そろそろ床につこうとした十一時過ぎ、電話がかかってきた。一年ほど前、私が結婚式の司式司祭をした卒業生からであった。
――先生、夜遅くすみません。いま、病院から電話してるんです。三十分ほど前に子供が生まれました。
――おお、それはおめでとう。とってもいいニュースだ。
――本当にいいのかなあ? 双子《ふたご》なんですよ、先生。それに、男の子です。二人とも。大変ですよ。
――大変だって?
――そうですよ、先生。十二年経って、中学の入学金が大変ですよ。割引して入れてもらえますか……。
彼の喜びに弾んだ声で、私にはすぐさま、その大変というのは彼一流の冗談であることがわかった。そこで私は、祝福として、ひとつ、からかってやることにした。
――いったい、それは何のことだね? たった今、生まれたばかりだというのに、もう、十何年も先の入学金の心配をしているのか! そんなことより、もっと心配しなくちゃならないことがあるんじゃないか。
――たとえば?
――そうだね。たとえば、どんなおやじになるかという……。
――またまた説教が始まりましたね。なにもおっしゃらなくてもいいんですよ。もうわかっています。どうぞ、先生、ご安心下さい。必ずいい父親になりますよ、私の父のように……。
父のように! なんという素晴しい、父親に対する勤務評定であることか! この言葉を聞いて、胸に熱いものがこみ上げてきたのを今でも覚えている。
子供とボール投げをしたり、一緒に釣りに行ったりする、あるいは、ハイキングや自転車旅行をしたり、模型や写真や音楽を楽しんだりしている父親は、極く自然に、子供の心の中に何時までも消えることのない影響を刻み込む。それは単なる友だち付き合いから生じる影響というものでなく、それこそが本質的な教育なのである。それは、父親が自分の思想や経験を子供に伝え、人生の在り方を感じさせ、そして自分の人格に触れさせることである。「父のように」という張り合いや、喜びに満ちた決心は、そういった教育から生まれてくるのである。そして、その決心は、わが子の代ばかりではなく、わが孫、さらに未来のわが子孫にまでも受け継がれていくものである。
今日の多くの親たちは、現実に目に見えるもの――家族の衣食住、子供の健康、学校、就職、そういったものばかりに心を奪われてしまっている。その限りでは、親は親としての「職業意識」しか持っていないことになる。しかし、幸いなことに、もっと「現実的」に考えている親も多いのである。精神的なもの――人生にはかり知れない豊かさをもたらすその精神的なものを、わが子に与えようとする親が、そういう親なのである。
――先生、全く個人的なことで失礼なのですが、ぜひ、相談にのっていただきたいことがあります。家内や子供が聞いたら、びっくりすると思います。ですから、どうか内緒にしておいて下さい……。
二人兄弟の在校生を持つ父親は、いささかためらいがちに話し出した。
――実は、私の家族は私を除いて、皆、カトリック信者です。そのことで、最近、やはり不安になったのです。自分が寂しく感ずることもありますが、しかしそれよりも、このような状態は子供にとって、いいことではないと心配するようになったのです。父親が宗教に対して関心がないと思われるような状態は、子供のつまずきの原因にもなりますし、家庭でのいろいろな話の仲間に入ることも困難です。とにかく、子供にとって、たいして助けになりません。こう言ってはなんですが、たまには、自分が他人であるかのような気さえすることがあります。
――とおっしゃいますと、あなたも信者になりたいとお思いなのですか。
――信者になりたいと、言っていいかどうかわかりませんが、なる方がいいのではないかと思うようになりました。しかし、私は宗教については何も知らない人間ですし、そのうえ、そんな中途半端な動機でいいのでしょうか。
――素晴しい動機ではありませんか。私は思うのですが、円満な家庭生活は、まず第一に心の触れ合いによって可能になるのですから、人生の最も深い問題に関して、心が一致していることは、何よりも好ましいことですよ。奥さんや子供たちばかりでなく、お父さんにとっても得るところがとても大きいと思います……。
家庭に対してのこの熱い思いやり、そして、なんとかして家族の心の支えでありたいという真剣な気持に、私は本当に感心してしまった。
親は、おそらくどんな親でも、わが子にしっかりした遺産を残したいと思うだろう。しかし、冷やかに聞こえるかもしれないが、その遺産が不動産とか株のようなものだけならば、子供の将来は決して保証されない。また、財布をはたいて大金の教育費を出し、そのような投資で肥えた美田を作ろうということも、子供の幸せを保証したりしはしない。親の第一の務めは、子孫のために美田を作るということではなくて、美心を作るということなのである。子供の心を豊かな心、社会人として国民として、あるべき心に育てていくことである。この心さえあれば、これといった財産、あるいは高い学歴がなくとも、子供は自分の力で自分の将来を切り開き、自分や自分の家庭の幸せを築き上げていくことができるにちがいない。
V 明日の父に――私は教え子の結婚式でこう話す
父親の使命を
「先生、また卒業生の結婚式ですか。大変ですね」白いネクタイをつけて学校を出る時、私はよく、このように同情されることがある。
本当に大変だと、私自身も感じることがある。特に結婚シーズンになると。しかし、新郎新婦が待ちに待った結婚のよき日に当たって、教え子の前途を祈り、祝杯を上げて新家庭の門出を寿《ことほ》ぐのは、私にとって、もとよりこの上ない喜びである。といっても、欠けるところのない全き楽しみでもない。辛いなと思う時もある。いつでも上席に坐らされてしまうのが、その一つである。日本の古い習わしであるから、仕方のないことではあるが、全く見ず知らずの、しかも往々にして堅苦しい他の来賓との会話は、面倒で、すこしも面白くない。新郎の学校時代の悪友たちと一緒に、冗談やユーモアを交えた思い出話ができたらいいなと、招待された同窓生の坐っているテーブルへ目を向けて、懐かしがることがよくある。
もう一つの辛いことは、必ずといっていいほど、披露宴でのテーブルスピーチを頼まれることである。お祝いの挨拶くらいは何でもないと初めは思っていたが、全くの思い違いであった。名門の出身、学力優等、抜群の成績、品行方正などのような、きまりきったスピーチパターンに驚いてしまった。うちの学校の卒業生は例外なしに優等生であったことを初めて知ったのも、そういう披露の席でのことであった。このような頭の鈍い校長はリコールされるのではないかと心配したが、その過度の称賛を聞いている新郎の同僚たちが、にこにこしているのを見て安堵《あんど》したものであった。
それはともかくとして、私は人を、たとえ非常に優秀であっても、そういうふうに褒め称《たた》えることはできない。自分の性質に合わないからであろう。それに、新郎新婦の履歴に東大の卒業証書があっても、またさらに、新郎が大会社の幹部になることを約束されているような人であるにしても、それらは幸福な家庭を築くための保証になるものではないということは周知のことである。
そのようなわけで、私はいつの間にか、よりよい家庭を、いい家庭を築くことを中心に話をするようになった。特に、父親の素晴しさと父親の使命を! 換言すれば、“父親有用論”である。私は母親の家庭における役割を軽視するつもりはないが、今日においては、父親による家庭づくり、及び父親の家庭生活への積極的参加は欠くべからざることである。必要ではないという判断は、とんでもない甘えに過ぎないと私は思う。
「やらなければならないと思ってはいるが、実際はやれない」と、経済成長第一主義の今の時代の父親たちに言われることがよくある。「私」と「公」の生活の両立は成りたたないと言いたいのであろう。しかし、家庭における、夫として、または父親としての役目は、単なる「私」的なものではないし、また、仕事と家庭との両立はあまりにも難しい、もしくは不可能であるという考えも許し難い甘えである。全くの気まま勝手な独断に過ぎない。
