TITLE : 華麗なるギャツビー
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第一章
今より若く心が傷つきやすい若者だった時に、父が忠告してくれたことを、その後ずっと繰りかえし考えつづけてきた。
「ひとのことをとやかく、批評したくなっても」と、父は言った。「ひとなみすぐれた強みをもっている人なんて、めったにいないんだってことを、忘れるんじゃないよ」
父はそれ以上語らなかったが、父も僕も口数がすくないわりに、いつでもおたがいの意志が、通じすぎるくらいよく通じたから、父の言ってることには、もっと深い意味があるんだろうと思った。そのため万事につけ、批評したり判断したりしないようになった。これが習慣になったお蔭《かげ》で、珍しい性格のひとにずいぶんお目にかかったし、幾人もの海千山千の鼻つまみ者からひどい目にあわされもした。僕みたいに当りまえの人間にもこんな性格があるとわかると、ひとと変った心の持ち主はすぐに嗅《か》ぎつけて、つき纏《まと》ってくる。だから大学で、あいつは策略家だ、と僕は不当にも非難されるはめになったのだが、それは誰も問題にしないような手に負えない男たちが、悲しみをこっそり話すのを黙って聞いてやったからだ。だが、ひとの信頼をえようなぞとは、ちっとも望まなかった――親しげに打ち明けられようとする秘密が、どう見ても見損いようのない徴候を示しながら、向うの地平線上にチラチラしているのがわかると、僕はよく、眠っているふりをしたり、ほかのことに気を取られているふうを装ったり、意地悪く軽薄なふるまいをしたりする。なぜかといえば、青年が親しげに打ち明ける秘密なんてものは、いや、それでなくても、打ち明けるときに使う言葉遣いなんてものは、たいていどこからか盗んできたもので、抑えつけられ、歪《ゆが》められて、ほんものでないことがはっきりしているからだ。判断をさし控えることは、無限に希望を抱くことである。父が気取って婉《えん》曲《きよく》に言ったこと、僕も気取って繰りかえし口にしたことは、しん底からにじみでる、といった感じの礼儀作法というものは、生れつきひとによって、まちまちに授けられたもので、誰でも同じわけにはいかないということだった。うっかりそのことを忘れると、何だか箍《たが》がはずれたように、いまでもちょっと気がかりになるくらいだ。
で、こうした寛大なやりかたを自慢したけれども、寛大にもほどがあるくらいのことは、僕だって認めないわけにはいかない。行為といっても、土台に堅い岩が敷いてある、といったのもあるだろうし、土台は湿めった沼地だ、といったのもあるだろう。だがある点を越えれば、土台が何だろうとそんなことはどうだっていいことだ。昨年の秋、東部から帰ってきたとき、僕は世間のひとがみんな同じ軍服を着ていて、いわば道徳という点では不動の姿勢を永久にしていてくれたらいいのになあ、と思った。さも特権があると言わないばかりに、人間の心のなかをチラチラ覗《のぞ》いたりする、騒々しい旅はもうたくさんだった。ただこの本の題名になっているギャツビー――僕が心から軽《けい》蔑《べつ》していたものを、一から十まで身につけていた男だが、そのギャツビーだけは例外で、僕は強く惹《ひ》きつけられた。もしうまく成功した挙動の連続が人格だといえるなら、彼の身辺には何かしら豪華なものが漂《ただよ》い、人生の途上に横たわった見込みのありそうなものには敏感に反応を示し、まるで一万マイル遠方の地震を記録する、あの複雑な器械に繋《つな》がっているみたいだった。《創造的気質》という、もったいぶった名前をつけられている、しまりのない感じやすさとは何の関係もない敏感さだ――いってみれば、あくまで希望を抱いてやまない、異常な才能だ。それはロマンチックな心構えがいちはやくできていることであって、僕の見る限り、どんなひとにも断じて見られなかったようなものだし、また二度とふたたび見られそうもないものだ。いや――結局、ギャツビーはあれでよかったのだ。中途半端に立ち消えた悲しみや、みんなが息を切らして、得意になっているさなか、僕が一時興味を失ったというのも、ギャツビーを喰《く》いものにしたものに嫌気がさしたからだ。彼が抱いていた夢の航跡に、汚い埃《ちり》が舞い上がったからなのだ。
僕の家は、三代にわたって、この中西部の都市で広く知れ渡った裕福な家だった。キャラウェイの家は、ちょっとした一族で、バクルー公爵の後《こう》裔《えい》だと伝えられているが、実際にわが一門を礎《きず》いたのは、祖父の兄だった。彼は五一年にここへ来て、南北戦争には身代り兵を送り、金物の卸《おろし》商《しよう》を始めた。いまは父が営んでいる。
この大《おお》伯《お》父《じ》に逢《あ》ったことはないのだが、僕は彼に似ているそうだ――何となく強情だなという感じのする、父の事務室に懸《かか》っている肖像画にそっくりだという。ちょうど四分の一世紀父に遅れて、僕は一九一五年にニューヘイヴン《*》を卒業した。まもなく有名な世界大戦という、チュートン民族ののろのろした移動に参加した。侵略のやりとりがとてつもなく面白かったので、帰還してからも落ちつかない。中西部は活気づいた世界の中心ではなくて、宇宙の果てに垂れさがったぼろぼろの縁《へり》のようなものだ――そこで、東部へ行って債券の勉強をすることにした。僕の知っているひとは誰でも債券の仕事をしていたから、この仕事だったら独身者をもうひとりくらい雇ってくれるだろうと想像したのである。伯《お》母《ば》や叔《お》父《じ》たちは揃《そろ》って、まるで僕のために予備高を選んでくれるような調子で相談していたが、とうとう最後に、まじめくさったためらうような顔つきで、「まあまあ――いいでしょうね」と言った。父は一年間仕送りしてくれることを承知した。いろんなことで手間どったが、二二年の春、僕は永住するつもりで、東部へやってきた。
実際問題として、市内に部屋を探さなければならなかったが、暖かい季節だったし、田舎《いなか》から出てきたばかりで、広々した芝生や、生い茂った樹々がなつかしかったので、事務にいる青年が、定期で通勤できる町にいっしょに家をもたないかと言いだしたときには、そいつはすばらしいぞと思った。彼は家賃八十ドルの、雨風に晒《さら》されて古くなっている、板紙造りのバンガロー風の家を見つけた。ところがいよいよというときになって、彼がワシントンに転勤になったので、僕は独りでその田舎へ出かけて行った。犬を飼った――といったところで、二、三日飼っていたら、逃げてしまったのだが――それからダッジの中古を購《あがな》い、フィンランド人の女を雇った。彼女がベッドをつくってくれたり、朝の食事を拵《こしら》えてくれた。電気ストーヴの上にかがみこんではフィンランドの格言を呟《つぶや》いている。
一日二日は淋《さび》しかったが、ある朝、路で僕よりもあとからここへ移ってきた男に呼びとめられた。
「ウエスト・エッグ村へはどう行くんです?」彼は困ったようにたずねた。
僕は話してやった。だから歩きながら、もう淋しくなかった。おれは道案内人なんだ。未開路開拓者さ、いや、もとからの定住者だったんだ。あの男は、はからずも、隣り同士は遠慮なくつきあっていいってことを教えてくれたんだ。
だから、日光を仰いだり、樹々の葉が高速映画で大きくなるように、いっせいにさあっと大きくなるのを見ては、生が夏とともにふたたび始まったという、あのなつかしい確信が湧《わ》いたのだ。
いっぽう読むものがたくさんあったし、またいたって健康で、愉《たの》しめるものがたくさんあった。銀行経営や信用、投資証券などの本を十二冊ばかり買った。赤や金色の本は、造幣局からできてきたばかりの新しい紙幣のように、本棚に並んでいた。マイダス《*》やモルガン《*》、ミーシーナス《*》だけしか知らないすばらしい秘《ひ》訣《けつ》を、そこに並んでる本がやがて解きあかしてくれるはずだった。そればかりではない、ほかの本をうんと読もうという、いとも高遠な理想をもっていた。僕は大学では少しは筆がたち――まる一年「エール・ニュース」に、まじめくさった、しかもわかりやすい論説を書きつづけた――いままた、そうしたことを生活のなかに持ちこんで、専門家のなかでもごく限られたひと、「優雅で均斉のとれた文筆をものするひと」に、もう一遍なってみたかった。といっても、ありきたりの警句を吐いたわけじゃない――ようするに、人生はただひとつの窓から眺めると、いとも容易に成功しそうにみえるものなのだ。
こともあろうに、とある北米で、最も風変りな社会に家を借りてしまったわけだが、それも偶然にそうなったのだ。その家はニューヨークの真東に延びている、あの細っそりした騒々しい島ロングアイランドにあった――しかもそこには、珍しい天然現象のなかでもとりわけ珍しいふたつの地層がある。ニューヨークから二十マイルのところに、同じような輪郭をもった、一《いつ》対《つい》の大きな卵形の地型が、湾ともいえない狭い湾に、申しわけに隔てられているだけで、西半球でいちばん開かれた塩水域、つまりロングアイランド海峡という大きな濡《ぬ》れた納《な》屋《や》の前庭に転がされたように突きでている。コロンブスの物語りにでてくる卵のように――完全な卵形ではなくて、どちらも接触している端のところで、平べったく押しつぶされている――で、このふたつの自然のつくり具合が、あんまりよく似ているので、空飛ぶかもめたちはしょっちゅう驚嘆していることだろう。ところが、形と大きさ以外では、どこから見てもまるで似ていないという点こそ、空駈《か》ける翼をもたない地上のわれわれにとって、いっそう興味のある現象なのだ。
僕はウエスト・エッグに住んでいた。その――そう、ウエスト・エッグは、ふたつのうちではファッショナブルでないほうだった。もっとも、こういう言いかたは、両者の一風変った、少からず不吉な対照を言いあらわすタッグとしては、いちばん皮相なタッグではあるのだが。で、僕の家は海峡から五十ヤードしか離れていない卵のちょうど天辺のところにあり、しかも一シーズン、一万二千ドルか一万五千ドルで貸す、ふたつの宏大な屋敷の間に押しこめられていた。右手にあるのは、どの標準から見ても巨大なものだった――ノルマンディのさる市庁《オテル・ド・ヴイル》をそっくり模倣したもので、片側には伸びるがままの薄い鬚《ひげ》のような蔦《つた》に覆われて、とびきり新しい塔があり、大理石の水泳プールや、四十エーカー以上の広い芝生や庭園があった。ギャツビーの邸宅だった。いや僕はミスタ・ギャツビーを知らなかったから、そういう名の紳《しん》士《し》が住んでいる邸宅、というべきだろう。僕のいる家といえば、目《め》障《ざわ》りだったが、小さかったから見落されていた。だから海も眺められたし、わが隣人の芝生の一部も見ることができたし、百万長者に近いという慰めもえられたわけだ――しかもこれが月八十ドルでできることなのだ。
湾ともいえない狭い湾の向うには、ファッショナブルなイースト・エッグの白《はく》亜《あ》の館《やかた》が、いくつも海際にきらきらかがやいていた。僕がそこへ自動車を駆って、トム・ビュキャナン夫婦と晩《ばん》餐《さん》をともにした夜から、じつはその夏の出来ごとは始まるのだ。デイジーは僕とはまたいとこの子だったし、トムは大学時代の級友だった。戦争直後、シカゴで二日間彼らといっしょに暮したこともある。
彼女の夫はいろんな運動競技をやったが、特にニューヘイヴンのフットボールの選手としては、これまでのところいちばん強いエンドだった――ある意味では国民的英雄ともいえる。二十一歳の若さで、凄《すご》く狭い門を通って優秀な地位にのし上がってしまったので、その後のことは何ごとも、とかく竜頭蛇尾に終ってしまうという、そうしたタイプの男だった。家はたいした金持ちだった――学生時代にも、湯水のように金を使うので非難されたほどだ――シカゴを去って東部へ移ってきたわけだが、その来かたがまた、あっといわせるものだった。たとえばポーローをする小馬《ポニー》を幾頭か、レイク・フォーレスト《*》から連れてきていた。僕と同じ年代の男でそんなことができるほど金持ちだなんて、とうてい理解できないことだ。
彼らはなぜ東部へきたのだろう。これという特別の理由もなく、フランスのいたるところでで一年暮した。その後金持ちが集って、ポーローをやっているところなら、手当り次第そそくさと渡り歩いた。今度の移転でもう一生動かないわ、とデイジーが電話で言ったが、信じられない――デイジーの心の中までは見透せなかったけれども、トムは、敗北の色こいゲームをひっくり返せない試合に漂う、劇的な興奮を、いささかもの思いに沈みながら、永遠に求めてさまよいつづけるのだろう。
だからふと、そよ風の立ったある暖かい夕べ、イースト・エッグに車を駆って、古馴《な》染《じみ》を訪ねたわけだが、そのふたりのことが僕にはまるでわかっていなかったといっていい。家は思ったより凝《こ》ったもので、派手に紅白に塗った、ジョージ王朝《*》植民時代風の邸宅が、湾を見おろして聳《そび》えていた。芝生は渚《なぎさ》から始まって、玄関まで四分の一マイルばかりつづいていた。芝生はその途中、日時計や、煉《れん》瓦《が》を敷きつめた道や、陽《ひ》に燃えた庭園を跳び越えて――最後に家のところまでくると、勢い余って、美しく色づいた蔦《つた》となって、吹き寄せられたように壁に纏《まと》いついていた。家の表側にはいくつもフランス窓が並んでいた。午後の暑い風が吹いているそとに向っていっぱいに開かれた窓は、そのとき金色に光っていた。表の玄関先に乗馬服姿のトム・ビュキャナンが、両脚を開いたまま突っ立っていた。
彼はニューヘイヴン時代とは変っていた。髪も麦《むぎ》稈《わら》色《いろ》になって、いまは逞《たくま》しい三十男だ。心もち口を堅く結んで、つんと澄ましこんでいた。きらきら光る傲《ごう》慢《まん》な眼が、顔のなかにでんと据《す》わっていたから、一見してしょっちゅう前へ、前へと貪《むさ》ぼるように乗りだしているとうけとれる。いくらにやけたハイカラな乗馬服を着ていても、もの凄《すご》い力をもった躯《からだ》を隠しきれるものではなかった――ぴかぴか光った長靴が脹《ふく》らんでいて、いちばん上の紐《ひも》がピンと突っ張っていたようだ。薄い上着の下の肩が動くと、もり上がった筋肉が動くのがわかった。てこのようなもの凄い力を発揮できる躯――なさけ容赦のない、といった躯だ。
話すときの声は、突けんどんな嗄《しやが》れたテノールで、聞いていると気むずかし屋だという印象がいっそうぴったりした。気にいったひとに向ってちょっぴり親爺が物を言う時のような軽《けい》蔑《べつ》した調子で、話しかける――だからニューヘイヴンでは、そうした彼のずうずうしい度胸のよさを憎んだ者が多かった。
「ところで、おれが君よりも強くって、ずっと男らしいからといって」こう彼が語っているように思われた。「おれがいろんな問題に意見を吐いたって、そいつが最終的な意見だなんて、思わないでくれよ」彼と僕は、四年生の同じクラブにいたが、一度だって親しくつきあったことはない。それでも僕の存在は認めていたようだ。おれはおれらしく、厳として反抗的な態度を変えるわけにはいかない、それでもだ、何とかお前には好きになってもらいたいんだ、そう思っていたらしいという印象を、僕はいつも受けたものだった。
僕たちは陽《ひ》の当ったポーチで二、三分話した。
「ここはいい場所だぜ」そわそわしながら、眼をぎらつかせて、彼は言った。
片腕を取って、僕の躯をぐるりと廻《まわ》すと、幅のひろい平べったい手を動かして、彼は表の見通しを宙になぞった。手が描いたその弧のなかには、イタリア式の沈床園、半エーカーばかり植え揃《そろ》えた、色の濃い刺《とが》った薔《ば》薇《ら》、沖で潮を噛《か》んでいる獅《し》子《し》鼻のモーターボートなどが含まれていた。
「ここは石油をやっているドメーンのものだったんだよ」やさしく、ふいに、僕の躯をまたぐるりと廻した。「なかへ入ろう」
天《てん》井《じよう》の高い玄関を通って行くと、明るい薔薇色の控えの間があって、その両端は、きゃしゃなフランス窓に囲まれていた。窓は少しばかり開けてあって、そとのみずみずしい芝生に、白い光をキラッキラッと投げている。芝生は伸びて、少しばかり家のなかまでのしてきている感じだった。部屋を吹き抜けるそよ風に吹かれて、カーテンは、白く褪《あ》せた旗々のように、片端はなかに、片端はそとに垂れさがったり、かと思うと、砂糖を白くまぶしたウェディング・ケーキさながらの天井まで、よじ昇ったり、やがて、ワイン・カラーの絨《じゆう》毯《たん》の上をさざ波のように揺れて、風が海に影をつくるように、絨毯の上に影をつくっていた。
部屋のなかにあるもので、じっと動かないものは、とてつもなく大きい寝椅《い》子《す》だけだった。若いふたりの女が、まるで繋《けい》留《りゆう》気球に乗っているみたいに、その上に浮きあがっていた。ふたりとも白いものを着ていて、家の周《まわ》りを短期飛行したあと、たったいま家のなかへ吹き戻されたところよ、といわぬばかりに、そのドレスがさざ波のように揺れたり、はたはたと翻《ひるがえ》っていた。カーテンがたてる、鞭《むち》に打たれたようなぷすッという音や、壁に懸《かか》った絵の唸《うな》るような音に耳を傾けながら、僕はしばらくそこに棒立ちになっていたに相違ないのだ。すると、ぶーんと音がしたのは、トム・ビュキャナンが後の窓を閉めたのだ。部屋に当っていた風が鎮《しず》まったので、カーテンや、捲《ま》くれていた絨毯や、若いふたりの女が、ふわりと脹《ふく》らんで、床に浮かんだ。
ふたりのうち若いほうは、僕の知らない女だった。彼女は寝椅子の端いっぱいに広くなって、じっと動かなかった。顎《あご》をちょっと仰向けて、まるでいまにも落ちそうな物をその上に載せて、平均をとっているといった恰《かつ》好《こう》だった。横眼で僕のほうを見たかもしれないが、そんなことはおくびにもださなかった――いや、僕はびっくりして、ここへやってきて邪魔をした言いわけを、おずおずと危うく呟《つぶや》くところだった。
いっぽう、デイジーは立ちあがろうとした――義理堅い、まじめな表情で、前のほうにわずかに躯《からだ》をかしげた――そしてちょっと笑った。意味もないうっとりするような笑いだった。僕も笑いながら、部屋のなかに入っていった。
「あたし幸福で、し、しびれちゃったわ」
ひどく気のきいたことを言ったみたいに、また笑った。それから僕の手をしばらく握りながら、顔を覗《のぞ》くように見あげて、こんなに逢《あ》いたかったひとって、どこにもないわよ、と言いきった。そんなのが彼女のやりかただ。彼女は小声で、そこで平均をとっている女の名前はベイカーだと、それとなく知らせてくれた。(デイジーが小声で話すのは、相手を自分のほうへひき寄せる術《て》なのさ、という噂《うわさ》を聞いたことがある。それでもそんな見当違いの批評のお蔭《かげ》で、彼女のささやくような話し振りに、いっそう惹《ひ》きつけられる)
すると、ミス・ベイカーの唇が震えると、かすかに僕に向ってうなずいた。またいそいで頭をもとのようにかしげた――どうやら、平均をとっていた物がぐらついたので、びっくりしたのだ。またもや、言いわけめいたものが、僕の口から出そうになった。申し分のないほどのうぬ惚《ぼ》れの強さ、といったものを見せつけられると、いつだって、僕はぽかんとあっけにとられて、敬意を表したくなるのだ。
僕は振りかえっていとこを見た。彼女はいろんな質問を始めたが、低いぞくぞくするような声は、思わず耳がどこまでも追い駈《か》けていくような声だ。ひとつひとつの話し振りが、二度と演奏されない曲の調べを思わせる。顔は沈んでいたが、ぱっちりした眼もとや、さえた熱っぽい口があざやかで、愛らしい。だがそれよりも、興奮した声の調子のほうが、彼女に好意をよせたほどの男にとっては、忘れようと思っても忘れられない。歌うような調子のなかにも、ぴしっと容赦しないものがある。小声で「ねえ」という言葉。聞いていると、明るくって生き生きしたことをたったいまやり遂げたし、また明るくって生き生きしたことが、すぐそこに待っていると約束してくれているような感じがする声だ。
東部へくる道すがら、一日シカゴに途中下車したら、十数人からよろしくとことづかってきたことを話した。
「あたしがいなくなったんで、みんな淋《さび》しがっていなくて?」有頂天になって、彼女は叫んだ。
「町中どこへ行っても侘《わび》しいな。どの車も、お葬式の花環みたいに左の後輪を黒く塗ってるし、北海岸では夜通しすすり泣きがしていたよ」
「まあ素敵! 帰りましょうよ、トム。ねえ明日よ!」すると、見当違いのことを言い添えた。「赤ちゃんを見てくれなきゃ駄目よ」
「そう、見たいなあ」
「いま眠ってるのよ。お年は三つよ。まだいちども見たことなかったかしら?」
「いちどもないよ」
「それじゃ、ぜひ見てやってちょうだいよ。あの子ったら――」
トム・ビュキャナンはそれまで、部屋のなかをあちこち、そわそわしながら徘《う》徊《ろ》ついていたが、立ちどまって僕の肩に手をかけた。
「仕事は何をやってるんだね、ニック?」
「証券会社へ勤めてる」
「どこの会社で働いているの?」
僕はその名を言った。
「そんな会社、聞いたこともないな」彼はきっぱり言った。
僕はくさってしまった。
「いまにわかるよ」僕はそっけなく答えた。「東部にずっと住んでれば、いまにわかるよ」
「おう、東部に住むつもりだ、心配するなよ」と、彼は言って、デイジーをちらっと見てから、僕を振りかえって見た。何かまだほかのことを用心しているらしい。「よそで暮すなんて、ばかげたことさ」
その瞬間、ミス・ベイカーが言った。「絶対にそうよ!」あんまりだしぬけだったので、僕はびっくりした――僕が部屋に入ってきてから、彼女が最初に口をきいた言葉が、これだった。どうやら僕ばかりでなく、彼女も自分の言ったことに驚いたらしい。欠伸《あくび》をしてから、つぎつぎとすばやく巧みに身をこなして、部屋の中央に出てきたからだ。
「躯《からだ》が硬くなっちゃったわ」彼女は不平を言った。「ずいぶん長かったわ、あのソファに憩《やす》んでたことしか、覚えてないもの」
「あたしの顔見なくったっていいでしょう」と、デイジーがやり返した。「これでも昼すぎずうっと、あんたをニューヨークへ連れてってやれないかなあって、骨折ってみたのよ」
調理室からきたばかりの、四杯のカクテルに向って、ミス・ベイカーは言った。「いいえ、結構よ。あたし上々のコンディションに持ちこんできてるんだから」
もてなし役のトムは、疑わしそうに彼女を見やった。
「そうなのかい!」グラスの底に一滴しかないのを呑《の》むみたいに、彼は自分のグラスをいっきに呑み干した。「君がそういうやりかたで、やりとげてゆくのには、まったく歯がたたんね」
僕はミス・ベイカーを見て、何を「やりとげてゆく」のだろう、と思った。彼女を見つめているのは愉《たの》しかった。細っそりした、胸の平べったい女で、若い士官候補生のように、両肩をうしろに投げかけていたので、真直ぐな姿勢がよけい目だった。彼女も灰色の、太陽の強い光線を避けるうちに癖になった藪《やぶ》睨《にら》みで、僕を見かえしたが、ひとを惹《ひ》きつけずにはおかない、不満そうな蒼《あお》白《じろ》い顔に、やはり好奇心を浮かべていた。
「ウエスト・エッグに住んでらっしゃるのね」軽《けい》蔑《べつ》するように、彼女は言った。「あそこには、知ってるひといるわ」
「僕はひとりも知らない――」
「でもギャツビーならご存じでしょう」
「ギャツビーですって?」と、デイジーが訊《き》きただした。「ギャツビーって、どのひとよ?」
隣りに住んでいるひとだと、答えようとしたとき、晩《ばん》餐《さん》の用意ができたことが告げられた。トム・ビュキャナンは堅い腕を容赦なく、僕の腕の下に当てがって、将《しよう》棋《ぎ》の駒《こま》をべつの目に動かしでもするように、有無を言わさず僕を部屋から連れだした。若いふたりの女は、腰に軽く手を当てたまま、いかにも細っそりとした物腰で、ものうそうに、僕たちの先に立って、落日に向って開かれた、薔《ば》薇《ら》色のポーチに上がって行った。そこでは、テーブルの上に置いてある、四本の蝋《ろう》燭《そく》が、おさまりかけてきた風に当って、揺らめいていた。
「何だって蝋燭なんかつけるの?」デイジーは眉《まゆ》を顰《しか》めて反対して、指でぽきぽき取ってしまった。「もうあと二週間で、一年中でいちばん日が長くなるでしょう」晴れやかな顔で、彼女は僕たちをひとりひとり見た。「一年中でいちばん日が長い日を、いつでも待っていながら、そのときになると、逃がしてしまうんじゃない? あたしって、いつだって一年中でいちばん日が長い日を待ってるくせに、そのときになると、逃がしてしまうのよ」
「何か計画をたてなければ駄目よ」ミス・ベイカーは欠伸《あくび》をして、まるでベッドに入るような恰《かつ》好《こう》で、テーブルに向って腰をおろした。
「よろしいわ」と、デイジーは言った。「どんな計画をたてましょう?」彼女は困ったように僕のほうを向いた。「みんなどんな計画をたてるのかしら?」
僕が答えられないでいると、彼女の眼は、畏《おそ》れに打たれたような表情をたたえて、小指にじっと注がれた。
「ほら! あたしここを怪《け》我《が》したわ」と、訴えた。
僕たち誰もがそこを見やった――関節があお黒くなっていた。
「あんたがしたのよ、トム」責めるように、彼女は言った。「そりゃあんたはそんなつもりじゃなかったかも知れないけど、でもあんたがやったのよ。これも獣のような人間と結婚したお蔭《かげ》だわ。大きな、ずうたいを持てあましてる肉体の見本と結婚した――」
「ずうたいを持てあますなんて言葉は、嫌いだな、たとえ冗談にしたって」トムはむっとして抗議した。
「ずうたいを持てあますよ」デイジーは強情に言った。
ときどき彼女とミス・ベイカーが、いっぺんに話しだした。しかし彼女たちが話すことも、控え目な冗談まじりの見当違いの話だったので、それはお喋《しやべ》りとはいえないものだった。着ているその白いドレスのように、また、欲望なんてものの影もかたちもない個性の抜けたような彼女たちの眼のように、冷やかで、落ちついた話しぶりだった。ここにいて、トムや僕を嫌がりもせずに受けいれ、ていねいで、みていて気持のいいくらい気を使って、もてなしたり、もてなされたりしている。やがて晩《ばん》餐《さん》もすむだろう、そのうち、日も暮れるだろう。そうすれば偶然のように片がつくだろうと、彼女たちはちゃんとご存じだ。西部とは大変な違いだ。向うでは、夕暮が終末に向って刻一刻急いでゆくと、はらはらしたり、がっかりしたりしながら、じっとみんなで見送っている。そうでなければ、日が暮れるその瞬間を、いらいらと怖《おそ》れの念を抱きながら見送っているのが西部だ。
「ねえデイジー、君といっしょにいると、僕は自分が、まるで教養のない人間だって気がしてくるよ」僕はコルク臭いけれども、わりとのどにしみるクラレットの二杯目を飲みながら、本音を吐いた。「収穫だの何だのっていう、田舎《いなか》の話はできないのかい?」
こう言ったからとて、特別な意味があったわけではないが、話は思いがけない方向に取りあげられた。
「文明ってやつは瓦解しているんだよ」トムがだしぬけに、激しい語調で言いだした。「僕はひどい悲観論者になっちゃったよ。このゴダードという男の書いた『有色人帝国の興隆』っていう本を読んだかね?」
「いや、読んでない」彼の激しい調子にびっくりしながら、僕は答えた。
「うん、立派な本だよ。みんな読むべきだね。言ってることはこうなんだ、つまり用心しないと、白人ってものは――そう、白人は完全に没《ぼつ》しちまうだろうって言うんだ。この本は、一から十まで科学的に書かれてるしろものなんだ。論証してあるんだ」
「トムはとても学識があるのよ」うっかり悲しそうな表情をしながら、デイジーは言った。「長い言葉のまじった、深遠なご本を読むのよ。あの言葉は何という言葉だったかしら、あたしたちが――」
「そうだな、こういう本はどれも科学的だよ」と、トムは言い張って、もどかしそうに、彼女のほうをちらっと見た。「この男は苦労して何から何まで書きあげたんだよ。用心することこそが、いま支配的な人種たるわれわれに、義務として課せられているんだ。さもないと、こういうほかの人種が、いっさいを支配するようになるだろうさ」
「ほかの人種は打倒しなければいけないわ」と、デイジーは言って、燃えるような赤い太陽に向って、激しく眼をしばたたいた。
「あんたたちカリフォルニアに住んだら、きっといいわ――」ミス・ベイカーが話し始めたが、トムが椅《い》子《す》のなかで、どさりと躯《からだ》の位置を変えて、彼女を遮《さえぎ》った。
「言ってることは、われわれが北《ノー》欧《デイ》人《ツク》種《ス*》であるということなんだ。僕がそうだ、あんたがそう、君がそう、それから――」一瞬、ためらっていたが、軽くうなずいて、デイジーをそのなかに加えた。すると、彼女はまた僕に眼くばせした。「――それにだね、文明を形成するうえに役だったものは、みんなわれわれが産みだしたんだ――そうだ、科学や芸術、それからまあそういうふうなものすべてだ。わかるだろう?」
彼の熱中ぶりには、何かしらあわれを誘うものがあった。前よりもさらに激しくなった自己満足も、もはや彼にとっては不充分のようだった。と、たちまち部屋で電話が鳴り、執事がポーチを離れると、デイジーは束《つか》の間《ま》、中断された機会をすかさずつかんで、僕のほうに身をかがめた。
「家の秘密をお話しするわ」と、やっきになってささやいた。「それは執事の鼻のことなのよ。執事の鼻のこと、お聞きになりたい?」
「そうだね、そのために今夜、はるばるとやってきた、というもんだろうね」
「それでね、もとは執事じゃなかったのよ。ニューヨークで、二百人分の銀食器をかかえてるお店で、銀磨きをしていたの。朝から晩まで磨かなくちゃいけないでしょう。だから、しまいに鼻に障《さわ》り始めたってわけ――」
「事態はだんだん悪くなってきました」と、ミス・ベイカーがさりげなく言った。
「そうなの。事態はだんだん悪くなってきて、とうとうその仕事を諦《あきら》めなければならなくなったの」
その一瞬、まさに暮れようとする陽《ひ》の光が、ロマンチックな、やさしさをたたえながら、熱した彼女の顔に落ちかかった。彼女の声を聞いていると、僕は思わず息をつめて、前へ乗りださないではいられなかった――やがてその光は消えてしまった。一刻一刻の光が、残り惜しそうにためらいながら、彼女から離れた。その光は、夕暮に愉《たの》しい街路を去って、しぶしぶ家へ帰る子供たちのようだった。
執事が戻ってきて、トムの耳もとにぴたり口をつけて、何ごとかささやいた。すると、トムは顔をしかめて椅《い》子《す》を押しのけ、ひとことも言わずになかへ入って行った。彼がいなくなったことが、デイジーの心のなかの何かをはやめさせたのか、また前へ乗りだして、熱っぽい、歌うような声で話しだした。
「うちのテーブルであんたに逢《あ》うなんて、すばらしいわね、ニック。あんたを見てると、憶《おも》いだすわよ。その――薔《ば》薇《ら》をね、生粋の薔薇を憶いだすわよ。ねえ、そうじゃないこと?」ミス・ベイカーのほうを振り向いて、確かめた。「生粋の薔薇に似てるわね、このひと?」
そんなことは嘘《うそ》だ。僕が薔薇に似ているなんて、まるで違う。彼女はただ即興的に喋《しやべ》っていただけだ。だが、ひとを感動させずにはおかないあたたかさが、彼女から溢《あふ》れていた。あのはっと息をつめて、わくわくしながら聴く言葉のなかに隠れながら、彼女の心臓が、聴くひとのところまでやってくるような気がする。すると、いきなりナプキンをテーブルの上に投げだして、「失礼するわ」と言って、家へ入ってしまった。
ミス・ベイカーと僕は、つとめて意味のない眼ざしをちらと交した。僕が話そうとすると、彼女はひとを寄せつけないような、しゃんとした姿勢をとって、制するように「しッ!」と言った。たかぶる声を押し殺した小声で、やりとりしているのが、向うの部屋から聞えてくる。すると、ミス・ベイカーは、恥しげもなく前へ乗りだして、聞きとろうとした。ささやきは震えて、いまにもちゃんとつづいた話し声になりそうだ、と思うまもなく、低く沈み、また興奮して高くなり、やがてパッタリやんだ。
「あなたが言ったギャツビーさんていうのは、僕の隣りに住んでるひとです――」と、僕は始めた。
「お話しにならないで。どうなるか聞いていたいわ」
「何かやってるんですか?」僕は何の気なしにたずねた。
「あなたご存じないって、おっしゃるつもり?」ミス・ベイカーは、心から驚いて言った。「誰でも知ってると思ってたわ」
「知らんですよ」
「まあ――」彼女はためらいながら言った。「トムはニューヨークに女があるの」
「女がある、だって?」僕はうつけたように、鸚《おう》鵡《む》がえしに言った。
ミス・ベイカーはうなずいた。
「せめて夕飯のときくらい、電話なんかかけてこないだけの慎《つつし》みは、あってもよさそうなのにね。そうお思いにならない?」
彼女の言った意味を解しかねていると、はためくドレスの音と、ざくざくいう皮革の長靴の音がして、トムとデイジーが、テーブルに戻った。
「どうしようもないわよ、それは!」と叫んだデイジーは不自然なほどはしゃいでいた。
彼女は腰をおろして、最初ミス・ベイカーを、それから僕を、探ぐるようにちらっと見てから、言葉をつづけた。「ちょっとそとを見ていたのよ。そとはとてもロマンチックよ。キュナード汽船会社か、白星汽船会社の船で、はるばるやってきた夜鶯《ナイチンゲール》だと思うの、小鳥が一羽芝生にいたわ。それが鳴きながら飛んで行ったわ――」彼女の声は歌声のようだった。「ロマンチックじゃなくて、ねえトム?」
「とてもロマンチックだよ」と、彼は言い、それから僕に向って、みじめそうに言った。「晩《ばん》餐《さん》がすんでもまだ明るかったら、厩舎《うまや》に案内しよう」
家のなかで、電話がけたたましく鳴った。デイジーがトムに向って、きっぱり頭を横に振ってみせたので、厩舎の話は、いやそれどころか、どんな話題もふっ飛んでしまった。テーブルで最後の五分間に起った、ちぎれちぎれの断片的な出来ごとのなかで、僕が覚えているのは、蝋《ろう》燭《そく》がこれといった意味もなく、ふたたび点《とも》されたことだ。僕はみんながどんな顔をしているか、まともに見てやろうと思ったが、さりとていっぽうでは、誰とも視線を合せたくないという気もした。当事者のトムやデイジーが、何を考えてるのか、そいつを推測するのはむずかしい。第三者のミス・ベイカーは、頑固に頭を擡《もた》げてくる懐疑心を、やっと押えつけることができたらしい。それでも、さし迫った用事があるとばかりに、金属的なかん高い音を立てた、この第五のお客のことを、ぜんぜん気にかけずにいられたかどうか疑わしい。ある種の気質をもったひとからみれば、この場のありさまに興味を唆《そそ》られたかもしれない――僕はといえば、本能的にすぐ警察に、電話をかけようと思ったほどだ。
馬のことはもちろん話題にのぼらなかった。トムとミス・ベイカーは黄昏《たそがれ》のなかを、たがいに五、六フィート離れたまま、書斎のほうへぶらぶら戻って行った。まるで、触わろうと思えば、自由に触われる死体の傍へ、不寝番に立ちに行く、といった恰《かつ》好《こう》だった。いっぽう、僕は面白くってたまらないというふうに見せかけたり、少しばかり聾で、何も聞かなかった振りをして、表のポーチにつづいた長いヴェランダを廻って、デイジーのあとからついて行った。奥深いうす暗《くら》闇《やみ》のなかで、僕たちは柳細工の長椅子に並んで腰をおろした。
デイジーは両手を顔にもっていった。まるで愛くるしい顔の輪郭を確かめているみたいだった。視線は次第に動いていって、ビロードのような肌ざわりの黄昏に向って注がれた。彼女がいろんな感情にとり憑《つ》かれているのが、僕にもわかった。だから、幼い娘のことで、これなら彼女の心を惹《ひ》きつけるだろうと当てこんだ質問をしてみた。
「あたしたち、おたがいにあんまりよく知らないわね、ニック」彼女はいきなり言った。「これでもいとこかしら。あたしの結婚にもきてくれなかったわ」
「戦争からまだ還《かえ》っていなかったもの」
「その通りね」彼女はためらった。「あのね、あたしずいぶんひどい目にあってきたのよ、ニック。だからどんなことだって信じないわ」
彼女がそう思うようになったのも、当然すぎるほど当然だ。僕は待っていたが、彼女はそれ以上語らない。しばらくしてから、恐る恐る娘のことに話題を変えてみた。
「きっともう喋《しやべ》るだろうね、それから――喰《た》べたり、何でもするんだろうね」
「ええ、そうよ」彼女はぼんやり僕を見た。「ねえ、ニック。あの子が生れたとき、あたしなんて言ったか、お話しましょうか。お聞きになりたい?」
「うん、ぜひ聞きたいね」
「それをお話すれば、わかってもらえるわ、あたしがどんな感じをもつようになったか――いろんなことについてよ。あのね、生れて一時間も経《た》たないのに、トムったらどこへ行ったか、まるっきりわからないの。麻酔から醒《さ》めたときは、まるで捨てばちな気持。すぐ看護婦に男か女かきいたわ。女だって教えてくれたの。だから、あたし顔をそむけて泣いちゃったわ。言ってやったの、『結構です。女でよかったわ。どうかお馬鹿さんでありますように――可愛いお馬鹿さんになるのが、女のいちばんの幸福なのよ』って」
「ねえ、とにかく何も彼もすさまじいと思うわ」彼女は確信をもってつづけた。「誰だってそう思ってるのよ――いちばん進歩的なひとたちだってそうよ。あたし知ってるんですから。どこへだって行ってみたし、何だって見たし、何でもやってみたわ」眼がトムの眼のようにぎらぎら光って、反抗的にあたりを見まわした。そして、思わずぞっとするほど嘲《あざ》笑《わら》った。「すれっからしなのよ――そうよ、あたしって、すれっからしなのよ!」
彼女の声がとぎれて、僕の注意を無理にも惹《ひ》こうとしたり、無理にも信じこませようとする気配がなくなると、とたんに、彼女の言ったことには、根本的な不誠実の響きがあると感じられて、僕は不安になった。今宵の一から十までが、助けになったり、役にたつような感情を、僕から強《ね》請《だ》るために設けた、一種のトリックではなかったのか。僕は待ってみた。するとどうだろう。たちまち彼女は愛らしい顔に紛れもない作り笑いを浮かべて、僕を見たではないか。まるで彼女やトムが属しているかなり名の知れた秘密社会の一員であることを、彼女は確認しているかのようだった。
なかでは、深紅色の壁を張った部屋に、ぼんやり灯《あかり》が点《とも》っていた。トムとミス・ベイカーが、長い寝椅《い》子《す》の両端に腰をおろして、彼女が「サタデー・イヴニング・ポスト」を大声で読んでやっていた――言葉はさらさらと、ひとつひとつが紛れないで、全体がなだめるような調子でつづいた。ランプの灯は、彼の長靴には明るく光り、秋の黄色い木の葉色の彼女の髪にはぼんやりと映り、細っそりした両腕を動かしてページを繰るとき、紙面にキラキラ光った。
僕たちが入ってくると、彼女は片手を挙げて、ちょっと黙っていてね、と合図した。
「すぐ次号に」テーブルの上に雑誌をぽいと投げながら言った。「つづく」
彼女は膝《ひざ》をそわそわ動かして、自分の体を持てあましていたが、やがて立ちあがった。
「もう十時だわ」時計をみてから天井を仰いで、彼女は言った。「このいい娘《こ》がお寝んねする時間よ」
「ジョーダンは明日、はるばるウエストチェスターまで行って、トーナメントにでるのよ」と、デイジーが説明してくれた。
「ああ――君はジョーダン・ベイカーですか」
彼女の顔はどこかで見かけたような気がしていたが、いまそのわけがわかった――どうりで、アッシヴィルやホット・スプリングズやパーム・ビーチなどで行なわれるスポーツ生活を撮《と》った、たくさんの輪転グラヴィア版の写真のなかから、好ましい、ひとを軽《けい》蔑《べつ》するような表情で、こっちを見つめていたっけ。きわどい、不愉快な話も聞いていたが、どんな話だったか、とっくに忘れてしまった。
「おやすみなさい」彼女はやさしく言った。「八時に起してちょうだい、よくって?」
「起きるかしら」
「起きるわよ。おやすみなさい、キャラウェイさん。そのうちまたね」
「もちろんそうよ」デイジーは請《う》け合うように言った。「ほんとにあたし結婚をまとめようと思ってるのよ。ときどきいらっしゃいよ、ニック。なんていったらいいかしら――あら、そうよ――あんたたちをいっしょにほうりだしてみるのよ。ねえ――リンネルをしまっておく戸棚かなんかに入れてさ、錠をかけて、ボートに乗せて海へ押しだすのよ。まあそういったふうないろんなことやるわ――」
「おやすみなさい」ミス・ベイカーは階段から呼びかけた。「あたしひとことも聞えませんでしたよ」
「いい娘《こ》だ」しばらくしてトムは言った。「こんなふうに田舎《いなか》なんか飛びまわらせておいちゃいけないんだ」
「誰がそうさせちゃいけないの?」と、デイジーは冷やかにきいた。
「家の者がさ」
「家の者って、まるで年老《と》っちゃった伯《お》母《ば》さんがひとりいるっきりじゃないの。それに、これからはニックが面倒見てくれるわ。そうでしょう、ニック? 彼女この夏は、週末はここで暮すのよ。家庭的な感化っていうものが、とても役にたつだろうと思うの」
デイジーとトムは、一瞬、黙ったままたがいに顔を見合っていた。
「ニューヨークのひと?」僕はいそいできいた。
「ルイヴィルよ。汚れを知らない少女時代を、あたしたちそこでいっしょにすごしたのよ。美しい汚れを知らない――」
「ヴェランダへ行って、ニックに打明け話をしたのかい?」トムはいきなり訊《き》きただした。
「したかしら?」彼女は僕を見た。「あたし覚えていそうもないわ。でも北欧人種のことは、話合ったように思うわ。ええ、そうよ、確かにそうよ。何とはなしに、その話があたしたちのとこまで忍び寄ってきたのね。それに第一ねえ――」
「どんなこと聞いたか知らんが、ほんとにするんじゃないよ、ニック」彼は忠告するように僕に言った。
何も聞かなかった、と僕はあっさり言った。二、三分して、家へ帰るつもりで、立ちあがった。ふたりはそとの扉《とびら》のところまで送ってきて、方形に光がさしている明るいところに並んで立った。エンジンをかけたとき、デイジーが有無を言わさぬ調子で、「待ってよ!」と、声をかけた。
「きくの忘れたわ。大事なことよ。あんた西部で婚約したそうね」
「そうそう、婚約したそうだね」トムはやさしく、うそとは言わせない、といわぬばかりの口調で言った。
「そりゃひどい。僕なんか貧乏で駄目さ」
「でも聞いたのよ」デイジーは言い張った。また華《はな》やかな言葉をふり撒《ま》いて、ずけずけ喋《しやべ》りだしたので、僕はびっくりした。「三人から聞いたんですもの、ほんとだわ」
むろんふたりが言っていることはわかっていたが、それとなく婚約したことさえなかった。事実、結婚の予告が噂《うわさ》にのぼったので、それをひとつの理由に、僕は東部へきたのだ。噂がもとで親友と交際を絶つわけにはいかないし、さればといって、噂のとおり結婚するつもりはなかった。
ふたりがそんなことにまで関心をもっていてくれたので、僕はかなり感動した。彼らは足もとへも及ばない金持ちではなかったのだ――それでも、僕は自動車を走らせながら、頭が混乱し、多少うんざりしていた。デイジーがするべきことは、子供を両腕にしかと抱えて、家を飛びだすことだ――しかし、どうやらそんなことは考えてもいないようだ。トムはどうかといえば、「ニューヨークに女がある」という事実だって、実際はさほど驚くべきことではなく、本を読んで憂《ゆう》鬱《うつ》になったことのほうが、むしろ驚くべきことだった。何かのせいで、古めかしい思想の一端を噛《かじ》っていたのだ。恐らく、わがままいっぱいにふるまう逞《たくま》しい肉体の力では、ちょっとやそっとのことでは満足しない精神を、もう養いきれなくなったからだろう。
路傍の家々の屋根のあたりにも、道に面したガレージの前にも、すでに夏が深まっていた。あちこちに据《す》えられた、ま新しい赤い色のガソリンポンプが、灯のさす輪のなかに浸《ひた》って、いつまでもじっと突ったっている。ウエスト・エッグの屋敷に着いてから、自動車置場に車を置き、庭にうち捨てられてあった草ならし機の上にしばらく腰をおろした。吹き捲《まく》っていた風はやんで、喧《や》かましい明るい月夜となった。樹立ちでは鳥が羽《は》搏《ばた》き、大地の力強いふいごに吹かれたような蛙《かえる》――ぴちぴちといのちが脈打っている蛙が鳴くと、オルガンをつづけさまに弾いているようだ。猫が動いて、影法師が月光を横ぎって揺らめいた。猫をよく見ようと思って振り向くと、そこにいるのは僕独りきりではなかった――五十フィート向うのところに、隣りの邸宅の蔭《かげ》から、人影が現れて、ポケットに両手を突っ込んで立ったまま、銀色の胡《こ》椒《しよう》をふり撒《ま》いたような星々を眺めていた。何となくゆったりした物腰といい、芝生をしっかと踏みしめた足くばりといい、どうやらほかならぬミスタ・ギャツビーらしかった。このウエスト・エッグの、われらの空を見あげて、自分の領分の空はどこからどこまでか、見定めに出てきたのだろうか。
