魔法の国ザンス1
カメレオンの呪文
[#地から2字上げ]ピアズ・アンソニイ
[#地から2字上げ]山田順子 訳
1 ザンス
褐色の石の上に、小さなトカゲがいた。小道を人間が近づいてくる気配を敏感に感じとり、トカゲはアカエイムシに姿を変え、次に悪臭フグに、そして、獰猛な|火トカゲ《サラマンダー》に変身した。
ビンクは微笑した。トカゲの変身は本物ではない。恐ろしい小怪物の姿をとっているが、その本質までは変わっていない。刺すことも、悪臭を出すことも、炎を吐くこともできないのだ。恐ろしい本物の生きものに擬態するために、魔法を使っているカメレオンにすぎない。
さらに、トカゲはバシリスクに姿を変え、ビンクの陽気な気分をそこなうほどの激しさでにらみつけた。本物からそんな敵意をまともにあびれば、ビンクはひどい死を迎えることになる。
そのとき、いきなり空から、音もなく蛾鷹が舞いおりてきて、くちばしでカメレオンを捕えた。トカゲの断末魔の、かぼそい苦悶の悲鳴が聞こえる。蛾鷹が空高く飛び去るにつれ、その悲鳴は弱々しく消えていった。あらゆる擬態をつくしたにもかかわらず、カメレオンは死んでしまった。ビンクをおどそうとしていた、まさにそのとき、カメレオンは他の力で殺されてしまったのだ。
ビンクの心に、徐々にその認識がしみとおっていく。カメレオンは害のない生きものだ――だが、ザンスのほとんどの野生の生きものは、そうではない。これはなんらかの、ゆがんだ予兆なのだろうか。ビンクを待ち受けている悲惨な運命の、ささやかな暗示なのだろうか。予兆というのは軽視すべきことではない。常に現実となるのだが、たいていの場合、誤解して手遅れとなってしまう。ビンクは悲惨な死をとげる運命にあるのだろうか。それとも、そうなるのはビンクの敵の方だろうか。
ビンクの知るかぎりでは、彼に敵はいなかった。
ザンスの黄金色の太陽が、魔法のシールド越しに輝き、樹々のあいだから光の矢をさしこんでいる。すべての植物はそれぞれに魔法の力をもっているが、どんなまじないをもってしても、光と水と豊かな土壌とを必要としないわけにはいかない。そのかわりに、植物の王国のこの三つの必要条件を、さらに有益にするために、そして、植物を破滅から守るために、魔法の力が使われている。より強い魔法の力に負かされたり、さっきのカメレオンのように、単なる不運にみまわれたりしないかぎりは。
ビンクは傍らの、夕陽の光線を踏んでいる娘を見た。ビンクは植物ではないが、やはり必要とするものがある。ほんのなにげなくその娘を一瞥しただけで、ビンクはそれに気づいた。サブリナは非のうちどころのない美しい娘だ。しかも、その美しさは、まったく自然だった。他の娘たちは、化粧品やパッドや特別なまじないを使って、容姿を良くみせようと苦労しているけれども、サブリナとくらべると、他の女たちはわざとらしく見えてしまう。サブリナの敵ではないのだ! ビンクとサブリナは見晴らし岩に来ていた。ここは格別に高くそびえている岬ではないのだが、この場所の魔法の力で、本来の高さよりはるかに高みを増しており、ザンスの四分の一が見渡せるようになっている。この一帯には、色とりどりの植物、いくつかの小さな美しい湖、花や、しだや、作物などの、人目をあざむく静けさの畑が広がっている。ビンクが見守っているうちにも、湖のひとつは、いくぶん広がりを増し、水はさらに冷たく深味を増し、泳ぎにはもってこいの湖の様相に変化した。
ビンクはときどきそうするように、今も不思議に思った。ビンクはものごとに縛られない精神の持主で、常に答えられない疑問に悩まされていた。子供の頃には、“なぜ太陽は黄色なのか”“なぜ人食い鬼は骨をかみくだくのか”、“なぜ海の怪物たちはまじないをかけることができないのか”等々、子供らしいおしゃべりで、両親や友人たちを閉口させたものだ。たとえ半人半馬《セントール》の学校に追いやられたとしても、決して不思議ではなかった。ビンクは口をコントロールする術を学んだが、頭脳まではコントロールできず、結局、沈黙のうちにさまざまな疑念を湧いてくるがままにしている。
あの不運なカメレオンのように、生きものがまじないの力を発揮するのは、理解できる。まじないの力は、生きとし生けるものの成長を、命を、イメージを促進させるからだ。しかし、生命のないものが魔法の力をもつ必要があろうか? 湖は、そこで泳ぐ人を気にかけるのだろうか? いや、そうかもしれない。湖は生態単位をなしており、そこに存在する生命体は、それを促進することに、共通の関心をもっているかもしれない。あるいは、淡水ドラゴンが獲物をおびきよせようとしているのかもしれない。このザンスでは、ドラゴンはもっとも異質の、危険な生きものなのだ。その種は、空中を、地面を、水中を占領し、火に生きるものもある。さまざまなドラゴンに唯一共通した点は、食欲だ。新鮮な肉にたっぷりありつく機会は、めったにない。
だが、見晴らし岩はどうだろう? ここは苔ひとつない殺風景なところで、美しいとは言いがたい。仲間をほしがって当然ではないか? そして、もし仲間をほしがっているのなら、灰色とさえない茶色のままでいるかわりに、なぜもっと美しくよそおわないのか? ここに来る人々は、岩を見物に来るのではなく、ザンスの平穏さを讃えに来るのだ。この岩のまじないは、目的に反しているように思える。
そのときビンクは、鋭い石の破片につまずいた。ビンクが立っているのは、きれいな色の丸石が割れて、数代もたっているひびの入った岩のテラスの上だった。
そうか! 見晴らし岩の近くにある同じぐらいの大きさの他の丸石は、砕けて小道とテラスに変わり、元の姿を失ってしまったのだ。見晴らし岩だけが生き残った。これをこわそうという者がいないのは、みっともない小道しかできず、この岩の無私の魔法の力が、そのままの姿で役に立っているからだ。取るにたりない、ささやかな謎は解けた。
なおも、ビンクのあくことを知らない精神は、哲学的な思考をやめようとしない。生命なきものたちは、どのように考え、どのような感情をもつのだろうか? 岩にとって、存続するとはどういうことなのだろう? 丸石は、岩の古い層の一個の破片にすぎない。岩盤がないというのに、丸石は個としての独自性をもつ必要があるのだろうか? 同じ疑問が人間にもあてはまる。人間は、植物や動物の組織で成り立っている。しかも、人間は――。
「ビンク、あたしになにを話したかったの?」サブリナはまじめに訊いた。
まるでなにも知らぬげだ。ビンクは頭の中で語るべきことばをつむいだが、口に出すのをためらった。サブリナの答がどんなものであるのか、ビンクにはよくわかっている。ザンスの者は、二十五回目の誕生日を迎えたあと、なんらかの魔法の力を発揮してみせないかぎり、誰ひとりとしてザンスにとどまることはできない。ビンクのその決定的な誕生日まで、あと一ヵ月しかなかった。ビンクはもう子供ではない。サブリナがまもなく追放となる男と、結婚する気になどなるだろうか?
なぜビンクは、ここにサブリナを連れてくる前に、そのことを考えつかなかったのだろう? ビンクは自分自身に愛想をつかした。今となっては、サブリナになにか言わなければならず、彼女にぐあいの悪い思いをさせて、ますます愛想をつかされるはめに陥いらざるをえなくなった。
「ぼくはただ、きみの、きみの――」
「あたしのなに?」サブリナは片方の眉をつりあげて尋ねた。
ビンクはくびすじがほてってくるのを感じた。「きみのホログラフを見たかったんだ」ビンクはだしぬけに言った。ビンクが見たいもの、触れたいものは、もっとちがうものだったが、それは結婚したあとにのみ許されるものだった。サブリナはそういう娘で、それがまた、彼女の魅力のひとつでもある。こういう娘たちは、その魅力をやみくもにふりかざす必要がないのだ。
いや、そうとばかりはかぎらない。ビンクはオーロラのことを考えた。オーロラには確かに魅力があるが、しかし――。
「ビンク、道はひとつよ」サブリナが言った。
ビンクはちらと横目でサブリナを見ると、急いで視線をそらした。ビンクはろうばいした。まさかサブリナは――。
「よき魔法使いハンフリーよ」サブリナは快活につづけた。
「え?」ビンクは利己心のせいではなく、まったく別のことを考えていた。
「ハンフリーは百のまじないを知っているわ。そのうちのひとつなら……そうよ、きっとハンフリーなら、あなたの力をみつけてくれるわ。そうしたら、なにもかもうまくいくわよ」
そうか。
「だけど、ひとつのまじないにつき、一年間の奉公を課せられるんだよ。ぼくにはたった一ヵ月しかない」
だが、これは正確ではない。もし魔法使いがビンクの魔法の力を明らかにしてくれれば、ビンクは追放されることもなく、一年間を使うことができる。ビンクはサブリナの信頼感に深く心を動かされた。サブリナは他の人々と同じことは言わなかった。すなわち、ビンクは魔法の力をもっていない、とは。ただ、単に奥深く眠っていて、まだ表に現われていないだけ、と信じる方をとり、多大な好意を示してくれている。
ビンクがサブリナに初めに魅かれたのは、その信頼感のためだったのかもしれない。確かにサブリナは美しいし、聡明だし、才能もある。当然、努力して手に入れるに値する。あらゆるカテゴリーにおいて、すぐれた娘だし、なおかつ――。
「一年間なんて、そんなに長くはないわ」サブリナは低い声で言った。「あたし、待ってるわよ」
ビンクは両手に視線を落とした。右手はふつうだが、左手は、子供のときに事故にあって、中指が欠けている。別に害ある魔法のせいでそうなったのではない。渦巻き草の茎をドラゴンの尻尾にみたてて、肉切り用の大包丁をふりまわして遊んでいた。しょせん、少年の身では、人生の深刻な面に備え、早過ぎる訓練を始めることはできない。ビンクがとびかかると、渦巻き草はその手を逃がれようと身をよじった。やっとつかまえたところに、肉切り用の大包丁が、勢いよくビンクの伸ばした指に振りおろされたのだ。
指は切れたが、悪いことに、肉切り用の大包丁で遊んではいけないことになっていたため、ビンクは悲鳴をあげるわけにもいかず、けがをしたと言うわけにもいかなかった。歯をくいしばってがまんし、黙って痛みに耐えた。ビンクは切り落とされた指を土に埋め、左手の指を開かないようにして、数日間を過ごし、不具になった手を隠しとおそうとつとめた。ついに事実が発覚したときには、治療のまじないが効くには遅すぎた。指は腐ってしまい、再びくっつけることはできなかった。強力なまじないなら、指を元にくっつけることができるのだが、死んだ指をくっつけることになる。
ビンクは罰を受けなかった。母親のビアンカは、ビンクが教訓を得たものと信じた。そう、まさに、ビンクは学んだ! 次から、ないしょで肉切り用の大包丁で遊ぶときには、ビンクは指の位置を確かめるようになった。父親は、ビンクが悪いことをしたとはいえ、内心では息子にそれほどの勇気と、不運に負けない力のあることを喜んでいた。父親のローランドは言ったものだ。
「あの子には度胸がある。これで魔法の力さえあれば……」
ビンクは手から目を離した。十五年も前の話だ。ふいに、一年間は本当に短いような気になった。一年間の奉公――サブリナとの生涯と引きかえに。安いものではないか。
しかし、魔法の力がないとしたら? 才能のない者ばかりの、荒涼たる世界に押しやられる必然を確かめるために、人生の一年間を支払うか? あるいは、自分の中には隠れた才能があるのだと、役にも立たない希望を胸に、追放される方がいいのだろうか?
ビンクの内心の動揺を考慮して、サブリナはホログラフの力を使いはじめた。斜面の上に青いもやが垂れこめる。それは徐々に広がっていき、まん中は濃く、へりは薄く、直径二フィートにまで大きくなった。濃い煙のように見えるが、たなびきもせず、消えもしない。
サブリナはハミングを始めた。きれいな声だ。すばらしいとは言えないが、彼女の魔法にはぴったり合っている。サブリナのハミングにつれ、青いもやは震え、凝固し、いびつな球形になった。サブリナがハミングの調子を変えると、青いもやの球形のふちが黄色になった。次に“娘”ということばを歌うと、球形のもやは、黄色いフリルのついた青いドレスの若い娘に形を変えた。その姿は立体的で、遠近を問わず、あらゆる角度から、ちゃんと目に映じる。
みごとな力だ。サブリナはなんでも立体的に描きだせる。もっとも、サブリナが精神集中をやめたとたん、映像は消え去り、物理的な実体はなにひとつ残らない。つまりこれは、厳密に言えば、役に立たない魔法なのだ。実質的な様式において、サブリナの生活を改良してくれるわけではない。
いったい、実際に人の役に立っている魔法が、どれぐらいあるだろうか? 視線を向けるだけで、木の葉をしおれさせ、枯らしてしまえる者がいる。すっぱいミルクの匂いを作り出せる者がいる。地面からきちがいじみた笑いの泡を作り出せる者もいる。これらはすべて魔法であり、疑問の余地はない。だが、なんの役に立つ? こういう力の持ち主たちが、ザンスの住人としてふさわしくて、頭が良く、強靱で、眉目秀麗なビンクがなぜ、不適格なのだろう? しかもそれは、絶対の掟なのだ。魔法の力のない者は、二十五歳を過ぎれば、この地にとどまることができない。
サブリナの言うとおりだ。ビンクは自分の才能をわがものにしなければならない。これまでに自分自身でみつけることができなかったのだから、良き魔法使いに代価を支払うべきだ。そうすれば、もしかすると、追放を免かれるだけではなく――魔法なしでは人生の意味がないのだから、追放は死よりも悪い運命ではないか――サブリナを、死よりはずっとましな運命を、もたらしてくれるかもしれない。また、うちくだかれた自尊心を取り戻せるだろう。選択の余地はない。
「あっ!」サブリナは叫び声をあげると、かっこうのよい尻をあわてて両手ではたいた。ホログラフの形が崩れ、青いドレスの娘は、グロテスクにゆがみながら、姿を消した。「熱っ!」
ビンクはサブリナに近寄り、あたりに気を配った。ビンクが体を動かしたとたん、かんだかい子供の笑い声があがった。サブリナはかんかんに怒って、まわりを見まわした。「ナンボ、おやめなさい!」サブリナは喜びも怒りも、はっきりと表に現わす性質の娘だ。「ちっともおもしろくないわ!」
魔法の火の腰かけで、サブリナの臀部を火あぶりにしたのは、ナンボだった。役に立たない力とは言いがたい! ビンクは失われた指のすきまに親指を折り曲げると、固いこぶしを作って、見晴らし岩のうしろに立って、にやついている少年の方に、大またで近づいていった。生意気でこうるさい十五歳のナンボには、おしおきが必要だ。
けれどビンクがぐらぐらした岩に足をのせたとたん、岩はビンクの足もとから離れてしまい、ビンクはバランスを失った。けがはなかったが、ビンクは前に進めなくなった。手を前方に振りあげると、目に見えない壁に指が触れた。
また別の笑い声があがった。運よく岩がころげたおかげで、ビンクはその壁に体あたりせずにすんだが、明らかに誰かさんは、ビンクがぶつかるものと思っていたらしい。
「あんたもね、チルク」サブリナが言った。壁――それはチルクの魔法だった。それはサブリナの力をさらに完全にしたものだ。実体がなくても目に見えるようにできるかわりに、目に見えない実体を作りだす。ほんの六フィート平方にすぎない壁だし、多くの魔法と同様、きわめて一時的なものだ。とはいえ、最初の数分間は、鋼のように固い。
ビンクが壁をぐるりとよければ、子供たちの方に駆けつけられる――だが、ビンクは、また何度も壁に阻止され、子供たちにビンクが与えるよりひどい痛手を負うと、わかりきっていた。そんなにまでする必要はない。ナンボの熱い腰かけのような、魔法の力がビンクにあれば、壁など無視して、いたずら者にくやしい思いをさせてやれる。だが、ビンクにはできないし、チルクもそれを知っている。みんなが知っているのだ。それがビンクの大きな悩みだった。たちうちできないために、ビンクはあらゆるいたずらの、かっこうの的だった。魔法の力でたちうちできない相手に、物理的に魔法を使うのは、ひどいことだと思われていた。けれど今、ビンクはひどいめにあう覚悟をしていた。
「行きましょう、ビンク」サブリナが言った。サブリナの声にはいとわしさがこもっており、それは表面上、二人のじゃま者に向けられているが、ビンクはその一部は自分に向けられていると思った。無力な怒りがこみあげてくる。これまでに幾度も感じ、一度も爆発させたことのない怒りが。ビンクは魔法の力がないために、サブリナにプロポーズするのをためらっていた。それと同じ理由で、この場にとどまっていられないのだ。見晴らし岩だけにとどまっていられないのではなく、ザンスにもとどまれない。なぜならば、ビンクはふさわしくないからだ。
ビンクとサブリナは小道をもどった。いたずら者たちは、獲物がかかってこないと見てとると、新たないたずらをしかけに行った。景色はもはや美しく見えない。たぶん、ビンクはここから早く立ち去ったほうがいいのだろう。正式に追放の日を待つのではなく、たった今、立ち去るべきなのだろう。もし、本当にサブリナがビンクを愛しているなら、いっしょに来るはずだ。外界であろうと、マンダニアへだろうと。
いや、ビンクにはよくわかっている。サブリナはビンクを愛しているが、ザンスをも愛しているのだ。サブリナのようにうるわしいみめかたちをもち、キスにふさわしいくちびるの持ち主の娘なら、魔法の力のない者たちのあいだで、苛酷な暮らしに慣れるより、もっと簡単に別の男をみつけることができよう。それならば、ビンクも、現実に直面していることより、もっと簡単に別の娘をみつけられるだろう……。だからこそ、客観的に、ビンクはひとりで行ったほうがいい。
だのになぜ、ビンクの心は同意しないのだろう?
カメレオンがいた褐色の石の側を通りすぎるとき、ビンクは身震いした。
「なぜジャスティンに尋ねないの?」村近くまできたとき、サブリナが訊いた。見晴らし岩にいたときより、薄闇が足を早めてきている。村に明りがともりはじめた。
ビンクはサブリナが手で示した風変わりな木を、ちらりと見た。ザンスにはいろいろな種類の木があり、そのうちのいく種かは経済生活に欠くべからざるものだった。ビール樽の木からは飲みものが、油樽の木からは燃料が、そしてまたビンクのはきものは、村の東にある成熟した靴の木からまかなっている。しかし、ジャスティンの木は特別な木で、その新芽は種からは生えない。その葉は手のひらにそっくりで、その幹は、陽に焼けた人間の肌の色と同じだ。これは少しも驚くにあたらない。ジャスティンの木は、かつては人間だったのだから。
たちまち、その歴史がビンクの胸の内に浮かんできた。それはザンスの壮大な言い伝えの一部でもある。二十年前、偉大なる悪の魔術師がひとり、この地に住んでいた。若い男で、名前をトレントという。トレントは変身の術の力を持っていた――生きとし生けるものの姿を、たちどころに別の生きものの姿に変えてしまう力だ。魔法使いの地位に甘んじているのにあきたらず、自分の魔法の力は畏るべきものだと自認し、トレントはザンスの王座を獲得すべく、その力を使おうとした。その手順は、単純にして、かつ、もっとも直截だった。つまり、トレントは自分にさからう者は誰であろうと、二度とさからえないものに変身させてしまったのだ。いちばんの強敵は、魚に変えられた。それも乾いた土の上で、死ぬまでのたうつに任せたものだ。単にうるさい人々は、動物や植物に変えられた。したがって、知的な動物たちは、その地位をトレントに負っている。ドラゴンや、双頭のオオカミや、陸ダコなどに姿を変えられたにもかかわらず、彼らは人間だったときの、知性と見とおす力とを持ちつづけているのだ。
今はもう、トレントはいない。だが、そのしわざは残っている。というのも、姿を変えられた者たちを、もとにもどしてやる変身術師がいないからだ。一世代にひとり、ある力を持つ者が現われると、同じ力を持つ者がふたり現われることはまれだった。ジャスティンは魔法使いトレントの、敵対者のひとりだった。ジャスティンがなにをしたのか、正確に覚えている者はいないが、とにかく、ジャスティンは木にされた。ジャスティンを人間にもどしてやる力のある者は、誰もいない。
ジャスティン自身の力は、声の投射だ。腹話術のような口先のトリックではなく、また、きちがいじみた笑い声をたてる者の陳腐な魔法でもなく、少し離れて、声帯を使わずに、誠実な、わかりやすい発言をした。ジャスティンのこの力は、木になっても残っているし、考える時間が膨大にあったことも加えて、村の人々はときどき、この木に助言を受けにきた。ジャスティンは天才ではないが、木というものは、人間よりもずっと、諸問題を客観的にとらえているものだ。
ビンクは、ジャスティンが人間として生きていたよりも、木として生きているときの方が、はるかに楽しい暮らしをしているのではないだろうか、と思った。ジャスティンは人間が好きだが、人間の頃はみめよくなかったと言われている。木としては、まったく堂々としており、しかも人をおびやかすところがない。
ビンクとサブリナは向きを変えて、ジャスティンに近づいていった。いきなり、二人に直接に声が話しかけてきた。
「近づいてはいけない、友よ。悪党どもが待ち伏せている」
ビンクとサブリナはすぐに立ちどまった。
「あなたですか。ジャスティン?」サブリナが訊いた。「誰が待ち伏せしてるんです?」
だが、ジャスティンは話しかける力はあっても、聞きとる力はないため、答はなかった。
ビンクは怒って、一歩足を踏み出した。「ジャスティンはみんなのものだ」ビンクは低い声で言った。「誰にもジャスティンを――」
「ビンク、お願い!」サブリナがあわててビンクの腕をつかんで引っぱった。「厄介ごとはごめんだわ!」
そう、サブリナは厄介ごとがきらいだ。ビンクはこの点を、サブリナの短所だとまで言う気はないが、時として、うるさく、めいわくに思っていた。ビンク自身は、主義として、厄介ごとをしょいこむことはしない。そのうえ、サブリナは美しく、すでに今夜だけでも、ビンクはサブリナの厄介ごとの原因になっているのだし。ビンクは踵を返し、サブリナといっしょに木から離れた。
「おい、まずいぞ!」叫び声があがった。「あいつら、帰っちまう」
「ジャスティンが告げ口しちまったんだ」別の声が言った。
「それじゃ、ジャスティンを切り倒しちまおう」
ビンクはふたたび足をとめた。「できるもんか!」
「もちろん、できっこないわよ。ジャスティンは村の記念物ですもの。知らん顔してましょ」
だが、もう一度、木の声が聞こえてきた。ビンクとサブリナの位置から、ややはずれた方向に。集中力が欠けている証拠だ。「友よ、すぐに王を連れてきてくれ。この悪党どもは斧かなにかを持っており、きちがいベリーを食べている」
「斧ですって!」サブリナは純粋の恐怖にかられて叫んだ。
「王は町にいない」ビンクはつぶやいた。「どっちみち、おいぼれてる」
「それに、王は長いあいだ、夏の夕立を呼び寄せるぐらいしかしていないわ。子供たちは王が持てる力を出しきっても、大騒ぎしようともしなかったし」
「確かにぼくらは騒ぎたてなかった。だって、去年の大勢の子供たちの騒ぎを静めようと、王が呼び寄せた六つの嵐で、ハリケーンに襲われたことを覚えてるだろう? 彼は本物の嵐の王だ。彼は――」
木に金属がくいこむ音が響きわたった。苦痛に満ちた悲鳴が、大気からわきあがる。ビンクとサブリナはとびあがった。
「ジャスティンよ! 本当にやってるんだわ」
「とにかく、王を呼びに行く暇はない」ビンクは木に向かって駆けだした。
「ビンク、無理よ!」ビンクの背後からサブリナが大声で言った。「あなた、魔法の力がないじゃない」
この危急のときに、真実が吐露されたのだ。サブリナはビンクに魔法の力があるとは、信じていないのだ。
「だけど、腕力はあるさ!」ビンクは叫び返した。「助けを呼んできてくれ」
ふたたび刃を打ちこまれ、ジャスティンはまた悲鳴をあげた。ぞっとするような木製の音だ。笑い声が聞こえる。うかれきった子供の陽気な笑いだ。自分たちの行為がどんな結果をもたらすのか、少しも意識していない。きちがいベリー? これは感覚をマヒさせるにすぎない。
やっとビンクは木にたどりついた。と、そこには誰もいなかった。十分に闘ってやる気になっているのに。悪たれのいたずら者たちは逃げてしまっていた。
誰だったのか推測できるが、その必要はなかった。「ジャマ、ジンク、それにポティファーだ」ジャスティンの木が言った。「うー、足が!」
ビンクはかがみこんで傷口を調べた。木の幹の根元に、靴のような樹皮の色と対照的に、白い木の傷口が、くっきり見える。血にそっくりな赤い樹液が、少量にじんできた。これぐらいの傷なら、木にとってはたいしたことはないが、ひどく気持の悪いものだ。
「なにか押さえるものを取ってきます。近くの森に、サンゴ・スポンジがあるはずだ。ぼくがいないあいだ、誰かがいじめにきたら、大声で叫んでください」
「わかった」ジャスティンは答えた。「急いでくれ」そして、つけ加えて言った。「ビンク、おまえは偉大な男だ。はるかにすぐれている――」
「魔法の力を持っている誰よりも」ビンクはジャスティンのかわりに言ってやった。
「わしの気持を汲んでくれて、ありがとう」
ジャスティンに悪気はないのだが、考えるより前に、ことばが出てしまう。木製の頭脳のせいだろう。
「ジャマのようないなか者を、ザンスの住人とよぶのは正当じゃない。おまえこそ――」
「ありがとう」ビンクはぶっきらぼうに言って、木から離れた。ジャスティンの言うことには心から同意できるものの、そんな話をしてなんの役に立つ? ビンクは茂みに誰か隠れていないか、ジャスティンがひとりになるのを待っている者はいないかと、目を凝らしてみたが、人の姿はなかった。三人とも逃げてしまったらしい。
ジャマに、ジンクに、ポティファーか。ビンクはぼんやり考えた。三人とも村の厄介者だ。ジャマの力は、剣に変身する術で、それがジャスティンの幹を切ったのだ。そんな野蛮な行為を、おもしろがる者がいると思っているのだろうか――。
ビンクはいたずら者たちのことで、自分の苦い経験を思い出した。それほど昔のことではない。きちがいベリーに酔い、三人のいたずら者たちはなにかやらかしたくて、村のはずれの小道で待ち伏せしていた。ビンクと友人はその罠にはまり、ポティファーの毒ガスに襲われた。足もとには、ジンクのめくらましの穴があり、ジャマは剣に変身して突きかかってきた。お遊びだ!
ビンクの友人は魔法の力を使い、棒ぎれを自分の姿に変え、それに命を吹きこんで、身がわりにして逃げた。棒ぎれの人形は、友人にそっくりで、いたずら者たちはすっかりだまされてしまった。もちろん、ビンクは正体を知っていたが、友人のために黙っていた。そして、残念なことに、棒ぎれの人形は毒ガスなど平気だが、ビンクはそうではなかった。ビンクは毒ガスを少し吸いこんでしまい、助けが来たときには、意識を失っていた。友人がビンクの両親を連れてきた。
ふと気づくと、ビンクは取りまいている毒ガスに対抗して、呼吸をつめていた。ビンクのそんなようすを見て、ビンクの母親が父親の腕を引いていた。母親のビアンカの力は再生だ。狭い範囲でなら、五秒間だけ、時間をとびこえることができる。非常に限られてはいるが、おそろしい力を秘めた魔法だ。というのは、なされたばかりのまちがいなら、修正できるからだ。毒ガスにやられたビンクの息を吹き返させるように。
いったんビンクが息を吹き返せば、ビアンカの魔法は無用になる。ビアンカは光景を再生することができるが、それはつまり、すべてを再生するということだ。ビンクの呼吸も含めて。しかし、父親のローランドが、突き刺すような目でビンクを見ていた――ビンクは凍りついた。
ローランドの力は、金縛りの凝視だ。ある特種な一瞥で、彼がにらんだものはその場に凍りつく。生命はあるが、術が解けるまで身動きできない。このようにして、ビンクは二重に、毒ガスを吸いこまずにすむようにされ、こわばった体を運び出されたのだった。
金縛りが解けたとき、ビンクは母親の腕の中にいた。「ああ、ぼうや!」母親は胸にビンクの頭を抱きしめて叫んだ。「どこにもけがはないかい?」
ビンクはスポンジの床《とこ》の側で、不意に足をとめた。なまなましくよみがえった当惑で、まだ顔がほてっている。母はあんなことをすべきだったのだろうか? 確かに早すぎる死から救ってくれた。だが、ビンクは、その後ずっと村のもの笑いの種になってしまった。どこに行っても、子供たちが裏声で、「ぼうや!」とはやしたて、くすくす笑うのだ。ビンクは生命を得た――プライドという高い代償を払って。しかし、両親を責めることはできないと承知していた。
ビンクはジャマと、ジンクと、ポティファーを責めた。魔法の力は持っていないが、いや、おそらくそのために、ビンクは村いちばんのタフな少年になった。思い出すかぎり、ずいぶん長いあいだ、戦ったものだ。別にバランスがとれているわけではないだろうが、ビンクは腕力が強い。こっそりとジャマのあとをつけ、こぶしが魔法の剣よりすばやいことを、身にしみてわかるように示してやった。次にジンクに、最後にポティファーに。ポティファーに対しては、彼自身の毒ガスの雲の中にたたきこんでやり、やみくもにその術を解かせるようにしむけてやった。その後、この三人は、決してビンクを笑わなくなった。ビンクが木に駆けつけてくるのを見て、三人が一目散に逃げ出したのも、そのためだ。三人いっしょなら、ビンクを負かすことができるかもしれないが、かつて、個別にしかえしをくらったことが、三人にはいい教訓になっていた。
当惑が冷酷な喜びにとってかわり、ビンクは微笑した。ビンクの状況対処のしかたは未熟かもしれないが、大いに満足できる。その下には、動機として、母親へのいらだちがあり、それがジャマのような人々に向けられているのだと承知している。けれど、ビンクはそれを悔みはしない。なんといっても、母親を愛しているのだから。
とはいえ、ビンクが救われる道は、つまるところ、自分自身の力を発見することだ。父、ローランドのそれのように、すばらしい、強い、魔法の力。そうすれば、二度と誰も、からかったり、あざけったり、ぼうや扱いしないだろう。そうすれば、恥辱にまみれて、ザンスから追放されることもあるまい。
だが、それは、ありえないことだった。ビンクは“魔力なき驚異”として、軽蔑される存在だった。
ビンクは質のよい、強いスポンジを集めようと足をとめた。このスポンジはその魔法の力で、ジャスティンの木の不快を取り除いてくれるだろう。苦痛が吸収され、心地よい癒しの力が広がってくるのだ。多くの植物や動物は――スポンジがどちらの領域に入るのか、ビンクにはわからないが――同じ特性を持っている。スポンジの利点は可動性にある。摘みとっても、殺すことにはならない。たくましいのだ。サンゴが水から移住してきたとき、スポンジも移住してきて、現在では陸地で育っている。おそらくスポンジの癒しの術が、新しい環境での自らの生活を容易にするよう、助長されてきたのだろう。あるいは、サンゴが食物を断たれていたのだから、移住の前からなのかもしれない。
力あるものたちは、個と個が重なりあい、群れをなして動きがちだ。したがって、動物界や植物界では、魔法の各様式のさまざまな変形が見られる。しかし、人間のあいだでは、魔法は途方もなく広く変化する。もっとも強い魔法の力は、特別な一族の家系に現われる傾向があるが、個々の個性が、遺伝より大きく関係しているようだ。もし魔法の力の強さが遺伝だとすれば、一方、魔法の様式は環境だと言えよう。しかも、そこには別の要因が――。
ビンクはほんの一瞬に、たくさんのことを考えることができる。考えることが魔法の力なら、ビンクは魔法使いだ。ただし、今は自分のしていることに専念した方がいい。でなければ厄介なことになる。
闇が濃くなってきた。森から暗い影が飛び立ち、獲物を捜すように空を舞っている。目もなく、形もはっきりしないそれら[#「それら」に傍点]は、気づかれるのを恐れるふうでありながらも、ビンクの位置を探り、あるいは探ろうとしているようだ。ちゃんと目録に入っているより、もっと多くの説明できない魔法がある。ビンクの目は、鬼火につかまった。ちらちらする明りに向かって、ビンクは歩きはじめたが、急にわれに返った。鬼火のおとりは、危険きわまりない。荒野にさまよいこみ、道がわからなくなり、未知の敵意ある魔法の餌食となる。ビンクの少年時代の友だちのひとりが、この鬼火についていって、二度と帰ってこなかった。よく気をつけるんだ!
夜がザンスを変えた。このような場所は、昼間はなんの害もなくても、太陽が沈むとともに恐ろしいところになる。妖怪や亡霊が現われ、身の毛のよだつ満足感を求めてさまよい、時にはゾンビーが墓からぬけだし、ぎごちなくあたりを歩きまわる。分別のある者は誰も戸外では寝ないし、村の各家々には、超自然的なものを撃退するまじないがかかっている。ビンクはジャスティンの木のところまでもどるのに、あえて近道はとらなかった。長い曲がりくねった道を行かねばならないが、魔法で守られた道だ。臆病心ではなく、必然なのだ。
ビンクは走った。こわいからではない。この魔法で守られた道にはなんの危険もないし、よく知っているから、道に迷うこともない。ただ、ジャスティンのもとに、いっときも早くもどるためだ。ジャスティンの肉は木だが、ふつうの肉と同じように傷つく。まったく、ジャスティンの木を切るなんてひどいまねが、どうしたらできるのだろう……。
海麦の畑の側を通ると、海の潮の音のような、楽しげなシューシュー、ゴボゴボという音が聞こえた。刈り入れると、海麦は少々塩っぽくはあるけれど、すばらしいあわだつスープを産する。そのスープは、鉢に半分しか入れられない。さもなければ、波立ちつづけるスープが、こぼれてしまう。
ビンクはもっと幼なかった頃に植えた、野性のオート麦を思い出した。海麦は落ちつかないが、野性のオート麦は好戦的だ。野性のオート麦はたけだけしくビンクに闘いを挑み、実った穂を摘みとろうとすると、ビンクの手首を茎で切りつけた。取り入れは終えたものの、畑一枚分を取り入れてしまうまでに、ビンクはひっかかれ、すりむき、さんざんな目に会ったものだ。
ビンクはこの野性の種を、こっそりと家の裏にまき、自然の方法で水をやった。そして、この不きげんな若い芽をあらゆる害から守ってやりながら、期待に胸をふくらませたものだ。十代の男の子にとって、なんという冒険だったろう! 母親のビアンカがその秘密をみつけるまでは。ビアンカはすぐさま、その植物がなんであるか、見破った。
激しい家庭争議があった。「なんてことをしたの?」ビアンカは顔を赤くして怒った。しかし父親のローランドは、賞賛の笑みを押し殺そうと苦労していた。「野性のオート麦をまくとはね! ぼうずも大きくなったもんだ」
「まあ、ローランド、あんたは――」
「おまえ、別に害があるわけじゃあるまい」
「害がない、ですって!」ビアンカは憤然と叫んだ。
「若い者にありがちな衝動だろう――」
けれど、ローランドはビアンカの憤怒の表情を見て、ためらった。ローランドはザンスでなにものをも恐れぬ男だが、ふだんは温厚な人柄なのだ。ローランドはため息をつくと、ビンクに言った。「息子よ、おまえは自分がいったいなにをしたか、よくわかっていると思うが?」
ビンクはたまらないほど、身を守りたかった。「あの、ええ。オート麦のニンフが――」
「ビンク!」ビアンカがぴしりと警告した。母親がこれほど怒ったのは、見たことがなかった。
ローランドがとりなすように、両手をあげた。「おまえ、この話は、男同士でさせてもらえんかね? この子にはその権利がある」
ローランドは自らの偏見をうっかり表わしてしまった。すなわち、ビンクと男同士[#「男同士」に傍点]の話をすると言っておきながら、この子[#「この子」に傍点]と言ってしまったのだ。
口もきかずに、ビアンカは家からそっと出ていった。
ローランドは表面的には否定するようなそぶりで、くびを振りながら、ビンクの方を向いた。ローランドは力強い、顔だちのよい男で、独特のしぐさをする。「純粋の野性のオート麦を、茎から摘み、満月の夜にまき、自分の小便をかけてやるんだな?」ローランドは率直に尋ね、ビンクは顔を赤らめながらうなずいた。
「そうすれば、穂が実ったとき、オート麦のニンフが現われ、おまえに従属する。媒精者だな?」
ビンクはむっつりとうなずいた。
「息子よ、いいか、わしにはその魅力がわかる。わしもおまえぐらいのとき、野性のオート麦をまいた。わしもニンフを得た。流れる緑色の髪に、すばらしい、野性的な姿態のニンフだった――だがわしは、特別な水やりを忘れていたため、彼女を逃がしてしまった。あんなに美しいものは、生涯見たことがない。もちろん、おまえのかあさんは別だが」
ローランドが野性のオート麦をまいたって? ビンクには想像もつかなかった。ローランドの話の先がどうなるのかと不安を感じながら、黙っていた。
「わしはへまなことに、ビアンカにオート麦の話を告白してしまった。そのため、ビアンカはこの件に関して神経質になってしまい、おまえにほこ先が向いたんだ。よくあることさ」
すると、母親は結婚前の父親の行為に嫉妬しているのか。知らないうちに、ビンクはなんという哀しい感情に踏みこんでしまったことか。
ローランドはまじめな表情になった。「世間知らずの若い男にとって、きれいな、裸の、捕われのニンフという考えは、非常に気をそそられるものかもしれない。ニンフは人間の女のあらゆる肉体的特質を持っているが、精神的特質はひとつもない。だが、息子よ、これは幼い夢なのだよ。アメの木をみつけるようなものだ。現実というものは、実際、期待しているようなものではない。ひと[#「ひと」に傍点]はすぐに、数かぎりないアメにあき、うんざりしてしまうだろう。そしてまた、心のない女の体にも。人間の男はニンフを愛することはできない。ニンフは空気のようなものなのだ。男の熱情は急速に薄れ、いとわしい気になってしまう」
ビンクはそれでもなにも言おうとしなかった。自分はいとわしい気になんかならない、という自信があった。
ローランドはビンクの気持がよくわかった。「息子よ、おまえに必要なのは、生きた人間の娘だ」ローランドは結論をだした。「人格をもった人間で、おまえに口答えする娘だ。完全な女と関係を深めていくのは、たいへんな努力が要求されるし、しばしばひどく失望する」ローランドはビアンカが出ていったドアを、意味ありげにちらりと見た。「だが長い目で見れば、はるかに報われるというものだ。おまえが野性のオート麦に求めたのは、近道なのだが、人生において、近道というものはない」ローランドは微笑した。「わしとしては、おまえが近道をとるがままにさせてやりたい。害はない。なんの害もない。しかし、おまえのかあさんは――うむ、ここは保守的な土地柄だし、ご婦人がたというものは、もっとも保守的になりがちだ。特にかわいいご婦人がたは。小さな村だし、そう、昔よりも小さくなったが、村の人は誰でも、隣りの動静を知っている。わしらはぐるりを囲まれているのだよ。わかるか?」
ビンクはあやふやにうなずいた。いかに慎重にであろうと、父親が独特的な言い方をすれば、それで終わりだ。「オート麦は、もうやりません」
「おまえのかあさんは――うむ、かあさんはおまえが大きくなったんで、びっくりしたんだ。オート麦はみつかった。たぶん、かあさんはすぐさま、根っこから引きぬいてしまうだろう。だが、おまえはこの先、さまざまな良い経験ができる。ビアンカはいつまでたっても、おまえを小さな男の子として考えたがるだろうが、彼女とて自然を妨げることはできん。五秒以上はな! だから、かあさんは単に慣れていかなければならんのさ」
ローランドはひと息いれた。しかしビンクは、父親が結局なにを言いたいのかわからず、口をつぐんでいた。
「もっと住人の少ない村のひとつから、この村にやってくるはずの娘がいる。表面上は適当な教育を受けるためだ。ザンスには一流のセントールの教師がいるからな。だがわしはひそかに、その娘の村には望ましい若者がいないせいではないかと思っておる。その娘はまだ自分の才能がみつけられないし、おまえと同じ年頃だ――」
ローランドは意味ありげにビンクを見た。「その娘なら、若い健《すこ》やかな男に、この界わいを案内してもらったり、この地方の危険について警告してもらったりできると思う。その娘はとても賢く、美しく、ものやわらかな話しかたをする。めったにない組み合わせだ」
やっとビンクは理解できた。娘、人間の娘と知り合いになるのだ。ビンクに魔法の力がないということは、その娘は知らないだろう。そしてビアンカは、心の中ではビンクの新しい男らしさが気にいらないとしても、不満をとなえることはできない。父親はビンクに実行可能な選択を与えたのだ。急にビンクは、野性のオート麦なしでやっていけると、悟った。
「その娘の名前はサブリナという」ローランドは言った。
前方に灯が見え、ビンクは現実にもどった。ジャスティンの木の傍に、魔法の灯を持った誰かが立っている。
「もうだいじょうぶだよ、ビンク」ビンクのすぐ側の空中で、ジャスティンの声が聞こえた。
「サブリナが助けをよんできてくれたが、必要なかったのに。スポンジを取ってきてくれたかい?」
「取ってきました」ビンクは答えた。
すると、ビンクのささやかな冒険は、つまるところ冒険でもなんでもなかったのだ。ビンクの人生とそっくり同じだ。ジャスティンの木の傷に、スポンジを当てるのを、サブリナに手伝ってもらいながら、ビンクは心が決まった。このように、とるにたりない存在でいるのはたまらない。よき魔法使いハンフリーに会いに行き、自分の力を教えてもらおう。
ビンクは目をあげた。サブリナの目と会う。ランプの明りを受けて光っている。サブリナはほほえんだ。何年も前、二人とも幼なかったときに初めて会ったときより、さらに美しくなっている。ビンクにとってサブリナは、つねに真実だった。まちがいない。かつてビンクの父親は、生きた人間の娘の利点と失望とについて語った。今、ビンクは自分がなにをなすべきか、十分に知った――生きた人間の男になるべきだと。
2 セントール
ビンクは旅のうを背負い、りっぱな狩猟ナイフを帯び、手作りの杖を持って、徒歩で旅立った。母親は案内人をつけるよう説得したが、ビンクは拒まざるをえなかった。とにかく、“案内人”はビンクを無事に守ってくれるだろう。第一、荒野を生きのびて通れるか? しかも、村の向うの荒野は、不案内な旅人にとっては危険きわまりない。たったひとりで旅をする者など、ほとんどいない。確かに案内人といっしょに行く方がいい。
翼のある馬に乗る手もあるが、高価につくし、彼らの流儀はあぶなっかしい。グリフィンは往々にして、意地が悪い。ビンクはしっかりした大地を行く方が好ましい。村の若い、きまぐれないたずら者たちに出会うにしても、乗り越えていけると証明できさえすればいい。ちょうど、ジャマはいたずらができない状態だ。ジャスティンの木を傷つけたとが[#「とが」に傍点]で、村の長老たちの苦行のまじないを受け、苦しみをなめている最中だった。だが、他にもいたずら者たちはいるが。
ついには、ローランドも理解した。「いつの日か、おまえも、つまらない人間の意見はつまらないとわかるだろう」ローランドはビンクにつぶやいた。「おまえはおまえ自身のやりかたで行動すべきだ。わしには理解できるし、うまくいくよう願っている。おまえ自身のやりかたが」
ビンクは地図を持っているので、よき魔法使いハンフリーの城へ行く道がわかった。というより、どの道が城へ通じているかが。ハンフリーが荒野の孤立を好む、偏くつな老人だというのは本当だった。定期的にハンフリーは城を移動させるか、魔法の力で城への道を変えてしまう。そのため、誰も城をみつけられなくなるのだ。そんなことにはおかまいなく、ビンクは魔法使いの隠れ家を捜しだすつもりだ。
旅の最初の行程は心安いものだった。ビンクはこれまで北の村で暮らしてきたし、周囲のわき道はたいてい探検していた。この付近に危険な植物や動物が残っているわけはないし、万一の脅威は十分承知している。
ビンクは巨大なトゲサボテンの近くの泉で、水を飲もうと足をとめた。ビンクが近づいていくと、サボテンは身を震わせ、狙いをつけようと身がまえた。「待て、友よ」ビンクは堂々と話しかけた。「北の村の者だ」サボテンは平和の合言葉で落ちつき、死の攻撃をとりやめた。キー・ワードは“友”だ。正確には、友ではないが、交わされた取り決めには従わなければならない。根っからのよそ者は、このことを知らない。つまり、サボテンは侵入者に対して、効果的な守備となる。ある大きさ以下の動物は無視される。たいていの動物は遅かれ早かれ、水を必要とするものだから、これはありがたい妥協だ。ある地域は、ときおり野性のグリフィンや、他の大きな獣に荒らされるが、北の村ではそんなことはない。一度でも憤りのトゲを受けたものは、生きのびていられるのは幸運なのだと、身にしみて知っているからだ。
さらに一時間ほど早足で進んでいくと、なじみの薄い地域に入った。当然、安全も薄い。この地方の人々は、泉を守るのに、どんな方法を使っているのだろう? 見知らぬ者をその角で突くよう、ユニコーンを訓練してあるのだろうか? まあいい、いずれまもなくわかることだ。
どちらかといえば荒涼とした地形に、なだらかな丘と小さな湖がはめこまれ、見なれない植物が生えている。そのうちのあるものにはアンテナがあり、ぐるりと回転して、遠くからビンクの位置を探っている。他のものは不思議な、魅力的な、つぶやくような音を発している。ビンクはよけいな危険はおかさずに、十分距離をとって避けて歩いた。一度、人間ぐらいの大きさの動物を見たような気がしたが、それにはクモのような脚が八本あった。ビンクは音をたてないよう、急いで進んだ。
鳥もたくさんいるが、これは少しも心配ない。というのは、鳥は飛べるから、人間に対して守備の魔法を使う必要がない。だからビンクも鳥に用心しなくてすむ。もっとも、大きな鳥は別だ。大きな鳥は、ビンクを獲物だと思うかもしれない。一度、遠くからロック鳥の奇怪な姿を見かけ、ちぢみあがって、目もくれずに飛び去ってくれるのを待った。鳥も小さければ仲間としては好ましい。なぜなら小さな虫や昆虫などは、たまに攻撃的になるからだ。
事実、ビンクの顔のまわりにはブヨが群れ飛んでおり、集団で発汗のまじないをかけてきている。不愉快どころではない。虫には無気味な能力があり、身を守る魔力のないものを識別するのだ。単に試行錯誤で、できることならなんでもやってのがれているのかもしれない。ビンクは防虫草を捜したが、一本も見あたらなかった。草というやつは、ほしいところには絶対に生えていないときている。鼻や目や口に汗が流れてくるにつれ、ビンクはいらいらしてきた。そのとき、二羽の小さな吸血虫食いが舞いおりてきて、ブヨをたいらげてくれ、ビンクはほっとひと息ついた。そう、だから小さな鳥は好きだ!
ビンクは三時間に約十マイル歩きつづけ、疲れてきた。体調はおおむね上々だが、重い荷物を背負って歩きつづけるのは、これが初めてだ。ときどき、見晴らし岩でねじった足首がうずく。たいしたけがではなかったから、ひどい痛みではない。ただ、気をつけるにこしたことはない。
ビンクはアリがいないかどうかをよく確かめてから、小さな塚に腰をおろした。アリはいないが、トゲサボテンが一本、生えている。ビンクはこのサボテンが、まじないをかけられているために、おとなしいのかどうかがわからず、おそるおそる近づいた。「友よ」声をかけ、念のために、その根元の土に、水筒の水を数滴ふりかけてみた。だいじょうぶだ。襲われる心配はなさそうだ。野性の生きものとはいえ、世間一般の礼儀と敬意には、好反応を示す場合がある。
ビンクは母親がきれいに詰めてくれた弁当を開いた。食料は二日分――通常の状況のもとなら、魔法使いへの城にはじゅうぶん行ける。ザンスでは通常の状況でないことが、常にふつうなのだ! ビンクはどこか親切な農家が一夜を過ごさせてくれれば、と思った。帰りの旅の食料も必要だし、いずれにしても、戸外で眠る気はしない。夜は特別な魔法を現わし、それはいまわしいものだ。気がついてみたら、死人喰らいか食人鬼かの争いのもとになっていたなど、まっぴらごめんだ。どちらかという問題は、どうもその人間の骨の質によるらしい。髄が新鮮で甘いとはいえ、生きたまま食うか、あるいは、死後一週間待ってむさぼるか。異なった食肉鬼は、異なった味覚をもつ。
ビンクはカラシナトマトのサンドイッチにかぶりついた。口の中でがりがりと音をたてるものがあり、ビンクはびっくりしたが、もちろん骨ではなく、香草の茎だった。確かにビアンカはサンドイッチの作りかたを心得ている。ローランドはビアンカが、古いサンドイッチの指導のもとで、技術を修得したのだと、よくからかっていた。とはいえ、ビンクにはおもしろくない。なぜならば、それはまだ、ビアンカの世話になっていることを意味するからだ。ビアンカが用意してくれたものを片づけ、自分で食料を調達するまでは。
パンくずが落ちた。と思うと、消えた。ビンクがあたりを見まわすと、シマネズミがせっせと口を動かしている。シマネズミは傍に近づく危険を冒さず、十フィート離れた地点に、パンくずを魔法で呼び寄せたのだ。ビンクはほほえんだ。「傷つけはしないよ、シマネズミくん」
そのとき、もの音が聞こえた。ひづめの音だ。なにか大きな動物が突進してくるのか、あるいは、馬に乗った人が近づいてくるのか。どちらにしろ、めんどうなことになりそうだ。ビンクは口の中に、翼のある牛の乳で作ったチーズを放りこんだ。翼のある牛がどっさり乳を放出したあと、木のてっぺんに餌を食べに飛んでいく光景が、ちらりと目に浮かぶ。ビンクは旅のうを閉め、肩ひもに腕をとおした。両手で長い杖をつかむ。次第によっては、闘うか、駆け出すかだ。
動物の姿が見えてきた。半人半馬《セントール》だ。下半身が馬で、上半身は人間の男。かれらの種族の流儀どおり、上半身は裸だ。筋肉質のわき腹、広い肩、そして短気そうな顔だち。
ビンクは好戦的にではなく、身を守るために、杖をかまえた。大柄な生きものと戦って勝つ力があるとはとうてい思えないし、走って逃げるのも無理なようだ。だが、セントールは見かけによらず、友好的かもしれないし、ビンクに魔法の力がないとは知らないだろう。
セントールはごく近くでとまった。刻み目のついた矢を、弓につがえている。実に手ごわそうだ。ビンクは学校で、セントールへの敬意の念をはぐくんできた。しかし、このセントールは老賢人ではなく、血気盛んな青年だ。
「おまえは侵入者だ。この土地から立ち去れ」セントールは言った。
「ちょっと待ってください」ビンクは穏やかに言った。「ぼくは旅の者で、作られた道のとおりに進んでいる。これは万人の公道だ」
「立ち去れ」セントールは威嚇するように弓を振りまわした。
ふだんはおとなしいビンクだが、非常時には、気の強い面が現われる。この旅はビンクにとって、生命にかかわるほどたいせつな旅だ。これは公道だし、魔法の威嚇に従うのにはあきあきしている。セントールというのは魔法そのものの生きもので、誰に聞いても、ザンスのかなた、マンダニアの世界には存在しないという。魔法に対する腹だちが、ふたたび胸に湧き、ビンクは思わずばかなまねをしてしまった。
「尻尾でも洗ってこい!」ビンクはぴしゃりと言った。
セントールは目をぱちくりさせた。ますます体格がよく見える。肩はより広く、胸はよりがっしりと、下半身の馬の部分は前よりずっとたくましく躍動的になった。明らかに、このセントールは、ビンクが思わず発したようなことばに、慣れていないのだ。少なくとも、面と向かって言われたことがなく、初めての経験に驚いているらしい。やがて、精神的感情的に調子を整え、特大の筋肉を、びっくりするほど盛りあげた。毛におおわれた下半身との境い目から、ほとんど紫に近いほど濃い赤色に染まりはじめ、むきだしの腹、傷跡のある胸を染めあげ、みるみるうちにくびに達し、ついに頭に昇り、醜い顔に到り爆発した。無情な赤い憤怒の潮が耳に押し寄せ、脳に届いたとたん、セントールは行動にうつった。
弓をかまえ、つがえた矢をうしろにしぼる。ビンクを的に矢が飛んだ。
当然ながら、ビンクはじっとしていなかった。嵐のきざしを読みとる時間が、余るほどあったのだ。そしてまたすっくと立ちあがって、セントールを鼻先であしらい、杖を勢いよく振りまわした。杖はセントールの肩にまともにぶちあたった。実際にけがをさせることはなかったが、ひどく痛かっただろう。
セントールは心底から、激しい怒りのうなりを発した。左手で弓をムチのように使い、右手を、馬の肩につるした矢筒の矢に伸ばす。しかしビンクの杖が、セントールの弓を捕えた。
セントールは弓を投げつけた。弓を投げられ、ビンクは手から杖をもぎ取られる。セントールは大きなこぶしを固めた。セントールのこぶしが振りおろされたとたん、ビンクはすばやくセントールの背後にまわりこんだ。だがセントールの背後は正面より危険だった。セントールは一本の脚で激しくけった。ほんの少しの差で、その脚はビンクをけりそこね、トゲサボテンにぶちあたった。
トゲサボテンは矢つぎばやにトゲを飛ばして応戦した。ひづめにかけられそうになった瞬間、ビンクは地面に身を伏せた。トゲサボテンのトゲはビンクを通り越し、セントールのみごとな臀部に突きささった。ビンクは二重に命びろいしたのだ。奇跡的に、ひづめにもトゲにも触れられずにすんだ。
セントールはびっくりするほど大きな声でいなないた。トゲサボテンのトゲがささったのだ。トゲは一本の長さが二インチ、かかり[#「かかり」に傍点]がある。そのトゲが百本も、つやつやした臀部に突きささっており、まるで、ロバに尻尾をくっつけたようだ。もしセントールがトゲサボテンと正面きって向かいあっていたら、トゲサボテンのトゲが顔やくびにくいこみ、セントールは目をつぶされるか、命を失うかしていただろう。セントールもまた幸運だった。もっとも、当座はその幸運を喜ぶわけにはいかないようだが。
今やセントールは怒りにわれを忘れた。不器量な顔だちが、すさまじい憤怒の形相にねじれた。力いっぱい跳躍する。後四半分をはねあげ、弧を描いてとびおりると、いきなりビンクのすぐ傍に前向きに立ちはだかった。二本のたくましい腕が伸び、角のように固い手が、ビンクのもろいのどをとらえた。万力のようにじりじりと、セントールの両手がゆっくり締まってくる。ビンクは地面から持ちあげられ、足をばたつかせたが、どうにもならない。息がつまってきた。慈悲を請うこともできない。呼吸ができず、血管がふくれあがってくる。
「チェスター!」女の声が響いた。
セントールは身をこわばらせた。ビンクにとっては、ありがたい状態ではない。
「チェスター、すぐ、そのひとを離しなさい!」声の主は断固と言った。「あんた、種族間の争いを起こしたいの?」
「だけど、チェリー」チェスターは怒りの色を徐々におさめながらも、もんくを言った。「こいつは侵入者なんだ。しかも、自分から災難を招くようなまねをしたんだぞ」
「そのひとは王の道を歩いているのよ。旅人は妨害から守られているわ。知ってるでしょ。さ、離しなさい!」
女性《レディ》のセントールには、とても命令を強制する力がありそうには見えなかったが、チェスターは次第にチェリーの権威に屈服した。
「ちょっとだけ締めつけてもいいかい?」チェスターはほんの少し手に力をこめながら訊いた。ビンクの眼球はとび出しそうになっている。
「そんなことしたら、二度といっしょに走ってあげないから。降ろして!」
「あーあ……」チェスターはしぶしぶ力をぬいた。
ビンクはふらふらと地面にすべり落ちた。こんな乱暴なやつと悶着を起こすなんて、ばかなまねをしたものだ!
ビンクがふらつくと、レディ・セントールが支えてくれた。
「かわいそうに!」チェリーは大声でそう言いながら、ビンクの頭にフラシ天のクッションをあてがった。「だいじょうぶ?」
ビンクは口を開き、閉じ、もう一度開こうとした。押しつぶされたのどが二度と元にもどらないような感じだ。「ええ」ビンクはかすれた声で答えた。
「あんたは誰? その手、どうしたの? もしやチェスターが――」
「ちがいます」ビンクは急いで否定した。「彼にかまれたんじゃありません。子供のときのけがです。ほら、傷あとが古いでしょう」
チェリーは驚くほど華奢な指でビンクの傷に触れ、注意深く観察した。「そうね。でも……」
「ぼ、ぼくは北の村のビンクといいます」ビンクはチェリーの方に顔を向けた。とたんに頭をのせているクッションの本来の姿に気づいた。(おやおや、冗談じゃない! ぼくはいつも女性に甘やかされることになるのかな?)
セントールの女性は男性よりも小柄だが、それでも人間よりはいくぶん背が高い。人身の部分はいくらか造形の出来がいい。ビンクはチェリーの裸の胸から、あわてて頭を起こした。母親に甘やかされるのでさえ困るのに、レディ・セントールではなおさらだ。
「ぼくは魔法使いのハンフリーに会いに、南に旅しているところなんです」
チェリーはうなずいた。つややかなわき腹に、すばらしい上半身の人体。チェリーは馬としても、人間としても、美しい姿をしている。顔だちは魅力的で、馬の特徴としてやや鼻が長いだけだ。茶色の髪が臀部まで長く垂れ、なだらかに垂れた尻尾と好一対をなしている。「で、このばかがあんたを呼びとめたのね?」
「あの――」ビンクはチェスターに目をやった。チェスターのおそろしく苦い顔の下では、まだ筋肉が波うっている。このレディ・セントールが行ってしまったら、いったいどうなることやら。
「あの、誤解だったんですよ」
「なるほどね」チェリーが言った。だがチェスターは少し体の力をぬいた。あきらかにチェスターはガールフレンドといさかいを起こしたくないのだ。ビンクはすぐにその理由がのみこめた。たとえチェリーがセントールの群れの中でも、いちばん美しく、いちばん勇気のある女性ではないにしても、それに近い女性にちがいない。
「もう行きます」最初からそうすることもできた。チェスターに追われるままに、南へ駆けていけばよかった。けんかになったのは、セントール同様、ビンクにも責任がある。「めんどうを起こして、すまなかった」ビンクはチェスターに片手をさし伸べた。
チェスターは歯をむきだした。人間の歯というより、馬のそれに似ている。そして大きなこぶしを固めた。
「チェスター!」チェリーが叱りつけた。すると、チェスターはうしろめたそうにこぶしをゆるめた。「あんた、わき腹はどうしたの?」ふたたびチェスターの顔色が変わったが、今度は怒りのせいではない。チェスターはチェリーの探るようなまなざしを避けようと、傷ついた臀部をうしろにまわした。ビンクはサボテンのトゲのことをすっかり忘れていた。きっと、まだ痛いにちがいない。引き抜けばもっと痛むだろう。尻のけがだなんて! 異性の前で口にするには、いちばん具合の悪い場所だ。ビンクはこの無愛想なセントールに同情を禁じえなかった。
チェスターはこもごもの反応をぐっと抑えると、みごとな抑制力をみせて、ビンクの手を取った。
「なにごとも、終わり良ければすべて良しとなることを望みますよ」ビンクは、心づもりよりもちょっぴりにこやかな微笑をうかべた。実際、にやにや笑いに見えはすまいかと心配になったほどだ。そして突然、ビンクは悟った。こういう特別な場合に、特別なことば、もしくは特別な表情を選ぶべきではないと。
セントールの白目が殺意の赤味を帯びた。「まったく、そのとおり」チェスターはくいしばった歯のあいだから、かすれた声を発した。手に力がこもりはじめる。だが、その血走った目も、傍の女性の凝視を忘れるほど、充血しているわけではなかった。ごく不本意ながらも、チェスターは指の力をぬいた。またもや危機一髪。ビンクの指の骨は、今の握手でぐしゃぐしゃにつぶれるところだった。
「あんたに手を貸してあげるわ。チェスター、彼をあたしの背中に乗せて」
チェスターはビンクのひじの下に手をそえると、まるで羽のように軽々とビンクを抱えあげた。一瞬、ビンクは五十フィートは投げとばされるのではないかと、ひやりとした……しかし、相変わらずチェリーが見守っている。ビンクは無事に、しかも丁重に、レディ・セントールの背に乗せられた。
「あれ、あんたの荷物?」チェリーは重なりあった杖と弓をちらと見て、尋ねた。チェスターは背中を見せないようにその方に行き、杖を拾いあげてビンクに渡した。ビンクはらくにすわれるよう、背中とかついだ荷物のあいだに、杖をななめにさしこんだ。
「腕をあたしの腰にまわして。そうしたら落ちずにすむわ」チェリーがビンクに言った。
ありがたい忠告だ。ビンクは馬に乗るのは初めてだし、おまけに鞍もない。ザンスには気性のいい馬はほんの少ししか残っていない。ユニコーンは背に乗るにはひどく扱いにくいし、翼のある馬ときたら、捕える、飼いならすということが、ほとんど不可能なのだ。まだビンクが子供だった頃、ドラゴンに焼かれ、羽を失った馬バエが、食べものと保護とを引き換えに、村人たちを短距離間だけ乗せていたことがあった。もっとも、体が回復したとたん、馬バエは飛び去ってしまったが。それが唯一のビンクの乗馬経験だ。
ビンクは体を前に倒した。杖が邪魔で、背中が思うように曲がらない。手をうしろに伸ばし、杖をぬきとった――杖はビンクの手から離れ、地面に落ちた。チェスターが鼻を鳴らした。気性のように、うさんくさそうな響きだ。けれど、チェスターは杖を拾って、ビンクに返してくれた。ビンクは今度は杖をわきの下にかいこむと、もう一度体を前に倒し、チェリーのすらりとした腰にしがみついた。チェスターの新たな怒りの色など無視する。危険を冒すに足る価値のあることがあるものだ。たとえば、この場所から大急ぎで立ち去るとか。
「医者に行って、そのトゲを抜いて――」チェリーが肩越しに話しかけた。
「行っちまえ!」チェスターはチェリーに最後まで言わせなかった。チェリーが出発するのを見とどけてから、ややぎごちない駆け足で、来た力向へともどっていった。おそらく、ひと足ごとに、後四半分の痛みが増していることだろう。
チェリーは速足で進んだ。「チェスターは心底は、本当にいいひとなのよ」チェリーは弁解するように言った。「だけど、ちょっと尊大ぶるところがあってね。立ちどまっては厄介ごとを起こしてるの。ごく最近、あたしたち、無法者たちともめたんで――」
「人間の?」ビンクは尋ねた。
「そう。北から来た若いやつらでね、いたずらな魔法は使うわ、あたしたちの家畜に毒ガスをかけるわ、木に剣を突きさすわ、目くらましの落とし穴を仕掛けるわ、そんなことばっかりするの。それで、当然チェスターは……」
「ぼく、その犯人たちを知ってますよ。ぼく自身、そいつらとけんかしたことがある。今はこりてるはずだ。もし、やつらがここに来たと、ぼくが知ってたら――」
「この頃は、この牧場もしっかり統制されてるとは思えないわ。カブナントの話では、あんたたちの王様が秩序を守ろうとしているそうだけど。でも最近は――」
「ぼくらの王は年をとったんです」ビンクは説明した。「王は力を失いつつあります。それで、さまざまな厄介ごとが続出しているんです。王はかつては嵐を起こす、一流の魔法使いでした」
「知ってるわ。あたしたちのオート麦畑がホタルに荒らされたとき、彼が嵐を起こして、五日間雨を降らせ、ホタルを全部、水責めにしてくれたもの。もちろん、作物もだめになっちゃったけど、でも、どうせ、さんざんホタルにやられてたし。毎日襲われてたんだから! おかげで、少なくとも、それ以上ホタルの心配なしに、作物を植え替えることができたわ。あたしたち、そのときの恩を忘れちゃいない。だから今度の件も公けにしたくないの。だけど、チェスターのような若馬たちが、どれぐらい我慢していられるか、わからないのよ。それで、あたし、あんたと話してみたかったの。あんたが村に帰って、王様になんとか――」
「うまくいくとは思えないな。王が秩序を保ちたいと思っているのは確かです。でもね、王にはもう、力がないんです」
「それじゃ、新しい王が必要な時期なんだわ」
「王は年老いてきました。つまり、王は引退する分別など失ってしまい、さまざまな問題があるとは認めないだろうってことですよ」
「そりゃそうだけど、問題は無視したって消えてしまいやしないわ!」チェリーは女性らしく優美に鼻を鳴らした。「なんとか手を打つべきよ」
「もしかしたら、魔法使いのハンフリーに助言をもらえるかもしれない。王を退けるのは重大な問題です。長老たちが賛成するとは思いません。王は若かりし頃には、本当に良く務めましたからね。それに、今の王に取って替われる人物はひとりもいないし。御存知のように、王になれるのは、偉大な魔法使いだけですから」
「ええ、知ってるわ。あたしたちセントールは学者ですもの」
「ごめんなさい、忘れてた。ぼくの村の学校はセントールが教えてます。でも、この荒野でもそうだとは考えてもみなかった」
「わかるわ。ただ、あたしたちは荒野とは言わずに、牧場とよんでるけどね。あたしはヒューマノイドの歴史学が専門で、チェスターは馬力応用学を勉強してるのよ。他には、法律学者、自然科学の専門家、哲学者――」チェリーは急にことばを切った。「さあ、つかまってて。この先に深い溝があるから、跳び越えなきゃならないの」
これまでビンクはゆったり乗ってきたが、今はもう一度体を前に倒し、チェリーの腰にきつく両手をまわした。チェリーの背はすべすべしていて気持がいいが、逆にすべり落ちやすい。なんといっても、チェリーがセントールでなければ、ビンクだとてそんな個所に手をまわす勇気など、とうてい持てっこなかった。
チェリーはスピードをあげ、ギャロップで丘を駆けおりた。その勢いで、ビンクの体はひどく揺れる。チェリーの腕のかいまから、溝が見えた。溝だって? およそ十フィートの幅がありそうな峡谷が、目前にせまっている。ビンクは驚くどころではなく、すっかり肝をつぶしてしまった。てのひらが汗ばみ、体がずり落ちはじめた。チェリーは力強く臀部をひとゆすりして跳躍し、さっそうと空を飛んだ。
ビンクはさらにずり落ちた。ちらりと、石だらけの溝の底が目に映った、と思うと、着地していた。その衝撃で、ビンクはまたもやずり落ちた。もっと確固とした手がかりを得ようと、両腕をやたらに動かし、あげくに、はなはだ具合の悪い個所を探ってしまった。もしそのまま……。
チェリーがビンクの腰をつかまえ、地面に立たせてくれた。「落ちついて。跳び越えたわ」
ビンクはまっかになった。「ご、ごめんなさい。落ちかけてしまったんで、つい、つかまろうと――」
「わかってるわ。跳んだとき、あんたの体重が移動したのを感じたもの。もしわざとああしたんなら、あんたを溝の中に落っことしてたわよ」そう言ったとたん、チェリーはチェスター同様、気づまりなようすを見せた。ビンクはチェリーのことばを信じた。チェリーは、それなりの理由があれば、人間を溝の中に落とすことができるのだ。セントールというのは剛気な生きものなのだから!
「もう歩いた方がいいと思います」
「いいえ。まだ溝があるわ。つい最近できたばかりの」
「じゃ、気をつけて、いったん下まで降り、向う側にはい登ります。時間はかかるでしょうけど――」
「だめよ。底にはニッケルサソリがいるわ」
ビンクはひるんだ。ニッケルサソリはサソリに似ているが、その五倍も大きく、はるかに恐ろしい。無数の足で垂直の岩壁にぴたりとくっついていられるし、そのハサミで肉に直径一インチの穴をうがつことができる。直射日光をきらい、陽の当たらない地の裂け目に生息している。ドラゴンでさえ、ニッケルサソリが群がってくるとわかりきっている溝を渡るのは、ためらうほどだが、それも無理はない。
「溝ができたのは最近なの」チェリーは脚を曲げて、ビンクがふたたび背に乗れるように姿勢を低くした。ビンクは杖を拾いあげ、それを助けにチェリーの背にまたがった。
「あたし、どこかで大きな魔法の力がはたらいていて、それがザンス全体に広がり、動物や植物や鉱物にひずみをもたらしてるんじゃないかと思うの。次の溝を越したら、もうセントールの領土から、はずれるわよ」
そんな境界があるとは、ビンクは少しも知らなかった。地図には描かれていない。道はどこまでも平坦で、ほぼ安全だと思っていた。だが、ビンクの地図は数年前に作られたものだし、チェリーの話では、溝は新しいという。ザンスでは永久不変のものはありえないし、旅というものは、つねになんらかの危険を伴うものだ。ビンクにとって、レディ・セントールの助けを得られたのは、幸運だった。
溝が厳密に区切っているかのように、周囲の景色が一変した。これまでのなだらかな丘や野原は姿を消し、森が広がっている。道はだんだん狭くなり、巨大なまがい松の木々がびっしりと生え、地面には赤褐色のまがい松葉が厚く積もっている。あちこちにあかるい緑色のシダの茂みがあり、雑草が生える余地のないほど育っている。また、濃い緑色の苔が生えているところもある。一陣の冷たい風が吹きぬけ、チェリーの髪とたてがみを乱し、ビンクの髪を逆立てた。あたりはしんと静まり、香ばしい松の匂いがただよっている。ビンクはチェリーの背から降り、苔のしとねに横たわって、この穏やかさを心ゆくまで味わってみたいと思った。
「そんなことしちゃ、だめ」チェリーが警告した。
ビンクはびっくりした。「セントールが魔法を使うとは知らなかった!」
「魔法?」チェリーは眉をしかめた。
「ぼくの心を読んだ」
チェリーは笑った。「ちがうわ。あたしたちに魔法の力はないわ。だけど、この森が人間にどんな力をおよぼすか、知ってる。この森には、木たちが切られないために、やすらぎのまじないがかかっているのよ」
「それは悪いことじゃない。どっちにしろ、ぼくは木を切るつもりはなかった」
「木たちはあんたの気持なんか信用しちゃいないわ。いい、見ててごらんなさい」
チェリーは注意深くけもの道をはずれ、やわらかなまがい松葉のじゅうたんにひづめを向けた。剣先のような杖のある雄エゾマツの木々のあいだを縫うように歩き、細いヘビのようなシュロのそばを通った。それらの木々は、べつに追い払うような声もたてない。チェリーはもつれヤナギの近くで脚をとめた。
「ほら」チェリーは低い声で言った。
ビンクはチェリーが指さした方を見た。地面に人間の白骨が横たわっている。「殺されたんですか?」ビンクは身震いした。
「ううん、ただ眠ってただけ。ついさっき、あんたがそうしたいと思ったように、あのひとも休息をとりにきて、二度と起きあがる気力を持てなかったのよ。完全なやすらぎは陰険なものよ」
「そう……」ビンクは吐息をもらした。激情もなく、悩みもない……それは進取の気性を失うことだ。きわめて楽にくつろいでいるときに、誰が仕事や食べることを思いわずらうだろう? 自殺したくなった人間にとっては、これは理想的な方法ではないだろうか。しかし、ビンクには生きていたい理由があった――今のところは。
「あたしがチェスターを好きな理由のひとつは、そこなの。チェスターは決して、こんな誘惑には負けないわ」
それは確かだ。チェスターには平穏など関係ない。また、チェリー自身も負けないだろう。チェスターにくらべれば、かなり穏やかなチェリーではあるが、ビンクは白骨を目前にしながらも、倦怠感をおぼえたが、明らかにチェリーはまじないに対抗することができるようだ。セントールの生理が人間のそれとは、まるっきりちがうのか、あるいは、天使のような容姿と快活なことばにおおわれた奥には、たけだけしい心が宿っているのかもしれない。そのどちらもあたっているような気がする。
「ここから出ましょう」ビンクは言った。
チェリーは笑った。「心配することないわ。あんたは無事に通りぬけていけるわよ。でも、ひとりでこの道をもどっちゃだめ、もしみつかれば、敵といっしょに旅をなさい。それがいちばんいい」
「友人よりも?」
「友達というのは、やすらぎだわ」
なるほど。もっともだ。たとえばジャマみたいなやつといっしょでは、おちおち松の木陰でくつろいではいられない。なにしろ、いつ腹に剣を突き立てられるかわからないのだから。だが、なんという皮肉な必然性だろう。やすらぎの森を通りぬけるために、道づれに敵を求めなくてはならないとは!
「魔法というのは、おかしな仲間をつくるんだな」ビンクはつぶやいた。
ここでは、他にどんな魔法も必要としないのは、このやすらぎのまじないのせいだ。木々は、各自が防衛の力を持つ必要がない。攻撃をしかけてくる者など、ひとりもいないからだ。餌を求めて、チャンスさえあれば触手を伸ばすはずのもつれ木さえも、ひっそりと静まりかえっている。生存の直接命令が緩和されると、たちまち魔法が消えてしまうのはおもしろい。いや、魔法はあるのだ。強い魔法が。各植物がわずかな魔法の力を提供しあい、森全体に共同の魔法をかけている。もし、対抗できる魔法で、その効力を無にすることができれば、絶対安泰に生きていられる。これは覚えておく価値がある。
チェリーは木々のあいだを縫って、もとの小道にもどり、ふたたび歩を進めた。ビンクは二度もまどろみかけては、チェリーの背からずり落ちそうになったが、そのたびに衝撃を感じて目をさました。松の木がまばらになり、広葉樹が増えてくると、ビンクはうれしくなった。注意力が発達し、感情が豊かになってくる。これはいいことだ。広い葉の木の森には、広い感動の心。
「あそこにいた人は誰だったんだろうな」ビンクは考えこんだ。
「知ってるわ。最後の移住者のひとりで、道に迷ってここに入りこみ、休息することにしたのよ。永遠にね!」
「だけど、最後の移住者って、野蛮人でしょう! やつらは無差別に虐殺したんですよ」
「移住者はみんな、やってきた当時は野蛮人だったわ。ひとつの例外を除いてね。あたしたちセントールは知ってるの。あたしたちは第一次移住時代以前から、ここにいるんですもの。あたしたちは闘わなければならなかった。協定を結ぶまで。あんたたちは魔法の力こそなかったけれど、武器と、人数と、狡猾な悪知恵を持っていたわ。あたしの仲間は大勢死んだ」
「ぼくの先祖は、第一次移住者です」ビンクはある種の誇りをもって言った。「ぼくらは前から魔法の力を持っていましたし、セントールと闘ったりはしなかった」
「ねえ、けんかを売らないでよ、人間さん。やすらぎの松の森から、あんたを連れ出したばかりなんだから。あんたには、あたしたちの歴史の知識はないんだし」
ビンクはチェリーの背に乗っていたいなら、もう少し声の調子を和らげた方がいいと悟った。もちろん、まだチェリーの背に乗っていたい。チェリーはすてきな道づれだし、あらゆる地域の魔法を知っているようなので、その脅威を避ける道を知っている。それになんといっても、ビンクの疲れた足を休ませながら、先の道のりをかせいでくれているのだ。もうすでに十マイルは運んでくれている。
「すみません。家族の誇りの問題なので」
「そう、それは悪いことじゃないわ」チェリーは怒りを和らげた。あわだつ流れの上に架けられた板の橋を、用心深く渡る。
急にビンクはのどの渇きをおぼえた。「水を飲みたいんで、とまってもらえませんか?」
チェリーは馬そっくりの音をたてて鼻を鳴らした。「ここじゃ、だめ! この流れの水を飲んだ者は、みんな魚になるのよ」
「魚に?」ビンクはこの説明に、二重に感謝した。説明がなければ、ビンクはきっとここに流れている水を飲んでいただろう。チェリーが単にからかっているだけか、この地域から追い出すために脅しをかけようとしているのでなければ。「なぜです?」
「この流れは、今、再生しようとしているところなの。これは二十一年前、邪悪な魔法使いトレントによって、からっぽにされた流れなのよ」
ビンクは無生物の魔法の力については、やや懐疑的だった。特にその有効性については。いったい、川に欲望があるものだろうか? とはいえ、あの見晴らし岩は、くずれないように自分を守っている。あれがよく身を守っているからこそ、風景のある地形がまじないをかけていられるのだろう。
それより、さっきの話にでたトレントの名が、ビンクの注意を惹いた。「悪しき魔法使いが、ここにいたんですか? 彼はぼくらの村だけの不思議な人物だと思ってました」
「トレントはどこにでも現われたわ。彼はあたしたちセントールの支持がほしかったのよ。あたしたちが、人間の仕事の邪魔をしないという協定のためにためらっていると、彼はこの流れの魚を、全部電気ホタルに変え、その力を見せつけたわ。そして、いなくなってしまった。きっと、ホタルの電気ショックであたしたちが気を変えると考えていたんでしょうね」
「なぜトレントは魚を人間の兵隊に変えて、あなたがたを征服しようとしなかったんでしょう?」
「そりゃ、まずいわ、ビンク。魚たちは人間の体をもっても、心は魚のままだもの。それこそ水っぽい兵隊にしかならないだろうし、たとえれっきとした兵隊になるとしても、自分たちにまじないをかけた張本人に仕えるはずがないわ。きっとトレントを攻撃したでしょうよ」
「ああ、そうですね。そこまで考えつかなかった。で、結局、トレントは魚たちを電気ホタルに変え、自分は電気ホタルにやられないうちに、ここから姿を消してしまった。それでホタルたちは、次に目についた標的を狙った、というわけですね」
「そうよ。あたしたちにとっては、ひどい時期だったわ。ホタルたちときたら、すごく痛いんですもの! 大群で飛んできて、小さな電気針で焼くの。あたし、まだ傷が残ってるわ。あたしの――」チェリーはことばを切って、しかめつらをした。「尻尾にね」これはあきらかに婉曲な言いかただ。
「で、どうなさったんです?」ビンクは好奇心に駆られ、うしろに目を落として傷跡をみつけようとしながら尋ねた。
「そのあと、まもなく、トレントは追放となり、ハンフリーにまじないの力を弱くしてもらったわ」
「でも、よき魔法使いは変身術師ではありませんよ」
「ええ。だけど、ハンフリーは電気ホタルたちを追い払うために、虫よけのまじないをみつけるよう教えてくれた。電気で焼かれた肉体を否認すると、やがてホタルたちは死に絶えてしまった。いい情報は、いい行為と同じで、よき魔法使いは、ちゃんといい情報を知っているのよ」
「だからこそ、ぼくも会いに行くんです。ですが、ハンフリーはまじないの代償に、一年間の奉仕を要求します」
「知ってるわよ! セントール三百頭が、それぞれ一年間。たいへんだったわ!」
「みなさんが返さなきゃならなかったんですか? あなたはなにをしたんです?」
「それを洩らすわけにはいかないの」チェリーはしおらしく言った。
ビンクは好奇心を二倍にかきたてられたが、それ以上訊かない方がいいと承知していた。セントールのことばは神聖なのだ。しかし、ハンフリーは数百というまじないのひとつで、自分自身の力ではできないことまで、どうしてできるのだろう? すくなくとも、いい情報という手段を使うにしても? ハンフリーは本質的には予言者なのだ。知らないことであれ、探知することができ、それがまた彼にはかりしれない力をもたらす。村の長老たちが、よき魔法使いに、老いぼれた王をどうすべきか尋ねない理由は、おそらく、よき魔法使いがなんと答えるか、知っているからだろう。王を退位させ、新しい、若くいきいきした魔法使いをたてよ。その準備ができていないのは確かだ。たとえ、仕えるべき若い魔法使いをみつけることができるとしても。
そう、ザンスにはさまざまな不思議と、さまざまな問題があり、ビンクにはそのすべてを知ることも、あるいはなんらかの解決をすることも、できない。ビンクはずっと昔に、いかに不快であろうとも、必然的な運命には屈服することを学んだ。
チェリーとビンクは川を渡り、登りに入った。木立ちはさらに深くなり、巨大な太い根が小径を隆起させている。敵意ある魔法は感じられない。村人たちがビンクの故郷をきれいにしたように、セントールたちもこの地をきれいにしたのか、それとも、どうということもなく、機械的に、チェリーはまじないを避けて、この小径を選んだのか。たぶん、その両方だろう。
ビンクは思った。人生というものは、複雑な問題のために、二者択一の説明を必要としているが、だいたいにおいて“その両方”なのだ。ザンスでは、堅くしっかりしているものなど、ほとんどない。
「ぼくの知らない、あなたがごぞんじの歴史って、なんですか?」ビンクは小径をたどるのにあきてきて、チェリーに質問した。
「人間の植民地化の波のこと? あたしたちはその記録をぜんぶ持ってるわ。シールド時代と聖約時代以来、すべてがおさまった。移動は恐怖の時代よ」
「第一次移住者たちはちがう!」ビンクは誠実に言った。「ぼくらは温厚だ」
「あたしが言ってるのも、それよ。あんたたちは、若い不良たちを除けば、今は温厚だわ。だから、あんたは先祖も温厚だったと思ってるんでしょうけど。でも、あたしの先祖は別の見方をしたわ。かれらは、人間がザンスを発見しなければ、もっと幸福だったでしょうよ」
「ぼくの師はセントールだった。先生は、そんなこと、なにも言――」
「真実を言ったら、お払いばこだったでしょうね」
ビンクは不安になった。「からかってるんじゃないんでしょうね? ぼくは厄介事はごめんです。好奇心はとても強いけれど、ぼくはすでに、手に余る厄介事をかかえているんです」
チェリーはくびをめぐらして、穏やかなまなざしをビンクに向けた。腰のところで上半身がひねれるため、容易にその動きができる。みごとなひねりだ。人間の娘よりもずっと柔軟な胴体だ。きっと、セントールは体全体を回転させにくいからだろう。しかし、チェリーが上半身にみあう、人間の下半身をもっていたら、いったいどんな娘になるだろう!
「あんたの先生は、うそをついたんじゃないわ。セントールは決してうそをつかない。王の命令に従って、単に情報を削減したのよ。親たちが聞かせたくないことを、子供の感受性の強い心に押しつけないように。教育とはつねにそういうものだわ」
「ぼくは先生の高潔さを、これっぱかりも疑っていません」ビンクはあわてて言った。「正直言って、ぼくは先生が好きでした。ぼくのいろんな疑問に、いやな顔をしなかったのは先生だけでした。ずいぶんたくさんのことを教えてもらいましたよ。ただ、歴史については、あまり尋ねなかったと思います。先生が口にできないことを、先取りしてたんでしょう。でも、すくなくとも、魔法使いハンフリーのことは教えてくれました」
「もしよかったら、ハンフリーにどんな質問をしたいのか、聞かせてくれない?」
うちあけたからといって、なにか影響があるだろうか?
「ぼくには魔法の力がないんです。すくなくとも、力がないように思われます。子供のときはずっと、きそいあえるような魔法を使えなかったために、不利な立場に立たされずくめでした。誰よりも速く走れましたが、空中を浮揚できる子が、競争に勝ったものです。つまらないことですが」
「セントールは、魔法の力なしに、完璧にやっていけるわ。あたしたちは与えられても、魔法は使わないわ」
ビンクには信じられなかったが、あえて問題にはしなかった。「人間は違う態度をとるのだと思います。とにかく、大きくなるにつれ、ぼくの立場はますます悪くなってきました。今のところ、なんらかの魔法の力を示さなければ、追放されてしまうんです。ぼくは魔法使いハンフリーに望みを託しています。ぼくが魔法の力を持てれば、それはつまり、故郷にとどまり、愛する娘と結婚し、ささやかなプライドをもてるということなんです。最終的には」
チェリーはうなずいた。「そんなことだろうと思っていたわ。あたしがあんただったら、魔法の力をもたなきゃならない、と思いつめたりしないでしょうね。なんといっても、あんたたちの文化の価値感は、ゆがんでると思うもの。あんたたちは住民としての資格を、ひとりひとりのすぐれた資質と、その成果におくべきで――」
「そのとおりです」ビンクは心底から同意した。
チェリーはほほえんだ。「あんた、セントールに生まれるべきだったわねえ」頭を振ったので、髪がふんわりと揺れ広がる。「ずいぶん危険な旅に出たものだわ」
「無理に行かせられるマンダニアへの旅にくらべれば、たいしたことはありませんよ」
もう一度チェリーはうなずいた。「よくわかったわ。あんたはあたしの好奇心を満足させてくれた。あたしもお返しをしましょう。あんたに、人間のザンス侵入について、真相を教えてあげるわ。でも、あんたの気にいるとは思わない」
「ぼくは自分自身についての真実が、ぼくの気にいるとは期待していません」ビンクは悲しそうに言った。「知るべきことがあるなら、なんでも知っておいて悪くない」
「何千年ものあいだ、ザンスはとても平和な土地でした」チェリーはビンクに学校時代を思い出させるような、学者ぶった口調で話しはじめた。たぶん、セントールというのは、根っからの教師なのだろう。「ザンスには魔法がありました。とても強い魔法です。けれど、無益な悪意はありませんでした。あたしたちセントールは優勢な種属ですが、あたしたちは全然魔法の力をもっていません。あたしたち自身が魔法なんです。セントールは、もとはマンダニアから移住してきたのだと思いますが、それは遠い昔のことで、あたしたちの記録にすらのこっていないぐらいです」
ビンクの心に、なにかひっかかるものが生じた。「あの、魔法的な生きものはまじないを使うことができないって、本当なんですか? シマネズミがパンくずをまじないで――」
「へえ? それがシマリスではなかった、と言いきれるの? あたしたちの分類によれば、シマリスは自然の生きもの。シマリスならまじないを使うでしょうよ」
「あなたがたは動物を分断するんですか?」ビンクは驚いて尋ねた。
「分断じゃなくて、分類[#「分類」に傍点]」チェリーは寛大な微笑をうかべて訂正した。「生きものを類別すること。セントールのもうひとつの特性よ」
そうか。ビンクは当惑してしまった。「シマネズミだと思ったんですけど、ちょっと自信がありません」
「実のところ、あたしも自信はないわ」チェリーは認めた。「そうね、ある種の魔法的生きものは、まじないを使えるかもしれない。でも、一般原則として、生きものは、魔法を使えるか、あるいは、魔法そのものか、のどちらかだわ。両方ということはないの。たとえば、そうね、ドラゴンの魔法使いが暴れまわってると考えてごらんなさい!」
ビンクは考えてみた。ぞっとした。「歴史の勉強にもどりましょう」
「千年ほど前、最初の人間族がザンスを発見しました。彼らはそこを単なる半島だと思いました。人間族はザンスに移住してくると、木を切り倒し、動物を虐殺しました。ザンスには、人間たちを撃退するに、余りある魔法の力があったのですが、そういう無情で組織的な破壊を受けたことがなかったし、あたしたちも信じられませんでした。あたしたちは人間はやがて立ち去るものと考えていたんです。
けれど、人間たちはザンスが魔法そのものだと知りました。動物が空中に浮き、木々が枝を動かすのを見たんです。人間たちはユニコーンやグリフィンを狩り立てました。そういう大きな動物たちが人間をきらっているのは、それなりにちゃんとした理由があるのよ。彼らの祖先が友好的になろうとつとめなかったなら、生き残れなかったんですもの。第一次移住者たちは、魔法の国で、魔法の力をもたない生きものだった。最初の衝撃が過ぎてしまうと、人間たちは魔法が好きになりました」
「今はちがう!」ビンクは叫んだ。「人間はいちばん強い魔法の力をもってる。偉大な魔法使いたちを見るがいい。あなた自身も、さっき、悪しき魔法使いトレントが魚をどうやって変身させたか――」
「はね落とされるまえに、おだまり!」チェリーがぴしりと言った。尻尾が威嚇するようにビンクの耳をかすめた。「あんたは四分の一も知らないのよ。もちろん、今では人間も魔法の力をもってるわ。それが人間の悩みの一部だけどね。でも、最初はちがったのよ」
ビンクはまたおとなしくなった。そうするのがますますらく[#「らく」に傍点]になってきている。このレディ・セントールがとても好きだからだ。彼女はビンクが考えつきもしなかった疑問に、答えてくれている。
「すみません。ぼくにとっては初耳なので」
「あんたを見てると、チェスターを思い出すわ。あんたもおそろしくがんこなんでしょ」
「ええ」ビンクは恐縮して答えた。
チェリーは笑った。ちょっぴり馬のいななきに似ている。「あたし、あんたが好きよ、人間さん。みつかるといいわね、あんたの――いやそうにくちびるをすぼめ――魔法が」
そして急にかがやくような微笑を見せ、たちまちまじめな顔になった。「とにかく、第一次移住者たちは魔法の力をもっていませんでした。魔法の力になにができるかわかると、心惹かれましたが、おそれも感じました。たくさんの人間が、溺死のまじないをもつ湖で死に、またある者はドラゴンと衝突しました。そして初めてバシリスクに会ったとき――」
「まだバシリスクがいるんですか?」ビンクはふいにカメレオンの予兆を思い出し、不安になった。あのカメレオンは死ぬ前に、バシリスクの外観そのものの顔でビンクをみつめた。まるで、まじないが失敗に終わったとでもいうように。あの一連の光景の意味は、いまだにはっきりしていない。
「ええ、いるわ。でも、たくさんはいない。人間とセントールの両方が、バシリスクたちを苦労しておさえつけたのよ。あたしたちにとっても、バシリスクのひとにらみは致命的だわ。いまのところ、彼らは身を隠してる。なぜなら、にらんで殺した、最初の利口な生きものが、鏡の仮面を着けた復讐の軍隊をさしむけると、知っているからよ。予備知識のある人間やセントールにとって、バシリスクは敵じゃないわ。ニワトリの頭とかぎ爪をもった、ちっぽけな翼トカゲにすぎないもの。そんなに知性もない。知性的である必要もない」
「そうか!」ビンクは大声をあげた。「それが失われた要因かもしれない。知性が。生きものは魔法が使えるか、あるいは魔法そのものか、それとも利口か。三つのうち二つは備わっても、三つ全部というわけにはいかない。だから、シマネズミは魔法を使うかもしれないけれど、頭のいいドラゴンはいないんだ」
チェリーはもう一度ふりむいて、ビンクの顔を見た。「それは新しい考えかただわ。あんた、とても頭がいいのね。あたしもよく考えてみなくちゃ。でも、はっきり確かめるまでは、守りのない荒野の奥に踏みこんじゃだめ。そこには利口で、魔法が使える怪物がいるかもしれないから」
「荒野には行きません」ビンクは約束した。「すくなくとも、魔法使いの城に着くまで、正規の道からはずれないでしょう。どんなトカゲにも、死のひとにらみをしてほしくない」
「あんたの祖先たちはもっと攻撃的でした。そのために大勢死にました。けれど、ザンスを征服し、魔法を禁じた領土を作りました。彼らはその国を、魔法を利用することを、好みましたが、魔法が家庭に近づきすぎるのをきらいました。それで森を焼きはらい、魔法的な動物や植物を全部殺し、巨大な石の壁をきずきました」
「あの遺跡が! あれは敵の陣営を阻んだ石壁だと思ってた」
「あれは第一次移動時代のものよ」
「でも、ぼくは――」
「こんな話は気にいらないだろうって、言ったでしょ」
「気にいりません」ビンクは認めた。「だけど、聞きたい。ぼくの祖先たちがどうやって――」
「彼らは防壁をめぐらした村に落ち着き、マンダニアの穀物を植え、マンダニアの家畜を飼いました。豆とか、翼のない牛は知ってるでしょう? 男たちはいっしょに連れてきた女たちや、いちばん近いマンダニアの村を襲って連れてきた女たちと結婚し、子供をもうけました。ザンスは、魔法を削除した地域でさえ、良い土地だったのです。しかし、やがて驚くべきことが起こりました」
チェリーはまたビンクの方を向き、流し目をくれた。人間の娘ならほれぼれしてしまうようなまなざしだ。実際、セントールの娘でも、心を奮われてしまう。特に上半身の人間の部分だけを見るように、目を細くしているならば。セントールは人間より長生きなので、チェリーはたぶん五十歳ぐらいだとわかっていても、すばらしく魅力的だった。二十歳にしか見えない――人間ならとうてい、こうはなれない二十歳の娘。こんなジャジャ馬を御せる者などいない!
