華麗なるギャツビー
フィッツジェラルド/佐藤亮一訳
目 次
華麗なるギャツビー
解説
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一
私がまだ若く、いまよりも心が傷つきやすかったころ、父が私に忠告してくれたことがある。それ以来そのことが心から去らない。
「だれとは限らないが、他人のことをかれこれ言いたい気持になったときは」と父は言った、「世の中は、お前と同じような長所を持った人間ばかりではないということを、よく覚えておくことだよ」
父はそれ以上は言わなかった。しかし私たちは、あまり口数を多く語り合わなくても、いつも相手の言う意味がよくわかっていた。そのために私はすべて判断は控えめにするようになったが、この習慣のおかげで、ずいぶん変わった性格にもお目にかかったし、また少なからず海千山千のうんざりする人間にお目にかからざるを得ない羽目にも陥った。普通の人間のなかに私のような性格の持主がいるとなると、異常な精神の持主はすぐにそれを見つけて、愛着を感じて寄って来る。そんなことから私は大学時代、なかなかの政治家だなどと不当な批判を受けたことがあるが、それは私が手に負えない見ず知らずの人間の秘かな嘆きも、よく聞いてやったからだった。
しかしその信頼は、ほとんど私のほうから求めたものではなかった――私は、相手が親しくしたがっている徴候が何かによってはっきり感じられると、よく眠っているふりをしたり、考えごとに夢中になったふりをしたり、さもなければ小意地わるくいいかげんな素振りをした。というのは、若者たちの親愛の情の表情とか、少なくとも彼らの表現する言葉なるものは、大体他人の言葉を盗んだものか、明らかに抑圧されてゆがめられたりしたものなのだ。だから控えめに判断をくだすことこそ、無限の希望を残すというものだ。父がお高くとまった忠告をしたり、私も紳士気取りでそれを繰り返したりしたが、基本的な礼儀というものに関する感覚は、生まれたとき公平に分け与えられているものではないということを忘れては、何か大事なことまで失うかもしれないということが、いまでも私にはいささか不安なのだ。
しかし、このように自分では自分なりの寛容の精神を一応誇ってはみたものの、それにも限界点があるということも私は認める。人間の行為というものは、かたい岩の上に築かれたものも、しめっぽい沼地の上に根ざしたものもあるかもしれないが、ある点を越せばそれが何に根ざしたものであっても、私にとってどうでもよいのだ。昨年の秋東部から帰って来たとき、私は世間がみんな一定のユニフォームを着て、いうならば道徳的に永遠に不動の姿勢をしていて欲しいと思った。私はさも人間の心の中を特権をもってのぞき込むような、落ち着かない心の旅はもうたくさんだと思った。ただギャツビー――この本にその名を与えた――だけは、私の反発から除かれた。
ギャツビー――この男こそ私が心から軽べつする一切を代表する人物だった。もし個性というものが、成功をもたらす一連の完全な態度であるならば、彼にはどことなく華麗なるところがあり、人生の前途に対する高度の感受性は、あたかも彼は一万マイルも遠くの地震をも記録する、複雑な機械と関連があるかのようだった。しかしこの感応度は、「創造的性質」などともったいぶった名で呼ばれる、あの弱々しい感受性とはもちろん関係がなかった。それは希望に対する異常な才能であり、私がいままでどんな人にも見たことのない、そして恐らくこれからも二度と見ることもなさそうな、ロマンティックな情緒だった。結局、ギャツビーは、あれでよかったのだ。私が一時、人間の不成功に終る悲哀や、得意の絶頂もはかなく息絶えることに関心を失っていたのは、ギャツビーを食いものにしていたもの、彼の夢の跡を追って浮かぶ汚いほこりのためだった。
私の家は、三代にわたってこの中西部の都市で名を知られた、裕福な一家である。キャラウェイ一家は、いわば一族のようなもので、言い伝えによれば、われわれはバタルー公〔英国の名門貴族〕の子孫だということだ。しかしわが家の実際上の先祖は私の祖父の兄で、五一年にここに来て、南北戦争には替え玉を送り、やがて金物の卸商をはじめたが、その商売を私の父がいまでは受けついでいるわけだ。
私はこの大伯父に会ったことはないが、しかし私はこの大伯父に似ているという――父の事務室にかかっている、情に動かされないような肖像画に、よく似ているというのだ。
私はちょうど四半世紀父におくれて、一九一五年にニュー・ヘヴン〔エール大学〕を卒業したが、間もなく世界大戦という、あのチュートン民族のおそまきながらの移動に参加した。この逆襲がとてもおもしろかったので、私は落ち着かない気持で帰って来た。そして中西部はいまや活気のある世界の中心ではなく、ごつごつした宇宙の果てのような気がした。
そこで私は東部に出かけて証券取引の仕事を勉強しようと決心した。私の知っている者はみんな証券会社にいたので、もう一人ぐらいの独身者は雇ってくれるだろうと思ったのである。伯父や伯母たちは、まるで私のために予備校でも選んでやるように話し合っていたが、最後にひどくまじめくさったしぶい顔で、「まあ、よかろう」と言った。父は一年間仕送りしてくれることを承諾した。こうして何やかやでおくれたが、二二年の春、私は永住するつもりで東部へやって来た。
実際問題は、まず市内に部屋を探すことだった。ちょうど暑い季節であり、広い芝生や、なつかしい樹木の地方から出て来たばかりだったので、事務所の若い男が通勤できる町に一緒に一軒借りようじゃないかと言ったとき、これは実に名案だと思った。彼はさっそくそんな家を見つけて来た。それは風雨にさらされた板紙作りのバンガローで、月八十ドルだったが、いよいよ最後の段になって彼はワシントン転勤を会社から命ぜられた。そこで私は単独でその土地に出かけた。私は犬を一匹飼った――少なくとも逃げるまで二、三日は飼った。それから古いダッジを一台買い、フィンランド人の女を一人雇った。この女性が私のベッドを作ってくれたり、朝の食事を作ってくれたが、電気ストーブの上でフィンランドの格言をつぶやいていた。
一日か二日は淋しかったが、やがてある朝、私よりも後にやって来た男に道で呼び止められた。
「ウェスト・エッグ村には、どう行くんですか?」彼は困っているように尋ねた。
私は彼に教えてやった。私は歩きながら、もう淋しくなかった。私はもうガイドだった、土地の草分けであり、元からの定住者だった。彼ははからずも、隣人として遠慮なくつき合えることを教えてくれた。
こうして輝く太陽の光や、樹々の枝に生える葉が、あたかも高速度映画に映《うつ》し出されるように突然大きくなるのを見て、生命がふたたび夏とともによみがえりはじめたのだという、前から信じていた確信が私に湧いた。
また、読むべきものがたくさんあり、それに溢れるばかりの健康は、若々しく呼吸する外気に引きずり出されるようだった。私は銀行業務や金融、投資信託に関する参考書を十数巻買い求めた。これらの参考書を造幣局から出たばかりの赤や金色の新しい紙幣のように書棚に並べると、マイダス〔ギリシア神話の王。手にふれるものすべてが黄金になった〕やモルガン〔米国の大銀行家。一八三七〜一九一三〕、マエケナス〔前七〇ごろ〜前八。ローマの政治家。文芸の保護者〕たちだけが知っている、輝かしい秘密をこれらの書が解き明かしてくれるかもしれないような気がした。そればかりではない。私は他の書物もたくさん読みたい気持にかられた。
私は大学時代は、むしろ文学に興味を持っていた。そして一年間「エール・ニューズ」に、ひどくしかつめらしい、しかもわかりきった論説を連載したこともあるが、いま私はこれらのすべてを私の生活に取り入れて、その道の専門家の中でもごく限られた「立派にできた人」になるつもりだった。これは単なる警句ではない――結局、人生は一つの窓から眺めたほうが、一段とよく見えるのだ。
私が北アメリカのなかで最も風変りな共同社会のなかに一戸建ての家を借りたのは、まったく偶然だった。その家はニューヨークの真東にある、細長い、そうぞうしい島の上にあった。そしてそこには、他にもいろいろ自然にできた珍しいところがあったが、そのなかでも二つの珍しいところがあった。市から二十マイル離れたところに一対の巨大な卵形の地形が、外形は同じだが名ばかりの湾で隔てられ、西半球でいちばんなじまれている海域、いうならばロング・アイランド海峡の納屋の前の湿った前庭へ突き出しているかっこうだった。それはコロンブスの物語に出てくるような、完全な形の卵ではないが、この二つの卵は陸地につながる端が平べったく押しつぶされたようになっていたが、その外形上のでき具合がよく似ているので、その上を飛ぶカモメたちにとっては、いつも不思議の種であるにちがいない。翼のないものにとってもっと興味ある現象は、その形や大きさ以外は、あらゆる点で二つが違っていることである。
私はウェスト・エッグ〔西の卵〕に住んでいた。この――そうだ、二つの卵のうちで当世風でないほうである。もっとも、この両者の間の奇怪な、そして少なからず不吉なコントラストを言い表わすには、いかにも浅薄なきまり文句であるかもしれないが、私の家は卵の本当に突端にあった。そこは海峡からほんの五十ヤードばかりのところで、一シーズンで一万二千ドルから一万五千ドルもする家賃の、二つの宏大な屋敷の間で押しつぶされそうなところだった。
右手の邸宅はどこから見ても豪壮な建物で、まさしくノルマンディのどこかの市庁舎をそっくり模倣して建てたもので、片側は生えるにまかせた薄いひげのような蔦《つた》におおわれて、新しい塔がすてきなかっこうでそびえ、このほかに大理石のプールと、四十エーカー以上もある芝生と庭園があった。これがギャツビー氏の邸宅だった。いや、私はまだギャツビー氏を知らなかったから、そういう名の紳士が住んでいる邸宅だった。私自身の家はいうならば目ざわりのようなものだったといってよいが、またそのようにちっぽけな目ざわりなものだっただけに、見落とされていた。しかしまた、それだからかえって私は海も眺められたし、わが隣人の芝生も一部眺められたし、大富豪と隣り合わせにいることで慰められてもいた――一カ月たった八十ドルの家賃で。
形ばかりの小さな湾の向うには、水際に沿って当世風なイースト・エッグの白亜の豪華な建物が輝いていたが、この夏の物語は、本当は私がトム・ビュキャナン家の人々と夕食を一緒にするために、車でそこまで出向いたその日の夕方にはじまる。デイジーは私のまたいとこの子で、トムは大学時代から知っていた。戦争の直後、私はシカゴで彼らと一緒に二日を過ごしたこともあった。
トムは、いろいろな運動競技に長じていたが、特にニュー・ヘヴンでは、いままでに最も強いアメリカンフットボールのエンドで、ある意味では国内きっての花形でもあった。二十一歳で早くもこのようにずば抜けて傑出していただけに、その後は万事が竜頭蛇尾の道をたどっているようにも感じられた。彼の家は莫大な金持で――大学時代から金遣いがひどかったために、非難の的でさえあった――やがてシカゴを去って東部に来たわけだが、その移り方がまた人をはっとさせるようなものだった。例えば、レーク・フォレスト〔イリノイ州ミシガン湖畔の町〕からポロ競技用の子馬の一隊を連れて来るという具合だった。私たちの世代の者で、そんなことをするような大金持なんて、とても理解できないことだった。
どうして彼らが東部にやって来たのか、私にはわからない。彼らはこれといった特別の理由もなしにフランスで一年間を過ごし、それから金持たちが集まってポロをやるところならどこへでも、落ち着くひまもなく渡り歩いていた。デイジーは、もうここを永住の地とすると電話では言っていたが、私には信じられなかった――デイジーの心の中まではわからなかったが、しかし私は、トムは、フットボール競技の劇的な騒ぎを求めて、永久にさまよいつづけるだろうと思った。
こうしてたまたま私は、ある暖かい風の吹く夕方、何もかも知り抜いていたわけではないが、この二人の旧友を訪ねてイースト・エッグまで車を走らせた。二人の家は、思ったよりはるかに凝ったもので、気持のよい赤と白の色彩のジョージ王朝植民時代風の邸宅で、湾を見おろしていた。芝生は浜辺からはじまって、玄関まで四分の一マイルほどつづき、途中、日時計やレンガの歩道や燃えるような庭園を飛び越え――やがて邸のところまで達すると、勢いあまったように輝かしい蔓《つる》となって、側面にはい上がっている。邸宅の前面にはフランス風の窓が一列に並び、それがいま黄金色に映えて暖かい風の吹く夕方に開け放たれていた。そしてトム・ビュキャナンが乗馬服の姿で、前のポーチに両足をひらいて立っていた。
彼はニュー・ヘヴン時代とは変っていた。いまの彼は淡黄色の頭髪のたくましい三十代の男で、口もともきびしく態度も尊大だった。きらきら光る二つの目が顔の上にいかにも優越感を抱いているように見え、その様子がいかにもいつも挑戦的に構えているようだった。彼の着ている乗馬服は女性的なしゃれたものだったが、それも彼のからだの強大な力を隠すことはできなかった――ぴかぴか光るブーツもいちばん上の紐までぴっちり張りつめているようであったし、またもり上がった筋肉が、薄い上衣の下で肩をうごかすと、もりもりうごくのがわかった。それは巨大な力を発揮する肉体であり――冷酷な肉体であった。
彼の話す声が粗暴でハスキーなテナーであるのも、彼から受ける気むずかしさを一層強く感じさせた。彼が好意を持っている人にさえ、その話し方には父親が話すときのような軽べつした感じがあった――このためニュー・ヘヴン時代にも、彼をひどく嫌う連中がいた。
しかし彼としては、前からこう言っているような感じだった。「ところで、単にぼくが君たちより強くて、もっと男らしいからといって、このような問題について、ぼくの意見が最終的なものだなどと考えないでくれよ」私たちは最上級の同じ学内団体にいたが、まだお互いに決して親しい間柄ではなかったときでも、私の印象は、彼は私の存在を認め、彼一流の粗暴で、けんか腰ながらも、どこか好意を求めているようなものをいつも感じていた。
私たちは、うららかな陽のあたるポーチで二、三分間話した。
「ここはいいところだと思うよ」と彼はあちこちに目をやりながら言った。
彼は片腕をつかんで私を振り向かせると、幅の広い平べったい手で前景を指し、広がりのなかにある一段低いイタリア風の花壇や、濃厚な色の香りの強いバラを植えている半エーカーほどの花園や、沖で波を突き分けて走っている獅子鼻のボートなどを示した。
「ここは石油をやっているドメインのものだったんだよ」彼はていねいに、しかもいきなりそう言うと、またも私を向き直らせた。
「さあ、中に入ろう」
私たちは高い玄関から明るいバラ色の広間に入ると、両側の端にはきゃしゃなフランス風の窓が取りつけてあった。窓は少し開けてあって、外のすがすがしい草に対して白く輝いていたが、その草は家の中まで少し入り込んでいる感じだった。微風が部屋の中を吹き抜けて、カーテンの一方の端を内側に吹き入れ、もう一つの端を青ざめた旗のように外になびかせ、それを砂糖のころもをかけたウェディング・ケーキを思わせる天井までよじ昇らせ、それからブドウ酒色のじゅうたんに漣《さざなみ》を立てて、風が海面を渡るようにその上に影を落としていた。
部屋の中でただじっとうごかないものといえば、大きな寝椅子の上に二人の若い女性が、繋留された気球の上にでも乗っているように浮かんでいた。二人とも白いものを着ていたが、その衣装も屋敷の周りを少しの間飛んで、ちょうど吹き戻されたように、小波のようにはためいていた。私はしばらくそこに立ったまま、カーテンが打ったり折れたりするのや、壁にかかった絵のうなる音に耳を傾けていたにちがいない。やがてトム・ビュキャナンが後ろの窓を閉めるとどんという音がし、同時にいままで部屋に入っていた風が静まり、カーテンもじゅうたんも若い二人の女性も、ゆっくりと床の上に浮かんだ。
二人のうちの若い女性のほうは、私は知らなかった。彼女は寝椅子の端に長々と身をのばしたまま、うごかなかった。ちょっとあごを上げたままにしている様子は、いまにも落ちそうな何かのバランスをとっているかのようだった。彼女はあるいは横目で私を見たかもしれないが、そんなことはおくびにも出さなかった――実際私のほうが、不意に入って来てお邪魔をした言訳をぶつぶつ言わなければならないかのような気持にさえさせられた。
もう一人の女性デイジーは、身を起こして立ち上がろうとした――彼女はややまじめくさった表情でからだをちょっと前にかがめた――それから彼女は笑った。それは少しばかげてはいるが、かわいらしい笑い声だった。私も笑って、静かに部屋の中に進んだ。
「私、幸福で、し、しびれちゃっているの」
そう言って彼女はまた笑ったが、それはひどく気のきいたことを言ったとでも言いたげだった。それから私の手をしばらく握って、じっと私の顔をのぞき込んでいたが、それは世界じゅうでこんなに会いたくて待っていた人はいなかったとでも言わんばかりだった。これは彼女のやり方だった。彼女は小さな声で、寝そべっている女性の名は、ベーカーだと知らせた。(デイジーが小声でささやくのは、相手を自分のほうに乗り出させるためなのだということを聞いたことがある。それは見当違いの批評であるが、それでもその魅力には変わりがない)
とにかく、ミス・ベーカーの唇はかすかにうごき、かすかに私を見てうなずいた。が、またすぐ頭をそらした――彼女の支えていたものが明らかに少しよろけて、彼女を少しあわてさせたとでもいうところだった。その様子を見ると、またも私の唇に謝罪したいような気持が湧いた。うぬぼれのかたまりのような人間に出会うと、私はあっけにとられて、むしろ賛辞を呈したくなる。
私が振り返っていとこの顔を見ると、彼女は低い震えるような声で、いろいろと聞き出した。その声は、言葉の一つ一つが二度と演奏されない音色の配列を聞くために、耳を上げたり下げたりして聞きもらさないようにしなければならないような声だった。その顔は悲しみを含み、それだけにその中に輝くものがあって愛らしく、目はきらきらと光り、明るい口もとは情熱的なものを見せていたが、その声には興奮したものが感じられ、彼女に愛情を感じたことのある男ならば、忘れられない声だった――歌に託した思わせ振り、声をひそめた「あのねーえ」というささやきは、たったいま華やかな興奮するようなことが終ったばかりで、なおもその華やかな興奮することが、次の時間を待っているといわんばかりだった。
東部へ来る道すがら、シカゴで一日途中下車したが、大勢の人がよろしくと言っていたことを私は彼女に告げた。
「みんな私をなつかしがっているの!」彼女は有頂天になって叫んだ。
「町全体が淋しくなっちゃってね。車はみんな左の後輪を葬儀車の輪のように黒く塗っているし、北の岸辺などは夜通し悲しげに風が音を立てているし」
「なんてすばらしいんでしょう! 帰りましょうよ、トム。明日よ!」それから彼女は突拍子もないことをつけ加えた――「あなた、赤ちゃんを見てくれなくちゃ」
「見たいね」
「彼女はいま眠ってるわ。三つなの。まだ見てないの?」
「一度も」
「それじゃ見なくちゃ。あの娘《こ》は――」
部屋の中を落ち着かぬかっこうでうろついていたトム・ビュキャナンは、足を止めると私の肩に手をおいて言った。
「君は何をやってるんだい、ニック?」
「証券会社員だ」
「どこの?」
私は告げた。
「聞いたことがないね」彼はにべもなく言った。
これには私もぐっときた。
「いまにわかるよ」私はそっけなく答えた。「東部に住んでいれば、君にもわかるよ」
「あ、ぼくは東部に住むよ、心配するな」彼はそう言うとデイジーを見、それから私を振り返って見たが、まだ何かが気になっているようだった。「他の場所に住むなんて、それこそばかげているよ」
ここでミス・ベーカーが言った――「絶対よ!」それがあまりにも突然だったので、私はびっくりした――部屋に入って来てから、彼女の言葉を聞いたのは、これがはじめてだった。私はびっくりしたが、それに劣らず彼女自身にもそれが驚きだったらしく、彼女はあくびをすると、さっさと巧みにからだをうごかして部屋の中に立った。
「私、からだがこわばったわ」彼女は訴えるように言った、「だって、ずっとあのソファに横になったきりですもの」
「そんなに私を見ないでよ」デイジーは言った、「午後からずっとあなたを、ニューヨークに連れて行こうと思っていたじゃないの」
「いーえ、私は結構」このときちょうど食品収納室から、カクテルが四つ来たのを見るとミス・ベーカーが言った。「私はいま絶好のコンディションにあるんだから」
この家の主人は、怪しいもんだといわんばかりに彼女を見た。
「そうなのかねえ!」彼はそう言うと、自分のコップの底の雫《しずく》でも飲み干すように、ぐっと飲んだ。「あんたのやり方は、いつもぼくにはよくわからんよ」
彼女の「やり方」とは一体どんなものなのかと思いながら、私はミス・ベーカーを見た。彼女を見ていると楽しかった。彼女は、ほっそりした胸の薄い女性で、姿勢はしゃんとしていた。それが若い士官候補生のように、両肩をぐっと反らしているので、一層目立っていた。彼女は太陽に灰色の目をまぶしそうにしながらも、弱々しいがかわいらしい不満そうな顔に、品のよい好奇心を浮かべて私を見返した。このとき私は、どこかで彼女に前に会ったか、あるいは写真で見た顔だと思った。
「あなた、ウェスト・エッグに住んでいらっしゃるのね」彼女はさげすむように言った。「あそこには私の知っている人がいますわ」
「ぼくはだれも知りません――」
「ギャツビーを知ってるはずよ」
「ギャツビー?」デイジーが聞き返した。「何ギャツビーっていうの?」
彼が隣人だと私が答える前に、夕食の用意が告げられた。トム・ビュキャナンは、強く張った腕でいや応なしに私を抱え込み、あたかもチェスの駒でもうごかすようにして部屋から連れ出した。
二人の若い女性は軽くものうげに両手をそれぞれヒップにおきながら、私たちの先に立って落日に向かって開かれたバラ色のポーチに向かって歩いたが、そこには四本のローソクが、いまは弱まった風の中でテーブルの上にゆらめいていた。
「なんだってローソクなんかつけておくの?」デイジーは顔をしかめて言うと、指で一本一本消した。「あと二週間で一年中で一番長い日になるわね」彼女は私たち一人一人を晴れやかな顔で見た。「一年中で一番長い日を注意していながら、いつも見逃してしまうんじゃない? 私はいつも一番長い日を気をつけていながら、つい見逃してしまうの」
「私たち何か計画を立てなければだめだわ」ミス・ベーカーはあくびをしながら、ベッドに入るかのようなかっこうでテーブルについた。
「いいわよ」とデイジーは言った。「どんな計画を立てたらいいかしら?」彼女は困ったように私の顔を見た――「みんなどんな計画を立てるのかしら?」
私が答えられないでいると、彼女は不安な表情で小さな指にじっと目を注いだ。
「ほら!」彼女は言った。「私、ここをけがしたわ」
私たちはみんなでそこを見た――関節のところが青黒くなっていた。
「あなたがしたのよ、トム」彼女は責めるように言った。「あなたはそんなつもりじゃなかったのはわかってるけど、あなたがけがさせたのよ。これは獣のような人間と結婚したお蔭だわ。すごく大きな、ぶかっこうな図体の見本みたいな――」
「ぶかっこうなんて言葉は、いかんよ」トムは不快そうに言った、「たとえからかうにしても」
「ぶかっこうよ」デイジーは言った。
ときどき彼女とミス・ベーカーは、同時に話し出すこともあった。しかしそれは、心を割ったおしゃべりというのでもなく、控えめな、とりとめのない冗談半分なもので、彼女らの着ている白い衣裳やおよそ熱意のない無関心な目と同様、冷やかなものだった。彼女らはただ同席して、トムと私につき合って相手を楽しませたり、自分たちも楽しもうとして、ていねいに心を配っているだけだった。彼女らは、間もなく夕食も終るし、やがて夕暮れも過ぎるだろうし、そうすればなんとなく万事が片づいてしまうということを承知していた。ここは西部とは著しく違っていた。西部では夕暮れは終りに向かって様相をあわただしく過ぎ、絶えず期待が裏切られたり、さもなければ一瞬一瞬そのものに激しい不安を感じたりしなければならなかった。
「ねえ、デイジー、君に会っていると、どうもぼくは野蛮人みたいな感じになるんだがね」私は、コルクくさいが、なかなかいけるクラレットの二杯めに口をつけながら正直に言った。「作物の出来とかなんとかいう話はできないのかね?」
私がこう言ったのには別に他意はなかったが、それが思いがけない方向に取り上げられた。
「文明はばらばらに解体しつつあるんだよ」トムが突然激しい口調で話に割り込んだ。「ぼくは万事にひどく悲観論者になってね。君はこのゴダードという人の書いた『黒人帝国の台頭』というのを読んだかね?」
「いや、まだ」私は彼の調子に少し驚いて答えた。
「そうか、立派な本だよ。まずみんなで読むべきもんだね。つまり考え方はね、もしわれわれが警戒しないと、白色人種は――つまり、完全に沈没してしまうというんだ。内容は全く科学的なんだ。すべて論証されているんだ」
「トムはとてもむずかしいことを言うようになったわ」とデイジーは、それほどでもない悲しみの表情で言った。「長い言葉だらけのむずかしい本を読むの。ほら、なんだっけ、あの言葉、私たちが――」
「いや、この本は全部科学的なんだよ」とトムはじれったそうに彼女にちらと目をやりながら言った。「この著者は、あらゆることをよく調べているんだ。つまり、支配的人種であるわれわれに警戒するように言っているんだ。さもないと、こういう他の人種が支配権を握るというんだ」
「私たちは、そんな人種は打ち倒さなければならないわ」デイジーは燃える落日に激しく目ばたきながらささやいた。
「あなたは、カリフォルニアに住むべきよ――」とミス・ベーカーが話し出したが、トムは椅子のなかでからだの位置を変えて口をはさんだ。
「この考え方はね、われわれが北欧人種だということだ。ぼくがそうだし、君もそうだし、君もそうだし、それから――」ちょっとためらったが、彼は軽くうなずいてからデイジーもその中に入れた。すると彼女はまた私にまばたきして見せた。「――で、われわれは文明を作り出すものすべてを生み出したんだ――ああ、科学、芸術、そういった一切のものを。わかるね?」
夢中で話す彼の言葉には、何か哀れさを誘うものがあった。以前よりももっと激しくなった彼の自己満足感には、もうこれで十分だというものはなくなったかのようだった。このとき、急に電話が奥で鳴り、執事がポーチを去ると、そのちょっとの間をとらえてデイジーは私のほうにからだをかがめた。
「あなたに家の秘密をお知らせするわ」彼女は夢中になってささやいた。「執事の鼻のことなの。あなた、執事の鼻のことお聞きになりたい?」
「そのために今夜わざわざ来たということになるわけね」
「あのね、彼はもともと執事じゃなかったのよ。彼はもともとはニューヨークで何軒かの店の銀磨きをしていたの――二百人分の銀磨きをしていたというの。それを朝から晩までやらなければならなかったので、最後にはそれが鼻にさわりはじめたというわけなの――」
「事態がだんだん悪くなったってわけね」とミス・ベーカーが言った。
「そうなの。事態が悪くなる一方で、とうとうその仕事も止めなければならなかったの」
その一瞬、まさに暮れようとする夕陽が、彼女の燃えるような顔にロマンティックなやさしさをたたえて落ちた。彼女の声に聞き入る私は、思わず息もなくからだを前に乗り出さずにいられなかった。やがて夕映えは消え失せた。刻一刻と、彼女から消え失せる光は、夕暮れとともに楽しい街路を去る子供たちにも似ていた。
執事が戻って来ると、トムの耳に口を寄せてなにごとかをささやいた。するとトムは顔をしかめて椅子をうしろに押しやり、一言も言わずに奥に入った。彼がいなくなったことがデイジーの心のなかにある何かを促したのか、彼女はふたたび身を前に乗り出し、その声は熱を帯び弾《はず》んできた。
「私、あなたと私のテーブルで会うなんて、うれしいわ、ニック。あなたを見ると、あの――ほら、バラを、最高のバラを思い出すわ。そう思わない?」彼女は確かめるようにミス・ベーカーのほうを振り向いた――「最高のバラでしょう?」
これは違っていた。私は少しもバラなどに似ていない。彼女はただ出まかせに言っているだけだった。それでも息をはずませてささやく感動的な言葉に隠して、相手に心の内《うち》を伝えようとする、暖かい情熱が彼女のからだから流れていた。それから突然彼女はナプキンをテーブルの上に放り出すと、中座を詫びて奥に入って行った。
ミス・ベーカーと私は、別にこれという意味もなくちょっと視線を交わした。私が話しかけようとすると、彼女ははっと身を起こして、たしなめるように「しっ!」と言った。声をおさえつけようとはしているが、激しいやりとりのささやきが、向うの部屋から聞えて来た。ミス・ベーカーは、それを聞こうとして恥ずかしげもなくからだを乗り出した。ささやき声が震えながらもまとまりかけて、やっと低くなったと思うと、また激しい昂奮に変り、やがてぱったりと止んだ。
「あなたの言われたミスター・ギャツビーは、実は私の隣りの人で――」私は言いかけた。
「黙って。私、中の様子を知りたいの」
「何か起こってるんですか?」私は無邪気に聞いた。
「あなた、知らないとおっしゃるの?」ミス・ベーカーは本当に驚いたように言った。「私、だれでも知ってると思ってましたわ」
「知りませんよ」
「まあ――」彼女はためらいながら言った。「トムにはニューヨークに女がいるの」
「女がいるって?」私はぽかんとして繰り返した。
ミス・ベーカーはうなずいた。
「食事時に電話をかけるなんて、もうちょっとたしなみがあっていいわね。そうお思いにならない?」
彼女の言う意味がまだ私によくのみ込めないでいるうちに、衣ずれの音と皮靴の踏みつける音がして、トムとデイジーがテーブルに戻って来た。
「なんとも言えなかったくらいだわ!」デイジーは、すっかりはしゃいだ調子で言った。
彼女は腰をおろすと、ミス・ベーカーと、それから私を探るような目でちらと見ながら、また言葉をつづけた――「私、ちょっと外を見ていたけど、外はとてもロマンティックよ。小鳥が芝生の上に一羽いたけど、きっとキュナード汽船かホワイト・スター汽船に乗ってやって来たナイチンゲールだと思うの。それがしきりに鳴いているの――」彼女の声も歌っているようだった――「とてもロマンティックよね、トム?」
「実にロマンティックだ!」彼はそう言うと、それから私にわびしそうに言った――「食事が終ってまだ明るかったら、君を厩舎《うまや》に案内しよう」
奥でけたたましく電話が鳴った。するとデイジーがトムの顔を見て、きっとした態度で頭を横に振ったので、厩舎の話はもちろん、その他の話題も吹っ飛んでしまった。テーブルで最後の五分間に起こった断片的な出来事のなかで、私の記憶に残っているのは、いつの間にかローソクがふたたび灯されていたことと、私がみんなの顔をまともに見ようと意識しながらも、みんなの目を避けていたということである。
デイジーとトムがどんなことを考えていたか、私には見当もつかなかったが、はっきりと懐疑的なものを抱きながらそれをぐっと制していたらしいミス・ベーカーも、この五人目の客のけたたましい緊急な金属音の呼び出しを、心のなかから完全に追い払うことができたかどうか疑わしい。特定な気質の人にはこの場面が興味があったかもしれないが、私は本能的に直ちに警察に電話したほうがよいという気持にもかられた。
馬のことは、言う必要もないが、もう話題には出なかった。トムとミス・ベーカーは、薄明のなかを数フィートの間をおいて、散策でもするときのような足どりで書斎に戻って行ったが、まるでいまはどうしようもない死体のそばで寝ずの番をしに行くようだった。一方、私はできるだけ楽しそうに見えるふうを装い、また少し耳が遠いふうを装いながらデイジーの後から、ベランダを通って前のポーチについて行った。私たちは宵闇のなかで、小枝編みの長椅子に並んで腰をおろした。
デイジーは両手で顔を押えた。それは自分の愛らしい顔のかたちをさわってみたかったかのようであったが、その目はやがてビロードのような夕闇のなかに注がれていた。私には彼女が激しい感情にとらわれているのがわかったので、幾分でも彼女の感情をやわらげるかもしれないと思って、彼女の小さな娘のことを尋ねてみた。
「私たちはお互いにあんまりよく知らなかったのね、ニック」彼女は急に言い出した。「いとこ同士だというのにね。あなたは私の結婚式にも来なかったし」
「ぼくはまだ戦争から帰っていなかったのでね」
「そうね」彼女はためらっていたが、言った。「あのね、私、ずいぶんつらいことがあったのよ、ニック。それで私はなんでも皮肉な見方をするようになったの」
確かに彼女にはそれだけの理由があった。私は待った。しかし彼女はそれ以上言わなかった。そこでちょっと間をおいて、また彼女の娘のことに恐る恐る話題を戻した。
「もう物を言ったり、食べたり、それからなんでもするだろうし」
「それは、もう」彼女はぼんやりと私を見ながら言った。「ところで、ニック。あの子が生まれたとき、私がなんと言ったか話させて。聞いてくれます?」
「もちろん、ぜひ――」
「それによって私がどんな気持を――物事に対して――持つようになったか、わかっていただけると思うの。あのね、あの子が生まれて一時間も経たないのに、トムはもうどこに行ったかわからなかったの。私、麻酔から覚めたとき、本当に捨てばちな気持だったわ。私はすぐ看護婦に、男の子か女の子かを聞いたの。看護婦が女の子だと教えてくれたとき、私は顔をそむけて泣いちゃったの。『いいわ』と私は言ったわ、『女の子でよかったわ。どうかおばかさんでありますように――女の子がこの世で美しいおばかさんでいられるのは、一番いいことなの』って」
「私は思うんだけど、とにかくすべてが恐ろしいのよ」彼女は自信ありげに言葉をつづけた。「だれでもそう思ってるわ――最も進んだ人たちは、みんなそう思ってるわ。そしてそれが私にわかったの。私はどこへでも行ったし、なんでも見たし、なんでもやったわ」彼女は、むしろトムに似たような目で、挑戦的な態度であたりを見回した。「世間ずれしちゃったの――本当に、私は悪ずれしちゃったの!」
彼女の声がそこで切れた瞬間、私の注意も私の信頼感も失なわれ、私が感じたものは、彼女の話は根本的に誠実さに欠けているということだった。それが私の心を落ち着かなくさせた。すべてが私から無理矢理に感激を引き出すための、一種のトリックだったように思われた。私は待った。すると果たせるかな、たちまち彼女はその愛らしい顔ににやにや笑いを浮かべた。その様子は、彼女とトムが所属している、かなり有名な秘密結社の一員であるのを明かしたかのようでもあった。
*
奥では、深紅色の部屋が明るい灯に輝いていた。トムとミス・ベーカーが長椅子の両端にすわり、彼女がサタデー・イヴニング・ポスト誌を、大声でトムに読んで聞かせていた――その言葉は、心を静めるような調子をもって、ささやくように、声の調子も変えずに、よどみなく流れていた。電灯の光は彼のブーツの上を明るく照らし、また彼女の秋の葉のような黄色い髪の毛をくすんで照らしていたが、彼女が腕のしなやかな筋肉をかすかにうごかしてページをめくるとき、紙面がきらりと光った。
私たちが入って行くと、彼女は片手を上げて、しばらく黙っているように制した。
「以下次号につづく」と彼女は言うと、雑誌をテーブルの上に放り出した。
彼女の肉体は、絶えず膝《ひざ》をうごかしてその存在を主張していたが、やがて彼女は立ち上がった。
「十時ね」彼女は天井を見て時間がわかったかのようなかっこうで言った。「この善良なる女性が、そろそろベッドに入る時間だわ」
「ジョーダンは、明日ウェストチェスターのトーナメントに出場することになっているの」とデイジーは説明した。
「おお――あなたがジョーダン・ベーカー」
彼女の顔にどこか見覚えがある理由が、やっとわかった――その可愛いらしい、人を小ばかにしたような表情は、アッシュヴィルやホット・スプリングやパーム・ビーチなどで、スポーツ界の人々を撮った多くのグラビア写真で、すでにお目にかかっていたのだ。さらに私は彼女にまつわる非難めいた不愉快な話題も聞いたことがあったが、それもとうに忘れていた。
「お休みなさい」彼女はやさしい声で言った。「八時に起こしてくださいね」
「あなたさえ起きればね」
「起きるわよ。じゃ、お休みなさい、キャラウェイさん。またお目にかかりますわ」
「もちろんよ」デイジーが当然のことのように言い、さらに「実は私は結婚のお膳立をしようと思ってるの。たびたびいらっしゃい、ニック。私、あなたたちを――まあ、いうなら、一緒に放り出してあげるわ。そうね――偶然のようにして押入れの中に閉じ込めたり、ボートに乗せて沖へ押し出したり、いろいろのことをして――」
「お休み」階段からミス・ベーカーが声をかけた。「私には一言も聞えなかったわよ」
「彼女はなかなかいい女性だよ」しばらくしてトムが言った。「こんなふうにあちこち走り回らせちゃいかんのだよ」
「だれがそうしちゃいけないというの?」デイジーは冷やかに聞いた。
「彼女の家の者がだよ」
「彼女の家庭といえば、千年も年を取ったみたいな伯母さんが一人いるきりよ。それに、ニックが面倒を見て上げるわよ、ねえ、ニック? 彼女はこの夏は週末を大体ここで過ごすつもりなの。家庭的雰囲気が彼女のために、とてもいいことだと思うわ」
デイジーとトムは、一瞬黙ったままお互いの顔を見ていた。
「あの人は、ニューヨークの出なの?」私はあわてて尋ねた。
「ルイズヴィルなの。私たちは純潔な少女時代を、一緒にあそこで過ごしたわ。私たちの美しい純潔な――」
「君はベランダで、ニックと打ち明けた話でもしたのかい?」トムは突然尋ねた。
「そんなことをしたかしら、私が?」彼女は私の顔を見た。「私には思い当たらないけど。でも、私たち、北欧人種の話はしたと思うわ。え、確かに話したわ。それが私たちのことにまで及んで来たのね。そしてまずねえ――」
「どんなことを聞いたか知らないが、一切信じるなよ、ニック」彼は私に忠告した。
私は取りたてて言うほどのことは何も聞かなかったと軽く言った。そして数分して家に帰ろうとして立ち上がった。二人は玄関まで私について来て、気持のよい方形の光のなかに並んで立った。私が車のエンジンをかけたとき、突然命令的な口調でデイジーが声をかけた――「待って!」
「私、あなたにお聞きするのを忘れていたの。大事なことなの。あなた、西部の女の人と婚約なすったとか聞いたけど」
「そうだ」トムが助勢するように合槌を打った。「君が婚約したっての、ぼくたちは聞いたぞ」
「それは中傷だ。貧乏人のぼくなんか、とても」
「でも私たちは聞いたわよ」デイジーが言い張って、また花でも開いたようにしゃべり出したので、私のほうが驚いた。「私たち、その話を三人から聞いたわよ。だから間違いないはずだわ」
もちろん二人が何をさして言っているのか、私にはわかっていたが、しかし私は全く婚約などしていなかったのだ。ただ結婚の予告があったという噂があったのが、私が東部へやって来た理由の一つではあった。ただ噂のために旧友とのつき合いを絶つわけにはいかなかったし、また私としては噂に引きずられて結婚するわけにはいかなかった。
彼らが気にかけてくれていることが私には嬉しいことでもあり、またそれは彼らがそれほどかけ離れた金持だという感じも減らしてくれたが、しかし一方では、車を走らせる私を混乱させ、また少し不愉快にもした。デイジーの取るべき道は、子供を抱いて家を飛び出すことだというように私には思えたが、しかし彼女には全然そんな気持のないことは明らかだった。トムについて言えば、彼に「ニューヨークに女がいる」ということなどは、彼が本を読んで気が滅《め》入っていることに比べれば、大したことではなかった。彼のたくましい肉体のうぬぼれだけでは、もはや彼の横柄な心をつちかうわけにはいかなかったらしく、何かが彼に陳腐な思想の上っ面《つら》をかじらせていた。
道路に面した宿屋の屋上や道に面したガレージの前には、すでに盛夏を思わせ、赤い新しいガソリン・ポンプが灯火の光の中に据えられていた。私はウェスト・エッグの屋敷に着くと、車を車庫に入れ、芝刈機の上に腰をおろした。
風はすでに止んでいたが、樹木のなかで羽ばたく翼の音や、一杯に開いた地面のふいごが、カエルどもに溢れるばかりの生命を吹き込んで、休みなくオルガンを弾かせているかのような、騒がしく明るい夜になっていた。一匹のネコが月光の中を影絵のように通り過ぎた。私はその姿をとらえようとして頭をめぐらしたとき、私は自分ひとりだけでないことに気がついた――五十フィートほど離れたところに、隣りの邸宅の蔭から突然のように一人の男が現われ、両手をポケットに入れたまま、銀色の星の砂を眺めながら立っていた。ゆっくりした身のこなし、芝生に足を踏みつけてしっかりと立った感じは、まさしくギャツビー氏その人であり、その様子は、この地における自分の役割を決意するために出て来たのだとも見えた。
私は声をかけようかと思った。ミス・ベーカーが夕食の席で彼のことを口にしたし、それが口をきくきっかけになると思った。しかし私は声をかけなかった。というのは、彼は急に独りでいるのに満足しているのだという気配を見せたからである――彼は暗い海に向かって不思議なかっこうで両手を差しのばした。そして私と彼はかなり離れていたが、疑いもなく彼は震えていた。思わず私は海の方に目をやった――と、そこに見えるものは、ただ一つぽつりと緑色のかすかな灯が、はるか遠くに見えるほかには、何一つ見えなかった。それは桟橋の突端かもしれなかった。私はもう一度ギャツビーのほうを見たが、そのときには彼の姿はもうなかった。私はふたたび騒がしい闇の中にひとりで立っていた。
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二
ウェスト・エッグとニューヨークのほぼ中間あたりで、急に自動車道路が鉄道線路に合流し、併行して四分の一ほどにわたって走ると、やがて荒涼とした地域にかかって自然に消え失せている。これが灰の谷である。ここは、いわば異様な農場とでもいうべきか、麦でも生えたかのように灰が山の背や丘陵に積もり積もって、グロテスクな庭園とでもいうべきところになっていた。ここでは灰が家の形になり煙突になり立ちのぼる煙になり、最後には信じられないような労作によって灰色の人間が出来上がり、彼らは粉末の漂う空気のなかをかすかにうごき、すでにぼろぼろに崩れそうに見える。時折、目に見えない道を灰色の車の行列が匍《は》うように進んで来ては、ぞっとするようなきしる音を立てて止まると、直ちに灰色の男たちが鉛色のくわを持って寄り集まり、もうもうたるほこりをかき立てて、よく見えなかった彼らの作業を視界からさえぎってしまう。
しかし、しばらくすると、この灰色の土地と、その上をいつまでも漂《ただよ》う物さびしいほこりの上に、T・J・エクルバーグ博士の目が見えてくる。T・J・エクルバーグ博士の目は、青くて巨大である――その網膜は一ヤードもある。それは顔のない目で見ているのだ。しかしその代り、存在しない鼻の上にかけた、一対の巨大な黄色い眼鏡から見ているのだ。明らかにどこかのひどくひょうきん者の眼科医が、クィーンズ区での彼の商売を繁昌させようとしてここに据えつけたものの、その後自分が永遠の盲目になったか、あるいはこれを忘れて他に移ったにちがいない。それでも彼の目は、太陽と雨の下で長い間ペンキも塗ってもらえぬままに、かすかにかすんではいるが、このものものしいごみ捨場の向うで、じっと考え込んでいるのだ。
