赤毛のレッドメーン家
フィルポッツ作/赤冬子訳
目 次
第一章 噂
第二章 事件の背景
第三章 謎
第四章 手がかり
第五章 ロバート・レッドメーン姿を現わす
第六章 ロバート・レッドメーンからの伝言
第七章 約束
第八章 洞窟の死
第九章 ひときれのウェディングケーキ
第十章 グリアンテにて
第十一章 ピーター・ガンズ氏
第十二章 ガンズ指揮をとる
第十三章 突然の帰国
第十四章 拳銃とつるはしと
第十五章 幽霊
第十六章 レッドメーン家の最後の人間
第十七章 ピーター・ガンズの方法
第十八章 告白
第十九章 ピーター・ガンズ形見を受け取る
訳者あとがき
[#改ページ]
登場人物
ジェニー・ペンディーン……レッドメーン家の亡くなった長男の娘
マイケル・ペンディーン……ジェニーの夫
アルバート・レッドメーン……レッドメーン家の次男、書籍愛好家、イタリアに在住
ベンディゴ・レッドメーン……レッドメーン家の三男、元船乗り
ロバート・レッドメーン……レッドメーン家の末子、陸軍大尉
ジュゼッペ・ドリア……ベンディゴのモーターボートの運転士、イタリアの旧貴族と自称
マーク・ブレンドン……ロンドン警視庁の刑事
ピーター・ガンズ……アメリカの探偵、アルバートの親友
[#改ページ]
第一章 噂
有名にならないうちは誰でも自惚《うぬぼ》れる権利がある――ということだ。無意識にとはいいながら、マーク・ブレンドンもそういう考え方をしている一人だった。
しかし、なにもそうひどく自惚れているわけでもないのだ。二流の人間に限って自信がないものさ、と思っているだけのことだ。三十五歳にしてすでに、彼は犯罪捜査課のかなりの地位をしめていた。勇気と機知と努力という欠くべからざる才能に加えて、想像力と直観という特質があったればこそこれだけの成功も可能だったのだが、事実それらのおかげで警部の地位さえもう目の前にあるのだ。
実際的な業績はこれまでにずいぶんあげているが、更に戦時中、国際的な仕事で活躍し一層名をあげたのである。彼はこの先十年のうちには宮仕えはご免|蒙《こうむ》り、念願の私立探偵を開業することになるだろう、と確信していた。
ところでマークはいま、ダートムア〔イングランド南西部の岩の多い不毛の高原〕にきて休暇をすごしているのである。道楽の|にじます《ヽヽヽヽ》釣りに専念し、かつ、この機会に自分の一生を鳥瞰的《ちょうかんてき》な視野から眺め、これまでの業績を評価し、おのが将来を単に探偵としてのみならず一個の人間として公平に見さだめようというのだ。
マークは人生の転換期にきていた。というよりはむしろ、これまではただ一つのドラマにのみ捧げられていた人生という舞台に、新たな興味と新たなプランとが登場しようとしている、そういった時期に到達しているのだった。これまでの彼は、全く仕事のためにのみ存在していたのである。戦後はふたたび、暗黒と疑惑と犯罪の世界できまりきった仕事に従事し、それが職業であるという以外なんら個人的興味もないままに、それらの謎を解くことにのみ専念してきた。あたかも一対の手錠のごとく、いかなる内面生活にも、精神的野心にも、あるいは自己本位の大望にも縁のない一個の道具だったのである。
この勤勉さと誠実な献身ぶりのおかげで現世的には酬いられていた。こうしてやっといま、おのが視野を広め、人生をより高い見地から眺め、そうして一個の道具であると同時に一人の人間たらんと決心できる時期にきたのだ。
気がついてみると、戦時中の特別授与金とか、フランス政府からの多額の報奨金などですでに五千ポンドの貯えができていた。その上、現在かなりの高給をはんでいたし、遠からず上司が退官すれば昇進する見込みでもあった。彼とても、人生のさまざまな面をすべて、仕事のうちにのみ見出せると思うほど馬鹿ではなかった。だから彼はいま、教養ということ、人間的な快楽ということ、あるいは妻や子のもたらすであろう新たな利害や責任ということについて考えはじめたのである。
彼は女性というものを全く知らなかった――少なくとも彼の愛情をよびさましてくれるような女はこれまで一人もいなかった。実際の話、彼は二十五歳の時に結婚を生活設計からしめ出すべきだと考えたのだった。職業柄、毎日が不安定であるし、第一ひとりの女と生活を共にすることは仕事に甚大な影響を与えずにはおかない、と思ったからである。愛情というものは、集中力を弱め、彼の稀にみる才能を鈍らせ、そしておそらくは大事な決断の瞬間に打算と臆病の原因にすらなって、彼の実力を損ない、前途の成功にかげをさすことになるかもしれぬ、そう考えていたのだ。だが十年をへた今は、彼も違うように考えはじめた。進んで他人の影響をうけようとしているし、しかるべき女性が現われたならすぐにでも求婚しようという気にさえなっていた。あらゆる方面にわたる彼自身の知識の不足を補ってくれるような、教養のある女性を彼は心に描いていた。
一般に、男がこういう受けいれ態勢の気分でいるときには、望み通りの反応をえるのにそれほどまつ必要はないものである。ところがブレンドンは古風な男で、戦時中に育った女性には全く魅力を感じなかった。彼女たちのすぐれた性質も、またしばしば精神の優秀性をも認めながら、なお彼の理想はもっと異なった古風なタイプ――一生涯を寡婦《かふ》のまま、彼のために家庭を守ってくれた彼自身の母親のようなタイプを求めていた。その母親は彼にとっての女性の理想像だった――静かにおちついていて、思いやりがあり、信頼がおける女――そしてつねに、彼が興味をよせるものには自分もよせ、自分自身の生活によりも彼の生活に中心をおき、彼女自身の存在の喜びを彼の進歩と勝利のうちに見出す女だった。
実際にマークは、喜んで自分自身を彼のうちに没入させて、自分の個性をおしつけようとしたり、自分だけの世界をつくろうとしたりはしない女《ひと》を望んでいた。母親の立場というものが、どれほどその愛情が完璧《かんぺき》であろうとも、妻の立場とは全く異質のものにちがいないことぐらいは彼も心得ていた。既婚の男性についても十分見聞していたから、彼の求めるような女性が戦後の世の中にみつかるかどうかも疑っていた。それでもなおそのような古風な女が今でも存在しているという望みをすてず、またすてようともせず、どこを探せばそういう相手をえられるのかと考えはじめているのだった。
この一年間働きづめに働いて、彼は疲労|困憊《こんぱい》ぎみだった。しかし、ダートムアには機会さえあればいつでも、健康と休養のために来ていたし、現に今、プリンスタウンのダッチ・ホテルに来ているのもこれで三度目であった。ここで旧交を温め、近くの|にじます《ヽヽヽヽ》のいる流れで六月と七月の間ゆっくりと楽しもうというのだ。
ブレンドンは他の釣りびとたちが自分に関心をもっているのが嬉しかったから、釣りにはひとりで行くことに決めていたとはいえ夕食後の喫煙室の団欒《だんらん》にはたいてい仲間入りをした。そしてなかなかの話じょうずだったから彼の話にはみんなが耳を傾けた。しかし、時々刑務所の看守たちとすごす一時間の方が彼はもっと好きだった。それというのも、この荒野のまん中の、プリンスタウンという名で知られた灰色の|しみ《ヽヽ》を支配している刑務所には、興味をそそるような音にきこえた犯罪者がたくさんいるからで、彼らの中にはブレンドンの|ご厄介《ヽヽヽ》になり、刑期に関して彼の示した個人的な努力と勇気に感謝しなければならない者が幾人もいるのである。また、刑務所の職員の方には、広い経験と頭脳の持ち主が少なからずいて、この刑事の仕事に関係あるようなことをいろいろと教えてくれるのだ。犯罪の心理学は、決してうすれることのない強烈な力をもってブレンドンを惹《ひ》きつけていた。そして、目撃したとか聞いたとかいう人々が話してくれるさまざまな妙な出来事、あるいは囚人たちの曖昧《あいまい》な話なども、ブレンドンの頭の中では説明がつくのだった。
ブレンドンはいい|にじます《ヽヽヽヽ》のいる、まだ誰も知らない場所をみつけてあった。そして六月半ばのある夕方、ひとつそこで釣ってみようと出かけたのである。彼は小川の流れこんでいる、ある廃《あ》れた石切場の中に深い淵をいくつか発見してあった。そこには、ダートアンドメヴィー、ブラッカブルック、ウォーカムなどといった川から毎日釣り上げられるものよりも、もっと大きいやつが一匹や二匹はひそんでいるのである。
これらの淵のあるフォギンターの石切場へ行くには二つの道があった。そもそもは戦時中プリンスタウンの捕虜収容所をたてる石をとるために、この荒野の奥深くみかげ石のあるあたりまでひらかれた道が、今なおそのさびれた地点までのびていて、半マイル先の大きな街道に交わっている。かつての石切工の住いだった家が一軒か二軒、草の生いしげったその道のはたに建っているが、広大な石切場はとうの昔にさびれてしまっていた。造化の神の美しく拵《こしら》え給うたこのすばらしい場所も、今はその真価を認められることもなく、ただ野生の生きもののすみかとなっているのだった。
だがブレンドンはいま、荒野の中の一本道を通ってやってきた。プリンスタウンの停車場を左に見て西へむかって歩き出すと、空の燃えるような光と対照的に荒野がくろぐろと行く手に起伏していた。日は傾いて、薄紫と深紅にふちどられた金色《こんじき》の光がかなたの空をこがし、その光がみかげ石のなかの石英にそこここでキラリとあたって、おちつきはらった夕暮れの大地の上でおどっている。
その燃えるような夕日を背に、籠を手にした人影が現われた。そろそろ|にじます《ヽヽヽヽ》が水面に浮かびあがる頃だな、と考えながら歩いていたマーク・ブレンドンは、軽い足音にふと目をあげた。かつて見たこともないような美しい女がすれ違って過ぎた。この美しいものの突然の出現に彼はハッと息をのみ、今までの想念などはどこかへけしとんでしまった。それはあたかも、人気《ひとけ》のないこの荒野からひともとの魔法の花が突如咲き出でたか、さもなければ、|しだ《ヽヽ》と石の上にいよいよ輝きをました夕日の光が、燃え立ってこの美少女と化したのか、と思わせた。少女はすんなりとして、背は高らず低からず、帽子はかぶっていない。ひたいの上に高く結いあげられた|とび《ヽヽ》色の髪が、熱っぽい夕日の光とからみ合って少女の顔のまわりに後光のごとく輝いている。その色の壮麗さ、ぶなの木やわらびのやぶを秋が色づける時のあのみごとな色そのままだ。しかも少女は青い瞳をもっている――|りんどう《ヽヽヽヽ》のように青い瞳。その両の瞳《め》の大きさがブレンドンを驚かした。
ブレンドンはかつて、ほんとうに大きな瞳《め》をもった女というものをたった一人だけ知っていた、彼女は犯罪者であった。しかし、この未知の少女の美しい眼は、その顔をすら小さくみせているようだった。口も小さい方ではないが、その唇《くちびる》はふっくらとして、やわらかな線を描いていた。彼女は大股で足早に歩いて行く、細い銀白のスカートと|ばら《ヽヽ》色の絹の上着が、彼女のからだの線を――まろやかな腰と少女らしいかたい胸の線をくっきりとみせていた。急に嬉しいことでもあったのか、地面に果してついているのかと思わせるような小さなすばやい足で、勢いよく歩いていく。
あけっぴろげの、人を疑わぬ表情のその眼が、一瞬彼の視線とかち合った、と思ったとき彼女は通りすぎて行った。三十秒ばかり間をおいてから、ブレンドンはふり返ってもう一度見た。若い娘の気軽さで、歩きながら歌っているのが聞こえる。鳥のさえずりのようにはっきりとした明るい声がいくふしか聞きとれた。やがて、相変らず足早に行く彼女の姿が、だんだんと小さくなって荒野の上の輝く一点となり、とある隆起のなかに吸いこまれて見えなくなった。ヒースと荒地のなかの生きもの――どんな住いであれ、家というものの中にとじ込められた姿は思い浮かべることもできなかった。
この光景がマークをもの想いに耽《ふ》けらせた。美しいものが突如出現すれば無理からぬことではある。彼は少女のことを想いめぐらしていた。たぶんこの土地の者ではなく、団体の訪問者の一員ででもあるのだろう、そのためにおそらくは今日だけここへ来ているのだ。誰かの許嫁《いいなずけ》にちがいない、とまでは彼も臆測した。あのように美しい人間が愛されずにいるわけはないのだ。事実あの瞳にも歌にも愛と幸福感とがうかがわれたではないか。マークは少女の年齢《とし》を推しはかってみた、そして十八歳にちがいないと思った。あれこれ考えているうちに、やがて彼はおのれの風采《ふうさい》のことをふり返ってみた。だいたい、誰でもこんな時にはできるだけよく考えるものである。ところがつねにきびしい事件を相手に暮してきたブレンドンは、このような場合、否、他のいかなる場合にもおのれを欺くことはできなかった。彼は腕っぷしの強い立派な身体つきの男で、年齢《とし》のわりにはいまなお敏捷《びんしょう》で柔軟だ。しかし髪の毛はあまり結構とはいえない麦わら色だし、きれいに髯《ひげ》をそった血色の悪いその顔は、道徳的な意志や性格、けんか早さを示している以外いっさいの特徴を欠いていた、それはまさに彼の必要条件を満たしている顔だった。なぜなら簡単に変装ができるからである。だがそれは、いかなる女性をも魅了する顔ではないし、またいかなる女性にも挑戦できる顔でもない――その事実はブレンドン自身よく知っていた。
どんどん歩いて行くうちに、彼は丘の側面に大きく口をあけている噴火口のような巨大な穴のそばへやってきた。そして廃墟と化したフォギンターの石切場を見おろすように立った。目の下は、二百フィートの深さの空洞である。みかげ石のその岩肌は、でこぼこの大きな足場があるかと思えば、垂直にきりたった断崖もあるというふうで、ここに根を下ろすことのできるのは雑草とナナカマドの若木、それとサンザシくらいのものだった。一面に石とシダとが点々としている広い底にはジギタリスが岩屑の山の上で風に揺れ、野生のいきものたちがすみかを作っていた。無数にあるみかげ石の岩だなの上を水が奔《はし》り、大小さまざまの淵がこの廃墟の中にできていた。
ブレンドンは、石切場まで通じている羊の跡を辿って下りはじめた。仔馬をつれたダートムア小馬《ポニー》が一頭、西の方へ駈けていく。一か所、上部から凹みへかけて堆石が扇状に広がっているところがあった。そこでは、あちこちに突き出た岩だなから、一きわ水が滴り落ちてポチャンポチャンと音をたてていた。小さな流れがいくつも走り、今この釣りびとが辿りついた地点からは、巨大な漂石、深い坑《あな》、急傾斜にそそり立つ岩壁等々の混然とした石切場が、さびれ果てたたたずまいをみせていた。ブレンドンは前にきた時にこの場所に守護神の存在を感じていた。それで彼は声をはり上げて思いきり叫んだ。
「来たぞう!」
「来たぞう!」みかげ石のかげからこだまがはっきりと応える。
「マーク・ブレンドンだ!」
「マーク・ブレンドンだ!」
「ようこそ!」
「ようこそ!」
一つ一つの音節がはっきりと明快にこだまする。ただし、人間とはちがう何ものかの力がはたらいて、はね返ってきたこだまには、魅惑的な響きがあった。
噴火口のようなこの大きな凹み全体は赤紫に染まるかに見え、夜のぶどう酒が満たされはじめた。だが東のふちには、沈みかかる赤い太陽がまだ金色の光を投げかけて、この盃に唇をそっとふれていた。足もとに気をつけながら、マークは五十ヤードほど北へ進んで石切場の最も広い部分までやってきた。まん中には静かな大きな淵が二つあった。それらがこの古い石切場の最も低い部分をなしているわけで、片側はゆるやかに傾斜して渚《なぎさ》となっているが、反対側は三十フィートばかりも深さがあり、その水面からみかげ石の岩がそそり立って絶壁をなしていた。ここでは、水晶のように透明な水が底にいくにつれて濃《こ》い青さを増している。しかしながら、十分しっかりした竿と、糸を遠くへ放るだけの技倆の持ち主なら誰にでも、水面全体どこへでも届くほどの広さだった。|ます《ヽヽ》の動きにつれてそこかしこにキラキラとした輪がひろがり、向こうの崖までさざ波が寄せていく。と思ったとき、ひときわ大きな波が立って小さい方の淵のまん中に突き出た岩かげからふとった|やつ《ヽヽ》が一匹、近くをとんでいた小さな白い蛾《が》をつかまえた。
マークは釣りの支度《したく》をはじめた。だがなんとなくまだ胸の中にわだかまるものがあるのを感じていた。はえの生き餌を二匹、箱から出して、使いなれた細い糸につけている間にも、さっきのとび色の髪の少女のことが頭から離れなかった。四月のような青い瞳、鳥のさえずりのような、人間の感情に害われていない声のひびき、あのかろやかな速い足どり――。
しだいにたそがれてきたのでブレンドンは釣を始めた。だが、一度か二度糸をたれただけで、やがてもう三十分ばかり待つことにした。竿をおいて彼はポケットからブライヤのパイプとタバコ入れをとりだした。昼のたたずまいはもう眠りにつこうとしているのに、どこかでまた時々コツンコツンという単調な音がきこえている――たぶん鳥だろう、と釣り人は思った。池のそばに陣どった彼の正面は広くのぼり傾斜になっている。そのむこうから音はきこえてくるのだ。ブレンドンはハッと気がついた、あれは自然界の音じゃない、何やら人工的な物音だ。たしかにそれは石工の調子のいい|こて《ヽヽ》のひびきだった。そしてやがてその音がやむと同時に、ゆっくりとした足音が石切場にきこえてきてブレンドンはやれやれと思った、――きっと石工だろう。
ところが現われたのは石工ではなかった。ノーフォーク・ジャケットにニッカー、真鍮の釦《ぼたん》のついた赤いチョッキといういでたちの、大柄ながっちりした男がこちらへやってくる。彼は石切場の低い方の入口から入ってきて、池に注ぐ小さな流れが通っている北の出口の方へと歩いていく。
ブレンドンを見るとこの通行人は立ちどまった。長い足を広げて立ちはだかると、くわえていた葉巻をとって話しかけた。
「やあ! じゃああんたは見つけたんですな?」
「何をです?」
「ここの鱒《ます》ですよ、わたしはよくここへ泳ぎに来るんですがね、誰も釣竿をたれてないのは不思議だと思ってた。半ポンドもあるようなやつが十匹やそこらはいるし、もっと大きいのだっているかもしれん」
行きあった人間は誰でも観察するのがマークの本能的なくせだ。人の顔は一度見たら忘れない。彼は見上げると、前に立ちはだかっている男のかなり特徴のある顔だちを凝視した。ブレンドンの観察はすばやいがたしかなものだ。しかし、もしこの一瞥《いちべつ》の重要性を前もって推測し得たなら、あるいは、これからさき数年の間、この相手が彼にとってどれほどの意味をもつかを予見し得たなら、ブレンドンはもっと詳しく観察をし、もっと長いこと話をしていたにちがいない。
がっちりとした肩、そしていやに角張ったあご、その下に短かい猪首《いくび》が見えた。それから大きな口、これまで誰の顔にも見たことのないようなばかでかい口髯《くちひげ》、グロテスクな髯だ。だがこの男はそれが自慢とみえ、その証拠には時おりひねってはその髯の先を耳のところへもっていく。その髯が狐の毛のように赤く、しかもこの大男が耳ざわりな|きしる《ヽヽヽ》ような声で口をきくたびに、大きなまっ白い歯がチラチラのぞく。見るからに人柄がわかるような男だ――感情のはげしい、しかも物欲的な人間。目は灰色で小さく、やや離れていて、その間にどっしりとした鼻がある。短かく刈った髪の毛は燃えるように赤く、口髯よりももっと鮮かだ。沈みゆく夕日の輝きさえ、この男の赭《あか》い顔を害うことはできなかった。
はやく立ち去ってくれればよいとブレンドンは思っているのに、大男は人なつこく話しかける。
「わたしは海釣りをやるんでね。あなご、たら、さば――舟に半分ぐらいは釣ります。愉快ですよ。ということは骨も折れるし、のども渇くということですがね」
「そうでしょうな」
「しかしね、ここは妙に人を惹きつけるところのようですな」大きな男は話しつづけた、「ダートムアがどうだっていうんです? 丘があって岩があって子供でも歩いて渡れるようなつまらん小川があるってだけのただの荒地だ。ところが、みんなの話を聞いてるとまるで天国も及ばないようなことをいう」
マークは笑っていった、「ここには魔法の力があるんですよ、それが人の心にもはたらくんでしょう」
「そうなんだ、神さまにも忘れられたようなプリンスタウンでさえ、そうですからな、見るものといったら哀れな囚人共しかない町だというのにね。わたしの知ってる男ですがこの先に自分の家を建ててるのがいます。細君と二人で鳩の夫婦も及ばないほど幸福だ――と少なくとも当人たちは思ってるんですからね」
「|こて《ヽヽ》の音がしてましたね」
「ああ、人夫たちが帰ったあと時々わたしがてつだってやるんですよ。しかしね、どうです――文明に背をむけて荒野のまん中に住むつもりだなんて!」
「それ以上のことだってしかねないな、もし野心を捨てたというんなら」
「そうですよ、野心なんてものはあの二人にとっちゃ問題じゃない。愛情さえありゃいいと思ってる――気の毒にね。なぜ釣らないんです?」
「もう少し暗くなるのを待ってるんですよ」
「なるほどね、じゃあ。変なのを釣り上げて逆に引っぱりこまれないようにして下さいよ」
自分の軽口に声を出して笑いながら赤毛の男は五十ヤードほどむこうの出口へ歩み去った。静かな水の面《おもて》を、その笑い声が鋭くこだまして渡っていった。やがてマークの耳に何やら機械のひくい音がきこえてきた。今の男は半マイル先の街道の方へ、オートバイに乗って行ったにちがいなかった。
ひとりになると、ブレンドンは立ちあがって、石切場のもう一方の入口の方へおりていった。そこからさっきの男のいっていた家が見えるかも知れない。巨大なくぼ地をはずれて右へまがると、西南に面した小さなくぼみの中にその家がみつかった。まだまだ完成にはほど遠い。今のところ六フィートの高さのみかげ石の外郭ができているが、ずいぶんと厚い壁だ。設計からみると六室の家で平家建てと思われた。まわり一エーカーほど塀をめぐらしてあったがその境界線も未完成だ。西から南へかけてはすばらしい景観がのぞまれた。ブレンドンのすぐれた視力にはプリマス港へ注ぐ河にかかっているサルタシュ橋さえ見えた。そしてうすれかかった西の空の夕やけにくっきりとコンウォール州の起伏も見えた。|すみか《ヽヽヽ》を作るにはまさにすばらしい場所である。ブレンドン刑事は、このしずまり返った荒野の中に居を定めようというのはいったいいかなる人物であろうかと思いめぐらした。都会の生活に、そして人間仲間に愛想をつかした人たちにちがいない。おそらく彼らは、人生に失望と幻滅を感じた結果、社会生活に背をむけたのだ。人間社会に営みを続けることの煩わしさを極力避け、その恥と愚かさからのがれてこの厳しいいつわりのない世界に住みたいと願ったのにちがいない。ここは何の保証もしてはくれないが、しかしある種の人間にとっては宝にみちているのだ。深閑としたフォギンターの廃坑のかたわらに住もうという夫婦はよほど長生きした人たちなのだろう。だから、自然に抱かれて孤独にすごすことこそ最大の恩恵だと思うような境地にも達したのだ。ブレンドンはそう判断し、若い者のはずはないと思った。だが待てよ、さっきの大男は、その夫婦は『愛情さえあればいいと思ってる』といっていた。ということは、彼らが幾歳であるにせよ、まだ愛情に燃えているということになる。
陽はすっかりおちて光と影のおりなす縞模様も地上からうすれ去った。すべてのものの姿がぼんやりとかすんでさだかには見えなくなった。ブレンドンはふたたび釣りをはじめることにし、鱒釣り用の小さな蚊針を探し出した。二つの池からは一ダースもの鱒が釣れ、彼はそのうち六匹だけとってあとは水に返してやった。一番大きい三匹はどれも半ポンドはあった。
そのうちまた来ることにきめてブレンドンは釣りをやめた。そして暗いなかをわざわざ歩きにくい荒地を通ることもないと思い、道路の方から帰ることにした。石切場を出、百ヤードほど離れたところに建っている五、六軒の家のそばを過ぎ、やがてプリンスタウンとタヴィストックを結ぶ街道に出た。星空の下を街へと急ぎながら、ブレンドンはとび色の髪をした荒野《ムーア》の少女のことに思いを馳せていた。彼女がどんな装いをしていたかを思い出そうとしているのだ。彼女のことは頭のてっぺんから足のつま先までなにもかもはっきりとおぼえている――輝くような髪の毛も、銀色のとめがねのついた茶色の靴をはいたあの軽やかな足も。だが、着ていたものだけがすぐに甦《よみがえ》ってこなかった。やがて彼は思い出した――|ばら《ヽヽ》色の上着と銀白の短いスカート。
その後二度ほど、ブレンドンはやはり日の沈む頃にフォギンターへ出かけていったが、少女の姿は全く見かけなかった。だが彼女のおもかげがいくらかうすれてきたころ、ある奇妙な、怖ろしい事件がもちあがり、町の人々と同様、彼の心も煩わされることになったのである。ブレンドン刑事が心底めいわくに感じ、不本意なのにもかかわらず、仕事が目の前に立ちはだかってしまった。この教会の多い小さな町に突然殺人事件の噂がささやかれ、驚くべき速さで伝わったからといって、それは彼にはなんのかかわりもないことだ。だが一つの事件が突発してたちまち彼をひきずり込み、まだまだあるはずの休暇に終止符を打ってしまったのである。
はじめて石切場へ出かけて行った日から四日たったある日、ブレンドンはその日の午前中をメヴィー川ですごした。その夜おそく、グラスは飲みほされ、誰かれのパイプの火も消えてもうあしたになろうという時刻、それぞれの部屋にひきとろうとしていた五、六人の男たちは突然いやな知らせをきかされた。
ダッチ・ホテルの下男のウィル・ブレイクはあかりを消そうと待っていたが、ブレンドンをみるといった、
「だんな、何やらあんたの仕事らしいことが起きましたですよ。あしたはこりゃちょいと大騒ぎだ」
「囚人でも脱走したかい、ウィル?」あくびをしながらブレンドンはきいた、「ここでおもしろいことといったらそんなことぐらいしかないんだろ、え?」
「脱走? ちがいますよ――人殺しらしいんです。どうやらペンディーンさんの奥さんの叔父さんて人がペンディーンさんを殺《や》っちゃったらしいんです」
「なんのためにそんなことしたのかね?」ブレンドンは興味なさそうにきいた。
「そこを調べるのがあんたがた頭のいい人のするこっちゃないですか」
「ペンディーンさんっていうのは誰なんだい?」
「フォギンターのそばに家を建ててるだんなですよ」
ブレンドンはびっくりした。あの大柄な赤毛の男の顔がはっきりと思い出された。その人相書きを述べてみせるとウィルはいった、
「そいつですよ、殺《や》ったのは。あの人の義理の叔父なんだ!」
ブレンドンは床に入り、そんな悲劇があったというのにいつものようによく眠った。そればかりか、翌朝になって女中や下男たちがそれぞれ新知識を吹き込もうとやっきになっても、彼はいっこうに興味を示さなかった。
お湯をもってやってきて日除けを上げたミリーは、有名な刑事さんにこそ事件の話をしても話しがいがあるというものだ、と判断した、
「まあ刑事さん、とてもおそろしい事件が――」ところがブレンドンはさえぎった、
「ああ、ミリー、仕事の話はやめ。ダートムアヘ何しに来たと思う? 人殺しを捕まえに来たんじゃない、鱒を捕まえるためなんだぜ。天気はどうだね?」
「霧がかかって雨もよいですわ。それよりペンディーンさんが――お気の毒に――」
「もう行ってくれよ、ミリー。ペンディーンさんとやらのことは何も聞きたくないよ」
「あの赤毛の大男がねえ――」
「赤毛の大男のこともたくさんだ。雨もよいなら今日は水路で釣るとするか」
ミリーは大いに失望して彼の顔を見た。
「いったいどういうんでしょう! 釣りなんかに行ってられるんですか、人殺しを捕まえるのが商売のくせに――しかもだんなのすぐ目と鼻の先で人殺しがあったっていうのにね!」
「おれの縄張りじゃないもの。さあ行ってくれ、起きるんだから」
「まああきれたもんね」ミリーはぶつくさいい、大いに驚きあきれて出て行った。
しかし、騒ぎには捲きこまれないつもりでいたのにそうはいかなかった。早いとこ逃げ出してつかまらないようにしようと思ったブレンドンはサンドイッチを注文し、やがて九時半になると部屋から出て来た。どんよりとして今にも降り出しそうな朝だった。あたりはもやがたれこめ、まわりの山々は深い霧にかくれている。どこから見ても雨もよいの日となることうけ合いで太公望にとっては絶好の日和というものだ。レインコートをひっかけ、今まさに出かけようとしているところへ、ウィル・ブレイクが出てきて一通の手紙を手渡した。ブレンドンはその手紙をホールの郵便だなに入れておいて帰ってからゆっくり読もうと思ったが、ちらと見ると筆跡は女文字でしかも妙に特徴があった。興味を感じたブレンドンは噂の事件とは結びつけてもみず、竿と|びく《ヽヽ》を下へおいて手紙を開いた、
[#ここから1字下げ]
前略、警察のかたからあなたさまがプリンスタウンにご滞在の由うかがいました。これも神さまのご配慮のように思われてなりません。直接あなたさまのご援助をお願いできるすじあいのものではございませんが、うちひしがれた女の願いをおきき入れ下さり、あなたさまのお力をもってお助け下さいますならば、どんなに感謝申し上げることでこざいましょう。
かしこ
ジェニー・ペンディーン
[#ここで字下げ終わり]
マーク・ブレンドンは胸のうちで軽くちえっと呟いた。そしてウィル・ブレイクにむかってたずねた、
「ペンディーンさんの家はどこだね?」
「ステイション・カテジですよ、だんな。刑務所の森のちょっと手前です」
「じゃすぐ行ってくれ、三十分以内にうかがいますというんだ」
「そうれね! だんなは絶対知らん顔じゃすまされないって、おれは皆にいってたんだ」
ウィルがしたり顔で出かけて行ったあと、ブレンドンはもう一度手紙を読み返してみてみごとな筆跡なのに感心した。そしてまん中に涙のにじんだあとがあるのに気がついた。もう一度心の中でちえっと呟いてから、彼は|びく《ヽヽ》と釣り竿を放り出し、レインコートのえりを立てて、警察署の方へ歩き出した。署へ着くと巡査から事件のあらましをきき、電話の使用許可を申し出た。五分後にはもう警視庁《ヤード》の上司と話していた。囚人の町と世界的都市大ロンドンを隔てる二百数マイルをはるばるわたって、ハリソン警部のききなれたロンドン訛《なま》りが聞こえてきた。ブレンドンはいった、
「警部、殺しがあったんです。犯人《ほし》と思われる奴は行方をくらましてるんですが、被害者の細君がわたしにぜひといってるんです、気が進まないんですが、どうも仕方ないらしいです」
「そうか、仕方ないとあればやりたまえ。今夜また電話してくれ。プリンスタウンの署長のハーフヤード君はおれの親友だ、いい男だよ。じゃあ」
ハーフヤード警部はすでにフォギンターへ行っているとのことだった。ブレンドンはさっきの巡査にいった、
「わたしもやることになったよ。あとでまた来る。くわしい話を聞きに十二時にまた来ると警部に伝えてくれないか。これからペンディーン夫人に会って来るから」
巡査は敬礼した。ブレンドンの顔はよく知っていたのだ。
「せっかくの休暇がおじゃんにならないといいですね。でもだいじょうぶでしょう、みたとこただの殺しのようですから」
「死体はどこにあったのかね?」
「それがまだわからないんですよ、どうやらそれを知ってるのはロバート・レッドメーンだけらしいんで」
ブレンドンはうなずいた。そしてステイション・カテジの三号を探しに出かけた。
プリンスタウンの本通りと直角にひと並びの家があった。北西に面したその家々のすぐ前には木の生い繁った大きな岩山、ノース・ヘサリ・トアがそそり立っている。そして勾配の急なその山と、下の家並みとの間には石の塀が築いてあった。
ブレンドンは三号の家のドアを叩いた。出てきたのは痩せた白髪の婦人で、明らかに涙にくれていた様子だ。招じ入れられた小さなホールには狐狩りの記念品がたくさん飾られてあった。大きなダートムア狐の首、房々したしっぽ、いくつかの剥製《はくせい》。最後まで荒野を駆けめぐったことだろう、その狐たちが今は壁にかかったガラスの箱におさまっている。
「ペンディーン夫人でいらっしゃいますか?」ブレンドンはたずねた。だが老婦人は首をふった。
「いいえ。わたくしはエドワード・ゲリーの家内でございます。もう亡くなりましたがダートムア・フォックスハウンドの世話係りを二十年からやっていたあの有名なエドワード・ゲリーの家内ですよ。ペンディーンさんご夫妻は――いえ、奥さんはわたくしのうちに泊っておいでですけどね」
「お会い下さるでしょうね?」
「おかわいそうに、とても参ってらっしゃいますからね。どちらさまですか?」
「マーク・ブレンドンです」
「あなたならお待ちになってましたよ。でもおだやかに願いますよ、警察の方とお話するってことは罪のない人間にとっちゃ恐いことですからね」
ゲリー夫人は玄関の右手のドアをあけていった、
「ブレンドンさまがおいでになりましたよ、奥さん」
ブレンドンが中へ入るとゲリー夫人はドアをしめた。
ジェニー・ペンディーンは手紙をしたためていた机の前から立ち上がった。ブレンドンの前に立っているのは夕暮れの荒野で見かけたとび色の髪の少女であった。
[#改ページ]
第二章 事件の背景
少女がその朝全くなんの顧慮もせずに――おそらくは無意識に――身じまいをしたらしいのは一目みて明らかだった。みごとな髪の毛は頭のうえに高く無造作に巻きつけられてあり、彼女の美しささえ、涙のためにぼやけてしまったかのようだった。しかしながら、彼女はよく落ちつきをとり戻していて、ブレンドンと顔を合わせている間少しもとり乱したりはしなかった。だが、疲れていることはたしかで、あかるい快活な声のひとふしひとふしにそれが現われていた。彼女は、ひどい苦しみをなめたあげく、活力をすりへらしてしまった者のような喋《しゃべ》り方をする。ブレンドンは無理もないと思った、なぜなら彼女は自分の半分を失ったようなものなのだから。
彼が入って行くと少女は立ちあがった。だが、相手のはっとしたような顔を見ても別に驚いた様子もみせなかった。賛美には慣れていたし、おのれの美しさが男をはっとさせることをよく知っていたのだ。
例の少女だとわかってブレンドンは胸が早鐘のように打つのを感じたが、すぐに落ちつきをとり戻した。おのが知恵と力の限りをつくして彼女のために役立とうとすでに決心してしまっている自分を感じながら、彼は巧みに、思いやりをこめて話しかけた。ただ一つ、残念だという思いが心をかすめたのは、この事件が十中八、九は彼の異常なほどの実力を要求するようなものではなさそうだ、ということだった。犯人捜査の常套手段に加えて、ブレンドンは更にもっと近代的な推論的方法をとることにしており、常に彼が力説するごとくこれまでの成功も、実にこの併用手段のおかげだったのである。ブレンドンはもうこの女性の前にわが実力のほどを発揮したくてたまらなくなっていた。
「奥さん」彼はいった、「わたしがプリンスタウンにいるってことをよくご存知でしたね、わたしでお役に立つなら光栄の至りです。おそらく最悪の事態は起こっていないと思いますよ、まあ今まで聞いた話から判断すると、それを恐れるだけの理由は十分あるにはありますがね。しかし奥さん、わたしにお任せ下さい、奥さんのためにできる限りのことはやりましょう。本署にはもう連絡しましたし、それにわたしはちょうど手があいてますから、この事件に専念できるというものです」
「せっかく休暇中でいらっしゃるのに勝手なことをおねがいして……、でも、なんとなくあたし……」
「そのことはいっさい考えるのはおよしなさい。そうてまどらないでわかると思いますよ。それより奥さんのお話をうかがおうじゃありませんか。フォギンターであったことについては何にもおっしゃらなくて結構ですよ、どうせいずれわかりますからね。それよりも、この災難の起こる以前のことで、事件に関係ありそうなことがあったらみんな話してくださいませんか。その結果わたしの捜査の手がかりになるような糸口がちょっとでもみつかれば、その方がよほどいいですからね」
「糸口になりそうなことなんて何にもありませんわ。まるで雷が落ちたみたい。こうしていてもあたしの心はそんな話を信じようとはしていないのです。とても考えられませんもの、いえ、そんなこと考えるさえ耐えられません。もしそんなことを信じたとしたら、あたしはもう気が違ってしまいます。主人はあたしの生命《いのち》ですもの」
「まあすわってあなたのことやご主人のことを少し話して下さいませんか。結婚なさってからまだそう経っていませんね?」
「四年になりますわ」ブレンドンが驚きの色を示した。
「あたしは二十五よ、そんなに見えないってよくいわれますけど」
「ほんとだ、わたしは十八ぐらいかと思いましたよ。さあ、考えてみて下さい。あなたやご主人の生いたちについて、なるべく役に立ちそうな話だけして下さればいいんです」
相手はしばらく黙っていた。ブレンドンは椅子を一つひきよせると、両腕をその背にかけて何気ないくだけた姿勢で彼女の前にすわった。相手の気を楽にさせたいと思ったのである。
「おしゃべりでいいんです、お友だちに思い出話をするみたいにね。いやほんとに友だちに話すような気にならなくちゃいけない、あなたの役に立つことしか考えてないんですからね、この友だちは」
「一番初めからお話しますわね」彼女は答えた、「あたしの生いたちなんてごく簡単ですし、この恐ろしい事件には絶対何の関係もないんです。でもあたしの身内のお話は案外あなたには興味があるかも知れませんわね。あたしの一族は今じゃもうごくわずかなんです、将来もこのままでしょうね。だって三人の叔父はみんな独身なんですもの。ヨーロッパには他に血縁の者はいないし、オーストラリアにいる遠い親戚のことは全然知りませんの。あたしの一族のお話をしますとこうなんです、ジョン・レッドメーンはオーストラリアの南部、ヴィクトリア州のマレー・リヴァーで一生を送った人で、羊で相当な財産を築きました。この人は結婚して大勢の子供があったんですが、二十年間に彼とジェニー・レッドメーンとの間に生まれた七人の息子と五人の娘のうち、成人したのは五人だけだったんです。男の子は四人成人してあとは子供の頃亡くなりました、そのうちの二人はボート遊びで水死したんですけどね。それからメアリ叔母さん――一番上の娘ですけれど――は結婚して一年で亡くなりました。
それで息子が四人残ったわけです。長男のヘンリー、それにアルバート、ベンディゴ、それから末っ子で今三十五歳のロバート。この人が、実際にそんなことがあったのかどうかあたしは知りませんが、今度のこの恐ろしい事件であなた方の探していらっしゃる人なんです。
ヘンリー・レッドメーンはイギリスで父親の代理人をつとめる傍ら、自分の仕事として羊毛の仲買人をやっており、結婚して娘がひとりありました、つまりあたしです。両親のことはよく覚えていますわ、だって、父と母が死んだのはあたしが十五で女学生だった時ですもの。あたしの父と母は、何年も会っていない父の両親に会うためにオーストラリアへ向かう途中だったんですけど、二人の乗っていた、ワトル・ブラサム号が乗客もろとも沈没したんです。それであたしは孤児になりました。
祖父のジョン・レッドメーンは、お金持ちなのに働くことをとても大切に思う人でした。だから息子たちはみんなそれぞれ職業をみつけ、父親の前に立派に生活を立ててみせなくてはならなかったのです。アルバート叔父は、あたしの父より一つ年下ですが、学問や文学が好きで若い頃にシドニーのある本屋に小僧に入りました。そして後にイギリスへ来て、本屋の中でも大きい有名な会社に入り、おしまいにはその方の専門家になりました。会社ではこの叔父を経営者の一員に加えたので、叔父は会社の仕事で旅行して歩いたりニューヨークで何年か暮したりしました。でも叔父の専門はイタリアルネッサンスの文学ですし、叔父の好きなのはイタリアですから今はそこに住んでおりますの。叔父は十年ほど前にそろそろ引退しようという気になったんです、独り者ですし、贅沢《ぜいたく》はいわない人ですから。それに母親はもう死んでしまっていましたし、父親もそう長くはないことを知っていましたから、兄弟三人の間にやがて分けられる莫大な財産の分け前を当てにできる立場にあったんですわ。
三人のうちのベンディゴ叔父は商船の船員になりました。彼はローヤル・メイル汽船会社にいて船長の地位まで昇ったのですが、四年前祖父が死ぬと同時に会社をやめてしまいました。この叔父はそれこそ魅力もなにもないぶっきらぼうな船乗りで、ついに客船づとめにはなれず、貨物船の船長どまりでした――それを大いに不満としていましたわ。でも海が好きでたまらないんです。それで好きなようにできることになった時、叔父はデヴォン州の断崖に自分の小さな家を建てて、今でもそこに波の音を聞きながら住んでいますの。
三番目の叔父のロバート・ペンディーンがもちろん、今あたしの主人を殺したと思われてる人物です。でも考えれば考えるほどそんなそら恐ろしいこと、あり得ないと思えるんです。だってそんな気違いじみた、しかも動機さえない恐ろしい事件が起きたなんて、悪夢とかなんとかいうようななまやさしいものじゃありませんわ。
ロバート・レッドメーンは父親の秘蔵っ子で、兄弟中で末っ子の彼だけ甘やかされていたんです。このロバート叔父さんはイギリスへ来たんですけれど、家畜を飼ったりお百姓をしたりが好きだったもので、父親のオーストラリアでの友だちの弟だというある農家に住みこみました。それでまあうまくいくはずだったんでしょうが、なにしろ父親がこの息子の顔を一年も見ないで暮すことはできない、というものですから行ったり来たりしてました。
このボブ叔父さんというのは遊び好きな人で、特に競馬と釣りに凝《こ》っていました。それで見込みをあてにしてお金を借り、結局借金をしょいこんだりしてました。あたしの父が死んでからはよくこの叔父に会うことがありましたわ。叔父はあたしにやさしくて、あたしの休みの日には一しょにすごすのが好きだったからなんですの。彼は仕事なんかほとんどしないで、競馬でなければコンウォールのペンザンスにいるといったぐあい――どうもそのペンザンスには、ホテルの管理人の娘とかいう若い女がいたらしいんですけどね。あたしがちょうど学校を卒業し、オーストラリアの祖父と一しょに暮すことになってイギリスを発とうとしてる時でした、急にいろいろなことが次々と起こって、あたしたちレッドメーン一族の者の運命を変えてしまったんです」
「少し休んでください、疲れたでしょう」マークはいった。時々言葉をきって大きくためいきをもらすのをみて、彼はペンディーン夫人がうまく喋ろうとしてどれほど努力しているかを見てとったのだ。
「このまま続けますわ」彼女は答えた、「夏のことでした、ちょうどロバート叔父と一しょにペンザンスにしばらくいた時に、二つの大事件が――いいえ三つの大事件が起きたのです。戦争が勃発し、オーストラリアにいた祖父が亡くなり、それからもう一つ、あたしがマイケル・ペンディーンと婚約したのです。
あたしは、マイケルが求婚する一年も前からそれこそ心から彼を愛していました。でもロバート叔父に婚約の話をすると、彼は不賛成を唱えました、そしてあたしがたいへんな間違いをしでかしたと思ったのです。未来の夫にはすでに両親がありませんでした。彼のお父さんという人は、ペンディーン・アンド・トレキャロウ商会という、|いわし《ヽヽヽ》をイタリアへ輸出する会社をやっていたんです。でもマイケルはお父さんのあとを継いではいるものの、全然その仕事には興味がなかったのです。おかげで収入にはなったでしょうが、彼のほんとうの興味は機械の方面にありました。それかあらぬか、あの人はいつも空想ばかりしてる人でした。そして何かを実現させるより計画することの方が好きなんです。
あたしたちは烈しく愛し合っていました。叔父たちはあたしたちの婚約を快く思わなかったのですけれど、もし不幸な出来事が次々と起こらなかったなら、結局はこの結婚を認めてくれたにちがいない、とあたし思います。
祖父が死んでみると、少し変った遺言がのこされていることがわかりました。それから、遺産なるものも息子たちが期待していたよりはかなり少ないらしい、ということもわかりました。でも十五万ポンドは優にありました。祖父は晩年の十年ばかりは分別を失って、見込みもない投資を相当にやっていたらしいんです。
その遺言によれば、祖父の全財産はアルバート叔父、つまり現存の一番年長の息子にすべて委ねる、ということになっていました。祖父はアルバート叔父に、財産の全収益を自己の判断に従って彼と弟二人の間で分けるように、というのです。それというのも、祖父はアルバート叔父がまじめなものがたい人間で、公平にやるにちがいないとわかっていたからですわね。あたしに関しては、二万ポンド別にして結婚する時、あるいは満二十五歳になった時与えるように、と叔父に指示してありました。それまではあたしの面倒は叔父たちがみることになっており、あたしの未来の夫は――もしそういう人が現われたら――アルバート叔父の承認を得なければいけない、というおまけもついていました。
ロバート叔父は、分け前が期待していたよりもはるかに少ないのを知っておもしろくなかったのですけれど、アルバート叔父が遺産は兄弟三人で等分に分けるといったのですぐ機嫌を直しました。そういうわけで、あたしの相続分は別にして、それぞれがだいたい四万ポンドずつもらうことになったのです。すべてのことがもちろんうまく行くかにみえました。一方あたしはみんなを説きつけるのにけんめいでした。だって、マイケル・ペンディーンはあたしたちの家のそういう経緯《いきさつ》はいっさい知らず、あたしが一円でも財産があるなどとは全く聞かされていなかったのですから。純粋に愛情からだけの結婚なのです、それに彼は例のいわし漁業の仕事で四百ポンドの年収がありあたしたちはそれだけあれば暮しに十分だと思ったんです。
その時戦争が起こったのです、八月のあの怖ろしい日々、そして世の中は一変しましたわ――永久に、とあたしは思います」
彼女はふたたび口をつぐんだ。そして立ち上がると、食器棚のところへ行って水を少し注《つ》いだ。マークはあわてて立ち上がると、そのガラスの水差しを彼女の手からとって懇願するようにいった、
「さあ休んで」
だが彼女は水を飲むと、首をふっていった、
「あなたがお帰りになってから休みますわ。でもどうぞ、もしちょっとでもいい知らせがありましたらすぐまたいらして下さいましね」
「それはもう必ず」
彼女はふたたび自分の椅子のところへいってすわり、ブレンドンももう一度腰をおろした。
やがて彼女はまた話しだした、
「戦争がなにもかも変えてしまいました。そして、あたしの未来の夫とロバート叔父との間に悲しい絶交状態をもたらした原因も戦争にあったのです。叔父の方はすぐに志願兵になって、冒険を求める機会に恵まれたことを喜んでいました。叔父は騎兵隊に入り、マイケルにもそうしろとすすめたのです、主人は、人一倍愛国心は強い人なんですけど――ブレンドンさん、あたしどうしてもあの人が生きてるようなつもりで話してしまいますわ――」
「無理もありませんよ、奥さん。確証がないかぎり、われわれはみんなご主人は生きておいでになると考えなくてはいかんのです」
「そういって頂くと心強うございますわ! 主人は実際的な戦いの場にのぞむ気はありませんでした。あの人はからだも華奢《きゃしゃ》なら、性格もやさしいんです。銃を交えての戦いに身を投ずるなどということは考えるだけでも耐えられませんでした。それに、もちろん国のために働く道は他にいくらでもあったわけでしょう――とても器用な人なんですし」
「そりゃあそうですとも」
「それなのに、ロバート叔父はそのことで人身攻撃をするんです。志願兵募集の声がしきりでした。それで叔父は、もし男たらんと欲するならば、いやしくも適齢期の男性たるもののとるべき道は兵隊になることをおいて他にない、と宣言したのです、そして二人の兄たちにそのようなことを全部知らせたんです、そうしたらベンディゴ叔父は――彼はちょうど勤めを退いたばかりだったのですが、海軍予備隊に所属していたものですからすぐ軍隊に入って何隻かの掃海艇をまかされていたんですが――マイケルの義務と信ずることをたいそう烈しい調子で書いてきました。イタリアからもアルバート叔父が、同意見だと宣言してきました。あたしは叔父たちの態度に憤慨したんですけれど、もちろん決心するのはあたしじゃなくてマイケルです。その時彼はまだ二十五になったばかりで、自分の義務を果すことしか望まぬ青年でした。誰ひとり忠告してくれる人もないまま、あたしの叔父たちに逆らうことの危険に気がついた彼は、ついに折れて志願したのです。
でも彼ははねられました。あるお医者さまが心臓に雑音があるからとても軍隊の訓練には耐えられない、といったんです。そう聞いてあたしは神さまに感謝しました、でも苦難の道はその時から始まったんです。ロバート叔父は、マイケルが義務を回避し、医者を丸めこんで放免してもらったんだといってカンカンに怒ったのです。つらく悲しい口論を何度か叔父と重ねたことでした。ですから叔父がフランスへ行ってしまった時はほっとしましたわ。
そうして、あたしから望んでマイケルはあたしと結婚しました。あたしはそのことを叔父たちに知らせてやりましたが、それ以来、叔父たちとの間はすっかり気まずくなりました。でもそんなことはどうでもよかったんです、あたしは夫さえいてくれればよかったのですから。そのうち、戦争も半ばへきて全国民に徴用がきました。それで、年齢的にあるいは体力的に戦闘に加われない者をこのプリンスタウンで求めているのを知って、マイケルが応募しあたしたちは二人でここへやってきたわけなのです。
そのころ皇太子のお力添えで外科用の繃帯やなんかを作るための大きなこけの集積所ができたのでした。主人もあたしもそれに参加したわけですが、そこでは、ダートムアの沼地からとった|みずごけ《ヽヽヽヽ》を集めて、乾燥し、消毒し、化学処理をしてイギリスのあらゆる野戦病院へ送っていました。この仕事は少数の人たちでかいがいしくやっていたのですが、あたしがこけを採ってきれいにする役目の女子の仲間に加わると、主人は主人で、荒地に踏みこんで|こけ《ヽヽ》を集め、プリンスタウンに運ぶという重労働こそできませんでしたけれど、それを乾かして刑務所の職員用のアスファルトのテニスコートにそれをひろげたりする仕事を熱心にやっていました。そういう準備行程はそのテニスコートのあるクリケット場で行なわれていたのです。マイケルはその他記録係も会計係もやり、実際上その集積場全体を立派に管理していたんです。
二年近くの間、あたしたちはこのゲリーさんのところに泊まったままその仕事をずっとやっておりました。そうしているうちにあたしはこのダートムアが無性《むしょう》に好きになってしまい、夫に、戦争が終って、もしお金があったらここにバンガローを建ててちょうだいと頼んだのです。主人の方の、イタリアとのいわしの取引きは一九一四年の夏以降事実上終っていました。でもペンディーン・アンド・トレキャロウ商会は小さい汽船を何隻かもっていたのですが、そういうものがすでに相当な価値のあるものとなっていました。そんなわけで、あたしに劣らずダートムアが好きになっていたマイケルは、やがていろいろ努力した結果、ここから数マイル先のフォギンターの石切場の近くに眺めのいい場所を長期契約で借りることに成功しました。
一方、新聞に殊勲章をもらった人たちの名前が出ていた中にロバート叔父の名前をみつけたことはありましたけれど、とにかく叔父たちからは何の音沙汰もありませんでした。マイケルが、あたしの財産の件は戦争が終るまでそのままにしておいた方がいいだろうと申しますので、あたしはだまっていました。去年、あたしたちはバンガローを建てはじめました。それで、でき上がるまでゲリーさんのところに泊めていただくことにしてまたここへやってきたわけですわ。
あたしは半年ほど前にイタリアにいるアルバート叔父に手紙を出しました。叔父はその問題はよく考えてみようといってきましたが、あたしたちの結婚のことはまだとても怒っていました。ダートマスの新しい家に暮しているベンディゴ叔父にもあたしは手紙を出しました。でも、あたしのことは特に怒ってもいないのですけれど、主人のことは蔑《さげす》んだ調子で書いてきました。
一週間前、突然ある状況が展開したのも、結局みんなこんなことのせいだったんですわ、ブレンドンさん」話しをやめて彼女はまたためいきをもらした。
「奥さんが疲れ果ててしまうんじゃないかと気が気じゃない。あとはまた今度にしましょうか?」
「いいえ。はっきりさせるために今全部お聞きになった方がよろしいわ。一週間前のことですがあたしが郵便局から出てきたとき、ふいに目の前に止ったオートバイがありましたが、それに乗っていたのは誰あろうロバート叔父でした。叔父はオートバイからおりると郵便局の前に車をとめました。それを見てあたしはそばへ行き、叔父があっけにとられているのにもかまわず首へ抱きついてキスしました、もちろんあたしはずっと前から叔父のことを許していたんです。はじめのうちこそ叔父も不機嫌な顔をしていましたけれどおしまいには折れてくれました。叔父の話では夏の間トアベイのペイントンに泊っているとのことで、そのうち結婚するようなことをいっていました。あたしは叔父によく思われたいといっしょうけんめいでした。そして所属の部隊に帰る前に二、三日プリマスで過すつもりだというのをきいて、今までのことは忘れて仲良くしてくれるよう、そしてあたしのうちへ来て主人とも会ってくれるよう懇願したのです。
ロバート叔父はここから二マイル先のトゥー・ブリジスにいる昔の戦友に会って来たのだそうで、ダッチ・ホテルでおひるを食べてそれからプリマスへむかうつもりでいました。ですけどあたしはとうとう説きふせてうちへつれて来ていっしょにおひるを食べてもらうことにしました、それでマイケルのこともいろいろ話すことができましたので、快《こころよ》からず思っていた叔父も態度を改めてくれたようでした。そしてやっとのことでもう二、三時間いてもいいといってくれましたから、あたしは喜んでできるだけの腕を揮ってご馳走を作りました。主人が建てかけている家から帰って来ると、あたしは二人をひきあわせました。マイケルはすぐ身構えるような態度をとりましたけど、そういつまでも腹を立てているような人ではありませんもの、ロバート叔父が悪意を抱いてるふうでもなく、また、集積所で立派な働きをして表彰された話を叔父がとても聞きたがるのをみて、マイケルも過去のことは忘れて許す気になったようでした。
あの日が、あたしの生涯でいちばん幸せな日だったと思いますわ。不安はほとんど消え去りましたから、叔父のことも少しは観察できました。昔にくらべて声が大きくなり、激しやすくなった他はちっとも変っていないんです。戦争は叔父にとっておもしろかったらしく、大尉になっていましたができればずっと軍隊にいるつもりだと申していました。実戦には何度も加わり奇蹟的に助かってきたのです。休戦の数週間前に毒ガスにやられて傷病兵になったのですが、その前から戦争神経症《シェルショック》で二か月間免役されていたとのことですが、当人はたいして気にとめていませんでした。でもあたしは叔父がなんとなくおかしいような気がしてきっとその戦争神経症《シェルショック》のせいだろうと思いました。もともと興奮しやすく、感情の起伏がはげしい極端な人ですけれど、きっとずいぶん恐ろしい目にあってきたのでそういう性質がなおひどくなったのでしょうね。態度もやさしいし見るからに機嫌もよかったんですけれど、それでもなんとなく主人もあたしも叔父の神経が極度にはりつめているのを感じましたし、叔父の判断力はあやしいものだという気がしたのです。実際の話、もともと分別のある人ではなかったんですけれど。
でもとても陽気でした、ずいぶん自分勝手ではありましたけどね。何時間も戦争の話やら、手柄話やらをしゃべるのです。そのうちあたしたちは叔父のおしゃべりに特徴があるのに気づきました。時々記憶がなくなるんです。でもだからといって叔父が作りごとをいってたとは申しませんわ。ただしょっちゅう同じ話をするんです。例えば一度話した冒険談を一時間かそこらたってからまるで初めて話すみたいにしてまたしゃべり出すのです。
マイケルはあとであたしに、あれは軽くすまされることじゃない、きっと脳障害をおこしているんでそのうちもっと悪くなるかも知れない、と申しました。でもあたしは仲直りできたのが嬉しくってその時はちっとも心配なんかしませんでした。それでお茶のあとで叔父にプリマスなんかへ行かないであたしたちのところに二、三日泊って下さいと頼んだのです。夕方になると三人で荒野《ムーア》へあたしたちの家を見に出かけましたが、叔父はとても興味を感じたようでした。そしてやっと、とにかくその晩は泊ろうといってくれました。それで予定していたダッチ・ホテルに行くのはやめてあたしたちのところで我慢してもらうことにし、ゲリーさんの空いているお部屋を借りたのです。
ロバート叔父はそれからずっと泊って、大工さんたちが帰ったあと時々手伝うのを喜んでいました。今は日が長いので、夕方よくマイケルといっしょに建築の現場で何時間もすごしてましたの。そしてあたしは二人にお茶を運んでいたんです。
叔父は、戦友の妹だという娘さんと婚約した話をしていました。そのひとはペイントンの親御さんのところにいるのだそうで、叔父はまたそこへ行くことになっていました。そして八月にはトアベイの競艇があるからぜひペイントンに来るようにとあたしたちに約束させたんです。あたしはまたロバート叔父に、マイケルが戦時中本分を尽したことで嬉しく思っている旨をあとの二人の叔父に手紙で知らせてほしいとこっそり頼みました。叔父はそうするといってくれて、これであたしたちの悩みもほとんど解消したかに見えたのです。
ゆうべ、早めのお茶をすませて叔父とマイケルは建築現場へ出かけました。あたしはゆうべだけ行かなかったんです。いつものように叔父のオートバイの後に主人が乗って、二人は街道を通って行きました。
夕御飯の時間が来ても二人とも帰りません。いまお話してるのはゆうべのことですのよ。夜遅くなってもあたしは気にとめないでいたのですけれど、そのうちにだんだん心配になりました。それで警察へ行ってハーフヤードさんにお会いし、主人と叔父がフォギンターへ行ったきり帰らないので心配だと申しましたの。警部さんは二人のことは前からご存じで、ことに主人とは個人的にもお知り合いでした。あの|こけ《ヽヽ》の集積所をやっていたころ、あの警部さんには主人がとてもお世話になっていますから。これですっかりお話しいたしましたわ」
ペンディーン夫人は話し終った。ブレンドンは立ちあがっていった、
「あとはハーフヤード警部から聞きましょう。奥さんのお話は立派でした、これまでの経緯《いきさつ》をこれ以上はっきり述べることはできないでしょう。あなたのお話のなかで重要なポイントは、ご主人とレッドメーン大尉とは完全に和解されていて、あなたが最後にお二人をごらんになった時は、全く仲の良い状態で出かけられた、という点です、そう断言できるんですね?」
「それはもうはっきりと」
「叔父上の部屋はその後のぞいてごらんになりましたか?」
「いいえ、手を触れないようにしてありますわ」
「それも感謝しますよ、奥さん。今日あとでもう一度お訪ねします」
「希望をもってよろしいのでしょうか?」
「まだわたしは事件の事実について知ってませんからね、だから望みが持てるとも申し上げられないし、あきらめた方がいいとも申し上げられないですよ」
彼女は握手をした。その時彼女の顔に、なんとも哀愁に満ちた、しかし自分では気づかない微笑が浮かんで消えた。深い悲しみにあってさえ、この女性の美しさはきわだっていた。そして、彼の頭脳が要求されている現在、すでに個人的感情にとりつかれてしまっているブレンドンには彼女はこの上もなく美しく思われたのだった。ペンディーン夫人のもとを辞した時、彼は自分の前に横たわっている問題が難事件であることを願った。彼女に深い印象を与えたかった。そしてしばし歓喜にふるえて先を待ちのぞんだ――日頃の彼のおちつきと慎重さとからは思いもよらないことである。そればかりか、ブレンドンは、誰が言ったのかは知らないがいつか引用句辞典で読んだことのあるはなはだ含蓄のあることわざを思い出しさえしたのだった、
「たとえ、一時間でも、生涯幸福だと感じる時があるものだ、もしそういう時がみつかりさえすれば」
それから自分で恥かしくなり、自分の不器量な顔にポッと血がのぼるのを感じた。
警察へ行くと一台の車が待っていて、二十分後にはフォギンターへ着いた。鱒のいる池のそばを通り、死を悼《いた》むかのようにたれこめた霧の中に険しい断崖や広い石切場を見わたしながら、ブレンドンはむこうはしの出口の方へ歩いていった。そこを流れている小川を越えるとまもなく建ちかけの家のそばへ出た。ちょうど昼飯時で、そばの木造のさしかけ小屋の中で五、六人の石工や大工たちが弁当をつかっており、その横に二人の巡査と署長が腰をおろしていた。
ハーフヤード警部はブレンドンを見ると立ち上がってきて握手をした、
「あんたが滞在中とはありがたいですよ」彼はかざり気のないデヴォン訛《なまり》でいった、「もっとも今のところあんたの知恵を借りなきゃならないほど難しい問題じゃなさそうですがね」
警部は六フィートぐらいあり、肩がばかにがっちりとして張っていたが、その堂々とした胴体にくらべて脚がいやに細長くてがに股だった。その上鼻が高く、頭が小さくて灰色の目が小さくキラキラしているので、ちょうど|こうのとり《ヽヽヽヽヽ》のような感じだった。しかもリューマチのせいでぎこちない歩き方をした。
「こういうところはわたしの足には苦手でね。ところで今まで調べた限りではフォギンターの石切場は無関係ですよ、大いに関係ありそうにはみえますがね。ところが殺人があったのはここ――この家の中なんです。殺したやつはこんな恰好《かっこう》な隠し場所なのに利用してないんだなあ」
「石切場は全部調べたんですか?」
「まだ。どうしても必要でないあいだはこんな石切場のすみずみまで大勢の人間を動員したってむだでしょう、それよりどっか他に問題があるんです。なんだか変ないやな事件ですよ――ずいぶん変だ、調べていくと結局は気違いのしわざってことになるんじゃないかな。なにもかもはっきりしているのに、どことなくふつうじゃないんですからね」
「死体はみつかってないんですね?」
「そう。しかしね、死体がなくてもはっきり殺人事件と断定できる場合はよくありますからね、この事件みたいに。まあ家の中へ行ってみましょう、これまでにわかったことを教えますよ。たしかに殺人があったんですよ。しかし被害者の死体よりもまず犯人の方がみつかりそうだ」
二人は歩いていってやがて件《くだん》の家の中に立った。
「じゃあ一番はじめのところから聞かせてください」ブレンドンがそういうとハーフヤード警部は話し出した、
「十二時十五分頃だったかな、起こされたんですよ。行ってみると勤務時間中のフォード巡査が、ペンディーンの奥さんが会いたがってるというんです。わたしはあの奥さんもそれからご主人もよく知ってる、戦時中プリンスタウンのこけの集積所でそれこそ中心になって働いてた人たちだから。
それで、そのご主人と叔父さんのレッドメーン大尉が、いつものように職人が帰ったあともう少し仕事をやるためにここへ来たんですな。ところが夜中になっても帰らないんで奥さんは心配になった。オートバイで行ったと聞いたからわたしは事故ではないにしても何か故障でも起きたんだろうと思い、フォード君に相棒を起こして二人で街道の方から行ってみろといったんです。二人は出かけたんだが、三時半頃フォード君がいやな知らせをもって帰って来た――誰もいなくて、家の中が豚でも屠殺したような血の海だってんです。その頃には夜も明けてきたからわたしもすぐ車ですっとばしてきた。凶行の跡があるのは台所になるはずの部屋ですよ、そして台所へ入る裏口の戸の|かもい《ヽヽヽ》にも血がついてるんです。
わたしは手がかりになりそうなものでもと思ってずいぶん注意してそこいら中探したんだが、これっぽちだって見つかりゃしない。だが、そんなことをしていても無駄だと悟ったのはフォギンターへ来る間道の家に住んでる人たちから証言を聞いたからですよ。石切り工が数人とその家族が住んでるし、ウォーカム川下流の密漁監視人をやってるトム・リングローズも住んでる。石切り工は、ここはもう百年も前から廃坑になってるからここじゃ働いてないんですが、メリヴェイルのデュークス採石場まで行くんです、行き帰りはたいていの者が自転車ですよ。
わたしはね、朝飯を食べに帰る途中、この人たちの家によって非常に決定的な証言をきいたんです。二人の男から同じ話をきいたんですよ、もちろんその二人はその前に会ってお互いに話したりなんかしていない。一人はデュークスの石切場の副工夫長をやってるジム・バセット、もう一人は一番はしの家に住んでる密漁監視人のリングローズで、バセットはこの家には前に一、二度来たことがあるそうです、この家に使うみかげ石はメリヴェイルからもって来てるからですよ。彼はペンディーン氏とレッドメーン大尉のことは前にも見かけたことがあるそうで、ゆうベは夏時間の十時頃、まだ明かるいときに大尉が家を出てバセットの家の前を通ったのを見ています。バセットはその時自分の家の戸口のところでたばこをふかしてたんだそうで、ロバート・レッドメーンは一人でやってきて、道路へ出るまではオートバイを押してきたそうです、それからサドルの後に大きな袋がくくりつけてあったそうですな。
バセットが『今晩は』と挨拶すると大尉も挨拶を返したそうですが、そこから半マイル先でリングローズも大尉に行きあっています。その時はオートバイに乗っていて、街道に出るまではスピードを落していたが街道に出るとアクセルをふんでスピードをあげたのがリングローズに聞こえたそうです。ずっと丘をのぼって行ったので、リングローズは大尉はプリンスタウンへ帰ったんだろうと思ったそうですよ」
ハーフヤード警部は言葉をきった。
「それでお話は全部でしょうか?」
「レッドメーン大尉の行動に関しては、全部です。プリンスタウンへ帰ったらなにか報告が待ってるでしょう、今、モートンやエクセターへ行く道と、ダートミートを通ってアシュバートンや海岸の町の方へ行く道と二た手に手配してありますからね。大尉はこのいずれかの道を通って荒野《ムーア》へ行ったにちがいない、とわたしは思う。もしそうでないとすると、途中で道を変えて、プリマスかあるいは北の方へ行ったんでしょうな。いずれにせよすぐ捕まらないわけがない、目立つ男だから」
「リングローズもオートバイの後につけた袋の話をしたんでしょうか?」
「してましたとも」
「警部がその話をなさるまえに?」
「そう、バセットと同じように、自分の方からいい出しましたよ」
「それじゃあ、ここを見せていただきましょうか」ブレンドンはいった。そして二人は台所へ入っていった。
[#改ページ]
第三章 謎
ハーフヤード警部のあとについてマイクル・ペンディーンの家の、台所になる予定の部屋へ入っていくと、警部は隅に拡げてあった数枚の防水布をとり除いた。部屋のまん中には大工の仕事台があり、もうすでに板の張られた床の上には鉋屑《かんなくず》やら大工道具やらがちらばっていた。防水布の下は血の海になっていたところで、赤いしみが広く壁まで浸みている。ところどころまだ生々しくぬれていてその上に血のにじんだ鉋屑があった。しみのまわりにはなすったような痕がたくさんあり、それに混って鋲《びょう》つきの大きな深靴の跡が片方の半分だけついていた。
「職人たちはけさここへ入ったんでしょうか?」ブレンドンが訊ねると警部は『入っていない』と答えた、
「巡査が二人ゆうべ一時過ぎにここへ来て――ペンディーン夫人が心配して警察に来た時にわたしがプリンスタウンから行かせた者たちですよ、その二人が懐中電灯で調べてまわってこの血の跡を発見し、一人は報告に帰って、一人は朝まで現場に残った。わたしは職人たちが仕事に来る前にここへ来て、われわれの調べが終らないうちは何一つ手を触れてはいかんといい渡しましたからね。ペンディーン氏は大工たちが仕事を終ったあと、いつも自分でも少しやってたんですよ」
「もしゆうべも何か――建築の仕事のことですが――やってあるとすると、職人たちにはわかりますかね?」
「もちろんわかりますよ」
ブレンドンは石工と大工に一人ずつ来てもらった。大工の方は、昨日自分たちがやった通りのままでその後何ら手を加えられた形跡はないと申し立てたが、石工は庭のまわりにめぐらされる予定の塀を指さして、前日の夕方五時に自分がやめて帰ったあと、大きな石が数個積み重ねられてモルタルで固めてある、と断言した。
「その新しく積んだところをこわしてくれないか」ブレンドンはそう命じておいてから台所をなおも入念に調べ始めた。しかし、いくら注意深く調べてもなんら成果はあがらず、大工たちが責任を持てないような点は一か所として見当たらなかった。格闘のあとも全くない。羊が殺されたとも考えられるが、彼にはこの血は人間のものと判断できた上、ハーフヤード警部がかなり重要と思われる発見をした。台所のドアはもうでき上がっていて白いペンキで下塗りがしてあるのだが、それにはちょうど人間の肩の高さのところに血の|しみ《ヽヽ》がついていたのである。
ブレンドンはそれから台所のドアのすぐ外の地面を調べてみた。そこはでこぼこして職人たちの足で踏まれた跡はたくさんあったが、特別なものの跡は何もなく、わずかの手がかりさえ全く見当たらなかった。その地面をなおも二十ヤードほどの間綿密に見ていくと、やがてオートバイの跡がみつかった。タイヤの跡と、車を停めておくために下げられた|ささえ《ヽヽヽ》の跡とが泥炭質の土にくっきりとついているところを見ると、オートバイはそこに――つまり家から十ヤード離れたところにおいてあったのだ。車の動いていった方向へ跡をたどっていくと、地盤のやわらかいところで一か所地面に特別深くめりこんでいるところがあった。そのタイヤの模様はブレンドンには見なれたもの――つまりダンロップのタイヤであった。三十分ばかりたったころ、巡査の一人がそばへ来て彼に敬礼し、報告した、
「塀はとりこわしましたが何もみつかりませんでした。しかし石工のフルフォードが袋が一個なくなっている、といっています。大きな袋であそこのさしかけ小屋の隅においてあったんだそうです。中に入っていたセメントが全部あけてあって、袋だけ行方不明ですが」
ブレンドンはその場所へ行ってセメントの山をひっくり返してみたが何もあらわれなかった。それから、その職人たちのさしかけ小屋も調べてみたがなんの手がかりも発見されないまま、彼は家のすぐ近隣を歩いてみたり、石切場への手近な入口をしらべてみたりした。それでもなお、ひとすじの光さえ報いられなかった。やがてブレンドンは、今は小やみなく降り出した雨の中を戻ってきた――ただしそのまえに彼は鱒のいる池のところまで行って、水辺の砂の上に大人の素足の足跡が明瞭についているのを見てきたのだった。
それまで家に残っていたハーフヤード警部といっしょに、ブレンドンは他の五室をくわしく調べはじめた。居間になるはずの部分は、西南に面していて絶景を見わたすようになっていたが、ブレンドンはこの部屋で吸いかけの葉巻を一本発見した。それは明らかに火のついたまま捨てられたもので、床を焦がしながらしばらくの間くすぶっていたと思われた。そのほか、先に真鍮のついた茶色い靴ひものきれっぱしもみつかった。それは古くなってすり切れ、おそらくは結ぼうとした時にちぎれたものである。しかし、ブレンドンはこれら二つのものになんらの重要性も認めなかった。残りの部屋からも、重要と思われるものは全く発見できず、ブレンドンはプリンスタウンへ帰ることにした。彼はハーフヤード警部に池のそばの足跡を見せ、その上に防水布をかけさせた。
「結局、たいしてむずかしい問題じゃなさそうですね。これ以上ここにいても時間の浪費ですよ、警部。とにかく電話のそばへ帰ってその後の報告を聞いてみないことには――」
「あんたはどう思うんです?」
「たしかに殺しだと思います。しかしこの軍人は捕まりますよ。戦争神経症《シェルショック》にかかってるこの男はペンディーンにおそいかかって喉へ切りつけて殺し、犯行をくらまそうと思ってばかなことに死体をもって逃げたんでしょう。彼を気違いだと断ずる理由は何かというと、これまでの話をすっかり聞かせてくれたペンディーン夫人の断言によると、ペンディーン氏と大尉とはすっかりうちとけていて、戦争の始まったころの二人の間の不和はあとかたもなく消えてしまってたからなんです。たとえ二人がふたたび口論したとしてもですよ、それは突発的なものにちがいありません。だけどそんなことはありそうにないし、第一、突然口論を始めたぐらいで相手を殺してしまうなんていうのはふつうじゃ考えられませんからね。
レッドメーンは力の強い大男だから、殺す気はなくてただぶんなぐっただけともいえますが、しかしこのありさまじゃあ握りこぶしの一撃以上のものを意味してますよ。思うにこの男は殺人狂であらかじめ計画してたんじゃありませんか、ただし狂人の限られた頭でね。もしそうであるとするとプリンスタウンではなんらかの報告が待ってるにちがいない。夕方までには死体もそれから生きてる人間の方も当然見つかりますよ。これらの足跡はだれかが――それは二人の人間かもしれませんが――水浴びしたことを示してますね、あとでこの足跡もよく研究して必要とあれば池をさらってみましょう」
ブレンドンの推論の正しいことは一時間以内に証明された。そしてロバート・レッドメーンの行動はある点まではっきりした。警察には一人の男が――ウェスト・ダートのトゥー・ブリジス・ホテルの馬丁、ジョージ・フレンチが待っていたのだ。彼はいった、
「レッドメーン大尉のことは、最近二度ばかりトゥー・ブリジスヘお茶を飲みに来られたからわしは知ってますんで。昨夜十時半頃わしがガレージを出て道を横切ろうとした時ふいに一台のオートバイが橋を渡ってきたんでさ。飛ばしてくる音が聞こえたんだが危うく一ヤードのところでよけましたよ。ライトはついてなかったが、ちょうど開いていたホテルのドアからの光で見えたんでさ、あのでかい口髯と赤いチョッキで大尉だってわかりましたよ。
むこうさまは気がついちゃいません、自分のことでせいいっぱい、トゥー・ブリジスからのぼり坂になってるところを一気に登ろうとスピードを出してましたからね。まるで突風みたいにいっちまいました、ものすごいスピードで五十マイルは出してたにちがいないです。聞けばプリンスタウンで何かあったとかいう話ですな、主人にゆうべ見たことを報告して来いといわれましたんで」
「あんたの前を通りすぎてどっちの方へ行ったんです、フレンチさん?」ダートムアの地理にあかるいブレンドンはたずねた、「トゥー・ブリジスの先の二た又からどっちの方向へ行きました? 右手のダートミートへ行く道と、左の方のポースト・ブリジやモートンへ行く道とあるが」
だがジョージ・フレンチは答えられなかった。
「なにしろ彗星みたいだったもんで、頂上から先どっちへ行ったかぜんぜんわかりませんです」
「誰かいっしょに乗ってた?」
「いや誰も。それぐらいはよく見てましたからね。だけど、うしろにでっかい袋をつけてましたな――これは絶対たしかです」
ハーフヤード警部の不在中には電話が数回かかっていて、それぞれちがう場所からの三つの報告が待っていた。それらは巡査が紙に書きつけてあったので警部は一つ一つ読んではブレンドンに手渡した。最初のはポースト・ブリジの郵便局の女局長からの報告で、サミュエル・ホワイトという人が、昨夜その村の北へ向かって、急な坂道を猛スピードで上がって行く無灯火のオートバイを目撃した、それは十時半頃から十一時の間である、というものだった。
「するとお次はモートンからと思いたいが、いや、違う。次の報告がアシュバートンから来ているからには奴はハメルダウンのふもとで道をそれたにちがいないぞ」ハーフヤードがいった。
二番目の報告は、アシュバートンのあるガレージの主人が十二時ちょっと過ぎに、オートバイのガソリンを求める客に叩き起こされた時の模様を伝えていた。その客の人相はレッドメーンと符合し、なおその報告には、オートバイの後には大きな袋がつけてあった、とも書かれていた。客は急いでいる様子はなく、たばこをふかし、酒が買えないので悪態をついたあげくに、ライトをつけて、ダート河の谷を南へぬけるとトトゥネスの道を通っていったとのことだった。
三番目の報告はブリクサムの警察から来たもので、少々長たらしく、次のように書いてあった、昨夜二時十分過ぎ、ブリクサムで夜勤中のウィジェリ巡査が、一人の男がオートバイのうしろに大きな荷物をつけて町の広場を走りさるのを目撃。この男はめぬき通りを通っていったが、一時間近くたった三時少し前、同巡査は同じ男が荷物なしで戻ってきたのを見た。彼はブリクサムの町をはずれ、もと来た方へむかって全速力で丘をのぼっていった由。本日の調査によれば、沿岸警備隊ブリクサム詰所を二時十五分に通過。そして丘陵地へ通じる急勾配の小径をオートバイを押して登る姿を、ベリ岬灯台の一人の少年が目撃しているため、沿岸警備隊道路の端の柵を車をかついで乗り越えたことはまず確実。その少年は灯台守の父親が病気になったので医者を呼びにいく途中だったもの。少年の話ではその男は大きな男で、オートバイが重い上にその道がひどい急坂でおまけにでこぼこしているためハアハア息を切らせていたとのこと。そして少年は医者からの帰りにはもう見かけなかった由。当署はベリ岬並びに周辺の崖付近を捜索中。
ハーフヤード警部はブレンドンが読み終るのを待っていった、
「実に簡単な事件だ――そうでしょう?」
