アンブローズ・ビアス
ビアス怪異譚1「ありえない話」
目 次
ありえない話
ハルピン・フレーザーの死
マカーガー峡谷の秘密
ある夏の夜
月明かりの道
死の診断
モクスンの主人
猛烈な格闘
双生児の一人
亡霊の谷
シロップの壷
ステーリー・フレミングの幻覚
取り戻した記憶
幼い浮浪児
「死人の谷」の夜の出来事
あとがき
[#改ページ]
ありえない話
ハルピン・フレーザーの死
一
死が作り出す変化ほど、大きな変化を示すものはない。一般に肉体を離れた霊魂は時にのぞんで立ち帰り、往々にして生者によって目撃される(元の肉体を備えていた形で現われる)ものであるが、霊魂の宿らぬまことの死体が歩きまわることも間々あった。こうして生き返ってきた亡骸《むくろ》は生来の愛情もなければ、なんの記憶もなく、ただ憎しみのみがあるということは、生き長らえて出会った人々の証言するところである。さらにまた、この世において穏和だった霊魂の中には、死によって悪そのものになるものも知られている。
[#地付き]――ハーリ
真夏のある闇夜、一人の男が森の中で夢も見ない眠りからさめると、地面から頭をもたげた。そして、しばし闇を見つめて、「キャサリン・ラルー」といった。それっきり何もいわなかった。それだけのことをなぜ口にしたのか、男にも理由はわからなかった。
その男は、ハルピン・フレーザーといった。以前はセント・ヘリーナに住んでいたのだが、いまはどこに住んでいるのか定かでない。なぜなら、彼は死んでいるからだ。彼の下には枯葉と湿った地面しかなく、彼の上には葉の落ちた木の枝と、ぽっかりとそこから大地がぬけ落ちた空しかない森の中で常に眠りを取る者には、長命を望むことはできない。フレーザーはすでに三十二という年に達していたのである。世の中には、この年齢を大変な老年と見るものが何百万人もいる。中でもとりわけもっとも善良な者たちがそうだ。それは子供たちである。人生の航海を、そのいで立つ港から眺める者たちには、相当な距離を航海した船が、もうすでに遠いかなたの岸のすぐ近くまできていると見えるものなのだ。しかしながら、ハルピン・フレーザーが野ざらしになって死にいたったということは定かでない。
彼は一日中、ナパ河流域の西にある丘陵にはいりこみ、鳩だとか、そういった季節の小さな獲物をさがしまわっていた。午後おそくなって空には雲があつくたれこめ、彼は方角を見失ってしまった。終始丘を下っていきさえすればよかったのだが――どこであろうと、道に迷った時には、それが安全な方法というものだ――踏み分け道がなかったためにひどく手間取って、まだ森から出ないうちに夜がきてしまった。真っ暗闇の中でクマコケモモだの、その他の下生えの茂みを突っ切っていくこともならず、まったく途方に暮れ、疲労困憊しきって、ついに大きなマドローニャの木の根近くに横になると、そのまま夢も見ない眠りに落ちこんでしまった。それから数刻して、折りしもちょうど真夜中に、神の神秘な使者の一人が、数えきれぬほどの仲間の大群の先頭をきり、一条の曙の光が現われそめると同時に、西へ向かってすべるようにかすめ去った時、眠っている男の耳に目ざめよという言葉を唱えた。男は起き直ると、なぜだかわからずその名を口にしたのだが、誰の名だかも男は知らなかった。
