グレート・ギャツビー
フィツジェラルド
野崎孝 訳
目次
グレート・ギャツビー
解説(野崎孝)
グレート・ギャツビー
さあ 金色帽子を被るんだ それであの娘がなびくなら
あの娘のために跳んでみろ みごとに高く跳べるなら
きっとあの娘は叫ぶだろ 「金の帽子すてき 高跳びもいかすわ恋人よ あんたはあたしのもの!」
――トマス・パーク・ダンヴィリエ
ふたたび
ゼルダに
第一章
ぼくがまだ年若く、いまよりもっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告を与えてくれたけれど、爾来ぼくは、その忠告を、心の中でくりかえし反芻してきた。
「ひとを批判したいような気持が起きた場合にはだな」と、父は言うのである「この世の中の人がみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思いだしてみるのだ」
父はこれ以上多くを語らなかった。しかし、父とぼくとは、多くを語らずして人なみ以上に意を通じ合うのが常だったから、この父のことばにもいろいろ言外の意味がこめられていることがぼくにはわかっていた。このためぼくは、物事を断定的に割り切ってしまわぬ傾向を持つようになったけれど、この習慣のおかげで、いろいろと珍しい性格にお目にかかりもし、同時にまた、厄介至極なくだらぬ連中のお相手をさせられる破目にもたちいたった。異常な精神の持ち主というものは、ぼくのような性格が尋常な人間に現われると、すぐそれと見抜いて、これに対し強い愛着を示すものである。それで、大学のころ、得体のしれぬ無法者も、そのひそかな嘆きをぼくには打ち明けたものなのだが、それを理由にぼくは、なかなかの策士だと不当な非難を浴びることにもなった。しかし、そうした人びとの信頼は、たいてい、ぼくのほうから求めたのではないのだ――あるまごうかたない徴候によって、ぼくに対する親愛の情がちらちらほの見えているなと思ったときには、ぼくはよく、眠っているふりをしたり、考えごとをしているふうを装ったり、わざとそわそわしてみせたりするのである。いま、ほの見える、と言ったが、それはつまり、若い人の親愛の情、というか、すくなくともそれを表現する言葉は、たいていの場合、他人の言に仮託する形をとったり、歴然たる抑圧によってゆがめられたりするものだからだ。断定的に割り切ってしまわぬということは、無限の希望を生むことになる。かつて父がしたり顔に説教したことをぼくもまたしたり顔にくりかえすわけだけれど、人間としての礼にかなった行為というものに対する感覚は、生れたときから万人均等に付与されていはしないのだということを忘れては、知りうるはずのものまで知らずに終ることになりかねないのだからと、いまなおぼくはいささか心しているのだ。
ところで、このように自分の寛容の精神を一応誇った後で、それにも実は限界があるということをぼくは認めざるをえない。人間の行為には、堅い岩に根ざした行為もあれば、ぐしゃぐしゃの湿地から生れた行為もあるわけだけれども、ある点を越えればもう、その行為が何から出ているのかなどと、ぼくは考えておれなくなってしまうのだ。昨秋、東部からもどってきたときなど、ぼくは、世間一般が、いわば軍服を着て、永久に、精神的「不動の姿勢」をとっていてほしいものだと思っていた。人間の心中をかいま見る特権を与えられて、その中へ大騒ぎしながらはいりこむなど、もうたくさんだという気がしていた。ただひとり、ギャツビー、この本にその名を冠したこの男だけは例外で、彼にはぼくもこうした反撥を感じなかった――ギャツビー、ぼくが心からの軽蔑を抱いているすべてのものを一身に体現しているような男。もしも間断なく演じ続けられた一連の演技の総体を個性といってよいならば、ギャツビーという人間には、何か絢爛とした個性があった。人生の希望に対する高感度の感受性というか、まるで、一万マイルも離れた所の地震さえ記録する複雑な機械と関連でもありそうな感じである。しかし、この敏感性は、「創造的気質」とえらそうな名称で呼ばれるあのよわよわしい感じやすさとは無縁のものだった――それは希望を見いだす非凡な才能であり、ぼくが他の人の中にはこれまで見たことがなく、これからも二度と見いだせそうにないような浪漫的心情だった。そうだ――最後になってみれば、ギャツビーにはなんの問題もなかったのだ。むしろ、ギャツビーを食いものにしていたもの、航跡に浮ぶ汚ない塵芥のようにギャツビーの夢の後に随いていたものに眼を奪われて、ぼくは、人間の悲しみや喜びが、あるいは実らずに潰え、あるいははかなく息絶える姿に対する関心を阻まれていたのだ。
ぼくの家は、過去三代にわたってこの中西部の都会に裕福な生活を続けてきた名家である。キャラウェイ家は一つの部族みたいなもので、われわれのあいだには、われわれはみなバクルー侯の子孫なのだという伝説があるが、事実上の先祖はぼくの祖父の兄で、これが五一年にアメリカに渡り、南北戦争には替え玉をだしておいて金物類の卸商をはじめ、それをぼくの父が今日受けついでいるわけだ。
ぼくはこの大伯父を見たことはないのだが、ひとはぼくのことを大伯父に似ていると言う――そう言って、父の事務室にかかっている感情をそぎ落した筆触の絵を引き合いに出すのである。ぼくは一九一五年に、父よりちょうど四半世紀おくれて、ニューヘイヴンを卒業したが、まもなく、世界大戦という、あのチュートン民族の時代おくれの民族移動に参加した。この逆襲がぼくには実に愉快だったから、ぼくは帰ってきてもおちつかなかった。中西部もいまは、溌剌たる世界の中心ではなく、蕭条たる宇宙の果てという気がした。そこでぼくは、東部へ行って証券会社の仕事を見習おうと決心した。ぼくの知っている者はだれもかれも証券会社に勤めていたので、独身者をもう一人ぐらいこの世界で養ってくれるだろうと思ったのだ。伯母たちや伯父たちもこぞって、まるでぼくをかよわせる高等学校でも選ぶみたいな態度でいろいろと話し合っていたが、最後に「うん、まあ――よかろう」と、実に厳粛な面持でしぶしぶ承諾した。父は一年間ぼくに金を送ることを認め、かくてぼくは、何やかやで遅れたあげく、二二年の春、東部へやってきたのである――永久に、と、自分では思っていた。
ニューヨーク市内に部屋を見つけたほうが便利だったけれど、しかし暑い季節ではあり、広い芝生がひらけ眼に柔らかな樹木の茂る地方をあとにしてきたばかりのぼくだったから、会社のある若い男が、通勤圏のベッドタウンに共同で家を一軒借りないかと言いだしたときには、それは実に名案だと思った。彼はその家を見つけてきた。雨風にさらされた安手の平屋で、月八十ドル。ところが、いざというときになって、彼はワシントンに転勤を命ぜられ、けっきょくぼく一人がそこへ行くことになった。持ち物とては、犬が一匹――逃げだすまでの数日間はすくなくともぼくの持ち物だった――それから古いダッジが一台、フィンランドの女が一人。彼女は、ぼくのベッドを整え、朝食を調理し、電気焜炉を操りながらフィンランドの叡智をひとりつぶやいていた。
一日二日は孤独だった。が、ある朝のこと、ぼくよりもっと最近この地にきたある男が、路上でぼくをつかまえると「ウェスト・エッグの村にはどう行くんでしょうか」と、途方に暮れた様子でたずねたのである。
ぼくは教えてやった。そしてそのまま先へ歩いて行ったのだが、もうぼくは孤独ではなかった。ぼくは案内者だった。開拓者であり、土地の草分けである。この男によってぼくは、はしなくも、この界隈の市民権を付与されたようなものであった。
陽光は輝き、樹々の若葉は物の生長するさまを高速度撮影でとらえたような感じで、勢いよく萌えでている。ぼくは、この夏とともに生命がまた蘇るのだという、あの何度か味わった確信をまた抱いた。
一つには、読むべきものがたくさんあり、それにあふれるばかりの健康は、無理にも引きとめなければ、若々しくも香しい外気の中にとびだして行こうとする。ぼくは、銀行業務やクレジットや投資信託に関する本をいっぱい買いこんだが、それらは、造幣局から出てきたばかりの貨幣のように、赤や金色に輝いてぼくの書棚にならび、マイダスやモルガンやミシーナスなどだけが知っている山吹色の秘密をときあかしてくれそうに見えた。そのうえぼくは、他の本もたくさん読もうという高邁な意図も持っていた。大学時代、だいたいどちらかといえば文学青年のほうで、ある年など、『イェール・ニューズ』にまじめくさったもっとも至極な論説を連載したこともあるのだが、それらをいま、ふたたび自分の生活の中にそっくり取りもどして、専門家の中でももっとも数少ない「円満なる人間」という専門家にもう一度なろうとしていたのだ。これは徒に警句を弄しているのではない――結局のところ人生は、一つの窓から眺めたほうがはるかによく見えるのである。
ぼくが北米でももっとも風変りな町の一つに家を借りることになったのは、偶然というものであった。それは、ニューヨークの真東にのびる細長い蕪雑な島にあり、自然の奇観はいろいろあったけれど、中でも異様な形をした二つの土地が異彩を放っていた。ニューヨークの市から二十マイル離れて、輪郭は瓜二つの巨大な卵が一対、形ばかりの入江を中にしただけで、西半球の中でももっとも開化した水域たるロング・アイランド海峡の中へ、納屋の前庭に転がった卵よろしくつきだしているのだ。形は完全な卵形ではない――「コロンブスの卵」のように、どちらも陸地につながるほうの端が平らにつぶれている――しかし、その外形上の類似は、空飛ぶ鴎にとって、絶えざる驚異の的であるにちがいない。翼なきものにとっては、その形や大きさ以外のあらゆる点で、この二つが示す相違点こそ、さらに興味ある現象なのだけれど。
ぼくは西 の 卵に住んでいた。この――そうだ、二つの卵の中で、地味なほうである。もっとも、この両者のあいだの、異様で、すくなからず無気味な感じさえする対照を表現するのに、〈地味なほう〉とだけでは、いかにも皮相で陳腐な言い方だけれど。ぼくの家はウェスト・エッグの突端にあった。あと五十ヤードでもう「海峡」という位置で、一シーズンの家賃が一万二千ドルから一万五千ドルもする二つの巨大な邸に両側からはさまれて押しつぶされそうな格好だった。ぼくの家の右手にあるのは、どこから見てもこれは豪壮な代物である――ノルマンディのどこかの市庁にそっくりで、片側には、薄いひげのような蔦の若葉のかげに真新しい塔が屹立し、大理石のプールがあり、四十エーカー以上もある芝生や庭がひらけている。これがギャツビーの邸宅だった。いや、ぼくはまだギャツビー氏を知らなかったのだから、むしろギャツビーという紳士の居住する邸宅だというほうがほんとうであろう。ぼくの家こそ目ざわりだった。しかし、まあ、小さな目ざわりだったので、気にもかけられなかったのだ。そこでぼくは、海を眺め、隣の芝生の一部を眺め、金満家に近づいたような慰めをも味わうことができたのである――それら一切の代金が月額八十ドル。
形ばかりの入江のむこうには、水際に沿って華美な東 の 卵の殿堂が白く輝いて見えたが、この夏の物語は、ぼくが、トム・ビュキャナン夫妻と食事をともにしに、そこへ車を駆って行った夕方をもってほんとうははじまるのだ。デイズィはぼくのまたいとこの子で、トムは大学時代の学友である。ぼくは、戦争の直後、シカゴで彼らのもとに二日を過したことがあった。
デイズィの夫は、各種の運動競技に長じた男で、イェール大学ではフットボールのフォアワードのエンドをつとめ、ニューヘイヴンはじまって以来の最も強いエンドだった。ある意味では国民的英雄で、二十一歳にして類いまれなる傑出ぶりを示し、そのため、以後は万事が下り坂をたどっているように感じられるといったふうの男だった。彼の家は莫大な金持で――大学時代ですら、彼の無造作な金の使いぶりは非難の的になったくらいである。が、いまは、シカゴを離れて東部へきたわけだが、そのまた移り方が、あっと息を呑むほどの贅沢ぶり。たとえば、レイク・フォレストから、ポロのための馬の一隊を連れてくるといったあんばいなのだ。ぼくの年輩の男で、そんなことができるほどの金があるとは、理解に苦しむくらいである。
彼らがなぜ東部へきたのか、それは知らぬ。特別の理由もなしにフランスで一年を過したあげく、金持が集まってポロをやるような所を、あちこちと、おちつかなげに転々していた彼らなのだ。今度は永住するのだ、と、電話でデイズィは言っていたけれども、ぼくには信じられぬ――デイズィの胸の中まで見抜くことはできないけれど、しかしトムは、敗色おおいがたいフットボールの試合などにただよう一種劇的な興奮を、むしろ憧れるかのごとくに求めて永久にさまよい続ける男のような気がするのだ。
そんなわけで、ある風の吹く暖かい夕方、ぼくは、昔なじみではあるがその人間を知っているとはおよそ言いえぬ二人の友だちを訪ねて、イースト・エッグに車を走らせた。二人の家は、入江に臨む予想以上に凝った建物で、明るい赤白二色で塗られ、ジョージ王朝ふうを模した植民時代式の館だった。浜辺からはじまる芝生は、館の正面のドアまで四分の一マイルを埋めて、途中、日時計をとび越え、煉瓦の径をまたぎ、燃える庭をおどり越えて勢いよくひろがり、最後に家にぶつかっては、勢いあまったとでもいうか、あざやかな蔦かずらに形を変えて、家の側面をはいあがっている。建物の正面にはフランス窓が並び、それがいまは、金色の夕映えに輝きながら風そよぐ暖かな黄昏の庭にひろびろと開かれていた。そして、その正面の玄関先に、乗馬服をまとったトム・ビュキャナンが両脚を開いて立っていたのだ。
彼はニューヘイヴン時代とは変っていた。いまでは、淡黄色の頭髪の逞しい三十男で、なかなかしたたか者らしく、態度も横柄だった。きらきらと光る尊大な二つの眼に他の部分は消されてしまって、いつも好戦的に身構えている男といった感じが身辺にただよっている。女性的なしゃれた乗馬服も、この肉体の巨大な力をつつみ隠すことはできぬ――ピカピカに磨かれた乗馬靴もはちきれんばかりで、一番上の編み紐は容易にしまらぬくらい。薄い上衣をまとった肩を動かすと、もりあがった筋肉の動きがわかる。それは巨大な力を発揮する肉体――苛烈な肉体であった。
彼の声、すこししゃがれたそのテノールも、彼から受ける気むずかし屋の印象を強めている。そこには、彼が好意を持っている連中に対してすら、親が子に対するときの上手からものを言うような感じがあって、あいつなんか大嫌いだと憎しみをこめて言う者はニューヘイヴンの頃から何人もあった。
「おれのほうがおまえより強くて男らしいからといって、おれの意見が決定的だなんて考えるなよ」そんなふうに言っているような感じを彼からは受けるのである。彼とぼくとは四年生だけの同じクラブにはいっていたが、お互いにまだ親しくもないうちから彼はぼくを認め、彼一流の粗野なつっかかるようなやり口で、ぼくの好意を露骨に要求しているような印象を、しじゅうぼくは受けていたものだ。
うららかな玄関先で、しばらくぼくらは話し合った。
「おれのこの屋敷、悪くないだろう」彼は、輝く眼差しを気ぜわしくあちらこちらに投げながら、そう言った。
彼はぼくの片腕をつかんで振りむかせると、その幅広い平らな手をさっと振って表正面の並木道を指し、続いてイタリアふうの沈床園や、強い香を放っている深紅のバラの咲いた半エーカーほどの花園、さては沖にむかって波を押しわけてゆく獅子鼻のモーターボートなどを指し示した。
「前は石油業者のドメインのものだったのだ」彼はそう言うと、だしぬけに、しかし慇懃にぼくの身体をまわしながら「中へはいろう」
天井の高い玄関の間を抜けると明るいバラ色の部屋に出た。両側のフランス窓が壊れやすい壁といった格好である。窓はいっぱいに開かれていて、戸外のあざやかな芝生を背景に白く輝いている。芝生は家の中にまではいりこんでくる感じだった。微風が部屋の中を吹きぬけ、両側のカーテンを、あるいは内にあるいは外に、さながら水色の旗のようにはためかせ、糖衣をかけたウェディング・ケーキを思わす天井のほうに吹きあげては、深紅色の絨毯に漣を立て、海面をわたる風のように、その上に影を落して吹き過ぎてゆく。
部屋の中ですこしも動かぬものはただ一つ、巨大な寝椅子があるばかり。その上に若い女が二人、繋留気球にでも乗ったみたいに浮んでいた。二人とも白の衣裳をつけていたが、その衣裳もまた、しばらく家のまわりをくるくると吹きまわされたあげく、たったいまここへ吹きこまれたばかりといったふうに、はたはたと小刻みにふるえている。ぼくはしばらくその場に足をとめて、カーテンのはためく音や、壁の絵の風に鳴る音に耳を奪われていたにちがいない。やがて、トム・ビュキャナンが裏側の窓を閉めた音が響くと、風はさえぎられて部屋の中は静まりかえり、カーテンも絨毯も、それから二人の若い女も、ふうわりと床の上に舞いおりてきた。
二人のうち、若いほうは、ぼくの見知らぬ女だった。寝椅子の片側にながながと身を横たえ、寝そべったまますこしも動かない。心持ち頤をもたげて、いまにも転げ落ちそうなものを、頤の先に支えているとでもいった感じ。眼の片隅にぼくの姿をとらえたかもしれないが、それらしい気配すら見せぬ――じっさい、ぼくのほうが狼狽して、闖入の弁解をおずおずと口にしそうになったくらいだった。
いま一人、デイズィのほうは、起きあがろうとした――間が悪そうにちょっと身を起しかけた――が、とってつけたみたいに可愛らしい笑い声をたてたので、ぼくも笑いだして部屋の中にはいって行った。
「あたし、幸福にあたって、麻――麻痺しちゃった」
彼女は、ひじょうに気のきいたことでも言ったみたいにまた笑った。そして、ぼくの手をちょっと握って、世界中でぼくほど会いたかった人はないと言いたげに、下からぼくの顔をのぞきこんだ。それが彼女の癖だった。彼女は、頤で何かを支えているみたいな女の姓はベイカーというのだと、ささやくような小声で言った(デイズィのささやくようなこの言い方は、相手の顔を引きよせるための術なのだという噂を聞いたことがある。いわれのない悪口で、そう聞かされてもその声につり込まれるような魅力を感じることに変りはない)。
とにかく、ミス・ベイカーの唇がかすかに動き、彼女はぼくにむかって、ほとんどそれとわからぬくらいに頭をさげた。が、すぐさまさっと、再びそれをのけぞらした――支えていたものが揺らいで、いささか彼女をあわてさせたといったところだろう。ぼくは謝罪したいような気持がまた口もとまでこみ上げてきた。完璧なまでに尊大な態度を示されると、たいていぼくは感心して黙ってしまう男なのである。
ぼくがデイズィをかえりみると、彼女は低い震える声でいろいろなことをたずねだした。それは、言葉一つ一つが二度と演奏されぬ音の調べをつなぎ合わせたとでもいうか、聞く耳のほうがあとを追いたくなるような声であった。顔は、きらめく眸とか、あざやかな情熱的な口だとか、明るい顔立ちながら愁いを含んで愛らしかったが、その声には、彼女に愛情を寄せたことのある男なら容易に忘れえぬ興奮がこもっていた。はずんだ緊迫感というか、声をひそめて「あのね!」と話しかけるみたい。ついいましがた、はなやかな胸躍ることをやってきたというような、これからすぐにはなやかな胸躍ることがはじまるのだというような、そんな気配がただよっているのだ。
ぼくは、東部へくる途中、一日シカゴで中休みしたこと、大勢の人が彼女によろしくと言っていたことなどを彼女に語った。
「あたしがいないのが淋しいのかしら」彼女はうれしそうに声をはずませて言った。
「市全体が蕭条としちゃってね。車はみんな、喪章みたいに左側の後車輪を黒く塗って、北岸通りでは夜どおしすすり泣きの声が続いている」
「まあ、すてき! 帰りましょうよ、トム。あした!」そう言ったかと思うと、まるでとってつけたみたいに「あんた、うちの赤ちゃんを見てくれない?」
「そりゃ、ぜひ」
「いま眠ってるの。三つなのよ。あんた、あの娘を見たことあったかしら」
「いいえ」
「そう。ぜひ、見ていただきたいわ。あの娘はね――」
さっきからおちつかなげに部屋の中を歩きまわっていたトム・ビュキャナンが、ふと立ちどまってぼくの肩に手をかけた。
「ニック、きみはいま、何してんだ?」
「証券会社の社員だよ」
「どこの?」
ぼくは彼に会社の名を言った。
「聞いたことないな」こともなげに彼は言った。
これにはぼくも癪にさわったが「いまにわかるさ」とだけ、簡単に答えておいた「東部におちつけばそのうちわかるよ」
「そりゃおちつくさ。おれは、大丈夫、東部にちゃんとおちつくよ」彼はそう言いながらデイズィをちらと見やったが、それから、そのうえにまた何か言われはせぬかと警戒するようにぼくのほうを振りかえり「ほかの所に住むようなばかな真似はやらん」
このときいきなりミス・ベイカーが「そりゃそうよね!」と、言った。あまりだしぬけで、ぼくはびくりとしたが、ぼくがこの部屋へはいってきてから彼女が口にしたこれが最初の言葉だったのである。それは、ぼく同様、彼女自身をも驚かせたらしく、彼女はあくびをすると、器用にするすると身体を動かして部屋の中に立ちあがった。
「身体がコチコチになっちゃった。はじめからあのソファに寝かせられどおしだもんね」
「なにもあたしを見ることないじゃない」と、デイズィが言った「ニューヨークへ行こうってお昼から言ってたのはあたしのほうよ」
「いいえ、あたしは結構」ちょうど調理室から運ばれてきた四つのカクテルを見て、ミス・ベイカーが言った「いま絶好のコンディションなんだから」
ビュキャナンは信じられないというように彼女を見やり、「ほんと!」と言うと、自分の飲み物を、まるでグラスの底の雫でも飲むみたいに一気に飲みほしながら「あんたっていう人は、どうやって目的を達成するのか、ぼくにはてんで謎だねえ」
どんな目的を達成したというのだろう、ぼくはそう思いながら、ミス・ベイカーを見やった。彼女を眺めているのは気持よかった。彼女は胸の薄いほっそりした女で、すらりと立ったその肩を、若い士官候補生のようにぐっとうしろに引いているので、ひときわ棒立ちの感じを与える。青白くてどことなく虚無的な魅力ある顔に、ぼくに対する関心をつつましくただよわせながら、灰色の眼を眩しそうに細めて、こちらを見返していた。その顔を見たときはじめてぼくは、これは前にどこかで見た顔だ、あるいはその写真を見たことがある顔だと思った。
「あんた、ウェスト・エッグにお住まいですって?」彼女はひとを小ばかにしたような口調で言った「あすこにはあたしの知ってる人がいるの」
「ぼくはまだただの一人も――」
「ギャツビーって知ってるでしょう」
「ギャツビー?」と、デイズィがたずねた「何ギャツビーっていうの?」
それは隣の人だとぼくが答えぬうちに食事の知らせがきた。トム・ビュキャナンは、そのしまった腕にぼくの腕を有無をいわさずかいこむと、まるで将棋の駒でも動かすように、ぼくをその部屋から引きたてて行った。
二人の女は、両手を軽く尻にあてながら、すんなりとものうげにぼくたちの先に立って、日没の戸外にむかってうち開かれたバラ色のヴェランダへ出て行った。そこにはテーブルに置かれた四本の蝋燭が夕凪の微風にちらちらとゆらいでいた。
「なんでまた蝋燭なんか」デイズィが眉を寄せて言った。そして、手を振ってさっとそれを消すと「あと二週間たつと、一年中で一番日の長い日がくるのよ」と言いながら顔を輝かせてぼくたちみんなを見やり「あんたたち、一年中で一番日の長い日をいつも待ち受けていながら、いよいよというときにうっかり過してしまうことあって? あたしはね、一年中で一番日が長い日を待ち受けていながら、いつもうっかり過してしまうんだ」
「ねえ、何かやることない? 何か考えてよ」ミス・ベイカーがあくびをしながら言った。そしてベッドにはいるみたいな様子でテーブルについた。
「いいわよ」と、デイズィは言った「何をやろうか?」そして困惑したようにぼくのほうを振りむきながら「みんなはどんなことをやるのかしら?」
ぼくが答えぬうちに、彼女は、気味悪そうな眼つきで自分の小指を凝視しながら「ほら! ここ、けがしちゃった」と、言った。
みんなの眼が集まった――小指の関節のところが青黒くなっている。
「あんたよ、トム」と、彼女はなじるように「わざとでないことはわかってる。でも、あんたがやったにはちがいないからね。獣みたいな男と結婚したおかげだ、のっそりむっくりばかでかいとこなんか、まるで――」
「ばかでかいとはなんだ」と、トムが気色ばんで言った「たとえ冗談にしてもだ」
「だって、ばかでかいわよ」デイズィはなおも言い続ける。
ときには彼女とミス・ベイカーが両方同時に話すこともあった。それでいて押しつけがましいわけではなく、とりとめのない軽口の言い合いで、おしゃべりというのとも違う。熱っぽい感情なんか一切なくて、二人が着ている白いドレスや無感動な眼差しと同じように、いかにもクールな感じだった。二人はそこに座を占めて、トムとぼくとを相手に、ひとときをともに楽しく過そうと、洗練された技巧をあやつっているに過ぎないのである。やがては食事が終り、それからすこしたてばこの夕べも過ぎさって、なんということもなしに片づいてしまうというふうに彼らは承知している。それは西部とは著しいちがいだった。西部では、夕方の時間は、絶えず期待を裏切られたり、さもなければ、そのときそのときを恐れる不安の念に駆られながら、次から次へとあわただしく過ぎてゆく。
「デイズィ、あなたに会ってると、こっちはいかにも田舎者っていう気がしてくる」ぼくは、コルク臭くはあるがなかなかおつなクラレットの二杯目を啜りながら、そう正直なところを打ち明けて言った「作物のできとかなんとか、そんな話ができないものかな」
ぼくは特に意味をもたせてそんなことを言いだしたのではなかったのに、それがまた、思いがけない方面に発展させられることになった。
「文明はいま解体しつつあるんだ」と、トムが吐きだすようにしゃべりだしたのである「おれはすごいペシミストになっちゃってね。きみは、ゴダードという男の『有色帝国の勃興』という本を読んだことがあるか」
「いや、ないな」ぼくは彼の語気にいささか驚いて答えた。
「なかなかの名著だよ。万人必読の書だね。つまり、こういうんだ。おれたちが警戒しなければだな、白色人種は、この――完全に沈没してしまうというんだな。科学的に書いたものなんだ。ちゃんと証明されてるんだよ」
「トムは近ごろまるで偉い学者さんみたいになっちゃって」と、デイズィが、いかにも悲しげな表情を浮べて言った「長い綴りの言葉がまじった深遠な本を読んでるの。ほらなんだったっけ、あの言葉、あたしたちが――」
「いや、その手の本はみんな科学的でね」トムは、いらだたしげに妻をちらりと見やりながら言い続けた「そのゴダードというのの努力のおかげさ。おれたち、支配的人種に警戒の義務があるんだよ。さもなければ、他の人種が支配権を握ることになる」
「おれたちは彼らをたたきつぶさねばならん」デイズィが燃える落日にむかってぎゅっと片眼をつぶって見せながら、声をひそめてそう言った。
「あんたはよろしくカリフォルニアに住んで――」と、ミス・ベイカーが言いかけたが、トムは、椅子にかけた身体をどさりと動かしてその話の腰をおると「そいつの考えはだな、おれたちは北欧人種だというんだ。おれも、きみも、きみも、それから――」ほんのすこしのためらいの色を見せたが、トムは、軽く頭を動かしてデイズィをもその中に含めた。彼女はまたぼくに片眼をつぶってみせた。「――で、おれたちは、文明を形成するものをみんな産みだしたわけだ――科学とか芸術とか、そういった一切のものをさ。わかるだろ?」
ひたむきなその話しぶりには、何か悲壮なものがこもっている。現状に満足している自分がいままでになく痛切に意識させられて、これではならんと思うようになったとでもいうのだろうか。続いて室内から電話の鳴る音が聞え、執事がヴェランダを離れたが、話が途切れたその瞬間をとらえて、デイズィがぼくのほうに身をかがめた。
「うちの秘密を知らせましょうか」と、彼女はきおいこんでささやいた「執事の鼻のことなの。あんた、執事の鼻の話、聞きたい?」
「そのためにこそはるばるお出ましになったんじゃないか」
「あのね、あれは前は執事じゃなかったの。昔は、ニューヨークのある家で銀器磨きをしてたの。それが二百人分もあるんだって。だから朝から晩まで磨かなければならなかった。そのうちにとうとう鼻がやられてきて――」
「そして、事態は悪くなる一方でありました」ミス・ベイカーが口をはさんだ。
「そう。事態は悪くなる一方で、とうとうその職を去らなければならなくなった」
一瞬、彼女の輝かしい顔に、暮れ落ちる直前の陽がロマンチックな夕映えの色を添えた。彼女の声にぼくは身をのりだして息をころしながら耳をそばだてた――やがて夕映えの色は褪せ、彼女の面からも、黄昏どきに楽しい道路から去って行く子供たちのように、あとに心を残しながらも刻々と光は消えていった。
執事は、もどってくると、トムの耳もとに口をよせて何ごとかをささやいた。それを聞くとトムは眉をよせ、椅子を後ろに押しやって、ひとことも言わずに中へはいって行った。彼が席をはずしたことが、胸のうちにあるものをうながしたのであろうか、デイズィはまた身をのりだしてきた。声もつやを帯びてはずんでいる。
「あたし、あんたをあたしの食卓にお招きできてほんとにうれしいのよ、ニック。あんたを見るとあたし――バラの花を思いだす、完璧な一輪のバラの花。ねえ、そうじゃない?」と、彼女は同意を促すようにミス・ベイカーをかえりみ、「完璧なバラの花よね?」
これは違う。ぼくはすこしもバラなどに似ていはしない。彼女は出まかせを言っているにすぎぬ。しかし、その息をはずませてささやかれる感動的な言葉のかげに隠れて、胸の思いをこちらに通わせようとするようなある激しい熱情のようなものが、彼女の中から溢れ出てくるような気がする。それからいきなり彼女は、ナプキンをテーブルの上にほうりだすと、中座を詫びて家の中へはいって行った。
ミス・ベイカーとぼくとは、ことさらさりげなさそうにちょっと視線を交わした。ぼくが口を開こうとすると、彼女はさっと身を起して、たしなめるように「シーッ」と言った。むこうの部屋から、興奮を無理に抑えたささやき声が聞えてくる。ミス・ベイカーは、それを聞こうとして、恥ずかしげもなく身をのりだした。ささやき声はもうすこしで意味が聞きとれそうなのだけれど、すっと低まったかと思うと、また興奮して高まり、それからまったく絶えてしまった。
「あなたのおっしゃったギャツビー氏というのは、ぼくの隣人でしてね――」と、ぼくは話を切りだした。
「だまって。あたし、中の様子を知りたいの」
「何かあるんですか?」ぼくは無邪気にそうきいた。
「というと、あんた、ご存じないの?」心から驚いて彼女は言った「だれでも知ってるものと思ってたのに」
「ぼくは知りませんね」
「その――」と、彼女はためらいがちに「トムにはニューヨークに女がいるのよ」
「女がいる?」よく呑みこめぬままにぼくは同じ言葉をくりかえした。
ミス・ベイカーはうなずいて「食事の時間には電話をかけないぐらいのたしなみはあってもよさそうなのに。そうじゃない?」
彼女の言葉の意味が呑みこめずにいるうちに、衣ずれの音と革靴のきしむ音が聞えて、トムとデイズィがテーブルにもどってきた。
「どうしようもなかったわ!」デイズィがことさらはしゃいだような口調で言って腰をおろすと、探るようにミス・ベイカーを見やり、それからぼくに視線を移し、さらに言葉を続けた「あたし、ちょっと外を見たの。そしたら外はとてもロマンチックでね。芝生の上に小鳥が一羽おりててね、あれ、きっとキューナードかホワイト・スターの船に乗ってきたナイチンゲールじゃないかな。それがまあ、しきりに囀って――」彼女は声をはずませながら「ねえ、トム、ロマンチックよ、ねえ?」
「うん、実にロマンチックだ」彼はそう言うと、今度はぼくにむかってうったえるように「もし食事がすんでもまだ明るかったら、きみを厩に案内しよう」と、言った。
家の中で、けたたましく電話が鳴った。デイズィがトムにむかってきめつけるように頭を振ってみせたとき、厩の話ばかりでなく話題という話題がことごとく四散してしまった。このテーブルでのかき乱された最後の五分間の断片的な記憶の中で、ぼくはなんということもなしに蝋燭がふたたびともされたこと、自分がみんなをまっすぐに正視したく思いながらもみんなの眼を避けていたことなどを覚えている。デイズィとトムとが何を考えているのか、ぼくには想像もつかなかったが、しかし、したたかな懐疑精神といったものを身につけているかに見えたミス・ベイカーでさえも、この五人目の客人のかまびすしく訪う金属的なベルの響きを意識から完全に排除しえたかどうか、あやしいものだ。ある種の気質のひとには、興味しんしんたる状況に思えたかもしれぬ――が、ぼくはとっさに、警察に電話をかけようと、そう思ったくらいであった。
いうまでもないことながら、馬のことなどは、二度と話に出なかった。トムとミス・ベイカーは、数フィートの薄明を中にはさんで、これから死骸のかたわらで寝ずの一夜を過しに行く人びとにも似た気の進まぬ足どりで、ぶらぶらと書斎に引き返して行った。一方、ぼくはつとめて楽しそうなふうを装い、すこし耳が遠いようなふりをしながら、デイズィのあとから一続きになったヴェランダを通り、表の露台へ出た。そして、垂れこめてきた宵闇につつまれながら、そこにすえられた籐の長椅子の上に、ならんで腰をおろした。
デイズィは、自分の顔の可愛らしい形をさわって確かめようとするかに、両手で顔をはさんだ。そしてそのまま、彼女の視線がビロードのような夕闇の中に徐々に伸びていった。彼女が逆巻く激情にとらえられているのがわかったので、ぼくは、彼女の気をしずめるよすがにもなろうかと、彼女の小さな女の子のことをたずねてみた。
「あたしたち、お互いのことをよく知らないわね、ニック」だしぬけに彼女はそう言った「またいとこ同士といったってさ。あんたは、あたしの結婚式にもこなかったし」
「ぼくはまだ戦地から帰ってなかったもの」
「そうだったわね」そう言って彼女は何かためらうふうだったが「あのね、あたし、ずいぶんつらい思いをしたのよ、ニック。おかげで何もかも素直に信じられなくなっちゃった」
彼女がそんなことを言いだしたについてはそれなりの理由があることは明らかだったので、ぼくは話の続きを待ったけれど、彼女はそれ以上を話そうとしなかった。それでぼくは、おずおずとではあるが、また彼女の娘のことに話をもどした。
「もう口がきけるだろうな、それから――ものを食べたり、いろんなことが」
「ええ、それはもう」と、彼女は答えた。そして他のことに心をとらえられているような空ろな眼つきでぼくを眺めていたが「あのね、ニック。あの娘が生れたとき、あたしがなんて言ったか教えてあげる。聞きたくない?」
「いや、とんでもない」
「それを聞いたらあたしの最近の気持がわかってもらえると思うんだ――あたしが世の中ってものをどう思ってるか。あのね、あの娘が生れて一時間もたたないころよ、トムはどこにいるやらわかりゃしなかった。あたし、麻酔がさめたとき、とてもすてばちな気持でさ、さっそく看護婦さんに、男の子か女の子かってきいたんだ。そして、女の子だって言われて、顔をそむけて泣いちゃった。『いいわ、女の子でよかった』って、あたしはそう言った『ばかな子だったらいいな。女の子はばかなのが一番いいんだ、きれいなばかな子が』って」
「とにかく世の中がすっかり駄目になっちゃったでしょ」彼女は確信をもった口調で言葉を続けた「そう考えるのはあたしだけじゃない――最尖端を行く人たちはみんなそう考えてるわ。あたしにはわかってる。あたしはどこへでも行ったし、なんでも見たし、なんでもやったんだから」彼女は、むしろトムにこそふさわしい挑戦的な態度で、きらりとあたりに視線を投げ、それから自嘲的に笑った「すれちゃったのよ――あたし、すごーくすれちゃった」
言葉が切れて、彼女に引きつけられていたぼくの注意と信頼感が解放された瞬間、彼女の話は根本的にまやかしものだという気がぼくにはした。そう感じると、この日の一夕のもてなし全体が、ぼくから自分に好都合な気持を引きだすための、ある種の奸計だったように思いなされて、なんだかぼくはおちつかなくなった。そして返事をひかえていると、はたせるかな、すぐ彼女は、彼女とトムがはいっている著名な秘密結社の一員たることを告白するようなまごうかたない作り笑いをその可愛らしい顔に浮べてぼくを見たのである。
中では、深紅色の部屋に灯がともってはなやかに輝いていた。長い寝椅子の両端に、トムとミス・ベイカーが腰をかけ、彼女はトムに『サタデー・イーヴニング・ポスト』を読んでやっていた――聞く者の心をしずめるように、ささやくような言葉が抑揚もなく次から次へと続いてゆく。彼の靴の上にきらきらと輝いている電燈の光が、秋の葉を思わす黄色な彼女の髪の毛の上には柔らかに落ちていたが、ミス・ベイカーの腕のしなやかな筋肉がかすかに動いてページがめくられるたびごとに、それがきらりと紙面を走った。
ぼくたちがはいって行くと、彼女は、片手をあげてちょっとぼくたちの口を制しながら「以下次号」と言って、その週刊誌をテーブルの上に軽くほうりだした。
彼女は、その肉体が自己の存在を主張するかに、おちつきなく膝を動かしていたが、やがて立ちあがった。
「十時か」彼女は、そこに時計があるみたいに天井を見やりながらそう言うと「この善良な乙女がおやすみ遊ばす時間だわ」
「ジョーダンは、明日、ウェストチェスタのトーナメントに出るのよ」と、デイズィが説明した。
「ああ――あなた、ジョーダン・ベイカーさんですか」
ようやくぼくは、彼女の顔に見覚えのあったわけが呑みこめた――そのひとを食ったところのある美貌には、アシュヴィルやホット・スプリングズやパーム・ビーチなどのスポーツマンの姿を撮った多くのグラビヤ写真で、すでにお目にかかっていたのである。さらにまたぼくは、彼女にまつわる何かの噂も聞いたことがあった。非難めいた不愉快な噂だったが、どんなことだったか、とうの昔に忘れていた。
「おやすみなさい」彼女はやさしくそう言った「八時に起してね、いい?」
「あんたが起きるなら」
「起きるわよ。キャラウェイさん、おやすみなさい。また近いうちに」
「きまってるじゃない」デイズィがあたりまえだといわんばかりの調子で「実をいうと、あたし、結婚の仲立ちをすることになるんじゃないのかな。ちょいちょい出かけてきてよね、ニック。あたしがあんたたちを――なんていうかな――こう、かち合わせてあげる。ほら――うっかりそうなったみたいにして押入れの中に閉じこめたり、一つボートに乗せて沖へ出してやったり、いろいろあるじゃない――」
「おやすみ」階段の途中からミス・ベイカーが声をかけた「あたしにはひとことも聞えなかったわよ」
「あれはいい娘だ」しばらくしてトムが言った「こんなふうにあちこち遊び歩くのを放っておいちゃいかんよ」
「だれが?」と、冷やかにデイズィがたずねた。
「家の者がさ」
「家の者といったって、千年も年とったみたいな伯母さんが一人よ。それに、ニックが気をつけてあげるわよ、ねえ、ニック。あの人ね、今年の夏は週末をたいていここで過すことになってるの。あたし、家庭の雰囲気があの人にとてもいい影響を与えると思うわ」
デイズィとトムはしばらく黙ってにらみ合っていた。
「あの人はニューヨークの生れ?」あわててぼくはそう言った。
「ルイヴィルよ。あたしたちは純潔の娘時代をいっしょにあそこで過したの。うるわしくも純潔なあたしたちの――」
「きみは、ヴェランダで、ニックと何か打ち明け話でもしたのかね?」だしぬけにトムが言った。
「どうだった?」と、彼女はぼくをかえりみて言った「あたし、覚えてないみたい。でも、北欧人種のことは話したんじゃないかな。そう、たしかに話したわ。いつの間にかそんなことになって、気がついたら――」
「きみ、聞いたことをなんでも信じるなよ、ニック」と、彼はぼくに忠告した。
ぼくは、何もべつに聞きはしないと軽く答えたが、そのうちに、家へ帰ろうとして立ちあがった。二人は玄関口までぼくについてきて、その闇の中に四角く切り抜かれたような明るい光の中にならんで立った。ぼくが車のエンジンをかけたとき「待って!」と、デイズィが有無を言わさぬ勢いでぼくを引きとめた。
「あんたにおききするのを忘れたことがある。重大なことよ。あのね、あんた、西部のある娘さんと婚約したんでしょ」
「そうそう」トムも助勢するように口を添えた「きみが婚約したって聞いたぞ」
「いい加減な中傷だよ。ぼくみたいな貧乏人にそんな真似ができるもんか」
「でも、あたしたち聞いたことはたしかよ」と、デイズィはなおも言いはり、急にまた花が開くみたいにぱっと明けひろげな話しぶりに変ってぼくを驚かせた「あたしたち、三人の人から聞いたのよ。だからほんとうにちがいない」
彼らが何を指して言っているのか、もちろんぼくにはわかっていた。しかしぼくは、これっぽっちも婚約なんかしていなかった。結婚に追い込まれかねないゴシップがひろまったことが、実はぼくが東部へ走った理由の一つだったのである。噂を恐れて旧友とのつき合いをやめるわけにはいかないし、さりとて、噂をたてられて結婚するはめになるなんてまっぴらであった。
彼らが関心を寄せてくれることはうれしくもあり、彼らは自分とかけ離れた金持だという感じを薄めてもくれたが――にもかかわらず、車を駆って行くぼくの気持は混沌としていささか不愉快でもあった。デイズィのとるべき道は、子供を抱いてあの家をとびだすこととぼくには思えるのだが、彼女にはどうやらそんな意図などさらさら無いらしい。トムについていえば、「ニューヨークに女がいる」などという事実は、本を読んで悲観的になったことに比べるなら、実は意外でもなんでもない。旺盛な肉体的エゴイズムでは、もはやその専横な心の欲求がみたされないとでもいうように、いまさら陳腐な思想の端っこをかじるなんて、何が彼にそんな真似をさせているのだろう?