「わたしは逮捕の知らせかと思いましたよ。そういつまでもかかるはずはないです」そう答えたブレンドンに一そう確信をもたせるかのように折しも電話のベルが鳴り、警部が立っていった。新しい報告はこうだった、
「こちらペイントン。今レッドメーン大尉の宿所――マリンテラス七番地へ行ってきたんですが、昨日大尉から帰る旨の電報があったんで宿の者は昨日の晩はそのつもりでいたそうです。いつも大尉が帰るという時にはそうするように、ゆうべも彼の夕食を用意しておいてみんな寝てしまい、帰ってきた音はきかなかったそうですが、朝起きてから大尉が帰ってることを知ったそうです、つまり食事は平らげてあって、オートバイがいつも入れておく裏庭の道具小屋にあったんです。十時に呼んでみたが返事がないんで部屋に入ってみたところ、部屋におらず、ベッドに寝た形跡もないし着替えもしていない、それっきり全く姿をみかけていません」
「まだ切らないで。マーク・ブレンドンが来ていてこの事件を担当してるんですよ。今かわります」
ハーフヤード警部から電話の内容を聞くと、ブレンドンは受話器をとった、
「ブレンドン刑事です、そちらは?」
「ペイントンのリース警部です」
「もし逮捕したら五時に電話して下さい。それまでに捕まらなかったらすぐ車でそちらへ行きます」
「わかりました。今にも逮捕の知らせがあるかと待ってるんですが」
「ベリ岬からは何にも?」
「大ぜい捜査に出して崖の下も捜させてますが今のところまだなにも……」
「なるほど。では五時までにその逆の知らせが聞けなかったら、そちらへ出向きますよ、警部」
ブレンドンは受話器をおいた。
「勝負はつきましたな」ハーフヤードがいった。
「そうのようですね。あれは気違いなんですよ、哀れな男だ」
「死んだ人が気の毒ですよ」
ブレンドンはとにかく時計に目をやってからちょっと考えこんだ。個人的な想念がひとりでにわいてきた。そして、なぜこんなことを考えるのかと驚きと恥らいを感じている彼を、有無《うむ》をいわさずおし包んだ。将来細かい点はどう展開するにせよ、いくつかの事実は今はっきりと彼の心に感じられた。ジェニー・ペンディーンが夫を失ったということは、圧倒的に紛れもない事実なのだ。彼女が未亡人になったとすれば……。
彼はいらだたしげに首をふり、ハーフヤードの方にむいていった、
「ロバート・レッドメーンがもし今日中に捕まらないとすると、一つ二つやらなきゃならんことがありますね。あの血液を少し採って人間の血かどうか調べさせた方がいいですよ。それから葉巻と靴ひももしばらくの間こちらへ保管しておいて下さい、二つとも別に重要な証拠とは思ってませんがね。わたしはこれから食事をしてそのあとペンディーン夫人に会ってきます。それからまたここへ戻りますが、五時半までにわたしの計画を変えなければならんような報告が来なかったら、ペイントンまで警察の車を借りますよ」
「そうして下さい。しかしいずれにせよあんたのせっかくの休暇をだめにするようなことはないでしよう」
「さあ、どういうことになるのかなあ?」ブレンドンは心の中でそう思った。しかし何もいわず、出かけようとした。三時だった。ふいに彼はふり返ってハーフヤードにたずねた、
「警部、ペンディーン夫人のことをどう思ってますか?」
「あの人のことについては二つのことがいえますな。まず彼女は全く美しくてあれが他の女性たちと同じ現《うつ》し身の人間とはとても信じられないくらいです。それから、あのひとが夫に対して抱いているほどの深い愛情をわたしはみたことがない。この事件ですっかり参るでしょうなあ」
この意見はブレンドンを憂鬱にした。最愛の夫の死によってペンディーン夫人の生涯がどのように変わるものか、今まで考えてもみなかったのだ。彼は突然、自分が永久に問題の外へほうり出されてしまったような気がした。しかも同時に、自分のそんな感じ方を不合理だとして腹を立てた。
「ご主人はどんな人だったんですか?」
「人好きのする男でしたな――コンウォールの人ですよ。平和主義者だった、とわたしは思ってます、別にあの人と戦争を論じたことはないですがね」
「年はいくつぐらいでした?」
「わかりませんなあ、まあ二十五から三十五の間でしょうかね。目があまりよくなくて、それから茶色い髯をはやしてましたよ。近くを見る時は二重のめがねをかけてましたが、本人の話じゃ遠くはよく見えるんだそうです」
食事をすませるとブレンドンはふたたびペンディーン夫人を訪れた。しかし朝のうちにいろいろな噂が伝わっていて、ブレンドンの告げるべきことはおおかた夫人の耳に入っていた。けさとは様子が変わり、無口になって、顔色がひどく青かった。ブレンドンは彼女がもう本当の話を知り、夫が死んだにちがいないとさとっているのを見てとった。
だが夫人はブレンドンに、どういうことが実際に起きたのか、もしわかるならぜひ説明してほしいというのだった。そして、
「似たような事件をこれまでにもご存じですか?」ときいた。
「似たような事件なんていうものはないものですよ。みなそれぞれに違っています。おそらく、レッドメーン大尉は戦争神経症《シェルショック》にかかっておられたというから突然理性を失ったんじゃありませんか。戦争神経症《シェルショック》による痴呆的症状には、持続性のばあいもあるし、一過性のばあいもありいろいろですからね。叔父上はきっと発狂されて、その狂気の状態で凶行を演じたんだと思います。そして自分の行為をかくそうとして正気に立ち返らぬまま、どこかへ立ち去ったんです。われわれの判断の限りでは、大尉は被害者の死体を持ち去り、たしかに海に投げこんだようです。奥さん、ご主人は命を失われたものとしか思えません。申し上げるのもつらいことですが、ご不幸を受け入れる覚悟をなさらなくてはいけませんよ」
「考えられませんわ、だって二人は仲直りしておりましたのに」
「何か奥さんのご存じないことが二人の間に急に起こって大尉を逆上させたのかも知れませんよ。正気に戻ったらきっとすべてが悪夢だと思うんじゃないかな。ところでご主人の写真はお持ちじゃありませんか?」
夫人は部屋から出ていったがまもなく一枚の写真をもって帰ってきた。それにはひたいの広い、じっと何かをみつめている瞑想的な顔の男がうつっていた。その男は口髯はもちろん、頬もあごも髯を生やし、長い髪をしていた。
「似ていますか?」
「ええ。でもこの写真では表情が出てませんわ。これは自然じゃありません――主人はもっと生気がありましたもの」
「おいくつでした?」
「三十になってないんですの、でもかなり老《ふ》けてみえる方でしたのよ、ブレンドンさん」
ブレンドンがその写真をくわしく見ていると、ペンディーン夫人がいった、
「もしご入用でしたらおもち下さっても結構ですわ、同じものがまだありますから」
「いや、わたしは非常に正確に記憶できるんです。どうもお気の毒ですがご主人の死体は海に投げこまれたに違いないと思いますよ、今ごろはもう引き上げられてるかもしれません。それがレッドメーン大尉の予定の行動だったんですな。大尉の婚約者の方のことは何かご存じですか?」
「名前や住所はわかっています、でもお会いしたことはありませんの」
「ご主人はお会いになったことあるんでしょうか?」
「ないと思います。いえ、一度もないと断言できますわ。その方はフローラ・リードとかいう名前で、ペイントンのシンガー・ホテルにご両親と泊ってらっしゃるんです。フランスで叔父の戦友だったその方のお兄さまも、たしかいっしょのはずですわ」
「どうもありがとうございました。これ以上情報が入らない場合は、わたしは夕方ペイントンへ行くつもりです」
「なぜですの?」
「もう少し調べるためです、叔父上をご存じの人たちにも会ってきます。大尉がまだみつからないというのがちょっとおかしいと思うんですよ。ふつう、精神状態が乱れているばあい、警察の捜査をそういつまでも逃れられるものじゃないですからね。それにわれわれのきいた限りでは、大尉は明らかに逃げおうせる気はないんです。けさ早くベリ岬に行ったあと、自分の下宿に帰って食事をしオートバイをおいてまた出かけているんですから――相変らずツイードの服と赤いチョッキのままね」
「フローラ・リードにもお会いになりますの?」
「必要があればね。ロバート・レッドメーンがそれまでにみつかればわたしは行きませんよ」
「じゃ、ブレンドンさんはこれはほんとに単純な事件だとお思いになりますのね?」
「そう思えるんです。まあ一番期待したいことは、この不運な大尉が正気に戻ってすべてをはっきり説明してくれることですよ。それよりも、奥さんはこれからどうなさるおつもりか聞かせていただけますか? もしわたしにできることがあれば個人的にお役に立たせていただきたいのですが?」
ジェニー・ペンディーンはこう聞かれてびっくりしたようだった。彼女は顔を上げてブレンドンを見たが、その青ざめた頬にかすかにあたたかみがさしていた。
「ご親切ありがとうございます。あたし忘れませんわ。でももう少し事情がわかりましたら、たぶんここを引きあげます。もしほんとうに主人が亡くなってしまったんでしたら、あの建ちかけの家もあたし一人ではもう建てません。あたしはもちろんここをひきあげますわ」
「たすけて下さるお知り合いはあるんでしょう?」
夫人は頭をふった、
「ほんとうの話あたしは天涯孤独です。主人がすべてだったんです――あたしのすべてでした。あたしもまた主人にとってすべてだったんですわ。けさ全部お話しましたからおわかりですわね、父の二人の弟が残っているきりですわ――イギリスにいるベンデイゴ叔父とイタリアのアルバート叔父と……。さっき二人に手紙を書きました」
ブレンドンは立ち上がっていった、
「あしたまたご報告します。もしペイントンへ出かけなければ、今夜もう一度うかがいます」
「ありがとうございます。ほんとにご親切に」
「失礼ですが、ご自身のこともお考えになって下さいよ、こういう時にはからだのことも気をつけなくてはいけない。誰でもたいがいのことは耐えられるものですが、しかしよくあとになって、体力にとても無理していたと気がつくものですからね。医者へいらしてみてはいかがですか?」
「いいえ、ブレンドンさん、その必要はありませんわ。もし夫が――あたしたちの考えているようなことになったのでしたら、あたしの命などもうどうでもかまいません。死んでもいいのです」
「お願いですからそんなふうにおっしゃってはいけません。将来を考えるんです。この世に生きていてたとえもう幸せにはなれないとしても、この世の中で自分を役立てる力と権利まで奪われるわけじゃない。ご主人がもし見ていらしたら、あなたにどのように行動してほしいと思われるか、大きな悲しみにどのように立ち向かってほしいと思われるか、それを考えてみるんですよ」
「ブレンドンさんっていい方ですのね」夫人は静かにいった、「おっしゃることわかります。またいらしてくださいましね」
彼女はブレンドンの手をとり、握りしめた。彼女をとりまいているかにみえる名状しがたい雰囲気にうろたえながら、ブレンドンはその家を辞した。自殺のおそれはなかった。彼女の様子には生気も落ちつきもあって、自殺の気配は全く感じさせなかったからである。彼女はまだ若いのだ、「時」にまかせておけば解決してくれる。しかし殺されてしまったことは疑うべくもない一人の男に対して、彼女が抱いている愛情がどんな性質のものか、ブレンドンにもわかっていた。彼女は人生に立ちむかい、生存を続けていくだろう、そして他人の人生を幸福にすることもあるだろう。だが彼女がいつの日か夫のことを忘れることが、あるいは再婚にふみきることが、あるとは思えなかった。
彼は署へ戻ったが、ロバート・レッドメーンがいまだに捕まっていないのに驚いた。彼に関するニュースが何も入っていないのだ。だが、たった一つベリ岬の捜査官から知らせがきていた。例のセメント袋が岬から西のある崖の上で、うさぎの穴の入り口にあるのが発見されたのである。袋は血で汚れ、中には髪の毛の小さな束が少しとセメントの粉が入っていた。
一時間の後、マーク・ブレンドンは鞄を一つつめて警察の車でペイントンにむかった。しかし目的地についてみてもなんの情報もなく、リース警部はレッドメーンがまだ逮捕されないことをブレンドンと共に不思議がった。リース警部の話では、漁師や沿岸警備隊のものが袋の発見された崖の下の海を可能な限りさらっている。しかしここは潮の流れがはげしいので、土地の者は死体は外海へもっていかれたのではないか、そして、もし|おもし《ヽヽヽ》がつけられていなければ、一週間ぐらいのうちに一マイルか二マイル先に浮かぶ、と判断している、とのことだった。
ブレンドンは、シンガー・ホテルで夕食をすませると――彼は消え失せた男の未来の妻とその家族について聞き込みをするために、このホテルに部屋をとったのだ――ロバート・レッドメーンの下宿へ行ってみた。マリンテラス七番地の下宿のおかみさん、メドウェイ夫人からは大したことは聞けなかった。レッドメーン大尉はあいそがよく親切だが、激しやすい紳士だということで、時間の観念がないので姿を見るまではあてにできず、今度のように家中寝たあとで遠出から帰ってくることもよくあったということだった。おかみさんは、大尉が前の晩何時に帰り何時にまた出かけたかも知らなかった。だが彼は着替えもしておらず、また明らかに何か持ち出した様子もないのである。
ブレンドンはオートバイを細心の注意を払って調べてみた。サドルの後に軽い鉄の棒でできた荷台がついているが、それに血がついていた。また荷台にくくりつけられた丈夫な紐の切れはしにも血がついていたが、この紐はレッドメーンが崖のところへ来て積荷を放り出したときに切られたものにちがいない。一連の情況証拠には何一つ疑義もなく、翌朝になってもこれ以上頭をひねる問題はあらわれなかったが、ただ依然として姿をあらわさないロバート・レッドメーンの行方だけが究極の謎となった。
翌日ブレンドンは朝食の前にベリ岬へ出かけて行き、崖を調べてみた。そこは石灰岩が広く階段状をなしていて、アザミや白いロック・ローズ、ハマカンザシ、ハリエニシダなどが生えている。ここには兎がすんでいるのだが、例の血のついたセメント袋は犬がみつけたのだった。袋は穴の中へ押しこまれてあったのを、そのテリヤ犬がたちまち嗅ぎつけてひっぱり出したのだ。
その場所のすぐ下は、まっすぐにきり立った絶壁で海まで三百フィートほどある。その下の海は深く、キラキラ光る絶壁の表面をそこなっているものは、なにかの拍子にできた割れ目一つだけ、そしてそこには何やら青草が必死に根を下ろし、カモメがともしり草の粗末な巣をかけていた。その崖の縁にはなんの跡も残ってはいなかったが、眼下の青い海にはボートが数隻浮いていて、漁師たちが今なお死体を求めて底をさらっていた。この作業は長く続けられたが結局なんの成果ももたらさなかった。
その日遅くブレンドンはホテルへ戻り、リード嬢とその家族に自ら名乗り出た。ロバート・レッドメーンの友人である彼女の兄は、すでにロンドンへ帰ったとのことだった。リード嬢と両親の三人がラウンジに腰をおろしているところへブレンドンは加わったのだが、三人ともひどくショックをうけている様子で、またわけがわからないといった面もちでもあった。手がかりとなるようなことは誰からも聞かれなかった。リード夫妻はロンドンで服地屋を経営している、年輩の、静かな人たちで、娘の方はもう少し特徴にあふれていた。背が父親より頭一つぐらい高く、全体におうような感じにできている。そしてなかなか礼儀もわきまえているし、予期していたほどは悲しみをおもてに出さなかった。もっとも、話をきいてみると彼女がロバート・レッドメーンを知ったのはほんの半年前のことで、実際に婚約してからの期間も一か月かそこらとのことだった。彼女はブルネットで生気に溢れた、しかし精神的には平凡な娘だった。かつては舞台で活躍するのが望みで地方巡業に出ていたのだが、しかし女優の生活にも飽きたので、未来の夫にも芸は棄てる約束をしたのだ、とはっきりいった。
「レッドメーン大尉から姪ごさん夫婦の話は聞いておいでですか?」ブレンドンの問いにフローラ・リードは答えた、
「聞いております。彼はいつも、マイケル・ペンディーンは『徴兵忌避者』で卑怯者だといっておりました。それから、姪とは絶交した、あんな結婚をしたことを絶対に許さないともいっておりました。ですけどそれは六日前ロバートがプリンスタウンに行く前までのお話で、あちらへ行きましてから彼は全くちがうようなことを手紙に書いてよこしました。ロバートは偶然姪ごさんたちに会って、ペンディーンさんが徴兵を忌避したわけではなく、立派な働きをなさってOBE勲章までいただいたということがわかったのです。それ以来気持ちが変わって、こんなことになるまではペンディーンご夫妻とすっかり仲良くなっていたのはたしかですの。ロバートはボートレースにはぜひこちらへ来るようにとお二人に約束までさせていたのですから」
「その後大尉にはお会いになってないし、消息もご存じないんですね?」
「その通りでございます。最後の手紙は、お目にかけてもよろしゅうございますが、三日前に参りました。それには昨日こちらへ戻るからいつものように海水浴場で会おうとだけ書いてありましたので、わたしは泳ぎに行って彼を探しました。でももちろん参りませんでしたわ」
「大尉のことを少し聞かせて下さいませんか。こうしてお会いいただけてたいへんありがたいんですよ、われわれ警察も一つだけ奇妙な点にぶつかってしまってますからね、それに現在の状況は見せかけだけで事実とはほど遠いのかもしれませんしね。大尉は戦争神経症《シェルショック》にかかったり、毒ガスにやられたりなさったことがあるそうですね。そういうものの影響が大尉の様子に何かみられませんでしたか?」
「はい、わたしどもみんな気づいておりました。ロバートが時々同じ話をすると、最初にいい出したのは母でしたの。それから彼はとても機嫌のいい人なんですけれど、戦争に行ったおかげで少し荒っぽくなり、ひねくれてるようなところもありました。短気ですけれど、でも誰かといい争ったり喧嘩したりしてもすぐ悪かったと思うのです、わびることをちっとも恥としない人でしたわ」
「喧嘩なんかはよくする方だったんでしょうか?」
「あの人はとても強情なんです、それに実際に戦場で戦ってきた人です。そのために冷淡なところがあり、時々軍人でない方ならギクリとするようなことを口にするのです。それで相手が抗議すると怒り出すわけですわ」
「大尉のことをお好きでしたか? 不躾《ぶしつけ》なことをうかがって失礼ですが」
「尊敬しておりました、わたしの方もあの人にいい影響を与えていたはずです。彼にはすばらしい性質があるのです――たいへん勇敢で正直でしたわ。ええ、わたしは彼を愛しておりましたし誇りにもしておりました。もう少したてば、だんだんおだやかになり今ほど興奮したりいらいらしたりしなくなるだろうとわたしは思っております。お医者さまには、今にショックの影響はすっかりとれるといわれていたのですし」
「あなたからみて、大尉は他人をなぐったり殺したりできる人と思われましたか?」
リード嬢はためらっていたがやがて答えた、
「わたしはただあの人を助けたいと思うばかりです、ですからこう申し上げますわ、もしよほど怒らせられれば、ロバートはカッとなるだろうということは想像できます。また激情にかられて相手をなぐり倒すこともあり得ます。あの人は人が死ぬのはいくらでも見ていますし、あの人自身、危険ということを全くかえりみないのです。そうですわ、わたしはあの人が敵を、あるいは敵と思いこんだ相手を傷つけることもあろう、と想像できます。ですけれど、わたしに考えられないのは、そのあと彼がとったとされている行動です――誤まった行為の結果から逃れようとするなんて」
「ところがわれわれは、彼が殺人を隠そうとしたという強力な証拠を握っているわけです――もっとも彼が殺したのか、あるいは他に犯人がいるのか今のところまだはっきりはいえないんですが」
「警察があの人をみつけて下さるのを願うばかりですわ、わたしたちみんなのために。でももしもほんとうに魔がさしてそんな恐ろしい罪を犯したんでしたら、みつからないと思います」
「どうしてです、お嬢さん? いや、わかりますよ、考えていらっしゃることはさっきからわたしの胸にもあります、自殺のことですね」
フローラ・リードはうなずいてハンケチを目にあてた、
「ええ。かわいそうにもしカッとなって、罪もない相手を殺したと気がついたら、わたしの知っているロバートなら二つのうちどちらかのことをするでしょう――すぐ自首してすべてを説明するか、そうでなければできるだけ早く自殺するかのどちらかを」
「動機は説明できない場合もあるものですよ」ブレンドンは三人にいった、「急に嵐のようなかんしゃくを起こして悪意は全くないくせに人をあやめることが時々あります。こんどの場合もそのような嵐としか説明できないでしょう。ただ、ペンディーンさんのようなタイプの人がどうしてそのような嵐を起こさせたかがまだわかりません。ペンディーン夫人の証言やプリンスタウンのハーフヤード警部の断言では、ペンディーン氏は人好きのする静かな人柄で、めったに怒らない人らしいのです。ハーフヤード警部は、戦時中二年間彼が|こけ《ヽヽ》集積所で働いていたころからよく知っていますのでね。とてもレッドメーン大尉だろうと誰だろうと他人を怒らせたりするような人じゃないんですよ」
それからブレンドンは彼自身が石切場の池のそばでレッドメーンに会った時の話をした。この個人的な挿話はなぜかフローラ・リードの心に触れるものがあったらしく、ブレンドンは彼女の心がたしかに波立ったのを見てとった。
彼女は実際に泣きはじめ、やがて立ちあがるとその場を去った。両親は娘がいなくなると前よりもこだわりなく話すようになった。
今までだまりこくって無関心を装っていた父親がよくしゃべり出した、
「はっきり申し上げるのがほんとうだと思うのですが、実は家内もわたしもこの婚約には乗り気じゃなかったのです。レッドメーンは悪意はなくいい人だとは信じていますがね。大まかな男ですが、フローラには惚れこんでいましたよ。最初から激しい愛情を示し、娘もこれにこたえましたがわたしはどうしても地道な夫としてあの男を見ることはできなかったんです。いつも放浪していますし、戦争のせいで全く非人間的になった――というのではないが、しかし社会的義務とか、戦後の社会組織の再建に対する分別ある男としての義務とかを明らかに自覚していないんですな。彼はただもう面白いことやスポーツや、あるいは金を使うことのためにのみ生きているんです。悪い夫になるだろうとはいいませんが、着実な家庭をきずくことなんて考えてなかったようです。四万ポンドとか相続しているそうですが、金の価値には全く無知だし、結婚すれば当然彼の肩にかかる種種の責任についてもさっぱり良識を示さないんです」
ブレンドンはいろいろ話してくれたことに礼をいい、その話題の主は自殺したらしいという確信をいよいよ強くした、と何度もいった。
「捕まらないままこうして刻々時間がたつと、そのおそれが増すばかりです。しかし、それでいいのかも知れませんな、捕まればよくて精神病院《ブロードムア》行きですから。われわれとしたって、祖国のために勇敢に戦った者が犯罪者の精神病院で生涯をおえるなんて考えてもいやなことですよ」
ブレンドン刑事は二日間ペイントンにとどまり、あらん限りのエネルギーと創意と経験とをそそいで消え失せた二人の男の発見につとめた。にもかかわらず、生きている方も死んだ方もみつからず、プリンスタウンからも他からもひとかけらの情報さえ届かなかった。ロバート・レッドメーンの写真は焼き増しされて、まもなく西部及び南部の警察という警察の掲示板に貼り出された。だがその結果は一人二人の人違いの逮捕がなされたに過ぎなかった。デヴォン州北部で大きな赤毛の口髯をつけた浮浪者が一人留置され、デヴォンポートでは新兵が一人捕まったのである。この新兵は手配写真に似ており、レッドメーンの失踪二十四時間後に歩兵連隊に入った者だった。しかし両人とも身元はすぐ判明した。
そういうわけでブレンドンはプリンスタウンヘの帰り支度を始めた。彼はペンディーン夫人にその旨手紙を書き、翌日の夕方ステイション・カテジにうかがいます、といってやった。ところが手紙は行き違いになり、計画は一変した。ジェニー・ペンディーンはすでにプリンスタウンをひきあげ、ダートマスの先のベンディゴ・レッドメーン氏の家『烏荘《クロウズ・ネスト》』に来ているのだ。彼女は手紙にこう書いてきた、
[#ここから1字下げ]
叔父がぜひ来るようにと申しますので喜んでそういたしました。さて、あなたさまにぜひお知らせしなくてはならないのは、ベンディゴ叔父が弟のロバートから昨日手紙を受けとっていることでございます。あたしはすぐそれをあなたさまの方へお送りしたいと頼んだのですが、叔父に断わられました。ベンディゴ叔父は弟の味方をしているようです。叔父は法に触れるようなことは決してしないと思いますけれど、ただ、この事件についてはまだわかってないことがあると思いこんでいるのです。烏荘《クロウズ・ネスト》のモーターボートを、あす二時に着く汽車に間に合うようキングスウェアの渡し場まで出しておきます。あなたさまがまだペイントンにご滞在で、二、三時間でもこちらへいらしていただけるよう願っております。
[#ここで字下げ終わり]
夫人はそのあとに感謝の言葉と、事件のために休暇を台なしにしたおわびとをつけ加えてあった。
この手紙を受けとったブレンドンは夫人のことばかり考えはじめ、しばらくは書いてあることの重要性さえ忘れていた。彼はその晩プリンスタウンで夫人に会うつもりでいた。ところがもっとずっと近いところ、ダートマスの先の崖の上の家で会えることになったのだ。彼はそのボートに乗る旨電報を打った。それからやっと、ロバート・レッドメーンの手紙が早く見られないことにいらいらしはじめた。彼はベンディゴ・レッドメーンがあるいは、と考えた。
「やっぱり兄弟だ、それにこの老水夫の家というのは人をかくまうにはもってこいの場所にちがいない」そう思った。
[#改ページ]
第四章 手がかり
マーク・ブレンドンがキングスウェアに着いてみると、波止場《はとば》から少し離れて一隻のモーターボートが浮かんでいた。この有名な港に来たのはこれが初めてであった。彼の頭の中はそんな余裕もないほどいっぱいのはずだったが、それでも思わず解き放たれたように感じて、美しい河の流れや河口の上にそびえる山々、あるいは木の生い繁ったなだらかな丘の間によこたわる古びた町などにしばしみとれたのだった。それらすべてを支配するかのように、海軍兵学校の白と赤の石造建築が紺碧《こんぺき》の空を背景に幾棟も建っていた。
一隻の小さいながら立派な船が彼を待っていた。船体はまっ白に塗られ、内部はチーク材で金具や機械がピカピカしている。エンジンや舵輪は舳《へさき》の方にあり、キャビンやサロンの後の船尾は日除けで覆われている。船をあずかっているたった一人の水夫は、ブレンドンが水際までおりていくとこの日除けをはずしはじめた。そして水夫のこの動作につれてブレンドンの瞳が輝いた、客がすでに乗っていたからである。そこには一人の女がすわっていた。ブレンドンはジェニー・ペンディーンを見たのだった。
彼女は黒い服を着ていた。ブレンドンは船にとび乗り、挨拶をしながらジェニーの喪服姿は彼女の心を映しているのだ、と感じた。すべての望みを捨てなければならないということを、この若妻に確信させることが起きたのだ。彼女は叔父の手にある手紙によって、未亡人になったことをはっきりと知ったのだ。ジェニーはブレンドン刑事を心から喜んで迎え、わざわざ来てくれたことに感謝した。しかしブレンドンはすぐにその様子が以前と違うのをみてとった。ひどくものうげで憂鬱そうなのである。彼はプリンスタウンへ彼女宛ての手紙を出したことを話し、レッドメーン大尉からきた手紙の内容について訊ねたが、ジェニーはその話はしたくない様子だった、
「叔父がお話しすると思います。刑事さんが最初からおっしゃってらしたことが正しかったようですわ、主人は狂人の手にかかって大切な命を落したのです」
「しかし、奥さん、そんな頭に異常を来たしている人間がもしまだ生きてるとしたらですよ、いまだに全国手配からのがれているなんて信じられない。その手紙、どこで出したものかおわかりですか? 警察にすぐ知らせていただけるとよかったんですがね」
「あたしもベンディゴ叔父にそう申しましたのですけれど」
「叔父上は、それがたしかに弟さんから来たものだと確信していらっしゃいますか?」
「ええ。そのことなら疑う余地はありませんもの。手紙はプリマスで投函されています。でもブレンドンさん、どうぞ手紙のことはあたしにお聞きにならないで。あたしも考えてみたいとは思ってますけれど」
「くじけないで下さいよ、奥さんはしっかりしたひとなんだから」
「こうして生きてはおりますけど、あたしの命はもう終ったも同然です」
「そんなふうに考えちゃいけない。昔、わたしが母をなくしたとき慰めてくれた言葉があります、それをいってくれたのはある年とった牧師さんだった、『亡くなられた人が何を望むか、それを考えてごらん、そして亡くなられた人が喜ぶように努めるのだよ』とね。大して意味があるとも思えないかもしれませんが、よくかみしめてみると助けになる言葉ですよ」
船脚は迅《はや》く、やがて入江の両側にそびえ立つ古城の間をぬけ、すべるように走っていた。
ペンディーン夫人はいった、
「ここがこんなに美しくて平和だということがかえってあたしの心の傷に触れるような気がしますのよ、苦しみをもつ者は、自然もやっぱり苦しみをもっているような場所に行くべきなんですわ――どこか荒涼とした、悲しいところへでも」
「何かにうちこむといいんです、何かに没頭するように努めなくちゃいけない、必要ならば骨身を惜しまず働くんですよ。苦しいときには精神的にも肉体的にも労働するに限るんです」
「それでは麻痺させるだけのことじゃありませんか。お酒をのんだり阿片をのんだりするのと同じことですわ。でもあたしはできることならこの悲しみから逃避しようとは思いませんの。死んだ者に相すみませんもの」
「あなたは卑怯者じゃないはずです。生きるのです、そして世の中をもっと幸せにすることを考えなくちゃいけませんよ」
ジェニーははじめて微笑を浮かべた――それはほんの一瞬、きらめくようにその美しい顔を明かるくしたがすぐ消えてしまった、
「あなたってやさしいいい方ですのね、そしてえらい方だわ」ジェニーはそう答えてから話題を変え、舳にいる男を指さした。彼は二人に背を向けて舵輪の前に姿勢よくすわっていた。帽子はぬいでいる。そしてごく静かに、歌を口ずさんでいるのが、エンジンのうなりにもどうにか消されずに聞こえていた。ヴェルディの初期のオペラの一節だった。
「あの人のこと気がついていらっしゃいました?」
ブレンドンは首をふった。
「イタリア人ですのよ。トリノの人ですけれどイギリスでしばらく働いていたんだそうです。あたしにはイタリア人ていうよりギリシャ人のように見えますわ――それも現代のじゃなくって、学校の歴史で教わったような古代ギリシャのね。彫像の首のようですわ」
彼女は声をかけた、
「一マイルばかり沖へ出てちょうだい、ドリア。ブレンドンさんに海岸線をお見せしたいから」
「承知しました、奥さま」そう答えると彼は外海へ向きを変えた。ジェニー・ペンディーンの声にふりむいたこの男は、日焼けし、生き生きとした顔をこちらに向けた。それはきれいに髯をあたった、実に端正な顔であった。古典的な面だちではあったが、ギリシャ人の典型にみられる無表情の完璧さというわけではなく、このイタリア人の黒い瞳には輝きがあり、知性を感じさせた。
「ジュゼッペ・ドリアはすばらしい経歴の持ち主なんですのよ」ペンディーン夫人はいった、「ベン叔父から聞いたのですけれど、とても古い家系の子孫で、何ていう場所か忘れましたけど、なんでもヴェンチミグリアの近くのドリア家の生き残りだっていってるそうですわ。叔父はあの人に惚れこんでますの、みかけだけじゃなく中身も信頼がおける正直な人だといいんですけれど」
「たしかに家柄はいいのかも知れませんね、あの様子には優れたものがうかがえるし、育ちのよさも感じられますからね」
「それに頭もいいんです、何をやらせてもできるというたちの人なんですわね――船乗りってそういう人が多いけれど」
ブレンドンはダートマス海岸の変化に富んだ美しさにうっとりとしてみとれた――きり立った崖、緑濃い岬、赤い砂岩の絶壁、静かな海面からきり立った真珠色の断崖。船はやがて西へ向きをかえ、砂浜のある小さな入江、あるいは断崖とつぎつぎに変るパノラマの中を過ぎ、ほどなく六百フィートもあろうというひときわ高く険しくそそり立った崖の下をまわった。
そんな崖のあいだに、あたかも鳥が巣をかけたかのように一軒の小さい家が建っていた。イギリス海峡をのぞむ窓がキラキラ輝いている。その家はまん中が塔のようになっており、前面には台地がひろがっていてそこに商船旗のひるがえる旗竿が立っていた。裏手はせまい谷になっていて、この住居《すまい》へおりる道が一すじついている。まわりには崖がさしかかり、その下には夏の波がものうげに寄せてはくだけ、真珠のネックレスで陸地をふちどっていた。家のはるか下の方、ちょうど満潮時の高さのすぐ上に砂利のしかれた細長い地帯があり、そこにある横穴がボートハウスとなっていた。ブレンドンの一行はここへ着いたのだった。
モーターボートは速度をおとし、やがて砂利の上へ舳をのり上げた。ドリアはエンジンをとめ、タラップをおろすとそばに立ってジェニーと刑事に手をかした。そこには一見出口がないようにみえたが、岩だなのかげに岩を削って作った階段が上へ向かって曲りくねってついており、鉄の手すりがしつらえてあった。ジェニーが先に立ち、その後について二百段ほどのぼりつめると上のテラスに出た。そこは五十ヤードほどの長さがあり、海からとった小石がしきつめられていた。小型の真鍮の大砲が二つ、欄干《らんかん》ごしに砲口を海へ向けており、まん中の旗竿の立っている付近の芝生は帆立貝の殻でふちどりしてあった。
「なるほどいかにも老水夫の建てた家というわけですねえ」ブレンドンはいった。
望遠鏡を小脇にかかえた中年の男がテラスの向こうから近づいてきて二人を迎えた。ベンディゴ・レッドメーンは海のにおいをただよわせた、がっちりと角ばった感じの男だった。帽子をかぶっていない頭は、短くかりこんだ燃えるように赤い毛で輝いており、彼もまた灰色になりかかった赤い短いあご鬚と頬髯とを生やしていた、しかし鼻の下はそってあった。それは長い年月、風雨にさらされた顔であった――赭《あか》ら顔で頬骨のあたりがひときわ赤く、雑草のような眉毛の下には赤味がかった茶色の眼が陰気にひっこんでいる。口元は下あごが突き出ていて、喧嘩早い、気むずかしそうな感じを彼に与えていた。しかしその風貌《ふうぼう》はこの老水夫の人柄をよくあらわしているようだった。ともかくも彼はブレンドンに対して最初のうちはあまり敬意を表わさなかった。握手をしながら彼はいった、
「来られなすったか、その後もニュースはないんでしょうな?」
「その通りです、レッドメーンさん」
「こりゃ驚いた! 警視庁《スコットランド・ヤード》たるものがたった一人の頭の狂った男をまだ捕まえられんのか!」
「あなたにも協力していただけたらよかったんですよ、弟さんから手紙をもらったというのがほんとうなんでしたらね」ブレンドンは無愛想にそういった。
「協力してますともさ、お見せしますよ」
「二日も無駄にしたんですよ」
ベンディゴ・レッドメーンはちょっとうなってからいった、
「まあ中へ入って手紙を見なされ。わしは警察がよもや失敗するとは思わなかった。全く恐ろしいこったがさっぱりなんのことやらわからん。だが一つだけはっきりしてることは弟がこの手紙を書いたこと、そしてプリマスから出してるってことです。そしてプリマスから弟《あれ》のことを何もいってこないところをみると、おそらく弟《あれ》は望んでいた通りのことになったんだろうと思いますな」
それから姪の方へむいて彼はいった、
「ジェニー、三十分もしたらお茶にしよう。その間わしはブレンドンさんを塔の部屋へご案内するから」
ペンディーン夫人は家の中へ入り、つづいてブレンドンもレッドメーン氏といっしょに中へ入った。この家の主人の集めた外国の珍しい品々がいっぱい飾ってある四角いホールを通り、二人は広い八角形の部屋へあがっていった。それは灯台の灯明室のような部屋で、この家の一番高いところにあった。
「わしの見張台です。荒れ模様の日はわしは一日ここにあがってあの三インチの強力な望遠鏡をのぞくことにしとるが、海でどんなことが起こってるか全部わかる。そら、そこに|寝だな《ヽヽヽ》があるでしょう、ここで寝ることもあるんです」
「船に乗ってるようなもんですな」ブレンドンのその言葉がベンディゴを喜ばせた。
「その通り。どうかすると揺れることだってある。この三月、南東の風が吹きまくった時この崖へものすごい波が打ちつけたが、あれほどものすごい波はなかったね。船の底から揺れた、ほんとうですよ」
ベンディゴは隅にある背の高い戸棚の鍵をあけ、四角い古風な木製の手箱をとり出した。その中から彼は一通の手紙を出して刑事に渡した。
ブレンドンは窓際の椅子に腰をおろし、ゆっくりと読んだ。大きな、のたくったような字で、左から右へかけて少し上がり気味に書かれているので、下の右隅に三角の余白が残っている、
[#ここから1字下げ]
親愛なるベン、
すべて終った。マイケル・ペンディーンをやっつけてしまった、死体はこの世の終りでも来なけりゃわからぬところへ隠してある。やらずにはいられぬ気持ちだったんだ、だがやってしまった今はやっぱり後悔しているよ、あいつのためじゃない、このおれ自身のためにだ。うまく行けば今夜フランスへ逃げ出すつもりだ。いずれ居所は知らせるよ。ジェニーをよろしく頼む、あの子もあんなろくでなしと縁が切れてよかったわけだ。危険がなくなったらまた帰ってくるかも知れない。アルバート兄、それからフローラによろしく伝えてほしい。
R・R
[#ここで字下げ終わり]
ブレンドンはその手紙と、入れてあった封筒とを仔細にしらべてからたずねた、
「他にありませんか、前に来た手紙かなにか――これと較べてみたいのですが」
ベンディゴはうなずいて、
「そうくるだろうと思いましたよ」といいながら手箱からもう一通出した。
それはロバート・レッドメーンの婚約に関するもので、筆跡は同じであった。ブレンドンはその二通をポケットへしまい込みながらきいた、
「それであなたは大尉はどうされたとお思いですか?」
「弟は希望通りにやったと思いますな。ちょうど今ごろの時節にはプリマスにはスペインやイギリスの玉ねぎ船が十隻やそこらいつだって横たわってますからな。ロバートの奴もそこまでいって、それ相当の金さえ出せばかくまってくれるものは大ぜいいるに決まってる。いったんどれかに乗ってさえしまえばもうどこにいるより安全だ。サンマロかどっかそのへんでおろしてもらえば、もうあんた方の目からはのがれられるというもんです」
「そして、気が狂ってると気づかれないうちは大尉の消息をきくことはないわけです」
「どうして気が変だったということが他人にわかるんです? たしかに、罪もない男を殺した時には弟の頭は狂っていたでしょうな、気違いでもなけりゃあんなことをしでかすはずはないし、そのあとだって、すぐ自分のしわざと知れるような子供じみた工作をするわけがない。しかしですよ、頭の中の歪《ゆが》みに駆りたてられて一度しでかしてしまえば、そのあとはもう狂気は弟《あれ》の頭から離れてしまったろうと思いますね。明日にでも捕まえてごらんなさい、あんたと同じように正気だから。ただ一つだけ違う点がありますがね。弟はマイケル・ペンディーンが戦争忌避者だといって前々から憎んでいたんだが、その憎しみが昂じてあれの考えを毒し、ついに抑制できなくしてしまった、そうわしは見てるんだが、このわしだってあの男のことは大いに軽蔑していたし、姪がわしたちの意見に逆らってあの男と結婚したときは姪にうんと腹を立てた。だがそれだからといってわしの頭は狂ったりしなかったし、ペンディーンがこけ集積所ではベストを尽した立派な男だと聞いて喜んでいたぐらいですからね」
ブレンドンはしばらく考えてからいった、
「たいへんもっともなご意見ですな、その通りのようです。これだけはっきり書いてあるところをみると、大尉はベリ岬で死体を処理してから家へ帰ってどういうふうにか変装し、ペイントンからニュートンアボットへと早朝の汽車に乗り、そこから更にプリマスへ汽車で行ったものと結論してよさそうですからね。捜査が始まった頃にはもうプリマスにいて息をひそめていたんでしょう」
「わしはそうにらんでいる」
「最後に大尉とお会いになったのはいつですか、レッドメーンさん?」
「一か月ばかり前ですかな、リード嬢を――許嫁ですよ――つれて一日遊んでいきました」
「その時は、正常でしたか?」
ベンディゴは少し考えこみ、赤毛のあご髯をかきむしった、
「騒々しくよく喋ったが、まあいつものようでしたな」
「ペンディーンご夫妻の話はしてましたか?」
「いいやひと言《こと》も。弟はその若い娘さんのことでいっぱいでしたからね。二人は秋の終りに結婚して、そのあと兄のアルバートに会うためにひと走り外国まで行く予定だったんですよ」
「大尉はフランスからリード嬢に手紙を出すかもしれませんね」
「さあ弟がどうするつもりかはわからんですな。早晩あんた方が捕まえたとして、法律はどういう立場をとるんです? 気がちがって人を殺した、ところがとっつかまえてみるとちっとも狂ってなくて正常だ。頭が狂ってる時に罪を犯したからって死刑にはできんでしょう、それに正常なら気違い病院へ閉じこめることもできますまいが」
「たしかにもっともなようですが、法は危険を冒すようなことはしませんよ。いかにふだんが正常だからといって一度殺人を犯した殺人狂は野放しにはしておきません」
「なるほど、わかりましたよ刑事さん。もし消息がわかったら警察に知らせましょう、そのかわりあんたの方でも捕まえたらわしと兄にすぐ知らせて下さい。身内のものにとっては全くもって不愉快なことですよ。弟は戦争で立派に戦って勲章までもらった男だ。気がちがったというんなら戦争のおかげじゃないですか」
「その点は十分|斟酌《しんしゃく》されると思いますよ。わたしもお気の毒に思います、大尉のためにもあなた方のためにもね」
ベンディゴはもしゃもしゃの眉毛の下から陰鬱な目つきでじっと見ながらいった、
「ある夜もし弟《あれ》がここへやってきても、わしは気違い病院みたいな生きながらの墓場へは引き渡す気にならぬかもしれん」
「いや、だいじょうぶあなたのことですから義務は果して下さるでしょう」ブレンドンは答えた。
二人が食堂へおりて行くと、ジェニーはお茶の用意をして待っていた。三人ともほとんど口をきかず、ブレンドンはこの若い未亡人をゆっくり観察していた。やがて彼はたずねた、
「奥さんはこれからどうなさるんですか? ご連絡したいときにはどこにお住いだと思えばいいんでしょうね?」
ジェニーはブレンドンではなくベンディゴの方をみながら答えた、
「みんな叔父にまかせてありますから。ここ当分はこちらにおいてもらえるでしょうけれど」
「いつまででもおいで、ジェニー、ここはおまえの家だ。わしもおまえがいてくれるとうれしいんだよ。もう残ってるのはおまえとアルバート叔父さんとわししかいないんだから。かわいそうなロバートにはもう会うこともなかろうからね」
年輩の女が入ってきていった、
「ドリアがいつ船をお出ししたらよろしいかうかがいたいと申しておりますが」
「できたら今すぐにしていただけませんか、だいぶ時間を費してしまいましたから」ブレンドンはそう頼んだ。
「じゃあ乗りこんでるようにいっておくれ」ベンディゴがそういいつけ、五分ののちにブレンドンは腰を上げた、
「捕まったらまっ先にお知らせしますよ。まだ生きてるものならそういつまでも逃げのびてはいられないはずです。現在の状態は大尉にとって苦痛と不安の連続でしょう。大尉自身のためにも早く自首してくれるなり捕まるなりするといいんです、イギリスでなくてもフランスでもいいんですから」
「どうもありがとう」ベンディゴは静かにいった、「あなたのいわれることはほんとうだ、今はわしもぐずぐずしていたことを後悔していますよ。もしも弟から連絡があったら警視庁へ電報を打ちましょう、あるいはダートマスから打たせます、ご承知のようにここへはあの町の電話をひいてありますから」
三人は、ふたたびテラスの旗竿の下に立った。ブレンドンはごつごつした崖の輪郭や、その後から上の方へしだいになだらかに傾斜しているとうもろこし畑を観察した。このあたりは全く人里離れていて、西の方一マイル余り先にわずかに一軒の百姓家の屋根が見えるだけだった。
「万一大尉がこちらへ来られるようなことがあったら――わたしは今でも、もしかしたら、という気がしてるんですよ――留めておいて警察へ知らせて下さい。そういうことはたいへん辛いことだろうとは思います、しかしあなたはきっとしりごみなさらないだろうと信じています」ブレンドンはそういった。
無骨な老人は、この刑事と話しているうちにだんだん愛想がよくなっていた。ブレンドンの職業に対する嫌悪の情が、ブレンドンその人にまで及ばなかったのは明らかであった。彼はいった、
「義務はやっぱり義務ですからな、もっともあんたのような仕事はごめんですがね。だが、わしが何かするといったからには、どうか信用していただきたい。弟はここには来そうもないが、南へ下ってアルバートのところへ行くかもしれませんな。ではこれで」
ベンディゴ・レッドメーンは家の中へ戻った。そばに立っていたジェニーはブレンドンといっしょに階段のところまで歩いてきていった、
「気の毒なロバート叔父をあたしが恨んでるとはお思いにならないで。あたしはただ悲しみで胸がいっぱい、それだけですわ。あたしは戦争の被害は受けなかったなんて今まで愚かにもいっていましたけれど、そうではなかったんですのね。大切な夫を殺したのはロバート叔父ではなくて戦争だったのです、今わかりましたわ」
「よくそれだけの分別を得られましたね」ブレンドンは静かに答えた、「奥さんの辛抱づよさや勇気には心から感心しているんですよ。それで――そのう、わたしは奥さんのお力になりたいと思っているんです、人間の知恵の及ぶ限りのことは致します」
「ご親切にありがとうございます」ジェニーはそういうと彼と握手を交わし、別れの挨拶をした。
「ここからお移りになる時には知らせて下さいますね?」ブレンドンはきいた、
「はい、あなたがそうお望みでしたら」
二人は別れ、ブレンドンは階段をかけおりた。足もとなどほとんど見ていなかった。彼は自分がもう心からこの女を愛しているのを感じた。理性と常識の抗議にもかかわらず、すさまじいまでの感情が彼を襲っていた。
待っていたモーターボートにブレンドンが跳び乗ると、船はふたたびダートマスへ向かった。その間中ドリアはしきりと話しかけたが、船客の方はこのイタリア人の好奇心を満足させてやることにあまり気乗りしなかった。そしてかわりに、ドリア自身のことについて二、三質問したが、相手は自分のことをあれこれ話すのを喜ぶ様子だった。ドリアは船がダートマスの浮桟橋へ着くまでに、南国人特有の軽薄さとひとりよがりなところをまる出しにしたが、そのことはブレンドンに何かしら考えさせるものを与えた。彼はドリアにたずねた、
「戦争はもう終ったっていうのに自分の国へ帰らないのはどういうわけだね?」
「戦争が終ったからこそ国を出たんですよ、シニョール」ジュゼッペは答えた、「ぼくは船に乗り組んでオーストリーと戦ったんです、だけど今は――イタリアは楽しいところじゃなくなった――英雄にとって帰るべき家じゃないんですよ、今は。ぼくは平民じゃありません、立派な祖先をもっているんです――マリティム・アルプスのドルチェアカのドリア家、ドリア家って聞いたことおありでしよう?」
「残念ながら――わたしは歴史に弱いんでね」
「ネルヴィア河の岸にドリア家は強大な城を構えてドルチェアカを治めていたんです。好戦的な一族で、中にはモナコ公を殺害したのもいます。しかし名門の一族というものは国家と同じですよ、その歴史は砂時計の砂みたいなものです。勃興しても、自分の発展の経過につれて崩れていく。そうですよ! 時がひと揺りすれば砂は落ちていく――最後のひと粒まで。ぼくはその最後のひと粒です、われわれ一族は没落に没落を重ねてついにぼく一人が残ったんです。親父はボルディゲーラでタクシーの運転手をやってたが戦争で死んだし、おふくろも死んだ。兄弟はなく、妹が一人あるけれどあいつはつらよごしなことをしてくれた、あいつも今頃は死んでくれたでしょう。どうなったかは知らないんです。というわけで残ったのはぼく一人、あれほど権勢を誇った一門の運命はこのぼく一人にかかっているんですよ――かつては代々君主として権力をふるってきた一族なんですがね」
ブレンドンは舳でこの船乗りの傍らに腰をおろしていたが、そのイタリア人の驚くばかりの美貌には感嘆するばかりだった。それだけではなく、この男は知力と野望を露《あらわ》にし、更には人を小馬鹿にしたようなところまであけっぴろげに感じさせた。
「家系というものはよくそんなふうに一本の糸でつながってることがあるものだよ。たった一人の人間の生命《いのち》という糸でね。君はあるいは君の一族を復興させるために生まれてきたのかもしれないね、ドリア?」
「『あるいは』なんてことはありませんよ、ぼくはそのために生まれたんです。ぼくにはいい守護神がいて時々いろんなことをいってくれる。ぼくは偉大な行ないをするために生まれたんです。ぼくはとてもハンサムだが、そうなくてはならぬ必要があったからですよ。頭もとてもいいんですが、これも必要だったからこそです。ドルチェアカの崩壊した城とぼくとの間にあるものはたった一つ、そのたった一つのことが、この世のどこかでぼくを待っているんです」
ブレンドンは笑っていった、
「じゃあこのモーターボートで何をしているんだね?」
「待機ですよ、待っているんです」
「何を?」
「女を――妻をですよ、刑事さん。あと必要なただ一つのことは妻です――それもうんと金持ちのね。ぼくの美貌をもってすれば女の財産は購《あがな》える、そうでしょう。イギリスへ来たのはそのためですよ。最近イタリアには金持ちの女相続人はいないんです。だけどこんなところへ来ちゃってぼくはへまをしましたよ、うんと金のある上流社会へ行かなくてはいけないんです。すべては金なんですから」
「思い違いしてやしないかね?」
「そんなことはない。ぼくは何を取引きに出すべきかわかっています。女どもはぼくの美貌には大いに惹きつけられますよ、シニョール」
「そうかね?」
「古典的で女が憧れるようなタイプの顔です。そうですとも。自分を卑下してみせるのは愚か者のすることです。ぼくのようにあらゆることに恵まれている男――体には誇るに足る高貴な血が流れ、人のもちたいと願うものはすべてもっている男、ロマンスといい、イタリア人のみのなし得る人を愛する才能といい、すべてをもっているそういう男はすばらしい金持ちの娘をみつけるにちがいないんです。ただ忍耐が要るだけです。しかしそういう宝物はこんなおいぼれの海賊のとこにいたんじゃみつかりませんよ。あの人は旧い家柄の出じゃない、ぼくはよく知らなかったんです。雇われる前にちゃんと会ってあのけちなすみかも見ておくべきでしたよ。もう一度広告を出してもっと高級な雰囲気のところへ行きますよ」
ブレンドンは気がついてみるとジェニー・ペンディーンのことばかり考えているのだった。時を経て、夫を失った苦悩がうすれてきたら彼女がこの恐るべき人物をあらためて見直すような可能性は果してないであろうか? あるいは、と彼は思ったが、いやそんなことはなさそうだと考えた。それにこのドリア家の末裔《まつえい》は明らかに、マイケル・ペンディーンの未亡人の提供できるものよりもはるかにすぐれた地位と財産とを狙っているのだ。ブレンドンはこの恐るべき男、イギリス人の慎しみと謙虚さとをことごとく平気でふみにじるこの男を自分が蔑《さげす》んでいるのを感じた。だが、この男の冷静さや、商品としてのおのれの価値に対する認識には感ずるところがあった。
彼は浮桟橋に着いてドリアに五シリング与えて別れるとほっとした。にもかかわらずジュゼッペのことがつきまとっていろいろな想像をさせるのだった。人によって、彼の傲慢さを嫌う人もあろうし、彼の容姿の美しさを愛《め》でる人もあろう、だがその生命力としびれさせるような力とは誰しも感じないわけにはいかないのだ。
ブレンドンはやがて警察へ着くと、あわただしくプリマスとペイントンとプリンスタウンとへ連絡した。中でもプリンスタウンへは特に指図を与え、ハーフヤード警部に、ステイション・カテジのゲリー夫人を訪れてロバート・レッドメーンの泊った部屋を綿密に調べるようにと伝えた。
[#改ページ]
第五章 ロバート・レッドメーン姿を現わす
ここまで捜査を続けてきたあげくに、マーク・ブレンドンはなにかしら非現実的な感じを味わった。彼の行動しているこの偽りの雰囲気は、やがてもっと優れた知恵と才能の持ち主によって吹き払われようとしているのだが、ブレンドン自身、どこか肝心なところが間違っていて誤まった道へ踏みこんでしまったのではないか――袋小路を模索しているばかりで真実へ通じるただ一つの道を見失ってしまったのではないか、とおぼろげながら感じ始めていたのである。
翌朝、彼はペイントンからプリマスへ行き、根気よく厳密な捜査を行なわせた。しかしどうやら遅過ぎたらしいということは彼も十分承知で、たとえまだ生きていたところでロバート・レッドメーンはすでにイギリスにはいないであろうと、ほぼ確信していた。それから、事件の場所へもう一度行って見るためにプリンスタウンへ帰った。無駄なことはわかっていたが、一応捜査の定石はふまなければならない。砂の上に残された例の素足《はだし》の足あとは注意ぶかく保存されてあった。あまり明瞭ではないのではっきりとは見分けがつかなかったが、それでも、三人ではないまでも二人の人間の足跡であると確信できた。彼はロバート・レッドメーンがこの池でよく泳ぐといっていたのを思い出し、三人の足跡であることを立証しようと努力したができなかった。
事情の許すかぎり一心にこの事件を追求してきたハーフヤード警部は、行方をくらました殺人犯人の兄、ベンディゴにもっぱら非難を浴びせた。
「その兄貴が故意に遅らせたんですよ」彼は断言するのだった、「その二日間ていうもので情況はすっかり変ってしまいますからね、今ごろは下手人はスペインか、でなけりゃフランスに行っちまってるでしょう」
「しかし詳細な手配書を各地へ回わしてありますからね」とブレンドンがいったが、警部はそのことには重きをおいていない様子だった、
「外国の警察がどの程度逃亡者を捕まえてくれるものかはご承知の通りなんでね」
「でもこれはふつうの逃亡者じゃないですからね。わたしはやっぱりあの男は頭が変だという見方をしたいな」
「そうだとすりゃもうとっくに捕まってるはずでしょう。気違いだとなるとこれまで簡単に説明がついていたことまでいよいよ謎めいてくる。気が狂っていたとは信じられませんよ、事件の時だって今だって気はたしかなんだと思うなあ。だからブレンドン君、もう一度振り出しに戻ってなぜロバート・レッドメーンはあんなことをやったのか、その理由を調べなくちゃならんですな。あらかじめ計画された殺人で、みかけよりずっと巧妙に仕組まれた犯罪だとすると、最初からやり直して動機を探さなくてはね」
だがブレンドンは承服できなかった。
「賛成できないなあ。わたしもそう考えてはみたんですが、あまりにも不合理ですよ。公平な証言によれば、あの二人は事件の夜レッドメーンのオートバイでプリンスタウンを出るまでは全く仲が良かったんですからね」
「どの証言です? ペンディーン夫人の証言が必ずしも公平だとはいえませんよ」
「どうしてです? わたしは間違いなく公平だと思ってますよ。しかし今わたしがいってるのはペイントンでフローラ・リード嬢から聞いてきた証言ですよ、ロバート・レッドメーンの許嫁だった人です。彼女によると、レッドメーンは、意見が完全に変わったことを示すような手紙をよこしたそうだし、ペイントンのボートレースに姪夫婦を招《よ》んだということも知らせてきたそうです。そればかりじゃない、リード嬢もその両親も、あの大尉が激しやすい不安定な性格の持主だったということを明らかにしてくれたんですよ。事実、リード氏は二人の結婚にあまり賛成じゃなかったんですな、ともすれば理性の境を簡単に越えてしまいそうな男だといってましたよ。そうですよ、ハーフヤード警部、いくら捜しても条理にかなった理論は出てこない、みつかるのはやっぱり狂人説なんです。あの男が兄貴に宛てて書いた手紙が証明しています。それさえ見れば抑制とか自制とかいう能力に欠けていることがよくわかる」
「ほんとに彼の書いたものでしたか?」
「ベンディゴがもっていたもう一通の手紙とくらべてみましたよ。独得の筆跡ですからね、疑わしいふしはあり得ないんですよ」
「このあとどうするんです?」
「もう一度プリマスまで行って玉葱《たまねぎ》船を徹底的に調べます。どの船も行ったり来たりしてるんですから、レッドメーンが手紙を投函した直後から数日の間にプリマスを出た船だってすぐわかりますよ。一週間か二週間すればまたあらたに荷を積んできっと帰ってきますからね。全部チェックできるはずでしょう」
「雲をつかむような話だな、ブレンドン君」
「わたしには最初からこの捜査全体がまるっきり雲をつかむ話みたいだったと思えるんです。どっかで手がかりを見失ってますね。ニッカーをはいて、派手なチェックの上着にまっ赤なチョッキといういでたちで、事件の翌朝ペイントンを発った男が、どうやってうまく逃げおうせたのか、汽車でも道路でもなぜ誰にも疑われずにすんだのか、――全く理屈と経験に矛盾してる、とても額面通りには受けとれないですよ」
「そう――どこかでつまずいてるようだ。しかしわれわれが間違ったにせよ、向こうがうまく立ちまわってこっちを出しぬいたにせよ、いずれあんたは解いてくれるにちがいない。とにかくここにこれ以上いてもどうにもならないんじゃないかな」
「そりゃそうです」ブレンドンも同意した、「一応定石通りにやったまでなんだから。しかしずいぶん時間を無駄にしたもんだな。大きな声じゃいえないけど、恥かしいですよ、警部、わたしは何か見落してる、それも大いに大事な何かをね。どっかにちゃんと道標が立ってたのにわたしには見えなかったんだ」
警部もうなずいていった、
「よくあるんだよ――ほんとうにいやになる。みんなは馬鹿にしてそれでよく月給がもらえるもんだという。君のいうように、顔のまん中に鼻があるのと同じくらいはっきりと、事件にもちゃんと危険信号が出てることがあるもんなんだ。それにもかかわらずですよ、他の手がかりに頼ったり、これこそ正しいにちがいないと思う理論に固執してしまうために、真実の致命的なポイントを見逃がして結局は向こう脛《ずね》をすりむくようなことになる。そうなった時にはもう手遅れで、われわれは全くまぬけとしか見えないんですよ」
ブレンドンもこういう経験が真実であることを認めた。彼はいった、
「可能性は二つの場合しかあり得ません、一つは無動機の殺人――ということは狂気を意味している――、もう一つはそれ相当の動機があってずっと前から計画していてレッドメーンはペンディーンを殺した、そして姿をくらました、そのどちらかでしょう。第一の場合であるとすると、死体が発見されないようなよほど巧妙な方法で自殺したのででもなけりゃ、もう捕まってるはずだし、第二の場合なら、奴はよほどはしっこいことになる。ペイントンまでオートバイで行ったことにしろ、死体の始末にしろ――ずいぶん気違いじみてるが、とにかくおそろしく悪知恵にたけた男です。しかし生きてるものなら、気が狂っていようと正気であろうと、兄貴への手紙に書いた通りの行動をしてフランスかスペインの港へ高飛びした、と思うなあ。だから次にやるべきことは奴の乗った船を捜し出すことですよ」
ブレンドンはこの方針に従い、翌日プリマスへ出かけ、船員宿に部屋をとった。そして港湾当局の助力を得て、肝心の日にプリマスに碇泊《ていはく》していた十二隻の小型船の行方を追求したのだった。
この段階に彼は一か月というものを捧げて根気よく調べを続けたが、何の結果も得られなかった。巻きぞえを食った船長たちも誰一人としてこれっぽちの情報も提供できなかったし、油断のない見張りにもかかわらず、港湾警察にしろあるいは一般の誰にしろロバート・レッドメーンに似た男を、見かけたものはひとりもなかったのである。
やがてロンドンへ呼び返され、彼の失敗がさんざんからかわれる日が到来した。しかしブレンドン自身がいつになくしょげ返っているのを見ては、みんなもそうはからかえなかった。見たところ難しそうな事件ではないだけに、上司は、ブレンドンが完敗したことに驚いた。しかし、ロバート・レッドメーンはイギリスから外へは出ず、おそらくプリマスからベンディゴ宛ての手紙を出した直後に自殺したのだ、というブレンドンの確信を上司も進んで信じてくれた。
仕事はたくさんあって、ブレンドンはやがて中部地方で起きたダイヤモンド盗難事件に専念しはじめた。数か月が過ぎ、マイケル・ペンディーンの死体も発見されぬまま、この謎は警視庁という小さい世界では棚上げにされ、一方世間という大きい世界では完全に忘れ去られてしまった。
とかくするうちに、マーク・ブレンドンはひそかにホッとするものを感じながら、事件そのものは彼の関心から遠ざかるに任せる一方、一連の出来事からはしなくも生じたあることに直面しようとしていた。ジェニー・ペンディーンがいたのだ、彼の心はジェニーのことでいっぱいだった。全くの話、仕事のことは別として、他の個人的な想念はいっさい入りこむ隙もないほど心は彼女のことで満たされているのだ。口では言い表せないほどジェニーに会いたかった。なぜなら、あの事件に携わっていた間は常に連絡をして、自分のやっている調査の結果をすべて知らせていたのだが、今はもう手紙を出す謂《い》われがないからである。ジェニーは必ず返事をよこしたがどれも簡単な手紙で、ブレンドンがいくら聞いてやっても、彼女自身のことや将来のことに関しては何も知らせてくれなかった。だがたった一つだけ洩らしてくれた情報によって、彼はジェニーが夫の計画通りあの家を完成させつつあること、そして権利を買いとってくれる相手を探しているということを知った。ジェニーは手紙にこう書いてきた、
[#ここから1字下げ]
ふたたびダートムアを訪れる気にはなれません。あそこはあたしにとっていちばん幸せな思い出の地であると同時に、いちばんふしあわせな思い出の場所でもあるからです。あの時のように幸せになれることはもう決してないでしょう。またここ数か月の言葉に尽くせぬほどの苦しみは、もう一生涯味わいたくないと思っています。
[#ここで字下げ終わり]
ブレンドンはこのくだりを何度も読み返しては一語一語の意味するところを推しはかってみた。その結果、ジェニー・ペンディーンは最大の喜びの日々は永遠に過ぎ去ったと悟りながらも、いつか真の心の平安と満足がいまの悲しみの気持ちにとってかわる日の訪れるのを待ち望んでいる、と結論した。
しかしながらブレンドンはこの事実に少なからず驚いた。おそらく言葉の選択を誤まったために、実際よりも早く平静に立ち戻れるかに思わせる文面となったのではないか。彼は、これまでのたった四か月ではなくて少なくとも一年はたたなければ、ジェニーの深い悲しみはうすらぐまいと思っていたのだ。いや、たしかにそのはずだ、と彼は思った、そして、この意味深長な文章から自分が読みとったと思ったものは、ジェニーがそのつもりで書いたものでは決してないのだ、と結論した。なんとかして彼女に会いたかった、そしていかにすれば会えるかを思いめぐらしている時、折しもチャンスが訪れた。
ブレンドンは、ニューヨークからプリマスへ、十二月中旬のある日着くはずの二人のロシア人を逮捕するよう命ぜられた。その二人を確認し、彼らがかつて英国で犯した行為を立証してしまうと、少し暇ができた。彼は何の前ぶれもなしにダートマスへむかい、その晩はダートマスに一泊して翌朝十時に『烏荘《クロウズ・ネスト》』へむかって歩き出した。
ブレンドンの胸は高鳴った、そしてその胸のうちには二つの思いが渦巻いていた。未亡人に会いたいという強い希望もさることながら、ある理由から崖の上の小社会を不意打ちしたい気持ちがあったからである。ベンディゴ・レッドメーンは弟を擁護しているのではないか、という漠然とした疑念を彼はまだ棄てていなかった。それははなはだあいまいな考えではあったけれど、全く棄て去る気にはなれず、今まさに実行しかかっているような不意打ちの訪問を、これまでにも何回か考えていたのである。
しかし、河口の西側の大きな丘を登りはじめるにつれて、その疑念はしだいに小さくなっていった。そして二時間とかからずに、そそり立つ崖と灰色の冬の海との間にちょこんと建っている『烏荘《クロウズ・ネスト》』が見えるところまで来た時には、ブレンドンの心を占めるものはかの女性の姿だけとなっていた。
彼はよもや驚くべき事件が待ち受けていようとは知らずにやってきたのである。彼が心ひそかに夢みている物語と、石切場殺人事件の物語とが、大事件の出来《しゅったい》によってその日のうちにどのような発展を遂げる運命にあるかなど考えてもみなかった。
道はずっと崖のむこうまでのびていた。そして冬空の下、あたり一帯はむき出しの茶色の地面が拡がっていた。頭の上を一羽のかもめが飛んでいる他は、生きもののしるしとては馬を追いながら畠を耕しているひとりの農夫と、そのあとをついていく数羽の海鳥だけであった。ようやく道に面した白い門のところへ辿りついて、ブレンドンは、目的地に着いたことを知った。門にはブロンズの板に『烏荘《クロウズ・ネスト》』と書かれてあり、その上に外燈をともすための柱が立っていた。そこから家までは急な下り坂で、はるか下の方に例の旗竿とひときわ突き出ている塔の部屋とが見えた。こんな曇り空の日には、もの悲しい陰鬱な空気がこの場所をおし包んでいるかにみえた。枯草の間を風がそよいで光をかすかに震わせる。水平線が見えないのは霧がかくしているからだ。そして低くたれこめた灰白色の霧の中から海は寄せてきて、ところどころに泡の羽根飾りをつけたものうげな無数のさざ波をたてていた。
道を降りていくと、一人の男が庭で二フィートの高さの金網の|しきり《ヽヽヽ》を立てているのが見えた。谷あいの緑の斜面を掘り起こして作った花壇を、兎の害から守るためのものであることは一目瞭然であった。
歌をうたう声がきこえた、ブレンドンはそれがモーターボートを動かしていた男、ドリアであることに気がついた。五十ヤード手前でブレンドンが立ちどまると、庭師は仕事をやめてこちらへやってきた。彼は帽子はかぶらず、まんなかにイタリア国旗の色の帯を巻いた細巻きの黒いタスカン葉巻をくわえていた。ジュゼッペはすぐブレンドンを思い出して、自分から先に話しかけてきた、
「なんだ、探偵のブレンドンさんじゃありませんか! ご主人にニュースをもってらしたんでしよう?」
「いや、ドリア、残念ながらニュースはないんだ。こっちの方へ用があってね、プリマスまで来たものだから――それでちょっとペンディーン夫人と叔父君に会って行こうと思ったのさ。どうして探偵《スルース》だなんて呼ぶんだい?」
「ぼくはよく探偵小説を読むんですけど、そん中じゃ刑事さんは『探偵《スルース》』ですよ、米語ですね。イタリアじゃ『スピロ』イギリスじゃ警官《ポリス・オフィサー》だ」
「皆さんお元気かね?」
「みんなしごく元気です。時がたち、涙はかわく、神さまはお守り下さる」
「そして君は相変らずドリア家の後裔を城に帰してくれる金もちの女を探しているというわけか?」
ジュゼッペは笑った、そして目をつぶりいやな香りの葉巻を吸いこんだ、
「そりゃあわかりませんよ、計画は人にあり、成敗は天にあり。ブレンドンさん、キューピッドという神さまがありますね。あそこにある|犂べら《ヽヽヽ》が虫どものすみかをひっくり返すみたいに、キューピッドはわれわれの計画をひっくり返してしまいますからね」
ブレンドンの脈は早くなった。ドリアが何を言わんとしているかは察しがついた、そして心配になった。もっとも全く予期しないことではなかったのだが。相手はなおも続けた、
「美の前には野望も屈します。子供の作る砂の家が波にもっていかれるように、祖先の城も愛の波がおしよせれば崩れ去ります、残念ながらそれはほんとなんだ!」
ドリアはためいきをついてブレンドンをじっと見た。このイタリア人が、茶色のジャージのセーターをぴったりと着て暗い背景に立っている姿はまるで絵のようであった。ブレンドンは返す言葉もなく道を降りようとした。どういうことになっているのかはもう察しがついた。目の前のこのロマンチックな人物よりもジェニー・ペンディーンのことが気がかりであった。しかしこの男が島流し同然の淋しい場所に相変らず留まっていられるということは、さっき彼のいったこととたしかにつじつまが合う。彼はただいたずらに大野望を中止してまで『烏荘《クロウズ・ネスト》』にとどまっているわけではないのだ。それでもブレンドンは、ジュゼッペの告白の重大性には気づかぬふりをした、
「いいご主人じゃないのかい、どうだね? 流儀がわかってみればあの海賊先生もなかなかいい友だちだろう」
ドリアもそれをみとめた、
「ぼくも満足していますし、むこうでもぼくをかわいがってくれます、それというのもよく理解してやってうんと持ちあげておくからですがね。どんな犬だって自分の小屋の中じゃライオンのような気でいますよ。レッドメーンはまさに君臨しています、しかし君臨してなかったら男にとって家庭などどこがおもしろいですかね? じいさんとぼくとは友だちになりましたよ。だけど悲しいかな、そういつまでもね――いずれは……」
急に言葉をきると、ドリアはたばこの煙をいやらしく吐き出して金網の仕事の方へ戻っていった。だが、ブレンドンが行きかけるとちょっと振り返ってまた声をかけた、
「マドンナはご在宅ですよ」彼は大声でそういった。ブレンドンには誰のことをいっているのかすぐわかった。
五分後に彼は『烏荘《クロウズ・ネスト》』についた。迎えたのはジェニー・ペンディーンであった、
「叔父は塔の部屋におりますの、すぐ呼びますわ。でもなにかお知らせがあるんでしたら、あたしに先にお教えになって。お目にかかれてうれしゅうございますわ――ほんとうに!」
ジェニーは上気していた、そして大きなうるんだ青い目を輝かせていた。以前よりも一層美しくみえた。
「ご報告はないんですよ、奥さん。少なくとも――いや、全然ないんです。あらゆる可能性を検討しつくしたんですがねえ。で、こちらの方でもやっぱり何もないんですね? あればお知らせ下さったはずですから」
「ございませんわ。ベン叔父は何かあればかならず教えてくれるはずですから。きっと死んでしまったにちがいありませんわ――ロバート・レッドメーンは」
「わたしもそう思いますな。ところであなたご自身のことを少し話して下さいませんか、もしうかがってよろしければ?」
「あなたってほんとにあたしのことを考えていて下さいますのね。お気持ちうれしゅうございます。ブレンドンさん、あたしだいじょうぶです。まだ生きるべき生命があるのですから、ここでそれを役立てる術《すべ》をみつけます」
「じゃあ、満足しておいでなんですね?」
「ええ。満足ということは幸せということの代わりにはなりませんけれど、でもとにかく満足はしておりますわ」
ブレンドンはもっと親しげに口をききたかったが、そんなことのできる謂われがなかった。彼はいった、
「その満足をもう一度幸せに変える力がわたしにあったらと心から思いますよ」
ジェニーは彼をみてにっこりした、
「ご親切におっしゃって下さって感謝いたしますわ。ほんとにそう思って下さいますのね、あたしわかります」
「ほんとうですとも」
「きっといつかロンドンへ行くことがあると思いますけど、その時は助けて下さいますわね」
「なるべく早くその日が来てほしいものです」
「でもまだあたしはもの憂くてぼんやりしてますの。すっかり後戻りです。どうかすると叔父の声さえ我慢できなくなって、部屋に閉じこもってしまいます。我慢ができるようになるまでしばらくの間、暴れものみたいに自分を縛りつけておきますのよ」
「気ばらしをしなくてはいけませんね」
「気ばらしはたくさんありますわ、こんなところでもね。お信じにはなれないでしょうけど。ジュゼッペ・ドリアが歌をうたってくれますし、時々は船で出かけます。ベン叔父の用事や、食料品の仕入れなどでダートマスへ行く時はいつも船で行きますのよ。それに春になったらひよこを飼うつもりですし」
「あのイタリア人は……」
「あの人は紳士ですわ、ブレンドンさん、立派な紳士といっていいと思います。あたしまだよくは理解できないんですけれど、でもいっしょにいても安心なんですの。卑劣なこと、つまらないことはしない人ですわ。あたしがはじめてここへ来たとき、あのひと秘密をうちあけてくれました。なんでも自分を愛してくれて、ドリア家の家系とイタリアにあるお城とを復興させてくれることができるような、お金持ちの奥さんを探すのが夢だといってましたのよ。ロマンチックな雰囲気には溢れているし、あれだけの精力と、人をひきつける不思議な力をもっているんですもの、いつかは希望《のぞみ》を遂げる、とあたし信じてますわ」
「今でもその野望を抱いてるんでしょうか?」
ジェニーはちょっとの間何もいわなかった。その目は窓の外のざわめく海に向けられていた。そしてやがてたずねた、
「なぜですの?」
「女に好かれそうなタイプの男だ、と思うんですよ」
「ええ、それはもう――あれほどハンサムなんですし、考えることだって立派な人なんですから」
ブレンドンは警告を与えたい気持ちにかられたが、自分が何をいったところで出しゃばりとしか思われまい、と感じた。ところが、ジェニーは彼の心を読みとったらしかった。彼女はいった、
「あたしもう一生結婚しませんわ」
「あえてそれを迫る人はおりますまい――あなたの味わってこられた苦しみを知っていればね。長い月日がたてばまた別ですが」ブレンドンはぎこちなくいった。
「あなたはわかってくださいますのね」そう答えてジェニーは感情に駆られたように彼の手をとった、「あたしたちアングロサクソンとラテン民族との間には大きなへだたりがあるんじゃないでしょうか。あたしたちにくらべて気持ちの動きがとても早いようですわ。この世で得られるものは何でも得たいという気持ちも人一倍強いのです。ドリアはいろんな意味で子供です、といってもたのしい、詩的な子供ですわ。あたし、イギリスはあの人にはよそよそしい感じがするんじゃないかと思いますの、でも、イタリアにはお金持ちの女がいないって断言するんですのよ。でも何といってもイタリアがいいんですわ。そのうち帰るだろうと思います、春にはベン叔父から暇をもらうんですって――あたしにだけ打ちあけてくれましたの。ですけど口外なさらないで。なぜって叔父はあの人のこととても高くかってますでしょ、手ばなすのいやがるでしょうから。ドリアは何でもできないことはありませんし、あたしたちの望みや気まぐれをちゃんと魔法使いみたいに察してしまうんですのよ」
「さて。あんまりお邪魔してはいけませんから」
「そんなこと。あたしお目にかかれてほんとにほんとにうれしいんですのよ、ブレンドンさん。お食事までいらしてくださいません? あたしどもいつもお昼が正餐なんですの」
「よろしいんですか?」
「よろしいじゃなくてそうしていただかなくっちゃ。それからお茶もね。ベン叔父のところへいらしてて下さいましな、一時間ほど。そうすれば支度ができますから。ジュゼッペもいつもいっしょに頂きますのよ、かまいませんでしょう?」
「あのドリア家の末裔ですか! そういう上流のお仲間と食事を共にするなんておそらく初めてですよ」
ジェニーは先に立って階段を上がり、老船乗りの部屋へ彼を案内した。
「ブレンドンさんがおみえですのよ、叔父さま」彼女が声をかけると、レッドメーン氏は大きな望遠鏡から目を離した。
「大風が吹くぞ、風向きが南寄りに変わった、海峡はもう荒れてる」
ベンディゴは握手をした、そしてジェニーはひきさがった。彼はブレンドンが来たことを喜びはしたが、弟に対する関心はあきらかに失っていた。彼はロバート・レッドメーンの話は避け、代わりに他の話を切り出した。しかもブレンドンを驚かすような率直さでその話題にふれてきた。
「わしはがさつ者だが、望遠鏡はいつもあけっ放しなんでね、だからこの夏来られた時に、わしの美しい姪にあんたが気をそそられたのもすぐにわかったんですよ。あの子はたしかに男をよろめかすようなタイプだ。わし自身は、母親の乳房を離れて以来、女にはいっさい用がなかったし、それに船の仲間がどれだけ女のことで苦労したか見ているんで女を信用したことがない。しかし、ジェニーがこの家をずいぶん気持ちよくしてくれて、わしにもやさしくしてくれるのは、喜んで認めておる」
「もちろんですよ、レッドメーンさん」
「まあ話し終るまでだまってて下さいよ。現在、わしは大いに困った問題に当面しているんです、というのは、わしの片腕ともいうべきジュゼッペ・ドリアがジェニーに色目を使ってる。それぞれに独身であればこそわしにとっては極めてありがたい存在だが、もしあいつがうまくやってあの子を恋に陥らせてしまったら、彼らは来年には結婚してしまう、ということは二人ともをわしは失ってしまうということですよ!」
ブレンドンはこの打ちあけ話に少なからず困惑した。
