雨の朝パリに死す
フィッツジェラルド/守屋陽一訳
目 次
雨の朝パリに死す
冬の夢
金持ちの青年
解説……フィッツジェラルドの短篇
訳者あとがき
[#改ページ]
雨の朝パリに死す
「では、キャンベルさんはどこにいるの?」チャーリーは、たずねてみた。
「スイスに行ってしまわれました。だいぶお体の具合がわるいようです。ウェイルズさん」
「それはよくないな。では、ジョージ・ハートの奴《やつ》は?」チャーリーは、たずねた。
「アメリカにおかえりになりました。お仕事をなさるとかで」
「では、『ユキホホジロ』は、どこにいるの?」
「あの方は、先週ここにおいでになりました。いずれにしても、あの方のお友だちのシェーファーさんは、今、パリにおいでになります」
それは、一年半前にいた、たくさんの知りあいの中の、親しい二人の友人の名前だった。チャーリーは、自分の手帳にいそいでアドレスを書きつけると、そのページを破り取った。
「シェーファーさんにあったら、これを渡しておいてくれ」彼はいった。「これは、ぼくの義理の兄の住所なんだ。まだ泊るホテルをきめていないんでね」
パリが、これほどひっそりしてしまったのを知っても、彼は、それほど失望したわけではなかった。しかし、バー・リッツのひっそりとした静けさは、何か異様で、不吉なものを感じさせた。それはもはや、アメリカ人のバーではなかった。――何か上品ぶっていて、居心地がよくなかった。それは、以前のフランスのバーにもどっていた。タクシーからおりて、いつもなら、こんな時間には、ひどくいそがしがっているはずのドア係が、従業員用の出入口で、ボーイと世間話をしているのを見た瞬間から、彼は、このひっそりとした静けさに、気がついたのだった。
廊下を通りすぎた時も、以前はそうぞうしい声のきこえていた、女性専用室の中から、退屈している声が、たった一つきこえただけだった。バーの中に入って行くと、昔からの癖で、まっすぐに前のほうをみつめたまま、二十フィートばかり、グリーンのカーペットの上を歩いて行った。そして、足もとにあるバーの横棒を、片ほうの足でしっかりとふみしめると、ふり向いて、部屋の中を見まわした。しかし、部屋の隅で新聞を読んでいた一人の客が、さっと眼をあげて、彼のほうを見ただけだった。チャーリーは、バーテン長のポールはいないかとたずねてみた。ポールという男は、上げ相場の末期には、注文して作らせた自家用車に乗って、出勤していた――もっとも、人目を気にして、いちばん近い角で車から降りていたが。しかしポールは、今日|田舎《いなか》にかえっていたので、アリックスが、かわって彼に消息を伝えていたのだった。
「いや、もう結構だ」チャーリーは、いった。「最近では、ひかえるようにしているんだ」
アリックスは、それはよかった、といった。「二、三年前は、だいぶ派手にやっておいででしたが」
「ちゃんとつづけてやっていける」チャーリーは、アリックスに請けあってみせた。「もう一年半以上も、つづけてきたんだから」
「アメリカのほうは、いかがですか?」
「アメリカには、もう何か月も行っていない。今、プラハで、仕事をやっているんだ。いくつかの会社の代理店をやっている。あっちじゃ、ぼくのことは、だれも知らないんだ」
アリックスは、微笑してみせた。
「ジョージ・ハートが、ここで、独身の男だけのディナーパーティをやった夜のことを、おぼえているかい?」チャーリーは、いった。「ところで、クロード・フェッセンデンは、どうしている?」
アリックスは、秘密の話でもするように、声を低くした。「今、パリにおいでになりますが、もう、ここには顔をお出しになりません。ポールが承知しないんです。お勘定のほうが、三万フランもたまっているもんですからね。お酒と昼食、それから、毎晩のように夕食を召しあがって、それを全部、一年以上もつけにしていらしたんですから。とうとうポールが、どうしても払って頂かないと困りますと、申し上げたら、小切手をくださったんですが、それが不渡りだったんです」
アリックスは、悲しげに頭をふってみせた。
「私には理解できません。あんなダンディな方がね。今じゃ、すっかりぶくぶくにふとっておしまいになって――」彼は両手で、まるまるとしたリンゴの形を作って見せた。
チャーリーは、片隅に陣取って、甲高い声をあげている、若い女性のグループに、じっと眼をそそいだ。
「ああいう連中には、何の影響もないんだ」彼は、心の中でつぶやいた。「株が上ろうと下ろうと、人々がのらくら遊んで暮していようと、働いていようと、彼女たちは、永久にあんな調子なんだ」彼は、ここの場所に、何か重苦しいものを感じはじめた。彼は、サイコロをもってこさせると、酒を賭《か》けて、アリックスとサイコロをふった。
「こちらには、ずっとおいでになるんですか?ウェイルズさん?」
「娘にあうために、四、五日いるつもりだ」
「何ですって! お嬢さんが、おいでになるんですか?」
戸外では、火のような赤や、ガス灯のような青や、幽霊のような緑のネオンが、音もなく降っている雨の中で、ぼんやりとかがやいていた。もう夕方も間近で、通りは、活気に充ちあふれていた。酒場の灯は、かすかにきらめいていた。キャプシーヌ大通りの角で、彼はタクシーをひろった。コンコルド広場が、ピンクの荘厳さを示しながら、窓外を走りすぎて行った。タクシーが、整然とした感じのセーヌ河を渡ると、チャーリーは、左岸のほうに、突然、田舎じみたものを感じた。
チャーリーは、回り道ではあったが、オペラ通りに行くように、タクシーに命じた。彼は、オペラ座の壮麗な正面のあたりにひろがっている夕闇をながめながら、車の警笛が、「ル・プリュ・ク・ラン」の最初の数小節を、いつまでも鳴らしつづけるのを、第二帝政時代のラッパのひびきだと、想像してみたかったのである。ブレンターノ書店では、鉄の格子戸をしめている最中だった。そして、デュヴァルの店では、中産階級的な感じの、手入れの行きとどいた生垣のうしろで、すでに人々は、夕食をはじめていた。彼はパリでは、ほんとうに安いレストランで食事をしたことはなかった。ワインもついて、五品で四フラン五十サンチーム、つまり十八セントなのだ。どういうわけかわからないが、彼は、それを食べておけばよかったと思った。
左岸に向かって、車を走らせる途中、突然、田舎じみたものを感じながら、彼は心の中で、つぶやいた。「私は自分で、この都会を台なしにしてしまった。私は、そのことに気がつかなかった。しかし日々は、一日一日とすぎ去って、二年の年月がすぎてしまった。そして、いっさいのものはすぎ去ってしまい、私自身もまた、すぎ去ってしまったのだ」
彼は三十五で、立派な顔立ちをしていた。アイルランド人特有の、表情の変りやすい顔も、眼の間に刻まれた深い皺《しわ》によって、おちついたものになっていた。パラティーヌ通りの義兄のアパートのベルを押した時、彼は、眉《まゆ》をぐっとよせたので、その皺は、さらにいっそう深いものになった。腹の中がひきつるような感じがした。ドアをあけたメイドのうしろから、九つになった、かわいい女の子が、甲高い声で「お父ちゃま!」と叫んで、走りよってくると、魚のようにもがきながら、彼の腕の中にとびこんできた。彼女は、彼の片ほうの耳をひっぱって、顔を横のほうに向けると、その頬《ほお》に彼女の頬を押しつけた。
「かわいい子!」彼はいった。
「お父ちゃま、お父ちゃま、お父ちゃま、お父ちゃま、パパ、パパ、パパ!」
彼女は、彼を玄関の中にひっぱって行った。そこでは、その家の家族が、彼を待ちうけていた。彼の娘と同じ年頃の少女と少年、義理の姉と、その夫の四人だった。彼はうわべだけの感激とか嫌悪《けんお》が、声に現われないように注意しながら、マリオンに挨拶《あいさつ》した。しかし彼女の反応は、さらに露骨なほど熱意がなかった。彼の娘のほうに視線を向けて、未だに消すことのできない不信の表情を、できるだけ表に現わさないようにしていたが。男二人は、親しげに手を握りあった。そして、リンカーン・ピーターズは、チャーリーの肩にしばらく手をおいていた。
部屋の中はあたたかく、アメリカ風で、居心地がよかった。三人の子供たちは、仲よく動きまわり、他の部屋に通じている、長方形の明るい出入口を、出たり入ったりして、遊んでいた。暖炉《だんろ》の火が、しきりにぱちぱちとはじけ、台所では、いかにもフランス人らしい、活気にみちた音がひびいて、午後六時にふさわしい、うきうきした空気を作り出していた。しかし、チャーリーは、少しもくつろいだ気分にはなれなかった。彼の心は、その体の中で硬直したまま、身動きもしなかったが、みやげにもってきた人形を抱いて、時々彼のそばにやってくる娘の姿を見ると、何か自信のようなものが、わきあがってきた。
「ほんとうに、とてもうまくいっている」彼は、リンカーンの質問に答えていった。「向うでも、うまくいっていない事業は、たくさんある。しかし、ぼくたちの仕事は、前よりもかえっていいくらいなんだ。実際、ほんとうにうまくいっているんだ。来月、アメリカから姉にきてもらおうと思っている。家事をやってもらうためにね。去年のぼくの収人は、金のたくさん入っていた頃よりも、もっと多いんだ。いいかい、チェコ人ってものは――」
彼が、そんな自慢をしたのには、特別の目的があった。しかし、すぐリンカーンの眼に、かすかな反発めいたものがうかんだのに気がつくと、彼は、話題を変えた。
「君のところの子供たちは、ほんとうにいい子ばかりだ。丈夫に育っているし、お行儀だっていいし」
「オノリアだって、とてもいい子だよ」
その時、マリオン・ピーターズが、台所からもどってきた。彼女は、背の高い女で、いらいらした眼をしていたが、以前は、アメリカ人らしい、若々しい美しさをもっていた。チャーリーは、別に彼女が美しいとは思っていなかったので、人々から、彼女がどれほどきれいかをきくたびに、いつも意外の念におそわれるのだった。最初から、彼と彼女の間には、何か本能的に相容れないものが、存在していたのである。
「ところで、オノリアを、どうお思いになる?」彼女は、たずねた。
「すばらしいと思います。十か月も見ないうちに、すっかり大きくなって、ほんとうにびっくりしてしまいました。子供たちは、みんな元気そうですね」
「ここ一年間、お医者さまにかかったことは、一度もないのよ。パリにおもどりになった御感想は?」
「アメリカ人を、ほとんど見かけなくなって、とても妙な感じがしますね」
「私は、喜んでいるのよ」マリオンは、熱をこめていった。「今では、少なくともお店に行っても、百万長者だなんて思われなくてすみますわ。私たちも、みんなと同じように、ずいぶん被害をうけたわ。だけど、全体的にいって、前よりはずっと住みやすくなったんじゃないかしら」
「しかし、好景気のつづいている間はよかった」チャーリーはいった。「ぼくたちは、まるで王さまのようなものだった。何をやっても、それが通用したし、魔法のようなものが、ぼくたちにとりついていた。だが、今日の午後、バーに行ったら」――彼は、自分の失言に気がついて、口ごもった――「知っている男は、一人もいなかった」
彼女は、鋭い眼で彼をみつめた。「バーはもうたくさんだったはずじゃなかったの」
「ほんのちょっといただけですよ。毎日、午後、一ぱい飲むだけです。それ以上は飲みません」
「夕食の前にカクテルを一ぱい飲まないか?」リンカーンが、たずねた。
「いつも午後に、一ぱい飲むだけにしているんだ。もう今日の分は、飲んでしまったからね」
「その習慣をつづけてほしいものだわ」マリオンがいった。
彼女の言葉の中にある冷たさから、彼女が嫌悪の気持ちを抱いているのは明らかだったが、チャーリーは、ただ微笑をうかべただけだった。彼には、もっと大きな計画があったのだ。彼女の攻撃的な態度は、むしろ彼の立場を有利なものにした。彼は待つことの必要を、充分に承知していた。そして、彼がパリにきた目的は彼らも知っているのだから、彼らのほうから、その話をもち出してほしかったのである。
夕食のとき彼は、オノリアが、彼か、彼の妻か、どちらによく似ているのだろうかと、考えてみたが、結論を得ることはできなかった。彼ら二人を不幸におとしいれた彼ら自身の特徴を、娘がかね備えていなければ、幸いだった。何とかして、この娘を保護してやりたいという気持ちが、大きな波のように、彼をおそってきた。自分が娘のために何をすべきか、彼はわかっていると思った。彼は、人間の性格というものを信じていた。彼は、一度に一世代昔にかえって、永遠に価値のあるものとして、もう一度性格というものを、信じてみたかった。それ以外のもので、彼に信じることのできるものは、何一つなかったのである。
夕食が終ると、彼はすぐに別れを告げたが、宿にかえるつもりはなかった。あの頃よりは、澄み切った、思慮分別のある眼で、夜のパリをながめたかったからである。彼は、カジノの補助席の切符を買って、チョコレート色の肌をした、ジョセフィン・ベーカーが、アラベスクをおどるのを、じっとみつめていた。
一時間たって、そこを出ると、彼は、ぶらぶらとモンマルトルのほうに向かって、歩いて行った。彼は、ピガール通りを通って、ブランシュ広場に入って行った。雨はすでにやんでいて、キャバレーの前で、夜会服を着た人々が、何人か降りるのが眼に入った。夜の女も、一人か二人づれで、あたりを徘徊《はいかい》していた。黒人も大ぜいいた。彼は、中から音楽がながれてくる、灯のついたドアの前を通りすぎたが、なつかしい気持ちになって、ふと足をとめた。それは、かつて彼が、多くの時間と多くの金を浪費した、ブリックトップの店だった。そこから二、三軒先にも、昔よく行った店をみつけたので、つい何となく中に首をつっこんだ。すると、たちまち、熱気をおびたオーケストラの演奏が、突然はじまって、二人のダンサーが、さっと立ち上がった。そして支配人が、「ちょうど、みなさんが、おいでになったところです!」といった。しかし彼は、すばやく身をひいた。
「ひどく酔わされるにきまっている」彼は、心の中でつぶやいた。
ゼリの店は、しまっていた。そのまわりにある、陰気で、わびしげな安ホテルも、暗くなっていた。ブランシュ通りまでくると、一段と明るくなり、地方なまりの、くだけたフランス語を話す人が、たくさんいた。「詩人の洞穴」はなくなっていたが、「カフェ天国」と「カフェ地獄」の二つの大きな入口は、前と同じように大きな口をあけていた――彼がじっと見ていると、観光バスからおりた、わずかばかりの人々――ドイツ人と日本人が、それぞれ一人ずつ、それから彼のほうを、はっとしたような眼でちらりと見た、アメリカ人のカップル――をがつがつとのみこんでいた。
モンマルトルがいかに努力し、いかに工夫をこらしてみたところで、せいぜい、こんな程度のものなのだ。悪徳と浪費に奉仕するといったところで、まったく子供じみたものにすぎない。その時、彼は突然、「消散する」という言葉のほんとうの意味をさとった――希薄な空気の中に、影も形もなくなってしまうことなのだ。有から無を作り出すことなのだ。深夜、あちこちを動きまわることは、途方もなく大変なことで、ゆっくりと動けば動くほど、それに支払う金額は、多くなっていくのである。
彼は、たった一曲演奏させるために、オーケストラに千フラン札を何枚もやったり、タクシーを呼ばせるために、ドア係に百フラン札を何枚も投げあたえたのを、思い出した。
しかしそれらの金は、何の意味もなくあたえたものではなかった。
それらの金は、もっとも思慮分別もなく浪費してしまった時でさえ、もっとも記憶する価値のあるもの、今もなお、念頭を去ろうとしないもの――自分の手許から引きはなされてしまった子供、ヴァーモントの墓地にのがれ去った妻――を忘れようと、運命にたいする捧げものとして、あたえたものだった。
一軒のビヤホールのぎらぎらした光の下で、一人の女が、彼に話しかけてきた。彼は彼女のために、卵とコーヒーをとってやった。そして、彼女のいどみかかるような眼をのがれて、彼女に二十フラン札をやると、タクシーをひろって、ホテルに車を走らせた。
眼をさますと、美しく晴れた秋の日だった――フットボール日和というやつだ。昨日の沈んだ気持ちは消え去り、通りを歩いて行く人々にも好意を感じることができた。正午に彼は、ル・グラン・ヴァテルで、オノリアと向かいあって坐っていた。二時にはじまって、ぼんやりとかすんだ夕暮に終る、シャンペンディナーや、長い昼食を思い出さないでもすむのは、このレストランだけだった。
「さあ、野菜はどう? 野菜を少し食べたほうがいいんじゃないか?」
「ええ、そうね」
「ホウレンソウもあるし、カリフラワーもあるし、ニンジンも、インゲンもある」
「あたし、カリフラワーがいいわ」
「野菜は、二種類食べなくていいのかい?」
「お昼は、いつもお野菜は、一種類だけなの」
ウェイターは、ひどく子供好きなような様子をしていた。「ほんとに、かわいらしいお嬢ちゃまですね。まるで、フランス人みたいにお話になるんですね」
「デザートは、どうしようか? もう少しあとで考えてみる?」
ウェイターは、立ち去っていった。オノリアは、期待するように、父親の顔を見た。
「これから、あたしたちどうするの?」
「まず、サン・トノレ通りの例のおもちゃ屋に行って、何でも好きなものを買ってあげよう。それから、アンピール座に、ヴォードヴィルを観に行こう」
彼女は、ためらった。「ヴォードヴィルのほうはいいけど、おもちゃ屋には行きたくないわ」
「どうして?」
「だって、パパは、このお人形を買ってくれたでしょ」彼女は、その人形をもってきていた。「それに、あたし、いろんなものたくさんもってるもん。それに、あたしたち、もうお金持ちじゃないんでしょ」
「前だってお金持ちじゃなかった。だけど、今日は、何でもほしいものを買ってあげる」
「わかったわ」彼女は、あきらめたように同意した。
彼の妻と、フランス人の乳母がいた時には、彼は厳格な父親になる傾向があった。しかし今では、何とか努力して、今までとはちがった、寛大な父親になろうとつとめていた。彼はオノリアにたいして、父親と母親の両ほうの役割をつとめなければならなかった。そして、彼女のことは、何でも全部知っていなければならなかったのだ。
「ひとつお近づきになりたいのです」彼は、重々しい口調でいった。「まず、私のほうから、自己紹介をいたしましょう。私は、プラハのチャールズ・J・ウェイルズと申す者です」
「まあ、お父ちゃま!」彼女は、甲高い声をあげて笑った。
「ところで、どうか、お名前をお教えいただけないでしょうか?」彼は、さらに質問をつづけた。すると、彼女はすぐ、自分の役割を引きうけた。「パリ、パラティーヌ通りの、オノリア・ウェイルズと申します」
「奥さまですか、それとも、お独りですか?」
「いいえ、まだ結婚してはおりません。独身です」
彼は、人形のほうを指さして、いった。「しかし、奥さま、お子さまがいらっしゃるじゃありませんか」
彼女は、その人形を手放すのが惜しくてたまらなくなり、自分の胸に抱きしめると、すばやく考えをめぐらした。「はい、結婚したことはございますが、今は、独りでございます。主人が亡くなりましたので」
彼は、すぐさま言葉をつづけた。「それで、お子さまのお名前は?」
「シモーヌと申します。学校でいちばん仲のいいお友だちの名前にしたの」
「学校でとてもよく勉強してるから、パパはとてもうれしいんだ」
「あたし、今月は三番なのよ」彼女は、得意そうにいった。「エルシーは」――それは、彼女のいとこだった――「やっと十八番ぐらいなの。それから、リチャードは、ビリに近いの」
「おまえは、リチャードも、エルシーも好きなんだろうね?」
「ええ、リチャードは大好きだし、エルシーのほうも好きよ」
それから彼は、用心深く、何げない調子でたずねた。「それじゃ、マリオンおばさまとリンカーンおじさまとくらべると、どっちが好き?」
「そうね、リンカーンおじさまのほうかしら」
彼は、だんだんに、彼女の存在を意識するようになってきた。彼らがここに入ってきた時には、「……かわいい」というような、ささやきが、背後からきこえてきたが、今では、となりのテーブルにいる人たちは、話すのをやめて、彼女のほうに眼を向けると、まるで一輪の無邪気な花でも見ているかのように、じっと眼をそそいでいた。
「どうして、あたし、パパといっしょに暮さないの?」彼女は、突然たずねた。「ママが亡くなったから?」
「おまえはここにいて、もっとフランス語を勉強しなければいけない。もしパパといっしょだったら、とてもこんなに世話はしてやれなかっただろう」
「私、もう、大して世話なんかかからないわ。だって、自分で何でもできるんだもん」
レストランから出ようとすると、突然、一人の男と女が、彼に声をかけた。
「おや、ウェイルズじゃないか!」
「やあ、ロレーン……ダンク」
それは、突然、過去から現われた亡霊のようなものだった。ダンカン・シェーファーは、大学の時からの友人だった。そして、淡い金髪をした、美しい三十女の、ロレーン・クオールズ――彼女は、三年前、金を湯水のように使っていた頃、数か月分の金を、ほんの数日で使い果たす助けをしていた連中の一人だった。
「主人は、今年はこられなかったの」彼女は、チャーリーの質問に答えて、いった。「私たち、今、全然お金がないの。だから、月に二百ドル送ってきて、これでやりたいようにしたらいいっていうの……これ、あなたのお嬢さま?」
「もう一度店に入って、坐らないか?」ダンカンが、たずねた。
「そういうわけにはいかないんだ」彼には、口実のあるのがうれしかった。例によって、彼は、ロレーンに情熱的で挑発的な魅力を感じたが、今、彼の調子は、いつもとはちがっていた。
「じゃ、お食事でもどう?」彼女は、たずねた。
「ちょっと、用があるんだ。君のアドレスを教えてくれないか。そうしたら、電話するから」
「チャーリー、あなたってほんとうにしらふなのね」彼女は、判決を下すようにいった。「ほんとうにしらふらしいわ。ダンク、彼をつねって、しらふかどうか、しらべてみて」
チャーリーは、頭でオノリアのほうを指し示した。彼らは二人とも、声をあげて笑った。
「君のアドレスは、どこだい?」ダンカンは、うたがい深げな口調でいった。
チャーリーは、自分の泊っているホテルの名を教えたくなかったので、ためらっていた。
「まだ、はっきりきまっていないんだ。ぼくのほうから電話するほうがいいようだ。ぼくたちは、これから、アンピール座のヴォードヴィルを観に行くところなんだ」
「ほんと! 私も観たいと思っていたところなの」ロレーンは、いった。「道化とか、アクロバットとか、奇術師なんかを見てみたいの。私たちも、それを見ましょうよ、ダンク」
「ぼくたちは、そこに行く前に、すまさなきゃなんない用があるんだ」チャーリーは、いった。「たぶん、向うであえると思うよ」
「わかったわ。気取ってるのね……じゃ、さよなら、美しいお嬢ちゃん」
「さよなら」
オノリアは、丁寧にぴょこんと頭をさげて、お辞儀をした。
ともかくも、それは歓迎できない出あいだった。彼らが彼に好意をもったのは、彼が自分の義務を果たし、真剣だったからだ。また彼らが、彼にあいたがっていたのは、今では、彼のほうが彼らより強く、彼の力から、一種の支えをひき出したかったからなのだ。
アンピール座に入って行くと、オノリアは、父親のたたんだコートの上に坐るのを、確固とした態度でことわった。彼女は、彼女なりの考え方をもった、一人の女性になっていた。チャーリーは、彼女の個性がすっかりできあがってしまう前に、自分自身を少しでも彼女の中にそそぎこんでおきたい願望を、一段と強く感じた。しかし、こんなわずかな時間に、彼女を知るということは、とうてい不可能だった。
幕間に彼らは、バンドが演奏しているロビーで、ダンカンとロレーンに出あった。
「一ぱい飲まないか」
「ああ、いいよ。だけど、カウンターはまずい。テーブルのほうにしよう」
「模範的なパパなのね」
ぼんやりと、ロレーンの言葉に耳を傾けながら、チャーリーは、オノリアの眼が、彼らのテーブルからはなれて行くのを見守っていた。そして彼女の眼が、何を見ているのかと思いながら、部屋のあちこちに向かってそそがれている彼女の眼を、好奇の思いで追って行った。二人の眼があった時、彼女は、微笑をうかべた。
「あのレモンスカッシュは、おいしかったわ」彼女はいった。
彼女は何をいったのだろう? 何を期待したのだろう? あとで、タクシーに乗って家にかえる途中、彼は、頭を胸にもたせかけられるように、彼女をひきよせた。
「ねえ、おまえ、ママのことを思い出すことはあるかい?」
「ええ、時々ね」彼女はあいまいに答えた。
「ママのことを忘れてもらいたくないんだ。ママの写真は、もっているかい?」
「ええ、もってると思うわ。ともかく、マリオン伯母さまはもってるわ。だけど、どうして、ママのことを忘れてもらいたくない、なんていうの?」
「ママは、おまえをとても愛していたからだ」
「私だって、ママのことを愛してたわ」
彼らは、しばらくの間、何もいわなかった。
「パパ、私、パパのところに行って、いっしょに暮らしたいの」彼女は、突然口を切った。
彼の心は、おどった。彼は、こんなふうになることを望んでいたのだ。
「おまえは、ほんとうに幸福じゃないのか?」
「幸福よ。だけど、私、だれよりもいちばん、パパのことを愛しているの。それに、ママはもう亡くなったんだから、パパだって、私のことをいちばん愛してるんでしょ?」
「もちろん、そのとおりだ。だけど、いつまでも、パパがいちばん好きというわけにもいくまい。おまえが大きくなって、同じ年頃の青年に出逢って、結婚でもするようになれば、パパのいたことなんか忘れてしまうさ」
「そうね、パパのいうとおりだわ」彼女は、静かな口調で同意した。
彼は、家の中には入らなかった。明日の九時に、またくるつもりだったし、その時に話をしなければならないこともあったので、それまでは顔をあわせないほうがいいと思ったのだ。
「家の中に入ったら、あの窓から顔を出してくれ」
「わかったわ。じゃ、さよなら、お父ちゃま、お父ちゃま、お父ちゃま、お父ちゃま」
彼が暗い通りで待っていると、上のほうの窓から、彼女は元気いっぱいの姿を現わし、夜の闇を通して、投げキッスをしてみせた。
彼らは、待っていた。マリオンは、どこか喪服を思わせるような、いかめしい感じのする、黒のディナードレスを着て、コーヒーセットを前に腰をおろしていた。リンカーンは、ずっと話をつづけていたように、生き生きとした様子で、部屋の中を行ったりきたりしていた。彼らにしても、チャーリーと同じように、問題に入りたがっていたのだ。彼は、いくらもしないうちに、話をはじめた。「何のためにこちらにきたのか――どうしてパリまでやってきたのか、たぶん、おわかりだと思いますが」
マリオンは、ネックレスについている、黒い星の形をしたものをいじくりながら、不機嫌《ふきげん》な顔をしていた。
「ぼくは、どうしても家庭というものをもちたいんです」彼は、言葉をつづけた。「そして、ぜひオノリアといっしょに暮したいんです。彼女の母親のために、オノリアの世話をしていただいたことには、感謝していますが、今では、事情が変ってきているんです」――彼は、少しためらっていたが、前よりも力をこめて、言葉をつづけた――「ぼくのほうもすっかり変ったんだから、もう一度、考え直してもらいたいんです。三年ばかり前、ぼくがひどいことをしたという事実を否定するつもりは、全然ありませんが――」
マリオンは、顔をあげると、けわしい眼で彼を見た。
「――しかし、あのことは、何もかもすぎ去った過去のことなんです。前にもいったように、ここ一年以上も、一日に一ぱいしか酒を飲んでいないんです。そして、その一ぱいさえ、酒というものの観念が、私の空想の中で、あまり大きな位置を占めないように、わざと飲んでいるんです。そのことが、わかっていただけますか?」
「いいえ」マリオンは、一言、そういっただけだった。
「それは、自分に課した、曲芸の一種のようなものなんです。それで、バランスをとっているわけなんです」
「わかりますよ」リンカーンが、いった。「酒に魅力のあることを、認めないようにしているんですね」
「まあ、そんなところです。時には、自分でも忘れてしまって、全然飲まないこともある。しかし、できるだけ、一ぱい飲むようにしているんです。いずれにしても、ぼくのような地位の者は、酒を飲むわけにはいかないんです。ぼくが代理店をやっている会社の連中は、ぼくのやってきたことに、すっかり満足しているんです。それに、家の中のことをやってもらうために、バーリントンから、姉をつれてくるつもりだし、オノリアともぜひいっしょに暮したいんです。ぼくとあの子の母親との仲がうまくいっていなかった時も、オノリアには、何の影響もあたえないようにしてきました。あの子が、ぼくのことを好いていてくれることもわかっているし、あの子の面倒をみることができるのもわかっている――つまり、そういうことなんです。このことについて、どうお思いですか?」
彼は、これからはげしい非難をうけることは、わかっていた。それは、一時間か二時間つづくかも知れない。つらい時間になるかも知れない。しかし、改心した罪人が、おとなしく罰に服する態度をとることにたいする、さけがたい怒りを何とかおさえることができれば、最後には、目的に達することができるかも知れない。
彼は、自分自身に向かって、いいきかせた――怒りは、おさえなければならない。自分を正当化したいと思ってはならない。おまえの目的は、オノリアといっしょに暮すことなのだ。
リンカーンが、最初にまず、口をひらいた。「先月、あなたの手紙をもらってから、ぼくたちは色々と話しあってきました。ぼくたちとしては、オノリアがこの家にいることを喜んでいるんです。かわいい子だし、ぼくたちも、喜んで世話をしているんです。しかし、もちろん、そんなことは、問題にはならないが――」
その時、マリオンが、突然口をはさんだ。「チャーリー、あなたは、いつまで禁酒するつもりなの?」
「永久にするつもりです」
「そんなこと、とても信じられないわ」
「ご存知のとおり、ぼくが仕事から手を引いて、何をするあてもなく、ここにやってくるまで、一度だって、深酒をしたことなんかなかったんです。それから、ぼくとヘレンがつきあいはじめて――」
「おねがいだから、ヘレンのことをもち出したりしないで。あなたが、そんなふうに彼女のことを話すのをきくのは、とてもがまんできないの」
彼は、けわしい眼で彼女をみつめた。彼は姉妹というものが、どのくらい愛しあっているかということを、よく知らなかったのである。
「ぼくの酒は、ほんの一年半ばかりつづいただけです――ぼくたちがこっちにやってきてから、ぼくが――健康を害してしまうまで」
「一年半でたくさんだわ」
「たくさんです」彼も、それを認めた。
「ヘレンには、とても責任を感じています」彼女はいった。「もし妹だったら、私に何をしてもらいたいかって、今、考えようとしているところなの。率直にいって、あなたが、あのおそろしいことをした夜から、私にとっては、あなたなんていないも同然だったわ。私がそう思うのも、やむを得ないことだと思うわ。彼女は、私の妹だったんだから」
「ええ」
「彼女が息をひきとろうとした時、彼女は、オノリアの面倒をみてくれって、私にたのんだの。あの時、あなたがサナトリウムに入っていなかったら、事情もちがっていたでしょうけど」
彼は、何も答えなかった。
「私、ヘレンが、うちのドアをノックした朝のことを、一生忘れられないと思うわ。彼女はすっかりずぶぬれになって、がたがたふるえながら、あなたがドアに鍵《かぎ》をかけて、追い出したっていってたわ」
チャーリーは、坐っている椅子のひじかけを、ぐっとにぎりしめた。それは、予期していたよりも、はるかに辛いことだった。彼は、充分時間をかけて、説得と説明をはじめたい気持ちにかられたが、「ぼくが鍵をかけて、彼女を追い出してしまった夜――」といっただけだった。すると彼女は、彼の言葉をさえぎっていった。「その話は、もうたくさんよ」
一瞬、沈黙がつづいたが、やがて、リンカーンが口を切った――「話がわき道にそれたようだ。君は、マリオンが、オノリアの法律上の後見人をやめて、オノリアを君に渡してほしいと思っているんですな。問題は、家内があなたを信頼するかどうかだと思うが」