灰の谷の片側は、汚れた小川に接している。はしけを通すためにはね橋が上がるときは、そのために待たされる列車の乗客は、半時間も陰気な風景を見せつけられる。それでなくてもここでは、少なくとも一分間の停車はあった。そして私がトム・ビュキャナンの女に初めて会ったのは、このためである。
彼が女を持っているということは、彼を知っている所なら、どこでもそう言っていた。彼の知人たちは、彼はその女を連れてありふれたキャフェに現われると、女をテーブルに残したまま歩き回っては、だれかれを問わず知っている人間とおしゃべりをするのを不快に思っていた。私は彼女を見てみたい気持はあったが、特に会いたいとは思わなかった――しかし、私は会ってしまった。
ある日の午後、私はトムと一緒に汽車でニューヨークに出かけた。汽車が例の灰の山のそばで停車したとき、彼はいきなり立ち上がると、私のひじをつかみ、文字どおり私を車外に引きずり出した。
「降りるんだよ」彼は強引に言った。「ぼくの彼女に会ってもらいたいんだ」
私は、彼が昼食のときにかなり飲んでいたと思う。私を無理につき合わすやり方は、まさに暴力といってよかった。私に日曜の午後などに、特別の用事などがあるはずがないというのが、彼の思い上がった仮定だったのだ。
私は白く塗られた鉄道の柵を越えて、彼の後につづいた。それから私たちは、エクルバーグ博士の執拗な凝視の下の道路を、百ヤードほど戻った。目に見える建物といえば、荒地の端に小さなレンガの建物が一つあるだけだったが、その内部は一種の寄合い世帯で、メイン・ストリートに奉仕する役目を果たしていた。しかしそれに隣接するものは、全然何もなかった。この建物の内部にある三軒のうちの一軒は貸し店で、他の一軒は終夜営業のレストランで、すぐそばに灰の小道があり、三軒目はガレージ――「修理。ジョージ・B・ウィルソン。自動車売買」――私はトムについてその中に入った。
内部は一見して不景気らしく、がらんとしていた。ただ目についた一台の車は、ほこりをかぶったぼろのフォードで、薄暗い一隅にうずくまっていた。私にふと思い浮かんだのは、ガレージのこの暗がりは、実は人目をごまかすものであり、豪華なロマンティックな部屋が頭上に隠されているのではないかというようなことだった。そんなことを考えていると、この店の主人がぼろ布で手を拭きながら、事務所の入口に現われた。彼は金髪の元気のない男で貧血症らしかったが、かすかにハンサムな面影が残っていた。私たちを見ると、彼の淡く青い目に、うるんだ希望のひらめきがさっと湧いた。
「やあ、しばらくだね、ウィルソン」トムは陽気に彼の肩をたたいた。「景気はどうだね?」
「文句を言うわけにもいきませんしね」ウィルソンはどうも納得がいかないというような口調で言った。「ところで、あの車はいつ売ってくれます?」
「来週だね。いまうちの者に手入れをさせているんでね」
「ずいぶんゆっくりした手入れですな?」
「いや、ちがうよ」トムは冷然と言った。「君がそんなふうに言うなら、あれはどこか他に売ったほうがいいかもしれんな」
「そんなつもりで言ったんじゃありませんよ」ウィルソンはあわてて説明した。「私は、ただ――」
ここで彼の声は消え失せた。するとトムは、落ち着かないようにガレージの周りを見回した。このとき階段で足音がするのを私は聞いた。すると間もなく割に太った女の姿が事務所の入口の光をさえぎった。年は三十半ばで肉付きがよく、それが――他の女でもそうだが――なまめかしさをただよわせていた。
斑点《しみ》のある濃紺のデシンの服を着た彼女の顔には、いわゆる美しさとか美のきらめきというものはなかったが、しかし彼女の身辺には、何か体内の神経が絶えずもやもやしているのが、そしてすぐにそれとわかる活力が漂っていた。彼女はゆっくり笑うと、まるで彼女の夫が幽霊ででもあるかのように突き抜けて通り、トムと握手を交わすと、目にほとばしるものを見せて彼を見た。それから彼女は唇をぬらすと、振り向きもせずに夫に対して、やわらかいが下品な声で言った――
「いくつか椅子を持って来たらどうなの。だれかが腰をかけられるじゃないの」
「うん、そうだ」ウィルソンはすぐに同意して事務所のほうへ歩いて行き、たちまち壁のセメントの色に溶けこんでしまった。白い灰色のほこりは、彼の黒の服も薄い色の髪も包んだが、それはこの界隈のすべてをベールで包んでいるかのようだった――ただ例外は彼の妻だった。彼女はトムのそばに寄って来た。
「君に会いたいんだ」トムは一心に言った。「次の列車に乗れよ」
「わかったわ」
「下の階段のニュース・スタンドのわきで会おう」
彼女はうなずくと彼のところを離れた。ちょうどそのとき、ジョージ・ウィルソンは事務所から椅子を二脚持って現われた。
私たちは道を下って見えないところで、彼女を待った。それは七月四日の独立記念日の数日前だったが、灰色の髪の毛の痩せこけたイタリア人の子供が、線路沿いにかんしゃく玉を一列に並べていた。
「ひどい所だな」とトムは、エクルバーグ博士と渋い顔を交わしながら言った。
「ひどい」
「逃げ出したほうが、彼女のためだよ」
「ご亭主は文句を言わないのかい?」
「ウィルソンが? 彼は彼女はニューヨークの妹に会いに行くと思っているよ。あの男は自分が生きているのも知らないぐらいの、まぬけなんだ」
こうしてトム・ビュキャナンと彼女と私は、一緒にニューヨークへ行った――いや、一緒にというのは当たらない。というのは、ウィルソンの妻は用心深く別の車輌に乗っていた。イースト・エッグの人々が、あるいは列車に乗っているかもしれないという神経の配慮がトムにもあった。
彼女は褐色の華美なモスリンの服に着換えていたが、それがニューヨークのプラットフォームでトムが手を貸して降ろしたとき、彼女のかなり大きいお尻をぴったり包んでいた。ニュース・スタンドで彼女は「タウン・タトル」誌と映画の雑誌を一冊ずつ買い、また駅のドラッグ・ストアでコールド・クリームと香水の小びんを買った。駅の階上に出ると、荘重にこだまする車道で四台のタクシーをやり過ごしてから、内部を灰色でおおった薄紫色の新しい車を選び、それに乗って私たちは巨大な駅から輝く太陽のなかへ走り出した。しかしすぐに彼女は窓から急に振り向いたと思うと、からだを前に乗り出してフロント・グラスをとんとんとたたいた。
「あの犬を一匹欲しいわ」彼女はいかにも欲しそうに言った。「アパートで一匹欲しいの。飼っておくのもいいわよ――犬を一匹」
そこで私たちは、おかしなほどジョン・D・ロックフェラー〔米国の大富豪〕に似ている、白髪の老人のところへ車を返した。老人の首からつるしたバスケットのなかには、種類はわからないが生まれたばかりの仔犬が十数匹まるくなっていた。
「これ何種なの?」老人が車の窓のところまで寄って来ると、ウィルソンの妻がいかにも欲しそうに聞いた。
「なんでもありますよ。奥さんはどんなのがお望みですか?」
「警察犬のようなのを欲しいわね。そんなのはないでしょうね?」
老人はどれかなというようにバスケットのなかをのぞいていたが、手をなかに入れると首のところをつかんで、もがくのを一匹引きずり出した。
「それは警察犬じゃないよ」とトムが言った。
「そうですな、本当の警察犬じゃありませんがね」と老人は少し失望したような声で言った。「どちらかといえば、エアデール系ですね」彼は手拭きでもあるかのように、仔犬の背中の毛を手で撫でた。「この毛をごらんなさい。いい毛ですよ。これなら風邪をひいたりして面倒かけるようなことは、絶対ありませんよ」
「これ、可愛いいんじゃない」ウィルソンの妻は、ぜひとも欲しそうに言った。「いくらなの?」
「これですか?」彼は惚れ惚れした目で見た。「これなら十ドルでしょうな」
エアデール種――脚は驚くほど白かったが、どこかにエアデール種のようなところがあった――それが手渡されると、ウィルソンの妻のひざの上におさまった。彼女はすっかり喜んで、その防寒コートのような毛並を撫でまわした。
「これ、男の子、それとも女の子?」彼女はやさしい声で聞いた。
「その犬ですか? それは男の子です」
「これは牝《めす》だよ」トムは決めつけるような口調でそう言った。「ほら、金をやるよ。それでもう十匹も買ったらよかろう」
私たちは五番街まで車を走らせたが、暖かくて、やわらかく、まるで牧歌的とでもいうような夏の日曜日の午後だった。白い羊の大群が街角を曲るのを見ても、私は驚かなかったろう。
「このまま行ってくれ」私は言った。「ぼくはここで別れるよ」
「それはいかん」トムはあわてて言った。「君がアパートまで来なければ、マートルが気を悪くするよ。ねえ、マートル?」
「いらっしゃいな」彼女もすすめた。「私、妹のキャサリンを電話で呼ぶわ。彼女を知っている人なら、みんなすごい美人だと言ってるわ」
「いや、行きたいんだけど、でも――」
私たちは、また公園を横切って引き返し、そのまま西百番街に向かって走った。百五十八番街に入ると、白いアパートが長いケーキのように並んでいる、その一切れのところで車を停《と》めた。
王妃のお帰りとでもいうような一べつを近所に投げながら、ウィルソンの妻は仔犬や他の買物品をかき集めると、傲然《ごうぜん》とした態度で中に入った。
「私、マッキーたちを呼ぶわ」エレベーターで上がるとき彼女はそう言った。「それから、もちろん妹にも電話するわ」
アパートの部屋は一番上の階にあった――小さな居間、小さな食堂、小さな寝室、それに浴室。居間にはあまりにも大きすぎるつづれ織で飾った家具一式が、戸口までひしめいていた。だから部屋のなかを歩くたびに、ベルサイユ宮殿の庭園をぶらぶら歩いている貴婦人たちの図に、絶えずつまずいてしまう。ただ一枚ある写真は、あまりにも引伸ばしすぎたため、ちょっと見たところ、ぼんやりかすんだ岩の上に雌鳥《めんどり》が一羽とまっているように見えた。しかし遠くから眺めると、雌鳥は実はボンネットであり、太った老婦人の顔が部屋に向かって、ほほえんでいるのだった。このほか「タウン・タトル」誌の古いのが数冊、「ペテロなるシモン」と一緒にテーブルの上に置いてあり、そのほかブロードウェイの小型のスキャンダル雑誌が数冊あった。
ウィルソンの妻は、まず何よりも仔犬のことが気がかりだった。エレベーター・ボーイは、いやいやながらわらを一杯敷いた箱とミルクを取りにやらされたが、そのほかに彼は独断で大きなかたい犬のビスケットの罐を持って来た。そのビスケットの一枚は午後じゅうミルクの受け皿のなかで、ほったらかしにされて分解していた。一方トムは、鍵のかかっている大机の引出しから、ウィスキーを一本取り出して来た。
私は生涯で二度ばかり酔っ払ったことがあるが、二度目がこの日の午後だった。だからこの日は八時過ぎまでアパートには明るい陽光が一杯に射し込んでいたが、ここで起こったことはすべてがぼんやりと靄がかかったようで、よく覚えていない。
トムのひざに腰かけながら、ウィルソンの妻はあちこちに電話をかけていた。ちょうど煙草がなかったので、私は角のドラッグ・ストアまで煙草を買いに出かけた。私が戻ったとき、二人とも姿を消していた。そこで私は居間に用心深く腰をおろして、「ペテロなるシモン」の一章を読んだ――その内容は恐るべき代物《しろもの》だったのか、それともウィスキーのためにゆがめられたのか、とにかく私にはさっぱりわからなかった。
トムとマートル(最初の一杯を飲んでからは、ウィルソンの妻と私はお互いに相手の名前で呼び合っていた)がまた姿を現わしたとき、アパートの入口には仲間たちが到着しはじめた。
妹のキャサリンは、痩せた三十がらみの普通の女で、赤い毛の断髪をかたく油でなでつけ、顔には白粉をミルクのようにぬっていた。眉毛はいったん抜いた上に、もう一度いきっぽい角度で描き直していたが、もともとの線を回復しようとする自然の力のため、彼女の顔にぼやけた感じを与えていた。
彼女がうごき回ると、両腕につけた無数の陶器の腕輪が上ったり下ったりして鳴るので、絶えず音がしていた。彼女が入って来たときの感じは、いかにも自分の持物にでも入るように無造作に入って来て、家具なども自分の物のように見回したので、彼女はここに住んでいるのではないかと私は思った。しかし私がそのことを聞くと、彼女は無作法な笑い方をして私の質問を声高く繰り返してから、彼女は女友達と一緒にあるホテルに住んでいると言った。
マッキー氏は顔色の青い女性的な男で、下の階に住んでいた。顔を剃《そ》ったばかりらしく、頬骨の上に石鹸の泡が白くぽつりとついていた。部屋のなかでみんなに挨拶するさまは、ていねいすぎるぐらいだった。彼は私に「芸術的遊び」をやっていたと言ったが、後で私が推定したところでは彼は写真師らしく、壁に心霊体のようにふわりとぶらさがっているウィルソンの妻の母の、ぼんやりした引伸しも彼が作ったものらしかった。彼の妻は金切り声の、活気のない、顔はととのっているが、いやらしい女だった。彼女は私に向かって、結婚してから夫が、百二十七回も彼女の写真を撮ったと、さも得意げに聞かせた。
ウィルソンの妻は、少し前に服装を換えていた。こんどはクリーム色のシフォンの凝ったアフタヌーン・ドレスだったが、それが彼女が部屋のなかを歩くたびに絶えずかさかさと音を立てた。衣裳のお蔭で、彼女の人柄までが変っていた。ガレージではあんなに目立った強烈な活力が、いまではどぎついほどの傲慢さに変っていた。彼女の笑い方もジェスチュアも、また自説を押し通す態度も、ますます激しさを加え、彼女がいよいよ調子に乗るにつれて部屋までがだんだん小さくなるかのようであり、ついには煙った空気のなかで騒々しくきしる旋回軸の上で、ひとり回転しているかにさえ思われた。
「ねえ、あんた」彼女はかん高い気取った声で妹に話しかけた、「とにかく近ごろの人ったら、何かといえば人をだますことばかりだわ。みんな考えることといえば、お金のことだけなの。先週私は足を診てもらうために女の人に来てもらったら、その勘定書はまるで盲腸でも手術してもらったときのようよ」
「その女はなんて名前なの?」マッキーの妻が尋ねた。
「ミセス・エバーハートっていうの。あちこちの家に出かけては足を診て歩いてるの」
「そのドレスすてきだわ」ミセス・マッキーが言った。「かわいらしいわよ」
ウィルソンの妻は、いかにも軽べつするように眉をつり上げて、そのお世辞を退けた。
「変てこりんな古物よ」彼女は言った。「ただどう見えたって構わないときに、ちょっとひっかけるだけよ」
「でも本当のところ、それ、とてもあんたに似合うわよ」ミセス・マッキーはつづけて言った。
「もしチェスターがそのポーズのあんたを撮ったら、結構使いものになるわね」
私たちはみんな黙ってウィルソンの妻を見た。彼女は目の上に垂れ下った髪の房をかき上げると、輝かしい笑顔で私たちを見た。ミスター・マッキーは、首を一方にかしげると一心に彼女を見ていたが、やがて片手をゆっくりと顔の前でうごかした。
「光線を変えなくちゃいかんね」しばらくして彼は言った。「顔の肉づけをはっきり出したいね。それから後ろの髪を全部出したいね」
「私は光線を変えたくないわね」ミセス・マッキーは口を入れた。「私は――」
彼女の夫が言った――「しっ!」私たちはみんな被写体をまた見直したが、そのときトム・ビュキャナンは人に聞えるようなあくびをして立ち上がった。
「マッキーさんも奥さんも、何かお飲みなさいよ」彼は言った。「マートル、もっと氷とミネラル・ウォーターを持って来なさい、みなさんが眠ってしまうから」
「あのボーイに氷を持って来るように言っといたのよ」マートルは下層階級の無能さにさじを投げたように眉をつり上げて言った。「あの連中ときたら! いつも目を離しちゃだめよ」
彼女は私を見ると、わけもなく笑った。それからぷいと仔犬のところに寄ると夢中にキッスし、大勢のコックが彼女の命令を待っているといわんばかりにしてキッチンに急いで入って行った。
「私はロング・アイランドで、ちょっとした仕事をしましたよ」ミスター・マッキーは言った。
トムは無表情に彼を見た。
「そのうちの二つは額に入れて階下にありますよ」
「なんの二つ?」トムが尋ねた。
「習作の二つです。一つは『モントーク岬――カモメ』、もう一つは『モントーク岬――海』と名づけておきましたよ」
妹のキャサリンは、長椅子の私のそばにすわった。
「あなたもロング・アイランドに住んでいます?」彼女は尋ねた。
「ぼくはウェスト・エッグに住んでいます」
「本当? 私、一カ月ほど前にパーティがあって、あそこへ行きました。ギャツビーという方のところです。ご存じ?」
「ぼくはその隣りですよ」
「そうですの。あの方カイザー・ウィルヘルムの甥だとか、いとこなんだそうですね。あの方のお金は、全部そこからくるんですってね」
「本当ですか?」
彼女はうなずいた。
「私、なんだかあの人がこわいわ。あの人から何かしてもらうのはいやだわ」
この私の隣人についてのひどく面白い情報も、ミセス・マッキーが突然キャサリンを指したので中断されてしまった――
「チェスター、あなた、この人で何かできると思うわよ」彼女は急に言い出した。しかしミスター・マッキーは、うんざりしたようにうなずいただけで、トムに注意を向けた。
「私はもし許可がもらえるなら、ロング・アイランドでもっと仕事がしたいんだけど。私はただきっかけさえ与えてもらえればいいんです」
「マートルに頼みなさいよ」とトムが言うと、そこへウィルソンの妻がお盆を持って入って来たので、短かく声を立てて笑った。「彼女が紹介状を書きますよ、ねえ、マートル?」
「何をですの?」彼女は驚いたように言った。
「君の旦那様にマッキーの紹介状を書いてやりなさい。そうすればご亭主を使っていくつかの習作ができるというから」彼は題名を考えながら、ちょっとの間黙ったまま唇をうごかしていたが――ほら、『ガソリン・ポンプとジョージ・B・ウィルソン』とか、なんとかつけてさ」と言った。
キャサリンは私の近くに身をかがめると、私の耳にささやいた。
「あの二人は、どちらも結婚した相手にがまんできないの」
「そうなんですか?」
「できないのよ」彼女はマートルを見、それからトムを見た。「私の言うのは、お互いにがまんできないのなら、なぜ一緒に暮しているかということよ。私があの人たちだったら、さっさと離婚して、すぐにもお互い同士一緒になるけど」
「結局彼女はウィルソンを好きじゃないんですか?」
これに対する返事は、思いがけないものだった。それはマートルからの返事だったが、彼女は私の質問を耳にしたのだった。そしてそれは猛烈で、わいせつなものだった。
「ほらね」勝ち誇ったようにキャサリンが大きな声で言った。それから彼女は、また声を低めた。「あの二人を離れさせているのは、本当は奥さんのほうなの。彼女はカソリックだし、カソリックは離婚を認めないでしょう」
デイジーはカソリックではなかった。私は念入りに作られた嘘に、いささか驚いた。
キャサリンは、なおも言葉をつづけた、「二人が本当に結婚すれば、万事が一応しずまるまで、しばらく西部に行って暮すつもりなの」
「ヨーロッパへ行ったほうが賢明だと思うけど」
「おお、あなた、ヨーロッパがお好き?」彼女は驚いたように大声をあげた。「私、モンテ・カルロから帰ったばかりなの」
「そうですか」
「つい去年よ。私、もう一人の女の子と一緒に行ったの」
「長い滞在?」
「いーえ、私たち、モンテ・カルロに行って帰って来ただけなの。マルセーユ経由で行ったわ。出発するとき私たちは千二百ドルくらい持っていたけど、賭博場で二日間で全部巻き上げられてしまったの。そのお蔭で、それは大へんな思いをして帰って来たわ。ああ、私、あんな町本当に憎らしいわ!」
黄昏《たそがれ》の空は、地中海の紺青のように一時窓に照り映えていた――そのとき、ミセス・マッキーのかん高い声で、私はまた部屋に引き戻された。
「私も、もう少しで間違いを起こすところだったわ」彼女は元気に公表した。「私を何年も追っかけ回していた、けちないなか者と、もう少しで結婚するところだったの。彼は私より劣っているのは、私も知っていたの。みんなが私に言っていたの――『ルシル、あんな男、あんたととても釣り合いが取れない!』って。でも、もしチェスターに会わなかったら、きっとあの男が私を物にしてたわね」
「わかるわ、でも聞いてよ」マートル・ウィルソンは頭を上下にうなずかせながら言った。「でも、結局あんたはその男と結婚しなかったのよ」
「それはそうよ」
「ところが、私の場合はその男と結婚したのよ」とマートルは、いろいろな意味に取れる言い方をした。「そこがあんたの場合と私の場合と違うところよ」
「どうしてあんたは、そうなったの、マートル?」キャサリンが聞いた。「だれも無理にそうさせたわけでもないのに」
マートルは考え込んでいた。それから――
「彼を紳士だと思ったから結婚したのよ」彼女は最後にそう言った。「多少は行儀も心得ていると思ったけど、私の靴をなめるだけにも値しない男だったわ」
「でも、あんた、しばらくはあの人に夢中だったじゃないの?」とキャサリンは言った。
「夢中だったって?」マートルは本気でそう思っているかというように、声を高めて言った。「だれが私が夢中だったなんて言ったの? 私はあの人に夢中になったことは一度もなかったわ――そこにいる人にと同じようにね」
彼女は突然私を指したので、みんなが私に罪があるかのような目で見た。私は愛情など期待していないということを、表情で示そうとした。
「私が夢中になったといえば、彼と結婚したときだけよ。しかし私は間違いを犯したということに、すぐに気がついたわ。彼は結婚式を挙げるために、だれかの晴れ着を借りたのを、一度だってそんなことを私に言わなかったわ。ところがある日彼が不在中に、その人が来たの――『まあ、あれはあなたの服ですの?』と私は言いました。『いまはじめてそのことを聞きました。』と。私はそれをその人に返すと、身を投げ出して夕方まで声を立てて泣いたわ」
「逃げ出すのは当然よ」キャサリンはまた私に向かって言った。「二人はもう十一年もあのガレージの上で住んでいるし、トムが姉の最初の愛人よ」
ウィスキーの瓶――二本目の――に、いまはそこにいるみんなの手が絶えずのばされていた。ただキャサリンだけは別で、彼女は「全然飲まなくても、いい気持なの」と言っていた。トムは呼鈴を鳴らして門番を呼ぶと、自慢のサンドウィッチを持って来させた。これはそれだけで十分夕食になった。私は外に出て、おだやかな黄昏《たそがれ》のなかを東に向かって公園のほうへ歩きたいと思ったが、出ようとするたびに、何かしら荒々しいかん高い議論に巻き込まれ、まるでロープで引きずり返されるように椅子に戻らざるを得なかった。しかし町の上に高く一列に並ぶ黄色の私たちの窓は、暮れて行く街路でたまたま眺める人に、人間の内輪の秘密への関心を起こさせたにちがいなく、その人間がいぶかしげに見上げている姿を私は見た。私はいわば外にいると同時に内にもいた。そして同時に尽きることを知らない人生の多様さに、われを忘れる一方反ばくも感じた。
マートルは椅子を私のそばに引き寄せると、暖かい息を私にかけながら、はじめて彼女がトムと出会ったてんまつを語り出した。
「それは互いに向かい合った小さな二つの座席だったの。そこだけが列車の中でいつも最後に残されているところなの。私は妹に会いにニューヨークに行って、一晩泊って来るところだったの。彼は夜会服を着、エナメル革の靴をはいていたわ。私はどうしたことか彼から目を外らせなかったの。でも彼が私を見るたびに、私は彼の頭の上の広告を見ているふうを装わなければならなかったわ。駅に入ると彼は私の隣りにいたの。そして彼の白いワイシャツの胸が、私の腕を押しつけていたので、私は警官を呼ぶわよと言ったの。でも彼はそれは嘘だってことをちゃんと知っていたわ。私はすっかり興奮していたので、彼と一緒にタクシーに乗ったとき、地下鉄に乗らなかったことに気がつかないぐらいだったの。私はもうただただ繰り返し繰り返し考えつづけていたわ――『お前は永久に生きられるもんじゃないんだ、お前は永久に生きられるもんじゃないんだ』って」
彼女はここまで語ると、ミセス・マッキーのほうを振り向いた。そして部屋のなかは、彼女のわざとらしい笑い声でひびいた。
「あなた」と彼女は声をあげた、「私、このドレスに一応手を通したら、すぐあなたに上げるわ。私、明日別の物を買わなくちゃ。買わなくちゃならないものを、全部リストに書き出そうと思うの。マッサージとウェーヴと、犬の首輪と、ばね仕掛けになっている、あのかわいらしい小さな灰皿、それからお母さんのお墓に、夏じゅうもつような黒い絹のリボンのついた花環。忘れては困るから、必要なことは全部リストにして書きとめておかなくちゃ」
九時だった――ところがそれからすぐだと思ったのに、時計を見たら、もう十時だった。ミスター・マッキーはこぶしをひざの間で握り締めて、椅子の上で眠っていたが、それは行動の人の肖像といったかっこうだった。私はハンカチを取り出すと、午後じゅう気になっていた乾いた石鹸の泡のしみを、彼の頬から拭き取ってやった。
仔犬はテーブルの上にすわって、見えない目で煙っている部屋のなかを見ていたが、ときどきかすかな唸り声を立てた。人々は姿を消したと思うとまた現われたり、どこかへ行く計画を立てたり、そのうちにお互いにいなくなったりして、またお互いに探し合って数フィート先にいるのをお互いに見つけたりしていた。真夜中ごろになると、トム・ビュキャナンとウィルソンの妻の二人は立ったまま、ウィルソンの妻にデイジーの名を口にする権利があるとかないとか、激しい口調で議論していた。
「デイジー! デイジー! デイジー!」とウィルソンの妻は叫んだ。「言いたいときはいつでも、私は言うわよ! デイジー! デイ――」
器用にちょっと手をうごかしたと思ったら、トム・ビュキャナンは平手で彼女の鼻を押しつぶした。
それから浴室の床には、血のついたタオルが投げられ、女たちのがみがみ言う声と、この混乱を上まわる長いとぎれとぎれの苦痛の泣き声が聞えた。ミスター・マッキーはうたた寝から目を覚ますと、ぼうっとした状態でドアのほうへ歩き出した。しかし半分ほど行ったところで振り返ると、その場の光景を目を据えて見た――彼の妻とキャサリンは、叱りつけたり、なだめすかしたりしながら、ごった返す家具の間を救急品を持って、あちこちよろめいていた。長椅子の上では見るも無惨な姿で血を流しながら、マートルがつづれ織りのベルサイユの風景の上に「タウン・タトル」をひろげようとしていた。やがてミスター・マッキーはからだを返すと、またドアの外に出て行った。シャンデリアから帽子を取ると、私もその後につづいた。
「そのうち昼食に来ませんか」彼はそう誘ってくれたが、そのときは私たちはエレベーターのなかで唸りながら降りていた。
「どこで?」
「どこででも」
「レバーから手を放してください」エレベーター・ボーイは突っけんどんに言った。
「これはすまん」ミスター・マッキーは威厳をつけて言った、「ちっとも気がつかなかった」
「承知しました」私は同意した。「喜んで」
……私は彼のベッドのわきに立っていた。彼は大きな折りかばんを両手で持って、下着のままでシーツのなかで起きていた。
「美女と野獣……孤独……食料品店の老いたる馬……ブルックリン・ブリッジ……」
それから私は、ペンシルヴェニア駅の、冷たい階下で身を横たえて半ば眠りながら、「トリビューン」紙の朝刊をにらみながら、四時の列車を待っていた。
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三
夏の夜の間じゅう、隣りの邸宅から音楽が流れていた。青い庭園では、男女の群がささやきとシャンペンと星の間を、蛾《が》のように行き来していた。午後の高潮のころになると、客たちが浮き台のやぐらから飛び込んだり、屋敷内の浜の暑い砂の上で日光浴をしたりするのや、そうかと思うと、彼の二隻のモーター・ボートが海峡の水面を切って、泡の奔流の上を波乗り板を引いて走るのが見られた。
週末には彼のロールス・ロイスがバスに早変りして、朝の九時から真夜中過ぎまで、客人たちを乗せてニューヨークとの間を往復し、また彼の専用のステーション・ワゴンは、列車の到着ごとに出迎えのため、威勢のよい黄色のカブト虫のように走り回るのだった。そして月曜には、臨時雇いの庭師も入れて八人の使用人が、モップやたわしやハンマーや植木|鋏《ばさみ》などで、前夜荒された跡を片付け回っていた。
毎金曜日には、オレンジやレモンが大かごで五つニューヨークの果物屋から届き――毎月曜日には、これらのオレンジやレモンの皮がピラミッドの山となって、裏口から運び出された。キッチンには一台の機械が据えつけてあり、使用人|頭《がしら》が親指でボタンを二百回押せば、半時間で二百個のオレンジの汁がしぼり出された。
少なくとも二週間に一度は、運送人夫の一団が数百フィートのテントと、ギャツビーの広大な庭園を一つのクリスマス・ツリーに仕上げるだけの色電球を、どっさり荷馬車に積んでやって来た。まぶしいばかりのオードブルが並べられたビュッフェのテーブルには、香料入りのベークド・ハムが、色とりどりのサラダ、ねり粉製の豚、黒ずんだ黄金色に変じた七面鳥などと一緒に盛り込まれていた。メーン・ホールには、本物の真鍮のレールを取りつけたバーが開設され、ジンや酒や、とうの昔に忘れられたリキュールなどが備えられてあったが、若い人たちにはその区別がつかなかった。
七時までにはオーケストラが到着していたが、これは貧弱な五種類ばかりの楽器から成るけちなものではなく、オーボエ、トロンボーン、サキソフォン、ビオラ、コルネット、ピッコロに、小ドラム、大ドラムと、席を一杯に埋めるほどのものだった。
最後まで泳いでいた人たちも、いまは浜から上がって来て二階で着換えていた。ニューヨークからやって来た車は道に五列に並び、すでにホールやサロンやベランダは原色で華麗に彩られ、変った新スタイルの断髪や、カスティーリャ〔スペインの古い王国〕の夢をも凌ぐショールもまじっていた。バーは大繁昌で、カクテルは次から次へと運ばれて外側の庭園にまではみ出し、おしゃべりと笑い声で湧き立ち、ときには気まぐれなあてこすりなども混じるが、紹介されたとたんに忘れたり、お互いの名前も知らないのに、女たちの間で大仰な出会いの挨拶が交わされたり。
地球が太陽から傾いて遠ざかるにつれて、灯火はますます輝きを増し、いまやオーケストラは扇情的なカクテル・ミュージックを奏し、人々の声のオペラは一段と調子を高める。笑い声はますます高らかにばらまかれ、楽しい言葉にどっと爆笑が起こった。各グループも次々と素早く顔ぶれが変ると、また新顔が集まってはふくれるが、また同じような調子で崩れたり集まったりする。すでにあちこちさまよう連中が現われる。自信に満ちた娘たちは、もっとがっしりと安定感のある男たちの間を縫い歩き、しばらくどこかのグループの中心人物になって、すっかり喜びの瞬間を味わうと、こんどはその勝利感に酔いながら、絶えず変転する灯の下を、顔と声と色の激しい変化のなかをすべるように歩く。
突然、オパールのようにきらめく衣裳をつけたジプシー女の一人が、空中でカクテルを受け取ると、それを地上に投げつけて威勢をつけ、フリスコ踊りのように両手をうごかしながら、キャンバスの舞台にひとり踊り出して行く。一瞬の静まり。オーケストラの指揮者は彼女のためにリズムを変える。やがて彼女が「フォリーズ」〔レビュー劇団〕のギルダ・グレイの代役だという誤ったニュースが伝わると、またもおしゃべりが一度にはじまる。パーティははじまっていた。
ギャツビーの邸宅に出かけた夜、私も含めて本当に招待された客は、ごく少数だった。多数の人は正式に招待されていなかった――それなのに、彼らは出かけた。彼らはなんということもなくロング・アイランド行きの車に乗り込むと、とにかくギャツビーの屋敷の入口で降りた。ここでギャツビーを知っているだれかに紹介されれば、それから後は遊園地につきもののしきたりの原則に従って振舞えばよかった。なかには全然ギャツビーに会わずに帰る者もいた。要するにパーティに出たいという単純な気持が、入場券というわけだった。
しかし、私は実際に招待されていた。その土曜日の朝早く、青緑色の制服を着たお抱え運転手が、私の家の芝生を横切って、ご主人からの驚くほど格式張った招待状を持って来た――つまり、その夜の彼の「ささやかなパーティ」にご光来を賜われば、ギャツビーの光栄これに過ぎるものはない――というのであった。そして、これまでにも何度かお見かけは致し、前々からかねてお訪ね致したく存じてはいたが、何かといろいろの都合が重なって、それを果たせなかった――ということを述べ、堂々たる筆跡でジェイ・ギャツビーと署名してあった。
私は白いフランネルの服に改めて、七時少し過ぎたころ彼の庭に出かけた。そして知らない顔が渦巻くなかを少々気づまりを感じながら徘徊した――もっとも、あちこちに通勤列車で見かけた顔もあった。すぐに気づいたことは、若いイギリス人があちこち目についたことで、これは意外だった――いずれも服装だけは立派だったが、みんな空腹そうな顔つきをしながら、堅実で裕福そうなアメリカ人に低い声で熱心に話しかけていた。確かに彼らは何かを売り込もうとしていた。――債権だとか保険だとか車だとか。彼らは少なくともこのあたりで簡単に金がもうかることだけは突きとめていたし、的を得たことを二言三言話せば、それを物にできると思い込んでいた。
私は着くとすぐに招待主を見つけようとしたが、彼の居場所を尋ねた二、三の人は、驚いたように私を見つめ、彼の居場所なんか知るもんかと突っけんどんに答えたので、私はカクテル・テーブルのほうにこそこそと逃げて行った。ここならば相手のいない男でもぶらついていられるし、無意味に孤独になっていると見られなくてもすむ、庭園内の唯一の場所だった。
どうにもやりきれない気持から、私はぐでんぐでんに酔っぱらってやろうと思ったとき、ジョーダン・ベーカーが家のなかから出て来て、大理石の階段の上に立った。少しからだを反《そ》らし、軽べつしたような関心を示して庭園内を見ていた。
歓迎されようがされまいが、通りすがりの者にていねいな言葉をかけなければならないと思ったが、その前にまず私は、だれか相手をつくっておく必要があると思った。
「やあ!」と私は大声で言うと、彼女のほうへ歩み寄った。私の声は不自然なほど大きく庭にひびいたようだった。
「あなたがいらっしゃるかもしれないと思ってたわ」彼女は私が近づくと、そう気のないような返事をした。「あなたがお隣りだというのを思い出して――」
彼女はすぐに相手になってやるからというように、なんとなく私の手を取ったが、階段の下で立ち止まった、お揃いの黄色のドレスを着た二人の若い女に耳をかした。
「こんにちは!」二人の若い女は声を揃えて呼びかけた。「勝てなくて残念だったわね」
それはゴルフのトーナメントのことだった。前の週の決勝戦で、彼女は敗れたのだった。
「あなたは私たちのことをご存じないでしょうけど、一カ月ほど前に私たちはここであなたにお会いしたわ」と黄色の衣裳の娘の一人が言った。
「あれからあなた、髪をお染めになったのね」とジョーダンは言ったので、私はびっくりした。若い女たちは、そのときはもう歩き去っていたので、彼女の言葉は早出の月に話しかけた言葉、いうならば、宴会世話係りのバスケットから、あわてて作り出された夕食といったかっこうだった。私はすんなりしたジョーダンの腕を私の腕におかせて階段を下り、庭園のなかをあちこち歩いた。カクテルをのせた盆が、宵闇のなかを私たちのところに浮かんだように運ばれた。私たちは例の黄色い衣裳の娘たちと三人の男性と一緒にテーブルについた。
「こういうパーティに、ちょいちょいいらっしゃるの?」とジョーダンは、隣りにすわった娘に尋ねた。
「この前のパーティのときですわ、あなたにお目にかかったのは」とその娘は、臆するところもなくあっさりと答えると、こんどは連れの女の子のほうを振り向いて言った――「あなたもそうじゃなかった、ルシル?」
ルシルもそうだった。
「私、好きで来るの」ルシルは言った。「私はなんでも気にしないたちなの。だからいつも楽しいわ。この前ここへ来たとき、私は椅子にひっかけてガウンを破いちゃったの。そしたら彼は私の名前と住所を聞いてね――一週間も経たないうちに、クロワリエから小包が届いて、中に新しいイヴニング・ガウンが入ってたわ」
「あなた、それをいただいたの?」ジョーダンが聞いた。
「もちろんですわ。今夜それを着て来ようと思ったけど、バストのあたりが大きすぎるので、直さなくちゃだめなの。ガス灯のように青くて、ラベンダー色のビーズがついてるわ。二百六十五ドルよ」
「そんなことをする人には、どこか変なところがあるものよ」もう一人の娘が好奇心にかられながら言った。「あの人、どんな人ともトラブルを起こしたくないのね」
「だれです、それは?」私は尋ねた。
「ギャツビーさんよ。私はある人から聞いたけど――」
二人の娘とジョーダンは、内緒話でもするようにからだを寄せた。
「私、ある人から聞いたけど、彼は前に人を殺したことがあるって思われてるわ」
さっとスリルが私たちみんなの上を走った。三人の男たちは、からだを前にかがめて熱心に耳を傾けた。
「さあ、そんなことまでしたとは私には思えないんだけど」ルシルは疑問だというように言った。「それよりも、戦争中ドイツのスパイだったというのが、当たっていそうよ」
男のなかの一人が、いかにもというようにうなずいた。
「そのことならぼくはある人から聞いたことがある――彼のことをなんでも知っていて、ドイツで一緒に育ったという人だけど」彼は私たちに保証するといわんばかりに言った。
「それ、うそよ」最初の娘が言った、「そんなことはあり得ないわよ。だって、あの人戦争中はアメリカの軍隊にいたんですもの」
私たちの信用がこんどは彼女のほうに傾くと、彼女は熱心に身を乗り出した。「いつでも、だれも彼を見ていないと思ってるときの、彼の様子を見てごらんなさいよ。確かに彼は人を殺してるわね」
彼女は目を細めて、身震いした。ルシルも身をふるわせた。私たちはみんな振り返って、あちこちギャツビーの姿を探した。これはギャツビーが人々にロマンティックな憶測を抱かせた証拠だった。というのは、この世の中でひそひそ話をする必要をほとんど認めない人々に、彼に関するひそひそ話をさせたからだった。
最初の夕食が――真夜中過ぎにはまた次の夕食が出されることになっているので――いま運ばれていた。ジョーダンが私を彼女の仲間たちのテーブルに招いた。その人たちは庭園の向うの一隅でテーブルを囲んでいた。そこには三組の夫婦と、ジョーダンのエスコートをもって任じている、ずけずけとあてこすりを言うしつこい大学生――彼は遅かれ早かれそのうちには、ジョーダンは自分に身をまかせるのだと思い込んでいる――がいた。この一行は、ぶらぶら歩きなどせずに謹厳さを保ち、地方の落ち着き払った品位を代表するのをもって自認している――つまり、ウェスト・エッグに対して優越感を意識しながらも、わざとへりくだり、この場のけんらんたる華やかさには乗らず慎重に構えている――連中だった。
「出ましょうよ」ジョーダンは、なんとなくむだでつまらない半時間を過ごした後、そう言い出した。「あまりお上品すぎて、私には向かないわ」
私たちは席を立った。彼女はご主人を探しに行く――私がまだ彼に会っていないので落ち着かないと言っているから――と説明した。大学生は、皮肉に、またゆううつそうにうなずいた。
最初にのぞいたバーは立て混んでいたが、ギャツビーはそこにはいなかった。彼女は階段の上から探したがギャツビーの姿が見当たらなかったし、ベランダにもいなかった。もしかしたらと思って、私たちはいかめしく見えるドアを押して、高いゴシック風の図書室に入った。そこの羽目板は彫刻を施したイギリスのオーク材で、どこか海外の廃墟からでも、そっくりそのまま運んで来たものらしかった。
大きなフクロウの目を思わせるような眼鏡をかけた、一人の頑丈な中年の男が、大きなテーブルの端に腰かけていたが、どうやら酔っているらしく、焦点の定まらぬ視線で書棚に目を据えていた。私たちが入ると、彼ははっとしたようにくるりと振り返ると、ジョーダンを頭のてっぺんから足の爪先まで調べるように見た。
「どう思うかね?」彼は性急に質問した。
「何がですの?」
彼は書棚のほうに手を振った。
「あれだよ。もちろん、君たちがわざわざ確かめるに及ばんがね。私が確かめた。あれは本物だ」
「本がですか?」
彼はうなずいた。
「絶対に本物だ――ページも何もかも揃っている。私は実は上等の持ちのよい厚紙かと思っていた。ところが全部本物だ。ページも、それから――ほら! 見せて上げよう」
私たちが疑うのも無理がないと思って、彼は書棚にさっと寄ると、『ストダード講演集』の第一巻を取って戻った。
「見なさい!」彼は勝ち誇ったように大声を張り上げた。「これは印刷した本物だ。すっかりだまされていた。ここの旦那は本職のベラスコ〔米国の興行師〕だね。これは勝ちだね。全く徹底している! 本物のリアリズムだ! 止めどころも心得ている――ページを切っておらん。ところでなんだね? なんの用かね?」
彼は私からその本をひったくると、急いでそれを書棚に返しながら、煉瓦一つでもはずせば、図書室全体が崩れる恐れがあるとぶつぶつ言った。
「だれに連れて来てもらったんだい?」彼は聞きただした。「それともただなんとなく来たのかね? 私は連れて来てもらった。大抵の人は連れて来てもらうがね」
ジョーダンは黙ったまま、油断をせずに愉快そうに彼を見ていた。
「私はルーズベルトという婦人に連れて来てもらったがね」と彼は言葉をつづけた。「ミセス・クラウド・ルーズベルトだがね。知ってるかね? 私はその夫人と昨夜どこかで会ったんだ。ここ一週間ばかり私は酔っ払っているんで、図書室にでもすわったら、酔いがさめるかと思ってね」
「さめましたか?」
「多分ちょっとばかりはね。まだわからんよ。ここに来てから一時間しか経ってないからね。私は本のことを話したかな? あれは本物だ。あれは――」
「聞きました」
私たちは彼と重々しく握手すると外に出た。
庭園のキャンバスの上では、いまやダンスがはじまっていた。老人たちが果てしもなく不細工な円をえがきながら、若い女たちを押しやるようにして踊っている。もっと上等な組は互いに粋《いき》にからだをくねらせて抱き合い、隅のほうで踊りつづけている――そして相手のいない多数の若い女たちは一人で踊り、しばしバンジョーや打楽器の手を休ませている。
真夜中ごろには陽気な騒ぎは、ますます高まった。有名なテナーがイタリア語で歌えば、また評判のコントラルト歌手がジャズを歌い、曲目の合間には庭園の至る所で「自慢の妙技」が披露されるかと思うと、一方ではばかげた爆笑が夏の夜空にどっとあがっていた。二人一組の芸人娘――さっきの黄色の衣裳を着た娘たち――が、コスチュームをつけてあどけない演技を見せると、フィンガー・ボールよりも大きなグラスにシャンペンが振舞われた。
月は空高く上っていた。そして海峡に浮かぶ銀鱗の三角星座は、芝生のバンジョーのかたい、すずのような音色に合わせるように、かすかにゆらいでいた。
私はまだジョーダン・ベーカーと一緒だった。私たちは、私と同年輩の男と騒がしい少女と一緒に、一つのテーブルを囲んですわった。少女はちょっとでもおかしなことを言うと、たちまち止めどなく笑いこけた。私もいまは結構楽しい気持になっていた。私はフィンガー・ボール二杯分のシャンペンを飲んだが、私の眼前の光景はいつの間にか、何か暗示的なもの、本質的なもの、そして深遠なものに変っていた。
余興が一休みしたとき、一緒にテーブルを囲んでいた男が私を見て、にっこり微笑んだ。
「あなたのお顔は覚えております」彼はていねいにそう言った。「あなたは戦争中第一師団におられませんでしたか?」