「わたしならドリアにかなりはっきりとほのめかします。イタリアではどういうやり方がよいものかはわれわれよりも彼がよく知っている、いや、彼は紳士らしいから知っているべきです。しかし、未亡人になったばかりの婦人に言い寄るのは極めてよくないやり方だといってやってかまわんでしょう、ことに姪ごさんの場合は最愛の夫とあのような悲劇的なさかれ方をしたんですからね」
「それはいいですよ、問題がドリアだけならわしもそうするかもしれん。だがどっちみちドリアはここに長くはいない気らしいですがね。はっきりそういったわけじゃないが、あの男をひきとめているものはジェニーの存在だけですよ。ところでジェニーの方も問題です。なにもあの子が男をそそのかしてるというわけじゃない、もちろんそうじゃないですよ。しかしね、わしだって目を大きくあけて見てるんだが、ジェニーはあの男といっしょにいるのがまんざらいやでもなさそうです。ドリアは男前だし、あの通り一ぷう変ってる、それにあの子だって若いんですしね」
「わたしはまたドリアはただ金が欲しいんだと思ってましたよ――一族の失われた栄光をとり戻すためとかのね」
「そうなんですよ、それにジェニーの二万ポンドじゃ足りないことももちろんわかってるんです。しかし恋というやつは恐怖心ばかりか他のあらゆるものを退けますからな、野望だってくじきますよ――ともあれ当分の間はね。そして人生のあらゆる面でハンディキャップをつけてしまう。ドリアが今欲しいのはジェニー・ペンディーンだけですよ。そしてわしのみるところ、あいつはジェニーを手に入れますな。まあ二人が今まで通りずっとここにいてくれるんなら、わしはどっちでもかまわんのですがね。しかしそんなことにはもちろんならんでしょう。ご承知のようにドリアは友だちみたいな存在になった、払っただけのことはちゃんとやるばかりか、それ以上にやってくれる。使用人というよりは客ですよ、あの男がいなくなったらわしはほんとに困ります」
「どうしていいかわからないというわけですね、レッドメーンさん」
「その通り。わしは姪の幸せの邪魔はしたくない。それに正直なところ、ドリアがいい亭主になれないともいいきれんです――しかしいい亭主なんてそうざらにいるものじゃないし、ことにイタリア人にはあまりいそうもない。結婚して一年もたてば気が変わってまた例の野望に燃え出すかも知れん、そしてそのために金を欲しがるかも知れぬ。ジェニーはいずれはかなりの金が入るわけです、遅かれ早かれロバートの分は入るんだし、わしの分だってアルバートの分だって入るんですからな。しかし総体的にいってわしは二人が結婚しないことを望みますな。こんなことをお話しするのもあんたが良識があることにかけちゃ絶大な信用のある有名な人だからですよ」
「ご信頼下さってありがたいです。わたしもうちあけてお話ししましょう」ブレンドンはちょっと考えてから答えた、「わたしはペンディーン夫人を尊敬しています。あの通り実に美しいし、しとやかで魅力的なかたですからね。あれだけちゃんとしたかたなんですから、安心なさってだいじょうぶでしょう、当分は何事も起こりませんよ。姪ごさんはまだずっと亡くなられたご主人のことを思っていらっしゃいますよ、いつまでもというわけにはいかないでしょうけれどね」
「そうでしょうな、まあ年が変わるまでか、あるいはもう少し先まではだいじょうぶでしょう。しかしねえ、二人は毎日顔をつき合わしているんですからな、ジェニーはいっしょうけんめいわしに悟られんようにしているし、おそらくは自分自身にも気持ちをかくしているんでしょうが、結局あの男はジェニーをものにするでしょうな」
ブレンドンはもう何もいわなかった。しょげてしまって、またそれを隠そうともしなかった。
「そりゃね、わしもイギリス人の方が望ましいですよ。しかし何分ここじゃあ競争相手がいないんですからね、ジュゼッペが思い通りにやるばかりでしょう」そういって老水夫は急に話題を変えた、「弟の消息は全然、でしょうな?」
「何もなしです」
「わしはこの事件全体なにか他の説明がつくはずだと考えてたんだが、しかし、あの血は人間の血だと証明されたんですな?」
「そうです」
「すると、ペンディーンに関するかぎり、海の不思議が一つ増《ふ》えたわけだ。そしてロバートの方は永久に遺骨のありかもわからんというわけですな」
「わたしも大尉は亡くなられたものと思っています」
その後二、三分ほどすると階下で合図の鐘が鳴り、二人の男は食事におりていった。盛りだくさんな食事の間中しゃべっていたのはジュゼッペ・ドリアだった。彼は著しいエゴイストぶりを発揮し、例の野望はもう棄てたようなことをいっていたくせに、その多彩な夢についてこまごまと話してきかせて悦に入っていた。
「ぼくの一族はかつてイタリア西部で幅をきかしてたんですよ。ヴェンチミグリアとボルディゲーラの中間でちょっと内陸に入ったところの河岸に、山を背にしてうちの祖先の城塞があります。ネルヴィア河には昔ながらの橋が今でも虹のようにかかってるんです。そして丘の中腹には葡萄《ぶどう》やオリーヴの木の繁る中に家が点々とあるんですが、それらすべてを睥睨《へいげい》しているのがドリア城の巨大な廃墟――まあ、過去の亡霊です。一世紀の歳月の間に忘れ去られたまま、人々がせかせかと営みを続けているまん中にがらんどうで立ちはだかっています、ちょうどこの下の崖に波が打ち寄せては砕けるように、まわりでは人々がさんざめいているんですがね。住民は到るところにひしめいていますが、みんなその昔ぼくの先祖に帽子をぬいでひざまずいていたような下賤な者たちですよ。そういう賤しい人々が今じゃドリア城の豪華な広間へはのこのこ入りこむ、大理石の床にせんたくものは干す、子供たちは宰相の間で遊ぶ、そしてお姫さまがもたれて希望や恐怖にためいきをついた窓からは|こうもり《ヽヽヽヽ》がバタバタと出たり入ったり! ぼくの一族は没落に没落を重ねてきましたが、近年ことに急速におちぶれました。祖父はただの樵夫《きこり》で、二頭の|らば《ヽヽ》に炭をしょわせて山から運んでいたんです。叔父はメントーネでレモンを栽培して何千フランか貯めましたが細君がみんな無駄使いしてしまいました。いま残っているのはぼくひとり――一族の最後の人間です。というわけでドリア家の本拠はずいぶん前から売りに出ているというわけですよ。
称号は城に付随しているんです――イタリアの妙な習慣です。しかるべき金さえ出せば、肉屋だろうとバター屋だろうと明日にもドリア伯爵になれるんです。しかし救いがあります、つまり、称号や家屋敷は安くても、それを復興させてかつてのような栄華をとり戻すためには百万長者でなければむりですからね」
ドリアはいくらでも喋りつづけ、食事がすむと例のタスカン葉巻を一服吸い、レッドメーン氏がブレンドンに敬意を表して特別に出したブランディーを飲んで、それから腰をあげた。
残った三人の間で当然彼のことが話題になった。ブレンドンはジェニーの態度にしきりと関心をもったが、彼女はそぶり一つみせず、ただジュゼッペの声や多才ぶりや性質のよさを称讃するばかりだった、
「あの人は何をやってもできるんですものね。おひるからは釣りに行くつもりだったんですよ、でもこんなしけですもの、また庭仕事をやる気でしょう」
そのあと、ドリアが金持ちのお嫁さんをみつけて例の夢を実現できるといいのだけど、と彼女はいった。ペンディーン夫人自身の将来の設計のどこにもドリアが含まれていないのは明らかだった。だが、なおもこのイタリア人の話をしているうちに、ジェニーはたった一つ聞き手を驚かすようなことをいった、
「あの人は女が嫌いなんですのよ」彼女は断言するようにいった、「女を蔑むような態度をとるんでよく腹が立ちますわ。ベン叔父さんと同じぐらい困った人よ、叔父さんもほんとに薄情な独り者ですけどね。彼はこういうんです、『女と坊主とにわとりはこれでいいっていうことがない』って、でも男の方がよっぽど欲ばりですわ、昔からそういうものよ」
ベンディゴは笑った。それからみんなでしばらくの間テラスへ出ていたが、やがてあたりは早くもたそがれ始めてきた。まだ嵐というほどではなく、一陣の風がすさまじく吹きつけて暗雲が一掃されると、燃えるような夕陽の光が西の空をおおっているのが見えた。しだいに紫を濃《こ》くしていく海の上に、スタート灯台が白い星のような瞳を開き、遥か下の断崖に大波がうつろな響きを轟かせて打ち寄せはじめたのをしおに、三人は家の中へ戻った。そしてレッドメーン氏は収集した珍しい品々をブレンドンに見せた。五時になるとお茶を飲み、それから一時間してブレンドンは帰途についた。彼はいつでもまた来て下さいといわれたのだった。老水夫はいつ何時でもブレンドンが客として来てくれればたいへんうれしい、とはっきりいったのだが、この申し出に彼は少なからず誘惑を感じた。
「あなたは大したお方ですわ」外の門まで見送って出ながらジェニーはいった、「あの叔父に気に入られたんですもの、ほんとにおてがらですわ」
「お言葉に甘えてほんとにクリスマスのあと二、三日お邪魔してもよろしいでしょうか?」ブレンドンがそう聞くと、彼女はいらして下さればたいへんうれしいといった。
少々元気づいて歩き出しはしたものの、彼女と相対していたことによって上げ潮のように彼の身うちに満ち始めていた快活な気分は、やがてふたたび退いてしまった。すっかり疑いの気持ちにおそわれ、ドリアに対するジェニーの無関心な態度はみせかけではあるまいか、となかば信じた。彼女は、喪があけるまで細心の注意を払って気《け》どられないようにしているのだ、だが来年の夏が終ればきっと再婚する。この確信はブレンドンを憂鬱にした。
彼は近いうちにもう一度『烏荘《クロウズ・ネスト》』を訪れるのが賢明な策ではあるまいか、と思った。そう考えると矢も楯もたまらなくそうしたくなった。そして翌朝また訪れることになろうとは思いもよらなかったから、春になったらなるべく早くベンディゴ・レッドメーンに招待のことを思い出させなくては、と決心した。その頃までには形勢はかなり変わっていると思われた。なぜならジェニーと文通するつもりなのだから。いや少なくとも文通の第一段階には入るつもりなのだから。
淋しい道を辿っていくうちにいつか月がのぼっていて、むら雲の間から明かるく照らしていた。その銀色《しろがねいろ》の光を雲はいまにも覆いかくしてしまいそうだった。雲は迅く流れ、ブレンドンの頭のうえでは電線がしだいに強まるあらしの歌を低くかなでていた。この男の頭の中は、まるでこの気まぐれな疾風そっくりに不規則に動いていた。彼はジェニーのいった言葉の一つ一つを考えてみ、彼女が彼に向けた一つ一つの視線の意味を理解しようといっしょうけんめいになっていた。
ブレンドンは、ベンディゴの立てた説は結局まちがいなんだ、と自分にいってきかせようと努めた。そしてどんなことがあったって、マイケル・ペンディーン未亡人の悲しみの心がかのイタリア人風情のために失われることはあり得ないんだ、と確信した。そんな馬鹿なことがあるものか、ジェニーは、突然あんな無惨な別れ方で夫に先立たれた、しかもあれほど立派な婦人なのだ、あんなうぬぼれのかたまりみたいなハンサムなおしゃべりなどに、彼女の悲しみを慰め、将来の満足を約束することができるわけがない。理屈ではこの考えはもっともなものに思われた。だがそう考えているそばから、恋はあらゆる理屈をしめ出し、人の性格さえ覆《くつが》えしてしまうものなのだ、と感じていた。
なおも深く考えこみながらブレンドンは歩いていった。そしてやがて、風上の側の高い土手と、反対側の松林との間の道にさしかかろうという時に、彼は生まれてこのかた味わったこともないような、全く驚ぐべき体験をしたのだった。
道の際《きわ》に林の方へむかって開いている門があって、そこにロバート・レッドメーンが立っていたのである。
二人をさえぎるものは五本の横木からなる門だけであった。大男は組んだ腕を一番上の横木にのせてもたれかかっている。月の光がその顔を煌々《こうこう》と照らし、頭上では松林の上を吹きあれる風がざわざわと陰鬱なうなりを立てている。そして遥か下の方からは、断崖をおおうばかりに猛り狂う海の叫びが伝わってくる。赤毛の男は身動き一つしない、警戒しているのだ。例のツィードの上着、帽子、赤いチョッキ、ブレンドンがフォギンターで見かけた時と同じ服装である。はっとしたような彼のまなざしが月の光にキラリと輝き、大きな口髯も、その下にのぞいているまっ白な歯も見えた。その表情は、みじめにもやつれ果て、恐怖におののいていたが、狂気のかげはなかった。
誰かとひそかに会う約束があってそこにいたらしかったが、彼が待っていた相手はマーク・ブレンドンではなかったのだ。刑事が立ちどまって相対したとき、彼は一瞬じっとみつめた。ブレンドンとわかったらしかった、いや少なくとも敵とみなしたようであった。なぜならいきなり彼はふり返って背後の森の中へとびこんでみえなくなったからである。彼は一瞬にして消えてしまった、そしてあわてて逃げていくその足音もいっさい嵐にかき消されてきこえなかった。
[#改ページ]
第六章 ロバート・レッドメーンからの伝言
しばらくの間ブレンドンはみじろぎもせずに、月に照らし出されたその門と、そのむこうの森の暗がりとをみつめて立っていた。松の木の下にはしゃくなげや月桂樹がびっしりと緑色に生い繁り、容易には侵入できない隠れ場所を提供している。ロバート・レッドメーンを追いかけることは無益でもあれば危険でもあった。こんな場所では探す者の方が深される者の思いのままになりかねないからである。
この突然の幽霊の出現にブレンドンはすっかりとまどった、このことはいろいろなことを示しているからである。それはまさに、たった今『烏荘《クロウズ・ネスト》』で別れてきたばかりの人々の裏切行為の証拠であった。ブレンドンがたまたま訪れたその日に、求める犯人が兄の家の付近に突然現われたというのは、偶然というにはあまりに一致しすぎる。しかし、ブレンドンはベンディゴにあらかじめ自分が来ることを知らせてなかったのだから、共謀はできないはずと思われた。
幻覚だったかもしれない、とも考えてみた。だが彼は自分の心が理性的にできていてとても幻影などみるわけがないことを知っていた。想像力はもちろんあったがそれは強さの源にこそなれ、弱さの原因になるはずはなかった。そして、どんな迷信も彼の知的才能を弱めることはないのである。それにまた、ロバート・レッドメーンが突然出現したとき、ブレンドンは彼のことなど全然考えてもいなかったのだ。いや、たしかに、あれは生きている人間だったのだ、そして人の目に触れたくないらしい人間なのだ。
ブレンドンはこの発見を無視する気は毛頭なかった。そしてやむを得なければたとえそれが兄の家においてであろうとも、ロバート・レッドメーンを逮捕するつもりだった。だがダートマス署に応援を頼む前に、このことについてまずジェニー・ペンディーンに聞きたいと思った。ジェニーは欺いたりはするまい、率直に訴えれば嘘はつくまい、という気がした。そう思ったとたん、彼女はすでに嘘をついているにちがいないという確信が頭にひらめいてにがい苦痛を味わった。もしロバート・レッドメーンが『烏荘《クロウズ・ネスト》』に隠れ住んでいるのなら、ドリアも、唯一人の女中も含めて一家中の者が秘密に関与しているわけなのだから。
もしジエニーが、手を引いてくれ、ロバートを見逃がしてくれと懇願した場合、この発見を自分ひとりの胸にしまっておいて許されるであろうか? 彼女がそう頼むかも知れぬという可能性にひそかな希望を託し、未亡人の申し出に屈することでついにおのれの野望を遂げる手合もあることだろう。だがブレンドンは義務と愛情とを混同する男ではなく、また一方の犠牲において他方の成功が成り立つなどとは夢想だにしない男だった。その問題の答はおのずから決まっているのだ。だから彼はすぐさま決心した、もし翌日ロバートを逮捕できる状態になった時には、ジェニーであろうとベンディゴであろうといかなる人物にも邪魔だてはさせない、と。事実そうなるであろうことを彼はほとんど疑わなかった。今夜のところは慌《あわ》てることはない。ふだんと違って身も心もすりへっていたのでその晩はぐっすり眠り、翌朝遅く目を覚ました。女中がドアを叩いたのは八時半、彼が着替えをしている時だった。
「今すぐどうしてもお会いしたいという方がおみえなんでございますが。ドリアさまとおっしゃって『烏荘《クロウズ・ネスト》』のレッドメーン船長のお使いだそうでございます」
それなら今日の仕事は簡単に運びそうで結構なことだと思ったから、ブレンドンは女中に客を案内するようにいった。二分の後にはジュゼッペ・ドリアが姿をあらわした。
「あなたの居所をよく探し当てたでしょう。なにしろぼくたち、ダートマスにお泊りのことはわかってましたが、どの宿かは知らなかったんですからね。でもぼくはきっと一番いいホテルだろうと思ったんですよ、ちゃんと当りました。よろしければ朝食をご一緒させていただきながらぼくがここまで来たわけをお話しましょう。とにかくお発ちにならないうちにあなたをつかまえるのが先決問題だったんですよ、間に合ってよかった」
「マイケル・ペンディーン殺しのロバート・レッドメーンが現われた、というんだろ?」髯をそりおわりながらブレンドンはきいた。ドリアは驚愕の色を示した、
「コルポ・ディ・バッコ! どうしてご存知なんです?」
「帰る途中で見かけたのさ」ブレンドンは答えた、「わたしは前に会ってるんだよ、ダートムアの惨劇が起きる以前にね。だからあの男には見覚えがある。それに、どうやらむこうでもわたしのことを覚えているらしいようなんだ」
「家じゅう恐怖に包まれているんです」ドリアは続けた、「まだ主人のところまで来たわけじゃないんですが、近くにいるんですよ」
「まだ来てないんなら、どうして近くにいることがわかるのかね?」
「こうなんです。ぼくは毎朝早くに牛乳とバタを買いに丘の上のストリート農場まで行くんですが、今朝行ってみるといやな話を聞かされました。ゆうべ男が忍びこんで飲み食いしてたんだそうです。そこの主人はその物音をききつけ、台所のテーブルで男が食べてるところを見つけたんですが、それが髪の毛も口髯も赤い大男で、赤いチョッキを着てたんだそうですよ。ブルックさん――そのお百姓ですよ――を見るや裏手の台所から逃げ出したというんです。入って来たのもそこからなんですがね。ブルックさんはその男のことは全く知らないんです。ぼくはその話を聞いて帰ってご主人に話したんですよ。
男の人相をいったらレッドメーン氏もマドンナも卒倒しそうになりました、あの二人にはわかったんです――その男こそ犯人だったんですよ! 二人ともすぐあなたのことを考え、ぼくに自転車で全速力でとばして、あなたが発たれないうちにつかまえろ、と命じました。うまく間に合いましたがゆっくりはしてられません、早く帰って見張りをしなくちゃなりませんからね。誰もいないと思うと不安なんです。あの老船長は海は恐がらないけれど、どうやら弟のことは恐いらしいから。それにジェニーさんですよ、あの人はすっかりおびえてますからね」
「食事に行こう」すっかり身支度を終ってブレンドンはいった、「十五分以内に車を都合して飛ばすとしよう」
二人はあわただしく食事をかっこんだ。ジュゼッペはしだいに興奮してくる様子で、他にも警官を連れて来てほしいと頼んだ。しかしブレンドンは応じなかった、
「まだそれには及ばないよ、ゆうゆう捕まえられるだろう。『烏荘《クロウズ・ネスト》』へ行ってベンディゴ氏に会い、意見を聞いてからのことさ。食べものを狙ってひとの家に忍びこむからには、ロバート・レッドメーンは精も魂も尽き果ててるに違いないからね」
九時前にはイタリア人は帰途についていた。彼が行ってしまうとブレンドンはすぐ警察に行き、拳銃と手錠を借り、何の仕事かそれとなく話して、できるだけ早く警察の車を出してくれるよう命じた。警官の一人が運転してくれたが、出発の前にブレンドンはそこの署長、ダマレル警部に午前中に電話で連絡をするから待機しているようにといい、現在のところは厳重に秘密を守るようにと命じた。
彼はドリアを追いこした。嵐はほとんどやんで朝は冷く晴れあがっていた。崖の下では海が大きくうねっていたがそれもじきおさまりそうであった。
『烏荘《クロウズ・ネスト》』の住人が偽りの印象を与えようと図っていたのではないかという疑いの念は、ジェニーとその叔父に相対した時にブレンドンの心からいっさい消え去った。ジェニーは興奮し、ベンディゴはすっかり混乱していた。ストリート農場に押し入った男がロバート・レッドメーンであることにはほとんど疑いの余地がなかった。自分の昨夜の体験から考えてもそれは確かなようであった。彼がロバートを見たのは、この逃亡者がストリート家を襲ったほんの数時間前なのだ。いったい今はどこにいるのか、なぜここへやって来たのか? おそらくその不運な男はフランスかスペインから舞い戻って、老水夫に安全に会える機会をうかがいながら近くにひそんでいるのであろう、そう皆は思った。
「弟さんはきっとこの家に気を配っているはずです」ブレンドンはいった、「そしてどうすれば自分の身を危険にさらさないであなたに会えるか考えているんでしょうな」
「弟《あれ》が信用するのはたった一人しかおらん、たぶんね。つまりこのわしだ」ベンディゴは断言した、「何もしないとわかっていればジェニーのことだって信用するかもしれんが、しかし、弟《あれ》は自分を許してくれるほどジェニーが立派なクリスチャンだとは信じまい。それにどっちみち、ジェニーがここにいることはおそらく知らんでしょうからな。いや、わしは弟がまるで正気かのようにしゃべってるが、実はわからんと思ってますよ」
レッドメーン氏所有のこの地方の大きな官製地図を検討したブレンドンは付近のあやしいところをただちに捜索してはどうか、といった、
「あなた方お二人のことを考えて申し上げるんですが、またひと騒ぎ起きたり、過去がむし返されたりするのはおいやだろうと思うんです。警察の手を借りずに大尉に近づくことができれば、それにこしたことはないでしょう。極度に切迫してるにちがいないんです。あの顔は、わたしが見たとこじゃあ苦悩にみちみちていました。おそらく精神的に限界にきてるんですよ、だから友情と理解にあふれた人々に迎え入れられたら、ほっとするでしょう。特に捜索してみたらいいと思われる場所が二か所ありますな。一つは海岸、人から見えないようなほら穴や岸壁の割れ目が、海面より高いところにいくらでもある。それからゆうべわたしと突然|出会《でくわ》したときに大尉が逃げこんだあの鬱蒼とした森です。いまここへ来る途中よく見てきたんですが、あの森は広大なようではあるけれど、狩猟家のための道が幾本もついてますね、この道に沿って探していけば何百ヤードでも調べられます」
ベンディゴは、もう家へ帰りついていたドリアを呼んできいた、
「ボートは出せるかね?」
ジュゼッペがだいじょうぶでしょうと答えると、ベンディゴは一つの提案をした、
「向こう二十四時間はこの捜索を秘密裡におこなってもらいたいですな。その結果うまく納得させて捕まえることができない時には、もちろん警官隊に出てもらって狩り出してもらうより他ありません。今日これからあなたのいわれる場所を探してみればいいんです。たしかにロバートの奴が隠れていそうな場所ですな。何も手出ししないでここにじっとしていたって、弟《あれ》は日が暮れればまもなくわしんとこへ忍んで来ますよ。しかしまあご忠告に従って、海岸なり森なり手がかりがないか調べることにしましょう。
弟《あれ》を見わけられる者は三人、ジェニーとわしとあんたといますな。ジェニーはジュゼッペといっしょに、ボートで海岸を調べてはどうですかね。西へむかって行けば小さな入江がたくさんあって簡単に岸へあがれるし、ロバートがそのへんで見ていてほら穴へ逃げこんだりするのが見えるかも知れん。あのへんには、奥の方に後の谷に通じるトンネルがついている洞穴がいくつかあるんです。おそろしく淋しいとこだから弟《あれ》もそう長くはいられまいし、だいいち、腹にいれるものが見つからんでしょう。ジェニーたちがその方面を二、三時間探してみることにして、わしらは森へ行きましょう。それともわしがあんたとボートに乗ってジェニーたちがブラック・ウッズヘ行くとしますか――どちらでもいいですがね」
ブレンドンはちょっと考えた。犯人は海岸より森の方を頼るのじゃないか、という気がした。その上彼は自分が船には弱いことを知っていた。嵐のあとで大波がうねっているのだから、船はひどく揺れるにきまっている。
「ペンディーン夫人さえこんな天気でも平気なら、そして全く危険がないものなら、おっしゃるように海の方へは姪ごさんがいらして洞穴を調べて下さるといいですな。もちろん奥さんのことはドリア君にまかせておいてだいじょうぶですね。その間にわれわれは森をあちこち探しましょう。なんとかして大尉と連絡さえとれれば、世間の評判にならずに捕まえられると思うんですよ」
「捕まえたら評判になるにきまってますさ」ドリアがいった、「なんてったって音にきこえた犯罪者ですからね、それを追いつめて捕まえた人は誰であろうと有名になりますよ、第一うんとほめられますよ」
ドリアは探険に出かける支度をしに行った。そして三十分の後にはモーターボートが波にもまれるようにして『烏荘《クロウズ・ネスト》』の下から出てきて、西へ進路をとった。だいぶ揺れてはいたが、ジェニーは平気で船尾にすわってツァイスの強力な双眼鏡で海岸や断崖の方を凝視しているようだった。船がやがて霧の中の白い一点となり、見えなくなってしまうと、水夫の着る厚いラシャの上着と帽子をつけたベンディゴは、パイプに火をつけ、太い|りんぼく《ヽヽヽヽ》のステッキを手にしてブレンドンといっしょに出発した。警察の車は道路に待っていた。二人はそれに乗りこみ、昨夜ロバート・レッドメーンが姿を現わした門のところまで行って降りると、ブラック・ウッズの中へ入っていった。
ベンディゴは姪の話をしつづけていたが、それこそ聞き手の最も望む話題だったわけである。ジェニーの叔父は断言するようにいった、
「あの子は今岐路に立っている。わしにはあの子の心の動きがわかるんですよ。夫を深く愛していたことも、性格的に夫の影響を少なからず受けていることもたしかだ、少女時代のジェニーとは変わりましたからね。しかしドリアがいよいよあの子を好きになってきたのもたしかなようですな、――そしてああいう男に惚れられると女はたいがい満更でもなくなってその気になっちまう。思うに姪は今あの男を好きになってしまってる、しかし秘かに自分を恥じてるんですよ――そう、心底から恥じてるんです。だってペンディーンが死んでわずか半年しかたってないのにもう別の男のことを思ってるんですからな」
ブレンドンは一つ質問をした、
「ジェニーさんの性格をそのご主人が変えた、とおっしゃいましたが、どういうふうにです?」
「ああそれはね――、なんというかあの男は分別ということを教えたらしい。あんたにはとても想像できまいが、ジェニーも以前は赤毛のレッドメーン家の一人だったんですよ――わしらと同じ短気ですぐカッとなる。信じられますか? だが子供の時はそうだった。あの子の父親はわしら以上にレッドメーン家の素質を受けついでいて、しかもそれを子孫に伝えた。だからジェニーは強情で気が強くていたずらな子だった。学校の規則なんか物ともしないもんだから同級生からは尊敬されてましたな。ふざけ過ぎて放校になったこともある。ジェニーが夫を亡くしてわしのもとへ帰ってきた時、わしが思っていたのはそういう娘だったんです。だからわしは、ジェニーに分別とか忍耐とかを教えたとはマイケル・ペンディーンもなかなか大した性格の持主だったというんですよ」
「年齢や経験のせいかもしれませんよ、それと、ご主人の死という急激なショックのためもあるんじゃありませんか。そんなことがいっしょになって気が弱くなってるんでしょう、一時的にね」
「なるほど。ジェニーはあれだけおちついてはいてももともと生真面目《きまじめ》な女じゃない。あれほど喜々として生活を楽しんでいたような子なんだから、ペンディーンのせいにしろ、誰のせいにしろ、たった四年の間にあの子からそういうところがなくなるわけはありませんからな。ペンディーンはウェズリ教徒だったかも知れんですな、コンウオール地方にはそういうのが多いから。そして座を白けさすようなおもしろくない奴だったかも知れんですよ。しかしどういう男であったにせよ、四年間ではジェニーを完全に変えてしまうことはできませんでしたな。わしが今見ている限りじゃあ、あの子はあのイタリア人の感化で少しずつ元のジェニーに戻っていくみたいです。あの男はまた巧みですからな。ジェニーを喜ばす方法を心得ておる、あの子だって女だから多少のうぬぼれはもってますからね、美貌を自慢する女では決してないが。ドリアは愛情のために野心なんかなくなってしまったということを、うまくほのめかしたんです。よほど上手にやったにちがいない、だからあの子にはドリアがどっちの方向へ舵をとってるかもうわかっているんですよ。ドリアは金や城よりもジェニーがよくなったんです。つまり、まあわしが馬鹿でない限り、一年たって堂々とその問題に触れられるようになればすぐあの男は申し込みますよ」
「で、あなたはジェニーさんが承諾なさるとお思いなんですな?」
「今のところはまず確かだと思ってますよ、しかしドリアは移り気な奴だからその頃には気が変わるかも知れんです」
そういってから今度はベンディゴが質問した、
「哀れな弟は遺書を残してないし、事件以来自分の財産にも全く手をつけてませんね、いったいずっと潜んでいた間どうやって生きていたんでしようかね。しかし最悪の事態になって弟《あれ》が気違いだとなったら、その財産はどういうことになります?」
「結局はあなたとあなたの兄上のものになるでしょうな」
森の中を歩きまわっているうちに二人は狩場番人に出あった。彼は仏頂面《ぶっちょうづら》をしていたが、用件を聞かされ、逃亡者の人相を教えられると、どこでも歩いてかまわぬといい、自分も厳重に見張りをすると約束し、他の二人の仲間にも警告するといった。そしてもっと事情が明らかにならないうちは、逃亡者に関していっさい口外してはいけないということもわかってくれた。
だが、ブレンドンにもロバート・レッドメーンの兄にもなんら情報はもたらされなかった。目指す相手のそれらしい形跡さえ見当らず、三時間もかかってベンディゴがくたくたになるほど全地域を捜索したあげく、二人は自動車に乗って『烏荘《クロウズ・ネスト》』に帰ってきた。
帰ってみると重大な知らせが待っていた。目指す相手は森よりも海岸にいそうだ、といったベンディゴの想像は正しかったのである。ジェニーはロバート・レッドメーンを見かけたどころかそばまで行って会ってきたのだ。彼女はひどく思い悩んでいる様子で神経を昂ぶらせていた。一方大いに活躍したドリアはその自慢をしたそうだったが、それでも彼は冒険談のヒロインとしてぜひペンディーン夫人から話をするようにといった。
ジェニーは深く感動していて、話している間も二、三度声がとぎれた。しかし事が重大だったからベンディゴは不運な弟の様子を聞くのに夢中でジェニーのことは気にもとめなかった。彼女とドリアとはモーターボートに乗っていてふいにロバートを見かけたということだった。ジェニーはいった、
「海岸を二マイルほど行ったあたりで見かけたんです、海から五十ヤードと離れないとこにすわってました。もちろんむこうでもあたしたちのこと見えたはずですけど、むこうは望遠鏡はもってないんですし、なにしろこちらは岸から半マイルは離れてたんですから、あたしたちが誰であるかはむこうからはわからなかったんです。それからジュゼッペが岸にあがって傍まで行こうっていい出しました。とにかくできるものならあたしが会って話をしたいわけでしょう。あたしはちっとも恐いとは思いませんでした、ただむこうが、あたしの一生を台無しにしてしまったというのであたしと顔を会わせたがらないんじゃないか、とそれだけが心配でしたわ。
あたしたちは知らん顔して少し通り過ぎてから、むこうから見られないように小さな断崖のかげへまわって岸へあがりました。そしてボートをしっかりつないでから、うまく叔父さんの方へ忍びよりました。うまくいきましたわ。もちろんあたしは双眼鏡で見てそれがロバート叔父さんであることはわかっていたんです。ですからまずドリアが先に立ってあたしがその後からついて、二十五ヤード手前までそうっと近づきました。かわいそうな叔父さんはあたしたちに気がつくと跳びあがりました。でもその時はもう遅く、ジュゼッペがかけ寄ってあたしが味方として来たことを説明しました、ドリアはもし逃げ出そうとしたらとり押えるつもりでいたんですけれど、叔父さんは逃げませんでした、消耗しきっているんです。いろいろと苦しい目に会ってきているんですわね。最初はちょっとひるんだ様子であたしが傍へ行くとくずおれんばかりでした。そしてあたしにむかってひざまずいているんです。でもあたしはじっとこらえて、決して敵意を抱いて来たのではないことをわからせました」
「正気だったかね?」ベンディゴがきいた。
「正気のように見えますわ。叔父さんは過去のことはいっさい口にしないし、犯した罪のことにも、またそれ以後の行動にもいっさい触れませんでした。でも変わりましたわ。まるで以前の叔父さんの幽霊みたい。声だってあのどら声がひそひそ声になりましたし、眼もなんだか幽霊みたいですもの。そして痩せて絶えずびくびくしてるんです。叔父さんはドリアを遠ざけてから、ここへ来たのはベンディゴ叔父さんに会うためなんだってあたしにいいました。あの西の方の海岸のどこか洞穴に二、三日前からかくれていたようですけど、どの辺かは教えてくれませんでした。でもさっき叔父さんのいたすぐ近くらしいことはたしかです。ぼろぼろのみすぼらしい恰好で、その上傷だらけ、片っぽの手なんか手当てしなくちゃいけないようになってましたわ」
「それでも正気の人間のように行動してたとおっしゃるんですね、奥さん?」ブレンドンがきいた。
「ええ――、あの異常な恐怖心以外はね。でもそれだってあの状況なら無理もないことですものね。お気の毒に叔父さんはもう万策つきたと思っているんです。それにもし正気でなくて極刑は免れることになるにしたって、叔父さんにはそれがわからないでしょう。あたし、どうかボートでいっしょに来てベンディゴ叔父さんに会って下さい、そして仲間の友情を信じて下さいって懇願したんです。そういうふうに頼んでも裏切ることにはならないと思いました、だって今は正気なように見えてもほんとは気が変なのに違いないと思うんです、気が変でなければあんなことやれるはずがないんですもの。ですから正気でないということでそれ相応の裁きですむことになりますわね。でも叔父さんはとっても疑い深くなってるんです。あたしに感謝して平伏せんばかりなんですけど、それでもあたしのこともドリアのことも信用しないし、ボートに乗る気なんて全然ないんです。全身の神経をとがらせていて、誰かが待ち伏せているんじゃないかとか、拘禁されるんじゃないかとかって、すぐびくびくし始めるんです。
それであたし、どうして欲しいのか、どうすれば助けてあげられるのかってききました。叔父さんは少し考えてからこういいましたわ、もしベンディゴ叔父さんがひとりだけで会ってくれて、そのあと自分が帰るのを妨害しないと神かけて誓うんなら、今夜家中が寝しずまってから『烏荘《クロウズ・ネスト》』へ来たい、って。とりあえず今は食べものと、暗くなってからのための灯《あか》りが欲しいといってました。でもね、ベン叔父さん、とにかく何よりもあなただけにしか会わないですむようにさせて欲しいといってましたわ。ロバート叔父さんはそれから、あたしたちがほんとに味方であるんならもう帰ってくれっていいました。今のところそういうようなわけですわ。ベン叔父さんさえお会いになる気になって下されば、真夜中過ぎなら何時でもご指定の時間にここへ来るはずです。でもその前にまず、神かけてたった一人で会う、わなをしかけたり引き留めようとしたりはしないという誓約書を書いて渡さなくてはなりませんわ。イギリスから首尾よく逃れてイタリアのアルバート叔父さんのもとへ行けるように、ベン叔父さんからお金と着るものとを貰いたいといっているんです。あたしたち、どこでロバート叔父さんを見つけたか誰にもいわないって約束させられました。そして叔父さんはある場所を指定して、そこへベン叔父さんがお書きになった返事をあたしが日が暮れないうちにもっていくことになっています。あたしはできるだけ早くお手紙をそこへ置いてすぐ立ち去ることになってるんです、そうするとロバート叔父さんは出てきてベン叔父さんのお指図を見つけるというわけです」
レッドメーン氏はうなずいた、
「その時いっしょに食べものやランプを持っていってやるのがいいだろうね。だがいったいぜんたい、今まで半年もどうやって生きていたのかねえ」
「フランスにいたんですって――そういってましたわ」
ベンディゴはどういう行動をとるかてきぱきと決めた。ブレンドンもその決断に賛成した。
「まず」ロバート・レッドメーンの兄は宣言するようにいった、「ロバートは、いかに正常に見えようともやっぱり気が狂っているにちがいない。今の話がそれを裏がきしている。それにいまだに捕まりもせず、二つの国の警察の網からものがれて生きてこられたところを見ると、気が狂っているからこそ巧妙にたちまわれたという他はないようだ。しかしジェニーの報告通り、ついに万策つきたらしい。弟《あれ》はこの家を知っているし、ここへ来る道も知っている。だからわしはこうしようと思う。
今夜――いや明朝といった方がいいかな――会うことにわしは同意しよう。一時に来いといおう。ドアは開けておき、ホールのあかりもつけておくから弟《あれ》はまっすぐ入ってきて塔のわしの部屋へあがってこれる。他の誰にも会わないし、好きな時に自由に帰れるということを、わしはちゃんと誓おう。そうすればロバートも落ちつくだろうから、わしもあいつを観察できるし、いったいこれがどういうことなのか見きわめることもできる。もちろんわなを仕組むことはできるんだが、いかに相手が気違いでもわしは欺くことはできんのでね」
「そんな必要はありませんよ」ブレンドンはいった、「大尉に対して恐怖心をお感じにならないんでしたら、おっしゃるように会ってあげればいいんですよ。ですが、おわかりですね、大尉の望むような、法をくぐる手助けはいけませんよ」
ベンディゴはうなずいた、
「それはそうですよ。いずれにせよアルバートにあいつをおしつけることはできません。アルバートは気の弱い神経質な人間ですからね、ロバートが隠れ場所を求めて自分のところへ来るなんて聞いただけで発作を起こしますよ」
「大尉の隠れ場所の心配は国家がしますよ。これからのことは身内の方々がご心配にならなくていいんです。まあ一番望ましいことは大尉がなるべく早く保護されることですね、大尉白身のためにも他の人々のためにもね。会って助けておあげになるといいでしょう、そして大尉のいい分を聞いてあげるのです。そのあとはわたしの忠告をきいてわたしに任せて下さいませんか、レッドメーンさん」
ベンディゴはすぐいわれた通りの手紙を書きにかかった。その夜一時にひそかに会いに来るように、帰りたいときにはいつでも安全に自由に帰すと誓って約束する、と書いたが、そのくせ、『烏荘《クロウズ・ネスト》』に泊って将来の身のふり方について相談してほしいという強い希望も述べたのだった。食べものがボートに積みこまれ、手紙をポケットに入れたジェニーはふたたび出発した。ジェニーはボートをあやつるのはドリアに劣らず巧みなので自分一人で行く気であったが、彼女の叔父がそれは許さなかった。すでに日は暮れかかっていて、ジュゼッペは全速力で小さな船を走らせた。
やがてブレンドンはひどく驚かされた。彼は『烏荘《クロウズ・ネスト》』のあるじと並んで旗竿の下でボートを見送っていたのだが、西へむかったその船が灰色の静かな夕闇の中へ消えてしまったとき、ベンディゴが全く意外な発言をしたのである。
「聞いて下さい。わしは今夜たった一人で弟と会うのがどうにも不安で仕方がない。なぜだかわかりません。わしは臆病者じゃないし、これまで義務を怠ったこともないです。しかし正直にいって弟《あれ》とは会いたくない。というのは、気違いはやっぱり気違いですからね、どんなにうまく話すにしても相手に逆らうようなことをいえば気違いはすぐ理性を失いますよ。弟が理性を失ったり、わしの忠告にカッとなってつっかかってきたりしたら、わしにはどうしようもない。つまり一発ぶっぱなして制するよりほか手だてがない。しかしそうするよりほかあいつをとめる手だてがないとしたら、わしはその役目にはなりたくないです。
わしは一人で会うと約束したが、あの哀れな弟に嘘をつくことにはならんでしょう、もしすべて事なくいって弟も暴れたりしなければ、なにも他に誰かいると知らせる必要はないんですからな。そして、もしわしに危険が迫っても誰か助ける人がいれば手あらなことをしないでとり押えられる。しかしもしひとりでいてあいつが暴力をふるってきたら、いやな結果になるのは目に見えてます」
ブレンドンはこの発言の真意をよく理解した、
「たしかにもっともなことです。こういう場合は約束を破っても致しかたありませんよ」
「しかしね、精神においては約束を守るわけです。わしは弟《あれ》に、誰にも妨げられないで来て帰れるようにすると誓った。わしにその誓いを破らせるようなことを弟がしない限りわしは守らなくてはならんのです」
「おっしゃる通りです、わたしも賛成ですよ。もちろんドリアは何をやらせても任せておける男ですし、腕っぷしも強いですからな」
ところがベンディゴはかぶりをふった、
「いいや。わしは考えがあってこの問題をドリアと姪が出かけてしまうまでもち出さずにいたんです。あの子たちはこれ以上介入させたくない。ロバートが来た時に塔の部屋に誰か助太刀が隠れてるってことをあの子たちにも誰にも知られたくないです。みんなわしが一人でロバートに会うと思っているし、わしもみんなに一瞬でも姿を現わすなといいつけてあります。わしが一しょにいてもらいたいのはあんたですよ、あんただけなんです」
ブレンドンは考えてからいった、
「実をいうと弟さんの申し出を聞いたときすぐにわたしもそう考えたんですが、状況を考えると無理にそうもいえなかったのです。賛成です、もちろん、誰も――家族の方々さえ、わたしがいることを知らないとすればこれほどいいことはありませんな」
「うまくいきますとも。車を帰して報告はあしたするといえば、この後どうなるかわしらが見届けるまで警察は何もいってきませんよ。あんたは塔へ上がって旗やら何やらしまってある大きな箱の中に入ってればいい。ちょうど頭の高さのところに換気用の穴があいてるから、あの中へ入っていれば何もかも見えるし音も聞こえる、もしわしが危くなっても五秒とかからずにとび出せます」
ブレンドンはうなずいた、
「いいでしょう。ただそのあとのことですよ。弟さんがやがて行ってしまったら、ペンディーン夫人はそれを待ちかねていて必ず上がってきますよ。一晩中戸棚に入ってもいられませんからな」
「あいつが行っちまったあとのことはどうでもいい。あんたが車を帰すかどうかそれが今大事なところですよ。そうすればわしとあんた以外はみんな、あんたがダートマスへ帰ってあしたの朝まで来ないと思いこむ」
ブレンドンはこの計画に同意して車を帰し、報告があるまで何もしないようにダマレル警部に伝えてくれと命じた。それから老水夫といっしょに塔へ上がり、大きな戸棚を点検したが、その中へ入っていれば事件の経過をなかなか具合よく観察できそうだった。半ペニー貨ぐらいの穴がそれぞれの扉についていて、足の下には三インチほどの支えがあるので、ブレンドンの目と耳の高さにちょうどよかった。話の続きに戻ってブレンドンは考えた、
「問題はそのあとどうやってわたしが姿を消すかですよ。弟さんが行ってしまえばすぐペンディーン夫人も、それからおそらくドリアも大急ぎで出てきてどんなことになったか、あなたがどう決断されたか聞きたがるにきまってますからねえ」
「あとのことは問題ないですよ。わしは玄関までロバートを送っておりるからあんたはついて来て弟が出たらすぐそうっと出ちゃえばよろしい。さもなければ、弟が行ってしまったら出てくればいいですよ、そしてわし以外誰にも知らせずに隠れていたのはあんたの意志だとジェニーにいうんですな。それが一番いいじゃないですかね、あんたがいたとわかればジェニーはすぐあしたの朝まで快適に寝られる場所を作ってくれるだろうし」
ブレンドンはこの計画に従うことにした。ボートが帰ってくるとべンディゴは、まだ調べることがあるのでブレンドン刑事は帰ったが明朝早くにはまた来るだろう、とジェニーに告げた。彼女は大いに驚いたようだったが、逃亡者が来ないうちに帰ってしまうからにはどうしてもそうする必要があったのでしょうね、といった。
「お手紙とランプと食べものや飲みものを叔父さんの指定した場所へちゃんとおいてきました。淋しいところよ、大きな玉石のある砂浜の上ですわ」
かくして準備は整った。ブレンドンはすでに上の部屋におさまっており、ベンディゴは邪魔が入らぬように気を配っていた。自分が在室しない時は鍵をかけておくのがレッドメーン氏の習慣だったので、今も彼は夜まで鍵をかけておいた。そしてジェニーとドリアと三人で夕食をとったが、その前にブレンドンには隠れ場所へ食物を運んでおいた。十一時までには老水夫は自分の部屋へひっこむことになっており、それまでにブレンドンはちゃんと戸棚の中へ入っているはずであった。
決めた時間になると、|あかり《ヽヽヽ》を手にしたドリアと彼の雇い主とはいっしょに部屋へ上がっていった。ジェニーも来てしばらくいたが十分ほどいただけで寝室へひっこんだ。外は荒れ模様で雨も降り出していた。西風が叫ぶように吹きつけてきて塔を揺さぶり、烈しい雨がガラス窓に叩きつけた。ベンディゴはそわそわと歩きまわったり、眉根を寄せて夜の闇をみつめたりしていた。
「かわいそうにあいつは溺《おぼ》れちまう。さもなきゃこのまっ暗闇じゃ海から這い上がるときに首の骨を折る」彼は断言するようにそういった。
ジュゼッペは水差しと酒の壜《びん》と、小さなたばこの入れものと陶のパイプを二、三本もって来てあった。老水夫は夕食前には決してたばこを吸わないが、そのあとは寝るまでじっくりとふかすのである。
いまベンディゴは向き直ってドリアに質問をした、
「おまえ今日あいつを見たろう、おまえはかしこい男だし人を見る目もある。わしの弟をどう思ったね?」
「近くで見ましたし喋るのも聞きましたよ。そうですねえ、ずいぶん体が弱ってるようでした」
「また暴れ出して咽喉《のど》へ切りつけたりはしそうにないかね?」
「二度としませんよ、断言します。マドンナのだんなさんを殺した時には気が狂ってたんです。今は狂ってない、常人と同じです。あの人が心から望んでいる事はたった一つ――安らぎですよ」
[#改ページ]
第七章 約束
ベンディゴはパイプに火をつけ、彼の唯一の蔵書を手にした。それは『白鯨《モウビイ・ディック》』であった。ハーマン・メルヴィルのこの傑作は久しい以前から老水夫にとって世の中でただ一冊の文学作品となっていたのである。それには彼にとってこの世で最も興味ある事柄がすべて含まれていたし、また来るべき死や来世についての心構えに必要な事がことごとく書かれてあった。そしてまた『白鯨』は、彼にとって欠くことのできない大海との絶え間ない接触を提供してくれるのだ。
「さて、もう行ってくれんか」彼はドリアにいった、「いつものようにどこもよく見てまわってくれよ、それがすんだら寝なさい。ホールの|あかり《ヽヽヽ》と玄関の鍵だけはそのままにしておいてよろしい。おまえ、弟は時計を持ってたかどうか気がついたかね?」
「持ってませんでしたが、時間を知るのに困るだろうと思って奥さんがご自分のを貸しておあげになってましたよ」
ベンディゴはうなずいて、パイプを一つとりあげた。ドリアはまた、しゃべり出した、
「落ちついておいでですか? 何でしたらご用の時すぐかけつけられるようにぼくが待機してましょうか?」
「いいや、よろしい。行って寝てくれ。こっそり様子をうかがったりするでないぞ、紳士らしくな。弟《あれ》にはよくことわけを話すつもりだよ、きっとうまくいく。何しろ弟《あれ》は戦争神経症《シェルショック》やらなんやら患っているんだからね、法だってそうむごいことはせんだろう」
「奥さんはロバート・レッドメーンに対してまるで天使でしたよ。最初は自分を警察へ渡すために来たんだと思ったようでしたが、奥さんの目はやさしい気持ちで来たことを物語っていましたからね。いま、ちょっとだけ姪ごさんの話をしてもよろしいでしょうか?」
ベンディゴは猫背の肩をすくめ、片手でその赤い髪の毛をかきむしった、
「あの子の話をするのは、おまえが先にあの子に話してからでなくちゃだめだよ。おまえの望んでることぐらいよくわかってるさ。だがそれはあの子にいうんだね、わしじゃなくね。ジェニーは子供の時から自分の思う通りにやってきた子だよ、――父親の意志の強いところが女の姿をかりてあの子の中にそっくり隠れているのさ」
ベンディゴはマーク・ブレンドンが細大もらさず聞いてしまうにちがいないと思うとあまり愉快ではなかったが、どうしようもなかった。
「ぼくたちイタリア人のやり方はまず恋人の両親に近づくことなんです。あなたをものにすれば相当なところまでいったことになるんです、だっていわばあなたは彼女の親がわりってとこですからね、そうでしょう? 彼女はひとりでは生きていけませんよ。神さまはあのひとを独身の女とか未亡人とかにお創りになったんじゃないんです。イタリアの諺《ことわざ》に、『美しく生まれついた女は結婚するために生まれた』というのがあります。誰か競争者が現われやしないかと思ってぼくはとても心配なんです」
「しかし例の大望はどうしたね? 金持ちのあととり娘と結婚して先祖の称号と土地とやらをとり戻すとかいってたが」
ドリアは、以前の望みなんか遠くへ棄て去るとでもいうように両手を大げさに左右へ振って答えた、
「運命です。ぼくは愛情なんて計算に入れないで一生の計画をたてたんです。恋なんてしたこともないし、したいとも思ってませんでした。ぼくは金と結婚して恋をするのに必要な資力と暇ができたらそんな気になるかも知れないと思ってたんですが、今はすっかり変わってしまいました。矢は放たれたのです。今は金持ちの女なんかいりません、欲しいのはぼくの情熱を、憧憬の念をよびさましてくれる女性だけです。マドンナ――イギリスのジェニーがいなくては生きてたって意味がありません。あのひとに較べたら城だの称号だの――そんな虚飾や栄誉が何でしょう。塵芥《ちりあくた》にすぎませんよ!」
「それであの子の方はどうなんだ? ジュゼッペ」
「あのひとは気持ちをかくしていますからね。でもあのひとの目にはぼくに希望をもてと語るものがあります」
「じゃあわしは?」
「ああ! 恋は身勝手なもの。ですが、ぼくはあなただけは傷つけたくないし、あなたから奪いとったりはしたくない。ぼくにとてもよくして下さってるんですし、マドンナだってあなたを好きですからね。どんないいことがあったって、あのひとはあなたのようによくして下さる方に逆らうようなことはしないでしょうね」
「この話はまあむこう六か月はおあずけにしておいてもいいな」ベンディゴは長いパイプに火をつけながらいった、「婦人にいいよる場合、おまえの国にだってイギリスと同様、していいことと悪いこととあるだろう。あの子は夫に死なれた女――しかもあんな悲惨な状態で未亡人になった女なんだよ、ここしばらくは恋の話は問題外だってことはわかるね」
「そりゃあそうですよ。ぼくは瞳にもえる焔さえ隠しているんです、あのひとを見るときは目を細くしてまぶたの間からやっと見るんですよ」
「ジェニーには相当金が入る、おまえははしっこい奴だからそんなことはよっく承知だろうな。今のところはまだはっきりしてないがね。死んだ夫は遺言をのこしてない、他に権利を主張する者はおらんのだからあの男の金はみんなジェニーのものになる――年に五百ポンドほどだろう。しかし将来はもっとになる、アルバートもわしも独り者でジェニーが一番近い身うちだからね。実際の話が、万事うまくいけばあの子はいずれは相当な金持ちになるといえるさね。崩壊した城につぎこむには足りんだろうが、相当な収入にはなる。それに哀れなロバートの分もある。弟《あれ》が今後どうなるにしても、財産を使うことはもうなさそうだからな」
「そんなことはぼくにとっちゃ何の関係もありませんよ」ドリアは断固としていった、「そんなことは考えたこともないし考えたいとも思いません。ぼくがジェニーに抱いている気持ちがどんなものか、それに較べたら他のことは|からし《ヽヽヽ》の種ほどの価値もないです。あのひとが一文無しだろうと百万長者だろうとぼくの心が変わるものですか。全身全霊を捧げてあのひとを愛してるんです――ぼくの心の中には金に対する欲望や貧乏を恐れる気持ちが足がかりを見つけるすきまなんてありません。幸福は金があるとかないとかに左右されるものじゃない、ところが愛情なしではこの世の真の幸福はみつけられないんです」
「それこそ口先だけの話なのかも知れんし、あるいは真実なのかも知れんし、わしにはわからん。わしは恋なぞしたこともないし、思いをかけてもらったこともないのでね。しかし今話した通りだ、六か月間は辛抱するんだな。そうすることはおそらくおまえのためにも一番いいことだろう、というのはこれだけはたしかだからね、つまりジェニーは今の事情ではろくにおまえを愛することもしないだろうからさ」
「残念ながらその通りかもしれません。信用して下さい。ぼくは気持ちをあらわさないようにして用心深くしています。あのひとの悲しみのことも考えてあげなくてはいけませんからね、なにも利己的な動機だけでいってるんじゃありませんよ、あなたのおっしゃるとおりぼくは紳士だからですよ」
「なんといっても若いからな。それにイタリア人というのはわれわれ北国人よりよほど情熱的にできてるからねえ」
突然ドリアの態度が変わり、半ば嶮《けわ》しい、半ばけげんそうなおももちでベンディゴをみつめた。それからにやりとして話を結んだ、
「心配なさることないですよ、ぼくを信用して下さい。恐れる理由は何もないじゃありませんか。むこう半年間はこの話はなしにします。ではおやすみなさい、だんなさま」
ドリアがいってしまうと、しばらくの間は聞こえるものは塔の部屋のすりガラスの窓にうちつける雨の音だけであった。やがてブレンドンが隠れ場所から出てきて伸びをした。その彼をベンディゴはおかしくもあり真剣でもあるといった表情で眺めた。そしていった、
「というわけですよ、あんたも聞いたでしょう」
ブレンドンはうつむいた、
「じゃああなたはやっぱり、姪ごさんが――」
「さよう――そう思っとりますな。そりゃそうでしょう? いったいあれほど若い女を惹きつけそうな男をこれまで見たことがありますか?」
「約束通りむこう半年の間はおとなしくしてるでしょうかね?」
「あんたも色恋についちゃわし同様なにも知っちゃおらんですな。しかしそのことならわしだって答えられますよ。もちろんあの男はおとなしくなんかしてませんよ。我慢できないでしょう。もちろんですよ」
「再婚なんてペンディーン夫人にとってはまだまだ何年もの間考えるのも忌《いま》わしいことでしょう。それにいやしくもイギリス人と名乗るほどの男なら、あのひとの神聖な悲しみをおかすようなことはしないでしょうがね」
「そこんところはわしにはわからんが、わしにいえるのはただ、あの子がどれほど悲しみを感じているにせよとにかくジュゼッペにひどく関心をもっている、ということですよ――しかもあの男はイギリス人じゃない」
二人はほとんど一時間近く話をしていたが、その結果ブレンドンはこの老水夫がいわば宿命論者であるのに気づいた。姪はやがて再婚する、しかも相手はイタリア人だと決めてかかっている。その予想はしかも、彼自身の生活の安寧という観点からベンディゴを悩ましているにすぎないのだ。レッドメーン氏は相手に対して個人的な異議や不信は感じないらしい、とブレンドンは思った。ジェニーの叔父はあきらかに、彼女があんな男と再婚すればいずれ後悔しなければならないだろうなどと心配したりはしていない。ところがブレンドンの方は全く独自な立場から、あんな軽薄でみてくればかりひどくハンサムな男はあの若い女性の人生を遅かれ早かれ苦難の雲で覆ってしまうだろう、と心底から感じているのだった。彼は自分の愛情がどんなものであるか知っていた、しかしどういう形であれ、いまはそれをいくら披瀝《ひれき》してみても無駄なことを知っていた。なぜなら今の場合、彼女のために役に立ってやれる可能性はなさそうだからである。彼はしかし辛抱強い男だったから、いつかは大いに役に立てるような時が訪れるかも知れない、という望みをもった。もちろん彼のその献身に報いる力が彼女にあるとは限らないのだが。
ブレンドンは自分をよく知っていた。そして、恋というこの目新しい感情が少なくとも彼の場合、幸福を求める全く利己的な心なんかではなくて、もっと深遠な、全能のものであるのを知っていた。かのドリアでさえ大いにそのようなことをいっていたではないか。もっとも実際に試煉にあえば、おのれの情熱よりもジェニーの幸福の方を重んじるかどうかは疑わしかったが。
やがて一時が迫ってきたのでブレンドンは元の場所へひっこんだが、その前にもう一度ロバート・レッドメーンに話を戻した。ところがベンディゴが決定的な意見を持ち出したので、彼はすぐこのあといかなる事態が起きるものやらただならぬ疑惑の念に包まれた。ベンディゴはいった、
「もし弟が自分のしたことに対して正当な申し開き、例えば正当防衛であったというような申し開きができるんなら、わしはあくまで弟《あれ》を援けます、弟《あれ》の味方としてたたかえる限りは見捨てませんよ。そんなことをしたらわし自身が法に触れるとあんたはいいたいでしょうな、だがわしは恐れはせん。こんな場合、血は水よりも濃しですからな」
これは今までと違った態度だった。しかしブレンドン刑事はなにもいわず、階下のホールの時計が一時を告げると同時に戸棚へ帰って戸を閉めた。ベンディゴがパイプに新たに火をつけた時、階段を上がる足音が聞こえてきた。しかしその足音には疑ったり用心したりしているような気配は少しもなかった。上がって来る男はためらったり、そっと来ようと努めたりしている様子はさらにないのだ。と思うまもなく彼はやってきた。弟に会見すべく老水夫が静かに落ちついて立ち上がった時――ロバート・レッドメーンならぬジュゼッペ・ドリアが現われた。
彼はひどく興奮しており、目をギラギラさせていた。そして烈しい呼吸《いき》づかいとともにひたいの髪をかき上げた。水滴が肩にも顔にも光っていて雨に濡れてきたことが明らかだった。
「すみませんが一杯。ああ、おどろきましたよ」
ベンディゴは酒の壜と空《から》のコップをテーブルの向こうへおしやった。ドリアは腰をおろして自分で注《つ》いだ。
「早くしなさい。いったいどうしたんだ? 今にもやって来るじゃないか――弟が」
「いえ、来ませんよ。ぼくは会ったんです、話もしました。あの人は来ませんよ」
ドリアはいやに控え目に酒を注《つ》いで飲むと、わけを話し出した、
「見まわりに行っていつものように外の門の上のランプを消そうとしたとたん、レッドメーンさんのことを思い出したんです。三十分ほど前です。外はまっ暗ですしひどい天気ですからあの人に目印しになるように、ランプは置いといた方がいいと思ったんです。それで梯子《はしご》を下りたんですがその時はもうすでに見られてたんですよ。あの人は道のむこう側の岩の下で待ってたんです、あそこはちょうど|ひさし《ヽヽヽ》みたいになってるでしょう。ぼくが誰だかわかったもんで傍へきて話しかけました。あの人はまたしても恐れおののいてるんですよ。みんなが自分を探してる、今も自分を捕まえようと思ってすぐその辺に人が隠れているっていうんです。絶対そんなことはないとぼくはいったんです、あなたはたったおひとりでいられるし、あの人を援けることしか考えておられないんだって誓ったんです。ぼくは言葉を尽くして早く中へ入って外の門を閉めさせてくれと頼んだんですが、ますます疑う一方です。あの人の目には追いつめられたけもののような恐怖の色がありました。ぼくを誤解しちまったんですよ。恐怖のとりこになっているんで、ぼくが安心させようと思っていったことをみんな反対にとるんです。門から中へは入ろうとせず、まだ助ける意志があるなら代りにあなたの方からあの人のところへ来てほしいという言伝てだけよこしました。ひどく弱っているようですよ、もう長くないんじゃないかな。ランプの光で見えましたが目には死の影がありました」
この状況の変化をベンディゴがゆっくりかみしめているあいだ、しばしの間があった。やがて声を高くして彼は、ドリアでなく隠れている男にむかって話しかけた、
「出て来なさい、ブレンドン君。聞いたろうが今夜のところは失敗だよ。ドリアが会ったそうだが、かわいそうにあいつはおびえて逃げたようだ。とにかく来ないそうだ」
ブレンドンが姿をあらわすとジュゼッペは驚いて凝視した。明らかにぎょっとしたらしく、顔には困惑の色が浮かんだ。彼は罵《ののし》った、
「コルポ・ディ・バッコ! じゃあぼくの秘密も聞いたんですね、卑怯者!」
「やめなさい」ベンディゴが大きな声を出した、「ブレンドン君にはわしが弟《あれ》のためを思っていてもらったんだ。わしは事の成りゆきをこの人に知っていてもらいたかったんだ、お前の色恋沙汰なんぞ無関係さ。自分の仕事に関係なければこの人は何を聞いたってどうもするものか。ロバートはいったい何といったんだ?」
だがドリアは怒っていた。何かいおうとして口をあけたがまたしめてしまい、まずブレンドンを睨みつけ、それから主人の方を見つめて烈しく呼吸《いき》をした。ベンディゴはいった、
「いいなさい。わしが弟《あれ》のところへ行くのか? それとも弟はもう行っちまったのか?」
「わたしのことはもう考えるのはやめたまえ」ブレンドンがそのあとへ続けた、「わたしがここにいたわけはただ一つだ、それは君も知ってるだろう。君や君個人の希望だの野望だのはわたしには全く無関係だよ」
そういわれるとイタリア人は落ちつきをとり戻したようだった。
「今のところぼくは使用人なんだからレッドメーンさんに従わなければなりませんね。ぼくが伝えてくれと頼まれた伝言はこうです。お兄さんと二人きりで会うまではあの人はドアの内側や屋根の下が不安なんです。奥さんとぼくが昼間見かけた場所の近くの洞穴に隠れているそうですが、そこは海にすぐ面していてボートで傍まで行けます。でもそのうしろの崖の方から入って行ける道もあるんです。あしたの夜十二時過ぎにあなたがいらっしゃるまでそこに隠れてるそうですよ。でも陸地から行く道はすごく用心深く隠していて教えないんです。だから海の方から行かなくちゃなりませんよ。あの人はぼくと話してるうちにそう思いついたんです。洞穴の中でランプを灯しておくからその光が見えたら船をつけてあの人のところへ行けばいいというんです。これがあの人の要求です。そしてもしあなた以外の人が上がろうとしたら誰だろうと撃つといってました。誓ってましたよ。それからすべてを知れば、ベンディゴ・レッドメーンは何もかも許して味方になってくれるだろうともいってました」
「常人のような話し方だったかね?」ブレンドンがきいた。
「常人のように話してました、だけどもう息もたえだえですよ。前はきっとずいぶん頑丈な人だったにちがいないけど今は憔悴《しょうすい》しきっています」
ブレンドンの心を気がかりな想像がかすめた。さっきベンディゴに打ちあけ話をしている時に彼が大きな戸棚に隠れていることを見破って、ドリアは兄以外にも人がいるぞとロバート・レッドメーンに警告したのではないか、いや、そんなことが果たして可能だろうか? だがブレンドンはその疑念を払いのけた、彼が姿を現わしたときのドリアの驚きと怒りとはたしかに本物だったからである。第一ジュゼッペがかの逃亡者の味方に立つ理由があるとは思えない。
「しかたあるまい」ベンディゴがいった、「生死に関する問題だ、残念だがもうひと晩待たなくてはならん。あすボートで出かけてその光が見えたら近くへ行って呼びかけよう」
そういってから彼はブレンドンにむかっていった、
「わしが弟《あれ》に会ってしまうまでは手をひいていて下さらんか。兄としてそう頼みます」
「だいじょうぶです。こうなってはあなたが大尉と会って、結果を報告して下さらない限り、何もできないことはたしかですからね。正規なやり方じゃないですが人情がそうしろといいますよ」
「あすの晩はここに泊っていいですよ」老水夫はいった、「そしてもしわしがあの不運な男を説得できたらボートに乗せるから、そうしたらちゃんと道理を話してやりましょう。これまで弟の言い分を聞いてやった者がいないということも忘れないようにしないとね」
「言い分があるぐらいなら、レッドメーン大尉はなにも逃げたり死体を隠すのにあれほど苦労したりはしなかったでしょう。そんなことで弁護できるなんて望みは持っちゃいけませんよ。戦争神経症《シェルショック》の影響による殺人行為を証明する方が遥かに大尉を救うことになるんですよ。マイケル・ペンディーン殺害の動機がなければないほど、大切な弟さんは、その時正気でなかったといえるんだし、従って有罪ではないといえるんですから」
「あの人は今は全然正常ですよ、ですが、全く気の毒なようです」ドリアが断言するようにいった、「飢えた鳥みたいにあなたの手にとびこんできますよ」
「じゃあこれまでにしよう。もう寝た方がいい」ベンディゴはいった、「わしはいつも予備の部屋に予備の寝だなを用意してありますからな。剃刃《かみそり》の他は入用なものはみんな浴室にあるはずです。あんた方若い人たちは流行の安全剃刃を使うらしいからね。もちろんジュゼッペに借りればいいですよ」
ドリアは翌朝早くに剃刃を浴室に置いておくと約束してひきさがった。そしてベンディゴはおなかが空《す》いているのに気がついて食堂へおりた。彼とブレンドンは寝る前に夜食をしたためた。老水夫の部屋に隣りあった小部屋の寝床の中で、ブレンドンは、弟のための嘆きのあまりレッドメーン氏が悶々としているのを聞いていた。彼自身も痛ましい光景に接して悲痛な思いを味わったが、一方あと何時間かたてば決着がつくと思うと嬉しかった。心の中で彼はこの成り行きに満足していた。そしてロバート・レッドメーンはある期間留置されてから、医師に認められれば釈放されるであろう、と考えた。
ブレンドンは自分自身の問題に立ち返ってみた。そしてジェニーに対する希望がしだいにうすれてゆくという事実に当面した。彼女についての考えは、今となっては彼女の立場というもののために複雑になってしまった。将来ジェニーは金持ちになり、ブレンドンなどが永久に得られないほどの財産家になるかもしれないとは、これまで考えてもいなかったのである。だが、彼は先を期待し、そうだ、明日になれば二人だけで話せるチャンスがあるかも知れぬ、と思った。だがその時が来たとして彼に何がいえるというのか? 嵐は過ぎ去っていた。彼が眠りについたのは夜が明けかかってからであった。
朝になるとベンディゴはむっつりとしており、一人にしておいてくれといった。ひどく心をかき乱されている様子で、パイプと『白鯨《モウビイ・ディック》』をもって塔の部屋に閉じこもってしまった。ジェニーとしか会おうとしないので、彼女はしばらくの間彼の部屋にいた。朝、お茶の支度をしている時にブレンドンが朝食におりてきてジェニーをびっくりさせたが、この時はじめて彼女は事の次第をブレンドンから聞いたのだった。その少しあとでドリアも加わったが、いつもは早起きのレッドメーン氏は姿を見せず、ジェニーが食事を運んだ。
彼は昼食には下りてきた。食事がすむとダートマスまでドリアに船を出してもらって、ブレンドンは警察に行き、もう一日遅れる旨を説明した。今となってはもう捕まえるのにあれこれ計画をねる必要もないのである。彼はダマレル警部に逃亡者がみつかったこと、二十四時間以内には捕まりそうだということを教え、警視庁にも電話で同じ報告をしてまた『烏荘《クロウズ・ネスト》』へ帰った。小ぬか雨の降るどんよりとした日だったが、風はすでにおさまって静かな夜が訪れそうであった。
ブレンドンを上陸させると、ドリアはまた岸を離れ、海岸に沿ってゆっくりと船を走らせていった。今夜に備えておおよその距離をたしかめておきたいからとブレンドンにその許可を求めたのである。ロバート・レッドメーンと最初に言葉をかわした砂浜というのは五マイルほど離れたところで、ジュゼッペの考えではロバートの隠れているところはそのさらに西の方らしいということだった。それで彼は一定の速度で出かけ、日の暮れないうちに四十五分間で戻ってきた。しかし報告は何もなかった。彼の予期した場所には洞穴《ほらあな》はみつからなかったのである。だからロバートの隠れ場所は案外近くにあるにちがいない、と彼はいった。
ついに夜が訪れた。ひどく暗い晩だったが霧ははれ、静かだった。潮がひいているので『烏荘《クロウズ・ネスト》』の下では波が断崖の遥かあしもとの方で静かな囁きを交し、ところどころ岩の間にできている小さな浜辺でポチャポチャと音をたてていた。潮はちょうど満ちはじめたところで、荒天用の衣服に身をかためたベンディゴが重い足どりで長い梯子段を海へおりていった時、十二時が鳴った。崖の上の旗竿のそばに立っていたブレンドンとジェニーはやがて、ボートが低いうなりを立てながら暗闇の彼方へ疾走していくのを聞いた。
先に口をきいたのはジェニーだった、
「この忌わしい事件もやっとおしまいですわね。あたしにとってはほんとにむごい悪夢でした」
「それはよくわかっていました。しかしよく辛抱なさったと驚いているんですよ」
「でもあの気の毒な人ですもの、誰だって辛抱するんじゃありません? 叔父はもう罰は受けたのです。このあたしがはっきりそう言えるんですわ。死にもまさる苦しみというものがありますわ、ブレンドンさん、あとでロバート・レッドメーンの目をごらんになったらおわかりになります。ジュゼッペでさえ昨日はじめて会ったあと、|しゅん《ヽヽヽ》としていましたわ」
ジェニーがまるで当り前のようにイタリア人のことを姓でなく名前で呼ぶということが、ブレンドンの気持ちにはおもしろくなかった。しかしこれで一つ質問する口実ができた、
「奥さんはドリアの話をみんな信じておいでですか? いったい彼はこの家じゃ使用人なんですか、それとも対等の扱いなんですか?」
ジェニーはほほえんでいった、
「対等どころかむしろ向こうの方が上ですの。そうですわ、あの人の身の上話を疑う理由はありませんわ。たしかに立派な紳士ですし、生まれつきのすばらしい感情をもった人ですのよ。育ちとか教育とかは別のものですわ、教育はありませんけど生まれながらに繊細な心をもった人ですの、それはあなただって感じてらっしゃるでしょう」
「彼に興味をお感じですか?」
「感じます」ジェニーは悪びれずにいった、「あたしほんとにあの人には感謝しなくちゃなりませんの。あたしのことでもちゃんと適切なことをいってくれるだけの見事な勘をもってますもの」
「彼はめったにないチャンスに恵まれたんですな」ブレンドンは不承不承にいった。
「ええ。でも誰でもそのチャンスを捕まえられるわけじゃありませんわ。あたし半狂乱のようになってここへ来たんですが、叔父はいっしょうけんめいいたわってはくれるんですけど、なにしろ想像力のない人ですし、せいぜい『白鯨《モウビイ・ディック》』からところどころ引用して聞かせてくれることぐらいしかできないんですの。ドリアなら年も近いし、たいていの男にはない女性的な面ももってますから」
「男の女性的な面というのは女に嫌われると思ってましたがね」
「あたしのいい方が悪かったようですわ。あたしのいうのは、あの人はすっと気持ちを受けとってくれるし、一種の直観力があるということですの、そういうのは男の人よりも女の人に多いでしょう」
ブレンドンは何もいわなかった。ジェニーは問いかけてきた、
「あなたが彼をお好きじゃないことはあたしもわかってましたわ、好きじゃないというのはいい過ぎとしても、別にいいところは何もないとお思いなんでしょう。あの人のどういうところがあなたと合わないんでしょうね? そしてあなたのどういうところがあの人と合わないのかしら? あの人の方でもあなたのこと好きじゃないんですのよ。あたしにはどちらもとてもやさしい、いい方に思えるんですけど。あなたのように国際的な経歴をおもちの方はよその国の人だからって偏見をもったりなさらないはずでしょう?」
こう鋭くいわれてブレンドンは、これまで無意識にとはいいながら理由もないのにどれほど嫌悪の情をあらわにしていたかに気づいたのだった。少なくとも大いばりで宣言できる理由はないのだ。それでも彼は正直に答えた。それを聞いてもジェニーは驚きはしなかったであろう、もちろんひどく驚いたような顔はしていたが。ブレンドンはこういったのである、
「答えは一つしかありません、奥さん。わたしはドリア君に嫉妬しているんですよ」
「嫉妬ですって! まあ、ブレンドンさん。あなたがあの人を羨むようなことなんてありまして?」
「おわかりにはならないでしょうな」ブレンドンは答えた。しかし実際はジェニーはとうに承知していたのだ。「ドリアがもし紳士なら何も嫉妬する必要はないんです、わたしの心にあるようなことはまだまだ当分の間、どんな男もあなたにいうわけにはいかないんですからね。でもそれでもなお彼を妬《ねた》ましいと思うのは当然ですよ。何が妬ましいと聞かれれば正直に答えます。運命の神はあなたの肩におかれた痛ましい重荷を軽くする特権を彼に与え給うているからですよ。あなたの認めた彼の直観力や思いやりのある気持ちはそれに成功したのです。イギリス人ではとても彼のようにはやれなかったとあなたはおっしゃるでしょうね、おそらくその通りだとは思います。しかしそのチャンスが自分に与えられなかったことを、ある一人のイギリス人は心の底から残念がっているんですよ」
「それにあなたはいろいろとよくして下さいましたわ。感謝していないなんてお思いにならないで下さい。ロバート・レッドメーン発見に失敗なさったといっても、あなたのせいじゃありませんわ。それに、成功なさってらしたとこでどうって違いはありませんでしょう? あの不幸な人を捕まえるのが数か月早かっただけのことですもの。今はただ、ベンディゴ叔父のいうことをきいてみんな味方であることを信じるのが一番いいんだっていうことを、あの叔父がわかってくれたらと思うばかりです」
ジェニーはこういって話題をドリアと自分自身のことからそらしてしまったが、ブレンドンはその意をすぐ悟った。イタリア人に対する彼女の関心は容易に愛情に移行するであろうことを彼はもはや疑わなかった。彼女のためを思えばこそそれを怖れているのだ、とブレンドンは確信したが、その一方つねに、この残念な気持ちはほんとうは身勝手な考えから出たもので、ジェニーのために怖れるというよりはおのれの失望の痛手によるものではないのか、と感じるのだった。
まもなく西の海上にルビーとエメラルドのようなまたたきが見えはじめ、やがてモーターボートのひびきが聞こえてきた。三十分足らずしかたっていなかった。ブレンドンは、ロバート・レッドメーンが兄の懇請についに折れて今上陸しようとしているのであればいいが、と念じた。しかしそういうことにはならなかったのだった。階段を上がってきたのはドリア一人で、しかも報告は何もなかった。彼はいった、
「今のところぼくに用がないんで帰ってきました。万事うまくいってますよ。あの人の洞穴《ほらあな》はここから近いとこにあるんです。二マイルしか行かないうちにランプの光が見えたんで船をつけたんですが、そこの小さな浜の洞穴のすぐ前にあの人は立ってました。そして大声で変てこな歓迎の言葉をどなりました、『他の奴も上陸させてみろ、そいつを射つからな! ベン』それでご主人は心配するなとどなって、舳が浜につくかつかないかに岸へ跳び移り、それからぼくにすぐ帰れといわれました。二人はいっしょに洞穴に入っていきましたよ。ぼくは一時間したら迎えに行くことになってます」
ドリアはその洞穴《ほらあな》の位置を説明した、
「干潮で露出している小さな浜の上にあるんですよ、子安貝があるとこです。いつだったか、ご主人の貝細工につかう小さい貝を拾いにマドンナをお連れしたことがあるところですよ」
「ベン叔父は貝殻でいろいろな細工をするのが上手なんですのよ」ジェニーがいった。
ドリアはたばこを二、三本吸ってからまた降りていった。二十分ほどしてボートはふたたび海へのり出していき、ジェニーはブレンドンに挨拶してひっこんだ。ジェニーは、二人の叔父たちが帰ってきた時顔を合わせない方がいいような気がする、といい、ブレンドンもそれに賛成したのだった。
[#改ページ]
第八章 洞窟の死
ひとりになると、ブレンドンは憂鬱な気持ちで将来のことを考えた。彼の大きな望みを彼から奪いとったのは単に『チャンス』というものに過ぎないと思ったからである。『チャンス』は多くの場合有能な僕《しもべ》であったのに、今や生涯を左右する重大なこの時にのぞんでブレンドンに背を向けたのだ。運のいい奴としか見えない男を、自分自身と較べてみることなどブレンドンにはできなかったし、しようとも思わなかった。ただ偶然は、ドリアには飛びきりすばらしい機会を与えたのに、ブレンドンにはこれっぽちの機会さえ与えなかったのだ。しかし、も少し気の利いた男なら自分でその機会を作ったはずじゃないか、と彼は自分にいいきかせた。『チャンス』というハンディキャップにうちかてないようでは、いったいおれの愛情にどれほどの値うちがあるといえるのか?