「ぼくは、義姉《ねえ》さんを責めているわけではありません」チャーリーは、ゆっくりといった。「しかし、ぼくを完全に信頼していただいてもいいと思っています。ぼくだって、三年前までは、ちゃんとやってきたんだ。もちろん、人間のことだから、いつ失敗をするかわからない。しかし、これ以上長く待っていると、オノリアの子供時代はすぎ去ってしまう。それに、ぼくが家庭をもつ機会もなくなってしまうんです」彼は、頭をふってみせた。「ぼくは完全に彼女を失ってしまうんです。わかっていただけますか」
「ええ、わかります」リンカーンはいった。
「どうして、このことを前に気がつかなかったの?」マリオンがたずねた。
「時々、考えたことはあると思います。しかしあの頃は、ヘレンとの間がうまくいっていなかった。ぼくが後見の問題に同意した時、ぼくはサナトリウムで寝たきりの状態だったし、相場の暴落で一文なしになっていた。ぼくがひどいことをしたのはわかっていたから、ヘレンの心を少しでもしずめることができれば、どんなことでも同意しようと思っていたんです。だが、今は事情が全然ちがう。ぼくはちゃんと仕事をしているし、素行のほうも、|ものすごく《ヽヽヽヽヽ》ちゃんとしている。少なくとも――」
「お願いだから、私に向かって乱暴な言葉を使わないでください」マリオンはいった。
彼は、はっとして彼女の顔を見た。一言いうたびに、彼女の嫌悪は、ますますはっきりしたものになっていった。彼女は、人生にたいする恐怖を、一つの壁のようなものに作りあげ、それを彼のほうに向けていたのだ。彼女がとるに足りないことに文句をつけるのも、何時間か前に料理人ともめごとがあったためなのかも知れない。チャーリーは、自分にたいして敵意を抱いている雰囲気の中に、オノリアをのこしておくことに、ますます恐怖めいたものを感じてきた。何かの言葉とか、頭を横にふるとかすることの中に、いずれ、その敵意は、姿をあらわすことになるだろう。そして、その不信のいくつかは、オノリアの心に深く刻みつけられて、いつまでも消えなくなってしまうだろう。しかし彼は、怒りを顔に出さず、胸の中におさめておいた。彼は、すでに一点だけ点数をかせいだのだった。というのは、リンカーンが、マリオンのいった言葉のばからしさに気がついて、いつから「ものすごく」などという言葉をいやがるようになったのか、となにげなくきいたからだった。
「それから」チャーリーはいった。「今はあの子に、いくらかでも役立つことをしてやれるはずだ。フランス人の女の家庭教師も、プラハにつれて行くつもりでいるし、新しいアパートも借りたし――」
彼はその時、自分が大変なまちがいを犯していることに気がつき、口をつぐんだ。彼の収入が、また、彼らの二倍になっているという事実を、彼らが平静な気持ちで受け取るはずはなかったからである。
「私たちよりもあなたのほうが、あの子に贅沢をしてやれそうね」マリオンはいった。「あなたが、お金を湯水のように使っていた時、私たちは、十フランのお金にも、いちいち気を使って暮していたのよ……あなたはまた、あれと同じことをはじめるのね」
「いや、そうじゃない」彼はいった。「ぼくだって、いろいろ勉強をした。ご存知のように、十年の間、ぼくは一生懸命働きました――そしてとうとう、幸運にも、株でもうけたんです。みんなと同じようにね。おそろしく幸運だった。もうそれ以上働く必要はないように思えた。だから、仕事をやめたんです」
長い間、だれも口をきかなかった。一同は、神経が緊張しているのを感じた。そしてチャーリーは、一年ぶりではじめて、酒を飲みたいという気持ちにかられた。彼は今、リンカーン・ピーターズが、彼に子供を返したいと思っている、という確信を得た。
マリオンは、突然、からだをふるわせた。彼女は今、チャーリーの生き方が、しっかりした、地についたものであることを、なかば感じとり、彼女の母親としての感情も、チャーリーの望みが自然なものであることを、認めていた。しかし彼女は、長い間、一つの偏見をもちつづけてきた――それは、妹の幸福を信じることができない、奇妙な不信の念から生まれた偏見だった。そしてその偏見は、あのおそろしい夜のショックによって、彼にたいする憎悪にその姿を変えたのである。それは、逆境と病苦による失意のために、具体的な悪事と具体的な悪人の存在を信じないわけにいかなかった、彼女の人生の一時期に、すべて起ったのだ。
「私は、そう考えるより仕方がないの!」彼女は突然、叫ぶようにいった。「ヘレンが死んだことに、どこまであなたの責任があるのか、私にはわからない。それは、あなたが、自分の良心で解決すべき問題だわ」
苦しい思いが、電流のように、彼のからだ全体にみなぎった。一瞬彼は、もう少しで立ちあがるところだった。音になって出ない声が、彼の咽喉《のど》の中でひびき渡った。彼は、一瞬、また一瞬と、じっと我慢しつづけた。
「おい、ちょっと待ってくれ」リンカーンが、不愉快そうにいった。「ぼくは、あのことに、君の責任があるなんて、思ったこともない」
「ヘレンは、心臓がわるくて死んだんだ」チャーリーは元気のない声でいった。
「そうよ、心臓がわるくてね」マリオンは、その言葉が、彼女にとっては、また別の意味をもつかのように、くり返した。
やがて、はげしい感情の爆発したあとの、重苦しい空気の中で、彼女は、はっきりとチャーリーを見た。そしてともかくも、彼が、その場の状況を支配していることに気がついた。彼女は、夫のほうにちらりと視線を向けたが、彼から何の助けも得られないのを知ると、大した問題ではないとでもいうように、突然、自分の敗北を認めてしまった。
「好きなようになさるといいわ」彼女は、椅子からさっと立ちあがりながら、叫んだ。「あの子は、あなたの子で、私がとやかくいう問題じゃないわ。もし私の子供の場合だったら、私は、むしろ――」彼女は、辛うじて自分を抑えた。「この問題は、あなた方二人でおきめになってください。私はとても我慢できないわ。気分がわるいから、休みたいの」
彼女は、そそくさと部屋を出て行った。しばらくして、リンカーンがいった。
「今日は、彼女もつらかったでしょう。あのとおり、感じやすい性格の女だから――」彼の声には、弁解めいた調子があった。「いったん、女というものが思いつめると」
「たしかに、そのとおりですよ」
「何もかもうまくおさまりますよ。家内も、もうこれでわかったと思う。君が――あの子を育てて行けるってことをね。そうなれば、ぼくたちだって、君やオノリアの邪魔をするわけにはいかなくなる」
「ありがとう、リンカーン」
「家内の様子を見に行ったほうがよさそうだ」
「では、ぼくは失礼する」
通りに出た時、彼はまだふるえていた。しかし、ボナパルト通りを河岸のほうに向かって歩いて行くと、また元気を取りもどした。そして、河岸の灯火によって、新しく生き生きしたものに見えるセーヌ河を横切った時、彼は、一種の勝ち誇ったような気持ちを味わった。しかし、自分の部屋にかえっても、彼は眠ることができなかった。ヘレンの面影が、彼につきまとってはなれなかったのだ。あれほど深く愛していたヘレンだったが、彼らは、愚かにもたがいの愛を乱用しあい、その愛をずたずたにひきさいてしまったのだ。マリオンがはっきりおぼえている、あのおそろしい二月の夜、だらだらした喧嘩が、長々と何時間もつづいた。「フロリダ」で一騒動あったあとで、彼は、彼女を家につれてかえろうとした。すると彼女が、テーブルに坐っていた、ウェッブ青年に接吻したのだ。そのあとで、マリオンがヒステリックになって話していた事件が、もちあがったのである。彼はひとりで家にたどりつくと、はげしい怒りにかられて、鍵をかけてしまった。一時間後に彼女がひとりでかえってくるなんて、どうして知ることができただろう? 吹雪になって、その中を、混乱のあまり、タクシーもさがすことができず、舞踊靴をはいたまま、さまよい歩くなんて、どうして知ることができただろう? やがて、その余波で、彼女が肺炎にかかったが、奇跡的に助かり、それに伴なう、さまざまなぞっとするようなことが起った。彼らは、「和解」した。しかし、それは破滅への入口だった。そして自分自身の眼で、まのあたりそれを見たマリオンは、それが自分の妹の受けた数多い受難の一場面であると思いこみ、その時のことを決して忘れなかったのである。
あの事件を、もう一度脳裡に思いうかべていると、ヘレンは、よりいっそう身近かなものに感じられてきた。明け方近くになった頃、なかば眠っている彼の上に、そっと忍びよってくる柔らかな白い光の中で、彼は、ふたたび彼女に話しかけている自分に気がついた。彼女は、彼のとったオノリアにたいする処置は、完全に正しいし、彼女自身も、オノリアが、彼といっしょに生活することを望んでいる、といった。彼女は、彼が立ち直って、前よりも立派な生活を送っているのを、喜んでいるともいった。それ以外にも、彼女はいろいろなことをいっていた――それは、この上なく愛情にみちたものだったが――しかし彼女は、白いドレスを着て、ブランコに乗っていた。そして、そのゆれ方がだんだんに速くなって行くので、最後には、彼女のいっていることが、全部はっきりとききとれなくなった。
彼は、幸福な気持ちで眼をさました。人生の扉《とびら》が、ふたたびひらかれたのだ。彼は、オノリアと彼自身のために、いろいろな計画や、見通しや、未来を心の中に思い描いてみた。しかし、ヘレンといっしょにたてていた計画を思い出すと、突然悲しい気持ちにおそわれてしまった。死というものは、彼女の計画には存在していなかったのだから。重要なのは、現在なのだ――なすべき仕事をもち、だれかを愛すること。しかし、愛しすぎてはいけない。父親が娘を、母親が息子を、あまりにも溺愛《できあい》しすぎたために、よくない結果を生んだことを、彼は知っていた。後になって世間に出た時、子供は、自分の結婚した相手に、同じような盲目的な愛情を求めるにちがいない。そしておそらく、それを見出すことができず、愛と人生に嫌悪の念を抱くようになることだろう。
その日もまた、美しく晴れた、さわやかな日だった。彼は、リンカーン・ピーターズを、彼の勤めている銀行に訪ねて行き、プラハに向かって出発する時、オノリアをつれて行くのをあてにしてもいいのかと、たずねてみた。リンカーンは、別に先にのばす理由はないといった。ただ、一つだけ――法律上の後見人という問題があった。マリオンは、もう少しその権利を自分のものにしておきたいという気持ちをもっていた。彼女は、今度の問題で気持ちが転倒していたので、この問題をもう一年間、自分の意のままにできるように思わせておいたほうが、事態を円滑にはこばせるにちがいない。手にふれ、眼で見ることのできる子供を、自分のものにしたいために、彼はそのことに同意した。
次は、女の家庭教師の問題だった。チャールズは、うす暗い周旋所に腰をおろして、怒りっぽいベアルヌ人と、健康で快活なブルターニュの田舎娘と話をしてみたが、どちらの女も、我慢できなかった。ほかにも候補者がいたが、その女たちには、次の日にあうことにした。
彼は、グリフォンで、リンカーン・ピーターズと昼食を食べたが、できるだけ、あふれ出る喜びを抑えようとした。
「自分の子供というものは、かけがえのないものだ」リンカーンはいった。「しかし、マリオンの気持ちも理解してやってもらいたい」
「ぼくが七年間、向うでどんなに精を出して働いたか、義姉さんは忘れているんです」チャーリーはいった。「彼女は、例の晩のことだけしかおぼえていないんだ」
「それだけじゃない」リンカーンは、ためらいながら、いった。「君とヘレンが、金をばらまきながら、ヨーロッパ中で乱脈な生活を送っていた時、ぼくたちは、ごくつつましい生活をしていた。ぼくは自分の保険をかけるくらいしかできなかったんだから、富なんてものには、まるで縁がなかったんだ。マリオンは、そんなことに何か不公平なことがあるように感じていたにちがいない――最後には、君が働いてもいないのに、どんどん金持ちになっていったんだから」
「金の入ってくるのも速かったが、出ていくのも、同じように速かった」チャーリーはいった。
「そうだったな。たくさんの金が、ボーイとか、サキソフォン吹きとか、ヘッドウェイターとかの手に渡っていたんだ――そうだな、あの大パーティも、もう終ってしまったが。こんなことをいうのも、あの気狂いじみた数年間にたいする、マリオンの気持ちを説明してみたかったからだ。マリオンが、あまり疲れていない六時頃にでも、ちょっとよってくれれば、その場で細かい点をとりきめよう」
ホテルにかえると、一通の速達がとどいていた。それは、ある男をさがす目的で、アドレスを知らせておいた、リッツ・バーから、転送してきたものだった。
チャーリーさま
先日おあいした時、あなたの様子がとてもおかしかったので、何か気になることでもしたのではないかと思ったわ。もしそうなら、私には何のことかよくわからないの。実をいうと、去年一年間、ずっとあなたのことばかり考えてきたわ。だからもしこっちにくれば、あなたにあえるかも知れないという気持ちが、心の奥にあったのね。あの気狂いじみた春、私たちはとても楽しかったわ。夜、あなたといっしょに、肉屋の三輪車を盗み出してみたり、二人で大統領を訪問しようとして、あなたが山高帽のふちだけをかぶり、針金のステッキをもったりしたわね。近頃は、みんなひどく年寄りじみてきたように見えるわ。だけど私は、全然年をとったなんて感じがしないの。今日、何時でもいいから昔の思い出のために、あうことにしない? 今のところ、ひどい二日酔いだけど、午後になれば、よくなると思うわ。五時頃、リッツのバーで、あなたを待っているわ。
常に忠実なる
ロレーン
彼がまず感じたのは、いい年をして三輪車を盗み出し、ロレーンを乗せて、深夜の二時三時頃から明け方にかけて、エトワール広場を走りまわったということにたいする、何かいいようのない、恥かしい気持ちだった。今、思い出すと、それは、悪夢のようなものだった。鍵をかけて、ヘレンをしめ出してしまうということは、彼の生活のどのような行為とも、何かそぐわないものだったが、三輪車事件のほうは、いかにも彼のやりそうなことだった――それは、彼がやった、数多くの同じような行為の一つだったのだ。そのような無責任きわまりない状態に到達するには、何週間の遊興が、何か月の遊興が、必要であったろう?
彼は、あの頃ロレーンが、どんな姿で彼の前に姿をあらわしたか、思い出してみようとした――彼女は、この上なく魅力的な女に思われた。ヘレンは、何もいわなかったが、そのために不愉快な気持ちを味わっていた。しかし昨日、レストランで見た彼女は、平凡で、印象のうすい、疲れ切った女のように思われた。彼は、どんなことがあっても、彼女にあいたくなかった。彼は、アリックスが、ホテルのアドレスを彼女に教えなくてよかったと思った。そのかわり、オノリアのことを考え、彼女といっしょにすごす日曜日のことや、朝、彼女に挨拶したり、夜、わが家で、彼女の寝息を暗闇《くらやみ》の中できくのを思い描くと、ほっと安堵《あんど》の思いをおぼえるのだった。
五時になると、彼はタクシーをひろって、ピーターズの家族全員に、プレゼントを買った――気のきいた布製の人形、箱に入ったローマの兵隊、それから、マリオンには花、リンカーンには、大きな麻のハンカチ。
アパートにきてみると、彼は、マリオンがさけがたいこととして、事態をうけ入れているのに気がついた。彼女は今、彼女の家庭をおびやかす他人というよりは、扱いにくい家族の一員として、彼を迎え入れた。オノリアは、すでにこの家を出て、父親と暮すことを知らされていた。チャーリーは、彼女がうれしくてたまらないのに、それを表に出さないように努めている利発さを知って、うれしく思った。ただ彼の膝《ひざ》の上に乗った時だけ、彼女は、自分の喜びを小声でささやいた。そして、ほかの子供たちといっしょに、そっと部屋から出ていく前に、「いつなの?」とたずねるのだった。
彼はしばらくの間、部屋の中でマリオンと二人だけになった時、衝動にかられて、思い切って大胆にいってしまった。
「家庭の中の喧嘩《けんか》というものは、ほんとうにつらいものです。ルールどおりにはいきませんからね。痛みとか傷とかいうものではなくて、皮膚の裂けたのに似ているんです。ふさぐだけのものがないので、なかなかなおらない。あなたともっと仲よくなれるといいんですが」
「なかなか忘れられないこともあるわ」彼女は答えた。「それは信じられるかどうかの問題だわ」その言葉にたいする返事がなかったので、まもなく、彼女はたずねた。「いつ、あの子をつれて行くおつもり?」
「女の家庭教師がみつかったらすぐにです。明後日にでも、つれて行きたいと思っています」
「それは無理だわ。あの子の荷物をちゃんとまとめなきゃならないし。土曜より前は無理よ」
彼は、譲歩した。リンカーンは、部屋にもどってくると、彼に酒をすすめた。
「毎日飲むことにしている、一杯のウイスキーを飲むことにしよう」彼はいった。
部屋の中は、暖かかった。家庭というものの雰囲気がただよっていて、暖炉のそばには、家族全員が集まっている。子供たちは、安全に大事に扱われていることを感じている。母親も父親も真剣で、子供たちに充分気を配っている。彼らには、彼がここに訪ねてきたことよりも、子供たちのためにしてやる、もっと大切なことがあるのだ。彼とマリオンとの間の緊張した関係よりも、子供たちにやる一さじの薬のほうが、結局はずっと重要なのだ。彼らは、別に鈍感なわけではない。しかし、生活と環境に強く束縛されているのだ。彼は、十年一日のような銀行の生活から、リンカーンを抜け出させるために、何かをしてやれないものかと考えた。
その時、玄関のベルが、長々と鳴りひびいた。メイドが前を通り抜けて、廊下を歩いて行った。もう一度、ベルが長く鳴りひびくとドアがひらいて、人声がきこえた。客間にいた三人は、いったいだれだろうと、顔をあげた。リチャードは、廊下の見えるところまで歩いて行き、マリオンも立ちあがった。やがて、メイドが廊下をもどってきたが、すぐそのあとから人声がきこえ、灯火の下で見ると、それが、ダンカン・シェーファーとロレーン・クオールズだということがわかった。
彼らは、陽気にうかれさわいでいた。彼らは、大声をあげて笑った。一瞬の間、チャーリーは愕然《がくぜん》とした。ピーターズのアドレスを、どうやってさがし出したのか、彼には見当がつかなかったのだ。
「あっはっは!」ダンカンは、ふざけたように、チャーリーに向かって、指をふってみせた。「あっはっは!」
彼ら二人は、ふたたび大声をあげて笑った。不安と困惑を感じながら、チャーリーは、すばやく彼らと握手をして、リンカーンとマリオンに紹介した。マリオンは、かるく頭をさげただけで、ほとんど何もいわなかった。彼女は、暖炉のほうに一歩さがった。そして、彼女の娘が、その傍に立つと、娘の肩に腕をかけた。
チャーリーは、この侵入ともいうべきものにたいして、だんだんにつのる困惑をおぼえながら、彼らが弁明するのを待った。ダンカンは、しばらく考えこんでいたが、やがて、口を切った。
「ぼくたちは、君を食事にさそおうと思ってやってきたんだ。アドレスを教えないような、いくじのないずるいやり方は、もうやめてくれと、ぼくもロレーンもいっているんだ」
チャーリーは、彼らを廊下に押しもどすとでもいうように、彼らのそばに近よって行った。
「残念だけど、ぼくは今行けない。行く先をいっといてくれれば、三十分あとに電話をする」
その言葉は、何の効果も、もたらさなかった。ロレーンは、突然、椅子の端に腰をおろすと、じっとリチャードのほうに眼を向けて、大声でいった。「まあ、何てかわいい坊ちゃんなんでしょう。さあ、こっちにいらっしゃい」リチャードは、母親のほうにちらりと眼をやったが、動こうとはしなかった。ロレーンは、露骨に肩をすくめると、ふたたびチャーリーのほうに眼を向けた。
「さあ、お食事に行かない? あなたの親類の方たちは、全然気になさらないわ。あなたにはめったにあわないんだから。そんなにまじめなあなたにはね」
「ぼくは行けない」チャーリーは、断乎とした口調でいった。「君たち二人で食事をしてくれ。ぼくは、あとで電話するから」
彼女の声は、突然不愉快なものになってきた。「わかったわ。出て行くわよ。だけど、あなたが明け方の四時に、私の家のドアをどんどん叩いていたことを、忘れたことはないわ。私、親切にも、あなたにお酒を出してあげたのよ。さあ、行きましょう、ダンク」
相変らずのろのろした動作で、ぼんやりした顔に怒りの表情をうかべながら、彼らは、おぼつかない足どりで、廊下をもどって行った。
「お休み」チャーリーはいった。
「お休みなさい!」ロレーンは、語気を強めていった。
彼が客間にもどってくると、マリオンは、全然身動きしていなかった。ただ、今度は、彼女の息子が、彼女のもういっぽうの腕に抱かれて、立っていた。リンカーンは、ゆれている振子のように、オノリアを前後にゆすっていた。
「何て無茶苦茶な奴らなんだろう!」チャーリーは、突然、口を切った。「ほんとうに無茶苦茶な奴らだ!」
彼らは二人とも、一言もいわなかった。チャーリーは、くずれるように、ひじかけ椅子に腰をおろすと、自分のグラスを取りあげた。しかし、それをまた下におくと、口を切った。
「二年もあわないうちに、すっかりずうずうしくなってしまって――」
彼は、そこで口をつぐんだ。マリオンが「ああ!」という、短い怒りの声をあげると、突然彼に背を向けて、部屋から出て行ってしまったからだ。
リンカーンは、注意深くオノリアを下におろした。
「子供たちは、食堂に行って、スープをいただきなさい」彼はいった。そして子供たちが、いわれたとおりに出て行くと、チャーリーに向かっていった。
「マリオンは、体の具合がよくないから、ショックには耐えられないんだ。ああいった連中にあうと、ほんとうに体の具合がわるくなるんだ」
「別にここにこいといったわけじゃない。あの連中は、だれかから、君の名前をきき出したんだ。あの連中はわざと――」
「いずれにしても、まずいことになった。これじゃ、何のプラスにもならない。ちょっと失礼する」
一人きりになったチャーリーは、緊張したまま椅子に腰をおろしていた。となりの部屋からは、子供たちの食事をしている音や、簡単な言葉のやりとりがきこえてきた。子供たちは、大人たちのさわぎのことなど、すっかり忘れているようだった。さらに遠くの部屋から、低いささやくような声がきこえ、やがて、受話器をはずすちりんという音がきこえてきたので、彼は、部屋の反対側の、声のきこえないところに、場所をうつした。
いくらもしないうちに、リンカーンがもどってきた。「ねえ、チャーリー、今夜は、食事はやめたほうがいいと思う。マリオンの体の具合がよくないんだ」
「ぼくのことを怒っているのか?」
「少しばかりね」彼は、ほとんどつっけんどんといってもいいような調子でいった。「彼女は、体の丈夫なほうじゃないし――」
「オノリアのことで、彼女の気が変ったというのか?」
「今、彼女は、ひどく不愉快なんだ。ぼくにはわからない。明日、銀行のほうにでも電話をしてくれないか」
「あんな連中がやってくるなんて、夢にも思わなかったって、彼女に釈明しておいてもらえないかな。ぼくだって、君たちと同じくらい、感情を害しているんだから」
「今、彼女には、何も釈明することはできないね」
チャーリーは、立ちあがった。彼は、コートと帽子を手にとると、廊下を歩いて行った。そして、食堂のドアをあけると、ふだんとちがう声でいった。「お休み、子供たち」
オノリアは立ちあがると、テーブルのまわりを走ってきた。そして、彼に抱きついた。
「お休み、かわいい子」彼は、何かはっきりしない口調でいった。そして、何かを慰めるように、「お休み、子供たち」と、いっそうやさしい声でいった。
チャーリーは、ロレーンとダンカンを見つけ出そうという、怒り狂った気持ちを抱いて、まっすぐにリッツ・バーに出かけて行った。しかし二人を、そこにみつけることはできなかった。いずれにしても、彼の力では、何もできないことを、悟らないわけにはいかなかった。彼は、ピーターズの家では、ウイスキーにも手をふれなかったが、今彼は、ハイボールを注文した。ポールが挨拶をしにやってきた。
「すっかり変ってしまいました」彼は、悲しげな口調でいった。「以前の半分ぐらいしか、商売になりません。アメリカにかえった方《かた》で、無一文になった方が、たくさんいらっしゃるようです。最初の暴落でなくて、二度目の暴落の時のようです。あなたのお友だちのジョージ・ハートさんも、全財産をなくされたという話です。あなたも、アメリカにおかえりになるんですか?」
「いや、ぼくは、プラハで商売をやっている」
「あなたも、あの暴落〔一九二九年十月のニューヨーク株式の大暴落を指しているのであろう〕で、かなり損をなさったということですが」
「そのとおりだ」彼はそういうと、不機嫌そうにつけ加えた。「しかしぼくは、大相場〔大きな上げ相場のこと〕の時に、求めていたいっさいのものをなくしてしまった」
「空売り〔売りから入って買いもどし、差益を得ようとする株の売買法〕をなさったんですか?」
「まあ、そんなところだ」
またしても、あの頃の記憶が悪夢のようによみがえってきた――旅行している時、彼らが出あった人々――ちょっとした足し算もできず、ちゃんとした会話さえ話せない人々。船の中のパーティで、ヘレンがいっしょにダンスをすることを承諾した小男、その男は、テーブルから十フィートもはなれたところから、彼女を侮辱したのだ。そして、酒や麻薬のために、金切り声をあげながら、あやしげなホテルからはこび出された、年増女や若い女たち――
――自分のように、ほんとうの雪の中にではないが、雪の中に、鍵をかけて女房をしめ出してしまった男たち。なぜなら一九二九年の雪は、ほんとうの雪ではなかったからだ。もし雪だと思いたくなければ、いくらかの金を払えばよかったのだ。
彼は、電話のところに行って、ピーターズのアパートに電話をかけた。リンカーンが、電話口に出てきた。
「さっきのことが気になるんで、電話をしてみたんだ。マリオンは、何かはっきりしたことをいっていた?」
「マリオンは、体の具合がわるいんだ」リンカーンは、そっけない口調で答えた。「今度のことは、何もかも君がわるいとは思っていない。しかし、このことで、家内がめちゃめちゃになってしまうのを、だまって見ているわけにはいかないんだ。あと半年ばかりは、様子を見るより仕方がないんじゃないかな。ぼくとしては、またこんな状態に家内を追いこみたくはないんだ」
「わかった」
「わるいな、チャーリー」
チャーリーは、自分のテーブルにもどって行った。彼のウイスキーのグラスは、空になっていた。しかし、アリックスが、たずねるような眼でそれを見た時、彼は頭を横にふってみせた。今、オノリアにしてやることといっては、何か物を贈ることぐらいしかないだろう。明日にでも、いろいろな物を、彼女に贈ってやろう。しかし、それもまた、単なる金銭上の問題にすぎないと思うと、彼はいくぶん腹立たしい気持ちになった――彼は今まで、数えきれないくらい、たくさんの人に金をやってきた――
「いや、もういいんだ」彼は、別のウェイターに向かっていった。「勘定は、いくら?」
彼は、いつかまたもどってくるだろう。リンカーン夫婦にしても、いつまでも、彼に償いばかりさせているわけにもいくまい。しかし彼は、ともかくも子供がほしかった。そして今、それ以外に、すばらしいことは、何一つないように思われた。今ではもう、自分ひとりだけで、いろいろな楽しい思いや夢を、心に抱いていられるような、そんな若い青年ではない。ヘレンにしても、彼がこんなふうにひとりぽっちでいるのを、望んでいるはずはない、彼は、そんな強い確信を抱くのだった。
[#改ページ]
冬の夢
キャディの中には、ひどく貧乏で、前庭に疲れて弱っている牡牛一頭いるだけという、一部屋だけの家に住んでいる者もいたが、デクスター・グリーンの父親は、ブラック・ベアでも二番目に大きい食料品店をもっていた――いちばん大きいのは、「ザ・ハブ」という名前の店で、シェリー・アイランドの金持ちたちが、その店をひいきにしていた――そんなわけで、デクスターが、キャディをしていたのは、ただポケットマネーがほしいからだけだった。
秋になって、さわやかな灰色の日が訪れ、やがて、長いミネソタの冬が、箱の白い蓋《ふた》のように、大地をおおうようになると、デクスターは、フェアウェイをおおいかくしている雪の上を、スキーにのって走りまわった。この季節のこの地方は、何ともいいようのない憂鬱《ゆううつ》な感じを、彼にあたえた――ゴルフ場は、長い冬の間、雪のために休業しなければならなかったし、毛むくじゃらのスズメたちが、ひっきりなしにやってくるのが、彼の勘にさわるのだった。夏の間は、はなやかな色彩のひるがえっていたティーのあたりで、今は、砂箱が見るかげもなく、膝《ひざ》の深さまで氷でおおわれているのも、またわびしい風景だった。丘を横切ると、無情なほど冷たい風が吹きつけてきた。そしてもし太陽が出ている時には、無限にひろがる、ぎらぎらした硬質の光に眼を細めながら、重い足どりで歩くのだった。
四月になると、冬は突然終りを告げる。雪は、気の早いゴルファー――彼らは、赤と黒のボールで、まだ早い季節に挑戦するのだったが――のやってくるのも、ほとんど待つことなく、ブラック・ベア湖にながれこんで行く。春の胸の高鳴りがあるわけでもなく、雨の多い春のかがやきの合間があるわけでもなく、寒さはすぎ去ってしまう。
デクスターは、このような北部の春に、何か陰鬱なものがあることを知っていた。ちょうど、秋に何か華麗なものがあるのを知っていたように。秋になると、彼はかたく手をにぎりしめ、からだをふるわせながら、ばかばかしい文句をひとりでくり返し、空想上の聴衆や軍隊に向かって、突然きびきびした命令を下す身ぶりをした。十月になると、彼の胸は希望にみち、十一月になると、その希望は、恍惚《こうこつ》とした勝利感のようなものにまで高まっていった。このような気分にひたりながら、彼は、シェリー・アイランドでの、かがやきを放ちながらも、つかの間にすぎ去って行った夏の印象を、空想の中で発展させていくのだった。彼は、空想の中でゴルフのチャンピオンになり、フェアウェイで行われる、無数のすばらしい試合で、T・A・ヘドリック氏を打ち負かした。そしてその試合に、彼は一つ一つ倦むこともなく、その細かい部分に変化をあたえていった――ある時には、ばかばかしいくらい簡単に勝ち、ある時は、だんだんに追いついて、堂々と勝つのだった。また時には、モーティマー・ジョーンズ氏のように、ピアス・アロウ〔アメリカの高級車の名前〕からおりると、シェリー・アイランド・ゴルフ・クラブのラウンジの中に、おちつきはらってぶらぶらと入って行く――あるいは、感嘆の眼でながめている、たくさんの人々にとりかこまれながら、クラブのとびこみ台の上のとびこみ板から、特殊な技能を要するとびこみを、見事に演じてみせたりする……そして、感嘆のあまり、口をあけたまま、じっとみつめている人々の中には、モーティマー・ジョーンズ氏もまじっているのだった。
ところで、ある日のこと、次のようなことが起った。ジョーンズ氏――それは、空想上の彼ではなく、ほんとうの彼自身だったが――が、眼に涙をうかべて、デクスターのところにやってくると、デクスター、君はクラブでいちばん腕のいいキャディだ、もし充分に給料をはらってやったら、キャディをやめないでくれるだろうか、というのは、ほかのキャディたちは、だれもかれも――いつもかならず一ホールごとに、ボールを一つなくすんだから、といった。
「いいえ」デクスターは、断乎とした口調でいった。「もうキャディはやりたくないんです」それから、少し間をおいて、「ぼくはもう、そんなに若くはないんです」
「君は、まだ十四にもなっていないじゃないか。いったい、どうして、今朝になんかなって、やめたいなんて決心したんだ? 来週は、州のトーナメントに、いっしょに行くと約束したじゃないか」
「ぼくは、もう子供じゃないから、やめる決心をしたんです」
デクスターは、もっていた「Aクラス」のバッジを、彼に手渡し、キャディマスターから、自分のもらうべき金をうけとると、ブラック・ベア村にある、自分の家に向かって歩いていった。