ハルピン・フレーザーは別にたいした哲学者でもなければ、科学者でもなかった。森の中で夜中に深い眠りから目がさめて、自分の記憶にもなければ、ほとんど気にもとめたことのない名前を口にしたからといって、この奇妙な現象を調べてみたいという好奇心がかきたてられることもなかった。奇妙なことだとは思ったが、夜は冷えこむという季節的な推定におとなしく従うかのように、お義理にちょっと身ぶるいをすると、また横になって眠りこんだ。ところが、こんどはもはや夢も見ない眠りではなかった。
夏の夜の濃くなっていく闇の中に白く浮かぶ、ほこりっぽい道を歩いていると思った。その道がどこからどこへ通じているのか、またなぜその道を旅しているのか、彼にはわからなかった。といっても、夢ではよくあるように、すべては単純で自然に思えた。なぜなら、「寝床の彼方の国」では、驚きは心配を停止させ、判断が休止するからである。やがて彼は分かれ道にきた。街道から分かれている道は通る旅人も少ないらしく、いや、事実は、絶えて久しく見棄てられているように見えたが、それはきっと何か悪へ通じる道のせいだと彼は思った。それでも、なんの躊躇もなく、何か一刻の猶予もならぬ必要にかり立てられるかのように、彼はその道へはいりこんでいった。
先をいそいで進むにつれ、どんなやつかはっきりと想像はできないが、目に見えぬ存在がこの道につきまとっているのがわかってきた。道の両側の木々のあいだから、とぎれとぎれの、とりとめもないささやき声が聞こえてきた。それは知らない言葉だが、それでも部分的にはわかった。彼にはそのささやきが、自分の肉体と魂に対してたくらむ非道な陰謀をきれぎれにいっているように思えた。
夜になってから、もう長い時間がたっていた。それでも、彼が旅している果てしもない森は、ちらちら明滅する青白い光で照らし出されていたが、それは少しも四方に光をまき散らしていなかった。その神秘な光を浴びても、何の影も作り出していなかったからだ。古い車輪の跡の溝のようなくぼみに、最近の雨でたまったらしい浅い水のたまりが、真っ赤な光を放って彼の目をとらえた。彼はしゃがみこんで、片手を水たまりに突っこんだ。指が真っ赤にそまった。血だったのだ! 気がつくと、あたり一面、血だらけだった。道ばたにびっしりと生い茂っている雑草も、その大きな葉には斑点やしぶきとなって血がとびちっていた。二つのわだちの間の、乾いた土のところどころに、真赤な雨でも降ったように、赤いあばたや、はねができていた。木々の幹は、大きな鮮血の斑点でよごれ、葉むらからは露のように血がしたたっていた。
以上のことを彼は、当然予期していた通りのことになったという思いと少しも矛盾しないような恐怖の念で、観察した。それもすべては、自分が罪を犯した意識はあっても、どうにもしかとは思い出せぬ犯罪の償いであるかのように思えた。威嚇とも、謎ともとれる周囲の不気味な光景に加えて、罪を犯した意識はさらに恐ろしかった。彼は記憶の中で過去の生活をたどってみて、罪を犯した時を再現してみようとしたが、むだだった。さまざまな場面や出来事が騒然とひしめき合って心に浮かんできた。一つの場面が現われて別の場面をぬぐい消したり、それとごっちゃに重なり合ったりして混乱し、曖昧になるばかりで、どこにも彼がさがし求める光景の片鱗すらつかめなかった。できないとわかると、恐怖はさらにつのった。相手が何者かもわからず、理由もわからずに殺人をした者のような気がした。状況は、まさに身の毛もよだつようだった――無言の恐しい威嚇をこめて燃えている光、毒々しい植物、誰が見ても一目でわかる陰鬱な、悪意にみちた性格をおびている木々、それらが目の前で公々然と彼の平安を破壊しようと企らんでいる。