実際は、あるべき父親であることは、今の時代にしても、それほど難しくはない。このことを特に、近いうちにおやじになる若い世代に強く呼びかけたいというのが、私の願いなのである。披露宴の席で「新米おやじ」に贈る話の狙いは、ここにあるのである。深い学問や抽象論を抜きにして、常識や事実をもって、「しっかりやれよ」という呼びかけなのである。
なお、念のためにはっきりしておきたいのは、探偵小説の冒頭によく書かれているように、ここに述べられている出来事とかエピソードは真実ではあるが、登場する人物や家庭などは架空のものであり、実際の人物とはなんの関係もないことである。しかし、新婚夫婦に申し上げた希望は、単なる仮想とか希望的観測ではなく、実現し得る、そしてぜひとも実現して貰いたいものである。
わかち合うこと
新郎、新婦、そしてご両親に、お喜びとお祝いのことばを申し上げたいと思います。
本日の素晴しい日が幸せな人生の門出となりますように、心からお祈り致しております。
さとし君、ようこさん、あなた方は、今日、神様の祭壇の前で夫婦の契りを交されたのです。この夫婦の契りは、実に意義の深い、神聖なものであります。この契りについて、一言申し述べたいと思います。
お二人が今日交された夫婦の契りは、一種の契約のようなものです。しかし、普通結ばれる契約とは全く異なる面があります。まずは、この契りの内容についてですが、それは実に類のない、尊いものであります。単なる物質的なもの、たとえば、お金とか財産とか、就職またはある事業の条件とかいうようなものではありません。この結婚の契約の相手は、人間、愛する人間なのであります。そして、その契約の内容は、この愛する人間の幸福であります。日々の生活の安定、体の健康、心の平和や喜び、一言で申しますと、愛する人間の全部であります。そこには、いうまでもなく、今日の聖なる結合によって生まれてくる子供たちの幸せも含まれています。このような契約は結婚以外にはありません。人間の偉大さ、家庭の尊さを、人生の尊厳をあらわすものであります。
この夫婦の契りは、もう一つ、普通の契約と異なる点があります。結婚は時間を超越した、期限のないものであります。「神が合わせ給うたものを、人は離してはならない」――このキリストのみ言葉は、結婚の唯一無二性を物語っています。
さとし君、ようこさん、今日からのお二人の人生の旅はご一緒であります。聖書にあるように、「夫は父母を離れて妻と結ばれ、妻は父母を離れて夫と結ばれ、二人は一体となる」のです。しかし、一つの体だけではなく、愛に結ばれて一つの心になることこそ本当の結婚なのです。
愛することは、わかち合うことです。夫婦の愛は特にそうであります。体も心も、命も魂も、何でもわかち合うのです。仕事やレクリエーション、喜びや悲しみ、楽しみや苦しみ、歌も涙も、夢も失望も、何でも共にする。順境においても逆境においても、豊かな時も貧しい時も、病気に際しても健康である時も。
この共同一致した人生の旅に対して、お二人は終生変わることのない忠実を誓ったのです。本当に厳粛な尊い契りであり、本日、めでたく生まれた新家庭の幸せへの約束であります。お二人は勿論《もちろん》のこと、私たち皆が心から願っている幸福への道であります。
しかし、この道は何時《い つ》も楽であるとは限らない。今日からのご一緒の生活は、二人三脚のような競技なのです。脚を揃《そろ》え、ペースをきちんと合わせるのは極めて面倒であり、躓《つまず》くことも、倒れてしまうことさえもあるのです。運動会の時におそらく経験なさったことでしょう。夫婦の生活においても、たまには意見が衝突し、あるいは感情のズレが生じるのもやむを得ないでしょう。その時こそペースが狂わないように注意をしなければならない。心を一つにして、愛と信頼のきずな、いや、愛と信頼の力で、幸せへの道は必ず開くことができるのです。深い愛情に導かれ、神の恵みに力づけられて、この幸福への道を力強く歩みなさい。
さとし君、ようこさん、
神様が、お二人の人生の旅を祝福して下さるように、心からお祈り致します。
もう二人ではない
愛のあるところ、喜びあり、
喜びあるところ、神あり、
神いませば、悩みなし。
これはドイツの古い時代の恋人の歌であります。この歌を、今日のお二人へのはなむけの言葉に致したいと存じます。
お二人は深い愛情に結ばれて、愛にあふれた新家庭を創りたいという希望に燃えています。愛というものは、実にすばらしいものです。どんな人間でも、心から求めているものであります。小説や詩や歌のなかで、いちばん私たちの心を感動させるものは愛であります。
しかし近頃、とくにマスメディアの世界では、愛について、とても安っぽい、品のない紹介が氾濫《はんらん》しています。そこで愛といわれているものは、真の愛ではない。歪《ゆが》められた、本当の人間にふさわしくない低俗な趣味にアピールするものが目立ちます。
愛はそんな安っぽいものではない。単なる感情ではない。愛とセックスは同意語ではない。感激からの線香花火みたいなものでは決してない。愛はもっと深い、もっと神聖なものなのであります。聖書には、次のように記されています。
愛は寛容で情《なさけ》深い。
愛は妬《ねた》むことをしない、高ぶらない、誇らない。
愛はすべてを許し、すべてを耐え忍ぶ。
愛はいつでも絶えることがない。
これが真の愛であります。弱点のない、力強いものです。相手に愛されるよりも相手を愛する。自分を忘れて相手のために尽くす。これこそ、私がいっている愛であります。お二人がこの愛を動機にして、またはこの愛の力によって、夫婦の契りを誓ったのであります。
自分を忘れて、愛する人のためにいつまでも忠実でありたい、という決心はすばらしいものです。しかし、その実行は容易なことではない。たまには、今日おごそかに誓った愛の実践について反省し、今日の決意を新たにする必要もあるのです。
今日、結婚式の際、新郎新婦はお互いに結婚の指環を贈りました。自分の愛や忠実の印《しるし》として。初めもなく、終りもないこの指環は、今日、神の前に誓った愛や忠実の永遠性をあらわしています。夫婦の和の象徴でもあります。「地の利は人の和に如《し》かず」とよくいわれていますが、人生の闘いの場では、この諺《ことわざ》を「地の利は夫婦の和に如かず」と言い改めたいのです。お二人は、もう二人ではない。心を一つにして、お一人のように、身も心も打ち込んで、ご一緒の人生の浮き沈みを共にする夫婦なのです。夫婦の和こそ、新家庭の調和や平和、そして幸せを保証してくれるのです。
ともゆき君、すみえさん、
今日、お互いが贈った指環は、単なる祝いの贈り物ではありません。心の支えになる貴いものです。いつまでも大切にして下さい。今日の佳《よ》き日の思い出として、お二人の永遠の愛の約束として。この愛がいつまでもお二人を支えてくれますように。
愛のあるところ、喜びあり、
喜びあるところ、神あり、
神いませば、悩みなし。
地震・雷・火事・おやじ
もう十年も前のある日のことです。高校生だった新郎のあきら君と四、五人の友達に、私の若い時代の思い出話をいたしました。
父のこと、そして父とのつき合いや、いろいろな衝突についての話も出ました。別れる時、あきら君は私にこう言いました。
「やっぱり強いおやじにならなくてはならない」
あきら君、君は今でもそう思っているでしょうか。是非とも、そう思って欲しいのです。このことに関連して、本日の佳き日のはなむけとして、私のもっている父親像について、すこしお話し致しましょう。
