闇からの声
フィルポッツ/井内雄四郎訳
目 次
第一章 幽霊
第二章 またも幽霊
第三章 「ルドー」
第四章 リングローズ、挑戦に応じる
第五章 接近
第六章 肘掛椅子のうしろに
第七章 シェラトン風の本棚
第八章 最後の機会
第九章 失望
第十章 第二の戦闘開始さる
第十一章 バルテル象牙細工
第十二章 ブルック卿ゴルドーニを買いとる
第十三章 コンシダイン医師
第十四章 山上にて
第十五章 ロックリーじいさん
第十六章 ダブル・クロス
第十七章 手紙とその返事
第十八章 晩餐会
第十九章 「鷲の食料室」
第二十章 ヒオシンについて
第二十一章 またも幽霊
解説
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登場人物
ジョン・リングローズ……スコットランド・ヤードを隠退した名刑事
ベレアズ夫人……同宿の老婦人
スーザン……その付き添い
ジェイコブ・ブレント……オールド・マナー・ハウス・ホテルの主人
バーゴイン・ビューズ(ブルック卿)……男爵、象牙細工の蒐集狂
ルドヴィク・ビューズ……「ルドー」と呼ばれるブルック卿の甥
ミルドレッド……ブルック卿の姪
アーサー・ビットン……ブルック卿の召使
ウィリアム・ロックリー……ブルック卿のイタリアの別荘「ピア荘」の門番
アーネスト・コンシダイン……青年医師
ニコラス・トレメイン……ブルック卿の友人
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第一章 幽霊
オールド・マナー・ハウス・ホテルは、海抜六百フィートの南向きの高台に立っていた。背後には休耕地と森からなる尾根がつらなり、海へと下ってゆく斜面には農場が点在し、下の谷には小川が流れていた。谷の向うで海岸線はまた隆起して、広々とした不規則な一連の砂丘となり、低い海綿色の断崖《だんがい》が海にのぞんでいた。真南にはイギリス海峡が、東にはチェジル砂州が走り、ポートランド岬のどっしりした丘が、雲のようにもうろうと冬の海を圧していた。
ホテルは淋《さび》しい吹きさらしの地域の、とある道路の交叉点《こうさてん》にあり、それでやっていけるのも、ハンターや近隣の常客があるからだった。客は外の共有地に猟犬《りょうけん》が集まる頃やって来るのだが、一泊か二泊以上滞在する者はまずいなかった。十一月のある夕方、近くのブリッドポートという市《いち》の立つ町から一台の自動車がやって来て、ホテルの玄関に横づけになり、ひとりの旅人が広い石だたみのポーチに降り立った。ホテルの建物は中央部にしか二階がついていなかった。そして平屋は東西に細長く翼のように伸びていた。裏側には、中庭、馬の放し飼い場、厩舎《うまや》その他の納屋がかたまっていた。ジョン・リングローズは地面に飛び降りると、旅行|鞄《かばん》と猟銃ケースを車からひき出し、それからベルを押した。なかで重苦しい音が鳴り響いた。
リングローズは痩《や》せぎすで活動的な体格と動作をした、五十五歳になるきびきびした男だった。ひげのない顔は、にこやかでやさしそうな表情が魅力的で、鋭い眼にはユーモアのひらめきがうかがわれた。これまでのきびしい人生にもかかわらず、彼はユーモアを失ってはいなかった。もっとも、彼の経歴を知る者は、そういう生活のなかで、どうしてこういうおだやかな態度が生まれたのかと愚かにも感心したりしたものだ。しかし、リングローズはいつもヒューマニストであり、これまでの人生経験も天与のその性格を変える力を持たなかった。
リングローズは大きな格子縞《こうしじま》のノーフォーク・ジャケツにニッカーボッカをはき、針金《はりがね》のような脚《あし》にはウーステッドの靴下《くつした》をはいていた。短く刈った半白の頭にはハンチングをかぶり、ダークブラウンの、先の四角ばった頑丈《がんじょう》そうな皮靴をはいていた。彼は今鼻をねじって――これは無意識にやるちょっとした癖だった――なじみのある風景を見渡した。ドーセット〔イングランド南部の州〕の高原地方にはよく来るが、オールド・マナー・ハウス・ホテルに泊まったことはこれまで一度もない。ここに来たのはホテルの主人の招きによるものだった。主人のジェイコブ・ブレントは去年彼に口ではいいあらわせないほど世話になったのだ。
今やブレントは玄関にあらわれ、リングローズを迎えていかにもうれしそうだった。彼は太った大男で、自分でもいつもいうとおり、あまり太りすぎて急ぐことも、苛立《いらだ》つこともできなかった。顔の下半分は白い顎《あご》ひげにおおわれ、広いおだやかな額《ひたい》と赤くなりかけた大きな鼻がその上から覗《のぞ》いていた。眼は大きくて、灰色で、鉄ぶちの眼鏡の奥でまたたいていた。巨大な肩は肉で丸味をおび、大頭の重みで幾分背中が曲っていた。もしまっすぐ背中を伸ばすことができたなら、きっと六フィート四インチはあったろう。じっさい猫背《ねこぜ》にもかかわらず、彼は五フィート八インチそこそこのリングローズと並ぶと、そびえんばかりだった。
心からの歓迎の言葉がすむと、すぐにリングローズは赤々と暖炉《だんろ》の燃える一室に通された。部屋はホテルの左の棟《むね》にあり、廊下を通って出入りするようになっていた。
リングローズは自分が泊まる所なら、どこでも正確に様子を知っておく習慣があった。「はじめてのベッドで意識を失うわけだから、できるだけまわりの様子をくわしく知っておきたいと思ってね」といつもいっていた。
今この部屋でわかったのは、窓が表の公道から五フィートのところにあり、あいだには小さな芝生と柵《さく》があるだけだということだった。窓はざらにある四角い窓で、普通のかんぬきがかかっていた。この窓に向って入口のドアがあり、廊下《ろうか》はそこで終っていた。だから部屋は東の棟の先端にあるわけで、三方が表に面していた。ただ一つ内側に面した壁が、リングローズの部屋と同じく廊下に面した隣室を仕切っていた。外に面した壁に暖炉があり、これから二週間、リングローズが眠ることになるこの四角い部屋には、彼の関心を惹《ひ》くような特徴はなにもなかった。厚手のカーテンが窓にひいてあり、白いブラインドがおりていた。化粧台の上方の電灯が室内を照らしていた。
リングローズは旅行鞄を開け、衣類を箪笥《たんす》にしまった。それから壁の吊戸棚《つりとだな》に気がついて、上着をそこにつるした。弾薬・猟銃ケース、狩猟用のゲートル、長靴は下のほうに入れた。こんな準備をしてきたのは、宿の主人の約束してくれたとおり野山で存分に猟をしたいからだった。
やがて、彼は数冊の本や文箱や皮の書見台を窓ぎわの机に置き、暖炉の火には金網をかぶせて、主人がお茶を用意して待っている私室へ足を運んだ。
主人のブレントはやもめで、ヨーヴィル〔サマーセット州の市の名。ドーセット州に近い〕の私立銀行につとめているひとり息子がいた。この青年はかつて重大な容疑で告発され、リングローズのおかげで疑いが晴れたのだ。青年は無類の正直者だったが、二人の極悪人にあやつられていた。彼らは今は刑に服しており、青年はリングローズの機敏な働きで、完全に無罪になった。父親は言葉ではいいあらわせないほど感謝して、いつでも好きなだけ泊まってくれとかねてからリングローズを招待していた。で、今リングローズはすばらしい中国茶を飲みながら、いつもの正確な話し方で自分の計画をこう明らかにしたわけだ。
「わたしはいつもここに来たいと思っていましたよ、ブレントさん。こういうすてきな所で狩りを楽しむチャンスをふいにしたくはないからね。しかし、まず今の身の上からお話しなくちゃいかん。じつは隠退したのだよ。まだやめたくはなかったが。しかし、わたしは欲張りではないし、少しは仕事もした。それに、あとに残る者たちの腕を全面的に信頼してもいる。で、勇退を申し出たというわけだ。しかし、いつも何かやっていないといられない性分だから、仕事のつもりで本でも書こうと思ってね」
「あなたなら、なんだってできますよ」とブレントはうけあった。
「そう思えるといいんだが。とにかく、そんな考えを吹きこんだのは、総監でね。『きみは絶対にブラブラできる性質《たち》じゃない、リングローズ』サー・ジェイムズ・リッジウェイはいわれたよ。『わしはスコットランド・ヤード時代の想い出を書きはじめたばかりだが、どうかね、わしを見習っては。きみの書く本のほうが、わしのよりはるかに波瀾万丈《はらんばんじょう》だと思うがね』たしかに、わたしはもう警察をやめた人間だし、おもしろいネタもいっぱいある。センセーション、犯罪、謎《なぞ》、それに人間性の明るい面とネタにはこと欠かない。そこで、それをまとめてみようというわけさ。本にする計画はできたのだが、仕上げに使えるようなすばらしい事件がもう一つあるといいんだが……。しかし、もう仕事を離れた身だから、手持ちのネタでベストをつくすほかはない」
「とんでもない、リングローズさん。本の十冊くらいすぐ書けそうなほど、恐ろしい事件をいっぱい手掛けてこられたじゃありませんか」
「わたしの書き方ではそうもいくまい。どんな事件でも煮つめれば、すぐに骨だけになってしまうものだ。それに、わたしは仕事の上でも無駄口《むだぐち》はきかん主義だった。本を書くときでも、できるだけそうしようと思ってね、ブレントさん。そこで、本題に入るとして、あんたはわたしを二週間招待してくれた。で、もしその二週間が終って、この場所が気に入ったら、さらに数か月滞在を申し出たいと思うんだ。ときどき狩りを楽しんで、もっぱら執筆に時間を使ってね。ご都合はどうだろう、ブレントさん?」
「それはもう喜んで」と主人は叫んだ。「いっさい無条件で、ということにしましょう。半年分のホテル代をただにしても追いつかないくらいお世話になったんですから、リングローズさん。それに、あなたみたいな偉い方をお迎えできるのは、お金以上に価値があるんです。わたしは無智な人間ですが、人が教えてくれようとするときは、いつでも教わる気持はありますよ」
「ほかには、どういう人が泊まっているのかな?」
「長期滞在の方《かた》がおひとりだけですよ。ベレアズ夫人という方で、愛すべきおばあさんですよ。中風にかかっておられて、最近では、わたしどものホテルが自宅がわりというわけでして。身の回りの世話をするミス・マンリーといっしょに、もう二年ごしの滞在で、ここを死に場所ときめておられる様子です。ときどき古くからのお友だちが見えることもありますが、とても淋しそうにお見受けします。なんと申しても非常なお年で、同時代の方はみなとっくに亡くなっているんですからね。ここにいらしたのはロマンチックな気持からなのです。お話によると、五十年前、わたしのおやじの時代に、ここに新婚旅行にいらしたそうで、それでここが気に入ってしまわれて……。はじめ数週間のつもりで保養にいらしたのに、結局ここが死に場所ということになりました。そのほうが好都合だということですが、こっちもありがたいのです。もう八十四だというのに、とても明るい活溌《かっぱつ》な方ですから」
リングローズはうなずいた。「古い世代のおばあさんには、ウィットにあふれた人がときどきいるもんだよ」と彼はいった。「わたしの母もそうだった。すばらしい記憶力で、ユーモアのセンスがあって、他人のあやまちにとても寛大で……。ユーモアのセンスのある人は、だいたいそうだがね」
その夜、食堂でリングローズはベレアズ夫人に出会った。彼女は、勝気らしい感受性のするどそうな顔、今なお輝きを失わない青い眼をした美しい上品な老婆だった。レースのいっぱいついた紫色のガウンを羽織り、高価なものらしいダイヤのブローチをつけ、雪のような白髪の上にかぶっている粋《いき》な帽子には、レースで囲まれた紫色のリボンがついていた。年老いて痩《や》せほそった手はまだ美しさをとどめており、話をするときはのびのびとその手を動かした。しかし脚は(麻痺《まひ》麻痺《まひ》していて、人前では絶対に車椅子から離れなかった。
彼女が附添い婦に車椅子を押させて食堂へ入って来たとき、リングローズは椅子から立ち上がって挨拶《あいさつ》した。附添い婦も主人とほぼ同じ年に見えた。陽焼けした顔の、しなびた小柄な老婆で、背筋はまだしゃんとしており、聡明《そうめい》で気立のよさが顔にうかがわれた。物の言い方もきちんとしていたが、もっぱら聴き役にまわっていた。というのも女主人が話し好きだったからである。リングローズは、いつも夜は黒のフロックコートを着ることにしていたが、この同宿の客には好感を持った。じっさい、ベレアズ夫人は気持のいい、暖かみのある老人だった。頭もよく切れ、ひろく世情にも通じているふうだった。自分は小食だったが、夕食がすむと、たずさえてきたぶどう酒をリングローズにすすめてくれたりした。
「夕食後は一時間ほど応接間にすわって、たいていスーザンに本を読んでもらうんですよ」とベレアズ夫人はいった。「でも、わたしたちのお相手になってくださるのなら、本はやめて、おしゃべりいたしましょう。わたし、お昼までは食堂に出てまいりません。部屋は西の棟にあるんです。いつか遊びにいらしてください。煙草《たばこ》をふかしたり、きれいな景色を眺《なが》めたりしに」
「煙草を吸ってもいいんですか?」とリングローズはたずねた。
「ええ、むろんです。わたしだって、今でもときどき吸いますわ」
リングローズは、自分がかつて有名な刑事だったことは絶対口外しないように、宿の主人にいいつけてあったので、ベレアズ夫人主従は、そのことはなにも知らないはずだった。だから、先方から望むのなら、このつきあいは本物になりそうだと思った。
彼は一時間ばかりベレアズ夫人としゃべってから、バーに引き返し、いつも一杯だけときめているウイスキーの水割りを飲み、早目に寝室に引きあげることにした。五分ほど玄関にひとり突っ立って、戸外を眺めたが、荒れ模様で、雨が降っており、近寄りがたい夜だった。風の合間に、二マイル先の断崖にうちよせる波の音が聞え、東のほうの闇《やみ》の中に、遠くの灯台のかすかな一条の光がポートランド岬の背後から延びるのが見えた。この宿屋は一番近くの人家からさえ遠く離れていたので、バーに集まっていた男たちも、まもなく帰ってしまった。リングローズの寝室は、暖炉があかあかと燃え、見るからに居心地がよさそうだった。電灯だけは替える必要がある、と彼は思った。机の上にスタンドを置くことにしよう。これからは夜原稿を書かなくてはいけないのだから。
リングローズはすばやく寝間着に着替え、羽根ぶとんにもぐりこんでみて、ベッドも数か所直す必要があるのに気がついた。彼は堅いベッドを好むたちだった。しかし、すぐに眠ってしまい、しかもぐっすり眠ってしまった。
やがて、彼は室内の人声で眼がさめた。この隠退した刑事以上によく眠る者でさえ、きっとこの人声では眼をさまさせられたにちがいない。それは、苦悶《くもん》にみちた、かん高い、引き裂かれるような調子なのだった。子供が恐怖と苦痛のあまり叫んでいるのである。独身ではあるが、大の子供好きのリングローズは憤慨し床《とこ》に起き上がり、気も狂わんばかりのその訴えをすべて耳に聞きとった。
「お願い、お願い。いい子になるから、いい子になるから、ビットンさん! そいつをぼくに見せないで! そいつをそばに来させないで!ねえ、お願い、お願いだから!」
その言葉も、恐怖に狂わんばかりの子供らしい叫び声にくらべれば、取るにたりなかった。やがて、その叫び声はよわよわしい恐怖のすすり泣きに変ったが、リングローズは聴いているうちに烈《はげ》しい怒りに駆られ、すっかりねむ気がさめてしまった。子供の最後のうめき声と、彼がベッドの脇の壁のボタンを押してパッと電気をつけるまでのあいだには、二秒とかからなかった。しかし室内にはだれもいなかった。リングローズは戸口に飛んで行き、ドアを開けたが、外の暗い廊下にも、だれも認められなかった。そこで窓辺に駆け寄ったが、カーテンはちゃんとひいたままで、掛金もかかっていた。室内にはどこも隠れ場所はなく、小さな子供でも隠れられそうな戸棚があるばかり。そこも覗《のぞ》いてみたが、自分の衣類があるだけだった。
時計を見ると、三時だった。暖炉の火はすでに消えており、静寂の中で、この部屋のある古い建物のまわりで、烈しく風の吹き荒れる音が聞えてきた。それから、外の道路で馬の重い足音がした。家畜がよくやるように、馬たちがひとりで夜歩きまわっているのである。彼はブラインドを上げ、外を眺めた。二頭の黒い、大きな馬車馬が歩いていた。一頭がいななき、つれのいったことを笑ったようだった。窓の明りが人気のない道路にさっとさしたので、馬たちはびっくりして、重い足音で駆けて行ってしまった。風が馬たちを追って叫び声をあげ、雨が降りだした。
リングローズはブラインドをおろし、ガウンを着て、廊下に出た。そして携えてきた懐中電灯であたりを調べた。しかし、家中は静まりかえって、闇と眠りにひたされていた。隣の部屋からも、なんのささやきも息づかいも聞えてこなかった。把手《とって》をまわすと、ドアは開いた。その部屋も、彼の部屋と同じ造りになっていたが、中にはだれもいなかった。ベッドに掛けられた埃《ほこり》よけの布を持ち上げてみたが、下には敷ぶとんがあるばかりだった。吊戸棚のドアをさっと開いてみたが、そこも空っぽだった。彼は自室に戻《もど》り、先ほどの言葉をくりかえしてみた。
「お願い、お願い。いい子になるから、いい子になるから、ビットンさん! そいつをぼくに見せないで! そいつをそばに来させないで! ねえ、お願い、お願いだから!」
リングローズはその言葉を書きとめた。それから、ガウンを脱ぎ、ドアに鍵《かぎ》をかけ、電灯を消し、ベッドに戻った。半時間ばかり耳を澄ませて横たわっていたが、なんの音も聞えなかった。やがて、彼は眠ってしまい、朝女中に起されるまで眼をさまさなかった。
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第二章 またも幽霊
この隠退した刑事が成功をおさめた秘訣のひとつは、そのずばぬけた自己抑制にあった。彼くらいひとりで行動した刑事もなかったし、彼くらい多くの事件を同僚の応援なしに解決した刑事もいなかった。そのため、たいていの人間なら当然避けるような危険をしばしば冒《おか》してきた。しかし、ひとり者で、だれの面倒も見る必要がなかったし、秘密に行動することが、警察の追及から逃《のが》れようとする悪人にとっても、重要だと知っていた。ときにはそういうやり方が批判され、不必要な危険に身をさらすという非難を受けもした。しかし、リングローズは自らのやり方を確信していたので、改めるつもりは毛頭なかったし、今回の奇妙な経験に関しても、今までのやり方をつらぬくことにした。朝になって、彼は自分の部屋と隣室をもう一度くわしく調べてみた。自室の窓の外の芝生も調べてみたが、なんの足跡もないことを確認しただけだった。彼は昨夜の事件を合理的に解決しようとつとめ、そのうちに自然に説明がつくだろうと考えた。ひげを剃《そ》りながら、彼は昨夜の出来事を口に出していってみた。そうやって、たびたび事件に光明がさしてきたことがあったからである。超自然的な解釈はすべてしりぞけた。
「わたしは三時に眼がさめた。人声がしたからだ」とリングローズはいった。「あれは恐怖にかられた子供の声だった。子供がこらしめられかけて、いい子になるからと泣き叫んでいるときのような叫び声だった。ビットンさん――このビットンさんという男が問題だ。『そいつをぼくに見せないで、ビットンさん!』か。まず、このビットンという男、次に、あの子が顔を見るのをいやがった何者かが。しかも、すべては一見このだれもいない部屋で起きたことだ。あの子の最後の呻《うめ》きが聞えた瞬間から、わたしが電気をつけるまでのあいだには、二秒以上たっていなかったはずだ。たぶん、それ以下だったろう。しかし、この部屋には、だれもいなかった。子供も、ほかの何者も。あれはわたしの想像だったのか。いや、あんなことを想像するわけがない」
朝食に出かけるまでに、リングローズは結論に達していた。この件はだれにも話さずにおき、自然に説明がつくまで待つことにしよう。ビットンという男やもうひとりの男について訊《たず》ねるのはやめにして、オールド・マナー・ハウスの様子や、そこに住んでいる者についての必要な情報をそっと聞き出すことにしよう。
リングローズは、ホテルの住人が、ベレアズ夫人とその附添いを除いて、女が六人に男が三人であることを聞き出した。馬丁がひとり、庭師兼牛の世話係がひとり、そして給仕と屋内の雑用をつとめる靴磨《くつみが》きの男がひとり――この三人がブレントの男の使用人のすべてだった。大きな図体に似ず、ブレント自身いつも忙しそうに働いており、ご自慢の発電施設の手入れに余念がなかった。これらの男のだれひとり、「ビットン」という名ではなかったし、そういう名が話に出るのを聞いたこともなかった。
リングローズはすぐにホテル暮しに腰をすえ、天気が悪くて雨にたたられ通しだったので、たいてい屋内にいた。着いて三日目の朝、猟犬が勢ぞろいするのが見えた。その日の午後、彼はつがいのウズラを射落とした。また、ホテルのどの住人ともすぐに仲よしになった。というのは、彼はていねいで親切な性格で、だれにも心から関心を持つことができたから。
三日間は、夜何事も起らなかった。しかし、彼は隣室に鍵をかけ、その鍵は自分で持っていた。だが、四日目、またもやあの子供の幽霊が泣き叫び、夜明け前の暗闇の中で、気も狂わんばかりの哀願が響き渡った。
「そいつにぼくを見せないで、そいつにぼくを見せないで! お願い、お願いだから、ビットンさん!」
その金切声にはっと眼をさましたリングローズは、電灯をつけ、前と同じようにすばやくベッドから飛び出した。だが、室内にはだれもいなかった。夜は静まりかえり、表の白い道路には月光が照っていた。彼は時計を見、隣室に駆けこんだ。しかし、ドアにはちゃんと鍵がかかっていて、このまえ調べたときと同じだった。彼はまたドアに鍵をかけ、自室に引き返した。
オールド・マナー・ハウスには子供はひとりもいないし、子供の話が出たことも一度もない。リングローズは眼をさましたまま、室内をじっと見つめていた。それから明りを消し、なにかささやき声が聞えたらすぐに飛び起きるつもりで、辛抱《しんぼう》強く耳を澄ましていた。しかし、すべては静まりかえったままだった。一度だけ物音にはっとしたが、それはふくろうの声だった。とうとうリングローズは眠ってしまい、女中が朝の紅茶を持ってくるまで眼がさめなかった。今度こそ彼は自分の異常な体験を人に話してみることにした。ただ、だれに打ち明けてよいのやら、少々ためらわれた。リングローズは頑迷《がんめい》ではなかったし、これまで経験したかずかずの異常な出来事から、虚心坦懐《きょしんたんかい》に現象を眺めなければならないことを学んでいた。だが、元来論理的な男であり、彼の直感はこれまで理性と無縁であったことは一度もなかった。いったい、今自分に何が起きたのか。自分は人間の声が叫ぶのを二度聞いた。一見ごくまじかなところで。そして、二度とも明りをつけてみたが、室内にはだれもいなかった。
「『一見』ということに、多くの意味がある」と彼は考えた。「ところが、声はしたのに、当の叫んだ子供がいないのだ」
彼は推論を進めてゆき、前回と同じように、今度も幻聴《げんちょう》にたぶらかされたのだと結論した。耳は眼と同じようにだまされやすいものだ。いや、たぶん眼よりももっとだまされやすいだろう。非常な好条件下でも、音源を見つけることは往々にして難しいのだから。
リングローズは自分の経験を女性に話すことにした。ベレアズ夫人をよく知るにつれて、この婦人が肉体こそ衰えているものの、今なお明敏な心を持っていることが確信できた。彼女はある方面については非常に博識で、心がやさしく、人生に対して寛大なようだった。そういう点にもリングローズは好感を持った。次の日の朝、彼は自分の話がこの婦人にたちまち異常な動揺を与えるとは想像もせず、夕食後、小さな応接間の暖炉のそばで煙草をふかしながら、おしゃべりを楽しんでいる夫人に向って、例の経験をこう切り出した。
「これからとてもふしぎなことをお話しようと思います。そのことは今までまだ誰にも話したことがありません。じつは、ある出来事に出会って、当惑しているので。あるいは簡単に説明がつくことかもしれませんが、わたしひとりでは、どうにも解決できずにいるのです」
リングローズはあの出来事をありのままに語った。しかし、最初の夜のことを語ったところで、早くも夫人は深い精神的反応をあらわした。彼女は椅子を握りしめ、編んでいた編物を床《ゆか》に落し、大きく眼を見開いた。口を大きく開け、気絶しそうに見えた。リングローズはすぐさま大変なことをしてしまったことに気づき、さっと椅子から立ち上がった。夫人は気を落ち着けようと精一杯努力しながら、手のとどかないところにあるテーブルを指さした。テーブルの上には、夫人のハンドバッグの横に、気つけ用の炭酸アンモニアを入れたカットグラスの小瓶《こびん》が載っていた。リングローズがすぐそれを持って行くと、夫人は数分後に落ち着きをとりもどした。しかし、まだ動揺が烈しくて、礼を述べながら声がふるえていた。
リングローズは心からあやまって、附添いを呼ぼうと申し出た。だが、ベレアズ夫人は首を振った。
「お待ちになって。すぐによくなると思います。今のお話は、あなたよりも、わたしにとってはるかに恐ろしいことなのです。そのうち、おわかりになるでしょう」
夫人はぶるぶるふるえ、ショールを引き寄せた。かぶっているレースの帽子までふるえていた。「おっしゃりたいことを全部お話しください。そのあとで、わたしもお話しましょう」と夫人はいった。「リングローズさん、あなたは幽霊の声をお聞きになったのです。それはもう絶対にまちがいありません」
夫人は今は気持も落ち着いて、声も少し元気になってきた。だが、その眼は心配そうで、まだ身体がふるえていた。
彼はできるだけ簡単に話し終えたが、夫人は気つけ薬を手に、熱心に聴いていた。
「それでなにもご覧にならなかったのですか?」と夫人は相手が話し終えたとききいた。
「いいえ、なにも。おびえきった子供の声を聞いただけで。わたしは大の子供好きで、あの気も狂わんばかりの泣き声を聞いたときは、実をいうと、猛烈に腹が立ちました。ところが、だれもいないのです」
「その子供は亡くなったのです。一年以上も前に」とベレアズ夫人はいった。
「すると、その子をご存知で?」
「ええ、よく知っています。本当にかわいそうに」
「では、ビットンとかいう男は?」
「附添いの男です。あの家に昔からいる召使で、その子の世話をしについて来たのです。その子がここに来たのは静養のためでした。まあ、そんなふうに聞いていますわ」
「ビットンはまだ生きていますか?」
「ええ、あんな悪人が」
夫人が元気を取り戻したことはたしかであり、その話に鋭い興味をおぼえたので、リングローズはまた葉巻に火をつけながら、こういった。
「ベレアズさん」と彼はいった。「われわれは驚くべき事件の門口にいるようですね。わたしはいつも虚心坦懐に自分の知識には限界があることを認めているつもりです。人間の感覚はいろいろと人をだましますからね。しかし、まちがわないときもある。子供の声が――一年以上も前に死んだとおっしゃる子供の声が――夜中に、二度も、はっきりとわたしの耳に聞えたのです。その声はビットンとかいう男に――それもわたしが一度も聞いたことのない名ですが――第三の人間にぼくを見せないで、とけんめいに頼んでいたのです。子供は第三の人間の名はいいませんでしたが、ビットンとはちがうようでした。『そいつをぼくに見せないで』――二度とも、おびえきった声がそう哀願していたのです。今回のことで、わたしの知っているのはそれだけです。そこで、ひとつおたずねしたいことがある。この件についてご存知のことを今話してくださる元気がおありでしょうか? それとも、またの機会にしたほうが?」
「いいえ、ぜひ今お話しなくては」とベレアズ夫人は答えた。「さもないと、眠れそうにありませんし、一瞬も心が安まらないでしょう。第一、お話しても、しなくても、わたしはもう二度と心が休まることはないでしょう。これまで一度も幽霊なんか信じてはいませんでしたけれど、今では信じないわけにはゆきませんもの」
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第三章 「ルドー」
ベレアズ夫人は話をはじめる前に附添いを呼んでほしいと、リングローズに頼んだ。
「スーザンにも話を聞いてほしいのです。一々チェックしてもらえるように」と彼女はいった。
「スーザンもわたしと同じくいらい知っていますし、わたしと同じくらいアーサー・ビットンを憎んでいるのですから」
スーザンが加わると、ベレアズ夫人はよく聞いているようにいいつけた。
「リングローズさんのご希望で、ルドヴィク・ビューズ少年のことをお話しようと思うんだけど。だからね、スーザン、もしわたしがちょっとでも事実とちがっているか、なにかいい忘れたりしたら、どんな小さなことでも、すぐに訂正して。それから、もう少し椅子を火のそばへ寄せてちょうだい。びっくりするような話をうかがったせいか、寒気がして、まだおびえているの」
「どうか、のんびりと話してください、奥さん」とリングローズはいった。「恐れたりする必要はありません。わたしの経験では、説明のつかない出来事など、ほとんどないのです。こちらがじっと辛抱して、あざむかれたり、おびえたりさえしなければ。それに、偶然の出来事というのもないのです。あらゆる結果にはすべて原因があって、われわれが偶然というとき、それはこっちが原因を知らないからにすぎません」
そこで、ベレアズ夫人は語りだした。
「一年ちょっと前になるでしょうか、リングローズさん、このホテルへひとりの少年と従僕がやって来ました。少年は十三になりましたけれど、華奢《きゃしゃ》で弱々しく、年のわりには小柄でした。病気で、どうやら神経をいためているようでした。ルドヴィク・ビューズ少年は――」
「ただの子供ではありません。貴族のお坊ちゃまでございますよ」とミス・マンリーが口をはさんだ。
「今その話をするところだったのよ、スーザン。じっさい、あのときには亡くなったお父さまの跡をついで、もうブルック卿になっていたのですからね。お父さまは二人の子を残して、イタリアで亡くなられたのです。みんなから『ルドー』ちゃんと呼ばれていたあの子には、ひとりの姉さんがありました。一家の邸《やしき》はブルック・ノートンという名で、どこかブリッドポートの西にあり、荘園や農場のまん中にある大邸宅でした。その子はここに静養に来ていて、アーサー・ビットンという家つきの召使がついていました。年は五十くらいだったでしょうか、もの静かな、ひげのない、ごく平凡な顔つきの男で、大変控えめで、その子になにかと気を配っているふうでしたね。髪は白くなりかかり、眼は灰色できびしい口元をしていました。でも、礼儀正しい、躾《しつけ》のよい態度にもかかわらず、ひとすじなわではいかない男という感じでした」
「悪党ですよ」とスーザンは断言した。
「最初からそんなふうにいうものではありません」とベレアズ夫人はいった。「あとから悪魔のような男だとわかったのよ。おまえやここの人たちの前では、そう思わせるような言動はありませんでしたよ。じっさい、ここの主人のブレントさんなどは、いまだにおまえやわたしがあの男をまったく誤解しているという意見なのだから。わたしたちは、話をするのにも、公平な態度をとらなくてはいけないわ」
「でも、お坊ちゃまはあの男を恐れていましたわ」
「ええ、そうよ。ルドーはいつもあの男にていねいな口をきき、小さくなっていたのです。あの男はあの男で、いつもルドーに親切で、やさしくて、こまやかな心づかいを見せていました――だれかがそばにいるときはね。でも、ルドヴィクの眼を一目見れば、あの子がじっさいどう感じていたかわかったと思います。それが、わたしがあの子のことで気がついた最初のことでした。スーザンも気がついていました。あの子は、雨の降る日の午後など、ときどきわたしのところに遊びに来させてもらっていました。わたしは子供好きで、あの子をよろこばせてやるのが好きでしたもの。そうして、あの子をじっと観察していたのです。とても神経質な、いつも神経の張りつめた子で、突然風が吹いたり、道端で叫び声がしたりしようものなら、はっとして真蒼《まっさお》な顔になったものでした。でも、やはりそこは子供なのねえ、ときには悩みも忘れて、姉や亡くなった父親のことや、おじさんのことを話してくれたものです」
「おじですって?」
「現在のブルック卿のことですわ」
「なるほど。腹黒いおじというわけですね!」とリングローズはいった。
「とんでもない。とても立派な青年です、わたしの長い一生のあいだで出会ったうちでも、一番立派な部類に入るほどの。まあ、その方のことはあとでふれましょう。スーザンはわたしよりビットンに会うことが多かったせいで、ぶしつけにならない程度に関心を持って、できるだけのことを聞き出してきました。その話だと、ルドーは神経を病んでいて、いつ何時発狂するか、さもなければ一命にかかわるようなことになりかねないということでした。週に一回、医者が診察に来ましたけれど、ビットンは坊ちゃまはよくなったといわれたということもあれば、どうも思わしくないといわれたと語ることもありました。スーザンに車椅子を押させて散歩から帰って来たとき、わたしも一度医者と出会い、自動車に乗りこむまえに、思いきって話しかけてみたのです。モリス・デヴィッドスンというスコットランド人で、ブリッドポートで開業していました。医者は気さくに話してくれ、あまり見こみはありませんなと答えました。ルドーは妄想に悩まされ、眠ることもできない始末です。幻影を見たり恐ろしいものが見えるというのですけれど、いつもとりとめがなく、せっかくのここでの生活も、おじさまの希望とは反対に、効果をあげていないようでした。
時が流れ、やがて、わたしたちは恐るべき発見をしました。偶然ある出来事から、わたしたちは疑惑を抱きはじめたのです。ある晩、わたしはひどく気分がすぐれず、隣の部屋で寝ているスーザンを呼びました。夜中の二時から三時のあいだだったにちがいありません。なんだかひどく悪寒《おかん》がして、ブランデーを頼もうと思ったものですから。スーザンがわたしの私室へブランデーを取りに入りかけたとき、遠くの反対側の棟のほうから悲鳴が聞えました。スーザンの言葉によれば、『苦悶にみちた恐怖の叫び』でした。ブランデーを持って戻って来たスーザンは、そのことを話してくれました。『ルドーさまの声にちがいありません』というのです。スーザンの大胆さを知っていたので、なにが起ったのか見にやらせると、スーザンは棟の廊下の先のほうまで行ってみたのです。ルドーの部屋はその突き当り、ちょうど今あなたが泊まっておられるところでした。リングローズさん。その隣にはアーサー・ビットンが寝ていました。ご存知のように、二部屋ともホテルの中央からずいぶん離れていて、子供が泣き叫んでも夜はだれにも聞えないのです。ところが、スーザンは静まりかえったところで恐怖の悲鳴を聞いたものですから、勇敢にも明りなしで調べに行きました。廊下の部屋の入口は少しくぼんでいて、ビットンの部屋から二つ手前の部屋まで来ると、スーザンはくぼみに隠れて、じっと耳を澄ましていました。しばらくなにも聞えませんでしたが、やがて、また悲鳴が聞えました。ルドーがビットンを呼んでいるのです。なんていっていましたっけ、スーザン?」
「『あいつが来たよ! あいつが来たよ! また来たんだよ、アーサー、アーサー! ビットンさん、またあいつが来たんだよ! ぼくを睨《にら》んでいるよ!』そんなふうなことを叫んでいました。それから、金切声があがり、なにも聞えなくなったんです。たぶん気絶なさったんでしょう」とミス・マンリーはいった。
リングローズはかっと血が顔に昇るのをおぼえた。この元刑事に欠点があったとすれば、それは子供への残虐な仕打ちには深く烈しい憎しみを感じることにあったろう。
ベレアズ夫人は話しつづけた。
「なにかが、あるいは何者かが、あの子の部屋にいたのです。それはあの子の想像か、それともじっさいに見たのかそれはなんともいえません。スーザンからこの話を聞いたとき、わたしは前にも聞いたとおり、かわいそうにあの子は夜頭がおかしくなって、恐ろしい幻覚を見たのだろうと思いました。しかし、今では様子がよくわかります。さて、スーザンはじっと待っていました。むろん、ビットンが同じ部屋にいるのか、自分の部屋にいるのかわかりませんでしたけど。十分ばかりすると、明りがついて、ビットンの部屋のドアが開き、ガウン姿のビットンがろうそくを持って出て来ました。はっきりとその顔が見えましたが、まるで無表情でした。ちゃんと眼をさまし油断のないふうなのに、全然驚いたり心配している様子がないのです。じつをいうと、ただ、どこか兇悪に見え、なにか恐ろしいものの前にいるような奇妙な感じがした、とスーザンはいっていましたわ。ビットンはルドーの部屋に入り、ドアを閉めました。それから、いつものやさしそうな声でなにか話しかけ、ルドーがとぎれとぎれに泣いているのが聞えます。やがて、ルドーがこういいました。『ぼくをおまえの部屋へ連れて行って。ねえ、連れて行って』あの子はビットンのベッドでいっしょに寝かせてくれと嘆願していたのです。かわいそうにねえ、きっとそこなら安心して眠れると思ったのでしょう」
「なんというひどいことを!」とリングローズは叫んだ。「奥さん、どうかその先を」
「スーザンはそれ以上ぐずぐずせずに、引き返してきて、わたしに報告してくれました。わたしがその夜もう眠れなかったのはいうまでもありません。そこで、スーザンにもブランデーを飲ませ、夜が明けるまでどうしたらいいか話しあいました。わたしは朝さっそくあの子のおじに手紙を出し、わたしに会いに来てくれといおうと思いました。しかし、スーザンはわたしより先見の明があって、性急なことはせずに、もう少し待ったほうがいいという考えでした。スーザンはこう指摘したのです――あのとき、なんていいましたっけ、スーザン?」
「こう申しあげました、奥さま。わたしたちはまだ充分知っているわけではありませんて。わたしたちにわかっているのは、あの坊ちゃまは恐ろしい夢やまぼろしに夜悩まされて、眠ることもできず、頭が変になったということだけです。お医者さんは奥さまにそうおっしゃったでしょう。ビットンもわたしにそういいました。あのお医者さまが立派な方であることは疑う余地がありません。そこで、あれは本当のことかもしれないと、奥さまに申しあげたのです。つまり、わたしは坊ちゃまがいつものようにこわい夢を見て、うなされているのを聞いただけかもしれない。あいつが来た、助けてくれと叫んでいらしたのも、病んだおつむから生み出された恐ろしいまぼろしのせいかもしれない――そう申しあげたのです」
「ええ、そうでしたね。それから、こうもいいましたよ。リングローズさん、この人は大胆にも、あの子がいないとき部屋を調べてみようかといったのです。わたしはその考えに手を打って賛成し、機会を待ちました。晴れた朝、いつもビットンはあの子を共有地や海岸へ散歩に連れて行くのです。身体が疲れるほうがよく眠れる――そういって、たいてい昼食《ディナー》まえに長いこと連れ出していました。ところが、例の事件のあと、もっといい機会がやってきました。ビットンのほうから、スーザンにわたしにあの子を一日だけ午後預ってもらえないかといってきたのです。ブルック・ノートンの主人のところにぜひ行かなくてはならないので、もし預っていただければ好都合だ――そんな話でした。もちろん、わたしたちは三日前の夜のスーザンの探検のことは全然ビットンには話してありませんでした。
わたしは即座に承知して、まんまとチャンスをつかみました。ルドーはひどく気分がすぐれず、すっかり神経質になっていましたわ。おさない顔には死相があらわれているかと思われるほどで、それを見ていると胸がいたんできて。しかし、少しでも元気づけようと努力して、とびきり上等のお三時をととのえておきました。その日の午後、ルドーはあまりゲームに気乗りがせず、疲れ切っているようでした。しかし、わたしといっしょにいると、不安もやわらぎ、少しはわたしとトランプをしたりしていましたが、やがてこくりこくりしはじめたのです。スーザンが暖炉のそばに連れて行き、大きな椅子にすわらせると、二分もするとぐっすり寝こんでしまいました。こわい夢を見て悲鳴をあげられたらどうしよう、わたしはそれが心配でした。じじつ、一度などはっとして眼をさまし、大きい茶色の眼に恐怖をみなぎらせているのです。しかし、やさしく話しかけてやると、自分がどこにいるかわかったらしく、にっこりして、またぐっすり眠ってしまいました。そのあいだに、スーザンは大冒険に出かけました。さあ、その先を話してちょうだい。このへんのことは、おまえのほうがうまく話せるでしょう」
「はい、奥さま。あれはうっとうしい午後のことでした」とミス・マンリーは語りはじめた。「そちらにはだれもいなくなることがわかっていましたので、時間を待つことにしたのです。あらかじめ女中に話をして、その棟からいなくなるのを見届けてから、廊下へ入って行きました。たぶんドアは鍵《かぎ》がかかっているだろうと思いましたけど、あの男はそんな疑惑を招くような真似《まね》はしませんでした。ドアも窓も開けっ放しでした。まずルドーさまのお部屋を探しまわり、隅々まで調べてみました。あそこは今、リングローズさま、あなたのお部屋でございますけど、鼠《ねずみ》のこわがりそうな物でさえ見当りませんでした。ちゃんとした召使ならこうもあろうと思われるくらい、万事整頓され、きちんとしていました。お坊ちゃまのお洋服は最高のものばかりでしたし、下着も、靴も、ゲートルも、みんなすてきでした。ベッドは入って右手の二つの壁ぎわにおいてありました」
「今もそうですね」とリングローズはいった。
「ベッドのそばにはスタンドがあり、炉棚には、薬瓶やワイングラスがのせてありました。夜は暖炉を燃やすので、その支度はしてありましたが、火はついていませんでした。疑わしいものなどひとつもないのです。そこで、次にビットンの部屋に入ってみましたが、ここも同じように整然としていました。躾《しつけ》のいい独身の男ならこうもあろうかと思われるほど、あんなにきちんとしているのは見たことがありません。すべて小ざっぱりと飾り気がなくて。箪笥《たんす》の引出しや吊戸棚《つりとだな》や隅の箱も覗《のぞ》いてやりました。だって、どれも鍵がかけてなくて、かえって疑わしく思えたからです。大の大人が全然秘密を持たないなんて――」
リングローズは微笑した。
「上出来ですよ、マンリーさん。男だって女だって、どこかに自分の鍵をおいていない人間なんて、まずありませんよ」
「はい、わたしもそう思いました」とこのきちょうめんな老女中は話しつづけた。「そこで、眼と耳を働かせて、鍵を探したのでございます。果して、小さな鍵が見つかりました。じつにふしぎですわ、今鍵のことをおっしゃったのが。わたしの親指の爪《つめ》とあまり変らないくらいの大きさで、運よく偶然に発見したのです。ええ、あの男もうっかりしていたのでしょう。でも、その点は責められませんわ。だって、同じ屋根の下に敵がいようとは想像もつかなかったでしょうから。わたしは全部調べてみました――窓のそばのテーブルにあった聖書から、祈祷《きとう》書、書きもの台、便箋《びんせん》にいたるまで。おいてある一通の手紙まで開けてみました。『愛する人へ』という書出しで、終りを見ると、ジェイン・レイクという女の人からでした。ビットンがその人と婚約していることは知っていました。一、二度ビットンに会いに来たことがありますから。気立のいい明朗な女性のようでしたし、手紙の中は読みませんでした。それから、ビットンが晴れ着を着て出かけたことを思い出し、吊戸棚にかけてあったふだん着のポケットを探してみることにしました。なんとなくそうしたのですけれど、今にして思えば、そうする運命だったのでしょう。どのポケットも空っぽで、最後にチョッキの時計用ポケットに指を入れたとたん、なにかが指先にふれました。ええ、先ほどのあの小さな鍵ですわ。懐中時計の鍵ではありません」
「ですけれど、差しこむ錠前がなければ、鍵などなんの役にもたちません。わたしはすでに何もかも引っくりかえし、引出しも、吊戸棚も、手提鞄《てさげかばん》も、箱も、旅行鞄も、全部開けてみました。そこで、もう一度室内を見まわすと、果して開けられそうな物がありました。吊戸棚の上に――リングローズさまのお部屋のと同じですけど――棚があるのです。そこにビットンの帽子箱がありました。日曜には、ビットンはきちんと信心深くルドーさまを教会へ連れて行き、そのときシルクハットをかぶり、きれいなワイシャツを着て行くのです。
椅子の上に乗って箱をおろしてみると、鍵がかかっていました。見つけた鍵がぴったりです。そこで開けてみましたが、床《ゆか》に降りてから開けたことを何度神さまに感謝したでしょう。と申しますのは、その中にあった物を見るなり、わたしはまるで頭を殴《なぐ》られでもしたみたいに、膝《ひざ》ががくんとして床にすわってしまったからなのです。今まで気を失ったことはありませんけれど、あのときはそれに近い状態でしたでしょう。帽子がちゃんと入っていましたが、赤い絹のきれで包んだ物がありました――大きなヤシの実くらいのかっこうをした堅くて、まるい物が。取り出してみると、悪魔が作ったかと思われるような不気味な物がこっちを睨《にら》んでいるではありませんか!」
スーザンはそのときのことを思い出して息をはずませ、ベレアズ夫人は少し休むようにいいつけた。
「落ち着いて、スーザン。ゆっくりお話しなさい」と小声でいった。
「それは人形の首でした」とスーザンは話しつづけた。「粗《あら》い赤毛がぴんと生え、地獄でしかお目にかからないような恐ろしい顔をしていました。大きな黄色い眼で、鼻のところは穴が開き、口には犬のように長い歯が生えていましたわ。ぞっとさせられたのは、その顔の眼鼻立ちそれ自体よりも、全体の印象にありました。話を聞いただけでは、そんなものは大人には滑稽《こっけい》に見えるだけだとお考えになるかもしれません。ところが、とんでもありません。リングローズさま。まさに恐るべきものでした。まるで生きているようでした。眼はガラスでできていて、邪悪な眼つきで睨んでいるのですもの。凶悪そのものというほかはありません。一目見ただけで、あの恐ろしさは死ぬまでわたしにつきまとうにちがいありません」
「決して誇張しているのではありませんよ、スーザンは」とベレアズ夫人は加勢した。「恐怖の化身、血も凍るほどの恐ろしい仮面とでもいいましょうか、リングローズさん。グロテスクという言い方では充分ではありません。そう、地獄の使者とでも呼びたいような」
「すると、奥さんもご覧になったのですね?」
「ええ、見ました。話をつづけて、スーザン」
「われに帰って仮面を調べると、ぱっと頭を働かせました」とミス・マンリーはつづけた。「坊ちゃまが悲鳴をあげたのは、この仮面のせいなのだ――本能的にそう頭にひらめいたのです。この化物が夜忍び寄って来るのをご覧になったのです。頭と首のところには鉤《かぎ》がついていて、赤い絹のきれが垂れていました。わたしは化物を包み、小脇にかかえて奥さまのところへお持ちしました。坊ちゃまはやすらかに眠っておられたので、奥さまの車椅子を窓辺に押して行き、びっくりしないでくださいましと念を押してから、見つけたもののことをお話いたしました。で、お見せすると、奥さまも気絶しそうになられたのです。これまで少しは恐ろしいものを見てきた年寄りが、その恐ろしさに二人ともぞっとしてふるえあがったくらいですもの、あの病弱なお坊ちゃまがおびえてしまわれたのも当然ではありませんか、リングローズさま?」
「まったく殺してもあきたりない人非人だ」とリングローズはいった。その声は烈しい怒りにふるえていた。
「はい、わたくしたちもそう申したことでございます。しかし、奥さまは稲妻よりすばやく頭が働く方で、すぐさま対策に移られました。わたしが絵の道具を――絵を描くのがお好きなものですから――お持ちすると、即座に鉛筆で念入りにあの面を写生されたのです。拝見しているわたしのほうがふるえているくらいでしたけど、奥さまはふるえもなさらず、二十分もすると、あの憎むべき面の表情をくわしく写し取られたのです――一点もゆるがせにせず。それから、やはり丹念にその色彩を観察なさり、翌日暇を見て色を塗り、眼の光までお加えになりました」
「スーザンが最初に悲鳴を聞いてからというもの、わたしたちはなぜあの子があんなにおびえて、だんだん衰弱してきたのか、いぶかしく思っていましたのよ」とベレアズ夫人があとを引き取った。
「あの夜ルドーを襲《おそ》ったのがたんなる悪夢なのか、それともほかのなんなのか、わたしたちには見当がつきませんでした。でも、これでよくわかりました。これが大事な証拠になると思って、わたしはそのぞっとする仮面を写し終え、鍵といっしょにスーザンに元のところへ返させたのです。
ビットンはお茶の時間のあと帰ってきました。そのときすぐ問いつめなかったのは、われながら大した意志の力だと思いますわ。あとになって、そうすればよかったとずいぶん後悔もしましたけれど。とにかく、あと二十四時間は放っておいても問題なかろうと思いましたし、まずなによりもビットンを驚かさないことが必要だと思ったものですから。その上、わたしにはべつの計画もありました。その晩、スーザンにブルック・ノートンへ電報を打たせたのです。あの子のおじさま――当時はまだバーゴイン・ビューズという名で、爵位は継いでおられませんでしたけれど――がイギリスにおられるときはそこにお住いでしたし、スーザンもビットンから今そこにおられると聞いておりました。そこで、わたしはすぐおい出を乞うとウナ電を打ったのです。あいにくビューズさまは晩餐《ばんさん》に外出され、電報を受け取られたのは真夜中でした。ところが、その夜恐ろしいことが起きてしまったのです――それがなにかは今後ともわからないでしょうね。とにかく、わたしもスーザンもまんじりともしませんでした。スーザンは一、二度あの棟に行ってみましたよ。でも、なんの物音もしませんでした。夜が明けてすぐビットンがホテルの使用人を起していました。スーザンが行ってきいてみると、ルドーの容態がひどく悪くなり、馬丁がブリッドポートへ医者を呼びに馬を走らせて行ったというのです。ブレントさんはビットンから聞いたことをあとで話してくれました。それによると、あの子はあの晩とてもよく眠り、一回も眼をさまさなかった。しかし、朝になって意識を失っているようだったというのです。医者は八時には到着し、それから一時間後、ルドーのおじさまが自動車で来られました。やがてスーザンはルドーがいわゆる『脳熱』、医者にいわせると脳膜炎にかかったことを聞いてきました。ルドーは意識を失って、危篤《きとく》に陥ったのでした。
一時間ばかりして、あの子のおじさまがお会いしたいといってこられました。むろん、こちらもそのつもりでした。わたしは早起きして、頭のなかにあざやかに色彩が残っているうちに、あの怪物の絵に正確に色を塗っておきました。スーザンも脇にいて、いちいちわたしの話を裏書きし、ビューズさまも丁寧に聴いてくださいました。でも、信じてはおられないことは最初からわかりましたけれど」
「お話しちゅうですが、奥さん、ビューズさんというのはどういう人ですか?」とリングローズはきいた。
「小柄な、身なりのいい方ですわ。髪はカールした明るい色で、まるい赤ら顔の。『赤ら顔』というのは、すこし大げさかもしれません。血色のいい――そう申しあげたほうがいいでしょう。陽気な表情で、明るい無邪気《むじゃき》とさえいえるようなところがありました。いくらか小柄で、そのため少年のように見えましたけれど、あとで『人名録』を調べたら、三十五歳でした。親切でよく気のつく、とても丁重な方でした。わたしが興奮しているのに深く同情され、何回もスーザンを物問いたげにご覧になりました。わたしが正気か、真剣に疑っておられるのがよくわかりましたわ。わたしが話し終ると、あの方はこうおっしゃいました。アーサー・ビットンはこの十一、二年間――自分が従僕を持つようになってからずっと――従僕をやってきた男で、絶対に信頼している。今までなんの疑わしいところもなかったし、立派な一点のしみもない暮しぶりで、厳格なピューリタンで、あれほど信心深い、職務に忠実な男はまずあるまい。ビューズさまは深く当惑し、首をうなだれ、少し蒼《あお》ざめた顔におなりでした。『大変なショックです』とおっしゃって。そうでしたね、スーザン?」
「はい、そうおっしゃいました、奥さま」
「じっさい、そういう顔つきでした。むろん、ああいう陽気で小柄な方がなれるくらいのみじめな顔つきでしたけれど、そのとき、ふとわたしはある考えを思いつきました。ビューズさまがすっかり当惑され、ビットンを信用しきっておられるものですから、わたしも一瞬自分たちが夢を見ているのではあるまいかと思いかけたくらいです。でも、ビューズさまはものわかりがよく、辛抱強い方でした。わたしのことを怒ったり、当惑している様子はお見せにならないのです。『では、こうしていただけませんか、ビューズさま?』とわたしはいいました。『今すぐスーザンとアーサー・ビットンのところへいらして、眼の前で帽子箱を開けてみろとおっしゃってくださいませんか?とてつもないことを要求しているとお思いでしょうけれど、わたしは真実、ありのままを申しあげたのです。年こそとっていますけれど、頭はしっかりしておりますし、この女中はもっと利口です。今申しあげたようなことを捏造《ねつぞう》できるわけがありますまい。スーザンはあの恐ろしい叫びを、あの苦しみにみちた子供の訴えるような叫びを聞いているのですよ。甥《おい》ごさんが、おまえの部屋で寝かせてくれと懇願《こんがん》しておられるのを聞いたのです。つい昨日も、電報を差しあげる前に、あの恐ろしい悪魔のような仮面を見たばかりです。お願いですから、いったとおりにして、ご自身で納得してくださいませんか?』」
「ビューズさまは即座に承知してくださいました。『むろん、今すぐそうしましょう。そういう恐ろしいことが本当なら、あの男を八つ裂きにしてやりますよ。さあ、マンリーさん、いっしょに来てくださいませんか?』」
「そうでしたね、スーザン?」
「はい、奥さま」
「そのあとのことをリングローズさんにお話して」
そこで、スーザンは先をつづけた。
「わたしたちはまっすぐビットンのいる棟へ行きました。途中、ビューズさまはご主人は頭は大丈夫かとそっとおききになりました。『もちろんでございます』とお答えすると、『なるほど』とおっしゃいました。ビットンは坊ちゃまのそばにいて、医者《せんせい》の見立を聞いていましたが、すぐにブリッドポートから看護婦を二人呼ぶために電報を打ちに出て行きました。蒼白い心配そうな顔でした。ビューズさまはつかつかとビットンのところへ歩み寄り、帽子箱を持ってこいといいつけられました。あれほどびっくりした顔は見たことがありません。眼を皿のようにして、最初はビューズさま、次はわたしを見つめました。おびえたわけではなくて、明らかに聞きちがえたと思った様子です。『帽子箱ですか、旦那《だんな》さま?』と問いかえし、『そうだ、おまえの帽子箱だ』とビューズさまは答えました。ビットンは自分の寝室に入り、わたしたちもついて行きました。帽子箱は以前見た吊戸棚の上にありました。ビットンは夢遊病者のように椅子の上に乗り、箱をおろしました。ポケットに手を入れて鍵を探すかと思いましたが、そうせずに、まだ眼がさめてないように化粧台のところに行き、小さな引出しを開けたのです。鍵がありました。ビットンは箱の鍵を開け、さっと蓋《ふた》を開いて、ビューズさまに渡しました。ビューズさまは中を覗《のぞ》いて、ビットンの帽子を引き出されました。箱に入っていたのはそれだけでした」
スーザンは話をやめた。そのとき、暖炉の上の置時計が午前零時を打った。
リングローズは椅子から立ち上がった。
「今夜はこれでもう充分です。遅くまでお引留めして失礼しました。まことに驚くべきお話でした。よろしかったら、明日またうかがいましょう。お話しいただけることはすべてうかがいたいし、それに、あれこれおたずねしたいのです。しかし、ご馳走《ちそう》もほどほどがいいといいますからね。心からお礼申しあげます。つけ加えるまでもありませんが、お二人のお話を信じていますよ」
ベレアズ夫人はほっと安堵《あんど》の溜息《ためいき》をついた。
「しかし、ほかにも信じてかからなければならないことがいくつかあるでしょうね」と彼はつけ足した。それから、戸口で振り向いて、こうたずねた。「例の絵はまだお持ちですか、奥さん?」
「ええ、持っています」
「結構です! ぜひ明日見せてください」
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第四章 リングローズ、挑戦に応じる
リングローズは誠実な男だった。彼はこれまで、悪の力との対決で、多くのことを見、耐え忍んできた。この刑事の背後には厖大《ぼうだい》な経験が横たわっていた。世の中には、悪事を犯して有罪になり、刑に処せられた者よりも、社会の敵でありながら栄えている者のほうがはるかに多いことも知っていた。被害者のために犯人をあばき逮捕しはしたけれど、ときには、むしろ加害者のほうにより同情を感じることもあった。だが、なぜそうなのかを思い巡らしたり、しばしば自分の職務の裏にひそんでいる複雑な人間的問題に関心を持つことはしなかった。
リングローズは闊達《かつたつ》な性格で、偏狭なところがなかった。これまで多くの異常な出来事に直面し、どんな合理的な解釈をも受けつけない神秘的な事件に、一度ならずぶつかったことだってある。しかし、人間性それ自身が、しばしば合理的な解釈を受けつけない存在ではないのか。
その夜自室に退いたリングローズは、今まで聞いたことをあれこれ考えてみた。頭の中でさえ決してセンチメンタルになったことがなかったけれど、彼は感情に欠けた人間ではなかった。だから、いたいけない子供が非道にも殺されたベッドにもぐりこんだとき、心身ともに戦慄《せんりつ》に似たものが走るのをおぼえたのだ。それは恐怖ではなかった。というのは、この男はいまだかつて自分のことで恐怖を感じたことがなかったから。人のことで大きな恐怖を感じたことなら、いくらでもある。だが、自分のことでは一度もなかったのである。一見超自然的な出来事を前にしても、不安は起きなかった。彼には理性に根ざした勇気が備わっていた。かといって、人智で説明できないことは絶対起らないなどと断言したり、信じたりはしなかった。今リングローズの前にあるのは、まさにこういう問題であった。だが、彼はくわしく話を聞かないうちに証拠を秤《はかり》にかけて、時間を浪費したりはしなかった。ぐっすり寝こむまえにこの元刑事が考えていたのは、どうやらこの腹黒い犯罪を仕組んだらしい人間のことか、この事件が自分の耳に伝わったルートのことだった。子供がこの世から消えてから一年後に、おれはその子の叫びを聞いたのだ! 彼の意識の中に最後にあったのは、このことだった。やがて、彼は眠りに落ち、ぐっすり眠ってしまった。
翌日の晩、ベレアズ夫人は残りを話し終えた。
「帽子箱が空っぽだとわかったとき、スーザンは尻尾《しっぽ》をまいて退散し、ビューズさまからビットンに事情を説明してもらうほかありませんでした。
ビューズさまは帰るまえに、もう一度わたしに会いに来ました。あいかわらず思いやりのある、親切な態度でした。
ほかのときでしたら、わたしはきっとあの方に参っていたでしょう。ほんとに魅力的で、辛抱強く接してくださいましたからね。ふつうの男なら、あんなふうに二人のおしゃべりなおばあさんに捕ってしまったんですもの、あれほどの思いやりは見せてくれなかったと思います。ビューズさまは、『あなた方はあんな恐ろしい疑惑をお持ちになったけれど、これでもう、あれはなにか異常な白日夢か幻覚のせいだと納得がゆかれたと思いますがね』そういって、お帰りになりました。あとでスーザンが聞いたところでは、お帰りになる前、バーでブレントさんに、あの二人はどうかしていないかとたずねられたそうですわ。ですけれど、ありがたいことに、なにもくわしいことはおっしゃらなかったので、ブレントさんはいまなおわたしたちのあいだでなにが起ったのか、どういういきさつで会ったのか、なにも知っていないのです」
「ブレントさんは、ビットンのことをとてもよく思っていますわ」と、前の晩と同様女主人に付添ってきたスーザンがいった。「それこそ、ブレントさんがなにも真相に気づいていないというたしかな証拠です。だって、ブレントさんくらいやさしい、親切な方はいませんもの」
「で、その子はいつ亡くなりましたか?」とリングローズはたずねた。
「次の日の早朝でした」とベレアズ夫人は答えた。「亡くなったとき、医者と看護婦がそばにいました。くわしいことは、二週間後にわたしがデヴィドスン先生に診《み》ていただいたとき聞いたのです。ルドヴィクは二度と意識を回復せず、苦しむこともありませんでした。デヴィドスン先生は怪しいことはなにも疑っておられませんでしたから、わたしも余計な口をきかないようにしました。先生のお話では、ビューズさまは大変悲しまれ、ご自分も病人のようになられたということです。あの方は、ルドーが息を引きとってまもなく、ブルック・ノートンから到着されたのです。ルドーの姉さんのミルドレッドさんとごいっしょに。わたしはお二方にお会いしませんでしたけれど、スーザンはお会いしています。ビューズさまはがっかりして、女みたいにおいおい泣いていらしたとか」
「で、ビットンは?」
「はい、ビットンにも会いました」とスーザンは答えた。「あれほど歎《なげ》き悲しんだ人間がまたとあろうか、と思われるほどの顔でした。あの男がルドヴィクさまを殺したのだ。わたしはそう確信しておりますけど、そのとき、ビットンがまさしくうちのめされたようになっていたことはまちがいございません」
「遺体は翌日運び出され、お父さまやご先祖といっしょに、ブルック・ノートンにある一家の納骨堂に埋葬されたのです」とベレアズ夫人があとを引き継いだ。「ブレントさんのお話だと、納骨堂はお屋敷内の猟場の近くだとか。わたしの話はこれで終りです、リングローズさま。こんなことを人にお話するとは夢にも思いませんでした。でも、あなたから奇怪なお話をうかがって、わたしもついお話してしまいましたの」
「どうもありがとうございました」とリングローズはいった。「思い出すのも、さぞ苦痛だったでしょう。重々お察しいたします。ああいうひどい行いは、きっとお二方にも少なからぬ苦しみをもたらしたに相違ありません。さて、これでお二人の過去のお話とわたしの先週の話が揃《そろ》いました。この二つのあいだには、密接な関係があることはたしかです。ところで、例の絵とやらを見せていただけますか?」
「スーザン、取りに行っておくれ」とベレアズ夫人はいいつけた。スーザンは女主人がハンドバッグから取り出した鍵で、戸棚の鍵を開いた。
「今朝わたしの部屋の箱から持って来て、あそこに鍵をかけてしまっておいたのです」とベレアズ夫人は説明した。「女中たちにあんな恐ろしい物を見せたくありませんからね。あれが残っていたのは、まったくの偶然でした。というのは、だいぶ前に焼き棄てるつもりでしたのにそのとき見つからず、あなたさまのお話をうかがうまで、すっかり忘れていたのです。それからスーザンが探しまわって、見つけてくれましたの」
リングローズはじっと絵を眺めた。なるほど話に聞いたとおりのぶきみさである。まるい禿《は》げあがった額《ひたい》には赤い毛が生え、眼の上にも赤い毛がふさふさと生えている。眼はわざとらしく大きく、黄色い虹彩にたてに筋を入れた瞳孔《どうこう》が猫《ねこ》のようについており、人を小馬鹿にしたような光を浮べている。鼻のところには二つの穴が黒々と開いていて、獣《けもの》のような口は黒い洞窟《どうくつ》を思わせる。まわりを赤い歯茎《はぐき》がとり巻き、鮫《さめ》の歯のように尖《とが》った白い歯が突き出している。