頭上からも、前後左右からも、はっきりと聞き取れる、ぎょっとなるささやき声と、明らかにこの世の生きものとは思えぬものの姿が迫ってくる――彼はもう恐ろしさに耐えきれなくなった。声も立てられず、身動きもできぬように自分の全機能を金縛りにしている邪悪な呪文を打ち破ろうと必死の努力で、声を限りに叫んだ。のどが張りさけんばかりに出た声は、まるで無数の聞きなれぬ音になって、どもりながら片言のおしゃべりをして森の遠くの果てへと流れていき、やがて消えて静かになった。すると、あたりはまた元と同じになった。だが、彼は抵抗を開始すると、気力がわいてきた。彼はいった。
「このおれがおめおめと黙って引き下がってなるものか。この呪われた道を旅する者の中には、悪意のないおおぜいの人がいるはずだ。おれはその人たちに証拠を書き残して訴えてやる。こんなひどい目に会ったことを、おれが耐えているこの迫害を、伝えてやるぞ――このおれが、ただの無力な人間、悔悟者、なんの害もしない一介の詩人がだ!」ハルピン・フレーザーは悔悟者になった時だけ詩人であった。夢の中でのことだが。
服のポケットから、小さな赤皮の紙入れを取り出した。その半分にはメモ用の紙がとじこんであった。だが、鉛筆がはいっていないのに気がついた。茂みから小枝を折り取って、それを血だまりの中にひたすと、手早く書きしるした。だが、小枝の先が紙にふれたと思った瞬間、低い、気違いじみた笑い声が測り知れぬ遠いかなたから湧き上がり、刻々に大きくなり、刻々に近づいてくるように思えた。生気もなく、冷酷で、陰にこもった笑い声、深夜の湖畔にぽつんと一羽のアビが鳴く声を思わせた。笑い声は最後にすぐ近くで、この世のものとも思えぬ絶叫となり、やがて次第に小さくなって消えていった。それはまるで笑い声を上げたその忌わしいものが、そいつのやってきたあの世へ引き下がっていったかのようだった。だが、男にはそうは感じられなかった――まだ近くに、動かずにいると思った。
異様な感じが、彼の心身にゆっくりとひろがっていた。自分のどの感覚が影響されているのか――もしそんなことがあるとすればの話だが――彼自身にもわからなかったろう。感覚というよりもむしろ意識と思われた――何か圧倒的な力を持ったものがいるという確信に似た、神秘的な精神の働き――周囲に群れをなしてうごめいている目には見えぬものとも類を異にし、力においても優っている、何か超自然的な悪意があると確信した。そいつが、あのぞっとする笑い声を上げたのだとわかった。そいつが今度は近づいてくるようだった。どの方角からくるのかわからなかった――見当をつける気にもなれなかった。これまでの恐れはいっぺんに忘れ去ってしまったか、あるいは彼を金縛りにしていた巨大な恐怖感に溶けこんでしまった。それとは別に、いまはただ一つの考えしかなかった。亡霊のうろつくこの森を通りぬける善良な人々への訴えを書き上げておくということだ。もし万に一つも死滅の呪いを受けずにすんだら、その人たちがいつか自分を救い出してくれるかも知れないからだった。彼はすさまじい速さで書きまくった。手にした小枝は血をしたたらせ、あらたに血だまりにつける必要もなかった。ところが、途中まで書き進んだ時、はたと手が思うままに動かなくなったと思うと、両腕がだらりと脇にたれ、紙入れが地面にぱたりと落ちた。動こうとしても、叫ぼうとしても力がぬけてしまい、ふと気がつくと、自分の母親のはげしくひきつった顔と、うつろな、死人のような目をじっと見つめていた。母親が死装束の姿で、青ざめ黙って立っていたのだ!