「今日まで出あった、いちばん優秀な――キャディだった」その日の午後、モーティマー・ジョーンズ氏は、酒を飲みながら、叫ぶようにいった。「ボールをなくしたことなど、一度もなかった! 何でも自発的にやったし! 頭もよかった! おとなしかった! 正直だったし! 感謝の気持ちももっていた!」
このような事態にたちいたったのは、十一になる一人の少女が、原因だった――それは、あと何年かたてば、たぐいまれな美貌をもつようになり、数多くの男たちを、この上もない不幸におとしいれる運命をもった、美しく、気むずかしい少女だった。しかし、その徴候ともいうべきものは、すでに彼女にあらわれていた。微笑する時、口の両隅をよじり下げるような仕草や――まったく始末に困ることだったが!――ほとんど情熱的といってもいいような彼女の眼には、何となく罪深いものがあった。このような女性には、まだ大人にならない前から、生命力ともいうべきものが、生まれているものだが、それは今、一種のかがやきとなって、彼女のほっそりした体から、はっきりとその姿をあらわしていた。
彼女は、朝の九時になると、白いリンネルの服を着た乳母といっしょに、張り切ってゴルフ場にあらわれた。乳母のもっている白いズックの袋の中には、新しい小さな五本のクラブが入っていた。デクスターが、はじめて彼女の姿を見た時、彼女は、キャディ・ハウスのそばに立っているところだった。少しばかりおちつかない様子をしていたが、何かはっとさせるような、少女らしくない、しかめつらを作ってみせながら、いかにも不自然な会話を乳母とかわすことによって、おちつかない様子をかくそうとしていた。
「ねえ、ヒルダ、ほんとうにいいお天気ね」デクスターは、彼女がそういうのを耳にした。彼女は、唇の両端をぐっと下のほうに引いて、微笑をうかべてみせると、こっそりと、すばやい視線をあたりに投げかけた。そして一瞬、彼女の視線は、デクスターの上にとまった。
それから、乳母のほうに顔を向けると――「ねえ、今朝は、人があまりいないようね」
彼女は、ふたたび微笑をうかべた――それは、キラキラとかがやく、ひどく気取った、自信にみちた微笑だった。
「ところで、どうしたらよろしいでしょうか?」乳母は、特にどこを見るというわけではなく、口を切った。
「大丈夫よ。私が何とかするわ」
デクスターは、口をわずかにひらいたまま、身動き一つせずに立っていた。もし一歩でも前に進めば、じっとみつめている自分の姿が、彼女の視野の中に入ってしまう――また、一歩でも後にさがれば、彼女の顔がよく見えなくなってしまう。一瞬の間彼は、彼女が、大人にはほど遠い少女だということに気がつかなかった。彼は今はじめて、一年前、ブルマーをはいた彼女の姿を、何度か見たことがあるのを思い出した。
突然彼は、無意識のうちに、声をあげて笑った。それは、予期しない短い笑いだった――次の瞬間、彼は自分でもはっとして、さっとくびすを返すと、いそいで歩いて行こうとした。
「キャディ!」
デクスターは、立ちどまった。
「キャディ――」
彼に向かって声がかけられたのは、うたがう余地のないことだった。それだけではなく、あのばかばかしい微笑、あの非常識ともいえる、わけのわからない微笑をうかべて、彼をあしらったのである――そしてその微笑は、少なくとも一ダースぐらいの男性が、中年になるまで容易に忘れられない種類のものだった。
「キャディ、ゴルフの教師って、どこにいるのか、知ってる?」
「今、教えている最中です」
「では、キャディマスターは、どこにいるか知ってる?」
「今朝は、まだきていません」
「まあ」その返事をきいて、彼女は一瞬、困惑したようだった。そして交互に、片足で体をささえながら立っていた。
「キャディが、一人必要なんです」乳母がいった。「モーティマー・ジョーンズの奥さまから、ゴルフをしてくるようにっていわれたんですけど、キャディがいないんで、どうしたらいいかわからないんです」
その時、ミス・ジョーンズが、ちらりと険悪な視線を投げかけたので、乳母は口をつぐんだ。しかしその視線は、またたくまに微笑に変っていった。
「ここには、ぼく以外には、キャディはいないんです」デクスターは、乳母に向かっていった。「だから、キャディマスターがくるまで、ここにいて仕事をしていなければいけないんです」
「まあ、そうなの」
ミス・ジョーンズと乳母は、ようやくひきあげていったが、デクスターから適当にはなれたところまでくると、はげしいいいあらそいをはじめた。そして最後には、ミス・ジョーンズが、一本のクラブを手に取ると、ものすごい勢いで、地面を叩きつけた。彼女は、さらに威勢をつけるために、乳母の胸のあたりに、鋭く打ちおろそうとした。すると乳母は、そのクラブをつかんで、彼女の手からねじるようにして、それをもぎとってしまった。
「このいじわるの、ちびばあさん!」ミス・ジョーンズは、はげしい口調で叫んだ。
またもや、いいあらそいがはじまった。その光景は、どこか喜劇的なところがあったので、デクスターは、何度かもう少しで吹き出しそうになったが、そのたびに、それが声にならない前におさえつけてしまった。そして彼は、その少女が、乳母を打つのも当然だという、強い確信をおさえることができなかった。
この事態は、偶然キャディマスターがあらわれたことで解決したが、乳母はすぐさま、マスターに訴えた。
「お嬢さまは、キャディを一人必要だといっていらっしゃるんです。それなのに、この子は、やれないっていうんです」
「ぼく、マッケナーさんから、あなたがくるまで、ここにいてくれっていわれたんです」デクスターは、いそいで口を切った。
「そうなの、そのマスターは、もうきてるじゃない」ミス・ジョーンズは、キャディマスターのほうを向くと、機嫌のいい微笑をうかべた。そしてバッグを下にほうり出すと、上品ぶった気取った歩き方で、最初のティーに向かって歩きはじめた。
「どうしたんだ?」キャディマスターは、デクスターのほうに顔を向けた。「どうしてそんなとこに、ばかみたいな顔をして、突っ立っているんだ。さっさと、お嬢さまのクラブをもってさしあげたらどうだ」
「今日は、仕事はしないんです」デクスターはいった。
「しない――」
「ぼくは、やめようと思っているんです」
この途方もない決心をきいて、キャディマスターは、驚いてしまった。デクスターは、人気のあるキャディだったし、夏の間働いて、月三十ドルかせぐことは、この湖の近辺のほかのところでは、とうてい不可能だったからである。しかし彼は、強烈なショックをうけてしまったので、混乱のあまり、即刻、はげしいはけ口を求めないわけにはいかなかったのである。
しかしいずれにしても、それは、それほど単純なものとはいえなかった。それからあとも、たびたびそんなことが起ったが、デクスターは、無意識のうちに、彼自身の冬の夢に支配されていたのである。
ところで、このような冬の夢は、その性質だとか、時期的に見て適切であるかどうか、といった点では、いうまでもなく、それぞれちがっていたが、その内容そのものは、いつも同じだった。数年後、デクスターは、その夢の命ずるままに、州立大学の商学部をやめて、もっと古くて、名前の知られている、東部の大学に入学した。別に確固とした根拠があったわけではなかったが、何となく有利ではないかと思ったからだった。今は商売のうまくいっている父親が、相応の援助をしてくれたかも知れなかったが、彼はとぼしい学資に苦しんでいた。しかし、彼の冬の夢が、たまたま最初に金持ちというものに深い関係をもっていたからといって、この少年が、単なる俗物にすぎない、という印象を抱くべきではない。彼が求めていたのは、華麗なものや、華麗な人々との結びつきではなかった――彼の求めていたのは、華麗なもの、それ自体だったのである。彼はしばしば、その理由もわからないまま、最上のものを手に入れようとした――そして時には、人生が好き勝手に行う、不可思議な拒絶と禁止に出くわすこともあった。そしてこの物語が扱っているのも、その種の拒絶の一つで、彼の人生全般に関するものではない。
彼は、金をもうけた。それは、少しばかり驚くべきことだった。彼は大学を卒業すると、ブラック・ベア湖の財源になっている都市へ行った。彼はまだ二十三で、その都市にきてまだ二年にもならなかったが、早くも「なかなか立派な青年がいる」と、人々が好んでいうようになった。彼のまわりにいる金持ちの息子たちは、大したあてもないのに、証券類を売り歩いたり、親からもらった財産を、あぶなっかしいやり方で投資したり、二ダースばかりもある「ジョージ・ワシントン商業講座」を、こつこつ勉強したりしていた。しかしデクスターは、大学を出た肩書きと、自信たっぷりな弁舌にものをいわせて、一千ドルを借りると、あるランドリーの共同経営権を買いとった。
彼が経営に加わった時は、単なる小さなランドリーにすぎなかったが、イギリス人が、ゴルフ用の純毛の長靴下を、どうやって縮まないで洗うかという技術を、専門的に研究したあげく、一年もたたないうちに、ニッカーボッカーを着用している顧客たちの要望をみたすようになった。男たちは、シェットランドウールの靴下やセーターを、彼のランドリーに出すようにと主張したが、それは人々が、ゴルフのボールを見つけるのがうまいキャディを求めているのと同じことだった。そしてしばらくすると、細君たちのランジェリーまで扱うようになって、同じ市のあちこちに、五つの支店を出すまでになった。そして二十七にならないうちに、彼の住んでいる地域では、最大のチェインストアを擁するようになった。そして今度は、それを売りはらうと、ニューヨークに出た。しかし彼の経歴のうちで、この物語に関係のあるのは、彼が最初の大成功をおさめた頃のことである。
彼が二十三の時、ハート氏――彼は、「なかなか立派な青年がいる」と好んでいっていた、白髪の連中の一人だった――が、シェリー・アイランド・ゴルフ・クラブで、週末をすごすようにと、招待状を、送ってくれたことがあった。そこでデクスターは、或る日、クラブの登録簿に署名をし、その日の午後、ハート氏とサンドウッド氏と、T・A・ヘドリック氏といっしょに、フォアサム〔四人が二組にわかれて行うゴルフの競技〕をやった。しかし彼は、かつてこの同じゴルフ場で、ハート氏のバッグをもって歩きまわったことや、バンカーやみぞがどこにあるか、眼をつぶっていても全部わかることなど、今いい出す必要はないと思った。――それでも彼は、自分たちのあとからついてくる四人のキャディたちに、ちらりと視線を向けては、かつての彼自身を思い出させ、また現在の自分と過去の自分が、それほどちがってはいないということを示すような、眼のかがやきや身ぶりを、彼らの中にさがし出そうとしている自分に気がついた。
それは、すばやく過ぎ去った、なつかしい昔の記憶が、突然あざやかによみがえってくる、不思議な日だった。一瞬彼は、自分が侵入者のように感じたが――次の瞬間には、退屈な男で、今ではゴルフなど少しもうまくない、T・A・ヘドリック氏にたいして、途方もない優越感を感じるのだった。
ついでハート氏が、十五番グリーンの近くで、ボールを見失ってしまったために、途方もないことがもちあがった。一同が、ラフのかたい草の中をさがしていると、うしろのほうにある丘の向うから、「前にいる人は、気をつけて!」という、はっきりした叫び声がきこえてきた。そして、一同がさがすのをやめて、突然ふり向くと、まあたらしいボールが、スライスしながら、突然丘をこえてとんできて、T・A・ヘドリック氏の腹のあたりにあたった。
「絶対に!」T・A・ヘドリック氏は叫んだ。「こんな気狂いじみた女どもは、ゴルフコースに入れないようにするべきだ。こんなことでは、何もかもめちゃめちゃになってしまう」
丘の上に、頭と声が、同時に姿をあらわした。
「通り抜けてもかまわないでしょうか?」
「あんたの打ったボールが、私の腹にあたったんだ」ヘドリック氏は、かみつくような口調でいった。
「ボールがあたったんでしょうか?」その少女は、男たちのいるところに近づいてきた。「ごめんなさい。私、『前にいる人は、注意してください!』って、大きな声でいったんですけど」
彼女は、男たち一人一人に、ちらりと何気ない視線を投げかけた――そして、自分のボールのあとを追い求めて、フェアウェイのほうにさっと眼を向けた。
「ラフに入れてしまったのかしら?」
その質問が、無邪気なのか、意地のわるいものなのか、はっきりきめることはできなかったが、それは、たちまちのうちに解決した。というのは、彼女のパートナーが、丘をこえてやってきた時、そのパートナーが、快活に呼びかけたからだった。
「私は、ここよ! 何かにぶつけなければ、グリーンにのっていたのに」
彼女が、短い五番アイアンで、ショットをしようと身がまえた時、デクスターは、彼女を注意深く綿密にながめた。彼女は、ブルーのギンガムのドレスを着ていたが、そのドレスは、喉《のど》と肩のあたりに、白い縁取りがついていた。そして、その縁取りが、彼女の日に焼けた皮膚を、一段と際立たせていた。十一歳の時、彼女の情熱的な眼と、下のほうに曲げた口をおかしなものに見せていた、あの大げさで浅薄な感じは、もはや、その姿を消していた。彼女は今、はっとするほど美しかった。その両頬の血色は、絵に描かれた肖像のように、その中央に集中していた――しかし、それは「強烈な」色ではなく、動揺する熱っぽい暖かみともいうべきものだった。そしてそれは、あまりにも陰影が深いので、いつでも、うすれて消え去ってしまうように思われた。この色と、よく動く口のために、たえまなく変化していくような印象、強烈な生命力、情熱のほとばしるような活力の印象を、たえずあたえていたが――それは、彼女の憂いをおびた眼によって、幾分抑制されていた。
彼女はどうとでもなれというように、イライラしながら、五番アイアンをスイングして、グリーンの向う側にあるサンド・ピットにボールを打ちこんでいた。そして、誠意のない微笑をさっとうかべ、無造作に「ありがとう!」というと、ボールのあとを追って行った。
「ジュディ・ジョーンズの奴め!」前のほうで、彼女がプレーをつづけているのを、一同がしばらくの間待っていた時、ヘドリック氏は、次のティーのところで、自分の意見をのべた。「あんな女は、背中を上に向けて、半年ばかりひっぱたいた上で、頭の古い騎兵大尉とでも結婚させるしかない」
「ああ、何という美人だろう!」三十をこしたばかりの、サンドウッド氏がいった。
「美人だって!」ヘドリック氏は、軽蔑《けいべつ》するように、大声をあげた。「彼女は、いつも接吻《せっぷん》されたがっているような顔をしている! あの大きな牡牛のような眼で、町中のうぶな若者どもを見るんだから」
ヘドリック氏が、母性本能にまで言及しようと思ったのかどうかは、よくわからなかった。
「彼女も努力をすれば、ゴルフのほうもかなり上達するはずだ」サンドウッド氏はいった。
「フォームがよくない」ヘドリック氏が重々しい口調でいった。
「スタイルのほうはなかなかいいが」サンドウッド氏はいった。
「あんな女は、われわれより速いボールをとばせないのを、神に感謝したほうがいい」ハート氏は、デクスターに、めくばせしてみせながら、いった。
その日の午後も終りに近づき、太陽は、奔放な金色の渦巻きとなり、さまざまな青や深紅の色彩をまき散らしながら、沈んでいった。そしてそのあとには、西部の夏の、乾いた、さらさらと音のする夜がやってきた。デクスターは、ゴルフ・クラブのベランダから、眼下にひろがっている風景をみつめていた。微風の吹く水面は、さざ波がかすかに立ち、初秋の満月に照らされて、銀色をした糖蜜《とうみつ》のようにみえた。その時、月が唇《くちびる》に指を一本あてると、湖は、青白い、澄んだ、静かな水たまりと化した。デクスターは、水着をつけると、いちばん遠くにある飛込み台まで泳いで行った。そして飛込み板の、ぬれているズックの上に、滴をしたたらせながら、手足をのばして横になった。
魚がとびはね、星がかがやき、湖畔の灯が、かすかにきらめいていた。暗い半島の上には、ピアノの音が鳴りひびいていた。それは、「チンチン」とか、「ルクセンブルグ伯爵」とか、「チョコレートの兵隊」とかいった、一年前の夏と、その前のいくつかの夏に流行した歌だった。水面にひろがるピアノの音は、いつも美しく思えたので、デクスターは、物音もたてずに、静かに横たわったまま、耳を傾けていた。
その時、ピアノが奏でていたのは、五年前、デクスターが大学の二年だった頃、新鮮で陽気なものに思ったものだった。それは、大学のダンスパーティで演奏されたものだったが、ダンスパーティに行くだけの余裕がなかったので、彼は体育館の外に立って、その調べに耳を傾けていたのだった。その曲の調べは、彼の心に一種のはげしい歓喜を呼び起したが、彼はそのはげしい歓喜をもって、今、自分自身に起っていることを思いめぐらしてみた。それは、あふれるような感謝の気持ち、それが一度だけのものであるにしても、自分自身が完全に人生に調和し、自分を取り巻いているすべてのものが、二度と訪れることのないような輝きと魅力を放っている、という感覚だった。
その時、背の低くて白っぽい長方形のものが、レース用モーターボートの反響するような音をひびかせながら、島の暗がりの中から、突然姿をあらわした。水をひき裂き、白く細長い二本の航跡を後方にうねらせていたが、ボートは、あっという間に彼の側にやってくると、水しぶきの単調な低音によって、ピアノの熱っぽい高音をかき消した。両腕をついて体を起した時、デクスターは、舵輪《だりん》のところに立っている人影に気がついた。同時に彼は、遠ざかって行く水面を間にはさんで、二つの黒い眼が、彼のほうをじっとみつめているのに気がついた――そしてボートは、走りすぎて行ったが、湖の中央に出ると、しぶきをあげながら、大きな円を目的もなく、くり返し描いていた。やがて、同じような突飛さで、その円の一つが、まっすぐに伸びてきたと思うと、飛込み台に向かってもどってきた。
「だれなの?」彼女は、エンジンをとめて、叫んだ。今では、すぐそばまできていたので、デクスターは、彼女がピンクのロンパースのような水着を着ているのを、見ることができた。
ボートの船首がぶつかったので、飛込み台は、いっきに傾き、彼は、彼女のほうにほうり出された。関心の程度にこそちがいがあったが、二人は、たがいに相手がだれであるかに気がついた。
「今日の午後、ずっとゴルフをやってた方じゃないかしら?」彼女は、たずねた。
たしかに、そのとおりだった。
「ところで、モーターボートの操縦の仕方はご存知? もしご存知なら、操縦していただけないかしら? そうすれば、私、うしろのサーフボートに乗れるから。私、ジュディ・ジョーンズっていうの」――彼女は、たわいのない、気取った笑いをうかべて、好意を示した。――それはどちらかといえば、気取った笑いをうかべようとしてみせたということができただろう。しかし、かりに彼女が口をゆがめたとしても、それはけっしてグロテスクなものではなく、単なる美しい笑いにすぎなかったのだ――「それで私、向こうの島にある家に住んでいるの。あの家には一人の男の子がいて、私を待っているのよ。彼が私の玄関のところまで乗りつけた時、私は桟橋からボートに乗って出てきちゃったの。だって彼が、私のことを理想の女だなんていうんだもん」
魚がとびはね、星がかがやき、湖畔の灯はかすかにきらめいていた。デクスターが、彼女とならんで腰をおろすと、彼女は、自分のボートの操縦の仕方を説明した。それがすむと、水の中に入って、クロールで体をくねらせながら、うかんでいるサーフボートのところまで泳いで行った。そんな彼女をみつめていることは、別に眼の疲れることではなく、揺れている小枝か、とんでいるカモメでも、ながめているようなものだった。クルミ色に日焼けした彼女の腕は、くすんだプラチナのような色をしたさざ波の中を、くねるようにして動いて行った。まず肘をあらわし、おちてくる水のリズムにあわせるように、前腕をうしろに投げ、それから腕をのばしては、また水の中に入れながら、前のほうに力強く進んで行った。
ボートは、湖の中心に向かって進んで行った。デクスターがふり向くと、前部がもちあがっているサーフボートの低くなった後部に、彼女は膝《ひざ》をついていた。
「もっと速く走って」彼女は叫んだ。「できるだけ速くね」
彼は、いわれたとおりに、レバーを乱暴にぐいと前に押した。すると、白いしぶきが、船首に盛りあがってきた。もう一度ふり返って見ると、彼女は、勢いよく進んで行くボードの上に立って、両腕を大きくひろげ、月をじっと見あげていた。
「とっても寒いわ」彼女は叫んだ。「あなたの名前は?」
彼は、自分の名前をいった。
「ねえ、明日の晩、夕食にこない?」
彼の心臓は、ボートのはずみ車のように回転した。そしてまたしても、彼女のなにげない気まぐれが、彼の人生に、新しい進路をとらせることになったのである。
次の日の夜、彼女が階下におりてくるのを待っている間、デクスターは、おちついた、奥行きのあるサマー・ルームと、それにつづくガラスばりのベランダの中に、それまでジュディ・ジョーンズを愛したことのある男たちを、置いてみた。彼には、それがどういう種類の男たちかわかっていた――それは、彼が最初に大学に入った時、洗練された洋服を身につけ、健康な夏をすごし、まっ黒に日焼けしている、有名なプレップスクールから入学してきたような連中だった。彼は、ある意味では、自分がそんな連中よりも、はるかに立派であると思っていた。彼のほうが、新しくて、強かったのだ。しかし、自分の子供たちが、そういった連中のようになってくれればいいと、自分では認めながらも、自分自身は、単に粗野でたくましいものでしかなく、自分の子供たちにしても、永遠にそこからしか生まれてこないことを、認めないわけにはいかなかった。
自分で立派な洋服が着られるようになった時には、彼はアメリカでいちばんいい洋服屋が、どこであるかを知っていた。そしてその夜、彼が身につけていたのは、アメリカの最高級の洋服屋の仕立てたものだった。また彼は、他の大学とははっきり異っている、彼の大学特有の、特殊な慎しみ深さを備えていた。彼は、そういった風習が、自分にとって価値のあることを認め、それを身につけていたのだった。服装とか態度に無関心であることは、それらに関心をもつことよりも、いっそう多くの自信が必要だということを、彼は知っていた。しかし、そういった無関心が身につくのは、彼の子供の代になってからのことだった。彼の母親の名は、クリムスリックといい、ボヘミアの百姓の出で、一生の間、ちゃんとした英語を話すことができなかった。だからこそ、その息子たる者は、きちんとした模範的なパターンを守らねばならなかったのである。
七時少しすぎに、ジュディ・ジョーンズは、階下におりてきた。彼女は、ブルーの絹のアフタヌーンドレスを着ていた。彼女に、もっと入念な装いを期待していた彼は、最初失望しないわけにはいかなかった。この気持ちは、彼女が簡単な挨拶をしたあと、食器室のドアのところまで行って、ドアを押しひらき、「マーサ、お食事にしてもいいわ」といった時、いっそう強いものになった。彼はむしろ、執事がやってきて、食事の用意ができたと告げるとか、カクテルが出されるとかいうことを、期待していたのである。しかし、長椅子の上に、彼女とならんで腰をおろし、たがいに顔をみつめあっていると、そんな考えは、あとかたもなく消えてしまった。
「父も母も、ここにはこないわ」彼女は、思いやりのこもった口調でいった。
彼はこの前、彼女の父親にあったことを思い出し、彼女の両親が、今夜ここにこないことを喜んだ――もしここにくるとすれば、彼女の両親は、彼がどこの何者なのか、あやしむかも知れなかったからだ。彼は、北方五十マイルのところにある、ミネソタ州の村、キーブルで生まれた。そして彼は、自分の故郷を、ブラック・ベア村だといわずに、いつもキーブルだといっていた。田舎の町というものは、上流の人々の集まる湖にあまり近くなく、その湖の附属物として使われることさえなければ、故郷としては、全く申し分のないところなのである。
二人は、この二年の間、彼女がたびたび訪れたことのある、彼の大学の話、シェリー・アイランドの顧客たちが住んでいて、彼自身も、繁盛している自分のランドリーに明日かえることになっている、近くの都市の話をした。
食事をしている間、彼女が、だんだんに元気をなくしてふさぎこんでいったので、デクスターは、不安な気持ちにおそわれた。また、彼女のかすれたような声の中に感じられる不機嫌ささえも、彼の気持ちをいらいらさせた。彼女がどんなことに微笑してみせようと――それが彼に向けられたものであろうと、チキンレバーに向けられたものであろうと、ちょっとした何でもないものに向けられたものであろうと――その微笑が、喜びや楽しさから生まれたものではないことが、彼の心をかき乱した。彼女の深紅の唇の両端が、下のほうにまがると、それは微笑というよりも、むしろ接吻を求めているように思われた。
やがて、食事が終ると、彼女は、彼を暗いガラス張りのベランダに案内し、故意に雰囲気を変えようとした。
「ちょっと泣いてもかまわない?」彼女はいった。
「ぼくが退屈なんでしょうか?」彼は、すばやくそれに応じた。
「そんなことないわ。私、あなたが好きよ。だけど、今日の午後、とてもいやなことがあったの。私が好意をもっている男の人がいたんだけど、彼が今日の午後、突然とても貧乏だなんていい出したの。今まで、そんなこと、おくびにも出さなかったのに。こんな話、俗っぽすぎると思う?」
「たぶん、あなたに打ち明けるのが、こわかったんでしょう」
「そうだと思うわ」彼女は答えた。「あの人の場合は、スタートがちゃんとしていなかったの。だって、もしあの人が貧乏だと思ったら――そうね、たくさんの貧乏な人たちに夢中になって、その人たち全部と、ほんとうに結婚しようと思ったでしょうね。だけど、今度の場合、あの人のことは、そんなふうには思わなかったわ。彼にたいする興味は、ショックに耐えられるほど強くはなかったの。女の子が、婚約者に向かって、実をいうと、私、未亡人だったの、って、おちつきはらっていうようなものよ。婚約者のほうは、未亡人だからといって、いやだとはいわないでしょうけど、でも――」
「私たちは、最初から、ちゃんとやりましょうよ」彼女は突然、自分の話の腰を折った。「それはともかくとして、あなたって、いったいどういう方?」
一瞬、デクスターはためらったが、そのあとで、「ぼくは、別に大した男ではありません」とつけ加えた。「まだ、これからというところです」
「貧乏なの?」
「いや」彼は、率直にいった。「ぼくは、北西部にいる、同年輩のだれよりも、金をもっているでしょう。こんなことをいうのは、鼻もちならないことでしょうが、最初からちゃんとしようと、あなたにいわれたから」
しばらくの間、言葉がとぎれた。やがて彼女は、微笑をうかべた。そして口の両端を下げ、彼の眼をじっとみつめてから、ほとんどわからないくらい、ごくわずかに体をふるわせながら、彼のほうに近づいてきた。デクスターの喉には、何か塊のようなものがこみあげてきた。彼は、二人の唇という要素から、神秘的に作り出される予測しがたい混合物を、目の前にしながら、かたずをのんで、その実験を待ちうけた。次の瞬間、彼は知った――約束というよりは、成就ともいうべき接吻をもって、惜しげもなく、深く、彼女の興奮を彼女が伝えてきたのを。その接吻は、何度もやりたいという渇望を起させる種類のものではなく、飽満がさらに飽満を求めるといった性質のものだった。それは、何ものをも抑制することなく、渇望を生み出す、一種の慈善ともいうべき、接吻だった。
誇り高く、欲望につかれたような少年の頃から、自分が求めていたのは、ほかならぬジュディ・ジョーンズだったと思うようになるには、それほど多くの時間を必要としなかった。
二人の恋は、こんなふうにしてはじまった。そして、そのはげしさの程度には、いろいろの変化があったが、このような調子で、その終局までつづいていった。デクスターは、今まで知りあった、もっとも率直で、もっとも節操のない女に、彼自身の一部を明け渡すことになった。ジュディは、ほしいと思うものは、どんなものでも、自分の魅力を最大限に発揮するという武器を使って、それを得ようと追い求めた。色々な方法を試みてみたり、うまく立ちまわって、有利な立場に立とうとしたり、前もって効果を考えたり、といったようなことはしなかった――彼女の恋愛には、いつでも、ほとんど精神的な要素は見当らなかった。彼女はただ男たちに、彼女の肉体的な魅力を最大限に意識させただけだった。デクスターは、彼女を変えたいとは思わなかった。彼女の欠点は、それを超越し、正当化してしまう、情熱的なエネルギーと、はなれがたく結びついていたのである。
最初の夜、ジュディが、彼の肩に頭をもたせかけながら、「私って、いったいどうなってるのかしら。昨日の夜は、ある男の人を愛していると思っていたのに、今夜は、あなたを愛しているんだから」とささやくようにいった時、彼には、それが、美しいロマンティックな言葉のように思われた。彼はその瞬間、そのいいようのない興奮を抑制しながら、それを味わった。しかし一週間後には、この同じ性質のものに、また別の立場から遭遇しないわけにいかなかった。彼女は、彼女のロードスターに彼を乗せ、夕食をもってピクニックにつれて行ったが、夕食がすむと、同じように、別の男をロードスターに乗せて、どこかに行ってしまった。デクスターは、すっかり心が乱されてしまい、同席していた他の人々にたいして、礼儀正しく上品にふるまうのに苦労した。あとになって、その男と接吻したことなどない、と彼女が断言した時も、彼女が嘘《うそ》をついていたのはわかっていたが――それでもなお、彼女が、わざわざ嘘をついてまで、それを否定したことが、彼にはうれしかった。
夏が終らないうちに、彼は、彼女を取り巻いている一ダースばかりの、さまざまな男たちの一人であることに気がついた。彼らはそれぞれ、ある時期には、他の男たちよりも、愛されていた――そして彼らのうちの半数ばかりは、今でもなお、時折、彼女の感情が復活するという恩恵を、彼女からうけていた。長い間ほっておかれた男が、彼女からはなれて行こうとする気配を見せると、彼女はその男に、甘美な時間を少しばかりさいてやった。するとその男は、自信をとりもどして、一年ばかり、また彼女につきまとうようになる。ジュディは、別に悪気があるわけではなかったが、だらしのない、敗北した男たちに、このような侵略的行為を行うのだった。実際彼女は、自分のやっていることが、わるいことだとは、ほとんど気がついていなかったのである。
新しい男が町にあらわれるたびに、だれかが脱落していった――デートの約束が、自動的に取り消されてしまうからだった。
それは、彼女が全部自分ひとりでやっていることだったので、どうすることもできなかった。彼女は、エネルギッシュなものに、「陥落」してしまう女ではなかった。彼女は、頭のよさにもひきつけられなかったし、魅力にも動かされなかった。もしだれかが、強力な攻撃をしかけでもすると、彼女は、すぐさま問題を肉体上のことに還元させてしまった。そして彼女のすばらしい肉体の魅力の影響をうけて、才気のある男も、強い男も、すべて彼女のペースに巻きこまれてしまう。彼女は、自分の欲望を満足させ、自分の魅力を直接発揮して、自分自身で楽しんでいたのである。たぶん、非常に多くの青春の恋愛と、非常に多くの若い恋人とつきあうことによって、彼女は、自分自身を守るために、自分ひとりで、自分の力を強化してきたにちがいない。