「なにがあったんです?」ビンクはチェリーが知的な反応をほしがっているのを、みてとった。セントールはすぐれた話し手で、すぐれた聞き手が好きなのだ。
「彼らの子供たちに魔法の力が生じたんです」
なんだ! 「やはり、第一次移住者たちには魔法の力があったんだ!」
「いいえ、彼らにはなかったの。ザンスの土地にはありました。環境の影響だったんです。魔法の力は、成長する子供たちに効果があり、さらに、この土地でみごもられ、生まれたあかんぼうに、もっとも効果よく作用するんです。たとえ、長期間、この地に住んでいても、おとなは“分別がある”という理由で、もてる力を抑制しがちです。でも子供たちは、あるがままに受け容れます。それに、子供たちは生まれつきの力を自覚すればするほど、熱心にそれを使うものです」
「ちっとも知らなかった。ぼくの家族は、ぼくよりずっと強い魔法の力をもっています。祖先の何人かは魔法使いでした。でも、ぼくは――」ビンクは落ち着きをとりもどした。「ぼくは両親をひどく失望させるんじゃないかと心配しています。正しくは、ぼくには強い魔法の力があってしかるべきだし、魔法使いになってもおかしくない。それなのに……」
チェリーは思慮深く、意見を述べなかった。
「最初、人間たちは衝撃を受けました。けれど、まもなくそれを受け容れ、特別な力の開発を促進しさえしました。ある若者は、鉛を黄金に変える力をもっていました。人間たちは鉛を求めて丘を無残に掘りかえし、ついには、マンダニアから鉛を手に入れるために、わざわざ人を派遣しなくてはならなくなったほどです。これではまるで、鉛の方が黄金より価値があるようではありませんか」
「ですが、ザンスはマンダニアの世界とは、いっさいの交渉がありませんよ」
「忘れてるのね。これは昔の歴史よ」
「たびたびすみません。よほど興味がなければ、何度も話の邪魔はしないんですが」
「あんたはとても聞き上手ね」チェリーに言われ、ビンクはうれしく思った。「たいていの人間は、ちっとも話を聞こうとはしない。それというのも、自慢できる歴史じゃないからよ。あんたはちがうわね」
「ぼくだって、追放に直面していなければ、それほど寛い心にはなれないと思います。ぼくがあてにできるのは、この脳ミソと肉体なんですから、自分を欺かない方がいい」
「りっぱな哲学だわ。ついでに言えば、あたし、予定よりずっと長く、あんたを乗せてるわ。あんたがきちんとした応対をしてるからよ。とにかく、人間たちは鉛を手に入れました。でも、おそろしい代価を払ったんです。マンダニアの人たちが、魔法のことを知ったからです。彼らは典型的なマンダニア人でした。つまり、貪欲で強欲。安い黄金とわかると、マンダニア人たちは逆上しました。彼らはザンスに侵入し、防壁を襲撃し、第一次移住者の男と子供を皆殺しにしたんです」
「でも――」ビンクはぞっとした。
「これが第二次移住者たちです」チェリーは穏やかに話をつづけた。「彼らは第一次の女たちは助けました。第二次は全員男たちだったからです。第二次は鉛を黄金に変える機械か、でなければ、秘密の処方による錬金術があるのだと思っていました。魔法など信じていませんでした。それは単に、なんだかわからないものを言い表わす、便利なことばにすぎないと思っていたのです。ですから、ひとりの子供の魔法の力で、鉛が黄金に変わったとは、理解できませんでした。手遅れになるまで、ね。手あたりしだいに殺してしまったんですから」
「ひどい! すると、ぼくは――」
「第一次移住者の母親が手ごめにされた結果の子孫。そう、あんたの血統を確証する方法はないわ。あたしたちセントールは、第一次移住者たちはきらいだったけど、そのときは気の毒に思いました。第二次移住者たちは、もっとひどいものでした。彼らは文字どおり、略奪者で、強欲でした。あたしたちが知っていたら、第一次移住者たちが彼らを撃退する手助けをしたのに。あたしたちの射手なら、待ち伏せして襲えた――」チェリーは肩をすくめた。セントールの弓矢は、伝説的だ。その点はくどくど言う必要もない。
「さて、侵入者たちは腰をおちつけました」チェリーは一瞬の間のあと、話をつづけた。「彼らはザンスじゅうに自分たちの射手をさしむけ、そして――」チェリーは絶句した。チェリーがいかに痛切に、人間の劣等な弓矢に苦しめられた皮肉を感じているか、ビンクにはわかった。チェリーは小さく身震いし、もう少しでビンクをはね落とすところだった。そして、自分をはげまして、ことばをつづけた。「そして、食肉用にセントールを殺しました。あたしたちが団結して、彼らの陣営を襲い、その半数に矢を突き立てると、やっと、あたしたちに干渉しないと同意したんです。その後ですら、協定を尊ぶことはしませんでした。彼らには決定的に、名誉を守るという感覚が欠如しているからです」
「そして、彼らの子供には魔法の力が宿った」ビンクがあとをつづけた。「そしてさらに、第三次移住者たちが侵入し、第二次移住者たちを殺し――」
「そう。それは数世代あとに起こったの。もっとも、それが来たときは、どの点から見ても、ひどいものだったけれど。第二次移住者は、その頃までには、あれこれ考えてみて、かなりいい隣人になっていました。そしてふたたび、女たちだけが助かりました。その数は決して多くありませんでした。というのも、女たちはザンス生まれなので、生命力も魔法の力も、強力だったからです。女たちはその力を使い、直接わからないような方法で、ひとり、またひとりと、略奪者である夫たちを排除していきました。けれど、女たちの勝利は、結局、失敗におわったのです。今度は家族が全然いなくなったのですから。そこで、女たちはマンダニア人たちを招ばなくてはならなくなり――」
「あんまりだ! ぼくは千年もの恥ずべき行為の所産なのか」
「そっくりそうではありません。ザンスの男の歴史は野蛮ですが、価値をあがなわずにはすみませんでした。偉大ですらあります。第二次移住者の女たちは、手をつなぎ、みつかるかぎりのりっぱな男たちだけを受け容れました。強く、正しく、心のあたたかな、知性ある男たちで、その人たちは情況を理解し、貪欲からではなく、道義から、ザンスに来ました。そして、ザンスの秘密を守り、その価値を維持すると約束しました。彼らもマンダニア人でしたが、高潔な人々でした」
「第四次移住者か! いちばんりっぱな人々ですね」
「そうです。ザンスの女たちは、夫を亡くし、略奪の犠牲となり、ついにはその手で人を殺しました。戦いによって、肉体的にも、精神的にも、老けこみ、あるいは傷つきました。でも、女たちは皆、強い魔法の力と、鉄の意志の持主ばかり。ザンスから人間を一掃してしまった、悲惨な動乱を生き残ったのです。これは顕著な特質です。新しい移住者たちのうち、すべての真実を知ると、背を向け、マンダニアに帰る者もいました。ですが、ある者は魔女との結婚を望みました。有力な魔法をもつ子供をほしがり、それを遺伝的なものと考えたため、女の若さや美しさを二の次とみなしたのです。男たちは非のうちどころのない夫になりました。またある者は、ザンスという独特の土地の可能性を、開発し、保護したいと望みました。彼らは環境問題の専門家となり、ザンスの環境のうち、魔法がもっとも貴重な資質だとみなしました。もちろん、第四次移住者の全員が男だったわけではなく、慎重に選ばれた若い娘たちも含まれています。子供たちと結婚させるためです。そうすれば、近親結婚がかなり避けられますから。というわけで、侵略なしに、いっさいが落ち着きました。殺し合いに根づいたのではなく、健全な取引と生物学的な原理にもとづいた生活が、はじまったのです」
「わかりました。それが最初の偉大な魔法使いの移住時代ですね」
「そのとおり。もちろん、他の移住者たちもありましたが、危険な者はいませんでした。第四次移住時代以降、ザンスは人間の効果的な支配を受けていました。新たな侵略者たちが多数殺され、辺境の森林地に追い払われた者たちも数知れませんでしたが、村そのものが破壊されることはありませんでした。真に知性ある者や、魔法の力のある者は、この第四次移住時代に祖先をたどることができます。あんたも、そのひとりだわ」
「ええ。ぼくの祖先は最初の六人の移住者です。でも、ぼくはいつも、第一次移住者の血統が、いちばん大事なんだと思ってたんです」
「魔法のシールドの設置で、移住はついに終わりました。シールドはマンダニアの生きものをすべて閉め出し、ザンスの生きものをすべて包合しています。それはザンスの救い、理想郷の保証として、大歓迎されました。けれど、どういうわけか、大幅な進歩はありませんでした。まるで、ひとつの問題を、他の問題と取り替えたようなもの。目に見える脅威が、目に見えない脅威に変わったんです。過去何世紀かのあいだ、ザンスはまったく他からの侵略を受けていません。でも、別の脅威が育っているんです」
「電気ホタルや、大地の揺れ、悪しき魔法使いトレント、つまり、危険な魔法ですね」
「トレントは、悪しき[#「悪しき」に傍点]魔法使いではないわ」チェリーは訂正した。「邪悪[#「邪悪」に傍点]な魔法使いよ。重大なちがいだわ」
「うん、そうですね。トレントは本物の邪悪な魔法使いだ。やつにザンスを乗っとられないうちに追い出せたのは、幸運でした」
「まったくだわ。とはいえ、別の邪悪な魔法使いが現われたら? 大きな大地の揺れがきたら? 今度ザンスを救うのは誰?」
「わからない」
「あたし、ときどき、シールドは本当にいい考えだったのかな、と思うの。外部から薄められるのを避け、ザンス内の魔法の力を強力にするには、もんくなしに効果があるわ。そう、ある爆発点に向かって、魔法の力を結集させているような。とはいえ、あたしは移住時代の日々にもどるのは、まっぴらよ!」
ビンクはそういうふうに考えたことはなかった。「ザンスでは、魔法の力を一点に集める問題を評価するのは、どうもむずかしいと思います。ほんの少しでいいから、そうであればと願いつづけてきましたが。ぼくにとって、ぼくの力にとって、十分なだけでいいと」
「あんた、魔法の力なんかない方がいいかもしれないわよ。もし王から特免状がもらえるのなら――」
「ハ! 荒野で隠者のような暮らしをした方がましでしょうよ。ぼくの村では、魔法の力のない人間を寛大に扱うことはないでしょう」
「奇妙な逆現象ね」チェリーはつぶやいた。
「え?」
「いえ、なんでもない。ちょっと隠者ハーマンのことを考えてたの。ハーマンはいかがわしい行為のために、数年前、あたしたちの群れから追放されたのよ」
ビンクは笑った。「セントールにどんないかがわしい行為ができるんです? なにをしたんですか?」
きれいな花畑のへりで、チェリーは唐突に脚をとめた。「ここまでよ」きっぱり言う。
ビンクは悪いことを言ったのだと思った。「気を悪くさせるつもりじゃなかったんです。ごめんなさい――」
チェリーは口調を和らげた。「あんたは知らないんだわ。この花の香をかぐと、セントールはやたらと興奮しちゃうのよ。あたしは現実の非常時以外は、冷静でいなくちゃならない。魔法使いハンフリーの城は五マイルほど南よ。敵意ある魔法には気をつけなさい。あんたの魔法の力がみつかるといいわね」
「ありがとう」ビンクは心から感謝した。チェリーの背からすべり降りる。長く乗っていたため、両足がややこわばっているが、チェリーのおかげで、丸一日分の距離がはかどった。ビンクはチェリーの正面にまわると、手をさしのべた。
チェリーはビンクの握手を受け、つと身をかがめて、ビンクの額に母親のようなキスをした。ビンクはチェリーがそんなことをしてくれなければよかったと思いながらも、笑顔をみせ、歩きはじめた。背後で、森をぬけて帰っていくチェリーの速足のひづめの音が聞こえ、ビンクは急に孤独を感じた。けれど、幸運なことに、旅はもう終わりかけている。
ビンクはまだ考えていた。隠者ハーマンは、セントールがいかがわしいとみなす、どんなことをしたのだろう?
3 裂け目
ビンクは崖っぷちにたたずみ、途方にくれた。たどってきた小径が、またもや溝で分断されているのだ。溝――というより、さしわたし半マイル、底知れぬほどの深さの、巨大な地面の裂け目だ。チェリーたちセントールは、これを知らずにいるのだろう。でなければ警告してくれたはずだ。ごく最近できたものにちがいない。おそらく、この一ヵ月ぐらいのあいだに。
地震か、大変動の魔法でもなければ、急激にこんな地割れはできないだろう。知るかぎりでは、地震はなかったから、これは魔法でできたものだ。ということは、驚異的な力をもつ魔法使いを意味する。
誰だろう? 全盛期の王なら、厳格に操作された嵐や、通り道を開かれた暴風雨を使い、こういう地割れを造ることもできたろう。しかし、そんなことをする理由はなく、王の力は今や失せてしまい、こんなことをするだけの余裕はない。邪悪な魔法使いトレントは変身術師で、大地を動かす力はない。よき魔法使いハンフリーの力は、百もの雑多な予知的まじないに分けられる。そのうちのあるまじないが、こんなものすごい裂け目を造る方法を告げたのかもしれないが、ハンフリーがわざわざそうしたとは、とても考えられない。ハンフリーは、なんらかの報酬が得られないかぎり、なにもしないのだから。としても、ザンスにこの三人の他に偉大な魔法使いがいるだろうか?
待てよ――めくらましの術師のうわさを聞いたことがあるぞ。それなら本物以上にはっきりした裂け目を作るぐらい、おちゃのこだ。ジンクの落とし穴の魔法を拡大したものだろう。ジンクは魔法使いではないが、れっきとした魔法使いが、その手の力をもっていれば、これはその産物だろう。もしビンクが無雑作に裂け目に足を踏みだせば、小径がつづいているというあんばいだろう……
ビンクは下を見た。五百フィートほど下に、小さな雲がのんきに浮かんでいる。いやに湿っぽい風がさっと吹きあがってきた。ビンクは身震いした。これはまた、めくらましにしては、やけに現実的だ。
叫んでみる。「おーい!」
五秒ほどのち、こだまが聞こえた。「オーイ!」
小石をひろい、もっともらしい裂け目に放りこんでみる。小石は裂け目の奥に吸いこまれていき、底にとどいた音は聞こえなかった。
とうとうビンクは膝をつき、地面の向うの空間に指を突きたててみた。なんにも触れない。裂け目のふちにさわってみると、実体と垂直面が確認できた。
ビンクはしぶしぶ納得した。この裂け目は本物だ。
ぐるりとまわっていく以外、しかたがない。つまり、ビンクは目的地まで五マイルどころか、五十マイル、あるいは、このばかでっかい裂け目の広がりによっては百マイルも、歩かなければならないということだ。
帰るべきだろうか? 村の人々にこの徴候を忠告すべきだ。しかし、誰かを連れてここにもどってきたときに、裂け目が消えてなくなっていたりすれば、ビンクは魔法の力のない驚異の人物と言われるうえに、愚か者の称号までもらうはめになる。さらにいやなのは、臆病者あつかいされることだ。魔法使いを訪ね、まるっきり力がないと証明されるのがこわくて、その弁解に話をでっちあげたのだと言われるだろう。魔法で造られたものは、魔法で消せる。結局のところ、ぐるりとまわり道をしてみる方がよさそうだ。
ビンクはいくぶんだるそうに空を見上げた。陽は西に傾いている。薄れてきたあかるさが残っているのは、あと一時間かそこいらだろう。その短い時間は、一夜を過ごせる家を捜すのにあてた方がいい。奇妙な魔法に翻弄されて、見知らぬ土地で野宿するなど、ごめんこうむりたい。チェリーのおかげで、遠くまで楽な旅ができたが、突発的なまわり道のせいで、ひどく困難な旅に変わってしまった。
どちらに行こう。東か西か? 裂け目は東西に果てしなく広がっている。しかし地層は東の方がいくぶん起伏が少なく、ゆるやかな傾斜を見せている。もしかすると裂け目の底に達しており、そこを横断できるかもしれない。農夫は、水源の確保と、高所の敵意ある魔法を避けるために、丘の頂きより、谷底に家をかまえるものだ。東へ行った方がいい。
それにしても、この地域は人家が少ない。これまで進んできた小径沿いには、一軒も人家を見なかった。ビンクは速度をあげて森の中を歩きはじめた。薄闇が広がってくると、大地の裂け目から巨大な黒い影が現われた。大きな皮の翼、残忍に曲がったくちばし、小さなぎらつく目。ハゲタカか、あるいはもっといやなやつだ。ビンクはひどく不安になった。
裂け目がどれぐらい広がっているのか、見当もつかないため、ビンクは食料を確保しておく必要がある。パンの木の傍で足をとめ、パンの実をひとつとったが、それはまだ熟していなかった。こんなものを食べたら、消化不良を起こしてしまう。なんとか農家をみつけなくてはならない。
周囲の木々の背が高くなり、幹も太くなってきた。薄闇の中でいかにも恐ろしげに見える。風が吹き、堅くねじれた枝をかすかに鳴らしはじめた。それ自体はなにも不気味ではない。風が吹いて枝が鳴るのは、べつに魔法の力ではないからだ。けれど、ビンクの心臓の鼓動は、前よりも速くなってきた。ビンクは肩越しにうしろをふり返りながら進んだ。もはやちゃんとした道を歩いているわけではないため、ある程度保証されていた安全も消えている。今はなにが起こるかわからない奥地を、さらに奥へ入りこんでいるのだ。夜は邪悪な魔法が横行するときであり、それもまた、種々様々な雑多な力があふれかえる。松の木のやすらぎの魔法は、ほんの一例にすぎない。もっと恐ろしく、もっと悪い魔法がある。一軒でも人家をみつけられれば!
たいした冒険家だ! ビンクは思った。ほんのちょっと道を迂回しなくならなくなったとたんに、日が暮れてしまい、ビンクはおのれの過剰な想像力に支配されかかっている。実際のところ、ここはそれほど奥地ではない。注意深い人間なら、たいして恐ろしい目に会わずにすむだろう。本物の荒野は、裂け目の向う側の、よき魔法使いの居城のかなたにある。
ビンクは足どりをゆるめ、前方をしっかりみつめることにした。歩きつづけながら、怪しげなものに触れないよう、杖を振りまわしていれば――
杖の先が大きな黒い岩に触れた。その岩はものすごい音をたてて、いきなりとびあがった。ビンクはよろめき、地面に倒れ、腕をあげて顔をかばった。
岩は翼を広げて飛び立った。「クー!」非難の声をあびせてくる。それは石バトで、夜間の偽装と防御のために、岩の形にうずくまっていたのだ。当然、突つかれれば反応する。しかし、害意はまったくない。
このへんに石バトが巣を作っているのなら、ビンクの安全は保証されているようなものだ。なすべきことは場所をみつけ、眠るだけだ。なぜそうしないのか?
その理由は、夜間をひとりぼっちで過ごすのに、盲目的な恐怖を感じているからだ。ビンクは自分で答えを出した。魔法の力がありさえすれば、もっと安心していられるのに。簡単な自信のまじないひとつで、まにあうのだが。
前方に灯が見える。よかった! 四角い黄色の灯は、人家を意味している。ビンクは涙が出そうなほどうれしかった。幼い子でもなく、少年でもない年だが、森の中の、地図からはみ出た場所にいると、そんな気分になってしまう。ビンクには人間とのまじわりが必要だった。ビンクはその灯がめくらましや、敵意あるものの罠で、急に消えてしまわないことを願いつつ、足を速めた。
現実の灯だ。小さな村のはずれの農家だ。谷のはるか下方に、同じような四角い灯がいくつも見える。ビンクは浮きたつ思いでドアをたたいた。
ごく細目にドアが開き、汚れたエプロンを着けた不器量な女が、姿を見せた。女はうさんくさそうにビンクをみつめた。
「見たことのない人だね」女はぶあいそうに言うと、ドアを閉めようとした。
「ぼくは北の村のビンクという者です」ビンクは急いで言った。「一日じゅう旅をしてきたんですが、地面が割れていて先へ進めないんです。ひとばん泊るところがほしいんです。ご好意には相応のお礼をいたします。体はじょうぶですから、薪割りとか、干草積みとか、岩運びとか――」
「そんな仕事じゃ魔法はいらないじゃないか」
「魔法じゃありません! ぼくのこの手でやります。ぼくは――」
「おまえさんが生霊じゃないって、どうしてわかる?」
ビンクはひるみながら、左手を持ちあげた。「突ついてみてください。血が流れます」夜行性の超自然的な産物は、昨今は生きものを食べていないかぎり、血は一滴もないから、それは適切なテストだった。たとえ生きものを食べていたとしても、流れるほどの血は出ない。
「おい、マーサ」家の中から男のしわがれ声が聞こえた。「ここ十年間、このへんに生霊が現われたことはないし、どっちみち、生霊は害はない。入れてあげなさい。ものを食ったら、その男は人間だ」
「人食い鬼はものを食べるわ」女はつぶやいた。それでもドアを広く開けて、ビンクを中に入れてくれた。
家の中には番犬がいた。正確にはオオカミ人間だ。農夫夫婦の子供だろう。ビンクの知るかぎりでは、本物のオオカミ憑きはいない。たいていが人間で、オオカミに変身する力が発達しているだけだ。そういう取り替え子が次第にふえてきているらしい。この子は大きな頭と、やや平たい顔の、典型的なタイプだ。本物のオオカミ憑きは、変身するまで、犬と見分けがつかない。変身してしまうと、残忍になる。ビンクは手を伸ばし、オオカミ人間が匂いをかぐままにしたあと、その頭を軽くたたいてやった。
オオカミ人間は八歳ぐらいの男の子に変わった。「びっくりした?」
「肝がつぶれたよ」ビンクは調子を合わせた。
男の子は父親の方を向いた。「とうちゃん、このひと、だいじょうぶだよ。魔法の匂いはぜんぜんしない」
「それが悩みの種なんだ」ビンクは低い声で言った。「魔法の力がありさえすれば、旅をしなくてもすむんだが。でも、さっき申しあげたとおりです。力仕事ならりっぱにやれます」
「魔法の力がないって?」
ビンクがおかみさんに湯気のたつシチューを鉢についでもらっているとき、男が訊いた。三十代半ばぐらいの、おかみさんと同じぐらい不器量な顔だちだが、くちもとと目もとに笑いじわがある。細身だがたくましそうだ。きびしい肉体労働は、男を鍛えあげるものだ。
「たった一日で、北の村からここまで、どうやって来られたんだね?」
「レディ・セントールが乗せてくれたんです」
「おてんば娘だ! きっとそうだ! その娘が跳びあがったとき、どこにつかまったね?」
ビンクはしおれた微笑を見せた。「あの、もう一度そんなことしたら、溝の中に放り落とすと言われました」
「ハ、ハ、ハ」農夫はロバのように笑った。あまり教養はなさそうだが、素朴なユーモアのセンスはあるようだ。ビンクは不器量なおかみさんが笑っていないのに気づいた。男の子はわけがわからないといった顔で、じっとビンクをみつめている。
農夫は取引きをはじめた。「いいかね、今のところ、力仕事は必要ない。けど、おれは次の査問会に出席しなきゃならんのだが、行きたくない。女房が心配してるんだ。わかるな?」
ビンクにはわからなかったが、うなずいた。おかみさんが苦笑しながらうなずいている。いったいなんの話だろう?
「一夜の宿の礼を返したいんなら、おれの代わりに会に出てくれりゃいい。一時間もかかりゃしないし、調査人の言うことに賛成するだけで、なにもしなくていいんだ。のんきな仕事さね。それに旅人のあんたにとっても、楽でいいだろ。きれいな若いのの相手を――」農夫はおかみさんにきびしい目でにらまれ、次のことばをのみこんだ。「どうかね?」
「できることでしたら、なんでも」ビンクは心もとなさそうに答えた。きれいな若いのの相手とは、いったいなんだろう? おかみさんの目の前では、訊きただせないようだ。サブリナは反対するだろうか?
「よかった! 納屋に干草があるし、外に出なくてすむようにバケツもある。ただし、あんまりいびきはかかんでくれよ。女房がいやがるんでね」
このおかみさんには、きらいなものがたくさんあるらしい。こんな女とどうして結婚する気になれるんだろう? サブリナも、結婚したら口やかましくなるんだろうか? そう思うとビンクはゆううつになった。「いびきはかきません」シチューはたいしておいしくはないが、量はたっぷりある。旅をつづけるには良い食物だ。
ビンクは干草に埋もれ、オオカミが丸くなっている傍で、ぐっすり眠った。バケツを使わなくてはならず、それにはフタがないためひとばんじゅう悪臭がしたが、魔法の横行する夜の闇の中に出ていくより、はるかにましだった。シチューは一口目は抵抗があったが、二口目からは腹におさまった。ビンクにはなんの不満もなかった。
翌日の朝食は、火を使わずに温めたオートミルだった。これはおかみさんの魔法の力で、農家では重宝なものだ。食事のあと、ビンクは査問会に出席するため、大地の裂け目に沿って一マイルほどくだった隣家に行った。
調査人は大柄な、はったりをきかせる男で、ものごとにひどく熱中すると、頭の上に小さな雲を浮かべた。「なにか聞いているのか?」ビンクの説明を聞くと、調査人が尋ねた。
「いいえ。どうすればいいかおっしゃってください」
「よろしい! ちょっとした芝居をやるんだ。誰の評判もそこなわずに、騒ぎを丸くおさめるためにな。おれたちは魔法まがいとよんでいる。言っとくがな、本当の魔法は使っちゃいかんぞ」
「わかりました」
「おまえさんはおれが尋ねることに賛成してればいい。それだけだ」
ビンクは心配になってきた。「うそはつけないんですけど」
「厳密に言えば、こいつはうそじゃない。れっきとしたわけがあるんだ。そのうちわかる。北の村でやってないとは驚いたな」
ビンクは不愉快そうに黙っていた。不快なことに巻きこまれないのを祈るばかりだ。
他の人たちがやってきた。男がふたりと、若い女が三人。男たちはふたりともごく平凡な、ひげをはやした農夫で、ひとりは若く、もうひとりは中年だ。娘三人は、ふつうから美人まで、三人三様だった。ビンクはじっとみつめたりしないように、いちばんきれいな娘から、無理に目をそらせた。その娘はあだっぽく、はっとするような黒髪の美人で、このへんでは泥の中のダイヤモンドという感じだ。
「それではテーブルをはさんで、向かいあわせにすわってください」調査人がよそゆきの声音で言った。「判定人が来たときは、わたしが話をする。言っておくが、これは芝居だ。それも極秘の。秘密を守るために、宣誓させられたら、ここを出たあとは絶対になにもしゃべってはいかん。わかったね?」
全員、うなずいた。ビンクはますます落ち着かなくなった。きれいで若いのの相手をする、というのはわかったが、あとで口外することが許されないような、どんな芝居をするのかは、さっぱりわからない。まあ、いい。どうせ、これも一種の魔法なのだろうから。
テーブルの一方に男三人が一列に並んですわり、その反対側に女三人がすわった。ビンクの向かいは例の美人だ。テーブルの幅が狭いため、美人の膝とビンクの膝が軽く触れた。絹のようにすべすべした感触に、ビンクの足がひきつった。サブリナのことを忘れるな! ビンクは自分に言い聞かせた。ふだんはきれいな顔に心を動かされることはないのだが、この娘の顔はきれいなんてものじゃない。薄いセーターを着ていても、なんの役にも立たない。なんという体つきだろう!
判定人が入ってきた。みごとな太鼓腹とほおひげをもった、かっぷくのいい男だ。
「全員、起立」調査人が言った。
テーブルの一端に判定人が座を占めると、調査人はその向かい側の端に行った。全員着席する。
「あなたたち三人の婦人は、この査問会において、いつ、いかなるときも真実のみを告げ、決して口外しないと誓いますか?」調査人が尋ねた。
「はい、誓います」娘たちは声をそろえて答えた。
「そして、あなたたち男性も、同様に誓いますか?」
「はい、誓います」ビンクは他のふたりとともに答えた。たとえこの場でうそをついたとしても、決して口外しないのなら、本当はうそをついたことにならないのではないだろうか? おそらく調査人は、なにが真実で、なにが偽りか知っていて、その結果――
「では、ただいまより強姦申し立て事件の査問会を開きます」調査人が告げた。ビンクはショックを受け、ろうばいを表わすまいと努力した。この人たちは強姦を実演するつもりなのか?
「本会の出席者の中に、強姦されたと申し立てている女性と、被告発者である男性がいます。男性は関係の事実は認めていますが、合意のうえであると主張しています。まちがいありませんか、男性諸君?」調査人は尋ねた。
ビンクは他のふたりといっしょに、力をこめてうなずいた。兄弟よ! 一夜の宿の礼には、薪割りの方がましだったのに。こんなところで、知りもしない強姦事件について、うそをついているなんて。
「当事者の名誉を守るために、本会は匿名のまま進めます。村全体に通知することなく、第一人者の面前で、助言となる意見を得たいがためです」調査人は言った。
ビンクはようやく合点がいった。強姦された娘は、自分自身の過失ではないにしても、つらい思いをすることになる。たったそれだけの理由で、多くの男はその娘との結婚を拒むだろう。つまり、裁判で勝っても、未来を失うことになる。明白に強姦の罪を犯した男は追放されるし、強姦の告発を受けた男は、疑惑のまなざしで見られ、将来もややこしくなる。これは確かに、魔法の力がないのと同じぐらい、深刻な問題だ。ビンクはむっつりとそう考えた。どちら側も公けの裁判で明かるみに出したくない場合、真実を知るのは、きわめて微妙な問題となる。勝つにしろ、負けるにしろ、当人の名誉はいちじるしく傷つけられる。しかし、裁判がなければ、正義はどうなるか? そのかわりが、この極秘の、半ば匿名の査問会だ。それで十分なのだろうか?
「女性の申し立てによりますと、その女性は地面の裂け目の側を歩いていた」調査人はメモに目を走らせながら言った。「男が背後からきて、彼女に抱きつき、強姦した。そうですね、女性諸君?」
三人の女はうなずいた。三人とも苦痛と怒りの色を浮かべている。激しく頭を振った勢いで、ビンクの向かいの娘の膝が揺れ、ビンクはまた足がひきつるのを感じた。なんて女だ、なんて芝居だ!
「男の申し立てによりますと、男が立っているところに女が来て、誘いをかけたので、応じた。そうですね、男性諸君?」
他のふたりといっしょに、ビンクもうなずいた。ビンクは男の側が勝てばいいと思った。ひどく神経の疲れる仕事だ。
今度は判定人が口を開いた。「人家に近い場所でしたか?」
「約百フィートほど離れた場所です」調査人が答えた。
「ではなぜ、女性は大声を出さなかったのですか?」
「声を立てたら、崖からつき落とすとおどされたからです。彼女は恐怖のあまり、身がすくんでしまったのです。そうですね、女性諸君?」
娘たちはうなずいた。瞬間、三人とも恐怖の色を浮かべて。ビンクは三人のうち、どの娘が強姦されたのだろうと考えた。そして、あわててその考えを訂正した。どの娘が告発したのだろう? 向かい側の娘でなければいいが。
「その事件以前に、ふたりは知りあいでしたか?」
「はい、閣下」
「そうすると、その女性がその男性をきらいなら、最初からその男性を避けたでしょう。そして、もし女性が男性を信頼していれば、男性が力づくの行為に出る必要はなかったものと思います。この村のように狭い社会では、住人はおたがいのことをよく知っており、本当に思いがけないことは、めったにないものです。これは結論ではありませんが、当の女性が当の男性と接するのを、ひどく嫌悪していなかったというのは、強力な示唆となります。女性が男性を誘惑しておいて、あとで後悔したのかもしれません。もし本件が公式の裁きの場に持ちこまれていれば、真実の不確さゆえに、告発された男性は無罪と判明するものと思います」
男三人は緊張をといた。ビンクは額が汗でぬれているのに気づいた。判定人の、いかにもありえそうな決定を聞いているうちに、汗ばんできたのだ。
「今の判定人の仮説を聞きましたね。あなたがた女性は、本件を公けの裁判にかけたいと思いますか?」調査人が尋ねた。
顔をしかめ、裏切られた表情で、三人の娘たちはくびを横に振った。ビンクは自分の向かい側の娘をかわいそうに思った。彼女が人目をひくのは、どうしようもないではないか。彼女は、強――いや、愛すべき対象以外のなにものでもない。
「では終わります。忘れないように。決して口外しないこと。でなければ、法廷侮辱罪で本当の裁判を開くことになります」調査人の警告は不必要のようだ。娘たちがこんな話をするはずがない。罪ある、ではない、潔白な男も口を閉ざすだろう。ビンク自身はさっさと村を出ていきたいだけだ。残りのひとりの男はしゃべりたいだろうが、ひとことでも洩らせば、他の者たちに誰がしゃべったかわかってしまう。全員が沈黙を守るだろう。
とにかく終わった。ビンクは立ちあがり、他の人たちと外に出た。予定より短い時間しかかからなかったから、時間はたっぷりある。昨夜、泊めてもらったおかげで、ゆっくり休めた。あとは地面の裂け目を渡り、よき魔法使いの城へ行く道をさがすことだ。
調査人が姿を現わしたので、ビンクは近づいていった。
「ここから南へ向かう道があるかどうか、ごぞんじですか?」
「おまえさん、裂け目を渡ろうったって、できないよ」調査人は頭の上に小さな雲を浮かべ、きっぱり言った。「空を飛べるってんならべつだが」
「歩いていきます」
「道はあるけど、谷ドラゴンが……。おまえさんはいい若者だ。若くて顔だちもいい。査問会ではちゃんと務めを果たしてくれた。危いことはやめな」
まったく、どうして誰もかれも、こう子供あつかいするんだろう! れっきとした、強力で、個性的な魔法の力がありさえすれば、ザンスの見方だと、一人前の男なのに。
「危いことをしなくちゃならないんです」
調査人はため息をついた。「そうか、それじゃ、もうなにも言うことはないな。わしはおまえさんのおやじじゃないし」調査人は判定人に負けないぐらいみごとな腹をへこまし、一瞬、自分の頭上の雲をみつめた。雲は一、二滴、涙をこぼした。ビンクはまた、胸の中でたじろいだ。
「だが、ちょっと入り組んだ道なんだ。ウィンに案内させた方がよかろう」
「ウィン?」
「おまえさんの相手さ。おまえさんがもう少しで手ごめにするところだった娘だよ」調査人はにやりと笑うと、手で合図を送った。頭上の雲は消えてしまった。「おまえさんを責めてるわけじゃないよ」
調査人の合図に応え、娘がやってきた。
「ウィン、この青年を裂け目の南の斜面まで案内してやってくれ。ドラゴンには十分気をつけてな」
「いいわよ」ウィンはほほえんだ。微笑はウィンの美貌になにも加えなかった。不可能だからだ。だが、なにかを加えようとはした。
ビンクとしては複雑な心境だ。あんな査問会のあとで、彼女は誘惑しようと……。
調査人はビンクの心を見ぬいたようだ。「心配しなさんな。ウィンはうそをつかないし、意見を変えもしない。むつかしいかもしれんが、おまえさんが礼儀正しくふるまえば、なんの問題もなかろうよ」
困惑しながらも、ビンクは娘に案内してもらうことにした。ウィンに裂け目を渡る安全な早道を教えてもらえれば、なんなく先に進めるだろう。
ビンクとウィンは太陽の光を顔に受けながら、東へ向かった。
「遠いんですか?」ビンクはまだ複雑なぎごちない思いにとらわれている。こんなところをサブリナに見られたら!
「そんなに遠くないわ」ウィンの声はやわらかで、ビンクは思わずぞくりとした。魔法かもしれない。ビンクはそうであってほしかった。美人だというだけで、あっさり理性を失うような自分だとは、思いたくないからだ。この娘のことはなにも知らないんだ!
しばらくのあいだ、ふたりは黙って歩きつづけた。ビンクはもう一度話しかけた。
「きみ、どんな力があるの?」
ウィンはぽかんとビンクを見た。
やれやれ。あの査問会のあとのことだ。変なふうに受け取られてもしかたがない。ビンクはもっとはっきり訊いた。「魔法の力だよ。きみにできること。まじないとか……」
ウィンはあいまいに肩をすくめた。
この娘はなんだ? 美人だが、いくぶん頭が弱いみたいだ。
「ここが好き?」
ウィンはふたたび肩をすくめた。
これでビンクも納得がいった。ウィンは美しいが、愚かなのだ。もっと悪い。ある男をさらし物にしてしまえるぐらいだ。調査人がウィンのことを心配しなかったのはもっともだ。たいして役に立たないのだから。
また黙って歩く。曲がり角をまがったとたん、キノコをかじっているウサギにつまずきそうになった。仰天したウサギは、まっすぐ空中に跳びあがり、そのまま空中に浮いて、ビンクの鼻をひくひく震わせた。
ビンクは笑った。「おどかす気はなかったんだよ、魔法のウサギくん」
ウィンはほほえんだ。
ふたりは空中のウサギの下を通った。しかし、このエピソードは、それ自体はとるに足りないことだが、ビンクにおなじみの疑問を思い出させた。ありふれた家ウサギに空中浮揚の力があるのに、なぜ、ビンクには魔法の力がないのだろう? まったく公平じゃない。
そのとき、きれいな旋律が聞こえてきて、ビンクの思考を断ち切った。ビンクがあたりを見まわすと、琴ドリがその弦をかなでていた。琴ドリの旋律は偽りの喜びを森いっぱいに満たしていく。
ビンクはなにか話さずにはいられなくなった。「ぼくは魔法の力がないために、子供の頃、しょっちゅういじめられた」ウィンに理解できるかどうかは気にしていない。「かけっこではいつも負けた。みんなは空を飛んだり、ぼくの行く手に壁を立てたり、木を通りぬけたり、ある地点からある地点までひょいと跳び越えたりできたんだ」ビンクはセントールのチェリーにも同じようなことを話した。同じ溝にはまりこんでしまうのは情ないけれど、心の中のわけのわからない部分が、何度もくり返し同じ話をすれば、痛みが和らぐ方法がみつかると、信じきっているらしい。「また、ある子がまじないをかけると、その行く手は下り坂になるのに、ぼくは地形どおりに走らなければならなかった」あらゆる屈辱を思い出し、ビンクは絶句しそうになった。
「いっしょに行っていい?」突然、ウィンが尋ねた。
おやおや。ウィンはビンクが果てしなく話をして、楽しませてくれると思ったようだ。旅の別の困難など、少しも頭に浮かばないのだ。数マイルも行けば、ウィンの美しい姿態は、難行苦行に向いていないのだから、疲れきってしまい、ビンクが運ぶはめになるだろう。
「ウィン、ぼくは魔法使いハンフリーに会いに、長い旅をしてるんだ。いっしょに来たいわけがないさ」
「だめ?」ウィンのすばらしい顔がくもった。あの強姦事件の査問会の印象と、誤解の可能性の用心とを考慮して、ビンクはていねいに話してきかせた。ちょうど、大地の裂け目の下方に向かう、曲がりくねった道にさしかかったところだ。その道はざわめき草の茂みと、若い捕《と》り根木のあいだを縫っている。ビンクは先に立ち、杖で支えて、もしウィンが足を捕《と》られて倒れたときは、つかまえられる体勢をとった。ひょいと見あげると、ウィンのみごとな腿がちらりと目にとびこんできた。ウィンの体はどこをとっても、完璧に造られているようだ。ただ、頭脳だけ、忘れられたのだ。
「危険なんだ。悪い魔法がたくさんある。ぼくはひとりで行くよ」
「ひとりで?」ウィンはたくみに道を降りながら、困惑したように言った。ウィンのバランス感覚はたいしたものだ! ビンクはウィンのみごとな脚が、登りにも歩きにも向くとわかり、少しばかり驚いた。
「あたし、助けがいるの。魔法の」
「魔法使いは、一年間の奉仕を求めるよ。きみ、きっと代償を払う気にならないと思う」
よき魔法使いは男だし、ウィンには、使いものになるコインは一枚きりしかない。彼女の中身に関心をもつ者はいないだろう。
ウィンは当惑の目でビンクを見た。そして急に明かるい顔になると、その場にまっすぐ立った。
「あなた、代償がほしい?」ドレスの前に片手を置く。
「いらない!」ビンクは大声を出した。もう少しで急斜面からころがり落ちるほどだった。眼前にありありと、査問会再会の光景と別の判定が浮かんでくる。この白痴美人を誘惑しなかったと言っても、誰が信じてくれるだろうか? もしこれ以上、ウィンが体をあらわにしたら――「いらない!」ビンクは彼女にというより、むしろ自分に、くり返し拒絶のことばを告げた。
「でも――」ウィンの顔がまたくもった。
ビンクは他に注意を惹きつけられ、救われた。もう裂け目の底近くまで来ており、向う側に、比較的ゆるやかな南の斜面が見えたからだ。あれを登るのはわけない。ビンクがウィンにもう帰っていいと言おうとしたとき、ひきずるような、不気味な音が聞こえた。くり返し聞こえる。正確に説明できない、大きな、ぞっとするような音。
「あれ、なんだ?」ビンクは不安そうに訊いた。
ウィンははっきり聞こえているのに、わざわざ耳に手のひらをくぼませてあてがい、聞き耳をたてた。体のバランスがくずれ、足がかりを失って、ウィンは斜面をすべり落ちそうになった。ビンクはとびあがってウィンをつかまえ、そっと裂け目の底におろしてやった。なんという抱きごこち。ウィンのたぐいまれな肢体は、やわらかで、しなやかで、ほっそりしていた。
ビンクが立ちあがったウィンのうしろにおりると、ウィンはかすかに乱れた髪をなでつけながら、ビンクの方を向いた。
「谷ドラゴンよ」
一瞬、ビンクはとまどった。だがすぐに、ウィンに質問したことを思い出した。知性豊かとはいえないウィンは、一途に質問に答えてくれたのだ。
「獰猛かい?」
「ええ」
ウィンは自分から進んで教えてくれるほど、賢くない。そしてビンクは、今の答を聞くまでは、なにか質問してみようとは考えなかった。あれほどまじまじとウィンを見ていなかったら、あるいは――いや、男なら、見ずにいられるだろうか?
西から、すでに怪物が近づいてきている。地面に低く、煙を出している頭がある。大きい。とても大きい。
「走れ!」ビンクはどなった。
ウィンは走り出した。まっすぐ前方、裂け目の奥に向かって。
「ちがう!」ビンクは必死でウィンを追った。ウィンの腕をつかみ、くるりとこちらを向かせる。ウィンの髪がはらりと揺れ、顔のまわりを黒い雲のようにとりまく。
「代償がほしいの?」ウィンが尋ねた。
なんてことだ! 「あっちに走れ!」ビンクはいちばん手近な逃げ道の、北の斜面に向けて、ウィンの背を押した。ドラゴンが斜面に強くないことを祈るばかりだ。
ウィンはビンクのことばに従い、すばやく北の斜面目がけて走った。
しかし、谷ドラゴンはウィンの動きを正確にとらえ、ぎらつく目で彼女を追った。そして、ウィンの行く手をさえぎろうと、急に向きを変えた。ビンクはこれではウィンが道に着くのにまにあわないとみてとった。谷ドラゴンは、セントールの駈け足並みの速度で、すごい音をたてながら進んでいる。
ビンクはまたウィンのあとを追いかけ、追いつくと、半分突きとばすように南に押しやった。この絶望的な瞬間でさえ、ウィンの体はしなやかで、ビンクの心を悩ます魅力を発散させている。
「あっちだ!」ビンクは叫んだ。「つかまるぞ!」ビンクは死が迫っているというのに、決断を変更したりして、ウィン同様愚かしい行動をしている。
なんとかして、谷ドラゴンの注意をそらさなければならない。
「おい、大鼻ならし!」ビンクは激しく両腕を振りながらどなった。「こっちを見ろ!」
ドラゴンはビンクを見た。ウィンも見た。
「あんたはいいんだ!」ビンクはウィンにどなった。「行け。裂け目から出るんだ!」
ウィンはまた走り出した。どんなに愚かでも、この場の危険ぐらい理解できよう。
今やドラゴンの関心はビンクに向けられている。ドラゴンはふたたび向きを変え、どんどん進んできた。長い、くねくねした胴体に、ずんぐりした脚が三組。その脚が一度に数フィートすべり、すごい音をたてて胴体を運んでいる。動作はぎごちないが、びっくりするほどスピードが速い。
走るなら今だ! ビンクは裂け目の底を一目散に西に走った。北の斜面への方向はドラゴンがふさいでいるし、ウィンのいる方に怪物を誘導したくない。ドラゴンの驚くべきすばやさを考えれば、ビンクの速度などたかがしれている。ドラゴンの速さは魔法の力のせいだ。結局、魔法の生きものなのだ。
すると、存在自体が魔法的ならば、そのものには魔法の力と知性との両方はない、というビンクの説はどうなるのだろう? その説が正しければ、ドラゴンはそれほど利口ではないということになる。そうであればいい。裏をかいてやろうとするなら、利口なドラゴンより、のろまなやつの方がいい。特に生命がかかっている場合は。
で、ビンクは走った――が、この方針では望みがないと悟った。ここはドラゴンの猟場であり、そのために人々は裂け目を歩いて渡らないようにしている。魔法の力でできた大地の裂け目に、危険が伴わないはずがないと承知しておくべきだった。誰か、あるいは、なにかは、北部ザンスから南部ザンスへ、人を自由に行き来させたくないのだ。ことにビンクのように、魔法の力のない人間は。
ビンクは息切れがしてきて、横腹が痛くなってきた。ドラゴンの速度をみくびっていたようだ。ドラゴンはビンクより少し速いどころか、話にならないぐらい速い。ドラゴンの巨大な頭が先を越し、ものすごい鼻息を吹きつけてくる。
ビンクはドラゴンが鼻から出す蒸気を吸いこんでしまった。懸念したほど熱くなく、木のこげた匂いがする程度だ。しかし、決して気持のいいものではない。息がつまり、むせた。その拍子に石につまずいてころんだ。手から杖がとんだ。気の狂いそうな致命的な一瞬!
ドラゴンは急停止できずに、ビンクを追い越してしまった。倒れるには胴体が長すぎるうえに、背が低すぎる。金属質の体は勢いよく突進しつづけ、惰性の力で頭がはるかかなたに運ばれていく。ドラゴンの速度に魔法の力がかかっているとすれば、それをとめる力はない。ささやかな恵みには、それだけの価値しかない。
ビンクはころんだ拍子に、一瞬、息がつまった。その前から呼吸が苦しくなっていた。ころんだ瞬間は、さらに息苦しく、逃げることさえ考えられなかったぐらいだ。倒れているあいだ、実際上は無力状態でいたあいだに、ドラゴンの中央の脚が迫ってきて――ビンクのすぐ傍でとまった。一組の脚はくびきでつながれているようにいっしょに動き、ドラゴンの重い体が持ちあがり、前に進んでくる。ころがって逃げる暇もない。つぶされる!
と、がっちりした右脚のかぎ爪が、ビンクがつまずいた石の上にまともにぶちあたった。見かけよりずっと大きな石で、ビンクはその石のとんがりにつまずいて、とがっていない方の側に倒れた。つまり、浸食された側溝のようなところにのびて[#「のびて」に傍点]いたのだ。ドラゴンの三本のかぎ爪は石のせいで、バラバラに広がった。一本はビンクの右に、一本は左に、まん中の一本はビンクを通りこしてそれてしまい、地面に触れもしない。一本の脚にドラゴンの一トンの重量がかかっているのだろうが、そのどれも、ビンクをかすりもしなかった。まったくの偶然の幸運だ!
ようやくビンクが息をつけるようになったとき、ドラゴンは再度踏みつけようと、右脚をいったん退いていた。もし、ビンクが脇にころがって逃げていたら、かぎ爪のどれかにつかまって、つぶされていただろう。
しかし、一度の奇跡的な幸運で、ビンクの危機が去ったわけではない。ドラゴンは体をねじらせてビンクをみつけ、長い上体をくねらせた。信じられないほど柔軟で、きついUターンが苦もなくできる。安全な距離にいたなら、ビンクもこの特技に感嘆しただろう。ビンクがどこに身を隠そうと、必要ならばヘビのように、結び目ができるほど体をよじらせることができそうだ。くねくねしているのも不思議はない。この怪物には固い背骨がないのだから。
むだとは知りつつ、それでもビンクは逃げようとした。木の幹の太さの尻尾の下を駆けぬける。ドラゴンの頭が追いかけてきて、目も鼻もぴったりと、ビンクの動きと匂いを追っている。
ビンクはくるりと向きを変え、尻尾の上に飛びあがった。とたんに、足がふらつき、思わずドラゴンのウロコにつかまった。運がよかった。ある種のドラゴンのウロコは、ふちがぎざぎざにとがっており、それに触れようものなら肉がずたずたに裂けてしまう。ところが、この谷ドラゴンのウロコは、丸かった。しかとはわからないが、たぶん、こんな裂け目の中で生き残るための特性なのだろう。鋭いウロコだともの[#「もの」に傍点]にひっかかって、地面をはいずる怪物の速度が遅くなるのだろうか?
ビンクはドラゴンの尻尾の上でころんだ。ドラゴンの頭がゆっくり近づいてくる。今度は蒸気を吹きかけてこない。自分の肉を熱するのはいやなのだろう。ネコがネズミをもてあそぶように、ドラゴンは獲物をいたぶって食うのが好きだ。ビンクはネコ憑きがそうしているのは、まだ見たことはないが、本物のネコはネズミをいたぶる。もっとも、最近ではある理由のために[#「ある理由のために」に傍点]、ネコもネズミも数が少なくなっているが。
しかし今はよけいなことを考えている余裕はない。嬉々として追いかけてくるドラゴンの頭を、その胴体にくぐらせて、実際に結び目を作ることはできないだろうか? まさかとは思うが、とにかくやってみるべきだ。のみこまれてしまうより、やってみる方がましだ。
ビンクはさっきつまずいた石のところにもどった。石の位置が変わっている。ドラゴンの重味で、石が動いたのだ。その跡がぽっかりあいている。深く暗い穴だ。
地面の穴なんて好きじゃない。なにが潜んでいるかわからない。ニッケルノミ、毒シラミ、輪虫、カイカイ泥――ウーッ! とはいえ、谷ドラゴンがとぐろを巻くこの場所で、他に選択の余地はない。ビンクは足から穴にとびこんだ。
ビンクの重味で穴底の土がくずれたが、たいしたことはない。腿まで土に埋まって、そこでとまった。
ドラゴンはビンクが逃げようとしているのを見ると、どっと熱い蒸気を吹きかけた。しかし、これも焼けつくように熱いものではなく、温い程度だ。しょせん、こいつは火を吹くドラゴンではなく、火吹きまがい[#「まがい」に傍点]のドラゴンにすぎない。もっとも、そのちがいがわかるほど、傍に寄ってみるもの好きは少ないが。ビンクは温い霧の洗礼を受け、体じゅうがぬれた。まわりの乾いた土が泥に変わった。と思うと、土に埋まっていた体が動きはじめた。下へ。
ドラゴンが襲ってきた――ビンクは、むなしく歯を鳴らしているドラゴンの口をのがれ、ズボッという音とともに、急に下に落ちた。二フィートほど落ちて、固い岩の上でとまった。足が痛む。特にねじった足首が痛いが、けがはない。ビンクはひょいと頭を下げた。まっ暗だ。たて穴の中にいるらしい。
幸運だった! だが、まだ安全ではない。ドラゴンがかぎ爪で地面をひっかき、土や石の大きな塊を掘り出し、蒸気を吹きこんでは泥を雨のように降らせてくる。たて穴の床に泥の塊がべちゃべちゃはねる。穴の口が広がり、少し明かるくなってきた。もうすぐドラゴンが頭を突っこめるぐらい広くなるだろう。ビンクの死は延期になったにすぎない。
用心するに越したことはない。ビンクは足を踏み出し、両手を前で交差させ、腕を水平に組んで突き出した。壁にぶつかっても、腕にあざができるだけだ。ドラゴンの歯で砕かれるより、あざの方がずっとましだ。
壁にはぶつからなかった。かわりに、泥につるりと足をすべらせた。ばったりとうつぶせに倒れる。水だ。ドラゴンの蒸気ではなく、本物の水が、ちょろちょろと流れている。
流れている? どこへ? 当然、地下の川に決まっている! これで急に地面に深い裂け目ができた説明がつく。地下の川は何世紀ものあいだ、えんえんと地層をうがちつづけ、そしてある日突然、地面が陥没して裂け目ができた。自然のくぼみだ。そして今、川はふたたび流れはじめた。しかし、流れはゆるやかだとはかぎらないし、空気が流通しているかどうかも確かではないから、いきなり川にとびこんだら、きっと溺れてしまうだろう。たとえ泳ぎが達者だとしても、川の怪物、特に暗く冷たい水中によくいる危険な怪物に食われてしまうかもしれない。
ビンクはたて穴の斜面をはい登り、上に通じる枝道をみつけ、できるだけ急いで進んだ。まもなく頭上から一条の光がさしてきた。助かった!
助かった? まだドラゴンは待ち伏せしていた。ドラゴンがいなくなるまでは、外にはい出すわけにはいかない。あの食肉獣が、この穴を掘り広げないことを祈りながら、じっと待つしかない。ビンクはなるべく泥をかぶらないように気をつけて、その場にしゃがみこんだ。
ドラゴンが穴を掘る音が次第に弱まってきて、すっかりやんだ。静かだ。だがビンクはだまされない。だいたい、ドラゴンというやつは待ち伏せて急襲するのが得意なのだ。少なくとも地表にいるドラゴンはそうだ。彼らは動くときは速く動けるが、長くはつづかない。たとえば、ドラゴンが鹿を追いかけて成功したためしはない。たとえ鹿に逃げる魔法の力がなくても、だ。しかし、ドラゴンはおそろしく気長に待てる。ビンクとしては、穴の上の谷ドラゴンが完全に立ち去る音を聞くまでは、じっと穴の中にいるよりしかたがない。
不愉快な冷たい泥と、暗闇と、ドラゴンに吹きかけられた蒸気でぬれた体とをがまんして、長く待つことになる。そのうえ、本当にドラゴンがまだ上にいるのかどうか、はっきりしたことはわからないときている。なんの意味もないこともありうる。ドラゴンは蒸気を吐き散らしながら、静かに――その気になればいくらでも静かにできる――退却してしまい、どこかよそで狩りをしているかもしれない。
いや! それこそ敵の思うつぼだ。ビンクは気配を悟られてはいけないと、穴をはいあがることはもちろん、身動きすらしなかった。こう静かなのは、理由がある。やつは耳をすましているのだ。ドラゴンは五感が非常にすぐれている。たぶん、だからこそ荒野でいちばん知られており、恐れられているのだろう。穴の口からビンクの匂いが流れ出ているのは確かだ。ドラゴンが絶好の位置にいるのはまちがいあるまい。わざわざ穴を掘り返すまでもない。嗅覚か聴覚で獲物が中にいるとわかるのだから。
身動きもせず、じっとすわっていると、寒くなってきた。夏だというのに。ザンスでは冬でさえ寒くてたまらないということはない。というのも、多くの植物に、保温や、地域の天候コントロール、さまざまな緩和テクニックなどの魔法の力があるからだ。けれど地面の裂け目の底には、植物はほとんど生えていないし、陽の光もとどかず、冷たい空気がたまりがちだ。激しい活動のほてりがさめるのにしばらくかかったが、もう今は体が震えてきている。がたがた身震いが出るのを抑えきれない。足が痛み、けいれんが起きだした。なおそのうえに、喉がむずむずしてきた。風邪をひきかけているようだ。現在の不快な状態では、風邪を治すにもどうしようもないし、村の医者に治療のまじないを頼みに行くこともできない。
ビンクは他のことを考えて気をまぎらそうとしたが、どうしても、みじめな子供時代のさまざまな屈辱の思い出や、魔法の力がないばかりに、サブリナのようにきれいな娘といっしょになれないゆううつさなどが、心に浮かんでくる。きれいな娘という考えで、ビンクはウィンのことを思い出した。ウィンのようにとびぬけた容貌と肢体の女に反応しないようでは、人間の男とは言えまい! けれどあの娘は底ぬけに愚かだった。とにかく、ビンクはもう婚約している。ウィンのことを考える筋合いではない。気をまぎらす努力のタネもつきた。心静かにしておく方が無難だ。
そのとき、ビンクはなにかただならぬ気配に気づいた。かなり長いあいだ、その気配がただよっていたのだが、ビンクが他に意識を集中していたため、自覚できなかったらしい。半端に終わった気をまぎらす努力も、なんらかの役に立ったということか。
どこか神経にさわる、潜在意識に訴えてくる気配だ。ちらちらする光に似ている。その方を直視すると、それは消えてしまうが、視野の周辺には、はっきり存在している。なんだろう? なにか自然のものか、それとも、魔法のものだろうか? 邪気のないものか、邪気あるものか? ようやくわかった。亡霊だ! 半ば生きている霊、あるいは、なにか心残りのある死者は、そのまちがいが正されるか、恨みが晴らされるかするまで、影と夜の世界をさまようさだめとなっている。亡霊たちは、ふつう日中は外に出られず、光の中に入りこめず、人の集まる場所に侵入できないため、平凡な環境の平凡な人々には、なんの脅威ともならないのだ。亡霊はそれぞれが息をひきとった場所に縛られる。ずっと昔、父親のローランドがビンクにこう言った。「もし亡霊に悩まされたら、離れろ」と。逃れるのは簡単だ。この方法は“亡霊離し”とよばれている。
軽率な人間がうかつにも亡霊の出没する場所近くで眠った場合には、厄介な目にあう。亡霊が生きた人間の体に入りこむには、一時間ほど時間がかかる。人間はいつでも移動できるから、亡霊から逃がれることができるわけだ。昔、ビンクの父親のローランドは、彼らしくもなく激怒したとき、うるさい侵入者を威すために気絶させ、亡霊の塚の近くに置き去りにしたことがある。その男はすぐ立ち去った。
今のビンクは気を失ってもいないし、眠ってもいないが、体を動かせば、谷ドラゴンに襲われるだろう。動かずにいれば、亡霊に取り憑かれてしまう。それは死ぬよりひどい運命だ。
なにもかも、あの美しいが頭の弱い娘を、ドラゴンから救おうとしたためだ。伝説の中では、そういう英雄は最高に粋な謝礼を受ける。しかし現実では、英雄は今のビンクのように、自分自身に救いの手が必要なようだ。そう、ザンスではこれが現実生活の正義なのだ。
ビンクはとんで逃げたいと思ったが、うしろはじめじめした土の壁だし、いずれにしてもこそとも動くわけにはいかない。たとえ音をたてずに動いたとしても、ドラゴンには聞こえてしまうだろう。前進して、亡霊をつきぬけて行くことはできるが、そうすれば、一瞬、墓場そのものの冷気に身をさらすことになる。それは以前に経験したことがある。不愉快だが、命に別状はない。けれど今回は、ドラゴンという伏兵がいる。
十分に休息したから、ドラゴンが目をさまさないうちに、先んじて走って逃げられるかもしれない。しかしドラゴンは、ぐっすり眠り、休養をとっているあいだも、耳だけは獲物に向けているにちがいない。
亡霊がビンクに触れた。ビンクは腕をぐっと引いた。さっそく頭上でドラゴンが身動きする音がした。やはり上にいるのだ! ビンクは凍りついた。またもやビンクはドラゴンの手をのがれた。ビンクまで届かなかったからだ。
ドラゴンは鼻息でビンクを吸いあげようと、穴のまわりをぐるぐるまわりはじめた。巨大な鼻が穴の口をふさぎ、もうもうと蒸気がたちこめてくる。亡霊は驚いてうしろに退がった。ドラゴンはいったん追跡をやめ、その場に腰を落ち着けた。遅かれ早かれ、獲物が力つきると知っているからだ。待つとなると、ドラゴンは人間よりはるかに徹底的に待つ。
ドラゴンはもう一度攻撃してきた。尻尾の先を穴に突っこんできた。穴の底に届きそうだ。ビンクとしては、なんとか尻尾を避けなければならない。かといって、どうすればいいのだろう? 突然、ビンクははた[#「はた」に傍点]と気づいた。ドラゴンは魔法的な存在とはいえ、とにかく生きている動物だ。亡霊がドラゴンの体内には入りこまない、という理由はない。亡霊に支配されたドラゴンなら、たぶん、隠れている人間を食べることより、他に考えることがあるだろう。垂れ下がっている尻尾と、ビンクの体のあいだに空間を作れさえすれば、亡霊がその空間に――。
ビンクはうんざりするほどのろのろと、体重のバランスを変え、一方の足を前に出そうとした。静かに静かに。けれど足を持ちあげたとたん、ずきりと痛み、ビンクはたじろいだ。ドラゴンの尻尾が動き、そのままのかっこうで、ビンクはじっとしていなければならなくなった。中腰のかっこうでは、バランスがいいとは言いがたいため、それはたいへんな努力が必要だ。ビンクの両足も足首も、まるで火にあぶられているような感じになってきた。
また亡霊がこちらにやってきた。
ビンクは倒れないように、もっと楽な姿勢をとろうと、足をもう少し前に伸ばそうとした。亡霊から離れてなければ! ふたたびビンクは激しい痛みに襲われ、ふたたびドラゴンの尻尾が揺れた。ビンクは前よりひどい状態で静止した。亡霊がぐんと接近してくる。このままではどうにもならない。
肩に亡霊が触れた。今度は痛みのためではなく、体じゅうがしびれた。バランスを失い、次に命を失うのは、もう目に見えている。亡霊に触れられた部分は、冷たいというより、ぞっとするほど寒い。とりはだがたつ。どうすればいいのだろう?
ビンクは努力して気を落ち着けた。亡霊に完全に体をのっとられるまでには、一時間かそこらはかかる。それが完了する前なら、いつでもまじないを破ることができる。ドラゴンにつかまるのは、ほんの数秒の問題だ。考えるのもぞっとするが、危機としては亡霊の方がまだましだ。少なくとも、時間がかかる。三十分ぐらいのうちには、ドラゴンはいなくなるかもしれない……。
ひょっとすると、空から月が落ちてきて、その緑色のチーズが、ドラゴンをおしつぶすかもしれない。ありえないとは言えない! ドラゴンが立ち去らなかったら、そのときはどうする? わからない。しかし、今のところ、選択の余地がない。
亡霊は容赦なくビンクの体に入りこみつつあった。肩の寒さが、胸と背中に広がってきた。亡霊にのりうつられるというのは、たいしていやな気分を感じないものだ。死者の侵入を許せるものだろうか? ビンク自身が一瞬にして、ドラゴンに亡霊に変えられないためには、しばらくのあいだ、がまんするよりしかたがない。それとも、亡霊になった方がいいだろうか? そうなれば、亡霊になったビンクが、他の人間にとりつける。
ゆっくりと亡霊の寒気が、ビンクの頭をおかしはじめた。ビンクは恐怖で体が動かせない。もはや頭を動かすこともできなくなった。恐怖が体じゅうにしみとおり、体が重くなり、沈みこみ、力がぬけていき……無気味に穏やかになっていく。
〈やすらかに〉ビンクの心に亡霊が話しかけてきた。
あのやすらぎの松の森では、眠った人間は二度と目ざめなかった。ドラゴンに聞こえてはまずいので、大声をあげて抵抗するわけにはいかない。しかしビンクは、この恐ろしい侵入者からのがれようと、必死に最後の努力をした。ドラゴンが逆襲してくる前に、尻尾の下をかいくぐり、地下の川に運を賭けてみよう。
〈いけない! 友よ、助けてあげる!〉亡霊は声を出さずに強い調子で叫んだ。
気づかないうちに、ビンクは信じはじめていた。霊というものは、実際は誠実らしい。これはまた、ドラゴンに殺されるか、地下の川で溺れ死ぬかという、二者択一の道とは、まったく違った方向だった。
〈公平な交換条件がある〉亡霊は話をつづけた。〈一時間だけ、体を貸してくれ。あんたの命を救ったら、おれは消える。おれの重荷が消えるのだ〉
亡霊の声には説得の響きがあった。しかし、どちらにしろ、ビンクは死と直面することになる。もし、亡霊が命を救ってくれるのならば、一時間、体をのっとられても、それだけの価値はある。亡霊が一度重荷をおろしてしまうと消える、というのは本当だ。
けれど、亡霊の全部が正直だとはかぎらない。たち[#「たち」に傍点]の悪い亡霊は、ときとして非常に強情で、生前の罪をつぐなわない道を選ぶ。つぐなわないどころか、死後も、新しい人格を隠れみのに、自分が支配する不幸な人間の評判をだいなしにしてしまうのだ。結局のところ、亡霊が失うものはわずかしかない。なにしろ、すでに死んでいるのだから。赦免は、単にその者を忘却のかなたに置くか、あるいは地獄の苦しみの中に置くか、ということであり、それはひとえにその者の誠意いかんにかかっている。決して完全に死なない方を選んでも不思議ではない。
〈おれの女房! おれの子供!〉亡霊は嘆願した。〈ふたりとも飢え、おれの状態を知らぬまま、嘆き悲しんでいる。おれは銀の木が生えている場所を教えてやらなければならない。その場所を探るために、おれは死んだのだから〉
銀の木! ビンクも似たような話を聞いたことがある。純銀の葉をもつ、はかりしれないほど価値のある木。というのも、銀は魔法の金属だから。銀は邪悪な魔法をよせつけず、銀で作られた甲冑は、魔法の武器をはねつける。そしてもちろん、銀は通貨としても使われる。
〈いや、それはおれの家族のためのものだ! 銀の木があれば、家族は二度と貧しい暮らしをすることはあるまい。あんたは手を出してはいけない!〉
ビンクは納得した。誠意のない亡霊なら、なんでも約束するだろう。しかしこの亡霊は、命を救うとは約束したが、銀をくれるとは約束しなかった。
〈わかった〉ビンクは心の中で言った。取り返しのつかないまちがいをしているのでなければいいと願いながら。
〈あんたの体に入りこむのが、完全に終わるまで待ってくれ〉亡霊は喜んで言った。〈おれがあんたになるまでは、助けることができないんだ〉
いつわりでなければいいが。とはいえ、実際のところ、ビンクには失うべきものがあるだろうか? そしてまた、亡霊もうそ[#「うそ」に傍点]をついて得るものがあるだろうか? ビンクを救わなければ、亡霊はビンクの体とともに、ドラゴンに食われる感覚を共有するだけの話だ。そのときは、ビンクも亡霊になる。もっとも、ビンクはきっと、怒りの亡霊になるだろうが。亡霊というものは、他の亡霊に対してなにかできるのだろうか? とにかく、ビンクは待った。
ようやく亡霊との合体が終わった。亡霊は探鉱者のドナルドといい、空を飛ぶ力があった。
「行くぞ!」ドナルドはビンクのくちびるを通して、喜び勇んだ声をはりあげた。跳びこみをするように両腕を高くあげ、岩のかけらや土くれをはねとばす勢いで、まっすぐに穴をぬけ、裂け目をぬけ、地上を目指して飛んだ。
穴の外に出ると、まぶしい日の光で目がくらんだ。谷ドラゴンはこの奇妙な出来事の真相をみきわめようとしたあと、激しく襲ってきた。しかしドナルドはそれをかわし、すばやく飛びまわったため、ドラゴンの巨大な歯はむなしく空気をかんだだけだった。ドナルドはドラゴンの鼻づらを力いっぱいけとばした。
「へん、ギザギザ歯め! これでもくらえ!」ドナルドはドラゴンの鼻のやわらかい個所を、踏みつけた。
ドラゴンはあごを開き、蒸気をわっと吐き出した。けれどドナルドはすでに、ドラゴンの攻撃の手の届かないところを飛んでいる。あまりに高すぎて、もはやドラゴンに勝ち目はなかった。
上へ、上へと、亡霊ドナルドとビンクは飛びつづけ、まっしぐらに裂け目をぬけて地上に出ると、木々や斜面の上を飛んだ。これは魔法の飛行なので、精神の集中以外に、なんの努力も必要としない。ドナルドとビンクは水平飛行にうつり、ザンスを横切って北に進んだ。
遅まきながら、ビンクは魔法の力を実感として感じることができた。他人の力だが、生まれてはじめて、ザンスの住民全員が経験していることを、ビンクもあじわっている。実演中なのだ。これでどんな感じかがわかった。
じつにすばらしい。
正午らしく、頭の真上から太陽が照りつけている。ドナルドとビンクは雲の中に飛びこんだ。ビンクは耳がおかしくなったのに気づいたが、パートナーが無意識に反応して、耳をポンと鳴らし、痛みがひどくならないうちに手当てをしてくれた。ビンクには空を飛ぶと耳が痛くなる理由はわからない。きっと空中では、聞くべき音が十分にないためだろう。
はじめてといえば、ビンクにとって、雲の形を完全に見るのもはじめてだ。下から雲を見ると、単調に見えるが、上から見ると、気まぐれに彫りこんだように優美な形をしている。地上からはちっぽけなホコリダケのように見える雲は、実際は大きな霧のかたまりだった。ドナルドはごく平静に飛んでいるが、ビンクは視界がきかないのはいやだった。なにかにぶつからないかと、心配でたまらない。
「どうして、こんなに高く飛ぶんです? 地面が見えやしない」ビンクは大げさに言った。ビンクとしては、見慣れているものが見分けられないと言うつもりだった。それに、自分が飛んでいる姿を、誰かに見てもらえたらすてきだと思った。北の村をぐるぐる飛びまわって、自分をバカにした連中をびっくりさせ、住人としての資格を見せつけてやれる……いや、それは正直なやりかたではない。悪いことに、もっとも気をそそられることは、正当な行為ではないということだ。
「おれは姿を見られたくないんだ」ドナルドが答えた。「おれが生き返ったとわかると、ものごとがややこしくなる」
ふむ、なるほど。借金を返してくれるかもしれないと、期待を新たにする者がでるだろうし、そうなれば、単に銀が減るだけではすむまい。亡霊は匿名でいる必要がある。少なくとも、人間社会に関するかぎり。
「あの光が見えるか?」ドナルドはふたつの雲のあいだを指した。「あれが銀のオークの木だ。とてもうまく隠れていて、空中からでないと場所がわからない。だがおれは息子にあの木の正確な位置を教えてやれる。そうすれば、おれはやすらかに眠れるんだ」
「どこに行けば魔法の力がみつかるか、あなたがご存知ならいいと思いますよ」ビンクは思いに沈んだ口調で言った。
「あんたにはないのかい? ザンスの住民は誰でも魔法の力をもっているもんだ」
「だから、ぼくは住民じゃないんです」ビンクはむっつり言った。ドナルドもビンクも、同じ口を使って話している。「ぼくはよき魔法使いのところに行く途中なんです。彼に助けてもらえなかったら、追放の身となるんですよ」
「気持はわかる。おれは二年間、あの穴の中に追放されていた」
「いったい、なにがあったんですか?」
「おれは銀の木をみつけ、家に飛んで帰る途中、嵐に会った。金持になることばかり考えて興奮していたから、嵐がやむのを待てなかった。無理に強い風の中を飛びつづけ、そして、あの裂け目に吹きとばされた。すごい衝撃で地面にたたきつけられたが、そのときはもう死んでいた」
「骨は見あたりませんでしたが」
「あんたは他の穴まで見ていないだろう。おれの体は土におおわれ、地下の川に流されてしまったのさ」
「ですが――」
「あんた、知らないのかい? 亡霊が縛りつけられるのは、死んだ場所で、死体のある場所じゃないんだ」
「ああ、すみません」
「おれは望みがないとわかっていながらも、がんばりつづけた。すると、あんたが来た」ドナルドはちょっと黙った。「あんたはこんなに親切にしてくれた。あんたにも銀をあげるよ。あの木には、おれの家族とあんたとが分けても十分、銀がある。ただ、あの木の場所だけは、誰にも教えないと約束してくれ」
ビンクは心を動かされたが、一瞬の迷いは消えた。「ぼくに必要なのは、魔法の力で、銀じゃない。魔法の力がないと、ぼくはザンスを追放されてしまう。そうなったら、銀を分けてもらうこともできない。魔法の力があれば、金《かね》なんかどうでもいい。だから、あなたが銀を分かちたければ、銀の木と分かちあえばいい。葉を全部取らずに、一度に少しずつ、それと、落ちた銀のドングリとを取っていれば、銀の木も元気で生きつづけ、新しい葉や実をつけることができる。長い目で見れば、その方がずっと建設的だろう」
「あんたが穴ん中に落ちてきてくれたのは、おれにとって幸運だったよ」ドナルドは体を傾けて、下降しはじめた。
下降するにつれ、また耳がおかしくなった。やがて森のあき地に着陸すると、半マイルほど歩いて、孤立した荒れ果てた農場に着いた。半マイル歩いたおかげで、ずっとつづいていたビンクの足のけいれんも、完全におさまった。
「きれいじゃないか?」ドナルドが訊いた。
ビンクはがたがたの木の柵と傾いた屋根を見た。雑草の中で数羽のニワトリが、地面を爪でひっかいている。しかし、この土地に投資し、ひどい死にかたをしてなお二年も、ここを愛しつづけてきた男にとっては、この光景も、最高の牧場に映るにちがいない。
「うん」ビンクは答えた。
「たいしたことないとはわかってるよ。だけど、あんな穴ん中にいたあとじゃ、ここはまるで天国さ。女房も息子も、もちろん魔法の力をもってるが、十分じゃないんだ。女房はニワトリの羽の色あせを直せるし、息子は小さな塵旋風を起こせる。女房はめったにニワトリにたんとエサをやらない。だがいい女房で、とてつもなくかわいいやつなんだ」
ふたりは庭に入っていった。地面に絵を描いていた七歳ぐらいの男の子が、顔をあげた。ビンクはふと、あのオオカミ憑きの男の子を思い出した――あの子と別れたのは、ほんの六時間前なのか? だが、この男の子が口を開いたとたん、ビンクの印象はうちくだかれた。
「行っちまえ!」男の子はどなった。
「息子には言わない方がいいだろう」ドナルドは少しばかりあっけにとられ、のろのろと言った。
「二年間か――この年頃の子には長い時間だ。息子にはこの体じゃわからんだろう。だが、大きくなったもんだ」
ビンクとドナルドはドアをノックした。女が応えた。質素な、薄汚れた服を着て、しみのついたスカーフに髪をたくしこんでいる。若い盛りにはふつうの女だっただろう。だが今は、きつい労働で、実際の年齢以上にふけてしまっている。
〈少しも変わっていない〉ドナルドは心の中で感嘆した。そして声に出して言った。「サリー!」
女は理解できない敵意をこめて、ビンクの体をにらみつけた。
「サリー、おれがわからないのか? おれは片をつけるために、死の国からもどってきたんだ」
「ドン!」女は叫び、活気のない目がやっと光った。
ビンクの腕がサリーを抱きしめ、ビンクのくちびるがサリーのくちびるに触れた。ビンクはドナルドの激しい感動を通して、サリーを見た。確かに彼女は、いい女房で、とてつもなくかわいいやつだ。
ドナルドはサリーから体を離し、愛に輝くサリーをみつめながら言った。「いいか、よくお聞きよ。けわしい東西尾根のそばに、小さな水車用貯水池がある。その北北東十三マイルの地点に、銀の木がある。採りにお行き。ただし、木を枯らさないために、一度に数枚の葉を採るだけにするんだ。おまえが自分で、できるだけ遠くの市場でそれを売るか、誰か友人に頼んで売ってもらうか、しなさい。どこで手に入れたかは、誰にも言ってはいけないよ。再婚するなら、りっぱな持参金になる。おれはおまえに幸せになってほしいし、ぼうずにおやじをもたせてやりたい」
「ドン」サリーの目は深い悲しみと喜びの涙でぬれている。「あたしは銀なんかどうでもいい。あんたがこうして帰ってくれたんなら」
「帰ってきたんじゃないんだ! おれは死んじまった。ただ木のことを教えるために、亡霊としてもどってきただけなんだよ。銀を手に入れ、使ってくれ。でないとおれの苦しみがむだになってしまう。約束してくれ!」
「でも――」サリーは言いかけて、相手の顔に浮かんだ表情を読みとった。「わかったわ、ドン。約束します。だけど、あんた以外の男なんか、絶対に愛さない!」
「おれの重荷はなくなり、なすべきことは終わった。もう一度、キスを、おまえ」ドナルドはサリーにもう一度キスをした――と思うと消えた。ビンクは我に返ると、他人の妻にキスしているのに気づいた。
サリーはすぐに気づき、顔をぐいと引いた。
「あの、すみません」ビンクは屈辱を感じながら言った。「もう行かなくては」
サリーは不意にきつい目でビンクをみつめた。夫の短い出現によって絞り出された喜びは、もうわずかしか残っていない。「見知らぬおかた、あたしどもはあなたにどんな恩を負っているんでしょう?」
「なにも。ドナルドが地面の裂け目の谷ドラゴンのもとから、飛んで逃げて、ぼくの命を救ってくれました。銀はすべて、あなたたちのものです。二度とお会いすることはないでしょう」
サリーはビンクが銀を持っていく気がないと知り、気持をやわらげた。「ありがとう、見知らぬおかた」そして、あきらかに衝動に駆られ、「もしお望みなら、銀を分かちあうことができます。ドナルドはあたしに再婚しろと――」
結婚するって? 「ぼくには魔法の力がありません。ぼくは追放される身です」ビンクが考えつくかぎり、これがいちばん思いやりのある辞退のことばだった。ザンスじゅうの銀を全部もらえても、どの点から見ても、この取り引きは魅力的とは言いがたい。
「食事をしていきませんか?」
腹はへっているが、それほど空腹ではない。「旅をつづけなきゃならないんです。息子さんにはドナルドのことは、言わないようになさい。ドナルドは息子さんを傷つけるだけだと思ったようですから。さようなら」
「さようなら」
一瞬、ビンクはドナルドがサリーの中に見ていた美しさを、ほんのちょっと認めた。だがそれはすぐに消えてしまった。
ビンクはサリーに背を向け、歩きはじめた。農場から出ていく途中、ビンクは塵旋風が吹きつけてくるのを見た。あの男の子が、見知らぬ人間に向けて放った、小さな敵意の産物だ。ビンクは塵旋風をよけると、足を速めて立ち去った。あの探鉱者のために親切をしてやれたのはうれしかったが、それが終わってほっとしたのも事実だ。これまでビンクは、一家族にとって、貧乏と死とがどんな意味をもつか、正確に認識してはいなかった。
4 めくらまし
ビンクはふたたび旅をつづけた。地面の深い裂け目を越せないままだ。ドナルドの農場が南にあったらよかったのに!
奇妙なことに、このあたりの住人たちはみんな、裂け目があるのを承知しており、当然のこととみなしている。一方、北の村の者は誰ひとり裂け目のことは知らない。共謀して口をつぐんでいるのだろうか? それはありそうもない。なぜなら、セントールも知らないようだし、ふつう、セントールは情報通なのだから。亡霊ドナルドが地の底ですごした時間を考えると、裂け目は少なくとも二年前からあるらしい。おそらくそれ以上だろう。あの谷ドラゴンは生まれたときから、あそこに住んでいるにちがいない。
きっとまじないがかかっているのだ。忘却[#「忘却」に傍点]のまじないが。それで、裂け目のごく近辺の人々しか、存在を知らないのだ。その場を離れると――忘れてしまう。ザンスの北部から南部へ通じていた安全な道は、もはやないものと思われる。それも最近数年間のことではない。
まあいい、それはビンクには関係のないことだ。裂け目をぐるりとまわって行かなければならないだけの話だ。渡ってみる気には二度となれない。驚くべき偶然の一致の連続のおかげで、命が助かった。偶然の一致など、あてにできる味方とはいえない。
ビンクが歩いている地帯は、緑の多い、小高い地形だった。たけの高い、キャンディ・ストライプのシダがびっしりとおい茂っているため、前方が遠くまで見渡せない。けもの道すら見あたらない。一度、嫌悪のまじないにひっかかって、道に迷った。ある木々は、旅人が近くを通らないように、旅人の方向を勝手に変えることによって、自分たちの身を守っている。だからこそ、例の銀のオークの木は、長いあいだ発見されずにきたのだろう。もし誰かがそういう木々の近くを通りかかるようであれば、はるか遠くに追い払われるか、永久に同じところをぐるぐる歩きまわるはめになる。そして、そういう罠は、目に見えてはっきりわからないために、のがれるのはたいへんむずかしい。旅人は目的地に向かって進んでいると思いこんでいるからだ。
つぎに、ビンクはまっすぐにのびた、りっぱな道にぶつかった。あまりにりっぱなので、本能的にビンクはその道を避けた。無数の野生の人食い樹は、獲物が接近しやすいように誘いの罠をしかけ、不意うちに襲撃してくるものだ。
このようにして、ビンクは本来の距離をかせぐのに三日かかってしまった。しかし、寒さも感じず、体調は上々だ。鼻にさわやかな香りを与えてくれる花束や、頭痛鎮めの実のなる丸薬草の茂みがみつかった。あちらこちらに、グリーン、イエロー、オレンジ、ブルーの実のついた極彩果実の木があった。それにビンク自身が見るからに害のないタイプなので、毎晩、幸運にも宿をみつけることができた。もっとも、一夜の宿のお礼に、数時間、働かなければならなかったが。こういう奥地の住人たちは、最小の魔法の力しかもっていない。“壁に光の斑点”程度の魔法だった。そのため、基本的な生活は、マンダニアのそれと同じであり、つねに雑用に追われていた。
ようやく海岸線に出た。ザンスは半島だが、きちんと地図が作られたことはない。わかりきった話だ! あの深い裂け目がそれを証明している! 結局、ザンスの正確な地形はわからないし、おそらく、わかりえないのだろう。一般に、北西部の狭い陸つづきの道でマンダニアとつながっており、南北にのびた、楕円形か、たまご形の半島だと考えられている。大昔は孤島で、外界の干渉から自由な存在として、独自の発展をしていたのだろう。現在は、シールドのおかげで、孤立状態を取りもどし、死の仕切りと、侵略船の乗組員を一掃することで、陸つづきの道を遮断している。それで万全ではなくとも、海には獰猛な怪物がごまん[#「ごまん」に傍点]といるといわれている。沖合いに、だ。いや、マンダニア人たちは、もはや侵入不可能だ。
ビンクは裂け目をまわるのを、海が許してくれればいいと思った。谷ドラゴンは泳げないだろうし、海の怪物たちも陸地近くには来ないはずだ。ドラゴンや海の怪物たちの攻撃が及ばない場所は、ごく狭い範囲にかぎられるだろう。とすると、ビンクが徒歩で渡れるのは、海岸だということになる。もし裂け目から攻撃されれば海の中へ逃げればいいし、海から魔法のおどしがくれば、陸地へのがれればいい。
海岸は目の前だ。白い砂の美しい細いつながりが、裂け目の一方から反対側へとのびている。怪物の姿は全然見あたらない。ビンクはこの幸運が信じられなかった。だが、運が変わらないうちにと、ビンクは行動を起こした。
砂浜を駆け出す。十歩目まではなにごともなく走れた。そして水に足をとられた、と思ったとたん、ビンクは海水につかっていた。
海岸はめくらましだった。もっとも初歩の罠にかかってしまったのだ。海の怪物にしてみれば、獲物をつかまえるには、海岸を消してしまうより、海を隠しておく方が、ずっと首尾がいい。
ビンクは本物の海岸目指して、力いっぱい泳ぎはじめた。波が押し寄せ、あわだっている岩だらけの海岸が見える。海岸に着いたからといって安全だとはかぎらないが、今のところ、他に選択の余地はない。さっきの“砂浜”にもどることはできない。めくらましの砂浜さえ、もう見えないからだ。結局は、どうにかして海を渡ったか、めくらましの砂浜さえ知らずに泳いでいたか、どちらかだ。どちらにしろ、二度、罠にかかるおそれのある魔法ではない。知っておく方がいいのは、今まさに自分がどこにいるのか、という点だ。
片方の足首に、なにか冷たくて、平べったくて、おそろしく力の強いものが巻きついてきた。谷ドラゴンに追っかけられたときに、杖をなくしたまま、代わりの杖はまだ持っていない。武器といえば猟用のナイフだけだ。海の怪物を相手に闘うには、はなはだ頼りないナイフだが、とにかくそれを使うしかない。
ビンクはさやからナイフをぬき、かたずをのんで足首の近くを激しく打ちすえた。皮のような感触のものが巻きついている。切断するには見てみなければならない。こういう怪物は、むやみにタフなのだ!
海の中に、なにか大きな、黒っぽいものがぼんやり見える。巻きついているのは舌らしい。巨大なあごが開き、一ヤードの長さの歯が光った。
ビンクは残っていたわずかな勇気も失くしてしまい、すさまじい悲鳴をあげた。
ビンクの頭が海中に没した。悲鳴をあげたのは失敗だった。口から喉へ、海水がどっと流れこんできた。
しっかりした手が、リズミカルにビンクの背中を押している。水を吐き出し、空気を吸いこむ。息がつまり、ビンクはせきこんだ。助かったのだ!
「だ、だいじょうぶです」ビンクはあえぎながら言った。
手が離れた。ビンクは起きあがり、目をまたたいた。
小さなヨットの上だ。帆はあざやかな色の絹で、甲板はぴかぴかのマホガニーだった。マストは金。
金? たぶんメッキだろう。固い黄金は、ひどく重いから、船のバランスがとれない。
遅まきながら、ビンクは助けてくれた人の方に目をやり、またまたびっくりした。その人は女王だった。
いや、少なくとも、女王のように見えた。プラチナの髪飾り、豪華な刺繍のあるローブを着けたその人は、美しかった。ウィンのような美しさとはちがう。ウィンより年上で、はるかに落ち着きがある。きちんとしたドレスとものごしが、ウィンの若さゆえの純粋に肉感的な無邪気さの、埋めあわせとなっている。女王の髪は、ビンクが見たこともないほど濃い赤だった。そしてまた、その瞳も。こんな女性が、怪物がうじゃうじゃいる海で、ヨット遊びをしているなど、想像もできない話だ。
「わたくしは魔女のアイリス」
「あ、あの、ビンクです」ビンクはぎごちなくあいさつした。「北の村の者です」魔女には会ったことがないし、とっさにどんな態度をとっていいかわからない。
「わたくしがたまたま通りかかって、幸いでした。たいへんなことになっていたかもしれませんでしたからね」
なんという控えめな言いかただろう! ビンクの生涯は終わっていたはずのに、アイリスが人生を取りもどしてくれたのだ。
「ぼくは溺れるところでした。あなたのお姿は見えませんでした。怪物しか」ビンクはわれながらまのぬけた態度だと思った。こんな高貴な人物が、その優美な手を自分のような者のために汚してくれるとは、考えてもみなかった。
「あなたはものが見える状態ではありませんでしたもの」アイリスが体を伸ばしたため、そのすばらしい肢体が引きたって見えた。ビンクはまちがっていた。アイリスにウィンより劣っているところなどひとつもない。ただウィンとはちがうだけだ。そして確かに、ずっと知性がある。サブリナより知性があるようだ。見るからに知的な女性は、その外観がおおいにちがうものだ、とビンクは思った。本日の教訓。
ヨットには水夫や召使いも乗っているが、出しゃばらずに引っこんでおり、アイリスみずからが船をあやつっていた。この女性はなまけものではない。
ヨットは海原を進んでいった。やがて島が見えてきた。その島ときたら! みずみずしく茂った木々。ありとあらゆる色と形の花々。ヨットが島に近づくにつれ、皿ほどもある水玉模様のヒナギクや、このうえなく優雅なランや、オニユリなどが、あくびをしたり、満足そうな音をたてた。黄金づくめの桟橋から堅い水晶の宮殿まで、こぎれいな小道がつづいている。水晶の宮殿は太陽の光をあびて、ダイヤモンドのようにきらめいている。
ダイヤモンドのように? 無数の面を屈折する光の通りかたから見て、ビンクはそれはダイヤモンドそのものではないかと思った。この世に二つとない、最大の、もっとも完璧なダイヤモンド。
「あなたはぼくの命の恩人のようですね」ビンクは状況をつかみかねて、あいまいに言った。その夜の宿のお礼に、木を切ったり、肥料をまいたりすると申し出るのは、いかにもこっけいだ。この美しい島では、焚き火や動物の排泄物のような粗野なことがらは存在しないだろう。ビンクにできるいちばんの奉仕は、ずぶぬれて薄汚ないビンク自身を、できるだけ早く島から遠去けてしまうことだ。
「そのようね」アイリスは驚くほどくだけた口調で答えた。ビンクとしては、見かけの高貴さにふさわしく、もう少し権高なもの言いだと思っていたのだが。
「ですが、ぼくの命はそれほどの価値がないかもしれません。なにしろ、魔法の力がないものですから。ザンスから追放される身のうえなのです」
アイリスはヨットを桟橋に着け、係留柱に銀の鎖を投げると、きつく縛りつけた。
ビンクはこの告白で、アイリスがとまどうものと思った。初めから、不誠実な、言いわけめいた話しかたをしないようにしたのだ。もしかすると、アイリスは、ビンクを重要人物だと、思いちがいをしているのかもしれない。しかし、アイリスの答は意外だった。
「ビンク、あなたからそう聞いて、うれしいわ。あなたが、りっぱな、正直な若者だという証拠ですものね。どのみち、魔法の力なんて、たいてい価値あるものではありません。壁にピンクの斑点をうつしてみせて、どんな役にたつというの? それは魔法かもしれないけれど、なにかを為すことにはならない。あなたの強さと知性があれば、大多数の住民よりもっと為すべきことがあるはずよ」
この好意ある、買いかぶりのほめように、驚き、喜んだビンクは、答えることばもなかった。“壁に光の斑点”の無意味な魔法については、確かに、アイリスが正しい。ビンク自身、しばしば同じことを考えている。もちろん、それは一般的な軽蔑の言いかたで、つまらない魔法の力しかない人間を指している。本当は洗練された意見ではない。とはいえ、ビンクはぐっと気が楽になった。
「いらっしゃい」アイリスはビンクの手をとった。タラップを渡って桟橋に降り、宮殿に向かう道を歩きはじめる。
花の香がむせかえるようだ。色とりどりのバラがいい香りをまき散らしている。剣状の葉の植物はわりにどこででも見かけるが、その花は、やはり色とりどりで、ランを簡素にしたような形だ。
「これはなんですか?」ビンクは訊いた。
「もちろん、アイリスよ」
ビンクは思わず笑った。「もちろんだ!」残念ながら、“ビンク”という名の花はない。
小道は花が咲いているいけがき[#「いけがき」に傍点]のあいだを通り、噴水のある池のまわりをまわって、水晶の宮殿の手のこんだ正面柱廊の前に通じている。宮殿は結局、本物のダイヤモンドではなかった。
「わたくしの居間へいらっしゃい」魔女はほほえみながら言った。
その意味深長なことばが、頭にしみこむ前に、ビンクはちゅうちょした。クモとハエの話を聞いたことがある! 魔女が命を救ってくれたのは、単に――。
「まあ、あきれた! あなた、迷信深いの? 危いことなんか、なにもありませんよ」
ビンクは強情を張るのはばかげているように思えてきた。命を救っておいて、あらためて裏切ったりするだろうか? アイリスはビンクに水を吐き出させるかわりに、窒息して死ぬままに放っておくこともできた。あるいは、ビンクを縛りあげて、水夫にかつがせて上陸することもできた。今さら裏切る必要はないのだ。ビンクはとっくに、アイリスの手中にあるのだから――そういう意味でいうならば。それでも……。
「わたくしを信用していないのですね。安心していただくには、どうすればいいのかしら?」
こう率直に問題点をつかれると、安心するわけにはいかない。だが、当たって砕けろ、だ。というか、運命を信じる方がいい。
「あの、あなたは魔女です。必要なものはすべて持っている。あの、ぼくにいったいなにをお望みなんですか?」
アイリスは笑った。「とって喰ったりはしませんとも。本当よ!」
だが、ビンクは笑えない。「ある魔法は、ある人々は、とって喰います」ビンクは怪物じみたクモが、クモの巣に獲物を誘いこんでいる光景を想像した。いったん宮殿の中に足を踏みこむと――。
「いいわ。それではこのお庭にいましょう。でなければ、あなたが安全だと思うところに。わたくしの誠実さがわかってもらえないのなら、あなた、わたくしのヨットに乗って、ここをおたちになればいいわ。それでよろしい?」
よろしすぎる。ビンクはまるで恩知らずの無頼漢のような気にさせられた。ビンクはこの島全部が、ひとつの罠だという気がしてきた。陸地まで泳いでいくことはできない。たとえ海の怪物がいなくても。ヨットで渡ろうとしても、水夫たちにつかまって縛りあげられるだろう。
まあ、おとなしく耳を傾けているぶんには、害はないだろう。
「けっこうです」ビンクは答えた。
「ねえ、ビンク」アイリスはことばたくみに話しはじめた。力をこめた言いかたの中に、愛らしさが加わっているため、とても説得力がある。「ザンスの住民は誰もが魔法の力をもっているけれども、その力がきびしく限定されているのは、知っているわね。ある人々には、他の人々より多少すぐれた力があるけれど、それはある特定のタイプにかぎられがちです。魔法使いでさえ、この自然法則に従っているわ」
「ええ」アイリスは頭がいい――だが、狙いはなんだ?
「ザンスの王は魔法使い。でも、王の力は天気を左右するだけにかぎられている。塵旋風や、大たつまきや、暴風雨を引き起こしたり、旱魃や、十日間の豪雨をもたらせることもできる。だけど、空を飛んだり、木を銀に変えたり、魔法で火をつけたりはできない。王は気象関係の専門なのよ」
「そうですね」ビンクはふたたびあいづちをうった。そして亡霊ドナルドの息子を思い出した。あの少年は、はかない塵のつむじ風、塵旋風を巻き起こすことができた。あの少年はふつうの力しかもっていない。王の力は偉大だ。もっとも、その差は程度であって、タイプではないが。
むろん、王の力は年とともに衰えてきている。現在の王にできる魔法といえば、塵旋風ぐらいだろう。シールドがザンスを守っていてくれてよかった!