二
青年のころ、ハルピン・フレーザーは、テネシー州ナッシュビル市で両親と共に暮らしていた。フレーザー家は、南北戦争がもたらした破壊にも持ちこたえたといった社会の上層の地位にある富裕な一家だった。子供たちは、その時代と土地にふさわしい社交的、教育的な機会に恵まれ、快い行儀作法、教養あるものの考えかたを身につけて、りっぱな社交と教育に応えていた。ハルピンは末っ子だったし、それほど丈夫でもなかったから、おそらくいささか甘やかされたのであろう。彼は母親の過保護と父親の放任という二重の不利な目に会った。父のフレーザーは南部の資産家の一人としてならざるはないもの、つまり政治家であった。彼の属している地方、というよりは彼の住む地域と州は、横暴なまでに彼の時間と注意を要求したので、家族のそれらに対しては、政界のボスどもの耳も聾せんばかりの熱弁や、彼自身のもふくめた絶叫などのためにいささかつんぼになった耳を、かしてやるのが関の山だった。
若いハルピンは夢見がちの怠惰、というよりロマンチックな傾向があり、彼がそれを職業とするべく育てられてきた法律よりも、いささか文学に熱中していた。現代的な遺伝学上の信念を口にする親戚連中のあいだでは、母方の曾祖父である故マイアロン・ベーンが、月下の地上に再来した〔シェクスピア「ハムレット」のせりふ〕かのように、彼は曾祖父の性格に似ているとよくいわれていた――ベーンは在世中、月の軌道をさまよって大いに植民地時代のかなり著名な詩人気取りでいたのである。この先祖の「詩集」(自費で印刷はしたものの、冷遇した市場からとうの昔に引上げてしまったが)の豪華本の誇らしげな所有者にならなかったフレーザー家の人間は、たしかにフレーザー家の一員としては珍らしかったにしても、精神的後継者の身でありながら、どうも理窟に合わぬ話だが、そのりっぱな故人を尊敬したがらぬということは、特に気をつけて見なくとも、容易にわかった。ハルピンは、いつなんどき、詩歌でめえめえやり出して、おとなしい白い羊の群に恥をかかすかわからない黒い羊のような、知的厄介者として、かなりみんなから非難されていた。テネシー州のフレーザー家といえば実際派であった――あさましい営利に血道を上げるという俗な意味での実際派ではなく、政治という健全な職業には不向きな男の性質を頑固なまでに軽蔑するという一家であった。
若きハルピンのために公平を期して一言しておくなら、歴史と一家の伝統から見て元をただせば、植民地時代のその有名な詩人のものともいうべき精神的、道徳的特徴の大部分がかなり忠実にハルピンの中に再現されているとはいっても、その天賦の才能や能力を彼が受けついでいたという説は、まったくの推測によるものであったといえよう。彼は詩の女神の愛をかち取ることなど夢にも知らなかったばかりか、実は、「賢者をも悩殺する者」からわが身を守るため、ただの一行の韻文さえ正確に作ることはできなかったろう。それでも、眠っている才能がいつなんどき目ざめて、七絃琴の調べをかなでるか、それは神ならぬ身、知る由もなかった。
さて、とにかくこの若者はだらしのないやつだった。彼と母親とのあいだには、この上もない完全な共感があった。というのも、内心ひそかにこの婦人はみずから、いまは亡き大マイアロン・ベーンの熱烈な弟子をもって任じていたからである。といっても、女性として極めて一般に、また当然に賞讃される如才のなさ(これは本質的にはずるさと同じだと主張するわからず屋の中傷家がいたのであるが)をもって、あらゆる人の目からおのれの弱点をかくすように常に気をつけていた。だが、同じ弱点を持つ息子に対してだけは別だった。そのことについての二人の共通したうしろめたさが、二人を結ぶ絆をいっそう強くした。もしハルピンの少年時代に、母親が彼を甘やかしてだめにしたというなら、甘やかされるのに彼自身も一役買ったことはまちがいない。選挙の結果がどうなるか、そんなことなど気にもかけない南部人がおとなになったらどうなるか、そんなおとなにハルピンが成長するにつれ、この美しい母親――幼いころから、彼はこの母親をケイティと呼んでいた――とのあいだの愛情は、年ごとに強くなり、こまやかになっていった。この二人のロマンチックな性質には、一つの徴候として、世間一般が軽視している現象、すなわちこの世のあらゆる人間関係にある性的要素の支配、が現われていたのだが、これは血族の関係をさえ強く、やさしく、美しくするものである。二人はほとんど分かちがたく、他人が二人のようすを見ていると、しばしば恋人同士とまちがえることさえあった。