最初の興奮が去ると、デクスターは、不安と不満の思いにおそわれた。彼女に夢中になるという、どうしようもない恍惚《こうこつ》感は、彼を元気づけるというよりは、むしろ彼の心を麻痺させてしまった。冬の間、このような恍惚の瞬間が、ほんのたまにしか起らなかったのは、彼の仕事にとって、幸運なことだった。知りあってまもない頃は、しばらくの間、たがいに無意識のうちに、深くひきつけあうものがあったように思われた――たとえば、八月のはじめの三日間が、その一例だった――彼女の家の、うす暗いベランダで、彼女といっしょに長い夜をすごしたり、夕暮近く、庭の奥まった影深いところや、庭のあずまやの、人目をさえぎっている四つ目垣のうしろで、奇妙に弱々しい接吻をしたり、朝、夢の中のように新鮮な姿で、さわやかな陽光をあびながら、彼女は、恥かしそうな様子をして、彼に逢ったりした。それには、まるで婚約したような、いいようのない恍惚感があった。そして、まだ婚約していないことを知ると、その恍惚感は、一段と強いものになっていった。彼が、はじめて結婚を申しこんだのは、この三日間のことだった。彼女は、「たぶん、そのうちね」といったり、「接吻して」といったり、「あなたと結婚したい」といったり、「あなたを愛してるわ」といったりした――しかし結局、はっきりしたことは何もいわなかった。
そしてその三日間も、九月の半分をすごすために、ニューヨークから彼女の家にやってきた男の到着によって、中断されてしまった。デクスターの心を苦しめたのは、その男と彼女が婚約したという噂《うわさ》が立ったことだった。その男は、大きな信託銀行の社長の息子だったが、その月の終り頃には、ジュディが退屈して、あくびばかりしているということが伝えられた。ある夜、ダンスパーティの間、彼女は地元の恋人といっしょに、一晩中モーターボートの中に坐っていたが、ニューヨークの男は、クラブの中を気狂いのようになってさがしまわっていた。彼女は地元の恋人に、自分のところにきている客には、もううんざりしたといったが、その二日あとになって、客のほうは立ち去って行った。駅では、彼といっしょにいる彼女の姿が見られたが、男のほうは、ひどく悲しそうにみえたという話だった。
こんな調子で、夏は終りを告げた。デクスターは、二十四になり、前よりもいっそう自分のやりたいようにできる地位についていた。彼は、その都市の二つのクラブに入っていた。彼は、この二つのクラブの男だけのパーティで、かならずしも欠くことのできない一員というわけではなかったが、ジュディ・ジョーンズが姿をあらわしそうなダンスパーティには、何とか出席するようにしていた。彼にその気さえあれば、いくらでも社交界に出ることはできたにちがいない――今では彼は、結婚の相手に好ましい青年として、下町の父親連中に人気があったのである。そして、だれの眼にもわかるジュディ・ジョーンズにたいする彼の深い愛情が、彼の社交上の立場を幾分強固なものにした。しかし彼には、社交上の野心はなく、木曜や土曜のパーティにいつも喜んで出かけ、もっと若い結婚しているカップルといっしょに、ディナーの席を占領したがっている、ダンスの好きな男たちを、幾分軽蔑の眼で見ていた。彼はすでに、東部のニューヨークに行くことを考えていた。彼は、ジュディ・ジョーンズを、いっしょにつれて行きたかったのである。彼女の育った世界が、彼にどのような幻滅をあたえようとも、彼女が好ましい少女であるという幻影をぬぐい去ることはできなかった。
このことを、よくおぼえておいてもらいたい――なぜなら、このような角度から見ることによってのみ、彼女にたいして、彼の行った行為が理解できるからである。
ジュディ・ジョーンズにはじめてあった時から、十八か月たって、彼は、ほかの女の子と婚約した。彼女は、アイリーン・シアラという名前で、彼女の父親は、いつでもデクスターを信頼していた父親連中の一人だった。アイリーンは、明るい金髪をした、気立てのやさしい、尊敬に値する女の子で、少しばかりふとっていた。彼女には、求婚者が二人いたが、デクスターが正式に結婚を申しこむと、喜んで、二人の求婚者のほうを断念した。
夏、秋、冬、そして次の年の夏と秋――彼は、ジュディ・ジョーンズの、忘れがたい唇のために、多忙な時間のどれほど多くを、さいてきたことであろうか。彼女は、興味と刺激と、悪意と無関心と軽蔑をもって、彼を扱った。彼女は、このような場合に抱き得る、無数の小さな軽蔑や侮辱を、彼にあびせかけた――それはまるで、少しでも彼に愛情を感じたことにたいする、復讐であるかのように。彼女は、彼をさそったかと思うと、あくびをして退屈し、そうかと思うと、またさそったりしたが、それにたいして彼は、何度かにがい思いを味わったり、眼をほとんどとじながら耐え忍んだりしてきた。彼は彼女から、いいようのない喜びを味わったが、同時に耐えがたい苦痛を味わわないわけにはいかなかった。また、ひどい迷惑をうけたり、少なからぬごたごたに巻きこまれたりした。彼女は彼を侮辱し、彼を苦しめた。彼女にたいする関心と、仕事にたいする関心を――ただ冗談《じょうだん》半分に――張りあわせた。彼女は、批評すること以外は、彼にたいして、どんなことでもやってのけた――彼女は批評だけはしなかった――批評をしないということは、彼女が明白に示し、本心から彼に抱いていた完全な無関心を、損なうという理由によるものとしか思えなかった。
ふたたび秋になり、そして秋が去って行った時、ジュディ・ジョーンズを、自分のものにすることはできないという考えが、彼の心にうかぶようになった。彼はこの事実を、自分の心に叩きこまなければならなかったが、とうとう自分自身に納得させた。彼はベッドに横になっても、しばらくの間は眠ることができず、くり返しそのことを考えつづけた。そして、彼女からうけた迷惑や苦痛を思い返し、彼女の妻としての、明白な欠陥をならべたてた。それから、自分は彼女を愛しているのだと、自分にいいきかせ、しばらくして眠りにおちるのだった。一週間ばかりは、電話からきこえてくる、ハスキーな彼女の声や、昼食の時、彼の前にいる彼女の眼を想像からはらいのけようと、おそくまで、懸命になって働いた。夜もオフイスに行き、将来の計画をたてたりした。
週末に彼はダンスパーティに出かけ、一度彼女のパートナーを押しのけて、彼女とダンスをした。そして二人が知りあってからほとんどはじめて、いっしょに外に出て腰をおろそうとか、君はとてもきれいだとか、いうことをいわなかった。そして彼女が、そのことに何の不満も示さないことが、彼の心を傷つけた――だが、結局ただそれだけのことだった。彼は今、彼女に新しい男がいるのを知っても、嫉妬《しっと》を感じたりはしなかった。彼はずっと以前から、嫉妬にたいしてすっかり無感覚になっていた。
彼は、その夜、おそくまでダンスパーティにのこっていた。そして一時間ばかり、アイリーン・シアラといっしょに腰をおろして、本とか音楽の話をした。彼は、本とか音楽については、ほとんど何も知らなかった。しかし彼は今、自分の時間を自由に使えるようになっていた。そんなわけで彼は、若くして、すでに信じられないような成功をとげた、デクスター・グリーンともあろうものは、そういったことについて、もっと知っていなければいけない――という、几帳面な考えをもっていた。
それは、彼が二十五歳の十月のことだった。デクスターとアイリーンは、一月に婚約した。婚約の発表は六月の予定で、結婚は、その三か月後に行われることになっていた。
ミネソタの冬は、長々といつ果てるともなくつづいた。そして風がおだやかになり、とうとう雪が、ブラック・ベア湖にながれこむようになったのは、ほとんど五月になってからだった。一年以上たってはじめて、デクスターは、心の静けさといったものを楽しんだ。ジュディ・ジョーンズは、フロリダに行っていた。彼女は、それからあと、ホット・スプリングスに行き、さらにどこかで婚約をし、どこかで婚約を破棄した。デクスターが、彼女をきっぱりとあきらめた最初のうちは、世間の人たちも、まだ二人を関係のあるものと考え、彼女の消息をたずねたりして、彼に悲しい思いを味わわせた。しかし彼が、ディナーパーティで、アイリーンのとなりに坐るようになると、人々もジュディのことをたずねなくなった――むしろ彼らのほうから、ジュディの消息を知らせてくれた。彼はもう、彼女のことを何でも知っている人間ではなくなっていたのである。
とうとう、五月がやってきた。夜、デクスターは、雨にぬれたように、空気のしめっている、暗い通りを歩きながら、あれほどはげしかった喜びが、これほど早く、これほど何の成果も生むことなく、自分の心から消え去ってしまったことに、驚きをおぼえた。一年前の五月には、心を痛めつける、許しがたいが、結局は許してしまう、ジュディの乱行に苦しめられていたが――その五月はまた、彼女が好意をよせるようになったと思いこんだ、数少い時の一つだった。そんなわずかな、過ぎ去ってしまった幸福を、彼は今、少なからぬ満足と取りかえてしまったのだ。彼は、アイリーンが、彼の背後にひろがっている、単なるカーテンの一種にすぎないことを、かすかなきらめきを放っている茶碗の間を動く手や、子供たちを呼ぶ声にすぎないことを、知っていた……もえるような情熱と恍惚感は、すでに消え去っていた。魅惑にあふれた夜、いいようもなく幸福だった、さまざまの時間と季節……上のほうから彼の唇の上におちてきた、細長い唇、そしてその接吻は、彼をはるかな天上にまではこんでいったのだ……それは、彼の心に深く刻みこまれた。それは、簡単に消え去ってしまうには、あまりにも強烈で生気に充ちていたのだ。
盛夏が訪れる前の数日の間、おちついた天候がつづいたが、その五月の半ばに、彼はある夜、アイリーンの家に立ちよった。二人の婚約は、今、一週間以内に発表されることになっていたので、だれもそのことには驚かなかったろう。そして今夜、彼は彼女といっしょに、ユニヴァーシティ・クラブのラウンジに腰をおろし、一時間ばかりの間、ダンスをしている人々をながめようと思った。彼女といっしょに出かけると、何かおちついた気持ちになった――彼女には、この上なくゆるぎのない人気があり、この上なく「立派」だった。
彼は、赤褐色砂岩で作られた家の上り段を上って、家の中に入って行った。
「アイリーン」彼は、叫んだ。
シアラ夫人が、居間から出てきて、彼を迎えた。
「デクスター」彼女は、口を切った。「アイリーンは、頭痛がひどいので、二階に行っているの。あなたといっしょに行きたがっていたんだけれど、私がベッドで休むようにいったの」
「ひどくわるいわけじゃないんでしょうね、ぼくは――」
「別に大したことはないわ。朝になれば、あなたといっしょにゴルフをするつもりなんだから。一晩だけあの子を失礼させてね、いいでしょ、デクスター?」
彼女の微笑は、やさしかった。デクスターと彼女は、たがいに好意をもっていた。彼は、居間でしばらくの間話をしてから、別れを告げた。
自分の部屋のある、ユニヴァーシティ・クラブにもどってくると、彼は、しばらくの間、戸口のところに立って、ダンスをしている連中をながめていた。戸口の側柱によりかかりながら、彼は、一人二人の男に会釈をしていたが――やがて、あくびをした。
「今晩は、ダ―リン」
ききおぼえのある声が、すぐそばからきこえてきたので、彼は、はっとした。ジュディ・ジョーンズが、一人の男のところからはなれると、部屋を横切って、彼のほうにやってきたのだった――それは、金色のドレスを着、ほっそりした花車《きゃしゃ》な、エナメルをかけた人形のような、ジュディ・ジョーンズだった。頭につけているヘアバンドや、ドレスのすそからのぞいている、二つの舞踏靴は、金色にかがやいていた。彼女の顔の弱々しい赤らみは、彼女が、彼に向かって微笑する時、まるで花でも咲いたようだった。明るく暖い微風が、部屋の中を吹き抜けていったようだった。タキシードのポケットにつっこんだ彼の両手は、ひきつるように固くなった。彼は突然、はげしい興奮におそわれた。
「いつかえってきたの?」彼は、何気なくたずねた。
「こっちにきて。話してあげるから」
彼女が背を向けて歩き出したので、彼は、そのあとについて行った。彼女は、ずっとどこかに行っていたのだった――その彼女がかえってきたと思うと、彼は驚きで胸がいっぱいになり、声をあげて泣きたい気持ちにおそわれた。彼女は、挑発的な音楽のような行為をしながら、魔法にかけられた街々を通ってきたのだ。神秘的なあらゆる出来事、新鮮で元気づけるような希望、それらは彼女といっしょに去っていったが、今、彼女といっしょにもどってきたのだ。
彼女は、戸口のところでふり向いた。
「車はあるの? もしなければ、私のがあるわ」
「クーペがある」
彼女は金色のドレスをざわつかせながら、クーペに乗りこんだ。彼は、勢いよく車のドアをしめた。彼女は、いろいろな車に乗りこんだものだった――こんなふうにして――あんなふうにして――革のシートにもたれかけ、そうだ――肘《ひじ》をドアにかけて――待っていたのだ。彼女に何か堕落させるものがあったとしたら――彼女自身以外に――彼女は、ずっと以前に堕落していたことだろう――しかしそれは、彼女自身からほとばしり出たものだったのだ。
辛うじて自分をおさえながら、彼は車のエンジンをかけて、大通りにもどって行った。こんなことは、大したことではないのだ、そのことをおぼえていなければならない。彼女は、前にも同じようなことをした。そして彼は、取り立てる見込みのない勘定を、帳簿から抹消してしまうように、彼女のことなど考えないようにしてきたのだ。
彼は、ゆっくりと町の中心部を走って行った。そして放心したような様子をして、オフイスのならんでいる、人気のない通りを、いくつか横切って行った。あちこちにいる人々は、映画館から吐き出された連中か、公開賭博場の前をぶらぶらしている若い結核患者か、若いボクサーといったたぐいだった。つや出しガラスと、うす汚ない黄色い灯の見える回廊や、バーから、カウンターで手をたたく音や、グラスのふれあう音が、きこえてきた。
彼女は、彼の顔をじっとみつめた。その沈黙は気まずかったが、彼は、このような重大な局面に際して、その時間をすごす、何気ない言葉をみつけることができなかった。そして、都合のよい曲り角までくると、ユニヴァーシティ・クラブに向かって、ジグザグにかえりはじめた。
「私がいなくて、さびしかった?」彼女は、突然たずねた。
「みんな、さびしがっていたよ」
彼女は、アイリーン・シアラのことを知っているだろうか、彼の心には、そんなことがかすめすぎた。彼女がここにもどってから、まだ一日しか経っていなかったのである――彼の婚約は、彼女がいなかった時期に、ほぼ相当していたからだった。
「まあ、何てことをいうの!」ジュディは、悲しげな笑いをうかべた――彼女自身は、別に悲しいわけではなかったのだが。彼女は、さぐるような眼で彼をみつめた。彼は、車の計器盤にじっと眼をそそいでいた。
「あなたって、前よりもハンサムになったのね」彼女は、思いにふけっているようにいった。「デクスター、あなたの眼って、だれの眼よりも忘れられない眼だわ」
彼はそれをきいて、声をあげて笑いたかった。しかし彼は、笑わなかった――それは、大学の二年生に向かっていう言葉だったのだ。しかしその言葉は、彼の心を刺しつらぬいた。
「ダーリン、私、何もかも、すっかりいやになってしまったの」彼女は、だれかれの別なく、ダーリンと呼び、何げない個人的な友情をもって、一種の親しさを示すのだった。「私と結婚してくれないかしら」
その率直さは、彼を困惑させた。彼は今、ほかの女の子と結婚することになっていると、彼女にいうべきだったが、それを口に出すことはできなかった。それがいえるくらいなら、彼女を愛していたことなどなかったと、断言することができたろう。
「私たち、うまくやっていけると思うわ」彼女は、同じ口調で、言葉をつづけた。「あなたのほうで、私のことを忘れて、ほかの女の子を愛するようにならなければね」
彼女の自信は、明らかに絶大なものだった。つまりそんなことは、とても信じられない。もしそんなことがあったとしても、それは、彼が単なる子供っぽい無分別なことをやったにすぎないし、おそらく見せびらかす目的でやったにちがいない。そんなことは大したことではなく、簡単に無視していいことだから、許してあげる。彼女は、そんなふうにいうのだった。
「あなたって、私以外のだれも愛したりできないにきまってる」彼女は、言葉をつづけた。「私、あなたの愛し方が気に入っているの。ああ、デクスター、去年のことを忘れたの?」
「いや、忘れてなんかいない」
「私もよ!」
彼女は、本心から心を動かされたのだろうか――あるいは、自分の演技の波にのっていただけなのだろうか?
「もう一度、あんなふうになれたら」彼女はいった。彼は、仕方なく答えた。
「ぼくは、なれないと思う」
「そうかも知れないわ……あなたは、アイリーン・シアラに夢中だって話だから」
その名前は、少しも強調して発音されたものではなかったが、デクスターは、突然恥しい気持ちにおそわれた。
「ああ、私を送って行って」突然ジュディが、叫ぶようにいった。「あのくだらないダンスパーティには、もうもどりたくはないわ――あんなジャリのいるところなんか」
やがて、住宅地域に通じている通りに入って行った時、ジュディは、声をあげて静かに泣きはじめた。彼は今まで、彼女が声をあげて泣くのを見たことはなかった。
暗い通りが、ヘッドライトに照し出され、金持ちの邸宅が、二人のまわりにぼんやりと姿をあらわした。彼は、モーティマー・ジョーンズ家の、大きな白い邸宅の前で、クーペをとめた。それは、ぬれたような、美しい月光にてらされた、眠けを誘うような、豪華なものだった。そのどっしりした感じは、彼を驚かせた。頑丈な外壁、鋼鉄の大梁《おおはり》、その広大さ、かがやき、はなやかさは、彼の横にいる、若い美女との対照を引き出すためにのみ存在するようだった。それは、ほっそりした彼女の姿を強調するかのように、頑丈そのものだった――ちょうど蝶《ちょう》の翅《はね》が、どんなに快い微風を起すことができるかを示しているように。
彼は、じっと身動きもせずに、腰をおろしていた。彼の神経は、荒々しい叫び声をあげていた。少しでも身動きをすれば、抑えることができずに、彼女を抱きしめてしまうかもわからない。涙の粒が二つ、ぬれている彼女の顔をながれおち、彼女の唇の上でふるえていた。
「私は、だれよりも美しいわ」彼女は、とぎれとぎれにいった。「私って、どうして幸福になれないのかしら?」涙のあふれた彼女の眼は、彼の堅固な心を混乱させた――彼女の口は、いいようのない悲しみをたたえながら、ゆっくりと下の方にまげられた。「デクスター、あなたさえよければ、私、あなたと結婚したいの。私なんか、結婚する値打ちがないと思ってるのね。だけど、デクスター、私、あなたのために、最高の美しい女になるつもりよ」
怒りと、プライドと、情熱と、憎悪と、優しさの、数かぎりない言葉が、彼の唇の上でたがいに争っていた。やがて、感情の大波が、彼のところに打ちよせ、分別とか、因習とか、疑惑とか、体面とかいった沈殿物を、はこび去ってしまった。今、話しかけているこの女の子は、彼自身のものであり、彼自身の所有する美しい存在であり、彼の誇りそのものだった。
「うちの中に入らない?」彼の耳には、彼女のはげしい息づかいがきこえてきた。
しばらく、彼女は待っていた
「いいとも」彼の声は、ふるえていた。「中に入ろう」
それが終った時も、ずっとあとになってからも、彼がその夜のことに、何の後悔もしなかったのは奇妙なことだった。十年の年月がすぎ去ってからそれをながめた時、彼にたいするジュディの焔《ほのお》のような愛情が、たった一か月しか持続しなかったことも、それほど重要なことではないように思われた。誘惑に負けることによって、結果的には、さらに深い苦しみを味わい、彼の味方だったアイリーン・シアラの両親と、彼女自身に、少なからぬ精神的な苦痛をあたえたことも、別に大したこととは思えなかった。アイリーンの深い悲しみは、どのような表現を用いてみても、彼の心に刻みこむためには、まだ充分とはいえなかった。
デクスターは、その心底では、冷たい性格の人間だった。彼の行為にたいする、まちの人々の態度などは、彼にとっては、別に大したことではなかった。それは、彼が、このまちを立ち去ろうとしていたという理由からではなかった。このような立場にたいする、局外者の態度が、皮相で浅薄なものに思えたからだった。彼は、世間の人々の意見には、何の関心もなかった。もう何をやっても無駄だ、自分には、ジュディ・ジョーンズの心を根底から動かしたり、彼女を自分のものにしたりする力などない、ということを知った時も、彼女にたいしては、何の悪意も抱かなかった。彼は彼女を愛していた。そして彼は、愛するにはあまりにも年をとりすぎた日まで、彼女を愛することをやめないであろう――しかし彼女を、自分のものにすることなどできないだろう。そのために彼は、しばらくの間、深い幸福を味わったのと同じように、強い者だけにあたえられる、深い苦しみを味わった。
最後になって、アイリーンから「彼をうばい取る」のはいやだという――ジュディは、ほかには何一つ求めなかった――虚偽の理由によって、彼女は婚約を破棄してしまったが、そのことによっても、彼は不快な気持ちを抱かなかった。彼の心は、嫌悪とか、興味とかいうものを、すでに失っていたのである。
彼は、ランドリーを売り払い、ニューヨークに定住するつもりで、二月に東部に出かけた――ところが三月になると、アメリカが参戦し、彼は、自分の計画を変更することを余儀なくされた。彼は西部にもどると、事業の経営権を、共同経営者に譲り渡し、四月の末に、最初の士官訓練所に入った。そして彼もまた、戦争というものを、幾分ほっとした安堵《あんど》の気持ちで歓迎し、クモの巣のようにもつれた感情からの解放として、喜んで迎え入れた、数多くの青年たちの一人だったのである。
おぼえていると思うが、この物語は、彼の伝記ではない。もっとも、彼が若い頃描いていた、例の夢とは何の関係もない、いくつかのことが、いつのまにか入りこんでしまったが。そういったことも、彼自身についても、もうほとんど話しつくしてしまったが、もう一つだけ、ここで話しておきたい出来事がある。それは、さらに七年後に起ったことだ。
それは、ニューヨークでの出来事だった。彼は、その都会で成功していた――非常に成功していたので、彼に乗りこえられないような障害は、何一つ見出せなかった。彼は三十二になっていて、戦争のすぐあとに、あわただしい旅行をしたほかには、七年間、西部に行ったことはなかった。デトロイトのデヴリンという男が、仕事のことで、彼の事務所にやってきたが、その時そこで、この出来事がもちあがり、いわば、彼の人生の特殊な一面が、葬り去られたのだった。
「では、あなたは、中西部のご出身なんですね」デヴリンという男は、無頓着な好奇心といったものを示しながら、いった。「おかしなものですな――私は、あなたのような人は、たぶん、ウォール・ストリートで生まれ育ったのだとばかり思っていました。実をいうと――デトロイトの親友の一人の奥さんが、あなたのまちの出身なんです。私は、その結婚式の先導役をしたんです」
デクスターは、次にどんな言葉がとび出してくるか、何の不安もなく、待っていた。
「ジュディ・シムズという人です」デヴリンは、別に大した興味もなく、いった。「前は、ジュディ・ジョーンズという名前でしたが」
「そうですか、私も彼女なら知っています」にぶいもどかしさとでもいったものが、彼の全身にひろがっていった。もちろん彼も、彼女が結婚したという話はきいていた――おそらく、わざとくわしいことはきかなかったにちがいない。
「とてもすばらしい女性です」デヴリンは、別に意味もなく、考え深そうにいった。「しかし、少しばかり気の毒な気がします」
「どういうわけです?」デクスターの中にある、何ものかが、すぐさま敏感に反応を示した。
「実をいうと、ラッド・シムズは、ある意味では、破壊されてしまったんです。別に、彼女を虐待しているわけじゃないんですが、酒は飲むし、浮気はするし――」
「彼女のほうは、浮気はしないんですか?」
「別に。彼女は子供たちと家にいます」
「そうですか」
「彼女は、夫にくらべると、少々ふけすぎていますからね」デヴリンはいった。
「ふけすぎているですって?」デクスターはいった。「いいですか、彼女はまだ二十七なんですよ」
彼は、通りにとび出して行って、デトロイト行きの列車に乗りたいという、気狂いじみた考えにおそわれた。彼は、発作的にさっと立ちあがった。
「お忙しかったんですな」デヴリンは、いそいで謝罪した。「どうも気がつきませんで――」
「いや、別に忙しくはないんです」デクスターは、自分の声をおさえながら、いった。「全然忙しくなんかないんです。ほんとうですよ。あなたは、彼女が――二十七だとおっしゃったんですね? いや、二十七だといったのは私でしたな」
「ええ、あなたがいわれたんです」デヴリンは、冷淡な口調で同意した。
「それから、どうなったんです? 話をつづけてください」
「いったい、何の話です?」
「ジュディ・ジョーンズのことです」
デヴリンは、困惑した表情で、彼をみつめた。
「そうですね、それが――今、お話したことで、全部なんです。彼は、細君にひどい仕打ちをしているんです。もっとも、離婚するとか、そんなつもりはないんですが。特別ひどいことをしても、彼女は彼を許すんです。実をいうと、彼女は彼を愛しているのではないかという気がしますね。彼女は、はじめてデトロイトにやってきた時は、きれいな人でした」
きれいな人だって! それは、デクスターにとって、ばかげた言葉のように思われた。
「彼女は――今はもうきれいじゃないんですか?」
「結構きれいですよ」
「いいですか」デクスターは、突然椅子に腰をおろして、いった。「ぼくにはわかりませんね。あなたは、さっき『きれいな人』といったかと思うと、今度は、『結構きれい』だという。いったい、どういうことなのか、ぼくにはよくわからない――ジュディ・ジョーンズは、きれいな人なんてものじゃなかった。彼女は、すごい美人だったんだ。いいかい。ぼくは、彼女を知ってたんだ。知っていたんだ。彼女は――」
デヴリンは、愉快そうに声をあげて笑った。
「私は、何も喧嘩《けんか》をしようと思っているわけではありません」彼はいった。「ジュディは、すばらしい女性だと思いますし、彼女には好意をもっています。ラッド・シムズのような男が、どうして彼女に夢中になってしまったのか、よくわからないんですが。しかし、彼は実際に夢中になってしまったんです」そして彼は、つけ加えた。「女の人は、たいてい彼女に好意をもっていますね」
デクスターは、まじまじとデヴリンの顔をながめながら、これには、きっと何か理由があるにちがいない、この男には、どこか鈍感なところがあるのか、さもなければ個人的悪意でももっているのだ、と腹立たしげに考えた。
「女というものは、たいていあんなふうにして、色があせていくんです」デヴリンは、指をパチンと鳴らした。「あなたも、そんな例を見たことがおありになるでしょう。彼女が結婚式の時に、どんなにきれいだったか、たぶん私は忘れてしまったんでしょう。それ以来、数えきれないほど、彼女とあっているものですから。彼女は、すばらしい眼をしていますよ」
デクスターは、一種の重苦しい感じにおそわれた。彼は生まれてはじめて、酒を飲んで、めちゃくちゃに酔いたいような気持ちになった。デヴリンが何かいったのをきいて、大声で笑ったのはわかっていたが、それがどういう話なのか、なぜおかしいのか、わからなかった。しばらくして、デヴリンは出て行ったが、彼は長椅子の上に横になって、窓の外にひろがっている、ニューヨークのシルエットに眼をそそいだ。今まさに、太陽が、淡い赤と金色の、くすんだ美しい色を放って沈んで行くところだった。
自分には、失うべきものなど何もないのだから、結局何の傷もうけなかったと、彼は思っていた――しかし彼は、何かそれ以上のものを失ってしまったことを知った。まるでジュディ・ジョーンズと結婚して、目の前で彼女が色あせて行く姿を見たようにはっきりと。
夢は消え去った。何ものかが、彼から取り去られてしまったのだ。一種の狼狽《ろうばい》に似たものを感じながら、彼は、両ほうの手のひらで眼をおおうと、シェリー・アイランドの湖岸にひたひたとよせる波、月光にてらされたベランダ、ゴルフ場での彼女の着ていたギンガムのドレス、乾いた太陽、彼女の頸《くび》の金色をした柔らかなうぶ毛、そんなものを、眼の前に思いうかべようとした。さらに彼は、彼の接吻にこたえようとする、ぬれた彼女の唇、憂いをたたえた悲しげな彼女の眼、新しい上等のリンネルのような、朝の彼女の新鮮さ、そんなものをもう一度思いうかべようとした。しかし、このようなものは、もはや、この世には存在しないのだ! それらのものは、かつて存在していたのに、もはや存在していないのだ。
ここ数年の間、涙など流したことのない彼だったが、今、涙が彼の顔をながれおちていた。しかしその涙は、今、彼自身のためのものだった。口とか眼、ふるえている手、そんなものはどうでもよかった。どうでもいいとは思いたくはなかったが、そこまで気を配ることはできなかった。彼は立ち去って、二度とふたたびもどることができなかったからだ。門は閉ざされ、太陽は沈んでしまい、ただのこっているのは、いつも変らず耐え忍んでいる、鋼鉄の灰色をした美だけだった。彼が耐えることのできたかも知れぬ悲しみさえ、彼の冬の夢が隆盛をきわめていた、あの幻影の、青春の、豊かな人生の国に置き去られてしまったのだ。
「ずっと昔」彼はいった。「ずっと昔、私の中には、何かがあった。しかし今、それはなくなってしまった。それが失われてしまった以上、もはやそれは存在していないのだ。私はもう、声をあげて泣くこともできない。関心をもつこともできない。それは、もう二度ともどってはこないのだ」
[#改ページ]
金持ちの青年
個人を描こうとすると、その人間を充分に知りつくさないうちに、一つの典型を作り出していることに気がつく。また最初から、典型を描こうとすれば、結局、何一つ作り出すことなどできなくなってしまう。なぜなら私たちは、みんな変っていて、私たちの顔や声の背後には、他人に知ってもらいたいと思っていることよりも、あるいは自分自身で知っていることよりも、もっと変った性格が、ひそんでいるからなのだ。ある男が、「平凡で、正直で、率直な男」だと、自分自身のことを公言しているのをきくと、その男は、何かはっきりした、そして恐らく、ひどく異常な性格をもっていて、それを故意にかくそうとしているのではないかという、確信のようなものをもたないわけにはいかなくなってくる――そして彼が、平凡で、正直で、率直だと言明するのも、実をいうと、自分自身のひそかに行っている行為を、自分自身に思い出させようとしているにすぎない、と思わないわけにはいかないのだ。
人間には、典型だとか複数だとかいうものは存在しない。一人の金持ちの青年がいるが、これから書く物語は、あくまで彼の物語であって、彼の同類の物語ではない。私は今まで、彼の同類の中で、ずっと生活してきたわけだが、これから物語る青年は、私の友人の一人なのである。その上、私が彼の同類について書くとすれば、貧乏人が金持ちについて語ってきた嘘《うそ》や、金持ちが自分自身について語ってきた嘘を、かたはしから全部攻撃することからはじめなければならなくなる――彼らは、でたらめなものをでっちあげてきたので、金持ちのことを書いた本を手にすると、私たちは、あまりにも現実とかけはなれたその内容に、本能的に身がまえざるを得なくなってしまう。知的で情熱的な人が、人生について報道する場合でさえ、金持ちの国を、おとぎの国のような非現実的なものに作りあげてしまうのである。
ここで、大金持ちについて、一言いっておこう。彼らは、私やあなた方とは、別の種類の人間なのだ。彼らは、年のゆかないうちから、財産をもち、人生を楽しむ。そしてその影響により、私たちが冷酷になる時、彼らはやさしくなり、私たちが信頼している時、彼らは冷笑的になる。いずれにしても、私たちが金持ちに生まれないかぎり、それを理解することは不可能に近い。彼らは、心の奥底では、自分たちのほうが、私たちよりもすぐれていると思いこんでいる。彼らは、私たちのように、人生の避難所や代償をみつけ出す必要がないからだ。彼らは、私たちと全く同じ程度の生活水準になっても、あるいは、私たち以下の生活におちぶれたとしても、依然として、私たちよりすぐれていると思いこんでいる。彼らは、私たちとはちがう種類の人間なのだ。だから、青年アンソン・ハンターを描く場合には、外国人に接近するように、彼に近づき、私自身の視点をあくまで固守するほかはない。もし一瞬でも彼の視点をとり入れてしまったら、私は混乱し――筋のよくわからぬ映画のようなものしか見せられなくなってしまう。