「ええ、いました。ぼくは第二十八歩兵連隊でした」
「私は一九一八年の六月まで、第十六連隊におりました。それで、どこかでお目にかかっているはずです」
こうして私たちはしばらくの間フランスの雨にぬれた灰色の小さな村のことを話し合った。彼はこの近くに住んでいるにちがいないと思ったのは、私に、パワーボートを買ったところだから、朝になったら運転してみるつもりだと言ったからだった。
「ご一緒にいかがですか、旧友? ほんの湾のそばを走るだけですから」
「何時にですか?」
「あなたのご都合のよい時間で結構です」
そこで私がまさに彼の名前を尋ねかけたとき、ジョーダンは振り向いて微笑を浮かべた。
「どう、いいお気持になって?」彼女は尋ねた。
「とても」こう言うと、私はまた新しく知り合った男のほうを向いた。「このパーティは、ちょっと普通と変っていますね。ぼくはまだご主人にさえ会っていません。ぼくはすぐ向うに住んでいますが――」こう言って私は、目に見えない遠くの生垣のほうを手で指し、「ここのギャツビー氏が招待状を運転手に持たせてよこしたもんで」
しばらく彼は、納得しかねるように私を見ていたが、やがて彼は――
「私がギャツビーです」と突然言った。
「えっ!」私は思わず叫んだ。「いや、これは失礼しました」
「いや、私はまた、あなたがご存じとばかり思っていましたよ、旧友。あまりいい主人でなくて申し訳ありません」
彼はわかっていますというように微笑を浮かべた――それは、よくわかっているという以上のものだった。それは、一生のうちに四回か五回しか出会わないかもしれないような、永遠に安心感を与えるような、ごく珍しい微笑だった。それは一瞬ではあったが、永遠の世界全体に出会った――いや、出会ったかのようなものであった。そしてそれは、どうしても相手に好意を持たずにはいられないかのように微笑しつづけるものだった。それは、相手が理解してもらいたいだけ理解し、信じてもらいたいだけ信じてやる微笑であり、相手が最高の印象を与えたいと思っていることを、まさにそのとおりの印象を受けたと安心感を与えるものであった。
まさにそのときであった。とたんにその微笑は消え失せた――そして私が見ている相手は、上品なまだ若い無作法者、三十を一つか二つ越えているかもしれない、そして無理して使う形式張った言葉は、こっけいなものにもなりかねない男だった。彼が自己紹介をするまでは、なんて慎重な物の言い方をする男だろうという、強い印象を私は受けていた。
ミスター・ギャツビーが自ら名乗りをあげて仲間入りしたと思ったとき、執事が急ぎ足で彼のところへやって来て、シカゴから電話がかかっていると伝えた。彼は私たちの一人一人に軽く頭を下げて、中座の許しを乞うた。
「何かご用がありましたら、旧友、どうぞご遠慮なくお申しつけください」彼はそう私に言って、「では、ちょっと失礼します。また後《のち》ほどお仲間入りさせていただきます」とつけ加えた。
彼が去ったとき、私はすぐにジョーダンのほうを振り向いた――私の驚きを彼女に知らせずにはいられなかったのだ。私は、ミスター・ギャツビーは、血色のよい肥満体の中年男とばかり思っていた。
「あの人、いったいどういう人なんですか?」と私は尋ねた。「あなた知っています?」
「あの人は、ギャツビーという人よ」
「ぼくの言うのは、どこの出の人かっていうことです。それから一体何をやっているんでしょうね?」
「いよいよあなたがその問題をはじめたのね」彼女はかすかな微笑を浮かべて答えた。「そうね、いつかオックスフォード出身だと言ってらしたわ」
ぼんやりした背景が彼の背後に形を取りはじめたが、しかしそれも次の彼女の一言で消えてしまった。
「でも、私はそれを信じないわ」
「どうしてです?」
「わかんないのよ」彼女は言い張った。「私にはただ、彼がオックスフォード出だなんて思われないのよ」
彼女の口調のなかにあるものが、他の娘が「あの人は、人を殺したことがあると思うわ」といった言葉を、私に思い出させるものがあった。そしてそれが私の好奇心を刺激した。ギャツビーがルイジアナの湿地帯の産だとか、ニューヨークのイースト・サイドの下層階級の出だとかいうことならば、私も疑問も起こさずにそれを認めたろう。それならば理解できた。しかし若い者が――どこからともなく流れて来た若者が、ロング・アイランド海峡に臨む大邸宅を買うなどということは、少なくとも地方育ちの未経験者の私には、信じられないことだった。
「とにかく、あの方は盛大なパーティが好きよ」ジョーダンは都会人らしく具体的に言うのを嫌って、話題を変えた。「でも私は大きなパーティが好きよ。なんとなく親しめるわ。小さなパーティには、プライバシーというものがないわ」
大太鼓の音が高く鳴った。すると突然オーケストラの指揮者の声が、庭園の言葉の反響の上に鳴り響いた。
「淑女並びに紳士のみなさん。ミスター・ギャツビーのご希望によりまして、これからウラジミール・トストフ氏の最近作を演奏いたします。この曲は、去る五月、カーネギー・ホールにおきまして、多大の注目を浴びたものであります。新聞をごらんになった方々は、当時これが大きなセンセーションを巻き起こしたのをご存じのことと思います」彼は勿体をつけながら陽気に微笑を浮かべると、やがてつけ加えて言った――「いや、いささかのセンセーションでしたが!」これでみんながどっと笑った。
「曲の名はかねて知られております、ウラジミール・トストフの『ジャズの世界史』であります!」
トストフ氏の曲の中身など、私の関心を惹《ひ》かなかった。というのは、演奏がちょうどはじまったとき、私の目は、大理石の階段の上にひとりで立って、客のグループを次々に満足そうな目で眺めている、ギャツビーの上に注がれていたからだった。陽に焼けた彼の肌は顔に引き締まった艶《つや》を与え、短かい頭髪は毎日手入れをしているように見えた。彼のどこにも不吉さなどというものが見当たらなかった。彼が酒を飲まないことが客たちをなじませない理由かもしれないと私は思ったが、無礼講のさわぎが高まるにつれて、彼はますます謹厳さを増すようにも思われた。「ジャズの世界史」が終ったとき、若い娘たちは仔犬のように浮かれて男たちの肩に頭をのせたり、あるいは、どうせだれかが倒れるのを抱き止めてくれるだろうと計算して、わざとふざけ半分に男たちの腕や、グループのなかに卒倒しかける娘もいた。しかしそのような娘たちのなかにも、一人としてギャツビーを相手にうしろに倒れかかる者もいなかったし、またギャツビーの肩に触れるフランス調の断髪の娘もいなかった。また、ギャツビーを仲間に入れて四部合唱をやろうとする者もいなかった。
「失礼します」
突然ギャツビーの執事が、私たちのわきに立っていた。
「ミス・ベーカーでいらっしゃいますか?」彼は尋ねた。「恐れ入りますが、ミスター・ギャツビーが、あなた様お一人とお話しいたしたいことがあると申しておりますので」
「私と!」彼女は驚いたふうに言った。
「はい、さようでございます」
彼女はゆっくり立ち上がると、驚いたふうに私を見て眉を上げ、執事の後から邸のほうに歩いて行った。彼女はイヴニング・ドレスを着ていたが、これに限らず彼女の着るドレスは、どれもスポーツ着のような感じで――彼女の動作には、初めて習い覚えたゴルファーが、晴れたすがすがしい朝にゴルフ・コースを歩くといった、いかにも快活なものがあった。
私はただ独り残された。時刻はすでに二時近かった。テラスの上に突き出ている、窓のたくさんある長い部屋から、しばらくの間よく聞き取れないが、こんがらかったような好奇心をそそる声が聞えていた。ジョーダンに付きまとっている大学生は、いまは他の二人のコーラス・ガールと産婦人科の話をはじめ、私にも仲間入りしないかと言ったが、私はそれをうまくはぐらかして邸内に入った。
大きな部屋は人で一杯だった。黄色い服の娘の一人がピアノを弾いていた。そのそばに立っているのが、ある有名なコーラスから来た背の高い赤毛の若い女性で、歌を歌っていた。彼女はシャンペンをかなり飲んでいたらしく、歌っているうちにぶざまにも何もかもが悲しくてたまらぬと決めたらしく、歌うばかりでなく一緒に泣いていた。歌の切れ目のたびに彼女は息をつまらせ、とぎれとぎれにすすり泣き、それからまた震えるソプラノで叙情的な歌詞を歌いつづけていた。涙は彼女の頬を伝って流れていた――しかしそれは止めどもなく流れるものではなかった。涙が重たげな玉となってまつ毛にふれると、それはインク色になり、やがてゆっくりと黒い流れとなって落ちて行くのだった。このとき、面白半分にだれかが彼女は顔に描かれた音符を歌っているというと、それをしおどきに彼女は両手を押し上げたと思うと椅子に身を沈め、そのまま酔いつぶれて眠ってしまった。
「あの人、ご主人だと言っていた人と喧嘩したのよ」私のわきにいた一人の娘がそう説明した。
私はあたりを見回した。残っていた女客のほとんどが、自分たちの夫と称する男たちと喧嘩をはじめていた。イースト・エッグからやって来たジョーダンの仲間も、意見の相違から分裂する結果になっていた。男たちの一人が妙に熱をあげて若い女優と話し込んでいた。するとその妻は、決して取り乱したようなこともせず、気品を保って無関心にその場を笑ってすまそうとしたが、やはりそのつもりは完全にこわれ、やがて側面攻撃の挙に出ることになった――彼女はときどき不意に怒れるダイヤモンドのように夫のそばに現われては、耳もとで激しくささやいた――
「あなたは、約束なすってるわよ!」
なかなか家に帰りたがらないのは、気まぐれな男たちばかりとは限らなかった。いまホールに陣取っているのは、気の毒なしらふの男二人と、ひどく憤慨している彼らの妻だった。妻たちはお互いに同情し合って、やや高い声で話し合っていた。
「うちの主人ときたら、折角私がこれから楽しもうとしていると、もう家に帰ろうと申しますの」
「そんなわがままって、私はいままで聞いたことがございませんわ」
「私たち、いつでも一番先においとまするんですのよ」
「私どもも同じですわ」
「ところが、今夜は最後まで残った組だよ」男の一人のほうが恐る恐る言った。「オーケストラは半時間も前に帰ったよ」
そんな意地の悪いことをするなんて、とても信じられないことだと妻たちが一致して主張し、はては言い合いは小さなどたばたの喧嘩にまで発展し、とどのつまりはどちらの妻も抱き上げられ、足をばたばたさせながら夜のなかへ運び出された。
私がホールで帽子を持って来てくれるのを待っているとき、図書室のドアが開いてジョーダン・ベーカーとギャツビーが、連れ立って出て来た。彼が何か最後の言葉を彼女に言いかけているとき、二、三人の客が別れの挨拶に近づくのを見ると、何か言おうと勢い込んでいた彼の態度は、急に四角張ったものになった。
ジョーダンの仲間の連中は、ポーチでしきりに彼女を呼んでいたが、彼女は別れの握手を交わすために、なおもしばらくぐずぐずしていた。
「私、いま、とてもびっくりすることを聞いて来たわ」彼女は声をひそめて言った。「私たち、どのくらいあそこにいたかしら?」
「さあ、一時間ぐらいかな」
「それがね……とても意外なことなの」彼女は抽象的に繰り返した。「でも私はそのことを、だれにも言わないと誓ったの。でもこれじゃ、あなたをじらすばかりね」彼女は私の前でしとやかにあくびをすると、「どうぞ私のところを訪ねてくださらない……電話帳にあるわ……ミセス・シゴーニ・ハワードのところを見て……私の伯母のところよ……」そう言うと彼女は急いで歩き去った――戸口で待っていた仲間のなかに姿を消すとき、彼女は陽に焼けた手を元気に振って別れを告げた。
初めての訪問なのに、こんなにも遅くまでいたのを少し恥ずかしく思ったが、私はギャツビーの周りに集まっている、最後の客たちのなかに加わった。私としては、宵の内から彼の姿を求めていたことを説明したかったし、また庭園でも彼のことを知らなかったことを詫びたかったのだ。
「そんなことなんか、気にしないでくださいよ」彼はしきりにそう言った。「そんなことはどうでもいいじゃないですか、旧友」彼はそう言って軽く私の肩に手をかけたが、それ以上の親しい表現の素振りは示さなかった。「それよりも、明日の朝パワーボートに一緒に乗ることをお忘れなく、九時ですよ」
そのとき、後ろから声がかかった――
「フィラデルフィアからお電話でございます」
「わかった、すぐ行く。すぐ出るからと言ってくれ……では、お休みなさい」
「お休みなさい」
「お休みなさい」彼はにっこり微笑んだ――それを見ると、最後まで残っていたことを嬉しいと思っているような、それをずっと望んでいたような感じを急に受けた。「お休み、旧友……お休み」
しかし私が階段を下りるとき、この夜の会がまだ完全に終っていないのを知った。玄関先から五十フィートばかりのところで、十数個のヘッドライトに照し出されているものは、異様な騒ぎの場面だった。
道路わきの溝に右側を上にして、無惨にも一つの車輪をもぎ取られたクーペの新車が、ギャツビー邸から二分と経たないところで、はまり込んでいた。塀がぐっと突き出たところが車輪をもぎ取ったことを説明していたが、このため物見高い運転手六人の強い関心を集めていた。しかし彼らが自分たちの車で道を塞いだままにしていたため、後続の車から激しく鳴らされる警笛がしばらくつづき、この場のごった返しをさらに騒々しいものにしていた。
長いダスター・コートを着た男が、故障車から降りると道の真ん中に立って車体からタイヤを見、さらにタイヤから愉快そうに、また困ったように人々の顔を見た。
「見ろよ!」彼は説明した。「溝にはまっている」
これは彼にとっては全く意外なことだったらしい。私はまずその驚きが、ただごとでないのを感じたが、次にその男は――それはさっきギャツビーの図書室を礼賛した男だったのに気がついた。
「一体どうしたんです?」
彼は肩をすくめた。
「私には機械のことは、全然わからないんだ」彼はお手上げだというように言った。
「それにしても、一体どうしてこんなことになったんです? あんたが塀にぶっつけたんですか?」
「私に聞いたってだめだよ」賢こそうでばかなこの男は、事故には自分は全く関係がないというように言った。「私は運転のことなんか、ほとんどわからないんだ――全然わからんといってもいいな。とにかくこんなふうになっちゃったんだ、私の知っているのは、それだけさ」
「そうか、運転が下手なら夜間運転なんかすべきじゃないね」
「しかし私は運転なんかしてなかったんだぞ」彼は腹を立てて言った、「私は運転なんかしてなかったんだ」
一瞬みんなは恐れたように、しーんとなった。
「あんた、自殺するつもりですかい?」
「車輪だけですんで、あんたは運がいいよ! 下手くそな運転手のくせに、運転しようともしなかったなんて!」
「君たちにはわかっちゃいないんだ」と犯人は説明にかかった。「私が運転していたんじゃないんだ。車の中にもう一人いるんだ」
これを聞くと一瞬みんながショックを受けたが、やがてクーペのドアがゆっくりと開いて、「アー……」という声が聞えた。いまはもう群集といってよい人だかりだったが、思わずみんな後ずさりした。やがてドアが大きく開くと、一瞬ぞっとするような沈黙がつづいた。それからゆっくりと、蒼白な顔の人間が、壊《こわ》れた車から足もとの定まらない大きなダンス靴で、不器用に地面に降り立った。
ヘッドライトのまぶしい光に目がくらみ、ひっきりなしに鳴らされる警笛にどぎまぎしながら、この幽霊のような男はしばしゆらめいていたが、やがてダスター・コートの男に気がついた。
「どうしたんだ?」彼はゆっくりと尋ねた。「ガソリンが切れたのかい?」
「見てごらん!」
六人の指が切断された車輪を指した――彼は瞬間それを見ていたが、それからそれが空からでも落ちて来たのかとでもいうように上を見上げた。
「はずれたんだよ」とだれかが言った。
彼はうなずいた。
「最初車が止まったのが、わからなかったんだ」
そのまましばらく黙っていたが、やがて深く息を吸って肩をまっすぐにすると、しっかりした声で言った――
「ガソリン・スタンドがどこにあるか教えてくれないかね?」
少なくとも十人余りの男が――そのうちの何人かは彼よりも少しましな男たちだった――車輪と車体はこのままでは、もうどうにも処置のしようがないと説明した。
「バックさせよう」彼はしばらくするとそう言った。「逆転させるんだ」
「でも車輪が取れてるんだ!」
彼はためらったが――
「やってみて悪いことはなかろう」彼は言った。
鳴りつづける警笛は、ますます激しくなっていたが、私は騒ぎを後にそのまま芝生を横切って家に向かって歩いた。私は一度振り返った。淡い月がギャツビー邸の上から照らして、夜は前のように美しかった。ギャツビー邸の庭園はまだ明々と輝き、笑い声と物音もまだつづいていた。しかしいまや急に空虚のようなものが多数の窓や大きな入口から流れ、ポーチの上に立って形式どおりのジェスチュアで片手を上げている主人公の姿は、孤独そのものに見えていた。
*
ここまで書いて来て読み返してみると、数週間の間をおいたこの三夜の出来事で、私はすっかり自分を忘れていたような印象を与えているようにみえる。実際にはその逆で、それはぎっしり詰まっていた夏の、単に偶然の出来事にすぎなかったのだ。そしてこれはそれからずっと後まで、私個人の問題にくらべれば、はるかに関わりの薄いものであった。
私はほとんど時間に追われて働きつづけた。朝早く太陽が私の影を西方に投げるころ、私はニューヨークの下町の白い建物の間をプロビティ・トラストへと急いでいた。私は他の事務員や若い株屋の名前も知っていたし、彼と一緒に混んだ薄暗いレストランで、小さな豚のソーセージとマッシュ・ポテトとコーヒーで昼食も取った。私はまた、ジャージー・シティに住んでいる、会計課で働いている娘とちょっと仲良くなったりもしたが、彼女の兄が私にいやらしい目を向けはじめたので、七月に彼女が休暇で出かけたのを機会に、おだやかに手を切った。
夕食は大抵エール・クラブで取った――どうしたわけか、それは一日の中で一番ゆううつだった。それから二階のライブラリーに行って、まじめに一時間ほど投資や証券の勉強をした。クラブにはいつも騒々しい連中が何人かいたが、その連中は決してライブラリーには入らないので、勉強にはもってこいの場所だった。勉強を終えると、もしもおだやかな夜であれば、私はマジソン街から古めかしいモリー・ヒル・ホテルの前を通り、三十三番街を越してペンシルヴェニア駅に向かった。
私はニューヨークが好きになっていた。夜のきびきびした、冒険に満ちているような感じ、そして絶え間なく行き交う男女の群や自動車の流れが、落ち着かない目に与える満足感。私は五番街を歩きながら群衆のなかからロマンティックな女性たちを選び、やがてしばらくすると彼女たちの生活のなかに入り込むが、それをだれにも知られず、また非難されもしないというようなことを想像したりするのが好きだった。ときどき私は心のなかで、裏通りの一隅にあるアパートまで彼女たちの後をつける――すると彼女たちは振り返って私を見て微笑む――それからドアの奥の暖かい闇のなかに消える。魅惑的な大都会のたそがれに、私はときどきつきまとう孤独を感じる――またそれを他の人々のなかにも感じることがある――孤独なレストランの夕食の時間まで、窓の前をぶらぶらしながら待っている貧しい若い会社員たち――夜と生活のなかで、最も心にしみ入る瞬間を浪費するたそがれどきの若い会社員たち。
また八時ごろ、四十番街界隈の暗い通りを、劇場街に向うタクシーが五列に並んでのろのろうごいているころになると、私は心の沈むのを感じた。流れの順番を待つタクシーのなかでからだを寄せ合う人影、それから歌う声、あるいはもちろん聞き取れないが冗談でも言っているらしい笑い声、また煙草の煙がぼんやりした円を内部でえがく。私もまた楽しいところに急いで彼らと同じような興奮にひたるのだということを想像すると、彼らを祝福したい気持になった。
私はしばらくの間ジョーダン・ベーカーを見なかったが、やがて夏の盛りのころになって、また彼女に会った。はじめのうち私はすっかりいい気持になって彼女とあちこち歩いた。何しろ彼女はゴルフのチャンピオンであり、だれでも彼女のことは知っていた。いや、それ以上のものがあったのだ。本式に恋に陥ったわけではなかったが、しかし私は一種のほのかな愛情に似たものを彼女に感じるようになっていた。彼女が世間に向けている、うんざりしたかのような表情には、何かを隠しているものがあった――非常な気どりというものは、はじめのうちははっきりしなくても、結局は何かを隠しているものなのだ――そしてある日、私はその正体を発見した。私たちがワーウィックのある家のパーティで一緒のとき、彼女は借りて来た車を幌《ほろ》を下げたまま雨のなかに放っておいたが――そのことを後で嘘をついた――そのとき私は急に、デイジーの家での夜にはよくわからなかった、彼女にまつわる噂を思い出した。彼女が参加した最初の大きなゴルフ・トーナメントで、ほとんど新聞種になりかけた騒ぎがあったのだ――つまり、彼女は準決勝で悪質の嘘を言って、自分のボールをうごかしたということだった。事態がスキャンダル事件というところまで発展したが――やがて消えてしまった。キャディが自分の言葉を取り消し、またもう一人の唯一の証人が、自分が間違っていたようだと言ったのである。その事件と名前が私の心に残っていたのだ。
ジョーダン・ベーカーは、本能的に利口で抜け目のない人間を避けていたが、いまにして私にはそれは、慣例からはずれることは所詮不可能なことだという立場を保っているほうが、まず安全だということを彼女は感じていたからだということがわかった。彼女は救いがたいほど不正直だった。彼女は不利な立場に立たされることは耐えられなかった。そしてこのような不本意な立場に立たされても、なんとか言い抜けることをごく若いときから身につけていたのも、世間に対して持ち前の冷たい尊大な微笑を持ちつづけたいためであり、しかも一方では彼女のしっかりした、元気に満ちたからだの要求を満足させるためでもあったのだと思う。
しかしそんなことは、私には関係のないことだった。女性の不正直などというものは、深くとがめ立てするほどでもない――ときには残念に思ったこともあるが、やがて忘れてしまった。私たちが車の運転のことで奇妙な会話を交わしたのも、同じ家のパーティのときだった。話のきっかけは、彼女の車が数人の労働者のそばをすれすれに通ったので、フェンダーが一人の男の上衣のボタンをはじいたことからはじまった。
「へたな運転ですね」と私は言った。「もっと慎重に運転するか、そうでなければ運転なんか止めるんですな」
「私は慎重よ」
「いや、慎重じゃありませんよ」
「でも、先方が気をつけるから」彼女は短くそう言った。
「それとなんの関係があるんです?」
「向うが道をよけるでしょうよ」彼女は言い張った。「事故が起こるのは、両方に関係があるわ」
「もしあなたと同じように不注意なだれかにぶつかることもあるでしょう」
「そんな人に出会いたくないわね」彼女は答えた。「私、不注意な人は嫌いよ。だからあなたが好きなの」
彼女は灰色のまぶしそうな目で、じっと前方を見ていた。このとき彼女は慎重に私たちの関係に変化を与えていた。この瞬間に私は彼女を愛しているのだと思った。しかし私はゆっくり考えるたちであり、自制の法則を十分に心得た男なので、それが私の欲望へのブレーキ役をつとめる。そこで念頭に浮かんだのは、まず郷里の例のもつれた関係から、きっぱりと手を切らなければならないということだった。しかし私は週に一度は手紙を書いて、「愛情をこめて、ニックより」と署名していたのは事実だった。しかしいまの私にとって思い浮かぶことといえば、これこれの少女がテニスをやるとき、その上唇にかすかに汗のひげができるというぐらいのものだった。とはいっても、私が完全に自由になるためには、まず漠然とではあるが互いに了解していたものを、まず手ぎわよく断ち切らねばならなかった。
人間はだれでも、自分は少なくとも基本道徳の一つは備えていると思うものだが、私の場合は――私はいままで知っている人間のなかでも、正直さの点ではめったにいない人間の一人だ――ということだった。
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四
日曜日の朝、海峡沿いの村々で教会の鐘が鳴っているとき、上流社会の人々はそれぞれ相手の女性と一緒にギャツビー邸に戻ると、浮き浮きした気持で芝生の上をあちこち歩いていた。
「彼、酒の密輸入者なのよ」若い女たちはカクテルと花園の間を歩きながら噂し合っていた。
「あの人、フォン・ヒンデンブルグ〔ドイツの陸軍元帥、ドイツ共和国第二代大統領〕の甥《おい》であり、悪魔のまたいとこだってことをかぎつけた人を、殺したそうよ。ねえ、バラを取ってちょうだい。それからあそこのクリスタル・グラスに最後の一滴を注いでくださいな」
あるとき私は、その夏ギャツビー邸に来た人々の名前を、時刻表の余白に書き留めておいた。それはいまでは折り目のところがほころびて、古い時刻表になっているが、「このスケジュールは、一九二二年七月五日記」と見出しをつけておいた。しかしいまでもその薄れた名前は読めるし、それを見れば、私が概略の説明をするよりも、ギャツビーの歓待を受けながら、彼については一切何も知らないという、不可思議な感謝の仕方をした人たちについての印象が、よりはっきりするだろう。
まずイースト・エッグからの客は、チェスター・ベッカー夫妻、リーチ夫妻、私がエール時代に知っていたバンセンという名の男、それから昨年の夏メイン州で溺死したドクター・ウェブスター・シビット。それにホーンビーム夫妻とウィリ・ボルティア夫妻、ブラックバックという名の一家全員、この一家はいつも一隅に集まっているが、だれかが近寄ると、山羊のように鼻をぴくっと持ち上げた。それからイズメイ夫妻にクリスティ夫妻(それよりむしろ、ヒューバート・アウアーバックとクリスティ氏夫人と言うべきか)、それにエドガー・ビーバー、この人の頭髪は、ある冬の日の午後全然理由もわからずに、綿のように白くなったという。
クラレンス・エンダイブは、私の記憶では、イースト・エッグの人だったと思う。彼は一度来ただけだったが、白いニッカーボッカーをはいて来て、庭でエティという飲んだくれと喧嘩をした。アイランドでもはるか遠くからやって来たのは、チードル夫妻とO・R・P・シュレーダー夫妻、ジョージアのストーンウォール・ジャックソン・エイブラム夫妻、それにフィッシュガード夫妻にリプリー・スネル夫妻。スネルは刑務所に行く前に三日もギャツビーの邸宅にいたが、砂利道に出てからもまだぐでんぐでんに酔っぱらっていたため、ユリシーズ・スウェット夫人の車に右手をひかれた。それからダンシー夫妻も来たし、また六十をとっくに過ぎたS・B・ホワイトバイト、モーリス・A・フリンク、ハマーヘッド夫妻、煙草輸入業者のベルガ氏とその娘たちも来た。
ウェスト・エッグから来たのは、ポール夫妻にマルレディ夫妻と、セシル・ローバックにセシル・シェーン、州上院議員のガリックと「最優秀映画」審査会長ニュートン・オーキッド、エックハースト、クライド・コーエン、ドン・S・シュワルツ、アーサー・マッカーティ、いずれも何かの点で映画に関係を持つ人たちだった。それからキャトリップ夫妻、ベンバーグ夫妻、G・アール・マルドーン、この人は後で妻を絞殺したあのマルドーンの兄弟である。プロモーターのダ・フォンターノも来たし、エド・レグロ夫妻、「安酒屋」のジェームズ・B・フェレット、ド・ジョング夫妻、アーネスト・リリーなども賭博をしにやって来た。ところで、フェレットがふらふらと庭に出て来れば、それはすっからかんに巻き上げられた証拠であり、連合輸送会社の株が翌日有利に変動しなければ困ることになるというものだった。
クリップスプリンガーという男は、たびたびやって来ては長逗留するので、いつの間にか「下宿人」と言われるようになったが――彼は他にきまった家があったのか私には疑わしく思われる。演劇関係者には、ガス・ウェイズ、ホレス・オドネイバン、レスター・マイアー、ジョージ・ダックウィード、フランシス・ブル。またニューヨークからは、クローム夫妻、バックハイソン夫妻、デニッカー夫妻、ラッセル・ベティ、コリガン夫妻、ケラー夫妻、デワー夫妻、スカリイ夫妻、S・W・ベルチャー、スマーク夫妻、若いクィン夫妻(いまは離婚)、ヘンリー・L・パルメット、この人はタイムズ・スクウェアで進行して来た地下鉄に飛び込んで自殺したが――そのような人々だった。
ベニイ・マックレナーンは、いつも四人の女の子を連れてやって来た。女の子はいつも同じ子ではなかったが、お互いに見分けがつかないほどよく似ていたので、前に来た女の子であるように思われた。私は名前を忘れたが――ジャックリンといったと思うが、それともコンスウェラであったかグロリアといったか、あるいはジュディとかジョンといったか、とにかく苗字は花か月の旋律の美しい名前だったか、さもなければアメリカの大資本家のいかめしい名前だったか、もしも問いただせば、その一族であることを明かしたかもしれない。
これらの人々のほかに、フォースティナ・オブライエンが少なくとも一度は来たことを覚えている。それからベデカー家の娘たちとブルア青年、これは戦争で鼻を撃ちそがれていた。このほか、アルブルックスバーガーと許嫁のミス・ハーグ、アーディタ・フィツ・ピーターズ、アメリカ在郷軍人会の元会長P・ジェウェット氏、それにお抱え運転手という男を連れたミス・クローディア・ヒップ、そして私たちが大公と呼んでいたどことかのプリンス、その名前を聞いたはずだったが、忘れてしまった。
こういう人々がみな夏には、ギャツビー邸にやって来ていた。
*
七月も終るころのある朝九時、ギャツビーの豪奢な車が、石ころの多い道をよろよろと私の家の玄関のところまでやって来て、三音を出す警笛を吹き鳴らした。私はいままでに彼のパーティに二度も招かれていたし、パワーボートにも乗っていたし、また彼にしきりに勧められるので、彼の屋敷内の浜辺もしばしば使わせてもらっていたが、彼のほうから訪問を受けたのは、これがはじめてだった。
「お早う、旧友。今日は一緒に昼食を付き合ってくれませんか。そして一緒にドライブしようと思ったんです」
彼はアメリカ人特有の自由自在な身のうごかしかたで車のどろよけの上でバランスを取っていた――これは私の思うには、若い時代に物を持ち上げたりすることがなく、またそれ以上に、われわれが時折行なう熱狂的な競技の優美さにも、一定の形式というものがないところから生まれるものだろう。この特質が落ち着きのない形となって、彼の儀式張った態度を突き破って絶えず顔を出すのであった。彼は決してじっとしていられなかった。常にどこでも足を踏み鳴らし、いらいらしながら手を開いたり閉じたりしていた。
彼は私が感嘆しながら彼の車を眺めているのを見た。
「きれいでしょう、旧友?」彼は私にもっとよく見せようとして飛び下りた。「前に見たことがなかったですかね?」
私は見たことがあった。だれでも見ていた。濃いクリーム色の車――きらめくニッケルの金具――巨大な長さの車内のあちこちがふくらんでいるのは、いかにも誇らしげに帽子の箱、夕食用の箱、道具入れの箱が積み込まれているからだ。風防ガラスは段々式になっていて、それが太陽を幾つにも映していた。幾重ものガラスのうしろの、いわば緑の革《かわ》の温室のなかにでもすわったようにして、私たちはニューヨークに向かって出発した。
私はこの一カ月の間に、たぶん彼と六回ほど話し合っていたが、彼には話すべきことがほとんどないのを知って、実は私はがっかりしていた。そのため、彼が何か得体の知れない重要な人物だという私の最初の印象は次第に薄れ、彼は単に隣りに住む、道路に面して粋を凝らしたホテルの持ち主にすぎなくなっていた。
そこへこんどの解釈に苦しむようなドライブである。私たちがまだウェスト・エッグの村まで行き着かないうちに、ギャツビーは例の上品な言葉づかいを途中で止めて、薄褐色の服の膝を決心がつかないうちに軽く叩いていたが、驚いたことに不意に話を切り出した。
「あのね、旧友。あなたは一体私をどう思っています?」
いささか圧倒された私は、そんな質問にふさわしい、当たり障りのない言葉で応じた。
「実は、私は私の過去について、少しお話しようと思うんです」彼は私の言葉をさえぎって言った。「私は、あなたが聞いているいろいろの話で、私を誤解していただきたくないんです」
彼はやはり、彼の邸内のあちこちで興を添えていた、奇怪な非難に気がついていたのだ。
「私は神に誓って真実を話しますよ」彼は突然右手をあげて、神の罰をも受ける誓いを立てた。
「私は実は中西部の、ある資産家の息子なんです――もっとも、いまはみんな死んでいますがね。私はアメリカで育ったが、教育はオックスフォードで受けました。というのは、私の先祖は長年にわたって、みんなあそこで教育を受けました。それが一家の伝統なんです」
彼は私を横から見た――私は、彼が嘘をついているのだとジョーダン・ベーカーが信じているわけがわかった。彼は早口に、「オックスフォードで教育を受けた」という言葉を吐いたというか、あるいはそれを呑み込んでしまうというか、あるいはそれで言葉が詰まるというか、とにかく前にそのことで何かいやな思いをしたことがあるかのようでもあった。こう疑い出すと、彼の言うことがどうも首尾一貫していないように思われ出し、結局彼には多少怪しい何かがあるような気がした。
「中西部はどちらですか?」私は何気なく尋ねた。
「サン・フランシスコです」
「なるほど」
「私の家族はみんな死んだので、私にかなりの大金が入ったというわけです」
突然一族が消滅したことの思い出にまだつきまとわれて悩んでいるかのように、彼の声はおもおもしかった。瞬間私は、彼はからかっているのではないかと疑ったが、しかし彼の顔をのぞくとそうでもないようにも思えた。
「それからの私は、ヨーロッパのあらゆる大都市で、若い王侯のような生活を送りました――パリ、ヴェネチア、ローマ――宝石を集める――主にルビーでしたがね。それから猛獣狩り、絵筆も少し取り、すべて自分自身のためのもので、ずっと前に私を見舞った非常に悲しい出来事を、すべて忘れようと努めました」
私は、そう簡単には信じられないぞという笑いをおさえるのに苦労した。彼のその言葉がいかにも使い古された陳腐なものだったので、なんのイメージも呼び起こさなかった。それはターバンを巻いた「人物」がブーローニュの森で虎を追いながら、夢中になるたびにぼろを出すというたぐいのものだった。
「それから戦争になったのですよ、旧友。それは大きな救いでした。私はなんとかして死んでやろうとしました。しかし私は魔力の生命を持っているかのようでした。戦争がはじまったとき、私は中尉に任命されたんです。私はアルゴンの森〔フランス北東部の山林地帯〕で機関銃大隊の残存兵力の指揮をとったのですが、あまりにも深く前進していたため、歩兵部隊がそこまで前進できなかったので、われわれの両側に半マイルばかり隔《へだ》たりができました。私たちはそこに二日と二晩留まりました――百三十名の兵とルイス軽機十六基で。やっと歩兵部隊が到着したとき、死体の山のなかから、ドイツ軍の三つの師団の記章を発見しました。私は少佐に昇進し、連合国の各政府は私に勲章をくれました――モンテネグロもです、アドリア海に面した、あのちっぽけなモンテネグロまで!」
ちっぽけなモンテネグロ! 彼はそう言い放って、うなずいた――例の微笑を浮かべながら。その微笑はモンテネグロの苦難に満ちた歴史を理解し、モンテネグロ国民の勇敢な闘争に同情を寄せるものであった。それはモンテネグロ国民全体の結束を十分評価したものであり、それがモンテネグロの暖かい、ささやかながら心からの貢物を呈させたものであった。いまや私の疑念は眩惑のなかに沈んでしまっていた。それはいくつもの雑誌を大急ぎで読み飛ばすときにも似ていた。
彼はポケットに手を入れると、リボンでつるした一個のメダルを私の手においた。
「これがモンテネグロからもらったものです」
驚いたことに、それは本物らしいものであった。それには――Orderi di Danilo, Montenegro Nicolas Rex(ダニエル勲章・モンテネグロ・ニコラス王)と、円い銘があった。
「裏を返してごらんなさい」
それには「ジェイ・ギャツビー少佐へ、抜群の成功に対して」と記してあった。
「もう一つ、私がいつも持って歩いているものがあります。オックスフォード時代の思い出です。トリニティ中庭で撮ったもんです――私の左側は、いまのドンカスター伯です」
それは、アーチの下の道をぶらぶら歩いている、ブレザーコート姿の六人の青年の写真で、道の向うに多数の塔が見えていた。そこに、いまより少し若いが、それほど若くもないギャツビーが、手にクリケットのバットを持って写っていた。
それなら、すべては本当だったのだ。グラン・カナル〔ヴェネチアの大運河〕に面した彼の館の、燃えるような虎の皮が私の目に浮かんだ。深紅色に輝くルビーの箱を開けては、悲嘆にさいなまれる苦痛をやわらげようとしていた彼の姿が浮かんだ。
「私は今日はあなたにぜひともお願いしたいことがあるんです」彼は満足げに思い出の品をポケットにおさめた。「そのためにあなたに、私のことを少し知っておいていただきたいと思ったのです。あなたに、私なんか取るに足らぬ男だなんて思われたくなかったのです。私は自分に降りかかった悲しみを忘れるために、あちこちをさまよい歩いているので、いつも見知らぬ人たちのなかにいるのです」彼はここでちょっとちゅうちょした。「それを今日の午後にお話しましょう」
「昼食のときに?」
「いや、午後にです。あなたがミス・ベーカーをお茶に誘っているのを偶然知りましてね」
「あなたはミス・ベーカーの愛人なんですか?」
「ちがいますよ、旧友。私はそうじゃないんです。ただミス・ベーカーが親切にも、このことをあなたに話してくれるのを承知してくれたんです」
「このこと」とはなんのことか、私にはまるで見当もつかなかったが、それよりも興味をそそられるどころか、ひどくわずらわしい思いだった。私はギャツビー氏について論議するために、ジョーダンをお茶に誘ったのではなかった。お願いすることがあるというのは、何か途方もないことにちがいないと思った。私は一瞬、客で溢れた彼の芝生に足を踏み入れたことを後悔した。
彼はそれ以上は何も言わなかった。ニューヨークに近づくにつれて、彼の気取りは増してきた。ポート・ローズベルトを通過した。ここで赤い線を引いた外洋航路船がちらと見えた。それから丸石を敷いたスラム街の道を突っ走ったが、そこにはめっきもはげた一九〇〇年代初期ふうの薄暗い酒場がずらりと並んでいて、それでも客が入っていた。やがて両側に灰の谷が展開した。われわれが通り過ぎるとき、ミセス・ウィルソンが息をはずませながら、ガレージのポンプを元気一杯で動かしているのがちらと見えた。
フェンダーを翼のようにひろげ、光をまき散らしながらアストリアを半分ほど通過した――半分ほどといったのは、私たちが高架鉄道の支柱の間を縫うようにして通過するとき、聞きなれた「ダ・ダ・ダッ!」というオートバイの音がして、いきり立った警察官がわきについて走っていた。
「いいんですよ、旧友」とギャツビーは言った。私たちはスピードを落とした。彼は紙入れから一枚の白いカードを取り出すと、それを警官の目の前で振って見せた。
「結構です」と警官は帽子にちょっと手をやって承知した。「こんどからは気をつけます、ミスター・ギャツビー。失礼しました!」
「あれはなんでした?」私は尋ねた。「オックスフォードの写真ですか?」
「前に、長官のためにしてやったことがありましてね、それから毎年クリスマス・カードを送ってよこすんです」
大鉄橋を渡るとき、桁《けた》の間から射し込む陽光が行き交う車を絶えずちらちらと光らせる。川向うにそびえ立つ市街の建物は、白い角砂糖の塊のようだが、いかがわしい金で建てられたものでないことを祈りたい気持だ。クイーンズボロ橋から眺めるニューヨークは、いつ見ても初めて見る市街という印象を受ける。それは、世界じゅうのあらゆる神秘、あらゆる美を、常に無謀にも人々にまず約束するかのようである。
死者を乗せた一台の霊柩車が花に包まれて通り過ぎた。その後から窓おおいを下げた二台の馬車がつづき、さらにその後に友人たちを乗せた、もっと陽気な馬車が何台かつづいた。その友人たちは悲しそうな目を私たちに向けたが、その上唇は南東ヨーロッパ人らしく短かった。私は、彼らの暗い休日のなかに、ギャツビーのすばらしい車が姿を見せたのがうれしかった。ブラックウェル島を通過するとき、白人の運転するリムジンが通ったが、車内にはハイカラな三人の黒人――男が二人と若い女が一人――が乗っていた。彼らが卵の黄身のような眼球をぎょろつかせて、対抗意識を見せて私たちを見たとき、私は声を上げて笑った。
「この橋を渡ってしまえば、どんなことでも起こるのだ」と私は思った、「本当にどんなことでも……」
ギャツビーのような人物も、特になんの不思議もなく現われるのだ。
*
騒然たる昼。四十二番街のよく扇風機の回るある地下室で、私は昼食のためにギャツビーと会った。外の通りの明るさにまたたきした私の目にぼんやり映ったのは、他の男と控え室で話しているギャツビーの姿だった。
「ミスター・キャラウェイ、こちらは私の友人のミスター・ウルフシェイムです」
小柄な獅子鼻のユダヤ人が、大きな頭を上げて私を見たが、その両方の鼻孔に生えている毛はみごとなくらいだった。間もなく私は、薄暗がりのなかで、彼の小さな目を見つけた。
「――そこでわしは、彼を一目見た」ミスター・ウルフシェイムは、ぐっと私の手を握りながら言った。「それからわしがどうしたと思う?」
「何をです?」私はていねいに尋ねた。
しかし彼が話している相手は私ではなかった。彼は私の手を離すと、その表情豊かな鼻でまともにギャツビーを見た。
「わしはその金をキャツポウに渡して言ってやったんだ――『いいよ、キャツポー、奴が黙るまでは一銭も払ってやるな』とね。すると奴は、即座に黙ってしまったね」
ギャツビーは私たちの腕を取ると、レストランのほうへ歩かせた。ミスター・ウルフシェイムは、なおも言いかけていた言葉を呑み込むと、まるで夢遊病者が放心したように引かれていた。
「ハイボールですか?」と給仕|頭《がしら》が尋ねた。
「ここはいいレストランだな」とミスター・ウルフシェイムは、天井に描かれた長老教会派の女精《ニンフ》の絵を眺めながら言った。「しかし、わしは通りの向うのほうがいいな!」
「うん、ハイボール」とギャツビーは言うと、それからウルフシェイムに向かって、「向うは暑すぎるんで」と言った。
「暑いし、小さいし――そうだな。しかし一杯思い出があるからね」とミスター・ウルフシェイムは言った。
「それはどこです?」と私は尋ねた。
「昔のメトロポールです」
「昔のメトロポール」とミスター・ウルフシェイムは沈んだ声を出して思いに耽った。「死んだり、いなくなった連中の顔が一杯浮かぶ。もう二度と会えない友人たちの顔が一杯浮かぶよ。ロージー・ローゼンタールがあそこで射たれた夜が、一生忘れられんな。テーブルについていたのは、わしたち六人だった。ロージーはあの晩、よく食ったり飲んだりしていた。給仕が彼のところに妙な顔でやって来たのが、もうほとんど朝方だったが、彼の言うには、だれかが外で話したいと言っているということだった。ロージーは『わかった』と言って立ちかけたので、わしは彼を引っぱって椅子にすわらせて、『ロージー、会いたいなら、そ奴らにここに来させたらいい。だけど、絶対に君はこの部屋から外に出ちゃいかんよ』と言った。それは朝の四時ごろだったな。ブラインドを上げたら、もう明るくなっていたころだ」