よし、声をかけてみよう。晩《ばん》餐《さん》のときミス・ベイカーが彼のことを言っていたが、これが話のきっかけにいいだろう。だが実際は声をかけなかった。独りぼっちでいいんだ、といきなり彼がそれとなく知らせて寄こしたからだ――つまり、暗い海に向って、変なふうに彼は両腕を伸ばした。僕は離れていたのだが、誓ってもいい、彼は震えていたのだ。思わず僕も海のほうに視線を投げた――だが、桟《さん》橋《ばし》の突端なのだろう、小さく遥《はる》か遠くに、ぽつり緑の灯火があるだけで、ほかには何も見わけられなかった。もういちどギャツビーのほうを見ると、彼の姿はもうそこになく、僕はまた独り、騒々しい闇《やみ》のなかに取り残された。
第二章
ウエスト・エッグとニューヨークのほぼ中間で、いきなり車道と鉄道が合して、四分の一マイルほど並んで走っている。そのために、かなり広い荒地が避けられるわけだ。それは灰の谷で――山の背や丘やグロテスクな庭に、灰が麦のように生《は》えている異様な農場である。そこでは家といい、煙突といい、立ち昇る煙まで、灰で包まれている。そればかりではない、ずいぶんと及びもつかない努力の賜《たま》物《もの》だと思うが、灰色の人間の形まで、灰でできているといっていいくらいだ。彼らはぼんやりと動いているが、粉の立ちこめる空気のなかにいるから、もうすでに粉みたいになっている。ときおり、一列に繋《つなが》った灰色の車が、見えない軌道をのろのろやってきて、身の毛のよだつようなキーという音をたててとまる。するとたちまち灰色の人夫が、鉛色の鋤《すき》を持って寄ってくる。見透しもきかないほど、灰の雲を掻《か》きたてるので、朦《もう》朧《ろう》として彼らの作業も隠れてしまう。
だがまもなく、その灰色の土地の上のほうに――灰が休みなしに漂《ただよ》い、もくもくと吹きさらされている上のほうに、T・J・エクルバーグ博士の眼が、ぬっと出ているのに気がつく。T・J・エクルバーグ博士の眼は、碧《あお》くて巨大である――網膜の高さが一ヤードもある。顔はないが、そのかわりとてつもなく大きい黄色い眼鏡越しにこっちを見ている。眼鏡はそこにはない鼻にかかっている恰《かつ》好《こう》である。きっとクイーンズ区で流《は》行《や》らせようとした、気紛れで剽《ひよう》軽《きん》者の眼医者が、そこに据《す》えたものだろう。するうちに、ご本人が永久に眼を閉じて御《お》陀《だ》仏《ぶつ》になったか、それとも、この眼のことなんか忘れて、よそへ引っ越してしまったのだろう。長いことペンキを塗らないから、雨風に晒《さら》されてかすれてきたが、それでもしかつめらしい灰の粉山の上で、じっと考えこんでいるようだ。
濁《にご》って汚ない小川が、灰の谷の片側を区切っている。で、跳《はね》橋《ばし》が上がって、はしけが通過するときには、それを待っている列車の乗客は、なんと三十分間もその陰《いん》鬱《うつ》な光景をうっとり見とれていられるわけだ。いつもそこでは最低一分間は停止する。そのために、僕はトム・ビュキャナンの情婦に初めてお目にかかったのだ。
彼を知っているところへ行くと、いたるところで、あいつに女があるのはほんとだよ、と断言する。事実、女を連れて大衆食堂に現れ、女を席に残したまま、ぶらつき廻《まわ》って、知っている者なら誰彼なしに、つかまえてお喋《しやべ》りしたりするのを、彼の知人はみな憤慨していた。僕はもの好きに女を見たいとは思ったが、わざわざ逢《あ》ってみたいという気はなかった――ところが逢ったのだ。とある日の午後、僕はトムといっしょに汽車でニューヨークへ出かけた。で、灰の山の傍で停車すると、彼はいきなり立ちあがって、僕の肘《ひじ》をつかんで、文字通り無理やり列車から降ろした。
「降りるんだよ、おい」彼は言い張った。「僕の彼女に逢ってほしいんだ」
彼は昼めしをしこたま詰めこんだのだろう。それで、僕をいっしょに連れて行こうと思いたつと、そのためには暴力も振るいかねなかった。日曜日の午後だというのに、べつにいいこともないんだろう、とひとを喰《く》った臆《おく》測《そく》をしたに違いない。
僕は彼のあとに従《つ》いて、水漆《しつ》喰《くい》を塗った鉄道の柵《さく》を越えた。エクルバーグ博士が上から、じっと眼を据えている路を、百ヤードあと戻りした。そこで見える建物は、ただ黄色い煉《れん》瓦《が》造りの小さい一棟のビルディングだけで、荒地の端に建っていた。この建物は荒地をひきたてる、いわばこぢんまりした典型的な一画をなしていたが、しかし全然無きに等しいものだった。その建物にある三軒の店のうち、一軒は貸家になっている。もう一軒は、灰を運ぶ路がすぐ近くまできている、終夜開店のレストランだ。三軒目がガレージだった――修理。ジョージ・ビイ・ウィルソン。自動車売買。――で、僕は彼につづいてなかに入った。
なかは不景気そうにがらんとしていた。眼につく車はただ一台、塵《ちり》の溜《たま》ったフォードの残《ざん》骸《がい》で、それが薄暗い隅に、うずくまっていた。ガレージがこんなふうに暗いのが日《ひ》除《よ》けの役割をして、じつは立派な、ロマンチックな部屋が、頭の上に隠されているんじゃないか、そんな気がした。すると、そのとき当の経営主が、機械を掃除する屑《くず》毛《げ》で両手を拭《ふ》きながら、事務室の扉《とびら》口《ぐち》に姿を現した。髪は薄い鳶《とび》色《いろ》で、貧血症の無気力そうな男で、かすかに好男子の面影をとどめていた。うるんだ、ほのかな希望の光が、薄《うす》碧《あお》い眼に光った。
「よおー、ウィルソン親爺」トムは言って、快活に肩を叩《たた》いた。「景気はどうだい?」
「文句をいうわけにもいかないし」と、ウィルソンは不服そうに答えた。「あの車いつ売ってくれますね?」
「来週だな。いまうちの下男に手を入れさせてるんだよ」
「仕事っぷりがのろかァないかね?」
「いや、そんなことはないさ」トムは冷淡に言った。「そんなふうに思ってるんだったら、まあ結局よそへ売ったほうがいいかな」
「そういう意味じゃないんでさ」ウィルソンは慌てて弁解した。「ただちょっとその――」
その声は消えてしまった。トムはもどかしそうにガレージをちらっと見まわした。すると、階段に足音がしたかと思うと、すぐに厚ぼったい女が姿を現し、そこに立ちふさがって、事務室の扉口からさしてくる光を遮《さえぎ》った。年は三十五、六で、肥《ふと》り気味だったが、ある種の女だけにできるあの、躯《からだ》のこなしが官能的だった。紺のクレープデシンの、しみのついたドレスの上に鎮座した顔には、美《び》貌《ぼう》の相もきらめきもなかったが、躯中の神経が絶えまなしに鬱《うつ》積《せき》しているみたいに、躯に生気があふれているのがすぐに見てとれた。にっこりと微《ほほ》笑《え》んで、そこに立っている夫なんか、まるで幽霊だとでも思っているのか、傍を通り抜けて、トムの生き生きと燃えた眼をじっと見つめながら、握手した。やがて唇を濡《ぬ》らして、振り向きもしないで、やさしい耳触わりな声で、夫に話しかけた。
「椅《い》子《す》を持ってらっしゃいよ、ねえ。お客さんが坐《すわ》れるじゃないの」
「ああ、そうだったな」ウィルソンはそそくさと応じて、セメント色の壁にすぐつづいた、小さい事務室のほうへ行った。灰の山の近所にあるものは、何から何まで白い灰ぼこりを被《か》ぶっていたが、彼の黒っぽい服や、薄い色の髪にもかかっていた――ただ細君だけにはかかっていなかったが、その細君はトムに近寄った。
「逢《あ》いたいんだ」トムは熱心に言った。「今度の汽車に乗るんだよ」
「ええいいわ」
「低いほうの歩廊《レヴエル》の新聞売店の傍で逢おう」
彼女はうなずいた。そしてジョージ・ウィルソンが椅子を二脚持って、事務室の扉口に現れると、すぐにトムから離れた。
僕たちは路を向うへ行った見えないところで、彼女を待った。その日は独立記念日の二、三日前だったので、髪は灰色の、瘠《や》せこけたイタリア系の少年が、かんしゃく玉を線路づたいに、一列に並べて仕掛けていた。
「ひどい所じゃないか」トムは言って、エクルバーグ博士と睨《にら》めっこした。
「凄《すご》い所だ」
「だから出かけたほうが彼女のためだよ」
「亭主は文句をいわないのかい?」
「ウィルソンがかい? ニューヨークの妹に逢いに行くんだと思ってるさ。ひどいのろまで、自分が生きてるのかどうかも知らないくらいの男だ」
こうしてトム・ビュキャナンと女と僕は、いっしょにニューヨークへ行った――いや、必ずしもいっしょだったわけじゃない。ウィルソンの細君が気をきかせて、べつの車《しや》輛《りよう》に乗ったからだ。イースト・エッグのひとたちが、汽車に乗っているかもしれない。彼らの思惑を気にする程度のへり下だった気持は、トムにもあったのだ。
彼女は茶の模様のついた、モスリンのドレスに着替えていたが、ニューヨークの駅のプラットホームに降りるとき、トムが手を貸すと、やや幅びろの臀《しり》にピッタリ付いて伸びたりした服だった。新聞売店で、彼女は「タウン・タトル」一部と映画雑誌を買った。そして駅のドラッグストアで、コールドクリームと、香水の小《こ》壜《びん》を買った。階上の、車の音がいかめしく響き渡っている車道に出てから、彼女はタクシーを四台やりすごしたのち、腰掛を灰色の革で張った、ラヴェンダー色の新車を選んだ。それに乗って、大きな駅の建物を出て、燃えるような陽《ひ》のさす街頭へ滑って行った。ところがたちまち、彼女は窓からぐいと躯《からだ》を反らせて、前かがみになり、正面のガラスをコツコツ叩《たた》いた。
「ああいう犬が一匹ほしいわ」彼女は本気で言った。「アパートにほしいのよ。飼うの素敵だわ――犬をさ」
滑《こつ》稽《けい》にもジョン・ディ・ロックフェラーに似ている、白髪の老人のところまで、僕たちはバックした。頸《くび》からぶらさがった籠《かご》には、種類のはっきりしない、生れたての仔《こ》犬《いぬ》が十数匹縮こまっている。
「何種なの、それ?」老人がタクシーの窓へ寄ってくると、ウィルソンの細君が熱心にきいた。
「何でもございますよ。何種がよろしゅうございましょう、奥さん?」
「ほらあの警察犬がほしいわ。いないらしいわね?」
男は疑わしそうに籠を覗《のぞ》いて、片手を突っ込むと、一匹頸筋をつかんで、あがくのをひきずり出した。
「そりゃ警察犬じゃないよ」トムが言った。
「そうですな、警さつ犬とは少うし違いますな」と、男は失望を声にあらわしながら、言った。「エーアデールに近いでしょうな」彼は茶色の手《て》拭《ぬぐい》のような、犬の背中の毛並を撫《な》でた。「この毛をご覧なさい。たいした毛ですぜ。これがあるから風《か》邪《ぜ》をひいて心配かけるようなことはありませんよ」
「あたし可愛いと思う。いくらなの?」ウィルソンの細君は夢中になって言った。
「これですかい?」男は惚《ほ》れ惚《ぼ》れとその犬を見やった。「これなら十ドルですな」
そのエーアデールは――むろんどことなくエーアデールらしいところはあったが、足がびっくりするほど白かった――持ち主が替って、ウィルソンの細君の膝《ひざ》におさまった。彼女は膝の上の、その防寒コートのような毛を、有頂天になって撫でまわした。
「男の子かしら、女の子かしら?」彼女は婉《えん》曲《きよく》にきいた。
「これですかね? 男の子ですよ」
「牝《めす》だよ」と、トムはきっぱり言った。「ほらお金。それといっしょにもう十匹買うといいや」
僕たちは五番通りまで車を走らせた。暖かく爽《そう》快《かい》で、牧歌的といっていい、夏の日曜日の午後だった。羊の大群がそこの街角を曲るのを見かけたとしても、さして不思議はなかったろう。
「ストップ。ここで君たちとお別れしなきゃいけない」と、僕は言った。
「いやいや、それは駄目だよ」トムはいそいで言葉を挟《はさ》んだ。「アパートまで来ないと、マートルが気を悪くするよ。そうだろう、マートル?」
「いらっしゃいよ」彼女は僕の気を惹《ひ》くように言った。「妹のキャサリンに電話するわ。とても美人だっていわれてんのよ、あの子を知ってるほどのひとはみんなそう言うのよ」
「そうだな、行きたいけど、でも――」
僕たちは車を駐《と》めないで、また公園《パーク》へ戻って、そこからウエスト百番街辺へ向った。百五十八番街の、何軒ものアパートが、長い白いケーキのように並んでいる。その一かけらのようなところで、タクシーは駐った。ウィルソンの細君は、王妃がご帰館なさったときに、あたりをご覧になるときの思いいれよろしく、隣り近所に視線を向けてから、犬やほかの買物を掻《か》き集めて、つんとしてなかへ入った。
「マッキーさんたちに来てもらうわ」昇ってゆくエレベーターのなかで、彼女は宣告するみたいに言った。「それからもちろん、妹にも電話するわよ」
そのアパートは最上階にあった――小さい居間に小さい食堂、小さい寝室に浴室。居間には不釣合に大きすぎる綴《つづれ》織《おり》で、飾りたてた家具一式が、扉《とびら》口《ぐち》のところまで犇《ひし》めいていた。だから部屋のなかを歩くたびに、綴織に描いてある、ヴェルサイユの庭園で淑女たちが腰をふりふり闊《かつ》歩《ぽ》している光景に、どうしても躓《つまず》いてしまう。壁に一枚だけ懸《か》けてある写真は、引き伸しすぎたやつで、ちょっと見ると、ぼやけて写った岩に牝《めん》鶏《どり》がとまっている。だが、ちょうどいいところまで近づいて眺めると、その牝鶏はボンネットとなり、肥《ふと》った老婦人の顔が、部屋に向って晴やかに微《ほほ》笑《え》んでいた。「タウン・タトル」の古いのが五、六部と、「ペテロというシモン」と、幾冊かの小型のブロードウェイのスキャンダル・マガジンが、いっしょにテーブルの上に置いてあった。初めのうち、ウィルソンの細君は、犬の相手になっていた。エレベーターボーイはしぶしぶ藁《わら》の一杯詰った箱と牛乳を取りに行った。彼はそのうえ、自分で気をきかせて、大きい硬いドッグ・ビスケットを一《ひと》缶《かん》、べつにもってきた――ひとつ牛乳の皿のなかに投げ込まれたビスケットは、午後いっぱいかかって、詰らなそうに溶けてしまった。そうしているあいだに、トムは鍵《かぎ》のかかった箪《たん》笥《す》の扉から、ウィスキーの瓶を取りだした。
僕はこれまで二度ばかり酔払った経験があるが、二度目がその日の午後だった。だから、八時すぎても、まだ明るい陽《ひ》ざしが、アパートの隅々まで、いっぱいにさしこんでいたが、そこで起った出来ごとは、いまから憶《おも》いだしてみると、何から何まで、ぼんやり霧がかかったような色合をしている。ウィルソンの細君は、トムの膝《ひざ》に腰かけて、数人に電話をかけた。ところが煙草がきれていたので、角のドラッグストアまで、僕が買いに出かけた。部屋へ戻ってみると、ふたりともその場から姿を消していた。そこで僕は大事をとって、この居間に腰を落ちつけて、「ペテロというシモン」の一章を読んだ――ところが、この小説がまた凄いしろものだったのか、それともウィスキーがきいてきて、見るものが何も彼もいびつに見えたせいか、読んでもてんで意味がわからなかった。
ちょうどトムとマートルが(一杯やり始めてからは、ウィルソンの細君と僕は、おたがいに名前で呼ぶことにした)ふたたび居間に姿を現したのと、仲間がアパートの入口に到着し始めたのといっしょだった。
妹のキャサリンは三十くらいの、瘠《や》せた俗っぽい女だった。髪は厚いべとべとした赤毛の断髪で、顔には白粉《おしろい》をまっ白に塗っている。眉《まゆ》毛《げ》は抜いたあと、もっと粋《いき》な角度で描き直されていたが、もとの直線を回復しようという自然の勢いがあって、そのため顔がぼやけていた。動きまわるたびに、数えきれないくらいたくさん両腕につけた、陶器の腕環が、両腕を上がったり下がったりして、しょっちゅうかちかち鳴った。いかにもこのアパートの所有者然として、いきなり部屋に入ってきたかと思うと、まるでわがもの顔に家具を見まわしたので、ここに住んでいるんじゃないかな、と僕は思った。そのことをきいてみると、突拍子もなく笑って、僕の質問を大声で繰りかえし、女友だちとホテルに住んでいる、と語った。
マッキーさんは顔の蒼《あお》い、女のような男で、下のフラットからきた。髯《ひげ》をあたったばかりで、頬《ほお》骨《ぼね》に石《せつ》鹸《けん》の白い泡つぶがついている。部屋にいる誰彼に向って、馬鹿ていねいに挨《あい》拶《さつ》した。《芸術的な遊戯》をやってまして、と僕に語った。で、あとになって、彼は写真屋で、壁に心霊体のようにぶらさがっている、ウィルソンの細君の母親のぼやけた写真、あれを引き伸したのだと察せられた。マッキーの細君は金切声の、だらっとした、しかし縹《きり》緻《よう》はいいが、いやらしい女だった。結婚してから、夫は百二十七回あたしの写真を撮《と》ってくれましたわ、と得意になって僕に語った。
ウィルソンの細君は、少し前に服装を変えていた。いま着ているのはクリーム色のシフォンの、凝《こ》ったアフタヌーンだ。裾《すそ》を曳《ひき》ずって歩くたびに、さらさら音がした。着物のせいで、人柄まで変ってしまった。ガレージにいたときには、あんなに目だった強烈な生気は、いまは変って、どぎつい尊大なもの腰となっていた。一瞬ごとに、笑い声や、身振りや、強情におのれを通そうとする態度が、だんだん気取ったものとなった。彼女の存在が大きくふくれあがるにつれて、彼女を取り巻く部屋はいっそう小さくなり、ついには煙っぽい空気をついて、彼女が騒々しくキーキー鳴る軸の上に立って、回転しているような感じだった。
高い調子の、もったいぶった大声で、妹に言った。「ねえ、そんじょそこらの連中といったら、いつだってひとを瞞《だま》すんだから、やりきれないよ。お金のことしきゃ考えていないんだよ。先週ここへ女のひとを呼んで、足を診《み》てもらったのさ。そしたら診療費請求書を寄こしたけど、まるで盲腸の手術をしたんじゃないって、ひと様が思うくらい高いのさ」
「その女のひと、何て名だったの?」マッキーの細君がきいた。
「ミセズ・エバーハートってのさ。往診して足を診て回ってるのよ」
「あんたのドレスいいわ。惚《ほ》れ惚《ぼ》れするわ」と、マッキーの細君は言った。
ウィルソンの細君は、蔑《さげす》むように眉《まゆ》をつりあげて、そのお世辞を一蹴した。
「とんでもないお古よ。どんな恰《かつ》好《こう》しても構わないときに、ときどきちょっとひっかけるだけよ」と、彼女は言った。
「でも素敵よ、あんたには。あたしのいう意味わかるかしら」マッキーの細君は喰《く》いさがった。
「そういうポーズで、あんたを撮《と》れたら、きっとチェスターはいいのを撮《と》るわ」
みんな黙ってウィルソンの細君を見た。彼女は眼の上にかかった髪の房を払いのけて、派手に微《ほほ》笑《え》んで、僕たちを見返した。マッキーさんは頭をいっぽうにかしげて、熱心に彼女を見つめていたが、やがて片手を自分の顔の前で、ゆっくり前後に動かした。
「光線を変えなくちゃ」しばらくして彼は言った。「顔かたちの実体感をだしたい。それに、後髪を全部把《とら》えるようにやってみたいな」
「光線は変えないほうがいいと思うわ」マッキーの細君は叫んだ。「あたしはこう思うけどナ――」
彼女の夫が「しッ!」と言った。そこで、みんなもういちどいっせいに話題の主を見た。すると、トム・ビュキャナンが聞えるような大きな欠伸《あくび》をして、立ちあがった。
「君たちは飲物をもってるんだろう、マッキー」彼は言った。「マートル、氷や炭酸水をもっと取っておき。下でみんな寝ちまうといけないから」
「氷のことは、あのボーイに言っといたのよ」下層階級の不《ふ》甲《が》斐《い》なさに絶望して、マートルは眉《まゆ》をつり上げた。「こういう連中といったら! しょっちゅう目をつけてなくちゃ、駄目なんだからね」
彼女は僕を見て、意味もなく笑った。それから身《み》悶《もだ》えして犬の上にかがみ込み、うっとりと犬に接《せつ》吻《ぷん》した。そして十数人の料理人頭《がしら》が、そこで自分の命令を待っている、という思いいれよろしく、台所へしずしずと出ていった。
「ロングアイランドでいいものを作りましたぜ」と、マッキーさんははっきり言った。
トムはぽかんとして彼を見た。
「そのうちの二枚は、額に入れて階下にありますよ」
「二枚って、何がだい?」トムは訊《き》きただした。
「習作が二枚できたってことですよ。一枚を『モントーク岬《みさき》――かもめ』といい、もう一枚を『モントーク岬――海』とつけたんです」
妹のキャサリンは、寝椅《い》子《す》に腰をおろして、僕と並んだ。
「あんたもロングアイランドに住んでるの?」と、彼女はきいた。
「ウエスト・エッグに住んでるんですよ」
「ほんとそれ? 一《ひ》ト月ほど前、パーティがあって、あそこへ行ったわ。ギャツビーっていうひとの家であったの。ご存じ?」
「隣りですよ」
「それでね、あのひとウィルヘルム皇帝の甥《おい》だか、従弟《いとこ》ですってね。だからお金はみんなそこからくるんだって」
「ほんとですか?」
彼女はうなずいた。
「あたしあのひとが怖《こわ》いわ。あんなひとから何かしてもらうなんていやだな」
こうした、僕の隣人について素敵に面白い情報は、マッキーの細君がいきなりキャサリンを指さしたので、中断されてしまった。
「チェスター、あんたこのひとで何かできそうに思うわ」彼女は不意に大声で話しだしたが、マッキーさんはうんざりしたように、うなずいただけで、トムのほうに注意を向けた。
「ロングアイランドでもっと仕事をしたいね。許可がもらえるならね。とにかく向うでわしにやらせてみてくれさえすりゃいいんだ、わしが頼みたいのは」
「マートルに頼むんだね」と、トムは言って、ウィルソンの細君が、お盆を持って入ってくると、だしぬけに短く大声で笑った。「あれが君に紹介状を書いてくれるよ、そうだろう、マートル?」
「何をするっていうの?」彼女はびっくりしてきいた。
「マッキーを君の亭主に紹介する手紙を書いてやるんだよ。そうすりゃ、亭主の習作が幾枚もできるんだよ」一瞬、写真の題名をひねりだしているあいだ、彼の唇は無言で動いた。「『ガソリンポンプの傍に立てるジョージ・ビイ・ウィルソン』とか、まあそういったようなもんだな」
キャサリンはぴたり寄ってきて、僕の耳にささやいた。
「ふたりとも結婚している相手に、我慢できないのよ」
「そうなの?」
「相手に我慢できないのよ」彼女はマートルを見、それからトムに眼をやった。「あたしが言いたいのは、相手に我慢できないくせに、何だっていつまでもいっしょに暮してるのかってこと。あたしだったら、離婚して、さっさと結婚しちまうわ」
「彼女もやっぱりウィルソンが好きじゃないんだね?」
その答えは意外にも、質問を聞きつけたマートルからきた。それも乱暴で猥《わい》褻《せつ》な答えだった。
「ほらね」キャサリンが勝ち誇って、叫ぶように言った。彼女はまた声を低めた。「ほんとはあのひとの奥さんなのよ、ふたりをひき離してるのは。奥さんはカトリックなのよ。だから離婚なんて信じないのさ」
デイジーはカトリックではない。念の入った嘘《うそ》に、僕はぎくッとした。
「ふたりが結婚したら」キャサリンは話しつづけた。「ほとぼりが冷めるまで、しばらく西部へ行って暮すのね」
「ヨーロッパへ行くほうが、もっと気がきいているよ」
「あら、あんたヨーロッパお好き?」彼女は不意打にあったように叫んだ。「あたしモンテカルロから帰ったばかりよ」
「ほう」
「つい去年よ。べつの女のお友だちと向うへ行ったのよ」
「長くいたの?」
「ううん、モンテカルロへ行って帰ってきただけよ。マルセイユ経由で行ったの。出かけるときは千二百ドル以上あったんだけど、二日もいたら、賭《と》博《ばく》室ですっからかんに捲《ま》きあげられちゃったの。帰るのにひどかったったらないの、ほんとよ。ああ、憎ったらしいわ、あの町!」
暮近い午後の空は、束《つか》の間《ま》、地中海の碧《あお》い空のように、窓に美しく映えた――するとマッキーの細君の癇《かん》高《だか》い声で、僕はまたもとの部屋に呼び戻された。
「あたしも間違いをやらかすとこだったわ」彼女は元気よく、はっきり言った。「何年もあたしのあとを追いかけた小柄のユダヤと、もう少しで結婚するところだったのよ。あたしの相手としちゃ、不足だってことがわかってたの。誰でもあたしに向ってしきりに言ったわ、『ねえルーシール、あの男はあんたよりずっとおちるね』って。でもチェスターに行《いき》逢《あ》わなかったら、あの男、きっとあたしをものにしてたわ」
「ええ、でもねえ」マートル・ウィルソンは頭を上下にふりながら言った。「なんて言ったって、あんた結婚しなかったわね」
「そうよ、しなかったわ」
「ところがあたし、結婚しちゃったの」マートルは曖《あい》昧《まい》に言った。「そこがあんたの場合とあたしの場合と違うところよ」
「なぜしたのよ、マートル?」キャサリンが答えをうながした。「誰も無理にしろとは言わなかったのに」
マートルは考えていた。
「結婚したのは、あのひとが紳士だと思ったのさ」彼女はついにこう言った。「少しは育ちのよさってものを知ってると思ったのよ。ところがどうして、あたしをちやほやする柄じゃなかったわ」
「一時は夢中だったわよ」と、キャサリンが言った。
「あんなひとに夢中だって!」マートルは怪しむように叫んだ。「誰が言ったのさ、あの男に夢中だったなんて? 夢中なんかになるもんかね。ほら、そこにいるそのひとにあたし夢中じゃないわよ、それと同じよ」
彼女がいきなり僕を指さしたので、誰もが責めるように僕のほうを見た。僕は愛情なんか当てにしていないと、顔の表情で示そうとした。
「たったいちどだけ夢中だったのは、結婚したときさ。それもすぐに間違いだったってわかったのよ。誰かの上等の服を借りて、それを着て結婚したのよ。ところがそんなこと、あたしに話しもしないのよ。それで、ある日留守にさ、取りにきたのよ。『あら、あんたの服でしたの? 初めて聞いたわ』って、あたし言ったの。でも服をそのひとに渡してから、あたし身を投げだして、午後、夕方までわアわア泣いたわ」
「ほんとに逃げだすべきだわ」キャサリンは僕に向って、また始めた。「あのガレージの二階で十一年も暮してきたのよ。それでトムは初めての愛《いと》しいひとなのさ」
いまはそこにいた誰もが、ウィスキーの瓶――二本目――をたてつづけにひき寄せた。呑《の》まないのはキャサリンで、彼女は「全然呑まなくても、呑んだみたいに、いい気分になった」トムは呼鈴を鳴らして小使を呼び、有名なサンドイッチを買いにやった。さすがに夕食としても申し分のないサンドイッチだった。僕はそとへでて、爽《さわや》かな黄昏《たそがれ》のなかを、東へ歩いて、公園へ行きたかった。だが、出かけようとするたびに、何かしら出《で》鱈《たら》目《め》で耳触わりな議論に捲《ま》き込まれて、綱《つな》をつけてひっ張られるみたいに、椅《い》子《す》にひき戻された。けれども都の空高く、一列に並んだ、灯の入った黄色い窓々は、人間の秘密を知っていて、暗くなってゆく街頭で、何気なく見守るひとに、その秘密を教えてやったに違いない。僕もそのひとが窓を見あげて、いぶかっている姿を見た。僕は内にいると同時に外にもいた。尽きることなく多彩な人生に、惹《ひ》きつけられもし、反《はん》撥《ぱつ》もした。
マートルは僕の傍に椅子をひき寄せると、いきなりなまあたたかい息を吐きかけて、初めてトムに逢《あ》った経緯《いきさつ》を話し始めた。
「汽車へ乗ると、いつでもそこしか空《あ》いてない、向かい合った席がふたつあったわけなのさ。あたしニューヨークへ行って、妹に逢って、その晩をすごすつもりだったの。彼ったら、夜会服を着て、専売特許の革靴をはいていたわ。それであたしどうしてもあのひとから眼を離すことができなかったの。でもこっちが見られると、仕方なしあのひとの頭の上に懸《かか》っている広告を見てるふりをしたわ。駅に着いたら、すぐ隣りに立ってるじゃないの。ワイシャツの胸で、あたしの腕を押しつけてるの。だから言ってやったわ、どうでも警官を呼ぶわよって。でも嘘《うそ》だってこと知ってるのさ。あたしとても興奮しちゃって、いっしょにタクシーに乗り込んだときだって、いつものように地下鉄に乗らなかったことに、気がつかないくらいだったの。あたし繰りかえし繰りかえし思いつづけたことっていえばね、『永遠には生きられないんだよ、永遠には生きられないんだよ』ってことだったのさ」
彼女はマッキーの細君のほうに向いた。すると彼女の不自然な笑い声が、部屋中に響いた。
「ねえあんた」彼女は叫ぶように言った。「このドレス脱いだら、すぐあんたにあげようと思うの。明日またべつのを手に入れなくちゃ。どうしてもしなくてはいけないことや、買わなくちゃいけないものを、みんな書き入れたリストを作ろうと思うの。マッサージとパーマ。犬の頸《くび》環《わ》。バネ仕掛になってる可愛らしい小さい灰皿。黒い絹のリボンのついた、夏中もつような花環、お母さんのお墓に供えるのよ。リストに書きとめておけば、買いたいものはみんな忘れずにすむでしょう」
九時だった――その後いくらも経《た》たないうちに、腕時計を見たら十時だった。マッキーさんは両の拳《こぶし》を膝《ひざ》に置いて、椅《い》子《す》に眠っていた。写真に写った活動家のような恰《かつ》好《こう》だった。僕はハンカチを取りだして、午後からずっと気にかかっていた、彼の頬《ほお》についている乾いた石《せつ》鹸《けん》の泡つぶを拭《ふ》いてやった。
仔犬はテーブルの上に坐《すわ》って、煙の立ちこめる部屋に、見えない眼を凝《こ》らしながら、ときおり弱々しく唸《うな》った。みんなは消えたり、また現れたり、どこかへ行くプランをたてたり、かと思うとおたがいに見失ったり、探し合ったり、二、三フィートの近くにいるのに気がついたりした。いつごろだったか、真夜中近くに、トム・ビュキャナンとウィルソンの細君が面と向かい合って、ウィルソンの細君たるもの、デイジーの名を口にする権利があるのかないのか、激しい口調で議論した。
「デイジー! デイジー! デイジー!」ウィルソンの細君は、大声で叫んだ。「言いたいときはいつだって言うわよ! デイジー! デイ――」
短い器用な動作で、トム・ビュキャナンは平手で彼女の鼻を打った。
すると、浴室の床には血の染ったタオルが投げられ、ぶつぶつこごとを言っている女たちの声が聞え、そのごたごたした騒ぎよりも、ひと際《きわ》高く、長いとぎれとぎれの泣き叫ぶ声が苦痛を訴えた。マッキーさんはうたた寝から覚めて、ぼーとしたまま、扉《とびら》口《ぐち》に向って歩きだした。中ほどまで行ってから、彼は振りかえり、その場の光景をじっと見つめた――彼の妻とキャサリンが、こごとを言ったり、慰めたりして、ぎっしり混み合った家具のあいだを、あちこち躓《つまず》きながら、いろんな救急品を持ってくる。それに血を流しながら、寝椅子に横わっている絶望的な姿、しかも綴《つづれ》織《おり》のヴェルサイユの風景を隠すように、「タウン・タトル」を拡げて見ようとしている。やがてマッキーさんは、くるりと向うを向いて、どんどん歩いて扉のそとへでた。僕はシャンデリアから帽子を取って、あとを追った。
「いつか昼食をしにおいでなさい」ふたりともエレベーターの唸りを聞きながら、下へ下って行く時、彼が言いだした。
「どこで?」
「どこででも」
「桿《レヴア》から手を放して下さい」と、エレベーターボーイががみがみ言った。
「失礼しました」マッキーさんは重《おも》々《おも》しく言った。「触わっているとは知りませんでしたよ」
「結構です」と、僕は同意した。「喜んで行きますよ」
……僕は彼の寝台の傍に立っていた。両手に大きな紙《かみ》挟《ばさ》みを持って、彼は下着のまま、敷布のなかに入って起きあがっていた。
「美人と野獣……孤独……老いたる食料品店の馬……ブルックリン橋。……」
それから、僕はペンシルヴァニヤ駅《*》の、低いほうの冷たい歩廊で、横になり半分うとうとしつつ、「トリビューン」の朝刊に目を凝らしながら、四時の汽車を待っていた。
第三章
夏の夜をついて、隣りの家から音楽が聞えてきた。ささやきやシャンペンや星々の間を縫って、青々した庭園を、蛾《が》のように男女が往来した。午後、海峡が高《たか》潮《しお》になると、客たちが筏《いかだ》の櫓《やぐら》から飛び込んだり、渚《なぎさ》の暑い砂の上で日光浴しているのが眺められた。いっぽう二隻のモーターボートが海峡の水面を切って、泡だつ奔流を滑ってゆく波乗り板を曳《ひ》いて走る。週末はロールス・ロイスがバスとなって、朝は九時から真夜中遅くまで、市とのあいだを往復して、一行を運ぶ。ステーション・ワゴンはどの汽車にも間に合うよう、敏《びん》捷《しよう》な黄色い昆虫のように飛びまわる。月曜日になると、臨時の庭師も交じえて八人の使用人が、雑《ぞう》巾《きん》やたわしや金《かな》槌《づち》や植木鋏《ばさみ》を持って、一日中働き、前夜の壊れたところを修理した。
毎金曜日オレンジとレモンが五籠《かご》、ニューヨークの果物屋から届き――毎月曜日、真っ二つに割られて実のない、この同じオレンジやレモンが、ピラミッドのように積まれて、裏口から取り除《の》けられる。飲物係の給仕人が、親指で小さいボタンを二百回押すと、三十分で二百個のオレンジからジュースが絞れる機械が台所にある。
すくないときでも二週間にいちどは、調達人の一団が、五、六百フィートもある大きいキャンバスと、色塗り電球をたくさん運んできて、ギャツビーの巨大な庭園の樹を使って、クリスマス・ツリーを作る。立食場のテーブルには、艶《つや》のいいオードーブルをあしらって、薬味を利《き》かせた焼ハムや、斑《まだら》の模様に作ったサラダや、練り粉で揚げた豚や、神業のように美しく燻《いぶし》金《きん》色《いろ》にゆだった七面鳥が、盛り合せになっている。大広間には、ほんものの真《しん》鍮《ちゆう》の横板を渡したバーがあって、いろんなジンや、火酒の類《たぐい》や、いろんなコーディアルを貯えている。コーディアルなどは長いことひとびとの口にのぼらないで忘れられているから、若い女の客には、どれがどれと、見分けがつかないだろう。
七時までにはオーケストラが到着する。どうして、五楽器編成くらいの薄手なものではない。オーボエ、トロンボーン、サキソフォーン、弦楽器、コルネット、ピッコロ、低音と高音の太鼓という、大劇場のオーケストラ用平土間をいっぱいにするくらいの大編成だ。最後まで泳いでいたひとたちも、もう渚《なぎさ》から戻って、二階で着物を着ている。ニューヨークからきた自動車は、邸内車道に縦に五台並んで駐車している。原色の衣装を纏《まと》ったり、変った新型の断髪にしたり、スペインの王妃の夢も遠く及ばない派手な肩掛けをした女たちが、広間や客間やヴェランダを華《はな》やかに色どっている。バーはいまを盛りと繁《はん》昌《じよう》している。カクテルはお盆が移動して、何回も回ってそとの庭園にまでゆき渡っている。とうとうお喋《しやべ》りや笑い声が高まり、そうかと思うと、ゆき当たりばったりに当てこすったり、紹介されてもすぐその場で忘れてしまったり、おたがいに名前も知らない女同士が、夢中になって話したり、あたりの空気は生き生きしてくる。
この大地がよろめくようにして太陽から遠ざかるにつれて、灯《あかり》は反対にいっそうかがやいてくる。いまオーケストラは煽《せん》情《じよう》的な甘いとろりとするような音楽を演奏している。話し声はオペラのように、一段と調子が高まり、笑い声は、一瞬ごとにいよいよはずみ、あふれて飛び散り、燥《はしや》いだ言葉に弾《はじ》かれて湧《わ》きあがる。グループは急激に変って、新来の客を交じえて脹《ふく》れあがるかと思うと、あッという間に解《と》けて、また作られる。もうふらふら彷徨《さまよ》いだす者もあり、自信たっぷりの女は、酒に強いしっかりした連中のあいだをあちこち縫って、グループの中心となって、一瞬、肌を刺すような愉《たの》しさに浸たる。やがて勝利に興奮して、頭上の光線が休みなく変るのにつれて、顔や声や色彩が変《へん》貌《ぼう》するなかを、滑るように進んで行く。
と、いきなりこうしたひとりの流浪《さすらい》の女が、オパール色の衣装をひらひらさせながら、空中高くカクテルのグラスをひっつかみ、思いきりガチャンと落し、両手をすばやく動かしながら、ただひとりキャンバスを張った舞台へ踊りでる。一瞬、あたりは静まりかえる。と、オーケストラの指揮者は親切にリズムを変えて、彼女に合せてやる。どっとお喋《しやべ》りが始まって、彼女はフォリーズ所属で、ギルダ・グレイの臨時の代役だという、まことしやかなニュースが拡まる。パーティは始まったのだ。
初めてギャツビーの家へ行った夜、たしか僕は正式に招待された、数すくないお客の仲間だったような気がする。そこへきているひとびとは招待されたのではない――だがみんなやってきた。彼らは自動車に乗ると、ロングアイランドまで運ばれる。何となくギャツビーの戸口の前で止まってしまう。彼らはそこでいちど、ギャツビーを知っている誰かから紹介されたことがあるのだ。その後は、遊園地ではきまりに従って行動するように、きまりに従って振舞うのだ。ときおり、彼らはやってきても、ギャツビーに全然逢《あ》わずに帰ったり、単純な気持でパーティにやってくるが、実はこの単純な気持こそ、パーティの入場券なのだ。
僕はたしかに招待されたのだ。お抱えの運転手が、駒《こま》鳥《どり》の卵の殻のような緑がかった、碧《あお》色《いろ》の制服を着て、土曜日の朝早く、僕の家の芝生を横ぎってきたかと思うと、びっくりするほど形式ばった主人の手紙を届けた。今宵の「小宴」に御光来を得ば、ギャツビーの光栄これに過ぎるものは御座無く候、とあった。数回僕を見かけ、はやくより訪問致したい所存であったが、折悪しく差《さし》障《さわ》りが重なり重なって、これを果さなかった――荘重な筆《ひつ》蹟《せき》でジェイ・ギャツビーと署名がしてあった。
白いフラノの服を着こんで、七時少しすぎ、僕は彼の屋敷の芝生を通って行った。知らないひとたちが集って、そこに大小さまざまな渦巻きをつくっていた。少々気づまりになりながら、そのなかを歩きまわった――もっとも、通勤列車のなかで見かける顔は、そこにもここにも見えた。すぐさま心を打たれたことは、たくさんの若いイギリス人が、あちこちに散らばっていたことだ。みんな立派な身なりをして、腹の減ったような顔つきで、低い熱心な口調で、信頼できそうな金持ちのアメリカ人をつかまえては、話しかけている。債券とか保険とか自動車といったようなものを、何かしら売りつけていたことはたしかだ。すぐ近くに簡単に動く金があることを、とにかく彼らは痛いほどよく知っていた。的《まと》を射た言葉をずばり、二《ふ》タ言三《み》言喋《しやべ》れば、その金は自分たちのものになると確信している。
着くとすぐ僕は主人を探そうとつとめた。ところが、二、三のひとにどこにいるかきいてみたら、ひどくびっくりして僕をまじまじと見つめて、彼の動静なんかなんにも知らないと、勢いこんで否定したので、僕はカクテルのテーブルのほうへこそこそと逃げだした――そこだけが、庭園に独りでいても、あいつは当てもない独りぼっちだ、とひとから見られもせずに、ぶらぶらできる場所だった。
当惑しきって、酒を呑《の》んだが、そろそろ呑み過ぎそうになったとき、ジョーダン・ベイカーが家からでてきて、大理石の石段の天辺に立って、心もち躯《からだ》を反らせて、軽《けい》蔑《べつ》したような表情ながら、関心の色を浮かべて、庭園を見おろしていた。
通りすがりのひとたちに、ていねいな言葉をそろそろかけなくちゃなるまいが、その前に、歓迎されようがされまいが、まず誰かにくっついて、いっしょにいなけりゃいけない、と僕は気がついた。
「やあ!」と、大声で言って、彼女のほうへ進みでた。僕の声は庭からかけた声としては、不自然なほど大きかったようだ。
「来てらっしゃると思ったわ」僕が昇って行くと、彼女は何かに気を取られているらしくぼんやりと言った。「お隣りに住んでいるってこと憶《おも》いだしたもんだから――」
彼女はすぐに面倒をみてやるからという約束のしるしに、僕の手をなんなく取りながら、石段の下のところまできて立ち止まった、揃《そろ》いの黄色い服を着たふたりの娘に耳を貸した。
「あら!」ふたりの娘は同時に叫んだ。「勝てなくって残念だったわね」
それはゴルフのトーナメントのことだった。彼女は先週、決勝戦で破れたのだ。
「お忘れになってるわ」黄色い服を着た娘のひとりが言った。「でも一《ひ》ト月くらい前に、ここでお目にかかりましたわ」
「あれから髪を染めたのね」と、ジョーダンが言った。で、僕は歩きだしたし、娘たちも何の気なしに歩いて行ったので、ジョーダンの言葉は、でるには早い月に向って言われた恰《かつ》好《こう》だった。もちろんその早い月は、夕食をつくる伝《でん》で、調達人が籠《かご》のなかに持ってきた材料で作りだしたものだ。ジョーダンの細っそりした黄金色の腕を僕の腕にかけたまま、石段を降りて、庭園を彷徨《さまよ》った。カクテルを載せたお盆が、黄昏《たそがれ》のなかから、目の前に浮かびでた。僕たちは黄色い服を着たふたりの娘と、三人の男と、ひとつテーブルについた。男たちは、紹介されたところによると、三人ともミスタ・マンブルという名だった。
「こういうパーティにたびたびいらっしゃるの?」ジョーダンは隣りの娘にきいた。
「この前でたのは、お目にかかったときが、そうだったわ」と、きびきびした、自信たっぷりな口調で言った。彼女は仲間のほうに向いて「ルーシール、あんたもそうじゃなかったかしら?」
ルーシールも、そのとおりだった。
「あたし来るの、好きよ」ルーシールは言った。「あたしって、何をしても気にかけないの。だからいつだって愉《たの》しいわ。この前ここへきたとき、椅《い》子《す》にひっかけて、ガウンを破いちゃったの。そしたら、あのひと名前と住所をきいたわ――一週間も経《た》たないうちに、クロワリエールから小包が届いて、なかに新しいイヴニング・ガウンが入っているじゃないの」
「それお取りになったの?」ジョーダンがきいた。
「もちろんそうよ。今晩着てくるつもりだったんだけど、胸のところが大き過ぎて、直さなくちゃ駄目なの。ラヴェンダー色のビーズ玉のついた、ガス・ブルーのガウンよ。二百六十五ドルなのよ」
「そんなことまでするひとって、なんだか面白そうね。あのひとどんなひとともいざこざを起したくないんだわ」べつの娘が熱心に言った。
「誰がそうなんです?」僕はきいた。
「ギャツビーよ。あるひとがあたしに言ってたけど――」
ふたりの娘とジョーダンは、内緒ごとでも話すように、躯《からだ》を寄せ合った。
「あるひとが僕に言ってたけど、あのひと昔、ひとを殺したことがあるんじゃないかって、思われてるんですって」
戦《せん》慄《りつ》が僕たちみんなをかすめて走った。三人のミスタ・マンブルは、前に乗りだして、熱心に耳を傾けた。
「それほどだとはあたし思わないわ」と、ルーシールが疑うように論じた。「それよりも、戦争中ドイツのスパイだったってことのほうがほんとらしいわ」
男たちのひとりが、たしかにそうだ、というふうにうなずいた。
「彼といっしょにドイツで育って、彼のことなら何でも知っている男から、僕はそうだって聞いたよ」と、彼ははっきりとうけあった。
「あら、違うわ」最初の娘が言った。「そんなことはありえないわ。だって戦争中はアメリカ軍にいたんですもの」僕たちのとかく信じやすい傾向が切り換えられてそのほうに向うと、彼女は熱心に前へ乗りだした。「ときどき誰も見てるものはないと思ってるときの、あのひとを見てごらんなさいよ。人殺しをやったわ、きっとそうよ」
彼女は眼を細めて身震いした。ルーシールも身震いした。僕たちは誰も振りかえって、ギャツビーがあたりにいないかと思って見まわした。世間へでて噂《うわさ》話《ばなし》をし散らす必要なんかあまり感じないひとたちから、こんなふうに噂されるということは、ギャツビーが、ひとびとにロマンチックな推測を起させる証拠だった。
最初の夕食が――というのは、真夜中すぎにべつの夕食がでるのがつねだったから――いま振舞われていた。ジョーダンは彼女の一行に加わるように、僕を招《よ》んでくれた。その一行は庭園の向う側のテーブルの周《まわ》りにひろくなっていた。夫婦者が三組と、ジョーダン付添いの大学生がいた。痛烈な言葉を吐く不敵な面魂の学生で、遅かれ早かれ、ジョーダンが多少の差はあっても、ある程度自分に身を任せるだろうと、思っていることは見え透いていた。この一行はぶらぶら歩きまわったりしないで、みんないちようにいかめしく構えていて、ファッショナブルなイースト・エッグは彼らのウエスト・エッグに膝《ひざ》を屈する――堅実で高尚な田舎《いなか》を代表する役割を自分たちは果しているのだ、と考えていた。そしてスペクトルを当てたような華《はな》やかさに対して、細心の警戒を払っていた。