ある日、ハルピン・フレーザーは母親の私室に入ると、母の額にキスして、止めていたピンからほつれていた黒髪のふさをしばしもてあそんでいたが、明らかに気を落ちつけようと努めながら、きり出した。
「ねえ、ケイティ、もしぼくが二、三週間、用事でカリフォルニアへ出かけていったら、とても気になる?」
その問いには、ケイティが口で答えるまでもなかった。かくそうとしても、彼女のほほがたちまち答えの代りをしていたからだ。明らかに彼女はとても気になるし、しかも、その確たる証拠に大きなとび色の目から涙があふれ出てきた。
「ああ、やっぱり」と、彼女は無限のやさしさをこめて、息子の顔をじっと見上げていった。「いつかはこんなことになると覚悟してなくちゃいけなかったのね。あたしがほとんど夜通し泣き明かしたことがあったでしょう。夜中に、ベーンお祖父さまが夢まくらに立って、ご自分の肖像画のそばにいらして――あの肖像画のように若くて、おきれいだったわ――そして同じ壁にかかってるお前の肖像画を指さしていらしたからだったわ。あたしが眺めると、なんだかお前の顔がはっきり見えないみたいなのよ。なぜって、お前の顔にきれがかぶせて描いてあったからよ、死んだ人にかぶせるようなきれが。お父さまはあたしをお笑いになったけど、でも、お前とあたしには、その夢がただごとじゃないってわかったわね。そして、そのきれの端の下の方の、お前ののどに指のあとが見えたのよ――こんなこといって、ごめんなさいね。だって、あたしたち二人は、こういうことをお互いにかくすなんて、これまでしたことがないんですものね。きっとお前にはまた別の解釈があることでしょう。きっと、それはお前がカリフォルニアにいくことを指《さ》してないのかも知れないわ。それとも、あたしも一緒につれていってくれるのかしら?」
たったいま知ったことに照らしておこなったこの巧みな夢の解釈は、息子のより論理的な頭にはかならずしも全部が全部、気に入ったわけではないことだけは、はっきりさしておかなければならぬ。少くとも一週間、太平洋岸への旅よりももっと単純で、さし迫った――たとえ悲劇的ではないにしても――災いの虫の知らせだと、彼は確信した。自分はいずれ生れ故郷で絞殺される運命なのだというのが、ハルピン・フレーザーの抱いた印象だった。
「カリフォルニアには病気にきく温泉はないのかしらね」フレーザー夫人は、息子が夢の本当の解釈を説明するいとまもないうちに、またいいだした。「リューマチや神経痛の人がよくなる温泉だけどね。ほら、見てちょうだい――この指がとてもこわばってる感じがするのよ。眠ってるあいだ、とても痛くてしょうがない気がするんだけど」
彼女は両手をさし出して息子に見せた。息子にしてみれば笑顔を見せてかくすのが最善の策と考えたかも知れない、この母親の症状について、筆者はいかなる診断も下せぬが、しかし以下のようなことぐらいは一言しておかざるを得ないだろう。それほどこわばったようすもなく、ほんのかすかな痛みの証拠さえ見られない指なら、目新らしい風景の処方を望むいかに美人の患者であろうと、医者の診察を受けたことなど、まずあったためしがないのである。
さて、事の成りゆきやいかにというと、二人そろって変わった義務感を持つ、この二人の変わった人物は、一方は依頼人の利害関係の必要上、カリフォルニアへおもむき、他方は、彼女の夫が客もてなしのことは、さっぱりわからないからという願いに従って、家にとどまることになった。