「だから、住民の魔法の力がわかれば、その人の限界がわかるわ。嵐を起こせる人がいれば、その人に落とし穴を仕掛けられたり、ゴキブリに変えられたりするんじゃないかと、恐れる必要はないの。総合的な魔法の力をもっている者は、誰もいません」
「魔法使いハンフリー以外は、ね」
「彼は強力な魔法使いだわ」アイリスは認めた。「でも、彼でさえ、限界があるのよ。彼の力は予言、あるいは知識よ。わたくしはハンフリーが本当に未来を読めるとは、信じていません。ただ、現在を知っているだけだわ。彼の、いわゆる百のまじないは、すべて現在に関わっている。そのうちのひとつとして、実際に魔法を使っていないわ」
アイリスに反論するほど、ビンクはハンフリーのことを知らないが、アイリスの話は正しいように思えた。魔女が仲間の魔法に遅れをとらないようにしている態度に、ビンクは深い感銘を受けた。強い魔法の力をもつ者たちのあいだには、競争意識があるのだろうか?
「ええ、学校では技くらべが行なわれてます。でも――」
「わたくしの力は、めくらましよ」アイリスはすんなり言った。「このバラ――」きれいな赤いバラを一輪つみとり、ビンクの鼻先に突きつける。いい香りだ! 「このバラ、本当はね……」
バラはふっと消えた。アイリスの手にあるのは、草の茎が一本だけ。草の匂いすらする。
ビンクは残念そうに周囲をみまわした。「これ全部、めくらましなんですか?」
「ほとんどは、そうです。あるがままの庭園を見せてあげてもいいけれど、それは美しいとは言いがたいわ」アイリスの手の中の草が光りはじめ、アイリスの花に変わった。「これでわかったでしょうね。わたくしは力ある魔女。だからこそ、わたくしの領土全体を、本来の姿とは似つかぬものに見せかけられるし、どこをとってみても、本物そっくりなんです。わたくしのバラは、バラの香がするし、わたくしのアップルパイは、アップルパイの味がします。わたくしの体は――」魔女は薄笑いを笑かべた。「わたくしの体は、体のように感じることができます。なにもかも本物そっくり。だけど、それはめくらまし。実際は、すべて、素になるものがあるの。わたくしはそれに魔法をかけて、修正するのよ。そこがわたくしの力の複雑なところなんです。だから、わたくしには他の魔法の力はありません。その点では、わたくしを信用していいわ」
ビンクは最後のことばが納得できなかった。めくらましの魔女など、どう考えてみても信頼できる相手ではない。どんな点であろうと! そして今、ビンクはアイリスの論点を理解した。アイリスはビンクに魔法の力を見せた。他の魔法をかけることはできないらしい。ビンクはこれまで、魔法の力について、そのように考えたことはなかったが、確かに、ザンスには、タイプのちがう魔法の力を合わせもつ者はひとりもいない。
アイリスが人喰い鬼でなければ、めくらましで姿かたちを変えているのでなければ……。いや、人喰い鬼は魔法的な存在だし、魔法的な存在の生きものは、魔法の力をもたない。彼らの魔法の力は、存在そのものなのだ。セントールも、ドラゴンも、人喰い鬼も、つねにあるがままの姿のように見える。生まれつきの人間や、動物や、植物が変身しているのでないかぎり。ビンクは信じた。アイリスは人喰い鬼と共謀して行動することはできるだろうが、それはありそうもない。なぜなら、人喰い鬼は短気だと評判だし、成りゆきなど無視して、手に入れたものはなんであれ、喰いつくしてしまいがちだからだ。アイリス自身が、もうとっくに喰われてしまっているだろう。
「わかりました。信用します」ビンクはためらいながら言った。
「よろしい。宮殿に入りなさい。ほしいものはなんでもそろえてあげますよ」
それは無理だ。ビンクに魔法の力をさずけてくれることができる者は、いない。魔法使いハンフリーは、ビンクの魔法の力をみつけてくれるかもしれない――その代価に一年間の奉仕だ! ――が、それは単に、あるものを見るだけで、新たに作りだしてくれるわけではない。
ビンクは宮殿への招待を受けることにした。宮殿の内部も豪奢だ。明りの虹色の光線が三稜型の屋根から流れ落ち、水晶の壁が鏡になっている。めくらましかもしれないが、水晶の鏡のひとつひとつに、ビンクは自分の姿をみとめた。思っていたより健康そうで、男らしくなっている。少しも薄汚なくなっていない。これもめくらましだろうか?
椅子やソファのかわりに、部屋のすみずみに、やわらかな、美しいクッションが積んである。不意に、ビンクは疲れをおぼえた。ちょっとでいい、横になりたい! そのとたん、やすらぎの松の森の骸骨が、目に浮かんだ。ビンクはどうすればいいのか、わからなくなった。
「ぬれた衣服をおぬぎなさい」アイリスが誘うように言った。
「いや、乾きますから」ビンクは女性の前で裸身をさらしたくなかった。
「わたくしのクッションをだめにするつもり?」アイリスは家庭の主婦のような懸念を示した。
「あなたは塩水につかったのよ。塩を洗い流さないと、体がかゆくなります。浴場に行って着替えていらっしゃい。乾いた衣服が用意してありますよ」
衣服が用意してあるって? まるでビンクが来るのを予想していたみたいだ。いったいどういうことだろう?
しぶしぶとビンクは浴場に行った。浴場も宮殿にふさわしく、豪華だった。浴槽は小さな水泳プールほどの大きさだし、便器はマンダニア人が使っているといわれるものと同じ型で、上品なものだった。便器の中を水が流れ、下のパイプに排水され、魔法のように消えていく仕掛けを、ビンクはじっとみつめた。すばらしい。
シャワーもある。突き出たノズルから、雨のように水が細かく降りそそぎ、体を洗い流してくれる。日常的にほしくなるかどうかはわからないが、実に楽しい道具だ。この装置に圧力を供じるには、階上のどこかに大きな水槽を置かなければならないだろう。
ビンクはアイリスの花を刺繍してあるフラシ天のタオルで、体をぬぐった。
衣服はドアのうしろのフックに掛けてあった。王子が着るようなローブと半ズボン。半ズボン? まあいい、乾いているし、どうせこの宮殿では誰に見られることもあるまい。ビンクはお仕着せを着こみ、用意されていた飾りのついたサンダルに足を突っこんだ。猟用のナイフを帯び、ローブをだらりと垂らして目につかないようにする。
ずっと気持がよくなった。だが、たちまち寒気がしてきた。喉がひりひりして、鼻がつうんとしてくる。塩水に刺激されたせいだと思ったが、今はもう体も乾き、鼻のとおりを悪くする外的要因はなにもないはずだ。あからさまに鼻をぐずぐずいわせるのはいやだが、ハンカチを持っていない。
「おなかがすいていますか?」ビンクが姿を現わすと、またアイリスが誘うように訊いた。
不意に、ビンクは空腹を感じた。裂け目に沿って歩き出してから、携帯した食料は倹約して食べ、もっぱら道筋の食べものを捜してつないできたのだから。旅のうは塩水でずぶぬれになってしまった。みんなごっちゃになって、未来食のようになっているだろう。
ビンクは半分クッションに埋もれて横たわった。鼻が上向くから、鼻水は落ちてこないだろう。必要とあらば、こっそりクッションのすみっこでぬぐえばいい。アイリスが台所でぐずぐずしているあいだに、ビンクはうたたねをした。このすべてがめくらましであると、ビンクははっきり悟った。アイリスがみずから召使いの仕事をしている理由もわかる。水夫や庭師もめくらましの一部なのだ。アイリスはひとりぼっちで暮らしている。だから自分で料理をしなければならない。めくらましは、すばらしい外観や、装飾、風味などは作り出せるが、腹が減るのをとめることはできない。
なぜアイリスは結婚するか、その力を有能な手伝いと交換しないのだろう? たいていの魔法の力は、実際的な仕事には役に立たないが、アイリスの魔法は比類がない。もしこの魔女と暮らせば、誰でも水晶の宮殿に住める。そうしたい人が大勢いるのは確かだ。実質よりは外観の方が重要になる場合は多い。それに、もしアイリスに、ふつうのジャガイモを珍味に変え、薬の味をキャンディの味に変えることができれば――そう、それなら、売りものになる!
湯気のたつ大皿を手に、アイリスがもどってきた。家庭の主婦のようなエプロン姿に変わっており、髪飾りも消えている。女王然としたところがなくなり、女らしさがたっぷりただよっている。低いテーブルに皿を置くと、アイリスはビンクの向かい側にすわった。ビンクもアイリスも、クッションの上にあぐらをかいた。
「なにがお好き?」アイリスが訊いた。
ビンクはまた不安になった。「なにをごちそうしてくれるんです?」
「好きなものをなんでも」
「あの、本当に[#「本当に」に傍点]、ですか?」
アイリスはしかめっつらをした。「どうしても知りたいなら、言うわ。煮たお米よ。百ポンド入りの袋があるの。わたくしが飼っているめくらましのネコの正体を、ネズミが見破って、袋をかじらないうちに、お米を使いきってしまわなくてはならないの。もちろん、わたくしはネズミのフンを、キャビアの味に変えることができるけれど、どちらかといえば、したくないのよ。だけどあなたは、なんでも好きなものが食べられるわ。なんでも」アイリスは深く息をついた。
そういうことか。アイリスは食べものにも力を使えるのだ。彼女はひとりぼっちでこの島に住み、話し相手を歓迎しているのは、まちがいない。近くに住む農夫たちは、アイリスを敬遠しているのだろう。まったく、かみさんたちに見られでもしたら? それに、海の怪物たちは社交的ではないだろうし。
「ドラゴンのステーキ。ホット・ソースかけ」
「男って、ずうずうしいのね」アイリスはぶつぶつ言いながら、銀の皿のふたを持ちあげた。ぷんといい匂いがただよう。ホット・ソースのかかったドラゴンのステーキが二枚、でんと皿にのっている。アイリスはなれた手つきでビンクの皿に一枚、自分の皿にもう一枚のステーキを取り分けた。
半信半疑で、ビンクはひと切れ切りとり、口に運んだ。こんなにうまいドラゴン・ステーキは初めてだ。ドラゴンというやつは、つかまえるのがむずかしいから、これは言いすぎではない。ビンクだって、まだ二度しか食べたことがないのだから。人間がドラゴンを食べるより、ドラゴンが人間を喰うことの方が多いのは、わかりきった話だ。それに、このソース。辛くて口を焼き、ビンクはアイリスがついでくれたワインのグラスをひっつかんだ。とはいえ、変わった香料の、甘美な辛さだ。
それでもなお、ビンクは疑っていた。「あの、もし、よかったら……」
アイリスは苦い顔をした。「少しだけよ」
ドラゴンのステーキは、みるみるうちにまずそうな煮た米になり、すぐまたドラゴンのステーキに変わった。
「ありがとう。でも、まだ信じられません」
「もっとワインは?」
「あの、酔っぱらいませんか?」
「いいえ、残念ながらね。一日じゅう飲んでも、決して酔わないわ。あなた自身が酔ったと思わないかぎり」
「それを聞いて安心しました」ビンクは優美なグラスを持ちあげ、アイリスに発泡性の液体を新たについでもらうと、それをすすった。一杯目は味わうまもなく、ぐいと飲んでしまった。本当は水なのだろうが、極上のブルー・ワインに見える。ドラゴンのステーキにぴったりの、こくのある微妙な風味のワインだ。このワインと、この魔女は、まったくよく似ている。
デザートは、やや焦げ目のついた手づくりの、チョコレート・チップ・クッキーだった。クッキーの手ざわりがあまりにも現実的だったので、ビンクはそれ以上疑惑をもちつづけられないところだった。魔女アイリスは、めくらましとはいえ、料理や菓子作りについては、あきらかになにか[#「なにか」に傍点]を心得ている。
アイリスは皿を片づけたあと、もどってきてビンクの傍のクッションにすわった。今度はロウ・カットのイブニング・ドレス姿で、必要以上に、彼女のすばらしい体の線が、はっきり見える。もちろん、これもまた、めくらましだろう。しかし、見えているとおりに感じるならば、抵抗できるものではない。
魅惑的なドレスに、ビンクはあやうく鼻水をたらしそうになり、あわてて頭を起こした。ちょっぴり近づきすぎていたようだ。
「あなた、どうしたの?」アイリスは同情に満ちた声で訊いた。
「ああ、いや、鼻が、その――」
「ハンカチをお使いなさい」と、かわいいレースのハンカチを貸してくれた。
ビンクとしてはこんな美術品を、鼻をかむのに使うのは気が進まないが、クッションを使うよりはいい。
「おいとまする前に、ぼくにできる仕事はありませんか?」ビンクは不安そうに尋ねた。
「あなた、ずいぶんつまらないことを考えているのね」アイリスは本気で身を乗りだし、息を深く吸いこんだ。ビンクはくびすじに血がのぼるのを感じた。サブリナははるか遠くだ――とにかく、サブリナは決してこんなドレスを着ない。
「申しあげたでしょう。ぼくはよき魔法使いハンフリーのもとへ行き、魔法の力をみつけてもらわなければならないんだと。でなければ、追放されるんです。自分になんらかの魔法の力があるとは思いませんが、それでも――」
「そんなことに関係なく、わたくしはあなたがここにとどまるようにできるわ」アイリスはさらににじり寄ってきた。
この魔女はビンクをいたぶっているのだ。それにしても、なぜこのように知的で、魔法の力に恵まれた女性が、ビンクのようにとるに足りない男に興味をもつのだろう? ビンクはもう一度鼻をぬぐった。風邪ひきの、とるに足りない男。アイリスの姿かたちは、めくらましでおおいに変わっているかもしれないが、その心と魔法の力は本物にちがいない。ビンクなど必要ないはずだ。決して。
「あなたは誰にでも見せつけられる魔法を使うことができるわ」アイリスはまたもやにじり寄りながら、びっくりするほど説得力のある調子で話をつづけた。心から、憤慨しているようだ。
「わたくしは、誰にも見ぬけないめくらましの技が使える」ビンクは、アイリスがこんな近くにいるのなら、そんな話はやめてほしいと思った。「わたくしはどんなに遠くからでも、魔法が使える。だから、わたくしのせいだとはわからない。でもそれは、つまらないこと。あなたに富と、権力と、満足とを与えることもできる。めくらましでなく、本物を。美しさと愛とをあげることができる。ザンスの住民として、あなたがほしいものはなんでも――」
ビンクはますます疑いを強くした。いったい彼女はなにを言いたいのだろう? 「ぼくには婚約者がある――」
「そうでしょうとも。わたくしはやきもちやきではありません。その娘をめかけにして、十分慎重になさればいい」
「めかけですって!」ビンクは思わず叫んだ。
アイリスはびくともしない。「だって、あなたはわたくしと結婚するんですから」
ビンクはあっけにとられ、まじまじとアイリスをみつめた。「どうしてあなたは、魔法の力のない男と結婚したいんです?」
「つまり、わたくしはザンスの女王になれるからよ」アイリスは平然と答えた。
「ザンスの女王! それならあなたは王と結婚すべきだ」
「まさにそのとおりよ」
「でも――」
「ザンスの古風で、昔気質の法律と習慣のひとつは、名目上の統治者は、男でなければならない、ということだわ。そのために、完璧に資格のある魔女たちは、対象から除外されてしまう。今や、現在の王は年をとり、老いぼれ、あとつぎもいない。女王の時代がくるのよ。でも、まずは新しい王。その王はあなた」
「ぼくだって! ぼくは統治の知識なんか全然ない」
「ええ。あなたは自然に、めんどうな政治のこまごまとしたことがらを、わたくしに任せるようになるでしょう」
ついに事情が判明した。アイリスは権力をほしがっている。アイリスに必要なのは、自分が権力の座につくための、適当な表看板だ。どうにでもあやつれる、魔法の力のない、世間知らずの男。つまり、ビンクなら本気で王になろうなどと妄想を抱いたりはすまい。ビンクがアイリスと手を組めば、いずれ彼女にすべてを頼ることになるだろう。だがそれは、公平な申し出だ。自分自身の魔法の力うんぬんは無視して、追放か否かを決定する立場に着けるのだから。
ビンクが自分の魔法的欠陥を、可能性のある利点としてとらえたのは、これが初めてだ。アイリスは頼りがいのある男性や、合法的な住民を必要としているのではない。彼女はそういう相手とは長つづきしないだろう。アイリスに必要なのは、ビンクのような、魔法欠陥人間なのだ。魔女アイリスがいなくては、とるに足りない人物であり、ザンスの住民にすらなれない男。
これで、ロマンティックな部分はかなり減ってしまった。現実というものは、つねに、めくらましよりも魅力が少ない。しかし、ビンクには、むだに終わるかもしれないが、目的をとげるために荒野にまいもどる道が残されている。ビンクの幸運は、すでに大幅に拡大されている。魔法使いハンフリーの城が架空のものでないかぎり、幸運をさらに広げることもできる。なぜならば、中央荒野のすそ野を通って、旅をつづけなければならないからだ。ビンクは魔女の申し出を拒絶するバカ者になるだろう。
アイリスは熱っぽい目でビンクをみつめていた。ビンクがアイリスを見返すと、彼女のドレスがきらきら輝き、透きとおりはじめた。めくらましであるにせよ、そうでないにせよ、胸がどきどきする光景だ。それにしても、肉体が本物そっくりに見えるなら、どんなちがいがあるというのだろう? アイリスが直接的に、個人的レベルで提供しようとしているものがなんであるか、ビンクにも見当がついた。アイリスは食事に施したように、喜んでみごとな力を発揮してみせるだろう。なにしろ、アイリスにはビンクの協力が必要なのだから。
まったく頭がいい。ビンクは住民権とサブリナとの両方を手に入れることができる。魔女の女王は、その事態を裏切るようなまねを絶対にしないだろう……。
サブリナ。彼女はこの取り決めをどう思うだろうか?
ビンクにはわかっている。サブリナは受け容れまい。決して、一瞬たりとも。サブリナはあることがらに関しては、おそろしく厳格で、それにふさわしい態度をとる。
「いやだ」ビンクは大声で言った。
アイリスのドレスがぱっと不透明に変わった。「いや、ですって?」急に声がウィンそっくりになった。ビンクがあの白痴の娘の同行をことわったとき、ウィンが発した声と。
「王になんか、なりたくない」
アイリスは声の調子を整え、やさしく言った。「わたくしにはできないと思っているの?」
「あなたにはできると思ってます。でも、ぼくのがら[#「がら」に傍点]ではない」
「ビンク、あなたのがら[#「がら」に傍点]って、なんなの?」
「ぼくは自分の生きかたをしたい」
「あなたは自分の生きかたをしたいのね」アイリスはせいいっぱい声をおさえて、ビンクのことばをくり返した。「なぜなの?」
「ぼくの婚約者がいやがるだろう――」
「婚約者がいやがる!」アイリスは谷ドラゴンのように、頭から湯気を立てた。「その娘が、わたくしが百倍もかなわないような、なにかを与えてくれるというの?」
「ええ、たとえば、自尊心を。彼女はぼくを利用しようとはせず、ぼく自身であることを望んでくれます」
「くだらない。女の心はみんな同じです。ちがうのは外見と魔法の力だけ。女はみんな、男を利用するものです」
「そうかもしれません。あなたの方がぼくよりずっと、そういう面にはくわしいでしょう。でもやっぱり、ぼくは行かなくては」
アイリスはやわらかな手を伸ばしてビンクを引きとめた。ドレスはすっかり消えてしまっている。「なぜ今夜だけでも泊まっていかないの? あなたにどうしてあげたいか、わかるでしょう? 朝になってもまだ旅に出たいというなら――」
ビンクはくびを振った。「あなたはひと晩かけて、ぼくを説得できる。やっぱり、今すぐ行きます」
「率直だこと!」アイリスはくやしそうに叫んだ。「わたくしはあなたに、想像すらできないような思いをさせてあげられるのよ」
アイリスの全裸の姿は、もうすでにビンクの想像をめちゃめちゃにかき乱していた。しかしビンクは必死に耐えた。「ぼくの志をひるがえすことはできません」
「このバカ!」アイリスはハッとするほど態度を変えた。「おまえなんか、海の怪物の手に残してくればよかった」
「あれもめくらまし[#「めくらまし」に傍点]でしょう。あなたは自分のもとにぼくを置くために、すべてを組み立てた。めくらましの砂浜、めくらましの怪物、全部をだ。ぼくの足首に巻きついていたのは、あなたの皮ひもだ。ぼくを救ってくれたのも、偶然の一致ではない。ぼくは窮地に追いこまれてなんぞいなかったのだから」
「今こそ窮地にいるじゃないの」アイリスは歯ぎしりして言った。美しい裸身が、みるみるうちにアマゾンの戦闘服におおわれる。
ビンクは肩をすくめて立ちあがった。鼻をかんで言う。「さようなら、魔女さん」
アイリスは感嘆のまなざしを向けた。「わたくし、あなたの知性を過少評価していたわ。ビンク、あなたがなにを望んでいるか教えてくれさえしたら、わたくしの条件をあらためると約束します」
「ぼくは魔法使いハンフリーに会いたいんです」
新たにアイリスの怒りが爆発した。「おまえなんか殺してやる!」
ビンクはアイリスを残して歩きだした。
宮殿の水晶の天井にひびが入った。ガラスのかけらがビンクに降りそそいでくる。ビンクは現実ではないとわかっているから、まるで知らん顔だ。歩きつづける。内心はひどく不安なのだが、外には表わすまいど決心していた。
まるで石がつぶれるような、やかましい、不気味な音が聞こえる。ビンクはあえて上を見あげないようにした。
壁がこなごなに割れ、落ちてくる。屋根の大きな破片がころがり落ちてきた。耳がつぶれそうな騒音だ。ビンクは破片に埋もれてしまったが、平然とその中からぬけ出した。塵や漆喰《しっくい》、がらがらとくずれ落ちる破片で、息がつまりそうな匂いがしているが、宮殿そのものは、本当はこわれていない。アイリスのめくらましの技は天下一品だ! 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、どれも現実的だ――触覚をのぞけば。というのも、触覚にまで力を及ばせないうちに、体に触れてしまうものがあるからだろう。とにかく、この崩壊状態は実質的ではない。
ビンクは初めに壁にぶつかった。かなり激しくぶつかった。ビンクは頬をさすりながら、横目で壁をにらみつけた。それはペンキのはげた木の壁だった。本物の家の本物の壁。めくらましで隠されていたのだが、本来の姿が現われてきたのだ。たぶん、アイリスにはそれを、黄金にも、水晶にも、ぬるぬるのナメクジのようなものにも変えられるのだが、めくらましは破れつつある。これで出口はみつかるだろう。
ビンクは手さぐりで壁づたいに歩きながら、すさまじい崩壊の光景や騒音を無視することにした。願わくば木の壁の感触が変えられませんように。そうなると、感触にまどわされ、逃げられなくなる。アイリスはビンクの手を離させようと、木の壁をネズミとりやアザミに変えるかもしれない。
ドアを探りあて、ビンクは目につかないようにそれを開けた。やった! ビンクはちらとふり返ってみた。逆上した女、アイリスが立っている。魔女アイリスは、中年の、やや太りぎみの女で、部屋着に、だらしのないヘア・ネットというかっこうだった。さきほどのすけすけの衣裳の下にあったのと同じ肉体だが、めくらましの二十代の肉体とはちがい、四十代のそれは、魅力にはとぼしい。
ビンクは外へ出た。稲妻が走り、雷鳴がとどろく。ビンクはとびあがったが、アイリスはめくらましの魔女で、天候専門ではないことを思い出し、そのまま歩きつづけた。
雨が激しく降り、雹も降ってくる。冷たい雨は肌をたたき、雹は刺してくる。だがそれも本物ではない。最初は驚いたが、ビンクはぬれもせず、痛みも感じなかった。アイリスの魔法の力は絶頂に達しているが、めくらましにも限界がある。そして、目にしたことを信じないビンクの不信感が、衝撃を縮小していった。
突然、ドラゴンの咆哮が聞こえた。ビンクはまた、とびあがった。翼のある、火を吐く怪物がビンク目指して飛んでくる。谷ドラゴンのように蒸気を吐くだけでなく、本物の炎を吐いている。どうも本物らしい。これはめくらましなのか、本物なのか? たぶん、前者だろう。が、危険はおかせない。ビンクはさっと身を伏せた。
ドラゴンはさっと舞い降り、ビンクをかすめた。空気の強い流れと、熱風を感じた。まだ本物かどうか確信がもてないが、ドラゴンの動きから察しをつけることはできる。本物の火を吐く怪物は、ドラゴンも例にもれず、非常に頭が悪い。その熱で脳ミソがしぼむからだ。もしこいつが知的に動くようなら――。
ドラゴンはあっというまに宙返りして、二度目の襲撃にうつった。ビンクは右に寄ると見せかけ、ひょいと左へ寄った。ドラゴンはだまされなかった。まっすぐに狙ってくる。これは動物の知恵ではなく、魔女の知恵だ。
ビンクは胸がどきどきしたが、心をはげまして立ちあがると、脅威に立ち向かった。指を一本あげ、侮蔑のしぐさをした。ドラゴンはかっと口を開き、炎と煙を盛大に吐き出してビンクをつつみこんだ。ビンクの髪と体を燃きつくそうと――しかし、ビンクは無傷だった。
賭けに勝ったのだ。自信はあったが、反動で、まだ体が震えている。神経はめくらましだと信じていなかったとみえる。頭脳が、魔女の意志に盲従しそうになる心の動揺を抑え、真の危険にはまりこまないよう、ビンクを守ってくれた。めくらましは撃退できる。用心しさえすれば。
自信もあらたに、ビンクはふたたび歩きはじめた。すぐ近くに本物のドラゴンがいるなら、めくらましのドラゴン[#「めくらましのドラゴン」に傍点]は必要ではあるまい。ということは、このあたりのドラゴンは全部、めくらましだということになる。
ビンクはよろめいた。今度はちがう手でやられそうだ。地形の危険な個所をおおい隠して、足を踏みはずしたり、ころんだり、井戸に落ちたり、そのように仕向けることもできるはずだ。文字どおり、ビンクは足もとを一歩一歩、確かめて進むべきだ。
足もとにばかり気をとられていると、やすやすとめくらましにひっかかる恐れがある。アイリスの魔法の力は現象的だが、この島全体に技をかけているなら、必然的に薄く引き伸ばされているだろう。アイリスが注意をそらせているあいだに、ビンクはかぎられた地域の中で彼女の意志に対抗できた。見せかけの花壇の陰に、島の雑草だらけの荒れ地がある。宮殿はがたがたの掘ったて小屋で、これまで見てきた農家と、どっこいどっこいだ。めくらましが簡単にできるというのに、いい家を建てる必要があるだろうか?
ビンクが借りた衣類も変化していた。粗末な女もののショールに、これまた、(びっくり仰天したことに)女ものの下着。レースのついた絹の、女の子用のパンティだ。凝ったハンカチはそのままだった。どうやら魔女は、ある種の現実のものがお好みのようだが、手に入るのはレースのハンカチ程度らしい。それとパンティと。
ビンクはためらった。もどって、自分の衣類をとってこようか? アイリスとまた顔を合わせるのはいやだが、こんななり[#「なり」に傍点]で荒野を旅したり、人に出会ったりするのは……。
ビンクはよき魔法使いハンフリーに、教えを乞うている光景を想像してみた。
[#ここから2字下げ]
ビンク 魔法使いどの、わたしはいくたの危険にさらされつつ、ザンスを横断し、あなたさまにお願いを――
魔法使い 新しいドレスをか? 下着をか? ハッハハッハッ!
[#ここで字下げ終わり]
ビンクは顔が赤らむのを感じながら、ため息をついた。そして、あともどりした。
掘ったて小屋に足を踏み入れたとたん、アイリスにみつかった。彼女の顔が希望に輝いた。その、一瞬の正直な表情は、彼女の魔法の力よりも、はるかに強烈だった。ビンクは人間の人間らしさに、心を動かされた。自分が最低の人間のような気がする。
「気が変わったの?」アイリスがそう尋ねると、一変して、なまめかしい若さがもどり、彼女の周囲にだけ、きらめく宮殿の一部が形成された。
断絶だ。アイリスは手練手管を弄する人であり、ビンクはあるがままを好む。雑草ぼうぼうの中に建つ、掘ったて小屋という現実さえも。つまるところ、たいていのザンスの農民たちは、ろくなものは持っていないのだ。めくらましが生活に欠くことのできない支えとなったとき、その生活は価値を失う。
「ぼくの服がほしいだけです」ビンクの決意は強固だったが、アイリスの輝かしい大望をくじなんて、自分が卑劣漢のような気がしてならない。
ビンクは浴室に向かった。今見ると、それは、家の外にくっついて建っているしろものだった。あの夢のような便所は、まん中を丸くくりぬいた、ふつうの板にすぎず、その下をハエが陽気にぶんぶん飛びまわっている。浴槽は馬の水飲みおけを改良したものだ。シャワーは? バケツがある。すると、気づかずに、頭からざぶりと水をかぶっていたのか? ビンクの衣服と旅のうは、床にひとかたまりになっていた。
着替えようとして、ビンクは浴室の出入り口は、小屋の裏壁をくりぬいてあることに気づいた。アイリスがじっとこちらを見ている。さっきも見ていたのだろうか? とすれば、それは賛辞と受けとるべきだろう。浴室から出てきてから、彼女の接近のしかたが、ぐんと直接的に、肉感的になったのだから。
ビンクはもう一度バケツに目をやった。誰かがこのバケツの水をあびせてくれたのだ。自分でやったのではないことは誰かだ。それができる人物は、ひとりしかいない――てへッ!
しかし、すでに肉体をくまなくさらけだしてしまったとはいえ、二度とアイリスの目にさらす気はない! ビンクは荷物をひろいあげると、ドアに向かった。
「ビンク――」
ビンクは足をとめた。アイリスの周囲以外の個所は、ペンキのはげた、すすけた木の壁、床にはワラ、すきまから光が射しこんでいるという状態の家だ。だが魔女アイリスは愛らしかった。ほんのわずかしか身にまとっていず、ういういしい、十八ぐらいの娘に見える。
「あなたは女になにを求めているの?」アイリスは訊いた。「肉体的な美しさ?」みるみるうちに、砂時計型の量感たっぷりの体型に変わる。「若さ?」あっというまに、ほっそりした、凹凸のない、あどけない十四歳の少女に変わる。「成熟?」今度はきちんとドレスを着た彼女自身にもどる。「能力?」二十五歳ぐらいの保守的なドレスを着た、きびきびしたものごしの女になる。
「体力?」またもやアマゾネス・スタイルに変わり、たくましいが、愛らしさは残してある。
「わからない」ビンクは答えた。「本当を言うと、選ぶのはいやだ。あるときはこっち、あるときはあっち、なんだ」
「すべて、あなたのものにできるわ」うっとりするような十四歳の少女に変わった。「他の女は誰もこんな約束はできないわよ」
不意に、ビンクは激しい誘惑を感じた。これまで率直に認めようとはしなかったけれども、こうなるのを望んだときがあった。魔女の魔法はまったく有効的だ。見たこともないほど、有力だ。ザンスでは、めくらましなど珍しくはないし、ちゃんと法にかなっている。めくらまし〜なにが本物か、正確に知ることは不可能な術。事実、めくらましはザンスの現実の一部であり、重要な部分でもある。アイリスなら、確実にビンクに富と権力と住民としての資格とをもたらし、彼のために、望みの女性に変身してくれるだろう。あるいは、望むがままの、あらゆるタイプの女性に。
さらにそのうえ、アイリスのめくらましを政治的に使い、やがては同一の現実を造ることもできる。さまざまな装飾を施した、本物の水晶の宮殿を建てることができる。女王ならではの権力で可能になるだろう。その見地からいくと、それが彼女がもたらす現実で、彼女の魔法の力は、そのための手段にすぎない。
しかし、実際のところ、アイリスの本心はどこにあるのだろうか? 彼女の心の内にある現実は、ひょっとすると、甘いものではないかもしれない。ビンクはアイリスを完全に理解できないため、完全に信用することもできない。アイリスがよい女王になるかどうか、確信がもてない。全体として、ザンスの地の繁栄よりも、権力という飾りに関心がありすぎるようだ。
「ごめんよ」ビンクはくるりと背を向けた。
アイリスは引きとめなかった。もはや宮殿は失せ、嵐も消えた。ビンクの決意を受け容れたのだ。おかげで、ビンクはまた、自分が意地悪な人間のような気にさせられた。ビンクはアイリスを邪悪な女という気はなかった。アイリスはただ、野心のある女にすぎない。それに彼女は取り引きを申し出たのだし、いったん激情がおさまれば、あきらめを認めるだけの分別もある。そうは思っても、ビンクは足をとめずに歩きつづけた。とめどなく揺れ動く感情よりも、論理の方を信用して。
ビンクはたわんだ桟橋に降りていった。手こぎの小舟がつないである。見るからに頼りない舟だが、ここまでビンクを運んできたのだから、ここから運び出してくれるだろう。
小舟に乗りこんだとたん、泥水の中に足を突っこんでしまった。水が漏れている。ビンクはさびたバケツをつかむと、いくぶんか水をかき出した。そして腰をおろしてオールをにぎった。
アイリスは女王然としているあいだ、この舟をこぐために、さぞかし巧妙な処置をこうじたにちがいない。魔法の力を補う、平易で昔ながらのの実用的な力をたくさんもっているのだ。おそらく、アイリスはザンスのりっぱな統治者になれるだろう。ともにやっていこうという男がみつかりさえすれば。
なぜ協力を拒んだのか? ビンクは舟をこぎながら、めくらましの島をふりかえりつつ、よく考えてみた。表面的な理由は、一時的に満足がいくが、永久的な納得とまではいかない。たとえ自分自身に、体裁のよい弁明をしてみても、真実に隠された理論的根拠があるはずだ。もとのように、サブリナを思い出すことができなくなった。というのも、アイリスはサブリナと同じ女でありながら、はるかに強い魔法の力をもっているからだ。いや、まだ他になにかある。茫漠としているが、大きなものが。そう、そうだ! ザンスへの愛情だ。
ビンクは自分が故郷の堕落の道具となるのは、とても許せなかった。確かに現在の王はぱっとしないし、問題点は大きくなるばかりだが、ビンクはまだ、決められている秩序に対し、忠誠心を失っていない。乱世や野蛮な時代なら適切かもしれないが、そんな時代は過ぎてしまった。権威の譲渡の手順は決められているのだし、それは尊び敬まわれるべきだ。ビンクはザンスにとどまるためには、なんでもするつもりだ。裏切り以外のことは。
海は穏やかだった。海岸のごつごつした岩もめくらましだった。そこは結局、小さな砂浜にすぎなかったが、ビンクが駈けぬけようとした砂浜とも、海中で溺れそうになったあとで見た海岸とも、まるでちがっていた。例の地面の深い裂け目の横から、長く狭い桟橋が曲がって突き出ている。最初にビンクが走ったところだ。あのまま、まっすぐに走っていたら、まっすぐ深い海の中にどぼんと落ちていただろう。まちがいなく。
ビンクは小舟を南岸に着けた。さてと、どうやってこの舟を、魔女に返せばいいのだろう?
どうしようもない。あの魔女が他に舟をもっていないなら、泳いでこの舟を取りにくるしかない。ビンクは悪いと思ったが、あのめくらましの島にもどる気にはなれなかった。アイリスの魔法の力があれば、おそろしい海の怪物を逆におどすことができるだろうし、泳ぎもまずまずだろう。
ビンクは塩っぽい自分の服に着替え、旅のうを背にかつぐと、西の方を向いた。
5 泉
地面の深い裂け目の南側の風景は、北側にくらべると、ずっと荒けずりだった。ゆるやかな斜面ではなく、ごつごつした山が多い。いちばん高い峰は、雪をいただいている。狭い道は深く草が茂っており、ビンクは何度も迂回しなければならなかった。ふつうのイラクサやカイカイ草の茂みは始末の悪いものだが、こういう一風変わった草が魔法の力をもっているという話は聞かない。ぽつんと立っているもつれ木は、避けて通るにこしたことはないし、同種の木立ちもある。危険を冒すわけにはいかない。
ビンクは行く手を密生した木立ちにはばまれるたびに、それに背を向け、はるかに遠いまわり道を採った。また、見るからに楽な道も避けた。あやしい気配がするからだ。中間の草原の中を進む。密林と野原の境い目は、しばしば、もっとも殺風景な地域にある。不毛の、熱い岩の表面。胸をつく岩だらけの急斜面。吹きさらしの高台。どんな魔法の植物ですら見むきもしない土地というのは、人間が手数をかける価値がない。厄介ごとから一時のがれをしたい旅人は別だが。ある開けた地帯は、非常に大きなドラゴンの滑走路と知れた。この地域に他の肉食動物がいないのも不思議ではない。ビンクは遅々としか進めないため、よき魔法使いハンフリーの城に着くには、まだいく日もかかると覚悟した。
ビンクは地面の穴にもぐり、石を積んで風よけとし、枯れ枝を毛布がわりに、不安な夜をすごした。今さらながら、泊まっていけという魔女の勧めを受け容れるべきだった、と悔まれる。少なくとも、この状態よりはましだったろう。
いや、あそこにとどまるわけにはいかなかった。一夜をあそこですごしたら、二度と島を出られなかっただろう。本来の自分のままでは。また、かりに島で一夜をすごしたとしたら、サブリナは決して許してくれないだろう。白状すれば、単に心地よく眠るためにだけではなく、そんな夜を過ごしてみたい気もある。二度とない機会だったかもしれないからだ。
ビンクは何度もそう考えているうちに、震えながら眠りに落ちた。そして、ダイヤモンドの宮殿の夢を見て、複雑な気持で目をさまし、もう一度、震えながら眠った。ひとりぼっちで荒野を旅しているときに、誘惑を拒むのは楽しいことではない。ビンクは明日は、毛布の木と、熱いスープのひょうたんの木を探すことにした。
裂け目の南側を歩きはじめて三日目の朝、ビンクは西部への唯一のルート、尾根歩きにかかった。何度かためしたあと、新しい杖を手に入れている。最初にみつけた若木は、嫌悪のまじないを使って、ビンクをしりぞけた。また、無抵抗の“かまわないで”というまじないのために、ビンクには見えない適当な木も、たくさんあるにちがいない。またある木は、積極的な反撥力をもっており、ビンクが枝を切ろうとするたびに、ナイフをよけた。
新しい杖を求めて一時間ほど進みながら、ビンクは魔法の自然淘汰について考えつづけていた。もっとも効果的な力をもつ植物は、もっともよく生き残り、それゆえによく知られるようになるが、このあたりには、何人ぐらい、ナイフを持った旅人が通ったのだろう? ひょっとすると、木の撃退のまじないを、うまく利用できたかもしれない。もし、撃退の力のある木を切るのに成功すれば、あらゆる攻撃をはねつけるだろう。あきらかに、この力は、ナイフではなく、ドラゴンやビーバーの破壊から身を守るためのものだ。ドラゴンよけの杖ならば、安全このうえない。いやいや。木を切るということは、木を殺すことだし、つまりはその魔法の力も失せるだろう。だが、その種は――。
あともどりして時間を浪費するのは意味がない。いずれ同じような木がみつかるだろう。なすべきことは、枝を切りとろうとしてみて、どの木がナイフをよけるか知ることだ。小さな木がみつかったら、根から掘りとり、生命あるまま、魔法の力があるまま運ぶとしよう。
ビンクは尾根をわきにそれて下り、木を物色した。この証明は予想以上に危険がともなった。ナイフがやわらかな樹皮に近づいたとたん、木々はもてる力を最大に発揮した。ある木は固い実を落とし、ビンクの頭をかちわるところだった。またある木は、催眠香を発し、ビンクの旅もそこで終わりになりそうになった。だが、今度は切られるのをいやがるまじないはなかった。
一本の大きな木には、|木の精《ドライアド》が住んでおり、十四歳の少女になったアイリスのように魅力的だが、レディらしからぬことばで、手きびしくビンクをののしった。「身を守るすべもないものを切り刻みたいなら、おまえ自身を切り刻むがいい!」ドライアドは叫んだ。「掘り割りに倒れている傷ついた兵士を、切り刻むがいい! このちくし――」幸いなことに、ドライアドは最後まで言えずに、ことばをつまらせた。こんなことばを知っているはずがない。
傷ついた兵士だって? ビンクは掘り割りをみつけると、たんねんに探してみた。本当だった。背中に血のりのついた軍服姿の男が、苦しそうにうめいている。
「しっかりして」ビンクは言った。「よかったら、助けてあげます」かつてはザンスにも軍隊が必要だったが、現在の兵士は、おもに王の伝令として活動している。そして今なお、かれらの制服と誇りは失われていない。
「助けてくれ!」男は弱々しく言った。「礼はする。いずれ」
近寄ってもだいじょうぶなようだ。兵士はひどい傷を負っており、出血も激しい。熱もあるようだ。
「ぼくにはなにもできません。医者じゃないし。今動かしたら、死んでしまうかもしれない。薬をとってきます。剣をお借りしなくては」兵士が剣を手放すぐらいなら、本当に加減が悪いのだ。
「すぐもどってくれ――でなければ、もうもどるな」兵士は剣の柄をさし出しながら、あえいだ。
ビンクは重い武器を受け取ると、掘り割りの上に出た。ドライアドの木に近づき、話しかけた。
「魔法の力がいる。出血を止め、傷をふさぎ、熱をさます、そんな力が。すぐに、どこに行けばそれが手に入るか言ってくれ。でないと、木を切り倒すぞ」
「できっこないわ」ドライアドはぞっとして叫んだ。
ビンクは威嚇的に剣を持ちあげた。とたんに、村の剣のまじないの力のあるジャマを思い出し、げっそりした。
「言うわ、言うわ!」
「よし」ビンクはほっとした。自分に木を切り倒せるかどうか、自信がなかったからだ。木を切り倒せばドライアドは死ぬだろうし、目的も果たせない。ドライアドは危険な生きものではなく、見かけも美しい。ドライアドをいじめたり、その大事な木を切ったりするのは、本意ではない。
「西に三マイル行くの。命の泉があるわ。その水がなんでも治してくれる」
ビンクはためらった。「なにか隠しているな?」もう一度剣をふりあげる。「罠はなんだ?」
「言えないの!」ドライアドは叫んだ。「それを言った者はみんな――のろいが――」
ビンクは木の幹を切りつけるまねをした。ドライアドはひどく哀しそうな悲鳴をあげた。ビンクは故郷のジャスティンの木を守るために闘ったことがある。この木を痛めることはできない。
「わかった。ぼくはのろいを受けよう」ビンクは西に向かって歩きだした。
道がみつかった。ちゃんとした道ではなく、けもの道で、ビンクは用心して行くべきだと思った。他にも泉への道を知っている者がいるらしい。泉に近づくにつれ、ビンクはひどく不安になった。罠はなんだ? のろいとは? ビンク自身の命が危ういか、兵士に水を与えるか、いずれにしろ、その前にわかるだろう。
ザンスは魔法の土地だ。しかし、その魔法には規則があり、制限がある。まじないの正確な性質を理解せずに、いたずらに魔法を使うのは危険だ。もし泉の水が本当に兵士を治せるのなら、それはもっとも強い力のある泉だろう。そういう援助に対しては、なんらかの代価を求められるものだ。
泉はあった。大きく枝を広げたドングリの木の下に、窪地がある。みずみずしいドングリの木で、水の良さがわかった。毒ではありえない。しかし、他の脅威が考えられる。安心させるおとり[#「おとり」に傍点]として水を使い、その中に水の怪物がひそんでいるかもしれない。けがをしたり、死にかけている生きものは、かっこうのえじきだ。癒しの泉といういつわりの評判を聞きつければ、あちこちから生きものが集まるだろう。
待って観察している暇はない。すぐにも兵士を助けなければ、手遅れになってしまう。こうなれば危険をおかすまでだ。
ビンクは慎重に泉に近づいた。冷たく澄んでいる。片手で剣をつかんだまま、水筒を泉に沈めた。なにも起こらない。泉の底から、気味の悪い触手が伸びてくることもない。
水筒がいっぱいになるのを見ながら、ビンクは別のことを考えていた。この水が毒でないとすれば、薬だともかぎらない。もし効かなかったら、どうすればいいのか?
効き目をためす方法はひとつ。どうせ喉がかわいている。ビンクは水筒を口に当て、水を飲んだ。
水は冷たく、うまかった。ビンクはさらに飲んだ。生き返った思いがする。毒ではないのは確かだ。
ビンクはもう一度水筒を沈め、立ちのぼるあぶくをみつめた。水の中の左手がゆがんで見え、まるで指が五本、ちゃんとそろっているようだ。子供のときに失くした指のことは、あまり考えたことがなかったが、一見、ちゃんとした手を見ると、気分がふさいだ。
水筒をあげた――もう少しで取り落としそうになった。指が五本、そろっている! 本物だ! 子供のときのけがが治っている。
ビンクはびっくりして指を折り曲げ、さわってみた。つねってみると、痛い。まちがいない。これは本物の指だ。
この泉は本当に魔法の泉だった。十五年前に切断した傷を、きれいに、痛みもなく、あっというまに治せるのなら、なんでも治せるにちがいない!
風邪はどうだろう? ビンクは鼻から空気を吸ってみた。すっきり通る。鼻づまりも治った。
疑いの余地はない。この命の泉はすばらしい。真実の有力な魔法だ。人になぞえるなら、この泉は完璧な魔法使いだ。
ふたたびビンクの生まれつきの用心深さが、活動しはじめた。罠、あるいはのろいの性格は、まだわかっていない。なぜ、この泉の秘密を教えてくれる者がいないのか? 秘密とはなんだろう? 癒しの事実でないことはあきらかだ。ドライアドが教えてくれたし、ビンクも他人に教えてやれる。なにも襲ってこないところをみると、のろい[#「のろい」に傍点]というのは水の怪物ではなさそうだ。今やビンクは五体満足だし、元気いっぱいだから、十分に身を守れる。仮定のひとつは消えた。
とはいえ、それで危険がなくなったわけではない。単に、思っていたより、もっと難解な脅威となっただけだ。難解な危険ほど悪いものはない。火を吐くドラゴンという、はっきりした脅威からはのがれられても、やすらぎの松の森の隠れた魔法の力には負けてしまう。
兵士は死にかけている。一刻を争うというのに、ビンクはまだぐずぐずしていた。ビンク自身も、あの兵士も、これまで以上にひどい危険にさらされないよう、秘密を探りださなければならない。魔法がかかっているとわかるといけないから、贈りもののユニコーンの口の中を、あらためるべきではないと言われているが、ビンクはつねにあらためてきた。
ビンクは泉の前にひざまずき、深い底をみつめた。いわば、口の中をあらためていることになる。「おお、命の泉よ」低い声でささやきかける。「ぼくは実際は恩恵をこうむったけれども、自分自身の利益を求めに来たのではなく、慈悲を感じたから来たのです。ぼくが不注意にめいわくをかけるといけないので、あなたの原理をぜひお教えください」ビンクは強く主張できるような魔法の力をもたないから、この正式の祈願に自信がないが、これしか考えつかない。きびしく取り立てられてしかるべき代価を、確認もせずに、こんなすばらしい贈りものを受け取るわけにはいかない。
泉の底でなにかがうずまいた。力のある魔法そのものだと、ビンクは感じた。まるで、穴から別の世界をのぞいているようだ。そう、この泉は、独自の意識と自尊心をもっている! 泉の意思の場が、ビンクをおしつつむ。ビンクの意識はその深みに達し、理解した。〈われを飲む者は、われのもたらすすべての罰として、わが心にそむく行ないをすべからず〉
そうか。これは簡単明瞭な自己保存のまじないだ。だが、その実行はきわめてむずかしい。なにが泉の心で、なにが泉の心に反するのか、誰に定義できよう? 泉以外の誰に? このあたりでは、材木を切り出すことはできまい。なぜならば、木を切ることは環境をそこない、気候を変え、降雨に影響を及ぼすからだ。採鉱もだめだ。そんなことをすると、地下水面が下がり、泉を汚染するだろう。原理を知らせるのを禁止していることでさえ、意味がある。前もって代価を知ってしまえば、軽いけが人や病人は、魔法の水を使わなくなるだろう。きこりや鉱夫は特にそうだ。しかし、池に小石を投げこんでできる波紋のように、意義を縮小すれば、あらゆる行為がふくまれてしまう。やがては、波紋は海全体に広がるものだ。この場合は、ザンス全体に。
おそらく泉は、ザンスのひややかな王の行為によって、直接的におびやかされていると判断しているのだろう。王がきこりに税を課したため、きこりはその税を払うために、さらに多くの木を切っているからだ。泉はその水を飲んだ者を、王への反逆者、暗殺者にしたてるのだろうか? 泉のおかげで命をとりとめた者は、うまくやれるかもしれない。
この魔法の泉にとって、ザンスの社会全体を変えるのは、理論的に可能だ。事実上の統治者になることすら。けれど、孤立したひとつの泉の意志には、必ずしも人間社会の意志とは一致しない。たぶん、泉の魔法の力は、それほど極端には及ばないだろう。そうなるには、ザンスじゅうの、あらゆる存在の結集した力と、同じぐらい強力な力が必要だからだ。だが、じっくりと、時間をかければ、効果はある。それは倫理的な問題となる。
「ぼくはあなたの契約を受けることはできません」ビンクは泉の底のうずまきに言った。「あなたになんの恨みもありませんが、あなたの心どおりに行動すると、誓うことはできないんです。ザンス全体の意志はすぐれたものです。恩恵はお返しします。ぼくはぼくの道を行きますから」
泉は怒りを見せた。水がにごり、底が見えないほどだ。ふたたび魔法の場がビンクをおしつつんだ。ビンクは自分の遠慮のなさを思い知らされた。
しかし、それは嵐がおさまるように、だんだん消えていった。ビンクは……五体満足なままで残された。指はちゃんとあるし、風邪も治っている。泉にはったりをかけて、勝ったのだ。
本当だろうか? もしかすると、泉の恩恵は、泉の心に反することを特別にしでかすまでは、取り消されないのかもしれない。まあいい、ビンクのこうむった恩恵は、わずかだ。報いもつぐなえる程度だろう。ビンクは、結果を恐れるがゆえに、自分の感じたことが正しいと思うのをやめた。
ビンクは立ちあがり、手に剣を持ったまま、水筒のひもを肩にかけた。くるりとふり向いた。
キメラがのそのそと、こちらにやってきている。
ビンクはさっと剣をかまえた。とうていうまくさばけないのだが。キメラは獰猛な怪物だ! だが、瞬間、ビンクは怪物がひどい状態にあることを見てとった。ライオンの頭の舌はだらりと垂れ、ヤギの体は動きがにぶく、ヘビの尾は地面に力なく引きずられている。キメラは血をしたたらせながら、腹ばいになって泉の方に向かっている。
ビンクは立ちどまり、わきに寄って、キメラを通してやった。こんな状態では、たとえキメラとはいえ、敵意をいだけるものではない。これほどの深手を負った動物を見るのは、初めてだ。あの兵士を別にすれば。
キメラは泉に達すると、ライオンの頭をうつむかせ、むさぼるように水を飲んだ。
たちまち効果が表われた。ヤギの体はしゃんと力をとりもどし、ヘビの尻尾はぴんと伸びた。
まちがいない。キメラは生気を回復したのだ。今度は危険だ。この手の怪物は、人間を憎んでいる。キメラはビンクに一歩近づいた。ビンクはむだな抵抗だと知りつつ、両手できつく剣を握った。ビンクがキメラに傷を負わせることができても、敵はすぐさま泉にひき返して、二度目の回復につとめるだろう。
けれど、攻撃もせずに、キメラはぷいと背を向けてしまった。ビンクは安堵の吐息をもらした。勇敢な態度をとってはみたものの、友好関係にあるとは言えない泉の前で、こんな怪物と一戦まじえるなど、まっぴらだったからだ。
この付近には、一般的な停戦協定があるようだ。食肉獣が獲物をつかまえるのは、泉の心に反する事項のひとつで、狩りや戦いは許されていないのだろう。ビンクにとっては、幸いだった!
ビンクは斜面をよじ登り、東へ向かった。あの兵士がまだ生きていればいいが。
兵士は生きていた。兵士らしく、頑健なのだ。自然に最後の息をもぎとられるまでは、息をひきとる意志がないようだ。ビンクは魔法の水を兵士の口にしたたらせてやり、傷口にもふりかけてやった。不意に、兵士は元気をとりもどした。
「どうしたんだ?」兵士は叫んだ。「背中を刺されたなんて、うそのようだ」
ビンクと兵士は丘の上に立った。「魔法の泉の水をくんできたんです」ビンクは説明した。そして、ドライアドの木に目をやった。「この親切な木の精が、泉のことを教えてくれたんですよ」
「やあ、ありがとう、木の精よ。お返しに、なんなりと――」
「行ってちょうだい」ドライアドはビンクの手の剣に目をすえたまま、きびしく言った。
ビンクと兵士は歩きはじめた。「あなた、泉の心にそむくようなことはできませんよ。それに、恩恵の代価を他人にもらすことも。そんなことをすると、もとの状態に逆もどりです。ぼくとしては、あなたにとっては当然の代価だと思いますが」
「まったくだ! わしは王の目玉シダの畑の護衛で、見まわり中だった。そのとき、何者かが――なあ、この霊水をひとくち飲めば、王の目も、目玉シダを必要としなくなるんじゃないかなあ? この泉の――」兵士はことばを切った。
「泉の場所は教えてあげられますよ」ビンクは言った。「ぼくの知るかぎりでは、誰が使ってもいいようです」
「いや、そんなことじゃないんだ。ちょっと急に思いついただけで。わしは、王はこの水を飲むべきじゃないと思う」
この飾りけのない意見に、ビンクは深い衝撃を受けた。これは、泉の影響が広く利己的に広がるという、ビンクの意見を立証しているのではなかろうか? 王の健康が回腹するのは、泉の心に反するから、だから――。
いや、待てよ。もし王が泉の水で癒されれば、そのときは王自身が泉の心に支配される。泉がその点に反対する理由は?
それにまた、兵士に泉の秘密をうちあけたとき、なぜビンクの新しい指は失くならず、風邪もぶり返さなかったのだろう? ビンクは泉に反抗した。罰は受けていない。泉ののろいというのは、はったりなのだろうか?
兵士は片手をさしだした。「クロンビーです。クロンビー伍長。あんたはわしの命の恩人だ。どうすればお返しができるだろう?」
「いえ、ぼくは当然のことをしたまでです。あなたを見殺しにできなかったんですよ。ぼくは魔法使いハンフリーのところへ、魔法の力をみつけてもらいに行く途中なんです」
クロンビーはあごひげにさわりながら、じっと考えこんだ。そんなかっこうをすると、なかなかハンサムだ。「道を教えることができる」クロンビーは目を閉じ、右手を突き出して、ゆっくり体をまわした。ひとさし指がぴたりととまり、クロンビーは目を開いた。「魔法使いはこっちだ。これがわしの力でね。方向を知る力。捜しものなら、なんでも教えてあげるよ」
「方向はわかっているんです。西、いちばんの悩みのたねは、この密林を通りぬけることで。敵意あるまじないが多すぎて――」
「あんたの言うとおりだ」クロンビーは心から同意した。「敵意あるまじないのほとんどは、文明化された地域の中にある。侵略者どもは、わしが生き返らず、死体もみつからないようにと、魔法をかけてここにわしを連れてきたんだ。わしの亡霊は、深い密林の中では、わしの仇もとれなかっただろう」
「いや、それはわかりませんが」ビンクは裂け目の底の亡霊ドナルドを思い出した。
「しかし、あんたのおかげで、わしは元気になった。よろしいか、わしはあんたが魔法使いのところに着くまで、あんたの護衛をつとめよう。これは公平なお返しにならんかね?」
「そんな必要は――」
「いや、わしはやる! 兵士の名誉にかけて。あんたはわしに親切にしてくれた。わしもあんたにお返しをする。断固。お役に立ちますぞ。ごらんにいれよう」クロンビーはもう一度目を閉じ片手を伸ばして、体を回転させた。静止すると、話をつづけた。「こっちの方角は、あんたの幸せの大いなる脅威となる。確かめてみたいかね?」
「いいや」
「ふむ、わしは確かめてみたい。危険というやつは、無視してやりすごせるものではない。あんたは出向いて行って、克服すべきだ。わしの剣を返してくれたまえ」
ビンクが剣を返すと、クロンビーはたった今指し示した方向に歩きだした。北へ。
ビンクはむっとして、クロンビーのあとにつづいた。危険など願いさげにしたいのだが、自分のかわりにこの兵士を行かせるのは、正しくないとわかっていた。待ち受けている危険とは、谷ドラゴンのように、はっきりした実体のあるものだろう。しかし、それにしても、ビンクが裂け目に入らないかぎり、直接の脅威とはならない。そしてビンクは、裂け目に入る気は全然なかった。
クロンビーは行く手を密生した茂みにさえぎられても、あっさりとひと太刀でなぎはらった。植物のあるものは、剣の刀が触れる前に、よけていた。よけることが生き残るための最高の道だとすれば、この植物たちはその道をとっているのだ。だが、この兵士なら、もつれ木をもたたき切るだろう。もつれ木は、クロンビーの言う危険のうちに入る。
ところが、もつれ木は軽率な者には致命的なのに、しんと突っ立ったきり、枝一本動かさなかった。ビンクが北に行くのではなく、西へ向かっていたためだ。人が進む方向が西でなければ、動かないものは、なんら、恐れる必要もなかった。
悲鳴が聞こえた。ビンクはとびあがり、クロンビーは剣をかまえた。それは単に、びっくりした女の悲鳴だった。
「なにか言え、娘!」クロンビーは剣呑な刀を振りまわしながら、どなった。「どんな悪さをしかけるつもりだ?」
「乱暴をしないで!」娘は泣き声で言った。「あたしはただのディーよ。ひとりぼっちで、道にまよったの。あなたたち、助けにきてくれたのかと思った」
「うそをつけ!」クロンビーはまたどなった。「おまえは、このひとに害を加えるつもりだろう。わしの命の恩人に。白状しろ!」そしてふたたび剣を振りあげた。
「後生だから、その娘にかまわないでください!」ビンクは大声で言った。「あなたはまちがってる。その娘は悪人じゃない」
「わしの力はこれまでまちがったことなど、ない。あんたの大いなる脅威が存在する場所は、ここだ」
「脅威は、その娘のずっとうしろの方にあるのかもしれない。その娘は、その線上にいるだけなんですよ」
クロンビーはためらった。「そうかもしれん。それは考えつかなかった」荒っぽさの下に、理性が隠れているようだ。「待っていろ。確かめてみる」
クロンビーは少しうしろにさがり、娘の東の方を向いた。目を閉じ、くるりとまわる。ひとさし指が、まっすぐに娘を指した。
娘はわっと泣き出した。「あたし、なにもしない。誓うわ。乱暴をしないで!」
ディーはごく平凡な娘だった。厳密に言えば美人ではなく、並の容貌だ。ビンクが最近出会った数人の女たちとは、大いにちがっている。それに、ディーにはどことなく親しみのもてる点があった。ビンクは女が嘆くのは見ていられない性質だ。「肉体的な危険ではないようですよ。あなたの力は区別できますか?」ビンクは訊いた。
「いや、できない」クロンビーは、やや弁解口調で言った。「どんな脅威でもありうる。確かに、その娘はあんたに危害を加える気はないようだ。だが、なにかがあるのはまちがいない」
ビンクは泣きやみつつある娘を、よく見た。どこかで見たことがある。いったいどこで? 北の村の者ではないし、かといって、よそで女の子に会ったことはない。旅の途中、どこかで会ったのか?
ふとひらめくものがあった。めくらましの魔女は、必ずしも美しく見せかけなくてもいいのだ。もしビンクのあとを追いかけたいと思えば、ビンクが疑いをもたないように、まるでちがう姿になるだろう。めくらましは、本人本来の姿に多少とも似ている方が、長時間もたせるのに、つごうがいい。あちこちの肉を少し落とし、声を変えれば――可能だ。ビンクが計略にひっかかれば、堕落という、おそろしい危険にはまりこむことになる。クロンビーの魔法の力だけが、それを避けてくれる。
しかし、どうすればわかるのだろう? たとえディーが、なんらかの決定的な脅威をもたらすとしても、ビンクとしては、それが正真正銘の危険だと確信をもたなければならない。毒ネズミを避けた男は、一方のハーピーを見のがすものだ。魔法に関しては、軽率な判断は要注意だ。
ビンクはすばらしいことを思いついた。「ディー、きっと喉がかわいているだろうね。水を飲みなさい」水筒をさし出す。
「まあ、ありがとう」ディーはうれしそうに水筒を受けとった。
泉の水は、すべてのゆがみを治す。魔法による変身は、ゆがみではなかろうか? ディーが水を飲めば、わかるだろう。少なくとも瞬時のうちに、本当の姿を現わす。そうすれば、ビンクにもわかるだろう。
ディーはたっぷり水を飲んだ。
変化はない。
「ああ、おいしかった。とても気分がよくなったみたい」
男ふたりはちらりと視線をかわした。すばらしい思いつきは消えてしまった。ディーは魔女アイリスではないのか、それとも、魔女は思ったよりうまく制御できるのか。どちらか知るすべはない。
「どこに行くつもりだ?」クロンビーはぶっきらぼうに尋ねた。
「魔法使いハンフリーに会いに」ディーは恥かしそうに答えた。「ぐあいをよくしてもらうまじないが必要なの」
ふたたび、ビンクとクロンビーは目を見かわした。ディーは魔法の水を飲んだ。悪いところは治った。だから、その意味では、もう魔法使いハンフリーに会いに行く必要はない。ディーはうそをついている。うそをついているとすれば、いったいなにを隠しているのだろうか?
ディーはビンクの行く先を知っているから、自分もその特別な目的地を選んだのだろう。これもまた、推測にすぎない。まったくの偶然の一致かもしれないし、あるいは、ディーは女の姿をした人喰い鬼――健康な人喰い鬼だ!――で、襲いかかるしおどきを狙っているのかもしれない。
ビンクの優柔不断を見かねて、クロンビーが決断をくだした。「あんたがいっしょに娘を連れていくのなら、わしも行く。剣から手を離さずにね。四六時中、娘を見張っている」
「それがいちばんいいかもしれません」ビンクはしぶしぶ同意した。
「あなたたちに悪意なんかもっていません」ディーは言い張った。「たとえできるにしても、危害を加えたりはしないわ。なぜ信じてくれないの?」
その説明はとてもむずかしい。ビンクは言った。「きみがそうしたいなら、ぼくらといっしょに旅ができるよ」
ディーは感謝に満ちた笑みを浮かべたが、クロンビーは苦々しげにくびを振り、剣の柄に指を触れた。
クロンビーは依然として疑いをもちつづけたが、ビンクはやがて、ディーとの旅を楽しむようになった。ディーには魔女アイリスの個性の片鱗すらうかがえない。あまりに平凡な娘なので、ビンクはかなりの程度まで、見かけどおりの娘なのだと信じはじめた。ディーには魔法の力がないようだ。少なくとも、彼女はその話題を避けている。たぶんディーは、魔法使いハンフリーに、彼女の魔法の力をみつけてもらいに行くのだろう。ぐあいをよくしてもらうまじないが必要だ、というのは、その意味だろう。ザンスでは、魔法の力なしで、ぐあいがいい者などいるはずがない。
とはいえ、もしディーが魔女アイリスなら、魔法使いにたちまち見破られ、計略はばれてしまう。そうなれば真実がわかる。
三人は命の泉で足をとめ、水筒に水をつめ直すと、半日、旅をつづけた。そして、色とりどりの雹の嵐につかまってしまった。むろん、これは魔法か、あるいは魔法に付随するものだ。色を見ればわかる。つまり、この雹は、溶けもせず、流れもしないということだ。雹の大降りが過ぎてしまうまで、避難するしかない。
ところが、一行はたまたま不毛の尾根にいた。周囲数マイル内には一本の木も、洞窟も、人家もない。地形はでこぼこだし、浸食された谷で分断されており、大きな石がごろごろ散らばっているけれども、雹を避けるのに手頃なものは、なにひとつない。
ますます激しく降ってくる雹にうたれながら、三人はクロンビーの魔法が示す方向に、一目散に走った。安全な避難場所がある方向に。大きな石のうしろに、それはあった。巨大な枝を広げた触手木だ。
「触手木だ!」ビンクは恐怖の叫び声をあげた。「あそこへは行けない」
クロンビーはちょっと足をとめ、雹の嵐の中からビンクをのぞき見た。「行ける。わしの力は、これまでまちがったことはない」
ディーの件以外ではね、とビンクは思った。ビンクはクロンビーの力が本当はどれほどのものか、疑問に思った。たとえば、背中を刺され、置き去りにされる前に、彼自身の危険を、どうして知らせなかったのか? しかしビンクは、その疑問を声に出しては言わなかった。魔法とは複雑で、つじつまのあわないものなのだし、ビンクはクロンビーに好意をもっているからだ。
「あれ、ゾウサイよ!」ディーが叫んだ。「半分、食べられてる」
そのとおりだった。木の幹の穴近くに、大きな動物の死体がある。下半身はなくなっているが、上半身は残っている。触手木がゾウサイをつかまえ、できるだけ消化したのはあきらかだった。けれど、ゾウサイがあまりに大きすぎ、さしもの触手木も一度に片づけるわけにはいかなかったらしい。今、触手木は満腹状態で、触手は大儀そうにだらりと垂れ下がっている。
「なら、安全だ!」ビンクはタマゴほどもある赤い雹が、頭をかすめて落ちたのにぎょっとしながら言った。雹はふくらんでいて軽いが、それでも当たればけがをする。「触手木がまた活動できるようになるまで、何時間かある。もしかしたら何日間か。そうなっても、まずあのゾウサイの残りを食うよ」
だが、クロンビーはまだ、もっともらしく立ちどまっていた。「あの死体は、めくらましかもしれん。すべてを疑え――これが兵士のモットーだ。わしらに安全だと思わせる罠かもしれない。触手木がゾウサイを、どうやって誘いこんだと思う?」
するどい指摘だ。尾根の間欠的な雹嵐で、犠牲者をあわてさせ、一見、理想的な避難場所として待ち受ける。みごとな手管だ。「だけど、早く避難しないと、雹にうたれて、目がまわってしまう」ビンクは言った。
「あたしが行くわ」ビンクが止めるまもなく、ディーは触手木の攻撃範囲内に駆けこんだ。
触手が揺れ、ディーの方に曲がった――が、真剣にそうしようという意志が欠けていた。ディーはゾウサイをけった。ちゃんと実感がある。「蜃気楼じゃないわよ。いらっしゃいな」
「あの娘が囮でなければ、な」クロンビーはつぶやいた。「言っておくが、あの娘はあんたの脅威だよ、ビンク。もしあの娘が触手木の囮なら、何十人もの人間を罠にかけているだろう――」
この男は偏執狂だ。たぶん、兵士にとって、それはまた別の有効的な特質なのだろう。もっとも、その特質も、クロンビー自身の危険には、なんの役にも立たなかったようだが。
「ぼくはそれは信じない。だけど、この雹嵐は信じる! 行くよ」ビンクは走った。
ビンクは不安そうに触手の外側のふちの側を通ったが、触手はじっとしたままだった。腹をすかせた触手木は、おとなしい植物ではない。ふつうは、つかめる距離に獲物が来たとたん、ぐいとひっつかんでしまう。
ようやくクロンビーもやって来た。触手木は三人を食べられないのがいまいましい、というように、かすかに揺れたが、それだけだった。
「そう、わしはわしの力が真実を告げると知っておった。いつもそうなんだから」クロンビーはいくぶん弱々しく言った。
触手木の下は快適だった。雹は今や握りこぶし大の大きさになっているが、触手木の上部の葉に当たって落ち、木の周囲にぐるりと積もり、わずかに低くなっている土地にころがってきた。食肉木は、よく、こんな窪地に立っている。通りすがりの動物たちの気をそそるような芝生を用意するために、触手を動かして下ばえをはらい、石ころをどかすわけだ。食べたもののかすは、遠くへ放り投げるため、何年かたつうちに、周囲の土地の表面が高くなる。この触手木はうまく成功した木らしく、過去のえじきの骨を埋めて、ちゃんとへりのある窪地ができている。北の村近辺からは、こういう木は一掃されているが、子供たちはこの木の恐ろしさをよく教えこまれている。理論上は、ドラゴンに追いかけられたら、触手木の周辺に逃げこみ、ドラゴンを触手木の攻撃範囲内に連れこめばいい。それだけの勇気と巧妙さがあれば、の話だが。
ビンクたちが避難している場所は、女の体の形に似た、ゆるやかな小山で、美しい芝生が生えそろっていた。あたりには甘い香りがただよい、空気はさわやかに暖かい。要するに、避難場所を求めているものにとって、ここは理想的な場所に見える。あきらかに、意図的な作りだ。ゾウサイがあざむかれたのも無理はない。おあつらえの位置だからこそ、この触手木も巨大に成長したのだろう。しかし、今のところ、ここは無料休息所だ。
「うむ、わしの力はいつも正しい」クロンビーは言った。「わしも信用せにゃならん。だが、同様に……」クロンビーは意味ありげにディーをちらりと見た。
ビンクもまよっていた。クロンビーは誠実な男だし、彼の方向の魔法の力はとても実用的だ。すると、ディーの場合は、クロンビーの力が不調だったのか、それとも、彼女は本当は悪人で、目に見えぬ脅威なのか。そうだとすれば、いったいどんな脅威だろう? ディーに悪意があるとは、とうてい考えられない。ディーが魔女アイリスの変身した姿ではないかと、ビンクは疑っていたが、今はもう疑いは消えた。ディーには、あのめくらましの魔女の性質の、かけらさえないようだ。それに、個性というしろものは、長時間、魔法で隠しおおせる性質のものではない。
「あなたの力は、なぜ、背中を刺されると教えてくれなかったんですか?」ビンクはなにが頼りになり、なにが頼りにならないかを、さらに確かめたくて、クロンビーに尋ねた。
「わしが訊かなかったからさ。まったく、愚かだった。だが、あんたを魔法使いのところに無事にとどけたら、誰が刺したか訊きだして、そして……」クロンビーの指が、もの言いたげに剣の刃に触れた。
当然の答だ。魔法の力は警告信号ではない。要求があり次第、作用するにすぎない。クロンビーは危険がせまっているとは、夢にも思わなかったのだろう。現在ビンクが脅威を感じている以上に。生まれつきの用心深さと、偏執狂との差は、どこにあるのだろう?
雹嵐はまだつづいている。三人はそこまで触手木を信用していないので、眠りにつこうとする者はいなかった。かわりに、三人は腰をおろして話しこんだ。クロンビーは荒々しい古代の戦いの話や、ザンスの第四次移動時代の話をした。ビンクは好戦的な男ではないが、その勇ましさに魅せられてしまい、そういう冒険の時代に生まれていたかったと思ったほどだ。魔法の力がない人間が、人間だと考えられていた時代に。
話が終わる頃には、嵐もおさまってきたが、雹がうず高く積もっており、その中に出ていくのは賢明とは言いがたかった。ふつう、魔法の嵐にともなう現象は、太陽がふたたび照りだすと同時に、急速に消えてしまうから、待っている方が賢明だ。
「どこに住んでいるの?」ビンクはディーに尋ねた。
「あら、あたしはいなか娘よ。荒野を突っ切って旅をする者など、他にいなかったわ」
「それじゃ答えにならん」クロンビーが疑いぶかそうに、ぴしゃりと言った。
ディーは肩をすくめた。「それが答えだわ。あたしは自分を、好きなように変えられないんですもの」
「ぼくの答えも同じだ」ビンクは言った。「ぼくは村人で、特別な人間じゃない。魔法使いがぼくを特別な人間にしてくれるんじゃないかと、期待してるんだ。誰も考えもしなかったようなりっぱな魔法の力が、ぼくにはあると教えてくれたら、喜んで一年間の奉公をするんだが」
「そうね」ディーはビンクに感謝のほほえみを向けた。突然、ビンクは自分がディーと似ているのに気づいた。ディーは平凡だ――ビンクと同じように。ディーには望みがある――ビンクと同じように。ふたりには共通した点があった。
「あんたの魔法の力がみつかったら、村の娘と結婚するのかい?」クロンビーが皮肉な口調で訊いた。
「ええ」ビンクはサブリナを思い出し、急に胸が痛くなった。ディーは顔をそむけた。「それに、そうなれば、ザンスにとどまっていられます」
「あんたはバカだ、バカな民間人だ」クロンビーはやさしく言った。
「それがぼくのたったひとつのチャンスなんです。ふたつにひとつしか道がないときに、賭けたりするのは――」
「わしが言ってるのは、魔法の力のことじゃない。魔法の力は役に立つ。それに、ザンスにとどまるのも意義がある。わしが言うのは結婚のことだよ」
「結婚?」
「女というのは、人類ののろい[#「のろい」に傍点]だ」クロンビーは熱っぽく言った。「女は男を罠にかけて結婚する。触手木が獲物をとらえるのと同じ手口でな。そして残りの人生を耐えがたいものにするんだ」
「そんな、ひどいわ」ディーが口をはさんだ。「あなたにはおかあさんがいないの?」
「おふくろは、尊敬すべきおやじを、のんだくれの気狂いにしちまった」クロンビーはきっぱり言った。「おやじの人生を、この世の地獄にしたんだ。そして、わしの人生をも。おふくろは心が読めたんだ。それが、おふくろの魔法の力だった」
男の心が読める女。男にとっては、確かに地獄だ! もし、すべての女がビンクの心を読めるとしたら――うーっ!
「きっと、おかあさんにとっても地獄だったでしょうね」ディーが意見をのべた。
ビンクは微笑をかみころしたが、クロンビーはいやな顔をした。「わしは家を出て、成年になる二年前に軍隊に入った。それを悔んだことは一度もない」
ディーは眉をしかめた。「あなたは神さまが女にも贈りものをくれた、とは考えないのね。あたしたち女は、あなたが女に近づかなかったのをありがたく思うわ」
「いや、近づくさ」クロンビーは下品な笑い声をあげた。「ただし結婚しない。女なんかにつかまるわけにはいかん」
「いやなひとね」ディーは手きびしかった。
「利口なんだよ。もしビンクが利口なら、あんたの誘惑には乗らんだろうよ」
「そんなこと、してないわ!」ディーは怒って大声を出した。
クロンビーはあからさまに嫌悪を示し、そっぽを向いた。「ふん、女はみんな同じだ。なぜわしは、おまえたちのような女どもの話をして、時間をむだにしているんだろう。悪魔と徳義を論じあっているのと同じなのに」
「そんなふうに思われているのなら、あたし、行きます!」ディーはすっくと立ちあがり、ゆっくりと歩いた。
ビンクはディーが行くふりをしているのだと思った。嵐は弱まってきたとはいえ、ときどき突風が吹いている。色とりどりの雹は二フィート近くも積もり、太陽はまだ顔を出さない。
しかしディーは避難所からとび出した。
「おい、待てよ!」ビンクはディーのあとを追った。
ディーの姿は嵐に隠れて見えなくなっていた。「ほっとけよ。いい厄介ばらいだ」クロンビーが言った。「あの娘はあんたに下心があった。わしにはわかる。最初から、あの娘はあやしかったんだ」
ビンクは頭を腕でかばい、雹にうたれながら触手木の外に出た。足が雹ですべり、まっさかさまに雹の山の中に倒れこんでしまった。ビンクは頭のてっぺんまで雹に埋もれた。ディーがどうなったか、わかった。彼女も、このあたりに埋もれているのだろう。
つぶれた雹のかけらが目に入るため、ビンクは目を閉じざるをえなかった。本物の氷ではないが、空気中の水蒸気と融合する。魔法だ。雹は乾いており、冷たくもない。けれど、つるつるすべりやすい。
なにかが足をつかんでいる。ビンクは魔女アイリスの島の近くの海の怪物を思い出し、力いっぱいけった。海の怪物はめくらましで、このあたりに海の怪物がいるはずがないことも忘れて。しかし、足音はしっかりつかまれている。引きずりこまれそうだ。
ビンクはそれを離そうと、足をばたつかせた。煙幕の向うに、トロールの姿が見える。
ビンクは空中を飛ばされ、あおむけにどしんと地面に落ちた。腕を引っぱられている。トロールは力が強い! ビンクはじたばたして、足首をつかんでいるものを引き離そうとした。だが、そいつはビンクの体にのしかかり、しっかりと押さえつけてきた。
「落ち着け、ビンク、わしだ。クロンビーだ」
ビンクはその状態を考えれば、よくもできたものだと感心するぐらいだが、そいつ[#「そいつ」に傍点]がクロンビーだとみとめることができた。
クロンビーはビンクを立たせた。「雹の山の中から、どうやって脱け出したらいいかわからんだろうと思ってね、わしの手の届く部分、あんたの足首をつかんだのさ。あんたは目に魔法の粉が入ってるから、わしだとわからなかった。悪いけど、押さえつけなきゃならなかったよ」
魔法の粉か。そうだろうとも。そいつが視界をゆがめ、人間をトロールや、人喰い鬼などに見せる。もちろん、それと逆の場合もある。魔法の嵐にはつきものの危険で、そのために人間は逃げきれないのだ。たぶん、多くの人が、あの触手木を毛布の木とまちがえたことだろう。
「いいんです。あなたたち兵士は、闘いかたをごぞんじだ」
「みんな仕事のうちさ。投げかたを心得ている者を攻撃してはいかん」クロンビーはビンクの耳の傍で指を一本立てた。「やりかたを教えてあげよう。役に立つ、魔法とは関係のない力だ」
「ディー!」ビンクは急に叫んだ。「あの娘はまだ埋まってる!」
クロンビーはしかめっつらをした。「わかった。わしがあの娘を追い出した。そんなにあんたが気にするなら、みつけるのに手を貸そう」
この男も、女性に対してすら、ある程度の礼儀をわきまえているらしい。「あなた、本当に女嫌いなんですか?」ビンクはふたたび雹と取りくもうと用意しながら訊いた。「心を読まない女もきらいなんですか?」
「女はみんな心を読む。魔法の力がなくても、たいていの女は心を読む。だが、わしとても、ザンスじゅうに、わしのための娘がいないとは言いきれない。もし、いじわるでなく、こうるさくなく、うそつきでない娘がみつかったら……」クロンビーはくびを振った。「たとえそんな娘がいるとしても、わしなんかと結婚してくれないだろうよ」
この兵士は女性たちが拒絶すると思っているから、すべての女性を拒絶しているのか。それはまったく、理屈に合っている。
今や嵐はおさまった。ビンクとクロンビーは積もった雹の中に踏みこみ、むやみにつぶさないように注意して歩いた。色のついた時化《しけ》雲もなくなった。魔法の命令が尽きるや否や、急速に消えてしまったのだ。
こんな嵐を起こすのは、いったいなに[#「なに」に傍点]だろう? 嵐自体には生命はないにちがいない。だが、ビンクは旅をつづけているうちに、生命のないものが魔法の力をもつことがわかった。それも、しばしば非常に強い力を。それがまさにザンスの実体であり、ザンスに存在する生きとし生けるものと、生命なきものとに、ゆっくりと広がっているのかもしれない。生命あるものたちは、魔法の分け前をコントロールし、方向づけ、焦点を合わせ、意志の力で表明する。生命なきものは、この嵐のように、魔法の力をでたらめに発揮する。ここには、広い地域から集まった、たくさんの魔法の力があるらしい。そのすべてが、無意味な雹嵐に費されているようだ。
いや、まったく無意味というわけではあるまい。あの触手木は恩恵をこうむっているし、おそらくは、なんらかの形で地域的な生態学に貢献しているだろう。雹はより弱い生きもの、生存していくに不適当な動物を選り分け、荒野の進化を助長している。それに、他の生命なきものの魔法は、れっきとした意義をもっている。たとえば、北の村の見晴らし岩や、あの命の泉だ。泉の魔法の力は、地域全土に浸透している水を精製して、その効能を強めているのだろうか? たぶん、魔法の力自体が、生命なきものに個性を与えているのだろう。ザンスのどの面を見ても、魔法に影響されており、支配されている。魔法がなければ――そう思うとぞっとするが――ザンスはマンダニアと同じだ。
雲のあいまから太陽が顔を出した。太陽の光があたると、雹は色のついた水蒸気と化した。雹の魔法の組織は、直射日光に耐えられないのだ。ビンクはまた考えこんだ。太陽は魔法と性が合わないのだろうか? もし魔法が地の深部から発しているのならば、地表は二次的なものにすぎない。地の底を探検してみたら、力の源に近づけるかもしれない。おもしろい!
実際のところ、ビンクは個人的な魔法の力の探求の旅はさておき、ザンスの現実の根原的な活力を探ってみたくなった。地の底深くへ降りてみれば、あらゆる疑問の答がみつかるのは確かだ。
だが、ビンクにはできない。ひとつには、ディーを捜し出さなければならないからだ。
数分もたたないうちに、雹はすべて消えてしまった。しかし、ディーも同様だ。
「斜面をころげ落ちて、森の中にはまりこんだんだろう。わしらの居場所を知っているから、その気になれば捜し出せるさ」クロンビーは言った。
「困った目に会っているのでなければね」ビンクは心配そうに言った。「魔法を使ってください。ディーをみつけだして」
クロンビーはため息をついた。「よかろう」目を閉じ、ゆっくり体をまわし、尾根の南側を指した。
ビンクとクロンビーは斜面を駆け降りた。密林の手前のやわらかい土の上に、ディーの足跡があった。たどっていくと、まもなくディーに追いついた。
「ディー!」ビンクはうれしそうに大声で叫んだ。「すまなかった。密林をひとりで歩いちゃいけないよ」
ディーは断固として歩きつづけている。「ほっといてちょうだい。あなたたちといっしょに行きたくないわ」
「でも、クロンビーは本気じゃなか――」
「本気だったわ。あなたたちはあたしを信用してない。だったら近寄らないで。ひとりで行く方がましよ」
それで決まった。ディーの意志は固い。ビンクは無理強いする気はない。「それじゃ、助けかなにか必要になったら、大声で呼ぶとか、なんとかしてくれ――」
ディーは返事もせずに歩きつづけた。
「彼女は大いなる脅威ではなかったね」ビンクはわびしく言った。
「いや、あの娘は脅威だ」クロンビーは主張した。「だが、目の前に存在しないなら、大いなる脅威も脅威ではない」
ビンクとクロンビーは尾根にもどり、旅をつづけた。一両日後、クロンビーの的確な魔法の方向感覚と、荒野の危険を避ける力とのおかげで、ふたりは魔法使いの城が見えるところまでたどり着いた。クロンビーは大いなる助けだった。
「さあ、あれだ」クロンビーは言った。「この方向は安全だし、これで借りは返せたと思う。わしはもう一度任務につけるよう、王に報告する前に、わし自身の仕事を片づけなくてはならん。あんたの魔法の力がみつかるといいね」
「ぼくもそうだといいと思ってます。投げとばしかたを教えてくれて、ありがとう」
「まだ十分じゃないよ。実際の役に立つようにするには、うんと練習を積まなくては。それから、あの娘については、わしの力がまちがっていたようだな」
ビンクはその点について話をする気はなかったので、クロンビーと握手をすると、よき魔法使いハンフリーの城に向かって歩きだした。
6 よき魔法使い
印象的な城だった。大きくはないが堂々としており、たくみに設計されている。深い堀、頑丈な外壁、胸壁と銃眼をそなえた中庭の高い塔。手作りとなると、腕のいい職人が一団となり、一年がかりで建てることになるから、この城は魔法で作ったにちがいない。
ハンフリーは情報知識の魔法使いで、建造やめくらましの魔法使いではないはずだ。こんな大建築の魔法をどうやってかけたのだろう?
まあ、いい。とにかく城はある。ビンクは堀に向かって歩いていった。勢いよく馬が駈けてくる音が聞こえ、城の奥から馬が現われると、水の上を走ってきた。いや、馬ではない。上半身が馬で、下半身がイルカの、海馬だ。ビンクはイルカは古い絵でしか見たことがない。水中ではなく、空気中で呼吸する、魔法の魚だ。
ビンクは思わずうしろにさがった。どうも危険な相手のような気がする。地面の上を追いかけられることはないようだが、水中でバラバラにされそうだ。堀はどうやって渡ればいいのだろう? はね橋ひとつ見あたらない。
そのときビンクは、海馬の背に鞍が置いてあるのに気づいた。冗談ではない! この水の怪物の背に乗れというのか?
しかし、堀を渡るのに、他に手はない。魔法使いは、いいかげんな者に時間をとられるのがいやなのだろう。ビンクにこの海馬に乗るだけの勇気がなければ、ハンフリーに会う資格がないことになる。かなりつむじまがりな考えかただ。
ビンクは心底から、問題の答を得たいと顧っているのだろうか? 一年間の奉公をしてまで。
ビンクの心に、美しいサブリナのおもかげが浮かんだ。あまりになまなましく思い出したため、他のことはすべて気にならなくなってきた。ビンクは堀のふちで待機している海馬の傍へ行き、鞍によじのぼった。
海馬は動きはじめた。堀をまっすぐ渡るかわりに、いななきながらあちこち疾走する。堀を競馬場同様に、気持よさそうに走りまわっている。一方ビンクは、生きた心地もなく、鞍にしがみついていた。海馬の力強い前脚は、ひづめというより、ひれ[#「ひれ」に傍点]に近く、水をかきわけはねかして、ビンクをずぶぬれにした。じっとしていたときは、たくましい尾もくるりと環をえがいていたのだが、今は伸びきって、力いっぱい水をたたいているため、鞍が上下に激しく揺れる。一瞬でも油断をすると、乗り手は振り落とされそうだ。
「ヒヒーン、ヒヒーン!」海馬は気げんよくいなないた。ビンクの望みの場所に連れていくのは、この水の怪物なのだ。鞍など気にもせず、老練にはねあがることもできる。なんてバカだったんだろう!
待てよ――鞍にしがみついているかぎり、襲われる心配はない。とにかく、しがみついてさえいれば、そのうち海馬も疲れてくるだろう。
行なうより言うはやすし。海馬はあばれまわった。堀よりも高くはねあがるかと思うと、次にはあわだつ水の中にどっぷりつかる。尻尾をきりもみ状に動かしては、何度もビンクを水の中にひきずりこんだ。自分を振り落とし溺れさせるために、水の底で急に動かなくなるのではないだろうか、とビンクは不安だった。だが、鞍はしっかり背に固定してあるし、ビンクの頭は海馬の頭と同じ方向を向いている。馬が呼吸をするときは、ビンクも呼吸ができる。海馬は動きまわっているが、ビンクはじっと鞍にしがみついているだけだ。馬の方がビンクより体力を消耗しているのだから、それだけ早く呼吸しなければならない。したがって、ビンクが溺れ死ぬ可能性はないわけだ。ビンクがそこに気がつきさえすれば。
事実、ビンクが頭をしゃんと伸ばしておきさえすれば、なにがあろうとも、勝てる。
ついに海馬は疲れ果てた。のそのそと内門にたどりつき、おとなしくビンクを降ろした。ビンクは最初の関門を突破した。
「ありがとうよ」ビンクは海馬に軽くおじぎをした。海馬は鼻を鳴らすと、水をはねかして、すばやく手の届かないところに行ってしまった。
ビンクの目の前には、大きな木のドアがあった。閉ざされたそのドアを、ビンクはこぶしでたたいた。固くて手の方が痛くなってくるし、ほとんど音が響かない。トン、トン、トン。
新しい杖は堀の中に落としてしまったので、ビンクはナイフを抜いて、それでドアの取っ手をこつこつたたいた。けれど、結果はかんばしくなかった。中空の壁がいちばんよく音を伝えるとするなら、これは疑いもなく、密につまっているのだ。どうにもしようがない。
もしかすると、魔法使いは留守なのではないだろうか? それにしても、城には召使いぐらいいるはずだ。
ビンクは腹がたってきた。長い、危険な旅をしてここまでやってきたのだし、ささやかな情報を得るために、莫大な代価を払う覚悟もしてきた。だのに、よき魔法使いは、ノックに応えるだけの礼儀すら、わきまえていないではないか。
魔法使いがどうであろうと、中に入ってやる。なんとかして、とにかく、意見を聞いてもらうのだ。
ビンクはドアを調べてみた。高さはたっぷり十フィート、幅は五フィートある。八フィート四方の角柱を、手で切って作ってあるらしい。となると、重さは一トンぐらいあるだろう。ちょうつがいはない。つまり、引き戸式に開くということだ。いや、壁は固い石だ。では引きあげ式か? 引きあげ用のロープも、滑車も見あたらない。ドアの内部に隠しネジがあるのかもしれないが、それは厄介だし、いくぶん危険でもある。ネジというやつは、ときどき調子が狂うことがあるからだ。すると、ドア全体が床の下に落ちるのだろうか? いや、床も石だ。まるで、出入りのたびに、ドア全体を取りはずすしかないような造りだ。
待てよ、そうか! これはみせかけの、だまし扉にちがいない。魔法の力にしろ、物理的な力にしろ、日常の使用にはもっと実際的な出入り口があるはずだ。要はそれをみつけることだ。
石の中か? いや、これは手に負えないほど重い。重くなれば、敵が押し入る際の急所になる。頼りになる堅固な城に、弱点があるはずがない。では、どこだろう?
ビンクは大きな木のドアの表面を、指でなでてみた。一ヵ所、亀裂がある。それに沿って四角くなぞってみた。ここだ。両手を中央に押し当て、ぐいと押す。
四角が動いた。内側にすべっていき、最後には向う側に落ちた。人がひとりくぐれるぐらいの穴が、ぽっかり開いた。これが出入り口だ。
ビンクはぐずぐずしなかった。穴から内部に入りこむ。内部は薄明りのさすホールだった。そして、新たな怪物がいた。
マンティコラだ。馬ほどの大きさで、人間の頭、ライオンの体、ドラゴンの翼をもち、サソリの尻尾のある怪物。魔法的な生きもののなかで、もっともおそろしい怪物。
「昼メシにようこそ、ほんのひとくちくん」マンティコラは弓形の尻尾を背中の上まで、たかだかとあげた。口は奇妙で、歯が三列に並んでいる。しかし、その声はさらに奇妙だった。フルートのような、トランペットのような、美しい声だが、なんともたとえようがない。
ビンクはナイフをひらめかせた。「ぼくはおまえの昼メシじゃない」思った以上に、自信がある。
マンティコラは笑った。声の調子が皮肉っぽく、気むずかしくなる。「昼メシ以外のなにものでもないぞ、人間よ。おまえは飛んで火に入る夏の虫だ」
そのとおりだった。だがビンクは、こういう無意味な妨害にはもううんざりしていた。そして、見かけとは逆に、無意味ではないのかもしれないとも思っていた。魔法使いの怪物たちが、訪問者をかたっぱしから食べてしまったら、ハンフリーはすることがなくなり、報酬も絶えてしまう。誰に聞いても、魔法使いハンフリーは主として自分自身の利益のために生きるがっちり屋だという。財産をふやすために、法外な報酬が必要なのだ。とすれば、このマンティコラも、海馬やドアと同じく、ひとつの試験だろう。ビンクはこれを解く鍵をみつけなければならない。
「ぼくは望みさえすれば、いつでもこの檻から出ていける」ビンクは大胆に言った。体が震えて、膝ががたがた音をたてなければいいが。「これは人間の大きさには合っていない。怪物用の大きさだ。とらわれているのは、おまえの方さ、歯だらけくん」
「歯だらけくんだと!」マンティコラは信じられないように、六十本あまりの歯を見せてくり返した。「おい、このあかんぼめ、十億年の眠りにつかせてしまうぞ!」
ビンクは四角い出入り口の方に進んだ。怪物は頭越しに尻尾をぶつけてきた。ものすごい速さだ。
ビンクはあともどりするとみせかけただけだった。頭を下げ、ライオンの爪めがけて進む。怪物の思惑とは逆の方向だし、怪物は空中で向きを変えることはできない。死をもたらす尻尾は、ぐさりと木の床に刺さり、ライオンの頭は、ドアの四角い穴に突っこんだ。肩がつかえ、穴に体が入りきれず、ドラゴンの翼がむなしく羽ばたいている。
ビンクはがまんできなかった。しゃんと背を伸ばすと、くるりとふり向いて、どなった。「まさかぼくが、あともどりせずに、前進してくるとは思わなかったんだろ、うしろ向きの怪物くん?」そして、マンティコラの尻尾の下、怪物の尻を、力いっぱい、すばやくけとばした。
ドアの向うから、怒りと苦痛に満ちた、笛のような咆哮が聞こえた。ビンクはまっしぐらにホールを駆けぬけ、人間サイズのドアがあることを願った。さもないと――。
ドアがこわれた。背後でものすごい音がした。マンティコラがドアをこわして自由になり、こちら向きになったのだ。本気で怒っている。外に出る道がないと――。
あった。ビンクの挑戦は、怪物を殺したのではなく、怒り狂わせてしまった。誰にしろ、ナイフごときで、あんな怪物を殺せるものではない。ビンクはかろうじて、ドアからよろめき出、かんぬきをさした。マンティコラは尻尾からバラバラと木くずをふりまきながら、攻撃してきたが、まにあわなかった。
ようやくビンクは城内に入れた。かなり暗い、じめじめしたところで、人間が住んでいる気配はまるでない。よき魔法使いはどこにいるのだろう?