私が懐《いだ》いている父親像というのは、近頃あまり言われなくなった父親についての名言――「地震・雷・火事・おやじ」これなのです。こう言ったからといって、おやじは天災と並んで、恐ろしいものの代表格でなければならないというわけではありません。おやじは強いものだ、勇ましい、無視することができない存在である――このことを申し上げたいのであります。ドイツでスパルタ教育を受けた校長の偏見ではないかと、思われるかもしれない。そういう誤解がないように、私は私なりの解釈を試みてみたいと思います。
まず、「じしん」。
自信のある、信念の強固なおやじ――このイメージがすぐ頭に浮かんできます。価値観の多様化された今日、何でも都合のいいように妥協してしまう現代、とんでもない誘惑の多い社会――この迷路だらけの原始林の中で、おやじは一つの道しるべにならなければならない。善いと思うことを力強く進める。悪いと知っていることは遠慮なく止める。イエスもノーもはっきり言ってくれる自信たっぷりのおやじ。このすばらしい自信こそ父親にもってもらいたいものです。
次は「かみなり」。
ガミガミ、ゴロゴロ怒るおやじと私は考えない。また、「われは神なり」といい張って、絶対的な支配者のように自分の権利を主張する家父長も、もとより考えていません。
私の心にある神のイメージは、キリストが主祷文《しゆとうぶん》をもって私たちにお示しになった「天にましますわれらの父」――このイメージであります。この人類の父である神、その神の偉大なる愛や思いやりにならって、妻と子供たちのために尽くす。そのような父親のイメージであります。
あきら君、「われ神なり」と遠慮なく思いなさい。奥さん、子供たち、そして自分自身をも励ますために。「愛しているよ」、「力になってやってあげるよ」、「いつでもそばにいるよ、心配いらないよ」――このようなことが言えるような言行一致のおやじにおなりなさい。
最後に「かじ」。
わが家の性格を決めるのは父親です。父親でなければならないと、私は思っています。父親は家族の支柱であり、その家庭の主宰者ですから、家事に対して、当然関心を持たなくてはならない。家事とは、いうまでもなく、家庭内のいろいろな事柄、あるいは家庭生活を営むための大小さまざまな仕事のことです。その仕事に、ぜひとも父親に参加していただきたい。
とはいうものの、父親は、奥さんに代わってエプロンをして料理をつくり、皿洗いなどして、家事万端を心得る必要はありません。して悪いとはいいませんよ。あきら君は学校時代、手を汚して掃除当番などをちゃんとやったんだから、たまには皿洗いをしてもかまわない。
世間の父親たちは、普通、家の外で仕事をします。その仕事によって、家庭の生計を立て、生活の安定をはかっているのです。しかし、そのことだけではなく、あるいはそのことよりも、家庭内のわが妻、わが子の精神的安定をはかる方がはるかに大切であります。衣食住に必要なものはもちろん、でもそれ以外のもの、つまり心の糧《かて》となるものを与えようとすることも、父親の役目の一つなのです。
ですから、おやじは下宿人、または夜のお客さんになってはいけない。あるいは、夜、帰宅しての夕食時に、新聞のカーテンの後に身を隠してはならない。家庭の一員として、家族の生活の友となり、相談相手となり、あるいは、みんなの拠《よ》りどころになることこそ家庭づくりなのです。愛情をもって積極的に家庭生活に参加したり、それを充実させたりすることは、おやじの家事に対しての最大の務めではないでしょうか。
あきら君、
ただいま、私の描いたおやじのイメージはいかがでしょうか。日本の、おやじの恐ろしさを表わすことばとしての「地震・雷・火事・おやじ」と違ったイメージを受けましょう。そのような恐ろしさは、たしかにない。だから、校長がソフトになったと思わないで下さい。世のおやじたちには、毅然《きぜん》たる姿勢や厳格さがなければならないと、私は思っています。とくに今日では。
私が今紹介したおやじには、恐ろしさがないと誤解しないで下さい。厳しさがあります。なぜかというと、「天にましますわれらの父」にならって、自信をもって奥さんや子供たちに尽くすおやじになること自体は、たいへん厳しいものです。おやじは自分自身に対して厳しくない限り、私が描いた理想に到達することはできない。
あきら君、
今まで申し上げたことは、大変だと思わないで下さい。実際は楽しいことです。おやじらしく、奥さんや子供たちのために尽くす、これこそ、家庭にとっても、おやじにとっても、素晴しいことです。頑張って下さい。
ご成功を祈ります。
大黒柱
「よい家庭をつくりなさい」と、私は披露宴の時、よく新郎新婦に呼びかけています。お二人の一生の幸せは、お二人がおつくりになる家庭の如何《いかん》によるものであるからです。しかし、よい家庭というものは、いったいどんなものなのでしょうか。披露宴の席で、家庭論について演説するのはふさわしくないことですから、私は大切だと思うことを一つだけ申し上げたいと思います。
ゆたか君、おやじ教育についてお話ししますから、よく聴いて下さい。昔の朝礼の時みたいに居眠りをしないように。
最近、父親について書かれた本を読んだのですが、その中に、「おやじは一家の大黒柱だ」という一文がありました。「大黒柱」――その意味は大体わかっているつもりだったが、念のために和英辞典を引いてみました。そこには、とても面白い訳が書いてあった。すなわち、provider, bread-winner――。つまり「給料袋の配達人」というところでしょう。本当にそうかと不安になって、「広辞苑」で調べてみた。そしてやっぱり意味が違っているのだとわかりました。御存知のように、「家の中心となって、妻や子供の支えとなる人」という意味です。その「支え」というのは、物質的なものに限らず、それよりもむしろ精神的なものでなければならないのは言うまでもないことです。
考えてみますと、私が使った和英辞典の訳は案外現代的のようです。現代の家庭、または家庭生活の盲点を鋭く指摘しているのです。何故なら、今日の多くの父親たちは、お金を稼《かせ》ぎ、衣食住の世話だけすればいいと思っているらしいからです。とんでもない考えです。給料袋というものは、いくら分厚くとも父親の代わりになるものではない。会社とか銀行とか、工場だけではなく、家庭も――というより家庭こそ、父親の活動の場であります。
夫、または父親不在の家庭は本当の家庭ではありません。共に生活する、共に喜び共に悩む。遊びやゲームも、遠足やレクリエーションも、歌も祈りも、何でも共にする。これこそ、私の考えている家庭――しっかりした、楽しい、幸せな家庭であります。
私が期待していることは、今日の父親たちにはむずかしい注文であるかもしれません。いいおやじであろうと思っていても。
ゆたか君、この間、偶然に君の先輩の一人に会いました。学校の先輩でもあり、結婚生活の一年の先輩でもあります。
「どうですか、約束通り奥さんを大事にしているの? 門限もちゃんと守っているの? 私の前にそれを誓ったでしょう」
「先生、なかなか思い通りにゆきません。最近は特に忙しいのです。ビックリしないでください、ゴルフですよ」
「うらやましいなあ」と私が言うと、彼は、
「皮肉を言わないでください。会社の命令でやっています。務めですよ。毎土曜日、ときどきは日曜日も。でも、昨年の約束を忘れてはいませんよ。なんとかしてやります」
新婚夫婦が、そのような家庭生活のリズムでよろしいでしょうか。でも、会社はしばしば、そんなもんです。残業、付き合い、宴会、ゴルフ、マージャン等々。そして、若い社員にとっては、出世の梯子《はしご》を登りかけている以上はもう仕方がない、とよく言われています。
「仕方がない」でいいだろうか。大黒柱というものを、家から取ったり、そしてまた入れたりすることは考えられませんね。勿論、「夫や父親は、大黒柱だ」ということばは比喩《ひゆ》にすぎないが、その比喩が示している真実は無視してはいけないものです。
ゆたか君、君もその壁にぶつかってゆくのです。おやじらしく、それにぶつかりなさい。とにかく、一つだけ忘れないで下さい。君は銀行と結婚したわけではない。今日、ちさとさんと結婚したのですよ。