郊外のレストランの屋根の上や道沿いの自動車整備店の前にはすでに盛夏のきざしが見え、真新しい赤いガソリン・ポンプが表の光の洪水の中にすえつけられていた。ウェスト・エッグのうちにつくとぼくは、車庫の中に車を乗り入れ、それから庭に打ちすてられていた芝刈り機の上にしばし腰をおろした。風はすでに落ち、明るい夜空には、梢にはばたく羽音やら、いっぱいに開いた大地のふいごが蛙どもにあふれるばかりの生命を吹きこんだような、絶え間ない歌声が聞えて賑やかだった。月光の中を、一匹の猫が影のように通り過ぎた。その姿をとらえようと頭をめぐらしたとき、ぼくは、自分が一人でないことを知った――五十ヤードほど離れた所に、隣の邸宅の影の中からいつの間に出てきたのか、ひとりの男が立っていて、ポケットに両手をつっこみ、銀砂をまいたような星空を眺めている。悠然たる身のこなし、それから芝生をふまえて立ったそのおちつきはらった感じから、これがギャツビーその人であることは明らかだった。このあたりの天地に占める、わが家のたたずまいはいかにと、それを見定めに出てきたのであろう。
ぼくは言葉をかけようと思った。ミス・ベイカーが夕食の席で彼のことを口にしたのだから、それが口火を切るよいきっかけになると思った。しかしぼくは言葉をかけなかった。というのは、ふと彼が、自分はひとりで満足しているのだという気配をただよわせたからである――彼は、暗い海にむかって奇妙にも両手をさしのべた。そして、ぼくは彼の所から遠く離れてはいたが、彼が慄えていたことは断言してもいい。反射的にぼくは、海のほうを見た――と、そこには、遠く小さく、桟橋の尖端とおぼしいあたりに緑色の光が一つ見えただけで、ほかには何も見えなかった。もう一度ギャツビーの姿を探したときには、もう彼は姿を消していた。そしてぼくは、ざわめく夜の中に、ふたたび一人になったのだ。
第二章
ウェスト・エッグとニューヨークのほぼ中間あたり、自動車道路が急に鉄道線路と合流し、四分の一マイルほどにわたってその傍を走っている所がある。荒涼とした地域におびえて、これを避けて通ったといった感じである。ここはいわば灰の谷――灰が小麦のように生長して、山や丘や怪奇な菜園になる奇怪しごくな農場とでもいうか。灰が家になり、煙突になり、立ちのぼる煙となり、果てはたいへんな努力のすえに、灰色の人間が出現する。彼らは埃のただよう空気の中を、すでにくずれかかりながら影のようにうごめいている。ときおり、眼には見えぬ線路を灰色の貨車の列がはうように進んできて、ぎーっとものすごい音をたてて停ると、たちまち灰色の男たちが鉛色のシャベルを手に手に群がり集まって、一寸先も見えぬ埃がもうもうと立ちあがり、いままでおぼろに見えていた彼らの作業は、完全に視界からさえぎられてしまう。
しかし、しばらくすると、この灰色の土地とその上を絶えずただよっている味気ない埃の渦の上に、T・J・エクルバーグ博士の眼が見えてくる。T・J・エクルバーグ博士の眼は碧く、ものすごく大きい――網膜の直径は一ヤードもある。眼はあっても顔はない。鼻にあたるところを跨いでいる巨大な黄色い眼鏡の奥からのぞいている眼だ。きっと、どこかクウィンズ区に住むでたらめな剽軽者の眼医者が、商売繁昌を狙ってこれをここに立てたはいいが、やがてみずからが永久に無明の世界に沈んだか、それともこれを忘れてほかへ移ったかしたにちがいない。それでもその双眸は、陽に焼かれ雨に打たれながら、ペンキも塗ってもらえぬままに長の年月を経てきたためにいささかかすんではいるが、この蕭条たるごみ捨て場を凝然と眺め続けているのだ。
灰の谷の片側は小さな汚ないどぶ川に接している。はしけを通すために跳ね橋があがるときには、待機列車の乗客は、この陰鬱な風景を、半時間も見せつけられることがある。それでなくてもこの場所では、常にすくなくとも一分間の停車はあった。ぼくがはじめてトム・ビュキャナンの女に会ったのはこの停車のためである。
彼に女があるとは、彼の名の知られている所ならどこでも言われることだった。彼の知人は、彼がその女を連れて評判のレストランに現われては、女を席に残したまま、店の中をうろつきまわって知人のだれかれとなくしゃべりちらすのが気にくわぬと、憤懣をもらしていた。ぼくはその女を見てみたい気がなくもなかったけれど、とくに会いたいとも思わなかった――ところが会ってしまったのだ。ある日の午後、ぼくはトムといっしょに列車でニューヨークに出かけた。列車が例の灰の山のそばで停ったとき、トムは勢いよく立ちあがると、肱をつかんで、ぼくを車室から文字どおり引きずりだしてしまったのだ。
「さあ降りよう」彼は、そう言いはってきかない「きみをぼくの彼女に会わせたいんだ」
彼は昼飯のときに、相当きこしめしていたのだと思う。ぼくの同道を強いるやり口は、まさに暴力に近かった。日曜の午後などに、ぼくがたいして用事を持っているはずがないと、嵩にかかってきめつけるのである。
ぼくは彼のあとに続いて、白塗りの低い鉄道の柵を越えた。それから、エクルバーグ博士の執拗な凝視にさらされながら、道路を百ヤードばかり引っ返した。眼に見える建物とては、荒地の端にずんぐりした姿を見せている黄色い小さな煉瓦建てが一つあるばかり――その荒地の用を便ずるいわば圧縮された繁華街で、いまにも消えて無くなりそうな代物である。この建物の中にある三軒の店のうちの一軒は貸店、他の一軒は終夜営業のレストランで、店の前に灰の小径がついている。そして三軒目は自動車整備店――「修繕。ジョージ・B・ウィルスン。自動車売買」――とあって、その中にぼくは、トムのうしろからはいって行ったのだ。
中はみすぼらしくさむざむとしていた。眼にはいる車といえば、埃をかぶったぼろフォードが一台、薄暗い片隅にうずくまっているばかり。この亡霊のような整備店は人目をごまかす見せかけで、階上には華美をつくしたロマンチックな部屋が隠されているのだなと思いついたとき、この店の主人自らが、くず綿で手を拭きながら、事務所の戸口に姿を現わした。彼は、いかにも元気のない金髪の男で、貧血症らしく、そして美貌の影がかすかに残っている。ぼくたちを見ると、淡青い彼の眼に、希望に濡れた光がさっと射した。
「やあ、しばらくだね、ウィルスン」と、トムは陽気に彼の肩をたたきながら「景気はどうだい?」
「苦情は申せませんや」曖昧な口調でウィルスンは答えた「旦那、いつあの車を売りなさるんで?」
「来週だな。いま、うちの者に手を入れさせている」
「なかなかごゆっくりなお手入れじゃありませんか?」
「いや、そんなことはない」冷然とトムは言った「おまえがそう思うんならやはり、あれはどこかほかへ売ったほうがいいかもしれんな」
「そんなつもりでお話ししたんじゃありませんよ」いそいでウィルスンは釈明した「わたしは、ただ――」
彼の言葉は尻すぼまりに消えて、トムはおちつかなげに店の中をちらちらと見まわした。そのとき、階段に足音が聞えて、まもなく、わりにがっしりした女の身体が、事務室の入口から射す光をさえぎった。三十代も中ごろの女で、さして肥っているわけではないが、彼女の場合(といっても、他に例がないわけではないけれど)、その肉づきがなまめかしく見る者の眼に映った。水玉模様のついたダークブルーのクレープデシンのドレスの上の顔には、なんらかの意味での美しさとか、美の輝きとかいうものはなかったが、彼女の身辺には、何か体内の神経が絶えずくすぶっているとでもいったように、すぐそれと感じられる活力がただよっていた。彼女はにんまりと笑うと、夫がまるで幽霊ででもあるかのように、その中を突き抜けんばかりにして歩いてきて、トムと握手をかわしながら、彼の眼をまともに見やった。それから、唇を濡らすと、夫のほうを振りむきもせずに、柔らかなしゃがれた声で夫に言った。
「椅子を二つ三つ持ってきたらどう、だれか腰がおろせるじゃない?」
「おお、そうだな」ウィルスンは、急いで同意すると、小さな事務室のほうへ歩いて行き、たちまちセメント色をした壁の間に姿を消した。その黒い服も淡い色の頭髪も、この界隈のすべてのものと同じように、白く灰の粉をかぶっている。ただ、彼の妻だけが例外で、彼女はトムにぴったりと身を寄せた。
「会いたいんだがね」きおいこんでトムは言った「次の列車に乗れよ」
「いいわ」
「駅の下のホームの新聞売店の所で待ってる」
彼女はうなずいて身をひいた、ちょうどそのときに、ジョージ・ウィルスンが事務室の戸口から二脚の椅子を持って出てきた。
ぼくたちは、道路をすこし行った先の、むこうから見えない所で待っていた。七月四日より数日前だったが、薄よごれて痩せこけたイタリア人の子供が、鉄道線路の上にずらりと癇癪玉をならべていた。
「ひどい所だろう?」眉根を寄せてエクルバーグ博士を見やりながら、トムが言った。
「すごいね」
「抜けだすのは彼女にも薬なんだ」
「ご亭主は反対しないのか?」
「ウィルスンかい? 女房はニューヨークの妹に会いに行くものと思ってるさ。あいつは自分が生きてることにも気がつかない間抜けなんだ」
こうしてトム・ビュキャナンと彼の女とぼくとはいっしょにニューヨークへ行った――いや、いっしょというのはあたらない。ウィルスンの細君は、慎重にかまえて、別の車輛に乗ったのだから。トムも、同じ列車に乗り合わせているかもしれぬイースト・エッグの者たちの感受性に、それだけの敬意は払ったのだ。
彼女は茶色の模様がはいったモスリンのドレスに着替えてきていたが、トムの手につかまって、ニューヨークのプラットホームに降りたつ彼女の幅広い腰を、それがぴったりとつつんでいた。新聞売店で彼女は『タウン・タトル』を一部と映画雑誌を一冊買い、駅のドラッグストアで、どこかのコールド・クリームと、香水の小瓶を買った。それから階上へあがり、いろんな音がこだまする薄暗いタクシー乗り場で、タクシーを四台やりすごした末に、内部をグレーで飾りつけた藤色の新車を選び、それに乗ってぼくたちは、巨大な駅を離れて輝く太陽の光の中へすべりでて行った。しかし、窓から外を見ていた彼女が、たちまちぐっと振りかえったと思うと、前に身をのりだして、運転席との間のガラスを軽くたたいた。
「あたし、あの犬一匹欲しいわ」いかにも欲しそうに彼女は言った「部屋に一匹欲しいのよ。飼ってて悪くないもんよ――犬って」
ぼくたちは、滑稽にもジョン・D・ロック
フェラーによく似た、白髪まじりの老人のところまでバックした。老人の首から吊した籠の中に、品種のわかりかねる生れたばかりの犬の子が十匹あまり、まるくなってはいっていた。
「それ、なんていう種類?」車窓に近寄ってきた老人にむかって、ウィルスンの細君が待ちかねたようにきいた。
「なんでもあります。何がお望みで、奥様?」
「警察で使うような犬が一匹欲しいのよ。ああいうのは持ってないね?」
老人は、どうかなという顔つきをして籠の中をのぞいていたが、手をつっこむと、一匹の犬の首筋をつかんで、身をもがくのをかまわず引きずりあげた。
「そいつは警察犬じゃない」と、トムが言った。
「さよう、ほんとうの警察犬じゃありません」男は、気落ちしたような声で言った「むしろ、エアデル系ですな」彼は、鳶色の手拭いといった格好のその背中に手をこすりながら「この毛並みをごらんください。たいしたもんですよ。こりゃ風邪をひいたりする厄介のない犬です」
「可愛いじゃないの」いかにも欲しそうにウィルスンの細君が言った「それ、いくら?」
「この犬ですか?」老人はその犬を、さも感心したような眼つきで眺めやり「奥さんなら十ドルでさしあげましょう」
問題のエアデルは――たしかにエアデルの血はどこかで混じってはいるだろう、脚が驚くほど白かったけれど――持ち主が変って、ウィルスンの細君の膝の上にうずくまった。細君は、その風雨にたえうる毛並みを、うっとりと弄んでいた。
「これ男の子、それとも女の子?」彼女は婉曲にそうきいた。
「その犬ですか? その犬は男の子です」
「牝だよ、そいつは」きめつけるようにトムが言った「金をやるぜ。これでまた十匹も買ったらよかろう」
ぼくたちは五番街まで車を走らせたが、夏の日曜の午後で、暖かく、柔らかく、牧歌的といえるくらいだった。街角を曲って、白い羊の大群が現われても、ぼくは驚かなかったかもしれない。
「ストップ」と、ぼくは言った「ぼくはここでお別れするよ」
「いや、それはいかん」いそいでトムが口をはさんだ「きみがアパートまでいっしょにこなけりゃ、マートルが気を悪くするぜ。なあ、マートル?」
「いらっしゃいよ」と、彼女も誘いの言葉を吐いた「あたし、妹のキャサリンとこへ電話をかける。眼のある人たちはあの子のことをすごい美人だって言うのよ」
「いや、うかがいたいが、しかし――」
ぼくたちは、セントラル・パークを抜けてふたたび西地区に出て、百何丁目というあたりへ車を走らせた。やがて車は百五十八丁目の、アパートが長い白いケーキのように立ちならんだその一切れの前で停車した。ウィルスンの細君は、王者の帰国といった眼差しを近隣に投げながら、犬やその他の買物品を集め、傲然とかまえて中にはいって行った。
「あたし、マッキーさんご夫婦を呼んでやるわ」エレベーターであがる途中、彼女はそう言った「それから、むろん、妹のとこにも電話するけど」
部屋は最上階にあった――小さな居間に小さな食堂、小さな寝室、それにバスルームである。居間にはどうみても大きすぎるつづれ織りばりの家具が一式、戸口までいっぱいに置いてある。だから、動きまわれば、ヴェルサイユの庭で貴婦人がブランコに乗っている図に始終けつまずくことになる。絵らしいものはただ、引き伸ばし過ぎたみたいな写真が一枚かかっているばかり。見たところぼんやり霞んだ岩の上に鶏が一羽とまっているように見えるが、遠くから見ると鶏はボンネットと化し、肥った老婦人の笑顔が部屋の中を見おろしている格好になる。月おくれの『タウン・タトル』が三、四部、『ペテロと呼ばれしシモン』と共にテーブルの上にのっかり、ブロードウェイの小さな暴露雑誌も幾冊かのっていた。ウィルスンの細君はまず犬のことが気がかりだった。エレベーター・ボーイは、いやいやながら藁を敷いた箱と牛乳をとりにやらされたが、そのほかに彼は、独断で、大きな堅い犬のビスケットを一缶持ってきた――そのビスケットの一枚が午後のあいだじゅう、牛乳の皿の中で、溶解した姿をしらじらしくさらしていた。一方トムは、鍵をかけた衣裳箪笥の扉を開けて、かくしておいたウィスキーの瓶をとりだしてきた。
ぼくは一生に二度泥酔したことがあるが、その二度目がこの日の午後だった。だから、この日のできごとは、何もかも、ぼんやりおぼろな色調を帯びている、八時過ぎまで部屋の中には明るい陽光がみちていたのだけれど。トムの膝の上に腰かけながら、ウィルスンの細君は、三、四人の人を電話で呼びだした。それから、煙草がなかったのでぼくは、角のドラッグストアへ煙草を買いに出かけた。もどってくると、二人はどこかに消えていた。そこでぼくは、気をきかせて居間に腰をおちつけて、『ペテロと呼ばれしシモン』の一章を読んだ――本そのものが恐るべき代物だったのか、それともウィスキーによる錯乱か、とにかく、なんのことやら意味はまったくわからなかった。
トムとマートルが(というのは、最初の一杯を飲みかわしてからは、ウィルスンの細君もぼくも、互いに名前で呼び合うようになっていたのだ)また姿を現わしたちょうどそのころから、部屋の入口に仲間の者たちが到着しはじめた。
妹のキャサリンというのは、三十がらみのすらりとした世俗的な女で、赤い毛の断髪を油で堅く固め、白粉をはいた顔の色は乳のように白かった。眉毛をいったん抜いた上に、もっといきな角度の描き眉が描かれていたが、もとの線を回復しようとする自然の力のために、彼女の顔には何かぼやけた感じがただよっている。彼女が動きまわると、両腕につけた無数の陶器のブレースレットがちゃらちゃらと揺れて、絶えずさやかな音をたてた。彼女が部屋にはいってきたとき、その感じが、自分の部屋にでもはいるように無造作で、また家具を見まわす態度も、いかにもわがものといった感じだったので、ぼくは、彼女はここに住んでいるのかしらと思った。しかし、そのことを彼女にたずねると、彼女はとめどなく笑いこけて、ぼくの質問をおうむ返しにくりかえし、ガールフレンドといっしょにあるホテルに住んでいると答えた。
マッキー氏というのは、同じアパートの下の階に部屋を借りている、蒼白い女性的な男だった。顔を剃ったばかりのところとみえて、頬骨の上に石鹸泡が白くぽつりとついている。彼は、部屋の中の一同に、いとも丁重な挨拶をした。「芸術畑の仕事」をしていると、ぼくにはそう言ったが、あとで推定したところでは写真師らしく、心霊体のように壁にちらついているマートルの母親のぼやけた引き伸ばし写真も、彼が作ったものであった。彼の妻は、金切り声の、無気力な、顔かたちの整った、いやな女だった。そして、ぼくにむかって、結婚以来夫は、自分の写真を百二十七回撮ったと、誇らしげに語って聞かせた。
ウィルスンの細君は、ちょっと前に衣裳を着替えてきていて、今度はクリーム色のシフォンの凝ったアフタヌーンといういでたちだったが、部屋の中を足早に歩くたびにそれが、いつもさらさらと音をたてた。衣裳のおかげで、彼女の人柄まで変っている。整備工場の中であれほど目立った強烈な精気が、いまでは忘れがたいほどの尊大な態度として感じられるのだ。彼女の笑い方も彼女の身ぶりも自説をとおす彼女の言い方も、刻々激越な誇張をましてゆき、彼女が膨脹するにつれて、部屋の空間が狭くなり、ついには彼女が、やかましくきしる軸の上で、煙った部屋の空気の中を回転しているような感じになった。
「あんた」と、彼女は、高い気どった声を張りあげて妹に話しかけた「ああいう手合いにはいつはめられるかわかったもんじゃないよ。お金のことしか頭にないんだから。先週、足をみてもらおうと思って、ある女を呼んだんだけどさ、勘定書を見たら、まるで盲腸でも切ったみたいなんだ」
「その人、なんていう名前?」と、マッキー夫人がたずねた。
「ミセス・エバハート。どこでも家まで出向いて足をみてくれるんだけどさ」
「あんたのそのドレス、いいわね」マッキー夫人が言った「とてもすてきじゃない」
ウィルスンの細君は、つんと眉をあげて、こんなものがと言いたげに「変ちくりんな代物よ」と、言った「格好なんかどうでもいいときに、ときどき引っかけるだけよ」
「でも、あたしの言う意味わかんないかな、それ、あんたにはすごく似合うのよ」マッキー夫人はなおもそう言った「もしチェスタが、そのポーズのあんたを撮れたら、ちょっとしたものが作れるんじゃないかな」
ぼくたちはみんな、黙ってウィルスンの細君を見やった。彼女は眼の上にたれた髪の房をかきあげると、輝く微笑を浮べてぼくたちを見返した。マッキー氏は小首をかしげて、しげしげと彼女を眺めた。それから自分の顔の前で片手をゆっくりと前後に動かした。
「光線を変えなくちゃいかんな」しばらくして彼は言った「顔だちの肉付けをはっきり出したいからね。それから、なんとかしてうしろの髪をそっくりとらえてみたい」
「光線を変えるなんていらないわよ」マッキー夫人が大きな声で言った「あたしはむしろ――」
彼女の夫が「シーッ」と制したので、ぼくたちみんなはまた被写体を見やった。そのときトム・ビュキャナンが、みんなに聞えるようなあくびをして立ちあがった。
「マッキーさんご夫婦よ、何か飲みなさいよ」と、彼は言った「マートル、氷とミネラル・ウォーターをもうすこし持ってこないか、ぐずぐずしてるとみなさん眠っちまうぜ」
「氷はあのボーイにそう言ったのよ」マートルは、下層階級のだらしなさには匙を投げたというように眉をあげた。「しようがないな、あの連中は! まるで眼が離せやしない」
彼女はぼくを見て、なんということもなく笑った。それから、さっと子犬にかけよって、夢中になって接吻すると、大勢のコックが自分の命令を待っているというような格好で、急ぎ足に台所へはいって行った。
「ぼく、ロング・アイランドでちょっといいものを作ってきましたよ」マッキー氏がそんなことを言いだした。
トムは無表情に彼を見やった。
「うち二枚は額縁に入れて、階下にあるんです」
「二枚のなんです?」と、トムがきいた。
「習作ですな。一つには『モントーク岬――鴎』という題をつけましてね、もう一つは『モントーク岬――海』というんです」
妹のキャサリンが、ぼくとならんで寝椅子の上に腰をおろした。
「あんたもロング・アイランドに住んでるの?」彼女はたずねた。
「ええ、ウェスト・エッグです」
「ほんとう? あたし、ひと月ばかし前に、あそこのパーティに行ったわ。ギャツビーって人のとこ。知ってる、あんた?」
「ぼくんとこはその隣ですよ」
「そう。ウィルヘルム皇帝の甥だか従弟だかなんだって。あの人のお金はみんな、そこからくるんだってよ」
「ほんとですか?」
彼女はうなずいた。
「なんだか気味が悪い。あんなのを敵にまわすの、真っ平だな、あたし」
ぼくの隣人に関するこの興味しんしんたる情報は、しかし、中断されてしまった。マッキー夫人がいきなりキャサリンを指して言いだしたのである。
「チェスタ、あの人を使ったら、あんた、何かやれると思うわ」しかしマッキー氏は、それには気がなさそうにうなずいただけで、注意をトムにむけた。
「素材さえ手にはいったら、もっとロング・アイランドで仕事をやりたいんですよ。口火を切ってもらいさえすればいいんです」
「マートルに頼みたまえ」トムは、おりから盆を持ってはいってきたウィルスンの細君を見て、ちょっと甲高く笑いだしながら言った「彼女が紹介状を書くさ、ねえ、マートル?」
「なんだって?」びっくりして、彼女はたずねた。
「きみ、マッキーさんをご亭主に紹介する紹介状を書くだろう。きみのご亭主をモデルにして習作を作りたいそうだ」彼は、しばらく考えながら黙って唇だけを動かしていたが「『ガソリン・ポンプを操るジョージ・B・ウィルスン』とかなんとかいうやつだよ」
キャサリンが近々と身をかがめてきて、ぼくの耳もとにささやいた。
「あの二人ね、どっちも自分がいま結婚してる相手にがまんならないのよ」
「ほんとですか?」
「そうよ」彼女はマートルを見、それからトムを見た「ねえ、がまんならない相手なんかと、どうしていつまでもいっしょにいるのかしらね。あたしだったら、さっさと離婚して、お互い同士いっしょになっちゃうな」
「お姉さんのほうでもウィルスンが好きじゃないんですか?」
これの返答は思いがけなかった。それはマートルからきた。ぼくの質問が彼女の耳にもはいったのだ。猛烈でわいせつな返事だった。
「ほらね」勝ち誇ったみたいにキャサリンが大きな声で言った。それからまた声を低めて「あの二人をいっしょにさせないのは、実をいうと、あの人の奥さんなのよ。奥さんはカソリックで、カソリックは離婚を認めないからね」
デイズィはカソリックじゃない。ぼくはその入念に仕組まれた嘘に、いささかびっくりした。
キャサリンはさらに言葉を続け「二人はね、結婚したら西部へ行って、ほとぼりがさめるまでしばらくそっちで暮すつもりなのよ」
「ヨーロッパへ行ったほうが賢明だろうがなあ」
「あら、あんた、ヨーロッパが好きなの?」彼女はとんきょうな声をあげてそう言った「あたし、モンテ・カルロから帰ったばかしのとこよ」
「そうですか」
「つい去年よ。女の子と二人で行ったの」
「長く行ってらした?」
「ううん。モンテ・カルロへ行って、帰ってきただけ。マルセーユ経由で行ったの。発つときは、千二百ドル以上持ってたんだけど、カジノの特別室で二日のうちにうまいとこ巻きあげられちまった。帰りはさんざんよ、えらい目にあっちゃった。ほんとにあんな憎らしい町って、ありゃしないわ!」
窓から見る黄昏ちかい空が光に映えて、一瞬青くとろりとした地中海の海の色を思わせた――が、そのとき、マッキー夫人の甲高い声に、ぼくは、また部屋の中へ引きもどされた。
「あたしも、もうすこしでまちがいをおかすとこだったのよ」威勢よく彼女はそう言明するのである「チャチなユダ公に何年もおっかけまわされてさ、もうちょっとで結婚するとこだった。あんな男じゃあたしがもったいないとは自分でも思ってたさ。みんなが、あたしにむかって『ルシル、あんな男、あんたの足下にも及ばないじゃないの!』って、そう言うんだもの。でもね、もしもチェスタに逢わなかったら、あの男に捕まってたと思うな」
「なるほどね」と、マートルはうなずきながら「しかし、なんといったって、あんたはその人と結婚しなかったんだから」
「それがどうしたっていうの?」
「ところが、あたしは結婚したっていうのよ」マートルは焦点をぼかしてそう言った「そこが、あんたとあたしのちがうとこさ」
「なんだってあんたは結婚したのよ、マートル?」キャサリンがたずねた「だれも強いやしなかったのに」
マートルは考えていたが、しまいに「そりゃあの人を紳士と思ったからさ」と、言った「多少は礼節の心得もあるかと思ったんだ。ところが、あたしの靴をなめる値打ちもない男だった」
「でもしばらくは、あの人に夢中だったじゃない?」と、キャサリン。
「あの人に夢中だった?」本気かというように、マートルは声を高めた「あたしが夢中だってだれが言ったのさ? あたしゃ、あの人に夢中になったことなんて一度もないよ、そこにいるその人にとおんなじだよ」
そう言って彼女はいきなりぼくを指さすものだから、みんなは、とがめるような眼差しでぼくを見た。ぼくは、愛情など期待してはいないということを、表情によってつとめて示そうとした。
「あたしが正気を失ったのは、あの人といっしょになったときだけさ。これはまちがった、と、すぐわかったわよ。あの人ったら、結婚式に着るのに、だれかの晴れ着を借りておきながら、あたしにはぜんぜんそんなことを言わないんだもの。そしたら、いつかあの人が留守のときに、その人がとりにきてさ。『あら、あなたの洋服でしたの?』って、あたし、言ったわよ『いま、はじめてうかがいます』って。でも、あたしゃその人にそれを渡して、それから寝ころがって、午後中めちゃくちゃに泣いたのさ」
「姉はご亭主のとこから出て行くのがほんとうなんだ」キャサリンはさっきの話をまたむし返して「二人はもう十一年もあの店の二階に住んでるんだけど、トムは姉の最初のいい人なのよ」
ウィスキーの瓶――といっても二本目のやつだが――それにしょっちゅう、四方八方から手が出るようになった。ただ「何も飲まなくてもいい気持だ」と言うキャサリンだけは例外だった。トムはベルを鳴らして玄関番を呼ぶと、評判のサンドウィッチをとりよせた。それがそれだけで申し分のない晩飯になった。ぼくは外へ出て、柔らかい黄昏の中を東にむかってセントラル・パークのほうへ歩いて行きたいと思ったが、出ようとするたびごとに、何かしら声高にたたかわされるむちゃな議論にとらえられ、それが、まるでロープででも引っ張るみたいに、ぼくをまた椅子に引きもどしてしまう。それでも、この町の空高く連なる黄色いぼくたちの窓々は、暮れてゆく街路に立ってたまたま眺めやる者の眼に、それなりの人間の秘密を語りかけていたにちがいなく、窓を見あげていぶかしんでいる人の姿もまた、ぼくの眼にはありありと浮んでいた。ぼくの心は、尽きることない人生の種々相に、魅せられると同時に反撥も感じながら、部屋の内と外とに分裂していた。
マートルがその椅子を、ぼくの椅子のそば近く引きよせたと思うと、いきなりなま温かい息を吐きかけながら、はじめて彼女がトムに会ったてんまつを語りだした。
「お互いにむかい合いになった二つの小さい座席だったのよ。そこが、その列車ではいつも最後まで空いてる席だったの。あたしは、妹に会いにニューヨークへ行って、その晩を過すつもりだった。彼は礼服を着てエナメル革の靴をはいてたけど、あたし、彼から眼がそらせないのよ。でも、彼がこっちを見るたびに、あたしは無理して、彼の頭の上の広告を見てるふりなんかしちゃってさ。駅にはいると、彼はあたしのすぐ隣にいてね、白いワイシャツの胸をあたしの腕に押しつけてくるの。それであたし、警官を呼ぶわよって言ったけど、彼には嘘だってことがちゃんとわかってたのね。あたし、すっかり興奮しちまって、彼といっしょにタクシーに乗りながら、ほんとうは地下鉄に乗らなきゃいけないのに、もう上の空なのよ。ただもう『おまえはいつまでも生きられるわけじゃないぞ、おまえはいつまでも生きられるわけじゃないぞ』って、くりかえし、くりかえし、そればっかし考えてた」
彼女はマッキー夫人をかえりみながら、わざとらしい笑いを部屋じゅうに響かせた。
「ねえ、あんた」と、彼女はうわずった声で「このドレス、脱いだらすぐあんたにあげるわ。明日また、別のを買わなくちゃならないんだ。そうだ。買わなくちゃならないものを全部リストに書きだしておこう。マッサージとウェーヴと、犬の首輪と、バネ仕掛けになってるあの可愛らしい灰皿を一つ、それから母さんのお墓に、夏じゅうもつような黒い絹のリボンのついた花環。忘れないように、しなくちゃなんない用事はみんなリストに書いておかなくっちゃ」
これが九時だった――それからほとんど間がないと思ったのに、時計を見ると、もう十時になっている。マッキー氏は、握りしめた拳を膝にのせて、椅子の上で眠っていた。活動家の肖像といったところだった。ぼくは、自分のハンケチをとりだして、彼の頬から、午後じゅうずっと気にかかっていた石鹸泡のぽつりと乾いたあとを拭きとった。
子犬は、テーブルの上に坐って、見えない眼で煙った部屋の中を見ていたが、ときどきかすかな唸り声をたてた。人びとの姿が消えたり、また現われたり、どこかへ行く計画をたてたり、かと思うとお互いを見失い、お互いに探し合って、数フィート先に見つけ合ったりした。真夜中近いころ、トム・ビュキャナンとウィルスンの細君とがむかい合って立ったまま、ウィルスンの細君にデイズィの名を口にする権利があるとかないとか、熱した声で、激論をたたかわしていた。
「デイズィ! デイズィ! デイズィ!」ウィルスンの細君が叫んだ「言いたいときにはいつだって言うよ! デイズィ! デイ――」
トム・ビュキャナンが器用にちょっと手を動かして、彼女の鼻に平手打ちをくらわした。
続いてバスルームの床に血のついたタオルが転がり、叱りつける女たちの声がし、喧噪を圧してひときわ高く、苦痛を訴えるとぎれとぎれの泣き声がいつまでも聞えていた。マッキー氏がうたたねから目をさまし、呆然とした格好で戸口のほうへ歩きだした。しかし半分行ったところで振りかえると、その場の光景をまじまじと眺めまわした――彼の妻とキャサリンが、叱ったりすかしたりしながら、ごったがえす家具の中を、救急具を持っておろおろ動きまわっている。かと思うと、寝椅子の上では、望みを失ったマートルが、とめどなく血を流しながらも、つづれ織りのヴェルサイユの情景の上に、『タウン・タトル』をひろげてかぶせようとしている。マッキー氏はまた振りかえると、そのまま戸口から出て行った。ぼくも、シャンデリアにかかっていた帽子をとると、彼のあとから続いて出た。
「いつか昼食にきませんか」エレベーターのうなりを聞きながらいっしょに下へくだって行く途中、彼が言いだした。
「場所は?」
「どこでも」
「レバーからお手をとってください」きめつけるようにエレベーター・ボーイが言った。
「これは失礼」マッキー氏は威厳をくずさずそう言った「さわってるのに気がつかなかった」
「結構ですね」と、ぼくは賛意を表した「喜んでうかがいます」
……ぼくは彼のベッドのそばに立っていた。そして彼は、大きな折りかばんを両手に抱え、シャツ一枚の姿になって、毛布の下に脚をつっこんだままベッドの上に起きあがっていた。
「『美女と野獣』……『孤独』……『オールド・グロサリー・ホース』……『ブルックリン橋』……」
そのつぎのぼくは、ペンシルヴェニア・ステーションの下のホームの吹きさらしのベンチに横になり、半分眠ったような状態で『トリビューン』の朝刊に眼をすえながら、四時の列車を待っていた。
第三章
夏の夜な夜な、隣の邸宅からは、楽の音が流れてきた。そしてその青みわたった庭の中を、ささやきとシャンペンと星屑につつまれながら、男女の群れが蛾のように行きかっていた。午後のあげ潮時には、客人たちが、彼の飛び込み台の櫓から水に飛びこんだり、邸の浜辺の熱い砂の上で陽を浴びたりしているのが眺められた。彼の二艘のモーターボートが、渦巻きかえす白泡の奔流の上に波乗り板をひきながら、「海峡」の水を切って進んで行く。週末には、彼のロールスロイスがバスに早変りして、朝の九時から夜中すぎまで、客を乗せてニューヨークとのあいだを往復するかと思うと、ステーション・ワゴンは、つく列車ごとに、黄色い甲虫のように勢いよく駆けまわる。そして月曜日ともなると、臨時雇いの園丁まで含めて八人の従僕が、モップやたわしやハンマーや植木鋏などを手に、汗水流して前夜の狼藉の跡を終日直してまわる。
金曜日ごとに、オレンジやレモンが大籠に五杯、ニューヨークの果物屋から到着する。そして月曜日には、この同じオレンジやレモンが、半分にちょん切られた皮だけの山となって、邸の裏口を出てゆくのだ。台所には、まかない頭の拇指が小さなボタンを二百回押すと、半時間で二百個のオレンジの汁が搾りだせる器械があった。
すくなくとも二週間に一度は、余興係の一団が、数百フィートのズックと、ギャツビーの大庭園を一つのクリスマス・ツリーに仕立てうるだけの色電球を持ってやってくる。きらびやかなオードーブルに飾られたビュッフェのテーブルには、香料入りの焼きハムや、道化模様のサラダ、はては奇しくも黄金色に色を変じた練り粉の豚や七面鳥、こうしたものがぎっしりとならぶ。メーン・ホールには、本物の真鍮のレールをそなえたカウンターが設けられ、ジンや火酒、それから、いろいろなコーディアルが準備される。とうの昔に忘れられたコーディアルの種類など、ギャツビーの家に集まる女客はたいていが若い連中なものだから、禁酒法以前のことにはうとくて、どれがどれやら区別もつかぬありさまだった。
七時までにはオーケストラが到着するが、これがまた、五種くらいの楽器からなる貧弱な代物ではなくて、楽隊席をいっぱいに塞ぐオーボエにトロンボーン、サキソフォーンに、各種の絃楽器、コルネットにピッコロ、それから、大太鼓、小太鼓。最後まで波と戯れていた連中も浜辺から引きあげてきて、二階で身支度を整えるころには、ニューヨークからきた車が玄関先の道に五列にならび、広間や客間やヴェランダを原色が絢爛と彩り、一風変った新型の断髪や、スペインの夢さえしのぐ肩掛けがはなやかにゆらぐ。バーの賑わいは最高潮に達し、カクテルのグラスが盆にのって夜気に浮びながら外の庭園にまであふれ出てゆくうちには、賑やかな話し声のあいだに笑い声が湧き、さりげないあてこすりやその場で忘れ去られる紹介が行われ、名も知らぬ女同士のあいだに大仰な邂逅の挨拶がかわされたりして、すべてが活況を呈してくる。
地球が太陽から傾き離れて行くにつれて、灯は輝きを増し、オーケストラは煽情的な酒席の音楽を奏しはじめ、人声のオペラもいちだんと調子を高める。緊張は刻々にくずれ、笑い声は惜しげもなくばらまかれて、愉快な言葉を聞くたびにどっとばかりに爆笑が湧き起る。一組にかたまった連中もその顔ぶれの変り方が早くなり、新来の客を入れてふくれあがったと思うとたちまちにしてくずれ、くずれたかと思うとまた集まっている始末。あちこちをさまよい歩く者もそろそろ現われはじめ、こうした自信にみちた娘たちは、もっと頑丈ですわりのよい者たちのあいだをあちこち縫い歩き、しばらくどこかの群れの中心となって胸躍る歓喜のひとときを味わうと、やがて、その勝利感に上気しながら、刻々変りゆく光を浴びて、顔・声・色が交錯変転する中をすべるように縫って行く。
突然、こうした流浪の民の娘が一人、オパール色の衣裳を風になびかせて、さっとばかりにカクテルをひったくり、威勢よく飲みほして元気をつけると、フリスコのように両手を動かしながら、ただひとり、ズックを張った舞台の上へ踊り出てゆく。一瞬みながしーんと静まりかえる。オーケストラの指揮者は、彼女の動きにリズムを合わす。と、堰を切ったように湧きだす話し声の中を、あれは「フォリー」からきたギルダ・グレイの代役の女だなどといいかげんな噂が伝わってゆく。いつの間にかパーティははじまっているのだ。
ぼくがはじめてギャツビーの家へ出かけた夜、ぼくをも含めてほんとうに招待を受けてきた客はごくわずかしかいなかったはずだ。人びとは招待されるのではない――彼らのほうから出かけて行くのだ。ロング・アイランドまで運んでくれる車に乗りこみ、ともかくギャツビーの邸の入口で降りる。ここまでくれば、だれかギャツビーを知っている人間が招じ入れてくれる。後は遊園地の行動原則にしたがって振舞うだけだ。ときには来てから帰るまでに一度もギャツビーその人に会わぬこともある。パーティが好きでやってくるその単純素朴な心、それが唯一の入場券なのだ。
ところがぼくは、実際に招待を受けてきた客だった。その土曜日の朝早く、るり色のお仕着せを着た抱えの運転手が、ぼくのうちの芝生を踏んで主人の手紙を持ってきたのだ。呆れるほどしゃちほこばった手紙だった。その夜、自分の所で催される「ささやかなパーティ」にご臨席賜わらば、ギャツビーの栄誉、これにすぎるところはない、というのである。これまでにも幾度かお見かけいたし、まえまえからお訪ねいたしたく存じては参ったが、諸種の事情が錯綜して果せなかった――といって、ジェイ・ギャツビーといかめしい書体のサインがしてあった。
白いフランネルの服を着こんでぼくは、七時をすこしまわったころ、彼の邸の庭に出かけて行った。そして、知らない顔の渦巻く中を、いささか気づまりを覚えながら徘徊した――もっとも中には通勤列車で見かけた顔も、ぽつぽつまじっているにはいたけれど。すぐ気づいたことは、意外にも若い英国人が多いことだった。あちこちで眼につく彼らは、どれもこれもりゅうとした服を着こみ、どれもこれもひもじそうな顔つきをして、どれもこれも堅実富裕なアメリカ人相手に低い声で熱心に話しこんでいた。債券だとか保険だとか自動車だとか、とにかく何かを売りつけているのである。彼らは簡単にできる金儲けの口がここに転がってることを、知ることだけは身にしみて知っていて、壺にはまった語調で二言三言話せば、そいつをものにできると信じているのだ。
行ってすぐぼくは、ギャツビーを見つけようとしたのだが、ぼくが彼の居所をたずねた二、三の人たちがみな、一様にいかにも驚いたというふうにぼくを見つめ、彼の動静など知るものかといわんばかりの返事だったので、ぼくはこっそりとカクテルのテーブルのほうへ逃げて行った――相手もおらぬ男が一人でぶらついていても、べつに場ちがい者に見えぬ所といえば、広い庭の中でもここしかなかったからである。
どうにも気まずくてやりきれぬばかりに、そのうち酔っ払って騒ぎだしそうな形勢のぼくだったが、そのときちょうど家の中からジョーダン・ベイカーが出てきて、大理石の石段の上に立った。すこしそり身になって、軽蔑したように庭の光景を見おろしている。
歓迎されようがされまいが、ぼくは、だれか相手をつくらぬことには、通りすがりの者におちついて言葉もかけられぬような気持だった。
「こんばんは!」と、ぼくは、彼女のほうへ歩み寄りながら大きな声で呼びかけた。声は不自然なほど高く庭に響いたようだった。
「あんたがいらっしゃるだろうと思ったの」ぼくが歩み寄って行くと、気のない声で彼女は答えた「お宅はお隣だったっけと思って――」
彼女は、すぐまた相手になってやるという印に、機械的にぼくの手を握っておきながら、おりから石段の下で立ちどまった黄色いそろいの衣裳を着た二人の娘のほうに耳をかした。
「こんばんは!」二人は声をそろえて呼びかけた「あんたが勝てなくて残念だったわ」
それはゴルフのトーナメントの話だった。ジョーダンは前の週の決勝戦に敗れたのである。
「あたしたちのこと、あんたのほうではご存じないでしょう」と、一人の娘が言った「でも、あたしたちは一月ほど前に、ここであんたにお会いしたのよ」
「あんた、あれから髪を染めたでしょう」そうジョーダンが言ったので、ぼくはびっくりしたが、そのときはもう娘たちはぶらぶらと先へ歩いて行ったため、ジョーダンの言葉は、いつの間に出ていたのか時はずれに早い宵空の月――夕食同様、仕出し屋の籠からとりだされたとしか思えぬ宵空の月――にむかって話しかけた形になった。ジョーダンのすんなりとした黄金の腕をかいこんで、ぼくは石段をおり、庭の中をあちこちぶらついた。カクテルをのせた盆が、宵闇に浮ぶようにしてぼくたちの前にさしだされたので、ぼくたちは例の黄衣の娘二人とそれから三人の男たちとともにテーブルに坐った。男たちはそれぞれがみんなミスタ・マンブルとぼくたちにむかって紹介された。
「あんた、こういうパーティにはよく来るの?」と、ジョーダンが、隣に坐った娘にたずねた。
「この前は、あんたにお会いした、あのとき」と娘は、臆する色もなく快活に答えた。彼女はくるりと連れの娘を振りかえり「あんたもそうじゃない、ルシル?」
ルシルもそのとおりだった。
「あたしは好きでくるの」と、ルシルは言った「自分の行動なんていちいち気にかけないのよ。だから、いつだって楽しいわ。この前はね、あたし、椅子にひっかけて夜会服をやぶいちゃった。そしたらあの人がね、あたしの名前と住所をきくの……一週間もたたないうちに、『クロワリエ』から、新しい夜会服のはいった包みが届いたわ」
「それをそのまま貰っておいたの?」と、ジョーダンがたずねた。
「もちろん。今晩着てこようと思ったけど、バストが大きすぎて作り変えなきゃ駄目なの。ガス燈のような青い色で、藤色のビーズがついてるの。二百六十五ドルよ」
「そんなようなことをする人には、何かおかしなところがあるものよ」もう一人の娘がきおいこんで言った「そりゃ、どんな人とでもなんの悶着も起したくないんだわ」
「だれがです?」と、ぼくがたずねた。
「ギャツビーさん。だれかに聞いたんだけど……」と、言いかけて、二人の娘とジョーダンは、内輪話をするみたいに顔を寄せ合い「あたし、だれかに聞いたんだけど、あの人、どうも前に人を殺したことがあるらしいんだって」
ぼくたちみんなの身体を戦慄が走った。ミスタ・マンブルは三人とも身をのりだして、じっと聞き耳をたてた。
「さあ、そこまではどうかしらね」ルシルが疑問を呈する「戦時中ドイツのスパイだったというほうがあたっていそうよ」
男の中の一人がうなずいて賛意を表明する。
「ぼくはそいつをあの人のことならなんでも知ってるという男から聞いたんですがね、あの人といっしょにドイツで育ったんだそうですよ」と、彼は進んで確証を示した。
「あら、ちがうわ」と、最初の娘が言う「そんなはずないわよ。だって、あの人、戦時中はアメリカの軍隊にはいってたんだもの」ぼくたちの信用が、ぐらりとまた彼女の側に変ると、彼女は熱をこめて身をのりだしてきた「あんた、あの人がだれからも見られてないと思っているときの様子を見てごらんなさいよ。だんぜん、人を殺したことのある男よ」
彼女は眼を細めて身ぶるいした。ルシルもぶるぶるっと身をふるわせた。ぼくたちはみな、振りかえって、あちこちギャツビーの姿を眼で探した。声をひそめて話し合う必要のあるものなどこの世の中にほとんど認めぬ連中から、こうした私語を引きだしたというのは、ギャツビーという人間が、人びとにロマンチックなものを考えさせる証拠であった。
最初の夕食が配られはじめた――「最初の」というのは夜半過ぎにまた夕食が出ることになっているからだが――ジョーダンがぼくを招いて、自分たちの一座に加わらせた。その人たちは庭のむこう端のテーブルを囲んで坐っていた。三組の夫婦、それからジョーダンの護衛者をもって任じているしつこい大学生が一人、これは粗野なあてこすりを好んでやる男で、遠からずジョーダンは多かれ少なかれ自分に身をまかすものと思いこんでいるふうだった。この一座は、方々ぶらつきもせずに、最初からみな一様な謹厳ぶりを保っていた。そして郊外の実直な品位を代表するのをおのが任務と心得ていた――ウェスト・エッグに歩調を合わせながらも、その絢爛とした遊興的な空気には慎重に身を護るイースト・エッグの姿。
「ぬけ出さない?」半時間ほどもつまらぬ時間を浪費したころ、ジョーダンが小声にささやいた「これじゃ堅くてやりきれやしない」
ぼくたちは席を立った。ジョーダンは、これからご主人を探しに行くと言って、ぼくがまだ主人公に会っておらず、そのためなんだかおちつかないと言うからと、弁解した。大学生はうなずいたが、その様子は憂鬱そうでもあり、同時に、ぼくたちを皮肉ってるようでもあった。
最初にのぞいたバーは、たてこんでいたが、ギャツビーはそこにはいなかった。ジョーダンが玄関先の石段の上から見渡してみても見あたらず、さりとてヴェランダにもいない。なにげなくぼくたちは豪奢なつくりのドアを押してみた、と、中は高いゴシックふうの書斎になっていた。羽目板は彫刻を施した英国のオーク材、おそらくはどこか海外の廃墟からそっくりそのまま移築したものであろう。
ふくろうを思わす大きな眼鏡をかけた中年のがっしりした男が一人、大テーブルの端に腰かけていた。いささか酔っているらしく、焦点の定まらぬ視線で書棚をにらんでいる。ぼくたちがはいって行くと、勢いよく振りかえり、ジョーダンを頭のてっぺんから足の先までじろじろ眺めまわした。
「きみたちはどう思うね?」男はいきなりそうたずねた。
「何をです?」
男は書棚のほうへさっと手を振って、
「あれだよ。実をいうと、きみたちがわざわざ確かめるには及ばん。わしが確かめた。ありゃ本物だ」
「本がですか?」
彼は、うなずいて「絶対に本物だ――ページも、何もかもそろっとる。わしは、おそらく持ちのいい厚紙ででも作ったんだろうと思うとった。ところが、実は、本物なんだ。ページもそれから――ま、見てみたまえ」
ぼくたちがけげんそうにしているのももっともだと思って、彼は書棚にかけよると、ストダードの『講話集』を手にしてもどってきた。
「見たまえ!」彼は、勝ち誇ったように、大きな声で「正真正銘の印刷物だ。きれいにだまされたよ。ここの大将はまったくベラスコウみたいなやつなんだな。負けたよ。まことに徹底しとる! リアリズムの極致だ! しかも頃合いというものを心得ておってな――ページは切っておらん。ところできみたちはなんの用だ? 何を待っとる?」
彼は、ぼくの手からその本をひったくると、煉瓦一つでもはずせば書庫全体がくずれるおそれがあるなどとつぶやきながら、急いでそれをまたもとの所へ返した。