サンフランシスコに滞在中、ハルピン・フレーザーは、ある闇夜、市の海岸沿いの通りを散歩していた時、自分でもあっけに取られ、わけがわからなかったほど唐突に、船乗りになってしまった。実をいうと、酒に酔いつぶされ、それこそごりっぱな船につれこまれ、むりやり水夫にさせられ、遠い遠い異国へ向けて出帆したのである。彼の不運はこの航海でおわらなかった。船が南太平洋のある島に打ち上げられたからだ。生き残った連中が冒険好きのスクーナー型の貿易船に引き取られ、サンフランシスコにつれ戻されたのは、それから六年もたって後のことだった。
懐中はとぼしかったが、フレーザーはいまはもう何十年も昔のことに思えるその六年間の時と少しも変りなく気位だけは高かった。他人からの助けを受けることなどいさぎよしとしなかった。そして、生き残りの一人の仲間とセント・ヘリーナの町近くで、わが家からの便りと送金を待って暮らしていた時のこと、彼は銃を持って猟に、そして夢を見に、出かけたのであった。
三
物の怪のうろつく森の中で、この夢を見ている男に相対している亡霊――母親にそっくりだが、しかも似ても似つかぬもの――は、ぞっとするほど恐ろしかった! それは彼の心にもはや愛情も、思慕の思いもかきたてなかった。それはすばらしかった過去の快い思い出も伴わずにやってきた――いかなる感傷をも呼びさまさず、さらに美しい感動もすべて恐怖の中にのみこまれてしまった。彼は身をひるがえして、そいつの前から逃げ出そうとした。だが、足は鉛のように重かった。地面から足を上げることもできなかった。両の腕はだらりと横にたれ下がったままだった。目だけが、まだ意志のままになったが、その目を、亡霊の光のない眼球からそらそうとはしなかった。その亡霊こそは、肉体を失った霊魂ではなくて、この物の怪に取りつかれた森を荒すあらゆるものの中で、最も恐ろしいものだとわかった――霊魂のない肉体なのだ! そのじっと見すえるうつろな目つきには、愛情もなく、憐憫もなく、知性もなかった――そんなものに慈悲を訴え求めても、何になろう。「控訴は成立しないだろう」と、彼は意味もなくかつての職業用語を使って考えると、まるで葉卷の火が墓を照らし出したかのように、事態はいっそう恐ろしく見えてきた。
しばしの間、しかもそれは世のすべての人々が老齢と罪のために白髪になったほどにも長く感じられ、そして、物の怪の森が、この途方もない恐怖の頂点に達してその目的を果たすと同時に、彼の意識からさまざまの形や音と一緒に消え去ってしまったと感じられたのに、亡霊だけは一歩と離れていないところに突っ立って、野獣さながらの知性のない兇悪な目つきで彼をじっと見つめていた。と、亡霊はいきなり両手を突き出したと思うと、身のすくむような兇悪な形相で彼に跳びかかってきた! その行為は彼のからだの精力を解き放ったが、金縛りになっている意志はそのままだった。思考は依然として呪縛されていたが、力強い体と敏捷な四肢は、それ自体の感覚を失った盲目的な生命を与えられ、頑強によく抵抗した。一瞬、彼にはまるで自分が見物人として、死んだ知性と呼吸している機械装置との間で争っている、この不自然な試合を見ているような気がした――夢では、そんな幻想がよくあるものだ。やがて彼は、まるで一挙に自分の体内に跳びこんできたかのように、本來の自己を取り戻した。そして、懸命になった自動人形は、その兇悪な敵にまさるとも劣らぬほど敏活、狂暴に意志を働かした。
だが、どんな人間が、夢の中の生き物に対抗できようか。ありもしない敵をつくり出す想像力は、すでに敗北しているのである。闘いの結果は、闘いの原因でもある。必死に闘ったにもかかわらず――徒労におわったとも思えるほど力強く活躍したにもかかわらず、冷たい指がのどをしめつけてくるのがわかった。地面におしたおされると、自分の手の幅もないすぐ上に、死人のひきつった顔が見えた。と、すべては暗闇になった。遠くで太鼓をたたいているような音――むらがり集まるさまざまな声のつぶやき、みんなに黙れと合図するような、遠くのひときわ鋭い叫び声。こうして、ハルピン・フレーザーは自分が死んだ夢を見たのである。
四