「出ましょう」三十分ばかり、なんとなく無駄でしっくりしない時間をすごしてから、ジョーダンがささやいた。「あたしにはおしとやかすぎるわ」
僕たちが立ちあがってから、主人のギャツビーを探すのよと、彼女は説明した。あんたまだいちども逢《あ》ったことがないのね、と彼女が言ったので、僕はなんとなく不安になった。大学生は皮肉にも、憂《ゆう》鬱《うつ》そうにうなずいた。
初めにちょっとのぞいたバーは大勢で混んでいたが、そこにはギャツビーは見えなかった。彼女は石段の天辺から庭園を見たが、見つからなかった。ヴェランダにもいなかった。ふとものものしそうに見える扉《とびら》を押して、僕たちは天井の高い、ゴシック式の書斎に入った。イギリスのオーク材に彫刻した鏡板を嵌《は》めたもので、恐らくどこか、海外の廃《はい》墟《きよ》から、そっくりそのままもってきたものだろう。
梟《ふくろう》の眼のようにとてつもなく大きい眼鏡をかけた、がっちりした体《たい》躯《く》の中年男が、大テーブルの縁に腰をかけ、いくらか酔ってふらふらしながら、それでも眼を凝《こ》らして、本棚をじっと見ていた。僕たちが入って行くと、彼はやっきとなって、躯《からだ》の向きを変えたかと思うと、ジョーダンを頭の先から足の先までじろじろ見た。
「どう思うかね?」と激しい口調できいた。
「何のことですの?」
彼は本棚のほうへ片手を振って見せた。
「あれをさ。実際のところあんたはわざわざ確かめてみる必要はないね。わしが確かめてみたんだから。ほんものだね」
「ご本がですか?」
彼はうなずいた。
「絶対にほんものだね――ページもあるし、何でもある。上等の丈夫なボール紙だろうと思ってたんだがね。ところがどうして、絶対にほんものだね。ページもあるし――ほら、お見せしよう」
お前たちが疑ってるのも当りまえだが、といわぬばかりに、彼は書棚へ突進して行って、ストダードの「講義」の第一巻を持って戻ってきた。
「ほら!」彼は勝ち誇ったように叫んだ。「印刷物としては本当のものだね。わしは一杯くわされた。こ奴は正真正銘のベラスコウ《*》だね。これは勝利だ。なんという徹底ぶりだ! なんというリアリズムだ! どこでやめるかも知ってたんだ――ページが切ってないもの。ところで何のご用だね? どうしたらいいんだね?」
僕から本をひったくって、彼はいそいでもとの棚に戻した。煉《れん》瓦《が》のように積んである本を、一冊でも動かすと、書斎全部が崩れそうだ、と呟《つぶや》いた。
「誰に連れてきてもらったんだね?」彼は訊《き》きただした。「それともただなんとなくきたのかね? わしは連れてきてもらった。たいていのひとが連れてきてもらうんだね」
ジョーダンは答えないで、きびきびした態度で、にこにこと彼を見ていた。
「わしはルーズヴェルトというご婦人に連れてきてもらったんだがね」と、彼はつづけた。「ミセズ・クロード・ルーズヴェルト。ご存じかね? ゆうべどこかで彼女に逢《あ》ったんだね。ここ一週間ばかり酔っぱらっているんで、書斎にいれば酔が醒《さ》めるかもしれんと思ってね」
「醒めまして?」
「どうもちょっぴりだな。まだ何とも言えんな。一時間ここにいただけだから。本のことはお話したっけかな? あれはほんものだ。あれは――」
「お話しになったわ」
僕たちは真《ま》面《じ》目《め》くさって彼と握手して、そとへ戻った。
庭園のキャンバスの上では、いまダンスが始まっていた。老人たちは若い娘を、下品な、いつまでもとぎれない輪のなかへ押しかえしている。上《じよう》手《ず》な組はくねくねと抱き合って、ハイカラな恰《かつ》好《こう》で、いつも隅で踊っている――かと思うと、連れのない娘が大勢、自分勝手に踊ったり、ほんのちょっとバンジョーや打楽器の替りに囃《はや》したて、オーケストラをほっと憩《やす》ませてやったりした。夜中近くになると、その浮かれ騒ぎはいっそう高まった。有名なテナーがイタリア語で歌った。評判のアルト歌手がジャズを歌った。曲目のあい間には、いろんなひとが庭園中に向って、「妙技」を演じた。いっぽう、幸福そうでうつろな笑いが、夏の空に向ってどっと湧《わ》き起った。舞台の二人組が、なんと黄色い服のふたりの娘だとわかったのだが、衣装をつけて赤ん坊の仕草をした。フィンガーボールよりも大きいコップに、シャンペンが注がれた。月はさらに高く昇っていた。しかも海峡に浮かんだ月は、三角形の銀色の鱗《うろこ》で、芝生のバンジョーの堅いブリキを叩《たた》くような、雨だれに似た音に合せて、少し震えて見えた。
僕はなおジョーダン・ベイカーといっしょだった。僕たちのほかに、僕と同年輩の男と、喧《やかま》しい少女が、ひとつテーブルについていた。その少女はちょっとでも刺《し》戟《げき》されると、自分でもどうしようもないくらいに笑った。僕もいまは我ながら愉《たの》しかった。フィンガーボール二杯分シャンペンを呑《の》んだから、あたりの情景は見る間に変化して、意味の深い、怖《おそ》ろしいばかりの、深遠な何ものかと化していた。
余興がひと休みしたとき、テーブルにいた男が僕を見て、微《ほほ》笑《え》んだ。
「あなたの顔には見覚えがあるんです」彼はていねいに言った。「戦争中、第一師団じゃなかったですか?」
「ええ、そうですよ。第二十八歩兵旅団でした」
「僕は一九一八年の六月まで、第十六旅団だったです。まえにどこかで逢《あ》ったことがある、と思ってました」
フランスの、雨に濡《ぬ》れた灰色の小さいある村のことを、僕たちはしばらく話し合った。たしかにこの男はこの近所に住んでいる。水上飛行機を買ったばかりで、朝になったら試験してみるつもりだ、と語ったからだ。
「いっしょに行ってみないか、ねえ君《オールド・スポート》?《*》 海峡の渚《なぎさ》のすぐ近くなんだ」
「何時に?」
「いつでも君が都合がいいときでいいよ」
名前をたずねる言葉が、舌の尖《さき》まで出かかったとき、ジョーダンが振り向いて、微笑んだ。
「愉《たの》しくって、いまは?」彼女はきいた。
「とてもいいよ」新しい知り合いのほうに僕はまた向いた。「こんなの、僕には珍しいパーティですよ。主人にまだ逢《あ》ってもいないんだから。僕はあそこに住んでるんだけど――」僕は片手を振って、遠くの見えない垣根を指さした。「しかもこのギャツビーってひとは、お抱えの運転手に招待状を持たせて寄こしたんだから」
一瞬、わかりかねるというふうに、彼は僕を見た。
「僕がギャツビー」彼はいきなり言った。
「ええッ!」僕は叫んだ。「やあ、失礼しました」
「知ってると思ってたよ、ねえ君。どうやら僕はそれほどいい主人役じゃなさそうだね」
彼はわかっている、というふうに微《ほほ》笑《え》んだ――いや、わかっているなぞというものではなく、それ以上のものだった。一生に四、五回しか出《で》喰《く》わさないような珍しい笑いで、永久に変らない自信を湛《たた》えているしろものだ。それは一瞬、久《く》遠《おん》の全世界と面接する――でなければ、面接するように思われる。やがてとめようもないくらい、むやみにひとの肩をもって、そのひとに笑いかける。こっちが理解してもらいたいと思うだけたっぷり理解してくれる。自分で自分を信じたいと思うとおりに、こっちを信じてくれる笑いだ。最上の状態で伝えたいとのぞむ印象を、そのとおり受けとった、と保証してくれる笑いだ。まさしくその点で笑いは消えた――すると僕は三十を一つ二つ越した、端麗で無頼の青年を見つめていた。形式ばって念入りな言葉遣いは、もう少しで愚劣なものになりかねなかった。彼が自己紹介をする少しまえに、言葉遣いに細心の注意を払っているな、という印象を僕は強く受けた。
ミスタ・ギャツビーが名乗りでたのと同時に、執事が慌《あわただ》しく彼のところへきて、シカゴから電話がかかっていると告げた。僕たちにいちいち軽くお辞儀をして、失礼すると言いわけをした。
「欲しいものがあったら、かまわず言って下さいよ、ねえ君」彼は力をこめて言った。「失礼します。またあとできますよ」
彼が行ってしまうと、僕はすぐジョーダンのほうを向いた――びっくりしたので、どうしても彼女に確かめたかったのだ。ミスタ・ギャツビーは中年の、赭《あか》ら顔ででぶでぶと肥《ふと》った男だろうと、当てこんでいたのだ。
「あれは誰なの?」僕は訊《き》きただした。「知ってる?」
「ほかでもないギャツビーっていうひとよ」
「どこの出身かっていう意味なんだよ。それで何をやってるのかね?」
「いよいよあんたもその問題をきりだしたのね」と、彼女は弱々しく笑いながら答えた。「そうね、オックスフォード大学出だって、いつかあたしに話したわ」
ぼんやりしていた背景が、彼の背後にはっきりした形をとり始めたが、次の言葉でまた消えてしまった。
「だけど、信じられないわ」
「なぜさ?」
「わからないわ」彼女は言い張った。「でもあのひとがあそこへ行ったなんて、ちょっと考えられないもの」
そういう彼女の調子に潜んでいるあるもののせいで、僕はほかの娘が「あのひと人殺しをしたと思うわ」と、言ったことを憶《おも》いだした。僕の好奇心はいやが上にも刺《し》戟《げき》された。ギャツビーはルイジアナの湿地か、ニューヨークのイースト・サイドから出た、という話なら、一も二もなく認めたろう。それならわかる話だった。だが、青年のくせに、どこからともなく涼しい顔をしてさまよいでてきたかと思うと、ロングアイランド海峡に面した宮殿を買う、なんてことはしない――少くとも、僕のような田舎者の乏しい経験では、そんなことはしないと思う。
「とにかく大きなパーティをやるわね」ジョーダンは都会風に具体的なことを嫌って、話題を変えて言った。「それにあたし大きなパーティ好きよ。とても親しみがあるでしょう。小さなパーティだと、こっそりしていられないもの」
大太鼓が鳴って、庭園でみんながぺちゃくちゃ喋《しやべ》っている上で、オーケストラの指揮者の声がいきなり響き渡った。
「淑女並びに紳士諸君」と、彼は叫んだ。「ギャツビー氏のご所望により、これよりウラジミール・トストフ氏の最近作、去る五月カーネギー・ホールで非常な注目を惹《ひ》きましたる曲を演奏致します。皆様新聞をご覧になれば、一大センセーションが捲《ま》き起ったことがおわかりです」彼は愉快な、謙《けん》遜《そん》した微笑を浮かべて、言い添えた。「いやその、適当なセンセーションです!」そこでみんなどっと笑った。
「この曲はウラジミール・トストフの『ジャズ世界史』として知られているものであります」と、彼は威勢よく結んだ。
トストフ氏の曲がどんなものだか、僕の耳には入らなかった。というのは、ちょうどそれが始まったとき、独りで大理石の石段に立って、満足そうな眼で、グループからグループを見渡している、ギャツビーが眼にとまったからだ。彼の日焼けした皮膚は、きゅっと顔をひき締めていて、それが魅力的だった。短い髪は毎日摘《つ》んでいるのではないか、と思うほどきちんとしていた。不吉な陰《か》翳《げ》は彼のどこにも見られなかった。酔っていないので、そのせいでお客たちとなじまないのじゃないだろうか。和気藹《あい》々《あい》とした、どんちゃん騒ぎが高まるにつれて、彼はいよいよきちんとしてくるように思われたからだ。「ジャズ世界史」が終ると、宴会の浮かれた気分で、仔犬がじゃれるように、男たちの肩に頭をもたせかける娘たちもあり、ふざけて男たちの腕のなかにあとじさりに卒倒したり、誰かが支えてくれることを承知で、グループのなかにまで卒倒しかかる娘たちもあった――だが、ギャツビーに倒れかかる者はひとりもなかったし、ギャツビーの肩に手を触れるフランス風の断髪の乙女もなかった。輪をつくってギャツビーを指揮者にする四重唱をやろうとする者もなかった。
「ご免下さい」
ギャツビーの執事が、不意に僕たちの傍に立っていた。
「ベイカーさんでいらっしゃいますか?」彼はきいた。「失礼ですが、ギャツビーさんがあなた様おひとりとお話し申したいそうです」
「あたしと?」彼女はびっくりして、大声で言った。
「はい、さようで」
驚いた、というふうに彼女は僕に向って眉《まゆ》をつり上げて見せ、ゆっくり立ちあがって、執事のあとをついて家のほうへ行った。気がついてみると、彼女は夜会服を着ていた。彼女のドレスはどれもスポーツ服に似ているから――よく晴れたすがすがしい朝、ゴルフ・コースを初めて歩き習ったところだ、とでもいうように、身のこなしが颯《さつ》爽《そう》としていた。
僕は独りでいた。もう二時に近かった。テラスの上に張りだしている、窓がたくさんある細長い部屋から、めちゃくちゃな、面白そうな音が、さっきからしていた。ジョーダンの付添いだった大学生は、気のすすまないふたりのコーラスガールに聞いてもらおうと、一生懸命話しかけているところだった。僕にもその話に入るように頼みこまれたが、断って、家のなかへ入った。
その大きな部屋には、ひとがいっぱいだった。例の黄色い服を着た娘のひとりが、ピアノを弾いて、その傍に有名な合唱団からきた、背の高い、赤毛の若い女が立って、歌っていた。彼女はシャンペンをしたたか呑《の》んでいたので、歌が進行するあいだ、馬鹿馬鹿しいことだが、何ごとも、とても、とても悲しいと決めてかかっていた――歌っているだけでなく、泣いていた。歌の休止のところへくると、いつも喘《あえ》ぐように、とぎれとぎれに啜《すす》り泣くので、休止にならなかった。やがて震えるソプラノで、またオペラを歌い始めた。涙が頬《ほお》をつたって流れた――といっても、とめどなくするすると流れたのではない。ぽったりと露の玉を宿した睫《まつ》毛《げ》に、新しく涙が触れると、インク色になって、やがてゆっくりと、黒っぽいせせらぎとなって、あとの道を辿《たど》って行くからだ。顔に書かれた音符を歌っているよ、とユーモラスにそれとなく指摘する者があった。すると、彼女はさっと両手を挙げて、椅《い》子《す》に躯《からだ》を投げだして眠りこんだ。一杯機嫌のぐっすりした眠りだ。
「あのかたの主人だって言いふらしてるひとと一戦を交じえてらしったのよ」すぐ傍にいた娘が説明してくれた。
僕はあたりを見まわした。まだ残っている女たちはたいてい、彼女たちの夫と称する男たちと交戦中だった。ジョーダンの一行だった、イースト・エッグからきた四人組までが、いさかいをして離れ離れになった。ひとりの男が強い好奇心に駆られて、若い女優に話しかけていると、細君は品を保って、無関心を装い、その情景を嘲《ちよう》笑《しよう》しようとつとめていたが、そのあと、まるで態勢が崩れてしまって、やがて立ち直って側面攻撃をかけた――ときおり、怒れるダイヤモンドの如く、突如夫の傍に現れては、「あなた約束なさったじゃないの!」と耳もとにしゅっしゅっとかすれた声で罵《ののし》った。
家へ帰りたがらないのは、気紛れな男たちばかりとは限らなかった。哀れにも白面《しらふ》の男がふたり、ひどく腹を立てている細君たちと、我がもの顔にいま広間を占拠していた。細君たちは思いなしか声を高めて、同情し合っていた。
「あたしが愉《たの》しんでるとわかると、いつでも宅は帰りたがるんですもの」
「そんな利己主義って、あたしいちどだって聞いたことございませんわ」
「あたしたちいつでもいちばん早く引き揚げる組ですの」
「あたしたちもそうですわ」
「ところで今夜は最後だといってもよさそうだね」と、男のひとりが恐る恐る言った。「オーケストラは半時間も前に引き揚げてったから」
そんな意地悪な考えは信用できない、と細君たちの意見は一致したが、それでも言い争いは短いこぜり合いに終り、ふたりの細君はどちらも抱き上げられて、足をバタバタ蹴《け》ちらしながら、夜のなかへ運びだされた。
広間で帽子を持ってきてもらうのを待っていると、書斎の扉《とびら》が開いて、ジョーダン・ベイカーとギャッビィが揃《そろ》ってでてきた。彼は熱心な身振りで最後の言葉を話していたが、五、六人傍へ近づいてきて、さよならを言うと、彼の態度は急に硬《こわ》ばって、形式ばったものに変った。
ジョーダンの一行は待ちきれずに、玄関《ポーチ》から彼女を呼んでいたが、彼女はしばらくぐずぐずしていて、僕と握手した。
「とてもびっくりするようなこと聞かされたのよ」彼女はささやいた。「あそこにどのくらいいたかしら?」
「そうだね、一時間くらいだよ」
「そのお話……とにかくびっくりするようなことよ」と、彼女はうつけたように繰りかえした。「でもあたし喋《しやべ》らないって誓ったの。だからここであんたを焦《じ》らして苦しめてるわけね」彼女は僕の目の前でしとやかに欠伸《あくび》をした。「ぜひいらしってね……電話帳ご覧になって……シガニイ・ホワードという名前のところよ……伯《お》母《ば》なの……」彼女は話しながらいそいで去った――陽《ひ》焼《や》けした手を振り、元気よく挨《あい》拶《さつ》して、扉口のところにいた一行のなかに消えた。
初めて顔を出したのに、こんなに遅くまでいたことが、僕はかなり恥しかったが、ギャツビーを囲んで群がっている最後の仲間に加った。夕方はやくにギャッビィを探したことを説明したかった。庭園で逢《あ》っても気がつかなかった弁解をしたかった。
「とんでもない」彼は熱心に、決めつけるように言った。「変なふうに考えなくてもいいんだよ、ねえ君」親しそうな表情も、片手で元気づけるように僕の肩をこすっただけで、それ以上の親しさは示さなかった。「それから明日、朝九時に水上飛行機に乗るから忘れないで」
すると執事が、彼の背後で言った。
「フィラデルフィアからお電話でございます」
「よろしい、すぐ行くから。すぐ行くからと話しときなさい。……おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみ」彼は微《ほほ》笑《え》んだ――すると不意に、僕が最後に帰る仲間のなかにいたことに、何か愉快な意味があるらしいようすだった。まるで僕が最後に帰る仲間であってほしかった、とまえから望んでいたのだ、とでもいうようだった。「おやすみ、ねえ君。……おやすみ」
だが、石段を降りながら、パーティの夜はまだまったく終ったわけでもないことがわかった。扉から五十フィート離れたところで、十幾つかのヘッドライトが、奇怪な騒々しい場面を照しだしていた。邸内車道を出て、ものの二秒とは経《た》っていないクーペの新車が、路傍の溝《みぞ》のなかに、右側を上にして、倒れていた。車輪がひとつ、もの凄《すご》い勢いでもぎ奪《と》られていた。壁が鋭く突き出ているために、車輪が取れたのだとうなずける。そのときは物見高い六人の運転手が固《かた》唾《ず》を呑《の》んでじっと見ていた。だが、彼らが車を降りて路をふさぐと、うしろにいる幾台もの車から、騒々しい警笛の響きがときどき激しく聞えて、それがすでにその場のごったがえした混乱に、さらに拍車をかけていた。
長い塵《ちり》除《よ》けの上っ張りを着た男が、壊れた車から降りて、路の真中に突っ立ち、剽《ひよう》軽《きん》な当惑したようすで、車からタイアに、タイアから見物人にと、眼を移している最中だった。
「ほら!」と、彼は叫んだ。「溝に落っこったよ」
その事実に彼はいつまでも驚いていた。僕はまずその異常な驚きっぷりに気づき、やがてその男に気がついた――それはさっきの、ギャツビーの書斎の贔屓《ひいき》客《きやく》だった。
「どうしたんだね?」
彼は両肩をすぼめた。
「機械のことはわしは何も知らん」彼はきっぱり言った。
「だけどどうしたんだね? 壁のなかへ突っ込んだのか?」
「わしにきいたってしようがないよ」と、「梟《ふくろう》の眼」は言って、すっかり手をひいたかたちだった。「わしは運転のことはあまり知らん――いやまるで知らんといってもいい。そうなったんだ――わしの知ってることは、それだけさ」
「そうだね、あんまり運転できないなら、夜間運転なんかやるべきじゃないね」
「いや、やるどころじゃないよ」彼はむっとして説明した。「やるどころじゃないよ」
見物人は畏《おそ》れに打たれたようにしーんとなった。
「自殺したいのかい?」
「車輪だけですんで、運がよかった! 下《へ》手《た》な運転手のくせに、やるどころじゃないだってさ!」
「君たちはわからんのだね」と犯人は説明した。「わしは運転しなかったんだ。車にもうひとりいるんだよ」
こうはっきり言い渡されると、みんなハッと衝撃を受けたが、クーペの扉《とびら》がゆっくり、すうっと開くのを見ると、「アーアー!」と押し殺した声をだした。群集――いまはもう群集だった――は思わず一歩退った。扉がすっかり開くと、幽霊がでてくるときのように、しーんとなった。すると、ひどくゆっくりと、蒼《あお》ざめたふらふらする男が、壊れた車からだんだんそとへ踏みだしてきて、大きなだぶだぶの舞踊靴で地面を試すように、こつこつ打った。
ギラギラ光ったヘッドライトに眼が眩《くら》み、ひっきりなしに唸《うな》っている警笛にへどもどして、そこに現れた妖《よう》怪《かい》は、一瞬ふらふらしながら立っていたが、やがて塵《ちり》除《よ》けの上っ張りを着た男を認めた。
「どうしたんだい?」彼はしずかにきいた。「ガソリンが無くなったのかね?」
「見なさい!」
六人ばかりのひとたちが、切断された車輪をそれぞれ指さした――彼は一瞬その車輪を見つめていたが、やがて空を見上げた。空から落ちてきたのかな、と疑っているらしかった。
「取れたんだよ」誰かが説明した。
彼はうなずいた。
「初め車がとまったのがわからんかった」
話がとぎれた。すると、深い息をして、両肩を張って、彼はきっぱりした声で言った。
「ガソリン・ステーションがどこか、教えてくれんかな?」
少くとも十二人が、その幾人かはこの男よりもう少しましな境遇にある連中だったが、車輪と自動車は、もういっさいの物質的な絆《きずな》で結ばれてはいない、と説明した。
「バックしてくれ」しばらくして彼が案をだした。「逆行させてくれ」
「だって車輪が取れちゃってるんだよ!」
彼は言いよどんだ。
「やってみたって悪かないさ」と、彼は言った。
啀《いが》み合うような警笛が漸強音《クレツセンド》に達した。僕はひきかえして、芝生を横ぎって家のほうへ行った。いちどちょっと振りかえって見た。細い月がギャツビーの家の上に輝いて、相変らず夜を美しく色どっていた。いまなお灯《あかり》が皎《こう》々《こう》としている庭園に、笑い声や物音が湧《わ》き起るさまを月は見渡している。窓々や大きないくつもの扉口から、突如空虚が流れ出ているように思われた。そのため、ポーチに立って、片手を挙げて、形式ばった別れの挨《あい》拶《さつ》をしている主人の姿は、まるで孤独なものとなった。
これまで書いてきたことを読みかえしてみると、五、六週隔った三夜の出来ごとが、すっかり僕の心を奪ったことであるような印象を与えていることがわかる。ところがそうではなくて、多事多端な夏にあって、それはほんの行きずりの出来ごとにしかすぎなかった。ずっとのちになるまで、僕の個人的な事件に比べれば、僕の心を奪うなどということは、まるでなかったのだ。
大部分の時間、僕は働いた。朝早く太陽が僕の影を西に投げるころ、正直信託《プロビテイ・トラスト》に向って、南ニューヨークの白亜の建物と建物のあいだの、深い峡谷のような街路をいそいだ。ほかの事務員や証券の外交員の名前を知っていたし、彼らといっしょに、薄暗い混んだレストランで、小さい豚のソーセージ、マッシュ・ポテト、コーヒーで昼食をとった。ジャージー・シティ《*》に住んでいる、会計課に勤めている娘と、ちょっとした恋愛事件を起したりした。だが女の兄が僕に向って意地の悪い目つきをし始めたので、七月彼女が休暇をとって休んだときをしおに、それとなく沙《さ》汰《た》やみにしてしまった。
ふつう晩《ばん》餐《さん》はエール・クラブでとった――ある理由から、これは一日のうちで最も陰《いん》鬱《うつ》な出来ごとだった――それから二階の図書室へ行って、良心に恥じない一時間を、投資や有価証券の勉強に当てた。たいてい呑《の》んだり騒いだりする人が二、三人はいたが、決して図書室へ上がってくることはなかったので、仕事をするにはいい場所だった。そのあと、しっとりした夜だと、マジソン通りをぶらぶら下り、古いマレー・ヒル・ホテルを通り過ぎて、それから三十三番街を越え、ペンシルヴァニヤ駅まで歩いた。
僕はニューヨークが好きになりだした。夜の活気にみちた、冒険的な感じ。ひきもきらず現れたり消えたりする男女や明滅する機械を見ると、落着きのない眼も満足するのだ。五番通りを歩きながら、群集のなかからロマンチックな女を見分けるのが、僕は好きだ。そして、一、二分すれば彼女たちの生活のなかへ入ってゆくのだ。しかも誰も気がつかないし、誰からも文句は出ない、なぞと想像するのが好きだった。ときおり、心のなかで、彼女たちのあとを追ってみる。隠れた裏街の隅にあるアパートまで行くと、彼女たちは振りかえって僕に向って微笑を返してから、扉《とびら》口《ぐち》を通って暖かな屋内の闇《やみ》に消えてしまう。心を魅する都の黄昏《たそがれ》のなかに立ちながら、僕はときおり孤独に襲われるのを感じた。他のひとたち――独りぼっちで、晩餐をとる時間がくるまで、レストランの窓の前をぶらぶらして待っている、貧しい若い事務員たちにも――暮かかる夕闇のなかに佇《たたず》みながら、胸を締めつけられるような、夜や人生の一瞬一瞬を浪費している若い事務員たちにも――それを感じた。
それにまた、八時になって、四十番街あたりの暗い傍道に、劇場地区へ向うタクシーがとまって、震動しながら五台も縦に並んでいると、僕の心は沈んでくる。車がスタートするのを待ちながら、なかでは人影がたがいに身をすり寄せている。歌っている声もする。ここまでは聞えないけれども、何か冗談を言ったらしく、笑いが起る。煙草に火をつけると、車内のひとたちがぼやけてくる。僕だって華《はな》やかなところへいそいでいるのだ、僕だってこのひとたちの親しそうな興奮に一枚加わるのだ、と想像しながら、僕はこのひとたちよ、愉《たの》しかれ、と祈った。
しばらくジョーダン・ベイカーを見かけなかった。すると、真夏にまた逢《あ》った。最初のうちは彼女といろんな場所へ行くのが得意だった。ゴルフのチャンピオンで、誰でも名前を知っていたからだ。そのうち、何かしらそれ以上のものになった。現に僕は恋はしていなかったが、なんというか、愛情のこもった好奇心を感じていた。彼女は世間のひとに向って、退屈した高慢な顔つきをするが、そこには何か隠されている――たいてい気取った態度というものは、始まりはそうでなくても、結局何かを隠しているのだ――で、ある日、そいつが何であるかわかった。ウォーリック《*》の招待会にいっしょに行ったとき、彼女は借りてきた自動車を、屋根をおろしたままで、雨のなかへ置いた。あとでそのことで嘘《うそ》をついた――すると、あの晩デイジーの家で、どうしても憶《おも》いだせなかった、彼女にまつわる話がふいに憶いだされた。彼女にとって初めての、大きなゴルフ・トーナメントのとき、騒ぎがもちあがって、もう少しで新聞に出そうになった――準決勝でよくない嘘を言って、ボールを動かしたんじゃないかという話。事は世間を騒がせるところまでいった――すると、それが消えてしまった。キャディは自分の言ったことを取り消したし、もうひとりの、唯《ゆい》一《いつ》の目撃者は、自分の間違いだったかもしれない、と認めてしまった。この出来ごとと名前がいっしょになって、僕の心に残っていたのだ。
ジョーダン・ベイカーはかしこい、鋭いひとを本能的に避けた。いまになってわかったことだが、これは掟《おきて》から脱線することが不可能だ、と考えられる場に立ったほうが、いっそう安全だ、と感じるからなのだ。薬のつけようのないほど、彼女は不誠実だった。彼女には不利な立場に立つことが、たえられなかったのだ。で、不利になるという嫌なことが与えられると、ごく若いときから、口実をでっちあげることを始めたのだ。それというのも、あの冷やかで高慢な微笑を、世間のひとに向って、いつまでもしていたいと願っていたからだし、いっぽう、自分のがっしりした、元気な躯《からだ》の求めるものを、満足させたいと願っていたからだ。
しかしそんなことは、僕にはたいしたことではなかった。女の不誠実なんか、そう深く咎《とが》めだてすることではない――時に遺憾だったが、やがて忘れてしまう。自動車の操縦のことで、妙な会話をしたのも、その同じ招待会のときだった。彼女の操縦する車が、数人の労働者のすぐ近くを通ったので、車の泥《どろ》除《よ》けがひとりの男の上着のボタンをはじいたので、話が始まった。
「駄目な運転手だね」僕は文句を言った。「もっと慎重にやらなくちゃ。それができないなら、全然運転しないことだ」
「あたし慎重よ」
「いや、そうじゃないよ」
「それじゃ、ほかのひとがそうよ」彼女は平然と言った。
「それが何の関係があるのかね?」
「ほかのひとがよけてくれるわ」彼女は言い張った。「事故が起るのは、ふたつのものが寄らなくちゃね」
「もし君とそっくり不注意なひとと出《で》逢《あ》ったら」
「断然出逢いませんように」と、彼女は答えた。「不注意なひとって嫌いよ。だからあなたが好きなのよ」
太陽の灰色の強い光線を避けるうちに癖になった藪《やぶ》睨《にら》みの眼を、真直ぐ前方に注いだままだったが、彼女は僕たちの関係をわざと変えたのだ。で、束《つか》の間《ま》彼女を愛しているような気がした。だが、僕は頭脳の回転が鈍《にぶ》くて、内心の規則がいっぱいあって、それがブレーキとなって僕の欲望を抑えてしまうのだ。まず第一にその縺《もつ》れからきっぱりと脱け出して、本塁に還らなければいけないことは、僕も知っていた。週に一回手紙を書いて、「愛をこめて、ニックより」と署名したのだった。それでも、せいぜい憶いだせたことといえば、これこれのある少女がテニスをしたときには、汗がたまって薄っすらと髭《ひげ》が上唇にできていたっけ、ということぐらいだった。それでもやはり、自由になるまえに、思いきりよく断ち切らなければならない、漠然とした意思の疏通がほかにあったのだ。
ひとは誰でも、基本的な美徳のせめてひとつぐらいは、自分にもありはしないかと思うものだ。そしてこれが僕のである――僕は知ってる限りの最も誠実な、数すくないひとびとの仲間だ、というのが。
第四章
日曜日の朝、渚《なぎさ》沿《ぞ》いの村々で教会の鐘が鳴るころ、信仰心のない男女が、ギャツビーの家へまた舞い戻って、芝生にあらわれ、陽気にちらちらと動きまわっていた。
「密造酒を売り捌《さば》いているのね」と、若い女たちはギャツビーのことを言いながら、彼のだしたカクテルや、彼の作った草花のあいだをぶらぶら歩いた。「あるとき、自分はフォン・ヒンデンブルグ《*》の甥《おい》で、あの悪魔《*》とはまたいとこだってことを見破った男を、殺したのよ。あなた、薇《ば》薔《ら》を採《と》ってちょうだい。これが最後よ、そのそこにあるカット・グラスにちょっと注いでちょうだい」
あるとき、僕はその夏ギャツビーの家へきたひとたちの名前を、行事予定表の余白に書きとめた。もう古い予定表で、折り目がばらばらにくずれてしまって、「この予定は一九二二年七月五日に実施」と、見出しに書いてある。それでも灰色になった名前はいまでも読めるし、その名前を挙げれば、ギャツビーのもてなしを受けながら、ギャツビーのことは何も知らない、とずるく敬遠してしまったひとびとについて、僕が総括的な話をするよりも、もっとはっきりした印象を読者に与えることになるだろう。
ところで、イースト・エッグからきたのは、チェスター・ベッカー夫妻、リーチ夫妻、僕がエールで知っていたバンセンという男、ウェブスター・シヴィット博士、このひとは去年の夏メインで溺《でき》死《し》した。それからホーンビーム夫妻、ウィリー・ヴォルテヤー夫妻、ブラックバックの一族全員、彼らはいつでも隅のほうに集っていて、誰が傍へ寄ってきても、山羊のように鼻をぴくぴく動かした。それからイズメー夫妻、クリスティ夫妻(というよりも、ヒューバート・アウエルバッハとクリスティ氏の細君と言ったほうがいい)、エドガー・ビーヴァ、このひとの髪の毛は、これといった正当な理由なんかまったくないのに、ある冬の午後、綿のように白くなったという。
クラレンス・エンダイヴは、僕の記憶ではイースト・エッグからだった。彼は白いニッカーボッカーをはいて、たった一度きただけだが、しかもエティという浮浪人と庭園で喧《けん》嘩《か》した。島の遥《はる》か遠くからきたのは、チードル夫妻、オー・アー・ピイ・シュレイダー夫妻、ジョージアのストーンウォール・ジャクソン・エイブラム夫妻、フィシュガード夫妻、リプレー・スネル夫妻。スネルは州刑務所にはいる三日前にきていたが、ひどく酔って、砂利を敷いた邸内車道でユリシーズ・スウェット夫人の自動車に右手を轢《ひ》かれた。ダンシー夫妻もきたし、それからとっくに六十の坂を越したエス・ビイ・ホワイトベイト、それからモーリス・エイ・フリンク、ハマーヘッド夫妻、煙草輸入業者のベルーガと娘たち。
ウエスト・エッグからきたのは、ポール夫妻、マルレディ夫妻、セシル・ロウバック、セシル・シェーン、州会議員グーリック、ニュートン・オーキッド、このひとは特別優秀映画会社の取締だ。エックハウスト、クライド・コーエン、ドン・エス・シュヴァルツ(息子)、アーサー・マッカーティ、みんな何かしら映画に関係のあるひとたちだ。それから、キャトリップ夫妻、ベンバーグ夫妻、ジイ・アール・マルドゥーン、のちに細君を絞殺した、例のマルドゥーンの兄弟である。プロモーターのダ・フォンターノオがそこへやってきた。エド・ラグロー、ジェームズ・ビイ(「下《ラツ》等《ト・》酒《がツト》」)、フェリット、ド・ヨング夫妻、アーネスト・リリー――彼らは賭《と》博《ばく》をしにきた。で、フェリットがぶらぶら庭園にでてくれば、一文なしに捲《ま》きあげられるのだし、その翌日の連合鉄道輸送の株が騰《あ》がらないと困るだろうと察しがつくわけだ。
クリップスプリンガーという男は、しょっちゅうきて、いつまでもいたので、「下宿人」とまでいわれて有名になった――どこかに家庭があったのかどうか疑わしい。劇団のひとたちでは、ガス・ウェイズ、ホレース・オードノヴァン、レスター・マイアー、ジョージ・ダックウィード、フランシス・ブル。またニューヨークからきたのは、クローム夫妻、バックハイソン夫妻、デニカー夫妻、ラッセル・ベッティ、コリガン夫妻、ケラー夫妻、ドゥーアー夫妻、スカリー夫妻、エス・ダヴリュ・ベルチャー、スマーク夫妻、いまは離婚している若いクウィン夫妻、ヘンリー・エル・パルメットー、このひとはタイムズ・スクエアで、突進してくる地下鉄の前に飛び下りて自殺した。
ベニー・マックレナンはいつでも、若い女を四人連れてやってきた。彼女たちは同じ容姿をしていたわけでは決してないが、おたがいにとてもよく似ていたので、どうしても前にここへ来たことがある、というふうに見えた。彼女たちの名前は忘れてしまった――ジャクリーヌだったと思う。でなければ、コンスエラか、グロリアか、ジュディか、ジューンだったか。姓は花や月のメロディアスな名前だったか、あるいはアメリカの大資本家の、とてもいかめしい名前だったか。無理にきけば、資本家の従妹《いとこ》だと白状するかもしれない。
こうしたひとたちに加えて、フォースティーナ・オプライエンが、少くともいちどはここへきたような記憶がある。それからベデカーの娘たち、若いブルワー、彼は戦争で撃たれて鼻を奪《と》られてしまった。ミスタ・アルブラックスバーガーと許《いい》嫁《なずけ》のミス・ハーグ、アーディタ・フィツピーターズ、元アメリカ世界大戦参加軍人会長のミスタ・ピイ・ジュウェット、お抱え運転手だという評判の男と、いっしょにきたミス・クローディア・ヒップ、僕たちが公爵と呼んだ、なんとかのプリンス、その名前は知っていたんだが、忘れてしまった。
こうしたひとたちがみな、その夏ギャツビーの家へきたのだ。
七月下旬のある朝九時に、ギャツビーの豪《ごう》奢《しや》な自動車が、岩石を敷いた車道をよろめくように走って、僕の家の扉《とびら》のところまできて、いきなり警笛を鳴らして、三音階のメロデーを奏した。初めて訪ねてきたのだ。しかし僕は二度彼のパーティにでかけて行ったし、水上飛行機にも乗ったし、熱心に誘うので、彼の所有地の渚《なぎさ》をたびたび使ったりもした。
「お早よう、ねえ君。今日は昼飯を喰《く》おうよ。それで車でいっしょに行こうと思ったんだ」
彼は車の泥《どろ》除《よ》けに乗って、体の平衡を保っていたが、これはアメリカ人特有の、あのいつまでも消耗しきることのない身振りだ――その身振りは多分、若いときに重量のものを手で持ちあげることをしなかったからだし、それにもまして、上品な身振りを作りだすいろんな運動競技に参加しなかったからだと思う。これが落ちつきがないというかたちをとって、折角の几《き》帳《ちよう》面《めん》な態度も、ひっきりなしにぶち壊しになった。彼はじっとしていることは絶えてなかった。いつでもどこかしら足でコツコツ叩《たた》いているか、さもなければ手をいらいらと開いたり、握ったりしていた。
僕が車を眺めて讚《さん》嘆《たん》しているのを、彼は目にとめた。
「きれいだろう、ねえ君?」僕にもっとよく見させるように、彼は跳《と》びのいた。「まだ見たことがなかったのかい?」
僕だって見たことがある。誰だって見たことはある。その車は鮮かなクリーム色で、ニッケルがきらきらかがやき、途方もなく長い車体のここかしこが脹《ふく》らんでいるのは、帽子入れや、食事の箱、道具箱などが、得意顔にそこにあるからだ。風防ガラスはテラスのように、複雑に入り組んだ段々になっていて、それが太陽をいくつにもうつしていた。幾層ものガラスのうしろの、いわば緑色の皮革製の温室とでもいうべきところに坐《すわ》って、僕たちは街《まち》へ出発したのだ。
この一ト月ばかりのあいだに、たしか六回ほど彼と話したことがあるが、話らしい話を彼はほとんど何ももっていないことがわかったので、僕は失望していたのだ。だから、何かはっきりしないが、とにかく重要な人物なんだという、第一印象はだんだん消えてしまって、ただ隣りの、数《す》奇《き》を凝《こ》らした路傍の旅館の経営者にすぎない者となっていた。
ところが、ひとをまごつかせるような、この自動車旅行が起ったのだ。ウエスト・エッグ村に着くか着かないかに、ギャツビーは上品な話しぶりを途中でやめて、彼のキャラメル色の洋服の膝《ひざ》を、決断がつかないのか、ぴしゃぴしゃ叩き始めた。
「ねえ、君」彼はびっくりするような大声で急に話しだした。「いったい僕のことをどう思ってる?」
いささか圧倒されて、僕はその質問にあった、あたり触わりのない逃げ口上を切りだした。
「じゃ、僕の人生について少し話そう」と彼は遮《さえぎ》った。「ひとから聞いたいろんな話をもとにして、僕のことを誤解してもらいたくないんだ」
彼の家の広間で交される会話に色どりを添えた、あの奇怪な非難のことを、彼は知っていたわけだ。
「絶対真実を話すよ」いきなり右手を挙げて、嘘《うそ》をついたら神の応報に従うという誓いをした。「僕は中西部の金持ちの息子なんだ――もう家の者はみんな死んじゃったけどね。アメリカで育ったが、教育はオックスフォードで受けたんだ。僕の先祖は誰でも昔から、そこで教育を受けるからなんだ。古くからの家のしきたりさ」
彼は僕を横目で見た――で、彼は嘘をつく、とジョーダン・ベイカーが思いこんでいた理由が僕にもわかった。「教育はオックスフォードで受けたんだ」という言葉を、彼はいそいで言った。その言葉を呑《の》みこんだり、そこで詰まったり、まるで前にもそれで悩まされたことがあったみたいだ。こう疑われてくると、彼の言うことはすべて粉々に崩れてしまった。煎《せん》じつめれば、不吉なものが彼にはまつわっているのではないのかしら。
「中西部のどの辺?」ふと僕はきいた。
「サンフランシスコ」
「なるほど」
「家の者がみんな死んじゃったので、うんと金を相続したんだよ」
一族がそのように突然消滅してしまった記憶に、いまなおとり憑《つ》かれているのか、彼の声は厳粛だった。一瞬、からかっているのではないかと疑ったが、彼をひと目見ただけで、そうでないことはたしかだった。
「その後、ヨーロッパ中の都会――パリ、ヴェニス、ローマで、若いインドの王様みたいに暮したよ――宝石、そう、おもにルビーを蒐《あつ》めたり、獅《し》子《し》や虎《とら》の猛獣狩りをしたり、自分だけの手慰みだが、少し絵を描いたりして、ずっと前にあった、とても悲しいことを忘れようとしたんだ」
それを疑うような笑いを、僕はやっと抑えた。こういう言葉遣いはすっかり擦《す》り切れているので、なんのイメージも喚《よ》び起さない。ただブーローニュの森で虎を追いながら、穴からおが屑《くず》をこぼす、ターバンを巻いた「人形《*》」の姿しか思い浮かばなかった。
「すると戦争になったんだよ、ねえ君。大きな救いだった。一生懸命死のうとしたんだが、どうやら僕は魔に憑かれたような生活に耐えたらしいよ。戦争が始まると中尉に任命されたんだ。アルゴンヌの森で、生き残った自分の機関銃大隊をうんと前進させたんだが、両側にいた歩兵が前進できなかったから、半マイルばかり切れ目ができちゃった。そこに二日二晩頑張った。兵隊が百三十人、ルイス式軽機関銃十六挺《ちよう》だけさ。しまいに歩兵がきたが、死体の山のなかから、ドイツ軍の三箇師団の記章が見つかったよ。僕は少佐に昇進した。連合国の政府はどの政府も僕に勲章をくれたよ――モンテネグロ、ほらあのアドリア海の尖《さき》っちょの小っぽけなモンテネグロまでくれたんだぜ」
小っぽけなモンテネグロ! 彼は高く叫ぶように言って――彼らしい微笑をたたえながら、うなずいた。モンテネグロの苦難にみちた歴史を理解し、モンテネグロ国民の勇敢な奮闘ぶりに同情している微笑だった。一連の国際情勢に促されて、モンテネグロがささやかな熱烈な心をこめて、この贈物をくれたことを、充分認めている微笑だった。疑い深かった僕も、いまはその魅惑に浸っていた。一ダースばかりの雑誌を、大急ぎで読んでいるみたいだった。
彼がポケットに手を突っ込んだと思うと、リボンで吊《つる》したメダルが一個、僕の手のひらに落ちてきた。
「モンテネグロからもらったんだよ」
驚いたことに、見たところほんものらしかった。「ダニエル勲章、モンテネグロ、ニコラス王」と、円形の銘にしるされてあった。
「裏返してごらん」
「ジェイ・ギャツビー少佐、抜群の武勇に対して」と、読めた。
「もうひとつ肌身離さずもってるものがあるんだ。オックスフォード時代の記念品だがね。トリニティカレッジの中庭で撮《と》ったんだよ――僕の左にいるのが、いまのドンカスター伯なんだ」
ブレザー・コートを着た六人の青年が、アーチ路でぶらぶら遊んでいる写真だった。アーチ路の向うには、たくさんの尖《せん》塔《とう》が見えた。そこにギャツビーがいて、クリケットのバットを片手にもって――さほど若くはないが、いまよりはいくらか若い。
するとこれはすっかり本当だったのだ。きっとグランド・キャナルに面して、彼の住む御殿があったのだろう。そこに敷かれた虎の燃えるような色《いろ》艶《つや》が眼に見えるようだ。ルビーの小《こ》筥《ばこ》を開けて、深紅色にかがやく濃い色を眺めては、傷心の苦悩を医《いや》すありさまが眼に見えるようだ。
「今日は君にとんだお願いがあるんだよ」と彼は言って、満足そうに記念品をポケットに収めた。「だから、少しは僕のことを知っておいてもらわなくちゃいけないと思ったんだよ。ただのつまらん人間だと思われたくなかったんだ。ねえ、僕はいつだって知らない連中のなかに身を置いてるだろう。あれは僕にふりかかった悲しいことを忘れよう、忘れようと思って、あちこち彷徨《さまよ》ってるんだよ」彼は言いよどんだ。「午後になれば、悲しいことってどんなことかわかるよ」
「昼飯のときにだね?」
「いや、午後になってだよ。君がベイカーさんをお茶に誘っているのが、偶然わかったんだよ」
「じゃ君はベイカーさんに惚《ほ》れてるっていう意味なんだね?」
「いや、ねえ君。僕は惚れてなんかいないよ。でもベイカーさんは親切さね、君に話してくれるって、承知してくれたんだよ」
「それ」が何なのか、まるで見当がつかない。僕には興味があるよりも煩《わずら》わしかった。僕はなにもミスタ・ジェイ・ギャツビーのことを話し合うために、お茶を飲みに行こう、とベイカーに言ったわけではない。きっとそのお願いというのは、何かまるで風変りなことなのだろう。で、いっぱいひと混みのした彼の家の芝生なんかに、なんだって足を踏み入れたんだろう、と一瞬後悔した。
それ以上彼はひとことも口をきこうとしなかった。市に近づくにつれて、彼は端正になった。ルーズヴェルト港を通ると、赤い筋をつけた太洋航路の汽船がちらと見えた。色《いろ》褪《あ》せた金《きん》鍍金《めつき》の時代、一九〇〇年代風の、黒ずんだ、だがさびれてはいないバーと並んで、修繕された貧民窟《くつ》の傍は、スピードを出して通り過ぎた。やがて灰の谷間が両側に展開する。するとウィルソンの細君が喘《あえ》ぎながら元気よく、ガレージのポンプを一生懸命押しているのが目をかすめた。