「彼は出て行ったんですか?」私は何気なく尋ねた。
「そうさ、出て行ったさ」ミスター・ウルフシェイムは憤然として私に鼻を向けた。「彼は戸口で振り向いて言うんだ――『給仕におれのコーヒーを持って行かせるなよ!』とね。それから彼は歩道に出て行った。そこでそいつらが彼のふくれた腹に三度も撃ち込んで、車で逃げた」
「連中四人は電気椅子で処刑されましたね」と私は思い出して言った。
「五人だ、ベッカーを入れて」彼は興味を覚えたらしく、私のほうに鼻を向けると、「ああ、あんたは商売の取引き先を探してるんだね」
こう言葉を二つ並べられたのには、驚いた。ギャツビーは私に代って答えた――
「違う、違う」彼はあわてて言った、「この人はあの人じゃないんだ」
「ちがうの?」ミスター・ウルフシェイムは失望したらしかった。
「この人は、ただの友だちです。あのことは、そのうちに話すと言ったでしょう」
「これは失礼」とミスター・ウルフシェイムは言った。「人ちがいをしていた」
スープの多いこまぎれの肉料理が出て来た。するとミスター・ウルフシェイムは、いままで思い出に浸っていた昔のメトロポールの感傷なんかけろりと忘れたように、すごい食欲を見せて食べはじめた。その間にも彼の目は、非常にゆっくりではあったが、部屋を見回した――食後には真うしろの人間まで調べるように首を回した。私がいなければ、あるいはテーブルの下までのぞいて見たかもしれなかった。
「ねえ、旧友」ギャツビーが私のほうにからだを乗り出して言った。「今朝私はあなたを少し怒らせたんじゃないかと思うんですが」
そう言うと彼の顔にまた微笑が浮かんだ。しかしこんどはその微笑の手に乗らなかった。
「私は秘密主義は好きじゃありませんね」私は答えた。「また、どうしてあなたはなんでもそのまま話して、こうして欲しいと言わないのか、理解に苦しみますね。どうしてなんでもミス・ベーカーを中に立てなければならないのです?」
「いやあ、秘密なんてものは一切ありませんよ」彼はそうきっぱり言った。「ミス・ベーカーはあなたもご承知のように、立派なスポーツ選手ですし、彼女は一切曲ったことはしません」
このとき彼は急に時計を見ると、あわてて立ち上がり、急いで部屋から出て行った。後にはテーブルを囲んで、ミスター・ウルフシェイムと私だけが残った。
「電話をかけなければならんのですな」ギャツビーの姿を目で追いながら、ミスター・ウルフシェイムは言った。「立派な男だね、彼は? ハンサムだし、本当の紳士だ」
「ええ」
「彼はオッ|グ《ヽ》スフォード出でね」
「おお!」
「彼はイギリスのオッ|グ《ヽ》スフォード大学に行ってたんだ。君はオッ|グ《ヽ》スフォード大学を知っているでしょう?」
「ええ、聞いています」
「世界でも一番有名な大学の一つですわい」
「あなたはギャツビーと、ずっと前からのお知り合いですか?」
「もう何年かになるね」彼は満足しているように答えた。「戦後すぐに知り合ったけど、彼と一時間も話しているうちに、立派な育ちの人間に出会ったもんだと思ったね。わしは自分に言い聞かせたもんだ――『あの男なら家に連れて行って、母や妹にも紹介してもいいな』ってね」彼はここでちょっと言葉を切って、さらにつづけた。「君はわしのカフス・ボタンを見ているようだね」
私は別に彼のカフス・ボタンを見ていたわけではなかったが、そう言われて私は改めて見直した。それはなんとなく見なれたような、象牙でできたものだった。
「人間の臼歯《きゅうし》の、実にみごとな標本だね」と彼は私に知らせた。
「いや、全く!」私はそれをしげしげと見た。「実におもしろいアイディアですね」
「そう」彼は上衣の下で袖《そで》をちょっと持ち上げた。「いやあ、ギャツビーは女にかけては、実に慎重な男だね。友人の細君なんかも、よく見ないぐらいだからね」
このように本能的に信頼されている当のご本人が、やがてテーブルに戻って来て腰をおろすと、ミスター・ウルフシェイムは自分のコーヒーをぐいと飲んで、立ち上がった。
「おいしい食事だった」彼は言った。「長居をしてきらわれないうちに、若いお二人の前からさっさと消えよう」
「まあ、そう急がんでもいいでしょう、メイヤー」とギャツビーは、無理に引きとめようともしない様子で言った。ミスター・ウルフシェイムは祝福でもするように片手を上げた。
「いや、ごていねいに。でも、わしはもう老人の組なんでね」彼はまじめくさって言った。「君たちはまだいて、スポーツとか若い女とか、それから――」ここまで言うと、あとは手を振って想像にまかせた。「わしはもう五十歳だ。もうこれ以上諸君の邪魔はしたくない」
彼は手を振って顔を向うに向けた。悲しげな鼻は震えていた。私は何か彼を怒らせるようなことを言ったのではないかと思った。
「彼はときどき、ひどくセンチメンタルになるんです」ギャツビーは言った。「今日はそのセンチメンタルな日なんです。彼はニューヨーク界隈でも、変り者で通っているんです――ブロードウェイの住人です」
「一体あの人はなんなんですか、俳優ですか?」
「そうじゃありません」
「歯医者さん?」
「メイヤー・ウルフシェイムが? いや、彼は相場師ですよ」ここでギャツビーはちょっとちゅうちょしてから、冷然とつけ加えた――「彼は一九一九年にワールド・シリーズを買収した男ですよ」
「ワールド・シリーズを買収した?」私は重ねて尋ねた。
そのやり方に私は驚いた。もちろんワールド・シリーズがわいろで買収されたことは私も覚えていた。しかしそのことを考えてみたところで、それはどうにもしようのないつながりによって、ただ「そうなった」にすぎないと思うより仕方がないものだった。一人の男が、五千万人の人間の信頼を背景に賭《か》けをはじめるなんて――つまり、金庫を爆破する夜盗のような単純な気持で――私は考えてもみなかったことだった。
「どうしてそんなことをやる気持になったんですかね?」しばらくして私は尋ねた。
「彼はただチャンスをつかんだだけですよ」
「どうして刑務所行きにならないんです?」
「彼を捕えることができないんですよ、旧友。彼は頭のいい男なんです」
私はどうしても勘定を払うと言って支払いをすませた。給仕が釣銭を持って来たとき、向うの混んでいる部屋にいる、トム・ビュキャナンの姿を見かけた。
「ちょっと私と一緒に来てください」私は言った。「ちょっと声をかける人がいるんです」
トムは私たちの姿を見ると、飛び上がらんばかりにして私たちのほうへ五、六歩歩いて来た。
「どこへ行ってたんだ?」彼は急《せ》き込んで尋ねた。「君からさっぱり連絡がないんで、デイジーはかんかんだぜ」
「こちらはミスター・ギャツビー、こちらはミスター・ビュキャナン」
彼らは簡単に握手した。このとき、当惑したような緊張した見なれない表情が、ギャツビーの顔を走った。
「一体、どうしてたんだ?」トムは私に尋ねた。「どうしてこんな遠い所まで食事に来たんだい?」
「ぼくはミスター・ギャツビーと食事してたんだ」
私はミスター・ギャツビーのほうを振り向いた。しかし彼はもうそこにはいなかった。
*
一九一七年の十月のある日だったの――
(と、ジョーダン・ベーカーは、その日の午後、プラザ・ホテルの茶園《ティ・ガーデン》のまっすぐな椅子に、まっすぐにすわって語り出した)
――私は歩いていました――半分は歩道を、そして半分は芝生の上をどこまでも。芝生の上のほうがいい気持でした。というのは、イギリスから来た靴の底にゴムのいぼがついているため、やわらかい地面に食い込んでしまうからです。また私は新しい格子じまのスカートをはいていましたが、それが風を受けると少し吹き上げられました。そしてそのたびに、どの家の前にも掲げてある赤、白、青の旗が風になびいて、いやいやながらのようにパタ・パタ・パタと音を立てていました。
一番大きな旗と一番広い芝生は、デイジー・フェイの家でした。彼女はちょうど十八歳で、私より二つ年上でした。そして彼女はルイヴィルでは若い娘たちのなかでも、群を抜いて人気の的でした。彼女は白い服を着て、小型の白塗りのロードスターを持っていましたが、とにかく毎日彼女の家の電話は一日じゅうのように鳴りつづけ、テイラー兵舎の興奮した若い士官たちが、なんとかしてその夜彼女を独占する権利を得ようと誘っていました。「とにかく、一時間でも!」と。
あの日の朝、私が彼女の家の前まで来ると、白塗りのロードスターが通りの縁石のそばに停っていて、彼女は私がいままで見たことのない中尉と一緒にすわっていました。二人はお互いに夢中になっていたので、私が五フィートのところに近寄るまで、彼女は私が目にはいらなかったようです。
「ヘロー、ジョーダン」驚いたように彼女は声をかけました。「ここへいらっしゃい」
彼女が私と話したがっているので、私はすっかりうれしくなりました。というのは、私は私より年上の娘たちのなかでも、彼女に一番あこがれていました。彼女は私に、赤十字へ行って繃帯作りをするのかと尋ねました。私はそのつもりだと言いました。それならちょうどいい、みんなに今日は行けないからと伝えてくれないかと言いました。デイジーが話している間じゅう、中尉は彼女をじっと見ていました。ときにはそんなふうに見られるのを、どんな娘でもうれしく思うでしょう。それは私にはとてもロマンティックに思われたので、それ以来そのときのことをいつまでも覚えています。そのときの彼の名はジェイ・ギャツビーと言いましたが、それから四年以上もの間、私は二度と会いませんでした――ですから、彼とロング・アイランドでお会いした後でさえ、同じ方だということに気がつきませんでした。
それは一九一七年のことでした。翌年までには、私にも何人かのボーイ・フレンドができたし、またトーナメントに出ることにもなったので、なかなかデイジーにも会えませんでした。彼女はだれかと出かけるようなときは、少し年上の人たちと一緒でした。彼女については、あらぬ噂も立っていました――ある冬の夜など、これから海外に出発するある軍人さんを見送るために、ニューヨークに出かけようとして荷物を詰めているのをお母様に見つかったとか――。実際には彼女は引き止められたのですが、それから数週間は家族と一切口もきかなかったというんです。それからの彼女はもう軍人さんたちとは遊び回ることはしなくなり、軍隊には入れない、扁平足、近視眼の町の若者たち二、三人を相手にしていただけでした。
次の夏には、彼女はまた以前のように快活になっていました。休戦になってから彼女は社交界にデビューし、二月にはニュー・オーリーンズ出身の男性と婚約したようでした。しかし、六月にはシカゴのトム・ビュキャナンと結婚しました。それはルイヴィルはじまって以来の、華麗な出来事でした。彼は四台の貸切りの客車で百人の人を乗せてやって来て、マールバック・ホテルの全階を買い切り、結婚式の前日には、三十五万ドルもする真珠の首飾りを彼女に贈りました。
私は花嫁の付添い役でした。私は披露宴の三十分前に彼女の部屋に入って見ると、彼女は花模様のドレスを着て、まるで六月の夜のような美しい姿でベッドに横になっていました――猿のように酔っぱらって。彼女は片手にソーテルヌ白ブドウ酒の瓶を持ち、一方の手には一通の手紙を持っていました。
「お祝いしてよ」と彼女はつぶやくように言いました。「いままでお酒なんて飲んだことがなかったけど、まあ、なんていい気持なんでしょう」
「どうしたの、デイジー?」
私はぎょっとしましたわ。私はそれまで、あんなになった女なんて、見たことがなかったんですものね。
「ここよ、あなた」彼女はベッドのそばに置いてあった紙くずかごのなかを手さぐりすると、例の真珠の首飾りを取り出しました。「これを下に持って行って、これを贈ってくれた人に返してよ。みんなにデイジーは気が変わったと言ってちょうだい。言ってよ――デイジーは気が変わったとね!」
彼女は泣き出しました――泣いて、泣いて、止まらないのです。私は飛び出して彼女のお母様のメイドを見つけました。私たちはドアに鍵をかけて、彼女を冷たい浴槽に入れました。彼女はどうしても手紙を放そうとしません。彼女はそれを握ったまま浴槽のなかに入って、それを握りつぶして水びたしの球《たま》にしてしまったわ。そのうち、それが雪のように切れ切れになったのを見て、やっと私にそれを石鹸皿に置かせました。
しかし彼女は、もう一言も言いませんでした。私たちは彼女にアンモニア水を嗅がせ、額に氷をのせてやり、それからドレスを着せてホックをかけてやって、やっと半時間後に私たちが部屋を出るときには、彼女の首には真珠の首飾りがかけられ、これでやっと事件はおさまったの。翌日の五時、彼女は身震いするようなこともなく、トム・ビュキャナンと結婚して、南洋方面に三カ月の新婚旅行に出かけました。
お二人が帰って来たとき、私はサンタ・バーバラで会いました。そしてあのとき私は、あんなにまでご主人に夢中になっている人を見たことがないと思ったほどでした。ご主人がちょっとでも部屋を出ようものなら、彼女は落ち着かずにあちこちを見回して言いましたの――「トムはどこへ行ったの?」って。そして彼がドアに姿を現わすまでは、まるで気がぬけたような表情でした。彼女はよく砂浜の上に何時間もすわって、自分のひざの上に彼の頭をのせては彼の目を指でさすりながら、酔ったような喜びにひたっていました。そうした二人が一緒にいるのを見るのは、感動的だったわ――それこそ声もなく恍惚と見とれていたもんです。それが八月のことです。私がサンタ・バーバラを出発して一週間ほどすると、トムはある夜ヴェンチュラ街道で荷馬車に車をぶっつけて、車の前車輪をもぎ取られてしまいました。そのとき彼と一緒にいた女のことまで新聞に出ました。というのは、その女性が片腕を折られたのです――彼女はサンタ・バーバラ・ホテルの寝室係りでした。
翌年の春、デイジーは女の子を生み、二人は一年間フランスに出かけました。私は春にカンヌでお二人に会ったし、その後ドーヴィルでも会いましたが、やがてお二人はシカゴに帰って落ち着きました。ご存じのように、デイジーはシカゴでは大へんな人気者でした。二人は遊びに耽る連中と一緒に遊び回っていました。みんな若くて金持揃いで無鉄砲な連中でしたが、彼女は悪い評判など全く立てられませんでした。それはたぶん彼女がお酒を飲まないからでしょう。ひどい酒飲み仲間のなかで、お酒を飲まないということは、大へん有利なことです。黙っていられるし、それにときにはちょっとした不品行なことをやっても、何せみんながわけがわからなくなっているので、見られもしないし気づかれもしませんから。恐らくデイジーは、浮気をしようとしたことはありませんが――でも、彼女の声にはなんとなく、何かがというものがあるわ。
ところが、約六週間ほど前に、彼女は何年ぶりかでギャツビーの名をはじめて耳にしたのです。それは、私があなたにお尋ねしたときです――覚えていらっしゃいますか? ――ウェスト・エッグのギャツビーを知っているかと――。あなたがお帰りになった後で、彼女は私の部屋に入って来て私を起こすと、尋ねましたわ――「ギャツビーって、なんのこと?」と。私は半分眠っていたけど彼のことを説明すると、彼女は――とても奇妙な声で、その方なら昔よく知っている人にちがいない――と言いました。そのときやっと私は、いまのギャツビーと、あのとき彼女の白塗りの車に乗っていたあの士官のことに気がつきました。
*
ジョーダン・ベーカーがこの話を全部終って三十分ほど経ったとき、私たちはプラザ・ホテルを出て、セントラル・パークのなかを幌付きのヴィクトリア車で走っていた。太陽はすでに、西五十番街の映画スターたちの住む高層アパートの後方に没し、草むらの上にコオロギのように集まった子供たちの澄んだ声が、暑い夕暮れのなかに聞えていた――
おれはアラビアの酋長だ
お前の愛はわしのもの
お前が眠る夜中には
お前のテントにわしは行く――
「不思議な偶然の一致ですね」と私は言った。
「でも、偶然の一致なんていうものじゃないわ」
「どうしてです?」
「ギャツビーがあの家を買ったのは、入江の真向うにデイジーがいるからですもの」
それでは、あの六月の夜、彼が情熱的に眺めていたのは、空の星だけではなかったのか。彼はいまや、あの無意味な華麗な仮面のなかから、急に生き生きとその正体を現わしてきた。
ジョーダンは言葉をつづけた。「彼が知りたいのは、あなたがデイジーをいつか午後にでもお宅に招いておいて、そこへ彼を呼んでいただけないかということなのです」
この遠慮深い頼みに、私は心を打たれた。彼は五年間も待って大邸宅を買い入れ、そこに集《つど》い寄る蛾《が》の群に星の光を分ち与えたのも、本心はいつかの午後、見知らぬ人の庭に「呼んでもらいたい」ためだったというのか。
「こんな些細《ささい》なことを頼むのに、こんな話を全部私に知らせなければならなかったのですか?」
「彼は恐ろしいのです。彼は長い間待っていたのです。彼は、あなたが不快な気持にならないかと思ったんです。彼は外見に似合わず、本当にがまん強い人なんですよ」
何か私にはひっかかるものがあった。
「どうして会う機会をつくってくれとあなたに頼まなかったんですか?」
「彼は彼女に自分の家を見せたいのです」ジョーダンは説明した。「それには、あなたの家はすぐ隣り合っているでしょう」
「おお!」
「彼は、いつかの夜に彼のパーティに彼女が迷い込んで来るのを、半分期待していたと思うわ」ジョーダンはつづけた。「でも彼女は一度も来なかったの。そこで彼はさりげなく人々に彼女を知らないかと聞き出したの。そして最初に見つかったのは私ということになったの。それが彼のダンス・パーティに私を呼びに使いをよこした、あの晩なの。それまでに漕ぎつけた彼の入念な手口を、あなたにお聞かせしたかったわ。もちろん私は、ニューヨークで軽いお食事でもなすったらと、さっそく提案しました――私、彼は気でも狂うんじゃないかと思いましたわ――『ぼくは道にはずれたことはしたくない!』と言いつづけました。『ぼくはあの人と隣りの家で会いたい』って。
私が、あなたがトムと特別の関係のお友だちと言うと、彼はいままでの考えを全部あきらめようとしました。彼の言うには、彼は何年もシカゴの新聞を読んでいるけど、デイジーの名をちらと読んだことがあっただけで、トムについてはよく知らないと言うんです」
もう暗かった。私たちが小さな橋をくぐったとき、私はジョーダンの金色の肩に腕を回して引き寄せ、夕食に誘った。私はデイジーのこともギャツビーのことも、それ以上考えていなかった。私の頭にあるのは、すべてに懐疑的なこの清潔な、そしてはめをはずさない女、そして私の腕のなかで気どってからだをうしろに反らしている女のことだった。一つの文句が一種がんこな興奮とともに、私の耳のなかで鳴りはじめた――「あるものはただ、追われるものと追うもの、そして多忙なものと退屈しているものなのだ」
「デイジーは、生活のなかで何かをつかむべきだわ」ジョーダンは私にささやいた。
「彼女はギャツビーに会いたがっているんですか?」
「彼女にはそのことを知らせないことにしているの。ギャツビーのほうで知らせたがらないの。あなたはただ、彼女をお茶に招待することになっているのよ」
暗い樹木の防壁を通り過ぎると、五十九番街の正面が優美なほの明るい光の塊《かたまり》となって、公園のなかに光を投げていた。ギャツビーやトムとちがって、私には暗い軒下や目をくらますような看板の下に顔を浮かばせるような女は、一人もいなかった。私は彼女をわきにぐっと引き寄せて、両腕に力を入れた。彼女の青ざめた軽べつするような唇は、微笑を浮かべた。私はなおも彼女をぐっと引き寄せた――こんどは私の顔に。
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五
その夜、ウェスト・エッグに帰って来たとき、私は一瞬、家が火事かと思った。夜中の二時だというのに、半島じゅうが赤々と隈なく輝いているのだ。その光のなかに、灌木の茂みが異様に明るく浮かびあがり、道の両脇の電線がひと筋の赤い線となって走っているように見えた。角まで行って見ると、それはギャツビー邸が塔から地下室まで、煌々と電気をつけているためだった。
はじめは、またパーティをやっているのかと思った。どんちゃん騒ぎが乱れてきて「隠れん坊」だの「サーディン・イン・ザ・ボックス」だのがはじまって、家じゅう蜂の巣を突ついたみたいになっているのだろう。ところが、近づいて見ると物音一つ聞えない。わずかに梢を渡る風の音がするばかりだ。その風が電線を揺すぶるので、邸内の電気がついたり消えたりするのが、まるで闇に向かってウインクをしているようだ。乗り捨てたタクシーがエンジンの音を響かせて走り去ったとき、ギャツビーが芝生の向うから歩いて来るのが見えた。
「まるで万国博ですね」と私は声をかけた。
「そうですかね」と、彼はぼんやりと家のほうを振り返りながら「さっきからずっと、部屋を一つ一つ覗いていたもんでね。ところで、これからコニー・アイランドへ行きませんか。私の車で」
「でも、もう遅いですよ」
「構わないでしょう。プールに飛び込んでみませんか。この夏、私はまだ一度もあそこのプールに行ってないんです」
「しかし、もう寝なければ」
「そう」
とは言ったものの、まだあきらめきれない様子で、私の顔をじっと見ながら立ち去りかねている。
「さっきミス・ベーカーに会いましたよ」と、しばらくしてから私は言葉を継いだ。「明日デイジーに電話をして、家《うち》にお茶に呼ぶつもりです」
「ああ、そりゃ結構」と、ギャツビーは気のない様子で「しかし、あなたに迷惑をかけるつもりはありません」
「いつがいいでしょう?」
「あなたはいつがいいですか?」と、彼はおうむ返しに、逆に聞き返してきた。「あなたに迷惑をかけるつもりはないんです、私は」
「明後日はどうでしょう?」
と言うと、ちょっと考えていたが、気乗りがしないように「芝を刈らなくちゃならないんでね」
二人とも、芝生の上に目を落とした。私のところの伸び放題の芝生とはっきり一線を画したように、その向うに彼の家のよく手入れの行き届いた芝生が、しっとりと黒ずんだ感じで広がっていた。刈らなければならないと言ったのは、家《うち》の芝生のことだろうか?
「それに、もう一つちょっと都合がありましてね」と、ギャツビーは口ごもったまま言い淀んだ。
「二、三日延ばせないんですか?」私は尋ねた。
「いや、そうじゃないんです。少なくとも――」と彼は話をどう切り出したものかと迷っていた。「つまりですね、その――旧友、あなたの仕事は、あまり金にならないんじゃないかと思うんですが?」
「まあ、そうですね」
これで少し元気が出たらしく、こんどは少しはっきりした物の言い方で彼はつづけた。
「失礼かもしれないけど、そうだろうと思ってたんです――で、実は私はちょっとした商売を内職にやっているんです。いや、ほんの内職程度なんですが。まあ、それを、あなたがいまあまりお金にならないのなら、と考えたんですがね――たしか債権を売っていらしたんじゃありません、旧友?」
「まあ、そんなところなんですがね」
「それじゃあ、あなたに向いてますよ。そんなに時間はかからないし、結構金になるんです。ただちょっと内密にやっていただかないと困るんですがね」
いま思えば、ことによっては、この話は私の人生の一つの陥穽《かんせい》になっていたかもしれない危険な申し出だったのだ。しかし彼がこのときこう切り出したのは、ただ率直になんのかけ引きもなく、私に尽力を頼んで来ただけのことだったので、私は別にためらうこともなく、その話を断わってしまった。
「いま、手一杯でしてね」と私は言った。「ご好意はありがたいんですが、これ以上手を拡げられないんです」
「ウルフシェイムと取引きをする必要なんかないんですよ」これは明らかに昼食のとき話題に出た「得意先」のことで、私が尻込みをしているのだと彼は勘違いをしたに違いない。そんなことは全然ない、と私は言明した。まだ私が何かつづけて言うのかと、彼のほうでは期待していたようだったが、私のほうもそこまで彼の気持を汲んでやる余裕はなかった。彼は不本意のまま家《うち》へ帰って行った。
その晩私は、幸福で有頂天になっていたのだ。玄関を入ったとき、すでに深い眠りのなかに入り込んだような感じだった。そのため、あれからギャツビーが一人でコニー・アイランドまで出かけたのかどうか、それとも、家じゅうに赤々と電気をつけっ放しにして、いつまでも「部屋を一つ一つ」覗いて回っていたのか、私は知らない。翌朝になると早速、私は会社からデイジーに電話をかけて、お茶に招いた。
「トムは連れてくるなよ」と私は注意した。
「え、なあに?」
「トムは連れて来ちゃいけないよ」
「トムってだれよ?」彼女はとぼけてみせたりした。
約束の日はひどい雨になった。十一時ごろ、レインコートを着た男が一人芝刈り機を引きずってやって来て、玄関のドアをノックした。ギャツビーさんから、こちらの芝を刈るように言われました、と言う。それで私は、フィンランド人の家政婦に戻って来るように言い忘れていたのを思い出した。早速ウェスト・エッグまで車を走らせて、白漆喰の家々の並ぶ、雨でびしょびしょに濡れた路次裏に彼女を訪ね出し、ついでに茶碗とレモンと花を買って帰った。
しかし花はいらなかった。二時になると、ギャツビーの所から、温室ごとそっくり持って来たかと思うほどたくさんの花が、鉢や容器と一緒に届けられたのである。それから一時間ほどして、玄関のドアがおずおずと開いたかと思うと、ギャツビーが、白いフラノの背広に銀色のワイシャツ、金色のネクタイといういでたちで、足早に入って来た。顔は真っ青で、昨夜は眠れなかったらしく目の下に黒い隈ができていた。
「万事整いましたか?」入って来るなり彼はたずねた。
「芝生だったら、きれいに刈れましたよ」
「芝生って、なんのこと?」彼はぽかんとしていたが「ああ、庭のことか」と言った。
やっと気がついて窓から外を眺めたが、表情から推して、彼の目には何も映っていなかったに違いない。
「きれいに刈れましたね」と彼は言ったものの、うつろな調子だった。「新聞だと、雨は四時ごろには止むらしいですね。たしか『ジャーナル』にそう書いてありました。ところで準備はみんなできてますかな――つまり、お茶に必要なものは――」
私は彼を食品収納室に連れて行った。そこに例のフィンランド人の家政婦がいるのを見て、彼は少し面白くない顔をした。それから一緒に、調製食品を売る店からレモン・ケーキを一ダースほど買って来たのを点検した。
「これでいいですか?」と私は尋ねた。
「もちろん、もちろん! 結構です」と彼は言ってから、急に「ねえ、旧友」とつけたした言葉は、妙にうつろな調子だった。
雨は、三時半ごろには小降りになって霧雨に変った。時折、そのなかを露のような雨滴が、すうっと細く走るのが見えた。ギャツビーは心ここにあらずといった感じで、クレイの『経済学』をぱらぱらめくってみたり、家政婦が台所の床をずかずか踏み鳴らして歩き回るのをぎょっとしたように振り返ったり、何か目には見えないが、飛んでもない事件が外で次々と起こっているのが心配だとでもいうように、ときどき、雨に曇ったガラス窓から外をのぞいて見たりしていた。そのうち、ついに立ち上がると、不安そうな声で、やっぱり家に帰ると言い出した。
「どうしたんです?」
「だれも来ないらしいし、それにもう遅いし!」彼は何か他にさし迫った用事があるとでもいった様子で、時計を見ていた。「一日じゅう待ってるわけにもいかないし」
「冗談じゃありませんよ。まだ四時二分前ですよ」
私に強制されたかのように彼はまた腰をおろした。と、そこへ、車が家の前の小径に入ってくる音が聞えた。二人とも思わず跳び上がった。私は実は少し胸が痛んだけれども、出迎えに庭に下りた。
ライラックの裸木が雫をしたたらせている下を、大型のオープン・カーが車道をこちらへやって来た。目の前まで来て停ると、藤色の三角帽子の下から、小首をかしげたデイジーの顔が、明るくうっとりと私に向かって微笑みかけていた。
「これ、本当にあなたのお家?」
さわやかな声が雨のなかに響くと、こちらまでほっと救われたような気持になった。一瞬私は、彼女の気持のよい声の調子にうっとりとなった。彼女が何を言っているのかは問題ではなかった。濡れた髪の毛が一筋、青い絵の具でさっと刷いたように、頬にはりついていた。車から助け降ろそうとして手を取ると、その手はきらきらと雨の雫で濡れていた。
「私が好きなのね、あなた」と、彼女は私の耳元でささやいた。「トムを連れて来ちゃいけないなんて」
「それは絶対内緒。運転手に、一時間ばかりどこかで暇をつぶしてくるように言いなさい」
「一時間したら戻ってね、ファーディ」それから、まじめくさった顔でささやいた。「ファーディって名前なのよ、あの運転手」
「ガソリンが彼の鼻にさわるのかな?」
「まさか」と彼女は言ったが、無邪気に「でも、どうして?」
家の中に入った。すると驚いたことに、居間はもぬけの殻である。
「こりゃあ、おかしい」思わず私は大きな声を出した。
「どうかしたの?」
そのとき、玄関のドアを軽く、しかしもったいぶった調子で叩く音がしたので、彼女は振り返った。私は出て行って、ドアを開けた。と、ギャツビーが、両手を錘《おも》りでも下げたみたいに上衣のポケットに突っ込んで、死人のように青い顔をして、水たまりのなかに立っていた。そして悲しそうな目でじっと私の目を睨んでいる。
彼はポケットに両手を突っこんだまま、つかつかと私の傍を通って玄関に入った。と思うと、針金の上の操り人形のようにくるりと向きを変えて、居間に入って行った。それが、少しもおかしくはなかった。心臓がどきどきと音を立てて鳴っているのを感じながら、私はドアを閉めた。雨がまた激しくなっていた。
三十秒ばかりの間、物音一つしなかった。と思うと、居間のほうから、じっと押し殺したような低い声と、笑いかけてはっと止めたような声が聞えた。つづいて、デイジーが、自分を失うまいと努めて切り口上で言うのが聞えた。
「あなたにまたお目にかかれて、本当に私、うれしいと思います」
それっきり、何も聞えない。それは恐ろしいほどに思われた。ホールにいても仕様がないので、私は居間に入ってみた。
ギャツビーは、まだポケットに両手を突っ込んだまま暖炉にもたれかかって、いかにも退屈そうに何気ない風を装ってはいるものの、無理をしていることは隠せなかった。あまりのけぞっているので、壊れて動かない炉棚の時計の文字盤に頭が触りそうだった。彼はそんな姿勢で狼狽した目で、デイジーを見すえていた。彼女のほうも驚いてはいたが、取り乱す様子もなく、かたい椅子の端にすわっていた。
「私たちは前に会ったことがあるんですよ」とギャツビーはつぶやいて、ちらっと私のほうを見た。笑おうとしたが、笑いにならず、ただ口が開いたばかりだった。幸い、そのとき、暖炉の上の時計が彼の頭に押されて危うく落ちそうになったので、彼はあわてて振り返ると震える指で押え、元のところに直した。それから、身を固くしてすわり直すと、ソファの腕木に肘をつき、片手で頤を支えた。
「時計を、失礼しました」と彼は言った。
私は、顔じゅうがかーっと熱くなったような感じだった。頭のなかにはいくらでも言葉を用意してあるのに、月並な応答一つ思い浮かばなかった。
「どうせ古時計ですから」と私の口をついて出たのは、実に間の抜けた返事であった。これではまるで、時計が床に落ちて粉々に壊れてしまったようである。
「私たち、もう何年もお会いしませんでしたわね」とデイジーが言った。いかにも平然とした調子だった。
「この十一月で五年になります」
ギャツビーの口調があまりにも機械的だったので、しばらくは水をさされた感じで、一同は黙ってしまった。一分ぐらいはそうしていたろうか。なんとかしなければと、私は苦しまぎれに、キッチンでお茶を入れるから手伝ってほしいと、二人をうながして立ち上がったとき、なんたることか、家政婦がお茶を盆にのせて運んできてしまった。
しかし、茶碗を回したりお菓子を受け取ったりごちゃごちゃやっているうちに、なんとか、どういう態度でこの場をおさめたものか、自然に恰好がついてきた。ギャツビーは一人ぽつんと取り残された形になって、デイジーと私がおしゃべりをしている間、緊張して淋しそうな目差しで、二人をかわるがわる眺めていた。しかし、静かにしているだけが目的ではなかったので、私は話の切れ目をうまくつかんで立ち上がった。
「どこへ行くんです?」とギャツビーがあわててたずねた。
「すぐ戻ってきます」
「その前にちょっとあなたに話があるんですが」
ひどくうろたえて彼は私の後を追ってキッチンに入って来ると、ドアをぴしゃりと閉めて、「ああ、どうしよう!」と、彼は小さな声で困り切ったようにささやいた。
「どうしたんです?」
「ひどい失敗です」と、彼は首を左右に振りながら言った。「ひどい、ひどい失敗だ」
「あなたは困っているだけですよ」と私は言いかけながら、幸いなことに、うまい言葉を思いついた。「デイジーも困っていますよ」
「あの人も困っている? 彼女が?」彼はいかにも信じられないというように、おうむ返しに言った。
「あなたと同じですよ、向うだって」
「そう大きな声を出さないで」
「まるで子供ですね」と私はいらいらして思わず声が大きくなった。「それに失礼ですよ。デイジーを一人で放ったらかしにしたりして」
彼は片手を上げて私の言葉をさえぎると、非難するように私をにらんだが、その顔はいまでも忘れられない。それから、そっとドアを開けると、部屋に戻って行った。
私は裏口から外に出た。三十分前にギャツビーが、うろうろと落ち着かずに家の周りを一巡りしたときと同じように。それから、黒々と節くれ立った大きな木の下目がけて走った。葉が厚く重なり合っているので、ここはいい雨宿りになった。雨はまた激しくなって、さっきギャツビーの庭師がきれいに刈り込んでくれた家《うち》の芝生には、方々に小さな泥沼や湿地ができていた。もともと、山だの沼だのはこのようにしてできたものなのだろう。
といっても、木の下陰に雨宿りとしゃれてはみても、見えるものといえば、ギャツビー邸の他には何もない。そこで私は、教会の尖塔を見つめるカント先生よろしく、三十分も彼の家をにらんでいた。この家は十年ほど前、あるビール業者が、「時代がかった」物が流行したころに、いち早く建てたものだった。隣り近所のしもた家に、屋根を藁葺《わらぶ》きにしたら、五年間は税金を全部負担してやってもいいと持ちかけたという話が残っている。これをあっさり断わられたのが、一家を興そうという彼の大計画を、根元から崩してしまうことになったのであろう。ほどなく彼は急にがっくり衰弱してしまった。葬式の花輪がまだ門口に飾ってあるうちに、彼の息子たちは家を売りに出してしまった。アメリカ人というのは、農奴になることを嫌がらぬどころか、むしろ進んでなりたがるくせに、一介の小作になり下がることは、頑強に拒もうとするのだ。
三十分ほどすると、また日が照ってきた。乾物屋の車が、召使いたちの夕食の材料を積んでギャツビー邸に入って行った。しかし彼自身は、あれを一口も食べはすまい。女中が二階の窓を開けはじめた。一瞬一つの窓に姿を見せたかと思うと、すぐまた次と、順々に開けて行く。真ん中の大きな張出し窓の所まで来ると、身を乗り出して、物思わしげにぺっと唾を吐いた。もうそろそろ戻ってもいいころだ。雨が降っている間は、その雨音が、感情の波とともに高くなったり低くなったりする二人の話し声のように感じられたが、いまこうしてしんと静まり返ると、家の中までがひっそりと沈黙に包まれているように思われてきた。
私は中に入った。その前に台所で、ストーブをひっくり返しこそしなかったが、いろいろがちゃがちゃと物音を立ててから入って行ったのだが――二人にはそれがまるで聞えていなかったらしい。長椅子の両端に腰をおろして、じっと見つめ合っている。何か質問でもしたところだったのか、それとも、相手の返事を待っているところなのか。いずれにしても、狼狽の色はもう全く見えなかった。デイジーの顔は涙でよごれていたが、私が入って行くと、反射的に立ち上がって鏡の前に行き、ハンカチでふきはじめた。一方ギャツビーのほうはさっきとは打って変った様子で、こちらはただ面喰うばかりである。文字どおり輝くばかりで、歓喜の言葉一つ身振り一つ見せなくとも、幸福感が全身から溢れ出て、部屋じゅうに満ち満ちていた。
「やあ、旧友」と、彼はまるで何年ぶりかの対面といった調子である。握手でもする気か、とふと思ったくらいだった。
「雨は止みましたよ」
「そう?」一瞬なんの話かわからなかったようだったが、部屋じゅうにきらきらと日の光が影を投げているのに気がつくと、天気予報が当った予報官か、この世に光明が甦ったのを狂喜する巫女《みこ》か何かのように、にこにこと笑いが止まらない様子で、デイジーにも同じことをくり返した。
「どうです、雨が止みましたよ」
「うれしいわ、ジェイ」せつない思いが喉元までこみ上げて来て、思いがけない喜びをかろうじて洩らしたという感じだった。
「あなたとデイジーに家《うち》まで来ていただきたいんです」とギャツビーは言った。「彼女に見せたいんです」
「本当に私も行っていいんですか?」
「もちろんです」
デイジーは二階へ顔を洗いに行った。私は自分のタオルのことを思って恥ずかしかったが、もう遅かった。ギャツビーと二人で芝生に出て待つことにした。
「私の家、なかなか立派に見えるでしょう?」彼は、うんと言ってもらいたそうだった。「正面から光が当っているところなんかね」
確かにすばらしい、と私は賛意を表した。
「いいでしょう?」と彼は、アーチ型をした扉だの四角い塔だのを隅から隅までなめるように見廻しながら、「これを買う金を稼ぐのに三年かかりましたよ」
「私はまた、遺産相続をなさったのかと思ってました」
「それはそうなんですがね、旧友」彼はこともなげに言った。「ところが大恐慌――例の戦争の大恐慌で、すっかりなくしてしまったんです」
しかしこれを、彼はどうもほとんど上の空でしゃべっていたらしい。どんな仕事をやってその金を稼いだのかと尋ねてみると、「そりゃあなたには関係ありませんがね」などととんちんかんな答をしたのでもわかる。もっとも、自分でもすぐに気がついたらしく、「いや、いろんなことをやりましたがね」と言い直した。「薬屋もやったし石油屋もやりましたよ。いまはどっちも止めましたけど」
そう言ってから、ふと注意深い顔付きになって、私をじっと見つめながら、「このあいだの晩話したことを考えてみてくださいましたね?」
しかし私が答える前に、デイジーが家のなかから出て来た。真鍮のボタンが二列にずらりと並んだドレスを着ていたので、それが日光にあたってきらきら光っていた。
「あの大きな邸宅がそう?」彼女は指をさしながら声をはずませて言った。
「お気に召しましたか?」
「素敵だわ。でも、あんな大きな邸宅に一人っきりで、どうやって暮していらっしゃるの?」
「いつも面白い人たちがいっぱい来てるんですよ、昼でも夜でも。みんなそれぞれ面白いことをやってる連中でね。まあ、ひとかどの人物ばかりです」
私たちは海峡に沿った近道は避けて、一度表通りに出て、大きな通用門から入った。デイジーはすっかりうっとりしてしまったらしく、空を背景にシルエットのようにそそり立っている中世風の建物の、あそこがいい、ここがいいと賞めたてたり、庭を見ればまた、輝かしいばかりに香る黄水仙や、泡を吹いたようなサンザシや西洋スモモの香りや、ほのかな金色に咲き匂う三色スミレなど、そのたびに小さな嘆声をあげた。大理石の階段のところまで行っても、戸口を出たり入ったりする華やかなドレスの影も見えず、樹々の間でさえずる小鳥の声の他には物音一つ聞えないのも不思議だった。
邸内に入って、マリー・アントワネット風の音楽室だの王政復古時代風の客間だのを通り抜けたりしているうちに、私はなんだか、その辺の長椅子やテーブルの陰などに、われわれが通り過ぎるまでじっと隠れていろと命令されて、客たちがじっと息をころしてひそんでいるのではないかという気がした。ギャツビーが「マートン・カレッジ・ライブラリー」〔オックスフォード大学にある図書館の名に因んで名づけたもの〕のドアを閉めたときなどは、私はてっきり、例のフクロウのような眼鏡をかけた男が、急に不気味な高笑いをはじめたとさえ思った。
私たちは二階に上った。バラ色やフジ色の絹布に包まれ、新しく活けた花もあざやかな、いかにも時代調の寝室から、化粧室、玉突き場、浴槽を床にはめ込んだ浴室などを通り抜けた。それから一つの部屋に入って見ると、髪をもしゃもしゃにした寝間着姿の男が体操をやっていた。「下宿人」のミスター・クリップスプリンガーで、この人は肝臓が悪かった。この日の朝も、浜辺を欠食児童のような顔をして歩いているのを見かけていた。やっと、ギャツビーの居間にたどりついた。寝室と浴室とアダム式〔十八世紀英国の装飾家〕の室内装飾をほどこした書斎があった。そこへ私たちは腰をおろした。そして、壁にはめ込みになった食器棚からシャルトルーズを取り出して、一杯飲んだ。
彼は片時もデイジーから目を離さなかった。彼女の愛らしい目が家のなかのいろいろな物にぶつかるたびに示すその反応の程度によって、あらゆるものを評価し直しているようだった。ときには、彼は自分の持物を呆然と眺め回していることもあった。彼女がここに現われるという思いもかけなかった現実を前にしては、そんなものは太陽を前に光を失った星屑としか思われない、といったふうだった。一度などは、危うく階段から転げ落ちるところだった。
彼の寝室は家のなかでも一番簡素だった。わずかに化粧台に、くすんだ鈍金色の化粧セットが飾ってあるぐらいのものだった。デイジーは面白がってブラシを手に取ると、自分の髪《かみ》を撫でた。ギャツビーはそれを見ながらすわっていたが、やがて両手で目をおおうと声を立てて笑い出した。
「これはおかしい、旧友」と、彼はいかにも浮き浮きした様子だった。「私はだめなんです――やろうとしても――」
彼は明らかに二つの段階はすでに通り過ぎてしまって、第三の段階に入ろうとしていた。驚きと自分でも訳のわからない喜びが過ぎて、現にいま彼女が目の前にいるのだということが、改めて不思議なことのように思われてならないらしかった。長い間、彼はこの日のことばかり思い描いていたのだ。事の一部始終に至るまでを、想像もつかないほどねばり強い感情で夢にまではぐくみながら、歯を喰いしばって待ちつづけていたのだ。それが今は、その反動が一度に来て、ねじを巻き過ぎた時計のぜんまいが、ほぐれたような状態になっているのだった。
間もなく自分を取り戻すと、彼はばかでかい新案特許の用箪笥を二つ開けて見せてくれた。服や部屋着やネクタイがごちゃごちゃに詰め込まれ、ワイシャツが一ダースごとにまとめて、煉瓦の山のように積みあげてあった。
「英国に、私の衣類を一切買ってくれる男がいましてね。春と秋と、社交のシーズンごとに、いいのを見はからって送ってくれるんですよ」
彼はワイシャツを一束ずつ取り出すと、私たちの前に一つ一つ放ってよこした。薄地《うすじ》のリンネルのワイシャツ、厚手の絹のワイシャツ。目のつんだフランネルのワイシャツ。それらが投げ出されるたびに拡がって、テーブルの上に色とりどりの色彩をくりひろげた。二人が感心して賞めると、もっともっと取り出してくるので、やわらかい豪華な山がますます高く積み上げられていった――縞《しま》もの、雲形のもの、珊瑚色、薄緑、藤色、淡いオレンジ色、藍色でイニシアルが入っているものもある。そのとき突然、引きつったような声をあげて、デイジーはワイシャツの山に顔を伏せると、激しく泣き出した。
「きれいだわ、とっても」と啜り泣きながら言う声は、顔を埋めているのでこもったように聞えた。「なんだか悲しくなるわ。こんな、こんなきれいなワイシャツなんて、見たことがないんですもの」