彼は除《の》けものにされたような気がした。自分をジェニーに強《し》い、自分の方が、ライバルであるあの男よりもいつまでもジェニーを幸せにしてやれる、そんなことをいって彼女をものにしようにもそうできる理由すらないのだ。実際の話、ジュゼッペのように陽気で多芸な男の方がジェニーに喜ばれそうだということを彼も知っていた。ドリアならすべての時間をジェニーに捧げられるだろうが、ブレンドンにとっては、家庭生活は将来の生活の一部分をなすにすぎないであろう。仕事というものがある。ジェニーの地位や収入がどうであろうと、ブレンドンは仕事をやめる気はなかった。この仕事のおかげで名声も得られたのだから。ただ一つだけ彼女のために懸念を感じる理由があった。ドリアのように魅力的な男は彼の種族の伝統に従ってじきに一人の女に飽きるのではないか、とブレンドンはくり返しくり返し考えたのである。
それから彼は違った見地から検討してみることにし、ジェニーが最近いった言葉を一つ一つ考えてみた。それらの言葉は一つの結論を示していると判断された。つまりしかるべき期間が過ぎれば、ジェニーはドリアを愛することを自らに対して許すであろうと思われるのだ。ということは、無意識にもせよすでにドリアを愛しはじめているといってもさしつかえないのだ。ブレンドンは驚いた。相手が魅力に溢れた男であるのはたしかだったが、それだからといって亡き夫の面影がもうジェニーの記憶から消えかかっているというのか。プリンスタウンでの彼女の嘆きや悲しみが思い出された。その深い嘆きを彼も理解していた。まだ若いはずだが、ジェニーの性格には若さとかあかるさとかは感じられなかった。もっとも彼がジェニーを知ったのはあの悲惨な事件の後だ。ブレンドンは日暮れの荒野《ムーア》ですれ違ったときの、歌を口ずさんでいたジェニーを思い出した。夫が生きていた頃はきっと快活なあかるい女だったのだ。しかし決して軽薄なところはないのだ。人の性格というものをよく知っているブレンドンはそう思った。ジェニーの表情にはやさしさと同時に強さもある。知り合ってからまだ日が浅いが、その間彼女が関心を示した話題はまじめな真剣なことばかりだった。しかしそれは微妙な楽器として彼女が環境に反応したためかも知れない。ブレンドン自身はといえば、ジェニーといると真剣にならないではいられなかった。だがジェニーはあのイタリア人といっしょだと笑顔を見せ、悲しみを忘れることが時々あるのだ。ドリアが好んでしゃべりたがる彼自身のいろんな話によって、ジェニーの憂鬱な気分が紛れるのはたしかなのだ。それにどっちみち、ジェニーはまだ若いのだ、そういつまでもためいきばかりついているわけがない。
ボートが戻ってきてブレンドンはわれに返った。速い船足で帰ってくるボートに気づいたときには、もう一時間もたっていたのだ。ベンディゴとその弟が乗っているだろうと思ったので、ブレンドンは翌日まで自分の部屋にひきこもろうとした。彼と会ってこれからの相談をしたいとロバート・レッドメーンの方からいい出すまでは、姿を現わさないことにうち合わせてあったのだ。
しかしドリアはまたもや一人で帰ってきた。そして彼の話を聞くや、ブレンドン刑事は計画を変更した。ジュゼッペは、主人の身に何か悪いことが起こったようだとひどく心配そうな顔で戻ってきたのである。
「約束の時間になってから船をつけたんです。上げ潮でしたから洞穴の入口から数ヤードのところまで行けました。ところがランプはついてるんですが二人とも見えないんですよ。二度も大声でどなってみましたが返事はなく、墓場みたいにしーんとしてるんです。それでほんとに誰もいないのか確かめようと思って岸のすぐ際まで行ってみると、洞穴はからっぽなんです。それでたいへんだと思って知らせに帰ったんです」
「岸には上がらなかったんだね?」
「上がりませんでした、でも上げ潮ですから洞穴から五ヤードもないぐらいのとこにいたんです。ランプが、誰もいないからっぽの洞穴を照らしていました。お願いです、いっしょに来て下さい、何か悪いことが起きたにちがいないんです」
ブレンドンはとるものもとりあえず拳銃と懐中電灯を手にすると、ドリアと共に下へおりて船に乗った。ボートは数分間全速力で走ってからやがて向きを変え、崖の下を走り出した。まもなく水面すれすれの高さの真っ暗闇《くらやみ》の中に、ホタルのような光がポツンとほのかに光っているのがブレンドンに見えた。ドリアは速度を落し、その方向へ静かに船を進めた。それからエンジンを止め、ロバート・レッドメーンの隠れ場所の入り口の前の砂浜に舳をつっこんだ。ランプはあかあかと灯っていたが、その光では洞穴の中がからっぽなことはわかっても高い天井や奥の出口を照らすには不十分だった。奥にはトンネルがあって、岩をざっと刻んでこしらえた階段をあがって行けるようになっているのだ。
「ここはだいぶ前にご主人に見せてもらったことがあるんです」ドリアはいった、「昔、密輸入者どもが使っていたんだそうで、そいつらの作った階段が今でもそのままあるんです」
二人は岸にあがり、ドリアはボートをつないだ。悲劇のあった証拠がまざまざと二人の目にうつった。洞穴の床は一面、砂のまじった非常にきれいな砂利《じゃり》だった。まわりはひどくでこぼこしており、岩の屑が細かいひだを作って突き出ていた。岩棚の上におかれたランプは下の床に円い光を投じている。前日持って来てやった食糧はぜんぶそこに集められたとみえ、ロバートが貧るように飲み食いしたあとが歴然としていた。だが、それよりも注意をひいたのは床の表面がめちゃくちゃにかき乱されていることだった。大きな深靴に踏みにじられたらしく、いくつも深い跡がついていた。一か所、なにか大きなものでも倒れたような跡があり、ブレンドンはそこに血がついているのを見つけた。砂まじりの砂利に大部分しみこんでいるので、すでに乾きかかってくろずんだ跡を残している。
それは血の海というよりは|しみ《ヽヽ》程度のもので、懐中電灯で照らしてみたブレンドンは、他にも血の跡が点々と奥の方までついているのに気づいた。ちょうどなにかの倒れたような跡のところから奥の方まで一本のみぞが砂利の上についている。ブレンドンは二人のうちどちらかが相手をなぐり倒してから、洞穴の奥にむかって開けているトンネルの方へ引きずって行ったものと判断した。血の跡と重い物体を引きずった跡とは石の階段のところまで続いてそこで消えていた。
ブレンドンはそこで立ち止まり、階段はどのくらいの高さでどこへ通じているのか訊ねたが、連《つ》れは茫然としていてしばらくは口もきけないありさまだった。ジュゼッペはこの暗黙の悲劇に深い衝撃を受けると同時にすっかり怖《お》じ気《け》づいてしまったのである。
「殺《や》られたんだ! 殺《や》られたんだ!」彼はそういいつづけた。そしてその合間合間には口をだらしなくあけ、恐ろしそうに目をぎょろぎょろさせてほの暗い自分のまわりを眺めていた。
「しっかりするんだ、そして手つだってくれ」ブレンドンはいった、「一刻一秒を争うんだぞ。どうやらこの階段を誰か引きずり上げられたらしいが、そんなことはできることか?」
「うんと力のあるやつならできないこともないでしょうが。でもあの人は衰弱してましたからね――だめですよ」
「これはどこへ通じているのかね?」
「低い段がだいぶ続いてそれから先はずうっとスロープです、そのむこうは首をかがめて這うようにして行かなくちゃならないんです。そうすると崖の中途の高さの台地に出ます。そこは広い岩棚でそこからはでこぼこの険しい道がたった一本ついているんですが、ちょうどイタリアの九十九折《つづらお》りの道みたいにジグザグに崖のてっぺんまで続いてます。だけどとってもでこぼこの悪い道で――夜は無理だろうな」
「無理でもなんでも行って見なくちゃならん、ボートはしっかりつないであるか?」
「手つだって下されば洞穴のとこまで引き上げておきますけど。そうしておけば大丈夫ですからぼくたち安心して探検できます」
時間の浪費をかこちながらブレンドンは手を貸してやり、船を高潮線の上まであげた。それからブレンドンが先に立ち、懐中電灯で照らしながら階段をのぼり始めた。ところどころ血の滴ったあとがある他は石の階段には何の手がかりもなかった。階段をのぼりつめて左へ折れる地下道まで来ると、そこはまだ岩のトンネルの中で天井から浸み出る水で滑《すべ》りやすい上り坂になっていた。ところが、そのぬかるような地面の上に一直線に何かが引きずられたようなあとがついていた。五十ヤードばかり行くとトンネルはだんだん狭くなり、天井も低くなってきたが、上へむかって重いものを引きずっていった跡はまだはっきりとついていた。時たま言葉を交わす他は二人の男は黙って進んで行った。しかしイタリア人がひとりごとを呟いているのが、時々ブレンドンの耳に入った。
「パドロン・ミオ、パドロン・ミオ――殺《や》られたんだ!」ドリアはくり返しそういっていた。
トンネルの最後の十ヤードは、膝をついて這っていかなければならなかった。やがて出たところは地面と海面の中間に高く突き出た棚の上であった。あたりは暗く森閑としている。ブレンドンはドリアの方に片手を上げて制し、二人でしばらく聞き耳を立てたが、聞こえるものは遥か下の方で低く呟く波の音だけであった。あたりの静寂を破るものとてない。足もとは一面美しい芝土だったが、冬なので褐色をしており、海の鳥が羽根を休めた形跡が到るところにあった。懐中電灯の光が台地の上を照らすと、ジュゼッペは灰色の鳥の羽根を二、三本ひろった。
「主人のパイプ用です、いつもパイプの掃除にこれを使うんですよ」彼はそう説明した。
頭上の空には墨のようにくろぐろとした崖の輪郭がくっきりと浮び、その上に真夜中の雲が光って対照的だった。ブレンドンは、下から引きずられて来た死体のような重いものが、ここで一時的に静止した証拠を見つけた。またその傍の草の押しつけられたような跡は、生きている人間が大奮闘のあげくひと息入れたあとに違いないと思った。あたりの草の上にはいくつか血の塊りがみられたが、この暗さでは他には何も見つけることができなかった。マイケル・ペンディーンの死のありさまを思い起こしたブレンドンは、すぐさまこれまでのいくつかの出来事を理屈の上で組立て始めた。ベンディゴ・レッドメーンの弟が兄を殺《あや》めたということは、こうしてみるといかにもありそうなことだった。ロバートはあきらかに以前の時と同じ行程をふみ、犠牲者を運び去ったのだ――袋に入れて……。なぜなら、洞穴の床からいま通ってきた道にかけてずうっとついている|すじ《ヽヽ》は、丸められた何か重いものを、一つの形を崩さないで引きずってきたことを示しているからである。
二分間ブレンドンは立ちつくしていたが、やがてドリアに話しかけた、
「ここから先の道はどこにあるのかね?」ドリアは台地の東端へそろそろと進んでいって、そこから上へむかってついている岩だらけの小径をさし示した。でこぼこ道で、いばらや枯草が覆いかぶさっているところをみると、めったに誰も通らないとみえる。二人はそこをのぼっていった。ブレンドンは、朝になってから綿密な調査が行なわれるかもしれないから何物にも手を触れるな、とドリアに注意した。道は右へ左へと急角度に曲りながらどこまでも続いている。険しいとはいえ、休まずに登っていくことはできた。のぼりつめるとやっと崖のてっぺんへ出たが、そこは五十ヤードばかり木も草もない部分が続いていた。そしてそのむこうに低いしきりが連なっていて耕やされた畑との境をなしていた。しかし人影らしきものは全く見えなかった。それに頂上付近の草の密生したところでは足跡など残らないだろう。
「いったいどういうことなんです?」ドリアがたずねた、「こういうことにかけてはあなたはベテランなんでしょう。ぼくにとってはご主人でもあれば友だちでもあるあの人はほんとうにもうこの世にいないんですかね? あの海賊先生、死んだんでしょうか?」
「そうだ」ブレンドンは暗然として答えた、「そうに違いないようだ。しかも当然わたしの力で防ぐことができたはずの事態が起こってしまった。救うことができたかも知れぬ生命をむざむざ失ったんだ。最初からよく確かめもしないで人から聞いた話を信用し過ぎていたんだな」
「なにもあなたが悪いわけじゃないですよ。他人のいったことをなぜ疑わなきゃならないんです?」
「何物も何人をも信用しない、というのがわたしの仕事だからさ。誰が悪いということじゃない、正直にいって誰の目にも明瞭で理屈にかなってることだと思われたからわたしは鵜《う》のみにしてしまったんだ、みんなだってそうだろう。だが、わたしは自分でよく確かめてみるべきだったんだよ。君にはわからないかもしれないね、ドリア。しかし、もう少し気のきいた者ならこんな真似はしなかったはずなんだよ」
「あなたは最善を尽くしたんですよ、みんなだってそうじゃありませんか。あの男が自分の兄貴を殺しに来たなんて誰が思うもんですか」
「気違いは何をしでかすかわかりゃしないさ。大尉が正常に戻ったと思いこんでいたのがわたしの間違いだな」
「誰だってそう思うのがあったりまえじゃないですか。マドンナのご主人を殺すなんて気違いでなきゃできないけど、そのあと刑事さんたちに見つからないで逃げまわるなんてよっぽど頭がたしかでなきゃできやしませんよ。だからあなただって、あの男は以前は気が狂っていたがその後はふつうに戻ったんだっておっしゃってたんじゃありませんか。だけどそれからまた気がおかしくなっちゃったんだな、きっと」
夜が明けきらないうちに捜査を始めるために、ブレンドンはできるだく早くダートマスへ行きたいと思った。ドリアは水陸いずれを通っていくのが早道か考えていたが、結局ブレンドンをダートマスへ連れていくには、街道を行くよりはボートで行く方が早い、と判断した。
「だけどその前にまたトンネルをくぐっていかなくちゃなりませんよ。ボートのとこまで行くにはそれしか道がないんですから」
ブレンドンはうなずき、二人はジグザグ道を下り始めた。台地まで来てそこからふたたびトンネルへ入り、やがて階段も通ってもう一度洞穴に達した。燃えつづけていたランプを消すとやがて二人はボートに乗った。曙光のさし始めた空の下を、小さな船は波をけたててまっしぐらに進んだ、鉛色の静かな海にまっ白なひとすじの跡を残して。
『烏荘《クロウズ・ネスト》』の旗竿の下に人影が見えた。二人にはそれがジェニー・ペンディーンであることがわかった。彼女は何の合図もしなかったが、その姿を見ただけでジュゼッペの心が騒ぎはじめたのはたしかだった。彼は船を止めてブレンドンにとりすがった、
「恐ろしいんです、急に恐ろしくなりました。あの気違いめ――自分の身内も親友も敵だと思ってるんじゃないかな。気違いならやりかねませんよ、つまり――ぼくたちの留守に……、わかりませんか? 今あの『烏荘《クロウズ・ネスト》』には女二人いるっきりなんですよ。あいつが来て二人とも片付けちゃうかもしれないじゃありませんか、え?」
「そう思うか?」
「どう考えたってそうなりそうな気がします」崖の上の家に目をやりながら、ドリアは答えた。
「君のいう通りだ。船をつけろ。あのひとが危いかも知れない」
ドリアは勝ち誇ったような顔をして叫んだ、「あなたでも考え及ばないことがあるんですねえ」
しかし相手は答えなかった。失策したという気持ちと責任感とが重苦しく彼の心を満たしていたのである。
しかしブレンドンはてきぱきとドリアに指図した、
「ペンディーンさんと家政婦に家じゅう戸締りをしてボートへ乗るようにいいなさい。ダートマスまでいっしょに行って、わたしが船をおりたら君といっしょにすぐ帰ればよい。ぐずぐずしないでさっさと来るようにいうんだ」
ドリアはいわれた通りにした。そして十分後には、茫然として血の気の引いた顔のジェニーと、おびえて胸の釦《ぼたん》もうまくはめられないでいる家政婦とをつれて戻ってきた。二人ともおびえきってやたらと話しかけたが、ブレンドンはどうか静かにしてほしいといった。彼はジェニーに、ベンデイゴの身に最悪の事態が起きたらしいということを告げたが、そのおそろしい知らせを聞くと彼女はたちまち黙りこくってしまった。こうして一行は全速力で岬と岬の間を飛ぶようにして、日の出前の海を走り、まもなく桟橋ぎわについた。
これでドリアの仕事はすんだのだ。ブレンドンは女二人をつれて帰るようにドリアに命じ、新たな知らせが行くまでは家をしめておくようにと三人にいった。
「もし何か知らせたいことができたら警察に電話すること、ただし、大尉が来て中へ入れろといっても入れてはいけませんよ」
なおいろいろと指図を与えられてからボートの三人は帰っていった。
三十分もたたないうちにニュースはひろまり、捜索隊が陸路経由で出発した。ブレンドン自身はダマレル警部と二人の警官といっしょに港湾長の快速艇で出かけた。食糧を少し持ちこんで、ブレンドンは食事をしながら昨夜来の出来事をくわしく語った。洞穴について床から天井にわたって組織的な検証が始められたのは八時過ぎだった。ブレンドンは、もし何か知らせることがある時は、『烏荘《クロウズ・ネスト》』から旗で信号することに、ドリアと打ち合わせてあった。しかし旗竿に旗がひるがえっていないところをみると、何事も起きなかったらしかった。
やがて洞穴とトンネルの部分の調べがコツコツと進められた。トンネルのところまでは上からの調べが達していた。朝の光がこのガランとした洞穴に一ぱいにさしこんでいて、警官たちは順序だてて残るくまなく調べ上げたが、結局ブレンドンが暗がりの中で調べて見つけたこと以外新たな発見はなかった。踏み荒らされた砂、食べかけの食糧、石の台にのったランプ、黒ずんだ血の|しみ《ヽヽ》、そして何か丸めたものを石の段まで引きずっていった跡らしい浅いみぞ、そんなものだけだった。引き潮だったが洞穴の前の小さな砂浜はいつもの高潮線のあたりまでしかあらわれていなかった。ダマレル警部はランチに戻って船長にダートマスへ帰るよう命じた、
「われわれは上から車で帰る。わたしの小型自動車をホークビークの丘の上までもって来るように伝えてくれ。それからサンドイッチとビールを半ダースも頼むよ、昼までに間に合えばいいんだがね」
ランチは離れていった。それからもう一度、煙突のような階段道、そのむこうのスロープ、そして崖の途中の台地を忍耐強くすっかり調べあげた。一歩一歩進んでいったのだが、石の上にところどころ落ちている血痕と前の晩何物かを引きずり上げた跡があるだけだった。
「サムソンみたいな怪力にちがいないな」ブレンドンはいった、「十一ストーンたっぷりもある男を袋に入れて引っぱり上げなきゃならんとしたらどうだろう」
「そりゃ無理だ。しかし事実やったんだからな。どうやら夏にベリ岬でやったと同じ仕事をくり返すことになりそうだね。猟犬の群みたいに崖という崖を嗅ぎまわって、やがて深い海の上に突き出た場所を見つける、すると兎かアナグマの穴の中に袋を探し当てる――そんなところでしょうな」
台地でしばらく休憩したが、その時ブレンドンは明瞭な足跡をいくつか発見した。鉄の鋲《びょう》を打った重い深靴の跡で見覚えがあった。それらの跡はトンネルを出てすぐの柔らかい地面に残っていたが、ブレンドンはその靴の爪先の板金や三角形の鋲に見覚えがあった。彼はダマレル警部を呼んでいった、
「これをフォギンターでとった石膏の型と較べてみれば、同じ靴だとわかるよ。もちろん今更驚きゃしないがどうやらおれたちの相手は前と同じ男だということになったようだね」
「そしてこの男は半年前と同じ方法でどっかへ消え失せるというわけだ。いいかい、ブレンドン君、これは一人の男の仕事じゃない。この仕事のかげにはまだわからないことがたくさんかくれている――半年前の時と同じにね。この男を気違いだというのはいとも簡単さ、なにしろ動機がみつからないんだからね。それが一番むりのない考え方だ、しかしよく考えればそれが正しい線だとは思えないんじゃないか。自分の兄をおびき出して殺した男がいる、しかもそいつはそれを実に巧妙にやってのけた。最初は姿を現わすことにすると約束しておいてから急に気が変ったといって、新しいプランをねり、ベン・レッドメーンを完全に掌中におさめてしまう。そうして……」
「しかし最初からその気だったとどうしてわかるかね? 確かな事実がいくつもあったんだからね、ペンディーン夫人自身が会って話もしてるんだ、ドリアもだ。奥さんのことなら、どう考えたってあの人のいったことが嘘とは思えないからね。あの人は何も隠したりしないよ、クリスチャンらしく振舞った。あの男のひどく哀れな姿に涙を流して伝言をベンディゴに伝えてもやったんだ。ところがいざという時になって奴は急に恐怖観念にとりつかれて――無理もないじゃないか――それでベンディゴに自分の洞穴で二人きりで会ってほしいと頼んだんだ。そりゃほんとの話さ、ぼく自身は疑う余地もないと思うよ」
「いいんだよ、ぼくだってなにも事がすんでからえらそうな口をきくつもりはないんだ。ただね、前にもいったろう。ぼくは悠々捕まえることができるという時に、捜査を延期して素人の手に任せるのは間違いだと思っていたんだよ。君が指揮をとっていたからこちらはそれに従ったんだが、あの殺人犯が何をいいたかったにせよ、兄貴に話すならわれわれにも話すべきだったんだ――そうすればよかったんだ、とにかく兄貴を唆《そその》かして法を破るようなことをさせようとしたにちがいないからね。こうしてもう一人罪もない人間の血が流され、気違いか正常かしらないが危険極まりない殺人犯はいまだに捕まらないままなんだ。どうも二人以上の人間だね。しかし、喋っていてもはじまらない。われわれのなすべきことはそいつらを捕まえることだ――できるとすればね」
ブレンドンはそれには答えなかった。彼はいらいらしたが、今いわれたことは本当には違いないとは思った。
彼は台地を調べ、何か丸いものが置かれたような跡や、その傍の男が腰をおろしたらしい跡をもう一度みなに示した。ここから死体を海に処理するのは不可能である。台地の下は百フィートばかり下の凸凹な地面まで絶壁をなしていて、そこから更に傾斜した岩棚がいくつか水際まで続いているのだ。だからここから死体が投げられたとすればみんなの目にとまらないわけにはいかないのである。だが見下ろしてみても、消え失せた男の影も見えなければ、その荷物らしいものも見えなかった。ところが一方、崖のてっぺんへ通じるジグザグの小径には、重いものを引きずり上げた跡もなければ鉄鋲を打った靴の跡もついていないのである。鮮明な足跡はあったがそれらは前夜のぼったブレンドンとドリアのものだ。今、警察の捜査陣は一歩一歩念入りに調べながらこの小径をのぼり、昼ちょっと過ぎにやっと頂上へついた。そこは目も眩《くら》むばかりの高さで、遥か下の海へかぶさるように突き出ている。しかし六百フィートもあろうというその絶壁の側面は懸崖のようなものがいくつも突き出ているので、ホークビーク・ヒルのてっぺんから何か投げ落しても下へ行くまでにひっかかる場所が何か所でもあるのだ。ダマレル警部は休息のために立ちどまり、喘《あえ》ぎながら崖の頂上の小さな芝土の部分にどさりと身を投げた。
「どう思う?」彼はブレンドンにきいた。相手はあたりの地面を念入りに調べ、下に見える岩棚や突き出たところをしげしげと観察してからやがて答えた、
「奴はここへは来てないよ――少なくとも死体の処理がすむまでは来ていない。あの台地の下の凸凹な地面を調べるべきだよ。あそこまで下りる道があるのかも知れない。きっとあの男は上から死体を投げておいてから自分もどうにか下りていって、死体を石で深く覆ってしまったんだ。きっとあそこだよ――他の場所にはあり得ないという単純な理由からそういうのだがね。もし頂上まで引きずり上げたとすりゃわれわれにはわかるはずだもの。それにぼくの判断では、たとえ奴がそうしたかったとしてもそれだけの体力がなかったろうと思うよ。どれほど力持ちだったとしても、台地のところまで引っぱり上げるのが精いっぱいだったにちがいない、そこまで来てもうだめだと思っただろう。だから死体は台地の下の岩の中にきっと隠されているよ」
「それならしばらく休憩してもよかろう、その前に腹ごしらえだ」警部はそう答えた。街道へ行くと一台の車がすでに待っていてみんなは昼食をしたためた。車を運転してきた警官は新たな情報をもたらさなかったが、ブレンドンはダートマスへ行けばきっと情報が待っていると思った。彼は今回は捜査の対象はほどなく見つかると確信した。
車に鍵をかけてから、運転してきた警官も加わってみんなは台地の下の地面を探検しにおりていった。
「死体のみつからない殺人事件ほどいやなものはないよ」ダマレル警部が小径をおりながらいった、「そもそも自分がちゃんとした基盤に立っているのかどうかすらわからないんだからなあ。情況証拠によってしか確められない事実を頼りに進むしかない。その一歩一歩がほんとは間違っているかも知れないんだ、真実に近づいたと思えば思うほど、実際は遠のいてるのかもしれないんだからねえ。一パイントの血痕があるからといって必ずしも殺人とは限らないんだが、それにしてもこのロバート・レッドメーンなる男は血痕を残すのがよっぽど好きなようだな」
警部の言葉に耳を傾けながら、やがて一行は台地まで下り、更にその下の岩だらけの場所へと下りはじめた。それはべつに困難でもなく、道らしいものはいくつもついていた。しかし最近誰かが下りたような形跡はブレンドンをはじめとして誰ひとり発見できなかった。
下の石だらけのところへ着くと、一行はまず表面の乱れたところはないかと隅々まで調べ、ついで石の下の部分も順序だてて残るくまなく探しまわった。石はとりのけられ、一平方フィートごとにそれこそ入念に調べられたが、踏まれたり人の手で乱されたりしたらしい跡はいっさいみつからなかった。ブレンドンはまず、袋とその中身が落ちたにちがいない台地のすぐ下を探してみたが、そんなものの落ちたらしい跡さえ全くなかった。石はみなむき出しだったが、捜査陣の努力に報いるような血の痕も、この淋しい場所に誰かが訪れたような形跡も全くないのである。頭上の崖の上に夕闇がせまりはじめる頃までまる三時間というもの、一行は精魂つくしてこつこつと働いた。しかしその仕事も無益に終った。あれほど確信をもってブレンドンが宣言した説はもろくも崩れ去り、彼はおのれの失敗を率直に認めざるを得なかったのである。
一行は崖の道をよじ登ってもう一度頂上へ出た。街道に出ると、この日警察に協力してくれていた町の人たち二人ばかりと会ったが、二人とも逃亡者の噂もきかないとのことだった。
『烏荘《クロウズ・ネスト》』への入口は警察の車がダートマスへ帰る道すがらの街道に面している。ブレンドンはここで車をとめて自分だけおり、突如として主人を失った家の方へと谷を下っていった。
家の中は悲しみに包まれ、もの音一つしなかった。ブレンドンがジェニーに会いたいというと、おびえきっている家政婦は、会えるかどうかわからないといった。
「お気の毒に奥さまはひどくお悲しみでいらっしゃいます。自分が来ると悪いことが起こるとおっしゃって、旦那さまのかわりに自分が死ねばよかったのにとおっしゃるのです。ドリアさんが慰めようとなさってもだめで傍へ来ないでくれとおっしゃるのですよ、朝から涙が枯れつくすほど泣きつづけておいでですわ」
「それはペンディーンさんらしくないな。どこにおいでです? それからドリアは?」
「お部屋にいらっしゃいますわ。ドリアさんの方は手紙を書いてます。早く次の仕事を探さなくちゃといってるんです、もう一と月もしたらここでは用がなくなるだろうからって」
「ちょっと会っていただけないかどうか奥さんに聞いてみて下さい」ブレンドンがそういうと家政婦は聞きに行ったが、結局彼は失望させられた。ジェニーの返事は、今日は会いたくない、翌朝もし来ていただけるようならもう少し落ちついているかもしれない、とのことだった。
ブレンドンはこれには答えるすべもなく、ふたたび車の方へ歩き出した、その時、ジュゼッペが家から出てきて追いついたが、『烏荘《クロウズ・ネスト》』は一日無事だったという報告をしただけであった。
「牧師さんがみえただけで誰も来ませんでした。なにもかもご主人の残してらした通りにしておこうと皆できるだけ気をつけてるんです」
「あしたまた来るよ」ブレンドンはそう約束した。それから警部のところへ戻り、車は帰途についた。
ダートマスに帰った一行は驚き、かつ痛烈な失望を感じさせられた。その日一日の活躍は何の結果ももたらさなかったのだ。ロバート・レッドメーンに関する報告はどこからも入っていないのである。ダマレル警部は以前と同じく自殺という線を考えだした。しかし今回はブレンドンは同意しようとしなかった。
「いやこの前同様死んでなんかいない。あの男は常識的な捜査方法の裏をかくような変装とか潜伏の術を心得てるんだ。明日は犬を使ってみよう、といっても、もう臭いは消えてるかもしれないし、あまり期待はできないがね」
「もしかしたらこの前みたいにプリマスあたりから手紙を出すかも知れないね」ダマレル警部はいった。
意気銷沈してブレンドンは警察をあとにしホテルに帰った。失敗してあわてた経験はこれまでにもあったし、次のインニングでは百点以上とれるだろうとわかっていながら、どうかするとなんとしても点がとれなくて退却する、そんなベテランのクリケット選手のような苦しみも味わったことはある。しかし今なんとしても面白くないのは一つの事件で再度大敗させられたことであった。ブレンドンは自分自身の心理状態に当惑を感じていた。目の前に問題があってその謎が自分に挑戦しているというのに、いつものように、反応しないのである。
彼は自分の頭脳自体に裏切られているような気がした。いつもなら彼一流のやり方で大胆に困難のまっただ中へ斬り込んでいくのだ。ところが霊感《インスピレーション》という灯《ともしび》の光をみつけられない。霊感《インスピレーション》――たしかにいまはそれが全く感じられないのだ。過去にたった一度だけ、流感《インフルエンザ》にやられたあと今のような無気力さを感じたことがある、気力がなくて何をやってもうまくいかなかった。
消え失せた老水夫のことではなく、ジェニー・ペンディーンのことを考えながら、ブレンドンはいつしか眠りに落ちていった。彼女が叔父の死を悲しむのは当然のことで、うち沈んでいると聞いてもブレンドンは驚きはしなかった。ジェニーは感じやすいのだ、第一つい最近おそろしい苦難を味わわされたばかりなのだから。ふたたび悲劇に巻きこまれた自分を発見して神経衰弱にならない方がおかしいのだ。こうなっては誰が救ってやれるのか? 誰に頼れるというのか? ジェニーはどこへ行くのであろう?
ブレンドンは早くから起き出して、ダマレル警部とともにその日の捜査計画を綿密にねった。九時になると大捜査陣が活動を開始した。更に一晩経過したというのに電報も電話もなんら情報をもたらさず、レッドメーンが今もって逃げているのが明らかだからである。
ブレンドンはやがて『烏荘《クロウズ・ネスト》』へ出かけていった。ただただジェニーのことを考えてひきつけられるようにして行ったのである。なぜなら彼女がドリアのことをどう考え、どう感じているにせよ、今の状態の中ではドリアといえどもなんら役には立たないからだ。ドリアはもともといざという時には頼りにならない友だちなのだ。ジェニーはしなければならないことがたくさんあることだろう、しかしブレンドンの知る限り彼女を助けてやれるものはいないのだ。行ってみるとジェニーは悲嘆にくれてはいたが、落ちついていた。イタリアにいる叔父に電報を打ったとのことで、わざわざ寒い冬のイギリスまで帰って来てくれるかどうかわからないが、なるべくそうしてもらいたいのだ、といった。
「なにもかもめちゃくちゃですわ、プリンスタウンの時と同じです。ベン叔父は今度の騒ぎが起きるほんの二、三日前にこういってましたの、弟のロバートはもう死んだものとあきらめたよ、だけどあと何年かたたなければ法律上は認められないだろうな、って。それが今、ロバート叔父は死んでないことがわかってかわりにベン叔父が死んでしまったんですわ。でもやっぱり死体が発見されない以上法律はベン叔父の死を認めませんでしょうね。ロバート叔父の書類やなんかの調べはすんだんですが遺言は残してないんですの、ですから叔父の財産は法の裁下があれば兄弟の間で分けられるところだったんです。でもこうなってはみんなイタリアの叔父のものになるんでしょうね。気の毒なベン叔父の方はきっと遺言があると思うんです、とてもきちんとした人でしたから。でもこの家やお金はどうするつもりだったのかはまだわかりませんけれど」
ジェニーはブレンドンにとって役に立つような話は何一つできなかった。ひどく神経質になっていて、一刻も早くこの崖の上の淋しい住いから離れたいと望んでいた。しかしアルバート・レッドメーンの意見を聞くまでは待つつもりだといった。
「こんどのことでアルバート叔父はどんなにかびっくりすることでしょう。こうなってはあの叔父が『赤毛のレッドメーン家』の最後の人になりましたわ。オーストラリアであたしたちの一家はそう呼ばれてましたのよ」
「なぜそういうふうに?」
「うちの一族はみな赤毛でしたから。あたしの祖父の子供たちは一人のこらず赤毛で、祖父自身もそうでしたの。祖母まで赤毛だったんです――ですから次の世代のたった一人の生き残りも赤毛なんですわ」
「あなたは赤毛じゃないんですね、あなたの髪はとてもすばらしいとび色ではありませんか」
ジェニーはそういわれても嬉しそうな顔もせず、ただ、ひとこと答えた。
「じきに白髪になりますわ」
[#改ページ]
第九章 ひときれのウェディングケーキ
アルバート・レッドメーンは、来るのが義務だと考えてはるばるイギリスまでやってきた。そしてジェニーはその叔父をダートマスに出迎えた。
彼は頭でっかちの小柄でしなびた男だった。そして大きな眼がキラキラと輝き、頭は禿げていた。わずかにまだ残っている髪の毛は純粋なレッドメーン家の緋色《ひいろ》をしていたが、ツルツルの頭をかろうじて飾っているその髪には白いものがまじり、まばらな長いあご髯もやはり白髪となっていた。彼はいくぶん南国人的なジェスチュアをまじえておだやかなやさしい声で話をした。大きなイタリアマントを着こみ、ふちのたれさがった大きな帽子をかぶっているので、この読書家の顔はろくに見えないぐらいだった。
「ああ、ピーター・ガンズがいてくれたらなあ!」燃えさかる火の方へできるだけにじり寄って、ジェニーの語る悲劇の詳細を聞きながら彼はくり返しくり返しそういって嘆息した。
「洞穴へは警察犬も連れていってみたんですよ、叔父さん。ブレンドンさんご自身がその様子をずっと見てらしたんですけど全然だめでしたの。犬たちは洞穴からの通路を駈け上がってすぐ台地へ出たんです。あそこには長いトンネルが通じてるんですのよ。でもそこまで来て方角がわからなくなったらしいんです、崖の上にも、それから下の岩だらけのところにも臭いが残ってないらしくって。ブレンドンさんはこういう事件の場合は警察犬の価値をあまり認めていらっしゃらないんですけどね」
「それ以来――その――ロバートのことは何も?」
「全然それらしい跡さえないんですの。でも人間の知恵の及ぶ限りの手は尽くされたと思いますわ。それに州知事さんをはじめとして、土地の偉い方々がみんなブレンドンさんのお手伝いをして下さったんです、それなのにロバート叔父さんの姿は誰も見かけないし、あの恐ろしいことのあった晩以後、叔父さんがどういうことになったのか示すようなものさえ何にもみつからないんです」
「そしてベンディゴがどうなったかを示すものもないとな。そのほうはきっと」レッドメーン氏は呟くようにいった、「またおまえの夫の二の舞なのじゃろう――血を流してな、ああ、だが、それしかあるまい!」
ジェニーはやつれ、疲れきっていた。彼女はいっしょうけんめい老人を慰め、長い旅の疲れが出なければよいがと心配した。
アルバート・レッドメーン氏はその晩よく眠ったが、朝になるとひどく気が滅入って憂鬱を感じた。話を聞いただけでさえ恐ろしいことなのに、今こうして事件の起こったその場所に自分がいるというのはそれどころではなく嫌なものであった。彼はマーク・ブレンドンと長いこと話し合い、ドリアには尋問もした。しかし二人の話を聞いてはみたもののいい知恵も浮かばなかった。結局二十四時間たってみてこの小柄な男がいたところで誰の助けにもならないとわかったのだった。彼は恐れおののいていた。『烏荘《クロウズ・ネスト》』もまわりの海の陰鬱な呟きも嫌がり、しきりとできるだけ早くわが家へ帰りたがった。そして日が暮れると一そう神経を昂ぶらせるのだった。
「ああ、ピーター・ガンズさえいてくれればな!」ブレンドンかジェニーが何かひとこと説明するたびに、アルバートはそう叫んだ。それでジェニーが、そのピーター・ガンズという人を呼ぶことはできないものかと訊ねると、それはアメリカ人で今はとても遠くにいるのだ、といった。彼はいった、
「ガンズ君はわしにとって世界中で一番の――いや一人だけ例外があるが、二番目の親友なんだ。その男は――つまり一番の、最も大切な友だちはベラジオに住んでいる。コモ湖をへだててわしと向い側のところだよ。ヴィルジリオ・ポジーはヨーロッパでは名高い愛書家で実にすぐれた男だ、大天才だよ、わしとは二十五年からのつきあいでな。だがピーター・ガンズもやっぱりどえらい人物なんだ。専門の探偵なんだが、何にでも長じた男で人をみる目にかけちゃ大したもんだ、だからあの男を知ることは貴重な見識を得るようなものでな。
わし自身は、あの男が生まれつき才能としてもっているような、性格に対する詳しい知識は持ち合わせておらんが、本のことなら他の誰にもひけをとらん。ニューヨークでガンズとわしが知り合ったのも実はわしの、本に対する特別な知識のおかげだった。あの驚くべき事件でわしはあの男のために大いに働いてやった、ある犯罪を証明する手伝いをしたんだよ。その発見の鍵になったのはメディチ家のために作られたある紙だったんだがね。だがそんな発見よりもっといい事がそのおかげで生じたわけだな、つまりすぐれたるピーターとわしとの間の友情だよ。何冊本を読んだところで、あの男から得るほどのものは得られんよ。まず彼は天使の側におけるマキャベリというところだろう」
彼は聞き手がうんざりするほど長々とピーター・ガンズの話をしてきかせた。やがてジュゼッペ・ドリアが個人的な問題をもち出して話をさえぎった。彼は辞めさせてもらいたいというのだ、そしてこの土地を去ることは法律上許されるものかどうかとブレンドンにしきりと訊ねるのだった。彼はいった、
「ぼくとしては、甲の損は乙の得。もし異議がないんならロンドンへ行きたいんですよ」
しかし事件の正式な調べがすっかりすむまで数日の間、彼はひきとめられた。取調べがなされても何の収穫もなく、ベンディゴ・レッドメーンが明らかに殺されたことについても、またその弟の失踪についても一条の光さえ投じられなかった。フォギンターの石切場で起きた最初の事件がむし返され、口さがない人々の好奇心をさそった。しかし二つの犯罪を結びつけるような動機はいっさい見当らず、ロバート・レッドメーンの問題はいよいよわからなくなるばかりであった。二つの悲劇には目的がないのである。いずれの場合にも、消え失せた人間の他殺を証明するべき死体が見つからないのだから、事実そのものさえ疑惑に包まれたままというわけなのだ。
アルバート・レッドメーン氏は義務的な日数だけ滞在すると早々にデヴォンシャをひき上げた。自分がいたところで警察に協力できるわけでもないとわかったからである。ひき上げるまえの晩、彼は弟の貧弱な蔵書をひとわたり調べたが収集家の興味を惹くような本は一冊もみつけられなかった。古びて手あかに汚れた例の『白鯨《モウビイ・ディック》』を彼は記念にともらい、その他にベンディゴの『航海日誌』――十冊ばかりの日記帳――もジェニーに頼んで荷づくりさせた。家へ帰ってからひまなとき読むつもりだというのだ。そして出発の間際になってもまだ彼はピーター・ガンズ氏のいないことを嘆きつづけていた、
「わしの友人は来年はヨーロツパへ来るはずなんだが。あの男は犯罪捜査にかけてはまちがいなく最も権威ある人物だ。もし今ここにいれば、わしらがこうして探しあてられないでいるこの忌わしい事件の意味をきっと読みとることができるんだ。いや、なにもわしは」アルバートはジェニーにいった、「ブレンドンさんや警察の人たちのご苦労を軽く見てるわけじゃないんでな。しかし結局あの連中にはなにもわからなかった。それというのもここには、あの連中の頭ではとうてい及ばないほど深いところになにか悪魔の力が働いているからだろうよ」
彼は別れしなに自分の一家はなにか悪魔に禍いされているにちがいない、それがどんな悪魔かは彼自身にも他の誰にもわからないが、といった。しかし、いずれアメリカに手紙を出して今までにわかっている事を全部くわしくピーター・ガンズに知らせよう、とジェニーに約束した。
「ピーターはきっと新しいことを考えついてくれるよ。わしらの眼には隠されていて見えないことでもあの男は見ぬいてくれるよ。なにしろあいつの頭は精神的X線とでもいうより他ないからな、そこいらへんの考える機械とはちっと違ったやり方でなにもかも見ぬくことができるんだよ」
コモ湖畔にある山のふもとの小さな家へ帰るにあたって、老学者はジェニーとの別れを惜しみ、来られるようになりしだい彼のもとへ来るようにと約束させた。
彼はジェニーとドリアとの間柄には気がつかなかった。しかし、ドリアのことをなかなか魅力ある人間であると思い、この悲しみにとざされた状況の中で彼の発揮した分別ある態度に好感をよせた。そして金を与え、必要な時にはいつでも推薦状を書いてやると約束した。ジェニーについては、祖父の遺産を好きな時に好きなように使ってよい、といった。ただこれから先自分と一しょに暮すことを望んでいた。
やがて彼は帰っていった。そしてあれほどの熱意と確信をもって始められたレッドメーン捜査もしだいに活気を失ってしまった。あれだけの努力にもかかわらず手がかり一つ発見されず、いっこうに進展をみせないのである。ロバート・レッドメーンの行方は杳《よう》として知れず、その兄のベンディゴも共に姿を消した。一族で残された者はアルバートと、その姪だけである。ジェニーは、マーク・ブレンドンが他のもっと有益な仕事をするためにいよいよ帰ることになった時、いささか憂鬱そうなおももちでその事をいったのだった。
ブレンドンはできるだけ早くアルバートのもとへ行くように熱心にすすめ、自分の力の及ぶ限りのことは喜んでさせてもらいたいと思っているからどうかその気持ちを受けとってほしいと頼んだ。ジェニーはこれまでの彼の努力に対してやさしく感謝の意をのべた、
「忍耐強くそしてご親切にいろいろやって下さいましたこと、決して決して忘れませんわ。ブレンドンさん、あたし心から感謝しておりますの。あなたのためにだけでも、この事件の真相が早く明るみに出てほしいと思います。誰からも怨まれたりしたことのない善い人たちが同じ人間の手で、殺されたなんて――ほんとうに悪夢のようですわ。でも神さまはいつかきっと真実を教えて下さいますわね、あたしはそう信じております」
ブレンドンはこれまでよりも一そう深い愛情を感じながらジェニーと別れたが、将来に対する希望や期待のかけらも感じることはできなかった。それでも彼はいつかまた会うことがあるという強い確信を抱いていた。ジェニーは今後の動静については彼にも連絡すると約束した。しかし一しょに暮すようにというアルバート・レッドメーンの申し出を受け入れるかどうかはまだわからないといった。こうしてマーク・ブレンドンは彼女と別れた。ドリアが彼女の将来を決定するであろうと信じ、また、もし彼女が近くコモへ行くとすれば、この活発できかぬ気のイタリア人はすぐさま後を追うであろうと思いながら。
しかしさしあたってはドリアは自分のことでいっぱいの様子だった。『烏荘《クロウズ・ネスト》』からの最後の旅をするブレンドンをボートで送りながら、ジュゼッペはすでにテムズ河畔にいい仕事がみつかった、といった、
「またお会いしたいものですね。見てて下さい、そのうちすばらしい冒険談が聞けますよ、もちろんドリアがその主人公――快活な英雄!」
二人はいろいろ話をしたが、ブレンドンはこの小ざかしい男に自分が愚弄されているような気がしてしだいにいらいらしてきた。ドリアは相変らず上機嫌だったが、彼らラテン人の好むある種の戯れの気持ちが、この場合皮肉というよりは冷酷にさえ感じられるのである。
二人はこの事件の謎について話し合った。ドリアはその問題については自分は全くわからないと宣言するくせに、ブレンドンの失敗については臆するところもなくあてつけるようなことをいうのだった。事実、彼の仄めかしたと同じことを、ブレンドンは六か月後にもっと信用のおける人物の口から聞かされることになったのである。
「この事件で何よりもぼくが不思議でならなかったのはあなたのことですよ」ジュゼッペははっきりいった、「あなたはベテランの刑事さんでしょう、それなのに今度のことじゃあ、われわれぼんくらとえらぶところがないじゃありませんか。それがながいこと不思議でした。でも今はちっとも不思議でないなあ」
「わたしは失敗した、認めるよ。アーチのかなめ石のような、致命的なものを見失ったんだ。しかしなぜ今は不思議でないというんだね? わたしというものがわかってみたらひどい駄犬だとわかったとでもいうのかい?」
「ちがいますよ、とんでもない。とてもかしこい名犬ですよ。ただなんていうのかな、イタリアじゃよくこういうんです、『猫に手袋をさせたらねずみはとれない』ってね。マドンナが未亡人になったと知って以来のあなたは手袋をはめてるんですよ」
「どういう意味かね?」
「よくおわかりのはずじゃありませんか!」
それっきり二人とも口をきかなかった。ブレンドンが顔をしかめてむっつりと黙りこんでしまったからである。やがて桟橋に近づいたのでジュゼッペは速度をおとしはじめた。
「なんだかまたきっとお会いするような気がするんです」別れしなに握手をしながらドリアはいった。ブレンドンの方も同じことを強く感じながらうなずいた、
「そうかも知れないな」
しかし、その後数か月というもの、ブレンドン刑事は、あの未解決の事件でそれぞれ小さな役割を果した人々の消息を耳にしなかった。忙がしくもあったし、ある事件を彼一流の見事なやり方で解決してのけてある程度の名誉も恢復した。だが成功も彼の自尊心をとり戻してはくれなかったし、彼の胸に燃える熱病をさましてもくれなかったのである。
ジェニーからは、イタリアに発つ前にロンドンで会いたいという手紙が一度だけ来た。彼女が叔父のところで暮す決心をしたということを知ってブレンドンは多少ほっとした。だがその後は消息が絶え、『烏荘《クロウズ・ネスト》』から発信されたジェニーの手紙に対して彼が出した返事には何の反応もなかった。何週間も過ぎ、まだデヴォンシャにいるものやらロンドンに来ているものやら、あるいはもうイタリアに行ってしまったものやら、二度と手紙が来ないのでブレンドンは知るすべもなかった。
春になってまもなく、彼はアルバート・レッドメーン気付で長い手紙を出してみたが、それに対しても返事は得られなかった。だがやがてそのわけがわかる時がきた。彼女はずっとロンドンにいたのだが、当然の理由があってブレンドンには知らせないでいたのだ。ジェニーは彼のことなど気にもかけていなかった。なぜなら彼女の生活は他のもののことでいっぱいだったからである。
三月も末のある日、ブレンドンは外国の消印のある小さな三角形の小包を受けとった。あけてみるとなんとそれは一きれのウェディングケーキであった。そして一行――たった一行の添え書きがついていた、『ご親切にしていただきました思い出に――ジュゼッペ及びジェニー・ドリアより』
この贈りものに礼状を書こうにも、ジェニーは、いっさい所番地を書いてよこさなかった。しかし包み紙の消印からブレンドンはその箱がイタリアから来たものと知った。イタリアのヴェンチミグリア――それは、ドリアが、自分の一族の壊滅した城や栄光の話をした時に口にした町である。
そう驚くことではないにせよ、全く突然のできごとであるというのに、ブレンドンはこれが終りを意味するわけではないという確信を頑強にもち続けていた。時が到ればふたたびジェニーと親しく交われるようになる、そのことを彼は将来の欠くべからざる一要素であるかのごとくに思っていた。しかしいかに頑強にそう思い続けてみたところで、すでに一つの事実が形成されてしまった以上、彼の憂鬱な気分を軽くする役には立たなかった。これからのちジェニーのためにどれだけでも役に立ってやれるという確信は潜在的にもっていたけれども、恋愛とは永遠に訣別しなければならないのである。従って希望は失われたのだ。そして今後職務上彼女にあう場合、その義務がどんな形をとるものか彼にはわからなかった。眠られぬ一夜、今はドリアの妻となったひとと過ごした時のことをいろいろ思い返して彼はひどく苦しんだ。
しかしこうして思い返しているうちにいっしょに思い出されてきた他のさまざまなことによって、今まで考えてもみなかった謎に彼の注意が向けられた。あのやさしい女性が夫を亡くして嘆き悲しんでいたのはたった九か月前でしかないのに、今やうきうきとして他の男との結婚生活に入る、そんなことができるものだろうか? ブレンドンの知っているのは夫に先立たれた不幸に泣くジェニー・ペンディーンであるのに、その同じひとが今は幸せな花嫁――しかもつい最近知りあったばかりの男の花嫁となった、そんなことが、考えられるだろうか?
事実あり得るのだ、なぜなら実際にそういうことが起きたのだから。だがこんなふうに思いがけなく早く起きたからにはそれ相当の理由がなくてはならない。その理由さえわかればジェニーの本来の堅実な性質と矛盾するあきらかに軽薄なこの行為も、あるいは説明がつくのかもしれない。他をかえりみることもしないひたむきな愛情はそのような奇蹟をさえ可能にし、過去の結婚生活を完全に追い払ってまで外国人の夫との不安な将来をジェニーにえらばせることができたのである。そう考えることは、彼自身の消え去った夢や永遠の損失にも劣らぬほどの大きな打撃であった。きっと何か隠されていることがあるのだ。ブレンドンはこれほど自分が愛してきた女性の名誉のために――彼女が軽薄でなかったことを証明するために――その隠されていることをぜひとも知りたいと思った。
[#改ページ]
第十章 グリアンテにて
イタリアに朝が訪れて、山々の霧は|すいかずら《ヽヽヽヽヽ》色に染められた。聳《そび》えたつ山のはるか麓の世界では人々はまだ眠りから覚めず、花にふちどられたラリアン湖が宝石さながら金色とトルコ玉色に輝いている。それは静かな静かな時間であった。白やさくら色の貝殻を散らしたようにコモ湖畔に点在する小さな町や村落は、かすかな楽の音《ね》がそれぞれの鐘塔から響いてくるまでまどろみ続けている。鐘の音はつぎつぎと呼応して湖《みずうみ》のまわりに輪をつくる。そしてやがて水の面《おもて》をわたり、空へ昇って小鳥の囀《さえず》りと唱和する。
グリアンテの急な傾斜を二人の女が登っていく。ひとりは日焼けした年輩の婦人で黒い着物を着、ひたいに橙《だいだい》色の布きれを巻いている――がっしりと男のような体つきで、やなぎで編んだ大きな空《から》の籠をしょっている。もうひとりはバラ色の絹の上着をきている。朝の光の中できらめくような彼女の姿は、あたりの美しい光景をなおいっそう美しいものにしていた。
ジェニーは蝶《ちょう》のように軽く山をのぼっていく。朝の光に包まれて、彼女は以前にもましてろうたけて見えた。だが、その額《ひたい》のあたりにはかすかな疑いのかげが、警戒するような悲しみのかげがただよっていた。イタリア人の女といっしょに今彼女がのぼっている急坂を、美しい眼が見上げた。そして年上の相手の歩調に合わせてジェニーは歩をゆるめた。やがて二人は山道の傍らに建っている灰色の小さな礼拝堂の前で立ちどまった。
アルバート・レッドメーン氏の蚕《かいこ》は、家の裏の大きな風通しのよい小屋に飼われているが、今はほとんどみな繭《まゆ》を作ってしまっていた。もう六月のことではあり、下の谷の桑《くわ》の葉はことごとく食べつくされてしまった。だから老愛書家の家政婦であるアスンタ・マルツェリは、たまたま訪れていた主人の姪といっしょにその一日を休日とすることにしたのである。そしてのろまな蚕が変身するのに必要な食糧が山へ行けば得られるかもしれないというので、二人の女は山登りを始めたのだ。
二人はまだ夜が明けきらないうちに出発した。干上った河床を通り、ついで葡萄《ぶどう》の樹の生い繁ったところを通った。そこでは今を盛りのオリーヴからこぼれ落ちた金銀細工のような花が匂いを放っていた。すでに丸みを帯びた小ちゃな葡萄の実がすずなりになっている。二人は三角や四角の耕された畑を過ぎた。そこには獲り入れを待つばかりの黄色の小麦の畑と、伸び出したばかりのみずみずしい緑のとうもろこしの畑とが交互に並んでいた。いちじく、アーモンド、そして葉をむしられて裸の枝をさらした桑の赤や白の実の列が、広い畑のあちこちにみえた。まっ赤に色づいたさくらんぼうもある。やわらかい草を食《は》む羊や山羊の姿も見える。もっと高いところには栗の木立が白い房を輝かせている。それは鬱蒼と暗い松の木立と全く対照的な明るい輝きだった。
やがてジェニーとアスンタは、背の高い糸杉が二本両側に立っている祠《ほこら》の前へ出、しばらくそこに佇《たたず》んだ。ジェニーが弁当を入れてきたバスケットを下におろすと、連れのほうも桑の葉を入れるための大きな籠をおろした。
眼下の湖はいつしか透明なひすい色に変わり、水際に映じた山の影に朝の光が幾すじもあたっていた。いまその水の面《おもて》には船が浮かんでいて見下ろす者の目を捉えた。その二隻の船は一|対《つい》のおもちゃの水雷艇のように見える――船尾にイタリアの旗を立てて水の上に赤と黒のすじのように浮かんでいる。しかしその小さな船はおもちゃではないのだ。そしてアスンタはそれらの船をひどく憎んだ。それは山の密輸業者たちと当局との絶え間ない戦いのしるしであり、十年前に死んだ無法者の夫のことをこの未亡人に思い出させるからであった。カエサル・マルツェリはたびたび危険を冒した末に、税関吏との激戦で命を落したのである。
山々の間から壮麗な光がさしこんで湖にさんさんとふりそそいだ。低い山々の肩は燃えるように輝き、その下の水の面《おもて》はキラキラと光っている。そして遙かむこうの、まだ朝靄《あさもや》につつまれた高原の山あいには、サファイア色の空を背景にして残雪がきらめいていた。
二人が傍らに腰をおろした小さな祠《ほこら》の上には、さびた鉄の十字架がついていた。古びた屋根瓦は日にさらされてやわらかな茶色になっている。この祠はマリイ・ステラに捧げられたものであった。そして内側のほの暗い祭壇の下には白い骨がみえた――遠い昔、疫病にたおれた男や女のしゃれこうべやあばら骨である。Morti della peste(疫病にたおれし者たち)祭壇の前に書かれたそれらの文字をジェニーは読んだ。そして過ぎ去った昔のことを思い出して沈みこんでいたアスンタは、頭をふって若い女主人に話しかけた、
「わたしはこの人たちが時々うらやましくなりますよ、奥さま。この人たちの苦しみはもう終りましたのですからね。このたくさんの頭、どんなにか痛んだり泣いたりしたことでしょうけれど、今はもう痛むこともないし泣くこともないのですから」
アスンタはイタリア語でしゃべるので、ジェニーにはところどころしか理解できなかった。それでも彼女はアスンタにならって跪《ひざまず》いた。二人はいっしょに海の星マリアに朝の祈りを捧げ、それぞれの胸に抱いた願いごとをとなえた。
やがて二人は立ち上がり、ふたたび道を登りはじめた。お祈りをしたのでアスンタは落ちついたようだった。彼女はイタリア、スイス間の密貿易者だった真正直な夫が、眼下の湖に浮かんでいるあの税関の船の奴隷どもの手で殺されなければならなかったということが、いかに卑劣で非道なことであるかをいっしょうけんめい説明した。ジェニーはうなずいてみせながら理解しようと努めた。彼女のイタリア語はだいぶ進歩していたが、早口で訛《なま》りのあるアスンタの言葉はとてもわからなかった。それでも密貿易者だった死んだ夫が話題であるらしいことは解ったので、慰めるようにうなずいてやったのだった。
「悪党め!」アスンタはそう叫んだ。しかしやがて険しい道にさしかかったので彼女も口をつぐまざるを得なかった。
ジェニー・ドリアを、過ぎ去った悲劇の中へ烈しくひき戻すような大事件はその頃はまだ起きず、彼女がそれに直面したのは何時間もたってからであった。二人の女はやがて牧草のはえた小さな野原まで辿りついた。小さな花をあちこちにちりばめたそのアルプスの草地は桑の繁みの下にひろがっていた。ここが二人の仕事場所であった。だがジェニーとアスンタはまず弁当をひろげて、卵、パン、くるみ、干したいちじくを食べ、小瓶の葡萄酒を分けあった。おしまいにさくらんぼうを食べると、アスンタは大きな籠に桑の葉を摘みはじめた。ジェニーはしばらくの間ぼんやりとして煙草を吸っていた。煙草を吸うのは結婚以来の新しい習慣であった。
やがて彼女もアスンタを助けて仕事にかかり、二人で籠いっぱいの葉を摘んだ。ジェニーはこの小さな谷間に咲いていたオレンジ色の大きな百合《ゆり》を二本折った。それから二人は帰途についた。一マイルほど山をくだってグリアンテの肩までくると腰をおろして快い日蔭で一服した。はるか下には、北の方に彼らの湖畔の家があった。点在する家々をじっと見おろしているうちに、ジェニーはピアネッツォ荘の赤い屋根と、その裏手の、蚕が飼われている茶色の小屋とがはっきり見えると主張した。対岸の岬にはベラジオの小さな町並が見え、その後にはレッコ湖の鏡のような水面が陽光を浴びて輝いている。そのとき突然、まるで虚空に描かれた幽霊か何かのように、眼前の小径に背の高い男が立ちはだかった。帽子もかぶっていない赤毛の頭、その下にぎょろりと光るやつれて凄惨な二つの眼玉。黄褐色の偉大な口髯を生やし、ツィードの上着にニッカーを穿《は》き、赤いチョッキを着て手には帽子をもっている。
それはロバート・レッドメーンであった。何もわからずただあっけにとられて彼を見つめていたアスンタは、突然ジェニーの手が自分の腕をひしとつかんだのを感じた。ひとこと恐怖の叫び声を放ったジェニーは、へなへなとなり、意識を失ってその場に倒れてしまった。アスンタはかけよって助け起こし、しきりと慰めの言葉をかけて何も恐いことはないといった。しかしジェニーが気がついたのはそれからしばらくたってからで、気がついてもまだ魂がぬけたようになっていた。
「いまの男をおまえも見た?」大きく喘ぎながらジェニーはきいた。アスンタにすがるようにしながら、叔父の立っていた場所を恐ろしそうに見つめている。
「ええ、ええ、赤毛の大男、でもわたしたちには何もしやしませんですよ。奥さまが声をお出しになったもんでむこうのほうがよっぽど驚いたようでしたよ。まるで赤毛の狐みたいに森の方へかけおりていって見えなくなりました。イタリア人じゃありませんですね、きっとドイツ人かイギリス人ですわ。スイスからお茶だの葉巻だのそれからコーヒーや塩なんかを持ち出そうっていう密輸業者かもしれませんですよ。あの人だって袖の下さえたっぷり出せば見のがしてもらえるけど、それをしないと奴らは射ち殺すんですからね、悪党めが!」
「見た通りを覚えていてちょうだい!」ジェニーは震え声でいった、「いまの男がどんな様子をしていたか、アルバート叔父さんにすっかりお話できるようにはっきり覚えていてちょうだい。アスンタ、いまの男はアルバート叔父さんの弟なのよ――ロバート・レッドメーンなのよ!」
アスンタ・マルツェリは事件のことをいくらか聞いており、自分の主人の弟が大罪を犯してお尋ね者になっているのを知っていた。彼女は十字を切っていった、
「まあ! その悪い奴ですね! ほんとに赤毛でした、早くまいりましょう、奥さま」
「どっちの方へ行ったかしら?」
「この下の森の中へまっすぐ行きました」
「アスンタ、むこうはあたしのこと気がついたかしら? あたしのことわかったようだった? なにしろあたしはもう一度見る勇気がなかったのよ」
アスンタはこの質問が全部はのみこめないようだった、
「いいえ、どっちも見ていませんでしたよ。湖の方を眺めてましたが、その顔ときたら地獄に堕ちた人のような顔でしたわ。そうしたら奥さまが声をお出しになって……、でもあの男はこっちを見ないで逃げて行きましたんです。べつに怒ってはいませんでしたよ」
「なんだってこんなところへ来たんでしょう? どこからどうやって来たのかしら?」
「さあ? きっと旦那さまならおわかりになりますでしょう」
「その旦那さまのためにあたし心配してるのよ、アスンタ。できるだけ早く帰らなくっちゃ」
「ご自分の弟さんでも危いんですか?」
「わからないわ。でもそういうことがあるかも知れないのよ」
ジェニーはアスンタに手をかして大きな籠を肩にしょわせてやった。そうして並んで歩き出してはみたもののアスンタの足どりはあまりにも遅く、ジェニーはいらいらした。
「あたしとても心配よ。もっと早く行かなくちゃいけないような気がするの。アスンタ、あたしだけ先に急いで行っちゃったらあんた恐い?」
相手はどうやら意味がわかったらしく、ちっとも恐いことはないといった、
「わたしはあの赤毛の人と喧嘩したわけでもないですから、わたしに襲いかかったりはしませんでしょう? きっとあれは人間じゃなくて幽霊だったんですよ」
「そうならいいんだけど」ジェニーはいった、「でもねアスンタ、あんたの見た森の中へ駈けこんだ男は幽霊じゃなかったのよ。あたしは近道をして大急ぎでかけて帰るわ」
二人は別れ、ジェニーは道を急いだ。何度か危い目に会いながら若さにものをいわせ、それに恐さも手つだって、どんどん歩いて行く。一、二度立ちどまってふり返り、耳をすますのがアスンタに見えた。そのうちに懸崖や覆いかぶさるような木の繁みに邪魔されて見えなくなった。
ジェニーは全く思いがけなく自分の前にふたたび姿を現わした人間に、家へ着くまでもう出会わなかった。彼女はアルバート叔父のことばかり考えていた。叔父に会うと彼女はいったのであるが、この事件の重大さを考え、叔父自身の身の安全のためにはどうすればよいのか決めるのは、結局アルバートでなければならなかった。ジェニーが家に帰りついてみるとアルバートはベラジオに行っていた。アスンタの弟で下男をしているエルネストの話では、レッドメーン氏は昼食後、親友の愛書家ヴィルジリオ・ポジーを訪問しに湖を渡っていったとのことだった。
「郵便屋が本を届けてまいったんですよ、それで旦那さまはどうしてもすぐ渡しを雇ってお出かけになるとおっしゃったんでございます」エルネストはそう説明した。彼は立派な英語を話すことができ、それを自慢にしていた。
ジェニーはいらいらして待っていた。そしてアルバートが帰ってくるのを桟橋で待ちかまえていた。アルバートは姪を見るとにこにこしながら、つばの垂れた大きな帽子をぬいだ。
「わしの親友ヴィルジリオはわしがこの有名な本を手に入れたんで狂喜しとったぞ。サー・トーマス・ブラウンの正真正銘のイタリア版だ――『迷信論』のな。今日はわしら二人にはめでたい日じゃ! だが――どうした……」彼はジェニーの眼がおびえ、またその手が自分の袖を掴んでいるのに気がついた、「なに、どうかしたのか? おびえているね。ジュゼッペに何かあったんじゃあるまいね?」
「早くお帰りになって下さい。家へ行ってからお話します。とてもたいへんなことが起きたんです。どうしていいのかわからないわ。ただあたしにわかってるのは、とにかく叔父さまを一人にしておいちゃいけないってことだけですわ」
家へ帰るとアルバートは大きな帽子と外套をぬぎ、それから書斎に腰をおろした。そこは驚くべき部屋で、天井までびっしり本がうずまり、しかもその五千冊が流行の黒っぽい装幀であるため全体に暗いのだ。ジェニーはロバート・レッドメーンを見かけたと話した。アルバートは五分ばかり考えこんだあげく、よくわからぬが驚いたことだといった。しかし少しも恐れている様子はなく、小さなしなびた顔の大きな目をキラキラ輝かせていた。そうはいってもこの驚くべき出来事が危険をはらんでいることを彼はすぐ見てとった。
「おまえのいうことはたしかだね? 問題はそこだ。ジェニー、あの不運な行方知れずの弟をここでまた、しかもわしの家のすぐそばでもしほんとうにおまえが見たとすれば、大いにたいへんなことだよ。その陰惨な人影というのがおまえの想像の産物とか、ロバートによく似た男だとかではない、とはっきり断言できるのか?」
「そうであったらと思いますわ、叔父さま。でもあたしのいうのはたしかなことです」
「ロバートが、おまえがこの前会ったときと全く同じ――ツィードの上着に赤いチョッキという――姿で現われたというその事で、幻覚説が有力になるのだぞ。もしほんとうに弟がまだ生きてるものなら、一年間も同じ着物を着て、しかもそのままヨーロッパの半分近くも歩きまわったりできるものかね?」
「おかしいとは思いますわ、でもたしかに立っていたんです、あたしこの目ではっきり見ました。そのときロバート叔父さんのことなんか念頭になかったんです、何も考えていませんでしたわ。アスンタと蚕のお話をしてたんです。そうしたら突然目の前に現われたんです、二十ヤードと離れてないところに」
「それでおまえはどうしたんだね?」
「ばかな真似《まね》をしたようですわ」ジェニーは白状した、「アスンタに聞くと、あたしは大きな声を出してそれからへなへなと倒れて気を失ったそうです。気がついたときにはもう何にも立ってませんでしたの」
「そこが肝心なとこだ、アスンタもその男を見たのか?」
「あたしも一番先にそれを聞きました。アスンタは見ていなければいいと思ったんです。そうすればある意味でほっとできますし、とにかく叔父さまのおっしゃるようにあたしの幻覚だったと証明できますものね。でもアスンタもはっきり見たというんです。赤毛の男で、イタリア人じゃなくてイギリス人かドイツ人だったって説明できるぐらいちゃんと見てるんです。あの人は、ロバート叔父さんの足音も聞いてるんですよ、あたしが大声をあげたら森の中へかけこんでいったんですって」
「むこうはおまえを見ておまえだとわかったのかね?」
「さあどうでしょう、でもきっとわかったんじゃないかしら」
レッドメーン氏は炉のそばの小さなテーブルの上におかれた箱から葉巻を一本とって火をつけた。何回か深く吸いこんでから彼はまた口を開いた、
「まったく残念なことだ、こんなことは起きてもらいたくなかった。なにも恐れる理由はないのかもしれぬが、しかし一方、ベンディゴが姿を消したことを考え合わせると、恐れるのが当然だという気もする。この半年の間ロバートは奇蹟的に逮捕を免れ、頭が変なのを隠しおおせてきたのだなあ。ということは、ジェニー、わしはいま非常に恐ろしい危険にさらされているわけだよ。わしはできるだけこのわしの命に注意する必要がある。おまえだって危いかもしれんぞ」
「そうですわね。でも叔父さまの方がもっと危険よ。叔父さま、早く何とかしなくちゃいけませんわ――今日にも、今すぐにも」
「そうだ。われわれは苦しい試練を受けているんだよ、ジェニー。しかし天は自ら助くる者を助く。わしはこれまで身の危険に迫られた覚えがない。今のこの気持ちはまことに不愉快なものだ。さあ少し濃いお茶でも飲んで、それからどういう行動をとるべきか決めるとしよう。正直な話、わしはいささか気持ちが動揺しているんじゃ」
その言葉にもかかわらず、彼の表情は静かで落ちついていた。しかしレッドメーン氏はこれまで一度も嘘をついたことのない人だったから、ジェニーには彼が実際に動揺しているのがわかったのだった。彼女はいった、
「今夜はここにいらしちゃいけませんわ。もう少し事情がわかるまでベラジオのポジーさんのお宅にでも泊めていただかなくては」
「そのことはよく考えてみよう。とにかくお茶の用意をしておくれ、そして三十分ほど考えるからわしをひとりにしておいてくれないか」
「でも――でも……、叔父さま、今にもここへ来るかもしれないじゃありませんか!」
「そんなふうに考えるな。ロバートは、かわいそうにこうなっては夜しか行動できんよ。まっ昼間、他人のすみかを襲うようなおそれはないさ。さあ、わしをひとりにしておくれ、それからエルネストには顔みしりでないものは誰も入れちゃいかんといっておくれ。だがもう一度いうが日が暮れないうちは心配する必要はないのだよ」
三十分ほどするとジェニーはお茶をもってまたアルバートのところへ来た、
「アスンタは今帰ってきました。あれからロバート叔父さんのことは全然見かけなかったそうですわ」
ちょっとの間アルバートは何もいわなかった。お茶を飲み、大きなマコロンビスケットを一つつまんでから、彼はこれから実行するつもりの計画を姪に話してきかせた、
「どうやら天はわしらに味方してくれそうだよ。わしのすばらしい友人ピーター・ガンズは九月にここへ来ることになっているんだが、イギリスへはもう来ているんじゃ。わしはこの前の冬、事件のことをすっかり話してあるんだが、そのあとへまたこんな嫌なおまけがついたと聞いたらきっとすぐかけつけて来るにちがいないと思う。ためらわずに予定を変えてくれると思う。あの男はきちんとした奴だから予定を変えたりするのは大嫌いなんだがね。しかしそれも時と場合によりけりでな、都合がつきしだいきっと来てくれる、と断言してもさしつかえあるまいよ。これもあの男がわしを好いているからいえるのでな」
「きっと来てくださるわ」ジェニーも断言した。
「二通ほど手紙を書いてくれないか。一通は警視庁の若い刑事、マーク・ブレンドン君にだ、わしはあの男を高くかってるんじゃ。それからおまえの夫にも書いておくれ。ブレンドンにはピーター・ガンズに会うように、そして二人とも都合がつきしだいすぐ来るようにと頼むんじゃ。それからジュゼッペにもすぐおまえのそばへ戻るようにいいなさい。なかなか豪胆でしっかりした男だからいてくれると心強いからな」
だがジェニーはそういわれても嬉しそうな顔をしなかった。
「あたし、叔父さまと二人で一か月の間楽しく過ごすつもりでいたのに……」彼女はそういって口をとがらした。
「わしだってそうしたかったさ。しかしこうなっては楽しいどころではあるまい、それにドリアがいてくれるとわしは何となく気もちが落ちつきそうに思うんじゃ。あれは力もあるし快活でもあるし、気も利く。それに勇敢だ。前の事件のことも知っているんだし、哀れなロバートのことも見て知っている。だからもし、ロバートが実際にこの近辺にいていつ現われるかわからないとすりゃ、間に立ちはだかってくれる有能な人間にわしはいてほしいんじゃ。もしロバートが、ベンディゴの場合と同様におまえなり誰なりを通じてこのわしと二人だけで夜会いたいなどといってきても、そんな危険なことは絶対に断わる。ちゃんと武装した人たちのいるところで会うか、さもなければ全然会わないかだ」
ジェニーはドリアとしばしの間わかれてきているのだったが、予定通りの期間を叔父のもとで過ごし終るまでは彼と会いたくない様子だった。
「ジュゼッペからは三日ほど前に手紙が来たんですけれど、ヴュンチミグリアにはもういなくてトリノに行ってるんです。前にそこで働いていましたし、お友だちがたくさんいるんですって。あの人何か計画があるんです」
「こんど会ったら少しまじめに話し会わなくちゃならんな」老人はいった、「よくわかってるだろうが、わしはおまえの素敵なだんなさまには大いに感心しているんじゃ。なかなか感じのいい男だ。しかしね、ジェニー、そろそろおまえの二万ポンドの財産やおまえ自身の将来のことを考えるべき時期だよ。自然のなりゆきとしてわしのものもいずれはおまえのものになる。ベンディゴの財産の整理がつけばわしの収入は現在の二倍近くにもなるだろう。もっとも死亡確定の許可はなかなかおりぬだろうがね。しかしとにかく遅かれ早かれレッドメーン家の財産がみんなおまえのものになるのは確かじゃ。だからわしはジュゼッペとよくよく話しあって、彼がどういう責任のある立場にあるかわかってくれるよう説明したいと思っている」
ジェニーはためいきをついていった、
「叔父さま、あの人にそんなことおっしゃっても無駄ですわ」
「そういいなさんな。あの男は知性もある、それにおまえに対する深い愛情にも劣らぬ立派な羞恥心もたしかにもっている。しかしおまえの金を使わせてはならぬ。それはわしが許さん。トリノへ手紙を出しなさい、そしてわしからの頼みだといって、今何をやりかけていてもいいからそれをやめてすぐここへ来てくれるように書いておくれ。そう長くいてもらう必要はないがね。だがガンズとブレンドンがいつ来るのかわかるまでの間ジュゼッペにいてもらえれば安心だからだよ」
ジェニーはあまり嬉そうではなかったが、救援のために夫を呼ぶと約束した。
「あの人笑って、来ないっていうかもしれませんわ。でも叔父さまはそれがいいとお思いなんですから、あたし、何が起こったか説明してすぐ来てくれるよう頼んでみます。でもその間今夜と明日の晩はどうなさいますの?」
「今夜のところは湖を渡ってベラジオへ行くよ、おまえもいっしょだ。ヴィルジリオ・ポジーは面倒を見てくれるよ、それにわしが危機に瀕しているといえば大いに心配してくれるだろう」
「それはたしかにそうですわ。それからロバート叔父さんのこと、警察に知らせませんの? 人相や服装のことなんかを?」
「それはどうしようかね。明日考えてみよう。わしはイタリアの警察のやり口をあまり好かんのでな」
「もしロバート叔父さんがやって来たらすぐ捕まえられるように、今夜この家には見張りをおおきになった方がよくはないかしら」ジェニーはそう提案したが、アルバートは結局警察には知らせないことに決めた。
「今のところは何もしないつもりじゃ。もう一日待ってなりゆきを見るとしよう。どうもこういう嫌なことをこんなに身近に感じるというのは不愉快でいかん。明日までわしはロバートのことを考えたくないんじゃ。手紙を書いておくれ、それがすんだら身のまわりのものだけ持って暗くならないうちに湖を渡ろう」
「ご本のことはご心配じゃありませんの、叔父さま?」
「いいや、本は心配ない。もしここへ殺人魔がやってきたって、わしの命を狙うのに夢中であちこち眺めてる余裕はあるまいよ。それにたとえ頭が狂ってなくともロバートの奴は本のことは何も知らぬし、ましてや本の価値なぞ知らぬ。あいつは本を探したりはせんよ――たとえ探したってどこにあるかわからんだろう」
「ロバート叔父さんはここへ前にいらしたことあるのかしら? イタリアは知ってるんでしょうか?」
「わしの知る限りでは今まで一度も来たことがない、いや、確かにわしの家へは来たことはないんじゃ。実際何年も会っていないからあのかわいそうな奴の顔を見てもわからんかも知れんな」
ジェニーは二通の手紙を書いて投函すると、叔父と自分の手まわりのものを鞄につめた。アルバートはアスンタとエルネストに、翌日自分が帰宅するまで知らない客は決して入れるなと注意し、湖を渡る用意をはじめた。だがその前に彼は書庫に錠をおろし閂《かんぬき》をかけ、特別貴重な六冊の本を寝室の高いところにある鋼鉄製の金庫にしまいこんだ。
ベラジオの桟橋まで船頭に渡してもらって、二人はまもなくアルバートの友人の家についた。彼は驚きと喜びを半々に表わして二人を歓迎した。
ポジー氏は小柄な太った人で頭が禿げ、額が広くて眼がキラキラしていた。そして握手を交しながら、二人の来た理由を驚きの目をみはって聞いていた。彼は英語を知っていて、機会さえあればそれを使うのを喜んだ。
「しかしとうてい信じられない! アルバートに敵がいるとはね! こんな誰にでも好かれる男にも敵があるものかねえ? ジェニーさんや、大事な叔父上の行くてを危険にさらしたのはいったいどういう出来事なんです?」
「消え失せた弟が突然あらわれて脅威と恐怖をもたらしたのだよ」レッドメーン氏は説明した、「ロバートが突如姿を現わし、同時にベンディゴが姿を消したという恐るべき話は、ヴィルジリオ、君もご存知だろう。わしは末の弟の悲劇的な生涯は終り、この世にはすでにないものと思いこんでいたんじゃが、それがどうだ、突然|弟《あれ》は山の上に降ってわいた、しかも生きていた時とそっくりそのままの服装で現われたんだ! たしかに生きていることは疑えないんじゃ。幽霊でも何でもない、ちゃんと血の通った人間だ。それが病気の頭ゆえにわたしの命を狙っているんじゃ」
「これはなんとも恐ろしいというか痛ましい出来事だ。しかしわしのところにいれば安心だよ、君のためならわしは喜んで犠牲になるのだから」
「それはよくわかっているよ、ヴィルジリオ。だがそういつまでも君の勇気と寛大さに甘えていなくてもだいじょうぶだと思う。ピーター・ガンズに手紙を出したんだ、天の助けか、彼は今イギリスへ来ているんだよ、もともと二、三か月後にはわしの家へも来たいといっていたんだ。それにジュゼッペ・ドリアにもすぐ帰るようにいってやった、あれが来てくれればわしたちは家へ帰っても安心して眠れるよ。だがすぐというわけにはね」
ポジー氏は急いでこの場にふさわしい食事の用意をさせ、これまたアルバートを心から崇拝している細君の方は寝室の用意をした。大の親友の役に立てる機会に恵まれたポジー氏の心は、ただただ嬉しさでいっぱいであった。たっぷりとしたご馳走が作られることになり、ジェニーもその支度をてつだった。
ポジー氏は親友の永遠の幸福のために乾杯し、アルバートもそれに答えた。楽しく食事をすませると、みんなは六月のたそがれのひとときを、ヴィルジリオのバラ園に腰をおろして過した。そよかぜに運ばれて|きょうちくとう《ヽヽヽヽヽヽヽ》やマートルの香気がただよい、オリーヴや糸杉の暗がりにはホタルの小さな灯《ひ》が光っていた。そしてカンピオネやクローチェの山の頂きで夏の雷がゴロゴロと鳴っているのが聞こえた。
レッドメーン氏の姪は早目に部屋へひっこみ、マリア・ポジーもいっしょにひっこんだ。しかしヴィルジリオとアルバートは夜遅くまで語りあい、寝るまでに何本も葉巻を吸った。
翌朝九時にレッドメーン氏とジェニーは渡しに乗って家へ帰ったが、ピアネッツォ荘の夜の平和を乱す闖入者《ちんにゅうしゃ》も来なかったとのことだった。その日も新たなニュースはなく、二人は日暮れ前にまたベラジオへ行き、結局三日間そういう生活を送った。それからドリアからミラノ経由ですぐコモへ帰る旨の電報が届いた。そして実際に彼がメナジオへ着いた日の朝、ジェニーはブレンドンからも短い手紙を受けとった。ブレンドンはガンズ氏を探し出したとのことで、二人は数日後にはイタリアへ向けて出発するということだった。
「二人ともここへ泊ってもらうわけにはいかんなあ」アルバートはいった、「だがヴィクトリア・ホテルのブッロさんにいい部屋をとってもらうとしよう。満員かもしれないがわしの友だちのためならどこか寝るところぐらい都合してくれるじゃろう」
[#改ページ]
第十一章 ピーター・ガンズ氏
マーク・ブレンドンは、ジェニー・ドリアからの長い手紙を複雑な気持ちで受けとった。その手紙はロンドン警視庁で彼を待ち受けていたのだが、郵便受けからそれを取ったとき、はっきり見覚えのある筆跡を見てブレンドンの心は跳び上がらんばかりだった。この頃では、過去の思い出が甦って現在の多忙な毎日に暗いかげがさすようなことはもうめったになかったのだ。しかし今やふたたび、ロバート・レッドメーンが彼と彼の例年の休暇との間を裂こうとしているようであった。時を経たいま、失意の痛手はもう薄れたと彼は思い、ジェニーのことを思い浮かべても、古傷の疼《うず》きを感じる程度ですむようになった、と信じた。彼女の手紙はブレンドンが休暇をとる予定の一週間前に届いたのであった。彼はスコットランドへ行く予定だった、今のところはダートムアをふたたび訪れる気はしなかったからである。といっても馴染みの土地を訪れることを断念したのは、なにもあの驚くべき完敗のせいではない、ただ思い出の場所へ行くことはいかにも辛かったのである。だから今まで行ったことのない土地を訪れて、新鮮な印象を味わうことにしようと考えたのだった。
そこへこの予期しない仕事が挑戦してきたのだ。彼はしばらくためらった。だがジェニーの訴えるような手紙をくり返し読むにおよんで決心した。というのは、ジェニーは叔父のためばかりでなく自分自身のためにもいっしょうけんめいその手紙を書いたらしいからである。彼女はこの前の時ブレンドンの示した好意をいかに感謝しているかを述べ、今度も傍にいてもらえたらどれほど心強く思うことか、と書いてきた。また、自分は必ずしも幸福ではないということを巧みに仄めかしていた。そのことはジェニーの長い手紙の中にそれとなく織りこまれてあるようであった。しかしもちろん、ブレンドンほどの関心をその差出人に対して抱いている者でなければ、そんなことは読みとれなかったかもしれない。
アルバート・レッドメーンの友人というのを探さなければならないのだけが残念だったが、せめてそのピーター・ガンズ氏が二、三日でも早く自分を先発させてくれればいいと願いながら、ブレンドンはその有名なアメリカ人を探しにかかった。そして難なく居所をつきとめた。ガンズは知り合いがたくさんいる警視庁にはすでに顔を出していたからである。それでトラファルガー広場のグランド・ホテルに投宿していることがすぐわかった。使い走りのボーイに名刺をもたせてやったブレンドンは喫煙室に案内された。
ところがちょっと見渡した限りではどれがその大人物であるのかわからなかった。この六月の朝の喫煙室はほとんどからっぽで、手紙を書いている若い軍人と、明るい方に背をむけてタイムズ紙を読んでいる白髪のでっぷりした紳士以外だれもいないのである。紳士はきれいに髯を剃《そ》っていたが、犀《さい》を思わせるような鈍重な顔をしている。造作が大きいのだ。鼻はふくらんで青い静脈が浮いてみえ、眼はふくろうのようなべっこうの縁のめがねのむこうに隠れている。額《ひたい》は大そう広かったが禿げ上がっているわけではなく、豊かな真っ白な髪の毛がその額からオールバックになでつけられていた。
ブレンドンは他のところをきょろきょろ見まわした。しかしボーイはそこで立ち止まるとくるりと背をむけていってしまった。そしてそのでっぷりした男が立ちあがった。大きな体つきで肩幅が広く、脚も逞《たくま》しかった。
「お目にかかれて光栄です、ブレンドン君」彼は穏かな声でそういうと握手をし、めがねをはずしてまた腰をおろした。
「わたしはもともとこの町を発つ前に一度君に会おうと思って楽しみにしていたんですよ」大柄な男はいった、「君のことはよく聞いて知っている、戦時中の君の活躍には再三敬服してシャッポを脱いだものです。君の方もわたしのことはご存知ですな」
「この仕事をしてる者であなたを知らない者はありませんよ、ガンズさん。ですが、今日おじゃまにあがったのは英雄崇拝が目的ではないんです。お会い下さって光栄に存じますし、お目にかかれるというのは特別の名誉だとも存じますが、実は一刻も猶予ならないことがあってちょっと伺ったのです。けさイタリアからまいりました手紙にご高名が書いてあったものですから」
「ほほう? イタリアにはこの秋行くことになっているんですがね」
「実はこの手紙のためにその計画が変更されて、もっと早くイタリアへいらっしゃることになるんじゃないかと思います」
ガンズはちょっと目を丸くするとチョッキのポケットから金色の箱をとり出し、蓋をあけ、軽く叩いてから嗅《か》ぎたばこをひとつまみとり出した。鼻が不恰好なのはなるほどこの習慣のせいであるらしい。この器官がおそろしく光沢を有し、異常発達を遂げたのは、酒のせいではなくてたばこのせいだったのである。
「わたしはいったん決めた旅行日程を変えるのが嫌いでねえ。おそろしくきちんとしたことの好きな男なものだから。わたしの知るかぎり、わたしの計画をぶちこわしそうな奴はイタリア中にたった一人しかいないんだが、その男には万事スムーズに運べば今度の九月に会うことになっているんですよ」
ブレンドンはジェニーの手紙を出した。
「これはその方の姪ごさんから来たものですが」そういって彼は手紙をガンズに渡した。
ガンズはまためがねをかけてゆっくりと読みはじめた。実際ブレンドンは、一通の手紙がこんなにゆっくりかかって読まれるのを見たことがなかった。もしかしたらガンズだけがどうにか理解できるような秘密の言葉で書かれているのではないかしらと思われるほどだった。読み終ると彼は手紙をブレンドンに返し、しばらく黙っていてくれという身振りをした。ブレンドンはたばこに火をつけ、じっとすわったまま相手を横目で観察していた。
やっとアメリカ人は口をひらいた、
「君はどうなんです、行けますか?」