僕たちはアストリア《*》の中ほどまで、泥《どろ》除《よ》けを翼のように拡げて、あたりに光を散乱させた――中ほどまででやめた。高架鉄道の台柱の間に曲ったとき、「ジュグ、ジュグ、バタ!」というオートバイの聞きなれた音がして、血走った警官が横にぴたりとついて走ったからだ。
「わかったよ、ねえ君」と、ギャツビーが警官に声をかけた。車は速力を落した。札入れから白いカードを取りだして、それを警官の眼の前で振って見せた。
「結構です」と、警官は帽子を取って承知した。「ギャツビーさん、今度は見そこなわないようにしますよ。失礼しました!」
「あれは何だったの?」僕はきいた。「オックスフォードの写真を見せたの?」
「あの役人にひと肌脱いでやれたんでね、毎年クリスマス・カードを送ってくるんだよ」
大きな橋《*》を走ってゆく自動車に、桁《けた》のあいだからさしこむ陽《ひ》が、絶え間なくピカピカ光っている。イースト・リヴァーの向うには、白い積み重なりか砂糖の塊《かたま》りのように、市が聳《そび》え立っている。願わくば、それはすべて臭くない金銭で建てられたものであってほしい。クイーンズボロ橋から見た市は、いつも初めて見る市のようだ。世界中の神秘という神秘、美という美を、初めてのように、狂暴なまでに約束しているではないか。
死人を載せて、花をうず高く積んだ霊《れい》柩《きゆう》車とすれ違った。窓の覆いをおろした馬車が二台つづき、それよりも明るい馬車が何台か、友だちを乗せてつづいた。友だちは南東ヨーロッパで見かける悲しそうな眼ざしや、短い上唇を向けて、僕たちをじっと見た。ギャツビーの豪《ごう》奢《しや》な自動車を眺めたことは、陰《いん》鬱《うつ》な彼らの休日にとってはせめてものことで、なによりだ。ブラックウエルズ島《*》を通り過ぎるころ、リムジーンとすれ違ったが、運転手は白人で、流行の身なりをした男ふたりに女ひとりの、三人の黒人が乗っている。卵の黄身のような彼らの眼球が、敵意をこめて、横柄に僕たちのほうを向いて丸くなったので、僕は大声を出して笑った。
「この橋を滑るように渡ったからには、どんなことだって起りうるのだ」僕は考えた。「まったくどんなことだって……」
ギャツビーだって、なんのこれといって特別の不思議もなく、現れるのだ。
騒々しい午《ひる》さがり。よく風の通る、四十二番街のある地下室で、昼飯を喰《た》べる約束をしたギャツビーに逢《あ》う。そとの明るい街《まち》に眼が眩《くら》んで、控えの間でほかの男と話している彼の姿がぼんやり見分けられた。
「こちらはキャラウェイさん、こちらは友だちのウルフシェーム君」
鼻の平べったい小男のユダヤ人が、大きな頭を擡《もた》げて、二塊《かたま》りに分けたみごとな髪の毛が、両方の鼻の穴まで伸びている顔で、じっと僕を見つめた。しばらくして薄暗がりのなかで、彼の小っぽけな両眼を見つけだした。
「――そこでわしはあの男をじろっと見たんだがな」と、ミスタ・ウルフシェームは言って、僕の手を真剣になって握った。「それでわしが何をしたと思うね?」
「何です?」と、僕は愛想よくきいた。
しかしどうやら僕に話しかけているのではなかった。僕の手を離して、表情たっぷりな鼻で、ギャツビーの姿を隠してしまった。
「キャツポオにその金を渡してから、わしは言ってやった。『キャツポオ、よろしい。あいつが黙るまでは一銭だって払うんじゃねえぞ』とな。あいつはすぐその場で黙っちゃったよ」
ギャツビーは僕たちの腕をつかんで、レストランのなかへ入っていったので、ミスタ・ウルフシェームは新たに出かかっていた言葉を呑《の》みこんで、催眠術にかかったようにぽかんとしてしまった。
「ハイボールですか?」給仕頭がきいた。
「ここはいいレストランだわい」と、ミスタ・ウルフシェームは言って、天井に描かれた長老教会派のニンフの絵を眺めた。「でもやっぱり街の向う側のほうが好きだよ!」
「うん、ハイボール」と、ギャツビーは応じて、それからミスタ・ウルフシェームに向って言った。「向うは暑すぎて」
「暑くて部屋が小さい――そのとおりだが、ずいぶんと憶《おも》い出があるぜ」ミスタ・ウルフシェームが言った。
「どういう所なのかね?」と、僕はきいた。
「昔のメトロポールなんだ」
「昔のメトロポールさ」ミスタ・ウルフシェームはふさいで考えこんだ。「死んだ顔やいなくなった顔がわんさとある。もう永久におさらばした友だちがわんさとあるぜ。あそこでロージィ・ローゼンタールが撃たれた晩のことは一生忘れられねえな。わしら六人でテーブルを囲んでいた。ロージィは一晩中たらふく喰《く》ったり呑《の》んだりしてた。もう朝になるってときに、給仕が妙な顔をして奴のところへきて、誰かそとまで顔をかしてくれと言うんだ。『よし』と、ロージィは言って、立ちかける。そこでわしが椅《い》子《す》へひき戻してくれた。『ロージィ、用があるなら、そいつらをここへ来させな。きっとこの部屋からそとへ出るんじゃねえぞ』もう朝の四時だった。鎧《よろい》戸《ど》を開けりゃ、陽《ひ》が見られたろうな」
「出てったね?」と、僕は何の気なしにきいた。
「ええ出てったともさ」ミスタ・ウルフシェームの鼻が僕に向って怒ったように赤くなった。「扉《とびら》口《ぐち》のところで振りかえって言うのさ、『給仕におれのコーヒーを下げさせるなよ!』それから歩道へ出ていった。奴らは満腹した腹に三度もぶっ放して、自動車で逃げてったんだ」
「そのうちの四人は電気死刑にされたんだったね」と、僕は憶いだしながら言った。
「ベッカーと五人さね」鼻をうごめかしながら、彼は興味ありげに僕のほうを向いた。「あんたは取引先を探しているってわけかね」
つづいて言われたこのふたつの話の対照には、驚くべきものがあった。ギャツビーが僕に代って答えた。
「ああ、違うよ」彼は叫んだ。「これは違うひとだよ」
「違うのか?」ミスタ・ウルフシェームはがっかりしたらしかった。
「これはただの友だちだよ。例のことはまたいつか話そうと、言ったろう」
「申しわけなかった」と、ミスタ・ウルフシェームは言った。「見違えちゃったわい」
おいしそうな料理ができてきた。ミスタ・ウルフシェームは昔のメトロポールの、ずいぶんとセンチメンタルな雰囲気も忘れて、狂暴といっていいほど、うまそうに喰《た》べ始めた。その間、彼の眼は部屋のまわり中を時間をかけてゆっくりと見まわした――眼の描いた弧は、最後にぐるりと体をまわして、まうしろのひとびとをじろじろ見て、完全な円周となった。もし僕がいなかったら、このテーブルの下もちょっと覗《のぞ》いたかもしれない。
「ねえ、君」とギャツビーが僕のほうにかがみこんで言った。「今朝、車のなかで怒らせちゃったんじゃないかしら」
また微笑が浮かんでいたが、今度は僕もそれに抵抗した。
「僕は秘密が嫌いなんだ」僕は答えた。「だからなぜ君が率直に打ち明けて、どういうふうにしてほしいと話さないのか、僕にはわからん。なぜ一から十までベイカーさんを通してでなくちゃいけないんだ?」
「ああ、秘密なことなんか何もないよ」彼は請《う》け合うように言った。「ベイカーさんはたいした女流運動家さ、そうだろう。だからまちがったことなんか決してするひとじゃないよ」
彼はいきなり時計を見て跳《と》び上がり、僕とミスタ・ウルフシェームをテーブルに残したまま、いそいで部屋から出て行った。
「電話をかけなくちゃいけないんだ」ミスタ・ウルフシェームは言って、眼であとを追った。「よくできたひとじゃねえかね? 器量はいいし、申し分ない紳士さ」
「そうね」
「オッグズフォード出だよ」
「ああ!」
「英国のオッグズフォード大《カレ》学《ツジ》へ行ったんだ。オッグズフォード大学って知ってるね?」
「聞いたことがあるような大学だね」
「世界中でいちばん有名な大学のひとつさ」
「長いことギャツビーと知り合いですか?」僕はきいた。
「五、六年だね」と、彼は満足そうに答えた。「戦争直後お近づきを願ったわけさね。それでも一時間も話したら、育ちのいいひとを見つけたもんだわい、と気がついたね。わしは自分に向ってこう言ったもんだ、『家へ連れてって、母や妹に紹介したいような男だ』」彼はそこでちょっと黙った。「やあ、わしのカフスボタンを見てるね」
僕は見てはいなかったのだが、そう言われて目をやった。妙に親しみのもてる象《ぞう》牙《げ》で造ってある。
「人間の臼《きゆう》歯《し》で造ったんじゃ、いちばん立派なもんさ」と、彼は教えてくれた。
「なるほど!」僕は調べてみた。「なかなか面白い思いつきですな」
「そう」彼は上着の下で袖《そで》をパンとはじいて上にあげた。「そう、ギャツビーは女のことはとても用心してるな。友だちの細君の顔ぐらい見たってよさそうなもんだが、絶対にそんなことはしねえね」
こう本能的に信頼しきっている当の相手が、テーブルに戻ってきて腰をおろすと、ミスタ・ウルフシェームはコーヒーをぐいと飲んで、立ちあがった。
「ご馳《ち》走《そう》さん」彼は言った。「長居をして飽きられないうちに、お前さんたち若いご両人の傍から逃げだそうわい」
「いそがなくてもいいだろう、メイヤー」ギャツビーがお座なりに言った。ミスタ・ウルフシェームは、一種の祝《しゆく》祷《とう》でも捧《ささ》げるように、片手を挙げた。
「たいそう上品でいらっしゃる。ところがわしは違う時代の人間ですわ」と、彼はまじめくさって言い放った。「お前さんたちはここに坐《すわ》って議論なさる、スポーツのことや、若いご婦人のことや、それから――」もういちど手を振って、その架空の名詞を補った。「このわしといや、五十ですわ。だからこれ以上、お前さんたちにつけ込むようなことはしませんわ」
握手して身を翻《ひるがえ》すとき、彼の悲しげな鼻は震えていた。気に障《さわ》るようなことを、何か言ったのだろうか。
「ときどきとてもセンチメンタルになるんだよ」ギャツビーが説明した。「今日はそのセンチになった日さ。ニューヨーク界《かい》隈《わい》ではまったくの変り者さ――ブロードウェイの住人でね」
「いったい、あれは何者だね、俳優?」
「いや」
「歯医者?」
「メイヤー・ウルフシェームだろう? いや、賭《と》博《ばく》をやる男だよ」ギャツビーはためらっていたが、やがて平然として言い添えた。「昔一九一九年にワールド・シリーズを買収した男さ」
「ワールド・シリーズを買収したって?」と、僕は繰りかえした。
そういう見かたに僕はびっくりした。もちろんワールド・シリーズが一九一九年に買収されたことは覚えていた。しかしちょっとでも考えてみたまえ、どうしようもないことがいろいろ繋《つな》がって、その終結としてただ偶然に起ったにすぎないとしか考えられないではないか。爆薬を使って金庫破りをする夜盗のような単純な心で、ひとりの人間が――五千万の人間の信じこんでいることに、手をだすなぞということがきりだせるなんて、どうしても僕には考えつかなかった。
「どんな拍子でそんなことができたのかね?」――しばらくして僕はきいた。
「ただ機会をつかんだだけさ」
「なぜ投獄されないんだろう?」
「捕えられないんだよ、ねえ君。利口な男さ」
僕はどうしても勘定を払うと言い張った。給仕が僕のところへ釣り銭を持ってきたとき、トム・ビュキャナンが混雑している部屋の向うのほうにいるのが目についた。
「ちょっといっしょに来てくれたまえ」と僕は言った。「あるひとに挨《あい》拶《さつ》しなくちゃいけないんだ」
僕たちを見ると、トムは跳《と》び上がって、こっちへ五、六歩近づいてきた。
「どこへ行ってたんだい?」彼は熱心にきいた。「君から電話がかかってこないもんだから、デイジーがひどく怒っているぜ」
「こちらギャツビーさん。ビュキャナン君」
ふたりは簡単に握手した。すると、ひきつったような、あまり見なれない当惑した表情が、ギャツビーの顔に浮かんだ。
「いったい、どうしてたんだい?」と、トムは僕のことを訊《き》きただした。「なんの風の吹きまわしで、こんな遠くまでめしを喰《く》いにきたんだい?」
「ギャツビーさんと昼めしを喰《た》べてたんだよ」
ミスタ・ギャツビーのほうを振り向くと、彼はもうそこにいなかった。
一九一七年の十月のある日だったの――(と、その日の午後、プラザ・ホテルのティー・ガーデンで、真直ぐな椅《い》子《す》にきちんと背を伸ばして腰かけたジョーダン・ベイカーが、言った)
――あたしこっちからまたべつの所というふうに歩いていたの。歩道を歩いたり、芝生を歩いたり、半分半分にね。芝生のほうが愉《たの》しかったわ。だって英国からきた靴をはいてたんだけど、靴底にゴムの頭がついていて、それが軟かい土のなかに喰い込むんですもの。スカートも格《こう》子《し》縞《じま》の新しいのをはいていたの。風が吹くとそれがちょっと揺れるのよ。そうなるたびに、どの家の前にもでている赤や白や青の旗が、延びてこわばって、風に吹かれるなんか不本意だっていわないばかりに、タッタッタッタッて鳴るのよ。
いちばん大きな旗、それからいちばん大きな芝生っていえば、デイジー・フェイの家だったわ。あのひとちょうど十八で、あたしより二つ上よ。ルイヴィル中の若い女のひとでは、断然いちばん人気があるの。白い服を着て、白い小型のロードスターをもってるのよ。お家では一日中電話が鳴ってるの。テイラー基地《*》の若い将校たちが興奮して、その晩あのひとを独占したいって特権をねだってるわけ。「とにかく、一時間でもいいです!」だって。
その朝あのひとの家の真向かいまできたら、白いロードスターが歩道の縁石の傍に駐《とま》ってるの。見たこともない中尉さんといっしょなのよ。ふたりともとても夢中になっていて、あたしが五フィート離れたところへくるまで、あのひとったら気がつかないの。
「こんにちは、ジョーダン」っていきなり声をかけるの。「ねえここへいらしって」
あたしと話したいらしかったので、嬉《うれ》しかったわ。だって年上の女のひとでは、いちばん崇拝してたんですもの。赤十字へ繃《ほう》帯《たい》を作りにいらっしゃるところって、あたしに聞くの。ええ。あら、それじゃ、今日はいらっしゃれないって、あたしからお話しときましょうか? デイジーが話していると、将校のひとじっと見ているの。若い娘だったら誰だって、いつかはあんなふうに見つめてもらいたいもんだわ。ロマンチックだったんで、そのときのことずうっと覚えているの。そのひとジェイ・ギャツビーって名前だったわ。また逢《あ》ったのは、四年のうえ経《た》ってからだったけど――ロングアイランドで逢ってからも、同じひとだなんて思えないくらいよ。
それが一九一七年だったの。その次の年にはもうあたしだって、相手が二、三人できたし、トーナメントにも出始めたし、だからそうたびたびデイジーに逢ったわけではないのよ。ほんの少し年上の連中と、あのひと付き合っていたわ――まあ誰かとお付き合いするってときにはね。出《で》鱈《たら》目《め》な噂《うわさ》が広まっていたわ――ある冬の夜、旅行袋を詰めているところを、お母さまに見つかったっていうの。ニューヨークへ行って、外国へ行く兵隊さんにさよならを言うつもりだったんですって。うまい具合にとめられたのね。でも家の者とは五、六週間も口をきかなかったんですって。それからはもう兵隊さんと遊びまわらなくなったんでしょう。二、三人、扁平足や近眼の町の青年とだけ。軍隊には絶対とられないもの。
その翌年の秋にはもう、また快活になったの、あい変らず快活だったわ。休戦後、社交界にデビューしたわ。二月にはニューオリアンズ出身のひとと婚約したらしかったんだけど、六月にはシカゴのトム・ビュキャナンと結婚したの。ルイヴィルはじまって以来の盛大な式。花婿は四台貸切の車輛《*》で百人連れてきて、ミュールバッハ・ホテルを全部借切ったの。式の前の日、三十五万ドルもする真珠の頸《くび》飾《かざ》りを贈ったのよ。
あたしは花嫁付添いの乙女《メイド》だったの。披《ひ》露《ろう》宴の始まる三十分前、あのひとのお部屋に行ってみたのよ。そしたらベッドに横になっていたけど、花模様の衣装を着けて、まるで六月の夜のように美しいの――それだのに酔払って猿みたいなの。片手にソーテルヌの白葡萄《ぶどう》酒《しゆ》の壜《びん》を持って、片手に手紙を持ってるの。
「祝ってちょうだい」そうささやくの。「いちども呑《の》んだことなんかないんだけど、ああとてもおいしいわ」
「どうなさったの、デイジー?」
あたしこわかった、ほんとよ。あんな女のひとって見たことないんですもの。
「ほらここよ。あんたァー」ベッドへ抱えこんでた屑《くず》籠《かご》のなかを手捜しして、真珠の頸飾りをひき出したの。「これ階《し》下《た》へ持ってって、誰のもんだか知らないけど返してよ。デイジーは気が変ったって、みんなに言ってちょうだい。言ってよ、『デイジーは気が変った』って!」
あのひと泣きだしたわ――とてもひどく泣くの。あたし飛びだしてって、お母さま付きの女中をつかまえたの。ふたりで扉《とびら》に鍵《かぎ》をかけて、お風《ふ》呂《ろ》の水を浴せたのよ。手紙は握っていてどうしても放さないの。お風呂のなかへ持って入って、握りしめてびっしょり濡《ぬ》れた球《ボール》にしてしまうの。やっと石《せつ》鹸《けん》入れに捨てさせたんだけど、そのときはもう雪のように切れ切れになってしまったのを見て、やっと諦《あきら》めたからなのね。
でもそれからはひとことも喋《しやべ》らなかったわ。アンモニア水をあげて、額に氷を載せて、ドレスのフックを留めてまた着せてあげたの。三十分経《た》ってお部屋を出るときは、真珠は頸《くび》にかかっていたし、その事件はもうすんでしまったの。翌る日の五時に、トム・ビュキャナンと結婚したけれど、躯《からだ》が震えるなんてことはこれっぽちもなかったわ。そうして南太平洋へ三か月の旅行に出かけたの。
旅行から帰ってから、サンタ・バーバラで逢《あ》ったわ。ところが、こんなに夫に夢中になってるひとってあるかしらと思うくらい。ちょっとでもお部屋から出てゆくと、不安そうにあたりを見まわして言うの、「トムはどこへ行ったの?」トムが扉《とびら》口《ぐち》のところへ顔をだすまでは、とてもぼんやりした表情なのよ。砂の上に腰をおろして、一時間もトムの頭を膝《ひざ》にのせて、眼の上を指でこすったり、底抜けの喜びようで、じっと顔を見つめてるの。ふたりいっしょのとこを眺めると、とても感動したわ――なんというのかしら、声もでないでうっとりと笑ってしまうの、こっちが。それが八月だったわ。あたしがサンタ・バーバラをたって一週間してから、ある晩トムがヴェンチュラ街《かい》道《どう》で荷馬車と衝突したのよ。自動車の前輪がもぎ奪《と》られてしまって。いっしょに乗ってた女のひとも新聞に出ちゃった。だって、そのひと片腕を折ってしまったんですもの――サンタ・バーバラ・ホテルの寝室係の女中だったわ。
翌る年の四月、女の赤ちゃんが産まれたの。それから一年フランスへ行ったわ。あたし春カンヌで逢ったし、その後ドーヴィルでも逢ったわ。それからシカゴに戻って落ちついたのね。デイジーはシカゴで人気があったわ、ご存じでしょう。ふたりは遊《ゆう》蕩《とう》の群れにまじって歩きまわったんだけど。みんな若くって、お金持ちで、乱暴で、でもデイジーは絶対申し分のない評判を、落すようなことはなかったわ。それっていうのは、呑《の》まないからでしょ。大酒呑みのなかに入って、呑まないってことは、そりゃたいした強みですよ。黙っていられるでしょう。そればかりじゃないわ、自分のちょっとした不品行だってうまく間《ま》をつくろえるから、ほかのものはみんな盲目になっていてわからないし、気にもかけないってわけよ。きっとデイジーは全然浮気するつもりはなかったでしょう――でもやっぱり、あのひとの声のなかには何かしらあるわ。……
そう、六週間ばかり前ね、あのひと何年ぶりで初めてギャツビーの名を聞いたわけなの。ほらあたしがあんたにきいたでしょう――覚えてる?――ウエスト・エッグのギャツビーご存じですかって。あんたが帰ってから、あたしのお部屋に入ってきて、起すの。そして「ギャツビーって、どのひとよ?」って言うの。だからどんなひとだか説明してやったわ――あたしもう眠りかけてたの――それじゃあたしの知ってたひとに違いないって、世にも不思議な声で言ったわ。そのとき初めてよ、このギャツビーと白い車に坐《すわ》っていたあの将校と結びついたのは。
ジョーダン・ベイカーがこの話をすっかりし終ったとき、僕たちはすでにプラザを出てから三十分も経《た》っていて、セントラルパークで四輪の幌《ほろ》馬《ば》車《しや》を乗りまわしていた。太陽はもう、西五十番街辺に建っている、映画スター連の住む高層アパートの向うに沈んでいた。そしてもう遅くなったので、草の上のこおろぎのように、寄り集った子供たちの、透き通る声が、暑い黄昏《たそがれ》をついて高らかに聞えた。
僕はアラビアの酋長《シーク》よ。
あなたの愛は僕のもの。
あなたの眠る夜となれば
あなたのテントに忍び寄る――
「不思議な暗合だったんだね」僕は言った。
「でも全然、暗合じゃなかったのよ」
「なぜ?」
「湾を越したすぐ向うにデイジーがいるっていうふうに、ギャツビーはあの家を買ったんですもの」
すると、いつか六月の夜、彼が憧《あこが》れていたのは、星などではなかったのだ。さながら、輝かしいものではあっても当てもなかった胎内から、いきなり産まれでてきたように、彼の存在は生き生きと僕に迫ってきた。
「あのひと知りたがっているの」と、ジョーダンはつづけた。「いつか午後にでも、あんたがデイジーを家に招《よ》んで、そしたらあのひとも来させてもらえるかしらって」
その遠慮がちな望みが、僕の心を揺さぶった。五年間待っていたのだ。邸宅を買って、そこで気紛れな蛾《が》に星の光を分ち与えていたのだ――いつか午後にでも、他人の庭に「来させて」もらえることを当てにしながら。
「話をすっかり僕に知らせてからでなくちゃ、こんな簡単なことも頼めなかったのかね?」
「あのひと、こわいのよ。だからこんなに長いこと待ったんだわ。あんたが感情を害しゃしないかって思ったのね。でもわかるでしょう、このことにかけては、あのひとしんはとても強いのよ」
何ものかのせいで僕はいらいらした。
「なぜ君にあいびきのお膳《ぜん》立《だて》を頼まなかったんだろう?」
「彼女に家を見せたいのよ」と、説明してくれた。「それであんたの家がすぐ隣りでしょう」
「ああ、そうか!」
「パーティに、いつかはぶらりとやって来やしないかって、かなり期待してたと思うの」と、ジョーダンはつづけた。「でもまるっきり来なかったでしょう。すると今度はゆき当りばったりにいろんなひとに、あのかたを知ってるかどうかきき始めたのね。あたしが初めてのひとだったわけよ。ダンスを見ていたらあたしを呼びに来たあの晩よ。だんだんにやりとげていく念の入ったやりかたは、もうよくわかったでしょう。もちろんすぐニューヨークで昼食なさったらって、あたし提案したのよ――そしたら、あのひと気狂いになるんじゃないかと思ったくらい。『僕は変なことはしたくない!』って言いつづけたわ。『すぐ隣りで逢《あ》いたいんですよ』って。あんたがトムの特別な友だちだって言ったら、その考えをすっかり棄《す》ててしまいそうになったわ。トムのことはそんなに知らないのよ。でも、ひょっとして、ただちょっとでも、デイジーの名前が見られるかも知れないというだけで、何年もシカゴの新聞を読んできたって言うの」
もう暗かったので、馬車が小さい橋の下に隠れて通るとき《*》、僕はジョーダンのすばらしい肩に腕をかけて彼女をひき寄せ、夕食に誘った。突然、僕はもうデイジーやギャツビーのことは考えないで、何ごとにも懐疑的で、突飛なことなんかしない、この清らかで冷静なひとのことを考えていた。そのひとはまさに僕の腕の輪のなかで、軽やかにうしろに倚《よ》りかかっているのだ。頭がカッとするような興奮をともないながら、ひとつの文句が僕の耳を打ち始めた。「追われる者と追う者、忙しい者と疲れ果てた者、だけがある」と。
「それにデイジーの人生にだって、何かなくちゃいけないわ」ジョーダンが僕にささやいた。
「ギャツビーに逢《あ》いたいのかしら?」
「そのことがわかっちゃいけないのよ。ギャツビーは知らせたくないのよ。あのひとをお茶に招《よ》ぶだけが、あんたの役よ」
僕たちの馬車が、障壁のように立っている黒々とした樹立ちの傍を通り、やがて五十九番街の前を進むと、一《ひと》塊《かたま》りのほのかな蒼《あお》白《じろ》い光が、公園のなかにさしこんでいた。ギャツビーやトム・ビュキャナンと違って、暗い軒蛇腹を仰いでは肉体を離れた面影を忍び、ぼーとよく見えない看板のあたりに面影が浮かんでいると思えるような、そんな女は僕にはなかった。だから僕は傍に坐《すわ》っているこの女をひき寄せて、両腕に力をこめた。彼女の軽《けい》蔑《べつ》するような口が弛《ゆる》んで、微笑が浮かんだ。そこでまた今度は僕の顔のほうへぴったりとひき寄せた。
第五章
その夜ウエスト・エッグへ帰ってから、僕の家が火事ではないか、と一瞬ハッとなった。もう二時になっているのに、半島の隅一帯に光が煌《こう》々《こう》とかがやいて、それが灌《かん》木《ぼく》の林にさしているありさまが現実離れして見え、路傍の電線は細くひき延ばされたきらめく線となって映えていた。角を曲ってから、ギャツビーの家で、上の塔から地下室の穴蔵まで電灯をつけているのだとわかった。
またパーティがあるのだな、初めはそう思った。騒々しい会合がしまいに「鬼ごっこ」や「押しくらまんじゅう《*》」になってしまい、それで家中をその遊戯に開放したのだろうと思った。ところが物音ひとつしない。樹間に風が鳴るだけだった。その風に電線が揺れて、灯が消えたり、またついたり、まるで家が暗《くら》闇《やみ》に向って目ばたきしているようだった。僕が乗って来たタクシーが唸《うな》りをたてて立ち去ると、ギャツビーが芝生を横ぎって僕のほうへ歩いて来る姿が見えた。
「君のところはワールド・フェアでも開かれてるみたいだね」と、僕は言った。
「そうかしら?」彼は屋敷のほうをぼんやりと見た。「いろんな部屋に目を通してみたんだよ。コーニイアイランド《*》へ行こうよ、ねえ君。僕の車でさ」
「もう遅いよ」
「それじゃ、どう? プールへ飛び込んでみないか。夏になってからまだ使ったこともないんだ」
「僕はもう寝なくちゃ」
「それじゃしょうがない」
逸《はや》る心を圧《おさ》えて僕を見つめながら、彼は待っていた。
「ミス・ベイカーと話したよ」しばらくして僕は言った。「明日デイジーに電話して、ここへお茶に招《よ》ぼうと思うんだけど」
「やあ、それは結構だね」彼は無《む》頓《とん》着《ちやく》に言った。「でも君に迷惑はかけたくないんだ」
「いつがいい?」
「君はいつがいい?」彼はすばやく僕の言ったことを言い直した。「君に迷惑はかけたくないんだ、そうだろう」
「明後日はどうかね?」
彼はちょっとのあいだ考えた。それから気が進まないように言った。
「草を刈らせたいんだけどね」
ふたりとも草を見おろした――そこにははっきりと一線が画されていて、僕のほうの手入れのしてない芝生がそこで終り、彼のほうのもっと黒ずんだ、よく手入れの行届いた芝生が、そこからひろびろと拡がっていた。僕のほうの草のことだな、と察しがついた。
「もうひとつちょっとしたことがあるんだがね」と、あやふやに言って、彼はためらった。
「二、三日延ばしたほうがいいかね?」僕はきいた。
「いや、そのことじゃないんだよ。せめて――」彼は話のきっかけを、あれでもない、これでもないと思案していた。「いや、考えてみたんだがね――その、ほら、ねえ君、君はあんまり金がとれないんだろう?」
「そうたくさんはね」
これに勢いをえたらしく、さらに自信をもって話しつづけた。
「失礼だったら勘弁してくれたまえ、そうだろうと思ったよ――ねえいいかい、僕はちょいとした商売を内職にやってるんだよ。内職なんだ、わかるね。それで考えたんだ、君がそうたくさん金がとれないとすれば――債券を売ってるんだったね、ねえ君?」
「まあそう、売ろうとやってるんだがね」
「それじゃ、これは君に面白いかもしれない。そんなに時間はとらないし、かなり転げ込むんだ。たまたま機密を要することではあるんだがね」
いまになればはっきりわかるのだが、もし周囲の事情が違っていたら、その会話は僕の生涯のひとつの危機だったかもしれない。しかしその申し出はあきらかに、しかもなんの掛けひきもなく、僕からしてもらうサーヴィスに返礼としてなされたものだから、僕としてはその場で彼を黙らせるよりほか仕方がなかった。
「僕は手一杯なんだ。非常に有難いけれども、これ以上仕事はやれそうもないね」僕は言った。
「ウルフシェームと取引なんかする必要はないんだよ」どうやら昼食のとき話に出た「取引先」という言葉がもとで、僕がしりごみしている、と考えたらしい。いやそれは間違いだと僕ははっきりさせた。僕のほうから会話をきり出すのを望みながら、彼はもうしばらく待った。だが僕はあまりにも心を奪われたことがあって、応待なんかしていられなかった。そのため彼は仕方なし家へ戻った。
その夜は、僕は心も軽く幸福になれたのだ。玄関の扉《とびら》口《ぐち》を入った途端に、深い眠りのなかに歩み入ったような気がする。だから、ギャツビーはコーニイアイランドへ行ったのかどうか、家中でかでかと灯《あかり》をともしたまま、何時間くらい「部屋に目を通した」のか、僕は知らない。翌朝会社からデイジーに電話して、お茶に招待した。
「トムは連れて来ないでね」と彼女に注意した。
「なァに?」
「トムを連れて来ないでね」
「誰よ『トム』って?」彼女は他愛なくきいた。
打ち合せた日は篠《しの》つく雨だった。十一時になると、レインコートを着た男が、芝刈機を曳《ひ》きずって、僕の家の玄関の扉をコツコツ叩《たた》いた。そしてこちらさんの草を刈りにお伺いしろ、とギャツビー様が申しましたんで伺いました、と言った。これで、家のフィンランド人に帰って来るように言うのを忘れていたことも憶《おも》いだした。そこでウエスト・エッグ村に車を駆って、びしょ濡《ぬ》れの、水漆《しつ》喰《くい》を塗った路地のなかで家政婦を探し、またコップやレモンや花を買った。
花を買う必要はなかったのだ。二時になると、ギャツビーの家から移動式温室が到着し、無数の容器もそれといっしょに届いたからだ。一時間経《た》って、玄関の扉が神経質そうに開けられた。すると、ギャツビーが白いフラノの洋服、銀色のワイシャツ、金色のネクタイという扮装で、いそいで入って来た。顔は真《まつ》蒼《さお》で、眼の下には眠れなかったことを物語る黒い隈《くま》があった。
「万事いいかね?」彼はすぐにきいた。
「草のことだったら、きれいになってるよ」
「なんの草のことだね?」彼はぽかんとしてたずねた。「ああ、中庭の草のことだね」彼は窓越しにそとを見た。だが彼の表情から察して、とにかく何かを見たなんて信じられない。
「とても立派に見えるね」と、彼はぼんやり言った。「新聞だと四時ごろ雨がやむらしいね。そう書いてあった新聞は、たしか『ジャーナル』だったよ。必要なものはみんな手に入ったかね? つまりそのお茶――として必要なものは」
僕は彼を食器室に連れて行ったが、そこではフィンランド人の家政婦を、ちょっと咎《とが》めるように見た。デリカテッセンで買った一ダースのレモン・ケーキを、二人揃《そろ》って調べてみた。
「これでいいかね?」僕はきいた。
「ええ、ええ、もちろんいいさ! 立派だね!」そしてうつろな声で言い添えた。「……ねえ君」
雨は三時半ごろおさまって、じめじめした霧となった。ときおり小さい滴《しずく》が露のように、そのなかをすうーと落ちていた。ギャツビーはうつろな眼ざしで、クレーの「経済学《*》」を見ていたが、フィンランド人の家政婦が台所で床をきしませる音にびっくりしたり、まるで見えないけれども驚くべき出来ごとが連続してそとで起っているみたいに、ときどき霞《かす》んだ窓のほうを覗《のぞ》いたりした。とうとう立ちあがって、はっきりしない声で家へ帰る、と僕に告げた。
「なぜそんなことするんだい?」
「誰もお茶に来ないよ。もう遅いもの!」彼は自分の時計を見たが、どこかよそにさし迫った用事があって、そっちに時間をとられているんだ、といったようすだった。「一日中は待てないよ」
「馬鹿な。まだ四時二分前じゃないか」
僕に押されたように腰をおろした彼の恰《かつ》好《こう》はみじめだった。すると時を移さず、僕の家の小《こ》径《みち》に、曲って入って来るエンジンの音がした。ふたりとも跳《と》びあがった。そして我ながらちょっと戸惑って、僕は中庭へ行った。
滴《しずく》の落ちるライラックの裸樹の下をくぐって、大型のオープンカーが邸内車道を走って来た。それが停《とま》った。ラヴェンダー色の三角帽子の下で、横にかしげられたデイジーの顔が、明るいうっとりした微笑をたたえながら、僕を見つめた。
「これがほんとに住んでらっしゃる所、ねえあなた?」
浮々したさざ波のような彼女の声は、雨のなかで聞える荒々しい主音《トニツク》だった。ひたすら耳を傾けて、上へまた下へと、一瞬その音のあとについてゆかなければならない。そのあとで言葉が届いてくる。斜めにサッと碧《あお》い墨で描いたように、濡《ぬ》れた一筋の髪の毛が、彼女の頬《ほお》についていた。自動車から助け降ろそうとして、取った手は、きらきら光る滴で濡れていた。
「あたしに恋してらっしゃるの」彼女は低く僕の耳もとで言った。「そうでなければ、なぜ独りで来なくちゃいけなかったのよ?」
「それがあんたの気になることなんだね《*》。運転手に遠くへ行って一時間つぶして来るように言ってくれないか」
「一時間したら戻ってね、ファーディ」それからまじめくさったささやき声で言った。「名前はファーディよ」
「ガソリンが彼の鼻に障《さわ》るかな?《*》」
「そんなことないと思うわ」と、彼女は無邪気に答えた。「なぜ?」
僕たちは家のなかへ入った。なんと魂げたことだ。居間は空《から》っぽではないか。
「おや、これはおかしい」と、僕は大声で言った。
「何がおかしいの?」
玄関の扉《とびら》を軽く、もったいぶって叩《たた》く音がしたので、彼女は頭を振り向けた。僕は出て行って扉を開いた。ギャツビーがまるで死人のような蒼《あお》白《じろ》い顔をして、両手を錘《おも》りのように上着のポケットに突っ込んだまま、僕の眼を悲しげに睨《にら》みつけながら、水《みず》溜《たま》りのなかに立っていた。
依然として両手を上着のポケットに突っ込んだまま、僕の傍をゆっくりと歩いて玄関《ホール》に入り、針金の上を渡っているみたいにさっと振りかえり、それから居間へ消えた。少しもおかしくない。僕は自分の心臓の鼓動が大きく波打っているのを意識しながら、激しくなってゆく雨を防ぐために、扉をひいた。
ほんのちょっとのあいだ、物音ひとつしなかった。すると居間のほうで、咽《むせ》ぶようなささやきらしいものと、笑いのかけらとでもいうべきものが聞えた。つづいてデイジーの声が、はっきりと気取った調子で言うのが聞えた。
「あたしまたお目にかかれて、ほんとうにとても嬉《うれ》しゅうございますわ」
沈黙、それが怖《おそ》ろしいくらいつづいた。僕は玄関《ホール》で何もすることがなかったので、部屋に入って行った。
ギャツビーは相変らず両手をポケットに突っ込んだまま、炉棚に倚《よ》りかかって、すっかり寛《くつ》ろいでいる、退屈までしているというようすを無理に装っていた。頭を思いきり反《そ》らせていたので、いまはもう役にたたない炉棚の時計の文字盤に頭がついていた。こういう姿勢で、狂気じみた眼でデイジーを見おろしている。彼女はびっくりしていたが、しとやかに堅い椅《い》子《す》の端に坐《すわ》っていた。
「僕たち前に逢《あ》ったことがあるんだよ」と、ギャツビーが呟《つぶや》いた。彼はちらっちらっと僕を見た。唇は開いて笑おうとしたが、どうしてもうまくいかない。うまい具合に時計がこの瞬間に、彼の頭に押されて危なっかしげに傾いた。そこで彼は振り向いて、震える指先でつかんでもとのところへ戻した。やがて固くなって腰をおろし、ソファの腕に肘《ひじ》を載せ、顎《あご》を手で支えた。
「悪かったね、時計のこと」彼は言った。
僕自身の顔はもう、ひどくかッかッと燃えている。頭のなかにはたくさん言いたいことがあるのに、そのなかから平凡な文句ひとつさえ、思いきってひき出すことができなかった。
「古い時計なんだよ」僕は馬鹿みたいにふたりに話した。
時計は床に落ちて粉々に壊れてしまったと、一瞬三人とも思いこんでいたのだと思う。
「あたしたち何年もお逢《あ》いしなかったの」と、言ったデイジーの声は、これ以上陳腐な声はありえないと思うほど陳腐な声だった。
「この十一月で五年さ」
ギャツビーがそう機械的に答えたので、もうしばらく、三人はそのままでいた。台所でお茶を用意する手助けをしてもらおうか、と苦しまぎれの提案をして、僕はふたりを立ちあがらせたが、そのときいまいましいフィンランド女のやつめ、お盆にお茶を載せて持って来た。
コップやケーキを迎えてごたごたしているうちに、おのずから水の低きに流れるような品のよさがちゃんと備ってきた。ギャツビーは影になったところに入って、デイジーと僕が話しているあいだ、張りつめた不幸そうな眼ざしで、僕たちを交互に心をこめて見ていた。とはいえ、しずかにおさまることが目的ではないのだから、利用できそうな最初の瞬間をつかんで、言いわけをしながら、僕は立ちあがった。
「どこへ行くんだね?」ギャツビーがすぐに驚いて訊《き》きただした。
「戻って来るよ」
「君が行かないうちに、話さなくちゃならないことがあるんだ」
彼は乱暴に僕のあとについて台所に入り、扉《とびら》を閉めて、みじめな恰好でささやいた。「あーあ、弱った!」
「どうしたんだい?」
「これはひどい間違いだ」頭を左右に振りながら、彼は言った。「まるでひどい間違いだ」
「君はまごついてるんだよ、ただそれだけのことさ」そしてうまい具合に、僕は言い添えた。「デイジーだってまごついているよ」
「彼女がまごついているって?」彼は信じられない、というふうに繰りかえした。
「君とまるで同じさ」
「そんな大きな声で話さないでくれよ」
「君のやりかたは子供みたいじゃないか」いらいらしながら、僕は急に大声で言った。「そればかりじゃない、失礼だよ。デイジーが独りぼっちであそこにいるじゃないか」
彼は片手を挙げて僕の言葉を制して、恨めしそうに僕をじっと見たが、その表情は忘れられない。注意深く扉を開けて、向うの部屋に戻って行った。
僕は裏口からそとへ歩いて行った――三十分前ギャツビーが神経質に家を一巡りしたときも裏から出て行った――そして大きく節くれだった黒い樹に向って走った。厚く繁った葉は雨除けとなっている。雨はまた激しく降っている。不《ふ》揃《ぞろ》いな芝生はギャツビーの庭師に上《じよう》手《ず》に刈ってもらったが、小さい泥沼や先史時代のような沼池がいっぱいあった。その樹の下から見えるものは、ギャツビーの宏大な家のほかは何もなかったので、教会の尖《せん》塔《とう》を見つめるカントのように、僕は三十分も彼の家を見つめていた。十年昔、《時代がかった物》が大流行したのに魁《さきが》けて、さる醸造家がこれを建てた。隣り近所の小さい家の屋根を、藁《わら》でふかせれば、向う五年間家屋税は自分が払ってもいい、と言ったという話が伝っている。きっとそれらの家の所有主が断ったので、一家を起そうという彼の計画は骨抜きにされてしまったのだろう――彼はすぐ左前になった。子供たちは家を売ってしまったが、いまだに黒い花環の彫刻が扉についたままになっている。アメリカ人というものは、喜んで農奴になっているくせに、いや熱心にそう望んでいるくせに、いつでも強情に、それより身分の高い小作人になろうとするのだ。
三十分経《た》つと、また陽《ひ》が照ってきた。食料品店の自動車が、召使たちの食事の材料を積んで、ギャツビーの家の邸内車道を曲った――きっとそんな材料は、一《ひと》匙《さじ》だって彼は喰《た》べたことはないだろう。女中が階上の窓を開け始めた。ひとつの窓に姿を現したかと思うと、またすぐほかの窓にさっと現れる。すると真中の大きな径《わたり》間《ま》から身を乗りだして、もの思わしげにつばを吐いた。もう戻ってもいい時間だ。雨が降りつづいているうちは、ときどき感情が激発して、高くなり膨《ふく》れあがるふたりの声のささやきのように、雨が感じられる。ところが雨がやんで、新しく沈黙が領してくると、家のなかまでしずかになるような感じだ。
僕はなかへ入った――ありとあらゆる音を台所で立ててから、ただ料理用ストーヴをひっくりかえすことだけはしなかったが――それだのに、あのふたりには物音ひとつ聞えたとは思えない。ふたりは寝《カ》椅《ウ》子《チ》の両端に腰をおろして、おたがいにじっと見つめ合っていた。何か質問がだされたから、あるいはその質問が宙に浮いているから、おたがいにそうやって見つめているといった態《てい》で、さっきまで当惑していた痕《こん》跡《せき》なんかすっかり消し飛んでいる。デイジーの顔は涙で汚れていた。僕が入って来ると、跳《と》びあがって、鏡の前に立ってハンカチで顔をふき始めた。ところがギャツビーは変ってしまって、ただただ驚くばかりだった。文字通り彼は光りかがやいていた。歓喜をあらわす言葉も身振りもなかったけれど、新しい幸福が彼の躯《からだ》から発散して、小さい部屋に溢《あふ》れていた。
「ああ、やあ君」と、まるで何年ぶりかで逢《あ》ったみたいに、彼は言った。一瞬、握手でもしそうに思えた。
「雨がやんだよ」
「そうかい?」僕がなんの話をしているのかわかると、また、ピカピカ光る鈴のように、部屋に陽《ひ》がさしているのがわかると、天気予報係か、周期的に生ずる光を熱狂して贔屓《ひいき》にするひとのように、にっこりした。そのニュースをデイジーに繰りかえした。「どう思う? 雨がやんだよ」
「嬉《うれ》しいわ、ジェイ」やるせない、悲嘆にくれた美しさをいっぱいたたえた彼女の咽《の》喉《ど》は、思いがけない歓びをひたすら語っていた。
「君とデイジーに家へ来てもらいたいんだ」彼は言った。「彼女に見せたいんだよ」
「ほんとかい、僕に来てもらいたいなんて?」
「まったくそのとおりだ、ねえ君」
デイジーは二階へ顔を洗いに行った――僕は自分のタオルを憶《おも》いだして恥しかったが、もう遅かった――そのあいだギャツビーと僕は芝生で待っていた。
「僕の家は立派に見えるだろう、ねえ?」答えを促すように彼は言った。「家の正面が光線を捉《とら》えている具合はどうだね」
すばらしい、と僕は同意した。
「そうだよ」彼の眼はひとつひとつのアーチ形の扉《とびら》口《ぐち》や四角な塔を調べた。「これを買う金を稼《かせ》ぐのに、丸三年かかったよ」
「金を相続したんだと思ってたけど」
「相続したんだよ、ねえ君」彼は機械的に言った。「ところが大《だい》恐《きよう》慌《こう》――戦争の恐慌で、あらかた失《な》くしちゃったんだ」
自分でも何を言ってるのか、ほとんどわかっていないらしい。なぜなら、どんな仕事をしている、と僕がきくと、こう答えたからだ。「それは僕の知ったことさ」と。そのあとでこれはふさわしい答えでないことが彼にもわかったらしい。
「ああ、僕はいろんなことをやってきたよ」彼は自分で言い直した。「薬の商売をやったし、それから石油の商売もやった。でもいまはふたつともやってないがね」さらに注意深く僕を見つめた。「このあいだの晩、きりだした話をいろいろ考えてみた、というわけだね?」
僕が返事ができないでいるうちに、デイジーが家から出て来た。彼女の服に真《しん》鍮《ちゆう》のボタンが二列についていて、それが日光に当ってきらきら光った。
「あのとっても大きなところがそう、あそこの?」彼女は指さしながら叫んだ。
「どうだね?」
「いいわ、でも独りぼっちでどうやって暮してるのか、見当がつかないわ」
「いつでも面白いひとがいっぱい来てるんだよ、夜も昼間もね。いろいろ面白いことをやるひとたちさ。有名なひとたちなんだよ」
海峡に沿った近道を行かないで、路へ出てから、大きな通用門をくぐった。デイジーはうっとりするような小声で、空に突き立っている封建時代風の影絵のような邸宅を、こっちの面がいい、あっちの相がすばらしいと賞《ほ》めた。庭園を賞め、きらめくばかりに馨《かお》る黄水仙、泡のかたまりのような山《さん》査《ざ》子《し》の馨、西洋李《すもも》の花、薄金色に馨る三色菫《すみれ》などを賞めた。大理石の石段のところまで来ても、いつものように扉口を出たり入ったりする、華《はな》やかなドレスのひるがえる影も見えず、樹々のあいだで囀《さえず》る小鳥の鳴き声のほかは、なんの物音も聞えないのは不思議だった。
なかに入って、マリ・アントワネット音楽室《*》や王政復古時代《*》風の客間をぶらぶら歩いて行くうちに、僕たちが通り過ぎるまでは、息を殺してしずかにしているようにという命令を受けて、お客がどの寝椅《い》子《す》、どのテーブルのうしろにも隠れているのが感じられた。《マートン大学図書室《*》》の扉《とびら》をギャツビーが閉めたとき、たしかに梟《ふくろう》の眼をした男が、急に笑いだしたかすかな笑い声が聞えた。