リングローズはこのいとわしい絵を深い興味をもって眺めた。古風な丹念な手法で描かれたこの絵でさえ、ベレアズ主従の語ったあの名状しがたい悪の雰囲気《ふんいき》をはっきりと示していた。それは凶々《まがまが》しく、すべてを腐食《ふしょく》させる霊気がにじみ出てくるようだった。ついには、持っている手が痛みをおぼえるほどなのだ。
「この絵の大きさは実物とくらべてどうですか?」とリングローズはたずねた。
「その半分ぐらいでしょう。大きなヤシの実ぐらいありました」とスーザンはいった。
リングローズは絵を下においた。
「しばらくのあいだ、この絵を大事に保管しておいていただけませんか?」と彼はいった。
「いやですわ」とベレアズ夫人は答えた。「今夜にでも焼き棄てるつもりでおりました。あなたに関心を持っていただいて、わたしの恐るべき話が本当だということを信じていただくのに役立つなら、それでもう充分です。なぜ、こんな、いとわしい物をおいておく必要がありますの?」
リングローズは自分の考えを説明した。「女性の頭でこんなものを造りあげられないことはたしかです。男性でも、ごく稀《まれ》でしょう。アルコール中毒で頭がおかしくなった人は別ですが。わたしも今まで少しは醜悪《しゅうあく》なしろものを見たことがありますが、なにか不吉な点で、これに匹敵するものはありますまい。こういうものを造り出した人間の心理を探ってみたいですな。わたしの珍品のコレクションにいただいてかまいませんか?」
ベレアズ夫人はどうかそうしてくださいましと答えた。やがて、リングローズは葉巻に火をつけ直し、ポケットから紙きれを取り出した。
「今からおたずねすることに二、三答えていただければ、奥さんに関するかぎり調査は終りです、ベレアズさん。今朝、丘を散歩していたときに、要点を書きつけておきました。そのあと、よかったら、わたしの考えを申しあげましょう」
「ぜひお願いします、リングローズさん」
「わかりました。では、まず最初にうかがいますが、帽子箱から例の物を見つけられたあと、あの夜ブルック氏あての電報はなんとお打ちになりましたか? 文句をおぼえておいでですか?」
スーザンが答えた。「電報を持っていったのはわたしですけれど、正確にはとても……。奥さまはいかがでしょう? ご自分でお書きになったのですから」
「いいえ、とても。しかし、要旨はよくおぼえています。郵便局の人に知られたくなかったので、用心して文句を考えたのです。ええと、こうでしたわ。『甥《おい》ごさんが大きな危険に――敵の手に――さらされています。すぐおいでください』たしか、そんな内容でした。でも、いちいち言葉づかいまでは、とても思い出せません」
「たしかに『敵』という言葉をお使いになったのですね?」
「ええ、たしかです。そんなきつい言葉を使っていいのかどうかためらいましたから。しかし、いろいろなことからみて、やむをえないと思ったのです」
「なるほど! その言葉だけで充分だ。マンリーさんが二度目に見たときまでに、帽子箱を空っぽにしておくには」
「なぜ、どうしてですの?」ベレアズ夫人は眉《まゆ》をつりあげた。「おじさまが事情を知っていたとおっしゃるのですか?」
「そう推測するのが正しくありませんか?」
「とんでもない」とベレアズ夫人は叫んだ。「あの方はそんないまわしいことのできる方ではありません。その点は絶対にたしかですわ、リングローズさん」
リングローズは軽く頭をさげた。
「では、そのことはふれないでおきましょう。で、今はブルック卿になっているのですね?」
「ええ、ルドーの死後、爵位を継がれたのです」
リングローズはなにも感想を述べず、質問をつづけた。
「次に、アーサー・ビットンについてですが、どうなったかご存知ですか?」
「ええ、知っています。あの子が亡くなって数か月後に結婚しました。相手はジェイン・レイクという人で、現在ブリッドポートに住んでいます。晩餐会があると、給仕として働いているようですよ」
「では、少年の死後、主人の家をやめたわけですね?」
「ええ、そうです。ここの主人とは親しいらしくて、自由森林協会会員の例年の晩餐会がここで開かれたときも、給仕として来ていましたわ」
「それに、ときどき散歩のおりに立ち寄ることもありますわ」とスーザンが口をそえた。「あの男は野原や海岸を遠くまで散歩する習慣で、ときどきお酒かお茶を飲みにこちらに寄るんです。夫婦で来るときもありますけど」
「会ったことがありますか?」
「はい、あります。ずっと前、一ぺんわたしを呼び止めて、例の帽子箱のことをきいたこともありますわ。『いったい全体、あれはどういうことですか? 主人はお二人が頭がおかしいと思ったようですよ。しかし、本当のことはなにもいってくれませんでしたがね』なんていって」
リングローズは興味をおぼえた。
「なるほど、そんなことをいいましたか。で、あなたはどう答えました、マンリーさん?」
「『あなた自身が帽子箱になにが入っていたかご存知ないのなら、わたしにわかるはずがないでしょう』っていってやりました」
「ビットンはきっと目をまるくしたでしょう?」
「ええ、目をまるくしましたわ。それから笑いだしたんです。わたし、じっと我慢しましたけど、顔を引っかいてやりたいくらいでした。ほんとに悪魔ですわ、あの男は」
「わたしも同感です」とリングローズはいった。「しかし、人間で同時に悪魔であるはずがない。わたしの判断では、やつはきっと悪魔的要素をそなえた普通人にちがいない。だが、やつを悪魔的にしたのは何者か。さしあたり、あの男と関連してわたしの名を出したり、わたしがあの男のことを知っていることを、ここのだれにも知られないように、くれぐれも注意してください。わたしがあの男のことをなにか知っていると本人に知られてはまずいのです。それに、わたしがここに滞在しているあいだは、あの男を知ることも、会うこともいけないのです」
ベレアズ夫人の老いた眼が、眼鏡越しに輝いた。
「なにかしてくださるおつもりですのね! ありがとうございます」
リングローズは首を振った。
「その点については、奥さん、わたしはもう一度考えてみなければなりません。悪魔的な犯罪がおこなわれ、かつその犯人が明らかに大手を振って歩いているということは、たしかにわたしも信じます。しかし、奥さん、たくさんの『しかし』が、わたしの前に立ちはだかっているのですよ。これは決してアーサー・ビットンひとりの犯行ではない。それはたしかです。ビットンが無邪気な子供に個人的な恨《うら》みを抱いていたはずがありません。だから、ビットンはある男のために少年の死期を早めたのだといえるでしょう。そのある男とは、ほかならぬ、あの子の財産を受け継いだ人物です。しかし、その人物とちょっと会われたときの印象では、人間的で、礼儀正しくて、申し分のない紳士だということでしたね。それに思い出してください。事件は一年以上も前に起きたのですよ」
ベレアズ夫人はほっと溜息《ためいき》をつき、リングローズは少しいいまわしに工夫して話をつづけた。というのは、まだこの老人たちにかつての職業を隠しておきたかったからだ。
「いうまでもなく、わが国の警察は、子供に対する犯罪にしばしば直面してきました。そして、警察の任務は、極力犯人を割り出し、裁きを受けさせることにあるのです。しかし、この事件の場合、われわれは警察よりはるかに困難な問題をかかえています。なるほど、われわれはこの恐るべき悪業を犯した人間を知ってはいるでしょう。だが、どうやって法律の納得がいくように、それを立証できるでしょう。問題は、ビットンと彼の蔭にあってこの凶行をおこなわせた件《くだん》の人物を、いかにして法廷に引きずり出すかにあるのです。
ですからわたしの直面している困難さの性格を、ぜひ奥さんに理解していただきたいと思います。わたしは、事件が起きて一年後に、局外者としてこの話を聞いたにすぎません。議論を進める都合上、かりにわたしがこの事件を扱う資格があるとしても、どうやって取りかかることができるでしょう。どこに梃子《てこ》の支点があるでしょう。むろん、わたしもあの二人を絞《しば》り首にしてやりたい気持はやまやまです。ああいう冷酷で、計画的な殺人を見ると、正義を求める情熱がたぎりたつのをおぼえます。事実上立証不可能な方法で殺人を犯し、自分は助かろうとする彼らのずるさには、わたしもあの不幸な子のために復讐《ふくしゅう》してやりたい欲望に駆られるのです。これは重大なる挑戦です。しかし、この問題を扱うには、前もって非常に念入りに考え、時間をかけ、さまざまな考慮をしなければなりません。わたしはね、奥さん、ある事情がなかったなら、これほど困難な事件に取り組む覚悟ができなかっただろうと思いますよ。その上、その事情自体大きな謎《なぞ》に包まれている。しかし、わたしはいつも謎めいた事件には興味を持ってきましてね。今回の経験も、きわめてユニークなもので、わたしのような風変りな頑固な人間には、お二方が聞かせてくださった話を無視することが、どうしてもできませんのでね」
リングローズはちょっと口を閉じたが、老女たちはどちらも沈黙を破らなかった。二人はじっとリングローズの顔を見つめたまま、身じろぎもせずにすわっていた。
「その謎とは、わたしがこの事件について知るにいたった方法なのです」と彼は話しつづけた。「ご承知のように、わたしは自分の話と引き換えにこの話を聞かせていただきました。しかし、表面上はいかに超自然的に見えようと、あの出来事がなかったなら、お二人とも、あの少年がどうして生命を縮めさせられたかを絶対に話してくださらなかったでしょう。ところで、わたしは唯物論者なんですよ、ベレアズさん。もちろん、頑固な偏見にこり固った唯物論者でも、十九世紀の科学者のような意味での唯物論者でもありません。われわれはあの頃の科学者より多くのことを知っていますからね。今日『唯物主義』という言葉は、非難する意味で用いられ、真の意味からはそれています。しかし、誠実な人間なら、だれもわたしの唯物主義を非難できないでしょう。なぜならば、わたしの唯物主義とは次のようなものだからです。つまり、わかりやすくいうと、わたしはいわゆる『幽霊』なるものを信じていませんし、さりとて否定してもいないのです。われわれの物質についての知識はきわめて漠然《ばくぜん》としています。われわれの感覚はあまりにも不完全で、理性のある人間なら、何事にも確信は持てません。自分の見たもの、聞いたもの、ふれたもの、味わったものについてね。もっとも高度に訓練された感覚でさえだまされることもありうるし、われわれ自身の個人的体験でも、そういうことはしばしば起ります。それゆえ、われわれは自らの感覚の限界を率直に認めなければなりますまい。
われわれの意識している物質は、ほんの一部にすぎません――おそらく物質世界のごくわずかな部分にすぎないでしょう。たとえば、この室内には、幾百万という物質の微粒子が漂っています。われわれにはそれが見えません。しかし、もし太陽が輝いているときに室内を暗くして、一筋の太陽だけを差しこませたとすれば、その光の中に何千という微粒子が見えるでしょう。そうして、われわれは気づかないとしても、われわれの視覚のおよばないところに、さらに幾千もの微粒子が漂っていることを認めざるをえないでしょう。『物質』という言葉が、今日物理学者の理解では、われわれの感覚では捉《とら》えられないものを多く含んでいることは、研究者ならだれでも知っています。触知できないものも、さまざまな状態で存在しているかもしれませんし、『幽霊』も、われわれには見えませんが、『エーテル』か『物質』に包まれて、われわれの周囲にあるかもしれません。わたしは決してそれを否定するものではありません。しかし、こういう霊にせよ、事物の自然の理に属している以上、われわれと同じように、霊に形を与えている物質の法則にしたがわなければならないのです。要するに、先週わたしの寝室に子供の『幽霊』があらわれたとしても、その霊が生きた子供の声で苦しみの叫びをあげたりすることはできなかったでしょう。奇蹟《きせき》がおこなわれて、物質の法則が破られたのではないかぎりは。
死者の幽霊があらわれたり、この世で一度も見たことのない人間の幽霊があらわれたりしても、なんら奇蹟でもないかもしれません。しかし、もしそういう亡霊が人間の声で話したとすると、これはまさに奇蹟です。われわれが『幽霊』と呼ぶものにも、声があり、その声でしゃべり、われわれの鈍感な耳には聞えないような音を出しているかもしれません。ちょうど、小鳥がわれわれにはその大部分の音調が聞えない音域で唄《うた》ったり、ほかの生物には敏感に感じられても、われわれ人間の眼には見えない光線がスペクトルにはあるように。しかし、わたしは次のことだけはぜひ主張します。幽霊にとっては鍵のかかったドアや頑丈な壁もものの数ではないでしょうが、わたしの聞いたような声は出せるはずがないと。あれは眠っているわたしが眼をさますほどの大きな声でした。ああいう声は、生身の人間が持っているような喉頭《こうとう》や声帯――われわれがふだん使い慣れている言い方にしたがえば、実質のある物質的な器官ですが――がないかぎり出せないものですよ。幽霊が、われわれには隠されたさまざまな理由で、人間として生きていた当時に恐怖を味わったか、犯罪を犯したか、非業の死をとげた場所に、もう一度やってくることはあるかもしれません。しかし、奥さん、幽霊が人間の声でしゃべったり、自分の苦しみをかつて生きていた頃と同じようにあらわすことは絶対にできません。というのは、エーテル的な物質でできた幽霊の喉《のど》で、そういう声を出せるはずがありませんからね」
「ええ、それはひろく認められていると思いますわ」とベレアズ夫人はいった。「ですから、霊界がわたしたちと連絡をとりたいときは、媒介《ばいかい》者、つまり霊媒が必要になるのでしょう。肉体を失った魂《たましい》は霊媒の中に入りこみ、その発声器官を使うのですね」
「霊媒や降神術の仕組みについては、いっさいふれぬことにしましょう。わたしの主旨とは無関係ですからね」とリングローズはいった。「わたしに関心があるのは、わたし自身の経験のことだけです。わたしの部屋にも、廊下にも、窓の張出しにも、霊媒などいませんでした。いうまでもありませんが、わたしは自分の真上の部屋も丹念に調べてみました。そこは屋根裏部屋で、そこの窓はホテルの正面とは反対側についています。わたしの部屋の天井はぶ厚くて、がっしりしています。ですから、わたしはもう一つ問題に直面したことになるのです。これまた非常にユニークな興味ある問題ですから、最善をつくして解決してみせますよ。ここには、あなたやわたしが想像している以上の多くのことが起きているにちがいありません。わたしは、自分が二回聞いたあの声は人間の声、それも苦しんでいる子供の声だったと確信しています。その信念が正しいか正しくないかは別にして、この挑戦を避けるわけにはゆきません」
「あの声は奇蹟だったかもしれませんね」とベレアズ夫人はうやうやしくいった。「あなたの耳にだけ聞えるように、天からつかわされた。慎重に行動して隠された真相を明るみに出すようにという、神さまのご意向かもしれませんわね、リングローズさん」
「そうかもしれません」とリングローズはうなずいた。「先ほどいったように、わたしは率直な心を持っていますし、大勢の人々のように理性を絶対的にあがめているわけでもない。しかし、めったなことでは奇蹟を認めることはできませんよ。たしかに、わたしは子供の声を、苦しみの仲で叫んだ子供の声を聞いたのですから。あの声が生きている子供の喉から出たのではないと信じるつもりは、まだありません。あれが潜在意識だとか、現実のものではないとか、いっさい説明のできないような方法でわたしに伝えられたのだ、とかいうようなことは認めようとは思いませんね。わたしが疑っているのがお二人には合点がゆかないでしょう。しかし、わたしは広い人生経験の中で、最初見たときには、これと同じくらい驚くべき事件にいくつも出喰わしてきました。結局、すべてそれは理性にかなった形で説明がつきました。わたしがこの事件に取り組もうと思うのは、第一にまともな人間的感情を持った者なら挑戦を受けざるをえないからであり、第二には、事件そのものが興味|津々《しんしん》だからです。だって、よく考えてみてください。一年前にわたしの部屋で亡くなったはずの子供が、遺体はとっくのむかし墓地で葬られたというのに、生きた人間の声で悲鳴をあげたり、夜ごとに自分が味わった恐怖をわたしの耳に吹きこんだのですよ。現在のわれわれの乏しい知識で見るかぎりでは、そうなのです。もし、それが事実とすると、安定した一般的真理がひっくりかえることになる。今のところ、わたしにはそんなことは信じられません。まあ、あとのことは時間をかけて、くわしく検討するとして、これだけは申しあげておきましょう。もっとも、こんなことをいうと、また奥さんから奇《く》しき天の配慮だなどといわれかねませんがね。じつは、わたしは隠退した刑事なのです。ここでそのことを知っているのは、古くからの友人のジェイコブ・ブレントだけですが、秘密を守るよう誓わせてあります。で、お二人とも秘密を守ってくださるよう、ぜひお願いしたい。成功するか、しないかは、それによるところが大きいのです」
ベレアズ夫人は大いに感動し、スーザンに気つけ薬を取ってくれと合図した。スーザンは薬を持ってきながら、いった。
「これが神さまのお導きでなくてなんでしょう!」
あまり感動されても困るので、リングローズは早々に退散する準備をした。
「なによりもお願いしたいのは」とリングローズはいった。「こういう情報をわたしに聞かせてくださったことを、どなたにも、たとえブレントさんにも、おっしゃらないでいただきたいのです。最初わたしは二週間滞在するつもりで来ましたが、二週間はいないことになるでしょう。なんとしても避けたいことがいくつかあります。ビットンにわたしの姿を見られたり、わたしがここに滞在していることを知られてはまずいのです。都合の悪いことに、わたしの名はある方面ではよく知られていますからね。しかし、ブレントは信用して大丈夫だし、マンリーさんも信用できる。明日か、しあさって、わたしは急用ができたという口実で姿を消し、あとでまた戻ってくるということにしておきましょう。そのあいだは沈黙しています。お二方のご協力が必要なあかつきには、必ずご連絡します」
老婦人たちは成功をお祈りしますわと約束し、こういうおごそかな気分で、彼は二人に別れを告げたのだ。それから一時間ばかり、バーでブレントと一杯やったり、煙草を吹かしたりしたあと、寝床についた。
落ち着いた静かな気持でリングローズはベッドに横たわり、眠れないで過ごした数時間のあいだに、彼の感情ははっきりとしたいくつかの自然な段階を味わった。最初は、自らが引き受けた大変な仕事に満足感を味わった。その仕事の困難さのことは、夜が明けるまで考えないことにした。さしあたりは、刑事としての自分の生涯《しょうがい》がまだ完全に終ったわけではなく、前例のないような難事件に挑むのだ、という確信からもたらされた喜びを噛《か》みしめるだけにした。おれは背後になんの権力も持たず、独力で事件と取り組むのだ。そう思うと、満足感もひとしおだった。この企てを知っている者はひとりもない。たしかに、女性が二人知っているが、彼女たちが黙っていてくれることはまちがいない。おれはなんの束縛《そくばく》も受けず、さりとてなんの援助もなく、犯罪者に立ちむかうのだ。そして、おれには、やつらをやがて知ることになるのだが、やつらのほうではおれを知らないという特殊な利点もある。リングローズはすでに警察から隠退し、そのことは当時ニュースになったものだった。また、スコットランド・ヤードで送別会がおこなわれたことや、同僚から贈り物をもらったことも記事になったのだ。今、そばの暗闇の中でチクタク音をたてている金時計は、警視総監で、リングローズを自分の個人的な友人と誇らしげに呼んでくれたジェイムズ・リッジウェー卿からの贈り物だった。
眠りはすぐに訪れなかった。早くもリングローズは机に向って厳密な計画をたてたくてたまらなかった。しかし、それには何日も、いや、おそらくは何週間もかかるにちがいない。というのは、リングローズは独自のやり方を持っていて、それがまた実に慎重だからだった。すべては問題へのアプローチの仕方にかかっていた。そして、今でも一番彼に関心があるのは、あの夜の経験のことなのだ。あの問題が解決するのは結局最後になるだろう、そう彼は判断した。しかも、解決できることには、なんら疑いは持たなかった。そのくせ、この確信を疑うような迷信的な考えがかすかに浮んできて眠れなくなり、なんとかして頭の中から事件を追い払おうと努力した。
やがて、田園の深い静けさの中に身を横たえているうちに、奇妙な感情がリングローズの体内にみなぎった。死んだ子供の長いあいだの苦しみが、冷たい潮のように彼のまわりに押し寄せてくるようで、彼の魂はその潮の下に浸り、窒息しかけるのだ。頭は波うたなかったが、心は波うって、反応を惹《ひ》き起した。不安も恐怖も彼の鋭い感受性をそこないはしなかった。その苦悩は純粋なものだった。やがて、それはこの犯罪を犯した者たちに対する怒りと嫌悪の激流に変っていった。
リングローズは自らの激情にびっくりさせられた。「まったくだ!」と彼は考えた。「今までおれは、憎しみが、貪欲《どんよく》よりも、いや人間の心をむさぼるどんな感情よりも、悪いやつらをずる賢くするのを経験してきた。やつらがそうなら、おれだってそうなれるだろう。あの犬どもを絞り首にする方法が見つかるまでは、おれも憎しみを駆りたてて頭を働かせ、首尾よく仕事を終えたら、みちたりた心で隠退することにしよう!」
この野心で神経がしずめられたと見えて、すぐにリングローズは眠りにおちた。
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第五章 接近
「犯罪者階級」というレッテルで十把一からげに分類されている反社会的な人間との絶え間ない闘いの中で、リングローズとともに働いてきた同僚たちは、彼を知性の人というよりは行動の人と見なしていた。だが、それは彼らの誤解だった。それというのは、多くの事件で彼が獲得したすばらしい成功の原因は、その精力的な仕事ぶりばかりでなく、その元にある頭脳の働きにあったからだ。率直でやさしい人柄からはそう見えないが、じつはリングローズはとても敏感な人間だった。ひときわ整った容貌《ようぼう》は、ある意味では彼の心をよくあらわしていたが、それは彼に名声をもたらしたあるふしぎな知的能力を示すよりは、かえって隠すほうに作用したのである。こういってもだれも信じまいが、彼の脳髄には小さな渦巻《うずまき》があった。刑事という職業で、めったに人が到達できないような地位を占めることができたのも、そのおかげだった。リングローズは自らのそういう天賦《てんぷ》の才にぼんやりとしか気づいていなかったが、今度の仕事に成功するためには、その能力を最高に発揮しなければならないことを知っていた。彼はさまざまな可能性を要約し、すぐに成功しそうな見こみはほとんどないことをさとった。急ぐにはおよばない。彼は第一歩を踏み出すまえに、さまざまな攻撃方法を注意深く吟味した。これも直接的には無理だった。なぜなら、直接的な行動をとるまえに、相手方の心理をくわしく知らなければならないからである。すでに彼は心理第一主義で行かなければならないことに気づいていた。おそらく、すべては自分の相手である二人の男たちの心理いかんによるだろう。あのやり口から見て、並大抵の悪党ではないはずだ。
おれが相手にしなければならないのは主人とその従僕だ――そのことは最初から確信があった。で、まず従僕からはじめよう。ブルック卿のことは、さしあたり考えないことにした。小物がどういう人間か値踏みするまでは、大物に接近しても無意味だろう。では、従僕については、どういうことを知っているだろう。
アーサー・ビットンは長いあいだ現在のブルック卿につかえてきた。しかし、あの少年の死後、すぐに辞め、結婚してブリッドポートに住んでいる。ときどきは、公的な、あるいは個人の晩餐《ばんさん》会に給仕役として出るということだ。しかし、それ以上のことは、これから聞き出さなければならない。
翌朝、リングローズは手紙に眼を通したあと、突然休暇をとりやめにしたことをホテルの主人に告げた。
「わたしは暇になったと思ったが」と彼はいった。「どうやら、わたしみたいな人生を送った人間には、すっかり暇ということはないと見える。じつは、自分の手で見届けたい仕事ができてね。しばらく遊ぶのを中止することにした。しかし、じきに戻ってくるよ、ブレントさん。ここの生活があんまり楽しいんでね」
ブリッドポートに行く前に、リングローズはロンドンに一週間滞在した。そのあいだにビットンの住所と、ブリッドポートを東西に走っている大通りぞいに、彼が小さな庭つきの新しい小さな家に住んでいることを知った。知らせてくれたのはベレアズ夫人で、スーザンがブリッドポートの人名簿をそっと調べあげたのである。
リングローズの準備は大がかりだった。彼は社会のほとんどの階層に友人があったので、ロンドン滞在中はさる老執事の家で多くの時間を費やした。引退した従僕としてブリッドポートに行くことにきめたので、この友人からその役柄の訓練を受け、従僕の仕事をマスターするだけでなく、できるだけ相手の心に入りこみ、そういう人間独特のものの見方で見ようと努力した。その役柄を完璧《かんぺき》にするためには、ありとあらゆる方法を当ってみた。なぜなら、当然まだ疑い深く、するどく過去のことを意識しているにちがいない人間の前で、芝居することになるからだ。
リングローズは「アレック・ウェスト」という偽名でブリッドポートにやって来て、ホテルで一夜を過ごし、翌日のうちに、アーサー・ビットンの住居からそう遠からぬ所に下宿を見つけた。彼はあけっぴろげで、愛想がよく、自信にみちていた。生涯の経験から、暇と機会さえあれば、たいていの人間の心をつかむことができるのを知っていたからだ。生まれつきの人のよさが身についているのだから、自分本来の姿でありさえすればよいのである。人間そのものが好きだったし、生来親切な男だった。そのうえ、なかなかの聴き上手で、如才なく人の話に関心をみせて相手の信頼を得るという貴重な技術を完全にマスターしていた。その関心もわざとらしさがなく、好奇心よりもむしろ人のよさからにじみ出たものだった。だから、今度のように好奇心から動いている場合には、その動機を注意深く隠す必要があった。
リングローズは隠退した従僕に見えそうな端正で質素な身なりをした。それは彼の好みにぴったりで、着心地のよさと折目正しさは両立すべきであるという持論にかなっていた。耳の横には短い頬《ほお》ひげを生やし、山高帽に厚手のオーバーを着た。そして、できれば小さな家を見つけようと思ってやってきたといいふらした。彼はそのことを下宿の主人に話し、宿からそう遠くないところにある「クラウン」という小さなホテル兼居酒屋に三度目に行ったときも、同じことを話した。「クラウン」は、そのあたりの商店主とか住民とかちゃんとした人たちが夜になると集まってくるところで、リングローズは次第に彼らの幾人かと近づきになり、主《あるじ》のティンクラーにも好かれるようにした。彼のざっくばらんな態度は、その話し好きや聴き上手とあいまって、ふつうならはじめての人間には閉ざされているはずの楽しい会話を可能にした。ある晩、じつは自分はさる貴族の家に奉公していたのだが、隠退して目下家探し中なのだと話すと、皆は結構なご身分だとひやかした。リングローズは機嫌よくそれを受け、元従僕にしてはいい暮しをしているという印象を与えようとした。
「三十年も従僕をしていると、こういう自由な生活も、ほんとにいいもんですなあ」とリングローズはいった。
すると、待望の名前が耳に入った。
「ビットンさんもそんなことをいってましたっけ」と居酒屋の主人がいったからである。主人はサイモン・ティンクラーといって、長身の角ばった身体つきの男だった。リングローズはすでにアーサー・ビットンを見かけたことがあったから、ああいう男なら、ときどき一時間くらいは、友人や知人と酒を飲むかもしれないという期待を抱いていた。
それは充分ありそうだ。あとはただ、ビットンが社交的な人間か、あるいはそうとしても、もよりの居酒屋が彼のお気に入りの店かどうかを知るだけだ。
ビットンが自宅の庭口から出てくるのを見かけたのは、ブリッドポートに来て三日目のことだった。ミス・マンリーから聞いていたので、すぐわかった。ビットンは背はふつうで、少しふとりぎみだった。めだたぬ歩き方をし、いつも傘《かさ》をたずさえていた。リングローズと同じような服装だが、ネクタイはずっと派手である。幅の狭い顔で、ひげを生やさず、禿《は》げあがった額《ひたい》の下には、くぼんだ灰色の眼がついている。髪は少ないほうだろうか、うすい麦わら色である。早くも禿げかかっていて、眉毛《まゆげ》がなくなっている。だが、あとで気がついたのだが、まつ毛は濃く、頭髪と同じ色だった。口は小さく、ぎゅっと結ばれていた。どう見ても冴えない、めだたない感じの男だが、やがてつきあうようになってから、立居振舞の立派な男であることがわかってきた。
その間にも、リングローズは町中を歩きまわり、なぜこれほど歩道が広いのか、そのわけを学んだり、いつもあれこれ情報を集めるのに熱心な性質《たち》なので、エリザベス時代以来いとなまれてきたこの町の名高い産業について、多くの興味ある情報を集めたりした。「クラウン」にも、ロープや|より《ヽヽ》糸店の主人が毎晩二人は必ず一杯やっていて、リングローズは、この町の過去と現在について、くわしく知ることができた。
つむぎ糸から、完全に艤装《ぎそう》した船をつなぎ止めるもやい綱にいたるまで、この町はその方面のことなら、どんな需要にも応じられた。ブリッドポートの綱やより糸や網は、今なお世界的に有名だ。この田舎町のロープやケーブル、細綱、帆布が、スペインの無敵艦隊を撃滅したイギリス艦隊で用いられたのだ。広い石だたみの歩道は、男や女が家の戸口でロープを紡《つむ》いでいた頃の名残《なご》りであり、通りの両側では、製縄工場が麻や亜麻の銀色や琥珀《こはく》色の糸を迷路さながらに張りめぐらしていたのである。鋼鉄と蒸気の時代がきて、この産業は郊外の工場に追いやられたが、広い通りは元のままであり、ひろびろとした明るさを街に与えていた。救貧院でさえ南向きで、春ともなればまた緑で包んでくれる木々の下で、にこやかにほほえんでいた。救貧院は兵営通りのはずれにあり、百個も窓がついていた。ナポレオンにおびやかされた「恐怖時代」には、兵士がここに宿営し、そのため兵営通りという名がついたのである。
四度目に「クラウン」を訪れたとき、アーサー・ビットンがやって来て、声をかけたひとびとに今晩はと丁寧に挨拶《あいさつ》した。ビットンはウイスキーを注文し、友人のそばに腰をおろした。それからポケットから葉巻入れを取り出し、葉巻をふかしはじめた。もの静かで気取りのない様子だった。もっぱら聴き役にまわるだけで、自分はほとんどしゃべらず、二杯目のグラスを飲みほすと、ほかの者たちより先に帰っていった。リングローズの知るかぎりでは、たいていの召使は主人の前では訓練された声や態度を守っているが、同じ階級の者たちのあいだでは、自然と生まれつきのものの言い方や習慣が出るものだ。ところが、ビットンときたひには、どんな人の前でも、これほどうやうやしくはないだろうと思われるほどだった。明らかに従僕時代と少しも変っていないのだ。どんな相手でも、みな自分よりは階級が上だと信じこんでいる人間のようだった。挙動動作も紳士的で、紳士らしい素質をうかがわせた。声は澄んでいたが、低く、つねに控えめだった。頭もよさそうで、粗野な言葉や無礼な言葉は絶対に使わなかった。彼の意見にはとても寛大なところがあり、彼が口をきくと、近くにいる者がいつも耳を傾けた。この寛容な態度にはリングローズも興味をおぼえた。リングローズの経験では、ある種の犯罪者は――ビットンよりは教育があり、階級も上だったが――他人の罪にはひどく寛大な意見を吐き、自らの行為に対する良心の苛責《かしゃく》を免れようとするからである。
リングローズは急いでビットンと知りあいになろうとせず、もっぱらほかの常連とつきあいを深めていった。「クラウン」の常連には家屋の周旋《しゅうせん》屋もいて、その男と何軒か売家を見てまわったが、できることなら買いたくないと主張した。しかし、ブリッドポート自体は気に入ったので、たとえしばらく待たされても好みの家を見つけることにきめているとふれこんだ。
最初ブルック卿の元従僕といっしょになったときの内心の反感も、やがて抑制できるようになった。はじめて会ったとき、リングローズはかつてほかの犯罪者に対しては味わったことのない感情を味わった。そして、こういう個人的な反感が消えるまで、ビットンとの接触を避け、ひそかにこの男を観察しつづけた。だが、ビットンは無意識のうちに彼に客観的な態度をとらせる手助けをしてくれた。リングローズがもっとも関心を持ったのは、この男の内面的性格であり、ゆっくりと冷静に子供をおどかして死にいたらせたりできるような人間の気質を、ぜひ探り、分析し、診断してみたかった。そこで、リングローズは根本的な嫌悪《けんお》感を追放し、突然|毒蛇《どくへび》を見たとき示すだろうほどの感情でアーサー・ビットンを眺められるように自らを訓練するまでは、相手に近づかないことにした。
やがて、きわめてゆっくりと、かなりの日数をおいて、リングローズは接近していった。まず、ときどき、今晩はと呼びかけたり、酒場を出るときに、さようならと挨拶したりした。やがて、ビットンの意見に賛成したり、彼がまわりにいるときに、ほかの新しい友人といっしょに一杯おごったりした。どの一歩も慎重にはこばれ、酒場でのふつうの習慣を越えるものではなかった。ビットンは週に三回ほど立ち寄ったが、リングローズは彼の来そうな晩にわざと何回も行かないようにした。こうしたのは二つの理由からだった。ひとつには、ビットンやほかの何人にも、自分がこの元従僕に関心を持っていることを感づかれたくなかったからであり、ひとつには、自分がティンクラーや顧客に話したことが、ビットンの耳に入るようにしたかったからである。彼らは当人のいる前では「アレック・ウェスト」の噂話《うわさばなし》をしないだろうが、いないときはそうするものと考えられる。自分がひとびとに好感を与え、歓迎されていることをリングローズは知っていた。彼はみなの関心を集め、おもしろがらせていた。といっても、自分の実際の人生経験を話したのではなく、あの友人の老執事から聞いたいろいろな話を語ってきかせたのである。中流階級の人間にとって、三十年間も「貴族さま」のお邸《やしき》に奉公したすばしっこい頭のいい執事ほど、おもしろい話を提供できる人間はいないのであり、まさに「アレック・ウェスト」はうってつけの語り手だったのだ。
こうして、道はととのえられていった。時間という要素は、彼の計算に入ってこなかった。時間は問題ではなかった。なにより必要なのは、もしそういうことが人間に可能なら、相手から無条件の信頼を獲《か》ち得ることであったから。すべては計画どおりにはこび、ある夜アーサー・ビットンのほうからリングローズに近づいてきた。ビットンはリングローズのいないときになにかとこの新米者の噂を聞き、興味をそそられたのだった。だが、はじめのうちはためらいがちな探るような態度であり、リングローズのほうでもすぐに親しくなろうとしなかった。彼がビットンに少し関心を示したのは、しばらくたってからだった。じっさい、こちらが歩み寄る気配を示すと、相手は少々あとずさりさえしたのである。ビットンは自分より強い個性を感じたのだ。しかし、リングローズのあけっぴろげな人のよさや、話しかけてくる者にはいつでも相手になろうとする姿勢を見ると、ビットンも勇気が出た。だから、リングローズがはじめてもっと親しげな様子を見せたとき、ビットンはよろこんだ。
クリスマスの翌日、いっしょに「クラウン」を出たとき、ビットンはこう話しかけてきた。
「ウェストさん、われわれは同じ道を歩んできたようですね」
「そうですな」とリングローズも応じた。
「なかなかおもしろい道でしたよ。あなたもきっと同じだと思うのだが。勝負の半分はいい主人とうまくやっていけるかどうかできまるし、運の半分は都合のいいときに主人があの世に行ってくれるかどうかできまるんだ。どちらの点でも、わたしはついていた。わたしはおやじの跡をついでマクタガート家にご奉公しましてね。スコットランドの方でした。半年前の新聞で見たかと思うけど、マクタガートさまは――みなそう呼んでました――相当なお年で亡くなられたのです。ここだけの話だけど、世間より多目の遺産を分けてもらってねえ。たいそうなお金持で、ずいぶんかわいがってくださって。こっちもいざというときは生命を投げ出すつもりだった。とにかく、珍しくいい方で、軍人で、むかしボーア戦争〔イギリスと南アのオランダ系白人との戦争〕で手柄をおたてになったのです」
アーサー・ビットンは黙って聴いていた。リングローズは、こういう階級の人間は社交界の記事を読む習慣があり、ビットンもそのひとりだろうと考えて、架空の主人をこしらえあげたりせず、今年の夏に見た有名人の死亡記事を利用させてもらったのである。
リングローズの率直な態度も、すぐには反応を呼ばなかった。ビットンはおしゃべりでも、話し好きでもなかったからだ。かといって、隠しだてするふうにも見えなかった。それに、「クラウン」の常連には、おおよその自分の素姓くらい知られていることは承知していたのだろう。
べつのときに、彼はこういった。
「よりによって主人が爵位をついで、大金持になったときに、どうしてお暇をもらったのか、ふしぎに思うでしょう。しかし、じつのところ、少し勤めにあきたんです。イタリアでは、ずいぶんまめに奉公したもんですよ。もっとも、骨の折れる主人で、ときには給料だっておくれましたがね」
「そんなのはごめんですな」
「わたしだってそうですよ。しかし、一風変った人で、あるときはちゃんとくれる人だとわかっていました。道楽のある人は、ふつうの人とはちがっている。道楽のためなら、頭も下げる、借金もする、盗みもする。こっちにはさっぱりわからないが、どんなものだか見当がつくでしょう。することはいっぱいあるというのに、わたしたちにはまったくばかげているとしか思えないことに夢中になって、ほかのことはいっさい放り出して、あなたやわたしなら相手にしないようなことに、時間やお金や頭を全部注ぎこむんですからね」
「じっさい、そのとおりだ」とリングローズもうなずいた。「ああいう人たちは人生観がちがうんだ。わたしらみたいに生きるためにあくせく働く必要もない。生まれたときから生活は保障されているし、自分の楽しみだけ考えていればいい。その楽しみは、生まれつきのものの考え方でちがってくる。ある者は軍隊に入ったり、政治に手を染めたりして、国のために尽くそうとする。野心的なタイプというやつでね。だが、たいていの連中は自分の楽しみしか追いかけない。家畜を育てたり、競馬に凝《こ》ったり、旅行、ヨット、園芸、美術とさまざまだ。なかには、切手集めくらいしかできず、世界一の蒐集《しゅうしゅう》家になろうとして、金と一生を費やす者もいる」
ビットンはうなずいた。
「まったく、そうだ、ウェストさん。えらい人たちはくだらないことに夢中になる。わたしの主人もそうだった。ブルック卿は蒐集家でした。で、なんの蒐集家だったと思います? なんと、彫刻した象牙細工ですよ。見ばえのいい大きな彫像だとか、そんなのではなくて、象牙、中世の古い象牙細工でした。その方面では、世界一だそうですよ」
リングローズは笑った。
「罪のない道楽だ!」
「わたしは、むりにやめさせてもらいましてね」とビットンは話しつづけた。「ヨーロッパ中を駆けずりまわらされるし、こっちは結婚して落ち着きたくてたまらなかったもんでね。ぜひ家内に会ってくださいな。ブルック・ノートンの生まれで、家族の者たちもずうっとあのお邸に奉公してきたのです」
「ぜひお会いしたいですな」とリングローズはよろこんでいった。
こうして、二人は少しずつ親しくなり、人に気に入られるリングローズの才能は、あやまたぬ成果を得た。彼はたくみに行動し、相手の性格がよくわかるにつれて、ビットンは意志の強い主人の手先にすぎなかったことを確信した。この主人なる人物についても次第にくわしいことがわかってきたが、なかなかの才人で、策略にとみ、手むかいしなければ愛想がいいが、目的のためには手段を選ばない人間らしかった。ブルック卿はひとつのことしか考えられない人間のようで、こういう人間はたいていそうだが、活力にあふれていた。彼は多額の金を象牙の蒐集に注ぎこみ、そのためいつも金に苦労して、ときどきビットンといっしょにフィレンツェの別荘から姿を消し、仕送りがきて救われるまでは、債権者たちから姿を隠していた。助けてくれるのは、いつも兄だった。ビットンの話だと、この兄は非常な金持で、金のかかる趣味はなく、寛大な人だった。今は同家の莫大な収入は現在の男爵のものになり、さぞかし中世の象牙細工の蒐集が急激にふえたにちがいない、とビットンはいった。ブルック卿は独身で、この元従僕の意見では、絶対に結婚などしないだろうという話だった。
親しくなっても、ビットンの態度はとくに変らなかった。隠しだてするところは全然なかったし、世間を恐れねばならぬような秘密を持っている感じはしなかった。ただ、いつも控えめで、地味だった。それに、なかなかの締り屋で、こと金に関することだとなにも口を割らなかった。その後、リングローズは細君の口から間接的に収入を知ったほどだった。ビットンは年に五百ポンドの収入があり、それは配当で得たものだった。すると、一万ポンドくらいの財産はあるわけで、リングローズの予想をはるかに上まわる額だった。
そのうち、ビットンの妻のジェインとも近づきになったが、夫よりは十歳年下で、顔はぱっとしないが、実際的な性格で、落ち着いた、気持のいい女だった。彼女に朝買物のときに出会ったり、大きな荷物を持ってやったりして聞いたところでは、父親はブルック・ノートンでパブを経営し、弟はブルック家に奉公しているということだった。
交際はましていった。リングローズは一度ならずビットンの家《バンガロー》で夕食をご馳走になり、ビットンのほうでも一度ならず彼の家で夕食をともにした。やがて、リングローズはときどきビットンの家に立ち寄って、煙草をふかしたり酒を飲んだりし、ビットンのほうでも、夕方彼の家に立ち寄って、そうするようになった。
行動のときは熟したが、その前に、リングローズは町からそう遠くないアクスミンスターでいくつか家を下見したいといい、一週間ばかりブリッドポートを留守にした。望みどおりの家がまだ見つからない、理想の家をもっと遠くまで探しに行くというのが彼の口実だった。しかし、じっさいは、今後どういうふうに行動するか、数日間じっくりひとりで考えてみたかったのだ。
今やリングローズにとってアーサー・ビットンはたんなる捜査対象にすぎなくなっていた。彼はこの男に嫌悪《けんお》をおぼえたし、ビットンのようにうしろ暗い経歴を持つ者にはだれであれ嫌悪を抱いたにちがいない。だが、彼は個人的な憎しみでインスピレーションをかげらせはしなかったし、同時に生来の人のよさが人間愛でそれが左右されることも許そうとはしなかった。ときおり、これからしようとしている恐るべき行動に彼の心がさからって叫んだりすると、彼の頭が反論した。そして、またもやあの子供のあわれな悲鳴が聞えてくるのだった。
相手を研究しつくしたあとも、リングローズの目的は変らなかった。それはビットンをうちくだき、あばきたて、もう防ぐすべはないとわからせるような精神的な破滅状態に追いやることだった。
したしげに語りあっているときも、リングローズはこの元従僕に過去の暗い影を認めることができなかったし、なんら後悔の念に苦しめられている気配も察せられなかった。じっさい、ビットンの生活ぶりは、世間的にはまさに模範的だった。日曜には必ず妻と教会へ、ときには二度も行ったし、人生に対する態度はきまじめで、絶対に厳粛《げんしゅく》な問題を茶化したりしなかった。第一、冗談《じょうだん》ひとついったことがない。彼の言葉を信用してよければ、自らにはきびしくて、はめひとつはずさない生活をしていながら、隣人にはたいそう思いやりがあり、いっさい人を批判したりしないようだった。平和な家庭がいちばんだとみなに語り、暗い思い出で満足感がおびやかされているようなそぶりはみじんも見せなかった。
にもかかわらず、リングローズは、自分の知っている事柄や観察から判断して、これからとろうとしている恐るべき行動が望みどおりの結果を得るにちがいないことを少しも疑わなかった。じっさい、それ以外に方法はない。彼はおだやかそうな外観の底に、火打ち石のような堅さをひめた男を相手にしなければならないのだ。その暮しぶりや物の考え方の点で、これほどおだやかで控えめな男が、ひとりの子供を殺しているのである。じじつ、ビットンの体格を見ていると、この男に殺せる勇気が持てるのは、子供しかないだろうという確信がわいてきた。だからこそ、リングローズがとろうとしている方法が、いっそう恐るべきものになるはずなのだ。しかし、彼はその方法を用いることをひるみはしなかった。
相手に恐怖を与えることによってしか目的を達成することはできない。彼がこの恐るべき決心に達したのは、ほかの方法をすべて検討しつくしてからだった。
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第六章 肘掛椅子のうしろに
リングローズは、ビットンのことだけでなく、自分のことも考えなければならないのを思い出した。自分がやろうとしている実験が失敗するかもしれないのだ。失敗した場合の結果をいろいろ考えてみたが、そのうちふしぎなことを経験した。これまでリングローズは、仕事の上で直感に頼ったことは一度もないのだった。彼の知るかぎりでは、強力な直感が重大な判断の誤りをもたらしたことが多かったからだ。事実と結びつけば、直感が貴重な補助的作用をはたすことは認めていたが、理性の場合と同じことで、どんな場合にも完全に直感に頼るということはできなかった。しかも、今回は直感が確信にみちて語りかけているのである。彼は自分がしようとしていることが、アーサー・ビットンの魂に接するための、唯一の正しい方法であると確信した。そのあとのことも考えてみた。ビットンが共犯者に不利なことを証言すれば、助かるかもしれない、と彼は判断した。じっさい、自分が首尾よく目的を達しても、ビットンかその主人が死刑になるかどうかは疑わしい。彼らが親密であり、協定を結んでいたこと、ビットンがもろもろの悪事に加担していたこと――これはもう疑う余地がなかった。主人のほうが従僕の心を知り抜いていなければ、こういう極悪なおこないをビットンに打ち明けるはずがないからである。ブルック卿については、リングローズはまだほとんど考えてみなかった。一度は、ビットンの良心の苛責《かしゃく》をかきたててやったら、大あわてで自分よりタフな精神の持主らしい元の主人のところへ駆けこむかもしれないと思ったが、その可能性は打ち消した。彼の計画は、ビットンが自分で味わった経験をブルック卿に洩らすはずのないようなものだった。
「そういうことは神さまにしか打ち明けられないはずだ」とリングローズは考えた。「しかし、もし神さまを信じていないとすると、その苦境は大変なものだろう。教会なんかに行っているが、あの男は神さまを信じていない。でなければ、あんなひどいことをするわけがない」
十日後に、リングローズはブリッドポートの下宿に帰り、新しい友人たちの歓迎を受けた。
「やあ、お帰りなさい。アクスミンスターにはお望みの家が見つからなかったようですね」と「クラウン」に顔を出すと、ティンクラーがいった。
「家なんか勝手にしやがれだ。どうやら、自分で建てるしかなさそうだな。ビットンさんみたいな家《バンガロー》を」とリングローズは答えた。
ビットンも彼が戻ってきてとてもうれしそうで、また、もとのように親しい交際がはじまった。やがて、ある晩ビットンはリングローズを訪れ、いつものように語りあった。リングローズは家を建てる計画なるものを説明し、こう頼んだ。
「さしつかえなかったら、いつか午前中奥さんの都合のいいときに、ひとわたり家を見せてくれんかね。わたしもああいう家を建てたくなってきた。もうちょっと小さくすれば、ひとり者にはちょうどいい。だから、適当な土地が見つかったら、五、六百ポンドまでなら貯金に手をつけて、ああいうのを建てようと思ってね」
「いいとも。いつでも、どうぞ。あんたが家を見たがっていることは女房にもいっておくよ。あの家には七百ポンドかかったが、附帯工事や庭やなにかで、結局千ポンド近くかかったね。女房名義の家なんだ」
リングローズは礼を述べ、いつものようにのんびりと雑談に移った。その夜は荒れ模様で、まっ暗で、二月の日が嵐《あらし》に変っていた。南の強風が吹き、話の切れ目に、半マイル先のブリッドポートと海の中間にある大きな葉の落ちた森のどよめきが聞えてきた。風は突風のように吠《ほ》えたけり、雨は窓ガラスをたたきつけ、ときどき煙が煙突から押しもどされて室内に充満した。
「ひどい風だ!」とリングローズはいった。「こんな夜に英仏海峡を渡るのはごめんだな」
「こっちもさ、アレック。どんな天気でも海は嫌いでね。ところが、ときどき主人のお供で航海したもんさ。象牙細工が欲しいとなると、海でも山でも平気ときてるんだ。ヨーロッパから東洋まで探しまわったほどだよ」
「そういう意志の力は大したものだ。もっとも、強い人間がその勇気と決心を、がらくた集めなんかに向けないで、もっとましなことに向けてくれたらとは思うんだが。ご主人だって、国に尽くすか、大きなことをやるだけの野心があったら、それだけの決断力があるんだもの、きっと名声をあげたにちがいない」
「たしかにそう思うよ。欲しいものはどんなことをしても手に入れる人なんだ。たいていのことには親切で、のんびりしてて、名声とか高い地位にはまるで欲がないくせに、いざ、象牙細工が欲しいとなると、鉄のように意志強固になる。まったく変り者だよ。危険なんかなんとも思わない。いつもお金には困ってた。まるで数字に弱くて、大嫌いで、一銭残らず蒐集《しゅうしゅう》にそそぎこんで、かすみでも喰って生きていけると思っているんだ。請求書など持っていってごらん、わたしだろうと、別荘番や家政婦だろうとどなりつける始末でね」
こうして二人はしゃべりつづけたが、話がとぎれると、烈しい風が窓にあたって悲鳴をあげた。
「ひどい風だ。まるで迷い子が悲鳴をあげているようだね」とリングローズは叫んだ。それから、すぐにつづけて、「今の話はおもしろかった、アーサー。いつもわたしは人間の性格の研究に関心があってね。なによりも感じるんだが、肉体も魂もただひとつのことだけに捧《ささ》げるのはまちがいじゃなかろうかとね。そういうのは健全ではないよ。人生をゆがんで見るようになって、反社会的な人の役にはたたない人間になってしまうなあ。人の役にたたないということは、どこかがおかしいということだ。わたしの考えでは、それが試金石で、まるで役にたたない人間では、良心なんて持てるわけがない。そうなったら、おしまいさ。わたしなら良心を犠牲にするぐらいなら、なんだって犠牲にするね」
「そうともさ、アレック。まったくだよ」とビットンも熱心にうなずいた。
それからリングローズがまだありきたりの考えを述べたてている最中に、その事件が起きたのだ。二人しかいない部屋に、何者かが入ってきたようだった。おまけに、それは人間ではなかったのだ。
リングローズは、ブリッドポートの大通りからひっこんだアン女王時代〔イギリスの女王(一七〇二〜一七一四)で、スチュワート家の最後の王〕の小さな南向きの家に部屋を借りていて、彼の居間は張出し窓があり、小さな庭に面していた。この部屋は屋根が低かったが、部屋自体はそれほど小さくはなかった。
二人は暖炉のそばの肘掛椅子《ひじかけいす》にすわって話していたのだが、今はもう火もおとろえ、二人のあいだにあるテーブルの上の明りだけが彼らを照らしていた。緑色のシェードがかけてあるので、明りは比較的せまいところまでしか届かず、二人がすわっている椅子、二人の頭や肩、カーペットの一部、炉床、ウイスキーとグラスのおいてあるテーブルを照らすだけだった。室内の他の部分は暗かった。ビットンのうしろには窓があり、カーテンがひいてあった。リングローズのすわっている肘掛椅子の背後には、広い薄暗がりがあり、その向うの壁ぎわには、シェラトン風〔イギリスの家具製作者(一七五一〜一八〇六)で、好んで直線を用い、優雅なデザインで名高い〕の、いっぱい本のつまった、いたんではいるが、背の高い、古いみごとな本棚があった。ビットンの左側、ちょうどリングローズの右側――二人は向いあってすわっていた――には、彼が食事をとる食卓があった。その向うはドアになっていた。
時計がちょうど十一時をうち、ビットンが立ち上がって帰りかけたときだった。彼はリングローズの椅子の背後でなにかが動くのに気づいたのだ。赤い異様なものが、リングローズの肩のあたりの明りの中にあらわれ、椅子の上から頭をもたげ、じっとこちらを睨《にら》みつけた。怪物の頭は大きなヤシの実くらいあろうか、せまい額《ひたい》からもじゃもじゃの赤毛が生えていた。鼻はまるでなく、そのかわりについた二つの孔《あな》の下から、ぽっかりと口があいていた。口は白く光る犬のような牙を見せながら、開いたり閉じたりした。黄色い眼はキラキラと輝き、見えない首の上で頭が動いた。
サルヴァトール・ローザ〔十七世紀イタリアの画家で、怪奇な幻想を特色とする〕やエドガー・ポーが描く食屍鬼の棲《す》む森でさえ、これほどいとわしい、邪悪の化身のような怪物を描いたことはなかったろう。それはまるでこの世のものならぬ巨大に拡大された昆虫か、海底の生物が、嵐に吹きやられて、二人の平和な語らいにまぎれこんできたようだった。
「きよらかな心、ゆとりのある心があれば、アーサー」といいかけたリングローズは、異様な光景に絶句した。眼の前の男が、すっかり肉体的に変ってしまったのだ。まるで稲妻の一閃《いっせん》で変えられたように、ビットンは一瞬のうちに椅子の中でしなび、縮んで、くずれおれていたのである。頭も身体も、まるで四方から眼に見えない力で押しこまれ、潰《つぶ》されたように、じっさいに小さくなってしまったように見えた。彼は全身をけいれんさせ、そこにもっとも強烈な衝撃を加えられたように、無意識に片手で、しっかりとみぞおちのところをおさえていた。顔には恐怖が刻まれ、すべてを征服し破壊する恐怖が顔の上を席捲《せっけん》し、一つ一つの造作に歪《ゆが》んだ足跡を刻していた。しおれた麦わら色の髪は、電磁石に惹《ひ》きつけられたように、ぴんと立っている。血は皮膚から心臓へ引いてしまい、額や頬《ほお》や唇《くちびる》は大理石のように真っ蒼《さお》である。額から汗が流れ落ち、両眼は眼球が飛び出さんばかりに大きく見開かれている。顎《あご》はがくんと垂れさがり、自分に向って口を開いたり閉じたりしている怪物に、自分も機械的に口をパクパクさせていた。突然彼は片手を怪物のほうに伸ばし、麻痺《まひ》したように指をふるわせた。それから、口から一言が飛び出した。かん高い、一本調子の、狂ったような一言が。
「神さま!」
リングローズはすでに心配そうな表情で立ち上がっていた。
「いったい、アーサー――」
「うしろを見ろ! おお、神さま!」
今や二本の手が万力のようにリングローズの腕にしがみつき、苦しげな熱い息が彼の頬にかかった。
「おい、そいつを、そいつをのけてくれ! おれのほうを見させないでくれ! あいだに、あいだに立ってくれ!」
「おい、しっかりしろ!」とリングローズは声を大きくした。「落ち着け。いったい全体、どうしたのだ?」
ビットンは指さした。それから、すわっていた大きな鞍《くら》型の背のついた肘掛椅子にくずれ折れ、膝《ひざ》をあげ、両手で顔をおおってしまった。
「話してみろ! お願いだから、アーサー、なにを見たのかいってくれ」
うちのめされた男はようやく顔をあげた。だが、今やあの怪物は生気をおび、動きまわりながら、何事かわけのわからないことを彼に向ってしゃべりかけていた。彼はまた顔をおおってしまった。
「おお、神さま! あんたの椅子のうしろに!あんたは眼がないのかね?」
リングローズはじっと怪物を見据え、顔がくっつきそうなほど間近に近寄って行った。しかし、彼の顔には驚きの色があるばかりだった。
「なにもないじゃないか、アーサー。元気を出して、なにを見たのかいってくれ」
リングローズがこういっているあいだに、まぼろしは、まるで彼の落ち着いた声で払い清められたように、消えうせた。そして、怪物がいたあたりは、また元のように漠《ばく》とした暗がりになった。リングローズがかがみこんで、慰めの言葉をかけているあいだ、ビットンはまたちらとそちらを見た。今は暗い空間しか認められなかったので、彼は自制心をとりもどそうと努力した。だが、われをとりもどすには、数分かかった。そのあいだにも、ハンカチを探し、手足をふるわせ、冷汗の流れる顔をぬぐっていた。そして、リングローズは絶えず元気づけ、グラスに半分ほどウイスキーを注いで飲ませてやった。
「これをぐっと飲んで、アーサー。ほんとに、あんたをよく知らなかったら、きっと酔っぱらったのかと思ったよ。なにかにひどくおびえたらしいね。いったい、なにを見たと思ったのかね?」
しかし、ビットンはまだ口をきこうとはしなかった。ただ、かぶりをふり、グラスに歯をガタガタいわせながら、ウイスキーを飲んだだけだった。リングローズは彼をそのままにしてローソクをともし、室内を調べた。隅々を覗《のぞ》きこみ、破けた楽譜の入った古い引出しを開け、本棚を調べ、カーテンのうしろを覗いてみた。片隅にこわれたピアノがあり、それを調べていたリングローズの手が銀盤に当って、不意にかすれた音がした。すると、まだふるえのとまらない、おぼつかない声で、ビットンがいった。
「やめてくれ、アレック。もう大丈夫だ。なにも見つかりはしないよ。なにもなかったのだ。光線のいたずらか、嵐で神経がおかしくなっていたのだ。荒れた天候が大の苦手でね。もうちょっとそばへ寄ってくれ。もう帰る時間だ」
リングローズは相手のそばに行った。
「この古ぼけた部屋には、鼠《ねずみ》だっておびえそうなものはないよ、アーサー。きっと明りか、神経のせいにちがいない。人間ていうやつは、ありもしないものを見るもんだ。わたしは幽霊をばかにしたりはしないよ、もっともまだ会ったことはないけどね。幽霊の出る家に住んだこともあるし、見た者にも会った。この家にだっていないともかぎらない。なんともいえないな。さあ、話してくれ。そうしたら気持がすぐに落ち着くかもしれない。前に会ったことのあるだれかに似てたのかね――男かね、女かね?」
ビットンはかぶりを振った。
「いや、だれにも似ていない。人間の顔じゃなかったね。光線か、影なんかのせいだろう。ひどくみにくい顔だった。もう忘れたい、アレック。二度と思い出したくない」
「きっと神経のせいだろう。消化不良のせいかもしれない。眼があいているときだって悪い夢は見るさ。わたしの知っている男などは――まあ、いいや、そんな話はやめておこう。ぐっと飲んで、もう考えるのはやめとけよ。ちゃんと立てるかね? 身体が冷えきっていると思うけど、今から火をおこすのもなんだしね。それより、早く寝ることだ、アーサー。そうすれば、明日の朝はすっかり元気になっているだろう」
ビットンはようやく立ち上がると、拝むようにいった。
「ばかなやつだと思うだろうが、じっさい、そうなんだ。今夜は神経がどうかしているんだ。家まで送ってくれないかね? こわいわけではないんだが。支えてもらわないと、足が全然おぼつかない。倒れそうな気がするんだよ」
「もちろんだ。あたりまえじゃないか。医者に寄って行こうか?」
「いや、もう大丈夫だ。ショックだけなんだ。とにかく、ひどいショックだった。しかし、すまないな、アレック。こんな晩に送ってもらって」
「天候なんてなんでもない。嵐の時が好きなんだ」とリングローズはいった。「嵐の中を木の葉のように吹かれたり、大西洋の真中で嵐を眺めたりするのがね。じっさい、経験になる。自然には、われわれの知らない大きな力がひそんでいることを教えられるよ」
彼はレインコートを着、ビットンにも着せてやった。それから腕を支えて家まで送り届け、細君の手に渡した。
「アーサーはちょっと気分が悪いんですよ」と彼はなるべく控えめにいうように頼まれていたので、こういった。「ちょっとめまいをおこしたので、むりやり送って来たんです。寝かせて、湯たんぽでも入れてくださいな。いや、結構。ここで失礼します」
リングローズは真っ暗な嵐の中に出て行った。だが、家路につきながらも、大自然の怒りはほとんど気にとめなかった。ただひとつのことだけが彼の心を占めていた。
「あのおばあさんたちのいったとおりだった。そうだろうとは思ったが。やつはあの化物をいやというほど知っている。このぶんだと、あまり見せてやる必要もないだろう」
もうひとつのことも印象的だった。
「やつはあれを見させないでくれと頼んだが、あの殺された子も何度となく泣いてやつにそう頼んだのだ」
この恐るべき事実をしっかりと心の中にとどめておかなければならない、とリングローズは考えた。「さもないと、あいつより先におれのほうが精神的に参ってしまいそうだ」
というのも、今や彼は自分の任務の忌むべき性格に気がついて、相手に味わわせた恐怖感が、嵐の夜ということもあって、少々彼自身の魂にも影響をおよぼしたからだった。苦しむ人間を見守り、自分がその苦しみを与えたのだと知ることは、誠実な人間にはだれしも辛い試練にちがいない。
「このいやな仕事はどういう影響をおれにおよぼすだろう?」と彼はひとりごとをいった。
やがてリングローズはしずくのたれるレインコートを投げ出し、床《とこ》についたときには、箱を一つ持っていた。そして、寝る前に、それをベッドの下へ入れてしまった。
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第七章 シェラトン風の本棚
翌日の昼少しまえ、リングローズはビットンの様子を見に行った。嵐は去り、空はほとんど晴れていた。冬特有の低い黄金色の陽光が輝いている。
リングローズがノックすると、ビットン自身があらわれた。ワイシャツにスリッパをはき、蒼《あお》ざめた顔だった。片眼には眼帯をあてていた。
ビットンはしきりに詫《わ》びた。
「まったく面目ない、アレック。だらしのない馬鹿か、酔っぱらいと思ったろう。きのうはさぞ迷惑をかけたと思うよ」
「元気になってくれれば、それでいい。眼が悪いのかね?」
「ちょっとあがらないか」
リングローズはあとについて、裏の菜園に面して窓のある小さな台所に入った。
「きのうちょっとあんたのことを考えてみた」とリングローズは切り出した。「最初は、あんたも今いったように、人に隠れてこっそりやるのかと思ったね。こっそり酒を飲む人間は、ときどきあんなふうになるもんさ。しかし、こっちも今まで偉い人たちの酔っぱらいを見てきたから、その徴候は知っている。あんたには、そういうところがまるでない。で、ひょっとして眼が悪いせいかと思った。眼帯をしてるところを見ると、どうもそうらしいね」
「そう、それを心配してたんだ」とビットンは答えた。彼は冷静で、落ち着いており、すっかりショックから立ち直ったらしかった。
「ゆうべ寝床に入ったとき、なんともないものだから、自分を笑ったくらいだよ。ところが、突然、突き刺されたように、左眼がきりきりと痛みだしてね」とビットンはつづけた。「おかげで二、三時間眠れなかったが、それから痛みがおさまった。しかし、どうも具合がよくなくて、心配してるんだ」
「一刻も早く医者に見せたほうがいい。今日の午後にでも、眼医者に行くんだね」とリングローズはすすめた。
「この町には信頼できる医者がいなくてね。しかし、あんたもいうとおり、ぐずぐずしてるとまずいので、明日家内がロンドンに連れていってくれることになっている」