ゆたか君、家庭のために、たっぷり時間をとりなさい。必要なら作りなさい。わが妻、そして近いうちに生まれてくるわが子のため、よき夫、よき父として頑張って下さい。
最後に、ちさとさんにもお願いしたいことが一つあります。食事のことです。おいしい食事を作って下さい。宴会とか、レストランとか、そのようなところの食事が、ゆたか君にとって誘惑にならないように! 彼が伝書鳩のように、まっすぐに、どこにも寄らずに家へ帰ってくるように! お願いですよ。
ついでに申せば、いつかこの私を招待していいんですよ。食事のあとは皿洗いを致します。もちろん、ゆたか君と一緒に。
ゆたか君、ちさとさん、
では、どうぞお元気で。明るい、大黒柱のしっかりした家庭を築きあげて下さい。私も大きな期待をもって、声援いたしております。
教育パパにおなりなさい
新郎ひでお君のお人柄について、さきほどの来賓の方々のご祝辞のなかに、たくさんのおほめの言葉がございました。
――ほんとにいい青年である、安心してどんな仕事でも任せることができる、バックボーンがある、信頼できる……。
たしかに、ひでお君は信頼に値する青年であります。この私も、それを保証することができます。
このように衆目の一致して立派な青年だとする話は、卒業生についても、在校生についても、私はよく耳にしております。いうまでもなく、校長の耳にとって快い話です。できた人間を世の中におくりたい。これこそ、学校の創立時代から、私の念願であったからです。
進学よりも真実、出世よりも人格――というような話は、ひでお君は何度も私の口からきいたでしょう。この人間性を養っていく学校の理念は、深く生徒の心に入って、卒業後も彼らにとって一つの道しるべになっているのは事実のようです。ですから、学校の教育をほめてくれる人もすくなくない。
しかし、学校の教育は、ほんとうにこのような称賛に値するものなのでしょうか。褒めてもらった生徒のことを調べますと、そうではない。蓋をあけてみると、評判のよい生徒や卒業生、それらの家庭は、例外なく、立派で、しっかりしたものです。結局、学校の影響力よりも、家庭の影響力の方がはるかに大きい。これを、私の永い三十年にもおよぶ経験から申し上げることができます。
家庭でのしつけ、礼儀作法、言葉遣いなどは深く心に根を張り、家庭での暖かいつき合いや心の交わりは、子供の魂を育てていくものです。わが子の心づくりにおける母親の役割は、学校の先生には果たし得ない。米国の詩人R・W・エマーソンも言っているように、「人間の成長はその母親いかんによって決まる」そしてまた、「父親は十人の教師に等しい」と昔からの金言にもあるように、親の力は偉大なものであります。これらの言葉は、学校教育の限界を指摘すると同時に、家庭教育の尊さ、そしてその使命を物語っています。
こう申しますと、ひでお君もれいこさんも、私の言おうとしていることがおわかりでしょう。よい家庭、なによりもよい家庭をつくりなさい。これこそ私の、今日、お二人に対しての心からの願いであります。
よき夫、よき妻、よき父、よき母におなりなさい。
今の時代は教育パパと教育ママの時代だと、よくいわれています。ひでお君にもれいこさんにも、教育パパと教育ママになっていただきたい。もちろん、私は世間並みに、名門校とか、一流会社向きの出世教育を申し上げているのではない。まことの教育、正しい人間性を育てる教育を考えるパパとママになってほしい。心の教育――これが教育の原理なのですから。そうして、近い将来に生まれてくる可愛いお子さんの心の先生におなりなさい。それによってこそ、今日、お二人を輝かしているこの麗しい幸せは、いつまでも心に残って、お二人の新家庭をすばらしいものにしてくれるのです。
神さまが、この幸せを祝福して下さいますように心から祈っております。では、お幸せに。
家庭人であれ
先日のことでしたが、結婚したばかりの卒業生が、私のところへ挨拶に来ました。その折に、彼は私をほんとにがっかりさせたのです。どうしてかといいますと、丁寧に挨拶してから次のようにいいました。
「神父様、披露宴の時に、とてもいいスピーチをなさったそうですね。どうもありがとうございました」
私はいささか変に思って尋ねました。
「いいスピーチをなさったそうだって? それはいったいどういう意味ですか。君自身も、私のスピーチをきいたのではないか」
彼は、てれながら答えます。
「もちろんききました。しかし、わかっていただけると思いますが、ああいう席では全く駄目なんです。何かおっしゃってるのはわかるんですが、とても頭に入らない。とにかく全部忘れてしまいました。家内も同じです。ゆうべ、おやじにスピーチの内容を話してもらったわけです」
ほんとうにがっかりでした。せっかくいいスピーチをしたのに。まして披露宴のスピーチは本人たちのためのものでしょう。親御さんとか来賓の方々のためではない。特に私の話はそうです。とにかく、私にとっていい教訓でした。
今日の新郎も学校時代、相当のあわてん坊であったから、同じような無惨な結果にならないように、一つのごく簡単な思い出話をしましょう。家庭づくりについての話です。家庭づくりの一面に過ぎないかもしれませんが、新郎と新婦へのはなむけの言葉にしたいと思います。
十年ほど前に、私は三十二年ぶりにドイツへ行ってまいりました。実に楽しい里帰りでした。とりわけ楽しかったのは、高等学校時代の友人に会うことでした。懐かしい共通の思い出話、戦中戦後の苦しい体験談、仕事や家庭についての報告――とにかく話は尽きませんでした。
「じゃ、今晩でも、どこかへ行って一杯やりながら食事しよう」
と友人を誘ったとき、はっきり断わられてしまった。
「君は何をいってるんだ。家内が許さないぞ」
私は日本での習慣に従って、からかいます。
「へえ、奥さんって、そんなに怖いものなんですかねえ」
しかし、その友人は生真面目《き ま じ め》な顔をして答えました。
「いや、そんなことは関係がない。ぜひ、一杯飲もう。そして食事をしよう。ただし、僕の家へ来いよ。家内も子供も喜ぶから」
一人だけではなく、友人は皆、そう言うのです。驚いてしまいました。そして、私自身がすっかり日本人になってしまっていたことに初めて気がつき、実にがっかりしてしまった。六週間の間、私はあちらこちらの友人の家へ行って、そこで一杯飲んで、奥さんや子供たちと一緒に食事をしました。家族の仲間に入れてもらえたことは、実に嬉しかった。食後、皆と一緒に話をしたり、冗談をとばしたり、ゲームをやったり、あるいは若い頃の歌を歌ったりして、なんともいえない思い出となった。
私は二十人以上の学校時代の悪友に会ったのですが、一度もレストランとかホテルで食事をしたことがない。「夜の食事は必ず家でします」と、幾度も友人にいわれました。
どうして、こんな話をしたのでしょうか。是非とも、そういうふうにおやんなさいというわけではありません。ドイツはドイツ、日本は日本です。国によって習慣が違うのはあたり前です。他国の真似をすることはできないし、場合によっては、してはいけない。しかし、習うところはあります。ドイツの家庭で私が体験したあの親しみのこもった、実に温かい雰囲気《ふんいき》はその一つであります。
現代は、あるいは仕事、あるいは趣味、あるいはあまりにも組織化されたレジャー産業のために、人間対人間の温かい関係が消滅しつつあるのです。社会にとっても大きな危機であります。
たつお君、としこさん、
せめて、家庭がバラバラにならないように、家族がいつも揃《そろ》って家庭生活を楽しむことができるように努めて下さい。そして家庭生活だけではなく、人生そのものをも、どんな場合においても、お二人で力をあわせて享受してほしい。そういう家風をつくって下さい。
今日、おつくりになった新家庭が、人間味のある、信頼感に満ちた家庭となりますように。神さまはお二人の努力をきっと祝福して下さるにちがいありません。