「だれがきみたちを引っ張ってきたんだ?」と、彼はたずねた「それとも、きみたちは、自分のほうからやってきたのか? わしは連れてこられたんだ。たいていの連中がそうだな」
ジョーダンはそれに答えず、ただ面白そうに愉快そうに相手を見守っている。
彼はさらに言葉をついで「わしを連れてきたのは、ローズヴェルトという女だがね、クロード・ローズヴェルト夫人。知ってるかな? 昨夜どっかで会ったんだよ。わしは、ここ一週間ばかりというもの酔い続けでね。それで、書斎にでも坐ったら酔いがさめるかと思ったんだ」
「で、いかがでした?」
「ま、ちょっとだな。まだわからん。まだきて一時間にしかならんからな。わしはきみたちに本の話はしたっけか? ありゃ本物だ。ありゃきみ――」
「それはもううかがいましたよ」
ぼくたちは彼と厳粛な握手をかわしてまた外へ出た。
ズックを張った庭の舞台の上ではダンスがはじまっていた。老人が若い娘を押しながらくるくるといつ果てるともなく不格好な円を描きつづけてゆく。もっとましな連中は、しゃれた形に身をくねらせて抱き合い、片隅を離れず踊り続ける――そして、相手を持たぬ大勢の娘たちは、自分勝手に踊りまわり、オーケストラに、ひとしきり、バンジョーや打楽器の労をはぶかせたりしている。夜半までには、興奮がいやがうえにも高まってきた。有名なテナーがイタリアの歌を歌えば、悪名高きコントラルトがジャズ・ソングを歌い、曲目の合間には庭中いたるところで素人の「芸当」がはじまったりして、幸福そうな筒抜けな爆笑が夏の夜空高く舞いあがってゆく。二人一組になった芸人が――それは先刻の黄衣をまとった娘たちだったが――コスチュームをつけて幼稚な芝居をやり、シャンペンが、フィンガー・ボールよりも大きなグラスでふるまわれた。いつしか月は空高くあがり、「海峡」の水に砕ける月影は、三角形に銀鱗の尾をひきながら、芝生で奏でるバンジョーの堅い金属性の響きにあわせてかすかにゆらいでいた。
ぼくはまだジョーダン・ベイカーといっしょで、一つのテーブルに、年のころぼくと同じくらいの一人の男と、それから一人のそうぞうしい小娘といっしょに坐っていた。娘は、ちょっと何かおかしなことを言うと、すぐとめどなく笑いこける。いまではぼくも心おきなく楽しんでいた。フィンガー・ボールのようなグラスでシャンペンを二杯飲んだのだが、眼前の光景がいつの間にか変質して、何か本質的で意義のある深遠なもののように思われていた。
余興がふととぎれたすきに、同席の男がぼくを振りむいて微笑した。
「あなたのお顔はよく存じております」彼は丁寧な口調で言った「戦時中、第三師団におられませんでしたか?」
「いや、そうですよ。第九機関銃大隊です」
「わたしはまた一九一八年の六月まで歩兵第七連隊におりましてね。どうも、どこかでお見かけした方にちがいないと思っておりました」
ぼくたちは、しばらく、フランスの雨に濡れた灰色の小さな村々のことなど話し合った。彼はこの近辺に住んでいる男にちがいなかった。だって、最近高速モーターボートを購入したのだが、明日の朝試乗してみるつもりだなどと言ったのだから。
「ごいっしょにいかがです、親友?『海峡』のごく岸に近いとこで」
「時間は?」
「いつでもあなたのご都合のよいときで結構です」
彼の名をたずねる言葉が舌の先まで出かかったとき、ちょうどジョーダンがこちらをむいて微笑を浮べた。
「どう、もう楽しくなった?」と、彼女は言った。
「ずっとよくなりましたね」そう答えてぼくは、また、新しく近づきになった男のほうへむきなおった「こういうパーティは、わたしには異例ですよ。まだご主人にお目にかかってもいないんだから。わたしの家はこのむこうなんですが――」と、ぼくは、眼に見えぬ遠くの生垣のほうへ手を振って「ここのギャツビー氏が、招待状を持たせて抱えの運転手をよこしたんですがね」
ちょっとのあいだ彼は、けげんな顔をしてぼくを見ていたが、
「わたしがギャツビーですが」と、だしぬけにそう言った。
「えッ!」思わずぼくは叫んだ「いや、これは失礼しました」
「わたしはまた、親友、あなたは、ご存じとばかり思ってましてね。あまりいい主人ぶりでなくて申しわけありません」
彼は深い理解のにじんだ微笑を浮べた――いや、深い理解のにじんだと言ったのではまだたりぬ。それは一生のうちに、四、五回しかぶつからぬような、永遠に消えぬ安心を相手に感じさせるものをたたえた、まれにみる微笑だった。一瞬、永劫に続く全世界にむかって微笑みかけ――あるいは微笑みかけるかに見えて――次の瞬間、相手の面上に集中し、あらがいがたい過分の好意をたたえて微笑むのだ。ちょうどこちらが理解してもらいたいだけの理解を表わし、信じてもらいたいとおりの信頼を示す微笑。こちらがひとに与えたいと思う最上の印象を、まさにそのとおりぴたりと受けたとそれは相手に信じこませるのだ。そう思ったとたんに、その微笑は消えた――そして、ぼくの眼前にいるのは、三十歳を一つか二つ越えた、若い上品な田舎者、一つ間違えば阿呆らしくも響きかねない四角四面な言葉づかいをする青年に返っていた。彼がその名を告げるまでは、なんて慎重なもの言いをする男だろうと、ぼくはいささか呆れていたのだ。
彼がギャツビーだと名のったのとほぼ時を同じうして、執事が急ぎ足に近寄ってきて、シカゴから電話だと告げた。彼はぼくたち一同にいちいち軽く会釈して、中座の許しをこうた。
「何かご用がございましたらば、親友、ご遠慮なく申しつけてください」彼は、ぼくにそうすすめて「ちょっと失礼いたしますが、のちほどまた必ずお目にかかりますから」
彼が立ち去るや、すかさずぼくは、ジョーダンのほうを振りむいた――自分の驚きを彼女に信じこまさずにはおれなかったのだ。ぼくは、ギャツビー氏とはきっと、あから顔のでっぷり肥った中年の男だろうとかねがね思っていたのである。
「ありゃ何者です?」と、ぼくはたずねた「あなた、ご存じですか?」
「ギャツビーという名の男よ」
「故郷はどこか、というんですよ。一体どんなことをやってるんです?」
「今度はあんたが身許調査をやりだしたのね」彼女はかすかな微笑を浮べて答えた「そうね、いつか、オックスフォードを出たってあたしに言ってたけど」
彼の背後におぼろげな背景が描かれはじめた。しかしそれも、彼女の次のひとことで消えてしまった。
「でも、あたしは信じないわ」
「どうして?」
「さあねえ、ただ、そんなはずはないと思うだけ」
そう言う彼女の口調には、どこか「あたし、きっと人を殺したことのある男だと思うわ」と言った、あの娘の言葉を思い起させるものがあった。それがぼくの好奇心をかきたてた。ギャツビーがルイジアナの湿地帯の産だとか、ニューヨークのイースト・サイドの下層社会の出だとかいうのなら、ぼくは問題なく認容したと思うのだ。それなら納得できるのである。しかし、どこからともなく飄然と立ち現われた青年が、ロング・アイランド海峡に臨む大邸宅を買い取るなどということはありえない――すくなくとも田舎育ちの未経験なぼくには信じられないことだった。
「とにかく、盛大なパーティを開くわね」と、彼女は、具体的な話に対する都会人らしい嫌悪を示して、話題を変えた「あたしは盛大なパーティが好き。気がおけないから。小さなパーティだと、プライバシーってものがないわ」
バス・ドラムがおどろおどろしく鳴り響き、突然、オーケストラの指揮者の声が、がやがやと庭じゅうに渦巻いている人声を圧してひときわ高く響きわたった。
「淑女ならびに紳士の皆さま。ギャツビー氏のお望みによりまして、これから、ウラジーミル・トストフ氏の最近作を演奏いたします。この曲は、さる五月、カーネギー・ホールにおきまして、多大の注目を浴びたものでございまするが、もし新聞をごらんになりました方は、当時これが、一大センセーションをまき起しましたことをご存じのはずと存じます」彼はふざけて恐縮してみせながら「いや、そこばくのセンセーションでございました」と、つけ加えた。それを聞いてみなが笑った。
「曲の名は」と、彼は最後にいちだんと声をはりあげ「ウラジーミル・トストフの『ジャズの世界史』!」
トストフ氏の曲は、ぼくの心になんの印象も残さなかった。というのは、演奏がはじまったちょうどそのとき、ぼくの眼が、ただ一人大理石の石段の上に立って、客の群れを次から次と満足そうに眺めわたしているギャツビーの姿を、ふととらえたからである。陽に焼けた顔の肌には、すこしのたるみも見えず、短い頭髪は、毎日鋏を入れるのかと思われるばかり。どこにも暗い影など見とめられはしない。ぼくは、彼が酒を飲んでいないということも、客に疎んじられる原因ではないかと思った。互いにわけへだてをなくした乱痴気騒ぎがしだいに高潮してゆくにつれて、彼はますます謹厳になってゆくような気がぼくにはしたからだ。『ジャズの世界史』の演奏が終ったときには、娘たちははしゃいで、子犬みたいに男の肩に頭をもたせかけようとしたり、ふざけ半分、男の腕に、いや中には人群れの中にさえ、卒倒してうしろざまに倒れかかる者すらあった。だれか倒れるのを受けとめてくれる者があると承知しているのだ。ところが、ギャツビーにむかってうしろざまに倒れかかる者はおらず、ギャツビーの肩にふれるフランス・カットの断髪も見えず、ギャツビーを仲間に入れて四部合唱をやろうとする者もだれ一人見あたらぬ始末なのである。
「失礼ですが」と、思いがけぬ声がして、ぼくたちのうしろにギャツビーの執事が立った「ベイカー様でいらっしゃいますか? 恐れながら、主人があなた様お一人にお話し申したいことがございますそうで」
「あたしに?」驚いて彼女は声を高めた。
「さようでございます」
彼女は、意外そうにぼくにむかって眉をあげてみせながら、静かに立ちあがると、執事の後について家のほうへ歩み去った。夜会服を着たそのうしろ姿には――いや、夜会服とかぎらずどのようなドレスでもそうなのだが、彼女が着ればスポーツ服みたいな感じになることにぼくは気づいた――その動作に、身のひきしまるようなさわやかな朝に、はじめて降りたったゴルフ・コースを歩むゴルファーのような、颯爽としたものが感じられる。
ぼくは一人残され、時間はかれこれ二時に近かった。細長い窓がずらりとならんだテラスの真上の部屋から、しばらくのあいだ、こんがらかった、心をそそる物音が聞えていた。二人のコーラス・ガールとお産の話をはじめたジョーダンの大学生が、ぼくにも仲間に加わらぬかと言ったが、ぼくはそれをうまくすかして家の中にはいった。
その大きな部屋は人でいっぱいだった。例の黄衣の娘の一人がピアノを弾いていて、かたわらにはある有名な合唱団からきた大きな赤毛の若い女が立って、歌を歌っていた。彼女は相当シャンペンをきこしめしていたが、歌の途中で、まずいことに、この世は悲しいことばかりと思いこんでしまった――歌うばかりか、いっしょに泣いてしまったのだ。歌の切れ目にくるごとに、その間隙を嗚咽で埋め、やがてまた、叙情的な歌詞を震えるソプラノで歌い続けてゆく。頬を伝って涙が流れた――が、はらはらとはこぼれ落ちず、マスカラをつけた睫にふれると、涙の露は薄黒く染まり、はては黒い筋をひきながらゆるゆると流れ落ちていった。顔の音符を歌ってくれ、と、やじが飛んだが、それを聞くや彼女は、両手を振りあげて椅子にくずおれ、そのまま深い酔余の眠りに落ちていった。
「彼女ね、みずからご亭主と称してる男と喧嘩したのよ」ぼくの脇にいた一人の娘が、したり顔にそう言った。
ぼくはあたりを見まわしてみた。まだ居残っていた女たちは、いまではたいてい、その夫と言われている男相手に喧嘩していた。ジョーダンのグループのあのイースト・エッグの四人組までが、意見不一致の結果分裂してしまっていた。一人の男は、若い女優にむかって、妙に熱を入れて話しかけている。細君は、そのようすを、すこしも取り乱さず、さりげなく笑ってすまそうとしたが、意図は完全に挫折して、側面攻撃に出ないわけにはいかなくなった。ときどき、不意に夫の横へ、ダイヤモンドが怒ったような姿を現わし「約束がちがうわ!」と、耳もとに激しくささやいていた。
家へ帰りたがらぬのは、むら気な男ばかりとはかぎらなかった。玄関に通ずる広間にはいま、気の毒なほど醒めかえった二人の男と、怒りに燃えたそれぞれの細君とが陣取っていたが、細君たちは、心持ち声を高めて、お互いに同情を披瀝し合っている。
「うちの主人は、わたしが楽しそうにしてるのを見ると、すぐもう帰ろう帰ろうって言うんですよ」
「そんなわがままって、聞いたこともありませんわ」
「わたしどもは、いつだって、一番最初においとまするんですからね」
「うちもそうなのよ」
「いや、今晩はきみ、一番最後の組だよ」一人の男がおずおずと言う「オーケストラももう三十分前に帰ったんだぜ」
双方の細君は、そんな意地悪なんて信じられないと一致して言い合ったが、言い合っているうちにもみ合いになったと思うと、ほどなく、どちらの細君も、ばたばたもがくのを抱き上げられるような格好で外へ連れだされてしまった。
ぼくが広間で帽子がくるのを待っていると、書斎のドアが開いて、ジョーダン・ベイカーとギャツビーがいっしょに出てきた。彼は、何か最後のひとことを彼女に言おうとしていたが、二、三の人が別れの挨拶をしに近寄ってくるのを見ると、きおいこんでいたその態度がすっと堅くなって、四角四面な儀礼に変った。
ジョーダンの相手の者たちは、玄関からやっきとなって彼女を呼んでいたが、彼女は握手をかわすために、なおしばらく立ちどまっていた。
「あたし、いま、世にも驚くべき話を聞いてきたとこなの」声をひそめて彼女は言った「あたしたち、どのくらいあすこにはいってた?」
「そう、一時間くらいかな」
「それがね……まったく驚きなんだな」彼女は呆然としてまた同じ言葉をくりかえした「でも、あたし、他言しないって、誓ったからね。これじゃ、あんたをじらしてるだけか」彼女は、ぼくに面とむかって可愛い欠伸をすると「あたしんとこへもいらっしゃいよ……電話帳……ミセス・シゴーニ・ハワドで出てる……あたしの伯母……」そう言いながら、彼女は急いで去って行った。そして、陽に焼けた手を振って颯爽たる挨拶を送ってよこしながら、戸口で待っていた仲間たちの中へ消えて行った。
はじめての機会でありながら、こんなに晩くまで尻をおちつけてしまったことをいささか恥ずかしく思いながらぼくは、ギャツビーのまわりに集まっている最後の客人たちの中に加わった。ぼくは、宵の口から彼の姿を探し求めていたことを言い、庭ではお見それして失礼したと詫びたかったのだ。
「どういたしまして。そんなことはもうお忘れください、親友」彼はしきりとそう言ったが、この親愛の言葉にも、彼がぼくの気をひきたてるように軽く肩に手をふれた仕草にも、打ちとけた親しみはこもっていなかった「それから、明日の朝、ごいっしょに高速ボートに乗ることも、お忘れなく。九時ですよ」
そのとき、執事が、彼のうしろから肩ごしに、
「フィラデルフィアからお電話でございますが」
「うん、いま行く。すぐ行くからと言っておいてくれ……では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」と、彼は微笑した。その微笑を見ると、突然、最後まで残っていたことが彼にはうれしいことだったような、最初から彼はそれを願っていたのだというような、そんな感じがした「おやすみなさい、親友……おやすみなさい」
しかし、玄関先の石段をおりながら、ぼくは、この日のパーティにまだつけたりがあることを知った。戸口から五十フィートほど行った所に、十あまりのヘッドライトが輝いていて、異様な混乱状態を映ししだしていた。路傍の溝の中に、ギャツビーの庭先を出てからまだ二分とはたたぬ真新しいクーペが一台、はまりこんでいるのだ。車体に別状はないのだが、車輪が一つ無惨にもぎとられている。そこだけぐいと飛び出た塀が、車輪喪失の原因を物語っていたが、それがいま、物見高く集まった六人ほどの運転手の関心の的になっているのである。しかし、彼らの停めた車が道を塞いでしまっていたものだから、しばらくのあいだは、後続の車からそうぞうしい警笛がけたたましく鳴り続けて、さなきだに喧噪をきわめたその場の混乱を、いやがうえにもかきたてていた。
長いダスター・コートを着た男が、その故障車から降りたって、道のまんなかに立ち、車体からタイヤへ、タイヤからまた見物人へと、愉快そうに当惑げな視線を移していた。
「ね! 溝にはまったんだ」彼はそう説明した。
彼にはその事実が意外でたまらないらしい。ぼくはそれを不思議がっているその異様な感じ、ついでその男がだれかということに気がついた――ほかならぬ先刻ギャツビーの書斎の肩をもった、あの人物である。
「いったいどうしたんです?」
彼は肩をすくめて、
「わしは機械のことなど何も知らん」疑念の余地ない言い方である。
「それにしても、どうしてこんなことになったんです? 塀に衝突したんですか?」
「わしにきいてもしかたがない」ふくろう氏は、われ関せずといった口ぶりである「わしは運転なんてほとんど知らんのさ――まあ、ぜんぜんといってよいな。とにかくこうなったんだ、わしにはそれしかわからん」
「いやあ、運転がへたなんでしたら、夜の運転はおやめになるべきですな」
「しかし、わしは、運転する気なんかなかったぞ」憤然として彼は言った「運転する気なんぞあるもんか」
一瞬、みんなは気圧されたように沈黙した。
「あんた、自殺するつもりですかい?」
「車輪一つですんだなあ、もっけの幸いですぜ。へたくそなやつが、しかも運転する気もないなんて」
「ちがう、ちがう」老人は事の次第を言って聞かせた「わしが運転してたんじゃないんだ。車の中にもう一人おるのだ」
言われてびっくりしたみんなは「ほ、ほう!」と、尾をひいた驚きの声をあげたが、そのときクーペのドアがおもむろに開かれた。思わず群衆があとずさる――いまではもう群衆といってよい人だかりだった――そしてそのドアがひろびろと開ききったとき、一瞬、無気味な沈黙がきた。それから、その故障車の中から、おもむろに、大きな舞踏靴で心もとなげに地面をさぐりながら、足から脛、脛から腰というふうに、蒼白な顔をした人物が一人、ゆらりと降りたったのである。
めくるめくヘッドライトの輝きに視力を奪われ、ひっきりなしに吠えたてる警笛の喧噪に呆然として、影のようなその人物は、しばらくふらふらと立っていたが、やがてダスター・コートの老人を見とめ、
「どうしたんだ?」とおちつきはらってたずねた「ガソリンがきれたのかな?」
「あれだ!」
六本の指が、無残にもぎ取られた車輪を指し示した――彼は、しばらくそれを見つめていたが、それからやおら空をあおいだ、それが空から降ってきたかと思いでもしたように。
「あれがはずれたんですよ」だれかが言った。
彼はうなずいて、
「はじめわたしは、車が停ったことにも気づかなかった」と言い、ちょっと言葉をきって、それから深い吐息をつくと肩をはって決然たる声で言った「ガソリン・スタンドがどこにあるか教えてもらえんかな?」
すくなくとも十人あまりの男が、中には彼よりいささか裕福そうなのも交えて、異口同音に、車輪と車体はもう金輪際つながってはおらぬのだと説明した。
「バックさせよう」やがて、彼はそう言った「むきをかえるんだ」
「でも、車輪がとれてるんだぞ!」
彼はちょっとためらったが、
「やってみて悪いことはない」と、言った。
わめきたてる警笛の音は最高潮に達したが、ぼくはくびすを返し、芝生を突っ切ってうちのほうへむかった。一度うしろを振りかえってみた。ウェーファーのような月が、ギャツビーの邸の上にかかり、笑い声も物音も絶えたままに灯だけがまだ輝いている庭を照らして、夜はもとどおり清く澄みわたっている。いまや、その窓々や巨大な戸口から突然空々漠々たるものが流れでてくるような気がして、玄関先に立って片手をあげ、型どおりの別れの挨拶を送っている主人公の姿が、思いなしか、いかにも孤独な男と感じられた。
ここまで書いてきたのを読み返してみたぼくは、数週間のあいだを隔てて行われたこの三晩のできごとだけに、自分がすっかりかまけていたような印象を読者に与えそうな気がした。実はその反対で、これらは、まことに多事だった一夏の中の、たまさかのできごとにすぎなかったのだ。そしてずっとあとになるまでぼくは、これらのことがらに対し、自分の身辺の問題とは比べものにならぬほど、関心は薄かったのである。
ぼくの時間は、大部分仕事に忙殺されていた。早朝、陽を浴びた自分の影を西方に落しながら、プロビティ・トラストへとニューヨークの下町の白い谷間を足早に歩いて行く。他の事務員や若い外交員とも名前で呼び合うまでに親しくなり、客のたてこむ薄暗い食堂で、彼らといっしょに小さな豚肉のソーセージ、マッシュ・ポテトにコーヒーという昼食をとる。会計課に勤めているジャージー・シティの娘と短いラヴ・アフェアまで起したが、彼女の兄がぼくのほうへ底意地の悪い視線をむけるようになったので、七月、彼女が休暇で出かけた際、ぼくはおだやかに手を切った。
夕食はふだんイェール・クラブでとったが、どういうわけか、これがぼくには一日のうちで一番憂鬱だった。それから階上の図書室へ行く。そして、たっぷり一時間ほど投資や有価証券などの勉強をする。クラブにはたいてい、そうぞうしいやつらが数人うろついていたが、そんな連中はけっして図書室にははいらぬので、そこは勉強にうってつけだった。勉強をすますと、もしおだやかないい夜だったら、ぶらぶらとマジソン街を歩いて古めかしいマリー・ヒル・ホテルのかたわらを通り、三十三丁目をぬけてペンシルヴェニア・ステーションに到着する。
ぼくはだんだんニューヨークが好きになってきた。活気にあふれ、スリルにみちた夜の空気。めまぐるしく行きかう男や女や車の流れが心せく者の眼に与えてくれる満足感。ぼくは五番街を歩きながら、雑踏の中からロマンチックな女性を選びだし、間もなく自分が彼女の生活の中にはいりこみ、しかも、だれにも知られずだれからも非難されぬといった、そうした想像にふけるのが好きだった。ときどきぼくは、心の中で、人目につかぬ街角に立った彼女のアパートまであとをつけて行く。彼女は、戸口で振りかえり、ぼくにむかってにっこり微笑みかけたのち、ほの暖かい闇の中に消えてゆく。魅惑的な大都会の黄昏どき、ぼくは払いきれぬ淋しさにつきまとわれることもある――そしてこの同じ淋しさを他人の中にも感じたものだ――時間がくるまで食堂の前をぶらついて待ったあげく、やがてひとり淋しく定食をしたためて帰って行く貧しい若い事務員たち――夜の、そしてまた人生の、もっとも胸躍る瞬間を、むなしく浪費している、黄昏どきの若い事務員たち。
八時になり、四十何丁目あたりの小暗い街筋が、五列にならんで劇場街にむかうタクシーの群れに埋めつくされるころになると、またぼくの心は沈んでくる。停ったタクシーの中に、肩を寄せ合った人影が見え、はずんだ声が聞える。何かおかしいことでも言ったのか、笑い声が響く。そして煙草の火が、車の中で、くねくねと判じ難い弧を描くのが見える。ぼくは自分もまた、きらめく世界へと急ぐ身であり、彼らと同じ心のときめきを味わっているのだと想像しながら、彼らに祝福を送ったものだ。
しばらくのあいだぼくは、ジョーダン・ベイカーの姿を見かけなかったが、夏も盛りとなったころ、また彼女にめぐり逢った。はじめのうちぼくは、彼女とあちこち歩くのが得意だった。彼女はゴルフの名選手で、だれでもその名を知っていたからだ。が、やがては、それだけでおさまらなくなってきた。ほんとうの恋とはいえなかったけれど、愛情をたたえた興味といった気持をぼくは彼女に対して抱いたのである。彼女が世間に見せている高慢な倦怠の表情の裏には、何かが隠されていた――ポーズというものは、はじめのうちはともかく、結局はたいてい何かを隠す仮面になる――で、ぼくはある日、それが何かに気づいたのだ。ウォリックで行われたある園遊会に二人で出席したとき、彼女は、借りてきた車の幌をはずしたまま雨の中に出しっぱなしておいたが、あとでそのことで嘘をついた。そのときふとぼくは、デイズィの家であの夜は格別気にもしなかった彼女の噂のことを思いだしたのだ。彼女がはじめて参加した大きなゴルフのトーナメントで悶着が起り、新聞だねになりかかったのである――準決勝のとき彼女が、自分の球を、ぐあいの悪い位置から移動させて打ったというのだ。それは、はっきりした醜聞というまでになりかかったが――やがて消滅してしまった。キャディが前言を撤回し、もう一人だけいた目撃者は、自分の眼の誤りだろうと言ったという。この事件と当事者の名前とが、それ以来ぼくの頭に残っていたのだ。
ジョーダン・ベイカーは、怜悧な抜け目ない男を本能的に避けたが、いまにしてぼくはその原因を知った。彼女は、世の一般道徳からはずれたことなどやれそうもない男を相手にしていたほうが、安心できるからなのだ。彼女の不正直にはつける薬もなかった。彼女は、劣勢な立場に立たされることにたえられぬ女だったが、この不快を味わわされたときにもなお、世間に対するあの冷静不遜な微笑を失わず、しかも頑健にして溌剌たる肉体の要求をも満足させるために、ごく若いころからいろいろなまやかしを演じはじめたのだと思う。
だからといって、そのために彼女に対するぼくの気持が変るということはなかった。女の不正直など、深くとがめられるべきものでもない――ぼくは遺憾なことだぐらいに思っただけで、すぐまたそれを忘れてしまった。ぼくたちが、車の運転について奇妙な会話をとりかわしたのも、その同じ園遊会のときだった。そのきっかけは、彼女が、数人の労働者のそばを、フェンダーが一人の男の上衣のボタンをはじいたほど近く走りすぎたことだった。
「へたくそな運転手だな」たしなめるようにぼくは言った「もっと慎重に運転するか、でなかったら、きれいさっぱり運転はやめるんだな」
「あたしは慎重よ」
「いや、とんでもない」
「でも、他の人たちのほうで慎重にするから」こともなげに彼女は言った。
「それとこれとどんな関係がある?」
「先方が道をよけるじゃない。一方だけじゃ事故は起らないのよ」
「もしあなたと同じくらい不注意なやつに逢ったら?」
「そんなのには逢いたくないね、不注意な人って大嫌い。だから、あんたが好きさ」
眩しげに細めた彼女の灰色の眼は、前方をまっすぐに凝視しているが、いまの言葉には、ぼくたちの関係を変えようとする彼女の意志がこもっている。ぼくはちょっとの間彼女が自分の恋人のような気がした。しかしぼくは、頭の働きがにぶく、自分の欲望にブレーキをかける内奥の規則をいろいろと持っている男である。で、万事はまず、郷里のほうの例のうるさい問題からすっかり抜けだしてからの話だと思った。ぼくにも週に一度は手紙を書いて、それに「愛するニックより」と署名する相手がいたのである。この郷里の娘について思い浮ぶのは、せいぜい、彼女がテニスをやるとき、上 唇にうっすらと口ひげみたいに汗の玉がにじむ様子くらいのものだとはいっても、しかし、二人のあいだには、おぼろげな了解があったから、ぼくが自由になろうと思えば、まずそれをうまく断ち切らねばならなかったのだ。
だれしも自分のことを、例の七つの徳目のせめて一つぐらいは持っていると考えるものだが、ぼくの場合はすなわち――ぼくほど正直な人間はこれまでに多くを知らぬ、ということだ。
第四章
日曜の朝には海沿いの村々に教会の鐘の音が響きわたる中を、気どりすました者たちがだれかれとなくふたたびギャツビーの邸宅に舞いもどり、芝生の上をきらびやかに浮かれ歩いた。
「あの人、お酒の密売をやってんのよ」若い女たちは、彼のカクテルと花々とのあいだを歩きまわりながらそう噂し合った「いつかね、あの人のことをヒンデンブルグ元帥の甥で悪魔の親戚だって言った男を殺っちまったんだ。ねえ、バラの花とってよ。あそこのあのクリスタル・グラスに最後の一滴を注いでくれない」
あるときぼくは、この夏ギャツビーの邸宅にきた人びとの名を、時刻表の余白に書きつけたことがある。「一九二二年七月五日より実施」と見出しに記されたこの時刻表は、今ではもう古く、折り目の所からちぎれている。しかし、いまでもその薄れた名前は読めるし、これらの名前をいちいち列記したほうが、ギャツビーの歓待を受けながら、彼については何ひとつ知らぬという意味深長な貢物を奉った人びとについて、概括的な説明を加えるより、印象がはっきりするだろう。
イースト・エッグからきた者は、チェスタ・ベッカー夫妻、リーチ夫妻、それからバンスンという男、これはぼくもイェール時代に知っていた。それからウェブスタ・シヴェット博士、この人は昨年の夏、メイン州で溺死した。つづいてホーンビーム夫妻にウィリ・ヴォルテア夫妻。それからブラックバックの一家眷族、この連中はいつも一隅にかたまっていて、近寄る者があるときまって、山羊のように鼻をつんと持ちあげていた。次にイズメイ夫妻にクリスティ夫妻(それとも、むしろ、ヒューバート・アウアーバッハとクリスティ氏の夫人というべきか)、それからエドガ・ビーバ、この男の頭髪は、ある冬の日の午後、これという原因もないのに、綿のように白くなったのだそうな。
クラレンス・エンダイヴもたしかイースト・エッグの男だったと思う。彼はただ一度しかこなかったが、白いニカボカーをはいてきて、エティという飲んだくれと、庭で喧嘩をやらかした。ロング・アイランドの、もっと遠くからやってきたのは、チードル夫妻にO・R・P・シュレーダ夫妻、ジョージアのストーンウォール・ジャクスン・エイブラム夫妻。それからフィッシュガード夫妻にリプリ・スネル夫妻。スネルは、刑務所に送られる三日前にはギャツビーの所にきていて、酔っ払って外の砂利道に寝ていて、ユリシーズ・スウェット夫人の車に右手をひかれた。それから、ダンスィ夫妻もきたし、S・B・ホワイトベイトもきた。これは六十を優に越えた老人。それからモーリス・A・フリンクにハマヘッド夫妻、煙草輸入業のベルーガ氏にベルーガ氏の娘たち。
ウェスト・エッグからきた者は、ポール夫妻にマルレディ夫妻。セシル・ローバックにセシル・シェーン。州上院議員のギューリック氏。「映画審査会」を牛耳っていたニュートン・オーキッド氏、エックハウスト氏、クライド・コウエン氏。それからドン・S・シュウォーツ氏(息子のほう)にアーサー・マッカーティ氏。これらはみな、何かの点で映画と関係のある人びとである。次にキャトリップ夫妻、ベンバーグ夫妻、G・アール・マルドーン。後に細君を絞殺したあのマルドーンの兄弟である。企画屋のダ・フォンターノもきたし、エド・レグロス、ジェームズ・B・フェレット(「安酒のきみ」)、デ・ヨング夫妻、アーネスト・リリーなんていう連中もきた。彼らは賭博をやりにくるのだ。フェレットがぶらりと庭に現われたとすれば、それはすっからかんになった証拠であり、翌日、アソシエーテッド・トラクションの株はさがるにきまっていた。
クリップスプリンガーという男は、よく顔を見せ、しかも長いこと尻をおちつけているものだから、「下宿人」とあだ名された――彼は他に家を持っていなかったのではないかと思う。演劇関係の人びとでは、ガス・ウェイズ、ホレス・オドナヴァン、レスタ・マイヤー、ジョージ・ダクウィード、フランシス・ブルといった面々。それからニューヨークからは、クローム夫妻、バクハイソン夫妻、デニカ夫妻、ラッセル・ベティ、コリガン夫妻、ケラー夫妻、デュアー夫妻、スカリ夫妻、それからS・W・ベルチャー、スマーク夫妻、若いクィン夫妻、これはいまは離婚している。それから、タイムズ・スクウェアで地下鉄に飛びこんで自殺したヘンリ・L・パルメトウ。
ベニイ・マクレナンは、いつも四人の女の子を連れてきた。それがいつも同じ女だったことはついぞなかったのだが、お互いに瓜二つだったものだから、どうしても、前にもきたことがあるような気がする。名は忘れた――ジャクラインといったと思うが、それともコンスウェラだったかしら。あるいは、グロリアとかジュディとかジューンとかそんなところだったと思う。苗字は、花や月の調子のよい名前だったか、さもなければ、もっと堅い、アメリカの大資本家の苗字だったか。突っこんできいたら、彼らはその資本家の親戚だぐらい言うかもしれぬ。
これらのほかにぼくは、フォースタイナ・オブライエンがすくなくとも一度はきたことを覚えている。それから、ベデカー家の娘たち、ブルア青年、これは大戦で鼻をふっとばされた男だ。それから、アルブルックスブルガー氏とその許嫁のハーグ嬢。アーディタ・フィツ=ピーターズ、在郷軍人会のかつての会長P・ジュウェット氏。クローディア・ヒップ嬢は、抱えの運転手だという噂の男を連れてきた。それからどことかのプリンス、この人をぼくたちは「大公」と呼んでいたが、本名は、聞いたことがあるにしても忘れてしまった。
こんな連中がみな、この年の夏、ギャツビーの邸宅にやってきたのである。
七月もおしつまったある日の朝九時に、ギャツビーの豪奢な車がぼくのうちの門から凸凹道を揺れながらはいってきて玄関先に停り、突然その三通りの音色が出る警笛を楽曲のように吹きならした。これが彼のほうからぼくを訪ねてきた最初だった。ぼくのほうからはすでに二度も彼のパーティに出席し、高速モーターボートにも乗り、彼のたってのすすめで、彼のうちの浜辺をしげしげと使わせてもらってもいたのだが。
「おはよう、親友。今日はひとつ昼食をつき合ってくださいませんか。ニューヨークまでごいっしょいたしましょう」
彼は、車のステップの所に立ちあがって、いかにもアメリカ人らしくしきりと身ぶり手ぶりを交えながらそう言った――こんなことをやるアメリカ人の特徴、これはおそらく、青年時代にものを持ちあげたり、きちんと坐ったりすることがないのが原因であり、さらには、間歇的に力を発揮してしかも熱狂的なアメリカ特有の競技が、美しさは持ちながらもそこに一定の型がないということに、いっそう大きな原因があるのだとぼくは思う。ギャツビーにあってはこの特質がおちつきのなさとなって、そのしかつめらしい態度のはしばしにいつも顔をだしていた。彼はけっしてじっとしていないのだ。どこでもしじゅう足をことこと踏みならしたり、いらだたしげに手を開いたり閉じたりしている。
ぼくが感嘆して彼の車を眺めているのを見ると、
「きれいでしょう、親友」と彼は、ぼくが見やすいように車から跳びおり「まえにごらんになったことがなかったですかな?」
見たことはあるのだ。だれだって見ている。豊麗なクリーム色の車だ。燦然たるニッケルの金具を用い、巨大な全長のあちこちから、帽子の函、弁当の箱、道具の箱がこれ見よがしにあふれだし、迷路のように入り組んだ幾枚かの風防ガラスには、太陽がいくつにも映っている。幾層ものガラスを前に、緑の革を張った温室の中にでも坐ったような格好で、ぼくたちはニューヨークへむかって出発した。
ぼくは彼と、それまでの一カ月間に六回話し合ったと思うが、その結果、彼にはあまり話題がないことを知って、実はがっかりしていた。これは何かいわくありげな人物だと見たぼくの第一印象はしだいに薄れて、彼は、うちの隣のひどく凝った旅館の主というにすぎなくなっていた。
そこへきたのが、この解釈に苦しむドライヴである。ウェスト・エッグ村までも行きつかぬうちからギャツビーは、例のお上品なもの言いもとかく途中でとぎれがちになり、何か決しかねるように、うす茶の洋服の膝を軽く手でたたきはじめた。と思うといきなりふい打ちに、
「あのね、親友。あなたはいったいぼくをどう思います?」
いささか閉口して、ぼくは、そうした質問相応の、あたりさわりのない抽象論を言いだした。
彼は「いやね」と、ぼくの言葉をさえぎり「わたしはあなたにわたしの過去をすこしお話ししようと思うんですよ。いろいろな噂をお聞きになっておられると思うんですが、そんなことからわたしというものをあなたには誤解していただきたくないんです」
そう言ったところをみると、彼は、彼の邸でかわされた会話に興を添えた奇妙な悪口を聞き知っていたのだ。
「神の御名にかけて真実を語りますよ」彼はいきなり右手をあげて、神に誓う仕草を見せると「わたしはね、中西部のある資産家の息子なのです――いまではみな死んでしまいましたがね。育ったのはアメリカですが、教育はオックスフォードで受けました。何十年も前からわたしの先祖たちはみなあそこで教育を受けておりますのでね。われわれ一家の伝統です」
そう言って彼は、ぼくを流し眼に見やった。そのときぼくは、ジョーダン・ベイカーが、彼は嘘をついているのだと信じたわけがわかったような気がした。彼は「教育はオックスフォードで受けた」という文句を、早口に言ってしまうのである。あるいは呑みこんでしまうというか、言いよどむというか、何かしら言いたくないことを言うような言い方をするのだ。そして、こうした疑念を抱けば、彼の言うことがぴんからきりまで信じられなくなってしまう。やっぱり、彼の身には何か多少うしろ暗いところがあるのじゃないか、ぼくはそう思った。
「中西部はどちらです?」さりげなくぼくはたずねた。
「サンフランシスコです」
「なるほど」
「家族がみんな死んでしまいましたのでね、相当の大金がそっくりぼくのものになったのです」
一家眷族がぷつりと絶えたその絶滅の記憶がいまだに彼につきまとって離れぬというように、彼の口調はあくまで厳粛であった。ぼくはからかわれているのではないかと思ったが、彼の顔を見ると、そうではないことがよくわかった。
「それからのわたしは、ヨーロッパのあらゆる大都会で、インドの若い王様のような生活を送ったのです――パリ、ヴェニス、ローマ――宝石を集める、おもにルビーでしたね。それから猛獣狩りをやる。すこしは絵筆も握ってみる。何をするにも自分のことしか考えず、遠い昔に自分を見舞ったとても悲しいできごとを、つとめて忘れようとしていたのです」
ぼくは不信の笑いをこらえるのに苦労した。彼の言葉そのものが、糸目もあらわにすり切れていて、そこからなんの映像も浮び出てきはしないのだ。せいぜい、ターバンをまいた「王様」が、ブーローニュの森で虎を追いかけながら、ぼろぼろ、ぼろを出すぐらいが関の山だ。
「そこへ戦争が起ったのですよ、親友。戦争は大きな救いでした。わたしはなんとかして死んでやろうとしたのですが、わたしの命は魔力を持っているらしいですよ。戦争がはじまったとき、わたしは中尉の辞令を受けました。アルゴンヌの森の戦闘で、わたしは、二つの機関銃部隊をあまり前方に進めすぎて、両翼に半マイルほどのギャップができてしまったが、歩兵部隊もそこまでは前進できないんですね。わたしたちはそこで二日二晩がんばりましたな。百三十人の兵隊と十六梃のルイス軽機ですよ。そしてついに歩兵部隊が到着したときには、死屍累々たる中に、ドイツ軍の三つの師団の記章が見つかった。わたしは少佐に昇進し、連合国ではどこでもわたしに勲章をくれました――モンテネグロまで、あのアドリア海沿岸のちっぽけなモンテネグロまでです!」
ちっぽけなモンテネグロ! 彼はこの言葉を言い放つと、それにむかって軽くうなずいた――例の微笑を浮べながら。その微笑は、苦難にみちたモンテネグロの歴史を理解し、モンテネグロ国民の果敢な闘争に寄せる同情を示していた。それは、小さなモンテネグロをして、温かい心からその贈物を捧げしめた一連の国内事情を、十分に汲み取った微笑だった。いまやぼくの不信は、彼にひかれる強い興味の中に埋没してしまった。何か、いくつもの雑誌をいそいで読みあさっているような感じだった。
彼はポケットに手を入れたと思うと、リボンに吊された一片の金属をぼくの掌の上にのせた。
「それがモンテネグロのです」
驚いたことに、それはいかにも本物らしかった。
〈Orderi di Danilo〉と円く銘が刻んである〈Montenegro, Nicolas Rex.〉
「裏をごらんなさい」
〈ジェイ・ギャツビー少佐に。抜群の勇気を賞でて〉と、そこには記されてあった。
「これはもう一つ、ぼくが肌身離さず持っているものですが。オックスフォード時代の思い出です。トリニティ・カレジの中庭で撮ったんです――ぼくの左側の男は、いまのドンカスタ伯ですよ」
それは、アーケードの所でブレーザー・コートにくつろいだ六人の青年の写真で、アーケードをとおして多くの尖塔が見える。いまと比べてさほど若くはないが、しかし心持ち若いギャツビーが写っていた――手にはクリケットのバットを持っている。
では何もかもほんとうだったのか。グランド・カナルに臨む彼の大邸宅に敷かれた、燃え立つような虎の皮が眼に浮ぶ。ルビーの箱を開いて、その深い深紅色の輝きに、失意の胸の痛みをやわらげようとしているギャツビーの姿が髣髴とする。
彼は満足げに思い出草をポケットにしまいこみながら「今日はわたし、あなたにたいへんなお願いをするつもりなんですよ。ですから、わたしのことをすこし知っておいていただかなくては、と思ったのです。どこかの名もない男だろうなんて、あなたに思われたくないのですよ。ご承知のとおりわたしは、自分の身にふりかかった悲しいできごとを忘れようとあちこちさまよい歩いているものですから、いつもまわりは他人ばかりということになりましてね」そう言って彼は、ちょっとためらっていたが「その話は今日の午後にお耳にいれるつもりです」
「昼食のとき?」
「いや、午後にです。あなたがお茶にミス・ベイカーを招いておられることを偶然知りましてね」
「というのは、あなたがミス・ベイカーの恋人だという意味ですか?」
「いいえ、親友、ちがいます。ただ、ミス・ベイカーがご親切にも、そのことをあなたにお話ししてくださるのを承諾してくださったものだから」
「そのこと」とは何か、ぼくにはまるでわからなかったが、ぼくとしては興味をそそられるよりもむしろ癪にさわった。ジョーダンをお茶に呼んだのは何もジェイ・ギャツビー氏の話をするためではない。「お願い」というのは、きっと、何かとてつもないことだろうと思って、ぼくは、彼の人口過剰の芝生に足を踏み入れたことを一瞬後悔した。
その後彼は、ひとこともしゃべろうとしない。ニューヨークに近づくにつれて、その態度はいやがうえにも厳正になっていった。ポート・ローズヴェルトを過ぎる。赤い筋を一本横に引いた外洋航行船の姿がちらりと見えた。それからめっきもはげた一九〇〇年代の酒場がそれでも見捨てられずに陰鬱な姿をならべているスラムの玉石道をつっ走る。やがて両側に、茫漠たる灰の谷がひらけてきた。ミセス・ウィルスンが、息をはずませながら元気いっぱい給油ポンプを動かしているのが、通りすがりにちらりと見えた。
フェンダーを翼のようにひろげ、光をまき散らしながら、ぼくたちの車はアストリアを途中まで走り抜けた――途中までである。というのは、ぼくたちが高架線の支柱のあいだを縫うように走って行くと、あの耳なれた「ド、ド、ド、ドッ」というオートバイの音が聞えて、いきり立った警官の姿が横に現われたのだ。
「大丈夫ですよ、親友」と、ギャツビーは言って、スピードを落した。そして、紙入れから一枚の白いカードをとりだすと、警官の鼻先でひらひら振ってみせた。
「結構です」警官は軽く敬礼して言った「今度からお見それいたしません、ミスタ・ギャツビー。失礼しました」
「いまのはなんです? オックスフォードの写真ですか?」ぼくはたずねた。
「以前、長官の便宜をはかってさしあげる機会がありましてね。それ以来、毎年クリスマス・カードをいただくんですよ」
大鉄橋を渡る。大梁をもれる陽の光が、行き交う車をきらきらと絶えずきらめかし、河むこうには、街の建物が、汚れに染まぬ金の願いを託して建てられたもののごとく、真っ白い角砂糖をうず高く積み重ねたようにそそり立っていた。クイーンズボロ橋から眺めたニューヨークは、何度見ても、はじめて見る街という印象を与える。世界中のあらゆる神秘、あらゆる美がこの中にあるという幻想を、いつも新しく見る者の胸に湧き起すのだ。
ぼくたちの車のそばを、花を山と飾った霊柩車に乗ってだれかの遺骸が通った。あとに続く二台の馬車は窓おおいをおろしている。そのあとからは、友人たちを乗せたもっと陽気な馬車が続いた。ぼくたちを見やった友人たちの顔は、東南ヨーロッパ人らしく、眼には愁いを含み、上唇が短かった。ぼくは彼らの暗い休日の中に、ギャツビーのすばらしい車の一瞥も組みこまれることをうれしく思った。ブラックウェルズ島を横切る途中で、一台のリムジーンがそばを通り過ぎた。運転手は白人だが、車の中には、しゃれた衣裳の黒人が三人――男が二人女が一人――坐っていた。彼らが尊大な対抗意識を見せて、その黒眼をぎろりとぼくたちのほうへむけたとき、ぼくは声をだして笑ってしまった。
「この橋を越えたからには、どんなことだって起りうるのだ」そう、ぼくは思った「およそどんなことだって……」と。
ギャツビーのようなことが起ったとて、べつに不思議はないわけである。
騒音渦巻く真昼どき。扇風機のまわる四十二丁目のある地階のレストランで、ぼくは昼食をともにするためギャツビーに会った。まばたきして表の通りの明るさを払いのけると、ぼくの眼に、控え室でだれかと話をしている彼の姿がおぼろげにわかった。
「キャラウェイさん。こちら、友だちのウルフシェイム氏です」
獅子鼻の小柄なユダヤ人が、大きな顔をあげて、両方の鼻孔に繁茂したみごとな鼻毛の束をぼくにむけた。ぼくが薄暗がりの中に、小さな彼の眼を見つけたのは、そのあとだった。
「――そこであっしは、やつを一目見てみたのよ」熱をこめてぼくの手を握りながら、ミスタ・ウルフシェイムが言った「そしてあっしがどうしたと思う?」
「はあ?」ぼくは礼を失せぬようにたずねた。
しかし、話の相手はぼくではなかったのだ。彼はぼくの手を離すと、表情豊かなその鼻をギャツビーにむけたのだから。
「あっしはキャツポウにその金を手渡して言ってやったんだ『かまわんからな、キャツポウ、やつが口をつぐむまでは一ペニイも払うな』ってね。そしたらやっこさん、即刻その場で口をつぐんだね」
ギャツビーはぼくたち双方の腕をとり、食堂のほうへ歩きだした。それでミスタ・ウルフシェイムは、言いかけた言葉を呑みこむと、夢遊病者のように放心して引かれて行った。
「ハイボール?」ヘッド・ウェイターがたずねた。
「なかなかいいレストランだな」天井に描かれた冷たくとりすましたニンフの像を眺めやりながら、ミスタ・ウルフシェイムが言った「しかし、あっしはこのむこう側のほうがもっと好きだ!」
「うん、ハイボール」ギャツビーはそう言ってから、ミスタ・ウルフシェイムにむかい「むこう側は暑すぎるんです」
「暑いし小さい――それはそうだが、しかし、思い出がいっぱいある」
「どこですそれは?」と、ぼくは言った。
「オールド・メトロポールですよ」