ビンクの存在を知らせる方法があるにちがいない。マンティコラ騒動では十分でないようだから。ビンクはあたりを見まわし、ひもがぶらさがっているのをみつけた。ぐいと引っぱり、なにかが落ちてくると困るので、うしろにさがった。このかわいい城は信用できない。
ベルが鳴り響いた。リン、リン、リン。
こぶだらけの、年老いたエルフが急ぎ足で出て来た。「お呼びになりましたのは、どなたさまで?」
「北の村のビンク」
「ドリンク、なんですと?」
「ビンク! ビ・ン・ク!」
エルフはしげしげとビンクをみつめた。「あなたさまのご主人、ビンクさまは、なんのご用事でございましょう?」
「ビンクはぼくだ! 用事というのは、魔法の力について、お尋ねしたい」
「して、よき魔法使いの貴重なお時間をさしあげる、その返礼は?」
「きまりの料金を。一年間の奉公です」そして低い声で、「べらぼうだけど、しかたがない。あんたのご主人は、公然たる泥棒だ」
エルフはじっと考えこんだ。「魔法使いは、ただいま手がふさがっております。明日、出直していらっしゃいませんか?」
「明日出直せだと!」ビンクは叫んだ。次のとき、海馬やマンティコラにどんな目にあうか、わからない。「じいさんは、ぼくの用事がいるのか、いらないのか?」
エルフは顔をしかめた。「よろしい、そうまでおっしゃるなら、どうぞ階上《うえ》へ」
ビンクは小人のあとから、曲がりくねった階段をのぼった。高くなるにつれ、城の内部はあかるくなり、華麗に、住みごこちがよさそうになっていった。
ようやく、エルフは書類だらけの書斎にビンクを招じ入れた。大きな木の机の前に、エルフは腰をおろした。「たいへんけっこうだ、北の村のビンクよ。この城の守りをみごとにやりすごしてきた。おまえは、おいぼれの泥棒の時間と、おまえの奉公とがつりあうと、なぜそう思ったのだな?」
ビンクは怒りのことばを投げつけようとしたが、この小人がよき魔法使いハンフリーだと、はっと気づき、ことばをのんだ。やられた!
けり出されないうちに、正直に答えるしかない。「ぼくは丈夫で、働くことができます。あなたの時間と、ぼくの奉公がつりあうかどうか、決めるのはあなたです」
「おまえは頭が悪いし、食欲もおうせいにちがいない。おまえから奉仕を受ける以上に、わしのまかないがふえるのは確かだ」
ビンクは肩をすくめた。その点を論争してもむだだ。魔法使いをさらに怒らせるだけだ。ビンクはまっしぐらに最後の罠にかかったのだ。傲慢という罠に。
「おまえだとて、本を運び、ページをめくるぐらいはできよう。字は読めるか?」
「少し」ビンクはセントールの学校に行っていたときは、かなりできる生徒だった。だがそれは何年も前の話だ。
「それに、侮辱の手並みもたいしたものだ。くだらない問題をかかえて、乗りこんでくるじゃま者と話をするには、うってつけかもしれん」
「かもしれません」ビンクはぶあいそうに認めた。
「では、こっちへ。一日じゅうこうしているわけにはいかん」ハンフリーは椅子からとび出した。本物のエルフではないとわかったが、人間としてはとても小柄な男だ。もちろん、エルフは魔法的生きもので、魔法使いにはなれない。そのため、最初、ビンクは誤解したのだ。それにしても、ビンクの推測はどんどん的確になってきている。ザンスは、ビンクが思ってもみなかった魔法の区分を示しつづけていた。
どうやら、魔法使いはビンクの一件を引き受けたらしい。ビンクはハンフリーのあとから、小さな部屋に入った。そこは実験室で、棚の上にも、床にも、魔法の道具が山積みになっているが、一ヵ所だけ、なにも置いていない場所がある。
「わきに寄っておれ」ハンフリーはぞんざいに言ったが、ビンクがよけるすきまなど、ないも同然だ。魔法使いには人好きのする面がない。一年間、ハンフリーのために働くのは、まったく骨のおれることだろう。だが、それだけの価値はある。もしビンクに魔法の力があると教えてくれ、それがすばらしい力であるならば。
ハンフリーは棚からちっぽけなびんを取り、よく振ると、床の上に描かれた|五角の星形《ペンタグラム》の中央に置いた。そして、両手である身振りをし、不可解なことばで祈りを唱えた。
びんのふたがぽんとはずれた。煙がもくもく出てきた。煙はかなりの大きさのかたまりになったかと思うと、悪魔の姿になった。特に残忍な悪魔ではない。この悪魔の角は退化しており、尻尾は矢じり状ではなく、やわらかなふさになっている。そのうえ、メガネをかけていた。マンダニアから取り寄せたものだろう。マンダニアの住人は、弱った目を矯正するために、こういう道具を使うといわれている。それを、神話的人物が持っている。ビンクは大声で笑いそうになった。近視の悪魔だなんて!
「おお、ボールガード」ハンフリーは抑揚をつけて言った。「われ、ここに、盟約により与えられた権利をもって、なんじを呼び出すものなり。われに告げたまえ。このザンスの北の村のビンクに、魔法の力がありやなしや」
そうか、これが魔法使いの秘儀なのか。ハンフリーは悪魔の召喚者なのだ。|五角の星形《ペンタグラム》は、魔法のびんから解き放った悪魔を、牽制するためのものだ。学問好きの悪魔とて、地獄の生きものに変わりはない。
悪魔ボールガードは、メガネの奥の目をビンクにひたとすえた。「わしの領域に入れ。すればとくと見てやるものを」
「いやだ!」ビンクは叫んだ。
「元気のいいバカ者よな」悪魔は言った。
「彼の個性を問うているのではない」ハンフリーはきびしく言った。「彼の魔法の力はなんだ?」
悪魔は一心に考えこんだ。「この者は魔法の力を――強い力をもっている――が――」
強い力! ビンクは舞いあがる心地がした。
「だが、わしは見抜くことができん」ボールガードは魔法使いに苦い顔を向けた。「すまぬな、まぬけ。この者からは手を引くぞ」
「ならば消え失せろ、役たたずめ!」ハンフリーはどなりつけ、するどい音を立てて両手を打ちあわせた。どうやら侮辱されるのには慣れているらしい。生活の一部なのだろう。ビンクはこの点でも、ついて[#「ついて」に傍点]いたわけだ。
悪魔は煙に変わり、びんの中にもどった。ビンクは中になにが見えるか確かめようと、目をこらしてびんの中をみつめた。背を丸めて豆つぶのような本を読んでいる、ちっぽけな悪魔の姿が見えるのだろうか?
魔法使いハンフリーは、ビンクをじっとみつめた。「おまえには強い魔法の力があるが、見ぬくことはかなわぬ。おまえは知っておったのか? 承知の上で、わしの時間をむだに費しに来たのか?」
「いいえ。ぼくに魔法の力があるとは、ちっとも知りませんでした。そんなしるしは全然なかったんです。あればいいと願っていましたが――ないとわかるのはこわかった」
「こんなあいまいなことを、説明できるものがあると思うか? 逆まじないかな?」
ハンフリーは全能とはほど遠いようだ。だがビンクは、彼が悪魔の呼び出し屋であると知った。それで説明がつく。正当な理由なくして、悪魔を呼び出す者はいない。魔法使いハンフリーは、はなはだしい危険をおかすがゆえに、その見返りに高い報酬を要求するのだ。
「ぼくにはなんだかわかりません。ぼくは万能の魔法の水を飲んだだけです」
「ボールガードはそんなことではだまされない。やつはかなりわかりのいい悪魔だ。魔法の本当の学者だ。おまえ、その水をいくらか持っているか?」
ビンクは水筒を取り出した。「少しあります。いつ必要となるか予測できませんから」
ハンフリーは水筒を取り、手のひらに数滴たらすと、舌で味わってみた。考え深げに顔をしかめる。「ふつうの処方だな。知識情報や占いの魔法の力をそこなうものではない。わしの地下蔵に、同じ成分の小さい樽がある。わしが作ったものだ。もちろん、わしの作ったやつは、泉の利己的な意志とは無縁だ。だが、これは大事にするがいい。役に立つだろう」
魔法使いは、壁の図面の側のひもに、触れ針を取りつけた。図面には微笑している天使ケルビムと、しかめっつらの悪魔の絵が描いてある。
「二十の質問をしよう」ハンフリーは両手を動かし、呪文をとなえた。ビンクは先ほどの認識は早まりすぎたと気づいた。ハンフリーは単なる悪魔の呼び出し屋ではなく、やはり知識情報の専門家なのだ。
「北の村のビンク。なんじはこの者を正しく判断するか?」
触れ針が揺れ、ケルビムを指す。
「この者は魔法の力をもつか?」
ふたたびケルビム。
「強い力か?」
ケルビム。
「しかと見きわめられるか?」
ケルビム。
「その種類を告げられるか?」
触れ針はぐるりとまわって、悪魔を指した。
「なんだ、これは」魔法使いは腹ただしげに言った。「いや、いや、今のは質問ではないわい、バカめ! ひとりごとじゃ! なぜ、なんじら精霊が妨害するのか、わしには見当もつかん」魔法使いは解き放ちの呪文を投げると、ビンクの方を向いた。「なにやら、ひどくようすがおかしい。大問題になってきたようだ。おまえに真実のまじないをかけてみよう。問題の核心がつかめるやもしれん」
魔法使いはふたたび短い腕を振りまわし、いやな響きの呪文をつぶやいた。急にビンクは不思議な気分になった。これまで、こんな奇妙な魔法にお目にかかったことはない。身振りといい、ことばといい、雑多な装置といい。魔法使いは働かせる意志があるときに働かせられる、生来の力を使っている。よき魔法使いハンフリーは、いわゆる科学者とやらのようだ。ビンクにはマンダニアの用語は、さっぱり理解できないが、
「おまえは何者だ?」魔法使いが尋ねた。
「北の村のビンク」これは真実だ。だが今回は、ビンク自身が望むからではなく、まじないが強いるから、答えているだけだ。
「なぜここに来た?」
「魔法の力をもっているのかどうか、もっているなら、どんな力かを知りたくて。そうすればザンスを追放されずにすみ、結婚でき――」
「十分だ。さまつなことは関係ない」魔法使いはくびを振った。「すると、ちゃんと本当のことを言っていたんだな。謎は深まり、話はこみいってきた。さて、おまえの魔法の力はなんだ?」
ビンクは無理に話そうと口を開いた――とたんに、動物の咆哮が聞こえた。
ハンフリーは目をぱちくりさせた。「そうだ、マンティコラは腹が減ってるんだ。まじないは消えた。わしがマンティコラに餌をやってくるあいだ、ここで待っておれ」
まったく、つごうの悪いときに、マンティコラの腹が減るものだ! だがビンクには、餌をやるという雑事のために、あわてて出て行ったハンフリーを責める気はなかった。あの怪物が檻を破ったりすれば――。
ビンクは自分の意識から自由になった。部屋の中を歩きまわる。ごったな品物を避け、なんにも触れないように気をつけた。鏡がある。
「鏡よ、壁の上の鏡よ」ビンクはふざけて問いかけた。「この世でいちばん美しいのは誰だ?」
鏡はいったん曇り、やがて澄みきった。でぶでぶに太った、いぼだらけのヒキガエルがこちらをじろりと見ている。ビンクはとびあがった。そして了解した。これは魔法の鏡なのだ。鏡はこの世でいちばん美しいものを見せてくれているのだ。いちばん美しいヒキガエルを。
「ぼくが訊いているのは、いちばん美しい人間の女性のことだよ」ビンクは質問の意味を明確にした。
今度はサブリナがこちらを見ていた。最初ビンクは冗談のつもりだったのだが、鏡のおかげで真剣になってしまった。本当にサブリナはこの世でいちばん美しいのだろうか? 客観的に言って、それはちがう。鏡は、サブリナが唯一のひとだという、ビンクのひいき目に従って、サブリナをうつしだしたのだ。他の男の場合なら――。
画面が変わった。今度はウィンがうつっている。そう、彼女も美しい。美しさに見あうだけの知性はないが。しかし、ああいう女を好きになる男もいるだろう。一方――。
とたんに魔女アイリスがうつった。最高に目をあざむくめくらましの姿で。「ビンク、そろそろわたくしに会いたくなる頃だと思ったわ。わたくしはまだあなたを――」
「いやだ!」ビンクが叫ぶと、鏡はもとにもどった。
「おまえは知りたいことも教えてくれるのかい?」ビンクは鏡に訊いた。もちろん、できるだろう。でなければ、ここにあるはずがない。
鏡は曇り、また澄みきった。ケルビムの姿がうつった。イエスの意味だ。
「ぼくの魔法の力をみつけるのに、なぜこんなに手間がかかるんだい?」
鏡にうつったのは、肢だった――猿の肢。
ビンクはしばらくそれをみつめ、意味を解こうとしたが、わからない。鏡が混乱し、見当ちがいの像をうつしたにちがいない。
「ぼくの魔法の力はなんだ?」ついにビンクは訊いた。
と、鏡にひびが入った。
「なにをしておる?」背後からハンフリーの声がかかった。
ビンクはうしろめたく、とびあがった。「あの、ぼく、鏡をこわしてしまったようです。ぼくはただ――」
「おまえはただ、精妙に作られた道具に、露骨に愚かな質問をしたのだ」ハンフリーは怒りに満ちた声で言った。「おまえは悪魔ボールガードが言えなんだことを、鏡がうつしてくれると、本気で思ったのか?」
「すみません」ビンクはあやまった。
「おまえときたら、値うち以上に厄介なやつだ。だが同様に、ひどく興味をそそられる。仕事をつづけよう」魔法使いはふたたび、真実を引き出すまじないをとなえた。「おまえの魔法の力はなん――」
ガチャンという音が響いた。ひびの入った鏡が破片となって落ちたのだ。「なんじに訊いておるのではない!」ハンフリーは鏡にどなり、ビンクの方を向いた。「おまえの――」
いきなりガタガタと城が揺れた。「地震だ!」魔法使いは叫んだ。「なにもかもいちどきに起きる!」
魔法使いは壁ぎわに行き、銃眼から外をのぞいた。「ちがった。目に見えない巨人が通っただけだ」
ハンフリーはビンクのところにもどった。そして目を細くして、きびしくビンクをみつめた。
「これは偶然の一致ではない。なにかが、おまえの邪魔をしているのだ。答えさせまいとしてな。なにか強力な、わけのわからない魔法だ。魔法使いの力に魔法をかけている。今日生きていて、そのランクに概当する者は三人しかおらんが、どうやら四人目が現われたらしい」
「三人?」
「ハンフリー、アイリス、トレントだ。しかし、この三人はこのような魔法は使えん」
「トレント! 邪悪な魔法使いの!」
「おまえは邪悪と言うだろうな。わしは決してそう思わんが。昔、わしらは友だちだった。仲間としての友情があった――」
「でも彼は、二十年前に追放されました」
ハンフリーは横目でビンクを見た。「追放と死が同じだというのか? やつはマンダニアに住んでおる。わしの知識情報の力は、シールドの向うにはおよばないが、やつは生きておると確信している。優秀なやつじゃよ。もっとも、今では魔法の力はないが」
「はあ」ビンクは感情的には追放は死と同じだと考えていた。これは心に留めておかなければならない。シールドの向うにも生活があるのだと。ビンクとしては、向うに行きたくはないが、少なくとも、おそろしいものはぐんと減るだろう。
「心苦しいが、これ以上、問題を追求する気はない。わしは邪魔の魔法に、きちんと対抗できんのだ」
「そんな、いったいなぜ、ぼくの魔法の力を知るのを、邪魔されなきゃならないんです?」ビンクは途方にくれた。
「いや、おまえは知っているさ。ただ、口に出して言えないだけだ。おまえ自身に対してさえもな。おまえの心のいちばん深いところに、埋もれているのだ。そしてそこから、動きたくないようだ。わしは一年間の奉公ぐらいで、危険に巻きこまれる覚悟を決めるわけにはいかん。まったくの話、その取り決めでは大損じゃ」
「だって、それじゃ、魔法使いの意味が――ぼくはただの人間なんですよ! ぼくを助けてくれるのは――」
「それは人間ではなく、おまえに与えられている特権かもしれん。無知の特権」
「なぜです?」
ハンフリーは顔をしかめた。「お若いの、おまえもくどいな。おまえの魔法の力は、ある特別な力ある者にとって、脅威なんじゃよ。銀の剣がドラゴンの脅威であるように。たとえドラゴンの目の前に銀の剣がなくても、だ。だからこそ、その者は、おまえが魔法の力を自覚するのをはばんでおるのじゃよ」
「では――」
「その者の正体がわかれば、おまえの力もわかる」ハンフリーはビンクの質問に先まわりして、きっぱり言った。
けれどもビンクはあきらめない。「どうすれば、ぼくに魔法の力があると認めてもらえます? できさえしたら、ザンスにいられるんだ」
「そいつは問題だな」ハンフリーはそれが学問的課題かのような口調で言った。「できれば答えてやりたいが、わしにはできん。ところで、役に立てなかったのだから、むろん、代価はいらん。おまえにひとつ、言っておこう。おそらく王は、おまえがザンスにとどまるのを許すだろう。その力を表に出せないが、魔法の力を有する者についての、付則があるはずじゃ。ときおり、怪しげな力の表示もあることだし。たとえば、尿の色を変えてみせる若い男がおった。その男は公衆の面前で、その力を発揮せずともいいと認められたよ」
失敗したせいか、魔法使いはやさしくなったようだ。ビンクに黒パンとミルクのおいしい食事をごちそうしてくれた。専用のパンの木の実と、飼いならしたシカの乳だ。そして、愛想がいいと言ってもいいほどのおしゃべりと。
「大勢の者がここに来て、くだらん問題をうちあけおる。必要なのは、答ではなく、正しい問題をみつけることだ。おまえの問題は、わしが年を取ってから初めての、本当の難問だ。その前の難問は――ええっと、そうだ、常世《とこよ》の花だった。ある農夫が、緑豊かで実りの多い、特殊な植物を育てたいと言いおってな。それができれば、家族をよく養えるし、暮らし向きが楽になる。多少の収入も得られるというわけだ。わしは魔法の常世の花を探してやった。今ではザンスはむろん、知るかぎりではかなたの地にも広まっている。その木からは本物と区別のつかないパンができるのだよ」ハンフリーはビンクを軽く突っついた。「そういうものこそ、答うるに足る問題じゃよ。個人にとっても、ザンス全体にとっても、大いなる利となる答こそな。それにくらべ、猿の肢まがいの欲望が多すぎる」
「猿の肢!」ビンクは思わず叫んだ。「ぼくが鏡に尋ねたとき、鏡にそれが――」
「だろうな。マンダニア人の話をもとに、その像をうつしたんだ。だが、このザンスには、そのような魔法はごろごろしておる」
「でも、どういう……」
「おまえ、いろいろ知るために、一年、わしのところに奉公するか?」
「いえ、それまでは」ビンクはパンをかみしめた。本物のパンよりこし[#「こし」に傍点]が強い。
「では、ただで教えてやろう。猿の肢というのは、喜びよりも悲しみをもたらすたぐいの魔法のことじゃ。知らぬ方が幸せな魔法だ」
すると、ビンクは自分の力を知らない方が幸せなのだろうか? 鏡はそう言いたかったとみえる。しかし、追放となれば、魔法の力は完全に奪われてしまうが、それでも、知るよりましなのだろうか?
「くだらないにしろ、そうでないにしろ、問題を持ちこんでくる人は多いですか?」
「わしがこの城を造り、隠してしまってからは、それほど多くはない。今では、本当に決意した者だけにしか、道がわからんのだ。おまえのようにな」
「どうやって、この城を造ったんです?」魔法使いが話しているかぎりは……。
「セントールさ。わしが彼らに害虫の退治のしかたを教えてやり、彼らはわしに一年間の奉公をした。セントールはものを作るのが、じつにうまく、りっぱな仕事をしてくれた。わしは定期的に、まどわしのまじないをかけて、城への道を変える。いいかげんな質問者にわずらわされないようにな。好適の場所じゃよ」
「怪物たち! あの海馬や、マンティコラも、一年間の奉公で、ここにいるんですか? うるさい質問者たちの気をくじくために」
「あたりまえだ。楽しくてここにいるとでも思っておるのかね?」
ビンクは考えてみた。海馬があばれまわった、あのひどい浮かれようを思い出す。狭い堀よりは、広々とした海の方が、当然いいに決まっている。
ビンクはパンを食べ終えた。本物のパンと同じぐらいおいしかった。「あなたは知識情報の力で、どうして王にならないんです?」
魔法使いハンフリーは笑った。不平も不満もない笑い声だ。「心の正しい者が、王になりたいなどと思うものかね? 王など、退屈で気骨の折れる仕事だよ。わしは規律励行者ではなく、学者にすぎん。わしの仕事は、わしの魔法の力を安全に、独特にしておき、より広く適用できるよう洗練しておくことだ。なすべきことは山ほど残っているが、わしはどんどん年をとっていく。よそごとに気をとられている暇はない。王冠はほしい者にくれてやるさ」
ビンクは当惑した。ザンスを統治したがっている者を考えてみる。「魔女のアイリスは……」
「めくらましで困るのは、使っている本人がまどわされはじめることだ」ハンフリーはまじめに言った。「アイリスには、いい男が必要だが、力はその半分ほども必要ではない」
ビンクでさえ、それは容易にわかる。「でも、なぜアイリスは結婚しないんでしょう?」
「彼女は魔女だ。それも、すばらしい魔女だ。おまえが見たこともないほど、すごい力をもっている。アイリスは敬うに足る男を求めておる。彼女よりも強い力をもつ男を。ザンスじゅう捜しても、アイリスより強い力の男はわししかおらん。だが、たとえわしが結婚に関心をもっているにしろ、わしはもう年だ。アイリスには年よりすぎる。それに、第一、いい組み合わせではない。わしらの力は正反対だからな。わしは真実をあつかい、アイリスはめくらましの力をあやつる。わしは知りすぎておるし、アイリスは夢を見すぎる。だからこそ、アイリスはなんとかうまくいくと自分に言い聞かせながら、劣った力の者と手を組もうとするだ」ハンフリーはくびを振った。
「じつによくない。王が年老い、後継者が現われず、最高の魔法使いにのみ王冠が与えられるという条件があるかぎり、アイリスの陰謀に王座が譲られる可能性は、非常に大きい。おまえのように誠実で、ザンスに忠実な若者ばかりとは、かぎらんでな」
ビンクは寒気をおぼえた。ハンフリーは、アイリスがビンクに申し出た取り引きを、知っているのだ。魔法使いは報酬のために質問に答えるだけではなく、ザンスでなにが起きているか、きちんと探知しつづけているのだ。だがそれに干渉しようとは思わないようだ。ただ、見守るだけ。海馬や、オオカミや、マンティコラが、特別の質問者の行く手をはばんでいるあいだに、当人の背景を調査するのだろう。そして、質問者が難関をくぐりぬける頃には、魔法使いも迎える用意ができている。おそらく、誰かに、「ザンスが直面している最大の危機は?」と訊かれた場合のために、情報をためているのだろう。だからこそ、答の報酬を集めているのだ。
「もし王が亡くなれば、あなたは王冠を受けますか? あなたが言ったように、強力な魔法使いで、ザンスのためになる者が王になるべきだとすれば――」
「おまえは、持ちこんできた問題と同じぐらい厄介な質問をするなあ」魔法使いは悲しそうに言った。「わしは愛国心などぽっちりしかもちあわせておらんが、ものごとの自然の成りゆきを邪魔することに対しては、方針をもっておる。猿の肢の概念と通じるものじゃよ。つまり、魔法はそれなりの代償を要求するということだ。もし、どうしても他に道がないとすれば、わしも王冠を受けるだろう。だが、最初にわしは、雑用を引き受けてくれるすぐれた魔法使いを捜すのに、必死になるだろう。ここ一世紀というもの、最高の力をもつ者が現われていない。出現が遅すぎる」ハンフリーは思いをこめた目でビンクをみつめた。「もしかすると、その器量がおまえにそなわっているのかもしれん。だが、それをあきらかにできなければ、利用もできない。わしはおまえが王座を継ぐ者ではないかと考えている」
ビンクは信じられないのと、当惑とで、はじけるような笑い声をあげた。「ぼくですって? 王座を侮辱なさってますよ」
「いや、おまえには王座に栄誉を与える資質がある。もしおまえが力を自覚し、その力をコントロールできさえするならば。魔女アイリスは、知識以上によい選択をしたのかもしれん。あるいは予期していたのか。しかしながら、おまえをはばもうとする対抗魔力があるのは確かだ。対抗魔力の原因が、よき王の出現に関わっているのかどうか、わしには確信がもてんが。まったく不思議な、ややこしい問題だ」
強力な魔法使い、いずれは王となり、ザンスを治めると言われ、ビンクは心をそそられた。奇妙なことに、ビンクはきわめて冷静だった。ハンフリーの言にもかかわらず、ビンクは心の奥深くで、必要とされる資質に欠けていると承知しているからだ。それは魔法の力の問題だけではなく、基本的な生活様式と野心の問題だ。ビンク自身は人に死や追放を宣告できないだろうが、そういう宣告をくだしたり、軍隊をひきいて戦いに出かけたり、日がな一日人々の論争に判定をくだしたりするのは正当化できる。じきに純粋な責任に打ちひしがれるだろう。
「あなたの言うとおりです。思慮ある者なら、王になりたいとは思わないでしょう。ぼくの望みは、サブリナと結婚して落ち着くことです」
「まことに思慮ある若者だ。今夜は泊まっていくがいい。明日、途中で危険にあわずにすむ、帰宅の道を教えてあげよう」
「ニッケルサソリよけですか?」ビンクはセントールのチェリーの背に乗せてもらって越えた裂け目のことを思い出し、期待して訊いた。
「そうじゃよ。おまえ、その才知をだいじにすることだな。愚か者に安全な道はない。わしの道なら、二日も旅をすれば十分だろう」
その夜、ビンクは魔法使いの城に泊まった。そして、城も住人も気に入った。マンティコラでさえ愛想がよくなった。マンティコラは魔法使いの話を聞くと、ビンクに言った。「おれはおまえを食おうとは思わんよ。もっとも、おまえが、その、ええっと、おれの尻尾のあたりに、無礼なまねをしたときは、その気になったのは確かだが。真剣でない者をおどすのが、おれの役目だ。そう、おれは閉じこめられてはいない」マンティコラがかんぬきを押すと、内門が開いた。「おれの年季も、まもなくあける。本当を言うと、終わるのが残念なぐらいだ」
「あんたはどんな質問をしたんだい?」ビンクは逃げ出したくなるのをじっとこらえ、びくびくしながら訊いた。ひらけた場所では、マンティコラの相手ではないからだ。
「おれには魂があるのかどうか、訊いたのさ」マンティコラはまじめに答えた。
ふたたびビンクは、自分の反応に気を配らなければならなかった。こんな哲学的な問題に、一年間の奉公とは! 「それで、答は?」
「魂をもつ者だけが、魂に関心をもつ」
「でも、それなら、訊く必要はなかったのに。一年間、棒にふったね」
「いや。一年ですべてを得た。魂があるということは、おれは決して死なないということだ。肉体は滅びても、おれはふたたび生まれる。だが魂がなければ、心残りを満たしたく霊となってさまようか、それとも、天国か地獄かに住むことになる。おれの未来は確実だ。おれは決して忘れられることはない。これほど重大な問題はない。しかもその答は、適切な形であるべきだった。単にイエス・ノーでは、おれは満足できなかったろう。あてずっぽうか、魔法使いのいいかげんな意見かもしれんからな。くわしい、専門的な論は、問題を混乱させるだけだ。ハンフリーは、その真実は自明だと、ていねいにことばで表わしてくれた。もはやおれは、二度と悩む必要がなくなった」
ビンクは納得した。そういうふうに考えれば、はっきりする。ハンフリーは価値あるものを与えたのだ。正直な魔法使いだ。マンティコラに、そしてまたビンクに、ザンスの生命の本質について、とても重要なことを示してくれた。もし、いちばん獰猛な複合怪物に魂があるのなら、すべての怪物もそうだろう。とすれば、怪物たちが邪悪だと、言い切れるだろうか?
7 追放
道は広く、侵害のまじないもかかっていない。ひとつだけ、ぞっとするものがあった。木の幹や、周囲の岩などに、小さな虫のような穴があいている地域があったのだ。ぴくぴく虫があけた穴だ。一方から一方へ、まっすぐに貫通している。このあたりには、ぴくぴく虫がいる!
ビンクは気を落ち着けた。もちろん、ぴくぴく虫がここを通ったのは、最近のことではない。あの厄介者はとっくに退治されたはずだ。しかし、ぴくぴく虫が通過したあとは無残きわまりない。その小さな羽をもつ虫は、行く手にあるものはなんでも、動物でも人間でも、魔法の力ですべてに穴をあけて進むからだ。二、三の穴をあけられても、木なら生きながらえるが、人間は五臓六腑のどれかに穴をあけられて即死することはないにしても、いずれ出血多量で死ぬ。それを考えると、ビンクはすくみあがった。二度とザンスにぴくぴく虫が発生しなければいい。だが、発生しないという保証はなにもない。魔法の力が関係しているところでは、なにごとにも保証などありえないのだ。
ビンクは古いぴくぴく虫の穴を見て、すっかり不安になり、足を速めた。三十分ほど歩くと、例の裂け目に着いた。よき魔法使いハンフリーの話では、目に見えない橋がかかっているはずだ。ビンクは土をひとつかみ橋に投げて存在を確認し、じっくりと土くれの落ちかたを観察した。土はある特定の場所にとどまった。そこが通れる場所だ。これを知っていさえすれば――いや、これも知識情報のなせるわざだ。知識情報なしでは、人は途方もなく厄介な問題をかかえこんでしまう。第一、行くさきざきに、目に見えない橋がかかっているなど、考えもしないものだ。
それにしても、ビンクのまわり道は、決してむだではなかった。強姦事件の査問会に出席し、亡霊を助け、かずかずのすばらしいめくらましを目撃し、兵士クロンビーの生命を救い、ザンスの土地についてさまざまのことを学んだ。もう一度やってみたいとは思わないが、経験によって、ビンクはひとまわり成長した。
ビンクは橋に足を踏み入れた。ひとつだけ気をつけなければならないことがある。魔法使いが警告してくれた。いったん橋を渡りはじめたら、あとには引き返せない。本物の橋ではないので、引き返したりすると、まっさかさまに裂け目に落ちてしまう、と。ビンクが進むためにだけ作られた、一方通行の橋だった。ビンクは下でぽっかり口を開けて待ち受けている裂け目の上を、大胆に歩きはじめた。目に見えない手すりが唯一の拠りどころだ。
思いきって下を見てみた。こうして見ると、裂け目の底はおそろしく狭い。峡谷というより、地面の亀裂そのものという感じだ。谷ドラゴンもここは走れまい。しかし、切りたった崖はおりていけそうもない。落ちて死ぬことはまぬかれても、餓えて死ぬだろう。裂け目のいちばん狭くなっている場所で、必死で両足で踏んばり、西か東、どちらか行きやすい方に向かうことだ。そっちならドラゴンにつかまるおそれはない。
ビンクは見えない橋を渡り終えた。知識と自信のおかげだ。無事に地面を踏んでから、ビンクはうしろをふり向いてみた。もちろん橋も、それらしきものもない。もう二度と、こんなところを渡るようなまねは、したくない。
不安な思いから解放され、ビンクは喉のかわきをおぼえた。小道の片側に泉がある。小道? ついさっきまではなかった。ビンクは裂け目の方をふり向いた。小道はない。そうか、これは橋からつづいているのであって、橋に向かっているのではないのだ。一方通行のまじない。ビンクは泉に向かった。水筒に水が入っているが、これは命の泉の水だ。飲まずにいて、将来、いざというときのために取っておくつもりだった。
泉から湧き出る水は、少しずつあふれ、曲がりくねった溝に沿って流れ、裂け目に流れこんでいる。溝には奇妙な植物が一面に茂っていた。これまで見たこともない種類の植物だ。ブナの実がなっているイチゴ、落葉性の葉のついたシダ。奇妙だが、脅威となるものではない。ビンクは泉の近くに食肉獣がひそんでいないかと、用心深くあたりを見まわしたあとで、腹ばいになり、泉に口を近づけようとした。
頭を下げたとたん、頭上からかん高い悲鳴が聞こえた。「ああ、かわいそうに」と言っているようだ。
ビンクは顔をあげ、木々をあおぎ見た。鳥のようなものが枝にとまっている。おそらくハーピーの一種だろう。成熟した女性の胸と、とぐろを巻いたヘビの尾をもっている。距離が離れているかぎり、心配はない。
ビンクはふたたび頭を下げた――と、ごく近くで、ガサガサという音がした。ビンクはとび起きるとナイフを抜き、音の方へ近づいてみた。木々のあいだから、目をうたがうような光景が見えた。二頭の動物ががっぷり組み合っている。グリフィンと、ユニコーンだ。一方は雄、もう一方は雌だ。そして二頭は、闘っているのではなく――。
ビンクは心底から仰天して、退却した。種のちがう動物が! どうしてそんなことが!
胸がむかつき、ビンクは泉のところにもどった。今度は動物たちの足あとに気づいた。ユニコーンもグリフィンも、一時間以内ぐらいに水を飲みに来たらしい。たぶん、二頭とも、あの見えない橋を渡ってきて、この泉をみつけたのだろう。すると、この水は毒ではない――。
突然、ビンクは悟った。これは愛の泉なのだ。この泉の水を飲んだ者は、最初に出会った相手に、やむにやまれぬ恋心をいだき、そして――。
ビンクはグリフィンとユニコーンを見た。二頭ともまださっきと同じ状態でいる。
ビンクは泉から離れた。もしこの水を飲んでいたら……。
ぞっとして体が震えた。喉のかわきも忘れてしまった。
「あら、お飲みよ」ハーピーが高い声で言った。
ビンクは石をつかむと、ハーピーに投げつけた。ハーピーは耳ざわりな声をたて、高く舞いあがると下品な笑い声をあげた。ふんがもう少しでビンクにかかるところだった。まったくハーピーほどにくらしいものはない。
そういえば、魔法使いハンフリーは、この小道も完全に問題がないわけではないと言っていた。この泉は、ハンフリーがことさらに注意をするほど重要だとは考えていなかった、ささいなことのひとつにちがいない。いったん、来るときに通った道に出れば、さまざまな危険も、あのやすらぎの松の森のように、知っているものになるのだが。
しかし、あの森をどうやってぬけようか? 道づれになる敵が必要なのに、誰もいない。
そのとき、ビンクはいいことを思いついた。「おい、バカ鳥!」ビンクは木の葉に向かって叫んだ。「あっちへ行け! でないと、おまえの汚ない喉に、おまえの尻尾を刺しこんじまうぞ!」
ハーピーは、へきえきするような口汚ないことばをわめきちらした。まったく、なんということばを知っていることか! ビンクはもう一度、ハーピーに石を投げつけた。「いいか、ついてくるんじゃないぞ!」
「シールドの果てまでついてってやる! ぜったいに追っぱらわれるもんか!」ハーピーは金切り声で叫んだ。
ビンクはひそかにほくそえんだ。これで、おあつらえの道づれができた。
ときどき狙って落としてくるハーピーのふんを避けながら、ハーピーの怒りが、松の森をぬけるまでもってくれればいいと願いつつ、ビンクは歩きつづけた。そのあとは――まあいい、大事なことをまっ先に、だ。
まもなく、小道はビンクが南に進んだ道にぶつかった。せんさくするように、ビンクは道をよく見た。北も南もよく見える。今来た小道をふり返ってみる。深い森があるだけだった。ビンクは前に通った道に足を踏み入れた。とたんに、膝まですっぽりと、火花パイプ草の茂みに埋まってしまった。草はビンクの足にからみつくと火花を散らした。ビンクは用心に用心を重ね、やっとのことで傷を負わずに茂みから逃げ出した。ハーピーはとまっている枝から落ちそうになって、笑いころげている。
この方向に道がないだけの話だ。しかし、もう一度顔を向けると、ちゃんと道があり、火花パイプ草の茂みの中を通って、主街道につづいている。なるほど、なぜこんなことに頭を悩ませているのだろう? 魔法は魔法だ。魔法自体以外に、理論的根拠などないのだ。誰でもそれを知っている。時としては、ビンク以外の誰でもが。
ビンクは一日じゅう歩きつづけた。その水を飲むと魚になるという川を渡るとき、「飲めよ、ハーピー!」と言ったが、ハーピーはすでにまじないのことを知っており、怒りをつのらせて悪口をあびせてきた。やすらぎの松の森では、「いねむりでもしろよ、ハーピー!」と言い、ニッケルサソリのいる溝では、「なにか食いものをとってやるよ、ハーピー!」とからかったが、魔法使いハンフリーのくれた虫よけを使ったおかげで、ニッケルサソリは一匹も見あたらなかった。
ようやくビンクは、セントールの領内に入り、一軒の農家にひと夜の宿を頼んだ。ハーピーはついについてくるのをあきらめた。セントールの矢の射程距離には近づかないからだ。農家には老人の、もの静かなセントール夫婦がおり、その日のニュースに関心を寄せた。深い裂け目をどうやって渡ったかという話に、むさぼるように耳を傾け、宿と食事の礼にはその話で十分だと思ったらしい。老人夫婦と暮らしている幼い孫は、楽天的な、陽気なわんぱくセントールだった。年は二十五歳で、ビンクと同じとしだが、人間の年齢でいくと、その四分の一ぐらいの計算になる。ビンクはその子供のセントールと遊び、さかだちをして見せてやった。これはセントールにはまねのできない芸当で、幼いセントールはすっかり魅了されてしまった。
次の日、ビンクは北へと向かった。ハーピーの姿はどこにもない。ひと安心だ。昨日はむしろ、ひとりでやすらぎの松の森を通りぬけたい気分だった。半日、ハーピーの悪口雑言を聞かされたあとなので、耳にけがれがしみついているような気がする。
セントールの領土の残りの旅では、ビンクは誰にも出会わなかった。夕暮れがせまる頃、北の村に着いた。
「おや! 魔法なしの奇人のお帰りだぞ」ジンクが叫んだ。ビンクの足もとにぽっかり穴があき、ビンクは思わずよろめいた。ジンクはやすらぎの松の森の道づれには、最適のやつだ。ビンクは他の穴は無視して、さっさと家に向かった。家に帰ってきた。もうだいじょうぶだ。なぜ、わざわざ急ぐ必要がある?
次の朝、野外円形劇場で、審査会が開かれた。舞台に大王やしの木が、並木のように飾られている。ベンチは、巨大な陸地イトスギの、出っぱった回旋状の切り株で作ってある。背景は四本の大きなハチミツカエデの木で支えてあった。いつもなら、ビンクはこの造りが好きだ。だが今日ばかりはいやな場所だった。ビンクの裁きの場なのだ。
ここは王の執務室のひとつでもあるため、老いたる王が議長をつとめる。王は宝石をちりばめた豪華なローブに、美しい金の冠を着け、権力のシンボルである華麗な笏を持っていた。ファンファーレが鳴り響き、すべての住民がおじぎをした。ビンクは王のりっぱないでたちを目のあたりにして、畏敬の念で体が震えるのをとめることができなかった。
王はみごとな白髪で、長いヒゲをはやしているが、その目はきょろきょろと落ち着きがない。定期的に従者が、王が眠りこまないようにひじでそっと突き、儀式の最中だと気づかせていた。
開会にあたり、王は儀式のまじないをかけ、嵐を起こした。王は震える手を高くあげ、低い声で呪文をとなえた。最初はしんと静まりかえっていた。まじないが完全に失敗したかと思われたまさにそのとき、かすかな風が林間のあき地を吹きぬけていき、ひとにぎりの葉っぱを舞い散らした。
これは単なる偶然の一致にすぎない出来事だったが、誰もなにも言わなかった。嵐とは大ちがいだ。けれども忠実な婦人たちの何人かは雨ガサをさした。進行係はすばやく手近な仕事にとりかかった。
ビンクの両親、ローランドとビアンカは、最前列にいる。サブリナもそうだ。やはり、とても美しい。ローランドはビンクの目をとらえると、勇気づけるようにうなずいてみせた。ビアンカの目はうるんでいるが、サブリナは目を伏せている。みんなビンクのことを案じているのだ。無理もないとビンクは思った。
「そなたは住民権を正当化するために、どのような魔法の力を表示するのか?」進行係がビンクに尋ねた。ローランドの友、マンリーだ。ビンクはマンリーができることならなんでも手伝ってくれると知っているが、義務上、形式にのっとらなければならない。
今やビンク次第だ。「あ、あの、お見せできないんです。ですが、わたしには魔法の力があるという、よき魔法使いハンフリーの書きつけを持っています」ビンクは震える手で、書きつけをさし出した。
マンリーはそれを受け取り、ちらと視線を走らせると、王に渡した。王は目を細くして書きつけを見たが、その目はひどくうるんでおり、とても読めそうもない。
「陛下がごらんになりますとおり」マンリーはひかえめに小声で言った。「それは魔法使いハンフリーからの手紙でございます。彼の魔法の印章がございます」鼻先でボールのバランスをとっているイルカの絵のことだ。「この者には、まだ定義されていない魔法の力があると書いてございます」
年老いた王の灰色の目に、一瞬火のような光がやどった。「これにはなんの価値もない。ハンフリーは王ではない。王はわしじゃ!」王はハンフリーの書きつけを地面に落とした。
「ですが――」ビンクは抗議しようとした。
進行係のマンリーが警告のまなざしをビンクに向けた。ビンクもむだだとわかっている。王は魔法使いハンフリーに、愚かにも嫉妬しているのだ。王の権力はまだ強く、書きつけなど気にもとめていない。しかし、なんらかの理由があって、王はあんなことを言ったのだ。議論をしても、事態が複雑になるだけだ。
そのとき、ビンクの頭にひらめくものがあった。「王さまに贈りものがございます。癒しの泉の水です」
マンリーの目が輝いた。「魔法の水を持っているのか?」マンリーは王が完全に癒される可能性には敏感だった。
「家にあるわたしの水筒に。ごらんください。わたしの失われた指も癒されました」ビンクは左手を高くあげた。「風邪も治りましたし、他の者たちが助かったのも見ました。この水はなんでも、たちまち癒してくれます」ビンクは付随する義務のことは言わないことにした。
マンリーの魔法の力は小さなものを移動させることだ。「よかったら――」
「喜んで」ビンクはすぐに言った。
マンリーの手に水筒が現われた。「これか?」
「そうです」初めて、ビンクは希望をもった。
マンリーはもう一度、王に近づいた。「陛下、ビンクが贈りものを持ってまいりました。魔法の水でございます」
王は水筒を手に取った。「魔法の水じゃと?」理解しかねているようにくり返す。
「あらゆる病いを癒します」マンリーが保証した。
王は水筒を見た。ひとくち飲めば魔法使いの書きつけが読めるようになり、また嵐も起こせるだろう。そして、賢明な判断も。ビンクの力の表示の審議も、がらりと一転するかもしれない。
「おまえはわしが病気だと言うのか? わしは癒しなどいらん! 常に変わらず健康だわい」王は水筒をさかさにして、貴重な水を地面にあけてしまった。
水ではなく、ビンクの生命の血がこぼれていくような気がした。ビンクの最後のチャンスは、緩和されると思った、まさにその老衰のせいで、あえなくふいになった。なおそのうえ、いざというときのためにとっておいた癒しの水も、もう、ない。ふたたび癒すことはできないのだ。
これは、ビンクの反抗的態度に対する、命の泉の報復だろうか? 初めに勝たせて、いい気持にさせておき、そのあと、決定的な瞬間にしっぺ返しをしたのか? とにかく、ビンクの負けだ。
マンリーにもそれがわかった。マンリーは水筒をひろいあげ、さっと消してビンクの家に返した。「すまんな」マンリーはそっと言った。そして大きな声で、「そなたの魔法の力を表示せよ」
ビンクはやってみようとした。なんだか知らないが、魔法の力が殼を破り、表に出てくるよう、一心に念じた。どうにかして。だがなにも起きない。
すすり泣きが聞こえた。サブリナか? いや、母親のビアンカだ。ローランドは無表情な顔ですわっている。紳士道によって、個人的な関心を表に出すのを、拒否しているのだろう。サブリナはまだビンクの方を見ようとしなかった。しかし、こちらを見ている者がいる。ジンク、ジャマ、ポティファーは、三人ともにやにや笑っていた。優越感を感じているのだ。三人とも、魔法の力のない奇人ではない。
「できません」ビンクはつぶやいた。終わった。
ふたたびビンクは旅に出た。今度は西、地峡の方向へ。新しい杖と、手おのと、ナイフとを持っている。水筒にはふつうの水が入れてある。ビアンカは涙で味つけをしながら、すばらしいサンドイッチを作ってくれた。サブリナからはなにもない。あの決定以来、サブリナには一度も会わなかった。ザンスの法は、マンダニア人の望ましくない注意を惹くことを恐れて、追放者が手軽に運べるもの以外は持ち出しを許していない。それに、価値あるものも許されない。シールドがザンスを守っているとはいえ、安全に過ぎるということはありえないからだ。
慣れ親しんできたすべてのものから追放され、ビンクの一生は本質的には終わったも同然だった。要するに、天涯孤独の身になってしまった。二度とふたたび、魔法のすばらしさを味わうことはないだろう。言わば、永久にマンダニアの味もそっけもない社会に縛りつけられるのだ。
魔女アイリスの提案を受けるべきだったろうか? 少なくともザンスにとどまれた。だが……。決心は変わらなかった。正しいことは正しく、悪いことは悪い。
なにより不思議なのは、ビンクは心底から落胆していないということだった。住民権も、家族も、婚約者も失い、未知の外界に直面するというのに、ビンクの足どりには、どこかドン・キホーテ式のはずみがあった。自殺しないための精神的反動だろうか、それとも、すでに決定がくだされたことによる安心感だろうか? これまで、魔法の力をもつ人々の中で、ビンクは不具の者だった。これからは同類の人々と暮らすのだ。
いや、それはちがう。ビンクは魔法の力をもっている。決して不具ではない。強い力、魔法使いの器――ハンフリーはそう言ったし、ビンクはそれを信じた。ただ、その力を役立たせることができないでいる。壁にピンクの斑点をうつし出す力があるのに、手近に壁がない、という人のようなものだ。なぜビンクは、自分の知らないうちに、魔法の力で沈黙を守らされているのだろう? だがこれは、王の裁断がまちがっている、というビンクの考えが正しいことを意味している。ビンクの味方をしない者たちは、ビンクから離れている方がいい。
待て、そうともかぎらない。ビンクの両親はザンスの法が妥協するのをこばんだ。両親は善良で正直な人間だし、彼らの価値感はビンクと同じだ。ビンク自身、魔女アイリスに誘惑されたとき、同様の妥協を拒否した。ローランドとビアンカは、自分たちとは無縁の追放に、ビンクと同行して助けになろうとはしなかったし、制度の裏をかいくぐってビンクを残そうともしなかった。両親は大きな自己犠牲をはらってまで、正しいと思うことをしたのだ。そういうふたりを、ビンクは誇りに思っている。両親は自分を愛してくれているが、干渉ひとつせず、ビンク自身の生きていく道を歩ませてくれた。これもまた、ビンクの隠れた喜びのひとつだった。
そして、サブリナ。では、彼女は? サブリナも不正を拒否した。しかし、サブリナの場合は、主義において、ビンクの両親とはちがうと思われる。納得できる理由があれば、サブリナは不正も平気だろう。サブリナの一見高潔な態度は、彼女がビンクの不運にそれほど心を動かされなかったためだ。サブリナの愛は決して深くなかった。強い魔法の力をもつふた親の息子だから、きっとビンクにも力がある、と信じていたからこそ、ビンクを愛していたのだろう。有効な力がないとわかり、愛情は切りすてられてしまった。サブリナは、一個人としてのビンクを求めていたのではなかった。
また、ビンクのサブリナへの愛は、今や、同様に浅いものだったとわかってきた。確かにサブリナはとても美しい。だがサブリナは、たとえばディーにくらべると、真の個性にとぼしい。ディーは侮辱されたがために立ち去り、その決意をまっとうした。サブリナが同じ行為をしても、その理由はまるでちがうだろう。ディーは気どったのではなかった。本当に怒っていた。サブリナなら、もっとうまくやるだろうし、もっとわざとらしく、もっと冷静に行動するだろう。なぜならば、もともと彼女は感情の動きが少ないからだ。本質より、外観を気にするたちだ。
ここでまた、ビンクは魔女アイリスのことを思い出した。極端な外観至上主義者。感情的な女だった! ビンクは感情というものを重んじている。それは、他に判断すべき材料がないとき、真実をうつし出す窓となる。もっとも、アイリスは激情的だったが。あの宮殿の崩壊の光景といい、嵐やドラゴンの完璧さといい……。
あの頭のにぶい娘、強姦査問会の美少女、そう、ウィンという名だった――彼女にも、感受性があった。谷ドラゴンから逃がしてやりたいと、心から思ったものだ。だがサブリナは一流の役者で、ビンクは彼女の愛を確信したことは、一度もなかった。ビンクにとってサブリナは、必要なときに思い浮かべ、ながめるだけの、心の中の絵と同じだった。現実にサブリナと結婚したいとは思っていなかった。
追放になったおかげで、ビンクは自分の心の中がよくわかった。ビンクが女性に求めているのは、結局のところ、サブリナに欠けているものだ。サブリナは美しいし、人格があるし(これは個性とはちがう)、魅力的な魔法の力もある。どれもすばらしいものだ――すばらしい――だからこそ、ビンクはサブリナを愛していると思っていた。しかし、危機がおとずれたとき、サブリナは目をそらした。それがすべてを物語っていた。兵士クロンビーの話は真実だった。サブリナと結婚しようなどとは、ビンクも愚か者だったのだ。
ビンクは笑みをもらした。クロンビーとサブリナがいっしょになったら、どうなるだろう? 片や、極端に自己本位で、懐疑的な男。片や、極端に技巧を弄す演技派の女。クロンビーの生まれつきの残忍性が、サブリナの調節能力に挑戦するだろうか? つまるところ、ふたりは永久的な関係を作りあげるのではないだろうか? あのふたりなら、そうするかもしれない。ふたりはどちらも、瞬間的に激しく争い、同様にはなばなしくのめりこむだろう。ふたりが出会えないのは残念だし、ふたりの出会いの現場に立ち会えないのも残念だ。
ビンクの心の中を、ザンスでのすべての経験が浮かんでは消えていった。生まれて初めて、ビンクは自由になった。もはや、魔法の力などいらない。ロマンスはいらない。ザンスはいらない。
なんの気なしに周囲をながめていたビンクは、ふと、木の小さな黒い点に目をとめた。突然、寒気に襲われた。ぴくぴく虫の穴だろうか? ちがう、単なる変色だ。ビンクはほっとすると同時に、自分がばかなまねをしていたことに気づいた。もし、もはやザンスなどいらないのなら、ぴくぴく虫なんか、どうでもいいはずだ。ザンスは必要なのだ。ザンスはビンクの青春だった。だが、今はもう、手がとどかない。
やがて、シールドの番人小屋に着いたとき、ビンクの不安は増大した。いったん、このシールドを越えると、あらゆる奇跡が永遠に遠のいてしまう。
「なんの用だ?」シールドの番人が訊いた。顔色の悪い、大きな太った若者だ。この若者が、ザンスと外部とを隔てるバリヤーを形成する、きわめて重要な魔法のネットの一部だった。ザンスからも、外部からも、生命あるものはシールドを通過できない。ただし、ザンスの住民が外に出たがることはないため、もっぱら、マンダニア人の侵入を阻止する効果をあげている。シールドに触れるのは、死を意味する。瞬時に、痛みもなく、こときれる。どういうふうに作用するのか、ビンクにはわからない。もっとも、本当のところ、どの魔法にしろ、どう作用するかわからないのだが。とにかく、魔法が働くのだ。
「ぼくは追放の身です。シールドを通してください」もちろん、ビンクはうそをつく気はない。命令どおりに立ち去るつもりでいる。追放をまぬかれようとしてみても、むだな努力だ。村の住民のひとりが、他人がどこにいるかを探知する力をもっており、今頃その男がビンクを追跡しているだろう。ビンクがシールドのザンス側にとどまれば、すぐにわかってしまう。
若者はため息をついた。「なんだってまた、おいらの番のときばかり、ややこしい問題がまわってくるんだろう? シールド全体をそこなわずに、人がひとり通れるぐらいの穴をあけるのが、どんなにたいへんか、あんた、わかるかい?」
「シールドのことは、なんにも知らないんだ。だけど、王の命令で追放されたんで――」
「ああ、わかったよ。さあてっと、おいらはあんたといっしょにシールドを通るわけにはいかない。おいらはここにいなきゃいけないんでね。けど、五秒間だけ、一部分を中和するまじないをかけることができる。あんたはそこで待ってて、時間内に穴をくぐるんだ。途中で穴が閉じてしまうと、あんた、死んじまうからな」
ビンクはつばを飲みこんだ。死や追放について考えてはいたが、今やそれが現実の試練となった。生きていたい。「わかった」
「よし。魔法の石は誰が死のうと、おかまいなしさ」若者は意味ありげに、よりかかっていた丸石を軽くたたいてみせた。
「その薄汚ない、古い石がそうだって言うのかい?」
「シールド石。そのとおり。一世紀ぐらい前、魔法使いエベンツが、こいつをみつけ、シールドを張るために調節したのさ、こいつがなかったら、おいらたちはずっと、マンダニア人のやつらに侵略されてたろうな」
ビンクも魔法使いエベンツ、歴史上の偉人のひとり、の名は知っている。実のところ、エベンツはビンクの家系の一員なのだ。エベンツは、ものを魔法的に改造する力をもっていた。彼の手にかかれば、木槌は大槌となり、木っぱは窓枠の一部となった。現実に存在するものはなんであれ、限界の範囲内で、必要とされるものに変わった。たとえば、空気を食べものにしたり、水から衣服を作ることはできなかったが、できるものは、驚くほど姿を変えた。というわけで、エベンツは強力な死の石を、その石の上にのぼったりせず、ある程度の距離をおいたところから、石の死の力を弱くさせ、シールド石に変えた。ザンスはエベンツのおかげで救われた。すばらしい業績だ。
「さてと、いいかい」若者が言った。「これが時間石だ」時間石を大きな岩に軽くたたきつける。小さな時間石はふたつに割れた。ふたつの破片はもとのオレンジ色があせ、白くなった。若者はひとつをビンクに渡した。「これが赤くなったら、進むんだ。シールドに穴があくのは、あの大きなブナの木のまん前になる。五秒間だけだからね。準備ができたら、赤で、進む」
「赤で、進む」ビンクはくり返した。
「そう。さあ、行って、ときどき、時間石は早くくっついちまう。おいらはまじないをかけるために、おいらの石を見てる。あんたはあんたの石を見てること」
ビンクは急いで動いた。小道を西に走る。ふつう、割れた時間石がもとどおりにくっつくには、一時間かそこいらかかるのだが。シールド石の特質や、周囲の温度、未知の要因のせいで、いくぶん変質しているらしい。たぶん、割る前の、もとの石の性質だろう。なぜなら、割れたふたつのかけらは、常に正確に、同時に色を変えていくからだ。たとえ片方を陽光にさらし、片方を井戸の中に投げこんだとしても。それにしても、魔法にとっての理論的根拠を探求するには、なにを使えばいいのだろう? いや、使ったらよかった、のかだ。
今となっては無用だ――ビンクにとっては。マンダニアにいては、なんの意味もない。
遠くにシールドが見える。シールドというより、その効果が。シールド自体は目に見えないのだが、シールドが地面に触れている個所は、一直線に、草木が死んでおり、その線を越そうとしたバカな動物たちの死骸もころがっている。ときどき、ハネジカがあわてふためき、シールドの向う側の安全地帯にとび降りることもあるが、降りたときは、すでに死んでいる。シールドは目に見えないほど薄いけれど、絶対的な力をもっている。
たまにマンダニアの動物も、へまをやってシールドにぶつかる。毎日、ザンス側を特別任務の係が見まわり、死骸をチェックし、シールドの途中にひっかかっている死骸をはずし、丁重に葬ってやっている。シールドに直接触れないかぎり、途中にひっかかっているものにさわるのは可能だ。それでもやはり、うす気味の悪い仕事なので、ときどき、刑罰に使われる。マンダニアの人間の姿は見あたらないが、いつか誰かがひっかかり、ありとあらゆる禍根をもたらす恐れは、常にある。
前方に枝を広げたブナの木があった。枝の一本はシールドの方に伸びているが、その先端は枯れている。風に吹かれて、シールドにぶつかったにちがいない。その枝のおかげで、ビンクは通過地点を確認できた。
死骸の列の他に、ある匂いがあった。たぶん、多くのちっぽけな生きものたちの腐敗した匂いだろう。地中の虫や、飛んできてシールドにぶつかった虫たちが、落ちてくさっていった匂い。ここは死の土地だった。
ビンクは持っている時間石をちらりと見た。息がつまりそうになった。赤になっている!
たった今変わったのだろうか? それとも、もう遅いのか? ビンクの命はその答にかかっていた。
ビンクはシールドに近づいた。分別ある者なら番人のところにもどり、その理由を説明するだろう。けれどもビンクは自分でなんとかしたかった。ビンクの注意を引こうと、石の色が変わったのかもしれない。それならば時間はある。ビンクは勝手な解釈をして、それに従うことにした。
一秒。二秒。三秒。まだ予定地に着いていないのだから、まるまる五秒はあるはずだ。シールドは閉じているように見えるが、おそらく即断して、慣性を廃し、スピードをあげるのに、時間がかかっているのだろう。ビンクは必死で(文字どおりの死の疾走だ)ブナの木の傍を走りぬけた。とまろうにもとまらない速さで。四秒。死の線を越える。途中で、片足だけ残したかっこうのときに、シールドが閉じたら、ビンクは死ぬ。それとも、足だけだろうか? 五秒。体じゅうがぞくぞくした。六秒。いや、時間切れだ。かぞえるのをやめる。動悸が激しくなってきた。通過した。生きているのか?
ビンクは枯れ葉や小さな骨をけちらしながら、地面に倒れた。もちろん、生きている! でなければ、そんな心配ができるはずがないだろう? 魂があるかと気に病んでいたマンティコラと同じだ。命がなければ――。
ビンクは体を起こし、髪からなにかの死骸を振り落とした。そう、無事だ。体がぞくぞくしたのは、消されたシールドの影響だ。べつにけがはしていない。
とうとう終わった。ビンクは永遠にザンスから自由になった。ひやかされることも、甘やかされることも、がまんすることもない、自分の暮らしをする自由。
ビンクは両手で顔をおおうと、声をあげて泣いた。
8 トレント
しばらくすると、ビンクは立ちあがり、おそろしいマンダニアの世界に向かって歩きはじめた。たいしてちがうふうには見えない。樹木は同じだし、岩も変わりばえがしないし、海岸も海岸らしい。しかしそれでも、ビンクは激しい郷愁にかられた。さっきまでは、幸せだと思っていたが、振り子の揺れは、一時的な安堵感を示していたにすぎない。いっそ、シールドを通過するときに、死んでいればよかった。
今からでも引き返せる。線を越えればいい。死は苦痛なくおとずれ、ビンクはザンスに葬られるだろう。他の追放者たちはそうしたのだろうか?
そんな考えはいやだ。ビンクは自分自身に挑戦した。ザンスを愛しているし、追放されたのはひどく悲しいが、死にたくはない。要するに、マンダニア人の中で暮らさなければならないだけの話だ。前に追放された人々も、きっとそうしているだろう。もしかすると、幸福にすらなれるかもしれない。
地峡は山のようだった。ビンクは汗びっしょりで山道を登った。これは峡谷の反対側で、平地よりずっと高くそびえている尾根なのだろうか? 尾根ドラゴンがいるのだろうか? いやいや、マンダニアにはいない。しかし、そんな地形なら、魔法と関係があるものがいるかもしれない。高いところからは、魔法が洗い流されているならば、低いところに集中しているかもしれない――いや、そんなはずはない。大部分は海に流れこみ、どうしようもないほど薄くなっているだろう。
ビンクは初めて、マンダニアとはどういうところだろうと思った。魔法の力なしで、本当に生きていけるのだろうか? ザンスのすばらしさには遠く及ばないだろうが、まじないがないということは、山のように仕事があるということを意味するし、その中にはきちんとした勤め口もあるはずだ。人々も邪悪ではあるまい。結局、ビンクの先祖はマンダニアの出身なのだから。その証拠に、ことばや多くの習慣は、まったく同じだ。
やっと峠にたどりついた。ビンクは初めて新しい世界を見るので緊張した。と、いきなり、ぐるりと男たちに囲まれてしまった。待ち伏せだ!
ビンクは必死で頭を働かした。シールドに突っこむように逃げれば、あっさりと片がつく。男たちの死に責任をもちたくないが。とにかく、逃げなくては。
しかし、くるりと身をひるがえしたところ、思考より肉体の方が反応がにぶかったらしく、行く手には剣を抜いた男たちが、たちふさがっていた。
分別ある者ものなら、降参すべきだ。敵は大勢でぐるりを取り囲んでいる。敵にビンクを殺す気があったなら、とっくに矢を射かけてきていたろう。盗みが目的だとすれば、失うものはなにもない。
とはいうものの、分別を働かせるというのは、ビンクの得意とする点ではなかった。圧迫され、驚かされているときでなくても。事実をあとからよく考えてみれば、十分に分別も知性もあるのだが、今、この場ではそうしてはいられない。母親のような魔法の力があれば、時間を二時間ほどもどし、危機を有利に再生できるのだが――。
ビンクは剣を持つ男に立ち向かい、杖を振りまわし、刃をふせごうとした。けれど、二歩も進まないうちに、誰かに組みつかれ、激しく倒されてしまった。ビンクは土に顔を突っこみ、口の中にまで泥がつまった。それでもなお、押さえつけている男をふり離そうと体をよじった。
男たちは寄ってたかってビンクを押さえつけた。もうどうしようもない。一瞬のうちにビンクは縛りあげられ、さるぐつわをかまされてしまった。
ビンクがふたりの男に引き立てられると、たくましい面がまえの男が、ビンクの目の前にぐいと顔を突き出した。「やい、こら、ザンスのやつ、魔法を使おうとしたら、ぶちのめして運んでいくからな」
魔法だって? 敵はビンクには使える魔法などないことを知らないのだ。それがあれば、シールドを越えて、わざわざこんなところに来るわけがないのに。だがビンクはわかったというように、うなずいてみせた。敵がなんらかの仕返しをくうかもしれないと思っているかぎり、そうひどい扱いはしないだろう。
男たちはビンクを引っ立てて、峠の反対側の道をくだり、地峡の向うの本土にある軍隊の野営地に連れていった。
こんなところで、軍隊がなにをしているのだろう? ザンスに侵入する気なら、無理な話だ。シールドは、ひとりでも千人でも、あっさり殺してしまう。
ビンクは本部のテントに連れていかれた。テントの中には、四十代の顔だちのととのった男がいた。緑色のマンダニアの軍服に剣を帯び、きちんと刈りこんだ口ひげをはやし、司令官の記章をつけている。
「将軍、スパイを連行しました」軍曹はうやうやしく報告した。
将軍はビンクを一瞥し、値踏みした。その冷静な態度は驚くほど知性的だった。これはありきたりの盗賊ではない。「離してやれ」将軍は静かに言った。「どう見ても害はなさそうだ」
「はい、将軍」軍曹はうやうやしく答えると、ビンクのいましめを解き、さるぐつわをはずした。
「退がれ」将軍は低い声で命じ、兵士たちはひとことも言わずに退出した。訓練がゆきとどいている。
ビンクは痛みをやわらげようと、手首をこすりながら、将軍の大胆さに驚いていた。将軍はよく鍛えられた体格をしているが、決して大柄ではない。ビンクの方が、年も若く、背も高く、ずっと力が強そうだ。機敏に動けば逃げ出せる。
ビンクは跳びかかって、なぐり倒すつもりで身がまえた。いつのまにか、将軍の手に剣が握られ、ビンクに突きつけられていた。将軍は抜く手も見せなかった。まるで魔法のように、剣が手の中にとびこんだのだ。だが、この世界では、そんなことがあるはずがない。「お若いの、それはお勧めできんな」将軍は、トゲにご注意、とでもいうような調子で警告した。
ビンクは剣の切っ先に触れずにすむよう、勢いのついた体をよろめかせた。うまくいかなかった。しかし、ビンクの胸が切っ先に触れたか触れないうちに、剣は引っこみ、さやにおさまった。将軍はビンクのひじをつかむと、まっすぐに立たせた。むだのない、力強い動きに、ビンクはこの男をあまりにみくびっていたと、思い知った。剣があろうとなかろうと、この男に勝てる見こみはない。
「すわれ」将軍はおだやかに言った。
おびえたビンクは、ぎくしゃくと木のベンチにすわった。非のうちどころもないほどきちんとした将軍にくらべ、ビンクの衣服は乱れ、顔も手も土でよごれている。
「名前は?」
「ビンク」もう関係がないのだから、村の名前は言わない。それにしても、この訊問の趣旨はなんだろう? 取るに足りない人間の名前など、どうでもいいだろうに。
「わたしは魔法使いトレント。おそらく、おまえもわたしの名は知っていよう」
その意味がのみこめるまで、少し時間がかかった。ビンクは信じなかった。「トレント? 彼は行ってしまった。彼は――」
「追放された。二十年前にな。正確には」
「でもトレントは――」
「いやなやつ? 怪物? きちがい?」魔法使いはそのどれも当たっていないと、微笑した。
「現在、ザンスでは、わたしはどう語りつがれているのかな?」
ビンクはジャスティンの木を思い出した。小川の魚が電気ホタルに変えられ、セントールたちを悩ませたことを。水に住む生きものに変身させられ、陸地に放置され死んでいった、トレントの反対派の人々のことを。「あんたは――いや、彼は権力に飢えたまじない師で、ぼくがほんの子供の頃に、ザンスの王座を奪おうとした。彼なきあとも、まだ彼の邪悪が生きている」
トレントはうなずいた。「政権争いで負けた者に、ふつう課されるよりは、はるかに情け深い評判だな。追放されたとき、わたしはちょうどおまえぐらいの年歳《とし》だった。たぶん、境遇も似ているだろう」
「ちがう。ぼくは誰ひとり殺さなかった」
「それもわたしの罪になっているのか? わたしは何人も変身させたが、命をとる代わりにやったまでだ。殺す必要はなかった。他の手段で、敵を無力にできたのだから」
「陸地に放置された魚は死んだ!」
「おや、そういうふうに言われているのか。それは人殺しと同じだ。わたしは敵を魚に変えた。だが、いつも水の中でやった。陸地では、陸のものだけしか利用しなかった。そのあとで死ぬこともあるだろうが、自然のいとなみの中では、弱肉強食だからな。わたしは決して――」
「もういい。あんたは魔法の力を悪用したんだ。ぼくはあんたとは、まったくちがう。ぼくは、魔法の力をもってないんだ」
表情豊かに、トレントの形のいいまゆ毛があがった。「魔法の力がない? ザンスの者は誰でも力をもっている」
「だからこそ、もっていない者は追放されるんだ」ビンクは一瞬、胸が痛くなった。
トレントはほほえみを浮かべた。意外にも勝ちほこった表情だった。「それでも、わたしたちふたりの関心は似ているのではないかね、ビンク。わたしといっしょに、ザンスに帰りたくはないかね?」
つかのま、ビンクの胸は希望に燃えたった。帰る! だが、すぐにビンクは打ち消した。「帰るなんて、ありえない」
「わたしなら、そうは言わん。どんな魔法の行為にも、逆の魔法がある。それを実際にぶつけてみるだけでいい。いいか、わたしはシールドを逆襲する力を開発したぞ」
ふたたびビンクは自分の反応を抑制しなければならなかった。「もしそうなら、あんたはとっくにシールドを破っているはずだ」
「さよう。実施するには、ちょっとした問題があってな。じつはわたしは、魔法の地の辺境に育つ植物から、精髄をしぼりとった液をもっている。魔法の力は、あのシールドのこちら側にも、多少、伸びているのだ。さもなくば、シールドが作用するわけがない。作用するのは魔法の力のおかげだし、魔法の力の及ばない範囲では、なにごとも起こりえないからだ。この植物は、元来、マンダニアのものらしいが、魔法の地の辺境において、ザンスの魔法の植物ときそいあった。魔法の力にさからうのは、とてもむずかしい。それで、この植物は特別な資質を進化させたのだ。魔法の力を抑制する資質を。その意義を認めるかね?」
「魔法の力を抑制する? それじゃ、ぼくにもそれが起きたんだ」
トレントは不審なおももちでビンクをみつめた。「それでは、おまえは、現在の統治者に、不当にあつかわれたと思っているのだな? どうやら、わたしたちには共通のものがあるようだ」
ビンクとしては、邪悪な魔法使いとあい通じる立場になど、立ちたくはない。たとえどんなに、この男に魅力的な面があるにしても。邪悪は、ときとして、いかにも美しい仮面をつけるものだ。だからこそ、この世の中に、えんえんと邪悪が生き長らえてこられたのではないか?
「なにを言いたいんだ?」ビンクは訊いた。
「シールドは魔法だ。したがって、植物の精髄液は、シールドを無効にできるはずだ。だが、できない。なぜならば、シールドの発生源に触れられないからだ。どうしてもシールド石にたどりつかなければならない。残念ながら、現在のところ、シールド石の正確な位置がわからないし、ザンスの半島全域はおろか、その何分の一をもおおえるほど、魔法抑制液もないんだ」
「ちがいはないじゃないか。シールド石のありかがわかっても、あんたの手に届くところに持ってくることはできないだろ」
「いや、できる。われわれは十分に着弾距離のある|いしゆみ《カタパルト》を持っている。ザンス近辺なら、どこにでも爆弾を投下できるんだ。それを船に積み、ザンスのごく近くを航海する。シールド石に、魔法抑制液の容器を落とすことは可能なんだ。もし、座標さえ正確にわかれば」
ようやくビンクも理解できた。「シールドが消える!」
「そうしたら、わたしの部下がザンスに侵入する。もちろん、抑制液はすぐに蒸発するから、魔法の力が消えるのも、一時的なことだろう。だが、十分もあれば、わたしの軍隊は境界を越えてしまう。部下たちには、迅速な短距離機動演習をしっかりたたきこんである。そうなれば、王座がわたしのものになるのは、もう時間の問題でしかない」
「あんたは征服と破壊の時代に、ぼくらをもどすつもりか」ビンクは寒気がした。「第十三次移住は、他のどれよりも悪い」
「そんなことはない。わたしの軍隊は訓練がゆきとどいている。われわれは必要な力を、必要なだけ働かせるだけで、それ以上のことはしない。どっちみち、いちばん強く抵抗する者は、わたしの魔法の力で排除するから、物理的な力はほんのわずかしか必要じゃないんだ。わたしは自分が治める王国を、無残に荒らしたくはないのさ」
「あんたはちっとも変わってないんだ。まだ不正な権力にあこがれている」
「いや、変わったとも」トレントは受けあった。「単純ではなくなったし、知識がふえ、より洗練された。マンダニア人は、すぐれた教育施設と、広い世界観をもち、冷酷な政治家だ。今度は、わたしに敵対する者には容赦しないし、わたしを甘く見させるつもりもない。二十年前に王になっていたよりも、今のわたしの方が、ずっといい王になる自信がある」
「ぼくは抜きにしてくれ」
「ところが、おまえを抜きにはできないのさ、ビンク。おまえはシールド石がどこにあるか、知っている」邪悪な魔法使いは身をのりだし、ことばたくみに言った。「正確に狙いをつけるのは、重要なことなんだ。魔法抑制液は四分の一ポンドしかないし、それだけ作るのに二年かかった。もとになる植物が生えている辺境地域は、まるはだか同然だ。代わりがないのさ。シールド石の位置を推定するわけにはいかん。精密な地図がほしい――おまえだけが描ける地図が」
そういうことか。トレントは部下を待ち伏せさせて、ザンスから来た者をすべてとらえ、シールド石の正確な位置の、最新情報を得ようとしているのだ。それは邪悪な魔法使いが征服移動を起こすために必要な、たったひとつの情報だった。ビンクはその罠にかかった、たまたま最初の追放者というわけだ。
「いやだ。教える気はない。ザンスの正当な政府を倒す手伝いなんかするもんか」
「一般に、正当性は事後に決まるものだ。二十年前にわたしが成功していたら、今頃、わたしが正当な王であり、現在の老いぼれは、口さがない連中に、悪しざまにののしられていただろう。まだ嵐の王が支配しているのだろう?」
「そうだ」ビンクは無愛想に答えた。邪悪な魔法使いは、現在の支配は側近政治だと、ビンクに認めさせようとしているのだろうが、ビンクの方がよく知っている。
「ビンク、おまえには手厚く礼をする。ザンスでは、おまえの望みのままだ。富でも、権力でも、女でも――」
トレントはまずいことを言った。ビンクはそっぽを向いた。とにかく、サブリナはもうほしくないし、魔女アイリスに同様の申し出を受けて、拒絶したのだし。
トレントは指先を山型に合わせた。そんなつまらないしぐさにさえ、権力志向と冷酷さとがぷんぷんしている。魔法使いの計画は、強情な追放者に邪魔されるほど、ちゃちなものではないらしい。「おまえは、わたしが二十年間、マンダニアでりっぱに成功したあとで、なぜザンスに帰る道を選んだか、不思議に思うかもしれない。それを説明するのに、少しなら時間がさけるが」
「無用だ」ビンクは言った。
トレントはにやりと笑い、売られたけんかを買おうとはしなかった。ビンクはうまくあやつられていると思うと、不安になった。たとえ闘おうとしたところで、ビンクは魔法使いの手の中で、もがいているにすぎないのではないか。
「不思議に思うべきだな。おまえの視野が、知らず知らずのうちに狭くならないように。ザンスから追放されたときのわたしは、そうだった。若い者はすべて、少なくとも、一、二年は、マンダニアの世界に足を踏み入れるべきだ。そうすれば、もっとよいザンス住民になれる。旅というものは、人間を広くする」
これにはビンクも異議はなかった。ビンク自身、ザンス内の二週間の旅で、ずいぶんたくさんのことを学んだものだ。
「事実」魔法使いは話をつづけた。「わたしが権力を握ったら、そういう政策をたてるつもりだ。ザンスは現実の世界から離れて、繁栄できるものではない。孤立しては、停滞するだけだ」
ビンクは病的な好奇心を抑えきれなかった。魔法使いの知性と経験とに、ビンク自身の知性が、いつのまにか反応していた。
「むこうのどんなところが?」ビンクは訊いた。
「お若いの、そんないやそうに言うんじゃない。おまえが思っているほど、マンダニアは悪いところではない。そこが、ザンスの者が外界にふれる必要のある点でもある。孤立の無知は不当な敵意を生み出す。マンダニアはザンスにくらべ、多くの点ではるかに進歩し、文明化している。魔法の恩恵をこうむっていないため、マンダニア人は独創的な方法で埋めあわせをしなければならなかった。彼らは哲学に、医学に、科学にたよった。今や、マンダニア人は銃とよばれる武器をもっている。矢よりも、死のまじないよりも、あっさりと生命を奪う武器だ。わたしはわたしの軍隊を別の武器で訓練した。ザンスに銃をもちこみたくないからだ。マンダニアには馬車がある。これはユニコーンと同じぐらいの速さで、人を乗せて運ぶことができる。また、大ウミヘビと同じように速く、海を走る船がある。そして、ドラゴンのように空高く舞いあがる気球。医者とよばれる者がおり、まじないひとつ使わずに、病気やけがを治してくれる。それに、信じられないような速さと正確さで、人間の姿をうつしとってふやせる道具もある」
「そんなバカな! 魔法でさえ、人間の姿をふやすなんてできないのに。人形でないとするなら、それは本物の人間になってしまうじゃないか」
「ビンク、そこを言いたいのだよ。魔法はじつにすばらしいが、同時に限界がある。長い目で見れば、マンダニア人の道具の方が、ずっと可能性を秘めている。たぶん、マンダニア人の一般的な生活様式は、ザンスの多くの人のそれよりも、はるかに快適なものになるだろう」
「きっと、そんなにたくさんの人がいないからだ。だから良い土地を求めて競争しなくていいんだ」
「その反対さ。マンダニアには何百万と人が住んでいる」
「そんなに大げさな話をして、なにもかも信じさせようたって、そうはいかない。ザンスの北の村には、子供も含めて、およそ五百人が住んでいる。それがザンスでいちばん大きな村だ。王国全体でも、二千人以上はいない。あんたの話だと、何千人の何千倍も人がいるみたいだけれど、マンダニアの住人がザンスより多いなんて、ありえない!」
邪悪な魔法使いは、いかにもなげかわしいというように、くびを振った。「ビンク、いいか、見ようとしない者ほど、目が見えない者はないぞ」
「それにもし、人を乗せて空を飛べる気球とやらがあるんなら、なぜそれでザンスに飛んでいかないんだ?」ビンクは魔法使いが逃げているとわかり、かっとなって言いつのった。
「なぜなら、マンダニア人はザンスがどこにあるか、知らないからさ。その存在すら、信じていない。彼らは魔法を信じていないから――」
「魔法を信じていないって!」そんな冗談はちっともおもしろくないし、ますます不愉快だ。
「マンダニア人は魔法についてよく知らなかった」トレントは真剣に言った。「書物にはたくさん著わされているが、日々の生活には、まるで縁がない。いわば、シールドが国境を閉ざしてしまい、ここ一世紀ほど、マンダニアには本物の魔法の動物が姿を見せていないのだ。われわれの関心は、マンダニア人たちを無知のままにしておくことにあるかもしれん」トレントは顔をしかめた。「彼らが、ザンスを脅威だと考えでもしたら、巨大なカタパルトで焼夷弾を投げこむかも――」トレントは絶句した。おそろしい考えが浮かんでいるように、くびを振った。ビンクはトレントの型にはまったしぐさに感嘆した。父親のローランドが採用しそうなしぐさだ。ビンクがもう少しで、なにやら途方もない脅威が隠れているのだと、信じそうになったぐらい、みごとなしぐさだった。
「いや」魔法使いトレントは結論を出した。「ザンスの位置は秘密にしたままにしておくべきだ――今のところは」
「あんたがザンスの若者を、二年間もマンダニアに送りこめば、秘密なんて守れっこないじゃないか」
「なんの、最初に記憶喪失のまじないをかけておき、帰ってきたあとで解いてやるさ。でなければ、少なくとも、沈黙のまじないだ。そうすれば、マンダニア人もザンスのことはなにも訊き出せない。一方、ザンスの若者は、ザンスの魔法の力を増大させるよう、マンダニア人の経験を学べるというわけだ。信頼できる者なら、記憶を残しておいてやり、外界の者と話す自由も許可してやろう。連絡員として行動できるから、資格のある者を移住者として集めたり、情報をもたらしてくれるだろう。われわれ自身の安全と進歩のためにな。だが、全体として――」
「第四次移住と同じだ」ビンクは言った。「制御された植民地化」
トレントはかすかに笑った。「おまえはのみこみのいい生徒だな。たいていの住民は、ザンスのもともとの植民地化の本質を、理解しようとしない。実際、ザンスは、決定的な地理的位置がわからないために、マンダニアからその所在をつきとめるのは、決してなまやさしいことではないんだ。歴史的には、ザンスは世界各国の植民地だった。それぞれの国と陸の橋でつながっており、徒歩で行けたんだ。みんな、口をそろえて、ほんの二、三マイルで移住できたと言うだろう。そのうえ、ザンスでは、母国語がまるでちがうのに、誰でもおたがいの話がわかる。ザンスになんらかの魔法的なものがあるという表われだ。わたし自身、どういう道筋を歩いたか、こまかい記録をとっていなかったら、とてもここまで、もどってこれなかっただろう。過去数世紀間において、ザンスからはぐれ出たマンダニアの伝説上の動物たちの話は、かれらが特定の場所によりも、むしろ、世界各地に出現したことのあかしだ。そう、逆に作用したように見える」トレントはいかにも謎だというように、くびを振った。ビンクはいやおうなく、トレントの話に魅せられ、のめりこんでいた。どうやって、ザンスはいちどきに、いたるところに存在できるのか? 結局、ある独特の方法で、魔法の力は半島から外へも広がっているのではないだろうか? 疑問にとりつかれるのも、無理はない!
「あんた、そんなにマンダニアが好きなのに、なぜザンスに帰ろうとしてるんだ?」ビンクは魔法使いの矛盾をつくことによって、誘惑からのがれようとした。
「マンダニアは好きじゃない」トレントはまゆをしかめた。「単に、悪いところではなく、かなり有望だし、考慮にいれる必要があると言ったまでだ。こちらが注意しつづけていないと、むこうに気づかれるようになる。それはわれわれの破滅だ。自明の理だ。ザンスは人に知られていないからこそ、安息所となりうる。いかにも、偏狭な、進歩の遅い安息所だが、ザンスのようなところは、他にない。それに、わたしは魔法使いだ。わたしはわが臣下とともに、わが国土に属し、おまえの想像だに及ばないような惨事から、みんなを守らねばならん……」トレントは黙りこんだ。
「いいかい、マンダニアの話を聞いても、ぼくはあんたにザンスに入る方法を、教える気にはならないね」
魔法使いは、今やっとビンクの存在に気がついたかのように、ビンクに目を向けた。「わたしとしては、強制的な力は使いたくないんだよ」トレントは静かに言った。「わたしの魔法の力は知っているはずだ」
ビンクは心底からぞっとした。トレントは変身術師だ。人間を木や、もっとひどいものに変える力がある。前代における、もっとも力ある魔法使い。ザンスにとどまるのを許すには、あまりに危険だった人物。
ビンクはふと思いつき、安心した。「はったりだろ。ザンスの外じゃ、魔法の力は働かないんだ。それに、あんたをザンスに入れるつもりはないし」
「はったりとは言えんさ」トレントは平静だった。「さっきも言ったとおり、魔法はシールドのこちら側にも、わずかだが広がっている。おまえを国境に連れていき、ヒキガエルに変えてやることはできるんだ。必要とあらば、やるまでさ」
安堵感はひっこみ、ビンクの胃の中でかちかちに固まってしまった。変身――死によってではなく、慣れ親しんだ肉体を失うというのは、陰険な脅迫だ。ビンクはぞっとした。
それでもなお、ビンクには祖国を裏切るまねはできない。「いやだ」舌が急に厚味を増したような感じだ。
「ビンク、わたしにはわからんよ。おまえは自発的にザンスを出てきたのではない。おまえに帰れるチャンスをやろうと言っているのだぞ」
「そんな方法ではいやだ」
いかにも心から残念そうに、トレントはため息をついた。「おまえが自分の主義に忠実だからといって、おまえを責めるわけにはいかん。こうならなければいいと思っていたのだが」
ビンクもそう思っていた。しかし、ビンクには選択の余地はない。命を賭けても、逃げ出すチャンスをみつける以外には。ヒキガエルにされるよりは、闘って、いさぎよく死ぬ方がいい。
兵士が入ってきた。ビンクはクロンビーを思い出した。風貌が似ているのではなく、あごひげのせいだろう。
「なんだ、ヘイスティングス?」トレントは穏やかに訊いた。
「将軍、もうひとり、シールドを通過してきた者がおります」
トレントはいささかも興奮を見せなかった。「本当か? 別の情報源が得られるようだな」
ビンクは新しい感情に動かされた。決して心地よいものではない。ザンスから別の追放者が来たとなると、魔法使いはビンクの助けがなくても、情報を得られる。ビンクは放免されるだろうか? あるいは、試しに、ヒキガエルに変えられるだろうか? トレントの過去の評判を考えれば、放免される可能性はほとんどない。どんなにささいなことであれ、邪悪な魔法使いの邪魔をした者は、その報いを受ける。
今ここで、みずから裏切り、情報を提供しないかぎり。そうすべきか? どうせザンスの将来に変わりはないのだから……。
トレントはひといき入れながら、期待のまなざしをビンクにそそいでいる。ビンクははっとした。これは計略だ。ビンクに口を割らせるための、にせの報告だ。もう少しでだまされるところだった。
「さあ、それなら、もうぼくは必要じゃないだろう」ビンクは言った。ヒキガエルに変えるといっても、そんなものに変えてしまえば、魔法使いはビンクから、なにも訊き出せなくなる。ビンクは人間とヒキガエルが話をしている光景を想像してみた。
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魔法使い シールド石はどこだ?
ヒキガエル ケロケロ!
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ビンクは笑い出しそうになった。ヒキガエルに変えるとすれば、それはトレントの最後の手段だ。
トレントは伝令に命じた。「その者を連行しろ。その男に訊いてみよう」
「将軍、その者は、あの、女です」
女だって! トレントも若干驚いたようだが、ビンクはびっくり仰天した。予想とはちがい、はったりではなかった。しかし、確かに、ザンスには追放されるべき女も、男も、いないはずだ。トレントはなにをたくらんでいるのだろう?
サブリナがあとを追って――まさか! ――来たのでなければ。
ビンクは度を失った。もし邪悪な魔法使いが、力づくで彼女を――。
ちがう! ありえない。サブリナはビンクを本当に愛していたわけではなかった。追放に対する彼女の反応が、それをあきらかにしている。なにもかも投げすてて、ビンクのあとを追ってくるはずはない。彼女の性質上、ありえないことだ。そしてまたビンクも、本当にサブリナを愛してはいなかった。すでにそう結論した。とすると、これは魔法使いの手のこんだ計略にちがいない。
「よろしい、女を連れてこい」
では、はったりではないのだ。実際に女を連れてきたら。そしてその女がサブリナだったら――ありえない、とビンクは絶対の確信があるが、いったいどんな態度をとればいいのだろう? 第一、ビンクはサブリナの本心がわかっていたのだろうか? もしあとを追ってきてくれたのなら、サブリナをヒキガエルに変えさせるわけにはいかない。とはいえ、ザンスのすべてが危ういのに――。
ビンクは心の中で、観念した。そのときはそのときだ。サブリナなら、ビンクの負け。巧妙なはったりなら、ビンクの勝ち。ヒキガエルになることを除けばの話だが。
ヒキガエルも、そう悪くもないだろう。きっとハエはうまいだろうし、雌のヒキガエルも人間の女性と同じように、きれいに見えるだろう。すばらしい愛情生活は、草の中で、イボガエルや……。
待ち伏せ隊が到着した。もがく女性をなかばかつぐようにして。サブリナではないとわかり、ビンクはほっとした。見たこともないほど、ひどくみっともない女だ。髪はもじゃもじゃ、歯は出ているし、体つきもぶかっこうだ。
「立て」トレントは穏やかに言った。トレントの命じなれた口調に、女は従った。「名前は?」
「ファンション」反抗的に答える。「あんたは?」
「魔法使いトレント」
「聞いたこと、ないね」
あっけにとられたビンクは、笑いをかみころそうとしてせきこんだ。だがトレントは平然としている。「ファンション、これを機会によろしく。部下がめいわくをおかけして、すまなかった。あなたがシールド石の位置を教えてくだされば、十分に礼をするし、あとは決してめいわくをかけない」
「教えちゃだめだ!」ビンクは叫んだ。「ザンスに侵入するつもりなんだから!」
ファンションはだんご鼻にしわを寄せた。「ザンスのことなんか、知るもんかね」トレントを横目で見て、「教えてやるよ。けど、あんた、信用できるのかい? 情報を聞いたら、あたいを殺しちまうんじゃないかい」
トレントは長い、貴族的な指先を軽くつきあわせた。「それはもっともな心配だ。わたしのことばが真実かどうか、あなたにわかるはずがないのだし。しかし、わたしの目的を達する手助けをしてくれる人に、悪意をいだくつもりは毛頭ない」
「わかった。筋がとおっている。シールド石の位置は――」
「裏切り者!」ビンクは絶叫した。
「連れ出せ」トレントはけんもほろろに言った。
ビンクは兵士につまみ出された。結局、自分の身をさらに危うくする以外、なにもできなかったのだ。
だがそのとき、ビンクはあることに気づいた。ビンクが追放されて一時間以内に、別の追放者が現われるとは、どういうことだ? 追放者は年にひとりかふたりで、それ以上はないはずだ。誰かがザンスを離れるというのは、大ニュースだった。ビンクはそんなニュースは聞いていなかったし、ふたつめの審問会が開かれる予定もなかった。
そうか。ファンションは追放者ではないのだ。たぶん、ザンスから来たのではあるまい。ビンクが最初に疑ったとおり、トレントにしこまれた替えだまなのだ。ファンションの役割は、彼女がシールド石の位置をトレントに教えると思わせ、ビンクをだまして確認させることだろう。
手のうちは読めた。ビンクの勝ちだ。どうあっても、トレントはザンスには入れない。
だが、もうひとつ、確信がないが……。
9 変身
ビンクはたて穴に投げこまれた。底には干し草が積んであり、四本の高い柱の上に木の屋根が取りつけられて、太陽をさえぎっている。ビンクの牢獄は殺風景で、寒々としていた。壁は石のような物質で、手で掘るには固すぎ、よじ登るにはもろすぎる。床は土を踏みかためてある。
ビンクはたて穴の中を歩きまわった。四方の壁は堅く、よじ登るには高すぎる。手を伸ばしてとびあがると、ふちに届きそうなのだが、穴の口には金属の格子のふたがかぶせてあった。なんとかがんばれば、格子の一本につかまれるかもしれない。だが、ふたにぶらさがることしかできないではないか。運動にはなるが、外に出ることはできない。完璧な牢獄だ。
ビンクがそう結論したとたん、兵士が格子ぶたのところにやって来た。ひとりが格子ぶたについている小さな扉の鍵をはずし、扉を開けた。人がつき落とされた。ファンションだ。
ビンクはとびあがって、ファンションが干し草の上に落ちる前に、腕をひろげて抱きとめた。ファンションもろとも、干し草の上にころがる。扉が音をたてて閉められ、鍵がかけられた。
「あたしの美貌じゃ、悩殺ってわけにはいかないってわかってるよ」もつれあった手足をほどきながら、ファンションが言った。
「足が折れてなきゃいいけど」ビンクはいいわけがましく言った。「ぼくは足を折りそうになった。ここに投げこまれたときにね」
ファンションはでれんとしたスカートをもちあげ、ふしくれだった膝を見た。「骨が折れても、見えるけがにはならないね」
そんな徴候はなかった。それにしてもファンションみたいに醜い娘には、ビンクは会ったことがない。
それにしても、この娘がどうしてここに? なぜ邪悪な魔法使いは、手先を囚人と同じたて穴に投げこんだのだろう? 囚人をだましてしゃべらせる手ではない。納得できる手順としては、彼女がしゃべったとビンクに申し渡し、彼女の情報を確認すれば自由にしてやると、取り引きしてくることだ。たとえ彼女が本物だとしても、ビンクといっしょに閉じこめるべきではない。彼女は彼女で、ひとりで閉じこめるべきだ。そうすれば、囚人たちそれぞれに、片方がしゃべったとだませるではないか。
また、ファンションが美人だったら、色じかけでビンクにしゃべらせようとしても、不思議ではない。しかし彼女に関しては、その見こみはゼロだ。まったく意味がない。
「シールド石のこと、どうして話さなかったんだい?」ビンクは皮肉のつもりでもなく尋ねた。ファンションがにせ者なら、話せるはずがない。しかし、それなら、ここにぶちこまれるはずもない。もし本物なら、ザンスに忠実なのだ。けれど、それならなぜ、トレントにシールド石の位置を教えると言ったのだろう?
「話したわよ」
話した? 彼女がにせ物だといいが。
「そうよ」ファンションはビンクの目をまっすぐに見た。「あたい言ったよ。北の村の王の城の、王座の下にあるって」
ビンクはこの話を評価してみようとした。
まちがった位置だ。が、彼女はそれを知っているのだろうか? それとも、ビンクの反応を見て、正しい位置を探ろうとしているのだろうか? 兵士たちが聞き耳をたてているうちに。あるいは、本物の追放者で、位置を知っているのに、うそをついたのだろうか? だとすると、トレントの反応の説明がつく。なぜなら、トレントのカタパルトで、魔法抑制液をザンスの城目がけて投げつければ、シールドを消してしまうだけでなく、王を警戒させることになる。少なくとも、バカではない大臣たちは、脅威だと、警戒するだろう。その付近で魔法が消えれば、すぐに逃げ出すにきまっている。
もしかすると、トレントはすでに抑制液を投げてしまい、結果、ザンスに侵入する望みを失ったのだろうか? 脅威があるとわかった瞬間、ザンスの住民は、シールド石を新たに秘密の場所に移しただろうし、そうなれば、追放者たちからの情報はご破算だ。いや、もしそんなことがあったとすれば、トレントはファンションをヒキガエルに変え、踏みつぶしていただろう。それに、ビンクをとらえておく気にもならないだろう。殺すか、放免するか、どちらかで、とどめておいたりはすまい。つまり、なにもなかったのだ。どちらにしろ、そんな時間はなかった。
「あんたがあたいを信用してないのは、わかってるよ」
正しい分析だ。「それはできない」ビンクは認めた。「ぼくはザンスには、なにごとも起きてほしくない」
「追い出されたのに、なんで気にするのさ?」
「ぼくだって、きまりは知っている。公平な審問会も受けた」
「公平な審問会!」ファンションは憤然として叫んだ。「王はハンフリーの書きつけも読まず、命の泉の水も飲まなかったじゃないか」
ビンクはまた考えこんだ。どうしてそれを知っているのだろう?