暑い、澄んだ夜が明けると、ぐっしょりとぬれるような露のひどい朝になった。前日の午後も半ばごろ、うっすらとした一吹きのもや――ほんの大気が濃くなったような、わずかばかりの淡い雲――が、セント・ヘリーナ山の西側、山頂近い不毛の高い付近に沿ってへばりついているのが見られた。それはまことにうすく、透明で、気のせいで見えるようにしか思えなかったから、「早く見ろよ! すぐに消えてしまうぞ」と、見た人がいたらそういったかも知れない。
ところが、たちまちのうちに、それは大きくひろがり、濃くなっていくのがわかった。一端は山にへばりついているのに、他の一端は、低い斜面の上空へと、どんどんひろがっていった。と同時に、それは南北へとひろがって、まったく同じ高さの山腹から、呼吸されるのを知って企んでいたかのように湧き出してきたらしい小さな霧のかたまりをつぎつぎにのみこんでいった。こうして、霧はどんどん大きくなって、ついに谷から山頂の眺めを閉ざした。やがて、谷の上空も、どんよりした灰色の空におおわれていった。谷の奥近くの、山すそにあるカリストーガの町では、星の見えない夜から、太陽の見えない朝を迎えた。霧は、谷の中にまで下りてきて、牧場をつぎつぎにのみこみ、南の方へのびひろがり、ついに九マイルもはなれたセント・ヘリーナの町までおおいかくしてしまった。道の土ぼこりは舞い上がらず、木々は水滴をたらし、鳥は雨覆羽《あまおおいはね》に身をつつんで声も立てずじっとしていた。朝の光は、色彩も輝きもなく、青ざめ、生気もなかった。
二人の男が夜の明けそめるころにセント・ヘリーナの町を出て、カリストーガへ向かって谷を登る道を北へ歩いていた。二人は銃をかついでいたが、こういうことに知識のある者なら誰も、二人を鳥や獣のハンターとまちがえることはあり得なかった。彼等は、一人はナパ郡の保安官代理、一人はサンフランシスコの探偵であった――名前はそれぞれ、ホーカーとジャラルソンといった。二人の仕事は人間狩りだった。
「どれくらいあるんだね」二人が大またで歩いている時、ホーカーがきいた。二人の足は、道のしめった表面の下から土ぼこりを白っぽく舞い上げていた。
「白い教会かね? ほんの半マイル先だよ」と、相手が答えた。「ついでだが」と、彼はいいそえた。「そいつは白くもなければ、教会でもないんだよ。そいつは廃校になった校舎で、長いこと放ったままなんでねずみ色になってるよ。そりゃあ、ひところは礼拝などもそこでやっていたさ――白かったころはね。それに、詩人のよろこびそうな教会墓地もあるよ。どうしてわざわざあんたを迎えにやって、武装してくるように伝えたのか、見当がつくかね」
「おいおい、おれはそんなことであんたを困らしたことなんか、いっぺんもないぞ。あんたはいつだって、ころ合いを見て、ちゃんと打ち明けてくれてたじゃないかね。だけど、まあ一つ当てずっぽうにいってやるか。その教会墓地の死体のどれかを逮捕する手伝いをしてほしいってとこだろう」
「ブランスコムをおぼえてるだろう?」と、ジャラルソンは連れの機知を適当にいなしてきいた。
「てめえの女房ののど首をかき切った野郎だね。忘れてたまるか。あいつのおかげで、おれは一週間むだ働きして、おまけに、手弁当で苦労させられたんだからな。いまは五百ドルの賞金がかかっているが、誰もあいつの影も形も見た者はいないんだ。まさか、あんた、その野郎のことを――」
「そうさ、そいつのことさ。やつは始めっからずっと、あんたたちのすぐ鼻っ先にいたのさ。夜になると、白い教会の古い墓地にやってくるんだ」
「畜生め! そこは、やつの女房が埋葬してあるとこじゃないか」
「まあ、あんたたちは、やつがいつかは女房の墓に舞い戻ってくるんじゃないかと、それくらいのことを疑ってみる勘がなかったもんかねえ」
「まさかあんなとこ、やつが舞い戻ってくるなんて、誰にも思いつくはずはないからなあ」
「だけど、あんたたちは、ほかの所はしらみつぶしに当ったじゃないか。それが失敗だとわかって、おれはあすこにあみを張ったのさ」
「で、やつを見つけたのか」