「オールド・メトロポール」ミスタ・ウルフシェイムが、感慨深げに沈んだ声で言った「死んじまった連中の顔でいっぱいだ。もう永久にいなくなっちまった友だちの顔でいっぱいだよ。あそこでロウズィ・ローゼンタールが射たれた夜のことは、生きてるかぎり忘れられんな。テーブルについてたのは、あっしたち六人だった。ロウズィはあの晩、よく食いよく飲んでたがね。やがてもう朝だというころになって、ボーイが妙な顔してやつのとこへやってきて、用事の者が表で待ってると言うんだ。『よしきた』そう言ってロウズィは立ちあがろうとした。あっしがそれを椅子に引きずりおろして『ロウズィ、おまえに用があるというんなら、そいつらをここへこさせたらいい。だけど、おまえは、絶対にこの部屋から出るな』それが朝の四時ごろさ。ブラインドをあげたら、明るくなってたんじゃないかな」
「その人は出て行ったんですか?」ぼくは無邪気にもそんなことをきいた。
「そうだとも」ミスタ・ウルフシェイムの鼻が、憤然とぼくのほうをむいた「やっこさん、戸口のとこで振りかえって言うんだよ『あのボーイにおれのコーヒーを片づけさせるなよッ!』ってさ。それからやつは歩道に出て行った。そしたらやつらは、あいつのふくれた腹に三発ぶちこみやがってさっと車で逃げやがったのさ」
「四人とも電気椅子でやられましたね」思いだしてぼくは言った。
「五人だ、ベッカーを入れて」彼はそう言うと、興味を覚えたのか、ぼくのほうに鼻孔をむけて「あんたは仕事のつてを探していなさるんだったな」
それはまさに急転直下の転換であった。ギャツビーがぼくにかわって、
「ちがう、ちがう、これはあの人じゃない」
「ちがう?」ミスタ・ウルフシェイムは、がっかりしたらしかった。
「この人はただの友だちですよ。あのことはまたいつか話し合うと、そうあなたに言ったでしょう」
「これは失礼」ミスタ・ウルフシェイムが言った「人ちがいをしてしまった」
こってりしたひき肉の料理がくると、ミスタ・ウルフシェイムは、オールド・メトロポールの感傷を誘う空気は忘れ、すさまじいマナーを示しながら食いはじめた。食いながら、彼の眼は、部屋の中をゆっくりと一巡する。そして首をまわしてまうしろの人間を見やったところで、その点検は終りをつげた。もしその場にぼくがいあわせなかったら、テーブルの下までもちらりとのぞいたのではなかろうか。
「あのね、親友」ギャツビーがぼくのほうへ身をのりだして「今朝わたしは、車の中で、あなたをすこし怒らせたんじゃないでしょうか」
そう言う彼の顔には、またあの微笑が浮んでいた。しかし、このときのぼくはその魅力にひきこまれなかった。
「ぼくは神秘主義は嫌いでしてね」そうぼくは答えた「どうして率直に用件を直接ぼくに打ち明けないんです? なぜミス・ベイカーを中に立てなければいけないんですか?」
「ああ、それはなにも底意があってのことではありません」ぼくの疑念をはらそうとして彼は言った「ミス・ベイカーは、ご承知のとおり、立派な女流選手ですからね、不都合なことならやりませんよ」
突然彼は時計を見ると、あわてて座を立ち、ぼくをミスタ・ウルフシェイムとともにテーブルに残したまま、急いで部屋を出て行った。
「電話をかけなくちゃならんのです」ミスタ・ウルフシェイムが、ギャツビーの姿を眼で追いながら言った「立派な男ですよ。顔もきれいなら態度も申しぶんのない紳士だ」
「ええ」
「あの人はオッグスフォードの出ですわ」
「ほう!」
「英国のオッグスフォード大学校へ行ったんです。知ってるでしょう、オッグスフォード大学校?」
「話には聞いています」
「世界中でもっとも有名な大学校の一つですわ」
「あなた、ギャツビー氏とは、長いお知り合いですか?」と、ぼくはたずねた。
「三、四年になりますな」満足げに彼は答えた「はじめて近づきになったのは、戦争直後ですわ。しかし、一時間も話したら、これは育ちのいい人を見つけたものだとすぐわかりましたな。『これこそ、家へ連れてっておふくろや妹たちに紹介したいような人物だ』と、腹の中で思ったもんです」そう言って彼は、ふと言葉を切ったが「あんた、あっしのカフス・ボタンを見てらっしゃるな?」
ぼくはべつに見ていたわけではなかった。が、そう言われて、あらためて見てみると、それはなんとなく見なれたような感じがする象牙細工のボタンだった。
「人間の臼歯そっくりにうまく真似してこさえたもんです」そう彼は教えてくれた。
「なるほどねえ!」ぼくは仔細に眺めながら「実におもしろいアイディアですね」
「そう」彼はひょいと袖を上衣の下に引っこめて「そう。ギャツビーは女にかけては実に気をつける男でね。友だちの細君には眼をむけることもしませんな」
そこへこの本能的信頼を寄せられた当のご本人がもどってきて、テーブルに腰をおろすと、ミスタ・ウルフシェイムは、自分のコーヒーをごくりと飲みほして立ちあがった。
「結構な食事だった」と、彼は言った「長居をして嫌われぬうちに、お二人、お若い方は残して、あっしは退散しますわ」
「まあ、いいじゃないですか、マイヤーさん」ギャツビーはそう言ったが、たって押しとめようというほどの語気でもない。ミスタ・ウルフシェイムは、祝祷でも捧げるように片手をあげた。
「ご親切はありがたいが、あっしは世代がちがうんでな」彼はにこりともせずにそう言った「あんたらはここに坐って、いろんな話をするがいい。スポーツの話、女の子の話、それから――」と、あとは口で言う代りにまた手を一振り振って「あっしのほうはもう五十だ。これ以上あんたらの邪魔はしませんわ」
彼が握手をかわしてくびすを返したとき、その痛ましい鼻が小刻みにふるえていた。ぼくは自分が何か気を悪くするようなことを言ったのではないかと思った。
「いや、彼はときどき、ひじょうに感傷的になるのです」と、ギャツビーがわけを話してくれた「今日もそれですよ。ニューヨーク界隈の変り者でしてね――ブロードウェイの住人です」
「いったい、何者です? 俳優ですか?」
「いいえ」
「歯医者ですか?」
「マイヤー・ウルフシェイムが? とんでもない、相場師ですよ」ギャツビーはちょっと口ごもっていたが、すぐこともなげにつけ加えた「一九一九年にワールド・シリーズの勝負を買収したのはあの男です」
「ワールド・シリーズの勝負を買収?」ぼくはおうむ返しに言った。
ぼくは唖然とした。一九一九年、ワールド・シリーズの勝敗が八百長だったことは、ぼくとてむろん覚えている。しかし、そのいきさつなど考えたこともないが、かりに考えたとしても、何か避けがたい因果の結果として、ただそうなったとしか考えられなかったろう。一人の人間が五千万人の信頼をむこうにまわして賭をやる――金庫破りを敢行する銀行強盗のように、のるかそるか、一発勝負の賭をやる――そんなことなどとてもぼくには思いも及ばなかった。
「そんなことがどうしてやれたんです?」しばらくしてぼくはたずねた。
「なに、その機会があったからやっただけのことですよ」
「どうして牢屋にはいらんのです?」
「逮捕できないんですよ、親友。彼は抜け目のない男です」
勘定はぼくが無理に払った。ウェイターが釣銭を持ってきたときぼくは、混雑した部屋のむこうにトム・ビュキャナンの姿を見かけた。
「ちょっといっしょにいらしてください」と、ぼくは言った「声をかけて行かなけりゃならん男がいるんです」
トムはぼくたちを見ると、急いで席を立って、ぼくたちのほうへ五、六歩あゆみ寄った。
「どこへ行ってたんだ、きみは?」彼はせきこんでたずねた「きみが電話をよこさんといって、デイズィのやつ、カンカンになってたぜ」
「こちら、ミスタ・ギャツビー。ミスタ・ビュキャナン」
二人は簡単な握手をかわした。そのときぼくは、見なれぬ当惑げな緊張の色がギャツビーの面上に浮ぶのを見た。
「とにかく、どうしてたんだ?」トムがぼくにたずねた「なんだってまた、こんな遠くにまで食事にきたりしたんだ?」
「ギャツビー氏に昼食をつき合ったんだよ」そう言ってぼくは、ギャツビーのほうを振りかえった。しかし、そこにはもう、彼の姿はなかった。
一九一七年の十月のある日――
(と、ジョーダン・ベイカーは、その日の午後、プラザ・ホテルの「庭の食堂」の椅子に、いやにまっすぐに身を起して腰かけながら、ぼくにむかって語りだした)
――あたしは、歩道の上を歩いたり、芝生の上を歩いたりしながら、大きな家の立ちならんだ通りを歩いていた。そのときあたしは、イギリスからきた靴をはいてたんだけど、靴底についたゴムのいぼが軟らかい土に食いこむもんだから、芝生の上を歩くほうがいい気持だった。それに新しい格子縞のスカートをはいてたのが、風をうけるとちょっと舞いあがってさ、そのたんびに、家という家の正面にかかげた赤・白・青の星条旗がさっとなびいて、パタ、パタ、パタと、たしなめるように音をたてたっけ。
一番大きな旗と一番広い芝生は、デイズィ・フェイの家でね、あの人はちょうど十八歳、あたしよりも二歳年上で、ルイヴィルの若い娘たちの中でも、断然群を抜いた人気者だった。白い洋服を着て、真っ白な小型のロードスターを持ってたけど、あの人の家の電話は一日中鳴りづめで、興奮したテイラー駐屯地の若い士官たちが、「とにかく、一時間でも!」って、その夜のあの人を独占する特権を要求したもんよ。
あの日の朝、あたしがあの人の家の前にさしかかると、例の真っ白いロードスターが、縁石に寄せて停っていて、あの人は車の中に、あたしがそれまで見たことのない中尉さんといっしょに坐ってた。どちらも相手のことでいっぱいで、あたしが五フィート前へ行くまで、あの人はあたしの姿も眼にはいらなかったくらい。
「こんちは、ジョーダン」思いがけなくあの人のほうから声をかけてきて「ここへいらっしゃいよ」と、そう言うの。
あの人があたしに話をしたがってると思うと、あたしは得意だった。年上の娘たちの中でもあたしは、あの人を一番すてきだと思ってたんだもの。あの人、繃帯づくりをやりに赤十字へ行くかって、そうきいた。あたしは行くつもりだった。それじゃ、今日は行けないからと、そう伝えてくれないかって、あの人は言うのよ。デイズィが話してるあいだじゅう、その士官さんは、あの人を見つめてた。若い娘ならだれしも、いつかはあんな眼で見つめてもらいたいと思うんじゃないかな。あたしには、とてもロマンチックに見えたんで、このことがいつまでも忘れられないってわけ。その士官の名前はジェイ・ギャツビーっていったけど、それから四年以上もあたしはその人を二度と見かけなかった――ロング・アイランドで、あの人に会ったあとでさえ、あたしは、それが同一人だとはわからなかった。
これが一九一七年。翌年までには、あたしにも幾人かボーイフレンドができたし、試合に出るようにもなったんで、デイズィに会う機会はわりにすくなくなった。あの人はすこし年上の人たちといっしょだった、だれかといっしょの場合には。あの人のことでは、ひどい噂がひろまった――ある冬の夜、これから外地へ行くある兵隊さんに別れを告げにニューヨークへ行こうとして、荷物を詰めてるとこをおふくろさんに見つかったとか。結局は引きとめられたけど、それから何週間も、うちの人とは口もきかなかった。このことがあってから、あの人は、もう、軍人たちと遊びまわることはやめて、とても軍隊にははいれない、扁平足に近眼といった二、三の町の青年を相手にするだけになった。
次の夏までには、あの人もまた派手に遊びまわるようになった、前とそっくりに。休戦記念日の後、社交界にデビューして、二月にはニューオーリンズからきた人とたぶん婚約したはずだと思うけど、六月には、シカゴのトム・ビュキャナンと結婚して、それはもうルイヴィルはじまって以来の盛儀盛宴というありさま。トムは客車四台を借り切って百人もの人を乗せてやってきて、ミュールバッハ・ホテルの一つの階を全部買い切り、式の前日には、三十五万ドルといわれる真珠の首飾りを花嫁に贈ったの。
あたしは花嫁のつき添い役になった。婚礼の祝宴がはじまる半時間前に、デイズィの部屋へ行ってみると、あの人は、自分のベッドの上に、花模様のドレスを着て、まるで六月の夜みたいに可憐な姿で横になってた――猿のように酔っ払ってさ。片手にソーテルヌの白ぶどう酒の瓶を持ち、片手には一通の手紙を持って。
「お祝いしてよ」つぶやくようにあの人は言った「いままでお酒なんか飲んだことなかったけど、ああ、なんておいしいんだろ」
「どうしたの、デイズィ?」
あたしはぞっとした。そんなになった女をそれまで見たことがなかったんだもの。
「あのねえ、あんた」あの人はベッドの上まで持ってきていた紙屑籠の中をかきまわすと、例の真珠の首飾りを引きずりだした「これを下へ持ってってね、だれでもいいからこれのおさまるべき人んとこへ返してきて。みんなにね、デイズィは気が変りましたって、そう言ってちょうだい。いいこと、デイズィはね、気が変りましたって!」
あの人は泣きだした――泣いて泣いて泣きやまない。あたしは駆けだして行って、あの人のおふくろさんの小間使を見つけるとドアに鍵をかけて、あの人に水浴をさせた。あの人は手紙を放そうとしない。浴槽の中まで持ちこんで、くしゃくしゃに握って丸い玉にしてしまった。それが雪のようにきれぎれになるのを見て、ようやく放したから、あたしはそれを石鹸受けの中に入れたってわけ。
しかし、それからはあの人は、ひとことも口をきかなかった。あたしたちはアンモニア水を嗅がせ、額に氷をあて、もう一度あの人をドレスの中につっこんでホックをかけた。そして、半時間の後に部屋を出たときには、首飾りはあの人の首にかかって、一件落着。翌日五時に、あの人は、身ぶるい一つ見せないでトム・ビュキャナンと結婚し、そうして、南洋方面へ三カ月の新婚旅行に出発した。
あの人たちが帰ってきたとき、あたしは、サンタ・バーバラで会ったけど、こんなに夫に夢中な女は見たことがないと、そう思った。ご亭主がちょっとでも部屋を出ようものならあの人は、おちつかなげにあちこち見まわして「トムはどこへ行ったの?」って言うんだもの。そうして、ご亭主が戸口に姿を見せるまでは、まるで心ここにあらずといった顔つきをするんだもの。ご亭主の頭を膝にのせると、その眼を指で軽くさすり、無限の歓喜をこめてその顔に見入りながら、砂浜の上によく何時間も坐ってたっけ。そうした二人のようすはなかなか感動的な光景で、うっとりと見とれながら、声をのんで笑いたくなった。これが八月のこと。あたしがサンタ・バーバラを発って一週間の後、トムはある夜、ヴェントゥラ街道で大型荷馬車に車をぶつけて、自分の車の前車輪を一つもぎとっちまった。そうして、そのときトムといっしょにいた女のことまで新聞に出ちまった。というのは、その女が腕を折ったから――サンタ・バーバラ・ホテルのルームメードだった。
翌年の春、デイズィは女の児を産み、二人は一年間フランスへ行った。ある年の春、あたしは二人にカンヌで会ったし、あとにはドーヴィルで会ったこともあるけど、それから二人はシカゴに帰ってきて定住したというわけ。デイズィは、シカゴで、あのとおりのたいへんな人気者だった。二人は放埒な連中といっしょに動きまわってたけど、みんな若くて金持な放蕩児ぞろいなのに、あの人には妙な噂一つたたなかった。おそらくあの人がお酒を飲まないからじゃないかな。酒飲み連中の中にまじって、お酒を飲まないというのは、たいへん得なことで、口がつつしめるばかりか、破目をはずすにしても、他のだれにも見られず気にもかけられないような潮時をうかがってやることができる。おそらくデイズィは、浮気したことなんか一度もないと思うけど――でも、あの人のあの声には何かがある……
そしておよそ六週間ばかり前、あの人は、何年ぶりかでギャツビーの名を耳にしたってわけ。それは――覚えてるでしょ?――あたしが、ウェスト・エッグのギャツビー氏を知ってるかって、あんたにきいた、あのときよ。あんたが帰ったあとで、あの人はあたしの部屋にはいってきてあたしを起すと「何ギャツビーっていうの?」って、そうきいた。あたしが――半分眠ってたけど――その人の顔形を言って聞かせるとデイズィは、とても奇妙な声で、それじゃ昔よくつき合ってた人にちがいないって言うの。そのときになってやっとあたしは、そのギャツビー氏といつかあの人の白い車に乗ってたあの将校さんとが同じ人だと気がついたってわけ。
ジョーダン・ベイカーがこの話をすっかり語りおわったときには、ぼくたちは、半時間も前にプラザ・ホテルを出て、セントラル・パークの中を、ヴィクトリアに乗って走っていた。太陽は、西五十何丁目あたりにそそり立つ映画スターの住む高層アパートの背後に没し、草原にすだくこおろぎのように、もう集まっている子供たちの澄んだ歌声が、熱気を含んだ黄昏の空に響きわたっていた。
「おれはアラビアの色男
おまえの女もおれのものよ
おまえの寝入る真夜中に
おまえのテントに忍びこみ――」
「不思議なめぐり逢いですね」と、ぼくは言った。
「ところが、めぐり逢いなんてもんじゃないんだな」
「どうして?」
「ギャツビーがあの家を買ったのは、デイズィのいるとこが入江のすぐむこう側になるからなんだもの」
では、あの六月の夜、彼が熱い思いをはせたのは、星空に対してだけではなかったのか。ギャツビーという人間が、その無意味な栄華の雲につつまれた神秘から急に抜けだして、一個の生きた人間としてぼくの眼に映ってきた。
ジョーダンは、さらに言葉を続け「あの人は、あんたがいつか午後にでもデイズィをお宅に招いておいて、そこへあの人が出かけて行ってはいけないかって、そう言うのよ」
あまりにもつつましやかな要求に、ぼくはある感動を覚えた。五年間待ったあげくに大邸宅を購入し、そこへ舞いこむ蛾のむれに、星の光をわかち与えてやった――というのもつまりはこれ、いつの日か午後にでも、見知らぬ他人の庭に「出かけて行く」のが目的だったというのか。
「いまのような話を全部聞かせたうえでなければ、そんな些細なことが頼めないのかな?」
「あの人、こわいのよ。長いこと待ってたもんだから。あんたが気を悪くするんじゃないかと思ったりね。あれでとっても堅いんだから」
何かぼくには釈然としないものがあった。
「どうして、あなたに頼まなかったのかな、会う機会をつくってくれって?」
「それは、あの人が自分の家をデイズィに見せたいからよ」と、彼女は言った「あんたの家ならすぐ隣じゃない」
「そうか!」
「あの人は、デイズィが自分とこのパーティにいつかふらっとやってくるのを半分期待してたんじゃないかな」ジョーダンは言葉を続けた「でも、とうとうこなかった。そこであの人は、いろんな人にさりげなく、デイズィを知らないかってききだしたんだな。そしてまっさきに見つかったのがこのあたしってわけよ。それが、あのダンスのときにあたしを呼びに使いをよこした、あの晩というわけ。そこまでもってったあの人の入念なやり口、これは聞かせてあげたかったな。もちろん、あたし、ニューヨークで簡単にお昼でもいっしょに食べたらって、即座にそう言ったわよ――あの人ったら、あたし、気がどうかなるんじゃないかと思った。『変な真似はしたくない、変な真似はしたくない』そう言い続けなの『ぼくは隣の家からあの人の姿をかいま見たいんだ』って。あんたがトムとはじっこんの間柄だって言ったらね、あの人は一切を断念しはじめた。トムのことはあまり知らないんだな。この何年間か、デイズィの名前を見たいばっかりに、シカゴの新聞をずっと読んでたって言うんだけど」
もう暗くなっていた。馬車がつと小さな陸橋の下にはいったとき、ぼくは、ジョーダンの黄金の肩に腕をまわして引きよせ、夕食にさそった。急に、デイズィのこともギャツビーのこともぼくの頭の中からは消え失せて、何ごとにも懐疑的な態度を見せるこの清潔な、蕾のような女、ぼくの腕の中で昂然と身をそらせているこの女性だけがぼくの頭の中を領していた。「追われる者と追う者、多忙な者と退屈な者、それしかありはしないのだ」そんな言葉が耳の奥で鳴りはじめて、われを忘れた興奮にぼくを駆り立てていった。
「デイズィだって一生のうちに何かがあってしかるべきじゃない?」ジョーダンはささやくようにそう言った。
「彼女はギャツビーに会いたがってるの?」
「あの人には何も知らせないことになってる。ギャツビーが知らせたがらないのよ。あんたが彼女をお茶に招待する、ただそれだけ」
障壁のように黒々とそそり立つ木立ちを抜けると、五十九丁目通りの正面が、ほの明るい光の塊をなして、にこやかに公園を見下ろしていた。ギャツビーやトム・ビュキャナンとちがって、映画館の入口の上の暗い壁面に眩い電飾に彩られて胴体と切り離された顔だけが浮んでいるような女たちとは縁のないぼくは、両腕に力を入れて、身近の女を引きよせた。軽蔑の色をたたえた彼女のあわい唇は微笑を浮べている。そこでぼくは、いっそう身近に彼女を引きよせた、今度はぼくの顔のほうに。
第五章
その夜、ウェスト・エッグに帰ってきたときぼくは、一瞬、うちが燃えているのではないかと思った。二時だというのに、半島のその一角全体があかあかと輝いているのだ。光を受けて灌木の茂みが異様に明るく浮びあがり、路傍の電線が細く長く光っている。角を曲ったとたん、それは、塔から地下室までこうこうとあかりをつけたギャツビーの邸のせいだと知った。
はじめぼくは、またパーティかと思った。乱痴気騒ぎがくずれて「かくれんぼう」や「おしくらまんじゅう」になり、邸全体が遊戯に解放されているのではないか。しかし、物音一つ聞えず、梢を風がわたるばかり。風は電線をゆすり、そのため、家全体が闇にまたたいているようにあかりが明滅した。ぼくを降ろしたタクシーがエンジンの音を響かせて走り去ると、ギャツビーが芝生を越えてぼくのほうへ歩いてくるのが見えた。
「お宅はまるで『万国博覧会』ですね」と、ぼくは言った。
「そうですか?」と、ぼんやりそちらへ眼をむけながら彼は、「あちこち部屋をのぞいてたもんですからね。どうです、コウニイ・アイランドへ行きませんか、親友。わたしの車で」
「もうおそいですよ」
「じゃあ、プールで一泳ぎしませんか? わたしはこの夏、まだ一度もあれを使ってないんですよ」
「でも、もう寝なけりゃならないんで」
「そうですか」
彼はしかし、そのまま帰らず、はやり立つ心を抑えながらぼくを見つめていた。
「ミス・ベイカーと話をしましたよ」しばらくしてぼくはそう言った「明日デイズィに電話をかけて、そのうちお茶にこないかってさそってみるつもりです」
「ああ、それは、かまわんのです」無造作に彼は言った「あなたにご迷惑はおかけしたくありませんから」
「あなた、都合はいつがよろしいですか」
「あなたのご都合こそいつがよろしいのです?」いそいで彼はぼくの言葉を言いなおした「あなたにご迷惑をおかけしたくないんですよ」
「明後日はどうです?」
彼は、ちょっと考えていたが、やがて言いにくそうに、
「芝生を刈らせたいんですがね」と、言った。
ぼくたちはそろって芝生に視線を落した――伸びほうけたうちの芝生と、その先にひときわ暗くひろがっている、手入れの行きとどいたギャツビーの芝生とのあいだには、はっきり一線が画されて見える。ぼくは、彼がぼくのうちの芝生のことを言ったのではないか、と、思った。
「それにほかにもちょっと」と、ためらいがちに言ったまま、彼は先を言いしぶった。
「数日先まで延ばしたほうがいいですか?」ぼくはたずねた。
「いやそうじゃないのです。すくなくとも――」と、言いかけて彼は、切りだす文句をいくつかまさぐるように「いや、わたしはただ――いや、あのですね、親友、あなたのお仕事はあまりお金にならないのではありませんか?」
「たいしてなりませんね」
この返事が彼を勇気づけたとみえて彼は、今度はさほどおそれる気色もなく言葉を続けた。
「わたしがそう思ったのは、失礼ですがこの――つまり、わたしは、副業に――副業みたいなものに、ですね、ちょっとした仕事をやってるんですよ。で、考えたんです。もしあなたのお仕事がたいしてお金にならないならですね――あなた、債券を売っておられるのでしょう、親友?」
「売ろうとしてるんです」
「ええ、で、これにはあなたも興味がおありだと思うのですが。たいして時間は奪われないでしょうし、相当お金になると思うのですよ。いささか内密を要する仕事ですが」
いまにして思えば、このときの会話は、もし事情がちがっていたら、ぼくの人生の一つの危機になったと思う。しかし、そのときは、芸もなくあからさまに援助の申し入れを受けたわけだから、ぼくは、そこまで聞いただけで、彼の話をさえぎるのになんの迷いもなかった。
「ぼくはいま、手いっぱいでしてね。たいへんありがたいけど、これ以上の仕事はとても引きうけられません」
「ウルフシェイムとは、全然接触をする必要がないはずですが」ギャツビーはそう言ったが、そういう彼は、ぼくが、昼食の席上で話にでた「仕事のつて」に尻ごみしていると推察したにちがいない。しかしぼくはそうではないと、はっきり言明した。彼は、ぼくがまた話を切りださぬかと、なおもちょっと待ちうけていたが、ぼくは自分のことでいっぱいで、彼のその気持に応じてやる余裕はなかった。で、彼は心ならずもうちへ帰って行った。
夕方の経験でぼくは幸福で無我夢中だったのだ。玄関の戸口をはいるぼくは、深い眠りに落ちてゆくようなものだったと思う。だから、ギャツビーが、コウニイ・アイランドへ行ったかどうか、あるいは何時間くらい彼が、邸をこうこうと輝かしながら「部屋をのぞいて」いたか、ぼくにはわからない。翌朝、ぼくは、会社からデイズィに電話をかけて、彼女をお茶に招いた。
「トムを引っ張ってきちゃだめだよ」ぼくはそう釘をさした。
「なんですって?」
「トムを引っ張ってきてはだめ」
「トムってだあれ?」彼女は、あどけなく、そう言った。
約束した日は、篠つくような雨だった。十一時に、レインコートを着た男が一人、芝刈り機を引いてやってきて、玄関のドアをたたき、ギャツビー氏にお宅の芝を刈るように言われてきた、と言った。それでぼくは、朝の仕事を終って帰るうちの家政婦に、あとでもう一度来てくれと頼むのを忘れたことを思いだし、ウェスト・エッグ村に車を走らせて、水漆喰を塗った家のならぶびしょ濡れの裏町に彼女を探し、茶碗とレモンと花を買った。
花は、しかし、要らなかった。二時に、ギャツビーのところから温室そのものが動いてきたかと思われるほどの花々が、それをいれる無数の容器とともに届いたのだ。それから一時間の後、玄関のドアがおずおずと開いて、銀色のシャツに金色のネクタイを締め、白のフランネルの服を着こんだギャツビーが、急ぎ足にはいってきた。顔色は蒼く、眼の下には、不眠を語る黒い翳がにじんでいる。
「万事整いましたか」はいってくるなり彼はたずねた。
「芝生はきれいになったけど、そのことかしら」
「芝生というと?」うわの空で彼はそう言ったが「ああ、お庭の芝生ですね」と、窓ごしに庭を眺めたけれど、その表情から判断して、彼の眼には何も映っていなかったにちがいない。
「とても結構です」彼はそんな曖昧なことを言ったが「ある新聞にはね、雨は四時ごろやむだろうと書いてありました。『ジャーナル』だったな。あなた、必要なものは全部おそろいですか、この――お茶の会の、ですね」
ぼくは彼を食器室に連れて行った。彼はそこにいたフィンランド人の家政婦を見て、これはすこし困ると言いたげだった。ぼくたちはいっしょに、デリカテッセンから買った十二個のレモン・ケーキを検査した。
「これでいいですか?」ぼくがたずねた。
「もちろん、もちろん結構です! 立派なものです!」と言ってから、とってつけたみたいに「……親友」と、彼はつけ加えた。
三時半ごろには雨も衰えて霧雨となり、その中をときおり、露のような雨滴が細く流れた。ギャツビーは、うつろな眼で、クレイの『経済学』をあちこち開いていたが、台所の床をゆするフィンランド女の足音にびくりとしたかと思うと、何か眼には見えぬながら驚くべき事件が続けざまに外で起ってでもいるかのごとく、雨に曇ったガラス窓のほうをときどき窺うように見やったりした。そのうちとうとう彼は立ちあがった。そして、心もとない声で、うちへ帰ると言いだした。
「どうしてです?」
「このぶんではだれもお茶にはきませんよ。もうおそいですもの」と、何かさし迫った用事がほかにあるかのように自分の時計を見て、「一日中待ってるわけにはまいりません」
「冗談じゃない。まだ、四時二分前ですよ」
彼は、ぼくに押しつけられでもしたようにへたへたと腰をおろしたが、それと同時に、うちの門から中の道へはいってくる車の音が聞えた。ぼくたちはどちらもとび立つように立ちあがった。そしてぼくは、多少の心苦しさを感じながら、庭先へ出て行った。
ライラックの裸木が雫をたらしている下径を、オープンの大型車がこちらへやってくる。それが停ったと思うと、藤色の三角帽子の下から斜めに傾けたデイズィの顔が、うっとりと明るく微笑しながら、ぼくを眺めていた。
「絶対にここがあんたのうちなの、ニックちゃん?」
さわやかに響きわたる彼女の声は、雨の中を流れて聞く者の心を湧き立たす力を持っている。瞬間ぼくは、耳だけでその声の抑揚を追わぬわけにはいかなかった。言葉が伝わってきたのはそのあとであった。濡れた髪の毛が一筋、青い絵具をさっとなすったように、頬にはりついている。車から助け降ろそうととった手は、きらめく雨の滴に濡れていた。
「あんた、あたしを愛してるの?」彼女はぼくの耳にささやいた「だって、なぜあたしが一人でこなきゃいけないのよ」
「そいつは秘中の秘でね。運転手君に、遠くへ行って、一時間ばかし暇をつぶしてくるように言ってくれないか」
「一時間ほどしたら帰ってきてね、ファーディ」デイズィはそう言うと、今度はしかつめらしく声をひそめて「運転手は、ファーディって名前なの」
「あの鼻もガソリンにやられるのかな?」
「まさか」彼女は無心にそう答えた「どうして?」
ぼくたちは家の中にはいった。驚いたことに、居間はもぬけの殻になっている。
「へえ、こいつは変だな」思わずぼくは大きな声をだした。
「何が変なの?」
彼女が頭をまわしたとき、玄関のドアを軽くたたく、しかつめらしいノックの音が聞えた。ぼくは出て行ってドアを開けた。そこには、死人のように蒼ざめたギャツビーが、上衣のポケットにおもしでも入れたみたいに両手をつっこみ、悲愴な顔で食い入るようにぼくの眼を見つめながら水溜りの中に立っていた。
彼は、ポケットに手をつっこんだまま、ぼくのそばを大またに通り抜けて、玄関の間にはいると、針金に操られる人形のようにくるりと曲って、居間の中に姿を消した。それがすこしもおかしくなかった。そしてぼくは、自分の心臓が高鳴るのを意識しながら、おりから降りしきってきた雨に玄関のドアを閉ざしたのである。
三十秒ばかりのあいだは物音一つしなかった。ついで、居間の中から、咽喉につかえたようなささやきと笑いかけたような声音が聞えたと思うと、続いてデイズィの澄んだ作り声が聞えた。
「あなたにまたお目にかかれて、ほんとうにあたし、とっても嬉しいわ」
それからまた声がとぎれた。その静寂が無気味だった。玄関の間にいてもなすすべがないままに、ぼくは居間へはいって行った。
ギャツビーは、まだ両手をポケットにつっこんだまま、マントルピースにもたれかかり、いかにもくつろいだ、退屈だといわんばかりの態度を、無理して装っている。頭をあまりうしろにのけぞらしたものだから、マントルピースの上の、止ったままの時計に頭はよりかかっている。そして、その位置から彼は、惑乱した眼つきで、堅い椅子の端におびえながらもしとやかに坐ったデイズィを、凝然と見おろしていた。
「わたしたちは初対面じゃないんですよ」そうつぶやきながら、ギャツビーは、一瞬ちらりとぼくに視線を走らせ、笑おうとしたが、笑いにはなりきらず、唇がむなしく開いたばかりだった。さいわい、その瞬間に、彼の頭に押された時計が倒れかかったので、あわてて振りかえった彼は、ふるえる指でそれを押え、もとどおりになおした。それから彼は身を堅くして腰をおろすと、ソファの腕木に肱をつき、片手に頤をのせた。
「時計、どうも失礼いたしました」と、彼は言った。
今度はぼく自身の顔が、熱帯の陽に焼けたように真っ赤に上気した。いくらでも思いつきそうなものなのに、月並みな返答一つ浮びでてきてくれぬ。
「あれは古時計だから」ぼくはそんな間抜けなことを言った。まるで、時計が床に落ちて微塵に壊れでもしたような挨拶である。
「ずいぶん何年もお会いしませんでしたわね」と、デイズィが言った。いかにもさりげない声である。
「この十一月で五年です」
そう言ったギャツビーの返事のその機械的な感じが、一同に、すくなくとも一時的には水をさしたようなぐあいだった。とっさにぼくは、台所でお茶の準備をするから応援してくれと、しゃにむに二人を立ちあがらせたが、そのときちょうど、魔女のような家政婦が、盆にのせた茶道具を運んできた。
お茶を飲み、菓子を食べなど、ごそごそやっているうちに、一種、とるべき態度の軌道といったものが自ずからできあがった。ギャツビーは陰に引っこんで、デイズィとぼくとが話しているあいだ、緊張の色をたたえた淋しそうな眼で、小心翼々といった感じに二人をこもごも眺めている。しかし、おちつき自体が本来の目的ではないのだから、ぼくは適当な機会が見つかりしだい口実をもうけて立ちあがった。
「どこへ行くのです?」あわててギャツビーがたずねた。
「帰ってきますよ」
「その前にぜひお話ししておかなければならないことがあるのですが」
彼はすっかり取り乱してぼくのあとから台所にはいってくると、ドアを閉めて「ねえ、お願いですよ」と、実に哀れな声でささやいた。
「どうしたんです?」
「えらい失敗です」彼は、左右に頭を振りながら言った「実にとんでもない失敗でした」
「あなたが、あがってるんだ、それだけですよ」そう言ったあとから、うまいぐあいにぼくは「デイズィもあがってる」とつけ加えるのを忘れなかった。
「あの人があがってる?」信じられぬといった面持で、彼はおうむ返しに言った。
「あなたと同じくらいあがってるさ」
「そんな大きな声をしないで」
「きみはまるで子供みたいだな」いらいらしてぼくは、そんなことを口走った「そればかりじゃない、無作法だよ。デイズィは一人むこうにほったらかしにされてるんだぜ」
彼は、片手をあげてぼくの言葉を制し、忘れがたい非難の眼差しでぼくを見つめると、慎重にドアを開けて、また、もとの部屋へもどって行った。
ぼくは裏口から外へ出た――半時間前にギャツビーが、おじ気をふるって家のまわりを一巡したときと、同じ格好である――そして、黒々と葉を茂らせた一本の節くれだった巨木めがけて駆けだした。鬱蒼と茂ったその葉叢が、格好の雨除けになっている。雨はまた篠つくばかりの勢いになっていて、ギャツビーの園丁によってきれいに刈りこまれたぼくのうちの凸凹な芝生には、小さな泥沼や先史時代の湿地がいたるところに現出していた。その樹の下からは、巨大なギャツビーの館のほかには見るべきものがない。そこでぼくは、教会の尖塔をにらむカントよろしく、半時間もその館を見つめていた。この館は十年前に、あるビール業者が、「時代」好みの流行がきざしはじめた頃いち早く建造したものだった。そして近隣の家屋の持ち主たちに、彼らの家屋の屋根をも麦藁でふかせたら、その全部の税金を五年間は負担してもいいと言ったという伝説がある。これに対する彼らの拒絶が、一家を興さんとの彼の計画の要を抜いてしまったのであろう――急にがっくりと彼はまいってしまった。そして、彼の家の戸口からまだ喪章もはずされぬうちに、彼の息子たちはその家を売り払ってしまったのだ。アメリカ人は、農奴たることはいやがらぬばかりか、進んでなりたがるくせに、貧農たることは昔からいつも頑固にこばもうとする人間なのである。
三十分ほどすると、また陽が照ってきた。食料品店の車が、おそらくはギャツビーの召使たちの胃袋におさまるのであろう夕食の材料を積んで庭道をまわって行った――ギャツビー自身は一匙だってものを食べる気になどなれないのではなかろうか。女中が二階の窓を開けだした。一つ一つ窓口ごとにちらりと姿を見せながら順に開けてゆく。中央の大きな張りだし窓の所で、外へ身をのりだすと、もの思わしげに、庭へ唾を吐いた。もうぼくももどっていいころだ。雨が降っているあいだは、その雨音が、感情の嵐とともに、ときどきすこし高く大きくなる二人の話し声を思わせたが、いままた四囲が静寂にかえると、部屋の中にも沈黙が落ちているような気がしてきた。
ぼくは中にはいった――はいる前に、台所で、調理用の焜炉をひっくりかえさぬ程度に、できうるかぎりの物音をたてた――けれども、彼らの耳には一つとして聞えなかったにちがいない。二人は寝椅子の両端に腰をおろし、どちらかが何かをたずねたところか、二人とも何かを考えているところか、お互いに顔を見合わせている。狼狽の色は、二人から跡形もなく消え失せていた。デイズィの顔は涙によごれていたが、ぼくがはいって行くと、彼女はひょいと立ちあがって、鏡の前に行き、ハンケチで顔を拭きはじめた。ギャツビーのほうにはしかし、なんとも不思議な変化が現われていた。顔は文字どおり輝くばかり。歓喜の言葉、歓喜の身ぶり一つ見せずとも、いままではなかった幸福感が、彼の身体から放射してその小さな居間にあふれている。
「ああ、親友」と、彼は言った。幾年ぶりかで会ったような調子である。握手するつもりかと一瞬思ったくらいだった。
「雨はやみましたよ」
「そうですか」彼は、ぼくの話していることの意味を悟り、部屋の中にも陽光の斑点が躍っているのに気づくと、天気予報係のように、陽光の再現を夢中になって喜ぶその守護神のように微笑して、その知らせをデイズィにむかってくりかえした「どう思います? 雨はやみましたよ」
「うれしいわ、ジェイ」苦悩にうずき、悔恨にあふれる美しい彼女の咽喉は、思いがけず訪れた歓喜を語るばかりだった。
「あなたとデイズィに、うちまでいらしていただきたいんだけど」と、ギャツビーが言った「デイズィにあちこちお見せしたいんですよ」
「ほんとにぼくを引っ張って行きたいのかな?」
「もちろんですとも、親友」
デイズィは、顔を洗いに二階へ行った――ぼくは二階にある自分のタオルを思って恥ずかしかったが、すでに手おくれだった――ぼくはギャツビーといっしょに芝生に出て待った。
「わたしの家、なかなか立派でしょう?」彼が言った「家の正面全体が光を受けてるところなんかどうです」
ぼくは、すばらしい邸宅だと、賛意を表した。
「ええ」と、彼は、アーチ形のドアというドア、四角な塔という塔にいたるまで、くまなく眺めわたしながら「あれを買う金を稼ぐのにちょうど三年かかりました」
「ぼくはまた、あなたは遺産を相続したんだと思ってたのに」
「それはそうなんですよ、親友」と、彼は反射的に答えた「しかしね、大恐慌でほとんどなくなってしまったのです――大戦後の恐慌でね」
彼は自分の言っていることをほとんど意識してなかったのだろう。ぼくがどんな仕事をしているのかとたずねたのに対して「あなたの知ったことじゃない」と答え、言ったあとでその不穏当な言い方に初めて気づく始末だった。
「いや、いろんなことをやってきました」彼はそう言いなおした「薬の仕事もやったし、次には石油の仕事もやった。しかし、いまはどちらにも関係していません」そう言ってぼくをまじまじと見つめながら「あなた、このあいだの晩、わたしがお話ししたことを考えてみたというわけですか?」
しかし、それにぼくが答える前に、デイズィが家の中から出てきた。ドレスの上に二列にならんだ真鍮のボタンが陽をうけてきらきらと輝いている。
「あそこのあの大きなお家?」指さしながら彼女は声をはずませて言った。
「気に入りましたか?」
「とってもすてき。でも、あんなお家に一人っきりでどうやって暮してらっしゃるのかしら」
「夜も昼も、しじゅう、おもしろい人たちでいっぱいなんです。おもしろいことをやってる人たち。有名人ですね」
「海峡」沿いの近道はさけてぼくたちは、いったん道路まで出ると、大きな裏門から中にはいった。うっとりとする含み声でデイズィは、空を背景に影絵のようにそそり立つ中世風の建物のここかしこのたたずまいを賞め、庭に感嘆し、きらめくような丸葉水仙の香りや、泡のようなさんざしや李の香り、ほのかな金色を思わす三色すみれの花の香を賞でた。大理石の石段の所まで行っても、戸口を出入りするはなやかな衣裳のゆらぎも見えず、梢に鳴く鳥の声のほかに物音一つ聞えぬのは、いかにも奇妙な感じだった。
やがて中にはいり、マリー・アントワネット好みのサロンやレストレーション風の客間を通り抜けて行くうちに、寝椅子という寝椅子、テーブルというテーブルの下に客人が隠されていて、ぼくたちが通り過ぎるまで息をころして黙っているよう命ぜられているのではないかという気がした。ギャツビーが、例の「マートン学寮図書館」のドアを閉めたときには、ふくろうのような眼鏡をかけたあの男が急に笑いだす無気味な高笑いが聞えるような気がした。
ぼくたちは二階へあがり、バラ色や藤色の絹布につつまれて、新しい花々もあざやかな時代がかった寝室を通り抜け、化粧室から撞球室、それから浴槽を床にはめこんだバスルームを抜けて――そうしてはいりこんだ部屋の中に、寝間着姿で髪も乱れた男が床の上で強肝体操をやっていた。「下宿人」のクリップスプリンガー氏だった。その日の朝、ぼくは、彼が浜辺をひもじそうにぶらついていたことを思い出した。こうしてぼくたちは最後にギャツビーの私室にたどりついたのである。寝室と浴室と、アダム式装飾様式の書斎である。そこにぼくたちは腰をおろした。そうして、壁につくりつけた食器棚から彼がとりだしたシャルトルーズを一杯飲んだ。
彼はかたときもデイズィから眼をはなさなかった。いろいろ美しいものを見つけた彼女の眼に浮ぶ反応の程度によって、自分の家のあらゆるものを再評価していたのであろう。ときには、自分の持ち物を呆然と眺めまわしていることもある。すばらしい現実の彼女を眼の前にしては、そんなものはみな、もはや実在性を失ってしまったかのごとく、一度などは、階段から転げ落ちそうになったことまであった。
彼の寝室は、すべての部屋の中で一番簡素だった――ただ、沈んだ純金色の化粧セットに飾られた化粧台だけは例外だったけれど。デイズィはうれしそうにそこのブラシを手にとると、頭の毛を撫でつけた。それを見るとギャツビーは、坐って眼に手をかざしながら笑いだした。
「実に滑稽きわまる、親友」浮き浮きして彼は言った「とてもわたしには――いや、わたしがやろうとすると――」
彼はすでに二つの段階を経過したことは明らかで、いまや第三の段階にはいろうとしていた。狼狽と、理不尽な歓喜を通り抜けて、いまは、彼女が姿を現わしたことに対する驚異に心を奪われているのだ。彼は長いあいだこのことばかりを思い描いてきた。結末に行きつくまでの過程をそっくり夢に描き、いわば、思考を絶する激しさで歯をくいしばって待っていたのだ。いまはその反動で、巻きすぎた時計のように、ゼンマイがほぐれているところだろう。
まもなく平静をとりもどすと彼は、ぼくたちに巨きな新式の用箪笥を二つ開けてみせた。中には彼の洋服やら化粧着やらネクタイなどがごちゃごちゃに詰めこまれ、彼のワイシャツが煉瓦のように一ダースひとまとめにして山と積まれてはいっていた。
「英国に、わたしの衣類を買ってくれる男がいましてね。春と秋と、シーズンのはじめごとに、いいものを見たてては送ってよこすのです」
彼はワイシャツの一束をとりだすと、一枚一枚ぼくたちの眼前に投げてよこした。薄麻のワイシャツ、厚手の絹のワイシャツ、目のつんだフランネルのワイシャツ――それらが投げだされるがままにひろがって、テーブル一面に入り乱れた色とりどりの色彩を展開した。ぼくたちが感嘆の言葉をはくと、彼はさらに多くをとりだしてくる。柔らかい豪奢な山がますます高くなってゆく。さんご色や、淡緑、藤色に淡い橙、縞あり、雲形あり、格子縞あり、それらにイニシアルの組み合せが濃紺色ではいっているのまでがある。突然感きわまったような声をたてて、デイズィは、ワイシャツの山に顔を埋めると、激しく泣きだした。
「なんてきれいなワイシャツなんだろう」しゃくりあげる彼女の声が、ワイシャツの山の中からこもって聞えた「なんだか悲しくなっちまう、こんなに――こんなにきれいなワイシャツって、見たことないんだもの」
家を見たあとでは、庭や、プールや、高速モーターボートや夏の花々を見る予定だった――ところが、窓から見ると外はまた雨が降りだしていた。それでぼくたちは一列にならんで波立つ「海峡」の水面を眺めた。
「霧がなければ、入江のむこうにあなたの家が見えたんですがね」ギャツビーが言った「お宅の桟橋の突端のとこに、いつも夜どおし緑色の電燈がついてるでしょう」
デイズィはいきなりギャツビーと腕を組んだ。しかし彼は、いま言った自分の言葉に心を奪われているらしかった。その光の持っていた巨大な意義が、いまは永遠に消滅してしまったと、ふと思ったのかもしれぬ。自分とデイズィを隔てている大きな距離に比べれば、いままでその光は彼女のすぐそばに、ほとんど彼女にふれることもできる距離にまたたいているように思われていた。月と星との仲のように、彼女の身近な存在とそれは感じられていた。それがいまでは、また単なる埠頭に輝く緑の灯にすぎなくなった。彼の心を魅惑するものの数は一つ減ったのである。
ぼくは、薄暗い中ではっきりとは見えぬいろいろなものをしらべるように見ながら、部屋の中を歩きはじめた。中で一枚、彼の机の上の壁にかかった大型の写真がぼくの注意をひいた。ヨットの服装をした中年の男が写っている。
「これはだれ?」
「それ? ダン・コウディ氏ですよ、親友」
なんだか聞いたことのあるような名だなという気がした。
「もう亡くなりましたがね。数年前まではわたしの一番いい友だちでした」
小箪笥の上に、これまたヨットの服装をした、ギャツビーの小さな写真があった。反抗的に昂然と頭をもたげている。見たところ十八くらいのときの写真だ。
「これ、すてき」デイズィが甲高い声で言った「ポンパドールだ! あなた、一度も知らせなかったじゃない、ポンパドールが――ヨットがあるなんて」
「これを見てください」急いでギャツビーが言った「切り抜きがいっぱいあるんです――あなたの切り抜きが」
二人はならんで立ったまま、その切り抜きを仔細に眺めていた。ぼくが、いつか彼の話していたルビーを見せてくれと言おうとしたとたんに、電話のベルが鳴って、ギャツビーは受話器を取りあげた。
「もしもし。……さあ、いまは話していられない。……いまはだめですよ、親友。……わたしは小さな町と言ったんです。……小さな町っていう意味は、あの人にわかるはずですよ。……さあ、デトロイトが小さな町だと考えているようだと、話になりませんね。……」