アンソンは、いずれ千五百万ドルの財産を分けあうことになっている、六人の子供たちの、いちばん上だった。彼が分別をもつようになった年齢――七歳ぐらいだろうか?――に達したのは、おてんば娘たちが、五番街を電気自動車に乗って、すべるように走っていた、今世紀のはじめだった。その頃彼は、彼の弟といっしょに、イギリス人の女の家庭教師に習っていた。彼女の英語の発音ははっきりしていて、歯切れがよく、完全無欠だったので、二人の少年たちも、彼女と同じような発音の仕方をするようになってしまった――つまり、単語もセンテンスも、歯切れがよく、はっきりしていて、アメリカ人のように、早口でつづけたりはしなかったのである、その発音の仕方は、イギリスの子どもと寸分のちがいもないところまでとはいかなかったが、ニューヨーク市の上流階級特有のアクセントを身につけるようになっていた。
その年の夏、六人の子どもたちは、七十一丁目の邸から、コネチカット州北部にある、大きな屋敷にうつった。そこは、社交界のある土地ではなかった――アンソンの父親は、人生のその方面のことを子どもたちに知らせるのを、できるだけおくらせたかったのである。彼は、ニューヨークの社交界を形づくっている彼の階級よりも、ギルディッド・エイジ〔十九世紀末のアメリカの好況時代〕の紳士気取りで、形式的な俗悪さをもった彼の時代よりも、少しばかり高級だったのだ。そんなわけで、息子たちが物事に専念する習慣を身につけ、健康な体を作り、正しい生き方をして、成功した人間に生長してもらいたかったのである。彼と彼の妻は、上の二人の息子たちが、学校の寄宿舎に入ってしまうまでは、できるだけ彼らから眼をはなさないようにしていた。しかし、広い邸の中では、それは容易なことではなかった――私が少年時代に住んでいた、小さな家とか、中ぐらいの家だったら、問題はずっと簡単だったろうが――母の許可があろうとなかろうと、母の声のとどかないところや、母の気配の感じられないところに行ったことはなかったのだ。
アンソンが、はじめて自分のおかれている立場の優越性を感じたのは、コネチカットの村で、なかばいやいやながらといったような、アメリカ人風の尊敬がはらわれているのに気がついた時だった。いっしょに遊んでいる少年の親たちは、たえず彼の両親の様子をたずね、子供たちが彼の家に招待されると、漠然とした興奮を感じているようだった。彼はそれを、ごく自然のことと考え、金銭の点でも、地位の点でも、権力の点でも、自分がグループの中心になっていないと、辛抱することができず、その傾向は、それ以後もずっと変ることがなかった。ほかの少年たちと、その優先権をあらそうなどということは、全く意味のないことに思われた――優先権などというものは、自由にあたえられるのがあたり前だと思い、それがあたえられない場合には、家庭の中にひっこんだ。彼の家庭は、彼に充分な満足をあたえてくれた。なぜなら東部では、金は現在でもなお封建的な力をもち、一族を結束させる力をもっているのにひきかえ、紳士気取りの西部では、金が家族を分散させ、小さな「徒党」を組ませる結果になったのである。
十八になって、ニューヘイヴンに行った頃、アンソンは、背の高い、がっしりした体格の青年になっていた。そして、それまで学校で送ってきた規則正しい生活のために、顔色も晴れやかで、健康そうになっていた。髪の毛が黄色くて、妙な癖をもっていたのと、鼻が突き出しているという、二つの理由のために、ハンサムだとはいえなかったが、確信にあふれた魅力と、なにか冷たい気品のようなものを備えていた。道ですれちがう上流階級の人々は、なにも説明されなくても、彼が金持ちの青年であり、一流の学校に行っているのを知ることができた。それにもかかわらず、ほかならぬ彼の優越性が、大学での彼の成功のさまたげになっていた――人にたよらない性格が、自己中心的だと誤解され、イェール大学の規範にたいして、それ相応の畏敬《いけい》の念をはらわなかったことは、それに敬意をはらっている学生たちを軽蔑しているように思われたからだった。そんなわけで、卒業するずっと前から、彼は生活の中心をニューヨークにうつすようになっていた。
ニューヨークにくると、彼はくつろいだ気分になることができた――「今ではもう雇えないような、申し分のない召使」のいる自分の家があった――それに、彼自身の家族もいた。そして、親切な性格と、物事を円滑にすすめるある種の才能のために、たちまち家族の中心的な存在になってしまった。それから、少女たちが社交界にデビューするパーティ、男のクラブのいかにも男らしい世界、そしてニューヘイヴンでは、劇場の五列目の席からしか見ることのできない、きらびやかな女の子たちも姿をあらわす、時折の乱痴気《らんちき》さわぎ。彼の抱いている野望は、ごく月並みなものだった――そしてその中には、将来結婚するにちがいない、完全な女性の影のようなものさえ入っていた。しかしほかの大部分の青年たちの野望とちがっていたのは、それが、ぼんやりした靄《もや》のようなものでおおわれていない点だった。つまり、「理想化」とか、「幻影」とか、いろいろな名前で呼ばれている特質は、まったく存在していなかった。大きな財力と、途方もない贅沢《ぜいたく》と、離婚と放蕩《ほうとう》と、紳士気取りと特権とが氾濫《はんらん》している世界を、アンソンは躊躇《ちゅうちょ》することなく、うけいれた。私たちの人生は、たいてい妥協で終るものだが、彼の人生は、妥協ではじまったのである。
私がアンソンにはじめてあったのは、一九一七年の、夏も終りに近い、ある日のことだった。彼はまだイェール大学を出たばかりで、ほかの青年たちと同じように、戦争という、組織化されたヒステリーに巻きこまれていた。海軍航空隊の青緑色の制服を着て、彼はペンサコーラにやってきた。そこでは、ホテルのオーケストラが、「ごめんなさいね」という曲を演奏し、私たち若い将校は、女の子たちとダンスをしていた。だれもかれも、彼に好意をもった。彼は酒飲み連中といっしょにうろつきまわっていたし、特に優秀なパイロットというわけではなかったが、教官たちでさえ、ある種の敬意をはらっていた。彼はいつも、自信にみちた、理路整然とした調子で、教官たちと長い話をしていたが、最後には、差し迫ったもめごとを解決していた。そしてそれは、彼自身に関することよりも、他の将校に関することのほうが、ずっと多かった。彼は陽気で、好色で、快楽をはげしく追い求めていた。そんなわけで、彼が、控え目で、礼儀正しいといってもいいような少女と恋に落ちた時、私たちは一人のこらず驚いてしまった。
彼女の名前は、ポーラ・レジェンドルといい、カリフォルニアのどこかの出身で、真面目そうな、ブルーネットの美人だった。彼女の家族は、その町のすぐはずれのところに、冬の別荘をもっていた。彼女には、堅苦しいところがあったが、それにもかかわらず、彼女の人気は大変なものだった。世間には、女のきまぐれなどとても我慢できない、という勝手な男性がたくさんいるが、アンソンは、そんな種類の男ではなかった。鋭く、しかも冷笑的なところのある、彼の性格を考えると、どうして彼が、彼女の「誠実さ」――それが彼女にいちばんふさわしい言葉だったが――にひきつけられてしまったのか、私には理解できなかった。
それにもかかわらず、彼らは恋におち、彼は彼女に調子をあわせた。もはや彼は、デ・ソト・バーの夕べの集まりにも姿を見せなくなった。そして、いっしょにいるのを見かけると、いつもきまって、何週間もつづいているのではないかと思われるような、長い、真剣な話に熱中していた。特にこれといって特別なことを話していたわけではなく、たがいに未熟な、ごくつまらないことを話していたにすぎなかった――そして、その話をだんだんに充たしていった、情緒上の満足は、言葉そのものから生まれてきたものではなく、なみはずれた真剣さから生まれたものだということを、ずっとあとになって、彼からきかされた。それは、催眠術の一種といってもいいものだった。彼らの話は、冗談と呼ばれている、あの気勢をそぐユーモアに道をゆずって、しばしば中断されたが、二人きりになると、真面目な、低い整えられた口調で話がはじまり、感情も考えもたがいに結びあわされているという感じを味わうのだった。二人はやがて、どんな形にしろ、中断されることに不快を示すようになり、冗談とか、同じ年頃の青年のおだやかな皮肉にさえも、反応を示さなくなった。話さえつづいていれば、二人は幸福だった。そしてその真剣さは、野火のコハク色のかがやきのように、二人を包んでいた。やがて、彼らが不快に思わない、ある種の妨害物ともいうべきものが、姿をあらわすようになった――つまり、情熱という妨害物が、姿をあらわしはじめたのである。
ひどく奇妙なことだが、アンソンは、彼女と同じくらい、この話に夢中になり、同じくらい深い影響をうけていたが、同時に、自分のほうが自分を偽っているところが少なくないのにひきかえ、彼女のほうは、たいてい、完全に純粋なものであるのに気がついた。最初は、彼女の感情の単純さを軽蔑していたのだが、彼の愛によって、彼女の性質が深みを増し、花ひらいてくると、彼もそれを軽蔑することができなくなった。彼は、もし自分もポーラの暖くて安全な生活の中に入って行くことができたら、幸福になれるのではないかと思った。たがいに話をしあったという、長い準備が、いっさいのぎこちなさを取り除いてくれた――彼は、もっと大胆な女たちからおぼえたことを、いくつか彼女に教えこんだ。すると彼女は、われを忘れた、神聖といってもいいようなはげしさで、それに応えるのだった。ある夜、彼らは、ダンスパーティのあとで結婚をすることにきめた。そして彼は、彼の母親に宛てて、彼女のことを書いた長い手紙を出した。次の日、ポーラは、自分が金持ちで、百万ドルばかりの財産を彼女自身がもっていることを、彼に告げた。
「私たちは二人とも、お金が全然ない。いっしょになっても貧乏するだろう」という状態に置きかえてみても、貧乏するという代りに、金持ちになるといってみても、結婚の喜びそのものがちがってくるわけではない。結婚というものは、未知の世界に二人でいっしょに足をふみ入れることにほかならないのだから。しかし、アンソンが四月に休暇をとって、ポーラと母親が、彼といっしょに北部に行った時、ポーラは、ニューヨークでの彼の家族の地位とか、彼らの生活の規模の大きさに、強い印象をうけた。アンソンが子供の頃あそんだ部屋で、はじめて二人きりになった時、もうこの上なく安全で、充分に保護されているという、快い感情が、彼女の心を充たすのだった。最初に行った学校で、スカルキャップ〔室内用のふちのない帽子の一種〕をかぶっているアンソン。神秘に包まれ、霧の彼方に忘れ去られた夏に、恋人といっしょに馬に乗っているアンソン。結婚式で、花嫁につきそっている若い女性たちや、先導役の楽しげなグループの中にまじっているアンソン。そんなアンソンの写真を見ているうちに、彼女は、自分と関係のない彼の過去の生活に嫉妬《しっと》のようなものをおぼえた。そして彼独特の個性が、これらの写真の中に完全に要約され、象徴されているように思われたので、彼女はすぐ彼と結婚し、彼の妻としてペンサコーラにもどりたいという気持ちにおそわれた。
しかし、すぐ結婚するといったことは、話題にものぼらなかった――婚約さえ、戦争がすむまで公にしないことにした。彼女は、彼の休暇があと二日しかのこっていないのを知ると、不満な気持ちにおそわれ、彼にも同じように、待つのはいやだという気持ちにさせようと考えはじめた。二人は、あるディナーパーティのために、車で郊外に出かけることになっていたが、彼女はその夜、その問題をどうしても解決してしまおうと決心した。
ところで、その時、ポーラのいとこが、いっしょにリッツ・ホテルに泊まっていた。彼女は生真面目で、辛辣《しんらつ》なところのある少女で、ポーラを愛してはいたが、彼女のすばらしい婚約に、少しばかり嫉妬を感じているところだった。ポーラが着かざるのに時間がかかっていたので、パーティに行くつもりのない、いとこのほうが、一つづきになった部屋の居間で、アンソンの相手をした。
アンソンは、五時に友人たちにあい、一時間ばかり、彼らといっしょに、軽率にも酒を思う存分飲んでしまった。彼は、適当な時刻に、イェール・クラブを出て、母親の運転手の運転する車で、リッツ・ホテルまでもどって行った。ところが、そんなくらい飲んだだけでは、いつもはどうということのない彼が、その時はそういうわけにいかず、居間のスチームで暖くなった空気の中に入ったとたん、不意にフラフラして倒れそうになってしまった。彼はそのことを意識していたが、おかしいという気持ちと、情ないという気持ちが、相半ばした。
ポーラのいとこは、二十五だったが、ひどくうぶだったので、最初は何が起ったのか、全然理解できなかった。彼女はそれまでアンソンにあったことがなく、彼が、何かわけのわからないことを、口の中でぶつぶつつぶやき、椅子の上からもう少しでおちそうになった時、すっかり驚いてしまった。そしてポーラが姿をあらわすまでは、ドライクリーニングをした軍服の匂いだとばかり思っていたものが、実はウイスキーの匂いだった、ということに全然気がつかなかった。しかしポーラは、部屋に入るとすぐ、事態を理解した。そして彼女の頭にひらめいたのは、母親が彼の姿を見ない前に、彼をつれ出してしまうということだけだった。そしていとこのほうも、ポーラの眼にうかんでいる表情を見て、ようやく事態を理解した。
ポーラとアンソンが、リムジンのところまでおりて行くと、その中で、二人の男が眠っているのに気がついた。その男たちは、アンソンがイェール・クラブでいっしょに酒を飲んだ連中で、同じようにパーティに行くことになっていた。アンソンは、車の中に彼ら二人がいたことを、すっかり忘れていたのである。ハムステッドに行く途中で、二人の男は眼をさまして、歌をうたった。その歌の中には、粗野なものもまじっていた。アンソンが、ほとんど口に出してとめようともしないのを、ポーラはできるだけあきらめようと努力してみたが、恥かしさと嫌悪のために、口もとは固く結ばれてしまっていた。
ホテルにのこっていたいとこは、混乱と動揺を重ねながら、さっき起った出来事を、頭の中で反芻《はんすう》していたが、やがて、レジェンドル夫人の寝室に入って行って、口を切った。「あの方は、おかしくないかしら?」
「だれがおかしいっていうの?」
「つまり――ハンターさんが。何かとってもおかしいの」
レジェンドル夫人は、鋭い眼で彼女を見た。
「どんなふうにおかしいの?」
「そうね、たとえば、ぼくはフランス人だなんておっしゃったり。あの方がフランス人だなんて、私、知らなかったわ」
「ばかばかしい。きっとあなたの思いちがいよ」彼女は微笑した。「冗談でおっしゃってるんだわ」
いとこは、断乎として頭を横にふった。
「ちがうわ。あの方は、フランスで育ったっておっしゃったわ。英語なんて、全然しゃべれない、だから、私と話ができないって。そしてほんとに英語が話せなかったのよ!」
レジェンドル夫人は、イライラして眼をそらせたが、その時いとこは、思案にふけりながら、「たぶん、ひどく酔っていらしたんでしょうね!」とつけ加えて、部屋から出て行った。
この奇妙な報告は、けっして嘘ではなかった。アンソンは、声がしゃがれて、思うように口がきけないのに気がつき、英語が話せないなどという、風変りな口実を使ったのである。あとになって、彼はよくその話をしたものだが、その時のことを思い出しては、いつもきまって、大声をあげていっしょに笑った。
そのあと一時間の間、レジェンドル夫人は、五回も電話をかけ、ハムステッドを呼び出そうとしたが、ようやく電話がつながっても、ポーラの声が出るまでには、十分もかかった。
「いとこのジョーの話だと、アンソンさんは、お酒に酔っていらしたということだけど」
「そうじゃないわ……」
「いいえ、そうなの。いとこのジョーが、お酒に酔っていらしたといっているわ。彼女にフランス人だなんていったり、椅子からおっこちたり、ひどく酔っているような様子だったようよ。そんな人といっしょにかえってきてほしくないの」
「お母さま、あの方は、別に何ともないわ! おねがいだから、心配したりしないで――」
「だけど、私には心配なの。そんなこととてもたまらないわ。いっしょにかえってこないと約束してほしいの」
「私が、何とかしますわ、お母さま……」
「あの人といっしょにかえってきてもらいたくないの」
「わかったわ、お母さま。じゃ、ね」
「きっとよ。ポーラ。どなたかほかの方に送ってきていただきなさい」
ポーラは、ゆっくりと耳から受話器をはなすと、電話を切った。彼女の顔は、抑えようのない当惑のために、紅潮していた。アンソンが二階の寝室で、手足をのばして眠っている間に、階下では、ディナーパーティが、客のいないまま、終りに向かって進行しつづけていた。
一時間ドライブしたために、彼の酔いは幾分さめていた――そして到着した時は、ただ陽気だというだけだった――結局ポーラは、その夜が台なしにならないようにと願っていたのだが、食事の前に軽率にも飲んだ二杯のカクテルが、災難を招いてしまったのだった。彼は十五分ばかりの間、一座の人々に向かって、相手をイライラさせるようなことを、そうぞうしい声で、遠慮なくしゃべりまくっていたが、やがて無言のまま、テーブルの下にすべるように入りこんでしまった。まるで古い新聞の中に出ていた男のように――しかし、古い新聞とはちがって、風変りで面白いところは全然なく、何か醜悪な感じしかあたえなかった。居あわせた女の子たちは、だれ一人、そのことについて、批評めいたことをいったりしなかった――何もいわないでいるのが、いちばんいいと思っていたにちがいない。彼のおじと他の男二人が、アンソンを二階にはこびあげたが、そのすぐあとに、ポーラが電話口に呼ばれたのだった。
一時間たって、アンソンは眼をさましたが、神経がめちゃくちゃになり、ぼんやりして濃霧の中にでもいるようだった。そんな状態だったが、いくらもしないうちに、おじのロバートが、ドアのところに立っているのに気がついた。
「……少しはよくなったかって、いったんだ」
「何のことです?」
「おい、気分はよくなったのか?」
「ひどいもんですよ」アンソンはいった。
「もう一ぱい、プロモ・セルツァーの水を飲むといい。それが飲めれば、よく眠れるだろう」
アンソンは、苦労しながら、ベッドから足をすべらせるようにして立ちあがった。
「もう何ともありません」彼は、元気のない調子でいった。
「無理をしないようにしろよ」
「ブランデーを一杯くれれば、下に行けるんだけど」
「それは、だめだ」
「いや、それにかぎりますよ。もう何ともありません……だけど、下に行くと、みんなにきらわれるだろうな」
「君が少し酔っているのは、みんなも知っている」おじは嘆願するようにいった。「だが、心配しなくてもいい。スカイラーなどは、ここに姿をあらわしさえしなかった。向うのゴルフ場のロッカールームで、姿を消してしまったんだから」
アンソンは、ポーラ以外の人の意見には、何の関心もなかったが、ともかくも、その夜のあと始末をつけようと決心した。ところが、水を浴びた後、姿をあらわしてみると、パーティに出ていた大部分の人々は、すでにかえってしまったあとだった。ポーラも、すぐに立ちあがって、かえろうとした。
リムジンの中では、以前からの真剣な対話が、またむし返されていた。彼が酒を飲むことは知っていた、そして是認してはいたが、こんなことが起ろうとは、全然考えてもみなかった――結局、私たち二人は、しっくりいかないのだ。二人は、人生にたいする考え方が、あまりにもちがいすぎる、そんなことを彼女は話した。彼女が話し終ると、次にアンソンが、非常におちついて話をはじめた。それがすむと、ポーラは、そのことはよく考えてみなければならない、今夜、決めてしまうわけにはいかない、怒っているわけではないが、とてもみじめな気持ちだ、といった。そして彼女は、ホテルの中までついてくるのをことわったが、車からおりる直前、身をかがめると、彼の頬にさびしげに接吻した。
次の日の午後、アンソンは、長い間レジェンドル夫人と話しあった。その間ポーラは、腰をおろして、何もいわずに耳を傾けていた。結局ポーラは、今度の事件について、適当な期間、よく考えてみることになった。そして、その結果、母と娘で最良の方法だという結論が出たら、アンソンといっしょにペンサコーラに行くことになった。彼はといえば、誠実に、しかしわるびれることなく、謝罪した――それだけだった。レジェンドル夫人は、何とでもできるはずなのに、彼よりも有利な立場に立つことができなかった。彼は約束もせず、卑下することもなく、結局、彼をわき道にそらしてしまった人生について、むしろ道徳上の優越性さえ示しながら、いくつかのもっともらしい意見をのべるという結果に終った。三週間の後、彼らが南部にやってきた時、ふたたびよりのもどったことに満足したアンソンも、安堵の胸をなでおろしたポーラも、絶好の機会が永遠にすぎ去ってしまったことには、少しも気がつかなかった。
アンソンは、ポーラを支配し、ひきつけていたが、また同時に彼女を不安でいっぱいにした。堅実とわがまま、感傷と冷笑とが同居している彼の性格――彼女のやさしい心には理解できない不調和――に困惑し、彼女は、二つの性格が、交互にあらわれるのだと思うようになった。彼女と二人だけでいる時、改ったパーティの時、あるいは、偶然地位の低い者といっしょになった時など、彼女は彼に、かぎりない誇りを感じた。彼女にとって彼とは、力強い、魅力的な存在で、父親のような、物わかりのいい男に思われたのである。しかし、別の連中といっしょにいる時、単なる上品さなど、全く無視してしまう性格が、また別の一面をあらわすと、彼女は不安な気持ちにかられるのだった。そのもう一つの面とは、下品で、おどけていて、快楽以外の何物にも関心のない一面だった。彼女は、そんな彼の一面を見ると、ショックをうけ、一時的に彼からはなれて、ひそかに昔の恋人と少しばかりよりをもどしてみたりしたが、いっこう何の役にも立たなかった――相手をつつみこむようなアンソンと、四か月交際したあとでは、ほかの男たちは、貧血症の青白い病人にすぎなかったのである。
七月になって、彼が海外の勤務を命じられると、二人のもつやさしさと欲望とは、だんだんにその強さを増していった。ポーラは、彼が出発する前の、最後の機会をとらえて結婚しようと思ったが――今度は、彼の息が、いつもカクテルくさかったという、それだけの理由で、思いとどまった。しかし、彼と別れたそのことが原因で、彼女は悲嘆に暮れ、健康を害してしまった。彼が出発したあと、彼女は、待っていたことによって失われた愛の日々にたいする未練のにじみ出た、長い手紙を何通となく彼にあてて書いた。八月になると、アンソンを乗せた飛行機が、北海に不時着した。彼は一晩の間、海にただよっていたあげく、駆逐艦によって引きあげられ、肺炎にかかって病院に送られた。ようやく彼が、故国に送り返される前に、休戦協定が調印された。
やがて二人は、ふたたび、あらゆる機会を利用することができるようになり、のりこえなければならない、具体的な障害もなくなったが、彼らの気質の表面にはあらわれないもつれが、二人の間に入りこんできて、接吻や涙から情緒をうばい去り、たがいの声も小さくなり、心のうちを語りあう親しいおしゃべりも、かすかなものになり、最後には、以前と同じ心の交流は、はるかはなれたところから送られる、手紙によってしかできなくなってしまった。ある日の午後、社交欄を担当している記者が、二人の婚約をたしかめるために、ハンターの家にやってきて、二時間もがんばっていたことがあった。アンソンは婚約を否定したが、それにもかかわらず、早刷版には、主要な記事として、次のようなニュースが載っていた――二人は、「サウサンプトンでも、ホット・スプリングズでも、タクシード・パークでも、たえずいっしょにいるところが見うけられた」しかし、いつもの真剣な対話は、一変して、長々とつづく口論に変り、この恋愛事件も、その終末に近づいていた。アンソンが、ひどく酔っぱらって、彼女との約束を破ってしまうと、ポーラのほうでは、行動主義心理学者のように、表面的な行為だけを問いただすようになってしまった。プライドもあり、自分のこともよく知っている上でやっていたので、彼の絶望は救いようがなかった。結局、婚約は、完全にこわれてしまった。
「最愛の人よ」今二人の手紙は、こんなふうな調子になっていた。「最愛の人よ、最愛の人よ。真夜中に眼をさまして、結局、二人の間がうまくいかなかったと気がつくと、死にたいような気持ちになってしまう。おそらく、この夏あって色々と話しあえば、またちがった結論が得られるかも知れない――私たちは、あの日、悲嘆に暮れながら、すっかり興奮していたんだから。また私は、あなたなしには、とうてい一生の間生きつづけて行くことはできない。あなたは、ほかの人でも、なんていっているが、あなたにもわかっているとおり、ほかの人のことなど、とうてい考えられないのだ。あなただけが……」
しかしポーラは、東部のあちこちをさまよっているうちに、彼を驚かせようと、時々、その派手な生活のことを手紙に書いてきた。しかし彼は、鋭い勘をもっていたので、そんなものに驚いたりはしなかった。彼女の手紙に男の名前が出てきても、ますます彼女にたいする自信を強め、軽蔑したいような気持ちになるのだった――彼はいつも、そんなものには影響をうけなかったのである。そして、いつか結婚するにちがいないという、希望をもちつづけていたのだった。
いっぽう彼は、戦後のニューヨークという、はなやかな、活気にあふれた世界に、精力的にとびこんでいった。彼は証券会社に入り、半ダースばかりのクラブの会員になり、夜おそくまでダンスをやり、三つの世界で活躍するようになった――それは、彼自身の世界と、イェール大学の若い卒業生たちの世界と、ブロードウェイと生活の一部に関係をもっている、いかがわしい世界だった。しかし彼は、ウォール・ストリートの仕事に、正味八時間をわき目もふらずに熱中した。そして彼は、有力な縁故関係と、その鋭敏な頭脳と、あふれるばかりのエネルギーに充ちあふれた体力の三つが結びついて、たちまちのうちに、ウォール・ストリートで頭角をあらわすようになった。彼は、一つ一つのことをはっきり切り離して考えることのできる、この上もなく貴重な頭脳をもっていた。回数こそ少なかったが、一時間も眠らないのに、生気を取りもどし、会社に姿をあらわすこともたまにはあった。そして一九二○年には、彼の収入は、早くも、給料と歩合をあわせて、一万二千ドルをこえていた。
イェール大学の伝統が、だんだんに過去のものになって消え去って行くにしたがい、ニューヨークの同級生の間では、彼の人気はますます高まっていき、大学にいた頃よりも、一段と人気者になっていた。彼は大邸宅に住み、青年たちを他の大邸宅に紹介してやる手段ももっていた。そればかりでなく、大部分の同級生が、不安定なふり出しにもどっていたのにひきかえ、彼の生活は、すでに安定したものになっているようだった。彼らは、気ばらしや逃避のために、アンソンのところにやってくるようになった。するとアンソンは、快くそれに応じて、喜んで彼らを助けてやったり、ごたごたのあと始末をつけてやったりした。
今では、ポーラの手紙には、男の名前は出てこなかった。そして、以前には見られなかったやさしい調子がみなぎっていた。しかしいくつかの情報によると、彼女には、ローエル・セェアという、ボストン生まれで、財産も地位もある、「すばらしい恋人」がいるという話だった。彼女が自分を愛しているという確信こそあったが、結局彼女を失ってしまうのではないかと思うと、彼は不安な気持ちになった。彼女は、不満足な一日をすごしただけで、あとは五か月ばかりニューヨークにやってこなかった。そして噂《うわさ》が大きくなるにつれて、彼は、ますます彼女に逢いたくなり、二月になると、休暇をとって、フロリダに出かけた。
宝石の疵《きず》のように、ハウス・ボート〔居住用の屋根つきの船〕が錨《いかり》をおろしている、きらめくサファイアのようなワース湖と、巨大なトルコ石の棒のような大西洋の間に、パーム・ビーチは、その豊かでふくよかな姿を、のびのびと横たえていた。「ザ・ブレイカーズ」「ザ・ロイアル・ポインシアナ」という、二つの巨大な建物が、対をなしている二つの腹のように、まばゆく平らな砂地から、もりあがっていた。そしてそのまわりには、「ダンシング・グレイド」とか、「ブラッドリーズ・ハウス・オブ・チャンス」とか、ニューヨークで仕入れた品物を、その三倍の値段で売っている、女性用流行服飾品などの店が、一ダースばかり群がっていた。「ザ・ブレイカーズ」の格子のついたベランダでは、二百人の女性たちが、右に左にステップをふんでは、回転したり、すべるように動いたりしながら、当時、ダブル・シャフルと呼ばれる名で流行していた美容体操をやっていた。そして音楽にあわせながら、その半分のテンポで、二千のブレスレットが二百の腕の上で、金属的な音をたてて、揺れ動いていた。
日が暮れてから、エヴァーグレイズ・クラブで、ポーラとローエル・セェア、アンソン、それに偶然居あわせた客四人で、ブリッジに熱中した。アンソンには、やさしく真剣なポーラの顔が、青ざめて疲れているように思われた――彼女は、世間に出てから四、五年、彼と知りあってからでも三年になるのだった。
「トゥ・スペード」
「煙草は?……ああ、失礼。パスにしよう」
「パス」
「スリー・スペードのダブル」
部屋の中には、一ダースばかりのブリッジ用のテーブルがあって、煙草の煙がたちこめていた。アンソンの眼は、ポーラの眼とあった。そしてセェアの視線が、ちらりと二人の間に入ってきても、なお依然として、二人は、じっとみつめあっていたままだった。
「ビッドは何でしたかな?」彼は、放心したようにたずねた。
「ワシントン・スクエアのバラの花」
部屋の隅のほうで、青年たちがうたっていた。
私は、しおれて枯れて行く
地下室の空気の中で――
煙草の煙りが、部屋の中で濃霧のように層を作った。そして一つのドアがひらくと、部屋の中は、風に吹かれた霊媒からの発散物が、渦を巻いてみちあふれるようだった。そして「かわいい、きれいな眼」が、ロビーのあたりで、いかにもイギリス人らしく気取っているイギリス人の中に、コナン・ドイル氏をさがすように、テーブルをすばやくかすめて行った。
「この煙は、ナイフで切れる」
「……ナイフで切る」
「……ナイフ」
ブリッジの三番勝負が終ると、ポーラは突然立ちあがり、緊張した低い声で、アンソンに何かを話しかけた。二人は、ローエル・セェアにはほとんど視線を向けることもなく、ドアから外へ出ると、長い石段をおりて行った――二人はいくらもしないうちに、手をとりあって、月光にてらされた渚《なぎさ》を歩いた。
「ダーリン・ダーリン……」 二人は、物影に身をよせあうと、一切を忘れて、情熱的に抱きあった……まもなくポーラは、顔を引いて、彼女がききたいと思っていたことを、彼の唇に語らせようとした――もう一度接吻した時、彼女は、それが、言葉になりかけているのを感じた……彼女は、ふたたび顔をはなして、耳をすましたが、もう一度彼にぐっと抱きよせられると、彼がまだ何もいわなかったのに気がついた――彼はただ、いつも彼女に涙をながさせる、例の深い哀しげなささやきで「ダーリン! ダーリン!」といっているだけだった。控え目に従順に、彼女の感情は、彼の意向のままになり、彼女の顔には、涙がながれおちた。しかし彼女の心は、依然として次のように叫びつづけていた。「私を欲しいといって――ああ、アンソン、私を欲しいといって!」
「ポーラ……ポーラ!」