「ああ、あのね、あたい、あんたの審問会が終わった一時間あとに、あの村を通ったのさ。だから、魔法使いハンフリーは、あんたの魔法の力を認めたけれど、王が――」
「わかった、わかった」やはりファンションはザンスから来たらしい。だが、ビンクはまだ、どの程度信用していいか、確信がもてなかった。ファンションはシールドの位置を知っている――そして、言わなかった。もし、言ったとすれば――トレントは彼女を信じずに、ビンクから確証を得ようと待っているのだろうか? けれども、ファンションの教えた位置はまちがっている。とにかく、そこには意味がない。ビンクはファンションを問い正してみたいが、正確な位置をもらすわけにはいかない。可能性のある場所は千ほどもある。つまり、ファンションが言った場所もそのひとつだ。彼女はトレントをだまそうとして、成功しなかったのだろう。
ビンクの心のバランスが傾いてきた。今や、ファンションがザンスから来たことを信じ、ザンスを裏切らなかったことを信じている。これが効果的な証拠となっているのだ。トレントはどれほど手のこんだ計画をたてているのか? おそらく、マンダニアのからくり道具を使い、シールドの向う側の情報を得ているのだろう。あるいは――ありそうなことだ! ――シールドのこちら側の魔法の力が働いている地域に、魔法の鏡を備えつけ、それで内部の情報を得ているのかもしれない。いや、それならば、直接にシールド石の位置が確認できるはずだ。
ビンクは頭がくらくらしてきた。どう考えていいかわからないが、とにかく、かんじんの位置を教えるつもりはなかった。
「あんたが気にしてるんなら言うけど、あたいは追放者じゃないよ。醜いからって追放するわけには、いかないさ。あたいは自分から追ん出てきたんだ」
「自分から? どうして?」
「うん、理由はふたつある」
ファンションはビンクをちらと見た。「どっちも、信じてもらえないんじゃないかな」
「言ってみればわかるよ」
「ひとつは、魔法使いハンフリーに、ザンスを出るのが、いちばん簡単な問題解決の方法だって言われたから」
「どんな問題だい?」ビンクはつとめてあかるく訊いた。
ふたたびファンションは凝視にちかいまなざしを、まっすぐにビンクに向けた。「はっきり言わなきゃいけないかい?」
ビンクは思わず赤面した。ファンションの問題は、容姿のことにきまっている。若い女性なのに、平凡でもなく、不器量でもなく、醜いのだ。若さと健康が必ずしも美の条件ではないという、生きた見本だった。衣服をまとっても、化粧をしても、なんの役にも立たないだろう。効果をもたらすのは、魔法しかない。とすれば、ザンスから出てしまうのはばかげたことだ。ファンションの判断は、彼女の体つきと同様、ゆがんでいるのではないか?
社交的礼儀として、話題を変えるべきなのだが、ビンクは別な考えに気をとられていた。
「だけど、マンダニアには魔法使いがいないよ」
「そのとおりね」
またもやビンクの論理はくつがえされた。ファンションは見かけ同様、話しにくい相手だ。
「あの、つまり、魔法で、そうなったの?」すばらしい機転だ!
だがファンションは、礼儀知らずのビンクを怒ろうとはしなかった。「そう、多少は」
「なぜハンフリーは、報酬を請求しなかったんだい?」
「あたいを見るのに耐えきれなかったのさ」
事態はいよいよ悪化していくばかりだ。「あの、ところで、ザンスを離れたもうひとつの理由は?」
「今は教えられない」
なるほど。ファンションはビンクは信じないだろうと言ったが、ビンクが最初の理由を信じてしまったため、もうひとつの理由が言えなくなったのだろう。典型的な女の論理だ。
「ええっと、ぼくら、いっしょに閉じこめられてしまったようだね」ビンクはもう一度たて穴の中を見まわした。陰うつなところだ。「やつら、なにか食わせてくれると思うかい?」
「あたりまえよ。トレントがふらりと来て、パンと水をぶらさげ、どっちか情報をもらす気になったかって、訊くでしょうよ。その気になった方は食べものをもらえる。時間がたてばたつほど、あいつを拒絶しにくくなるわ」
「きみ、ものすごく頭の回転がいいんだね」
「あたいは、ものすごく頭がいいの。そうね、みっともないのと同じ分だけ、頭がいいと言える」
まったくだ。「そんなに頭がいいんなら、ここからぬけ出す方法を考えてくれよ」
「ぬけ出せるとは思わない」ファンションはあきらかにうなずきながら、そう言った。
「へ?」ビンクはあっけにとられた。ファンションは口ではノーと言い、身ぶりでイエスと告げている。気でも狂ったのか? いや、彼女は見えないけれども、番兵が聞き耳をたてているのを知っているのだ。それで番兵向けとビンク向けの返事をしたというわけだ。ファンションはすでに脱出方法を、考えだしているらしい。
もう午後になっている。光線が、屋根のへりから、格子ぶたをつきぬけ、ななめに射しこんできている。この方がいいとビンクは思った。太陽の光が底まで達しなかったら、このたて穴の中は、がまんできないほど湿っぽいだろう。
格子ぶたのところに、トレントがやってきた。「ふたりとも近づきになったことと思うよ」陽気に言う。「腹がへっているかね?」
「ほら、きた」ファンションがつぶやいた。
「おふたかた、不自由な宿舎で申しわけないな」トレントは落ち着きはらって、しゃがみこんだ。まるで、ちゃんとした部屋で会見しているような態度だ。「野営地から離れず、われわれの行動の邪魔をしないと約束するなら、快適なテントを用意させるが」
「あの手にのったら、おしまいだよ」ファンションはビンクに言った。「いったん恩恵をこうむったら、あとは言いなりになるしかないんだから。だめだよ」
じつにすばらしい読みだ。「取り引きはごめんだ」ビンクは言った。
「いいかね」トレントは口先うまくつづけた。「テントに入り、逃げようとしたら、わたしの部下が矢を放つ。そんなことは起こってほしくない。おまえたちにとっては、ひどく不愉快だろうし、わたしにとっては、情報源が危うくなる。ひとつ、ふたつ、手を使って、おまえたちを監禁しておく必要があるな。いわゆる呪縛のことばで。このたて穴の唯一の長所は、逃亡のおそれがないことだ」
「放免してくれてもいいじゃないか」ビンクは言った。「どっちみち、情報は得られないんだから」
邪悪な魔法使いは内心ではあわてたとしても、みじんも表には出さなかった。「菓子とワインがあるぞ」トレントはつつみをひもでぶらさげた。
ビンクにもファンションにも手がとどかない。急にビンクは空腹と喉のかわきをおぼえた。たて穴いっぱいに、香料の匂いが広がる。つつみの中には、さぞ新鮮でおいしいものが入っているのだろう。
「受け取るがいい。毒も麻薬も入っていない。ふたりとも元気でいてほしいからな」
「ヒキガエルに変えるときのためにか?」ビンクは大声で尋ねた。失うものがあるというのか? 「いや、そんな挑戦をしちゃいかんよ。ヒキガエルはわかりやすくはしゃべらんのだ。わたしには、おまえたちの話を聞くのが、たいせつなんだ」
邪悪な魔法使いは、マンダニアでの長い追放暮らしで、魔法の力を失ったのではないか? ビンクはぐっと気分がよくなった。
つつみが干し草の山にとどいた。ファンションは肩をすくめると、しゃがみこんで、ひもを解いた。本当だった。菓子とワインだ。
「どちらか一方が先に食べた方がいいね。二、三時間たって、なんともなかったら、もうひとりも食べるの」
「ご婦人がお先に」食べものに薬がしこまれており、ファンションがトレントの手先なら、手をつけないだろう。
「ありがとう」ファンションは菓子をふたつに割った。「好きな方を取って」
「そっちを食べろよ」
「たいへんけっこう」上からトレントが言った。「おまえたちは、このわたしも、おたがい同士も信用してないんだな。おまえたちは身の安全のために、協定を結んだとみえる。しかし、無用のことだ。わたしがおまえたちのどちらかに、毒を盛りたいと思ったなら、頭から毒をかければすむことだ」
ファンションは菓子をひとくち、ほおばった。「おいしい」ワインの栓をぬき、口にふくむ。
「これも」
だが、ビンクはまだ信用していない。待つ。
「おまえたちのことを、よく考えてみた」トレントは言った。「ファンション、率直に言うぞ。わたしはおまえを他の生きものに変えてやれる。ちがう人間に。美しくなりたくはないか?」
おやおや。ファンションが手先なら、これはとびつきたくなるような餌だ。醜い女が美人に変わる――。
「行っちまえ」ファンションはトレントに言った。「泥を投げるよ」ふと気を変えたように、「あたしたちをここに入れておく気なら、もう少し衛生に気を使ってほしいね。手おけとカーテン。うっとりするようなお尻の持主なら、人目を避けなくても平気だけど、こんなじゃ、おしとやかにしなくちゃね」
「もっともだな」トレントが合図をすると、番兵が品物を持ってきて、格子のあいだからおろしてよこした。ファンションはおけを片隅に置き、もじゃもじゃの髪からピンをぬき取り、壁にカーテンを留めて、三角形の小部屋を作った。ビンクはファンションのような娘が、なぜ、そうもしとやかぶるのか、よくわからなかった。彼女が無防備な臀部を露出したからといって、ぽかんとみとれる者などいるはずがない。ファンションがよほど感受性が強くなければ、彼女の言動に比較して、強い偏見が残っていることを軽蔑してやるところだ。美しい娘は誰かに裸身を見られたら、衝撃と苦痛を表わすだろうが、その反応が好ましければ、内心ではうれしく思うだろう。ファンションにそんな見栄はないはずだ。
ビンクはファンションをかわいそうに思った。同時に自分自身をも。絵のような相手なら、監禁生活ももっと張りあいがあるものを。とはいえ、ビンク自身も、個人的行為の尊重はありがたい。自然の作用というのは、ぐあいの悪いものだ。ビンクはやっとそこに気づいた。ファンションはビンクが考えつきもしないうちに、問題をはっきり定義した。するどい頭脳の持主だ。
「あいつ、きみをきれいにするって言ったけど、うそじゃないと思うよ。きっと――」
「できっこないわ」
「いや、トレントの力は――」
「知ってる。でも、あたいの場合は、よけいにひどくなるだけよ。たとえあたいが、ザンスを喜んで売るにしても」
変だ。ファンションは美しくなりたくないのか? ではなぜ、容姿に関して異常なほど敏感なのだろう? これもまた、ビンクからシールド石の位置を訊き出すための、べつの手口なのか? ビンクは思い悩んだ。ファンションは確かにザンスから来た。外部の者なら、命の泉の水のことや、老いたる王のことなど、想像だにできないにきまっている。
時が過ぎていった。たそがれがおとずれた。ファンションがぴんぴんしているので、ビンクも割りあての菓子とワインを口にした。
雨だ。格子から雨が降りこんでくる。屋根が多少はさえぎっているが、傾斜のぐあいでたて穴のふたりはぐっしょりぬれた。けれどファンションはほほえんだ。「よかった。今夜は、ついてるよ」
よかった? ビンクはぬれた衣服の中で身震いし、けげんそうにファンションを見守った。彼女はやわらかくなったたて穴の床を、指で掘っている。ビンクがなにをしているのか見に行こうとすると、ファンションは手を振って制した。「番兵が見てないが、確かめて」小さな声で言った。
その心配はない。番兵は関心がないようだ。雨宿りをしているらしく、姿が見えない。たとえ近くにいたとしても、暗くてよく見えないだろう。
なにをいっしょうけんめいやっているのだろう? 雨も気にせず、ファンションは床から泥をかき取り、干し草とまぜあわせている。ビンクにはわけがわからない。なぜ彼女は、ああもくつろいでいられるのだろう?
「あんた、ザンスでつきあってた娘がいた?」ファンションは尋ねた。雨足はゆるいが、闇が彼女の秘密の作業を隠している。ビンクに見えるのも、番兵と似たりよったりの程度だ。
ファンションの質問は、ビンクにとって避けたい問題だった。「いったいなんで――」
ファンションはつかつかとビンクの傍に歩いてきた。「れんがを作ってるのよ、バカ!」と、小さな声できびしく言った。「話をつづけて、あかりに気をつけてね。誰か来たら、“カメレオン”と言って。あたい、急いで隠しちゃうから」ファンションは自分の場所へもどった。
カメレオン。そのことばには、なにかがあった。そうだ。ビンクがよき魔法使いのもとに旅立つ直前、カメレオン・トカゲを見たのだ。ビンクの未来を予示したもの。カメレオンはあっけなく死んだ。今度はビンクの番だという意味だろうか?
「話すのよ!」ファンションはせかした。「あたいの音を消すの!」そして、ふつうの声で、
「女の子の知りあい、いた?」
「ああ、何人か」れんが? なんのために?
「きれいだった?」ファンションの手は闇にぼんやり見えるが、泥と干し草をまぜあわせる音は、はっきり聞こえる。泥のれんがに干し草を使い、固くしているのだ。しかし、いかにもきちがいじみている。れんがの便所でも作るつもりだろうか?
「それとも、そんなにきれいじゃなかった?」
「ああ、きれいだったよ」いかにも話にのったように見えるだろう。もし番兵が聞いていても、泥をこねる音よりも、ビンクのきれいな女の子の話の方に注意を向けるだろう。よし、それがファンションの望みなら。「ぼくの婚約者のサブリナは、美しかった。いや、美しい。それに魔女アイリスは、美しく見えたが、美しくない女たちにも会った。いったん年をとるか、結婚すると、女たちは――」
雨がやみかけている。あかりが近づいてきた。「カメレオン」ビンクは低い声で言った。ふたたび緊張する。予兆はつねに的中する――正しく理解すれば。
「女というものは、結婚するときは、醜くないものよ」ファンションが言った。音が変わっている。証拠の品を隠している。「なにかがそんなふうにしてしまうんだ」
ファンションは確かに自分の容姿を気にしている。美しくしてやるというトレントの申し出をなぜ断わったのか、ビンクはまた不思議に思った。
「魔法使いハンフリーをたずねる途中、レディ・セントールに出会った」ビンクはこんなおかしな状況の中では、ごく自然にふるまうのはむずかしいと知った。れんがを作りたがる醜い娘とたて穴に閉じこめられているなんて! 「彼女は彫像のように美しかった。もちろん、下半身は馬だけれど――」言いまわしがよくない。「つまり、うしろから見ると、えーと、とにかく、ぼくは背中に乗せてもらい――」番兵がどう思うか、わかっているが、彼らがどう思おうとかまいはしない。ビンクは近づいてくるあかりをみつめた。格子に反射している。「セントールだから、半分、馬なんだ。彼女はセントールの領内を、ぼくを乗せて走ってくれた」
あかりは去った。夜間の見まわりだろう。「にせの警報か」ビンクはつぶやいた。そして、ふつうの声で、「でも、魔法使いのところに行く途中で、本当に美しい娘に会った。その娘の名前は……」ビンクは必死で思い出した。「ウィン。だけど、その娘はどうしようもないほど、頭がにぶかった。谷ドラゴンにつかまってなければいいが」
「あんた、裂け目にいたの?」
「少しのあいだ。谷ドラゴンに追っかけられるまでね。裂け目をぐるりとまわらなきゃならなかった。きみが裂け目を知ってるんで、驚いたよ。ぼくは忘却のまじないがかかっているんだと思ってた。だって、地図にはのっていないし、出くわすまで、誰からも聞いたことがなかったんでね。でも、ぼくが覚えているってことは――」
「あたいは裂け目の近くに住んでたんだ」
「あそこに? あれ、いつ、できたんだい? あれの秘密はなんだい?」
「裂け目はずっとあったよ。忘却のまじないも。これは魔法使いハンフリーのしわざだと思う。けど、見た人の観念が強力だったら、覚えていられる。少なくとも、しばらくのあいだは。魔法は広い範囲にきくだけだもの」
「そうなんだろうね。ぼくはドラゴンと亡霊のことは忘れないだろう」
ファンションはまたれんが作りをはじめた。「他の娘は?」
ビンクは、ファンションが裂け目に関しては、あまり興味をもっていないという印象を受けた。裂け目近辺の住民たちを知っているせいだろうか?
「そうだな――もうひとりいる。平凡な娘だ。ディー。ぼくの連れのクロンビーという兵士と、けんかしたよ。クロンビーは女ぎらいで、いや、少なくとも、うわべはそうだった。それで、彼女は行ってしまったんだ。残念だった。ぼくはむしろ、好きだったから」
「へえ? あんたはきれいな娘の方が好きなんだと思ってた」
「いいか、そんなに神経をとがらすのはやめてくれ!」ビンクはきっぱり言った。「きみがこの話題を持ち出したんだ。ぼくはディーが好きだった――ああ、気にしないで。脱走の計画を話す方が楽しいよ」
「ごめんね。あたい。あの、あんたが裂け目のところを旅してたの、知ってるんだ。ウィンもディーも友だちなの。それで興味をもったんだ」
「きみの友だち? ふたりとも?」はめ絵の断片がぴたりとはまった。「それじゃ、魔女アイリスとの関係は?」
ファンションは笑った。「なんにも。もし、あたいが魔女だとしたら、こんなかっこうをしてると思う?」
「うん。きみが美しさで誘惑しようとして、うまくいかなかったから、そしてまだ、権力を得たくて、無知な旅人からなにかを得られるかもしれないと考えていたら。だからこそ、トレントは美しくするという約束で、きみをつれ[#「つれ」に傍点]なかったんだ。それはきみの変装を破るだけだから。そして、望みさえすれば、いつだって美しくなれるんだし。で、きみは誰にも疑われないように変装して、ぼくのあとを追ってきたのかもしれない。もちろん、他の魔法使いにザンスを乗っ取らせる手伝いなんか――」
「あたいはここ、マンダニアにいるんだよ。魔法の力がきかないところに。ゆえに、めくらましではない」
ビンクの説はくつがえった。あるいは? 「もしかすると、それが本当の姿かもしれない。ぼくはあの島で、本物のアイリスを見ていなかったのかもしれない」
「それじゃ、あたいはどうやってザンスに帰るのさ?」
これにはビンクも答えられなかった。わめくように答えた。「それでは、きみはなぜ、ここに来たんだ? 魔法の力がないということは、きみの問題を解決しないだろうに」
「時間が――」
「時間が魔法を無効にするのか?」
「そのとおりよ。シールドが張られる前は、マンダニアにドラゴンが飛んできたものだった。けれど、数日か数週間すると、姿が消えてしまった。それ以上かかったかもしれない。魔法使いハンフリーの話では、マンダニアの書物には、ドラゴンや、他の魔法の動物たちの記録や絵が、たくさんあるそうよ。マンダニアでは、もうドラゴンの姿が見られないため、古い書物は、おとぎ話だと思われているわ。でも、それが、動物や人間の中にある魔法は、ある時期が過ぎれば、消えてしまうと証明してる」
「それだと、結局、魔女のめくらましも、数日しかもたない」
ファンションはため息をついた。「たぶん、そうでしょ。けど、あたいはアイリスでもかまわないけど、アイリスじゃないよ。ザンスを離れたのには、れっきとした、やむをえない理由があったんだから」
「うん、覚えているよ。ひとつは、なんだかわからないけど、きみの魔法を消すために。もうひとつは、まだ聞いていない」
「あんたなら、当然、わかるだろうよ。なんとかして、あたいから訊き出しちゃうさ。あんたがどんな人か、ウィンやディーから聞いてるし――」
「じゃ、ウィンはドラゴンから逃げたんだね?」
「うん、あんたのおかげで。ウィンは――」
あかりが近づいてきた。「カメレオン」ビンクは言った。
ファンションはあわててれんがを隠した。今度は、あかりがたて穴の中をくまなく照らした。
「おまえたち、そこで洪水にあってはいないだろうな?」トレントの声だ。
「そうなったら、泳いで逃げるさ」ビンクは言い返した。「いいか、魔法使い、おまえがぼくらを不愉快な目にあわせればあわせるほど、ぼくらは手伝う気を失くすんだからな」
「それはよくわかっているとも、ビンク。おまえたちに心地のよいテントを提供してやりたいと――」
「いらん」
「ビンク、わたしはどうしても理解できんのだよ。おまえを粗末にあつかった統治者たちに、なぜそんなに忠義だてするのかな?」
「おまえにいったいなにがわかる?」
「当然、わたしの手先が、おまえたちの会話を聞いておる。しかしわたしには、容易に察しがつくさ。嵐の王が、今頃はさぞや手に負えない老いぼれになっているにちがいないと、わかるぐらいにはな。魔法がいろいろな形で表われ、定義はひどく狭くなり――」
「そんなこと、ここではどうでもいいじゃないか」
魔法使いトレントは、ビンクの不合理な発言にくらべ、しごく理にかなって聞こえる話をつづけた。「ビンク、ハンフリーがそういう点でまちがいをおかすとは信じられないが、わたしはおまえには魔法の力がないと思っている。しかし、おまえには、他の天与の素質があり、すぐれた人間になれるだろう」
「彼の言うとおりだよ」ファンションが言った。「あんたはうんと値うちのある人だ」
「きみはどっちの味方なんだい?」ビンクは尋ねた。
ファンションは暗闇の中でため息をついた。とても人間らしい。姿が見えないと、彼女の個性がより容易に理解できる。「あたいはあんたの味方さ、ビンク。あんたの忠誠心に感心してる。忠誠の相手に、それだけの価値があるとは思えないけどね」
「なぜきみは、トレントにシールド石の位置を教えなかったんだい? 知っているとしての話だけど」
「いろいろと難点はあるけど、やっぱりザンスはすばらしいもの。老王だって、永遠に生きちゃいない。王が死んだら、魔法使いハンフリーがあとを継ぐだろう。ハンフリーは時間がもったいないなんて、ぶつくさ言うだろうけど、なにもかも、今よりずっとよくなると思う。この瞬間にも、さらにあとを継ぐべき、若い新しい魔法使いが生まれているかもしれない。なんとかうまくいくだろうよ。これまでも、ずっとそうだったんだもの。ザンスにいちばん不必要なものは、自分の敵対者をぜんぶカブに変えちまうような、冷酷な邪悪な魔法使いさ」
頭上から、トレントのふくみ笑いが聞こえた。「おまえたち、ずいぶんきびしい心と、するどい舌をもっているな。現に、わたしは敵対者を木に変えるのが好きだ。カブよりは木の方がもちがいいからさ。ところで、今の話ぐらいでは、わたしの方が現在の王よりよい統治者になるとは、認めてくれないだろうな?」
「あいつ、点をかせいだね」ビンクは暗闇の中で、皮肉に言った。
「あんた、どっちの味方なの?」ファンションはさっきのビンクの口まねをした。
だが、笑いだしたのは、トレントだった。「おまえたち、ふたりとも気にいったぞ。本当だ。ふたりとも善良な心と、あっぱれな忠誠心の持主だ。その忠誠心を、わたしの方に向けてくれさえすれば、なんなりと思いのままにしてやるぞ。たとえば、わたしの変身の術を禁止する力をくれてやってもいい。そうすれば、おまえたちもカブにする相手を選べる」
「そんなことしたら、あたいたち、あんたの片棒をかつぐことになっちゃう。そんな力をもってたら、すぐにも心がくさって、あんたとちっともちがわない人間になっちまうじゃないの」
「わたしの素質より、おまえたちの素質の方が特にすぐれているのではないならばな。そうだとすれば、わたしとおまえたちとは、たいしてちがわないのさ。おまえたちは単に、わたしの立場に異をとなえているにすぎん。そこに気づくのがいちばんだ。自覚せずに偽善者づらをしないように」
ビンクはためらった。体はぬれ、寒いし、穴の中でひと夜をすごす趣味はない。二十年前、トレントは約束を守ったことがあったのだろうか? いや、守らなかった。彼は権力を得ようとして、平気で約束を破った。彼が負けたのも、そのせいだ。誰ひとりとして、友だちでさえ、トレントを信用しなくなったのだ。
魔法使いの約束には、なんの価値もない。トレントの論理は、囚人からシールド石の位置を訊き出すために組みたてられた、説得のための論理だ。変身の術を禁止する力だと? 邪悪な魔法使いは、必要がなくなり次第、まっさきにビンクとファンションを変身させてしまうにきまっている。
ビンクは返事をしなかった。ファンションもだまっている。トレントはひきあげていった。
「あたいたち、ふたつめの誘惑も切りぬけたね。けど、あいつはずる賢いし、恥知らずだもの。もっとひどいことになりそう」
ファンションが正しいのが、ビンクは残念だった。
次の朝、ななめに射しこむ日光で、生《き》のれんがを焼き固めた。なかなか固くならないが、少なくとも、まず第一歩だ。ファンションは上から見られないように、れんがをカーテンで仕切った個室に隠した。なにごともなければ、もう一度、午後の日光に当てるつもりだ。
食料を持って、トレントがやって来た。新鮮なくだものとミルク。
「地位をかさにきるのは好きではないのだが、わたしは忍耐づよくない人間でね。ザンスの連中がシールド石の位置を、日々変えているとしたら、おまえたちの情報は価値がないわけだ。おまえたちのうち、どちらかが、今日中に、必要な情報を言わなかったら、明日、ふたりとも変身させてしまう。ビンク、おまえはオンドリの頭と足と羽に、ヘビの体をもつ、コカトリスに。ファンション、おまえはバシリスクだ。ひとつ檻に閉じこめてやるさ」
ビンクとファンションはすっかり度を失って、おたがいに顔を見あわせた。コカトリスとバシリスク。名前はちがっても、同じことだ。両方とも翼のある爬虫類で、一方はオンドリに産み落とされた卵黄のないタマゴからかえり、もう一方は、ふんの山のぬくもりの中で、ヒキガエルかち生まれる。吐く息がひどく悪臭がするために、植物は枯れ、石はみじんにくだけるし、その顔をひとめ見ただけで、他の生きものは瞬時に死ぬ。バシリスク――爬虫類の小さな王だ。
ビンクの予兆となったカメレオンは、死の直前に、バシリスクそっくりに変態した。そして今ビンクは、その予兆を知るはずのない者に、カメレオンを思い出させられ、姿を変えてしまうとおどされている。確実に死がせまってきている。
「はったりだわ」ようやくファンションが口を開いた。「できっこないもの。おどかしてるだけだよ」
「効果満点だな」ビンクはつぶやいた。
「お望みとあらば、披露するぞ」トレントが言った。「たやすく示威できるときは、わたしの力に敬意をはらえとは言わん。マンダニアでは長く力を使っていないから、もてる力を回復し、本式に使ってみる必要がある。示威できるなら、願ったりだ」トレントはパチンと指を鳴らした。
「囚人どもに食事をさせろ」番兵に命じた。「それから、たて穴から連れ出せ」トレントは立ち去った。
ファンションはべつの理由でふさぎこんだ。「あいつははったりをかけてるのよ。それよりも、番兵たちが降りてきたら、れんががみつかってしまう。そうしたら、どっちみち、おしまいだわ」
「ぼくらがここからよそへ移されるのでなければ、だいじょうぶだよ。番兵たちは、よっぽどでなければ、ここまで降りてこないさ」
「そうだといいけれど」
番兵が縄バシゴを降ろすと、ビンクとファンションはすぐにそれをよじ登った。
「はったり魔法使いのお召しか」ビンクは言った。番兵たちは、なんの反応も示さない。一行はザンスに向かって、地峡を東へ進んだ。シールドのごく近くに、トレントが側に金網の檻を置いて立っていた。トレントの周囲には、弓に矢をつがえた兵士たちが円陣に並んでいる。全員、黒いメガネをかけている。ひどくぶきみな感じだ。
一行が到着すると、トレントが言った。「ひとこと注意しておくが、変身させられたあとは、たがいの顔を直接に見てはいかん。いかにわたしとて、死人を生き返らせることはできない」
これがまた新手のおどしなら、いかにも効果的だ。ファンションは疑っているようだが、ビンクは信じた。二十年前のトレントの怒りの遺産、ジャスティンの木を思い出したからだ。ビンクの胸いっぱいに、予兆が大きく広がってきた。最初はバシリスク、次は死……。
トレントはビンクの不安そうなようすに目をとめた。「なにか言いたいことがあるのかね?」ごくふつうの調子で訊いた。
「ああ。みんなはヒエガエルやカブや、もっとひどいものに変えられずに、どうやって、あんたを追放したんだい?」
トレントはまゆをしかめた。「わたしが聞きたかったこととはちがう話だな。ビンク。だが、関心の一致のために、答えてやろう。わたしが信頼していた助手が買収され、わたしは眠りのまじないをかけられたのさ。眠っているあいだに運ばれて、シールドの外におっぽり出されたんだ」
「同じことが二度ないと、どうしてわかる? 四六時ちゅう目をさましているわけにはいかないだろうに」
「追放になったごく初期の頃に、たっぷり時間をかけて、ありとあらゆる問題をよく考えてみたよ。わたしは自分自身にあざむかれたのだとわかった。わたしが他人に誠実でなかったため、他人もわたしに誠実でなかったと。まったく道義心に欠けていたとね。十分な理由があると思っただけで、平気で約束を破り、しかも――」
「それはうそをつくのと同じだ」
「当時はそう思わなかった。だが、あえて言うが、その点における評判は、わたしがいないから、訂正されなかったんだぞ。敗者を徹底的におとしめるのは、古来、勝者の特権であり、そうやって勝利を正当化するのだ。それでもやはり、わたしのことばは、確かな約束ではなかったし、やがて、わたしの破滅のもととなった性格に、根本的な欠陥があると認めるようになった。くり返しを避ける唯一の方法は、作戦形態を変えることだ。もうあざむきはしない。絶対に。そしてまた、誰にもあざむかれはしない」
りっぱな答だ。多くの点で邪悪な魔法使いは、一般的なイメージとは反対だった。醜く、軟弱で、下品だというイメージとはうらはらに――ハンフリーの方が当てはまる――容姿端麗で、強くて、上品だ。しかし、トレントは悪者だ。ビンクはりっぱなことばがあざむくまでもなく、それを知っている。
「ファンション、一歩前へ」トレントが命じた。
ファンションはあからさまに冷笑を浮かべて、トレントに近づいた。トレントは身ぶりひとつ、祈りのことばひとつ、表わさなかった。ただ、じろりとひとにらみしただけだった。
ファンションの姿は消えた。
兵士のひとりが、虫とり網をさっとかぶせ、なにかをすくいとった。すばやく、網を持ちあげる。網の中で翼のある、不吉な、トカゲに似たものがもがいている。
バシリスクだ! ビンクはあわてて目をそむけた。そのおそろしい顔をまともに見て、死の凝視を受けないように。
兵士がそれを檻に投げこむと、黒いメガネをかけた兵士がふたを閉めた。他の兵士たちは、ほっと緊張を解いた。バシリスクは逃げ出そうと檻の中をはいまわったが、出口はない。金網の檻をにらみつけたが、相手が金属では、死の凝視も役に立たない。三人目の兵士が、小さな怪物の視界を断つために、檻に布をかけた。ビンクも緊張を解いた。すべて慎重に準備され、練習されたのはあきらかだ。兵士たちはなにをすべきか、正確に心得ていた。
「ビンク、一歩前へ」トレントはさっきとまったく同じ調子で命じた。
ビンクはこわかった。だが、心の片隅で、自分に言い聞かせていた。〈これははったりだ。ファンションはやつらの仲間なんだ。彼女は変身させられた、次はおれの番だと思いこませたいんだ。ファンションがトレントのことをあげつらったのも、みんな、この瞬間のための準備だったんだ〉
とはいえ、ビンクはなかば信じていた。予兆のせいで、よけいに強い確信がある。あたかも、死が、蛾鷹の翼に乗って音もなく襲ってくるように……。
それでもなお、ビンクは祖国を売ることはできなかった。震える足で、ビンクは一歩前に出た。
トレントがじっとみつめている――世界がとんだ。驚きあわてて、ビンクは手近な茂みに逃げこんだ。近づくと、緑の葉が枯れてしまった。虫とり網がバサリと落ちてきた。ビンクは谷ドラゴンに追いかけられたときのことを思い出し、最後の瞬間で急にもと来た方向に引き返し、網をのがれた。じろりと兵士をにらみつける。兵士は仰天し、黒いメガネをずり落とした。両者の視線が出会ったとたん、兵士は苦しみながら、うしろに倒れた。
虫とり網は遠くに飛んだが、べつの兵士がしっかりつかんだ。ビンクは枯れた茂みに隠れようと、のそのそ進んだが、今度はつかまってしまった。網の中で、翼をばたつかせ、さかとげを網に引っかけようと尻尾を激しく動かし、かぎ爪をふりまわし、くちばしで宙を突いた。
とたんに、どしんと落とされた。二、三度網を揺すられ、かぎ爪と尻尾をはずされてしまい、ビンクは翼を広げ、あおむけに落ちた。思わず、苦痛の悲鳴をあげた。
起き直り、薄暗いのに気づく。檻の中だ。布でおおってあるから、外からは見られない。ビンクはコカトリスに変わっていた。
示威だって! ファンションの姿が変えられるのを目のあたりにしただけではなく、ビンク自身も体験させられ、おまけに、ちらりと視線をあわせただけで、兵士をひとり殺してしまった。これまでトレントの軍隊の中に、懐疑論者がいたとしても、今はもういないだろう。
ふと、まがった、さかとげのある尻尾がビンクの目に入った。女性のものだ。ビンクに背を向けている。ビンクはコカトリスの性質に駆られた。仲間なんかいらない。
荒々しく彼女に突っかかり、かみつき、かぎ爪をくいこませる。彼女は太いヘビの尾をてこに使い、すばやく身をよじった。一瞬、顔と顔が向きあった。
ビンクの目にうつったのは、見るも恐ろしく、身の毛のよだつ、いまわしく、胸が悪くなるような顔だった。こんないとわしいものは、生まれてこのかた見たことがない。しかし、相手は女性で、基本的にどこか魅力的なところがある。ビンクは矛盾する魅力と嫌悪感とに圧倒され、意識を失った。
気がついたとき、ビンクは頭が痛かった。たて穴の干し草の上に横たわっている。午後も遅いようだ。
「バシリスクの凝視力を、過大評価していたようだね」ファンションが言った。「あたいたち、ふたりとも死ななかった」
すると、あれは本当にあったことなのだ。「まったくだ」ビンクは同意した。「だけど、少しばかり、死んだような気分だよ」話しながら、ビンクは以前には考えもしなかったことに気づいた。バシリスクは魔法的な動物であり、しかも、魔法が使える。ビンクは魔法の力で敵を倒せる、知性あるコカトリスになった。これまで考えてきた魔法についての仮説は、いったいどうすればいいのだろう?
「うん、あんたは闘志まんまんだったもんね。あの兵士は、もう葬られたよ。今のところ、この野営地は死んだように静かだ」
死んだように――これが、ビンクの予兆の意味だったのか? ビンクは死ななかった。だが、人を殺した。意味もなく、ふだんとはまるで異質の状態で。予兆は完了したのだろうか?
べつの思いが頭をかすめ、ビンクは起きあがった。「トレントの力は本物だ。ぼくらは変身させられた。本当に姿が変わったんだ」
「あれは本物だね。本当に姿が変わったもの」ファンションはゆううつそうに同意した。「あたい、疑ってたんだけど、今は信じるよ」
「あいつ、ぼくらが意識を失っているあいだに、魔法を解いたにちがいない」
「うん。示威行為をしてみただけなんだよ」
「じつに効果的な」
「だったね」ファンションは身震いした。「ビンク、あた、あたい、次はがまんできるかどうか、わかんないよ。あれは、ただ姿が変わっただけのことじゃなかった。あれは――」
「わかってる。きみはものすごく醜いバシリスクになった」
「ものすごく醜いなににでもなるよ。けど、あのまじりけのない敵意、愚かさ、嫌悪感――ああ、いやだ! 残りの人生を、ああやって過ごすなんて……」
「きみを責めることはできないよ」ビンクの心の中で、なにかがうるさく語りかけている。とにかく短い経験だったので、あらゆる面から厳密に調べてみるのに、しばらく時間がかかりそうだ。
「他人のせいで、自分の良心にそむかなきゃならなくなるなんて、思いもしなかった。だけど、だけど――」ファンションは両手に顔を埋めた。
ビンクはだまってうなずいた。そして、話題を変えた。「きみ、気がついたかい? あれは雄と雌だったよね」
「あたりまえだよ」ファンションは自分を抑制し、正しく判断する態度をとりもどしていた。
「あたいたちは男と女じゃないか。魔法使いは姿は変えられても、性までは変えられないのさ」
「でも、バシリスクは中性のはずだ。オンドリが産んだタマゴからかえる。バシリスクにふた親はいない。オンドリだけだ」
ファンションは問題をとらえ、考えぶかげにうなずいた。「あんたの言うとおりだ。もし雄と雌がいるなら、つがって、自分たちの子を産むはずだ。つまり、当然、あれはバシリスクじゃなかった。逆説だね」
「定義にどこかまちがいがあるにちがいない。怪物の発生について、迷信が多すぎるのか、それとも、ぼくらが本物のバシリスクではなかったのか」
「あたいたちは本物だったよ」ファンションはまたもや恐怖に襲われ、顔をゆがめた。「今、わかった。あたい、生まれてはじめて、人間の姿でよかったと思う」ファンションにしてみれば、もっともな告白だ。
「すると、つまり、トレントの魔法は、なにからなにまで本物だということだ。トレントはただ形を変えるのではなく、実際に、あるものから、別のものに変えてしまうんだ。わかるかな?」さっきから胸の中でもやもやしていたものが、はっきりしてきた。「しかし、ザンスの外では魔法が消えるのならば、シールドのこちら側の狭い魔法の地域を越えたら、ぼくらは――」
「マンダニアに行けばいい!」ファンションは了解して叫んだ。「時がくれば、あたいたち、もとの姿にもどれる。永久にあのままじゃないんだ」
「したがって、トレントの魔法の力は、たとえ本物にしても、はったりにすぎない。ぼくらを檻に入れ、あの場所に置いておかないかぎり、ぼくらは逃げ出し、彼の力からものがれられる。・トレントははるばるザンスに行かなければ、ほんの小さな権力しか握っていられない。あいつは軍隊の将軍という権力以上の力はないんだ。殺す力は」
「今、彼が得られるのは、本当の権力の、こたえられない味わいだけだね。あいつ、ザンスに入りたくてたまらないんだ!」
「けれど、ぼくらはまだ、彼の手中にある」
ファンションはれんがを並べ、かぎられた日光にあてた。「あんた、どうする?」
「離してもらえたら、マンダニアへ行く。待ち伏せにあうまでは、そっちへ向かってたんだし。トレントはひとつだけ教えてくれたよ。マンダニアでも生きのびられるってね。でも、道筋をくわしく書きとめておかなくては。よそからだと、ザンスはみつけにくいらしいから」
「あたいが訊いたのは、シールド石のこと」
「なにも」
「言わないの?」
「もちろん、言わないさ。あいつの魔法の力では、ぼくらを本当に傷つけることができないって、わかったじゃないか。恐ろしいものはなくなった。かまわないさ。でも、きみがあいつにしゃべっても、ぼくは責めないよ」
ファンションはビンクをみつめた。あいかわらず醜い顔だが、なにか特別なものがあった。
「あんたね、あんたは本当の男だわ、ビンク」
「いや、そんなことはない。ぼくは魔法の力をもっていない」
「あんたはもってるわ。それがなんなのか、わからないだけ」
「同じことだ」
「あたい、あんたを追っかけてきたの」
やっと意味がはっきりわかった。彼女はザンスで、魔法の力のない旅人の話を聞いた。それがマンダニアでは、なんの不利にもならないことを知っていた。いい組み合わせだ。魔法の力のない男と、美のもちあわせのない女。不利な点では似た者同士だ。たぶん、時がたてば、ビンクもファンションの容姿を見なれるだろう。他の点ではりっぱなものだ。たったひとつをのぞいては。
「きみの立場はわかるよ。だけど、もしきみが魔法使いに協力するなら、たとえ、美しくしてもらったとしても、きみとはつきあいたくない。美しさなんて関係ない。トレントがザンスをのっとったら、きみは報酬をもらえるだろうよ。ただし、あいつが約束を守ったらの話だが」
「あんたのおかげで、勇気を取りもどしたよ。突破口を開きましょう」
「どうやって?」
「れんがだよ、とんま。もう固くなった。暗くなったら、積み重ねて――」
「格子ぶたがある。扉には鍵がかかってる。踏み段ぐらいじゃ、たいしてちがいはない。あれを調べるのが問題なら、きみをかかえあげて――」
「ちがいはあるよ」ファンションは低い声で言った。「れんがを積み重ねて、その上に立ち、格子ぶた全体を押しあげるのさ。あれはかぶせてあるだけなんだ。ここに連れてこられたときに調べといた。重力だけの問題なの。重いけど、あんた、強そうだから――」
ビンクは急に希望がわいてきて、上を見あげた。「ぼくが持ちあげたら、きみ、支えられるね。着実に――」
「大きな声を出さないで!」ファンションは小声できびしくたしなめた。「まだ、盗み聞きされてるかもしれないんだから」うなずきながら、「でも、いい考えだ。うまくいくかどうかわからないけれど、やってみる価値はあるわ。そして、魔法抑制液の貯蔵所を襲いましょう。そうすれば、誰か他の人がザンスから来て、シールド石の位置を教えても、液が使えない。あたい、ずっとそれを考えてたんだ」
ビンクはほほえんだ。ファンションを好ましいと思いはじめていた。
10 追跡
夜になると、ビンクとファンションはれんがを積み重ねた。わずかな日光に干しただけで、十分な固さに仕あがっていないれんがは、多少くずれはしたが、全体として、驚くほどにがんじょうにできていた。ビンクは慎重に番兵たちの気配に耳をすまし、かれらのいわゆる“休憩”がくるのを待った。そのときになると、ビンクはレンガの山のてっぺんに立ち、格子ぶたのへりに両腕をぐっと突っぱって、押しあげた。
腕がいっぱいに伸びたとき、ビンクは不意に、ファンションがプライバシーの確保にカーテンを要求した、その本当の意味がわかった。彼女は見苦しい肉体を隠すためにではなく、れんがを隠すためにカーテンを要求したのだ。脱出の努力に賭ける、この瞬間がくるまでれんがを隠しておけるように。そしてビンクは少しもそこに気づかなかった。
意外な発見は、ビンクに力を与えた。力いっぱいふたを押しあげる。すると、格子ぶたは信じられないほどらくらくと持ちあがった。ファンションがビンクの傍に来て、持ちあがったふたの支えに、排泄用のおけをあてがった。
やれやれ。いずれそのうち、誰か、バラの香のするおけを作り出してくれるといい!
しかし、このおけもちゃんと役に立っている。ふたを支えて、ビンクの苦痛を軽くしてくれた。これで、外に出るすきまができた。ビンクはファンションの尻押しをしたあと、自分もはい出した。番兵たちはいない。自由の身になれた。
「魔法抑制液はあの船の中よ」ファンションが暗闇の一角を指しながら、小声で言った。
「どうして知ってるんだい?」
「あの、変身のために連れて行かれるとき、あの側を通ったんだよ。あれだけ、やけに厳重な見張りがついてた。それにカタパルトが積んである」
ファンションはしっかりと目を開いていたのだ。醜いけれども、じつに賢明な女だ。ビンクはそんな分析的な目で、野営地内を検分するなど、思いもしなかったのに!
「抑制液だけ奪うのは、とってもたいへんだよ。あたいは船ごと奪う方がいいと思う。船をあやつれるかい?」
「手こぎのボートより大きな船には乗ったことがないんだ。アイリスのヨットはべつだけど、あれは本物じゃなかった。たぶん、船酔いするだろうな」
「あたいも。ふたりとも新米水夫だね。誰もあたいたちがあそこにいるとは思わないだろうよ。行こう」
コカトリスに変えられるよりは、ずっとましだ。
ビンクとファンションは足音をしのばせて海岸へおり、水に入った。ビンクは不安そうにうしろをふり返った。あかりがたて穴の方に動いていくのが見える。「急いで!」ビンクはささやいた。「ふたをもどしてくるのを忘れた。逃げ出したのが、すぐにわかってしまう」
少なくとも、ふたりともかなり泳ぎには自信がある。服をぬぐ――変身の最中に服をぬいでいたら、どうなっていたのだろう? また魔法の説明のつかない部分がふえた。ふたりは四分の一マイルほど沖にとまっている船に向かって、静かに泳ぎだした。ビンクは暗い水の中が気になってたまらない。マンダニアの海の底には、どんな怪物がいるのだろう?
水はつめたくないし、泳いでいるうちに体が暖かくなってきたが、くたびれてくるにつれ、寒気をおぼえてきた。ファンションも同じだった。陸地から見ると、船までそう遠くはないと思ったが、それは足で歩く距離の感覚だった。泳ぐ距離となると、まったくべつものだ。
そのとき、たて穴の牢獄で叫び声があがった。あちこちにあかりがぱっとつき、まるでホタルのように動きはじめた。ビンクは新たに力が湧いてくるのを感じた。「早くたどりつこう」
ファンションは返事をしなかった。泳ぐのにけんめいだ。
果てしなく泳ぎつづけるのかと思われた。悲観的になりだすと、力がぬけてくる。だがついに、ふたりは船にたどりついた。甲板に水夫がひとり、月の光の中で黒々と浮きあがって見える。陸の方をうかがっているようだ。
ファンションはビンクに近づいた。「あんた――むこう側に」あえぎながら言う。「あたいが――注意をそらすから」
ファンションには勇気がある。水夫が矢を射かけてくるかもしれないのだ。ビンクは、船の反対側に出るために、苦労して船尾をまわった。船は長さ、およそ四十フィート、ザンスのふつうのものより大きい。けれど、トレントのマンダニアに関する話が本当なら、マンダニアにはもっと大きな船があるはずだ。
ビンクは船の反対側に着くと、船体のへりに手をかけた。船のこの部分を、専門的になんとよぶか、考えてみようとしたが、できなかった。見張りの水夫が他にいなければいいが。ビンクは船を揺らさないように、ゆっくりと舷縁を乗りこえなければならない。
絶好の頃合いで、ファンションがまるで溺れかけているかのような悲鳴をあげた。水夫たち――全部で四人だ――は手すりに駆け寄り、ビンクはできるだけ音をたてないように船にあがった。ぬれた体が甲板で音をたて、重みで少し船体がかたむいたが、水夫たちは反対側にくぎづけになって、ファンションを見ている。
ビンクは立ちあがると、こっそりマストに近寄った。帆が巻きあげられているため、隠れるところはほとんどない。あかりを向けられたら、みつかってしまうだろう。
とにかく、行動第一だ。腕も足も冷えて重く、好んで闘う気分ではないが、そうしなければならない。胸をどきどきさせながら、ビンクは音もたてずに、四人の水夫のうしろにまわった。水夫たちはファンションを見ようと、手すりから体を乗り出している。ファンションはまださわいでいる。ビンクはいちばん近くの水夫の背中に左手をおき、右手でズボンをつかんだ。いきなり、力いっぱい持ちあげる――水夫は悲鳴をあげて水の中に落ちた。
すばやく次の水夫をとらえ、投げこむ。仲間の悲鳴を聞いて、残りふたりの水夫がビンクの方を向いたが、もう遅い。二人目も突き落とした――落ちたと思ったら、片手で手すりをつかんでいた。手すりにぶらさがり、体をよじって、船の方に向こうとしている。ビンクが手をなぐると、とうとう手すりから指を離して、水の中に落ちていった。
だが、時間と力をかけすぎた。残りふたりがとびかかってきた。ひとりがビンクのくびに腕をまわして締めつけてくる。
こんなときはどうしろと、クロンビーに言われたっけ? ビンクは気持を落ちつけ、思い出した。男の腕をつかみ、片膝をつき、体を前に倒して投げとばす。
みごとにきまった。水夫は背負い投げをくい、甲板に背中をどしんとうちつけられた。
もうひとりは、こぶしを振りまわしながら、うろうろしている。はずみをつけて、ビンクに体当りしてきたが、勢いは弱い。ビンクが甲板に倒れると、水夫は馬乗りになってきた。さらに悪いことに、水中に落とされた水夫のひとりが、船にあがってきた。ビンクはのしかかっている相手を引き離そうと、足を使ったが、あまり効果がない。水夫はたくましく、ビンクは押さえつけられ、身動きできなくなってきた。船にあがってきた水夫が加勢にきた。
加勢にきた水夫が片足をあげた。ビンクは身じろぎもできない。腕も体を押さえつけられている。足が伸びてきた。と思うと、ビンクを押さえつけている男の頭にがんとぶつかった。
けられた水夫はうめき、ビンクを離した。頭をけられて、おもしろくないだろう。しかし、こんなに近い距離で、ける相手をまちがえるとは、どういうことだ? あかりは全部、持主とともに水の中だから、暗くてまちがえたのか――。
「あの男を突き落とすの、手伝ってよ」ファンションの声だ。「この船を確保しなきゃ」
ファンションは裸だというのに、ビンクは水夫とまちがえたのだ! 暗いせいだ。月の光はあかるいのだが、こんな状況では――。
ふたりの水夫は、すでに舷縁にもたせかけてあった。呼吸をあわせ、ビンクが今まで取っくんでいた相手の肩をつかみ、ファンションが足をもった。
「いち、に、のさん!」ファンションは息を切らしている。
ビンクとファンションがほぼ同時に手を放すと、相手はふたりの仲間の待つ海へ落ちていった。三人とも水の中だ。ビンクは三人に泳ぐ元気があればいいと思った。四人目の水夫は、意識を失って、甲板に倒れている。
「いかりをあげて!」ファンションが命じた。「あたい、棒を持ってくる」月光の中で、やせた体が船室に消えた。
ビンクはいかりの鎖をみつけ、たぐりあげた。ビンクがあつかいかたを知らないために、ひどく手こずったが、ようやくいかりをあげることができた。
「この男、どうしたの?」ファンションは倒れている男の傍に膝をついた。
「投げたんだ。クロンビーにやりかたを教わった」
「クロンビー?」
「ザンスで会った兵士さ。雹嵐にあったとき、ぼくがディーのあとを追って――ああ、めんどくさい」
「そういえば、兵士のことを言ってたね」ファンションはちょっとだまった。「ディー? あの娘のあとを追ったって? どうして?」
「あの娘が、嵐の中にとび出して行ったし、それに、うん、ぼくはあの娘が好きだったから」ビンクは現在のつれが、こういう話題にはひどく敏感だったことを思い出し、とりつくろおうと、話題を変えた。「他の水夫たちはどうしたろう? 溺れたかな?」
「これを見せたわ」ファンションは、ぶっそうなカギザオを指した。「だから、海岸へ向かって泳いでった」
「移動した方がいいな。船の動かしかたがわかればの話だけど」
「平気よ。潮の流れが運んでくれる。風はよくない。どうしていいかわからないのに、帆をあつかおうとしても、混乱するだけ」
ビンクは他の船をみつけた。灯がともっている。「あの水夫たち、海岸まで泳がなかったよ。隣のドアをたたいたんだ。あの船が追っかけてくる。帆を張って」
「無理よ。言ったでしょ。風」
しかし、まちがえようがない。敵の船は帆を張った。風を利用しているのだ。
「魔法抑制液を捜した方がいいね」ファンションが言った。
「そうだな」ビンクはすっかり忘れていた。それがなければ、陸地を走って、マンダニアにもぐりこめたのだ。とはいえ、ザンスを邪悪な魔法使いの攻撃目標にしたまま、おのれのみの自由を得て、生きていけるだろうか? 「海に捨てちまえば――」
「だめ!」
「だけど――」
「人質がわりに使えるよ。抑制液をもってるかぎり、あいつらはあたいたちに近寄れない。ふたりでかわりばんこに甲板に立ち、あいつらによく見えるように、液の入ったびんを持っておくんだ。もしなにかあったら――」
「すごい! そんなこと、考えつきもしなかった」
「まず、人質をみつけなきゃ。船をまちがえてたら、こっちにはカタパルトだけで、抑制液はあっちということだと――」
「だったら追っかけてきやしないさ」
「くるよ。カタパルトもいるんだから。それに、なんてったって、あたいたちが必要なんだし」
ビンクとファンションは船内を捜した。船室には、ある種の怪物が鎖につながれていた。大きくはないが、ひどくおそろしげな怪物だ。体じゅう、黒い斑点のある白い毛でおおわれている。細い尻尾、黒い垂れ耳、小さな黒い鼻、きらきら光る白い歯。四本の肢には短いかぎ爪がはえている。ビンクが近づくと、敵意むきだしのうなり声をあげた。だが、くびに巻いた鎖が壁にとめてあるため、気の狂ったような動きも、鎖の長さに邪魔されて断ちきられている。
「これ、なんだ?」ビンクはおそろしそうに訊いた。
ファンションは考えこんだ。「オオカミ憑きだと思うよ」
そう言われれば、なんとなく見覚えがあるような気がする。ちょうどオオカミの時期の、オオカミ憑きにそっくりだ。
「マンダニアに?」
「そうだね、親類じゃないかしら。もっと頭が多ければ、ケルベロスに似てるし。頭がひとつきりなら、犬だと思う」
ビンクはぽかんと口を開いた。「犬! きみは正しいと思うよ。ぼくは犬を見たことがないんだ。本物は、絵で見ただけなんだ」
「現在、ザンスに犬がたくさんいるとは思わない。昔はいたんだろうけど、ザンスを出なきゃならなくなったのよ」
「シールドを通って?」
「もちろん、シールドが張られる前さ。過去一世紀ぐらいの書物に、犬、ネコ、馬について書いてあった文献があったと思うんだけど。時代は忘れてしまったわ」
「どうやら、今ここに一匹いるようだね。いやにおっかないな。きっと魔法抑制液を守っているんだろう」
「知らない人間を襲うように訓練されてるんだね。これ、殺さなきゃならないんじゃないかな」
「だけど、めずらしい動物だよ。現在、ただ一匹の生き残りかもしれない」
「それはわからないだろ。マンダニアでは、犬はありふれた動物かもしれない。でも、いったん慣らしたら、かわいいだろうね」
犬は依然として油断なくふたりを見守っているが、おとなしくなっていた。小さなドラゴンは、攻撃距離外にいる人間を、こんなふうに見るんじゃないかと、ビンクは思った。すきあらば、攻撃距離内に近づいてくれば……。
「気絶してる水夫を起こして、犬の世話をさせよう。犬も船の乗組員の言うことは聞くだろうし。そうでもしないと、抑制液を手に入れられないよ」
「いい考えだね」ファンションは認めた。
水夫はようやく息をふき返したが、もう一度闘える状態ではないようだ。
「行かせてあげるよ」ファンションが言った。「あの犬をおとなしくさせる方法を教えてくれたらね。犬を殺したくないんだよ」
「ジェニファーか?」水夫はぼんやりしている。「名前をよんで、頭をなでてやり、食いものをやるんだ」水夫はねころんだ。「鎖骨が折れちまったらしい」
ファンションはビンクを見た。「それじゃ、泳がせるわけにいかないね。トレントは怪物だけど、あたいたちはちがうもん」水夫の方に向き直り、「なにがあっても、あたいたちの邪魔をしないと約束するなら、できるだけの手当てをしてあげよう。取り引きする?」
水夫はちゅうちょしなかった。「あんたたちの邪魔はしない。起きあがれないんだ。取り引きする」
ビンクは悩んだ。これではトレントと同じだ。捕虜に協力すれば帰してやると、うまいことを言った、邪悪な魔法使いと、どんなちがいがあるというのだ?
ファンションは水夫の肩のあたりを調べた。
「いてっ!」水夫は悲鳴をあげた。
「あたいは医者じゃないけど、だいじょうぶだと思うよ。骨は折れてる。船に、枕がいくつかあるかい?」
「聞いてくれ」ファンションに体を調べられながら、水夫が言った。苦痛から注意をそらせようとしているのだ。「トレントは怪物じゃねえよ。あんたたちはそう言ったが、そりゃちがう。あのひとはりっぱな指導者だ」
「ザンスをめちゃめちゃにしていいと言われたのかい?」ファンションは声をとがらせた。
「いいや、おれたちに農場や仕事をくれるって」
「殺さず、犯さず、略奪せず?」ファンションはいかにも疑わしげに訊いた。
「うん。今は昔とちがうんだ。おれたちはただあのひとを守り、占領した領地の治安を守る。そしたら、まだ人が住んでいない土地を少しもらえるんだ。ザンスは人口が少ないって話だ。それに、土地の娘と結婚するよう勧められたから、家族ももてる。娘が足りなきゃ、トレントが連れてきてくれるって。そのうちに、賢い動物を娘に変身させるそうだ。そいつは冗談だと思うけど、あの話を聞いたもんなあ。コカ――」水夫は顔をしかめた。「ほら、あのバシ――」くびを振り、苦痛でもう一度、顔をしかめた。
「頭を動かさないで」遅ればせながら、ファンションが注意する。「コカトリスもバシリスクも、本当だよ。あたいたちが、それだったんだ。けど、動物の花嫁は――」
「いや、そんなに悪くないと思うよ。本物の娘たちが来るまで、ほんの当座だけだ。動物の娘が娘らしくて、女だと思えれば、前身がビッチだって、かまわんさ。娘たちの中には、ビッチみたいな――」
「ビッチって、なんだ?」ビンクが訊いた。
「ビッチ? 知らねえのか?」また水夫は顔をしかめた。ひどい痛みのせいか、それが癖なのか。
「雌の犬のことさ。ジェニファーみたいな。うん、もしジェニファーが人間に変身したら――」
「もういいよ」ファンションがつぶやいた。
「まあ、とにかく、おれたちは農場をもって落ち着くんだ。おれたちの子供は魔法の力をもつだろう。言っとくが、それがなによりの楽しみさ。おれは魔法を信じないし、理解しない。いや、あのときまで、そうだった。けど、ガキの頃聞いた、カエルと王女の話とか、ガラスの山の話とか、三つの願いの話とか、おとぎ話をまだ覚えている。いいかい、おれはねじれた店(盗品を専門に取りあつかう店)の金属細工人だったんだ。わかるかな? おれはどうしても、ネズミ競争みたいにあくせくした暮らしからぬけ出したかった」
ビンクはだまってくびを振った。水夫の言うことは少ししか理解できないが、マンダニアはちっともよさそうに聞こえない。ねじれた店だって? きちんと建っていないんだろうか? ネズミ競争って、ネズミが競争してるのだろうか? ビンクもそんな国からはぬけ出したくなるだろう。
「いなかで、いい暮らしをするチャンスだ」水夫は話をつづけた。夢に身をささげるのになんの疑問ももっていない。「自分自身の土地をもち、よい作物を育てる、わかるかい? そして、おれの子供は魔法を知る。本物の魔法を。おれはまだ、そこんとこが本当に信じられないんだけど、それがうそでも、考えてるだけですてきなもんさ」
「でも、よその国に侵略し、あんたのものじゃないものを取るのは――」ファンションは言いかけてやめた。その点で水夫と論争してみても、意味はない。「トレントは、あんたたちが必要でなくなったら、とたんに裏切るよ。あいつはザンスを追放された邪悪な魔法使いなんだ」
「あのひとが本当に魔法を使えるってことかい?」水夫は幸せな疑惑を口にした。「おれ、まじめに考えて、全部、手品だと思ってた。そりゃ、あるときは信じたけど――」
「あいつは本当に魔法が使えるんだ」水夫のことば使いに慣れてきたビンクは、口をはさんだ。
「ぼくらをどんなふうに変えたか――」
「そのことはいいよ」ファンションが言った。
「ま、とにかく、あのひとはりっぱな指導者さね」水夫は言い張った。「あのひとは、二十年前に王になろうとしたために、追ん出されたことや、魔法の力を失くしたこと、こっちの娘と結婚して、男の子を――」
「トレントはマンダニアに家族がいるのか?」ビンクはびっくりして尋ねた。
「おれたちはこの国のことをそうはよばないんだ。うん、いや、家族がいたんだ。やな虫が、その、インフルエンザの一種だけど、そいつにかかったか、食中毒だったか、とにかく、ふたりとも死んじまったんだ。あのひとは、科学ではふたりは救えなかったが、魔法なら救えたと言ってた。それで魔法の国に帰る気になったのさ。ザンスって言ってたね。けど、シールドとやらを通過できても、ひとりで帰ったら殺される。で、軍隊が必要だったんだ。あいててて!」ファンションが治療を終え、水夫の肩に枕をあてがってやったのだ。
ビンクとファンションは、水夫がなるべく楽にしていられるように、肩に布を巻いてやった。ビンクはこの水夫のユニークな見解を、もっと聞いていたかった。が、時間は刻々と過ぎていくし、もう一隻の船が追いついてきている。敵は帆を張っているため、風にさからい、左右前後ジグザグに追跡してくる。逆風で船を動かすのがまちがっているのだ。他にもまちがっている点が、どれぐらいたくさんあるだろう?
ビンクは船室に入った。やや軽い船酔いにかかっているが、がまんしている。「ジェニファー」みつけだした犬の餌を差し出しながら、おそるおそる声をかける。小さな斑点のある怪物は尻尾を振った。これなら、友だちだ。ビンクは勇気をふるい起こし、頭をなでてやった。ジェニファーはかみつかなかった。犬が食べているあいだに、ジェニファーが厳重に守っていた大型の箱を調べてみた。ていねいに詰めものが施してある箱の中に、緑色がかった液体入りのびんがみつかった。やった!
「娘さん」ビンクがびんを手に甲板にもどると、水夫がファンションによびかけた。「シールド――」
ファンションは気づかわしげに水夫を見た。「潮流がそっちに向かってるの?」
「そうでさ。邪魔したくはないんですがね、早く船の向きを変えないと、おれたち全員、おだぶつですよ。シールドの効果は知ってまさあ。動物が通りぬけようとして、おっちんだのを見たことがあるんだ」
「どこだかわかる?」
「かすかにね。見えますか?」水夫はやっとのことで手をあげて示した。
ビンクは目をこらして見た。ぼうっと白く、かすかに光を発しているとばりの方に、船は流されていた。シールドだ!
一直線に船は進んでいる。「とめられないよ! あたいたち、突っこんじゃう」ファンションが叫んだ。
「いかりを降ろせ!」水夫が言った。
他に打つ手はないか? シールドはすなわち、死だ。かといって船をとめれば、トレントの軍勢につかまる。魔法抑制液のびんを見せびらかし、おどしをかけても、十分ではない。この船自体が、牢獄の一種となる。
「救命ボートを使えるよ」ファンションが言った。「そのびん、ちょうだい」
ビンクはびんをファンションに渡し、いかりを降ろした。いかりが沈むと、船はゆっくりと向きを変えた。シールドはぶきみに目前にせまっている。もちろん、追跡してくる敵の船にとっても同じ状況だ。敵が潮流ではなく、帆を使った理由もはっきりした。帆ならコントロールできるから、シールドの方に流される危険がない。
救命ボートが降ろされた。敵の船が反射光をあびせてくる。ファンションがびんを高くあげた。
「これを落としちまうよ!」敵に大声で警告する。「あたいに矢を射かけたら、抑制液もどぼん、だからね」
「それを返せ」追跡船からトレントの声が聞こえた。「おまえたちを放免すると約束する」
「へん!」ファンションは小声で、「ビンク、あんた、ひとりでこのボートをこげる? やつらの矢の射程距離内にいるあいだは、このびんを手から離すのは不安なんだ。あたいたちがどうなろうと、このびんも渡さないようにしておきたいのさ」
「やってみよう」ビンクは腰を落ち着け、オールを握り、こぎはじめた。
オールの片方は、船の横腹をぴしゃりとたたき、もう片方は水に突っこんだ。ボートはななめにかしいだ。
「突くんだよ!」ファンションはどなった。「もうちょっとで落っこちるところだった」
ビンクは片方のオールの先で、船を突こうとしたが、オール受けのオールを自在にあやつれないために、なかなかうまくいかない。しかし、潮流がボートを船から引き離し、船の向う側へ運んでいく。
「シールドに向かってる!」ファンションはびんを振りながら叫んだ。「こいで! こいで! ボートをまわすの!」
ビンクはシールドに背を向けた。こぎかたの問題は、逆向きにすわっていることだ。どっちに向かっているのか、さっぱりわからない。ファンションは船尾にすわり、びんを高く掲げながら、前方を見張っている。
ビンクはオールをあつかうコツをのみこみ、ボートの向きを変えた。かすかに光るとばりが、横手に見えてきた。こういうふうに見ると、とてもきれいだ。ぼんやりした光が夜を断ち切っている。だがビンクはその恐怖をはね返した。
「あれと平行に進んで」ファンションが指示を出す。「シールドの近くにいればいるほど、敵の船は動きにくくなる。たぶん、追いかけるのをあきらめるよ」
ビンクはオールをこぎつづけた。ボートは前に進んでいる。けれど、こういう作業に慣れていないのと、泳いだ疲れが回復していないのとで、長くはつづけられないとわかっていた。
「シールドに向かってるよ!」ファンションが叫ぶ。
ビンクは顔を向けた。そちらに向けてこいでいるわけではないのに、シールドが目前にせまっている。「潮流のせいだ。ぼくら、横に運ばれてるのさ」ビンクはいったんこぎはじめたら、他に進路はないと、単純に考えていたのだが。
「シールドから離れて! すぐに!」
ビンクはボートの向きを変えたが、シールドとの距離は開かない。ビンクがこぐのと同じ速度で、潮が流れているのだ。さらに悪いことに、風向きが変わり、風が強くなってきた。ビンクは必死でもちこたえようとしたが、急激に疲労が押しよせてくる。「もう――だめ――だ――よ」かすかに光るシールドをみつめながら、ビンクはとぎれとぎれに言った。
「島がある」ファンションが言った。「あっちへ向けて」
ビンクはきょろきょろ見まわした。横手の方に、波を切り分けている黒いものがある。島? 頼りなさそうな岩にすぎない。しかし、もし、あそこに着ければ――。
ビンクはなけなしの力をふりしぼってボートをこいだが、うまくいかない。しけがひどくなってきた。岩を見失いそうだ。シールドはどんどんせまってくる。
「手伝うよ」ファンションは魔法抑制液のびんを置き、前にはってくると、ビンクの反対側からオールを握った。ビンクに合わせ、オールに力をこめる。
助かった。だが、疲れきったビンクは気が変になりそうだった。厚い雲の速い流れで、見え隠れする月の光は、ファンションの裸体のアラを隠し、女らしい輪郭をいっそう強調している。影と想像力とが、ファンションを思いがけず魅力的にしてくれる。ビンクはとまどった。そんなことを考える権利はないからだ。ファンションはよい同志にすぎず、ただ――。
ボートが岩にぶつかった。かたむいている。岩か、ボートか、あるいは両方ともか。
「つかまって! つかまるのよ!」波をかぶりながら、ファンションが叫んだ。
ビンクは手を伸ばし、岩にしがみつこうとした。ビンク自身も、岩も、すり減り、すべりやすくなっている。波をまともにかぶり、ビンクの口の中は塩っぽいあわでいっぱいになった。今はまっ暗だ。月はすっかり雲にのみこまれてしまった。
「抑制液!」ファンションが悲鳴をあげた。「置いてきた――」波をかぶっているボートの船尾に身を移した。
海水にむせているビンクは、声も出ない。両手で岩にしがみつき、指で割れ目を探りながら、曲げた膝でボートを押さえている。妄想が浮かんでくる。海の中に溺れかけた巨人がいて、ザンスの土地にしがみつき、あの裂け目に指をかけている……あの裂け目の目的は、きっとそれなのだ。この孤立した岩に、ちっぽけな住人がいたら、ビンクの巨大な指が探りあてた裂け目に、憤慨するだろうか? ちっぽけな住人たちは、意識からそれを追い出すために、忘却のまじないをかけるだろうか?
遠くでぴかりといなづまが走った。ビンクはでこぼこした黒っぽい岩をみつめた。ちっぽけな人々は見あたらない。水の中の出っぱりに、いなづまの光を受けて、なにか光っているものがある。ビンクはじっとみつめたが、とっくに消えてしまっていた。記憶に頼り、周囲の形を確かめようと、横目で見てみる。なにか大きなものから、集中的に光がでていたからだ。
もう一度、今度は近くで、いなづまが光った。ほんの一瞬だが、ビンクははっきりと見た。
牙のあるハ虫類に似た生きものだ。強く光っていたのは、敵意のこもった目だった。
「怪物だ!」ビンクは恐怖の悲鳴をあげた。
ファンションはオールと格闘し、ようやくオール受けからはずした。怪物にねらいをつけ、オールをふりおろす。
ゴツン! オールの先が堅い緑色の鼻づらにあたった。怪物は退却した。
「ここから逃げなきゃ!」ビンクは叫んだ。そのとたん、またざぶりと波が押し寄せた。ボートが浮きあがり、ビンクが押さえている足から、もぎ取られるように離れた。ビンクは片手を伸ばして、ファンションの細い腰をかかえ、岩にぶらさがった。岩にしがみついている方の手の指が折れそうだ。だが、五本の指はしっかりと岩の割れ目をつかんでいた。
次にいなづまが走ったとき、水面を小さな帆のような突起物が動いているのが見えた。いったいなんだろう?
と思ったとたん、ビンクのすぐ脇から、べつの怪物が水面を割って、顔を出した。まっ暗な闇を、青白いいなづまの光がいろどる中で、ビンクは目をこらして、そいつ[#「そいつ」に傍点]を見た。顔には、横に広い目がひとつきり、丸い鼻は先がぶち切られたような形だ。その両側に、巨大なヒゲが生えている。ビンクは恐ろしさのあまり、身がすくんだ。細部はほとんど、自分が勝手に想像したのだとはわかっていたが。いなづまの光で見える範囲で、そいつをじっとみつめつづけているしかできなかった。
そして、いなづまの光が、ビンクの想像を現実化した。そいつは、すさまじく大きかった!
ビンクは身を守る方法を考え出そうと、恐怖と闘った。片手は岩をつかみ、片手はファンションでふさがっている。身動きできない。だが、ファンションは動ける。「オールは――」ビンクはあえいだ。
先に動いたのは、怪物の方だった。両手を顔にあて――顔をはがした。その下から現われたのは、邪悪な魔法使いトレントの顔だった。
「ばかなおまえたちのせいで、たいへんな苦労だ! 魔法抑制液をよこせ。そうすれば、船から命づなを投げさせてやる」
ビンクはためらった。骨の髄から疲れ、寒く、もうこれ以上、しけや潮流にさからう力はない。ここにとどまるのは死を意味する。
「ワニがかぎつけてくる。サメもいる。おまえたちがよく知っている神話の怪物と同じぐらい、そいつらも恐ろしいぞ。わたしが撃退薬をまいたが、こう潮の流れが速くては、あっというまに拡散してしまう。たいして役には立たんだろう。そのうえ、この岩のあたりには、ときどきうずまきが起こる。特にしけの最中にな。今すぐ助けが必要だ。そして、助けを呼べるのは、このわたしだけだ。びんをよこせ!」
「やるもんか!」ファンションはそう叫ぶと、暗い波間に身をおどらせた。
トレントはマスクをむしり取ると、ファンションのあとを追った。魔法使いは長い剣を皮ひもで吊ってある以外、素裸だった。ビンクはなにも考えずに、トレントのあとを追い水中に飛びこんだ。
水の中で、三人はもつれあった。暗いうえに、あわが渦まき、なにがなにやら見分けがつかない。溺れてしまうのが関の山で、なにもできないのに、なぜ無謀にも飛びこんでしまったのかわからず、ビンクは水面に浮上しようとした。けれど、誰かが死にものぐるいでビンクをつかんで離さない。早く水面から顔を出して息をしなければ……。
海は三人をのみこんだまま、ぐるぐるまわりはじめた。
うずまきだ。生命のない、じょうご型の怪物。人をきりきり舞いさせながら、その胃袋の奥深くに吸いこんでしまう。ビンクは溺れていくのがわかった。これで二度目の経験になるが、今度は魔女アイリスの救いの手は望めない。
11 荒野
ビンクは砂に顔を埋めたまま、目をさました。周囲には、緑色の怪物の活気のない触手が散らばっている。
うめきながら、ビンクは起きあがった。
「ビンク!」ファンションがうれしそうに大声で名をよびながら、砂浜をビンクの方にやってきた。
「夜だったと思ったけど」ビンクは言った。
「あんた、気を失ってたんだよ。この洞穴には魔法の燐光があるんだ。でなければ、マンダニアの燐光かもしれない。だって、岩も光ってるからね。でも、ここはあかるすぎるね。トレントがあんたの水を吐かせたんだけど、あたい――」
「これはなんだい?」ビンクは緑色の触手をみつめた。
「うずまきを起こす怪物海草、クラーケンの残骸だ」トレントが言った。「われわれを食いつくすつもりで、のみこんだのだが、魔法抑制液のびんが割れ、クラーケンの方が死んでしまった。おかげで、われわれは三人とも命が助かったのさ。もし、もっと早くびんが割れていたら、クラーケンはわれわれをつかまえずに、溺死させていただろう。もっと遅ければ、食われていたろうな。考えられないほど、幸運な、偶然の一致だった」
「クラーケンの残骸! でも、これは魔法だ!」ビンクは叫んだ。
「ザンスにもどったのよ」ファンションが言った。
「でも――」
「おそらく、うずまきがシールドの効果の低限より低く、われわれを引きずりこんだのだろう」トレントが言った。「われわれはシールドを越えた。たぶん、魔法抑制液の助けもあろう。偶然のいたずらだ。もう、あの道筋でもどるつもりはないぞ。あの途中で、呼吸器官が衰えてしまった。さいわい、初めは酸素を一回分は吸えたが。われわれは、ザンスにいる」
「そのようだな」ビンクはぼんやり答えた。残りの人生をマンダニアで過ごすという考えに、ようやく少しずつ慣れてきたのに。そう急には、わびしい期待を捨てにくい。「でも、なぜあんた、ぼくを助けてくれたんだい? 魔法抑制液がなくなってしまえば――」
「当然のことをしたまでさ」魔法使いは答えた。「わたしの口からそんなことばが出るとは信じられないだろうが、あのときは、そうする他になにも考えられなかった。わたしはおまえたちに、個人的な悪意をだいているわけではない。実のところ、おまえたちの不屈の精神と、倫理感には、感心しているぐらいだ。これから先は、おまえたちは好きにするがいい。わたしはわたしの道を行く」
ビンクはじっくり考えた。新しい、未知の現実に直面してしまった。ザンスにもどり、邪悪な魔法使いの闘いもなくなった。細部を検討すればするほど、そのどれもが、意味をなさなくなっている。うずまきにのまれたまま、怪物だらけの海中を、目には見えないが死をもたらすシールドを通りぬけた。いわば人喰い海草に救われた。人喰い海草は、まさに絶好の瞬間に、偶然に死んでしまい、ビンクたち三人は無事にこの浜にうちあげられた。本当にそうなのか?
「うそだ。ぼくは信じない。ものごとはこんなふうには運ばないものだ」
「まるで魔法にかけられているような気がする」ファンションが言った。「なぜか、邪悪な魔法使いまで巻きこまれているけど……」
トレントは微笑を浮かべた。素裸だが、あいかわらず、堂々たる態度だ。年齢のわりには、健康で精力的な男だ。「善とともに邪悪も救われたというのは、いささか皮肉だな。たぶん自然は、人間の定義を、つねにほめたたえるものとしていないのだろう。しかし、わたしは、おまえたちと同じく、現実主義者だ。どのようにしてここへ来たか、わかったふりをする気はない。が、ここにいることについては、なんの疑問ももっていない。しかしながら、陸に着いたことは、さらに大きな問題となるかもしれん。まだ危険からぬけきってはいないのだ」
ビンクは洞穴の中を見まわした。気のせいであればいいと思っていたが、やはり空気がよどんできているようだ。出口は、海の方にしかない。片隅には白骨の山がある。クラーケンの廃物だ。
ますます偶然だとは思えなくなってきた。海の怪物にとって、うずまきへの出口以上に、手頃な場所があるだろうか? 海、それ自体が犠牲者を集め、そのほとんどが、シールドを通過するさいに殺されてしまう。怪物海草クラーケンは、海中から新しい死体をふるいわけさえすればいい。そしてこの、めったに人目につかない洞穴は、多量の生きものを悠長に消化するには、理想的な場所だ。ビンクたちはこの浜に置き去りにされ、食べものさえあてがわれて、多少なりとも健康になった頃、クラーケンの空腹を満たすことになるのかもしれない。食料を新鮮に味よくしておくための、小さな楽しい貯蔵室。触手の側を泳ぎぬけていこうとしたら……うーっ! それとも、クラーケンはビンクたち三人をここに置き、そのあとで魔法抑制液にやられたのかもしれない。ほんの一瞬のタイミングのかわりに、数分間のタイミングのずれというわけだ。それでもまだ偶然という匂いは残るが、それほど極端には思えない。
ファンションは水べにしゃがみこみ、枯れ葉を水に浮かべていた。あの葉は、クラーケン草の過去の活動期のものだろう。陽のあたらないこんな場所に、なぜあんなものが必要だったのだろうか? ビンクには理解できない。クラーケン草も、魔法的存在になるまでは、ふつうの植物だったのかもしれない。あるいは、先祖はふつうだったから、まだ完全に適応していないのか。それとも、あの葉には、まったくべつの目的があるのか。自然にはわからないことが多すぎる。とにかく、ファンションは水に枯れ葉を浮かべている。そんなふうに時間をむだにするなんて、ばかみたいだ。
ファンションがビンクを見た。「潮の流れを調べてるのさ。ほら、水がこんなふうに動いてる。あの壁の下に出口があるにちがいないよ」
ビンクはまたもや、ファンションの頭のよさにかぶとをぬいだ。彼女がばかなまねをしていると思うたびに、その反対だと思い知らされる。ファンションはたとえ醜くても、ふつうの娘だが、その精神は有効に機能している。たて穴からの脱出、およびその後の戦略を考え出し、トレントの征服計画をつぶしてしまった。そして今また。悪いことに、彼女の見かけにだまされてしまうのだ。
「当然だ。クラーケンとてよどんだ水の中では生きられない。定期的な流れが必要だ。その流れが食いものを運び、廃物を運び去る。出口はある。それがすぐに水面に通じており、しかも、シールドを越えていなければの話だが」トレントが言った。
ビンクは気にいらない。「潮流にもぐり、一マイルあまりも水中にいなければならないのかい? 溺れて死んじゃうよ」
「友よ」トレントが言った。「わたしもその問題を考えていた。われわれはシールドのこちら側に来ているから、わたしの部下に救助されることはありえない。わたしは潮流にも、その中で発見するかもしれないものにも、賭けたくはない。しかし、いつまでもここにいるわけにはいかないのだから、結局は賭けてみるしかあるまい」
なにかが引っぱっている。ビンクは目をやり――緑色の触手がのたうっていた。
「クラーケンが生き返った!」ビンクは悲鳴をあげた。「死んでないんだ!」
「ほほう」トレントが言った。「潮流の中で、魔法抑制液が薄まり、拡散したんだな。魔法の力がもどりつつある。あの濃縮液は永久に効くと思っていたが、そうではないらしい」
ファンションは触手をじっとみつめた。他の触手ものたうちだした。
「ここから出た方がいいよ。すぐに」ファンションは言った。
「でも、どこに出るかわからないのに、水の中にはとびこめないよ」ビンクは反対した。「溺れて死ぬより、ここに残って闘う方がいい」
「われわれは自由の身になるまで、休戦協定を結ぶことにしよう」トレントが提案した。「魔法抑制液はなくなってしまったし、マンダニアにもどるわけにもいかない。ここから出るために、力を合わせるべきだろう。現在の状況を考えれば、仲たがいしているときではないぞ」
ファンションはトレントを信用していない。「あんたと力を合わせて外へ出たら、あんたは休戦協定をひっこめて、あたいたちをブヨに変えちまうさ。なんてったってザンスの中にいるんだから、あたいたちは二度と、もとの姿にもどれなくなっちゃう」
トレントはパチンと指を鳴らした。「忘れていたとはうかつだった。思い出させてくれてありがたい。外へ出るのに、魔法の力が使えるのだった」トレントはうごめく緑色の触手を見た。
「もちろん、抑制液の効果がすっかり消えてしまうまで待たなければならん。わたしの力も効かないからだ。それはつまり、クラーケンが完全に回復することでもある。この触手を変身させることはできない。本体がずっと遠くにあるためだ」
うごめいていた触手がぴんと立った。「ビンク、とびこむのよ! クラーケンと邪悪な魔法使いの両方に、つかまりたくはないもの」ファンションは水にとびこんだ。
結論が出た。ファンションの言うとおりだ。クラーケンに食われるか、魔法使いに姿を変えられるか。魔法抑制液の効果がまだ残っており、双方の脅威が抑えられている今こそ、逃げ出すチャンスだ。ファンションが先に行動しなかったら、ビンクはまだためらっていただろう。もし彼女が溺れ死んだら、ビンクの味方はいなくなる。
ビンクは砂浜を駆け、クラーケンの触手につまずいて倒れた。本能的な反応で、触手がビンクの足首にからみついた。かすかに吸いつくような音をたて、葉が足の肉にぺったりくっつく。トレントが剣をぬき、大またでビンクの方にやってきた。
ビンクは砂をつかみ、魔法使い目がけて投げつけたが、むだだった。そのとたん、トレントは剣をひらりと振りおろし――クラーケンの触手を切り裂いた。
「ビンク、わたしをこわがることはない。行きたければ、行くがいい」
ビンクはよろめきながら立ちあがると、深く息を吸いこんで、水にとびこんだ。前方にファンションの足と、地下出口の暗いトンネルが見える。
ビンクは水面に顔を出した。砂浜ではトレントが剣で、触手を一ヵ所に集めている。怪物退治の英雄といったところだ。しかし、その闘いが終わったとたん、トレントはクラーケンより危険な怪物になるだろう。
ビンクは心を決めた。もう一度、深く息を吸いこみ、水中にもぐった。今度はしっかりと潮の流れに乗っている。もうあともどりはできない。
トンネルの出口は、すぐにまた別の洞穴につづいていた。ビンクはファンションに追いつき、水面に顔を出したとたん、頭がぶつかりそうになった。ファンションはもう少し慎重だったにちがいない。
いっせいに頭がこちらを向いた。人間の顔、人間の胴体――とても美しい女たちだ。顔は小妖精で、魔法のにじ色の中で、ふさふさした髪がほっそりしたむきだしの肩から、形のよい突き出た胸に流れている。だが腰から下は、魚の尻毛だった。人魚だ。
「あたしたちの洞窟で、なにをしているの?」人魚のひとりが怒って叫んだ。
「ちょっと通りかかっただけです」ビンクが答える。当然、人魚はザンス共通のことばで話している。トレントは、ザンスのことばが、マンダニアのことばに、どのように溶けこんでいるかについては、なにも言わなかったから、ビンクはそのことは考えもしなかった。魔法は多種多様に作用しているのだ。
「水面に出る近道を教えてください」ビンクは頼んだ。
「こっちよ」人魚のひとりが左を指した。「あっちよ」またひとりが右を指す。「いいえ、そっちよ」もうひとりはまっすぐに指した。娘らしい笑い声がわっと起こる。
数人の人魚が水に入ってきて、尻尾をくねらせながら、ビンクの方に泳いできた。あっというまに取り囲まれてしまう。遠目よりも、近くで見る方が、ずっときれいだ。みんな水の自然作用で血色がよく、なかば水に浮いた胸のまるみは、半球形に見える。あまりに長くファンションに接してきたせいだろう。目前の華麗な光景に、ビンクは興奮と郷愁のいりまじった奇妙な感動をおぼえた。いちどきに全員を抱きしめることができれば……。いやいや、相手は人魚だ。ビンクの同類ではない。
人魚たちはファンションにはなんの注意もはらわなかった。
「男だわ!」ビンクが人間の男であり、人魚の男ではないという意味だ。「二本の足をごらんなさいよ。尻尾じゃないわ」
突然、人魚たちはビンクの足を見ようと、いっせいに水中にもぐった。裸のビンクはおおいにうろたえた。人魚たちは好奇心をむきだしにして、手を伸ばしてビンクの体に触れ、見慣れない筋肉質の足をこねくりまわした。しかしなぜ、ファンションの足には興味がないのだろう? ものめずらしさというより、いたずらごころの方が強いようだ。
ビンクの背後に、にゅっとトレントの顔が現われた。
「人魚たちよ、そのふたりからはなにも得られぬぞ」
なるほど。魔法使いを避けることもできないらしい。
「休戦協定を結んだ方がよさそうだ」ビンクはファンションに言った。「ときには信頼感を広げる必要がある」
ファンションは人魚たちからトレントへと視線を移した。「いいよ」ぶあいそうに言う。「その価値があるなら。たいしてないと思うけど」
「賢明な判断だ」トレントが言った。「長期目標は決まったが、短期目標が問題だな。生き残れるか。トライトンたちがやってきた」
べつの通路から、|男の人魚《トライトン》たちが群れをなして泳いできた。どうやら洞窟内は迷路になっているらしく、水中に通路がいくつもあるようだ。
「ほっ!」トライトンのひとりが三又のほこ[#「ほこ」に傍点]を振りまわしながらどなった。「刺せ!」
人魚たちは陽気な悲鳴をあげ、いっせいに水中にもぐってしまった。ビンクはファンションの視線を避けた。人魚たちはひどく楽しげにビンクにたわむれていたが、それはなにも、二本の足のせいだけではなかったからだ。
「闘うには多すぎる頭数だな」トレントが言った。「魔法抑制液の効果は消えた。休戦協定に従い、おまえたちの黙認を得られれば、おまえたちが逃げられるように、魚か、ハ虫類に変えてやれる。しかし――」
「どうやって、もとの姿にもどるの?」ファンションが訊いた。
「そこが問題だ。わたしは自分の姿を変えることはできない。したがって、おまえたちはわたしを助けなければならない。でないと、永久に変身した姿のままだ。ともに生きのびるか、べつべつに死ぬか。公平だな?」
ファンションはトライトンたちをみつめた。トライトンたちは三又のほこ[#「ほこ」に傍点]を振りかざし、三人を囲みながら、まっすぐに泳いでくる。ふざけているようには見えない。暴漢の一味は、はでなひと幕を見せつけて――人魚たちは砂浜で見物している――拍手喝采を受けるつもりなのだ。
「なぜ、あっちを魚に変えないの?」
「いっぺんに変えてしまえば、当座の脅威はしのげるが、われわれが洞窟を出られないのに変わりはない」トレントは言った。「とにかく、ある意味で、われわれ自身の方が魔法にかかるべきだと思う。なにしろ、われわれはこの洞窟の侵入者なのだし。所有者には所有者の論理が――」
「わかった!」トライトンのひとりが三又ほこを投げるのと同時に、ファンションが叫んだ。
「まかせるわ」
不意に、ファンションは怪物に姿を変えた。ビンクが見た中でも、最悪のやつだ。胴体のまわりに大きな緑色の殻がかぶさり、そこから、手、足、頭、尻尾が突き出ている。足には水かきがあり、頭はヘビにそっくりだ。
トライトンの三又のほこが、変身したファンションの殻に突きささった。と思うと、はね返された。急にビンクは、この変身術の意味がわかった。この怪物は不死身なのだ。
「海ガメだ」トレントがつぶやいた。「マンダニアにいる。ふつう、害はない。だが、人魚たちはそれを知らん。わたしは魔法的でない生きものの研究をして、おおいに関心をもった。おおっと!」三又のほこ[#「ほこ」に傍点]がとんできた。
次にビンクも海ガメに変わった。急に水中にいるのが、快適に感じられ、先のとがったほこ[#「ほこ」に傍点]もこわくなくなった。顔にはほこ[#「ほこ」に傍点]がとんできたら、ひょいとくびをすくめればいい。引っこめっぱなしでなくとも、固い殻が、たいていのものをはね返してくれる。
甲羅になにかがつかまっている。ビンクは振り離そうと、水中にもぐり、ふと考えた。ハ虫類の頭脳では、これは大目に見ていいことだと。今のところ、相手は友人ではないけれど、同志なのだから。それでビンクは水中にもぐりはしたが、引きずっている重味はそのまま放っておいた。
地下水路を求めて、ビンクはゆっくりと、だが力強く泳ぎはじめた。先をもう一匹の海ガメが進んでいる。呼吸は気にしなくていい。ビンクは息が長くもつと知っていた。
そう長くはかからなかった。地下水路は水面に向かって傾斜している。海面に顔を出すと、月が見えた。しけはおさまっていた。
と、急に、ビンクはふたたび人間の姿にかえっていた。同時に、泳ぎにくくなる。「なぜもとにもどしたんだい? 海岸まではまだ遠いのに」
「海ガメのときは、海ガメの思考と本能しかもてないからだ」トレントは説明した。「それに、海ガメのままで生きのびることはできない。あまり長いあいだあの姿でいると、人間だったことを忘れてしまう。沖合いに出ていかれては、わたしには追いつけないし、おまえをもとの姿にもどせなくなる」
「ジャスティンの木には人間の心が残っているじゃないか」
「ジャスティンの木?」
「あんたが北の村で木に変えた男たちのひとりだよ。心に直接話しかけてくる力をもっている」
「ああ。思い出したよ。あれは特別だ。わたしは彼を知恵ある木に変えたのだ。本物の木ではなく、木に変わった本物の人間さ。わたしの気持を相手にゆだねるときは、そうできる。だから、木の場合はうまくいった。しかし、海ガメは海を相手にするから、海ガメの反射作用が必要なんだ」
その論理にはとうていついていけなかったが、ビンクは論争する気はなかった。確かに事情がちがう。そのとき、人間の姿にもどったファンションが現われた。「あんた、協定を守ったんだね」ファンションはしぶしぶ認めた。「本当に守るとは思わなかった」
「ときどき、現実が邪魔するものだ」トレントは答えた。
「それ、どういう意味?」
「つまり、われわれはまだ危険から脱していないということだ。大ウミヘビがこっちに向かってくるようだぞ」
大きな頭が見える。まちがいない。海の怪物にみつかったのだ。ものすごく大きい。頭が一ヤードはある。
「たぶん、岩が――」ビンクはトライトンの洞窟の出口の露出部を指した。
「あれは大きな、長いヘビだよ」ファンションが指摘した。「洞窟の中にらくらくと入れるし、岩なんか、ぐるぐる巻きにしちまうよ。あたいたち、このかっこうじゃ逃げられないね」
「大ウミヘビも手を出さない毒クラゲに変えてやれる。だが、うまくいかないかもしれん。それに一日に一度以上変身するのは、賢明ではないかもしれんのだ。追放の期間中、それを確かめることはできなかったが、変身のたびに、おまえたちの心身の構造が、かなり衝撃を受けているかもしれんのでな」
「それに、あんた自身が怪物に食べられちまうかもしれないしね」
「おまえは頭が切れるな」トレントは動ぜずに言った。「したがって、わたしとしてはやむをえず、したくないことをしなければならない。怪物を変身させよう」
「大ウミヘビを変身させたくないのか?」ビンクは驚いて尋ねた。大ウミヘビはかなり近づいてきている。小さな目はぴったりと獲物にすえられている。大きな歯から唾液がしたたっている。
「あれは自分の本能に忠実に行動している、罪のない生きものにすぎない。つまり、あれの生活形態にかかわりたくないならば、あれの生活圏内に入るべきではないということだ。自然の均衡というものがある。魔法の国であれ、マンダニアにおいてであれ、それに干渉するのは、遠慮すべきだ」
「あんたは妙なユーモア感覚をもってんだね」ファンションは苦々しげに言った。「けど、あたいは邪悪な魔法のニュアンスを理解したなんて、絶対言わないよ。あんたが本当にあいつの生活形態を守ってやりたいなら、あたいたちが海岸に着くまで、あいつを小さな魚に変えといて、そのあとでもとにもどしてやればいいじゃないか」
「早く!」ビンクはまた叫んだ。大ウミヘビは特別な獲物に狙いを定め、もう三人の目前にせまってきている。
「それはまずい」トレントはファンションに答えた。「魚だと泳いでいかれると、見失ってしまう。変身させた相手は、わたしにそれとわかるような、特徴のあるものでないと。また、六フィート以内にいないとまずい。おまえたちの提案には一理あるがね」
「六フィートか。その距離になるまでに、ぼくらはやつの腹の中だ」ビンクは茶化そうとしているのではない。大ウミヘビの口は、幅よりずっと縦の長さがある。口をいっぱいに開いたら、上の歯と下の歯とのあいだは、十二フィートはたっぷりあるだろう。
「それでもなお、わたしは限界内で力を使わねばならない」トレントは落ち着きはらっている。
「変身させるにあたって、重要な個所は相手の頭だ。頭を変えれば、自然に他の部分もそれにしたがう。わたしの力の及ぶ距離内で、尻尾にだけ術をかけようとしても、うまくいかないだろう。だから、あれはわたしをのみこもうとした瞬間に、わたしの力を思い知ることになる」
「あたいたちのどっちかが、先にやられたら? あんたよか、六フィート以上は離れてると思うけど」
「距離内に来た方がいいだろうな」トレントは冷淡に言った。
ビンクとファンションは水をはねかしながら、大急ぎで邪悪な魔法使いの傍に寄った。ビンクは、たとえトレントに魔法の力がなくても、彼をたよりにするだろうと思った。トレントは自信過剰で、策を弄しすぎるきらいはあるが、人を従わせるすべを知っている。
大ウミヘビの体が激しくくねった。頭を突き出し、口を開きはじめた。口から、つばがいやらしい雲のように、まき散らされる。ファンションは狂乱のあまり、かん高い悲鳴をあげた。ビンクは身も凍るような恐怖を感じた。この感覚は知りすぎるほどよく知っている。ビンクは決して英雄ではないのだ。
だが、恐ろしいあごが閉じかけたとたん、海の怪物は姿を消した。そこにはきらきら光るあざやかな色の虫が、ばたばた飛んでいるだけだった。トレントはそっとその虫をつかむと、髪に置いた。虫は身を震わせながら、トレントの髪にとまった。
「きれいな虫だ」トレントは説明した。「飛ぶのがへたで、水が大きらいでね。こいつは、われわれが海岸にあがるまで、ここにじっとしているさ」
三人は海岸目指して泳ぎはじめた。海はまだ多少荒れぎみで、三人は疲れていたため、時間がかかったが、他の怪物に悩まされることはなかった。弱小の肉食動物は、海の怪物の狩場には侵入してこないらしい。それは理解できる。しかし、もし海の怪物がもどらなければ、数時間以内に別の積極的な一団が集結するだろう。トレントが指摘したとおり、つねに自然の均衡が存在する。
浅瀬のきらめきが強くなってきた。そのうちのいくぶんかは発光魚たちが、それぞれの仲間と連絡を取りあうために、色つきの光を発しているのだ。大部分は水そのものから発している光だった。薄緑、黄、オレンジの波。もちろん魔法だが、いったいなんのためだろう?