二階へあがって、薔《ば》薇《ら》色やラヴェンダー色の絹に包まれて、新しい花々が置かれて生き生きした感じのする、時代がかった寝室をいくつも通り抜け、化粧室、玉突き場、沈下した浴《よく》槽《そう》のある浴室をいくつも通り抜けた――ある部屋に踏みこんだら、パジャマ姿の髪をもじゃもじゃにした男が、床の上で肝臓の運動をしていた。「下宿人」のミスタ・クリップスプリンガーだった。その朝渚《なぎさ》を餓《う》えたように彷徨《さまよ》っていた姿を見かけたものだ。最後に寝室と浴室とアダム式装飾様式《*》の書斎からなる、ギャツビーの部屋に来た。そこに腰をおろして、壁に嵌《は》め込みになった食器棚から取りだしたシャルトルーズを呑《の》んだ。
彼はいちどもデイジーから眼を離さなかった。デイジーのたまらなく愛らしい眼が、反応を示すその程度いかんによって、家中の物をすべて評価し直したのだと思う。またときおり、自分の財産であるいろんな物を見つめていたが、彼女が現実にここに現れたために、びっくり仰天してしまって、そうした物がどれひとつとしてもはや実在しなくなった、とでもいうようだった。いちどなど危うく階段で倒れて下まで転がり落ちそうになった。
彼の寝室はどの部屋よりもいちばん簡素だった――ただ違うところは、化粧卓に燻《いぶし》純《じゆん》金《きん》の化粧セットが飾られていることだった。デイジーは嬉《うれ》しそうにブラッシを取りあげて、髪を撫《な》でた。するとギャツビーは腰をおろして、眼を覆うて笑いだした。
「とても変だよ、ねえ君」彼は陽気に言った。「僕にはできないよ――僕がやろうとすると――」
彼はあきらかにふたつの状態を経過して、第三の状態に入っていた。初めは当惑し、やがて途方もなく喜んだのち、彼女がそこにいる驚きに胸を焦《こ》がしていた。こんなにも長い間そのことばかり考えてきたのだ。初めから終りまでちゃんと夢に見ていたのだ。いわば考えも及ばないようなこの強い感情に、歯を食いしばって、待っていたのだ。いまはその反動で、巻き過ぎた時計のぜんまいがほぐれていくみたいだった。
すぐに自分をとり戻すと、かさばって大きな専売特許の整理戸棚《キヤビネツト》を開けて見せてくれた。そこには十幾つも煉《れん》瓦《が》を積み重ねたように、洋服、化粧着、ネクタイ、ワイシャツがうず高く積まれていた。
「イギリスにひとを雇っておいて、僕の衣類を買わせるんだよ。春と秋と、シーズンの初めに、選り抜きの品を送って寄こすんだよ」
彼はワイシャツの山を取りだして、一枚一枚、僕たちの眼の前に投げだした。透きとおって薄いリンネルのワイシャツ、厚い絹地のワイシャツ、上等のフランネルのワイシャツ、それが落ちてくるたびに折り目が崩れ、ごちゃごちゃと多彩な色彩を繰りひろげて、テーブルを掩《おお》った。僕たちが感嘆して眺めていると、彼はもっと取りだして、柔かい高価な山は、ますます高くなった――縞《しま》のワイシャツ、渦巻模様のもの、珊《さん》瑚《ご》色、澄んだ薄緑色、ラヴェンダー色、淡いオレンジ色など格《こう》子《し》縞《じま》のもの、藍《あい》色《いろ》の組合せ文字のついたワイシャツ。いきなりひきつったような音をたてて、デイジーがワイシャツのなかに頭を埋めて、激しく泣きだした。
「まあこんなに美しいワイシャツだわ」彼女は啜《すす》り泣いたが、声は厚く重ねられた折り目のなかでこもった。「哀しくなるわ、いままでこんな――こんな美しいワイシャツって見たことがないんですもの」
家がすんだら、屋敷や水泳プール、水上飛行機や真夏の草花を見るはずだった。ところが窓のそとを見ると、また雨が降りだしたので、僕たちは一列に並んで、波形をたたえた海峡の水面を眺めた。
「霧がなければ、湾の向うに君の家が見えるよ」と、ギャツビーは言った。「君の家の桟《さん》橋《ばし》の突端のところに、いつでも緑の灯火《あかり》を一晩中つけとくだろう」
デイジーはいきなりギャツビーの腕に手をかけたけれども、彼はいま口にしたことに気をとられているらしかった。あの灯火がもっていたとてつもなく大きな意味は、いま永遠に消え失《う》せてしまったという考えが浮かんだのだろう。おれをデイジーからひき離していた大きな距離に比べれば、あの灯火こそ彼女の身近かにいられるもの、もう少しで彼女に触わるくらいに近いところにいるものと思われたのだ。たとえてみれば、月にいちばん近い星のように羨《うらや》ましいものに思われたのだ。いまはそれもただ桟橋の上にかかった緑の灯火にすぎないものとなった。魔力をもっていたものが、その数をひとつ減じたわけだ。
僕は部屋のなかをあちこち歩き始めた。うす暗がりのなかで、いろいろはっきり見えない物を調べてみた。机の上の壁に懸《かか》った、ヨット姿の老人を写した大きな写真に魅《ひ》きつけられた。
「これは誰かね?」
「ああそれ? ダン・コディさんだよ、ねえ君」
あまり聞きなれない名前だった。
「もう死んだよ。何年も前、僕のいちばんの親友だったんだよ」
事務用の大机の上には、やはりヨット姿のギャツビーの小さい写真が置いてあった――反抗的に頭を反らせたギャツビー――どうやら十八歳くらいのときに撮《と》ったものだ。
「あたしこれ大好き」デイジーが大声で言った。「ポンパドゥール《*》なのね! ポンパドゥールだったなんて、あたしにいちどもおっしゃったことないわ――ヨットのこともよ」
「これをごらんよ」ギャツビーはいそいで言った。「たくさん切抜きがあるんだよ――みんな君のことがでているんだよ」
ふたりは並んでそれを調べた。ルビーを見たい、と僕が頼もうとしたら、電話が鳴って、ギャツビーが受話器をとった。
「そうです。……そうね、いまは具合が悪いな。……いまは具合が悪いよ、ねえ君。……小さい町だって言ったろう。……小さい町がどんなものか、彼が知らないんじゃ困るね。……そうか、デトロイトが小さい町だと考えるようじゃ、あの男もあんまり役にたたないな……」
彼は電話を切った。
「ここへいらっしゃい、はやく!」デイジーが窓際で叫んだ。
雨はまだ降っていたが、暗く曇った空は西のほうで断《き》れていたので、海上には泡のような雲が、桃色と金色の渦巻きを作っていた。
「あれをごらんなさいよ」彼女はささやいた。それからしばらく経《た》って言った。「あの桃色の雲をひとつ取って、そのなかへあんたを入れて、ぐるぐる押してみたいわ」
そのとき僕はそこへ行こうとしたが、ふたりはそんな僕のけはいを聞きつけようともしなかった。きっと僕がその場にいるので、かえって思うとおりに自分たちきりでいられると思うのだろう。
「こうすればいいな」ギャツビーは言った。「クリップスプリンガーにピアノを弾かせよう」
彼は部屋を出て、「ユーイング!」と呼んだ。二、三分すると、当惑した、運動して疲れのみえる青年を連れて戻った。鼈《べつ》甲《こう》縁《ぶち》の眼鏡をかけて、金髪は薄くなっている。今度はきちんと襟《えり》の開いた《スポーツシャツ》を着て、ゴム底の靴、かすんだ色あいのズックのズボンをはいている。
「運動なさってらしたの、お邪魔じゃないこと?」デイジーがやさしくきいた。
「寝てました」すっかりまごついて、ミスタ・クリップスプリンガーは叫んだ。「つまりその、さっき寝ていたんです。それから起きたんです……」
「クリップスプリンガーはピアノを弾くんだよ」と、ギャツビーが遮《さえぎ》った。「そうだろう、ユーイング、ねえ君?」
「うまく弾けないんです。駄目ですよ――まるで弾けないといってもいいくらい。全然してないんです練習――」
「階下へ行こう」ギャツビーが遮った。彼はパチンとスイッチをひねった。家中隅々まで灯がさして明るくなると、灰色の窓々が消えた。
音楽室では、ギャツビーがピアノの傍のぽつんとひとつだけある灯をつけた。震えるマッチの焔《ほのお》でデイジーの煙草に火をつけてやった。そして部屋のずうっと向うにある寝《カ》椅《ウ》子《チ》に、彼女と並んで腰をおろした。そこは艶《つや》々《つや》した床に広間の光がさしこんでくるほかは、なんの光もささなかった。
クリップスプリンガーは「愛の巣」を弾き終ると、椅子のままくるりとからだを回転させて、暗がりのなかに、みじめそうにギャツビーを捜した。
「全然練習してないんですよ、ねえわかるでしょう。弾けないってお話したでしょう。全然してないんです練――」
「そんなにお喋《しやべ》りしないで、ねえ君」ギャツビーが命じた。「弾きなさい!」
朝に
夕に
愉《たの》しからずや――
そとは風が強く鳴り、海峡沿いにかすかに雷が鳴った。いまやウエスト・エッグ中に、灯という灯がついていた。電車はひとびとを運んで、雨のなかをニューヨークから家庭に向って突進して行った。深い変化が人間に起る時間であって、あたりには興奮がまき起っていた。
ひとつだけ確かよ、それより確かなものはない
金持ちには金ができ、貧乏人にできるもの――子供たち。
とかくするうち、
時間の間《あい》に――
僕がさよならを言いにそっちへ行ってみると、ギャツビーの顔にはまた当惑の表情が舞い戻っていた。現在の幸福がどんなものか、かすかに疑いの念がきざしてきたのだろうか。ほとんど五年間! この日の午後にだって、デイジーが彼の夢から転げ落ちた瞬間が幾度かあったに違いない――たとえ悪いのは彼女ではなく、彼が抱いた幻影が途方もなく強烈なものだったからだとしても、その幻影は実際の彼女を越えているのだ。いやどんなものをも越えているのだ。彼は創造してゆく情熱を抱いて、そのなかに身を投げだしている。間断なく新しいものをつけ加え、ゆくてに浮かんでいる美しい羽毛は残らず使って、その夢を飾りたてたのだ。どんなに火を高く積んでも、どんなに清新なものを積み重ねても、ひとりの人間が霊魂にしまいこんでいるものに挑戦できはしない。
僕が見守っていたら、彼はちょっと身なりを整えるのが見えた。片手で彼女をつかまえていて、彼女が何ごとか低く耳もとで語ると、どっと奔《ほとばし》るような感情をこめて、彼女のほうに向く。彼をいちばん捉《とら》えたものは、波のように揺れ動く熱っぽいあたたかさのこもった彼女の声だと思う。なぜなら、その声こそは夢に打負かされないもの――不滅の歌だからだ。
ふたりとも僕のことは忘れ去っていたが、デイジーはちらと見あげて手をさしだした。ギャツビーはいまはもうまるで僕に気がつかなかった。もういちど見ると、ふたりは強烈な生の息吹きに憑《つ》かれたまま、遠く僕を見かえした。そこで僕は部屋を出て、ふたりともそこに残したまま、大理石の石段を降りて、雨のなかに出て行った。
第六章
このころ、野心的な若い探訪記者が、ある朝ニューヨークからきて、ギャツビーの家の扉《とびら》口《ぐち》に顔をだし、何か発表することはないか、ときいた。
「何か発表することって、なんのことについてですか?」ギャツビーはていねいにきいた。
「いや――何か声明を発表することですよ」
五分間ばかりしどろもどろのやりとりがあった挙句、この男があかしたくないのか、それとも充分にわかっていないのか、とにかくあることに関係して、ギャツビーの名前を事務室かなんかで耳にした、ということがわかった。今日は休みなので、いそいで「確かめに」出かけてきたわけだが、見あげた自主性に駆られたものだ。
それは盲打ちの弾丸だったが、それでもその記者の本能は正しかった。ギャツビーから款《かん》待《たい》されて、すっかり彼の過去に明るくなった何百人という権威者が拡めたから、彼の評判は夏のうちに高まって、とうとうニュースとしてはまるで物足りないものとなってしまった。《カナダに通ずる地下情報ルート》といった当代の伝説も、彼に結びつけられた。で、ひとつの物語りがいつまでもしつこく語られたが、それによると、彼は全然家に住まないで、家のように見せかけた船に住んで、ロングアイランドの海岸をこっそり上下するのだという。いったいなぜこうした作りごとに、ノース・ダコタ出身のジェームズ・ギャッツが満足したのか、それを説明するのは容易でない。
ジェームズ・ギャッツ――これが本名、いや少くとも法律上の名前だった。自分で名前を変えたのは十七歳のとき、初めて出世のきざしを目撃した特別の瞬間――ダン・コディのヨットが、スペリオル湖のいちばん油断のできない平瀬に、こともあろうに錨《いかり》を投じたのを、彼が目撃したときなのだ。その日の午後、躯《からだ》にぴったり合った、緑色の破けたジャージーを着、キャンバス地のズボンをはいて、渚《なぎさ》をぶらぶら歩いていたのは、ジェームズ・ギャッツだった。ところが、曳《ひ》き船を借りて、その「トゥオロミー号」を曳きだしてやって、風に捕まったら、三十分もするうちに手も足もバラバラになってしまいますよ、とコディに教えてやったのは、すでにジェイ・ギャツビーの面目が躍如としている。
そのときでさえ、もう長いことその名前を用意していたのではないかと思う。両親は甲《か》斐《い》性《しよう》なしの、成功する見こみもない農家のひとだった――想像裡《り》の世界では、両親とはまるで認めていなかった。ロングアイランドはウエスト・エッグの住人、ジェイ・ギャツビーこそ、真実プラトン的な考えかたからおのれを生みだした男だ。彼は神の子であった――もしこういう言葉に何か意味があるなら、まさにその意味の通り、神の子だ――従って父なる神の仕事、つまりつかみどころのない、下品で俗っぽい美に仕えて、あたふた動きまわらなければならないのだ。そこでいかにも十七歳の少年が作りだしそうな、ジェイ・ギャツビーなるものを作りだしたというわけだ。この考えに、彼は最後まで忠実だった。
蛤《はまぐり》を掘ったり、鱒《ます》釣りをしたり、そのほか喰《た》べものとベッドにありつけるものなら、どんなことでもできるだけやって、一年以上もスペリオル湖の南岸に出没していた。爽《さわや》かな日々、激しい労働や楽な労働をしたせいもあって、躯は鍛錬されて褐色になり、無理をしない自然な生きかただった。女ははやくから知ったが、こっちが台なしにされるので、馬鹿にするようになった。若い処女は無知だったし、そうでない女も、自己陶酔に圧倒されていた彼からみれば、ごく当りまえだと思うことにも、ヒステリーを起したりするからだった。
ところが彼の心は絶えまなく騒がしく波立っていた。いちばん奇怪で幻想的な考えは、夜寝床についているときに彼を襲った。洗面台の上で時計がカチカチ音をたて、床の上にごちゃごちゃにまるまって脱ぎ捨てられた衣類の上に、月光が濡《ぬ》れたようにさしている。するといっぽうで、口では言えないほどけばけばした宇宙が、頭脳のなかに張りめぐらされる。夜ごと幻想の模様は増大してゆくが、ついにうとうとした眠けが、ぼーと抱擁するように、生き生きした光景を閉じ込めてしまう。こうした夢想のお蔭《かげ》で、一時彼の想像力には排《は》け口ができた。現実こそ非現実なのだ、と仄《ほの》めかして満足させてくれたのも夢想だった。また世の中を構築している岩は、しかと妖《よう》精《せい》の翼を土台にしているのだ、と約束してくれたのも夢想だ。
未来の栄光を本能的に求めて、数か月前ミネソタの南部にあるルーテル派経営の小さいセント・オラフ大学にいった。そこに二週間いたら、大学が彼の運命の打ち鳴らす太鼓の音に、それどころか、一般の運命そのものに、ひどく無関心なのにびっくりして、生活費を賄《まかな》う小使の仕事が馬鹿馬鹿しくなった。そこでスペリオル湖に舞い戻って、ダン・コディのヨットが岸に沿った浅瀬に錨《いかり》を投じたその日も、何かすることはないか、とやはり探していたのだ。
コディは当時五十歳で、ネヴァダ銀鉱地、ユーコンのラッシュ、七五年以後のあらゆるラッシュでものになった男だ。モンタナの銅を売買して、輪をかけた百万長者になったが、からだは丈夫だったが、気が弱くなってきた。するとこれを感づいた大勢の女がわんさと寄って、彼からなんとか金をひったくろうとして躍起となった。婦人記者のエラ・ケイが彼の弱みにつけこんで、ド・メントナン夫人《*》の役を演じて、彼をヨットに乗せて海へ追いやってしまった。芳《かん》ばしいやりかたとは義理にもいえたものではなく、いい種とばかり一九〇二年のジャーナリズムがいっせいに大げさに書きたてた。款《かん》待《たい》しすぎるくらいに款待してくれる海岸には残らず立ち寄って、五年間航行したのだが、ジェームズ・ギャッツの運命を司《つかさど》る神として、少女湾に現れたのだ。
櫂《かい》に凭《もた》れてしばらく憩《やす》み、レールのついたデッキを見あげる若いギャッツには、そのヨットこそ、この世の美と魔力をいっさいあらわしていたのだ。きっとコディに向って微《ほほ》笑《え》んだろう――おれが微笑すると誰もが好いてくれる、と恐らく気がついていたろう。それはとにかく、コディは二つ三つ質問をしてみて(ひとつの質問から、新しい商標の名前がひきだされたわけだが)なかなか利口で、やたらに野望を抱いている少年だとわかった。二、三日後、ダルースに連れて行って、青い上着、白いキャンバス地のズボン六着、ヨット帽を買ってやった。「トゥオロミー号」が西インド諸島とバーバリ海岸《*》指して出発したとき、ギャツビーも出かけた。
彼はなんとなく個人として雇われた――コディといっしょのときは、執事だったり、弟分だったり、船長だったり、秘書だったり、こともあろうに看守だったりした。というのも、酔えばすぐに自分ながら魂げた浪費もやりかねないと、白面《しらふ》のダン・コディは知っていたし、ますますギャツビーを信頼するにつけ、そうした偶然の出来ごとに備えたわけだ。取決めは五年間つづき、その間船は三度大陸を巡回した。いつまでもつづいてきりがなかったかもしれない。ところが事実は、ある夜エラ・ケイがボストンで乗船し、一週間後ダン・コディは碌《ろく》な看護も受けずに死んだ。
ギャツビーの寝室に懸《かか》っていた彼の写真を覚えている。がっしりはしているが、ぽかんとした、髪の白くなった、けばけばしい男――開拓者の放《ほう》蕩《とう》者で、アメリカ人の生活がある段階にとどまっていたとき、辺境の女郎屋や酒場が醸しだす野蛮な荒っぽい気風を、東部の海岸にもち帰った男だ。ギャツビーがあまり酒を呑《の》まないのは、間接にはコディのせいだった。ときおり陽気なパーティが進行中、よく女たちが彼の髪にシャンペンをこすりつけた。だからひとが酒を呑んでもそのまま放って置く習慣は、ひとりでにできていた。
で、コディから金を相続したのだ――二万五千ドルの遺産だったが、それをもらわなかった。法律にいろいろ細工が施されて、自分が不利になっても、彼には絶えて理解できなかった。何百万という財産のうち残ったものは、そっくりエラ・ケイのものとなった。彼に残されたものといえば、世にも不思議な適切な教育を受けたことだった。ジェイ・ギャツビーのぼんやりした輪郭に肉がついて、一個の男子としての実質が備った。
彼はこの一部始終をずっとあとになって、話してくれたのだが、ここに書きとめて、彼の経歴について、最初とかくの荒《こう》唐《とう》無《む》稽《けい》な噂《うわさ》がたったが、あれを打破したいと思う。あんな噂はまるで嘘《うそ》だ。そればかりではない、ごたごたしていた時期に、彼はこの話をしてくれた。彼のことなら何でも信じる、また何にも信じない、そういう点に僕が到達していたときに、話されたのだ。だから、この束《つか》の間《ま》の休止、いわばギャツビーがハッと息をこらしているあいだを利用して、この一連の誤解を一掃したいと思うのだ。
彼の事件と僕との関係という点でも、やはり休みなのだ。ここ数週間、逢《あ》いもしなかったし、電話で声を耳にすることもなかった――僕はたいがいニューヨークにいて、ジョーダンとあちこち歩きまわったり、老衰した彼女の伯《お》母《ば》の気にいるようにつとめたりしていた――ところが、ある日曜日の午後、とうとう彼の家へ行ってみた。行って二分も経《た》たないうちに、誰かトム・ビュキャナンを連れて、一杯呑《の》みにきた。僕が驚いたのは当然だが、しかしほんとうは、いままでそういうことが起らなかったことのほうが、驚くべきことだった。一行は馬に乗った三人――トムと、スローンという男と、茶色の婦人乗馬服を着た美しい女で、前にもきたことがある。
「やあ、これはこれは」ポーチに立って、ギャツビーは言った。「よくいらっしゃいましたね」
まるで彼らが気を揉《も》んでいる、とでもいうみたいだ!
「さあお掛け下さい。巻煙草でも葉巻きでもやって下さい」いそいで部屋をぐるり歩いて、彼はベルを鳴らした。「すぐに飲みものを持ってきますよ」
トムがそこにいる、という事実に、彼は深く心を動かされていた。だが彼らに何か振舞わないうちは、とにかく彼は落ちつかないだろう。一行がきたのはまったくそのためだと、漠然とではあったが、彼にもわかっていた。ミスタ・スローンは何も欲しくはなかった。レモン水は? いや、結構。シャンペンを少しいかがで? 有難う、何もいりませんよ。……そりゃどうもいけませんでした――
「馬に乗られていかがでした?」
「この辺はとても道がいいですな」
「きっと自動車が――」
「そうです」
抑えきれない衝動に駆られて、ギャツビーはトムのほうに向いた。トムは初対面のひととして紹介されている。
「まえにどこかでたしかにお目にかかりましたね、ビュキャナンさん」
「ああ、そうですね」トムは嗄《しやが》れた声で、ていねいに言ったが、覚えていないことはたしかだ。「そうでした。よく覚えてます」
「二週間ほど前に」
「そうです。このニックといっしょでしたね」
「奥さんを知ってますよ」もう少しで喧《けん》嘩《か》腰になりかねない勢いで、ギャツビーはつづけた。
「そうですか?」
トムは僕のほうを向いた。
「この近所に住んでるの、ニック?」
「隣りだよ」
「そうか?」
ミスタ・スローンは話に加わらないで、横《おう》柄《へい》な恰《かつ》好《こう》で椅《い》子《す》に凭《もた》れかかっていた。女も何も言わなかった――とうとうハイボールを二杯呑《の》んだあと、だしぬけに彼女は元気になった。
「あたしたちみんなで今度のパーティにお伺いしますわ、ギャツビーさん」と、彼女はもちかけた。「いかがでして?」
「ええ、ええ、お出で下さいよ」
「とっても結構」ミスタ・スローンが有難くもなさそうに言った。「ところで――もう家へ出かけなくちゃいかんと思うが」
「どうぞおいそぎにならないで」ギャツビーはしきりに説きつけた。彼はいまになると自分を抑えて、トムをもっと知りたいと思っていた。「どうしてなんです――どうして夕飯までいられないんです? ニューヨークからほかに誰かきたって、平気ですから」
「あたしといっしょに夕飯を喰《た》べにいらっしゃいよ」夫人は熱心に言った。「おふたりともね」
これは僕を加えて言ったのだ。ミスタ・スローンは立ちあがった。
「さあ早く」と、彼は言った――それも彼女にだけ言った。
「ほんとにね」彼女は言い張った。「ねえ、いらっしゃいな。お部屋はたくさんございますから」
ギャツビーはたずねるように僕を見た。彼は行きたかったのだ。ところが、ミスタ・スローンはきっぱり行かせまいとしているのがわからないのだ。
「残念ですがお伺いできません」僕は言った。
「それじゃ、あなたいらしって」と、彼女は専《もつぱ》らギャツビーに向って説きつけた。
ミスタ・スローンは彼女の耳のすぐ近くで何ごとかささやいた。
「いま出かければ遅れませんわよ」彼女は声高かに言い張った。
「馬がないんですよ」ギャツビーが言った。「軍隊ではよく馬に乗りましたがね、いちども馬を買ったことはないんです。自動車でお供しなくちゃならんでしょう。ちょっと失礼します」
そこに残った僕たちはポーチのほうへ歩いて行った。スローンと夫人はそこで、わきを向いて興奮した会話を始めた。
「怪《け》しからん、きっとあの男は来るよ」トムが言った。「来てもらいたくないってことがわからんのかな?」
「だって、来てくださいって言うからよ」
「大きな晩《ばん》餐《さん》会をやるんで、そんなとこへ出たって、知ってるひとなんかひとりだっていないだろうよ」彼は顔をしかめた。「いったいどこでデイジーに逢《あ》ったのかな。きっと僕の考えかたが古いんだろう。だけどこのごろの女はやたらに走りまわるから、僕には苦手だよ。女どもはありとあらゆる気狂いどもに逢うんだな」
ふいにミスタ・スローンと夫人が石段を降りて馬に乗った。
「来たまえ」と、ミスタ・スローンはトムに言った。「遅いよ。行かなくちゃいけないよ」それから僕に向って言った。「待てないから、と言ってくれませんか?」
トムと僕は握手した。ほかのふたりとは冷やかにうなずき合っただけだ。一行は速歩でいそいで車道を駈《か》け去り、ちょうどギャツビーが帽子と合《あい》のオーバアを片手に、表玄関から出てきたとき、八月の木の葉の群の下に姿を消した。
トムはデイジーがひとりで走りまわるので、あきらかにうろたえていた。そのためか、次の日曜の夜、彼女に従《つ》いてギャツビーのパーティに出かけた。多分彼が現れたためだろう、特別気がふさがる、といった晩になった――その夏ギャツビーが開いたほかのパーティに比べて、目立って違っていた点が、僕の記憶に残っている。そこにはいつもと同じひとびとがいた。それでなければ、少くとも同じ型のひとびとがいたと言おう。シャンペンがふんだんにあったことも、色とりどりのどんちゃん騒ぎがあったことも、いつもと同じだ。ところがまえにはなかった不愉快な空気や、ざらざらした肌ざわりが感じられた。それとも、ただ僕が慣れてしまっていたためかもしれない。おのれの標準をもち、おのれの偉大な人物をもち、他にひけをとるなどとは意識しないので、何ものにもひけをとらない完全な世界として、ウエスト・エッグを受けいれる習慣になっていたためかもしれない。ところがいまふたたび、デイジーの眼を通して、僕は見ていたではないか。自分では調整する力を使い尽してしまったものごとを、新しい眼で見るのは、いつになっても悲しいことだ。
黄昏《たそがれ》に彼らは着いた。ぶらぶらしながら、きらめくばかりの何百人というひとびとのなかに入ってゆくと、デイジーの声は咽《の》喉《ど》のところでささやくような芸当を演じてくる。
「あたしこういうものにとても興奮するのよ」彼女はささやいた。「今晩いつでもあたしに接《せつ》吻《ぷん》したくなったら、ねえニック、ちょっと知らせてよ、喜んであなたにそうしてあげるわ。ちょっとあたしの名をおっしゃい。それとも緑のカードをさし出してよ。あたしくばってるのよ緑の――」
「見まわしてごらんなさい」ギャツビーがもちかけた。
「見まわしてるわよ。あたしすばらしい――」
「大勢の顔を見なくちゃ駄目ですよ。話に聞いているだけではね」
トムの傲《ごう》慢《まん》な眼は、群衆の上をあてどもなくさまよった。
「僕たちはあんまり出歩かないもんだから」と、彼は言った。「ほんとにここでは知ってるひとがひとりもいないって、いま考えていたとこなんで」
「多分あの夫人は知ってるでしょう」と、ギャツビーは、白西洋李《すもも》の樹の下にもったいぶって坐《すわ》っている、豪華でほとんど人間離れした薄紫の衣装をつけた女を指さした。トムとデイジーは眼を見張った。これまで影のようにぼんやり考えていた、有名な映画人を目のあたり見て、あの特別現実離れしたような感じを抱きながら。
「きれいなかた」デイジーは言った。
「上から身をかがめているのは、あのひとの監督ですよ」
彼は儀式ばって、ふたりをグループからグループへ連れまわした。
「ビュキャナン夫人……それからビュキャナン氏――」ちょっとためらってから、言い添えた。「ポーローの選手です」
「いや、違うよ」トムはいそいで反対した。「そうじゃないですよ」
ところがその言《いい》訳《わけ》にギャツビーは大喜びだった。そのせいか、その晩ずっとトムは「ポーローの選手」で通ってしまった。
「こんなに大勢の名士にお逢《あ》いしたことはないわ」デイジーは大声で言った。「あのひとよかったわ――なんていう名前だったかしら?――清教徒らしいかた」
ギャツビーはその名前を言って、ちょっとしたプロデューサーだと言い添えた。
「そうね、とにかくあたし気にいったわ、あのひと」
「僕はまあ、ポーローの選手でないほうがいいな」と、トムが剽《ひよう》軽《きん》に言った。「こういう有名なひとたちというものは、みんなその――そっと忘れられている、そういう姿を見たいもんだね」
デイジーとギャツビーは踊った。彼のフォックス・トロットが優雅で古風だったのにびっくりしたのを覚えている――まえに彼が踊るのを見たことはなかった。やがて、ふたりは僕の家のほうへぶらぶら歩いて行って、石段に三十分も腰かけていた。そのあいだ彼女に頼まれて、僕はずうっと庭園で見張りをしていた。「火事とか洪《こう》水《ずい》でもあるといけないでしょう」と、彼女は説明した。「でなければ、何か神の仕業がね、だからよ」
僕たちが揃《そろ》って夕食の席についていると、忘れられていたトムが、ひょっこり現れた。「こっちにいる連中と食事をしてもかまわんですか?」彼は言った。「滑《こつ》稽《けい》なことを言ってるのがいるんでね」
「どうぞ」デイジーが愛想よく言った。「何か住所を書きとめたいって言うのなら、あたしの金の小さい鉛筆があるわよ」……しばらくして、彼女はそっちを見まわして、その娘は「平凡だけれどきれい」だと僕に語った。で、ギャツビーとふたりきりだった三十分間を除いては、彼女は愉《たの》しくないんだな、と僕にもわかった。
僕たちはひどく酔ってふらふらする連中のテーブルにいた。それは僕が悪いのだった――ギャツビーは電話に呼び出されて行ってしまったし、僕もわずか二週間前だったら、こうしたいつもと同じひとたちを結構愉しんだはずだった。ところがあのころ僕に面白かったものも、いまは宙に浮いて腐敗したものと化している。
「どうですか、ミス・ベイデカー?」
僕の肩にどすんと落ちかかろうとして、うまくいかなかった娘に話しかけたのだ。こうきかれると、彼女はしゃんとして両眼を開いた。
「な、なァに?」
大柄でぼやっとした女が、明日地方クラブでゴルフをしようと、デイジーにしきりに勧めていたが、ミス・ベイデカーを弁護して言った。
「あら、もうこのひと大丈夫よ。カクテルを四、五杯呑《の》むと、いつでもあんなふうにきゃあきゃあ言いだすのよ。あたし言ってるのよ、お酒をやめなきゃ駄目よって」
「やめてるわよ」責められた当人は、うわの空で肯定した。
「あんたがわめくのが聞えたから、ここにいらっしゃるシビット先生に言ったの、『先生、先生に助けていただかなくちゃならないひとがあるんですけど』って」
「このひととても有難がってますわ、ほんと」べつの友だちが、有難くもなさそうに言った。「頭をプールへ突っ込んだから、着物がびしょ濡《ぬ》れになったわ」
「嫌なことってありゃしないわ、プールへ頭を突っ込まれたりして」とミス・ベイデカーが、口のなかでもぐもぐ言った。「いつかニュージャージーで、もう少しで溺《おぼ》れそうになったわ」
「それじゃやめなけりゃいけませんな」シビット先生が逆襲した。
「ひとのことだと思って!」ミス・ベイデカーが恐ろしい剣幕で言った。「あなたの手は震えてるわ。手術してもらうなんて、まっぴらだわ!」
万事そういった調子だ。どうやら僕が覚えている最後のことは、デイジーと並んで立ったまま、映画監督とスターを見つめていたことだ。ふたりはまだ白西洋李《すもも》の樹の下にいたが、触れ合うばかりに顔を近づけていて、顔と顔のあいだには、辛うじて蒼《あお》白《じろ》い月光が細くさしこむくらいしか離れていない。彼は一晩中かかって、のろのろと身をかがめて、このように接《せつ》吻《ぷん》したのだろう、ふとそんなことが頭に浮かんだ。僕が見つめているうちにも、彼が最後にもうひとかがみして、彼女の頬《ほお》に接吻するのが見えた。
「あのかた好きよ」デイジーは言った。「きれいなかただと思うわ」
ところが彼女以外のものに、デイジーは反《はん》撥《ぱつ》した――しかも、それは議論の余地のないことだった。というのは、それは身振りでなく感情だったからだ。ウエスト・エッグ、つまりブロードウェイがロングアイランドの漁村に産みつけた、この無類の《場所》に、彼女は胆《きも》をつぶしたのだ――古めかしい遠まわしな言いかたなんか、まだるっこくていらいらするむきだしな活気に、胆をつぶしたのだ。近道を通って、この世界に住む群衆を、無から無へ連れあるく、あまりにも強引な頑固さに、圧倒されたのだ。彼女が理解しそこねたひどく単純なものを、怖ろしいものと思ったのだ。
彼らが車を待っているあいだ、僕もいっしょに正面の石段に腰をおろしていた。正面のここは暗かった。ただ明るい扉《とびら》口《ぐち》だけが、十平方フィートばかりの光を、まだ暗い爽《さわや》かな朝に向ってさっと投げているだけだった。ときおり階上の化粧室の鎧《よろい》戸《ど》に、影が映って動き、べつの影や、次から次へぼやけてつづいた影に道を譲ったが、それはここからは見えない鏡に向って、紅を塗ったり、白粉《おしろい》をつけているのだ。
「いったいこのギャツビーってのは何者だい?」トムがふいに訊《き》きただした。「酒の密売の大物かい?」
「どこでそんなこと聞いたんだい?」僕はきいた。
「聞きゃしないよ。そう想像したんだよ。わんさとできた、こういう新興成金は、えてして酒類密売の大物だよ、そうだろう」
「しかしギャツビーはそうじゃないよ」僕はぶっきら棒に言った。
彼は一瞬黙った。邸内車道に敷きつめられた小さい玉石が、彼の足の下でガリガリ鳴った。
「そうだな、でもこれだけの動物園みたいなものをすっかりものにするには、きっと相当無理してるに違いないぜ」
そよ風が立って、デイジーの着ている貂《てん》の襟《えり》のグレーの柔毛が動いた。
「でもとにかくあたしたちの知ってるかたよりは、あのひとたちのほうがずっと面白いわ」彼女は一生懸命言った。
「そんなに面白そうにも見えなかったよ」
「いいえ、あたし面白かったわ」
トムは笑って、僕のほうに向いた。
「あの娘がデイジーを冷たいシャワーにかけてやるって言ったとき、デイジーの顔、気がついたかい?」
デイジーは折から聞えてくる音楽に合せて、嗄《しやが》れたリズミカルな小声で歌い始めた。そしてその音楽にまえには決してなかった意味、今後も二度と含まれることは断じてないと思われる意味を、ひとつひとつの言葉にはっきりと示した。メロデーが高まると、彼女の声はやさしくとぎれ、アルトの声特有の歌いかたでメロデーを辿《たど》る。歌が変化するたびに、彼女の人間的魅力が少しずつあたりに流れる。
「招待されもしないひとが大勢来るのよ」いきなり彼女は言った。「あの娘なんか招待されたことないのよ。みんなただ無理矢理やってくるのに、あのひとやさしいものだから断れないのよ」
「何者だろう、何をやってるのか知りたいな」トムは言い張った。「きっとつきとめてみせるぞ」
「いますぐ言ってあげられるわよ」彼女は答えた。「ドラッグストアをいくつか、いいえ、たくさんもってるのよ。自分で築いたのよ」
遅れていたリムジーンが邸内車道を進んできた。
「おやすみなさい、ニック」デイジーが言った。
彼女の眼ざしは僕を離れて、石段のいちばん上の灯《あかり》のさしているあたりを捜した。その年流《は》行《や》った、哀調を帯びたきれいな、小曲のワルツ「朝の三時」が、開かれた扉口からそとへ漂《ただよ》っていた。結局、ひどく気《き》紛《まぐ》れなギャツビーのパーティには、彼女の世界に全然欠けているロマンチックな可能性があったのだ。上のあそこで、彼女をなかへ呼び戻しているように思われる歌のなかには、何があるのだろうか? いま朧《おぼ》ろげで計りがたい時間に、いったい何ごとが起るのだろうか? 多分誰か、うつつとも思えないようなお客が到着するのだろう。たとえば底抜けに素敵な、驚嘆せずにはいられないような人物とか、折紙つき晴やかな若い娘とか。その娘はうっとりする邂《かい》逅《こう》の一瞬に、ギャツビーに一目ちらとみずみずしい視線を投げるだけで、あの五年間動揺せずにデイジーに傾倒してきたという事実を抹《まつ》殺《さつ》してしまうことだろう。
からだがあくまで待つように、ギャツビーから頼まれていたので、僕はその夜遅くまで残っていた。庭園をぶらぶらしていたら、とうとうお決りの水泳パーティも、皆寒がったり、意気が揚ったりしていたが、すぐ暗い渚《なぎさ》からひき揚げた。頭上の客間客間の灯もとうとう消えた。やっと彼が石段を降りてきたが、陽《ひ》に焼けた顔の肌は、いつもと違ってひき緊っていた。疲れて眼はぎらぎら光っている。
「彼女には気にいらなかったよ」彼はすぐに言った。
「もちろん気にいってたさ」
「いや、気にいらなかったよ」彼は言い張った。「愉《たの》しんでいなかったもの」
彼は黙りこんでしまったので、口に言えないほど気が鬱《ふさ》いでいるのだな、と察せられた。
「彼女からずっと離れてるような気がするんだ」彼は言った。「彼女にわかってもらうのはむずかしいや」
「ダンスのことかい?」
「ダンスだって?」彼は指をパチンと弾《はじ》いて、自分のやったダンスなんか目もくれなかった。「ねえ君、ダンスなんか問題じゃないよ」
デイジーはトムのところへ行って、「あんたなんか愛したことは決してないわ」と言うべきだ、デイジーにそうやってもらいたいので、それ以下では不服なのだ。彼女がそう宣告して、四年間を抹《まつ》殺《さつ》してしまったのち、ふたりできっぱりと、もっと実際的な手段を講ずることができるだろう。そのひとつを言ってみれば、彼女が自由になったあと、ふたりでルイヴィルに帰って、彼女の家から嫁にもらうことだ――まるで何も彼も五年前のつもりで。
「それに彼女にはわかってないんだ」彼は言った。「いつもわかってくれてたんだがな。五時間もよくいっしょに坐《すわ》ってたもんだ――」
彼は急にやめて、誰もいない、果物の皮が散らかっている小《こ》径《みち》を行ったり来たりし始めた。そしてパーティの玩《おも》具《ちや*》を捨て、花をもみくちゃにした。
「僕なら彼女にそんな要求しないな」僕は思いきって言った。「過去は繰りかえすことはできないもの」
「過去は繰りかえすことはできないだって?」彼は疑うように叫んだ。「いやあ、もちろんできるとも!」
彼は荒々しく周囲を見まわした。まるで過去が彼の家の影のなかのここに、しかもまさしく手の届かないところに潜んでいるかのように。
「前とまったく同じに、何も彼もちゃんとやってみせるぞ」彼は言って、きっぱりとうなずいた。「彼女もいまにわかるさ」
彼は過去について、いろいろ語った。何ものかをとり戻したがっている。きっとデイジーを愛するようになった自分をどう考えていいのか、もういちどその考えをひき戻したがっているのだろう。あのとき以来、彼の人生は混乱し、調子が狂っている。だが、もしある出発点にいちどたち帰って、ゆっくりと一部始終を復習できるなら、そのものが何であったのか、見つけだせるだろう。……
……五年前のある秋の夜、ふたりは木の葉の散る街《まち》を歩いていたが、やがて樹々がなくて、歩道が月光で白くなっている場所にやってきた。ふたりはここで立ちどまって、面と向かい合った。いまはあの神秘めいた興奮を秘めた、涼しい夜だった。一年に二度ある、季節の移り変りに訪れる夜だ。家々の灯が闇《やみ》のなかに、口ごもるようにさし、星々のあいだには動揺やさざめきがあった。ギャツビーは横目を使って、歩道の街区《ブロツクス》がほんもののように梯《はし》子《ご》になって、樹上の秘められた場所まで届いているのを自分の眼の隅《すみ》に見た――もし独りで登るなら、そこまで登れるのだ。そしてひとたびそこへ行けば、人生の乳首を吸い、いうにいわれぬ驚異の乳をごくっと飲めるのだ。
デイジーの白い顔が彼の顔に近づいてくると、彼の心臓の鼓動はいよいよ速くなった。彼は知っていた、この乙女に接《せつ》吻《ぷん》し、彼の抱いた言いようのない幻影を、彼女の壊れやすい呼吸に永遠に結びつけるなら、彼の心は神のみ心のように、ふたたび跳《は》ねまわることは断じてあるまいと。そこで彼は待って、星にぶつかって鳴った音《おん》叉《さ》の音に、さらにもう一瞬、耳を傾けた。それから彼女に接吻した。彼の唇が触れると、彼女は彼のために花のように開いてくれ、彼の夢の顕現も完《かん》璧《ぺき》だった。
彼の言った一部始終を通して、いやそのセンチメンタルなところは、ぞっとするようなものだったが、それでも僕は何かを憶《おも》いだしていた――ずっと昔どこかで聞いたことのある、捉《とら》えどころのないリズムを、失われた言葉の断片を。一瞬、ひとつの文句が僕の口のなかでまとまろうとして、唇が唖のように開いたが、いつものようにひと塊《かたま》りの空気がパッと飛び立って言葉になるのと違って、唇がさかんに燧《もが》いていたからか、とうとう音にはならず、僕が十中八、九まで憶いだしそうになったことは、永久に伝えようのないものだった。
第七章
ギャツビーにまつわる好奇心が最高潮に達したころ、とある土曜の夜、彼の家の灯《あかり》がつかなくなった――そして、トリマルキオ《*》としての生涯は、その始まりがよくわからなかったのと同じに、わからないうちに終ってしまった。期待にふくらんで、邸内車道に乗入れてくる自動車も、わずか一分とまっているだけで、やがて不機嫌そうに走り去っていったが、僕はなかなかそれに気がつかなかった。彼は病気ではないのかといぶかりながら、ようすを見に出かけた――悪党じみた顔つきの見なれない執事が、扉《とびら》口《ぐち》から僕を疑わしそうに眼を細めて見た。
「ギャツビーさんは病気ですか?」
「いんにゃ」ちょっと黙っていてから、のろくさく不承不承に「はい旦《だん》那《な》」と、言い添えた。
「見かけなかったもんだから、心配だったんです。キャラウェイが来たと言って下さい」
「誰?」彼はぞんざいに訊《き》きただした。
「キャラウェイですよ」
「キャラウェイだね。ようがす、伝えましょう」
いきなり扉をぴしゃりと閉めた。
僕のところのフィンランド人が知らせてくれたのでは、ギャツビーは家にいた召使いを全部一週間前に解雇して、代りに六人ばかりべつの召使いを置いたが、今度のはウエスト・エッグ村に行って商人に買収されるようなことはなく、電話で控え目に物を注文するそうだ。台所は豚小屋のように汚い、と食料品店の小僧は報告したし、新しく来たのはてんで召使いじゃない、というのが村中みんなの意見だった。
翌日ギャツビーから電話があった。
「出かけるかい?」僕はきいた。
「いや、君」
「召使いをみんな首にしたそうだね」
「誰か噂《うわさ》でもすると嫌だったもんだからさ。デイジーはそりゃたびたび来るよ――午後だけどさ」
それで不賛成の色が彼女の眼にうかがえたので、さしもの大邸宅も、カルタで組み立てた家のようにすっかり崩れてしまったのだ。
「今度のは、ウルフシュームが何とかしてやろう、と言ってる連中だよ。みんな兄弟姉妹さ。前に小さいホテルをやってたんだ」
「なるほどね」
彼はデイジーに頼まれて僕に電話をかけて寄こしたのだ――明日彼女の家へ昼食に行かないか。ミス・ベイカーも来るらしい。三十分経《た》ってデイジーが自分で電話してきたが、僕が来るとわかってほっとしたらしい。何かが始まっていたのだ。それでもふたりが選《よ》りに選って、この機会を立ち廻《まわ》りと変えるかもしれないなんてことは信じられそうもない――とりわけいつかギャツビーが庭園で、あらましを話した、あのどちらかといえば胸も張り裂けそうな立ち廻りをするなんて、信じられそうもない。
翌日は焼けつくようで、その夏のおそらくは最後の、しかもたしかにいちばん暑い日だった。僕の乗っている列車が、トンネルから陽《ひ》の照りつけるところに現れると、真昼どきのじりじり煮えるような、ひっそりした暑気を打ち破るものは、ナショナル・ビスケット会社の暑くるしい号笛だけだった。車内の麦《むぎ》稈《わら》製の座席は、いまにも燃えあがりそうに宙に揺れていた。僕の隣りに坐《すわ》っていた女は、しばらくは汗を白いワイシャツ型ブラウスのなかへ、優にやさしく流しこんでいたが、やがて指の下の新聞まで湿ってきたので、心細い叫び声をあげながら、自《や》棄《け》になって、ひどい暑さにぐったりしてしまった。彼女の紙入れが床にぴしゃり落ちた。
「あらまあ!」彼女は喘《あえ》ぎながら言った。
僕はいやいやながら体をかがめてそれをつまみあげ、できるだけ遠くに離して、しかもその紙入れに対してべつに悪い謀《たくら》みなんかもっていないことを示すために、隅のほんの尖《さき》っちょを持って、彼女に手渡して戻した――ところがあたりにいたひとは誰も、その女も含めて、やっぱり僕を疑っていた。
「暑いね!」車掌が、知っている顔に言った。
「すごい天気だね!……暑いね!……暑いね!……暑いね!……あなたとても暑いじゃないですか? 暑いですか?……でしょう」
僕の定期券は黒く汚れて車掌から戻った。こんな暑さでも、紅《あか》く燃えた唇に接《せつ》吻《ぷん》し、頭を胸に抱きかかえて、心臓のところにある、寝巻のポケットを汗で濡《ぬ》らしてもいいなどというひとがあろうとは!