「ええ、主任に頼みこんでもう一度この事件をやらせてもらう許可を得ました。ほんとは休暇のはずなんですが、スコットランドはやめてイタリアへ行くつもりですよ、なにしろわたしはこの事件を最初から手がけていたんですから」
「そりゃそうだ、その事件のことはようく知っています、親友アルバート・レッドメーンから知らせてきましたからね。速達でよこしたが実に明快に書かれてあった、なかなかああは書けるものじゃない」
「いらしていただけるんですね、ガンズさん?」
「行かなくちゃならんでしょう、君。アルバートのたっての願いなんだから」
「一週間以内にはいらっしゃれますか?」
「一週間! 今夜だよ」
「今夜! では、レッドメーンさんが危いとお思いなんですか?」
「君は思いませんか?」
「でも前もって警告されてるわけですからあの方だって十分注意はしていられるでしょう」
「ブレンドン君」ガンズはいった、「すぐ行ってドーヴァーなりフォークストーンなりから今夜出る船の時間を調べてきてくれたまえ。たぶんあすの朝にはパリにつく。そしてミラノ行きの急行に乗ればその翌日にはコモ湖畔につく。調べて見たまえ、きっとそのようにできるはずだから。それからこの婦人に、二人とも今から一週間後に出発すると電報を打つんです、わかりましたな?」
「むこうが思いもうけていない時に行きたい、というわけですね?」
「その通り」
「ではやっぱりアルバート・レッドメーン氏が危いとお考えなんですね?」
「お考えどころじゃない、彼が危い、とわかるんだよ。しかしこの謎めいた事件はまだこれからアルバートに襲いかかろうとしている段階だし、彼も十分警戒はしていようから、たぶんまだしばらくはだいじょうぶだろうね、そのうちにわれわれが到着するというわけだし」
ガンズはまた嗅ぎたばこをひとつまみつまむとタイムズ紙をとり上げた。
「君、二時にここのグリルでいっしょに飯を食いませんか?」
「はあ、喜んで」
「よろしい、じゃあ今すぐ、一週間後に出発するつもりだという電報を打ってください」
数時間後、二人はまた会った。そしてステーキと青豆を食べながらブレンドンは、船に連絡する汽車はヴィクトリア駅から十一時に出ること、パリからの急行は翌朝六時半に出ることを報告した。
「その次の日の午後にはバヴェノへつきます。そのままミラノまで行ってからコモへ戻って、レッドメーンさんのおられるメナジオまで船で行ってもいいですし、あるいはバヴェノで降りてマジョーレ湖を船で渡ってルガノへ行って更にコモまで行くという手もあります。それだとメナジオへ直接上陸できるんです。時間もそうかかりません」
「それではその方法で行って湖水見物をしよう」
ピーター・ガンズは軽い食事をしたためる間、あまりしゃべらなかった。ひらめのフライをひと切れつつき、白葡萄酒を二杯飲んでそれから青豆をひと皿食べた。そして青豆とやわらかい若いとうもろこしとどちらが体にいいかなどという話をした。そして旺盛なブレンドンの食べっぷりをたのもしそうに眺め、自分もいっしょに赤い肉を食べたりビールを飲みほしたりできないのを嘆いた。
「しあわせな男だなあ。わたしも若い時はそんなだった。食べることが何より好きでね。ビフテキが食えたりビールが飲めたりできる間は仕事がどんなに烈しくても恐れることはないですよ。ところがこの頃では荒っぽい仕事はあまりやらなくなってねえ――年もとったし、肥りはするし」
「でもそれはそうですよ、これまでにもうなさるだけなさったんですから。同じような方の中でもあなたほど大物の悪漢どもと肉薄してわたり合った人なんて他にいないでしょう」
「それはそうだが」ガンズは左の手を立ててみせた。その手には中指と小指がなかった。
「ビリー・ベニョンの撃った最後の弾丸《たま》ですよ。大した男だったな、ビリーは。その後あれほどの男には二度と会ったことがない」
「ボストン殺人事件のですか? あれは天才でしたねえ!」
「そうだ。すばらしい頭だった。あの男を電気椅子におくった時わたしは象を殺すアフリカの小人みたいな気持ちだったよ」
「時には負け犬を気の毒に思うこともおありなんですね?」
「いつでもとは限りませんがね。しかし時には闘牛が闘牛士をやっつけたり、野蛮人が宣教師を食ってしまったりすればいいと思うんです」
やがて二人は喫煙室へ行った。そして全く驚いたことに、ブレンドンは思いがけないお説教を聞かされ、まるで四年生の小学生が校長先生によばれたときのような気持ちを味わったのだった。ガンズはコーヒーを命じ、嗅きたばこを嗅いでから、ブレンドンに口をはさまないで話を聞けといったのである。
「われわれはこの事件をいっしょにやることになったんだが、まず君に事件について明確な概念をもってもらいたいんです。というのはいまのところ君にはそれが欠けているからですよ。この事件をわれわれが必ず解決できるというわけではないが、もしできた暁にはその功績は君のものということにしたい。今からわれわれはレッドメーン事件にとりかかるわけだが、その前にどうです、君さえお退屈でなかったらまずマーク・ブレンドン氏の観察から始めようじゃありませんか」
相手は笑っていった、
「しかし彼はこの事件に関する限りあまりめざましい人物じゃないですな」
「そのとおり」ピーターはおだやかにうなずいた、「事実、まさにその反対です。彼の不手際はブレンドン氏自身のみならずその上司たちをも少なからず驚かせた。であるから、ここで一つ問題そのものにとりかかる前に、その角度から検討してみるとしましょう」
彼はコーヒーをかきまぜ、コニャックをわずかたらしてすすった。それから肘掛椅子《ひじかけいす》の中で具合のいいようにすわり直し、大きな両手をズボンのポケットにつっこむと、じいっとまばたきもしないでブレンドンを見つめた。その目は、薄青く、深くくぼんで小さかったが、今なお鋭い光を失っていなかった。彼はつづけた、
「君はロンドン警視庁の刑事だ。そしてロンドン警視庁といえば世界中の警察機構の中で相変らず最高水準にあるんです。ニューヨークの中央警察もかなりこれに接近してきているし、フランスやイタリアの機密機関も感嘆の他はない。しかし事実は事実で何といってもロンドン警視庁が筆頭です。君はその警視庁《ヤード》で見事に地位を得た。それはたいへんなことだ、その地位を得たのにはそれだけの働きがあったからだし、運もよかったわけだ、ブレンドン君。ところがそこへ――このレッドメーン騒ぎです。君はちょうどその場に居合わせてまだいろめき立っているうちに犯行のあとを追ったし、望み得る限りの援助も与えられた。しかるにホヤホヤの新米巡査でもも少しましにやれただろうと思うほどのていたらくです、要するにこの事件における君の行動は君の名声とくい違っているんだ、なぜか? それは疑いもなく君が一つの推論を立て、それに溺れてしまったからに違いない」
「そんなふうにお考えにならないで下さい、わたしは決して推論は立てないのです」
「そうかな? それなら失敗の原因はどこか他にある。この事件でしくじった君の情けないやり方にわたしは少なからず興味を感じているんです。いいですか、この件に関してはわたしは一から十まで知っているんで、決してでたらめをいってるわけじゃないですよ。そこでこれから、君が何故《なにゆえ》に、そしていかにして向こう脛《ずね》をそれほどひどくすりむいたのであるか、考えてみるとしましょう。
さて、マーク、かりにいま映画というものを考えてみるんだな。そうするとわかりやすいだろうと思うから。映画というものは全く異なった二つのことをやってのける。いや十の働きもするが今ここでは二つだけとり上げればいい。映画は白い幕の上に光を写してみせる。それはさまざまな一連の形に光をあてるのであり、その形はレンズで拡大されてからスクリーンに届く。まことに手のこんだ仕組みです。しかし見ている方ではそんなことは全く念頭にない。それは映写機が観客の心の全く別の部分にうったえるものを写し出して見せるからです。観客は白い幕も光源もフィルムも、それらの働きのこともうち忘れ、それらのものの創り出す幻影に見とれている。
われわれは、光と影、明暗といった映画の慣わしをそのまま受け入れる。なぜならそれらの動く影はふだん見なれた事物の形そのままを使って、一つのつじつまの合った話を語る、つまり動作の伴なったあるがままの生活を見せるからです。しかしわれわれは絵とか小説とか芝居とかをみる場合と同様、潜在的にはつねにこれは現実のにせものに過ぎないのだ、ということを知っている。科学と芸術を結びつけて巧みに応用した結果が、ほんものと見紛うものをこしらえ上げ、一つの物語《ストーリー》を語るというわけです。さて、レッドメーン事件においても、ある巧みな操作がなされて君に一つの物語《ストーリー》をきかせたんですな。君はそのおはなしがとてもおもしろかったもんで陰の仕掛けなんぞ見すごしてしまった。ところがその仕掛けこそまず第一番に考えるべきことであったのです。手品師どもは君の注意をそらしておいてその間に目的のことをやってしまったんだな。さあ君、その仕掛けに目を向けてみようじゃないですか。そして陰にひそんだずるがしこい奴らにどこで君がだまくらかされたのか考えてみようじゃないですか」
ブレンドンは感情がこみ上げてくるのをかくさなかったが、ガンズが嗅ぎたばこを嗅いでいる間じっと黙っていた。
「ところで一般に推論ということがしばしば喧伝されるが、わたしがこれまで少しばかり何かやってこられたのはその推論する心のおかげでは全くないのです、綜合的な心のおかげですよ。いつでも事実と事実をつなぎ合わせていくことがわたしの強力な武器です。それが成功のバックボーンであり、事実と事実がうまくつながらない時にはまず失敗に終る。わたしは背後にしっかりした事実の骨組みができ上がらないうちは一秒たりとも推論などに時間を浪費したりはしない。君はもっと事実をあさらなくてはいけなかったんだよ、マーク、君はそれをしなかった」
「わたしは百科全書ほどの事実をもっていたんです」
「なるほど。しかし君の百科全書は『A』から始まらないで『B』の項から始まっていたんだなあ。そのことについても今話すが」
「わたしの事実はちゃんとしたものです」ブレンドンはいささか憤然としていい返した、「厳然たるものばかりです。わたしの目や観察力は鍛錬されていますから精確で、どんな事実に対しても厳密です。綜合力をいくら働かせたって、一たす二が三であることは変らないではありませんか、ガンズさん」
「どういたしまして、一たす二は二十一にも十二にも、もしかしたら二分の一にもなるかもしれない。なぜそう結論を急ぎますかね? 君は事実をもっていた、しかし役に立つ事実を全部はもっていなかった、全部をもっていたとはいえない。君は壁もでき上がらないのに屋根をのっけようとしたんだ、なお悪いことには君の『厳然たる事実』のほとんどが、事実というものでは全くなかったのだよ」
「じゃあいったい何だったんです?」
「計画され、入念にでっちあげられた|つくりもの《ヽヽヽヽヽ》だよ、マーク」
これほどにいわれてブレンドンは頬がカアッとほてるのを感じた。しかし相手は温和なおうような人物であり、年下の者をやっつけようなどという気ではもうとうないのである。ブレンドンにしても、ずいぶんと気に障ることをいわれたにもかかわらずガンズに対しては腹が立たなかった。それよりも自分自身に腹を立てていた。しかしながらガンズは自分の力量を知っていた。彼はまるで本でも読むようにブレンドンの心を読み、これだけの地位を保っているからにはよくできた人間に違いない、したがって自分より優れた者から批評がましいことをいわれて癇癪《かんしゃく》を起こすはずはない、ということがよくわかったのである。彼は説明した、
「わたしが目下のところ君より優れているとすれば、それは君より少しばかり長く生きてきたからだ。まもなく君自身が今のわたしのようにして年下の者を相手にお説教をする時が来る。すると若い者たちは今の君のようにしかるべき敬意と注意をはらって耳を傾けることだろう。君がわたしぐらいの年齢になった時には、今のわたしのように人々の全幅の信頼を得るはずだ。とにかく一般に若さというものは信用されないんだよ。だが君はきっと皆の信頼をかち得るだろう。いいですか、われわれのような職業のものにとっては、完全に信用される力ほど尊い宝はないんです。それだけの力がまだないくせにあるふりをしようたってだめです。あるふりなんぞしてみたまえ、人々はすぐ見抜くから。しかしね、マーク、わたしの癖で率直にいわせてもらうが、君は健全な頭も野心もある男なんだから、たとえわたしが今度の件で君を馬鹿呼ばわりしたって誤った自尊心や自負心から腹を立てたりはしないでしょう」
「どこが馬鹿であったのかを証明してください、それがわかれば喜んで考えをあらためます。実は、この事件に関してはたしかに馬鹿だったと自分でも知っているんです――ずっと前からそれはわかっていました」ブレンドンは白状した。
「ああ証明してあげよう、それは簡単です。だが、なぜ馬鹿であったのかを見つけるのはちょっと骨が折れそうだな。君が馬鹿であっていいわけがないんだよ。これまでの業績からいっても、君の外観やましてや性質からいっても似つかわしくないことだから。わたしは初めての相手の場合はたいていその人の目を見るんだが、君の目を見ると君の真価がちゃんと現われている。そこで、どのへんから君が妙ちきりんになってきたのか、少し話をしてもらおうか。いや、君にはわからないかもしれないな、隠されていることがわかってきてからわたしの方から指摘しなきゃならないかもしれない。さあよくあたりを見まわしてみるんです、そうすれば案外なところに光明が見えるかもしれませんよ」
ガンズはそこでまたちょっと話をやめて例の金色の箱から嗅ぎたばこを出した。それからまた話し出した、
「あまり細かく考えないで今は君のことだけを問題にすると、君は試合開始のその時から間違った仮定に基いて事を始めた。最初を間違えるというのはよくあることで、わたしとてご同様にやったかもしれないし、最初からうまくやれるのは探偵小説の中の人物ぐらいなものだよ。しかしいつまでも間違ったままでいる――君の論理的思考力や天賦の才能にもかかわらず、誤った仮定の上に更に誤った仮定をつみ重ねている――その点がわたしの目にはまことに奇妙な異変として映るんだよ」
「でも事実は無視できませんから」
「いいや、それほどたやすいことはないさ。プリンスタウンをあとにしたその時に君は事実にさよならをいってるんだよ。君はわたしと同様事実を知ってはいない、いや、ああいう見せかけをでっちあげた当人以外は誰も知らないんだ。君は君自身の観察した現象やその他の警察関係の報告、及び一般のいろんな人たちの話を事実と仮定してしまった。しかるに、ほんのちょっと落ちついて考えることさえしていたなら、それらが事実ではあり得ないということを君は確信したにちがいないんだ。君は君の理性に考えるチャンスを与えなかったんだよ、マーク。まあわたしのいうことを聞いて正直に考えてみてほしい。君はあるいくつかの事態が起きた、という。わたしはそんなものは起きなかった、といおう、起こり得なかったといえる立派な理由があるからだよ。なにもわたしは真相を教えようとしているんではない、なにしろわたし自身は真相など知る由もないのだからね。それにきっと真相はわたしより先に君がつきとめると思うよ。ただわたしは今、君が真実と考えているかなり多くの事どもは真実ではあり得ない――起きたものと君がみなしている事件は何一つ実際には起こらなかった、ということを証明しようとしているのだ。人間というのはごく僅かな感覚しか持ち合わせていない、しかもそれらはいとも簡単に騙《だま》されるものだ。事実、人間なんてせいぜいのところで小さなみすぼらしい知恵の入れものに過ぎないのさ、だからわたしは自分の感覚がいくら保証してもそれだけでは信用しないことにしているんだよ。ある賢者が『技巧の功徳《くどく》はあまりに多くの真実からわれわれを救うことである』といったが、わたしはこういおうか『理性の功徳はあまりに多くの感覚による証拠――それも往々にして誤った証拠なのだが――からわれわれを救うことである』。
さてそこで理性が、最初に姿を消して以来のロバート・レッドメーン及び彼の奸智にたけた行動についての証拠とどのように関連があるのかを考えてみよう。ある一つの事態が起きる、それを説明する方法はわずかしかない、ごく限られただけの数しかない。すなわち、ロバート・レッドメーンはマイケル・ペンディーンを殺したか、もしくは殺さなかったか、この二つだ。そしてもし殺したのであるとした場合、犯行当時彼は正気であったか狂気であったかのいずれかである。狂気であったということを否定することはとてもできないし、現にそうみなされている。もし正気であったとしたら殺人を犯すだけの動機があるはずだ、そしてかなり入念な調査によって、動機がないことが証明されている。わたしは誰の発言であれ、人のいった言葉には重きをおかない、だからペンディーン夫人自身が、夫と叔父とは非常に仲が良かったといったという事実も重要ではない。しかし、ロバート・レッドメーンがペンディーン夫婦のところに一週間以上も、しかも彼らと仲の良い状態で滞在し、かつ彼らをペイントンに招待した、という事実は何らかの重要性をもつ。わたしはレッドメーンとマイケル・ペンディーンは、マイケルが姿を消したその時まで完全な友好的状態にあったのであり、レッドメーンが、なぜ義理の甥を殺したかを説明づける動機はかけらさえないのではないか、と信じたいのだ。そこで、正気であったと仮定すると、レッドメーンはそのような殺人を犯したりはしなかっただろうということになる。もう一つの考え方は、当時彼は狂気であり、頭の狂った状態においてペンディーンを殺害した、というものだ。
だがいったい、かかる犯罪をやってのけた後、気違いというものはどうするであろうか? そのまま遁《のが》れて一年間も自由にヨーロッパ中をうろつくものであろうか? かりにあの狂気じみた悪がしこさ、その他すべてのことは認めるとしてもだよ、いったい気違いがこの男のように大手を振って歩きまわり、それを追いつめて捕まえようと|やっき《ヽヽ》になっている警視庁をせせら笑っている、なんて話を聞いたことがありますかね? 死体をもって逃げ、それを無事に処理し、宿へ帰って飯を食い、それから白昼堂々出かけて半年のあいだ地上から姿を消し、また出てきて別の人々をだましてまた人殺しをやる、そんなことが考えられますかね? しかもそいつは、更にもう一度法と秩序を嘲《あざけ》り、また半年ばかり姿を消して今度はただ一人残ったイタリアの兄の家の門前で赤いチョッキと赤い髯をチラつかせているんだ。いいや、マーク、これらの不可能をやってのけた男は気違いではないよ。つまりそう考えてくるとわたしはやっぱり先に述べた説、正気説に立ち戻らざるを得ないね。
わたしはさっき、ロバート・レッドメーンはマイケル・ペンディーンを殺したか、もしくは殺さなかったか、のいずれかだといったが、更に『ロバート・レッドメーンはベンディゴ・レッドメーンを殺したか、もしくは殺さなかったか、のいずれかだ』という事もつけ加えてよいだろう。しかし今ここでは初めの方の命題だけ考えることにしよう。そして次に君が君自身に問うべき質問はこうだ、『ロバート・レッドメーンはマイケル・ペンディーンを殺したか?』君のいわゆる事実なるものが少々あやしくなり出すのはそのあたりなんだよ、君。人が死んだ、ということを確実にたしかめる方法はたった一つしかない、すなわち、その人の死体をこの目で見たうえ、生前を知っている人々の証言によってその死体が彼以外の何者にも属さない、ということを法律的にも納得することだ」
「へええ! ではあなたのお考えでは……」
「わたしは何も考えてなぞいないよ、君に考えてもらいたいんだ。それはたいへんなことだが君の仕事だよ。しかしわたしは君にお日さまのように雲のかげから出てきて欲しいんだ、そしてアッといわせて欲しい。君が考えていたような事どもは起こるはずがなかったということさえしっかりふまえて、そこから出発すればいいんだ。ついでにいうと、いいですか、君はペンディーンにしろベンディゴ・レッドメーンにしろ確かに死んだと誓うことはできないんだ。二人とももしかしたらわれわれ同様ピンピンしているのかも知れないよ。そういうことをよく考えてみるんだな。これはなかなかどうしてたいへんな事件だ。どうやらわれわれは大物を相手にしているらしいよ。だがわたしにはその点さえもまだしかとはわからない。わたしよりも君の方が解明できそうだと思える重大点がたくさんあるんだよ。君はこれまで何かひどいハンディキャップがあったんだ、それの原因はこれからわたしが探し出してみなくてはわからないんだがね。しかしもし君が、今わたしの話したことをようくかみしめて、偏見をすてて、自分の頭の中をのぞきこんでみれば、きっとその原因は自《おのずか》らわかってくるだろうね」
「そのようにおっしゃって頂けるのはありがたいのですが、しかしわたしにはそのような弁解の余地はないと思うんです」ブレンドンは考えこむようにいった、「これほどハンディキャップなしで事件にのぞめることは珍しいと思うくらいです。おまけにわたしにはありがたい特別の刺戟もあったんですからね。わたしは何もかも準備の整った最良の状態にありました。いやしかし――今おっしゃったことはたしかに明るい光で真実を照らしているようです。すべてのことが皆まともに見えたものですから、外観のかげに実は全く違う真実がかくされているなんて考えもしなかったんです。今は、きっとかくされているのだ、とわかるようになりました」
「わたしはそう推測しているんだよ。誰かが君に印のついたトランプを渡した、君はそれをすなおに受けとってしまったんだ。もっとも誰でもやることはあるものだ――よほど抜け目のない男でもやることはある。ガボリオが何かのなかでこういってる『何はともあれ、もっともらしく見えることには極力疑ってかかれ、そして常に、信じがたいことを信じることから始めよ』もちろんフランス流の大げさな表現だが、真理を含んでいるよ。一目瞭然というのがどうもわたしにはおもしろくない。もし物事がピタッと自分の考え通りに運ぶようだったらただちに疑ってかかりたまえ。仕事の上でばかりじゃない、人生においてもそれは同じだよ」
二人は三十分ばかり話し合ったのだが、その結果ガンズ氏は目的を達した。すなわち彼は、二人を結びつけることになった事件全体の発端まで相手を一気に引き戻したのである。彼はブレンドンが虚心坦懐に根底からやり直し、先入観念はすべて棄て去ることを望んだ。
「今夜汽車のなかで」ガンズはいった、「この事件について少し君の話を聞かせてもらおう。ペンディーン夫人が君に依頼してきたそもそもの瞬間からの話をだよ――いや、もし悲劇以前にだれか関係者と君が知り合っていたんならその頃からの話を聞かせてもらいたい。全貌を君の角度からあらためて聞きたいんだよ。わたしがこれだけ話したあとだから、一つ一つの出来事を君がたどって話していくうちにはきっと、前には気がつかなかったようなことが閃めいて見えるだろうと思うよ」
「たしかにそうかもしれません」ブレンドンもそれを認めた。そして彼も決して了簡の狭い男ではなかったから、この年長の相手を賞めないではいられなかったのである、
「あなたはほんとうに大した方だと思います、ガンズさん。今日お話くださったことはもちろん、あなたにとってはみんなごく初歩的なことでしょうが、わたしにとっては大いに意義のあるものでした。あなたにお目にかかってわたしはなんだか自分がひどく小さく感じられます、――こんなことは他の人には決していわないんですが、しかしこうして申し上げるまでもなく、あなたはよくおわかりだから。ただ一つだけあなたと意見がちがう点があるんですが、それはこの事件の結末ですよ。つまり、この事件がいつか解決したとしたらそれはあなたの功績です、その名誉はあなたのものですよ」
ガンズは大きく笑って嗅ぎたばこをその紫色に変色した鼻の孔へおしこんだ、
「冗談じゃないよ、わたしはもう過去の人間さ――今はもうゲームからはぬけたんだ。事実上引退したんだからね、これからはのんびりとして好きなことをして暮すだけだよ。今度の事件にはわたしは無関係だ、ただ君を見守ろうというだけさ」
「探偵の道楽というのはたいがいかつての仕事ですね」ブレンドンがそういうとガンズも認め、白状するようにいった、「文学と犯罪、うまい食べものと酒、嗅ぎたばこと文字謎《アクロスティクス》――こういうものがわたしを楽しませてくれるんだよ、それはすなわちわたしの徳と不徳とを表わしてもいるわけだがね。
これらのものはそれぞれ、わたしの生活の中でそれなりの位置を占めている。そしてこれからは更に旅行も加えようと思っているんだよ。わたしはかねがね、永久に殻に閉じこもる前にもう一度ヨーロッパを見たいと思っていたんでね、それに親友のアルバート・レッドメーンの家を訪問して、旧交をあたためたいし、あの男の温和で無垢な話をもう一度聞きたいとも思っていたんだ。
しかしね、ブレンドン君、深い友情というものにもたった一つ暗い影がある、つまりいつかは必ず終止符がうたれるということがわかっているんだよ。あの本の虫のアルバートにわたしが『さよなら』をいう時には、二人がふたたび会いまみえることはもうあるまい、と感じることだろうよ。しかしだからといって、遅かれ早かれかならず終りがくるのを怖れるあまり、友情のよろこびを犠牲にする人なんぞありゃしない。親しい友情とか理解、つまり相似た精神の発見ということは人間の得られる最も貴重な経験の一つだよ。もちろん、恋だって輝かしい冒険にはちがいない、しかし恋の花馬車のそばには稲妻がひそんでいるものだからね。言い尽くせないほどの賜物をかち得たものは、その代価を支払わなければならないことに対して泣きごとをいうべきじゃない。わたしにとってはその賜物というのは冷静な友情のことだが」
彼は機嫌よくしゃべった。ブレンドンは、ガンズは素朴な、人間的な面で友人アルバート・レッドメーンのうちに共通なものを多く見出したのだろう、と考えた。ピーター・ガンズの哲学は彼にはひどく穏やかな性質のものに感じられた。信じやすいとはいえないまでも、人間性をかくも希望的な心で観《み》る人が、どうして同時にあれほど異常な才能を持ち合わせていられるのかブレンドンには不思議であった。ガンズ氏の名声はたしかにそれらの才能の上に築かれたものであり、その穏やかな信条の上に築かれたものではないのだ。
[#改ページ]
第十二章 ガンズ指揮をとる
二人の探偵は寝静まったケント州を汽車に揺られて過ぎ、やがてブーローニュ行き定期船に乗りこんだ。そのあいだにマーク・ブレンドンはガンズに事件の詳細を細大もらさず話して聞かせた。あらかじめメモを再読してから話し始めたので、小さな出来事の一つ一つをも非常に明瞭にかつ、こまごまとこの年長の相手に語ることができた。ガンズはその間一度も口をさしはさまなかった。そして話が終ると、よく詳しく話してくれたとブレンドンを賞めた。
「なかなか絢爛《けんらん》たるものだが理解しにくい映画だな」ふたたび前の比喩《ひゆ》をもち出して彼はいった、「事実わたしには、この映画の結末がどうなるにせよ、最初にあるべき序幕的なシーンがいくつかぬけているような気がするねえ」
「しかしガンズさん、わたしは一番最初のところからお話したんですよ」
だがガンズは首をふった、
「戦いの半分は事件の発端を知ることなんだよ。真の発端さえわかれば解決したも同然、とさえ極言してもいい。君はこのレッドメーン事件をそもそもの発端から始めていないんだ。もしちゃんと最初からやってれば今頃はこの迷宮の謎を解く鍵ぐらい手に入れていただろう。話を聞けば聞くほど、そして考えれば考えるほど、われわれが必死になって求めている真相は過去を根気よく掘り返すことによってのみ発見できる、という確信が深まるばかりだ。まだまだしなければならない基礎的な仕事がたくさんあるんだよ。そのために君は――あるいはわたしが――イギリスへ帰らなければならないかもしれぬ、そんなことをしなくても情報が得られれば別だがね、しかしそういった類いの幸運はあてにできないだろう」
「どういう点をわたしが見落していたのか知りたいんですが」ブレンドンはそう訊ねたが、ガンズはすぐには教えてくれようとしなかった。彼はいった、
「まだそれは考えなくていい。今のところは君自身のことでも話したまえ、事件の方はひとまず据えおきにしよう」
二人は明けがたまで喋った。そのころには汽車はパリへ着き、一、二時間の後には二人はイタリアへむかっていた。
ガンズは湖水を渡ってメナジオをふいに訪れることに決めていた。いま彼はもう一度目前の問題に心をむけている様子でほとんど口をきかなかった。開いたノートを手にして何か考えては時々書きこんでいる。ブレンドンは新聞を読んでいたがやがてその中の一枚をガンズに渡していった、
「さっき文字謎《アクロスティクス》のことをおっしゃったんで興味を感じたんですが、ここに一つ出てるんです。さっきから一時間も頭をひねってるんですよ。もちろんやさしいに決まってるのでしょうが、どこかに落し穴があるんだと思います。あなたならどうでしょうね」
ガンズはにやりとしてノートを下へおいた、
「文字謎《アクロスティクス》というのは考え方の一つの習慣でね、そういうふうな考え方になれてくると、あらゆることの|こつ《ヽヽ》がのみこめてくる。じきにその文字謎《アクロスティクス》を作った人たちと同じような考え方ができるようになるものだよ。そのうちに、みんな似たような考え方をし、同じような線にそって人をひっかけようとしているんだな、とわかってくる。わたしに文字謎《アクロスティクス》をやってみろなどというと君はたちまち後悔するはめになるよ」
ブレンドンはそのパズルを指さしていった、
「やって見て下さいよ、わたしにはさっぱり見当もつかない。でもそういう考え方に慣れてるとおっしゃったからにはあなたはおできになるんでしょうな」
ガンズはそのパズルに目をやった。それは次のようなものだった。
[#ここから1字下げ]
When to the North you go.
北へ向かいて進まば
The folk shall greet you so.
人々汝を歓び迎えん
・・・
1. Upright and light and Source of Light
正しきもの、明るきもの、光の源
2. And Source of Light, reversed, are plain.
光の源、逆にてもまた明白なり。
3. A term of scorn comes into sight
蔑みの言葉出でて
And Source of Light, reversed again.
光の源また逆とならん。
[#ここで字下げ終わり]
アメリカ人はちょっとのあいだ黙ってこの問題を見つめていたが、やがてにやりとして新聞をブレンドンに返した。
「まことに巧妙にできてるよ、お定まりの形式ながらね。標準的なイギリス方式だな。われわれアメリカのものはもうちょっとスマートだよ、しかしどれでも結局、型は一つなんでね。偉大な文字謎《アクロスティクス》作者というものがいないのだよ、文字謎《アクロスティクス》がチェスと同じぐらいおもしろいものなら傑作を生み出してくれる名人も出ようというものさ」
「でもこのパズルは……、おわかりになりますか?」
「初心者むけ、といったものだよ、ブレンドン君」
ガンズは手帳を開いて何か走り書きし、そのページを破って相手に解答を渡した。ブレンドンは読んでみた、
[#ここから1字下げ]
G   O  D
Omega  Alph  A
D   O  G
[#ここで字下げ終わり]
「クヌート・ハムスン〔ノルウェーの小説家〕の小説を読んだことがあればすぐわかるはずだよ。読んでないとするとちょっと厄介だろうな」ブレンドンがじっと見ていると、ガンズはそういった。そして目を輝かせてなおも続けた、
「文字謎《アクロスティクス》には二つの方法がある。一つはそれが解けるころには髪が白くなってしまうほど手がかりを難しくしておく方法、もう一つはただの|わな《ヽヽ》だ。同じ一つの手がかりに対しておそらく三つは完全に筋の通った答がある、しかし最初のに比べて二番目の答の方がなお筋が通っているし、三番目のは前の二つよりももうちょっと筋が通っているはずだよ」
「そういう文字謎《アクロスティクス》はいったい誰が作るんですか?」
「誰でもないさ。人生はあまりにも短かいが、もしわたしが一年間費やすことにして完全な文字謎を作れば、それを解く方も一年はかかるようなやつができるんだがなあ。暗号にしても同じだよ、君にしてもわたしにしても商売がら暗号にはよく出くわすが、どれもこれも粗雑なものだ。しかし多少骨を折れば完璧なものを作ることだってできるとわたしは思ってるんだよ。探偵小説家はどうかすると非常にうまいやつを作るが、それだってじきに、他人の鼻をあかすような気の利いた人物が出てきて必ず解いてしまうんだ――それも悪漢の書棚からお誂《あつら》えむきの本を探し当ててくるだけでね。わたしが暗号を作れば本に頼ったりはしないな」
ピーター・ガンズはなおもおしゃべりをしていたが、そのうちふっと口をつぐみ、またノートをみつめ出した。やがて顔を上げると彼はいった、
「われわれにとって難点なのはロバート・レッドメーン、もしくはその幽霊とどうやってわたりをつけるか、なんだなあ。幽霊にもふた通りあってね、本物と――本物の幽霊なぞ君は信じまいよ、しかしわたしは用心する必要はあると思っているんだ――それから拵《こしら》えものの幽霊がある。さてこの拵えものの方は悪者どもの役に立つ一方、刑事の側にとってもまことに有用だ」
「幽霊をお信じになるんですって!」
「とはいってないよ。しかしつねに偏見はもたないことにしているのでね。十分信用していい人々の口から奇妙な話を聞くことがよくあるもの」
「もしこれが幽霊なんでしたらもちろんそれで解決したといえます。でも幽霊なんかならなにも、アルバート・レッドメーンさんの命を心配することはないじゃありませんか?」
「幽霊だとはいってないよ、もちろん幽霊だとは思っちゃいないさ、しかしね――」
いいかけてガンズはやめ、話題をかえた、
「わたしが何をしようとしているかというと、君が口頭で述べることとレッドメーン氏が書いてよこしたものとを比較しようというのさ」彼はノートを叩いてみせながらいった、「わが親友は君よりはるかに過去までさかのぼっている、なぜなら君よりはるかにたくさんのことを知っているからだ。全部ここに書いてある。わたしは目を大事にしているんでタイプに打っておいたんだよ。君も読んでみるといい。ロバート・レッドメーンの子供の頃からのこと、その姪のこと、それからその姪の死んだ父親のことなんかがわかる。ドリア夫人の父親というのは粗《あら》っぽい男で――ロバートに輪をかけたような奴だったらしく、少々常軌を逸していた。しかしあからさまに法を犯すようなことは決してしなかったんだな。君はロバートの死んだ長兄、つまりヘンリーのことなど考えたことがあるかね、ないだろう? だがね、家族の他のメンバーをよく観察することによって驚くほど性格がよくわかり、矛盾が説明されるものなんだよ」
「その書いたものをわたしにも読ませて下さい」
「これはわれわれにとって非常に役に立つものだよ、偏見なしに書かれているからね。非常に明快な君の話よりもなおまさっている点はそこなんだよ、ブレンドン君。君の話には、木綿の中にひとすじ混じりこんだ絹糸のように、何かがすうっと混じりこんでいる、しかしアルバートのこの報告にはそれがないんだ。その点が最初からわたしには不審だったんだが、少したぐり寄せて行けばこの絹糸の中にこそ君の失敗の原因を探し当てることができるんじゃないか、という気がしてきた」
「おっしゃる意味がよくわからないんですが」
「そりゃそうだろう――今のところはね。別の喩《たと》えをしてみよう。例えば臭跡を辿っていると|おとり《ヽヽヽ》の燻製鯡《くんせいにしん》があったとする、君はそれに喰いついた、ちゃんと正しいスタートをしていながら、にせものを掴まされて正しい臭跡をみすみす放棄したんだよ」
「わからないなあ――おとりの鯡を見つける、とはねえ」ブレンドンがそういうと、ガンズは微笑していった、
「わたしにはその鯡がわかったような気がするんだよ、だが一方、あるいはわかってないのかもしれないと思う。ともあれ二十四時間以内にはわたしにはわかる、それが正しいといいんだがね――君のためにさ。もしわたしの思った通りだとすれば、君の声価が汚されることはないはずだが、そうでないとすると、この事件は君にとっては暗澹《あんたん》たるものだよ」
ブレンドンは答えなかった。おのれの良心や分別に照らしてみてもその意味がわからなかった。やがてガンズはまたノートを見ながらある些細な出来事に触れ、その出来事に疑うべき余地のあることをブレンドンに示した、
「君が初めて『烏荘《クロウズ・ネスト》』へ行った帰りの夜のことを覚えてるかね? ダートマスへの帰りみちで君は突然、ある門のそばに立っているロバート・レッドメーンを目撃した。そして月の光で君の姿が見えると彼は一目散《いちもくさん》に林の中へかくれてしまった。どうしてだろう?」
「わたしを見知ってるからです」
「どういうわけで?」
「プリンスタウンで会ったことがあるんです。そのとき、フォギンターの石切場の池のところで五、六分しゃべったりしました、あそこでわたしは釣りをしてたんですよ」
「それはよろしい。しかしその時は君が誰であるか、彼にはわからなかったわけだ。かりに、半年も前にフォギンターの薄暗がりで会った男だということを思い出したとしてもだよ、君が追手であるということがどうしてわかるかね?」
ブレンドンは考えてみた、
「それもそうですね。きっと人に見られたくないという気もちから、あの晩は誰の姿をみても逃げ出したのかもしれませんね」
「わたしはただ疑問を述べてみてるだけだよ。もちろん一般的な仮定に基づいて容易に説明はつく。すなわち、彼は警察の手がまわっているので万人みな敵だと知っていた、当然、追われるものの心理で、誰かそばへ来れば逃げることだろう」
「わたしのことを覚えてはいなかったのかもしれませんね」
「たぶんね。しかし彼のその行動にはいくつかの可能性は考えられる。例えば、君を用心するよう誰かに警告されていたのかもしれない」
「警告できた人はいないはずです、彼はあのときはまだ姪とは会っていないんですし、ましてや話などしていません。他に警告できた人があるでしょうか――ベンディゴ・レッドメーン自身なら別ですが」
ガンズはそれ以上その問題を追求はしなかった。ノートを閉じ、あくびをすると嗅ぎたばこを嗅いだ。そして食事にしようといった。長い一日が暮れ、二人の男は早目に床へ入り、夜明けまでぐっすり眠った。
ひる前には二人はすでに汽船に乗りこんでバヴェノをあとにし、紺碧のマジョーレ湖を渡っていた。ブレンドンはイタリアの湖水地方へ来たのは初めてだったから、その美しさを目のあたりにみて言葉も出なかった。ガンズもまた話はしたくない様子だった。二人は並んで腰をおろし、次々に展開するパノラマをうち眺めていた――連なる山々、峡谷《たに》、水の面《おもて》に、また大地の上にふりそそぐ陽《ひ》の光、人影、そして丘の上のささやかな住居《すまい》、湖に浮かんだ小さな舟……。
ルガノで二人は船を降り、トレサへ向かった。その短い行程の間に、線路に沿って、鈴のついた金網の高い柵がしつらえられてあった。二十年前にここへ旅したことのあるガンズは、それがスイスとイタリアとの間の絶えることのない密輸を防ぐためのものだと説明した。
「全く、『卑しきもの人間のみ』だよ」ガンズは最後にそういったが、その言葉は相手の心に一抹の苦い思いを起こさせた。
「そしてわたしたちは一生人間のその卑しさを相手にしているわけですね。時々わたしは自分が嫌になるんです、いっそ八百屋《やおや》とか呉服屋とか、さもなきゃ兵隊か船乗りになってればよかったと思いますよ。同じ人間の卑しさをめしの種にしているなんて情けない限りじゃありませんか、ガンズさん。われわれのこんな職業は弓矢同様、一刻も早く過去の遺物になってくれるといいんです」
ガンズは笑っていった、
「ゲーテがどこかでいってるじゃないか、たとえ百万年生きようとも、人間は苦労のたねに事欠くことはあるまいし、それを克服する必要に迫られることも同じだろう、とね。それからモンテーニュもいっている――君、モンテーニュは読まなくちゃいかんよ、またとない賢人だからね。彼はこういっている、人間の知恵は、それ自身が決めた行為の完成に到達することはない。もし到達できたとしても、更に高いところを望めと自分自身に命ずるだろう。つまり、人間性の存する限り、世の中に悪人の尽きることはあるまいし、また彼らを拘禁するように仕込まれる人間もなくなりはしない。人類がこの世に存在し続ける限り、犯罪はどんな形であれ存在し続けるだろう。そして犯罪者が巧妙になればなるほど、われわれもまた巧妙になる必要があるというわけだよ」
「わたしは人間性をもう少しましなものだと考えますが」ブレンドンがそう答えると、ガンズは彼を賞めるようにいった、
「そうだろうとも、ブレンドン君――君ぐらいの年齢《とし》のときにはね」
二人はルガノ湖を渡り、夕陽を浴びながらその北岸に着いた。そこからふたたび汽車に乗って山を登り、とうとうコモ湖畔のメナジオの町に着いた。
「さてと、荷物はここへ置いてまっすぐピアネッツォ荘へ行くとしよう。奴《やっこ》さん、少々びっくりするだろうが、なに、万事好都合に運んだんで予定より一週間早く来られたんだといえばいいさ。彼の生命が危ないとわたしが思ってることなどいっちゃいけないよ」
二十分後には二人の乗った馬車はレッドメーン氏のささやかな住居《すまい》に到着した。そこでは三人の家族がちょうど夕餉《ゆうげ》の食卓についたところで、レッドメーン氏とその姪とジュゼッペ・ドリアの三人はいっしょに戸口へ姿を現わした。アルバートはイタリアふうにガンズを抱きしめてその頬に接吻し、一方ジェニーはマーク・ブレンドンに挨拶をした。ブレンドンは今ふたたびジェニーの眼をじっとのぞきこんだ。
ジェニーの身の上には何か新しいことが起こっていた。ブレンドンの鋭い眼はそれを見逃しはしなかった。彼女はにこやかに笑い、頬を上気させて、叔父を救うためにブレンドンがこんなに早く来てくれたことを不思議がったり感心したりした。しかしその喜々とした様子の中にさえ、かつてなかったある表情が感じられた。それはブレンドンの心を高鳴らせ、もしかしたら今からでも彼女の役に立つことができるかも知れないぞ、と彼に告げるのだった。なぜならジェニーの顔には、いかに微笑しても払いのけることのできない憂いのかげがただよっていたからである。
ドリアは自分の妻が叔父の友人と挨拶しているあいだちょっと後へさがっていたが、やがて進み出てブレンドンに再会の喜びを述べ、真相が解き明かされてかの放浪者の不吉な物語に終止符が打たれる日も真近いと信ずる、といった。
アルバートはガンズとの再会を喜ぶあまり、彼の訪問の目的をすっかり忘れていた、
「君をヴィルジリオ・ポジーに紹介したいというのがわしの前々からの念願だったんだよ、ピーター。そうして三人で膝をまじえてお互いの声を聞き、お互いの目を見たいと思っていたんだ。今こそそれが実現する。この山を彷《さまよ》っている不幸な魂のおかげですばらしい計画がこうしてはしなくも実現できたわけだよ」
ジェニーとアスンタは急いで客人の食事をととのえ、みんなは夕食の膳についた。そしてブレンドンは、彼とガンズのためにヴィクトリア・ホテルにもうちゃんと部屋を予約してあるのだと教えられた。
「それもいいでしょうが」彼はドリアの妻にいった、「まあ、見ててごらんなさい、きっとガンズさんはここに泊りますよ。今度の事件ではあの人が指揮をとるんです。なにしろわたしはしくじってばかりなんですから、ほんとならまたこうやっておめおめと顔の出せるすじあいじゃないんです」
ジェニーはやさしく彼を見た、
「あなたに来ていただけたんで、あたしほんとによかったと思ってますのよ」ブレンドンにだけ聞こえるような囁き声でジェニーはそういった。
「そうならわたしも嬉しいんですが」彼は答えた。
賑やかに食事が終ったあと、ガンズは今すぐコモ湖を渡ってポジー氏を訪問することはきっぱり断った、
「湖水見物は今日一日で十分たんのうしたよ、アルバート。それよりすぐ用件にかかりたいんだ、これまでにブレンドン君とわたしに知らせてくれた以外になおわかったことがあったらざっと話してもらいたいな。どうです、ドリア夫人、あのお手紙のあとどんなことがありました?」
「君が話しなさい、ジュゼッペ」アルバートがいった。
「ほら君に貰った金のたばこ入れだよ、ひとつまみどうだい?」ガンズはそういいながら本の虫のアルバートの方へ嗅ぎたばこをさし出した。しかしピアネッツォ荘の主人《あるじ》はそれを断って葉巻に火をつけた、
「わたしは粉よりも煙の方がいいよ、ピーター」
ドリアは話しはじめた、
「家内が手紙をさし上げたあと、あの人はまた二度ほど姿を見せたんです。一度は山の上でぼくとまともに顔を合わせました、ぼくはその時自分の仕事のことなんか考えたいと思ってひとりで散歩してたんです。もう一度はおとといの晩です――ここへ来たんですよ。幸いレッドメーンさんの部屋は湖に面していて、庭の塀が高いものですからそこまでは来られなかったんですが、下男のエルネストの部屋は道路側にあるんです。
ロバート・レッドメーンは二時にやって来てエルネストの部屋の窓に小石をぶつけて目を覚まさせ、兄さんに会うんだから中へ入れろというんです。ところがもしそういうような事があった場合にはこう言えとか、どういうふうにしろとかエルネストにはちゃんと教えてあったんです。エルネストは英語がうまいんです、それであの人に昼間来なくちゃだめだといい、ある場所を指定しました。ここから一マイルほど先の淋しい谷で、小川に小さな橋がかかっているところです。そこで翌日の正午に待っているようにといったんです。これはもしロバートがまた姿を現わしたらそうすることにあらかじめ決めておいたことなんです。
これを聞くとロバートは何にもいわずに行ってしまいました。そしてアルバート叔父さんはぼくだけ連れて勇敢にもその約束を履行したんです。ぼくたちは十二時前にそこへ着いて二時過ぎまで待ってましたが、誰も来ないし男の姿も女の姿も誰ひとり見かけませんでした。
ぼくの考えじゃあ、ロバート・レッドメーンはすぐ近くに隠れていたにちがいないと思いますね。兄さんがひとりだったらきっとすぐ出て来たろうと思います。でもアルバート叔父さんはもちろんひとりでなんか行く気はありませんでしたからね、それにぼくたちだってそんなこと叔父さんにさせられませんよ」
ガンズはドリアの話を熱心に聞いていた。
「それで、君が会った時はどんなふうだったんだね?」彼は訊ねた。
「あの時はロバート・レッドメーンにしてみれば全く思いがけないことだったにちがいないんです。ぼくはたまたま、家内が初めてあの人と出くわしたあたりの場所を考えごとしながら歩いてたんですよ、そして角を曲ったとたん、道ばたの岩に腰をおろしていたあの男とばったり顔を合わせたんです。ぼくの足音にびっくりして顔を上げたんですが、ぼくだってことがわかったんですね、ちょっと迷ってるふうでしたがすぐ繁みの中へ跳びこんでしまいました。追いかけたのですが、どんどん先へ行っちゃうんですよ。どうも山の上の方に住んでるようですね、きっと炭焼きかなにかとうまくやってんじゃないかな、元気だし動作も敏捷なもんです」
「服装は?」
「『烏荘《クロウズ・ネスト》』でぼくが見た時とそっくり同じでした、ベンディゴ叔父さんが失踪なさった時ですよ」
「そいつを作った仕立屋を教えてもらいたいものだねえ、よっぽど長もちする服らしいから」ガンズはいった。
そのあと彼は本題とたいして関係なさそうな質問を一つした、
「山には密輸業者がたくさんいるんじゃありませんかね?」
「たくさんいますよ、ぼくは彼らに同情があるんです」ジュゼッペは答えた。
「やつらはよく税関吏の目をぬすんで夜陰に乗じて国境を越えるんでしょう?」
「ぼくがもしここにずっと滞在してるんなら彼らのことがもっとよくわかるんですがねえ」ジュゼッペは機嫌よく答えた、「ガンズさん、ぼくは心の中では味方してるんですよ、連中はみな勇敢です。彼らの毎日は常に危険に曝されていてスリルに富んだもので、それだけにおもしろいのです。英雄ですよ、悪党なんかじゃありませんね。ここの家政婦のアスンタの死んだ亭主も密輸業者だったんですよ、だからアスンタは連中に知り合いがたくさんいますよ」
「さてピーター、君の考えをすっかり聞かせてくれないかね」アルバートは黄金色のリキュールを五つのグラスに注ぎながら、そういってうながした、「わしがあの不幸な男に危険な目に合わされると思っているんだね?」
「そうなんだ、アルバート。だがわたしの心はまだ決まっていない。誰だって『ロバート・レッドメーンを捕まえるのが先決問題だ』というよ。その通りだ、しかし、おもしろいことを教えようか。ロバート・レッドメーンは捕まえられないよ」
「お手上げだとおっしゃるんですか?」ジュゼッペが驚いてきいた。
「君はこれまでいったん捕まえようと思ったものは必ず捕まえたのとちがうのかい、ピーター?」
アルバートもきいた。
「わたしが彼を捕まえられないというのにはある理由があるんだよ」ガンズはそう答えて、小さなヴェネチァン・グラスの酒をすすった。
「あれが生きてる人間じゃなくて幽霊だとでも考えてらっしゃるんでしょうか、ガンズさん?」目を丸くしながらジェニーがきいた。
「ガンズさんはもうすでに幽霊説も唱えておいでなんですよ」ブレンドンがいった、「しかし幽霊といっても違った種類の幽霊もあるんですよ、奥さん。わたしもそれはわかります。血も肉もある幽霊というのもいるんです」
「あれが幽霊だとしたらずいぶんがっしりした幽霊だなあ」ドリアがいった。
「たしかにね」ガンズもそれは認めた、「しかしわたしの考えではやっぱり幽霊だよ。まあ一般論をやってみよう。『犯罪によって利益を得る者を探せ』というのはなにも絶対の金言ではないんだな、必ずしもそうとは限らない、被害者の死と遺産相続人となんら関係ない場合がいくらもあるんだから。例えばアルバートは、ベンディゴ・レッドメーン氏の死亡確認が法律的になされればその財産を相続するわけだし、ドリア夫人は前のご主人の財産を当然相続されるわけだ。しかしドリア君、それは必ずしも君の奥さんが前のご主人を殺したことにもならないし、このわたしの友だちが弟を殺したということにもならないんだよ。
とはいうものの、容疑者はその罪を犯すことによっていかなる利益を得るのか、を考えてみることは穏当なことだ。そこで今それを考えてみた場合、ロバート・レッドメーンはマイケル・ペンディーン殺害によってなんらの利益も得ていない、ということがわかる――何にも、だ。そうしたい、という衝動的な抑えがたい欲望を満足させただけなんだね。ペンディーンを殺したおかげで、ロバートは宿無しになり、収入も財産も失い、世の中の人みんなを敵にまわし、そうして常に絞首台の恐怖につきまとわれるはめとなった。しかも彼は、摩訶不思議《まかふしぎ》としかいえないようなやり方で法の目をのがれているかと思うと、一方では疑われないための努力なぞいっこうにやっていないんだ。やっていないどころか、自ら疑いを招くようなことをしている、オートバイで死体をベリ岬まで運んだり、その他さまざまの、どう見ても気違いとしか思えないようなことをやっているんだ――だが、一つだけ気違いとは呼べない重大な事実がある。気違いならすでに捕まっているはずなんだが、彼は捕まっていないのだ。
彼はペイントンで姿を消し、『烏荘《クロウズ・ネスト》』に現われる、そして更にもう一人の人間の生命を奪う。実の兄を殺すという、またしても明らかに意味のない殺人をやってのけてまたまた姿を消す、――しかも何一つ手がかりを残さない。さあ、こんな不合理につき当たった場合、われわれはそんなうわべの事実は無視して、もっと重大な質問を自分自身に問いかけてみる必要がある。ドリア君、それはどういうことだと思いますかね?」
「実はそういう質問はぼくもすでに自分に問いかけてみたのです、女房にもきいてみました。しかし、ぼくには答えることのできない問いなんです、どうしてかっていうと、事情を十分に知っていないからですよ。十分知っている人間は誰もいやしません――知っているのはロバート・レッドメーン自身だけですよ」
ガンズはうなずき、また嗅ぎたばこを嗅いでいった、
「なるほどね」
「いったいその質問というのはどういうことなんだ?」アルバートがきいた、「ジュゼッペが自分にきいてみた、それからピーター、君も君自身にきいてみた質問というのは何なんだね? わたしは君たちのように頭がよくないからわからないね」
「こういうことだよ、アルバート。『ロバート・レッドメーンはマイケル・ペンディーン及びベンディゴ・レッドメーンを果して殺したのか?』しかももっと核心をついた訊き方もできるんだよ、つまり『この二人の人間はほんとに死んでいるのか?』とね」
ジェニーが烈しく身をふるわせた。彼女は思わず手を伸ばし、隣りにすわっているブレンドンの腕をぐいと掴んだ。ブレンドンが見ると、ジェニーの目はただならぬ疑惑と恐怖の色をうかべてドリアの方にじっと向けられていた。またドリア自身も、ガンズの推断に少なからず驚いた様子だった。
「コルポ・ディ・バッコ! そうすると……」
「そうすると、われわれは捜査の範囲を大幅にひろげなければならんというわけでしょうな」ガンズは穏やかに答えてからジェニーの方を向いていった、「奥さん、こういうとあなたは再婚なさったことを考えて心配なさるでしょうな。しかし、なにもそうと断定しているわけじゃないんです、ただ内輪のおしゃべりをしているに過ぎません。われわれが今ほしいのは事実なんですよ。そしてもしも、ロバート・レッドメーンはマイケル・ペンディーンを殺さなかった、というのが事実とわかったとしても、それは必ずしも、ペンディーンさんは亡くなっていないということにはならないんですからね。今更、仮説に驚いたりなさっちゃいけませんよ、これまでだっていろいろ仮説があっても奥さんは平気でいらしたんですしね」
「そうなるとますますあの不幸な弟を捕まえることが必要になってくる」アルバートがいった、「そういえば、ベンディゴはロバートが来たと知らされた時、最初はてっきり幽霊だろうと思ったというんだからおもしろい。船乗りというのはよくそういうもんだが、あいつも迷信家だったからね、ジェニーがロバートに会って話をしてくるまでは自分に会いたがっているのがほんとに生きてる人間だとは信じなかったらしいよ」
「それが幽霊じゃなくてほんとにロバート・レッドメーンだった、という事実はあの時の出来事によって証明されていますよ、ガンズさん」ブレンドンがつけ加えていった、「『烏荘《クロウズ・ネスト》』へ来た男が実際にロバート・レッドメーンだった、ということは、ドリア夫人のお話で確信できるわけです、奥さんはあの叔父さんをようくご存知なんですから。あとは、今このあたりに出没する男がやっぱりロバート・レッドメーンである、ということを同じような確かさで証明できればいいだけです。しかしそれだってまず疑いの余地はない、という気がしますよ。そりゃあ、いまだに逮捕されないでいるというのは驚異ですが、案外みかけほどは驚異でも何でもないんじゃありませんか。もっと奇妙な出来事だって世の中にはたくさんありますしね。第一、あれが他の男であるわけはないじゃありませんか?」
「そういえば」ガンズが答えた、「ベンディゴさんの日記があるとかいうことだったね。たいそう細かい日記をつけていた――という話だったが。アルバート、それを見せてもらいたいな、君の報告によるとたしか君が保管してるはずだったが」
「その通りだ、わたしのところにあるよ。それとそれからベンディゴの聖書《バイブル》――とわたしが呼んでる例の『白鯨』を一冊、持ち帰ってあるんだよ。まだその日記に目を通してはいないんだがね――なんだか弟の心の中がよくわかるようで辛かったからさ。しかし早く読んでみようとは思っていたんだ」
「その二冊の入ってる包みは書斎のひきだしの中にありますわ。あたし持ってきますわね」ジェニーはそういうと、皆のいる湖に面した部屋から出て行った。そしてすぐ、茶色の紙包みをもって帰ってきた。
「どうしてこれが要るんだい、ピーター?」アルバートが訊ねた。そしてこの質問に対する答に彼の方はうなずいたが、ブレンドンの方は不満そうだった。
「一つの事をあらゆる角度から検討するのはどんな時でもおもしろいものだからさ」ガンズは答えた、「弟さんのこれを読めばきっと何かわかるよ」
ところが、ベンディゴの日記が果して役に立つものであったかどうかは、知ることができないという結果になった。ジェニーが包みを開いてみると、ベンディゴの日記など入ってなかったからである。その包みに入っていたのは一冊の新しい日記帳と、件《くだん》の有名な小説だけだった。
「しかしわたしが自分で包んだんだよ」アルバートはいった、「あの日記帳はこの新しいやつとそっくり同じ装幀だった、だがねえ、わたしが間違えたりしたんじゃないことは確かだよ、だって包む前にわたしはベンディゴの日記を一、二ページ読んだんだからね」
「ベンディゴ叔父さんは最後にダートマスへいらした時に、新しいのを買ったばかりだったんです」ドリアがいった、「あの時のことぼく覚えているんです。そのノートに何をお書きになるんですか、ときいたら、日記帳がもう書くとこがなくなったんで新しいのが要るんだっておっしゃったんですよ」
「アルバート、確かに君はそのいっぱい書いた古いやつと、何も書いてない新しいやつと取り違えたりはしなかったんだね?」ガンズがきいた。
「そりゃあ、絶対に、とは断言できないがね。だがわたしの気もちとしてはあやふやな感じは全然ないんだ」
「そうだとすると何者かによってすりかえられたんだなあ。それが本当だとすればこりゃあ興味深い事実だよ」
「そんなわけないわ」ジェニーがきっぱりいった、「ガンズさん、そんなことをするような人はあの時一人もおりませんでしたわ。あたしたち以外にベンディゴ叔父さんの日記に関心のある人なんていますかしら?」
ガンズはちょっと考えてからいった、
「その質問の答えが出ればわれわれの手数がだいぶはぶけるわけですな。しかしたぶん答えは出ないでしょうね、あなたの叔父さんが間違えたのかも知れないし。とはいうものの、こと書物に関する限りアルバートが何か間違いをやらかすわけはないんですがね」
ガンズは何も書いてない日記帳を手にとってそのページをくった。やがてブレンドンが、もう行かなくては、といい出した、
「ガンズさん、レッドメーンさんはもうお寝みの時間なんじゃないでしょうか。荷物はもうホテルへ運ばせてありますが、一マイルほど歩かなくちゃならないんですからもうお暇《いとま》したほうがよさそうですよ。あなたは全然眠くないんですか?」
ブレンドンはそれからジェニーにむかっていった、
「奥さん、ガンズさんはね、イギリスを発って以来ずうっと目を開いたまんまみたいですよ」
だがガンズは笑わなかった。何か深く考えこんでいる様子だったが、急に喋り出してみんなをびっくりさせた、
「アルバート、君はこのわたしを兄弟も及ばぬほど親密な存在と思ってくれるだろうね。つまりさ、誰か行ってホテルから荷物を持ち帰ってもらわなくちゃならんのだよ。事件が落着するまでわたしは君から目を離さないことにするんだから」
アルバートはすっかり喜んだ、
「それでこそ君だよ、ピーター。わたしのそばから離れちゃいけないよ、君はわたしの隣の部屋に寝るんだ。あそこには本がいっぱい置いてあるがわたしの寝室から大きな寝椅子を運ばせよう、三十分もあればできるさ。ベッドと変らないぐらい寝心地はいいよ」
彼は姪にむかっていった、
「ジェニー、アスンタとエルネストを探してガンズさんの部屋を作りなさい。それからジュゼッペ、すまないが君はブレンドンさんをヴィクトリア・ホテルにご案内して、帰りにピーターの荷物を持ってきてくれないかね」
ジェニーは叔父にいわれた仕事をしに行き、その間にブレンドンは皆にさよならの挨拶をし、翌朝早くまた来ると約束した。ガンズはいった、
「あしたの計画は――マークのお許しがあれば、だがね、こうしようと思うんだ。ドリア君はロバート・レッドメーンがあらわれたという場所へブレンドン君を連れて行く。それからご本人さえいいとおっしゃれば、わたしはここにいてジェニーさんとお話しする。今までのことを少し思い返してみていただこうと思うのでね。きっと勇気を出していろいろ話して下さるにちがいない」
ガンズは何かに驚いた様子で湖の方へ聞き耳を立てた。
「あのやかましい音は何だろう? 遠くで大砲が鳴ってるみたいに聞こえるが」
ドリアが笑って答えた、
「夏の雷が山の上でゴロゴロいってるだけですよ、ガンズさん」
[#改ページ]
第十三章 突然の帰国
探偵として成功するためには、何はさておき物事の両面を見る能力を備えている必要がある、それは事件に捲き込まれた人々に少なからぬ影響を及ぼすものなのだから。だいたい物事には十中八、九は一面しかない。しかし調べる側の人々が両面を見きわめるということをしなかったがために、断頭台へおくられた人間はいくらもいるのだ。つまり、いちばん無理のない線にそって、ただただ明白な結論だけを追い求めるからだ。しかしその結論は往々にして、間違った前提に立った場合しかつじつまが合わないのである。
ピーター・ガンズはこの能力に欠けてはいなかった。人相学者が彼の顔を見ればそんなことはすぐわかった。口は笑っていても目つきはおごそかで――といっても決して皮肉というのではなく、ただどんな時でもきびしい、しかし不親切ではない表情をたたえているのだ。その二つの眼は常に油断することなく、それでいて寛大であった、――つまり人間性の崇高さばかりでなく脆《もろ》さをも知りつくしている者の眼だった。彼は人間の知力が時に達することもある才能の高さを評価できると同時に、ごく標準的な普通の知性を測り知ることもできた。確かな性格判断と人間喜劇の広い経験に根ざした彼自身の非凡な力が、エジプト人のような豊かな唇に微笑に似たものを刻みつけると同時に、眼にはそのような表情を与えているのだ。
翌日、彼はピアネッツォ荘の食堂から湖の上へ張り出している小さなベランダに腰をおろしてアルバートと話をしていた。ジェニーの用意ができるまでここでこうして三十分ばかり語らっているのである。
年長のアルバートが素朴な哲学を講釈していた、
「ねえピーター、わたしは長い間神さまが不満でしょうがなかったんだ、だからなんとかして人間を信頼しようといっしょうけんめいになってきたんだよ。ところが今はわれらの造物主《つくりぬし》を信頼しない限り人間は自分自身を理解することはできない、とはっきりわかるし、またそう信じてもいるのさ。『より善《よ》く』ということは常に『善《よ》く』ということの敵なんだね、そして『最善』という言葉は殉教者や英雄に対してだけ使われる言葉なんだ」
「人聞が最善をつくすのは二つのことのためだよ、アルバート」ガンズは答えた、「愛と憎しみとのためさ。そしてこれらの強力な刺戟があってはじめて、人間は偉い奴も偉くない奴もそれぞれの能力の限りをつくすことができるんだ」
「そうだね、そしてそれで現在のヨーロッパの状態の説明がつくのかも知れないな。戦争はわれわれから最善の活動をする能力を奪ってしまった。情熱は消えた、その結果あらゆる会議は善意の情熱を欠き、運命の舵柄《かじ》を握る立派な指導者もないままにわれわれは漂流している。心と頭は反目し合い、ただ一つの道を協力して進もうとしないでそれぞれ勝手な方向へ手探りしているんだ。現在のわれわれの間には偉大な人物がいない、そりゃもちろん指導者はいるよ、彼らに指導される人々に比べれば連中も偉い人間かもしれないさ。しかし歴史は現代のわれわれヨーロッパ人を小人の時代と呼ぶことだろう、そして運命の危機に立ちむかえるだけの偉大な人物が出現しなかったこの特別の時代に、人類はどんな危機に瀕していたかを述べることだろう。わたしの知る限りこんなことはこれまで一度もなかった状態だ、今まではどの時代にも必ず偉大な人物が存在したものだが」
「君のいうとおりわれわれは漂流している」ガンズは白いチョッキのほこりをはたきながら答えた、「われわれ全体が一種の戦争神経症《シェルショック》にかかっているんだなあ、アルバート。そしてわたしの見方からすると、犯罪と神経とは密接な関係があるように思われるんだよ。知識階級における無関心さは、大衆においては法律無視の形をとる。経済法則の崩壊は怒りと絶望をひき起こす。現在はあらゆる面で平衡状態が保たれなくなっているんだ。早い話が仕事とレクリエーションとの間の均衡が破れてしまった。この落ちつきのない状態を調整するには十年の歳月を要することだろう。そして何年にもわたる戦争の間に悲しいかな、慣れっこになってしまったわれわれの刺戟に対する欲求は、次の世代の若者たちの心に危険な、そして明瞭な刻印を残そうとしているのだ。この落ちつきのない状態と、そういう気分を満足させるための犯罪的な手段との差は紙一重でしかない。
われわれは病気なのだ、われわれの状態は病的だよ。いま必要なのは、過去の闘争において困難に立ち向かい、それを征服することをわれわれに可能ならしめた規律の復興なのだ。われわれは神経を鍛錬しなくちゃいけないんだよ、アルバート、そして次代を背負っていかなければならない者たちのために、平衡のとれた健全な視野を取戻す努力をしなくちゃならんのだ。人間は本来は放縦なものじゃない。総じて人間というのは理性的な生きものなんだ。しかし文明は主義や欲の上に立っているものだから、今の段階ではまだ教育を通じて迷信や利己主義を阻《はば》むに至っていないんだよ」
「ひとたび善意の光がこの混迷の状態に投げかけられさえすれば、しだいに秩序は取り戻されてくるはずだよ」アルバートはきっぱりといった、「ねえ君、問題はいかにして善意をおしすすめるか、ということじゃなかろうか。これは宗教というものの根本的な問題であるべきだよ。すべての道徳の基本は要するに何であるのか? それはまさに『おのれを愛するごとく汝の隣人を愛すべし』ということなんだな」
そうやって世の中を正しているうちに二人の考えはしだいにいかにして人類を救うかという抱負に変わっていった。やがてジェニーがやってきたので、ガンズは彼女に従ってピアネッツォ荘の裏の花畑へ入って行った。
「ジュゼッペとブレンドンさんはもう山へ出かけましたの。あたしももういつでもお話できますわ、ガンズさん。あたしを傷つけやしないかなんてご心配はどうぞなさらないで。もう傷つくことからは卒業しましたわ。よく耐えられたと思うほど、そしてよく気が狂わなかったものだと不思議になるくらい、この一年間苦しみを耐えてきたのですから」
ガンズはジェニーの美しい顔をまじまじと見つめた。その顔はたしかに悲しげであった。しかしガンズの目は、その悲しみの表情の下に不安がひそんでいるのを見抜いた。それは過去でも将来でもなく、現在のこの瞬間にまつわる不安であった。あきらかにジェニーは新生活が幸せではないのだ。
「蚕を見せていただきましょうか」ガンズはいった。
二人は家の裏手の繁みの中に高く突き出ている小屋に入った――鎧戸《よろいど》のおりた薄暗い部屋だった。そこには天井まで棚が幾段にもしつらえてあり、蚕棚の間には屋根まで届くような長い木の枝がいくつも立てかけてあった。このひんやりと薄暗く静まりかえった部屋の中には、木の枝にも壁にも天井にも到るところに点々と小さな灯《ともしび》が無数に光を放っているかに見えた。蚕がよじ登り、糸を紡ぐことができる場所ならどこもかしこもその装飾がほどこされてある。それは枝々に熟した小さな実のように、楕円形の|つや《ヽヽ》のある繭《まゆ》が到るところに散らばってうす暗がりの中で微かに光っているからであった。レッドメーン氏の蚕は、千三百年もの昔ネストリウス派の巡礼が中国から持ち出して、中をくりぬいた杖に入れてコンスタンチノープルまで秘かに運んだという歴史的な卵を祖先として幾世代も経たものであった。
蚕たちのほとんどは仕事を終って絹の外套を作り上げてしまっていたが、まだ二百匹ほど、それぞれ三インチはありそうな太った白い大きな奴が|かご《ヽヽ》に残って、ジェニーの摘んできた新鮮な桑の葉をむさぼるように食べていた。やっと今|きょうかたびら《ヽヽヽヽヽヽヽ》を織りはじめたのもいる。それらの蚕は大体の形は作ってしまって、その透明でキラキラする糸でこしらえた下準備の袋の中で忙がしげに働いているようだった。中にはまだ最後の食事をむさぼり食っている最中なのにすでに身体が黄色くなりはじめているのもいた。ジェニーはそれらの蚕をつまみ上げて朝の光にすかして見た。
「どんなミイラだって蚕のさなぎほど精巧に身体を包んでいるものはありませんよ」ガンズはいった。ジェニーは絹工業のことやその種々様々な利害の話を陽気によくしゃべったが、蚕については自分よりもガンズの方がよほどよく知っているのがわかったのだった。
しかし、彼はいっしょうけんめい耳を傾けてきいていた。そして急がず徐々に例の問題の方へ話題をそらしていった。やがて彼は、前の晩自分がいった言葉に起因するジェニーの立場の点に触れた、
「ドリアさん、前のご主人の失踪後わずか九か月で再婚するのは少し冒険だとはお気づきにならなかったんですか?」
「気づきませんでした。でもあたし、ゆうべガンズさんがそうおっしゃった時ぞっとしましたの。あの、それからどうぞドリアさんと呼ばないでジェニーとお呼びになって下さいまし」
「昔から恋にとって法律ほど邪魔なものはありませんからね。しかし、英国の法律では例外といえる証拠が提出されない限り、どんな人間も、生存を最後に確認された時から七年経過しないうちは死んだと認められないのです。九か月と七年では重大な違いですよ、ジェニーさん」
「ふり返って考えてみると、ただもう長い悪夢でしかなかったような気がします。九か月! 百年ぐらいに感じられますわ。前の夫を愛していなかったのだとはお思いにならないで下さい。あたしにとって彼は大事な人でしたし、今でも思い出は大切にしています。でも淋しさと、そこへ突然現われたあの人の魔力ですわ。それに第一、あの事件の恐ろしい証拠には、疑いをさしはさむ余地なんてあったでしょうか? あたしはマイケルの死を、確かな事実として受け入れたのですわ。ああ! なぜ誰もあたしの再婚は間違っていると注意してくれなかったのでしょう?」
「注意してあげる機会《チャンス》のあった人がいますかね?」
ジェニーはふしあわせそうな表情を顔いっぱいにあらわしてガンズを見た、
「おっしゃる通りですわ、あたしは夢中になっていたんです。恐ろしいあやまちを犯してしまったんですのね。でもあたしはまだその罰を免がれてしまったわけではありませんわ」
ガンズは彼女のいう意味を察し、話題を今の夫の話からそらそうとした、
「どうです、少しつらいかも知れませんが、マイケル・ペンディーンさんのことを話して下さいませんか」
だがジェニーは聞いてない様子だった。自分自身のことや自分の現在の立場について考えることでいっぱいなのだ。
「ガンズさんのおっしゃることは本当だと思いますわ、あなたは聡明な方ですし人生の経験も深くていらっしゃるのですもの。あたしが結婚したのは人間じゃなくて、悪魔だったのですわ!」
彼女は手を握りしめた。そしてその白い歯が、しんとした部屋の薄暗がりの中で光るのが見えた。ガンズはこのふしあわせな女が過ちを嘆いてもだえている間、嗅きたばこを嗅ぎながら黙ってきいていた。
「あの人を憎みます――心の底から憎みます」ジェニーはそう叫び、悪口雑言の限りをつくしてジュゼッペを呪《のろ》ったが、やがてふっと黙りこんではげしく喘いでいたかと思うと静かに涙を流しているのだった。
ガンズはそのようなジェニーを注意深く観察していたが、その時はたいして同情を示さなかった。そして落ち着かせるというよりはむしろ元気づけるような調子で答えた、
「勇気を出すことですよ。イタリアといえどもある意味では自由な国です、もしどうしてもいやなら何もドリア君といっしょにいなきゃならんことはないんです」
「主人は生きているのでしょうか? 生きていることもあり得るとお思いになります? 真夏の狂乱が去ったいまは、あたしの夫はやっぱりあの人だという気がします。聞いていただきたいことがたくさんありますの。お願いでございますわ、どうか叔父だけじゃなく、あたしのことも助けていただきたいのです。でも、もちろん、叔父のことの方が大切ですけれど」
「おそらく叔父さんを助けようとすればあなたを助けることにもなるでしょうな。それよりも、ご質問がありましたね、わたしは当然答えるべき質問には必ず答えることにしていますのでね。いいや、ジェニーさん、わたしはペンディーンさんが生きておいでだと考えることはできんですよ。外へ出ましょう、ここにいると息苦しい。しかし忘れては困りますよ、彼が生きていない、とはいってないんですからね。フォギンターで何者かの手によって流された血はまちがいなく人間の血だった、ベンディゴさんの家の近くの崖下の洞窟に発見されたのも人間の血だった。ところが誰がその血を流させたのかということも、誰がその血を失ったのかということも、われわれは絶対の確信をもって知るに至っていないのです。わたしがはるばるやって来たのもこの大きな問題を解くためです。あなたさえその気なら、おそらくあなたならわたしの手助けをして下されるはずだ。まあいずれにせよ、これだけはお約束できますよ、もしあなたがわたしを助けようとなさるなら、それはあなた自身とアルバート叔父さんをも助けることになるだろう、とね」
「叔父はやはり危険にさらされてますのね?」
「事情を考えてごらんなさい。時が来れば二人の弟さんの財産はアルバートのものになる、ということはその金の大部分がいずれはあなたのものになる、ということでしょう。アルバートは丈夫なほうじゃない、そう長生きする人間とは思えませんよ。とすると、どうなります? もちろんレッドメーン家の最後のひとりであるあなたが何もかも相続することになる。ところであなたには夫がある、ここに問題が出てくるわけですよ。さっきわたしになんとおっしゃいました? ご主人は悪魔だ、そして、ご主人の本心をかいま見た時からご主人を憎悪している、といわれましたね。これらの事実は必ずしも別個のものではないんですよ、密接なつながりがあるかも知れないのです」
ジェニーはじっとガンズの顔を見た、
「あたし、ジュゼッペ・ドリアのことは自分との関係だけで考えてましたの、ベン叔父やアルバート叔父と結びつけて考えたことは一度もありませんでしたわ。ベン叔父が亡くなったのは――ほんとに亡くなったのだとすればですけど――ドリアとの結婚をあたしが承諾する前でしたもの、ドリアが結婚してくれといい出す前でしたわ。でもどうぞアルバート叔父にはあたしの犯したまちがいのことをおっしゃらないで。こんなにみじめな思いをしているのを叔父には知られたくありませんわ」
「あなたも誰を信頼するか決めなくちゃいけませんね。そうでないとあなた自身が危ない立場に立つことになるかも知れませんよ」
ジェニーは答える言葉を考えていたが、やがていった、
「なにか考えていらっしゃることがおありですのね」
「そりゃそうですよ。あなたとイタリア人のご主人との間のことを聞かせていただいたが、いろいろなことが考えられますよ。だがともかく大いに慎重に考えなくちゃいけませんね。兎といっしょに逃げておいて猟犬といっしょに追いかけようというのは無理ですからね。そんなことをしようとして結局はひどい目に会った悪人は――いやその点、罪のない人だってそうだが――どれだけいるか知れませんよ。どうなんです、ジュゼッペはあなたがもう自分を愛していないと知ってるんですか?」
ジェニーは首をふった、
「あたしそんなそぶりは見せないようにしていますの。まだ知らせる時期じゃないのです。あの人のことですから復讐するに決まってます、しかもどんな復讐をされるかわかりませんわ。ですからあの人のところから完全に逃《のが》れてしまうまでは、あたしが心変わりしたなどとは夢にも思わせてはならないのです」
「そういうお気もちなんですね? では二つ質問があります。逃れるのは当然だといい切れるだけ十分に、あなたは彼のことを知りつくしていますか? そしてもし知りつくしておいでならば、あなたはその知っておられることをわたしに全部うちあけて聞かせて下さることができますか?」
「知りつくしてはおりませんわ。あの人はみかけはあんなふうに快活でのんきやのようですが、とてもとても利口なのです。素行は確かに悪くないようですし、ひとさまの前では決して不親切なまねはしないように心がけていますわ。でも、今あなたのおっしゃったこと――レッドメーン家の財産はいずれは全部あたしのものになる、ということをあの人は十分承知していると思いますわ」
「しかし、あなたに対して悪魔のように振舞うというんでしょう? どうも利口じゃないようですね」
「どう申し上げたらいいのかしら。あるいは少しいい過ぎたのかも知れませんわ。あの人の冷酷さというのは何というか、とても微妙なんですの。イタリア人の夫って……」
「イタリア人の夫というものについてはわたしも十分知ってますよ。このことについてはあなたがひまな時少しお考えになってからまた話し合いましょう、もちろん、ドリア君をそれほど憎んだり疑ったりなさるのにはそれだけの理由がおありだからでしょう、そうでもなきゃ、まさかあれほど烈しい感情を装えるわけはないんだし。素行は悪くない、といわれましたね、とすると彼を憎む理由は、わたしに――いやわたしばかりじゃなく誰にも打ちあけたくない事実をあなたが知っているからでしょう? たぶんそれはあの謎の人物――われわれの探しているロバート・レッドメーンにも関係がありますね? ドリア君はロバートについてあなたやわたしよりももっといろいろと知っているのですね? そしてあなたはそのことを嗅ぎつけたんでしょう? ドリア君を憎む理由はきっとたくさんあるんでしょうね。よく考えてみて下さい、その理由のどれか一つでも聞かせて下されば捜査の役に立つと思うのですがね」
ジェニーは深く興味をそそられた面もちでガンズの顔をみつめた。
「ガンズさんて、ほんとうにすばらしい方ですのね」
「どういたしまして……、ただ人生というジグソー・パズルに慣れているだけのことですよ。わたしが今いったことをあまり重大に考えちゃいけませんよ、それから、あるいはこうじゃないか、なんていったこともです。わたしは結局まちがってるのかも知れませんからね。現在わたしにわかっているのは、あなたのいわれた、ドリア君はやさしい夫ではないということだけです。ドリア君のことがわたしにもう少しよくわかってくれば、あるいはあなたと意見が合わなくなるかも知れませんよ。あなたには判断がつかないのかも知れませんからね。前のご主人はきっと特別な方だったんですよ、だから夫というものの規準があなたにはわからないのです。その点、わたしは偏《かたよ》った見方はしませんよ、夫の性格をその妻よりも第三者の方がよほどよく知っている、という例をたびたび見てきましたからね。恋は盲目といいますが、憎悪も同じことです、そして愛情が憎しみに変わるということには心理的に非常に複雑な過程があるわけで、手なれた精神分析医でなければ解釈できないほどのものです。ですからあなたのいろいろな不安の意味を知るためには、あなたご自身のことをもっと教えていただかなくてはならないのですよ。
まあこのぐらいにしておきましょうね。今のところ、わたしのことはあなたのお役に立ちたいと思っている、ということだけ覚えていて下さればいいんですよ。ただわたしはもう年寄りですのでね、それにひきかえブレンドン君はまだ若い。それに若い者同士の方が理解しやすいものですからな。あなただってブレンドン君のことは堅実で誠実な友だちと思っているはずでしたね。わたしには話せないが彼になら話せる、というのであってもいっこうにかまいませんよ、わたしはひがんだりはしないから」
ジェニーの唇がいったん動きかけたが、また結ばれてしまった。ガンズには、あることをいいかけてやめ、別のことをいおうとしているのだ、と察しられた。彼女はガンズの大きな手をとると自分の両手ではさんでいった、
「ありがとうございます! でも、あなたのような方にお友だちになっていただけるんでしたらこんな嬉しいことはありませんわ。それは、ブレンドンさんはとても親切にして下さいます、それはそれは良くして下さいますわ。でもアルバート叔父を助けて下されるのはやっぱりあの方じゃなくてあなただと思いますの」
やがて二人は別れ、ジェニーは家へ帰った。ガンズの方は、|きょうちくとう《ヽヽヽヽヽヽヽ》の繁みのそばに具合のいい椅子があるのを見つけて腰をおろした。そして頭上の赤い花の香りに鼻を寄せてみて、悪癖のおかげで嗅覚が大いに害われているのを悔やみながら、また嗅ぎたばこを嗅いだ。それからノートを開いて三十分ばかりの間せっせと何か書きこんでいたが、やがて立ち上がるとアルバートのところへ行った。
アルバートは、これからいよいよ実現されようとしていることの話で夢中になっていた。
「今日こそ君とポジーとが会うんだぜ! ピーター、ヴィルジリオを好かんなんていわないでくれよ、もしそんなことがあったらわたしはがっかりだよ」
「アルバート」ガンズは答えた、「ポジーのことはもう二年も前から好きさ。君の好きなものはわたしも好きだ。ということはすなわち、われわれの友情が非常に高い水準にある、ということだよ。だって相手によっては友だちの悩みほど理解できないものはないと感じる場合がよくあるからね。ところが君とわたしとでは何事につけ全く同じような見方をするだろう、だからわたしにとって興味のない人物に君が夢中になるはずはないと思うんだ。そこでだよ、君はあの姪ごさんをどのぐらい愛しているのかね?」
アルバートはすぐには答えなかった。
「あの子のことは愛しているよ」やっと彼は答えた、「美しいものは何でも愛するからさ。何もひいき目でいうんじゃない、正直にいってあの子はわたしの知ってる限りで最も美しい女といえると思うんだ。あの顔はボチチェリのヴィーナスによく似てる、ジェニーほど似てる女は見たことがない。それにあれほどやさしげな顔はないと思わないかね。だからピーター、あの子の外見は非常に好きだよ。だがね、内面となるとそうはっきりはいえないんだよ。仕方がないんだ、あの子のことをまだよく知らないんでね。子供の頃にはほとんど会ってないし、つい最近まで交渉がなかったのだから。もう少しよく知り合えば、きっとあの子のどこもかしこも愛するようになるだろうなあ。しかし正直いって完全に理解することは無理だろう、なんといっても年が開きすぎているからね。第一ジェニーはあの通りひとりでわたしのところへやってきたわけじゃない、あの子の生活には夫というよりどころがある、あれはいまだに新妻気分で夫に夢中だよ」
「不幸な花嫁だと考えられるふしはないのかね?」
「ないねえ、ドリアはあの通りまことにハンサムで魅力的な男だ――たいがいの女が惚れるタイプだよ。そりゃあイタリア人とイギリス人の結婚が成功した例は珍しいようだが――しかしジェニーの夫はたしかに世故にたけているから、良い亭主であればなにもかも手に入るが、下手をすれば全部失うぐらいのことはわかってるだろう。ジェニーは気位の高い女だし、どうしてなかなかすぐれたところのある娘だよ。ドリアに馬鹿にされておとなしくしているようなことはあるまいよ、わたしだって黙ってはいないことぐらいジェニーも知っているしね。いつまでもあの子を手もとにおいておきたいとは思うんだが、どうやら彼らはトリノに家をもつ気らしいなあ」
「ドリア君は家名の再興とかなんとかいう野心は捨てたのかね? ブレンドン君からその話はいろいろ聞いたんだが」
「ああすっかりね。それに君の国の人間がドルチェアカの城を手に入れて称号も買いとったとかいう話だよ。城の話ではジュゼッペもずいぶん楽しませてくれたがね。だがあの男どうも怠けもののようだなあ」
昼食前に、マーク・ブレンドンは案内人といっしょに山から帰ってきたが、ロバート・レッドメーンのことは全然みかけなかったとのことだった。そしてどうやらおたがいに相手にうんざりしている様子だった。
「マーク先生に少しあなたの知恵と活発な精神を分けてやって下さいよ」ジュゼッペは、ブレンドンがジェニーと二人で座を外したすきにガンズにいった、「なにしろひどく鈍い男ですよ、第一ぼくが喋ってるのに聞いてもいないんです。カンが鈍そうだなあ、あれじゃ何も探り出せやしませんよ。あなたの方はどうかな? 何かおわかりになりましたか? 新しい箒《ほうき》はよく掃ける、とかいいますからね」