どこに行っても見られる光景だが、ビンクにはその目的がわからない。底の貝に目をやると、あるものはその縁が光り、またあるものは模様をなして光っていた。傍を通ると、いくつかの光は消えた。本当に消えてしまったのか、ただ目に見えなくなっただけなのか、はっきりわからない。けれど、それは魔法で、魔法には慣れている。おそまきながら、ビンクは、ザンスのよく知っている脅威の中にもどれたことが、うれしかった。
海岸にたどり着く頃には、夜が明けはじめていた。密林の上の雲のうしろから、太陽がゆっくりのぼり、ぱっと現われて水面から光のあしがはねかえる。すばらしい美しさだ。ビンクはその考えにしがみついていた。体は疲労で重く、頭は何度も何度も、締め木で拷問にかけられたようだったからだ。
ようやく、ビンクは海岸にはいあがった。ファンションも同じだ。「まだとまらないで。油断しちゃだめだよ。海岸から密林から、他の怪物が出てくるといけないから……」
トレントはたくましい体から剣をさげたまま、膝の深さの海中に立っていた。ビンクたちほど疲れてはいないようだ。「もどれ、友よ」海の中になにかをはじきとばした。大ウミヘビが姿を現わした。浅瀬では、そのヘビの胴体がいっそう印象的だ。トレントは大ウミヘビのくねる体につぶされないように、あわててうしろにさがらなければならなかった。
しかし、大ウミヘビはもう襲ってくる気はないらしかった。ひどくふきげんだ。怒りか、苦痛か、単なる驚きか、ひと声激しく咆哮すると、海原の深みに向かって泳いでいった。
トレントが海岸にあがってきた。「海の王でいるのに慣れているのに、無力なちっぽけな虫になるのは、おもしろくあるまいな。あの怪物が挫折感にさいなまれないといいが」
トレントは微笑すら浮かべていない。こんなに怪物が好きな男というのは、どこかおかしい、とビンクは思った。もちろん、トレントは当代の邪悪な魔法使いだ。不思議なことに、この男は端麗で礼儀正しく、博学で、体力があり、老練で、しかも勇気がある。が、人間よりも怪物の方が好きなようだ。それを忘れると、ひどいことになるだろう。
あの近づきがたい城に住む、醜い小男、よき魔法使いハンフリーが、自分自身の財を増やすために、利己的に魔法の力を使うのにくらべ、トレントが英雄の見本みたいな点も、おかしい。魔女アイリスは美しく、官能的に見えたが、実際はえたいが知れない。ハンフリーはいったんわかれば、その行為のはしばしから、彼のよさがわかってくる。これまではトレントも、見かけといい、行為といい、ともにすぐれているように見えた。少なくとも、純粋に個人的な水準では。もしビンクが、あのクラーケンの洞穴で初めてトレントに会い、邪悪な性質を知らなかったとしたら、なんの疑問ももたなかっただろう。
そのトレントは、激しい泳ぎにもかかわらず、みじんも疲れたようすを見せず、海岸を大またに歩きまわっている。朝の陽が髪にあたり、あかるい黄色に見える。その瞬間、トレントはすべてのものを備えた神のようだった。トレントの見かけと、現実の性格を表わしたさまざまな行為とを、一致させようとして、あまりに魅力的なので、事実上不可能とわかり、ビンクはまたもや困惑してしまった。まさに、ある点においては、信頼を受けてしかるべき人物だ。
「休んで、眠らなきゃ」ビンクはつぶやいた。「今は良し悪しを決められないよ」
ファンションはトレントを見た。「あんたの言う意味、わかるよ」くびを振ったため、ぬれてみすぼらしい髪がよじれた。「邪悪さは陰険なものだもの。あたいたちはみんな、心の中に邪悪な部分をもっていて、それは優位に立つ機会をうかがっている。それがどんなに魅力的に思えてきても、あたいたちはそれと闘わなきゃならないんだ」
トレントがやってきた。「どうやら、やりとげたようだな」陽気だ。「ザンスにもどれて、本当によかった。運命のいたずらのおかげだがね。おまえたちにとっては皮肉だな。わたしの侵入を必死でくいとめようとしたのに、助長する結果になって!」
「皮肉だね」ファンションは元気なく同意した。
「ここは中央荒野の海岸地帯で、北の大きな裂け目と境を接しているはずだ。われわれがどれぐらい南に流されてきたかはわからないが、地形は限定されているようだ。つまり、まだ、厄介な事態から脱してないということだ」
「ビンクは追放者、あんたは反逆者、あたいは醜い」ファンションがつぶやいた。「絶対に厄介な事態からはぬけられないさ」
「にもかかわらず、われわれは荒野を出るまでは、休戦協定を延長した方がつごうがいいだろうな」魔法使いは言った。
トレントはビンクの知らないなにかを、知っているのだろうか? ビンクには魔法の力がない。だから、深い密林の悪意のまじないの餌食となるだろう。ファンションもはっきりした力をもっていない。おかしなことに、彼女は無理にではなく、自発的にザンスを出てきたと主張している。けれど、本当に魔法の力がないのなら、ファンションも追放されたはずだ。とにかく、似たような問題をかかえているのだろう。だがトレントは、剣もまじないもたくみに使えるのだから、荒野を恐れる理由はまったくない。
ファンションも同じ疑問をもった。「あんたといっしょにいるかぎり、いつもヒキガエルに変えられてしまう危険があるじゃないか。荒野の方がもっと危険だとは思えないよ」
トレントは両手を広げた。「おまえたちがわたしを信用していないのはわかる。それなりの理由があるのだろう。もう少し協力してやっていけば、おまえたちの安全も、わたしの安全も増すのだが、しいて道づれになれとは言えない」トレントは海岸沿いに南に歩きはじめた。
「あいつ、なにか知ってるんだ。ぼくらを置き去りにして死なせるつもりだよ。そうしたら、約束を破らずに、ぼくらを片づけることができる」ビンクは言った
「あいつが約束を気にするものかね? それは道義心ある人間を意味するんだよ」ファンションが答えた。
ビンクは返事をしなかった。日陰まではっていき、手近な木の陰のやわらかな草の上に倒れこんだ。昨夜、意識を失った時間があったが、それは眠りと同じではない。純粋の休養が必要だ。
目をさましたときは、真昼になっていた。ビンクの体はくぎづけになっている。痛みもかゆみも感じないが、頭も手も動かせない。無数の糸で地面にぬいつけられているようだ。まるで、草が――
しまった! あまりに疲れていたため、うっかりして肉食草のベッドにねてしまったのだ! ビンクの眠りを邪魔しないように、葉根がじんわり、巧妙に広がり、ビンクの体にくいこみ、しっかりつかまえた、ということだ。かつて一度、ビンクも北の村の近くで、動物の骨ののった肉食草の一画に出くわしたことがある。草は肉を全部消化してしまう。こんな草の罠にかかるのは、いったいどんなまぬけな動物だろうと、不思議に思ったものだ。ビンクは今、思い知った。
呼吸ができるのだから、大声があげられる。ビンクは一種の喜びをおぼえながら、大声をあげた。「助けてくれ!」
返事がない。
「ファンション! 動けないんだ。草に食われてる」これは誇張だ。単に地面にしばりつけられているだけで、実際にはどこもなんともない。だが、体の中でつるが伸びつづければ、肉を食べはじめ、生命のたんぱく質をむさぼってしまうだろう。
まだ返事がない。ファンションに助ける気がないのか、あるいは、したくてもできないのか、どちらかだ。眠りのまじないをかけられたのかもしれない。今までのことを考えてみれば、海岸べりのここには、恐ろしい脅威が山のようにあるのは確かだ。ファンションはそのひとつにつかまったにちがいない。もう死んでいるかもしれない。
「助けて! 誰か!」絶望的にビンクは叫んだ。
これはまた、新たなまちがいだった。森の中、海岸沿い、ビンクの周囲のものたちをそそのかすことになった。ビンクは無力であるとみずから宣伝してしまった。みんな、それを利用しようとやってきつつあるだろう。黙って草と闘っていたら、そのうち自由の身になれたかもしれない。幸運にも死んでしまう前に目がさめたのだから。眠っているときに、寝返りをうとうとして、ビンクの体が、草の捕獲のまじないをしりぞけるほど激しく、抵抗感に反撥したのだろう。ビンクが闘い、失敗していたら、少なくとも、死はかなり楽だっただろう。ゆっくりと永遠の眠りにつくだけだ。それが、大声で騒いだために、快適な脅威とはほど遠いものを呼び集めてしまった。彼らの姿は見えないが、気配を聞くことはできた。
近くの木から、肉食リスのものらしい、ガサガサ鳴る音がする。海岸からは、空腹の酸ガニの足音が。海の中からは、トレントが変身させた大きな怪物の領域に、こっそりしのびこむ小怪物が水をはねかす音が。この小さな怪物は、苦労して水から出てくると、獲物が死なないうちに、こっちにやってくるだろう。だがなによりもぶきみなのは、森の中のどしん、どしんという太く低い足音だ。はるか遠くから、ものすごい速さでこちらに向かってきている。
ビンクの顔の上に影がさした。「ヒヒ!」そいつはかん高い声で叫んだ。ハーピーだ。北の村へ帰る途中で出会ったあのハーピーの親類だろう。どの点から見ても、醜く、くさく、いやなやつだが、今度はひどく危険な相手だった。ハーピーはゆっくり下降してくると、爪を伸ばしてビンクをひっかいた。前に会ったハーピーは、ビンクが元気だと見てとると、近くには寄ってこなかった。もっとも、ビンクが愛の泉の水を飲んだら、降りてきたかもしれないが。うーっ。このハーピーはビンクが無力だと知っている。
ハーピーは人間の顔と胸とをもち、人魚と同じく、その点は女性なのだが、腕のかわりに、べとべとする大きな翼をもち、胴体は太った鳥のそれだった。それに、きたない[#「きたない」に傍点]鳥なのだ。顔や胸が異様な形をしているばかりでなく、残忍のかたまりのようなものだ。飛べるのかどうか、ビンクは知らない。前に会ったハーピーを近くで見る機会が(見たいと思う気持も)なかったからだ。今や、地獄の光景に接している。二重の意味でだ。うーっ! 人魚たちは女性の形の美しさの代表だが、このハーピーは醜悪な方の代表だ。これにくらべれば、ファンションはかなりよく見える。少なくとも、ファンションは清潔だ。
ハーピーはビンクの上に舞い降りてきた。かぎ爪で宙をつかんだり、離したりして、ビンクの腹を裂き、内臓をつかむまねをしている。爪が割れ、ぎざぎざになっている。むっと匂いがする。たとえようのない悪臭だ。
「うーっ、なんて大きな、すてきな肉のかたまりだろ!」ハーピーは金切り声をあげた。「食べでがありそうだね。どこから食べたもんか、迷っちまうよ」きちがいじみた笑いを爆発させた。
恐怖におののきながら、ビンクは最後の力をふりしぼって、片手を草から引き離した。小さな根がからみつき、引き離すのは苦痛だった。片頬は地面にしばりつけられたまま、わずかに横向きになった。視界はひどく限られているが、耳からは恐ろしい情報がどんどん入ってくる。ハーピーをなぐりつけ、つかのま、遠去けた。ハーピーは臆病だ。見かけとぴったりの性格だ。
ハーピーの翼が重々しく羽ばたいた。固い羽が落ちてくる。「うーっ、行儀の悪い子だ!」金切り声をはりあげた。金切り声でしか話ができないらしい。ひどく耳ざわりで聞きとりにくい。
「おしおきをしてやるよ」ハーピーはふたたびかん高い笑い声をあげた。
姿は見えないが、なにかの影がビンクの上に落ちた。おそろしげな形のものだ。大型の動物のような重い息づかいが聞こえる。息の匂いは腐臭に満ちており、一瞬、ハーピーの悪臭をも圧倒したほどだ。海からやってきた生きもので、足をひきずりながら進んでくる。それ[#「それ」に傍点]はビンクの匂いをかいだ。他の生きものたちは、それ[#「それ」に傍点]に立ち向かうのを恐れ、はたと動きをとめた。
ハーピーだけはべつだ。安全な空の高みから、罵詈雑言をあびせようと待ちかまえていた。
「行っちまえ、アルゴス! そいつはあたいんだ。そっくり、あたいんだ。特に胃袋は」ビンクの片腕が自由に動くのを忘れて、ハーピーはふたたび舞い降りてきた。今度は、ビンクはハーピーを放っておいた。このいやらしい鳥と闘うことはできるが、新たな敵は手に余る。好きなようにハーピーに邪魔させておくつもりだ。
見えない敵は鼻を鳴らし、かるがるとビンクの体の上をとび越した。それ[#「それ」に傍点]の姿が見えた。胴体と尻尾は魚、短い四本の足の先はひれ状になっており、くびがなく、顔はイノシシで牙がはえている。胴体には三つの目があった。まん中の目だけ、他のふたつより下の位置にある。ビンクはこんな怪物を見るのは初めてだった。陸行魚だ。
ハーピーはアルゴスの曲がった牙の突きを、かろうじて避けて舞いあがった。くさい羽がぬけ落ちた。この痛手に腹をたてたハーピーは、怒りの悲鳴をあげ、ねとつくふん[#「ふん」に傍点]を落とした。アルゴスはハーピーを無視して、ビンクに注意を向けた。アルゴスが口を開けた。ビンクが、ささやかな抵抗にすぎずとも、鼻づらに一発くらわせてやろうと、こぶしを固めたとき、アルゴスは急に動かなくなった。ビンクの肩越しに、悪意に満ちた視線を向けている。
「アルゴス、おまえがやられる番だ」ハーピーは大喜びだ。「おまえみたいな魚野郎が、ゴルゴンネコにかなうもんか!」
アルゴスといい、ゴルゴンネコといい、初めて耳にする怪物だ。ビンクは激しい不安で全身が震えた。見えない位置にいる怪物の鼻づらが、そっと触れた。奇妙にやわらかい。だがその力は強く、ビンクの体が草から半分はぎとられた。
自分の獲物を横取りされそうになり、ブタ鼻のアルゴスは怒り狂って突撃を開始した。ビンクは体をべったり伸ばし、ぬるぬるしたひれ状の足が上をとびこすのを待った。その衝撃で、ビンクの体はさらに草から離れた。自由の身になれそうだ!
二匹の怪物はがっぷり組み合った。
「やれ! やれ! 怪物ども!」ハーピーが頭上を飛びまわる。けんかにすっかり興奮してしまい、また、大きなふん[#「ふん」に傍点]を落とした。もう少しでビンクにあたるところだった。手もとに石さえあれば、とビンクはくやしかった。
ビンクは起きあがった。片足はまだ草につかまったままだが、もう、悪魔の草から引きはがすよりどころができた。今度は痛くなかった。闘っている二匹の怪物に目をやる。ゴルゴンネコのヘビのたてがみが、アルゴスの頭に巻きつき、角、耳、眼球にしっかりからみついている。ゴルゴンネコの体は、ゴルゴンの頭のてっぺんから、われたひづめの先まで、うろこにおおわれており、アルゴスの攻撃などまるで受けつけない。体全体の形は、ごくありふれた四足獣なのだが、ひどく強い力でからみつく、くねくねとしたたてがみときたら、それはもう見るもおぞましい。
ビンクは本当にザンスに帰ってきたかったのだろうかと、思わず自問した。ザンスのいまわしい部分を、つごうよく忘れていたのだ。魔法は、善であると同様に、邪悪でもある。マンダニアの世界の方が、もっとましだろう。
「バカ!」ビンクが自由の身になったのを見て、ハーピーが金切り声をあげた。「そいつが逃げちまうよ!」しかし、怪物たちは自分たちの闘いに夢中になっており、ハーピーの言うことなど聞いていない。負けた方が勝った方のごちそうになるのはあきらかだ。ビンクは余計なのだ。
ハーピーは警戒するのも忘れ、まっしぐらにビンクに突進した。だが、ビンクはすでに立ちあがっており、闘える姿勢になっていた。手を伸ばしてハーピーの片方の翼をつかみ、骨ばった喉を締めようとした。ザンスのあらゆる下劣さを締め殺すという意味で、喜んでハーピーを殺してやりたかった。けれど、ハーピーは鳴きわめき、ビンクの手にひとにぎりのねばつく羽を残して、必死ではばたいて行ってしまった。
ビンクはすきに乗じて、二匹の怪物の争いの場から逃げ出した。ハーピーはほんのしばらくのあいだ、ビンクを追ってきて、寒気がするような野卑な侮辱のことばをわめきちらし、ビンクの耳を汚したが、すぐにあきらめてしまった。ハーピーひとりでは、ビンクに勝てる見こみはない。ハーピーというのは、基本的に死肉を喰う泥棒で、狩人ではないのだ。他の動物の口から、食べものを横奪りするのが、彼らのやりくちだった。周囲に、ビンクに襲いかかろうとする他の動物の気配はない。ハーピーはまるで無力な肉食鳥なのだ。
ファンションはどこだろう? なぜ助けに来てくれなかったのだろう? ビンクの助けを呼ぶ叫びは聞こえたはずだ。もっとも、ファンションがまだ生きていれば、の話だが。あの騒ぎに気づかないということは、ありえないのだから、もしかすると……。
いや、どこかにいる。ビンクの声が届かない磯で、魚をつかまえているのかもしれない。この二日間というもの、ファンションはザンスの幸福に変わらぬ忠節をつくし、筆舌に尽しがたい働きをした。彼女がいなくては、ビンクは邪悪な魔法使いの力から、のがれられなかっただろう。ビンクがこれまで会った娘たちの中で、ファンションは知性も個性もずばぬけている。悪いことに、あまり彼女は――。
ファンションは木にもたれかかっていた。「ファンション!」ビンクはうれしそうに大声でよんだ。
「あら、ビンク」
ビンクの心配と懸念は怒りに変わった。「ぼくがあの怪物たちに襲われていたのが、見えなかったのかい? 声が聞こえなかったのかい?」
「見たし、聞いたよ」ファンションは静かに答えた。
ビンクはとまどい、怒りがつのった。「なぜ助けに来てくれなかった? 少なくとも、棒を握るとか、石を投げるぐらいはできたろう。もう少しで食われるところだったんだよ!」
「ごめんね」
ビンクは一歩つめ寄った。「ごめんね、だって! きみはなにもせず、ここにすわって――」つづけることばにつまり、ビンクは口ごもった。
「あたいを木から離せるかしらね」
「海に放りこんでやる!」ビンクはファンションに近づき、ぐいと腕をつかんだ。急に無気力な気持に襲われた。
これでわかった。この木はファンションに無気力のまじないをかけ、それがビンクにもききはじめてきたのだ。肉食草と同じように、まじないが完全にきくには時間がかかる。ビンクと同様、ファンションも疲労のあまり不注意に、ここで眠ってしまった。この木のまじないは、犠牲者に警戒心を起こさせるような、不快な作用がまったくなく、ただ、活動力や、体力、意志が、知らぬまに徐々に薄れてゆき、やがて、すっかり失くなってしまう。肉食草とよく似た作用だが、こちらの方が実感しにくい。
ビンクは無気力のまじないと闘った。ファンションの傍にしゃがみ、背中と足に腕をまわした。ビンクはまだそれほど弱っていない。もし、急げば――。
ファンションを抱きあげようとして、ビンクはしゃがんだ姿勢は失敗だったと悟った。抱きあげることができない。それどころか、ひとりで立つこともできない。横になり、ほんの少し休みたい。
だめだ! そうしては終わりだ。負けるものか。
「どなったりしてごめんよ。きみがこんなだとは知らなかったんだ」
「いいんだよ、ビンク。気にしないで」ファンションはまぶたを閉じた。
ビンクはファンションの体を離し、腕と膝をひっこめた。
「さよなら」ファンションは片目を開け、ものうげに言った。あぶない。
ビンクはファンションの足をつかみ、引っぱった。また無気力感に襲われ、むだなことをしている気になる。まじないの力は、肉体にも感情にもきくようだ。ファンションを引きずっていくにもすべがない。ビンクはまじないにさからおうと努力した。だめだ。この木の側では、ファンションは重すぎる。
ビンクは木から遠くへ後退した。木からある程度離れると、活気も意志力ももどってきた。けれど、ファンションに手が届かない。一歩近づく。また力がぬけてしまい、ビンクは地面に倒れた。これではどうしようもない。
ふたたび、ビンクは汗みずくになって力をふりしぼり、その場から撤退した。これ以上気力がくじけては、なにもやる気がなくなってしまう。「きみを連れだせないんだ。これでは時間のむだだ」ビンクはファンションに弁解するように言った。「ロープで引っぱれるかもしれないな」
だが、ロープなどない。ビンクは密林の外側を歩きまわり、ブドウの木をみつけた。つるを切り取れればしめたものだ。
つるをつかんだとたん、ビンクは悲鳴をあげた。ビンクの手の中で、つるはのたうち、逆に手首に巻きついてきて、からみとってしまった。するすると何本ものつるが、ビンク目がけて伸びてくる。これは陸のクラーケン、触手木の一種だった! ビンクは不覚にも、みずから求めて罠にはまってしまったのだ。
ビンクはつるにつかまれたまま、どしんと地面に倒れこんだ。つるはビンクの腕にからみついたまま、おとなしくついてきた。けれど、ビンクの前の犠牲者の残骸の骨片が、地面に落ちているのに気づいた。自由な方の手で骨片をつかみ、つるに突きさす。
どろっとしたオレンジ色の樹液がにじんだ。木全体がぶるぶると体を震わせた。全身が痛みを感じたようだ。つるはしぶしぶ離れていき、ビンクの腕を解放した。またもや危機一髪。
ビンクは海岸にかけおりて、べつのものを捜した。つるを切るのに、とがった石でもないだろうか――いや、またつかまってしまうのがオチだ。つるを手に入れるのはあきらめよう。長い棒ならどうだろう? いや、どうせ同じことだ。この一見静かな浜辺にはいたるところに危険がひそんでおり、それが徐々に活動しはじめている。なにもかも、すべてあやしい。
そのとき、ビンクは人の姿をみつけた。砂浜にあぐらをかき、トレントがなにかをみつめている。色あざやかなヒョウタンだ。それを食べているのだろう。
ビンクは足をとめた。トレントなら助けてくれそうだ。魔法使いは無気力のまじないの木をサンショウウオに変えたうえで、殺してくれよう。少なくとも害のないものにしてくれるだろう。しかし、トレントそのひとは、木よりもさらに長期の脅威でもある。どちらを採るべきか。
なんとか切りぬけてみるしかない。無気力のまじないの木の、目に見える邪悪さは、魔法使いの目に見えない邪悪さと同じぐらい、しまつに悪く、しかも、木の邪悪さの方が現在切迫した危機なのだ。
「トレント」ビンクはおずおずと声をかけた。トレントはビンクに見向きもしない。じっとヒョウタンをみつめるばかりだ。食べているのではないらしい。いったいなにに心を奪われているのだろう?
「魔法使いトレント」ビンクは前より強くよびかけた。「休戦協定を延長した方がいいと思うんだけど。ファンションがつかまって――」トレントが聞いていないのに気づき、ビンクはことばをきった。
ビンクは魔法使いがこわかったのだが、その気持が変化してきた。さきほど、ファンションが仮病を使っていると思いこんでいたときに、ひどく腹が立ったのと同じ気分になってきた。その代価がなんであれ、なんとかして激情をぶつけてみたくなる。「聞けよ! ファンションがたいへんなんだ!」ビンクは高びしゃに言った。「助けてくれるのか、くれないのか?」
依然としてトレントは知らん顔だ。
前夜の疲れが残っているうえに、ついいましがたのいくつかの経験で、気がくじけそうになっているビンクは、かっと逆上してしまった。「この野郎、返事をしろ!」魔法使いの手からヒョウタンをけり落とす。ヒョウタンは六フィートぐらいふっとんで、砂浜に落ちてころがった。
トレントが目をあげた。表情に怒りの色は少しもない。ただびっくりしているだけだ。
「やあ、ビンク。どうしたんだ?」
「どうしたんだと! 三度も言ったじゃないか!」
トレントはけげんそうにビンクを見た。「なにも聞こえなかったぞ」魔法使いは考えこんだ。
「おまえが来たのも知らなかった。そんなつもりはなかったが、眠りこんでいたんだな」
「あんたはここにすわって、ヒョウタンをみつめてた」ビンクは怒った声で言った。
「うん、思い出した。わたしはヒョウタンが落ちているのをみつけ、興味をそそられて――」トレントは自分の影に目を落とした。「太陽の動きから見ると、もう一時間もたってるな! 一時間もどうしてたんだろう?」
ビンクはなにか理屈に合わないことがあるのだとわかった。ヒョウタンをひろおうと歩きはじめた。
「やめろ!」トレントがどなった。「あれは催眠術だ!」
ビンクはぴたりと足をとめた。「なに?」
「催眠術。マンダニアのことばで、人を目ざめたまま眠りにおとすという意味だ。これには多少の時間がかかるが、魔法の催眠まじないなら、瞬時にきくだろう。そのヒョウタンをじっとみつめてはいかん。そのきれいな色が目を惹きつけるんだ。それから、そうだ、思い出したぞ、それにはのぞき穴がある。中をちょっとのぞいてみたい気になったら、最後だ。じつによくできている」
「でも、なんのために?」ビンクはヒョウタンから目をそらした。「つまり、ヒョウタンは人を食うわけには――」
「ヒョウタンのつるは人を食える。あるいは、種が育つには、静止した生きた人間の肉体が最高の肥料なのかもしれん。マンダニアのスズメバチは、他の動物を刺して気絶させ、その体にたまごを産みつける。たぶん、それと同じ働きをするのだろう」
ビンクはまだ納得できない。「でもなぜ、魔法使いのあんたが……」
「魔法使いとて人間だよ、ビンク。食べ、眠り、愛し、憎み、失敗する。わたしもおまえと同様、魔法にかかる。身を守るための効果的な武器をよけいにもっているというだけの話だ。完全に身を守ろうと思ったら、わが友ハンフリーのように、石の城に閉じこもるしかない。機敏で誠意ある道づれがあれば、この荒野で生きのびる確率も、大いに高まるのだが。だからこそ、わたしは休戦協定の延長を提案したのさ。今でもその方がいいと思っているよ。おまえには必要なくとも、わたしに助けが必要なのは確かだ」トレントはビンクを見た。「なぜわたしを助けてくれた?」
「ぼくは――」ビンクとしては、偶然のたまものだと認めるのははずかしい。「その、休戦協定を延長すべきだと思って」
「よかった。ファンションも賛成か?」
「彼女には助けがいる。無気力のまじないの木のとりこになってるんだ」
「なんと! おまえの世話になった礼に、あの娘を救わねばなるまい。協定の話はそれからだ」トレントはすくっと立ちあがった。
途中でビンクがブドウの木を指すと、トレントが剣をぬき、ブドウのつるを必要な長さだけ切り取った。ビンクはまた、トレントの物理的な武器のさばきかたに注目した。この男から魔法の力を完全に奪い去っても、危険な男であることに変わりはあるまい。事実、トレントはマンダニアで、軍隊の指揮官にまでなったのだから。
切り取ったブドウのつるは、死にかけているヘビのようにくねくねとのたうち、切り口からおレンジ色の樹液をしたたらせたが、今はもうなんの力もない。ブドウの木はふたたび嘆き苦しんだ。ビンクがかわいそうに思ったほどに。
ビンクとトレントはブドウのつるをファンションの足に巻きつけ、無気力のまじないの木から、ファンションの体を引きずって離した。適切な道具を使ったおかげで、あっけないぐらい簡単に成功した。
ファンションがゆっくりと生気を取りもどすと、トレントはきびきびと言った。「さてわたしは、われわれ三人がザンスの荒野を脱出するまで、休戦協定を延期することを提案する。別行動だと問題が多いようだ」
今度はファンションも異議をとなえなかった。
12 カメレオン
気力が回復したファンションが、最初にしたことは、ビンクが話してきかせた魔法のヒョウタンを取ってきたことだ。「これ、きっと役に立つよ」毛布の木から大きな葉を取り、それでヒョウタンをつつんだ。
「ここから脱出するのに、いちばんいい道をみつけなきゃならん」トレントが言った。「われわれの現在置は裂け目の南側だと思う。したがって、北へ行く道はふさがれていることになる。海岸づたいに行くのは、どうも賢明とは思えない」
ビンクは裂け目の反対側を、渡ろうとしたときの経験を思い出した。「うん、海岸づたいには行きたくないな」トレントに同意する。魔女アイリスのせいで、あのへんの海岸線はひどく複雑になっていた。脅威の点ではここと同じだろう。
「採りうる道は内陸を突ききる手だ。場所は知らないが、ハンフリーの城が、たしかここから真西にあるはずだ」
「結論がでたね」ファンションが言った。
「うん。ぼくらをロック鳥かなにか、大きな鳥に変えてくれたら、あんたを運べる」
トレントはくびを横にふった。「それは無理だ」
「でも前に姿を変えられたときは、あんたを助けたじゃないか。協定を結んだんだ。落としたりはしない」
トレントは微笑した。「ビンク、信頼の問題ではないんだ。わたしはおまえたちを信頼しているさ。おまえたちが根っから誠実だというのには、なんの疑いもいだいていない。だが今は、特殊な環境の中にいる――」
「邪悪な魔法使いが、よき魔法使いをたずねるなんて、おかしいね」ファンションが口をはさんだ。「まったく見ものだね」
「いや、さぞがっかりするだろうよ」トレントは答えた。「わたしとハンフリーは、いつもうまくいっていた。専門的に、たがいに干渉しないのだ。再会できるのはうれしいよ。だが、ハンフリーはザンスの王に、わたしの帰還を伝えざるをえまい。そして、わたしの所在を知った以上、魔法の力を使って、わたしを追跡しなければならなくなる」
「そう、わかるよ」ファンションが言った。「敵に手の内をあかす必要はない。けど、べつのところに飛んでいけばいいじゃないか」
「飛んでいけるところなど、ない。わたしがザンスにいると、ふれまわるわけにはいかんのだ。おまえたちもそうだろう」
「そのとおりだ」ビンクは認めた。「ぼくらは追放された身だ。追放にそむいた者への罰は――」
「死」ファンションがビンクのことばをひきとった。「それは考えなかった。困ったね」
「おまえたちが、そういうこまかいことを、二日前に忘れていたら、われわれは今、ここにはいなかっただろうな」トレントはいじわるな目でふたりを見た。
ファンションはトレントの意見に、なにか特別な意味でも見いだしたかのように、いつになく冷静に落ちついていた。不思議なことに、いつもより醜く見えない。ビンクは単に見慣れたせいだと思った。
「どうすりゃ、いいんだい?」ビンクは訊いた。「うずまきがぼくらをシールドの下をくぐって、ザンスに運んだ。同じ道を通ってもどることはできない。海岸にとどまっていることもできない。そして、偶然のいたずらのせいで、ザンスにもどってしまったのだけれど、住民たちに、帰ってきたと知らせることもできない」
「身を隠すべきだわ」ファンションはきっぱり言った。「ザンスには知られていない土地がたくさんあるもの」
「それじゃ生きていることにならない。いつも隠れているなんて。それに誰かが魔法使いハンフリーに、ぼくらの所在を訊いたら――」
「誰がそんなことをするの? 追放になった者のゆくえをつきとめるだけで、一年間の奉公をするかね?」
「現在のところ、われわれの身の安全の利点は、それだけだな」トレントが言った。「ハンフリーは報酬のみこみがないのに、わざわざ調べたりはしないだろう。ところで、そんな心配は、荒野を脱出したあとでもできる。その頃には、また新しい手が打てるだろう。必要ならば、おまえたちの姿を変え、わたし自身も変装する。すべて空論だと判明するかもしれんぞ」
なぜならば、荒野を脱出できないかもしれないからだと、ビンクは内心で思った。
三人は海岸づたいに歩き、森が疎になり、比較的害が少なそうに見える野原に出た。危険に襲われたとき、三人いっしょにつかまらないように、間隔をおいて進んだ。選択は成功したようだ。強い魔法はすべて海岸に集まっていたらしく、三人が最初に出くわした魔法はほとんど害のないものだった。動物たちの進路をそらすまじないとか、はっきりと目に見えない色に変わるまじないぐらいだ。ビンクが魔法使いハンフリーの城に旅したときは、もっとひどいところを通った。荒野を大げさに考えすぎていたのかもしれない。
ファンションが織物木をみつけたので、三人はトーガ風に身をまとった。男ふたりは裸でいることに慣れていたため、これは一種の冗談だとがまんすることにした。ファンションが挑発的な姿体の女なら、体を隠すのはおおいに意味があるかもしれない。そうしてほしいとは思わないだろうが。しかしビンクは、あのたて穴で、れんがを隠すために仕切りを作ろうとして、ファンションが口にしたことを覚えていた。今度も、たぶん同じ理由だろう。
何ヵ所か、寒冷のまじないのかかった地域があり、また、熱波のまじないの地域もある。三人が身にまとっている布は、寒暖のまじないから身を守るために役に立つだろうが、そういうまじないを避けるのは簡単なのだ。肉食木もたやすくみつけ、よけて通れる。三人にとって、いかにも歩きやすそうな道をはずすのは、いわば第二の天性になっていた。
とはいえ、とある地域では、ひどい目に会った。地味の貧しい、乾ききった砂地の土地なのに、腰の高さまで、広い葉の植物がびっしり生えていたのだ。害はなさそうに見えたので、三人は足を踏み入れ、中ほどまではすんなり進めた。まん中あたりまで来たとたん、三人は不意に、不快な自然の要求にかられてしまった。三人はあわてふためき、ばらばらに分かれて用を足した。あやういところだった。
まったく実用的な植物だと、ビンクは悟った。植物の成長を促進するために、通りかかった動物に排泄のまじないをかけ、地味に栄養を与えようというのだ。肥沃のまじない!
さらに進むと、三人が近づいても逃げもせず、敵意も示さない動物に出くわした。膝の高さぐらいの大きさで、鼻孔がやたらに広い四足獣だ。それがよたよたと三人の方に向かってくるのを見て、トレントは剣をぬいだが、ファンションにとめられた。「あれ、知ってるよ。魔法の嗅ぎ屋だ」
「魔法の力で鼻がきくのかい?」ビンクが尋ねた。
「魔法を嗅ぎだすんだよ。あたいんちの近くの農場では、あれを使ってた。魔法の薬草やなんかを匂いでみつけるんだ。魔法の力が強ければ強いほど、反応する。でも、害はない動物だよ」
「なにを食うのかね?」剣を握ったままトレントが訊いた。
「魔法の果実だよ。どういうわけか、他の魔法はきかないらしい。ほんとに不思議なんだけど。まじないの強度だけで、種類は関係ないんだよ」
三人は足をとめ、魔法の嗅ぎ屋を見守った。魔法の嗅ぎ屋は、いちばん近くにいたファンションに近づいた。笛のような音をたて、ファンションの匂いをかいでいる。
「ほら、あたいにも魔法の力があるんだ。あたいのこと、気に入ったんだよ」
どんな魔法だろうと、ビンクはいぶかしんだ。ファンションは一度も力を見せたことがないし、どんな力が使えるのか、話してくれたこともない。この娘にはビンクの知らない部分がたくさんある。
ファンションに満足した嗅ぎ屋は、トレントの方に移動した。今度の反応は、ファンションのときより強い。いろいろな音色をごったまぜにして、踊りまわっている。
「当然だな」トレントは自尊心を正当化して言った。「匂いをかげば、魔法使いだとわかるのに決まっている」
次はビンクの番だった。魔法の嗅ぎ屋の反応は、トレントのときとまったく同じだった。
「知覚力って、こんなものかい」ビンクは当惑して笑い声をあげた。
だがトレントは笑わなかった。「わたしはおまえが、わたしと同じくらい強力な魔法使いだと信じるよ」無意識の意味をこめて、指で剣を軽くたたいている。はっとしたように、落ち着きを取りもどした。
「そうならいいけど、ぼくは魔法の力がないから、追放されたんだ」しかしハンフリーは、表には出てこないが、ビンクは強い力をもっていると言った。魔法の嗅ぎ屋の反応で、ビンクの好奇心と欲求不満はつのるばかりだ。そんなにも頑固に隠れている魔法の力とは、いったいどんな力だろう? あるいは、外部のまじないで、無理に押しこめられているのか?
三人はてくてく歩きつづけた。棒を切って杖にして、一歩先の地面を突き、目に見えないバリヤーや、落とし穴や、荒野の思いがけない面にそなえて進む。おかげで歩みは遅くなるが、急ぐ必要はない。急ぐ理由など、ひとつもないのだ。三人の唯一の目的は、身を隠し、生きのびることだった。
食料については問題のないことがわかった。目につく、さまざまな木の実や、キャンディ・トリーは信用できない。魔法がかかっているかもしれないし、摘み取りをするのは同じでも、消費する者の関心より、主人の関心の方に従順なのかもしれないからだ。だがトレントは、敵意ある木を多種果実の木に変えた。三人はリンゴ、ナシ、バナナ、ブラックベリー、トマトをあきるほど食べた。ビンクは本物の魔法使いの力が、いかに偉大か、思い知った。主力の魔法でないにしろ、トレントの力には、食べもののまじないの力もふくまれているからだ。本式に開発されたトレントの魔法の力は、はかり知れないほど広い。
三人はまだ荒野に向かって進んでいるところで、荒野から脱出したわけではない。めくらましはいっそう大じかけになり、絶えまなく表われ、見ぬきにくくなってきた。雑音、騒音が激しくなり、ぶきみになってきた。ときどき地面が揺れ、さほど遠くないところでとどろきが聞こえた。木々は三人の方に枝を伸ばし、葉はぴくぴくうごめいた。
「あたい、この森の力を甘く見てたような気がするんだけど。森全体の無言のようすは、あたいたちをもっと奥に誘いこむための、手だったのかもしれない」
不安そうにあたりを見まわしていたビンクは同意した。「ぼくらはいちばん安全そうに見える道を採った。それがまちがいだったかもしれないな。いちばん危険そうな道を採るべきだったのかも」
「そして触手木に食べられちゃう」とファンション。
「もどってみよう」ビンクはファンションとトレントのけげんそうな顔を見ると、つけ加えて言った。「ほんの試しに」
三人はもどってみることにした。そのとたんに、森は暗く、うっそうとしてきた。急に木がふえ、来るときに通った道をふさいでいる。これはめくらましなのか、それとも、さっきは見えなかっただけなのか? ビンクはよき魔法使いハンフリーの城から帰るときに通った一方通行の小道を思い出したが、これはもっと油断のならない道だ。まともな木は一本もない。トゲやつる[#「つる」に傍点]のある、ふしくれだった大木ばかりだ。枝はたがいに交差しあい、三人の目の前で、新しい芽があっというまに葉になり、新しいバリヤーを作りあげた。遠くで雷鳴がとどろいた。
「まちがいないな」トレントが言った。「われわれは木のせいで、この森を見あやまった。行く手に現われるものなら、なんでも変身させてやれるが、トゲの一斉射撃でもはじめられては、厄介なことになる」
「そんなふうにして進んでいきたくても」ファンションは西を見ながら、「抵抗しつづけながらでは、もどりきってしまう時間がないわ。夜になってしまう」
夜。敵意ある魔法が相手では、夜は最悪の時間帯だ。
「けど、ぼくらを通らせたがっている道を採るのは、歩きやすいけれど、決して賢明な選択じゃないよ」ビンクが警告する。
「たぶん、荒野はわれわれのことをよく知らんのさ」トレントはすごみのある笑みを浮かべた。
「誰かがうしろで援後してくれ、眠っているときも見張りに立ってくれるなら、わたしはたいていの脅威をあしらえる自信がある」
トレントの魔法の力と剣のわざとを思いあわせれば、ビンクはこのことばを認めざるをえなかった。この森は、大きなクモの巣のようなもので、クモがいきなりブヨに変わるかもしれないのだ。「あやつれるかどうか、賭けてみるしかないだろうな」ビンクは言った。「少なくとも、どんなものかわかるだろう」そして初めて、ビンクは邪悪な魔法使いがいっしょにいるのをありがたいと思った。
「そう、いつもそんなものね」ファンションはふきげんに同意した。
三人が前進すると決定すると、道はまた楽になった。森の脅威は残っているが、背景的な警告の面にすぎなくなった。日が暮れてきた頃、急に開けた場所に出た。その空き地には、古い、荒れ果てた石の要塞があった。
「まあ、なんとね」ファンションが叫んだ。「化け物の城じゃないか!」
三人のうしろから雷鳴が追ってくる。ひんやりした風が吹き、体に巻きつけた布越しにはだを刺す。ビンクは体を震わせた。「ここでひと夜をすごすか。雨の中ですごすか、だな。これを無害な小屋に変えることは、できないのかな?」
「わたしの力は、生命あるものにしか通じない。建物や、嵐は、その中に入らん」
三人の背後の森に、ぎらぎら光る目が現われはじめた。
「あいつらが襲ってきたら、あたいたちがやられる前に、ふたつしか変身させられないね。だって、あんた、遠くからじゃ、まじないをかけられないもんね」
「それに、夜はだめだ。思い出せ。わたしの言った条件を。あらゆる点を考慮すると、われわれはこの地域の魔法の力に従い、この要塞に入った方がいい。用心してな。そして、いったん中に入ったら、交替で眠る。つらい夜になりそうだ」
ビンクは身震いした。こんなところで夜を明かすなんて、まっぴらごめんだ。とはいえ、あまりにも罠に深くはまりこんでしまったため、たやすくぬけ出すことはできそうもない。ここには強い力がある。この地域全体の魔法の力が。まともに闘うには、強すぎる力だ。目下のところは。
ぶきみにせまってくる嵐に、三人は責めさいなまれていた。要塞の塁壁は高く、苔とまといつくつるでおおわれている。はね橋はおりており、かつては頑丈だった木材は、そのままの位置で朽ちていた。それでも、いにしえの、荒けずりの壮大ななごりがうかがえる。
「この城には品格がある」トレントが感想をのべた。
三人は橋板をたたいて、重みに耐えるだけの個所を探った。堀には雑草がおい茂り、水はよどんでいる。
「りっぱな城が荒れ果てるのを見るのは残念なことだ」トレントが言った。「これは見すてられ、二十年間は放っておかれた城だな」
「それとも、一世紀間か」ビンクが言った。
「なぜ森は、あたいたちを見すてられた要塞に追いこんだんだろ?」ファンションは疑問を投げかけた。「たとえ、ここにおそろしいものがひそんでいるにしろ、森にとって、あたいたちの死が、どんな利益になるのかな? あたいたちはただの通りすがりで、森がほうっておいてくれたら、もっと早く、通りすぎていってしまったのに。あたいたち、森に害を加える気なんか、なかったし」
「ものごとには、つねに論理的根拠がある」トレントが言った。「目的もなく、魔法が集中することはない」
嵐になった。三人は落とし格子に近づいた。嵐のせいで、まっ暗な内部に足を踏みこむ勇気が出た。
「たいまつが見つかるかもしれない。壁にそって歩こう。ふつう、城の入口近くには――」
ガタン! 落とし格子が落ちた。さっき調べたときは、上にあがったままの位置で、すっかりさびついていたのに。鉄の格子は重すぎて持ちあがらない。三人は城内に閉じこめられたのだ。
「あぎとは閉じられた」トレントはろうばいしているようすも見せずに言った。だがビンクは、トレントの手に剣が握られているのを見た。
ファンションが悲鳴を押し殺し、ビンクの腕にしがみついた。前方に幽霊がいた。疑問の余地はない。それは、まっ黒なのぞき穴のあいた、まるくもりあがった白い布だった。見えない口から、うめき声があがった。
トレントは一歩前に進むと同時に、音をたてて剣を振った。刃が白布を切り裂く――目に見える効果はなにもなかった。幽霊はすうっと壁をぬけた。
「この城は幽霊にとりつかれている。まちがいない」トレントはごくあっさり言った。
「あんた、そう信じてるにしちゃ、いやに落ち着いてるじゃない?」ファンションが責めるように言った。
「それはそうだ。わたしがこわいのは、物理的な脅威だ」トレントが答えた。「幽霊に関して思い出すと、それは凝結した物質化現象ではなく、生命あるものを活気づけるような、亡霊の能力を持ちあわせていない、ということだ。したがって、幽霊はふつうの人々には、直接の影響をおよぼすことができない。恐怖をかきたてるしか、他になにもできないのだ。だから、おそれないのがかんじんだぞ。さらに、ここの幽霊は、われわれの姿を見て、われわれと同じくらい、びっくりしておった。たぶん、落とし格子が落ちたのを、調べにきただけだったのだろう。要するに、害がないのは確かだ」
トレントがこわがっていないのはあきらかだった。あわてふためいて剣を使ったのではなく、本物の幽霊かどうかを確認するために切りつけたのだ。ビンクが持ちあわせない種類の勇気だ。ビンクの方は、ただ恐怖に震えていた。
ファンションはよく恐怖を抑えた。「こんなまっ暗闇の中で探検しようとしたら、本物の穴に落っこちたり、|まぬけ落とし《ブービー・トラップ》にやられちまうよ。ここで雨宿りをするんなら、この場を動かずに、朝まで交替で眠っちゃどう?」
「おまえはまったく常識があるな」トレントが言った。「最初の見張りは、ワラでも引いて決めるか?」
「ぼくがやる。どうせ、こわくて眠れっこない」
「あたいも」ビンクはファンションのこの同意に、胸があたたかくなった。
「あたい、まだ幽霊にあきてないもん」
「おまえたち、まったく邪気がないんだな」トレントはくすくす笑った。「よろしい。わたしが最初に眠ろう」トレントが動き、ビンクは彼のつめたい手に触れた。「ビンク、わたしの剣を持っていなさい。なにかが現われたら切りつけるんだ。手ごたえがなかったら、安心しろ、それは幽霊だ。なにか固いものにあたったら、剣をぐいと突けば、まちがいなく脅威はなくなる。ただし、気をつけろよ」トレントの声には笑いがふくまれている。「まちがった相手を切りつけるなよ」
ビンクはいつのまにか重い剣を渡され、驚いた。「ぼく――」
「武器をあつかった経験がなくてもだいじょうぶだ。まっしぐらに、大胆に突けば、威力がある。おまえの見張りが終わったら、ご婦人に剣を渡せ。彼女が終わったら、わたしの番だ。それまでよく休ませてもらう」トレントが横になる音が聞こえた。「覚えておけよ」床のあたりから魔法使いの声がした。「わたしの力は闇の中ではきかない。相手が見えないからだ。だから、用もないのに起こさんでくれ。おまえの機敏さと判断をあてにしてるぞ」それきりトレントの声はとだえた。
ファンションはビンクのあいている方の手を探った。「あんたのうしろにいさせて。うっかりして、踏みつけられたくないからね」
ビンクはファンションが近くにいるのがうれしかった。汗ばんだ手に剣を握り、もう一方の手に杖を持って、見通すこともできない闇の中に目を配った。外の雨の音が激しくなってきた。と同時に、トレントのおだやかな寝息に気づいた。
「ビンク?」とうとうファンションがよびかけた。
「うん?」
「敵に自分の剣を渡して、すやすや眠るなんて、いったいどういう男なんだろう?」
それはビンクも悩んでいる疑問だった。満足のいく答がみつからない。「鉄の神経の男だな」ようやくそう答えたが、それはほんの一部しか言い表わせていない。
「そういう信頼をよせる男は、信頼を受けるのを期待しているにちがいないわ」ファンションは考え深げに言った。
「ぼくらが信頼に足る人間で、彼がそうじゃないならば、彼はぼくらを信頼できると知っているのさ」
「そうはいかないわよ、ビンク。信頼するに足りない人間は、他人を信用しないもんよ。なぜなら、そういうひとは自分を判断の基準にするから。あたい、折り紙つきのうそつきや、腹黒いやつや、ずるがしこいやつらが、王座のために、邪悪な魔法使いのようなふるまいができるとは思わない」
「ひょっとすると、彼は実在したトレントじゃなく、誰かべつの人間で、ペテン師かもしれない――」
「ペテン師っていうのは、うそつきだよ、それに、あたいたち、あいつの魔法の力を見たじゃないか。まったく同じ力をもつ者が、ふたりいることは絶対にないもの。あいつは、変身術師のトレントにちがいないよ」
「でも、どこかおかしい」
「うん。どこか正しいところがある。そこがおかしいんだよね。あいつはあたいたちを信頼してるけど、本来、そうすべきじゃないんだ。あいつが眠ってるあいだに、あんたは剣で刺せる。たとえ最初のひき突きで殺せなくても、暗闇の中では変身させられることはない」
「そんなこと、できないよ!」ビンクはぞっとして叫んだ。
「そのとおりよ。あんたには道義心がある。あたいもそう。あいつもそうだという結論を無視するのはむずかしいね。しかも、あたいたちはあいつが邪悪な魔法使いだって、知っている」
「彼が前に言ったことは、きっと真実だったんだ。彼ひとりでは荒野をぬけることはできないし、五体満足で、この幽霊の城から出るには手伝いがいる。ぼくらふたりだけでは、生きて脱出できないとわかっている。だから、全員同じ側に立ち、たがいに傷つけあわないようにすべきだ。で、彼は休戦協定をまじめに守ってるんだ」
「そいじゃ、無事に脱出できて、協定が終わりになったら、どうなるの?」
ビンクには答えられない。そのまま、ふたりは沈黙してしまった。しかしビンクは、その難問をずっと考えた。この死んだ城で、ひと夜を無事にすごせたら、一日、生きのびることができよう。朝になれば、トレントは協定は終わったと考えるかもしれない。ビンクとファンションは、ひと晩じゅう、トレントを守るだろうが、トレントは朝になったら、眠っているふたりを殺してしまうことができる。もしトレントが一番に見張りをしていたら、そのあと自分を守ってくれる者を殺すわけにはいかないから、手出しはできない。なるほど、最後の見張りにつくのは、ちゃんと意味があるのだ。
いや。ビンクはその考えを認める気にはなれなかった。最初の見張りを買って出たのは、ビンク自身だ。休戦協定の神聖さには忠実であるべきだ。その忠実さがまちがっていたら、そのときはビンクの負けだ。だが、心に恥ずべきことをして勝つより、忠実にしたがって負ける方が、ずっといい。この結論に達し、ビンクはやっと気分がよくなった。
その後、ビンクは二度と幽霊を見なかった。そして、ファンションに剣を渡した。驚いたことに、ビンクは眠れた。
目をさましたときは夜が明けかかっていた。傍でファンションが眠っている。思っていたより、醜く見えない。それどころか、不器量でさえない。きっと見慣れてきたせいだ。トレントが高潔に、ファンションが美人に見えてきた要所はどこだろう?
「よかった」トレントが言った。ふたたび剣を帯びている。「今からおまえが彼女を守ってくれ。わたしは城の中を見まわってくる」そして薄暗い広間へ行ってしまった。
夜を全員無事にすごせた。ふり返ってみて、ビンクは幽霊と魔法使いの、どちらをよけいにこわがっていたのか、よくわからない。どちらの目的も、まだ理解できない。
そして、ファンション。明かるくなってきたため、ファンションの容貌がはっきり見えてきた。美しいとは言えないまでも、四日前に会ったときのような、醜い娘ではなくなっている。実際、誰かに似ている――。
「ディー!」ビンクは大声で叫んだ。
ファンションは目をさました。「はい?」
なんとなく似ていると思ったのと同じぐらい、この返事にはビンクはびっくり仰天した。ビンクはディーと呼んだ。が、ディーはザンスのどこかの他の場所にいるはずだ。ではなぜ、ファンションは、まるで自分の名前を呼ばれたかのように、ディーと呼ばれて返事をしたのだろう?
「あの、ぼく、ふと――」
ファンションは起きあがった。「そうなの、あなたが思ったとおりよ、ビンク。そういつまでも隠しておけるとは思ってなかったわ」
「あの、きみは本当に……?」
「あたし、カメレオンなの」
ビンクは全然わけがわからない。「そのことばは、ぼくらが“警戒”の意味に使う――」そして“予兆”の意味でもある。
「あたしは醜いファンション、平凡なディー、美女のウィン。毎日少しずつ変化して、ひと月で完全に一周するの。月の周期でね。女性の周期と同じなの」
ビンクはディーが誰かに似ているなと、思ったことを思い出した。「でも、ウィンは頭がにぶかった! きみは――」
「知性は容貌と逆に変化するの。それがあたしののろいの一面なのよ。知性ある醜い女から、頭のにぶい美しい女まで、きちんと変化していくわ。あたしはふつうになれるまじないを捜し求めているのよ」
「カメレオンの呪文か」ビンクはじっと考えこんだ。驚くべき魔法だ。ウィンと別れ別れになった場所のごく近くで、ディーを見たとき、どこかで会ったような気がしたのだし、日々、ファンションが変化しているのも、この目で見ているのだから、この話は真実にちがいない。カメレオン――この娘は魔法の力をもっているのではなく、彼女自身が魔法的存在なのだ。セントールや、ドラゴンのように。
「でも、なぜ、追放になったぼくのあとを追ってきたんだい?」
「ザンスの外でなら、魔法はきかないわ。ハンフリーは、もしマンダニアに行けば、徐々に凝縮して、ふつうの状態になるって、教えてくれた。あたしは永久にディーになるつもりだった。ごく平凡な女に。それがいちばんいいと思ったの」
「だけど。きみはぼくを追っかけてきたって言った」
「そうよ。あなたはウィンに親切だった。あたしの知性は変わっても、思い出は変わらない。あなたは自分の身を危険にさらして、ウィンを谷ドラゴンから救ってくれた。そのうえ、彼女がほのめかしても、利用しようとはしなかった――そうでしょ」
ビンクはあの美しい娘が、進んで服をぬごうとしたことを思い出した。ウィンは頭がからっぽすぎて、自分の申し出がどんなに重要なことか、よく考えることもできなかった。しかし、そのあとのディーもファンションも、その点はちゃんと理解できる。
「それに、あたしはあなたがディーを助けようとしたことも知ってるわ。あのときディーは、あなたをふり切るべきじゃなかったんだけど、あのときは、それほど頭がよくなかったんですものね。それに、あなたというひとを、よく知らなかったし、あなたは――」と言いかけて、「いえ、それは問題じゃない」
それが問題なのだ! 彼女はひとりどころか、ビンクの知っている三人の娘の全部なのだ。そのひとりは、気が狂うほどに美しい娘だった。と同時に、愚かでもあった。この、このカメレオン娘と、いったいどんなふうにつきあえばいいのだろう?
もう一度、カメレオンの定義をしてみよう。カメレオン――意志の力で、色と形を変え、他の動物に擬態する魔法のハ虫類。あの予兆を忘れることができるか、あるいは、正しく理解することができさえすれば。このカメレオン娘がビンクに害を加えることはないとわかっているが、ビンクの死を呼ぶかもしれない。この娘の魔法の力は、彼女の意志とはかかわりなく働き、その生活を支配している。確かに、この娘は問題をかかえていた。ビンクと同様に。
だからこそ、ビンクが魔法の力がないために追放されると聞くと、娘も心を決めたのだろう。魔法なしのディーと、魔法の力なしのビンク。魔法の国の共通の思い出をもつ、ふつうのふたり。その思い出が、荒涼としたマンダニアで暮らしていくふたりの、たったひとつのよすがとなる。娘は頭の回転のいい時期に、それを考えぬいたのだ。魔法に見放されたふたりは、まったく似合いの組み合わせになるだろう。というわけで、娘は行動に移った。まさか邪悪な魔法使いに、待ち伏せをくうとは知る由もなく。
それにしても、いい話だった。ビンクはディーが好きだ。顔をそむけなければならないほど醜くはなく、サブリナと魔女アイリスを知ったあとの不信感をつのらせるほど、美しくもない。美しい女の問題点というのは、つねに一定ではないということか? 美醜だけではなく、ディーは要領をえないほど愚かでもない。ほどよく調和した平凡な娘こそ、ビンクは愛せるだろう。特にマンダニアでは。
ところが、ふたりともザンスにもどってしまった。娘ののろいはよみがえった。娘はただひとりのディーではなく、極端から極端へと揺れ動く、複雑なカメレオン娘に返った。ビンクの平凡の望みとは関係なく。
「あたし、まだそれほど愚かになっていないから、あなたがどんな思いをしているか、想像できるわ。あたし、マンダニアでなら、ずっと楽に暮らしていけるの」
ビンクは否定しなかった。あの日にすべてがわかっていたら。ディーと落ち着き、家庭を作る。ふたりの血がまじり、独特の魔法の力が生まれたかもしれない。
ガチャンと音がした。ビンクは音がした方に向いた。どこか上の方から聞こえた。
「トレントがあぶない!」ビンクは杖を持ち、広間を走った。「どこかに階段が……」
ビンクはこのとっさの反応は、魔法使いに対する自分の気持に、基本的な変化があるためだと、瞬時に意識した。剣と、眠っている男とのひと夜――邪悪な人間は邪悪そのものの行動をするのなら、トレントはそれほど邪悪な人間ではない。信頼は信頼に匹敵する。魔法使いはビンクを、巧妙にあやつろうとしただけなのかもしれない。にもかかわらず、その姿勢は、根底からくずれてしまった。
カメレオン娘もビンクのあとにつづいた。もうあかるいから、落とし穴に落ちる心配はない。もっとも、魔法の落とし穴があるかもしれないが。広々とした部屋の向うに、ゆるやかにカーブした石の階段があった。ふたりは階段をのぼった。
不意に幽霊が現われた。「おおおう!」幽霊はうめき、大きなのぞき穴を、暗い棺の中の穴のように広げた。
「そこをどけ!」ビンクは杖を振りまわしながら、きびしく言った。困りきった幽霊は、すうっと姿を消した。まだ消えきらないうちに、ビンクは幽霊を走りぬけた。一瞬、冷気を感じた。トレントの言ったとおりだ。実体のないものを恐れる必要はない。
今のぼっている階段は、一段ごとに固い感触がある。あきらかに、これはこの古い城の中では、無害な住人の幽霊同様、めくらましではない。昨夜、無理にこの城に追いやられたあとでは、ひとつ安心できることだ。
階上の音はやんでいた。ビンクとカメレオン娘は、驚くほど豪華で、よく保存されている部屋をひとつずつ調べ、道づれの姿を捜した。余裕があれば、部屋や廊下の調度や壁かけに感嘆し、雨、風、腐朽をふせいでいる、がっちりした屋根があってよかったと思ったかもしれないが、今のところ、ビンクの心は心配でいっぱいだった。トレントになにがあったのか? この城に怪物がひそんでおり、魔法の力で犠牲者を呼び寄せたのなら――。
ふたりは図書室らしき部屋をみつけた。壁に並んだ棚に、厚い古い本や、巻きものなどがぎっしりつまっている。中央のみがきこんだ木の机に向かって、トレントがすわり、熱心に大きな本を読んでいた。
「またのぞき穴のまじないにかかったんだ!」ビンクはあのヒョウタンを思い出して叫んだ。
だがトレントは顔をあげた。「ちがう。単なる知識の渇きだよ、ビンク。じつにすばらしい」
いくぶん当惑し、ビンクとカメレオン娘はためらった。「でも、すごい音が――」ビンクは説明しかけた。
トレントは微笑した。「わたしのせいだ。わたしの重みを、古い椅子は支えきれなかった」バラバラになった木片を指し示し、「この城の家具は、ほとんどがこわれやすくなっている。この図書室に夢中になったあまり、うっかりしてしまったのさ」思い出したように腰をさすった。
「報いは受けたよ」
「それほど魅力があるのは、なんの本なの?」カメレオン娘が訊いた。
「この城の歴史が書いてあるものの一冊だ。他のものとはまるでちがう。ここはルーグナの城なんだ」
「ルーグナ!」ビンクは思わず叫んだ。「第四次移住時代の、魔法使いの王?」
「そう。ここから統治していたらしい。八百年前、ルーグナが死に、第五次移住者たちにザンスが侵略されたとき、この城は見すてられ、ついには忘れさられてしまった。だが、驚くべき造りだ。王の性格がしみこんでいる。この城は、城自体の個性をもっている」
「思い出した」ビンクは言った。「ルーグナの魔法の力は――」
「自分自身の目的のための魔法の改造。微妙な、しかし、強力な利点だ。ルーグナは周囲の力の慣らし手だった。このあたり一帯に、魔法の木を栽培し、このすばらしい城を建てた。ルーグナ統治時代のザンスは、住民たちと調和していた。黄金時代の王だった」
「そうだ」ビンクは認めた。「ここが、その有名な歴史上の場所だとは思いもしなかった」
「望む以上のことがわかるかもしれんぞ」トレントが言った。「ここにどういうふうに導かれてきたか、覚えているか?」
「ほんの昨日のことだったのに」ビンクは苦々しげに言った。
「あたしたち、なぜここに追いこまれたの?」
トレントはカメレオン娘に視線を移すと、しばらく、まじまじとみつめた。「ファンション、この土地が性に合っているようだな」
「それは気にしないで。ここを通りぬけてしまわないうちに、もっと美しく、もっとなさけない状態になるわ」
「彼女はカメレオンなんだ」ビンクが説明した。「醜い女から、美しい女に変わり、それをくり返す。しかも、彼女の知性はその逆に変化する。そののろいからのがれるために、ザンスを離れたんだ」
「わたしなら、それをのろいとは考えないぞ。時がくれば、人はみな落ち着く」
「あんたは女じゃないわ」カメレオン娘はぴしゃりと言った。「あたしは、この城のことを訊いてるの」
トレントはうなずいた。「うむ、この城は新しい住人を求めている。魔法使いを。それも選りぬきの。何世紀ものあいだ、この城がひっそりと眠っていたのも、それがひとつの理由だ。この城は往年の栄光をとりもどしたがっているのだ。したがって、この城はザンスの新しい王を支持するにちがいない」
「そして、あんたは魔法使いだ! だから、あんたがここを通りかかったら、すべてのものが、あんたをこの城に追いやったんだ」
「そのようだな。悪意ある意図はなく、強い要求があるだけだ。ルーグナの城に対する要求、ザンスに対する要求。ザンスを、昔のように、正当に組織化し、ぬきんでた王国にする要求だ」
「でも、あんたは王じゃないわ」
「まだ、ちがう」そのことばには、強い自信がこめられていた。
たがいに理解を深めていたビンクとカメレオン娘は、顔を見あわせた。邪悪な魔法使いは、本来の姿にもどったのだ。いや、一度として、その姿を変えたことはなかったのだ。ビンクとカメレオン娘は、トレントの人間性や、うわべの高潔さについて話しあった。そして、それは裏切られてしまった。トレントはザンスを侵略する計画を立て、今は――。
「絶対、だめ!」カメレオン娘は怒りに燃えた。「みんなは、あんたみたいな悪人を許しはしないわ。みんなはまだ、忘れてやしない――」
「そうか、おまえはやはり、わたしの評判をちゃんと知っていたのだな」トレントはおだやかに言った。「わたしのことなど聞いたことがないと言っておったと思ったが」肩をすくめ、「しかしながら、ザンスのよき住民たちは、選択の余地がないのだよ。それに、悪人が王座を占めるのは、なにもこれが初めてではない。この城の力、恐るべき力だが、この力とわたしの力がいっしょになれば、わたしには軍隊など必要ない」
「あたしたちがさせないわ」カメレオン娘はきびしく言った。
トレントはちらりと賞讃のまなざしを送った。「休戦協定をやめにするつもりかね?」
カメレオン娘はためらった。協定の終わりは、ふたりともトレントの力に支配されることを意味する。この城について、トレントが言ったことが真実ならば。
「いいえ。でも、やめにしたら……」
トレントの微笑には、ひとかけらの悪意も見いだせない。「そう、いずれ決着をつけねばなるまいな。わたしはおまえたちの好きなようにさせれば、わたしにも同様の好意を示してくれるだろうと思った。だが、わたしが、ザンスの人々には選択の余地がないと言ったのは、決しておまえたちが考えたような意味ではなかった。この城は自分の意志以上のことをするのは、許さないだろう。何世紀ものあいだ、資格のある、強力な力をもった魔法使いを待ち、避けられない荒廃に抵抗しつつ、ひたすらにもちこたえてきたのだ。われわれが森で会った魔法の嗅ぎ屋は、たぶん、城の代理のひとつだろう。そして今、城は、ひとりではなく、ふたりの魔法使いをみつけた。あっさりと手放すはずがない。われわれの決定次第で、われわれはここから、栄光か、あるいは破滅かの道をたどるのだ」
「ふたりの魔法使い?」カメレオン娘は訊いた。
「忘れたのか? ビンクはわたしとほぼ同程度の魔法の力をもっている。それは魔法の嗅ぎ屋の審判だ。わたしにはそれがまちがっているかどうか、はっきりわからない。魔法の嗅ぎ屋は、ビンクを魔法使い級に入れた」
「でも、ぼくは魔法の力をもっていない」
「訂正しよう。魔法の力を自覚していないということと、魔法の力がないということは、同じではない。だが、たとえ、おまえに魔法の力がないにしても、おまえには強力な力が関係している。ファンションのように、おまえ自身が魔法的な存在なのかもしれん」
「カメレオンよ。それがあたしの本当の名前なの。他のは符丁にすぎないわ」
「失礼した、カメレオン」トレントはすわったまま、軽く会釈した。
「つまり、ぼくがいつか変わるだろうってこと?」ビンクはなかば希望をもち、なかば恐れて訊いた。
「おそらくな。非常にすぐれたものに姿を変えるかもしれん。歩《ポーン》が女王《クイーン》になるように」トレントはひと呼吸置いた。「失礼、今のはマンダニアの表現だ。ザンスでチェスが知られているわけがない。どうも追放生活が長すぎたようだ」
「とにかく、ぼくはあんたが王冠を盗むくわだてを、手伝う気はない」ビンクは大胆に言った。
「当然、そうだろう。われわれは目的がちがう。もしかすると、競争相手ですらある」
「ぼくはザンスをのっとろうとは思ってないぞ!」
「意識的には、な。しかし、邪悪な魔法使いのくわだてをはばむということは、もしや、自分が……?」
「ばかな!」ビンクはむっとしてどなった。ばかげているうえに、陰険な考えかただ。しかし、もし、トレントを阻止する方法が、それしかないとしたら――いや!
「訣別のときがきたようだな。わたしはおまえたちと道づれになったのを感謝しているが、状況が変わってきた。おまえたちは今すぐ、この城を出た方がいいだろう。わたしは反対しない。べつべつに行動するなら、休戦協定も消滅するものと考えられる。公平だな?」
「すてきだわ」カメレオン娘が言った。「あたしたちが密林でずたずたにされているあいだ、あんたはのうのうと、本を読んでいられるものね」
「この土地が、実際におまえたちに危害を加えるとは思えない。ルーグナの城の主旨は、人間との調和だ」トレントはふたたび微笑を浮かべた。「調和であって、危害ではない。しかし、おまえたちが行かせてもらえるかどうか、その方が疑問だな」
もうたくさんだ。「いちかばちかやってみる。行こう」ビンクは言った。
「あたしにいっしょに行ってほしいの?」カメレオン娘はためらった。
「きみがトレントとここに残りたいのでなければ。二週間ぐらいのうちに、きみはすばらしく美しい女王になるだろうけど」
トレントは笑った。カメレオン娘はきびきびと行動した。ふたたび読書に夢中になった魔法使いを残し、ビンクとカメレオン娘は階段をおりた。
前のとはちがう幽霊が現われた。今度のは前のより大きくて、少し手ごたえがありそうだ。
「気〜を〜つ〜け〜ろ〜」幽霊がうめき声でしゃべった。
ビンクは立ちどまった。「話せるのか? 気をつけろって、なにを?」
「向〜こ〜う〜は〜死〜だ〜と〜ど〜ま〜れ〜」
「いや、ぼくらはもう決心したんだ。だって、ぼくらはザンスを愛しているから」
「ザ〜ン〜ス〜」幽霊はある感情をこめてくり返した。
「そう、ザンス。だから、行かなくては」
幽霊はとまどったらしく、消えてしまった。
「あれ、どうも、あたしたちの味方みたい。でも、きっと、あたしたちを城にとどまらせようとしているだけよ」
「幽霊を信頼している余裕はないよ」
正面玄関を通っては出られなかった。落とし格子は頑丈で、引き上げるしくみが、ふたりにはわからなかったからだ。べつの出口を捜して、ふたりは階下の部屋をのぞいてまわった。
ビンクは見こみがありそうなドアを開け、バタンと閉じた。中では皮の翼に、長い牙のある生きものが、大勢飛びまわっていた。吸血コウモリらしい。次のドアは用心して開ける。ひょろひょろとロープが伸びてきた。ブドウの木のつるを思い出してしまう。
「地下室かもしれない」カメレオン娘は下につづいている階段を偵察した。
おりてみることにする。足もとにいきなり太った、おそろしげなネズミが姿を見せ、逃げもせずに侵入者たちをにらみつけた。ネズミたちはひどく腹が減り、ひどく大胆そうだ。罠をかけ、犠牲者を自分たちの領分に誘いこむ、魔法の力をもっているのだ。
試しに、ビンクは手近なやつを杖で突いてみた。「シッ!」どなりつけても、ネズミは杖をつたい、ビンクの手の方にのぼってくる。振りはらっても、ネズミは離れなかった。べつのネズミが杖にとびついた。ビンクは杖を力いっぱい石の床に突き立てたが、ネズミたちはしっかりしがみついており、どんどん杖をのぼってきた。これがネズミたちの魔法の力だ。しがみついて離れない力。
「ビンク! 上!」カメレオン娘が叫んだ。頭上でネズミの鳴き声がしている。梁にむらがり、肢をふんばって跳ぼうとしていた。
ビンクは杖を放り投げ、カメレオン娘を抱きかかえて、大急ぎで階段をかけのぼった。ようやくふり返ってみたとき、ネズミはついてきていなかった。
「まったく、この城は組織化されてるな」一階にたどりつくと、ビンクは言った。「どうやら、ぼくらをおだやかに行かせてくれる気はないみたいだ。でも、やるだけやってみよう。今度は窓だ」
一階には窓がひとつもなかった。外壁が攻城に備えて作られているのだ。上の小塔からとびおりるのは無理だ。骨を折るのが関の山だろう。ビンクとカメレオン娘は、いつのまにか厨房に来ていた。ここには、材料やゴミの出し入れや、料理人たちが出入りに使っていた勝手口があった。勝手口からぬけ出すと、目の前の堀に、小さな橋がかかっていた。理想的な脱出ルートだ。
だが、すでに橋には変化が起きていた。腐った張り板から、何匹ものヘビが出てきたのだ。ふつうのハ虫類だが、健康そうではなく、傷だらけの色あせたやつらで、たるんだ肉のじくじくした傷口から、骨が見えている。
「あれ、ゾンビー・スネイクよ!」カメレオン娘は心底からの恐怖にかられた声で叫んだ。「死からよみがえったのよ!」
「そうらしいな」ビンクはむっつり言った。「この城全体が死からよみがえったんだ。ネズミはどこででも繁殖するけど、他の生きものたちは、城が死んだときに、死に絶えた。それとも、ちょうど今、ここに死にに来たのかもしれない。だけど、ゾンビーたちは、本当に生命あるものほど強くない。なんとか杖で追っぱらえるだろう」しかしビンクは杖を地下室に捨ててきた。
そのとき、ハーピーの悪臭よりひどい、腐敗した臭いがただよってきた。腐臭の源は、うみ傷だらけのヘビと、くさりきった堀の水だ。ビンクはいきなり激しい吐き気に襲われた。これまで、これほどひどく腐敗したものに出会ったことはなかった。生きているにしろ、骨だけにしろ、ふつうはこぎれいで、さっぱりしている。その中間の段階、くさりかけ、うじのわいた、崩壊途中の段階は、しげしげと観察してみたい気にもならない、生と死のサイクルの一部だった。これまでのところは。
「あたし、あの橋、渡りたくない。失敗するわ。それに、水の中には、ゾンビー・ワニがいる」
本当だ。骨をおおった皮の表面がぬらぬらした大きなハ虫類が、くさった目で、こちらをにらんでいる。
「小舟があるかもしれない。でなきゃ、いかだが――」
「ええ、ええ。くさりはて、虫のゾンビーがむらがってなきゃね。堀を見てよ」
ビンクは見た。堀のいちばん遠くの土手に沿って、ぎくしゃくと歩いてくるのは、最悪のしろものだった。ゾンビー人間。あるものはミイラ化し、あるものは骸骨に生命をふきこんだものよりひどい。
しばらくのあいだ、ビンクはあまりの異様さに魅入られ、おそろしいものたちをじっとみつめていた。ゾンビー人間たちは、皮膚の断片や、くさりかけた肉をだらりと垂らしている。あるものは、落ち着かない墓から、大あわてでとび出してきたらしく、土のかたまりをぽとぽと落としていた。それは、くさったものの行進だった。
ビンクはこの混合軍隊と闘うことを考えてみた。すでにくずれかけている肉体を切り刻み、腐肉に触れ、両の手に虫の食った肉をつかみ、幽霊のような相手と組みうち、鼻につく臭いをいやというほどかがされる。なんといういまわしい状態だろう! ゾンビーたちと組み合ったら、いったいどんな病気をうつされることか! この朽ちかけた死人を、もう一度倒すには、どんな攻撃をすればいいのか?
まじないにかかったものたちは、徐々に近づいてきて、ボロボロの橋を渡りはじめた。ゾンビーたちにとって、自発的によみがえったのではないのだから、まじないであやつられるのは、悲惨なことにちがいない。ゾンビーたちは、ここちよい城内に引退することはできないのだ。忘れられる喜びにひたっているかわりに、無理にこんな状態で奉仕しなければならないとは――。
「ぼ、ぼく、逃げる覚悟ができないよ」
「あたしも」カメレオン娘の顔はいくぶん緑色がかっている。「この道からはね」
ゾンビーたちは立ちどまり、ビンクとカメレオン娘が、ルーグナの城にもどる時間をくれた。
13 論理的根拠
カメレオン娘は、彼女の“ふつう”の姿、ビンクが前に会ったディーの状態を通りすぎて、美人の段階に入った。前のウィンと同一人ではない。髪の毛の色はもっと明かるく、顔だちも微妙にちがう。きっと、段階ごとに、肉体上の細部が変化し、同じことをくり返すことなく、つねに極端から極端へと進むのだ。不幸なことに、同時に知性がにぶくなってきており、城から脱出する問題に関しては、役に立たなくなった。今はビンクと親しくなることだけが、大きな関心になっている。もっとも、ビンクは一瞬たりとも、それにかまっている余裕はない。
第一に、ここから逃げ出すのが先決問題だ。第二に、ひっきりなしに本体が変化する女と、終始同じ態度でつきあっていきたいのかどうか、どうも自信がない。彼女が美人で聡明でありさえすれば……。だが、無理だ。どちらかしかありえないのだ。シールドの向うでトレントにつかまったとき、当時はファンションの彼女が、美しくしてやるという申し出を拒否した理由が、今やっとビンクにもわかった。それは単に変化の順番を変えることにすぎない。つまり、頭の回転がいいときに美しくなれば、醜いときは愚かになってしまい、なんの改良にもならない。必要なのは、のろいからまったく解放されることだ。しかし、たとえば美と知の最高の段階に、永久に定着するようになったら、ビンクは彼女を信用しなくなるだろう。というのは、そういう種類の女に、裏切られた経験があるからだ。サブリナ――ビンクはその思い出をふりはらった。しかし、並みの知性も、魔法の力もないとすれば、平凡な娘はかなり退屈だろう……。
ルーグナの城は、積極的に反抗せずにいると、じつにいごこちのいい住まいだった。城自体がそのように配慮をつくしている。城の周囲の庭園は、果実や、穀物や、野菜や、ちょっとした遊びさえ、ふんだんに提供してくれる。トレントが弓に矢をつがえ、ウサギをしとめた。城内の兵器庫のりっぱな弓矢を使い、高い銃眼から射かけたのだ。ウサギたちの一部は、遠くにいる本物のウサギが描きだした虚像のウサギで、トレントは何本かの矢をむだにしたが、挑戦するのを楽しんでいるようだ。獲物の一匹はイタチで、その魔法の臭気ときたら、死体を大急ぎで地中深く埋めてしまわないかぎり、どうしようもない。チヂミもいた。チヂミは死ぬとどんどん小さくなっていき、ネズミほどの大きさになってしまうため、なんの役にもたたない動物だ。魔法はつねに、ささやかな驚異をともなっている。しかし、その一部はすばらしいものだ。
厨房には人手が必要だった。さもなければ、ゾンビーたちを中に入れて料理をさせなければなるまい。そんなことをするよりは、と、カメレオン娘が引き受けた。ルーグナの城のまかないに、精通している女の幽霊に助言を受けながら、カメレオン娘はすばらしいごちそうを作った。食器については、なんの問題もない。消毒の力のある、こんこんとわき出る魔法の泉があるからだ。一度洗えばなにもかもぴかぴかになった。実際の話、その水で体を洗ってみると、なんともいえないここちだった。感動的な体験だ。
城の内部の仕切りは、屋根同様、堅固そのものだった。風雨に耐えるまじないがきいているらしい。各人はそれぞれ贅沢な寝室を確保できた。壁には高価なカーテン、床には動くじゅうたん、やわらかなガチョウの羽の枕に、純銀の寝室用便器。まるで王侯のような暮らしだ。やがて、ビンクのベッドの反対側の壁にかかっているつづれ織りが、じつは魔法の絵だとわかった。小さな人物たちが、複雑な筋書きどおりに、ささやかなドラマを展開している。ちっぽけな騎士がドラゴンを退治し、ちっぽけな貴婦人が縫いものをしている。そして寝室と思われる部屋で、そのちっぽけな騎士と貴婦人が抱きあっていた。最初、ビンクは目を閉じて、そういう場面は見ないようにしていたが、やがてノゾキの本能が優勢になり、あまさずながめるようになった。そして、自分もそうできれば、と願った。だが、それは適当ではない。カメレオン娘が喜んで応じてくれるとはわかっていたが。
幽霊は問題なかった。うちとけさえした。ビンクは幽霊各人と個人的に知りあいになった。ひとりは門番で、最初の夜、落とし格子がひどい音をたてて落ちたときに出てきたやつだ。もうひとりは寝室係の小間使い。三人目は料理人の下働き。幽霊は全部で六人おり、みな非業の死を迎え、ちゃんとした埋葬をしてもらっていない者ばかりだった。正確には亡霊なのだが、しかるべき意志がない。ザンスの王のみがかれらを解放できるので、城を離れられずにいる。慣れた仕事もできず、永久にこの城に奉公するように運命づけられていた。根は善人ばかりで、城自体を支配する力はなく、幽霊たちは城の魔法の一部を構成しているにすぎない。できることはなんでも手伝ってくれ、いじらしいほど喜びを求めていた。カメレオン娘には新しい食料のありかを教え、ビンクには偉大なる黄金時代の暮らしぶりを語ってくれた。何世紀ものあいだ、ずっと孤立していたため、最初は生きた人間の侵入に仰天し、くやしく思ったという。けれど、それが城自体の命令の一部だと悟り、今はなじんでいた。
トレントはそこにあるかぎりの知識を、吸収しようとでもいうのか、終日図書室にこもっていた。最初、カメレオン娘も知的興味をもち、ときどき図書室ですごしていたものだ。けれど、知性を失うとともに、興味もなくなった。興味の対象が変わったのだ。今や“ふつう”になれるまじないを夢中で探している。図書室にはそれがないとわかると、そこを離れ、城内や庭園などをほっつき歩いた。ひとりきりでいるかぎり、おそろしいものには出会わなかった。ネズミにも、食肉樹にも、ゾンビーにも。カメレオン娘は、この城の囚人ではない。囚人は男たちだけだ。カメレオン娘は魔法の源を求めて捜しまわった。気ままにものを食べては、ビンクをびっくりさせた。ビンクは毒の魔法の働きを知っていたからだ。しかしカメレオン娘は、ルーグナの城の魔法に守られているように見えた。
カメレオン娘が発見したもののうち、ひとつは掘り出しものだった。庭園の木の一本がたわわにつけている小さな赤い実だ。ひとくちかじってみようとしたら、皮がひどく堅かった。厨房に持ち帰り、肉切り大包丁で半分に切ろうとした。幽霊はいなかった。最近では、仕事があるときしか現われない。したがって、カメレオン娘はこの果実の性質について、なんの警告も受けなかったわけだ。そして、うっかりして、その木の実をひとつ、床に落とした。
爆発音を聞いたビンクが走ってきた。今はとても美しくなっているカメレオン娘が、厨房の片隅にちぢこまっていた。「どうした?」ビンクは敵意あるまじないはどこだと、あたりを見まわした。
「ああ、ビンク!」カメレオン娘はかわいそうなほど安心して、ビンクの方を向いた。手製の服が乱れ、上半身のかっこうのよい胸と、下半身のはりのある太ももがあらわになっている。数日前とはたいへんなちがいだ! まだ美の絶頂期には達していないが、必要なだけ、十分に美しい。
必要? ビンクはいつのまにかカメレオン娘を抱いており、彼女がビンクの意のままにしてほしいと熱望しているのに気づいた。わかりきった事実に目をつぶって耐えるのは、むずかしい。現在の彼女の中には、事情がわかる前に気にいったディーの部分が、たくさんあるのだから。
今なら、彼女を抱き、愛することができる。愚鈍な彼女も、聡明な彼女も、決してビンクを責めないだろう。
だが、ビンクは臨時の恋人ではないし、こんな状況で、こんなときに、とりかえしのつかないことはしたくない。ビンクはやさしく娘を引き離した。その行為は、見かけ以上に努力を必要とした。「どうしたんだい?」もう一度質問する。
「あの、あの、爆発したの」
カメレオン娘の知性が消えたのも、彼女ののろいの一面だということを、ビンクは思い出した。こうなればその豊満な肉体を押しやるのも、楽にできる。知性のない肉体など、なんの魅力もない。「なにが爆発したの?」
「サクランボ」
「サクランボ?」新顔の果実のことを聞くのは、これが初めてだ。だが、しんぼうづよく質問を重ねながら、ビンクは話を聞き出した。
「そいつはサクランボ弾だ!」事情がのみこめたビンクは、大声で叫んだ。「そんなものを食べたら――」
それが理解できないほど、娘はバカではない。「口が!」
「頭だよ! すごい威力なんだ。ミリーに注意されなかったのかい?」ミリーとは寝室係の小間使いの幽霊だ。
「あのひと、忙しいの」
幽霊がなにに忙しいというのだろう? とにかく、今はそんな詮索をしている暇はない。「今後は、幽霊がいいと言ったものしか、食べちゃいけないよ」
カメレオン娘はすなおにうなずいた。
ビンクは用心深くサクランボをつまむと、よく観察した。小さな固い赤い球で、茎のあとがある。「魔法使いルーグナは、戦いにこれを使ったんだろうな。ルーグナは戦いがきらいだったが、守備はおろそかにしなかったんだ。城壁の上からパチンコで狙い、このサクランボ弾をゆっくり投げれば、ひとりで十人は倒せる。兵器庫にある他の木も、どんなものだかわかったもんじゃない。もしきみが、めずらしい木の実をいじりまわすのをやめないと――」
「この城を吹きとばしちゃう」カメレオン娘は消えかけている煙をみつめた。床は焦げ、テーブルの脚が一本、なくなっている。
「城を吹きとばす……」ビンクは不意にあることを思いついた。「カメレオン、もっとたくさんサクランボ弾を持ってこないか? ちょっと試してみたいことがあるんだ。でも、気をつけて。くれぐれも気をつけて。たたいたり、落としたり、しちゃだめだよ」
「うん」カメレオン娘は、まるで幽霊のように喜びを求めている。「くれぐれも気をつける」
「それから、食べちゃだめだよ」これはまったく冗談ではない。
ビンクは布とひもをみつけ、さまざまな大きさの袋を作った。まもなく、威力の程度のちがう袋爆弾ができあがった。ビンクはそのひとつを自分用にした。
「ルーグナの城を離れる準備ができたよ。だが、まずトレントと話をしなければ。きみは勝手口の扉のところにいて、ゾンビーが現われたら、サクランボ弾を投げつけるんだ」まさか爆弾を受けとめて、投げ返すほど機敏な動きのできるゾンビーはいないだろう。虫にくわれた目とくさった肉とでは、目と手の動きを一致させにくいだろう。それに、やつらは傷つきやすい。
「それから、もしトレントがおりてくるのが見えたら、ぼくにじゃなく、あの大袋に、サクランボ弾を投げるんだ。トレントが六フィート以内に近寄ってこないうちに、手早くやるんだよ」ビンクは太い柱にくくりつけた大きな袋爆弾を指した。「わかったかい?」
カメレオン娘はわからなかった。ビンクは彼女がのみこむまで、きびしく教えこんだ。娘は目につくものすべてに、サクランボ弾を投げつけるはずだ――ビンク以外のものには。
準備はできた。ビンクは邪悪な魔法使いと話をするために、図書室にあがっていった。心臓がどきどき高鳴っている。対決のときがきた。が、ビンクはなすべきことを知っている。
不意に幽霊が現われた。寝室係のミリーだ。白い布はお仕着せの型に似せてあり、まっ黒なのぞき穴は、なんとなく人間的なまなざしを宿しているようだ。過去数世紀間、人目に触れることなく、怠慢に不注意にすごしてきたため、幽霊たちの姿は、すっかりみっともなくなっていた。だが今は仲間を得、幽霊たちは体型をととのえはじめた。次の週あたりには、人間らしい輪郭と色をとりもどすだろう。幽霊であることに変わりはないが、ビンクは、きっとミリーはかわいい娘にちがいないと思っていた。ミリーはどのような死にかたをしたのだろう? 城の客と密通し、ふたりの仲を知ったやきもちやきの奥方に刺し殺されたのだろうか?
「ミリー、なんだい?」ビンクは足をとめて訊いた。城に爆弾をしかけたものの、薄幸の住人たちには、なんの恨みもいだいていない。はったりがききさえすれば、幽霊たちの住み家を爆破する必要はなくなる。かれらにはなんの責任もないのだから。
「王は――秘密の――会議中」ミリーは言った。話しかたはまだ、いくぶんたよりない。はっきり発音するには、実体がなさすぎてむずかしいためだ。心霊体には無理だろう。だがビンクは理解できた。
「会議? ぼくらの他に誰もいないだろう? それとも、用を足してるって意味かい?」
ミリーは可能なかぎり顔をあからめた。寝室係の小間使いとして、室内便器をあつかう仕事に慣れているとはいえ、それを使用中の者については、どう言い表わせばいいのかわからないのだ。実体と機能とは完全に分離しているとでも思っているようだ。たぶん排泄物は夜のあいだに、人間の腸を経ず魔法的に室内便器内に現われるのだと、信じたがっているのだろう。魔法の肥料!
「いいえ」ミリーは答えた。
「ああ、ごめん。でも、どうしても彼の邪魔をしなきゃならないんでね。いいかい、ぼくは彼を王とは認めていないし、この城を出ようと思ってる」
「まあ」ミリーは女らしい不安を見せ、もやもやした片腕を、ぼんやりした顔にあてた。「でも――見て」
「いいとも」ビンクはミリーのあとから、図書室の隣の小さな礼拝堂に入った。そこは寝室のつづき部屋で、図書室に直接通じる出入り口はない。けれど、図書室に向かって、小さな窓があることがわかった。礼拝堂には灯がなく、他の部屋よりずっと暗いため、他から見られずに、一方的に見ることができる。
トレントはひとりではなかった。彼の前には中年になったばかりの女がいた。美しさは盛りを越しているが、それでも美しい女だ。髪をうしろに引きつめ、地味な束髪に結ってある。くちもとと目じりに、笑いじわが刻まれている。女の傍には十歳ぐらいの男の子がいた。女によく似ているから、女の息子にちがいない。
誰ひとり口をきかないが、息づかいと、かすかな身じろぎとで、かれらが生きた実体のある人間で、幽霊ではないとわかった。いったいどうやって、この城に来たのだろう? なんの用だろう? ビンクもカメレオン娘も、この母子が入ってくるのに気づかなかったのは、なぜだろう? 誰にも気づかれずに、この城に近づくのは不可能に近い。攻撃に備え、守りやすいように造られているからだ。それに、落とし格子は落ちたままで、正面出入り口をふさいでいる。ビンク自身は、爆弾作りで、勝手口の側にいた。
とにかく城内に入れたことにしても、なぜかれらは話をしないのだろう? なぜトレントはしゃべらないのだ? ぶきみに沈黙して、たがいに顔を見つめあっているだけだ。なんとも意味のない光景だった。
ビンクは見慣れない、口をきかないふたりをよく観察した。亡霊ドナルドのかみさんと息子を、どことなく思い出させる。銀のオークの木のことを教えてやったから、今頃は貧しい暮らしからぬけ出せたはずだ。似ているのは、物理的な外見ではない。というのは、このふたりは貧乏とは縁のない、みば[#「みば」に傍点]のいいかっこうをしているからだ。喪失感がそっくりなのだ。この母子も、夫であり父である男をなくしたのだろうか? それで助言を求めて、トレントをたずねたのだろうか? もしそうなら、悪い魔法使いを選んだものだ。
ビンクは盗み見をしているのがいやで、その場を去った。邪悪な魔法使いといえども、個人的な秘密は守られるべきだ。ビンクは廊下をまわり、階段の上にもどった。警告をすませたミリーは消えていた。幽霊にとって、姿を現わし、知的に話すのは、努力を要するものらしく、用がないときは、どこかの空間で静養しなければならないのだ。
ビンクはあらためて図書室に向かった。今度は知らせるつもりで、わざと大きな足音をたてた。トレントはビンクを訪問者たちに紹介せざるをえないだろう。
だが、ビンクが扉を開けると、中には魔法使いひとりしかいなかった。机の前にすわり、巻きものを広げている。ビンクが入っていくと、トレントは目をあげた。「いい本を取りに来たのかね、ビンク?」
ビンクは平静を失った。「あのひとたち! いったいどうしたんだ?」
トレントはまゆをひそめた。「あのひとたちだって? ビンク」
「見たんだ。女のひとと男の子。ここに――」ビンクは口ごもった。「のぞき見したんじゃない。ミリーからあんたが会議中だって聞いたんで、礼拝室から見ただけだ」
トレントはうなずいた。「では、見たんだね。おまえにわたしの個人的な重荷を負わせるつもりはないよ」
「誰なんだ? どうやってこの城に入ったんだ? あのひとたちをどうした?」
「あれはわたしの妻と息子だ」トレントは重々しく答えた。「ふたりとも死んだ」
ビンクは水夫の話を思い出した。邪悪な魔法使いにはマンダニア人の家族がいたが、マンダニアの病気で死んでしまった。
「でも、ここにいた。ぼくは見た」
「百聞は一見にしかず」トレントは言った。「ビンク、あれはゴキブリだよ。わたしが愛する者たちの姿に変身させたのだ。わたしが過去に愛した、ただふたりの者たち。永遠に愛しつづけるだろう。ふたりがいないのが寂しい、ふたりが必要だ。ときどき、ちらりと面影だけでも見られたら。ふたりを失ったとき、マンダニアにはなんの未練もなくなった」トレントはルーグナの城の縫いとりのあるハンカチで、顔をおさえた。邪悪な魔法使いの目に涙が光っているのを見て、ビンクはびっくりした。だが、トレントは自制心をとりもどした。「おまえには関係のないことだし、わたしは話したくない。いったいなんの用だね、ビンク?」
そうだ。意見をはっきりのべて、やりとげなければならない。せっかくの意気ごみも多少薄れてしまったが、ビンクは話しはじめた。「カメレオンとぼくは、ルーグナの城を出る」
きれいなまゆがひそめられた。「また?」
「今度は本当だ」ビンクはいらだった声で言った。「ゾンビーにもとめられやしない」
「わざわざわたしに言いにくる必要があるのかね? われわれはその点についてはすでに了解ずみだし、わたしもそのうちに、おまえたちがいないのに気づいたはずだ。わたしの反対が心配なら、わたしが知らないうちに、去った方がよかったろうに」
ビンクはにこりともしなかった。「そうじゃない。休戦協定にもとづいて、あんたに知らせるのが義務だと思ったからだ」
トレントは片手をかすかに振った。「よくわかった。わたしとしては、おまえたちを喜んで見送るとは言えんがね。現在の行動をいちいち知らせてくるような、きちょうめんな倫理感を見るたびに、すばらしい性質だと思うようになっているからな。それにカメレオンも似たような信念の、いい娘だ。日ましにきれいになってきた。おまえたちふたりには、わたしの味方でいてほしいが、それがだめなら、せめて、どこかで幸せに生きてほしい」
ビンクはトレントのことばに、すっかりめんくらってしまった。「これは社交的な辞去のあいさつじゃないんだ」トレントの妻と息子の姿を見ず、話を聞かなければよかった。かれらは薄幸の運命をたどった善人たちで、ビンクとしては、魔法使いの悲しみに同情を感じているほどだ。
「この城は、ぼくらを自由に行かせてくれない。ぼくらは闘わなければならない。で、爆弾をしかけ――」
「爆弾!」トレントは叫んだ。「それはマンダニアのものだ。ザンスには爆弾はない。これからも、あってはならぬものだ。わたしが王であるあいだは、絶対に」
「爆弾は昔からあったようだ」ビンクはがんこに言った。「庭にサクランボ弾の木がある。衝撃を受ければ、すさまじい爆発を起こす」
「サクランボ爆弾? そうか。そのサクランボをどうした?」
「城の支柱を爆破するのに使う。ルーグナの城がぼくらをとめようとしたら、ぼくらはそれを破壊する。だから、ぼくらを平穏に行かせてくれた方がいい。あんたに言っておく必要があった。ぼくらが行ったあとで、爆弾を片づけられるように」
「なぜ、わたしに言った? わたしの計画やルーグナの城の計画に、反対じゃないのか? 魔法使いとこの城とが破壊されれば、おまえの完全の勝ちではないか」
「完全じゃない。ぼくはそんな勝利はほしくない。いいかい、あんたは望みさえすれば、ザンスでりっぱなことがたくさんできる――」むだだとわかっている。邪悪な魔法使いは善に専念するような、単純な心の持主ではない。「爆弾をしかけた位置の一覧表だ」ビンクは紙きれを机の上に置いた。「あんたがしなきゃならないのは、十分慎重に、つつみや袋を全部集めて、外に運び出すことだけだ」
トレントは首をふった。
「ビンク、おまえたちの脱出に、爆弾のおどしがきくとは思えないよ。この城は、本来、知性をもっているわけではない。ある刺激に対する反応でしかないのだ。カメレオンを行かせはしても、おまえはだめだろう。城は、おまえを魔法使いだと認知している。したがって、おまえはとどめられるにちがいない。おまえは城よりすぐれた考えをもっているかもしれないが、城はおまえの計画を正確には理解しないだろう。前と同様、ゾンビーどもにはばまれるぞ」
「そのときは爆弾を使わざるをえない」
「そうだな。おまえはサクランボ弾を使わざるをえず、われわれはともに爆破される」
「いや。まず外へ出て、サクランボ弾をうしろに投げる。城にはったりがきかなかったら――」
「きかないさ。城は考える生きものではないんだ。単に反応するだけだ。力づくで破壊するなど――わたしは許せん。わたしにはルーグナの城が必要なんだ!」
手ごわくなってきた。ビンクは覚悟のうえだ。「もしあんたが、ぼくを変身させたら、カメレオンが爆弾を爆破させるだろう」挑戦の寒けがする。こんなふうに力をちらつかせるやりかたは好きではないが、こうなるのはわかっていた。「なんらかの形で、あんたが邪魔をしたら――」
「いや、協定は破らんよ。だが――」
「協定を破ることはできまい。ぼくがカメレオンのところへもどらなかったら、カメレオンがサクランボ弾を爆弾に投げつける。彼女は愚鈍だから、命令に従うことしかできない」
「聞け、ビンク! わたしが協定を破れないのは、約束したからであって、おまえの戦略のせいではない。おまえをノミに変え、ゴキブリをおまえそっくりに変身させ、そっちをカメレオンのところに行かせることだって、できる。カメレオンがサクランボ弾を手放せば――」
ビンクの顔には無念の表情がでていた。邪悪な魔法使いは、計画をつぶす力があるのだ。手遅れになるまで、バカなカメレオンは気づかないだろう。どん底の知性は、正の方向と同様、負の方向にも働く。
「そんなことをするつもりはない」トレントは言った。「わたしにも倫理感があると知らせたくて、可能性を口にしてみただけのことだ。結果は手段を正当化しない。おまえは一時的にそれを忘れているようだが、ほんのちょっと耳を傾ければ、まちがいがわかり、訂正できるだろう。目的もなく、この感嘆すべき、歴史的にも重要な建物を、破壊させるわけにはいかない」
すでにビンクはうしろめたさを感じている。正道からはずれているのはわかっていると、口にすべきだろうか?