……ビュキャナンの家の玄関《ホール》を、あるかないかの風が吹き抜けて、扉《とびら》口《ぐち》のところで待っていたギャツビーと僕のところまで、電話のベルの音が聞えてきた。
「ご主人の死体ですって!」執事が送話口に向って呶《ど》鳴《な》った。「申しわけございません、奥様、何も当てがうことはできません――とても暑くなっていますから、触わることもできません、今日の昼などは! 《*》」
彼が実際に言っていたことはこうだった。「はい……はい……みてみましょう」
彼は受話器を置くと、汗で心もちてらてら顔のあたりを光らせながら、こっちへやってきて、僕たちのカンカン帽をうけ取ってくれた。
「奥様が客間《サロン》でお待ちでございます!」と叫んで、必要もないのにその方向を指さした。こんなに暑いときに、余計な身振りなんかされると、普通の生命力しか貯《たくわ》えていない者にとっては、馬鹿にされたような気がするものだ。
部屋は日《ひ》除《よ》けでよく日を遮《さえぎ》ってあって、暗く涼しかった。デイジーとジョーダンが途方もなく大きい寝《カ》椅《ウ》子《チ》に横になっていたが、扇風機の歌うような微風に、白いドレスを煽《あお》られまいとして、重味をかけている、銀の偶像みたいだった。
「あたしたち動けないわ」と、ふたりはいっしょになって言った。
陽《ひ》に焼けたうえに白粉《おしろい》を刷いてあるジョーダンの指が、ちょっとのあいだ僕の指に託された。
「で、スポーツマン、トマス・ビュキャナン氏は?」僕はきいた。
と同時に、玄関《ホール》で電話をかけている彼の声が聞えた。突っけんどんな嗄《しやが》れた声で、口を覆っていてよく聞えない。
ギャツビーは緋《ひ》の絨《じゆう》毯《たん》の真中に突っ立って、うっとりした眼ざしで、あたりをじっと見まわした。デイジーは彼を見守って笑った。例の甘い刺《し》戟《げき》するような笑いだった。粉白粉がパッと小さく、彼女の胸からあたりにたち昇った。
「噂《うわさ》だと」ジョーダンがささやいた。「電話をかけてるのは、トムのいいひとなんですって」
誰も口をきかなかった。ホールの声は迷惑そうに高くなった。「よろしい、それじゃ、君になんか車は絶対売らない。……僕は君になんの義理もないんだから……それにお昼どきにそんなこと言ってきてうるさいじゃないか、絶対に我慢できないよ!」
「受話器を抑えて言ってるんだわ」と、デイジーが皮肉に言った。
「いや、そうじゃないよ」僕は請《う》け合うように言った。「ほんとうの取引だよ。偶然にも僕は知ってるんだけどね」
トムが荒々しく扉《とびら》を開くと、一瞬厚ぼったい体《たい》躯《く》で扉口の空間をふさいでしまったが、いそいで部屋に入ってきた。
「やあギャツビーさん!」嫌な気持を上《じよう》手《ず》に隠して、幅の広い平べったい手をさしだした。「よくお出で下さいました。……やあニック。……」
「冷たい飲みものをつくってちょうだい」と、デイジーが叫ぶように言った。
彼がまた部屋を出て行くと、彼女は立ちあがって、ギャツビーのところまで行き、下から顔をひき寄せて、唇を合せた。
「ご存じね、あたしが愛してること」彼女はささやいた。
「ここに淑女がいるのを忘れてんのね」ジョーダンが言った。
デイジーは不審そうにあたりを見まわした。「あんたもニックにキッスするのよ」
「なんて下品で、無作法なひとでしょう!」
「あたしかまわないわ!」と、デイジーは叫んで、煉《れん》瓦《が》造りの煖《だん》炉《ろ》の上で、クロッグダンスを始めた。やがて暑いのを憶《おも》いだして、悪いことでもしたように、寝椅子に腰をおろしたが、ちょうどそのとき、さっぱりと洗濯したものを着た乳母が、小さい女の子を連れて、部屋に入ってきた。
「天使のような、お宝娘ちゃん」彼女は小声で歌うように言って、両腕をさしだした。「あんたが可愛くてしようがないお母さんのところへいらっしゃい」
子供は乳母の手を放れて、部屋をトコトコ横ぎって、恥しそうに母親の着ているもののなかにもぐってじっと動かなかった。
「天使のようなお宝娘ちゃん。お母さんはあんたの黄色い髪にお粉をかけたかしら? さあお立ち、そうして言ってごらんなさい――こんにちわって」
ギャツビーと僕は交る交る前かがみになって、その小さい嫌そうな手を取った。そのあと彼は驚いてその子供をじっといつまでも見つめていた。彼はこれまで子供の存在なんかいちどだって信じたことはないと思う。
「お昼ご飯前におべべ着たのよ」子供はしきりにデイジーのほうを向きながら言った。
「お母さんがあんたをきれいにしてあげたかったからよ」小さい真ッ白な首筋に、たったひとつある皺《しわ》のところに、彼女は顔を埋めた。「あんたは夢よ、あんたは。あんたは絶対小ちゃい夢よ」
「そうよ」子供はしずかにその言葉を受けいれた。「ジョーダンおばちゃまも白いおベベ着てるわ」
「お母さんのお友だち好き?」デイジーは彼女をぐるりと向きかえたので、ギャツビーと面と向った。「きれいなお客ちゃまでしょう?」
「お父うちゃまはどこ?」
「父親には似てないわ」デイジーが説明した。「あたしに似てるわ。お髪や顔の形はあたしよ」
デイジーは寝椅子に倚《よ》りかかった。乳母が一歩進み出て、手をさしだした。
「いらっしゃい、パミーちゃん」
「さようなら、いい子ちゃん!」
嫌《いや》々《いや》そうにちらと振りかえって見ながら、よく躾《しつ》けられた子供は乳母の手にかじりついて、扉口から連れていかれたが、入れ違いにトムが戻ってきた。そのあと、氷が一杯入ってカチカチ音をたてているジン・リッキー《*》が四杯届いた。
ギャツビーは飲みものを取りあげた。
「これはいかにも冷たそうに見える」彼はありありと緊張の色を浮かべながら言った。
みんなごくごくとやすまず口をつけたまま、貪《むさ》ぼるように飲んだ。
「どこかで読んだんだけど、太陽は毎年だんだん暑くなってるんだってね」と、トムが愛想よく言った。「もうまもなく地球が太陽のようになるらしいね――いやちょっと待って――そうだ、正反対だ――太陽が毎年冷たくなっていくんだよ」
「そとへ来ませんか」彼はギャツビーにもちかけた。「屋敷を見ていただきたいですな」
僕もついてヴェランダに出た。暑さのために淀《よど》んでいる緑色の海峡には、小さい帆船が一隻、もっと新鮮な海を求めて、のろのろ這うように進んだ。ギャツビーの眼はそれをちょっと追ったが、片手を挙げて湾の向うをさした。
「僕の家は真正面ですよ」
「そうですな」
岩に沿った、薔《ば》薇《ら》の花壇、暑くるしい芝生、草の生えた土用の塵《ちり》芥《あくた》の向うに、僕たちは眼を注いだ。碧《あお》い空の限界線を背景に、船の白帆がゆっくり動いた。前方には帆立貝の縁《へり》のような波形模様の立った太洋と、溢《あふ》れるばかりに恵まれた島々が横たわっている。
「君は運動していないか」トムが言って、うなずいた。「三十分ばかり彼とあそこへ出ていたいんだよ」
僕たちは暑さを避けるために、やはり暗くなっている食堂で昼めしを喰《た》べ、燥《はしや》いでもいらいらするので、冷たいビールを呑《の》んで忘れたのだった。
「午後いったいどうしようかしら?」デイジーが叫ぶように言った。「それから翌日は、それからこれからの三十年間ってものは?」
「病的になっちゃ駄目よ」ジョーダンが言った。「人生って落っこって毀《こわ》れそうになったら、すっかり出直すのよ」
「だってとても暑いんですもの」と、デイジーは言い張ったが、いまにも泣きだしそうだった。「それに何も彼も滅茶苦茶なんですもの。みんなで街《まち》へ行きましょうよ!」
彼女の声は暑さと闘いつづけ、ぶっつかり、感覚がなくなるほどになった暑さをいろんな形に仕上げたといえる。
「厩舎《うまや》からガレージを造るという話は聞いたことがあるけど」と、トムはギャツビーに向って言っていた。「でもガレージから厩舎を造ったのは、とにかく僕が初めてですよ」
「どなたが街へいらっしゃりたい?」デイジーがしつこく訊《き》きただした。ギャツビーの眼が彼女のほうに漂《ただよ》っていった。「あら」彼女は叫んだ。「あなたとても涼しそうね」
ふたりの眼が合うと、あたりにひとも無げに、おたがいにじっと見つめ合った。やっとこらえて、彼女はちらとテーブルに眼を落した。
「あなたっていつでもとても涼しそうね」彼女は繰りかえした。
あなたを愛しているわ、彼女はそう彼に語っていたのだが、それがトム・ビュキャナンにもわかったのだ。彼はびっくりした。口を小さく開けたまま、ギャツビーを見てから、やがてまたデイジーに視線を戻したが、まるでずっと昔知っていた誰かだと、いまやっとわかったというふうに彼女を見た。
「あなたは広告の人に似てるわよ」彼女はわる気もなく言った。「ご存じね、広告の人って――」
「よろしい」トムがすばやく口を挟《はさ》んだ。「断然喜んで街へ行くよ。さあ行こう――みんなで街へ行くんだ」
彼は立ちあがったが、まだギャツビーと妻のあいだに眼をぎらぎら光らせていた。誰も動かなかった。
「さあ行こうよ!」癇《かん》癪《しやく》の緒が切れかかった。「どうしたんだ、いったい? 街へ行くなら、出かけようじゃないか」
一生懸命自分を抑えようとして、彼の手は震えたが、コップに残っていたビールを唇にもっていった。デイジーの声でみんな立ちあがり、焼けた砂利の邸内車道に出た。
「やっと出かけるわけ?」彼女は文句を言った。「こんなふうにして? まずは煙草を吸いたいひとには吸わせるようにしましょうよ」
「みんな昼めしを食っているときしょっちゅう吸ってたじゃないか」
「あら、面白くしましょうよ」彼女は頼むように言った。「やきもきするなんて、暑すぎるわ」
彼は答えなかった。
「勝手になさい」彼女は言った。「さあ行きましょう、ジョーダン」
ふたりが仕度をしに二階へ行ったその留守に、僕たち男三人はそこに突っ立ったまま、足を曳《ひ》きずって小石をあちこち動かした。弧を描いた銀色の月は、もう西の空にたゆとうていた。ギャツビーは話し始めてまた気が変ったが、それよりはやくトムがくるりと向きを変えて、話を待つ態度で面と向った。
「厩舎《うまや》はここへ造ったんですか?」ギャツビーは努力しいしいきいた。
「四百メートル道の向うですよ」
「ああ、そう」
話がとぎれた。
「街へ行くなんて料《りよう》簡《けん》がわからない」トムがいきなり猛烈な勢いで叫びだした。「女どもの考えることはこんなことなんだ――」
「お飲みもの何か持ってきましょうか?」デイジーが二階の窓から呼びかけた。
「ウィスキーをとってくるよ」トムは答えて家へ入った。
ギャツビーはぎこちなく、僕のほうに向いた。
「どうも彼の家ではなんにも言えないんだよ、ねえ君」
「言うことが軽率だよ、彼女は」僕は思ったことを言った。「あの声には一杯詰まっているね、なんていうのかな、その――」僕は言い淀《よど》んだ。
「金《か》銭《ね》が一杯詰まってるんだ」彼はいきなり言った。
そうだったのだ。前には絶えて理解できなかった。彼女の声には金銭が一杯こもっている――抑揚する声の尽きることのない魅力、リンリンと鳴るその音、そのシンバルの歌はそれだったのだ。……白宮殿高く、王の姫、黄金の娘。……
トムが一クォート入りの壜《びん》をタオルに包んで家から出てきたが、つづいてデイジーとジョーダンが、金属入りのクロースでつくった小さいぴったりする帽子をかぶり、薄いケープを腕にかけて出てきた。
「僕の車へみんなで乗って行きましょうかね?」ギャツビーがもちだした。彼は暑くなっている緑の皮革の座席に触わった。「日《ひ》蔭《かげ》に置いとかなくちゃいけなかった」
「規格型のシフトですか」トムが訊《き》きただした。
「そう」
「それじゃ、僕のクーペへ乗って下さい、この車を街《まち》まで運転させて下さいよ」
その提案をギャツビーは厭《いや》がった。
「ガソリンがあんまりないと思うけど」と、彼は反対した。
「ガソリンはふんだんにあるよ」トムは騒々しく言って、計器を見た。「それになくなれば、ドラッグストアで停《とま》ればいいさ。このごろは何だってドラッグストアで買えるもの」
こういうあきらかに無意味な言葉のあと、話がとぎれた。デイジーは眉《まゆ》をしかめてトムを見た。そしてなんとも言いようのない表情がギャツビーの顔をよぎったが、それはたしかに見なれないものだが、それでもぼんやり見覚えがあるような、まるで言葉で説明しているのは聞いたことはあるが、まだ見たことはない、そんな表情だった。
「さあおいで、デイジー」トムは言って、片手で彼女をギャツビーの車のほうへ押した。「このサーカス・ワゴンで連れてってやるよ」
彼は扉《とびら》を開いたが、さしだした腕の輪から、彼女はそとへ出てしまった。
「じゃニックとジョーダンを乗せて下さいよ。あたしたちはクーペであとからついてくから」
彼女はギャツビーのすぐ傍まで歩いて行き、彼の上着に片手で触わった。ジョーダンとトムと僕は、ギャツビーの車の前の席に乗った。トムは使いなれないギヤを試しに押してみた。すると、うだるような暑さのなかへ、車はさっと飛びだして、あとに残ったギャツビーとデイジーは見えなくなった。
「あれを見たかい?」トムは答えを促した。
「見たって何を?」
彼は抜け目なく僕を見つめ、ジョーダンも僕も初めからずっと知っていたに違いないと悟っている。
「ずいぶん馬鹿なやつだと思ってるんだろう?」思いついて彼は言った。「多分馬鹿だろうさ。だけどあるんだよ、僕にも、その――ときどきだがね、まあ千里眼に近いものがね。そいつがどうしたらいいか教えてくれるんだ。信じないかも知れんがね、しかし科学は――」
彼は話しやめた。直接関係のある出来ごとに圧倒されて、深遠な理論の淵《ふち》からひき戻されたのだ。
「この男をちょっと調べてみたんだ」と、彼はつづけた。「もっと深く突っこめたんだがな、その、知ってたら――」
「占いのところへ行ってきたっていう意味?」ジョーダンが剽《ひよう》軽《きん》にきいた。
「なんだって?」僕たちが笑ったので、彼はまごついて、じろじろ僕たちを見た。「占いだって?」
「ギャツビーのことでね」
「ギャツビーのことでだって! いや、行きゃしないよ。昔のことを少し調べてみたって言ったんじゃないか」
「そしたらオックスフォード出だってわかりました」と、ジョーダンが助け舟をだした。
「オックスフォード出だって!」彼は信じそうもなかった。「とんでもない! ピンクの背広を着てるじゃないか」
「それだってもあのひとオックスフォード出よ」
「ニューメキシコのオックスフォードか」トムは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「でないにしたって、その辺のとこさ」
「ねえ、トム。あんたそんなに気取ってんなら、何だってお昼に招《よ》んだのよ?」ジョーダンがぷんぷんして訊《き》きただした。
「デイジーが招んだんだよ。結婚前に知ってたんだ――どこでだか知れたもんじゃない!」
もうビールが醒《さ》めたので、みんないらいらしていた。そうわかっていたので、しばらく黙ったまま、車を走らせた。やがてT・J・エクルバーグ博士の色《いろ》褪《あ》せた眼が、道の向うに見えてくると、ギャツビーがガソリンのことを注意していたことを、僕は憶《おも》いだした。
「街へ着くまで充分あるよ」トムは言った。
「でもすぐそこにガレージがあるじゃないの」ジョーダンが反対した。「こんな焼けつくような暑さのなかでエンコするのは嫌よ」
トムは焦《い》らだたしそうに両方のブレーキをかけたので、ウィルソンの看板の下まで車は滑りこんで、そこは急に埃《ほこり》が立った。しばらくして経営主が営業所のなかから現れて、その車を窪《くぼ》んだ眼でじっと見つめた。
「ガソリンをくれないかい!」トムが乱暴に叫んだ。「なんのためにストップしたと思うんだい――景色を賞《め》でるためかい?」
「具合が悪いんでさ」ウィルソンはそのままで言った。「一日中具合が悪かったので」
「どうしたんだい?」
「すっかり衰弱してるんで」
「それじゃ、僕が自分でやろうか?」トムが訊きただした。「電話じゃとても元気そうだったぜ」
ウィルソンはやっとのことで戸口の日除けと支柱のところを離れて、苦しそうに息をついて、タンクの蓋《ふた》を抜いた。日向《ひなた》で見ると、顔は蒼《あお》ざめていた。
「お昼ご飯中なのを邪魔するつもりじゃなかったんで」彼は言った。「でもひどく金がいるんでね。それであの古い車、どうなさるだろうと思ってたんでさ」
「これはどうだい?」トムがきいた。「先週買ったんだよ」
「こりゃすばらしい黄色いやつだね」ウィルソンは言って、ハンドルを握った。
「買いたいかね?」
「ぼろいね」ウィルソンはかすかに微《ほほ》笑《え》んだ。「いや、だけどほかので金になりまさあ」
「なんだって金がいるんだい、藪《やぶ》から棒に?」
「ここに長くいすぎましたよ。逃げ出したいんでさ。女房もわしも西部へ行きたいんでね」
「君の細君がかい」トムはびっくりして、大声で言った。
「十年もそんなこと言ってましたよ」彼は一瞬ポンプに凭《もた》れて憩《やす》み、眼を覆った。「行きたくても行きたくなくっても、今度こそあれも行きますよ。連れてくつもりでさ」
クーペが一陣の埃《ほこり》をあげ、手をさっと振って、傍を通りすぎた。
「君になんの借りがあるってんだい?」トムは厳《きび》しく言った。
「この二日ばかりおかしなことがちょっとわかったんでね」ウィルソンは思っていることを言った。「だから逃げ出したいんでさ。だから車のことで面倒をおかけしたんで」
「なんの借りがあるってんだい?」
「一ドル二十セントでさ」
容赦なく襲いかかる暑さに、どうやら僕の頭は混乱しだした。で、一瞬馬鹿みたいだったが、やがてこれまでのところでは、トムには疑惑が降りかかっていないな、とわかった。マートルが自分から離れて、べつの世界である種の生活をしていた、それを発見したのだ。衝撃のあまり、肉体の病気になった。僕は彼をじっと見つめ、やがてトムをじろじろ見た。そのトムも一時間足らずも前に、似たような発見をしたのだ――そして、病人と丈夫な者の違いほど深い違いは、人間同士のあいだにはないのだ、という考えが僕に浮かんだ《*》。知力の違いだって、また人種の違いだってこれほどではない。ウィルソンはひどく加減が悪かったので、まるで罪でも犯したひとのように見えたのだ。許しがたい罪を犯したひとのように見えたのだ――貧しい娘を妊娠させたみたいだ。
「あの車は譲るよ」トムは言った。「明日午後送って寄こすよ」
ここはいつでも、そう、昼すぎの明るい光がぎらぎら隈《くま》なく照っているときでさえ、何となく不安なところだった。そのとき、背後の何ものかに注意せよ、と言われたような気がして、僕は振り向いた。灰の山の向うにある、T・J・エクルバーグ博士の巨大な眼は、相変らずの番をつづけていたが、すぐそのあとで、べつの眼が二十フィートとは離れていないところから、こっちをじっと見つめているのに気がついた。
ガレージの上のひとつの窓は、カーテンがわずかに傍に寄せられてあったが、その間からマートル・ウィルソンが自動車をじっと見おろしていた。彼女はまったく夢中で、見られていることに気がつかない。ゆっくり現像される写真に、いろんな物が写ってくるように、ひとつまたひとつと、いろんな感情が彼女の顔に忍びこんでくる。その表情は不思議と見なれたものだ――ときおり女たちの顔に見かけるものだ。ところがそれがマートル・ウィルソンの顔に現れると、なんだか意味のない、説明しようのないものに見えてくるが、とうとう嫉《しつ》妬《と》の交じった恐怖にカッと見開かれた眼が、トムの上でなく、ジョーダン・ベイカーの上に釘《くぎ》づけにされているのがわかった。彼女を妻ととったのだ。
混乱のなかでも、単純な心の混乱ほど独特なものはない。で、車が走り去って行くにつれ、トムは狼《ろう》狽《ばい》の鞭《むち》を激しく感じていた。一時間前までは、何の心配もなく、神聖で犯すべからざるものであった妻と情婦が、だしぬけに自分の支配力からするすると抜けだしていたのだ。デイジーに追いつき、背後にウィルソンを遠ざけるという二重の目的で、彼は本能的にアクセルを踏みつづけた。で、時速五十マイルのスピードで、アストリアに向って走ったが、ついに高架鉄道の蜘《く》蛛《も》の巣のようなガードのなかに、ゆっくり走っている青色のクーペが見えた。
「五十番街辺の大きい映画館は涼しいわ」と、ジョーダンがもちだした。「誰もいない夏の午《ひる》すぎのニューヨーク、好きだわ。そこになんだかとても官能的なものがあるわ――熟し過ぎて、まるで妙な果物が、どの種類もどの種類も手のなかへ落ちてきそうなの」
「官能的」という言葉は、トムをさらに不安にさせる効果があったが、抗議を考えだせないでいるうちに、クーペが止まって、並んで止まるように、デイジーが合図した。
「どこへ行くの?」彼女は叫んだ。
「映画はどうかしら?」
「とても暑いわ」彼女は苦情を言った。「あんたたちいらっしゃいよ。あたしたちそこらを乗りまわすわ。だからあとで逢《あ》いましょう」やっと彼女にもかすかながら、機智に富んだことが言えるようになった。「どこか角で逢いましょう。二本の煙草を吸ってるわ《*》」
「ここでそんなこと言い合うなんてできないよ」うしろで罵《ののし》るようにトラックが警笛を鳴らしたので、トムはいらいらしながら言った。「セントラル・パークの南側、プラザの前までついといで」
五、六回も彼は頭を振り向けて、彼女たちの車を振りかえって見た。そして交通のために後の車が遅れると、見えてくるまで速力を遅らせた。どこか傍道を突進して、永久に彼の人生から飛びたってしまうのではないか、と怖《おそ》れたのだと思う。
しかし彼女たちはそんなことはしなかった。しかもみんなで、プラザ・ホテルに一組の部屋をとるという、よく説明しかねるような処置を講じたのだ。
どうも僕にもよくわからないのだが、騒々しい議論が長くつづいていたが、みんなでぞろぞろその部屋へ団《かた》まって行ったということでけりがついた。もっとも、議論がつづいているうちにも、僕の下着はまるでじめじめした蛇が脛《すね》に巻きついて登ってゆくような気がしたし、数《じゆ》珠《ず》のような汗が、思いだしたように背中をあらそって流れるのが涼しく思われたという、そういう肉体の記憶ははっきりしているのだ。もともとその考えは、五つの浴室を借りて冷水浴をしようというデイジーの提案に端を発して、やがて「薄荷《はつか》入りジューレップ《*》を呑《の》むところ」というそれよりも現実的なかたちをとったのだ。ひとりひとり繰りかえし繰りかえしそれは「正気の沙《さ》汰《た》とは思えぬ考え」だと言った――当惑したクラークにみんないっぺんに話しかけた。そして、おれたちはずいぶんおかしいよ、と考えたり、考えているふりをした。……
部屋は大きくて、しかも息が詰まりそうだった。で、もう四時過ぎだったけれども、窓を開いて、公園の暑苦しい灌《かん》木《ぼく》の植え込みからさっと吹いてくる少しばかりの風をいれた。デイジーは鏡のところへ行って、僕たちに背を向けて、髪を整えた。
「素敵な一組のお部屋ね」ジョーダンがうやうやしくささやいたので、みんなが笑った。
「ほかのお窓も開けて」と、デイジーが振りかえりもしないで命じた。
「これ以上ないわ」
「それじゃ、電話をかけて斧《おの》を持ってこさせたほうがいいわ――」
「暑さを忘れることだよ、なすべきことは」トムがいらいらしながら言った。「暑い暑いと文句をいうから、十倍も悪くしてるじゃないか」
彼はウィスキーの壜《びん》をタオルから解いて、テーブルの上に置いた。
「なぜ放っておけないのかね、ねえ君?」ギャツビーが思ってることを言った。「街《まち》へ来たがったのは君じゃないか」
一瞬沈黙がつづいた。電話帳が釘《くぎ》からはずれて、床の上にどさりと音をたてて跳《は》ねた。そこでジョーダンが「失礼」と、小声で言った――ところが今度は誰も笑わなかった。
「僕が拾う」と、僕が申しでた。
「もう取ったよ」ギャツビーは切れた紐《ひも》を調べて、興味ありげに「ふーん!」と呟《つぶや》いた。そしてその帳簿を椅《い》子《す》の上に放った。
「それが君の大事な表現じゃないのかね?」と、トムが鋭く切りこんだ。
「何がだね?」
「すっかりこの『ねえ君』っていう商売のことさね。どこで拾ったんだね?」
「さあ、ねえちょっと、トム」デイジーは言って、鏡から振り向いた。「個人的なことをおっしゃるっていうなら、あたし一分だってここにいないわよ。電話をかけて、薄荷入りジューレップに使う氷を注文してちょうだい」
トムが受話器を取りあげたので誰も喋《しやべ》らなかったが、すると圧迫するような暑さをついて、いきなり音が聞えてきたと思ったら、階下の舞踏室からメンデルスゾーンの「結婚行進曲」が聞えてきたのだが、そのしかつめらしい合奏に僕たちは耳を傾けていたのだ。
「考えてもごらんなさいよ、この暑さに誰かと結婚するなんて!」ジョーダンが陰気な顔つきで叫んだ。
「それでも――六月の中旬にあたし結婚したわ」デイジーが憶《おも》いだして言った。「六月のルイヴィルといったら! 誰か卒倒したわ。誰だったかしら、ねえトム?」
「ビロクシーさ」彼は無愛想に答えた。
「ビロクシーっていう名なの。『ブロックス』のビロクシー、おまけに箱《ボツクス》を作ってたの――ほんとよ――テネッシーのビロクシー生れなのよ」
「うちへ担《かつ》ぎこまれたのよ」ジョーダンが言いたした。「だってうちは教会から、二軒目だったでしょう。そしたら三週間もいたわ。出てってもらわなくちゃ困るってとうとう父うさんが話したの。翌る日父うさん亡《なくな》ったわ」しばらくして彼女は言い添えた。「なんの関係もなかったんだけど」
「メンフィス生れのビル・ビロクシーってのはよく知っていたがなあ」僕は思いついて言った。
「それは従弟《いとこ》よ。うちを出てくまでに、家族の経歴を聞いてすっかり覚えちゃったわ。アルミニュウムのパターをもらったけど、いまでも使ってるわ」
式が始まったので音楽は消えていまはいつまでも歓呼がつづいて、窓のところから部屋に漂《ただよ》ってくる。つづいて「そうだーそうだ!」という叫び声がとぎれとぎれにして、最後にどっとジャズが始まって、ダンスになった。
「あたしたち年とったのね」デイジーが言った。「若ければ立って踊るでしょうに」
「ビロクシーを憶いだしてよ」ジョーダンが彼女に注意した。「ねえトム、どこで知り合ったの?」
「ビロクシーかい?」彼は一生懸命注意をこらした。「知ってなかったよ。デイジーの友だちだったんだ」
「そうじゃないわ」彼女は否定した。「いちども逢《あ》ったことなかったもの。貸切列車でやってきたのよ」
「ところがあんたを知ってるって言ったわよ。ルイヴィルで育ったんだって。エイサ・バードがやっと正気づけたんだけど、この男を置く部屋がお宅にありますか、なんてきいたわ」
ジョーダンはにっこりした。
「きっと家へ帰る途中ぶらぶら居候《いそうろう》生活してたんでしょ。エールであんたたちのクラスの委員長だったって言ってたわ」
トムも僕もぽかんとして顔を見合せた。
「ビロクシーがかい?」
「第一、委員長なんてものはなかったよ――」
ギャツビーは片足で落ちつきなくコツコツ音をたてた。するとトムはいきなり彼をじろじろ見た。
「ところでギャツビーさん、オックスフォード出だそうですな」
「そうね、正確にいうとそうじゃないんだけど」
「いや、そうですよ、オックスフォードへいったそうじゃないか」
「ええ――いきましたよ」
話がとぎれた。するとトムが怪しむような、侮辱するような声で言った。
「ビロクシーがニューヘイヴンにいったころ、君も向うへいったに違いないや」
また話がとぎれた。ノックの音がして、給仕が砕いた薄荷《はつか》と氷を持って入ってきたが、「有難うございます」と言って、しずかに扉《とびら》を閉めても、沈黙は破られなかった。この怖《おそ》るべき事の詳細は、とうとうあきらかにされるはずだった。
「向うへいったって言っただろう」ギャツビーは言った。
「聞いたよ、だけどいついったのか、そいつが知りたいんだ」
「一九一九年さ。五か月いただけだがね。だからオックスフォード出だとは、ほんとは言えないわけなんだ」
トムはちらっと見まわして、自分の不信を僕たちも反映して、やはり信じようとしてないかどうか確かめた。ところが僕たちはいっせいにギャツビーをじっと見ていたのだ。
「休戦後そういう機会が将校に与えられたのさ」彼はつづけた。「イギリスでもフランスでも、どこの大学にもいけたんだ」
僕は立ちあがって、彼の背中をポンと敲《たた》いてやりたかった。前にも経験したことがあるのだが、まるで彼を信用する気持が、また復活したのだ。
デイジーは立ちあがって、かすかに微笑を浮かべながら、テーブルのほうへ行った。
「トム、ウィスキーを開けてちょうだい」彼女は指図した。「薄荷入りジューレップを作ってあげるわ。そうすればご自分にもそうお馬鹿さんには見えなくなるでしょうよ。……この薄荷をごらんなさいよ!」
「ちょっと待って」トムは意地悪く口を出した。「もうひとつギャツビーさんにききたいんだ」
「どうぞ」ギャツビーはていねいに言った。
「いったい僕の家庭に、どういう騒動を起そうってんだね?」
とうとう彼らははっきりしたのだ。ギャツビーの思う壺《つぼ》だった。
「なにも騒動なんて起してはいないわ」デイジーは絶望的に代る代るふたりを見た。「騒動を起してるのはあなたじゃありませんか。お願いだから、少しは自制してちょうだい」
「自制だって!」トムは信じられないというふうに繰りかえした。「目新しいことってのは、ふんぞりかえって、どこからともなくやってきた無名氏に、自分の女房を愛させることなんだろう。よろしい、そういうのが最新流行の考えなら、僕を除外してもいい。……近《ちか》頃《ごろ》は家庭生活や家族制度を鼻であしらうようなことを始める。この次は、何も彼もそとへ投げ捨てて、白と黒と雑婚するだろうさ」
熱の入った、何が何だかわからないお喋《しやべ》りに頬《ほお》を紅潮させて、文明の最後の砦《とりで》に、たったひとりで立っていると思っている。
「ここにいるのはみんな白人よ」ジョーダンが呟《つぶや》いた。
「そりゃ僕なんかそんなに人気はないさ。大きなパーティなんか開かない。きっと友だちをつくるには、家を豚小屋にしなくちゃいけないんだろうな――近代世界ではね」
そこにいる者は誰もそうだったが、僕は腹がたって、彼が口を開きさえすれば笑いたくなった。放《ほう》蕩《とう》者から道学居士への転向は、まったく申し分なかった。
「君に話さなくちゃならんことがあるんだよ、ねえ君――」ギャツビーが始めた。ところがデイジーは彼の意向を察した。
「お願いだからやめて!」彼女は困り果てて遮《さえぎ》った。「お願いだからみんな家へ帰りましょうよ。なぜみんな家へ帰らないの?」
「それがいい」僕は立ちあがった。「さあ行こう、ねえトム。誰も呑《の》みたがらないよ」
「ギャツビーさんがぜひ話したいって言ったことを知りたいんだ」
「君の細君は君なんか愛しちゃいないんだ」ギャツビーは言った。「愛したことなんか断じてないんだ。僕を愛してるんだ」
「気が狂ってるんだ!」トムは鸚《おう》鵡《む》がえしに大声で言った。
ギャツビーはすっくと立ちあがり、興奮して生き生きしていた。
「愛したことなんか断じてないんだ。わかったか?」と、彼は叫んだ。「結婚したのは、僕が貧乏だったからだ。そして僕を待ってるのに飽きたからだ。それだけなんだ。大変な間違いをしでかしたものだ。心のなかではほかの誰も愛したなんてことは断じてないんだ!」
ここでジョーダンと僕は行こうとしたが、トムもギャツビーも、そのままいるように、争って力強く言い張った――ふたりとも匿《かく》すものは何もない、身代りになってふたりの感情のお相《しよう》伴《ばん》をするのは君たちの特権なんだ、と言ってるようだった。
「デイジー、お坐《すわ》り」トムの声はなんとかして父親のような調子をだそうとしたが、うまくいかなかった。「どんなことがつづいていたんだね? すっかり聞きたいんだ」
「どんなことがつづいていたか、僕が話したろう?」ギャツビーは言った。「五年間つづいたんだ――だのに君は知らなかったんだ」
トムはきっとなってデイジーのほうを向いた。
「五年間もこの男と逢《あ》っていたのかい?」
「逢いはしないよ」ギャツビーが言った。「いや、逢おうたって逢えやしなかった。だけどいつだって愛し合っていたんだよ、ねえ君。ところが君は知らなかったんだ。ときどき笑ったもんだ」――だが彼の眼には笑いの影はなかった――「知らぬはなんとか、と思うとね」
「ああ――それだけだね」トムは牧師のように指をこつこつと打ち合せて、椅《い》子《す》に凭《よ》りかかった。
「君は気がおかしいよ!」彼は激しく語りだした。「五年前に起ったことなんか、僕には何とも言えないよ、その時分デイジーを知らなかったんだから――それに、食料品を裏口に届けでもしたならともかく、そうでもない限り、君がどうやって彼女から一マイルと離れないところにいたのか、そんなことが僕にわかってたまるものか。だがそのほかのことは全部、途方もない嘘《うそ》だ。デイジーは結婚当時僕を愛してたし、いまだって愛しているよ」
「いや」ギャツビーは言って、頭を振った。
「やっぱり愛しているさ。困ったことに、ときどき馬鹿なことを考えて、自分でも何をしてるんだかわからないようなことを彼《あ》女《れ》はやるんだ」彼は賢人ぶってうなずいた。「そのうえ、僕だっても愛している。たまには呑《の》んでどんちゃん騒ぎになってしまって、馬鹿な真《ま》似《ね》をして物笑いの種になることもあるさ。だけどいつだって戻ってくるんだ。そして心のなかではいつだって愛しているんだ」
「あなたって胸が悪くなるわ」デイジーは言った。彼女は僕のほうを向いた。そして一オクターヴ下った彼女の声は、ぞっとするような侮《ぶ》蔑《べつ》を含んで、部屋中に拡がった。「なぜシカゴを離れたかご存じ? あのちょっとした呑んだくれの騒ぎの話を、シカゴのひとたちがご馳《ち》走《そう》のかわりにあなたにしなかったなんて驚いたわ」
ギャツビーは向うへ行って、彼女の傍に立った。
「デイジー、それももうすんだんだよ」彼は熱意をこめて言った。「そんなことはもう問題じゃないよ。本当のことを話してやりさえすればいいんだ――愛したことなんか断じてないって――そうすれば、これも金輪際すっかり帳消しになるんだよ」
彼女は向う見ずに彼を見つめた。「まあ――あたしにどうしてこのひとが愛せるの――できると思って?」
「愛したなんてことは断じてなかったんだよ」
彼女はためらった。彼女の眼ざしは訴えるようにジョーダンと僕の上に注がれたが、まるでやっと自分がしていることがわかった――しかも、初めから全然何もしでかすつもりはなかったというようだった。だがいまそれはなされたのだ。もう遅すぎたのだ。
「愛したことなんか決してなかったわ」と、彼女は言ったが、しぶしぶそう言ったことはたしかだった。
「カピオラニでもそうじゃなかったかい?」いきなりトムが訊《き》きただした。
「ええ」
こもった、息詰まるような合奏が、暑苦しい空気の波に乗って、階下の舞踏室から漂《ただよ》い昇ってきた。
「靴を濡《ぬ》らさないように、すり鉢山の谷間から抱き降ろしてやった、ほらあの日もそうじゃないかい?」嗄《しやが》れたやさしさがその調子にこもっていた。……「ええデイジー?」
「お願いだからおっしゃらないで」彼女の声は冷たかったけれども、深い恨みはそこから消えていた。彼女はギャツビーを見た。「ほらこの通り、ジェイ」と、彼女は言った――だが煙草に火をつけようとした手が震えていた。いきなり煙草と燃えているマッチを絨《じゆう》毯《たん》の上に投げつけた。
「ああ、あんまり要求しすぎるわ!」彼女はギャツビーに向って叫んだ。「いま愛してるわ――それだけじゃ足りないの? 過ぎ去ったことはどうしようもないじゃないの」彼女は困り果てて啜《すす》り泣きを始めた。「いちどはあのひとを愛したわ――だけどあなたも愛したわ」
ギャツビーの眼は開いたり閉じたりした。
「僕も愛したって?」と、彼は繰りかえした。
「それだって嘘《うそ》だ」トムが猛《たけ》りたって言った。「君が生きてるなんて、彼女は知らなかったんだ。そうさ――君なんかにはわからないんだ、いろんなことがデイジーと僕のあいだにはあるんだ、ふたりとも決して忘れないいろんなことがあるんだ」
その言葉はギャツビーの肉体に喰《く》い入ったらしい。
「デイジー独りっきりのところで話したいんだ」と、彼は言い張った。「彼女はいますっかり興奮しているんだ――」
「独りっきりになっても、トムを愛したことなんか決してなかった、なんてあたしには言えないわ」哀れっぽい声で、そう彼女は認めた。「そう言えば嘘になるわ」
「むろんそうだよ」と、トムは同意した。
彼女は夫のほうに向いた。
「どうでもいいことじゃないみたいね」彼女は言った。
「もちろん関係があるさ。これからはもっと大事にするよ」
「君にはわかってないんだ」ギャツビーが慌て気味に言った。「もうこれ以上彼女の世話をしなくてもいいのだ」
「しない?」トムは大きく眼を開いて笑った。もう自制する余裕ができていた。「なぜそうなんだね?」
「デイジーは別れるんだ」
「馬鹿な」
「やっぱり、そうよ」彼女はあきらかに努力しながら言った。
「僕を捨てやしない!」トムの言葉はいきなりギャツビーのうえにかぶさった。「盗まなくちゃ、指環も女の指に嵌《は》められないような、そんなありふれた詐《さ》欺《ぎ》師《し》といっしょになるために、別れたりするもんか」
「我慢できないわ、こんなこと」デイジーが叫んだ。「ああ、お願いだからそとへ出ましょう」
「いったい君は何者なんだ?」トムがふいに大声で言いだした。「メイヤー・ウルフシェームとうろつきまわってるあの一味なんだ――それだけは偶然にわかった。君の仕事を少し調査してみたんだ――明日はもっと進めてみるつもりだ」
「そんなことなら好きなようにやりたまえ、ねえ君」ギャツビーは落ちついて言った。
「君の《ドラッグストア》がどんなものか、見破ったんだ」彼は僕のほうに向いて、早口に喋《しやべ》った。「彼とこのウルフシェームは、ここやシカゴの横町にあるドラッグストアをたくさん買い占めて、店先きでエチールアルコールを売ったんだ。これがちょいとした離れ業のひとつなのさ。初めて逢ったとき酒の密売業者だろうって悪口を言ったんだが、やっぱり当らずといえども遠からずだったよ」
「それがどうしたんだね?」ギャツビーは愛想よく言った。「そういう君の友だちのウォルター・チェイスだって、たいした自尊心もないのか、のこのこやってきたじゃないか」
「それであの男を見殺しにしたんじゃないか? はるばるニュージャージーの刑務所に一《ひ》ト月も入っているのを知らん顔してたんだ。怪しからん! 君のことについては、ウォルターの言うことを聞いてみるべきだよ」
「すっかり破産してやってきたんだ。金がいくらかでも拾えれば、大喜びだったんだよ、ねえ君」
「僕のことを『ねえ君』なんて呼ぶな!」と、トムは叫んだ。ギャツビーは何も言わなかった。「ウォルターは賭《と》博《ばく》法でも君を駄目にすることができたんだ、ところがウルフシェームに脅かされて、口を噤《つぐ》んでしまったんだ」
例の見なれない、けれども見覚えのある表情が、またギャツビーの顔に戻っていた。
「そのドラッグストアの商売なんか、ほんの小銭だったんだ」トムはゆっくりと話しつづけた。「ところがいま、ウォルターも話すのを怖《こわ》がっているようなことを、君は何かやってるんだ」
デイジーをちらっと見たら、彼女はギャツビーと夫を怯《おび》えた眼でじっと見ていたが、やがてジョーダンをじろじろ見た。ジョーダンは眼には見えないが夢中にさせるようなものを、顎《あご》の尖《さき》に載せて、平均をとり始めていた。それから僕はギャツビーのほうをまた向いてみた――そして彼の表情を見てびっくりした。それは――しかもあの庭園でペちゃくちゃ言った中傷なんかすっかり軽《けい》蔑《べつ》してこう言うのだが――まるで「人を殺した」とでもいうふうだった。一瞬、彼の顔つきは、まさしくそうした怪奇な表現法で描写しても嘘《うそ》ではなかった。
それは過ぎてしまった。すると彼は興奮してデイジーに向って話し始め、何も彼も否定し、実際非難もされないのに、自分の評判を弁護した。だがそのひとことひとことに、彼女はいよいよ遠く自分のなかにひきこもってしまった。そこで彼は諦《あきら》めたので、午後の日が知らぬ間に経《た》ってゆくうちに、ただ死んでしまった夢だけが闘いつづけ、もはや触れることのできないものに触れようと努め、部屋の向うのあの失われた声に向って、不幸にも、だが落胆もせずに、燧《もが》いていた。
その声はまた、行きましょうと嘆願した。
「お願いだわ、トム! こんなことにはこれ以上我慢できないわ」
どんな意向だったにせよ、またどんなに勇気があったにせよ、もうそれがはっきりと消え去ってしまったことを、彼女の怯えた眼がはっきりと語っていた。
「お前たちふたりで家へ出かけるんだよ、デイジー」と、トムは言った。「ギャツビーさんの車でさ」
彼女はトムを見て、いまさらながらびっくりしたが、彼は嘲《あざけ》りながらも寛大な気持で言い張った。
「そうしなさい。お前を困らせやしないだろう。出しゃばった、根性の小さいいちゃつきなんか、もう終ったことが彼にもわかったと思うんだ」
ふたりはひとことも言わず、舞台から消え、場違いのものとなって、幽霊のように、僕たちからも同情されず、見放されて出て行った。
間もなくトムは立ちあがって、とうとう栓《せん》を抜かなかったウィスキーの壜《びん》をタオルに包み始めた。
「これを少しやるかね? ジョーダンはどう?……ニックはどう?」
僕は答えなかった。
「ニックは?」彼はまたきいた。
「何?」
「少しやるかね?」
「いやたくさん……今日が誕生日だってことを憶《おも》いだしたとこだよ」
僕は三十歳だった。新しい十年間の凄《すさ》まじいばかりの、脅かすような道が、僕の前に通じている。
いっしょにクーペに乗り、ロングアイランドに向けて出発したのは七時だった。トムはひっきりなしに喋《しやべ》り、ひどく喜んだり笑ったりしたが、歩道でふと騒がしい外人の声を聞いたり、頭上の高架鉄道の騒音に耳をふさがれたときのように、彼の声もジョーダンや僕からは、およそ遠い感じのものだった。人間の同情心にも限りがある。だから、彼らの悲劇的な議論が、背後に去りゆく市《まち》の灯《あかり》とともに、すっかり消えてゆくがままにさせて、僕たちもべつに文句を言うこともなかった。三十歳――それは約束しているのだ、孤独の十年間を。独身者として新しく知ることを書きつける目録もだんだん薄くなってゆくことを。感激にふくれた折りカバンもだんだん平たくなってゆくことを。髪もだんだん薄くなってゆくことを。だが僕の傍にはジョーダンがいる。デイジーと違って、賢《かしこ》すぎるくらい賢く、きれいに忘れてしまった夢を、くる年もくる年も抱きつづけるようなことはしない。暗い鉄橋を通るとき、彼女の蒼《あお》白《じろ》い顔が僕の上着の肩にもの憂げに凭《よ》りかかった。そして元気づけるように片手を押しつけてくると、三十歳を迎えた怖《おそ》るべき打撃も消え失《う》せてしまった。
こうして涼しくなってきた黄昏《たそがれ》をついて、僕たちは死に向って車を走らせていたのだ。
若いギリシア人のマカイリスは、灰の山の近くでコーヒーの屋台店をだしていたのだが、検《けん》屍《し》に当って第一の証人だった。暑いさなか、彼はずっと昼寝をしていたが、五時過ぎになると、ガレージまでぶらぶら歩いて行った。すると事務室にいたジョージ・ウィルソンが加減が悪いのに気がついた――いかにも悪くて、薄い色の髪の毛と変らぬくらいに顔が蒼ざめ、躯《からだ》中《じゆう》ぶるぶる震えていた。寝たほうがいいよ、とマカイリスは勧めたが、ウィルソンは断って、寝ちまえば商売をいくつもとり逃がしてしまうと言った。隣人がしきりに説きつけていると、激しいわめき声がいきなり頭の上で起った。
「女房をあそこへ閉じこめたんだよ」ウィルソンはゆっくりと説明した。「明後日まではあそこにいるさ。そしたらふたりでここを立ちのくつもりだよ」
マカイリスは驚いた。四年間隣りづきあいをしてきたのだが、こんなはっきりしたことなどおくびにも出せるひとだとは思えなかったのだ。だいたい彼は、あの疲れきったタイプの人間だった。働いていないときは、戸口の椅《い》子《す》に腰をおろして、道を通るひとや自動車をじっと見ている。誰か話しかけると、いつもきまって、毒にも薬にもならないようににっこり笑った。妻の言いなり放題で、自由に何でもできる男ではなかった。
それだから、何ごとが起ったのかと、マカイリスが目をきょろきょろさせたのも当りまえだった。ところがウィルソンはひとことも語ろうとしない――その代りに、疑うような変な眼ざしを訪問客にちらっちらっと投げ始めて、これこれの日の、しかじかの時間には、何をしていたかなぞときき始めた。マカイリスは不安になってきたが、時を移さず数人の労働者が戸口のところを通りすぎて、彼のレストランのほうへ向ったので、この機会にたち去ってしまったが、あとでまた戻ってくるつもりだった。ところが彼は戻らなかった。多分忘れてしまったので、べつにどうこういうことがあって行かなかったわけではない。七時少し過ぎてから、またそとへ出てみると、ガレージの階下で、大声で口汚く罵《ののし》っているウィルソンの細君の声が聞えたので、彼はさっきの会話を憶《おも》いだした。