一瞬リングローズの心に疑惑がめばえた。こいつは高飛びして、姿をくらますつもりではあるまいか。しかし、この不安はつのらなかった。ビットンは昨夜の失態をつくろおうと用心しているのだ。この男ならやりそうなことだ。たぶん予定どおりに芝居して、眼はどうもなかったといって、帰って来るのだろう。
ビットンがかくも完全に回復したことに、リングローズはそれほど失望していなかった。二度目の実験までには時間をおく必要があるし、いつ、どういうふうにやるか、まだ決めていないのだ。三回もやれば充分だろう、と彼は判断した。
話しているうちに、ビットンの細君が帰ってきた。彼女は夫より心配そうだった。あれこれ知りたがり、ビットンはありもしないものが見えたとしかいっていないことがわかった。彼女はこまかく問いただしたが、リングローズはくわしくは話さなかった。
「今朝、陽の光で丹念に調べてみたんですがね」と彼はいった。「たぶん、どこかに陶器の装飾品か、奇妙な顔を描いた絵かなにかがあって、それが光線の加減でひょっこりあらわれて、アーサーをびっくりさせたのではないかと思いましてね。ところが、そんなものはどこにもない。これはいわゆる幻視だと思いますよ、奥さん。すると、問題は眼だけだ。お二人とも心配するにはおよばないが、一流の眼医者に見てもらうことですな。そうすれば、じきによくなりますよ」
ビットンの細君は、この新しい友人が家を見たがっていたのを思い出し、今そうなさってはとさそってみた。この家は全部一階建で、リングローズは大いに感心し、部屋のサイズをほめ、自分もこういう家を建てたいものだといった。
「こんな大きな家を建てるだけのお金はないけれど、設計がすばらしい」と彼はいった。「これを小さくしたやつなら、なんとかなるかもしれません」
帰宅してから、リングローズはまだ忘れないうちに設計図を引いてみた。翌朝ビットン夫婦がロンドンへ出発したときは、わざわざ見送った。
二日後に、彼らは満足すべき知らせを持って帰ってきた。アーサーの幻覚の原因となるような異常はまったくない、年のわりにはすばらしい視力だという見立である。なにかの緊張か、以前眼を打ったのを忘れていて、それで一時的に痛んだのかもしれないが、どこにも故障はない――そういう話だった。
ビットンは元気になって帰って来て、また元の生活にもどった。彼はますますうちとけて、愛想よくなった。だが、当分は自分のところで夕方を過ごすのはいやだろうと思って、リングローズもむりにさそおうとしなかった。二週間ばかり待つうちに、春でだんだん日が長くなってきて、ビットンはまた散歩をはじめ、リングローズにもさそいをかけた。
「散歩をすると脂肪がとれて、身体がひきしまるんでね」と彼はいった。「丘の上に『オールド・マナー・ハウス』というすてきなパブがあってね。ときどき寄って飲んでいくんだよ」
しかし、リングローズはブレントのホテルに行くつもりは毛頭なかった。わたしは足が弱くてね、と彼はさそいを断り、まもなく誕生日を口実にしてビットン夫婦を夕食に招待した。
ビットンは最初は断ったが、二日後に承諾し、三人でいっしょに楽しい晩を過ごした。リングローズは気持よくもてなそうと苦心して、室内のどこも暗くならないように明るい照明にした。食後、三人は炉のそばで話したが、ビットンは例の肘掛椅子は敬遠した。その椅子には細君がすわり、ビットンは細君と友人のあいだの、炉と向いあった席にすわった。
その晩はとても楽しく過ぎてゆき、ビットンも今までにないほど陽気になった。リングローズに負けず劣らず彼もあれこれと話し、元の主人についても、さらにちょっぴり新しいことを語ってくれた。
「ときどき思ったね、あの人は執達吏におどかされるのを楽しんでいるんじゃないかって」とビットンはいった。「なにしろ、ぎりぎりまで放っといて、夜にまぎれて逃げ出して、なにがなんでも兄さんのところへ駆けこむという寸法さ。お兄さんはイタリアで過ごす時が多くてね――コモ湖〔北イタリアのロンバルディア地方にある美しい湖〕のほとりに別荘を持っていた。わたしの主人はこっそりそこに行っては、お金をせびるのだ。お金がないとブタ箱に入れられて、一家の不名誉になるとかなんとか、さんざんおどしてね。そうして、いつもせしめていた。生まれつき警察を出しぬける人だねえ、あの人は。ブルック・ノートンにいつまでもおさまっていられる人じゃないよ」
「たしか独身だといったっけ?」
「そうとも。女には用のない人だ。家内はブルック・ノートンの生まれだが、その話だと、ときどき男の客を泊めてやるそうだ。しかも、自分と同じ蒐集狂ばかりときている。お金に困ってくると、猟場は荒れ放題、農場の屋根のふき替えだってけちるようになるだろう」
「で、お兄さんのほうは、美術品とかなにかに凝っていたのかね?」
「いや、スポーツマンで、ゴルフ、乗馬、狩りなんかが好きだった。奥さまがイタリアで亡くなるまでは、たいてい秋には家に帰って来た」
「子供さんはないんだろう、弟さんが跡を継いだくらいだから?」
「いや、それにはあわれな話があってねえ」とビットンは感慨深げにいった。「息子がひとりいて――頭の弱い子だった。お父さんが死んで一年かそこらで亡くなってね。それと、娘さんがひとり。その子の姉さんにあたるんだ。今はおじさんの家で暮しているが」
「この前うかがったとき、その方がおじさまといっしょに自動車で通るのを見ましたよ」とビットンの細君がいった。「顔色はよくないけれど、とってもきれいな方ですよ」
「息子さんのほうも美少年だった。亡くなられたルパート卿というのが堂々たる美男子でね。わたしの主人の二まわりもありそうな体格だったよ。だから、いつも弟を子供扱いにして、ばかなことをしても大目に見ておられたよ」
リングローズは、ビットンが少年の亡くなったことにふれはしたものの、こまかい点ははぶいているのに気がついた。しかし、その一家の問題にとくに関心があるようなそぶりは見せず、やがて細君の前に設計図をひろげ、ほめてもらいたそうにした。それは彼が指図して、建築家にデザインさせたものだった。こういうこまかいところにまで配慮するのが彼の特色だった。
「でも、余分なお部屋が入用になりますよ」とビットンの細君は予言した。「おそかれ早かれ、みんなそうなのですもの」
「わたしはちがいます、奥さん。天涯孤独の身ですから。訪ねてくれる甥《おい》も姪《めい》もいませんよ」
「親戚というやつはいい点もあれば、悪い点もあるものさ」とビットンは慰めた。
その晩はそうして過ぎ、一週間後、今度はリングローズがビットン夫婦を訪問した。彼は細君には好感を持っていた。魅力的だとはいえないし、態度もぶっきらぼうだが、誠実で率直だった。お気に入りの話題は倹約で、お金を節約する方法を考えるのを好み、アーサーも妻をほめていた。この女はなにも真相を知らないにちがいないと、リングローズは確信した。彼女は犯罪を大目に見るような女ではないし、ましてや夫の犯したようなことを見逃すはずがない。子供好きだといっていたが、自分では子供を持つつもりは全然なかった。夫も同じ気持だといい、リングローズもそれがいいでしょうと合槌《あいづち》をうった。
ビットンは自分がおびえた件には決してふれようとはしなかったし、リングローズのほうでもふれなかった。やがて、細君がある女性と観劇に行くことになったとき、ビットンは細君を迎えに行く前に一時間ほど、リングローズの家に立ち寄ることを承知した。
彼は不安げで、心が落ち着かず、リングローズのほうでもなんに気を取られているのかよくわかっていた。だが、そのことにはふれず、楽しいほうへ楽しいほうへと話を持っていった。彼は春が近づいたことを歓迎し、下宿の女主人の蔵書で見つけた本のことで頭がいっぱいだといった。
「わたしが読み終ったら、ぜひ読んでごらん」と彼はいった。「この家の本棚には、暇つぶしできるような本はほとんどない。説教集が大部分だ。この世の中にこんなに説教集が印刷されているとは知らなかったね。しかし、ご亭主が牧師だったそうだから、無理もない。今読んでいるのは、『ガリヴァー旅行記』といって、書いたのは牧師らしい。もっとも、説教くさいところはあまりない。あんたみたいに冗談の好きな男なら、きっと死ぬほど笑ってしまうよ。どこを読んでも、なにか意味がこめられている。その当時のばかげたことを諷刺しているんだね。もっとも、今でもちっとも変りないけどね。しかし、おもしろいのは主人公がやる冒険だ。おまけに、作者の坊さんは、全然口に気をつけない。ずいぶん思いきったことをいってるよ。よくあんな本が発禁にならなかったもんさ」
ビットンは『ガリヴァー旅行記』を読んだことがなかったので、読んでみることにした。
その夜は何事も起らなかった。やがて二度目の機会がきて、ビットンは勇気をふるいおこし、十一時までリングローズの部屋で過した。二人は前回のようにしゃべり、彼らの仲は今や親密そのものに見えた。というのは、リングローズは長くひとつの役を演じていると、その役をきわめずにはいられなかったからだ。今や彼はどこから見ても――しゃべり方から、ものの考え方まで――隠退した従僕そのものだった。ときには、ひとりでいるときなど、リングローズ自身でさえ、自分が念入りにこしらえた作り話を信じかけたほどだった。彼はこれまでの人生をくわしく語り、自分の財産や趣味にいたるまで話していたのである。
時計が十一時をうつと、ビットンは椅子から立ち上がってパイプの灰をたたき落した。夜は静かで、月がこうこうと牧場や春の最初のしるしできらめている森を照らしていた。
「今日、ラバーズ・レーンで桜草を見つけたよ」とリングローズはいった。
「桜草なんて勝手にしろだ」とビットンは答えた。「『ガリヴァー旅行記』はどうしたい? もう読み終ったかね?」
「どうしてわたしが『ガリヴァー旅行記』を読んでいたことを知っているんだい?」とリングローズは、すっかり忘れていたように、きょとんとした顔つきでききかえした。
「だってあんたがそういったじゃないか。ちょっと猛烈なところがあるって」
「猛烈どころじゃない。もう読むのはやめにした。あんたも読まないほうがいいよ、アーサー」
だが、ビットンは絶対に読むつもりだった。
「今夜借りて行くよ。ここの奥さんだって気にするまい。グレイさんは家内ととても仲がいいんだから」
リングローズはすぐには返事しなかった。それから肩をすくめ、本棚を指さした。ビットンのほうからいわなかったら、彼のほうから本のことを持ち出したかもしれない。しかし、できることなら犯人に刑事の役をやらせるというのが彼の持論だった。
「読みたいのなら、どうぞ。しかし奥さんが中を覗《のぞ》いたら、塀《へい》の上から放り出すかもしれないよ。上から二番目の棚の、金文字の大きな本だ」
リングローズは電灯のシェードをはずし、ものは立派だがいたんだシェラトンの本棚に、ずっと明りがあたるようにした。ビットンはガラスの戸をはずし、中を覗きこんでいたが、やがて見つけた。
「グレイおばちゃんが発作をおこすかな、黙って借りたとわかったら」とビットンは笑い声をたて、本を引き出した。
そのとき、なにかがすぐあとについてきた。
ビットンが本を引き出したとき、そのうしろから眼をぎょろつかせ、口をパクパクさせた胴体のない頭がくっついてきたのだ。彼は鉄砲に撃たれたようによろめき、わけのわからない叫び声をあげて、倒れてしまった。起き上がろうともしなかった。リングローズが駆け寄ると、完全に意識を失っていた。今度はリングローズは相手を気絶させてしまったのだ。しかし、べつにあわてたりもせず、息を吹き返させにかかった。倒れたときに怪我はなかったが、ビットンがわれにかえり、頭にクッションをあてがわれ、ウイスキーのグラスを持ったリングローズがそばに跪《ひざまず》いているのに気づくまでには五分はかかったろう。
「そっとしていろよ、アーサー。しばらくそのままで」とリングローズはいった。「卒中かなにかかもしれない」
「あれをどけてくれ、どけてくれ」とビットンはうめき、ちょっと眼をあけて、また閉じてしまった。
「どけてくれって、なにを? ここにはなんにもないじゃないか。さあ、これを飲んで。心臓の発作かもしれないよ」
ビットンはウイスキーをがぶりと飲み、リングローズは絶対に動かないようにいっておいて、もっとウイスキーを取りに行った。ビットンは呻《うめ》きつづけていた。
「いったいどうしたんだ?」とリングローズはいった。「また、なにかが見えたというのかね?」
「あの首が、あの首が、わたしに飛びかかろうとしたのだよ、アレック」
「そりゃ、気のせいだよ、アーサー。まったくの想像さね」
「しかし、見たんだよ。誓ってもいい、ほんとに見たんだ。歯をカチ、カチいわせている音まで聞いたのだ」
「じゃあ、いったい、いつ、どこで? わたしはあんたの横にいたんだよ。どうして、わたしには見えなかったんだい?」
「本のうしろにいたんだ。本を取り出したら、いたんだ。飛びかかってきたのだ」
リングローズはガラス戸の開いている本棚を見上げた。
「あんたはね、本を取り出したりはしなかったんだよ、アーサー」とリングローズは落ち着いていった。
「ちゃんと本はあそこにある。あんたは手を上げたとたん、呻き声をあげて、倒れたんじゃないか」
ビットンは一瞬恐怖も忘れたかに見えた。
「本を取り出さなかったって? あれは本のうしろにいたんだよ」
「そんなばかな! しっかりしてくれよ。さあ、見ててごらん。またあれが見えたら、そういってくれ」
相手が止めるのもきかず、リングローズは本棚のほうにツカツカと歩み寄り、大胆に『ガリヴァー旅行記』を取り出した。あとにはぽっかり穴があいているだけで、彼は中に手を突っこんだ。
「さあ、自分で見てごらん。なんにもないだろう。あるはずがない。あんたは頭がおかしいんだ。さあ、炉のそばへおいで。もう歩けるだろう」
彼はビットンが炉のところに来るのに手を貸してやった。
「この分じゃ、今夜は歩いて帰るのはあぶないぜ」とリングローズはいった。
だが、ビットンは次第に回復し、リングローズは元気づけてやろうとつとめた。
「これは興味しんしんたる問題だ、アーサー」と彼はいった。「わたしも薄気味が悪くなってきた。あんたの眼には、千里眼とかなんかいったようなふしぎな能力があるのかな? わたしは千里眼の存在を信じるし、ふつうの人間には見えないものが見える人も知っている。この部屋の中に、あんたには見えるが、わたしには見えない悪霊かなにかが隠れているのなら、たとえこっちには見えなくたって、こんな家にもういるのはごめんだな。気味の悪い部屋なんかまっぴらだ」
ビットンは烈しい息づかいで、手を火にかざした。彼はまだふるえ、おびえていて、ろくに口もきけなかった。追いつめられた絶望的な表情が、その顔に浮んでいた。
「なにを見たのか教えてくれるといいんだが。亡くなった親戚とか、外国にいる親戚とか、そういう人間ではなかったのかね?」
ビットンはかぶりを振った。
「では、猿か、かたわかなにかかい?」
「ちがう。どうにも説明しようがないのだ。にやにやしたぞっとするような物だ。悪魔の顔だよ」
「最初に見たのと同じ顔かい?」
「そうなんだ」
「では、わたしもここを引きはらおう」とリングローズはいった。「あんたはたぶん千里眼の持主なんだ。この部屋には、なにかよからぬものが――人間の幽霊でさえない、なにか超自然的なものがとり憑《つ》いているのだとすると、わたしだって見るかもしれないね。今まで見たことがなかったが。そんなのはごめんだな。明日引っ越すことにするよ、アーサー」
ビットンは絶望的な顔つきで彼を見たが、なにもいわなかった。あれこれ考えて、まだ元気が出ないようだった。
「できたらこの町に部屋を借りるか、ティンクラーさんのところに泊めてもらうことにしよう」とリングローズは言葉をつづけた。「こんなことはまっぴらだ。あんたにも二度とこの部屋に来させたくない。明日医者に見てもらって、強壮剤かなにかもらうといい。よかったら、今、医者を呼んで来ようか。わたしよりも医者のほうが話しやすいだろうからね」
だがビットンはかぶりを振った。彼は神経をしずめようと必死の努力をしているのだった。
「いや、いい。医者に見てもらっても、どうしようもない。明日見てもらって、鎮静剤《ブロマイド》をもらってくる。それが一番だ。千里眼なんてとんでもない」
ビットンはまた飲んだが、もう充分酔うほど飲んだのに、いたって頭ははっきりしていた。
「では帰るよ」と彼はいった。
「大丈夫だと思うならね。わたしが送って行こう。この部屋を出れば、元気になるよ、アーサー。わたしも明日ここを引きはらうつもりだ。あんたは幽霊を見た――たしかに見たのだろうと思う。気持のいい話じゃないやね」
「ここの奥さんには話さないでくれよ」
「そうしよう。気分を変えたいから移るといっておこう。あの人をおびえさせてはかわいそうだからな。あの人はまだあの幽霊を見たことがないだろうと思うよ」
すると、ビットンは気力がおとろえて、つい油断したのだろう、こういった。
「だれも見た者なんていないよ、わたし以外には」
半時間後、ビットンは自分のうちの玄関に立っていた。夜気で彼は元気になっていた。しかし、まだ月光にしりごみし、リングローズの腕にすがって歩き、たいてい眼を閉じていた。顔はまだ死人のように蒼ざめていたが、体力は回復していた。
別れぎわ、ビットンはこう頼んだ。
「もうこれで大丈夫だ。ジェインには今度のことはいわずにおくよ。幽霊やなんかを見るような男だと思われたくないからね。明日は元気になれるだろう。ジェインは飲みすぎたと思うだろうが、そう思わせておくさ。こっちも黙っているつもりだから、あんたも黙っていてくれないかね」
リングローズはそうすると約束し、こうたずねた。
「ああいう恐ろしいものを実際に見たことがあるのかい? なにか過去の出来事で思いあたることはないのかな?」
一瞬、彼はビットンがまた倒れるのではないかと思った。しかしビットンは恐るべき努力で落ち着きを保ち、こう答えた。
「とんでもない。あんなものはこの世になかったし、あるはずもないよ」
「すると、やはりあの部屋のせいだな」とリングローズは断言した。「あの部屋で、以前人殺しかなにかがあったにちがいない。わたしも明日引っ越すよ。だから、あんたも心配しなくていい、アーサー。二度とあんなものを見ることはあるまいよ」
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第八章 最後の機会
静かな夜を家路につきながら、いろいろなことが頭に浮んできて、リングローズの足取りはともすればおそかった。彼は二度目のこらしめの結果をひとつひとつ考えてみた。効き目は前回より強烈だったが、立ち直るのも前回より早かった。彼自身がこわがったふりをしたのは、やがてビットンが今度の経験について考えた際、疑いをまねかないための芝居だった。こうしておけば、ビットンの心からリングローズに対する疑いは追いはらえるにちがいない。というのも、あの事件が直接彼の部屋とはなんの関係もないことは、ビットン自身がいちばんよく承知しているからである。しかし、リングローズは自分の立場を強めるためなら、どんな骨折りも惜しまず、どんな些細《ささい》なことも無視しなかった。ビットンと同じようにこわがることによって、彼は相手の信頼を失う危険を免れたのだ。
二回目の実験にあたって、リングローズは少しも動揺しなかった。ビットンへの憎しみから彼は断固として計画を推進し、翌日の到来をいささかの不安をもって待ち受けた。ビットンの状態いかんで、おそらくこれからの行動がきまりそうだったからである。相手を苦しめるのはあと一回でやめるつもりでいた。しかし、それはきびしいものでなくてはならないし、まだ詳細については計画していなかった。とにかく、現在まだわからない事態の発展に対応してゆくほかはない。
翌日、ビットンがあらわれなかったので、お茶をすますと、リングローズは会いに行ってみた。ベルに手をかけたとき、細君がドアを開けてくれた。彼女は心配そうで、今まで泣いていたらしかった。
彼女は黙ってというように片手を上げ、庭に出てきた。
「小径《こみち》をいらっしゃるところをお見かけして、呼び鈴を鳴らさないでいただこうと思って出てきましたの」と細君はいった。「アーサーは眠っています。あの人にはほんとに困りました。まだ少し心配ですわ。ゆうべ酔っぱらったんでしょうか、あの人? どうか本当のことをいってくださいませんか、ウェストさん。あなた以外には話してくださる人がいないんです。アーサーはあなたの名前は出しませんでしたけど、わたし起きて待っていたときに、あなたの声が聞えたものですから。送っていただいたのってきくと、あの人は、いや、そうじゃないって嘘《うそ》をつくんです。おれはどうもないっていうんですけど、それどころじゃありませんでした。真蒼《まっさお》な顔で、とっても不機嫌で……。まるで、いつもとちがっていましたわ。酔っぱらいはあんなふうになるもんだって、わたし知っていますわ」
「ええ、ほんとは送ってきたんですよ、奥さん」とリングローズは白状した。「しかし奥さんには知られたくないのなら、なにもいわないほうがいいですな。それに、今晩わたしが訪ねてきたことも知らないのなら、眼をさましても、黙っていてください。きっと知られたくない理由があるんです。じつをいいますとね、奥さん、アーサーは少々はめをはずしたんですよ。二人とも大いに話が合って、思わず飲みすぎてしまったんです。アーサーも悪いが、わたしも悪かった」
彼女はうなずいた。
「ベッドに連れて行ったときは、あの人気が狂ったようでした。ののしりちらしたりするんですもの。あんなことははじめてです。それに、恐ろしい眼つきをしていました。眼がどうかなるんじゃないかって心配です。できるだけのことはしたんですけれど、長いこと寝つけなくて、寝ついたとたんに、悪夢におそわれるらしいんです。『そいつを見せないでくれ!』とか、『その悪魔をあっちへやってくれ!』とか、大きな声でわめいたりして。あんまり大きな声なので、女中が眼をさまさないかと心配でした。でも、わたしの知るかぎりでは、女中はみんなよく眠るものですし、うちのも幸いなにも聞えなかったようですわ。
アーサーは三時頃目をさましましたけれど、歯をガタガタいわせ、顔は汗びっしょりでした。熱いミルクを持っていくと、それを飲んで、今何時だって大声できくんです。夜が明けてから気分もしずまって、静かに寝はじめました。今朝は紅茶はたくさん飲みましたけれど、一口も食べようとしないんです。お医者に鎮静剤をもらって来てくれっていいましてねえ。昼頃、お医者さんが来て、処方箋を書いてくださって、薬を二服飲みました。それから寝ついて、今までずっと眠っているんです」
「それはどうも。申しわけありません。アーサーは酒をやめなくてはいけませんな。ほんの少しでもね。で、医者は奥さんになんていいました?」
「自動車までお送りして、アーサーの聞えないところで、なにか重い病気の心配がありそうかきいてみましたの。お医者さんはそんな心配はないという返事でした。アーサーはどこにも異常はない、ただ精神的にすっかり参っている。なにか恐ろしい目に会ったか、気持が動揺するほどこわがっているように見えるという見立でした。酒を飲むかときかれるので、とくにそれほどとお答えしたんです。今までお酒で失敗したことはありませんて。すると、では心配には及ぶまい、明日はすっかりよくなるだろう、そうおっしゃって」
「アーサーは医者になんていいました?」
「とくになにも。ただ前の晩、妙なことになって、神経がおかしくなったような気がする。そういっただけですわ」
「奥さんにもなにもいいませんか?」
「いいえ。お医者さんにいったようなことしか話しません」
「またお化けでも見たんじゃないでしょうね?」
彼女はリングローズの顔をじっと見た。
「ええ、わたしもそう思いました。でも、あの人はそんなことはないというんです。見たなら見たと言うんじゃありません?」
「それを聞いて安心しました」とリングローズはいった。「では、きっとウイスキーのせいでしょう。わたしも今日は気分がよくないし、なにかと忙しい。わたしが訊ねてきたことはいわないでください。いや、来なかったなんていうと、こっちのことを不親切だと思うかな。じゃあ、訊ねてきたけれど、よくなったと聞いてよろこんでいた、そういってくださいな。いつかアーサーの気が向いたら、晩御飯にでも呼んでくださいよ」
ビットンの細君はそうしましょうと約束し、リングローズは別れた。今では彼はこの女が心から気の毒になっていた。しかし、悪というものは、まったく責任のないひとびとにまでわざわいをおよぼすものなのだ。そして、リングローズの知るかぎり、罪のない者が打撃を蒙らない犯罪などひとつも存在しないのだ。
彼は三日のあいだビットンを見かけなかったが、やがて「クラウン」でまた出会った。人前ではビットンは自分の健康についてなにもふれなかったが、連れだってそこを出ると、率直にそのことを口にした。それこそリングローズが待ちこがれていたことだった。というのも、自分の望む方向にどれだけ事態が進行しているか、大いに知りたかったからだ。しかし、その晩はあまり収穫はなかった。ビットンは自分の健康のことだけに関心があり、意外と自分が元気で明るいのを知って、上機嫌だったからである。彼は細君といっしょにずいぶん遠くまで散歩してきたのだった。
「ところが、女房のやつ、足をいためてしまってね」とビットンはいった。「ひとりでとぼとぼ歩かざるをえない始末さね。しかし、神経を直すには、いちばん散歩がいい。くたくたに疲れるまで歩くと、よく眠れるよ」
「それではこっちもやってみるか」とリングローズはいった。「新しい家に越してから、どうもよく眠れなくてねえ」
一日後、リングローズはサンドイッチとウイスキーの瓶《びん》をポケットにつっこんで、ビットンといっしょに、ブリッドポートの西にあるゴールデン・キャップという、海を見下ろす高い断崖まで散歩した。その日、ビットンはいつもより率直にしゃべった。この前の災難にもふれ、リングローズに例のお化け屋敷説が正しかったと信じこませようとした。その動機は、リングローズにもよくわかった。
「あれから、あのお化けは見ないだろう?」と彼はたずね、その返事にびっくりした。
「眼がさめているときは、全然。だが夢で見るんだ」と相手がいったからである。「しかし、それも無理はない。眠っているときだと、ショックを受けたり、恐ろしい目に会ったことを夢で思い出すからね、よく夢を見るんだ」
リングローズはこの話題をなんとかそらすまいとした。
「それは本当だよ、アーサー。夢は実生活を反映するものだ。わたしはだれよりもそのことを知っている。わたしの場合、友だち同士だからとくに打ち明けるんだが、夢に出てくるのは、自分がしたいいことではなくて、悪いことが出てくるんだ。妙なもんさね。とくべつ自分が悪党だというわけではないんだが、わたしだって人間さ。これまでに、あちこちで羽根を伸ばしたい誘惑は感じたよ。じじつ、誘惑に負けもした。今から振り返ってみると、あまり後味のよくないこともいくつかやっている。それが夜夢にあらわれて、わたしを苦しめたり、ついにばれたかとおびえさせたりするんだ。そういうときは、眼がさめると、ほんとにほっとする。良心ていうやつは、眼をさましているときはわれわれに近寄れなくても、眠っているときは、われわれをつかまえてしまうんだね。奇妙なことだが、まったくそのとおりなんだ」
彼は長々と退屈なことをしゃべりつづけたが、相手は恐ろしそうに、だが興味深げに耳を傾けていた。ビットンは深く心を動かされ、こっそりうかがっていたリングローズは、そのことを見てとった。
「良心だって、組み伏せて、眠らせてしまうことだってできる」とリングローズは言葉をつづけた。「これは宗教から学んだ暗い知識だよ。宗教はわれわれに自らの罪を他人に告白しろと教えている。きっと、告白すれば心がさっぱりして、いわゆる良心の苛責《かしゃく》から逃れられることを知っているからだろう。わたしも、ときどき一つか二つ牧師に懺悔《ざんげ》してさっぱりした気持になろうかと思ったことがあった。牧師はそれを他人にしゃべることはできないんだ。許すことはできるがね。また、せっかく懺悔するのなら、善良な理解にとむ友人にしたほうがいいと思ったこともある。人間性をよくわきまえていて、わたし同様にあやまちを犯しやすい人間で、罪や誘惑とは縁のない生活を送っている牧師なんかより、悪事について理解と同情のある友だちにね」
リングローズが微妙さに欠けていると非難するひとびとも、この会話ではそういう点に欠けるところがなかったことを認めたにちがいない。じっさい、一瞬彼は成果も間近いと信じかけたほどだった。ビットンは動揺し、内心賛成するようにうなずいた。彼の魂を苦しめているのがもっと軽い悪事だったら、その場できっと告白したにちがいない、とリングローズは思った。彼はほとんどそうしかけたように見えた。
「以前、わたしはあることを――」彼は半ばひとりごとのようにいい、リングローズは全神経がぴんと張りつめるのをおぼえた。しかし、ビットンは急に口を閉じ、こうたずねた。おそらく告白することの恐ろしさが、突然人間らしい気持からゆるんだ舌を縛《しば》りつけてしまったのだろう。
「アレック、あんたはじっさい口でいっているとおりに実行したのかね?」
「むろんだよ。以前、まっ正直で強い性格の方に仕えていた頃、大失敗をやらかしたことがあってね。悩んだあげく、白状してしまった。ところが、許してくださったばかりか、忠告してくださったのだ」
「その人は牧師だったのかい?」
「いや、ちがう。こっちと同じふつうの人間さ。しかし、大いに気持が楽になった」
ビットンは沈黙し、リングローズは慎重に探ってみた。
「人間というやつはみんなあとになって後悔するようなことをやるもんさ。つまり、あんたやおれのように、根は善人だが、突然弱さを見せる人間のことをいっているんだがね。罪というやつは犯した本人に振りかかってくるもので、根が善人であればあるだけ、振りかかり方もひどくなる。後悔を感じない人間がいるとしたら、生まれつきの悪人だと思うね」
しかし、ビットンはそれ以上乗ってこなかった。
「きっと、あんたのいうとおりだろう」そう答えて、その話を打ち切った。
しかし、リングローズは勇気づけられ、話題を変えるのが気にならなかった。彼の仕事はたしかに進捗《しんちょく》しているのであり、とうとう相手の鎧《よろい》に大きな穴を開けるのに成功したと思った。ビットンは告白しかけたのだ。この男のぐらついた勇気が崩れ去る時がまもなく来るにちがいない。そのとき、ビットンはすっかり絶望し、自分の罪を打ち明け、自らのよこしまな心がもたらしたと思っている呪《のろ》いから逃れようとするだろう。
この時分、リングローズはビットンの旧主人についてもよく考えた。ある日、ブリッドポートの大通りをビットンと散歩中、偶然彼はブルック卿に出喰わした。幾分だらしのない服装の小男が近づいて来て、にこやかにビットンに挨拶《あいさつ》したとき、これがあの男だと、彼は本能的にそう感じた。どことなく目立つところがあり、ベレアズ夫人から聞かされた人相にぴったりしたからだ。そこでリングローズは顔をそむけて急いで通りすぎ、手近な店に飛びこんだ。そこでこまごました買物をしたが、二人の話はすぐにやみ、二分もすると別れた。
「元のご主人だ」とリングローズが店を出てまたいっしょになったとき、ビットンはいった。
「ブルック卿! あのぱっとしない小男が?」
「そうさ、昔も今も変りない。あの人の服装には手を焼かされたよ。全然服装にかまわない人で、今ならとびきり上等の服だって着られる身分なのに、ブリッドポートの服屋がごひいきで、しかも穴があくまで新調しないんだから」
「今、従僕はだれかね?」
「バーレイという男でね、戦争から帰ってきた男だ。ご主人は兵隊帰りの若者でないと雇おうとしないのだ」
「あの人自身は軍隊に行ったのかい?」
「そうだね、イタリア陸軍の情報部にいた」
「はしこい男かね?」
「無類にはしこいね」
「ずいぶん若く見えるがね」
「じじつ若いよ、アレック。まだ四十にはなってないだろう。元の男爵よりかなり年下だよ」
時が過ぎ、ビットンは健康をとりもどした。しかし、神経のほうはべつだった。リングローズは一再ならず話題をまじめなほうへ持っていこうとしたけれど、ゴールデン・キャップへ散歩したときほど、ビットンが告白しかけたときはなかった。相手がくずれたのは、個人的恐怖と苦痛からにすぎなかったことをリングローズは知った。一度ならずチャンスを与えてやったにもかかわらず、ビットンがひとかけらの後悔も示したことはまったくなかった。この頃までにはリングローズはブリッドポートにさまざまな友だちを作ったが、その中には子供もいた。彼はビットンにひとりの少年を押しつけ、子供の未来とか、子供の無力さや愛すべき性格に接したときの大人らしい責任感が湧かないかとためしてみた。ところが、ビットンは少しもその印を見せないのだ。彼は子供嫌いで、もっとも愛すべき子供に対してさえ冷淡だった。
リングローズは失望した。というのは、彼はたいていの人間の心にある復讐《ふくしゅう》の女神への恐れに、ある程度計画の成功を賭けていたからだ。しかし、ビットンが道徳的な苛責を抱いているらしい徴候はまるでない。彼が神経質になったのは、己《おの》れの犯した行為のためではなかったのだ。例のお化けに憑《つ》きまとわれることへの肉体的恐怖と不安――それだけが彼を悩ませたのだ。
この頃、たまたまブリッドポートでは強盗事件が続発し、一連の小さな盗難事件がひとびとを動揺させていた。これらの悪人どもは大胆かつ巧妙で、ほかのときならリングローズも彼らの行動に興味をおぼえたろう。新築の平屋のバンガローは彼らのこの上ない目標だったが、ビットンは少しも恐れていなかった。現実の肉体的な危険には耐えられるようで、強盗が入って来たら思い知らせてやると断言したほどだった。強盗の話題は「クラウン」のバーでも持ちきりだったが、ある晩、リングローズとビットンが来あわせていたとき、ひとりの警部が本気とも冗談ともつかぬ口調で、庭に足音がしたり、夜窓を叩く音がしても、どうかこわがらないでくれと一同に警告した。
「たいてい、あなた方バンガロー住いの人たちが狙《ねら》われているんですよ」と警部はいった。「もしなにか聞きつけても、こわがるにはおよびません。強盗なら聞えないように入るでしょう――それはまちがいない――わたしの部下たちは世間の笑い者にされるのにうんざりして、犯人逮捕に懸命になっているんです。彼らは夜ほうぼうの庭を見まわったり、突っつきまわったり、ちょっとでも怪しいと、ときには家のひとたちを起すこともあるんです」
「夜は大丈夫だということですよ、警部さん」とリングローズはいった。「こそ泥どもが入るのは、家の者が教会や買物に出かけたり、土曜の夜に芝居に出かけている時を狙うんですよ」
それから二日して、ビットンの細君は週末に実家へ帰ったが、現在泥棒騒ぎがつづいている折でもあり、ビットンは同行しないことにきめた。女中がひとりで残されるのをいやがったためもある。ビットンは心配していなかったが、リングローズは一晩泊まってやった。
やがて日曜の夜がやってきた。それは奇妙に、彼に刑事時代いつも夜活動したことを思い出させた。夜行生活をやめてから久しいが、今はそれをやる必要に迫られていた。彼の計画は真実危険な要素を含んでいた。泥棒騒ぎで警察も奮起して、油断なく見張っていたからである。
午前二時半、リングローズは下宿を抜け出し、ブリッドポートから真直ぐに通じる道を抜け、それから安全な野原を通り、ビットンの家のある新しいバンガロー群の背後の小径に入って行った。夜は真暗で、風もなかった。静けさの中では少しの物音でも伝わるので、パトロールの警官の規則正しい足音が、七十ヤード先から聞えてきた。角灯《ランタン》の光の届かないところに隠れようとして、リングローズは低い塀《へい》を乗り越え、警官が通りすぎるまでそこにしゃがんでいた。
十分後、彼はビットンの家の菜園に立っていた。彼はこの家のことはよく知っており、ビットンの寝室がこの菜園に面していて、地面からわずか四フィートのところに窓敷居があることも知っていた。煉瓦《れんが》敷の小径が窓の下を通っていたので、リングローズは足音を立てたり、足跡を残さないようにするために靴を脱いだ。それから、すばやくそっと窓に忍びより、上着の中からなにかを引き出し、鍵《かぎ》を包んで、トントンとガラスを叩き、背を曲げて下の壁ぎわに隠れた。二度用心深く窓を叩くと、さっと頭上に明りが走り、ビットンがベッドから飛び降りる音がした。ブラインドが上げられ、幅広い光線が菜園を照らした。だが、なにか小さなものが、光線が水平に走るのを妨《さまた》げた。それはビットンをじっと睨《にら》んでいた。歯をガタガタいわせながら、彼を睨みつけ、窓にぴったりくっついている赤毛の胴体のない首。リングローズは数秒間待っていたが、それは数分間にもまさるかと思われた。やがて、窒息しかけたような悲鳴と、どさりと倒れる音がした。
一瞬の後、リングローズは光線を避けながらそっと立ち去った。
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第九章 失望
用心深く、無事に下宿に帰りつくと、リングローズは床《とこ》につき、すぐにぐっすり眠ってしまった。彼はどんな問題でも、さらに考えを練り仕上げることが必要になるまでは、頭の中から追いはらっておく方法を知っていた。ある点まで達すると、完全に調査を中断し、一週間くらいはそのことを考えようとしないのだ。しかし、記憶力は抜群で、どんな問題でも、いったん中断したところから再び取り上げることができるのだった。
次の日の朝、八時に朝食をすますと、正餐《せいさん》の注文を出してから、彼は正午までだれも居間に来ないようにいいつけて、ドアに鍵をかけ、暖炉《だんろ》のそばに行き、あるものを燃やす準備をととのえた。ことのよしあしは別として、これまで使ってきた道具を焼きすてるつもりなのだ。そして小さな箱から恐るべき目的に使われた例の人形の首を取り出した。ビットンが前夜気を失って倒れたことは知っていた。これは予期していたことで、リングローズは満足した。しかし、これ以上ビットンの神経を攻撃する計画は持たなかった。今後はビットンの良心に攻撃を加える予定だった。まもなくビットンを訪問し、もし相手がこちらのいうことに耳を傾け、理解しようとする気持になっていれば、真相をききだしてやろう。必要とあれば、相手の秘密を知っていることを示してやろう。ビットンも今や充分苦しめられたのだから、圧力を加えなくても罪を告白し、自分の行為の詳細やそうするにいたった動機をいっさい打ち明けてくれるだろう。こうリングローズは願い、期待していた。だが、もしそうしなかったときは、その罪を責め、苦しんでいる原因をはっきりいってやろう。そうすれば白状するはずだ、とリングローズは判断した。
しかし、それまでの予備行動にはリングローズも少なからず苦労した。その苦労もこれでおしまいだ。二度と再びこの拷問道具を使うことはないだろう。今や彼自身この道具に非合理的なまでの烈しい嫌悪を抱いており、考えてみるとおかしいほどだった。この人形に本来備わっているぶきみさ以上のなにかが、そういう感情を起させるのだ。使った目的がこの生命のない人形に道徳的な意味を与え、悪のメッキを施したかのように思われる。彼は自分が使ったこの恐るべき人形に、自らがある程度まで汚され、堕落させられたような気がした。この人形はベレアズ夫人の描いた絵をロンドンに極秘に送り、個人的に親しい舞台の小道具の専門家に作らせたものだった。この薄気味の悪い美術家はすぐにグロテスクな人形を作ってくれ、当のリングローズですら最初包みをほどいたときは、はっと息を呑んだほどだった。それは元の絵よりずっとよくできていて、色彩、形、顔の輪廓《りんかく》の配分にいたるまで原画に忠実で、その上、リングローズの希望で、二時間は連続して口がパクパク開閉できるようにゼンマイ仕掛けが中についていた。この道具で武装して、リングローズは恐るべき仕事を開始したのだが、それがなくなった本物にそっくりかどうかという心配も、はじめて使ったとたん吹きとんでしまった。最初の夜は、腕組みをし、ビットンときまじめに話しながら、左手の肘《ひじ》の下で右手に巻きつけてあった糸を操って、自分の椅子のうしろに人形の首を引き上げ、仕事がすむと、糸を切って人形を下へ落したのだ。二度目は、ビットンが人形をおさえてあった大きな本を本棚から抜き出したとたん、うしろについていたバネの働きで人形がビットンに飛びかかったわけだ。ビットンが気を失って倒れたとき、リングローズは人形を片づけ、『ガリヴァー旅行記』を元の場所に戻しておいたのだ。三度目にお化けを出したときだけは彼も苦労させられたが、三度のうちで一番効果的で、恐るべきものだったことは疑いをいれなかった。リングローズはいつでもそのときどきのチャンスを利用するのに敏捷《びんしょう》であり、また最後の打撃をどうやって加えるかまだきめていなかっただけに、泥棒騒ぎがもちあがると、これは利用できそうだという明瞭《めいりょう》なイメージが浮んだのだった。まさにチャンスが向うから飛びこんできた形であり、ビットンの細君が一晩か二晩家を空けることを知ったので、彼女が戻ってくる前の晩まで計画を延ばしただけだった。
今やその醜怪《しゅうかい》なものが、朝のあからさまな光の中で、切り落された悪魔の首のように、横目づかいにリングローズを睨《にら》んでいた。彼はゼンマイを巻き、その口がカチカチと音をたてて閉じたり開いたりするのを見守った。ほかのときだったら、彼はこの化け物をわが家にある珍奇な興味ある品物からなる小博物館に収めたい誘惑にかられたかもしれない。だが、今はその気持は少しも感じなかった。この化け物はけがらわしく、彼自身に奇妙な心理的影響を及ぼした。どんな場合にも、二度とこれを使おうとは思わない。というのは、やがてあるはずの、アーサー・ビットンよりはるかに手ごわい鋭い知能の男との決戦では、まるで別の、もっと微妙な手段が必要であることを、彼の本能は確信をこめて告げていたからだ。にもかかわらず、この人形はブルック卿の人柄をいくらか語っているように思われる。自分で作ったのではないにせよ、この人形を考え出したのはブルック卿にちがいないのだから。ビットンのような男が五十人集まったとしたところで、こんなねじくれた代物をみごと考え出すことはできないだろう。じっさい、今までの彼の経験でも、こういうことができそうな頭を持った犯罪はまるで思い出せなかった。現代人は、その潜在意識においてさえ、こういう悪と原始的野獣性の化身を想像することは絶対にないはずだ。リングローズはそう思った。それは、人間が悪魔や地獄を信じており、芸術家が悪魔的でおぞましいものを創り出すことに、自らの無気味な天才を傾けていた時代のものであった。
怪物の最期が見られるのを心からうれしく思いながら、リングローズはそれを火の中へ投げこんだ。怪物はペチャクチャしゃべり、歯がみをし、やがて燃えだした。赤毛がじゅうっと燃え、材料の型紙もすぐ火がついた。化け物は真っ赤に燃えあがり、リングローズは火掻《ひか》き棒で叩いてこなごなにした。彼は灰の中からまた化け物が忽然《こつぜん》とあらわれてきそうな気がした。鉄のごとき彼の心さえ、この幽霊が今後自分をつけまわし、ビットンが苦しんだのと同じ罪を彼に押しつけようとしたときには、どうすればよいかとじっさい考えたほどだった。が、リングローズは空想することがあったにせよ、空想をもてあそぶことは決してしなかったし、今もそうだった。すでに未来が過去よりはるかに興味ある材料を提供しているのである。彼は自らが蒔《ま》いた種子を刈りとらなくてはならないのだ。かりにビットンが告白し、耐えがたい心の重荷をおろしたとしても、なお彼がその手先として働いた極悪人が残っている。ほかならぬブルック卿が。長いあいだ苦痛になってきたこういう予備的な仕事が終ったことにほっとして、リングローズはすぐにビットンのバンガローに赴いた。小止みなく降る冷たい雨には、恐怖も悪も息づいていなかった。枝のあちこちにもう緑がめばえ、小鳥がさえずっていた。ブリッドポートの広い舗道は輝き、早くも北のほうから青空が見えていた。空気はおだやかで、昼前には太陽が輝きそうだった。
リングローズはパイプに火をつけ、傘《かさ》を開いて、郊外へ歩いていった。おそらくビットンは病気になって、細君に予定より早く帰るよう電報を打っているだろう、と彼は判断した。たぶん、自分のところにも電報がくるかもしれない。だが、電報はこなかった。ビットンの家の正面の庭に通じる小門が眼に入ったとき、十時半だった。そのとき、彼は充分お馴染《なじみ》の光景を目撃した。彼はぴたりと止り、じっと前を見つめながら、心が沈むのをおぼえた。同じような光景を今までたびたび見てきたが、それはただひとつのことしか意味しなかった。
なにが起きたのか充分承知していたが、彼はビットン家の門のまわりに集まってしゃべっている群衆のほうへ進んでいった。入口に巡査がひとり立っていて、別の巡査が群衆を押しもどそうと躍起になっていた。しかし、巡査が行ったり来たりしているうちに、すぐにまた群衆はそのうしろにかたまってきた。
現場に着いたとたん、ひとりの警部が玄関道をやってきた。それは「クラウン」で口をきいたことのある警部で、向うもリングローズを覚えていた。
「なにが起ったんです、警部さん?」とリングローズはきいた。予想どおりの返事が帰ってきた。
「ウェストさんですね、ビットンさんの友だちの? あの人はもうおしまいです。頭を射ち抜いている。どうやら自殺らしい。あ、奥さんが帰ってきた」
ちょうど一台のタクシーが横づけになり、ジェイン・ビットンが降りてきた。リングローズは彼女に見られたくなかったので、また傘を開き、恐ろしいことが起きたものだといいながら、そそくさと退散した――烈しい失望を味わいながら。あとで午前中自分の感情を分析してみたが、最初に感じたことは変らなかった。彼を襲ったのは烈しい失望だった。彼は眼の前の食事にも手をつけず、冷静に客観的に事件を分析していった。
「おれはあの男をおびえさせて、死なしてしまった。ただ、あの男の正体を知っているので、そのことで心を痛めているわけではない。だが、おれはあの男の性格を見誤っていた。すっかり誤解していたのだ。あんなふうに行ってしまうとは考えてもみなかった。今後おれはへまをしたつぐないをしなくてはなるまい」
おれは半年という歳月をまちがって使い、無駄にしてしまった。とリングローズは考えた。もっと悪いことには、前途に横たわっている最大の任務を、今よりもっと効果的にやったとしても、何十倍も困難にしてしまった。だが、ふつうの人には壊滅《かいめつ》的と思えたにちがいないこうした逆境を前にして、リングローズは決して人に腹は立てなかった。だれが悪いのでもない。すべておれが悪いのだ。彼の後悔はビットンに対しては向けられなかった。あの男はもはや生きてゆくのが耐えがたくなり、それで自ら死を選んだだけだ。後悔は彼の頭上に破壊的な、だが活気づけるような形でふりかかった。リングローズは心から自分が恥かしくなり、自尊心を回復できる方法はただひとつしかないことをすぐに知った。ときが経ち、冷静になるにつれて、彼は自らの心配と失望の大きさにおどろいた。前にも失敗したことはあるけれど、これほど烈しく悩んだことはない。これまでにもたびたび失敗してきたが、それは彼のような職業にはつき物であり、失敗のいちばん少なかった者がいちばんの成功者と呼ばれるにすぎない。アーサー・ビットンの死とともに、今や彼は失望を味わった。だが、同時に、事態を回復し、最初見たところ不可能なことをなしとげようという、ほとんど獰猛《どうもう》なばかりの頑固さもめざめてきたのだった。
とめどもなく考えているうちに、ふとビットンが永遠に消えてしまったことをよろこんでいいのだということに気がついた。ビットンが死んだことで新しい大きな困難が生じたことはたしかだが、別の大きな困難が除かれたこともたしかである。彼が自白したあとも生命惜しさにつけただろうあらゆる制約や条件が、これですっかり無視できるのだ。リングローズの前途はけわしく、乗り越えることはできないかもしれないが、しかし道そのものはすっきりとした。彼はその晩未亡人にお悔《くや》みを述べに出かけたが、彼女は心よく彼に会い、夫の死に関する詳細をわかるかぎり話してくれた。
事実は彼の予想どおりであり、じっさい事情を知っている者はリングローズひとりしかいないわけだった。ビットンの家の女中は、警察の訊問《じんもん》を受けたとき、何時頃だかよくわからないが、突然物音で眼がさめたと申し立てた。彼女はベッドに起き上がり、なにか物音を聞いたことをぼんやりと意識していたが、それがなんの音か、どこから聞えてきたのかは判断できなかった。きっと路上の自動車の警笛の音だろう、そう思ってまたすぐに眠りこんでしまい、朝まで眼をさまさなかった。彼女は毎朝ビットンを起す必要がなかった。彼はいつも七時半に自分で起き、浴室に行って、洗面と着替えをした。それから居間へ行き、妻と食事した。その日、女中はいつものように八時半に朝食を運んでいった。ビットンは時間に几帳面な男だったが、まだあらわれていなかった。半時間後、女中はビットンのことが気になったので、浴室まで行ってみた。戸は開いていて、ビットンがまだ来ていないことがわかった。彼女はさらに二十分待ち、それから主人の部屋のドアをノックした。が、返事はなかった。待つにつれ彼女は心配になってきて、主人の部屋のブラインドが上げてあるかどうか見に庭へ出た。ブラインドは降りていた。さらに近寄ってみると、その朝は雲っていたせいか、室内の電灯がついていた。彼女は室内にとって返し、烈しくノックしたり、大声で呼んだりしたが、なんの返事もなかった。ドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。今はおびえきって彼女は帽子をかぶり、傘を持ち、通りを歩いていく途中で警官に出会った。警官はもうひとりの警官を呼び、みんなでいっしょに家へ引き返し、ビットンの寝室に入りこんだ。
ビットンはまだ片手にピストルを持ったまま、ベッドに横たわっていた。右のこめかみを射って、即死したのだった。
ビットンが気絶したあと息を吹きかえし、ブラインドを降ろしたことは明らかだった。そのあとすぐ自殺したらしい。というのは、女中は眼がさめたのは何時かはわからないが、朝の光がまだ射していなかったのはたしかだと陳述したからである。
リングローズは心からお悔みを述べ、ビットンの細君が夫の死を深く悲しみ、落胆してはいるけれど、それほど驚いても当惑してもいないことに気がついた。彼女は落ち着いていて、ちゃんと話をすることができた。彼女はだいぶ前から夫がなにかよからぬ秘密を隠していることを知っていた。なぜなら、夫はとみに神経質で元気がなくなり、ときどき病的な恐怖におそわれたり、悪夢を見て気が狂ったようにはっと眼をさますことが少なくなかったからである。この苦しみの原因がなにか、ビットンはいっさい妻に話さなかったが、一再ならず自殺をほのめかした、と彼女は語った。
リングローズはこの話を聞き、自分は前日アーサーに会わなかったこと、その朝いっしょに散歩する約束でやって来たのだといった。
それから彼はビットン家を去り、今度は自分の個人的な問題に直面するはめになった。警察の訊問に自分が故人の親友として召喚されることは充分ありうるだろう。その訊問にはブルック卿もきっと関心を持つにちがいない。だが、ブルック卿に見られたくなかったので、その危険を避けることにした。彼はすぐブリッドポートから姿をくらますことにしたが、ここには偽名で別人として暮していたのだから、たとえ捜査されたとしたところで、行先がわかるはずがない。ただ、この方法にはひとつ危険がある。もし捜査で彼の名が出て、ビットンの妻に、よく考えてみたら、夫の病気とリングローズとつきあいだしたのが同じ頃だと証言でもされたひには、ブルック卿は失踪《しっそう》した他所《よそ》者とビットンの死を結びつけないものでもない。ブルック卿はビットンをよく知っていたのだし、場合によっては、元執事の「アレック・ウェスト」が敵かもしれないと疑われてしまうかもしれない。とにかく、ブルック卿の眼の前で、長々とした反対訊問に引き出されるのは将来大きなハンディキャップになるにちがいない。その上、場合が場合だからと良心をなだめすかすにせよ、宣誓をしてやむなく嘘《うそ》をつくというのは、どうみても歓迎すべき話ではない。
そこで、リングローズは大急ぎで出発し、だれからも探し出されないうちに、ブリッドポートからロンドン行きの汽車に乗りこんだ。
こうして快活なアレック・ウェストはこの世から姿を消した――あとでもう一遍戻りはしたけれど。一週間後、彼はかつての同僚とこの自殺事件を論じていた。この同僚はブリッドポートに知人がいて、地方新聞にのった記事にたいそう興味をおぼえていた。ビットンの友人の元執事のことはただ名前が出ただけで、彼を探し出そうという措置は講じられていなかった。ビットンの妻の証言とか、自殺の明白な証拠から事態は明らかであり、おきまりの判決で訊問はすべて終了した。
リングローズは、友人の新聞でくわしいことが読めてうれしかった。そこには彼にとって少々関心のある事件がのっていたからである。
検死官訊問にはブルック卿も出席し、故人との関係から、いくつかの訊問に答えるよう求められた。ブルック卿は心よく訊問に応じたという。アーサー・ビットンは長年自分の召使で、信頼のできる頭のいい従僕だった。なにかひそかに悩んでいたといわれるが、自分は気づかなかったし、彼の私生活については全然知らない。彼は結婚と同時に自分のところを辞めた。興奮しやすい気性だが、長所もいっぱいあった。ブルック卿はそう答えていた。そして、ビットンが精神に変調をきたし、かかる恐るべき最期をとげたことに対し、未亡人に哀悼の意を表すると述べていた。
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第十章 第二の戦闘開始さる
ジョン・リングローズは、アーサー・ビットンの死によって解消された困難よりはるかに大きな困難が自分を待ち受けていることをよくわきまえていた。一週間を費やして、彼は自分の立場をよく考えてみようとした。
ひとりの子供が殺され、事件の手先をつとめた男は死亡した。だが、その手先を操った人物は――その犯罪の張本人であり、それによって利益を得た悪の天才は――いまだ少しも疑われていないでいる。
リングローズは自分が握っているわずかばかりの材料をはかりにかけてみた。ビットンは前の主人のことをほとんど語らなかったので、リングローズは指針になりそうな事実をほとんどつかんでいなかった。にもかかわらず、ブルック卿には象牙細工の道楽を通じて以外には近づけないことを知っていた。ほかにはなにも興味がなく、友人や知人もほとんどいないと、ビットンはいつもいっていた。ブルック卿は友人を必要としない男だった。だれにでも愛想がよく親切だったが、決して交際範囲をひろげようとせず、自分と同じ情熱を持ち、同じ方面に通じた者だけを歓迎した。リングローズにわかっているのはそれだけだった。
同等の立場で近づくことは不可能だった。ブルック卿と同じ階級に属しているふりをすることはできそうにない。というのは、貴族階級の人間は、たがいに交際していなくても、相手のことはなにもかも知っているからだった。また、象牙細工の鑑定家のふりをしようとも思わない。あれほどの専門家だと、そういう種類のインチキは即座に見破ってしまうからである。必要な知識を集めるのはたやすいが、それを元にして専門家としての広い理解と博識をかね備えるなどということが、できるわけがない。
リングローズはブルック卿の一家について調べられるだけ調べ、貴族になったのはつい最近であることを発見した。げんに、当主より以前に爵位を持っていたのは、彼の父と兄だけにすぎなかった。ただ、ビューズ一族は何世紀にもわたってブルック・ノートンに住んできた。当主の父のアルジャーノン・ビューズは貴族になろうという野心に燃え、非常な金持でかつ経済面でのベテランだったので、戦時中の国家に対する奉仕ぶりで、男爵に列せられた。二年後アルジャーノンは死亡し、二人の息子が残された。男爵を継いだルパート・ビューズと、ルパートの死後爵位を継いだ現在のバーゴインである。バーゴインは父と衝突し、爵位を継ぐまでフィレンツェに住んでいた。ビットンが、主人のイタリアの別荘の番人で、古くからの召使のウィリアム・ロックリーのことを話していたのは、その関係だった。ルパートは妻に死なれたあと、ルドヴィクという少年と、ミルドレッドという姉娘の二人の子を残して、イタリアで世を去った。現在ミルドレッドは、ブルック卿の家で暮している。
一週間後、リングローズは計画を仕上げ、その予備行動として、またある男に会いに行った。それはリングローズに非常に世話になったことのある人物だった。なぜなら、ケイレブ・ブロッサーは、かつて「故売《こばい》」の疑いで、もう少しで法廷に引き出されかけたことがあり、リングローズの骨折りがなかったなら、まちがいなく刑務所に入っていたからだ。しかし、リングローズはブロッサーはまったく誠実に行動したことを確信し、その危難を救ってやり、またひとり友人を得たのだった。
さて、ケイレブ・ブロッサーの店を訪れると、長身で、猫背《ねこぜ》のこの老練な質屋はとても歓迎してくれた。彼はブロッサーとお茶を飲みながら、しばらくあれこれと雑談をした。ブロッサーは質屋ばかりでなく、家具、陶器、甲冑《かっちゅう》など、ありとあらゆる古物や骨董《こっとう》を扱っていた。ウォーダー・ストリートで彼のところほど雑多な品物を扱っている店はなかったが、しかもこの商人は、自分の店の品物はごくちっぽけな装身具や骨董にいたるまで、すべて知っていた。彼の記憶には、自分の店やその裏にある洞窟のような倉庫と同じくらい、あらゆるものがしまわれていた。質屋のほうは妻にまかせていて、骨董屋の隣にあり、ケイレブは骨董店のほうに住んでいた。
「ブロッサーさん、じつは骨董品の象牙《ぞうげ》のことで来たんだがね」とリングローズはいった。「あやふやな象牙なんかつかまされるのはいやだよ。目下|狙《ねら》っているのは中世の象牙製品なんだ。なぜ欲しがっているか、いつか話すつもりだが、今日は勘弁してほしい」
ブロッサーは粗い眉毛《まゆげ》の下から考え深そうにリングローズを見た。
「わたしのところにあると目星をつけて来られたんでしょうか? なにか紛失品ですか?」
「いや、そんなことじゃない、ブロッサーさん。ひとつでもいい、文句なしに選り抜きの、最高級の象牙細工が欲しいのだ。蒐集《しゅうしゅう》家なら、それを買うために無理をしかねないほどの珍しいやつをね。これひとつしかないという、とびきり高価なやつを」
ブロッサーは興味をそそられた。
「象牙細工ならよくわかるし、相当知っているつもりです。需要は狭くて限られていて、少数の人しか集めていないのです。ですから、みんなこの店に来ますよ。品物が少ないし、専門家なら、むろん見誤ることはないでしょう。わたしのところにあった極上物は、半年前ブルック卿にお売りしました。あの方は最大の蒐集家です。しかし、よほど遠くまで探さないと、あの方の気を惹《ひ》くような品はありますまい。わたしのところにも、お見せできるような品があることはあります――一ダースはね。でも、『とびきり高価なやつ』をといわれると、お役に立てそうにありませんね」
「しかし、どこかの店にあるだろう。こういう物を扱っている一番大きな店はどこだろう?」
「専門の店はありません。みな片手間にやっているのです。ですから、とびきりの上物が市場に出ても、そういうものを買いそうだとわかっている二、三の方がまず選択権を持つのがふつうです。当節では、どなたかが亡くなって、蒐集品がせりに出ないかぎり、持主が替ることはありません。有名な品になると、宝石とほとんど同じくらい知られていますからね」
リングローズはうなずいた。
「わたしは必ずしも買う必要はない。借りるだけでいい。ある目的のために、とびきりの上物を借りたいのだ。本当の傑作をね。むろん、ブロッサーさん、借賃は払わせてもらうし、そのあいだは保険もかけよう。売らせてもらえば、さらにいい。蒐集家が欲しそうな象牙細工なら、借賃として百ポンド支払うが、どうだろう? そういう品物をどこかで借りてくれないかね?」
老人は考えこみ、黒い小さな絹の帽子を脱いで、禿げ頭を掻《か》いていた。
「お訊《たず》ねも風変りだし、お申出も風変りですね。しかし、まあ、あまり見込みはないでしょう。探しておられるような品は、たしかにあります。わたしの女友だちの持物で、イタリアのルネッサンス時代の本物のゴルドーニの作品です。千ポンドはするでしょう。その人はスコットランドのあるお金持の夫人の家政婦をやっていて、夫人が亡くなったときに、その象牙細工をもらったのです。遺産としてもらったので、売ってお金に換えるようにということでしょうが、キャンベルさんは――友だちの名前ですが――手放そうとしないのです。わたしはぎりぎり六百ポンドで買おうといってみたのですが、キャンベルさんは暮し向きに不自由ないものでね。四桁なら話に乗るかもしれませんが、三桁では乗らないでしょう」
「それはよさそうだ。キャンベルさんというのはどこに住んでいるんです?」
「エディンバラですよ。ライス・ストリート一三号。非常にいい人で、わたしの友だちになら、できるだけのことはしてくれるでしょう」
「それじゃ、ぜひ行かなくちゃいかん。紹介状を書いてくれないか。わたしのことは保証するということと、その人にも役に立ちそうだということだけでいい。じっさい、ほんとなんだ。しかし、こっちの本名は隠しておいてほしい」
「せんさくするのはいやですが、あなたは警察を隠退されたと思ってましたよ、リングローズさん。めったにないほどの送別会を開いてもらって、金時計までもらわれたではありませんか?」
リングローズは笑った。
「そのとおりだよ、ブロッサーさん。しかし、今度だけは別だ。いつか決着がついたら、すっかり話すよ」
リングローズは紹介状が出来るのを待ち、「ノーマン・フォーダイス」と名乗ることにきめ、二日後早くもエディンバラにいた。そこは彼には馴染の深い市だった。
紹介状を持って、彼はライス・ストリートとキャンベル夫人を見つけ出し、苦もなく相手の信用を得た。そして、ケイレブ・ブロッサーさんを訪ねたところ、そういう品を探しているのなら、キャンベルさんがゴルドーニの作品を持っているとすぐに名を挙げてくれたのだと、わけを話した。
キャンベル夫人は品物を見せてくれたが、それは美しいというより奇妙なものだという感じがした。ただ、夫人の暮し向きは、この前ブロッサーに会って以来、面倒なことになっていた。甥《おい》が失業してお金をねだり、その母親との関係で金を出してやったのだが、まだもっといりそうだというのである。じっさい、彼女は象牙細工を売り払う気持になり、その件でケイレブ・ブロッサーに手紙を出そうと考えていた。
リングローズはブロッサーより高く買ってくれそうな客を知っていると説明したが、取引きの段階に入らないうちに、早くもキャンベル夫人はフォーダイスを信用し、快活で感じのいい人だと思っていた。
その結果、リングローズはブルック卿に手紙をしたため、六月のある朝、朝食に降りてきたブルック卿は、次のような手紙が待ち受けているのを見出した。
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ドーセット州ブリッドポート、ブルック・ノートン
ブルック男爵閣下
現在わたくしは古い象牙細工を預っておりますが、それはかつてガワーという旧家の家宝であり、スコットランドのメアリー女王の所有品だったといわれております。作者は有名なフィレンツェの彫刻家ゴルドーニでありまして、現在は以前ガワー家の家政婦だったある婦人が所有しておりますが、その婦人は女主人から遺産としてゆずり受けた次第です。
その方の名はキャンベル夫人と申され、どなたか買手を見つけてほしいと、わたくしにその品を委託されました。専門家の話では、少なくとも千ポンドは下るまいということでして、こういう珍品を集めておられる少数の方々には、それ以上の値打ちがあるやに承っております。男爵におかれては、蒐集家のうちでも第一等の方とうかがっておりますので、ほかの方にお見せする前に、まずはご覧いただきたいと思う次第でございます。敬具