そのまま彼は電話を切った。
「ここへいらっしゃい、早く」窓の所からデイズィが呼んだ。
雨はまだ落ちていたが、西のほうにあたって墨を流したような空が裂け、海の上の渦巻くもうもうたる雲の塊が、薄赤くまた金色に染まっていた。
「あれを見て」声をひそめて彼女が言った。それからまた言葉を続け「あのピンクの雲を一つ手に入れて、あなたを中に乗せて、くるくるまわしてあげたいな」
ぼくはそろそろ立ち去ろうとしたが、二人は聞き入れてくれそうにない。おそらく、ぼくがいたほうがかえって、二人きりだという気持を彼らは気づまりなく味わうことができたのだろう。
「そうだ、いいことがある」ギャツビーが言った「クリップスプリンガーにピアノを弾いてもらいましょう」
彼は「ユーイング!」と、呼びながら部屋を出て行ったが、まもなく、面やつれの見える顔にべっこう縁の眼鏡をかけ、当惑の色をたたえた青年を連れてもどってきた。金髪も薄くなった彼は、いまは、衿のひらいたスポーツ・シャツを着こみ、運動靴に淡いグレーのデニムのズボンという見苦しからぬ服装だった。
「運動のお邪魔ではなかったでしょうか?」デイズィが丁重にたずねた。
「寝てたんです」クリップスプリンガーはどぎまぎしながらぎごちなく答えた「つまりその、さっきまで寝ていたんですが、それから起きて……」
「クリップスプリンガーはピアノを弾くんですよ」ギャツビーが口をはさんだ「そうだよね、ユーイング」
「へたですよ、ぼくは。だめです――ぼくは、ほとんど弾けないな。ぜんぜん練習――」
「階下へ行きましょう」と、ギャツビーが話をさえぎって言った。彼がスウィッチをひねると、暮色迫った窓の色は消えて、家全体が燦然たる灯に輝きわたった。
サロンにはいるとギャツビーは、ピアノのそばの電燈だけをともし、それからふるえるマッチでデイズィの巻煙草に火をつけると、部屋のむこう端の寝椅子の上に、彼女とならんで腰をおろした。玄関の間から、きらめく床に反射して射しこむあかりを除けば、そこまではなんの光も届かなかった。
クリップスプリンガーは、『愛の巣』を弾きおえると、椅子に坐った身を振りむけ、当惑して薄暗がりの中にギャツビーの姿を探し求めた。
「ぼくはぜんぜん練習してないんですよ。弾けないって言ったでしょう。ぜんぜん練習し――」
「そんなにしゃべるなよ、親友」きめつけるようにギャツビーが言った「弾きたまえ!」
「朝にも
夕にも
おいらに楽しみはない」
戸外には風の音がたかまり、「海峡」の方向にかすかに雷鳴がとどろいた。いまやウェスト・エッグの電燈という電燈には一斉に灯がともり、電気機関車が、家路を急ぐ人びとを乗せてニューヨークから雨の中を驀進していた。人間に大きな変化が現われる刻限である。四辺には興奮が胎動を伝えてくる。
「こりゃまちがいない、何より確かだ
金持は金をもうけ、貧乏人は――子供をもうける
さてそのうちに
とかくするうちに――」
別れの挨拶をしに近寄って行くと、ギャツビーの顔には、また困惑の色がもどっていた。現在の幸福の本質について、かすかな疑念が湧いたかのように。五年に近い歳月だもの! その日の午後でさえ、デイズィが彼の夢を破った瞬間がいくらもあったにちがいない――彼女自身の落度からではなく、彼の描く幻影があまりに大きな力をもって飛翔するからだ。彼女の及ばぬ所まで、何ものも及ばぬ所まで、それは天翔けてしまったのだ。彼は創造的情熱を傾けて自己の幻影に没入し、しじゅうその幻影を増大せしめながら、思うままのあざやかな羽毛でもってすっかりそれを飾り立ててしまったのだ。どれほど熱烈な情熱をもってしても、はたまたいかほど清純な純情をもってしても、男が胸の中に育む幻を完全にみたすことはできないのだ。
ぼくが見守っていると、彼がすこし気をとりなおしたのがはっきりわかった。彼は彼女の手を握った。そして、彼女が何ごとか低声で彼の耳もとにささやくと彼は、さっと感動の色を見せて彼女をかえりみた。小刻みに震えながら波のごとくゆれる温かなあの声が、何よりも彼をとらえたに違いない、あれにまさる声を夢見ることは不可能であろうから――あの声は不滅の歌なのだ。
二人はぼくのことなど忘れていたのだが、デイズィがふと顔をあげて手をさしのべた。ギャツビーはもうぼくなど眼中にないようすだった。もう一度二人を眺めやると、二人もぼくを見返したが、それは、たぎり立つ生命に心奪われたうつろな眼差しだった。やがてぼくは、その部屋を歩み出ると、大理石の石段をおりて雨の中に出て行った、二人をそこに残したまま。
第六章
このころのことだ。ある朝、ニューヨークからきた野心家の若い新聞記者が一人、ギャツビーの邸宅を訪れて、何か言うことはないかと彼にたずねたのである。
「言うことといって、何についてです?」丁寧な言葉づかいでギャツビーは反問した。
「いや、まあ――声明か何かですな」
はじめはなんのことか要領を得なかったが、五分もたってうすうすわかったところによると、この男は自分の社の周辺で、あるひっかかりから、ギャツビーの名を耳にしたのだった。そのひっかかりというのがどんなことか、彼は明かそうとしなかったが、あるいは彼にもよくはわからなかったのかもしれぬ。とにかくその日は彼の休みの日で、彼はあっぱれ衆に先んじてさぐりを入れに急遽出向いてきたのであった。
それはめくら射ちで射った一発にすぎなかったのだが、しかし、新聞記者の勘は正しかった。ギャツビーの悪名は、彼の歓待を受けたあげく彼の過去についての権威となった何百人という人びとによって拡められるがままに、夏の間にもますます増大して、いまでは一つのニュースになりかかっていた。「カナダに通ずる地下ルート」に似た現代の神話が彼の身にはまつわり、彼は家に住んでいるのではなくて、家のように見えるのは、その実、船であり、ロング・アイランドの沿岸をひそかに行ったり来たりしているのだという噂がまことしやかに語り伝えられていた。こうした話を捏造されるのが、ノース・ダコタ州のジェイムズ・ギャッツにとって、なぜ満足を与えることになったのか、そのいきさつを語るのは簡単でない。
ジェイムズ・ギャッツ――これが彼のほんとうの、あるいはすくなくとも法律上の、名前だった。それを彼は十七歳のとき、彼が世に出る第一歩を踏みだしたその歴史的な瞬間に変更してしまったのだ――ダン・コウディのヨットが、スピーリア湖上のもっとも物騒な浅瀬のむこうに投錨するのを見た、そのときである。その日の午後、破れた緑のジャージーを着、デニムのズボンをはいて水際をうろついていたのはジェイムズ・ギャッツだったが、ボートを借りて「ツオロミー号」に漕ぎ寄せ、そこに投錨していては風を受けて三十分もすると粉微塵になってしまうとコウディに知らせてやったときにはもう、ジェイ・ギャツビーになっていた。
その名はしかし、そのときよりもずっと前から彼の胸に描かれていたのだろうとぼくは思う。両親は甲斐性のない敗残の百姓だった――が、彼らを自分の両親と考えることは、どうしても彼の夢が許さなかった。実をいうと、ロング・アイランドのウェスト・エッグに住むジェイ・ギャツビーなる人物は、彼が自分について思い描いた理想的観念から生れ出たのだ。彼は「神の子」なのだ――「神の子」、もしこの言葉が何かを意味するとすれば、彼のような場合をこそいうのであろう――だから彼は、「彼の父なる神」の御業に励まねばならぬ、絢爛豪華な世俗の美の実現に奉仕せねばならぬ。そこで彼は、十七歳の青年がいかにも思い描きそうなジェイ・ギャツビーという人間を創りだした。そしてこの人間像に、彼は最後まで忠実だったのである。
一年以上も彼は、貝掘りをしたり、鮭釣りをしたり、その他、飯と塒を与えてくれる仕事ならなんでもやりながら、スピーリア湖の南岸をうろつきまわっていた。肉のしまりかけた鳶色の肉体が、この苦難時代の、激しくもあり暢気でもある仕事を、生きぬいたのは当然である。彼は若くして女を知っていたが、女は彼を毒するというので、軽蔑するようになった。若い処女ならば無知だし、他の女たちはまた、もっぱら自分の運命にのみ没頭している彼からすれば当然と思えることにも、逆上して大騒ぎを演じるからだ。
しかし彼の心は常に激しく立ち騒いでいた。夜、床にいる彼の頭に、世にも奇怪幻妖な想念がこびりついて離れなかった。洗面台の上で時計が時を刻み、床に脱ぎすてられた彼の衣服を窓から射しこむ月影がしっとりとつつんでいるときに、彼の頭の中では、いうにいわれず絢爛たる世界がいつまでもくりひろげられるのだった。くる夜もくる夜も、まどろみの幕が、まざまざと眼に見える情景を静かにかき消してしまうまで、空想の絵模様がおりなされてゆく。一時は、こうした幻想が、彼の想像力のはけ口をなしていた。それは現実の非現実性を快く暗示してくれる。動かし難い巨岩のごとく見えるこの世界も、実は妖精の翼の上にのっていることを保証してくれるものであった。
これより幾月か前のこと、未来の栄光を夢見る本能に導かれて彼は、ミネソタ州南部の聖オウラフという小さなルーテル派の大学に行ったことがある。彼はそこに二週間滞在したが、戸をたたく彼の運命に対し、否、運命そのものに対して、そこの大学が示した冷酷な無関心にとまどい、学資を稼ぐためにやれと言われた門衛の仕事を軽蔑した。それから彼は飄然とスピーリア湖畔にまいもどり、ダン・コウディのヨットが湖岸に近い浅瀬に錨をおろしたその日にも、まだ仕事を探していたのだった。
コウディは当時五十歳、ネヴァダ州の銀山、ユーコン河の金、一八七五年以来のたび重なるゴールド・ラッシュが産みだした人物だった。モンタナの銅の取引は、彼を、百万長者も足もとに及ばぬ富豪に仕立てたが、肉体的には頑健な彼が、精神的には柔弱と紙一重にあることを暴露した。そして、それに気づいた女たちは、寄ってたかって彼を金から引き離そうとした。この彼の弱点に対してマンテノン夫人の役割を演じ、彼をヨットに乗せて海に送りだした婦人記者エラ・ケイのあまりかんばしからぬ手練手管の詳細は、一九〇二年を通じ、煽情的な新聞界の共有財産となった。こうして彼は、愛想のよすぎる海沿いの土地を五年間も巡航したあげくの一日、リトル・ガール湾でジェイムズ・ギャッツの運命を左右することになったのである。
漕ぐ手を休め、手すりをめぐらした甲板を仰いだ若いギャッツにとって、そのヨットは、この世におけるあらゆる美と魅力とを象徴するものであった。コウディをふり仰いだ彼の顔には、必ずや微笑が浮んでいたことだろう――自分の微笑はひとの好意をひくということに、彼は気づいていたにちがいない。とにかく、コウディは彼にむかって二つ三つものをたずねた(その中の一つに答えて、彼の新しい呼び名が生れたわけだ)。そして、彼が才はじけて逞しい野心に燃えていることを発見した。数日ののち、コウディは彼をダルースに連れて行き、ブルーの洋服を一着と、白いデニムのズボンを六着、それにヨット帽を一つ買ってやった。そして「ツオロミー号」が西インド諸島とバーバリ海岸にむけて出発したとき、ギャツビーもまた姿を消したのである。
彼は、はっきりきまった資格で雇われたのではなかった――コウディにつき添っているうちに、給仕になり、航海士になり、船長になり、次には秘書になり、はては彼の看守にさえなった。というのは、しらふのダン・コウディは、酔ったダン・コウディがどんな脱線をやらかすか、よく知っていたからである。そして彼は、ギャツビーに対する信頼を深めることによって、そうした不測の事態に備えたのだ。こうした状態は五年続いたが、そのあいだに船は大陸のまわりを三度巡航した。もしもある夜、エラ・ケイがボストンでこの船に乗りこんできたのに、一週間の後、ダン・コウディがつれなくも死んでしまうという事態が起らなかったならば、それはどこまで続いていったかわからない。
ぼくは、ギャツビーの寝室にかかっていたコウディの照影を覚えている。堅い、無内容な表情をした白髪まじりのあから顔――アメリカの歴史の中の一時期に、辺境の淫売宿と酒場の野蛮であらあらしい雰囲気を東部海岸に持ち帰った、放蕩無頼の開拓者。ギャツビーがほとんど酒を飲まぬのも、間接にはコウディが原因だった。浮き浮きしたパーティの途中、よく女たちはギャツビーの髪の中にシャンペンをすりこんだものだが、彼自身は、酒には手をふれぬ習慣だったのである。
そして彼が相続したのもコウディの金だったのだ――二万五千ドルの遺産である。それはしかし、彼の手にははいらなかった。どんな法律上の術策が用いられたのか、ついに彼にはわからなかったが、巨万の富の残額は、そっくりそのまま、エラ・ケイにわたった。彼の手には、妙にぴったりした教育が残っただけである。それから、線のはっきりしなかったジェイ・ギャツビーの顔もいつしか肉がついて、充実したひとかどの男になっていた。
こうしたことを彼が残らずぼくに語ったのは、ずっとあとになってからなのだが、ぼくがこれをここに記したのは、彼の素姓に関して最初に現われた途方もない風説を粉砕したかったからである。その風説はほんのすこしもあたっていない。それに、彼がこれを語ったときのぼくは、彼についてすべてがほんとうのようでもあり、何もかもが嘘に思われるようにもなっていた混乱の時期であった。そこでぼくは、ギャツビーがいわば話を中断してちょっとひと息入れているのを利用するような格好で、その間にこの一連の誤解を一掃しようと思う。
それはまた、ギャツビーの問題とぼくとのつながりも、ひとしきりとぎれた、空白の期間でもあった。数週間というものぼくは、彼の姿を見ず、電話の声も聞かなかった――その間ぼくはたいていニューヨークにいて、ジョーダンを連れてあちこち歩きまわり、年老いた彼女の伯母のご機嫌を取り結ぼうと努めていた――しかしとうとう、ある日曜の午後、ぼくはギャツビーの家へ出かけて行ったのである。着いて二分とたたないうちに、ぼくの知らぬ男が、一杯飲ませてくれないかと言いながらトム・ビュキャナンを連れてやってきた。当然ぼくは驚いたが、しかし、いままでこれが起らなかったことをこそ、ほんとうは驚くべきだったかもしれない。
一行は、馬にまたがった三人――トムとスローンという男と、それから鳶色の乗馬服を着こんだ美人が一人、これは前にもここにきたことがある。
「よくいらっしゃいましたね」玄関先に立ってギャツビーは言った「ようこそお立ち寄りくださいました」
まるで彼のことを気にかけてやってきたかのような口ぶりである。
「さあ、おかけください。巻煙草をどうぞ、葉巻がいいですかな」彼は部屋の中を駆けずりまわって、呼鈴を鳴らした。「さっそく、何か飲み物を持ってこさせましょう」
彼はトムがいるということをひどく気にしていた。しかし、彼らがきた目的は、ただただ飲み物にあるのだということを彼も漠然と感づいていたのだから、彼らに何かを出すまではとにかく気がおちつかぬのかもしれぬ。スローン氏は何もいらぬという。レモネードは? いや、結構。シャンペンをすこしいかが? いいえ、たくさんです……残念ながら――
「馬はおもしろかったですか?」
「この辺は、とても道がいいですね」
「でも車が――」
「ええ」
抑えがたい衝動に駆られてギャツビーは、紹介されたとき初対面の挨拶をしたトムのほうに顔をむけた。「前にもたしかどこかでお会いしましたよね、ミスタ・ビュキャナン」
「そうでした。お会いしましたよ。よく覚えてます」トムは、しゃがれた声で慇懃にそう答えたが、その実、覚えてなどいないことは明らかだった。
「二週間ぐらい前でした」
「そう、そう。あんたはこのニックといっしょだった」
「わたしはあなたの奥様を存じあげておりますよ」続いてそう言ったギャツビーの語調には、キッと身構えたような感じがこもっていた。
「そうですか」
トムはぼくのほうをむいた。
「ニック、きみの家はこの近くなんだろ?」
「隣だよ」
「そうか」
スローン氏は、われわれの会話に加わらず、傲然と椅子に背をもたせかけていた。女もまた、口を開かなかった――が、ハイボールを二杯乾すと、急にうちとけた態度に変った。
「ミスタ・ギャツビー、あたしたち、お宅の今度のパーティにみんなでくるつもりだけど、かまわない?」
「もちろんです。歓迎いたしますよ」
「それはご親切に」スローン氏はそう言ったが、べつにうれしそうでもなかった。「さて――そろそろ戻らなきゃならん時間じゃないか」
「どうぞ、ごゆっくりなすってください」ギャツビーはしきりとそう言った。もうおちつきを取りもどした彼は、トムをもっと観察したかったのである「なぜみなさん――なぜ夕食までいらっしゃらないのです? ひょっとしたら、ほかにもどなたかニューヨークからみえるかもしれない」
「あたしんとこのお夕食にいらしてよ」その女性は熱をこめてそう言った「お二人とも」
「お二人」の中にはぼくもはいっている。スローン氏が立ちあがった。
「行きましょう」そう彼は言った――が、それは彼女にだけあてた言葉だった。
「あたし、本気よ」そう言ってなおも彼女はぼくたちを誘った「ぜひいらして。余裕は十分あるの」
ギャツビーは、どうするというようにぼくをかえりみた。彼は行きたかった。そして、スローン氏がこさせまいと心に決めているのが彼にはわからなかった。
「残念ですがわたしはうかがえません」と、ぼくは言った。
「じゃあ、あなた、いらっしゃい」と、彼女はギャツビー一人にむかって同行をうながした。
スローン氏が彼女の耳もとに何ごとかをささやいた。
「いますぐ出かければ、おそくならないわよ」彼女は声に出してそう言った。
「わたしは馬を持っておりませんでね」と、ギャツビーが言った「軍隊ではいつも乗ってたんですが、馬を買ったことはないんです。車でおともしなければなりませんが、ちょっと失礼します」
あとに残ったぼくたちは玄関に出た。スローン氏は女を小脇によぶと、激した語調で何ごとかを話しはじめた。
「やれやれ、あいつ、きっとやってくるぜ」と、トムが言った「彼女がきてもらいたくないのがわからんのかな?」
「彼女が自分の口からきてほしいって、そう言うんだもの」
「彼女のところは盛大な晩餐会なんだが、やつの知ってる人なんか一人もおらんよ」と、彼は顔をしかめた「いったい、あいつ、どこでデイズィに会ったのかな。たしかにおれの考えは古風かもしれんが、近ごろの女はあちこち遊びまわるんで気にくわん。いろんな気違いどもに会ってやがる」
不意にスローン氏と件の女性は石段をおりると、彼らの馬にまたがった。
「行こうぜ」と、スローン氏がトムに言った「おそくなったよ。もう行かなくちゃ」それからぼくにむかって「待っていられなかったと、あの人に言ってくれませんか」
トムとぼくは握手をかわし、あとの者たちとは冷やかな会釈をかわした。そして彼らは庭径を急ぎ足に駆け去って行ったが、八月の葉叢の陰に彼らの姿が消え去ったとたん、帽子と軽いオーバーコートを手にしたギャツビーが、玄関の戸口から出てきた。
デイズィが、一人でほうぼう遊びまわることを、トムが気に病んでいたことは明らかだった。次の土曜の夜彼は、ギャツビーのパーティに彼女についてきたくらいだから。たぶん、彼が出席したということが、その夜のパーティに、一種独特の重苦しい感じを与えたのであろう――その夏ギャツビーの家で行われた他のパーティよりも、そのときのがひときわ鮮やかにぼくの記憶に残っている。集まった人たちも同じなら――いや同じではないまでも同じ種類の人たちではあったし、シャンペンの洪水も同じ、幾多の色と音とが渦巻く乱舞も常と変らなかった。しかしぼくは、あたりにただようある不快なもの、いままではなかったあるとげとげしいものが、びまんしているのを感じた。それとも、いつしかここの雰囲気に馴れたぼくが、ウェスト・エッグというものを、独自の価値基準を持ち独自の大物を有し、自らの特異性を意識しないだけに自らを最高と心得ていて、そこだけで完成している一個の世界と認めるようになってしまっていたのを、このときまた、デイズィの眼を通してこの世界を見なおしていたというにすぎなかったのかもしれぬ。いままで苦労しながら順応してきたものを、新しい眼で見なおすということは、なんによらず愉快なものではない。
二人が到着したのは黄昏どきであった。ぼくもいっしょになってきらびやかな人群れの中をそぞろ歩いたが、デイズィは、技巧的な含み声で何かとささやいていた。
「こんなの見ると、わくわくしちゃう。今晩、あたしに接吻したいと思ったらね、ニック、いつでもあたしにそう言って。あたし、喜んでお相手してあげる。あたしの名前を言うだけでいいわ。あるいは、緑色のカードをだすか。あたし、緑のカードを配って――」
「あちこち見てまわりませんか」ギャツビーが言った。
「見てまわってるわ。とてもすてきな……」
「名前をご存じの顔が、きっと大勢見つかると思いますが」
トムは傲然と群衆を眺めわたした。
「ぼくたちはあんまり遊びまわらんもんだから」彼はそう言った「実をいうと、いまも知ってる人は一人もいないなと思ってたとこですよ」
「あのご婦人はたぶんご存じと思いますが」そう言ってギャツビーは、白李の樹の下に盛装をこらして坐った、人間ばなれのした蘭の花のような派手づくりの女を指さした。トムとデイズィは眼を見はった。その眼差しには、いままでは影のような存在だった映画界の名花を、はっきり眼前に認めたときのあの妙に信じがたいような感情がにじんでいた。
「きれいな人ね」デイズィが言った。
「あの女の上に身をかがめている男は、彼女の映画の監督です」
彼は二人をしかつめらしく、人びとの群れから群れへと案内していった。
「ビュキャナン夫人……それからビュキャナン氏――」一瞬ためらいを見せて「ポロの選手の」と、つけ加える。
「いや、いや」あわててトムが否定する「とんでもない」
しかし、その言葉の響きはギャツビーの気に入っていたにちがいなく、この夜の最後までトムは「ポロの選手」として紹介された。
「あたし、有名人にこんなにいっぱい会ったの、はじめてよ」デイズィが感に堪えたように言った「あの人、気に入っちゃった――お名前、なんていったかな?――いかにもカナダ人らしいとこがあって――」
ギャツビーは、その男の名を言って、つまらぬプロデューサーだとつけ加えた。
「でも、とにかくあの人、気に入ったわ」
「ぼくはポロの選手でないほうがありがたいな」愉快そうにトムが言った「こういう有名人たちを、むしろこの――人目にたたない立場で眺めていたい」
デイズィとギャツビーがダンスをした。ぼくは、彼のつつましくも優美なフォックス・トロットのステップに驚いたことをいまも覚えている――それまでぼくは、彼のダンスを見たことがなかったのだ。やがて二人は、ぶらぶらとぼくの家まで歩いて行って、三十分ほど玄関先の石段に腰をおろしていた。一方ぼくは、デイズィに求められるままに、ギャツビーの庭に残って監視役をつとめた。「火事だとか洪水だとか、その他の天災地変があるといけないから」と、彼女は言うのである。
ぼくたちがそろって夕食のテーブルについたとき、それまで彼のいわゆる人目にたたない世界に沈んでいたトムが姿を現わした。そして「むこうの人たちといっしょに食事してもかまわんかな」と、言った「おもしろい話をしてるのがいるんだ」
「どうぞ」デイズィが愛想よく答えた「それから、アドレスを書きとめたかったら、ここにあたしの金のペンシルがあるわ」……しばらくして彼女は振りかえった。そしてぼくに、トムのそばにいる娘のことを「品はないけどきれい」などと、そんなことを言った。で、ぼくは彼女が、ギャツビーと二人きりで過した半時間を除けば、すこしも楽しくはないのだと知った。
ぼくたちのテーブルは、特別酔態がひどかった。ぼくがいけなかったのだ――ギャツビーは電話に呼びだされて行ったので、ぼくは、つい二週間前に楽しく同席した人たちの所へ坐りこんだのだ。しかし二週間前にはおもしろかったものも、いまでは興ざめるばかりである。
「ミス・ベーデカー、大丈夫ですか?」
彼女はぼくの肩にぐったりもたれかかろうとしているのだが、どうもうまくいかない。ぼくにこう言われると、坐りなおして眼を開いた。
「なあに?」
牛みたいな、眠ったような感じの女が口を開いてミス・ベーデカーを弁護した。デイズィにむかって、明日、カントリー・クラブでいっしょにゴルフをしようとしきりに誘っていた女だ。
「あら、この人はもう大丈夫よ。彼女はね、カクテルを五、六杯やると、きまってさっきみたいにきゃあきゃあやりだすんだ。お酒をやめなくちゃいけないって、あたし、言うんだけどねえ」
「やめてるよ」うつろな声でミス・ベーデカーが言う。
「わめいてるのが聞えたわよ。だからあたし、このシヴィット先生に言ったんだ『先生、あんたの助けの要る人がいますよ』って」
「そりゃ、ベーデカーさん、感謝しただろうな、きっと」また別の仲間が言った、あまりありがたそうな声でもない「でもあんた、ベーデカーさんの頭をプールにつけたときには、服まですっかり濡らしちゃったわね」
「何が嫌いだってあたし、プールに頭をつけられるくらいやなことないよ」ろれつもあやしくミス・ベーデカーがつぶやく「いつかニュージャージーじゃ、おかげで溺れそうになっちゃった」
「じゃあ、やはりやめるべきですな」シヴィット先生がたしなめる。
「自分はどうなのさ!」すごい勢いでミス・ベーデカーが言う「あんたの手なんかふるえてるじゃないか。あんたの手術なんて、まっぴらだ!」
こんな調子だった。最後にぼくの記憶に残っているのは、自分がデイズィとならんで立って、例の映画監督とスターとのようすを見守っていたことだ。二人はまだ白李の樹陰に立っていたが、顔はまさにふれなんとして、わずかに淡い月影がそのあいだを細く流れているばかりだった。ここまで近づけるために、彼はこの夜のはじめからすこしずつすこしずつ彼女のほうへ身を曲げ続けていたのではないか、ふとぼくはそう思った。そしてぼくが見守っているあいだにさえ、彼が最後の段階を完遂して、彼女の頬に唇をふれんとするのがぼくの眼に映った。
「あたし、あの女好き」デイズィが言った「可愛らしいじゃない」
ところが彼女以外はすべて、デイズィの気を害ねてしまった――しかも、どこがどうとはいえないのだ、動作ではなくムードなのだから。彼女は、ブロードウェイがロング・アイランドの一漁村に産みだしたウェスト・エッグというこの前例のない「世界」に、おぞましいものを感じたのだ――昔ながらの上品な言いまわしの下にうごめいている逞しい生の力、無から無に通じる人生を渡るにあたり、われがちに近道を行こうとするかにいつもしゃしゃり出るこの地の住民の押しの強さのようなもの、それが彼女にはおぞましかった。彼女には理解しかねる単純さそのもの、素朴さそのものの中に、彼女はある恐ろしいものを見てとったのである。
彼らが車のくるのを待つあいだ、ぼくもいっしょに玄関前の石段に腰をおろしていた。この玄関先は暗く、ただ明るい戸口越しに、十フィート四方ぐらいの光が、柔らかい暁闇の中に流れでているばかり。ときどき二階の化粧室のブラインドに人影が動いたかと思うと、それがやがてまた別の影に変り、次から次へと果てしなく続いてゆく。戸外からは見えぬ鏡にむかって、ルージュを塗り白粉をたたく人びとの影だ。
「ここのギャツビーとはいったい何者かね」不意にトムがたずねた「酒の密売の親玉かい?」
「どこでそれを聞いたんだ?」と、ぼくは言った。
「聞きはしないさ。想像だよ。新米成金てやつは、たいてい、でかい酒の密売屋じゃないか」
「ギャツビーはちがう」言葉短くぼくは答えた。
ちょっと彼は口をつぐんだ。彼の足の下で庭径の小石がきしった。
「とにかく、こんな動物どもを集めるには、やっこさん、ずいぶん苦労したこったろうな」
デイズィの衿もとに煙っているように見える灰色の毛皮の衿の毛並みがかすかな風に騒いだ。
「でもあの人たちのほうが、あたしたちの知ってる人たちよりもおもしろいことはおもしろいわ」彼女は無理してそう言った。
「きみは、たいしておもしろそうな顔もしてなかったじゃないか」
「あら、おもしろかったわ」
トムは笑ってぼくの顔を見た。
「きみ、デイズィがあの女にシャワーの下へ連れてってくれって頼まれたときの顔、気がついたかい?」
デイズィは、音楽に合わせ、かすれた低声を調子にのせて歌を歌いだした。一語一語に、これまでにもなく、これからもおそらくあるまいと思われる意味をにじませながら。曲の調べが高まると、それに合わせる彼女の声は、コントラルトの例にもれず、美しく震えを帯びてくる。そして転調のたびごとに、彼女の持つ温かい人間的な魅力をすこしずつあたりにまき散らすのだった。
「招待されないのに出かけてくる人がいっぱいいるのよ」ふいに彼女はそう言った「あの女の子も招待されたわけじゃない。強引にやってくるのを、あの人はこばむのも失礼だと思ってるのよ」
「あの人とはいったい何者かね、何をやってるか知りたいもんだ」トムはなおもそう言った「いまにきっとつきとめてやるからな」
「いますぐだってわかってるわ」彼女が答えた「ドラッグストアを持ってたのよ。ほうぼうにいっぱい。みんな自分で作ったのよ」
なかなかこなかったリムジーンが、エンジンの音をとどろかせながら、ようやく庭径を走ってきた。
「おやすみなさい、ニック」デイズィが言った。
彼女の視線がぼくを離れてあかりの射した石段の上に人影を求めた。しかし開かれた戸口からは、『夜明けの三時ごろ』という、この年はやった、すっきりとして哀感をたたえたワルツの曲が流れでてくるばかりだった。やはりギャツビーの家のパーティのこの四角張らない無造作なところにこそ、彼女の世界からは完全に失われてしまったロマンチックなものを生む可能性がある。あの歌が彼女をふたたび家の中に呼びもどすかに聞きなされるのは、あの石段の上の家の何がそうするのであろう? いまや灯が消えて薄暗く謎めいて、これから何が起るか予測し得べくもないたたずまいである。だれか思いももうけぬ客人が到着するのかもしれぬ。とてもすてきなすばらしい人が、ほんとうに輝くばかりの美人が到着し、不思議な邂逅の一瞬に、わかわかしい眼差しをちらりとギャツビーに投げかけただけで、一途に愛情を捧げきたったこの五年の歳月を、かき消してしまうかもしれぬのだ。
その夜、ぼくは、おそくまで残っていた。ギャツビーが、身体があくまで待っていてくれと言ったからである。水を浴びねば承知せぬ連中が、涼をとって颯爽と暗い浜辺から駆けあがってきて、頭上の客室の灯も消えてしまうまで、ぼくは庭をぶらついていた。ようやくのことでギャツビーが石段をおりてきたが、陽焼けした顔は異様に緊張し、眼は疲労をたたえてぎらぎらと輝いていた。
「あの人は気に入らなかった」くるや否や彼は言った。
「そんなことはないさ」
「いや、気に入らなかったんです。ちっとも楽しくなかったのです」
そう言って彼は口をつぐんだ。その沈黙は、口には言えぬ彼の憂鬱を物語るかのようだった。
「なんだかあの人から遠く離れてしまったような気がするんですよ。あの人にはわかってもらえないんだ」そう、彼は言った。
「ダンスのことを言ってるの?」
「ダンス?」彼は、その夜彼が何度か踊ったダンスをひとまとめにして掃きすてるように指を鳴らすと「親友、ダンスなんて問題じゃない」と、言った。
彼はデイズィにトムの所へ行って「あなたを愛していなかった」と、言ってもらいたいという。それでなければ満足できないというのだ。このひとことで四年の歳月を消し去ってしまえば、そのあとで、もっと実際的なとるべき方策をいろいろ決めることができる。たとえば、彼女が自由な身になったところで、二人はルイヴィルに帰り、五年前と同じように、彼女はもとの姓にもどって結婚する、といったように。
「ところがあの人はわかってくれない」と、彼は言った「昔はいつもわかってくれたんだけど。わたしたちは何時間もいっしょに坐って――」
ふと口をつぐむと、彼は、果物の皮や棄てられた徽章やひしゃげた花などがきたなく散らかった小径を行ったり来たりしはじめた。
「ぼくなら無理な要求はしないけどな」思いきってぼくはそう言った「過去はくりかえせないよ」
「過去はくりかえせない?」そんなことがあるかという調子で彼の声は大きくなった「もちろん、くりかえせますよ!」
そう言って彼は、やっきとなってあたりを見まわした。彼の家が影を落しているこの庭の、どこか手をのばせばすぐ届く所に、過去が潜んでいるかのように。
「わたしは、何もかも、前とまったく同じようにしてみせます」断乎としてうなずきながら彼は言った「あの人にもいまにわかります」
彼はいろいろと過去を語った。それを聞いてぼくは――何かを取りもどそうとしているのだ、デイズィを愛するようになった何か――おそらくは自分に対するある観念をでも――取りもどそうとしているのではないかと思った。デイズィを愛するようになってから、彼の人生は紛糾し混乱してしまった。だが、もし彼が、いったんある出発点にもどり、ゆっくりと全体をたどりなおすことができるならば、事の次第をつきとめることができるだろう……
……五年前のある秋の夜のことだ。二人は、木の葉の舞い落ちる街筋を歩いていた。そのうちに二人は、一本も木立ちのない所へ出た。歩道が白く月光を浴びていた。二人はそこで歩みをとめて互いにむきあって立った。春と秋と、年に二度訪れるあの神秘的な興奮をうちにたたえた涼やかな夜だった。家々のもの言わぬ灯も闇の中に何ごとかをささやき、星屑も戦き騒いでいる。ギャツビーは、自分の眼の片隅に、何丁も続く歩道がほんとうに梯子になって、並木の上の人知れぬ所まで通じているのをはっきりととらえた――もし彼がひとりで登るならば、そこまで彼は登って行ける。そしていったんそこへ行きつけば、生命の糧を吸収し、たぐいない驚異の乳をとくとくと飲むことができるのだ。
胸の鼓動がますます速くなったとき、デイズィの白い顔が彼の顔に迫ってきた。この娘に接吻し、いうにいわれぬ自分の夢をこの娘のはかない呼気に結びつけたならば、もはやおのれの心がふたたび神の心のごとく天翔けることができないのはわかっている。だから彼は、星に打ちつけられた音叉の響きになお一瞬耳を傾けながらためらった。それから彼女に接吻した。彼の唇にふれられて、彼女は彼にむかって一輪の花のごとく開花した。同時に彼の夢も一個の人間の姿に具象化されたのである。
彼の話を聞き終ると、それは不快な感傷に彩られていたとはいうものの、ぼくは何かを思いだした――遠い昔、どこかで耳にしながら聞き流していた音楽のリズム、忘れていた言葉の断片。一瞬、ある言葉がぼくの口の中で形をとりそうになり、ぼくの口は唖の口のように開いて、一塊の空気の振動ばかりでなく、そのうえ何かを生みそうだった。しかし、そこから音は生れなかった。そしてぼくが思いだしそうになったものは、永久に他に伝わらぬままに終ったのである。
第七章
ギャツビーによせる好奇の念が最高潮に達したころである。土曜日の夜なのに彼の家に灯のともらぬことがあった――そして、成り上がり者としての彼の生活は、そのはじまりと同じく謎のうちに終りをつげた。期待にみちて彼の邸宅の車寄せにはいる車が、ちょっと停車したままで、すぐまた不満げに走り去って行くのに、徐々にではあるが、ぼくも気づくようになった。ぐあいでも悪いのかと思い、ようすを見にゆくと――人相の悪い見なれぬ執事が戸口に出て、うさんくさげにぼくを見た。
「ギャツビーさん、病気ですか?」
「いや」と、言いすててからしばらくして彼は、しぶしぶつけ足すように「そうではございません」と、言いなおした。
「ここのところ見かけませんでしたからね。ちょっと心配してたんです。キャラウェイがきたと伝えてください」
「だれですって?」彼はぶしつけな態度でたずねた。
「キャラウェイ」
「キャラウェイね。わかりました。お伝えしましょう」
いきなり彼はばたんとドアを閉めた。
ぼくのところの家政婦は、ギャツビーが一週間前にそれまでの使用人を全部解雇して、代りに他の者を六人入れたこと、彼らは商人に抱きこまれるといけないというので、ついぞウェスト・エッグの村まで出かけたためしがなく、いつもわずかばかりの品を電話で注文しているのだと、ぼくに知らせてくれた。食料品店の小僧の話では、台所はさながら豚小屋のようだというし、今度はいった連中は召使なんかじゃないというのが村でもっぱらの噂だった。
翌日ギャツビーからぼくのところに電話がかかってきた。
「引っ越すの?」と、ぼくはきいた。
「いいえ」
「使用人を全部くびにしたとかって聞いたけど」
「あまり口の軽くない人間がほしかったのです。デイズィがよく訪ねてきますしね――午後に」
さては、デイズィの不満にあって、あの大邸宅全体が、カルタの家のごとくにくずれ去ってしまったのか。
「あの人たちは、ウルフシェイムがどうにかしてやってくれと言うんでね。みんな兄弟姉妹どうしなんですよ。前には、小さなホテルを経営していたのです」
「なるほど」
彼は、デイズィの頼みで、いま電話をかけているのだが――ぼくに、明日彼女の家へ昼食をとりに行かぬかという。ミス・ベイカーも行くというのだ。それから三十分の後、デイズィ自身が電話をかけてきた。そして、ぼくが行くと知ってほっとした気配だった。何かがあったにちがいない。それにしても、わざわざそんな折をよって彼らがいざこざを起すはずはない――ましてこの前ギャツビーが庭でほのめかしたような愁嘆の場を演ずることは、よもやあるまいとぼくは思った。
翌日は、焼けつくような暑さ、この夏のほとんど最後の、そしてまちがいなく一番暑い一日だった。ぼくの乗った列車がトンネルを抜けて陽光の中にとびこんだとき、たぎり立つような真昼の静寂を破るものとては、ただ、ナビスコ製菓会社のけたたましい汽笛ばかりだった。麦藁を詰めた客車の座席は、いまにも燃えたたんばかり。ぼくの隣に坐った女は、しばらくのあいだ、白いシャツブラウスにうっすらと汗をにじませていたが、そのうち、手にした新聞もじっとりと湿ってきたかと思うと、もはやたえきれなくなったか、なさけない声を出して、深い暑熱の中に身をまかせていった。彼女の紙入れが、ぱたりと床に落ちた。
「やれ、やれ」あえぐように彼女は言った。
ぼくは、億劫そうにして身をかがめると、その紙入れを拾いあげて彼女に返してやった。他意ないことを示すためにぼくは、紙入れの一番のはしっこをつまんで、できるだけ身体から離して持ったのだが――しかし、ぼくの近くの者はみなその女までも含めて、やはりぼくを疑っていた。
「暑いですねえ!」車掌が顔見知りの人たちに言った「えらいこっちゃ!……暑い!……暑い!……暑い!……まだ足りない? 暑い? え?……」
彼が返してよこしたぼくの定期券には、黒く指のしみがついていた。この暑熱なら、かりに彼にその熱した唇を吸われたとしても、頭が彼の胸にもたれかかってワイシャツに汗をにじませることになったとしても、気にしてなどおれぬのではないか。
……ギャツビーとぼくが、ビュキャナンの家の戸口に立って案内を待っていたとき、広間を吹きぬける微風にのって、電話のベルの音が外まで聞えてきた。
「旦那様の車の車体が!」執事が受話器にむかってがなり立てている「申しわけございませんが、奥様、それは手前どもも準備いたしかねましてございます――今日の昼間はなにしろあまりの暑さでございまして、手もふれかねるしだいでございますが!」
口ではそう言いながら、その実彼は「はい……はい……承知しました」ということを伝えていたのであった。
執事は受話器を置くと、汗ばんだ顔を光らせながらぼくたちのほうへ近づいてきて、ぼくたちの堅い麦藁帽子を受けとった。
「奥様は客間でお待ちでございます」声高にそう言いながら、彼は、その必要もないのにわざわざ客間のほうを指し示した。この暑熱では、よけいな身ぶりなど、人並みの生命をうちにたたえた者にとっては、腹立たしいくらいのものだった。
日よけが深く影を落したその部屋は、暗く涼しかった。デイズィとジョーダンが、巨大な寝椅子に身を横たえて、銀製の偶像というか、扇風機のまき起す颯々たる風に舞う白衣を静かにおさえていた。
「動けないわ」二人がいっしょにそう言った。
ジョーダンは、陽に焼けた肌の上に白粉をぬった手を、しばらくぼくにあずけていた。
「で、スポーツマン・トム・ビュキャナン氏は?」と、ぼくはたずねた。
そうぼくがたずねると同時に、その当のご本人が、広間の電話にむかって話している、つっけんどんなしゃがれ声が、すこしこもって聞えてきた。
ギャツビーは、緋の絨 毯のまんなかに立って、うっとりとあたりを眺めまわしている。そのようすを見守ってデイズィが、甘くひとの心をそそる笑い声をたてた。と、その彼女の胸もとから、かすかな白粉の渦が、ゆらゆらと舞いあがった。
「噂によると、あの電話の相手はトムのいい女なんだって」小声にジョーダンがささやいた。
ぼくたちは口をつぐんだ。広間の声が、やっかいなことでもあるか、急に高くなった「じゃあ、いいよ。きみにあの車を売るのはやめだ。……きみに対してべつに責任があるわけじゃないんだからな、――それから、昼飯どきにそんなことでおれの邪魔をしたについては、容赦しないから!」
「あれは受話器をかけたままで言ってるのよ」と、デイズィが皮肉を言った。
「いや、それはちがう」と、ぼくは、彼女にむかって断言した「あれは本物の取引ですよ。ぼくは偶然知ったんだ」
さっとドアが開き、一瞬、トムのがっしりした身体が戸口を塞ぐように立ちはだかったかと思うと、すぐ彼は、いそいで中にはいってきた。
「ギャツビー君!」彼は、巧みに嫌悪を隠しながら、大きな平たい手をさしだすと「よくいらしてくださった。……ニック……」
「冷たい飲み物をつくってよ」甲高い声でデイズィが言った。
夫がまた部屋から出て行くと、彼女は立ちあがってギャツビーのかたわらに歩み寄り、彼の顔を引きよせて唇に接吻した。
「あたしが愛してること、あんた知ってるわね」小さく彼女はささやいた。
「ここにご婦人がいるのを忘れてもらっちゃ困るよ」と、ジョーダンが言った。
デイズィはそうかしらというようにあたりを見まわした。
「あんたも、ニックに接吻なさい」
「まあ、オゲレツなことをおっしゃるわねえ!」
「かまうもんか!」はきだすようにそう言うと、彼女は、煉瓦でたたんだ暖炉のそばで、ひょこひょこ木靴の踊りをおどりだした。それからふと、激しい暑熱を思いだし、悪いことをしたとでもいうように、寝椅子の上へ腰を落した。ちょうどそのとき、洗濯したての服を着た保母が、小さな女の子を連れて部屋にはいってきた。
「だいじなかわいいお嬢ちゃま」デイズィは、小さく甘くささやきながら両腕をさしのべ「さあ、あなたを愛するお母ちゃまのとこへいらっしゃいな」
少女は保母の手を離れると、母親のそばへ駆け寄って、きまり悪そうに、母の衣裳の中へ身を埋めてしまった。
「だいじなかわいいお嬢ちゃま! その黄色なかんかんに、ママの白粉がくっつかなかった? さあ、ちゃんと立って、言ってごらんなさい――『こんにちは』って」
ギャツビーとぼくは、代る代る身をかがめて、小さなためらいがちな少女の手を無理に握った。それから彼は、意外そうにその子をいつまでも眺めていたが、そのときまでその子の存在を信じていなかったのかもしれぬ。
「わたし、お食事だから、おべべを取りかえたの」子供は、そう言いながら、これ見よと言いたげにデイズィを振りむいた。
「それは、ママがあなたをみなさんにお見せしたかったからよ」そう言って彼女は、一つくびれた、小さな白い頸に顔を埋めた「あなたは夢よ。だいじなだいじな、かわいい夢よ」
「はい」子供はおだやかにそう言った「ジョーダンおばちゃまも白いおべべを着たの」
「あなた、ママのお友だち、好き?」そう言いながらデイズィは、娘の身体をまわして、ギャツビーのほうにむかせた。「あのおじちゃまたち、きれいだと思う?」
「パパはどこ?」
「この子、父親には似てないのよ」デイズィが言った「あたしに似てるの。頭の毛も顔の形もあたし譲りなの」
デイズィは、胸を張って寝椅子の上に坐りなおした。保母が進み出て手をさしのべ、
「さあ、まいりましょう、お嬢ちゃま」
「さようなら、パミーちゃん」
躾のよいその子は、心残りそうにあとを振りかえりながら、保母の手にしがみついたまま、引きずられるようにして戸口から出て行った。それと入れちがいに、トムが、氷のかけらのかちかち鳴る四杯のジン・リッキーをあとに従えながら、もどってきた。
ギャツビーは自分のグラスを取りあげた。
「これはなるほど涼しそうですね」彼は、緊張の色もあらわに、そんなことを言った。
ぼくたちは、むさぼるように、息もつかず飲んだ。
「太陽は年々熱くなるって、どこかに書いてあったが」と、愛想よくトムが言った「まもなく地球は太陽と衝突するらしい――いや、待てよ――反対だ――太陽は年々冷たくなってゆくんだ」
「外へ出ましょう」と、彼はギャツビーを誘った。「ぼくのうちをちょっと見ていただきたい」
ぼくも彼らといっしょにヴェランダに出た。暑熱によどむ緑の「海峡」を、小さな白帆が一つ、さわやかな外海へむかってゆっくりと這ってゆく。ギャツビーの眼はしばしその白帆を追っていたが、ふと、片手をあげて、入江のむこう側を指さした。
「わたしのところは、お宅のまむかいです」
「そうですな」
ぼくたちは、バラの花園からその先の熱した芝生、その先の渚にすてられたごみの上に雑草が茂って夏の陽を浴びている、そのまたかなたを眺めやった。涼やかな青空が水に連なるあたりを、白い帆が動いて行く。白帆の行く先には、帆立貝の貝殻の形をした海に、無数の楽しげな島々が点在していた。
そのほうへ頤をしゃくりながらトムが言った「あれは気ばらしにもってこいだな。ぼくもあいつといっしょに一時間ばかり沖に出てみたいよ」
ぼくたちは、やはり暑さを避けてほの暗くした食堂で軽い昼食をとり、冷たいビールで妙にはしゃいだ興奮をのみくだした。
「午後はあたしたち、自分をどう処理する?」と、デイズィが声を高めて言った「それから、明日も、明後日も、これから三十年間」
「病的になるのはやめてよ」と、ジョーダンが言った「秋になってさわやかになれば、また新しい人生がはじまるさ」
「だって、あんまり暑いんだもの」デイズィは、いまにも泣きだしそうなようすで、なおもそんなことを言った「それにすべてがこんがらがっちゃって。みんなでニューヨークへ行こうよ!」
そのばかばかしい提案は、具体的な姿を思い描かせながら、暑い部屋の中の暑さに抗してみんなに伝わっていった。
「厩をガレージに改造する話は聞いたことがあるが」と、トムがギャツビーにむかって話している「しかし、ガレージを改造して厩にしたのはぼくをもって嚆矢としますな」