その言葉は、二つの手のように、彼の心をしめつけた。そしてアンソンは、彼女がふるえているのを感じ、感情が充分に高まっているのを知った。彼は、もう一言もいう必要はなかった。自分たちの将来の運命を、実生活のわけのわからないものに、ゆだねてしまう必要などあるはずがない。チャンスを待ちながら、これから一年、あるいは永遠に、彼女をこんなふうに抱きしめていられるのに、どうして今、何かをいったりする必要があろうか。彼は今、自分たち二人のことを、特に自分よりも彼女のことを、しきりに考えていた。そして彼女が、ホテルにかえらなければと突然いい出した時、彼は一瞬、「結局、今が絶好のチャンスなんだ」と考えて、ためらったが、次の瞬間、「いや、待ったほうがいい――彼女はぼくのものなんだ」と思いなおした。
彼としては、ポーラのほうも三年間の緊張のために、心が疲れ果てているのを忘れていたのだ。彼女の愛情は、この一夜のうちに、永遠に消え去って、もはやふたたびよみがえることはなかった。
次の日の朝、彼は、何か心の充たされない、おちつかない気持ちで、ニューヨークにかえって行った。四月の末になって、突然何の前ぶれもなく、彼は、バー・ハーバーから、一通の電報を受けとった。それはポーラからの電報で、彼女がローエル・セェアと婚約したが、すぐボストンで結婚式をあげる、と書いてあった。そんなことが起ろうとは、夢にも思っていなかったことが、とうとう現実になってしまったのだ。
同じ朝、アンソンはあびるほどウイスキーを飲むと、会社に出かけて、休みもとらずに仕事をつづけた――というよりも、いったん仕事の手を休めてしまえば、どうなってしまうかわからなかったのである。夕方になると、彼は、何が起ったのかは一言もいわず、いつもと同じように会社を出た。思いやりある態度はいつもと変らず、おどけたことをいって、何か放心しているというようなところは、まったく見当らなかった。しかし一つのことだけは、彼も抑えることができなかった――それから三日の間、場所がどこであろうと、いっしょにいる相手がだれであろうと、彼は、突然顔を手の中に埋めて、子供のように声をあげて泣くのだった。
一九二二年、アンソンは、ロンドンでの起債の調査をするために、副社長といっしょに、海外へ出かけた。その旅行は、彼が会社の経営陣にいずれ加えられることを暗示していた。彼は今、二十七歳になっていた。ひどくふとっているというところまではいかなかったが、少しばかり重々しい感じで、年齢よりは物腰に老成したものがただよっていた。老人も青年も、彼に好意と信頼をよせていた。母親たちは、娘が彼とつきあうことに、何の不安も抱いてはいなかった。というのは、部屋の中に入ってくると、彼は、そこにいるいちばん年長で、もっとも保守的な人たちと同じようにふるまっていたからである。「あなたとぼくとは、おたがいに信頼できるし、理解もできる」彼は、そんなふうにいっているようだった。
彼は、本能的に男や女の弱点を知ることができたが、そういう時の彼の態度には、多少寛大なところがあった。そして司祭のように、外面的な体裁を維持することに、いっそう気をくばるようになった。いつも日曜の朝、彼は、上流の子供たちの集まる、監督派教会の日曜学校で教えていたが、それなどは、その典型的な一例ということができるだろう――冷たいシャワーをあび、すばやくモーニングに着がえるだけで、前の夜の放縦な生活から、完全な別人になることが、そのすべてであったとしても。
父親が死んだあと、彼は実質的な家長の地位につき、実際に、弟や妹たちの親の役目をするようになった。しかし、あるこみ入った事情から、彼の家長としての権威も、父親の遺産にまでは及ぶことができなかった。それは、おじのロバートが管理にあたっていたが、そのおじは、一族の中の競馬気狂いで、ウィートリー・ヒルズあたりに集まっている連中の中では、気立てのいい大酒飲みとして知られていた。
おじのロバートと、その妻のエドナは、若いアンソンとは非常に仲がよかったが、おじは、自分の甥《おい》の優秀な資質が、競馬好きという形であらわれてこないのを知ると、すっかり落胆してしまった。彼は、アメリカでいちばん入るのがむずかしい、市のクラブに、甥を入れようと支援した――そのクラブは、「ニューヨークの建設のために尽力した」(いいかえれば、一八八○年以前に金持ちだった)家族だけが、入会できる仕組みになっていたのである――そしてアンソンは、その会員に選ばれると、そのクラブのほうはほったらかして、イェール・クラブに出入りしていたので、おじは、そのことで少しばかり彼に文句をいった。だが、それに加えて、ロバート・ハンター自身がやっている、保守的で、少し左前の証券会社に入るのをことわると、おじの態度は、いっそう冷淡になってきた。自分の知っていることを何もかも教えてしまった小学校の教師のように、彼はアンソンの生活から、知らぬ間に姿を消した。
アンソンのまわりには、非常にたくさんの友人たちがいた――そして彼から、なみはずれた親切をうけなかった者は、ほとんどいなかった。またいっぽう、彼が自分の好きな時に、好き勝手なやり方で、突然粗暴なことをいい出すとか、ひどく酔っぱらうとかいうことのために、時々困らされない者も、ほとんどいなかった。自分以外のだれかが大失策をした時は、彼もイライラさせられたが、自分自身が失敗すると、きまっていつもおどけてみせた。何か失敗をやると、彼は、その話をしてまず自分から笑ってみせ、友人たちも笑わせるのが常だった。
その年の春、私はニューヨークで働いていたが、いつもイェール・クラブで、彼といっしょに昼食をとった。私の出た大学は、専用のクラブができるまでは、イェール・クラブを共同で使用していたのである。私は、ポーラが結婚したことを新聞で知っていたが、ある日の午後、彼女のことをたずねた時、どういうわけか、彼はポーラのことを話し出した。それからというもの、彼は私を、彼の家の食事にたびたび招待してくれた。そして私たちに何か特別の関係があるかのようにふるまい、打ち明け話をしたことによって、ポーラとの人の心を焼きつくすような思い出が、幾分か私の中に入りこんだとでもいうようだった。
母親たちが信頼していたにもかかわらず、彼の女の子にたいする態度は、無差別にだれでも保護してやるといったものではなかった。それは、その女の子次第だった――もし彼女が、だらしのない性格をみせたら最後、彼女は自分自身と彼の、両方の面倒をみなければならなかったのである。
「人生ってやつが」彼は、時々弁明するようにいった。「ぼくを冷笑的な皮肉屋にしてしまったんだ」
人生というのは、ほかならぬポーラのことだった。時々、特に酒を飲んでいる時など、ポーラとのことを少しばかりひねくれて考え、彼女のほうで、彼を冷たく見捨てたのだと思ったりした。
この皮肉な考え方、というよりは、生まれつき品行のよくない女の子に遠慮する必要などないという意識が、ドリー・カーガーとの恋に発展していったのである。それは、その数年間の、たった一つの恋というわけではなかったが、もう少しで彼の心に深い傷をあたえかけるところまでいき、彼の人生観に、少なからぬ影響を及ぼした。
ドリーは、結婚によって、上流社会に入ることができた、悪名の高い「広告業者」の娘だった。彼女自身は、年頃になると、女子青年同盟に入り、プラザ・ホテルで、社交界にデビューし、アセンブリーにもでかけるようになった。彼女にそんなことをする「資格」があるかどうか、問題にすることができるのは、ハンターのような、ごく少数の旧家の人間にかぎられていた。というのは、彼女の写真は、新聞にしばしば掲載されていたし、確実に資格のある多くの若い女性以上に、羨望に価する注目を集めていたからである。彼女は、黒い髪の毛と、深紅色の唇と、赤味がかった美しい肌をしていた。もっとも彼女は、社交界に出た最初の年は、ずっとピンクがかったグレーの白粉《おしろい》で、その肌の色をかくしていた。赤味がかった肌は、流行にはあわず――ヴィクトリア朝風の青白い肌の色が、流行していたからだった。彼女は、黒くて地味なスーツを着、ポケットに両手をつっこんだまま、少しばかり前かがみの姿勢で立っていたが、顔にうかんでいる、つつしみ深い表情は、何かユーモラスな感じをあたえていた。彼女は、何ともいいようのないほど、ダンスがうまかった――そして、ほかのどんなことよりも、ダンスが好きだった――恋をすることを除けば、ほかの何よりも好きだった。彼女は、十歳の時から、いつも恋をしていた。そしてその相手というのは、たいてい、彼女に何の反応も示さない男の子ばかりだった。彼女に反応を示す男の子たち――その数は決して少なくはなかったが――は、少しばかりあってみると、すぐうんざりしてしまうのだった。しかし彼女は、彼女に反応を示さなかった男の子たちのことを、もっとも深く愛していた。彼女は、そんな男の子にあうと、もう一度アタックをしてみるのが常だった――時には、そのアタックは成功したが、それ以上に、しばしば失敗することのほうが多かった。
自分を愛さなかった男性たちに、ある種の類似点があることなど、手のとどかないものばかりを求めている、この浮気娘には、思いつくわけなどなかった――つまり、そういった男性たちは、彼女の欠点を見抜く、冷徹な直観力を備えていたのである。それは、感情そのものの欠陥ではなく、感情をコントロールする点での欠陥だった。アンソンは、ポーラが結婚して一か月もたたない頃、はじめてドリーにあった時、そのことに気がついた。彼は、かなりひどく酒を飲みつづけていた。そして彼は、一週間ばかりの間、彼女に夢中になっているようなふりをした。それから彼は、突然彼女とのつきあいをやめて、彼女のことを忘れてしまった――すると彼は、たちまちのうちに、彼女の心を支配する立場に立つようになったのである。
その当時の多くの若い女性たちと同じように、ドリーも、だらしのないところがあり、無分別なまでに放埓《ほうらつ》だった。ほんの少しばかり上の世代がもっていた、因習無視というものは、時代おくれの風習を信じないという、戦後の風潮の一面にすぎなかったが――ドリーのそれは、もっと古くさく、もっとぱっとしないものだった。そして彼女は、感情のにぶい女が常に求めている、二つの極端にはなれた要素――奔放な、ものにおぼれやすい性格と、自分を保護してくれる力強さ――を、アンソンの中に見出したのである。彼の性格の中に、彼女は、プレイボーイと、がっしりした岩のような力強さの両方を見出したのだった。そしてこの二つが、彼女の本性の要求しているすべてを満たしていたのである。
彼女は、これはむずかしいことになるのではないか、と感じたが、その理由に関して、彼女は誤解していた――アンソンや彼の家族が、もっと派手な結婚を期待していると、彼女は思ったのだが、またすぐに、彼が酒飲みだということを、利用すべきだと推測した。
二人は、若い女性がはじめて社交界に出る、大ダンスパーティで出あったのだが、彼女のほうが夢中になるにつれて、二人は、だんだんにいっしょにいる時間を多くするように都合をつけた。大部分の母親と同じように、カーガー夫人も、アンソンが、この上なく信用できる男だと信じこんでいた。そんなわけで、ドリーが彼といっしょに、遠方にあるカントリー・クラブや郊外の別荘に行くことには、何ら異議をとなえず、二人の行動を細かくたずねたり、夜おそくなったからといって、彼女の説明をうたがったりするようなことはしなかった。最初のうちは、このような説明も正確なものであったかも知れない。しかし、アンソンの心をとらえようという、ドリーの世俗的な考えは、まもなく、彼女の感情が、はげしく高まってくるにつれて、消え去ってしまった。車やタクシーの後の席での接吻ぐらいでは、もはや物足りなくなってしまった。そこで二人は、奇妙なことをやり出したのである。
二人はしばらくの間、自分たちの世界から抜け出して、それより一段と低い世界を作りあげた。その世界では、アンソンが酒びたりになっても、ドリーが不規則な生活をしても、それほど目立ったりしなかったし、とやかくいわれたりすることもなかった。その世界は、さまざまな要素から成り立っていた――アンソンのイェール時代の友人が数人と、その細君連中。若い証券マンや、債券の外務員が二、三人、大学を出たばかりの、独身の男たちが何人か。そして彼らは、いずれも金持ちで、遊びの好きな連中ばかりだった。その世界は、広さとスケールには欠けていたが、その埋めあわせに、ほとんど許されないような自由を容認していた。その上、二人がその中心だったし、ドリーは、わずかではあるが、目下のものにたいして、謙遜《けんそん》する喜びを味わった――そんな喜びは、子どもの頃に抱いた確信から、ずっと目下の者にたいして、謙遜を示す生活になれてきたアンソンにとっては、別に目当たらしいものとは思えなかった。
彼は別に、ドリーを愛してなどいなかった。そして二人の恋がもえあがったように思われた、長い冬の間にも、彼は、たびたび彼女にそういった。春になると、彼はうんざりしてしまった――何かほかのことで、自分の生活を一新したいと思った――さらにその上、彼女との交際をたつか、明らかに誘惑したことにたいする責任をとるか、そのどちらかしかないこともわかっていた。そして、彼女の家族のはげますような態度が、彼の決定を促進させた――ある夜、カーガー氏が、書斎のドアを遠慮がちにノックし、古いブランデーを一本食堂においてきたといった時、彼は、人生によって自分が包囲されているのを感じた。その夜彼は、彼女に宛てて短い手紙を書き、休暇をとって旅行に行くつもりだということ、周囲の事情から考えて、もう二度とあわないほうがいいだろう、というようなことを書いた。
それは六月のことで、彼は、家族たちが家をしめて、田舎に行ってしまったので、イェール・クラブで一時暮していた。私は、ドリーとの恋愛事件については、それが発展するにつれて、彼から話をきいていた――その話とは、ユーモラスな感じのものだった。というのは、アンソンは、気まぐれな女を軽蔑していて、彼が信頼をよせている社交界という組織の中に、そういった女が、席を占めるのを許そうとしなかったからである――そしてその夜、彼から、もう彼女とは、はっきりと手を切るつもりだという話をきいて、私は、喜ばないわけにはいかなかった。私は今まで、ほうぼうでドリーの姿を見かけたことがあった。そして、そのたびに、むなしくあがいている彼女に同情すると同時に、何の権利もないのに、彼女のことをいろいろ知っている自分が、恥かしくもあった。彼女は「かわいい女の子」のタイプだったが、彼女のもっている、奔放ともいうべきものが、私には、少しばかり魅力的なものに思われた。もし彼女が控え目だったら、彼女の気前のいい浪費も、あれほど目立ちはしなかったろう――彼女はつまらない男と結婚するにちがいないと思われていたが、それほどひどい目にはあうまいときかされて、私も安堵の胸をなでおろした。
次の日の朝、アンソンは、別れの手紙を彼女の家においてくるつもりだった。五番街あたりで、家をしめてどこかに出かけていない家などは、ごくわずかしかなかったが、彼女の家は、そのわずかな家の一つだった。カーガー夫妻は、ドリーの誤った情報にひかれ、娘にチャンスをあたえようとして、外国旅行をとりやめてしまったことは、彼も知っていた。彼は、イェール・クラブの玄関を出て、マジソン街に入ろうとした時、郵便集配人とすれちがったので、そのあとについてもどって行った。そしてまず最初に眼にとまったのは、ドリーの筆跡の手紙だった。
彼には何が書いてあるのか、大体の見当はついていた――彼のよく知っている、いつもの非難、呼び起された思い出、「……かしら」といった言葉、そんなもののいっぱいつまっている、さびしく悲しげな独白――それは、もうずっと昔のことのように思われたが、彼が、ポーラ・レジェンドルに宛てて書いたと同じ、いつの時代にも変らないきまり文句だったのだ。何通かの請求書を、手ばやくめくってから、その手紙をいちばん上におくと、彼はそれをひらいてみた。驚いたことに、それは、短い、少しばかり形式的な手紙だった。突然、シカゴのペリー・ハルがやってきたので、週末にはいっしょに田舎に行けない、というのが、その内容だった。こんなことになったのも、みんなアンソンのせいだと、つけ加えてあった――「あたしがあなたを愛しているように、あなたがあたしを愛してくださると感じたら、いつでも、どこにでもごいっしょに行ったでしょう。だけどペリーは、とてもやさしい人で、とっても私と結婚したがってるの――」
アンソンは、軽蔑のこもった微笑をうかべた――そんなおとりのような手紙なら、彼は、自分でも経験したことがあった。またそれだけでなく、ドリーが、この計画にどれほど苦労したかもわかっていた。おそらく、忠実なペリーを呼び出し、彼の到着する時間を計算したにちがいない――それだけでなく、アンソンを追いはらわずに、嫉妬心を起させようと、いろいろ苦労している。大部分の妥協がそうであるように、その手紙には、力もなければ活力もなく、ただおどおどした自暴自棄のようなものがあるだけだった。
突然彼は、怒りをおぼえた。彼はロビーに腰をおろすと、もう一度その手紙に眼を通してみた。それから電話のところまで歩いて行き、ドリーを呼び出した。そして、はっきりした、有無をいわさぬような声で、手紙を受け取ったが、あらかじめ計画したとおり、五時に迎えに立ちよるといった。「一時間ぐらいだったら、あえるかも知れない」と、はっきりしないふりをしている彼女の言葉を、ほとんど最後まできこうとせず、彼は、受話器をかけると、自分のオフィスのほうに歩いて行った。そしてその途中、自分の書いた手紙を細かくひきさいて、通りに捨てた。
彼は、別に嫉妬など感じなかった――彼女のことなど、どうでもよかったのだ――しかし、哀れっぽい策略のことを思うと、彼の中の、強情で気ままなものが、何もかも全部、一度に表に姿をあらわした。あんなことは、知能の低い者のずうずうしいやり方にすぎない。しかしだからといって、見逃していいというものではない。自分がだれのものだか知りたいなら、いずれよくわかるだろう。
彼は五時十五分すぎに、戸口の上り段のところに立った。ドリーは、タウンウェアを着ていた。彼はその時、彼女が電話でいっていた、「一時間しかあえない」という言葉が、またもやくり返されるのを、何もいわずにきいていた。
「ドリー、帽子をかぶったら」彼はいった。「散歩にでも行こう」
二人は、マジソン街をぶらぶらと歩いて行き、五番街まで行ったが、はげしい暑さのために、肥満したアンソンの体を包んでいるワイシャツが、汗でしめってきた。彼は、文句をいうだけで、愛情のこもった言葉もかけず、ほとんど話もしなかったが、六ブロックも歩かないうちに、彼女は、前と同じように彼のものになっていた。彼女は、手紙のことをあやまり、その償いに、ペリーとは二度とあわないといい、どんなことでもするつもりだと申し出た。彼女は、彼がふたたび彼女を愛するようになったので、やってきたのだと思ったのだ。
「暑い」彼は、七十一丁目にやってくると、いった。「これは、冬のスーツなんだ。家によって着がえたいんだが、下で待っていてくれるかい? ほんのちょっとだが」
彼女は、幸福だった。暑いというような、彼の肉体に関する、親密感のこもった言葉をきいて、彼女は興奮してしまった。鉄格子のついたドアのところまできて、アンソンが鍵《かぎ》を取り出した時、彼女は、思わず歓喜のようなものをおぼえた。
階下は暗かった。彼がエレベーターに乗って上って行ったあと、ドリーはカーテンをあげて、光を通さないレースごしに、道路をへだてた向う側の家々に眼を向けた。彼女はエレベーターのとまる音がすると、彼をからかってやろうと思い、下におりてくるようにエレベーターのボタンを押した。そして衝動以上の何ものかにかられて、それに乗ると、彼がいると思われる階まで上っていった。
「アンソン」彼女は、幾分笑いを含んだ声で、呼んでみた。
「ちょっと待ってくれ」彼は、寝室の中から答えた……それから少したってから「さあ、入ってもいい」という声がした。
彼は着がえを終えて、チョッキのボタンをかけているところだった。
「これは、ぼくの部屋なんだ」彼は、快活な調子でいった。「どうだい、気に入った?」
彼女は、壁にかかっているポーラの写真をみつけると、うっとりしたように、それをみつめた。ちょうど五年前に、ポーラが、アンソンの子供っぽい恋人たちの写真をじっとみつめていた時のように。彼女は、ポーラのことは少しばかり知っていた――彼女は時々、耳にした話の断片から、なやみ、苦しんでいたのだ。
突然彼女は、両腕をあげて、アンソンのほうに近づいて行った。二人は、抱きあった。中庭に面している窓の外側には、取りかこんでいる建物の影になっているために、すでにやわらかなたそがれの気配がただよっていたが、道路の向う側にある、裏屋根には、依然として太陽が、あかるくかがやいていた。三十分もたてば、この部屋もすっかり暗くなってしまうにちがいない。思いがけない機会に圧倒され、二人は息もつけないくらい興奮し、いっそうはげしく抱きあった。それは、切迫した、避けがたいものだった。依然として、たがいに抱きあったまま、二人は顔をあげた――そして二人の視線は、壁から彼らをじっとみつめているポーラの写真の上にとまった。
突然アンソンは、抱いていた手を下におろすと、自分の机の前に腰をおろして、鍵の束で引き出しをあけようとした。
「酒を飲む?」彼は、かすれた声でたずねた。
「飲みたくないわ。アンソン」
彼は、タンブラーに半分ばかりウイスキーをつぐと、それをぐっと飲みほした。そして廊下に出るドアをあけた。
「さあ、行こう」彼はいった。
ドリーは、ためらった。
「アンソン――私、やっぱり今夜、あなたといっしょに田舎に行くわ。私のいっていること、おわかりになるわね?」
「もちろんだよ」彼は、無愛想な口調で答えた。
二人は、ドリーの車でロング・アイランドに向かって進んで行ったが、二人の気持ちは、かつてなかったほど近づいていた。二人は、これからどんなことが起るのか、よくわかっていた――ポーラの写真のあるところでは、何かが欠けているのを思い出し、うまくいかなかったが、静かな暑いロング・アイランドの夜に包まれて、二人きりになってしまうと、もう気になるものは、何一つなかった。
二人が週末をすごすことにしていたポート・ワシントンの屋敷は、モンタナ州の銅山経営者と結婚した、アンソンのいとこの所有物だった。番小屋のところからはじまっている、屋敷の中の車道は、輸入したポプラの若木の下でまがり、巨大な淡紅色をした、スペイン風の邸に向かって、長々とはてしなくつづいていた。アンソンは、前にもそこにたびたびやってきたことがあった。
晩餐《ばんさん》をすますと、二人は、リンクス・クラブでダンスをした。夜半頃になって、アンソンは、いとこたちが二時より前にはクラブを出そうもないという確信を得た――そこで彼は、ドリーが疲れているから、彼女を家につれて行くが、あとでもう一度ダンスをしにもどってくる、と説明した。少しばかり興奮に体をふるわせながら、二人は、借りた車に乗りこんで、ポート・ワシントンに向かった。番小屋につくと、彼は車をとめ、夜警の男に話しかけた。
「カール、何時に巡回に出かけるの?」
「今、すぐ出かけます」
「では、みんなが、かえるまでには、ここにもどってるわけだな?」
「はい、もどっています」
「よし。では、いいかい。だれの車でも、もし車がこの門を入ってきたら、すぐ家のほうに電話をしてほしいんだ」彼は五ドル紙幣を、カ―ルの手の中に押しこんだ。「わかったかい?」
「わかりました。アンソンさま」彼は、昔気質の男だったので、ウインクもしなければ、微笑をうかべもしなかった。しかしドリーのほうは、坐ったまま、少しばかり横を向いていた。
アンソンは、鍵をもっていた。家の中に入ると、彼はすぐ二人のために酒をついだ――ドリーは、それには全然手をふれなかった――そして、電話のある位置をはっきりとたしかめた。二人の部屋は、一階にあったが、電話は、どちらの部屋からもはっきりときこえる距離にあるのがわかった。
五分たつと、彼は、ドリーの部屋をノックした。
「アンソン?」彼は部屋の中に入ると、ドアをしめた。彼女は、ベッドの中にいたが、心配そうに枕に肱をついていた。彼は、彼女の傍に腰をおろすと、彼女を抱きしめた。
「アンソン、ダーリン」
彼は、何も答えなかった。
「アンソン……アンソン! 愛してるわ……私を愛してるっていって。今、いって――今、いえないの? 本気でなくてもいいから」
彼は、その言葉をきいてはいなかった。彼は、この部屋の壁の上にも、ドリーの頭の上に、ポーラの写真がかかっているのに気がついた。
彼は立ちあがると、その写真のそばに近よってみた。額縁は、三度《みたび》反射した月の光をうけて、かすかにきらめいていた――その中には、ぼんやりした影のような顔があったが、それは、彼の知らない顔だということがわかった。もう少しですすり泣きたい気持ちにかられて、彼はふりむくと、ベッドの上に横たわっている、小さな姿を、嫌悪の思いでじっとみつめた。
「こんなことは、ほんとうにばかげている」彼は、しわがれた声でいった。「自分でも何を考えているのかわからない。ぼくは、君を愛してなんかいない。君は、君を愛してくれる男を待っていたほうがいい。ぼくは、全然君を愛してなんかいないんだ。わからないかい?」
彼の声はかすれ、彼は、大いそぎで部屋の外に出た。彼は、客間にもどると、おちつかない手つきで、自分のグラスに酒をついだ。その時、突然玄関のドアがあいて、彼のいとこが入ってきた。
「まあ、アンソン、ドリーの具合がわるいってきいたけど」彼女は、心配そうに口を切った。「彼女の具合がわるいってきいたけど……」
「別に大したことじゃなかったんだ」彼は、ドリーの部屋までとどくように、声を高くして、いとこの言葉をさえぎった。「ちょっと疲れて、ベッドで横になっている」
その後長い間、アンソンは、守護する神も、時には、人間の問題に干渉するものだと信じつづけた。しかし、ドリー・カーガーのほうは、眼をさましたまま、ベッドに横たわり、じっと天井をみつめていたが、もう二度と何事も信じる気持ちにはなれなかった。
その年の秋、ドリーが結婚した時、アンソンは、ビジネスでロンドンにいた。ポーラが結婚した時と同じように、突然のことだったが、彼にもたらした影響は、また別のものだった。最初彼は、それが何か滑稽なものに思われ、そのことを思うと、笑い出したいような気持ちになった。しかししばらくすると、何か沈んだ気持ちになってきた――自分も年をとったものだと思わないわけにいかなかった。
それには、何か同じような事のくり返しがあるように思われた――そうだ、ポーラとドリーは、別の世代の女性なのだ。彼は何か、昔の恋人の娘が結婚したという話をきいた四十男の気持ちを、前もって味わったような気がした。彼は、祝いの電報を打ったが、ポーラの時とはちがって、ほんとうに心からのものだった――ポーラの場合は、心の底では、別に幸福になってほしいとは望んでいなかったのだ。
彼はニューヨークにもどると、役員の一人に加えられた。そして責任が増すにつれて、自由に使える時間が少なくなってきた。ある生命保険が、彼に保険に加入するのをことわったのが、少なからぬ影響をあたえたらしく、彼は、一年間酒を飲むのをやめてしまった。そして、体の調子が、前よりもいいと主張していた。もっとも、彼の人生にこの上なく重要な役割を演じていた、二十代初期の、あのイタリアのチェリーニ風〔チェリーニ(一五〇〇〜七一)はイタリアの彫刻家・金工家。自由奔放につづった自叙伝が有名〕の陽気な冒険の話がなくなって、淋しい気持ちを味わっていたにちがいないが。しかし彼は、イェール・クラブを放棄してしまったわけではなかった。彼は、クラブの大立物であり、名士でもあった。そして今や、大学を出て七年になる彼の同級生たちが、もっと控え目な溜り場に行きがちな傾向を、彼の存在がおさえているといってもよかった。
どれほど彼の生活が忙しく、どれほど彼の頭が疲れていようと、求められた時には、だれにでも、あらゆる援助をあたえてやった。最初は、誇りと優越感からやったことが、いつのまにか習慣となり、情熱の対象となってしまった。しかもいつも何か問題があった――ニューヘイヴンで、弟がもめごとを起したり、友人夫婦が喧嘩をして仲裁しなければならなかったり、友人の就職の口をさがしてやったり、また別の友人のために、投資物件をみつけてやったりした。しかし彼が、いちばん得意にしていたのは、若い夫婦の問題を解決してやることだった。若い夫婦たちは、彼にとって魅力のある存在だったし、彼らの住んでいるアパートは、彼にとって、ほとんど神聖なものに思われた――彼は、彼らの恋愛の一部始終を知っていて、どんなところに住んだらいいかとか、どうやって生活したらいいかとか、について助言したり、彼らの赤ん坊の名前までおぼえていた。若い細君にたいする彼の態度は、用心深い慎重なものだった。彼は、その夫たちが、彼に例外なくよせる信頼を――彼の公然たる不品行を考慮に入れるならば、ひどく奇妙なことだったが――決して裏切ったりしなかった。
彼は、幸福な結婚を見ると、まるで自分のことのように喜びをおぼえ、失敗した結婚を見ると、ほとんど本人と同じように、快い憂鬱《ゆううつ》をおぼえた。社交シーズンがやってくるたびに、彼は、彼が結びつけたといってもいいような恋愛が、かならず一つはこわれてしまうのを、見ないわけにはいかなかった。ポーラが離婚し、いくらもたたないうちに、また別のボストン生まれの男と再婚した時、彼は、その日の午後全部をついやして、彼女のことを私に話してきかせた。ポーラを愛したのと同じように、他の女を愛することは、まず考えられないが、彼は、そんなことは、もうどうでもいいことだといいはった。
「ぼくは、結婚なんか絶対にしない」彼は、そういうようになってきた。「今まで結婚というものを、たくさん見てきた。そして、幸福な結婚というものが、どんなに少ないものかも知っている。それに、もう年を取りすぎた」
しかし彼は、依然として結婚というものを信じていた。幸福で成功した結婚から生をうけた男の例にもれず、彼は、心の底から結婚を信じていた――彼は、いろいろな結婚を見てきてはいたが、それによってその信頼が消え去ることはなかった。また彼のシニシズムも、結婚ということになると、すっかり影をひそめてしまうのだった。しかし彼は、もう年をとりすぎていると、本気で信じこんでいた。そして二十八になると、ロマンチックな恋愛ぬきの結婚を、冷静に考えるようになっていた。彼は、断乎として、自分と同じ階級の、ニューヨークの娘を選び出した。彼女は、美しく聡明で、気心もあい、非の打ちどころのない申し分のない娘だった――このようにして彼は、彼女との恋にとりかかった。以前ポーラには、本心から、ほかの娘たちには優雅な調子で話したことも、今ではもはや微笑をうかべ、納得させる努力を払いながら、口にするほかはなかった。
「四十になったら」彼は、友人たちにいった。「おれも人間に円味が出てくるだろう。ほかの連中と同じように、どこかのコーラスガールにでも夢中になるだろうな」
それでもなお、彼は自分の計画に固執した。母親は、彼が結婚するのを見たがっていたし、彼自身も、今では充分経済的な余裕があった――証券取引所の会員権ももっていたし、年収は、二万五千ドルになっていた。そんなわけで、結婚しようと考えるのも、無理のないことだった。彼の友人たち――彼は、彼とドリーで作り出したグループと、大部分の時間をすごしていたのだ――が、夜、彼ら自身の家庭のドアの中に身をかくしてしまうと、もはや彼は自分の自由を、喜んでいるわけにはいかなくなった。彼は、ドリーと結婚しておくべきだったのだろうか、とさえ考えた。ポーラでさえ、あれ以上には愛してくれなかったのだ。彼は、たった一つの生涯では、ほんとうの愛にめぐりあうことが、どれほど少ないかを知りはじめていた。
このような気持ちになりかけていた時、ある心をかき乱すような噂《うわさ》が、彼の耳に達した。まもなく四十になろうとしているおばのエドナが、ケアリー・スローンという、大酒飲みの若いプレイボーイと、おおっぴらな浮気をしていたということだった。だれひとり、そのことを知らないものはいなかった。ただ十五年間、クラブで長話をしていて、自分の妻のことなど、あまり気にしていなかったおじだけは例外だったが。