「わたしの知恵を貸す前にまず君の知恵を借りなくてはね、ドリア君」ガンズはおだやかにいった、「その赤いチョッキの男のことを君はどう考えているのか、聞かせてほしいんだよ。少し話し合ってみようじゃないか」
「結構ですとも、喜んで。ぼくはもうずいぶんあの男に会ってますよ、イギリスで三回――四回かな、それからイタリアで一回。それがいつも同じ恰好をしてるんですよ」
「幽霊じゃないのかね?」
「幽霊? そんなことありませんよ。たしかに生きています。しかしどうやって生きているんでしょうねえ? それに何のために生きてるのやら……」
「君はアルバートのことは心配じゃないのかな?」
「大いに心配してますよ。女房があの男を見たと知らせてきた時にはすぐトリノから電報を打って、くれぐれも用心するように、まちがってもその男と会うような危険なまねはするな、といってやったぐらいです。叔父さんはこの話になるとひどくおびえるんですよ、ですからぼくたちなるべく考えさせないように気をつけているんです。お願いですよ、ガンズさん、何とか早く真相を究明して下さい。ぼくの思うに、狐かなんかみたいにわなを仕かけてその赤毛の男を捕まえたらと思うんですがね」
「そりゃ思いつきだ、その時は君も手伝ってくれよ、ジュゼッペ。大きな声じゃいえないが、かのブレンドン君は見当違いなことばかりやらかしてるからさ。しかし君とこのわたしとブレンドン君と三人束になってやっても解決できないようじゃ、われわれは男とはいえないよ」
ドリアは笑っていった、
「男は行動、女はおしゃべり、これまではおしゃべりが多過ぎましたよ。でもあなたがいらしたんだから、もう解決しますよね」
ガンズとブレンドンがやっと話し合うことができたのは、昼食が終ってからのことだった。二人は、湖のむこうからヴィルジリオ・ポジーがやってくるお茶の時間までには帰ると約束して、コモ湖畔へぶらぶら出かけて行き、経験を交換し合った。この会談は結果としてブレンドンには辛いものとなった。というのは、ガンズがある点で抱いていた疑問が解けたからである。もっともブレンドンが自らその苦痛を招いたようなものだった。
「あの野郎の細君に対する態度を見てるとわたしは気が狂いそうですよ――もちろんドリアのことです。豚に真珠とはこのことですよ。もともと期待はしてなかったですが、なにしろ結婚してまだたったの三か月なんですからねえ!」
「どういう態度をとるんだね?」
「そりゃあ、あの奥さんの様子を見れば誰だってわかりますよ、もちろんわけをいおうとはしないけれど、その結果はありありと見えてますよ。あのひとは勝気ですから悩みを他人に打ちあけたりはしませんが、どうしても顔には出ますからね」
ガンズが黙っているとブレンドンはまた話し出した、
「あなたの方は何かおわかりになりましたか?」
「本筋の問題についてはほとんど何にもだよ。だが付随的なことで一つわかったことがある、つまり君の乗り上げた暗礁がわかったのさ。君は、未亡人と知った瞬間からジェニー・ペンディーンに惚れてしまったんだ、そして現在ジェニー・ドリアに惚れているんだな。事件の主要関係者の一人に恋をしているということは捜査上ハンディキャップだよ、少なくともその事件に関する限りはね」
ブレンドンは驚いて相手を見つめたが、何もいわなかった。
「人間性には限界があるものだし、そこへもってきて恋というのはとても激しい情熱だよ、マーク。誰でも恋のために盲になっている間は、どういう仕事にたずさわっていようと本当の力を発揮できないものだ。恋というやつは嫉妬深いものだし競争相手の存在を許さない。だから、誰であれ、もし君が恋に陥っているのだとしたら君は君の真の力を発揮できない、というわけだよ。ましてや君の相手の婦人が事件の関係者であったらなおのことじゃないかね?」
「わたしを誤解していらっしゃるんです」ブレンドンは多少興奮していった、「おっしゃることは理屈に合いませんよ、そんな事は事件に何の影響も及ぼしてないんです。だって、彼女は他人の悪行の犠牲者でこそあれ、事件の関係者ではないんですから。あのひとはわたしの邪魔になるどころか助けになってくれたんですよ。あれだけ辛い目に会いながら、最初の時から取り乱しもせず、悲しみをこらえてわたしにすべての事情を話してくれたりしたのです。たとえわたしがあのひとを愛しているとしても、仕事に対するわたしの態度には何の影響も及ぼしてやしませんよ」
「ところがね、彼女に対する君の態度には大いに影響しているのさ。とはいってもマーク、君とはいろいろ意見も合うし、君の説に対しては喜んで敬意を払うつもりだよ。ただ、誰のことにしろ、ろくな証拠もなしに人を評価してしまう点は全く感心しない。個人的な感情で評価しちゃいけないよ。わたしだって伊達《だて》や酔狂でこの事件を引き受けたんじゃないんだ。今までのところでは、わたしはどの人物についても除外できる証拠を得ていないんだ」
「証拠がなくてもわかる、ということだってありますよ、信用できるのを誇りに思うこともあります。わたしはあの人がどれだけ苦しみを味わい、いいようのない困難な事情のもとでどれだけ悩んでいたか知っているんですよ。あのひとは実に立派でした。自分自身があれだけ大きな不幸に見舞われていながら、案じていたのは叔父さんたちのことでした。あのひとは自分の深い悲しみをおしかくして……」
「九か月後には別の男と再婚した」
「あのひとはまだ若いのです。それにあなただって今の夫がどんな男かおわかりでしょう。あの男のことですから、ジェニーさんをものにするためにはどんなやり方をしたものやらわかったものじゃない。とにかくわたしにわかっていることは、あのひとは恐るべき過ちを犯した、ということだけです。わかるというよりは、そう感じるのかも知れませんが、とにかくわたしにはそう確信できますよ」
「まあいい」ガンズはおだやかにいった、「議論してもしょうがあるまい。――前の夫が死んだあと、君は適当な折を見て彼女に愛を打ちあけ、結婚してほしいといったんじゃないのかな。彼女は断った、しかし問題はそれですまなかったんだ、今のこの瞬間でも君は完全にあのひとの虜《とりこ》になってしまっている」
「そんなことはありませんよ、ガンズさん。あなたはわたしを――いやあのひとのことも理解していらっしゃらない……」
「まあいい、多くは求めないよ。しかしアルバートのためにこの事件を引き受けたからには、わたしは一つだけどうしても主張したいことがある。君がもしジェニーをあくまでも信用して何でも打ちあけるつもりなら、そして君が、ジェニーはただただ正義が行なわれ、事件が解決することのみを願っているのだ、といいたいのなら、わたしは君といっしょにはやれないよ、マーク」
「あのひとを誤解していらっしゃるんです、でもそれは今は問題にしなくてもいいとして、わたしを誤解なさっていては困ります」ブレンドンははげしい目つきで年長の相手を睨みすえていった、「わたしはあのひとにだって誰にだって秘密を洩らそうなんて思ったことさえありません。第一洩らそうにも何も知っていませんよ。たしかにあの人を愛していましたし、今でも愛しています。そしてあんな奴といるためにあのひとが辛い目にあってるのを見るととてもたまらない気がします。しかしわたしはこれでも仕事第一にやってきた刑事のはしくれです。それにこの仕事である程度の名声も獲得した男です」
「よろしい。どんなことがあっても今いったことを忘れないでくれたまえ。それからわたしのいうことに腹を立てないでほしい、腹を立てたところで何の役にも立たないからね。わたしはなにもドリア夫人の悪口をいってるわけじゃない、ただ、彼女がドリア夫人であり、ドリア君が今のところ君にもぼくにも未知の面の多い人物である限りは、外観によって惑わされたりわたしの行動を規制されたりしたくないのだ、それだけは理解してくれなくては困るよ。そこでなんだがね、女がふしあわせな結婚をしたなどというようなことをいい出した場合、ちょうど君のようにその女性に対してなみなみならぬ好意を抱いている男が、見た通りを信じ、彼女の憂いを本物だと思いこむのはしごく当然な話だよ。たしかにそう見えるにちがいないからね。しかしどうだろうね、ジェニー・ドリアとその夫は何か期するところがあってわざとそのように装っているんだとしたら? 君とわたしに、夫婦仲がうまくいっていないと思わせようとしているのだとしたら?」
「何ですって! いったいジェニーさんのことをどう思っていらっしゃるんです?」
「どう思っている、ということじゃないんだよ、あのひとの本当の姿はどうなのか、という話だよ。それをわたしは探り出そうとしているのだ、おそらく君の想像以上にいろいろな事がその一事に関連しているようだからね」
「ちょっとよく考えてごらんになればあなただって絶対確信できるはずなんです、あのひとにしたってドリアにしたって決して……」
「ちょっと待った! わたしはただ、人の性格でもって捜査の流れを堰《せ》きとめてはいかん、といってるんだよ、それがほんとうの性格であろうとなかろうとね。熟考の結果、ドリアとロバート・レッドメーンの共謀は不可能だと確信できれば、わたしだってそれを認めるよ。だがこれまでの段階ではまだ確信できるに到らない。非常に興味のある問題点がいくつかあるんだよ。だいたい君はなぜベンディゴの日記がなくなったか考えて見たかね?」
「ええ――しかしどうしてあの日記がロバート・レッドメーンにとって不利なものであり得るのか、わからないんです」
ガンズはすぐにはその疑問を解いてやろうとはしなかった。やがて彼は話題を変えて話し出した、
「わたしはいくつか基本的な事実を探り出さなくちゃならんのだが、ここではわかりそうもない。来週、よほどのことがない限り、イギリスへ帰るよ」
「わたしも行かせて下さい」
「君にはここにいてもらいたい。もちろんわたしが出かける前に、お互いに完全に了解し合っていなくてはならないが」
「その点ならどうか信頼して下さい」
「信頼しよう」
「アルバートさんのことはわたしに任せていらっしゃるんですね?」
「いや、彼のことはわたしがみよう。わたしが何より気にかけているのはアルバートのことだからね。まだ彼には話してないのだがイギリスへいっしょに連れていくつもりだよ」
ブレンドンはそれを聞くと頬を紅潮させていった、
「それじゃ、アルバートさんのことはわたしには任せられない、とおっしゃるんですね?」
「君に問題があるんじゃないんだよ。いいかね、まあ推測に過ぎないが、ともあれ相当な危険をはらんでいると思うんだ。わたしがイギリスへ行ってくるのは、どうしても明らかにしなければならないいくつかの重要な点が、行って来ない限りいつまでもわからないからなんだ。もちろんイギリスへ行かなければ明らかにできない事柄だからだよ。重要な点というのはもちろんわたしの意見において重要ということだがね。ところがアルバートをひとりにしておいては不安だ、どこから危険が襲ってくるか、彼にはわからないからね。君も同様にわかっていないから君に任せることもできないのだよ」
「しかし、あなたがそれとなくおっしゃっているように、もし危険がドリアにあるとしたらいったいあなたは――いやあなたでなくっても、どうやってアルバートさんをその危険から守れますか? あの方はドリアを気に入っているんですよ、あいつはアルバートさんを喜ばせることを知ってるし、実に心得た奴で、いつどういうふうにやれば人の歓心を買えるか知っているんです。げんにこのわたしにもとりいろうとしましたし、今度はきっとあなたにとりいろうとしますよ」
「それはそうだ――たいそう気軽で陽気な男だよ、しかもたしかに頭もいい。だがこうやってわれわれの目に映っているドリアが、真のドリアであるのかどうかはまだわからんよ、細君でさえもドリアの本性がわかっているかどうか」
「それはそうかも知れませんね」
ガンズはしばらく考えていたが、やがてまた続けた、
「君にははっきりと理解をもってもらわなくてはならない。わたしはいつでも独りでやる習慣だったし、話していい時が来るまでいっさい誰にもしゃべらぬことにしているものだから、つい君にも不当な扱いをしそうになるんだよ。さあそこで、形勢を教えてあげよう。いや実は形勢はよくわからないんだ、それはかまわない。ただおぼろげながらわたしにはわかるのは、ジュゼッペ・ドリアは赤いチョッキの男についてわれわれ以上に知っている、ということだよ。わたしは、ドリアがアルバートを殺そうとしている男だとは思っていない。しかし、もし誰かがそういう行動に出ようとした場合、ドリアは果してそれを防ごうとするかどうか、それは怪しいと思うんだよ。
万一アルバートがいなくなると、ドリアの細君は大金持ちになるはずだね。誰にしろ、なぜアルバートを殺してまでジェニーの懐ろに大金を転げこませたいと願うのかはわからない。だがそこが問題のようだ。だからわたしがイギリスへ行っている間に君は油断することなく、ジュゼッペについてできるだけ探り出してもらいたい。もちろんドリアの細君を通じてではなく、だよ、いうまでもないことだがね。君の思うように、嗅ぎまわるなりなんなり『赤チョッキ』にも不意打ちを食わしてやるといい。きっと君ならうまくやれると思うよ、ただし君の方が奴から不意打ちを食らっちちゃいかん。とにかくこれだけはよく聞いておいてほしい、つまり、見聞きしたことの半分でも四分の一でも鵜呑《うの》みに信じてはいかん、ということだよ。成功するためには見せかけに惑わされず、その下を探らなくてはならないのだからね」
「すると、ドリアとロバート・レッドメーンは共謀しているのかも知れない、というお考えなんですね? そして、ジェニー・ドリアはそれを知っている、彼女の不幸の原因はその秘密を知っていることにある、とあなたは考えておいでなんですね?」
「彼女まで引き入れる必要はないよ、しかし今君のいったことは当っているかも知れないね」
「わたしの知る限りではそんなはずはありませんよ。あのひとは犯罪に荷担するような人じゃありません。そんなことはあの人の性格に反することですからね、ガンズさん」
「それでも君は『刑事のはしくれ』なのかね? ひとが聞いたら、わたしがあの婦人を拷問にかけろとでもいったんだと思うだろう。わたしは男だろうと女だろうと拷問などしたことは一度だってないのだからね。あれは卑劣なやり方で、われわれの誇りある仕事にはふさわしいことじゃないよ。まあ今はドリア夫人のことはさておいて、その夫に注目するとしよう。ドリアについては、調べてみる必要のある非常に興味深い問題がたくさんあるんだよ、君」
「しかしドリアがこの事件にまきこまれたのは『烏荘《クロウズ・ネスト》』へ来てからだ、ということをお忘れですね」
「最初から知りもしないことを忘れたりはできないよ。どうして、ドリアは『烏荘《クロウズ・ネスト》』へ来てはじめて事件にまきこまれた、というんだね? もしかしたらあの男はフォギンターですでに事件に関係してたかもしれないよ。マイケル・ペンディーンの咽喉をかき切ったのは、ロバート・レッドメーンでも他の誰でもなくて、あの男かも知れんじゃないか?」
「そんなばかな。考えてみて下さい、マイケルの未亡人がドリアの細君になってるんじゃありませんか?」
「それだからどうだというのだね? わたしはなにも、彼女はドリアが下手人だと知っていたなんていってないぜ」
「もう一つあります、ドリアはその頃ベンディゴ・レッドメーンの使用人だったのですよ」
「どうしてそんなことがわかるかね?」
ブレンドンは腹立たしげな様子でいった、
「ガンズさん、そんなことは常識じゃありませんか」
「常識でも何でもない! 殺人のあったその日もドリアが果してベンディゴの使用人であったかどうか、君は断言できないはずだ。それだけのことを立証するためには、君が仰天するほど大がかりな綿密な調べが必要とされるんだ。ドリアが『烏荘《クロウズ・ネスト》』へ来た日がいつか、はっきり知っているのは、これだけ大勢の人間のいる中でドリア自身だけなのだよ。細君だって知っているかどうかわからぬ。その日付けに関しては、とてもジュゼッペの言葉を信用する気にはなれないからね」
「それでベンディゴ・レッドメーンの日記を見たいとおっしゃったんですね?」
「それも理由の一つではある。しかし日記はたぶんまだここにあるだろう。わたしたちが出かけてしまったら、君は目を大きくあけてあの日記を探してみるといい。もしうまく見つけ出したら、引きちぎってあるとか、消したり書き直したりしてあるとかいうようなページがないか、特に注意して見るんだね」
「そうすると、あなたはまだ犯人はアルバートさんの周囲の人たちの中にいると信じておいでなんですね?」
「あの人たちでない、ということを立証する必要が起きている、と信じているのだよ。わたしたちがイギリスへ行っている間に、おそらく君はそれを証明できるだろう。推論の組立てを始める前に調べてはっきりさせなくてはならぬことが山のようにあるんだからね。正直にいってわたしにさっぱりわけがわからないのは、親友アルバートがまだ生きているという事実なんだよ。なぜまだ生きていられるのか、その理由が一つもわからない。死んでいるとすれば理由はいくつでも考えられるのだが」
「ここへ思いがけなく早く来たという、あなたの慎重なお心遣いのおかげですよ、きっと」
「誰かが誰かを殺す気でいる時には、他人がどれほど知恵と力の限りを尽くしたって防ぎきれるものじゃない――もちろんその殺人をやろうとしている男が自由の身、しかも誰なのか知られていない場合のことだがね。ええとそれから、もう一ついっておくことがあるんだ、マーク。アルバートを連れて出発したあとは、わたしはどこへ行くかわからない、アルバートも同じことだ。だからここへ帰って来るまでは、君たちだれにもわたしたちの消息はわからない、ということになる。緊急に連絡したいことができたら、ロンドンの警視庁に電報を打ってくれればいい。わたしの居所は警視庁にだけ知らせておくから。それから、君自身、十分気をつけなくちゃいかんよ。何でもすぐ信用して不必要な冒険をおかすことのないように。君だって危ないかもしれないのだよ、手がかりが見つかったりすれば君の身も大いに危なくなるのだから」
その二日後、愛書家のアルバートとガンズはヴァレンナ行きの船に乗っていた。ヴァレンナからは、ミラノ行きの汽車に乗り換え、イギリスへむかう予定だった。例のポジー氏とガンズ氏との会見は、アルバートにこの上もない満足感を味わわせた。ガンズはその喜びを曇らせないようにとの心づかいから、イギリス行きについては翌朝までひと言も洩らさなかった。翌朝になってから、ヴィルジリオに会えたことの感激を語り、帰ったらもっとよく知り合いたい希望を述べてから、ガンズはアルバートに急遽出発の計画をうちあけた。多少は反対されることを覚悟していたのだったが、アルバートはさすがにものわかりがよく、いささかの反対もしなかった。彼はいった、
「わたしは君にこの不可解な事件を解いてくれるように頼んだのだ、だから君のやり方に異議を唱えるようなことは決してしないよ、君ならこの恐ろしい謎を徹底的に解き明かしてくれるに決まっているからね、ピーター。いずれすべてを説明してくれるだろうと確信しているんだ。君のいうことなら何でも聞こう、イギリスへ行けというのならもちろん行くよ。ただし実際的な助力をわたしなぞに期待してくれちゃこまるよ。犯罪捜査なんかで活発に動きまわるというようなことは、とてもわたしの柄じゃないからね。わたしに冒険じみたことをやらせようったって、失敗を招くばかりだよ」
「いっさい心配はいらないよ」ガンズは答えた、「ただ身を隠してあとは楽にしていてくれればいい、それ以外のことは要求しないよ。危険はどこまでもついてくるかもしれないし、ついてこないかもしれない。とにかく、わたしは、その危険と君との間の防壁になりたいのだよ、アルバート、そして君から目を離さないようにするのだ。それからわれわれの行先は秘密にしておくのだよ。さあジェニーさんに頼んで十日ぐらいのつもりで旅支度を整えてもらいたまえ。万事うまく運べば来週の末には帰って来られるよ」
早くも出発の朝が来た。姪にむかってアルバートがいろいろ指図をいい残している間、ガンズとブレンドンは浮桟橋を歩いていた。これから旅に出ようという二人の客を乗せるべく、外輪船プリニー号がベラジオから波を蹴《け》たてて近づいてくるところであった。ブレンドンは現在の情況をまとめてみた、
「こういうことになっているわけですね。あなたは、ドリアが誰かと共謀しているらしいという線を強く疑っておられます、ただ、その誰かが実際にロバート・レッドメーンかどうかはまだわからない。それから、あなたがわたしに望んでいらっしゃることは、ドリアに注意すること、誰だかわからぬその手ごわい相手の虚をつくとか、またはそいつの正体を確かめるとかいうことを考えることですね。一方あなたはイギリスへ帰られる、あなたの役割の方は、現段階よりも相当前進して目鼻がつくまでは誰にも話さないでおきたい、というお考えですね」
「そんなところだ。くれぐれも偏見をもたないように。それだけはぜひ気をつけてもらいたい」
「気をつけます。事実、ドリア夫人の悩みの原因について先日おっしゃったことが、わたしにもなるほどと思われるようになりました。あのひとはわれわれの知らないことも知ってるらしいし、夫の秘密もいくらか知っていてそのために苦しんでいるようですね。それはかなりはっきりわかるような気がします」
「証明可能な一つの推論だよ。君は来週いっぱいあの婦人と顔を合わす機会がたっぷりあるわけだ。もし君の考えが正しいとすると時間を無駄にはできないからね」
船にはヴィルジリオ・ポジーが乗っていた。アルバートにしばしの別れを告げ、ヴァレンナまで見送るために湖のむこうからやってきたのだ。やがて三人の男は、ブレンドンとジェニーとその夫を残して出発した。ヴァレンナに着くとヴィルジリオは二人と別れた。彼はアルバートを抱きしめるだけでは気がすまず、ガンズ氏をも情愛をこめて抱きしめた。ポジー氏はいった、
「わしたちは三人共みんなすぐれた人物だ、類は友を呼ぶ、というわけですよ。アルバート、できるだけ早く帰ってきてくれたまえよ、それから何事もガンズさんのいいつけに従うのだよ。この暗雲が早く君のまわりから晴れてくれるといいね、留守のあいだ、わしはあんたがたのために祈っている」
アルバートはこの言葉をガンズに通訳してやった。やがて汽車は動き出し、ヴィルジリオは次の船で帰っていった。家へ着くまで彼はくしゃみのしつづけだった、なぜなら、慣れない鼻にはどんな影響を及ぼすものか知らなかったので、すすめられるままにガンズ氏の嗅ぎたばこをひとつまみ頂戴したからである。
[#改ページ]
第十四章 拳銃とつるはしと
ブレンドンは、ジュゼッペ・ドリアに対していささかの好意も抱いてはいなかったが、さすが冷静な心の持ち主だったから公平な目でこの男を見ることができた。彼はこのイタリア人が恋の勝利者である事実にとらわれまいとし、同時に、敗北を喫したのは他ならぬ自分であることを知っていたのでなおさらのこと、落胆のゆえに偏見を抱くことのないようにと努めたのだった。しかし、ドリアはジェニーを幸せな妻にしてやることができなかったのだ、ブレンドンにはそれがよくわかっていた。だから彼は、この情況からするといずれは自分にも運がむいてきそうだ、ということを決して忘れてはいなかった。ジェニーの様子は以前に比べて変わっている。彼とても盲ではなかったからそれに気づかぬわけはなかった。だがブレンドンは、今は個人的な関心はおしころし、全力をあげて目前の問題の解決を急くべく努力していた。ことにピーター・ガンズが帰ってきた時に、重要な報告ができるようにしておきたいと念願しているのだ。
ブレンドンは自分の判断に従って行動した。しかし、ドリアとこの謎の事件、あるいはドリアとロバート・レッドメーンとの関連を示すにたる十分な証拠を見つけることができなかった。それというのも、ガンズが明快に分析してみせたにもかかわらず、彼はいまだにその謎の人物をアルバートの弟と考えていたからである。彼は、現在についても過去についても、その人物とジュゼッペとを結びつけることに対して、理屈にかなった根拠を考えることはできなかった。むしろすべてがその逆を示していると思われた。ベンディゴ・レッドメーンの失踪前後の出来事を一つ一つ検討してみたが、『烏荘《クロウズ・ネスト》』におけるジュゼッペの行動に不審の点は考えられないのである。ジュゼッペが第二の悲劇に関係しているとみなすことが理屈に合わぬとすれば、第一の悲劇にも関係ありとするのはなおさら不当ではないのか。
ドリアがペンディーンの未亡人と結婚したのはいかにも本当のことである。だが、その結婚のためにドリアが彼女の夫を害《あや》めた、とみるのは醜悪な臆測というものだ。第一、人の性格について詳しいブレンドンには、ジェニーの夫が他人の命を害めるほどの悪意ある性格をもっているとはどうしても思えなかった。ドリアは遊ぶことの好きな男だ、そして彼のものの見方や野心は、軽薄にはちがいないが決して犯罪に結びつく|たち《ヽヽ》のものではない。ドリアはよく密輸業者の話をし、彼らの味方だと宣言する。しかしあれは大言壮語というもので、実際には勇気のかけらもないのは明らかだ。彼は何よりも安楽にしているのが好きなのであり、わが身の自由を危険に曝《さら》してまで無法者に協力する男とはとても思えないのである。
この評価が間違いでなかったことを示す驚くべき証拠を、ブレンドンは、アルバートとガンズが出発してまもなくのある日ドリアと交した会話から得たのだった。その日、ジュゼッペとその妻はコモ湖の北方のコリコに知人を訪ねる予定だった。ひるすぎ、その船が出る前に、ブレンドンとドリアはメナジオから一マイルほどの丘へ散歩に出かけていった。二人だけで少し話し合いたいといってブレンドンが誘い、ドリアも快く応じたのである。
「君も承知のように、わたしは今日一日、赤毛の男の出没するという場所をあたって見るつもりでいるんだよ」ブレンドンはこういった、「それから、君がぜひにというから夕食はご馳走になりにくることにする。だがコリコへ行く前に一時間ほど散歩をつき合ってくれないかね、君と少し話したいんだが」
「それはぼくにも好都合です」ドリアはそう答え、三十分後にふたたびブレンドンの前へ姿を現わした。ブレンドンは蚕小屋のうす暗い入口でジェニーとしゃべっているところだったが、その彼をドリアは横取りするようにしていった、
「ジェニーとは今夜夕食のあとで話させてあげますよ。今はぼくの番だ、果樹園から登ったところに小さな祠《ほこら》がありますからそこへ行きましょうよ。聖母をまつった祠はやけにたくさんあるんですが、今ぼくのいってるのは風のマドンナとか海とか星とかのマドンナをまつったものじゃないんです。ぼくはそれを『マドンナ・デル・ファルニェンテ』と呼んでいるんです、つまり過労のために頭も身体も疼《うず》いている疲れた者のための聖者、というわけですよ」
やがて二人は丘を登りはじめた。ドリアは金茶色の外出用の背広に赤いネクタイ、ブレンドンの方はツイードの服を着込んでポケットに弁当をつめこんでいた。歩いて行くうちにイタリア人の態度が変わってきて、いつもの軽口も叩かなくなった。実際、ドリアはしばらくの間だまりこんでしまった。
それでブレンドンの方から話しかけたが、もちろん相手を誠実な人間と決めてかかっているふりをした、
「この事件を君はどう思っているかね? 君も関係者の一人になってからだいぶたつのだから何か意見があるにちがいない」
「意見なんて全然ありませんよ。ぼくは自分のことだけでたくさんなんです。それなのにこの碌でもない事件のおかげで生活は侵されるし、だんだんおもしろくはなくなるし……。ぼくはとても不安でみじめな男になってしまいましたよ、あなたにはその理由を聞いていただきたいんです、あなたならわかってくれる人ですからね。ただ女房のことを持ち出しても腹を立てないで下さい。水車と女はいつもなにか欲しがっている、という諺がぼくの国にありますが、水車の欲しがるものはわかっても女の気まぐればかりは見当がつかないじゃありませんか? ぼくは見当違いばかりやって少々うろたえているんです。女房に辛く当ろうとか冷たく当ろうとかいう気はもうとうないんですよ、どんな女にでも、辛く当るなんてぼくにはできないことです。でも、もし自分の女房から冷酷にされたらあなたはどうします?」
二人はもう祠の前へ来ていた。それは崩れかかった煉瓦と漆喰《しっくい》に囲まれた小さなものだった。下には、旅人がひざまずいたり腰をおろしたりするための平たい石が置かれてあり、上の方には金網で囲った壁龕《へきがん》があって、その中に青いマントと金色の冠をえのぐで彩色した像が一つ据えられてあった。道ばたの草花が、この小さな像の前の棚に供えられていた。
二人は腰をおろした。ドリアは例の愛用のタスカン葉巻に火をつけた。彼はいよいよ沈みこんでいくばかりで、それにつれてブレンドンの驚きも増した。細君に対するドリアの態度については、ジェニーからすでに聞かされていたが、まさにその通りのようであった。
「Il volto sciolto ed i pensieri stretti」ドリアは陰鬱な表情でいった、「つまり、顔ははれやかでも心は暗い、ということです、暗過ぎて何を考えているのかぼくにさえわからない――夫であるこのぼくにさえですよ」
「奥さんは君を恐れているんじゃないのかな。女というものは、秘密を抱いていて打ちあけてくれない男の前では弱いものだよ」
「弱い? とんでもない、彼女は自制心もあれば能力もある、冷静な女ですよ。あの美しさはカーテンにすぎません、あなたはそのカーテンの奥をまだご存じない。あなたはジェニーを愛したがジェニーはあなたを愛さなかった。ジェニーはぼくを愛してぼくと結婚した。ですから彼女の性質をよく知っているのはこのぼくであって、あなたじゃないんです。あれはとても頭のいい女で、実際には感じてもいないことを装ったりするんですよ、だから彼女がふしあわせで無力な女だとあなたに思わせたとしたら、それはわざとそう装っているんです。まあ、ふしあわせでないこともないかな、秘密をもっているということは往々にして不幸を招きますからね。しかしジェニーが無力だなんてことはありませんよ。眼には途方に暮れた表情があったって口は決してそうではない、ジェニーの口元は力と意志がありますよ」
「どうして君は秘密、秘密というんだい?」
「あなたがいい出したからじゃありませんか。ぼくには秘密なんかないですよ。秘密をもっているのはジェニー――ぼくの女房の方です。いいですか、|彼女は赤毛の男のことをなにもかも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|知っているんです《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》! 底の知れない女ですよ」
「ということは、あのひとは事の真相を知っていながら叔父さんにも君にも知らせようとしない、というのだね?」
「まさにその通りです。あの女はアルバートのことなんか爪の垢ほども考えてやしませんよ。血はあらそえないものだ、ということを忘れないで下さい、あれの父親は鬼のような性質の人だったんですし、母親のいとこには人殺しをやって絞首刑になった奴もいるんですからね。これは本当の話で彼女だって認めるはずですよ、ぼくは叔父さんから聞いたんですがね。ぼくはジェニーにびくびくしてるんです。それに、ぼくは彼女の予想していたような男じゃなかったし、先祖の領地や称号を取り戻す望みも棄てたものだから、ぼくにすっかり失望していますからね」
ジェニーについてこんなぞっとするような話を聞かされたブレンドンは、はじめはあっけにとられたがそのうちに怒りがこみ上げてきた。結婚生活わずか半年で相手をこのように罵倒し、しかも自分でもそう信じこんでいる男がいるだろうか?
「あれはあれなりに偉いやつですよ、偉すぎてぼくにはもったいないぐらいだ」ドリアはこだわる様子もなくいった、「彼女はメディチ家かボルジア家に生まれていればよかったんですよ。警官も刑事さんも存在しなかったような何世紀も昔に生まれているべきだったんです。面くらってますね、ぼくが嘘をいってると思ってるんでしょう。嘘なんかつきませんよ、ぼくにはたしかにはっきりわかるんです。ふり返って見ると、今はベールがとり除かれています。恋に目がくらんでいた時にはわからなかった事が、今ではみんなよくわかるのです。それからロバート・レッドメーンという男については――ぼくはあいつを『悪魔のロバート』と呼んでるんですがね――幽霊じゃないかと一度は考えました。しかしあれは幽霊じゃありませんね、生きた男ですよ。あいつが早く捕まって絞首刑になってくれないと、どうなるかは知れています。アルバート叔父さんを殺して、もしかしたらぼくも殺されるかも知れません。そうしてジェニーと二人で逃げる気でしょう。ねえ、ブレンドンさん、正直なことをいいますとね、ぼくのことさえそっとしておいてくれるんなら、早くそうなってくれればいいとぼくは思ってるんですよ。恐ろしい話だ、といいたいんでしょう? ええ、そりゃ恐ろしい話には違いないですよ。しかしそれが本当なんですからね、恐ろしいことというのはみなそうでしょう」
「君は、奥さんをよく知ってるこのわたしが、そんな奇怪な話を信じると本気で思ってるのかい?」
「あなたが信じようと信じまいとかまいませんよ。腹を立てるならどうぞ立てて下さい、ぼく自身いいかげん腹が立ってます、ぼくも今までになく残忍性をおびてきてますからね。狼といっしょにいれば誰だってじきに吠えるようになる――ぼくが陰でこうやって吠えるのはつまりそういうことですよ。いずれぼくもみんなの聞こえるところで吠えるようになりますよ。これでぼくの気持ちもおわかりでしょう。ぼくはジェニーの秘密を知らされていませんが、こっちに影響することさえなけりゃ知りたいとは思いませんね。二、三千ポンドもくれて彼女の前から消えてくれ、といわれれば、ぼくは喜んでそうします。なにもあの女の財産めあてで結婚したわけじゃありませんが、愛情はもう冷めてしまったんですから、トリノで再出発するための金が少しは欲しいですよ。そうすればあの女はもう自由の身ですからね。この取引きをまとめて下さいませんか、あなたにとってもいい話じゃありませんか」
ブレンドンは耳を疑った。しかしイタリア人は本気で話している様子だった。彼はそのあとしばらくしゃべっていたが、やがて時計に目をやってもう山を降りなければならないといい出した。
「もうまもなく船が来ます。じゃあお先しますが、ぼくの話はお役に立ちましたか。あなたもぼくも助かるような方法を考えて下さいよ。ジェニーが今はあなたのことをどう思っているのかわかりませんが、今度はあなたの番かも知れませんね。きっとそうです。ぼくは全然|妬《や》いてませんよ。ただ気をつけて下さい、その赤毛の男ですが、あいつはあなたにとってもぼくにとっても決して気をゆるせる相手じゃない。これからあの男を探すつもりなんですね、それもいいでしょうが、万一見つけたらご自分の身に気をつけなくちゃだめですよ。といっても人間は運命には抗しきれませんがね。じゃ、夕食のときにまた……」
唄を口ずさみながら、ドリアは軽い足どりで立ち去った。その姿はすぐ見えなくなったが、一方ブレンドンは今の会話の驚くべき内容に茫然とし、すっかり考えこんで一時間ばかり身じろぎもせずにすわっていた。彼はこの恐るべき虚偽のジャングルに切り込む術《すべ》さえ知らなかった。ふつうならこの悪罵の底に横たわる目的を探そうとし、またなぜドリアが特に彼を選んでうちあけ話をしたのかを考えようと努力するところである。だがブレンドンは、ジェニーに対する非難を卑劣な嘘にすぎないと見抜くことだけはできたものの、自分自身の願いが信じよと駆りたてることは何のためらいもなく信じてしまった。彼は彼自身の恋情の導くままに、もみがらの中から穀粒をよりすぐり、ドリアの妻が自由の身であることだけを見てとったのである。そして、彼女が虚偽に満ちた女であると思うことはできなかったのである。ジュゼッペの描いてみせた悪意ある人物評をブレンドンは蔑み、ジュゼッペがかかる態度に出るのは、先手を打ってジェニーを陥れ、自分のやった一連の犯罪を彼女に転嫁しようという目的のためだ、と考えた。ドリアに対する彼の心は決まった。そしてこの時から、ピーター・ガンズのいっていたように、ドリアはかの未知の男の目的を知っていてそれを助けようとしているのだ、と信じるようになった。だがブレンドンはここでまたもや、念の入った選り好みをやったのである。ドリアの言葉よりはよほど穏やかな表現であったとはいえ、ガンズが、ここしばらくジェニーにも油断してはならぬ、と注意したことをブレンドンは忘れてしまったのだ。彼女のことは頭から信用していた。ということは、裏返せばその夫のことは全く信用しない、ということでもあった。
ブレンドンはこれからどういう行動をとるべきか考えていたが、やがて立ち上がると、ロバート・レッドメーンが最も多く出没すると伝えられる場所の方へ歩いていった。これまでにたしかに何回か出没したことが報告されており、その逃亡者は炭焼きたちと通じてどこか山の奥に隠れ住んでいるらしい、という説は、ガンズがイギリスへ帰る前から一応容認されていた。ブレンドンは今、この説に探《さぐ》りを入れてみる必要を感じた。そしてできることならその隠れ家をつきとめようと決心した。
彼は自分ひとりでそんなことがやれるとは思わなかった。だから彼の目的はドリアをひそかに監視し、ドリアが誰に使われているのかをつきとめることにあった。そうすれば一石二鳥というもので、ひいてはピーター・ガンズが戻ってきてからの仕事も楽になるわけであった。
ブレンドンは山道をどんどん登って行って、やがてかなり上の方の小さな台地へくると腰をおろして一服した。あたりには|すずらん《ヽヽヽヽ》や白いサンローズが花をつけていた。たばこに火をつけて彼はのんびりと腰をおろした。そして、はるか下にひろがる湖を眺めやって、キラキラとした水面に汽船が水すましのように動いているのを見つけたり、茶色い狐が一匹、石の上で日向ぼっこをしているのを眺めたりしていた。それから、今夜ピアネッツォ荘へ食事に行く時にジェニーにもってってやるつもりで、香りのいい|すずらん《ヽヽヽヽ》の花をひとつかみほど摘んだ。だがその花束はドリア夫人の手には渡らなかったのである。
こうして無心な気晴しをして立ち上がったとき、ふいに、ブレンドンは何者かに見つめられているのに気づいた。彼は、他ならぬ自分の探しているその相手と相対していたのだ。ロバート・レッドメーンが胸の高さほどの灌木の枝のむこうに、ブレンドンから三十ヤードと離れずに立っていた。繁みの上から無帽の頭を出してこちらを窺《うかが》っているが、明かるい陽の光に、その赤毛の頭と黄味を帯びた髯とが燃えるように輝いている。問題の男であることに間違いのあろうはずはなかった。幸いにも明かるい昼日中《ひるひなか》だ、今度こそついにあの男に組みつくことができると喜んで、ブレンドンは花束を投げ棄てるとまっすぐ相手めがけて突進した。
だがむこうはこれ以上の接触は避けたいらしい様子で、くるりと背をむけると、石ころと灌木の繁みに覆われた広い地帯へむかって一散に駈け登って行く。その上はもう頂上の断崖である。この崖にむかってまっしぐらに、まるで秘密の逃げ道を心得ているかのように、赤毛の男はものすごい速さで駈けて行く。しかしブレンドンはどんどん差を縮めていった。彼はできるだけ早く相手を追いつめようとけんめいだった。最後は格闘になるのは避けられない、それに勝てるだけの余力を残しておいて、ぜひとも捕えなければならないからである。
だがブレンドンは落胆した。まだ二十ヤードの差を残し、おまけに石ころだらけの道のため思うようにスピードが出せないでいる時に、ロバート・レッドメーンが突如立ちどまってふり返るなり、やにわにピストルを構えたのだ。銃身が太陽にキラリと光ったと思った瞬間、発射音が轟いた。赤毛の男の発砲と同時に彼は両手を上げ、下向きに頭から倒れこんだ。その身体は一回だけ激しく痙攣《けいれん》すると動かなくなった。発見から追跡、そしてその結末までわずか五分であった。走ったためにまだ息を切らしながら、大男は倒れた犠牲者の方へ近づいてきたが、生きている気配は全くなかった。ブレンドンはアルプスの花に顔をうずめて、射たれた場所にそのまま倒れていた。両腕を投げ出し、手を握りしめたその身体は全く動かず、口からは血が流れていた。
勝利者は自分の立っている地点を注意深く見まわし、ポケツトからナイフをとり出すと、犠牲者の近くに立っている若木の幹に目印をつけた。そうして彼が立ち去ると、倒れた男の上には平和が支配した。昼寝の夢を破られた、さっきのとは別の狐が、ブレンドンがあまり静かに横たわっているので、岩のかげから黒い鼻先を突き出してあたりを嗅いだ。しかしみかけだけでは信用できぬとでもいうように、狐はその横たわっているものをしげしげと観察したあげく、顔を上げると、疑わしげにひと声鳴いて小走りに逃げ去った。空では一羽の鷲《わし》がやはり倒れている男を見つけたが山の頂きの方へすばやく飛び去って姿を消した。あたりは全く森閑としていたが、百ヤードと離れていないところには道があって、時たま騾馬《らば》をつれた炭焼きが谷へ降りて行くことがあった。
しかし、陽《ひ》も西に傾いて、断崖の冷たい影があたりの荒野を覆いはじめた今は、通りかかる人とてなかった。何時間も経って、やがて夜の闇があたりを閉ざしたころ、すぐ近くで妙な物音が響きはじめ、それに混じって時々、なにか金属の道具で地面をうつ音が聞こえた。その音は、灌木の繁みの上へ灰色の頭を出している岩のあたりからひびくようであった。そして月が昇ってきてその岩の平な頂きが白く光りはじめると、カンテラに灯がともり、長方形の穴を掘っている二人の人影を照らし出した。二人はなにか呟きながらかわるがわる掘っている。やがて一方の黒い人影が広いところへ出てきて位置を確かめ、目印のついた木の幹にカンテラの灯をかざした。そして横たわっている褐色の動かないかたまりの方へ近づいた。
無限の静寂がこの山の上を支配していた。頭上には、頂き近くで炭を焼く火が赤い眼のようにちらちらと燃えていた。下は、この台地が東へゆるやかに傾斜していってギザギザのふちを見せているばかり、湖は山の肩に隠れて見えなかった。高いところなので蛍の姿はみられないが、じっと横たわっている人影から十ヤードと離れていないところに大きな天人花の木があって、夜うぐいすが一羽、流麗な歌声をひびかせていた。
近づいてきた黒い人影は、探していたものを見つけると傍へ寄った。彼の目的は、さっきここまでおびき寄せて殺した犠牲者を穴へ埋め、死体の倒れていた付近に何の痕跡もとどめないようにすることであった。彼はかがみこんで、動かぬ男の上着に手をかけた。そしてヤッとばかりに力んだその時、奇怪なことが起こった。死体は、彼の手の下でバラバラに崩れたのである。頭はコロコロと転がっていき、手も足ももげてしまった。彼は胴体だけ持ち上げたまま仰向けにひっくり返った。重いものを動かす構えで力んだものの、あまりの軽さに思わずしりもちをついたのである。彼が持ち上げているのは草をつめこんだ上着であった。
待ち伏せをおそれてすぐ跳び起きはしたものの、男は、驚きのあまりつい声をあげた、
「コルポ・ディ・バッコ!」その叫びは恐怖にも似たひびきをふくんで断崖にこだまし、また彼の相棒の耳にも達した。しかし待ち伏せて仕返ししようとするものはなかった。行く手を阻む銃声も聞こえなかった。今にも弾丸《たま》が飛んでくるかと、男は鹿のようにすばやい動作で一散に逃げ、さっきの大きな岩のかげに姿を消した。悪漢は二人ともぐずぐずしてはいなかった。すぐに二人の入りまじった足音が聞こえ出したと思うと、まもなく夜の闇のなかへ消え去り、あたりはふたたび静寂にかえった。
十分ほどの間、何事も起きなかった。やがて、バラバラにされた替玉人形から十五ヤードと離れていない穴の中から一つの影が立ち上がった。月の光をあびて雪のように白く見えた。マーク・ブレンドンは自分の仕掛けた|わな《ヽヽ》のそばへ来ると、上着の草をはらい落とし、丸めた草の塊りから帽子をとり、ニッカーからも詰めものをはらい落としてそれを穿《は》いた。しごくおちついていた。彼は予期していた以上のことを知ったのである。あの驚きの叫び声は墓掘りたちの一人が誰であるかをはっきり示したのだから。死体を運びに来たのはジュゼッペ・ドリアだったのだ。そして、ブレンドンを殺そうとしたのはもう一人の相棒であることにほぼ間違いはないと思われた。
「『コルポ・ディ・バッコ』だろうともさ。しかしおあいにくと|ブレンドンさまの身体《コルポ・ディ・ブレンドン》じゃなかったのさ」そう呟くと、ブレンドンは繁みをかき分けて北の方へ下り、一マイルほど下の騾馬の通り道へ出た。それは日が暮れる前に見つけておいた道で、栗の林をぬけてメナジオへ通じていた。
頭から倒れたブレンドン刑事は、よもやふたたび起き上がることはあるまいと思われたが、その瞬間からの彼の行動を、簡単に記しておこう。
敵が身構えて、まっすぐ彼を狙って発射したとき、弾丸《たま》は耳から一インチのところをかすった。一瞬、似たような経験の記憶が甦って、彼にすぐ次の行動をとらせたのだった。
前の経験というのは、すぐ近くから発砲された弾丸《たま》がそれたとき、射たれたと見せかけて倒れ、息絶えたふりをしたのである。その名うての兇漢から十五ヤードと離れていなかった。計略は図に当った。相手は、宿敵に勝ち誇らんものと忍び寄ってきた。そして死体を確かめようとかがんだ時、ブレンドンは彼を射ち殺した。今度の場合は、弾丸の入ったピストルがまだ敵の手にあるので危険な真似はできなかったから、ただ倒れていた。彼のつもりでは、赤毛の男をおびき寄せて、できたら、二度と発砲する隙をあたえずにピストルをとりあげようというのであった。
だがブレンドンは当てがはずれた。相手は、彼が頭からどうと倒れて口から血を出しているのを見ると、明らかに目的は遂げられたものと確信したらしいのである。しばらくのあいだ死んだふりをしていた後、ブレンドンは加害者がたしかに立ち去ったのを見きわめてやおら立ち上がった。顔に打撲傷を負い、舌をいやというほど噛んでいたし、向こう脛《ずね》にも怪我《けが》をしたが、それだけのことですんだ。
このようにしてでき上がった状態を、ブレンドンはあらゆる角度から検討し、その結果、彼を死に到らしめたと信じこんでいる連中は、犯罪の証拠をいち早く湮滅《いんめつ》する機会を狙っているはずだ、と考えた。木の幹の目印に彼もすぐ気づいたが、それがこの確信を深めた。これまでロバート・レッドメーンの犠牲となった者の死体を見たものは一人もないのである、今回だけ例外ということはあるまい。しかし明かるいうちは何事もないだろうと考え、ブレンドンはさっきいた場所に戻った。そこには、彼のもってきた弁当と、一瓶の赤葡萄酒とがそのままあった。
食事をすませて一服すると、彼は計画を練った。そしてやがて断崖の下の荒れ地へもう一度立った。さっき真に迫った演技で死んだふりをしてみせた場所である。相手を逮捕しようというつもりではなかった。暗くなってから死体の傍へ戻って来る者を欺こうと、自分の替玉を形造ってニッカーと上着を着せ、本物そっくりに仕立て上げると、ブレンドンはいかなることが起きるかを観察するために手近の穴を探して隠れた。彼はここへ戻ってくるのはロバート・レッドメーンであろうと思った、そしておそらくもう一人いっしょに来る奴があると考えた。彼の希望は、共犯者の顔を見きわめることであり、また少なくとも、夫の秘密の悪事を仄めかしたジェニーが正しいのか、それとも未知の男とジェニーとの共犯を申し立てたドリアが正しいのかを、証拠だてることであった。両方が真実を語っているはずはないからである。
ブレンドンは、ジュゼッペの叫び声を聞いて限りない満足を覚えた。そしてイタリア人の狼狽ぶりや、弾丸が雨あられと降るかと恐れてあわてふためいて逃げて行くその滑稽なさまに、小気味よささえ味わったのだった。
この冒険のおかげでブレンドンは多くのことを知った。はじめ彼は、翌朝にもドリアを逮捕したいという気だったが、すぐにその欲望は消えた。もっと確実な作戦が心に浮かんだ。ジェニーの夫に手錠をはめてしまおうという、最初の欲望から、もっと腕きき刑事にふさわしい野心に飛躍した。だが、ジュゼッペの方で先まわりして、これ以上自分と逢う機会を避けようとするかも知れないという懸念があった。その夜、向こう脛と頬っぺたの痛みをこらえて眠りにつきながら、ブレンドンはドリアの立場から見た場合を考えてみた。その結果、少なくともその時は大いに気をよくしたのである。
ドリアとロバート・レッドメーンが、共通の目的のためにアルバートを亡きものにしようと協力していることは、もう明らかと思われた。愛書家のアルバートがいなくなれば、ロバートとその姪のジェニーがレッドメーン家の生き残りとして、姿を消した兄弟の財産を分け合うこととなる。ロバートは法的に保護される権利を奪われているので、実際上は公然とその分け前にあずかることはできない。しかし、いずれジェニーが全財産を相続し、ロバート、ベンディゴ、アルバートの三人が法的に死亡を認められた暁には、姪及びその夫と共に秘かに財産を分け合うこともできるであろう。このように考えてくると、なるほどピーター・ガンズの予言ともつじつまが合うし、アルバートがまだ生きているのが不思議だといったことにも合点が行く。だが一つだけ大事な点で、ガンズは誤りを犯していたことがわかった。ロバート・レッドメーンがいまだに生きていることに対して、もはや不審を抱くすじあいはあり得ないからである。
ブレンドンのこの考えは、後になってわかるように、完全に間違っているのであるが、彼の疲れた頭には正しいものとしか思えなかった。だから次には、ドリアとその共犯者とを待ちうけている問題に対して、ドリアが今後どのような態度に出るかを検討しはじめた。ドリアは、あの死体と思いこんでいたものに近づいたのが自分であることに気づかれたかどうか、いや近づいたのを誰か見た者があるかどうかさえ確信がもてないはずである。また彼が確信できたにせよ、できないにせよ、あの暗さでは、墓穴を掘って死体の処理をしようとしたのがドリアであることを、きっぱりと誓うことは誰にもできないであろう。それを証明するものはドリアのあの驚きの叫び声しかない、そして、ジェニーの夫はたとえ逮捕されても、もっともなアリバイを主張するであろうことは目に見えている。ブレンドンは正直なところそう思った。従って、今日の出来事についてはドリアは知らん顔をきめこむであろうと結論した。この予言が正しいことは後に証明された。
[#改ページ]
第十五章 幽霊
翌朝、風呂で傷をさすりながら、ブレンドンは方針を決めた。昨日自分の身に起こった出来事を、最後の部分だけ残してあとは全部ジェニーとその夫にくわしく話すことにしたのである。
朝食をすませてパイプに火をつけると、彼は跛《びっこ》をひきひきピアッネッツォ荘へ出かけていった。実際はそんなにひどい跛をひかなくてもよかったのだが、わざと大げさにやっていたのである。出迎えたのはアスンタだけであった。しかし門を入った時に、蚕小屋の付近にドリアとジェニーがいっしょにいるのを、ブレンドンの目はちゃんと見ていた。ドリアに会いたい旨をのべると、アスンタは彼を居間に通しておいてから出て行った。入れかわりにジェニーが来て、嬉しそうな様子をありありと浮かべて挨拶したが、同時に彼を詰《なじ》った、
「お食事にいらっしゃると思って昨夜《ゆうべ》は一時間もお待ちしてましたのに。でもそのうちジュゼッペがもう待てないっていい出しましたの。あたし、だんだん心配になってきて、一晩中おびえてましたわ。あなたのお姿を見てほっとしました、だって何かいけない事が起きたんじゃないかと心配してたんですもの」
「そのいけない事が起きたんですよ。聞いていただきたい話があるんです。ご主人はその辺にいらっしゃいますか? ドリア君にも聞いてもらう必要があると思うんです、あの人だって危ない立場にあるかも知れないんですからね」
ジェニーはじれったそうな様子で頭をふっていった、
「あたしの申し上げたこと信じていただけないんですの? どうせそうかもしれませんわね。ドリアの身が危ないだなんて! でも主人に会いたいとおっしゃるんですから、あたしにはご用はないんですのね、マーク?」
彼女が『マーク』などと名前で呼んでくれたのは初めてだったから、ブレンドンの心臓はドキドキした。そして、彼女に何もかも打ち明けたいという衝動に駆られたがさすがにすぐ斥《しりぞ》けた。
「とんでもない、わたしはお二人に会いたいんです。あなたはこの間いろいろ仄めかして下さったが、わたしはそれを大いに重視してるんですよ――わたしのためばかりじゃありません、あなたのためにです。あなたに関する限り問題はまだまだあるんですよ、ジェニーさん、わたしが何よりも心にかけているのはあなたの幸せということです――それはあなたもわかってますね。信じていて下さい、必ずそれを証明してみせますから。しかし今は先にしなければならないことがある。まずここへ来た目的を果してからでないと、やりたいことをやるわけにいきませんからね」
「あなたを信じてますわ――あなただけを信じますわ。こんな、どうしてよいかわからない惨めな毎日の中で、あたしが安心してすがっていられる岩はいまではあなただけなんです。どうぞあたしを見棄てないで。それだけがあたしのお願いですわ」
「もちろんです! あなたのためなら、わたしにできることは何でも全力を尽してさせて頂きますよ、そうすることに感謝と誇りを感じます――あなたが望んで下さるのですからね。もう一度いいます、わたしを信じて下さい。さあ、ご主人を呼んでいらっしゃい、昨日わたしの身に起きた出来事をお二人に聞いて頂きたいのですから」
ジェニーはまたしてもためらうような顔をし、ブレンドンをまじまじと見ていった、
「そうなさるのがほんとうに賢明なことでしょうか? どんなことにせよ、ドリアに教えたりしてはガンズさんに叱られませんかしら?」
「まあわたしの話をお聞きになればわかりますよ」
ブレンドンはこの時も、彼女に何もかも打ち明け、真相を掴んだということを教えたい衝動にかられたが、二つのことを考えて思いとどまった。ピーター・ガンズにいわれたことを思い出したのと、ジェニーがいろいろのことを知れば知るほど、彼女の身の危険が増すであろうと考えたからである。そう考えると、彼はこうして二人きりで喋っているのはやめなくてはと思った、
「ご主人を呼んでいらっしゃい。二人で内緒の話をしていると思われるといけませんからね。そんなことを思わせては危険ですよ」
「あたしに秘密をかくしていらっしゃるのね、あたしはあたしの秘密を教えてあげたのに」ドリアを呼びに行こうとしながらジェニーはそう呟いた。
「あなたに何かかくしてるとしても、それはあなたのためを思ってのことですよ――あなたの身の安全を守るためです」
ジェニーは出て行ったがすぐ夫といっしょに戻ってきた。ドリアは好奇心に満ち満ちた顔でやって来た。例によって陽気なもののいい方をしたが、そのかげにかなり気がかりそうな様子があるのをブレンドンは見てとった。
「なにか冒険をやりましたね、マークさん? おっしゃらずともわかりますよ。まるで|わたり《ヽヽヽ》|がらす《ヽヽヽ》みたいに厳粛な顔をしてるし、門を入って来た時なんか跛をひいてたじゃありませんか。蚕小屋のところでちゃんと見てたんですよ。いったい何が起きたんです?」
「危うく命をとられるところだったんだよ。馬鹿げたしくじりをやっちゃってね。ドリア君、これから話すことをよく注意して聞いてもらいたいんだよ、というのは、今ではいったい誰が危険な立場にあって誰がそうでないのか、さっぱりわからないからだよ。昨日すんでのことにわたしの一生を終らせようとした弾丸《たま》は、もしわたしのかわりに君がいれば、君を狙ったかも知れないんだ」
「弾丸《たま》? まさか赤毛じゃないでしょうね? きっと密輸業者だな、奴らのひとりに出くわしたんでしょう、そしてあなたはイタリア語を知らないものだから……」
「わたしを狙い射ちしたのはロバート・レッドメーンだよ、奇蹟的に弾丸はそれたが」
ジェニーが恐怖の叫び声をあげた、「ああ!」声にならない声で彼女はそういった。
ブレンドンは細大もらさず話して聞かせ、仕組んだ計略も説明した。全部本当のことを話した――といってももちろんあるところまでで、それ以後については実際には起きなかった作り話を聞かせた。
「替玉を作ってから、日が暮れる前にそのすぐ近くへ隠れたんだ、もちろん見張ろうと思ってね。奴はわたしを殺したと思ってるだろうから、暗くなったら証拠湮滅にやってくるに違いないと思ったからだ。ところがはなはだ間の悪いことにわたしの予期していないことが起きたんだよ。わたしは目まいがするのに気づいた、とてもフラフラして心配なほどだった。朝食のあと何も食べていないし、持って行った弁当と葡萄酒の瓶は半マイルかあるいはもっと離れたところに置きっぱなしだろう。ロバート・レッドメーンを追いかけた時に置いてったままだからね。取りに行く気力があるうちに何とかして取ってくるか、そのままそこにいてこごえながら刻々に弱っていくか、どちらかだった。
わたしとて鉄でできてるわけじゃない、それにいわば昨日は大奮闘したわけだろう。打ち身だらけだし、跛はひいてるし、完全にへとへとだった。月が昇る前に弁当を取りに行って帰って来るだけの時間はあると判断した。ところが考えたほどそう簡単に、というか手早くやれる仕事じゃなかったんだなあ。まずそこへ行くだけにずいぶん時間がかかった。やっと着いたと思ったら、サンドイッチと葡萄酒の瓶を探すのに骨が折れた。しかしその飯の旨かったこと。じきに力が出てきた。それで三十分たらずでそこをたって元の道を引き返したんだよ。
ところがそれからなんだよ、困ったのは。空きっ腹に飲んだ葡萄酒のせいだと思うだろうが、実際そうかもしれない。とにかくすっかり道がわからなくなってとうとう迷い子になってしまった。もう駄目だと思って、さっきの場所へ戻ろうなんて無駄な努力はよそうとしかけたんだが、その時木と木の間からグリアンテの頂上の絶壁が白く光って見えた。それで位置がわかった。それからわたしは警戒しながら息を殺してそろそろと進んでいったんだよ。
だが遅すぎた。替玉の人形を一目見てわたしはチャンスを失ったことを知ったんだ。手を触れたあとがある。胴体はこっちに、わたしの帽子をかぶせた草の塊りはあっちにというわけさ。狐かなんかならあんなふうな荒らし方はしないものだよ。
あたりはしんと静まりかえっている。待ち伏せがいるんじゃないかと、今度はこっちの方が少々びくつきながら一時間ばかり待っていたんだが、誰一人来ないんだね。明らかにレッドメーンはやってきて、わたしが逃げたのを知り、立ち去ったんだ。だがそんな時でさえ、もしあの男が服を持ってってしまってたらおれはどうしたろう! なんて考えたんだからねえ。辛うじて身につけていたワイシャツに下着姿でホテルまで歩いて帰らなきゃならないところだった。しかしまあ、上着もニッカーも帽子も靴下もみんな着けて、帰り支度をしたよ。
ところがなんとなく土の匂いがするんだ、掘りかえした黒土の匂いなんだよ。しかしあれは何か今もってわからないんだ。それからすぐ山を降りはじめた。そして間もなく北へ行く道に出て栗の林を通って、そうして夜中の一時頃ホテルヘ辿りついた、というわけだが、今日もう一度あの場所へ行ってみようと思うんだよ。土地の警察に援助を頼むつもりだ、もっともドリア君、君がいっしょに行ってくれる暇があれば別だよ。なるべくなら警察には頼みたくないのでね、そうかといって一人きりでは二度と行く気はしないから」
ジェニーは夫を見た、そして彼が何かいうのを待っているふうだった。だがジュゼッペはこれから先のことよりも、咋日ブレンドンが体験したことの方が気がかりな様子で、いろいろと質問したが、ブレンドンは嘘は答えなくてすんだ。その結果、ドリアはいっしょに行くときっぱりいった。
「今度は武装して行きましょう」彼はいった。
だがジェニーが反対した、
「ブレンドンさんは今日またあんなところへ登るほど恢復していらっしゃらないわ。足はお悪いし、昨日の疲れだってぬけてないはずよ。お願いですから今日また行くなんてやめてちょうだい」
ドリアはそれには答えずにブレンドンの顔を見た。
「もう一度登ればかえって直りますよ」ブレンドンは二人にいった。
「それもそうだな、べつに急いで登ることもないんだし」
「どうしてもいらっしゃるんなら、あたしも行きます」ジェニーが静かにそういった。二人の男は反対したが、彼女は聞きいれようとしなかった。
「あなた方のお弁当を持ってってあげるわ」ジェニーはそういうと、二人の男がもう一度止めるのも聞かず、弁当の用意をしに行ってしまった。ジュゼッペも、エルネストにその日の指図をするために部屋を出て行った。するとまもなく、ジュゼッペが戻って来ないうちにジェニーがまたやって来た。ブレンドンはもう一度、ついて来ないでくれと頼んだが、彼女はじれったそうにいった、
「あれほど名声の高いあなたなのに、どうしてそうおわかりにならないの、マーク。他のことなら何でもちゃんと判断なさるのに、あたしのことだとどうしてそうわからなくなるんでしょう。あたしはドリアといてもだいじょうぶなんですよ。あたしを殺したってあのひとは何の得にもならないんですから――今のところはね。でもあなたは危ないわ。お願いよ、ドリアと山へ行ったりなさらないで。あのひとはそれは狡い人なんです。きっと何か口実を作ってひとりでどこかへ行ってしまうわ、そして相棒と打ち合わせすると思うんです。今度はしくじらないでしょうからね。そうなったら二人を敵にまわして、女ひとりであなたを助けることもできないじゃありませんか?」
「助けはいりませんよ。武装していきますからね」
しかし結局、三人は出かけた。ジェニーの心配は杞憂《きゆう》に終った。ドリアはおちついており、疑わしい行動はいっさいとらなかった。ブレンドンに寄りそい、道が険しいところでは腕を貸した。そうしてブレンドンの話した出来事について、あれやこれやといくつも説を立てた。ばかに関心がある様子で、特に赤毛の男の弾丸《たま》がそれたのは不思議だと何度もくり返していた。
「頭がいいだけじゃなく、運もよくなくちゃだめですからね。しかし、それにしてもあなたは頭がいいなあ。たいした策略ですよ、弾丸がそれたとたんに死んだふりをして倒れるなんて」
ブレンドンは答えなかった。途中、三人はほとんどしゃべらなかったが、やがてドリアがまた話し出した、
「主人の片眼は召使いたちの六つの眼にまさるといいますからね。ガンズさんが帰ってきたらこの出来事をどう解釈なさるでしょうね。ところでぼくは赤毛の男のことを考えてたんです。あいつ、今朝はどういう心境でしょうかね? きっと自分自身に対してひどく腹を立ててますよ、そしてたぶん、びくびくものでしょうよ、なにしろこっちに感づかれちゃったんですから。それにしても人殺しであることには変わりない、あいつは後悔なぞしてませんよ」
やがて三人は、ブレンドンが昨日はなれ業をやってのけた場所を探しにかかったが、浅い墓穴を見つけたのはジェニーだった。その声にかけつけてみると、彼女はまっ青な顔をして震えていた。
「今ごろはここへ埋められてるとこだったのね!」彼女はブレンドンにいった。
だがブレンドンは、穴のそばに積まれた土の山に気をとられていた。そこには大きな靴の跡がいっぱいついていて、ドリアは鋲《びょう》の跡から見てこれは山の男がはく深靴だといった。なおあちこち調べてみたが、他に新しい発見はなかった。ジュゼッペはしきりといろいろな推論を述べ立てたが、ブレンドンはブレンドンで自分の考えに忙がしかったので、遮《さえぎ》ることもせず喋らせておいた。ブレンドンとしては、ロバート・レッドメーンが今後も姿を現わすかどうか、疑わしいと感じた。昨日の失敗に懲りて、赤毛の男は当分の間なりをひそめるのではないかと思ったのである。
彼は、ガンズがメナジオへ帰って来るまでは実際的な行動はとらないことに決め、その間、ドリア夫婦を観察することに努めようと思った。そしてできるだけ夫婦のどちらとも友好状態を保って行こう、と考えた。表面はつくろっていても、彼らの間にみぞができているのは明らかだった。そして、何気ないふりを装ってピアネッツォ荘をしょっちゅう訪れているうちに、アルバートとガンズの帰宅を前に、観察の結果がブレンドンの心の中でまとめられていた。彼は、ドリアは秘密の敵と共謀して、ついには自分の目的のために妻の叔父にまで危害を加えるつもりでいるのだ、とほとんど確信していた。また彼は、ジェニーは夫が信頼のおけぬ人間で、よからぬ企みをしていることには気づいていても、その企みがどれほど極悪非道のものかは想像もしていないのだ、ということも確信した。
もし夫とロバート・レッドメーンが実際に共謀してアルバート殺しを企らんでいると知っているなら、ジェニーは自分に知らせるはずだ、とブレンドンは信じた。だがあるいは、ジェニーは、はっきりとは知らなくても相当のところまで疑っているのかも知れぬ、と思った。ブレンドンが危い目に会ったと聞いたとき、彼女はひどく心配した。そしてガンズ氏が帰るまでは、とにかく彼自身の身の安全をはかってくれと、くどいほど懇願したのだ。そのうちにも、夫と彼女の間のみぞはいよいよ深くなるようであった。ジェニーは始終涙を浮かべ、憂わしげな様子だったが、依然としてはっきりしたことを語ろうとはしなかった。しかしある晩、またロバート・レッドメーンを見かけたように思う、と素直に告げたりはした。ドリアが嫉妬している様子を見せたわけでもなかったが、ブレンドンはジェニーに無理に何もかも打ちあけさせようとはしなかった。ドリアはよく、ブレンドンとジェニーを何時間でも二人きりにさせておいた。そしてブレンドンに対してはばかに愛想よくふるまった。また、結婚なんて、一般にいわれているほどいいものじゃない、と一再ならずいった。
「なんていったって、そりゃ結婚生活はいいですよ。しかしね、独身でいたほうがいいな、マークさん。いざこざがないということは最大の、そして得がたい幸福ですからね」
数日が過ぎて、やがてある日アルバートとガンズが突然、何の前ぶれもなしに帰宅した。二人はメナジオへ昼過ぎに着いた。
アルバートはしごく上機嫌で、久しぶりにわが家へ帰れたのを喜んでいた。ピーターがイギリスで何をしていたのかも全然知らず、またたいして気にもしていなかった。彼はずっとロンドンで過ごしたのだが、その間書籍収集家たちと旧交を温めたり、貴重な書物を見せてもらったりなどして暮したのだった。そして自分がまだまだ体力も気力も衰えていないのがわかったといって、驚いたり喜んだりしていた。
「ジェニーや、わしはまだどうして衰えておらんぞ」彼は姪にむかっていった、「心も体も溌剌たるものさ。この分じゃ、冥土《めいど》への下り坂を想像していたほどは降りてないらしいわい」
アルバートは旺盛な食欲を発揮して食事をすますと、長い夜汽車の旅をしてきたにもかかわらず、船を呼んでベラジオまで行くといってきかなかった。
「ポジーにみやげを持ってきたんだよ。それにあの男の手を握って声を聞かないことには眠れんよ」
エルネストが船頭を呼びに行き、やがて一隻の小舟が、アルバートの部屋から湖へ降りられるようになっている階段の下へ着いた。アルバートはそれに乗って出かけてしまった。ドリアに会いに来て、二人の帰宅を知って驚いたブレンドンは、ガンズと二人きりでしばらく話ができるものと期待した。しかしこの旅行者はくたびれた様子で、アスンタの特製オムレツと白葡萄酒三杯で食事をすますと、これから部屋へひっこんで自然に目が覚めるまで眠らなくてはならない、と宣言した。彼は聞き耳を立てているジュゼッペの前でしゃべったのだが、その内容はブレンドンにむけたものだった、
「なにしろ疲れているんだよ。今度の調査でいくらかでも収穫があったかどうかはまだわからない。正直にいって期待はできないんだよ。明日話し合うとしよう、マーク。それからドリア君にも『烏荘《クロウズ・ネスト》』であったことを一つ二つ思い出してもらうと助かるんだよ。しかしとにかく眠らないことにはわたしは何の役にも立たんよ」
そういってガンズはノートを片手に部屋へ退いた。一方ブレンドンは、翌朝食事をすませたらまた来ると約束して蚕小屋の方へぶらぶら出て行った。そこでは最後の蚕たちが金色のきょうかたびらを織り上げたところだった。ブレンドンは、ガンズがくたびれたような声を出し、しかもがっかりさせるようなことをいったにもかかわらず、少しも気落ちしていなかった。さっきしゃべりながらガンズは、ドリアには見えないように意味ありげな目くばせをしてみせたのである。だから、新しくわかった事実がいくつかあるにしても、彼がそれをドリアには教えるつもりのないことがはっきりわかった。それにブレンドンは、彼自身のグリアンテでの冒険のことをガンズがまだ知らないのだと思うと、一そうおもしろかった。この一件については、ガンズの仕事の妨げになってもいけないと思い、手紙で知らせることもしなかったのである。
翌日になってみると、アルバートはぐったりしてしまっていた。旅の疲れが出たのである。それで彼は、まる一日床を離れないことに決めた。しかし家族の者には用をいいつけて忙がしくさせておこうというつもりらしく、ドリアにはミラノの古本屋へ使いに行かせ、ジェニーにはみやげを持たせてヴァレンナの知りあいへ行かせた。
ブレンドンは、この夫婦を二人ともしばらく遠ざけておく魂胆《こんたん》だな、と気づいたが、ドリアもそれを見抜いたかどうかは判断できなかった。だが、ジェニーは確かに気づいていない。叔父の知り合いというのはある未亡人だったが、彼女も前から知っていて、その友情を高く評価していたので、ジェニーはヴァレンナ行きを二つ返事で引き受けたのである。
ブレンドンがピアネッツォ荘に着いたのは、ちょうどこの夫婦が使いに出かけようとしている時だった。それで彼とガンズはいっしょに桟橋まで行って、この二人がそれぞれ行く先の違う船で出かけるのを見送った。
しかしこれだけの配慮がなされてもガンズは不満そうで、何やら不可解なことをいった、
「この汽船がコモへ着くまでどこへもとまらないのなら、心配することはないんだがね。ところがあっちこっち寄るんだ、ドリアはどこでとびおりて一時間もたたずに帰って来るかわからんよ。早くアルバートの傍へ帰っていよう」
「アルバートさんはきっとお寝みになってるでしょうから、邪魔が入らずにわれわれだけでお話ができますよ」ブレンドンは答えた。
まもなく二人は庭の日蔭のベンチに腰をおろした。そこからはこの山荘への入口が見渡せた。ガンズは例のノートをとり出してから、嗅ぎたばこを大きくひとつまみやって、その金の箱を自分の前の小さなテーブルに置くと、ブレンドンの方をむいていった、
「まず君からだ。聞かせてもらわなくてはならないことが三つある。君は赤毛の男に会ったかね? そしてドリア夫婦に対する現在の君の意見は? ベンディゴの日記がみつかったかどうかは聞く必要がない。みつからなかったとわたしは確信してるからね」
「みつけられませんでした。ジェニーさんに探すように頼んだら、いっしょに手伝ってくれといわれて探したんですがね。あとのご質問ですが、ロバート・レッドメーンには出会いました。未知の人物なるものをロバート・レッドメーンという名で呼んでかまわないと思います。それからジュゼッペ・ドリアと、現在のところ彼の妻であるあの不幸な婦人については、まことにはっきりした結論を得るに至りました」
ガンズの大づくりな顔にチラと微笑が浮かんだ。彼はうなずいて聞いていた。ブレンドンは山での冒険から始めていろいろと話した。細かい点も省略せず、ドリアと喋ったこと、コリコへジェニーと出かけるためにドリアが途中から山をおりたこと、そのあとふいに襲われ、危うく生命を失いかけたことなどを詳しく話した。どのように射たれ、相手をおびき寄せようとしてどのように倒れたか、相手はどのように姿を消したか、また、しばらくしてから替玉人形を作った時の様子、ジュゼッペ・ドリアが彼を埋めにやってきた時の様子などをである。
また、ジュゼッペとロバート・レッドメーンが替玉にぎょっとして逃げた時の様子、ジュゼッペも一味であることを、こちらが気づいていると思わせないために、冒険の話を彼に聞かせることに決心したこと、次の朝ドリア夫婦と三人でその場所へ行き、山の男の靴跡のついた墓穴を発見したこと、などを語った。更にブレンドンは、その四日後にジェニーが、たしかにロバート叔父と思われる人物を見かけたと報告したこと、しかし暗い時なのでたしかだとは信ずるが断言はできない、といったこと、その男はピアネッツォ荘から二百ヤードほどのところの、山へ通じる小径に立っていて、彼女が傍へ行こうとすると慌てて逃げたということ、などもつけ加えた。
ガンズは、この陳述を非常に熱心に聞いていた。そしてブレンドンが話し終ったとき、率直に満足の意を表した、
「非常に嬉しく思うことが二つある。まず君が無事生きていてくれたことだよ、マーク。弾丸がその秀でた額に命中しないで耳をかすったとはほんとによかった。もう一つ嬉しいのは、君の話の内容だ、なぜなら、わたしの考えとかなりよく一致するし、その裏づけにもなるからだよ、いずれ話して聞かせるが。君の小細工は、なかなか気が利いている、まあわたしならもうちょっと違ったようにやるがね。それにしてもうまくやったよ、しかもそのあとドリアに何食わぬ顔でその話をしたのなどは、われわれのよき伝統にもかなったやり方だ。ドリアについての意見はこれでもう聞く必要もあるまい。あとは彼の美人の細君に対する君の考えを聞かせてもらうだけだ」
「勇気のある、すばらしい婦人だというわたしの意見は相変らず同じですよ」ブレンドンは答えた、「あのひとはいまわしい結婚の犠牲者なんです、それにあのひとの立場は悪くなる一方ですよ、それをのり越えないうちは事情は好転しないでしょうね。あのひとはまっすぐな人なんですよ、ガンズさん。ですが、もちろん、夫がならず者であることはよく承知しているんです。
といっても、わたしがあの人に真相を仄《ほの》めかしたりしていないことはいうまでもありません。しかし彼女はある意味では夫に貞節で、自分の苦しみや疑いをはっきり表わすまいと非常に注意してはいますが、幸せであるかのように装ったり、ドリアが良い夫であるかのようにいったりはしないのです。わたしにはちゃんとわかっているのを知ってるからでしょう。あのひとはあなたのお帰りを待ちこがれてましたよ。わたしはこう思うんです、あのひとになにもかも話して味方にひき入れないのは、果して賢明なことかどうか疑問だ、とね。われわれの掴んでいる事実さえうちあけてあげれば、あのひと自身もいろいろ得るところがあるに決まってますし、こちらも何かと手がかりを与えてもらえるんじゃありませんか。あのひとが信頼のおける正直な人間であることはもちろんですからね」
「なるほどね、そうだといいが。君の話はわかったよ、今度はわたしの話を君が聞く番だ。われわれは実にすばらしい演技にぶつかっているんだよ、マーク。この事件には感嘆させられるような点がいくつもある――わたしの長い経験にもそうはなかったことだ。もちろん、歴史はくり返すのだから、この未知の大物にも劣らぬ悪漢がこれまでに全くいなかったとはいわないさ、しかしめったにいるものではないよ」
「ロバート・レッドメーンのことですね?」
ガンズはちょっと言葉を切って嗅ぎたばこをつまむと、目を閉じてまた話し始めた、
「なぜそう鸚鵡《おうむ》みたいにロバート・レッドメーン、ロバート・レッドメーンというんだね、君? この事件についてこれまでにわたしがいったことや、偽せものということ全般について、少し考えてみてはどうだ。人間の造ったものならなんだって偽造できるんだよ、神さまのお作りになったものにだって、なかには偽造できるものもある。絵画、切手、署名、指紋、何だって偽造できる。われわれ人間は、絵だの切手だの指紋だのにはしじゅう接して慣れっこになっているものだから、みかけだけで簡単に欺されるし、また、見てすぐこれは偽せものだと認めるだけの専門的な知識を持ち合わせている人は少ないんだ。ところでいま、われわれが相手にしている人物は、人間を偽造したんだよ、すなわち赤毛の男がそれだ。
君だって先週同じことをやったんじゃないのかい? 君自身の偽せものを拵《こしら》えて君自身の死体に見せかけて置いといたのではなかったかね? ほんもののロバート・レッドメーンは実際に死んでしまっているのかどうかは、まだ断言できないさ、もっともわたしのほうではそれを証明できるだけの材料をかなり揃えてあるがね。とにかくこれだけはわたしにわかっている、すなわち、君を狙って射ち損なって逃げた男はロバート・レッドメーンではない、ということだ」
ブレンドンは抗議した、「お忘れになっては困りますよ、ガンズさん、わたしは前からあの男を知っているんですよ。事件以前に、フォギンターの石切場の池で会って言葉も交したのですからね」
「それがどうだというのだ? その時以来君はその男と一度も話をしていない、いやそれどころか一度も会ってさえいないんだ。君は偽せものと会ったんだよ。ダートマスへの帰りみちで月の光の下で君を見ていたのは偽せものだったのだ。百姓家へおし入って食料を盗み、洞穴にかくれ、ベンディゴ・レッドメーンの咽喉をかき切ったのは偽せものだったのだ。君を狙い、射ち損なったのも偽せものだったのだよ」
ガンズはまた嗅ぎたばこをつまんで、なお話し続けた。
しかし、ガンズの調査の経過をここで語ってしまっては、この恐るべき事件の核心に触れているだけに意義が失われることになる。今はただ、ガンズのような名だたる探偵の口から聞かされたのでなかったら、一笑に付したに違いないほど途方もない推論を聞かされて、ブレンドンの頭が大いに動揺したことだけ記しておく。
「ただし」ガンズは二時間近くもしゃべり続けたあげく最後にいった、「わたしはわたしの考えが必ずしも正しいといってるのじゃないのだよ。ただ、たとえ乱暴な話に聞こえても、とにかくこの考え方はつじつまが合っているし、この考え方によって論理的に矛盾のない一つの話を組み立てることができる、といっているだけなのだよ。もっともこれまでのあらゆる経験には反するがね。しかし、実際にこれは起こり得たことだよ。もしこの通りでないというなら、いったいどういうことが起き、また現在この瞬間に何が起きつつあるのか、解釈のしようがない、といいたい。わたしのいった通りであるならば、実に恐るべき事件だ。だが、職業的見地からすれば見事なことだよ――ちょうど癌《がん》や戦争や地震が、人間性を無視して考えられたとき見事であり得るのと同じといえるだろうね」
ブレンドンはすぐには答えようとしなかった。その顔はさまざまな激しい感情にさいなまれて歪んでいた。
「わたしには信じることができません」やっと彼はそう答えたが、その声から、彼がどれほど激しい驚きと動揺を感じているかがうかがわれた。「しかしあなたのお指図の通りには致します。そのぐらいのことをする力はわたしにもありますし、第一、わたしの義務でもあるのですから」
「よくいってくれた。さて、なにか食べるとしようじゃないか。はっきり頭に入れてくれたね? 何より大事なのは時間なのだからね」
ブレンドンは、いっぱい書きこんだ手帳をしばらく眺めていたが、やがてうなずいてそれを閉じた。
ふいにガンズが声を出して笑った。相手の手帳を見てある出来事を思い出したのである。
「忘れていたんだがね、昨日の午後ちょっとおもしろいことがあったのさ。枕もとにノートをおいたまま寝ていたら、誰かがわたしの部屋へ来たんだね。確かに眠ってはいたんだが、わたしはどんなにぐっすり眠っていようと、窓ガラスに蠅《はえ》が一匹来ても目がさめるたちなんだよ。それで、ドアの方へ顔をむけて寝てたんだが、わずかな物音が聞こえたんで片目をあけた。ドアがあいてドリア先生の顔がのぞいた。ブラインドはおろしてあったが、かなり明るかった。彼は、わたしの頭から二フィートほどのところにあるテーブルに置かれたわたしの『必携書』に目をつけた。そして抜き足さし足近づいてきた、そこで、一ヤードのところまで来させておいてからあくびをして寝返りを打ってやった。そうしたら逃げて行ったが三十分ほどしてまたやってきた気配がしたよ。しかしわたしが起きていたんで外で様子だけうかがって行っちゃったよ。あの男、このノートがよほど欲しいんだね、どんなに欲しがっているかは君も察しがつくだろう」
ガンズは二日間、休養しなければならないと宣言してひっこんでいたが、やがてある夕方、こっそりドリアを散歩に誘った、
「君に少し話しておきたい事があるんだよ。他の人には知らせちゃいかんよ、二人別々に家を出よう。わたしの好きな山の散歩道を知ってるね、あそこの曲り角で会おうか――そうだな、七時はどうだろう」
ジュゼッペは喜んで応じた、
「じゃあ、マドンナ・デル・ファルニェンテの祠のところまで登りましょう」彼はそういった。そして約束の時間になると、ちゃんと指定された場所に待っていた。二人は並んで山道を登って行った。そしてガンズはドリアに助力を求めた。
「ここだけの話だがね、実は、わたしは今の捜査の成行きにあまり満足していないんだよ。ブレンドンもいい、これまでいっしょに仕事したどの刑事にも劣らずよくやっているし、なかなか頭のいいところもみせる――山で死んだ真似をしたのなどもそうだ。しかし、あれだけのわなを仕掛けておいて相手をとり逃したというのはどういうわけだろうね? わたしならそんなへまはやらぬ。君だってしないだろう。要するに、どうやらマークの仕事の邪魔をする麻酔剤のようなものが働いているのじゃないかな。だから君はあの男をどう思っているか聞きたいと思ったんだよ、君なら第三者だし、なかなか頭も鋭いからさ。君は彼の性質を観察するチャンスもあったと思うんだ、だから意見を聞かせてくれないかね。こんな仕事にいつまでもかかずらわっているのは飽き飽きしたよ――自分が馬鹿をみてるようでうんざりだ」
「マークさんはぼくの女房に恋してるんですよ」ジュゼッペは落ちついた声でいった、「それが原因なんです。ぼくはこの事件じゃ女房を全然信用してませんしね、それにあれは例の赤毛の男のことを他の誰よりもよく知ってますよ、ぼくはそう信じてるんです、ですから、彼女がブレンドンさんを目隠ししている限りは、あなたの思い通りの役には立たないんじゃありませんかね」
ガンズはひどく驚いたようなふりをした。
「なんだって! 君はばかに冷静にいうじゃないか!」
「それだけの理由があるからですよ、ぼくはもうあの女を愛しちゃいませんからね。自分に用がないものを他人がどうしようとぼくは邪魔する男ではありません。ぼくの今ほしいものは安らぎと静けさです。陰謀だの術策だのには用はありませんよ。ぼくはごくふつうの男なんですよ。事件なんてものはうんざりです。それよりもぼく自身が巻き込まれやしないかとおちおちもしていられない毎日なんですよ。ぼくはどういうことになるのやら皆目わからない。女房と、誰だか知らないがこの悪党とは何か企らんでるんです。だからガンズさん、この事件を徹底的に探るおつもりならあの女に注意なさるんですね――ぼくじゃなく。恐れていらっしゃることはいつ突発するかわかりゃしませんよ」
「ジェニーさんをつけろというのかね?」
「そうですよ。そのうちにきっと、彼女《あれ》は何とかかんとか口実をもうけて独りで山へ行くといいますよ。行かせておいてあとからブレンドンさんといっしょにつけるんです。問題は至って簡単、赤毛のレッドメーンを捕まえりゃいい。あなた方だけでは無理なら警察と税関に頼むのです。このへんには常時、密輸業者狩りの一隊が待機していますからすぐ役に立ってくれますよ。あの野蛮な人間狐の人相書を渡して、その狐の尻尾に莫大な賞金をかけてごらんなさい。そうすりゃあたちまち捕まりますとも」
ガンズはうなずいて立ちどまった。
「そういうことになるかもしれないな。しかし、なるべくならわれわれの手で捕まえたいのだよ。とにかくこの二週間の間に急いでやらなくちゃならん、それ以上長くはイタリアにいられないのでね。そうかといって親友を危機にさらしたままどうして立ち去ることができよう? わたしがついている間はおそらくアルバートも安全だと思うが、わたしが行ってしまったらどうなることか」
「ぼくにお手伝いできませんかね?」
だがガンズは首をふっていった、
「君を仲間にするわけにはいかないね。だって君の奥さんが敵の仲間だといわれてみると、なるほどそうかなという気もするからさ。まさか夫である君に頼むわけにもいくまい」
「もしそれだけのことなら……」
二人はゆっくりと登っていった。そしてガンズは、計画を立てたり策略をねったりでたいへんだというようなふりを見せながら、次から次へと話しを続けていた。また、ジェニーが独りで山へ出かけるようなことがあれば、ブレンドンといっしょにこっそりあとをつけるという約束もした。