「ニューヨークに出たい人はだれ?」と、デイズィは、まだ根気よくたずねている。その彼女のほうへギャツビーの視線が流れて行くと「あら」と、彼女は声を高めて「あなた、とっても涼しそうだ」
そうして二人の眼は会った。そして、しばらくのあいだ二人は、他をいっさい忘れて、じっと見つめ合っていた。それから、ふりきるように彼女は、テーブルの上へ視線を落したが「あなたはいつも、とっても涼しそうね」と、また同じことをくりかえした。
それは、彼にむかって愛していると語ったも同然だった。そして、トム・ビュキャナンがそれに感づいた。彼は愕然とした。彼はわずかに口を開け、ギャツビーを見やった。それからデイズィに視線をもどした、遠い昔の知り合いだったことにいま気がついたといったように。
「あなた、あの人の広告に似ててよ」彼女は無邪気に言い続けた「あなた、あの人の広告をご存じでしょう――」
「よし」と、トムが急いで口をはさんだ「ぼくは断然、ニューヨークに行くぞ。さあ――みんなでニューヨークへ行こう」
彼は、なおも、ギャツビーと妻とをちらちら交互に見やりながら立ちあがった。だれも動かなかった。
「行こうよ!」彼の癇癖がぴくりと動いた。「いったいどうしたっていうんだい? ニューヨークへ行くんなら、出かけようじゃないか」
自制の努力にふるえる彼の手が、ビールの最後の一口を口もとに運んで行く。デイズィの声にぼくたちは腰をあげ、外の焼けつく砂利道に出た。
「このまますぐ行くの?」と、彼女は不満そうに「こんな格好で? まず煙草を吸ってからにしてよ」
「煙草なら、食事のあいだじゅう、みんな吸ってたさ」
「ねえ、楽しくやってよ」彼女は夫に頼みこむような語調だった「バタバタするの、暑くてたまんないわ」
彼は答えなかった。
「勝手になさい」彼女はそう言った「いらっしゃい、ジョーダン」
二人は支度をしに二階へあがって行ったが、そのあいだぼくたち男三人は、その場に立って、熱した小砂利を足でかき寄せたりしていた。西の空には、弓なりに曲った銀色の月がすでにかかっていた。ギャツビーが口を開きかけた。が、思いなおして口をつぐんだ。しかし、そのときすでにトムが、くるりとむきなおって、話を待ち受けるような表情をした。
「あなたの厩はここにあるんですか?」ギャツビーは、苦しまぎれにそんなことを言った。
「この先四分の一マイルばかり行ったところです」
「ほう」
そこでまた話が切れた。
「ニューヨークへ行くなんて、どういう了見なんだ」いきなり噛んで吐きだすようにトムが言った「女ってやつは、とんでもないことを考えやがって――」
「何か飲み物を持って行く?」二階の窓からデイズィが叫んだ。
「おれがウィスキーをとってくるよ」そう答えて、トムは家の中にはいって行った。
ギャツビーは、ぎごちなく、ぼくを振りむくと、
「親友、わたしは、あの人の家の中では何も言えませんよ」
「デイズィの声には無分別なとこがあるからね」と、ぼくは言った「あの声は――」と、言いよどんでいると、
「あの声はお金にあふれているんです」と、いきなり彼はそう言った。
まさにそのとおり。それまでぼくは気づかなかったけれども、それは金にあふれた声だった――高く低く波動するあの声の尽きせぬ魅力はそれだったのだ。りんりんとしたあの響き、あのシンバルの歌声、あれは金の音であった……いと高き純白の宮殿に住む王女、黄金の娘……
トムが、一クォート瓶をタオルにつつみながら、家の中から出てくる、そのあとに続いて、デイズィとジョーダンが、金属性の布の、小さなぴっちりした帽子をかぶり、軽やかなケープを腕にかけて現われた。
「みんないっしょに、わたしの車でまいりましょうか?」ギャツビーがそう言って車の座席の暑い緑の革にさわってみた「日陰に入れておけばよかったな」
「その車、ギヤのシフトは普通のタイプですかな」
「ええ」
「じゃあ、あなた、ぼくのクーペにお乗りなさい。そしてニューヨークまでぼくにあなたの車を運転させませんか」
これはギャツビーにとって愉快な提案ではなかった。
「あまりガソリンがはいってないと思うんですがねえ」彼は反対の意向をにおわせた。
「ガソリンはたくさんですよ」乱暴にそう言いすててトムは計器を見た。
「それにガソリンがきれたら、ドラッグストアに停めればいいし。近頃はドラッグストアでなんでも買えますからな」
これは、いかにも変な話だったから、みんな黙ってしまった。デイズィは、眉根を寄せてトムを見やった。そしてギャツビーの面上を、なんとも言いようのない表情がよぎった――言葉で描写するのを聞いたことがあるだけみたいで――見るのはいまがはじめてなのに、それでいてなんとなく見覚えがあるような気もする表情が。
「さあ行こう、デイズィ」トムはそう言って、彼女を手でギャツビーの車のほうへ押しやった。「おまえをこの巡回サーカスの車で連れてってやろう」
彼はドアを開けた。が、彼女は彼の腕から抜けだした。
「あなたはニックとジョーダンを乗せてらっしゃい。あたしたちはクーペであとを追うから」
彼女は、ギャツビーの傍に歩いて行って、彼の上衣に手をふれた。ジョーダンとトムとぼくとは、ギャツビーの車の運転席に乗りこんだ。トムが、はじめて握るギヤを慎重に入れた。そしてぼくたちは、むっとする暑熱の中に勢いよく飛びだし、あとに残った二人の姿は見えなくなってしまった。
「きみはあれを見たかね?」と、トムがたずねた。
「何を?」
彼は、ジョーダンもぼくも最初から知っていたにちがいないと気がついて、鋭くぼくをにらんだ。
「きみは、おれのことをとんだ間抜けと思ってんだろう」そう、彼は言った「おそらくそのとおりだろうよ。しかしだ、おれは、その――ときどき、第六感みたいなものがひらめいてだな、こいつがおれにとるべき途を教えてくれることがあるんだ。きみは信じないだろうが、しかし科学はだ――」と、言いかけて彼は口をつぐんだ。当面のできごとが彼をとらえ、理論の淵に落ちこむ寸前で彼を引きもどした格好であった。
「おれは、あいつを少々調査してみたんだ」と、彼は言葉を続けた「こうと知ったらもっと深いとこまで行けたんだが――」
「つまり、霊 媒のとこへ行ってきたってわけ?」と、ジョーダンはからかった。
「なんだって?」彼は、笑っているぼくたちのほうをけげんそうに見つめながら言った「霊媒だって?」
「ギャツビーのことでよ」
「ギャツビーのことで? いや、ちがう。おれは、あいつの過去を少々調査してみたと言ったんだ」
「そしたら、あの人がオックスフォードの卒業生だということがわかった、というんでしょう」と、ジョーダンはいたわるように言った。
「オックスフォードの卒業生だと?」彼は疑惑を露骨にあらわして「オックスフォードが聞いて呆れるよ! やっこさんはピンクの服を着てる男だぜ」
「それだって、オックスフォードの卒業には違いないさ」
「大方、ニューメキシコ州のオックスフォードとかなんとか、そんなとこにきまってる」いかにも軽蔑したようにトムは、噛んで吐きだすように言った。
「ねえ、トム。あんたがそんな見栄坊なら、なんだってあの人を食事に招いたりなんかしたのよ?」ジョーダンが意地悪くたずねた。
「デイズィがよんだんだよ――あれは、おれたちが結婚する前から、あいつを知ってたんだ――どこで知り合ったものやらわかったもんじゃない!」
ぼくたちはいまや、さめてゆくビールの酔いにみんないらだっていた。そして、それを意識しながら、しばらくのあいだ黙って車を走らせた。やがて、道のかなたに、T・J・エクルバーグ博士の色あせた眼が見えてきたとき、ぼくは、ガソリンについてギャツビーが与えた注意を思いだした。
「ニューヨークまで行くには十分だよ」と、トムは言った。
「でも、すぐそこに修理工場があるわよ」と、ジョーダンは不満そうに「あたし、こんな焼けつくみたいな暑さの中で立往生するの、いやよ」
トムは、いらだたしげに両方のブレーキを入れ、ぼくたちは、ウィルスンの看板の下に、砂塵をまき起しながらいきなりすっとすべりこんで停った。しばらくすると、家の中から主人が姿を現わした。そして、金壺眼で車を眺めやった。
「ガソリンを入れてくれ!」乱暴にトムがどなった「なんのために車を停めたと思ってるんだ――景色を眺めるためだとでも思ってるのか?」
「ぐあいが悪いんですよ」ウィルスンは身動きもせずにそう言った「朝からずっとぐあいが悪いんで」
「どうしたんだい?」
「すっかりまいってしまいました」
「じゃあ、おれが自分で入れようか?」と、トムは言った「電話ではなんともなさそうだったじゃないか」
苦しそうにウィルスンは、寄りかかっていた日陰の戸口を離れると、息をきらせながら車のタンクのキャップをひねった。日向に出ると、彼の顔は草のように蒼かった。
「お食事の邪魔をするつもりはなかったのです」と、ウィルスンは言った「しかし、どうしても金が要るもんですからね、あなたがあの古い車をどうなさるおつもりかと思って」
「この車はどうかね?」と、トムは言った「先週買ったんだが」
「黄色のいい車じゃありませんか」ウィルスンは苦しそうに、ポンプのハンドルをしきりと動かしながらそう言った。
「買うかね?」
「冒険ですな」ウィルスンはよわよわしく微笑した「駄目ですよ。しかし、あっちの車ならいくらか儲かるんですがねえ」
「なんだって急に金が要るんだい?」
「この土地も長くなりすぎましたんでねえ。ほかへ移ろうと思うんですよ。女房もわしも西部へ行こうと思いましてねえ」
「奥さんもかね」驚いたように、トムの声が高くなった。
「あれは十年も前からそう言ってるんですよ」彼は、額に手をかざしながら、ポンプにもたれてちょっと休んだ「しかし今回は、あれが行きたかろうがなかろうが、とにかく連れてくつもりです。ここに置いとくわけにはいきませんや」
クーペが、砂塵をまき起しながら、ぼくたちの前をさっと通り過ぎた。打ちふる手がちらりと見えた。
「いくらだ?」とげとげしい語調でトムがたずねた。
「つい二日前にちょっと妙なことに感づきましてね」と、ウィルスンが言った「それでわしも、動く気になったんですよ。車のことであなたにご迷惑をかけたのもそのためなんで」
「いくらかね?」
「一ドル二十セントで」
容赦なく炒りつける炎熱に、ようやくぼくの頭も混乱しはじめていたが、これはまずいなと思ったのはほんの一瞬で、すぐそのあとからウィルスンの嫌疑がまだトムにかかっていないことを悟った。ウィルスンは、マートルに、何か自分から離れた別の生活があることを発見し、その衝撃のために肉体まで病気になったのである。ぼくは、彼のようすを見つめ、次にトムを見てみた。トムも一時間たらず前に、これと同じような発見をしたわけである――そしてふとぼくは考えたのだが、人間はしょせん似たり寄ったり、知性の相違、人種の違いといったところで、病人と健康人ほどにも違わないのじゃなかろうか。ウィルスンは、罪を犯した人間とも見えるほどに健康をそこねていた、何か許しがたい罪を――どこかの貧しい女に子供をはらましたとでもいったような。
「あっちの車を売ってやるよ」と、トムが言った「明日の午後に渡そう」
このあたりは、午後の陽がくまなく照りつけているさなかにあっても、常になんとなく物騒な感じがただよっている。で、いまもぼくは、背後から何かを警告されでもしたようにうしろを振りかえった。すると、灰の山のかなたから、T・J・エクルバーグ博士の巨眼が不断の監視を続けているのが見えた。が、一瞬の後ぼくは、それとは別の眼が、二十フィートと離れぬ所から、凝然とぼくたちを見守っているのに気がついた。
修理工場の上の窓が一つ、カーテンがすこしく片寄せられて、マートル・ウィルスンがそこから下の車をのぞいていたのだ。彼女はすっかり心を奪われていたので、自分が見られていることにはぜんぜん気づかなかった。そして彼女の顔には、いろいろな感情がつぎつぎに、ちょうどゆっくりと現出してくる印画の映像のように、浮び出てきた。それは、不思議と見なれた表情であった――女の顔によく見かけた表情である。しかしぼくは、それが、マートル・ウィルスンの顔に浮ぶのでは意味がわからず、説明に苦しむと思った。が、そのうちにぼくは、嫉妬に駆られた恐怖から大きく見ひらかれた彼女の眼が、トムにではなくジョーダン・ベイカーにじっとそそがれていることを知った。彼女をトムの妻と思っていたのである。
単純な心の混乱に比すべき混乱はない。車を駆って行くみちみちトムは、激しい鞭で打たれるような焦燥を感じていた。一時間前までは危なげもなく守られていた妻と情婦とが、無二無三に彼の手中からすべりでて行こうとしている。本能が彼を動かして、デイズィに追いつき同時にウィルスンをあとにするという二重の目的のために、アクセルを踏ませた。そしてぼくたちは、アストリアにむかい、時速五十マイルで疾走して行ったのである。やがて、高架線の錯綜する橋脚のあいだで、のどかに車を走らせる青い色のクーペが眼にはいった。
「五十丁目界隈のあの大きな映画館が涼しいわよ」ジョーダンがそんなことを言いだした「あたし、みんなが出はらうニューヨークの夏の午後が好きさ。なんだか、とても官能的なものがあるわ――爛熟っていうかな、どんなおもしろい果物が手に落ちてくるかわかんないみたい」
「官能的」という言葉がますますトムの胸中を騒がせたようであった。そして彼がそれを反駁する言葉を思いあぐねているうちにクーペは停車した。そして、デイズィがそばへ寄れとぼくたちに手で合図した。
「どこへ行く?」彼女は大きな声でそう呼びかけた。
「映画はどう?」
「暑いわよ」彼女は不満らしく「あんたたち、いらっしゃい。あたしたちは、あちこち乗りまわして、あとでそちらといっしょになるわ」それから辛うじてウィットを言うだけの力をしぼり出しながら「どっかの街角で会いましょうよ。こっちが煙草を二本吸う男になってあげる」
「ここでそんなことを議論しちゃおれんよ」うしろでトラックがいまいましげに警笛を鳴らしているのを聞きながら、いらだたしそうにトムが言った「おれのあとについてセントラル・パークの南側までくるんだ、プラザ・ホテルの前まで」
何度も彼は、うしろを振りかえって二人の車の姿を求めた。そして、もし他の車に妨げられておくれでもすると彼は、二人の車が視界にはいってくるまで速力を緩めた。おそらく二人が横町に走りこんで、そのまま永久に彼の眼前から姿を消してしまいはせぬかと心配していたのであろう。
しかし彼らは消えなかった。そしてぼくたちは、みんなでプラザ・ホテルの次の間つきの特別室を契約するという、いっそう不可解な行動をとったのだ。
その部屋へぞろぞろとはいりこむことになるまで、飽きもせずに続いたそうぞうしい議論については、いまではぼくはきれいに忘れている。もっとも、その議論がとりかわされているあいだじゅう、ぼくのズボン下が濡れた蛇みたいに脛をはいのぼってくるような気がしたことと、絶えず汗の雫が背中を冷たく流れ落ちていたこととは、その感触そのものまで、まざまざと覚えているけれど。この案は、デイズィが、浴室を五つ借りて水浴をしようと言いだしたのがもとになり、それから「ミント・ジューレップが飲める所」というもっと現実的な形をとるに至ったのだ。ぼくたちは、めいめい、それは「迷案」だと、くりかえし言った――みんなは一斉に、めんくらってるボーイに話しかけながら自分たちはすてきにおもしろいことをやっているのだと考えていた。ないしは、そう考えているふりをした……
その部屋は大きくうっとうしかった。もう四時だというのに、窓を開けても、公園から熱した茂みのいきれがはいってくるばかりである。デイズィは鏡のそばに歩み寄り、ぼくたちに背中をむけながら、髪を整えた。
「すばらしいお部屋ですわねえ」感に堪えたようにジョーダンが小声で言ったので、みんな笑った。
「もう一つの窓を開けてよ」デイズィが、鏡の中をのぞいたままで、そう言った。
「もう開ける窓はないよ」
「じゃあ、電話でつるはしでも注文したら――」
「要は暑さを忘れることだ」いらだたしげにトムが言った「文句を言ったって、十倍もつらくなるだけだぜ」
彼はタオルをほどいてウィスキーの瓶をとりだすと、テーブルの上に置いた。
「奥さんはほっといてあげなさいよ、親友」と、ギャツビーが言った「ニューヨークへ出たがったのは、あなたでしょう」
ちょっと言葉がとぎれた。電話帳が釘からすべりぬけて、どさりと床に落ちた。とたんにジョーダンが「あら、すみません」と、小声に言った――が、このときはだれも笑わなかった。
「ぼくが拾うから」と、ぼくは言った。
「いや、それには及びません」ギャツビーは、切れた紐を仔細に見ていたが「フム!」と、感心したようにつぶやいて、その電話帳を、ひょいと椅子の上にほうりあげた。
「ごたいそうな言葉を使うんだねえ、あんたは」トムが切りこむように言った。
「なんのことです?」
「『親友』とかなんとかいうやつですよ。どこで拾いました?」
「ねえ、トム、いいこと」デイズィが鏡から振りかえって言った「もしもあんたが、人身攻撃をはじめるつもりなら、あたし、すぐにもここを出るわよ。電話してミント・ジューレップの氷でも注文したら」
トムが受話器を取りあげたとき、圧縮された空気が炸裂して音になり、階下の舞踏室からメンデルスゾーンの『結婚行進曲』のものものしい合奏が聞えてきた。
「こんなに暑いさなかに結婚か!」ジョーダンが考えただけでもうんざりというように言った。
「でもあんた――あたしが結婚したのも六月のなかばだったわ」デイズィが昔を思いみるように「六月のルイヴィル! だれかが卒倒したっけ。だれだった、トム、卒倒したの?」
「ビロックスィ」ぶつりと、トムが答えた。
「ビロックスィという人。鈍感覚派のビロックスィっていうの、そして箱をこさえてんのよ――ほんとなんだから――そして生れはテネシー州のビロックスィときてるんだ」
「それをあたしの家に運びこんだのよ」と、ジョーダンが補足して「というのはつまり、うちは教会からつい二軒目だったってわけ。そうしてその人はそのまま三週間もうちにおちついちまってさ、しまいにパパが出て行ってくれって、そう言った。そうして出て行った翌日にパパが死んだんだ」と言って、ちょっと言葉を切り「べつにそこに関係はないけどさ」
「メンフィスのビル・ビロックスィという男なら、ぼくは昔よくつき合ってましたよ」と、ぼくが言った。
「それはいとこよ。あの人が帰るまでに、親戚全部の経歴を聞いちまった。あたしがいま使ってるアルミニウムのパターは彼がくれたのよ」
式典がはじまったのか、行進曲はいつしかやみ、今度は長く尾をひく歓呼の声が窓から流れこんできたが、続いて「よう――よう!」という叫び声が間歇的に聞え、しまいに、どっとばかりにジャズが爆発して、ダンスがはじまった。
「あたしたちも年取ったわね」と、デイズィが言った「若かったら、みこしをあげてダンスでもするのに」
「ビロックスィを忘れないで」と、たしなめるようにジョーダンがデイズィに言った「トム、あんた、どこであの人と知り合いになったの?」
「ビロックスィか?」彼は一所懸命注意を集中しようとしながら「あれはぼくの知り合いじゃない。デイズィの友だちだ」
「ちがうわよ」と、デイズィは否定して「あたしは、あのときはじめてあの人に会ったのよ。あの人、あんたの借りきった客車できたんじゃないの」
「しかし、あの男はきみを知ってるって言ってたぜ。ルイヴィルで育ったんだって。最後の瞬間にエイサ・バードが連れてきて、このかたを乗せてあげる余裕がないかって、そう言ったんだよ」
ジョーダンは微笑した。
「おそらくあちこちにたかりながら家へ帰って行ったのよ。あたしには、イェールで、あんたのクラスの級長だったって、そう言ってた」
トムとぼくとは、あっけにとられた顔を見合わせた。
「ビロックスィが?」
「第一、ぼくたちには級長なんてなかった――」
ギャツビーが気ぜわしく小刻みに足をふみならした。トムがいきなり彼のほうをかえりみて、
「話はちがうが、ギャツビーさん、あなた、オックスフォード出だそうですな」
「厳密にはそうじゃありません」
「いや、オックスフォードへ行ったんでしょうが」
「ええ――行くことは行きました」
ちょっと言葉がとぎれた。が、やがてトムが、不信と軽蔑の色をこめて――
「あんたがオックスフォードへ行ったのも、ビロックスィがニューヘイヴンへ行ったのと同じころなんじゃないかな?」と、言った。
また言葉がとぎれた。給仕がノックして、砕いた氷とミントを持ってきたけれど、彼が「サンキュー」と言いながら、静かにドアを閉めて帰って行っても、沈黙の空気はくずれなかった。そしてとうとう、次のような見事な事実が明かされることになったのである。
「行くには行ったといま話したでしょう」と、ギャツビーが言った。
「それは聞いたさ。しかし、それがいつなのか、知りたいんですよ」
「一九一九年です。五カ月いただけです。だから、ほんとうはオックスフォードの卒業生と言えないんですよ」
トムは、彼の疑惑がぼくたちにも反映しているか見てみようとして、すばやくぼくたちの顔に視線を走らせた。が、ぼくたちはみんな、ギャツビーを見守っていた。
「将校の中には、『休戦』のあとで、そうした機会に恵まれた者もあったのです」と、ギャツビーは言葉を続けた「イギリスやフランスのどの大学へでも行けたんですよ」
ぼくは立って行って、ぴしゃりと軽く彼の背中をたたいてやりたいくらいだった。前にも経験したことだが、このときまた、彼に対する完全な信頼がふたたび蘇ってきたのだ。
デイズィは、かすかな微笑を浮べて立ちあがると、テーブルに歩み寄った。
「トム、ウィスキーの口を開けてよ」そうきめつけるように彼女は言った「あたしがミント・ジューレップをつくってあげる。そしたら、自分のばかさ加減に気がつくでしょう……鏡ならぬミントを見よ!」
「ちょっと待て」と、噛みつくような調子でトムが言った「もう一つ、ギャツビー氏にききたいことがあるんだ」
「どうぞ」丁寧にギャツビーは答えた。
「いったいきみはわが家にどんな騒動を起そうというんだ?」
とうとうあからさまなことになってしまったが、ギャツビーは満足だった。
「騒ぎを起しているのはこちらじゃないわ」デイズィは、途方に暮れた顔で二人を交互に見やりながら「あんたが騒ぎを起してるんじゃないの。すこしは自制心を持ってよ」
「自制心だと!」ほんとか、というようにトムはおうむ返しにくりかえした「椅子にそっくりかえって、どこの馬の骨かわからぬ野郎にてめえの女房をくどかせておくのが最新の流行だというのか。しかし、そういうつもりなら、おれは除外してもらおう……近頃は、家庭生活とか家庭のしきたりなんていうと、すぐせせら笑うが、次には何もかも放っぽり出して、白人と黒人の雑婚をやらかすだろう」
自分の熱弁に上気しながら彼は、文明を擁護する最後のとりでに、自分がただ一人で立っている姿を思い描いた。
「ここにいるのはみんな白人だけどな」と、ジョーダンがささやいた。
「おれは自分が格別人気がないことは知ってるよ。盛大なパーティも開きはせん。友だちをつくるためには、自分の家を豚小屋にせねばならんものとみえるよ――近頃の世の中では」
みんなと同じように、ぼくも腹を立てていたのだが、それでも彼が口を開くたびに、ぼくは笑いたくなった。道楽者から道学者への変身はあまりにも見事であった。
「親友、あなたにお話ししたいことがあるんですが――」そうギャツビーが切りだした。が、その彼の言わんとするところをいち早くデイズィは察知して、
「およしになって!」と、しゃにむに相手を押しとどめ「お願いだからみんなうちへ帰ってよ。ねえ、帰りましょうよ!」
「それがいい」そう言ってぼくは立ちあがった「行こう、トム。だれも飲みたい人はいないよ」
「おれは、ギャツビー氏の話というのを聞きたい」
「奥さんはあなたを愛していません」と、ギャツビーが言った「これまでも愛してなかった。奥さんはぼくを愛しているのです」
「きさま、気でも狂ったか!」反射的にトムはどなった。
ギャツビーも興奮でいきいきして勢いよく立ちあがった。
「奥さんはあんたを愛してなかったんだ、わかりましたか」大きな声で彼はそう言った「あんたと結婚したのは、わたしが貧乏だったので、わたしを待ちくたびれたからなんだ。えらい失敗だったけど、しかし、心の中では奥さんは、わたし以外の人間を愛したことがないんだ!」
この機を失せずジョーダンとぼくは帰ろうとした。が、トムもギャツビーも、いずれ劣らず、帰るなと言いはってきかない――まるで彼らには隠すべきものが何もなく、彼らの話の聞き役になって彼らとその激情を共にするのが一つの特権ででもあるような口のきき方である。
「デイズィ、まあ、かけろよ」トムは、つとめて父親が娘に語るような語調を出そうとしたが、うまく果せなかった「いったいどんなことになってたのかね? つつみかくさず話してくれ」
「どんなことになってたのか、さっきわたしが話したでしょう」と、ギャツビーが言った「五年前からのことですよ――あなたは知らなかったけれど」
トムは、きっとデイズィのほうを振りむいて、
「おまえ、こいつと五年前から会っていたのか?」
「会っていたのじゃないさ」と、ギャツビーが言った「そうじゃない。わたしたちは会えなかった。しかしね、親友、その間もずっと愛し合っていたのです、あんたは知らなかったけどね。わたしはあんたが知らないことを考えて、ときどき笑ったもんだ」そう言いながらも、しかし、彼の眼に笑いの影はなかった。
「なんだ――それだけか」トムは、牧師がやるように、肥った両手の指の腹を合わせて、椅子の背にもたれかかった。
「きさまは気違いだ!」こらえかねたように彼はどなりだした「そりゃ、五年前にどんなことがあったか、おれは知らん。そのころのおれはまだデイズィを知らんのだからな――どうやっておまえがデイズィの近くにしのび寄ったものやら、わかろうはずはないさ。おおかた、台所口に食料品でも届けたんだろう。しかしだ、その他のことはみんな、真っ赤な嘘さ。デイズィは、おれを愛して結婚したんだ、そうしていまでもおれを愛している」
「ちがう」かぶりを振りながら、ギャツビーが言った。
「ところが、ちがわんのだよ。問題は彼女、ときどき、変な了見を起して、自分で自分のやってることがわからなくなることがあるんだ」いかにも心得顔に彼はうなずいた「それにだな、おれもデイズィを愛してるんだ。たまには脱線してばか騒ぎもやらかすが、いつもおれはもどってくる。心の中ではいつだってデイズィを愛してるんだ」
「まあ、むかむかする」と、デイズィが言った。彼女は、ぼくのほうをむくと、オクターヴ下げた声にぞっとするほどの軽蔑をこめて「あんた、どうしてあたしたちがシカゴから移ったのか知ってる? そういう脱線の話をみんなから聞かされたでしょうが」
ギャツビーは、つかつかと歩いて行って、彼女の傍に立った。
「デイズィ、そんなことはすっかり終ったんだ」熱をこめて彼は言った「もうなんでもありはしない。あの人にほんとのことを言ってやりたまえ――きみがあの人を愛したことはついぞないんだって――何もかもきれいさっぱり帳消しだって」
彼女は呆然とギャツビーを見つめていた「だって――どうしてあの人が愛せる?――このあたしに」
「あなたは一度もあの人を愛したことなんかないんだ」
彼女はためらった。そして訴えるような眼差しで、ジョーダンとぼくとを見やった、自分のやってることにようやく気づいたというように――こんなことをするつもりは最初はなかったというように。しかし、もうあとの祭りである。いまとなってはおそすぎるのだ。
「あたし、あの人を愛したことなんかない」ためらいの色を見せながらも、彼女は言った。
「カピオラーニでも?」と、不意にトムがたずねた。
「ええ」
下の舞踏室から、息苦しいこもった合奏が、暑い空気の波に乗ってのぼってくる。
「きみの靴が濡れないように、パンチボールから抱きおろしてやったあの日もかい?」そう言うトムの声はかすれて、やさしい愛情がこもっていた……「ええ、デイズィ?」
「よしてよ」彼女の声は冷たかった、が、悪意はすでに消え失せていた。彼女はギャツビーを見つめ「ジェイ、これでいいわね?」と、言った――けれども、煙草に火をつけようとする彼女の手は震えていた。突然彼女は、煙草と燃えているマッチとを、絨毯の上に投げ出した。
「ああ、あなたの要求は大きすぎる!」彼女はギャツビーにむかって訴えた。「あたしはいま、あなたを愛してる――それで十分じゃない? 過ぎたことはどうしようもないわ」彼女は頼りなさそうにすすり泣きはじめた。「かつてはトムを愛してた――でもあなたのことも愛してた」
ギャツビーの眼は開いて、閉じた。
「わたしのことも愛してたんだって?」と、彼は同じ言葉をそのままくりかえした。
「それさえ嘘さ」ぴしゃりとトムがきめつけた「あれは、おまえが生きてることを知らなかったんだ。いいか――デイズィとおれのあいだにはだな、おまえには絶対にわからんことがあるんだぞ、デイズィもおれも、いつまでも忘れられないことがな」
この言葉は、ぐさりとギャツビーの身体に食いこんだようであった。
「わたしは、デイズィと二人きりで話したいな」ギャツビーはそう言った「デイズィはいま、すっかり興奮してるもんだから――」
「二人きりになっても、あたし、トムを愛したことがないなんて言えないわ」可憐な声で彼女は言った「そんなこと言ったら嘘になっちまう」
「もちろん、嘘になるさ」と、トムも言った。
彼女は夫のほうを振りむくと、
「あんたにはどうだっていいことじゃないの」
「どうだってよくはないさ。おれはこれからもっとよくおまえの面倒をみてやるんだ」
「あんたはわかってないな」心持ち激昂の色を見せてギャツビーが言った「あんたは、もう、この人の面倒をみるわけにはいかないんですよ」
「ほほう?」トムは大きく眼を見ひらいて笑った。彼にはもう、自分を統御する余裕ができていた。「それはまたなぜかね?」
「デイズィがあんたと別れるからさ」
「ばかな!」
「でも、それはほんとうなのよ」いかにも苦しそうに彼女は言った。
「デイズィはおれと別れはせん!」突然トムは、ギャツビーの頭上にのしかかるようにしてどなった「彼女の指にはめる指環だって、ひとのを盗まなけりゃならんような、ちゃちな詐欺師のためになんぞ別れるもんか」
「まあひどい! がまんできないわ」デイズィが叫んだ「ねえ、お願いだから出ましょうよ」
「いったい、きさまは何者だ?」トムがどなりだした「マイヤー・ウルフシェイムといっしょにその辺をうろつきまわってる一味の仲間じゃないか――ということは、たまたまおれも知ったのさ。きさまの身辺をいささか洗ってみたんでな――明日はもうすこしやってみるつもりだ」
「そのことでしたらどうぞお好きなように」すこしも騒がずギャツビーは答えた。
「おれはね、おまえのいわゆる『ドラッグストア』なるものがどんなものか、つきとめたんだ」そう言ってトムは、ぼくたちのほうをむいて早口にしゃべりだした「こいつはな、例のウルフシェイムなる男と組んで、ここやシカゴの横町のドラッグストアをいっぱい買収して、大っぴらにエチール・アルコールを売りやがったんだ。それがこいつの芸当の一つなのさ。はじめて会ったとき、おれはこいつを酒の密売でもやってる男かとふんだんだが、あたらずといえども遠からずさ」
「それがどうしました?」ギャツビーは丁寧な言葉で言った「お友だちのウォルター・チェイズさんも、仲間に加わるのを潔しとしなかったわけではなかったようですが」
「そうしておまえは、あいつを見殺しにしやがったんだろう。おかげであいつは、ニュージャージーくんだりで、一カ月も牢屋にぶちこまれた。チェッ! ウォルターがおまえのことをどう言ってるか、きいてみるがいいや」
「あの人がわたしどもの所へきたときにはまったくの無一物だったのです。だからいくらかでもお金が握れてとても喜んでいたのですよ、親友」
「よしやがれ! おれを『親友』だなんて!」言葉鋭くトムは言った。ギャツビーはなんとも言わなかった「ウォルターはおまえを賭博の法律違反で訴えることもできたんだが、ウルフシェイムに脅迫されて口をつぐんじまったんだ」
あの見なれない、それでいてそれとわかる表情が、またギャツビーの顔にもどってきた。
「あのドラッグストアの一件なんか、ほんの小銭みたいなもんさ」トムはおちついて言葉を続けた「ところが、今度は、ウォルターもこわがっておれに言わんようなことをおっぱじめやがったろう」
ぼくは、ちらりとデイズィを眺めやった。彼女はギャツビーと夫とを、怖そうに眼を見はりながら見くらべている。ジョーダンはと見ると、彼女は、頤の先に、眼には見えぬながら彼女の心をとらえて離さぬものをのせて、うまく均衡を保っていた。ついでぼくは視線をもどしてギャツビーを見た――そしてその表情に愕然とした。それはまるで――ぼくは彼の庭で喋 々された中傷など軽蔑しているのだけれど――いかにも、「人を殺したことのある男」の顔だった。このときのこわばった顔つきは、まさしくその突飛な形容に似つかわしかっただろう。
その表情が消えると彼は、デイズィにむかい、やっきとなって話しはじめ、何もかも否定し、浴びせられなかった非難に対してまで自分の名を弁護しはじめた。しかしながら、彼が話せば話すほど、彼女は内に引きこもって行くばかりなので、ついには彼も断念した。それからあとはただ、ひるさがりの時が流れ去って行く中を、いまは死滅してしまった彼の夢が、消え去ったまま部屋のむこうへ退いたあの声にむかって、みじめながらも絶望を知らぬ努力を続けながら、もはや捕えがたくなったものをなおもつかまえようと苦闘し続けるばかりだった。
その声がまた退出を懇願した。
「お願いよ、トム! あたし、こんなのもう、たまんないわ」
おびえた彼女の眼は、これまで彼女がどんなたくらみを持ち、どんな勇気を持っていたにしても、いまやそれがきれいに無くなってしまったことを物語っていた。
「おまえたち二人がうちへ帰ったらよかろうさ、デイズィ」と、トムは言った「ギャツビー氏の車でな」
デイズィは、今度はびっくりしてトムを見やったが、トムは度量の大きそうな口ぶりの中に侮蔑をこめながら言い続けた。
「行けよ。こいつはもうおまえを困らせたりはせんよ。身のほど知らずな求愛遊戯ももう終りだってことは、こいつにもわかってると思うぜ」
二人は、ひとことも言わず、ぷつりとかき消すように立ち去った。とたんに彼らは、ぼくたちとは縁のない、いわば幽霊みたいな、ぼくたちの同情からさえ絶縁したような感じだった。
一瞬の後、トムは腰をあげると、口を切らずに終ったウィスキーの瓶をタオルにくるみはじめた。
「こいつ、要るかね、ジョーダン……ニックは?」
ぼくは返事をしなかった。
「ニックは?」と、彼はまたたずねた。
「なんだい」
「要るかい?」
「いや……ぼくはただ今日がぼくの誕生日なことを思いだしていただけさ」
ぼくは三十だった。前途には、新しい十年の無気味な歳月がおびやかすようにのびていた。
ぼくたちが、トムといっしょにクーペに乗りこみ、ロング・アイランドにむかって出発したのは七時だった。トムは、いかにもうれしげに笑いながら、絶えずしゃべっていたが、その声はジョーダンからもぼくからも遠く離れていて、ぼくたちには歩道に響く無縁の人声や、頭上にとどろく高架線の騒音のようにしか聞えなかった。人間の同情には限界がある。ぼくたちは、彼らのいたましい言い合いの記憶が、流れ去る街の灯とともに薄れてゆくがままに喜んでまかせていた。三十歳――今後に予想される孤独の十年間。独身の友の数はほそり、感激を蔵した袋もほそり、髪の毛もまたほそってゆくことだろう。しかし、ぼくの傍にはジョーダンがいた。これは、デイズィとちがって、きれいに忘れ去られた夢を、年から年へと持ち続けてゆくことの愚かさをわきまえている女だった。車が暗い橋を渡ったとき、蒼ざめた彼女の顔が、ものうげに、ぼくの上衣の肩にもたれかかってきた。そして、ぼくを励ますかに堅く握りしめてくる彼女の手に、三十歳のぼくの衝撃は消え去ってしまった。
こうしてぼくたちは、涼しくなりかけた暮色の中を、死にむかって疾走していったのだ。
例の灰の山のそばでコーヒー食堂を開いていた若いギリシャ人のマイカリス、これが検屍の際の正証人だった。彼は、暑いさかりを五時すぎまで眠ったあとで、修理工場までぶらぶらやってくると、ジョージ・ウィルスンが、事務室の中で病気になっていた――なまやさしい病気ではなく、彼の淡い髪の毛と同じく血の気の失せた顔色をしてふるえていたのである。マイカリスは、彼に寝たほうがいいと言ったが、ウィルスンは、そんなことをしたら客を逃がしてしまうと言ってきかなかった。それでもなお、マイカリスがなんとかしてウィルスンを寝かそうとしていると、頭の上でものすごい騒ぎがはじまった。
「あすこに女房のやつを閉じこめてやったんだ」平然として、ウィルスンがそう言った「明後日まであれをあすこに入れとくんだ。それから二人で立ち退くのさ」
マイカリスは驚いた。彼らは四年も隣りあわせて住んできたが、ウィルスンは、かりにもこんなことの言える男とは見えなかったのである。いつも疲れ果てた男といった感じで、仕事してないときには、戸口にすえた椅子に腰をおろし、道を通る人びとや車を眺めていた。だれか話しかける者があると、きまって彼は、愛想よく形だけの笑いを浮べる。彼は彼の細君の亭主であって、独立した一個の人間ではなかった。
そこでマイカリスが、いったい何ごとが起ったのか探りだそうとしたのは当然なのだが、ウィルスンは、ひとことも言おうとしなかった――代りに彼は、店先に姿を見せた当のマイカリスに不審そうな猜疑の眼をむけはじめ、彼にむかって、これこれの日のしかじかの時に、おまえは何をしていたかとたずねだす始末だった。マイカリスが居心地悪く思いはじめたおりもおり、数人の労働者が、そこの戸口を通り越して彼の店のほうへ歩いて行った。それをしおに彼は、あとでまたきてみるつもりで、いったんその場を立ち去った。しかし、彼は行かなかった。行くのを忘れたというだけのことらしい。七時すこし過ぎに、また表へ出たとき彼は、先刻の会話を思いだした。ウィルスンの細君の声が聞えたからである。ギャレジの階下の部屋で、声高にののしっている。
「ぶったらいいだろ!」と、細君がどなった「あたしをたたきつけて、ぶったらいいじゃないか、この腰抜け野郎!」
一瞬の後彼女は、両手をふり、わめき散らしながら、たそがれた戸外へ駆けだした――そして、マイカリスが門口を離れる間もなくすべては終ってしまったのだ。
「死の車」――と新聞が書いた――その車は、停りもしなかった。しだいに濃くなってきた宵闇の中から現われたと思うと、一瞬ふらふらっと、運命の動揺を見せ、そのまま次のカーブをまわって見えなくなってしまったのだ。マイカリスは、車の色もよく覚えていなかった――最初の警官にはライト・グリーンだと言った。もう一方の車――ニューヨークにむかっていたほうの車――は、百ヤードほど行ったところで停車した。そして運転手が急いで引き返してきてみると、マートル・ウィルスンは、無残に生命を奪われて、道の上にくずおれ、どす黒い血が土埃にまじっていたのである。
マイカリスとこの男とが、一番先に彼女のそばに駆けよったのだが、しかし二人が、まだ汗で湿っているブラウスを引き裂いてみると、左の乳房はもぎとられて、たれぶたのようにたれさがり、中の心臓の鼓動を聞いてみるまでもない。口は大きく開けて両端がすこしく引き裂かれているところ、まるで彼女が、長いあいだにたくわえたものすごい活力を吐きだすのには、口がいささか小さすぎたといった格好だった。
ぼくたちは、現場からすこし離れた所まできたときもう、三、四台の車と人だかりが眼にはいった。
「事故だ!」と、トムが言った「よかったな。これでウィルスンもやっと仕事にありつけるだろう」
彼はスピードを落したが、まだ車を停めるつもりはなかった。しかしだんだん近づいて行くと、店の戸口にいる人びとが、声を呑み、真剣な面持をしているので、反射的にトムはブレーキをかけた。
「のぞいてみよう」けげんな面持で彼は言った「ちょっと見るだけだ」
そのうちぼくは、店の中からひっきりなしにもれてくる、力ない泣き声に気がついた。クーペを降りて、店の戸口に歩み寄っていってみると、それは、苦しげにあえぎながら、「おお、神よ! おお、神よ!」と、何度となくくりかえし訴えている声であった。
「ウィルスンとこがごたついてるぞ」興奮してトムは言った。
彼は爪立ってのびあがり、人垣の頭ごしに店の中をのぞいた。中は、上に吊した金網の中の黄色い電燈が一つともっているばかりだったが、そのうちに彼は、咽喉の奥で妙な音をたてると、頑丈な腕で乱暴に人をかきわけながら、人垣の中に突き進んで行った。
人垣は、たしなめの言葉をささやきかわしながら、ふたたび閉じた。そして、その一瞬の後には、またぼくには何も見えなくなってしまったのである。それから、あとからきた者たちが列をかき乱し、そのためにジョーダンとぼくとは、いきなり中へ押しこまれてしまった。
マートル・ウィルスンの死体は、暑い夜にも寒くてかなわぬといった格好に、毛布にくるまれた上からさらにもう一枚の毛布にくるまれて、壁ぎわの仕事台の上に横たわり、トムは、ぼくたちのほうに背をむけて、その上にかがみこんだまま、身動きもしなかった。その隣にはオートバイで乗りつけた警官が立って、汗みずくになりながら、小さな手帳に訂正しいしいいろいろな事柄を書きとっている。はじめぼくは、がらんとした店の中にさわがしく反響する、声高なうめくような言葉の出所がわからなかった――が、ついで、事務室の一段高い敷居の上に立ち、両手で戸口の柱にしがみつきながら、前後に身体をゆすっているウィルスンの姿が眼にはいった。その彼に、どこかの男が小声で話しかけていて、ときどき彼の肩に手をかけようとしたが、ウィルスンには何ひとつ、見えも聞えもしなかった。彼の視線は、吊りさげられた電燈を離れると、壁ぎわの死体をのせた仕事台へ、ゆっくりとさがって行く。と、またはっと電燈へもどってくる。そして彼は、ひっきりなしに、甲高い無気味な声で叫んでいるのだ。
「おお、神よ! おお、神よ! おお、神よ! おお、神よ!」
やがてトムは、ぐいと顔をあげると、どんよりとした眼で店の中を見まわしたあげく、つぶやくように、よく聞きとれぬ言葉を警官にささやきかけた。
「M―a―v―」警官は、そう名前の綴りを口にしているところだった。「――oだね――」
「いや、r――」と、相手の男は訂正した「M―a―v―r―o――」
「わたしの言うことを聞きたまえ!」トムが押し殺した声で激しく言った。
「rか」と、警官が言う「o――」
「g――」
「g――」と、言いながら、ふと警官は顔をあげた。トムの幅広い手が、激しく肩にかかったのだ「なんだね、きみ?」
「何があったんです?――そいつを教えてくれませんか」
「車が女にぶつかったのさ。即死だよ」
「即死」眼をむいて、トムはおうむ返しに言った。
「かみさんが道へとびだしたんだ。くそたれ野郎め、車を停めもしなかった」
「車は二台ですぜ」と、マイカリスが言った「こっちへきたのと、むこうへ行ったのと」
「どっちへ行ったんだ?」きびしい語調で警官がきいた。
「それぞれ両方へ行きましたよ。ところでかみさんは」――と、彼は、毛布のほうへ片手をあげたが、途中でやめて、またおろしてしまった――「かみさんは、そこへ駆けだして行った。そうして、ニューヨークからきたやつが、時速三十マイルから四十マイルで、もろにぶつかった」
「こはなんという所かね?」、警官がたずねた。
「名前なんかありませんや」
肌の色の淡い、身なりの立派な黒人が一人進み出て「黄色い車でしたよ」と、言った「大きな黄色い車です。新しい」
「事故を目撃したんだな?」と、警官がたずねた。
「いや。しかし、その車が、この先でわたしのそばを通り過ぎましたからね、四十マイル以上の速さで。五十マイル、いや六十マイルかな」
「ここへきて、名前を言ってください。さあ、どいた、どいた。この人の名前を書くんだから」
こういう会話の中の言葉が、事務室の戸口で身体をゆすっていたウィルスンの耳にもはいったにちがいない。あえぎあえぎわめいていた彼の言葉の中に、突然、新しい文句がとびだしてきた。
「どんな車か言ってくれるには及ばんよ! わしはどんな車か知ってんだから!」
ぼくは、トムのようすをうかがっていたが、肩のうしろの厚い筋肉が、上衣の下でぎゅっと引きしまるのがわかった。彼は、つかつかとウィルスンのそばに歩み寄り、その前に立つと、相手の二の腕を堅くにぎりしめた。
「おまえ、しっかりしなきゃいかんぞ」ぶっきらぼうな言葉の中に、慰めの気持を含めながら、彼は言った。
ウィルスンの視線がトムの上に落ちた。ウィルスンはびくりと飛びあがり、ついでトムが支えなかったならば、へたへたと膝をついてしまったかもしれぬ。
「おい」トムは相手の身体をすこしゆすりながら言った「おれはたったいま、ニューヨークからきたとこなんだ。例の話のクーペを持ってきたのさ。今日の午後運転してたあの黄色い車はおれのじゃないんだ――いいか? あの車はあれから見てないんだ」
彼の言葉が聞えるほどの身近にいたのは、その黒人とぼくとだけだったが、警官も、その語調から何かをつかんだとみえて、すごい眼つきでこちらを見た。
「どうしたんですか、いったい?」と、彼はたずねた。
「わたしはこの男の友だちだがね」トムは、ウィルスンの身体にしっかりと手をかけたまま、顔だけそちらへむけて言った「この男はその車を知ってるって言うんだ……黄色い車だって」
何か漠とした疑念に動かされて警官は、うさんくさげにトムを見やった。
「で、あんたの車の色は?」
「ぼくのは青、クーペだ」
「ぼくたちはニューヨークからまっすぐにきたんですよ」と、ぼくが言った。
だれか、ぼくたちのすこしあとを走ってきた人が、それを裏書きした。それで警官はぼくたちの傍を離れた。
「ところで、さっきの名前を、もう一度正確に書きとらせてくれたら――」
トムは、ウィルスンを人形のように抱きあげると、事務室の中に運びこみ、椅子に坐らせてもどってきた。
「だれかこっちへきて、やっこさんについててくれたまえ」きめつけるように彼は言った。一番身近に立っていた男が二人、互いに顔を見合わせて、いやいやながら事務室の中にはいって行くのをトムは見守っていたが、二人が中にはいったところでドアを閉めると、例の仕事台から眼をそらすようにして、一つしかないそこの段をおりてきた。そして、ぼくのすぐそばを通りすがりに、「出よう」と、小声でささやいた。
人目を気にしながらも、彼が横柄に腕で人ごみをかきわけて行くのに続いてわれわれは、なおも集まってくる群衆の中を、無理やり突きぬけて外に出た。途中、三十分ばかり前に万に一つの希望をかけて呼びにやった医者が、往診カバンを手に、急いでくるのとすれちがった。