アンソンは、その噂を耳にするたびに、ますます困惑の気持ちが強くなっていった。おじにたいする昔の感情が、いくぶんなりとも、またよみがえってきたのである。それは単なる個人的なものではなくて、彼のプライドの根底を形成している、家族の結束への復帰だったのだ。彼の直観は、この事件の本質的な点を選び出していた。つまり、おじの心を傷つけてはならないということだった。それは、彼にとって、はじめての自発的な干渉だったが、エドナの性格はよくわかっていたので、地方裁判所判事や彼のおじよりも、上手に処理することができるように思われた。
おじは、ホットスプリングズにいた。アンソンは、少しでもまちがいの可能性がないようにと、このスキャンダルの出所をしらべてから、おばに電話をかけ、次の日プラザ・ホテルで、昼食をいっしょにしようと、さそってみた。彼の口調の何かが、彼女をはっとさせたにちがいない。なぜなら、最初彼女は、気が進まないようだったが、彼があう約束の日をのばして、強くたのむと、ことわる口実をなくしてしまったからだった。
彼女は、約束の時間に、プラザ・ホテルのロビーで、アンソンにあった。彼女は、美しいが色香のさめた、灰色の眼をしたブロンドの女で、ロシア・クロテンのコートを着ていた。ダイヤモンドやエメラルドで、冷たい感じをあたえる、五つの大きな指輪が、彼女のほっそりした手にきらめいていた。彼女の失われつつある美しさを辛うじて支えている、きらびやかなかがやき――その毛皮や宝石をかせいで手に入れたのは、おじではなく、彼の父親の聡明さのおかげだということが、アンソンの心にうかんだ。
エドナは、彼の敵意に感づいたが、アンソンが、単刀直入に攻撃してくるとは、全然考えていなかった。
「エドナ、あなたのなさっていることには、ほんとうにあきれましたね」彼は、力のこもった、遠慮会釈のない声でいった。「最初は、とてもほんとうだとは思えませんでした」
「いったい、何のこと?」彼女は、語気鋭くたずねた。
「エドナ、何もかくすことはないじゃありませんか。ぼくは、ケアリー・スローンのことをいっているんです。ほかの問題はともかくとして、ロバートおじさんを――」
「ね、アンソン」彼女は腹立たしげに口を切ったが、彼の有無をいわさない声が、彼女の声を押しのけてしまった。
「――それに、あなたの子供たちだって、同じような目にあっているんです。もう結婚してから十八年になるんだし、もっと分別ができてもいい年じゃないんでしょうか」
「あなたには、私にそんなふうにいう権利なんかないわ! あなたは――」
「いいえ、ちゃんと権利があるんです。ロバートおじさんは、いつもぼくのいちばん親しい友だちだったんです」彼は、ひどく心を動かされ、おじと、まだ若い三人のいとこのことについて、本心から心を痛めた。
エドナは、カニのフレークのカクテル料理には手をつけないで、立ちあがった。
「こんなばかげた話なんて、ありゃしない――」
「そんなら結構です。ぼくの言葉に耳をかさないなら、ロバートおじさんのところに行って、何もかも全部話してしまいます――いずれ、おじさんの耳に入ることはたしかなんだから。それからそのあとで、親父のモージズ・スローンのところにも行ってきます」
エドナは、よろめくようにして、ふたたび椅子に腰をおろした。
「そんなに大声でいわないで」彼女は、懇願するようにいった。その眼は、涙でかすんでいた。「あなたの声が、どんなによくきこえるか、全然考えていないんだから。こんな気狂いじみた非難をするなら、もっと人目につかないところを選んでもよかったんじゃないかしら」
彼は、何も答えなかった。
「あなたが、一度も私に好意をもったことなどなかったのは、わかっているわ」彼女は、言葉をつづけた。「あなたは、ばかげたゴシップを利用して、はじめて味わった楽しい友情を、台なしにしようとしているんだわ。こんなにあなたからにくまれるようなことを、何か私はしたかしら?」
アンソンは、それでもなお待っていた。いずれ彼女は、彼の騎士的精神に訴えてくるだろう。それがだめなら、今度は、彼の同情心に訴えてくるだろう。そして最後には、一段と世なれた彼の心に訴えてくるだろう――だが、そんなものは、相手にしないで、強引に進んで行けば、彼女のほうで告白してしまうにちがいない。そうすれば、彼女を自由に支配することができるだろう。そして、無言と無感覚によって、彼自身のいつわりのない感情である、彼の主要な武器、つまり、家族にたいする愛情というものに、たえず立ち返りながら、昼食の時間が、知らぬまに過ぎ去って行くにつれ、彼は、エドナをおどして、狂乱的な絶望におとしいれてしまった。二時になると、彼女は鏡とハンカチを取り出して、涙のあとをぬぐい去り、涙のかすかな跡に白粉《おしろい》をつけた。彼女は、彼女の家で五時に彼とあうことに同意した。
彼が到着した時、彼女は、夏の間だけクレトンさらさのカバーのかけられている、長椅子の上で、体をのばしていた。昼食の時、彼がさそい出した涙は、依然として彼女の眼に宿っているように思われた。彼はその時、火のない暖炉の前に、陰鬱な、心配そうな顔をした、ケアリー・スローンのいるのに気がついた。
「いったい、どういうことなんです?」すぐさま、スローンが口を切った。「昼食にエドナを招いておいて、くだらないスキャンダルをネタに、おどしたりしていたのは知っていたが」
アンソンは、腰をおろした。
「ぼくは、単なるスキャンダルだとは思っていないんだ」
「あなたは、そのことを、ロバート・ハンターのところに話しに行くそうじゃないか。それから、ぼくの親父のところにもね」
アンソンは、うなずいてみせた。
「君が、彼女と手を切るか――さもなければ、ぼくが話をしに行くか」彼はいった。
「ハンター、ほんとにひどいことをやるんだな」
「ケアリー、かんしゃくを起したりしないで」エドナが、いらいらしながらいった。「どんなにくだらないことか、わからせるのがポイントなんだから――」
「まず第一に、ぼくの名前が、ほうぼうにもち出されていることだ」アンソンが、話をさえぎった。「ケアリー、君に関心があるのは、そのことだけだな」
「エドナは、君の家族のメンバーじゃない」
「彼女は、完全に家族のメンバーだ!」彼の怒りは、ますますはげしくなっていった。「いずれにしても――この家も、指にはめている指輪も、全部うちの親父の才覚のおかげなんだ。ロバートおじさんと結婚した時、彼女には、全然財産なんてなかったんだから」
彼らは、現在の状勢に、それが重要な関係をもっているとでもいうように、おばのはめている指輪に眼をそそいだ。エドナは、それを指からはずすしぐさをしてみせた。
「世の中にある指輪は、何もこれだけじゃない」スローンが、口を切った。
「ああ、何てばかばかしいんでしょう」エドナは、叫んだ。「アンソン、私のいうこともちゃんときいてくれない? このばかげた話が、どうして出てきたのか、私にはわかったわ。それは、私がくびにして、すぐチリチェフさんのところに行ったメイドが、震源地なのよ――ああいうロシア人たちときたら、召使たちからうまくきき出して、ありもしない意味をくっつけるんだから」彼女はそういうと、腹立たしげに、にぎりこぶしでテーブルをたたいた。「この前の冬、私たちが南部にいた時、ロバートはまる一か月、リムジンを貸してやったんだけど、そのあと――」
「わかるかね?」スローンは、懸命になって問いただすようにいった。「そのメイドが、誤解してしまったんだ。彼女は、ぼくとエドナが友人なのを知って、そのことをチリチェフに話した。ロンドンでは、すぐ推測してしまう。男と女が――」
彼は、その話題を、コーカサス地方の社会関係に関する論説にまで拡大していった。
「それがほんとうなら、ロバートおじさんに説明しておいたほうがいいんじゃないかな」アンソンは、そっけない口調でいった。「そうすれば、その噂が、おじさんの耳に入っても、ほんとうではないとわかるだろうから」
昼食の時に、エドナにたいしてとったやり方を使って、彼はそのことに関して、二人に何もかも充分に説明させた。彼は、二人があやまちを犯しているのを知っていた。そしてまもなく、説明というわくをこえて、自分たちを正当化しはじめ、彼自身にできるよりももっと明確に、彼らがあやまちを犯していることを、証明するようになることも知っていた。七時になるまでに、二人は自暴自棄になり、ほんとうのことを打ち明けてしまった――ロバート・ハンターが、エドナをかえりみなかったこと、エドナの空虚な生活、はげしい愛情にまでもえあがった一時の火遊ぴ――しかし、ほんとうの話というものの例にもれず、この話も陳腐であるという、欠陥をもっていた。そしてその弱りきった肉体が、力なくアンソンの強固な意志に向かって、打ちかかって行くだけだったのだ。スローンの父親のところに行くという脅しは、彼らの無力さを決定的なものにしてしまった。というのは、スローンの父親というのは、アラバマ出身の引退した綿花仲買人で、有名な根本主義キリスト教信者で、息子に送金する額についてはきびしく、とんでもないことをもう一度くり返したら、送金は永久にストップしてしまうといって、息子を監督していたからである。
三人は、一軒の小さなフランス料理のレストランで食事をしたが、議論のほうは、相変らずつづいていた――一時スローンは、暴力に訴えようとしたことがあったが、そのあといくらもしないうちに、彼らは二人そろって、もう少し時間をもらえないかと、懇願した。しかしアンソンは、譲歩しなかった。そして彼は、エドナが今、気力を失いかけていることを、二人の情熱がふたたびもえあがり、彼女の気力を回復させてはならないことを、知っていたのである。
二時になると、五十三丁目にある、一軒の小さなナイトクラブの中で、エドナは突然気力がつきはててしまい、家にかえるといって、声をあげて泣き出した。スローンのほうは、一晩中、さかんに酒を飲んでいたが、幾分涙もろくなってしまい、テーブルによりかかって、両手に顔を埋めると、少しばかり泣き出した。アンソンは、すばやく二人に条件を出した。スローンは、六か月の間、ニューヨークをはなれること、しかも四十八時間以内に出て行かなければならないこと。ふたたびニューヨークにもどってきても、この不倫の恋を再開しないこと、ただし一年たって、エドナが望む場合は、ロバート・ハンターに離婚を申し出て、ごく常識的なやり方で、離婚に着手してもかまわないこと。そういったことが、彼のきり出した条件だった。
彼はちょっと言葉を切ると、二人の顔を見て、決定的な言葉をいってもいいという確信をもった。
「さもなければ、もう一つ、あなた方にできることがある」彼は、ゆっくりと言葉をつづけた。「もしエドナが、子供たちをおいて行くというのなら、かけおちするのをとめたりしないが」
「私、家にかえりたいわ!」エドナは、ふたたび叫んだ。「一日のうちに、ほんとうに申し分のないことをしてくれたわね」
外は暗くて、この通りの先にある六番街から、ぼんやりした光がもれているだけだった。その光の中で、それまで恋人だった二人は、最後の視線をかわしあい、おたがいにその悲痛な顔をながめあった。そして永遠の別れを避けるには、若さも力も、二人の間にのこっていないことをさとったのである。スローンは、突然、通りを歩み去って行った。アンソンは、いねむりをしているタクシーの運転手の腕を、かるくたたいた。
もう少しで、四時になるところだった。五番街のぼんやりした舗道の上には、清掃の水が、黙々とながれていた。夜の女が二人、聖トマス教会の暗い正面の前を、かろやかにかすめすぎて行った。まもなくアンソンが子供の頃よくあそんだ、セントラル・パークの荒れ果てた植込みが、眼に入った。進んで行くにつれて、通りの番号の数は多くなっていったが、それは人の名前のように、いろいろな思い出を呼びさました。これは、おれの街だ、彼はそう思った。この街で、おれの名前は、五つの世代にわたって、繁栄をつづけてきた。どのような変化が起っても、この街で、おれの名のもっている永続性を変えることはできない。なぜなら、変化それ自体が、本質的な土台であり、その土台によって、おれや、おれと同じ名前をもった人々を、ニューヨークの精神としっかり結びつけているからだ。豊かな才知と強固な意志――もっと迫力のない脅しをしていたら、何の効果ももたらさないだけでなく、むしろもっと悪い結果になっていただろうが――によって、おじの名前や家族の名前から、さらには、自分の傍でふるえながら坐っているエドナ自身から、ふりかかってくる不名誉を払いのけてやったのだ。
次の日の朝、ケアリー・スロ―ンの死体が、クイーンズボロ橋の橋脚の、下のほうにある棚《たな》状の部分で発見された。あたりは暗く、その上興奮していたので、彼は、自分の下に、黒々とながれている水があると思ったのである。しかし、一瞬の後には、ながれている水の中にとびこんだのと、同じような結果になってしまった――ただ、最後にエドナのことを思いうかべ、水の中で弱々しくもがきながら、彼女の名前を呼ぼうと思っていなかったらの話だが。
アンソンは、この事件で、彼自身の演じた役割について、少しも自分を責めようとは思わなかった――この事件を引き起した状況は、彼自身の作り出したものではなかったのだから。しかし、正しい者も、正しくない者と同じように、被害をこうむるものなのである。そして彼は、もっとも古い、もっとも貴重な友情が失われてしまったことに気づかないわけにはいかなかった。エドナが、どれほど事実をまげて話したのか、彼には見当もつかなかったが、おじの家では、もう二度と歓迎されることはなかった。
クリスマスの直前、ハンター夫人は、監督派教会の信者として、安らかにその生涯を閉じ、天国へ帰還して行った。そしてアンソンは、彼の一家の責任ある家長としての地位につくことになった。長い間、いっしょに生活してきた未婚のおばが、ハウスキーパーの役目をし、まったくその能力に欠けているにもかかわらず、妹たちの付添い役をやったりした。子供たちは全部、アンソンほど独立独行の精神に富んでいたわけではなく、長所も短所も、アンソンにくらべると、平凡なものにすぎなかった。ハンター夫人が死んだために、一人の娘は、社交界にデビューするのがおくれ、もう一人の娘は、結婚式がおくれてしまった。また彼女の死は、一族の全部から、何かいい知れぬ重要なものを、うばい去ってしまったのである。というのは、彼女が死去すると同時に、ハンター家の、静かな、贅沢な優越性も、その姿を消してしまったのだから。
一つには、二度の相続税によって、かなり少なくなり、いずれ近いうちに六人の子供たちの間で分けられることになっている財産は、もはやさほど大したものではなくなっていた。アンソンは、いちばん下の妹たちが、二十年前には「存在」しないも同然だった、いくつかの家族のことを、どちらかというと、尊敬のこもった調子で話す傾向があることに気がついた。彼女たちは、彼がもっている、ほかの人よりもすぐれているという意識など、何一つもちあわせていなかった――そんなわけで、時々彼女たちは、形どおりの俗物性を示すのだった。それは結局、単にそれだけのことにすぎなかったのである。それともう一つ、その年が、彼らのコネチカットの屋敷ですごす、最後の夏になったからだ。「一年のうちで、いちばんすばらしい何か月かを、あんな古くさい、退屈な町で無駄にすごすなんて、ほんとうにばかばかしい」という反対の叫びが、ひどく大きくなっていたのである。彼は、不承不承譲歩した――秋になれば、家は売りに出されるにちがいない。そして来年の夏は、ウェストチェスター郡に、もっと小さな家を借りることになるだろう。それは、彼の父親の、単純で贅沢な生活から一歩後退することを意味していた。彼は、その反抗に共鳴したものの、同時に何か困惑めいたものも感じた。母親の生きている時は、いちばん楽しかった夏でさえ、少なくとも一週間おきに、週末をその別荘ですごしていたからである。
しかし彼自身もまた、このような変化の一部分に他ならなかった。彼の強烈な生活本能は、彼が二十代の時に、あの発育不全の有閑階級の、形ばかりの儀式に背を向けさせてしまったのだった。はっきりと認めていたわけではなかったが、彼は依然として、ある種の規範、社会の基準ともいうべきものが、存在すると感じていた。しかし実際に、規範などというものは、存在しなかったのだ。それ以前、ニューヨークに、ほんとうの規範などというものがあったかどうか、それさえはっきりしていない。たしかに特別なグループに入るために、金を使い、懸命になって努力しているわずかばかりの人々も、ようやくそのグループに入ってみると、それが社交界としての機能をほとんどはたしていないということを知るのが、せいぜいというところだったにちがいない――あるいは、さらに驚くべきことは、こういったところからにげ出したはずのボヘミアンたちが、いちばん大きな顔をしていたのを、知ることぐらいだったろう。
二十九になったアンソンにとって、いちばん切実な関心は、自分がだんだん孤独になっていくことだった。彼は今では、結婚することなど、絶対にあるまいと思っていた。彼が、新郎のつきそいや、先導役をつとめた結婚式の数は、数えきれないくらいだった――いろいろなところの結婚式で結んだことのある、礼装用のネクタイ、一年とつづかなかった恋を思い出させるネクタイ、彼の生活から完全に姿を消してしまった夫婦を思い出させるネクタイ――アンソンの家には、そういったもののいっぱいつまっている引き出しがあった。ネクタイピン、金のシャープ、カフスボタンといった、同じ世代の花婿《はなむこ》からの贈り物は、彼の宝石箱に一度納められたはずだったが、どこかになくなってしまっていた――そして、結婚式に出るたびに、だんだんに花婿になった自分を想像するのが、困難になってきた。これらの結婚全部にたいして、彼は、心から好意を示したが、そういう彼の心の奥には、彼自身の結婚にたいする絶望がひめられていたのである。
このようにして、三十歳に近づくにつれ、彼は、結婚、特に最近の結婚というものが、友情をむしばんでいくことに、少なからぬ憂鬱をおぼえるようになった。いろいろなグループは、分解したり、消滅したりして、混乱の傾向に向かっていた。彼の大学の同窓生たちは――アンソンは彼らにたいして、もっとも多くの時間と愛情をそそいでいたのだったが――いちばん最初に彼からはなれて行った。彼らの大部分は、家庭生活の中に、深くひきこもってしまっていた。そのうちの二人は死に、一人は外国に行き、もう一人は、ハリウッドで、映画の台本を書いていた。アンソンは、その映画を几帳面に全部見ていた。
しかし彼らの大部分は、どこか郊外にあるカントリー・クラブのあたりで、複雑な家庭生活をいとなみながら、一生郊外からかよう宿命をもった通勤者たちだった。そして彼が、もっとも痛切に、人種がちがうということを感じるのも、この連中にたいしてだった。
結婚しても最初のうちは、彼らも、例外なく彼を必要とした。彼は、彼らの乏しい収入にたいして、助言をしてやったり、子供をつれて、浴室のついた二部屋のアパートに住むことの当否に関する疑念を晴らしてやったりした。とりわけ彼は、広い世間を代表している人間のように思われていたのである。ところが今、彼らの財政上の心配も、すでに過去のものになり、どうなることかと心配していた子供も、成長して幸福な家族の一員になっていた。彼らは、古い友人であるアンソンにあうのを、いつでも喜んでいたが、彼にたいしては、よそ行きの態度をとり、現在の自分たちの高い地位を強く印象づけようとして、自分たちの心配ごとは、彼に打ち明けようとはしなかった。彼らはもはや、彼を必要としてはいなかったのである。
彼が三十の誕生日を迎える数週間前に、昔から親しかった友人たちの中で、最後まで結婚しなかった男が、とうとう結婚にふみきった。アンソンは、いつもと同じように、花婿の付き添い役をつとめ、いつもと同じように、銀のティーセットを贈って、いつもと同じように、ホメリック号まで見送りに行った。それは五月の暑い日で、金曜の午後だった。彼は、桟橋から歩み去りながら、週休二日制がもうはじまっていて、月曜の朝までは、仕事がないということに気がついた。
「どこに行くとするか?」彼は、自分に向かって、問いかけた。
もちろんイェール・クラブにきまっている。晩餐までブリッジをやり、そのあと、だれかの部屋で、四、五杯のカクテルを飲み、楽しくめちゃくちゃな夜をすごす。彼は、今日の午後見送った花婿がいっしょにいないのを、残念に思った――クラブにくる連中は、こんな夜を心ゆくまで楽しむ方法を知っていた――どうやったら女をひきつけることができるか、どうやったら追い払うことができるか、彼らの聡明な快楽主義によれば、女の子にどの程度の考慮をはらえばいいのか、そういったことを、彼らは充分に心得ていた。パーティというものは、適当にしておけばいい――ある種の女の子たちを、ある種の場所につれて行き、楽しむためにしかるべき金を使えばいい。酒のほうもあまり多くは飲まず、適当だと思う量を少しばかり多目に飲み、朝になったら、適当な時に立ちあがって、これからうちにかえるといえばいい。大学生や酔っぱらい、将来の約束、喧嘩、単なる感傷、無分別な行為、そういったものは、避けるようにする。すべては、そんなふうにやっていればよい。それ以外のことは、浪費にすぎないのだ。
朝になっても、はげしい後悔の念にさいなまれたことはなかった――何も決心などする必要はないのだ。しかしやりすぎて、心臓の具合が少しばかりおかしくなったら、そんなことは一言もいわずに、数日の間、酒を飲むのをやめて、じっと待っていると、イライラするような退屈さが蓄積され、また別のパーティに出かけるようになってしまう。
イェール・クラブのロビーには、人影がなかった。バーには、ひどく若い卒業生が三人いたが、一瞬、興味のない表情で、ちらりと彼のほうに眼を向けただけだった。
「やあ、オスカー」彼は、バーテンに向かっていった。「カーヒルは、今日の午後、ここにこなかった?」
「カーヒルさまは、ニューヘイヴンにいらっしゃいました」
「ああ……そうか」
「野球を見にいらしたんです。大ぜいの方がいらっしゃいました」
アンソンは、もう一度ロビーをのぞきこむと、一瞬じっと考えてから、外に出て、五番街のほうに歩いて行った。彼の入っているクラブの一つ――それは、彼が五年間ほとんど足を向けたことのないクラブだった――の広々とした窓から、髪に白いもののまじった男が、その涙ぐんだ眼で、じっと彼をみつめていた。アンソンは、すばやく眼をそらせた――放心したようなあきらめ、尊大な孤独をただよわせながら、腰をおろしているその男の姿を見ると、沈んだ気持ちになるからだった。アンソンは、歩みをとめると、あとにひき返して、四十二丁目を通って、ティーク・ウォードンのアパートのほうに歩きはじめた。ティークと彼の妻は、かつて彼のもっとも親しい友人だった――ドリー・カーガーと愛しあっていた頃、彼はしばしばドリーといっしょに、彼らの家庭を訪れたものだった。ところがティークは、酒にふけるようになり、彼の妻は、それがアンソンの悪影響によるものだと、公然というようになった。その言葉は、誇張された形で、アンソンの耳に入ってきた――最終的にその誤解はとけたが、親しさというデリケートな魔法はとけて、もはやふたたび、もとにもどることはなかった。
「ウォードンさんは、おいでですか?」彼はたずねた。
「うちじゅうで、田舎のほうにいらしています」
その事実は、予期しない打撃を彼にあたえた。彼らは田舎に出かけていたのに、彼は、それを知らなかったのだ。二年前だったら、出発する日や時間もわかっていて、まさに出発しようという時に姿をあらわし、最後の一杯をくみかわして、次にあう時の計画をたてていたにちがいない。それなのに彼らは、今度は一言もいわずに出かけてしまったのだ。
アンソンは時計に眼をやると、家族といっしょに週末をすごそうかと考えたが、今から間にあう列車は、猛烈な暑さの中を、三時間もがたがたゆれながら走って行く、普通列車しかなかった。明日は田舎で、そしてその次の日は日曜日ときている――行儀のよい大学生たちと、ポーチ・ブリッジをやったり、田舎の街道ぞいにあるホテルで、食事のあとにダンスをしたりする。つまり、それは彼の父親がひどく買いかぶっていた、ささやかな楽しみというやつだった。彼はとうてい、そんなことをする気にはなれなかった。
「ああ、面白くない」彼は、心の中でつぶやいた……「ほんとうに面白くない」
彼は、重々しい威厳をもった青年だったが、今は幾分ふとり気味だった。そしてそれ以外には、放蕩《ほうとう》を連想させるようなものは、何一つ見当らなかった。彼は、何かの中心人物になるべき素質をもっていたといっていい――時には、社交界に向いているとはどうしても思えなかったが、時には社交界以外には、向いていないようにも思われた――いずれにしても、法曹界か、宗教界だったら、彼にふさわしかったのかも知れない。四十七丁目の、あるアパートの前の歩道で、彼は、少しの間立ちどまった。ほとんど生まれてはじめてのことだったが、彼は、何もすることがなかったのである。
やがて彼は、何か重要な約束を思い出したというように、きびきびした歩調で、五番街のほうに歩いて行った。自分をかくすことの必要性は、私たち人類が、犬と共有している、いくつかの特徴の一つであるが、その日のアンソンは、よく知っている家の裏口で失望していた育ちのいい犬のように思われてならない。彼は、ニックにあいに行くつもりだった。ニックは、以前、上流の家庭で内々のダンスパーティがあると、いつもよばれるバーテンだったが、今では、プラザ・ホテルの迷路のような地下貯蔵室で、アルコール分の少ないシャンペンをひやす仕事をするために、やとわれていた。
「ニック」彼はいった。「何もかも、いったい、どうなってしまったんだろう?」
「死んでしまったんですよ」ニックはいった。
「ウイスキー・サワーを一つ作ってくれ」アンソンは、カウンターごしに、一パイント入りの瓶を手渡した。「ニック、女の子も変ったな。ブルックリンにかわいい子がいたんだが、先週、おれには一言もいわずに結婚してしまったんだ」
「ほんとうですか。はっはっは」ニックは、如才なく答えた。「いっぱい食わされたわけですね」
「そのとおりだ」アンソンはいった。「しかも、その前の晩、おれはその子とつきあっていたんだ」
「はっはっは」ニックはいった。「はっはっは!」
「ニック、ホット・スプリングでやった結婚式のことをおぼえているか? おれが、ウェイターやバンドの連中に『英国国歌』をうたわせた時だよ」
「ところで、ハンターさま、どこの結婚式だったでしょうか?」ニックは、よくわからないといったふうに、考えこんだ。「あれは、もしかすると――」
「そしたら、次の時に、同じ連中がやってきて、またうたうっていうんだ。おれのほうは、あいつらにどのくらい金をやったのか、よくわからなくなってきた」アンソンは言葉をつづけた。
「もしかすると、トレンホームさまの結婚式の時だったかも知れません」
「そんな名前はきいたことがない」アンソンは、断乎とした口調でいった。彼は、自分の知らない名前が、思い出の中に侵入してきたのが、不愉快だったのだ。ニックは、そのことに気がついた。
「ところで」彼は、譲歩していった。「当然知っていなくてはならないはずですな。あなたさまの御仲間の一人ですから――ブレイキンズ……ベーカー――」
「ビッカー・ベーカーだ」アンソンは、反射的にいった。「式が終ると、みんなでおれを霊枢車につっこんで、体中花で飾りたてたあげく、追いはらってしまったんだ」
「はっはっは」ニックは笑った。「はっはっは」
昔からいる召使といったニックの態度も、いくらもしないうちに、興ざめたものになってしまい、アンソンは、階上のロビーにあがって行った。彼は、あたりを見まわした――彼の眼は、見たこともないフロントの係の投げた視線にぶつかり、ついで、真鍮のたんつぼの口のあたりにひっかかっている、一輪の花の上におちた。それは、午前中行われた結婚式の時の花だったのだ。彼は外に出ると、コロンバス・サークルの上に、血のように赤くかがやいている太陽に向かって、ゆっくりと歩いていった。突然彼は、くびすを返すと、プラザ・ホテルのほうに引き返した。そして、電話室の中にとじこもった。
あとになって彼のいったところによると、彼はその日の午後、ぼくのところに三度電話をかけたそうだ。そして、ニューヨークにいるかも知れない友人たちにも、一人のこらず電話をかけたという――長い間あっていない男や女の子。大学時代に画家のモデルをしていた少女――彼女の電話番号は、住所録の中で、インクの色が色あせていたが――中央電話局では、そんな電話局など、もうなくなっていると教えてくれた。ついに彼の電話は、郊外のほうにも及ぶようになった。彼は、強硬な態度の執事や女中を相手に、短い言葉のやりとりをしたが、結果は失望に終った。何々さまは、乗馬に、水泳に、ゴルフに、先週ヨーロッパに船でお出かけになっていて、今おいでになりません。どなたからの電話だと申し伝えればよろしいでしょうか。
その夜、ひとりですごさなければならないのは、ほんとうに耐えがたいことだった――少しでも暇ができたらと、心の中でひとり計画をたててみても、孤独が強制的に押しつけられた場合には、その魅力を完全に失ってしまう。たしかに、ある種の女性は、いつでもいた。しかし、彼の知っている女性は、今のところ姿を消してしまっていた。大体、見も知らぬ女に金を払って、ニューヨークの一晩を共にすごすということなど、彼の頭には、決してうかんでこなかった――そんなことは、何か恥ずべき秘密なこと、ほうぼうをまわっているセールスマンが、知らない町でやる気晴しの一種だと、彼なら思ったにちがいない。
アンソンは、今かけた電話の料金をはらった――電話交換局の女性は、あまり金額が多いので、何か冗談をいおうとしたが、彼はそれにのってこなかった――そして彼は、その日の午後、またもやプラザ・ホテルをあとにして、どこというあてもなく、外に出かけようとした。ちょうどその時、光をななめにうけながら、回転ドアのそばに立っている、一眼で妊娠中とわかる女の姿が、眼に入った――ベージュ色をした、ごく薄手のケープが、ドアがまわると、彼女の肩のあたりでひるがえっていたが、彼女は、ドアのまわるたびに、待ちくたびれたというように、イライラしながら、ドアのほうに眼を向けていた。最初一目見た時、親しい人に出あったという、何か胸のわくわくするような、強烈な興奮が、彼の心におそいかかってきた。しかし五フィートとはなれていない、すぐそばにやってくるまで、それがポーラだとは気がつかなかった。
「まあ、アンソン・ハンター!」
彼は、思わずはっとした。
「やあ、ポーラ」
「まあ、おどろいた。アンソン、とてもほんとうだとは思えないわ!」
彼女は、彼の両手を取った。その何のくったくもないジェスチャーの中に、彼は、彼の思い出がもはや彼女にとって、苦しいものでなくなっているのに気がついた。しかし彼にとっては、そんなわけにはいかなかった――彼は、彼女によって呼びさまされた、あの昔と同じ感情が、彼の心によみがえってくるのを感じたからである。彼が、彼女の楽天的なものの考え方に出あった時、いつもその表面を傷つけるのを恐れていたとでもいうような、あの優しい気持ち、それが今よみがえってきたのだ。
「私たち、今年の夏はライにいるの。ピートが、仕事のために東部にこなければならなかったから――もちろん、ご存知だと思うけど、今、私はピーター・ハガティと結婚しているの――だから、子供たちもつれて、家を借りることにしたの。ぜひうちにきてね」
「行ってもいいのかい?」彼は、とっさにたずねた。「いつ?」
「いつでもかまわないわ。ほら、ピートよ」回転ドアがまわると、三十ぐらいの背の高い、ハンサムな男が、姿をあらわした。顔は日焼けし、口ひげは、きちんと刈りそろえていた。その男の清潔感にあふれた健康さは、だんだんに肥満してくるアンソンの体――それは、少しばかりタイトに仕立てたモーニングに包まれて、明らかに目立っていたのだ――と鮮明な対照を示していた。
「立っているのはよくない」ハガティは、妻に向かっていった。「さあ、ここに坐ろう」彼は、ロビーにある椅子を指さしたが、ポーラは、ためらっていた。
「私、すぐうちにかえらなきゃ」彼女はいった。「ね、アンソン――今夜うちにきて、いっしょにお食事をしない! 私たち、まだ、何とかおちついたばかりだけど、あなたさえ辛抱してくださるなら――」