「打《ぶ》てってば!」と、彼女が叫ぶのが聞えた。「投げ倒して打《ぶ》ちなったら、汚らわしいちびの臆《おく》病《びよう》者!」
一瞬後、彼女が両手を振りたて、わめきながら黄昏《たそがれ》のなかへ飛び出してきた――彼が家の戸口からまだ動き出すこともできないうちに、事は終ったのだ。
新聞が名づけた《死の車》は止まらなかった。それは深まる夕《ゆう》闇《やみ》のなかから現れて、一瞬悲しげによろめき、やがて次のカーヴをまわって消えた。マヴロマカイリスは車の色さえ定かでなかった――彼は最初の警官に薄緑だったと告げた。べつの車、ニューヨークへ向って走っていたのが、百ヤード向うに止まって、運転手がいそいでマートル・ウィルソンのところへひっかえしてきた。道に跪《ひざまず》き、どろどろした黒血が夕闇に混じて、彼女は乱暴にいのちを絶っていた。
マカイリスとこの男が彼女のところへ最初に寄ってきたのだが、汗でまだ濡《ぬ》れているワイシャツ型ブラウスをひき裂いて開いて見ると、左の乳房が皮をはがれた生《なま》身《み》のようにだらり垂れていた。その下にある心臓の音を聴いてみる必要はなかった。口はカッと開かれ、口《くち》端《ばた》が少し裂けている。まるでこれまで蓄えていた魂げるばかりに溢《あふ》れた生命力を見限る際、ちょっと窒息したのだ、とでもいうようだった。
まだかなりの距離があったのに、僕たちにも三台か四台の自動車と群衆が見えた。
「壊したな!」と、トムが言った。「こいつはいい。ウィルソンもやっと少しは商売になるだろう」
彼は速力を弛《ゆる》めたが、まだ停車するなどというつもりは少しもなかったが、さらに近づいてみると、ガレージの扉《とびら》口《ぐち》に群がったひとびとの、固《かた》唾《ず》を呑《の》んだ、傍《わ》き目も振らずにいる顔を見ると、ついに彼は自動的にブレーキをかけた。
「見てみよう、ちょっとだけね」彼は不審そうに言った。
僕はもうガレージからひっきりなしに起ってくる、うつろな泣き叫ぶ音に気がついていた。クーペから降りて、扉口のほうへ歩いて行くと、その音は変じて「ああ、神様!」という言葉になり、それが喘《あえ》いだ呻《うめ》き声で繰りかえし繰りかえし言われた。
「何か悪いことがここにはあるんだな」と、トムは興奮して言った。
彼は爪《つま》先《さき》で伸びあがって、見える高さに届くと、ひとびとの頭の輪のうえからガレージのなかをじっと見た。そこはうえのほうに、揺れる金属の籠《かご》に入った黄色い灯《あかり》がただひとつつけてあるだけだった。すると咽《の》喉《ど》のところで耳触わりな音がしたかと思うと、彼は逞《たくま》しい腕を動かして、激しく押し除《の》け、遮二無二道をつけて進み出た。
駄目じゃないか、とみんなが注意するささやきがさっとつづいて起ったが、その輪はまた閉じてしまった。僕には一分間ばかりまるで何も見えなかった。すると新たに到着した者たちが、その線を狂わせてしまって、ジョーダンと僕はいきなりなかに押し出されてしまった。
マートル・ウィルソンの死体は毛布に包まれ、さらに暑い夜なのに寒気がしてしょうがないとでもいうように、もう一枚の毛布に包まれて、壁際の作業机の上に横たえられている。トムは僕たちに背を向けて、身じろぎもせずにそのうえにかがみこんでいた。彼の隣りにはオートバイで乗りつけた巡査が立っていて、汗をだくだくたらしながら、そして訂正しいしい、小型の手帳に名前を書きとめていた。がらんとしたガレージに喧《やか》ましく反響する高い呻《うめ》き声の言葉が、どこから出てくるのか、最初僕はわからなかった――やがて見ると、ウィルソンが一段高くなった事務室の敷居の上に立って、前や後にふらふらしながら、扉口の側柱に両手でつかまっていた。誰か低い声で話しかけて、ときどき肩に手をかけようとしたが、ウィルソンは聞いてもいないし、見ようともしなかった。彼の視線は揺れている灯から、壁際の死体を載せてある机にゆっくりと落ちてくると、やがてまた灯のほうにぐいと戻るのだった。しかもひっきりなしに、高い怖《おそ》ろしい呼び声を発していた。
「ああ、かみーさま! ああ、かみーさま! ああ、かみ! ああ、かみーさま!」
まもなくトムはぐいと頭をもたげて、どんよりした眼でガレージをじろじろ見まわしてから、もぐもぐと辻《つじ》褄《つま》の合わないことを言って、巡査に話しかけた。
「マーアーイー」と、巡査は言っていた。「ーオ――」
「いいえ、ルですー」と、男が訂正した。「マーアーヴールーオ――」
「ねえ、おいッたら!」トムは荒々しくぶつくさ言った。
「ル」と、巡査が言った。「オ――」
「グ――」
「グー」トムの幅の広い手が強く肩にかけられたので、彼は眼をあげた。「なんだね、君ーィ?」
「どうしたんです?――それが知りたいんだ」
「車に轢《ひ》かれた。即ッ死」
「即死」と、トムは繰りかえして、眼を見張った。
「道ィ駈《か》け出したんだ。野郎奴《め》車を止めーもせなんだ」
「二台車がいたんです」と、マカイリスが言った。「一台は来る、一台は向うへ行く、ねえ?」
「どこを行くんだね?」巡査が鋭くきいた。
「一台が銘々その道を走るんで。そう、彼女が」――片手を挙げて毛布のほうを指さそうとしたが、途中でやめて、また脇《わき》におろした――「あそこへ駈け出したってえと思うと、ヌゥヨークから来たのがなんと彼女を叩《たた》きつぶしたんでさ。時速三十か四十マイルだしてたね」
「ここは何というところだね?」と、警官が訊《き》きただした。
「名前なんかないでさあ」
顔の白っぽい、身なりの立派な黒人が一歩近寄った。
「黄色い車でした」と、彼は言った。「でかい黄色い車。新しいね」
「事故を見たね?」巡査がきいた。
「いや、そうじゃないけど、道の向うですれ違ったです。四十以上だして走ってた。いや五十、六十で走って」
「こっちへきて。君の名をきこう。さあどいた、どいた。この人の名を聞くんだから」
この会話のうち、いくつかの言葉は、事務室の扉口でぶらぶら躯《からだ》を揺すっているウィルソンのところまで聞えたに違いない。というのは、彼の喘《あえ》ぐような叫びのさなかに、いきなり新しい題目が唱えられたからだ。
「どんなふうな車だったか、話す必要なんかないぞ! どんなふうな車だったか、知ってるぞ!」
トムを見守っていると、彼の肩のうしろの筋肉の塊《かたま》りが上着の下でひき緊るのが見えた。彼は向うにいるウィルソンのところまですばやく歩いて行って、面と向って突っ立ち、二の腕をしっかと把《つか》んだ。
「元気をださなきゃいけない」と、彼は銅《ど》鑼《ら》声《ごえ》でなだめるように言った。
ウィルソンの視線はトムのうえに落ちた。彼は驚いて爪《つま》先《さき》で立ちあがったが、トムが真直ぐに支えなかったら、膝《ひざ》をついてくず折れてしまったろう。
「ねえいいかい」トムは言って、彼をちょっと揺すった。「僕はちょっと前にニューヨークからここへきたばかりだ。君と話合った例のクーペを君のとこへもってきたところなんだ。今日昼すぎ運転していたあの黄色い車は、僕のじゃなかったのだ――わかるかい? あの車は午後ずっと見かけなかったんだよ」
黒人と僕だけが、彼の言ってることが聞けるくらい近くにいたのだが、巡査はその語調から何かを捉《とら》えて、獰《どう》猛《もう》な眼ざしで目をやった。
「いったいそれは何のことだね?」彼は訊《き》きただした。
「友だちです」トムは頭を振り向けたが、両手はしっかりウィルソンの躯にかけたままだった。「やった車を知っているって言うんです。……黄色い車だったって」
あるかすかな衝動に駆られて、巡査はうさん臭さそうに見つめた。
「で、君の車の色は?」
「青い車、クーペです」
「僕たちはニューヨークから真直ぐやってきたんです」と、僕は言った。
僕たちの少しあとから車を走らせてきた、どこかのひとが確証してくれたので、巡査は向うを向いてしまった。
「さて、またあの名前を正確に教えてくれるかな――」
トムは人形を抱きかかえるように、ウィルソンを立ちあがらせて、事務室のなかへ運びいれ、椅《い》子《す》に腰かけさせて、戻ってきた。
「誰かここへきて、いっしょにいてくれないかな」と、いかにも権威をもったひとのように、がみがみ言った。いちばん近くに立っていたふたりの男が、おたがいにちらっと顔を見合せて、嫌々ながら部屋に入っていくまで、彼は見守っていた。それからふたりのあとから扉《とびら》を閉めて、一段きりの階段を降りてきたが、机を見ることは避けた。僕の傍を通りすぎながら「出よう」と、小声で言った。
僕たちは人前で気がひけたけれども、彼が威信ありげに腕で道を開けたので、まだ集ってくる群衆のなかを押し進んだが、三十分ほど前強い希望をこめて呼びにやった医者が、鞄《かばん》を手にいそいでやってくるのとすれ違った。
トムはその道のカーヴの向うに出るまでゆっくり車を走らせた――やがて彼の脚《あし》がぐっと強く降りると、クーペは夜をついて全速力で走った。まもなく低い嗄《しやが》れた啜《すす》り泣きが聞えたので、見ると彼の顔から涙が溢《あふ》れでていた。
「えーい怪しからん臆《おく》病《びよう》者め!」彼は泣き声で言った。「車を止めもしなかったなんて」
暗《くら》闇《やみ》のなかでさらさら鳴っている樹立ちのなかから、いきなりビュキャナンの家が僕たちのほうにすっと浮かびでた。トムはポーチの傍に車を止めて、二階を見あげた。そこはふたつの窓に灯が入って、蔦《つた》のなかに花が咲いたように美しかった。
「デイジーが帰ってる」彼は言った。車から降りると、僕をちらっと見て、かすかに眉《まゆ》をしかめた。
「ウエスト・エッグで降ろせばよかったな、ねえニック。今夜はもう何をすることもできないものな」
彼は前と変って、重々しく、しかもきっぱりと口をきいた。三人で月光に濡《ぬ》れた砂利道を横ぎってポーチに向って歩いてゆくと、彼は二、三のきびきびした言葉で、事を片づけた。
「電話でタクシーを呼んで、家まで行ってもらおう。待ってるうちに君もジョーダンも台所へ行って、何か夕食を拵《こしら》えてもらったらいいな――欲しかったらだよ」彼は扉《とびら》を開けた。「入れよ」
「いや、結構だ。そう、頼むよ、タクシーをいいつけてくれないか。そとで待ってるよ」
ジョーダンが僕の腕に手をかけた。
「お入りにならない、ニック?」
「いや、有難う」
僕は少し気持が悪かったので、独りになりたかった。しかしジョーダンはなおしばらく去りかねて、ぐずぐずしていた。
「まだ九時半よ」と、彼女は言った。
なかへなんか入るものか。今日一日だけで、彼らなんかもうたくさんだった。しかも突然気がついてみると、そのなかにジョーダンも含まれていたのだ。彼女は僕の表情のなかに、そのことをいくぶん見てとったに相違ない。ぷいっと向うを向いて、ポーチの階段を駈《か》けあがると、家へ入ってしまった。僕は腰をおろして、両手に頭をかかえ、二、三分そうやっていた。するとなかで電話をとりあげて、執事の声でタクシーを呼んでいるのが聞えた。そこでゆっくりと邸内車道を歩いて、家から離れた。門の傍で待つつもりだった。
二十ヤードも行かないうちに、僕の名が呼ばれた。ギャツビーがふたつの藪《やぶ》のあいだから径《こみち》へ踏みこんできた。そのころまで、僕はかなり気味の悪い感じにつき纏《まと》われていたに違いない。そう呼びかけられても、月の下で明るく見える、彼の桃色の服に気がついただけで、ほかに何も思いつかなかったからだ。
「何をしているんだね?」と、僕はきいた。
「ここに立ってるだけだよ、ねえ君」
どういうわけか、それは卑劣な仕事のように思われた。おそらく一瞬のうちに、この家を掠《りやく》奪《だつ》しようとしていたのかもしれない。彼の背後の暗い藪のなかに、人相の悪い顔、《ウルフシェームの手下》の顔が見えたとしても、一向おかしくなかったろう。
「道で何かごたごたしてなかったかね?」しばらくして彼は言った。
「うん、見たよ」
彼はためらった。
「殺《や》られたかい?」
「うん」
「そうだろうと思った。そうだろうとデイジーに話したんだ。ショックはみんないっぺんにきたほうがいいんだ。立派に彼女は持ちこたえたよ」
彼の話しぶりを聞いていると、まるでデイジーの反応だけが、重大なことのようだ。
「横道を通ってウエスト・エッグへ行って」と、彼は話しつづけた。「車をうちのガレージに置いてきたんだ。誰にも見られなかったと思うんだけど、むろん確実じゃないよ」
このときにはもう、彼がひどく嫌いになっていたので、君の言ってることは間違っているよ、なぞと話してやる必要などはないと、僕は考えた。
「誰だったんだね、その女は?」彼はきいた。
「ウィルソンという名前さ。主人はガレージをもってるんだ。いったいどうしたんだい?」
「そう、ハンドルをぐるっと回そうとしたんだ――」彼はぷっつり話しやめたので、突如真相が、僕にも推測された。
「デイジーが運転してたんだね?」
「そうなんだ」彼はしばらくして言った。「だけどむろん僕だった、というべきだろうね。ねえ、ニューヨークを出たとき、彼女はひどく神経質になっていたもんだから、運転でもしたら落ちつくかもしれないと、思ったんだな――そうしたら、向うの道を走ってくる車とちょうどすれ違ったときに、この女がこっちへ駈《か》け出してきたんだ。みんな何も彼も一瞬の出来ごとだったんだが、しかしどうも僕たちに話しかけたがっていたらしく思えるんだよ。知ってるひとだと思ったらしいな。そう、最初デイジーはその女を避けて、向うからくる車のほうに向きを変えたんだけど、気おくれしてまたもとへ向きを変えたんだ。僕が片手でハンドルに触わった瞬間、激突するのを感じたんだ――即死だったに違いないな」
「ひき裂いて開《あ》いちゃったよ――」
「もうたくさんだね、ねえ君」彼はたじろいた。「とにかく――デイジーはその上に乗ってしまった。僕は止めさせようとしたんだが、彼女には止めることができない。そこで非常ブレーキをかけたんだ。すると膝《ひざ》の上に彼女が倒れかかったので、僕が運転しつづけたんだよ」
「彼女も明日になればよくなるだろうよ」と、彼はほどなく言った。「ここで待ってみて、今日昼すぎのあの不愉快なことで、また彼女を悩ましゃしないか、そいつを確かめるつもりだ。自分の部屋に鍵《かぎ》をかけて閉じこもっているから、もし彼が野蛮なことでもすれば、灯《あかり》を消してまたつけることになってるんだ」
「手を触れたりしないよ」僕は言った。「彼女のことなんか考えてないよ」
「信用できるもんか、ねえ君」
「いつまで待つつもりなんだい?」
「必要とあれば、徹夜さ。とにかくみんな寝てしまうまではね」
新しい観《み》かたが僕の頭に浮かんだ。運転していたのはデイジーだったと、トムが気がついたらどうだろう。彼はそこに因果をみたと思うかもしれない――とにかく何か考えそうだ。家を見ると、階下の窓が二つ三つ明かるかった。二階のデイジーの部屋からは、桃色の強い光がさしている。
「ここで待ってないか」僕は言った。「騒動が起きそうな気配かどうか見てくるから」
芝生の縁に沿ってひきかえし、砂利道をそっと横ぎって、ヴェランダの階段を爪《つま》先《さき》であがった。客間のカーテンが開いていたので、覗《のぞ》いてみると、部屋には誰もいなかった。三月前のあの六月の夜、僕たちが食事をしたポーチを渡って、小さい長方形に光がさしているところまできたが、そこは食器室の窓なのだろう、鎧《よろい》戸《ど》はおりていたが、窓の下枠に割れ目が見つかった。
デイジーとトムが向き合って、台所のテーブルに坐《すわ》っていた。ふたりのあいだには、冷たい揚げた鶏のお皿と、ビール壜《びん》二本があった。彼はテーブル越しに、熱心に話しかけていたが、熱心のあまり片手を彼女の手の上に置いて、その手を蔽《おお》っていた。ときおり、彼女が彼を見あげては、うなずいて同意を示していた。
彼らは幸福ではなく、どちらも鶏にもビールにも手をださなかった――それでもなお、不幸でもなかった。その一幅の絵には、自然に親密さが漂《ただよ》っていて、間違いようがなかった。ふたりはぐるになって陰謀を企てているとみるひともあったかもしれない。
爪先だちでポーチを離れると、僕の乗るタクシーが暗い道を家へ向って、手探りで進んでくるような音が聞えた。ギャツビーはさっき別れた邸内車道で待っていた。
「あそこはすっかり鎮《しず》まってるかね?」彼は心配そうにきいた。
「うん、すっかり鎮まってるよ」僕は言い淀《よど》んだ。「家へ帰って、少し眠ったほうがいいよ」
彼は頭を振った。
「デイジーが寝るまでここで待っていたいんだ。おやすみ、ねえ君」
彼は両手を上着のポケットに突っ込むと、この家を綿密に吟味する仕事にまた熱心に戻っていった。まるで僕がいたために、神聖な寝ずの番が傷つけられたとでもいった調子だった。そこで僕は歩き去って、無に向って見張をしたまま――月光を浴びて、そこに立ちつくしている彼の傍を離れた。
第八章
僕は一晩中眠れなかった。霧笛が海峡でひっきりなしに呻《うめ》いていた。グロテスクな現実と、凶猛で胆《きも》をつぶすような夢のあいだを転々しながら、吐きそうだった。暁《あけ》がた近く、ギャツビーの邸内車道をタクシーが走ってくる音が聞えたので、すぐベッドから跳《と》び起きて、身支度をした――彼に話すことや警告することがあるような感じがしたのだ。朝では遅すぎる。
彼の家の芝生を横ぎって、見ると表玄関はまだ開いたままで、玄関《ホール》のテーブルに彼がぐったり凭《もた》れかっていた。がっかりしたのか、眠っていたのか。
「何も起らなかったよ」彼は力なく言った。「待っていたら、四時ごろ彼女が窓のところへきて、ちょっと立っていたけど、やがて灯《あかり》を消してしまったよ」
その夜ふたりで大きな部屋をいくつも通って、煙草を探しまわったときほど、彼の家が途方もなく大きく見えたことはない。園遊会や運動会などで使う大テントのようなカーテンを押し除《の》けて、真暗な壁の何フィートと数えきれないほど広い面のあちこちを、手探りで電灯のスイッチを探した――いちどなど僕は幽霊の影のようなピアノの鍵《けん》盤《ばん》の上にころげ落ちて、はね返る始末だった。どこもかしこも腑《ふ》に落ちないほど埃《ほこり》がたまっていたり、部屋はかび臭くて、まるで幾日も長いあいだ風を通さないといった具合だった。僕は見なれないテーブルの上に煙草貯蔵筐《ばこ》を見つけたが、なかに香の抜けたぱさぱさした巻煙草が二本あった。客間のフランス窓をサッと開けて、ふたりは腰をおろして暗《くら》闇《やみ》のなかで煙草をふかした。
「逃げなくちゃいかんよ」僕は言った。「君の車を捜しだすことは九分九厘たしかだな」
「いますぐ逃げるのかい、ねえ君?」
「一週間ばかりアトランチック・シティへ行くんだ。それとも北のモントリオールへ行くんだよ」
彼はそんなことは考えようともしなかった。デイジーがどうするのかわかるまでは、彼女から離れるなぞということは不可能なのだ。いまだに最後の希望に縋《すが》りついていたので、蒙《もう》を啓《ひら》いてがっかりさせてやるに忍びなかった。
ダン・コディといっしょに暮した、若き日の奇妙な話を語ってくれたのは、この夜だった――《ジェイ・ギャツビー》がトムの堅い敵意にぶつかってガラスのようにすっかり欠けてしまって、長いこと秘密だった狂態が終ってしまったので、その話をしたのだ。いまこそずばり、何ごとかを認めたと思うが、やっぱりデイジーのことを話したがった。
彼女こそ初めて知った《いい》女の子だった。いろんな資格をこっそりつくっては、そうしたひとたちと近づきになったが、いつでも目に見えない有刺線があいだにあって隔てられてしまう。彼女はたまらなく望ましい女だとわかった。初めのうちはテイラー基地の将校連と行ったが、やがて独りで行った。彼女の家に行って驚いた――これまでそんなに美しい家に入ったことはない。しかしその家に、息もつけないくらい強烈なものがあると思われたのは、そこにデイジーが住んでいたからだ――しかし彼女からすれば、そこに住んでいるのは偶然なので、彼が基地に住んでいるのが偶然なのと同じではないか。その家には神秘的なものが色濃く漂《ただよ》っている。よその寝室よりもっと美しくて涼しげな寝室が二階にありそうだ。華《はな》やかで明るい活動が廊下で起っていそうだ。かびが生えたから傍へ除《の》けられ、ラヴェンダー《*》のなかにしまっておく、そんなロマンスでなく、みずみずしく生々躍動した、この年のピカピカした自動車の臭いの強いロマンスがありそうだ。いまや酣《たけなわ》でいつまでも衰えそうもないダンスをやっていそうだ。すでに大勢の男からデイジーが愛されていることも彼を興奮させた――そのために彼女の値打ちが倍になって目に映った。彼らが家のあたりに姿を現しているのが感じられる。いまだに震えている感情の陰影や反響が、いっぱい立ちこめているのが感じられるほどだ。
だが自分が途方もない偶然の仕業で、デイジーの家にいることはわきまえていた。ジェイ・ギャツビーの未来がどれほどかがやかしいものであろうとも、現在は何の経歴もない、一文なしの青年だったし、軍服を包んでいる目に見えない掩《おお》いが、いつなんどき両肩からずり落ちるかもわからない。そこで自分の時間をできるだけ利用した。貪《むさ》ぼるように、無遠慮に、手に入るものは何でも取った――とうとうある静かな十月の夜、デイジーをものにした。彼女の手に触れる権利などはほんとはなかったのに、ものにしたのだ。
彼は自分を軽《けい》蔑《べつ》したかもしれなかった。ありもしない口実を設けて、ものにしたことはたしかだったからだ。何百万というありもしない財産を、ありそうに利用したという意味ではないが、用心深くおれには保証があるんだ、という感じをデイジーに与えたのだ。彼女のとほとんど同じ社会層の人間だと信じこませた――自分なら世話が充分できると信じこませた。事実はそんな便宜は彼にはない――何不自由のない家族が背後に控えていたわけではないし、個人など問題にしない気紛れな政府の手で、どこか世界の隅にでも吹き飛ばされかねなかったのだ。
だが彼は自分を軽蔑しなかった。事態は彼が想像した通りにはならなかった。多分、ものにできるものをものにしてから、行ってしまうつもりだったのだろう――ところがいま自分は聖《せい》盃《はい》の従者としてわが身を縛りつけているではないか。デイジーが風変りなことはわかっていたが、いったい《いい》女の子がどれほど風変りでありうるものか、わかっていなかったのだ。彼女は富裕な家のなかへ、豊かで充分な生活のなかへ入って消えてしまい、ギャツビーに残していったものは――何ひとつない。結婚したという感じはしたが、ただそれだけだった。
二日後また逢《あ》ったとき、息もつけなかったのはギャツビーだった。とにかく裏切られたのはギャツビーだった。金銭で買った贅《ぜい》沢《たく》な星の光がとりつけてあって、ポーチは明るかった。彼女が彼のほうを向いたので、好奇心を唆《そそ》る愛らしい口に接《せつ》吻《ぷん》すると、長椅子の柳の枝が流行品らしくキーキー鳴った。彼女は風《か》邪《ぜ》をひいていたので、いつもより声が嗄《しやが》れていて、魅力があった。富に閉じこめられ、富に保護された青春や神秘を彼は知り、さまざまなあざやかな衣類を彼は見、あくせくしている貧乏人から超然として、安全で誇り高く、銀のように光り輝くかと見えるデイジーを知って、ギャツビーは圧倒されたのだ。
「彼女を愛していることがわかって、自分ながらどんなにびっくりしたか、とても口では言えないよ、ねえ君。一時はいっそ見捨ててくれればいいのに、と願ったくらいだ。だけどそうもしなかったのは、彼女もやっぱり愛してたからなんだな。かけ離れたことを僕がいろいろ知っていたんで、大のもの知りだと思ったんだな……ところで、僕は野望から遥《はる》か離れたところにいて、一分毎にますます深く恋するようになったんだが、いきなり気がついてみると、僕はもうそのことをくよくよしなくなってるんだ。将来何をするつもりかってことを、彼女に話すだけで、結構愉《たの》しいとすれば、大きな仕事なんかやったって何の役にたつだろう?」
海外へ行くという最後の午後、彼は長いこと黙ったまま、両腕にデイジーをかかえていた。寒い秋の日で、部屋には火がはいり、彼女の頬《ほお》は燃えていた。ときおり彼女が動くと、彼は腕の位置を少し変えた。いちどは彼女の色の濃いつやつやした髪に接吻した。まるでその翌日が約束しているながの別れに備えて、深い記憶をおたがいのなかにとどめようとするようだった。彼女が黙って、彼の上着の肩のところを唇でこすったり、彼女が眠っているみたいにやさしく彼女の指先に触わったりしたときほど、親しかったこと、おたがいに深く気持がかよったことは、愛し合って以来まだなかった。
彼は戦争では驚くばかりよくやった。前線へ出ないうちに大尉になり、アルゴンヌの戦闘に従軍しているうちに少佐となって、師団直属の機関銃隊の指揮をとった。休戦になると、気狂いのように帰還しようといろいろやってみたが、何か混みいったことがあったのか、それとも誤解があったのか、代りにオックスフォードに送られた。いまは心配でたまらない――デイジーの手紙には、いらいらした絶望が目についてきた。なぜ帰れないのか、彼女にはわからないのだ。彼女もそとの世間の圧力を感じていた。だから彼に逢《あ》って、しかと傍にいてもらって、お前のやってることはつまりはそれでいいんだよ、と力づけてもらいたかったのだ。
思うにデイジーは若かったし、周囲の人工的な世界では、蘭《らん》の香や、愉快で明るい気取った香りが漂った。その年流行のリズムを編曲して、管弦楽は人生の悲哀や、暗示に富んだ人生の断面を、新しい調べに纏《まと》めた。一晩中サキソフォンが泣くような音をたてて、「ビール街ブルース」を困ったように奏でると、いっぽう粉末を撒《ま》き散らしてきらきら光った床を、百《ひやく》足《そく》もの金や銀のスリッパがあちこち滑っている。ほの暗いお茶の時刻には、きまって部屋部屋に、この快い微熱のような興奮が絶えまなしに脈打ち、そうかと思うと、悲しげに鳴るホルンで床に吹き散らされた薔《ば》薇《ら》の花びらのように、新米の顔、顔があちこちにさまよっている。
シーズンが始まるとともに、デイジーはふたたびこの薄明の世界を動き始めた。突然彼女はまた一日に六人の男と六回逢《あ》う約束をしつづけ、頸《くび》飾《かざ》りやシフォンの夜会服を、ベッドの傍の床に置いた枯れかかった蘭のあいだにまるめたまま、暁《あけ》がたになってうたた寝をする。しかも彼女のなかに巣くう何ものかが、決定を求めてたえず慟《どう》哭《こく》している。いますぐにも自分の一生を形をなしたものにしたい――力を加えてもらわなければ、決まらないのだ――愛の力か、金銭の力か、うむをいわさぬ実際的な力か――それは手近かなところにあるのだ。
春のなかば、トム・ビュキャナンがやってくると、その力は形をなした。彼の人柄や身分には健全なスケールの大きさがあって、デイジーは心を唆《そそ》られた。その心と闘ってみたり、ほっと救われた気持になったこともたしかだ。ギャツビーがまだオックスフォードにいるうちに、その手紙が届いた。
ロングアイランドにも曙《あけぼの》がさしてきたので、ふたりで階下へ行って、ほかの窓をせっせと開けて、灰色に変ってくる光、金色に変ってくる光を、家のなかへいっぱいに入れた。一本の樹の影がふいに露の上にさし、姿の見えない小鳥が青葉のなかから鳴き始めた。あたりの空気はゆっくりと愉《たの》しげに動く気配があり、それはあるとも知れぬ風のそよぎだったが、涼しい快よい日和を前触れしていた。
「彼女が彼を愛したなんて思えないな」と、窓からくるりと向いて、ギャツビーは挑戦するように僕を見た。「ねえ君、君もきっと覚えていると思うが、彼女は今日午後とても興奮してたんだ。あんなことをああいうやりかたで、彼が喋《しやべ》ったもんだから、びっくりしたんだよ――そのためにまるで僕がくだらん本職の賭《と》博《ばく》師みたいに見えちゃったんだな。挙句の果てに、彼女も自分で何を言ってるんだかわからなくなっちゃったんだよ」
彼は陰《いん》鬱《うつ》そうに腰をおろした。
「むろんほんのちょっとのあいだくらい彼を愛したろうさ、結婚した初めてのときくらいはだな――でもそのときだって、僕のほうをずっと愛していたんだ、わかるだろう?」
突然、彼は妙なことを口走った。
「いずれにしても」と、彼は言った。「ほんの個人的なことだったんだ」
判断しようのない事件の考えかたが、彼の場合には強烈なのではないかと疑う以外に、その言葉をどう理解できようか?
フランスから帰ってきたとき、トムとデイジーはまだ新婚旅行の最中だった。軍の最後の給与で、ルイヴィルまで、どうしても制しきれなくて、みじめな旅行をした。そこに一週間滞在し、かつて十一月の夜ふたりで足音高く歩いた街路を歩きまわり、彼女の白い自動車でドライヴした辺《へん》鄙《ぴ》な場所をまた訪れてみた。デイジーの家はほかの家よりも、いっそう神秘めいて、しかも明るいものにいつも思われたのだが、それとまったく同じ伝《でん》で、この市そのものを考えると、たとえ彼女がそこを去っていても、もの悲しい美しさがあたりに浸みこんでいる。
彼はたち去ったが、もっと一生懸命探したら、彼女が見つかったかもしれないと感じた――彼女をおき去りにしてゆくのだ、と思った。普通列車は――もう一文無しだった――暑かった。開いているデッキに出て、おりたたみ椅《い》子《す》に腰かけた。すると駅が滑るように遠ざかり、見なれないビルディングの裏側が傍を動き去った。やがて春の平野に出ると、黄色い電車がほんのしばらく汽車と競走して走ったが、そこに乗っていたひとたちは、不思議な魅力をたたえた蒼《あお》白《じろ》い彼女の顔を、いちどはふと行きずりの街頭で見かけたかもしれない。
線路がカーヴして、もう太陽から遠ざかっていた。太陽はさらに低く沈みながら、向うに見えなくなってゆく市を祝福して、その上に拡がるかと思われた。その市でかつては、彼女が息を吸ったことがあるのだ。彼は絶望的に片手を伸ばして、まるで一《ひと》掴《つか》みでもよいからそこの空気をひったくり、彼女が自分のために愛《いと》しい場所にしてくれたその破片《かけら》を取っておこうとするかのようだった。ところがそれはすべて、涙で霞《かす》んだ彼の眼には、いまあまりにも速く過ぎ去り、最も新鮮で最良だった部分が失われてしまったことがわかったのだ。
僕たちが朝の食事をすませて、ポーチへ出て行ったときは、九時だった。夜のうちに天候がはっきり違って、空には秋の気配が漂《ただよ》っていた。ギャツビーが前から使っていた召使のなかでは、最後にただひとり残った庭師が、石段の下までやってきた。
「今日プールを掃《はら》いますよ、ギャツビーさん。もうじきに木の葉が散りだすでね。そうすりゃいつだって排水管が故障を起しますでな」
「今日はよしなさい」ギャツビーは答えた。弁解するように僕のほうを向いた。「ほら、ねえ君、夏中とうとうあのプールをいちども使ったことがないんだものな」
僕は時計を見て立ちあがった。
「汽車はあと二十分だ」
僕は市へ行きたくなかった。ちゃんとした立派な仕事などする柄ではなかったが、しかしそれ以上のものがそこにはあったのだ――ギャツビーと別れたくなかった。その汽車に遅れ、またもう一汽車遅れて、やっと出かける仕儀とはなった。
「電話するからね」僕は最後に言った。
「そうしてくれ、ねえ君」
ふたりはゆっくり石段を降りた。
「きっとデイジーも電話してくるだろう」彼は心配そうに僕を見て、まるでこのことを僕から確証してもらいたいというふうだった。
「僕もそう思うな」
「じゃ、さよなら」
握手して、僕は出かけた。垣根のところまでくる少し手前で、僕はあることを憶《おも》いだしたので、振りかえった。
「くだらん奴らだ」僕は芝生越しに呶《ど》鳴《な》った。「みんな十《じつ》把《ぱ》一《ひと》からげにいっしょくたにしたのと、立派に釣合うだけの値打ちが、君にはあるんだぞ」
そう言ってやってよかった、といまでも思っている。たったいちどだけ言ってやったお世辞だった。なぜなら僕は始めから終りまで彼に不賛成だったからだ。最初彼はていねいにうなずいたが、やがてあの嬉《うれ》しそうな、ものわかりのよさそうな微笑が、ぱッと顔に浮かんだ。まるでふたりいっしょになって、四六時中その事実に有頂天になっていたといった具合だった。彼の豪華なピンクの背広は、白い石段を背景にあざやかな色彩の斑《まだら》となっていた。三か月前古くから伝った彼の家へ初めてきた夜のことを憶いだした。芝生や邸内車道は、彼の背徳をあれこれ推測するひとびとの顔で溢《あふ》れていた――そして彼はあの石段に立って、不滅の夢を匿《かく》しながら、あのひとびとに手を振ってさよならをしていたのだ。
僕は手厚いもてなしに礼を言った。そのことに関する限り、誰でもいつも彼に感謝していた――僕もほかのひとたちも。
「さよなら」と、僕は呼びかけた。「朝御飯ご馳《ち》走《そう》さま、ねえギャツビー」
市に着いてから、しばらくのあいだ長たらしい金額のでている株式相場を記載しようとやってみたが、やがて回転椅《い》子《す》のままで眠ってしまった。正午少し前電話で目が醒《さ》めたが、急に汗をかきだして、それが額《ひたい》に吹きでた。ジョーダン・ベイカーだった。ときどきこの時間に電話をかけて寄こしたが、それは彼女が旅館やクラブや個人の家を動きまわっていて、自分でも当てにならなかったので、これ以外の方法では彼女を見つけにくかったのだ。いつもだとみずみずしい涼しげな声が電線を伝わってきて、まるで緑のゴルフリンクから切りとられた芝生の一片が、事務室のなかへ勢いよく飛びこんでくるみたいだったが、気のせいか、今朝は耳《みみ》障《ざわ》りでかさかさした声だった。
「デイジーの家、出ちゃったの」彼女は言った。「ヘンプステッドにいるのよ。それで今日午後サザンプトンへ行くところなの」
多分デイジーの家を出たことは、機転のきいたやりかただったろうけれども、そんな行動をとるなんて、僕はいらいらした。その次に彼女の言った言葉は僕を硬化させた。
「あなたったら昨夜ずいぶんひどかったわ」
「あのときはそんなこと問題じゃなかったろう?」
一瞬の沈黙。それから、
「だって――お逢《あ》いしたいの」
「僕だって逢いたいよ」
「それじゃサザンプトンへ行くのやめて、今日午後町へきましょうか?」
「いや――今日午後は駄目だと思うね」
「いいわよ」
「今日午後はとうてい駄目だね。いろんな――」
しばらくのあいだそんなふうに話し合ったが、やがてふいにもう話してはいなかった。カチャッと強く受話器をかけたのは、ふたりのうちどっちだったかわからないけれども、そんなことはどうだっていいことなんだ。たとえこの世で二度と話す機会がないとしても、その日お茶のテーブルを挟《はさ》んで、彼女に話しかけるなどということは、僕にはとてもできなかったろう。
二、三分してギャツビーの家を呼び出したが、お話中だった。四回やってみたが、とうとう腹をたてた局の交換手が、デトロイトから長距離でずうっとふさがっていると話してくれた。時間表を取りだして、三時五十分の汽車を小さい丸で囲った。それから椅《い》子《す》に凭《よ》りかかって、考えようとした。ちょうど正午だった。
その朝汽車で灰の山を通過するとき、僕はわざと列車の反対側の席に移っていた。きっと物見高い群衆が一日中そこに集って、子供たちは埃《ほこり》のなかに黒ずんだ斑《はん》点《てん》を探しているだろうし、お喋《しやべ》りな男がいて繰りかえし繰りかえしその出来ごとを話して、しまいには話す当人にもだんだんほんとうでないようになって、もうその話ができなくなって、マートル・ウィルソンが身をもって成しとげた悲劇は忘れられるのだ。さてしばらくあと戻りして、前夜僕たちがそこを去ってから、ガレージで起ったことを話したい。
妹のキャサリンを探すのは大変だった。酒を呑《の》まない習慣をその晩は破ったに相違ない。というのは、ここへ着いたときも酒にしびれていて、傷病者運搬車がもうフラッシング《*》へ行ってしまったことがのみこめなかったからだ。みんなが寄ってそのことを納得させると、すぐに気を失った。まるでそれが事件の耐えがたいところなんだ、とでもいうようだった。親切なのか、もの好きなのか、誰かが自分の車に乗せて、姉の死《し》骸《がい》のお通夜に連れて行った。
真夜中すぎてかなり遅くまで、いれ換りたち換り群衆がガレージの正面を取り巻いた。その間ジョージ・ウィルソンは、なかの寝椅子に腰かけて、躯《からだ》を前後に揺すっていた。いっとき事務室の扉《とびら》が開いていたので、ガレージのなかへ入ってきた者は、いやでもそのなかをちらっと見ずにはいられなかった。とうとう、そいつはいけない、と誰だか言って、扉を閉めた。マカイリスとほかに数人傍にいた。最初は四、五人だったが、あとになったら二、三人になった。なお遅くなってから、マカイリスは最後に残った見知らない男に、もう十五分ばかり待って下さい、と頼まなければならなかった。そのあいだに自分の店に戻って、コーヒーを一《ひと》壜《びん》つくった。そのあと暁《あけ》がたまで、ウィルソンとふたりきりでそこにいた。
三時ごろになると、ウィルソンが辻《つじ》褄《つま》の合わないことをぶつぶつ言っていたその内容が変った――前より落ちついてきて、黄色い車のことを話し始めた。黄色い車が誰のものか見つけだす方法はあるぞ、と宣告するように言った。それから二タ月前、細君が市から帰ってきたとき、顔は傷つき、鼻は腫《は》れていたと口を滑らした。
しかし自分でこう口にだしたことを耳にすると、彼はたじたじとなって、またうめき声で「ああ、神様!」と、大声で始めた。マカイリスはその彼の気を紛らそうとして、無器用にいろいろとやってみた。
「結婚してどのくらいになるね、ジョージ? ほら、どうだ、ちょっとでいいからじっとして、僕の質問に答えてごらん。結婚してどのくらいになるね?」
「十二年さ」
「子供はあったのかい? さあほら、ねえジョージ、じっとして――僕は質問したんだよ。子供はあったのかい?」
殻の堅い褐色の兜《かぶと》虫《むし》が鈍い灯にぶーんといつまでも打《ぶ》つかっていた。そとの道をひた走りに走って行く自動車の音を聞くたびに、マカイリスにはそれがさっきの、駐《と》まらなかったあの車の音のように響いた。彼はガレージのなかへ入って行きたがらなかったが、それは仕事台の死体が横たえられていたところにしみがついていたからだ。だから気味悪そうに事務室をあちこち歩きまわった――朝を迎えるまでには、事務室にある物は何から何まで知りつくしてしまった――そしてときおり、ウィルソンの傍に坐《すわ》って、もっと静かにさせようとつとめた。
「ときどきゆく教会があるのかい、ねえジョージ? 長いこともう行ったことがないとしたって、まあいいさ、ないかね? まあその教会に電話をかけて、牧師さんにきてもらえば、話をしてくれるだろうよ、ねえ?」
「どこって決まっちゃいないさ」
「教会がなくちゃ駄目じゃないか、ええジョージ、こういうときのためにだよ。きっといちどくらい行ったことはあるだろう。教会で結婚しなかったんかい? ねえ、ジョージ、いいかい。君は教会で結婚しなかったんかい?」
「そりゃずいぶん昔のことだ」
答えようと一生懸命になるので、躯《からだ》を揺すっているリズムが崩れる――一瞬彼はしーんとなった。すると、あの同じ、半ば知っているんだといったような、半ばとほうに暮れたような眼ざしが、衰えた眼に戻ってきた。
「そこの抽《ひき》斗《だし》のなかを見てくれ」と、彼は言って机を指さした。
「どっちの抽斗?」
「その抽斗――そっちのだよ」
マカイリスはいちばん手近かの抽斗を開けた。なかには皮革と編んだ銀で造った、小さい高価な犬の綱があるだけだった。あきらかにそれは新品だった。
「これかい?」と、彼はききながら、それを高く掲げた。
ウィルソンはじろじろ見てうなずいた。
「昨日午《ひる》すぎ見つけたんだ。女房のやつわしに言いわけしようとしたんだ。何だか妙なもんだってことはわかってたよ」
「おかみさんが買ったっていうのかい?」
「女房のやつティシュ・ペイパーに包んで、化《け》粧《しよう》箪《だん》笥《す》の上に置いといたんだ」
だからといって、べつに変ったことがあるとは、マカイリスには思えない。そこで細君が犬の綱を買ったかも知れないとして、その理由を十幾つほどウィルソンに並べたてた。ところが、考えられることだが、これと同じ説明をいくつか、マートルから前に聞かされていたのだろう。またささやくように「ああ、神様!」と、言い始めたではないか――彼の慰め手は、五つか六つ説明をし残したままだった。
「するとあいつが殺《や》ったんだ」ウィルソンは言った。彼の口はいきなりパクッと開いた。
「誰がしたって?」
「見つけだす方法はあるぞ」
「病的だぞ、ジョージ」友は言った。「今度のことであんまり緊張したもんだから、自分の言ってることが、君にはわからないんだ。一生懸命になって朝までじっとしてるようにしたほうがいいよ」
「あいつがあれを殺したんだ」
「事故だったんだよ、ねえジョージ」
ウィルソンは頭を振った。眼は細くなり、口はわずかに開いて、「ふん!」と言おうとするようだった。
「わかってるぞ」彼はきっぱりと言った。「わしだってここらの信頼できる連中の端くれだ。だからだれにも害にゃならねえと思ってるんだ。ところが事を知る段になりゃ、ほんとに知ってるんだぞ。あの車に乗ってた男だったんだ。女房のやつ駈《か》け出して話しかけようとしたんだ。ところが車を止めようともしやがらなかった」
マカイリスもこの点は見て知っていたけれども、そこに特別何か意味があるなどとは、思い浮かばなかった。ウィルソンの細君は、これといって特定の車を止めようとしたんじゃない、それより夫から逃げ出していたんだ、彼はそう信じていた。
「どうしてそんな大それたことするもんかい?」
「狡《ず》るい女なんだ」と、ウィルソンは言ったが、それが質問の答えになっていると思ってるのだろうか。「あーああー」
また躯《からだ》を揺すり始めた。マカイリスは立ったまま、片手に持った綱をひねっていた。
「友だちがあるんだろう、電話をかけてもいいような、ねえジョージ?」
これは侘《わび》しい望みだった――ウィルソンに友だちがないことは、ほぼたしかだった。妻に対しても彼は充分ではなかったのだ。少しあとになって、部屋のようすが変って、窓のところに碧《あお》い色がよみがえると、夜明けも遠くないことがわかって彼は喜んだ。五時ごろになると、灯《あかり》をパチンと消してもいいくらいそとは碧味がさした。
ウィルソンのどんよりした眼は、灰の山のほうを向いた。そこは小さい灰色の雲がとりとめない形をつくっては、あるかないかの曙《あけぼの》の風にのって、俄《にわ》かにあちこち動いていた。
「あいつに言ったんだ」長い沈黙のあとで、彼は呟《つぶや》いた。「わしを騙《だま》すことはできても、神様を騙すことはできないぞ、そう言ってやったんだ。窓のところまで連れてったんだ」――やっとこさ立ちあがると、裏の窓のところまで行って、倚《よ》りかかり、顔を窓に押しつけた――「それで、言ってやったんだ。『お前がしてきたことは神様がご存じだ。お前がしてきたことはなんでもご存じだ。わしを騙すことはできんぞ!』ってな」
マカイリスはうしろに立って、ウィルソンがティ・ジェイ・エクルバーグ博士の眼を見つめているのを見て、ぎょっとした。それは次第に薄れてゆく夜のなかから、蒼《あお》白《じろ》くて巨大な形を現したばかりだった。
「神様は何も彼もご存じだ」と、ウィルソンは繰りかえした。
「あれは広告だよ」マカイリスは安心させるように言った。何かにうながされて、彼は窓から顔をそむけて、部屋のなかを見かえした。ところがウィルソンはそこに長いこと立っていて、窓ガラスにぴたり顔を近づけ、薄明りに向ってうなずいていた。
六時になるころマカイリスは疲れきっていたので、車がそとに止まる音を聞いてホッとした。それは前の晩通夜をした男で、戻ってくると約束してあった。そこで三人分の朝の食事を拵《こしら》えたが、結局彼とその男とふたりで喰《た》べた。ウィルソンはそのときは前よりも落着いていたので、マカイリスは家へ帰って眠った。四時間後目を醒《さ》ましていそいでガレージに戻ってみると、ウィルソンはいなかった。
彼の行動――ずうっと徒歩だった――はあとになって辿《たど》ってみると、ルーズベルト港へ行き、それからガッズヒルへ行き、ここで喰べもしないサンドイッチを買い、コーヒーを一杯飲んだ。疲れていたのでのろのろ歩いたに違いない。昼までにガッズヒルに着かなかったからだ。これまでのところは、どう時間をすごしたか、説明するのにむずかしいことはない――「気狂いみたいなことをする」男を見かけた、と言う子供たちがあったし、路傍から変なふうにじろじろ見られた、と言う自動車の運転手たちがいた。それからの三時間は、姿をくらましてわからない。「見つけだす方法はあるんだ」と、マカイリスに言ったことを警察は信じて、その辺のガレージからガレージへ渡り歩いて、黄色い車を探して時間をすごしたのだろうと想像した。ところが彼を見かけたと、申しでたガレージのひとはいつまで経《た》ってもなかった。で、恐らく知りたいと思うことを見つけだすのに、もっと容易でもっと確実な方法をとったのだろう。二時半ごろウエスト・エッグにいた。ここで誰かにギャツビーの家へ行く道をきいたのだ。だからもうそのときは、ギャツビーの名前を知っていたわけだ。