「まちがいなく」邪悪な魔法使いは説得力豊かに話をつづけた。「計画を実行すれば、この地域一帯が、執念深い復讐心を燃やすだろう。城の外に出られても、ルーグナの囲いの中にいるのだから、悲惨な死が待っているだろう。カメレオンも同じだ」
カメレオンも同じ――それは苦痛だ。あの美しい娘が触手木につかまり、ゾンビーに引き裂かれる……。
「それは覚悟している」ビンクは重い口調で言った。魔法使いが正しいのはわかっている。この城に追いこまれた方法を考えれば、あの獰猛な森に出口はあるまい。「例のものを爆破させるより、ぼくらを行かせてくれるよう、あんたが城を説得できるかもしれない」
「まったく、がんこなやつだな!」
「ええ」
「少なくとも、まず、わたしの話を最後まで聞け。おまえを説得できなかったら、そのときは、なるようにしかならない。寒けがするがな」
「てっとりばやく話してくれ」ビンクは我ながら、無鉄砲な自分に驚いたが、なすべきことをしているのだと思った。トレントが六フィート以内に近づこうとしたら、変身のまじないをかけられないよう、逃げ出すつもりだ。魔法使いより速く走れるだろう。しかし、そうはいっても、あまり長くは待てない。カメレオンが待つのにあきて、ばかなことをしでかさないかと、気が気ではないのだ。
「わたしは本当に、おまえやカメレオンが死ぬのを見たくないし、むろん、わたしは生き残る価値がある。今日《こんにち》、愛する者がひとりも生きていないわたしにとって、おまえたちふたりは、誰よりも身近な存在だった。まるで運命が命じたかのように、同類の者たちが、ザンスの因習的な社会から、追放されたにちがいない。われわれは――」
「同類だって!」ビンクは憤慨した。
「不愉快な比較で申しわけない。われわれは短期間に、ともに多大の危機を乗り越えてきた。そのときどきで、たがいの命を救ってきたと言うのが妥当だと思う。おそらく、おまえたちの同類とつきあいたくて、わたしはザンスに帰りたかったのだろう」
「そうかも知れない」ビンクはさまざまにわき起こる感情を抑え、堅苦しく言った。「だがそれは、ザンス侵略を正当化しないし、多くの家族を殺す正当化にもならない」
トレントは苦しそうなようすを見せたが、自制した。「ビンク、正当化するふり[#「ふり」に傍点]はしないよ。マンダニアのわたしの家族の悲劇は、わたしが帰る気になった、ひとつの動機で、正当化ではない。マンダニアには、わたしが生きていくために価値のあるものは、なにもなかった。自然に、わたしの目は、故郷のザンスに向けられた。もうザンスに危害を加えようとは思わない。手遅れにならないうちに、現実に直面することにより、ザンスをよくしたい。たとえ、何人か死人が出ても、それはザンスの最後の救済に対するわずかな代償だ」
「あんたは、あんたがザンスを征服しなければ、ザンスが滅びると思っているのか?」ビンクは冷笑まじりに言おうとしたが、うまくいかなかった。邪悪な魔法使いほど、口がうまくまわり、はっきり強く伝えることができさえすれば!
「そうだ、そのとおりだ。ザンスは新しい入植時代が遅れている。新しい移住者たちは、昔の人々同様、ザンスに利益をもたらしてくれるだろう」
「移住時代は殺戮《さつりく》と略奪と破壊の時代だった! ザンスののろいだ」
トレントはくびを振った。「ある時代は、そのとおりだった。だが他の時代は、第四次移住時代のように、高い利益を得、そこからこの城も建てられた。移住という事実のせいではなく、あやまった処置が、めんどうを起こすのだ。全体として、ザンスの発展にとって、移住は欠くことのできないことだった。もっとも、おまえがそれを信じるとは、期待してないがね。今、わたしはこの城とおまえ自身を救いたいから、説得しようとしているだけだ。わたしの主義を、おまえに押しつけようとしているのではない」
このやりとりのなにかが、ビンクを徐々に不安に駆りたてた。邪悪な魔法使いは、あまりにも分別があり、道理をわきまえており、見識がありすぎ、意見を明確に言いすぎる、トレントは悪人――にちがいない――のに、いかにももっともらしい話を聞いていると、どこが悪いのか、正確に指摘できないのだ。
「押しつけてみろよ」ビンクは言った。
「それを聞いてうれしいよ、ビンク。おまえには、わたしの論理的根拠を知ってもらいたい。たぶん、おまえは実際的な批評ができるだろうからね」
なんだか、洗練された知的な遊びのように聞こえる。ビンクはそれを皮肉と受けとろうとしたが、そうではないと知っていた。魔法使いの方が、ずっと知性があるのではないかと恐れていたけれど、やはりそうだとわかった。
「かもしれない」ビンクは用心深く答えた。まるで、荒野の中で、いちばん適当な道を選んで歩きながらも、必然的にまん中の罠にはめられてしまう、という気がしてならない。ルーグナの城と魔法使い――物理的にも、知性的にも同格だ。城は八百年のあいだ、声を失っていたが、今、それを得た。ビンクは、魔法使いのするどい剣をふせぎきれないのと同様、その声を受け流すことはできないだろう。だが、やってみなければ。
「わたしの原理は二元的だ。ひとつはマンダニアに関係し、もうひとつはザンスに関係している。倫理と政治においては、確かに堕落しているにもかかわらず、マンダニアは、ここ数世紀のあいだに、めざましい進歩をとげた。多くの人々がいろいろなものを発見し、情報を広めたおかげだ。さまざまな点で、マンダニアはザンスより、はるかに文明化されている。残念なことに、マンダニア人の戦闘の力も、同様に進歩した。ここで証明してみせる方法はないから、この点は、おまえに信じてもらうしかない。マンダニアは、シールドの有無にかかわらず、ザンスのすべての生命を、あっけなく絶滅させることができる武器をもっているのだ」
「うそだ! シールドを破れるものなんか、ない!」
「われわれ三人以外には、な」トレントは低い声で言った。「だが、シールドが制限できるのは、生命あるものだけだ。シールドに突撃してみれば、簡単に通りぬけることができるが、向うに着いたときには、もう死んでいる」
「同じことだ」
「ビンク、同じことではないぞ! まず第一に、向うには、ミサイルを射ちあげる大砲がある。おまえのサクランボ弾と同じだが、それよりもっとおそろしい、強力な爆弾が、触れれば爆発するよう、あらかじめしかけられているんだ。マンダニアにくらべれば、ザンスは狭い。もしマンダニア人たちが決心すれば、ザンスをめちゃめちゃにできる。そんな攻撃を受ければ、シールド石ですら、破壊されるだろう。ザンスの人々は、もはやマンダニアを無視できる余地はないのだ。マンダニアには人が多い。ザンスが、永久に発見されない、というわけにはいくまい。マンダニア人たちは、われわれを一日で一掃できるし、またその意志もある。今、われわれが交渉を成立させなければ」
ビンクは信じられないのと、理解できないのとで、頭を振った。
しかしトレントは悪意もなく、話をつづけた。「一方、ザンスの内部は、まったく事情がちがっている。マンダニアには魔法の力が働いていないという理由で、少しも脅威だと思っていない。だが、ザンスは、ザンス自身の中に、陰険だがどうしようもない脅威をはらんでいるのだ」
「ザンスがザンスに脅威をもってる? まったく、ばかげてる」
トレントの微笑が、ややもったいぶったものになった。「最近のマンダニアの科学の論理が、おまえの手に余るのは、わかる」ビンクがなにか尋ねようとする前に、トレントは冷静さをとりもどした。「いや、わたしはおまえに不公平にあたってるな。この、ザンスの内なる脅威は、わたしがこの図書室で、数日かけて学んだことであり、重要な問題だ。この面だけでも、この城を保存しておく必然性を正当化できる。この図書室にたくわえられた古代の学問知識は、ザンスの社会に絶対必要なものだ」
ビンクはまだ半信半疑だ。「ぼくらは八世紀ものあいだ、この図書室なしで生きてこられた。今も、これがなくても生きていられる」
「ああ、そんな生活様式では!」トレントはあまりにも漠然としていて表現できないと悟ったように、くびを振った。立ちあがり、うしろの棚に近づいた。本を一冊取り出すと、古びたページをていねいにめくった。ある個所を開き、ビンクの前に置く。「この絵はなんだね?」
「ドラゴン」ビンクは即座に答えた。
トレントはべつのページを開いた。「で、これは?」
「マンティコラ」なにを言いたいのだろう? 怪物たちの絵は、現在のそれらとは正確には一致していないが、とてもよく描けている。ただ、均整と細部とが微妙にちがっていた。
「では、これは?」
人間の頭に、ひづめと馬の尻尾、それにネコのような肢の四足獣だ。
「ラミア」
「では、これは?」
「セントール。ねえ、一日じゅう絵を鑑賞しててもいいけど――」
「この生きものたちの共通点は?」
「ドラゴン以外は、人間の頭か、人間の上半身をもっている。この本のドラゴンは、鼻が人間みたいに短いけれど。あるものは人間の知性をもっている。でも――」
「そのとおり! 関連性を考えてごらん。同種のドラゴンをずっとたどってみると、だんだん人間に似てくるんだ。これをどう思うかね?」
「ある種の生きものは、他のより、だいぶ人間に似ているというだけのことだ。だがそれは、ザンスの脅威ではない。どっちみち、この絵は時代遅れだ。本物の生きものたちは、こんなふうじゃない」
「セントールに進化論を教わったかね?」
「ああ、教わった。今日《こんにち》の生きものたちは、淘汰されて、もっと原始的な形から進歩した。はるか古代に返れば、共通の先祖がみつかる」
「よろしい。しかし、マンダニアでは、ラミアや、マンティコラや、ドラゴンは、決して進化しない」
「あたりまえだ。かれらは魔法なんだ。魔法の淘汰によって進化した。ザンスでしか――」
「とはいえ、ザンスの生きものたちの先祖は、マンダニアから来ている。類似点がたくさんあり――」
「わかった!」ビンクは気短かにさえぎった。「かれらはマンダニアから来た。それと、あんたのザンス征服と、どんな関係があるんだ?」
「伝統的なセントールの歴史によると、ザンスに人間が住むようになってから、まだ千年しかたっていない。その千年のあいだに、マンダニアからの主な移住が十回あった」
「十二回だ」
「それは教えかたによる。とにかく、シールドが移住を拒否するようになるまで、九百年間、つづいたわけだ。だが、人間が到着したと仮定される以前に、部分的に人間に似た形の生きものたちが、たくさんいた。これは意味ありげじゃないかね?」
ビンクは、カメレオンがへまをしでかすか、ルーグナの城がサクランボ弾の効力を消してしまう手を考え出すのではないかと、だんだん心配になってきた。ルーグナの城自体が、ものを考えることができるのかどうかは、わからないけれども。邪悪な魔法使いは時間をかせいでいるのだろうか?
「あんたの言い分を立証するのに、あと一分やる。そのあとは、なにがあろうと、ぼくらは出て行く」
「部分的に人間に似た形の生きものたちは、どういうふうに進化したのか? 祖先が人間ではないのに。収斂進化は、ザンスにいるような、不自然なごたまぜの怪物は造らない。収斂進化は、環境に合った生きものを造る。人間の容貌に合う環境は、わずかしかない。ザンスには、数千年前に、人間が住んでいたにちがいない」
「わかった。三十秒たった」
「その人々が動物たちと交わり、われわれが知っているような複合動物を造ったのだ。セントール、マンティコラ、人魚、ハーピー、みなそうだ。そして、生きものたちは異種交配し、複合動物は他の複合動物と交配し、キメラのような――」
ビンクは背を向けかけた。「時間だ」ふと、ぎくりと身体をこわばらせた。「なんだって?」
「ある種が、雑種を造るために、他の種と交わった。人間の顔をもつけだもの、けだものの顔をもつ人間――」
「不可能だ! 人間は人間としか交われない。男と女という意味だ。そんな不自然な――」
「ザンスは不自然な国だよ、ビンク。魔法は不可能を可能にする」
ビンクはその論理は感情を拒否していると悟った。「だけど、たとえそうだとしても」言いにくそうに、「まだ、あんたのザンス征服計画は正当化されていない。過去は過去だ。統治者の交替は――」
「ビンク、この背景が、わたしの権力掌握を正当化するのだ。なぜならば、加速した進化と突然変異は、魔法によって生み出され、中間種の混交はザンスを変えている。もし、このままマンダニアの世界と断絶をつづければ、いずれ、ザンスには人間がいなくなる。雑種しか、な、この千年間、絶え間なく純血が流入されていたからこそ、人間はその種を維持することができた。現在、ザンスの人間の数は決して多くない。人口は減少しつつある。飢饉や、病気や、戦争のせいではなく、異種交配の漸減のせいで。人間がハーピーと交わっても、その結果は、人間の子供ではない」
「うそだ!」ビンクはぞっとして叫んだ。「そんな、人間なら、汚らわしいハーピーと交わろうと思うもんか!」
「汚らわしいハーピーなら、そうだろう。だが、清潔な、美しいハーピーなら?」トレントは片方のまゆをつりあげた。「かれらは、みな同じではない。われわれが見ているのは、くずばかりで、はつらつとした若い――」
「うそだ!」
「たまたま、人間が愛の泉の水を飲み、そのすぐあとに来たのが、ハーピーだったら?」
「そんな――」だが、ビンクにはよくわかった。愛のまじないは、他のすべてに優先する。ビンクは裂け目の近くにあった愛の泉でのことを思い出した。グリフィンとユニコーンが交わっている光景を見なかったら、愛の泉の水を飲んでいたところだった。そしてあの場にはハーピーがいた。ビンクは身震いした。
「おまえは人魚に心をひかれなかったかね? レディ・セントールには?」
「やめろ!」人魚の優美な固い胸がふっと目に浮かんだ。そしてチェリー。魔法使いハンフリーをたずねる旅の一行程を、その背中に乗せて運んでくれた、レディ・セントール。彼女に触れたのは、あれは本当に偶然だったのか? 彼女は溝に落とすとおどしたが、真剣ではなかった。とてもすてきなおてんば娘だった。人間よりも。正直さが勝ち、ビンクはしぶしぶ訂正した。「かもしれない」
「そして世の中には、おまえより奔放な者がいるのだ」トレントは容赦なく言った。「ある事情のもとでは、そういう連中は好き勝手をするのではないかね? 単に変化を求めて? わたしの子供の頃と同じように、おまえの村の子供たちも、こっそりと、セントールの家のまわりをうろついているのではないか?」
ジンクや、ジャマや、ポティファーのような、あばれ者やいたずら小僧たちは、セントールの陣地では怒りをかっていたものだ。ビンクはそれも思い出した。以前はその意味を理解しそこなっていた。むろん、ジンクたちは、胸もあらわなセントールの娘たちを見に行っていたのだ。もし、セントールの娘をひとりつかまえていたら――
ビンクは顔があからむのを感じた。「いったいなにを言いたいんだ?」当惑を隠そうとして質問した。
「これだけさ。つまり、ザンスのものたちは、われわれの最古の記録の日づけより、ずっと以前に、マンダニアの人々と性交――いや、失礼、ひどいことばだな――交際していたにちがいない。移住時代以前に。なぜならば、マンダニアには、純血の人間しかいないからだ。人間はザンスに足を踏み入れたときから、変化しはじめた。魔法の力をもち、その子供たちはさらに強い力をもち、ついには資格十分な魔法使いになる者まで現われた。過去の魔法使いたちが生き残っていれば、いずれ、必然的にかれら自身が魔法的存在になっただろう。あるいは子孫がそうなる。異種間の自然の壁を破ることによって、あるいは、進化によって、小鬼に、妖精に、ゴブリンに、巨人に、トロールになる。おまえ、ハンフリーを一目見たとき、どう思った?」
「彼はノームだ」ビンクは考えもせずに答えた。そして、「まさか!」
「ハンフリーは人間だ。それも、できのいい人間だ。だが、ずっとたどってみれば、ちがう系統にいきつくだろう。今、彼は魔法の力の極限にいる。しかし、もし子供をもつとすれば、彼の子供は本当のノームかもしれない。あえて言えば、ハンフリーはそれを知っているから、結婚しないのだ。カメレオンのことを考えてみよう。彼女は魔法的存在になりかけているため、直接の魔法の力をもっていない。これが、必然的にザンスの人間全員がたどる道だ。マンダニアから、絶えず新しい血を注入しないかぎりは。シールドは消失させなければならん! ザンスの魔法的生きものは、自由に外界へ移住させてやらねばならない。もとの種に、ゆっくり、自然に還るように。そして新しい動物をザンスに入れるべきだ」
「だけど――」あまりにも不快な考えで、ビンクは思わず口ごもった。「だけど、昔、つねに往き来していたんなら、数千年前にザンスに来た人々はどうなったんだ?」
「おそらく、しばらくのあいだ、なにか障害があり、移住が中断されたんだろう。ザンスは千年ぐらいのあいだ、完全に孤立して、前史時代の人々を罠にかけるぐらいのことはできる。それで、人々はもっぱら、他の生きものたちにとけこみ、セントールや他の突然変異のもとになったのだ。シールドのせいで、今またふたたび、そうなろうとしている。人間はきっと――」
「もういい」ビンクは心底から衝撃を受け、小声で言った。「もう聞いていられない」
「サクランボ弾を不発にするかね?」
いなづまのように、正気がもどった。「いや。やっぱりぼくはカメレオンを連れて、出て行く。今すぐ」
「しかし、理解してくれ――」
「いやだ!」邪悪な魔法使いは正体を表わしはじめた。これ以上話を聞いていたら、ビンクは信念を失い、ザンスを失うことになるだろう。「あんたの考えは大きらいだ。本当のはずがない。ぼくは受け容れられない」
トレントはいかにも残念そうに、ため息をついた。「きっと却下されると思うが、やってみる価値はあるだろう。わたしとしては、この城を破壊するのを許すことはできないが」
ビンクは勇気を出して動こうとした。変身のまじないが及ぶ距離から離れておくために。六フィート。
トレントはくびを振った。「ビンク、逃げなくてもいい。協定を破りはしないから。おまえに絵を見せたとき、やろうと思えばできたが、わたしは約束をだいじにしたい。妥協しなければなるまいな。おまえがわたしの仲間にならないのであれば、わたしがおまえの仲間になるしかあるまい」
「え?」邪悪な魔法使いの論理に、閉じていたビンクの耳は、急に警戒をゆるめた。
「ルーグナの城を破壊するな。爆弾を爆発させるな。おまえたちがこの地域から無事に出られるのは、わかっている」
いやに簡単だ。「約束するか?」
「約束する」トレントはおごそかに言った。
「城にぼくらを出ていかせるよう、できるんだな?」
「そうだ。そのこともまた、ここの古文書から学んだ。われわれが出発しやすいようにさえ、してくれるだろう」
「約束だよ」ビンクは半信半疑で念を押した。これまでは、トレントも約束を破っていない。だが、今度もそうだという保証があるか? 「だますなよ。急に気を変えたりするなよ」
「神聖な約束だよ、ビンク」
どうするのだろう? もし魔法使いが協定を破りたくなったら、この場でビンクをオタマジャクシに変え、次に、こっそりカメレオンを襲って変身させればいい。
ビンクの気持は、トレントを信頼する方に傾いた。「わかった」
「爆弾を片づけてこい。わたしはルーグナの城をなだめよう」
ビンクは階下におりた。カメレオン娘は彼の姿を見ると、うれしそうに小さな叫び声をあげた。今度はビンクも、カメレオン娘の抱擁をまともに受けとめた。「トレントが、ぼくらに行っていいって」
「まあ、ビンク、うれしいわ!」カメレオン娘はビンクにキスした。ビンクは彼女の手をつかみ、まだサクランボ弾を持っているかどうか確かめた。
カメレオン娘は一時間ごとに美しくなってくる。個性そのものは、ほとんど変わっていない。知性が減じていくにつれて、単純になり、素直になる以外は。ビンクはそんな個性が好きだった。そして今は、彼女の美しさも好きだと認めざるをえなくなった。カメレオン娘はザンスの人間であり、魔法的存在であり、自分の個人的な目的のために、ビンクをあやつろうなどとはしない。この娘はビンクが求めていた種類の女だ。
しかし、カメレオン娘の愚鈍さは、他の段階のときの醜さ同様、ビンクの気持をしぼませる。白痴美人とも、聡明な醜女《し こ め》とも、いっしょには暮らせない。彼女の聡明さがまだ記憶に新しく、彼女の美しさを目と手に触れることができるこのひとときのあいだだけ、彼女は魅力的なのだ。その他の点で信じるのは、愚かなことだ。
ビンクはカメレオン娘を引き離した。「爆弾を片づけなくちゃ。気をつけてね」
だが、ビンクの胸の中にある感情の爆弾はどうなのだ?
14 ぴくぴく虫
ビンク、トレント、カメレオン娘の三人は、なんの支障もなく、ルーグナの城を出た。落とし格子はあがった。トレントが巻きあげ機をみつけ、油をさし、機械自体の魔法の力の助けを借りて、巻きあげたのだ。幽霊たちはさようならのあいさつをのべるために、姿を現わした。カメレオンはこの別れに声をあげて泣き、ビンクでさえ悲しかった。生きた人間と数日ともに過ごしたあとでは、幽霊たちがどんなに寂しいか、ビンクにはよくわかった。そしてまた、不屈の城自身には尊敬の念さえ感じた。ビンクと同じように、城はなすべきことをしたまでだ。
三人は庭園の木の実をつめた袋を持ち、城の衣裳戸棚から選んだ実用的な服を着ている。効力のある古代のまじないによって、八百年間、しみひとつなくしまいこまれていた服だ。見た目も着心地も高貴だった。ルーグナの城は、服一枚にしろ、じつにていねいに世話をしているのだ! 庭園はすばらしかった。今度は嵐も起こらない。木々はおどしのそぶりすら見せなかった。それどころか、友だちに別れを告げるように、枝をそっと動かし、三人に触れた。おそろしい動物も、ゾンビーも現われない。
あっというまに、城は見えなくなった。「ルーグナの領内を出るぞ」トレントが言った。「われわれはこれから十分に注意しなくてはならない。真の荒野とは、なんの協定もないからな」
「われわれ?」ビンクは尋ねた。「あんた、城に帰るんじゃないのかい?」
「今は帰らん」
ビンクはまた疑問をもった。「それじゃ、城にいったいなんて言ったんだい?」
「王としてもどってくる、ルーグナがふたたびザンスを治めるのだ、とな」
「で、城は信じた?」
トレントのまなざしは平静だ。「真実を疑うのかね? 荒野に閉じこめられていては、王冠は勝ちとれないさ」
ビンクは返事をしなかった。結局、邪悪な魔法使いは、ザンス征服の計画をあきらめたとは、決して言っていない。ビンクとカメレオン娘が無事に城から出るのを、認めたにすぎない。そして、それを果たした。現在、三人は、進むはずだった道にもどってきた。三人が無事に荒野をぬけるために、休戦協定を結んで。そのあとは――ビンクの予定は空白だった。
野性の森は、存在感を現わすのに、それほど時間をかけなかった。三人はかわいい黄色の花の咲く、小さな湿地を通った。ハチがわっと花から飛び立つ。怒ったハチは、三人にブンブン不平を言ったが、実際に三人の体に触れたり、刺したりはせず、すぐ近くまで飛んでくると、ふいと向きを変えて飛んでいった。
カメレオンがくしゃみをした。もう一度、激しく。ビンクもくしゃみをした。トレントも。
「クシャミバチだ!」発作の合間に、トレントが叫んだ。
「変身させろ!」ビンクが叫ぶ。
「焦点が――クシャン――合わせられない。涙がひどいんだ――クシャン――どっちみち、罪のない連中だから――ハッ、クション!」
「走るのよ、まぬけ」カメレオンが叫んだ。
三人は走った。湿地をぬけると、クシャミバチは飛んでいき、くしゃみもとまった。「窒息バチでなくてよかった!」魔法使いが目をぬぐいながら言った。
ビンクもそう思った。くしゃみも一、二回ならまだしも、次から次へと何十回も出ると、冗談ごとではなくなる。三人ともほとんど息をする間もなかったぐらいだ。
くしゃみの騒音は、密林じゅうに警告を与えたことだろう。密林はつねに脅威を秘めている。咆哮が聞こえ、大地をゆるがす大きな足音が聞こえた。まもなく、三人の視界に火を噴くドラゴンの巨体が入ってきた。ドラゴンはまっすぐにクシャミバチの湿地に突進したが、クシャミバチたちはドラゴンを完全に敬遠した。ドラゴンに炎のくしゃみをされたら、黄色い花を燃やされてしまうと知っているのだ。
「あれを変えて! 変えてよ!」ドラゴンが自分の方に突進してくるのを見て、カメレオン娘は悲鳴をあげた。ドラゴンは絶世の美女が特別好きらしい。
「できん」トレントはつぶやいた。「六フィート以内に来る頃には、あいつの炎で、われわれ全員焼き焦がされてしまう。あいつの炎は二十フィートは広がるからな」
「ちっとも助けにならないのね」カメレオン娘はもんくを言った。
「ぼくを変えてくれ!」ふと思いついてビンクは言った。
「いい考えだ」
急にビンクはスフィンクスに変わった。顔はビンク自身の顔だが、雄牛の体に、ワシの翼、ライオンの肢だ。そして、とてつもなく大きくなっている。ドラゴンよりも高い。
「スフィンクスがこんなに大きくなるとは知らなかった」ビンクは吠えた。
「すまん、また忘れておった。マンダニアの伝説上のスフィンクスを念じてしまった」
「だが、マンダニア人は魔法の力をもっていないはずだ」
「スフィンクスはずっと昔に、ザンスからさまよい出たにちがいない。何千年ものあいだ、石化して、石になっている」
「石化? こんな大きなスフィンクスを、どうやっておどかしたのかしら?」カメレオン娘はビンクのおそろしげな顔を見あげて、不思議そうに尋ねた。
だが、今はそれどころではない。「立ち去れ、けだものめ!」ビンクはとどろく声で言った。
ドラゴンは状況を見てとり、足どりをゆるめた。ビンクにオレンジ色の炎を噴きかけ、翼を焦がした。だがビンクにとって炎は脅威ではなく、うるさいだけだ。ビンクはライオンの肢を一本伸ばし、ドラゴンをなぐった。軽く動かしただけなのに、ドラゴンは横っとびに吹っとび、木にぶつかった。怒った木が、ドラゴンの上に、岩石ナッツを雨あられと降らせた。ドラゴンはひと声、苦痛の悲鳴をあげ、炎を消して、逃げ出した。
ビンクは他のものを踏みつぶさなかったかと、慎重に周囲を見まわした。「なぜ前に思いつかなかったんだろう?」ビンクは吠えた。「あんたたちを乗せて、密林の果てまで運んでいける。誰にも見られるおそれはないし、他の生きものたちに悩まされることもない!」
ビンクはできるだけ低くうずくまった。カメレオン娘とトレントは、ビンクの尻尾をよじ登り、背中に乗った。ビンクはゆっくり、大またに歩いた。ゆっくりとはいえ、人間が走るより速い。三人は前進した。
それも長くはつづかなかった。スフィンクスの、角のように堅い皮膚におおわれた背中で揺られていたカメレオン娘が、用を足したいと言い出したからだ。行かせてやるよりしかたがない。ビンクはうずくまり、カメレオン娘は無事に地面にすべり降りた。
トレントは休憩を利用して、足を伸ばした。ビンクの巨大な顔のまわりを歩きまわる。「もとにもどしてもいいが、最後までこの姿でいる方がいいだろう。たび重なる変身は、変身した当人に害を及ぼすかどうか、わたしには確信がないのだが、今回は賭けない方がいいようだな。スフィンクスは知的な生命形態だから、おまえの知性は影響を受けないだろう」
「うん、だいじょうぶだ。実際、いつもより調子がいい。この謎が解けるかな? 朝には四本足、昼には二本足、夜には三本足のもの、なんだ?」
「わたしは答えるべきではない」トレントは驚いている。「わたしが聞いたかぎりの伝説には、ある種のスフィンクスは謎の正しい答を言われ、自殺したのだ。それは小型の、種のちがうスフィンクスだった。どうも、ごっちゃにしてしまったらしい。類似点がないから、賭けてもいいと思ったのだが」
「そうか」ビンクは残念そうにうなった。「謎はスフィンクスの心の中から出たもので、ぼくのではない。ぼくには種類のちがいはわからないけれど、スフィンクスは全部、共通の先祖をもっているのだと思う」
「変だ。いや、マンダニアの伝説を、おまえが知らないことについてではない。おまえが謎を記憶していることについてだ。おまえはスフィンクスだ[#「おまえはスフィンクスだ」に傍点]。わたしはその体の中に、スフィンクスの心は入れなかった。というのは、本来のスフィンクスは死に絶えるか、千年間、石化したままなのだ。わたしは似たような怪物、つまり、ビンク・スフィンクスに変えた。だのに、おまえは確かにスフィンクスの記憶をもっている。本物のスフィンクスの記憶を」
「あんたが理解していない、あんたの魔法の力の副産物があるにちがいないよ。ぼくは魔法の真実の性格を知りたい。すべての魔法の」
「そう、それは謎だな。魔法はザンスに存在し、他の場所にはない。なぜだ? そのからくりはなんだ? なぜザンスは、地理的にも、文化的にも、言語的にも、マンダニアのあらゆる国に隣接しているように見えるのだろう? あらゆるレベルで、魔法の力ははどのようにして、地理的領域から、住人にまで、伝えられるのだろう?」
「ぼくもそれを考えてみた。岩からの放射か、あるいは、土の栄養が――」
「わたしが王になったら、研究計画をたて、ザンスの独自性について、真実の説を決定しよう」
トレントが王になったとき。その研究は確かに価値がある。魅力的だ。だが、相当な代償を払ってまですることではない。一瞬、ビンクは誘惑にかられた。強大な前肢を軽くひと振りすれば、邪悪な魔法使いをぺちゃんこに押しつぶし、永遠に脅威をなきものにできる……。
できない。トレントはビンクの本当の友ではないにせよ、そんなふうに協定を破ることはできない。それに、肉体的にも道徳的にも、一生、怪物のままで過ごしたくはない。
「あの娘はこころよいひとときを過ごしているのだな」トレントはつぶやいた。
ビンクはどっしり重い頭を動かして、カメレオン娘を捜した。「いつもなら、そういうことはさっさとすませるんだがな。彼女はひとりでいるのがきらいなんだ」ビンクはべつのことを考えはじめた。「もしや、まじないを捜しに行ったのでは――彼女をふつうにしてくれるまじないを。彼女は魔法の力を無効にしようと努力して、ザンスを離れたんだ。それなのにザンスにもどってしまった。彼女は逆まじないをほしがっている。現在のところ、あの娘は頭が弱い――」
トレントはあごをなでた。「ここは密林だ。あの娘の邪魔はしたくないが――」
「捜した方がいい」
「うむ。おまえに、もう一度、がまんして変身してもらおう。ブラッドハウンドに変える。マンダニアの犬という動物で、臭跡をたどるのにすぐれている。しかし、もし、その、つごうの悪いところに行ってしまったら……まあいい、おまえは単なる動物で、みだらな人間ではないのだから」
突然、ビンクは、とがった鼻、垂れた耳、たるんだ顔の生きものに変わり、匂いを嗅いでいた。ひとつの匂いを嗅ぎあてる。これにまちがいない。これまで、嗅覚がこれほどまでにたいせつだとは、考えもしなかった。もっと劣った感覚に頼りきっていたとは、不思議だ。
トレントは荷物を、まがい触手木の木立ちの中に隠した。「いいぞ、ビンク。彼女を嗅ぎ出すんだ」ビンクはトレントの言うことはよく理解できるが、話す器官のない動物なので、返事ができない。
カメレオン娘の臭跡はとてもはっきりしており、トレントにわからないのが不思議なぐらいだ。ビンクは地面に鼻づらを押しあてた。トレントのように、ばかみたいに高い位置に顔があるのにくらべ、情報の源近くに顔があるのは、きわめて当然だし、きわめて有効に前進できる。
臭跡をたどっていくと、やぶのうしろをまわり、荒野に出た。彼女はおびき寄せられたのだ。現在の衰退期の知性では、彼女をだますのはわけないことだ。しかし、彼女を連れていった動物の匂いも、植物の匂いもない。つまり、魔法だ。心配になったビンクは、うなり、匂いを嗅ぎつづけた。魔法使いがあとにつづく。魔法の誘いだと、本当に厄介だ。
だが、カメレオン娘の臭跡は、触手木にも、肉食沼にも、飛竜の巣にも向いていなかった。そういうはっきりした危険のあいだを、複雑に縫い、ほぼ南に向かって、密林の奥につづいている。なにものかが、さまざまな危険を完全に避けて彼女を導いたのだ。なにが、どこへ、なぜ?
ビンクは細部はともかく、大筋をつかんだ。なにかの幻影が、カメレオン娘を誘い、ある程度の距離をたもちながら、前へ前へといざなったのだ。それ[#「それ」に傍点]は、カメレオン娘がふつうになれる万能薬か、ある力を見せびらかしたらしい。だから、彼女はついていった。それ[#「それ」に傍点]は未踏の荒野に彼女をいざない、道に迷わせ、置き去りにするつもりだろう。そうなれば、長く生きてはいられない。
ビンクはためらった。臭跡を嗅ぎ失ったのではない。そんなことはありえない。他のことに気づいたのだ。
「どうした、ビンク? 彼女が鬼火についていったのはわかっている。だが、近くまで来ているのだから、きっと――」トレントはそれ[#「それ」に傍点]に気づいて、ことばをきった。それ[#「それ」に傍点]は、地中から響いてくる振動だった。なにか大きくて重いものがずしんずしんと歩いている音だ。
トレントはあたりを見まわした。「ビンク、わたしには見えない。匂いがあるか?」
ビンクは黙っていた。風がよくない。この距離では、そのもの音の主の匂いを嗅ぐことはできない。
「もっと強力なものに変えてほしいか?」トレントはビンクに訊いた。「この状況はどうも気に入らん。最初は沼のガス、次はこの奇妙な追跡」
もし姿を変えれば、カメレオン娘の臭跡をたどれなくなる。ビンクはやはり黙っていた。
「よろしい、ビンク。だがもう少し、わたしの傍に寄りなさい。緊急事態が起きたとき、姿を変えるには、力が及ぶ距離内にいないと困る。どうやら、ひどい危険に踏みこんだか、そっちが近づいてきているか、だと思う」トレントは剣に手を伸ばした。
ふたりは前進した。振動が大きくなり、律動的になってきた。非常に重い動物のようだ。だが、姿は見えない。今や、もの音はふたりのすぐうしろに追いついてきた。
「隠れた方がいいな」トレントはむっつり言った。「慎重さは、勇気のよりよき一部だと言われている」
いい考えだ。ふたりは無害なビール樽の木の陰に隠れ、息を殺して待った。
もの音が大きくなってくる。ひどく大きい。律動的な振動で、木全体が揺れた。ドシン、ドシン、ドシン! 小枝が落ち、幹から液体が漏れだした。ビールの細い噴水が、ビンクの鋭敏な鼻にかかる。ビンクはあとずさった。人間のときでさえ、こういう特殊な飲みものは好きではない。そっと幹の周辺をうかがってみたが、なんの姿も見えなかった。
ついに目に見える現象が起きてきた。尖葉木の枝がボキリと折れ、木っぱが飛び散った。茂みが乱暴に押し分けられる。地盤が沈む。ふたりが隠れている木の幹の、割れ目が大きくなり、ビールが大量に噴出し、あたり一帯、酒の芳香で満たされた。それでも、この騒動の主の姿は見えない。
「見えないんだ」トレントは手にかかったビールをぬぐいながら、小声で言った。「見えない巨人だ」
見えない! ということは、トレントのまじないがきかないことを意味する。まじないをかけるには、相手の姿が見えていなくてはできない。
ビールの芳香がきつくなってくる中で、ビンクとトレントは口をつぐんでしゃがみ、巨人が通りすぎていくのを見守った。ものすごく大きな人間の足跡が現われた。長さは十フィートあり、地面に数インチめりこんでいる。ドシン! 木々はとびあがり、震え、実や葉や枝を落とした。ドシン! アイスクリームの茂みがひとつ、姿を消し、押しつぶされた平らな地面に、香りのいいしみを作った。ドシン! 触手木があわてて触手をたぐりこむ。ドシン! 落ちている幹が、巨人のさしわたし五フィートの足の下で、木っぱみじんになる。悪臭フグか、夏の熱気の中のあふれた屋外便所のような、息のつまりそうなひどい臭いが空気を染めた。ビンクの鋭敏な鼻には、猛烈な痛手だ。
「わたしは臆病者ではないが、おそろしくなってきた。まじないの力も、剣も、敵に届かないと……」トレントは鼻をゆがめた。「あの臭いはひどいな。朝めしにくさったマンゴーでも食ったにちがいない」
ビンクにはマンゴーなるものがわからなかった。それがマンダニアの木の実の一種なら、そんなものはほしくない。
ビンクは首のまわりの毛が立っているのに気づいた。そんな怪物の話を聞いたことはあるが、冗談だと思っていた。目に見えない――臭いは、ない、なんてものではない――巨人とは!
「足跡に比例しているとすれば、あの巨人の背の高さは六十フィートはあるな。平方・立法の法則などの、純粋に物理的な理由で、マンダニアではとうてい考えられないことだ。だが、このザンスでは――魔法に不可能があるか? あの巨人は森を見通すのではなく、俯瞰しているのだ」トレントはことばをきり、考えこんだ。「われわれを尾けているのではないらしい。どこに行くのだろう?」
カメレオン娘がいるところに、とビンクは思った。うなり声をあげる。
「わかった。ビンク。あの娘が踏みつぶされないうちに、早くみつけだした方がいい!」
ビンクとトレントは、すっかり踏みならされた跡をたどった。カメレオン娘の臭跡に、巨人の悪臭が重なり、ビンクの鋭敏な鼻にはひどい責苦だ。巨人の足跡をとび越し、遠い方のカメレオン娘のもっと軽い匂いの方をつかまえる。
右手の方から、笛が鳴るような音がした。ビンクが不安な視線を向けると、木々のあいだを、グリフィンが慎重にすりぬけて降りてくるのが見えた。
トレントは剣をぬき、怪物の正面に立っている油樽の木の黒い幹のうしろに隠れた。ビンクは、とうてい闘える状態ではないため、歯をむきだし、トレントと同じ守備態勢をとった。ドラゴンでなくてよかった。ドラゴンの炎の舌なら、油樽の木が爆発し、あたり一帯を吹きとばしてしまう。しかし実情は、この木の張り出した枝が、グリフィンの降下をふせいでくれる。闘いの場を地上にするのが狙いだ。決して有利とはいえないが、闘いの場が平面に限定されれば、ビンクとトレントには強味になる。もしビンクがグリフィンの注意を惹きつけておければ、トレントは変身のまじないの力が及ぶ距離に近づくことができる。
グリフィンは地面に降り、つやつやした大きな翼を折りたたんだ。ライオンの尻尾がぴくぴく動き、巨大な前肢のワシの爪が地面に深い筋をつける。グリフィンのワシの顔が、トレントの方を向く。「ギャア?」と問いかける。そのおぞましいくちばしに、肉をついばまれるのを、実感できそうな気がする。健康なグリフィンは、中型のドラゴンを一撃で倒せる。このグリフィンは健康そうだ。トレントはまじないの力が及ぶ距離内で、そっと注意を惹きつけた。
「巨人のあとを追え」トレントは怪物に言った。「見失うな」
「ギャア!」グリフィンが答える。巨人の足跡の方を向き、ライオンの胴体を引きしめると翼を広げ、飛び立った。目に見えない巨人が、森の中にくねくねと残した溝に沿って、低く飛んでいく。
トレントとビンクは驚きの目を見かわした。九死に一生を得たのだ。グリフィンは闘いにおいて、非常に機敏に動きまわるから、トレントは必ずしも、まじないをかけられるとは思わなかったのだ。
「あれは命令してほしかっただけなんだ!」トレントは言った。「行く手に、なにかひどく妙なことが起きているにちがいない。急いだ方がいい。部分的人間身体の信仰が儀式用のいけにえを得ているとしたら、たいへんだ」
儀式用のいけにえ? ビンクは当惑してうなった。
「血の祭壇に、美しい処女《お と め》を……」
「ワン!」ビンクは駆け出した。
やがて、前方からさわがしい音が聞こえてきた。ズシン、ガチャン、ウォーッ、ギャア、ギャア、ズン!
「祭りというより、戦闘といった騒音だな。なんだかよくわからんが――」
ついにその光景が目に入った。ビンクとトレントは仰天して、その場にくぎづけになった。
それは生きものたちの驚くべき大集会だった。大きな環になってすわり、たがいに向かいあっている。ドラゴン、グリフィン、マンティコラ、ハーピー、オオリクヘビ、トロール、ゴブリン、妖精、そして、ありとあらゆる種類の生きものたちが、一堂に会している。人間さえ、数人いる。とび入り自由の集会ではない。それぞれ独得の勤行に専念している。肢をふみ鳴らし、口をぱくぱくさせ、いっせいにひづめをたたきつけ、岩を打ち鳴らす。車座の中央には、死んだ、あるいは死にかけている多数の生きものたちが、みんなに無視されたまま横たわっている。
見ているビンクには、血の匂いが嗅ぎとれ、苦痛のうめきが聞こえた。これは戦闘だ。だが、敵はどこに? 目に見えない巨人は敵ではない。巨人の足跡は車座の四分円を占め、両隣の領域とは重なっていない。
「わたしは魔法については、いくらかの知識があると思っていた」トレントは頭を振った。「だがこれは、わたしの理解を絶する。ここに集まっている生きものたちは、本来、敵同士なのに、たがいに知らん顔をしているし、犠牲者を食おうともしていない。気狂い草の隠し場所でもみつけたのだろうか?」
「ワン!」ビンクは吠えた。カメレオン娘をみつけたのだ。娘は両手にそれぞれ、平べったい石をひとつずつ持ち、一フットほど離して空に掲げ、そのあいだをじっとのぞきこんでいる。突然、ふたつの石をカチンと打ちあわせた。力をこめたせいか、手から石が落ちた。カメレオン娘は落ちた石の上あたりの宙をじっとみつめると、謎めいた微笑を浮かべ、石をひろいあげて、同じ手順をくり返した。
トレントはビンクの視線をたどった。「気狂い草だ!」
だが、ビンクの鼻には、気狂い草の匂いはしない。
「彼女もやられてる。地域的まじないにちがいない。われわれも仲間入りしないうちに、後退した方がよさそうだ」
ビンクとトレントは引き退がりはじめた。ビンクはカメレオン娘を残しておきたくはないのだが。
しらがまじりの老セントールがゆっくり駆けつけてきた。「円から離れるな! 車座の北の四分円の方へ行け。そこはひどい痛手を受けているし、ビッグフットではどうにもできん。敵にもあいつは見えんのだから。やつらはじりじりと突破してくるだろう。石を持て。剣を使ってはならんぞ、ばかめ!」
「なにに?」トレントは老セントールの怒りが理解できない。
「ぴくぴく虫に決まっておる。半分に切れば二匹になる。おまえ――」
「ぴくぴく虫!」トレントは息をのみ、ビンクはうなった。
老セントールは鼻を鳴らした。「おまえ、酔ってるのか?」
「ビッグフットが通りがかりに、わたしが避難していたビール樽の木に、穴をあけたのだ」トレントは説明した。「それより、ぴくぴく虫は絶滅したと思っていたが」
「わしらもみな、そう思っておった。じゃが、元気な群れが、ここに集まっておるのだ。たたきつぶすか、かみくだくか、燃やすか、水に溺れさせろ。一匹たりとてのがすわけにはいかん。さあ、やれ!」
トレントはあたりを見まわした。「石は?」
「こっちだ。ひと山、集めてある。わしひとりでは処理できんから、助けを求める鬼火を送ったのだ」
不意にビンクは、この老セントールが誰だか、わかった。隠者ハーマンだ。およそ十年ほど前、いかがわしい行為で、セントールの領土から追放された。こんな荒野の奥で、まだ生きていたとは、驚くべきことだ。だがセントールは剛健な一族だ。
トレントは隠者ハーマンのことは知らない。トレントの追放後の出来事だからだ。だが、ぴくぴく虫のおそろしさは、よく知っている。ハーマンが集めた石の山から、手頃な石をふたつ取り、北の四分円の方に歩いていった。
ビンクはついていった。手伝わなければならない。ぴくぴく虫を一匹でものがせば、いつかある日、また群れをつくり、取り返しのつかないことになる。ビンクは魔法使いに追いついた。
「ワン! ワン!」切迫した声で吠える。
トレントは前方をみつめたまま言った。「ビンク、もし今ここで、おまえを変身させたら、みんなに見られ、わたしの正体がわかってしまう。みんな、わたしに敵対するだろう。ぴくぴく虫に対する攻囲が破れる。われわれは現在の姿のままで、ぴくぴく虫を封じこめる。あのセントールはよくやった。おまえは人間の姿より、今の姿の方が、この戦いにはつごうがいいぞ。これが終わるまで、待て」
ビンクは大いに不満だが、どうしようもない。このままでせいいっぱい手伝おうと決心した。ぴくぴく虫を嗅ぎ出せるだろう。
トレントとビンクが指定の場所に行くと、グリフィンが大きな悲鳴をあげ、どっと倒れた。ビンクたちをここに導いてくれたグリフィンに、よく似ている。あのグリフィンは招きの幻影を見失っていたのだろう。だが、ビンクには、どのグリフィンもみな同じに見え、同じ臭いがする。いや、今はそんなことにかまっていられない。ここにいる生きものはすべて、共通の目的をもっている。ビンクは共感を覚えた。損害がひどくないことを願いながら、ビンクは仲間に加わった。
グリフィンの致命傷から血が流れている。ぴくぴく虫が、グリフィンのライオンの心臓を貫通したのだ。
ぴくぴく虫は、虫の大きさの魔法のトンネルを通り、急激に移動をはじめる。休むのは、元気を回復するためか、哲学的問題を熟考するためか、わからない。ぴくぴく虫の論理的根拠は、誰も知らない。とにかく、グリフィンを倒した虫は、このあたりにいるはずだ。ビンクは臭いを嗅ぎまわり、かすかな腐敗臭をみつけた。そして、初めて、生きたぴくぴく虫を見た。
体長二インチの、ゆるやかならせん状の虫で、空中でうろうろしていた。とても脅威には見えない。ビンクは虫を鼻で示しながら、吠えた。
トレントが聞きつけた。石を手に、大またで近づいてきた。「よくやった、ビンク」ぴしゃりと、石で虫をはさむ。石が離れると、ちっぽけな怪物の、ぺちゃんこの死骸がぽとりと落ちた。一丁あがり!
ビュッ! 「ここにもいるぞ!」トレントが叫んだ。「どこでも通るんだ――たとえ空中でも――こいつらが通ったあとは、空虚な崩壊の音が聞こえるほどだ。このへんだな――いた!」トレントはふたたび、石を打ちあわせ、虫をつぶした。
あとは夢中だった。ぴくぴく虫はそれぞれのやり方で、断固として地表へ出ようとした。どれぐらい長いあいだ、その場にじっとしているか、数秒なのか数分なのか、さっぱり予想がつかないし、どれぐらいの距離を動くのか、数インチなのか数フィートなのか、全然わからない。しかし、どの虫も、スタートから一直線に前進し、わずかなりとも向きを変えることはないため、方向と位置はすぐにたどれる。もし、間をとりそこねて、ぴくぴく虫の進行方向に立ちふさがったりすると、体内に突撃される。内臓を貫通されたら、それで終わりだ。かといって、虫のうしろにまわるわけにもいかない。なぜならば、一匹の虫が出てきた穴から、ぞろぞろと後続部隊がつづくからだ。ぴくぴく虫の数はあまりに多く、一匹つぶすと同時に、つぶした方が他の虫の攻撃を受けることになる。虫の直進方向のすぐ側で待ちかまえ、最初に出てきたやつをつかまえて殺す必要があった。
ぴくぴく虫には知性がないか、少なくとも外部のものには関心がないかのように見えた。通り道になにがあろうと、なににでも穴をあけて進むのみだ。人間の方が先に虫をみつけないと、手遅れになる。虫が直進してしまうからだ。しかも、静止しているときは、横から見るとねじれた茎のように、上から見ると丸まった茎のように見えるため、だまされてみつけにくい。みつけるには動いてもらわないと困るが、動いたときには、もう手遅れで殺せない。
「戦場で、飛んでくる弾丸を横からつかむようなものだな」トレントがつぶやいた。どうもマンダニアのことを言っているらしい。マンダニアでは、ぴくぴく虫のことを弾丸とよんでいるにちがいない。
ビンクの鼻が語っているとおり、ビンクの右側に、目に見えない巨人がいた。ズシン! ぴくぴく虫が一匹、おしつぶされた。もしかすると、いっぺんに百匹はつぶされたかもしれない。だが、巨人の足の下にいるものもすべて、つぶれた。ビンクはビッグフットのために、あえて虫を嗅ぎ出してやろうとはしなかった。それは自分自身の死を招くことになる。巨人はでたらめに、あちこち踏みつけている。とてもいい方法だ。
ビンクの左隣では、ユニコーンががんばっていた。ユニコーンはぴくぴく虫をみつけると、角とひづめのあいだでおしつぶすか、口を開けて地面に押しつけ、丈夫な歯でかみくだいている。ビンクには後者の方法は、気味が悪く、危険に思えた。もし時機を逸したら――。
ビュッ! ユニコーンのあごに穴がぽかりと開いた。血がしたたり落ちる。ユニコーンはひと声、苦痛のいななきをあげると、虫の進行方向に駆けていった。ふたたび虫をみつけ、あごの反対側を使ってかみくだいた。
ビンクはユニコーンの勇気に感心した。だが、ビンクも自分の務めを果たさなければならない。射程内に二匹のぴくぴく虫が突進してきた。ビンクは手前の虫をトレントに教え、トレントが二匹目の虫にやられないように、急いで二匹目に近寄った。ブラッドハウンドの歯は、かみ切り、切り裂くようにできており、もぐもぐとかむようにはできていないが、たぶん、大丈夫だろう。ビンクはぴくぴく虫にかみついた。
虫は気味悪くつぶれた。体は固いが、歯が立たないわけではない。体液がにじみでる。ひどい味だ。酸のような――ウェーッ! しかしビンクは完全につぶそうと、ていねいに二、三度、かんだ。完全につぶれていないと、小片がちっぽけな虫となり、もとの大きさの虫と同じに危険なしろものと化すからだ。ビンクは残骸を吐き出した。二度と同じことをする気にはなれない。
ビュッ! ビュッ! また二匹。トレントが音を聞きつけ、一匹を追った。ビンクはもう一匹を捜した。捜している最中に、三匹目のビュッ! という音が聞こえた。地面の中に集中しているぴくぴく虫は、いったん地表に出ると、突進する速度が速くなるのだ。遅れずについていくには、虫の数が多すぎる! おそらく、何百万といるのではないか。
頭上から、耳がつぶれるような悲鳴が聞こえた。「ウワーッ!」
老セントールのハーマンが駆け寄ってきた。横腹の、ぴくぴく虫にやられたらしい傷口から、血が流れている。「ビッグフットがやられた! みんな、どけ!」
「だが、虫が逃げてしまう」トレントが言った。
「わかっておる! いたるところで、ひどい痛手を負うているのだ。思っていたよりでかい集団で、中央あたりにかたまっておる。どちらにしろ、わしらでは守りきれん。新たに守備円陣を作り、もっと多くの助けがまにあうよう願うばかりだ。巨人が倒れないうちに、自分の身を守れ」
いい忠告だった。ビッグフットがよろめいたらしく、ビンクの守備範囲に、巨大な足跡が現われた。全員、その場を離れた。
「ウォーッ!」巨人は泣きわめいた。またひとつ足跡が現われ、今度は円陣の中央に向かった。空気が揺れ、巨人の悪臭が強烈にただよう。「グワーッ!」十五フィートの高さから、ぴくぴく虫の群れの中央に向かって、うなり声がさがってくる。石化した松の木が、魔法の力で倒されたようなものだ。ズシーン!
トレントやビンク同様、ジェリー樽の木の陰に隠れていたハーマンは、目からジェリーをぬぐいとり、悲しそうに頭を振った。「大きな、大きな男が、やられてしまった! 脅威を制する望みは小さくなった。わしらは組織的ではなく、人手も足りない。敵の力は外部に流れている。やつらを一掃できるのは、ハリケーンか旱《かん》ばつしかない」ハーマンはトレントを見た。「見たことのある顔じゃな。おまえさんは――そうだ。二十年前――」
トレントは片手をあげた。「わたしは――」と言いかけた。
「いや、待て、魔法使い」ハーマンがさえぎった。「わしを変身させんでくれ。おぬしの秘密はあかさん。その気になれば、この場で、わしの脚でおぬしの頭をけとばすこともできる。おぬし、わしが仲間から追放された理由は知らんじゃろ?」
トレントはひと呼吸おいた。「知らない。第一、あんたを知らん」
「わしは隠者ハーマン。魔法の力を使った罪で、罰を受けた。幻影を呼び出してな。だいたいセントールは――」
「すると、セントールは魔法が使えるのか?」
「できる。その気になれば。わしらセントールは、長いあいだザンスに住み、自然の種となった。だが魔法は――」
「いかがわしいと思っている」トレントがあとを引きついだ。ビンクも同じことを考えていた。やはり、知性ある魔法的存在の生きものは、魔法の力を使えるのだ。遺伝的にできないのではなく、教養的にできないのだ。
「それであんたは荒野で隠者になったのだな」
「そのとおり。わしはおぬしと同じ、追放の屈辱を体験した者だ。だが今は、個人的なことより、もっと重要な任務がある。おぬしの力を、ぴくぴく虫の脅威を消すのに使ってくれ!」
「虫全部を変身させることはできない。いちどきに焦点を合わせられないし、数が多すぎて――」
「そうではない。やつらを焼きはらわねばならん。わしの鬼火が、火トカゲを連れてきてくれんかと願っておったが――」
「火トカゲ! そうか! だが、たとえ火トカゲが来ても、虫を全部焼きはらえるほど、火は早く広がらんぞ。もしそうなっても、火そのものが燃え広がれば、消しとめるのは不可能となり、その方がぴくぴく虫より大きな脅威となる。ひとつの荒廃を他の荒廃と交換するだけの話だ」
「そうではない。火トカゲにはある制限があり、慎重にやれば、制御できる。わしは――」
ビュッ! 木の幹に穴が開いた。紫色の血のようなジェリーが、どろりと垂れてくる。ビンクは全速力で虫を追いかけた。幸いに、虫はトレントとセントールのあいだを直進し、誰もけがをしていない。グシャッ! ひどい味!
「虫は木の中だ」トレントが言った。「一部は地面に落ちた。そっちをつかまえるのは不可能だ」
ハーマンはえたいの知れない茂みに駆け寄り、そのつるを数本、引きちぎった。「火トカゲの草だ。わしは孤独の年月のあいだに、博物学者になった。これは火トカゲが焼くことのできない、唯一のものだ。この草は火に対する自然の防壁となる。つまり、炎は繁殖したこの草によって、さえぎられるのじゃ。これで鞍を作れば、わしは火トカゲを背に乗せ、虫どものまわりをぐるりとまわり――」
「しかし、炎がザンスをなめつくす前に、どうやって消しとめるのだ?」トレントは訊いた。
「その草に賭けるわけにはいかない。荒野のなかばは、炎が燃えつきないうちに、焼けてしまう。防火帯を作ろうにも、まにあうまい」ちょっと間をおき、「だからこそ、あんたの鬼火は火トカゲをよばなかったのだ。この深い森は、いったん火がつけば、あたり一帯を焼きつくされるから、当然、火トカゲを近づけないように、火トカゲよけのまじないをもっているだろう。もし、われわれが火を放てば――」
ハーマンはがっしりした片手をあげ、トレントを制する身ぶりをした。年老いたセントールだが、頑健そのものだ。腕の筋肉は驚くほどだった。「火トカゲの炎は、直線方向にしか燃えないことを、知っておるのかな? 円形の内側に向けて、魔法の火を放てば――」
「そうか! わかった!」トレントは大声で言った。「その炎は円の中心に向かって燃え広がるだけだ」あたりを見まわし、「ビンク?」
またか? ビンクは火トカゲなどにはなりたくないが、ぴくぴく虫をザンスを明け渡すよりはましだ。あの虫どもが、ふたたび猛威をふるいだせば、人間も、他のものも、無事ではありえない。ビンクはトレントの方に行った。
突然、ビンクは、鼻先から尻尾まで五インチぐらいしかない、小さな、色あざやかな両生類に変身した。またもやビンクは、この冒険の発端に見た予兆を思い出した。カメレオントカゲも火トカゲに姿を変えた。その直後に蛾鷹に襲われたのだ。ついに、ビンクの最期のときが来たのだろうか?
ビンクが立っている地面が、急に炎につつまれた。砂地は燃えないが、その上のすべてのものが燃料となったのだ。
「ここに入れ」ハーマンが、火トカゲ草のつるで編んだ袋をさし出した。「おまえさんを左まわりで運ぶ。炎をまっすぐ内側に吐くのだぞ。左側に」そして、ビンクに念を押すように、左手で指し示した。
限定されるのはおもしろくないが――。
ビンクはつるの袋に入った。老セントールは袋を持ちあげ、腕をぎりぎりいっぱいに伸ばしてぶらさげた。ビンクが熱いからだ。火トカゲよけの草のおかげで、なんとか涙をこぼさずにすんでいる。
ハーマンは駆け足で走った。「どけ! どけ!」びっくりするような大声で、あちこちでぴくぴく虫を阻止しようとしている傷ついた生きものたちにどなった。「虫どもを焼き殺すぞ! 火トカゲだ!」そしてビンクに、「左側に! 左だぞ!」
ビンクはそんな制限は忘れたかった。だがまあ、なにも燃さないより、半分燃せる方がいい。ビンクの体から、めらめら炎が噴き出した。炎に触れたものはすべて、勢いよく燃えあがった。小枝、木の葉、緑の木、倒れている生きものたちの死骸までも。なにもかもすっかり焼きつくしてしまう。それが火トカゲの炎の性質だった。他のものの状態に関係なく、魔法の力で焼きつくす。水そのものさえ焼いてしまうため、雨が降っても消えることはない。岩と地面以外のものはすべて――そして火トカゲ草。このしろものにのろいあれ!
あわただしい悪魔ばらいが展開していく。ドラゴン、グリフィン、ハーピー、ゴブリン、人間たちは、おそろしい火の道から、われがちに逃げ出した。動けるものは全員。ただ、ぴくぴく虫たちは、むとんちゃくに前進している。
貪欲な炎は大きな木々に広がり、ものすごい速さで焼きつくした。炎につつまれた触手木は苦悶にのたうち、ビールやジェリーの焼ける匂いが広がった。地面の焼け焦げた跡はふえつづけ、ハーマンとビンクが通ったあとは、砂と灰だけが残っている。愉快だ!
ビュッ! ビンクはドサリと地面に落ちた。バカなぴくぴく虫が、ハーマンの右手に穴を開けたのだ。しめた。これでビンクは火トカゲ草のつるの袋からはい出し、本格的に仕事にとりかかれる。火トカゲの歴史上最大の、はなばなしい炎を噴きあげてやろう。
だがセントールはくるりと逆向きになり、火トカゲ草の袋を左手でつかんだ。一瞬、セントールの指が炎に触れ、指先が灰になったが、しっかりと袋をつかんでいる。隠者の勇気にのろいあれ!
「それ!」ハーマンはふたたび走りだした。「左だ!」
ビンクは従うしかない。怒ったビンクは特別大きな炎を噴き出し、またハーマンが袋を落とさないかと期待したが、だめだった。ぴくぴく虫たちの進行範囲が大幅に広がったため、ハーマンは少し円形を広げて走った。虫が通過したところや、これから通過するところを燃やしても、なんの意味もない。現在地点を焼かなければ。炎の海から飛び出した虫や、焼け跡で静止していた虫は、生き残った。油断できない予想結果だ。しかしそれも、虫の最後のチャンスなのだ。
もう少しで完全に円を描ききる。セントールはまだ動ける。ハーマンとビンクは出発点の広くなった焼け跡に達し、立ちどまって、逃げ遅れていた二、三の怪物たちを、円陣から出してやった。最後に逃げていったのは、百フィートもあるオオリクヘビだった。
トレントもそこにいた。残っている生きものたちを指揮して、すでに炎の円陣の外にいたぴくぴく虫たちをしらみつぶしに捜しては、殺させていた。今や、大部分の虫たちは除去された。残りは追いかけてつかまえられる。最後の一匹にいたるまで、つぶしてしまわなければならない。
ぴくぴく虫の巣の上に、オレンジ色の火がせまった。そこで苦しそうなうめきがあがった。
「ウーッ!」目に見えないものが、もがいている。
「ビッグフット!」トレントが叫んだ。「まだ生きている」
「死んだと思ったが」ハーマンはぞっとした。「炎の円を閉じてしまった。もはやとても助け出せない」
「足をやられたんで倒れたのだ。だが、死んではいなかった」トレントが言った。「倒れたはずみに、しばらく気を失っていたのだろう」トレントは燃えさかる炎を見守った。炎は、うつぶせに倒れている、とてつもなく大きな人間の輪郭を浮きあがらせ、その表面で踊りあがった。肉の焼ける臭いがする。
「もう手遅れだ」トレントは言った。
炎につつまれた巨人はころげまわった。燃えている木の枝が吹っとんだ。何本かは円の向うの密林に落ちた。
「あの火を消せ!」セントールがどなった。「森火事になる」
しかし、誰にも、火を消すことも、近づくこともできない。火トカゲ草の袋を持ったハーマン当人以外は。ハーマンはビンクをどさりと降ろすと、いちばん近くの炎に駆け寄った。すぐ側に油樽の木があるのだ。
トレントはすばやくまじないをかけた。ビンクは人間の姿にもどった。ビンク・火トカゲが触れていた、いぶる地面から立ちあがる。邪悪な魔法使いの力はすごい。十匹ぐらいの火トカゲで、ザンス全体を破壊できる。
ビンクは目をぱちぱちさせた。カメレオン娘が、吹っとんだ燃えさしのすぐ傍で、ぴくぴく虫を追いかけている。夢中になっているのか、頭が弱すぎるのか、危険に気づいていないのだ!
ビンクはカメレオン娘を追いかけた。「カメレオン! もどれ!」娘は気にもせず、仕事にいそしんでいる。ビンクは娘をつかまえ、こちらを向かせた。「炎が虫を殺してくれる。ぼくらはここから出なくっちゃ」
「まあ」カメレオン娘は弱々しく言った。服はぼろぼろで、顔は土で汚れているが、彼女は胸が痛くなるほど美しかった。
「おいで」ビンクは彼女の手を引っぱった。
だが、断固たる炎の舌が、ふたりのうしろでまじわった。ふたりは炎の円内に閉じこめられてしまったのだ。
予兆だ! ついに来た――カメレオン娘とビンクとに。
ハーマンが炎を跳び越してきた。堂々たるセントールだ。「背中に乗れ」
ビンクはカメレオン娘を抱きあげ、ハーマンの背に押しあげた。カメレオン娘は驚くほどしなやかで、腰は細く、太ももははりがある。その瞬間は、そんなことに気づく余裕はなかった。だが、セントールの背に押しあげてやっているうちに、必然的にわかってしまった。ビンクは彼女の優雅な腰の丸みを、優雅でない手つきでぐいと押し、カメレオン娘をバランスよくすわらせてから、自分もセントールの背にまたがった。
ハーマンがふたりを乗せ、魔法の炎を跳び越そうと、勢いをつけて走りはじめた。
ビュッ! ぴくぴく虫がかすめた。
ハーマンがよろめいた。「やられた!」力をふりしぼってまっすぐに立つと、炎を跳び越えた。
不意にハーマンはどっと倒れた。前脚はねじれ、後脚は火の中だ。ビンクとカメレオン娘は前に投げ出され、セントールの人間の上半身の左右に、それぞれ落ちた。ハーマンは左右の手でビンクとカメレオン娘をつかまえ、セントールのありったけの力をこめて、危険地帯の外へ押しやった。
トレントが叫んだ。「隠者、体が燃えている! あんたを変身させよう――」
「無用だ」老セントールは答えた。「肝臓に穴を開けられた。もうだめだ。きれいさっぱり炎に片をつけさせてやる」ハーマンは顔をしかめた。「ただ、苦痛を早く終わらせるために、おぬしの剣を、頼む」ハーマンは首を指した。
ビンクなら、避けられないことをぐずぐず引き伸ばそうとして、意味がわからないふりをするだろう。邪悪な魔法使いは決断力があった。「お望みのとおりに」あっというまにトレントの手に剣が握られ、弧を描いた――セントールの気品のある首が胴体から離れ、炎の向うに、さかさに落ちた。
ビンクは呆然とみつめていた。これほど冷酷無残な殺しかたは見たことがない。
「礼を言うぞ」ハーマンの首がしゃべった。「もっとも効果的に苦痛を消してくれた。おぬしの秘密は、わしとともに死ぬ」老セントールの目が閉じた。
隠者ハーマンは本当にそれを望んだのだ。トレントは正しく判断し、即座に行動した。ビンクならしくじっていただろう。
「友として誇らしいセントールだった」トレントは悲しそうに言った。「わたしの力の及ぶところであれば、彼を救えただろうに」
小さな光がいくつも、ちろちろと踊りながら、死んだ首に集まっていった。最初ビンクは火花だと思ったが、それは実際の炎ではなかった。
「鬼火だ。最後の敬意を表しているのだ」トレントがつぶやいた。
鬼火は散っていった。二度と経験できない喜びときらめきとになごりを惜しみつつ。魔法の炎は老セントールの体を焼きつくし、首に移っていき、すでに燃えつきた地域に向かった。あとの炎は、円陣の中央に向かっている。目に見えない巨人はもう動いていない。
トレントが声を張りあげた。「すべての生きものたちよ、一族に誤解され、ザンスを守るために死んでいった隠者ハーマンに、敬意を表し、黙とうを。そしてまた、同様に死んだビッグフットと、すべての気高き生きものたちのために」
生きものたちは沈黙した。まったき静寂がおとずれた。虫一匹すら音を立てない。一分、二分、三分――音ひとつなかった。共通の敵を相手に、勇敢に戦った死者たちを敬い、頭を垂れて立ちつくしている怪物たちの姿は、じつにすばらしい光景だった。ビンクは心の底から感動した。二度とふたたび、魔法的存在の生きものたちを、単なる動物のように、野蛮だとは思わないだろう。
ようやくトレントが目をあげた。「ザンスは救われた。ハーマンのおかげで。そして、きみたちのおかげで。ぴくぴく虫は絶滅した。われわれの感謝の気持を受け取って、解散せよ。そして、誇りをもって行け。ここにはこれ以上、きみたちにできることはない。さらばだ」
「でも、少しは逃げたかもしれない」ビンクは小声で抗議した。
「いや。一匹も逃げていない。仕事は完了した」
「なぜそんなに確信があるんだ?」
「黙とうのあいだ、虫の動く音は一度も聞こえなかった。ぴくぴく虫は、三分以上静止していられない」
ビンクはぽかんと口を開けた。あの心からの敬意と哀悼の黙とうは、脅威が完全に消えたことを確認するためにもなったのだ。ビンクはそんなことは考えもしなかった。老セントールが死んだとき、トレントは困難と、指揮という難事をしっかり引き受けたのだ。そして、彼の秘密もあかされずにすんだ。
さまざまな種類の怪物たちは、この仕事のための暗黙の休戦協定にのっとり、おだやかに解散していった。負傷したものは多かったが、ハーマンと同じく、威厳と勇気をもって苦痛に耐え、たがいにののしりあうこともしなかった。巨大なオオリクヘビが傍を通ったとき、ビンクはその体に十近い穴をみつけたが、オオリクヘビは立ちどまりもしなかった。他のものたちと同様、オオリクヘビも、なすべきことをしに来たのだ。とはいえ、いつかある日、出くわせば危険な相手であることに変わりはないが。
「旅をつづけるかね?」トレントはのっぺりした灰の円に、最後の一瞥を投げかけた。
「その方がいい」ビンクは答えた。「もう火もおさまった」
突然、ビンクはまたスフィンクスの姿に変わった。目に見えない巨人の半分の背丈で、はるかに重量がある。トレントは何度も変身させても安全だと結論を出したのだろう。トレントとカメレオン娘を乗せ、隠した荷物を取りに、ビンクはもとの小道へもどった。
「もう用足し休みはごめんだ」ビンクは重々しい声で言った。誰かがくすくす笑った。
15 決闘
三人は森の尾根の頂上にたどりついた。そこで、唐突に荒野は終わっていた。眼下には青いデニム草の畑が広がっている。文明世界だ。
トレントとカメレオンは、ビンク・スフィンクスの背から降りた。ビンクはひと晩じゅう、疲れも知らず、巨大な脚が勝手に動くままに、眠りながらてくてく歩きつづけた。一行は、なにものにも悩まされずにすんだ。荒野でいちばん獰猛なものでさえ、警戒したようだ。まもなく昼になる。よく晴れた日だ。ビンクの気分は上々だった。
またもや、突然に、ビンクは人間の姿にもどった。が、それでもまだ、気分はいい。「とうとう別れるときがきたようだ」ビンクは言った。
「たがいにもっと意見の一致を得られなかったのは残念だ」トレントは手をさしのべた。「だが、別れは、意見の相違を解消してくれると思う。おまえたちふたりと知りあえて、うれしかった」
ビンクは奇妙な寂しさを覚えながら、トレントと握手した。「ぼくは、あんたの力と定義を知り、あんたはやっぱり、邪悪な魔法使いだと思う。でも、あんたはぴくぴく虫からザンスを救ってくれたし、個人的には、友人だった。あんたの計画を認めることはできないけれど……」肩をすくめ、「さよなら、魔法使い」
「ご同様に」カメレオン娘はトレントに、きらめくようなほほえみを向けた。そのせいか、彼女のことばに、知性的なおもむきが加わった。
「ふん、なれあいじゃないか!」いきなり声が聞こえた。
三人はいっせいに身がまえ、あたりを見まわした。豊かに育ったデニム葉の青いつると、ぶきみな森の他に、なにも見えない。
と、煙がもくもくとうずまき、みるみるうちに濃くなった。
「魔神よ」カメレオン娘が言った。
煙がある形に変わっていった。「そんな運のいいものじゃない」ビンクは言った。「これはめくらましの女王、魔女アイリスだ」
「ごていねいな紹介をありがとう、ビンク」一見、実体のありそうな女の姿が口をきいた。悩殺的な胸あきの広いドレスをまとい、デニム草のあいだに立っている。ビンクはその悩ましげな姿を見ても、なんとも感じなかった。魔女に魔法の力ではまねのできない魅力があるとすれば、美の絶盛期にあるカメレオン娘の自然[#「自然」に傍点]という要素だろう。
「そう、これはアイリスだ」トレントが認めた。「わたしと同世代だから、ザンスを離れる前から知っているが、実際に会ったことはなかった。アイリスは自分の力をじつに巧みにあやつれるんだな」
「わたくしが、たまたま変身のまじないにあこがれていなかったせいですわ」アイリスはトレントに流し目を送った。「あなたは、ヒキガエルや木や虫ばっかりお残しになったんですもの。わたくし、あなたは追放されたのだと思っておりました」
「時は変わるものだ、アイリス。荒野でのわれわれの行動を見ていなかったのか?」
「じつを言えば、見なかったんですの。あの密林は、逆めくらましのまじないが数えきれないほどあるおぞましい場所ですから。それに、まさかあなたがザンスに帰ってきたなんて、思いもしませんでしたしね。誰も知らないでしょうね。ハンフリーさえも。わたくしの注意を惹いたのは、大きなスフィンクスだったんです。でも、それがビンクの姿に変わるまで、あなたが関係していると、確信できませんでしたわ。ビンクが最近追放になったのは知っていました。なにか、あきらかなまちがいでね。いったいどうやって、シールドを越えたんです?」
「時は変わるものだ」トレントは謎めいたことばをくり返した。
「そうですわね」はぐらかされ、アイリスはいらだち、三人の顔を順番にみつめた。
ビンクには、アイリスがはるか遠くから、こんなにはっきりとめくらましのまじないをかけ、さまざまな事情を知ることができるのが、どうしても納得できなかった。魔法使いや、魔女の力は恐るべきだ。
「では取り引きをしましょうか」アイリスが言った。
「取り引き?」ビンクはキッと、訊き返した。
「むきになるな」トレントが小声で言った。「この女はゆするつもりだ」
強力な魔法の力には、強力な魔法の力を。ふたりが相殺すれば、結局、ザンスは安全になる。これは予期しなかった事態だ。
アイリスはビンクに視線を向けた。「ビンク、あなた、わたくしの前の提案を考え直してみる気は、本当にないの? あなたの追放を取り消すよう、手配できるのよ。王にもなれるわ。機は熟したわ。もしあなたが、無邪気な女を求めているのなら――」不意に、本物そっくりに美しい、べつのカメレオン娘の姿に変わった。「ビンク、望みのままに。知性もあるわよ」
カメレオン娘の弱い部分をあてこすった最後のことばに、ビンクは激怒した。「裂け目にでもとびこんでしまえ」
カメレオン娘の姿が、もとの美しいアイリスにもどった。今度はカメレオン娘に話しかける。
「わたくしはあなたを知らないけれど、あなたをドラゴンの餌食にするのは、しのびないわね」
「ドラゴン!」カメレオン娘はびっくりして叫んだ。
「追放にそむいた者に対する、慣例の罰よ。わたくしがその筋に知らせれば、あなたたち三人は魔法のしるしをつけられ、行動を監視されて――」
「彼女にかまうな!」ビンクはきびしい声で言った。
アイリスはビンクを無視した。「あなたがそのふたりに協力するよう説得できれば、そんなおそろしい運命からはのがれられるわ。そして、いつも美しいままでいられる」アイリスはカメレオン娘を知らないと言ったが、あきらかになにもかも承知していた。「あなたの美しい時期がすぎても、今のままの美しさをもたせてあげられるわ」
「あなたが?」カメレオン娘は熱っぽく訊いた。
「魔女のだましの手口はたいしたものだな」トレントは二重の意味をこめて、ビンクにささやいた。
「あいつには真実なんかないんだ」ビンクもささやきかえした。「めくらましだけ」
「女は見ためがいちばんよ」アイリスはカメレオン娘をくどきつづけた。「目に美しく、触れて美しい女が、本当に美しいの。殿がたはみんな、そう思ってるわ」
「耳を貸すな」ビンクは言った。「魔女はきみを利用したいだけだ」
「そのとおりよ。わたくしはあなた[#「あなた」に傍点]を利用したいのよ、ビンク。あなたの女友だちには、なんの敵意もいだかないわ。あなたが協力してくれさえすれば。わたくしは女にやきもちをやかないの。ほしいのは権力だけ」
「いやだ!」ビンクは叫んだ。
ビンクにつられ、カメレオン娘もたよりなく言った。「いやよ」
「では、魔法使いトレント。久しくあなたを見ていなかったけれど、あなたは約束を守るひとのようですね。少なくとも、それがあなたのつごうと一致するときは。わたくしは手ごわい女王になれますわ。あるいは、五分間であなたを殺せる近衛兵をもつことも」
「近衛兵を変身させる」トレントが言った。
「大弓の射程距離内で?」アイリスは美しいまゆを、疑わしそうにつりあげた。「でも、あんなことがあったあとですもの、あなたが王になれるでしょうか? ザンスじゅうの者が、あなたを殺そうとするでしょうね。あなたはどんどん変身させるかもしれない。でも、眠っているときには?」
強烈な一撃だった! これで、眠りにつく前に、邪悪な魔法使いは捕えられてしまった。近衛兵の一団で身を守らないうちに、攻撃されれば、生きのびることはできまい。
だがなぜビンクが気に病む必要がある? 魔女アイリスが邪悪な魔法使いを裏切れば、ザンスは救われる――ビンクがなにもしなくても。手を汚さずにすむ。ビンクは国も仲間も売らずにすむのだ。ただおとなしくしていればいい。
「そう、わたしは動物や人間を好きなように変身させられる。憂国の士にとっては、殺す相手をみつけるのがたいへんだろうな」
「それは無理ですわ。ニセ者では、魔法のしるしはだませません。いったん、しるしをつけられてしまえば」
トレントは考えこんだ。「うむ、この状況では、わたしが勝つみこみはなさそうだな。それを考えると、おまえの申し出を受け入れるべきだろうな。魔女アイリス。むろん、よく話しあわねばならぬことがあるが――」
「だめだ!」ビンクは衝撃を受け、思わず叫んだ。
トレントは内心の当惑もあらわに、ビンクをみつめた。「わたしには筋が通っているように思えるがね、ビンク。わたしは王になりたい。アイリスは女王になりたい。分担する力はたっぷりある。われわれは権力の範囲をはっきり決めることができる。純粋に政略的な結婚だ。もっとも、わたしは今のところ、誰とも接触したいとは思わんがね」
「今のところは、ね」アイリスは勝ちほこった微笑を浮かべた。
「よくない!」ビンクは事態を静観していようという、さきほどの決心を捨てた。「あんたたちは、ふたりともザンスの反逆者だ。許せない」
「許せない!」アイリスは下品な笑い声をあげた。「いったい、あんたは自分をなんだと思ってるの? 魔法の力のないクズのくせに」
野心達成の手段をみつけたアイリスは、とうとう本性を現わした。
「彼をみくびるな」トレントがアイリスに言った。「ビンクは魔法使いだ。現代ふうの」
不意にビンクは、この支持のことばに、あふれるような感謝の思いで、圧倒されそうになった。正しいとわかっていることを、動揺させるような甘言や侮辱を、受け容れる余裕はないと、ビンクは感動を必死で抑えた。邪悪な魔法使いは、単なることばで、めくらましのクモの巣をつむぎだし、魔女が魔法の力で生み出すめくらましに対抗できるのだ。
「ぼくは魔法使いじゃない。ただザンスに忠実なだけだ。ザンスにふさわしい王に忠実なだけなんだ」
「おまえを追放した老いぼれに、かい?」アイリスが言った。「あの老いぼれは、もう塵旋風を起こせない。今は病気だ。どっちみち、先は長くないよ。だから、今が行動のときなんだ。王座は魔法使いに譲られるべきだ」
「よき魔法使いに、だ!」ビンクは言い返した。「邪悪な変身術師や、権力に飢えた自堕落女にではない……」ビンクはここでやめようと思ったが、それだけでは正直ではないと思い直し、つけ加えた。「めくらましの女にではない」
「おまえ、よくも言ったね」アイリスはハーピーそっくりの金切り声でわめいた。あんまり怒ったので、その姿が煙の中で揺れ動いた。「トレント、そいつをヘッピリ虫に変え、踏みつぶしておしまい!」
トレントは笑いを押し殺して、くびを横に振った。魔女にはなんの感情も抱いていないし、ビンクの侮辱のことばに、男としての共感をもったのだ。たった今、アイリスは権力のために、めくらましの力で作りあげた肉体を売る用意があると、三人に見せつけたばかりだ。「われわれは休戦協定を結んでいる」トレントは言った。
「休戦協定? ばかばかしい!」アイリスの煙が、彼女のもっともな怒りを表わし、火柱に変わった。「そんなやつ、もういらないじゃないか。片づけておしまい」
これで、ビンクは、アイリスが権力を得る手伝いをしたあとどうなるか、必要でなくなればどうなるか、あらためて知った。
トレントは石のように動じない。「もし、わたしが彼との約束を破ったら、アイリス、おまえは、どのように、わたしの約束を信頼するのだ?」
このことばはアイリスを冷静にもどし、ビンクに感銘を与えた。このふたりの魔法の使いてのあいだには、名状しがたいが、大いに意味のある差がある。トレントは、ことばの純粋な意味において、男だった。
アイリスは不満げに言った。「あんたたちの協定は、荒野から脱出するまでのことだと思っていた」
「荒野は密林だけとはかぎらない」トレントはつぶやいた。
「え?」アイリスが訊き返す。
「このように唐突に、協定の精神を終わらせては、なんの意味もない。ビンクとカメレオンとわたしは、行動を別にするが、運がよければ、ふたたび会うこともあるまい」
トレントの態度はあっぱれだった。ビンクは今ここで、状況を受け容れ、別れるべきだと思った。にもかかわらず、ビンクの生来の頑固さが、彼を災厄へと駆り立てた。「いやだ。あんたたちふたりが、ザンスをのっとろうとしているのに、立ち去ることはできない」
「ビンク」トレントがさとすように言った。「わたしは終局の目的に関して、おまえをだましたことはない。われわれはつねに、たがいの目的が分かれることを知っていた。休戦協定は、われわれの長期計画ではなく、共通の危険のあいだだけに生じたものだ。わたしは果たすべき誓約をもっている。マンダニアのわたしの部下たちに、ルーグナの城に、そして魔女アイリスに。ぜひともおまえに賛成してほしいから、認めてもらえないのは残念だが、ザンスの征服は、わたしの変わらぬ使命なのだ。おまえのあるかぎりの好意で、わたしから離れてくれ。おまえが身を置いている立場は、大いにまちがっていると思うが、わたしはおまえの動機には、深い敬意をいだいている」
ふたたびビンクは、トレントの黄金の舌の魅力に圧倒された。トレントの論法には、一点のきずもない。魔法使いをてきめんにやっつける機会はない。たぶん、知性の面で、トレントの方がはるかにまさっているのだろう。しかし、倫理的には――ビンクが正しいはずだ。「あんたがザンスの伝統と法に敬意をはらわないかぎり、あんたの敬意なんか、なんの意味もない」
「手きびしい返事だな、ビンク。わたしとてそういうものには敬意をはらっているさ。しかし、制度は混迷しているようだし、災害がわれわれ全員に及ばないように、是正されなければならない」
「あんたが言うのは、マンダニアからの災害だ。ぼくはぼくらの文化の堕落という災害を恐れているんだ。ぼくはできるかぎりの手段で、あんたに抵抗する」
トレントは困惑しているようだ。「ビンク、おまえに抵抗できるとは思えんよ。おまえの強力な魔法の力がなんであれ、それは現実に現われてこなかった。おまえがわたしに抵抗したとたん、わたしは変身させなければならん。そんなことはしたくない」
「六フィート以内に近づかなきゃだめじゃないか。石を投げてやっつけることだってできるんだぞ」
「そう? トレント、今、そいつは距離内にいるよ。殺しなさい!」アイリスがけしかけた。
しかしトレントは思いとどまった。「ビンク、本当にわたしと闘いたいのかね? さし[#「さし」に傍点]で、肉体的に?」
「したいんじゃない。しなくちゃならないんだ」
トレントはため息をついた。「それなら、唯一、名誉となるのは、正式の決闘で、休戦協定を終わらせることだな。決闘の場所と条件を決めよう。セコンドは?」
「一秒《セカンド》でも、一分でも、一時間でも、必要なだけ」ビンクは足の震えを静めようとした。おそろしいし、ばかなまねだとわかっているが、引き退がるわけにはいかない。
「わたしが言ったセコンドとは、後見をつとめ、条件にかなっているかを見とどける人物のことだ。そう、カメレオンがいいだろう」
「あたしはビンクといっしょ」カメレオン娘は即座に言った。彼女は状況を少しも理解できなかったが、その忠実さに疑問の余地はない。
「そうか、ザンスではセコンドの概念は異質なんだな。決闘の場所は、荒野の境界線を境いに作ろう。森の方に一マイル、境界線と交差して一マイル。一平方マイルは、ざっと、男の足で十五分歩いた距離と同じくらいだ。時間は、今日の日没まで。それまでは、おまえもわたしもそこを離れられない。その頃までに決着がつかなければ、争いを無効とし、おだやかに別れる。いいかな?」
邪悪な魔法使いは、いかにも道理に合っているように思える。それがビンクには腑に落ちない。
「死ぬまでだ!」言ってしまってすぐに、ビンクは死にたくないと思った。魔法使いはやむをえないかぎり、ビンクを殺さないだろう。木か、無害な生きものに変身させて、逃がしてくれるだろう。ジャスティンの木の次に、ビンクの木が出現することになる。人々が木陰に憩い、ピクニックの弁当をひろげ、愛を語りあうだろう。ただし、今、死ぬのでなければ。ビンクは倒れた木のまぼろしを見た。
「死ぬまで、か」トレントは寂しげに言った。「あるいは降参するまで」
それはビンクの誇りを傷つけることなく、ビンクの過言をやわらげた。トレントはビンクのためにではなく、自分自身のために、逃げ道を作ったように思われた。絶対に悪い人間が、正しく見えるなどということが、ありうるだろうか?
「わかった。あんたは南、ぼくは北の森の方に行く。五分たったら、立ちどまって、向き直り、開始だ」
「よろしい」魔法使いはふたたび手をさし出し、ビンクはそれを握った。
「きみは決闘地帯から、離れているんだよ」ビンクはカメレオン娘に言った。
「いや! あたし、あなたといっしょにいる」カメレオン娘は言い張った。頭が弱いかもしれないが、忠実なのだ。権力を追い求めるトレントを責める以上に、忠実を求める娘を責めることはできない。とはいえ、ビンクは彼女を思いとどまらせなければならない。
「それは公平じゃないよ」結果的には、いたずらにカメレオン娘をおどかそうとしているみたいだ。
カメレオン娘の意志は固かった。「あたし、ばかだから、ひとりで旅ができないもの」
つっ! まったくだ。
「いっしょに連れていってやれ」トレントが言った。「実際のところ、影響はないだろう」
これもまた、理にかなっているようだ。
ビンクとカメレオン娘は、密林を北に向かった。トレントは南へ向かった。まもなく、魔法使いの姿は見えなくなった。
「攻撃の手を考えなくちゃ」ビンクは言った。「トレントは完全な紳士だが、休戦協定は終わっているから、彼はまじないの力を使うだろう。ぼくらがつかまる前に、彼をつかまえなくては」
「うん」
「石と棒きれを集めて、落とし罠用の穴を掘ろう」
「うん」
「彼を、変身のまじないの力が使える距離にまで、近づけないようにしなくちゃ」
「うん」
「うん、だけじゃだめだ!」ビンクはきつく言った。「真剣な問題なんだよ。ぼくらの命がかかってるんだ」
「ごめんなさい。あたし、今の自分がひどくばかだって、わかってる」
ビンクはすぐに悪かったと思った。カメレオン娘は、今は頭が弱いのだ。彼女ののろいだ。それにビンクは、事態を大げさに考えているのかもしれない。トレントは結局、闘わずに立ち去り、あっさりけり[#「けり」に傍点]をつけてしまうかもしれない。そうなれば、ビンクは立場をつらぬき、倫理的勝利を得られるが、なにひとつ変わりはしない。もしそうなったら、ビンクはばかだ。
ビンクはあやまろうと、カメレオン娘の方を向いた。そして、彼女がまぶしいほど美しいという事実に、あらためて気づいた。今までも、ファンションやディーにくらべると、美しかったが、今は、最初に会ったウィンと同じくらいに美しい。あれは本当に、たったひと月前だったのだろうか? けれども、今のカメレオン娘は、知らない美女ではない。
「きみはそのままで、すばらしいよ、カメレオン」
「でも、あたし、あなたの作戦を手伝えないわ。なんにもできない。あなた、ばかな人間はきらいでしょ」
「美しい娘は好きだ。それに頭のいい娘も好きだ。だけど、両方備わった娘は信用しない。ぼくは平凡な娘と落ち着きたい。もっとも、しばらくすると、退屈になるようではいやだけど。ときには、知的なひとと話がしたくなるし、ときには――」ビンクは急に口をつぐんだ。今のカメレオン娘の心は、子供のそれと同じだ。こんな考えを押しつけるのは、いいことではない。
「なあに?」カメレオン娘はひたとビンクに目をすえた。昨日までの美の段階では、彼女の目の色は黒だった。今はダーク・グリーンに変わっている。どんな色にも変われるだろうし、それでも娘は美しいだろう。
ビンクは今日を生きのびるチャンスは、五分より少ないと知っているし、ザンスを救うチャンスはそれ以下だとわかっている。こわい――と、同時に、生命の認識が高まっていた。そして、忠誠の。そして、美の。いかに長いあいだ、潜在意識的に育ってきていたとはいえ、なぜ、隠れていたものが、急に意識にのぼってきたのだろう?