あたたかい信頼を
新郎と新婦は、今日、神の祭壇の前で夫婦の契りをかわし、夫と妻となりました。お二人がいつまでも忘れることのできない厳粛な式典でした。私も司式司祭として、深い感銘を受けました。そして、お二人の新しい生活への門出を心から祝福致しました。
結婚はドイツ語でハイラート(Heirat)といいますが、教会での式典は違う言葉で、トラウウング(Trauung)といいます。私は、この二つの言葉は単なる同意語だと思っていたのですが、実際はそうではないことに、最近気がつきました。トラウウングという言葉は、トラウエン(trauen)、すなわち信頼するという言葉から派生してきた言葉であります。あるものの名をいい表わす言葉は、通常、そのものの実体を示すものです。トラウウングという言葉もそうであります。幸せな結婚とは何であるか、または、結婚の幸せをもたらすものは何であるかをよく表わしています。それは、お互いの全面的な信頼であります。
相手を信ずる、相手を頼りにする、と同時に、相手が信ずることができるような自分、そして、自分もいつでも相手の頼りになりうる人でありたい――この自信と願望があってはじめて、婚約者は神の前で夫婦の契りをかわすことができる。夫婦の長い一生の幸不幸を決めるものであるからです。
お互いの全面的な信頼は、いうまでもなく、結婚生活に入ってからも、あるいは入ってからこそ、たいへん大切なものであります。愛する相手にいつまでも愛される、相手を頼ることができる、どんなことがあっても欺かれ、裏切られる心配がない、自分の身も心も、また自分の現在も将来も無条件に相手に委《ゆだ》ねていい、お互いの誠実または忠実は疑う余地が全くない――このような、不信の一かけらもありえないような夫婦の心の一致こそ、新しい家庭の幸せを保証するのです。
夫婦の間の貞節は、ドイツ語でトロイエ(Treue)といいます。この言葉も、さきほど申しましたトラウエン、信頼するという言葉の派生語であり、貞節と信頼の切り離すことのできないことを示しているのです。つまり、お互いに対しての貞節なしには、全面的な信頼はありえないのです。
どうも、話が言語学的なものになってしまいました。そして、新郎と新婦に対して、非常に硬い、厳しい呼びかけになりました。しかし、たいへん安っぽい結婚論が氾濫《はんらん》している今日において、是非とも、私があくまでも正しいと思っている結婚観の一端を申しあげたいと思ったのです。そして、お二人が今日お結びになった愛の絆《きずな》は、どれほど厳粛な、どれほど貴い、どれほど素晴しいものであるかを申しあげたかったのです。
私がいまお話ししました、深い信頼に力づけられた結婚こそ、愛の絶対に消えない、幸せの深い、楽しみの多い生活共同体になるのです。
どうぞ、お互いを愛しながら、信頼しながら、いつまでも、いつまでも、お幸せに。
妻は夫をつくる天才
今日、こちらへ伺う途中、このご披露の宴でどんな話を致したらよいか、あれこれ思案したのですが、いくら考えてもいいアイデアが浮かんでこないのです。思いあぐねて、新橋から地下鉄に乗ったとき、突然、全く思いがけないところから一つのインスピレーションを受けました。吊《つ》り革にぶら下がってあたりを見回すと、一枚のポスターが目にとびこんできました。ある結婚式場の広告でしたが、そこには七、八人の有名人の、恋愛または結婚についてのエピグラムが並んでいて、そのうちの一つが私を実に驚かしたのです。直感的に、今日のスピーチの素晴しい材料になると思い、その時までの不安はいっぺんに飛び去ってしまいました。
私をびっくりさせたのは、小説家として世界中によく知られているフランスのバルザックの言葉でした。
「女性は、夫をつくる天才でなければならない」
これは、最近よく話題になる「ウーマン・パワー」を奮い起たせるスローガンではないかと、まず感じました。言うまでもなく、江戸時代に書かれた「女大学」が称賛するような女性観ではありません。まるで違う妻のイメージであります。御存知のように、あの有名な「女大学」には、こういうことが書いてあります。「女の道は、三従の道である。すなわち、幼にしては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う」女性にとって、特に妻たる者にとって、とても厳しい戒めでありました。これと比較して考えてみると、バルザックは実に近代的な考えを持っていました。ウーマン・リブと国際婦人年の百年以上も前の人としては!
もう一つ、気がついたことがあります。バルザックは鋭い預言者的な目を持っていたようです。すくなくとも、今日の日本に関しては。何故《な ぜ》かというと、私の目で見たところでは、本当にいい家庭を創りたい妻は、バルザックの言う通り、夫をつくる天才でなければならない。こう申したからといって、私はウーマン・パワーまたはウーマン・リブを称賛し後援するつもりではありません。全く関係のないことである。私が言いたいのは、妻は家庭を創るよき協力者として、賢明に、そして上手に、夫を家庭人に育てていかなければならないということです。
メグミさん、これこそ、妻として、あなたの今からの役目であります。
峰夫君はとても忙しい。デートの約束をちゃんと守りたいと思っても、それを果たせなかったことが時々あったでしょう。急用が生じたからです。勤めの時間が長い、超過勤務や付き合いが多い、責任も当然重い。若い銀行マンや会社員は、皆そうである。社会の第一線にたっているからです。それはそれで結構なのですが、しかし、家庭のことを顧みる余裕が充分にあるのでしょうか。あるようにすると峰夫君は言うでしょう。でも、社会人としての公の立場と、家庭人としての私生活を両立させることは容易なことではありません。銀行は峰夫君を必要としている、彼の能力や勤勉や張り合いなしには銀行が困る、ということを仲人さんが先刻仰しゃいました。幹部の座が彼を待っているから頑張ってもらいたいというお話もありました。しかし、一家団欒《だんらん》の暖かい幸福な家庭というものも峰夫君を必要とします。峰夫君の家庭人としての役割は、妻にとって、母親にとって、子供にとって、そして峰夫君自身にとっても、本当に大切であります。仕事と家庭の両立は難しいと申しました。その通りなのです。だから、しかるべき両立があるように、メグミさんに是非ともリードをとっていただきたいとお願いする次第です。
家庭は峰夫君を必要とする、奥さんも子供も毎晩首を長くして夫と父親の帰りを待っている、奥さんの料理は宴会の御馳走よりもおいしい、子供と遊ぶのはマージャンよりも面白い、子供の歌う声は芸者さんの芸よりも素晴しい、家庭での晩酌はバーでのウイスキーよりもうまい――一言でいえば、家庭は実に楽しく、わが家は好ましいホーム・スイート・ホームであり、この世の天国である――このことを夫に感じさせることこそ、妻や母親の役割であります。これが、私の考えでは、夫をつくる業務内容であります。そして、これがためには、相当な計画・工夫、創造力が必要であります。言い換えれば、奥さんは夫をつくる天才でなければならない。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」という諺《ことわざ》があります。峰夫君にとって、社会人及び家庭人としての二つの責務を遂行するという極めて難しい仕事が始まったわけです。
メグミさん、
峰夫君が、銀行マンとして、そして家庭人としても立派な業績をあげることができるように、大いに助けてあげてください。よろしくお願いします。
見合結婚からも愛は生まれる