エディンバラ市アンカー・アンド・クラウン・ホテル内
ノーマン・フォーダイス
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三日以内に返事がきた。
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ドーセット州ブルック・ノートン
ご連絡多謝。象牙細工を書留小包でお送りくだされば、こちらの考えを申し上げられると存じます。本物のゴルドーニであるならば、かなりの値打ちはありますが、残念ながらそうではないと思います。いずれにせよ、ご提示の金額は高すぎるし、エディンバラの専門家の鑑定の誤りかと存じます。それに、エディンバラに専門家がいるという話は、一度も聞いたことがありません。
ブルック
ノーマン・フォーダイス様
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この提案に、リングローズは持主が品物を郵送することは拒んでいると返事を書いた。彼は、お差し支えなければ、自分が持参したいのだが、ゆっくり話しあえるように、泊めていただけないかと申し出た。招いてもらえば、相手に歓迎される自信はあったし、早くも隠退したセールスマン、ノーマン・フォーダイスとして、興味ある前歴や経験を自由に使いこなせる支度ができていたのである。
相手がどう出るか多少不安だったが、待ち受けた返事は満足すべきものだった。例のゴルドーニは明らかに値打ち物のようだった。二度目の手紙で、リングローズはその象牙細工のことをくわしく述べ、キャンベル夫人の知りあいで、その細工についてもよく知っているスコットランドの宝石屋から聞いてきた詳細を書きそえて送ったのだ。
ブルック卿はフォーダイスがブリッドポートに何時の汽車で着くか知りたいといってきた。迎えの自動車を待たせておく、宿のこともまかせてくれと書いてあった。
しかし、こういうこまかいことは、キャンベル夫人にはいわなかった。エディンバラで楽しい数日を送ったのち、リングローズは象牙細工を持って出発した。だが、キャンベル夫人はなんら不安を感じなかった。彼女は人間の性格を見分けるのが上手で、だれを信頼してよいかすぐわかる利口な女だったからである。二人は千ポンド以下では取引きしないことに意見が一致し、それ以上に売れればしめたものだ、といいあった。
「千ポンドを欠けてはだめですよ、フォーダイスさん」と彼女は別れしなにいった。「もう百ポンド出させることができたら、化粧箱入りのウイスキーを一箱お贈りしますわ」
夫人は象牙細工を入れる宝石用の小箱を買っていったらと提案したが、リングローズは承知しなかった。
「古い箱のほうが似あいますよ」と彼はいった。
長旅のあと、たそがれの駅に着くと、箱型の自動車が待っていた。自動車はブリッドポートのなじみのある街々を走り、彼がもといた下宿やアーサー・ビットンの家の前を過ぎていった。美しい緑の田園地帯に入ると車はスピードをあげ、九時半に二つの門番小屋の前を通り、最後の一マイルは邸内の草原を走って、夕闇の中に灰色にそびえ立つ宏壮なジェームズ一世時代風の邸《やしき》に到着した。彼は手提鞄をさげ、ハリス製のツイードの服に同じ生地の帽子をかぶり、なんの変装もしていなかった。
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第十一章 バルテル象牙細工
すばらしい晩餐《ばんさん》がリングローズを待っていた。邸ではもう夕食がすんでいたが、男爵は広い食堂を行ったり来たりしながら、優雅な態度で旅行はどうでしたかとか、疲れてはいませんかと話しかけてきた。
しかし、リングローズは頭痛がし、暑い長旅でくたびれきっていた。が、適当に調子をあわせ、歓待にこたえることは忘れなかった。彼は途中でのこっけいな出来事を語って男爵をおもしろがらせ、男爵が皮肉ないたずら好きな性質にもかかわらずユーモアのセンスに欠けていないのを見てとって、たちまち調子をあわせ、貴族とは別の世界の人間だが似たような性格の持主だという印象を与えるのに成功した。じっさい、男爵は陽気で、活気にみちていた。彼は多少シニカルだが、溌剌《はつらつ》とした気質を示していた。最初リングローズと会ったとき、ちらと考えこむような表情が眼に浮んだが、すぐに消え、心から歓迎してくれた。リングローズの訪問の目的には、いっさいふれなかった。彼の夕食がすみ、一時間ばかりいっしょに過ごしたときも、彼らはまるで無関係なことばかり話した。やがて、食堂から玉突き部屋に行ったとき、もう一人の客も加わった。長身の、ハンサムな、愛想のいい青年で、男爵はニコラス・トレメインさんだと紹介した。やがてゲームがはじまると、リングローズは加わるのを辞退し、彼らのためにスコア係を引き受けた。二人ともなみの素人《しろうと》以上の腕前だったが、トレメインのほうがまさっていた。
すわって見守っていたあいだに、リングローズは自分が殺人犯と見なしている男をゆっくり観察した。ブルック卿は熟練した嘘《うそ》つき独特の、真直ぐおそれげもなく相手を見つめるところがあった。リングローズは知らぬまに人相をちゃんと見るこつを会得していたので、男爵の眼はあまりにも率直だと感じた。きっとイアゴー〔シェイクスピアの『オセロ』に登場するずる賢い悪党〕もこういう眼つきをしていたにちがいない。ばかげた疑いだと思われるだろうが、彼は自分の勘が正しいことを知っていた。正直な人間は自信家で独断的か、控えめでつつしみ深いかのどちらかだ。リングローズの知っているもっとも信頼できる人たちの中には、彼の顔を全然見ない者もいれば、見る者もいる。だが、こんなふうに、またたきもしないで愛想よく見つめる者はまずいない。かといって、ブルック卿が自分を見下したり、多少|軽蔑《けいべつ》をこめた親しさで接しているわけではない。卿の態度は完璧《かんぺき》だった。この上ない聞き手であり、そのシニカルな性格はすばらしく、その考え方のなかに微妙に織りまぜられていて、ヒューマニストでさえとやかくいうことはできなかったろう。彼は人生という戦場の参加者というよりは傍観者に近かった。人生のすべてに関心を持ち、おもしろがってはいたけれど、彼が夢中で貪欲《どんよく》な興味を示すのは、話題が象牙細工にふれたときにすぎなかった。
その話題にふれたのは次の日のことだった。リングローズはトレメインがゲームに勝ったあとで、ちょっとそのことにふれ、もう自室にさがらせてほしいと男爵にいったのである。
「象牙細工の件は明日でよろしいでしょうか?」と彼は頼み、ブルック卿はこう答えた。
「ええ、もちろんですよ、フォーダイスさん。じっさい、すっかり忘れていた。自分が象牙細工気狂いだからといって、人にも同じことを期待してはいませんよ。トレメイン君が象牙に興味を持つとすれば、玉突きの玉の形をしているときだけでしょうね。それでも彼の実利主義は認めている。いちいち実利主義者とやりあっていた日には、こちらが孤独になってしまうし、孤独はいやでしてねえ。朝食は寝室でとりますか、それとも、九時すぎにわれわれといっしょにしますか?」
「ぜひ、ごいっしょに」とリングローズは答えた。
彼はぐっすり眠り、七時にさわやかな気分で眼をさました。そして、窓の下に朝日を受けてみごとな均整のとれた庭園が広がっているのが見えたので、すぐに床《とこ》を離れ、隣の浴室に入り、まもなく下へ降りて、外に出た。
彼はせめてもう一晩ここに滞在したかったし、うまく賢明に男爵を扱えば、そうできるものと信じていた。どちらにせよ、自分の持ってきた象牙を使って、なんとかできるだろう。ただ、できれば向うからそういってほしかった。自分の適応能力や、ひとの心をつかむ微妙な才能にまかせてみようと彼は考えた。
リングローズは花で輝くばかりの庭園を散歩し、六月の朝の晴れ渡った空を味わっていたが、やがてもっと歩こうとして、人の肩くらいの高さに四角く切りそろえてある大きなイチイの生垣の角を曲ったとき、もうひとりの人間に出喰わした。
白服の少女がひとり、こちらに近づいてきた。少女は真紅やオレンジ色のバラを入れた籠《かご》をさげていたが、はにかんだように彼を見上げ、かすかに微笑した。リングローズも帽子を脱ぎ、にこやかに会釈した。眼の前にいるのがミルドレッド・ビューズであることは知っていたが、なにも知らないことになっていたので、やさしく、なにげなく声をかけた。そうできるのも年のちがいだった。
「おはよう、お嬢さん。わたしに劣らず早起きですね。こんなすばらしい庭ははじめてです。こんな妖精の園みたいなところがあろうとは思ってもみませんでした」
ミルドレッド・ビューズは年よりもさらに若々しく見えた。色白で、薄茶色の眼に、美しい小さな頭はふさふさした亜麻色の髪に囲まれていた。花よりも美しい人だとリングローズは思ったが、どことなく悲しげで憂いがちな眼差《まなざ》しだった。彼女は気高さと繊細さをあわせ持っていた。背が高くほっそりしているが、青春のもつあの溢《あふ》れんばかりの活気に欠けているようだった。人生の悲しさに、とまどいを感じていることを、その若々しい顔はうかがわせた。
リングローズのやさしい人柄に、思わず安心したものか、少女はこう答えた。
「おじさまのお友だちでいらっしゃいますのね? 昨夜はお会いできず失礼いたしました。旅行はいかがでして? ずいぶん長旅でいらしたのでしょう」
「ええ、そうです。でも、そんなことは忘れましたよ。見事なバラですね! バラ園へいらしたのですね?」
「はい、わたしのバラ園に。ご覧になりません?」
二人はあざやかに咲き匂うバラの中をいっしょに歩いていった。理解のある聞き手に自分の大事にしているバラのことを話しているときは、少女の顔にもかすかな興奮の色が浮んでいた。だが、過去が、彼女の心にも顔にも刻印を押しているようだった。彼女はしあわせではなく、声はやさしさの中にどこか憂うつな響きが感じられた。そのとき、奇妙なことが起った。バラの花に囲まれて一時明るくなり、リングローズがバラに関心を持ったのをよろこんでいたミルドレッドが、べつの人間が近づいてきたとたん、石のように黙りこんでしまったのだ。その人物も明るい、感じのいい男だった――背の高い、陽焼けした、ハンサムな青年だった。だが、帽子なしで、白のフランネルの服を着、肩にタオルを引っかけたニコラス・トレメインの出現も、少女になんの親しげな反応を惹《ひ》きおこすこともできなかった。家に戻るときも、彼女は男たちのうしろを歩くようにした。
「湖でひと浴びしてきましたよ」とトレメインはいった。「あなたも来るかと思った、ミルドレッドさん」
彼女はかぶりを振った。
「庭の手入れをしていましたの。ちょうど今バラが咲きかかっているんです」
トレメインは籠からバラの蕾《つぼみ》をひとつ取って、自分の洋服のボタン孔《あな》に差した。それから、リングローズのほうを向いて、
「よくお休みになれましたか、フォーダイスさん? ここはすばらしいところでしょう? ぼくはコーンウォールの北海岸に住んでいますが、あそこは西風がひどくて園芸はできません。家の庭にも樹はありますがね。ねえ、ミルドレッドさん?」
「みごとな樹ですわ」とミルドレッドは答えたが、だんだんあとにさがってしまい、曲り角の所で姿を消した。一瞬トレメインは不満そうな眼つきをしたが、すぐにそれも消え、また愛想よくリングローズに話しかけはじめた。
朝食のとき、ミルドレッドはテーブルの下手にすわり、ブルック卿は上手にすわった。各自がサイドボードからよそえるようになっていて、リングローズはじっと観察していた。トレメインはミルドレッドに心から惹かれているふうだったが、彼女のほうは無関心そうだった。かといって、はっきり嫌っているようでもなく、黙りこくっているかと思うと、ときどき急に活溌《かっぱつ》にしゃべりだすこともあった。非常に少食で、ときどきもの思いに沈んで、黙りこくる折があった。それから、突然はっとわれに帰り、愛想よくしゃべりだすのだが、その声はつねに控えめだった。おじには心から愛情を抱いている様子で、なにかと気を配り、食べ物や飲み物を取ってやっていた。他方、ブルック卿は大いにしゃべりまくった。
「食事がすんだら、例の象牙を見せてもらう前に、ぜひわたしのを見てくださいよ、フォーダイスさん。あなたは自分では象牙細工には興味がないとおっしゃる。みんなそういいますよ、すばらしいのを見せてやるまではね。あなただって、思わず興味を持つにきまってる。そのあとで、いっしょにゴルドーニの作品を見て、まず本物かどうか調べてみようじゃありませんか。それから、持主が聞いた値段がまちがいでないかどうかをね」
ブルック卿はユーモアたっぷりに、かずかずの冒険をおどろくほどあけすけに語った。が、それは技巧をひめた技巧であり、リングローズは眼の前にいるのがなみなみならぬ曲者であることをさとった。が、そのために公平な判断が狂ったり曇らされたりしないようにした。彼がここに来たのは、自分がひそかに集めた情報の色眼鏡を通してではなく、虚心坦懐《きょしんたんかい》に相手を知るためなのである。彼はすばやく相手に調子をあわせ、ブルック卿の価値観や、人生観、義務感が道徳的でも、不道徳的でもないことを知った。
「インドのトリチノポリのある大地主が、すばらしい中国の象牙細工を二束三文でクーリーからせしめましてね」とブルック卿はいった。「値打ち物だと知ってわざとやったなというんで、今度はこっちがその男からぶん取ってやりました。地主は象牙細工が自分が出した額よりずっと値打ちがあることはよく承知していましたが、ほんとの値打ちはなにも知らなかったのです。わたしはそれが欲しくて、広いインドを横断し、ほんとの値段の三分の一で買いあげたんです。値段どおりに買ったんじゃ、専門家になった意味がないでしょう、フォーダイスさん。苦労に苦労して知識をふやすのも、結局相手の無智につけこむためですよ。これまでに、自分なりの理由から実際の値段以上に払ったことはたびたびありますがね。しかし、バランスをとるために、実際の値段より安く払ったことだってたびたびありますよ」
リングローズは声をあげて笑った。
「この調子では、ゴルドーニのことが思いやられますな」
ブルック卿が自分の測り知れない大コレクションを見せたがるのは、それに比べると彼のポケットの作品が貧相に見えるからだということは、彼もすでに気づいていた。
やがて、彼らは屋根から明りをとるようになっている細長い陳列室で落ちあったが、そこには、博物館さながらに、上がガラス貼りのケースがぎっしり並んでいた。壁は(茄子紺《なすこん》茄子紺《なすこん》色で、先代の領主が集めたフランダース派〔十五世紀から十七世紀にかけてフランダースに栄えた絵の流派。ファン・アイク、ルーベンスなどがその代表〕の絵がずらりとかかっていた。だが、ブルック卿はそれには興味がなかった。彼は天井の明りとり窓のブラインドを上げ、朝の光がケースに射すようにした。それから、リングローズとトレメインを伴って、自分の宝物のあいだを歩きはじめた。
「十四世紀以前のローマの象牙細工はきわめて稀《まれ》です。これはエトルリアの墓からの出土品です。大英博物館にはもっといいものがありますが、そのうち折を見て盗み出したいと思っていますよ。これは完全な形の古代ローマの執政官の象牙の書き板で、非常な宝物でしてね。これを見て、大勢の善良な人間が十番目の戒律〔汝その隣人の所有物を貪るなかれ、ということ〕を破りました。ローマの執政官はこういうものを使用していた、と歴史は伝えています。世界で最上の品は二か所に散らばっています――半分はサウス・ケンジントン博物館に、あとの半分はパリのオテル・ド・クリューニーに。フランスがわが国への負債を現金で返さないのなら、物で払えばいい。パリにある半分はイギリスがもらうべきですよ。しかし、ラテン民族はおそろしく貪欲ですからね。紳士らしく物を盗むこつをおぼえたかったら、わたしのようにイタリアで暮すことですね」
ふらちな言葉や、皮肉な冗談をまじえながら、ブルック卿はうんちくを傾けてしゃべりつづけた。卿は象牙細工について語るのが大好きだったし、リングローズも率直に感嘆をあらわした。彼は心から楽しみ、象牙細工についての説明が耳から耳へ素通りすることは許しても、もっと貴重な相手の性格を暗示するような事柄は、ひとつも聞き逃さなかった。ブルック卿は、やはり予想どおりの人物だった。この貴族には、天真爛漫《てんしんらんまん》さをうかがわせる人の警戒心を解きほぐすようなところがあった。彼は驚くほど率直で、自分のことや自分が勝利を得たときのこと、はてはしくじったときのことなどを、いっさい包み隠さずに語った。彼は自分を笑い話の種にすることもいっこうに平気で、あるシシリーの王族に偽物をつかまされたが、結局相手以上のずるさをふるって先方を追いつめ、うち負かした話をして聞かせて、リングローズを大いに笑わせた。
おびただしい数にのぼる彫刻をした角笛、櫛《くし》、小箱、剣の柄、火薬入れ、小像など、ブルック卿は次々とリングローズに見せてくれた。それから、書物のカバー、神聖な題材を彫刻したビーズのロザリオ、聖体容器、その他の教会用品を見た。処女マリアや聖者たちの像、キリストの十字架像もあり、どれも中世の職人の忍耐強い天才が、精緻《せいち》をきわめて作りあげたものばかりだった。
「その頃の人間は、賃金と同様に仕事を愛していましたよ」とブルック卿は説明した。「ところが、今の職人に関心があるのは、時間数と賃金の額だけだ。仕事をしているようなふりをして過ごす時間数と、そうやって不誠実に手に入れる賃金の額だけなのです。
ルネッサンスの偉大な彫刻家たちも、こういうすばらしいものをたくさん作ったと考えられています。しかし、どれが有名な巨匠たちの作品か全然わからない。われわれが今眺めているのが、本物のチェリーニやラファエルの傑作であるかもしれない。二人とも象牙に細工するのが好きだったといいますから。もっとも、ミケランジェロがこういう小さい物に手を染めたとは思えない。象がピンを拾いあげようとするのと同じですからね。しかし、わたしの象牙細工だって、それなりにメディチ家の記念碑に劣らず壮大で、すばらしい。大きさは問題ではありません」
ブルック卿はリングローズに十六世紀イタリアの、ヴィンセンチノやベルナルドの弟子たちの作品を見せた。また、「フランドル人」デュケノア、ツェラー、レオ・プロンナー、ファン・オブスタル、ケルン、そのほか十数人の作品も陳列されていた。
それらのオランダの作品を鑑賞していたとき、リングローズははっとした。ハシバミの実くらいの大きさになっていたが、どこかなじみのある顔が、狂信的な天才の作品だという大きな象牙細工から、突如彼を睨《にら》みつけたからだ。それは、二十日鼠《はつかねずみ》くらいの大きさの二人の悪魔が、地獄の入口から覗《のぞ》いている彫刻だった。無限の恐怖がその象牙板に詰めこまれていて、じっと眺めていると、嫌悪のおののきに似たものがリングローズの体内を走り抜けた。なぜなら、それは記憶をよみがえらせ、過去のある問題を解決したからだ。彼は自らをとりおさえ、驚いたのを見られなかったかと思って、主《あるじ》の立っている隣のケースに急いで視線を走らせた。
「ここにあるのは、いちばん小さな作品ばかりです」とブルック卿は説明した。「十六世紀にはすこぶる珍しい小さな作品がありますが、代表的なものはかなり集めています。こういうものは、同じ重さのダイヤモンドくらい値段がするんですよ、フォーダイスさん。これはあの驚くばかりの微細彫刻家プロペルツィア・デ・ロッシが、桃の種子に彫ったあらゆる数字の組合せです。フィレンツェには、聖者たちの『頌栄《しょうえい》詩』全部を彫刻した桜んぼの種子がありましてね。作者はわかりません。そのうち、そいつもわたしのコレクションに入れるつもりです。桜んぼの種子なら隠すのは簡単ですからね。先ほどお見せしたニュールンベルグの巨匠レオ・プロンナーも、桜んぼの種子に微細彫刻をしていますよ。さあ、今度はレアリストの作品です」
ブルック卿は、たくさんの根付《ねつけ》をおさめたケースへ二人を連れていった。リングローズは自分もレアリストだったので、今までのどれよりもこの日本の芸術を楽しく鑑賞した。
こうして二時間が過ぎ、ブルック卿はもうよそうと提案した。
「これ以上見たら頭が痛くなりますよ」と彼はいった。「こういう繊細な彫刻はおそろしく視神経が疲れます。それに、あなたはじつに熱心に見ておられましたからね。さあ、これでもう許してあげますよ、フォーダイスさん。楽しみましたか?」
「ええ、大いに」とリングローズは答えた。「専門家に会うと、いつも感心させられるのです。もっとも、筆跡の専門家は別ですが」
思わず本職をさらけ出した恰好《かっこう》だったので、リングローズはわが軽率さを呪《のろ》い、あわてて滑稽《こっけい》な話をしてその場をとりつくろった。やがて一同は陳列室を離れ、ブルック卿は例のゴルドーニを見せてくれと要求した。
「書斎へ行って一杯やり、ほてった頭をひやしてから、ゴルドーニを見せてください」とブルック卿はいった。そして、十分後エディンバラから持ってきた象牙細工がその手に乗っていた。
「あんなすばらしい作品を見せていただいたあとでは、さぞかしつまらぬものに見えるでしょう」とリングローズは葉巻に火をつけながらいった。「ほんとに心から歓待していただきましたが、どうかそれが無駄だったとお思いにならないように。象牙を口実にここにきたわけではないのです」
「象牙があろうがなかろうが、大歓迎ですよ。あなたのような方とお話できて、ほんとによろこんでいます」とブルック卿は優雅に答えた。だが、いっさいは機械的にしゃべっているだけで、彼の全注意は掌《てのひら》の小さな美術品にそそがれていた。彼は立ち上がって、大きな拡大鏡をテーブルから取り上げ、大きな布張りの椅子のある張出し窓のところに行った。
リングローズは滞在を延ばそうと計画し、先方からそういい出してくれることを望んでいた。彼は黙って葉巻をふかしていた。トレメインは友人が象牙の取引きで夢中だと見てとって、ハイボールを飲みほして、部屋から出ていった。
ようやくブルック卿が口を開いた。
「正真正銘のゴルドーニです。すばらしい。あなたをペテン師扱いはしませんよ。先ほどうかがった伝説ももっともだ。デヴィッド・リッチョ〔十六世紀イタリアの音楽家〕がスコットランドのメアリー女王にこれを贈ったというのも、充分ありうる。この美しいブローチが女王の胸を飾ったのはたしかだと思う。少なくとも、わたしはその話を信じますよ。それは真実にちがいないし、わたしがそうしてみせましょう」
「気に入っていただいて満足です」とリングローズはいった。
「ええ、大いにね。七百五十ポンドでどうでしょう?」
リングローズは首を振った。
「それではとても無理でしょう。先方は四|桁《けた》を主張しているんですから」
「でも、現金はいいもんですよ。少なくとも、わたしはお金がないときは、いつもそう思いました。ですから、電報をうってくれませんか。八百ポンドで。いい値段でしょう。作品に感心しないとか、欲しくないなんていう気はありませんがね、八百ポンドといえばいい値段ではありませんか、フォーダイスさん?」
「わたしにはなにもいえないのはご存知でしょう、ブルック卿。しかし、おっしゃるとおり電報は朝のうちにうちましょう。キャンベルさんだって、現金の魅力は知っているでしょう。わたし自身よく知っていますよ」
半時間後、リングローズはブルック・ノートンの小さな町へぶらりと出かけた。彼の用件を聞いて、自分も行きたいと申し出たトレメイン青年がいっしょだった。リングローズの人柄はすっかりこのコーンウォール生まれの若者の心をとりこにし、今では青年は親しげによく話すようになっていた。リングローズが若者たちの心をつかむのは、修得した技術というよりは天賦《てんぷ》の賜物《たまもの》のせいだった。彼は若者の気持がわかるだけの精神的な若さをいつも持っていて、彼らに自信をあたえ、彼の若者への誠実な情熱が相手の信頼を獲《か》ち得るのだった。
ニコラス・トレメインは、リングローズがブルック卿をほめそやすのに耳を傾けていた。
「驚くべき人物だ。真の専門的知識の好例だ。それに寛大な方ですね。とんまな年寄りに教えることくらい、専門家にとって退屈至極なことはないでしょうからね」
「でも、あなたはとんまではありませんよ、フォーダイスさん。とんまにはきけそうにない質問をたくさんしておられたじゃありませんか。あの男はあなたに興味を持って、ひどく気に入った様子でしたよ」
「象牙のことでうまくいかなければ、嫌いになりますよ。だが、わたしのせいじゃない。持主のスコットランド人が千ポンドの値打ちはあると確信しているのですから」
「大丈夫ですよ。ぼくはバーゴインという男をよく知っています」とトレメインはいった。「彼は値切るのが好きなのです。心底はイギリス的というよりは東洋的で、とにかくけたはずれなやつですよ。もうひと晩泊まって、おだてあげれば、気が大きくなって、それぐらい出しますから」
「しかし、値打ち以上にもらうのはいやでねえ」
「そんな心配はいりません。金は問題ではないのです。第一、値打ち以上のお金を出したりするもんですか。それは保証します」
リングローズは大体の様子を察したので、ブルック卿の姪《めい》のことで、それとなく探りを入れてみた。
「じつに魅力的なお嬢さんですね。なんともいえぬほど人の心を惹《ひ》きつけるところがある。むろんお美しいが、それだけではない。なにかこう謎《なぞ》めいたものを感じますね。おじさんをずいぶん慕っておられるし、あの美しいお邸を気に入っておられるが、あの方はしあわせなのでしょうか? たまたまそういう表情をなさったのかもしれないが、花盛りの美しいお嬢さんがあんな憂うつそうなはずがない。なにか悲しいことがおありでないといいが。若い人が悲しそうにしているのを見ると、やりきれなくなるのです」
トレメインは個人的な話題にふれるのをためらっていたが、リングローズが率直に関心を示し、人間味にみちた声でそういうのを聞いて、思わず話す気になった。愛と同じで、同情の力は、偶然の階級差より無限に大きいのだ。じっさいニコラス・トレメインは暖かい心の持主で、深くミルドレッドを愛していたので、相手がただの好奇心からきいたのでないことがわかった。やがて彼は話しはじめたが、大体リングローズがすでに知っていることだった。
「ミルドレッドさんは美しい、天使のように美しい。そして悲しんでいるのもほんとうです。悲しがる理由が充分あるんです、フォーダイスさん。興味がおありでしたら、お話しましょう。以前あの人はお父さんや弟さんといっしょにイタリアに住んでいました。やがて先のブルック卿は、奥さんが亡くなって二年後に、悲劇的な最期に会い、姉弟はおじさんの元に引き取られました。バーゴインは当時まだ爵位を継いでいませんでしたが、できるだけのことはしました。弟のほうは子供の頃からなおる見込みのない病人で、脳をやられ、全体に虚弱だったということです。まもなくミルドレッドさんはひとりぼっちになり、忌《いま》わしい事件が起りました。あの人は、お父さんの存命中に、一家が暮していたコモ湖のほとりのメナジオで開業していた医者と婚約していたのです。決してふさわしい相手とはいえませんが、前のブルック卿はその婚約を認めていました。たまたま、その医者に好意を持っていたからです。医者としては立派な男だったようで、卿の奥さんが亡くなられたときも、最後まで献身的に看病したそうです。ところがどうでしょう、ブルック卿も世を去って、ミルドレッドさんがおじさんといっしょにこの邸に帰ってくると、医者は婚約を破棄したのです。バーゴインの話だと、ほんとはあの医者は彼女のことなど全然愛していなかったのだろうというのです。とにかく、医者は二度と彼女に手紙をよこさず、どうも相手が若すぎる、婚約はなかったことにしたいとバーゴインにいってよこしたのです。ほんとはそのほうがミルドレッドさんにとってもしあわせかもしれませんがね。バーゴインもあわれな姪のことを考えて憤慨しましたが、かえってよかったといっています」
「ミルドレッドさんもお気の毒に。しかし、おっしゃるとおり、そのほうがよかったといきたいものですね。それで、バーゴインさんが爵位を継いだとすると、弟さんも亡くなったわけですね?」
「ええ、そうです。そのほうがあの子のためかもしれませんがね。まあ、そういうわけで、ミルドレッドさんは沈んでいるのです。まだ悲しみを乗り越えないでいるんです。ぼくも彼女を元気づけようと頑張っているんですけどね」
「それはお察ししていましたよ。ご幸運を祈ります。その医者をほんとに愛していらしたとすると、まだ早すぎるかもしれませんね。まだ、ずいぶんお若いでしょう?」
「十八です」
「憂うつそうにしておられても、その年には見えませんな。やさしい気だてのようですね。その医者というのはどんな男です?」
「コンシダインというやつですよ。ぼくはそれしか知りません。バーゴインの話だと、一年前大金持のアメリカの未亡人と結婚したそうですがね。医者はたぶんミルドレッドさんの財産が目当てだったんでしょうが、アメリカの未亡人を見つけたんで、そちらに乗り換えたんでしょう」
リングローズはじっと聞いていたが、青年のおしゃべりのうち、彼が注目したのはただ一語だった。彼らは郵便局に着くと、キャンベル夫人に電報をうち、返事がくるまで近くのゴルフ場を散歩した。
彼はトレメインに興味は感じたが、ミルドレッドの話はやめにして、コーンウォールや一般的な話題に切り換えた。早くもリングローズは青年の恋愛問題よりもっと大きな問題に心を奪われていたのである。しばらくして郵便局へ戻ると、すでに返事は届いていたが、じつにきっぱりした返事で、千ポンドが一ペニー欠けても駄目だというのだった。
邸に帰ると、リングローズはその返事にひとつの提案をつけ加えた。ブルック卿が電報を読み終り、顔を上げたとき、彼はこう持ち出した。
「残念な次第ですが、こうしてみてはどうでしょう? わたしが手紙を書いて、電報ではいえなかったことをいってみては? 説得すればうまくいくかもしれません。今日手紙を出して、即金で支払うといってやれば、譲歩するかもしれません。わたしのほうはこれ以上ご好意に甘えるわけにはいきませんから、キャンベルさんから返事がくるまでブリッドポートに泊まることにしましょう」
すると、彼の望んでいたとおりになり、ブルック卿はひとつの点を除いては、この計画に賛成してくれた。
「たぶん無駄だと思うが、やってみる価値はあるでしょう。八百五十ポンド出しましょう――それがぎりぎりですよ。じっさい、いい値段だ。そのあいだ、わたしといるのが退屈でなければ、ここにいらっしゃい」
「それこそ願ったりかなったりの話ですが、どうも甘えっぱなしのようですね。折合いがつかない場合は、象牙で釣っておもてなしいただいたようなことになりますからね」
しかし、ブルック卿はどうしても泊まってくれといいはり、リングローズは滞在を延ばすことにした。ブルック卿からの指図も入れて手紙は出来上がり、リングローズはさらに二十四時間邸に逗留《とうりゅう》した。ブルック卿はきわめて感じがよく、思いやりにみちていた。二人はいずれ劣らぬ鋭い知性の持主だったが、リングローズは、ある方面においては、ブルック卿のほうが自分より鋭い機智と理解力を持っていることを認めざるをえなかった。彼が向いあったのは、非イギリス人的な心――多くの犯罪者に見出される一種のコスモポリタン的な知性であった。ブルック卿は演技をしているようには見えなかったが、それはつねに演技することが彼の天性だったからだった。彼は芝居でも見るように人生を眺めたが、象牙細工を集めるときだけは充分真剣になることができた。その他の人生や人生の問題に対しては皮肉で無関心だったが、大いに経験は積んでいた。想像力はゆたかだったが、象牙細工とそれに関すること以外には、想像力をふるおうとしなかった。また無口どころか、話し好きで、平気で自分の恥や欠点をしゃべったりした。姪《めい》についても口にし、あの子は残酷な失望を味わったが、早くトレメイン君を好きになってくれるといいんだがといった。文学に関しては、自分はイタリアの作家しか読まないが、彼らは自分の精神的要求をみたしてくれるといった。「マキャベリ、ゴビノー〔フランスの外交官、東洋学者〕、ダヌンツィオ〔イタリアの詩人、劇作家、小説家〕はわたしの精神的欲求をみたしてくれますよ。ときにはマキャベリーを訳したいと思うことさえあります」と彼はいった。「しかし、もういっぱい翻訳がありますからね。ゴビノーも訳されています。なんの幻想も持たない偉大な人物だ。もちろん、ニーチェもいます。ニーチェも徐々に正当に評価されはじめましたね」
無類に頭の回転が速く、表面はおだやかだが、芯《しん》は火打石のように堅い。リングローズはそうブルック卿を要約した。
二人は真夜中すぎまであれこれと語りあい、寝るとき、リングローズはブルック卿のすすめで、『人種不平等論』を借りて行った。ゴビノーという作家ははじめて聞いたからだ。だが、その本は読まなかった。彼はその日聞いた情報を整頓し、谷間の上に山がそびえ立つように、全体の情報のうちでも意味がありそうな二つの項目に考えをしぼった。ひとつは地獄の入口を描いた象牙細工であり、もうひとつは、ニコラス・トレメインと話していたとき、ふと彼が口にした一語だった。ミルドレッドのことをしゃべったときに、青年は彼女の父は「悲劇的」に死んだといったのだ。
深い関心をこめてリングローズはその形容詞にとりついた。彼にいわせると、「溺《おぼ》れる者がワラにすがりつくように」人は「突然亡くなった」ことをいうのに、「悲劇的」という言葉を使いがちである。だが、リングローズにとって、この言葉はくわしい事情がわかるまで、少なからぬ意味をおびているように思われた。今までのところ、彼の成果はすでに出来上がっていた確信を確認しただけだった。あの悪魔の彫刻は小さな謎を明らかにするのに役立っただけであり、少しも彼の捜査を進展させはしなかった。なぜなら、彼はまだ攻撃を加えるための有利な地点に達していないからだった。今の地点は地平線すれすれの高さしかないのだった。ブルック卿ほどの悪知恵にたけた人間に自分の犯罪を認めさせるのは容易ならぬ仕事であり、現在まだその材料は手に入れていないという感じがした。今のところ、むこうはリングローズを少しも疑っていない様子だが、あれだけすばらしい頭を持っているのだから、いつ何時すぐに疑いを持たれないともかぎらない。どうやってその危険を犯さずに必要な準備的手段を進めるか――リングローズは眠りに陥るまでそのことを考えていた。しかし、その問題が未解決のままであることも、彼の眠りを妨げはしなかった。ワラ一本なしに煉瓦を積みあげなくてはいけないのは、なにもこれがはじめてではなかったからである。
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第十二章 ブルック卿ゴルドーニを買いとる
キャンベル夫人への手紙の中で、リングローズは早く決めてほしいこと、電報で返事をしてもらうことの二つを書いておいた。夫人が手紙を受け取るのは昼頃になるだろう。彼はロンドンから北行きの夜行郵便列車に間にあうように、夕方のブリッドポート行き列車に乗るつもりだった。ほんとうはエディンバラに戻りはしないのだが、そうする予定だといっておいた。
象牙細工の運命がどうなるか知りもしなかったし、関心もなかった。しかし、朝になって、かなり負担になりそうな仕事をする決心をした。ブルック卿に挑戦するのは大変なことであり、相手をよく知れば知るほど、その困難は減るどころか逆に増えたわけだった。今やリングローズは事実を知ることに深い関心を抱いたが、かりに知れたにしろ、間接的にしか知れないことはわきまえていた。答えられる立場にあるひとびとに直接きくことは、むろん問題外である。しかし、現在彼が接触している三人の人物は、彼の知りたがっていることを知っているにちがいない。ことにトレメインなら、いちばん簡単で安全にくわしいことが聞き出せるかもしれない。じっさい彼がそうしていたら、彼自身の計画が変っていたかもしれなかった。だが、結局彼は、べつの、トレメインよりもっと事情を知っている人間から、危険のないやり方で、情報を得た。というのは、ほかならぬミルドレッドが情報提供者で、次の日、庭で二人だけで話していたときに、彼女は自分の身上話をしたのだった。
リングローズが、おじさまは南欧がお好きですねというと、彼女はわたしもそうなのですと答えた。
「わたしはこれまでほとんどイタリアで過ごしましたの」と彼女はいった。「父は母のためにコモ湖のほとりに別荘を買いまして、毎年夏にはイギリスに帰り、冬にはもっと南へ行ったりしていました。でも、結局母の健康のために、ほとんど一年中そちらで暮すことになりました。母はどこよりもそこが好きでした。わたしもミラノの学校へ通いました。やがて母が亡くなると、父もその悲しみで半病人になりました。結婚して以来、父はほとんど母のために生きていたようなものですから、二年後にあとを追うようにして亡くなったときも、母のところへ帰ったのでなければ、さぞかしわたしは歎《なげ》き悲しんだことでしょう」
「ほんとに、ずいぶん苦労なさったんですね」
「ええ、おかげでひどくふけたような気がしますの、フォーダイスさま。ほんとに、ずいぶん苦労しましたもの。自分でも娘らしい気持になろうと努力していますし、おじもなにかと力になってくれるのですけれど。でも、あんまりひどいことが次々と起るものですから、ときどき自分がまだ十八だとは信じられなくなって……五十になったような気がします。ある意味では、わたしの人生は終ったも同然ですわ」
「そんなことをおっしゃるものではありません、ミルドレッドさん。きっと、亡くなられたご両親だって、そんなふうに考えてほしくないと思っていらっしゃるでしょう」
「両親にはこういう気持を知られたくないものですわ。天国にいる者たちにも、地上にいる愛する者たちにどんなことが起きているかわかるのでしたら、天国もきっとあまりしあわせなところではありませんものね。父は恐ろしい死に方をしたのです、フォーダイスさま。母が亡くなってからというもの、父はいつも馬に乗りまわしていました。乗馬がなによりの慰めだったのです。丘を登って高原の牧場へ行くのが好きで、たくましい見事な馬も幾頭か持っておりました。わたしもよく父と行ったものでした。やがて、死が父をおそいました――コモとルーガノのあいだにある大きな山の高いところで。馬もろとも崖《がけ》から落ちたのです」
「なんという恐ろしいことだ! でも、お父さまにとってはそれほどではなかったかもしれませんよ。突然の死は、死ぬ本人にとってはそれほどでもないといいますから。むろん、あとに残された者のために、そういうことが起きないように祈りますがね。現場には、だれも助けてくれる人がいなかったのですか?」
「いいえ、だれも。父はひとりでした。わたしが行かないときは、いつもひとりで出かけましたの。いつものようにお弁当を持って行きましたので、夜になるまでわたしたちは心配しませんでした。でも、夜になり、やがて朝になっても、なんの消息もありません。やがて、ひとびとが山へ探しに行き、大騒ぎになりました。でも、捜索隊の中の三人が、ラ・スポルタ・デラキラと呼ばれている高い断崖の下で、父と馬の遺体を発見したのは、その翌日のことでした」
「だれもお父さまを救うことはできなかったのでしょうか?」
「いいえ。三百フィート以上のところから落ちたのですから」
「ほんとに心からご同情いたします。じつに悲しい出来事です。そういうときに、どなたかいいお友だちがそばにいて、助けてくださるとよかったんですがね」
彼女はなにもいわなかったが、リングローズにはその理由が推察できた。そのあとの出来事や失恋のことを考えて、自然と黙りこんでしまったのだろう。彼はまたこういった。
「すると、イタリアはあなたにとって、悲しみの土地なのですね。だからといって、イタリアを避けてはいけません。機会があれば、もう一度顔をつきあわせてみるのです。悲しみをもたらした土地が、やがてはしあわせをもたらしてくれる唯一の土地だとおわかりになるでしょう。自然は、その奥底に、男にも女にも、そういう謎をひめているのです」
ミルドレッドは彼の真剣さにほほえんだ。彼は相手が自分のいったことをよろこび、自分の友情が嘘《うそ》いつわりないと感じてくれていることを知った。じっさい、彼は心からこの少女に同情を寄せていた。
「イタリアへは毎年おじと行くのですけれど、あそこにはまいりません」と彼女はいった。「どうして行く気になれなくて。おじはフィレンツェに家を持っていて、イタリアを愛しています。わたしもイタリアではしあわせです。あそこには、わたしがいつも見に行く絵がありますから。アンドレア・デル・サルトの絵を見ると、母を思い出しますし、フラ・バルトロメオの死んだキリストの絵を見ていると、いつも大事な父の面影が浮んでまいります。でも、悲しくは、そう悲しくはなりません。あと一月か一月半したら、あちらへ行くことになっていますのよ。どなたかおじの知りあいが亡くなられて、売立てがあるので、なにか買うつもりらしいんです」
そのときブルック卿に出会ったので、リングローズは話をそらしてしまった。
もう昼食の時間で、やがてブルック卿は、今頃キャンベル夫人はゴルドーニのことでどう決めただろうかと、ユーモアたっぷりに推測をめぐらした。
「どうもあの人は頑《がん》としてわたしの申し出をはねつけそうな気がするね。絶対にまちがいない」
果たしてそのとおりだった。午後おそくみんなでお茶を飲んでいたときに、一歩もゆずらない電報が届き、一同はゴルドーニの持主がブルック卿の提案を断ったことを知った。
ブルック卿はしばらく考えていたが、それ以上の提案はしなかった。ついに、あと二時間でリングローズのブルック・ノートン滞在は終ることになり、やがてブルック卿はもうちょっと象牙細工のことを考えてみるといって自室にひきさがり、ミルドレッドとトレメインの二人は庭に出て行った。リングローズはのんびりしようと思い、すぐには出発の準備をしなかった。ここの召使が鞄《かばん》の荷造りをしてくれるはずであり、ブルック卿が戻って来るまでとくに考えることもないのだった。ブルック卿は二十分ほど考えさせてくれといったが、あの作品を失いたくないことは明らかだった。
その間、リングローズは、ビロードの台座に乗せたおびただしい宝物がおさめてある陳列室へまたひとりで行ってみた。最初見てはっとしたあの作品をもう一度見たいからだった。すぐに作品は見つかり、彼はべつのところで拡大された形でおなじみの、あのぞっとするような小さな悪魔をじっと見た。
少年を死に追いやったあの責め道具は、この象牙細工から霊感を得たことはまちがいなかった。おはじきの玉ほどの大きさに縮小されたこの怪物は、ベレアズ夫人の写生画や彼自身が使った恐ろしい人形の持つ大きさや色彩には欠けていたが、それらにはない毒々しさをもって、じっと彼を睨《にら》んでいた。悪魔が今以上に恐ろしく感じられた中世、天才的な芸術家が精魂をこめて、悪魔のイメージを象牙に吹きこんだのがこれだった。このぞっとするような怪物は、ルドヴィク・ビューズ少年の生命を滅した霊感の源を、絶望的な確実さで示しているのだった。
リングローズは、この象牙細工の持つ証拠品としての価値をただちにさとった。一瞬あの人形を焼きすてたことを後悔したが、それを証明する必要が起ったときは、ベレアズ夫人の写生画がまだ残っていることを思い出した。しかし、最近広い視野が開けてきて、大きな疑惑が彼の頭にとりついた。それは不合理ではなかったし、彼が確実に知ったことに照らしても、いっそう大きな恐るべき可能性をもたらしそうだった。今はただ重要だというのにとどまるが、やがてその仮説が立証された場合には、彼自身の行動範囲ははじめに予想していたよりはるかに広がらざるをえず、さらにくわしく過去のことを調査しなければならいようだった。
いずれにせよ、この新しい仮説は行動の機会を与えてくれたし、リングローズはなによりも行動の人だった。ルドヴィク少年殺害の件は、今では法的に立証することがきわめて困難で、その上、アーサー・ビットンに関する失敗が事件を複雑にし、成功の機会を少なくしてしまった。しかし、目下リングローズが考えていることが事実だとわかれば、そのほうがうまくゆきそうだった。だが、その可能性にしてもわずかなものであり、大して期待はできなかった。そんなことを考えながら、象牙細工のケースの上にかがみこんでいると、突然彼はどきりとさせられた。あとになるにつれて、その驚きは意味をましてきたのである。
だれかがそっと陳列室に入ってきて、リングローズを見守っていたのだった。だが、夢中で考えこんでいたリングローズは、耳もとで声がするまで気がつかなかった。彼はぱっと振り向いて、背を伸ばし、ブルック卿の顔を見た。ブルック卿はゴム靴をはいていて、一瞬忍び寄ったのかと思ったほどだった。だがこの若い貴族はリングローズが驚いているのを笑っただけだった。
「恐ろしい彫刻にひどく関心がおありのようですね、フォーダイスさん」と彼はいった。「じっさい、ぞっとするでしょう。当時の人間は悪魔の存在を信じていたんです。悪魔は民衆には善行へのはげましを、芸術家には喜びを与えましたからね。今では、強烈な恐ろしさを暗黒の帝王のイメージの中に盛りこめるような彫刻はひとりもいないでしょう。アレッツオの祭壇のスピネロの『魔王』はこの彫刻ほど醜悪ではありませんが、それでも魔王が画家のところへおしかけて、自分はこれほど醜悪ではないと抗議したという話です。今見ておられたそのグロテスクな怪物は、ドレスデンのバルテルの作品です。バルテルは動物の彫刻に秀でていて、悪魔の存在を信じていたようですね。じっさい、身の毛のよだつような作品でしょう?」
「そうですね――とくに右側のが」とリングローズはほんとうは関心がないほうの彫刻を指していった。そちらも邪悪そのもので、悪意にみちていたが、左側の悪魔ほどのいまわしさがなかった。
リングローズは元のブリッドポートの知りあいに会う危険は避けたかったので、町から数マイル先にある環状線と本線の連絡駅まで、自動車で送ってもらえないかと頼んであった。そうすれば、ウェーマス発ロンドン行きの急行に乗れることになる。彼はもう一度そのことをブルック卿にいってみた。
「ええ、そう手配してあります」と相手は答えた。「わざわざおい出いただいたのに申しわけありませんでしたね。わたしも大いに残念でした」
しかし、リングローズはブルック卿の微妙な変化に気がついた。彼ははじめてまじめになっていた。それがゴルドーニを買えなかった失望のせいなのか、それとも、なにかもっと深い原因で口調が変ったのか、そこのところはリングローズにもわからなかった。だが、たちまち影は消え、ブルック卿はいつものようにしゃべりはじめた。しかし、心配な事実は依然として残っていた。なぜならば、ブルック卿にとって恐るべき意味を持つ彫刻に、自分が関心を寄せていることを見られてしまったのだから。
「象牙細工をお買いになるつもりはないんでしょう、男爵?」
「今でもまだ決心がつきかねているのです。ひどく欲しいんだがべらぼうに高くてね」
「ご希望にそえるといいんですが。ずいぶんいい値をおつけになったと思います。しかし、あのばあさん、てこでも動きそうにありませんね。じつは、わたしも驚いているんです。今困っているわけではないにしても、決してゆたかとはいえませんからね」
「わたしのほうは、いつでもよろしいですよ」
二人はあたりさわりのないことを話しながら陳列室を離れ、リングローズは親切にもてなしてもらった礼をくりかえし述べた。
やがて、出発の時がきて、彼を駅まで連れてゆくはずの大型の自動車が玄関に横づけになった。五分ほど待つようにいいつけて、ブルック卿は姿を消し、リングローズはミルドレッドやトレメインとしゃべっていた。やがて、意外なことが起きた。ブルック卿が一枚の紙を持って引き返してきたからだ。
「さあ、男は度胸だ。キャンベルばあさんなんかくたばってしまえ!」そういいながら、彼はリングローズに千ポンドの小切手を手渡した。リングローズもカラカラと笑って、胸ポケットに入っていた象牙細工を取り出した。やがて主《あるじ》は彼と握手して、別れの挨拶《あいさつ》をかわした。
二人は一瞬見つめあったが、ブルック卿の陽気な表情と冗談たっぷりの言葉の背後には、疑問と、疑いと、挑戦がひそんでいるように思われた。リングローズはそれを読みとり、感じとった。
「さようなら、フォーダイスさん。この広い空の下で、またお会いできるといいですね」
ブルック卿はにこにこしてそういい、リングローズもその好意的な言葉に感謝して、ぜひそう願いたいものですといった。丁寧な別れの挨拶の底に多くの意味が隠されているのを彼は感じたが、それがどういう性格かはただ憶測《おくそく》できるだけだった。一時間後、ロンドン行きの汽車に乗りながら、彼は先ほどの事態を考えてみた。
二つの事実が眼の前にあって、そのひとつは他方から生じたことを知っていた。第一の事実は、彼が陳列室でバルテルの彫刻を眺めていてどきりとさせられたときに起きたのだ。あの瞬間から、ブルック卿は微妙に変った――もっとも、愛想のいい態度は変らなかったが、その背後にある精神が変ったようだった。リングローズは、自分があの恐ろしい彫刻に関心を示したのがブルック卿の心に深い印象を与えたことを理解した。礼儀正しい無関心さや率直さのうしろから、たしかにあの青年は別の感情を示していた。あるいは、それは無意識のものだったかもしれない。なぜなら、それはほとんどの人間が気づかないほどのかすかな心理的身振りだったから。じっさい、当のブルック卿でさえ気がついていなかっただろうとリングローズは思った。気づいていたら、あの男が自分の感情をあらわすはずがない。だが、あの瞬間から、この愛想のいいセールスマンについての疑惑と疑問がブルック卿の心をおおっていたのだ。彼が自らの判断に不安が生じたことを隠せなかったのは、相手がそういうこともあろうかと熱心に注目していたからだった。バルテルの彫刻が持主にとってなにを意味するかをリングローズは知り抜いていた。あの恐ろしいものから霊感を得て、ブルック卿は幼い頭を破滅させるに足る化け物を作りあげた。そうして、何年も無事に過ぎたあとで、突然、今、見知らぬ男がその原型となった彫刻を一心に注目しているのを発見する――これはこの悪人を恐れさせないとしても、考えこませたのは当然ではなかろうか。
ブルック卿はアーサー・ビットンが死んだこと――それも、奇妙な事情で自殺したこと――を知っているはずだ。当然深い関心を持ち、ほっと安心しただろう。手先になった人間がいなくなることは、満足であるにちがいない。だが、同時に、その死をめぐる謎に関連して、くわしい事情を知りたいという強い気持もめざめたにちがいない。そうとすれば、ブルック卿がわかりやすいルートから調べようとして、ジェイン・ビットンからきき出せるかぎりのことを知ろうとしたことは充分ありうるではないか。
では、ビットンの妻はなにを話したか。彼女は健全な、良識的な女であり、夫を失った悲しみのさなかでさえ、夫が次第に堕落《だらく》して、快活さや満足感を失ってみじめになり、夜を恐れ、いろいろな恐怖感を訴えたことを、筋道を立てて語ることができただろう。彼女の心には、さまざまな事柄がはっきりと刻みこまれていたにちがいない。それらの事柄は鮮明で、忘れようのないほど連続して起きたのだから。そうして、その中から、どんなに簡単に語っても、絶対にアレック・ウェストという名を省くことはできないだろう。彼女の夫の破滅と死は、その男の出現と一致しており、しかもビットンの自殺のあと、その未知の男は突然消えてしまったのだ。ビットンの妻から、ブルック卿はアレック・ウェストがどんな男だか知ったろうし、ウェストといたときにビットンが最初の病気をおこしたこと、二度目も彼の下宿でだったこと、妻が家をあけていたときにビットンが自殺したことも聞き出しただろう。また、ウェストがおくやみにやって来て、その後どこかへ姿を消してしまったことも聞いたにちがいない。
リングローズは今までそういう可能性を充分考えたことがなかったし、ブルック・ノートン訪問にあたっても、少なくともその訪問が何時間にもわたることを知っていながら、変装する努力をまったくしなかった。少しは修正を施したが、やはり元の彼のままだった――屈託のない愛想のいい人間で、人にどう扱われようとも平気だが、どんな階級の者とでも友だちになれるという自らの能力を意識した人間だった。彼はなじみのない人たちにも巧みに自分を適応させ、いつものように好印象を与えたのだった。だが、もしブルック卿がビットンの妻に、夫の死とふしぎなほどかかわりのある男のことをたずねてみたならば、きっと彼女は「ノーマン・フォーダイス」をたやすく連想できるような男のことを述べたにちがいない。彼は身なりを変え、アレック・ウェスト当時の短い頬《ほお》ひげは剃《そ》り落していた。だが、ビットンとつきあっていた頃の丁重でうやうやしい物腰が欠けているのを除いては、彼はビットンにも男爵にも同じように振舞い、ただ相手によってものの言い方や動作を変えただけだった。
むろん、象牙細工の一件までは、ブルック卿がビットンの知りあいの「アレック・ウェスト」と彼を結びつけることはむりである。だが、あれほど回転の速い観察力の鋭い人物のことだから、彼があの彫刻――ブルック卿にとって、あの彫刻はなんと多くのことを意味することか――に関心を持っているのを見て不審をおぼえ、その不審がビットンの死をめぐるいきさつと結びついて疑惑に変るということは、今やリングローズにも察せられた。しかし、そういう疑惑がじっさいにめばえたと思われるような、なにか確実な根拠があっただろうか。陳列室での一件以来、そういった危険を示しているような証拠を、ほんとうに指摘できるのか。そうだ、指摘できる。そう確信すると、ブルック・ノートンを去るときの、ブルック卿の二度目のきわめて意味ありげな行動がくっきりと浮んできた。あの蒐集《しゅうしゅう》家はキャンベル夫人の象牙細工に要求どおりの金額は出さない決心でいた。夫人が気持を変えればいつでも取引きするつもりだったが、今のところゴルドーニに千ポンド払う気持は明らかに持っていなかった。それが最後の瞬間に気が変り、小切手を書いたのだ。
たしかに、まけさせられるかと思ってブルック卿が買取りをひかえていたという可能性はあるだろう。だが考えてみると、リングローズは持主ではなく、値段をまける力はないというわけで、その機会がなくなったのかもしれない。なぜ気が変ったのだろうと考えているうちに、リングローズはその理由がわかったように思った。
あの象牙細工を買いとったことによって、ブルック卿はノーマン・フォーダイスと永遠に手を切ったのだ。こうして、あのセールスマンはブルック卿の世界から永久に姿を消し、二度とやってくることはないだろう。もし買いとらなかったら、またフォーダイスがあらわれて、取引きをねばり、つきあいつづけたろう。だが、今ではそれも不可能になり、もしフォーダイスが卿の生活の中にまたあらわれたとしたら、キャンベル夫人の象牙細工を売る以上のもっと深い理由があるからだとわかるだろう。
こうした考えがブルック卿の心をよぎったのだとすると、疑惑がめざめていたことはまちがいない。ブルック卿は警戒をおこたらず、リングローズが少しでも姿をあらわせば、すぐに用心するにちがいない。リングローズは現実主義者であり、彼のような職業に従事している者たちには、現実がすこぶるきびしい制限を課することをわきまえていた。ブルック卿ほどの明らかに有能な、抜け目のない男の眼をごまかすように変装をすることは、とてもできない相談である。密偵がいろいろに変装して相手を混乱させるなどということは、小説だけのことである。リングローズは相手とまじかに接し、話したりしている以上、今度会うときに、変装してブルック卿をだますことが不可能なのは火を見るより明らかだった。もし会うとしたら、もう一度「ノーマン・フォーダイス」として会うほかはない。だが、もう一度会う必要があるかどうかはこれからの問題だった。しかし、心の底では、もう一度会うだろうと承知していた。おそらく、それも彼が目的を達するずっと前に。だが、まずほかの問題を調べなければならなかったので、今はそちらに捜査を集中することにした。彼は将来のある時までは完全に過去のことに専念し、そのあとのことには、もはや考えを注がなかった。
リングローズの決心は少しも変らなかった――大悪人をこらしめるという決心は。
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第十三章 コンシダイン医師
十日後、リングローズはイタリアへの旅についた。仕事と楽しみをかねられる旅はこれまであまりなかったが、今やその機会が与えられ、彼は過去のある事件をその舞台となった風光|明媚《めいび》な地で調べようと思っていた。ミルドレッド・ビューズと婚約し、その後心変りして、金持ちのアメリカ人と結婚した医者からは大して聞けるとも思っていなかった。にもかかわらず、その医者がまだメナジオで開業していることはちゃんときいておいた。というのは、その田舎町のラリオ・ホテルに部屋をとったときに、イギリス人の医者にみてもらえるかとたずね、ロンドン出身のアーネスト・コンシダインという医者がここのホテルのかかりつけだと教わったからである。
リングローズはイタリアの湖をよく知っており、かつてある重大な事件でマジョーレに一月も過ごさせられ、コモにも行ったことをよくおぼえていた。そこで、ルガーノへはサン・ゴタルド・トンネルを抜けてゆき、同地に二日間静養し、近くの景色のよいところを再訪したあと、やがて汽船と汽車に乗ってメナジオで彼を待ち受けている快適なホテルに向った。ノーマン・フォーダイスという名前で泊まったのだが、自分以外にも少なからぬイギリス人が湖や、ホテルの上にひろがっている山麓の台地にあるゴルフ場で遊んでいた。
しかし、着いた日の翌朝、彼は少し風邪《かぜ》ぎみだからといって部屋に閉じこもり、医者を呼んだ。じっさいはしごく健康だったが、仕事をはじめるには、これがいちばん簡単でてっとり早いと思ったのだ。彼は人に会う前に、相手の人柄とか様子を想像して時間を浪費するようなことは決してしなかった。だが、人はだれしもこれから会うことになる人間について無意識になんらかのイメージを作りあげているものだ。ところが、その医者の風采はリングローズが抱いただろうイメージとは似ても似つかなかった。
あらわれたのは、顔が南国の太陽に日焼けした、背の高い金髪の男だった。ほっそりした優雅なつくりで、手も華奢《きゃしゃ》だった。透んだ青い眼と琥珀《こはく》色の短い口ひげが彼をきわだたせ、声は太いが、やわらかい気持のいい響きをおびていた。態度は陰気というのではなかったが、控えめだった。洗練された育ちのよさが備っており、物腰は丁寧でおだやかだが、どこか年に似ぬもの憂げさがあるのにリングローズは気がついた。年は三十五くらいにしか見えなかったし、それに三十五になっているかどうかも疑わしく見えたからである。表情は率直で、しゃべっているときは眼が輝いたが、われを忘れるようなことはなく、ほほえんでも決して声に出して笑うことはしなかった。みなりはダークグレイの背広に、黒のネクタイをしめていた。彼はリングローズがあれこれと嘘《うそ》の痛みや心配を訴えるのに耳を傾け、脈をとり、打診をし、熱をはかっていたが、やがて、こういって安心させた。
「ご心配には及びません。おそらく軽い筋肉のリューマチでしょう。二十四時間もすればよくなりますよ。ご希望なら、あさってまた診てあげましょう。しかし、その必要もありますまい。庭に出て、お昼が食べられるように食欲をつけることですね、フォーダイスさん」
二人はおしゃべりし、リングローズは純情そうな好感の持てる男だと思った。じっさい、この医者と患者は似合いの相手だった。
「もしかしたら、金銀地金商のコンシダイン・アンド・プロセロとご関係はありませんか?」とリングローズはでたらめな会社の名を挙げ、愛想よくきいてみた。青年は首を振った。
「そんな大げさなものとはなんの関係もありませんよ。わたしはダービシャーの生まれです」
「でも旧家のお生まれでしょう?」とリングローズはある方向へ質問をもってゆこうとした。
「旧家すぎて滅びかかっているところですよ」と医師は答えた。「今では生き残っている者はほとんどいませんね。わたしにはなんの近親もいないのです」
「では、家運を挽回し、次の世代の面倒を見なくてはいけないわけですね」とリングローズは快活にいってみた。どこも悪くないと医者にいわれてほっとした感じを出そうとしたのだった。ところが、彼の軽口は話をうちきらせ、相手の顔を曇らせることになってしまった。
「わたしは結婚しないつもりです」と医者は静かに答え、手を差し出した。
「では失礼します。きっとイタリアの太陽がなによりの薬でしょう。ですが、近いうちまたお目にかかれるでしょう。わたしはこのホテルで食事をとりますし、家もわずか百ヤードのところにありますから。シーズン中はここで開業し、六週間後には北のニクスへ移ります」
「どうもありがとうございました。お目にかかれてしあわせです。ひとりぼっちの人間をあわれに思って、ときどきお相手をしてくださるとありがたいのですがね」
「ええ、よろこんで」と医者は答え、行ってしまった。十分後、リングローズは新しいパナマ帽をかぶり、庭を見渡す大きな松の木の下で、葉巻をふかしながらすわっていた。いつものように彼はすばやく考えを整理し、ブルック・ノートンでコンシダイン医師について集めた若干の情報を吟味した。
「あの医者は、先のブルック卿の死後、ミス・ビューズをすてて、金持のアメリカ女と結婚したと聞いたが、その情報の出所はだれだったろう?」とリングローズは自問した。
「そうだ、ニコラス・トレメイン青年に聞いたのだ。トレメインはあの娘のおじのブルック卿から聞いたのだ。そして、ブルック卿はべつのだれかから聞いたのかもしれない。いや、事実とちがっているのだから、そんなことはなさそうだ。それとも、あの男がでっちあげたことなのか。そのほうが、ずっとありうることだ」
その後一、二日のあいだは、偶然医者と出会っても、リングローズはただ挨拶するだけにしておいた。彼はもとどおり元気になったといいふらし、二、三の年輩の泊まり客と知りあいになった。アーネスト・コンシダインはなかなかの評判だった。日中は診察に追われ、簡単に昼食をすませていたが、彼はたいてい泊まり客のだれかれの一行と食事をともにし、山や湖に出かけて休暇を楽しもうとしている者たちには、いつでも道を教えたり、必要な情報を与えて助けてやっていた。
やがてリングローズも医者を晩餐《ばんさん》に招待し、大盤振舞いをしたあとで、散歩に誘ってみた。日中は非常に暑かったが、夜になって涼しくなり、庭や湖畔には蛍《ほたる》が飛んでいた。頭上には稲妻が光り、山々の上でかすかに雷の音がした。べつの筋から、リングローズは湖水から百五十フィート上にある立派な別荘が、現在はイタリア人の持物だが、かつては前のブルック卿のものだったことをたしかめておいた。彼はその方向に足を進め、あかあかと灯のともった別荘が眼に入ると、それを指さし、昼間散歩していたときにすっかり感心したといった。下の森の中の、石だたみの道が交叉《こうさ》しているところに小さな社があり、二人はそこに腰かけて葉巻をふかしながら、稲妻を眺めていた。その間、リングローズは別荘をほめそやした。
あまり彼が感心しているので、医師もついつりこまれた。じっさいコンシダインは別荘には関心なさそうだったが、とうとうまんまと話にのってきた。
「あのすてきな家はどなたのですか?」とリングローズはさんざんほめてから、きいてみた。
「バロット伯爵のですよ」
「やはり先生の患者さんで?」
「そうです。珍しいほどいい方でしてね。奥さんと六人のお子さんがいっしょです」
「もちろん、父親から子供へ渡ってきた家なんでしょうね」?