「愛しあおう」ビンクは言った。
「それはできるわ」カメレオン娘の目が、理解の光でかがやいた。どのようにわかっているのか、どれぐらいわかっているのか、ビンクはためらった。
そして、ビンクはカメレオン娘にキスをした。すばらしかった。
「でも、ビンク」娘は合間をみつけて言った。「あたし、美しいままではいないのよ」
「それが問題の点なんだ。ぼくは変化が好きだ。ずっと、ばかな娘とは暮らせない。だけど、きみはずっとばかなわけではない。ずっと醜いのは困る。だけどきみは、ずっと醜いわけではない。きみは、変化そのものだ。そしてそれこそ、長く暮らしていくために、ぼくが求めているものだ。他の娘では、そうはいかない」
「あたし、まじないがほしい――」
「だめだ! きみにはまじないなんか必要ないよ、カメレオン。きみはこのままでいるのが、いちばんすてきだ。愛しているよ」
「ああ、ビンク!」
そのあと、ふたりは決闘のことを忘れた。
残念なほど早く、現実が割りこんできた。
「ここにいたね!」ビンクたちふたりの仮りの愛の巣の上に、アイリスが姿を見せた。「おーやおや、なにをしてたんだい?」
カメレオンはあわてて衣服をととのえた。「あんたには、絶対理解できないでしょうよ」女の直感だ。
「そう? たいした問題じゃない。セックスなんて重要じゃない」アイリスは口に両手をあてて叫んだ。「トレント! ふたりはここにいるよ!」
ビンクはアイリスにとびかかった。が、すっぽり、アイリスの幻影を通りぬけてしまった。地面に倒れる。
「ばかなぼうや。あたしにさわれやしないよ」アイリスが言った。
邪悪な魔法使いが森を通ってくる音がする。ビンクは必死で武器になりそうなものを捜したが、太い木の幹しか見あたらない。たぶん、とがった石が、この木を切るのに使われたのだろう。石という石は、魔法の力で、片づけられていた。他の地域なら、有効な武器があるかもしれないが、この極度に競争の激しい荒野にはない。農場が近いため、つねに、土地を整理しておく必要があるのだろう。
「あたしのせいだわ!」カメレオン娘が叫んだ。「あたし、いけなかった――」
愛しあってはいけなかったのか? ある意味では、そうだ。闘うかわりに愛しあい、きわめて重要な時間をつぶしてしまった。しかし、もう二度とチャンスはないかもしれなかった。
「いや、かけがえのないことだったよ」ビンクは言った。「走らなくては」
ふたりは走り出した。と、行く手に魔女の幻影が立ちふさがった。「ここよ、トレント!」アイリスはふたたび叫んだ。「逃げる前に、切り殺すのよ!」
アイリスがつきまとってくるかぎり、どこにも逃げられないと、ビンクは悟った。隠れる場所もなく、立ち向かう用意もなく、戦略上有利な地点もない。いやおうなく、トレントに追いつめられるだろう。
そのとき、ビンクはカメレオン娘が持ってきたものに目をとめた。催眠ヒョウタンだ。トレントに、うっかりこれを、のぞきこませることができれば――。
魔法使いの姿が見えた。ビンクはやさしくカメレオン娘から、ヒョウタンを取った。「彼の注意を惹きつけておいてくれれば、ぼくがこっそり近寄って、彼の目の前に、これを突き出す」
ビンクは背中にヒョウタンを隠した。アイリスにはなんだかわからないだろうし、いったんトレントが役に立たなくなれば、なにもできないだろう。
「アイリス」魔法使いは大声で呼びかけた。「これはまともな決闘なんだ。もしまた、おまえが邪魔をしたら、われわれの取り引きは終わったものとみなすぞ」
魔女は怒りの態度を取りかけたが、思い直した。アイリスの幻影は消えた。
トレントはビンクから十歩ぐらい手前で、足をとめた。「残念ながら、つまらん邪魔が入ったな。やり直すか?」
「よかったら」ビンクは同意した。トレントは憎らしいほど自信たっぷりで、相手の便宜をはかる余裕があるのだ。それを明確な善意でくるみこみたいのだろう――このようすでは。しかし、そうすることによって、トレントはなにも知らずに、災厄をまぬかれた。ビンクは催眠ヒョウタンを使う機会があるかどうか、疑問に思った。
ビンクとトレントはあらためて別れた。ビンクとカメレオンは森の奥に勢いよく逃げこんだ。触手木の震える腕にとびこみそうになるほど。「トレントを触手木におびきこめばいいんだけど」そうは言ってみたものの、本当にそうするつもりはなかった。ビンクは決して勝ちたくはない決闘に、みずから進んで乗り出した。しかも、負けるわけにはいかない。これではカメレオンと同じくらいのばかだ。いくぶん、複雑なだけだ。
輪なわ木の茂みをみつけた。輪なわの直径は十八インチほどあるが、不注意な動物が頭か手足を突っこむと、その直径がいきなり四分の一ぐらいにちぢむのだ。繊維質はしごく丈夫で、締めつけをゆるめるには、ナイフか、逆まじないしかない。たとえ茂みから離れても、輪なわの効力は数日つづき、徐々に締めつけがきかなくなってくる。不注意な、あるいは不運な動物たちは、肢や生命を失い、二度と輪なわ木を悩ますようなまねをしなくなる。
カメレオン娘はあとずさったが、ビンクはその場で足をとめた。「輪なわは取って運ぶことができる。北の村では、つつみをしっかり縛るのに、あれを使っている。輪なわの内側に触れさえしなければいいんだ。あれをトレントの通り道に置いておこう。生命ある木からいったん離れた輪なわを、変身させることができるかどうか。輪なわをうまく投げられるかい?」
「うん」
ビンクは輪なわ木の茂みに近寄った。他に荒野の脅威がないか、確かめる。
「あれ、ライオンアリの巣だ! ライオンアリにトレントの匂いをうえつけられたら……」
カメレオン娘は、脚の長い、ライオンの頭をもつアリを見て、身震いした。「しなくちゃいけないの?」
「したくはないさ。でも、トレントはライオンアリに食われやしないよ。先に変身させてしまうだろう。そのかわり、ひどく忙しいだろうから、ぼくらに有利だ。なんとかしてトレントをとめないと、ザンスを征服されてしまう」
「それじゃいけないの?」
愚かな質問だ。頭の回転のいいとき、あるいはふつうのときなら、決してこんな質問はしないだろう。けれど、ビンクは悩んだ。本当に邪悪な魔法使いは、現在の王より悪いのだろうか? ビンクはこの疑問をひとまず棚あげしておくことにした。
「それはぼくらが決めることじゃない。長老会議が次の王を選ぶんだ。征服や陰謀で王冠を手に入れるようになったら、ザンスは移住時代に逆もどりしてしまい、誰ひとり安心していられなくなる。王冠の所有者は、ザンスの法が決定すべきだ」
「うん」カメレオン娘は賛成した。ビンクは事情を明確にことばにできたのに、われながら驚いた。もちろん、今のカメレオン娘にとっては、理解を絶する話だろう。
トレントにライオンアリをけしかけようか、どうしようか。ビンクは悩んだ。心の奥底では、同時に、現在のザンスの統治体制について、考えていた。ザンスに外界からの移住者を導入する必要があるという、トレントの主張は正しいのだろうか? セントールによれば、この一世紀のあいだ、ザンスの人間の数は減る一方だという。人間はいったいどこへ行ってしまったのか? 魔法的に異種交配できることにより、今でも、部分的人間の怪物の新種が生まれているのだろうか? まったく、輪なわ木の茂みのように、もつれた問題だ。おそろしいほどに枝分かれしている。しかし、そうかもしれない。トレントは、王として、その事態を変革するだろう。二者択一より、移住時代の恐怖の方が悪いのか? ビンクには、どうしても結論が下せない。
やがて大きな流れに出くわした。スフィンクスの姿のときは、たいして気にもとめずに渡ったが、今は致命的な障害となった。こまかいさざ波が、流れの中に肉食獣が潜んでいると暗示し、水面にはぶきみな霧がたちこめている。ビンクは川に土をひとかたまり、投げこんでみた。と、それは水面に届く前に、大きなカニに似た爪に、はさみ取られてしまった。爪以外、怪物は姿を現わさない。水銀ガニなのか、それとも特大の泣き魚なのか、単なる胴体なしの爪なのか、よくわからない。ここで泳ぎたくないことだけは確かだ。
川辺に丸い石が数個あった。木々と同様、川も石を警戒する理由があるため、用心するに越したことはない。慎重に杖で突いてみて、魔法の囮ではないことを確認する。幸いに、そうではなかった。ビンクは同じように、近くの水蓮も突ついてみた。水蓮はビンクの杖の先を、三インチも折り取った。用心して賢明だった。
「よし」ビンクは石を集めて言った。「トレントを待ち伏せしよう。そして退却しそうな小径に、輪なわを仕掛け、木の葉で隠しておく。そうして、きみが輪なわを投げ、ぼくが石を投げる。トレントは石や輪なわをよけるだろうが、退却の際は、その両方に気を奪られ、隠してある輪なわに、はまりこむだろう。足の輪なわをはずそうとすれば、無防備になるから、ぼくらが有利になる。毛布の木の葉を、トレントの頭にかぶせ、ぼくらの姿を見て変身させられないようにするか、目の前に催眠ヒョウタンを突きつければいい。トレントは降参せざるを得ないさ」
「うん」
ふたりは仕掛けにかかった。腹をすかせた触手木から、ライオンアリの巣まで、輪なわをいくつもばらまき、木の葉でおおった。そしてまったくの偶然でしかみつかる恐れのない、衝立て木の茂みのうしろに隠れた。この茂みは一方方向からしか見えない。無害だが、足を踏みこむと、厄介なことになる。衝立て木の茂みのうしろに隠れると、隠れた者の姿も見えなくなる。ビンクとカメレオン娘は、腰を落ち着けて待った。
だが、トレントは意外な方向からやってきた。ビンクたちが罠を仕掛けているあいだに、トレントは音を頼りに、ぐるっと迂回してきたのだ。そして、北の方からやってきた。カメレオン娘は、特に興奮すると、たいていの娘のように、しばしば自然の要求に駆られてしまう。彼女は無害な触手木まがいのバンヤン樹の陰にまわったかと思うと、短い、驚きのあえぎを残して、姿を消した。ビンクがふり向くと、きれいな翼のある若い雌ジカがとび出してきた。
戦闘開始だ。ビンクは片手に石、片手に杖を握りしめ、バンヤン樹に突進した。まじないをかけられる前に、トレントをたたきのめしたい。バンヤン樹の陰に、トレントの姿はなかった。
結論を急ぎすぎたのだろうか? カメレオン娘は、隠れていた雌ジカに驚いただけだったのか――
「ここだ!」頭上から、邪悪な魔法使いの声が響いた。樹にのぼっていたのだ。ビンクが見あげると、まじないの身ぶりではなく、ちょっと体を動かした。だが、その手は、まじないをかけられるように、六フィート以内の距離にあった。ビンクはとびのいた――遅かった。変身のぞくぞくする感じに襲われた。
ビンクは地面をころがった。一瞬のうちに四つんばいの姿勢になる。まだ人間の姿のままだ! まじないは失敗した。間一髪で、まじないの距離からのがれたにちがいない。そのため、頭にではなく、片腕だけにしか、まじないの力が届かなかったのだ。
ビンクはバンヤン樹の方をふり向き、息をのんだ。キャンディ・ストライプのバラの茂みのトゲに、邪悪な魔法使いがひっかかっているではないか。
「どうしたんだ?」ビンクは危険も忘れて尋ねた。
「木の枝が、こうなってしまったんだ」トレントはぼうっとしているように、頭を振った。ひどい落ちかたをしたのだろう。「おまえのかわりに、木の枝にまじないがかかってしまったのさ」
この偶然のいたずらに、ビンクは声をあげて笑いかけたが、自分の立場を思い出した。すると、魔法使いはビンクをバラの茂みに変える気だったのか。ビンクは石を持ちあげた。「ごめんよ」あやまっておいて、ビンクは魔法使いの形のいい頭目がけて、石を投げつけた。
石は、紫色の陸ガメの固い甲羅にあたって、はね返った。トレントが、バラの花をよろいをまとった動物に変え、その陰に隠れたのだ。
ビンクは考えもなしに行動した。杖を槍のようにかまえ、陸ガメたちのまわりを半周し、魔法使いに杖を突きたてた。だが、トレントはひょいと身をかわし、ビンクはふたたび変身のうずきを感じた。
走ってきた勢いで、ビンクの体は敵から離れた。まだ人間の姿のままだ。逃げられたことに驚きながら、ビンクは衝立て木の茂みのうしろにもどった。トレントは陸ガメをスズメバチに変えた。スズメバチたちは怒りのうなりをたてたが、攻撃よりも、逃げる方を選んだ。
今やトレントは、ビンクの追跡に夢中になっている。衝立て木の茂みは、いきなり、人間の顔をもつヘビに変わり、驚愕の悲鳴をあげてするすると逃げていった。ビンクの姿は丸見えだ。走ろうとしたビンクは、三たび魔法につかまった。
ビンクの傍に、黄色いヒキガエルが現われた。「これはなんだ?」トレントは信じられないように言った。「来あわせたブヨにまじないをかけてしまったらしい。わたしのまじないは三度ともおまえをそれた。狙いが悪いはずはない!」
ビンクは荷物をかき集めた。トレントはまた追跡を開始した。ビンクはまじないの距離からのがれることも、武器を手にすることもできないとわかった。戦略をたてたにもかかわらず、もうおしまいだ。
そのとき、翼のある雌ジカが横合いから走り出てきて、魔法使い目がけて突進した。その音を聞きつけ、トレントは雌ジカに注意を転じた。雌ジカは虹色の蝶に変わり、ついでかわいい飛竜に変わった。
「問題ないな」トレントは言った。「彼女はなにに変えても、美しいが、わたしの力そのものは、完全にきいている」
小さな翼のあるドラゴンは、声をたてながらビンクの方に飛んできたが、途中でまた、いきなり雌ジカにもどった。
「しっ!」トレントが手をたたいた。雌ジカはびっくりして、跳んで逃げた。たいして利口ではない。
一方ビンクは、魔法使いの注意がそれているのを幸いに、逃げ出した。しかし、自分たちが用心深く仕掛けた罠の方に出てしまった。今となっては、どこに仕掛けたか、正確な場所がわからない。まっすぐに進めば、みずから罠にはまり、罠の存在をトレントに教えることになる。もっとも、トレントがまだ知らないと仮定しての話だが。
トレントは大またでビンクの方に近づいてきた。ビンクは自分の策のせいで、窮地におちいった。身動きせずにじっとしている。ちょっとでも動こうとすれば、たちまちトレントに襲われるとわかっている。ビンクはもっと決断力があればよかったのにと、自分自身をのろったものの、かといって、どうすればいいかはわからない。決闘には向かない人間なのだ。この競争の初めから、ずっと裏をかかれ、魔法に翻弄されっぱなしだ。邪悪な魔法使いをほうっておくべきだったかもしれないが、ビンクは手をつかね、名ばかりの抵抗もせずにザンスを明け渡すことができたとは、とうてい思えなかった。これはその、名ばかりの抵抗だ。
「今度は失敗しないぞ」トレントは大胆にビンクに向かってきた。「これまで、なんの苦もなく、何度もやってきた。おまえを変身させられるのはわかっている。今日はあわてすぎたのだ」
ビンクが逃げようにも逃げられずに、立ちすくんでいるあいだに、トレントはまじないのきく距離まで近づき、足をとめた。トレントは意識を集中した。強力な魔法の力が、ビンクを襲った。
ビンクの周囲から、ジョウゴドリが一群れ、ばたばたと飛び立った。あざけるような鳴き声を残して、ジョウゴドリたちは堅い翼で、まっしぐらに飛んでいった。
「おまえのまわりにいた微生物どもだ!」トレントは叫んだ。「わたしのまじないは、またもや、おまえにはね返された。今度はなにひとつ、おかしなところはなかった。それはわたしがよく知っている」
「あんたがぼくを殺そうと思ってないからだろう」
「わたしは殺そうとしているのではない。ただ、おまえが抵抗しないように、無害な生きものに変えようとしているだけだ。わたしは理由もなく殺したりはしない」魔法使いは考えこんだ。
「どこかおかしい。わたしは自分の力が効を奏さなかったとは思わない。なにかがさからっているのだ。なにか逆まじないの力が働いているにちがいない。おまえはこれまでずっと、魔法の力で生命を守られてきた。単に偶然だと思っていたが――」
しばらくトレントは考えこんでいたが、やがてパチンと指を鳴らした。「おまえの力だ! おまえの魔法の力だ! それがそうだ。おまえには魔法のまじないがきかないんだ!」
「でも、何度もあぶない目に会った」
「魔法の力のせいではあるまい。おまえの力は、あらゆる魔法の脅威をはねつけるのだ」
「だけど、いろいろなまじないにかけられた。あんただって、ぼくを――」
「おまえを助けるためか、警告するためにしか、わたしは力を使わなかった。おまえはわたしの気持を信じなかったかもしれないが、おまえの力はわたしを信じた。これまで、わたしは一度もおまえに危害を加えようとは思わなかったから、わたしの力は許されたのだ。今回は決闘だ。わたしはおまえをひどい姿に変えようとした。まじないの力ははねつけられた。その意味では、おまえの魔法の力は、わたしの力より、はるかに強力だ。確かな信号が、間接的に示していたとおりに」
ビンクは呆然とした。「じゃ、それじゃ、ぼくの勝ちだ。あんたはぼくに危害を加えることはできない」
「やむをえないね、ビンク。わたしの魔法の力は、おまえを追いつめ、おまえの秘密のベールをはいだ。そのため、こちらの弱点がわかってしまった」邪悪な魔法使いはきらきら光る剣をぬいた。「わたしは魔法以外の力もある。受けるがいい――物理的な力を」
トレントが突きを入れると同時に、ビンクは杖を振りあげた。かろうじてトレントの剣をかわす。
ビンクは物理的な傷は受けやすい。不意に過去のもつれた出来事が、解きほぐれた。そういえば、直接、魔法の力で危害をこうむったことはない。そう、特に子供のときは苦しい思いをしたし、自尊心を傷つけられた。しかしそれは、身を守ることのできる物理的な危害だった。他の少年たちと駆けっこをしたとき、他の少年たちは、勝つために木々や障害物を仕掛けたが、ビンクは無念さの他に、なんの肉体的損傷も受けなかった。それに、指を切り落としたときは、魔法の力のせいではなかったために、なんの助けもなかった。魔法は傷を癒してくれはしても、傷つけることはできなかったのだ。また、何度も魔法におびやかされたし、おそろしい思いもしたが、具体的に脅威となったことはない。ポティファーの毒ガスを肺いっぱいに吸いこんだときでさえ、危機一髪で助かった。文字どおり、ビンクは魔法で生命を守られてきた。
「おまえの力の注目すべき点は」トレントはうまくあやつって、ビンクにすきを作らせようと、うちとけた口調で話しかけた。「力の性質が広く知られてしまうと、防御の幅が狭くなってくるということだ。だからこそ、巧妙な方法を働かせ、発見されないように、力はみずから隠れた。無事に逃げても、偶然と幸運のおかげに見えた」
谷ドラゴンから逃げたときがそうだった。あのときは同時に、偶然に逆まじないの力がきいて、助かった。亡霊ドナルドにのりうつられ、無事に裂け目から脱出できた。
「誇りだけでは、肉体は救われんぞ」トレントは話をつづけた。用心のために、時間をかせいで、闘いのこまかい段取りを計算しているらしい。慎重な男だ。「われわれがザンスに入りこんだとき、おまえは多少の不快をこうむったかもしれん。魔法の力がみずからを閉じこめていたのは、おまえが決して危険な目には会わないという事実を、隠しておくのが目的だったのだ。力は表に現われるより、おまえを追放させる道を選んだ。なぜならば、追放は魔法ではなく、法的、社会的な力だからだ。しかし、おまえはシールドに傷つけられず――」
ビンクはシールドを通過したとき、無事に開口部を通ったのにもかかわらず、体がぞくぞくした。あれは、シールドの全力を受け、生き残ったためだ。いつでもシールドを通過できたのだ。だが、もしそれを知っていたら、シールドを通りぬけて、魔法の力を表明しただろう。だから、魔法の力は、ビンク自身からも隠れていたのだ。
しかし、今や、秘密はあばかれた。欠陥がわかった。「あんたもシールドに傷つけられなかったじゃないか」ビンクは杖で激しい突きを入れた。
「あのとき、わたしはおまえにぴったり触れていた。カメレオンもそうだ。おまえは意識しなくとも、おまえの力は、ちゃんと計算していた。われわれふたりは死に、おまえだけが無傷で助かる――これでは秘密がばれてしまう。あるいは、おまえの体がシールドに触れずにすむよう、おまえのまわりに小さな場[#「場」に傍点]ができていたのかもしれない。あるいは、おまえの力は未来を読み、もしシールドの力でわたしとカメレオンが死んだら、おまえはたったひとりでクラーケンの洞穴にうちあげられ、脱出できずに死んでしまうと知っていたのかもしれない。魔法の脅威を生きのびるには、わたしの変身のまじないが必要だった。だから、わたしも助かった。そして、カメレオンも同じだ。カメレオンがわたしとともに行動しなかったら、おまえもしなかっただろう。われわれはおまえを生きのびさせるために、ふたりとも命びろいをした。しかも、われわれは真実の理由を、疑いもしなかった。同様に、荒野を旅していたあいだじゅう、おまえの力はわれわれをも守ってくれた。わたしは自分を守るために、おまえが必要だと思っていたが、それはちがった。わたしの力は、おまえの力の一面にすぎなかった。また、ぴくぴく虫や、目に見えない巨人におびやかされたときも、おまえの力は、その脅威を消すために、わたしの変身のまじないを頼りにした。おまえの力自身は表われずに……」
トレントはビンクのぎごちない突きを、あっさりかわしながら、頭を振った。「急に、それが不思議ではなくなったし、おまえの力はより強い印象を与えるようになった。おまえは魔法使いだ。単なる力の複合体ではなく、分岐した面ももつ魔法使いだ。魔法使いというのは、魔法の力がふつうの人間より強力な者のことだけを指すのではない。われわれの魔法の力は、質量ともにちがっている。それ相当には、ふつうの住民たちにはめったに賞賛されない。おまえはハンフリーや、アイリスや、わたしと同等だ。わたしは心から、おまえの力の最大限の性質と範囲を知りたい」
「ぼくだって」ビンクはあえいだ。努力しても、魔法使いになんの効果もないまま、息切れしてきた。いらいらしてくる。
「だが、悲しいことに、そんな力が敵対しているかぎり、わたしは王になれない。おまえの命を犠牲にするのは、大いにしのびないし、この戦いの発端は、わたしが意図したものではないことをわかってほしい。それにしても剣とは、魔法よりゆうずうがきかないな。傷つけるか、殺すかしかできん」
ビンクは老セントール、ハーマンの首が、腰体からとんだ光景を思い出した。トレントは、殺さなければならないと決心したときは――。
トレントの剣さばきはみごとだった。ビンクはひっくりかえった。剣の切っ先がビンクの手をかすった。血が流れる。苦痛の悲鳴をあげ、杖をとり落とした。マンダニアの力にはビンクも傷つく。トレントはそれを確認しようと、試みに手を狙ったのだ。
その認識が、ビンクにはかぎられた防御力しかないという、部分的なまひ状態をうち破った。ビンクの方が歩が悪い。しかし、徹底した一対一の闘いで、ビンクにも五分のチャンスはあった。邪悪な魔法使いの畏敬の念さえ覚える力に、ビンクは威圧されつづけてきたが、今は事実上、トレントもただの人間にすぎない。驚くべき男だ。
トレントがとどめの一撃を与えようとしたとたん、ビンクは力をふりしぼって体を動かした。トレントの腕にとびかかり、血の流れる手でそれをつかむと、くるりとうしろ向きになり、膝をついてトレントをかつぎあげた。それは兵士クロンビーにならった技で、武器をもった敵をさばくのに有効的な型だった。
だが、魔法使いも然《さ》る者。かつぎあげられたトレントは、ぐるりと体をまわして、足を踏んばった。剣を握った腕をぐいと引っぱり、ビンクを突き離して、とどめの一撃のかまえをとった。
「うまい手だな、ビンク。残念ながら、その兵法もマンダニアでは知られているのだ」
トレントは心を決め、殺意をこめて、剣を突き出した。バランスを失っているビンクは、よけることもできず、おそろしい切っ先が、まっすぐ顔に突き出されるのを見ていた。今度こそ、やられた!
翼のある雌ジカが、剣とビンクのあいだにとびこんできた。剣は雌ジカの胴をつらぬき、切っ先がつきぬけ、ビンクの震える鼻先で揺れた。
「雌犬《ビ ッ チ》め!」トレントは叫んだ。このことばは、翼があるにしろ、ないにしろ、雌ジカにはふさわしくない。トレントは血にまみれた刃を引きぬいた。
「おまえを殺《や》る気ではなかった!」
雌ジカはどうっと倒れた。傷口から血が噴き出す。腹に穴があいている。
「ジェリー魚に変えてやる!」邪悪な魔法使いは烈火のように怒っていた。「地面の上で死ぬには、その方がつごうがよかろう」
「どっちみち死にかけてる」ビンクは同情のあまり、自分の腹にも痛みを感じていた。こういう傷は、即死に至る致命傷ではないが、ひどく痛く、時間はかかるが、結果的には同じだった。カメレオン娘にとっては、苦しい死だ。
予兆だ! ついに完結するのだ。あのカメレオンは急死した。あるいは――。
ビンクは生まれて初めて、怒りの復讐心に駆られ、再度、魔法使いにおどりかかった。素手で、あいつを――。
トレントはすばやく身をかわし、ビンクのくびの横側を、左手でなぐりつけた。ビンクはよろめき、なかば気を失って倒れた。盲目的な怒りは、冷静な技と経験の代わりにはならない。ぼんやりしたビンクの目に、両手に握った剣を高く掲げ、必殺のかまえでせまってくるトレントの姿がうつった。
ビンクはもはや抵抗することもできず、目を閉じた。できるだけのことをして、そして負けた。
「彼女も殺してやってくれ。ひとおもいに」ビンクはトレントに頼んだ。「苦しませないでほしい」
ビンクは観念して待った。だが、最後の一撃はこない。目を開けてみると、トレントはおそろしい剣を引っこめていた。
「わたしにはできない」トレントは冷静に言った。
魔女アイリスが姿を現わした。「なにさ? あんたの肝ったまは、水になっちまったのかい? そのふたりを殺して、さっさと終わりにしなさい。あんたの王国が待ってるんだよ!」
「こんな方法でなら、王国はほしくない」トレントはアイリスに言った。「昔ならやっただろうが、わたしは二十年と、この二週間で、変わってしまった。わたしはザンスの本当の歴史を学び、また、若くして死ぬ悲しみも知った。わたしの人生に、道義心がおとずれるのは遅かったが、その分、強烈に育った。そいつが、わたしの命を救ってくれた男を殺させないのだ。しかも、この男は、その価値に値いしない君主に忠誠をささげ、命を犠牲にしてまで、追放を命じた王を守ろうとしている」トレントは死にかけている雌ジカに目をやった。「それにわたしは、あの娘を殺すつもりは毛頭なかった。損得を考えられない弱い頭で、彼女はあの男の命のために、自分の幸福を投げ出した。これは、わたしにも覚えのある真実の愛だ。わたし自身の愛は救えなかったが、他の愛を破壊するつもりはない。王座など、この倫理的代償にくらべれば、なんの価値もない」
「ばか!」アイリスは金切り声をあげた。「あんたは、自分自身の命を捨てようとしてるんだよ!」
「そうらしいな。だが、それは、ザンスにもどろうと決心したとき、最初から覚悟していた。こうなるしかなかったのさ。王座を皿にのせてさし出されても、卑劣に生きるより、高潔に死ぬ方がいい。おそらく、わたしが求めていたのは、権力ではなく、自己の完成だろう」
トレントは雌ジカの傍にひざまずき、手を触れた。雌ジカはカメレオン娘の姿にもどった。腹部のひどい傷口から、血が流れている。
「わたしには彼女を救えない」トレントは悲しげに言った。「妻と息子を癒せなかったように。わたしは医師ではない。彼女をどんな生きものに変えていても、同じことが起きただろう。彼女には助けが必要だ。魔法の助けが」
魔法使いは目をあげた。「アイリス、おまえなら助けることができる。よき魔法使いハンフリーの城に、幻影を送ってくれ。ここで起きていることを伝え、癒しの水を頼むのだ。ザンスの権威者たちが、この純真な娘の生命を救い、この男を救ってくれるだろうと信じている。かれらはまちがってこの男を追放したのだ」
「そんなこと、してやるもんか!」魔女はどなった。「しっかりしなさいよ、あんた。その手に王国を握っているんだよ」
トレントはビンクの方を向いた。「魔女には、経験がもたらしたわたしの変化が、理解できないんだ。アイリスは助けにならん。権力の魅力が彼女の目をふさいでいる。わたしもまた、そうなるところだったが。おまえが助けを求めに行くしかない」
「はい」ビンクはカメレオン娘の体から流れる力を、みつめていることはできなかった。
「わたしはできるだけ出血を止める。彼女はあと一時間はもつと思う。それ以上、時間をかけるんじゃない」
「はい……」もし娘が死んだら……。
突然、ビンクは鳥に変わった。幻想的な羽におおわれた、火の翼をもつ不死鳥《フェニックス》に。きっと目立つだろう。五百年に一度しか現われないのだから。ビンク・フェニックスは、翼を広げ、空に舞いあがった。空高くのぼり、円を描くと、はるか東の方に、よき魔法使いの城の魔法の力できらめく尖塔が見えた。ビンクは東に向かった。
16 王
ドラゴンが現われた。「きれいな鳥さんよ、食っちまってやろうな!」
ビンク・フェニックスは向きを変えたが、怪物がまた目の前に現われた。
「逃がすものか!」ドラゴンは口を開け、歯をむいた。
ビンクの慈悲を乞う使命も、成功を目前に、ここで終わるのか? ビンクは雄々しく羽ばたき、体重の重いドラゴンが追いかけてこれないことを願いながら、さらに空高くのぼった。だが、傷ついた片方の翼――正確にはトレントに切られた片腕――のせいで、上昇力もバランスも最大限に発揮できず、かなり遅い速度で必死に上昇しなければならなかった。ドラゴンは苦もなくビンクに追いつき、ビンクとはるかかなたの城とのあいだをふさいだ。「行かせてなるものか!」ドラゴンは言った。
ビンクははっと気がついた。ドラゴンはこんなふうにしゃべらない。空を飛び、火の息を吐くものは、しゃべらない。話をするには、頭蓋骨の容積と、頭脳のつめたさとの、両方が足りないのだ。そのふたつは、あまりに軽く、熱すぎて、知性とはほど遠い。これはドラゴンではない。魔女アイリスの目くらましだ。アイリスは、ビンクが消え、カメレオン娘が死に、トレントが王座につくことを願って、しつこくビンクを阻止しようとしているのだ。トレントはベストを尽くして、失敗した。それでも、彼は最終目標に向かって進みつづけるだろう。つまりアイリスは、トレントをとおして、権力をつかむ夢を達成できる。当然、アイリスはこの襲撃の件で、ひと役になったなどとは、決して白状しないだろう。
ビンクはむしろ本物のドラゴンが相手の方がよかった。魔女の邪悪な計画は成功するかもしれない。なぜなら、ビンクはおしゃべり鳥ではなく、フェニックスだからだ。よき魔法使い以外の誰にも、事情をうちあける気はない。他の者には、とうてい理解できまい。今ここで、トレントのもとへ引き返せば、貴重な時間が失われる。そしてまたアイリスも、どんなことがあっても、ビンクを返しはしないだろう。これはビンクの個人的な闘いだった。魔女アイリスとの、ビンクの決闘。ビンクは自分自身に勝たなければならない。
いきなり、ビンクはコースを変え、ドラゴンを直撃する方向に曲がった。ビンクの推理がまちがっていれば、火噴きの腹に衝突して、なにもかも失ってしまうだろう。だが彼は、なんの抵抗もなく、ドラゴンの体を通りぬけた。勝ちだ!
アイリスはレディらしからぬことばを、ビンクに投げつけた。わめいていると、漁師のかみさんそっくりだ。ビンクはアイリスを無視して、羽ばたきつづけた。
雲がぽっかり現われた。嵐か? 急がなければならない。
雲はものすごい勢いで、むくむくと大きくなった。黒い煙がわきあがり、下方にじょうご形のうずまきを作った。みるみるうちに、厚い雲のうずまきが、城をおおい隠してしまった。いまわしい黒い雲は疾走し、ゴブリンの頭のようにビンクをおびやかした。大きな回転度がいっそう激しさを増している。どうしていいかわからなくなるほど、おぞましく見える。
その雲の上にはとうてい出られそうにない。ビンクの傷ついた羽は痛むし、嵐は巨大な魔人のように、空を駆けてくる。ぎざぎざのいなづまが踊りくるい、雷鳴がとどろく。金属が焼ける臭いがする。その混乱した内部の奥深くでは、色彩がまじりあい、おどろおどろしい、ぼんやりした顔がいくつも見えた。あきらかに魔法で、色つきの雲を降らせる準備をととのえているのだ。
ビンクは低く舞い降りた。雲の回転する尾が、だんだん細くなり、下方では灰色の筒になっている。超大型のうずまきに巻きこまれたら、ばらばらになってしまう!
そのときビンクは、あることに気づき、もう少しで空から落ちそうになるほど、衝撃を受けた。ビンクは魔法で危害をこうむることはない[#「ビンクは魔法で危害をこうむることはない」に傍点]! これは魔法の嵐だ。つまり、ビンクに触れることはできない。彼はまがいの脅威に邪魔されているのだ。
さらにそのうえ、本物の嵐は吹いていない。これはべつのめくらましだ。ビンクは幻覚効果にまどわされず、ただまっすぐに、城を目指して飛んでいけばいいのだ。ビンクはまっしぐらに雲の中に突っこんだ。
今度も正しかった。幻覚効果は迫力満点だったが、本物の嵐など影も形もなく、単に不透明なだけで、羽が少し湿った程度だった。雲のはったりを受けながらも、もうすぐ通りぬけてしまえるだろう。そうなれば、なにものにも阻止されず、よき魔法使いの城にたどり着ける。
しかし、灰色の霧はえんえんとつづいていた。城が見えないのに、どうやって行き着けるというのだ? アイリスはビンクをだませないかもしれないが、視野を閉ざすことはできる。個人的には、ビンクは魔法――本物あるいは幻覚的な魔法とも――によって、危害をこうむることはないかもしれないが、ビンクの魔法の力は、他の人々の幸福には関心がないように思われる。たとえビンク個人が、どんなに気にしていても。もしカメレオン娘が死んでも、ビンクは生きのびるだろう。生きのびても喜べないだろうが、魔法の力としては名誉なことだ。
〈魔法の力なんか、くそくらえだ〉ビンクは心の底からそう思った。〈おまえは技術にこだわるのをやめて、ぼくのより大きな幸福に関心をもつようになった方がいいぞ。もし生きていく価値のない人生だとわかったら、マンニダアの力で、肉体的に自分を殺してしまう。ぼくにはカメレオン娘が必要だ。もし、おまえが、ぼくがカメレオン娘を助けるのを、やめさせようと、この敵意ある魔法をおうっておくのなら、結局は、ぼく自身をも救えなくなるんだぞ。そうしたら、おまえはどこに行くんだ?〉
不透明な霧の壁はつづいた。ビンクの魔法の力は理不尽なやつらしい。つまるところ、役に立たないしろものなのだ。壁にうつし出す色つきの斑点と同じで、目的のない魔法なのだ。
ビンクは自力で霧をつきぬけようと決心し、あたりをうかがった。これまでも、魔法の力のことなど知らずに、なんとかしてきたのだ。将来も同様にやっていくだろう。なんとか。
まっすぐ城に向かっているのだろうか? そう思ったけれど、確信はない。大きくなってきた雲に気をとられ、それを避けようと努力していたから、方角をまちがったかもしれない。トレントは方向感覚の的確な伝書バトにしてくれればよかったのに。しかし、伝書バトだと、特徴がなさすぎて、よき魔法使いの注意を引かないだろう。どちらにしろ、これではせっかくの努力もむだになる。ビンクは彼自身であり、彼自身であるように、うち勝たなければならない。もし方角をまちがい、城に着かなかったら――だがビンクは努力をやめる気はなかった。
なにか目標を捜そうと、ビンクは下降した。しかし雲がつきまとっている。なにも見えない。あまり低く飛ぶと、木にぶつかってしまう。結局、アイリスが勝ったのだろうか?
と思ったとき、ビンクは雲の床から、ひょっこりぬけ出た。城が見えた。急降下しようとして、ふたたびろうばいした。それはよき魔法使いの城ではない。ルーグナ城だった! 完全に逆の方角に来てしまっていた。東のよき魔法使いの城に行くかわりに、荒野を横切って西に来てしまった。魔女アイリスは、ちゃんと知っていて、手遅れになるまでビンクに失敗を気づかせまいと、霧で目隠ししていたのだ。貴重な時間をどれぐらいむだにしたのだろう? 今すぐ、とって返し、目的の城にまっすぐに飛んでいけば――霧の中で城がみつかるとして――一時間以内に、カメレオン娘のために助けを得られるだろうか? それとも、この遅れのせいで、助けが着く頃には、死んでいるだろうか?
かすかに鼻を鳴らす音が聞こえた。たちまち、四方八方から、こだまが響いた。ビンクの視界をさえぎろうと、雲の床が低く降りてきた。
どうもおかしい。雲が方角を隠す努力をあからさまにしなければ、ビンクも音には注意をはらわなかったかもしれない。なぜアイリスは、ビンクがルーグナ城に降りるのを、阻止しようとしなければならないのか? ルーグナ城には、癒しの水があり、ゾンビーたちに使っているのだろうか? あやしい。
ある意味で、あの鼻を鳴らす音は重大だ。だが、その主はなんだろう? ルーグナ城には、堀ドラゴンはいなかった。どっちにしろ、ゾンビーたちは、ああうまく鼻を鳴らせない。とはいえ、あきらかに、なにものかがあの音をたてた。おそらくは、れっきとした生命あるものが。翼のある馬か、それとも――。
ビンクは悟った。これは結局、ルーグナ城ではなく、よき魔法使いの城なのだ! 魔女がビンクを引き返させるために、ルーグナ城のように見せかけただけだ。アイリスはめくらましの女王だ。その力のあれこれに、ビンクはずっとだまされてきた。けれど、堀の海馬が鼻を鳴らしたため、ばれてしまった。要するに、ビンクはまっすぐ正しい方向に飛んできたのだ。たぶん、ビンクの魔法の力に導かれて。ビンクの力は、つねにとらえにくく働いているらしい。今のところ、それを変える理由もないのだろう。
ビンクは他の音はいっさい無視して、最初の音の方向に飛んだ。急に霧が消えた。魔女アイリスは、真実を専門とする競争相手の魔法使いの城が、あまりに近すぎるために、めくらましの力をたもてなくなったようだ。
「いつか、つかまえてやる!」後方の空のどこかから、アイリスの声が聞こえた。アイリスとめくらましが消えてしまい、空は晴れわたった。
ビンクは城のまわりを飛びまわった。今は城も本来の姿にもどっている。反動で、ビンクは震えていた。もう少しで、魔女との決闘に負けるところだった! 引き返していたら――。
小塔の入り口が開いているのをみつけ、ビンクはそれをくぐった。フェニックスはコントロールのいい、活力のある鳥だ。翼が傷ついていても、本物のドラゴンをはるかに引き離すことができるだろう。
城内の暗さに、ビンクのビーズのような目が慣れるまで、少し時間がかかった。ビンクは部屋から部屋へと、ばたばたと飛びまわり、ようやく分厚い本に夢中になっている魔法使いをみつけた。一瞬、その小さな男の姿は、ビンクに、ルーグナ城の図書室でのトレントを思い出させた。ふたりとも、本に真剣な関心をもっている。二十年前、トレントとハンフリーは本当に友だちだったのか、それとも、単なる仲間だったのか?
ハンフリーは目をあげた。「ここでなにをしているのかね、ビンク?」驚いて問いただした。ビンクがどんな姿をしていても、ハンフリーにはわかるようだ。
ビンクは話そうとしたが、できない。フェニックスは口がきけないのだ。フェニックスの魔法の力は、火の中で生きのびる話をすることであり、人間と会話をするものではない。
「鏡の前においで」ハンフリーは立ちあがった。
ビンクは行った。近づくと、鏡はある情景をうつしだした。ひびを修復したあとが見えないから、これはビンクがこわしたのと、対の鏡だろう。
鏡には荒野がうつっている。カメレオン娘が裸で横たわっている。美しい。腹に天然の目のつんだ木の葉やコケがかぶせてあるにもかかわらず、まだ出血している。彼女の前にトレントが剣をぬいて立っている。オオカミの頭の男が近づいている。
「わかった」ハンフリーは言った。「邪悪な魔法使いが帰還したのだな。ばかなやつよ。今度は追放ではなく、処刑されるだろう。おまえが知らせにきてくれて、よかった。あれは危険なやつだ。娘を刺し、おまえを変身させたが、おまえはなんとか逃げ出した。ここに来る分別があって、よかったよ」
ビンクはもう一度話そうとして、また失敗した。話したくてじだんだを踏んだ。
「もっと言うことがあるのか? よし」ノームそっくりの魔法使いは、本を開き、テーブルに置いてあった本の上に重ねて置いた。本のページはまっ白だった。「話せ」ハンフリーは言った。
ビンクはもう一度、話そうとした。声は出なかったが、本のページの上に、ことばがきちんと並んでいくのが見えた。
“カメレオンが死にかけている! 救わなければならない!”
「むろんだ。数滴の癒しの水で治る。当然、代価がいるがな。だがまず、邪悪な魔法使いを処理しなければ。北の村にまわり、気絶のまじないの者を連れていこう。わしの魔法では、トレントをあつかえん!」
“ちがう! トレントは彼女を助けようとしている! 彼は決して――”
ハンフリーはまゆをひそめた。「おまえ、トレントに助けられたというのか? それはとうてい信じられない、ビンク」
できるだけ早く、トレントの改心のことを話さなければならない。
「よろしい」ハンフリーはあきらめて言った。「この件では、トレントがおまえのために行動しているという、おまえのことばを信じよう。だが、おまえはどうも世間知らずのところがあるし、わしの報酬を誰が払ってくれるのかも、はっきりせん。どっちみち、わしらがまわり道をしているあいだに、邪悪な魔法使いは逃げてしまうやもしれん。わしらは彼をつかまえ、公正な裁きにかけねばならん。彼はザンスの法を破った。すぐにもおそろしいことをしでかすにちがいない。ザンスを変身術師の征服の野心にさらしておいて、カメレオンを救っても、なんの利益にもならんぞ」
そこのところこそ、ビンクがもっとくわしく説明したい部分なのだが、ハンフリーはビンクにその機会を与えてくれなかった。邪悪な魔法使いに考え直す時間があったら、たぶんまた、もとの状態にもどるだろう。トレントはザンスの重大な脅威だ。しかし、ビンクはトレントが決闘で勝ったため、敗者である自分がトレントの邪魔をすることはできないとわかっていた。揺れ動きはするものの、この信念は次第に強くなってきている。ビンクはなんとかトレントが逃げてくれればいいと思った。
ハンフリーはビンクを連れて、城の地下室へ降り、樽からなにかの液体を出した。その液体をビンク・フェニックスの翼に、一滴かけた。翼はあっというまに治った。残りの液を小さなびんに詰め、ハンフリーはびんを長い衣服のポケットに入れた。
次に、よき魔法使いは戸棚から、フラシ天のじゅうたんを引っぱり出した。広げたじゅうたんの上に、あぐらをかいてすわる。「さあ、乗るんだ、のろま!」ハンフリーは容赦なく言った。
「おまえひとりでは負けてしまう。特にアイリスが天候をあやつって、あざむきおるからな」
当惑しながらも、ビンクはじゅうたんに乗り、ハンフリーと向かいあってすわった。じゅうたんがふわりと浮きあがる。ビンクは仰天して、翼を広げ、脚を伸ばしてじゅうたんにしがみついた。それは空飛ぶじゅうたんだった。
じゅうたんはきちんと小塔の出入り口をくぐり、空高くのぼった。水平になり、速度を増す。進行方向に背を向けているビンクは、翼をしっかりたたみこみ、風に飛ばされないように、穴があきそうになるほどきつく、じゅうたんに爪をくいこませた。城がはるかかなたに小さく見える。
「何年か前に、奉公のかわりにもらった品じゃよ」ハンフリーはうちとけた口調で言い、くしゃみをした。「これまで一度も使ったことはない。ほこりが積もるばかりじゃった。だが、急ぎの用には役に立つな」ハンフリーは疑うようにくびを振りながら、ビンクの顔をのぞきこんだ。
「邪悪な魔法使いは、おまえが至急にわしに連絡できるよう、おまえを変身させたと言いはるのじゃな? イエスなら一回、ノーなら二回、くちばしをうなずかせろ」
ビンクは一回、うなずいた。
「しかし、彼はカメレオンを刺した」
もう一度うなずいたが、それは話の一部にすぎない。
「本当は彼女を刺すつもりはなかったのだな? おまえを殺そうとしてるところに、彼女が割りこんだ?」
ビンクはイエスとうなずいた。まったく、のろわしい状態だ。
ハンフリーは頭を振った。「そんなまちがいをしでかして、悔むのは容易じゃが、追放以前の、わしが知っておるトレントは、あわれみなど知らぬ人非人じゃった。それに、わしはトレントが野望を達成するまでは、おとなしくしていられんだろうとにらんでおった。彼が生きてザンスにいるあいだは、油断できん。むずかしい問題じゃな。事実をこまかく調査せにゃなるまい」
その調査は、トレントに死をもたらすだろう。老いたる王は、衰えつつある力の大いなる脅威を、取りのぞこうと決心するだろう。
「そしてトレントは、もし権威者たちにつかまれば、どういうことになるか、承知しておるのじゃな?」
トレントはちゃんと承知している。ビンクはまた、イエスとうなずいた。
「で、おまえ、おまえは彼に死んでほしいか?」
ビンクは激しくノーと頭を動かした。
「では、もう一度追放か?」
ビンクは一瞬考えこんだ。そして、ふたたびノーとうなずいた。
「そりゃそうだな。人間の姿にもどしてもらわにゃならん。もしかすると、そこがトレントの取り引きの強味になるかもしれない。そういう任務と引き換えに、生命を助けられるかも。じゃが、そのあとは、おそらく追放か、あるいは目をつぶされるか」
目をつぶす! しかしビンクには、そのおそろしい論理の根拠が理解できた。相手が見えなければ、トレントは変身させられないのだ。それにしても、なんという無残な運命だろう。
「おまえがそういう考えを好かんのはわかる。しかし、比較検討すべき苛酷な現実というものがある」ハンフリーは考えこみ、「おまえを救うのもかなりむずかしいな。おまえもまた、不法侵入じゃから。だが、たぶん、うまい思案が浮かぶだろう」まゆをしかめ、「トレントがこんなに窮地に追いこまれているとは、じつに見るにしのびないな。彼は正真正銘の偉大な魔法使いだ。わしらはたがいの仕事に干渉せず、ずっとうまくやっていたものだ。とはいえ、まず第一は、ザンスの幸福だ」かすかに笑い、「お次は、わしの報酬さ、むろん」
ハンフリーのこのことばに、ビンクはユーモアのかけらも見い出せなかった。
「幸いなことに、まもなく事態はわしらの手から離れる。なるようになるじゃろ」
そのあと、ハンフリーは沈黙した。ビンクは、今度は本物の雲をながめた。じゅうたんが北へ向かうにつれ、雲は大きく黒くなってくる。じゅうたんは深い裂け目の上を通過中だった。ビンクは翼があるにもかかわらず、少しも安心感をもてなかった。裂け目ははるか下方だ。じゅうたんは雲の中に入ったとき、がくんと下がった。下降気流があるらしい。しかしハンフリーは落ち着きはらって、目を閉じ、深いもの思いにふけっている。
状況は悪化する一方だった。知性が備わっていないじゅうたんは、雲の重なりを避けようともせず、まっしぐらに決められた目的地へ向かっている。雲は山のようにそびえ、深い谷間を作りあげた。ますます気流が悪くなった。めくらましではなく、本物の嵐になりそうだ。アイリスのめくらましの雲とちがい、色もついておらず、おそろしいうずまきもないが、本物の雲の陰うつさは、まさに脅威的だった。
そのとき、じゅうたんは霧から出た。下が見える。北の村だ!
王宮の窓には黒いカーテンがおりている。「なにかあったな」宮殿の門の前に着地したとき、ハンフリーは言った。
長老のひとりが、出迎えに駆けつけた。「魔法使い! あなたに使いを送ろうと思っていたところだ。王が亡くなられた!」
「では、あとつぎを選んだ方がいい」ハンフリーは気むずかしい顔で言った。
「それが、いないのだ。あなたの他に」長老は答えた。
「ばかめ! 願い下げじゃ!」 ハンフリーはぴしゃりと言った。「わしが王座をほしがると思うか? めんどうな雑用ばかりで、わしの研究の邪魔じゃわい」
長老はくいさがった。「あなたがふさわしい魔法使いを教えてくださらないかぎり、あなたがお受けになることを、法が要求します」
「法なんざ、どうにでも――」ハンフリーは言いかけてやめ、「それより、さしせまった用があるのじゃ。当座の執政人は誰だ?」
「ローランドです。葬いの手配をしております」
ビンクはとびあがった。父親だ! しかしビンクはすぐに納得した。ローランドはまじめな男だから、どんなに重大なあつれきが予想されても、それを避けて通るようなまねはしない。ローランドにはビンクがザンスにもどったことは、言わない方がいい。
ハンフリーも同じ考えらしく、ちらりとビンクを見た。「うん、わしは王の任務にふさわしい男を知っておる。だが、その男は、先に切りぬけなければならぬ技術的な問題をかかえておるのじゃ」
ビンクは不安な予感の震えを感じた。〈ぼくじゃないぞ!〉と言おうとした。まだ声が出ない。
〈ぼくは魔法使いじゃない。王の尊厳なんかない。ぼくの望みはカメレオンを助けることだけなんだ〉それと、トレントを逃がすことと。
「とにかく、二、三、片づけなければならない問題がある」ハンフリーは言った。「変身術師、邪悪な魔法使いのトレントが、ザンスにもどり、娘がひとり死にかけておる。急がねばならない。手遅れにならないうちに、両方をつかまえねば」
「トレント!」長老はがくぜんとした。「こんなときに姿を現わすとは」長老は宮殿に駆けこんだ。
すぐに、長老は戦闘兵の一団を引き連れてきた。村の旅のまじない師は正確な位置を教えられると、人々をひょいと送りはじめた。
まず最初は、ローランドだ。運がよければ、不意うちで邪悪な魔法使いをとらえ、その場に気絶させ、トレントの力を封じることができる。そうすれば、他の人々は安全に処置ができる。次に、癒しの水をもったよき魔法使いが、カメレオン娘を救うためにつづく。もし、まだ彼女が生きていればの話だが。
この作戦が成功すれば、トレントは誰をも変身させるチャンスをもてないだろう。ビンクがもとの姿にもどる前に、なにも知らない人々がトレシトを処刑してしまったら、ビンクは永久にフェニックスの姿でいなければならない。カメレオン娘は、生命が助かっても、ひとりぼっちになる。そして、ビンクの父、ローランドは責任を果たすだろう。この窮地からのがれる道はないのだろうか?
いや、計画は失敗するかもしれない。トレントがローランドとハンフリーを変身させるかもしれない。そうなれば、ビンクは人間の姿にもどれるが、カメレオン娘は死んでしまう。どうもよくない。ローランドが到着する前に、トレントは逃げるだろう。そのときは、カメレオン娘は助かり、トレントは生きのび――しかしビンクは鳥のまま残される。
いずれにしても、誰かが犠牲になる。ハンフリーが、なんとかすべてをうまく処理してくれないかぎり。とはいえ、ハンフリーにできるだろうか?
ひとり、またひとりと、長老たちは姿を消した。ビンクの番だ。旅のまじない師が身ぶりをすると――。
不意にビンクの目に、生まれて初めて見る人間の顔をもつオオカミの姿がとびこんできた。急襲して、トレントの剣で切り殺されたのだ。ビンクが出発する前には見えなかった毛虫が、いたるところにころがっていた。トレントそのひとは、まるでまじないをかけている途中であるかのように、意識を集中したまま、その場に凍りついていた。カメレオン娘は――。
ビンクはうれしそうに彼女の傍に飛んでいった。治っている! ひどい傷は消え、カメレオン娘はとまどったように立っていた。
「これはビンクじゃよ」ハンフリーはカメレオン娘に言った。「おまえのために、大急ぎで助けを呼びにきたのだ。まにあった」
「まあ、ビンク!」カメレオン娘はビンク・フェニックスに抱きつき、あらわな胸にかかえこもうとした。敏感な羽をまとった鳥の姿では、ビンクは本来の姿のときと同じような喜びを味わうわけにはいかなかった。「もとの姿に変えてあげて」
「それができるのは、変身術師だけではないかと思う」ハンフリーは言った。「それに、変身術師は、まず裁きにかけられるにちがいない」
その裁きの結果はどうなるか? なぜトレントは、チャンスがあったのに、逃げなかったのだろう?
処置はすみやかに、かつ効果的に行なわれた。長老たちは、返事もできず、反論もできない、凍りついた魔法使いに、質問をあびせた。ハンフリーは旅のまじない師に、魔法の鏡を送らせた。いや、それをしたのはマンリーだ。ビンクの審問会の進行係をつとめた長老のひとり。マンリーは小さな品物を呼び寄せる力を使い、よき魔法使いの城から、魔法の鏡を取り寄せた。鏡は高く掲げられ、みんなはその面にうつる映像をみつめた。
鏡は、ビンクたち三人がザンスを旅するところからうつしはじめた。ビンクの魔法の力が表に出ることはなかったが、徐々に真相がわかってきた。三人がいかに助けあいながら、荒野を旅したか。どれぐらい、ルーグナ城にとどまっていたか――これにはみんな、一様に驚きの声をあげた。この古い、有名な、なかば神秘的な城が完全に残っていることを、誰ひとり知らなかったからだ。そして、いかに三人がぴくぴく虫と闘ったか――これにはべつの反応があった。いかにふたりが決闘したか。いかに魔女アイリスが加わったか。いかにビンクとカメレオン娘が愛しあったか――ビンクは激しい当惑を感じた。鏡は無情だ。
音声がともなわないために、映像のすべてが、トレントには不利だった。〈でも本当はちがうんだ〉ビンクは叫ぼうとした。〈彼はりっぱな男だ。あらゆる点で、彼の論理的根拠には意味がある。もし彼が、ぼくとカメレオンを助けなければ、彼はザンスを征服できたんだ〉
鏡の映像は決闘の最後の場面をうつしだした。トレントがビンクを追いつめ、とどめの一撃を与えようと――映像はそこで静止した。〈見てくれ。彼はぼくを殺さなかった。彼は邪悪ではない。もう今はちがうんだ。彼は邪悪ではない!〉
だが、誰にもビンクの声は聞こえなかった。長老たちはたがいに顔を見かわし、重々しくうなずいた。ビンクの父ローランド、家族ぐるみの友マンリーは、なにも言わない。
そのとき、鏡はまた映像をうつしだした。ビンクがフェニックスとなって飛び去ったあとの場面だ。荒野の怪物が新鮮な血の匂いを嗅ぎつけ、集まってきた。トレントがカメレオン娘に包帯をする間もないうちに、荒野の脅威たちが押し寄せてきた。トレントはカメレオン娘を背にかばって立ち、剣をぬいて威嚇した。そして襲撃してくるものを次々に毛虫に変身させた。二匹の、オオカミの顔をもつ怪物が、牙をむき出し、よだれを垂らしながら、同時に襲ってきた。一匹は毛虫に、もう一匹は剣で殺される。トレントはやむをえないときしか、殺さない。
〈このときだって、逃げられたんだ〉ビンクは声もなく叫んだ。〈カメレオンを怪物どもにくれてやることだってできたんだ。魔法の密林に逃げこめばよかったんだ。あんたたちには絶対つかまらないだろう。彼があんたたちをつかまえるまでは。今の彼は、りっぱなひとだ〉
しかしビンクには、トレントの良さを証言する手だてがない。もちろん、カメレオン娘には無理だし、ハンフリーはすべてを知らない。
ついに鏡はローランドの到着をうつした。ローランドは邪悪な魔法使いと同じくらい、頑健で、端正で、いくつか年上だ。彼はトレントと正面に向かいあう地点ではなく、かなり離れた地点に姿を現わし、ひとつが一ヤードほどもある頭を、ふたつもったヘビが直進してくる前に、うしろ向きに立っていた。ローランドは目の前の密林をながめ、近くに触手木があるのを、不安そうにみつめている。うしろのトレントにも、ヘビにも気づいていない。
鏡には、トレントがヘビの尻尾を追いかけ、素手でそれをつかみ、怒りに燃えたヘビが、くるりとトレントの方を向く場面をうつした。ふたつの頭がぐいと――いきなり、それは毛虫に変わった。頭のふたつある毛虫に。
ローランドがこちらを向いた。一瞬、ふたりの男はたがいの目をみつめあった。この距離なら、両者の力は互角だ。ローランドとトレントは、とてもよく似ている。やがて、ローランドが目を細め、トレントはその場に凍りついた。変身術より先に、金縛りのまじないの方が、得点をあげたのだ。
そうだったのか? 〈トレントは抵抗しようともしなかったんだ〉ビンクはむなしい気持になった。〈ヘビのかわりに、おやじを変身させることもできたのに。でなければ、ヘビが襲うのを黙って見ていてもよかったんだ〉
「長老たちよ、しかと見たな?」ハンフリーがおだやかに言った。
〈トレントの生命を犠牲にして、ザンスの王座につくくらいなら、そんなものはいらない〉ビンクは怒りに燃えていた。この裁きは茶番だ。トレントに話をさせてやっていない。彼に、損傷の魔法の力がザンスの人間の数に影響を与えていること、将来マンダニアの襲撃を受けるという脅威など、かずかずの論を雄弁に語らせてやるべきだ。長老たちは、ビンクを追放したときと同じように、トレントを処置するつもりだろうか? 事実に隠されている意味にかまわず、よく考えもせず、機械的に。
長老たちは重々しく目を見かわした。それぞれ、肯定的に、ゆっくりうなずく。
〈少なくとも、彼に話をさせてやれ!〉ビンクは声もなく叫んだ。
「では、まじないを解くのがいちばんいいんだろう」ハンフリーが言った。「慣例にしたがい、裁定のために、まじないから放免してやらねばならん」
〈ありがたい!〉
ローランドが指をパチンと鳴らした。トレントが動いた。
「ありがとう、栄光あるザンスの長老がた」トレントはていねいに言った。「みなさんはわたしに公平な権利を与えてくれた。裁定を聞く用意はできている」
トレントは自分を守ろうともしない。このおそろしく不公平な、沈黙の調査は、個々人が胸に秘めている結論を正当化するための、儀式にすぎない。そんな裁きに、邪悪な魔法使いはどうして、信頼をおけるのだろう?
「われわれは、おまえが追放にそむいた点で有罪とみとめる」ローランドが言った。「この罪に対する罰は、死だ。しかし、われわれは現在、特殊な状態にあるし、おまえ自身、われわれが知っているときにくらべ、実質的に変化している。おまえはかつて、勇気と、知性と、強力な魔法の力をもっていた。今、おまえは、さらに誠実と、道義心と、慈悲の心をもっている。愚かにも、おまえに戦いをいどんだわたしの息子の、生命を助けてくれたこと、さらに、息子が選んだひとを、荒野の脅威から守ってくれたことを、忘れはしない。この件に関しては、おまえにもいくらか罪があるが、そのつぐないは果たしている。したがって、われわれは規定の罰を撤回し、ザンスにとどまることを許可する。ただし、条件がふたつある」
トレントを殺すつもりはないのだ。ビンクは喜びのあまり、はねまわりそうになった。
しかし、それもつかのま、ビンクは、トレントに二度と王座への野心をいだかせないために、厳重な制限が加えられるとわかった。ハンフリーは目をつぶすと言っていたが、それでは、トレントは魔法の力を使えなくなる。魔法の力のない暮らしがどんなものになるか、ビンクには多少、想像がついた。トレントは無理に卑しい仕事につかされ、卑屈な日々をおくることになるだろう。長老たちは年はとっているが、必ずしも寛容ではない。頭のいい人間たちで、年齢と寛大さを比例させている者はいない。
トレントは頭をさげた。「長老がた、心よりお礼を申しあげる。条件を受け容れましょう。なんですか?」
これ以上、なにか言う必要があるだろうか? このりっぱな男を、ふつうの犯罪人としてあつかい、むりやりおそろしい懲罰に同意を求め――しかもトレントは、抗議ひとつ、していない。
「第一に」ローランドが言った。「結婚すること」
トレントは驚いて顔をあげた。「以前にわたしが変身させたものたちの姿をもどし、今後いっさい、わたしの力を使わないように、という命令なら理解できる。だが、結婚がどう関係があるのだ?」
「借越だぞ」ローランドはいかめしく言った。〈トレントにはわかっていない。長老たちは禁止する必要などないのだ。目をつぶしてしまえば。トレントはなにもできなくなるだろう〉
「おわびします、長老がた。結婚しましょう。次の条件は?」
〈そら、くるぞ!〉ビンクは刑罰の宣告が聞きとれないように、ものすごい音をたてられれば、少しは気が楽になるだろうと思った。だがそれは、ビンクの魔法の力ではできない。
「ザンスの王座につくこと」
ビンクはくちばしをぽかんと開けた。カメレオン娘も同様だった。トレントは、また金縛りにあったように、立ちすくんでいる。
ローランドは片方の膝を曲げ、ゆっくり地面につけた。他の長老たちも、黙ってローランドにつづいた。
「王は死んだ」ハンフリーが説明した。「宮殿に、善なる、強力な力の魔法使いを迎えることが、非常に重要なのだ。抑制力と、ものごとを見通す力とを兼ね備えた、自制的なふるまいのできる人物。しかも、ザンスを守るために、必要とあらば、獰猛なるものたちをも呼び集める人物。そしてまた、その者がふさわしい世継ぎをもってくれれば、ザンスは二度とふたたび、昔のように困難な事態を迎えずともすむじゃろう。そういう君主は必要ではないが、もたねばならない。わしはまつりごとのこまごました問題に、必要な注意をはらうことはできん。魔女アイリスは、抑制力がないから、たとえ女でなくても、不適当だ。また、もうひとり魔法使いがいることはいるが、性格的にも、特有の魔法の力にしても、王冠の要求に応えられる者ではない。というわけで、ザンスはおまえさんを必要としておるのじゃよ、魔法使い。断わることはできない」そしてハンフリーも、地面に片膝をついた。
もはや邪悪ではない邪悪な魔法使いは、頭を垂れ、無言の承諾を示した。結局、トレントはザンスを征服した。
戴冠式は豪華絢爛たるものだった。セントールたちは、乱れひとつみせない正確さで行進し、ザンスのいたるところから、人間や、知性ある生きものたちが参加した。魔法使いトレントは、以後、変身術師から王へと変わり、王冠を戴くとともに花嫁をめとり、ふたりとも晴れやかな姿を見せた。
むろん、見物の人ごみのはしばしで、いじの悪い陰口もきかれたが、たいていの住民は王が賢明な選択をしたと認めていた。
「彼女が年をとりすぎてて、世継ぎを生めなかったら、大いなる魔法の力のある男の子を養子にできる」
「結局のところ、あの女をうまくあつかえるのは、彼だけだな。彼も変化がないことだけからは、まぬかれるだろうよ」
「それに、これで、王国の最後の脅威もなくなりますしね」
住人たちは、ザンスの内外両方のおそろしい脅威には、まだ気づいていなかった。
もとの姿にもどったビンクは、かつて、ジャスティンの木が立っていた場所を、ひとりでじっとみつめていた。トレントのために喜び、彼ならりっぱな王になると確信していた。しかしビンクは、ある失望感をあじわっていた。これからどうしようか?
三人の若者が通りかかった。ジンク、ジャマ、それにポティファーだ。三人ともおとなしく、うつむいている。いたずらをしほうだいの時代が終わったことが、わかっているのだ。新しい王の力を考えれば、おとなしくせざるをえない。でなければ変身させられてしまう。
セントールがふたり、ビンクに駆け寄ってきた。「ビンク、会えてうれしいわ!」チェリーだ。
「追放にならなくて、本当によかったわね!」連れを軽く突き、「ね、チェスター?」
チェスターはどうにか、ゆがんだ微笑を浮かべた。「ああ、そうだとも」とつぶやく。
「あなた、ぜひ遊びにいらっしゃい」チェリーは陽気に言った。「チェスターはしょっちゅう、あなたの噂をしてるわ」
チェスターは力強い手をもみしだくようなしぐさをした。「ああ、そうだとも」今度は前よりあかるく言った。
ビンクは話題を変えた。「ぼくが荒野で、隠者ハーマンに会ったの、知ってますか? 彼は英雄として死にました。魔法の力を使い――」セントールのあいだでは、魔法はいかがわしいものとされていることを思い出し、ビンクはことばをきった。トレントがルーグナ城の古い書物で得た知識を、広く公開すれば、セントールたちの意識も変わるだろう。「ハーマンはぴくぴく虫がザンスにはびこらないうちに、退治作戦を指揮したんです。ぼくは将来、ハーマンの名が、あなたたちのあいだで敬まわれるようになればいいと願っています」
驚いたことに、チェスターがほほえんだ。「ハーマンはおれの叔父なんだ。きわだった性格の持主でね。叔父の追放についちゃ、おれもみんなにからかわれたもんさ。今や、彼は英雄だ。そうだな?」
チェリーはくちびるをきつく結んだ。「わたしたち女性の前では、いかがわしい話をしないでちょうだい」チェスターをたしなめる。「行きましょう」
チェスターはチェリーに従うしかない。だが、ちょっとビンクをふり向き、「ああ、そうだとも。本当に、近いうちに遊びに来いよ。おれたちに、ハーマン叔父がどんなふうにザンスを救ったか、話してきかせてくれ」
チェリーとチェスターは行ってしまった。急にビンクはいい気分になった。セントールは長寿の生きもので、チェスターはずっとなにかを期待していたのだろう。あの出来事を喜んでいる。ビンクは欠点だとみなされたことについて、からかわれる不満を知っている。それに、魔法の力をもつ隠者セントール、ハーマンについては、熱心に耳をかたむけてくれる相手に話したかった。
今度はサブリナがやってきた。いつに変わらず美しい。「ビンク、前のことは気の毒だと思ってるわ。でも、これでもう、なにもかもさっぱりしたし……」
サブリナは美人期のカメレオン娘と同じに美しく、おまけに聡明だ。ほとんどの男にとっては、似合いの花嫁だ。今は、ビンクも彼女のことがよくわかる。ビンクの魔法の力は、力の存在を隠しておくために、サブリナとの結婚をやめさせた。賢明な力だ。
ビンクは周囲にちらりと目を向けた。ビンクの推薦で、新しくトレントの護衛兵となった男が見えた。危険をふくめて、それが大きく発展しないうちに、ものの所在をつきとめる力をもっている男だ。王国の制服を着たその兵士は、きらびやかで、風格があった。
「クロンビー!」ビンクはよびかけた。
クロンビーは大またで近づいてきた。「やあ、ビンク。今は非番なんで、ちょっと話ができるよ。なんだい?」
「このうるわしいご婦人を紹介したいんだ。サブリナだ。空中にすてきなホログラフをうつしだす力がある」次にサブリナの方を向き、「クロンビーはいい男で、りっぱな兵士で、王のお気に入りなんだけど、女性を信用してないんだ。きっと、ちゃんとした女性に会ったことがないんだと思う。きみたち、おたがいによく知りあう方がいいと思うよ」
「でも、あたし――」サブリナが言いかけた。
クロンビーは、いかにも皮肉な関心をもってサブリナを見た。サブリナもクロンビーを見返した。クロンビーはサブリナの肉体的な魅力を観察した。じつにすばらしい、サブリナはクロンビーの宮殿での地位を考えた。じつにすばらしい。ビンクはいいことをしたのか、便所の穴に袋いっぱいのサクランボ弾を投げこんだのか、よくわからなかった。時が語ってくれるだろう。
「さよなら、サブリナ」ビンクは背を向けた。
トレント王は宮殿の謁見の間に、ビンクを呼び出した。「おまえのもとに帰るのが遅れて、すまなかった」ふたりきりになると、トレントはビンクに言った。「準備が必要だったんだ」
「戴冠式に、結婚式」
「それもそうだった。だが、主に感情的な調整だよ。おまえも知ってのとおり、いわば、唐突に、王冠がわたしの頭に載ってしまった」
もちろん知っている。「陛下、もしよろしければ、お尋ねしたいことが――」
「なぜカメレオンを残し、荒野に逃げなかったのか、だな? ビンク、おまえにだけは答えよう。倫理的な考察は除外するぞ。そんなことは考えなかった。わたしは、マンダニアで確率とよばれる計算をしたのだ。おまえがよき魔法使いの城に向かって飛び立ったとき、おまえが成功する見こみは、有利に考えても三分の一だと判断した。おまえが失敗しても、どっちみち、わたしは無事だったろう。カメレオンを見捨てても意味がない。誰から聞いても、嵐の王が急速に落ち目になっているため、ザンスには新しい王が必要だということは知っていた。長老たちが、わたしよりも王にふさわしい魔法使いを、みつける見こみについては、これもまた、三分の一だった。全体的に見て、わたしがしっかり腰をすえることによって王座を獲得できる見こみは、十六に九つ。処刑の見こみは、わずか十六に三つだった。荒野でひとり生きのびるより、ずっと大きな確率だ。荒野ではふたつにひとつの見こみしかないからだ。わかるか?」
ビンクはくびを横に振った。「数字じゃ――わからない――」
「では、老練な決意、計算された危険と受けとってくれ。ハンフリーは友人だ。彼がわたしを裏切らないことはわかっていた。彼はわたしが確率を計算したことを知っていた。だが、それはたいして重要ではなかった。ザンスが王として必要としていたのは、策略家であり、ハンフリーはそれを知っていたからだ。だから、彼は協力してくれた。裁きのときに、わたしが深刻に心配していなかった、というわけではないぞ。ローランドには冷汗をかかされた」
「ぼくもです」
「しかし、他の確率があったとしても、わたしはやはり、あのように行動しただろうな」トレントは顔をしかめた。「おまえに、みんなの前でわたしの弱味を暴露して、わたしを困らせないよう、命じるぞ。人々は個人的なしんしゃくで、不当に左右されるような王を望んではいない」
「言いません」ビンクは心の中で、それは決して弱味ではないのにと思ったが、口に出しては言わなかった。
「では、今度は仕事だ」王はきびきびした口調で言った。「おまえとカメレオンの追放にそむいた罪に対しては、罰なしでザンスにとどまっていいという、王の特免状を、むろん喜んで与える。いや、これはおまえの父上とはなんの関係もない。わたしはローランドに再会し、一族の相似点を認めるまで、おまえがローランドの息子だとは、全然気がつかなかった。ローランドはおまえのことは、なにも言っていない。利害の衝突をみごとに忌避している。今後はなんびとたりともザンスから追放されることはなく、マンダニアからの移住も禁止しない。暴力がからまないかぎり。もちろん、これは、おまえが魔法の力を示す必要はないということだ。ザンスじゅうで、おまえの特殊な力を知っているのは、おまえとわたしだけだ。あのとき、カメレオンがいたが、彼女はそれが理解できる状態ではなかった。ハンフリーは、おまえが魔法使い級の魔法の力をもっていることしか、知らない。われわれの秘密はこのままにしておこう」
「いや、ぼくはいっこうにかまわない――」
「おまえには本当にわかっていないようだな、ビンク。おまえの力の正しい性格を秘密にしておくのは、とても重要なことなのだよ。それが力の性格だ。個人的なことにちがいない。力を表明するのは、そこなうことだ。だからこそ、力は発見されないように、用心深く隠れているのだ。わたしが知るのを許されたのは、他からそれを守る手伝いをするためにすぎない。そしてわたしは、そうするつもりだ。他の者は誰ひとり、知ることはないだろう」
「ええ、でも――」
「おまえがまだ納得していないのは、わかっている。おまえの力は、非凡で、名状できない。その全体性においては、魔法使いの高位級だし、ザンス内のどんな力にも匹敵する。他の住民たちの力は、壁に光の斑点級の力の変化した力か、魔法使い級の力かのどちらかで、自分たちが使えない種類の力には、攻撃されやすい。アイリスは変身させることができるし、わたしは金縛りのまじないにかけられる。ハンフリーはめくらましに弱い。おまえにはわかるはずだ。そして、おまえだけは、あらゆる魔法の力から、基本的に安全でいられる。ばかにされたり、非難されたり、ひどい不自由を感じたりはするだろうが、実際に肉体的な危害をこうむることは、絶対にない。これは保護の範囲がきわめて広いということだ」
「ええ、でも――」
「事実、われわれはおまえの力の限界を知らない。ザンスに再入国したときのことを考えてみろ。しゃべりそうな者には、おまえの力は正体を表わさなかった。われわれの冒険のすべては、おまえの力の一面を表わす以外の、なにものでもない。カメレオンもわたしも、おまえをザンスに連れもどすための、道具にすぎなかった。おまえひとりでは、ルーグナの城の罠にかかり、ぴくぴく虫にやられていたかもしれん。わたしはおまえの道を歩きやすくしてやるために、存在した。あの最後の一撃のときに、カメレオンを割りこませて、マンダニアの剣からおまえを守ったのも、おまえの保護の力かもしれない。いいか、なぜならば、わたしは自分の魔法の力をとおして、おまえの力のおおよそを発見したからだ。わたしの力に及んだ、おまえの力の効果をとおして。おまえの力がもっと弱いものだとすると、わたしは完全な魔法使いだから、とことん、わたしをくじくことはできなかっただろう。しかし、おまえの力はおまえを守るために働いていた。おまえの力は完全には、わたしを阻止しなかった。おまえを傷つけることができたからな。で、おまえの力は、わたしに加担し、おまえが受け容れられる方法で、わたしを王にし、おまえとの反目を緩和しようと働いたのだ。わたしの心を変え、おまえを殺すのをやめさせたのは、おまえの力かもしれない。したがって、わたしはおまえの力の性質を確かめることを許される、と、おまえの力が決定したものと推測している。承知のとおり、この認識は、おまえに対するわたしの態度と、おまえの個人的な安全とに、深く影響を与えるからだ」
トレント王はひとくぎりつけたが、ビンクはなにも言わなかった。これはひとつのかたまりを消化するための考えかただ。ビンクは自分の力は限定されており、自分が関心をもつ相手に、影響を及ぼすことはないと思っていたが、どうやら過小評価していたようだ。
「いいかね」トレント王は話をつづけた。「王であるわたしは、おまえの幸福を促進するためには、もっとも便利な代理人なのかもしれない。おまえの追放と、今度の嵐の王の死とは、すべて、魔法の計画の一部だ。おまえの追放は、わたしをザンスに連れもどした。おまえといっしょにいるときに、わたしの軍隊を置き去りにして。わたしがこういう事態にはまりこんだのは、単なる偶然の一致だとは思わない。おまえの力が、偶然の一致を、最高に洗練された方法で利用したのだ。わたしはおまえにさからいたくない。わたしの前任者は、おまえの利益にさからう行為をしたあと、病気になり、死んだのだと思う。いやいや、ビンク、たとえわたしがおまえの友人でなかったとしても、おまえの敵になりたくはないよ。だから、わたしは意識的に、おまえの秘密を守り、おまえの幸福を、わたしにできるかぎりで最高のものになるよう、促進するための代理人になろうとしているのだ。おまえがザンスをどう思っているか、よく知っているから、わたしは新しい黄金時代の到来を告げ、できるかぎり最高の王になろうとつとめるだろう。おまえがわたしの不始末のせいで、直接あるいは間接的に脅威をこうむらないために。さあ、これでもう、わかったかな?」
ビンクはうなずいた。「わかりました、陛下」
トレント王は立ちあがり、心をこめて、ビンクの背中をたたいた。
「よかった! 万事、申し分なしだ!」トレント王はべつのことを考えた。「ビンク、どんな仕事をするか、決めているのかね? 王冠は別として、なんでも提供できるよ。もっとも、王冠すらも、将来は――」
「いやだ!」ビンクは大声で言った。トレントのにやにや笑いを見ながら、ビンクは撤回しなければならなかった。「つまり、イエスです。仕事のことですが。あなたは前に――」ビンクはためらい、急にぎこちなくなった。
「おまえはよく聞いていなかったと見えるな。なにを望もうと、かなえられるのだぞ。わたしの今の権力の範囲内のことなら。だが、わたしの力は変身のまじないで、予言ではない。おまえが話すしかない。言ってしまえ!」
「あのう、荒野でカメレオンを待っていたとき、つまり、ぴくぴく虫騒動の前です。ぼくら、謎について――」
トレント王は片手をあげた。「それ以上言うな。北の村のビンク、なんじをザンスの公認調査官に任命する。魔法のあらゆる謎が、おまえの責任になるだろう。必要とあらば、いたるところを探り、満足のいくまで調べ、報告書を直接わたしに送れ。すべて王室の記録に加える。おまえの魔法の力は、ザンスの秘境をも探索するのに、うってつけの資格となる。護衛のいらない、無名の魔法使いだからな。秘境の発見は非常に遅れている。おまえの最初の任務は、ザンスの魔法の真の源を発見することだろう」
「ああ、ありがとうございます、陛下」ビンクはうれしそうに言った。「ぼく、王になるより、その仕事の方がずっと好きだと思います」
「わたしがそれを聞いて、どんなにうれしいか、おまえにはわかるだろうな。では、女たちに会いに行こうか」
旅のまじない師が、ビンクとトレント王を同時に移動させた。ふたりはルーグナ城の正門の前に立っていた。
はね橋は修理され、真鍮はぴかぴか光り、板もみがかれている。堀はきれいになり、水を満々とたたえており、血統のいい怪物たちが住まわされていた。落とし格子のとがった先端はかがやいている。いちばん高い小塔には、あざやかな旗がはためいている。城はみごとによみがえった。
ビンクはなにかが見えたような気がして、あたりを見まわした。あれは墓地だろうか? そこでなにかが動いている。包帯を引きずって歩いている骨のような白いもの。ああ、なんと!
そのとき地面が開き、最後のうれしげなあいさつをしながら、ゾンビーたちは安息の場所に姿を消した。
「やすらかに眠れ」トレント王はつぶやいた。「わたしは約束を守った」
守らなかったら、ゾンビーたちは無理に守らせるために、荒野から出ていってしまっただろうか? これもひとつの謎だが、ビンクは調べてみたいとは思わなかった。
ふたりはルーグナ城に入った。広間で、幽霊六人の歓迎を受けた。全員、ちゃんと人間の形をしている。ミリーが王の到着を女王に知らせに、いそいそと出かけていった。
アイリスとカメレオン娘は、城のチュニックとスリッパを身に着けて、いっしょに掃除をしていた。魔女は本来の姿だが、きちんと身なりをととのえ、白い頭巾をかぶっているため、少しも不器量には見えない。ガメレオン娘は、容姿、知性ともに平凡な“ふつう”の段階に入っていた。
女王はトレント王に、愛情をだいているふり[#「ふり」に傍点]はしなかった。予期していたとおり、便宜的な結婚だった。だがアイリスの地位に対する喜びと、城に対する興奮とは、純粋のものだった。
「すばらしいところだわ!」アイリスは大声で言った。「カメレオンが案内してくれましたし、幽霊たちはお手洗いを作ってくれました。わたしがずっとほしかった、場所と豪華さ。そして、みんな本物。城も喜んでほしがってますわ。わたし、ここが好きになるって、わかってます」
「それはよかった」トレント王はまじめに言った。「では、美人になってもらおうかな。仲間をもてなそう」
中年の女は、たちまち、えりぐりを深くくったドレス姿の、気が遠くなるほど豊満な若い女に変わった。「カメレオンを困らせたくないわ。彼女は今“ふつう”の段階ですもの」
「きみはどの段階の彼女をも、困らせたりはできないよ。ビンクにあやまりなさい」
アイリスは膝を曲げ、ちょっと体をかがめて、あっと驚くようなおじぎをビンクにした。女王で、そして人間の姿でいるためには、なんでもする覚悟だった。トレント王はアイリス女王をイボガエルにすることができる。あるいは、今とまったく同じ姿にすることもできる。王座のあと継ぎ、子供が産めるように、若くしてくれることもできるのだ。トレントが主人であり、アイリスはそれを疑ってもいないようだった。
「ごめんなさいね、ビンク、本当に。わたし、あの決闘のあいだも、そのあとも、われを忘れていたんです。あなたがトレントを王にするために、長老たちを呼びにいったとは知らなかった」
ビンクだって知らなかった。「忘れてください、陛下」ビンクは気づまりそうに言った。カメレオン娘の方を見ると、とてもディーに近くなっていた。クロンビーのおそろしい警告にもかかわらず、最初から好きだった娘のディーに。ビンクは臆病さを克服した。
「すべてを乗り越えて行け」トレント王はビンクの耳もとでささやいた。「今の彼女は、十分に賢い」
カメレオン娘がふつうの娘――彼女が心から満足し、いくぶん挑戦的な娘――になるためのまじないを求める探索の旅のまわりに、ビンクの冒険はほとんど集中していたと、ビンクは思った。いかに多くの人々が、自分のまじないを探し求め、人生を同様についやしていることだろう。銀の木や、政治的な権力や、分不相応な喝采のような、不必要な利益のまじないを。現実に必要なのは、すでにもっているもので満足することではないだろうか? ときには、もっているものの方が、もちたいと思っているものより、いいことがある。カメレオン娘はふつうになりたいと思っていた。トレントは軍力で征服したいと思っていた。ビンク自身は表明できる魔法の力がほしいと思っていた。誰もがなにかほしいと思っていたのだ。しかし、つまるところ、ビンクが本当に求めてきたのは、あるがままのカメレオン娘と、トレントと、ビンク自身とを守り、そのようにザンスに受け容れてもらうことだった。
ビンクは頭の弱い段階のカメレオン娘を、利用したいとは思わなかった。彼女が裏の意味をちゃんと理解したと、確信したかった。
なんだか鼻がむずむずする。ビンクはきまりが悪くなるような大きなくしゃみをした。
アイリスがひじでそっと、カメレオン娘を突いた。
「ええ、もちろん、あたし、あなたと結婚するわ、ビンク」カメレオン娘は言った。
トレント王は突然、大声で笑いだした。ビンクはカメレオン娘にキスをした。ビンクのふつうの、しごく平凡な恋人に。結局、彼女はまじないをみつけたのだ。そしてビンクにまじないをかけた。それはクロンビーののろいと同じ――愛だ。
ついにビンクは予兆の意味を理解した。ビンクはカメレオン娘を運び去る鷹なのだ。彼女を二度と離さない。
解説
[#地から2字上げ]安田 均
一口にファンタジイといってもいろいろあります。おとぎ話やメルヘンのような可愛らしいという表現がぴったりするもの、あるいは各国の神話に題材をとったり、英雄や美女が活躍する叙事詩《エピック》的ファンタジイ、かと思うと、近年スティーヴン・キングの登場によって新たな息吹きを感じさせるホラー系統のもの……まあ、そのあたりは本文庫をつぎつぎと読まれてきた人にとって周知のことでしょうし、あまりくだくだしくは述べないことにします。ただ、こうした多くの種類の中にあって、一見ファンタジイとは異質な要素がまじりながら、それが微妙にとけ込んで、何ともいえぬ雰囲気をかもし出している作品群があるのに、お気づきでしょうか。作品として例にあげるなら、このFT文庫の中ではゴードン・R・ディクスンの『ドラゴンになった青年』(FT文庫10)やフレッチャー・プラット&スプレイグ・ディ・キャンプの『妖精の王国』(FT文庫20)といったもの……と、こう書けば、勘のいい読者なら、ははあ、とうなずかれるはず。そう、その要素とはユーモアのことです。
もちろん、断っておきますがユーモアが部分々々に感じられるファンタジイというのなら、才能ある作者の手になるものはほとんどそれに含まれます。また、ぼくが言っているのは、ユーモア効果を特に狙って、いわばファンタジイがつけたりとなっているような“ユーモア・ファンタジイ”なるものを指すのでもありません。先の二作から推測されるように、骨組みとなる世界の造りはいかにも[#「いかにも」に傍点]といったファンタジイ・ランドなのに、もしくは出てくるのが典型的なファンタジイの生き物なのにそこに展開されるストーリーが(程度の差こそあれ)どことなくユーモラス、それもこの現実の社会や人間臭さを作品内に反映させることからくるユーモアが見られる例のことです。
こうしたファンタジイは、殊のほかアメリカという国に多いようです。もともと、ほら話的ユーモアにたけた国ですから、例えば自国のものでない叙事詩的ファンタジイなどがアレンジされるさい、そうなりやすいのかもしれません。これが、いわゆる文学畑の作者の手にかかると、あの比類することもできぬジェイムズ・ブランチ・キャベルの諸作などになるのでしょうが、ここではそうした高踏的な分野をあえてさけても、一つの興味あるシーンが見られます。
それは、この手のファンタジイを一手にひきうけてしまうような雑誌の出現です。しかも、意外な事にそれはSFの分野から現われました。一九三九年、当時厳密なサイエンスの適用を標傍してSF界に革命を起したジョン・W・キャンベル・Jrが、彼の意図するサイエンス・フィクション外のすぐれた作品(サイエンス・ファンタジイ?)を掲載する場として、〈アンノウン〉という雑誌を創刊したのです。おそらく、彼は最初ここに、それこそ彼の眼鏡にかなうサイエンス・フィクション外のものをすべて押しこむつもりだったのでしょうが、そのうちあるタイプの作品群が目立ってくるようになります。後に“アンノウン”タイプと呼ばれるもので、それこそ先に述べた「典型的なファンタジイ・ワールドに、通常社会の側からの論理が持ちこまれ、それとの対比がユーモアを生む」といったスタイルのものでした。
べつな言いかたをすると、それはファンタジイとサイエンス・フィクションの結合の一品種ということになります。サイエンス・フィクションのもつ“奇天烈なアイデア”と“合理的な世界観”でもって、伝統的なファンタジイの世界を活用するのですから。そして、その小説的効果に何がいちばん秀れているかとなると、これがユーモアだったというわけです。
ここで、同誌に載った典型的な作品名をあげましょう(中短篇がほとんどですが)。
[#ここから2字下げ]
「小人の棲む湖」 H・L・ゴールド
「妖精の王国」他 F・プラット&S・ディ・キャンプ
「スナル虫」 A・バウチャー
「ファファード&グレイ・マウザー」〈初期シリーズ〉 F・ライバー
「ショトル・ボップ」 T・スタージョン
「第三のドア」 H・カットナー
[#ここで字下げ終わり]
小味な作品が多いと思われるかもしれませんが、それまで“ファンタジイ”と言えば、〈ウィアード・テールズ〉型のおどろおどろしいものか、あるいはスリック・マガジンに載る極度に洗練された味というものがほとんどだったところに、この手の、アシモフに言わせると“|磊落な《インピューデント》”ファンタジイが一つのパターンとして生まれたのはやはり新鮮な事だったのです。
以後も、この“アンノウン”タイプのファンタジイは、そういった経緯もあり、SFと不即不離の関係を保ったまま、つぎつぎと現われます。雑誌そのものは、戦時の紙下足下に四年間であえなく消滅しますが、おもしろいことに同誌の常連寄稿者二人が、戦後編集者となって、この手のジャンルを更に拡げるのです。アントニー・バウチャーは、“アンノウン”タイプをより洗練して〈F&SF〉誌に。H・L・ゴールドは、まず〈アスタウンディング〉型のSF誌〈ギャラクシイ〉を作り、ちょうど〈アンノウン〉が姉妹誌だったように、ファンタジイ姉妹誌〈ビヨンド〉を創刊するというように。ですから前記『ドラゴンになった青年』なども、典型的な“アンノウン”タイプの作品ながら、発表されたのは〈F&SF〉誌です。
さて、本書『カメレオンの呪文』は、直接そうした雑誌に載ったわけではありませんが、やはりこれまで述べてきた“アンノウン”タイプのファンタジイに変わりないことは、一目瞭然でしょう。ここに現われる魔法の国ザンスは、普通のハイ・ファンタジイにありがちな、完全に現実から切り離された観念世界ではありません。もちろん、架空の世界なのですが、そこには常に現実世界(を模したマンダニア)からの影響が何らかの形で働いている。そして、登場人物その他に、架空の、それこそファンタスティックなものが現われるのですが、行動基準というか、割りきりかたがあくまで現実的・合理的です。ちょっとファンタジイにしては、基調が明快で健全すぎるくらいです。
しかし、ぼくはこうした作品を読むと、逆にファンタジイの多様性・柔軟性に触れたようで嬉しくもなるのです。子供の頃読んだおとぎ話、あのワクワクするようなストーリー性への期待は、何といってもこのタイプの作品に如くものはありませんから。もちろん、作中から寓意性・象徴性をさぐり出すタイプや、あるいはダンセイニらのように詩的美しさ、それから様式美などを求めていくファンタジイなど、最初にも述べたように機能面から言ってもファンタジイは種々雑多です。ですが、そう言ったタイプのものが得てして凝った重たい造り[#「凝った重たい造り」に傍点]になるのに比し、この“アンノウン”タイプは小説のアイデアやストーリーに重点を置いている分だけじつに軽い。もとより感動の大きさはそう期待できなくても、その分じつに気軽に楽しい時間が使えるのです。そして、思うのですが、やはりこの明快さ・楽しさ・磊落さというのは、SFの一面――合理性から来ているのだと思います。
作者の紹介が遅くなりました。ピアズ・アンソニイ、一九三四年生まれ。すでに、『縄の戦士』(ハヤカワSFシリーズ3261)というSFが訳されているので、名前はご存じの方も多いでしょう。SF界では前記『縄の戦士』をはじめ、一九六〇年代末期にそれこそ一大活火山のように、佳作・秀作をつぎつぎと発表し、かなりの注目を集めた人です。それが、七〇年代に入ると急に沈黙し、もう書けなくなったのかなと思っていた矢先、一九七七年から十年前を上回るペースで作品を発表しはじめたという、ちょっと変ったタイプです。
その一九七七年カンバックのきっかけとなったのが、本書『カメレオンの呪文』を第一部とするファンタジイ長篇三部作。それまで主にストレートなSFがほとんどだったアンソニイのファンタジイということで、かなり話題になりました。また、じっさいに好評で、イギリスのファンタジイ・ファンの選ぶ英国幻想文学賞を翌年に受けているほどです。
もっとも、このアンソニイという人、じつはかなりファンタジイの熱心なファンでもあり、すでに第一期に活躍したころ、アラビアン・ナイトの埋れた一挿話という形で『ハサン』という長篇を書いています。こちらは純粋なパスティーシュですが、アンソニイのストーリー重視の筆致が〈アラビアン・ナイト〉という素材によく生かされ、なかなか楽しい作品になっているといえるでしょう。
こうして、本書の好評に気をよくした彼は、“ザンス”を舞台として第二作『THE SOURCE OF MAGIC』(一九七九年)、第三作『CASTLE ROOGNA』(一九八〇年)と書きついでいきます。第二作では、この第一作が終ってからちょうど一年後に、ビンクは最愛の妻を残してザンスの魔法の源を探りに行くという設定になっており、第三作では、第二作の過程で生まれた息子のドールが活躍することになります。いずれも、本作品にも増して、奇妙な生き物や世界の現われる楽しい筋書になっています。アンソニイは、この〈魔法の国ザンス〉三部作と並行して、またべつにファンタジイとSFの混血のようなシリーズも書きはじめたようで、第二期はかなりファンタジイ中心の活躍がつづきそうです。大いに期待されるところでしょう。
魔法の国ザンス1
カメレオンの呪文 〈FT31〉
著者 ピアズ・アンソニイ
訳者 山田順子
一九八一年五月三十一日 発行
一九八九年二月二十八日 十刷
発行所 株式会社 早川書房
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このテキストは、
(小説) [ピアズ・アンソニイ][1977] 魔法の国ザンス 第01巻 - カメレオンの呪文.rar やっつけNZKP00P3mi 177,995,669 097e6cf13b77393870e24f84faa3795ff83fde3e
を元に、小説画像再配置ツール v08-12bでノンブル削除、余白を統一したものを、
e.Typist v11 体験版と読んde!!ココ v13体験版でそれぞれOCR、テキスト化し、
エディタのテキスト比較機能で比較して校正しました。
大画像、高画質の画像版を放流された やっつけNZKP00P3mi 氏に感謝。
滅茶苦茶認識率高かったです。
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約束を破らずに、ぼくらを片づけることができる」ビンクは言った
文末の「。」欠け
2303行
切り口からおレンジ色の樹液を
おレンジ色 → オレンジ色 のミスでしょう
2417行
たとえ最初のひき突きで殺せなくても、
ひき突き → ひと突き では?
3463行
雑誌そのものは、戦時の紙下足下に
紙下足下に → 紙不足下に のミスと思われ
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