御媒酌の方のお話の中に、今日の結婚は、いまの時代には珍しい「仲人結婚」だというお言葉がありました。私は、これを聞いて、ちょっと不安な気持になりました。もちろん、御媒酌の方には、今日のめでたい婚礼のあら捜しをなさろうというような考えなど、毛頭なかったのにちがいないのですが、しかし、近頃では、見合結婚というものが、特に若い人達に、よく物足りないことであるかのようにみられています。それで、このことについて一言申し上げ、私のお祝いの言葉にしたいと思います。
実は、新郎の健一君も、「人生の相手が決まりました」と私に報告した折、やはり恥ずかしそうに、ためらいながら言いました。
「恋愛の結婚ではありませんが。ミドリさんを紹介してくれた人がいまして……」
たしかに、学校時代の、あの自信たっぷりの健一君を思い出すことができないような話し振りでした。健一君もそれを感じたらしく、あわててつけ加えました。
「でも、いい人なんです、とても。優しくて可愛いんです」
これを聞いて、私は思わず笑ってしまった――「健一君も可愛い」と思ったわけです。後で思いついたのですが、この日の健一君の話をテープにとっておけばよかった、ミドリさんへのウエディング・プレゼントとして。
私としては、見合結婚に関して不安な気持は全然ありません。時代おくれだと言われるかもしれない。しかし、よく考えてみると、あのむずかしい「戀」という漢字が「恋」と簡略化されるとともに、その内容自体までも、手軽になり、ひどくお粗末になってしまったこのご時勢ですから、時代おくれだと言われることを、むしろ誇りにさえ思うほどです。私は、夫婦の親しさ、または結婚生活の幸せを保証するのは、恋愛のみであるとは思っていません。
この点について、先日、面白い記事を読みましたので、御紹介しましょう。
東洋のある賢人が、結婚を茶釜にたとえて、次のように言っています。
「東洋では、婚礼に際して茶釜を火にかけるが、西洋では火から下ろす。だから、茶釜がだんだん冷えるのは当然である。東洋では、かまどにのせた新家庭の茶釜は、はじめ、その湯がなまぬるいものであっても、やがて、愛情の熱によって釜が鳴るほど煮えたぎる。理想的な結婚とは、このことである」
この東洋の賢人は、おそらく、昔の、新郎と新婦が好きあって結婚することのできなかった時代の経験を語っているのでしょう。あるいは、顧みて、自分が体験したことを語っているのかもしれない。それはともかくとして、愛とは何であるか、愛の芽生えがどういうふうに素晴しい花盛りとなるか――このことを実に巧みに言っていると思います。
愛は、普通、電光の閃《ひらめ》きのごとく、たちまち心に燃え立つようなものではありません。愛は、静かに心の中に芽生え、ゆっくりと、ひそかに成長し、恋路の浮き沈みに練られて成熟していくものです。
一緒に喜び、一緒に悩む。共に楽しみ、共に苦しむ。お互いを助け合い、励まし合いながら、相手の短所を補い、長所を認める。相手の過ちを寛大に赦《ゆる》し、自分の欠点を徹底的に改める。自分を忘れて、愛している相手のために生きる。これが愛のわざであり、愛をいっそう強め、いっそう深めるわざであります。これが、私なりの解釈なのですが、東洋の賢人の結婚する者への呼びかけであります。と同時に、私の新郎と新婦に対する念願なのであります。
お二人は、いつまでも、愛の出し惜しみをしない恋人でありますように。これは容易なことではありません。人生と同じように、愛の生活にも山と谷があるからです。しかし、どんなことが起こっても、愛する人になるだけではなく、それよりも、いつも愛される人であろうと張り合って下さい。幸せへの鍵《かぎ》はそこにあるのですから。では、お幸せに。
妻と子を仲間に
立男君のお許しを得て、まず第一に、新婦のマリ子さんにお話ししたいと思います。
実は、マリ子さんに一つの提案をしたいと思います。というのは、数カ月前に、私は一つの面白い、二つとない組合を作りました。うちの学校の若い卒業生の、若い奥様方の組合であります。大変な人気があるのですよ。そして、ご主人方も、内緒のところ非常に喜んでいるようです。この組合によろしければ是非とも入るよう、マリ子さんにお勧めしたいと思います。
この組合の活動はさまざまなのですが、その一つは、毎月の定例会があります。お昼ちょっと前に若い奥様が皆集まって、どこかで一緒に食事をしてからデモに出かけるのです。鉢巻をして赤旗を押し立て、デモ行進をするのです。ある時は○○会社、ある時は○○銀行、その次は○○新聞社というように、そういう所へ押しかけて行くのです。もちろん、プラカードも押し立てますよ。そのプラカードに大きく書いてあるのは、「子供が泣いている。お父さんを家に返せ!」というようなスローガン。印象的ですよ。見物人も通りすがりの人も、快く皆応援してくれます。
マリ子さん、是非、この組合のメンバーになって下さい。この家庭改善運動に参加して下さい。今日、新しくスタートした新岡本家が、最近よく言われているような「父親不在の家庭」にならないように。
立男君、マリ子さんにこのようなことを提案したのを許して下さい。君の自由を束縛するつもりではありません。君の会社に迷惑をかけようとする考えもありません。私たち組合員は、家庭も、そして国をも守ろうとしているだけなのです。
日本の経済界は、経済成長第一主義のもとで、残念なことに、何千万人の父親をただの有能な働き手としてしか見なしていないのです。でも、銀行や商社、工場や研究所などで働いている父親には、経済界のためだけではなく、自分の家庭のためにも尽くす義務があります。これも、社会のための是非とも必要な「仕事」なのです。家庭作りは、健全な社会作りへの第一歩であるからです。
ずっと昔、何時《い つ》だったか、こんなことがありました。立男君はそれを覚えているかどうか知りませんが、君が高校一年の時だったと記憶しています。ある日、君はお父さんのことで、さんざん私にこぼしたことがある。
「滅多に父に会えないんです」
と、君は言いました。
「父が家に帰るのは、毎日遅いんです。僕はたいていもう蒲団に入っています。そして朝起きる時には、父はまだ寝ています。話をするチャンスがほとんどありません。とても淋しいんです」
おやじも淋しかったのではないでしょうか。ですから、君も、そしてやがて生まれてくる子供たちも淋しい気持を味わうことがないように。
立男君、週末だけのお客さんみたいな人間にならないで下さい。マリ子さんは下宿のおかみさんじゃないんですよ。君の奥さんなのです。他に奥さんがいてはいけない。一夫一婦制度だからね。君が銀行と結婚しているような状態になったならば、今日、あれほどおごそかに挙行された結婚式も無効ですよ。
一夫一婦制、週末のお客、そして若い奥さんたちの組合――まあ、私は冗談ばかり話したみたいです。どうせ、あまりにも真面目な堅い話をしてもすぐに忘れてしまうでしょう。私もそうです。でも、冗談はたいてい忘れません。今日の、いささかくだけた話で呼び起こしたかった「家庭を中心に考えなさい」ということを絶対に忘れずに、いつでも人生を楽しみながら、お互いを励ましあいながらよりよい家庭を、そしてよりよい家庭を通してよりよい社会を作り上げて下さい、神様の祝福のもとに。
歌は愛の言葉
今日の佳き日に当たってのテーブルスピーチでは、たくさんの方々が、英一君とチヨ子さんの音楽の素晴しいセンスや才能を褒めていらっしゃいました。共通の趣味がお二人の恋愛のきっかけになったそうですが、この趣味はまた同時に、お二人ご夫婦の心の一致を保証してくれるものであると、私は固く信じています。なぜなら、ドイツの昔からの言い習わしにもあるように、「歌っている人の仲間におなりなさい。心配せずに。心の悪い人は歌を歌えないから」です。歌やメロディーによって結ばれたということは、新家庭のめでたい前兆であり、お二人の一生の幸せを語っているのであります。
婚約中の卒業生のなかには、「彼女」を紹介しに学校へ来る者がよくいるのですが、そんな折、私が「良い家庭、本当に良い家庭を作りなさい」と言うと、時々、次のように訊《き》かれます。
「先生がおっしゃる良い家庭とは、どんなものなのでしょうか」