トムは例のカーブを過ぎるまでは徐行した――が、それから彼の足に力がはいり、クーペは夜の闇を突っ切って疾走した。ほどなくぼくは、低いきれぎれのすすり泣きを耳にした。見ると、トムの顔をあふれる涙が流れ落ちていた。
「腰抜け野郎め!」泣きながら彼は言った「轢き逃げしやがるなんて」
黒々とたち騒ぐ木立ちのあいだから、いきなり、ビュキャナンの家が、流れ寄るように迫ってきた。トムは、玄関の横に車をつけると、二階の窓を見あげた。蔦の葉のあいだから二つ、はなやかにあかりのついている窓が見える。
「デイズィはもどってるよ」と、彼は言った。そして、車から出ると、ちらりとぼくをかえりみて、ちょっと眉根を寄せながら、
「ニック、きみを、ウェスト・エッグで降ろしてくるべきだったよ。今夜はなんのもてなしもできんからな」
彼は、いつの間にか先ほどとはうって変っていて、ものの言い方もおちついてきっぱりとした口ぶりだった。ぼくたちが月光を浴びた砂利道を横切って玄関まで歩いて行くとき彼は、てきぱきと、言葉すくなにこの場においてとるべき手はずを整えた。
「ぼくは、電話をかけて、きみを送ってもらうタクシーを呼ぶからね。そいつを待ってるあいだ、ジョーダンといっしょにキチンにはいって、何か晩飯でもつくるように言いつけてくれ――ほしかったらさ」そう言ってドアを開き、「はいれよ」
「いや、結構だ。しかし、タクシーを呼んでくれるなら、そいつはありがたいな。ぼくは外で待ってるよ」
ジョーダンがぼくの腕に手をかけた。
「中へはいらない、ニック?」
「ああ」
ぼくはなんだかすこし気分が悪くて、一人になりたかった。しかし、ジョーダンは、まだしばらくためらっていた。
「まだ九時半よ」と、彼女は言った。
ぼくは、金輪際、中にはいる気はなかった。一日で彼らみんなに食傷した気持だったが、急にジョーダンまでもその一人になった。きっと彼女も、ぼくの表情の中に、そうした気持の動きを認めたのだろう。いきなりくびすを返すと、玄関先の段々を駆けあがって、家の中にはいってしまった。ぼくは、しばらく、両手に頭を埋めて腰をおろしていたが、そのうちに、家の中から、受話器をとりあげて、タクシーを呼ぶ執事の声が聞えてきた。それからぼくは、門のそばで待っていようと思いながら、庭径を表のほうへむかってゆっくりと歩いて行った。
二十ヤードも行かぬうちに、ぼくは、自分の名を呼ぶ人声を耳にした。そして、二つの茂みのあいだから庭径の上にギャツビーがとびだしてきた。そのときにはすでにぼく自身も相当異常な気持になっていたにちがいない。月の光を浴びて、彼のピンクの洋服が、よく光るなと思っただけで、あとは何も思い浮ばなかったのだから。
「何してるんだ?」と、ぼくはたずねた。
「ただ、ここに立ってるだけですよ、親友」
なんとなく、それが卑劣な行為のような感じがした。これからここの家へ泥棒にはいろうとしているのだと言って言えないこともない。彼の背後の黒々とした植込みの中に、人相のよくない、たとえばウルフシェイムの一味の顔などが見えたにしても、ぼくは驚かなかったろう。
「途中で何かトラブルを見た?」いっときして、彼はそうきいた。
「ああ」
彼はちょっとためらったが、
「彼女、死んだ?」
「うん」
「だろうと思った。デイズィにもそう言ったんだ。ショックはいっぺんにきたほうがいい。あの人はなかなかよくたえていましたよ」
彼の口ぶりは、まるで、デイズィの反応だけが問題であるような言い方である。
「わたしは、間道を通ってウェスト・エッグまで行ったんです」と、彼は言葉を続けた「そして車は、うちのギャレジに置いてきた。だれにも見られなかったと思うけど、もちろん、断言はできません」
ぼくはこのときすでに彼がたまらなくいやになっていたので、それはちがうと、言ってやる気もしなかった。
「あの女、だれですかね?」と、彼はたずねた。
「名前はウィルスン。ご亭主があそこの店の主人さ。いったい、どうしてあんなことになったんです?」
「いや、わたしは、ハンドルをきろうとしたんですがね――」そう言いかけて急に彼は言葉をきったが、とたんにぼくは真相を察知した。
「デイズィが運転してたんですね?」
「ええ」ちょっとためらったあとで、彼はそう言った「しかし、むろん、わたしは、わたしがやったと言いますよ。実は、ニューヨークを出るとき、あの人はとても興奮していて、それで運転でもしたら気がおちつくだろうと考えたんです――で、わたしたちが、むこうからやってきた車とすれちがおうとしたちょうどそのときに、あの女の人がわたしたちめがけて駆けだしてきたのです。何もかも一瞬のできごとだったけど、わたしには、あの人、ぼくたちをだれか知ってる人と思いちがえて、言いたいことがあってとびだしてきたように見えましたね。いや、最初デイズィは、その女の人からもう一台の車のほうへハンドルをきったんだが、すぐ気おくれがして、またもとへもどしてしまったのです。わたしがハンドルに手をかけたとたんに衝撃があった――きっと即死だったろうな」
「身体が裂けちまって――」
「やめてください、親友」と、彼はちぢみあがり、「とにかく――デイズィは急ぎに急いだのです。わたしが停らせようとしても、停るもんじゃない。それでわたしは急ブレーキをかけた。するとあの人は、わたしの膝にくずおれてしまったので、わたしが運転を続けたのです」
「あの人は明日になれば元気になりますよ」やがて彼はそう言った「わたしはただ、ここで待っていて、今日の午後のけんかをもとにご主人があの人をいじめはしないか、見ていてやろうと思いましてね。あの人は自分の部屋にはいって鍵をかけているのですが、もしご主人が何か乱暴を働くようなことがあったら、あかりをつけたり消したりするはずなんです」
「トムは、彼女にさわりもしないさ」と、ぼくは言った「彼女のことなんか頭にないよ」
「わたしは、あの人が信用できないんでね、親友」
「あなた、いつまで待ってるつもり?」
「必要とあらば、夜どおしでも。とにかく、みんなが寝るまでは待ってます」
ふと新しい見方がぼくの頭に思い浮んだ。もしトムが、運転していたのはデイズィなのだということを知ったらどうなるか。彼はそこに、ある因果を認めたように考えるのではあるまいか――とにかく何かを考えずにはすまぬだろう。そう思いながらぼくは家のほうを見やった。階下には二つ三つ明るく輝く窓があり、二階のデイズィの部屋からは、ピンクの光が流れている。
「あなたはここで待ってなさいよ」と、ぼくは言った「騒ぎの気配があるかどうか、見てくるから」
ぼくは、芝生の縁に沿って家のほうに引き返し、そっと砂利道を横切ると、爪先だってヴェランダの段々をあがった。客間のカーテンは開かれ、見ると部屋にはだれもいなかった。三カ月前のあの六月の夜、ぼくたちが食事をしたあのヴェランダを抜けると、食器室の窓とおぼしい、小さい四角な光が流れでていた。ブラインドが下りていたが、窓じきいのところに隙間が見つかった。
デイズィとトムが、キチンのテーブルにむかいあって坐り、二人のあいだには、冷たくなったフライド・チキンをのせた皿が一枚、それからビールが二本出してあった。彼はデイズィにむかい、テーブルごしにしきりと話していたが、その熱意にかられるがままに片手を彼女の手の上にのせ、彼女の手をつつんだ。ときどき彼女は顔をあげて彼を見やり、同意するかにうなずいていた。
二人は幸福ではなかった。どちらも、チキンにもビールにも、手を出さなかった――さりとてまた、不幸でもなかった。その場の情景には、自然の親しみが、まごうかたなくただよっていて、だれしも二人で何か陰謀をたくらんでいるのだと思いかねなかったろう。
ぬき足さし足でヴェランダを離れたとき、ぼくのタクシーが、暗い道を探りながら、家のほうへむかって近づいてくる音が聞えた。ギャツビーは、庭径のさっき別れた所で待っていた。
「むこうには異常ありませんか?」心配そうに彼はたずねた。
「ええ、異常ありませんね」そう言ってぼくはためらったが「あなた、家へ帰ってすこしでも寝たほうがいいな」
彼はかぶりをふった。
「わたしはデイズィが寝るまでここで待っていたい。おやすみなさい、親友」
彼は上衣のポケットに両手をつっこむと、勢いこんで家の監視にもどって行った。ぼくのいるのが、徹夜の番の神聖を傷つけるかのような勢いであった。そこで、そのままぼくは歩み去ったが、あとに残された彼は、月光を浴びてそこに立ちつくし――何ごともない家の見張りをつづけていた。
第八章
ぼくは一晩中眠れなかった。「海峡」にはひっきりなしにもの悲しい霧笛が聞え、ぼくは、奇怪な現実と、残酷で恐ろしい夢とのあいだを、胸苦しく転々していた。明け方近くなって、ギャツビーの屋敷の門からタクシーがはいって行く物音を耳にすると、ぼくは即座にとび起きて身支度をはじめた――何か彼に言うことが、警告してやることがあるような気がし、朝になってからでは手おくれなように感じられたのだ。
彼の家の芝生を通り抜けて行くと、正面玄関のドアがまだ開いていて、彼は意気沮喪したのか、それとも眠っているのか、玄関の間のテーブルにぐったりともたれかかっていた。
「何ごともなかったですよ」力なく彼は言った「わたしが待っていますとね、四時ごろになってあの人は窓辺に寄ってきたのです。そこにちょっと立っていたかと思うと、やがて電燈を消しました」
この夜、ぼくたちが、巻煙草を探して大きな部屋々々を歩きまわったときほど、彼の家が厖大に感じられたことはついぞない。ぼくたちは、テントのようなカーテンを押しのけて、暗く果てしなく広い壁の上を、電燈のスウィッチがないかと探しまわった――一度などぼくはつまずいて、ぼんやり黒く見えるピアノのキイの上に倒れ、水音みたいな妙な音をたてたこともある。いたるところ、不思議なほどの埃がたまっていて、部屋々々は、何日も風を入れたことがないみたいにかび臭かった。見なれぬテーブルの上にぼくが煙草の箱を発見し、中を開けると、かび臭い乾いた巻煙草が二本はいっていた。ぼくたちは客間のフランス窓を勢いよく開け、腰をおろして、闇の中に煙草の煙を吐いた。
「あなた、ここを立ち退かなきゃだめだ」と、ぼくは言った「おそらく、あなたの車は見つかりますよ」
「いま行けというんですか、親友?」
「一週間ほどアトランティック・シティへ行きなさいよ。さもなきゃ、モントリオールか」
彼は考えてみようともしなかった。デイズィがどうするつもりか、それがわかるまでは彼女のもとを離れることなど思いもよらぬのだろう。最後の希望といったものにしがみついているのだが、ぼくも、それから彼をふり離すにはしのびなかった。
彼がぼくに、ダン・コウディとともに過した彼の若き日の不思議な話をしてくれたのは、この夜であった――「ジェイ・ギャツビー」が、トムの固い悪意にぶつかって、ガラスのように砕け散り、長いあいだひそかに演じられてきた狂想劇もこれで幕になったればこそ、彼もそれを語ったのだ。このときなら彼は何ごとも隠しはしなかったろうが、彼が話したかったのは、デイズィのことであった。
彼女は、彼がはじめて知った「良家の」娘であった。それまでにも彼は、いろんな資格で(どんな資格かは言わなかった)そうした人たちと接触してはきたが、いつも彼女たちと彼とのあいだには眼に見えぬ有刺鉄線がはられていた。彼の眼には彼女がわくわくするほど好ましく見えた。彼は彼女の家へ、最初はテイラー駐屯地の他の将校たちといっしょに、あとからは一人で、出かけて行った。その家は彼にとって驚異だった――彼はそれまで、そんな美しい家にはいったことがなかった。しかし、その家が息を呑むほどの感動を起させたのは、そこにデイズィが住んでいるという事実だった――これほどの家も彼女には、彼にとっての野営地の天幕と同じように、なんの変哲もない日常のものに過ぎないのだ。そこには豊かな神秘感がただよっていた。階上の寝室は、他の寝室よりもひときわ美しく涼しく、そこの廊下でははなやかな情事がきらびやかにくりひろげられるのであろう。そしてまた、ラヴェンダーの香りをつけてすでにしまいこまれてしまったかび臭いロマンスではなく、燦然ときらめく今年の車や、その花々がまだ萎れてもおらぬ舞踏会などが息づいているロマンスがそこには匂っている。これまでにデイズィに想いを寄せた男がいっぱいいるということもまた彼を刺激した――彼の眼には、そのため彼女の値打ちが増したように見えるのだ。家の中のあちこちに、そういう男の存在が感じられ、まだ騒ぎたっている激情の陰影や反響が、その辺にびまんしているような気がするのだ。
しかし彼は、自分がデイズィの家に足を踏み入れたのは、途方もない偶然に過ぎぬことを知っていた。ジェイ・ギャツビーとしてその将来がいかに輝かしかろうと、いまは語るべき過去もない無一文の青年にすぎず、いつ何時、隠れ蓑の軍服が、肩からすべり落ちぬものでもない。そこで彼は、自分の機会を最高度に活用した。手に入れられるものはなんでも、貪婪に無遠慮に、奪いとった――そしてついに、ある静かな十月の夜、彼はデイズィそのものを奪いとったのである。彼女の手にふれる権利すら実際にはなかったからこそ、彼女を奪いとったのだ。
彼は、場合が場合なら、自分を軽蔑したかもしれぬ。たしかにうわべをいつわって彼女を獲得したにちがいないのだから。といってもぼくは、彼が、巨万の富の幻影を利用したというのではない。彼はデイズィに、うまく、ある安心感を与えたのだ。自分が彼女と同じような社会層の出だと彼女に信じさせ――十分彼女の世話をみてやれる男だと信じこませたのだ。事実は、彼にそんな能力などあろうはずがない――背後にれっきとした家系の後楯があるでなし、人間とは違った「政府」という機関の気まぐれで、世界のどこへでも吹きとばされて行きかねない存在である。
ところが彼は自分を軽蔑しなかったし、また事も彼の予想どおりには展開しなかった。おそらく彼は、できるだけのものを奪って退散するつもりだったのだろう――しかし気がついてみると、いつしか彼は、いわば、中世の騎士の、あの聖杯さがしの旅にのぼっていた。彼は、デイズィが異常なことは知っていたが、「良家の」娘がそこまで異常になりうるとは知らなかったのである。彼女は、その豊麗な家の中に、豊麗で充実した生活の中に、すっと消えてしまった。そして、ギャツビーの手に残ったものは――何もなかった。ただ、彼女と結婚したという気持――それが残っただけだった。
二日の後、二人がふたたび会ったとき、息をはずませていたのはギャツビーのほうだった。なんとなく裏切られたような感じだった。彼女の家のヴェランダは、金で購った地上の星の豪奢な光に輝いている。彼女が彼のほうへ振りむいたとき、長椅子の籐が、しゃれたきしみをたてた。彼は、彼女の奇妙な愛らしい口に接吻した。彼女は風邪をひいていて、そのためにすこしかすれた声がいっそう魅惑的だった。そしてギャツビーは、富というものがいかに若さと神秘を守りこれを持続させるものであるか、衣裳が多いということがいかに新鮮な感じを与えるものかを痛感し、デイズィが貧乏人の汗水流す苦闘などからは超然として誇らかに、銀のように輝いていることを痛切に意識させられたのである。
「わたしはね、親友、自分が彼女を愛していることに気づいてどんなにびっくりしたか、とても説明できませんよ。一時はむしろ、彼女がわたしを棄ててくれればいいと思った。が、彼女は棄てなかった。彼女もまたわたしを愛していたのですからね。彼女は、わたしが彼女とは別の世界のことを知っているものだから、ぼくのことをたいへんなもの知りだと思ったのです……とにかく、こうしてわたしは、野心などはどこへやら、刻々恋の深みにはまっていったが、そのうちに突然、もうどうでもよくなった。これからの計画を彼女に語りながらもっと楽しい時を過せるのに、それをすてて大業を果したってなんになりますか?」
彼が故国を離れる前日の午後、彼はデイズィを腕に抱いて、長いこと黙って坐っていた。寒い秋の日で、部屋には火がはいり、彼女の頬は燃えていた。ときおり彼女が身動きすると、彼はすこし腕の位置を変える。一度その黒々と輝く髪に彼は口づけした。翌日に予定された永の別れのために、深い思い出をきざもうというのか、この日の午後、二人は、しばらくのあいだ静かに静まりかえっていた。彼女は彼の上衣の肩に黙って口づけし、彼はまた彼女が眠ってでもいるかのように、その指の先にやさしくふれたりしたが、二人の愛のひと月のあいだにも、このときほど二人が近づいたことはなく、このときほど深く心が通い合ったこともなかった。
大戦で彼は抜群の勲功をたてた。前線へ行く前、彼は大尉だったが、アルゴンヌの戦闘に参加して少佐に昇進し、師団直属の機関銃隊の指揮をとった。休戦後、彼はやっきとなって帰還しようとしたが、何か錯雑した事情からか誤解からか、彼は代りにオックスフォードへ送られた。そして彼は心配になった――デイズィの手紙の中にいらだたしげな絶望の気配が現われはじめたのだ。彼女には、どうして彼が還れぬのか、その理由がわからなかった。外部の世界からも圧力がかかってくる。彼女は彼の顔を見、彼の存在を身近に意識し、けっきょく自分は正しいことをしているのだという安心をつかみたかった。
というのは、デイズィは若かったし、彼女の住む人工の世界はやはり蘭の花の世界、楽しく陽気な洗練された技巧などが常道であり、オーケストラが人生の悲哀と夢を新しい調べに乗せてその年の新しいリズムを奏でる世界だったからだ。夜どおし、サキソフォーンが『ビール・ストリート・ブルース』の虚無的な厭世観をすすり泣くと、それに乗って百組もの金色や銀色の舞踏靴が床に撒かれたきらめく粉をかき乱した。そして夜が白みかけるお茶の時間には、どこかの家の部屋がきまってこのなまぬるい甘美な情熱に絶えざる鼓動を打ち続けるかと思うと、若々しい顔が淋しいサックスに吹かれて床に舞うバラの花びらのようにあちらこちらをただよった。
こうした薄明の世界を、デイズィは、社交のシーズンとともにまた動きはじめた。急にまた彼女は、日に六人の男と六つのデートの約束をするようになり、暁方近く、夜会服のシフォンやビーズを、ベッドの傍の床の上の蘭の花ともつれさせたまま、浅い眠りに落ちるようになった。そうしながらも、しじゅう彼女の中のあるものが、決断を求めて泣いていた。彼女は、いま即刻に、自分の生活を固めてほしかった――そしてそれは、愛の力であれ、金の力であれ、あるいは抗い難い現実の要請であれ、とにかく手近にあるなんらかの力によって、決めてもらうよりほかにしかたなかった。
その力は、春の中ごろ、トム・ビュキャナンの出現によって現実の形をとるにいたった。彼の容姿も彼の地位も、堂々として押し出しがあり、デイズィの虚栄心はくすぐられた。いくらかの苦悶と、それからいくらかの安堵があったことは事実だが、とにかくギャツビーがまだオックスフォードにいるあいだに、その手紙は彼のもとへ送り届けられたのである。
ロング・アイランドの夜も明けて、ぼくたちは階下の残りの窓を開けて歩いたが、それにつれて家の中には、淡墨色から金色に変りかけた光がいっぱいに射しこんできた。露の芝生の上にいきなり木の影が射したかと思うと、青い葉叢の中で影のような鳥が鳴きだした。快いゆるやかな、風ともいえぬ動きが空気中に流れて、涼しいうららかな日になりそうであった。
「彼女はあの人を愛したことはないと思うんですよ」そう言ってギャツビーは、窓辺から振りかえると、挑みかかるようにぼくを見た。「あなた、覚えてるでしょう、親友、今日の午後、彼女はとても興奮していた。あの人がああいうことを言うその言い方が彼女をおびえさせたんだ――あれではわたしはまるで、ちゃちな詐欺師かなんかみたいに響きますよ。それだから、彼女も、自分で自分が何を言っているかわからなくなってしまったんです」
彼は憂鬱そうに腰をおろした。
「もちろん、彼女だって、ちょっとのあいだくらいはあの人を愛したかもしれんさ、結婚した当初ぐらいは――しかし、そのころだってわたしのほうをもっと愛していたんですよ、ね」
そう言って、ふいに彼は、妙な言葉を口走った。
「いずれにしても、そんなことは個人的なことにすぎない」そう彼は言ったのである。
この事件を考える彼の考えの中に、はかり知れぬ激しさがこもっているのだろうとでも思うよりほかに、この言葉を解釈する方法があるだろうか?
彼がフランスから帰還したとき、トムとデイズィはまだ新婚旅行を続けていたが、彼は、軍隊の俸給の残りをはたいて、みじめな思いを抱きながらもルイヴィルを訪れてみぬわけにはいかなかった。彼はそこに一週間ほど滞在し、かつて二人が、あの十一月の夜に足音を響かせた街路を歩き、彼女の白い車を駆って二人でおとずれた辺鄙な場所をまたおとずれてみたりした。デイズィの家が、彼には、いつも他の家よりはなやかに神秘的に映ったように、町そのものも、彼女がいなくなったいまとなってすら、彼の頭の中では美しい憂愁につつまれていた。
町を去る彼の胸には、もっと熱心に探したら彼女が見つかったかもしれぬような感じが去来し、なんだか彼女をあとに残して去って行くような気がしてならなかった。普通客車は暑かった(彼はもう一文なしになっていたのだ)。彼は、デッキに出て、おりたたみの椅子に腰をおろした。駅がすべるように流れ去り、見なれぬ建物の背中が去って行った。ついで春の野原に出ると、黄色い電車が一台、しばらく列車と競走するように走っていたが、それに乗っている人びとも、かつて、ふと行きずりに、街を行くほの白い蠱惑的な彼女の顔を見かけたことがあるのかもしれぬ。
線路がカーブして、しだいに太陽から遠ざかっていったが、その沈みゆく太陽は、かつては彼女が住んでいた、そしていまや視界から消えてゆこうとしているその町の上に、祝福の光を投げているかに見えた。彼は、彼女がいればこそいとしく思いなされたこの町の片鱗でもとどめおこうというのか、まるで一抹の空気をつかみ取ろうとするようにやっきとなって片手をさしのべた。しかし、いまはもう、うるんだ彼の眼には止らぬくらい速く町は流れ去り、この町の中の、あの一番若々しく一番好ましい部分は、永遠に失われてしまったことを彼は知ったのである。
ぼくたちが朝食を終えて、ヴェランダに出たのは九時だった。夜のうちに天候は一変し、あたりには秋の気配がただよっていた。以前からギャツビーに雇われていた使用人の最後の一人となっていた園丁が、段々の下まで近づいてきた。
「ギャツビー様、今日はプールの水を落そうと存じます。まもなく木の葉も散りはじめましょうし、それからでは、きまってパイプがつまりますんで」
「今日はよせよ」と、ギャツビーは答えた。彼は、弁解するようにぼくをかえりみて「この夏はね、親友、あのプールでまだ一度も泳いでないもんですからね」
ぼくは時計を見て立ちあがった。
「列車の時間まで、あと十二分だ」
ぼくはニューヨークへ行きたくなかった。ちゃんとした仕事など、できそうもなかったけれど、それだけではない――ぼくはギャツビーと別れたくなかったのだ。ぼくはその列車に乗りおくれた。それからまた一本乗りおくれた。それからやっとみこしをあげたのである。
「あとで電話をかけますよ」とどのつまり、ぼくは、そう言った。
「どうぞ、親友」
「昼ごろにかけましょう」
ぼくたちはゆっくりと段々をおりて行った。
「デイズィもかけてくるでしょうね」彼は、ぼくの確証を期待するかに、気づかわしげな顔をぼくにむけた。
「かけるでしょう」
「では、失礼します」
ぼくたちは握手をかわし、ぼくは歩きだした。しかし、生垣の所に行きつく直前、ふと、思いだすことがあって振りかえった。
「あいつらはくだらんやつらですよ」芝生ごしにぼくは叫んだ「あんたには、あいつらをみんないっしょにしただけの値打ちがある」
これを言ったことを、ぼくはいつもうれしく思いだす。これが後にも先にもぼくが彼を賞めた唯一の言葉だった。ぼくは最初から最後まで、彼を認めなかったのだから。はじめ彼はつつましくうなずいたが、それからにこやかに相好をくずし、最初からぼくたち二人の間ではひそかにその事実を認め合って悦に入っていたように、あの心得顔の微笑を浮べた。華麗なピンクの絨毯を思わす彼の洋服が、石段の白の上に、ぽとりと落ちたあざやかな絵具のようで、ぼくは、三カ月前、はじめて彼の時代風な屋敷を訪れた夜のことを考えた。あのときは芝生も庭径も、彼の背徳を推測する人びとで埋まっていた――そして彼は、あの段々の上に立って、不朽の夢を隠しながら、彼らにむかって別れの手を振っていた。
ぼくは彼にむかい、手厚くもてなしてくれたことを感謝した。その点では、ぼくたちは、いつも彼に感謝していた――ぼくも、それから他の人びとも。
「さよなら」ぼくは大きな声でそう言った「朝ご飯、楽しかったよ、ギャツビー君」
ニューヨークへ行ってぼくは、しばらくのあいだ、いつ果てるともしれぬほどある株の相場の記録をとっていたが、そのうちに、回転椅子に坐ったまま眠ってしまった。正午に間もないころ、電話の音に眠りをさまされ、ぼくは、額に汗をにじませながらハッとわれに返った。電話はジョーダン・ベイカーからだった。彼女はよく、この時刻に電話をかけてよこすが、それは、彼女自身がホテルやクラブや個人の家をあちこち動きまわっていてどこにいるかわからぬものだから、他の方法では彼女をつかまえるのが容易でなかったからだ。いつもは、電線を伝わってくる彼女の声は、何かすがすがしく涼しく、緑したたるゴルフ・リンクスの芝生が、彼女の打ちふるクラブに切りとられて、事務所の窓からとびこんでくるような感じだったが、この日の声は、なんだか乾いていて耳ざわりなような気がした。
「あたし、デイズィの家から出てきたとこ」と、彼女は言った「いま、ヘンプステッドにいるんだけど、おひるすぎ、サウサンプトンへ行くの」
デイズィの家を出るというのは、おそらく、気転のきいた処置だったのだろうが、ぼくはなんとなく腹が立った。そして次の言葉を聞いてキッと身を堅くしたのである。
「昨夜のあんたは、あまりやさしくなかったわね」
「あの際、そんなこと言っていられる?」
ちょっと言葉がきれた。が、やがて、
「でも――あたし、お会いしたいんだがな」
「こっちも会いたいさ」
「サウサンプトン行きをやめて、おひるすぎ、ニューヨークへ出ようかしら?」
「いや、今日の午後というのはどうかなあ」
「じゃ、いいわ」
「今日の午後は駄目なんだ。いろんな――」
ぼくたちはそんな調子でしばらく話していたが、そのうちいつとはなしに話はとぎれてしまった。どっちががちゃりと受話器をかけたのかわからないが、ぼくがどうでもいいやと思ったことははっきり覚えている。たとえそれきり彼女と話す機会が失われるにしても、その日、テーブルをはさんで彼女と話し合う気にはとてもなれなかった。
数分ののちぼくは、ギャツビーの家を呼びだしたが、話し中だった。四度までやってみたが、とうとう業を煮やした交換手が、デトロイトから長距離電話がかかっているのだ、と、そう言った。ぼくは、時刻表をとりだすと、三時五十分の列車に小さな丸印をつけた。それから椅子の背にもたれかかって、ものを考えようとした。それがちょうど十二時だった。
この日の朝、列車で灰の山のそばを通り過ぎたとき、ぼくは、わざと車室の反対側に席を移した。ぼくの想像では、終日そのへんに物見高い人だかりがし、幼い男の子たちが埃の中に黒い斑点を探したりして、おしゃべりな男が事の次第をくりかえししゃべっている。そのうちに、自分にもだんだん現実感がうすれ、話はもはや真相を伝えなくなり、そうしてマートル・ウィルスンの悲劇は忘れ去られてゆく――こんなふうに考えていた。ここで話をすこし前にもどして、前の晩、ぼくたちが立ち去ったあとのウィルスンの店のようすをお話ししよう。
みんなは、妹のキャサリンの居場所をつきとめるのに苦労した。彼女は、その夜、禁酒の掟を破っていたにちがいない。姿を現わしたときは、前後不覚に酔っていて、救急車はすでにフラッシングへ行ったということが納得できぬくらいだった。そして、みんながこのことを彼女に呑みこませたとたん、それが何よりたえがたいことででもあるように、彼女は気を失ってしまった。が、だれかが、親切心からか好奇心からか、自分の車に彼女を乗せると、姉の死体のあとを追って彼女を連れて行った。
真夜中遠くすぎるまで、大勢の人びとが、入りかわり立ちかわり、店の正面入口に押し寄せてきたが、中ではジョージ・ウィルスンが、寝椅子に坐って、前後に身体をゆすっていた。しばらくのあいだは、事務所のドアが開いていて、店にはいってくる者の視線は、いやおうなくその中へひき寄せられた。とうとう、これはあまりひどいからとだれかが言って、ドアを閉めた。ウィルスンのそばには、マイカリスをはじめ、他に数人つき添いがいたが、はじめは四、五人いたのに、後には二、三人になり、ついには、マイカリスが最後に残った赤の他人に帰るのを十五分のばしてもらい、そのあいだに自分の店へとって返して、コーヒーをいれるような始末だった。それからあとは、彼一人だけがそこに残って、明け方までウィルスンにつき添ったのである。
三時ごろ、ウィルスンのわけのわからぬつぶやきのようすが変った――しだいにおだやかになって、黄色い車のことを言いだしたのだ。あの黄色い車がだれのものか、見つけだす方法が自分にあると言う。ついで、二、三カ月前、彼の妻が、鼻をはらし、顔に黒あざをつくってニューヨークからもどってきたことがあると、だしぬけにそんなことを口走った。
しかし、自分で自分のそうした言葉を耳にすると、彼はちぢみあがってしまい、また痛ましい声をしぼって「おお、神よ!」と、訴えはじめた。マイカリスはそういう彼の気を他へそらしてやろうと、無細工な努力を払った。
「ジョージ、おまえ、女房をもらってからどのくらいになるね? なあ、おい、ちょっくらおとなしく坐って、わしのきくことに答えてみい。おまえ、女房をもらってからどのくらいになるね?」
「十二年だ」
「子供はないのか? おい、ジョージ、じっとしとれ――わしはおまえにものをきいてんだぞ。おまえ、子供はいないのかい?」
にぶく輝く電燈に、堅い茶色のかなぶんぶんが、にぶい音をたてながら何度も何度も体当りをくりかえしている。表の道をつんざくようにとばして行く車の音が聞えるたびに、マイカリスにはそれが、数時間前、停車せずに走り去ったあの車のように聞きなされた。彼は、さっきまで死体がのっていたところが汚れたままになっている仕事台が気になって、店の中にはいって行くのがいやだったので、事務所の中を、おちつかなげに動きまわっていた――朝までに彼は、中にあるものをことごとく覚えてしまったくらいである――そしてときどき、ウィルスンのそばに腰をおろしては、相手をおちつかせようとして心を砕いた。
「ジョージ、おまえには、行きつけの教会があるかい? 長いこと行ってないだろうけどさ。わしが教会に電話をかけて、牧師さんにきてもらったら、おまえも牧師さんの話が聞けるだろうが」
「どこの教会にもはいってないよ」
「教会にははいってなくちゃいかんよ、ジョージ、こんな場合のためにさ。おまえ一度は教会に行ったことがあるはずだぜ。教会で結婚式をあげたのとちがうかい? おい、ジョージ、わしの言うことを聞けよ。おまえ、教会で結婚式をあげたのとちがうかい?」
「そいつは、遠い昔の話さ」
答えようという努力のために、ウィルスンの身体をゆするリズムが狂った――一瞬彼は沈黙した。それからまた前と同じ、半ば心得たような半ば呆然としたような表情が、力ない彼の眼の中にもどってきた。
「あそこの引出しの中を見てみなよ」そう言って彼は、机を指さした。
「どっちの引出しだ?」
「そっちの引出しさ――そっちだよ」
マイカリスは、一番手近な引出しを開けた。中には何もなく、ただ、銀モールをつけた革製の、小さい贅沢な犬の綱がはいっているばかり。どうやら新品らしい。
「これか?」マイカリスは、それをさしあげてたずねた。
ウィルスンは、大きく眼を見ひらいてうなずいた。
「そいつを昨日の午後見つけたんだ。女房が、そいつのいわれを話して聞かせようとしたけど、わしには、そいつがなんだか妙だというくらいわかってたよ」
「かみさんがこいつを買ったってわけかい?」
「女房は、そいつをティシュ・ペーパーにくるんで、自分の箪笥の上にのっけておいたのよ」
マイカリスが見ても、べつに妙なところは見あたらない。彼は、ウィルスンにむかって、細君がその犬の綱を買った理由とおぼしきものを、いろいろとあげてみせた。しかし、察するに、ウィルスンは、前にもこれと同じ弁明をいくつか、マートルの口から聞いたことがあったのだろう、彼は、小声でまた「おお、神よ」とつぶやきはじめた――で、彼のなぐさめ手は、続けて言おうとしていたいくつかの考え方を口に出さずにしまった。
「それからやつがあれを殺したんだ」と、ウィルスンが言った。そしてその口がふいにだらりと開いた。
「やつって、だれが?」
「わしは見つけだす方法を知ってるんだ」
「どうかしてるぜ、ジョージ。今度のことでは、おまえも、まったくえらい目にあったから、自分で何言ってるかわからんのだ。朝まで黙って坐ってるようにしたほうがいいぜ」
「あいつが女房を殺しやがったんだ」
「あれは事故だよ、ジョージ」
ウィルスンはかぶりを振った。彼は眼を細め、小ばかにしたように「ふん」と言ったらしくて口がわずかに横にのびた。
「わしは知ってるんだ」きっぱりと、彼は言った「わしはひとを信頼する男だし、だれの不為も願ったりしないが、知らされるはめになりゃ、知らないわけにいかない。あの車に乗ってた男がやったんだ。女房があいつに話があってとびだしたら、やつは車を停めなかったんだ」
マイカリスもそれは目撃したことだったが、そこに特別な意味があろうとは、思いも及ばなかった。ウィルスンの細君がとびだしたのは、特定の車を停めようとしたのではなく、亭主から逃げたのだと思いこんでいた。
「かみさんがそんなことするはずないだろう」
「あれは食えない女なんだ」ウィルスンはそう言った、それが返事ででもあるかのように「ああ――」
彼はまた身体をゆすりはじめた。マイカリスは手にした綱をひねりながら立っていた。
「ジョージ、おまえ、おれが電話で呼び寄せられるような友だちがあるだろうな?」
それははかない望みであった――ウィルスンには友だちなどあるまいと、彼もほぼ信じていた。細君さえ、満足させえぬウィルスンである。すこしして、部屋の気配が変ってきたことに気づいたマイカリスはうれしかった。窓辺に青みが射してきて、夜明けが遠くないことが察せられる。五時ごろにはもう、あかりを消してもいいほど、表が青みわたってきた。
ウィルスンはどんよりした眼を、灰の山のほうへむけた。そこには、小さな灰色の雲が、奇妙な格好をして、かすかな夜明けの風に吹かれながら、あちこちにそよいでいた。
「わしはあれに言ってやった――」長いこと黙っていたウィルスンが、だしぬけにつぶやいた「わしはあれに言ってやったんだ。わしをだますことはできるかもしれないが、神様をだますことはできないってな。わしはあれを窓の所へ連れて行った」――そう言いながら彼は、つらそうにして立ちあがり、裏手の窓辺に歩み寄ると、顔を押しつけてもたれかかった――「そうして言ってやった『神様は、おまえのしてることをご存じだぞ。おまえのしてることをなんでもご存じなんだ。おまえはわしをだますことはできるかもしれんが、神様をだますことはできんぞ!』ってな」
ウィルスンのうしろに立ったマイカリスは、彼が、おりから消えてゆきつつあった夜の幕の下からかすかに見えだしてきた巨大なT・J・エクルバーグ博士の眼を見つめていることがわかって、愕然とした。
「神様は、すべてを見ておられるのだ」と、ウィルスンはまたくりかえした。
「あれは広告だよ」そうマイカリスは、ウィルスンに教えてやった。何かにうながされるように彼は、視線を窓から離して部屋の中を振りかえらずにおれなかった。しかし、ウィルスンは、長いことそこに立ちつくして、窓ガラスに顔をふれんばかりにしながら、薄明の戸外にむかってうなずき続けていた。
六時にはマイカリスも疲れきってしまったので、表に車の停った音がしたときにはうれしかった。それは前夜、監視を引き受けた男の一人で、またもどってくるからと約束して帰ったのである。そこでマイカリスは、三人分の朝食を調理し、それを彼とその男とがいっしょに食べた。もうウィルスンもだいぶ静かになったので、マイカリスは、自分の家へ寝に帰った。四時間の後、彼が眼をさまし、急いでウィルスンの店にもどって行ってみると、ウィルスンはいなくなっていた。
ウィルスンの行動は――しじゅう徒歩だったが――あとからたどってみると、ポート・ローズヴェルトへ行き、ついでギャッズ・ヒルに行ったことが判明した。ここで彼は、サンドウィッチを買ったが食わず、それからコーヒーを一杯買った。きっと彼は疲れていて、ゆっくり歩いていたにちがいない。ギャッズ・ヒルについたときは正午を過ぎているのだから。ここまでは彼の動静を明らかにするのに、なんの苦労もなかった――「気が変らしいようすの」男を見かけた少年たちもいたし、車を運転しているとき、道端から変な眼つきでにらまれたという人もいた。ところが、この後の三時間、彼は人びとの視界から姿を消してしまう。警察は、彼がマイカリスに「見つけだす方法を知っている」と話したということを頼りに、そのあいだ彼は、黄色い車を探しながら、界隈の自動車整備店を次から次と歩きまわっていたのだと考えた。反面、そうした整備店の男で彼を見たと名のり出る者が一人もいないところをみると、彼には知りたいものを探しだすもっと容易で確実な方法があったのかもしれぬ。とにかく二時半には、すでにウェスト・エッグに現われていて、ギャツビーの家に行く道を人にたずねている。だから、そのときにはもうギャツビーの名を彼は知っていたわけだ。
二時に、ギャツビーは水着をつけ、だれかから電話がかかったら、プールにいるから用件を伝えてくれと、執事に言い残した。そして、その夏訪問客を楽しませたマットレス型の浮き袋をとりにガレージに立ち寄ると、運転手に手伝わせてそれに空気を入れた。それから、そこにある無蓋の車を、いかなる事情があっても外へ出してはならぬと言いつけた――が、これはおかしなことだった。車の右の前車輪の泥よけが、修理しなければならなくなっていたのだから。
ギャツビーはマットレスをかつぐと、プールのほうへ歩きだした。一度、彼は立ちどまって、すこしマットレスをずりあげた。運転手は手をかそうかと言ったが、彼は頭をふり、まもなく、葉の黄ばみはじめた木立ちの中に姿を消したのである。
電話は一つもかかってこなかった。しかし、執事は、睡眠もとらず、四時まで待った――かりにかかったとしても、そのときには用件を伝えるべき人はとうにいなくなっていたのだけれど。ギャツビー自身は、かかってきはしないと思っていたのだろうとぼくは思う、それでかまわんという気に彼はなっていたのでなかろうか。もしそうならば、すでに彼は、住みなれた温かい世界を失ったような気がしていたにちがいない。高い代価を払いながら、唯一の夢を抱いてあまりに長く生きすぎたと感じていたにちがいない。眼に映る木の葉も無気味なら、葉叢ごしに見上げる空も彼には常の空とは違って映ったのではないか。バラの花もグロテスクな存在なら、芝生は混沌の相をたたえ、そこに射す陽の光はまたいかにもなまなましく、彼はさだめし身ぶるいしたことであろう。現実のものとは思えぬままに実質はそなえている新しい世界――そこには哀れな幽鬼どもが、空気の代りに夢を呼吸しながら、意味もなく動きまわっている――たとえば幻のような木立ちの中を、彼のほうにむかってすべるように動いてくる、あの人間の形をした灰色の妖怪のように。
運転手――これも、ウルフシェイムの子分の一人なのだが――これが銃声を聞いた――聞いたけど格別どうとも思わなかった、というのが後になっての彼の釈明であったけれど。ぼくは駅からまっすぐにギャツビーの家へ車を駆った。そして、息せききって玄関先の階段を駆けあがった。その足音を聞くまではだれもなんの疑念も抱かなかったのだ。しかし、その瞬間には彼らもそれと知ったにちがいない。ぼくは固くそう信じている。ほとんどひとことも言わず、ぼくたち四人、運転手と執事と園丁と、それからぼくとは、プールへ急行した。
一方の端から流れこむ新しい水が、他の端の排水口にむかって流れて行くにつれて、かすかな、ほとんど眼にもとまらぬくらいの動きが水に感じられる。波の影ともいえぬ小さな漣を立てながら、人をのせたマットレスが、プールの下手にむかって不規則に動いていた。水面に小皺さえ立てぬくらいのかすかな風が吹いただけでも、思い設けぬものをのせて思い定めぬ方向にただよってゆくそのマットレスの進路を乱すにはたりた。一叢の木の葉がふれると、それは転鏡儀の脚のように、水面に細い赤い円を描きながら、ゆっくりと旋回した。
ぼくたちがギャツビーとともに家のほうへ歩きだしたあとで、園丁が、すこし離れた芝草の中にウィルスンの死体を発見した。惨劇の犠牲はそろったわけである。
第九章
それからあとのその日と、その日の夜と、次の日とを、二年後になって思いだしてみると、警官やカメラマンや新聞記者たちが、ギャツビーの邸宅の正面玄関を出入りする訓練を果てしなくくりかえしていたような感じしか、ぼくの記憶には残っていない。ギャツビーの邸宅の門にはロープが張られ、そばに警官が立っていて、物見高い連中も近寄れなくなっていたが、幼い男の子たちは、ぼくの家の庭からはいれることにすぐ気がつき、二、三人の子どもがいつもプールの辺に口をぽかんと開けてかたまっていた。てきぱきした物腰の、おそらく刑事かと思われる男が、その日の午後、ウィルスンの死体の上にかがみこんで、「狂人」という言葉を使ったが、その口ぶりに職業がら身についたらしい権威が備わっていたために、翌朝の新聞記事はみんなその調子で書かれる結果となった。
そうした記事の大部分は、一つの悪夢だった――奇怪で、いたずらに枝葉末節にとらわれ、どぎついが真実を語っていない。検屍に際し、マイカリスの証言によってウィルスンが妻にかけていた嫌疑が明るみに出たとき、ぼくは、一部始終が、皮肉の味つけもたっぷりと眼前にさしだされるのも遠くはあるまいと思った――ところが、どんなことでも言いかねないキャサリンが、ひとことも秘密をもらさなかった。彼女は、ここでもまた、驚くほどのしっかりものだということを見せたのである――例の描き眉の下から、決然たる眼差しで検屍官を見つめ、姉はギャツビーと一度も会ったことがなく、夫とまったく幸福に暮していたし、どんな悶着にもかかわり合いになったことなど一度もないと断言した。彼女はそう確信していると言ったが、口にのぼしただけでもたえられぬかに、ハンケチをあてて泣きだした。そこで、ウィルスンは、「悲しみのあまり気のふれた男」に後退し、事件は、もっとも単純な形にとどまって、そのままついに発展しなかったのである。
しかし、こういうことはみな、ぼくにはいかにもそらぞらしく、事の本質とは関係がないように思えてしかたなかった。気がついてみるとぼくは、ギャツビーの側に、しかもただ一人で立っていたのである。ぼくがウェスト・エッグ村に惨事を電話した瞬間から、ギャツビーに関するあらゆる推測も、あらゆる実際的な質問も、ぼくにむけられるようになった。はじめはぼくも驚いたし、面くらいもした。が、彼が自分の家に寝たきり、何時間も何時間も、動きもせず呼吸もせず、口もきかないのをみると、他にだれも関心を持つ者がいないのだから、ぼくが責任者だという気がだんだんに湧いてきた――関心、と言ったが、要するに、とどのつまりはだれしもがなんとなしに抱く権利みたいなものを持っている、あの人間としての切実な関心のことだ。
ぼくたちがギャツビーを発見してから三十分後に、ぼくはデイズィに電話をかけた。反射的になんのためらうところもなく電話をかけた。ところが、彼女とトムは、その日の午後早く外出し、しかも、手荷物を持って出かけていた。
「行先を言って行かなかった?」
「はい」
「いつ帰ってくるかは?」
「存じません」
「どこにいるかわからないかな? 連絡する方法はないだろうか」
「わかりません。存じませんですね」
ぼくは、ギャツビーのために、だれかをつかまえてやりたかった。彼が横になっている部屋の中にはいって行って、「ギャツビー、だれかをつかまえてやるからね。心配しなさんな。ぼくにまかせておきたまえ、ぼくがだれかをつかまえてきてやるから――」そう言って、安心させてやりたかった。
マイヤー・ウルフシェイムの名は電話帳になかった。執事がブロードウェイの彼の事務所の番地を知らせてくれたので、ぼくは電話局の案内係を呼びだした。しかし、ぼくが電話番号をたしかめたときにはもう五時をとうに過ぎていて、電話にはだれも出なかった。
「もう一度呼んでくれませんか?」
「もう三度もお呼びしたんですがねえ」
「重大なことなんですよ」
「お気の毒ですけど、どなたもいらっしゃらないのじゃないでしょうか」
ぼくは客間に引き返した。そして、この人たちだって――突然やってきて役目がらこの客間いっぱいになるほど詰めかけているこの人たちだって――図らずも訪れた弔問客ではないかと一瞬考えた。ところが彼らは、蔽いの布をめくると、無感動な眼をしてギャツビーを見やるのである。ぼくの頭の中ではギャツビーの抗議が続いて止まなかった。
「ねえ、親友、だれか味方をつかまえてくれなきゃ困りますよ。一所懸命やってみてください。わたし一人では、これは、とても切り抜けられませんからね」
だれかがぼくにむかっていろいろと質問しはじめたが、ぼくはそれを振り切って、二階へあがり、彼の机の、鍵のかかっていない個所をいそいで探しまわった――彼は、両親はすでに死んだとはっきり言ったことはなかったのだ。しかし何ひとつ見つからなかった――ただ、いまは忘れ去られた暴力の象徴ともいうべきダン・コウディの写真が、壁から凝然と下を見おろしているばかりだった。
翌朝ぼくは、執事を、ウルフシェイムへの手紙を持たせてニューヨークにやった。それは、いろいろなことを問い合せるとともに、次の列車で出向いてくるように促した手紙だった。書きながらぼくは、こんな要請など余計な気がした。新聞を見しだい、出かけてくるにきまっていると思った、昼前にデイズィから電報がくると思いこんでいたように。ところが、電報もウルフシェイム氏も、どちらもこなかった。きたのはただ、新手の警官とカメラマンと新聞記者だけだった。執事が、ウルフシェイムの返事を持ってもどってきたときには、ぼくは公然と反抗してやりたいような気がしてきた。ギャツビーと手を結び、彼らみんなをむこうにまわして、軽蔑してやりたいような気がしてきた。