「いいえ、サン・マルティーノ荘は二年前に持主が替ったばかりです。もとの持主はイギリス人でした――ブルック卿といって」
ついに機会が訪れた。
「ブルック卿ですって!」とリングローズは叫んだ。「あの象牙気狂いの?」
「いや、その方が兄さんの死後別荘を始末されたのです」
「変り者も大勢いるが、あの青年くらい風変りな人は珍しいですね」とリングローズはいい、暗闇《くらやみ》の中で、コンシダインが興味をおぼえたのを感じとった。
「あの方を知っているのですか、フォーダイスさん?」と医者はきいてきた。
「知っているとも、いないともいえますね。もちろん、身分がちがいますからね。しかし、以前もてなしていただいて、二日間泊めていただいたことがあるのです。そう昔のことじゃありません。なぜかとお思いでしょう。よかったら、そのわけをお話しましょう。あの方をご存知でしょう?」
「知っていますとも。お兄さんが亡くなられたときに、バーゴイン・ビューズ氏――当時はまだそうでした――は、ここにしばらく滞在して、後始末をされましたからね」
リングローズは話しはじめたが、ノーマン・フォーダイスとして話し、ゴルドーニの象牙細工のことだけを物語った。彼はブルック・ノートンを訪問した際のユーモラスな体験を中心に、おもしろおかしく語った。ミルドレッドのことは、デリケートな問題だけになにもふれないことにした。コンシダイン自身が彼女の悲恋の相手だったからだ。そのかわり、ブルック卿の風変りな性格や、ニコラス・トレメインのこと、ブルック卿がとうとう最後に象牙細工を買う決心をしたことなどを物語った。コンシダインは黙って聞いていたが、話が終ったとき、なにげないふうでリングローズはミルドレッドのことにふれた。
「お邸《やしき》にはすてきなお嬢さんがおいででした。さっきの話とはべつに関係ありませんが、とても親切にしてくださって。ミルドレッド・ビューズというお名前ですが、ブルック卿の姪《めい》ごさんでしょうね?」
「ええ、前のブルック卿のお嬢さんです」
そこで、リングローズはぐっと話をおし進めた。
「わたしは人のことにおせっかいをするような人間ではありませんし、トレメインさんの話だと、なにかデリケートな問題のようですがね。しかし、先生、わたしは人の噂《うわさ》話をもとにしないで、その本人をもとに人間を判断することにしているのです。一方的な話では当てになりませんのでね」
「いったい、なにをいいたいのですか、フォーダイスさん?」
「では、ミルドレッドさんをご存知でしょう?」
「むろん知っていますとも!」
溜息《ためいき》をおし殺したような声がもれ、コンシダインは葉巻を投げすてた。
「あの家の人は全部知っていました」と彼は静かにいった。「わたしはかかりつけの医者で、奥さんがご病気のときは、最後まで看病したのです。前のブルック卿とはごく親しくしていただき、すっかり信頼されていましたよ。まったく立派な方でした、フォーダイスさん」
「弟さんと似たところは?」
「いいえ、どこも。今のブルック卿ほどきれる頭ではありませんが、千倍も立派な方だと思っています」
「似ていないんですね?」
「容貌《ようぼう》も考え方もまるでちがっていましたよ。しかし、この上なくやさしいお兄さんでした。堂々たる体格で、運動好きで、無類の力持ちでした。戦争中はスコットランド近衛連隊の一員として戦われ、武功をたてられたくらいです。太っ腹の、寛大な方で、この辺の人たちからも尊敬されていましたね。あの別荘は、最初は借りていて、そのあと買われたわけですが、奥さんがどこよりもメナジオが気に入ったからだということです。献身的に奥さんにつくされ、あれほどの愛妻家は見たことがありません。奥さんが亡くなると、あの方の人生も終ったようなものでしてね。ある意味では、いっしょに亡くなられたも同然でしょう」
「じきにお亡くなりになったのですか?」
「ええ、二年とたたないうちに」
「ミルドレッドさんとおしゃべりをしていたときに――お嬢さんはわたしを気に入ってくださったようですし、わたしもあの方の美しさとか、やさしさに非常に感心しましたが――弟さんのことが話に出ましてね、その方も亡くなられたということですが」
「ええ、ルドヴィク少年も。お父さんが亡くなられてわずか一年あとに」
「家族を全部もぎとられるなんて――さぞや悲しいことだったでしょうねえ」
「そうですね」
「煙草をいかがです」とリングローズはいった。「どうも今の話に関心があるんです。率直にいって、ミルドレッドさんのことが気になってしかたがありません。おじさんを愛してはいらっしゃるが、しあわせそうには見えませんでしたからね。まあ、葉巻でもやって、おつきあい願いますよ」
コンシダインはケースから機械的に一本取り、リングローズは火をつけてやりながら話しつづけた。
「わたしは偶然というものを大いに信じていましてね、先生。わたしの経験では、偶然というものが人間の事柄に大変好意的に働くのです。偶然の気まぐれとか残酷さとかよくいいますがね、偶然がやさしい天使だった例もたくさんありますよ」
「ギリシア人も偶然を女神にしていますからね。しかし、いったいなにをおっしゃりたいのです、フォーダイスさん?」
「きわめて微妙な問題でしてね。しかし、もしおいやなら、やめますよ。ただ、もうご存知かどうか知りませんが、お話したいことがあるのです。わたしはお嬢さんの憂うつそうなのに心うたれ、先ほどお話したトレメインという青年がお嬢さんを深く思っていることもすぐわかりました。じっさい、その人自身隠そうとしないのです。大変育ちのいいイギリスの青年で、充分常識もあり、もったいぶったところのない人でした。その青年にお嬢さんはなぜ悲しそうなのか思いきってきいてみると、さっきうかがったような一家の様子を話してくれたのです。しかし、それだけではない、もっとべつのことも教えてくれました。話をつづけてもかまいませんか?」
「ええ、どうぞ」
「また葉巻の火が消えていますよ。トレメインさんがブルック卿から聞いたところだと、コモ湖のほとりにある人間が――はっきりいうと医者ですが――ミルドレッドさんの愛を獲得しておきながら、お父さんが亡くなると、あの人を袖《そで》にしたというのです。それはほんとうですか?」
「ほんとうですって! まったくけしからん!」コンシダインははっとして、叫んだ。「ブルック卿からそう聞いたというのですね?」
「ええ、ブルック卿から。その不実な男はだれですか? たぶんお父さんが亡くなって、見込みが狂ったので逃げだしたのだと思いますが」
コンシダインはすぐには答えなかった。社《やしろ》の下のベンチからさっと立ち上がると、しばらく足早に行ったり来たりした。ひどく動揺しているふうだった。空一面にひろがった稲妻の光の中で、ちらと浮び上がったその顔には、烈しい混乱と激情と苦痛があらわれていた。リングローズは黙ったままだった。やがてコンシダイン医師は彼のそばへ戻って来た。
そこで、リングローズはまた口をきいた。
「もしわたしがあなたの気持を傷つけたり、いやな思い出をよみがえらせたりしているのなら、どうか率直にそういってくれませんか。まさかあなたがこの話に関係があるとは考えてもみなかったのです。ただ偶然聞いた名前からその話を思い出し、あなたならその男をご存知かもしれない、なにかいい方法があるかもしれないとふと思いましたのでね」
「その男がだれかわたしはよく知っています」と相手は、深い感情をはっきり声にあらわして答えた。「それというのも、フォーダイスさん、わたし自身がその男だからです。わたしはミルドレッド・ビューズと婚約しましたが、お父さんの死後イギリスへ帰ったきり婚約を破ったのは彼女のほうなのです」
「この問題はわたしにまかせてくれませんか、先生?」とリングローズはいった。「これにはなにか神の意志が働いているらしい。わたしは世の中で苦労してきた人間で、ぜひお力になってさしあげたい。いつかお話しますが、わたしは決して人助けだけでこんなことをいっているのではありません。ただ、あなたとお嬢さんのためを思っていることはたしかです。わたしを信用してくれませんか?」
「それは、もちろん。しかし――」
「どういう事情かありのままに話してくれませんか。だが、その前に率直に申しあげておきますが、ミルドレッドさんはあなたにすてられたという印象を持っていらっしゃる。あなたのほうも、自分が被害者だと思っておられるようですね。もしわたしの力を借りるのがおいやでなければ、ひとつくわしく話してもらえませんか」
「あなたのお話がほんとうだとすると、わたしは自分でやるべきだと思いますよ、フォーダイスさん」
この言葉は烈しい決意と断固たる戦闘的な響きをおびていた。コンシダインは眉《まゆ》をひそめ、まる一分のあいだ黙りこみ、連れのいることを忘れてしまったかに見えた。やがて、リングローズのほうに向き直り、「どうも腹黒い動きがあるように見えますね」といった。
「たぶんそうでしょう。しかし、結論を早まってはいけません。こちらの推測もつかないようなわけがあるのかもしれませんからね。女というものは気が変り、ときどき手おくれになってから後悔するものです。わたし自身あなたのいうとおりだと思いますし、あなたもミルドレッドさんも念入りに仕組まれた妨害の犠牲者だと信じています。もっとも、はっきりしたことはわかりません。だから、わたしにお手伝いさせてください。むろん、助けがいるかどうかそれをお決めになるのはあなた自身です。わたしの助けを求めるつもりなら、まず第一に、お二人のあいだがひきさかれるまでのいきさつを正確に話してほしいのです。むろん、お気が向いたらの話ですが。でも、わたしは今までお話した以上のことも知っていますし、それに、三人よれば文珠の知恵とかいう言葉もありますよ」
コンシダインはしばらく考えこんでいたが、やがて賢明な決心をした。
「あなたを味方だと思わずにはいられないようですね」と彼はいった。「あなたのことはなにも知りませんが、ミルドレッドさんに好意を持っておられることはわかります。それがなにより大事なことなのです。それに、あの人に好意を持たない人なんていないでしょう。いきさつは二分もあれば語れるくらいです。ミルドレッドさんは、お父さんの悲劇的な死から六週間後に、弟さんやおじさんといっしょにここを去りました。一年後にイギリスで結婚しようと約束して。一度あの人から愛情にみちた手紙がきましたが、それきりでした。
わたしは何回も手紙を出しましたが、なんの返事もありません。そこで、あの人のおじさんがブルック・ノートンにいるのかと思って、直接ブルック卿に手紙を出しました。ところが、そこにはいず、二人ともフィレンツェの別荘にいることがわかりました。わたしの手紙はそちらに転送され、ブルック卿のほうからわたしに会いにやって来ました。ここにある兄さんの別荘を処分するために、ラリオ・ホテルに三日間滞在していたのです。ブルック卿は、ミルドレッドは気が変ったのだといい、年も若いことだから父親の死で気持が動揺し、過去を思い出させるようなこととはいっさい手を切って、新しく人生をやり直したがっているといいました。いわれてみれば、無理からぬ点もあります。ブルック卿は――当時はまだバーゴイン・ビューズでしたが――すこぶる親切な態度をとり、できるかぎりおだやかに、いんぎんにわたしにあの人をあきらめさせたのです。自分はほんとに残念でたまらない、ミルドレッドにも誤ったことをしないように口をすっぱくして説いたのに、じっさい自分はこの結婚を望んでいる、あなたとならあの子もしあわせになると信じているのだが……云々《うんぬん》。わたしはあの男に好意をおぼえ、心から同情してくれてありがたいと思ったくらいでした。すっかりあの男を信じてしまったのです。信じないわけにはいかないじゃありませんか。しかし、今ではあいつの首をちょん切ってやりたいくらいですよ、フォーダイスさん」
「無理もありません、先生。いずれそうなる時もくるでしょう。わたしは、少なくともひとつは、あの男をどきりとさせるネタを持っていると思います。しかし、あなたも慎重第一に行動してください。なにしろ向うは非常に悪賢い男ですし、あなたとミルドレッドさんとの結婚を望んでいないとすると――それはもう充分に明らかですが――お二人の恋の道は決して平坦ではありますまい。わたしのいうことを信用してくださいますね?」
「それはもちろん。しかし、くりかえしていいますが、これはわたし自身を信頼するかどうかの問題ですからね」
「それはミルドレッドさんを信頼するかどうかの問題でもありますよ。まずあの方のことを考えなければいけません。いろいろなことがあの方に起っているのです。われわれはあなたの希望どおり迅速に行動しなくてはならないが、そのうちわたしが決してのろまでないことが、おわかりになるでしょう。さあ、わたしを信頼してくださったものとして、その信頼を示すつもりで、もう話を変えて、ホテルへ戻ってくれませんか。ずいぶん冷えてきたし、あの雲の様子では雨がきそうですから。往診に行くのは何時からですか?」
「九時からです」
「それでは、明日七時半にお宅で朝御飯をご馳走になりながら相談することにしましょう」
「そう願えればありがたいですね」
「それまではなにもしないでくれますね?」
「ええ、約束します」
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第十四章 山上にて
翌朝リングローズは定刻どおりコンシダインを訪れ、オムレツととびきり上等のコーヒーの食事をすませてから、質問にとりかかった。
「その眼の様子では昨夜は眠っていませんね。それに、ひげを剃ったときに傷をしていらっしゃる。まあ、そう焦《あせ》らないでください。まず、お友だちだった前のブルック卿について、若干教えてほしいのです。あなたに関心のある問題は、そのあとで話しましょう。さしあたり、その問題は扱わないことにします。昨夜、あなたはブルック卿の死について、トレメインさんがいったのと同じことをおっしゃった。『悲劇的』という言葉をね。どういう点で悲劇的だったのか話してくれませんか?」
「ブルック卿はいつものように馬に乗って山へ出かけられたまま、二度と帰って来られなかったのです。乗馬の名人で、奥さんの死後、馬に乗っているときだけ気がまぎれると、わたしに打ち明けられたこともありました。愛馬はインドで手に入れた、年はとっているけれど脚の丈夫な、すばらしい馬でした。コモとルガーノのあいだにあるガルビガ山のふもとに、ラ・スポルタ・デラキラというところがありまして、ざっと訳すと『鷲の食料室』という意味ですが、そこは両側に断崖のある、そびえ立った狭い高台です。そこの北側の端に、あの方と馬の遺体が見つかったのです。馬もろとも断崖から落ちたのですね」
「乗馬の名人にしては、ふしぎな事故ですな。きっとなにかに馬がおびえたのでしょうね?」
「馬がおどろいて、狭い尾根を駆けだしたのでしょう。むろん、確実に死にますよ。しかし、ごく内密の話ですがね、フォーダイスさん――真相はちがうのです。つまり、ほんとうは『事故』ではないのです。わたしの友だちの死因は、自殺でした」
リングローズは首をうなだれた。
「では、悲劇というのはそのことですか?」
「そうです。しかし、そのことは絶対に口外しないように願います。いろいろ理由がありますから。このことを知っている者はほとんどいませんし、警察やお子さんたちにも真相を隠してあります。あの方の弟さんが来る前に、わたしが自分の責任でそうはからい、弟さんも賛成してくれました」
「くわしいことを話してください」
「『鷲の食料室』の下のところで三人が遺体を見つけましたが、たまたまわたしもそのひとりでした。ブルック卿が馬に乗ったまま落ちたことは疑う余地がありませんでした。人も馬も三百フィート下に横たわっていましたが、頂上には格闘した形跡は見られませんでした。芝草や土に馬の落ちたときの足跡がついていて、それだけでした。崖のふちから五十ヤード離れたウルシの茂みの下に、あの方のお弁当が入ったバスケットが――いつも馬で出かけられるとき軽食を入れて行かれる小さな柳細工のですが――ありました。馬から降りて、葉巻を吸われたらしく、現場に吸いさしが見つかりました。しかし、昼食は手つかずのままでしたが」
「現場はくわしく調べましたか?」
「崖の上も下も、念には念を入れて。自殺だということを知っているのは三人だけでした。わたしと、ホテルの泊まり客で、捜索を応援してくれた二人の青年と。三人でいっしょに遺体を見つけたので、そのことを口外しないように約束させました。あるいはわたしのやり方はまちがいだったかもしれませんが、とにかくそうしたのです、フォーダイスさん」
「なぜ、そうしたのですか?」
「残されたお子さんのためを思って。理由はそれだけです。二人とも感受性が鋭くて、父親を深く愛しており、幼い弟のほうでさえ、母親が亡くなって父親が生きる希望をいっさい失ったことを気づいているようでした。二人は精一杯父親を慰めようとつとめ、じっさい、それに成功したのです。ブルック卿は子供を深く愛しており、とくに男の子のほうをかわいがっていました。母親そっくりの子でしたからね。母親ゆずりの美貌《びぼう》で、興奮しやすいところも似ていましたよ」
「子供さんたちのことはあとで話しましょう。わたしも大いに関心があるのです。それはともかく、ブルック卿が自殺したと知ったときのお気持はどうでした? さぞかし、びっくりしたでしょう?」
「ええ、一瞬|呆然《ぼうぜん》としましたね。じっさい、あの証拠が眼の前になかったなら、とても信じられなかったにちがいありません。奥さんを失った直後なら、あるいはそういうこともおこりえたでしょう。しかし、それでもブルック卿のような人が、ああいう卑怯《ひきょう》なやり方で苦しみに負けてしまうとは意外に思われたでしょう。それに、もう二年もたっていて、いっこうに悲しみが減らないとよくわたしにおっしゃってはいましたが、ちゃんと自分をおさえておられたのですからね。非常に自制心の強い方でした。子供さんのこともあり、ことに息子さんの将来のことをずいぶん心配しておられました。息子さんを見るにつけ、すぐ奥さんのことを思い出し、ルドーを将来こうしたいが、家内がいたらよろこんでくれただろうかと、よく自問自答し、わたしにもおたずねでしたっけ」
「すると、その恐ろしい出来事が起きたとき、あなたはすっかり驚いてしまったわけですね?」
「ええ、驚きもし、途方に暮れもしましたが、結局自分にこういい聞かせたのです。つまり、自殺しようという考えが前から心のどこかにあって、ふっと気が弱くなった瞬間に危険な崖にひとりでいたので、自殺する気になられたのではあるまいか。わたしは二人の青年に重要な証拠のことは口外しないように約束させましたが、二人ともいい青年で、よく事情を呑みこんで約束を果してくれました。ですから、検死尋問も慣例どおりにおこなわれただけで、みんなブルック卿は事故死だと信じているし、これからもずっとそうでしょう」
「自殺だという証拠のことは、ほかの人間にはだれも話していませんか?」
「ひとりにだけはね。向うもわたしのやり方をほめ、秘密を守ってくれています。現在のブルック卿ですよ。あの人には話すべきだと思ったものですから。ときには話さなければよかったと思いますが、とにかくそうしてしまったのです」
「そうするのが当然でしょう。お二人の兄弟仲はよかったのですか?」
「ええ、無類に。バーゴイン・ビューズはわたしの説明を聞いて、すっかりとり乱していました。じっさい、いい兄さんでしたよ、ブルック卿は。わたしはあの方とごく親しかった関係で、弟さんの気ままな行動のことはしじゅう聞かされていましてね。バーゴインはただ象牙細工のためにだけ生きているような男で、たえず金のことでごたごたをおこしていましたよ。すると、どこかへ姿をくらまして、兄さんのところへ無心に来るのです。無駄足を踏んだことは一度もなく、弟おもいのブルック卿は、いつもお金を渡していました。バーゴイン・ビューズもその恩を忘れず、兄さんが亡くなったときは、精一杯面倒を見たのです」
「どんなことをしたのですか?」
「遺言執行人のひとりになったり、いっさいの後始末を引き受けたり。とりわけ、二人の子供にはこの上なく親切でした――女のようにやさしくね」
「バーゴイン・ビューズに好感を持ったのですね?」
「ええ、好感以上でした。昨夜かげにまわってなにをしていたか、あなたから伺うまでは、あれほどやさしい立派な人間はいないと思っていたぐらいです。非常に魅力のある人間で、だれからも好かれていました。兄さんを失ったときのあの人の悲しみが本物だったことは、保証しますよ」
「事件が起きたとき、バーゴインはあなたの電報を見て駆けつけてきたのですか?」
「そうです。古くからいる召使もいっしょでした。ウィリアム・ロックリーといって、ルドヴィク少年もよく知っています。ロックリーはブルック・ノートンの人間で、ブルック家の子供たちも小さいときから知っていました。ブルック卿がここに定住するようになったとき、ロックリーはもう年をとっていましたが、フィレンツェのバーゴインのところへ行き、アルノ河のほとりにあるピア荘の別荘番をすることになりました。今でもそこにいるかもしれません。そこで、バーゴインも当分ルドー少年のお相手を勤めさせようと思って、ロックリーをメナジオに連れてきたのです。バーゴイン自身の従僕も来ました――アーサー・ビットンという名前の。やがて、万事必要な手続きもすみ、バーゴインは遺体を持ってイギリスに帰り、ブルック・ノートンにある一家の墓に葬りました。それから、ここへ戻ってきて、後始末をすませ、イタリアの別荘は閉鎖し、姪《めい》と甥《おい》を連れてまたイギリスに帰りました」
「それでいろいろな様子がよくわかりました。で、後継ぎはだれでした? そのあとで、非常に重要な質問をするつもりです、先生」
「もちろん、後継ぎはルドー少年です」
「なるほど。その子はどうでした? こんなことをきいたからといって、変に思わないでください。わたしは大切なことをきいているのですから。その『ルドー』という少年は、どんな子でしたか?」
「健康でしたが、頑健ではありませんでした。母親似でね――神経質で、敏感な子でした」
「扱いにくい子でしたか?」
「いいえ、全然。快活で、やさしい、かわいらしい子でした。しかし、生まれつき興奮しやすくて、空想にふけり、好奇心が旺盛でした」
「頭が弱いわけではないでしょう?」
「とんでもない。神経質なのが欠点でした――臆病で、肉体的に勇敢でないのです。ブルック卿は恐れを知らない人だけにそれが悩みの種でしたが、そのうちになおるとよくわたしはいったものでした。男爵は荒療治で息子の恐怖心を治そうとして、夜暗い部屋に閉じこめようとしたりしましたが、わたしは、まだ幼いうちから神経を傷つけるようなそんなやり方は大きな誤りだと説明したものですよ」
「頭が悪いわけではありませんね?」
「悪いどころか、とても聡明な、早熟な子でした。ただ忍耐と同情をもって接してやればいいので、暗闇をこわがったりするような子供っぽさはすぐになおったでしょう。母親ゆずりの夢想的なところがあって、いわば子供ながらに詩人だったわけですね」
「夜あれこれとこわいものを想像するような傾向ですか?」
「そうです、フォーダイスさん」
「ルドーのおじはそのことを知っていましたか?」
「ええ、よく知っています。そのことをたたきこんでおきましたからね。ルドーのことで相談されたので、ブルック卿の考えていたことを話しました。もうその年にはなっていたのですが、イートンの準備校には入れないで、かわりに家庭教師を雇ったばかりでした。そのとき父親が亡くなったのです」
「しかし、その子も亡くなったのでしょう、先生?」
「ええ、わたしは新聞で知りました。むろん、その頃にはあの一家とは無関係になっていましてね」
リングローズはうなずいた。彼はさしあたりその問題を追及する気はなかった。
「ご心配なく。ミルドレッドさんのことを忘れはしませんよ」と彼はやさしくいった。「あなたは辛抱強い方だ。しかし、これからもっと辛抱していただかなくてはなりません。それに、辛抱する値打ちは充分ある。さて、今から重要なことをおたずねしますが、あとは当分のんびりしてください。といっても、質問に答えてもらうだけではだめなので、できるだけ早い機会に、こちらの指示にしたがって、わたしのする遠足に何時間かを――何時間かかるかはわたしよりよくご存知でしょうが――さいてくださらなければなりません。今日か、おそくとも明日にはするつもりです。急ぐ必要がありそうですから。とにかく、ぐずぐずするのは禁物です。で、まずおたずねしますが、ブルック卿が自殺だと確信したのはなぜですか?」
「つまり、こういうわけですよ」とコンシダインはいった。「あばれて走らないかぎり、どんな馬でも日昼断崖から飛び降りたりしませんし、乗り手もそれは知っていたはずです。だから、いつも身につけていたスカーフで馬にきちんと眼隠しをしていたのです。眼隠しをはずしたのはわたしです」
「負傷の具合はどうでした?」
「男爵の背骨も両脚も折れていました。馬は空中で回転したらしく、主人の遺体に幾分かぶさるように倒れていました」
「むろん遺体は解剖しなかったのですね?」
「ええ、しません、フォーダイスさん。山の者にも手伝ってもらって、できるだけ丁寧に運び出しました。馬は現場に埋めました。わたしがそう主張したのです。ブルック卿はずいぶん馬をかわいがっていましたよ。インドから手に入れたオーストラリア産の大きい、たくましい馬でした」
リングローズは、こういう点にはもう関心を見せなかった。
「それはそれとして」と彼はいった。「『鷲の食料室』で一時間ばかり過ごしたいと思うのですが、ここからどのくらいありますか? で、その場合、同行してくれますか? もし時間をさいていただけたら、大いにありがたい。それが無理なら、だれか知りあいの信用できる土地の人でもいいのです」
「よろこんでお伴しましょう。明日ではどうですか? 昼過ぎに出かければ、今は日も長いし、夜の十時か十一時までには帰れるでしょう。もっともホテルの夕食には間にあいませんが」
「それで結構です。ただ、そんなに歩けそうにありませんが、騾馬《らば》ではどうでしょう?」
「わたしもそういおうと思っていたところです。ここで昼食をとり、診察は三時には終りますから、それから出発するとして、五時か五時半には現場に着けるでしょう。現場はルガーノ側ですから、ポルレッツアまで汽車で行って、そこから登ってもかまいませんが、ここから騾馬で行けばいいでしょう」
二人はそう話をきめ、わけがわからずにすっかり興奮して、あれこれと憶測している医者を残して、リングローズはホテルに帰ってきた。
約束の時間に、二頭のたくましい騾馬と痩《や》せたイタリア人がひとり待っていた。一行はすぐにメナジオから目的地へ通じる山道を登っていった。
葡萄《ぶどう》、桑、桜んぼの木々のあいだに、トウモロコシや小麦の植えられた段々畑を登り、それから小さな峠を越え、栗林の中を抜けると、ガルビガ山のふもとの丘は近かった。やがて、道は狭い石ころだらけの道になり、けわしさを増しながらくねくねと上に延びていた。今は眼下に沈んだ盛り上がった緑の森の上方に、大きな丘の石灰岩の尾根が、巨大な木の根っこのように見えてきた。木々の茂みは次々に小さくなり、山の花々をちりばめた密生した緑の芝地が道のわきにひろがった。一行はここで小休止し、騾馬を休ませ、大きな斜面の東側にあるコモ湖や、眼路のはるか下に、小さなヒスイ色に光るピアノ湖をじっと見た。すでにルガーノは北西にかすかに光っていた。
さらに一時間登ったあと、一行は「鷲の食料室」に到着した。この奇妙な形の高台に行く山道は二つあった。ひとつは剃刀《かみそり》の刃のように切り立ったけわしい尾根ぞいの道で、もうひとつはルガーノのわきの峡谷から延びているヘアピン状のやや勾配のゆるやかな、曲りくねった細い道だった。
しかし、リングローズと騾馬が立ち向ったのは、けわしいほうの山道だった。彼は騾馬の肩のほうにすわり、できるだけ重さがかからないようにした。危険な目にも会わず、ついに頂上に着くと、彼らは鞍《くら》を降り、騾馬には草を食《は》ませてやって、あたりを調査した。彼らは狭い草地に立っており、周囲はちっぽけな樫《かし》や、ウルシが点々と生えていた。頭上には、風に吹きさらされた松の木が一、二本そびえていた。五エーカー程度しかないこの狭い高地の両側はぞっとするような断崖に囲まれており、南側は少しはゆるやかだがやはりけわしい斜面をなしていて、ネズ、ラベンダー、その他の小さな灌木《かんぼく》でまだらにおおわれた岩棚《いわだな》が横たわっていた。この岩だらけの斜面も突如終って、その下から内側に曲った断崖がはじまっていた。眼下の中空には、二羽の鷹が弧を描いて飛びながら、かん高い悲しげな鳴き声をあげ、石灰岩の岩棚の上では、六頭の黒白まだらの山羊が草をたべていた。
コンシダイン医師はブルック卿の死亡地点を指さした。
「男爵はやさしいほうの道を登って来たにちがいありません。馬ではわれわれの登って来た道は無理ですから。おそらくルガーノ湖からメナジオ行きの汽車が出ているポルレッツア附近まで行って、そこからここへ登って来たのでしょう。ここがあの人が落ちて死んだところです」
彼らは東の断崖の上にしばらく立たずんだ。そこからけわしい絶壁が三百フィート下の狭い谷間まで降りていた。樹木におおわれた谷間には谷川が流れ、山の静けさの中でそのささやきが聞えてきた。
高地の頂上を調べたあと、リングローズは遺体の発見されたところまで降りてみたいといった。「重要なことがあるように思います。降りて行けますか?」
コンシダインは道を知らなかったが、騾馬ひきの男は道にくわしくて、降り道を教えてくれた。それは今きた道をまたあと戻りするのだった。歩いて百ヤードほど引き返すと、先ほどは気づかずにいたが右手に小道があり、そこを通ると、じきに断崖の下に着いた。
「わたしたちの一行は滝のところから登って来たのです」とコンシダインは説明した。「ブルック卿と馬の遺体を見つけて、はじめてなにが起ったかわかりました。高地を調べたのは翌日でした」
彼らは馬の遺体を埋めた塚のそばに立ったが、そこはすでに灌木や雑草におおわれていて、リングローズの注意を惹《ひ》くようなものはなにもなかった。鷹が彼らの頭上を往き来して、絶壁の壁面にある巣の中に姿を消し、またあらわれては、飛んでいった。雛《ひな》に餌《えさ》を運んでいるのだった。
二人はゆっくりと頂上に戻り、腰をおろして、果物と乾イチジクとクルミの軽食をとり、赤葡萄酒をひと瓶《びん》あけた。それから、リングローズは葉巻をくゆらせ、もう充分休息したといって、まだ明るさが残っているうちに調査しはじめた。西の空には、オレンジ色やラベンダー色の雲が燃えるように豪華な景観をくりひろげていた。一時間にわたって、彼はこの山の突端にちょこんととまっている孤立した草地を、コンシダインがいぶかしがるほどの注意深さで、隅々まで調べあげた。
彼らは北のほうのややゆるやかな道を通って「鷲の食料室」を離れた。もうたそがれになっていて、騾馬でやってきた剃刀の刃のような狭い道を戻るには、かなり明るくなくてはいけなかったからだ。あたりの異常な淋しさはリングローズに感銘を与えた。この高いところには人の気配ひとつしないのだ。はるか眼下に見える一軒の屋根だけがかろうじて荒涼感を破り、上方の山頂の下から、炭焼きの火の煙がかすかに、遠くに、螺旋《らせん》状の羽根のように舞い上がっているのを除いては。だが、岩の舌の上に突き出たようなこの小さな高地自体は、山住みのひとびとの通路からはそれていて、曲りくねった道をわずか一マイル降りると、もっと人気《ひとけ》のある大きな道に出喰わした。帰り道はべつに苦労もなく、グランドーラに暗くなってから着くと、リングローズは騾馬を帰して、終列車でメナジオに戻りたいといった。
「どうも鞍には慣れていなくてね」と彼はいった。やがて、案内人は自分が騾馬に乗って、パカパカと帰って行き、リングローズと医師の二人はポルレッツアからの小さな汽車が着くまで駅で待った。
二人はプラットホームにすわって、半時間ばかりおしゃべりをした。
「わたしがなんのつもりで、今日こんなことをしたか、さだめしふしぎにお思いでしょう?」とリングローズはたずねた。
「それより自分の問題を考えていましたよ」とコンシダインは答えた。「しかし、人を信頼する以上は、中途半端ではいけませんから、いっさいおまかせしているのです。もっとも、あなたにうかがった話だと、イギリスに帰って、問題の底をさぐり、ミルドレッドに直接会わなければいけないのに、なんでこんなところをうろついているのか、さっぱり理由がわかりませんけれどね」
「おっしゃるとおりで、これほど信頼してくださってうれしく思います。あなたとミルドレッドさんを早くいっしょにさせてあげたい気持がつのるのも、こんなにも信頼してくださっているからなのです。しかし、いっしょになれることはたしかですから、もうちょっと辛抱してください。ミルドレッドさんとあなたが愛しあっているならば――そのことは疑いありませんが――あなたはなんの心配もいりません。ミルドレッドさんがだまされて、あなたから引き離されたことは、今ではもう疑問の余地がない。それに、あなたにすてられたと信じながらも、あれだけ長い月日がたっても、今なおあなたのことを考えて沈んでいる。となると、やがて、あなたが今だに愛してくれていると知ったときのミルドレッドさんの気持は、察するにあまりありますよ」
「しかし、今のブルック卿が――」とコンシダインはかっとしていいかけて、リングローズにおさえられた。
「先生、さしあたりブルック卿のことはわたしにおまかせなさい。お怒りになるのも無理はないが、わたしの得た情報に誤りなければ、世間もあの男に腹をたてる理由が充分あるのですから。こんな謎めいた言い方はもうじきやめにしましょう。あなたがわたしを信頼してくださったのですから、こちらもあなたを信頼するのが道理だ。わたしが知っていることを全部をお話する前に、まだ調べなければならない大切なことがいくつかあるのです。そのうち、あなたの問題など小さく見えるような話を聞かされることになりますよ。世にもしあわせな偶然で、あなた自身の問題はハッピーエンドをむかえるとお約束してもいい――一週間前には、あなたが思いもかけなかったようにね。そのときこそ、自分をおさえて、わたしのやるゲームに加わってくださらなくてはいけません」
「ええ、よろこんで――それがどういうゲームだかわかれば、フォーダイスさん」
「おそくとも三、四日後にはお話します。しかし、それまでは自分だけの利害で絶対に行動してもらっては困るのです。明日、わたしはフィレンツェへ行き、二日ばかり滞在する予定です。もし、そちらでわたしの狙っていることが探り出せたら、そのときこそ、あなたはこのゲームがなにかわかるだけでなく、きっと一役買うことになるでしょう。飛行機を借りきって、まっすぐブルック・ノートンに飛んで行きたいような顔つきで、山の向うを眺めるには及びませんよ。今度ミルドレッドさんに会えるのは、きっとイギリスではなくて、このイタリアになりますから」
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第十五章 ロックリーじいさん
翌日、リングローズはメナジオを発ってフィレンツェに向った。彼は湖を通ってコモに行き、そこからミラノ経由でロンバルディ平原とアベナイン山脈を越えた。フィレンツェに着いたのは真夜中少し過ぎで、ミネルヴァ・ホテルに宿泊した。気候は暑く、フィレンツェは夜中でさえ灼《や》けるようだった。明方、窓から、ジオットの美しい鐘楼が朝日を浴びて花のように咲くのが見えた。そこでリングローズは床を離れ、朝日にきらめく緑色の河をめでながらカシーネ通りを散歩し、やがてブルック卿のイタリアの別荘を探し出した。ピア荘は南をルング・アルノの広い舗装した通りに面しており、こんな朝早いのに、もう邸内は活気が感じられた。職人たちが屋根に登ってなにか働いており、邸の前面にひろがった広い芝生や花壇《かだん》のふちでは、庭師たちが忙しげに仕事にかかっていた。桶《おけ》に入れられたオレンジや月桂樹が植えられる場所を待ちうけ、花壇ではたくさんの花々が植えこまれていた。渦巻《うずまき》模様の堂々たる鉄門が通りと入口を仕切り、門内の片側に平屋の門番小屋が立っていた。リングローズはフィレンツェをよく知っていたが、今回は別人になりすましてこの市に来たわけだった。彼はメナジオを発つ前に計画をたて、道中細部にいたるまでさらにねりあげてあった。彼の目的は頭で確信していたことの具体的な証拠を探すことにあり、自らの確信を与える材料を得たいと願っていた。自分が正しいという絶対的な証拠には、まだ到達できそうになかったが、ひるんではいなかった。まだ多くの試験的な手段をやってみなければならないが、最後には、自分の究極的な問題に光が投げかけられるだろうと信じつづけていた。
彼は今回は「ノーマン・フォーダイス」としてフィレンツェに来たのでなく、当分「アレック・ウェスト」を名乗ることにした。ピア荘の門番と親しくなることが必要だが、邸内の動きを一目見ただけで、ブルック卿自身か、他のだれかの到着に備えて準備していることが察せられた。この邸へ彼はアーサー・ビットンの友人の「アレック・ウェスト」としてやってきた。ビットンは当然ウィリアム・ロックリーをよく知っていたはずだ。リングローズは自分とビットンのあいだに親密な信頼があったように見せかけて、ロックリーから疑われないようにしようとした。ビットンさえ生きていたら、どんなにたくさん聞き出せたろう。だが、ビットンの口は永遠に閉ざされてしまったのであり、今となっては、ロックリーがあの従僕と同様に、彼の知りたがっているある事実を知っていることを希望するほかはないのである。堂々たる門の横の呼び鈴《りん》をおすと、小柄な男が門番小屋からあらわれた。そうとうな年寄りで、背中は曲り、顎《あご》の下にはごま塩のひげが生えている。頭は禿《は》げ、しわだらけの、ひょうきんな陽気な顔つきである。角ぶち眼鏡のうしろから灰色の眼が輝き、小さな口は歯がないせいかすぼんでいる。
小男の門番はリングローズを見上げ、快活にほほえんだ。
「イギリスの方ですね? なにかご用ですか、旦那《だんな》さま? 主人はまだ留守中ですが」
「旦那さまだなんて、とんでもない」とリングローズは愛想よく答えた。「たしかにわたしはイギリス人ですが、ロックリーさんもお見かけしたところ、そうらしいですね。わたしはアレック・ウェストという名前で、一、二か月前にイギリスで亡くなったあんたの友だちの知りあいです。そこで、仕事を探しにフィレンツェに来がてら、河ぞいのピア荘に同国人がいるのを思い出し、思いきって訪ねてみたんですよ」
リングローズのきさくな態度は非のうちどころがなかった。彼はまた「アレック・ウェスト」になりきって、勤めをやめた従僕に戻っていた。そして、隠居暮しにもあきたので、広告で見てやってきた勤め口がこちらの希望にかなうなら、また働きに出るつもりだと作り話をした。
ロックリーはとても親切だった。握手をして、リングローズを門番小屋に招じ入れ、見えすいたことを質問した。
「イギリスで亡くなった友だちとかいうのは、いったい、だれのことですかい? わしにはいっこうに思い出せんのだが」
「『友だち』というのは、大げさだったかもしれませんな」とリングローズはいった。「しかし、あの人はあんたのことをそういっていましたよ。もっとも、あんたより先方のほうが好意をよけい持っていたのかもしれないが。アーサー・ビットンという男ですよ。ほら、このあいだ、ブリッドポートで不幸な死に方をしたあの男ですよ」
ロックリーはすっかり興味を持ちだした。
「なんだ、ビットンを知ってるのかね? それなら、わしの聞きたいこともいっぱい知っているわけだ」
「ええ、あの男ならよく知っていますとも。奥さんのほうもね。じつにいい奥さんだった。ビットンは変った男で、もとの主人のブルック卿のおもしろい話をいっぱい聞かせてくれましたよ。ちょうど、わたしはあそこで家を探していて、ほんとに仲よくなりましてねえ」
老人の言葉には嫉妬《しっと》がこもっていることを、リングローズは感じとった。
「アーサーはべつに友だちではありませんや」とロックリーはいった。「よく知ってることは知っていたがね、友だちではなかったね。なぜ、旦那さまがあいつをあんなに大事にするのか全然わからなかった。たしかに役に立つ従僕だが、わしみたいにここのご一家と友だちも同然というわけにはいかなかったね」
「ビットンだって、それは承知してましたよ。その点じゃ、かぶとを脱いでいて、あんたはあそこの家族の一員も同然だっていってましたっけ」
「わしは六十年もむかしに、初代の男爵の頃、靴みがきとして、ブルック・ノートンにご奉公にあがったんだからな」とロックリーはいった。「年をとって息ぎれがしはじめたもんで、こっちへ来たんだよ。バーゴインさまが――その頃は、まだ男爵を継いでいなかった――門番はイギリス人がいいといわれるもんでね。ビットンはご主人にくっついて、行ったり来たりしてたけど、ぺこぺこした、なにを考えているのかわからん野郎だと、いつもわしは思ってた。しかし、まあ、あいつももう死んだ人間だから……。自殺したとかいう話だが、きっと結婚したせいでしょう?」
「どうです、いっしょに朝飯でも食べませんか、ロックリーさん。その話を聞かせてあげますよ。自殺したのは、奥さんとは関係がないんです。じつはね、死んだ原因は謎でしてねえ。もともと話好きな男ではなかったが、わたしにはなんでも話してくれました。主人の冒険話やなんかをね。忙しくなかったら、いっしょに食事でもしませんか。わたしは暑くならないうちに、出てきましたが、ゆうべ着いたばかりで、昼には仕事のことで人に会わなくてはいけないもんでね」
しかし、ロックリーはすでに朝食をすませていた。
「今、職人たちの監督をしているところでね。それじゃ、こうしましょう。十二時半に会って、話すことにしませんか。わしの行きつけの店に案内しますぜ」
リングローズは承知して、もう少しおしゃべりし、親しみをましてから、ホテルへ朝食に戻った。約束の時間に会ったとき、リングローズは大いに不満そうな顔つきであらわれた。ロックリーじいさんは服を着替え、陽よけ用に大きな緑色の傘を持っていた。
リングローズはがっかりしたとぶちまけた。
「せっかくフィレンツェまで来たのにね。先方は南米の人間で、おまけに恐ろしく抜け目がないときている。べつにやりあったりはしなかったが、わたしはヨーロッパを離れるのは困るんだ。今すぐ働く必要もないし、働くにしても、イギリス人かスコットランド人のところにしますよ、ロックリーさん」
「そりゃ無理もない。アメリカへ行く従僕はいっぱいいるけどなあ。主人にくっついて旅行している従僕には、わしも会ったことがある。アメリカ人は独立心ばかり強くって、人に服従することに慣れていないから、わしらみたいないい従僕になれるわけがない。だから、向うでは、黒んぼが召使をやってますわ」
アレック・ウェストはじきにロックリーじいさんと仲よくなった。じいさんは話好きで、好きな話題は主人一家のことだとすぐにわかった。ブルック卿は来週中には来るそうで、お嬢さまもいっしょだといいんだが、まだはっきりわからない、とじいさんはいった。ロックリーはミルドレッドびいきだった。前のブルック卿が大好きで、その愛娘《まなむすめ》の心を獲得しておきながら、あとになって袖《そで》にしたコンシダイン医師のことは、口をきわめてののしった。
「そいつはわしも会ったことがあるがね。お父さんが亡くなられたときに――お気の毒に、崖から落ちなさったのだ――わしも今のご主人とかけつけたもんだ。わしが行けば、お子さんたちが大喜びするだろうといわれてな。なにしろ、お子さんたちとは赤ん坊の頃からの知りあいさ。で、イギリスへ帰られるまで慰めてさしあげたが、坊ちゃまとはあれが最後だった。一年たらずで、ご両親の後を追われたからね。それなのに、あの医者野郎ときたひには、虫も殺さないような顔をしやがって。お気の毒に、お嬢さまはあいつを深く愛しておられたのに」
「そいつが人でなしだということを、あんたは見抜いていたのかね?」とリングローズはきいた。
「いや、とても。あんな正直な男はいないと思ったよ。イギリス人で、礼儀正しくて、頼り甲斐《がい》があった。ところが、ひどいもんさ。お嬢さまを袖にしようとたくらんでいて、国へお帰りになると、すぐにあれだから。まあ、今のご主人がよくおっしゃっているように、そのほうがかえってしあわせかもしれんがね。身分がちがいすぎるし、お嬢さまもまだ若すぎて、自分のお気持もよくわからなかったのかもしれないよ。しかし、とにかくひどいもんだ。あんなやつには報いがあるといい。金目当てでアメリカの女と結婚したそうだ――ご主人があとでお聞きになった話だが」
リングローズはたびたびビットンの名を口にして、さもこの男と懇意《こんい》だったように見せかけて、ロックリーじいさんを信用させた。ブルック・ノートンで自分で手に入れた情報の大部分も、ビットンから聞いたことにして、ある程度ロックリーに故郷の生活が眼に浮ぶように語り、彼のよろこびそうなミルドレッドについての情報を聞かせてやった。こうして、リングローズは、自分もこの老召使と同様にあの一家に関心を持っているような印象をたくみに生み出した。そのうち現在のブルック卿のことにふれ、ビットンよりもむしろコンシダインから聞いた知識を利用して、ブルック卿の冒険談やいつも金に困っていることをすっぱぬいて、ロックリーを笑わせ、なにより知りたがっていた思い出話をじいさんから引き出した。
リングローズは自分がおごるといいはって、黄金色の葡萄酒を二本あけ、二本目のトスカナ製の葉巻をふかすころには、ロックリーもいちだんとおしゃべりになっていた。老人は今の主人は前の主人ほど好きではないけれど、バーゴインさまも一家の主人になられたからには、腰を落ち着けて、行状もよくなられたようだといった。
「なにしろ、この世でなにより象牙のおもちゃを大事にした人だからねえ」とロックリーはいった。「がらくたを買いまくって、召使の給料さえ払えないていたらくさ。フィレンツェ中が腹を立てて、ブローカーが戸口に押しかけて来ると、姿をくらまして、お兄さんから必要な金をせしめて来るまではどこにいるのやらわからない。なにか口実を見つけて逃げだして、名前も国籍も変え、あちらこちらにあらわれて、お金の来るのを待ったもんだ。あのとおり頭が切れるし、外国語がペラペラだ、いったんフィレンツェから逃げだして、警察をまいたとなると、とうてい見つかるもんじゃない」
リングローズは大笑いした。
「変名まで使ったそうだね。ビットンもそういっていましたよ」
「名前どころか、国籍だって変えたもんさ。今フランス人に化けているかと思うと、次はもうドイツ人だ。むろん、秘密を知ってるのはわしだけさ。そのわしは、八つ裂きにされたって、金輪際口を割るもんじゃない」
「あんたみたいに信頼できる人がいて、ご主人もしあわせだよ」
「まったく、そのとおりさ。わしがこっちでしめしあわせて、電報やなんかを転送してあげたもんだ。手紙はべつの封筒に入れなおし、あとをつけられないように変名の住所に送ってな」
「むろん、あんたはあの人の行き先を知っていたんだね?」
「たいていはね。『ヘルー・ゴルツ』とか『ムッシュー・ローランス・ボンノンム』とか、いろいろな名前あてにね」
リングローズは大笑いして、老人をほめそやした。彼は話題が捜査の問題点にふれるまでは直接的な質問はいっさい避け、じっさいそのときもすぐに話題を変え、あれこれと関係のないことを話したあと、ようやく先ほどの話に戻ってきた。
彼は自分のことだとか、帰り道の計画を話題にした。
「せっかくここまで来たのだから、有名な湖を見物しようと思ってねえ。きっと、あんたは湖のことはくわしいんでしょう?」
「少しはね。もちろん、コモへは行ったよ。あそこは景色がいいので評判だが、お邸のごたごたで、ろくすっぽ見られなかった。それから、ルガーノとか、ほら、あの大きな湖――マジョーレ湖があるわな」
「ルガーノ湖のことは聞いたことがあるよ」
「わしは一度も行ったことがないが、旦那さまはときどき行かれたね。兄《あに》さんの家がそう遠くないところにあるもんでね。何度も駆けつけて、兄さんと会ってたよ。コモ市へも行かれたし、ミラノへもね。なにしろかり立てられるのが好きなお人でねえ、雄狐《おぎつね》みたいなもんさ。もっとも一度もつかまったことはなかったが」
リングローズはまた大笑いし、話題を変えた。ロックリーじいさんをあやつるのはいとも簡単で、こんな単純な人間に自分のすばらしい質問の技術を使うのは浪費のような気持もした。しかし、いつものように会話を進めてゆき、なにか特別の関心を持っていると思われないようにした。
「三つの湖は全部見物していきますよ」と彼はいった。「地図で見ると、ヴェニスのほうにもガルダ湖というのがあるね。それもかなり大きい湖らしいけど」
しかし、ロックリーはその湖のことは知らなかった。
こうして、じいさんは一、二時間を愉快に過ごし、リングローズは同国人と会って楽しい話が聞けて、こんなうれしいことはなかったと礼を述べ、ぜひもう一度会いたいと申し出た。
「明日の晩イギリスに帰るけど、あんたの教えてくれた湖は見てゆきますよ。しかし、ぜひもう一度おしゃべりしたいですね。ここで今夜いっしょに食事でもどうですか? これきりで別れるのは残念だ」
ロックリーじいさんは承知した。彼はもうひどく眠そうで、昼寝の時間におくれたといった。その晩九時に二人はまた会って、リングローズは幾分同じことをくりかえした。彼はビットンの話題に戻り、その過去のことをたずねたり、ビットンの妻の話をしたりした。こうして、また会話はロックリーの好きな話題に帰ってゆき、「鷲の食料室」での死亡事故のあと起ったさまざまな事柄を、すこぶるくわしく聞かせてくれた。
「そのときばかりはバーゴインさんもまじめになられたでしょう?」とリングローズは、今こそ本題に入る気で、そうきいてみた。「その恐ろしい知らせが入ったとき、あんたはご主人といっしょにこちらにいたんですか?」
「いたよ」とロックリーは答えた。「旦那さまが旅から戻る前に、知らせが届いたのさ。奇妙なもんだった。あのときは、兄さんが亡くなられるちょうど一週間前に、旦那さまがまた金のことで困ってね。山を越えて、ボローニャへ飛んでいった。そう、たしかボローニャだった。コモじゃなかったね。コモに行くだけの金さえなかったよ。それで、ボローニャから兄さんに金を都合してくれと手紙を出したのさ。むろん、金は手に入って、意気揚々と帰ってくると、恐ろしい電報が待っていた。そうとも、電報と差押えの役人がな。役人はもう入りこんでいて、わしにも追い出せなかったのだ。しかし、旦那さまがお金を作ってきたもんで、なんとか助かった。旦那さまはあとでそのことをいいながら、泣いていたよ。兄さんからもらった最後の金だったからねえ」
「そりゃ、あんた方には大変なショックだったろう。もちろん、ビットンもボローニャにお伴したんだろう?」
「いや、あのときは行かなかった。従僕さえ連れて行けないほど、お金に困っていたからね。あの方は夜飛んで行って、あくる日、わしは『ボローニャ市カヴール・ホテル、ハロルド・ステビングズ様』と書いた大きな封筒に入れて、手紙を二通送ってさしあげた。あとから、ほかの手紙も送ったよ」
「これは驚いた、ロックリーさん。わたしもそれだけ物憶えがいいといいんだが!」
「あのとき起きたことは、なにひとつ忘れちゃいないよ。旦那さまがあとで全部話してくださった、その話だと、ブルック卿がメナジオからボローニャへ出てこられて、お金のことはかたをつけ、もう借金をするなとさとされたそうだ。それから、家へ戻られ、バーゴインさまはもらったお金をしこたま持って、例のおもちゃをあさりに二日ばかりヴェニスへ出かけられた。そこへ、電報さ――兄さんが亡くなられたという。電報が来たのは、遺体が見つかった日の晩だったが、旦那さまが帰って来たのはその翌朝だった。電報と差押えの役人が待ちうけているところへね。旦那さまはすぐに借金のけりをつけ、その夜ビットンを連れてメナジオへご出発だ。二日後にわたしもあとを追っかけた」
リングローズはうなずいた。
「あんたもずいぶん大変だったろう!」と彼はねぎらって、今や目的も変ったことだし、もう一時間このおしゃべりの老人につきあって、家まで送り届けた。メナジオから探りにやって来たくわしい事実がわかった今、もうひとつの決定的な行動が彼の心を占めていた。彼は遠い先のことまで考え抜いていて、条件さえととのえば、ある途方もない行動に出ようと計画していたのである。その条件が今やととのったのだ。そうではないかと疑っていたことが聞き出せて、しかも最少限の努力で聞き出せた。しかし、兄が亡くなったとき、バーゴイン・ビューズがじっさいフィレンツェにいなかったとわかった今、そのときにそなえて練ってあった計画を推進することが必要だった。
それ以上彼がなにを意図していたかが明らかにされたのは、コンシダイン医師のところへ戻ったときだった。だが、当面彼に関心があったのは、ロックリーと別れる前に、この老人の記憶にしっかと自分を印象づけ、自分が訪ねて来てなにをきいたかを、はっきり憶《おぼ》えさせることだった。ふつうなら、刑事たる者がいったん目的を達した以上、自分を抹殺《まっさつ》してしまうか、なにか口実をつけて、自分から許しが出るまでは、彼らが偶然知りあったことをしゃべらないように、ロックリーに注意して当然だったろう。リングローズはブルック卿が次の週に別荘に来ることを知っていたのであり、あのおしゃべりな老人が、死んだビットンの友人としてリングローズのことを話さないはずはないからだ。ところが、リングローズはこの可能性を防ごうとするどころか、全力をつくしてそれを確実にしようとした。彼らは最後までロックリーにいちばん関心のある話題についておしゃべりした。リングローズがようやくじいさんに別れを告げたのは、門番小屋までまた送ってやって、一家のいろいろな写真を見せてもらってからだった。
彼はそれからの写真に深い興味を示し、とくにそのうちの一枚には胸をかきむしられる思いがした。殺された少年の悲しげなおだやかな顔に感動して、しばらく黙りこんでしまった。やがて、われにかえって、
「やはり、ロックリーさん、この市でもう一日無駄に過ごすのはやめにしとくよ」といった。「明日の朝ミラノへ行って、そのあと湖水にまわるから。またこちらに来る折があったら、ぜひ会いましょう」
老人は心からさようならをいい、リングローズは予定より早くここを出発した。彼はフィレンツェから北行きの真夜中の汽車に乗り、山脈を越えた。山々のオリーブの林の中でナイチンゲールが啼《な》き、螢が飛びかっていた。そして、真っ赤に夜が明ける頃、ボローニャに着いた。そこで彼は旅を中止した。
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第十六章 ダブル・クロス
リングローズはメナジオへ戻った夜、コンシダイン医師と夕食をともにした。食事が終って、煙草をふかしながら、湖畔を散歩したときに、彼はコンシダインに秘密を打ち明けた。夜は静寂そのものだったが、満月も近く明るかった。コンシダインは往診の必要上自分で運転している専用のモーター・ボートに乗ろうと提案し、リングローズも賛成した。二人は月に照らされた湖上に乗りだし、やがてエンジンを止めて、陸から聞かれる心配のないところにモーター・ボートをただよわせた。
「今からびっくりするようなことをお話しなければいけません」とリングローズはいった。「今夜陸に戻る前に、これまで経験したこともないぞっとするような事実に直面されることになるでしょう。あらかじめ承知していただきたいが、わたしはある仮説についてのあなたの意見を求めているのではない。事実を述べているのです。今年の冬、わたしはきわめて異常な出来事を経験しましたが、それはもっと他の異常な出来事の序曲にすぎなかったのです。だが、おそらくもっとも異常な出来事はこれから起きるでしょう。もしわたしにそうすることができるならの話だが。まず過去の出来事を聞いて、それから今後起きるはずのことを聞いてください」
「話を進めてください、フォーダイスさん」
「まずお断りしておくが、わたしの名は『フォーダイス』ではありません。次の二つの理由から、あなたにすべてうを打ち明けることに決めたのです。第一に、あなたに好意を持ち、信頼していい方だと知っているからです。第二には、わたしの味方をしてくだされば、あなた自身のためになるからです。あなたにこれほど利害関係がなかったら、たぶんわたしはひとりで行動するでしょう――いつもわたしはそのほうが好きですから。しかし、あなた自身ブルック卿には大いに言い分があるわけだし、正義に味方してくださると思います」
「ブルック卿のことでは、だれの助けもいりませんよ」とコンシダインはぶっきらぼうにいった。
「たぶん、そうでしょう。しかし、わたしは助けがいるのです。さて、出発点に戻るとして、わたしの名は『フォーダイス』ではありません。リングローズ――ジョン・リングローズというのです」
「リングローズ? あの名刑事の?」
「ええ、もう隠退していますがね。この冬、暇な身になったので、狩りをしにドーセット州の友だちのところへ行きました。そこで、この仕事がはじまったのです」
リングローズはすこぶる明確にこれまでのいきさつを語った。重要なことはいっさい省略せず、キャンベル夫人の象牙細工をブルック卿に売ってブルック・ノートンから出発するまでのあらゆる出来事を物語った。それから手短に情報を検討し、まずアーサー・ビットンについてこう述べた。
「ブルック卿のことはすぐに取り上げることにして、まずビットンからはじめましょう。ビットンに死なれたとき、どんなにわたしが困ったかおわかりでしょう。今度の場合、被告を裁く前に、証人を裁くことは不要でした。ほんとは、そういうことがよくありますがね――なぜなら、この世でもっともざらにある犯罪は偽証罪だからです。しかし、この事件の証人たち――つまり、オールド・マナー・ハウス・ホテルの女性たち――は疑わしいところはないと信じられるし、被告と呼ぶべき人間は、自らを裁いてしまったのです。わたしは人間が通常持っているある性格を頼りにして、他人に打ち明けることによって自分の苦しみをやわらげようとする人間共通の本能が、そのうちビットンの心の中で大きくなってくるだろうと計算していました。げんに、そうなった。もう少しで告白しかけたことが一度ならずありましたよ。このわたしに告白しかけたことがね。ほかの男なら細君に打ち明けるんだろうが、ビットンは結婚したばかりだし、あの二人の家庭生活を見ていると、細君よりまずわたしのところに来るだろうと判断しましてね。わたしは自分も欠点だらけの人間で、罪を犯したことがあるとほのめかして、こちらも聖人ではないことをわからせようとつとめました。しかし、完全に失敗してしまったのです。あの男についてのわたしの見方は正しかったかもしれないが、やり方の面で失敗したのです。あまり急にねじを廻しすぎ、最後のひとひねりで相手がこわれて、永遠に手の届かないところへ行ってしまったのですから。ひどい失敗で、恥かしく思ってますよ、先生。その件とビットンのことは、この辺でやめておきましょう。わたしはビットンのためにはなんの涙も流しませんでした。あいつは憎むべき罪を犯したのですから。子供を苦しめて殺すような人間は、あいつだろうとだれだろうと、拷問にかけても真相を吐き出させずにおくもんですか。それはともかく、あいつに死なれたときのわたしはどこまで進んでいたでしょう? もとと同じ出発点ですよ。また最初からはじめるしかなかったのです。
むろん、いくつかの事実は手に入れてありました。オールド・マナー・ハウスで聞いた話がほんとうだということも、今でははっきりしました。ビットンが幼いブルック卿を殺したということ、それがなんとおじの依頼で殺したということもわかりました。ブルック卿が犯人だということはわかりましたが、その証拠はなにひとつ残っていない。むろん、起きたことには、証拠がないわけはない。だが、ビットンに死なれたとき、わたしはいっさいの証拠を失ったのです。ビットンをあの世へ送ったことで、極悪な男爵にすばらしい贈り物を与えたことになるかもしれません。わたしがその時点でやめていれば、たしかにそういえたでしょう。しかし、わたしは手を引かなかった。わたしはブルック卿に立ち向い、さっきお話したようなことをつかんだのです。そこで、これから興味ある話に進みましょう。