良い家庭についての定義はさておき、良い家庭を作り上げるもののうちで、“歌”は大切な要素なのだと、私はよく答えます。歌は明るく楽しい雰囲気《ふんいき》、寛《くつろ》いだムード、暖かい心の触れ合いをもたらしてくれるからです。ですから、英一君とチヨ子さんに申し上げたい。
「歌を忘れないで下さい。今からこそ、歌えよ、愛の歌を!」
昨年(一九七五年)、しばらくの間ドイツに滞在していた時、ある晩、知り合いの方から夕食に招かれました。わりと裕福な家庭なのですが、居間に置いてあるテレビはたいへん古ぼけたものでした。スイッチをいれた時、画面はぼんやりし、音もよくなかったので、私は驚いてしまって、からかって言いました。
「ずいぶんと古いものですね、このテレビは。第一次世界大戦前のものじゃないですか」
相手はすこしも怯《ひる》まず、にっこりして、
「そうですね、相当古いものです。もっとも、ほとんどみないのだから、関係のないことですよ」
「でも、皆さんは音楽が大好きなんでしょう。素晴しい音楽の番組がたくさんあると聞いているんですが……」
「ええ、毎週何回もあるんですが、でも、音楽は聞くよりも演奏するほうが面白いですよ。なんなら、ひとつ、やってみましょうか」
そこで即座に、お父さん、お母さん、それに四人の子供たちによる音楽会が始まりました。モーツァルト、ワグナー、昔の懐かしい民謡、近ごろの流行歌、はては学生時代のあのばか騒ぎの宴会の歌まで。皆と一緒に歌ったり、おいしいライン・ワインをちびりちびりやりながら、いつのまにか真夜中になってしまいました。
英一君、チヨ子さん、
いずれ、近いうちに一度伺いますよ、必ず。その時、どうぞ歌を聞かせて下さい。お二人のデュエットを楽しみにしています。デュエットといいましたが、何年か先には、お子さんたちを一緒にしての三重唱、四重唱で歌えるようになったら、なおさら素晴しい。そして、そのうえに、ちょっと大胆な夢でありますが、いつか八重唱の家族合唱団になったら、天下一品の幸せな家庭になると断言いたします。やはり、先ほど申しましたように、「歌っている人の仲間になりなさい。心配せずに。心のいい人しか、歌を歌えないから」
文部大臣の役割だけは
媒酌の方、及び来賓の方々のご祝辞を伺って、すっかり感心させられました。新郎の学歴、職歴、そして経済研究所のスタッフとしての実力など、極めて優秀であるので、お二人の将来は疑いもなく幸せなものであるという、たくさんのお褒めの言葉がありました。そしてまた、今日、漸《ようや》くめでたく結婚できたのであるから、愛する奥様に励まされて、これまでよりも一層落着き、熱心に力一杯研究に打ち込み、よきエコノミストとして日本の経済のために頑張るようにという、激励の言葉もありました。
私も全く同感です。同感ではありますが、会社や日本経済のためだけではなく、真のエコノミストとして、新村上家のためにも励んでいただきたいと、心から願っています。
いま、わざと「真のエコノミスト」という言葉を使いました。何故ならば、このエコノミストという言葉の意味があまりよく知られていないようだからです。経済とか商業、あるいは貿易のことだけを指す言葉だと一般に思われがちなのですが、そうではありません。もっと深い意味があります。エコノミストの語源をギリシャ語に求めると、「家を治める」という意味なのです。広い社会のことを意味するようになるのはもちろんのことですが、それよりもまず、わが“家”を指すものなのです。このことは、エコノミストのくにお君に是非とも知ってもらいたいと思います。そして、わが家を治めるということが、家政とか生計とかいう形而下《けいじか》的なものだけでなく、家庭の精神的な面のことであり、かつ、その面をないがしろにすると、一家の切り盛りは失敗に終わってしまうことを理解してもらいたいのです。
つまり、家庭というものは株式会社の如きものではない。夫や父親は、単なる営業部長であってはならない。一生懸命営業の成績を上げ、家庭の収入や財産をふやし、経済的安定を心配するだけでは、家庭は家庭になりません。絶対に! 精神的な糧がどうしても必要なのです。聖書の言葉にもあるように、「人間はパンのみにて生きるものにあらず」です。富よりも心なのです。
くにお君、タカ子さん、今日の新家庭の誕生に当たって、この家庭の心をこそ、もっとも心掛けていただきたい。
「母親は家庭の心だ」と、よく言われます。妻や母親の家庭における女性としての使命はここにあります。家内、女房、おかみさん、奥さまという言葉にも暗示されているように。妻の心のやさしさ、暖かい、深い、細やかな思いやりは、家庭内の人間関係や家族の心の触れ合いを育てていくものです。しかし、そうだからといって、これで家庭内での責任分担がすべて果たされるというわけではない。
男にしかできない、夫として父親として担当しなければならない役割があるのです。最近ではすっかり響きが悪くなってしまって、家長という言葉は使われませんが、夫はやはり家庭の統治者であります。家を支える中心の柱であり、家の中の権威ある決断者です。家の経済だけでなく家族は人間として、また社会人としてどうあるべきかという、躾《しつけ》や道徳や情操教育なども、わが家を治める父親の役目の一つであります。
くにお君、これを大変な注文だと思わないで下さい。君ならできますよ。しかし、忙しいために、家庭での仕事をお二人の間で分担しなければならないような事情が生じたならば、その場合には、大蔵大臣とか厚生大臣の仕事はタカ子さんに任せてもいいでしょう。文部大臣の役目だけは絶対に手放さないように重ねてお願い致します。
ただいま申し上げたことは、家庭論の常識にすぎません。しかし、この常識を忘れている人が多いのです。日本の家庭の、最近の著しい質的低下の原因の一つは、ここにあるのです。そして、家庭の改善もここから始まるのだと、私は確信しております。
くにお君、タカ子さん、
手をとり合い、心を合わせて、素晴しい心のこもった家庭を築き上げて下さい。大いに期待しております。
家庭は社会の揺りかご
愛 あなたと二人 花 あなたと二人
恋 あなたと二人 夢 あなたと二人
二人のため世界はあるの
二人のため世界はあるの
(作詞山上路夫)
忠夫君と美智子さんお二人は、きっとこの恋人の歌を一緒に何回も歌ったことでしょう。婚約している間、今日の佳き日を憧《あこが》れて。「世界は二人のために」という歌詞は、たしかに、お二人の今日の感激をぴったり表わしており、心を踊らせる言葉であります。
この歌は、私は結婚披露宴で幾度も聞きました。いつでも、何となく一緒に歌いたくなるのです。しかし、正直に申しますと、ちょっとひっかかるところがあります。世界は私たちのためにあるというのは、言い過ぎであるからです。私たちは、自分の夫の、妻の、子供の、家庭の幸せだけが大切なのだという考えに陥りがちです。このような家庭観は現実的ではないし、望ましいものでもない。今日のたくさんの家庭の弱点は、実はここにあるのです。そして、この家庭の弱点は現代社会の内蔵している無数の困難や矛盾とつながっています。つまり、このような小市民的なマイホーム主義は、二人のためにある世界を滅ぼしてしまうのです。私たちは、私たちの誕生地である家庭は世界のためにもある、ということを忘れてはならない。家庭の一つの素晴しい使命は、これなのです。諺にもあるように、「家庭は社会の揺りかご」であります。
家庭というものは、社会の最小の細胞でありますが、社会や国家の基礎となるものです。国家という言葉の二つの文字を考えてみても、家庭の役割は明瞭です。家が土台となって、その上に国という文字がのせてあります。つまり、家庭を原点として、国家というものが生まれるわけです。その土台が丈夫にできていることによって、はじめて健全な社会が形成されていくのです。