キャラウェイ様。このたびのことにつきましては、小生、生涯においてもっともおそろしい衝撃を与えられました。ほんとうとは信じがたいくらいです。あの男のなしたああいう気違いじみた行為は、わたしどもみんなを考えさせずにおきませぬ。小生、さるきわめて重大な仕事にしばりつけられて、いまのところ今度の事件にかかり合いになるわけにまいりませぬゆえに、いまはそちらに出かけられませぬ。後ほどわたしにもできますことが何かありましたならば、手紙に書いてエドガーに持たしてよこしてください。このようなことを耳にしますと、わたしはもうすっかり取り乱してしまって、完全にノックアウトされてしまいました。
敬具。
マイヤー・ウルフシェイム
それからあとに、走り書きの二伸がついていて――
葬式その他についてご一報ください。彼の家族についてはぜんぜん存じません。
この日の午後電話のベルが鳴り、長距離の交換がシカゴからだと言ったとき、ぼくは、やっとデイズィからかかってきたと思った。しかし、つながったのを聞くと男の声で、非常に小さく遠かった。
「スラッグルだがな……」
「はあ?」聞き覚えのない名前である。
「えらくまたすました声をだすじゃねえか? おれの電報、届いたろ?」
「電報なんか一つもきませんよ」
「パークの野郎がドジをふみやがってよ」早口に相手はまくしたてる「証券屋に堂々と証書を手渡したとこをパクられちまった。その番号を知らせる回章がたったの五分前にニューヨークからまわってきたばかしだったんだ。おどろき桃の木さんしょの木だよ、なあ? まさかおめえ、こんな田舎町なんかでよ――」
「もし、もし!」息をはずませてぼくは口をはさんだ「あのね――こちらはギャツビー氏ではありませんよ。ギャツビー氏は亡くなりました」
先方では長いこと沈黙していた。が、そのうちに驚いたような声が聞え……それから、ガチャンといって電話は切れた。
ヘンリー・C・ギャッツと署名した電報がミネソタ州のある町から届いたのは、たしか三日目だったと思う。さっそく出発するから自分が行くまで葬式は延期するようにと、ただそれだけの電文であった。
それはギャツビーの父親で、きまじめな老人だった。びっくり仰天してしまってなすすべも知らず、暑い九月の日だというのに、長い安っぽいアルスター外套にくるまって、小さくなっている。眼はしじゅう興奮にうるみ、手にした旅行カバンと雨傘をぼくが受け取ると、彼は、白いもののまじった薄い頤ひげをひっきりなしに引っ張りはじめたので、外套を脱がせるのにえらく骨が折れた。彼はいまにもへたへたと倒れてしまいそうだったから、ぼくは音楽室に連れこんで坐らせるとともに、何か食べるものを持ってこさせた。だが、彼は食べようとしない。コップの牛乳も、ふるえる手からこぼしてしまった。
「わしはシカゴの新聞で見ましてな」そう、彼は言った「すっかりシカゴの新聞に出とりました。わしはすぐさま出発したのです」
「わたしはまたどうやってお知らせしたらいいかわかりませんでねえ」
彼の眼は、何ひとつ見てはいないのだが、絶えず部屋のあちこちを動いている。
「それには狂人とあった」と、彼は言った「やつは気がちがってたにちがいない」
「コーヒーを召しあがりませんか?」と、ぼくは彼にすすめてみた。
「何も欲しくありません。わしはもう大丈夫ですよ、ミスタ――」
「キャラウェイと申します」
「いや、わしはもう大丈夫です。みなさんはジミーをどこに置きなされたか?」
ぼくは、息子が身を横たえている客間に彼を連れて行って、そのままそこへ残してきた。小さな男の子が何人か、玄関先の段々の上まであがってきて、玄関の間をのぞきこんでいる。ぼくが、いま到着したのがだれであるかを言ってやると、彼らはしぶしぶ退散した。
しばらくするとギャッツ氏が、ドアを開けて出てきた。口を開け、顔はわずかに上気し、眼はともに泣く者のない時おくれの涙を流している。彼ぐらいの年ともなれば、死というものも、慄然たる驚愕を与えないのだろう。このときになってはじめて彼は周囲を見まわし、玄関の間や、そこから他の部屋々々に通じる大きな部屋の高さや壮麗さをみとめて、悲しみのうちにも、誇らかな讃嘆の念を感じはじめていた。ぼくは彼を二階の寝室に助け入れた。そして上衣とチョッキを脱ぐ彼にむかって、一切のとりきめは彼がくるまで延期してあることを告げた。
「あなたのご希望がわかりませんでしたしね、ギャツビーさん――」
「ギャッツ、と申します」
「――ギャッツさん――ですか。あなたが、ご遺骸を西部へ持っていきたいと、おっしゃりはしまいかと思いまして」
相手はかぶりをふった。
「ジミーは昔から東部が好きでした。あれがいまの地位まで立身しましたのも東部ですしな。あなたは伜のお友だちの方ですかね、ミスタ――?」
「彼とは親友でした」
「あれの前途は洋々たるものでしたな。あれはまだほんの若僧にすぎませんでしたが、ここの頭の力はえらいものでした」
そう言って彼は、仔細らしく自分の頭に指をあてた。ぼくはうなずいた。
「あれが生きていたら、偉い男になったでしょうな。ジェイムズ・J・ヒルみたいな男に。きっとお国の建設に尽したことでしょう」
「その通りです」尻こそばゆい気持で、ぼくはそう答えた。
彼は、ベッドにかかっていた刺繍入りのカバーを怪しげな手つきで苦労しながら取りはずすと、ぎごちなく身を横たえた――そうしてすぐに眠ってしまった。
その夜、電話がかかってきたが、先方が何かにおびえていることは明らかで、自分の名をなのる前にぼくがだれだか言えという。
「こちら、キャラウェイです」と、ぼくは言った。
「そう!」いかにもほっとした調子だった。「こちらはクリップスプリンガー」
ぼくもまたほっとした。これで、ギャツビーの墓畔につらなる友が一人ふえたと思ったからだ。ぼくは、今度のことを新聞に発表して、見物にくるような人を大勢集めたくなかったので、少数の人に自分でいちいち電話をかけていたのだが、そういう人たちはなかなか見つからなかったのである。
「葬式は明日です」と、ぼくは言った「三時、ここの家でやります。来そうな方にはあなたから伝えていただけますね」
「ええ、そりゃ伝えますよ」急いで彼はそう言った「もちろん、わたしは、だれとも会いそうもありませんが、もし会ったら伝えます」
そういう彼の語調にふとぼくは疑念が湧いた。
「あなた自身はむろん出席しますね?」
「ええ、そりゃ出席するようにします。わたしが電話をかけた用件はですな――」
「ちょっと待ってください」と、ぼくは口をはさんだ「出席するとはっきり言ったらどうです?」
「いや、実はね――ほんとうのことを申しますとね、いま、わたし、このグリーンウィッチのある人の家に逗留してるんですがね、みなさんはわたしも明日いっしょにつき合うものと期待してるんですよ。実をいうと、ピクニックか何か、そんなことをやるんです。もちろん、わたしは、抜けだせるように最善を尽しますけど」
ぼくは、無遠慮に「ふん!」と鼻であしらうような声を出してしまった。それが彼にも聞えたにちがいない。おずおずと彼は言葉を続け「わたしが電話をかけた用件はですね、そちらに靴を一足おいてきたんです。たいへんおそれいりますけど、それを執事に送らせていただきたいんですが。テニスの靴なんです。あれがないと、わたし、どうしようもないんでしてね。宛名は、B・F・――」
それから先は、ぼくの耳にはいらなかった。ぼくが受話器をかけてしまったのだ。
そのあとぼくは、ギャツビーに対して、なんだか恥ずかしくなった――ぼくが電話した一人の紳士は、自業自得だという意味のことを言った。しかし、これはぼくが悪かったのだ。この紳士は、いつも、ギャツビーに飲ませてもらう酒の勢いをかりて、ギャツビーを手ひどく冷笑していた人物の一人だったから、ぼくも電話をかけたりする愚は犯すべきでなかったのだ。
葬式の朝、ぼくは、マイヤー・ウルフシェイムに会いにニューヨークへ行った。他の方法では彼に連絡することができそうもなかったからである。エレベーター・ボーイに教えてもらって押し開けたドアには「スワスチカ持株会社」と記され、はじめ、中にはだれもいないのかとぼくは思った。しかし「もしもし、もしもし」と、何度か徒にくりかえし叫んでいると、仕切り壁のむこうで何か言い合いしている声が起り、やがて、美しいユダヤ人の女性が、仕切り壁に設けられた戸口に現われ、黒い眼に敵意をこめて、まじまじとぼくを見つめた。
「だれもいませんよ」と、彼女は言った「ウルフシェイム氏はシカゴへ行きました」
この科白の前段は明らかに嘘だった。というのは、中で『ロザリオの唄』を調子はずれの口笛で吹きだした者があったからである。
「おそれいりますが、キャラウェイがお会いしたいと、そうおっしゃってください」
「シカゴからお連れもどしできるもんですか」
ちょうどそのとき、ドアのむこう側から「ステラ!」と呼ぶ声が聞えた。まごうかたないウルフシェイムの声である。
「お名前を書いて机の上に置いていらしてください」急いで彼女は言った「お帰りになったらお渡ししますから」
「でも、彼があすこにいるのがぼくにはわかってますがね」
彼女は一歩ぼくのほうに近寄ると、いまいましそうに、両手を腰にすりつけるような仕草をみせた。
「あんたたち若い人は、無理すればいつでもここへはいれると思ってるけど、そんなやり口は、わたしども、もううんざりするほど見あきてますからね。わたしがあの人はシカゴだと言ったら、シカゴにいらっしゃるのです」
ぼくは、ギャツビーの名を口にだした。
「あらまあ!」彼女はそう言って、ぼくを眺めまわした「ちょっと、あの――お名前、なんとおっしゃいましたっけ?」
彼女は姿を消した。と、思うと次の瞬間、戸口にマイヤー・ウルフシェイムが厳然と立ちはだかって、両手をさしのべていた。彼はぼくを事務室の中に引き入れると、われわれみんなにとって、実に悲しみにたえぬと、神妙な声で言って、葉巻をすすめた。
「あっしの思い出はあの男にはじめて逢ったときにさかのぼるんだが」と、彼は言った「除隊したての若い少佐で、従軍中に獲得した勲章をべた一面につけてましたな。ひどく困っていたもんだから、なんか普通の洋服を買うことができなくて、いつまでも軍服を着てなければならなかったんですわ。あっしがはじめてやつと会ったのは、四十三丁目のワインブレンナーの玉突き場でしてな、やつは職がないかとはいってきたんですわ。二、三日前から何も食ってなかった。『さあ、いっしょに飯でも食おう』あっしはそう言いましてな。やっこさん、三十分もするうちに四ドル以上もたいらげましたな」
「あなたがあの人に仕事を作ってやったんですか?」
「仕事を作って? とんでもない、あっしはあの男を作ってやったんですわ」
「ほう」
「あっしはやつを無から立ちあがらせてやった、文字どおりのどん底からね。あっしは、やつが、外見のりっぱな紳士らしい青年であることを立ちどころに見てとったんだが、オッグスフォードの卒業生だと聞いたときに、これは使いものになるぞと思ったんでさあ。で、在郷軍人会に入会させたんですがな、やつはいつもそこの重要な地位を占めてましたな。はいるややっこさん、さっそく、オールバニにいるあっしのおとくいのために、仕事をしてくれましたわ。わしらは、万事につけて、こんなぐあいに緊密だったんですわ」――そう言ってまるく肥った二本の指をかざしてみせて――「いつもいっしょでしたなあ」
その共同事業の中に、一九一九年のワールド・シリーズ買収事件もはいっているのだろうかと、ぼくは思った。
「ところでその彼が亡くなったわけだから」と、一呼吸おいてからぼくは言った「あなたは彼の一番親しい友だちなんだし、今日午後、彼の葬式にはいらっしゃるでしょうね」
「行きたいと思ってますわ」
「そう、じゃ、いらしてください」
彼の鼻毛がかすかにふるえた。そして彼が頭を振ったとき、その眼には涙があふれていた。
「それができないんだ――かかり合いになるわけにいかんのです」と、彼は言った。
「かかり合いになることなんか何もありませんよ。もう何もかも終ったんだもの」
「人が殺された場合にですな、どんな形にしろ、かかり合いになるのは、あっしはまっぴらなんで。あっしは近寄らないんだ。若いころはこうじゃなかった――もし友だちが死ねば、どんな死に方をしたにしろ、最後までくっついて離れなかった。そんなのは感 傷 的だと思うかもしれんが、冗談じゃない――最後の最後までですわ」
彼には何か彼独自の理由があって、すでに行くまいと心に決めているのがぼくにもわかったので、ぼくは腰をあげた。
「あんた、大学出ですかな?」いきなり彼はそう言った。
とっさにぼくは、彼が、彼のいわゆる関係を結ばんかと提案するつもりなのだと思ったが、彼はただうなずいて、ぼくの手を握っただけであった。
「友情は死んでからではなく生きているうちに示すということを学ぼうじゃないですか」そう彼は言った「死んでからは、万事をそっとしておくのが、あっしの法則なんで」
彼の事務所を辞したとき、空はすでに暗くなっていて、ぼくは糠雨の中をウェスト・エッグに帰ってきた。服を着がえて隣へ行ってみると、ギャッツ氏が興奮して、玄関の間を行ったり来たり歩いている。息子と息子の財産に対する彼の誇りは刻々と高まっていたが、いま彼は、ぼくに見せるものをつかんだのだ。
「ジミーのやつ、この写真をわしのとこに送ってよこしましてな」そう言って彼は、ふるえる指で紙入れをとりだすと、「これですよ」
それは、この館の写真だったが、四隅はこなれ、多くの人手に渡って汚れていた。彼は、そのこまかな所までいちいちぼくに熱心に指摘してきかすのである。「どうです!」と言っては、ぼくの眼の中に嘆賞の色を探す。この写真を彼はいつも人に見せ見せしてきたから、いまでは、家そのものよりも写真のほうが、実在感を持つようになっているのであろう。
「ジミーのやつがこれをわしに送ってよこしましたが、なかなかきれいな写真だと思いますよ。実によく撮れている」
「とてもいいですね。あなた、最近、彼にお会いになったんですか?」
「二年前に会いにきてくれました。そうしていまわしが住んでる家を買ってくれたんです。あれが家をとびだしたときには、わしらはむろん一文なしでした。しかし、いまにして思えば、とびだしたのにも理由があったんですな。あれは、洋々たる前途が自分の前にひらけていることを知っとったんですよ。そうして、あれが成功してからというもの、わしにはほんとうによくしてくれました」
彼は、その写真をしまうに忍びないらしく、なおしばらくぼくの眼前に、なごり惜しげに持っていた。それからその紙入れをもとにもどすと、ポケットから『ホップアロング・キャシディ』というぼろぼろになった古い本を一冊ひっぱりだした。
「ほら、これはあれが子どものころ持っていた本ですがな。これを見るとよくわかります」
彼はその本の裏表紙を開け、ぼくが見やすいようにまわしてみせた。巻末の見返しに、時間割という文字と、それから一九〇六年、九月十二日という日付けが記されてあった。そしてその下には――
起床……………………………………………………午前六・〇〇
唖鈴体操と塀の乗越え練習……………………………〃六・一五―六・三〇
電気その他学習…………………………………………〃七・一五―八・一五
仕事………………………………………………………〃八・三〇―四・三〇(午後)
野球その他スポーツ…………………………………午後四・三〇―五・〇〇
雄弁術、平静、ならびにこれが達成法の練習………〃五・〇〇―六・〇〇
創意工夫…………………………………………………〃七・〇〇―九・〇〇
誓
シャフターズや〔某所、判読できず〕にて時間を浪費せぬこと。
禁煙。(かみ煙草を含む)
隔日入浴のこと。
毎週一冊、良書(雑誌にても可)を読むこと。
毎週五ドル〔と書いて抹殺し〕三ドル〔に訂正〕貯金すること。
両親にもっと孝養をつくすこと。
「わしは偶然この本を見つけたんですがな」と、老人は言った「これを見るとよくわかるでしょうが、ジミーは出世するようにできていたのですよ。あれは、いつも、こういったような誓いだとかなんだとかやってる子どもでしてね。あれが頭をよくするために、どんなことをしおったか、お気づきでしたか? その点ではあれはいつも立派でしたな。わしのことを、豚みたいに食うと言ったことがありましてな、それであれをひっぱたいてやったことがありますよ」
彼は、項目を一つ一つ、声に出して読んではしげしげとぼくを見つめ、その本を閉じるのがなかなか心残りなようすだった。ぼくがその表を書き写して、ぼく自身のために活用したらいいのに、と思っていたのであろう。
三時すこし前に、フラッシングから、ルーテル派の牧師が到着した。そしてぼくは、他の車の姿を求めて、思わず窓の外に視線をむけるようになってきた。ギャツビーの父親も同様であった。そのうちに時がたち、従僕がはいってきて人待ち顔に玄関の間に立つと、彼の眼は心配そうにまばたきはじめ、心もとない、不安げな口ぶりで、雨が降っているから、と言ったりした。牧師が何度も懐中時計を見るので、ぼくは彼を脇へつれて行って、三十分待ってほしいと頼んだ。しかし、それも無益だった。だれ一人くる者はなかった。
五時ごろ、ぼくたち三台の車の葬列が墓地に到着し、濃い糠雨の中を門のそばに停車した――先頭が雨に濡れて無気味に黒い霊柩車、次がギャッツ氏と牧師とぼくが乗ったリムジーン、それからすこしおくれて、四、五人の従僕とウェスト・エッグの郵便配達が乗ったギャツビーのステーション・ワゴン。みんなずぶ濡れである。ぼくたちが門を通り抜けて墓地の中へはいりかけたとき、ぼくは、車の停る音と、続いてぼくたちのあとからびしょ濡れの地面をふんでくる、ぴちゃぴちゃいう足音を聞いた。振りかえってみるとそれは、三カ月前のある夜、書斎でギャツビーの蔵書に驚嘆しているところを見かけた、あのふくろうのような眼鏡の男だった。
あれからぼくは、彼に会ったことがなかった。どうして彼が葬式のことを知ったのか、いや、彼の名前すらもぼくは知らぬ。その分厚い眼鏡の玉にも雨は降りそそいでいたが、彼はそれをはずすと、ギャツビーの墓から被いの粗布がひきはがされるのを見ようと、その玉をぬぐった。
そのときぼくは、しばしギャツビーの上に思いをひそめようとしたが、彼はすでにあまりに遠く離れてしまい、ただ、デイズィがことづてもよこさず、花一つ送ってよこさなかったことが、格別の憤懣も伴わずに思い浮んだばかりだった。だれかが低く「幸福なるかな、死して雨に打たれる者」と、つぶやくのがかすかにぼくの耳に聞えた。するとふくろうの眼の男がはっきりした口調で「アーメン」と言った。
ぼくたちは、雨の中を、てんでに急いで車にもどった。門の所で、ふくろう氏がぼくに話しかけた。
「お宅のほうへはうかがえませんでしたよ」
「それはどなたもご同様で」
「なんですと!」驚いて彼は言った「いやはや、なんてこった! 以前はいつも何百と行きおったにな」
彼は眼鏡をはずすと、またその玉を拭いた、外側も、それから内側も。
「かわいそうなやつめ」彼はそう言った。
ぼくのもっとも鮮やかな記憶の一つに、クリスマスのころ、高等学校や、後には大学から、西部へ帰省したときの情景がある。シカゴよりも先へ行く者たちが、十二月の夕刻の六時に、古ぼけたほの暗いユニオン・ステーションで合流するのだ。中にはシカゴの友だちも数人まじっていて、彼らはすでに自分たちの楽しい休暇中の計画に心を奪われているものだから、西へ行く友だちにむかってあわただしいさよならを言っては去って行く。それぞれミスだれそれの学校から帰ってきた女の子たちの毛皮の外套や、息を凍らせながらしゃべり合っている談笑をぼくは覚えている。昔なじみの姿を見かけては頭上高く手を打ち振り「あなた、オードウェイのとこへいく? ハーシーへは? シュルツへは?」と、招待くらべがはじまる。手袋をはめたぼくたちの手には、長い緑の切符が堅く握られている。そして最後に、シカゴ・ミルウォーキー・セントポール方面行きの芥子色の客車が、クリスマスそのもののように楽しげに、ゲートの横のホームに一列につらなって停車していた。
ぼくたちが冬の夜の闇の中に駅を出て行き、ほんとうの雪が、ぼくたちの雪が、両側にひろがり、きらきらと窓をたたき、ウィスコンシン州の小駅のほの暗い灯が走り去るころになると、突然、あたりの空気の中に、野性的な鋭いきびしさがただよってくる。ぼくたちは、食事をすませて冷たいデッキをもどってくる途中、それをふかぶかと吸いこみ、自分たちがこの地方と一体なのだということを、口では言えぬけれどはっきりと意識する。そうした不思議な最初の一時間を過すうちに、いつとはなくぼくたちは、ふたたびこの地方の中へ見分けがつかないほどに溶けこんでゆく。
それがぼくの中西部だった――小麦でも、大草原でも、消滅したスウェーデン人の町でもなくて、興奮にみちた若き日の帰省列車や、凍てついた夜の街燈や橇の鈴、灯のともった窓の光を受けて雪の上に落ちる柊の環の影法師、それがぼくの中西部なのだ。ぼくはそれの一部、ああした長い冬の感じを背負っていささか堅苦しく、何十年の昔からいまだに住居が家族の姓を冠して呼ばれているような町で、キャラウェイ邸に育ったために、いささかおっとりしてもいる。いまにして思えば、この話は、けっきょく、西部の物語であった――トムもギャツビーも、デイズィもジョーダンも、それからぼくも、みんな西部人である。そして、ぼくたちはたぶん、ぼくたちを東部の生活になんとなく適合できなくさせる、何か共通の欠陥を持っていたのだろうと思う。
東部が何よりもぼくの胸を湧かしたときでさえ、子どもとごく老齢の人びとだけを除いた残り全部の者たちが四六時中せんさくの眼を浴びておらねばならぬオハイオ河以西の、ぶざまにのびてふくれた退屈な町々に比べると、東部ははるかにましなことをぼくが痛切に意識したときでさえ――そんなときでさえ、ぼくには、東部の世界が何か歪な要素を持っているような気がいつもしていた。中でもウェスト・エッグは、いまなおぼくが見た怪奇な夢の中の場面として浮びあがってくる。それは、エル・グレコの筆になる夜の情景みたいに見えるのだ。険悪な空が蔽い、光を失った月がかかっている下に、ありきたりのようでありながら同時に異様でもある家が幾百もうずくまっている。前景には、四人の夜会服を着たしかつめらしい男たちが、担架を持って歩道を歩いていて、担架の上には、白いイヴニング・ドレスを着た女が、泥酔して身を横たえている。そして担架の横からだらりとたれたその手には、宝石がいくつも冷たい光を放っている。しずしずと男たちは、ある家の中にはいって行く――的外れな家の中に。しかし、だれ一人その女の名前も知らぬし、だれ一人、意に介しもしない。
ギャツビーの死後、ぼくの眼に映る東部にはいつもそうしたものがつきまとって見えて、いくら見なおしてみても、そのゆがみは消えなかった。そこでぼくは、落葉を焼く青い煙が立ちのぼり、湿った洗濯物が、物干し綱にぶらさがったまま風に吹かれて棒のように凍りはじめた時分、故郷へ帰ろうと決意したのだ。
去る前にしておかねばならぬことが一つあった。間の悪い不快なことで、たぶん、ほうっておいたほうがよかったのだろう。しかしぼくは、自分の去ったあとはきちんとしておきたく、自然のうちにぼくの残した残骸を洗い流してくれるあの海の水の世話をあてにするだけでは満足できなかった。ぼくはジョーダン・ベイカーに会った。そして、ぼくたち二人の身に起ったこと、それからあとでぼく一人の身に起ったことなどを、くどいほどにいろいろと語った。彼女は大きな椅子に坐って身動き一つせずに聞いていた。
彼女はゴルフの服装をしていた。すこしつんと頤をしゃくり、秋の木の葉の色をおもわす髪の毛といい、膝にのせた指なしの手袋と同じような小麦色の顔といい、格好の挿絵といったところだなとそのとき思ったことを、ぼくはいまも覚えている。ぼくが語りおえると、彼女は、いっさいの説明ぬきで、ただ、ある男と婚約したとぼくに言った。彼女には、彼女さえうんといえば結婚できるはずの相手が何人かあるにはあったけれど、ぼくは、これはあやしいと思った。だが、とにかくびっくりしたふうを装った。ほんのちょっとのあいだ、ぼくは、自分がまちがったことをしているのではないかと思ったが、すぐまた急いで全体をたどり直してみて、別れを告げに立ちあがった。
「でもやっぱし、あんたがあたしを棄てたのよ」突然ジョーダンは言った「あんたが、あの電話であたしを棄てたんだ。いまじゃあんたのことなんかこれっぽっちも思ってないけど、でもあんなこと、あたしにははじめての経験だったから、ちょっとのあいだはいささか呆然としちゃったね」
ぼくたちは握手をかわした。
「そうだ、あんた覚えてる?」――彼女はつけ加えて言った――「あたしたちがいつか車の運転のことで話したこと」
「さあ――正確には覚えてないな」
「あんた、へたな運転手は、もう一人へたな運転手と出会うまでしか安全でないって、言ったでしょ。あたしはもう一人のへたな運転手に出会ったのよね。つまり、あんな見当はずれの推測をしたのはあたしが不注意でしたってこと。あたしはね、あんたのことを正直で率直な人だと思ったんだ。それがあんたのひそかな誇りなんだと思ったの」
「ぼくは三十ですよ」と、ぼくは言った「自分に嘘をついて、それを名誉と称するには、五つほど年をとりすぎました」
彼女は返事をしなかった。ぼくは腹立たしく、しかも彼女が半ばいとおしく、さらにまたたまらなくすまなくも思いながらくびすを返した。
十月のある日の午後おそく、ぼくは、トム・ビュキャナンの姿を見た。彼は、五番街でぼくの先を、例のきびきびした、つっかかるような歩き方で歩いていた。邪魔を払い除けようとするかに両手を身体からすこし離し、おちつかない眼に対応させて頭を右に左に鋭く動かしながら歩いてゆく。彼に追いつかずにすむようにとぼくが歩度をゆるめたそのときに、彼は立ちどまり、眉根を寄せて、宝石商のウィンドーをのぞきだした。突然彼は、ぼくの姿を見とめると、片手をさしだしながらもどってきた。
「どうしたんだ、ニック? おれと握手するのがいやだというのか?」
「うん。きみをぼくがどう思ってるか、知ってるだろう」
「じょうだんじゃないよ、ニック」おっかぶせるように彼は言った「とんでもない話だ。いったいどうしたのか、おれにはさっぱりわからん」
「トム」ぼくは詰問するように言った「あの日の午後、きみはウィルスンに何を言ったんだ?」
彼はひとことも言わずにぼくをにらんでいた。ぼくは、あの空白の数時間に関するぼくの推測があたっていたことを知った。ぼくは引っ返そうとした。が、彼は一歩ふみ出してぐいとぼくの腕をつかんだ。
「おれはあいつに真相を伝えてやったのさ」と、彼は言った「おれたちが二階で出かける準備をしてるとこへ、やっこさん、玄関口までやってきたんだ。おれが、留守だと言わせたところがやつは、無理やり二階へあがってこようとするんだよ。あの車がだれのものか知らせなかったら、おれを殺しかねないほど逆上してやがった。家の中にいるあいだ、ずっとポケットの拳銃から手を離さんのだよ――」彼は反抗的にいきなり言葉を切った「おれがあいつに知らせたからどうだというんだ? あの野郎のは自業自得じゃないか。デイズィと同じように、きみもあいつの眼つぶしにひっかかったのだろうが、しかし、あの野郎、なかなかのしたたか者だからな。犬ころでも引っかけるみたいにマートルを轢いておきながら、車を停めもしなかったんだぞ」
ぼくは何も言えなかった。言うとすれば、それはちがうということだが、これは口に出せない事実だった。
「もしきみがだな、おれだけはつらい思いをしなかったとでも思うのならだよ――いいか、おれがあのアパートを引き払いに行って、あの犬のビスケットの箱の野郎があすこの食器棚の上にのっかってるのを見たときには、おれは、坐りこんで赤ん坊みたいに泣いたんだぜ。まったく、たまらなかった――」
ぼくは彼をゆるすことも、好きになることもできなかったが、彼としては自分のやったことをすこしもやましく思っていないこともわかった。何もかもが実に不注意で混乱している。彼らは不注意な人間なのだ――トムも、デイズィも――品物でも人間でもを、めちゃめちゃにしておきながら、自分たちは、すっと、金だか、あきれるほどの不注意だか、その他なんだか知らないが、とにかく二人を結びつけているものの中に退却してしまって、自分たちのしでかしたごちゃごちゃの後片づけは他人にさせる……
ぼくは彼と握手した。しないのがなんだか愚かしく思われたのだ。自分がまるで子どもにでも話しているような気がふとしたのである。それから彼は、真珠の首飾りを買いに――いや、それは、一組のカフス・ボタンにすぎなかったかもしれぬが――宝石商の店にはいって行った。そしてぼくの野暮な潔癖感から永久に逃れ去ったのである。
ぼくが発ったとき、ギャツビーの家はまだ空家になっていた――芝生の芝は、ぼくの所と同じくらい高くのびてしまっていた。村のタクシーの運転手の中に一人、正面入口の門の前を通るときには、ちょっと車を停めて中を指ささなければ承知しない男があった。おそらく、あの事件の夜、イースト・エッグまで、デイズィとギャツビーを乗せて行った運転手なのだろう。そしてまたおそらく、彼はその事件の話を自分の専売特許にしてしまったのかもしれぬ。ぼくはそれが聞きたくなかったので、列車を降りたとき、彼につかまらぬように心がけた。
土曜の夜はぼくは、ニューヨークで過すようにした。それは、ギャツビーの邸宅でのあのきらびやかなめくるめくパーティの印象が、あまりになまなましく残っているので、いまでも、彼の庭から音楽や笑いさざめく声がかすかに絶えず聞えてくる気がし、彼の庭径を行きかう車の音も耳に響いてくるからなのだ。ある夜、ぼくは、現実の車がはいって行く物音を耳にし、ヘッドライトが玄関前でぴたりと停るのを見た。しかしぼくは、せんさくしなかった。ひょっとしたら、これまで世界の果てにでもいて、パーティが終ったことを知らなかった、最後の客人ででもあったのだろう。
最後の夜、トランクに荷物も詰め終り、車も食料品店に売ってしまったあとでぼくは、あの巨大なままになんの意味をも生まずに終った家を、もう一度眺めに出かけていった。白い石段の上に、どこかの子どもが煉瓦のかけらで書いた卑猥な言葉が、月光を浴びてくっきりと浮んでいた。ぼくは石の上を靴でごしごしこすってそれを消した。それからぶらぶらと浜辺へ歩いて行って、砂浜の上にながながと寝そべった。
いまや海沿いの大きな邸宅はたいていが閉鎖されていて、「海峡」を渡る連絡船のぼんやりした灯が動いているほかには、ほとんど灯らしい灯は見えなかった。そして、月がしだいに高くのぼって行くにつれて、その辺の消えてかまわぬ家々の姿は消え失せ、かつてオランダの船乗りたちの眼に花のごとく映ったこの島の昔の姿――新世界のういういしい緑の胸――が、徐々に、ぼくの眼にも浮んできた。いまは消滅したこの地の叢林が、自らの席をゆずってギャツビーの邸宅を建ててやったその叢林が、かつてはさやさやと、人類最後の、そして最大の夢に誘いの言葉をかけながら、ここにそそり立っていたのだ。この大陸を前にしたとき、人間は、その驚異を求める欲求を満たしてくれるものとの史上最後の邂逅を経験し、自分では理解も望みもしない美的瞑想に否応なくひきこまれて、つかのま、恍惚と息を呑んだにちがいない。
そうしてぼくは、そこに坐って、神秘の雲につつまれた昔の世界について思いをはせながら、ギャツビーが、デイズィの家の桟橋の突端に輝く緑色の灯をはじめて見つけたときの彼の驚きを思い浮べた。彼は、長い旅路の果てにこの青々とした芝生にたどりついたのだが、その彼の夢はあまりに身近に見えて、これをつかみそこなうことなどありえないと思われたにちがいない。しかし彼の夢は、実はすでに彼の背後になってしまったことを、彼は知らなかったのだ。ニューヨークのかなたに茫漠とひろがるあの広大な謎の世界のどこか、共和国の原野が夜空の下に黒々と起伏しているあのあたりにこそ、彼の夢はあったのだ。
ギャツビーは、その緑色の光を信じ、ぼくらの進む前を年々先へ先へと後退してゆく狂躁的な未来を信じていた。あのときはぼくらの手をすりぬけて逃げて行った。しかし、それはなんでもない――あすは、もっと速く走り、両腕をもっと先までのばしてやろう……そして、いつの日にか――
こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。
解説
野崎孝
これはスコット・フィツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald, 1896―1940)の代表作『グレート・ギャツビー』(The Great Gatsby, 1925)の翻訳である。原本にはスクリブナーの版を使った。
最初に私事を語ることをお許し願いたいが、私は十七年前に同じこの作品をある出版社から翻訳出版したことがある。今回この文庫に収めることになったのを機会にかなりの改訂を加えたが、当時の日本にはまだあまり知られていなかったこの小説家とこの小説を紹介するに当って巻末に附けた「解説」の内容に関しては、今でもさして見方が変っていない。のみならず私は、その後同じ出版社から出た『20世紀英米文学案内』という叢書の『フィツジェラルド』の巻の編集を担当し、その中でこの作家の「人と生涯」を執筆すると共に『ギャツビー』の梗概と解説の項をも執筆した。資料の全部をアメリカ人の著作に頼らざるを得ない伝記の部分はもとより、作品の解釈についても今なおそのときの見解を大きく修正する必要を認めない私は、ここに再び「解説」の文章を書くに当り、なるべく前に語り落した点に重点を置くとしても、いきおい考察は上述のものと大同小異、叙述もまた重複することが少なくないであろうことをご諒承頂きたい。
当時と違ってフィツジェラルドの名が、あるいは作品の邦訳により、あるいはいくつかの映画などを通して、わが国の一般読者の間にもかなり広く知れ渡っている今日、また改めてここに彼の生涯を逐一語る必要はないだろう。十九世紀の末近く、ミネソタ州の州都セント・ポールに生れた彼が、プリンストン大学に入学し、卒業を待たずに第一次世界大戦に遭遇して志願し、戦地へは行かなかったものの軍隊生活を経験したいわゆる「失われた世代」の一人であったこと。自ら「世界最悪の少尉」と称しながら軍隊生活中に書き綴っていた小説が紆余曲折の末に陽の目を見るに至り、『楽園のこちら側』(This Side of Paradise, 1920)と題して当時のいわゆる戦後派の若者たちの青春像を正直に正確に描いたこの作品が時流に投じて一躍作者は脚光を浴び、若い世代の代弁者に祭り上げられるに至ったいきさつ。これを契機に、彼自らが「アラバマとジョージアと、二州にならびなき美人」と称した美貌で奔放なゼルダ・セイヤーと結婚し、ニューヨークの一流ホテルに住みながら、一方では新進作家の斬新な作品を求める出版社の求めに応じてやがては『フラッパーと哲学者』(Flappers and Philosophers, 1920)『ジャズの時代の物語』(Tales of the Jazz Age, 1922)などと題名からして新時代風な作品集にまとめられることになる気のきいた短編を書き続けると共に、他方ではパーティや観劇やナイトクラブや演奏会や行楽などに明け暮れる華やかな結婚生活を展開し、ときには小説の中の無軌道を彼ら自らが実演することさえあって、莫大な収入とそれを上廻る豪勢な出費のうちに「スコット王子とシンデレラ・ゼルダ」という言葉がまさに適評と称すべき二人の姿が若者たちの人気をますます集めたことなど、これらはすでに伝説化している周知の事実であろう。さらには二〇年代というこの時代と共に生き、時代に密着しすぎて作品を書いたフィツジェラルドが、一九二九年の大恐慌を境にして急変した三〇年代のアメリカ社会からたちまちにして忘れ去られていった経緯、過労と酒とがもとの健康破壊、そしてゼルダの精神異常と続く彼のいわゆる「崩壊」の過程、これもまた人々のよく知るところである。そして再起をかけた『夜はやさし』(Tender is the Night, 1934)の努力も空しく、はては金のためにハリウッドの脚本作家に身を落し、この彼の最後の拠り所にあっていわば背水の陣をしきながら、最後の力をふりしぼって書き続けた長編『最後の大君』(The Last Tycoon, 1941)もついに未完のまま、心臓発作によって四十四歳の生涯をあわただしく閉じた次第なども今さらくだくだしい説明を要しまいと思う。
私はただ、「ジャズの時代の桂冠詩人」と謳われ「燃え上がる青春の王者」「狂騒の二〇年代の旗手」と祭り上げられたフィツジェラルドが、そうしたレッテルを貼られるだけの絢爛奔放な生活を派手に展開したことは事実だけれども、そうした外観の底にそれを批判的に見るもう一人のフィツジェラルドがひそんでいたことを強調するにとどめたい。「失われたわが町」と題する後年の文章の中には、新文学の人気作家としてそれこそバイロンの運命を体験した当時の彼が、いつの間にか中西部の人間としては扱ってもらえず、ニューヨークを外から観察する人間でさえなくなって、もっぱらニューヨークの願いを一身に体現した理想的人間像に仕立て上げられている自分に当惑したことが語られている。「ニューヨークのことなど就任六カ月そこそこの駈け出し記者よりも知らないわたしたちが、時代のスポークスマンというにとどまらず、この時代が生んだ典型的人物という役を無理やりに振られて、何が何だか分らず混乱するばかりだった」と告白しているこの文章には彼の運命を明かす重要な示唆が含まれている。
右に挙げたレッテルは否も応もなく彼に振られた役割だったのだ。彼は求めに応じてその役を演じ通そうとするわけだが、その彼の根は中西部の人間であって、この地金は最後まで、あるいは彼自身が自覚していた以上の持続性をもって残っていたようである。
もう一つ、彼が両親の血統を通してアイルランド人の血を濃厚に持っていたことも、よく言われるフィツジェラルドの「二重ヴィジョン」との関連において注目に値しよう。エドマンド・ウィルスンが「ロマンティックであると同時に、ロマンスというものに対してシニカルである」と指摘したアイルランド的二重性を持った血のことである。それは彼がジャーナリズムの要求するがままに書きとばした数々の短編小説はともかく、腰を据えて内心のヴィジョンを造型した幾つかの力作にはすべて投影しているが、中でも『グレート・ギャツビー』にはその二重性が見事に生かされているだけに、この際ことさらにこの点を指摘したいのである。
アーサー・マイズナーによれば、ウルフシェイムにはアーノルド・ロスタインというモデルがあり、ギャツビーそのものもフィツジェラルドが一度だけその邸宅を訪れたことのあるマックス・フライシュマンという人物を土台に書かれているそうであるが、それはあくまで外面的事実に関する部面だけであって、ギャツビーがニック・キャラウェイと共に作者の分身であることはいうまでもない。
こうして作者が、分裂しながら互いに牽引し競合し反応し合う内面の二要素を、それぞれ二人の分身に仮託し、一方を語り手として設定したところにこの小説の成功の大きな要因があることは、多くの評者が一様に言っている通りである。これによって作者は、ギャツビーの生涯を一つ屈折した視点から描く自由を獲得できたばかりでなく、ギャツビーのドラマに参加するニック自身の行動や、そのときどきの感じ方や考え方、要するにニックという存在の全体を通して、この作品に複雑で微妙な陰影を与え、重層的な意味を盛り込むことに成功した。
アメリカの多くの若者と同じく、ニックもまた第一次大戦から復員して帰って来た郷里、「オハイオ河以西の、ぶざまにのびてふくれた退屈な町々」がいやで、きらびやかに躍動する東部に憧れて出て来た素朴な田舎のインテリである。彼が初めてイースト・エッグのビュキャナン家に招かれたとき、みんなでひとときを楽しく過そうと、とりとめのない軽口が軽快に交わされてゆくばかりのその場の空気に同化することができず、自分だけが「田舎者っていう気がしてくる」と正直に打ち明けるところにそれはよく現われている。この素朴な「田舎者」が東部の「文明」にどう反応したか。「ギャツビー」の名を標題に掲げたこの小説は、こういうふうに、ニックを軸にした角度から読むことをも可能にする立体性を備えている。
彼は活気に溢れスリルにみちたニューヨークがだんだん好きになってゆくけれど、完全に東部社会に同化してしまうには、彼の中にある「自分の欲望にブレーキをかける内奥の規則」が邪魔になる。この「内奥の規則」はとりもなおさず、それまでに彼の身についた西部のモラルなわけであるが、それをこういう卑下した形で言うというのは、彼がそこに価値を認めるよりもむしろ野暮ったさを感じていた証拠である。
そのニックが、東部社会での経験を重ねるにつれて、ビュキャナン夫妻の生活やギャツビーのパーティに典型的に現われているような、絢爛豪奢に見える外面の、その裏にひそむ空虚なソフィスティケーションや腐敗に気づくようになり、同時にそれらと対照的な西部の社会が反射的に思い浮んで、その価値を次第に確認してゆくわけだ。そして最後に五番街で偶然トムに逢ったニックは、「ゆるすことも、好きになることもできなかった」相手だけに、最初は握手することもためらわれたのを、そのうちにふと相手が子供のように思われて、さりげなく手を握り合って別れるのだが、そこにはトムを理解しかつ批判するだけの成長をとげたニックがいる。宝石店に入って行くトムを見ながら、真珠の首飾りかあるいはカフス・ボタンでも買うのだろうと考えるニックの眼には、相も変らぬ生活を送っているトムと、そこに象徴される東部の文明社会――かつてのニックがそれに憧れて出て来たもの――に対する皮肉な余裕を持った侮蔑が宿っている。そのときトムは「ぼくの野暮な潔癖感から永久に逃れ去った」というニックのこの「野暮な潔癖感」とはすなわち、先に述べた「西部のモラル」に他ならぬけれど、ここのこの表現の中には、同じものを東部の文明人の立場から見る余裕と共に、そのモラルの積極的な価値を認めた自信の裏打ちが感じられる。こういう角度から読むならば、ギャツビーの夢が産業主義社会の「文明」にぶつかって潰え去る姿を描いたこの小説の中に織り込まれているニック・キャラウェイの人生開眼の模様に、一種の「イニシエーションの小説」たる性格が浮び上がってくるだろう。
次に、これは角度は前と同じだけれど、その際の力点をニックの成長よりもむしろ、その過程においてニックが胸中に思い描く西部と東部との対照において読むならば、マイズナーが指摘するように、これを「都会的ソフィスティケーションと文化と腐敗を代表する東部、それに素朴な道徳を代表する中西部、この二つを対比した一種の悲劇的パストラル」と見ることももちろん可能である。そしてこの対比は標題に一番よく集約されているということもマイズナーの言う通りである。
大体この標題については作者は最後まで不満を残しているのであって、『灰の山と百万長者の中で』とか『ウェスト・エッグの成り上がり者』とか『ウェスト・エッグへの途上にて』とかさんざん迷った末に現在の題名に決定したのだが、決定した後でもまだ編集者あての手紙の中で「あれはやはり『トリマルキオ』とすべきだったような気がする。……ただ『ギャツビー』だけだと『バビット』なんていうのとあんまり似すぎるし、『偉大なギャツビー』だと弱い。だってこれじゃギャツビーの偉大さも、またその欠如も、皮肉な意味でさえ浮び上がってこない」と、書いている。フィツジェラルドが浮び上がらせたかったギャツビーの「偉大さ」もしくは「偉大さの欠如」とは、実は同じギャツビーの楯の表と裏なのである。外面的に見ればギャツビーは偉大でも何でもない。ニックからすれば、彼が「心からの軽蔑を抱いているすべてのものを一身に体現しているような男」。ノース・ダコタ州の百姓の伜から身を起して莫大な富を築いた成り上がり者に過ぎない。そこだけを見ればこれは、ジュリアン・ソレルやラスティニャックやキャロライン・ミーバーと規を一にする、田舎出の若者の立身出世の姿と見えなくはない。しかしギャツビーが彼らと決定的に違うのは、彼らにとって世間的成功は目的であるのに反し、ギャツビーにとっては手段に過ぎぬということである。目的はデイズィという一個の女性に具現された彼の夢の実現である。彼はひたすらにその夢を追い、夢の実現にその生涯を賭けた。ニックはその「人生の希望に対する高感度の感受性」というか「希望を見いだす非凡な才能」というか、これまでもまたこれからも二度と発見し難いようなその浪漫的心情を思い見るとき、それがエリオットが捕えて見せた「荒地」の中でのことであるだけに、やはり見事と言わざるを得ないのである。そうした感懐にひたりながらこのギャツビーの心情を、初めて新世界の「ういういしい緑の胸」を眼の前に見たときのオランダの船乗りたちの感動に重ね合せてみたニックは、ギャツビーの生涯が、新大陸に理想社会の建設を夢み、たえず過去へ過去へと運び去られながらも、流れに逆らう舟のように力の限り漕ぎ進んで来た、そしてまた漕ぎ進んでゆくアメリカ人たちの姿を象徴しているようにも思うのである。こういうふうに見るならばこの作品は、ギャツビーという人間を通していわゆる「アメリカの夢」を描いたものと読むことさえもできるだろう。東部において挫折しながらもなお西部に命脈を保っている「アメリカの夢」を。
なお、フィツジェラルド自身が「ギャツビーを貫く観念は、貧乏な青年は金持の女と結婚することができないということの不当さだ」と語っていることから、同じく金持といってもビュキャナン夫妻に代表されるような、幼時からそういう生活を呼吸して育ち、親から譲られた莫大な遺産の上に安住している金持階級に対する嫌悪と軽蔑、それと、彼自身の母方の祖父のような、自らの才覚と努力によって産をなした金持に対する好意と尊敬、この二つの対照的交錯など、この作品に重要な色彩を添えている様々な要素にも言及すべきであるがもはや紙数がつきた。
いずれにしろ、この作品が初めて日本に紹介された戦後間もない頃は、戦前の価値体系の崩壊はあったが何しろ物質的窮乏が甚だしい時期だっただけに、むしろ「経済大国」とかいうものの「繁栄」と称するものをとにもかくにも経験しながら依然として価値観の混乱を見ている現在の日本のほうが、あるいはこの作品を鑑賞するのには都合のよい条件を備えていると言えるかもしれない。
(一九七四年五月)