そのとき、まことに妙な事が起きた。あたりがたそがれてきて最初の蛍がチラチラと飛びはじめた頃、道ばたの荒れ果てた祠の前に、突然、背の高い男の姿が現われたのである。一瞬前には誰もいなかったのだ。しかし夕暮れの茜色《あかねいろ》の光の中にその男はぬっと立っている。かなり暗くなりかけているとはいえ、男の特異な容貌は見分けられずにはいなかった。なぜなら、うす暗がりの中に大きな赤毛の頭と髯をぬっとばかりに突き出して立ちはだかっているのは、他ならぬロバート・レッドメーンだったからである。彼は身じろぎもしないでこちらを睨んでいる。両手は下げていた。ツイードの上着の縞模様も、例の赤いチョッキの金ボタンもはっきりと見えた。
ドリアは思わず飛び上がったが、ハッとしたように体をこわばらせた。一瞬、彼は驚愕を隠しきれず、恐怖と驚きの色をありありと見せてその幽霊をうち眺めた。明らかに彼はこの大男を知っているのだ。だが今、目の前の道に立ちはだかった男をうろたえた目つきで見つめている彼の様子には、友情も理解も存在していない。目の前の物を追い払おうとでもするかのように、彼は目をこすった。そしてもう一度見たとき――そこにはもう誰もおらず、ガンズが彼の顔をのぞきこんでいた。
「どうかしたのか?」ガンズはきいた。
「ああ驚いた! 見たでしょう? 今そこの道に――ロバート・レッドメーンが!」
だがガンズはぽかんとしてジュゼッペの顔を見つめるばかりだった。そして前方をきょろきょろ見ていった、
「何も見なかったがな」
ガンズがこういうと、たちまちドリアの様子がうって変わり、不安そうな表情が消えて彼はカラカラと笑い出した。
「いや何でもありませんでした。何かの影かなんかです」
「君は赤毛の男を気にしてるんだな。無理もないさ。いったい何を見たと思ったんだ?」
「いえ、何でもなかったんです、影かなんかですよ」
ガンズはすぐ話題をそらし、今の話には全然気もとめていない様子だった。だがドリアの気分はだんだん変わってきて、うちとけなくなり、逆に警戒している様子を見せはじめた。
「さてもう戻るとしようか」三十分ほどしてガンズがいった、「君はなかなか利口な青年だ。うまい考えを一つ二つ教えてもらったよ。マークの奴に説教してやらなくちゃならん。ところで君も、そんな気分にはなれないかも知れないが、少しは夫らしくふるまってる方がよさそうだよ。それから、奥さんが山へ出かけるような時には、こっそり知らせてくれたまえ」
ガンズは立ちどまり、ジュゼッペをじっと見てから嗅ぎたばこをつまんだ。
「あすあたりは行動を開始することになるかな」彼がそういうと、もう落ちつきはとり戻したものの、すっかり無口になっていたドリアはにっと笑った。彼の白い歯がうす暗がりの中で光った。
「あしたのことは誰にもわかりませんよ。あしたがどうなるか知っている者は世界を支配するのでしょうからね」
「しかし、わたしはあすに希望をもっているんだ」
「探偵は常に希望を失うわけにいきませんからね。だいたい探偵のもっているのは希望だけのようですがね」
二人は仲よくひやかし合いながら帰って行った。
[#改ページ]
第十六章 レッドメーン家の最後の人間
古い祠《ほこら》の前でドリアが妙な経験をしたその晩、マーク・ブレンドンは、滞在中のヴィクトリア・ホテルへアルバートとヴィルジリオ・ポジーとを夕食に招いていた。もともとこの提案をしたのはガンズだった。彼は、この催しに対してジュゼッペが疑いの目をむけるであろうことは承知していたが、この際それは問題でなかった。
その特別の晩、アルバートを家から遠ざけようと計ったのには二重の目的があった。ガンズ自身、ブレンドンと二人きりで会う必要があった。そうなると、友人の愛書家を敵の手中におくことになり、それはたとえ一瞬でも危険千万である。そういうわけで、ブレンドンと二人きりで話し会うためと、同時にアルバートから目を離さないために、ガンズはホテルでの晩餐会を計画し、アルバートが家へ帰ったらすぐ招待状を発するようブレンドンに命じてあったのである。
ポジー氏とアルバートは、まっ白な胸当てに、いささかくたびれた燕尾服《えんびふく》を一着に及んで、全く無邪気な顔でやってきた。用意されていた特別注文のご馳走が二人を喜ばせた。四人はホテルの一室でその食事を共にしたが、そのあと喫煙室に席を移した。そしてポジー氏とアルバートが共通のお気に入りの話題に夢中になっている間に、ガンズは、二、三ヤード離れたところにブレンドンと並んですわって、ジュゼッペの幽霊の一件を話した。
「君は全く奇蹟みたいによくやったよ。生まれながらの俳優とは君のことだ。すっと現われてすっと消えた、あれだけできたら大したものだよ、君。ドリアがまたすてきだったぜ。完全に悩ましてやったよ。ほんもののロバート・レッドメーンだと思ったときの奴の顔は、みぞおちに一発ガンとくらったような顔だった――ほんとだよ。さすがのあいつも一瞬足をすべらせたが、無理もないなあ。あいつのジレンマがわかるだろう? もし潔白なら君に突進したはずだ、ところがやつは潔白じゃなかったんだな。あいつはあいつのロバート・レッドメーン――にせものの方のさ――は昨夜は戦いを挑まないはずだと思っていたのさ。わたしは何も見なかった、といったらやつは気をとり直して自分も見なかった、といいやがった。そして次の瞬間、自分のやったことにしまった! と思ったのさ。だがもう遅い。そのあとわたしはポケットの拳銃から手を離さなかった、もちろんだとも! やつは復讐せずんばやまずという気だったろうからね。いや今だってそうだろう、今夜だって時間を無駄にはすまい。とにかく今かんじんなことは、われわれはあいつの仕事の妨害をしたということ、そしてあいつがそれを悟ったということだよ」
「あなたが山荘へお帰りになる前に、あいつは逃げ出すかもしれませんね」
「あの男のことだ、そんなことはすまい。あくまでやり遂げるつもりだよ、われわれが邪魔さえしなければね。いずれにしろ、ぐずぐずはしていないだろうよ。あいつはこれまでゲームをして楽しんでいたんだよ――われわれとあそこにいるアルバートとを相手にしてね、ちょうど猫がねずみをなぶるようにさ。だがもう遊んではいられない。今夜からはわれわれ三人に襲いかかろうと捨身になっているよ。ぐずぐずしていて馬鹿だったと、地団駄《じだんだ》ふんでいるんだ。しかしあの男は若いくせに大したやつだよ、マーク。といっても、しょせんは人間だ――スーパーマンではないのだからね」
「具体的にいってどういうふうだったんですか? あの男は自分の見たものに対してどういう反応を示したんです?」
「断言はできないがね、しかしわたしはこういうふうに見た。わたしにはね、第三の眼と称しているんだが、まあ一種のアンテナみたいなものがこの頭の中にあって相手の考えていることをとらえられるんだよ、それでその眼でわたしはようく観察していたのだが、まず最初、あの男はうろたえておろおろした。幽霊を見たと思ったのかも知れない。『ロバート・レッドメーンだ!』と叫んで、すぐ、わたしも見たかと聞いた。わたしがきょろきょろして何も見なかったというと、急に態度を変えて笑いとばした、そして祠の影だった、というんだ。ところがちょっと考えて、今のはたしかに幽霊じゃない、と思ったんだな。いっしょうけんめい考えてるらしくてしばらく黙りこんでしまった。こっちはあたりさわりのないことをぺらぺらしゃべっていたのさ、だいたい、散歩の最初からこっちは無難なことばかりしゃべっていたのだがね。わたしは予定通り、さも何でもうちあけて話してあの男を味方にするようなふりをしていた。そして思った通り、あいつがいおうとしていたことを聞き出したよ――つまり、君が彼の細君に惚れていること、彼はもうあの女には用がないということ、あの女は赤毛の男についてすっかり知っているのだということ、等々をね。
さて、彼は心の中で何を考えたか? おそらく二つの可能な結論のうちのどちらかに行きあたったに違いない。つまり、彼は自分が幻覚の虜となって想像の産物を見たのかも知れぬと思い、何も見ないといったわたしの言葉を信用したか、あるいはその逆かいずれかだ。もしそんなふうに思ったとすれば、問題はないのだし、わたしに関する限り心配することもないわけだ。ところがそうはとらなかった、考え直してみて彼はわたしが嘘をいってると気づいた。彼は自分が幽霊なぞ見るような人間でないこともよく知っている。君が二日の予定でミラノに出かけたのを思い出した。そのとたんに頭がはっきりして、今のは彼の虚をついて何かを探り出そうという、わたしと君のしかけた罠《わな》だと悟った。そして何も見なかったなどといったのは、相手の思うつぼだったのだと気づいたんだよ。
あの男の現在の立場はこんなところだ。従って彼はいま大忙がしだろう。しかしわれわれの方がもっと忙がしいのだ。彼とその相棒とがもくろんでいるのはアルバート・レッドメーンを亡きものにすることだ――彼の死と自分たちは関係ないかのように見せかけてね。つまり、われわれが妨害さえしなければ、すでにイギリスでやってのけたと同じようにやろうというわけだよ。アルバートが姿を消す――そして彼の血が発見されたといってわれわれが呼ばれる、かどうかは知らないが、とにかく死体にはお目にかかれないだろう。コモ湖がおそらく彼らの予定している墓場だろうからね」
「じゃあドリアに直接切り込むおつもりなんですね?」
「そう。やつはわれわれ同様、今ごろは計画をねっているだろう。だから先手を打ってあっといわせなければならないんだよ、わかるだろう? こっちも二人、むこうも二人、次の手はこちらが駒を動かさなくてはいけない。さもないとこっちが王手をかけられてしまう。しかし、こちらは有利な立場にある、つまりアルバートはわれわれのいうなりになるからね。彼がこっちについていてさえくれれば、こちらはだいじょうぶだ。ジュゼッペ君もそれは知っている。だがあの男は、こうなっては自分自身の身が危険だということも考えている。だから、おそらくむこう二十四時間以内にいちかばちかの行動に出ると思うのだよ」
「いまは、レッドメーンさんの安全ということにすべてを集中させるんですね?」
「そうだ。そしてわれわれは二羽の鷹《たか》のごとくにアルバートを見張ってなくちゃならん。この事件でわたしにとって一番興味がある点は、せっかくこの天才的な犯人が計画した事件を個人的な要素が損なっているということさ。その要素とはつまり見栄だ――抑えきれないほど大きな、だが子供らしい見栄だよ。その見栄にそそのかされて彼は最初は君を、そして次はわたしをからかうという単純な楽しみのために、目的のことをさっさとやらないでいた。彼を窮地に陥れたのは他ならぬ彼自身さ。われわれの手柄じゃないよ、マーク。頭がいいとうぬぼれていたばかりにあの男は、しょい投げを食らったんだ。もし今からでもやり抜いたら、わたしはあの悪党を許してやりたいぐらいだよ」
「みんなあなたのお手柄ですよ――真相があなたのお考え通りならね。わたしには徹頭徹尾いいところはありません」ブレンドンは陰鬱な顔で答えた、「しかし、あなたのお間違いかもしれませんね。人間の確信なんてそう簡単にくつがえされるものではありませんし、恋をしていたって必ずしも盲目になるとは限りません。それに、たとえ名声を失なっても、わたしはもっといいものを手に入れられるような気がしているんです――すべてが落着した時のことですが」
ガンズは相手の腕をそっと叩いていった、
「頼むからそんなことは望まないでほしい。そんな希望はしりぞけるんだよ、そんなものは妄想からうまれた希望だということがじきにわかる。だが君の名声は別のことだ。あすの今ごろは、立派な名声をそう簡単に風に吹きとばしてもいいような気でいられては困るのだよ」
「あす?」
「そう、あすの晩はあの男の腕に手錠がかかるのだ」
そういってからガンズは計画を指示した、
「あいつはこちらがこう早く行動を開始するとは思っていまい。だから早くやって機先を制するのだ。なんとかして君の助けをかりてやりとげたいんだよ。今夜と明日の午前中はわたしがずっとアルバートの傍にいるが、その後は君に頼む。というのは、昼飯がすんだらわたしは土地の警察の人たちと湖のむこうのコモで打ち合わせをすることになっているからだ。逮捕状がもう用意されているはずだから、日が暮れてから税関の黒い小舟で帰って来る。われわれはあかりを消してくる、そして山荘に上陸する。君の役目はアルバートから目を離さないこと、かつ、他の者をも見張ること。ドリアはおそらく、わたしがコモへ出かける理由をまさか本当とは信じないだろう、だから、チャンスとばかりにとびつく可能性大ありだ。やれることは毒殺ぐらいだが、かといってアルバートをポジー氏のところへは避難させたくないんだよ、あそこの方がよっぽど敵にとっては仕事がしやすいからね」
「アルバートさんも、ここが大事な時だとわかってるのでしょうね?」
「それはわかってる、よく説明しておいた。わたしが今夜ここから持って帰るもの以外は、いっさい口にしないと約束してくれたよ。われわれの魂胆《こんたん》では、アルバートは体具合が悪いといってあすは一日中部屋にこもることになったんだ。今夜君のところで少し愉快にやり過ぎたようなふりをするはずだよ。わたしは彼につきっきりでいる――今夜は寝ずの番だ。明日の彼の朝食は手つかずでさげられる、わたしの御飯もね。そのあとで、こっそり用意したものを二人で食べるつもりだ。
昼飯がすんだらあとは君に頼む。ドリアが何をやるかはわからないが、何をやるチャンスも与えてはいけないよ。あの男がもしアルバートに会いたいといったら、君は職権を行使して、わたしが帰るまではだめだというんだ。わたしのせいにしてかまわない。それからもしあの男が乱暴な振舞いに出たらピストルを使うことだ」
「万事休すと思えば逃げるかもしれませんよ。もう逃げたかもしれない」
「あの男ならそんなことはするまい。わたしが、これだけいろいろ知っているとは予想もしていないだろうよ、そう考えなきゃ理屈に合わない。彼はこのわたしをみくびっているから、まさかこうなにもかも見抜いているとは思っていないんだよ。逃げ出すようなことはしないさ、最後まで虚勢を張るだろう――もう手おくれだと悟るまでね。あの男を失うことはかまわない、それよりもわたしはアルバートを失うことだけが心配なのだよ」
「その点はわたしを信頼して下さい」
「そうしよう。それからね、わたしは、アルバートが自分ではそれと気づかないでわれわれを助けてくれるような方法で、相手の虚をつきたいと思うのだ。アルバート自身に器用な真似をさせようとしても無理だ、彼はそういうふうにはできていないからね。しかし、アルバートはいわば王さまで守られている立場だ、ところがその王さまが予期に反して思わぬところへ動いてくれると、こちらにとっては大いに有利になるかもしれない。われわれは敵がどう出るか、あらゆる可能性に即応できる態勢を整えておく必要がある。例えば、もしむこうが毒を使い、それが失敗したとわかると……」
「毒が効いたようにいいふらしてはどうでしょうね、そして朝飯のあと一時間ほどしたらアルバートさんがひどく具合が悪くなったようにいうんです」
「わたしもそれは考えてみた。しかし、実際に毒が使われたかどうか、こちらとしてははっきり断言できないわけだろう、それが困るんだよ。分析するだけの暇はなし」
「猫に試しては」
ガンズは考えてからいった、
「裏をかくということは非常にうまくやれる場合も多いが、実はこれまでにわたしは、落とし穴を掘ったはいいが掘った当人が落っこちたという例を、警察でいやというほど見てきたのでね。難かしいことの一つは、アルバートを必要以上におびえさせたくないことなんだ。現在彼にわかっているのは、彼の身が危険だとわたしが考えている、ということだけで、よもや自分の家族の中に一味がいるとは夢想だにしていない。朝食に手をつけるな、とわたしがいうまではそんなことは考えもしないだろう。よろしい、裏をかいてやってみることは確かにできる。アルバートにパンとミルクを持ってこいといわせる、誰が運んでくるかはいうまでもない。持ってきたらアルバートの猫のグリロにまず試食させる」そういってから、ガンズはブレンドンの方にあらためてむき直っていった、
「それで君も納得がいくだろうな、マーク」
しかしブレンドンは首をふった、
「事情によりけりです。たとえ毒が入ってるとわかっても、正直な男や女がそれと知らずに犯人に手先として利用されることがよくありますからね」
「それはそうだ。だが、どうやらわれわれはありそうもない事を詮議だてして時間を無駄にしているのじゃないかな。わたし自身としては、毒薬が使われるとは思っていないんだよ。毒殺という手は最も安易な方法だが、安易ということはたいていの場合、最も大きな危険をはらんでいるとみてよい。そうだよ、あの男はもしチャンスの半分でも掴めば毒殺なんかよりもっとスマートな手を使うよ。一番危ないのは、ドリアがアルバートと二人きりになった時だ、たとえ一瞬でも危険だ。それだけは何としてでも避けなければならない。どんなことがあっても、二人のうちどちらかから目を離してはいけないよ。それからわたしの帰る前にもしドリアが逃げ出そうとする気配を見せても、決してそれに欺されてはいけない、また追っかけたりしないことだ。わたしが出かけてしまったら、あいつはどんな策略を弄してでも君を不安に陥れようとするだろう――つまり、わたしが早くも行動を開始したとあいつが、気づけばだよ。しかしうまくあいつに、わたしの外出の目的に対して疑いを抱かせないようにできれば、むこうが攻撃してくる前にこっちがだしぬくことができるんだ。要するにそこがわれわれのつけ目なんだが」
一時間後、二人はポジー氏を船まで見送ってから、アルバートと三人で歩いて山荘へむかった。ガンズは食料を隠し持っていた。そしてやがて、彼はアルバートに今や事件はクライマックスに達していることをいってきかせた、
「二十四時間以内にはこの事件の謎もからくりも解けると思っているんだよ、アルバート。しかしそれまでの間は、君はどんな些細なことでもわたしのいう通りにしてくれなくてはいけない。そうやってわたしに協力してくれれば、君をこの悪辣《あくらつ》な行為の犠牲にさせなくてすむのだからね。君のことだからわたしは信頼している。君の方も明日の晩まではわたしとこのブレンドン君とを信頼してくれなくては困る。この事件さえ落着すれば、またもとのような平和な毎日に戻れるのだからね」
アルバートはガンズに感謝し、先が見えてきたことを嬉しがった。
「わしには何が何だかよくわからないのだよ。ほんとうに何もわからないといっていい。わしは完全に煙にまかれているみたいなんだ。だから、いまわしを脅かしているこの恐怖がまもなくとり除かれそうだと聞いて、どれほど嬉しいことか。ピーター、わしがこうして気も狂わずにいられるのは、君を信じきっているからだよ」
家へ着くと、ジェニーが出迎えた。ブレンドンがその場で帰ろうとするのを彼女は引きとめたが、もう夜更けでもあり、またガンズもみんな早く寝なくてはいけないといった。
「あしたは早く来てくれたまえよ、マーク。アルバートの話だと、なんでもコモに古い絵画で非常にいいのがあるとかいうことなんだ。アルバートがその気ならあしたはみんなで湖を渡って行って見ようじゃないか」
ブレンドンは立ち去る前、ちょっとの間ジェニーと二人きりになった。するとジェニーが耳もとで囁いた、
「今夜はドリアになにかあったみたいよ。ガンズさんとの散歩から帰ってからずっとむっつりしていますの」
「今、うちにいるんですか?」
「ええ、もうずいぶん前に寝室へひっこんでしまったわ」
「あの男を避けるんです。疑いを抱かせないようにしてなるべく避けて下さい。あなたの苦しみは意外に早くとり除かれるかもしれませんよ」
それだけいうとブレンドンは帰って行ったが、翌日は朝早くにやって来た。最初に彼と会ったのはジェニーだったが、まもなくガンズも出てきた。
「叔父はどうしましたかしら?」ジェニーがそうきくと、ガンズは老愛書家は少し加減が悪いようだといった。
「ゆうべホテルで遅くまで愉快にやり過ぎたらしいんですよ、白葡萄酒の飲みすぎでしょうな。どうってことはないが、ちょっとばかり二日酔いの気味でね。しばらくあのまま寝てるつもりのようです。ですからもう少ししたらビスケットと迎え酒でももってってあげるといい」
そういってからガンズは、午後からコモへ出かけるつもりだといい、ドリアとブレンドンにいっしょに行かないかと誘った。だが、自分の演ずべき役割をすでに心得ているブレンドンは断った。またドリアも行くことはできないときっぱりいった、
「ぼくはトリノへ帰る支度をしなくちゃならないんですよ。ガンズさんが赤毛の男を追っかけている間も世の中はじっとしちゃいませんからね、ぼくは仕事を持ってますし、これ以上ぼくがここにいる必要もありませんから」
ドリアは他人には無関心の様子で、いつもの陽気さを失っていた。それがなぜなのか、ブレンドンにわかったのはずっと後だった。
昼食をすますと、ガンズは白いチョッキを着た上に他にもいろいろとめかし込んで出かけて行った。ジュゼッペもまた二、三時間で戻ると約束してどこかへ出かけた。そしてブレンドンは寝室のアルバートのところへ行き、しばらく二人きりでいたが、やがてジェニーがスープを運んできた。彼女はしばらくそこにいておしゃべりをしていたが、叔父がいかにも眠そうで話したがらないのを見ると、小声でブレンドンに話しかけた。彼女はまだ動揺しているふうで、何か大いに気がかりなことがある様子だった。
「あとで、できたらあなたにお話したいことがありますの――いいえ、ぜひともお話しなくてはならないわ。あたし自身がもう危ないんです、あなただけが頼りよ」ジェニーはそう囁いた。その眼には恐怖の色と懇願するような表情とが入り混って浮かんでいた。そして自分の手をブレンドンの袖においた。その手をブレンドンの手がしっかりと掴んだ。ジェニーの言葉に彼はすべてを忘れてしまった。ついにジェニーは、自分の意志で彼の胸にとびこんできたのだ。
「ぼくを信頼するんです」ブレンドンは彼女にだけ聞こえるように囁いた、「ぼくにとって何物にもかえがたい大切なものはあなたの幸せなのです」
「ドリアはあとでもう一度外出するはずなの。あの人さえ出かけてしまったら――日が暮れてからですけど――そうしたら安心して二人でお話できるわ」ジェニーはそういうと急いで部屋を出ていった。
アルバートはジェニーが出て行くとすぐもそもそと体を動かした。そして着替えをすませると窓際の寝椅子に横になった。
「仮病をつかうのも楽じゃないよ。今日はまた特に体の調子がいいんだ、ゆうべのうまいご馳走のせいでなおさらいいらしいわい。ピーターにいわれたのでなかったら誰がこんな真似するものかね。仮病をつかうだなんてわしの性分には合わんのだ。だが、この疑惑の黒雲も今日こそすっかり吹き払われるとピーターがいうのだから、わしも辛抱せずばなるまいよ。ブレンドン君、ピーターは恐ろしい疑いを抱いているようなんだ。あの男はこれまで決して善良な人々に疑いをかけたことはないのに、今日はわしにいっさい飲み食いするなというのだよ、わしの自分の家だというのに。それはつまり、この家の中に敵がいるということじゃないか。これほどつらいことがあるかね?」
「用心のためですよ」
「疑うということほどわたしにとってつらいものはない。わしは疑いを抱こうとしないのだよ。疑わしいことがある時にはただちにその疑いの原因となるものをとり除くのだ。たとえそれが本であってもだ、どんなに貴重な本でも二度と手にしない。わしは疑いを抱いて苦しむのはいやなのだ。この家にいるのはアスンタとエルネストと姪夫婦だけだろう。みんなよくできた善良な人間だよ、そのうちの誰を疑うのだって忌まわしい限りじゃないか、わしにはとてもそんなことはできないよ」
「ほんの二、三時間の辛抱ですよ。そうすればきっと、一人を除いてあとの三人は無実とわかります。そうですとも、わたしはそう確信していますよ」
「どうやらピーターはジュゼッペに目ぼしをつけているらしいのだが、わしにはそれが理解できんのだよ。あの男はわしに対してはいつだって礼儀正しいし、思いやりもみせてくれる。ユーモアのセンスもあるし、人間性がわれわれが持ちたいと望む多くのものに欠けていることも、あの男はちゃんと知っている。文学に対しても正しい感覚を持っていて、好もしい読み方をする。あれは立派なヨーロッパ人だよ。それに、ポジーは別として、わしの知っているなかでニーチェを理解できるのはジュゼッペだけだ。あの男にはこれだけすぐれたところがあるのだよ。ところがジェニーでさえもが、ジュゼッペをまるでろくでなしのように思っているらしくてね、あの子は夫に失望したようなことを公然というのだよ。わしは人間を形成するのには何が必要かは知っているが、夫の資格については全くの無知なんでね。もちろん人間として立派だからといって必ずしもいい夫とは限らないようだね、女にはそれぞれ夫というものの基準があるらしいから。それにしても、女というのは何が望みであり、何が望みでないのか、わしには皆目わからん」
「ドリアをお気に入りですね?」
「嫌う理由は全くないからなあ。ところでわしの不幸な弟も――もしほんとに潜在意識による幻なんかでなくて、君たちの考えているような人間であるとすればだが――まもなく捕まることだろう、あいつ自身のためにも、わしたちみんなのためにもそれがいいのだ。さて、わしはこれから葉巻でもふかしながらボエティウスの『哲学の慰め』でも読むとしよう。ジュゼッペには会わないことにするよ。約束したのだからね。わしは病人ということになっているんだ。だが、あの男は気を悪くするだろうなあ。頭もいいが感じやすいところもあるやつだから」
アルバートはそういって立ち上がると、お気に入りの著者のものを並べてある小さな本棚のところへ行った。そしてやがてボエティウスに読み耽りはじめた。ブレンドンは窓の外を眺めやり、湖や、水に映った夏空の輝きを見ていた。キラキラ光る水面のむこうには、ベラジオの家々の尖塔や糸杉が小高い丘の麓にかたまって見えた。時折、白い汽船が行き交うたびに、水を打つ外輪車の音が聞こえた。
ドリアは帰ってきて午後しばらくの間家にいた。そしてジェニーから叔父さんはだいぶよくなったがまだしばらく寝ていたいらしい、と聞かされた。ドリアはいつもの陽気さをとり戻した様子で、葡萄酒を飲んだり果物を食べたりした。そして食堂にちょっと顔を出したブレンドンを相手にしゃべった。
「あなたもガンズさんも、この赤毛の幽霊狩りに飽きたときには、トリノのぼくのところへいらして下さいよ。そうすれば、ぼくの提案がもっともだってことを、あなたからジェニーに納得させていただけると思うんです。金なんて何のためにあるんです。ジェニーは二万ポンドという金をあそばしているんですよ、その夫のぼくが、資本家にだってめったに提供できないような投資のチャンスを提供しようといってるんです。トリノでぼくが友人たちとやってることを、まあ一度見に来ていただかなくちゃね。そうすりゃあなただってジェニーにぼくの分別の良さを見直させることができるんですから!」
「新型の自動車だといったね?」
「ええ、ノアの箱舟に対する大洋航路の定期船といったところかな、これまでのどんな自動車だって足もとにも及ばないようなやつですよ。みんな目を丸くしてぼくたちに注目しているんです。それなのにわずか数千ポンドの事業資金に行き悩んでいるんですからね。せっかく小犬が兎を見つけても、大きな犬に横取りされるというわけですよ」
ジェニーは何もいわなかった。すると、ドリアは妻にむかって衣類を鞄につめるように命じた。ジェニーが部屋を出ていくと彼はいった、
「こんなところにいつまでもいられませんよ。男の暮していられるところじゃありませんからね。ジェニーはたぶんこのまま叔父さんのところにいるつもりでしょう。あいつはご存知のようにぼくの顔を見るのも嫌になってるらしいですからね。ブレンドンさん、ぼくは全く不幸せな男ですよ、だってあいつに愛想をつかされるようないわれは全然ないんです。しかし、もしジェニーに新しい恋人がいてそいつに夢中だというんなら、いくら吠えたりわめいたりしたって無駄というものですしね。嫉妬なんて愚か者のすることですよ。しかしぼくには仕事がある、仕事でもなかった日には、ぼくだっておかしくなりますよ」
そういってドリアは部屋を出ていった。ブレンドンがアルバートのところへ戻ってみると、老人は不安そうな様子でしきりとおびえていた、
「ブレンドン君、わしは不幸せだ。だんだん不安になってきたよ――わしの愛する者たちになにか恐ろしい災害がふりかかりそうな予感がするのだ。ガンズ君はいつ帰ってくるのかね?」
「日が暮れたらまもなくですよ。たぶん九時頃には帰るかと思います。もう少しの辛抱ですよ」
「今日のような気持ちに襲われたのははじめてだ。不吉な予感がわしの心を暗くするんだよ――もう終局がくるという感じだ。ジェニーもそんな気がするというのだよ。何かが狂っている。ジェニーもそんな予感がするというんだ。もしかしたら、あの子のいうように、わしの親友にもなにか心配事があるのかも知れん。ヴィルジリオとわしは双生児《ふたご》みたいなものでな、不思議と同じように感じたり考えたりするのだよ。きっと今ごろはわしのためにあの男も不安な思いをしているに違いない。エルネストを使いにやって、だいじょうぶかどうか確かめ、こっちもだいじょうぶだと知らせてやりたいような気もちだ」
アルバートはそんなことをなおもしゃべっていたが、やがてバルコニーへ出て湖のむこうのベラジオの町を眺めやった。そのうちにしばらくの間ポジー氏のことは忘れたらしい様子で、前夜ガンズがこっそり持ち帰った食物を少し食べた。そしてまた話し出した、
「ピーターはこの家の中に裏切り者がいると心配しているようだが、わしにはそれが悲しいのだよ。神さまは全能でいらっしゃるのだから、わしの楽しい無害な生命を、毒薬ごときに奪い去らせるようなことをなさるはずはないじゃないか? ピーターがこんな恐ろしい商売なんぞやめて、あのすぐれた頭をもっと美しいことを考えるのに使うようになってくれたら、わしはどんなに嬉しいかしれやしない」
「レッドメーンさん、スープはどうなさいました?」
「グリロが一滴のこさずなめちゃったよ。そのあとこの美しい猫はいつもの習慣通り、食後のお祈りをゴロゴロのどの奥で唱えた。そして今は安らかにおやすみだよ」
ブレンドンはその大きなペルシャ猫に目をやった。猫はみるからに気持ちよさそうに眠っていた。彼が触ると目を覚まし、あくびをして伸びをし、ゴロゴロいったがやがてまた丸くなって眠ってしまった。
「ピンピンしてますね」
「あたりまえだよ。ジェニーの話だとジュゼッペは明日トリノへ帰るんだそうだ。だがジェニーの方はここしばらくの間わしの傍にいるつもりのようだよ。しばらく別れて暮してみるのもいいかも知れん」
そうやって二人でたばこをふかしながら話しているうちに、アルバートは昔話をはじめ、いろいろと楽しそうに思い出していた。そんな思い出話をしていると現在の不安は忘れるらしく、オーストラリアで過ごした若い頃のことや、その後書籍商となってからのことなどを機嫌よくしゃべったりした。
そのうちにジェニーもきて、みんなはいっしょにお茶の用意のできている食堂へ行った。
「もうすぐ出かけるところよ」アルバートの姪は小声でブレンドンに囁いた。ブレンドンはジェニーが夫のことをいっているのだとすぐ気づいた。アルバートは相変らず食べものも飲みものもいらないといった。
「ゆうべいささか暴飲暴食したのでね、明日ぐらいまで胃を休ませてやらなくてはならんよ」
彼はおおかたドリアとしゃべっていた、――トリノの本屋に宛てた伝言をあれこれと用意していたからである。みんなはゆっくりしゃべったりお茶をのんだりしていたので、老人が自室へひき上げるころにはもう陽が傾いて物の影が長くなっていた。やがてジュゼッペは、自動車の事業のことをジェニーにうまく納得させてくれと、半ば冗談のようにブレンドンにもう一度念をおすと、例のタスカン葉巻に火をつけ、帽子をかぶって出かけて行った。
「ああ、やっと!」ジェニーはホッとしたように顔を明かるくして囁いた、「あの人二時間はだいじょうぶ帰って来ないから、二人でお話できるわ」
「それならここじゃいけない、庭へ出ましょう。そうすればあの人がいつ帰ってきてもわかりますからね」
二人は黄昏《たそが》れの庭へ出て、樫の木の下に置かれた大理石のベンチに並んで腰をおろした。そこは入口のすぐ傍で、誰か通れば必ず気がつく場所であった。やがてエルネストが出てきて、唐草模様の鉄の表門の上の電燈を点けていった。そのあとはまた二人きりになった。するとジェニーは遠慮も慎しみもうちすててしまった。
「よかったわ、やっとあなたに聞いていただけるんですもの」そういったかと思うと、彼女の口からは懇願の言葉がせきを切ったようにほとばしり出た。ブレンドンはその勢いにのまれて心の緊張をことごとくおし流されてしまった。最初は驚き、戸惑ったものの、次の瞬間には嬉しさでいっぱいになっていた。
「どうかあたしを救って」ジェニーは哀願した、「あたしを救って下さることができるのはあなただけなんですもの。あたしはあなたに愛していただく資格のない女です、だからあたしのことなんかもう気にかけては下さってないと思いますわ。馬鹿な女だとさえ思っていらっしゃるんでしょうね。でもあたしは自分を馬鹿だとは思っていないわ、だってあたしはあの憎んでも憎みたりない男のあわれな犠牲者だったのだということが、今はよくわかったのですもの。あの人に乞われるままに結婚したのは、今にして思えば決して自然な愛情によるものじゃなかったんです。あの男のもっている魔力のせいなんです――イタリアで『悪魔の目』という、あの魅きつけて離さない力のせいです。あたしはこれ以上の苦しみはないと思われるほど苦しめられてきましたけれど、そんな扱いを受けなければならないほどあたしは悪いことはしていないはずです。催眠術か何か、そういう悪魔的な魔力にかかってあたしは人を見る目を狂わせられ、欺され、駆り立てられるように結婚してしまったのです。
『烏荘《クロウズ・ネスト》』でベン叔父が亡くなったころから、ドリアはあたしをあやつり始めたんですわ。その時はあたしはあやつられているとは気づいていませんでした。気づけば、どんな人であれ、人にあやつられるぐらいなら自殺したほうがましですもの。あたしはそれが愛情だと思いこんでいたからこそ結婚したのです。そのうちに彼の手のうちがわかってきましたけれど、あの人はあたしがどれほど早く気づこうと、平気のようでした。でも、気違いにならずにいようと思えば、あの人と別れるほかないのです」
一時間ほど彼女はそうやって、耐え忍ばなければならなかったかずかずのことを縷々《るる》述べた。ブレンドンは何もかもうち忘れて聞き入っていた。ジェニーは時折り彼の肩にそっと手を触れ、また時には彼の手を握ったりもした。ブレンドンが、全身全霊を捧げて彼女を救うと約束した時などは、感謝のあまり彼の手にキスさえしたのだった。ジェニーのいきがブレンドンの頬をなで、ブレンドンの腕はすすり泣くジェニーの肩を抱いていた。
「どうぞあたしを救って。そうしたらあなたのもとへ行きますわ」ジェニーは約束した、「もうあんな男に騙されてはいませんわ。あの人は夜になると、お前をわなにかけてやったんだなどといって得意げに笑ったりするんです。あの人はあたしのお金だけがめあてなんです。でもあの人から離れることさえできるんなら、一銭残らずやってしまっても惜しくはないんです」
ブレンドンはほとんど信じられないような喜びにわれを忘れた。ついにジェニーの愛が得られたのだ。ジェニーは、彼女の青春を無残にうちこわした二度の悲劇のことを忘れることのほかは、いまは彼の胸にとびこむことしか望んでいないのだ。
ブレンドンはジェニーを両腕にしっかりと抱いた。そして彼女を慰さめ、励まし、平和で幸せな、満ち足りた将来が彼女を待ち受けているのだということを悟らせようと心をくだいたのだった。また一時間が過ぎた。二人の頭上を蛍が飛びかい、甘い花の匂いが庭中にたちこめていた。家の窓にはあかりがともった。今は話しやめた二人の耳に、湖に浮かぶ汽船のスクリューの音が低く聞こえてきた。ドリアはまだ帰らない。やがて教会の時計が鳴りはじめたとき、ジェニーは立ち上がった。彼女はブレンドンの足もとにひざまずき、彼を救い主とまで呼んだのであった。大きく変わるであろう自分の運命を夢み、早くも、未来の妻を現在の苦しみから解き放ってやるための方策を夢中で考えていたブレンドンは、その時やっとわれにかえった。
ジェニーは彼をそこへ残したまま、アスンタを探しに行ってしまった。汽船の音に、ガンズが近づいているらしいと思ったブレンドンは慌《あわ》てて家へ入った。家の中は静まり返っていた。そして彼が大声でアルバートを呼んだとき、湖の上の船の音が止んだ。誰も答えない。ブレンドンは書斎からその隣りの寝室へ行ってみたが部屋はからっぽであった。湖の上へ張り出しているベランダへも急いで出てみたが、アルバートの姿はどこにも見えなかった。あかりを全部消した、まっ黒な細長い船が一隻、ピアネッツォ荘から百ヤードほどのところに錨をおろしていた。そして今、その水上警備艇から一隻のボートがおろされ、ブレンドンの足もとの段へむかって近づいてきた。同時にジェニーが傍へきてきいた、
「アルバート叔父さんは?」
「それがわからないんです、呼んだんですが返事がありません」
「マーク!」ジェニーは不安におびえた声で叫んだ、「もしかしたら……」彼女は大声で叔父を呼びながら家の中へ入って行った。やがてアスンタの声がしたかと思うと、ジェニーの恐怖の叫び声が聞こえてきた。
だがすでにブレンドンは、ボートを迎えようとして段をおりていた。彼の心はまだちぢに乱れていた。ボートを安定させようとして抑えている彼の頭上に、ジェニーが出てきて早口で叫んだ、
「家にはいないわ! ああ、そこにいらっしゃるのガンズさんかしら、すぐ来て下さい。叔父が船で出かけてしまったんです、それに主人はまだ帰ってないんです」
ガンズはいっしょに来た四人の男と共に急いでボートからおり、ブレンドンに話を聞いた。しかしブレンドンには詳しい話ができず、ジェニーがかわって話した。自分とブレンドンが、玄関と表門を見張りながら庭で話している間に、裏口へベラジオからボートで使いが来て、アルバートへ宛てた伝言をもってきたのだ、と彼女はいった。アルバートに約束を忘れさせ、危険がさし迫っているのだからとあれほど警告されたことすら忘れさせるほどの訴えがあるとすれば、考えられることはたった一つだ。老人を急いで出かけさせたのはまさにそれであったのである。アスンタの話によると、イタリア人の使いがベラジオから小舟で来て彼女を呼び出し、ポジー氏が倒れて重態だという悪い知らせを伝えた。ポジー氏は友だちみんなに、一刻も早く来てもらいたがっている、ということだった。
「ヴィルジリオ・ポジーさまが倒れなさって危篤です。すぐレッドメーンさまにおいで願いたいとおっしゃってますので。間に合わんといけませんからどうかすぐに」使いの者はそういったという。
アスンタはすぐにその伝言を伝えた。だんなさまにとってこの知らせがどんなに重大なものか知っていたので、彼女は急いでアルバートに伝えたのだ。凶報を聞いたアルバートは、深い苦痛に悶えながら五分後には舟に乗り、友人の住む岬へむかったのだった。
アスンタは、だんなさまがおでかけになってから少なくとも一時間はたった、といった。
「それほんとうかも知れないわ」ジェニーがそういったが、何が起こったのかブレンドンにはわかり過ぎるほどわかったのだった。
みんなはガンズの命令に従うことになり、彼はてきぱきと指図を下した。ガンズは、ブレンドンに、彼が生涯忘れることのできないような一瞥《いちべつ》をくれた。しかしそれに気づいたのはブレンドン自身だけだった。ガンズはいった、
「このボートであの船まで行くんだ、ブレンドン君。そしてポジー氏のところまでできるだけ早くやってくれ、といいなさい。もしアルバートがポジー氏のところにいたら、そのまま置いて君だけ帰ってくるんだ。だがむこうにいなければ、アルバートは水の底だぞ。行きたまえ!」
ブレンドンは慌《あわ》ててボートに乗った。ガンズといっしょに来た警官のひとりが、手帳を一枚破いて二、三行書きつけた。それを持ったブレンドンが黒い船まで行ったかと思うと、船はもうベラジオを指して全速力で暗闇の中へ姿を消していた。
それを見届けると、ガンズは残った者の方へむき直った。そしてジェニーを含めて全員に、自分といっしょに居間へ来るようにといった。そこには夕食の支度ができていたが、人は誰もいなかった。
「真相はこうだ」ガンズは説明をはじめた、「ドリアはアルバート・レッドメーンをこの家の外へおびき出すのに、唯一つの確実な手段をとった。そしてその妻がすけだちに全力を尽くしたことはまず疑いない。つまり彼女は、わたしが留守を任せておいたわたしの仲間の注意をほかへそらしたのだ。彼女がそれをどのようにやってのけたかは、容易に察しがつく」
ジェニーの憤った目がガンズを睨みすえた。顔を紅潮させて彼女は叫んだ、
「何もご存知ないくせに――あんまりですわ、侮辱だわ! あたしはあんなに苦しみをなめてきたのに、まだ足りないとおっしゃるんですの?」
「奥さん、もしわたしの間違いでしたら、わたしはまっ先に認めましょう。しかしわたしは間違ってはいない。これまでの経過から見て、ご主人は夕食に帰ってくると思ってよさそうだ。十分も待てばいいんです。アスンタ、台所へ戻っていなさい。エルネスト、庭に隠れて、ドリアが入ったらすぐ鉄の門に鍵をかけるんだ」
私服を着た三人の大柄な警官たちは、これらの言葉を署長であるもう一人の男に通訳してもらった。次いでエルネストは庭へ出て行き、警官たちはそれぞれ持ち場についた。ガンズはジェニーを椅子にかけさせ、彼女のすぐ傍の椅子に自分もすわった。ジェニーは一度、部屋を出て行こうとした。しかしガンズがそれを禁じた。
「潔白なら何ものも恐れることはないでしょう」ガンズはそういったが、ジェニーは相手を無視してひとりで何かを考えているふうだった。彼女はしだいに青ざめていき、まわりに立ちはだかった男たちの見慣れぬ顔に次々と目をやった。沈黙が流れた。やがて五分ほどすると、鉄の門のカチャリという音が聞こえて、外に足音がした。ドリアはいつもの歌を口ずさんでいた。彼はまっすぐ居間へ入ってきて、人が多勢いるのに唖然とし、あたりを見まわした。ついで彼の目は自分の妻にじっとそそがれた。
「いったいどうしたんだ?」ドリアは驚いて叫んだ。
「勝負はついた、君の負けだよ」ガンズが答えた、「君は稀代の悪党だ! だが君を敗北させたのは他でもない、君自身のその自惚《うぬぼ》れだよ!」そういうとガンズはすばやく署長の方をふりかえった。署長は逮捕令状を示しながら英語でいった、
「マイケル・ペンディーン、君をロバート・レッドメーン及びベンディゴ・レッドメーン殺害容疑で逮捕する」
「それにアルバート・レッドメーン殺害容疑も加える」ガンズが低くおし出すような声でいった。それと同時に彼は驚くべき敏捷さでわきへ跳びのいた。容疑者が手近のテーブルの上にあった重い塩入れをやにわに掴んで、ガンズの頭めがけて投げつけたからである。そのずっしりしたガラスの壼は、ガンズの後の古いイタリア製の鏡に当って砕け散った。その音に思わず皆の目が一斉にふり返った瞬間、ドリアが戸口の方へ突進した。彼の動作は稲妻のごとく、とり抑えようとした時にはすでに敷居を越えていた。だが、部屋の中に一人、それを見ていた者がいた、彼はいま拳銃を構えた。この若い警官は――後にそれで名をあげたのであるが――ドリアから瞬時も目を離さなかったのである。そしていま、彼は発射した。その動作はすばやかった。だがそれよりもなおすばやい者がいた、彼の意図を見抜き、先まわりしたのだ。マイケル・ペンディーンを狙って射たれた弾丸《たま》はその妻に命中した。ジェニーが戸口の方へとび出して、おのれの身体でそれを受けとめたからであった。
彼女は声も立てずに倒れた。逃げようとしていた男はすぐふり返ると、逃げるのをあきらめ、妻にかけよった。そしてひざまずくと彼女を胸に抱きよせた。
もう逃げるおそれはなかった。彼が死んだ妻を抱きしめ、その唇に接吻すると、彼女の口から溢れ出る血が彼の唇を濡らした。彼はもう刃むかおうとはしなかった。ジェニーがこときれたのを知ると、抱いて長椅子まで運んでそっと横たえた。それからむき直って手錠の方へ両手を差し出した。
そこへマーク・ブレンドンが入ってきた。彼はいった、
「ポジー氏は使いなど出さなかったそうです。アルバートさんはベラジオには居られませんでした」
[#改ページ]
第十七章 ピーター・ガンズの方法
ガンズとブレンドンは、ミラノから特等列車に乗りこんでカレーへむかった。ガンズは左の腕に喪章を巻いていた。その連れは、深い悲しみのいろを顔にただよわせていた。ブレンドンは急に年をとったかに見えた。顔はやつれ、声さえ若さを失っていた。
ガンズはそのような彼の気を変えさせようと心を砕いていた。ブレンドンは聞いているかに見えたが、その実、心は遠くにあり、ある一つの墓のことを思いめぐらしていた。
「フランスとイタリアの警察は、わたしの国のアメリカの警察と似ているなあ」ガンズはいった、「君たちイギリスの警察にくらべるとずっとあけっぴろげだ。そこへいくとスコットランド・ヤードの君たちは全く秘密主義だよ。しかもそのやり方のおかげで他のどの国よりも優秀な成績をあげている、と主張しておいでだ。もっとも数字が裏書きしてはいるがね。ニューヨークでは、一九一七年に二百三十六件の殺人事件があったが、有罪が確定したのは六十七件に過ぎない。シカゴでは一九一九年に実に三百三十六件もの殺人が行なわれたのに対し、有罪確定は四十四件。ひど過ぎるよ――なあ? パリでは凶悪犯罪が年間ロンドンの四倍も行なわれる、しかもあの通り人口は遥かに少ないのにだよ。そこで双方の検挙数はどうかというと、何とフランスの摘発件数はイギリスの半分しかないんだ。君たちのカードボックス・システムのおかげというべきだろうね」
ガンズが何かとしゃべり続けているうちに、ブレンドンはわれにかえったようだった。
「お気の毒なアルバート・レッドメーンさんの話をして下さい」彼はそういった。
「おおかた君の知っていることばかりだよ。ペンディーンが黙りこくっている以上、少なくとも身柄が本国に引き渡されるまでは、実際に起きたことしかわれわれにはわからないわけだ。しかしわたしには他の細かい点についても確信があるがね。あの時、家を出て行ったのはいうまでもなくペンディーンだ、その間に細君の方は君を掴まえて話をしていた。彼女は、嘘八百をならべて君の心を奪った、それで君はあの夫から彼女を救うにはどうしたらよいかということ以外、いっさい忘れさせられてしまったんだ。
彼女は巧みに話を運んで君自身の将来のことまでもち出し、君の大切な義務を忘れさせるために最も効果的なことを口にしたのだ。親愛なるアルバートよ、どうかわたしの不明を許してくれ。だがね、ブレンドン君、君もいまに思い返してみて、大きな損失をうけたのは君ではなく、わたしなのだということがわかってくるだろうよ。マイケル・ペンディーンは、人の見ていないところへ来るとボートに乗り、変装した――つけ髯はちゃんと持っていたからね。そしてまもなくアルバートの石段のところへ漕《こ》ぎつけた。アスンタを呼び出したが、彼女にはその男が誰だかわからなかった。彼は自分はベラジオのヴィルジリオ・ポジーの使いの者だが、ポジーが重態だといった。
アルバートにとってこれほど強力な誘惑が他にあるだろうか。彼はいっさいの思慮を忘れ、五分後にはベラジオへむかっていた。ボートは暗闇の中を一気に湖のまん中まで進んだ。そこに死と埋葬がアルバートを待ち受けていたのだ。ペンディーンは一撃のもとに彼を殺したにちがいない――たぶん、ロバートやベンディゴを殺したときも同様にやったのだろうね。そのあと、当然、あらかじめ用意してあった大きな石を重しにつけて、深い深いコモの湖底へ犠牲者を沈めたにちがいない。そしてまもなく、つけ髯をポケットにしまい、からになったボートを漕いで帰ったのだ。あの男はアリバイも用意していた。その後の調べによると家へ帰る前一時間以上も『旅館《アルベルゴ》』で酒を飲んでたそうだからね」
「ありがとうございました」ブレンドンは謙虚にいった、「その通りだったにちがいありません。ところでガンズさん、もう一つだけお願いがあるのです。この事件のうち細かい点でわたしにはわかっていない部分があるのです。つまりイギリスへお帰りになった時あなたがどこへ行ってどういうことをなさっていらしたのか、一つ一つ辿って教えていただけたらありがたいと思うんです。わたしは自分でそのあとを辿ってみたいんですよ。あなたは裁判にはお出にならないと思いますが、わたしは出なくてはなりませんからね。それに、ありがたいことに、これでわたしが法廷に姿を現わすのも最後ですから」
彼は、すでに表明したある決意のことをいっているのだ。つまり、警察をやめ、他の職業をみつけて残りの人生を送るつもりなのである。
「それもいいが」ガンズは金のたばこ入れをとり出しながら答えた、「できれば考え直してくれないか。君は苦い経験をし、多くのことを学んだ、それらのことは人生においてばかりじゃなく、仕事の上でも今後なにかと役に立ってくれるはずだよ。悪い女に打ち負かされてそのままでいてはいけない――神さまが気まぐれにお創りになったああいう女悪党に、われわれはめったにお目にかかれるものじゃないんだ、そういう女に出くわし、よく観察することのできた君は幸運だということを忘れてはいけない。顔は天使のようでも心は悪魔だ。時が経《た》てば、こんなことは長い経験のうちの一時的な切れ目に過ぎないということが君にもわかってくるだろう、それもほんの初期のころの話に過ぎない。君の前途にはこれからまだまだたくさんの立派な、価値のある仕事が待ち受けているんだよ。君ほどこの仕事にふさわしい人間はいないのに、今その仕事を棄ててしまっては神さまにまっ向うから反逆するようなものじゃないか」
シンプロン・トンネルの闇の中を汽車がまっしぐらに進む間、しばらく話をやめて長い沈黙が続いたが、やがてガンズは、レッドメーン家事件の謎を見事に解き明かした自分の捜査のあとを、一歩一歩辿って説明しはじめた。
「この前わたしは、君はそもそもの最初から始めていない、といったね。すべては実にそのことに要約されるんだよ。君はこの事件の中で並々ならぬ位置を占めていたのだ。悪知恵を自負し、結局は彼の身を滅ぼしたあの抑えがたい自惚れにそそのかされた犯人自身が、わざと君をひき入れたのだ。ついでに腕ききの刑事を巻き込んでからかってやろうという考えは、彼にとっては楽しみの一つだった――いや、彼の芸術といってもよかろう。君はマイケル・ペンディーンの血の盃の薬味だったのだ――塩であり、香料であったのだ。もしあの男が肝心の犯罪だけに専念してやっていたら、たとえ千人の刑事がかかってもあの男の計画をぶちこわすことはできなかったろう。ところが彼は獲物を追いつめた虎のように楽しんでいた。基本的な計画にいろいろと細かな細工をほどこすことに喜びを感じた。彼は芸術家だった。だが、装飾の仕方が華やか過ぎた、頽廃的《たいはいてき》過ぎた。そのゆえにこそ、世紀の犯罪ともなり得べきものを彼は仕損じたのだ。これこそ人間の陥りやすい誤りであり、幾多の大犯罪者が天罰をまぬがれなかったのも実にこの性質のゆえなのだ。
被害者ではなく見せかけの犯人の方へ人々の注意を集中させようというのが、あの男の最初からとった方法だった。すでに起きたことには疑間の余地はないかに見えた、だからペンディーンは死んだものと思われたが、最後まで確証はあがらなかった。ロバート・レッドメーンに関してはいろいろと詳しい話が入手できたが、被害者とされている者に関する詳細は、公式の捜査の全過程を通じて、ただの一つも入手できなかった。この被害者については、君はその細君から話を聞いたわけだ。プリンスタウンで君が一番最初に彼女から聞かされた話――彼女が、もちろんペンディーンの指図に従って、君を招いて事件を担当してくれるよう頼んだ時のことだよ――はうまく語られていた。それはどの点から見てもほとんど真実に近い話だったからだ。
だが、アルバートの姪と会って話をしてみてから、わたしは君が彼女から聞いたという話をなおよく考えてみるようになった。そしてまもなく得た確信は、ジェニーの先夫に関してもっともっと探り出す必要がある、ということだった。しかしその頃からもう真相の手がかりを掴んでいたわけじゃあないんだよ。どういたしまして、わたしはもっといろいろなデータが欲しかっただけなんだ。それにマイケル・ペンディーンの経歴というのがどうもあやふやな点が多いと思われたからだよ、なにしろ彼について詳しい話を知っているのはその細君だけなのだからね。わたしは彼女が話してくれたこと以外にもっともっとどうしても調べなくてはいけないと思ったんだ。いろいろと質問はしたのだが、彼女はペンディーンについてあまり多くは知らないのか――それとも故意に話さなかったのか、とにかくそんなふうだった。ジェニーの三人の叔父については、マイケル・ペンディーンに会ったことがあるのはロバートだけで、ベンディゴとアルバートは一度も会っていない。この事実は、最初はさして重要なこととも思えなかったが、わたしの捜査がもっと後の段階にきてから、当然非常な重要性をもつこととなったわけだよ。
最初わたしはペンザンスへ行き、数日を費やしてペンディーン家に関するできるだけ詳しい資料を集めた。そして、マイケル・ペンディーン自身に関して聞き出せる限りのことを聞き出す準備として、まず、彼の家系を調べ始めたところ、たちまちにして非常に重大な発見をした。マイケルの父親のジョーゼフ・ペンディーンはいわしの取引きのことでしばしばイタリアを訪れており、その結果イタリア人を妻にしているのだ。彼女は夫とともにペンザンスに住み、息子を一人生んだ。そのあと女の子も生んだが子供の頃に死んでいる。この婦人はかなりスキャンダルの種をまいたようだが、それというのも彼女のラテン人らしい気性や何事につけても活発なやり方が、夫やその一族の生活している謹厳な信心深い環境と相容れなかったからだ。
彼女は時々イタリアを訪れた。ジョーゼフ・ペンディーンはもちろんこの結婚を後悔していたようだ。わたしにいろいろ話してくれたある人の意見では、彼は離婚を考えたこともあるらしいが、息子のために思いとどまったということだ。マイケルは母親を非常に慕っていて、よくいっしょにイタリアへ行ったようだね。そうやってよくイタリアへ行っていたある時、十七か十八の頃だが、事故に会って頭に怪我《けが》をしたという話だ。ところがその時の様子についてはどんなに調べても詳しいことがわからなかった。彼は無口で観察力の鋭い青年だったらしい。そして父親とは一度も争ったことがないそうだよ。
彼の母親のペンディーン夫人がとうとうイタリアで死んだ時、その夫はナポリで行なわれた葬式に列席したが、それがすむとすぐ息子をつれてイギリスへ帰った。少年はその後歯医者になりたいといってある歯科医のところへ見習いに入った。なかなか見込みがありそうで試験にも合格し、一時はペンザンスで開業していた。だがそのうちに歯医者の仕事にも飽き、父親の会社に入った。そして|いわし《ヽヽヽ》の取引きの関係でイタリアへも行くようになり、一か月ぐらいずつ滞在することがよくあるようになった。
彼の性格について教えてくれることのできる人はほとんどいなかった。それに彼の写真というものがどこにもなかった。ただ親戚のあるおばあさんが、マイケルは無口で気むずかしい子供だったと教えてくれた。そのおばあさんはまた、彼の両親の古い写真を見せてくれたが、それには三歳ぐらいのマイケルもいっしょに写っている。父親は大して立派な人とは見えなかったが、母親というのはたいへんな美人であったらしいな。そしてその母親の顔を虫めがねを通してよく見た瞬間に、わたしはこれはある人の顔によく似ているという最初の確信を得たのだよ。
しかしわたしは次のような規則を自分でもうけている。つまり、ある直感がひらめいてなんらかの手がかりが得られそうだとなっても、ひとまずその霊感《インスピレーション》をおさえておいて厳しくかつ否定的な検討を加え、それまでに判明しているあらゆる事実に反しないかどうかつき合わせてみるのだ。そういうわけで、マイケル・ペンディーンの母親の写真に、ジュゼッペ・ドリアの美しい顔の面影を見つけたと思ったわたしは、そのことから導くことのできる推論を片っぱしから覆えそうとして、知っている限りの事実を並べてみた。だが、わたしの心の中で早くも形をなしつつあるその説を、完全に論破できるだけの材料が一つも見当らなかった時、わたしがどれほど深い興味と驚きを感じたことか、まあ想像してみて欲しい。それまでに判明している確実な事実のうち、一つとしてこの説と相容れぬものはなかったんだ。
この時には、しかし、ジョーゼフ・ペンディーンの妻がジュゼッペ・ドリアの母親であるとするのは間違いだと断ずるだけの材料は、何も見当っていなかった。だが、そんな考え方は無意味だということを証明する多くの事実が、わたしの知らないところにいくらでもあるのかも知れなかった。わたしはそれらの事実をどうやって手に入れようかと考えたが、当然のことでわたしの考えはジュゼッペ自身にむけられた。しっかりした土台に辿りつくまでには、われわれは往々にして、まことにあやふやな過程を経るものだ。そういうことを君に示すために、わたしはこの段階ではまだ、ドリアとマイケル・ペンディーンが同一人物だとは想像もしていなかったということをいっておこう。それがわかったのはずっと後だよ。その時にはわたしは、平和なペンザンスの町に波風を起こしたようなペンディーン夫人のことだから、ひょっとして故国のイタリアでもう一人男の子を生んだかも知れぬと考えたのだ。そしてマイケルと、そのイタリア人の異父弟とはお互いに知り合っていて、二人が共謀してレッドメーン家の三兄弟殺しを狙っているのではないか、と思ったのだよ、マイケルの妻にレッドメーン家の全財産を相続させるためにね。
ペンザンスで調べられるだけ調べてしまうと、こんどはダートマスへ出かけた。その理由は、ジュゼッペ・ドリアがモーターボートの運転士としてベンディゴの家へ雇われた精確な日付けを、なんとかして知りたいと思ったからだよ。ところがベンディゴの知人というのを一人も見つけられなかった。しかしやっとひとり医者が見つかった、この人自身はドリアの来た日などについては何も知らなかったが、もう一人の人を紹介してくれた。それは二、三マイル先のトア・クロスという町で旅館をやっている人の由で、この人がその重要な日付けを知っているかも知れないということだった。
会ってみると、ノア・ブレイズというのは頭のいい、てきぱきした男だった。ベンディゴ・レッドメーンはこの人を以前からよく知っていた。それで、トア・クロス・ホテルに一週間泊って、この人のモーターボートで釣りをしたりなんかしてみてから、『烏荘《クロウズ・ネスト》』にも一艘置く気になったのだそうだよ。それで買い入れてはみたが、最初に雇った運転士はだめな奴だった。それで求人広告を出したところ、申し込みがたくさんきた。ベンディゴはイタリア人たちと航海したことがあって、イタリア人の船乗りを気に入っていたから、ジュゼッペ・ドリアに決めた。推薦状も特別よかったからだ。ドリアはやってきた。そして着いて二日後に、ボートにベンディゴを乗せてトア・クロスまでブレイズに会いに行っている。
ちょうどプリンスタウンで殺人があった直後だったから、ベンディゴはもちろんそのことで頭がいっぱいだった。ブレイズもその悲劇に大いに関心をそそられていたから、新任の運転士にゆっくり目をとめている暇などなかった。だがここで肝心なことは、その新任のジュゼッペ・ドリアが『烏荘《クロウズ・ネスト》』に到着して新しい任務についたのが、殺人の翌日――つまり、弟のロバートがフォギンターでしでかしたという事件のことがベンディゴの耳に入ったその日だということだ。
この重大な事実を手に入れたわたしは、これをもとに事件の骨組を組立てていった。手がかりを得て一歩進むたびに、次の一歩の手がかりを掴むことができてついにゴールに達したのだが、その経過はあらためて語るまでもなかろう。ロバート・レッドメーンの姿は、マイケル・ペンディーンが殺されたとみなされた晩に人の目に触れている。ペイントンの家に帰るまでの足どりはつかめた。そして、朝だれも起きないうちに下宿を出たが、それ以後は杳《よう》として行方知れずだ。ところがその同じ日に――たぶん午前《ひるまえ》と思われるが――ジュゼッペ・ドリアが『烏荘《クロウズ・ネスト》』に到着している――誰も知らない、誰もこれまで見かけたことのないイタリア人だよ。
このことは、マイケルに異父弟がいるという推論が不用になったことを意味していた。またこのことから、ダートムアで命を落したのはペンディーンではなくて、彼の妻の叔父ロバート・レッドメーンだということもわかったのだ。そしてロバートは今もダートムアに横たわっているのだよ、君!」
ガンズは嗅ぎたばこをつまんでからまた続けた、
「このとほうもない推論をひき出したわたしは、全部の事実をもう一度検討し直したのだが、それらの事実はますますもって興味深い様相を呈してきた。わたしはわたしの組立てた説をぶちこわす一撃が、いつ加えられるか知れないと思っていた。またどこで、別の必然性が出てきてわたしの説を覆《くつが》えすかわからぬと思った。ところがそんなことは起こらなかった。もちろん、細かい点ではわからないことがたくさんある。今、それを知っている人間で生きているのはたった一人、ペンディーン自身だけだ。だが主な出来事は真相を描いた一枚の絵となって、ダートマスからアルバートの待つロンドンへ帰る前に、わたしの頭の中にはっきりと浮かび上がっていたのだよ。大きな事柄はすべて判明し、ゆるぎないものとなっていた。この絵にはぼやけている点もあったが、何を描き表わそうとしているのかは明瞭だった。そして一見理屈に合わないと思われる、信じられないような細かな点さえ、マイケル・ペンディーンの性格と考え合わせると説明がついたのだ。
ところで、このへんでペンディーンの俳優としての素質に賛辞を呈しておこう。彼は『ジュゼッペ・ドリア』なる人物を思いついて実際に創り上げたが、これは十分に考えぬいた上ででき上がった作品であり、まことに見事なものだったと思う。彼は実際にその人物になりきっていた。そして、本来の、どちらかといえば陰気で、うちとけない性質とはまるで反対の性格や生活態度を、毎日毎日演じてみせた。彼もその妻も、生まれながらの犯罪者であると同時に、生まれながらの喜劇役者でもあったのだ。
さて本題に戻るが、その時だいたいつかめたことはこういうことだった。つまり、前景と中心と背景とを綜合してみると、論理的に矛盾のない完全な絵ができ上がっている、ということだ。それを描いた絵かきの性質を考え合わせれば合理的でさえある。予言してもいいが、あの男は死ぬ前に詳しい手記を残すことだろう。あの並はずれた虚栄心がそうさせずにはおくまいからね。あの男が誠実なものを書くとは考えられないし、第一彼は最後まで観客を意識していることだろう。だがきっと、処刑される前に彼は冒険談を詳細に書き残すと思うね。それに、チャンスさえ掴めば、自殺の方法にだって何か新しい細工をほどこすことだろうよ、あの男はそれを考えているに違いないからね。
さてこれから、わたしがどのようにして、次から次へと事実を持ち出してはわたしの理論を爆破しようと試みたかということや、その結果わたしの理論がどんな攻撃にもビクともしないので、ついにはそれを受け入れ、それに基づいて行動を開始せざるを得なかったかという顛末《てんまつ》を話してみたいと思う。
まず、ペンディーンは生きていてロバート・レッドメーンが死んだものと仮定することから始めよう。次に、フォギンターで妻の叔父を片付けたペンディーンは、被害者の服を着込み、赤毛の口髯と鬘をつけてレッドメーンのオートバイでベリ岬へむかった、と仮定する。死体を入れたと見られる袋は見つかるが、死体は見つからない。彼の狙いは、死体のありかをそれによって仄めかし、捜査を一定の場所へ集中させることなのだ。だが、海へ投げ棄てることは危険と考えた、ロバート・レッドメーンの死体が浮かび上がってせっかくの計画をぶちこわすような危険な真似は絶対にしたくなかった。そうとも、被害者の死体はフォギンターからどこへも運び出されてはいないのさ、どこにあるかはいずれマイケルが話すだろう。
その間に偽《に》せものの雰囲気ができ上がって、それに乗じてペンディーンは『烏荘《クロウズ・ネスト》』へ行って就職する。そうして次はどうなる? 最初の手がかりは――ロバート・レッドメーンから兄に宛てたように装った偽《に》せの手紙だよ。それを送ったのは誰か? ジェニー・ペンディーンがプリマスを経由してベンディゴ叔父の家へ行く途中で投函する。ジェニーとその夫はまもなくまたいっしょになる――次の攻撃の準備のために。さっきもいったように、あの夫婦は役者になるべき人間だったんだよ、その方がレッドメーン家の財産など全部集めたって足もとにも及ばないほど莫大な金が儲かっただろうに。だが彼らの身体には犯罪者の血が流れていた。あの二人は鋏《はさみ》の刃のように出会うべくして出会ったにちがいない。そしてお互いに何から何までぴったり呼吸《いき》が合うことを発見したのだろうよ。彼らにとっては悪も善だった。そしてお互いに法律などなんとも思わぬ人間であることを理解し合ったとき、二人は力を合わせるべきだと感じたのだ。相当にしたたかな女だったようだな、マーク。だが彼女は人を愛することも知っていた。悪女だって善良な女と同じく人を愛することができるのはもちろんだからね――いや、悪女の方がはるかにすぐれていることもある。
二人は『烏荘《クロウズ・ネスト》』に腰をおちつけた。やがてマイケル・ペンディーン殺人事件もあまり騒がれなくなった。ジェニーは未亡人を演じてはいたものの、相変らず好きなだけ夫の傍にいられるというものだ。そして二人で哀れなベンディゴを消す計画をねった。ベンディゴはもちろんペンディーンに会ったことがない、だからこそドリアなるペテンが可能だったのだ。ここで一つ、大きな問題となるのは殺人の順序についてだ――これを説明できるのはマイケル自身だけだ。この点がわたしにもちょっとわからない。だって、ロバート・レッドメーンがプリンスタウンにやってきて、姪やその夫と仲直りすることになる以前に、マイケルはベンディゴの運転士になることに決まって、まもなく偽名を使い、別人になりすましてイタリアへ行く手はずができていなくちゃならんのだからね。わたしは、あの男はベンディゴからやるつもりだったと考えたいんだがね。そして、ロバートが思いがけない時にダートムアへ立ちあらわれたもんで急に計画を変えたのだと思う。わたしの考えが間違っていないとすれば、この予期しない出来事が、彼の最初の演技への道を開いたのだと思うよ。しかしこの推定に対しては、そのうち彼自身が説明してくれるだろう。その時頭の中でどのように考えたのかもいずれわからせてくれると思うよ。
さて次は、準備段階のうち、ベンディゴの死で終る『烏荘《クロウズ・ネスト》』における部分だな。どういう計画がねられていたのかははっきりわからないが、君が二度目にダートマスへ行ったこと――ふい打ちに訪問した時のことだよ――そのことは彼らの計画の実行を早めたのだ。君はきっかけを与えたというわけだよ。つまり、あの嵐の来そうな月夜の晩、君が『烏荘《クロウズ・ネスト》』を辞す前に、ペンディーンはロバート・レッドメーンの扮装《ふんそう》を用意しておいて、その姿で君の前に現われたのだ。しかもそれだけではあきたらず、その役を最大限に活用した。すなわち彼はロバート・レッドメーンとしてストリート農場へ押し入り、そこの主人のブルック氏にもわざと姿を見せた。そうしておいて、翌朝にはドリアとしてダートマスにいる君のところへ、マイケル・ペンディーン殺害犯人が姿を現わしたと告げに行ったのだ。
彼がこうして二人の人物を使いわけてどんなに面白がっていたかは、容易に想像できる。また、君を存分にからかうことだって、妻の協力によっていとも簡単にできたことだろう。君は、ドリアがジェニーに関心を示すのを嫉妬し、彼女がドリアの誘惑に負けるのではないかと気が気ではなかった。そういう君を横から眺めるという無上のたのしみさえ、ペンディーンは発見していたのだ。一方ジェニーは――そう、彼女の君に対する態度をもう一度ふり返って考えてみるのも無駄じゃなかろう。全く偉大な女優だった。だが、それがペンディーンに対する愛情から発したものか、それともあの不幸な叔父たちに対する憎しみに由来するのか、はたまた彼女自身の才能が純粋に創造的なよろこびからそうさせたのか、それは誰にもわからない。おそらくこの全部の感情がそれぞれ働いたのだろう。
次はその偽せものとの目隠し鬼の話だ。一歩一歩辿ってみたまえ。ベンディゴは、付近に姿を現わしたという弟に一度も会っていない。君もその後は一度も会わない。君とベンディゴは森中を捜索したが無駄だった。しかるに、モーターボートで出かけたジェニーとドリアはロバートのニュースをもって帰ってきた。彼女は涙にくれて帰ってきた、ロバート・レッドメーン――すなわち夫を殺した犯人――に会ったというのだ! 彼女とモーターボートの運転士とは彼と話も交わしたといい、その惨めな様子を詳しく説明した。また、兄にひどく会いたがっている、とも伝えた。二人は実に見事な、そして写実的な絵を描いたのだ。ロバートはベンディゴと二人きりでなければ会わないといっている、また食料とランプを隠れ場所へ持ってきてほしいそうだ。これまではフランスにいたのだが――ここのところは君に聞かせるためだったんだよ、マーク、――だがもうこれ以上迫われる身の辛さには耐えられない、といっている、等々。
これで準備はできた。ベンディゴは夜中にひとりで弟と会う決心をした。だがここで老水夫の勇気が挫《くじ》けたとしても無理はなかろう? そこでベンディゴは、ロバート・レッドメーンが約束通りやってきた時、塔の部屋に隠れていてくれるよう君に秘かに頼んだ。彼は弟に手紙を書き、ジェニーとドリアは食料やランプと共にその手紙を持ってふたたび海へ出かけた。二人が出かけた間に、君は来るべき会見を見守るために塔の部屋へ隠れた。そしてやがて帰ってきたボートの二人組に、ベンディゴは、君はダートマスへ帰ったが明日の朝また来るはずだといった。その後のことは君が精確に覚えているだろう。夜になって約束の時間がくると、塔の部屋へ上がってくる足音が聞こえてきた。ベンディゴはいよいよ弟と会うのだと覚悟を決めた。ところが現われたのはロバート・レッドメーンではなくてジュゼッペ・ドリアだった。この男はその前にジェニー・ペンディーンのことについてベンディゴと長いこと話し合っている。ジェニーを愛しているとかそんな話を老水夫に話した。戸棚に隠れていた君はその話を聞いてしまった。またベンディゴがその話はあと半年ぐらいの間は二度と持ち出してはいかんとドリアにいったのも聞いた。
さてその次のことが最初はわたしにも不可解だった。だが今はわかったと思っている。その点をはっきりさせてくれることのできるのはペンディーンの手記だけだろう、あの男がそんなものを書き残すとすればの話だがね。とにかくわたしの推測では、彼はベンディゴと話し合っているうちに、君がその部屋の中に隠れていることを見抜いたのだと思う。あれは並はずれて鋭い観察力をもった男だよ、だから誓ってもいいが、彼はジェニーのことをベンディゴと話し合っているうちに、君がその部屋の中にいると気づいたんだよ。
そうなると彼の計画は大幅に修正されなくてはならなくなった。ペンディーンがその晩ベンディゴを片付けてしまうつもりだったかどうか、断言はできないと思うだろう。だが疑いの余地はまずないよ。準備は万端ととのっていたのだ。まずベンディゴが単独でロバートと会う手はずがととのえられ、そのことは君も含めてみんなに知らされたわけだ。ペンディーンの妻は死体を運び出すのを手つだうために階下で待っているという寸法で、彼らの計画はもう最後の部分を残すのみというところまできていたのだよ、従って、もし万事計画通りに運んでいたら、つまり君がその晩ほんとうにダートマスへ帰っていたら、翌朝おそらく君はベンディゴの姿が見えないという報に接したことだろう。そして塔の部屋に抵抗した跡や、ぬかりなく床になすられた血の|しみ《ヽヽ》をみつけたことだろうが、他には何一つみつけられなかったにちがいない。
ペンディーンは君が隠れているのを見破ったのだ、と仮定してはじめて、彼の計画が君の鼻先で実行されなかった理由が説明されるわけだよ。ペンディーンは、もしその晩一時に主人がたったひとりで待っていると信じていれば、きっとその時にやってしまったに違いない。そしてそのあと、さっきわたしがいったように死体を運び出したに違いない。ところが彼はそんなことをしていないのだ。彼はひどく興奮してやってきて、またロバートに会ったという。そして、ロバートは気が変って、夜、自分の隠れ場所で二人きりでなら兄と会うといっている、と伝える。
これを聞くとベンディゴは君に戸棚から出てこいといった。するとドリアは猛烈ないきおいで怒ったり驚いたりしてみせた。
さてここでまた、追われる身のロバートの惨めな様子が生けるがごとくに伝えられる。そのためベンディゴはとうとう弟の隠れ場所まで行く気になった。ランプをつけておくから隠れているという洞穴はすぐわかるということだった。翌日の晩が来て、ベンディゴは死ぬべく出かけて行った。おそらく、岸へ上がったとたんに殺されたに違いない、そして死体は海へほうりこまれたのだろうな。またしても死体は発見されないということにしたいからだよ。ペンディーンは君と細君の待つ『烏荘《クロウズ・ネスト》』へ帰ってくる。そして兄弟はいま話し合っていると報告し、隠れ場所の位置を教える。そうして間もなくまた出かけるが、この時に例のいたずら心を起こして、トンネルから台地まで血のあとをつけるなど、翌朝警官どもをわなにかける細工をしたのだよ。
そのあとの無益に終った捜査については述べる必要もなかろう。すべてはペンディーンの計画通りに運んだのだ。そしてその後の人間狩りが、どんなにあの吸血鬼夫婦を喜ばせたかは、君とて容易に想像できるはずだ。
レッドメーン三兄弟のうち二人までが死んで、残るはあと一人となった。その間に真実の恋愛のほうも順調に進行して、ドリアは自分の細君ともう一度結婚する。アルバートや君を満足させるために、少なくともそう発表したわけだ。いうまでもないが、二人は夫婦として南へ行き、実際は挙げもしなかった結婚式を挙げたように通知を出した。そして適当な時期を見はからってわたしの不運な友だちアルバートを狙いはじめたのだ。
あの天真爛漫《てんしんらんまん》でおだやかなアルバートといっしょにいたら、奴らの心だって真実の人間らしさに触れないわけはなかろうと思わないかね? あれほど心の広い、誰にも好かれる人間と身近に接していたら、さすがの奴らだって哀れを感ずべきだと思わないかね? ところがそうじゃないのだ、彼らはアルバートを殺しにやってきた。そして疑うことを知らないアルバートは、自分を殺しに来た下手人どもを喜んで迎え入れたのだ。彼は自分の姪よりもジュゼッペの方に好感をもっていたようだが、これは興味あることだ。正直な話、ジェニーの気もちがさっぱりわからん、とわたしにいっていたよ。ジェニーが最初の夫をあんなにあっさりと忘れてしまったのが、アルバートには不思議だったのさ。彼は繊細な感受性の持ち主だ、だからそんな無神経さが気に入らなかったのだよ。第一、ジェニーはペンディーンと結婚する時、父親そっくりの強情でわがままな性格をむき出しにして叔父たちの反対を押し切り、何が何でもという勢いで結婚したのだからね。
とにかく奴らは悪企みをもってやって来た、そして喜んで迎えられた。そして間もなく――愚行をやってのけた! 彼らの残忍極まる計画の、それは弱点でもあった。つまりドリアはまたしてもロバート・レッドメーンを墓から甦えらせ、またしても君に挑戦したのだ! アルバート・レッドメーンを殺すだけなら、もっと簡単で安全な方法がいくらだってあったのだ。住んでいた環境といい、あの信じやすい純真な性格といい、アルバートは殺人鬼の餌食にはもってこいだったんだ。だがペンディーンの自惚れはこれまでにも餌食をたらふく食べてますます太っていた。彼は芸術家だ。だからあらゆる配慮を払って完全な作品を創り上げたいと願った。それは犯罪の最高傑作として不朽のものでなければならなかった。安易な方法をとることは彼のプライドが許さなかった。すべては最初に計画された筋書通りに運ばれ、完遂されなければならないのだ。そして最後の作品をいよいよ立派なものに仕上げるために、ペンディーンは自ら危険を求め、わざわざ困難な方法を考え出したのだ。
つまり、またぞろ偽せものを登場させたのだ。しかもロバート・レッドメーンがコモ湖畔に現われたという報告が、ジェニーから叔父になされるだけでは不十分であるとし、もう一人証人が必要であるとしたのだ。そこでアスンタ・マルツェリが赤髯、赤毛、赤チョッキの大男を目撃したというわけだよ。更にアスンタは突然現われたこの大男を見てジェニーさまは気絶なさった、という報告もしたんだ。いいかい、思い出してごらん、ジェニーの夫はその頃トリノにいるものとアルバートは思っていたのだよ。そのあとはお定まりのやり口だ、まもなくドリアは何喰わぬ顔でドリアとしてやって来る。彼ら夫婦は自分たちの題材をいじくりまわして楽しんでいたのだ、あれこれと細かな細工をほどこしてきらびやかに飾り立てていたのだ。すなわち自分たちの不幸な犠牲《いけにえ》を恐怖に陥れ、そして君を招《よ》んだ、もちろん前と全く同じようにして君を嘲弄するつもりだったのさ。
アルバートがわたしを招《よ》んだからといって彼らはあわてはしなかった。ピーター・ガンズとはいったい何者だ? ははあ、アメリカの有名な探偵か。結構! 獲物がもう一匹ふえるだけのことだ、まさに国際的な大勝利というわけじゃないか。アルバート・レッドメーンは、われわれの計画にうってつけの観客の面前で殺されるわけなんだ。アメリカとイタリアとイギリスの警察が一致協力してロバート・レッドメーンを追い求め、アルバートを救おうとするのだ。ところがどう致しまして、一方は捕まらないし、もう一方は彼らの鼻先で命を落とすしガンズはブレンドンの顔を見ていった、「そして奴らはその通りにやってのけたのさ、君のおかげでね、マーク」
「そしてその報いを受けた――あなたのおかげで」ブレンドンは答えた。
「われわれも人間だからね。機械じゃないんだ」ガンズはいった、「恋という曲者が君の頭に忍び込み、君をすっかり興奮させてしまったんだ。ペンディーンが抜け目なくそれを利用したのはもちろんのことだ。いやもしかしたら、そもそも事件の発端に、君の助力を求めるようジェニーにいいつけたその時からあの男はそれを計算に入れていたのかも知れないよ。ジェニーのことを男性がどういう目で見るか、彼はよく承知していたのだ。プリンスタウンで、君のことを調べ上げてあったに違いないさ、だから君が独身であることも知っていたのだろうよ。だからね、何年か経って、苦痛を感じることなく過去をふり返ることができるような時が来れば、君だって広い見地に立って考えることができるだろうよ。そして自分自身を客観的に眺めてみて、自分を許す気になるだろうし、君の受けた罰が君の犯した過ちに対して過酷過ぎたことも認めることだろうと思うよ」
夕闇迫るローヌの渓谷を、汽車はまっしぐらに突き進んでいた。山々の頂きが迫り来る夜の中に溶けこもうとしていた。列車ボーイが顔をのぞかせていった、
「お食事の用意ができております。おさしつかえなければその間にベッドの用意をさせて頂きますが」
二人は立ち上がり、いっしょに食堂車へ行った。
「咽喉《のど》が渇いたよ、君。一杯おごってもらってもいいと思うんだがね」ガンズはいった。
「一杯どころか何杯おごっても追っつかないぐらいですよ」
「もうそんなことはいいなさんな、考えっこなしだ。君だってふつうならわたしのしたぐらいのことはやれたはずなんだからね。それからいつでもこのことは忘れないでくれたまえ、わたしは親友アルバートに深い愛情を抱いているが、それでも決して君を非難する気はないのだということをね。非難されなければならないのはこのわたしだよ、致命的な過ちを犯したのはわたしなのだからね――君じゃないのだよ。わたしは愚かにも君を信頼した、そのことに対しては弁解の余地もない。あの時の君は信頼されていい状態になかったのだ。そういうことをわたしは当然わかっていなくてはいけなかったのだよ。人間の能力には限界がある、君を誤らせ、わたしを誤らせ、マイケル・ペンディーンを誤らせたものはそのことかも知れないね。どれほど知恵をしぼったところで人間の考えることだからね。悪漢は悪行を仕損じ、まじめな者は輝かしい業績に汚点をつけ、豊かな頭脳は突如として涸渇する――すべては善きにつけ悪しきにつけ、完全ということが聖者にも罪人《つみびと》にも与えられていないせいなのだ」
[#改ページ]
第十八章 告白
秋の巡回裁判が開廷され、マイケル・ペンディーンはエクセターで公判に付された。そしてロバート、ベンディゴ及びアルバート・レッドメーン殺害のかどにより死刑の宣告を受けた。彼は抗弁はいっさいせず、ただひたすら州刑務所の赤い壁に囲まれた独房に返されるのを待ちこがれていた。この中で彼は、残り少ない日々を一心に手記を綴ることで費やしていたのだ。まさにピーター・ガンズの予言した通りである。
その驚くべき手記はこの犯罪者の性格をまことによくうつし出している。それは一種の魅力さえ感じさせるが、その中に綴られた犯罪や、その犯罪をやってのけた張本人と同じことで、真の優秀性を欠いているし、偉大さになくてはならぬ特質をも欠いている。ペンディーンの告白には、無神経さ、誤れるユーモアのセンス、そして絢爛《けんらん》豪華さに対する強い好みがはっきり現われている。この手記が文学史上でも犯罪史上でも最高の地位を占めるわけにいかないのはそのためなのだ。手記の終りは、マイケルは決して他人の手にかかって死ぬようなことはしない、という断言で結ばれている。ペンディーンは、このことをそれ以前にもたびたび主張しているので、自殺によって刑の執行を回避することのないよう、ありとあらゆる予防策が講じられた。この点に関してはいずれ適当な折に述べることとする。
以下はその手記である。一言一句彼の書き残したままをお目にかけよう。
[#ここから1字下げ]
わが弁明
「聴け、裁判官たちよ! さらに一つの狂気があるのだ。それは行為に先んじて存在する。ああ! 君たちはこの魂の深奥をきわめ得なかった! かくて緋の衣をまとった裁判官はいう、『この者は何故に殺人の罪を犯したるか? すなわち財を奪わんと欲したればなり』だがわたしはいおう、魂の欲せしは血なり、獲物にはあらず。刃《やいば》の愉《たのしみ》に渇きしためなり、と!」
そしてまた、
「人間とはいかなるものか? 互いにいがみ合う毒蛇の群といおうか――さればこそそれぞれに餌食を求めてこの世を匍《は》いまわるのだ」
[#ここで字下げ終わり]
ある賢者がこれを書いた。まるで兎のように鈍い頭の現代人たちにとっては、彼の芸術も叡知も無にひとしい。だがわたしは、彼の著書の中にわたしの血となり肉となるものを見出すことができた。そしてわたし自身の若い感覚が、天才の輝きをもって、巨大な彼の魂のうちに反映し、結晶するのを見ることができた。
これを書いているこのわたしが、まだ三十歳にも満たない人間であることを、どうか忘れないでいただきたい。
経験に乏しいひとりの青年としてわたしは時に自問することがあった、何か別種のいきものの精神が人間の形をしたわたしの体の中に入りこんでいるのではなかろうか、と。わたしには、これまでにわたしと同じ型の、あるいはそれに近い型の人間に一人として出会わなかったように思われた、なぜならやましい心を抱きながらそれを苦痛と感じない人間を、わたしはたった一人しか知らなかったからである――それはわたしの母であった。わたしの父もそのまわりの人たちもこの苦痛にさいなまれていた。彼らは自らを惨めな罪人《つみびと》であると公言し、またそれが人間のとるべき唯一つの立派な態度であると考えていた。『安全』ということが求めるべき唯一の状態であり、『危険』は避けるべき唯一の条件であった。彼らコンウォール人こそ、まさにのら犬の臆病の典型というべきだろう!