最近、天然資源というものが非常に高く評価されています。石油とか石炭とか、あるいは鉄とか、そういう資源の有無によって、国の経済力や国民の生活水準が強く影響されることは、私たち皆が身を以《もつ》て経験しているところです。しかし、その資源とそれらの開発がどれほど大切であっても、人間と人間性の正しい発展の重要さに比べることはできない。しっかりした人間のみがしっかりした社会を築き上げていくのです。そして、人間が堅実に、正しく、人間らしくなるかならぬかは、なによりも家庭によるものです。しかも、この家庭での人づくりは、同時に社会人づくりともなるのです。夫や父親、妻や母親は、わが家庭の建設者だけではなく、よりよい社会、いや、よりよい世界の建設者でもあります。シェークスピアの有名な言葉で言えば、「揺りかごを動かす手は、世界を動かす」ということです。
揺りかごを動かす手は、母親の手だけではありません。そうであってはいけないと強調したいのです。もちろん、家庭での母親の役割は極めて重要です。しかし、現代の社会の有様を考えてみると、父親の役目は母親のそれと同じように、あるいはむしろそれ以上に大切だと私は思っています。ですから、家庭教育の主役はやはり父親だと、忠夫君に是非とも理解していただきたいと願っております。
忠夫君、よく聞いて下さい。今の話は、おそらく君にとって、校長の最後の訓話となるでしょう。君に対して大きな期待を持っていますから、遠慮なく申し上げます。忠夫君、揺りかごから、絶対に手を放さないで下さい。役所での仕事がいくら忙しくても。家庭を妻まかせにしないで下さい。そして、近い将来のことになるでしょうが、お子さんを母親まかせにしないで下さい。父親は家庭にとって、どうしても必要な存在なのです。
父親は、家庭において、外の社会への窓口であります。父親は、社会の秩序や正義、公正や権威を代表するものです。このことを、残念ながら戦後の大勢の親御さんたちは完全に忘れてしまったのです。だから、社会の環境は今日のように乱れてきたのです。自由の正しい理解、ルールの当然の守り方、仕事や努力の尊さ、他人に対しての思いやりや奉仕、一言で言えば、社会人にあるべき公徳――これを育てて、わが子の身につけてやるのは、社会人としてのプロである父親以外にはおりません。
忠夫君、今申し上げたことは、君のおやじとして、また社会人としての社会への最大の貢献であると確信して下さい。人のための人になること、そして人のための人を育てて下さい。美智子さんと心をあわせて頑張って下さい。お二人が今日おつくりになった新しい家庭が、いつまでも幸せであるように。そして、よりよい社会の揺りかごであるように。
自分自身を燃やし尽くせ
先日、孝夫君が私のところへ来て、今日の祝宴に招待してくれた折、私は一つの注文を受けました。孝夫君は、こう私に言いました。
「先生、いちばん最後にお話して下さいませんか。最後にお願いするのは失礼なんですが。でも、友だちは相当ふざけた話をするに決まっています。締め括《くく》りとして、先生にちょっと真面目なお話をお願いしたいのですが。もちろん、固いお説教でもいいんです」
頭をかいて笑っている孝夫君をみて、私は、困ったな、と思いました。皆さんも経験がおありと思いますが、スピーチの順番を待っている間というものは、せっかくの御馳走もお酒も、あまりおいしくありません。私の場合は特にそうです。たいへん食いしん坊であるからです。
それからもう一つ、いざ、お話をしようとしたところで、困ったことが生じました。ただいま、私たちが拝見したキャンドルサービスは、実に素晴しかった! 本当に感激しました。その後では、何を申し上げても蛇足《だそく》にすぎないものになってしまうという心配であります。
ほんとうに、結婚のご披露にふさわしいキャンドルサービスであったと、しみじみと感じました。電気が消されたこの大広間には、新郎と新婦が手に持った、たった一本のろうそくのみが、ゆらゆらとともっていた。そのたった一本のろうそくは、この広間の闇を照らすには及ぶべくもなかったが、お二人がテーブルからテーブルへ、次々にろうそくに火を点じていくうちに、この広間はだんだんと、明るさをましていきました。
ろうそくというものは、愛の象徴であります。愛は、ろうそくのように、相手に光や暖かみを与えてくれるのです。人生には、輝かしく暖かい昼があるし、暗闇の深く冷たい夜もあります。夫婦や家庭生活も同様です。その暗闇を追い払い、心に希望や生き甲斐《がい》を与えるのは、まさに、夫婦の心を結びつける愛であります。
ろうそくと愛には、もう一つの類似点があります。ろうそくは、自分自身を燃やし尽くしながら、まわりを照らすものです。光や暖かみを与えながら、自分自身を消耗させていくものです。愛のわざは、これと同じものです。
人生における青春の愛は、夢をみる、心を躍らせる歌を歌う、花を美しく咲かせる――そういう愛であります。その愛を、今度は、成長させ、実りの多い愛に育てていくのは容易なことではありません。愛に燃えても、あるいは相手のことを暖かい気持で考えようとしても、人間は自己中心的に考えたり、勝手な態度をとったりする傾向があります。どんな人間にも。このエゴイズムを克服していくこと、これこそ本当の愛のわざであります。自分を忘れ、自分の満足を捨てて、愛する相手の喜び、楽しみ、そして幸せのためにのみ生き貫き、ろうそくのように自分自身を消耗させても、妻に、夫に、子どもたちに光や暖かみを与える――これこそ、夫婦の心を幸福で満たし、家庭に幸福をもたらす犠牲的献身であります。
いま、私は犠牲的献身ということばを使ったのですが、これは決して犠牲になるようなことではない。むしろ、これは自分自身を完成させていくことなのです。人間の愛というものは、器に入った水のように、汲《く》み出すたびに次第に減っていくようなものではない。汲めば汲むほどに、ますます清らかな水が湧《わ》き出てくる泉と同じように、愛はいよいよ湧き上がり、人間はいよいよ強くなり、清くなるのです。輝かしい愛であります。そして、その光は、ろうそくが燃えきった後までも生き残るのであります。
最後に、イタリアのアッシジの聖フランシスコの祈りを読み上げます。平和の祈りとしてよく知られているのですが、愛の賛美歌といってもよいと思います。この祈りを時々思い出して、よき夫、よき妻、そしてよき父、よき母となり、光や暖かみに溢《あふ》れた新田中家の家庭を築き上げて下さい。
神よ、わたしを、
あなたの平和を実らせるために、用いてください。
わたしが、憎しみのあるところに、愛をもたらすことができるように、
また、争いのあるところに、和解を、
分裂のあるところに、一致を、
疑いのあるところに、真実を、
絶望のあるところに、希望を、
悲しみのあるところに、よろこびを、
暗闇のあるところに、光をもたらすことができるように、
助け、導いてください。
神よ、わたしに、
慰められることよりも、慰めることを、
理解されることよりも、理解することを、
愛されることよりも、愛することを望ませてください。
わたしたちは、
自分を与えることによって、与えられ、
すすんでゆるすことによって、ゆるされ、
人のために死ぬことによって、永遠に生きることができるからです。
この作品は昭和五十二年三月新潮社より刊行され、
昭和五十五年九月新潮文庫版が刊行された。
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日本の父へ
発行  2002年5月3日
著者  グスタフ・フォス
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
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ISBN4-10-861188-8 C0893
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