そのときまで、わたしはあなたの友だちの前のブルック卿については、全然頭を悩ましたことがありませんでした。もっと目から鼻へ抜けるような人間なら、とうのむかしにそうしていたでしょうがね。わたしは片眼しかない動物みたいなもので、鷲《わし》というよりはモグラ程度でしょうな。せいぜい自分の鼻の先くらいしか見えないのですから。綜合的という言葉がありますが、残念なことにわたしはまったく綜合的なところがない。そこで、どうなったか? なぜわたしがここまでやって来て、あなたに会ったり、あの人が死亡したときの様子を調べたりしたのか? それはわたしが壁にぶつかって、今のブルック卿と知りあいになりながら、一歩も出発点から前進できなかったからなのです。まったく幸運にも、ルドヴィク少年をおびえて死なせたあの人形の原型である象牙細工を見つけはしたものの、それだけのことでした。わたしをここに来させたのは、ただひとつの言葉にすぎません。前のブルック卿のことを話していたときに、トレメインがあの人は『悲劇的』な死に方をしたといったのです。そこで、わたしは海の向うに眼をやって、わざわざここにやって来た。ブルック・ノートンでくわしいことをきくわけにはいかなかった。トレメインにさえ、わたしが事件に関心があるという印象を与えてはうまくない。二人が話したことをブルック卿にしゃべるかもしれませんからね。今だって、ブルック卿は感づいていないとはかぎらない。稲妻のように頭の働きの速い男だし、良心は人間を臆病にする。記憶もとぎすまされる。あの男には良心はないかもしれないが、すばらしい記憶力がある。残念ながら、わたしはあの恐ろしい象牙細工を二度目に眺め入っているところを、あの男に見つけられてしまったからです。さて、しっかりしてくださいよ、先生。今からびっくりするようなことをお話しますから」
コンシダインは呻《うめ》きとも唸《うな》るともつかぬ声を出した。「ほんとに、これ以上驚きようがありませんよ。あんなにやさしくて、上品で、感じやすそうな人が子供を殺すなんて――」
「あいつは偉大な喜劇役者ですからね、コンシダインさん。あの男をどう思っているか、すぐにお聞かせしましょう。わたしの考えでは、あれは、道徳的には別として、無限の讃嘆に値する男です――あいつと同じ悪の英雄同様に。ああいう連中を判断するときは、虎や狐と同じで、やつらの基盤に立って判断しなくてはいけないのです。しかし、とにかく話をつづけましょう。わたしはここに来て、あなたに会い、偶然その悩みを解決し、また元気にしてあげた。それはとてもよいことだった、あなたのためにも、わたしのためにも。そうして、あなたはわたしにあなたの友だちが『鷲の食料室』で生命を落したことを話してくださった。世間はそれを偶然の出来事だと思っており、たしかにそれは悲劇的な出来事だ。だが、あなたはそれは事故ではない、歴然たる自殺の証拠があると打ち明けてくださった。では、次にわたしはなにを見つけたか? 自殺の証拠が歴然どころか、故人についてのお話と結びつけてみると、きわめて疑わしいということでした」
「しかし、証拠は絶対的でしたがね、フォーダイ……、いや、リングローズさん」
「絶対的なものなんてありませんよ、コンシダインさん。自殺はつねに情況証拠によるのです。たとえブルック卿が、一時間前に買った一ヤードのロープで木に首を吊っているのを見たところで、自殺とは断定できません。その点に関しては、ビットンだって自殺したとは断定できないのです。
ところで、ここに大きな悲しみを味わい、それを克服した人間がいたとします。彼は勇敢で、男らしく、気力充実し、常識と思いやりにみちている。人生の義務や責任をわきまえている。なかんずく、愛する妻の残した子たちはまだ成人しておらず、息子のほうは――母親そっくりで――身体も弱く、父親の保護をぜひ必要としている。娘のほうは心配ないだろう。愛する男と結婚するはずで、父親自身その男を高く買っている。そういう場合、その父親が幼い息子を放り出したりするでしょうか。病弱な息子の運命を、いつも愚かなことをやらかし、どう見ても無責任きわまる無分別なおじの手に委せてゆくでしょうか。もし男爵が自殺したとすると、まさにそういうふうに自殺したのです。あなたの話だと、後見人も決めていないし、ルドヴィクが成人するまでのことについて特別の条項もいっさいないという。自殺するつもりの父親が、そんな問題をなおざりにしておくでしょうか。とんでもない。したがって、事故説はありうるとしても、自殺は考えられませんね」
「しかし、自殺したという事実が残っています。ほかに死にようがありますか?」
「いや、コンシダインさん、あの人はだれかに殺されたのですよ」
「し、しかし、どうやって? 事実が――その反対を証明している多くの事実がありますよ」
「いや、そんな反対の事実などありはしない。あなたから前のブルック卿の死亡の様子を聞かされた瞬間、わたしは自分の直感があやまらなかったことを知りました。ふつう、わたしは直感を信用しない。直感というものは、理性と同様、ときどき大失敗をやらかすからです。しかし、今回だけは、わたしは直感を信用し、いいですか、ルドヴィクを殺した人間はブルック卿も殺したことを知ったのです! ひとつをやれる人間なら、もうひとつのほうも平気でやれるのです。わたしは自分の直感が正しかったことがわかるかもしれないという万が一のチャンスを期待してここにやって来て、あなたの話をうかがって確信が持てました。だが、知ることと、それを証明することとは、まったく別だ。そこで、具体的な事実を掘り出すことが必要になり、フィレンツェへ行って以来、それも実際上終了したという次第です。ブルック卿が兄さんを殺そうと思えば殺せたことがわかったし、じっさい殺したものと今では確信しています」
「でも、リングローズさん、証拠を考えてごらんなさい。二つだけ挙げましょう。ひとつは、ブルック卿の馬の死体には、あの方が持っていたスカーフで目隠しがしてありました。そのことはわれわれが知っています」
「たしかにそのとおり。しかし、あなたはブルック卿自身がそうしたと知っているのですか?そんなはずはありません」
「では、それはさておくとして、もうひとつの事実は、バーゴインは兄さんの亡くなった日ヴェニスにいましたよ」
「どうしてそれがわかります?」
「わたしにそういいましたからね。遺体が発見された朝ヴェニスを発ち、われわれの電報がフィレンツェの別邸に着いたあと、帰ってきたのです」
「電報より先に家に帰っていたら、もっと賢かったろうに」とリングローズはいった。「ところが、じっさいに起ったことはこうでした――ブルック卿は、死ぬ二日前、ボローニャに行って弟と会っている」
「それはわたしも知っています。あの方が帰ってきて、わたしに弟は最悪の危機に陥り、財産を差し押えられたようだと話してくれましたから」
「そのあとバーゴインはしばらくヴェニスに行き、それから帰宅したと、あなたは考えているわけですね?」
「ええ、そうです」
「ところが、ちがうのです、コンシダインさん」
「どうしてそういえますか?」
「造作もないことですよ。あの男は自分の跡を隠す努力さえしなかったのです。もちろん、その必要すら認めなかったのでしょう。正確な事実はあの男しか知りますまい。だが、あなたは自分でつかんだ事実をひどく確信しておられるようだから、もうひとつ別の事実を教えてあげましょう。バーゴインは、兄と会ったあと、ボローニャのカヴール・ホテルにたった一晩しか泊まっていないのです。ホテルで、バーゴインはロックリーがフィレンツェから転送した手紙を二通受け取りました。発つときも、ほかにも手紙がくることを予想して、ホテルのフロントに自分の行き先を残しているのです」
「ヴェニスのでしょう?」
「いや、ルガーノです、コンシダインさん。わたしには正確な日附がわかっていたので、カヴール・ホテルで宿帳を調べてもらうと、ハロルド・ステビングスという人物が、発つ前に、今後の手紙の送り先を指示して行ったことがわかりました。それが『ルガーノ郵便局止め』だった。それはどういうことになるでしょう?」
「なるほど、わかります」
「そうですか? わたしにもわかるといいんだが。もっとも、わかったような感じもする。今や、わたしたちはあえて今のブルック卿が兄を殺したと考えていいでしょう。ああ、喉《のど》がからからだ。次は、あなたの見方で眺めてみることにしましょう」
「もう陸へ上がりましょう」とコンシダインはいった。「大変なことをうかがって、なんだか膝《ひざ》が抜けてしまったような感じがする、リングローズさん。悪夢を見ているような気がします」
「きっとそうでしょう。すべてあなたには初耳だということを忘れていましたから。では、帰って一杯やりましょう。それから、またつづけてもいい――酒の力で寝てしまいたいなんておっしゃらないならば」
「眠る? 二度と眠れそうにありません。その上、ミルドレッドがあの悪魔の手の中にいると考えると!」
「それはご心配いりません。あの男はミルドレッドさんを心からかわいがっているし、ミルドレッドさんのほうもしたっていますから」
医者は返事をするかわりにエンジンをかけ、やがて二人は岸に着いた。二時間も話しこんでいたわけで、岸辺はしんとして人気《ひとけ》もなかった。黒い影が船尾をかすめ、税関のランチが、黒い蛇《へび》のように、月に照らされた湖面をすべってゆき、密輸業者を探して四方に強烈な電光を投げかけた。
コンシダインのボートも呼びとめられた。しかし、彼の声と名を聞くと、ランチは親しげに「おやすみなさい」と挨拶《あいさつ》して、行ってしまった。
ハイボールを一杯やってみたけれど、リングローズはもはや相手からこれ以上今夜は話を聞けそうにないことをさとった。過去のことを聞かされて、医師は腑抜《ふぬ》けのようになっていた。今後の計画はよりいっそう医師の信用を得るかどうかにかかっていたので、さしあたり今夜は話をやめることにした。リングローズはもやを晴らし、現在の事態をあるがままにはっきりと、くわしく提示して見せたのだった。彼は翌日の夜も話をつづけることにして、そのおり自分の要求を出してみようと思っていた。
そこで、彼らは翌日まで別れることにした。翌日、コンシダインはまだぼうっとして診察し、リングローズはこれから話すべきことや、どうやったらもっとも効果的に話せるか頭をしぼっていた。
二人は夕食をともにし、その夜は雨だったので、そのあと医師の別荘に赴いた。
「ひとつきいておきたいが」とリングローズは安楽椅子に腰を落ち着けていった。開け放たれた窓には暖かい雨が降っていた。「ブルック卿が兄殺しの下手人だという推理には、今では賛成してくれますか? あの男が自分同様の人非人を買収して、ルドー少年を殺させたことは、すでにあなたに証明してみせたと思います。ついでに、あなたとミルドレッドさんを引き離したのがあの男だったということも。ところで、あの男が兄さんを殺したというわたしの見方はどう思いますか? 率直にいってくれませんか」
「あれからずうっと考えていたのです。もしあの男を知らなかったら、きっとあなたのいうとおりだと答えたでしょう。しかし、わたしも人間の性格を研究する者として、なかなか信じにくいのです。わたしは公平な性格です――たぶん病的なくらい公平な。自分自身の痛手など、人殺しに比べれば軽い次元の悪だといって、考えたくないようなところがありますね。しかし、あの子が殺されたと教えられ、しかもそれを証明されてみると、もうひとつの犯罪の可能性についてもあなたの見方に賛成せざるをえないでしょう。あの男の性格にはまるで反すると思うけど。バーゴインは無責任だが、親切で気持のいい男ですからね」
「性格については、あなたもわたしも、ある程度専門家のはずですよ」とリングローズはいった。
「どちらもその知識に大いに依存する仕事なのですから。この事件で重きをなすのは性格です。しかし、性格というやつは人間の知識を拒むところがあり、性格のある面だけ利用して、他の面を隠している人間は大勢いる。同情深くて冷酷にもなれる。人の心の秘密を見通す能力と、見通してからその心を破壊する意志を、二つながら持つこともできる。性格とか潜在意識はかくも謎なのです。今日は悲しい知らせを聞いて泣いている人間が、明日は絶対的な冷淡さで、他人に多大の悲しみを与えることもある。ブルック卿も、あなたには、親を失った甥《おい》や姪《めい》へのやさしい思いやりにみちた一面を示したでしょう。じじつ、そういう思いやりを感じたのかもしれない。鰐《わに》のそら涙というけれど、涙を流しているときは、本物の涙を流すことだってあるのです。きっと前のブルック卿は、弟は無鉄砲なとてつもない男だが、根は善良ないい人間だと思っていたでしょう。象牙細工にばからしいほどのぼせていて、たしかにお荷物ではある。だが愛すべきお荷物だ――そう考えて、いつも大目に見、助けてやられたにちがいない。バーゴインのうちには、まったく道徳的感覚の欠けた男がいることは全然さとっていなかった。人間や神に対する義務にはまるで無関心で、悪魔的天才を持ち、ときには自分の一族だろうと、だれだろうと、平然と犠牲にする男がいることをね。
バーゴインと彼の夢の実現のあいだに立ちはだかっていたものはただひとつ、無限に金が必要だということでした。だから、無限に金を確保することがあの男の目的になった。バーゴインは象牙細工以外のものにはなんの愛着もないし、財産が与えてくれる自由を手に入れるもっとも簡単な方法は、兄の爵位をのっとって、その収入を獲得することでした。その後の経過を見れば、このくらいの洞察はわけもない。しかし、わたしはさらに深くあの男の性格を探らなければならない。わたしが成功するか、しないかは、かかってあの男の性格にあるのです」
「人間はどこかに弱点があるでしょう?」とコンシダインはいった。
「必ずしもそうとはいえますまい。天才的な悪人の多くは、完璧に動く知的・論理的な頭を持っているのですからね。そういう悪党が今なお、なんの疑いもかけられずに、自由に世間を歩きまわっているのです。ブルック卿だって、そうなるかもしれない。あの男の性格には、なんの弱点もないかもしれませんよ。まあ、いずれそのうちわかるでしょう。もし弱点がなければ、わたしは失敗する。弱点があれば、たぶん捕えられるでしょう。わたしの見地からいうと、これはきわめて魅力的な例外的な事件です。ふつうは、ある行為を犯した者を見つければいいのだが、今度の場合は、それだけわかっていながら、そいつを立証しなくてはいけないのですから」
「たしかに不可能でしょうね。かりにあの日のバーゴインさんのあとを追って、ボローニャからルガーノまでたどったとしても、もう一歩踏みこんで、兄さんの死とあの男を決定的に結びつけることができるかどうか。肉体的に見ても、そういう殺人を犯せるとは思えない。前のブルック卿は大柄で、ずばぬけた力持ちだし、今のブルック卿はふつうより小柄で、ぶくぶくしていて、肉体的には弱々しい。ピストルで殺して、投げ落すことはできたかもしれないが、そういう事実がなかったことは断言できますよ。遺体は丹念に調べたし、警察医も――きわめて有能なイタリア人ですが――調べましたしね。弾痕《だんこん》は全然ありません。遺体はめちゃめちゃでしたが、その点は誓えます」
リングローズはうなずいた。
「興味深い事実ですね。じきにおわかりでしょうが、間接的にはわたしにも役に立つ。これ以上なにか方法があるかとおたずねなので、次の問題点に移りましょう。チェスで、ときどき相手に駒を動かさせなければいけない場合がありますね。今のわたしがまさにそれなのです。それによって相手の性格がいっそうわかってくるのです。じっさい、もう相手に駒を動かさせるようにしましたよ。あの男はそうされるのを拒絶して、自分から攻撃してくることもありうるが、それこそわたしの望むところです。フィレンツェでは思いどおりにやれました。ロックリーじいさんは、わたしを死んだビットンの友だちと思いこんで、全然疑いませんでしたしね。しかし、先生、わたしはただ情報を集めにだけ行ったのではありません。できれば種子を蒔《ま》きに行ったのだし、それが可能だとわかったので、蒔いて来ましたよ。来週ブルック卿が別荘に来ると、きっとロックリーとあれこれおしゃべりするでしょう。そのとき、ビットンが死んだことをロックリーに話すでしょう。すると、相手がもう知っていることがわかり、どうして知ったかということになる。そこで、『アレック・ウェスト』という人物がフィレンツェに来たことを耳にする。その名は、ビットンの検死尋問との関係で、あの男もおなじみだ。あの男はロックリーを問いつめて、じいさんがアレック・ウェストと懇意になり、一家のことをあれこれしゃべったことを知るにちがいない。そのとき、ブルック卿はどう思うでしょうか?」
「どう思うもなにも、額面どおりに話を受け取るにきまっているでしょう」
「綜合力というやつですよ、先生。綜合力というやつですよ。あなたはブルック卿がいろいろと知っていることを忘れていらっしゃる。あの男が言語道断な悪党だといった主観的な知識をいっているのではない。そういう知識は、後悔とか不安をめざめさせるという意味では、事態を複雑にすることはありますまいが、その逆の客観的な知識をいうのです。つまり、『ノーマン・フォーダイス』なる人物が、二人の悪魔を彫った象牙細工に異常に関心を持っていたというような。わたしはそのときは見られたことを後悔しましたが、今ではむしろよろこんでいます。ロックリーと話したあと、その想い出がかなり意味を持ってあの男によみがえってくるにちがいない。疑惑がめざめるに相違ない――鋭く、あざやかに。あの男はひどくふしぎに思い、おそらく少し不安に思うでしょう。深い謎めいた要素が事態に加わってくるでしょう。まさかこの世に敵がいようとは思いもかけなかっただけにね。彼が爵位から追いはらったのも、当主とその跡継ぎだけで、しかもその二人は死んでいる。その上、二人には友人もいなかった。あの男は現在だれの邪魔をしているわけでもない」
「では、わざとあの男に疑いを起させ、用心させているのですか、リングローズさん?」
「まさにそのとおり。では、なぜなのか。現在、ほかの方法では、あの男に一歩も迫ることができないからなのです。これがこの事件の興味あるユニークな面だといえるでしょう。そこでは性格が絶対的な重要性をおびてくるのです。できれば、あの男をおどかしてやりたい。だれか得体の知れぬ人間が自分の過去を探っていることをさとらせてやりたい。『アレック・ウェスト』と『ノーマン・フォーダイス』が同一人物であり、自分のことにひどく関心を持ち、熱心に探りまわっている――そう知らせてやりたい。そこですよ、あなたに登場していただきたいのは、コンシダインさん」
コンシダインはますます狐《きつね》につままれたような顔つきになった。
「あなたにはかないませんね、リングローズさん。なにを狙っているのか、まるでわからない」
「ブルック卿を狙っているんですよ。ダブル・クロスという言葉を聞いたことがありますか?」
相手はけげんそうにうなずいた。
「犯罪者の使う手段で、正直だと思わせて信用させておいて、やっつける手ですね? 一種の詐欺《さぎ》でしょう?」
「いかにもそのとおり。まだ充分あの悪党のネジを巻いてないように思うので、ぜひ助けてほしいのです。じつはね、ブルック卿にダブル・クロスをやってほしいのです。犯罪者が使うからといって、正直者が同じ手を使っていけないとはいえないでしょう。なみたいていのやり方では、あんな悪魔みたいなやつと戦えませんからね。そんなやり方はいやだとはお思いにならないでしょうね?」
「とんでもない。あなたを信じていますから。今ではあの男がおっしゃるとおりの人間だと信じています。それを証明するお手伝いができるのなら、よろこんでやりましょう。それが死者に対するわたしの義務でもあると思っています」
「ご立派です、コンシダインさん。それなら、わたしが狙っていると、ブルック卿に警告していただきたい。詮索好きな男がせっせとブルック家の過去を堀りかえし、あなたのここ数年の動きに関することはなんにでも、ひどく関心を持っていると、はっきり知らせてやってください。もしなんでしたら、わたしがその手紙を口述しましょう。適切な言葉を選ぶことがことに大切です。あの男に弱点があるとすれば、その手紙でそこをつこうというわけですからね。その手紙に相手がどう出るかに、すべてがかかっているのです」
「あなたがつけていると警告するわけですね?しかし、もしあの男が逃げだしたら?」
「そんなことはしないでしょう。説明すると、情勢はこうなのです。ブルック卿自身が手伝ってくれないかぎりは、わたしは動きようがないのです。手伝ってくれれば、あの男を起訴することができるかもしれません。もし手伝ってくれなければ、この冬ベレアズ夫人から最初話を聞いたときと、少しも変りはないのです。だから、これからおもしろいことがはじまるという次第です」
「おもしろいこと?」
「ええ、わたしの見地からすればね。わたしには仕事がいつも最大の楽しみでした――最大の苦しみでもありましたが。それこそ人生が生きるに値するかどうかの基準です。つまり、仕事がよろこびとともに苦しみを与えるということが。わたしはブルック卿におまえの人殺しをあばいたぞと知らせてやりたいのです。そうやって、やつに馴れない敵国内で戦争をしかけさせたい。向うが攻勢に出て、攻撃して来なければ困るのです。気の毒な兄さんを扱ったと同じやり口で、わたしを扱わさせることが必要なのです。有罪を認めさせるには、それ以外に絶対に方法はない。もちろん、前のブルック卿は屠所《としょ》に引かれる羊のように殺害され、わたしは相手がどんな手を使おうとも絶対に殺されぬ覚悟で行くのですから、その点はちがいますがね。だが、どうやって殺したかつきとめるには、自分が殺されるぎりぎりまでやってみるしかない。わたしは自分をあの悪党の手に投げ出そうと思います。むろん、警戒は怠りませんが。スコールを待ちうけていて、いざスコールが来たら、用意がととのっているようにするわけです。こちらが用意していることを向うに気づかれてはいけませんけどね」
「そんな危険千万な、リングローズさん!」
「危険? 危険であってほしいですね。この計画がうまくいって、わたしが生命を落す寸前まで持っていければしめたものだ。しかし、まだ道は遠いですよ。むろん、わたしは、あの男が前回の大成功を当てにして、もう一度同じ手を使ってくれることを祈っていますがね。しかし、そこであの男の性格が決め手になってくる。あの男を断崖までは連れ出せるが、わたしを突き落させることはむずかしい。それは相手の心理の問題で、あいつが自分にとっては損であり、わたしにとっては得《とく》な手をうってくれるかどうかに、すべてがかかっているのです」
コンシダインは額《ひたい》の汗をぬぐい、椅子から立ち上がって、二、三度室内を大股に行き来した。
「なるほど、わかってきましたよ。わかってはきましたが、ほかになにか方法がないのですか?」
「あったら、教えてくれませんか」
「今あなたは、すべてはあの男が自分にとっては、いや、あなたにとっては、得な手をうってくれるかどうかにかかっているとおっしゃった。すると、あの男にとって得な手はなんですか?」
「つきが落ちなければ、全然わたしを無視するでしょう。それが、あの男にとって得な手です。わたしやわたしのしていることを無視していれば、こっちはお手上げで、あの男はすこぶる安全だ。あの男がルガーノへ行ったという事実以上のことは、わたしにはまったく立証できません。ルガーノのどこに、何日間滞在したかくらいのことは、きっと調べられるでしょう。そんなのはどうということはないし、じっさい役にはたちますまい。あの男は単独で兄を殺害した。そこまで推定しても、では、どうやって殺したかを探り出さなくてはいけないのです。ところが、向うから手を貸してくれないかぎり、絶対にそれは不可能ですからね」
「あなた方警察の人たちは、いわゆる犯罪を再現してみることがありませんか?」
「ええ、あります。わたしもやりました。大ざっぱにいって、むずかしいことではありません。ビューズ兄弟はボローニャで別れ、前のブルック卿はメナジオへ帰宅する。二日して、バーゴインからまた手紙がくる――ルガーノからね。なんと書いたかは見当がつきません。ただ、作り話をこしらえて、両方の知っているある場所で内密に会いたい、と書いたことはまちがいないでしょう。なにか重大なことを知らせたのでしょうね。あるいは、コンシダインさん、あなたについての不名誉な噂《うわさ》を耳にして、ミルドレッドさんのこともあるから、ぜひ知らせておきたいなんていったかもしれません。あの男のことだ、兄をだますためなら、どんな話でもでっちあげますよ。わけのないことだ。そこで、ブルック卿は馬に乗って『鷲の食料室』に行き、殺される。それから、バーゴインは馬に眼隠しして、主人のあとを追わせる。そうやって一気に自殺と思いこませるのです。あなたも一杯喰わされましたがね。『鷲の食料室』の二人の会見には、わたしには重要と思われるいろいろとこまかなことがあるのですが、それはお話する必要もないでしょう。とにかく、仕事を片づけると、バーゴインは――たぶんまだ『ステピングズ』という名だったでしょうが――ルガーノに引き返し、もう一日そこに滞在し、たぶん遺体が見つかったことを耳にして、それから帰宅する。まあ、そんなところでしょう。もうひとつ問題点がある。ブルック卿の持物だったこの別荘とは、電話で連絡できますか?」
「ええ、コモでも、ミラノでも、どこへでも通じます」
「すると、問題がひとつ片づいた。というのはね、バーゴインが文書で約束して兄と会ったということは手紙を出したということになるが、その手紙はよほど注意しないかぎり、具合の悪いときに、あとでひょっこり出てくるものですからね。手紙というのは、そういうもんです。むろん、バーゴインは必ず手紙を燃やしてくれと兄さんに頼んだかもしれないし、兄さんが約束の場所にその手紙を持って来ざるをえないようなことを書いたかもしれません。あの男のことだ。必要とあらば、それくらいこまかい点まで気をつけたでしょう。しかし、電話があって、ルガーノから兄さんに電話できたということなら、じっさいそうしたと考えていい。さて、コンシダインさん、あの男に手紙を書いてもらう件ですが――」
コンシダインはためらった。
「いやな仕事だな。わたしのほうはいいが、あなたのことが心配で、リングローズさん」
「今しばらくフォーダイスと呼んでくれませんか」
「では、フォーダイスさん。あの男に殺されてしまうかもしれませんよ。殺してくれというようなものじゃありませんか」
リングローズは医者の腕を軽くたたいた。
「人生というやつは、角度を変えると、おどろくほどちがって見えますよ。われわれは人のことだと、まるで想像力を失うようですね。もしあなたが伝染病にかかった家に往診に行こうとして、わたしがうつるかもしれないからおやめなさいと注意したら、あなたはなんていいますか? もしわたしが出征する兵隊に出会って、怪我をするかもしれないから、家にいたらどうかと忠告したら、兵隊はなんて答えますか?」
コンシダインは少し気味の悪い笑い方をして、自分の机のほうへ歩み寄った。
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第十七章 手紙とその返事
リングローズは五分ほど黙って葉巻をふかしていた。コンシダインはそのあいだペンを手にしてすわっていた。やがて、リングローズはたずねた。
「この手紙は誠実そのものに見えなければいけません。申しわけないが、あなたには嘘《うそ》をついてもらう必要がある。しかも、真実らしい嘘を。そこで、まずブルック卿との現在の関係についてうかがっておきましょう。あの男がミルドレッドさんとの結婚を断りに来て以来、あの男と会ったり、文通をしたことがありますか?」
「いいえ、全然」
「別れるとき、あの男を非難したり、口論したりはしなかったでしょうね? なかよく別れたのですね?」
「ええ、そのとおりです。あの男もわたしに劣らず残念そうに見えました。わたしは疑いもしませんでした。なにもかも自然そのものでしたからね」
「もちろん、あいつは相手の人柄を心得ていて、あなたなら黙って承知してくれると思っていたのですよ。では、ブルック卿のためを思って心から書いたというふうに書きましょう。ついでながら、この手紙はうまく時間をはかって出す必要がある。ブルック・ノートンあてに出し、あの男が出かけたあと、向うに着くようにする。手紙はあとを追いかけて、本人がフィレンツェに着いて一、二日後に、届く。そうすれば、ロックリーじいさんから聞いた不審な男の噂《うわさ》は完全になる。いや、そうならなくては困るのだ。むろん、あいつがミルドレッドさんを連れずに来たときは――いや、その問題は適当な時期まで待ちましょう」
「とにかく、わたしはミルドレッドさんに会わなくては。もう二度とあの男に手紙をとられたりしませんよ。できれば、あの人にもそうさせます」
「結構ですな。では、はじめましょう、先生」
リングローズは葉巻の吸いさしを窓から投げすてた。雨はすでにやみ、星が輝いていた。木々の枝からは雨のしずくがたれていた。リングローズは相手が筆記できるようにゆっくりしゃべりはじめた。
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ブルック卿
大変奇妙なことがメナジオで起こりました。あなたに関係のあることのように思われるので、お知らせいたします。わたしにはよくわかりかねますが、あなたにならその意味がおわかりかもしれません。あるいは、なんの意味もないことかもしれません。しかし、なんとなく気になる点もありますので、お手紙を差し上げる次第です。もし重要なことでなかったら、ご放念くださるよう。
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リングローズは口述をやめた。
「今までこの男に手紙を書かれたことがあると思いますが、もしあなたらしくない言葉とか言い方に気がついたら、自分でなおしてくれませんか」
「今のところはこれで結構です」とコンシダインは答え、リングローズは先へ進んだ。
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先日ラリオ・ホテルにひとりの男がやって来ました。ノーマン・フォーダイスと名のるごく普通の旅行者です。男は来た翌日、風邪と称してわたしに往診を乞いました。しかし、どこにも悪いところはありません。色は浅黒く、ひげはなく、陽気な、愛想のいい態度の男です。背は中背よりやや低め、年は五十五歳くらい。髪は白くなりかけていますが、頑丈で精力的な感じです。下層中流階級の出身かと思われますが、上品で、礼儀正しく、愉快な人物です。
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コンシダインは思わずくすくす笑いだした。
「だいたい正確じゃありませんか、コンシダインさん? 俗にいう、他人の眼で自分を見るとこうなるんです」
リングローズは口述しつづけた。
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最初からこの男はわたしにうるさくつきまとい、あなたのご一家に異常な関心を示しました。ある程度は知っていて、さらになんでも知りたがるのです。最初のうち、わたしはこの男の好奇心を満足させるようなことをいわなかったのですが、やがて向うから、ブルック・ノートンのお邸に伺ったことがあること、男爵自らの親切なおもてなしにあずかったこと、などを話してくれました。象牙細工の売りこみに伺って、買っていただいたといっておりました。
この男は、わたしが親しくさせていただいたお兄さまについて、とくに知りたがっているようでした。ある晩この男と別れたあと、二人で話したことを考えてみると、わたしは、この男のメナジオでの真の関心は、故ブルック卿のご日常や、亡くなられた当時の模様、ご子息のルドヴィクさまのことに関して、わたしからどんな情報でも聞き出そうということにあるらしいとわかりました。むろん、お兄さまのことに関しては、山で事故死されたと話しただけですが。しかし、今にして思うと、いったいなぜあんなことをきくのかふしぎになり、本人がいうように、あなたがフォーダイスなる男をほんとうにご存知かどうか、疑問に思われてまいりました。そこで、わたしは口をつつしむようになりました。かわりに、今度はわたしのほうが興味を感じはじめ、フォーダイスの正体をあばこうとしましたが、失敗に終りました。今は隠退しているが、むかしセールスマンだったという以外、なにも語ってくれないのです。
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コンシダインは書きとめるのをやめて、たずねた。
「ちょっと待ってください。あなたが『鷲の食料室』に長いこといたと書いてはどうですか?」
「いや、それは絶対にまずい。『鷲の食料室』は最後の切札です。運がよければ、一、二週間したら、たっぷりその話を聞かせてあげますよ。さしあたり、この手紙ではこまかいことはいりません。長さはこれでもう充分。差し支えなかったら、あと二つだけあの男をリングに引き出せそうなことをつけ加えたいのですが」
「では、どうぞ」
リングローズは先へ進んだ。
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フォーダイスはあなたがフィレンツェに別荘をお持ちのことを知っていて、そちらへ行くといって、数日前ここを発ちました。三日ほど留守にして、戻って来たときは、あなたやご一家のことには関心を失ったように見えました。今日はしばらくルガーノに滞在するといって出かけて行きました。また戻って来るかどうかは、わかりません。
どうもばかげた手紙になりましたが、そうお思いなら、ご返事はいりません。しかし、とにかく、お手紙を差し上げなくてはいけないような気がした次第です。
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リングローズはちょっと黙ったが、やがて、いつもどおりに署名してくれといった。
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「あなたの忠実なる
アーネスト・コンシダイン」
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医者はその言葉をくりかえした。
「さて、今度は追伸です」とリングローズはいった。
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追伸。フォーダイスから、ミルドレッドさんはコーン・ウォールの人と婚約されたらしいとうかがいました。もし事実なら、わたしが心からおめでとうと申しているとお伝えください。
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コンシダインはこの追伸にむっとした。
「いったい、なぜ、そんなことを書かなくてはいけないのですか?」
「そう書くのが当然で、自然だからですよ。ブルック卿はわたしがミルドレッドさんのことをあなたに話しそうだと知っている。もし、そう書かなければ、わたしがあなたに心変りのことを話し、あなたから真相を聞かされたかもしれないと、すぐに見抜くでしょう。こういう追伸を入れておけば、あの男の小細工がまだあなたの耳に届いていないと思うにちがいありません。さもないと、あの男は疑いを持ちますよ。それに、お二人の仲をさいたのは自分だとあなたに知られたと一瞬でも思ったら、この手紙全体を疑ってくるでしょう。わたしのフィレンツェ行きにふれたのは、『アレック・ウェスト』と『ノーマン・フォーダイス』が、得体の知れぬ同一人物の偽名だとはっきりわからせるためです。そうやっても、あの男に相手が何者か突きとめる気を起させられなかったら、万事休すです」
「なるほど、よくわかりました」
「この手紙であいつを挑発できると思いますか、コンシダインさん?」
「できると思いますね」
「しかし、手紙を無視さえすれば、あいつは永遠に安全なのですよ」
「しかし、向うは自分が安全だと確信できますまい」
「いや、じっくり考えれば、確信できますよ。こちらは、あの男が戦闘的で、唯一の安全な方法――つまり、寝そべっていることですが――を選ばないように祈るほかはないのです」
「しかし、得体の知れぬ男に自分の人生でもっとも危険な秘密の個所をさんざん探られて、闘わない人間なんていませんよ、フォーダイスさん」
「ずばぬけた利口な男ならそうするでしょう。なにもしないでいるかぎりは安全だとわかりますからね。しかし、あの男は性格的にとてもそんな真似はできかねるといいのですが。この手紙を受け取ったとき、あの男はわたしがルガーノにいることを知るでしょう。そこで、そのときの情勢を、あの男の立場からちょっと考えてみていただきたい。われわれのこのダブル・クロスは、ブルック卿の気持をどの程度動かすか? じっとしていたい誘惑はさだめし非常に大きいにちがいない。だが、こういう情勢は、きっともうひとつのより大きな誘惑にやつを駆りたてるでしょう。
あなたの手紙を受け取ると、すぐさまあの男は、兄の死亡した問題の日に自分がルガーノにいたことをわたしが立証しようとしているな、と推測するでしょう。どこに泊まったかはわからなくても、ルガーノにいたことは立証できるとさとるでしょう。泊まったホテルにしても、ボローニャのときと同様に『ハロルド・ステビングズ』という名前で泊まったのだとしたら、そのホテルを見つけるのは、時間さえかければわけはない。別の名前を使ったかもしれないが、その場合はさらに時間がかかるでしょう。とにかく、手紙がボローニャからそちらに転送されているのだから、そちらにいたことははっきりする。問題なのはそれだけだ。
そこで、ブルック卿のほうはわたしがルガーノにいることを知っているが、わたしのほうは、あなたがあいつに手紙を出したことも、メナジオで聞きこみをやったことをあなたが連絡したことも知らないことになる。ましてや、わたしとアレック・ウェストが同一人物だとブルック卿に知られていようとは、夢にも思わない。アレック・ウェストがフィレンツェに来たことは、あの男にはもうわかっている。ところが、わたし、ノーマン・フォーダイスは、ブルック卿がこのわたしとビットンを自殺に追いこんだ人物が同一だと知っていようとは、全然気がついていない。そこで、コンシダインさん、ブルック卿は、自分のことにひどく関心を持っているが、まさか|相手にそれを知られているとは感づいていないくだんの男《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を見つけにルガーノに来るわけです――少なくとも、そう希望しますよ。そうして、ルガーノで、こちらより何十倍も有利な立場で、わたしと会うわけだ。わたしが自分の秘密の敵であることを知っていて、しかもわたしにはそのことを知らないふりをして、依然として友だちのように見せかけながらね。こういう情勢は、もしそれがほんとうなら、望みどおりにわたしを始末できる途方もない力を与えることになるでしょう。もちろん、わたしは最後の瞬間まで、あの男の都合のいいように動くのです」
「それでは行き過ぎですよ」
「まあ、まかせてください、コンシダインさん。もし失敗したら、今度はあなたにやっていただこう。残る問題は、いつあなたが手紙を送るかだが、それはあの男がブルック・ノートンを発ったことがわかるまで未定です」
「たぶん、タイムズ紙の『宮廷欄』にのるでしょう。男爵は新聞社に知らせたりしないでしょうけど、執事が知らせると思いますよ。いつもそうなのです」
「そうか、そのために執事がいるわけですからね。タイムズがこちらに着くのは発行の翌日だから、それでいいでしょう」
二人は別れ、三日後、待ちに待った記事が出た。「ブルック卿 イタリアに発つ」
そこで、コンシダインはブルック・ノートンあてに手紙を出し、リングローズはルガーノへ行く準備をした。しかし、その前に「鷲の食料室」に二日をさき、断崖の棚《たな》の上にちょこんと乗っているような淋しい高台の草地をくわしく調査した。「鷲の食料室」には、扱いやすいので折紙つきの騾馬《らば》にまたがって、ひとりで行った。そのことを知るのはコンシダインだけだった。
「時間の無駄かもしれないが、逆に大いに役に立つかもしれない」とリングローズはいった。「また直感がひらめくのですよ、コンシダインさん。アメリカ人のうまい言い方を借りれば、『虫の知らせ』というやつでね」
「あの男が応戦してくるというんですか?」
「考えれば考えるほど、そういう気がしてくる。バーゴインは敵もなかなか喰えないやつだと思っているでしょう。今までは自分の半分もずる賢いやつに会ったことがないのだから、こんなふうに挑戦されると、自尊心にかかわると感じるかもしれない。快活な男だが、闘争心をひめているかもしれない。わたしと同様に、自分と同等の人間と戦ってみたいという情熱の持主でないとはかぎらない。逆に、わたしのことを自分より数段下の人間だと思うかもしれない。じっさい、そうかもしれないが。とにかく、ぜひそう考えてほしいものですよ」
「しかし、戦うからには、あなたを過小評価するほどの馬鹿じゃないでしょう」
「最初はね。しかし、わたしは自分の頭について、まちがった印象を相手に与えさせるつもりです。自分をじっさいより間抜けに思わせるのは、すこぶる簡単だ」
「ひとつだけ重要な問題がありますよ。男爵はあなたがなにを狙っているのか知りたがるでしょう。もしまっこうからきかれたら、いったい、なんて答えます?」
リングローズはからからと笑った。
「この決闘がそういう形で演じられるとは思えませんね。だが、もうひとつ問題がある。われわれは何事も運命にまかせてはならない。ブルック卿はあなたの手紙に返事をよこすかもしれない。それとも、もっと情報を得ようとして会いに来るかもしれない。かりに来たとしたら、さんざん質問されますよ。闘う決心をしたときは、ルガーノへ行く途中寄るでしょう。その節は、絶対に嘘をついてほしいことがいくつかある。申しわけないが、そうしてもらわなければ。嘘つきには嘘で立ち向わなければならないのです。まず、わたしがミルドレッドさんをすてた医者はあなただと知らないことを教えてやってください。わたしは巧みにそういう話をあなたにしなかった。だから、あなたはその点はなにも知らない――そうしてほしいのです。次に、前のブルック卿が墜落した場所がどこか、わたしは全然知らないし、その件にはなんの関心も示さなかったと、そう請けあってほしい。しかし、ルドヴィク少年については大いに関心を示した、といっていただきたい。さしあたり、そこのところをぜひあの男に考えさせてやりたいのです」
「あの男は来ないかもしれませんよ」
「まず来ないでしょう。来るとすれば、きっと真直ぐルガーノへ行くでしょう。返事が来たら、すぐにわたしのところに送ってください」
「わたしが持って行きますよ、リング、いや、フォーダイスさん」
「とんでもない――どういう内容の手紙だろうとね。わたしとあなたでは、それぞれ別の返事を用意しているかもしれませんからね。万が一ルガーノであいつに出会いでもしたひには、せっかくの計画もおじゃんですよ」
リングローズは医師にその他いろいろといいふくめておいた。やがて、ブルック卿がイギリスを出発したことが新聞に報じられ、手紙がブルック・ノートンに出されて二日後に、リングローズは医師に別れを告げ、姿をくらました。そして、二十四時間後、ルガーノのヴィクトリア・ホテルの住所を知らせてきた。
リングローズというすばらしいオーロラが消えはしたが、コンシダインは自分の生活の中に新しい大きな希望が芽生えてくるのを見出すようになった。彼にとって世界は一変し、孤独な灰色の未来が、今や歩みを速め、蕾《つぼみ》をつけ、開花しそうだった。タイムズの『宮廷欄』にミルドレッド・ビューズがおじとともにフィレンツェに発ったことを知ると、彼はいっそう待ち焦《こが》れ、興奮をおさえきれなかった。
まさしく彼の予想どおりの日に、ブルック卿からの返事が到着した。じっさい、それは予想より早かったというべきだったかもしれない。というのは、彼はブルック卿の東洋的な時間への侮蔑に慣れていたのだから。
返事が届いたとき、彼はリングローズのためには心から残念に思ったが、自分のためにはよろこんだ。ミルドレッドの婚約の噂は、深く彼の不安を掻《か》きたてていたからだ。婚約もありうることに思えたし、自分が裏切られたと信じているミルドレッドが、歳月もたったことでもあり、ほかの男を愛するようになったとしても無理はない。その上、おじの影響も大きいにちがいない。危険は迫っていたけれどそう早急のことではないようだ。
ブルック卿はこう書いてきた。
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フィレンツェ、ピア荘
コンシダイン様
貴翰《きかん》拝受。内容に鑑みて、急いでご返事するとともに、ご好意に感謝いたします。私が期待していたわれわれのあいだの家族的結びつきが実現しなかったことは、つねに私の衷心より残念に思うところでありました。しかし、女心というものは、つねに理解しがたいものなのです。ミルドレッドは現在すばらしい男性から求婚されておりますが、まだ当人の気持は聞いておりません。コーンウォール州のポルバースのニコラス・トレメインという青年で、将来はなばなしい活躍をすることは期待できないとしても、名門の出身です。ミルドレッドを献身的に愛し、かつ財産もあることゆえ、遠からず姪《めい》も承知するでしょう。
ところで、あなたのお手紙の件ですが、そういう名前の人物には、心当りがあります。その男から買い取ったすばらしい象牙細工のこともよく覚えています。その男より象牙のほうが何十倍も私には関心がありました。その人物がなぜ私の一家に関心を持っているのか、まったく理由がわかりません。あるいは、その男からまたなにか私のところにいってくるでしょう。上流階級や地主階級を扱った紳士録かなにかを予約出版している、例の奇妙な手合いのひとりかもしれません。もしそうなら、きっとその本の広告か注文書を送りつけてくるでしょう。
このなつかしい古い都には一か月か、あるいはもっといる予定です。姪が片づいた暁には、コモ湖地方を再訪し、またあなたとの交遊を復活させたいと望んでおりますが、ミルドレッドを、永遠に悲しみを蘇らせるにちがいない土地に連れて来るのは躊躇《ちゅうちょ》せざるをえません。あなたのように感受性ゆたかな方なら、その間の事情はただちにご了承いただけることでしょう。
あなたの誠実なる ブルック
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十分後、この手紙はルガーノに発送され、リングローズは翌朝それを受け取った。彼は読み終えると、手紙をポケットに入れ、湖の水ぎわまでぶらぶらと散歩した。そこで腰をおろし、もう一度読みなおした。失望と敵もさる者だという讃嘆の念がまじりあい、そうした気持の背後では、この人を喰ったような書き方にもかかわらず、まだこれが最後ではないという無意識の信念が根強く残っていた。だが、さしあたり、なにもできないのもたしかである。リングローズはまたもや足下の大地が崩れ落ち、出発したところから一歩も目指す地点に近づいていないような気持を味わった。他方では、そんなふうに思うのは、事実を踏まえない悲観的な態度だという気もした。これがはじめてではなかったが、彼はコンシダインの手紙を受け取ったときのブルック卿の心の動きを思いやり、医師と最後に会ったときに自分が口にした考えを思い出した。希望がよみがえった。ブルック卿の手紙はコンシダインだけに読ませるために書かれたのだ。この手紙を書いているとき、ブルック卿は、ノーマン・フォーダイス、ないしはその名のもとで動いている正体不明の男とはかかわりのないはっきりした目的を持っていた。コンシダインはブルック卿に奇妙な出来事のことを書きはしたが、むろんその出来事になんら不吉な意味は与えていない。当然、相手も同じ調子で返事を書くだろう。ブルック卿は、この情報の持つ個人的意味とか、情報を耳にして自分がとろうとしている手段を、コンシダインであれ、だれであれ、明らかにしたくないだろう。コンシダインに対しては、そんな出来事はなんでもないふりをすることは大いにありうるにちがいない。しかし、それがじっさいに彼がなにもしないという証拠にはなるまい。ブルック卿ほどの天才だ。無関心な態度をよそおうことにしたかもしれないではないか。いずれわかるだろう。にもかかわらず、純然たる理性的な眼で眺めたとき、フィレンツェからのこの手紙には、なんの真相をうかがうこともできなかった。コンシダインの手紙のうち、ロックリーの噂話と関連する部分はそのままであり、ブルック卿がどんな影響を受けたか、あるいはそれに対してどういう決意をかためたかはいっさい不明だった。
リングローズは一時間ほどじっと考えていたが、やがて汽船に乗ってさらに一時間ばかり湖上で過ごし、岸辺にある小さな港にいくつか出入りした。ルガーノで聞きこみをすることはつつしんでいた。じっさい、その必要がなかったからだ。事件の日、ボローニャから仮名のブルック卿あてに手紙が転送されたという証拠を彼はつかんでいた。
昼食をとりにホテルに戻ってから、町の大通りを歩いているときに、リングローズは骨董《こっとう》店のショーウインドーを覗《のぞ》いているブルック卿にばったり出喰わした。相手は挑戦を受けたのだ。リングローズは自分を探しているのを知りながら歩きつづけ、相手に気づかないふりをした。と、よろこびの声があがり、親しげに呼びかけられた。
「おや! フォーダイスさんじゃありませんか!」
リングローズは振り向いて、ぎくりとし、かすかに狼狽《ろうばい》をまじえた驚きの表情をしてみせた。それから、帽子を脱ぎ、手を差し出した男爵と心から握手した。
「お変りありませんか、男爵? お目にかかれて光栄です」と彼は挨拶した。
リングローズは恭々《うやうや》しく、かつにこやかに、ブルック卿のほうは思いがけず会えたことをいかにも好人物らしくよろこんで、挑戦者たちは各自の役割を演じてみせた。彼らはきそって愛想よく振る舞い、相手が嘘《うそ》をついているのを承知の上で、さも興味ありそうにその言葉に耳を傾けた。
この偉大なる喜劇は、双方の丁重なる挨拶からはじまった。ブルック卿はいつものように象牙細工あさりに来たと述べ、ノーマン・フォーダイス氏は、かつて自分と同じ商売で、イギリスの某会社のためにイタリアでの注文取りを担当しているさる友人と外国旅行をしているところだと説明した。しかし、この友だちは奥さんの病気で呼び返され、わたしも淋しいので、今週の末にはイギリスに帰るつもりです。ローマやフィレンツェには行きませんでしたが、トリノのほうがおもしろそうですね、と。
こうして十分ばかりしゃべったあと、リングローズはヴィクトリア・ホテルのよさをほめちぎり、ブルック卿を晩餐《ばんさん》に招待した。わたしのような者がご招待するのは失礼かとは存じますが、ブルック・ノートンでのおもてなしをいささかでもお返しできれば、これにまさる光栄はありません。彼は男爵がこの招待を受けるにちがいないと承知していたが、果してそうなった。やがて、二人はたがいに思惑をひめて別れたが、それぞれ相手の胸のうちを読み取ろうと躍起になり、次の一戦を思いめぐらし、相手の知らない秘密の情報を胸におさめていた。どちらかがかりに相手の情報の内容をすっかり承知していたとしたら、やがて彼らのあいだで演じられようとしている戦いも、ちがった結果をもたらしたにちがいない。
リングローズが十ヤードも行かないうちに、ブルック卿がまたちょっと戻ってきた。
「ところで、いい忘れたが、わたしはお忍びでこちらに来ています。イタリア人ときたひにはやたらに貴族をありがたがるので、わたしはいつも隠しているのです。ただの『ビューズ氏』ということになっていますから、そのおつもりで」
「かしこまいりました」とリングローズは返事した。
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第十八章 晩餐会
リングローズは晩餐までまだ数時間暇があるのを歓迎した。今から計画をたて、行動方針をきめる必要があったからだ。しかし、行動に関するかぎりでは、ブルック卿に主導権をとらせる以外に方法はない。こちらのしようとしていることも、苦もなく相手に裏をかかれるおそれがある。だが、最終目標に関しては、自分も敵側も同じことを考えているだろうから、望みどおりになるものと仮定して、計画を進めることにした。彼はコンシダインあてに、ブルック卿がルガーノにいることを知らせた短い手紙をしたため、投函した。
理論の面でも、検討を試みた。ブルック卿と会う前に、二つの問題点について大体の見通しを持っておくことが必要だったのだ。ブルック卿がなにを考えているか、さらにはブルック卿が彼の意図をどう想像しているか、ぜひとも知りたかった。
第一の問題点は、相手がどの程度今度のことで当惑しているかということだった。ブルック卿は今では正体不明の人間が――明らかに興信所の調査員か私立探偵が――ほぼ九か月にわたって自分の身辺を洗っていることは気づいている。この正体不明の男はアーサー・ビットンとブルック卿の過去の関係をさとっており、どういう手段を用いたかは不明だが、明らかにビットンを墓場へ追いつめた。やがて、男はブルック・ノートンにあらわれて、象牙細工の売込みを口実に、ブルック卿と近づきになった。例の悪魔の彫刻の一件は、その後の出来事から考えて、ブルック卿にはすこぶる重要だったにちがいない。それはこの謎《なぞ》の男と姿をくらましたビットンの友だちとが同一であることを裏書きし、ビットンと死んだ少年とのあいだの出来事に関しても、おどろくべき知識を持っていたことを示しているのである。「アレック・ウェスト」と「ノーマン・フォーダイス」が同一人物であることは、今ではブルック卿も知っており、その人物が「アレック・ウェスト」として、ロックリーじいさんからいくつかのきわめて重要な事実を聞き出したことも知っているはずだ。だが、聞き出した情報がどの程度のものであれ、コンシダインからの手紙は、その男の暗躍に対する決定的な証拠となったことは疑いない。
コンシダインへの返事の中で、ブルック卿はその男の行動などとるにたらず、どうするつもりもないと述べていた。が、じっさいは、ただちにルガーノへやってきて、その詮索《せんさく》好きな正体不明の男と会い、なんらかの折りあいをつけるか、その活動をやめさせる手段を講じようとしているのだ。
ブルック卿はきっと警戒し、と同時にすこぶる好奇心を抱いているにちがいない。正体不明の男は「かっかとして」きている。たしかに男はルドヴィク少年の死について多くのことを知っているにちがいない。もっとも、生きている人間でその秘密を知っているのはブルック卿以外にいないのだから、男がルドヴィクの父親の死因についてなにも知らないことも明らかだ。コンシダイン医師はブルック卿あての手紙の中で、その死については世間に発表されたこと以上のことはなにもフォーダイスにはしゃべらなかったと、はっきり書いているではないか。だから、男は前のブルック卿は不慮の事故に会ったとしか想像できるはずがない。だが、ブルック卿はこうも考えるかもしれない。つまり、相手はルドヴィクの死についてくわしいいきさつを知っており、その死は明らかに自分と関係があると推測している以上、あの子を殺させるような人間なら、自分の兄を同じように扱うことはなんでもないだろう。したがって、あの男はその間の事情を調べにイタリアに来たのかもしれないと。
この得体の知れぬ男がなぜこんなに熱心に探っているか、という小さな問題も、少なからずブルック卿を当惑させているにちがいない。ブルック卿は、まずその点から解明しそうに思われる。というのは、リングローズが外部の世界とどうつながり、どの程度それと接触しているかは、たしかに考えてみなければならないからだ。ブルック卿は、リングローズが何者かということばかりでなく、だれのために働いているのかも知りたがっているだろう。彼が独力で、まったく自分自身のために行動しているなどということは、ブルック卿は思ってもみないにちがいない。真の敵はリングローズの背後にいると考えて、ブルック卿は警戒するかもしれないが、これこそリングローズがもっとも回避したいことだった。かといって、自分から事実はこうだと明らかにすることは不可能である。彼は先方の攻撃を誘うように策動するほかはなかった。
第二の問題点はこうである。ブルック卿は相手がなにを考えているか、正確に知りたがっているだろう。敵は今なお「ノーマン・フォーダイス」と名乗っていて、明らかに今後もそうする肚《はら》のようだ。「フォーダイス」は無力らしいが、自分の知らない情報源をもっているかもしれない。「フォーダイス」はボローニャからルガーノまで、事件の当日の自分の行動をたどってきた。なぜなら、自分はそこへ手紙を転送させたのだから。しかし、敵はそれ以上なにがつかめるだろう。ブルック卿はそのことを探りに晩餐にやってくるわけだ。だが、自分は潔白のふりをしながら、どうやってブルック卿がそれを探り出そうとするのか、リングローズはまだ予想もつかなかった。それはまったくブルック卿の攻撃の仕方によるほかはないのであり、その点はまだ不明だった。なぜなら、卿の心理状態は今なお予測できないからである。リングローズの唯一の望みは、晩餐の席上で二人が出会ったときにそなえて考えた単純な計略が成功し、ブルック卿にわざと情報を与えてやることしかないのだった。とはいえ、あの切れ者が相手では、この罠《わな》が無駄に終る可能性もあるだろう。
リングローズはホテルの個人用の居間を借りてあり、そこに晩餐を運ばせることにした。
晩餐の時間になったとき、彼は窓ぎわの机に向って手紙を書いていた。ホテルの便箋《びんせん》で一枚書き終り、二枚目の半分を書いていたとき、ブルック卿の到着が告げられた。彼は少々おどろいて立ち上がり、ことさらに書きかけの手紙に吸取紙をのせた。
「ビューズさん、ようこそおいでくださいました!」と、手を差し出したブルック卿と握手した。それから、給仕のほうを振り向いて、「ビューズさまにアペリチーフを。五分したら食事にする」
やがて、カクテルが運ばれて来るまで客とおしゃべりし、自分の分をあけると、ちょっと失礼します、といった。
「時間に気がつきませんでして。ちょっと着替えをして来ます。略服で失礼させていただきますよ。なにしろ軽装で旅行しているものですから」
ウェイターが去ったあと、彼も部屋を離れ、寝室に行って、黒の上着に黒のネクタイをつけ、髪にブラシをかけた。七分後、部屋に戻って来て、机のほうに行った。その間、ブルック卿は、自分が突然入って来てリングローズが少々狼狽したそぶりに気づいていたし、吸取紙で手紙を隠したことも見落していなかった。そのあと着換えに部屋を出るまでしゃべっていたので、リングローズが書きかけの手紙のことは忘れてしまったと、ブルック卿は思ったのかもしれない。とにかく、リングローズは相手にそう思わせるようにしむけたのだった。
室内にひとりきりになると、ブルック卿は吸取紙を注意深く持ちあげて、書きかけの手紙を読んでみた。手紙にはこうあった。
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ルガーノ ヴィクトリア・ホテル
愛する妻よ