しかしながら、それとは別の思想をもち、行動をした偉大な人物が歴史上にはいくらでもいることをわたしはまもなく知った。そしてやがて、過去の舞台から投じられた光によって、わたしはわたし自身の真の姿を知ったのである。
一般に『犯罪』という言葉が莫然と意味している行為においては、すべてがそれをなす個々の人間の価値にかかっている。そして犯罪者はいつの場合もいきなり行動に出てしまうものであり、その行為が彼自身に及ぼすであろう危険をあらかじめ考えることもしなければ、また彼の不完全な心や頭にひそむ眠らざる刑事に思いをいたすこともしないのである。だから遅かれ早かれこの刑事たちに発見され、告発されるのだ。
良心のある者、後悔をする者、抑えがたい衝動に駆られて殺人を犯した者――こういう人たちは犯行そのものはどれほど見事にしおうせようとも、しおうせたとたんに必ずやはなはだしい混乱に陥り、気も狂わんばかりになる。それは先天的なものであるにせよ、後天的なものであるにせよ、彼ら自身のもつ弱さに由来するのだ。例えば、良心の呵責《かしゃく》があれば白状するには到らないまでも、そのために必ず犯行を発見される結果となる。同様に、いかに小さな不安であろうとも、不安を抱いている以上は心の平静を保てるものではなく、従って身の危険に迫られる。実際の話、首をくくられるような者はそうされても致し方ないのである。ところがこのわたしのように、成功に酔って判断力を失うことなく、しかもいかなる感情にも左右されない確固とした、そして先の先まで見通した決意をもって行動を起こす者は絶対に安全であるはずなのだ。このようなわれわれは、しおうせた後、えもいわれぬ満足感にひたる。それはすなわちわれわれにとっての心の支えであり、心の糧であり、また報酬でもあるのだ。
これほどのどえらい経験を、殺人以外の何が提供してくれるというのか? 命をかけるほどの犯罪は数々の神秘、危険、そして勝利の喜びをわれわれに与えてくれる。だがこれらに匹敵するほどのものを、科学も哲学も宗教も果たして与えてくれることができるだろうか? 殺人に較べればすべては児戯にひとしい。いずれにせよ、来世ではわれわれの知識などは意味を失い、われわれが真実と思いこんでいるものは覆えされ、この世の知恵さえ子供の片言くらいにしか扱われないに決まっているのだ。だからわたしは机上の空論から実践に踏み切った――そしてたまたま年若くして血の味を覚える機会に恵まれたとき、わたしはしみじみとその喜びを味わったのである。
十五歳の時にわたしは一人の男を殺した。そして断固とした理由があってなされた殺人行為のうちに、期待をはるかに上まわるスリルがあるのを発見した。道ばたの泉で渇きを癒してみたら、それは思いがけなく不老不死の霊薬であった、とでもいおうか。この出来事は誰にも知られていない。父の会社の職工長をしていたこのジョーブ・トレヴォーズの死因は、今に到るも正しく解き明かされていない。この男はペンザンスに近い高台のポールという村に住んでいて、仕事場へは高い絶壁に沿った沿岸警備隊の道を歩いて通っていた。ある日わたしは、魚の貯蔵場でトレヴオーズが仲間の男にわたしの母の噂をしているのを、偶然立ち聞きしてしまった。母が何か悪い事をし、父の顔に泥をぬったというのだ。
その瞬間にわたしは心の中で彼に死罪を宣告した。そして適当なチャンスが得られないまま数週間を見送った後、ついにある日、たちこめた霧の中をたった一人で家路へむかうトレヴォーズをつかまえた。崖の上の道には他には誰一人いなかった。そして相手は小男であり、わたしは逞ましい大柄な少年であった。わたしは五十歩ばかりあとをつけてから少し歩をゆるめ、相手の首っ玉へ跳びつくとやにわに崖から抛り投げた。あっとひと声あげて彼は六百フィート下へ落ちていった。わたしは草地を駈けぬけ、暗くなってから家へ帰った。わたし自身はおろか、他にも誰一人としてこの出来事との関連を云々される者はなかった。ジョーブ・トレヴォーズの死は、その後話題にのぼるといつでも過失とみなされた――もともと酒の好きな男だったから、人々は容易にそう信じたのである。
この経験によってわたしが手に入れたのは、後悔ではなく、大人《おとな》であるという意識であった。わたしは自分のやったことに満足を覚えた。しかしわたしは誰にもいわなかった。わたしの口から真実の話を聞いたのは妻だけである。時は推移し、わたしは人並みの暮し方で日を送った。そして自分自身を知り、また人間性というものに対する理解を深めていった。わたしはいかなる種類の情熱にも決して圧倒されることはなかった。わたしは強力な自制心を培うことを心がけた。そしておのれを知り、おのれを制御できる者のみが力を得られることを知ったのである。わたしは禁断の木の実を求めようとはしなかったが、かといって、それを避けることもしなかった。わたしは秩序正しい毎日を送り、歯科医という職業をえらんだ。父の知人たちよりももっと興味のあるタイプの人間を知ることができると思ったからである。そしてわたしは、自分自身のためには常に心の扉を開け放していたが、他人に対してはその扉を閉めて開かなかったのである。
この頃のわたしの主な楽しみは、母と共にときどきイタリアを訪問することであった。すでにわたしはこの国を自分の故国と思い、コンウオールという土地にも、またそこに住むわびしい人種にも嫌悪の情を抱いていた。やがてある心理的な瞬間に、それまで眠っていた本能がひとりの少女によってよび醒《さま》された。わたしの目の前にたぐい稀な幸運がふってわいたのである。わたしはわたしと同じ気心の女性を見出したのだった。ジェニー・レッドメーンを知るまでは、わたしはわたしと同じ目で物を見ることができ、人の世のつまらぬ束縛をわたしといっしょに軽蔑できる女がこの世に存在しようとは、夢にも思っていなかった。それまでは女というものにいっさい関心がなかったのである。ただし母だけは別であった。わたしの母のように寛大な精神をもち、ユーモアを解し、そして因襲にとらわれない女性をわたしはそれまでひとりも知らなかった。
ところが、その頃、ふとしたことで知り合ったあの脳無しのロバート・レッドメーンが、学校の休暇のあいだ自分があずかるのだといって姪を連れてきた。その十七歳の女学生のうちに、わたしは異教徒的な単純さのすばらしい精神を発見した。それはギリシャ的な美しい姿態と相|俟《ま》ってわたしの心を烈しく揺さぶった。二人が初めて会ったその日から、いや、男女がいっしょに泳ぐなどもってのほかと反対する叔父を笑いとばした彼女の声を聞いたその時から、わたしは憑《つ》かれた者のようになった。ジェニーもまたわたしのうちに、彼女の心が無意識に求めていた補いと得がたい追加とを見出してくれたと気づいたときの、わたしの勝ち誇った喜びは容易に察していただけると思う。もっともそれがどれほど大きな喜びであったかは想像もつかないにちがいないが。
その精神を彼女は自分では理解していなかった。だが今やその清らかな烈しい白い焔は、わたしにだけ秘かに輝やいたのである。わたしたちは最初に理解し合ったその瞬間から互いに深く愛し合った。そしてそれぞれが相手の心の中に見出した新鮮な掘り出しものによって、二人は密接に結びつき、尊敬と愛情を深めていった。あの愚かしいペンザンスの町に、わたしたちのようなすばらしい男女、美しく、創意に富み、恐れを知らず、ひときわ優れた男女が現われたのは初めてだったにちがいない。人々は、あたかも牧羊神とニンフを見るかのごときまなざしでわれわれ二人をみつめた。だが彼らは、われわれの心もまたわれわれの肉体にふさわしくすばらしいものであろうとは思ってもいなかった。情熱の火と火は触れ合い、ジェニーが学業を終えないうちにわたしたち二人は永遠におたがいを捧げ合っていた。
ジェニーがわたしのうちに見出したものはわたしの稀にみる男性美と、それに加えて善悪をそれぞれの位置においたまま、生まれつきそなわっている本能によってそれらを超えて天翔《あまか》ける知性であった。わたしがジェニーのうちに見出したものは、強烈な好奇心であり、法律などものともしない精神であり、ありふれた偏見や常識的な意見をいっさいもたぬその態度であった。わたしは自分が、なにものにも手を触れられていない貴重な宝石の発見者であるような気がしたほどだった。彼女の頭脳は純粋であり、いかなる迷信にも惑わされることはなかった。彼女は経験に対する健全な渇きを訴えた。彼女はわたしを愛し、わたしの生活態度を愛した。わたしたち二人は互いの心の奥深くへわけ入っては、新たな発見をすることに夢中になった。時にはわたしたちはふつうの人を相手に実験を試みることもあった。そしてまもなく、二人とも役者としての稀にみる素質に恵まれていることを発見した。
実際に、ジェニーは、役者になりたいという野心をその以前からもっていたのだ。だが、死んだ父親はおそらく反対しなかったであろうが、彼女の後見を託されることとなった三人の愚かな叔父どもがこの野心に横やりを入れた。ひとりの輝かしい女優がこうして失われ、わたしの妻となったのだ。
ジェニーはわたしに対していっさいの隠しごとをもたなかった。だからわたしはまもなく、彼女がいずれは相続するはずの財産のことを知った。だが、三人の叔父どもの命をちぢめたものはその財産に対する期待ではない。ジェニーもわたしも食人種では決してないのだ。そしてわたしの少年時代の殺人の経験にジェニーは惹きつけられ、わたしの資質をいよいよ賛美したが、だからといってまだその頃は二人とも叔父たちといさかいを起こす気はなかったのである。
初めてわたしがジェニーと会った頃には、彼女の祖父がまだ存命であり、その財産の高や配分などについてわたしたちは別に考えてもいなかった。なぜなら二人は当時夢中で愛し合っていて金の価値を云々するどころではなかったし、第一わたしたちの高等な性質が、そんなさもしい計算に一分でも無駄な時間を費やすことを許さなかったのである。
だが一年が過ぎ、ジェニーはわたしと結婚し、雙子の星として新生活に入る気になった。もちろんわたしはそれを強く望んでいた。条件はととのった。ジェニーの祖父が死に、彼女はまもなく豊かな財産を手に入れられることになったし、わたしはその前からペンディーン・アンド・トレキャロウ商会からの収入を得ていたからだ。
そこへ大戦が起きた。そしてこの戦争という出来事によってはからずもレッドメーン兄弟に死が宣告されたのである。それはとりもなおさず彼ら自身の愚かさと洞察力のなさとが招いた結果である。その事実は皆もご承知のようだが、この愚劣な愛国者どもによって臆病者呼ばわり、非国民呼ばわりされたわたしが、どれほどすさまじい感情にさいなまれたことか、それは誰もご存知あるまい。わたしは彼らといい争うことはしなかった。ジェニーがたちまちわたし自身以上に烈しい憎悪を燃えたたせ、憤ってくれただけで十分であった。眠れる嵐を揺り起こしたのは彼らである。そして今やわれわれの稲妻が閃くのは時間の問題となった。
いったい、このわたしが国と国との争いにおのれを捧げて屍《しかばね》となるような男だというのか? ドイツとの戦争にイギリスがずるずると引き込まれて行くのを、無知なるがゆえに物を見る目もろくに持たず、小賢しい政治家たちに騙された愚かな人々が黙って見ているからといって、この輝かしい一生を犠牲にするようなわたしだろうか? このわたしが非国教徒の政府のために屠られる羊であっていいのか――愚かな祖国が保守派を信頼する気になったからといって、このわたしの体がドイツ兵にめった斬りにされていいというのか? 否!
わたしはずっと以前から戦争が不可避であると考えていた。わずかばかりの同憂の士と共に演壇に上がり、国家に警告を発したものの、盲同然の権力者どもに一笑に付されて無駄骨を折ったという経験もある。だが、そんなくだらぬ国家を救うために死ぬなどということ、イギリス政府という名の近視眼的偽善者どものために辛酸をなめ、あげくの果てに命を落とすなどということ――そんな真似をするものか!
わたしは心臓の薬を用いて兵役を免れた。もののわかった連中の多くはそうしていたのだ。わたしは傷一つ負わずずっと故国にいて、無名戦士の墓のかわりに大英帝国の勲章を授けられた。こんなことはごく簡単なことだった。
わたしの傷つけられた名誉が叔父たちに死罪を宣告したことを、ジェニーは結婚前から知っていた。だが戦争が終るまで待たなければならなかった。実際の話、ロバート・レッドメーンはドイツが片付けてくれるかも知れなかったし、年寄りのベンディゴでさえ掃海艇なぞに乗り組んでいたから国のために命を失う可能性があった。そのうちにわたしたちもプリンスタウンの|こけ《ヽヽ》集積所に志願した。ここでのわたしたち夫婦の奉仕ぶりには誰も文句がつけられないはずである。
その頃からすでに、わたしは将来の企てのために生活を変えつつあった。わたしはあご髯を生やし、めがねをかけ、あたかも虚弱体質であるかに見せかけた。なぜなら、戦争が終りしだいわたしは三人の叔父を殺すつもりであり、しかもその殺人とわたしが関係あるなどとは誰にも思わせないようにやってのけるつもりだったからだ。わたしたち夫婦は何時間も何時間もかけて計画をねった。わたしの妻ももちろん、わたしの決意に一も二もなく賛成していたからである。彼女は叔父たちを憎んでいた。身うちなればこそあれほど憎みもするのだ。それにジェニー自身不満の種があった。彼女の相続分の二万ポンドをいつもらえるかはアルバート・レッドメーンの胸三寸にあるというわけでおあずけをくっていたからだ。その金に対して少なからぬ執着を抱いていたのはわたしよりもジェニーだった。だが彼女は、十万ポンドは優にある祖父の遺産は、三人の叔父と自分とにそっくりのこされたのであること、そして三人の叔父たちはみな独身なのだから、しかるべき時がくれば当然自分が相続できると思っていいのだということをいっていた。
わたしたちは目的を首尾よく果たすために、戦争に協力して奉仕の仕事に携わった。そうすることによって、三人の叔父たちが地上から追っぱらわれないうちに彼らの心証をよくしておこうと思ったのである。プリンスタウンでわたしたちは純真な働き者のようにふるまった。いっしょに仕事をしている人たちの満足を得るために考えたことだ。わたしたちは仕事に熱中しているかのごとくふるまい、またダートムアという土地が気に入ったかのごとくに装ったが、それはどちらも見せかけであった。わたしたちの深謀遠慮の一端を述べるならば、戦争が終結したあと、わたしたちはふたたびあの荒野へ戻り、実際に家を建て始めさえしたのである。もちろんそこに住む気は最初からなかったのだ。だがそのようにして種は蒔《ま》かれ、わたしたちは仲のいい素朴な夫婦――どこにでもあるような、無邪気で偏狭で、それだけに多くの人々に好かれる夫婦、という印象をみんなの心に刻みつけてしまったのである。
さていよいよわたしの告白に移るわけであるが、その前に、外部的事情によって細部が修正され、はじめに立てたプランが改良されたことを認めておく必要がある。わたしのこの融通性を考えれば、頭のいい、偏見をもたぬ批評家なら誰しもわたしの偉大さをいよいよはっきり感じとるはずだ。なぜなら百人中九十九人までは偶然に翻弄されて一生を送るが、わたしにとっては偶然も一種の霊感やチャンスを与えてくれるものであるからだ。わたしは偶然を飼い馴らし、その口にくつわをはめ、その疳《かん》の強い首におもがいをつけた。偶然はわたしの最初の計画を大幅に変えはした。だがわたしの才能に口出しするだけの力はもたなかった。偶然は指輪の奴隷〔『アラビアン・ナイト』に出てくる話。魔法の指輪をこするといつでも奴隷が出てくるという〕となり、おのれに優る断固とした意図にはおとなしく従った。
三人の叔父たちは戦争にも死なずに生き残った。わたしはまず、わたしと一度も会ったことのないベンディゴとアルバートを片付けて、その後で古いつき合いのロバートを処理しようと計画していた。ところがそのきわどいところへ他ならぬロバートが無邪気な小羊のごとくにやって来て、今では誰一人知らぬ者ないあの犯罪の、目もあやな構想を思いつかせてくれたのであった。
わたしを侮辱し、名誉を傷つけた者どもを根こそぎにする時がいよいよ来ていた。そしてベンディゴ・レッドメーンがモーターボートの運転士を求める広告を出した時、わたしはその挑戦に応じたのだった。わたしは妻を残してサウサンプトンまで出かけ、そこから、イギリスをよく知っていてこの国で職を求めているイタリア人の船員というふれこみで応募した。海は子供の頃からわたしの遊び場であったし、モーターボートの扱いには完全に自信があった。ベンディゴがわたしを採用するとは思えなかったし、この手はじめの試みで目的の場所へ首尾よく行けるとも思えなかった。わたしは外国人の推薦状を偽造したが、そのぐらいに留めておいた。ところがわたしは採用された。ベンディゴはかつていっしょに船に乗り組んでいた経験からイタリア人が好きだった上、わたしの手紙を気に入り、わたしの嘘っぱちの戦闘経歴が気に入ったのだ。そこで六月の末のある日から就職することに話が決まり、わたしはこの興味のある知らせをもってプリンスタウンへ帰った。
わたしが最初に考えた計画については説明する必要もないと思う。だが想像力に富む読者なら、ベンディゴが難なくこちらの手中に陥り、わたしの最善と思う方法で殺されたにちがいないことを、容易に推察できるだろう。さて、わたしが『烏荘《クロウズ・ネスト》』へお目見えすることになっていた日の二週間ほど前に、ロバート・レッドメーンが現われたためにすべてが一変した。おかしなことには、彼が現われた日のちょうど前日に、妻がベンディゴとの契約を破棄するようわたしに強く主張し、わたしもほとんどその気になっていたのである。妻はロバートがペイントンに滞在中であることをどこかから聞いてきてあった。わたしと彼が顔を合わす――つまり、ロバートが兄の家を訪れてわたしを見破るかも知れぬという可能性は大いにあり、その危険は避けるべきであった。だからロバートがプリンスタウンにやって来た時には、わたしはジュゼッペ・ドリアになりすます計画をほとんど断念していたのである。そしてわたしたちは和解した。ところがこの時――わが愛する輝かしきジェニー! この段階は徹頭徹尾ジェニーの手柄なのだが――ジェニーが目もくらむようなすばらしいチャンスが目の前にぶらさがっていることに気づいてくれた。末梢的な部分にいたるまで何一つおろそかにすることなく、周到な計画が立てられた。冒険とおぼしきこと、危険とおぼしきことにはすべて慎重な策が講じられた。
いつベンディゴの家を訪問するか知れないロバートというものがいては、『ドリア』は危険である。ロバートはうかつな男であるとはいえ――実際、騒々しいばかりでうすのろだから騙すのは容易だが――、これほど似ていれば『ドリア』なるイタリア人がわたしであることを見破るにちがいない。旧交をふたたび温めた今はなおさらである。だが、ロバート・レッドメーンを黙らせてさえしまえば、彼を消してさえしまえば、『ジュゼッペ・ドリア』として老水夫のところに住みこんでいても安全というものだ!
ベンディゴのところへ行く前にロバートを抹殺してしまおうというこの決意によって、不可避的な手段がとられることになった。ロバート・レッドメーンの死の一週間前には、この計画のすべての段階の手はずが決められていたのである。
第一歩は何だったか? それはあご髯をそってくれとジェニーがわたしに懇願することだった! 彼女はしつこくそれを頼み、ロバートにも加勢を求めた。彼もジェニーを支持したが、わたしは彼の破滅の日まで二人にさからっていた。当日の朝になるとわたしはさっぱりと剃《そ》りおとして二人の前に現われた。彼らは喜んだ。他にも細かい点でいくつか下準備がほどこされた。ある時、妻は叔父のオートバイに便乗してプリマスまで行き、叔父には何か買物をさせておいてその間にバーネルという舞台衣裳の専門店で女物の赤毛のかつらを買った。彼女は家へ帰るとそれを男物に改造した。一方わたしは家主のゲリー夫人が出かけたすきに、ロバートの赤毛の飾りものとそっくりな色をした剥製の狐の尻尾から毛を少々失敬して大きな口髭をこしらえた。これだけ揃えれば十分だった。変装に必要なあとのものは、ロバート自身が身につけて石切場へ行ってくれるわけだから。
だがわたしは先の先のことまで考えておかなければならなかったから、他にもいくつかの品を石切場へ運んだのである。お茶のあと、ロバートと二人でオートバイで出かけるとき、わたしは手さげ袋を持って行った。その中にはジュゼッペ・ドリア用の服装――平凡な紺《こん》のサージの三つぞろいとヨット帽――を入れてあった。それから凶器――レッドメーン三兄弟を殺したちょっとした道具――を持って行った。これは肉屋の屠殺用の斧にそっくりで、刃が鋭くずっしりと重いしろものだ。これをわたしはサウサンプトンのある鍛冶屋《かじや》で作らしたのだが今はコモの湖の底に沈んでいる。わたしはその手さげ袋を、ウィスキー瓶《びん》とグラスなど入れて前にも石切場へ持って行ったりしていたから、今度も持って行ったところでロバートは別にいぶかりもしなかった。
わたしとロバートはそうやってフォギンターへむかった。むこうへ着いた時はまだまっ昼間で明かるかった。すでにわたしはあの石切場を研究ずみで、ロバートの永眠の場所も決めてあった。崖から地面へむかって扇状に拡がっている堆石を掘り起こせば彼が見つかるだろう――それからあの日わたしが着ていた服もひとそろい出てくるはずだ。右の方の、堆石の拡がっている部分にはみかげ石の岩棚から水が永遠に滴り落ちている。そこに、表面から二フィート下のところにロバートは今でもまちがいなく横たわっているはずだ。滴る水がその傾斜面を平らにならし、日ごとに崩れ落ちる表面がみかげ石の砂礫を彼の上に積み重ねていく。その水の滴りは、わたしの仕事の跡をとうに洗い流してしまったにちがいない。だからこれだけ詳しい説明を聞いても、彼を探し出すのは難かしいかも知れぬ。
建ちかけの家に着いてまず最初にロバートがやりたがったことは、石切場の池で泳ぐことだった。わたしが前もって彼にそういう習慣をつけさせておいたのだ。そこでわれわれは着物をぬいで十分間ほど泳いだ。これがいかに大切なことであるかはもうお気付きのことであろう。ロバートの衣服は破れ目一つつけられずにわたしの手に残されるというわけだ。そして池から家へ帰ってわたしがわたしのあの恐るべき凶器の一撃で殺したのは素っ裸の男だった。彼が背中をむけた時、屠殺斧はまるでバターでも切るかのように彼の脳天へめりこんだ。死んだのを見てからわたしは更に喉へ切りつけた。そして自分の靴を穿いて裸のまま、シャベルをもって堆石のところへ急いだ。
滴り落ちる水の真下へわたしは墓穴を掘った。ふかふかした地盤を二フィートほど掘ったが、それだけあれば十分である。そうしておいて死体とわたしの衣服を持ってきてその中へ葬り、土をかけ、あとは上から永遠に滴り落ちる水にすべてを託した。翌日の朝になれば、たとえこの石切場が捜査されたとしても、よっぽど眼の鋭い人でない限り、よもやその場所になんらかの異変があったとは気がつかないぐらいになってしまうのだ。それでもわたしはなるべく捜査を避けたかった。そしてその後にわたしのとった処置によって捜査は未然に防がれたのだ。ガンズのごとき人物ならばもちろん手がかりを発見したかも知れぬ。ブレンドンなら騙すのは簡単だ。
さてこれでわたしは、殺人行為における重大問題――すなわち死体の処置から解放された。あとはほんとらしい外観を作り上げる細工をすればよかった――わたしの仕事はそういう外観によっていつの場合も首尾よく蔽い隠されてきたのだ。わたしはロバートの服を着込んだ。体格がほぼ同じだったから、部分的には大き過ぎるところもあったがだいたいぴったりだった。それからかつらと髯をつけ、ロバートの帽子を深くかぶった――これはぶかぶかだったがそんなことはどうでもよかった。次にセメント袋をみつけ出してきてそれに血をなすりつけてから例の手さげ袋へ入れた。そしてふくらますために|しだ《ヽヽ》やら藁屑《わらくず》やらをつめこんでそれをオートバイの後へくくりつけた。こういう不恰好な物体を考え出したのは、人々に疑いの念を抱かせる必要があったからだ。
これでもう、フォギンターにはロバートのものもわたしのものも何一つ残されていなかった。もう日はとっぷりと暮れていた。わたしはいよいよ出発し、トゥー・ブリジス、ポーストブリジ及びアシュバートンを経てブリクサムへ到るまで次々と足跡を残して行った。困難を感じたのはたった一度――ブリクサムの沿岸警備隊の詰所が道路にしつらえた柵にぶつかった時だけだ。だがわたしはオートバイをかついでそれを乗り越え、やがてベリ岬の崖へむかって登って行った。運命の女神は些細な点でもわたしに味方してくれた。というのは夜だというのに行く先々に目撃者がいてくれたからである。とても人とは行き会いそうもないような場所でさえ、わたしは医者を迎えに灯台から下りてきた少年とすれ違ったのだ。だからこそわたしの通った道は一々確かめられ、この長旅の各過程の記録が正確に得られたのである。
崖のてっぺんに着くと、わたしは袋の詰めものをすっかり出し、手さげ袋はオートバイにくくりつけ、血のついたセメント袋は容易に発見されそうな兎の穴へおし込んだ。それからペイントンのロバートの下宿へ行ったのである。下宿のおかみにはその晩帰る旨の電報をあらかじめ打ってある。その家がどの辺にあるかとか、その他細かいことはロバート自身から断片的に聞き出してあったから、オートバイのしまい場所もわたしはちゃんと知っていた。それでその小屋へオートバイをしまうと、わたしはロバートの合鍵を使って三時頃家へ入り、彼のために用意されていたたっぷりした食事を平らげた。この家には未亡人がひとりと女中がいるきりだったが、二人ともぐっすり眠りこんでいた。
わたしはロバートの部屋がどこにあるかは知らなかったので、無理に探そうとはしなかった。わたしはサージの背広と帽子、茶色の靴というドリアの服装に着替え、ツイードの服、派手なチョッキ、深靴、靴下などロバートの一式を、かつらや髯や例の武器と共に手さげ袋に詰めこんだ。四時を過ぎてまもなく、わたしはきれいに髯をあたった、日焼けした顔の船乗り――人々の心に不朽の名をとどめるジュゼッペ・ドリアとなって立ち去った。
もう夜は明けていたがペイントンの町はまだ眠りから覚めていなかった。海水浴場へあと半マイルほどのところへ行くまで一人の巡査にも出会わなかった。トーキーの日の出を嘆賞してからわたしはニュートン・アボットへむかって歩き、六時前にはその町へ着いた。停車場で食事をとってからダートマス行きの汽車に乗り、十二時前には『烏荘《クロウズ・ネスト》』へ着いた。そうしてベンディゴ・レッドメーンと面識を得たのだが、彼はジェニーに聞いていた通りの人物であった。そしてわたしは、この男の友情と敬意をかちとるのはいともたやすいと見てとった。
だがこの時はわたしなどにかかずらわっている余裕はベンディゴにはなかったのである。なぜなら、ダートムアで起こった謎のような事故の知らせが早くも姪からもたらされていたのだから。
いうまでもないが、今やわたしの頭にあるのは妻のことばかりであり、わたしは彼女の第一報が届くのを首を長くして待った。この短い別離ですらわたしには辛かった。わたしたちは一心同体であり、サウサンプトンへ行った時を除いては、結婚以来まだ一度も離ればなれになったことはなかったのだ。
警視庁の刑事を巻き込もうというすばらしいことを思いついたのは、ジェニーである。その頃マーク・ブレンドンが、プリンスタウンで休暇を過ごしているという噂を耳にした彼女は、あれがそうだと人から教えられた。ジェニーは彼を正しく評価し、女性らしい直感から、彼の積極的な協力を利用すれば一そうの迫真性が得られることを知ったのだ。自分の天才的な才能に自信があったから、彼女はブレンドンの心に訴え、彼の熱狂的な援助を獲得して問題を手のこんだものにした。このことからは多くの成果が得られた。なにしろこの哀れな男は自らすすんでたちまちジェニーの虜になってしまったのだから。そして彼の無能さと怠慢とは次々と起きる出来事にはなはだ結構な風味をつけてくれたが、その間に、彼のもっている程度の凡庸な才能は、未亡人となったわたしの相棒によってかきたてられた恋情のためにますます鈍っていったのだ。このようにして彼は、時がたつにつれてはなはだ有用な人物になっていった。とはいえ、運命は馬鹿者にも味方するものとみえ、最後には実にその愚鈍さが彼の役に立ったのである。つまりグリアンテでわたしが彼を亡きものにしようとした時、そして確かにやってのけたと思った時、あの男は思いもよらぬ巧妙さを発揮したのだ。そして無意識のうちにそのあとのわたしの破局の基礎を作ったのだ。
ベンディゴが受け取った手紙は弟のロバートがプリマスで出したものとみなされたが、ジェニーが『烏荘《クロウズ・ネスト》』へむかう途中で投函したのである。わたしとジェニーで一週間も前に書いておいたのだ。もちろんその前にロバートの平凡な筆跡を練習してあった。この|おとり《ヽヽヽ》の効果をわたしは信じていたが、事実それは証明された。つまり、この手紙によって捜査当局の注意はプリマス港に集中し、その結果、ロバートはフランスかスペインに逃げのびたという説が立てられたのである。
われわれの仕事の序章はここで終る。マイケル・ペンディーン殺害事件は完全に証明可能な事実として受けとられるに到った。そして一方では、ロバート・レッドメーンの逃亡が捜査当局に対して解釈不能の問題を提供したというわけだ。事実、マイケル・ペンディーンは死んだも同然であった。というのは、わたしの最初の構想では彼は二度とふたたびこの世に姿を現わさないはずだったからだ、もちろんまた出てくるわけにはいかなかったのだ。従って、すでに『ドリア』なる人物を創造したわたしは、今やその新しい役割を、味わい楽しみながら演じ始めた――一人で脚本家と役者を兼ねたというわけだ。しかし、最初から完成された『ドリア』がわたしの頭からとび出したわけではない。偉大な役者がするように、わたしもだんだんにその性格を形造っていったのだ。そうしていつかわたしは、わたしの成り変わりである新しい人間として生活し、考えるようになっていたのである。かくしてペンディーンは空《むな》しき影とはなった。
わたしの過去は意志の力によってわたしの心から消された。わたしは別の過去をこしらえ上げ、まもなく自分でもそれを信じるようになった。妻がふたたびわたしの傍らに戻った時、わたしは再度彼女と恋におちた。わたしは生活の上でも気もちの上でも見事にジュゼッペ・ドリアになりきっていた。だからジェニーが『烏荘《クロウズ・ネスト》』へやってきて、わたしにキスし、ひしと抱きついたその最初のとき彼女のなれなれしさにどきりとしたほどだった!
一方ジェニーも、その打てば響くような才能によって、コンウォール生まれの夫のすばらしい変身をなんなく受け入れた。わたしは彼女にとっても新しい人間になった。並はずれた才能をもった女にしかできないことだったが、ジェニーはそのすぐれた演技力を発揮して、わたしのことをマイケル・ペンディーンとは全く異った、もっと内容ゆたかなもっとすぐれた人物とみなして行動した。そして想像するというこのような努力のおかげで、わたしたちは二人とも、さも新たに愛し合い始めたかのようなみせかけを創り上げ、ゆうゆうベンディゴを欺き、ブレンドンを惑わすことができたのだ。
この欺くという行為からわたしたちは無上の楽しみを味わった。このことは、どれほど大げさに説明しても大げさ過ぎることはないであろう。ベンディゴ・レッドメーンを殺すのは六か月先ということに決めた。そして細部のプランや、ベンディゴを殺すために弟ロバートを再登場させる最良の方法などを検討しているところへ、マーク・ブレンドンが馬鹿なことにまたぞろのこのこやって来た。その目にうぶな恋心をただよわせたこの男は、全くお誂《あつら》えむきに現われたものである。そしてもう一度わたしたちに手をかして、われらが老水夫の来たるべき退場の問題に対してその限られた知恵をしぼってくれそうであった。なぜならもうその頃にはマークの人物を知り尽していたから、彼を一枚加えることが、こういった場合ぜひとも望ましい真実らしい雰囲気を盛りあげるためにどれほど役立つか、わたしたちにはわかっていたからである。
わたしたちはすぐに仕事にかからなければならなかった――とにかく急ぐ必要があったので、最後の段取りをどうするか決める暇《いとま》もなく、とりかかったような次第であった。しかし、場所といい、暗い長い夜といい、またその他の条件といいすべてが、急遽企てられたこの仕事に意義と援助とを与えてくれた。わたしは即座にロバート・レッドメーンを生き返らせた。もっと手を加えている暇があれば、彼にそっくりもとのままの服装をさせるべきではなかったのである。しかしそのような大ざっぱなやり方にはそれはそれで意義があり、ブレンドンを斯くのにたしかに役立ったようだ。なぜなら、嵐の夜ふいに幽霊に出くわしたブレンドンには、おちついて理屈を考えたり、可能性を云々したりする余裕などなかったからだ。風が吹きすさび、月が照らしている中に彼はロバート・レッドメーンの赤毛の頭やばかでかい口髯や真鍮の釦《ぼたん》のついたチョッキを見た。思いもかけていなかったその幻を見たとたん、彼の頭の中にはさまざまな感情や疑惑が渦巻いてしまったから、些細な疑問が入りこむ余地などなかったのだ。
もちろん彼はあのときジェニーのことを考え、どうすればあの孤独な美しい女性に近づけるかを、大きな不安とともに思いめぐらしていたに違いない。彼はわたしの魅力をも見のがしてはいなかったから、愛情とともに嫉妬がその心を占めていたことは確かだ。そんな思いに耽っているところへ突如ロバート・レッドメーンが――あの殺人犯人が現われたのである。その時ブレンドンの頭にすぐひらめいた考えは、『烏荘《クロウズ・ネスト》』の住人たちにとって必ずしも喜ばしいものではなかったに違いない。翌朝あの男が何をするつもりだったかはわたしにはわからない。だがわたしたちは彼の行動を逆にこっちから決めてやった。ブラック・ウッズの付近で彼の前に姿を現わすことによって、わたしのロマンチックな喜劇の第二場の幕をあけたあと、わたしはしばらくそこにそのままいた。それからストリート農場まで行って夜半過ぎにあの百姓の目を覚させ、食料を盗んでいるところを目撃させておいてから急いで出てきたのである。
そうして二、三時間後にはジュゼッペ・ドリアが牛乳を買いに農場へ行き、強盗が押し入った話を聞いて帰ってくる。そして人相書を伝えると、ベンディゴはすぐそれは弟だといい、ジェニーもまたそれは叔父だという。またしてもロバート・レッドメーンが戦いを挑んできたのだ!
そのあとのことはよく知られているからここで述べる必要もなかろう。ただ、ロバートがその後はジェニーとドリア以外の人の前には二度と姿を現わさない、ということだけ記しておく。ということはつまり、彼はその後一度も現われないということだ。彼の扮装はぬぎすてられ、グリアンテの山上にふたたび出現する数か月後までは、もう着用されない。さよう、ジェニーとわたしの描写によって、ベンディゴやブレンドンは彼がまだその辺にいるものと思いこまされていたが、実はその時すでに虚空に消えてしまっていたのだ。『にせもの』もフォギンターでほんものがぐっすり眠っているのと同じように、しばらくの間もう一度眠ることになったのである。
思いもうけぬ出来事によって、事実、最初の計画は修正されたが、運命はふたたびわれわれに味方してもっとよい結果を得させてくれた。
比類なきわたしのジェニーのことを考えるとき、そして『烏荘《クロウズ・ネスト》』で彼女の示した細やかな配慮の見事さを思うとき、わたしは涙をおさえることができない――あのあざやかさ、絶妙な手ぎわ、猫のような機敏さと確かさ、そして子猫のような繊細さ。ベンディゴもブレンドンも彼女の手の中で思いのままになった。ああ、不死鳥にも比すべき得がたき女よ、おまえとわたしとは同じ精神をこの肉体に宿していたのだ! おまえはその精神を父親からうけつぎ、わたしはそれを母親からうけついだ――それは宿年の目的を果すために、あらゆる障害物をのりこえて太古から燃えつづけている火だ!
たしかに、偶然の出来事のために計画は急遽変更されなければならなくなった。わたしはロバート・レッドメーンが兄に会いに来ることになっていた晩、塔の部屋でベンディゴを殺し、妻に手伝わせて朝までに死体を運び出す予定でいた。ところが、相手は死期をおくらせた。昼間、ジェニーのことについて彼と話しているうちに、そのぎごちない視線や不安そうな様子から、誰か他に部屋の中に隠れている者があることを、わたしが感づいてしまったからである。
隠れ場所は一つしか考えられないし、またその中に隠れていそうな人物も一人しか考えられなかった。この秘密を見破ってもわたしは何気ない顔をしていたし、あの刑事も自分から暴露したわけではない。だがあの男が隠れていることに気がつくや、たちまちわたしは戸棚の小さな空気孔の一つがキラリと光っているのを見てとった。そしてその中にあの刑事が立って隠れていることを知ったのだ。このためにわたしの作戦は変更されたのであるが、かえってそれが幸いした。実際、予期していた弟のかわりにわたしが現われて、ベンディゴをあの家の中で殺すということは、翌晩の目覚ましい離れわざにくらベると、はるかに気の利かないやり方である。
老水夫を乗せて洞穴のそばまで行くと――その前にブレンドンをダートマスまで送ったあと、わたしはその浜まで舟を走らせて洞穴に立ち寄り、ランプをつけておいたのだが――わたしは自分もベンディゴの後から上陸した、そして彼が岸に上がったとたんに斧がふりおろされたのである。彼は一瞬にして死んだ。そして五分ののちには彼の血が砂の上に流れ出た。そのあとわたしは、三十分もたてば潮が満ちて隠れてしまうはずの場所へ、砂利を掘りおこして墓穴を作った。ベンディゴ・レッドメーンが砂利の三フィート下に横たえられ、わたしが帰途につくまでに二十分とはかからなかった。『烏荘《クロウズ・ネスト》』に戻るとブレンドンに兄弟は会見していて、まもなくまた迎えが来るのを待っているはずだ、と伝えた。わたしは一、二本たばこを吸うとベンディゴの小さな港へ降りて行き、ボートからシャベルをおろして艇庫へしまい、袋を一つもってまた出かけた。
わたしが洞穴へついた時には、もうすでに波は老水夫の墓の上まで覆っていた。岸へ上がるとわたしは袋へ石や砂を半分ほど詰め、ぬかりなく血をまき散らしてから、袋を引きずって跡をつけながら石段とトンネルを登った。この跡のおかげで警察はその後二日間というもの、ご承知の通りのなさけない目的にむかって捜査をすすめたのである。台地まで登ると、わたしは袋をからにし、中身を崖の上から投げ棄てた。それからロバート・レッドメーンの靴跡を一つ二つはっきりとつけた。もちろんその靴をはいてくることをわたしは忘れはしなかったのだ。この靴跡は、フォギンターでもみつかって証拠として型がとられているのだから、マーク・ブレンドンが見ればすぐ思い出すはずであった。これらの細工をほどこしたあと、わたしは急いでトンネルを戻り、艇庫まで帰って袋をしまい、靴をはきかえた。そして作り話を用意してブレンドンのもとへ急いだ。その後ブレンドンとわたしが洞穴へかけつけたこと、無益に終った捜査のこと、そしてその結果ベンディゴの失踪とロバートの出現に対してどうしても説明がつけられなくなったこと、それらはすべて読者の記憶に新しいはずであり、ここにふたたび述べる必要もなかろうと思う。ただ、翌日あの小さな浜で首をかしげているであろう捜査陣を想像してどれほど愉快に思ったことか、いわずにはいられない。しかも、彼らの足の下一ヤードもないところにベンディゴ・レッドメーンが横たわっていることを、こちらは知っているのだからなおのことであった。
わがすばらしき妻とわたしとは、ここでふたたびしばらく離ればなれになって過ごした。そうしてそのあとわたしは彼女をイタリアへ紹介する喜びを味わったのである。イタリアにはわたしたちの仕事の残りの部分が待ちうけていた。だが、かなりの時間をおいてから次の仕事にかかるべきだと考えたので、ジェニーの最後に残った叔父の前にわたしたちが姿を現わしたのは何か月も経ってからであった。その間にわたしたちは二度目の新婚旅行を堪能し、アルバート・レッドメーンと大まぬけのブレンドン君に結婚通知を出した。ブレンドンには、わたしたちの結婚をよりよく理解させるためにジェニーの提案でウェディング・ケーキの一片を送った。ロンドン警視庁のあの刑事にはわたしたちはまだまだ用があったのである。
さて舞台はイタリアに移る。わたしが、十七、八の頃ナポリで相当ひどい事故にあったのは事実であるが、それは母とわたしだけしか知らない秘密であった。そんなことがあったからわたしは母の故国に対して恨みを抱かぬでもなかったが、しかし南国を愛するわたしの気もちが、そのことのためにいささかでも失われるようなことは一度もなかった。だからジェニーとわたしとは、仕事をやり遂げたあとはこの国に来て、品位のある平和な一生を送ることに以前から決めていたのである。
[#改ページ]
第十九章 ピーター・ガンズ形見を受け取る
わたしを中傷したがために三兄弟は自ら死を招いたが、彼らを死刑に処するという行為において、わたしがかすかなりとも後悔の念を抱いたとするならば、それはコモ湖畔にアルバート・レッドメーンと一シーズンを過ごしてから後のことである。湖それ自体があまりにも感傷をそそるものである上に、それを囲む風物が、純真無垢な平和と善意を代弁するかのようにあまりにも穏かであるので、わたしはあの無邪気な愛書家の命を奪うことを痛ましく感じかけたほどであった。だがジェニーが一笑に付したので、そんな感傷はたちどころに消えてしまった。
『あなたにそんな思いやりや感傷があるのならあたしのためにとっておいて頂戴。でもあたしはそんな気にはならないわ』彼女はそういった。
アルバートを殺すチャンス、しかもあとに何の痕跡もとどめないで殺すチャンスはいくらでもあった――それをあえてとり逃がしたがために、わたしはいまこの手記の、悔やんでも悔やみたりない部分を記述しなければならないのだ。だが、アルバートの蔵書の市場価値を調べる必要があったので、多少実行が遅れたのも仕方のないことだった。さもないと、老人の死後、ヴィルジリオ・ポジーに奪われるにちがいないからだ。あの蔵書の中には中世のボルジア家の記録など、わたしがもっと幸せな環境にいたら大いに珍重したであろうような本があったのだ。
だが、これまでずっと困難で危険な仕事を見事にやり遂げてきたというのに、赤児の手をひねるようなこの簡単な仕事にわたしたちは失敗した。しかし、わたしたちの破滅の原因はジェニーではなく、わたしにあったのである。わたしは厳しいパートナーの言葉に耳を傾けて、彼女が叔父の遺言状を探し出すのだけ待って、それが見つかり次第仕事にかかるべきだったのだ。彼女は遺言状をみつけ出した。わたしは明日の鶏より今日の卵という諺《ことわざ》を思い出して、早いうちに仕事を片付けてしまわなくてはいけなかったのである。邪魔をしたのは他ならぬ芸術家としての愚かな誇りであった。まさにわたしの自負心、人にまさる能力に対するうぬぼれが、クライマックスをぶちこわしてしまった。たしかに、わたしたちは二人とも芸術家であった。しかし妻の方がどれほど偉大であったことか! どれほど非情であり、直截《ちょくせつ》であったことか! そして不必要な細工を凝らすことを彼女は軽蔑した! ジェニーの心も肉体もギリシャ芸術の最盛期に属していて、その厳しい、非情なまでの簡素さ、完璧さを反映していたのだ。もし彼女がわたしとともに成功をかちとっていたなら、今ごろわたしたちは、成し遂げた偉業の成果を味わいつつ暮していたはずである。
だが、たとえ成功はかちえなくとも、わたしを襲おうとした死を身をもって防ぐという最後の輝かしき行為を、彼女は敗北に際してやってのけた。最後まで忠実なジェニーは、わたしを死なせまいとした。ジェニーのいない人生がわたしにとって無意味であることも忘れて、彼女は自分を犠牲にした。彼女がこの世の塵をはらい落としたとき、わたしもすぐ同じようにすることを望んだ。わたしは来世をかたく信じているが、ジェニーとわたしとは当然同じ扱いを受けるはずだから、この後も永遠をともに分かち合うことになろう、それは天国であっても同じことである、たとえ神がその逆を望まれようとも。いったい誰に独断が許されよう?『善も悪もない、ただ人間がそのように考える』のだ。全能の神が人間にどのような行為を望み給うているのかは、今の段階では神さましかご存知ない。神さまは虎を草を喰《は》むようには創りたまわなかったし、鷲《わし》を蜜で生きるようにも創りたまわなかった。
その人一倍たしかな判断力や、人一倍明晰な洞察力によって、妻はわれらがアメリカの友ピーター・ガンズに終始疑惑の眼をむけていた。ひと目見た瞬間から、ジェニーは、このおしだしの立派な男はブレンドンとは頭のでき具合がだいぶちがっていると判断した。彼は哀れなお人好しのブレンドンのアメリカ版では決してなかった。そして、そもそものはじめ、われわれを出し抜いて予定よりも早くコモへやって来た事実からしても、彼が、われわれのいっさいの計画において今後極めて重大な要素となるにちがいないことをジェニーは確信したのだった。わたしもまた、彼の人格の力を感じ、彼に慎重な考慮をはらわねばならないことをむしろ喜んだ。なぜなら、わたしの創意工夫の才に価する好敵手が今や現われたのだから。
ピーターは明らかに懐疑的な男であるように思われた――おそらく彼の忌わしい商売のせいでそうなったに違いない。彼の名前はピーターであるよりはむしろトーマスであるべきだったのだ。〔いずれもキリストの十二使徒の名前。トーマスは疑い深く、キリストの復活をなかなか信じようとしなかった〕彼には、何事でも当然のこととして受け取らないという、はなはだ厄介な癖があった。そして彼のいわゆる『第三の眼』すなわち心の眼は、並みの観察者には見えない多くの事をちゃんと見ることができるのだ。大犯罪者にだってなれたことだろう。
ガンズはアルバートの生命を守るためというより、アルバート殺害犯人を探すために招聘《しょうへい》されるべきであったのだ。そうなるようにわたしは行動しなくてはいけなかったのに、芸術家としての自負心に妨げられた――その誤れる愚かな優越感と油断とがすべてを台なしにしてしまった。もしピーター・ガンズがやって来る前にアルバートが湖底に沈んでいたなら、たとえピーターが二十人いたところで見つけることはできなかったであろう。だが、わたしがいったん決意したからには、何者にもアルバートの生命を救うことはできなかったとはいうものの、そのすぐ後に予定されていた手はずがぶちこわされたのはわたし自身のエラーによるのである。またしてもガンズはわたしを出し抜いた。そしてわたしが恐るべき現実に直面させられたときは、もう遅かった。彼はわたしのすべてを見抜いていたのだ。英国へ戻ったガンズはもぐらのようにせっせとわたしの過去を掘り返したに違いない。そしてロバート・レッドメーンがマイケル・ペンディーンを殺したのではなくて、その逆であると考える方が理屈にかなうという論理的結論に達したのだ。この確信を得たあとは、一つ一つの出来事を組み立てていくことによって、これまで以上の手がかりを見出せたはずである。だがそれにしても、ドリアと消え失せたコンウオール生まれの男とを同一人物であると見破ったのは、やはり驚嘆すべき霊感《インスピレーション》のなせるわざであったにちがいない。
ガンズはガンズなりに偉大な男である。自分の墓を自分のナイフとフォークで掘るような貪欲な男であり、また紳士らしくたばこを吸うかわりに粉たばこを絶えず鼻につめこんでいるような男ではあるが、わたしは彼に称賛を惜しまない。彼の小さな計略――薄暮の中にロバート・レッドメーンを出現させるなど、こともあろうにわたしのおはこの手口でわたしをひっかけたあのやり口は、全く驚嘆の他はない。あの時はあまりにも突然だったのでふいを突かれ、即座に当を得た応酬ができなかった。幽霊を見たと白状するのは危険だった。ところが、あわてて何も見なかったように装ったのが致命傷となった。ガンズは自分は何も見かけなかったと断言したが、それによって、わたしが自分自身の想像力の虜になってしまってるのではないかと心配になるようにしむけたりしたのも、彼の底知れぬ頭のよさの現われといえるだろう。この時から戦闘は開始されたのであるが、わたしは極めて不利な立場に立たされていた。
わたしの失敗によってガンズがどの程度有利な立場に立つことになったのかはわたしの知るところではない。だがいずれにせよ、事を急がねばならないのは明らかであった。なぜなら、ガンズが少なくとも未知の人物ロバート・レッドメーンの服を着て、ガンズの留守にブレンドンを狙った男とわたしとを結びつけているにちがいないことが、今はわたしにも察しがついたからである。グリアンテでわたしに手つだってブレンドンの墓を掘ったのは、そしてブレンドンがわたしのうった弾丸をまぬがれた時わたしとともに口惜しがったのは、いうまでもなくジェニーである。そうはいうものの、ブレンドンはたまたま舌を噛んだからこそ助かったのだ。もし彼の口から血が流れ出るのを見さえしなければ、わたしはもう一発うったにきまっている。
わたしはよもやガンズが、アルバートの死んだあの晩にわたしを逮捕するつもりでいようとは思ってもいなかった。いったいそんなことのできる根拠があったろうか? 事実わたしは、わたしの最後の作業が終ってアルバートが殺されてしまえば、ガンズのことだからわたしがその犯罪に関係しているわけがないことをたちどころに立証するだろう、したがって彼の確信全体がぐらつき出すであろうと判断していたのだ。ガンズがすでにゴール寸前に達していることを知ってさえいたら、わたしは何をおいてもまず雲がくれすることを考えたにちがいない。そうして一年か二年たってほとぼりのさめた頃、また別の人物になり変わって出てきさえすればよかったのである。その場合には、『ジュゼッペ・ドリア』がいかにも自殺したように見せかけ、その証拠もいろいろと残しておいたにちがいない。
だがわたしはガンズの才能がかくも高度なものだとは思い及ばなかったので、たまたま彼が家をあけた隙にチャンスとばかり簡単な手口でアルバートを殺してしまった。それを妨げる者はマーク・ブレンドンしかいなかった。しかし、そのようないざという時のために最後の切り札を残してあったジェニーが、将来を彼女と共にできるという甘い希望と夢をかきたてることによって、ブレンドンのそれでなくとも乏しい知性をことごとく奪ってしまった。この有用な人物がジェニーにのぼせてくれたおかげで、幾たびわれわれの立場が有利になり、ピーター・ガンズが無用な努力をしなければならなかったことか。だがあの重大な晩に、アルバートのお守りを彼に任せたということは、さすがのガンズも協力者の能力の限界をよく見きわめていなかったことを意味している。ガンズといえども人間である、いや、あまりにも人間であり過ぎた。
ジェニーが辛い胸のうちを述べたててブレンドンの激しい愛に訴えている間に、わたしは家を出たが、ブレンドンはそのわたしを目撃していた。ベラジオへ行くためのボートを手に入れることは十分でできる仕事だった。わたしは持ち主にことわることもしないで一隻借りると大きな石を十個ばかり積みこんだ。そしてやがてピアネッツォ荘まで漕《こ》いで行き、石段を登った。変装といっても黒いあご髯をつけただけのことで、あとは上着をぬいでボートに残し、シャツ姿でアルバートの前へ出たぐらいの細工しかしなかった。
もちろんわたしが誰であるか気づかないでいるアスンタにむかって、わたしは震え声で、ポジーが危篤であと一時間ももつまいと告げた。それだけいえば十分であった。ボートに帰って待っていると三分もたたないうちにアルバートが出て来た。そして金はいくらでもやるからできるだけ早く漕げ、といった。岸から百五十ヤードほど離れた時、わたしは、舳の方へ移ってくれた方がもっとスピードが出る、と説明した。彼がわたしの前へ出たとたん、例の斧がふりおろされた。苦しみを味わう暇もなかったはずだ。そして五分後には手足に重い石をくくりつけられてアルバートはコモの湖底深く沈んでいった。わたしの斧もそのあとを追った。もう役目が終ったからである。時間的にもっと余裕があったなら、あの凶器は家宝となっていたことだろう。これらすべてのことは、ピアネッツォ荘から二百ヤードと離れていないところで闇に乗じて行なわれたのである。
そのあとわたしは急いで岸へ漕ぎよせるとボートを誰にも見つからないように浜へ返し、つけ髯をポケットへしまってなじみの酒場へ行った。わたしは庭にいるブレンドンの見ている前で家を出た時から、それまでに、たった二十四分しか費やしていなかった。この『旅館《アルベルゴ》』という酒場にはかなり長時間ねばっていた。そうすればわたしが酒場へ着いた時間は誰にも判然としなくなるから、あとになって万が一疑われた場合完全なアリバイを主張できるからだ。破滅はそのあとに来た。わたしは何の懸念も抱かずに家へ戻った――そうして反逆天使《ルシファー》のように転落し、いっさいを失ったことを知った。わたしはこときれた妻を腕に抱き、彼女がいなくてはわたしの生涯も終ったのであることを知った。
ジェニーは、ジェニーらしい見事な死を遂げた。そしてこの輝かしき女が愛した男が、それに劣る死に方をした、と伝えられることがあってはならない。絞首台にかけられて死ぬのでは、これまで多くの人々がやって来たのと同じことをするだけのことである。わたしはそのような不面目な行為をなすことを潔《いさぎよ》しとしない。ガンズはそういうわたしの胸のうちをちゃんと見抜いていた。彼は警察に対して、わたしがかつて歯科医であったことを教え、口の中を念入りに検査するよう忠告したのではなかったか? 彼だけがわたしの天才をいくらかでも理解していたのだ。といっても完全にはわかっていなかった。わたしたちを正しく判断できるのはわたしたちと同等の力量を備えた者だけである。わたしと同じような人たちは、彗星のようにただ独りでこの世に現われ、ただ独りで消滅する。われわれの巨大さが群衆をおびやかし、われわれが姿を消すと彼らは神に感謝する。わたしは並々ならぬ果報者だった、わたしよりも一段と優れた者を旅の道づれにできたのだから。雙子星のようにわたしたちは一つに混り合った光を放った。わたしたちは共に輝き、共に消えた。これからは常に一つの名のもとに呼ばれるのだ。
ピーター・ガンズにわたしの形見を贈ることを忘れないでほしい。また遺言執行者及び残余財産相続人として、わたしがマーク・ブレンドンを指名したことも忘れないでもらいたい。彼に対しては文句は何一つない、わたしたちの急場を救うために彼はベストを尽してくれたのだから。諸君の疑問は、死刑を宣告され、自殺しないように四六時中監視されているこの男がどのようにしてこの世に別れを告げるのか、ということであろう。この手記が全世界の人々に読まれぬうちに、諸君はその答を得られることと思う。
これですべて書き尽くしたつもりである。
Al finir del gioco, si vede chi ha guadagnato.
すなわちゲームが終ればいずれが勝利者かわかるはずである。だがいつもそうとは限らない、五分五分で引き分けになることだってあるのだから。わたしとピーター・ガンズのゲームは引き分けに終ったのである。彼は勝利をわがもの顔にしたりはしないであろうし、称賛の拍手がしかるべき人に第一番におくられるのを妨げることもしないであろう。よしんば彼とわたしとは互角であったにせよ、ジェニーはそのどちらよりも一段と優っていたことを、ガンズは知っている。
ではこれにて
ジュゼッペ・ドリア
ボストン郊外の住み心地のいい家で、ピーター・ガンズがこの手記とその後の情報を読んでから十日ほどたったある朝、彼の朝食のテーブルにイギリスから来た小さな小包が一つのっていた。ガンズは有名な嗅ぎたばこ入れ収集家であったから、この包みを見て収集品がまた一つふえたのだと思った。事実彼はロンドンでいくつか注文しておいたのだったから、てっきりこの包みの中から新しい宝物が出てくるものと思った。だが失望した。どんな嗅ぎたばこ入れよりもはるかに驚くべき品物が、唖然としてみつめる彼の眼に挑戦していた。またマーク・ブレンドンからも長い手紙が来ていた。それには新聞を通じてガンズにはもうよく知られている事どもが書かれてあったが、彼だけに知らせる他の事柄も書かれてあった。
[#ここから1字下げ]
警視庁にて
一九二一年十月二十日
親愛なるピーター・ガンズ様
ペンディーンの告白とあなたへの伝言はすでにお聞きになっていることと存じますが、あなたご自身に関する部分の詳細はまだ全部はご存知ないのではないかと思います。彼からの贈り物もいっしょに送ります。あなたであれ、他の誰であれ今後これ以上珍しい品を所有する者はないであろう、と断言してさしつかえないと思います。ペンディーンは刑務所の中で遺言状を作成しましたが、その結果、わたしが彼の財産を相続することになりました。しかし、わたしがそれをわたしの国とあなたのお国の警察孤児院へ折半して寄贈したとお知りになっても、お驚きにはならないと存じます。
実はこういうわけなのです。死刑執行の日が近づくにつれ、一と通りや二た通りではない警戒がなされたのですが、ペンディーンの態度は非常に控え目で、困らせるようなことは何一つしませんし、自殺の気配さえ見せませんでした。手記を書き終えるとタイプライターに打ちたいと申し出ましたが、それは許可されませんでした。彼はその書類を肌身離さず身につけてもっており、死刑執行後までは誰もそれをとり上げて読もうとしないという約束をさせていました。全くの話が、彼はまずこの確約をとってから書き始めたのです。彼は落ちついた規則正しい生活を続け、よく食べ、看守につきそわれて運動もしていましたし、たばこもずいぶん吸っていました。ついでに申し上げておきますが、ロバート・レッドメーンの死体は、彼の埋めた場所からみつかりましたが、ベンディゴの方は潮のために砂が流され、何もみつかりませんでした。
あすは死刑という日の前夜、ペンディーンはいつものように床へ入り、寝具を顔の上まで引き上げて数時間たしかに眠っていたようでした。両側には看守が一人ずつ見守り、あかりがこうこうとついていました。突然彼はためいきを一つ洩らすと、右側の看守に手をさし伸べていったのです、
「いいか、これをピーター・ガンズに渡してくれ――ぼくの形見だ。それからマーク・ブレンドンにぼくの遺産をゆずることも忘れないように」そういって彼は看守の手に何か小さなものを渡しました。と同時に激しく痙攣《けいれん》し、ひくくうなったかと思うとがばと起き上がりました。それから意識を失ってのめるように倒れたのです。看守の一人が彼を支え、もう一人が医師を呼びに走りました。しかしペンディーンはすでに死んでいました――青酸カリをのんだのです。
あなたは、彼の秘密を解き明かす鍵になる二つの事実に思い当られることと思います。一つは、ペンディーンが少年の頃イタリアで事故にあったということ、もう一つは、彼のなにか人間味を感じさせないあの独特な表情に対してあなたが常に抱いていらした関心です。あなたはどうしてもわからないとおっしゃっておいででしたね、しかし二つとも説明がついたのです。ふつうの目だったなら、その秘密はわれわれとてもすぐ発見していたにちがいないのですが、彼の場合もともと非常に黒い目だったので、瞳孔も虹彩もほとんど同じ色をしていたのです。そのためにわれわれは、彼の目つきのもつ不自然さの謎がわからなかったのです。彼は人間の知恵や力のとうてい及ばないところに、彼の体そのものに秘密の隠し場所をもっていたのです。事故のことは彼の母親しか知らないのですから、そんな隠し場所があろうとは誰にもわからなかったわけです。つまりその事故で彼は片目を失ったのでした。そのあとにはめこまれた義眼の奥に、カプセルに入れた毒薬がいざという時に備えて隠されていたのです。そのカプセルは、死後彼の口の中から噛みくだかれて発見されました。
この悪党の手記の公表がわたしをどういう目に合わせたかはもうお察しのことと存じます。わたしは警察を退き、別の職業に就きました。時がたてばいつかはこの恐るべき経験も忘れられるかと、それを望むばかりです。来年は仕事の関係でアメリカへ参りますので、その時にはもしお許し頂けるならぜひともまたお目にかかりたいと思っております――ただし過去の話をむし返すことは無益でもあり、わたしにとって辛いことですので、そうではなくて将来を語り合いたいと存じます。名声とともに隠退なさった今、恙《つつがな》くお過ごしのご様子を拝見するのを楽しみにいたしております。あなたの崇拝者であり、忠実な友である、 マーク・ブレンドン
[#ここで字下げ終わり]
ガンズは包みを開いた。中には本物そっくりに精巧に作られたガラスの眼球が一個入っていた。それは非常に黒みがかっているために正体をあらわさなかったのである。とはいえ、光沢といい色といい完全であったにもかかわらず、なにかしらガンズの心に不審を抱かせずにはおかないものを、その擬《まが》いものはペンディーンの表情に与えていたのである。不吉な、というのではなかったが、ガンズの長い経験のうちでもあのような種類の表情に出あったのは初めてであった。
ガンズ氏は、彼の訝《いぶか》しげな視線とかつてたびたび出あったはずのその小さな物体を眺めた。
「まれに見る悪党だった」彼は声に出してそういった、「だがあの男のいう通りだ、あの男の妻は、彼よりもわたしよりも優れていた。もしあの男が自分の強い自惚《うぬぼ》れをしりぞけて、妻の言葉に耳を傾けていたなら、今ごろは二人とも生きて旺んな生涯をおくっていられたはずなのだ」
ガンズは、金色の嗅ぎたばこ入れをとり出してひとつまみつまんだ時、その黒みがかった茶色の眼玉が、キラリと生きているような表情で自分を見上げたような気がした。(完)
[#改ページ]
訳者あとがき
本書の作者イーデン・フィルポッツはイギリスの小説家。また劇作家、詩人としても知られている。一八六二年、軍人だった父の任地インドで生まれたが、幼いころイギリスへ帰って終生をそこで過した。そして実に一世紀近い生涯を生きて一九六〇年の末に没した。
はじめ舞台俳優を志し、ロンドンで修業していたがやがてその方面に才能のないことを悟り、三十歳ごろから小説を書きはじめたということである。作品にはデヴォンシャのダートムアを背景にしたものが多く、よくトマス・ハーディのドーセットシャの田園物語と対比される。本書でも冒頭の部分はダートムアが舞台となっているが、このダートムアというのはイギリス南西部デヴォンシャの岩の多い不毛の高原で、要するに大部分が湿地帯の荒地である。同じくダートムアを舞台とした推理小説、コナン・ドイルの「バスカーヴィル家の犬」ではその荒涼たる描写が事件に迫真性を与え、鬼気迫る雰囲気をかもし出すのに役立っているが、フィルポッツのこの「赤毛のレッドメーン家」ではその同じダートムアが、花崗岩の丘を駈けぬけていくダートムア小馬《ポニー》だとか、夕陽を背にして突然荒野にあらわれた美少女とかいったふうなロマンティックなものの背景として扱われている。
さてフィルポッツが推理小説を書きはじめたのは作家として功成り名遂げた六十歳になってからであるが、その活動は単なる余技としてではなかった。円熟した作家としての力量を十分駆使した諸作品は殆どが推理小説史上にその名をとどめるものである。
この「赤毛のレッドメーン家」は推理小説としてはポー、ドイルの伝統を十分にふまえた本格派のもので、その構成には寸分の乱れもない。刊行されたのは一九二二年で、一九二〇年のクロフツの「樽」、クリスティーの「スタイルズ荘の怪事件」、一九二一年のミルンの「赤い館の秘密」などと並んで、一九二〇年代から三〇年代と続く本格派黄金時代の先頭を切ったものといえよう。
現代の目のこえた読者には、謎ときの見地からいささか物足りなさも感ぜられ、叙述に多少のくどさも目立つと思われるかもしれない。しかし、それがかえってこの作品に圧倒的な重厚さを加える結果となっているようである。
ピーター・ガンズ探偵の性格分析による探偵法は、やがて、ヴァン・ダインのファイロ・ヴァンス探偵の「心理探偵法」へとつらなっていくものをもっている。
こう見てくると、本書は、推理小説の古典としてそのリストに逸することの出来ないものの一つであるといわねばならない。ヴァン・ダインのイギリス探偵小説のベスト・ナインをはじめ、その他の人々の挙げるベスト・テン等にたいがい含まれているのも当然といえる。
なお、フィルポッツが、アガサ・クリスティーのトーキー時代の隣人として多くの文学上の指導を与えたということもつけ加えておく。
フィルポッツの推理小説には、本書の他に主なものとして次のようなものがある。
「誰が駒鳥を殺したか」一九二四年
「闇からの声」一九二五年
「医者よ、自分を癒せ」一九三五年
[#地付き]一九六二年一二月二五日(訳者)
〔訳者略歴〕
赤冬子(せきふゆこ) 札幌生まれ。立教大学英米文学科卒業。おもな訳書に、クリスティ『茶色の服を着た男』、E・フィルポッツ『赤毛のレッドメーン家』などがある。