*
家を見終ると、次は庭やプールや水上艇や夏の草花などを見せてもらうことになっていた。しかし窓の外を見ると、雨が再び降り出していた。私たちは三人並んで立って、海峡の水面が雨に波立っているのを眺めた。
「霧がなければ、入江の向うにあなたの家が見えるんですが」とギャツビーは言った。「桟橋の突端のところに、あなたは夜通し緑色の灯《あか》りをつけているでしょう?」
デイジーはいきなりギャツビーの腕を取った。しかし彼は、いま自分の言ったことにすっかり心を奪われている様子だった。その緑色の灯火にこめられていた大きな意味が、いま永遠に失われてしまったのだという思いに、ふととらえられたのかもしれない。自分とデイジーとを距てている大きな距離に比べれば、その灯こそ彼女のすぐそばに、ほとんど触れることもできるほどのすぐそばに、瞬いているもののように思われていたのである。それがいまは、桟橋の上に瞬くただの灯火に過ぎないものになってしまった。彼の心に魅惑と映っていたものが、こうして、一つ一つその数を減らしていってしまう。
私は部屋のなかをあちこち歩いてみた。夕暮れの薄暗がりのなかに、ぼんやりといろいろな物が置いてあるのを、一つ一つ見て回った。中で一つ、ヨットの服装をした老人の大きな写真が、机の上の壁に掛っているのが目についた。
「どなたですか、こちら?」
「ああ、それ? ダン・コディ氏です。旧友」
どこかで聞いたことのある名前のような気がした。
「もう亡くなりましたが、昔の親友です」
用箪笥の上に、これもやはりヨット姿のギャツビーの小さな写真が飾ってあった。――昂然と上を向いて、という姿で、おそらく十八ぐらいのときのものだろう。
「素敵だわ!」とデイジーが歓声をあげた。
「ポンパドール〔オールバック風の男の髪型〕じゃないの。あなた、ポンパドールにしていたなんて、私知らなかったわ――それに、ヨットをやるなんて」
「ちょっとこれを見てください」と、ギャツビーは少し急いで、「たくさん切抜きがあるんです。――みんなあなたのことが書いてあるんですよ」
二人は並んで、一つ一つ切抜きを丹念に見ていた。私はいつか話に出たルビーを見せてもらおうと思って、まさに言い出そうとした途端に電話が鳴った。ギャツビーが受話器を取り上げた。
「もしもし……いや、いまはちょっと困るな……いまは都合が悪いんです……小さな町がいいと言ったでしょう……小さな町がどんなものか知らないなんていうんじゃ、困ったもんですね……なに、デトロイトが小さな町だなんていうようでは、あの男も頼りないですね……」
彼は電話を切った。
「ねえ、いらっしゃいよ、早く!」窓際からデイジーが呼んだ。
雨はまだ降っていたが、真っ暗な空が西のほうから切れはじめて、水平線の上に渦巻くような雲の塊りが、あるいはピンクにあるいは金色に条《すじ》のように光っていた。
「あれをごらんなさいよ」と彼女は声をひそめてギャツビーにささやいた。それから言葉を継いで、「あの桃色の雲のなかにあなたを押しこんで、ぐるぐる回してみたいわ」
私はそろそろ座をはずそうかと思った。しかし二人は一向に気づいた様子もない。もしかしたら、私がここにいたほうが、かえって二人は安心していられるのかもしれない。
「そうだ、いいことがある」とギャツビーが言った。「クリップスプリンガーにピアノを弾いてもらおう」
そして、「ユーイング!」と呼びながら部屋を出て行ったが、間もなくべっこう縁の眼鏡をかけ金髪の薄くなった青年を一人連れて来た。青年は戸惑っていた。なんとなく疲れて見えるのは何か運動をしていたところだったらしく、襟の開いた「スポーツ・シャツ」を着て、スニーカーに淡い色のズックのズボンというしゃれたいでたちである。
「運動をしてらしたんでしょ。お邪魔じゃなかったかしら?」とデイジーはしとやかに尋ねた。
「いいえ、寝てたんです」と、クリップスプリンガーはすっかりまごついて、固くなっている。
「つまりその、さっきまでは寝てたんです。それから起きまして……」
「クリップスプリンガーはピアノを弾くんですよ」とギャツビーが構わずに口を出した。「そうだろう? ねえ君?」
「いいえ、全然だめです。ぼくは――ほとんど弾けないと言ってもいいくらいです。それにまるで練習も……」
「階下《した》へ行こう」とギャツビーはしまいまで聞かずに言った。スイッチをひねると、暮色をたたえた窓の色は消えて、家じゅうが皎々《こうこう》たる光に包まれた。
音楽室に入ると、ギャツビーはピアノの傍に一つだけ置いてある電燈をつけた。そして震える手でデイジーの煙草にマッチをすってやると、部屋の向う端の長椅子に彼女と並んで腰をおろした。広間から射してくる光が床に反射する以外に、そこまでは光は届かなかった。
クリップスプリンガーは『愛の巣』を弾き終ると、椅子にすわったままくるりと振り向いて、自信なさそうにギャツビーの表情をうかがった。
「全然練習してないんですよ。さっきも言ったとおりです。このところほとんど練習――」
「うるさいよ」とギャツビーははねつけた。「いいから弾きなさい!」
朝も
夕も
つらいことばかり――
外は風が強く鳴り、海峡のほうでかすかに雷鳴がした。いまやウェスト・エッグの家々に灯が残らずともり、家路を急ぐ人々を乗せた電車がニューヨークから雨のなかを驀進していた。人の心に深い変化が起こる時間である。興奮があたりを包みはじめた。
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こいつは確かだ間違いないよ、
お金持には金ができ、貧乏人には子ができる。
さあそのうちに
そのうちに――
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別れを告げにギャツビーのほうに行ってみると、彼の顔には再び困惑の色が戻っていた。現在のこの幸福がどんなものか、再びかすかな疑念に襲われたのだった。何しろ五年という歳月が流れているのだ。今日の午後の幸福なひとときの間にも、デイジーが彼の夢を破った瞬間は何度もあったに違いない――それは彼女が悪いのではなく、彼自身の幻影があまりにも大きく強烈だったからなのだ。それは彼女の力をもってしても、いや何をもってしても、どうなるものではない。ほとんど創造的ともいえる情熱を傾けてその幻影のなかに自分で自分をおぼれさせ、たえず幻を大きくふくらませ、自分のほうに吹き寄せられてくる美しい羽毛を残らず拾い集めて、幻影をさらに美しく飾り立てているのだ。いかなる情火もいかなる清新な魅力も、男がいったん胸の奥深く築き上げてしまった幻を、突き壊すことなどできるものではない。
見守っていると、やがて彼が少し気を取り直したのがわかった。彼は彼女の手を取った。そして、彼女が彼の耳元に何かささやくと、はっと大きく感情の動揺を見せて、彼女のほうを向いた。彼の心を何よりも深く揺《ゆ》すぶり、情熱の火をかき立てるものは、彼女の声に違いない。なぜなら声こそは、夢のなかで昔のままに生きつづけるものなのだ――声こそは、いわば不滅の歌なのだ。
二人とも、私のことなどすっかり忘れていた。しかしふとデイジーは顔を上げて手をさしのべた。ギャツビーのほうはいまはまるで私のことなど念頭にないらしかった。私はもう一度二人を眺め返した。向うもこちらを振り返ったが、それは胸の炎に取り憑かれたうつろな目だった。私は部屋を出ると、大理石の階段を下りて雨のなかに出た――二人を後に残したまま。
[#改ページ]
六
そのころのある朝、ニューヨークから来たという、まだ若くて野心に満ちた新聞記者が一人、いきなりギャツビーのところに所信をうかがいたいと訪ねて来たことがあった。
「所信て、なんのことです?」ギャツビーは丁重に応対した。
「いや、つまり――声明か何か発表なさるんでしょう?」
なんのことやらはじめは訳がわからなかったが、五分ばかりやりとりがあってようやく、この男が自分の会社かどこかで、何かのことでギャツビーのことを耳にして訪ねて来たものとわかった。もっともその何かのことというのが、なんのことなのか、彼は明かしたがらなかった。あるいは自分でもよく知らなかったのかもしれない。とにかくその日は非番だったので、一つ抜けがけの功名をと、「面会」を申し込んで来たというわけだった。
つまり、あてずっぽうだったのだが、しかし記者の勘は正しかった。招待を受けてギャツビー邸を訪れる人間の数がふえるに従って、彼の過去にまつわる神話伝説に詳しい人間の数もふえるわけで、それが夏の間にすっかり世間に広まって、いまではもう旧聞に属すると言ったほうがいいくらいである。「カナダに通ずる地下情報ルート」などといった類《たぐ》いの現代の神話も彼と結びつけて喧伝され、そうした話の常で次第に尾鰭《おひれ》がついて来て、ギャツビーは実は普通の家に住んでいるのではなく、家と見えるのは実は船で、それでロング・アイランドの海岸をひそかに上り下りしているのだというような話も、まことしやかに語り継がれることになる。こんなでたらめな作り話に、北ダコタ出身のジェイムズ・ギャッツともあろうものがなぜ満足しているのか、それには深いわけがあった。
ジェイムズ・ギャッツ――これが彼の本当の、いや少なくとも法律上の名前だった。それを変えたのは十七歳のとき、彼が人生に第一歩を踏み出すその記憶すべき瞬間だった。そのとき彼は、ダン・コディのヨットが、スペリオル湖の最も危険だとされている浅瀬の向うに錨を下ろしたのを見たのである。その日の午後、破れた緑色の肌着を着、ズックのズボンをはいて岸辺をうろついていたのは確かにジェイムズ・ギャッツだったが、その後で、ボートを借りて「ツオロミ号」に漕ぎ寄せて、三十分もしたら風が出てヨットもろとも木っ端微塵になってしまうよとコディに知らせてやった若い男は、まぎれもなくジェイ・ギャツビーに変身した後の彼だった。
もっともその名前は、それよりずっと以前から、彼が心のなかに秘めておいたものに違いない。彼の両親は甲斐性のない敗残の百姓だった――だが、彼らを自分の両親と考えることは、彼にはがまんならなかった。実のところ、ロング・アイランドはウェスト・エッグに住むジェイ・ギャツビーとは、彼が自分で自分を想像裡に作り上げた理想上の人物なのである。いわば神の子と言ってもいい――もしその言葉になんらかの意味があるとすれば、彼こそ正にそれだというべきだろう――だから彼は、父なる神の御業《みわざ》に励まなければならないことになる。大風呂敷でがさつで金ピカ趣味の俗っぽい美のために働かねばならないことになる。そこで十七歳の少年がいかにも考えつきそうな人物像として、ジェイ・ギャツビーという人間を頭のなかで作り上げた。そしてこの人物像に、彼は最後まで忠実だったのである。
一年以上もの間、彼は、貝掘りをしたり鮭《さけ》を釣ったり、その他、食物と寝座《ねぐら》を与えてくれさえすればどんな仕事でもしながら、スペリオル湖の南岸をうろついていたのだった。肌は焼けて褐色になり、筋肉がたくましく盛り上がったからだは、この苦悶時代の辛くもありのんきともいえる仕事を、ごく当り前のことのように耐え抜いていた。女を知ったのはごく若いうちである。しかし女は男を毒するからという理由で彼はこれを軽蔑した。若い箱入り娘は物を知らないし、そうでない女は、彼が猛烈な自己陶酔から当然と思っていることにも、とかくヒステリーを起こしたりするからだ。
だが彼の心は、絶えず騒がしく立ち騒いでいた。夜、床についているときなど、世にも奇怪な幻想に襲われることがあった。洗面台の上では時計が時を刻み、床の上に乱雑に脱ぎ捨てられた衣服の上を月光がしっとりと濡れたように照らしているその一方で、言うに言われないような豪華絢爛たる世界が、彼の頭のなかではくり広げられているのだった。夜ごとにつむぎ出されるこのような絵模様を、ついに睡魔がその幕を下ろしてしまうまで、彼はまざまざとその目に見た。こうした幻想が、一時は彼の想像力の吐け口となっていたこともある。それは、現実こそ実は非現実であり、盤石のごとくゆるがないかのように見えるこの世界も、実は妖精の翼に乗っているに過ぎないということを、心地よく暗示してくれるものだった。
数カ月ほど前には、未来の栄光を求める本能に導かれて、ミネソタ州南部にある聖オーラフ大学というルーテル派経営の大学に行ったこともあった。そこには二週間ばかりいたが、運命の戸を叩こうとする彼に対して、いや運命そのものに対して大学が全く冷淡であることにすっかり面喰らった上、学資を稼ぐ必要から勤めた小使いの仕事のばかばかしさに愛想をつかした。彼は再びスペリオル湖に舞い戻って仕事を探し出した。ダン・コディのヨットが湖岸の浅瀬に錨を下ろしたのは、そのようなころのある日だったのである。
コディは当時五十歳、ネバダの銀山、ユーコン川の金、その他一八七五年以来の度重なるゴールド・ラッシュで成り上がった人物だった。モンタナの銅の取引きで百万長者どころか億万長者にのし上がった。ところがここで彼は、頑健なからだとは裏腹に気持のほうは滅法弱いことを暴露してしまった。するとこれに気づいた女たちが、彼からふんだくれるだけふんだくろうと、わんさと押しかけて来た。なかでも、この彼の弱味につけ込んで、エラ・ケイという婦人記者がルイ十四世をたぶらかしたマンテノン夫人よろしく、彼をヨットに乗せて海へ追いやってしまったというどう見ても芳しいとは言えぬ事件の顛末は、一九〇二年度のジャーナリズムで最大のスキャンダルとなった。かくしてここ五年ばかり、行く先々で嬌声に迎えられながら、彼は航行をつづけていたが、そんなある日、リトル・ガール湾にたまたま錨を下ろしたことが、ジェイムズ・ギャッツの運命を左右することになったのである。
漕ぐ手を休めて、手すりをめぐらした甲板をふり仰いだ若いギャッツにとって、そのヨットは、この世のあらゆる美と魔力とを象徴するものだった。恐らくこのときの彼は、何をおいてもコディに笑顔で向かったであろう――自分の顔が人に好感を与えることを、彼はそれまでの経験から知っていたに違いない。それはともかく、コディは彼に二つ三つ質問をした。(その一つに対する答えとして、彼の新しい呼び名が生まれたわけだ)そして彼が才気もあり、度はずれた野望を抱いていることを知った。数日後、コディは彼をダルース〔スペリオル湖西岸の港町〕へ連れて行って、青い上着と、白いズックのズボンを六着、それにヨット帽を一つ買ってやった。そして「ツオロミ号」が西インド諸島とバーバリ海岸〔アフリカ北部の地中海沿岸〕に向けて出航したとき、ギャツビーもそのなかに混じっていたのである。
もっとも、彼ははっきりした資格で雇われたわけではなかった――コディの側にくっついているうちに、給仕になり航海士になり船長になり秘書になり、ときには看守の役までつとめた。それというのも、ダン・コディは、酔えばどんなばかげたことを仕出かすことになるか自分でもよく知っていたから、ギャツビーに対する信頼が深まるにつれ、自分の監視役を頼むようになったのである。こうした関係は五年ほどつづき、その間にヨットは大陸を三度巡航した。
もしも、ある晩エラ・ケイがボストンから乗り込んで来て、それから一週間後に、ダン・コディがろくな看病も受けずに寂しく死んで行く――という事態が起こらなかったならば、それはそのまま永久につづいていたかもしれない。
ギャツビーの寝室にかかっていたコディの肖像を、私はいまでも覚えている。いかめしいがどこかうつろな顔をした、半白頭のあから顔――それはアメリカの歴史のある一時期に、辺境の淫売宿と安酒場の野蛮で荒っぽい雰囲気を、東部の海岸に持ち帰った、放蕩無頼の開拓者の典型だった。ギャツビーがあまり酒を飲まないのも、一つにはコディが原因だった。乱痴気騒ぎのパーティなどで、よく、酒を飲まない彼をからかって女たちにシャンペンを髪になすりつけたりされることがあったが、彼自身は、飲めないのではなく、酒には手を触れない習慣だったのである。
禁酒のいましめともう一つ、彼はコディから財産を受け継いだ。二万五千ドルという遺産である。が、それは彼の手には入らなかった。どんな法律上のからくりがあったのか、彼にはさっぱりわからなかったが、とにかく、何百万という遺産はそっくりエラ・ケイのふところに入ってしまったのである。しかしこの奇妙な一幕のおかげで、彼は普通では学ぶことのできない、人生の裏面を教わったと言えるかもしれない。その結果、それまでは何か明確な印象を人に与えることのなかった彼は、ジェイ・ギャツビーという確固たる個性を持った、一個の男として誕生したのである。
*
このような話を彼から聞かされたのは、ずっと後になってからのことだが、それをいまここに書き留めておこうと思うのは、彼の素性について根も葉もない噂が流れはじめたのを、ここで粉砕しておきたいと思うからである。それに私がこの話を聞いたのは、彼についてあることないことを散々耳にして、一体どこまで信じていいのか、あるいは何もかも眉唾《まゆつば》なのか、私自身わからなくなっていたときだった。そこで、私は、ギャツビーがいわば一瞬息をのんだとでもいうべきこの機会を利用して、この一連の誤解を一掃しようと思ったのである。
それはまた、私とギャツビーの交際が、一時ちょっと途切れたときでもあった。もう何週間も、彼の姿も見かけなければ電話の声も聞いていなかった――私はもっぱらニューヨークにいて、ジョーダンと一緒にあちこち歩き回ったり、すっかり耄碌《もうろく》した彼女の伯母なる人にお気に召してもらおうと、ご機嫌を取り結んだりしていたからでもあったが――しかしやがて、ある日曜の午後、私は彼の家を訪ねてみた。ところが行ってまだ二分とたたないうちに、だれか知らない男がトム・ビュキャナンを連れて、一杯飲ませろと言ってやって来た。もちろん私はびっくりしたが、しかし本当は、こんなことは以前にはついぞなかったということのほうが、驚くべきことなのだった。
一行は三人、いずれも馬に乗ってやって来た――トムとスローンとかいう男と、茶色の乗馬服を着た美人で、これは前にもここで見かけたことがある。
「やあ、よくお立ち寄りくださいましたね」とギャツビーはポーチのところまで出迎えて言った。「本当によく来てくれました」
待っていた、とでもいうような口ぶりである。
「まあおかけください。煙草をどうぞ、いや葉巻のほうがよろしいですかな」彼はせわしげに部屋を歩き回り、呼鈴を鳴らした。「すぐ飲物を持ってこさせますから」
彼はトムがそこにいるということが、ひどく気になるようだった。とにかく連中に何か振舞ってやらないうちは、落ち着かないらしい。彼らのやって来た目的はそこにあることぐらい彼にも大体見当はついていた。しかしスローン氏は何もいらないと言った。レモネードは? いや、結構です。シャンペンを少しいかが? いえ、本当に結構です……ありがとうございますが――
「馬は面白かったですか?」
「この辺は道がとてもいいですね」
「しかし車が――」
「そうなんです」
もうがまんができないというふうに、ギャツビーはトムのほうに顔を向けた。トムはさっき初めての人として紹介を受けていたのである。
「前にどこかでお目にかかったと思いますが、ミスター・ビュキャナン?」
「ああ、そうでしたね」とトムはがらがら声で慇懃に答えたが、まるで覚えてなどいないことは明らかだった。「そうでした、よく覚えてますよ」
「二週間ほど前でしょう?」
「そうです、そうです。あなたはこのニックと一緒でした」
「私はあなたの奥さんを知ってますよ」とギャツビーはつづけたが、それは喧嘩腰のようでもあった。
「そうですか?」
トムは私のほうを向いた。
「君はこの近くに住んでるの、ニック?」
「隣りだよ」
「そうか?」
ミスター・スローンは会話には加わらず、横柄な態度で椅子の背にふんぞり返っていた。女も何も言わなかった――が、ハイボールを二杯ばかり乾すと、出しぬけにいやに馴れ馴れしくなった。
「こんどのパーティには、私たち、みんなで伺いますわ、ミスター・ギャツビー。よろしいかしら?」
「もちろん、歓迎しますよ」
「それは光栄です」とミスター・スローンは言ったが、別にありがたそうでもなかった。「ところで、もうそろそろおいとましなくちゃ」
「まあ、どうぞごゆっくり」とギャツビーがすすめたのは、一つには、いまではすっかり落ち着きを取り戻した彼は、もう少しトムを観察したかったからである。「構わないでしょう、夕食を召しあがっていらっしゃいませんか。家《うち》はいつなんどき、ニューヨークから客が不意に現われても、なんでもありませんから」
「私のところに夕食にいらしたら?」例の女性が熱心にすすめだした。「お二人とも」
お二人とも、というなかには私も入っている。そのときミスター・スローンがすっくと立ち上がった。
「行きましょう」と彼は言ったが、それは彼女にだけ言ったのだった。
「あら、ほんとよ」彼女はまだがんばっている。「ほんとにいらしてくださいな。ちっとも構わないのよ」
ギャツビーは、どうしようと相談するような顔で私を見た。行きたいらしかったが、ミスター・スローンが来させまいとしているのが、彼にはわかっていないのだ。
「残念ですが私は伺えません」私は言った。
「そう、それじゃあなた、いらっしゃらない?」と、こんどはもっぱらギャツビー一人に的をしぼる。と、そのとき、ミスター・スローンが彼女の耳元に何かささやいた。
「いま出かければ遅くなりませんわ」女のほうは平気で大きな声で言った。
「私は馬を持ってないので」とギャツビーは言った。「軍隊にいたころはよく乗ったものですがね。しかし馬を買ったことはないんです。ですから車でお供しなくちゃならないんですが、ちょっとお待ちください」
後に残った私たちはポーチに出た。ミスター・スローンは例の女性をわきに呼んで、何やら激しく言い争っていた。
「やれやれ、あいつ本当に来る気だぜ」とトムは言った。「彼女がお愛想を言ってるだけなのがわからんのかな?」
「来てくれって言うんだもの」
「彼女んとこは盛大に晩餐会をやってるんだが、彼の知っている人間なんて、一人もいやしないんだ」彼は顔をしかめた。「いったい彼、どこでデイジーと知り合ったのかな。まあ確かに俺のほうも頭が古いのかもしれないが、近ごろの女の子はやたらに駆けずり回るんで気にくわん。だからありとあらゆるフーテンどもがいい気になるんだ」
そのとき不意に、ミスター・スローンと例の女が石段を下りて、馬に乗った。
「行くぞ」と彼はトムに向かって言った。「遅れるよ、もう行かなくちゃ」と言ってから、私に向かって「待てないから先に行った、と言ってくれませんか?」
トムと私は握手をした。他の連中とは冷ややかに会釈し合うだけだった。彼らは見る見る車道を駆け去り、やがて八月の茂った木立ちの陰に消えて行った。と、ちょうどそれと入れちがいに、ギャツビーが帽子と明るい色のオーバーを手に、玄関から出て来た。
トムは、デイジーが一人でほうぼう駆け回るのが、どうみても気になってならなかったらしい。次の土曜日の晩にギャツビーのところで開かれたパーティにも、彼女にくっついてやって来たぐらいである。しかしこんなひもがついて来たので、パーティのほうはどうも妙にはずまない感じになってしまった――もっともそのためにかえって、その夏ギャツビー邸で開かれたパーティのなかでも、その日のことだけが特に私の印象に残っている。
集まっている顔ぶれも同じ、少なくとも人種は同じ、シャンペンが溢れんばかりにふんだんに抜かれるのも、きらびやかな色とりどりの衣装や陽気な喧騒も、いつものとおりだった。しかし私は、その雰囲気のなかに何か不愉快なもの、いままでにはなかったあるとげとげしいものがあるのが気になった。もっとも、私はあまりにもこの雰囲気に馴れすぎていて、このウェスト・エッグというものを、独自の基準を持ち、大物がキラ星のように出入りし、それでいて自分で自分の存在の風変りなありさまなど一向気にとめていないという大らかさの故に、他にちょっと比べるもののない独特な、一つの完璧な世界のように思い込んでいたからかもしれない。あるいはまた、再びデイジーの目を通してしか物が見えなくなっていたせいかもしれない。いままで苦労して順応してきたものを、改めて別な新しい目で見直さなければならないというのは、なんとしても悲しいことだ。
二人がやって来たのは夕暮れだった。私も一緒に、何百人というきらびやかな人たちの間を縫って歩いたが、その間じゅう、デイジーは妙にわざとらしく気取った作り声で、べちゃべちゃと絶えずささやきかけてきた。
「私、こういう所に来ると興奮しちゃうのよ。今晩私にキスしたくなったらね、ニック、ちゃんとそう言ってね。いつでもさせてあげるわ。ちょっと私の名前を呼べばいいのよ。でなかったら、緑のカードをくれてもいいわ。私、緑のカードをくばって――」
「あちこちごらんになりませんか」と、そのときギャツビーが口を出した。
「拝見してますわ。素敵だわ」
「ご存じの顔が大勢みえてますよ」
トムは傲慢な目で、あたりを見回していた。
「われわれはあまり出歩かないものですからな」と彼は言った。「実を言うと、知ってる人は一人もいないなと思っていたとこなんですよ」
「あのご婦人はご存じだと思いますが」とギャツビーは、白いスモモの木の下に、いやにごてごてと紫色に着飾ってすわっている、なんだか人間離れのした女性を指さした。トムとデイジーは目を見張った。いままでは影みたいなものとしか思えなかった有名な映画女優を目《ま》の辺りに見たときの、あのなんとも信じ難いような狐につままれたような感じだった。
「きれいな方ね」とデイジーが言った。
「彼女の上に身をかがめているのは、監督ですよ」
ギャツビーはもったいぶって、二人をグループからグループへと案内して回った。
「こちらはビュキャナン夫人――こちらはミスター・ビュキャナン――」と言って、ちょっとためらってから「ポロの選手です」
「いや、いや」トムはあわてて否定した。「とんでもありません」
しかしこの言いかたがギャツビーの気に入ったと見えて、その夜ずっと、トムは「ポロの選手」と紹介される破目になった。
「こんなに大勢有名な方たちにお会いしたの、私、はじめて」とデイジーはすっかり興奮して声も高くなっていた。「あの方素敵だったわ――なんてお名前だったかしら? ――なんだか清教徒みたいな感じの――」
ギャツビーは、ああ、彼のことですか、とその男の名前を言って、つまらぬプロデューサーです、とつけ加えた。
「でも、とにかく私、気に入ったわ」
「私はポロの選手でないほうがありがたいな」トムも愉快そうだった。「こういう有名人たちを、人目につかないところからこっそり眺めてみたいな」
デイジーとギャツビーがダンスをした。私は、彼のフォックス・トロットが優雅で古風なのに驚いたのを覚えている――それまで私は、彼がダンスをやるのなど、見たことがなかった。それから彼らは、私の家までぶらぶら歩いて行って、石段の上に三十分もすわっていた。私は、彼女に見張り番を仰せつかって、後に残ることになった。「火事だとか洪水だとか、何が起こるかわからないから」と言うのだった。
やがて私たちが夕食をはじめるころになって、それまで人目につかない所でひっそりしていたトムが、姿を現わした。「あそこにいる人たちと一緒に食べても構いませんか?」と彼は言った。「何か面白いことを言っているんで」
「どうぞ」とデイジーは愛想よく言った。「住所でも書いておこうというんなら、私が金の鉛筆を持ってるわよ」彼女はそう言って、しばらくあたりを見回していたが、目にとまった娘を指さして、「あの子、品はないけど可愛いわね」と私に言った。そこで、さっきギャツビーと一緒にいた三十分を除けば、あまり楽しんではいないらしいことがわかった。
私たちのテーブルは特に酒がまわっていた。私はしまったと思った。ギャツビーはしょっちゅう電話がかかってきて席を立っていたし、二週間前だったら、私としてもこの席の連中と結構話を楽しんだかもしれなかった。しかし、そのとき面白かったものも、いまではただ索漠たるものでしかなかった。
「大丈夫ですか、ミス・ベデカー?」
こう話しかけたのは、その娘が私の肩の上にしなだれかかろうとしてうまくいかず、よろけたからである。そう言われて、彼女はすわり直すと、目をかっと開いて、
「なあに?」
そのとき、それまで明日カントリー・クラブでゴルフをしないかとさかんにデイジーを誘っていた、眠たそうなぼんやりした顔の大女が、何を思ったか急にベデカーの弁護をはじめた。――
「あら、もう大丈夫よ。この人、カクテルを五、六杯飲むと、いつもあんなふうにきゃあきゃあ騒ぎ出すのよ。その癖は止めなきゃいけないって、私、いつも言ってるんですけどね」
「止めるわよ」ミス・ベデカーがうつろな声で言った。
「あなたずいぶん騒いでたじゃないの。だから私、ここにいるシベット先生《ドック》に申し上げたのよ――『いずれお手をわずらわせなければならない人が出ますわよ』って」
「それはきっと感謝しますよ、彼女」と別な仲間が言った。「でもあなた、ミス・ベデカーの頭をプールにつけたので、服まですっかり濡れちゃったじゃないの」
「何が嫌だといって、プールに頭をつけられるほど嫌なことはないわ」と、ミス・ベデカーがむにゃむにゃつぶやいた。「いつかなんか、ニュージャージーで、私、溺れそうになったわ」
「だから、やっぱり止めなきゃいけないんですよ」シベット先生がぴしゃりと言った。
「よけいなお世話よ!」とミス・ベデカーは物すごい権幕でかみついた。「あなた、手が震えてるじゃないの。そんな手で手術なんて、真っ平だわ」
万事こういう具合だった。その日のことで私がもう一つ覚えているのは、デイジーと一緒に立って、例の映画スターと監督の様子を見ていたときのことだ。二人はまだ白アンズの木の下にすわっていて、互いの顔はいまにも触れるかと見えて触れず、青白い月影がその間から洩れていた。どうやら夜じゅうかかって、徐々に徐々に、彼はこの距離まで接近することに成功したのではないかという感じだった。と、やがて、私の見守る前で、彼はついに最後の段階を越えて、彼女の頬に唇を触れるのが見えた。
「私、あの人、気に入ったわ」とデイジーが言った。「可愛いじゃないの」
だがその他の連じゅうには、彼女はすっかり腹を立ててしまった――と言ってもそれは、だれのどういうところがいけないという具体的なものではなく、感情的なものだった。彼女は、ウェスト・エッグという、ブロードウェイがロング・アイランドの一漁村に産みつけたこの前代未聞の「土地柄」に、すっかり胆《きも》をつぶしたのだ――古めかしい遠回しの言葉づかいなどまだるこしくてがまんできないという、むき出しの活力や、運命が最短距離を通って、そこに住む住人に無意味なことを次々と追い求めるようにし向けて行く、そのあまりにも苛烈な力に、彼女は驚き呆れたのだ。そのあまりの簡明率直さのなかに、何か理解しきれない恐ろしいものを感じたのだ。
彼らが車を待っている間、私も一緒に玄関の石段に腰を下ろしていた。玄関先は暗くて、ただ、明るい戸口から十フィート四方ぐらいの光を、まだ暗い、さわやかな暁のなかに投げているばかりだった。ときどき、二階の化粧室のブラインドに人影が動くのが見えた。と思うと、また別の影に変り、つぎつぎと果てしなくつづいた。下からは見えないが、鏡に向かって白粉を塗ったり紅をつけたりしている人たちの影である。
「いったい、このギャツビーというのは何者なんだい?」と不意にトムが尋ねた。「酒の密輸の親玉かい?」
「そんなこと、どこで聞いたんだ?」と私は聞いた。
「聞きゃしないさ。想像だよ。当節できの成金てのは、大概、酒の密輸で儲けた奴じゃないか」
「ギャツビーは違うよ」私はぶっきら棒に答えた。
彼は一瞬黙った。玉砂利が彼の足の下できしるように鳴った。
「とにかく、これだけの動物園を開業するには、先生、大分苦労したに違いないぜ」
微風が、デイジーの毛皮の襟巻の灰色のやわらかい毛を吹いて行った。
「なんにしても、私の知り合いより、あの人たちのほうが面白いわ」むきになって、彼女は言い張った。
「大して面白そうでもなかったじゃないか」
「あら、面白かったわ」
トムは笑って、私のほうを見た。
「君、あの娘《こ》にシャワーまで連れて行ってくれと頼まれたとき、デイジーがどんな顔したか、覚えてるかい?」
デイジーは、折から聞えてきた音楽に合わせて、かすれた低声《こごえ》で、調子よく歌い出した。歌詞の一言一言に思いをこめて、こんな情感のこもった歌は、先にも後にも聞くことはあるまいと思われるほどだった。メロディーが高くなると、彼女の声もそれにつれてコントラルト特有の震えを帯びた高音に変わった。そうして曲の調べが変るたびに、彼女の持つ暖かい人間的な魅力が少しずつ漂い出るのだった。
「招待されてない人も大勢来てるのね」ふと、彼女が言った。「あの娘《こ》なんかも、その口よ。みんな勝手に押しかけてくるのに、あの人ったら、やさしいから断われないんだわ」
「そのあの人のことだがね」とトムがまた口をはさんだ。「いったい何者で、何をやってるんだろうね? いまにきっと探り出してやるぞ」
「そんなこと、いますぐだって教えてあげられるわ」彼女は答えた。「ドラグ・ストアをいくつか、いえ、たくさん持ってるのよ。みんな、自分で建てたのよ」
待ちかねていたリムジンが、やっと庭の道にエンジンの音を響かせてやって来た。
「お休みなさい、ニック」とデイジーが言った。
彼女は私から目をそらすと、石段の上のほうの明りの洩れているあたりに、人影をさがしはじめた。しかし戸口からは、「朝の三時」という、その年はやったちょっと気のきいた哀愁のあるワルツの曲が洩れ聞えてくるだけだった。要するに、ギャツビーのパーティの度はずれためちゃめちゃな雰囲気には、彼女の住む世界には全く失われてしまっている、ロマンティックなものへの可能性があったのだ。彼女を再び家のなかに呼び戻すかと思えたあの歌には、いったい何があるのだろう? また、これからどんなことがはじまるのか、すべてが曖昧で、予測もつかない。例えばだれか、思いもかけなかったような客がやって来るとか、滅多《めった》にお目にかかれないような、だれが見ても賛嘆したくなるような、正真正銘輝くばかりのうら若い美人が到来して、みずみずしい目差しをちらっとギャツビーに投げかけるだけで、たちまち彼の心を虜《とりこ》にしてしまって、デイジーを一途に思いつづけてきた五年間の歳月をも、あっさりと過去のものにしてしまわないとも限らないのだ。
その夜、私は遅くまで残っていた。からだがあくまで帰らないでいてくれと、ギャツビーから頼まれていたからである。そこで私は、どうしても水浴びをするんだと言ってきかない連中が、暗い浜辺からぶるぶる震えながら大騒ぎして上がって来て、やがて二階の客間の明りが消えてしまうころまで、庭をぶらぶらしていた。やがて、やっと彼が石段を下りて来た。陽焼けした顔がいつになく緊張し、目は疲れてぎらぎらしていた。
「彼女は気に入らなかったらしい」彼はまずこう言った。
「そんなことはありませんよ」
「いや、彼女の気に入りませんでした」と、彼は言い張った。「ちっとも楽しんで行ってくれませんでした」
そう言って彼は口をつぐんだ。言い知れない憂鬱が察しられた。
「私は、彼女からずい分遠くへ離れてしまっています」やがて彼はそう言った。「彼女にはなかなかわかってもらえません」
「ダンスのことですか?」
「ダンス?」彼は指を鳴らした。その夜踊ったダンスなど、ひとまとめにして振り捨ててしまうようだった。「旧友、ダンスなんか問題じゃありません」
要するに彼は、デイジーがトムのところへ行って、「あんたなんか嫌いよ」と言ってくれるまでは、決して満足できないのだ。彼女がそう宣言して、過去の四年間を水に流してくれさえすれば、後はもう、もっと現実的な問題について、取るべき手段はいくらでも講ずることができるのだ。例えば、彼女が自由の身になったら、一緒にルイスビルに帰って、彼女の里から改めて嫁にもらおう――何もかも五年前に戻って、とか。
「それが彼女にはわからないんです」とギャツビーは言った。「昔はあんなによくわかってくれたのに。何時間も一緒にすわって――」
言いかけて、ふと口をつぐむと、彼は果物の皮だの、パーティの造花の踏みつぶされたのだのが散乱している小道を、行ったり来たりしはじめた。
「私なら、そんなことまで彼女に求めませんね」私は思いきって言ってみた。「過去は繰り返せませんもの」
「過去は繰り返せないって?」とんでもないことを言う、といった感じで大声をあげた。「いや、繰り返せますとも、絶対に」
そう言って彼は、憤然としたようにあたりをきょろきょろ見回しはじめた。過去がそこの家の影のなかにでも、すぐ手の届きそうなところに潜んでいるのを探しでもするようだった。
「何もかも、昔の通りにしてみせる」と、自分で自分に言い聞かせるように、一人うなずいて言った。「彼女だって、いまにわかるさ」
それから、彼は過去のことを、いろいろと話してくれた。彼は何かを取り戻そうとしている。恐らくそれは、デイジーを愛するに至った過去の自分の姿ではないか――話を聞きながら私はそんなふうに推測していた。デイジーを愛するようになってから、彼の人生は混乱し、調子が狂っている。しかしここで、もう一度その出発点に立ち帰って、はじめからゆっくりとやり直してみれば、あるいは彼も、事の真相をつかむことができるかもしれない……
……五年前のある秋の夜のことだった。二人は落葉の降る街路を歩いているうちに、ふと、木々がなくなって、ただ月の光が皎々と白く歩道を照らしているところに出た。二人は立ちどまり、互いに顔を見つめ合った。一年に二度、季節の変り目ごとに訪れる、あの不思議な興奮を秘めた、それは涼しい夜だった。家々の灯が静かにちらちらと闇のなかに流れ出し、星はきらきらと満天にさざめくように光っている。そのときギャツビーは、デイジーの顔を見ていながら同時に、何町もつづく歩道が本当に梯子になって、樹々の梢をはるかに越えて、人の知らぬ聖域にまで届いているのを、もう一つの目で確かに見たと思った――あそこまで、自分は上ることができる、と彼は思った。もし、自分一人で上るならば。そしてひとたびあそこまで行き着くならば、自分は人生の乳首をくわえ、比類ない驚異の乳を存分に飲みつくすことができるのだ、と。
デイジーの白い顔が近づいてくるにつれて、彼の鼓動は激しくなった。彼は知っていた。いまこの娘に接吻し、自分の抱いている口では言えないほどの夢を、彼女のはかない呼吸《いき》に永久に結びつけてしまったならば、彼の心は二度と、神のそれのように自由に天を駆けることはできなくなるのだ、ということを。そこで、彼は待った。一瞬、いやさらにもう一瞬、星に打ちつけられた音の響きに耳を傾けた。それから、彼女に接吻した。彼の唇が触れると、彼女は一輪の花の開花するように、彼を迎え入れた。こうして、二人は一つになった。
ギャツビーの語る一部始終を聞きながら、私は、彼の度の過ぎた感傷にはやや辟易《へきえき》しながらも、ある何かを――遠い昔に聞いたことのある何かを思い出していた。それは、捕えがたい音楽のリズム、失われた言葉の断片であったかもしれない。一瞬、ある言葉が私の口のなかで形をとりそうになり、私は唖のように唇を開いて、ひと塊りの空気が振動して何かまとまった言葉になるかと思った。しかし、それはついに声にはならなかった。私がほとんど思い出しかけたあるものは、そのまま永久に人に伝えられることなく終ったのだった。
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七
ギャツビーに対する好奇心がその絶頂に達したころの、ある土曜日の晩のことである。彼の家に明りのともらないことがあった――そしてそのまま、トリマルキオ〔成り上り者〕としての彼の生活は、その初めが不明だったように、終りもまたいつとはなしに消えて行った。何かを期待して車寄せに入って来る車があっても、ものの一分もすれば、また不満そうに走り去ってしまう――そんなことに、私もだんだん気がつきはじめた。具合でも悪いのか見舞いに行ってみると、見馴れない顔の執事が人相の悪い目付きで、うさん臭そうに戸口から顔を出した。
「ミスター・ギャツビーはご病気ですか?」
「いいえ」と言ってから、彼はしばらく黙っていたが、やがてしぶしぶ、「お客様」とつけ加えた。
「ここのところしばらくお見かけしなかったものですから、心配してたんです。キャラウェイが参ったと伝えてください」
「どなたですって?」ぞんざいな口のきき様である。
「キャラウェイです」
「キャラウェイね。わかりました。伝えときましょう」
それなり彼は、ばたんと扉を閉めてしまった。
家のフィンランド人の家政婦の言によると、ギャツビーは一週間前に使用人を全部解雇してしまい、その代りに六人ほど他の者を入れたが、こんどは商人に鼻ぐすりを嗅がされたりしないように、ウェスト・エッグの村まで出かけたりせず、注文は全部電話で、しかもほどほどなだけするようになった、ということだった。また乾物屋の小僧の話では、キッチンはまるで豚小屋同然だと言うし、新しく入った連中は実は使用人などではないらしい、というのが村じゅうのもっぱらの噂だった。
ところがその翌日、ギャツビーから電話がかかってきた。
「お出かけですか?」私は聞いた。
「いいえ」
「使用人を全部首にしたって聞きましたが」
「あまり口の軽い奴は困りますからね。デイジーがよく来ますしね――午後だけですけど」
なるほど、デイジーがちょっと不満そうな目をしただけで、泊り客の多いあの大邸宅も、カードの家のようにはかなく崩れ落ちてしまったというわけだったのか。
「こんど来た連中は、ウルフシェイムがなんとか面倒を見てくれと言うものですから。みんな兄弟姉妹《きょうだい》です。前に小さなホテルをやっていたというんですがね」
「なるほど」
彼が電話をかけてきたのは、デイジーに頼まれて――明日一緒に、デイジーの家で昼食を食べないか、と言うのである。ミス・ベーカーも来るという。三十分ほどしてから、こんどはデイジーが自分で電話をかけてきたが、私も行くとわかってほっとしたらしい。どうも、何かがあったようだ。もっとも、二人がわざわざ選《よ》りによって、こんなときにいざこざを起こしたとも思われない。まして、ギャツビーがこのあいだ話してくれたような愁嘆場《しゅうたんば》を、再び蒸し返すなどということは絶対にないだろう。
翌日は焼けつくような暑さで、この夏で最後の、そして間違いなく一番暑い日だった。私の乗った列車が、トンネルを抜けて白日のなかに出たとき、夏の真昼のひっそりと静まり返ったしじまを破り、ナショナル・ビスケット会社の警笛がけたたましく鳴りひびいていた。麦|藁《わら》をつめた座席は、ちょっと火をつければたちまち燃え上がりそうだった。私の隣りにすわっていた女は、白いブラウスにうっすらと汗をにじませているのが、なんとも色っぽかった。やがて手に持った新聞までがじっとり濡れてくるようになると、もう堪え切れなくなったのか、情けなさそうに溜息を洩らすと、ぐったりとなってしまった。と、紙入れがぱたりと床に落ちた。
「あら!」喘ぐように彼女は言った。
私は大儀だったが、身をかがめて拾い上げると、その紙入れを女に渡してやった。別に他意があるわけではないことを示すために、できるだけ端のほうをつまんで、差しのべるようにして渡してやったのだが、近くで見ていた人たちは、やはり私のことを疑っているようだった。むろんその女も。
「暑いですな」回って来た車掌が、顔見知りを見つけて言った。「すごい天気ですね、まったく! 暑い!……暑い!……暑い!……たまったものじゃありませんな、お互いに」
車掌が返してよこした私の定期券には、べっとりと指の跡がついていた。この暑さのなかなら、赤くほてった唇に彼が接吻しようと、彼のパジャマの胸にだれかじっとりと汗に濡れた頭をもたせかけようと、だれも気にする者はいないだろう!