ブリッドポートのアーサー・ビットンの一件からはじまった驚くべき発見も、今や終ろうとするところだ。ブルック卿が兄を殺したことはほぼ疑いない。やがて、小生の手で詳細が判明するにちがいない。ブルック卿は心配して、ここにやって来た。小生は町でばったり出会ったので、今夜食事をともにすることにした。驚くべき敏捷《びんしょう》な男だから、小生もできるだけ上手に扱う必要がある。傑作なことに、この世のだれひとりとして、あの男がまだ縛《しば》り首にされずにいる最大の悪党だということを知らないし、小生がやつを追跡していることを知らないのだ。スコットランド・ヤードが知ったら口をあんぐり開けるだろう。明日は「鷲の食料室」へ行く。そこは山の中にあって、忌むべき犯行が――
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ブルック卿は慎重に手紙をもとに戻し、ぴたりと元通りに吸取紙をおいた。手紙の内容にはまったく驚かなかったし、わざと自分に読ませるようにしたこともわかっていた。手紙の中には嘘《うそ》だとわかっている重要な一項目があったからだ。ブルック卿は心の中で笑って、部屋のバルコニーに行き、ルガーノ湖を眺めていた。そのとき、リングローズが戻ってきて、あわてて机のほうに行き、便箋を引出しにしまって、鍵をかけた。それから、呼び鈴を鳴らして料理を命じ、客のほうに行った。彼はとんでもない馬鹿なことをしでかした人間のように、少々うろたえていた。だが、相手はこの手紙を全部読まなかったのではなかろうか。あまりにもわざとらしい手ではなかったか。ちょっとでも見てくれただろうか。リングローズの唯一の希望は、相手が彼の能力を低く見て、手紙の内容を信じてくれることだった。とにかく、信じる、信じないは別として、あの内容はブルック卿を愕然《がくぜん》とさせたにちがいないと、リングローズは判断した。しかし、ブルック卿の態度には動揺したところはみじんもなく、じっさい手紙を盗み見したかどうかは、これからの会話を通して当ってみる必要があった。
「ここからのルガーノの眺めはすばらしい」と客はいった。「日の沈んだあとのたそがれと、ひろがった紫色の影で、この世のものとは思えない美しさだ」
「そうですね。しかし、わたしは少し飽きました。一両日したら、国に帰ります。さあ、男爵――いや、失礼、ビューズさん、どうか召しあがってください」
料理はまことに結構で、ブルック卿は大いに食べてくれた。リングローズはなにか気をとられているふうをかすかに見せながら、グラスを重ねたが、イタリア料理はもう飽きてきたといった。彼はこちらが芝居をしていると承知している相手の前で、隠退したセールスマンの役を演じなければならなかったが、にもかかわらず、ブルック・ノートンでの「ノーマン・フォーダイス」をみごとに再現してみせた。
二人はブルック卿の象牙細工蒐集のことを話題にし、ブルック卿はルガーノに来たのは無駄ではなかったといった。それから、ブルック卿はフォーダイスの旅暮しについて質問し、リングローズは相手が嘘だと承知しているにちがいないセールスマン生活について語ってみせた。二人はたがいにおもしろい話をして聞かせ、きわめて巧妙に自らの役割を演じながら、好機を待ちかまえた。
やがて、ブルック卿はこうきいた。
「コモにいらしたとき、アーネスト・コンシダインという医者に会いませんでしたか?」
「ええ、メナジオで会いました。この人が姪《めい》ごさんを裏切った医者にちがいないと思いましたね。あそこで病気に――風邪に――かかったような気がして、その人に診てもらったら、どこも悪くないという見立てでしたよ。きちんとした人みたいに見えますがねえ。むろん、姪ごさんのことはいいませんでしたが」
「結婚していましたか?」
「さあ、どうでしょう。一ぺんしか会わなかったもので」
ブルック卿は考え深げにうなずいた。
「その点は、わたしにもまるでわからない」
「ミルドレッドさんは元気におなりでしょうね? わたしなどがいうのはなんですが、じつに魅力的なお嬢さんでいらっしゃる」
「ええ、元気でやっていますよ。今フィレンツェにいます。近いうち、ささやかな掘出し物が手に入ったら、わたしも一両日中にはそちらに帰ります。しかし、その前に感傷旅行をする予定です」
リングローズは耳をそばだてただけで、とくに関心を示さなかった。相手もすぐにその話題をつづけることはしなかったし、次第に愛想のよい親しみのある態度から、なにかもの思いにふけるような態度に変ってきた。ときどきぽつりと口をとじ、考えこんでいるふうだった。夢想からはっとわれに帰って、リングローズの言葉に聞きいったり、自分からしゃべりだすかと思うと、また、いわば雲の背後に引きさがってしまうという恰好《かっこう》だった。
リングローズは奇妙にも、自分も過去のことを思い出しているのに気がついた。彼は、ビットンが相手の気持に影響され、何回も打ち明けようとしてはためらって、ついにやめてしまったときのことを思い出した。そして、今リングローズは自分の耳を疑ったが、ブルック卿もまた過去の忌《いま》わしい出来事を回想し、胸の奥にひめていた暗い経験を打ち明けるべきかどうか思いあぐねているようなのだ。
あまりにありうべからざる印象なので、リングローズは警戒し、信じがたい気持がした。ブルック卿のしゃべっていることを理解したふりをする前に、もう少し聞いてやろうと思った。そこで、相手のそういう心の動きを理解できず、反応できないことをさとらせるように返事をした。この男が、自らの犯した恐るべき悪事に悩まされていたビットンをゆさぶったと同じ心理的欲求を経験し、危険の影が迫りくる中で、原始的な人間的本能にめざめ、だれかに心の苦しみを打ち明けようとすることは、ありそうにないことだが、さりとてありえないことではない。だが、敵とわかっている男に友情を求めるほど卑怯《ひきょう》未練な気持を抱こうとは、男爵の性格から考えてありえぬことであり、偽りにすぎないとリングローズは考えた。
しかし、ブルック卿ははっきりと、この調子でしゃべりつづけたので、ついに自らそういう驚くべき印象を与えようとしていることは疑いの余地がなくなった。男爵は、考え深げな様子で、人間がいかにあやまちを犯しやすく、幸福への希望が人をあざむきやすいかについて一般論を述べたあと、自分のことに話を向けた。
「あなたも、世間の人たちも、わたしをおどけ者だと思っている。だが、わたしくらいおどけようのない人間はいませんよ、フォーダイスさん。わたしは人生から徹底的にいじめられ、過去を振りかえってみても、ほかの人とくらべて、嘆くことばかり多くて、満足させてもらったおぼえがない。わたしはじつに奇妙な人間だ。圧倒的な情熱というものは、もし自然がそれをコントロールするし、平衡を保つものを用意してくれなかったら、こんな恐ろしい代物はない。ところが、今こうしてあなたにお話しているわたし自身、ひとつの考えにとりつかれたときの恐るべき結果を、じっさいわが身で経験してきたのですよ」
リングローズは機械的にうなずいた。
「それはその考えの性質によるのではありませんか、男爵」
給仕も今やさがり、彼らは今や二人きりで葉巻をくゆらせたり、コーヒーやリキュールを味わっていた。
「いわゆる支配的な思想や情熱が、きわめて気高い遺産であり、才能であることはたしかかもしれません」とリングローズはいった。「ひとつの考えだけをつらぬく人間はとことんまでやれますし、その考えが進歩の線にそっており、人類の幸福を推進すべきものであるならば、そういう人物は世の師表と仰がれることになりましょう」
ブルック卿も同感の意をあらわした。
「まったく、おっしゃるとおりです。しかし、わたしの場合のように、その推進力となるべき本能が、現実に反社会的とまではいかないにしても、無益となることもある。それが人生の唯一の規範となり、理性や義務観やあらゆる処世訓を歪《ゆが》めるような恐るべき支配力を持ってしまった場合には――」
ブルック卿は実際口を閉じ、ほっと溜息《ためいき》をついた。自己を反省している人間、リングローズが今まで知っていたブルック卿とは気質的にちがった人間――そういう人間がそこにいた。
「むろん、そのときは、その本能が呪いとなり、本人は深刻に良心に悩まされることになるでしょう」とリングローズはいった。
リングローズには、ますます会話は非現実的になっていくように思われた。しかも、もし相手が芝居しているのだとすると、たしかにその演技は完璧だった。
ブルック卿は話題を変え、人間の性格について一般論を述べたあとで、わたしは今まで親しい友人がひとりもいなかったと打ち明けた。
「じっさい、わたしは人間を愛したことも、嫌ったこともない。あいつはいいやつだと評判になったかもしれないが、それはわたしの心が温かいからではなく、冷たいからにすぎません。わたしみたいな人間は、往々にして、自分がその資格のない信用を得るきらいがある。わたしは人間をたんに役に立つ人間と役に立たない人間というふうにしか見ていないし、今は役に立たない人間でも、明日は役に立つかもしれないという常識にしたがって、だれとも衝突しないようにしているだけですよ。ときたま役に立つ場合はべつとして、女がわたしの人生に入ってきたこともない。ある女にだけは、わたしのためではなく、彼女自身のために、干渉したことがありましたけれどね。もしお聞きになりたければ、そのうちお話しましょう。だが、さしあたり、わたしのいいたいのはこうなのです。つまり、わたしの人間に対する無関心さも、あなたに会ったとき、奇妙なショックを受けたのだと。いや、笑わないでくれませんか。そんなばかなと思われるだろうが、あなたがブルック・ノートンに来られたとき――むろん、あなたはわたしの狭い限られた世界に住む人でもなければ、さまざまな人生遍歴を通じて、わたしとはちがう広い人生観をお持ちの方だ。いわば、ほんの数時間のあいだ、わたしの人生と直角に交叉しただけの方にすぎないのだ――あなたの中のなにかが、というよりはむしろ、わたしの中のなにかが、その交叉に反応した。そして、あなたにふしぎな関心をおぼえ、かつて一度も感じたことのない友情を感じてしまったのです」
「これはどうも光栄です」とリングローズは、夢でも見ているのではないかと思いながらいった。
「とんでもない。自分の気持をさとったとき、わたしはむしろうんざりしたのです。いったい、この男が何者だというのだ。わたしにとってなんだというのか。正直にいって、あなたがいなくなってほっとした。いなくなれば、あなたのことなどすぐ忘れてしまうと思っていた。ところが、そうではなかった。あなたのことが、まるで栗のいがのように、心にくっついて離れない。こんな異常な関心をおぼえさせるなんて、いったいあの男のどこがほかの人間とちがうのかと、何べん苛々《いらいら》しながら自問したかわからない。くだらないことをいっていると思うでしょう?」
「いいえ、とんでもない。本気でなければ、そんなありがたいことをいってくださるはずがありませんからね」
「あなたがブルック・ノートンを去ったとき、じっさい呼び戻そうとさえ思ったくらいです。まあ、そのときは自分の気持がよくわからなかった。あるいは、今でもわかっていないかもしれない。とにかく、そう思ったことは事実だし、今朝、通りで思いがけずお見かけしたときは、歓びに似た感情に圧倒されました。おわかりだと思うが、わたしは自分の感情を隠すことができないし、そうしようと思ったこともない。けれども、こういう感情には、表にあらわれている以上のものがある。数時間前にお会いして以来、ずいぶんそのことを考えてみましたよ。しかし、こんな話は退屈ではありませんか、フォーダイスさん?」
リングローズは答える前にちょっと考えた。
相手が今やかつてのアーサー・ビットンと似たような心理状態になっていることを、彼は認めた。だが、ビットンとちがって、ブルック卿がこちらのことを知っているだけに、ほんとうのはずがありえなかった。リングローズはなぜ相手がそうしたか、その動機を想像してみた。その動機が推測できたように思われたので、彼は話題を変え、ブルック卿のために少し道を開いてやろうと試みた。そこで、いかにも当惑した、きまりの悪そうな顔をして見せて、
「わたしはありふれた人間にすぎませんし、もちろん、男爵のような上流社会の方とおつきあいさせていただいた経験もありません。わたしもあなたが好きになりました。だって、こんなに親しくしてくださった上流の方は、男爵がはじめてですからね。しかし、われわれの人生行路はすこぶるちがっています。わたしは、あさってにはイギリスに帰りますが、なにかお役に立てることがありましたら――身のほど知らずだとお思いでしょうが――よろこんでいたしましょう」
彼は口を閉じた。こういうむなしい、ばかげたことをしゃべっているのに苛々してきたからだ。いったい、自分がこんな芝居をつづけてなんの役に立つというのか。ブルック卿が自分に近づきたがっているのは、邪悪な動機からにきまっているではないか。それに、こっちがそれを心得ていることは、向うだって知っているはずだ。
そこで、彼はブルック卿にチャンスを与えることにした。
「イタリアでの最後の旅に、明日は汽船に乗ってサンタ・マルガリータへ行こうかと思っています」と彼は、少し沈黙がつづいたあとでいった。「あそこからベルヴェディーレ・ディ・ラリーゾというところまで登山鉄道が通じていて、そこからの眺めはすばらしいそうですね」
リングローズはそういいながら、相手の眼をじっと見つめた。だが、ブルック卿はなんの感情も示さなかった。ただうなずいて、話題が変ったことに残念そうにしただけだった。
「そう、たしかに、眺めはすばらしい。ぜひ行くといいでしょう」
「では、行くことにします」とリングローズは答え、また葉巻に火をつけた。無限の興味をもって、彼は次の言葉を待ちかまえた。
「わたしも明日野外に出ます」とブルック卿は、ちょっと間をおいていった。「この辺でもっとも美しいところへ行くつもりです。わたしにとっては、もっとも悲しむべきところなのですがね。ラ・スポルタ・デラキラ――英語で鷲《わし》のバスケットとか食料室とかいう意味ですが――という名を聞いたことがありませんか?」
「いいえ、全然」とリングローズは答えたが、この答えもなんの反応も引き出せなかった。今でさえ、彼はブルック卿が彼の手紙を読んだかどうか確信が持てなかった。
「ガルビガ山のふもとから舌のように突き出たところで、ポルレッツア・メナジオ間を走る汽車でピアノという小さな湖を通ります。そこから北に数マイル行ったところです。ラ・スポルタ・デラキラからはコモ湖もルガーノ湖も見えますし、北はヴァル・カヴァルナの彼方《かなた》の山々や、南は湖をへだてている連山のすばらしい眺めが楽しめるんですよ」
「すばらしそうですね」
「先ほど、感傷旅行をするつもりだといいましたがね」とブルック卿は話しつづけた。「そこは兄が亡くなった場所で、どういうわけか、いつもそこに惹《ひ》きつけられるのです。兄が災難に会って以来、毎年そこを訪れています。兄さえ生きていてくれたら、わたしだって、もっとちゃんとした清潔な人間になっていたでしょう。ある意味では、兄の死で、わたしも破滅したも同然ですよ」
リングローズはこの言葉の持つ恐ろしい真実を感じたが、そんなそぶりは見せなかった。
「たしかに、立派な兄というものは、いい影響を与えてくれますね、男爵」
ブルック卿はふしぎそうな表情でリングローズを見やりながら、
「ときどき、あなたは口でいっている以上に、わたしのことをご存知なのではないかという気がしてしようがない。どうもふしぎな感じです。おそらく、知ってほしいと思う気持が、そう思わせるのでしょう。わたしは自分のことをもっと知ってもらいたい。あなたが知ってくれないのが、どうもふしぎに思われる。しかし、わたしのことを知っているはずがないんだが」
リングローズはまたもや困ったような顔になり、なにかいいたそうにしたが、黙って見つめただけだった。
ブルック卿は話しつづけた。
「わたしの中には、あなたにもっと知ってもらいたいという奇妙な欲望がある。じっさい、奇妙だ。今までだれに対しても、そんな欲望を感じたことがないのだから。血を分けた実の兄に対してもですよ。たぶん、これはまったく利己的な気持からでしょう。わたしのすること、考えること、すべて利己的なのだ。しかし、そういう欲望はたしかにある。とても信じてもらえないようなことを話したくてたまらない気持が、おそってくる。しかも、それはほんとうの話なのですよ。こういってはなんだが、我慢して、打明け話を聞いてくれませんか。打明け話というやつは、往々にして厚かましい代物だし、そんな気持につきあうのは真っ平だといわれても無理はない。じっさい、あなたの顔でよくわかる。しかし、あなたは限りない同情心にみちあふれた方だ。自分にはそんなところは毛頭ないくせに、人のそういう性質がよくわかる。どうでしょう、聞いてくれませんか?」
「もちろん、おうかがいしましょう、男爵、わたしなどがお力になれるならば」
「ほんとにわたしの力になってくださるでしょうね、フォーダイスさん?」
ひどく熱っぽい真剣な調子だったので、嘘《うそ》はつきにくいように思われた。しかし、リングローズはこう訴えかけられても、暗示にはかからなかった。彼はこの言葉の裏にひそむ現実に踏みこんで、すべては見せかけにちがいないと信じた。相手が次になにをいおうとしているかがわかった。
「わたしにできることだったら、及ばずながらお力になりましょう」と彼は答えた。
「できますとも。だって、明日わたしといっしょにガルビガ山まで遠足してくださるくらいはできるでしょう? そのとき、打ち明けずにはいられないあることを、お話できそうに思うのです。謎のような話ですが、しかし、神かけて、現実のことなのです」
「ほんとうにお望みなら、よろこんでお伴しますよ、男爵。もっとも、歩くほうはあまり自信がありませんが」
「なあに、たいして歩く必要はありません。ポルレッツアまで汽船で行って――ここを十時に出るのがありますよ――そこから登って行くのです。たいていは曲りくねった楽な道で、ほんの五マイルくらいのものでしょう」
「それなら平気です」
「どうもありがとう。なんとお礼をいったらいいか――」
「では、十時の船におくれないようにします」
ブルック卿はうなずき、相手の好意に深く感謝したようだった。あまりの感動に一瞬物もいえぬふうだった。それから、いつとはなしにふだんの精神状態に戻り、自分の心を占めている問題を避けて、べつの話題をあれこれとしゃべりはじめた。だが、新たに友情が深められたのがうれしかったのか、早くも暖かい腹蔵ない態度になっていた。そして、いつもの快活さがよみがえるにつれて、本能的にうちとけてきた。これまでだれもが知らなかった彼の心の門を、リングローズが開いたことを、心からよろこんでいるようだった。
晩餐会は十一時に終り、客はいとまを告げた。その晩聞いたことの意味をよく考えてみようと、ひとりになりたくてうずうずしていたリングローズをあとに残して。
リングローズは相手に賞讃すべきところがあれば、賞讃を出し惜しむような人間ではなかったから、敵の総攻撃開始をさっそく褒《ほ》めてやりたい職業的本能を感じた。だが、ブルック卿の戦術を賞讃する前に、もう少し深くそれを考察する必要があった。相手がそれほど機敏に動いたとは、まだ確信が持てないのだ。
彼は敵の戦術を調べてみた。ブルック卿はあらかじめ考えた計画にのっとって行動し、ブルック・ノートンを訪れる以前のリングローズの活動や、そこを去った後の彼の調査については、なにひとつ知らないふりをした。奇妙にリングローズに心を惹かれ、彼を信頼し、打明け話をしたい気持さえおぼえたといいきった。これまでそういう気持になったことはなかったし、しかも見ず知らずのリングローズと会って、そういう気持を抱くようになったというのである。ブルック卿はまた、リングローズが邸《やしき》を去ったあと呼び返したかったようなことをいい、じじつルガーノで会ったときは、とてもうれしそうだった。やがて、この出会いに刺戟されて、彼の感情はたかまって、ついに口調が変り、リングローズといることを大変よろこぶようになってきた。ブルック卿自身、自分のこういう感情にとまどっていた。にもかかわらず、この気持が急激に発展して、もっと親しくつきあいたい、打明け話をしたい――それも重大な性格の打明け話を――という欲望にたかまったというのだ。
だが、真相はどうだろう。ブルック卿は、リングローズの素性や活動について、見かけよりはるかに多くのことを当然知っているにちがいない。リングローズに向って口にしたことしか知らないということはありえないし、こちらが彼のいうことを信じているとはまさか思うまい。なぜ、今時分ルガーノにやって来たのだろう。コンシダインからの手紙で自分がルガーノにいることがわかったのはたしかだが、あの手紙からそれ以上のことが察せられるはずであり、ロックリーじいさんの話から少なくともフォーダイスとアレック・ウェストが同一人物だということは明らかになったに相違ない。だから、ブルック卿は自分のことはすべて知っているはずだ。そこで、リングローズはすこぶる奇妙なことを空想した。明日の朝、山の峰や断崖のところで、敵が自分を殺そうとするかわりに、おのれの罪を告白したとしたらどうしよう? 悪事が露顕したと観念して、あの男がいっさいを打ち明けたとしたらどうするか? あの男がさっきいっていたことは、そのための布石ではなかったか? もしそうだとすると、自分の立場はどうなるのか?
「もしそうなら、悪魔的な利口さだ――ある点までは。しかし、まだそこまで追いつめられたと思うはずがない」とリングローズは考えた。だが、もしそうだとしたら。どうなるだろう。周囲に追いつめられて恐怖や後悔の気持を掻《か》きたてられた人間が、告白に踏みきったとしたら。告白を聞かされたほうの人間は、そのあとどんな役割を演じるべきだろう。もちろん、答はわかっていた。リングローズの心には、ブルック卿に対する憐《あわ》れみは少しも起きなかった。彼は問題のそういう方面には、ほんの一瞬しか心を向けなかった。眼に埃《ほこり》が舞いこむことがあろうとも、めくらになることはあるまい。ルドヴィク少年を殺した男が、彼の前に土下座したところで無駄だった。
とにかく、じっさいブルック卿がそんなことを考えたとしても、その告白が真実であるはずがない。拷問を受けてビットンが動揺したときと同じことで、周囲の情勢からそんなことを考えついただけのことだ。それにもかかわらず、相手の心にはそういう計画が宿っていそうにも半《なか》ば思われる。その場合、自分がとるべき行動については、もう二度と考えてみることをしなかった。だが、ブルック卿の性格を考えれば考えるだけ、あの男のことだから、いったん「鷲の食料室」に行ってしまえば、そんな芝居じみたことに時間を浪費しそうにないように思われた。
「望みどおりのところにあいつを連れ出したが、きっと向うでもそう思っているにちがいない。とにかく、明日になればすべてがわかるだろう」とリングローズは考えながら、寝返りをし、あっという間に眠りに落ちた。
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第十九章 「鷲の食料室」
イタリアの湖水地方のひとびとは早起きだ。空がまだ夜明けのスイカズラ色に輝き、もやにおおわれたルガーノ湖の水面がまだ深い影の中に沈んでいる時分から、かすかにまたたく湖畔の小さな村々や、上方のけわしい山々に囲まれた小さな部落では、生きるためのやすみない営みが開始される。やがて太陽が水蒸気を燃やしつくし、小さな漁船の浮ぶ湖に金色と青緑色の輝きを投げかける。真白な蒸気船が、光の糸をあとにひきながら、アメンボウのように、湖面を走ってゆく。湖岸からかすかに鐘の音が聞え、谷間の森のリンドウ色を背景に朝餉《あさげ》の煙が立ち昇る。リングローズが船着場に出かけたとき、すでに大気は暑熱にふるえていた。がっしりした外輪船に彼が乗りこむと、ただちに船はともづなを解き、湖上に走りだした。
ブルック卿は船上にいた。ダーク・グレーのニッカーボッカにノーフォーク・ジャケツという軽装で、ケースに入れた双眼鏡を肩からかけていた。彼は船尾にすわっていたが、リングローズがあらわれると、席から立ち上がって握手した。
「気が変ったかと思いましたよ」とブルック卿はいった。すばらしい天気にもかかわらず、元気のない、なにかに気を奪われているような憂うつそうな様子だった。
リングローズはぎりぎりに間にあったことを詫《わ》びた。
「じつをいうと、ゆうべの男爵の話のおかげで、すっかり考えこんでしまったものですから」と彼はいった。
「ビューズさんと呼んでくれませんか。なんというすばらしい朝でしょう! 北極を除けば世界中の夜明けを見てきたが、ここの夜明けがいちばん美しい」
「ビューズさんは自然の景色に興味がおありで、しかもそのよさがよくおわかりなのですね。わたしなどは、どうもそのよさがわからない。今日はひどく暑くなりそうですね」
「山登りにはいい日ですよ。南東のほうをご覧なさい、ガルビガ山の頂上が見えるでしょう」
指されたほうを見て、リングローズは心配そうな顔をした。
「これは驚いた! あんなところまで足で登るんじゃないでしょうね……」
「頂上までは登りませんよ。われわれの行くところは頂上から二千フィート以上も下ですよ。ゆっくり歩けば、楽なもんです。道のことなんか忘れさせてあげましょう」
二人はポルレッツアで下船したが、降りるとき、リングローズはブルック卿が茶色の小さな四角に編んだ籠《かご》を取りあげたのに気がついた。
「なんですか?」とリングローズはきいた。
「お弁当ですよ」
「あっ、わたしは持って来なかった! 向うに宿屋くらいあるかと思ったものですから」
ブルック卿はかぶりを振った。
「『鷲の食料室』に宿屋があったって、客は鷲くらいのもんでしょう。しかし、ご心配なく。二人分は充分ありますよ」
「では、せめて籠くらい持たないと」
「いや、かわりばんこにやりましょう」
彼らはじきに船着き場を離れ、ブルック卿はこの辺の道にくわしいらしく、東に向う近道を進んだ。二マイルも行くと農家や畑は下になり、やがてリングローズにも見おぼえのある山道に出た。彼が二回「鷲の食料室」を訪れたときも、騾馬《らば》の背に揺られてこの山道を登ったのだ。道ばたの最後の人家も今では下になり、二人はゆっくりと、だが着実にゆるやかな坂を登っていった。道が広大な山腹を急角度に東から西に曲っている曲り角にさしかかったとき、ブルック卿は出しぬけにこういいだした。
「今からお話しようと思うことを、どの程度すでにご存知か知らないが、きっと大部分はご承知だと思います。最初にいっておきますが、あなたのほんとうの名前とか最終的な目的がなにかは知らないが、このくらいのことは知っているんですよ。あなたは『フォーダイス』という名前でもなければ、この冬ブリッドポートにいた時分に名乗っていた『ウェスト』という名前でもない」
二人はじっと視線をあわせたが、ブルック卿の表情はまるで生気がなく、その声も苛立《いらだ》ちより無関心さがあらわれていた。リングローズも相手がこう切り出してくるとは予想もしなかったが、驚いたふりはしなかった。
「話をつづけてください」と彼はいった。
「わたしがこういっても、あなたはびっくりしないでしょう。こんなことをお話するのも、二人ともばかげた芝居をやめて、真実を語りたいからなのです。わたしと同様、あなたも真実を欲しておられるのならね。わたしは大きな困難に直面している。現実に考えれば、あなたはある意味では征服者であり、わたしは敗北者としてあなたの前に立っている。だから、わたしの保証を信じてもらうことも、この二年間わたしがどういう生活を送ったか、その一端をあなたに伝えることさえ不可能かもしれない。わたしの生活はまさに地獄のような、恐るべき精神的|苦悶《くもん》で一杯でした。これで、わたしの苦しみももう終りかと感謝さえしているといっても、決して大袈裟《おおげさ》ではないでしょう」
ブルック卿はちょっと歩みをとめ、絹のハンカチで顔を拭《ふ》き、はるか下ピアノ湖が猫の眼の色のように、緑の茂みのあいだからかすかに光っているあたりを、憔悴《しょうすい》した眼つきで見おろした。
「あなたはきっとこう思っているでしょう」と男爵は言葉をつづけた。「自分の天才的な活躍で追いつめた悪人が、その後悔ぶりでおれを感心させ、逃がしてもらおうとして、罪を告白しようとしているな、と。自分の秘密がひとの手に握られたと知ると、白状してお慈悲を乞おうとするとは、なんという臆病な卑怯《ひきょう》者だろう。あなたはそう心の中でいっているにちがいない。しかし、それは誤解です。あなたがビットンに近づいた何か月以前から、『ノーマン・フォーダイス』という名前でブルック・ノートンにいらしたずっと以前から、わたしは魂の苛責《かしゃく》にうんざりしていました。今さらお慈悲を乞うつもりはありません。あなたがどうしてわたしの犯した忌わしい罪を見つけられたのか、知りたいとさえ思わない。ルドーについてはご推察のとおりです。だが、ルドーの父親殺しまでわたしがやったと疑っておられるのは、まちがいだ。わたしは兄の死とは無関係だし、ここだけの話だが、兄は自殺したのです。このことは、子供たちのために、同時に一家の名誉のために伏せてあるが、遺体を発見したコンシダイン医師も証言しています。いくつかの事実から、兄が自殺したことは明らかです。わたしたちは今、兄が身を投げて死んだ場所に、登って行こうとしているのです」
ブルック卿はまた口をつぐんだが、リングローズは依然として黙ったままだった。彼は連れを一瞥《いちべつ》したが、そこには軽蔑《けいべつ》も怒りも浮んでいなかった。その表情はほとんど同情に近かった。彼は、相手の罪の重みを自分もになっているように、頭をうなだれていた。そして、深い溜息《ためいき》をひとつしただけで、なにも声には出さなかった。
「まず、あなたのことからはじめましょう」とブルック卿は話しつづけた。「自分に公正であるためにいっておくと、わたしはあなたという人を知る以前から、すでに後悔と、いいようのない精神的な苦しみに心からひき裂かれていたといえるでしょう。そのことは、神さまの前でも誓えます。あなたに信じてもらおうとは期待していないが、まさにそのとおりでした。そういうときに、わたしは突然ビットンの不可解きわまる死に直面した。ビットンのことは、人間に可能なかぎり、なにからなにまで知っていました。病弱な甥《おい》を亡き者にし、その財産をのっとろうという恐ろしい誘惑に駆られたとき、わたしが助けを求めたのはこの男です。わたしの道楽に絡《から》んで、たびたび犯罪まがいのことをやり、わたしに劣らず良心のない男だとわかっていたからです。しかし、良心のない人間なんているわけがない。われわれは手が汚れてないうちは、自分はほかの人間とはちがう、善悪の次元を超越しているのだと、あさはかにも考える。ところが、いざその仮定に立って行動し、すべての人間のうちに内在する道徳的感覚にもとるような罪を犯したとなると、いかにずる賢い冷酷な人間でも、きっと苦しむことになる。少なくとも、わたしは悪の報いを逃れられなかった。わたしは恐るべき罪を犯し、地獄のような罰を受けたので、精神的苦悶が終って、自分の運命がひとの手にゆだねられたことを感謝さえしているのです。きっとビットンもわたしと同じ心境だったにちがいありません。冷酷でずる賢い悪党でしたが、彼もついにおのれの犯した悪事への恐れと後悔につきまとわれ、もはや生きることに耐えられなくなったのでしょう。そうして、あの男の場合、あなたが天誅《てんちゅう》をくだしたのだと想像しています。ちょうど、今わたしにそうしようと考えておられるように。
あなたがビットンの人生に登場する以前から、今わたしが自分の永遠の地獄のような過去について感じていることを、あの男も感じていたかどうかは知りません。また、あなたの拷問がなかったらめざめなかったに相違ない良心を、あなたが自分だけが知っているある方法で、めざませたのかどうかも知りません。おそらく、あなたの友情と同情がビットンの告白を誘い出し、驚くべき悪人であることがわかったのかもしれない。またあなたが彼の恐るべき秘密を知り、告白させようと決心して、彼のもとにいらしたのかもしれません。たぶん、それが真実でしょう。あなたは、わたしもビットンにもわからない方法で、われわれが最後まで隠せると信じていた秘密を探り出すのに成功した。あなたがどういう人間であり、だれのために働いているかは問題ではありません。そんなことは知らないし、知ろうとも思わない。大切なのは、あなたは今わたしに対して、かつてのビットンに対するのと同じ立場にあるということです。あなたは真相を探り出した。イシュリアル〔十七世紀イギリスの詩人ジョン・ミルトンの長篇叙事詩『失楽園』に登場する天使〕の槍にふれて、わたしの秘密はあばかれてしまったのです。そのことをわたしはどんなに感謝していることか。二日前ルガーノに来たのは、できればあなたにお会いするためでした。なぜそこで会えそうだと推測したか、それはこの話の終りでお話することにしましょう」
ブルック卿はもの憂げな単調な声でしゃべっていた。にもかかわらず、その口調には、話が進むにつれ、どことなくほっとしたようなところが感じられた。苦しそうな息づかいだったので、リングローズはしばらく止って休んではと提案した。ブルック卿はしゃべりながら、無意識に足を速めていたからだ。リングローズ自身は急ぐ必要を感じていなかった。
「十分ばかりすわって休みましょう」とリングローズはいった。「聞き洩らしたりしないように一生懸命うかがっていますからね。わたしについておっしゃったことは、まさにそのとおりです、ブルック卿。ですが、どうしてわたしの正体をご存知なのですか?」
「あなたの正体など知りませんよ。怒れる神の使者だろうということ以外はね」とブルック卿は静かに答えた。「おききしたいのは、あなたの名前でも、なんの資格でこんなことをしておられるのかということでもありません。そのうち全然べつのお願いをすることになるでしょう。さしあたり、どうしてあなたがわたしを調べていることや、アーサー・ビットンの自殺に関係ある人だということがわかったかを、お話しすることにしましょう」
二人は人気のない道ばたの大きな石に腰をかけ、リングローズは相手の言葉に聴き入った。
「最初ブルック・ノートンのホールでお会いしたときは、危険を感じたわけでも、不吉な運命を予感したわけでもないのです。もしそうなら、かえってもっと歓迎したかもしれません。だが、無意識に前にどこかで会ったことがあるという感じはしました。ごく漠然とした、かすかな疑惑ですがね。しかし、いつ、どこでだかはわからなかった。まったく途方に暮れましたよ。わたしのように心にやましいところのある人間は、ふつうの人間とは全然ちがった眼で人を見る習慣がありましてね。でも、お近づきになるにつれて、その印象は消え、気にしなくなったのです。あなたは驚くほど魅力的で、人間的な共感がゆたかで、思わず惹きつけられてしまう――そう痛感しましたね。奇妙なことですが、ブルック・ノートンでいっしょに過ごした数時間くらい、楽しかったときは、わたしの人生でも稀《まれ》でしょう。昨晩お話したことは事実です。わたしの心はあなたに共鳴し、しばらくのあいだおのれの苦しみを忘れたほどでした。あとであまり自分が上機嫌だったのを思い出して、びっくりしましたよ。
やがて、あなたがブルック・ノートンを去るちょっと前、今度はどこでお会いできるかと考えていたときのこと、突然霧が晴れて、稲妻の閃《ひらめ》きのように、あなたの行動からあなたが何者であるかがぴんときたのです。わたしが陳列室に入ってゆくと、あなたは注意深くバルテルの象牙細工を調べていましたね。あの象牙があなたにとってなにを意味したか、どうやってあの彫刻とビットンやわたしを結びつけたかは、神さまだけがご存知だ。だが、あの一件は、わたしには恐ろしい啓示でした。まさに晴天の霹靂《へきれき》でした。あなたがあの恐るべき彫刻とある大きな問題を結びつけていることがわかった。そして、突然強烈にある記憶がよみがえり、一瞬のうちに、以前どこであなたを見かけたかを思い出しました。あれはグリッドポートの大通りをビットンと歩いておられたときでした。わたしがビットンを呼びとめると、あなたはすぐに立ち去って、二度と見かけなかった。あの人はだれかときくと、ビットンは最近できた友だちだと答えた。そんなわけで、バルテルの彫刻を眺めているあなたを見て、死んだルドヴィクのことが、あなたの頭にあるなとわかったのです。
そのときあなたはちょうどブルック・ノートンを去る前だったので、わたしはバルテルの彫刻になぜあなたが関心があるのかわかったことを気づかれまいとして、最後の瞬間に、キャンベル夫人の彫刻を買いとり、小切手を渡す決心をしたのです。こうすれば、当分のあいだ、あなたとビットンの友だちとかいう人物が同一だとさとったことを、隠しておけるだろう、そう思いました。あなたは立ち去り、わたしはあれこれ考えこみました。あのとき、もしあなたを呼び返しもう一遍会おうという気持があったなら、きっと今と同じことをお話したでしょう。悪いことをした人間は、必ずだれかに自分の悪事を話したくてたまらない時があるもので、だいぶ以前からその時期がわたしに来ていたのです。しかし、あの頃までは打ち明けられるような人に出会わなかった。あのときはじめて、あなたにならできると思いました。
こんな奇妙な経験ははじめてだとおっしゃるには及びません。じっさい、そうにちがいないのですから。今でも、お名前を聞かせてくれとはいいますまい。わたしの誠意を疑っておられることも百も承知です。しかし、とにかく最後まで聞いてくれませんか」
「聞いていますよ。おっしゃるとおり、たぶん、こんな奇妙な経験ははじめてでしょう」とリングローズは答えた。
「あとは、ほとんどつけ加えることはありません。フィレンツェに着いたとき、あなたが来られたことを聞きました。ロックリーじいさんのおしゃべりから、あなたがわたしをもうひとつのありもしない犯罪と結びつけていることを、わたしはすぐにさとりました。きっと、甥《おい》を殺した男なら、兄も殺したろうと疑ってかかったのでしょう。なにしろ、ロックリーから聞き出すことは雑作もない。あなたはロックリーから、わたしの行動についてある事実を聞き出し、それで兄のことでも疑う材料にしたのでしょう。あなたはカヴール・ホテルから転送した手紙にもとづいて、ボローニャからルガーノまでわたしの動きを追った。ルガーノに来ればあなたに会えるだろうと思ったのも、そういうことがあったからです。要するに、そんなことはどうでもいいことで、お望みなら、兄殺しの犯人はわたしだと信じてくださってかまいませんよ」
「手を下したおぼえはないといわれるのですか?」
「絶対に。兄の死で、その後の犯罪を思いついただけですよ」
「しかし、お兄さんが亡くなったとき、ルガーノにおられましたね?」
「ええ、象牙のことでね」
「で、わたしに最後の頼みとおっしゃるのは、ブルック卿?」
「『鷲の食料室』に着いてからにしましょう。もう、まもなくですよ」
リングローズがなにを考えているか、その顔からはうかがえなかった。彼はこういう話を聞かされた人間が浮べそうな表情を浮べているにすぎなかった。陰気に、顔を伏せ、黙りがちで、考えこんでいるふうだった。だが、難儀な坂道を登って来たために、当然肉体的な徴候ははっきりとあらわれていた。強烈な太陽と運動のせいで、身体が灼《や》けるようだった。上の台地に着くと、彼は顔を拭き、携えていた籠《かご》をおろし、木蔭へ行こうとした。
「休憩する前に、兄の亡くなったところを教えてあげましょう」とブルック卿はいった。
ブルック卿は先頭に立って歩きだし、じきに断崖の縁《ふち》に来た。危険なほどふちに近いので、リングローズは注意した。
「わたしに気をつけろというのですか?」とブルック卿はいった。「どうしてです? わたしの話にも馬耳東風で、今でもわたしをただの絞首台行きの悪人としか見ていないからですか? あなたに会えなかったときは、やはり、二、三日前にここへ来る決心でいたのです。兄のように、自殺しようときめていたのです。しかし、ふしぎなことにお会いして以来、あなたに告白することは一種の責任みたいな気がしてきました。告白の結果はあなたにまかせ、行動する前に、あなたの考えを聞かなければいけないと感じました。あなたはそう思わなくても、わたしはあなたの手中にあります。たしかに、あなたに身をゆだねる義理は毛頭なかった。ひそかにあなたと闘うことができたでしょうし、あなたを負かすこともできたでしょう。あなたがこういう方でなかったなら、あなたと闘って、負かすことだってできたでしょう。その後、ビットンのあとを追って、あの世へ行くにしたところで。しかし、あなたの人間性にふれて、すべてが変ってしまった。あなたはわたしの敵ではないし、こちらもなんの害も与えたことがない。あなたは罪を憎んで、人を憎まず、という行き方だ。わたしはそれがわかったので、罪を告白し、真実をお話したのです。今、心から、お願いします、わたしの望みをかなえて自殺させてください。ほんとに、心からのお願いだ。わたしはあなたに刺戟されて、こんな決心をしたわけではない。ビットンはきっとそうだったでしょうが、わたしはあなたに追いつめられて死ぬのとはちがう。すでに自殺寸前にまでなっていて、だいぶ以前から生命を縮める決心を固めていたのです。あなたを知ったことが、この決心をうながした。先ほどもいったように、あなたに奇妙な義務感を感じていなかったら、そして、自分でも説明がつかないが、あなたに心から敬意を抱いていなかったら、きっとあなたの許可なんか求めないで、今あなたの眼の前で、この断崖から飛び降りるにちがいありません」
「自殺させてくれというお気持はよくわかります。それに、そこまでわたしのことを思ってくださって感謝しています」とリングローズは答えた。「こういう世にも稀な申し出に直面した場合、よく考えてみた上でないと、とうていご返事できません。たしかに、ビットンを死に追いやったのはわたしです。あなたが率直に話してくださったからには、こちらも率直に申しあげましょう。どうやってわたしがあの子の死の真相を知ったかは、どうでもいいでしょう。ともかく、わたしがビットンとつきあった目的は、あなたから今うかがったような告白を、あの男から引き出すためでした。しかし、あの男の性格判断を誤って、せっかく秘密を聞き出しやすいような雰囲気を作ったのに、あの男を死にやる結果になったのです。男爵、今あなたはわたしがあの男から聞き出そうとしたことを話してくださいました。あなたは、ビットンと同じように、もはや生きることに耐えられないとおっしゃった。自分にあの男と同じ運命を選ばせてくれ、苦心してわたしが探り出した秘密を、わたしが死ぬまで抱えていてくれ、とおっしゃるのですね」
彼らは断崖の縁から離れ、木蔭に入って行った。リングローズはすわって、上着を脱いで、かたわらに放り出し、また顔を拭いた。ブルック卿は双眼鏡を肩からはずし、弁当を入れた籠を開けて、簡単な食物を出して見せた。
「おなかがすいているでしょう。半時間ばかり、わたしのことなんか忘れて食べてください」
男爵は双眼鏡をケースから取り出し、立ち上がって二十ヤードほど歩いていって、谷間を覗《のぞ》きこんだ。登ってきたけわしい道が、ジクザク状にはっきりと見えた。
「いただいていいですか?」とリングローズはきいたが、ブルック卿は双眼鏡を眼から離そうともせずに、どうぞといった。数分後戻ってみると、リングローズはクルミを割っていた。空になったグラスがかたわらにあった。赤葡萄酒の跡が上唇《うわくちびる》についていた。一切れか二切れ、サンドイッチもなくなっていた。
「こんなに喉《のど》がかわいたのははじめてです」とリングローズはいった。「わたしが一瞬でも、今うかがったお話を忘れたなどとは思わないでくださいよ。わたしだって人間です。良心にやましいようなことはいくらでもありますよ。じきに、また恐ろしいお話をうかがうことにして、まずおなかに食物を入れないと。あんな坂道を登ったので、すっかりくたくたです。もう一杯いただいてかまいませんか? むろん、公平に飲まなくてはいけないのですが」
「ええ、どうぞ。わたしは食べる気も飲む気もおこりません」
リングローズはまたコップに赤葡萄酒を注いだ。連れは寝そべって、ぼんやりとオレンジの皮をむいていた。リングローズは快活そうにしようとしたが、雰囲気におされたものか、じきに黙りこんでしまった。ブルック卿も黙ったまま、坂道を見つめていたが、はるか下になにか動くものに気づくと、跳び起きて、また双眼鏡を睨《にら》んだ。
それは十頭の山羊が、一マイル下の道をうろついているのだった。彼は戻ってきて、リングローズのかたわらに身体を投げ出した。
「これはなんていう葡萄酒です?」とリングローズはたずねた。グラスはまた空っぽになっていた。
答えるかわりに、ブルック卿は葡萄酒を注いでやろうとした。
「いや、今度はあなたの番ですよ、男爵。わたしはもう充分いただきました」
しかし、ブルック卿は飲めといってきかなかった。
「あなたのほうが必要だ。これはキャンティです」
彼はまたリングローズのグラスに注いでやり、自分のにも注いだ。しばらく沈黙がつづき、ブルック卿はロール・パンをちぎって、少し食べた。
「あなたに異常な感化を受けたわたしは、罪を告白して、自殺を決意する以外に、なにができたでしょう?」突然彼はそういった。
だが、リングローズは返事しなかった。グラスを空けて下に置いたブルック卿が振り向いてみると、相手は顔色が変りじっとこちらを見つめていた。グラスはまたもや空っぽになっていた。だが、煙草は投げすてて、妙な不自然な恰好に身体がちぢみあがっていた。顔色は真蒼《まっさお》で、眼だけが睨みすえていた。両手は首のあたりをいじりまわしていた。
「いったい、どうしたんだろう。このキャンティはばかにきつい!」といいながら、笑おうとした。
今度は、相手が突然形相を変える番だった。みじめそうな様子が見る影もなくうせて、リングローズが蒼ざめ、不快そうに汗をたらして、手で胸や胃のあたりをおさえているのに反し、ブルック卿は丸顔をほてらせて、磨きあげた宝石のように眼を輝かせていた。
「きいたようだね? 喉のかわきはとまったかい? このキャンティはね、並みの酒ではなくて、致死量のヒオシン入りなのだ。おせっかいなやつらを十人くらいは楽に眠らせられる。スコットランド・ヤードが誇る名刑事ジョン・リングローズ君も、そのうちのひとりだ」
リングローズは眼をむき出し、立ち上がろうとしたが、また崩れ落ちた。
「ヒオシンを選んだのは、永のお別れをする前に、ぜひ聞かせてやりたいことがあったものでねえ」
ブルック卿はポケットから一枚の写真を取り出した。
そのあいだにも、リングローズはすでに眠そうに頭をがっくりたれていた。感覚を保とうと懸命につとめ、上着のほうへ手を伸ばしかけたが、ブルック卿は手の届かないところへおしやった。
「あと五分で意識を失って、昏睡《こんすい》状態に陥り、半時間かそこらで、あの世行きだ。なんの苦痛もなくね。そのあと、スコットランド・ヤードきっての名刑事も断崖からまっさかさまというわけだ。やがて、いつか死体が見つかって、ゆうべわたしに読ませようと奥さんに手紙を書いてたが、その奥さんが――ほんとは、いやしないが、きっと嘆いてくれるだろう」
リングローズはむなしい憤りの眼で睨み返し、口を開いたが、わけのわからない呻き声と喘《あえ》ぎしか洩れてこなかった。下肢《かし》には早くも痙攣《けいれん》がはじまっていた。もがきながらも上体を起し、しばらくその姿勢でいた。やがて、ぐったりところがってしまった。
「おい!」とブルック卿は叫んだ。「もう一度眼を開いて、自分のこの写真をよく見るがいい。例のゴルドーニの逸品の小切手を書きに行ったときは、きさまがにせ者だと知っていた。だから、書斎の窓から写真をとっておいたのさ。そいつを引き伸ばして、ロンドンに送ってやると、私立探偵は難なくきさまの正体を知らせてくれた。なにしろ名士ですからな。残りはきさまにも想像がつくだろう、どうやってこのわたしが――」
ブルック卿は口を閉じた。相手はもう明らかに彼の言葉が聞えていないのだ。リングローズは両手で草をひっつかみ、半ばうつぶせになっていた。いびきのような息づかいで、まだピクピク足が動いていた。ブルック卿は意識を失った敵に近づくと、自分にはおなじみの症状を見守っていたが、脇腹を蹴《け》とばした。それから時計をチラリと見て、双眼鏡を取り上げ、ゆっくりと台地を遠ざかっていった。
ブルック卿は煙草を二本吸い、この広大な淋しい台地にはほかに人ひとりいないことをたしかめて、また戻ってきた。だが、リングローズの姿は消えていた。動いた跡は残っていたが。彼が立ち上がれないことは明らかだった。どうやら、二人ですわっていたウルシの木蔭から這《は》い出して、うしろの斜面から転落したか、われとわが身を投げ出したように思われた。そこの地面は、龍の鱗《うろこ》のように斜面をおおう荒涼とした石炭岩の棚《たな》の上に、はげしく傾斜していた。この荒涼たる地面に生えているものといっては、山羊にかじられた一、二本の小さなネズの木と、灰色のラベンダーの茂みだけで、すぐに断崖に通じていた。断崖は内側に屈曲し、そのあと五百フィートにわたって切り立ったように落ちこんでいた。はるか下方の峡谷にはエゾマツが密生し、上から眺めると、黒い苔《こけ》くらいの大きさにしか見えなかった。
このあたりに、リングローズの落ちた証拠が残っていた。上の叢《くさむら》にも、その下の斜面にも、彼が転落した跡は歴然たるものだった。斜面にある板状の岩の土のあたりに、黒い筋が一本見えた。その筋は断崖のふちまではっきりついており、ブルック卿は双眼鏡で丹念にこきざみに調べてみた。断崖のふちから数ヤード手前に、リングローズのパナマ帽が目に入った。だが、人が転げ落ちた土の跡が、その先の断崖のふちまでつづいていた。ブルック卿はすこぶる慎重に這い降りていった。というのは、あたりはくずれやすく、足場になる枯草《かれくさ》さえガラスのようにすべすべしていたからだ。傾斜している岩は強烈な陽光のもと、火のように熱かったが、リングローズの最後の動きについては、なんら疑いはなかった。意識してか、偶然かは知るよしもなかったが、彼はまだ死なないうちに断崖から転落したのだった。台地に戻ると、ブルック卿はまた双眼鏡でキラキラ光る崖の斜面をこきざみに調べてみた。一本の小さなネズの木のところになにか動くものを認めたが、それはただの大きな鷲で、双眼鏡の焦点を向けると、大空に舞いあがっていった。ブルック卿は元の場所にとって返し、リングローズの上着を調べてみた。ホテルの鍵とか、旅行鞄の鍵、札《さつ》入れしか入っていなかった。彼の関心を惹いたのは、札入れだけだった。そこには、メナジオのホテルの領収書、小さな住所録、一ダースのイタリアの切手が入っていた。だが、住所録の名前の中に、興味を惹くものがひとつあった。「J・ブレント、オールド・マナー・ハウス・ホテル、ブリッドポート近在」書きこまれた最後の住所は、ボローニャのカヴール・ホテルのものだった。
上着やポケットの中身は、シガレット・ケースのかたわらのリングローズが投げ出した元のところにおいておいて、ブルック卿は注意深く弁当の残り物をかたづけた。残った食物はその辺にまきちらし、小さな二つのグラスは籠に戻し、残った葡萄酒はあけて、瓶はグラスといっしょにした。下山の途中、リングローズの使ったグラスと瓶は、岩の割れ目に投げこんで、自分の飲んだグラスは念入りに洗ってしまった。それから、絶対に自分の立場は安全だと確信して家路をたどった。なぜなら、リングローズが断崖から転落したか、どこか上の台地からは見えないところに隠れたかどうかは別として、葡萄酒で死んだことは疑いなかったから。
ブルック卿はポルレッツアからの帰りの汽船にまにあうように、少し足を速めた。そして、船にまにあって、ルガーノで夕食をとり、ミラノ行きの真夜中の汽車に乗った。
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第二十章 ヒオシンについて
コンシダイン医師は、とうてい眠ることができなかった。今の事態が耐えがたくなり、リングローズの最後の指示にしたがうことがそれほど重要だろうかと、真剣に思いはじめた。あれこれと不安がましてゆき、ニコラス・トレメインのまぼろしが何時間ものあいだ眠らせようとしなかった。ルガーノからの短い手紙の中で、リングローズはブルック卿がやって来たことを告げ、また会うときまで「じっと待つ」ように指示しただけだった。しかし、このじっとしているという役割が、今のような事態では、不可能に近いのだ。おびただしい計画がとめどなく、次から次と脳裡に浮んできて、恋が――あのわからず屋の恋が――こうささやいた。早くしないと危険だぞ。ミルドレッドのおじがルガーノに来ていることを知ったとき、コンシダインはまず本能的にさっそくフィレンツェに飛んで行こうとした。だが、医師としての義務感とリングローズへの責任から、そうした思慮のない行動はとれなかった。重態の女の患者をひとりかかえていたし、この重大な時期にリングローズの指示にそむくことは、ゆゆしい事態を招くこともわきまえていた。
それから、ミルドレッドに手紙を出そうと決心した。ブルック卿の留守のあいだに、直接彼女が受け取らないともかぎらない。そこで、二時間もかけて手紙を書きはしたものの、書き終えたあと破ってしまった。緊張に耐えかねて生来の少し意志の弱いところがあらわれたのだ。が、ついに理性が衝動と闘って、勝利を得た。二人を引き離した事情を眺めてみて、彼はやはり直接ミルドレッドに会ったほうがいいと結論した。それに、今の時点で手紙を出すことは、ミルドレッドに思いもかけぬ危険を味わわせたり、彼女の気持を動揺させて、ブルック卿に疑われないともかぎらない。結局、コンシダインはいいつけられたとおり、「じっと待つ」ことを余儀なくされた。
精神的に疲れはて、とうとうコンシダインは眠りこんだ。さまざまな不安が睡眠時の無意識の中に消えたときは、もう午前三時に近かった。だが、十五分も眠らぬうち、夜間用のベルで目がさめた。床《とこ》に起き上がり、なにか物音で目がさめたことは気づいていたが、それがベルの音かどうかはよくわからなかった。そこで、静かになってまた眠りにつけるか、それとも呼び鈴が鳴って寝床から出ざるをえないのか、待ってみることにした。そのとき、またベルが鳴り、彼は一瞬のうちに目がさめた。
以前、二人がいつもいっしょにいすぎるので危険なことが起りはしないかと心配したリングローズは、場合によっては夜コンシダインを訪問することに手筈《てはず》をきめていた。幸いその必要はなかったが、もし来たときは、三回短くベルを鳴らすことになっていた。コンシダインは今そのベルの音を聞いたのだ。パジャマのまま大急ぎで降りてゆき、玄関のドアを開けると、やつれてはいるが、満足そうな顔をしたリングローズが立っていた。しかし、疲労の色は隠せず、身体を支えてくれというのが精一杯だった。
「中へ入るのに手を貸してくれないかな。それから、なにか食べ物を」
彼は帽子もかぶらず、上着もつけず、全身泥だらけで、口もきけぬほど疲れきっていた。しかし、気力で肉体を支えていた。コンシダインの肘掛椅子にくずれ落ちると、鉤裂《かぎざき》だらけのズボンをはいた足を長々と伸ばし、大きくあくびしながら、痛む筋肉をなでた。そのあいだに、コンシダインは明りをつけ、まだ口もきけない客の前に、食物と飲み物を並べた。リングローズは指で肉片をつまんで、鶏の羽根の肉をガツガツとほおばった。それから厚切りのハムを平らげ、ロールパンをむさぼり、タンブラーに半分入れたウイスキーに、サイフォンからソーダー水を混ぜて飲んだ。
コンシダインは黙って眺めていた。彼は洗面木に入れたお湯と、石けんとタオルを運んできていたが、リングローズはそれに気がついて、疲れのにじんだ顔や手の汗や泥を洗い流しながら、ぽつりといった。
「わたしは大満足だよ、コンシダインさん」
「それはよかった。でも、そんなふうには見えませんよ」
「もう少し待ってくれたら、話してあげますよ。ズボンと靴下とスリッパを貸してくれないかね。足がこの様子じゃね」
コンシダインが衣類を持って戻ってくると、リングローズはボロボロになった服を脱ぎ、お湯に足をつけてすわっていた。
「万事うまくいきましたよ、コンシダインさん。あいつを捕えた」
「捕えた? どこで?」
「望みどおりのところでね。つかんだ事実はごくわずかだが、その結果は大きいと思う。それにしても、細心の注意を払う必要がある。今頃きっとブルック卿はわが家の近くまで帰っているだろう。しかし、リングローズはどこにいるときかれても、あの男は正確には答えられないでしょう。一服してから、お話しましょう。ところで、あなたも気持をおさえて、ミルドレッドさんに手紙を出したり、そんな無茶な真似はしなかったでしょうね?」
「なんとか、おさえはしましたがね。手紙を書くには書きましたが、破ってすてました」
「手紙の半分はそうしたほうがいい、コンシダインさん。三通に二通は出さないで破っていれば、あとでああよかったと思いますよ」
リングローズは眼をつぶって五分ばかり煙草をふかし、傷だらけの足をそっとお湯の中で動かしていた。やがて、口を開いて、ルガーノでのブルック卿との出会いから、二人で山を登り、告白を聞かされたあたりまで、いきいきと正確に事のてんまつを語っていった。それから、
「あの男は驚くほど頭がきれるし、心から後悔しているふうだったし――わたしに会って、とうとう自分の分身を見出したなどというし――そういうことだとか、いかにもほんとうらしく声をふるわせて告白したりするもんで、一時はわたしもほんとうかなと思いかけてねえ。あの男があわれになって、ずいぶん困っているんだろうなと同情したり、そういう感情に動かされた瞬間、あの男の犯した罪を半ば忘れかけたほどだ。それこそ、あいつの望むところだった。とにかく、半時間のあいだ、驚くほど真実らしく見えたので、正直なところ、このわたしもこれはほんとうの気持ではないかと思いかけたもんだ。だが、自らにそう問うてみて、すぐわたしはそうでないとわかった。すこぶる微妙だったけれど、あの男の悪賢さは明らかだったし、わたしが惹きこまれた雰囲気は、計算に立ってやっているのがわかったからだ。あの山をあくせくと登ってゆくうちに、わたしは二つの重要な事柄をつかむことができた。ひとつは、あの男の告白の真の狙いだった。
わたしの頭を混乱させ、意志の力を弱め、出しぬけに提出された問題に、わたしが深い純粋に知的な関心を持つようにしむけるのが、あの男の狙いだった。人から、自分は人を殺したと打ち明けられ、自分の罪をあなただけに知ってもらいたいなどといわれれば、こういう恐るべき告白を聞かされた人間は、少々心のバランスを失って、ほかの小さな事柄には見向きもせず、かなり心に隙《すき》ができてしまうのは無理もない。ある者はそういわれて得意になり、ある者はぼうっとしてしまうにちがいない。じっさい、人を殺そうとすれば、まずそういう恐ろしい告白で先方の心を惹きつけて、いかにも後悔した罪人らしく同情と慈悲にすがるふりをして、向うを無防備にしてしまうのが最上の方法だからね。あの男はそれをやろうと計画し、実行してみせたのだ。やつがどれほど多くの罪を告白しようが、どれほど正直にくわしく話そうが、そんなことは問題ではない。なぜかって? どうせ相手は死んでゆく人間だし、二度とほかの者に口をきくはずのない人間に打ち明けるのだからねえ! 話の仕方が巧妙で、こちらが夢中で話を聞けば聞くほど、わたしの警戒心はうすれて、わたしの死は確実になってゆく。わたしがすでに真実だと知っていることを話すとは、みごとなお手並だ。
だが、あの男は兄殺しを認めなかった。その必要がなかったのだ。あいつは兄は自殺だったと秘密を打ち明け、兄の死から自分の犯罪を思いついたとつけ加えた! なるほど、うまい説明で、心理的にもありそうなことだ。しかし、そのとき突然光が射し、あの男はどうやって兄を殺し、わたしを殺すつもりかがはっきりとわかったのだ。前と同じ方法を使うつもりなのだ。むろん、以前からそうではないかと疑ってはいたが、今や確実になった。こちらの望みどおりに、あいつはやろうとしているのだとね!