二時にギャツビーは水着を着て、もし誰かから電話があったら、プールにいるから言《こと》伝《づ》けるように、執事に言っておいた。夏中お客たちを喜ばせたマットレス型の浮ぶくろを取りに、ガレージで足を止めた。マットレス型の浮ぶくろにポンプで空気を入れるのを、お抱えの運転手が手伝った。それから、どんな事情があってもその無《む》蓋《がい》車を出してはいけない、と指示した――ところでこれは変だ。前の右の泥《どろ》除《よ》けは修繕しなければならなかったからだ。
ギャツビーはマットレスをかついで、プールに向った。いちど立ち止まってマットレスを持ち変えたので、手伝いましょうか、と運転手がきくと、頭を振って、黄葉してきた樹々のなかにすぐ姿を匿《かく》した。
電話はかかってこなかったが、執事は居眠りもしないで、四時まで待った――つまり、かかってきてもそれを伝える者が待機しているようになって、自分は用がなくなってからも、ずっとあとまで待っていた。ところがギャツビー自身は電話なんかないだろうと信じていたと、僕は見当をつけた。そしておそらく、もうそんなことはどうでもよかったのだろう。もし電話なんかこないと信じていたことが事実だとすれば、高価な代償を支払って、夢一筋に繋《つな》がって、あまりにも長く生きてきた、なつかしい熱烈な世界もついに失われてしまったか、と彼は感じとったはずだ。怯《おび》えているような樹々の葉越しに、見なれない空を見あげて、薔《ば》薇《ら》というものがどんなにグロテスクなものか、そよとも動いていそうもない草に注がれた日光がどんなに冷え冷えした感じのものか、いまさらながら気がついて、身震いしたに違いない。現実のものではないが、有形の新しい世界、そこは哀れな亡霊たちが、空気のように儚《はか》ない夢を呼吸し、ふとあたりに泛《うか》んでいた……形の定かでない樹立ちのなかを、あの蒼《あお》白《じろ》い幻想的な姿のように、するすると音もなく彼のほうに滑って。
運転手は――ウルフシェームの子分だった――銃声を聞いた――があとになって、そのことはあまり気にとめなかったとしか、彼には言えなかった。僕は駅から真直ぐギャツビーの家へ車を駆って、気がかりのあまり、正面の石段をいそいで駈《か》けあがったので、みんな初めて驚いた。だが僕はかたく信じている、彼らはもうそのとき知っていたのだ。ほとんど一語も発しないで、僕たち四人、運転手と執事と庭師と僕は、いそいでプールへ行った。
片ほうの端から新しい流れが他の端にある排水溝に向って押し進むので、水がかすかに、やっとわかるくらい動いていた。ほとんど波の影ともいえないさざ波をたてながら、ギャツビーを載せたマットレスが、ジグザグにプールの向うがわへ動いて行った。水面に波形をつけるかつけないかの、さっと吹く少しの風だけで、不慮の荷をかかえた、その偶然の針路をかき乱すには充分だった。一《ひと》塊《かたま》りの葉が触わると、それはゆっくりと回転し、転鏡儀《トランシツト》の脚のように、うす赤い輪を水中になぞった。
みんなでギャツビーを抱えて、家のほうへ歩き始めてから、少し離れた草のなかに、ウィルソンの死体を庭師が見つけて、このホロコーストは完璧だった。
第九章
二年後になっても、その日のそれからあとのこと、その晩、その翌日のことを僕は覚えているが、ギャツビーの家の正面の扉《とびら》口《ぐち》を入ったり出たりする、警官、カメラマン、新聞記者が果てしのない畝《うね》のようにつづいていたことだけが頭に浮かぶ。表門に綱が張られて、傍に警官がひとり立って弥次馬を閉め出していたが、子供たちはすぐ僕の家の中庭を通れば入れることを見つけて、いつも二、三人ぽかんと口を開けたまま、プールのあたりにかたまっていた。誰だか自信のありそうな態度をした、恐らく探偵と思われる男が、その日の午後、ウィルソンの死体にかがみこんで、「狂人」という表現を使った。たまたま権威のこもった彼の声が、翌朝の新聞の報道に手がかりを与えることになった。
そうした報道は、たいてい夢魔のようなものだ――グロテスクで、その場限りで、どぎつい、真相から遠いものだった。検《けん》屍《し》に臨《のぞ》んだマカイリスの証言で、ウィルソンが細君を疑っていたことが明るみにでたとき、その話の一部始終がまもなく痛快な諷《ふう》刺《し》の役割を果たすだろうと思った――ところが、キャサリンは何でも言えたはずなのに、一言も言わなかった。そればかりか、そのことに関しては驚くほどの風格をしめした――例の描き直した眉《まゆ》の下から、決然とした眼ざしを注いで、検屍官を見つめ、姉はギャツビーにいちども逢《あ》ったことがないこと、姉は夫といっしょに暮して申し分なく幸福だったこと、どんな危害も蒙《こうむ》ったことはないことを誓った。彼女は自分ながら強くそう信じこんでいて、ハンカチに顔を埋めて泣いた。まるでそう仄《ほの》めかされただけで、もう耐えられない、といった恰《かつ》好《こう》だった。そこで、ウィルソンは「悲嘆のあまり発狂した」男とされてしまって、事件は最も単純な形式のものになってしまった。しかもいつまで経《た》ってもそのままだった。
しかしすべてこれは遠くかけ離れたことであって、事件の本質的な部分だとは思われない。気がついてみると、僕はギャツビーの味方だった。しかもたったひとりの味方だった。あのカタストローフを僕が電話でウエスト・エッグ村に知らせると、たちまち彼にまつわるあらゆる臆《おく》測《そく》や、現実的なあらゆる質問が僕のところへ持ちこまれた。最初は驚いたり、まごまごしたりした。やがて、彼の死体が家のなかに横たえられ、動きもしなければ、呼吸も話しもしない、その時間がだんだん経《た》つにつれて、僕には責任があるんだという考えが、ますます高まってきた。なぜなら、ほかの者は誰も関心をもっていなかったからだ――つまり、誰だって最終的にはそこはかとない権利をもっているのだが、あの切実な個人的興味を抱いている者はなかったからだ。
彼が見つかってから三十分後に、デイジーに電話をかけた。もう本能的に、ためらわずにかけたのだ。ところが彼女とトムは、その午後早目に出かけてしまった。しかも手荷物を持って行ったのだ。
「行先を書き残していかなかった?」
「ええ」
「いつ帰るか言った?」
「いいえ」
「どこだか見当つく? どうしたら連絡できるか?」
「存じません。わかりません」
彼のために誰かを連れてきてやりたかった。彼が横たわっている部屋にいって、こう言って安心させてやりたかった。「君のために誰か連れてきてやるよ、ねえギャツビー。心配するんじゃないよ。ただ僕を信じていればいいんだ。誰か連れてきてやるからね――」と。
メイヤー・ウルフシェームの名前は電話帳になかった。ブロードウェイにある事務所の住所を執事が教えてくれたので、番号案内係を呼び出したが、番号がわかったころは五時をかなりまわっていて、誰も電話に応じなかった。
「もういちどかけてくれませんか?」
「三回かけたんですよ」
「とても重大なことなんです」
「お気の毒ですわ。どなたもいらっしゃらないんじゃないかしら」
僕は客間に戻ったが、突然部屋にいっぱい集った、公務できたこのひとたちは、すべてゆきずりの訪問客であることは、少し考えればわかることだった。彼らはシーツを除《の》けて、ぎょっとした眼ざしでギャツビーを見やったけれども、それでも相変らず彼がこう抗議しているのが、僕の頭から消えなかった。
「ほら、ねえ君、僕のために誰か連れてきてくれなければいけないよ。一生懸命やってみてくれなければいけないよ。独りぼっちではとてもこんなことには耐えられないんだ」と。
誰かが僕に向って質問し始めたが、僕は逃げ出して二階へ行き、彼の机の鍵《かぎ》のかかっていない抽《ひき》斗《だし》を慌《あわただ》しく調べた――両親は死んでしまったと、彼がはっきり語ったことはない。だがそこには何もなかった――ただダン・コディの写真だけが、忘れられた激しい生活の形見として、壁からじっと見降ろしているだけだった。
翌朝執事にウルフシェーム宛《あ》ての手紙を持たせて、ニューヨークへやった。手紙は問合せたり、次の汽車で出かけてくるようにせきたてたものだった。書いたときは、そんなふうに頼むなんて、なくもがなのことに思われた。きっと新聞を見れば出かけてくるだろう。それとまるで同じように、きっと午前中にデイジーからも電話があるだろう――ところが、電話もミスタ・ウルフシェームも来なかった。いや、警察やカメラマンや新聞記者が増えた以外、誰も到着しなかった。執事がウルフシェームの返事を持ち帰ってからというもの、僕は反抗的な感情を、そして彼らすべての者を軽《けい》蔑《べつ》するギャツビーとの連帯感を、公然ともち始めた。
親愛なるキャラウェイ君。これは我が生涯の最も怖ろしい衝撃でしてまさか本当とは信じかねます。あの男がしでかした気狂いじみた行ないには誰だって考えさせられてしまう。僕はいま行くことはできません。とても重大な仕事に縛られているしいまこういうことに首を突っこむことはできません。すこしあとになって僕にできることがあればエドガーに手紙を届けて知らせて下さい。こういうようなことを聞くと身の置きどころもないくらいです。完全になぐり倒され叩きだされてしまいます。 草々
マイヤー・ウルフシェーム
それからそそくさと下に書き添えてあった
葬式その他のことを知らせて下さい。家族のことはまるっきり知りません。
その日の午後電話がかかって、長距離の呼出しがシカゴからですと言ったので、今度こそとうとうデイジーからだろうと思った。ところが出たのは男の声で、か細く遠かった。
「スレーグルです……」
「はい、それで?」知らない名前だった。
「もの凄《すご》く音が悪いじゃないかね? わしの電報受取った?」
「なんの電報もきてませんよ」
「パークの若いのがごたごたを起してね」と、彼はすばやく言った。「債券屋の店先で債券を渡してるところを捕《つかま》ったんでさ。ほんの五分前に番号を知らせる回状がニューヨークから届いていたんだね。そのことで何か聞いてませんか、ええ? こういうまともな町じゃ誰だってわからんですわ――」
「もしもし!」僕は息せき切って遮った。「ねえ――僕はギャツビーさんじゃないですよ。ギャツビーさんは亡くなったんです」
電話の向うでは長いこと黙っていたが、感極まった叫びがそれにつづいた……やがて急に大きい荒々しい、不平をしめす声がして、電話が切れた。
ヘンリー・シー・ギャッツと署名された電報がミネソタのある町から届いたのは、たしか三日目だった。発信者はすぐに立つから、行くまで葬式を延ばすようにと、それだけだった。
それはギャツビーの父親で、しかつめらしい老人だが、ひどく頼りなげで、度を失っていた。暑いさなかに、長い安もののアルスタ外《がい》套《とう》にすっぽりくるまっていた。興奮のあまり眼からはとめどなく涙が滲《にじ》みでていて、両手に持っている袋と洋傘をこっちに受け取ると、休みなしに薄い白くなったちょび鬚《ひげ》をひっぱり始めたので、外套を脱がせるのが一苦労だった。いまにもへたばってしまいそうだったので、音楽室へ連れて行って坐《すわ》らせ、そのあいだに何か喰《た》べるものを取りにやらせた。ところが喰べようとしない。震える手からコップの牛乳がこぼれた。
「シカゴの新聞で見たです」彼は言った。「すっかりシカゴの新聞に出てましただ。すぐと出かけて来たです」
「どうしたら連絡できるかわからなかったんですよ」
眼は何も見ていなかったが、絶えず部屋のあちこちに向って動いていた。
「気狂いだったんだね」彼は言った。「気がふれていたに違いないだ」
「コーヒーをあがりませんか?」僕はしきりに勧めた。
「何も欲しくないんね。もう大丈夫でさ、ええとミスタ――」
「キャラウェイです」
「そうさね、もう大丈夫でさ。どこにジミーを連れてってあるですいね?」
客間に連れて行った。そこに息子は横たわっているのだ。そこに残して、僕は部屋を出た。幾人か子供が石段をあがってきて、広間のなかを覗《のぞ》いていた。到着したひとが誰だか話してやると、しぶしぶ帰って行った。
しばらくすると、ミスタ・ギャッツが扉《とびら》を開けて出てきた。口を少し開け、顔は心もち赧《あか》味《み》を帯び、両眼からはぽつんぽつんと不《ふ》揃《ぞろ》いにあいだをおいて涙が滲みでている。もはや死というものもゾッとするような驚《きよう》愕《がく》とはならない、そういう年齢に達している。いま初めてあたりを見まわして、高くて壮麗な広間や、大きな部屋部屋がそこから他の部屋につづいているのを見ると、悲嘆に混じって、畏《い》敬《けい》のこもった誇りの色が見え始めた。介添えして二階の寝室へ連れて行った。上着とチョッキを脱いでいるとき、すべての処置はあなたがくるまで延ばしてある、と話した。
「どういうご意向だか、わからなかったもんですからね、ギャツビーさん――」
「ギャッツですわしの名は」
「――ギャッツさん。死体を西部へお持ちになりたいだろうと思ったんです」
彼は頭を振った。
「ジミーはいつだって東部のほうが好きだったいね。東部でこの地位に出世しただでね。伜《せがれ》の友だちでしたか、ええとミスター――?」
「親友でしたよ」
「前途にでかい将来があったんでさ、ねえ。ほんの若僧だったが、ここんとこにずいぶん頭の力があったいね」
自分の頭に触わったのが印象的だった。僕はうなずいた。
「生きてりゃ偉いひとになれたんだ。ジェームズ・J・ヒル《*》みたいなひとにさ。あのひとは国を建設する役にたったんだ」
「そのとおり」と、僕は言ったが、居心地は悪かった。
刺《し》繍《しゆう》のついたベッドの上掛けを手探りして、ベッドからそれを取ろうとした。そしてぎごちなく横になった――と、たちまち眠ってしまった。
その夜電話があって、おどおどしてるのがはっきりわかったが、自分の名前を言う前に、こっちが誰か訊《き》きただした。
「キャラウェイといいます」僕は言った。
「ああ!」ほっとした声だった。「クリップスプリンガーです」
僕もほっとした。ギャツビーの墓へもうひとり友人が行くことを約束するように思われたからだ。新聞に出して見物人を大勢ひき寄せたくはなかった。そこで僕は自分で二、三のひとに電話をかけていたのだった。彼らはなかなか見つからなかった。
「お葬式は明日です」僕は言った。「三時にこの自宅ですよ。行ってみようかという気持のあるひとには誰にでも言って下さいよ」
「やあ、言いますよ」彼は慌てていきなり大声で言いだした。「誰にも逢《あ》いそうもないことは決まりきってますがね、でも逢えばね」
その調子に疑惑を抱いた。
「むろんあなた自身は来るでしょうね」
「そう、きっと何とかやりくりしてみますよ。僕が電話をかけたのはね――」
「ちょっと待って下さい」と、僕は遮《さえぎ》った。「あなたが来るということはどうですか?」
「いや、実はですね――ほんとうのことは、このグレニッチ《*》に幾人かで滞在してるんですよ。それで明日はみんなといっしょに行動するようにって、当てにされてるんですよ。ほんとのとこ、ピクニックとか、まあ何かそういったようなことがあるんですよ。むろん脱けられるようにできるだけのことはやりますがね」
怺《こら》えきれなくなって、僕は思わず「ヘッ!」と言ったが、聞えたに違いなかった。そのあと、神経質に話しつづけたからだ。
「僕が電話したのは、そこへ靴を置いてきちゃったことなんですがね。執事に送ってもらうのは、あんまり迷惑すぎるかしら。ねえ、テニス用の靴なんですよ。だからそれがないと処置なしです。僕の住所は気付けでB・F・――」
そのあとの名前は聞かなかった。受話器をかけてしまったからだ。
そのあと、僕はギャツビーに対して恥かしかった――電話をかけたひとりの紳士は、そういう目に彼が遭《あ》ったのも当りまえなんだ、という意味のことを言った。しかし、やはり僕が間違っていたのだ。その男はギャツビーの振舞う酒に勢いをかりて、ギャツビーを最も辛《しん》辣《らつ》に冷笑した常連だったからだ。だから電話なんかかけなくっても、僕にもよくわかっていたはずだったから。
葬式の朝、メイヤー・ウルフシェームに逢いに、僕はニューヨークまで行った。ほかの方法ではどうしても連絡できそうもなかったのだ。エレベーターボーイの口添えで押し開けた扉《とびら》には、《スワスチカ持株会社》としるされていた。で、最初のうちはなかに誰もいそうもなかった。しかし「もしもし」と五、六回、むなしく大声で呼んでいたら、仕切りの向うで急に言い争いが起った。するとほどなく、愛くるしいユダヤ女が内側の扉のところに姿を現して、敵意に充ちた黒い眼で僕をじろじろ見た。
「誰もいませんよ」彼女は言った。「ウルフシェームさんはシカゴへ行きましたよ」
このうち最初のほうはあきらかに嘘《うそ》だった。誰かがなかで調子ッぱずれに「ロザリオ」を口笛で吹き始めたからだ。
「キャラウェイという者ですが、お目にかかりたいって、どうかおっしゃって下さい」
「シカゴから呼び寄せるわけにいかないでしょうが」
この瞬間声が、紛れもなくウルフシェームの声が、扉の向う側から「ステラ!」と呼んだ。
「あんたの名前を書いて机の上に置いとき」彼女はいそいで言った。「戻ってきたら渡してやるからね」
「でもそこにいるじゃないですか」
彼女は僕のほうへ一歩出て、怒ったように両手を腰に当てて上下にさすりだした。
「お前さんたち若僧は、いつでもここへ無理にでも入れると思ってるんだね」と、彼女は呶《ど》鳴《な》りつけた。「あたしたちァそんなこたァうんざりしてるんだよ。シカゴにいるってあたしが言えば、シカーゴにいるんだよ」
僕はギャツビーのことを言った。
「まあーァ!」また改めて僕を見た。「ちょっとあの――お名前はなんでしたっけ?」
彼女は姿を消した。すぐにメイヤー・ウルフシェームがしかつめらしく扉口に立って、両手をさし出した。彼は事務室へ僕をひっ張って行き、うやうやしい声で、僕たちみんなにとって悲しいときだと言い、葉巻をさしだした。
「初めて逢《あ》ったときのことを憶《おも》いだすよ」彼は言った。「除隊したばかりの若い少佐で、戦争でもらった勲章をいっぱい着けていたな。とても困っていたもんで、ずっと軍服で通さなきゃならなかった。なぜって、なみの服が買えなかったんだからな。初めて逢ったのは、四十三番街のワインブレナーの公開賭《と》博《ばく》場《*》に入ってきて、仕事がないかときいたときだった。二日間も何ひとつ喰《た》べていない。『さあわしと昼めしを喰《く》いな』と、わしは言った。半時間ばかりで四ドルのうえ喰ったよ」
「あなたが仕事を始めてやったんですか?」と、僕はきいた。
「始めさせたって! 彼を仕立てあげたんだよ」
「ほう」
「無から育て上げたんだよ。まったくどん底から育て上げたんだ。顔のきれいな、紳士のような若者だってことを、すぐに見てとった。オッグズフォード出だってことを言うもんだから、こいつはうまく使えるなってことがわかったよ。アメリカ世界大戦参加軍人会へ入会させたが、いつだっていい役どころにいたぜ。すぐさまわしの依頼人になって、オールバニーへ行って仕事をしたよ。わしとは何ごともそんなふうに、とても仲がよかった」――彼は団子みたいな指を二本もちあげた――「いつもいっしょさ」
一九一九年のワールド・シリーズの取引も、この提携のなかに含まれていたのかしら。
「もう死んでしまったし」と、しばらくして僕は言った。「あなたはいちばんの親友だったんだから、今日午後のお葬式には来たいでしょうね」
「行きたいね」
「そう、それじゃいらっしゃい」
彼の鼻毛がかすかに震えた。そして頭を振ったが、眼にはいっぱい涙が溜《た》まっていた。
「それができないんだよ――これにかかり合いになることはできないんだよ」と、彼は言った。
「かかり合いになるようなことは何もありませんよ。もうすっかりすんじゃってるんですよ」
「ひとが殺されたときには、どんなかたちでもかかり合いになりたくないんだ。避《よ》けているんだよ。若いときはこうじゃなかったな――友だちが死のうものなら、どんなことがあったって、やつらにとことんまで喰《く》いさがったもんだ。そんなことはセンチメンタルだって思うかもしれないが、ほんとにそうなんだよ――むごたらしく最後までな」
彼なりに何か理由があって来るつもりはないのだ。そうわかったので、僕は立ちあがった。
「あんたは大学出かね?」彼は出し抜けにきいた。
一瞬、例の「取引先」を仄《ほの》めかそうとするんだなと僕は考えたが、彼はうなずいただけで、握手した。
「相手が生きているうちに友情をしめして、死んでからは知らん顔するように勉強しようじゃないか」と、彼はもちかけた。「そのあとは、わしは自分じゃ何ごとも放っておくのが掟《おきて》なんだ」
事務室を出たら、空が暗くなっていて、僕は時雨《しぐれ》をついてウエスト・エッグに戻った。着換えをして、隣りに行ってみると、ミスタ・ギャッツが興奮して広間を行ったり来たりしているのが目についた。息子や息子の財産に対して抱いた誇りが、絶えまなく増大していたのだ。いま何か僕に見せるものがあったのだ。
「ジミーがこの写真を送ってくれたんでね」彼は震える指で札入れを取りだした。「ほらごらん」
この家を撮《と》った写真だったが、角のところが割れていて、たくさんの手から手へ渡って汚れていた。彼は隅から隅まで細かく熱心に指さしてみせた。「ほらごらん!」そうしては、僕の眼に賞《しよう》讚《さん》の色が現れるか、とうかがうのだ。あまりにもたびたびひとに見せてきたので、いまここにいるこの家そのものよりも、写真の家のほうが、いっそう現実的なものになっている。
「ジミーがこれを送ってくれたんでね。とてもええ写真だと思うだよ。よく撮れてるいね」
「とてもいい。最近逢《あ》ったことがありましたか?」
「二年前来てくれて、いま住んでる家を買ってくれただ。むろん家出したときは、わしら途方に暮れたいね。でもいまになりゃ、わけがあったことがわかるいね。それに、成功してからってものは、いつでもえらい気前がよかったでな」
彼は写真をしまうのが気がすすまないらしく、もう一瞬僕の眼の前にぐずぐずさし出していた。やがて札入れをしまって、「ホパロング・カシディ《*》」というぼろぼろの古い本をポケットからひき出した。
「ほら、こりゃ子供のときもっていた本でさ。これでよくわかるいね」
彼は裏表紙を開いて、僕に見せるようにぐるりと向きを変えた。巻末の飛びページに、時間表と、活字体で書いてある。日付は一九〇六年九月十二日。そしてその下に、
起 床 午前 六・〇〇
亜鈴体操と壁登《とう》攀《はん》 〃 六・一五‐六・三〇
電気の勉強等々 〃 七・一五‐八・一五
仕 事 〃 八・三〇‐四・三〇
野球とスポーツ 午後 四・三〇‐五・〇〇
弁舌、身ごなしの練習とそれをものにする方法
〃 五・〇〇‐六・〇〇
発明に必要な勉強 〃 七・〇〇‐九・〇〇
決意一般
シャフターズや〔名前があるが判読できない〕で時間を無駄にしないこと
もう禁煙、噛《か》み煙草もやらないこと
一日隔《お》きに入浴すること
週に一冊ためになる本か雑誌を読むこと
週に五ドル〔消して〕三ドル貯蓄すること
両親にもっとよくすること
「偶然見つかったんで」と、老人は言った。「これでよくわかるいね?」
「ジミーはきっと出世するつもりだった。こういう決心だとかそげえなものを、いつも持ってな。心をよくするちゅうてどんなことを考えていたか、思いつきなさるかね? その点にかけちゃいつでも偉かったいね。いちどなんか、わしが豚のように喰《く》うなんて言やあがるんで、打《ぶ》ってやったいね」
彼はその本を閉じる気がなくて、項目のひとつひとつを大声で読んで、やがてしげしげと僕を見つめた。どちらかといえば、そのリストを写し取っておいて、僕が自分で使うことを期待していたのだろう。
三時少し前に、ルーテル派の牧師がフラッシングから到着したので、僕は思わず窓のそとを見て、ほかの車を探し始めた。ギャツビーの父親もそうだった。時間が経《た》ち、召使いたちが入ってきて、立ったまま広間で待っていると、彼の眼は心配そうに目ばたきし始め、くよくよしながら曖《あい》昧《まい》に雨のことを口にしたりした。牧師は五、六回腕時計をちょっと見た。そこでわきへ連れて行って、もう三十分ばかり待ってくれ、と僕は頼んだ。だがそんなことをしても無益だった。誰も来なかった。
五時ごろ三台の自動車からなる行列は、墓地に到着し、降りしきる時雨《しぐれ》のなかを門の傍で駐《とま》った――最初に怖《おそ》ろしく黒く塗った、濡《ぬ》れた霊《れい》柩《きゆう》車。それからリムジーンにミスタ・ギャッツと牧師と僕。少し遅れてギャツビーのステーション・ワゴンに乗った召使いが四、五人とウエスト・エッグの郵便集配人。みんなずぶ濡れだった。門を入って墓地のなかへ歩きだすと、自動車が駐る音、やがて水びたしの地面を誰かがあとを追って、ぴしゃぴしゃ渡ってくる音がした。僕は振り向いた。それは三か月前のある晩、図書室でギャツビーの本に驚嘆しているところを見かけた、梟《ふくろう》の眼のような眼鏡をかけた男だった。
あれ以来いちども逢《あ》わなかった。どうして葬式のことを知ったのか、それでなくてもギャツビーの名さえ、どうして知ったのかわからない。雨が分厚い眼鏡を伝って流れた。すると、眼鏡をはずして拭《ふ》いてから、ギャツビーの墓を蔽《おお》うていたテントが解かれるのを見た。
僕はそのとき、束《つか》の間《ま》ギャツビーのことを考えようとつとめたが、彼はすでにあまりにも遠ざかっていた。で、僕はただ、デイジーが弔電も寄こさず、花ひとつさえ贈って寄こさなかったことを、怨《うら》む気持もなく憶《おも》いだせただけだった。「幸福なるかな、死せる者に雨の降りたる」と、誰かが呟《つぶや》くのがぼんやり聞えた。すると、梟の眼をした男が勇敢な声で「アーメン」と言った。
僕たちはばらばらになって、雨のなかを車まで急いだ。梟の眼は門の傍で、僕に話しかけた。
「わしには家まで行けなかったよ」彼は思っていたことを言った。
「やっぱりほかに誰も来なかったですよ」
「馬鹿言いなさい!」彼は驚いてびっくりした。「なんて怪しからんのだ! 何百人とあそこへよく行きよったのに」
彼は眼鏡をはずして、そと側となか側をまた拭いた。
「可哀そうなやつだな」彼は言った。
僕にとっていちばん生き生きした憶い出のひとつは、クリスマスのときに、予備高から、あとでは大学から、西部へ帰ってくることだ。シカゴより遠方へ行く者は、十二月の夕方の六時に、古めかしいうす暗いユニオン・ステーション《*》に集まるのがきまりだ。もう自分たちの休暇にすっかり燥《はしや》いでいるシカゴの友人が、二、三人いっしょに来て、いそいでさよならを言う。僕は憶いだす、ミス誰それの学校から帰ってきた少女たちの貂《てん》の外《がい》套《とう》を。氷った息を吐きながらお喋《しやべ》りしたり、古くからの知り合いを見かけると、両手を頭の上で振ったり、「君はオードウェーの家へ行くかい? ハーシーの家へは? シュルツの家は?」などと、招待の組合せをやったり、そのあいだにも長い緑色の切符を手袋をはめた手にしっかり握っていたのを。そして最後に、シカゴ、ミルオーキー・セント・ポール線の陰気な黄色い列車が、出入口の傍の線路に、このときばかりはクリスマスそのものみたいに陽気に見えているのを。
汽車が駅を出て、冬の夜のなかへ向って進み、雪らしい雪、僕たちの雪が身近かにずうっと拡がり、窓にキラキラし始めて、ウィスコンシンの小さい駅々のぼんやりした灯《あかり》が、汽車の傍をすれ違うころともなると、鋭く荒々しく緊張したものが、さっと空気のなかにはいってくる。夕食をすませて、寒いデッキを戻ってきながら、その空気を深く吸いこみ、この地方でこそ、僕たちも水をえた魚のようになるのだという、なんともいえない意識が生れるのだが、その不思議な一時間がすぎると、また今度はその空気のなかに、見分けがつかないくらいに融《と》けこんでしまうのだ。
それが僕の中西部なのだ――小麦でもなければ、大草原でもなく、滅び去ったスウェーデン人の町々《*》でもなく、青春時代の、胸もわくわくするような帰省の汽車であり、霜の降りた夜の街灯や橇《そり》の鈴であり、灯のついた窓から雪の上に投げだされた西《せい》洋《よう》柊《ひいらぎ》の花環の影がそうなのだ。僕もその片棒をかついでいるのだが、あの長い冬の感触のせいで、少々しかつめらしい人間になっている。何十年間にもわたって、いまなお家の名で住宅を呼ぶような、そんな市のキャラウェイの家で育ったので、少々満足している人間だ。いまになってわかるのだが、これは結局西部の物語りだった――トムやギャツビー、デイジーやジョーダンや僕は、みんな西部の人間だ。そのためだろう、みんな申し合せたように欠陥があって、不思議と東部の生活になじめないのだ。
東部にいちばん夢中になったときでさえ、また、子供と根っからの老人だけは見逃すけれども、そのほかの者には根掘り葉掘りいろんなことを聞いて、いつ果てるとも知れない西部の、オハイオを越えた向うに、退屈して大の字なりに寝そべって脹《ふく》れあがった町に比べれば、東部のほうがいいと、痛いほどはっきりわかったとき――そのときでさえ、僕にとって東部には相変らず歪《ゆが》められたものがある。特にウェスト・エッグはいまでも、前よりいっそう奇怪な夢となって現れる。エル・グレコの描く夜の風景を見るようだ。ありきたりの家かと思うと、グロテスクでもある百軒もの家々が、陰《いん》鬱《うつ》に垂れさがっている空や、光《つ》沢《や》のない月の下に蹲踞《うずくま》っている。前景には夜会服を着こんだ四人の男が、まじめくさった顔つきで、担架を持って歩道を歩いている。担架には白いイーヴニングドレスを着た女が、酔いつぶれたまま横たわっている。わきにだらりと垂れた手には、真珠が冷たく光っている。男たちは重々しく、とある家に立ち寄る――違う家なのだ。だが誰も女の名前を知らないし、誰も気にもかけない。
ギャツビーの死後、僕にとり憑《つ》いていた東部はそんなふうに、僕の眼の矯《きよう》正《せい》力ではどうしようもないほど歪められていた。だから、儚《はか》ない木の葉が青い煙のように空にかかっている頃、紐《ひも》にピンとかかった濡《ぬ》れた洗濯物が爽《さわや》かな風に吹かれている頃、僕は故郷へ帰ることに決めた。
立つ前にすることがひとつあった。厄介な不愉快なことで、恐らくそのまま放っておいたほうがよかったかもしれない。しかし物ごとはきちんとしておきたい。よく世話をしてくれて、しかも気にもかけないあの海に任せて、僕が残してゆく屑《くず》をきれいに押し流してもらうなんてことは、なんとしても嫌だった。ジョーダン・ベイカーに逢《あ》って、ふたりでしたことや、その後僕が経験したことなど、いろいろと話した。彼女は大きな椅《い》子《す》に横になって、じっと動かずに耳を傾けていた。
ゴルフの服装をしていた姿は、みごとな挿《さし》絵《え》のようだと思ったことを、いまでも憶《おぼ》えている。少し気取って顎《あご》をあげ、髪は秋の木の葉色で、顔は膝《ひざ》に載せた指のない手袋と同じ色あいの褐色だった。話し終ると、彼女は何の説明も加えないで、ほかの男と婚約したと語った。ほんとかしら? もっとも彼女が頭をひとつ下げてうなずきさえすれば、結婚できる相手は、五、六人あるにはあったのだが、それでも僕はびっくりしたようなふりをした。ほんの一瞬、この女と別れるなんて、おれは間違いを仕でかしているんじゃないか、そう訝《いぶか》った。やがていそいでもういちどすっかりそのことを考えてみてから、立ちあがって、さよならを言った。
「それだってあなたに捨てられたのよ」と、ジョーダンはいきなり言った。「電話で捨てられたのよ。いまはあなたのことなんか何とも思わないけど、新しい経験だったわ。だから当分は、目まいがしたくらいよ」
握手した。
「あら、それであなた憶えてらっしゃる」――彼女は言い添えた――「いつか車の運転のことで、あたしたち話し合ったこと?」
「そう――はっきりしてないけど」
「おっしゃったでしょう? 下《へ》手《た》な運転手は下手な運転手に出《で》逢《あ》うまでは、まあまあ安全だって。そう、あたしほかの下手な運転手に出遭ったってわけね? そりゃあたしが不注意だったってことはほんとよ、あなたにそんな間違った推測をさせたなんて。あなたってどっちかっていえば、誠実で率直なかただと思ってたわ。それがあなたの秘《ひそ》かな誇りだと思ってたわ」
「僕だって三十だもの」と、僕は言った。「五つも年とっていれば、自分に嘘《うそ》も言えないし、それが名誉だなんて言えもしないさ」
彼女は答えなかった。むっとして、だから半ば彼女を愛しながら、しかももの凄《すご》く残念に思いながらも、僕は身を翻《ひるがえ》した。
十月も遅いある日の午後、トム・ビュキャナンに逢った。例の敏《びん》捷《しよう》で喧《けん》嘩《か》腰の歩きかたで、五番通りで僕の前を歩いていた。邪魔するものと戦って、これを撃退するように、両手を躯から少し前のほうに出し、頭を抜け目なくあちこちに動かして、落ちつきのない眼に調子を合せている、といった恰《かつ》好《こう》だった。追いついてはまずいと思って、歩調をゆるめると、途端に彼は宝石店の窓を顔を顰《しか》めて覗《のぞ》き始めた。いきなり僕を見て、あと戻りして片手をさしだした。
「どうしたんだい、ニック? 握手するのは不服なのかい?」
「そうだ。君のことをどう思ってるか、わかってるだろう」
「気が違ってるのかい、ニック」彼はいそいで言った。「ひどく気がおかしいぜ。いったいどうしたんだい、僕にはわからんよ」
「ねえトム」と、僕はきいた。「あの日の午後、君はウィルソンになんて言ったんだい?」
彼はひとことも言わずに、まじまじと僕を見たので、あのゆくえのはっきりしなかった二、三時間について、僕が推測したことは正しかったことがわかった。僕はさっと身を翻し歩き始めたが、彼はあとを一歩追って、僕の腕をむんずとつかんだ。
「ほんとうのことを話したよ」と、彼は言った。「僕たちが出かける仕度をしていたら、扉《とびら》口《ぐち》に現れたんだ。留守だって言わせたら、無理に二階へ押入ろうとしたんだ。気がふれていたから、車の持ち主を教えなければ、大丈夫僕は殺されたよ。家にいる間中、ポケットのピストルに手で触わっていたんだよ――」彼は反抗するように、急に話しやめた。「話したってそれがどうだっていうんだ? あのギャツビーってやつが自分でそうさせたんだ。やつは君の目を眩《くら》ましたんだよ。同じやり口でデイジーの目も眩ましたんだ。でも剛の者だったな。まるで犬の仔を轢《ひ》くように、マートルを轢いたんだからな。しかも車を止めもしなかったんだ」
僕に言えることは何もなかった。ただそれは嘘《うそ》だという、口に出していいようのないひとつの事実があるだけだった。
「それで僕は僕なりに悩みもしなかったなんて、君が考えるなら――ねえ、いいかい、あのフラットを手放しに行って、何ということだ、あの犬のビスケットの箱が、あそこの食器棚に載っかっているのを見た時には、僕は坐《すわ》りこんで、赤ん坊のように泣いたんだ。ああ、怖《おそ》ろしく嫌だったぜ――」
彼を赦《ゆる》すこともできなかったし、好きにもなれなかった。しかし彼の行為は、本人にとっては完全に正当なものだったことがわかった。それは何から何までひどく不注意で、滅茶苦茶だ。彼らトムとデイジーは不注意な人間だ――物や生きものを粉砕して、やがてもっている金銭や、途方もない不注意や、それでなければふたりをいっしょにしておいてくれるものなら、何でもかまわない、そのもののなかへ、また退却して行くのだ。そして自分たちが仕でかしたごたごたを、ほかのひとにきれいに掃除してもらう……
僕は握手した。しないのは馬鹿げたことに思われた。まるで赤ん坊に話してるような感じが、突然したからだ。やがて僕の田舎《いなか》っぽいしかつめらしさなんか永久にふり払って――真珠の頸《くび》飾《かざ》りを買うために、彼は宝石店のなかへ入って行った――それとも、多分カフスボタンを買うだけだったかもしれない。
僕が立つ時は、まだギャツビーの家は空《あき》家《や》だった――芝の草は僕の家のに負けず劣らず、伸び放題だった。村のあるタクシーの運転手は、表門の前を通るとき、ちょっとストップして、なかを指さしてからでないと、料金を受け取らない。多分事件のあった夜、デイジーとギャツビーをイースト・エッグまで運んだのは彼だったろう。多分彼なりの物語りを、すっかり作り上げていたのだろう。それを聞きたくなかったので、僕は汽車から降りても、彼の車は避けた。
僕は土曜の晩は、いつもニューヨークですごした。彼が開いた、あのきらきらと目も眩《くら》むばかりのパーティが、なまなましく僕にとり憑《つ》いていて、庭園からかすかに、しかもひっきりなしに起る音楽や笑い声、邸内車道を行ったり来たりする車の音が、いまなお聞えてくるようだったからだ。ある晩、そこからほんものの自動車の音が聞えたので、見るとその灯《ライト》が玄関の石段のところで駐《とま》った。しかし僕は調べてもみなかった。多分誰か最後のお客で、どこか遠くへ行っていて、パーティがなくなったことも知らなかったのだろう。
最後の夜、トランクを詰め、自動車を食料品店に売ってしまうと、僕は出かけて行って、辻《つじ》棲《つま》の合わない、ああした大なき失敗を犯した家をもういちど見た。白い石段には、誰か子供が煉《れん》瓦《が》の欠片《かけら》で落書した猥《みだ》らな言葉が、月光を浴びてくっきりと目だっていた。僕は靴でガリガリ擦《こす》って、それを消した。やがて渚《なぎさ》のほうへぶらぶらくだって行き、砂の上に大の字なりに寝そべった。
渚沿いの大きな屋敷は、もうあらかた閉鎖されて、海峡を渡るフェリーボートのぼんやりした赤い灯が動くほかは、灯らしい灯はなかった。そして、月がさらに高く昇るにつれて、たいして目立たない家々はだんだんに消え去り、とうとう、その昔オランダの水夫たちの眼に花咲いたここの古島――みずみずしい緑の胸のような新世界が、次第に意識に浮かんできた。その島の消え去った樹々は、ギャツビーの家へ道を開いた樹々でもあるのだが、かつて人間の夢という夢のなかでも、最後のそして最大の夢を、そっと小声で唆《そその》かしたのだ。移ろいゆく束《つか》の間《ま》、うっとりして、人間はこの大陸を目の前にして息をつめたに違いない。わかりもしないし、のぞみもしない美的な観想に迫られて、驚異を感ずる能力と釣合った何ものかと、歴史上最後の対面をしたに違いない。
そして僕はそこにいて、古い未知の世界のことを考えながら、初めてデイジーの桟《さん》橋《ばし》の突端に緑の灯火《あかり》を捉《とら》えたとき、ギャツビーの感嘆がどんなだったかを憶《おも》いだした。この青々とした芝生まで、長い道《みち》程《のり》を彼はやって来たのだ。彼の夢はつかみ損うことはないほど、身近かなものに思われたに違いない。彼はその夢がすでに背後に、どこかニューヨークの向うのあの茫《ぼう》漠《ばく》とした闇《やみ》のなかに、共和国の暗い平原が夜の下にうねっているところに、去ったことを知らなかったのだ。
ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年々僕たちの前からあとじさりしてゆく底抜け騒ぎの未来を信じていた。そのときになれば、肩透かしを喰《く》うのだが、そんなことはかまわない――明日になればもっと速く走ろう、さらに遠くへ腕をさし伸ばそう。……そしてある晴れた朝――
だから、過去のなかへ絶えずひき戻されながらも、僕たちは流れに逆らって船を浮かべ、波を切りつづけるのだ。
訳 註
*ニューヘイヴン コネチカット州の海港。エール大学の所在地。
*マイダス フリジヤの王。ディオニソスから手の触れる一切のものを金に変える力を与えられた。
*モルガン 一八三七―一九一三。アメリカの大銀行家。
*ミーシーナス 芸術家のパトロン。
*レイク・フォーレスト イリノイ州にある町。
*ジョージ王朝 ジョージ三世(在位一七六〇―一八二〇)。イギリス王。一七七六年アメリカが独立した。
*ノーディックス ヨーロッパ北西部のゲルマン民族の一種。世界人類中、最優秀とナチスが説いたことは周知のこと。
*ペンシルヴァニヤ駅 七番通りと三十二番街の交叉点にある、ペンシルヴァニヤ鉄道。ロングアイランド線などの発着駅。
*ベラスコウ 一九二〇年代のブロードウェイの有名な興行師ダヴィッド・ベラスコウ。物事をすっかり本物らしく見せる派手な興行師の意。
*オールド・スポート 男は酒・賭事などの道楽を持っているのでこう呼ぶ。従って女には用いない。非常な親しみをしめす。
*ジャージー・シティ ハドソン河を挟んでニューヨーク市に対している港市。
*ウォーリック ロードアイランド州にある町。
*フォン・ヒンデンブルグ 一八四七―一九三四。ドイツの陸軍元帥。
*あの悪魔 第一次世界大戦の張本人とみられるドイツ皇帝ウィルヘルム二世のこと。
*人形 おかしな動作をしてバラバラにくずれてしまう玩具の人形。
*アストリア もとロングアイランドの村。いまはニューヨーク市クイーンズ区に編入されている。
*大きな橋 中央公園の南端にあたる五十九番街でマンハッタン区とクイーンズ区を結ぶ。
*ブラックウエルズ島 クイーンズボロ橋が懸っているイースト・リヴァーにある島。橋のほぼ中間に位置する。
*テイラー基地 アメリカの将軍で第十二代大統領となったザケーリ・テイラー(一七八四―一八五〇)の名に因む陸軍の基地。ケンタッキーにある。
*四台貸切の車輛 個人が鉄道会社から借りきる車輛。大統領の選挙行脚のときや金持ちなどが借りる。
*馬車が……通るとき 公園内の高い道と低い道が交叉する際低い道は高い道の橋の下を通る。
*押しくらまんじゅう 原文「箱のなかの鰯」は狭い場所にできるだけたくさんの人が入ろうとする遊戯。
*コーニイアイランド ロングアイランド南岸に近い島で海水浴場。歓楽郷。
*クレーの「経済学」 サー・ヘンリー・クレー(一八八三―一九五四)。イギリスの経済学者。一九一六年発刊の一般読者への手引書。
*それが……ことなんだね 原文の「それはラックレント城の秘密さ」は、余計なことを相手がきくような場合に使うユーモラスな慣用表現。ラックレント城には特別の意味はない。伝説や怪奇物語に富んだスコットランドの古城。
*ガソリンが……障るかな? デイジーが前に話した執事の鼻にかけた冗談。
*マリ・アントワネット音楽室 ルイ十六世の后(一七五五―九三)の名に因んだもの。
*王政復古時代 一八一四年に行なわれたフランス、ブールボン朝復位の時代。
*マートン大学図書室 オックスフォード大学の図書館。それに因んだものだが皮肉である。
*アダム式装飾様式 イギリスの建築家で家具設計家ロバート・アダム(一七二八―九二)、ジェームズ・アダム(一七三〇―九四)兄弟によって始められたもの。
*ポンパドゥール 男子の理髪型。オールバックのこと。
*ド・メントナン夫人 一六三五‐一七一九。ルイ十四世の二度目の妻。
*バーバリ海岸 バーバリ諸国。即ちモロッコ、アルジェー、チュニス、トリポリの地中海沿岸地方。
*パーティの玩具 パーティのときかぶる紙製の帽子や錫の角笛。たいていパーティが終るとその場所に投げ棄てる。
*トリマルキオ 古代ローマの諷刺作家ペトロニアスの「仲裁人」にでる人物。お人好しの単純な成金で人々を盛大な饗宴に招いたりする。
*ご主人の……今日の昼などは! この一節は暑さのあまり、探偵小説などで執事が主人の死体を発見して、しかも彼が下手人であるような状景に暑さをかけた機智とユーモアに富むニックの想像。
*ジン・リッキー ジンと炭酸水の中にレモンに似た果実ライムの汁をいれたもの。
*そして……僕に浮かんだ 作者が好んで読んだイギリスの文人サミュエル・バトラーの思想、「エレホン」参照。
*二本の煙草を吸ってるわ 空想的なアメリカ風の冗談。街頭や駅でまだ知らない人と逢うときに二本の煙草が目じるしになることがある。
*薄荷入りジューレップ ウィスキーやブランデーに薄荷の風味をそえた混合飲料で水で冷してのむ。
*ラヴェンダー 乾燥した花茎を虫除けや香をつけるために衣類の間にいれる。
*フラッシング ニューヨーク市クイーンズ区にある町。警視庁があって、検屍が行なわれる。
*ジェームズ・ジェイ・ヒル 一八三八―一九一六。カナダの生れ。合衆国の鉄道を敷設し、また金融業者。
*グレニッチ ニューヨーク市マンハッタン区南西部の一地区。芸術家、作家などが多く住んでいる。
*公開賭博場 遠隔地で行なわれる競馬や拳闘に対して賭をする場所。
*「ホパロング・カシディ」 有名なカウボーイの名を題名にした物語。
*ユニオン・ステーション シカゴ市にあって、オルタン、バーリントン、ミルオーキー、ペンシルヴァニヤ、グレートノーザン各線の発着駅。
*滅び去った……町々 スウェーデン人の移民が隔離して住んだ活気のない町。ミネソタにある。
華《か》麗《れい》なるギャツビー
フィツジェラルド
大《おお》貫《ぬき》三《さぶ》郎《ろう》=訳
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平成12年12月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『華麗なるギャツビー』昭和32年2月20日初版刊行
平成6年6月15日34版刊行