……ギャツビーと私とが、ビュキャナンの家の戸口で案内を待っていると、玄関をかすかな微風が渡って来て、それに乗って電話のベルの鳴るのが聞えてきた。
「ご主人の死体ですって?」私は、執事が電話口でそう怒鳴っているような気がした。「申し訳ございませんが、奥様、しかしなんとも手がつけられませんので――昼の間は何しろこの暑さでございますから!」
しかしこれは私の妄想であって、本当は彼はただ「はあ、はあ、かしこまりました」と言っていただけに過ぎなかった。
執事は受話器を置くと、額に汗を光らせながらこちらへやって来て、カンカン帽を受け取った。
「奥さまは客間でお待ちかねでございます!」彼はそう声高に言って、その必要もないのに客間のほうを指さした。こう暑いと、こんな余計な身振りまでが、並みの生命力しか持ち合わせていない者には、なんだか腹立たしいものに思われてくる。
部屋は、日除けで深く影を作っていて、暗く涼しかった。デイジーとジョーダンが大きな長椅子の上に横になっていた。それは歌うような音を立てて風を送ってくる扇風機に、白いガウンが舞い上がるのを押えている銀の人形みたいに見えた。
「私たち、動けないわ」と二人は声を押えて言った。
ジョーダンは、日焼けした肌に白粉をつけた指を、しばらく私の指にからませていた。
「ところで、運動家ミスター・トマス・ビュキャナンはどうしました?」と私は尋ねた。
と、そのトムの無愛想でこもったようなしゃがれ声が、玄関で電話をかけているのが聞えてきた。
ギャツビーは、緋のじゅうたんの真ん中に立って、うっとりしたような目で、しきりに辺りを見回していた。その様子を見て、デイジーが、例の明るい、心を誘うような笑い声を立てた。同時に、胸元から、ぱっと白粉の匂いが立ちのぼって、ぷんと鼻をついた。
「噂ですけどね」と、ジョーダンが私にささやいた。「あの電話の相手が、トムのいい女《ひと》なんですって」
私たちは口をきかなかった。トムの声が、焦立ったように高くなった。「それじゃいいよ、もう君にはあの車売らないから……別に俺は、君に義理立てする必要は何もないんだからね……大体、昼めし時にそんなことでごちゃごちゃ言ってくるなんて、けしからんよ」
「あれは受話器を押えて言ってるのよ」とデイジーが皮肉に言った。
「いや、そうじゃない」と私は彼女に向かって断言した。「あれは本当に取引きだよ。ぼくは偶然知ってるんだけど」
そのとき、さっとドアが開いて、肥った体で戸口をふさいでしまうように、トムが姿を現わした。そしてそのまま、つかつかと部屋の中に入って来た。
「やあ、ミスター・ギャツビー!」嫌な素振りなどおくびにも出さずに、彼は大きながっしりした手を差し出した。「よくいらっしゃいましたね……やあ、ニックも……」
「冷めたい飲物でも入れてよ」デイジーが甲高い声で言った。
夫が再び部屋から出て行くと、彼女は立ち上がってギャツビーの傍に歩みより、彼の顔を引き寄せて唇にキスをした。
「わかってるでしょ、私の気持」と、そっと彼女はつぶやいた。
「あなた、ここにもう一人淑女がいるのをお忘れじゃありませんか」とジョーダンが口をはさんだ。
デイジーは不思議そうに振り返った。
「あなたもニックにキスすればいいじゃない」
「まあ、お品がわるい」
「私は気にしないわよ!」
吐き出すようにそう言うと、デイジーは、煉瓦作りの暖炉のそばでタップ・ダンスをはじめた。それからふと、この暑さを思い出すと、バツの悪そうな顔をして長椅子の上に腰をおろしたが、ちょうどそのとき、小ざっぱりと洗濯のゆき届いた服を着た乳母が、小さな女の子を連れて部屋に入って来た。
「大事な大事なお嬢ちゃま」と、デイジーは歌うように言って、両手を差しのべた。「お母ちゃまのとこへいらっしゃいな」
女の子は乳母の手を離れると、母親の傍に走り寄って、恥ずかしそうにスカートのなかにもぐり込んでしまった。
「あらあら、大事なお嬢ちゃま。お母ちゃまの白粉があなたの黄色い髪につかなかった? さあ、立っちして『こんにちは』ってご挨拶なさい」
ギャツビーと私は代る代る身をかがめて、おずおずと差し出された小さな手と握手をした。それから彼は、いかにも驚いたような顔をして、その子をじっと見つめていた。恐らく彼は、こんな子供がいようとはどうしてもぴんとこなかったに違いない。
「あたし、お食事だから、おべべ着たのよ」と女の子はしきりに母親のほうを振り返りながら言った。
「それは、ママがみなさんにあなたをお見せしようと思ったからよ」女の子の白い首筋に、ひと筋のくびれが見えた。デイジーはそこに顔を押し当てて、「あなたは夢よ。私の大事な、小っちゃな夢よ」
「そうよ」と子供は素直にそれに答えた。「ジョーダンおばちゃまも、白いおべべ着てるのね」
「あなた、ママのお友達、好き?」デイジーはそう言いながら、娘をギャツビーと向かい合わせた。「やさしそうな小父《おじ》ちゃまでしょう?」
「パパはどこ?」
「この子、父親には似てないのよ」とデイジーは私たちに向かって説明するように言った。
「私に似たのね。髪の色も、顔の形も」
それから、デイジーは、長椅子に深々と腰をおろした。乳母が進み出て、女の子の手を取った。
「さあ、いらっしゃい、パミーちゃん」
「さよなら、いい子ちゃん」
子供はまだここにいたいらしかったが、それでも行儀よく、しきりに後を振り返りながら、乳母に手を引かれて出て行った。入れ違いに、トムがジン・リッキーを四杯持って戻って来た。氷がかちかちとグラスに当って鳴っていた。
ギャツビーは自分のグラスを取り上げた。
「これは、いかにもつめたそうだ」と言ったが顔には緊張の色がありありと見えていた。
私たちはごくごくと、息もつかずに貪り飲んだ。
「どこかで読んだんだけど、太陽は年々熱くなっているんですってね」とトムがお愛想を言い出した。「まもなく地球は太陽に呑み込まれてしまうんだそうですな――いや、ちょっと待って――そうじゃなかった。反対だ。太陽は年々つめたくなっているんだそうです」などとごちゃごちゃ言っていたが、やがて「外へ出ませんか」とギャツビーに誘いをかけた。「家をちょっとお目にかけたいですから」
私も、一緒にベランダに出た。この炎熱の下に沈んだ海峡には小さな帆船が一隻、爽やかな外海に向かって、ゆっくりはうように進んで行った。ギャツビーはしばらくそれを目で追っていたが、ふと手をあげて入江の向うを指さした。
「私のところは、ちょうどこの向う側ですよ」
「そうですな」
バラの花園からその先に広がっている蒸れたような芝生、さらに先の渚にごみが捨てられて雑草が生い茂っている、そのまた向うの、真夏の午後の風景を私たちは眺めていた。涼しげな碧空が水と溶け合う水平線のあたりに、白帆がゆっくりと動いていた。その行く手には、帆立貝の貝殻のように小波の立つ海原が広がり、楽しそうな島々が無数に散らばっていた。
「楽しそうだな」とトムは、島のほうをあごでしゃくって指し示しながら言った。「一時間ばかり、ぼくも彼と一緒にあそこへ漕ぎ出してみたいよ」
暑さを避けるために薄暗くおおいをかけた食堂で、私たちは昼食をした。なんとなく落ち着かない浮わついた気分も、冷めたいビールを飲むと、いくらかおさまった。
「午後はどうやって暇をつぶそうかしら?」とデイジーが声を高めて言った。「それから明日も、明後日《あさって》も。それから、これからの三十年も」
「そんなにふさぎ込むんじゃないの」とジョーダンがたしなめるように言った。「秋になって爽やかになれば、また元気が出るわよ」
「だって、あんまり暑いんだもの」とデイジーはいまにも泣き出しそうな声を出した。「何もかもこんがらがっちゃって。ねえ、みんなでニューヨークへ出ない?」
それは、この暑さと戦ってすっかり参ってしまい、どうにも投げやりになった、という調子の声だった。
「厩《うまや》を改造してガレージにするという話はよく聞きますが」と、トムがギャツビーに向かって言った。「しかし、ガレージを厩に改造するというのは、ぼくが先鞭をつけたんですよ」
「ねえ、だれか町に行かない?」とデイジーはまだあきらめないらしかった。ギャツビーが、彼女のほうへ視線を移した。「あら、あなた涼しそうね」と彼女は声を上げた。
二人の目が合った。しばらく、二人はじっと見つめ合っていた。やっと、思い切るようにしてデイジーが視線をテーブルの上に落とした。
「あなたって、いつも涼しそうなのね」彼女は同じことを繰り返した。
それは、私はあなたを愛しています――と言っているのと同じだった。トム・ビュキャナンにもそれがわかった。彼は愕然としていた。彼はかすかに口を開け、ギャツビーを見、それからデイジーを見た。それは、昔会ったきり忘れていた人を見るような目だった。
「あなた、あの広告の人に似てるわ」彼女は、何も気づかないように言った。「知ってるでしょう、あの広告の人――」
「よし」と、トムが素早く口をはさんだ。「ぼくは断然町へ行くぞ。さあ、みんなで行こうよ」
彼は立ち上がった。しかし、目はまだぎらぎらと、ギャツビーと自分の妻の間に走らせていた。だれも動かなかった。
「さあ行こうよ!」彼のかんしゃくが小さく爆発した。「どうしたんだい? 町へ行くんなら、早く出かけようじゃないか」
自分を抑えようとして、残ったビールを口に持って行く彼の手が、ぶるぶると震えていた。私たちがやっと腰を上げて、外の焼けつくような砂利道に出たのは、デイジーが口を開いてからだった。
「このまますぐに行くの?」と、彼女は反対した。「一服してからだっていいじゃないの」
「煙草なら、昼食のときからずっと吸ってるじゃないか」
「まあ、楽しくいきましょうよ」と彼女はなだめるように彼に言った。「騒ぎ回るには、暑すぎるわよ」
トムは返事をしなかった。
「勝手になさいな」と彼女は言った。「さあ、ジョーダン、行きましょう」
女ふたりは支度をしに二階に上がって行き、われわれ三人はそこに突っ立ったまま、焼けただれた小石を所在なく足で転がしたりしていた。西の空には、早くも三日月が銀色にかかっていた。ギャツビーは何かを言おうとして口を開きかけたが、気が変って口をつぐんだのを、トムはくるりと向き直って、いかにもお話をうけたまわりましょうという顔をした。
「厩《うまや》はここにお持ちですか?」これは、ギャツビーの苦しまぎれの質問だった。
「四分の一マイルほど先ですがね」
「ほう」
それでまた話がとぎれた。
「町へ行くなんて気が知れんな」とトムが急に吐き捨てるように言い出した。「全く、女というのは何を言い出すかしれたもんじゃない」
「何か飲物を持って行きましょうか?」そのとき二階の窓からデイジーが叫んだ。
「ウイスキーを少し欲しいよ」そう答えてトムは家の中に入って行った。
ギャツビーは私のほうを向いたが、固くなっていた。
「この家では私は何も口がきけませんよ、旧友」
「デイジーがまた勝手なことを言い出すから……」私は言った。「まるで――」ここで私はためらった。
すると彼は急に言った、「あの声は、金《かね》がいっぱいつまっているんですよ」
正にそのとおりだった。私はそれまで気がつかなかったが、たしかに、彼女の声には金がいっぱい詰まっている感じだった――高く低く歌うような、尽きることのない魅力の正体はそれだったのだ。リンリンと鈴の鳴るような響き、シンバルの歌声……純白の宮殿に住む高嶺の花、黄金の乙女……
そのとき、トムが一クォート瓶を一本タオルにくるみながら出て来た。つづいて、デイジーとジョーダンが、金糸銀糸をちりばめたような布で作った小さな帽子をかぶり、薄いケープを腕にかけて現われた。
「私の車で行きましょうか?」と、ギャツビーが言った。彼は緑色の革の座席が暑くなっているのを触ってみて、「どこか日陰においとくべきでしたな」と言った。
「それは標準型ですか?」とトムが尋ねた。
「ええ」
「それじゃ、私のクーペにお乗りになったら。そして、町までぼくにあなたの車を運転させてくれませんか」
これはギャツビーにとってはありがたくない申し出だった。
「あまりガソリンが入ってないかもしれませんよ」彼は渋って見せた。
「ガソリンはたっぷり入ってますよ」トムはかなりぶしつけな言いかたをしながら、計器をのぞいて見た。「それに、ガソリンが切れたとしても、ドラグ・ストアに寄ればいいわけですからね。近ごろは、ドラグ・ストアに行けばなんでも売ってますからね」
これはおかしな物の言い方で、みんなは黙ってしまった。デイジーは嫌な顔をして夫を睨んでいた。ギャツビーの顔には、なんとも言いようのない表情が、一瞬浮かんで消えた。それは言葉で説明したのを読んだことはあっても、実際にはついぞ見かけたことのないような、しかしどこかで見たことのあるような、そんな表情だった。
「さあ、デイジー、お出で」そう言ってトムは、片手で彼女をギャツビーの車のほうへ押しやった。「このサーカスの車みたいなでかいやつに乗せてってやろう」
彼はドアを開けた。しかし、デイジーは彼の腕のなかから抜け出してしまった。
「あなたはニックとジョーダンを乗せてあげてよ。私たち、クーペで後からついて行くわ」
彼女はギャツビーの側に歩み寄り、片手で彼の上着をつかんだ。ジョーダンとトムと私とは、ギャツビーの車の前の席に乗った。トムが不馴れなギアを慎重に押した。たちまち、われわれはむっとするような暑さのなかに勢いよく飛び出した。後に残った二人の姿は見えなくなった。
「あれを見たかい?」とトムが尋ねた。
「あれって、何を?」
トムは鋭い目で私を見つめた。ジョーダンも私も初めから知っていたに違いない、と気づいたらしい。
「君はたぶん、俺のことを間抜けだと思ってるだろう」と彼は言い出した。「まあ、そうかもしれん。しかし俺にだって――その、ときには千里眼が働くことだってあるんだぜ。どうすりゃいいかってことは、そいつが教えてくれるわけだ。君は千里眼なんて信じないかもしれないが、しかし科学だって――」
急に話を止めたのは、現にいま降りかかっている緊急の問題を思い出したからである。理窟なんか言っている場合ではない。
「あいつのことをちょっと調べてみたんだ」彼は話題をかえて、また話し出した。「こうと知っていたら、もっと根掘り葉掘り調べてやったんだが――」
「つまり、占いのところへ行って来たってわけね?」とジョーダンがおどけた尋ねた。
「なんだって?」私たちが笑ったので、彼は私たちをにらんだ。「占いだって?」
「ギャツビーのことでよ」
「ギャツビーのこと! 俺はそんなとこへ行きゃしないよ。ちょっとあいつの前歴を調べてみたと言ったのさ」
「そうしたら、あの人がオックスフォード出だってことがわかった、というわけね」ジョーダンが注釈を加えた。
「オックスフォード出だって!」トムは信じられないという顔をした。「冗談じゃない! あいつ、ピンクの背広を着てるじゃないか」
「それでもオックスフォード出にちがいはないわ」
「大方、ニュー・メキシコのオックスフォードだろう」トムはいかにも軽蔑したように、ふんと鼻を鳴らした。「いずれ、そんなとこさ」
「ねえ、トム。あなたそんなに紳士なら、なんだってあの人をお昼に呼んだりしたのよ」ジョーダンはあくまで意地が悪い。
「ありゃ、デイジーが呼んだのさ。あの二人、結婚前からの顔馴染みだと言いやがった――どこで知り合ったか、知れたものじゃないがね」
ビールの酔いもさめかけて、私たちはみな機嫌が悪くなっていた。だれもがそれに気づいていたので、しばらくは黙って車を走らせることになった。やがて、道の向うに、T・J・エクルバーグ博士の色褪せたような目が見えて来たとき、私は、ガソリンのことでギャツビーが注意していたことを思い出した。
「町までの分は十分あるよ」とトムが言った。
「でも、すぐそこにガレージがあるじゃないの」ジョーダンが異議を唱えた。「こんなかんかん照りのなかでエンコするんじゃ、たまらないわ」
トムはいまいましそうに両方のブレーキを踏んだ。車はウイルソンの看板の下に、砂塵を巻き上げながら滑り込んだ。すぐに主人が出て来て、かなつぼ眼《まなこ》で車をじっと見つめた。
「ガソリンを入れてくれ」とトムは乱暴にどなった。「なんのためにこんなところに停ったと思ってるんだ。見物するんじゃないんだぜ」
「ちょっと具合が悪いもんで」とウイルソンは動こうとしない。「朝からずっと、気分が悪いんで」
「どうしたい?」
「すっかり参っちまってね」
「じゃ、俺が自分で入れようか?」とトムが言い出した。「電話では元気そうだったじゃないか」
ウイルソンは大儀そうに、よりかかっていた戸口の日よけの下から出て来ると、苦しそうに息を切らしながら、タンクの栓を抜いた。日向に出ると、顔はますます蒼ざめて、むしろ緑色に近かった。
「お食事の邪魔をするつもりじゃなかったんですがね。ただ、どうも金づまりなもので、それに、あの古い車をどうなさるおつもりかと思いましてね」とウイルソンが言った。
「これはどうだい?」とトムは聞いた。「先週買ったんだ」
「この黄色はすばらしいですね」とウイルソンはハンドルにさわってみた。
「買うかい?」
「買物ですね」とウイルソンは気弱そうに微笑した。「しかし、あっちのほうの車なら金になるんですがね」
「なんだって、そう急に金がいるんだい?」
「ここにも大分長くなりますんでね。逃げ出したくなったんですよ。女房もわしも、西部へ行ってみたいんで」
「奥さんもかい」とトムが呆れたような声を出した。
「もう十年来、あれはそればかり言うんですよ」彼はしばらくちょっと、ポンプにもたれて休みながら、額に手をかざした。「いまじゃもう、行きたいか行きたくないかなんて問題になりません。私はどうしてもあいつを連れて行くつもりですよ」
クーペが私たちの脇を、砂塵をあげて通り過ぎた。手を振って合図をしていた。
「いくらだい?」トムは無愛想に言った。
「つい二日ほど前、妙なことに気がつきましてね」とウイルソンは言った。「それで、逃げ出したくなったんですよ。車のことでご迷惑をかけたのも、やはりそのためでして」
「いくらだい?」
「一ドル二十セントです」
容赦なく照りつける炎熱に、私の頭は混乱しかけていた。一瞬、これはまずいことになったと思いかけたが、すぐに、まだいまのところウイルソンがトムを疑ってはいないらしいことがわかった。彼はただ、マートルが自分の知らない所で自分の手の及ばない別世界を作っていたという、ただそのことを知った衝撃で、心身ともにがっくり来ただけにすぎないのだ。私は彼の顔を見、それからトムを見た。トムもつい一時間ほど前、ウイルソンと同じような発見をしたばかりなのだ――そのとき私はふと思ったのだが、知性や人種の違いなどといったところで、病人と健康な人間の相違ほど根の深いものではないのだろうか。ウイルソンはまるでひどい罪を、許し難い罪を犯した人のように憔悴《しょうすい》していた――どこかの貧乏人の娘を妊娠させてしまったとでもいうように。
「あの車は譲るよ」とトムは言った。「明日の午後、こっちへ回すよ」
このあたりは、午後の明るい日ざしが隈なく照りつけているときでさえ、いつもなんとなく不安な感じが漂っていた。いまも私は、背後に何か妙な気配を感じて、振り返ってみた。灰の山の向うから、T・J・エクルバーグ博士の巨大な目が、相変らずこちらを監視しつづけているのはもちろんだが、そればかりでなく、つい二十フィートと離れていないところから、もう一つの目がじっとこちらを見つめているのだった。
ガレージの上の窓が一つ、カーテンがわずかに片寄せられて、そこからマートル・ウイルソンが下の車を見下ろしていたのだ。彼女はすっかりそれに気をとられて、こちらが見ていることには気がつかない。つぎつぎと現像されてくる写真を眺めるように、彼女の顔にはいろいろな表情が一つ、また一つと、現われては消える。しかしその表情は、不思議に見なれた表情ばかりである――こんなとき、女はよくこんな顔をするものだ。しかしそれと同時に、マートルの表情には、何か意味のわからないなんとも説明のつかないものがあって、そのとき私ははっと気がついたのだが、嫉妬と恐怖の入り混じった目を大きく見開いて、彼女がじっと見つめているのは、トムではなく、ジョーダン・ベーカーであり、トムの妻と勘違いしているのだった。
*
単純な人間ほど、一度混乱すると手がつけられなくなってしまう。車を走らせて行くうちに、トムはつづけざまにショックを受けたせいか、危うく逆上しかかっていた。つい一時間ほど前までは、完全に自分の手中になんの不安もなくつなぎとめてあるとばかり思っていた、自分の妻と愛人とが、あっという間に指の間からこぼれ落ちていたのである。デイジーには早く追いつきたい、ウイルソンなどは早く忘れてしまいたい、と二つの気持が一つになって、アクセルを踏みつづけることになる。お蔭でわれわれは、時速五十マイルという猛スピードでアストリアへ向かってすっ飛ばす破目になった。やがて、高架線がクモの巣のように錯綜している下を、ブルーのクーペがゆっくり走って行くのが目に入った。
「五十番街あたりの大きな映画館が涼しいわよ」とジョーダンが言い出した。「みんな出かけちゃって、がらんとしたニューヨークの夏の午後って、私好きよ。なんだか、とても官能的で――爛熟っていう感じで、いろんな熟《う》れた果物がどんどん手のなかに落ちてくるみたい」
「官能的」という言葉が、トムをますます不安にさせた。が、何か言い返すうまい言葉を思いつかないでいるうちに、クーペは停って、脇へ並んでとまるようにデイジーが合図をしていた。
「どこへ行く?」と彼女は大声で尋ねた。
「映画館はどう?」
「暑いわよ」と彼女は賛成しない。「あなたたち、いらっしゃいよ。私たちはそこらを乗り回してから、あとで落ち合うわ」それからやっと少し気を取り直して、多少は思いやりのある言葉を言った。「どこかの角で待ってるわ。見つけて、声をかけてちょうだい」
「ここで議論してもはじまらんよ」トムがいらいらして言った。後ろでトラックがやかましく警笛を鳴らして、文句を言っていた。「セントラル・パークの南側までついて来いよ。プラザ・ホテルの前まで」
何度も彼は、後を振り返って、デイジーたちがちゃんとついて来るかどうかたしかめた。他の車に邪魔されて後ろの車が遅れると、また見えてくるまで、自分も速力をゆるめるのだった。おそらく、二人がどこかの横町にいきなり飛び込んで、そのまま永久に逃げて行ってしまいはせぬかと、心配しているのだろう。
しかし、デイジーはちゃんとついて来た。その揚句われわれは、プラザ・ホテルの次の間付きの特別室を借りるという、ますます不可解な行動を取ったのである。
その部屋に落ち着くまで、大分長いことやかましく議論がつづいたが、私はもうどんな内容だったかいまではすっかり忘れてしまった。ただ、その間じゅう、濡れた肌着がじっとりと蛇が足に巻きつくようで気色悪かったのと、汗が絶えずじゅず玉をこぼすように背なかにしたたり落ちていたという、感覚的な記憶だけははっきりと残っている。このそもそもの発端は、浴室を五つ借りて水浴びをしようとデイジーが言い出したのをきっかけに、議論百出、結局、『ハッカ入りのジューレップの飲める所』という、もっとも現実的な結論が出て一応落ちついたのだった。一人が何かを言えば、それが片っ端から『正気を疑いたくなるような考えだ』とこきおろされる――しかもそれを、面喰っているボーイにてんでに話しかける。そんなことを、そのとき私たちは、何かとても面白いことをやっているように考えていた。あるいは考えている振りをしていたのだ……
部屋は大きく、しかもうっとうしかった。もう四時を過ぎているというのに、窓を開けると、公園の灌木の熱苦しいいきれがむっと入ってくるばかりだった。デイジーは鏡の前へ行って、みんなに背を向けて髪を整えた。
「すてきなお部屋だこと」とジョーダンがいかにも感心したような振りをして言ったので、これにはみんな笑った。
「もっと窓を開けてよ」とデイジーが、真っすぐ前を向いたままの姿勢で言った。
「もう窓はないよ」
「それじゃ、電話をかけてつるはしでも持って来させましょうよ」
「暑い暑いと思うからいけないんだ」とトムは相変らずいら立っている。「文句を言えば言うほど、十倍も辛くなるばかりだよ」
そう言って、タオルにつつんで持って来たウイスキーをほどいて、テーブルの上においた。
「なぜあなたはそう奥さんにからむんです、旧友?」とギャツビーが口をはさんだ。「町へ行こうと言ったのはあなたですよ」
一瞬、沈黙が流れた。壁の釘にかけてあった電話帳が、床の上にばさっと落ちた。「ごめんなさあい」と、それに合わせてジョーダンが笑わそうとしたが、こんどはだれも笑わなかった。
「ぼくが拾いましょう」と私が言った。
「いや、私がやります」ギャツビーは切れた紐の具合を仔細に眺めていたが、やがて、「ふん」と面白いものを見るようにつぶやいて、電話帳をぽんと椅子の上に放り投げた。
「それがあなたのお得意のセリフなんですな」とトムが切り込んだ。
「何がですか?」
「人をつかまえて、しょっちゅう、旧友、旧友とやることですよ。どこで覚えました?」
「ねえ、トム」とデイジーが鏡から振り向いて言った。「あなたが何か面当《つらあ》てみたいなことを言うようなら、私すぐに帰るわ。そんなことより、電話をして、ハッカ入りのジューレップの氷でも注文してよ」
トムが受話器を取り上げようとしたとき、それまでの鬱積していたような空気が一度に炸裂して、階下からすさまじい音響が聞えてきたと思うと、メンデルスゾーンの『結婚行進曲』がはじまった。
「この暑いのに結婚式だなんて!」ジョーダンがうんざりしたような顔をした。
「でも――私たちが結婚したのは六月の半ばだったわ」と、デイジーが昔を思い出すように言った。「六月のルイスビルの暑さったら。だれか卒倒した人がいたわね。ねえ、トム、だれだったかしら?」
「ビロクシーさ」とトムは無愛想に答えた。
「ビロクシーっていう名前なのよ、その人。『|のろま《ブロックス》』のビロクシー、それで箱《ボックス》を作ってるの――本当よ――おまけに田舎がテネシーのビロクシーなんですって」
「みんなで、私の家に担ぎ込んだのよ」とジョーダンがつづけた。「うちは教会から二軒目だったものでね。その人、三週間もうちにいたわ。とうとうパパが、もう帰れと言って追い出したの。そしたらその翌日、パパが死んじゃったの」と言ってから、ちょっと間をおいて「といっても、別に関係ないけれど」
「メンフィス生まれのビル・ビロクシーという男なら、ぼく知ってますがね」と私は言った。
「それは従兄弟《いとこ》よ。うちで寝ている間に、家族の系累までみんな聞いちゃったから、よく知ってるの。いま使っているアルミニウムのパター、その人がくれたのよ」
式が始まったのか音楽は止んだが、こんどは、歓呼の声が次々と起こっていつまでもつづいた。と思うと、次には、「ようし――よし――よし」という叫び声がとぎれとぎれに聞え、揚句に、わっとばかりに再びジャズがはじまってダンスになったらしい。
「私たちも年をとったものね」とデイジーが言った。「若かったら、立って踊るところでしょうに」
「ビロクシーの話をしてるのよ」とジョーダンが話の変るのを注意した。「ねえ、トム、あなたどこで知合いになったの?」
「ビロクシーかい?」と、トムはしばらく考え込んでいたが、「あれはぼくの知合いじゃない。デイジーの友だちだよ」
「違うわ」とデイジーは否定した。「私、あの人とはあのときはじめて会ったんですもの。たしかあなたの車で来たんだったわ」
「しかし、あいつは君を知ってるって言ってたぜ。ルイスビル生まれだって。エイサ・バードが間ぎわになって連れて来て、もう一人入れてあげられないかって言って来たんだ」
ジョーダンがにやにやした。
「じゃ、きっと、あちこちたかりながら歩いている人だったんでしょ。私には、エール大学であなたたちのクラスの級長だったって言ってたもの」
トムと私は、あっけにとられて顔を見合わせた。
「ビロクシーがかい?」
「大体、級長なんてものがなかったよな――」
ギャツビーが気ぜわしく、足で床を鳴らしはじめた。トムは突然じろりとそちらを睨みつけた。
「ところでミスター・ギャツビー、あなた、オックスフォードだそうですな」
「まあ、そう言ってもいいでしょう」
「なるほど。つまり、オックスフォードへ行ったには違いないんですね」
「ええ――行きましたよ」
ちょっと、話がとぎれた。が、すぐにトムが不信と軽蔑の混じった調子でつづけた――
「ビロクシーがニュー・ヘヴンに行ったのと同じころ、あなたもオックスフォードへ行ってたんでしょう、きっと」
また、話がとぎれた。ノックの音がして、給仕がミント・スカッシュに氷を入れて持って来たが、彼が「ありがとうございます」と言ってドアを静かに閉めて出て行った後も、みんなはじっと黙ったままだった。やがてついに、この不可思議な事情の謎が解き明かされることになった。
「行くには行ったと言ったでしょう」とギャツビーが切り出したのである。
「たしかに。しかし、私の聞きたいのは、それがいつかということですよ」
「一九一九年ですよ。ただし、五カ月しかいませんでした。ですから正確には、私はオックスフォード出とは言えないわけです」
トムはすばやく視線を動かして、われわれの顔色をうかがった。しかし私たちはみな、ただ熱心にギャツビーを見守っているだけだった。
「大戦が終った後で、そういうチャンスを与えられた将校もありました」と、ギャツビーはつづけた。「イギリスとフランスの大学なら、どこにでも好きなところに行けました」
私は立ち上がって、彼の背中をぴしゃりと叩いてやりたいような気持がした。以前と同じような彼に対する信頼感が、ふたたび甦ってきたのである。
デイジーも微笑を浮かべながら立ち上がると、テーブルの側に歩み寄った。
「あなた、ウイスキーをおあけなさいよ」彼女は夫に命令するように言った。「そのかわり、私、ジューレップを作ってあげるわ。そうしたら、自分のばかさ加減もそう気にならないですむわ……ハッカは自分でやってよ!」
「ちょっと待て」とトムは躍気になって、「ミスター・ギャツビーにもう一つ聞きたいことがある」
「どうぞ」とギャツビーはていねいに答えた。
「一体あんたは、ぼくの家庭にどういう波風を立てようっていうんです?」
とうとうはっきりと言葉が出てしまった。ギャツビーは落ち着いていた。
「波風なんか立ててないわ」とデイジーは必死の面持で二人の顔を代わる代わる見ながら「騒ぎ立ててるのはあなたのほうじゃないの。お願いだから、もう少し落ち着いてちょうだい」
「落ち着けだって!」トムは何を言うのかといわんばかりの権幕だった。「大人しく隅っこにすわって、どこの馬の骨ともわからん野郎が、手前の女房にいちゃいちゃするのを黙って見ているのが当世流というわけか。よし、お前がそういうつもりなら、俺を除け者にしてくれて結構だ……近ごろの連中は、家庭生活だの家庭のしきたりだのをばかにして、何もかもめちゃめちゃにした揚句、黒でも白でも構わずくっつき合うんだろうよ」
かっとなってわけのわからない理屈に自分で酔っているため、われこそは文明社会の最後の砦だとでもいうような演説まではじめたのである。
「ここにいるのは白ばかりよ」とジョーダンがつぶやくように言った。
「どうせ俺は人気がないさ。ばかげて派手なパーティなど開かないからね。もっとも、人気を集めるためには自分の家を豚小屋にしなくちゃならんらしいからね――このごろではね」
腹を立てていたことでは、そこにいるみんなと同じだったが、私はむしろ、トムが何か言うたびに大きな声で笑いたくてたまらなかった。道楽者が、いまや天晴れ道学者先生になりすまして、道徳の退廃を慨嘆するの図というわけだ。
「私のほうもあなたに話したいことがあるのですが――」とギャツビーが切り出した。しかしデイジーはいち早くその意図を察した。
「止めて!」彼女は必死でとめた。「お願いだからみんな家《うち》に帰りましょうよ。ねえ、どうして帰らないの?」
「それがいい」私は立ち上がった。「行こう、トム。だれも飲む気はしなくなったよ」
「いや、ぼくは、ミスター・ギャツビーの話というのを聞きたいね」
「要するに、あなたの奥さんはあなたを愛してないということです」とギャツビーが言った。「あなたを愛したことなど一度もない。彼女が愛してるのは、この私なのだ」
「この、気違いめ!」思わずトムはそう叫んだ。
ギャツビーもすっくと立ち上がった。興奮のせいか、生気が充溢している感じだった。
「彼女は君を愛してなんかいるもんか、わかったか!」と彼はどなりつけた。「彼女はただ、私が貧乏で、私の出世を待ち切れなかっただけなんだ。とんでもない間違いをしでかしたもんさ。しかし心のなかでは、彼女は私より他の男を好きになったことなんか、一度もないんだ」
これを潮どきに、ジョーダンと私は立って出て行こうとしたが、トムもギャツビーも互いに、帰るなと言ってきかない――二人とも、腹のなかに隠すものは何もなく、ただ思っていることをぶつけ合うのを、お前たちがつき合わぬ法はないとでもいうふうだった。
「デイジー、掛けなさい」とトムは努めて保護者の貫禄を見せようと、落ち着いた声を出したつもりだろうが、無残にもうまくいかなかった。「一体、どういうことになってるんだ。包まず話してくれないか?」
「それは私がさっき言ったとおりだ」とギャツビーが言った。「五年も前からの話だ。君が知らなかっただけだ」
トムはきっとなって、デイジーのほうを向いた。
「お前、こいつと五年間もずっと会ってたのか?」
「会ってはいない」とギャツビー。「そう、会おうにも会えなかった。しかし、ずっと愛し合っていた。君は知らなかったろうがね。よく笑ったもんだ、知らぬはなんとかばかりなり、ってね」とは言ったものの、彼の目には笑いの影などみじんもなかった。
「ほう――話はそれだけかね」とトムは、牧師がよくやるように両手の指先を軽くぶつけ合いながら、椅子にふんぞり返った。「君は気が狂ってるね」憤然と彼は逆襲に出た。「五年前に何があろうと、そんなことはぼくは知らんよ。そのころはまだ、デイジーと知り合ってなかったんだから。それから、勝手口にこそこそ出入りする御用聞き風情ならいざ知らず、君が一マイルと離れていないところに住むようになったいきさつも、こっちの知ったことじゃない。しかしだ、その他のことは、みんなとんでもないでたらめだ。デイジーは俺が好きだから結婚したんだ。いまだって、それに変りはない」
「違う」とギャツビーはかぶりを振った。
「ところが、違わんのだよ、ただ困ったことに、彼女はときどきばかなことを考えて、自分で自分のやっていることがわからなくなるようなことを仕出かすだけさ」トムはいかにも呑み込み顔で、うなずいて見せた。「大体それに、この俺だってデイジーを愛しているんだぜ。それはときには脱線してつまらぬ騒ぎをやらかすこともあるが、しかしいつだってちゃんと帰って来るし、心のなかではいつだって、忘れたことはない」
「あなたったら、むかむかするわ」とデイジーは言って、私のほうを向いた。そして妙に低い声で、いかにも毒々しい軽蔑のこもった声で、私に救いを求めた。「あなた、私たちがどうしてシカゴを離れたかご存じ? あのときの大騒ぎのこと、あなた本当に聞いていらっしゃらないの?」
ギャツビーはつかつかと歩み寄って、彼女のそばに立った。
「デイジー、それはもうすんだことだ」と彼は熱意をこめて言った。「もう、いいじゃないか。ただ、本当のことを言ってやりさえすればいいんだ、愛したことなど一度もないんだって――そうすれば、何もかも全部帳消しだよ」
デイジーは呆然としたように、ギャツビーを見つめていた。「だって、どうしてあんな人が愛せるの――この私が」
「君は彼を愛したことなんて一度もなかったんだ」
彼女はためらった。そして訴えるように、ジョーダンを見、私を見た。いまはじめて、彼女は自分のしていることに気がついたのだ――こんなことを、彼女はするつもりではなかったのだ。だが、すでにサイは投げられてしまった。もう遅すぎる。
「私、愛したことなど一度もなかったわ」と言い出したものの、明らかにためらいの色が見えた。
「カピオラニにいたときもか?」不意に、トムが尋ねた。
「ええ」
下のダンス・ホールから、息苦しくこもったような和音が、蒸し暑い空気の波になって流れてくる。
「君の靴が濡れるといけないからって、パンチ・ボールから抱きおろしてやった、あのときでもかい?」トムの声はかすれていたが、やさしい調子がこもっていた。「……どうなんだい、デイジー?」
「言わないで」と彼女の声は冷たかったが、悪意はすでに消えていた。彼女はギャツビーを見つめ、「これでいいでしょ、ジェイ」そう言って、タバコに火をつけようとしたが、ぶるぶる手が震えている。いきなり、彼女は、タバコとまだ燃えているマッチをじゅうたんの上に投げ捨てた。
「ああ、あなたは求めすぎるわ!」彼女はギャツビーに向かって叫んだ。「私はいまでもあなたを愛してる――それだけじゃいけないの? 過去のことはどうしようもないじゃないの」耐え切れなくなって、彼女は啜り泣きをはじめた。「一度はあの人を愛したわ――でも、あなたのことも好きだったわ」
ギャツビーは目を開き、そしてまた、目を閉じた。
「私のことも好きだった、って?」彼は、デイジーの言葉を繰り返した。
「それもまた嘘さ」とトムが決めつけるように言った。「君の生死すら、彼女は知らなかったんだ。いいか――デイジーと俺の間には、君なんかの知らないことがたくさんあるんだ。二人とも決して忘れられないようなことがな」
この言葉は、ぐさりとギャツビーの体に食い込んだようだった。
「デイジーと二人だけで話したいんだ」彼は辛うじて頑張った。「彼女《このひと》はいま、すっかり興奮してるから……」
「二人っきりになったって、トムを愛したことがないなんて、言えないわ」いかにも哀れな声で、デイジーは言った。「でないと、嘘をつくことになるもの」
「もちろん、そのとおりだよ」とトムが相槌を打った。
デイジーは夫のほうを向いた。
「あなたには関係ないわ」
「関係ないことはないさ。これからはもっと、君を大事にしてあげなきゃならないもの」
「君にはわかってないんだ」ギャツビーは言ったが、狼狽の色は隠せなかった。「君はもう、この人の世話をする必要はないんだ」
「そうですかね?」とトムは目を大きく見開いて笑った。もう、自分を抑制する余裕を取り戻していた。「どうしてです?」
「デイジーは君と別れるんだ」
「ばかな」
「本当よ」懸命になって、デイジーが言った。
「デイジーは俺と別れやしない!」とトムはいきなりギャツビーにのしかかるようにして言った。
「女に貢いでやる指輪一つ人のものを盗まなきゃならないような、へなちょこ山師野郎なんか、デイジーが相手にするもんか」
「もう、本当に、止めてちょうだい!」とデイジーが悲鳴をあげた。「ねえ、お願いだから、外へ出ましょうよ」
「いったい、君は何者なんだ?」トムはどなり出した。「メイヤー・ウルフシェイムとうろつき回っている一味だろう――それぐらいのことは俺だって知ってるんだ。君の身上を少し調べてみたんでな。明日になったら、もっと詳しく調べ上げてやるぞ」
「いくらでも好きなようにするがいい」とギャツビーも、落ち着いていた。
「君のいう『ドラグ・ストア』なるものの正体を、俺は知ってる」トムは私たちのほうを向いて、早口にしゃべりまくった。「こいつや例のウルフシェイムは、ここやシカゴあたりの横町のドラグ・ストアをたくさん買収して、店先でエチル・アルコールを売ったのさ。こいつがちょっとした離れ業でね。はじめて会ったとき、酒の密売でもやってる奴じゃないかと思ったんだが、当たらずとも遠からずだったというわけだ」
「それがどうかいたしましたか?」ギャツビーはいやに丁寧な口をきいた。「あなたの友人のウォルター・チェイスだって、一枚加わるのがまんざらでもなかったようでしたがね」
「それで、君はあの男を見殺しにしたじゃないか? ニュー・ジャージーくんだりの刑務所に、一カ月もくらい込んだんだぜ。いや何より、ウォルターが君のことをどう言ってるか、聞いてみるがいいや」
「あの人は一文なしのすかんぴんでやって来ましてね。ひと財産できたって喜んでたはずですがね、旧友」
「その『旧友』が気にくわねえ!」トムが大きい声を出した。ギャツビーは黙っていた。「ウォルターは君を賭博法違反でも訴えれば訴えられたんだぜ。ただあのウルフシェイムの奴に脅迫されたもんで、口をぬぐっちまったが」
例の、どこかで見たような見ないような、という感じの独特の表情が、ギャツビーの顔に戻ってきていた。
「あのドラグ・ストアの一件なんか、まだほんの序の口さ」トムはしゃべりつづけた。「君は他にも、ウォルターもさすがに恐ろしくて言えないようなことをいくらもやってるんだ」
デイジーはどうしているかと見ると、ギャツビーと夫の間にはさまって、恐ろしそうに二人の顔を見つめている。ジョーダンのほうは、あごの先に目に見えないが非常におもしろいものでものせて、バランスを取っているようにうなずいていた。それから再びギャツビーに視線を戻すと、その表情を見て私はぎょっとした。それは――私は、パーティの庭先で取沙汰されていた彼に対する中傷など何一つ信じてはいないが――正に「人を殺したことのある顔」だった。その一瞬の彼の顔つきは、正しくそうした恐ろしい表現がぴったりだった。
が、その表情はたちまち消えて、ギャツビーはデイジーに向かって、トムの言ったことはもちろん、言わなかったことまで、むきになって否定しはじめた。だが、彼が言葉を重ねれば重ねるほど、デイジーはますます自分のなかに引きこもってしまった。彼はついに説得を断念した。後はただ、午後の時が刻々と過ぎて行くなかで、もはや手に触れることもかなわなくなってしまったものをなお捕まえようと焦るように、せめてあの声をふたたび聞きたいものと、見果てぬ夢を追うみじめさで、絶望的な努力をつづけていた。
が、肝心のその声は、またも、この場から出ましょうよと繰り返しただけである。
「ねえ、トム! 私、もうこれ以上がまんできないわ」
彼女の怯《おび》えた目は、一旦は彼女がどんな気持を胸に抱き、またどれだけの覚悟を秘めていたにせよ、それがいまはもうはっきりと消えてなくなってしまったことを物語っていた。
「お前たち二人で帰るがいいさ、デイジー」とトムは言った。「ミスター・ギャツビーの車でね」
デイジーはびっくりしたようにトムを見つめた。しかし彼は、軽蔑と寛大さの入りまじった口調で、さらに言った。
「行けよ。この男ももう、お前を困らせたりはしないだろう。無作法なけちな恋愛ごっこももう終りだってことぐらい、この男にもわかってるはずだ」
二人は一言も言わずに出て行った。われわれから見てさえ、何か場違いな人間が、しょんぼりと幽霊が消えるように消えて行ったような感じがした。
しばらくしてトムは立ち上がると、持って来たまま結局栓を抜かなかったウイスキーを、再びタオルで包みはじめた。
「少し飲もうか? ジョーダン、どうだい?……ニックは?」
私は返事をしなかった。
「ニックは?」と、彼はまた尋ねた。
「何?」
「少し飲むかい?」
「いや、……いま思い出した、今日はぼくの誕生日だった」
私は三十だった。前途には、これからの十年という歳月が、不気味に、恐ろし気に連なっていた。
私たちが、トムと一緒にクーペに乗り込み、ロング・アイランドに向けて出発したときは、七時になっていた。トムは上機嫌でげらげら笑いながら絶えず何やらしゃべりまくっていたが、ジョーダンにも私にも、その声は、街角の見知らぬ人のおしゃべりか、頭上に響く高架線の騒音か何かのように、無縁のものとしか聞えなかった。人間の同情には限りがある。私もジョーダンも、彼らのいたましい議論が、背後に流れ去る街の灯とともに消えて行ってしまうままに任せておいた。三十歳――それは今後の十年間の孤独を約束している。独身の友人の数も減り、情熱を満たしたカバンの中身も乏しくなり、髪の毛もまた薄くなっていくことだろう。だが、私の傍にはジョーダンがいる。デイジーと違って利口すぎるぐらい利口なこの女は、きれいに忘れ去ってしまった過去の夢を、来る年も来る年も胸に抱きつづけるようなことはしまい。車が暗い橋を渡るとき、彼女の青ざめた顔が物憂げに、私の肩にもたれかかってきた。そして私を励ますように手を強く握りしめてくると、三十歳を迎えたかすかな脅威の影も、いつのまにか消え去ってしまった。
こうして、ようやく涼風の立ちはじめた夕闇のなかを、私たちは死に向かって疾走をつづけた。
*
例の灰の山の傍でコーヒー店を開いている若いギリシア人のミカエリスが、検屍の証人だった。彼は日中の暑い盛りは昼寝をしていて、起きだしたのは五時過ぎだったが、ガレージまでぶらぶら出て行くと、事務所のなかでジョージ・ウイルソンが気分が悪いと言って寝ていた――本当に加減が悪いらしく、髪の毛と変らないくらい蒼白な顔をして、全身がたがた震えていた。ミカエリスは彼に寝たほうがいいと勧めたが、ウイルソンは、そんなことをしたら客を逃がしてしまうと言って聞かなかった。それでもなお、なんとかなだめすかしていると、頭の上でいきなり物凄い騒ぎがはじまった。
「あそこに女房を閉じ込めてあるんだよ」とウイルソンは平気な顔で説明した。「明後日までああしておいて、それから、二人でここを立ち退くつもりさ」
ミカエリスは驚いた。もう四年も隣りづき合いをしてきたが、ウイルソンがかりにもこんなことを口に出して言える男だとは知らなかった。ふだんからいわゆるうらぶれたというタイプで、仕事のないときにはいつも戸口のそばに腰をおろして、道を通る人や車をぼんやり眺めていた。だれかに話しかけられれば、いつもきまって、人の好きそうな無意味な笑いを浮かべた。要するに女房の尻にしかれて、自分一人では何もできないような男だったのである。
だからミカエリスが、何があったのかといろいろ探ってみる気になったのは至極当然の話だったのだが、ウイルソンはそれには一言も答えようとしなかった――その代りに、ミカエリスに向かって、これこれの日のしかじかの時間にお前は何をしていた、などと逆に尋ねて来る有様だった。こちらはなんとも薄気味が悪くなって、ちょうど労働者が五、六人、ドアの前を通って彼の経営するレストランに入って行ったのをいい機《しお》に、退散することにした。もっとも、また後でのぞいてはみるつもりだったが、すっかり忘れてしまって、それきり行かなかったのは、別に他意があったわけではなかった。また外に出てみたのは七時少し過ぎだった。ガレージの階下でウイルソンの妻君が大声でわめき散らしているのが聞えたので、彼ははっとさっきの会話を思い出した。
「ぶったらいいだろ!」と、妻君はどなっていた。「あたしを投げとばして、ぶったらいいじゃないか。この腰抜け!」
と思った瞬間、彼女は両手を振り回してわめきながら、暮れかけた戸外に駆け出して来た――ミカエリスが止めに出る間もなかった。事はすでに終っていた。
「死の車」と新聞は書き立てたが、その車は停車しようともしなかった。次第に濃くなってくる夕闇のなかから現われて、一瞬、彼女を避けるつもりかよろめくように見えたが、そのままカーブを曲って行ってしまった。ミカエリスは車の色もはっきりとは覚えていなかった――ともかく、最初警官に尋ねられたときは薄いグリーンだと答えた。もう一台の、ニューヨーク方面に向かっていた車は、百ヤードほど先で停って、運転手が急いで、マートル・ウイルソンが道の上に、どす黒い血が埃まみれになったまま、無残にもすでに事切れて崩折れている所へ引き返して来た。
結局一番早く駆けつけたのはこの男とミカエリスだったが、まだ汗でべっとりしているブラウスを引き裂いてみると、左の乳房がポケットのふたのような形で、だらっと下がっていた。胸に耳を当ててみるまでもなかった。口をかっと開き、両端が少し切れていた。これまで貯え込んできた物凄い活力を一瞬に吐き出そうとして、息が詰ったとでもいうような感じだった。
*