わたしは月並な文句をあれこれとつぶやいて、心から感動しているふりをした。そのときまでは事実感動していたのだが、今や目がさめた。わたしはじっさい自分が警戒心をゆるめているように向うに思わせようとした。あの男は自殺させてくれることが最大の恩恵であるふりをし、わたしに心から親しみを抱いているので、わたしを自分の運命の裁き手だと思い、すべてわたしの承認や指図にしたがうつもりだといった。わたしの手に自らをゆだねたことを感謝しているともいった。すばらしいお世辞だ。あいつは断崖のすぐ近くに立ったりして、こっちも本能的に危険な真似はよせと注意した。あいつは素直にしたがった。それから、われわれは葡萄酒を飲んだ。こちらは喉《のど》がからからにかわいていたし、向うもそれを知っていた。ごく自然な成行きさ。あいつは籠《かご》の中身をあけた。そのとき、わたしがなにを見たと思うかな、コンシダインさん?」
「全然わからないな」とコンシダインはつぶやいた。
「同じ場所で開かれたこの前の昼食の光景だよ。兄は笑って、自分の持参した質素な昼食はやめて、弟の持ってきたご馳走をパクついた。葡萄酒の瓶《びん》があけられ、大男はぐいぐいと飲み、小男はじっと眺めていた。大男はやがて死に、小男は相手のスカーフをはずして、死体を五十ヤードほど曳きずって、断崖のふちから投げ落す。次に、兄のスカーフで馬に目隠しをし、主人のあとを追わせる。最後に、クルミの殻《から》にいたるまで、食事の残りを片づける。この光景がまざまざとわたしの眼に浮んだ。
ブルック卿は食べ物を並べ、双眼鏡を取り出して、ゆっくりと向うに行った。それほど自信があったのだ。わたしはひとりでいただいていいかとたずね、いっそう安心させた。あの男はすべてを告白し、わたしもそれを聞いて頭が混乱していたので、二人とも陽気に見せようとつとめていた。どちらも正しくふるまった。われわれは古典的な裏切り劇を演じていたわけさ。じっさい、そうしなければならなかった。あの男は必要なだけこちらの気持を掻《か》き乱したと思いこみ、こちらも向うがそう思っていることをわきまえていた。
バーゴインが戻ってきたとき、わたしのグラスは空っぽで、唇《くちびる》には赤葡萄酒のあとがついていた。あの男の並べた小さなグラスは、二つとも形がちがっていた。それはなにを意味するか? そのうちのひとつは、船に乗るときに買ったということさ。わたしはそちらを渡された。あいつは持って帰らないつもりなのだ。ホテルの連中は、バーゴインがひとりでピクニックに行ったものと思いこんでいる。わたしは息をはずませ、喉がかわいていた。なにも芝居をしていたわけじゃない。あの男はすぐに三杯目を注いでくれた。一杯目はハンカチにあけ、二杯目はズボンのポケットにあけたのだけどね」
「毒薬が入っていたんですね? で、そのハンカチは?」
「お察しのとおり。ハンカチはここにありますよ。もう乾いていますがね。まあ、そんなことはどうでもいい。毒薬がしみこんでいるからね。とにかく、わたしは自分でグラスに注ぎ、バーゴインも自分のに注いだ。ちょうどそのとき、あの男はなにかに気をとられた。ありがたや、山羊だった。あいつは山に住む男たちがやってきて、邪魔されると思ったのだろう。だが、それを見るとすぐに安心して、わたしが二杯目もあけたのを見て、また注いでくれた。『公平に飲まなくてはいけませんよ』とわたしはいった。けれども、あの男はオレンジの皮をむき、もの思わしげな態度をとりつづけた。わたしに背を向けていたが、やがてグラスをあげ、飲んでいるらしかった。もっとも、その動作が見えただけで、頭をのけぞらせ、すぐにからのグラスを下においたがね。むろん、グラスを持ちあげる前に、中身を草の中にあけたのさ――わたしと同じように。それから、わたしはクルミを一つ食べ、サンドイッチを一切れとった。最初あいつが双眼鏡を覗いていたあいだも、わたしは二切れ隠してやった。それも毒入りかもしれないと思ってね。一滴の葡萄酒も、パンひとかけらも、わたしは口に入れはしなかった。
やがて、こっちが熱演をはじめる時がきた。どういう毒薬かは知らないが、葡萄酒に毒が入れてあることはたしかだったし、毒薬入りのキャンティを三杯も飲めば、それにふさわしい芝居をしなければならない。わたしがどうも気分が悪くて、苦しそうにふるまってみせると、あの男はすっかり安心して、こちらの反応が正しいかどうか見ようともしなかった。そういう些細《ささい》なことは、どんな悪党でも見逃すものなのだ。
あの男は憂うつそうな表情をガラリとすて、にやにや笑いながら、小|躍《おど》りせんばかりによろこんで、あの葡萄酒にはたっぷりヒオシンが入れてあったとほざくのだ。あいつに似合わずヘマなことをしたもんさ。わたし自身が毒薬を選んだとしたところで、あれ以上にこっちの目的にぴったりの薬は思いつけなかったろう。あの男はどんなふうに振る舞えばいいのか教えてくれたのだからね。あいつのうれしがりようといったらなかった。こっちもそうだった。わたしはどんな毒薬の症状でも知っているし――あなたと同様、それがわたしの仕事の一部だが――今自分がヒオシンで死ぬことになっているとわかると、それにふさわしい死に方をして見せてやった。
あの男はあと五分でわたしの意識がなくなることを知っていた。だから、機会を逃すなとばかりに、わたしの正体が何であり、どうしてそれを探り出したかを説明してくれた。あいつはちゃんとこちらの素性を洗っていたのだ。コンシダインさん! わたしがブルック・ノートンを出発する直前に、窓からわたしの写真をとり、それを引き伸して、素性を突きとめたのだ。だから、わたしが本気で取り組んでいることを知っていた。だが、わたしはもう耳が聞えないことになっていた。その点では、さぞあの男はがっかりしただろう。わたしは意識を失ってばたりと倒れ、死にぎわのゴロゴロという喉の音を上手に出してみせたので、あいつは、もうなにをいっても無駄だなとさとり、紳士の体面もあらばこそ、やにわにわたしを蹴とばした。もう一度蹴とばしたら、こっちの手で法の裁きをしてやったろう。が、幸い、二度は蹴らなかった。一度で充分。思わず勝ち誇った気持になったものとみえる。
ある意味では、その瞬間からあの男はわたしに都合のよいように事を運んでくれた。いくら感謝してもしきれないほどだよ。あの男は時計を眺め、わたしの手足の痙攣《けいれん》がだんだん弱まっていくのに気がつくと、高台の反対側の端へゆっくりと歩いていき、わたしを安らかに死なせてくれた。ああいうこまやかな感情を見せてくれようとは、ほとんど期待もしていなかった。むろん、いざというとき、『鷲の食料室』でなにが起こるか予測もつかなかったし、必ずその時がくると楽観していたから、最初あなたとあの場所を訪れて以来二回ばかりあそこを研究し、一草一木にいたるまでくわしく調べておいたのだ。鷲は別として、わたしくらいあの場所に通じている者はないだろう。今こそ、その知識を生かすことにした。
わたしは瀕死《ひんし》の人間の最後の発作を演じる羽目になった。ほんとうにあの毒薬を全部飲んだとすれば、あのときしたようなことは不可能だったろう。だが、そんなちっぽけな医学的な事実では、ブルック卿の幻想をうちこわすことはできなかった。あの場所の穴や隅《すみ》はすべて知りつくしていたから、わたしは自分たちが休んでいたウルシの灌木《かんぼく》のすぐうしろに、地面がけわしく傾斜して、また別の断崖をなしていることを心得ていた。前にあそこですんでのことで首の骨を折りかけたのだが、そのときは危険を犯して得た知識が、まさかあとで役に立とうとは、ほとんど考えてもみなかった。
そこで、親愛なる友人がその場から立ち去るやいなや、わたしは四つん這いになり、悪戦苦闘して灌木をくぐり抜け、傾斜を降りていった。わたしは自分の逃れた方向がすぐにたどれるようにわざと跡をつけておき、断崖が内側に湾曲《わんきょく》しているふちの近くに、帽子をおき去りにした。それからあとは立ち上がって、堅い石のところ以外は歩かないように気を配り、ようやく地面をおおうように枝がひろがっている小さな平べったいネズの木蔭に到達した。その木は二フィートくらいの高さしかなく、ようやく人ひとりを隠すだけの大きさしかなかったが、とにかく、ちゃんと隠すことはできたのだ。わたしは大急ぎで木蔭にもぐりこみ、身体をちぢめて見つからないようにした。高台を這い降りてから、ちょうど三分後だった。
ブルック卿はわたしの這った跡をつけるにちがいない。わたしが、最後の弱々しい本能と肉体的衝動に駆られて四つん這いになって逃走し、自らの手で死ぬことを選んだか、あるいは、もう半ば眼も見えず、意識もおぼろげなまま、あやまって崖から転落したと思うにちがいない。どう思うにせよ、わたしの失踪《しっそう》がやつを心配させないことはたしかだった。解毒剤でも救えぬほどしたたか毒薬を飲んだ人間がどう行動しようと、問題ではないのだ。
二十分ほど待っていると、あの男は斜面の頂上にあらわれ、双眼鏡で斜面を探していたが、やがてひどく慎重に斜面を降り、わたしの足跡を断崖のふちまでたどって来た。それで納得し、また頂上に戻ると、もう一度双眼鏡で斜面を調べ、わたしのいるネズの木を眺めた。あの男はなにか動くものを認めたからだが、それはわたしのいるのにも気がつかず一フィート上のところにとまっている一羽の鷹だった。石だってわたし以上に静かにしていられなかったろう。鷹は飛び去り、じきにブルック卿も姿を消した。きっと先ほどわれわれが休息したところに戻り、わたしの上着の中身を吟味したのだろう。しかし、上着には、小さな手帳に写しとったある住所を除いては、あの男の興味をひく物はなにもなかったと思う。わたしのハンカチが紛失したことは気づいたかもしれないが、それは葡萄酒でびしょ濡れになって、わたしのズボンのポケットに入っていた。だが、政府の専門家は、あのハンカチから、ハンカチ以上に興味深いある物を手に入れるだろうよ、コンシダインさん?」
「どういう意味ですか?」
「わざわざ、あなたに説明するには及ぶまい。ヒオシンには、とくにわれわれには貴重な性質がある。あなたは毒物学はどうなのです、コンシダインさん?」
「くわしくはありませんね」
「医者なら、だれでも知っていないといけないな。毒物による症状は、ほかの症状同様に、すべて微妙な相違まで知っておかないと」
「ヒオシンはヒヨス〔ナス科の有毒植物〕から作り、催眠薬でしょう。戦争中は、ずいぶん使われました。頭脳の興奮とか、狂躁症、戦争|痴呆《ちほう》症によく効きます」
「あれは相当有名な毒物ですよ」とリングローズは説明した。「植物からとれる毒物のなかには、死んだあと化学的な証拠を見つけ出すことが実際不可能なものがあるが、ヒオシンならそれができる。だから、あの男からヒオシンを入れたと聞かされて、しめたと思ったね」
「化学分析でわかると思いますが、どのくらい大丈夫でしょう?」
「数年間は大丈夫でしょう。クリッペン事件が有名な例だ。これで、あいつを捕えたといった意味がよくわかったでしょう?」
医師はうなずいた。
「それに、あの男はあなたが死んだものと思っているんですね?」
「そのとおり。それに、そう思わせておくことが必要だ。最後まで秘密にする必要のあることは、絶対にそうしなくてはいけない。じつのところ、わたしは秘密保持には絶望しかかっている。信頼できる人間はひとりしかいない。ふつうの警官は、秘密警察の者でさえ、秘密ということの真の意味を知っていない。しかし、ときたま上の人間で、その意味を理解している人間に会うものですよ」
「なにかお役に立てませんか?」
「ぜひそう願いたい。着る物がいるし、廻り道をしてイギリスへ帰りたいと思っているもんでね。明日発つ予定です」
「わたしのモーター・ボートでコリコへ行くといいでしょう。湖から汽車の線までわずか六百ヤードしかありません。そこからキアヴェンナへ行って、スプリューゲン峠を越え、エンガディーン谿谷《けいこく》を通ればいいのです」
「なるほど、それがいい。暗くなってから、ボートに乗せて行ってくれますか?」
「わかりました。で、それまでのあいだは?」
「ここでひと眠りさせてもらいますよ。ここには召使もいないし、あなたの雑用をしたり、朝御飯を作ってくれるばあやだけだから。どこか、ばあやに見つからないところで休ませてくれませんか?」
「ここじゃまずい。ばあやがどこでも首を突っこむかもしれないし。わたしのボート置き場の屋根裏に居心地のいい穴倉があります。あそこなら絶対に大丈夫だ。毛布と、ボートのクッションを持って行きましょう。食べ物は、のちほどわたしがいっぱい差し入れてあげます。それに、わたしの服を一着と。腰の辺が少々きついのと、ズボンが長すぎるだけですから。真っサラのが一着ありますよ」
リングローズはうなずいた。
「それはありがたい。そうすれば、明日の晩ボートに乗りこめる。時刻表があったら、借りて行って、旅行のことを調べたい。靴《くつ》も買っておいてください。あなたのはきつすぎる。このハンカチは防水布にくるんでください。明日持って行くことにします」
夜はすでに明け、リングローズは足の痛みに呻き声をあげながら、びっこをひきひき、四分の一マイル離れたボート置き場へ、コンシダインと歩いて行った。まだ起き出した者はなく、湖面には、霧が大波のように漂っていた。医師は毛布を持ち、彼らは歩きながら話した。
「イギリスには信頼できる者がひとりいるということでしたね。それはどなたです?」
「わたしの元のボスで、ありがたいことに、今でもスコットランド・ヤードを指揮しているのです。これから少々面倒なことをしなくてはならないので、お役所仕事でやられたひには、万事ご破算になってしまう。しかし、ジェイムズ卿がこの話を聞かれたら、内務省のほうはうまくやってくださるだろう。あの方は検事正のヒューバート・マザースン卿とは友だち同士だから、二人してわたしに自由にやらせてくださると思う――少なくとも、こっちはそう期待していますよ」
ボート置き場に着いたあと、コンシダインが寝心地のいいベッドを整えているあいだに、リングローズは自分の方針を話した。
「わたしからいわなくても、どうしたらいいかはよくわかっているでしょう。いつもそうだが、こういうことがあると、きまって新聞が騒ぎたて、世間に知られてしまう。新聞が書きまくり、新聞記者《ブンヤ》が現場へ駆けつけ、三流新聞が関係者のだれかれの写真をのせまくる。今度の場合、ことはまことに重大だ。わたしはブルック・ノートンの連中にもさとられないくらい、ごく内密に行動したいと思う」
「その気になれば、そう難しくはありますまい」
「そのとおり――もし秘密が守られさえすれば。われわれが手がけるのは、ふつうの墓でなくて、地下の納骨場だから、仕事は簡単だ。六人で夜そちらに出かけ、ブルック家代々の霊廟に入りこみ、戸を閉めておく。前のブルック卿のひつぎを開けて必要なものを取り出して、半時間でまた元どおりにしておく。それから、自動車でロンドンへ引き返す。二週間かそこいらで、政府の病理学者がヒオシンを見つけ出し、逮捕状が出される。だが、まだ万事秘密にしておかなくてはならない。犯人引渡しの際のごたごたや、ぐずつきはごめんだからね。あの男はイタリアにいっぱい友だちがいるから、逮捕状も、その手助けでずらからないともかぎらない。わたしの考えでは、イギリスに帰るまで尾行させておき、ドーバーでひっとらえてはどうかと思うのだが」
「幸運を祈ります、リングローズさん。さあ、もうおやすみにならないと。五十五歳の人間にしては、ずいぶんきつい仕事ぶりでしたから」
リングローズはベッドに身を横たえ、あくびしながら、やさしくいった。「待つのは、さぞ辛いだろうが、あなたのことを忘れたわけではありませんよ、コンシダインさん。しかし、心配するには及ばない。トレメインは紳士だし、早くても一家がイギリスに帰るまでは何も起きないでしょう。あなたの代りに見届けてあげますよ。トレメインがイギリスにいるのなら、会ってみてもいいし、フィレンツェにいるのなら、ブルックが逮捕されるまで行動は禁物だ。すべてはそれからです。そのうちフォーダイスという男がルガーノで行方《ゆくえ》不明になったことを耳にするかもしれないが、なあに、気にするには及ばない。むしろ、そのことが大々的に出たほうがいい。ホテルを出るときにサンタ・マルガリータへ登る予定だといっておいたから、あの辺を探すだろう。あなたはいっさい大丈夫だし、あの男が牢屋へ入りしだい、自由に行動してもらって結構です――たぶん、その前からでもね。まあ、わたしを信頼してほしい」
眠りかけたらしいぼんやりした声だったが、コンシダインがボート置き場を出て、鍵をかけたときには、リングローズはもう寝こんでいた。
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第二十一章 またも幽霊
リングローズを乗せた自動車がオールド・マナー・ハウス・ホテルの古びた玄関に横づけになったのは、去年彼がここを訪れた日より二週間前にあたる日のことだった。一年前とまったく同様に、彼は身軽に車から降り、荷物や猟銃ケースをおろし、中に入ろうとしたとき、ブレントの巨体が玄関をふさいだ。ブレントは恭《うやうや》しくリングローズを迎え、またおい出いただいて光栄至極だと挨拶した。彼はリングローズの手を握りしめ、畏敬《いけい》の念をもってその顔をじっと見た。
「前だって有名人でしたが、こう有名になられたのでは、もう絶対に身元を隠せませんよ――いくらこんな田舎でも」とブレントはいった。
「あんたには黙っていてくれと頼んだのだが、ブレントさん」
「ええ、わたしは黙っていましたよ。でも、殺人は噂《うわさ》になりますからね」
「ところで、ベレアズ夫人はお元気かな?」
「お元気です。お二人とも証言をされましてね。向うから出むいて来て、大騒ぎでした」
「あの方の健康にひびきはしなかっただろうね?」
「とんでもない。あなたにお目にかかるというのでワクワクしておられますよ」
「で、狩りのほうは?」
「二十人ばかり来ておられます――上流の方も入れて。みなさん、あなたが雉子《きじ》射ちの仲間に加われれば大いに光栄に思うでしょう」
「わたしはそんなことは嫌いでね。ブレントさん、あんたに会ったり、仕事をするために来たんだよ」
「仕事ですって! とんでもない! あれでもまだ仕事をしたいんですか?」
「原稿だよ、ブレントさん。字を書くんだよ。いつもなにか途方もない事件があればと思っていた。そいつをわたしの本の最後に持ってくれば、読者も金を払っても惜しくないと思ってくれるようなやつをね」
「むろん買いますよ、大いにね。うちのホテルのこともちゃんと書いといてくださいよ」
「心配いらないよ、ブレントさん。今度の話はここの屋根の下ではじまったんだし、そこで終ってほしいと思っているのでね」
「その本が出たあかつきには、このホテルも繁盛するでしょう」
「その点はあてにならないよ、ブレントさん。幽霊のほうはどうかな? 幽霊の出る家なんかいやがる人間が大勢いるからね」
「幽霊のことは省いてくださいよ。たぶん、そのほうがいいでしょう」
「幽霊のことは省けだって! 冗談じゃない――この事件の発端は幽霊からじゃないか。いちばん大事なんだ」
「でも、あなたのおかげで出なくなりました」
「それはわかるまい。この前と同じ部屋にしてくれたろうね?」
「もちろんです。おいいつけどおりに。全然室内は変っていません。あれから二十人はあの部屋でお休みでしたが、幽霊の話なんか出ませんでした。ほんとですよ」
彼らはまもなく紅茶を飲みながら、あれこれと語りあった。
「今度の事件以来、お茶を飲みに見えるお客さんが今までになくふえました」とブレントはいった。「おかげでうんと稼がせていただきましたよ。ですから、ふつうの客としてではなく、賓客《ひんきゃく》として、お気の向くだけいつまででもお泊まりください」
「それはどうも、ブレントさん」
半時間後、リングローズは自室に退き、質素な調度をふしぎそうに見渡した。
「わたしの生涯で一番の冒険の出発点にしては、奇妙な場所だ」と彼はブレントにいった。やがて、主《あるじ》が炉の火を掻きたて、カーテンをひいて、出てゆくと、リングローズは前回と同じ動作をくりかえした。衣類を箪笥《たんす》や吊戸棚《つりとだな》にしまい、弾薬や猟銃ケースは吊戸棚の底にしまった。書物や書類|鞄《かばん》、皮製の書き物台は窓辺のテーブルにおいた。二時間後ゴングの合図で食堂に出てゆくと、身綺麗にしたミス・マンリーが病人用の車椅子を押してあらわれた。リングローズはこの主従にすこぶる親しげに挨拶した。
「全然年をとっておられませんねえ、お二人とも。お差支えなかったら、あとで広間にお話しにうかがいますよ」
「ぜひ聞かせていただかなくては」とベレアズ夫人は心から感動して、眼を輝かせて彼の顔を見た。「世間の人が知っているくらいのことは、わたしたちも存じています。でも、おききしたいことが一杯ありますの」
「それはもう当然です。奥さんとマンリーさんがいらっしゃらなかったら、なにひとつ話すネタがなかったでしょうからね。どうやって、本をしめくくっていいか、わたしもきっと弱ったでしょう」
ホテルにはほかにも泊まり客があったので、リングローズはベレアズ夫人の居間で話をすることを承知した。夕食後三十分ほどして行ってみると、彼がくつろげるようにすっかり用意ができていた。
「条件がひとつだけありますの」と老夫人はいった。「葉巻をふかしながら、お話くださいませ」
「いうまでもありませんが、わたしはまずお二人に、なにもかも完全にお話しなければいけないと思っています。話は相当長くなるでしょう。このホテルにやって来たのは、去年の今頃でしたからね。しかし、残念ながら、とびきりよくできた話ではないのです。最初はみごとだし、真中もおもしろい。だが、結末がない。わたしの仕事は終っていないし、たぶん終ることはありますまい。いずれにせよ、一晩や二晩では全部はお話できません。わたしがこのホテルを去ってから、ドーチェスターで幕が降りるまでのあいだに、わたしとあの二人に起きたことは、いっさい省かずにお話するつもりですからね」
「あなたがきっとわたしたちのことは覚えていてくださると思っていましたわ、リングローズさん」とベレアズ夫人はいった。「スーザンもわたしも、その点は確信しておりました」
「それにまちがいありません」
そこで、老婦人たちはじっと聴き耳をたて――スーザンは膝《ひざ》に両手をのせ、ベレアズ夫人は気つけ薬の瓶を握りしめながら――リングローズは話しはじめた。
だが、リングローズは驚くべき記憶力の持主で、いろいろな出来事ばかりでなく、それらの出来事が自分の心の中に生み出したさまざまな考えや理論まで、すこぶる丹念に物語っていったので、ずいぶん長くかかった。語り終るには数日はかかることは明らかで、第一夜は、ようやくビットンのことを話し終えただけだった。
ベレアズ夫人は話が次回にのびるのを悲しんだが、スーザンは賛成した。
「一週間もつづくすばらしい映画を見ているようなものですわ。最後には、主人公となじみになれるでしょう」
五日目の晩には、さしもの物語も終りに近づいた。
「昨晩はコンシダイン医師のボート置き場のところで話を終りましたが、それからあとのことは、今夜おやすみになる前に、すべてお話できるでしょう。もちろん、大部分はもう世間が承知のことですが。ともあれ、わたしはその日一日中死んだように眠っていました。眼がさめて、はじめて医者が足の手当てをしてくれたのに気づいたほどでした。しかし、これでも元刑事なのですよ。ほんとは眠っているときも片眼を開けて眠らないといけないのですがね!
コンシダインにコリコまで夜ボートで運んでもらい、そこからキアヴェンナ、スプリューゲン、マロガ峠を通って、イタリアにおさらばしたのです」
「あの辺ならよく知っています。前に通ったことがありますから」とベレアズ夫人はいった。
「せっかくの風景も猫に小判でしたがね」とリングローズは白状した。「でも、道々充分計画をかためてきましたよ。しかし、こちらに戻っても、下宿やスコットランド・ヤードからは遠ざかっていました。まず大丈夫だとは思いましたが、どんなことにも正しいやり方とまちがったやり方があるのです。前にブルック卿が私立探偵にわたしのことを洗わせたのが頭から離れず、今回も、あの男が大事をとってわたしの幽霊が古巣にあらわれたかどうか調べさせているかもしれないと思ったのです。そのかわり、同僚の家に行って、われわれの言い方でいえば、じっとおとなしくして、もとの上役のジェイムズ・リッジウェイ卿に手紙を出し、重大な用件で大至急お目にかかりたい、といったのです。役所には顔を出せぬわけを説明し、いつか夜お宅にお伺いしたいと頼みました。あの方にとってどんなに時間が貴重かわたしがよくわきまえていることもご存知です。さっそく次の晩、夕食に招待され、わたしの話にいたく関心を持たれたようでした。三日後に、また夕食に招かれて参上すると、今度はもうひとりの方もご一緒でした。それが検事正のヒューバート・マザースン卿だったのです。お二人のはからいで、待望の地下納骨所の発掘許可が内務省からおりました――それも、ごく内密に。じっさい、今回ほどみごとに秘密が保たれたことはなかったでしょう。犯罪者、世間、新聞、あらゆる者に対する大勝利でした!」
リングローズはいかにも満足げにそう語った。
「五人の者が、必要な道具を手に、ブルック・ノートンに赴きました。わたしを含めて四人の選り抜きの者と、政府所属の病理学者マーガトロード教授。この方もぜひ同行したいと申し出られ、いや、熱心なものでした。ブルック・ノートンの外側に到着したのが、八月の最後の日の午前一時。幸い、荒れ模様の真暗な夜でした。前に行ったことがあるので、霊廟のありかは心得ていました。家からわずか二百ヤードの、林の中の空地にあるのです。自動車は、運転手を――警官ですが――見張りにつけて、村の外の小道においてきました。墓地に到着すると、簡単な錠前を開けて中に入り、扉を閉めました。それから、ビューズ家の真新しいひつぎが眼に入りました。イタリアで作った大きなひつぎと、ブリッドポートで作らせた小さなひつぎが。殺された子供が、同じく殺された父のそばに眠っているのです。わたしにとっては、おごそかな一瞬でしたし、それら死者のそばに立ったとき、わたしがおごそかな気持を感じたこともたしかです。
問題は、すべてを元通りにしておくということでした。われわれが用意した物の中には、桶《おけ》が一個と雑巾が二枚ありました。なぜ、警察がそんな物を、とお思いでしょう。仕事がすんだあと、そこの大理石の床をきれいに拭《ふ》くためでした。泥靴の跡を残したくなかったのです。偶然来た者か墓守が気がついたら、大騒ぎをして、ブルック卿に通報したりすると困りますからね。そこで、なにひとつ、あとに残しませんでした。
ひつぎは簡単に開き、医者は必要なものを壷《つぼ》に集めることができました。医者はすぐに懐中電灯の光の中で、わたしたちの眼の前で、壷に封をしました。遺体は腰くらいの高さの棚の上におかれていて、われわれはひつぎは全然動かしませんでした。開ける前、ひつぎの蓋《ふた》につもっていたこまかな埃《ほこり》をどけましたが、閉めるときは、元通りにしておきました。訓練された男がその夜なにが行われたかを知ったなら、あとでその痕跡をいっぱい見つけることができたでしょう。だが、なんの疑いも持たない人間が、偶然見たくらいでは、なんの痕跡も残さなかったはずですよ。
われわれは一時間半後に自動車に戻り、夜明けまでにロンドンに着きました。それから、分析にかかり、ブルック卿がたっぷり毒を盛ってくれたので、いっさい真相が明らかになったのです。
ブルック卿がドーヴァーに上陸した翌日まで、そのことを知っている者はイギリス中で九人しかいませんでした。それは三週間後のことでした。わたしもブルック卿を逮捕しに赴いた一行にまじっていました。わたしを認めると、あの男はひどくふしぎそうでした。少なからず驚いたはずですが、一瞬といえども落ち着きを失わなかったのです。『きみは飲まなかったのかね?』とたずねるので、『ええ、男爵、飲みませんでした』とわたしも答えました。あの男は落ち着きはらって手錠を受けました。あの男に関心があるのはわたしだけでした。『どこにいたのかね?』ときくので、『斜面に生えていた小さなネズの木の蔭ですよ』と答えると、信じられないようでした。『しかし、兎《うさぎ》一匹隠れられはすまい』というので、『一本ありましたよ。大きな鷹が飛び立った木です』とわたしはいいました。
すると、あの男は万事休すとさとったらしく、ああいう恐るべき瞬間にさえ、推理を展開し、自分を破滅させた論理的過程を見破ったようでした。おそろしく頭の切れる男でしたねえ。『兄の遺体を調べたのだね?』とききました。一瞬のうちに、そのことを見抜いたのです。『そうです、男爵。ヒオシンが検出されました』とわたしは答えました。『きみはわたしを絞首台に送ったねえ、リングローズ君』とあの男はいいました。『そうあってほしいですね、男爵』とわたしは答えました。そして、ブルック卿は連れて行かれました」
「でも、あの気の毒なお嬢さんのことですけれど」とベレアズ夫人が叫んだ。「お話中ですが、あの方はどうなりました? おじさまといっしょにドーヴァーに上陸なさったことは聞きましたが、それ以上はなにも知らないのですもの」
「大変悲しいことになったのです、奥さん」とリングローズはいった。
「悲しいこと? まさか、そんな!」
「いいえ、ご心配なく。お嬢さんのことでも、コンシダインのことでもありません。ニコラス・トレメイン青年のことなのです。トレメインと連絡をとろうとしましたが、失敗したのです。郷里にいないので、イタリアにいるにちがいないと思っていました。しかし、そうではなく、たまたまスコットランドに行っていたのです。でも、ドーヴァーの波止場には出迎えに来ていました。そして、コンシダイン医師も。今はニクス〔フランス南東部、マルセイユの北にある町〕にいますけど、わたしがそこに電報をうちました。若い二人への思いやりから、すぐに来るようにいったのです。だって、ミルドレッドさんにはだれか親しい人間がそばにいる必要があると思ったものですから。そこで、コンシダインもやって来て、フィレンツェへ差し向けた男――ジヨー・アンブラーという有望な若者ですが――から、ブルック卿がイギリスに向ったと連絡があるまでは、いつも悩んでいたのです。アンブラーはブルック卿と同じ列車に乗り、一行が帰路についたとパリから電報をよこしました。
さて、連絡船が見えたとき、波止場にはコンシダインとトレメインの両方が出迎えて、船が着くまでは二十五分もある。そこで、わたしは二人を紹介しました。あとでロンドンでコンシダインから聞いたことですが、二人はあとの汽車でミルドレッドさんを郷里まで送ってあげたそうですよ」
「で、うまくいきましたか?」とスーザンがきいた。
「ええ、恋人たちにとっては万事うまく運びました。来年の春、結婚するそうですよ」
ベレアズ夫人は溜息をつき、気つけ薬をかいだ。
「そのお嬢さんに会ってみたいものねえ。話をおつづけになって、リングローズさん。でも、あとのことはわたしたちも存じていますけれど」
「いいえ、全部をご存知ではないでしょう。わたし自身、残念ながら知らないのです。一生知らないかもしれません。裁判や弁護の模様は、もちろんご存知でしょう。ある意味では、甲乙つけがたい議論の応酬でしたが、わたしの証言の背後には、ずっしりした重味がありました。弁護士の弁護はたくみでしたが、あれではもちこたえられるわけがない。弁護士は、自殺には二種類の仕方があると主張しました。それは事実です。喉《のど》を掻《か》き切ってから橋から飛び降りたり、列車に飛びこんだ例もある。また、毒を飲んだあと頭を射ち抜いた例もある。だから、毒を飲んでから断崖から飛び降りたと考えられないか、というのです。しかし、この推論に対しては、死体と同様にわたしのハンカチにもヒオシンがしみついていたという反論ができる。それに、ビットンとあの少年をめぐる恐ろしい陰謀――あの証拠はくつがえせませんよ。わたしの知るかぎり、この国の貴族で絞首刑になったのは、ブルック卿が最初でしょう。一般にこの国の貴族は法律を守る階級なのですよ。
ブルック卿は紳士らしく死にましたが、牧師の助けはことわって、ゴビノーという人の著作を差し入れてもらい、刑場の露と消える日まで、脇目もふらず読みふけっていました。そして、型通りの控訴が棄却されたあと、自白しました。状況証拠の場合、被告から心よく自白してくれると、いつも感じがいいものです。あの男は死ぬことはたいして気にかけていなかったでしょう。生きているうちに、市場にある象牙細工のほとんどを手に入れてしまいましたからね。でも、びっくりするようなことをひとつしましたよ――わたしが手がけた殺人犯人が今までだれも思いつかなかったような、驚くべきことを。あの男は遺言状に補足をつけ、記念品を残してくれたのです」
「どなたにです?」とベレアズ夫人がたずねた。
「わたしにです、奥さん!」
リングローズはポケットから、なにかを取り出した。宝石箱だった。彼は箱を開けて、夫人の前においた。
「ショックを受けないようにご用心」とリングローズはいった。「例のバルテルの象牙細工ですよ」
老婦人たちは象牙の上にかがみこみ、恐ろしそうに叫び声をあげた。
「『ジョン・リングローズへ、その天才を認めて、一崇拝者より』ブルック卿が書いたのです。みごとなものでしょう? 象牙ではなくて、その気持をいっているのです」
「またあの気味の悪いものがあらわれましたのね。こんなに小さくても、やはり気味の悪いこと」とスーザンがつぶやいた。
「こっちのほうがもっと気味が悪いわ」とベレアズ夫人はいった。
「そうなのです。この細工には、奥さんの絵やわたしの人形にはないドキリとさせるものがありますね」
リングローズは箱を閉じ、その醜悪な物が眼にふれぬようにした。
「そういう次第で、謎の解決はあいかわらず前途|遼遠《りょうえん》なのですよ」と彼はいった。「たしかに、こんな奇妙なことはありません。わたしはなかなかつらい仕事をやってのけ、みなさんに満足してもらいましたが、自分自身では満足していません――それどころか、出発点が、事件の発端が、まだ解決されていないのですから。ほら、あのあわれな子供の声のことですよ。わたしはあの謎の底を突きとめなくてはいけません。さもなければ、底がないのだと率直に白状し、子羊のようにすごすごと、降霊術師に降参するほかはない。やつらはすでにわたしが軍門に下ったと主張しているのです。なんでも、人の話では、あの裁判このかた、何十人ものひとびとが信者になったそうですよ。でも、わたしは信者に加わりたくはない――わたしの中のあらゆる本能がそれに反対しているんです」
「あれ以後、あの声をお聞きになりまして?」とベレアズ夫人がきいた。
「いいえ。二度と聞きたくないものですな」
「でも、お聞きになるかもしれませんよ」
「とんでもない、奥さん」
そのとき、ベレアズ夫人はスーザンのほうを見た。
「どうしましょう、スーザン?」
「今か、それとも、全然いわないか」とスーザンは短く答えた。
ベレアズ夫人は気つけ薬を下においた。色白の、美しい老いた顔にかすかに赤味がさしていた。
「お話したいことがあるのです。リングローズさん」と、夫人はいいだした。「一年前のことを思い出してください。ルドーが亡くなって、あの恐ろしいおじからああいうふうにあしらわれると、わたしもスーザンもなんとも打つ手がない感じでした。このとおり二人ともとるに足らない年寄りですし、こんな年寄りのいうことなんか、簡単に聞いてもらえるわけがありません。時がたつにつれ、わたしたちの苦しみもうすれはしましたけれど、決して忘れはしませんでした。わたしは神さまに祈りました。ええ、ほんとうに何回もお祈りしたのですよ。ですから、なんとまあ、あなたのような方が同じホテルに滞在なさると聞いたとき、わたしはお祈りが聞きとどけられたと思いました。たしかにあなたはブレントさんにあなたの素姓を口外しないでくれとおっしゃった。でも、ブレントさんのことはよくご存知でしょ。そんなすばらしいことを秘密にしておける人ではありません。あの頃でさえ、あなたはあの人の憧れの的《まと》でした。で、ブレントさんはあなたがどういう方かスーザンに洩らし――絶対に秘密にしてくれといって――もちろん、すぐにわたしの耳に入りました。そのとき、わたしは神さまがあなたをおつかわしになったと知ったのです。神は自らを助くる者を助く、といいますね。そこで、わたしとスーザンは知恵を働かせたのです」
リングローズは話し手の顔を見つめていたが、彼の強靭《きょうじん》な記憶力はあらゆるこまごました事実をよみがえらせはじめていた。なにをいいだすのかと彼は疑問に思ったが、ベレアズ夫人が話しつづけているあいだ、口をさしはさまなかった。
「おばあさんのおしゃべりではあなたの関心を惹かないだろう、ということはわかっていました。でも、幽霊ならあなたも関心を持つでしょう。わたしの考えでは、まず幽霊があらわれて、あとでなぜ幽霊が出るのかその恐ろしいわけをお話すれば、あなたも耳を貸してくださるだろう。そう思ったのです。ですから、あなたが耳を貸してくださると知ったときのわたしの喜びがどんなだか、お察しがつくでしょう」
「ちょっと待ってください、奥さん! それよりもっと具体的に!」とリングローズは叫んだ。
「今からお話するところですわ、リングローズさん。あなたがこのホテルにいらした最初の夜、おやすみになったようだとわかると、スーザンは車椅子を押してわたしを隣の部屋に連れて行き、わたしは壁ぎわの戸棚からはっきりした大きな声で叫んだのです。ご承知のとおり、戸棚とあなたのお部屋のあいだの壁は厚くありませんし、わたしの声はきっとすぐそばのように聞えたのでしょう。そのあと、すぐにスーザンはわたしを連れ出してくれました。ですから、あなたが廊下や、隣の部屋や、戸棚をお調べになったときには、わたしたちは無事に退散していたのです」
「それならもっともです。しかし、二回目のときはどうですか? 部屋の鍵はわたしが持っていましたし、ドアには鍵がかかっていましたよ」
「あの部屋には合鍵があって、スーザンはだれにも知られずにそれを手に入れておいたのです。このホテルはどの部屋にも全部合鍵が用意してありますの。二度目にスーザンにあの部屋に連れて行ってもらったとき、わたしは戸棚の中に枕を敷いて隠れました。それからスーザンは車椅子を外に出し、ドアに鍵をかけたのです。大変な冒険でしたけれど、やってみたのです。スーザンが行ってしまうと、わたしはルドーの声色を使い、天の助けを待ちました。あなたはすぐにやって来て、ドアを開け、懐中電灯で室内を照らしておいででしたけれど、そのときは中はごらんにならなかった。もしごらんになっていたら、戸棚の底に枕にくるまって絶体絶命のわたしを発見なさったでしょう。でも、あなたが出て行って、またドアに鍵をおかけになると、あなたが寝こまれるのを待って、スーザンが車椅子を持って来て、わたしを外に連れ出したのです」
「それにしても、わたしが寝こんだことがどうしてわかりました?」リングローズは、スーザンをきびしく見据えながらいった。
「正直に申しあげたほうがいいと思いますけれど、ずいぶんいびきをおかきになるからです」と彼女はいった。
リングローズは彼女をじっと見た。
「これはどうも。刑事たる者、いびきをかいてはいけないのですが、マンリーさん」とかぶとを脱いだ。それから、まだ当惑した顔つきで、またベレアズ夫人のほうを振り向いた。
「しかし、あの声には――あの子供の苦しげな声には――血も凍るばかりの狂おしいおののきがありましたよ? それに、あのあと、わたしが自分の経験をお話したときに、卒倒なさるかと思ったくらい、びっくりなさったではありませんか?」
ベレアズ夫人はほほえんだ。
「わたしが何者かご存知? あなたは事件というものは、はじめから調べることが大切だとおっしゃいましたわね、リングローズさん。けれども、わたしに対しては、はじめから調べようとはお考えになりませんでした。たぶん、あまり昔のことだからでしょう?」
「いや、奥さんを疑ってはいましたよ、わたしの話をお聞きになったときのショックを目撃するまでは」
「でも、最初から調べていらしたら、もっとお疑いになったはずですわ。そうじゃないこと、スーザン?」
「ほんとはなさりたかったのかもしれません、奥さま。今度戻っていらしたのも、真相を調べるためかもしれませんわ」
「では、奥さん。あなたは何者ですか?」とリングローズは呆気《あっけ》にとられてきいた。
すると、ベレアズ夫人はこうきいた。
「モーマス劇場のバーレスク全盛時代のことはおぼえておいでですか? それとも、そんなお年じゃありません? 街《まち》の少年とか、ぼろぼろの浮浪児を演じたり、そういう子供役を熱心に研究して、『荒涼館』〔十九世紀イギリスの作家ディケンズの作品〕のジョー役で好評を博したミニー・メリーという女優のことは、お聞きにならなかったかしら? このスーザンも当時はミニーの『衣装方』でした――今でもそうですけれど」
「これは驚いた! 十代のわたしはあなたに夢中だったもんですよ」とリングローズはいった。
「すると、わたしはそのお礼をしたことになりますわね。わたしの最後の、とくべつかわいそうな役を、あなたおひとりのために演じてさしあげたのですもの」
リングローズは思わず衝動的に立ちあがり、この老女優の手を握りしめた。
「なんという勇気のある、すばらしい方でしょう!」
「これで幽霊の存在をお信じになる必要はありませんね」とスーザンはいった。(完)
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解説
ヴァン・ダインは、有名な『推理小説傑作集』(一九二七)の序文で、次のように述べている。
「イーデン・フィルポッツは英語で書かれた推理小説の最高傑作をいくつかあらわした。彼はこの種の娯楽文学をいかによくきわめていたかを証明し、それまでの半生にわたる作家業の経験をかたむけて創作にあたった」(鈴木幸夫訳編『推理小説の詩学』四九ページ)
そして、イギリス長編推理小説ベスト十一のなかに、彼の『赤毛のレッドメイン家』と、ハリントン・ヘキストの別名で書いた『だれが駒鳥を殺したか』を挙げている。フィルポッツが推理小説を書きはじめたのは、じつに五十九歳であったことを考えれば、中年から推理小説家に転じたヴァン・ダインの場合と同様に、この成果は驚くべきことといえるだろう。
ここで、簡単に略歴を書いておくと、イーデン・フィルポッツは、一八六二年、ヘンリー・フィルポッツ陸軍大尉の子として、インドのマウント・アブーに生まれた。やがて、帰英してプリマスの学校に通い、その後ロンドンの演劇学校に学んだが、俳優の素質がないことをさとって断念し、火災保険会社に入社した。
一八九〇年、十年間つとめた会社をやめて作家生活に入り、両親の故郷デヴォンシャーのトーキーに居を構え、創作一筋の人生を送った。そして、一九六〇年、九八歳の高齢で世を去るまで、合計二百五十篇にのぼるおびただしい作品をあらわした。フィルポッツは自らの人生をかえりみて、「書くことだけが人生の慰めであり、支えであり、書くことを抜きにした人生は考えられなかった」と述べている。また、デヴォンシャー生まれのアガサ・クリスティの文才を深く愛し、文学上の指導を与えたりした。
フィルポッツの文学的足跡は、小説、戯曲、詩、随筆と広範囲にわたっているが、最初彼が名声をはせたのは、一連の「ダートムア小説」の作者としてである。一八九八年の『霧の子供たち』にはじまって、『朝の子供たち』(一九〇〇)『川』(一九〇二)『母』(一九〇八)『義賊』(一九一〇)『ウイデイカム・フェア』(一九一三)……とつらなるこれらの小説は、彼が愛してやまないデヴォンシャーの田園を背景に、そこで生きるひとびとの姿を、詩情ゆたかに緻密《ちみつ》に描きあげたものである。そのため、しばしばトマス・ハーディと比較されたが、じっさいには、「ダートムア小説」の幾つかを発表するまでハーディの作品を読んだことがなかったという。
フィルポッツが推理小説を書きはじめたのは、空想的な化学による睡眠中の殺人を扱った一九二一年の『灰色の部屋』からであった。もっとも、一九一〇年に『不吉な数』という怪奇短篇集を発表しているから、この方面に関心がないわけではなかったのだろう。その翌年、彼の一番の傑作といわれる『赤毛のレッドメイン家』を公けにし、推理小説家としての地位を確立した。
これはイギリスとイタリアを舞台に、天才的な悪人夫婦の巧妙に仕組まれた一連の親族殺人事件を扱っており、本格的推理小説にふさわしいユニークなトリック、みなぎる緊迫感、犯人の意外性などを備えてはいるものの、推理小説のタブーを破って恋愛を作品の重要な要素としたことや、風景描写に注がれた熱意の点で、作者の文学的傾向を濃厚に示している。
一九二五年には、ここに訳出した『闇からの声』を発表し、さらに、異常人格者の密室殺人を取上げた『メアリルボウンの守銭奴』(一九二六)、三部作『エイヴィスの本』(一九三二)、異常な犯罪心理を描いた『医者よ、自分をなおせ』(一九三五)、道徳感を喪失した反社会的人間を主人公に持った『悪党の肖像』(一九三八)と、次々に作品を発表した。
そればかりではない。『赤毛のレッドメイン家』と『闇からの声』をあらわしたわずか数年の間に、ハリントン・ヘキストのペンネームで、さらに三つの長篇を書いているのである。すなわち、財産目当ての殺人を扱った『すぐうしろのもの』(一九二三)、『赤毛のレッドメイン家』と同様に恋愛と犯罪を絡《から》ませた『だれが駒鳥を殺したか』(一九二四)、二重人格の怪奇を狙った『怪物』(一九二五)である。これを見ても、この作家がいかに推理小説の魅力にとり憑《つ》かれていたかが察せられよう。ただ、なぜフィルポッツがハリントン・ヘキストというペンネームを使いわけたのか、その理由はわからない。欧米の作家には、エラリー・クイーンとバーナビー・ロス、E・S・ガードナーとA・A・フェア、ディクスン・カーとカーター・ディクスンなど、同一の作家がペンネームを使いわける例がよく見かけられるが、これも推理小説家らしい一種のミスティフィケーションといえようか。
以上の素描からもわかるように、フィルポッツの作品は異常人格や犯罪心理を題材にしたものが多いが、一口にいって、『闇からの声』も犯罪心理を追及した作品である。スコットランド・ヤードを隠退した名刑事ジョン・リングローズは、趣味の狩猟を楽しみに出かけた田舎のホテルで、奇怪な出来事を経験し、過去のいまわしい冷酷な犯罪を嗅ぎつける。この老刑事と、象牙細工の蒐集《しゅうしゅう》に異常な執念を燃やす悪の天才との息づまるような知的闘争が、作品の主題となっている。
この主題を緊密に展開するために作者が用いたのが、いわゆる倒叙《とうじょ》形式であった。謎《なぞ》解きを主眼とする本格的推理小説では、斬新奇抜なトリックや犯人の意外性などが最重要視されるため、どうしても登場人物の肉づけがおろそかにされやすい。主役の探偵にしてからが、超人的な推理力や活躍ばかりがもっぱら描き出されるし、探偵とわたりあうはずの犯人にしたところで、犯人の名を最後まで伏せておくというこのジャンルの約束上、ごく片手間にしか描かれず、とてもいきいきとした人間的存在にまではたかまらない。
だが、倒叙形式の推理小説では、最初から犯人が提示され、どうやってその罪を立証するかに焦点が置かれるため、作者は謎解きに費やすエネルギーを、登場人物にゆたかな肉づけを施すことに向けることが可能である。元来、この形式はイギリスのオースチン・フリーマンが『歌う白骨』(一九一二)のなかで開拓したもので、その後クロフツの『クロイドン発十二時三十分』(一九三四)や、フィルポッツの『闇からの声』、『悪党の肖像』などに受け継がれた。ちなみに、最近テレビで人気を呼んだ『刑事コロンボ』も一貫してこの形式を採用し、成功をおさめている。
当然予想されるように、『闇からの声』のジョン・リングローズは、多くの推理小説の名探偵氏とことなって、奇矯な天才型の探偵ではない。彼はオーギュスト・デュパンのように昼間から鎧戸《よろいど》を閉め、ろうそくをともした書斎でもの憂い瞑想《めいそう》にふけることもしなければ、シャーロック・ホームズのように自室の壁にピストルを撃ちこんだり、麻薬に親しむこともない。犯罪捜査にすばらしい手腕を示しはするけれど、温厚・快活で、親切で、社交性にとみ、常識円満の人柄である。おそらく、世の名探偵のうちで、もっとも人好きのする現実味のある探偵であろう。『赤毛のレッドメイン家』のピーター・ガンスにしてもリングローズほど快活ではないが、やはりおだやかな物腰と鋭い推理力を兼備した探偵で、推理小説中の人物造型に対するなみなみならぬ関心がうかがえる。
これに対して、犯人のブルック卿は稲妻のように切れる頭、洗練された社交性、ゆたかな教養の持主で、その性格描写のみごとさは読者に深い印象を与えずにおかない。もしこのユニークな悪人がいなかったなら、作品の興味は半減したといっても過言ではないだろう。
こういった主要人物の性格描写ばかりでなく、ブルック卿の手先をつとめたビットン、あるいは往年の名子役で、今は悠々自適の生活を送るベレアズ夫人など、その役割に応じて、いかにもいきいきと描き分けられ作品にふくらみを与えている。
さらには、作中の自然描写、とりわけイタリアの湖水地方の叙景などは息を呑むばかりの美しさで、自然に対する作者の愛情があふれており、作品の大きな魅力を形づくっていることを見落してはならない。さながら、ハーディの小説を読むような趣きがあり、このあたりは『赤毛のレッドメイン家』とも共通するところが多い。
中島河太郎氏は「フィルポッツの推理小説が欧米で必ずしも高く評価されていないのは、彼が純粋の謎解きを閑却してまで、犯罪心理の探求に筆を費やしていることからの不満が大きいと思う」(創元推理文庫『闇からの声』解説)と述べているが、たしかにこの指摘は妥当である。推理小説が本質的に一種の知的ゲームであり、その醍醐味《だいごみ》が謎解きの孕《はら》むスリルと期待にあるとすれば、犯罪心理の追及に深入りすることは、この醍醐味を否定し、ひいては推理小説というジャンル自体を崩壊させる危険があるからである。
それに、推理小説史の上から見ても、第一次大戦後から一九三〇年代の終りにかけて、英米の推理小説はその黄金時代に突入し、クロフツの『樽』(一九二〇)をはじめとして、クリスティの『アクロイド殺人事件』(一九二六)、ヴァン・ダイン『グリーン殺人事件』(一九二八)、『僧正《ビショップ》殺人事件』(一九二九)……など、本格的推理小説の傑作が続々と発表されていた。こういう時に、犯罪心理を中心的主題とするフィルポッツの作品は、よけい異質に感じられたという面もあるだろう。
だが、『赤毛のレッドメイン家』の作者フィルポッツは、犯罪心理を探求した作品でも、ただ犯罪者の内面にもぐりこむことに没頭し、推理小説独自の神秘的な雰囲気やサスペンス、緻密な捜査を展開することをゆるがせにしたりはしなかった。たとえば、『闇からの声』においても、冒頭の幽霊の声の驚くべきトリックから、リングローズが頭と足を使って、一歩一歩犯罪の核心に迫ってゆくあたりは、充分推理小説ならではの魅力を満喫することができる。
してみると、フィルポッツの行き方は、純文家から推理小説に筆を伸ばした老大家の文学的な、あまりに文学的な試みでは決してなく、推理小説が自らの可能性をきわめる上で、ぜひ一度はなされるべき貴重な実験であった。そして、作者は『闇からの声』において、その可能性を最大限に拡大してみせたのである。
一九七七年一月
〔訳者紹介〕
井内雄四郎(いのうちゆうしろう) 早稲田大学文学部教授。一九三三年十二月生まれ。現代英米小説専攻。主要著訳書『現代英米文学鑑賞辞典』(共同執筆)、コンラッド『密偵』、マードック『魔術師から逃れて』、ドラブル『夏の鳥かご』、ジェニファー・ドースン『寒い国』、ベロー『宙ぶらりんの男』、ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』ほか。