ハガティも、心からそれに同意した。
「今晩は、泊まっていって下さい」
彼らの車は、ホテルの前で待っていた。ポーラは、ぐったりした様子で、片隅の絹のクッションに身を沈めた。
「あなたにお話ししたいことが、いっぱいあるわ」彼女はいった。「どうやってお話ししたらいいか、わからないくらい」
「君のことをききたい」
「そうね」――彼女は、ハガティに向かって微笑してみせた――「それにしても、お話しすればずいぶん長くかかるんじゃないかしら。子供は、三人いるの――最初の結婚でできた子供よ。いちばん上の子が五つ、そのつぎが四つ、それから三つなの」彼女の顔には、ふたたび微笑がうかんだ。
「あんまり時間を無駄にしないで、子供を作ったってわけね。そうでしょ?」
「男の子?」
「男の子一人と、女の子二人。それから――ああ、ほんとうにいろんなことが起ったわ。そして私、一年前にパリで離婚して、ピートと結婚したの。それだけのことだわ――離婚したことを別にすれば、それ以外は、何もかもほんとうに幸福なの」
ライの町に入って行くと、彼らは、ビーチ・クラブのそばにある、大きな家の前まで車を運転していった。まもなくその家の中から、髪の毛の黒い、ほっそりした三人の子供がとび出してきた。彼らは、イギリス人の女の家庭教師の手から抜け出して、家族以外にはわけのわからない叫び声をあげながら、近づいてきた。ポーラは、放心したように、ぎこちない手つきで、子供たちを一人ずつ抱きしめた。子供たちは、母親に強くぶつからないように、明らかにいいつけられていたらしく、その抱擁をぎこちない動作でうけいれていた。子供たちの生き生きした顔とくらべてみても、ポーラの肌には、疲れというものは、ほとんどあらわれていなかった――からだのほうは、だるそうだったが、七年前、最後にパーム・ビーチであった時よりも、むしろ若々しくさえ見えた。
食事の時、彼女は何かに夢中になっているようだった。そしてそのあと、みんながラジオに熱中している間も、眼をつぶって、ソファの上に横になっていたので、とうとうアンソンも、今、自分がいるのは邪魔なのではないかと思うようになった。しかし九時になって、ハガティが立ちあがり、しばらくの間、二人だけにしておいてあげようと、愛想よくいってからあとは、彼女も自分自身のことや過去のことを、ゆっくりと話しはじめた。
「私の最初の赤ちゃんは」彼女はいった――「私たちがダーリンって呼んでいる、いちばん大きな女の子のことだけど――私、あの子ができたとわかった時、死んでしまいたいと思ったわ。だって、ローエルが、他人のように見えたんですもの。お腹の子が、自分の子供のようには、とても思えなかったの。私、あなたに手紙を書いたんだけど、出さずに破ってしまったわ。ああ、あなたって、ほんとうにわるい人だったのね、アンソン」
またしても、例の高まったり、沈んだりする対話が、はじまった。アンソンの心には、突然、昔の記憶がよみがえってきた。
「一度婚約したんじゃなかったかしら?」彼女はたずねた。「ドリー何とかという女の方と?」
「婚約したことなんかない。婚約しようとしたことはあったが。ポーラ、君以外に愛した人なんて、いなかったんだ」
「まあ」彼女はいった。そしてしばらくしてから、「今度の赤ちゃんは、はじめて私がほんとうにほしいと思った子なの。そうだわ、私、今になって、やっと人を愛することができるようになったの」
彼女の過去を語る言葉に、裏切りのようなものを見出して、彼はショックをうけ、返事をしなかった。彼女は「今になって、やっと」という言葉が、彼の感情を傷つけたのに気がついたらしく、さらに言葉をつづけた。
「アンソン、私、あなたに夢中だったわ――あなたは、私に何でも好きなことをさせることができたのよ。だけど、私たちは、幸福にはなれなかったと思うわ。私って、あなたに満足して頂けるほど頭がよくないんだから。私って、あなたみたいに、物事を複雑に考えるのが好きじゃないの」彼女は、ここで言葉をとぎらせた。「あなたは、決して家庭をもつことなんて、できないと思うわ」彼女はいった。
その言葉は、彼に背後から一撃を加えたようなものだった――あらゆる非難の中で、これほど不当なものは、かつて存在しなかったのである。
「もし女性というものが、もっとちがったものだったら、ぼくだって身を固めることができるだろうね」彼はいった。「もしぼくが、女性をそれほど理解していなかったら、もし女性が、他の女性のことで、一人の男をだめにしてしまうようなことがなかったら、もし女性が、ほんの少しでもプライドをもっていたら。ぼくがしばらく眠ったあとで、眼がさめてみたら、ほんとうの自分の家だったということがあったら――そうだな、ぼくは、そういう生活に向いているんだ、ポーラ。それは、女性がぼくの中にみつけて、好意をもつ性格なんだ。ただぼくのほうが、一々順序をふんでいけないだけの話だ」
ハガティは、十一時少し前に部屋の中に入ってきた。ポーラは、ウイスキーを一杯飲むと、立ちあがった。そして、自分はもう寝るといった。彼女は部屋を横切ると、彼女の夫の傍に立った。
「あなた、どこにいっていたの?」彼女は、たずねた。
「エド・ソーンダーズと一杯やってきたんだ」
「私、心配していたの。あなたが、もうもどってこないんじゃないかと思ったわ」
彼女は、頭を彼の上着にもたせかけた。
「彼はやさしいでしょ、アンソン?」彼女はたずねた。
「君のいうとおりだよ」アンソンは、笑いながらいった。
彼女は、夫のほうに顔をあげた。
「さあ、準備ができたわ」彼女はそういうと、アンソンのほうに顔を向けた。「私のうちの曲芸をごらんになりたい?」
「ああ」彼は、興味をそそられたような声で、いった。
「さあ、いいわ。はじめましょう!」
ハガティは、彼女を軽々と抱きあげた。
「これが、わが家のアクロバットってものよ」ポーラはいった。「彼は、このまま私を二階にはこんで行ってくれるの。彼ってやさしいでしょ」
「ああ」アンソンはいった。
ハガティは、顔がポーラの顔にふれるまで、頭を少しばかりかがめた。
「それに私は、彼を愛しているの」彼女はいった。「ついさっきまで、あなたにそう話したわね、アンソン?」
「ああ」彼はいった。
「彼は、この世の中のどんな人よりも大事な人なの。ね、あなた、そうじゃない?……じゃ、お休みなさい。さあ、行きましょう。彼って、力が強いでしょ?」
「ああ」アンソンはいった。
「あなたのために、ピートのパジャマが出してあるわ。ゆっくりお休みなさいね――じゃ、朝のお食事の時に」
「ああ」アンソンは、いった。
会社の年上の連中は、夏の間、外国にでも行くようにと、アンソンにさかんにすすめた。七年間、ほとんど休暇をとっていない、ひどく疲れているから、何か変化が必要なのだ、そう彼らはいうのだった。しかしアンソンは、ききいれようとしなかった。
「もしいったん出かけたら」彼は、断乎とした口調でいった。「もう二度とかえってこないでしょう」
「ばかなことをいうもんじゃない。三か月もすれば、そんな憂鬱なんか全部すっとんで元気になってもどってくる。いつものように、上々のコンディションでな」
「いや」彼は、頑固に頭をふった。「もし働くのをやめたら、二度と仕事にはもどってこないでしょう。もしやめたら、つまり仕事を投げ出してしまうことになるんです――もう手を切ってしまうということになるんです」
「ひとつ、一か八かやってみようじゃないか。もしよければ、六か月ばかりいってきてほしい――君が、この仕事と手を切るなんてことは考えられない。いずれにしても、働いていないと、君は決して幸福にはなれないんだから」
彼らは、彼の渡航の手続きをとってくれた。彼らはアンソンに好意をもっていた――だれ一人、彼に好意をもたない者はいなかった。彼の上にあらわれた変化は、一種の棺衣のように、会社全体に暗い影を投げかけていたのである。いつも変らずに仕事をリードして行く情熱、同輩や部下にたいする配慮、活力にあふれた彼の存在だけで、まわりの者のうける刺戟――四か月もたたないうちに、彼のはげしいいらだちは、こういった彼の特徴を、四十男のもつ、気むずかしいペシミズムに変えてしまっていた。彼は取り引きに従事するたびに、重荷を負って働いているようだった。
「一度出かけたら、二度ともどってきませんよ」彼はいった。
彼が旅立つ三日前、ポーラ・レジェンドル・ハガティは、出産が原因で、死亡した。その頃、私は、しょっちゅう彼といっしょにいた。私たちは、いっしょに海を渡っていたからだった。しかし、私たちの友だちとしてのつきあいの中で、彼ははじめて、自分の気持ちといったものを口に出していわなかったし、ごく小さな感情の波立ちさえも、私に感じとらせはしなかった。彼の主な関心は、彼が三十になったということだけだった――話題にしても、そのことを思わせる方向にもって行き、そのあとは、何もいわなくなってしまうのだった。まるで、その話題さえ提出しておけば、それだけで、思考のほうは、自然にどんどん展開していくと思いこんでいるとでもいうように。彼の同僚たちと同じように、私も彼に起った変化に、すっかり驚いてしまった。そんなわけで、「パリ号」が、彼自身の支配していた王国をあとにして、二つの世界の間にひろがっている海面に向かって、出帆して行った時、私は、ほんとうによかったと思った。
「一杯やらないか?」彼は、いい出した。
私たちは、出帆の日にふさわしい、例の挑戦するような気分で、バーの中に入って行くと、マルチニを四杯注文した。一杯飲むと、彼には、変化があらわれてきた――彼は突然手をのばすと、ここ数か月見せたことのない快活さで、私の膝をたたいた。
「赤いタモシャンター〔スコットランド人のかぶる、ベレー帽のような形の帽子〕をかぶった女の子を見たかい?」彼はたずねた。「赤ら顔の男が、二匹の警察犬をつれて、見送りにきていたが」
「美人だったな」私も、同意した。
「パーサーの事務室で調べてみたら、ひとりで乗っていることがわかった。もうちょっとしたら、スチュワードにあってくるつもりだ。今夜、彼女といっしょに食事をすることにしよう」
しばらくして、彼はひとりで出て行ったが、一時間もしないうちに、例の力強い澄んだ声で、彼女に話しかけながら、彼女とデッキを行きつもどりつしていた。彼女のかぶっている、赤いタモシャンターは、スティールグリーンの海を背景にして、あざやかな色の一点をかたち作っていた。時々彼女は、ひょいとすばやく頭をあげては、彼を見上げた。そして楽しそうに、興味と期待のこもった微笑を、彼に向かって投げかけた。夕食の時、私たちは、シャンペンをあけて、この上なく楽しい時間をすごした――そのあとでアンソンは、周囲の人々まで引きこむような陽気さで、玉突きをやった。私が彼といっしょにいるのを見ていた数人の人々は、彼の名前を私にたずねた。私がベッドに入ろうとした時、彼とその女の子は、バーのラウンジで、笑いながら話をしていた。
私はこの航海で、期待していたほど彼と顔をあわせる機会にめぐまれなかった。彼は、フォアサムの人数をそろえようとしたがっていたが、どうしても人数がうまくそろわなかった。そんなわけで、私が彼と顔をあわせるのは、食事の時だけだった。もっとも時々、彼はバーで、カクテルを飲み、赤いタモシャンターをかぶった女の子のことや、彼女との冒険の話を、彼のいつものやり方で、一風変った、面白い話に作りあげてみせた。そんなわけで、彼がふたたびいつもの彼に、あるいは少なくとも、私のよく知っている彼に、くつろいだ親しみを感じさせる彼にもどったことを知って、私は喜んだ。だれかが彼を愛するようになり、磁石にひきつけられるやすりくずのように、彼にたいして反応を示し、彼の心を打ち明ける力になってやり、彼に何かを約束するようにならないかぎり、彼は、決して幸福にはなれないだろう。それが何であるかは、私にもわからない。彼が、その心の中にもっている、あの他人よりもすぐれているという考えを、育てたり護ったりしてやるために、この上もなくかがやかしい、新鮮で、すばらしい時間を、彼のためについやしてくれる女性が、いつもこの人生にはいるのだと、たぶん、人々は約束したのかも知れない。(完)
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解説……フィッツジェラルドの短篇
「雨の朝パリに死す」
一九三〇年四月、ゼルダはパリで発病し、スイスのヴァルモン病院で、フォレル博士から、精神障害の診断をうけた。一九二〇年にはじまった彼らの結婚生活は、ここで崩壊の第一歩をふみ出したのである。彼は、不治の病にかかった妻をかかえ、暗澹《あんたん》とした思いにおそわれたにちがいない。
「雨の朝パリに死す」(Babylon Revisited)は、この年の十二月に書かれ、翌一九三一年の二月二一日の「サタディ・イヴニング・ポスト」に掲載され、後に一九三五年、短篇集「起床ラッパのひびき」に収められた。
この作品は、彼の短篇の中では、もっともすぐれたものの一つに数えられている。彼の小説にはめずらしく、主題がはっきりしていて、一貫性をそなえている。
ゼルダは精神障害になり、もはや通常の結婚生活は終りを告げていた。あとにのこっていたのは、まだ十歳になるかならぬかの、スコッティだけだった。三十代のなかばにさしかかっていた彼の前にあったのは、青春の夢とかがやきを失った、救いのない、荒涼たる不毛の風景だった。
この作品の中で、あざやかに描かれているのは、娘のオノリアと主人公のわびしいため息である。
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九つになった、かわいい女の子が、甲高い声で「お父ちゃま!」と叫んで、走りよってくると、魚のようにもがきながら、彼の腕の中にとびこんできた。彼女は、彼の片ほうの耳をひっぱって、顔を横のほうに向けると、その頬《ほお》を彼女の頬に押しつけた。
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次に出てくる、三十五歳の父親と九つになる娘の会話は、あざやかに生き生きと、二人の姿を描き出している。
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「ひとつお近づきになりたいのです」彼は、重々しい口調でいった。「まず、私のほうから、自己紹介をいたしましょう。私は、プラハのチャールズ・J・ウェイルズと申します」
「まあ、お父ちゃま!」彼女は、甲高い声をあげて笑った。
「ところで、どうか、お名前をお教えいただけないでしょうか?」彼は、さらに質問をつづけた。すると彼女はすぐ、自分の役割を引きうけた。「パリ、パラティーヌ通りの、オノリア・ウェイルズと申します」
「奥さまですか、それとも、お独りですか?」
「いいえ、まだ結婚しておりません。独身です」
彼は、人形のほうを指さして、いった。「しかし、奥さま、お子さまがいらっしゃるじゃありませんか」
彼女は、その人形を手放すのが惜しくてたまらなくなり、自分の胸に抱きしめると、すばやく考えをめぐらした。「はい、結婚したことはございますが、今は、独りでございます。主人が亡くなりましたので」
彼は、すぐさま言葉をつづけた。「それで、お子さまのお名前は?」
「シモーヌと申します。学校でいちばん仲のいいお友だちの名前にしたの」
「ねえ、おまえ、ママのことを思い出すことはあるかい?」
「ええ、時々ね」彼女は、あいまいに答えた。
「ママのことを忘れてもらいたくないんだ。ママの写真は、もっているかい?」
「ええ、もってると思うわ。ともかく、マリオン伯母さまはもってるわ。だけど、どうして、ママのことを忘れてもらいたくない、なんていうの?」
「おまえは、ほんとうに幸福じゃないのか?」
「幸福よ。だけど、私、だれよりもいちばん、パパのことを愛しているの。それに、ママはもう亡くなったんだから、パパだって、私のことをいちばん愛してるんでしょ?」
「もちろん、そのとおりだ。だけど、いつまでも、パパがいちばん好きというわけにもいくまい。おまえが大きくなって、同じ年頃の青年に出逢って、結婚でもするようになれば、パパのいたことなんか忘れてしまうさ」
「そうね、パパのいうとおりだわ」彼女は、静かな口調で同意した。
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この作品の中で、読む人の心に強く訴えるのは、暗澹とした将来にたいする、主人公のため息であろう。
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私は自分で、この都会を台なしにしてしまった。私は、そのことに気がつかなかった。しかし日々は、一日一日とすぎ去って、二年の年月がすぎてしまった。そして、いっさいのものはすぎ去ってしまい、私自身もまた、すぎ去ってしまったのだ。
その時、彼は突然、「消散する」という言葉のほんとうの意味をさとった――希薄な空気の中に、影も形もなくなってしまうことなのだ。有から無を作り出すことなのだ。
彼は、いつかまたもどってくるだろう。リンカーン夫婦にしても、いつまでも、彼に償いばかりさせているわけにもいくまい。しかし彼は、ともかくも子供がほしかった。そして今、それ以外に、すばらしいことは、何一つないように思われた。今ではもう、自分ひとりだけで、いろいろな楽しい思いや夢を、心に抱いていられるような、そんな若い青年ではない。ヘレンにしても、彼がこんなふうにひとりぽっちでいるのを、望んでいるはずはない。彼は、そんな強い確信を抱くのだった。
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私は、彼の中の異常なものは、故意にできるだけ避けるようにしてきた。異常なものは、常に無意味であり、ノーマルなものだけが、追求するに価するからである。
しかしこの作品の中で、明け方近く、主人公が、そっと忍びよってくる柔らかな白い光に包まれて、半ばまどろみながら、夢とも幻ともつかないものの中で、今は亡き妻と話をかわす箇所は、いいようもなく美しいと思う。彼女は、白いドレスを着て、ブランコにのっていたのだが、そのゆれ方がだんだんに速くなり、最後には、彼女のいっていることが、全部はっきりとはききとれなくなってしまう。このイメージは、ノーマルで美しく、誰の心にも、忘れがたい、印象をきざみつけないわけにはいかない。
一九四〇年、彼は、この作品の映画化権を一千ドルで売り、さらにそのシナリオを書く仕事で、四千ドルをうけとったが、その時は、ついに映画化されなかった。
後に一九五四年になって、The Last Time I Saw Paris というタイトルで映画化されたが、内容は、原作とはかなりちがったものであった。原作のタイトルは Babylon Revisited であるが、映画化されたタイトル The Last Time I saw Paris にくらべると、都会的な洗練味に欠け、通俗的な感じをもっていることは、否みがたい事実であろう。
彼が、ハリウッドで脚本家として成功しなかったのは、彼のもっていた病的な好みと、通俗的な趣味が、最大の原因であったと思われる。彼の書いた台本の中には、天使などが安易に出てくるところがあるが、これなどは型にはまった古くさい通俗趣味だということができよう。また、彼の小説には、月というものがしばしば通俗的な扱い方で出てくるが、通俗的なハリウッドといえども、彼よりははるかに洗練されていて、このような通俗趣味には辟易《へきえき》せざるを得なかったにちがいない。
彼は、自分の作品が売れ、多くの読者をもつことを常に望んでいたが、なぜ自分の作品が多くの読者をひきつけることができなかったかという原因については、少しも反省するところがなかったように思われる。
彼は、ハリウッドでの晩年、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」の台本の仕事に従事したが、この小説がなぜベストセラーになったかということにたいする認識は、全く欠けていたように思われる。読者の心をひきつけるのは、常に普遍的な人間の姿に他ならないこと、ミッチェルの小説の中に描かれていたのが、永遠に変らぬ、男と女の愛の姿であったことに、彼は充分気がついていたのであろうか。もしそういった小説創作の基本原理に、彼が気がついていたとしたら、小説が売れず、あれほど苦労するということはなかったであろう。
なお、この作品を書いた彼の、暗澹とした心の状態は、ゼルダの精神障害を扱った「夜はやさし」につながり、さらに、彼のもっとも暗い時代だった「ザ・クラック・アップ」の時代へとつづいていくのである。
「冬の夢」と「華麗なるギャツビー」
一九一五年一月四日、セント・ポールに帰省していたスコットは、セント・ポール・タウン・アンド・カントリー・クラブのディナーパーティで、ジネヴラ・キングという十六歳の美しい少女に出逢った。
彼女は、シカゴの金持ちの娘で、コネチカットにある、ウェストオーヴァ寄宿学校に通っていた。彼は彼女の中に、彼の夢見ていた理想の女性を見出したのだった。彼女は、黒い髪の毛と大きな愛くるしい眼をした少女だったが、彼女は、彼自身その一員となることを切に望んでいた、上流階級の育ちのよさと、鷹揚《おうよう》さと、落着きを身に備えていた。彼が特に理想としていたのは、生れつきの金持ちだった。彼らのもっている優雅さ、育ちのよさ、余裕、そういったものが、彼の心を限りなくひきつけたのである。
彼女の姿は、まばゆいかがやきを伴って、彼の心に深く刻みつけられ、彼女のことを容易に忘れることができなかった。彼は彼女からきた手紙を、死ぬ日まで、一つのこらず保存していたといわれている。彼らの文通は、最初に逢った次の日からはじまった。スコットの手紙は、情熱的で、彼女を独占したいという気持ちにあふれていた。ジネヴラのほうも、情熱的ではあったが、数多いボーイフレンドの中で、彼だけがたった一人の恋人だという確信はなかった。彼女が、彼に好意をもっていることを強調したにもかかわらず、彼の手紙には、他のボーイフレンドにたいする嫉妬《しっと》があらわれていた。彼には、彼女との愛を成功させる確信がなかったのである。
やがて、彼らの恋は終りを告げ、彼は彼女との恋を断念しなければならなかった。
彼は、この失恋の原因を、自分自身に富と社会的地位が欠けているためだと、考えた。彼はやがて、「貧乏な青年は、金持ちの女の子と結婚することを考えるべきではない」と書きつけるようになる。
しかし、彼と彼女の恋が実らなかったのは、二人の心の結びつきに何か欠けているものがあったためにちがいない。
小説とは、いったい何であろうか。少なくともそれは、幸福で充ちたりた生活からは生まれないように思われる。それは、何らかの飢渇の中からしか生まれないといってよい。
彼は、「バイエリアンの泉と最後のワラ」という短篇の中で、一人の作家が、恋が成就してしまったために、作品を書く欲望を失ってしまったことを書いている。
「冬の夢」(Winter Dreams) は、一九二二年に書かれているが、この小説は、いわば「華麗なるギャツビー」の前奏曲といってもいいものだった。なぜなら、「冬の夢」も「華麗なるギャツビー」も、主としてジネヴラ・キングにたいする恋情と憧憬を描いたものだからである。
「冬の夢」は、ジュディ・ジョーンズという、美しい魅力的な少女との恋の物語である。この小説には、たしかに深い影と雰囲気がある。しかし、愛そのものについては、あまり深くふれていない。
ジネヴラ・キングは、彼にとって、一つのかがやきであった。そして、その姿と、彼女にたいする憧憬を、作品の上に形づくりたいという気持ちは強かったものの、それはまだ充分に熟してはいなかったのである。また、結婚して三年目という彼の環境も、切迫したものに欠けていたといっていい。
やはり、すぐれた小説というものは、はげしい危機感なしに成立するものではない。平穏で平和な生活の中から、それは容易に生まれ出ないのである。
そして、ジネヴラにたいする、切迫した恋情と憧憬が、結晶するには、「華麗なるギャツビー」まで待たないわけにはいかなかったのだ。
しかし、「冬の夢」のジュデイ・ジョーンズ、実際には、ジネヴラ・キングの若さと美貌の喪失については、彼の単なる空想にすぎなかった。
後年、ハリウッドで、シーラ・グレアムに逢った数か月あと、スコットには、ジネヴラにあう機会が訪れた。かつて十六歳の時、彼の心をうばった彼女も、シカゴの大金持ちと結婚して、すでに三十八歳になっていた。彼女は彼に手紙を出して、ロサンゼルスとサンタ・バーバラに行く予定だが、その時にあいたいといってきた。
しかし彼は、そのさそいには乗り気になれなかった。美貌のおとろえた彼女を見るのを、彼は恐れていたのである。
だが、現実のジネヴラは、彼の夢に幻滅をあたえなかった。彼女は三十八歳になっていたが、依然として、その美貌はおとろえていなかったからである。
いずれにしても、「冬の夢」と「華麗なるギャツビー」は、同じように女性への憧憬を描きながら、全く別種の小説を形づくっている。「冬の夢」には、むしろ退廃的な柔弱さがあるのにひきかえ、「華麗なるギャツビー」は、切迫した力強さをもっている。その点を考えると、作品とはやはり、作者の生活の緊迫の度合いを、正確に反映すると考えざるを得ない。
恋愛とか結婚とかがうまくいったとしても、作家の場合は、それがかならずしもよい結果を生むとはかぎらない。むしろ、うまく行ったとすれば、もはや小説を書く必要は消滅するであろう。なぜなら、心の傷のあるところにしか、小説というものは存在しないからである。
世の中に破滅型作家というものは存在しない。なぜなら、作家というものは、常に破滅というものと背中合わせに生きている、危険な職業だからである。破滅の危険なしに、作家という職業は、成立し得ないであろう。
彼の生涯をふり返ってみても、彼の主要な作品が書かれたのは、ほとんど例外なく、彼の生涯の危機においてであった。
「楽園のこちら側」が書かれたのは、彼がゼルダに結婚を申し込み、それがうけいれられなかったばかりでなく、婚約まで解消された時であった。
また、「華麗なるギャツビー」が生まれたのは、ゼルダがフランスの空軍将校、エドワール・ジョーザンと恋におちいり、彼の結婚生活の危機に直面した時だった。
また、「ラスト・タイクーン」を書いたのも、シーラ・グレアムとの恋のさなかではあったが、健康は極端にそこなわれ、経済的苦境におちいっていた時であった。
「金持ちの青年」
「金持ちの青年」(The Rich Boy)は、一九二五年に書かれ、翌一九二六年、「レッドブック」の一月号と二月号に掲載された。そして「冬の夢」と共に、一九二六年二月、短篇集「すべて哀しき青年たち」に収められた。
これは「華麗なるギャツビー」が出版されたあとに書かれたものだが、明らかにその余韻《よいん》といったものが感じられる。叙述は淡々としていて、平明であるが、短篇としては、盛り上りに欠けるうらみがある。しかし彼の短篇の中では、通俗的要素が比較的少なく、おちついた感じをあたえている。
これは、金持ちの青年、アンソン・ハンターの孤独な愛の物語である。
彼は証券会社につとめているエリート社員であるが、何か孤独な雰囲気をただよわせている。彼は、ポーラ・レジェンドルという少女に出逢って、恋におちる。それは決して、はげしい恋ということはできなかったが、彼は、ポーラの暖くて安全な生活の中に入って行くことができたら、自分も幸福になれるかも知れない、と感じる。
彼と彼女の恋は、三年間つづいたが、これといったはげしいクライマックスはやってこなかった。彼は婚約こそしたものの、なかなか結婚にはふみきれなかった。その頃は彼女に、ローエル・セェアという恋人ができた、という噂《うわさ》を耳にした。彼女が彼を愛しているという確信こそあったが、結局彼女を失ってしまうのではないかと思うと、彼は不安な気持ちにかられるのだった。
彼は、何か月かの間彼女にあわなかったが、その噂が大きくなるにつれて、彼女に逢いたくてたまらなくなり、休暇をとって、フロリダに出かけた。ローエル・セェアもいっしょにいたが、アンソンは彼女と再会した。アンソンと彼女は、何かはげしい情熱のようなものにかられて、手をとりあったまま、月光に照らされた浜辺に出た。彼らは、物影に身をよせあうと、何もかも忘れて、はげしく抱きあった。
「ポーラ……ポーラ!」
彼女を呼ぶ彼の声は、二つの手のように、彼女の心をしめつけた。彼は今こそ、彼女を自分に結びつけるチャンスであると考えたが、次の瞬間、やはり待ったほうがいいのではないか、という気持ちにとらわれた。
愛の機会とは、はかなく一瞬のうちに消え去ってしまうものである。彼女の愛は、この夜のうちに永遠に消え去ってしまい、もはやふたたびよみがえることはなかったのだ。
やがて四月の末になって、突然彼女から、ローエル・セェアと婚約し、すぐボストンで結婚式をあげるという電報をうけとった。現実には起らないだろうと思っていたことが、結局現実になってしまったのである。このことによって、彼のうけた心の傷は、深くしかも大きかった。
彼はやがて、ドリー・カーガーという少女と恋におちたが、この恋にも、彼は積極的にふるまうことができず、やがて彼女も、他の男と結婚してしまう。
彼が三十の誕生日を迎える数週間前、昔から親しかった友人たちの中で、最後まで結婚しなかった男が、とうとう結婚した。彼は新郎新婦を送り出した後、いいようのない孤独におそわれた。その時彼は、プラザ・ホテルの回転ドアのところで、偶然ポーラと再会した。彼女は、ローエル・セェアとは別れ、二度目の結婚をしていて、三人の子供の母親になり、今も妊娠しているところだった。
彼女は彼との再会を喜び、彼の手をとったが、その屈託のないジェスチャーの中に、彼は、彼の思い出がもはや彼女にとっては、何の苦しみもあたえていないことに気がついた。しかし彼にとっては、そんなわけにはいかなかった。彼は、あの昔と同じ苦しい気持ちが、またよみがえってくるのを、おぼえないわけにはいかなかったのである。
その年の夏、アンソンは、外国に旅行することになった。彼は、旅立つ三日前、ポーラが出産のために死亡したことを知った。
しかしその旅行の船の中で、彼はタモシャンターをかぶった一人の少女と出逢い、二人の交際は、順調に進行しているように思われた。
ここでこの物語は終っている。アンソンの恋は、抑制された淡々とした口調で語られているが、そこには、一種のむなしさがただよっている。そしてそれが、この小説の魅力をかたちづくっているといってよい。
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訳者あとがき
雑誌「モア」一九七八年十二月号の、五木寛之氏との対談の中で、フランソワーズ・サガンは、ヘミングウェーよりも、むしろほんとうはフイッツジェラルドのほうが好きだと語っています。
事実、彼女の作品、「心の青あざ」「熱い恋」「愛と同じくらい孤独」等には、フイッツジェラルドの名前が、随所に姿をあらわしています。
フイッツジェラルドのどこに、彼女の心はひきつけられたのでしょうか。
悲しみを湛えた華麗さ、グレーのセーターのような、メランコリックな優しさ、ワイン色のアンニュイ。
しかし彼女は、スコットについて、あまり多くを語ろうとしてはいないようです。
あるいは、スコットは、彼女にとって、一つの秘密であるのかも知れません。
サガンの心をひきつけたと同じように、フイッツジェラルドの作品の中には、現代の女性の心をひきつける、何ものかがひそんでいるのかも知れません。
私は、この短篇集の中に、彼の代表的な三つの作品を収めました。それらの中には、常に深い影と、悲しげな美しさがただよっていて、不思議な魅力で人の心に訴えかけてくるようです。
〔訳者略歴〕
守屋陽一(もりやよういち) 英米文学者。一九三〇年生まれ。慶大英文科卒。おもな訳書:ヘミングウェー「日はまた昇る」、フイッツジェラルド「華麗なるギャツビー」、ゴールズワージー「林檎の木・小春日和」、モーム「人間の絆」など。