私たちの乗った車が現場から少し離れた所まで来たときには、もう、車が三、四台と人だかりがしているのが見えた。
「衝突だ!」とトムが言った。「これでいい。これでやっと、ウイルソンも少しは商売になるだろう」
彼はスピードを落としたが、まだ止めるつもりはなかった。しかしもっと近くへ寄ってみると、ガレージの前にいる人たちの顔が息をのんだように真剣なので、思わず彼もブレーキを踏んでしまった。
「のぞいてみよう」とトムは怪訝《けげん》そうな顔で言った。「ちょっとぐらいいいだろう」
そのときすでに、私はガレージのなかからひっきりなしにうつろな泣き声が聞えてくるのに気づいていた。クーペから降りて戸口のほうに歩いて行ってみると、泣き声と思ったのは、苦しげに喘ぎながら、「ああ、神様」と繰り返し繰り返し訴えているのだとわかった。
「何か大変な事故があったらしいな」とトムが興奮して言った。
彼は爪先で伸び上がって、野次馬の頭越しにガレージのなかを覗いてみた。屋内には、上に吊るした金網のなかに、黄色い電燈が一つ、ぽつりとついているだけだった。と、彼は喉《のど》の奥で妙な声を出したかと思うと、物凄い勢いで両手で人垣をかきわけて前に出ようとした。
人垣から非難するようなささやきが洩れたが、人一人通すと、また元のように閉じてしまった。それから一分ほどは、私には何がどうなっているのかまるで見えなかった。そのうちに、あとから加わった連中が人の波を幾重にも寄せてくるので、ジョーダンと私はたちまちなかのほうへ押しやられてしまった。
見ると、マートル・ウイルソンの死体はこの暑い夜でも寒気《さむけ》のしそうな有様で、毛布で包んだ上からもう一枚重ねて、窓際の仕事台の上に横たわっていた。トムはわれわれに背を向けてすわって、身じろぎもせずにその上にかがみ込んでいた。その隣りにはオートバイで乗りつけたままという恰好《かっこう》で、警官が汗だくになって、何やら盛んに聞き質しながら手帳に書き込んでいた。はじめ私は、がらんとしたガレージのなかにやかましく反響する甲高い呻《うめ》き声が、どこから出てくるのかわからなかった――が、ふと見ると、ウイルソンが一段高くなった敷居の上に立って、戸口の柱に両手でしがみついて前に後ろに体を揺すっているのに気がついた。だれかが小声で話しかけて、ときどき肩を叩いたりしているのだが、ウイルソンはそんなものはまるで、目にも耳にも入らないらしかった。彼の目は、上に吊ってある電燈から、壁際の死体を置いてある仕事台へとゆっくりと動いて行くと、またはっと電燈を見る、という同じ動作の繰り返しだった。しかも、その間絶えまなく、甲高い声でわめいているのが無気味だった。
「ああ、神さま。ああ、神さま。ああ、神さま。ああ、神さまあ!」
やがて、トムがぐいと顔をあげて、どんよりとした目でガレージのなかをぐるりと見まわしてから、よく聞き取れないほど低い声で、もぐもぐとつぶやくように警官に話しかけた。
「ア――ア――ブ――」警官は名前を書きとめていた。「――オ――」
「いや、ロ――です。マーブーロー……」尋ねられた男が答えている。
「おい! おいったら!」とトムが憤然としたように言った。
「ロか……」と警官はまた、「ロだね」
「グー」
「グーですね」と言いながら顔をあげたのは、トムの幅広い手でいきなり肩をつかまれたからである。「なんですか、あなた?」
「何があったんです――そいつを、教えてもらいたいんです」
「車に轢《ひ》かれたんです。即死です」
「即死」とトムは繰り返すように言って、相手を睨みつけた。
「道へ駆け出したんですな。ところが野郎、車を止めようともしなかった」
「二台来たんですがね」とミカエリスが傍から説明した。「一台は止まったが、もう一台は行っちゃいました」
「どっちのほうへ?」警官が詰問した。
「それぞれ反対のほうですよ。つまり、彼女が……」と、片手で毛布のほうを指さそうとしたが、途中で止めて、また脇へおろしてしまった――「駆け出して行ったところを、ニューヨークのほうから走って来た車にはねられたんですよ。三十マイルか四十マイルは出していましたかね」
「ここはなんという所かね?」と警官が尋ねた。
「名前なんか別にありませんよ」
そのとき肌のあまり黒くない、きちんとした身なりの黒人が前に進み出た。
「黄色い車でしたよ。大きくて黄色い。新車でした」と彼は言った。
「事故を見たのか?」と警官。
「いーえ。しかしその車に道の向うで追い抜かれたばかりでしたからね。四十マイルは出していたでしょう。いや、五十、六十は出していたかな」
「こっちへ来て、名前を言ってくれないか。さあ退《ど》いた、退《ど》いた、この人の名前を聞いてるんだから」
こうしたやり取りの一部が、戸口で体をゆすっているウイルソンにも聞えたに違いない。何やら喚《わめ》いていた言葉のなかに、突然、新しい文句が飛び出してきた。
「どんな車だったなんて言わなくていいぞ! 俺はどんな車か知ってるんだから」
彼がトムの様子を見ていると、肩の後ろの筋肉の塊りが、上着の下できゅっと引きしまるのがわかった。そして、彼はつかつかとウイルソンの側に歩み寄ると、立ちはだかるように立って、二の腕をしっかりとつかんだ。
「おい、しっかりしろよ」とがらがら声でなだめるように言った。
ウイルソンの目が、トムの上に落ちた。驚いたように爪先で立ち上がったが、トムが支えてやらなかったら、膝から崩折れてしまっただろう。
「おい、いいか」とトムは、相手を少し揺すぶりながら言った。「俺はたったいま、ニューヨークから来たばかりだ。いつも話しているクーペに乗って来たのさ。今日の午後乗っていたあの黄色い車は俺のじゃないんだ――おい、聞いてるのか。あの車は、昼からこっち、俺はぜんぜん見てないんだぞ」
彼の言葉が聞える所にいたのは、例の黒人と私だけだったが、警官もその語調から何かを感じ取ったと見えて、恐ろしい目つきでこちらを見ていた。
「どういうことだね、それは?」と彼は聞き質した。
「私はこの男の友人ですがね」とトムは、ウイルソンの体を支えたまま、顔だけ振り返って言った。「こいつはその車を知ってるって言うんです。……黄色い車だったって」
漠然としたものながら、何か衝動に駆られたと見えて、警官は不審そうにトムの顔を見た。
「で、あなたの車は何色です?」
「ブルーです。クーペですよ」
「われわれはニューヨークから真っすぐやって来たところです」と私は言った。
私たちのすぐ後ろを走っていた人がそれを証明してくれたので、警官はもう他のほうを向いてしまった。
「さて、またさっきの名前を正確に教えてくださいよ」
この間にトムは、まるで人形でも持ち上げるようにしてウイルソンを抱きかかえると、事務室のなかに運び込み、椅子にすわらせて戻って来た。
「だれか来て、側についていてやってくれないか」と彼は偉い人が命令でもするような調子で言った。一番近くに立っていた二人が、顔を見合わせて、仕方がないという顔で入って行くのを、トムはじっと見守っていたが、その後をぴしゃりと閉めると、やっと下に下りて来た。しかし、テーブルのほうは見ないようにしていた。そして私の傍を通り過ぎながら、「出よう」とささやいた。
私はちょっと人目が気になったけれども、トムがいやに威張って人垣をかきわけて行く後について、ぞくぞくと押しかけてくる野次馬のなかを割って外に出た。途中、万一の望みをかけて三十分ほど前に呼びにやられた医者が、鞄を持って駆けつけて来るのとすれ違った。
トムは、例のカーブを過ぎるまではゆっくりと走らせていた――が、それからぐっとアクセルを踏むと、クーペは夜の闇を突いて疾走し出した。そのうち、低い嗚咽を耳にしたので、見ると、トムの顔に涙があふれ出していた。
「腰抜けめ!」と泣きながら彼は言った。「車を止めさえしやがらなかったとは」
*
黒々とそよいでいる樹々の間から、ビュキャナンの家が、いきなりこちらに浮かぶように迫ってきた。トムは玄関の脇に車を着けると二階を見上げた。ツタの葉の間から、二つ、明りのついた窓が見える。
「デイジーは帰ってるよ」とトムは言った。みんな車から降りた。彼は私を見ると、ちょっと顔をしかめた。
「君はウェスト・エッグで降ろしてくるんだったな、ニック。今夜は何ももてなしができないからね」
彼はさっきまでとは様子が変っている。落ち着いて、しかもはっきりした物の言い方になっていた。月光を浴びながら砂利道を玄関のほうに歩いて行く間に、彼はてきぱきとこの場の処置にけりをつけてしまった。
「電話でタクシーを呼んで君を家まで送らせよう。待っている間に、君もジョーダンもキッチンへ行って、何か夕食でも作らせるといいよ――腹が減ったろう」彼はそう言うと玄関の扉を開けて「入れよ」と言った。
「いや、結構。しかしタクシーを呼んでくれるとはありがたい。外で待ってるよ」
ジョーダンが私の腕に手をかけた。
「入らないの、ニック?」
「ああ、いいんだよ」
私は少し気持が悪かったので、一人になりたかった。しかし、ジョーダンはなかなか離れたがらなかった。
「まだ九時半よ」と彼女は言った。
中に入るのなんか真っ平だった。今日一日つき合っただけで、どいつもこいつもうんざりだった。そう考えると、急にジョーダンまでが、十把ひとからげのなかに入れてしまいたくなった。彼女のほうも、私の表情から何かを感じたのだろう。ぷいと向うを向くと、階段を駆け上がって、家のなかに入ってしまった。私はその場に腰をおろして、しばらく頭を両手で抱えたまま、そうしていた。そのうち、家のなかから、執事が電話をかけてタクシーを呼んでいるのが聞えた。私は、門のそばで待つつもりで、庭道を表のほうへゆっくり歩き出した。
二十ヤードも行かないうちに、私の名を呼ぶ声がして、二つの繁みの間から、ギャツビーが出て来た。そのとき私はよほどどうかしていたらしい。彼の姿を見ていながら、例のピンクの上着が月光を浴びていやに明るく見えるなと思っただけで、あとはぽかんとしていたのだ。
「何をしてるんです?」私は尋ねた。
「ただ、ここに立っているだけです」
なんとなく、卑劣なことをしているという感じがした。これから強盗に入ろうとしていた、と言ってもいいような感じだった。例えば背後の黒い植込みのなかに「ウルフシェイム一党」の人相のよくない顔が見つかったとしても、私は別に驚きもしなかったかもしれない。
「途中で何か事故を見かけませんでしたか?」しばらくしてから、彼は尋ねた。
「ええ」
彼はちょっとためらった。
「死にましたか?」
「ええ」
「やっぱり。そうだろうとデイジーに言ってました。辛《つら》いことはいっぺんにきてしまったほうがいいんです。彼女は立派に耐え抜きましたよ」
まるでデイジーの反応の仕方だけしか問題にしていないような口振りだ。
「間道を伝ってウェスト・エッグまで行って来ました」と、彼はさらにつづけた。「車は家《うち》のガレージに入れておきました。だれにも見られなかったとは思うが、むろん、断言はできません」
私はこのとき彼がたまらなく嫌になっていたので、それはいけない、などと忠告してやる気にもならなかった。
「どういう人ですか、あの女は?」と彼が尋ねた。
「名前はウイルソンと言って、ご亭主がガレージを経営してましてね。しかし一体、どうしたわけなんです?」
「ええ、私はハンドルを切ろうとしたんですがね……」と彼は言いかけて急に言葉につまった。その途端、はっと私は事の真相に思いあたった。
「デイジーが運転してたんですね?」
「ええ」しばらく考えてから、彼はそう答えた。「しかしもちろん、私がやったことにするつもりです。つまり、ニューヨークを出たとき、彼女はひどく興奮していたので、運転でもすれば気が落ち着くかと思ったんでしょう――そこで、向うから一台来たのとすれ違おうとしたときに、あの女が飛び出して来たんです。すべて一瞬の出来事ですが、しかしあの女、われわれを顔見知りと思ったのか、何か話しかけて来たようにも見えました。いや、デイジーも最初は、その女を避けてもう一台のほうへハンドルを切ったんですが、すぐに恐くなって元に戻しました。私がハンドルに触った瞬間、ぶつかった――即死だな、と思いましたよ」
「体が裂けちゃいましたよ――」
「やめてください」と彼はたじろいだ。「とにかく――デイジーはめちゃめちゃに飛ばし出した。止めようとしたって聞くもんじゃありません。仕様がないんで、急ブレーキをかけました。すると彼女、私の膝の上に倒れて来たので、そのまま私が運転して来ました」
「明日になれば彼女も元気になるでしょうが」と、彼は一息ついてからまたつづけた。「私はただ、今日の喧嘩のことで、あのご亭主が彼女をいじめたりしないかと思いましてね。それでここで見張っているんです。彼女は自分の部屋に入って鍵をかけてしまったんですが、もし彼が乱暴でも働いたら、電灯をつけたり消したりして合図をすることになってるんです」
「トムは指一本触れないでしょう」と私は言った。「彼女のことなんか考えてませんよ」
「信じられるもんですか、あんな男」
「いつまで待っているつもりです?」
「必要なら朝まででも待ちますよ。とにかく、みんなが寝るまで」
ふと、新しい考えが私に浮かんだ。運転していたのはデイジーだったと、もしトムが知ったらどういうことになるだろう。彼はそこに、何かの因縁を見つけるかもしれない。少なくとも、何かを考え出さずにはおかないだろう。私は家のほうを振り返って見た。階下には二つ三つ明りがついており、二階のデイジーの部屋の窓からは、桃色の強い灯が流れていた。
「あなたはここで待っててください」と私は言った。「騒動が持ち上がりそうかどうか、見てきますから」
私は芝生の縁に沿って引き返すと、そっと砂利道を横切り、忍び足でベランダの階段を上がった。客間のカーテンは開け放されていたが、部屋にはだれもいなかった。三カ月前のあの六月の夜、みんなで夕食をしたあのベランダを通り抜けると、食器室の窓なのだろう、小さく長方形に明りが洩れている所へ出た。ブラインドは閉まっていたが、窓の敷居に割れ目が見つかった。
のぞいて見ると、デイジーとトムが台所のテーブルをはさんで向かい合ってすわっているのが見えた。テーブルには、揚げた鶏の塩漬肉が一皿と、それにビールが二本のっていた。トムはしきりに何か話していたが、夢中になっているせいか、片手をデイジーの手の上に重ねていた。彼女のほうは時折顔を上げて、同意するようにうなずいていた。
二人は幸福ではなかった。どちらも、鶏にもビールにも手を出さなかった――といって、二人とも不幸でもなかった。それはまぎれもなく、ある親密の情の溢れた情景だった。二人で何か陰謀をめぐらしているのだと思う人があったとしても、別に不思議ではなかった。
再び忍び足で玄関まで戻って来たとき、タクシーが、暗い道を手探りするように、家のほうへ入って来る音が聞えた。ギャツビーは、さっきの場所で待っていた。
「無事のようですね」彼は心配そうに尋ねた。
「ええ。大丈夫です」私はちょっとためらった。「あなたも帰って、休んだほうがいいですよ」
彼は首を振った。
「私は、デイジーが床に就くまでここに待っています。じゃあ、お休みなさい」
彼は両手をポケットに突っ込むと、くるりと後ろを向いて、熱心に監視をはじめた。彼は、私などがここにいるのは、この神聖な不寝《ねず》の番の汚れになるとでもいったふうだった。そこで、私は立ち去ることにしたが、後に残った彼は、月光のなかに立ち尽して虚空を睨みつづけていた
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八
一晩じゅう、私は眠れなかった。霧笛がひっきりなしに海峡のほうで鳴っていた。奇怪な現実と、無残で恐ろしい夢との間を、重苦しい思いにさいなまれながら、私は何度も寝返りを打った。明方近くになって、タクシーが一台ギャツビーの邸内に入って行く音が聞えた。同時に私は飛び起きて福を着かえはじめた――何か彼に言っておくこと、注意しておくことがあるような気がしたのである。夜が明けてからでは遅すぎるのだ。
例の芝生を横切って行くと、玄関の扉はまだ開いたままで、疲れきっているのかそれとも眠っているのか、彼はホールのテーブルにぐったりともたれかかっていた。
「なんでもなかったですよ」彼はげっそりした表情で言った。「待っていたら、四時ごろだったかな、彼女が窓辺に出て来ましてね。しばらくそこに立っていたけど、すぐに明りを消してしまいましたよ」
私たちは、タバコはないかと二人で家じゅうを探して回ったが、このときほど、彼の家がとてつもなく大きく感じられたことはない。私たちは天蓋のような大きなカーテンを押しのけて、電燈のスイッチを手探りで探した。真っ暗闇のなかで、壁がどこまで行っても終りがない。一度など、幽霊みたいに黒くぼんやりと見えるピアノの鍵盤の上につまずいて手を突き、ぽちゃんと水音みたいな妙な音を立てたりした。いたるところにちょっと考えられないくらい埃《ほこり》がたまっていて、もう何日も風を入れたことのない部屋のようにかび臭かった。やがて私は、見かけないテーブルの上に葉巻入れを見つけたので開けてみると、なかに二本、乾ききって香りも何もなくなってしまった巻タバコが入っていた。客間のフランス窓を勢いよくさっと開けて、私たちは腰をおろし、夜の闇に向かってタバコの煙を吐き出した。
「どこかへ逃げたほうがいいですね」私は言った。「いずれ、車がここにあるのは嗅ぎつけられますよ」
「いますぐですか?」
「一週間ほど、アトランティック・シティ〔ニュージャージー州の海水浴場〕か、モントリオールにでも行ってたらどうです?」
しかし彼は耳を貸そうとしなかった。デイジーがどうするつもりか、それがわかるまでは、彼女のそばを離れるなど思いもよらないというわけだ。いまだに一縷《いちる》の希望みたいなものにすがりついている彼を見ると、私としても、ここで目を覚ましてやるというのも何か気の毒で、できなかった。
ダン・コディとの若き日の奇妙な結びつきの顛末《てんまつ》をギャツビーから話してもらったのは、その晩のことだった。彼がそんなことを話す気になったのも、さすがの「ジェイ・ギャツビー」も、トムの堅い悪意にぶつかってガラスのように砕けてしまい、長いあいだひそかにつづけてきた一場の狂想劇も、これで幕になってしまったればこそだったのかもしれない。いまになって思えば、彼も率直にいくらかの敗北を認めたのかとも思うが、要するに彼は、なんでもいいからデイジーの話をしていたかったのである。
デイジーこそ、彼が生まれてはじめて知った「いい」娘《こ》だった。いろいろな資格を闇でこしらえて、その方面の人たちとは数多く接しては来たが、しかしいつも、何か目に見えぬ鉄条網のようなもので、間を隔てられているような感じだったのだ。そういうなかで、デイジーは、彼の目にはたまらないほど望ましいものに見えたのである。はじめて彼女の家に行ったのはテイラー基地の将校たちと一緒だったが、あとからは一人で出かけて行った。それは、彼にとっては全く驚嘆に値する経験だった――大体、これまで、そんな美しい家に足を踏み入れたことすらなかったのである。しかもそんな美しい家に彼女が住んでいるということが、息もつけないほど強烈な印象を彼に与えた。デイジーにしてみれば、そんなことはごくあたり前の話で、彼が基地に住んでいるのと、いわばなんの変りもないことに過ぎなかったのだ。そこには、一種神秘的で、しかも豊かな夢があった。二階にある寝室は、世の中の普通の寝室とは違う、何か美しくさわやかなもののように思われたし、ホールでは華やかな行為が燦然と花を咲かせているような気がした。そこで繰り広げられるロマンスも、かび臭かったりナフタリン臭かったりする古めかしいのではなく、たとえば新型の車だとか、花がまだみずみずしくて萎むことを知らない舞踏会だとか、新鮮で若々しくて輝き渡るようなロマンスであるにちがいない。それにまた、デイジーに愛情を寄せた男がこれまで大勢いるということも、いっそう彼を刺激したし――そんなことも、彼の目に彼女がますますすばらしいものに映る結果にもなったのである。家じゅう至る所、そういう連中が出たり入ったりしている気配が、彼にはぴんと感じられた――まだ余波の静まらぬ激情の陰影や反響が、家じゅうに漲《みなぎ》っているのが。
とはいっても、自分がデイジーの家に入ったのは、実はとんでもない偶然の仕業なのだということは、彼も知らないわけではなかった。ジェイ・ギャツビーの未来がいかに輝かしいものであろうとも、いまのところはなんの経歴もない一文無しの青二才に過ぎず、いまはかりに身を包んでいる軍服の威厳が物をいっていたところで、そんなものはいつなんどき肩からすべり落ちてしまわないとも限らない。そこで彼は、現在という時間を最大限に利用することにした。飢えたように無遠慮に、彼は手に入るものはなんでも奪い取った。そしてついに、ある静かな十月の夜、彼はデイジーを自分のものにした。そう、正にものにしたのだ――彼女に手を触れる権利などまるでなかったのだから。
事情が事情でなかったなら、彼は自己嫌悪を感じたかもしれなかった。確かに、ありもしないうわべを装って、彼女をごまかしたには違いないのである。別に百万長者という幻影で釣ったわけではないにしても、しかしなんらかのその種の安心感をデイジーに与えるように計ったことは間違いない。つまり、自分も彼女と同じ階層の出であって、従って、充分彼女を養っていけるだけの人間である、というような。もちろん実際は、彼にはそんな力はとてもなかった――どころの話ではない。経済的な援助を当てにできる家族などあるわけもなかったし、個人の事情などまるで考えない政府の気紛れ一つで、世界の涯のどんな辺鄙《へんぴ》なところに飛ばされないとも限らない、そんな身分の人間に過ぎなかったのである。
しかし彼は、自己嫌悪など感じなかった。が、また、事は彼が考えていたとおりにもならなかった。恐らく彼は、ものにするものをものにしてしまったら、さっさと引き揚げるつもりだったのだろう――ところが実際は、気がついてみると彼は、聖杯探求の騎士〔キリストの最後の晩餐に用いた聖杯を探し求めることが、中世の騎士の理想だった〕のように、見果てぬ夢を追い求めはじめていたのである。彼としても、デイジーが一風変ったところがある女だとは気づいていたが、「いい」娘《こ》というものがどれだけ豹変し得るものか、てんでわかってはいなかった。金があり、何もかも揃っている家庭というもののなかに――あっと思ったときには、そのなかに彼女は姿を消してしまっていた。後に残ったギャツビーには、何もなかった。ただ、俺は彼女と結婚したんだと、ただそう感じただけのことだった。
二日後また会ったとき、ギャツビーは息もつけなかった。裏切られた、という感じだった。彼女の家のポーチには、すべて金で購《あがな》った金ピカの豪華な品々が、きらきらとまばゆいばかりだった。彼女が彼のほうを振り向いたとき、籐椅子がなんとも上品そうに、きいきいときしっていた。彼は、デイジーの心をそそるような可愛らしい唇にキスをした。彼女は風邪をひいていたので、声がいつもよりかすれていて、それがまたなんとも魅力的だった。しかしこのとき、ギャツビーは、富というものに守られて育った若さや神秘や、衣装をたくさん持っていることが、どれだけ人を新鮮に見せるかということや、貧乏人があくせくもがいているのをよそに、なんの不安もなく誇り高く、銀のように輝いているデイジーという女の正体を、いやというほど悟らないわけにはいかなかった。
*
「私はね、旧友、彼女を愛していると気がついて自分でもどんなにびっくりしたか、そのときの気持はとても口では説明できませんよ。一時は、むしろ、彼女のほうが私を捨ててくれればいいと思ったくらいです。しかし、彼女も捨てなかった。彼女もやはり私を愛していたからです。彼女の知らない世界のことをずいぶんたくさん知っていたものだから、私のことを物知りだと思っていたらしいし……とまあこういうわけで、最初の野心などどこへやら、ずんずん恋の深みにはまり込んでいったのですが、そうなるともう急に、立身出世などどうでもよくなってしまいました。今後の抱負を彼女に話してやるだけでも、十分に楽しい時を過ごせるとしたら、それも捨てて、大事業などはじめたところで一体何になるというのだ、とそう思いましてね」
いよいよ故国を離れるという最後の午後、彼はデイジーを抱いて、長いこと黙ってすわっていた。寒い秋の日で、部屋にはすでに火を焚いてあって、彼女は頬をほてらせていた。ときどき彼女が体を動かすたびに、彼は腕の位置を少し変えて抱きやすくした。そして一度、彼女の黒々とつややかな髪に接吻をした。明日に迫った長い別れのために、少しでも深く思い出を刻みこんでおこうとするかのように、その日の二人は、余計な口は一切きかなかった。彼の肩に彼女が深く唇を押し当てたり、眠ったようにじっとしている彼女の指を、やさしく彼が触れたときほど、二人が強く愛に結ばれ、互いに深く心を触れ合わせたことはかつてなかった。
*
戦争では、彼は驚くばかりの武勲を立てた。前線へ出る前は大尉だったのが、アルゴンヌの戦闘に参加している間に少佐になり、師団の機関銃隊の指揮を取った。休戦の後はなんとかして帰国しようと躍気になって運動したが、何か複雑な事情でもあったのか、それとも誤解でもあったのか、彼はオックスフォードに行かされることになった。彼は心配でならなかった――デイジーの手紙のなかに、なんとなく焦立たしい自棄的なものが感じられるようになりはじめたからである。どうして彼が帰れないのか、その理由が彼女にはわからなかったのだ。それに、彼女の身辺も、外部からの圧力を強く感じざるを得ないようになって来ていた。そのため、彼女にしてみれば、一層彼に会って、彼の存在を身近に感じながら、自分は決して間違ったことをしているのではないという安心を得ておきたかったのである。
なんといっても、デイジーはまだ若かった。それに彼女を取り巻く世界は、蘭の花の香りが漂い、楽しく華やかでお上品で、オーケストラがその年の流行のリズムに乗せて、取っ換え引っ換え、人生の哀愁や機微を奏でているといった、飽くまでも人工的な世界だった。夜は夜で、サキソフォンが『ビール・ストリート・ブルース』の絶望的な人生観をむせび泣くように吹き鳴らし、それに合わせて、何百組もの金色や銀色の靴が、きらめくばかりに床を乱舞する。お茶の時間がくれば、みんなそれぞれの部屋に引き上げて、青白い光の下に、甘い微熱のような興奮が絶えることなく漂い、またその一方で、悲しげなホルンの調べに床の上に吹き散らされるバラの花びらのように、まだ相手の定まっていない新しい顔が、そここことさまよい歩く。
こうした薄明の世界をデイジーは、社交のシーズンがくると再びさまよいはじめるようになった。突然のように彼女は、一日に六人の男とデートをしたり、明け方になってようやく、イブニング・ドレスや首飾りや縁飾りを、寝台の傍の床の上に、萎れた蘭の花といっしょにくちゃくちゃにまるめて放り出したまま、うたた寝をするといった生活をはじめたのである。しかしまたその一方で、彼女の中のあるものが、絶えず決断を求めて泣いていた。いますぐにも自分の人生を、あるはっきりした形にはめてくれるものを、彼女は求めていた。そのためには、なんらかの力が必要だった。愛とか金とか、あるいは、有無《うむ》をいわせずぐいぐい引っ張って行ってくれる実行力とか――とにかく、何かそういった力が手近な所に欲しかったのだ。
その力とは、春も半ばになったころ、トム・ビュキャナンという男の姿をとって現われることになった。容姿といい地位といい、トムはなかなか押し出しがよかったので、デイジーは心を惹かれた。もちろんある程度悩みもした。しかしまた、ある程度救われた気もした。とにかく、ギャツビーがまだオックスフォードにいる間に、そのことを知らせた手紙が届いたのである。
*
いつか、ロング・アイランドの夜も明けていた。私たちは、階下のまだ閉まったままの窓を次々と開けて歩いた。それにつれて、あるいは青白くあるいは金色に、光が家のなかに射し込んできた。一本の樹の影が不意に露草の上に落ち、青い葉むらのなかで姿の見えぬ小鳥がさえずり出した。あたりの空気はゆっくりと爽やかに流れ、それは風と呼ぶにはあまりにもかすかなものだったが、今日一日が涼しく快い日になることを告げているかのようだった。
「彼女があの男を愛したなんて思えない」ギャツビーはそう言いながら窓辺からくるりと振り返ると、挑みかかるように私を見た。「覚えてるでしょう、旧友。彼女は今日の午後とても興奮していた。彼がああいうことを、ああいう言い方で言うものだから、彼女はすっかりおびえきってしまったんです――あれじゃまるで私が安っぽい山師か何かのように聞えるじゃありませんか。それで彼女は、あんなに、自分でもわけがわからないようなことを言い出したんですよ」
彼は憂鬱そうに腰をおろした。
「そりゃもちろん、彼女だって一時は彼を愛したことはあったかもしれませんよ。新婚早々のときぐらいは――しかしそのときだって、私のほうをもっと愛してたんだ。そうでしょう、旧友?」
それから突然、彼は奇妙な事を言い出した。
「まあとにかく、それはほんの個人的な問題に過ぎなかったんです」
この一件についての彼の考え方のなかに、何か測りしれない強烈なものが潜んでいるに違いない――そう考えるより他に、この言葉は一体どう解釈の仕様があるだろうか?
彼がフランスから帰還したとき、トムとデイジーはまだ新婚旅行の最中だった。彼は軍隊の俸給の残りをはたいて、みじめな思いは否定できなかったが、どうしてもやむにやまれない気持に駆られて、ルイスビルまで行ってみた。そしてそこに一週間ばかりいる間に、いつかの十一月の夜、二人で歩き回った街路を歩いてみたり、彼女の白い車でドライブした田舎のほうまで訪ねてみたりもした。デイジーの家が、他のどの家よりも彼にはいつも神秘的で愉しげに見えたように、この町そのものも、彼女がいなくなったいまでさえ、何か憂愁に満ちた特別なものに思われてならなかった。
町を立ち去るとき、彼の胸には、もっと熱心に探したら彼女が見つかったかもしれない、自分はいま彼女を捨てて行こうとしているのだと、そんな思いが去来していた。普通客車は――彼はもう一文無しになっていた――暑かった。彼はデッキに出て、折畳み椅子に腰をおろした。駅が目の前を流れ去り、見馴れない建物が次々と、線路に背を向けたまま後ろに過ぎ去った。やがて春の野原に出ると、黄色く塗った電車が一輌、しばらくの間列車と競走するように走っていた。それに乗っている人たちも、街角でふと彼女のほの白い顔を見かけて、魅せられたことがあるかもしれない。
線路がカーブして、沈み行く太陽とは次第に遠ざかろうとしていた。太陽は、かつては彼女が住んでいた、そしていまや彼の視界から消え去ろうとしている町の上に、祝福の光を投げかけているように見えた。彼は思わず、ほとんど絶望的に、そのほうに向かって手を差しのべようとした。一瞬なりともその町の空気をわが手につかみ、彼女ゆえに愛《いと》しいものに思われるこの町の片影でも取っておこうとするかのようだった。しかし、それもいまはすべて、彼のうるんだ目には余りにも速く流れ去り、彼はいまや、この町の思い出のなかでも最も清新で最もすばらしい部分が、永久に失なわれてしまったことを悟ったのだった。
朝食を終えて、私たちがベランダに出たときは九時になっていた。一晩明けると、昨日とは打って変って、どことなく秋の気配が感じられた。以前からいるギャツビーの使用人のなかでは、たった一人残っているいつかの庭師が、石段の下にやって来て言った。
「ギャツビー様。今日、プールの水を落とそうと思いますが。もうすぐに木の葉が散りはじめますから。そうなってからですと、排水管がつまりますので」
「今日は止しなさい」とギャツビーは言ってから、弁解するように私を振り返った。「そう言えば、旧友、今年の夏は一度もプールを使いませんでしたね?」
私は時計を見て立ち上がった。
「汽車の時間まで、もう十二分しかありません」
私はニューヨークへ行きたくなかった。行ったってどうせろくな仕事もできまいということもあったが、そればかりではなかった――要するに、私は、ギャツビーを一人で放っておきたくなかった。とにかくその汽車には遅れ、ぐずぐずしている内に次のにも間に合わなくなり、それからようやく腰を上げた。
「あとで電話しますよ」結局私はそう言った。
「ぜひどうぞ、旧友」
「昼ごろにかけます」
私たちはゆっくり階段を降りた。
「きっとデイジーからもかかってくるでしょう」こう言って心配そうな顔でこちらを見たのは、私にも確証してほしかったのだろう。
「でしょうね、きっと」
「じゃあ、さようなら」
握手をして、私たちは別れた。しかし生垣の前まで来たところで、私はふと思い出すことがあって振り返った。
「あの連中は汚ない奴らですよ」私は芝生の向うまで聞えるように大きな声で言った。「あの連中が束になってかかって来たって、あなたは少しもひけは取りませんよ」
そう言ってやってよかった、と私はいまでも思っている。彼をほめたのは、後にも先きにもこのとき一度きりである。大体、ほめようにも、私は、彼のことは初めから終りまで、なに一つ認めていなかったのだ。最初、彼はていねいに大きくうなずいたが、やがて、相好《そうこう》を崩して例の晴れやかで物わかりのよさそうな笑顔になった。その件に関しては、とっくの昔から、二人の腹が通じ合っているのだ、という感じだった。贅沢《ぜいたく》な例のピンクの上着が、白い石段の上に華やかに斑点を一つぽとりとつけたように見えた。それで私は、三カ月前、初めてこの古風な邸を訪れたときのことを思い出した。あのとき、この芝生の上にも庭の小道の上にも、彼の素性の怪しげなのを疑う人びとが群がっていた――そして彼はあの石段の上に立って、見果てぬ夢を胸に秘めて、愛想よくだれかれとなくさようならと手を振っていた。
私は、手厚くもてなしてくれたことの礼を述べた。私ばかりではない――だれでも、そのことに関しては、彼に感謝していた。
「さようなら」と、私は大きな声で言った。「朝食はとてもおいしかったですよ、ギャツビー」
*
市内に入ると、私はしばらくの間は、延々とつづく株の相場の記録をまとめたりもしていたが、そのうち私は、回転椅子にもたれたまま眠ってしまった。電話の音で目が覚めたのは、正午少し前だった。額にじっとりと汗をかいていた。電話はジョーダン・ベイカーからだった。彼女はよくこの時間に電話をかけてよこしたが、ホテルやクラブだの、またはだれそれの家だのと、いつも方々飛び回ってばかりいる彼女をつかまえるのは容易ではなかったので、自然こういうことになるのである。電話の向うから伝わってくる彼女の声は、いつも爽やかで清々していた。それは、さっと一振りするクラブに切り取られた緑の芝生の一片が、窓から飛び込んでくるような感じがするのだったが、それが今朝ばかりは、なんとなくかさかさして耳障りだった。
「私、デイジーの家、出ちゃったの」と彼女は言った。「いまヘムステッドにいるんですけど、午後にはサウサンプトンに行くわ」
デイジーの家を出たというのは、恐らく気をきかせたつもりなのだろうが、私にしてみれば、ちょっと困ったことだった。しかもこんなことまで言い出すので、私も少し緊張した。
「昨夜はあなた、ずい分冷たかったわね」
「だって、それどころじゃなかったじゃないの?」
一瞬、沈黙が流れた。ややあって――
「とにかく――お会いしたいわ」
「ぼくも」
「じゃ、サウサンプトンに行くのを止めて、午後そちらに行きましょうか?」
「いや――今日の午後はまずいなあ」
「なら、いいわ」
「今日の午後は都合が悪いんだよ。いろいろと……」
と、しばらくはそんな調子で話していたが、そのうちに突然、話が途切れてしまった。どちらが先きに受話器をがちゃりと切ってしまったのか、覚えていないが、どうでもいいや、と思ったことは覚えている。たとえこれきり彼女と話をする機会がなくなってしまうとしても、その日、彼女とテーブルをはさんで話し合う気にはなれなかった。
二、三分してから、ギャツビーの家に電話してみたが、話し中だった。四度までやってみたが、とうとう交換手のほうが業を煮やしてしまって、デトロイトから長距離電話がかかっているのだと教えてくれた。私は時刻表を取り出して、三時五十分の汽車に丸印をつけた。それから、再び椅子の背にもたれかかって、考えごとをしようとした。ちょうど正午になっていた。
*
今朝、汽車で灰の山の脇を通り過ぎるとき、私はわざと車室の反対側の席にすわっていた。恐らく現場には終日物見高い野次馬が群がって、子供たちのなかには埃《ほこり》のなかに黒い斑点を見つけ出すのがいたり、おしゃべりなおっちょこちょいが事件の顛末を何度も繰り返し吹聴したりしていることだろう。そのうちに初めの生々しさも薄らいでくると、同じ話ばかり繰り返しているのが自分でも飽きてくる。そんな具合にして、マートル・ウイルソンの悲劇も忘れられていくのだろう――私はそんなふうに想像していた。しかしいまはここで少し話を前に戻して、昨夜私たちが立ち去った後で、ガレージでどんなことが起こったか、それを話しておこうと思う。
みんなが一番苦労したのは、妹のキャサリンがどこにいるのかわからなかったことである。彼女はその晩、禁を破って酒を飲んでいたに違いない。ようやく帰っては来たものの、へべれけに酔っ払っていて、救急車はすでに警視庁の検屍に回された後だということをわからせるのが、また一苦労だった。ようやく事情がのみ込めたと思ったら、こんどは、気を失って倒れてしまった。そんなこと聞きたくない、とでもいうふうだった。だれか、親切からか、物好きからか、彼女を車に乗せて、姉の遺体が運ばれた後を追って、彼女を連れて行った者がいた。
真夜中を大分過ぎてもまだ、野次馬は入れ代り立ち代りガレージをのぞきにやって来た。ジョージ・ウイルソンは、まだ長椅子にすわって体を前後に揺すっていた。初めのうちしばらくは、ガレージの扉が開いたままになっていたので、野次馬は否でも応でもその姿をのぞき込むことになった。とうとうさすがにだれかがこれは余りひど過ぎると言い出して、扉を閉めてしまった。ミカエリスとかその他、はじめは五、六人、側につき添ってやっていたが、それも後からは二、三人になってしまった。いやついには、ミカエリスが、どこの人だか知らない人が最後に残ったのに、もう十五分待ってくれと頼んで、その間に自分の店に帰ってコーヒーを入れるという破目になった。こうして結局明け方までウイルソンに付き添ってやったのは、彼一人ということになってしまったのである。
三時ごろになって、ウイルソンがわけのわからぬことをぶつぶつつぶやいていたのが、様子が少し変り――というのは多少落ち着いてきて、黄色い車がどうしたというようなことを言いはじめた。あの黄色い車の持ち主を探し出す方法があるとか、つい二、三カ月前、妻はニューヨークに出かけて行って、顔にはあざを作り、鼻をはらして帰って来たことがあるとか、そんなことまで言い出したのである。
とはいうものの、言ってしまった後で、自分で自分の言葉がこわくなり、「ああ、神さま」などとまたもや哀れな声で叫びはじめた。なんとか気をそらしてやろうと、ミカエリスはいろいろ骨を折ってみたが、むだだった。
「おい、ジョージ。お前、結婚してどのくらいになる? ほらほら、じっとして――落ち着いて、よく考えてから答えるんだよ。まず、お前結婚してどのくらいになるんだ?」
「十二年だ」
「子供はいたのかい?。おい、ジョージ、じっとおとなしくしてろったら。わしの質問に答えろよ。お前、子供はあるのかい?」
ぼんやりとついている電燈に、堅い茶色の甲虫が、ばたばたとぶつかっていた。外の通りを走って行く車の音が聞えるたびに、ミカエリスはつい数時間前、停車もせずに走り去ったあの車ではないかなどと、そんな気もした。彼はガレージのなかに入りたくなかった。先刻まで遺体が寝ていた仕事台は汚れたままだった。彼は落ち着かないままに、事務所のなかを歩き回った。そして朝になるまでには、部屋のなかにあるものはことごとく覚えてしまった。そして、ときどきウイルソンの傍に腰をおろして、なんとかもう少し静かにさせてやろうとするのだった。
「ジョージ、いつも行く教会はあるのかい? もっとも、もう長いこと行ったことなんかないだろうがね。まあ、それはどうでもいい。わしが牧師さんに電話してやるから、来てもらえば話をしてもらえるよ」
「教会なんか決まってないよ」
「教会に入ってなくちゃいかんよ。こういう事があるからな。それにしても一度くらいは行ったことがあるだろう。結婚式は教会でしたんじゃないのかい? おい、ジョージ、聞いてるのか。お前は教会で結婚式を挙げたんじゃないのかい?」
「ずいぶん昔の話だよ」
何か答えようとすると、そのためにからだを揺すっているのが、調子が狂う――一瞬、彼は黙り込んだ。しかしすぐにまた、例のどこまで正気でどこまでぼんやりしているのかわからないような表情が、力ない彼の目に戻ってきた。
「そこの引出しのなかを見てくれ」と彼は傍らの机を指さしながら言った。
「どっちの引出しだい?」
「その引出しさ――そっちのほうだ」
ミカエリスは、一番手近の引出しを開けた。しかし中には、銀モールのついた革製の、小さいが贅沢な犬の綱《つな》が入っているだけだった。どう見ても、新品だった。
「これかい?」と彼は、それを持ち上げて見せた。
ウイルソンはじっと見つめてから、うなずいた。
「昨日の午後見つけたんだ。女房がなんだかんだ言いわけをしようとしたが、俺はおかしいと思ったんだ」
「おかみさんがこれを買ったってわけかい?」
「あいつ、これを薄紙に包んで箪笥の上にのっけてあったんだ」
そう言われても、見たところ別に変ったところがあるようには、ミカエリスには思われない。そこで彼は、妻君が犬の綱を買った理由と思われるものを、片っ端からいろいろあげてみせた。しかしウイルソンのほうは、そんな類《たぐ》いの言いわけは女房からすでに散々聞かされていたのだろう。再び、例の「ああ、神さま」を口のなかでつぶやきはじめた。このためせっかく慰めてやろうと思ったこっちも、途中で止めてしまうことになった。
「それから、あいつがあれを殺したんだ」とウイルソンは言った。不意に、口がだらりと開くように下がった」
「あいつって?」
「俺は探し出してみせる」
「お前、どうかしてるぜ。あんまり緊張したもんだから、自分でも何を言ってるかわからないんだろう。とにかく、朝までじっとしてたほうがいいよ」
「あいつが殺《や》ったんだ、あいつが」
「ありゃ、ただの事故だよ。ジョージ」
ウイルソンはかぶりを振った。目を細め「ふん!」と軽蔑するように言ったようだったが、口の開け方でそう思っただけで声は聞えなかった。
「俺は知ってるんだ」と彼は断定するように言った。「俺は人を信用するほうのたちだし、人のためにならないようなことを考えたりするつもりもねえ。しかし、知っちまったことはどうにもならねえ。あの車に乗っていたあいつがやったんだ。女房は駆け出して行ってあいつに話しかけようとしたんだ。それなのに、あいつは車を停めようともしなかったんだ」
それは、ミカエリスも見て知っていることだった。しかしそこに何か特別な意味があろうとは、彼には思われなかった。ウイルソンの妻は別にあの車を止めようとしたわけではない。亭主から逃げ出そうとしただけだ、そう彼は思い込んでいた。
「まさか、そんなつもりじゃなかったろう、おかみさんも」
「いや、彼女《あいつ》は何を考えるかしれない女なんだ」これが質問の答えになっていると思っているらしい。またもや「ああ……」と、からだを揺すりはじめた。ミカエリスは例の犬の綱をいじくりながら、突っ立っていた。
「おい、電話をかけたら来てくれるような友人はないのかい?」
しかしこれは、一縷《いちる》の望みというものだった――ウイルソンに友人などという気のきいたものなどないことは、わかり切っていた。女房ひとりを、満足させられなかった男なのだ。とかくするうち、窓の辺りに青味がさしてきて、夜明けも間近いと知れたとき、ミカエリスは内心ほっとした。五時ごろになると、もう電燈を消してもいいほど、外は青味が勝ってきた。
ウイルソンは、どんよりした目で灰の山のほうを見やった。そこには、小さな灰色の雲が奇妙な形を作って、あるとも知れぬ夜明けの風に漂っていた。
「俺は、彼女《あれ》に言ってやったんだ」しばらく黙っていたと思ったのが、だし抜けにそんなことを言い出した。「俺をだますことはできるかもしれんが、神様をだますことはできないぞ、ってな。そして窓の所に連れて行って……」そう言いながらやっとのことで起き上がると、裏窓の所へ行って顔を窓に押しつけるようにもたれかかった。「そうして言ってやったんだ。『お前のやってることを、神様はご存じなんだぞ。いいか、神様はなんでもお見通しなんだぞ。俺をだませたとしても、神様をだますわけにはいかないんだぞ』って」
彼の後ろに立つと、ウイルソンの目がT・J・エクルバーグ博士の目をじっと見つめているのに気がついて、ミカエリスはぎょっとした。それは、ちょうどいま、次第に薄れて行こうとしている夜のなかから、青白い巨大な形を現わしはじめたところなのだった。
「神様は何もかもお見通しだ」ウイルソンはまた言った。
「あれは広告だよ」とミカエリスはそう言って安心させてやろうとした。なんとなく、彼は窓の外を見ているのがまずい感じがして、部屋のなかをきょろきょろと見回したりした。しかしウイルソンは長いことそこに立ちつくしたまま、窓ガラスに顔を押しつけて、薄明りに向かってしまいに何やらうなずいていた。
*
六時ごろになると、ミカエリスはすっかり疲れ切ってしまったので、表に車の止まる音がしたときはほっとした。それは前の晩一緒に付添っていてくれた男で、朝になったらまた来ると言って帰って行ったのだった。そこでミカエリスは三人分の朝食を作り、一緒に食べた。ウイルソンももう大分落ち着いてきたので、やっと彼は家に寝に帰った。ところが、四時間ほどしてから目を覚まして、急いでガレージに戻ってみると、どこへ行ったのかウイルソンの姿はなかった。
後でわかったことだが、ウイルソンは――しかも彼は終始徒歩だった――まずポート・ルーズベルトへ行き、それからギャッズ・ヒルへ行って、サンドイッチを買ったがそれには手をつけず、コーヒーを一杯飲んだ。疲れていたので、きっとのろのろと歩いて行ったのに違いない。ギャッズ・ヒルに着いたのはもう正午を過ぎていたそうである。しかしともかく、ここまでのところは、彼の足取りをつかむのはわけはなかった――『気違いみたいな』男が歩いているのを見かけた子供だの、道端から彼に変な目つきで睨まれた運転手だのがいたからである。ところが、それからの三時間の消息が、まるでわからない。警察は、「犯人をきっと探し出してやる」とミカエリスに言ったという彼の言葉を手がかりに、恐らくこの間、黄色い車を探して辺りのガレージを片っ端から見て回っていたのだろうと推測した。ところが、どこのガレージの主人に聞いても、彼らしい姿を見かけたという者は一人もなかったところを見ると、恐らくあの言葉は根も葉もないたわ言ではなくて、彼はもっと簡単で確実な方法を知っていたのに違いない。二時半にはすでにウェスト・エッグに姿を現わしていて、ギャツビーの家の場所を人に尋ねているのである。つまり、もうそのときには、彼はギャツビーの名前さえ知っていたのである。
*
二時に、ギャツビーは水着をつけ、もし電話がかかってきたらプールにいるから教えてくれと執事に言い残した。それからガレージに行ったのは、夏の間客たちを喜ばせた空気布団を取りに行ったのである。そして運転手に手伝わせて、それに空気を入れた。それから、どんなことがあってもオープン・カーは外に出してはいけないと命令した――これは実は妙な話なので、前の右の泥よけは修理しなければならなかったのである。
ギャツビーは布団を担ぐと、プールのほうへ行きかけた。一度立ち止まって、少し布団をずり上げたので、手伝いましょうと運転手が声をかけると、首を振って、そのまま黄色くなりはじめた木立のなかに姿を消した。
電話はかかってこなかったが、執事は居眠りもしないで四時まで待った――つまり、いつも電話の多い時間を過ぎてしまってからも、もしかかってくるといけないからというので、番をしていたのである。ギャツビー自身は、かかってくるとは思っていなかったに違いないと私は思う。少なくとも、それでも構わないという気持になっていたに違いない。そうだとすれば、心のなかに長いこと暖めつづけて来た懐しい世界も、最早失われてしまったもののように、彼には思われていたに違いない。ただ一つの夢に一筋に、あまりにも長いこと生き甲斐を求めつづけて来たことの、これがあまりにも高い代償であったことに、無残なものを感じていたに違いない。恐ろしげな樹木の葉越しに見上げる空も、いつもとは違うものに見えたに違いないし、バラの花というものがどんなにグロテスクな姿をしているものか、また、しーんと静まり返った芝草の上に降り注ぐ日光が、どんなに生き生きしたものか、彼はいまさらのように気がついて、身慄いしたに違いない。現実とも思えぬのに実体を備えている新しい世界――そこには、あわれな亡霊たちが、空気のようにはかない夢を呼吸しながら、ただわけもなく動き回っている……おぼろげな木立の間を、彼のほうに滑るように寄って来る、あの青白い奇怪な姿のように……
運転手――これもウルフシェイムの子分だったが――彼は銃声を聞いたと言う。もっとも、大して気にも留めなかったなどと、後では苦しい弁解をする破目になったようだが。とにかく、私が、駅から真っ直ぐにギャツビーの家に駆けつけて、不安な顔で階段を一気に駆け上がって来たのを見て、みんなは初めて驚いたのだった。しかしその瞬間に、彼らはすでにそうと悟っていたに違いない――私はそう思っている。私たち四人、というのは、運転手と執事と庭師と私のことだが、物も言わずにプールのほうへ走って行った。
片方の端から新しい水がもう一方の端にある排水口に向かって流れているので、水面もかすかに、やっとそれと感じられるくらいに動いていた。わずかな小波を立てながら、ギャツビーを乗せた空気布団が不規則に揺れながら、下《しも》のほうに流れて行くので、それと知れたのである。水面に小波一つ立てぬほどの風がそよと吹いただけでも、思いもかけぬ荷物を乗せた浮き布団の進路を不意に乱すに足りた。わずか一握りほどの木の葉が触れただけでも、それは、転鏡儀《トランシット》の脚のように、細い赤い円を水中に描きながらゆっくりと向きを変えるのだった。
私たちがみんなでギャツビーを抱きかかえて家のほうへ歩き出したとき、庭師が少し離れた草むらのなかで、ウイルソンの死体を見つけた。こうして、惨事はすべて終ったのである。
[#改ページ]
九
二年|経《た》ったいまになって思い出してみると、あの日の晩と翌日、さらにその翌日と、警官だのカメラマンだの新聞記者だのが、ギャツビー邸の玄関をいつまでも出たり入ったりしていたことだけが頭に残っている。門の前には縄が張られ、警官が物見高い連中の入り込まぬように見張っていたが、子供たちは間もなく、私の家の庭を通り抜ければ中に入れることを知って、いつも何人か、ぽかんと口を開けてプールのまわりに塊《かた》まって見に来ていた。
恐らく刑事なのだろう、その日の午後早速乗り込んで来た男が、ウイルソンの死体の検屍をした後で、「狂人だ」とえらく断定的な調子で、しかも嫌に勿体ぶって言ったもので、翌朝の新聞にはこの言葉がでかでかと使われることになった。
そのような新聞の報道というのは、一つの悪夢のようなものである――妙に怪奇じみたり、場当り的だったり、どぎつかったりするくせに、少しも真実を伝えていない。検屍の際にミカエリスが、ウイルソンは妻を疑っていたと証言してみせたとき、私は、もうこれで事の真相は間もなく、適当に皮肉な味つけがほどこされて明らかにされるに違いないと思った――ところが、何か言って然るべきはずのキャサリンが、頑としてしらを切り通してしまった。ここでもまた、彼女は驚くべきしっかり者ぶりを発揮したのである――例の何度も描き直した眉の下から断固たる決意を眼差しに示して、姉はギャツビーなどと一度も会ったことがないこと、夫とは申し分なくうまくいっていたこと、そもそもどんなことにもせよ間違いなど起こしたことのない女であったことなどを断言した。それはいちいち自分に確かめるような話し方だったが、そのうち、こんな恥さらしなことを言われただけでもがまんがならないといったふうに、ハンカチに顔を埋めて泣き出してしまった。そこで、ウイルソンは、「悲しみの余り気が狂った」男という哀れな存在として片づけられることになり、一件は最も単純きわまる事件として落着することになった。それきり、何事もそこから芽は吹き出さなかったのである。
しかしこういったことはみな、事の本質とはかけ離れた枝葉末節だという気がした。気がついてみると、私は、ギャツビー側の、しかもたった一人の味方なのだった。ウェスト・エッグの村に電話をして惨事を知らせたその瞬間から、彼についてのあらゆる臆測や、実際的な質問も一切、私に向けられるようになった。初めは驚きもしたし面喰らいもした。しかしやがて、ギャツビーが家のなかに寝たきり、身動きもしなければ呼吸もせず口もきかない、しかもそれが何時間もつづくとなると、私は次第に、自分が責任を引き受けてやらなければという気になってきた。大体、他に私ほど関心を持っている者もいなかった――関心といったのは、つまり、煎じつめればだれだって漠然とは持っている、あの、ある個人に対する興味のことである。
ギャツビーの姿を発見してから三十分後に、私はデイジーに電話をかけた。それはほとんど反射的というか、なんのためらいもなしにしたことだった。しかし、彼女とトムとはその日の午後早い内に、どこかへ出かけてしまった後だということだった。しかも手荷物を持っていたという。
「伝言はなかったの?」
「はい」
「いつ帰って来るって?」
「何も」
「どこにいるかわかりませんか? 何か連絡の方法でも?」
「存じません。何も知りませんから」
私は、だれでもいいからギャツビーの側につかまえて連れて来たかった。彼の寝ている部屋に入って行って、「ミスター・ギャツビー、だれかを連れて来てあげますよ。心配いりませんよ。ぼくにまかせてください。だれか連れて来ますからね……」と、そう言ってやりたかった。
メイヤー・ウルフシェイムの名は電話帳に載っていなかった。執事が、ブロードウェイにある彼の事務所の住所を教えてくれたので、電話案内を呼び出して番号を探してもらった。しかしやっとそれがわかったときは、すでに五時を過ぎていて、電話をかけてもだれも出て来なかった。
「もう一度呼んでもらえませんか?」
「もう三度もお呼びしたんですよ」
「緊急の用件なんです」
「お気の毒ですけど、お留守なんじゃないでしょうか」
私は客間に引き返した。そして、そこに一杯詰めかけている人たちを見ていると、この人たちはただ、たまたま仕事で来ているに過ぎないのであって、ギャツビーのことを思って来ている人は一人もいないのだ、とそんなことがふと頭をかすめたりした。彼らはおおってある布を取りのけて、ぎょっとしたような目でギャツビーを見つめたりしてはいたが、私の頭のなかでは、彼が相変らずこう言って抗議しているのが聞えるような気がした――
「ねえ、旧友。だれか連れて来てくれよ。もっと一生懸命探してくれよ。俺は淋しいんだ」と。
だれやら、私に向かっていろいろ質問をしかけてきたが、私は振り返って二階に上がると、机の鍵のかかっていない引出しを物色した――両親は死んだ、とはまだギャツビーの口から聞いたことがないのを思い出したからである。しかし、何もなかった――ただ、ダン・コディの写真だけが、いまはもう忘れ去られた昔の横紙破りの英雄の記念として、壁の上から見下ろしているばかりだった。
翌朝、私はウルフシェイムに宛てた手紙を持たせて、執事をニューヨークに使いにやった。いろいろ問い合わせたいことがあるから、次の列車で出向いて来てくれと書いてやったのである。もっとも書きながら、余計なことをしているような気もしていた。新聞を見れば向うから出かけて来るに決っている。デイジーだって電話をかけてくるだろう、とそんなふうに私は思っていた。ところが、電話も来なければウルフシェイムもやって来ない。やって来る者といえば、相変らず、警官と新聞記者とカメラマンばかりである。やっと執事がウルフシェイムの返事を持って帰って来たとき、私は、味方はギャツビーと二人だけで、彼らみんなを向うに回して、反抗し、軽蔑してやりたいような、怒りと連帯感を覚えはじめていた。
[#ここから1字下げ]
親愛なるミスター・キャラウェイ。このたびの事件につきましては、小生これまで経験したことのない恐ろしい衝撃でした。とても本当とは信じられないほどです。あの男のやったあの気違いじみた行為には、われわれとしても考えさせられずにはおりません。さて、小生、目下のところさる重要事件に縛《しば》りつけられておりまして、このたびの事件に関わりを持っている暇《いとま》がありませぬ故、いまそちらに出向くわけにはいきません。小生にもお手伝いできることがありますれば、後ほど、エドガーに手紙をお託しください。お知らせいただいたこのたびの事件には、小生全く身の置き所を知らず、ただ慄然|襟《えり》を正すのみであります。
敬具
マイヤー・ウルフシェイム
[#ここで字下げ終わり]
それから、走り書きで追伸が書き添えられていた。
[#ここから1字下げ]
葬儀その他に関しご一報願います。彼の血縁関係につきましては一切存じません。
[#ここで字下げ終わり]
午後になって電話が鳴って、シカゴから長距離電話だというので、私は、こんどこそデイジーからだと思った。しかし聞えてきたのは男の声で、消え入らんばかりに電話が遠かった。
「スラッグルですが……」
「は?」聞いたこともない名前である。
「よく聞えませんな。電報は届きましたか?」
「電報など一つもきてませんよ」
「パークの野郎がドジを踏んでね」と何やら急いでいる様子だった。「店先で債権を渡してるところをふん捕まっちまやがって。たった五分前にニューヨークから回状で、番号を知らせて来たとこなんだそうだ。とんだ大しくじりさ。こんなちっぽけな田舎町で、まさかだれも知るめえと……」
「もしもし!」私は息もつかずに相手をさえぎった。「あのね――私はミスター・ギャツビーじゃありませんよ。ミスター・ギャツビーは亡くなりました」
電話が途切れて、向うは長いこと何も言わなかった。やがて、何やら叫ぶような声が聞えたと思うと、ちょっと雑音のようなものが入って、電話は切れた。
*
ヘンリー・C・ギャッツと署名した電報がミネソタのある町から届いたのは、それから三日目のことだったと思う。すぐに発つから、到着するまで葬儀は延期するようにと、ただそれだけの内容だった。
それはギャツビーの父親だった。ひどくかしこまった老人で、おろおろと度を失って、九月のこの暑さだというのに、安物のアルスター外套なんぞにくるまっている。興奮のせいか涙を絶えまなくぼろぼろ流している。私が鞄と傘を受け取ろうとすると、ごま塩のあごひげをしきりと引き抜きはじめたので、外套を脱がせるのが一苦労だった。いまにもへなへなと腰を抜かしてしまいそうなので、私は音楽室へ連れて行ってすわらせてやり、食べる物を運んでやった。しかしろくに食べようともしない。ミルクを飲もうにも、手が震えてこぼしてしまう、といった調子である。
「シカゴの新聞で見ましてな」と彼は言った。「シカゴの新聞に全部出とりました。それですぐ出かけて来たのです」
「どうやってお知らせしたらいいかわからなかったものですから」
絶えず部屋のなかをきょときょと見回しているが、何一つまともに目に入っていない。
「気違いだったんですね」と彼は言った。「気が変な奴がしたに違いない」
「コーヒーはいかがです?」私は勧めてみた。
「何もいりません。もう大丈夫ですから。ええと、お名前は……」
「キャラウェイと言います」
「もう、本当にもう大丈夫です。ジミーはどこにいますか?」
私は客間に案内した。彼の息子はそこに身を横たえていた。老人を一人残して、私は部屋を出た。子供が何人か階段を上がって来て、広間のなかを覗き込んでいた。いま着いた人の名を教えてやると、彼らはしぶしぶ引き揚げて行った。
しばらくしてから、ギャッツ氏が扉を開けて出て来た。口をぽかんと開け、顔はわずかに上気し、両眼からは涙がぽつりぽつりと思い出したようにこぼれてくる。この年ともなると、死というものも急激な想像を絶するような驚きとなっては感じられないのだ。彼はいまはじめて気がついたように辺りを見回して、天井の高い壮大な広間の様子やら、次々と連なっている部屋の様子を見ると、悲しみも次第に畏敬だの誇らしさだのと混じり合った驚きに変っていったようだった。私は老人を二階の寝室に案内した。上着とチョッキを脱いでいる彼に向かって、私は、葬式に関する一切は延期してあるからと教えてやった。
「あなたのご意向も伺わなければなりませんしね、ミスター・ギャツビー」
「ギャッツと言います、私は」
「――ミスター・ギャッツですか。ご遺体を西部にお持ち帰りになりたいのではないかと思いましたので」
彼はかぶりを振った。
「ジミーはいつも東部が好きでしたから。こんなに出世したのも東部ですし。あんたは倅《せがれ》のお友だちですかね。ええと、お名前は――?」
「ええ、親友でした」
「まだこれからだったんですがな。まだ若いのに、頭がえらくいい子でしてな」
こう言って彼が、自分の頭に触って見せたのを、私は妙に覚えている。私もうなずいた。
「長生きさせたら、偉い男になったに違いありません。ジェイムズ・J・ヒル〔アメリカの鉄道王〕みたいなね。お国の建設にお役に立ったでしょうよ」
「そうですね」と私は相槌を打ったものの、なんとなく間が悪い感じだった。
彼はベッドにかかっていた刺繍のついたおおいをもぞもぞ取りはずすと、こちこちに恐れ入った様子で横になったが、すぐにぐうぐう寝入ってしまった。
その晩いかにも脅《おび》えたような声で電話がかかって来た。自分から名乗りもしないで、しきりにこちらの名を聞きたがる。
「キャラウェイです」と私は答えた。
「ああ」と、先方はいかにもほっとした様子だった。「クリップスプリンガーです」
ほっとしたのはこちらも同じだった。これでギャツビーの葬式の列席者がまた一人増えたと思ったからである。新聞に広告を出して野次馬半分の参会者を大勢集めたりするのは嫌だったし、といって、幾つか心当りに電話をかけたりはしてみたのだが、そうおいそれと来てくれそうもなかったのだ。
「葬式は明日です」と私は言った。「三時からこの家でやります。来てくれそうな人に、あなたからも伝えてください」
「ええ、伝えましょう」と彼はあわてたように大きな声を出した。「別にだれかに会うこともないでしょうが、もし会ったら言っておきます」
こりゃ怪しいぞ、と私はぴんと来た。
「もちろんあなたは来てくださるでしょうね」
「そりゃ、できるだけ出るようにします。ところで電話をしたのはですね――」
「ちょっと待ってください」と、私は相手に口をきかせないようにして、「来ていただけると思ってよろしいですね?」と言った。
「いや、実は――実はですね、私、いま、仲間とグリニッジにいるんですが、明日どうしても連中とつき合わなくちゃならない破目になってまして。いえその、実は、ピクニックか何かに出かけるらしいんですがね。もちろん、なんとか抜け出せるように努力してみるつもりですが」
私はつい無遠慮に、「ふん」と軽蔑したような声を出してしまった。これは当然向うにも聞えたに違いない。ますますおどおどした調子になって相手は弁解をつづける。
「今日お電話したのはですね、靴を一足そちらに置いてあるんですよ。それでですね、お忙しいでしょうが、執事にそれを送るよう伝えていただけないでしょうか。ええ、あの、テニス・シューズなんですけど。それがないととても困るんです。ぼくの住所はですね、B・F・方――」
私は全部を聞かずに電話を切ってしまった。
それからというもの、私はギャツビーに対してなんだか恥ずかしかった――電話をかけたある男は、ギャツビーがああいう目に会ったのも、自業自得だというような口振りだった。もっとも、この場合はこちらも悪かったので、つまり、この男はかねがね、ギャツビーのところでふるまい酒をくらってはその勢いを借りて、彼のことをとかく冷笑的に批評していた人物だからである。もっと人を見て電話をかけるべきだったのだ。
葬式の日の朝、私はニューヨークまでマイヤー・ウルフシェイムに会いに行った。こうでもしなければ、会える方法はないと思ったからだ。エレベーター・ボーイに教えられて、「かぎ十字会」と書いたドアを押してみたが、だれもいる様子はなかった。「今日は」と何度呼んでみても返事はない。これは留守かと思っていると、そのとき、仕切り壁の向うで何やら言い争う声が聞えて、ユダヤ美人が一人ドアを開けて出て来た。黒い目でいかにもうさん臭そうに、こちらをじろじろ見つめている。
「だれもいませんよ」と彼女は言った。「ウルフシェイムさんはシカゴへいらっしゃいました」
この前口上は明らかに嘘だった。確かめるまでもなく、そのときだれかが、奥で「ロザリオの歌」を調子っぱずれの口笛で吹きはじめたのである。
「キャラウェイがお目にかかりたいと申しているとお伝えください」
「でもシカゴにいらっしゃってるものを」
と、このとき、紛れもなくウルフシェイムの声が、ドアの向うから「ステラ!」と呼んだ。
「お名前を書いて机の上に置いといてください」彼女は急いで言った。「お帰りになったらお伝えしときます」
「でも、そこにいらっしゃるじゃありませんか」
彼女は、一歩私の前に踏み出して来ると、腰にあてた手をいまいましそうにこすりはじめた。
「あんたたちお若い人は、無理矢理押しかけてくればいつでも入れてもらえるとお思いのようだけど」と、がらりと調子が変って、「こちらはそんなやり口にはうんざりしてるのよ。あたしがシカゴにいると言ったら、あの人はシカゴにいるんだよ」
私はそこで、ギャツビーの名前を出してみた。
「あら、そう」と、彼女は改めて私をじろじろ睨《ね》め回して、「ええと、お名前はなんでしたっけ?」
彼女が姿を消す、と思ったらいきなり、マイヤー・ウルフシェイムが戸口に傲然と現われて、両手を差し出した。そのまま私は事務所の中に引っ張り込まれた。ウルフシェイムは、こんどのことはなんとも悲しみに耐えませんなと神妙な口調で言いながら、私に葉巻をすすめた。
「彼に初めて会ったときのことを思い出したよ」彼は言った。「当時彼は除隊したばかりの若手の少佐で、戦争でもらった勲章をいっぱいつけてたな。ずいぶん困っててね。普通の服がもらえないものだから、いつも制服の着た切り雀だった。わしが初めて会ったのは、彼が四十三番街にあったワインブレンナーの玉突き場に何か職がないか、と言ってやって来たときだったよ。もう二日も何も食べてないと言ってね。『さあ、こっちへ来て一緒に食えよ』と、わしが声をかけてやったんだ。そしたらあいつ、三十分もしないうちに四ドル分も平らげやがってね」
「あなたが彼に仕事をはじめさせたんですか?」と私は尋ねてみた。
「はじめさせたなんてもんじゃない。あれを仕立て上げてやったのさ」
「ほう」
「全くの無一文からね。本当のどん底だったんだ。いい顔をしてるし、これはちゃんとした人間だということはすぐにわかるからね。しかもオ|グ《ヽ》スフォードを出てるっていうから、こいつは使いものになると思ったんだ。在郷軍人会に入れてやったら、ずい分活躍してたよ。まず手はじめに、オルバニーにいる私のお得意の仕事をやってくれてね。それからというものは、われわれはいつもこんな具合に切っても切れない仲になったというわけさ」と言って、先の丸まったような太い指を二本立てて見せた。「なんでも一緒にやったものさ」
一九一九年のワールド・シリーズの買収事件も、その一緒にやったというなかに入っているのだろうか。
「ところでその彼が死んだわけですから」と、私は様子を見て切り出した。「親友として、今日の午後の葬式に出ていただけるでしょうね」
「出たいと思ってますよ」
「そうですか。じゃ、いらしてください」
彼の鼻毛がかすかにふるえた。そしてかぶりを振ったが、目には涙が溢れていた。
「それができないんだ――関わり合いになるわけにはいかんのだよ」と彼は言った。
「関わり合いができることなんて、何もありませんよ。もうすべて終ってしまったんですから」
「人が殺されたときにはね、何しろ私は関わり合いたくないんだ。避けているんだよ。若いときはそうじゃなかった――友だちが死んだら、どんなことがあったって、とことんまで立ち会ったもんさ。そんなことは感傷に過ぎんと思うかもしれんが、しかし本当なんだ――本当にとことんまで立ち会ったよ」
彼には何か彼なりの理由があって、行くまいと心に決めているのだとわかったので、私は立ち上がった。
「君は大学出かね?」と彼は出しぬけに尋ねた。
私は一瞬、これは例の「取引」の仲間に誘うつもりなのかと思った。が、彼はただうなずいただけで、私の手を握った。
「友情は相手が死んでからではなく、生きているうちに示すという行き方を学ぼうじゃないか」彼はそう言った。「死んでしまった後はそっとしておく、というのが私の流儀なんだ」
彼の事務所を出たときは、すでに空は暗くなっていた。私は霧雨のなかをウェスト・エッグに帰って来た。服を着換えて隣りの部屋に行ってみると、ミスター・ギャッツが興奮して広間を行ったり来たりしていた。息子と息子の財産に対する誇りは次第に大きくなってくるばかりで、こんどは何やら私に見せたいものがあるらしかった。
「ジミーのやつ、これを送って来ましてな」そう言って彼は、ふるえる指で紙入れを取り出して「ほら、これですよ」
それはこのギャツビー邸の写真だった。大勢の人に見せたと見えて、隅のほうが折れたり汚れたりしていた。その写真の細かい部分まで、いちいち指さして見せては、「ほら、見てごらんなさい」などと言って、私の目のなかに感嘆の色を探すのである。こうやって折あらば人に見せているうちに、どうやら、現実の家そのものよりもこの写真のほうが、彼には一層真実のものと映っているらしかった。
「ジミーがこれを送ってくれましてな。なかなかいい写真でしょう。実によく撮《と》れてる」
「いいですね。最近、お会いになったことがおありですか?」
「二年前にやって来て、いま住んでいる家を買ってくれましたよ。あれが家を飛び出したときはむろんたまげましたがね。しかしそれも、いまになってみりゃ無理もなかったんですよ。自信があったから、あんな田舎にくすぶってなぞいられなかったんでしょうよ。それに出世してからってものは、わしにはとてもよくしてくれました」
写真をしまう気にはなかなかなれないらしく、なおしばらく、私の目の前にちらちらさせて見せていた。やっと札入れをしまったかと思うと、こんどはポケットから『ホバロング・キャシデイ』という、ぼろぼろになった古い本を一冊取り出した。
「これはね、あれが子供のころに持っていた本なんですがね。これを見るとよくわかりますよ」
彼は裏表紙を開いて、私の見やすいように向きを変えて差し出してよこした。巻末の見返しに、『時間割』と書いてあって、一九〇六年九月十二日と日付まで入れてあった。そしてその下に――
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起床……午前六・〇〇
唖鈴体操と登攀運動……午前六・一五〜六・三〇
電気学その他の学習……午前七・一五〜八・一五
仕事……午前八・三〇〜午後四・三〇
野球その他スポーツ……午後四・三〇〜五・〇〇
弁論術・黙想およびその上達法の練習……午後五・〇〇〜六・〇〇
発明に必要な勉強……午後七・〇〇〜九・〇〇
[誓約]
シャフターズや〔名前らしいが判読できない〕でむだな時間を過ごさないこと。
禁煙。噛み煙草もやらないこと。
入浴は一日置き。
毎週一冊有益な本または雑誌を読むこと。
週に五ドル〔とあるのを訂正して〕三ドル貯金すること。
もっと親孝行すること。
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「この本を偶然見つけたんですがね」と老人は言った。「これを見るとよくわかるでしょうが」
「そうですね」
「ジミーは初めから偉くなるようにできてた子だったんですよ。いつもこんなふうな誓いだとかなんだとかを立てている子でした。精神を鍛えるんだって言って、どんなことをしたかわかりますか? そりゃ、本当に感心するほどでしたよ。わしが豚みたいに大食らいだなんて言うもんだから、殴ってやったこともありましたがね」
彼はなかなか本を引っ込めてくれようとしなかった。項目をいちいち大声で読み上げては、どうだといわんばかりに私の顔を見つめる。たぶん私がこの表を書き記して自分の役に立てますとでも言ってやったら、満足したのだろう。
三時少し前に、フランシングからルーテル派の牧師がやって来た。私はついつい、他の車が来はしないかと、ともすれば窓の外に目をやりがちだった。ギャツビーの父親も同様だった。次第に時も移り、執事が入って来て大広間に立って客を待ちはじめるようになると、父親は心配そうに盛んに目をぴくぴくさせるようになった。いかにも不安で心もとなげな様子で、この雨だからなどと言ってみたりする。牧師が何度も時計に目をやる。私は彼を脇へ連れて行って、三十分ほど待ってくれるよう頼んだりもした。しかし、それもむだなことだった。ついに客はただの一人も来なかったのである。
*
五時ごろ、三台の車に分乗した葬列が墓地に到着し、しっとりと降り込める雨のなかを門の傍に停車した――まず先頭は、雨に濡れて恐ろしく黒く見える霊柩車、次いでリムジンにミスター・ギャッツと牧師と私。それから少し遅れて、従僕が四、五人とウェスト・エッグの郵便配達人がギャツビーのステーション・ワゴンに乗って到着した。みんな肌まで雨に濡れている。門を入って墓地のほうへ歩き出そうとしたとき、車が一台停ってだれかがぴしゃぴしゃとはねを上げながら、後ろから追いかけて来る足音が聞えた。それは、三カ月ほど前のある晩、ライブラリーでギャツビーの蔵書に感嘆しているところを見かけたことのある、あのフクロウみたいな眼鏡をかけた男だった。
あれから一度も、私はこの男を見かけたことがなかった。どうして葬式のことを知ったのか、いやそれどころか、この男の名前さえ私は知らなかった。雨がその度の強そうな眼鏡も濡らすので、彼は眼鏡をはずして、われわれがギャツビーの墓のおおいのテントをはがすのを見ようと、一生懸命レンズを拭いていた。
私はそのとき、少しでもギャツビーのことを思いやってみようとしてみたのだが、もうすでに彼は遠い存在になってしまっていた。ただ、デイジーが弔電一つ、花一つ送ってよこさないことだけが思う浮かぶばかりだったが、それとても別に怒る気持にもならなかった。だれだか低い声で「幸いなるかな、死せる者に雨の降りたる」とつぶやくのがうつろに聞えた。例のフクロウ眼鏡の男が、それに合わせて「アーメン」といやに勇ましい声で言った。
私たちは雨のなかを、てんでに車まで急いだ。門の傍まで来たとき、フクロウ眼鏡氏が私に話しかけて来た。
「どうもお宅まで伺えませんで」
「どなたもそれはご同様です」
「なんですって?」と彼は驚いて大声を上げた。「なんてこってす。前にはあんなにわんさと押しかけていたというのに」
彼はまた眼鏡をはずして、レンズを拭いた。まず外側を、次いで内側を。
「可哀そうな奴だ」と彼は言った。
*
私にとって最も鮮やかな思い出の一つは、予科や大学のクリスマスの休暇に、西部へ帰省したときの情景である。シカゴより遠くまで帰る者は、十二月の夕方の六時に古ぼけて薄暗いユニオン駅に集まるのが決まりのようになっていた。シカゴに住んでいる友だちは、すでに休暇中の計画の楽しみにすっかり気もそぞろで、それでも何人かは駅まで見送りに来てくれる。ミス何某女学園だのなんだのといった女学校の生徒で、これもやはり帰省するのか、毛皮の外套を着て、白い息も凍りつきそうにおしゃべりに余念がない。と思うと、急に、だれか顔見知りでも見つけたと見えて、頭上高く両手を振って、「あなた、オードウェイのとこへいらっしゃる? ハーシーは? シュルツのとこは?」などと、パーティの招待先を打ち合わせてみたり。
そんな光景を、私はいまも懐しく思い出す。われわれはみな、手袋をはめた手に青切符を固く握りしめていた。そしてやがて、シカゴ、ミルウォーキー、セントポール方面行きの芥子色の列車が、この日ばかりはクリスマスそのもののように楽しげに、改札口の横のプラットホームに入って来た。
汽車が動き出して冬の夜の闇のなかに進んで行き、本当の、これこそ本当の雪だと故郷に近づきつつある実感の湧いてくるような雪景色が、車輌の両側に拡がりはじめ、窓についた雪がきらきらと光り、ウィスコンシン辺りの田舎駅が次々と背後に飛んで行くようになると、急に、辺りの気配も荒々しい自然のそれに変ってくる。夕食をすませて寒いデッキを通って帰って来る途中など、深々とその空気を吸い込むと、やっと帰って来たというのか、言うに言われない、ある一体感のようなものを感じるのだったが、それも一時間もすると、もう分ち難いまでにその空気のなかに溶け込んでしまうのである。
私にとっての中西部とは、そういうものなのだった――小麦でも大草原《プレーリー》でも、消えてなくなったスウェーデン人町でもなく、興奮に満ちた若き日の帰省列車、凍りついた霜夜の街燈や橇《そり》の鈴の音、灯のともった窓から雪の上に落ちたヒイラギの花環の影、それが私の中西部なのだった。そしてまぎれもなく、私もそうしたものの一部なのである。長い冬をじっと耐えて過ごすせいでか、やや生真面目で、何十年も昔からいまなお住居《すまい》を家の名で呼ぶようなそんな田舎の町の、キャラウェイ家のお坊ちゃんとして、おっとりと育った人間なのだ。と、こう考えてみると、結局、この物語は西部という地方の生み出した一つの挿話に過ぎなかったことがわかってくる。――トムもギャツビーも、デイジーもジョーダンも私も、みんな西部の人間なのだった。そしてそのだれもが、ある西部人独特の弱点を共通して持っていて、そのために、何か東部の生活に馴染めないところがあったのだ。
東部の生活に一番夢中になっていたときでさえ、オハイオ川以西の、鼻たれ小僧や老いぼれは問題外として、一人前になれば絶えず他の目を気にしていなければならない田舎の、退屈でふやけたような町に比べたら、はるかにすばらしい所であることを痛切に感じていた、そんなころでさえ、私は、東部という所には何かゆがんだ、しっくりしないものを感じていた。ましてやウェスト・エッグは、いまなお私にとってはわけのわからぬ奇怪な夢の世界である。エル・グレコの描く夜の光景に、それは似ている。陰鬱に垂れ下がったような空や、光を失ったような月の下に、ごくありふれた姿でありながら、何となく無気味な感じのする家々が、幾百となくうずくまっている。前景には、四人の夜会服を着た男が真面目くさった顔で担架を持って歩道を歩いていて、その上には白いイブニング・ドレスを着た女が泥酔して横になっている。担架の横からだらりと垂れた女の手には、宝石が冷たく光っている。男たちはしずしずと、とある一軒の家に入って行く――しかもそれは、彼女の帰るべき家ではないのだ。しかしだれも女の名前も知らないし、また気にかけようともしない。
ギャツビーの死後、東部というと私にはそんな奇怪な幻影がつきまとって離れないのである。どんなに見直そうとしても、一度できた歪《ゆが》みはなかなか矯正できなかった。枯れた落葉を焚く青い煙が空に漂い、湿った洗濯物が風に吹かれて物干綱にぶら下ったまま凍りつくようになった時分、私は故郷に帰ろうと決心した。
一つだけ、立つ前に片づけておかなければならないことがあった。面倒でもあり不愉快なことでもあるので、もしかしたら、このまま放っておいたほうがよかったのかもしれない。しかし私は、後を濁したまま飛び立つ気にはなれなかった。あの、万事を引き受けて何一つ気にかけようともしない海の水に、自分の残した残骸をきれいに流し去ってもらうに任せたりなど、したくなかったのだ。そこで私はジョーダン・ベイカーに会った。そして、二人に起こったさまざまなことや、その後で私の身に起こったことなどを、いろいろと話した。彼女は大きな椅子にすわったまま、身じろぎ一つしないで聞いていた。
彼女はゴルフの服装をしていた。その姿を、気のきいた挿絵か何かのようだと思ったことを、私はいまでも覚えている。少しつんと気取ってあごをしゃくり、髪は秋の木の葉の色を思わせ、顔はひざの上に置いた指なしの手袋と同じ色をしていた。私が話し終えると、彼女は説明は一切抜きで、ある男と婚約したと言った。彼女がうんと言いさえすれば、結婚できる相手が何人もいることは知っていたが、私はこれは少し怪しいと思った。しかし、私は驚いた振りをしてみせた。ほんの一瞬、自分はいま間違ったことをしているのではないかという思いが胸をよぎったが、すぐにまた思い返して、立ち上がってさよならと言った。
「でもやっぱり、私はあなたに捨てられたのよ」とだし抜けに、ジョーダンはそんなことを言った。「あなた、あの電話で私を捨てたのよ。いまはもう何も言うつもりはないけど、でも、あんなことは初めての経験だったわ。しばらくは、目がくらんで何もわからなかったわ」
私たちは握手をした。
「ああ、あなた覚えていらっしゃる?」――彼女は言い足した――「いつか話し合ったでしょう、車の運転のこと」
「そう――なんだっけ?」
「あなたおっしゃったわ。下手な運転手でも、もう一人下手な運転手に出会うまでは安全だって。そうなのよ。私、その下手な運転手とぶつかっちゃったっていうわけよね。つまり、あんな見当違いの判断をしちゃったのも、私の不注意のミスだったっていうわけよ。私、あなたって正直で真っすぐな人だと思ったの。あなたもそれを、本当は誇りにしてるのかと思ってたわ」
「ぼくも三十だよ」と私は言った。「自分に嘘をついて、それを名誉だと思い違えたりするには、五つばかり年を取り過ぎたってわけさ」
彼女は返事をしなかった。腹立たしい思いと、まだ半ばは消えやらぬ彼女への思いとで、たまらない寂寥《じゃくばく》を覚えながら、私は彼女に背を向けた。
*
トム・ビュキャナンの姿を見かけたのは、十月の末近くのある午後のことだった。五番街を歩いていると、前のほうを、例の妙に勇ましいようなせっかちなような歩き方で歩いて行くのが見えた。邪魔ものは片っ端から追い払うんだとでもいうように、両方の肘を張って、どんなものも見逃すまいといったふうに、絶えず右左を鋭い目つきで見回している。そのたびに頭も右左と動かすのである。追いついてはまずいと思ってゆっくりゆっくりついて行くと、彼はふと足を止めて、宝石店のウィンドーをおっかない顔で睨んでいる。と、私の姿を見つけると、片手を差し出しながらこちらに近づいて来た。
「どうしたんだ、ニック? 俺と握手するのは嫌だとでもいうのかい?」
「うん。君のことをぼくがどう思ってるか、わかってるだろう」
「ばかを言うなよ」と彼は早口で切り返してきた。「冗談じゃない。俺にはさっぱりわからないよ」
「トム」と、こちらも強く出た。「あの日の午後、君はウイルソンになんて言った?」
トムは一言も言わず、私の顔をじっと見つめた。それで私は、あの日のウイルソンの不明だった数時間の行動について、自分の推測が正しかったことを知った。私は引き返そうとした。すると彼は、さっと一歩追って来て、私の腕を掴んだ。
「本当のことを教えてやっただけさ」彼は言った。「われわれが出かけようとしているところへ、あいつ、家《うち》までやって来たんだ。留守だと言わせたら、奴さん、無理矢理二階まで上がって来ようとしやがる。あの車の持ち主を教えてやらなかったら、あの気違いめ、俺を殺していたかもしれないぜ。家に入って来たときからずっと、ポケットのなかで拳銃を離さないんだ……」と。そこまで言って、急にこんどは私に向かってまくし立てた。「それに俺が話したからって、それがどうしたってんだよ。あの野郎はあれで自業自得じゃないか。君もデイジーと同じように、あいつの目くらましにひっかかったんじゃないのか。しかしあいつも、したたかもんだよ。犬っころでもはねるみたいにマートルを轢き殺して、止まろうともしないんだからな」
私は何も言えなかった。言うとすれば、ただ一つ、それは違うと言ってやることだけだが、それだけはなんとしても言うわけにいかない。
「それにだな、もし君が、俺だけは辛い思いをしなかったとでも思ってるのなら――いいかい、あのアパートを引き払いに行って、あの犬のビスケットか何かの箱が棚の上にのってるのを見たときは、俺はすわり込んで子供みたいに泣いたんだぜ。たまらなかったんだ……」
私は彼を許すことも好きになることもできなかったが、彼のしたことは、本人にしてみれば、無理のないことだとはよくわかった。何もかも無頓着だし、支離滅裂だ。トムもデイジーも、同じ穴のむじななのだ――品物でも人間でもめちゃめちゃにしておきながら、金だとかとんでもない無頓着だとか、なんでもいい、とにかく自分たち二人を結びつけてくれるもののなかに逃げ込んでしまって、自分たちのひき起こしたごたごたの後片づけは他人まかせにしてしまうという、この無頓着さ……
私は彼と握手をした。拒否したりするのもかえってばかばかしいことのように思われてきたからだ。彼と話をしているうちに、私は急に子供に向かって話しかけているみたいな気がしたのだ。それから彼は、真珠のネックレスを買いに(いや、ただカフスボタンを買っただけかもしれないが)宝石店のなかに入って行った。これで、私みたいなくそ真面目な田舎者と永久に手が切れたというわけだった。――
*
私が発《た》ったときは、ギャツビー邸はまだ空家のままだった。――芝生も私の所のと変わらないほど、のび放題になっていた。村のタクシーの運転手のなかに一人、門の前を通るときには必らず一度ちょっと停って、中を指さしてみなければ承知しない男があった。恐らくあの事件の夜、デイジーとギャツビーをイースト・エッグまで乗せて行った運転手なのだろう。そして恐らく、何度もその話を繰り返しているうちに、見てきたような一席の講釈にまで仕立て上げてしまっているに違いない。それが聞きたくなかったので、私は汽車を降りてもこの男の車につかまらないように気をつけた。
土曜日の晩は、ニューヨークで過ごすようにした。ギャツビーの家のあのきらびやかな目も眩《くら》むばかりのパーティの印象が、いまでもまだ鮮やかに残っていて、庭から聞えてくる音楽だの笑い声だのが、遠く小止みもなくさざめき、庭道を出たり入ったりする車の音が耳に響《ひび》いてくるような気がするのだった。ある晩、幻ではない本当の車が入って行く物音が聞えたかと思うと、ヘッドライトが玄関の前で停るのが見えた。しかし私は、調べてみる気にもならなかった。恐らくこれは、地球の果てにでも出かけていて、もうパーティが終ったことも知らずにやって来た、最後の客か何かだろうと思う。
最後の晩、荷造りももう終り、車も村の食料品店に譲ってしまった後で、私は、あの空虚にして巨大な屋敷をもう一度眺めて見るつもりで表に出た。白い階段の上に、近所の子供の悪戯だろう、煉瓦《れんが》のかけらで卑猥な文字が書いてあった。私は靴で石の上をごしごしこすって、それを消した。それから浜辺のほうへぶらりと歩いて行き、砂の上に大の字に寝そべった。
岸に沿った大きな屋敷はいまはあらかた閉鎖され、海峡を渡るフェリー・ボートの赤い灯が動いているのがぼんやりと見えている他は、ほとんど明りというものは見えなかった。そして、月が次第に高く昇るにつれて、その辺のなくてもいいような家々の姿は、闇のなかに溶け込んでしまって、かつてオランダの船乗りたちの目に花の咲き乱れるかのように映じたこの島が――新世界のみずみずしい緑の胸といった昔の姿さながらに、私の目に浮かんで来た。いまは姿を消してしまった森が、ギャツビーの屋敷を建てるために伐《き》り払われたその森が、かつては、人間に残された最後にして最大の夢を、そっと人間どもにささやきかけそそのかしていたのだ。この大陸を目の前にしたとき、人間は自分では理解もできなければ望みもしなかった美的な瞑想に否応なく引きずり込まれて、一瞬、恍惚としてわれを忘れ、息をのんだに違いない。そのときこそ人間は、その驚嘆できる限りの能力をもってして、ようやく釣り合いの取れるほど巨大なものと、人間の歴史上最後の邂逅を経験したのである。
こうして私は砂の上にすわって、過ぎた昔のもう知ることもかなわぬ世界に思いをはせながら、ギャツビーが、デイジーの家の桟橋の突端に緑色の灯を見つけたときの驚きはいかばかりだったろうと考えてみた。彼は長い旅路の果てにこの青々と茂る芝生までやって来たのだった。そのとき彼の夢は、最早つかみ損なうことなどあり得ないほど、間近なものに思われたに違いない。彼は知らなかったのだ――その夢は、実は、すでに彼の背後に去ってしまっていたことを。ニューヨークという大都会の彼方に、茫漠と広がっているあの得体の知れない世界のどこか、共和国の原野が夜の下に黒々と起伏している辺りに、遠ざかってしまっていたことを。
ギャツビーはあの緑色の灯を信じていた。私たちの進む先を、年ごとに後退して行くあの狂乱のような未来を信じていた。一度は手中にしたかと見えて、私たちの手のなかからすり抜けて行ってしまった未来。だが、そんなことは構わない――明日はもっと速く走ろう、そして両手をもっと先へ伸ばそう……そして、ある美しい朝がきたとき――
こうして私たちは、流れに逆らう小舟のように、絶えず過去へ過去へと押し流されながらも、波を切って漕ぎつづけるのだ。 (完)
[#改ページ]
解説
ここに訳出したF・スコット・フィッツジェラルドの「ザ・グレート・ギャツビー」The Great Gatsby は、一九二五年、作者が二十九歳のときの出版である。
本書の主人公ギャツビーは、ノース・ダコタの貧農の子であり、それがいろいろの生活の苦労を経て成り上った人物ではあるが、出世と愛情のために生涯の夢をかけながら、けんらんたる虚栄の生活のなかで殺される悲劇の主人公でもある。そしてこの作品はフィッツジェラルドの、世評高い傑作の一つである。
物語の筋は、農民の子ジェームズ・ギャッツが十七歳のとき、スーペリア湖に浮かんだ金持のダン・コディの豪華なヨットを見て、自分の名をジェイ・ギャツビーと改名、その金持の助手をつとめて将来に大きな夢をいだくが、アメリカの第一次世界大戦参戦とともに軍隊に入り、貧乏少尉のころデイジーに会って恋に陥る。彼にとって金持の令嬢との結婚が最大の夢となるが、彼が海外に出征し少佐に進級して帰国するまでの五年の間に、デイジーは金持のトム・ビュキャナンという男と結婚する。
帰国したギャツビーは金と出世欲にとりつかれ、大胆な手段によって財産をつくる。しかし、愛人デイジーのことが忘れられず、ロング・アイランドのイースト・エッグのトムの家と、入江をへだてたウェスト・エッグに豪壮な屋敷を買って、連夜人々を招いて豪華なパーティを開くが、彼のデイジーへの燃えるような思慕の情は、夜空の星を眺めるかに見せて、実は入江の対岸のデイジーの家の緑の灯に注がれるのであった。そして本編の主人公ギャツビーの屋敷に隣接して住んでいるのが、この物語の語り手として登場するニックである。そしてニックとデイジーはいとこである。
ギャツビーはニックの取りなしによって、ニックの家でデイジーと再会でき、彼女の愛を取り戻すことができるかのようにみえる。ここでトムとギャツビーの言い争いなどが入るが、やがてみんなでニューヨークに出かけての帰り、夫と言い争ったデイジーはギャツビーと一緒にギャツビーの車を運転して帰る途中、トムの情婦となっている途中のガソリン・スタンドのウィルソンの妻マートルを轢き殺してしまう。やがてトムのそそのかしによってギャツビーを犯人だと思い込んだウィルソンは、ギャツビーを射殺する。こうしてギャツビーは成功へいま一歩のところで、はかなく悲劇の生涯を閉じる。死んだ彼はみんなから――デイジーすらも去ってしまって――忘れられるが、死んだ彼に変らぬ愛情と友情を示すのは、郷里の老父と、本編のナレーターであるニックだけである。以上のような物語の中に人間性の真実を掘り下げ、深く印象に残る作品である。
フィッツジェラルド自身が、ギャツビーのような人物を非常に嫌悪し軽蔑していることは、この作品を読めばわかるが、同時に彼はそのギャツビーにたまらない愛着を感じているのだ。つまりは、ギャツビーが中西部の貧しい出であり東部にあこがれ、同時にアメリカ人らしい出世欲のとりこになっていることが、作者フィッツジェラルドの分身でもあるのを告白しているのである。作者自身が東部人にあこがれながらも、自分の精神的基礎は中西部のものであることを自覚している。
作者が「グレート」〔偉大なる〕という文字をギャツビーの前につけたのは、これは文字どおりの単純な「偉大」という意味ではない。金を得るためには手段を選ばぬ、偉大なるがめつさは普通人にはできないという「偉大」であるかもしれないが、たぶんに自虐的皮肉さを含んでいる。作者自身が、同じく中西部出身のインテリであるこの物語のナレーターのニックを、あくまでも愛着をもって登場させ、物語の運びの一つの柱にしていることは、これも作者自身の心情を示すものであるが、主人公ギャツビーの心情は、地方出の作者には胸が痛むほどわかるのである。
作者フィッツジェラルドは中西部の出身であり、東部の有名大学に入ったことが、一方ではひけめを感じながらも一方では一層出世欲をつのらせ、その間に絶世の美女だと思うゼルダとの愛情のもつれに苦しみ、文壇の寵児となって愛する美女の悪妻との生活がはじまるが、ここにすでに作家として大成する基礎が崩れかかっているように思われる。
フィッツジェラルドの長編短編には、大抵彼自身の姿が投影されているのを感じさせられる。そしてそれは彼の生い立ちと思想を感じさせる。しかし彼は創作意欲に燃えながらも、悪妻との行きがかりの生活に、むしろ苦汁を飲む思いではなかったか。彼自身の目ざす理想を心ならずも踏みにじる思いに悩んでいたのではないだろうか。彼は富を重要なものと考えたが、しかし富そのものが重要なのではなく、富さえあれば人間の想像力の及ぶ限りの生活を営むことができると思い、富を無意味な生活に消費するのを彼は嫌悪していた。彼が作中に登場するデイジーとトムの軽薄さに決して好意を抱いてはいない。「――彼らは事物や生物をぶちこわしにしておきながら、金とか甚だしい軽薄さとか、とにかく体裁を守れるものの中に逃げ込み、他の人々に自分が招いた混乱の尻ぬぐいをさせる……」。故に、「ギャツビーこそ作者の信念を、生き生きと表明した人物であり、その信念というのは、想像力の加わらない生活は動物的でがまんがならないものであり、人間は想像された生活をこの世で現実のものにしなければならない、というのである。これが、私の考えによれば、アメリカ人独特の態度と言えよう。そして富が理想的な目的によって活気づけられて、はじめてアメリカ人には現実的に思えるのである。これがわれわれがアメリカの夢と呼んでいるものである……」と、フィッツジェラルドの研究家アーサー・マイズナーが評している。
フィッツジェラルドにとって、ギャツビーはこの意味での代弁者であり、ギャツビーの夢をアメリカ人につきまとっている夢に結びつけている。一九二〇年代の、ロスト・ジェネレーションの旗手としてのフィッツジェラルドは、永く記憶されなければならない。 (訳者)