「それがいまいましいじゃねえか! やつの方がおれを見つけやがったのさ。あの悪党めが先に銃を突きつけやがったんだ――とことんおれをホールドアップさせて、さんざんに歩きまわらせやがったのさ、やつがおれをぶちぬかなかったのは、まったく天のお情けだ。まあ、したたかなもんだよ、あいつは。なんなら、あの賞金の半分でもおれには結構なんだよ、もしあんたが困ってるんなら」
ホーカーは気さくに笑って、自分の債権者たちはそれほどうるさくせがみ立てないのだと説明した。
「おれはただ、あんたにその場所を見せて、一緒に計画をねりたかっただけさ」と、探偵は説明した。「それに、たとえ白昼でも、武装しとく方が安全だと思ったのさ」
「あの男はきっと気が狂ってるんじゃないかね」保安官代理はいった。「賞金は、やつを逮捕して、有罪の判決が出たばあいだよ。やつが狂っていれば、有罪にならんかも知れんだろう」
ホーカー氏はそういう裁判の敗けもあり得ることを考えると、心底から不安になり、思わず道の真ん中で立ち止まったが、すぐにまた歩き出したものの、熱意はいくらかさめていた。
「そういえば、そうも見えるな」と、ジャラルソンも相づちを打った。「まあ、大昔の天下に名だたる浮浪者どもならいざ知らず、あれほどひげぼうぼうの、髪もぼうぼうの、着ているものもきたならしい、何もかもみじめったらしいやつは、まず見たことがないね。これだけはみとめざるを得ないな。しかし、おれはいままであいつに血道を上げてきたんだ。見逃してやる気にはなれんね。とにかく、われわれにとっちゃ、これは大手柄じゃないか。他のやつは誰一人、まさかあいつが『月の山脈』〔アパラチアン山系中のホワイト山脈の別称〕のこっち側にいようとは知らんからな」
「わかった」ホーカーはいった。「とにかく行って、その場所をたしかめてみよう」それから、ひところ、好んで墓碑銘に使われていた文句を借用していいそえた。「『やがてそなたの横たわる所』をね――つまり、あのブランスコムが、あんたと、あんたの余計なお節介にうんざりしてるかどうかをさ。ところで、こないだ聞いた話だが、ブランスコムというのは、あいつの本名じゃないってね」
「なんていうんだね?」
「それが思い出せないんだよ。あの野郎にはもうすっかり興味をなくしてしまってたんでね。それに、記憶にしっかりとめておかなかったしね――パーディとか何とかいったかな。あいつがのどを切るなんて悪趣味なことをやった、その相手の女は、やつが出会った時は後家さんだった。女は親戚か何かを探しに、カリフォルニアにやって来てたんだな――時々、そんなことをやる人間がいるものさ。だけど、これはあんたも知ってるさね」
「当り前だ」
「だけど、正しい名前を知らずに、どんなラッキーな霊感で正しい墓を見つけ出したんだね。あいつの本名を教えてくれた男の話じゃ、墓標には本名が刻みつけてあったそうだけどな」
「本人の墓は知らないんだが」ジャラルソンは、彼の計画でかんじんの点についてまったく無知だったことをいささか不承不承にみとめたふうだった。「大体のところは、いつも注意して見ていたよ。けさのわれわれの仕事の一つは、その墓の正体を確かめることになるだろうな。さあ、白い教会についたぞ」
それまで道は長いあいだ、両側が野原になっていたのだが、いまは、左側には、樫や、マドローニャの木や、霧の中から下の方だけがぼんやりとお化けのように見える、巨大なもみの木の森があった。下生えがところどころ密生していたが、一歩たりと足のふみ入れられるところはどこにもなかった。しばしのあいだ、ホーカーには建物らしいものは何も見えなかった。だが、二人が道をそれて森の中に入りこむと、霧をすかして灰色のぼんやりした輪郭が、大きく、はるかかなたに姿を現わしてきた。数歩進むと、手をのばせば届きそうなところに、はっきりと、霧にぬれてどす黒く見えてきた。大きさも大したものではなかった。ありきたりの田舎の校舎の格好をしていた――荷箱型の建築といった類いである。土台には石をすえ、屋根はこけむし、窓がぱっくり口をあけ、窓ガラスも、窓わくも、とうの昔にはずれてしまっていた。それは廃墟のようになっていたが、廃墟ではなかった――よその土地のガイドブック業者に「過去の記念碑」として知られているものの代用物、カリフォルニアの典型的なものだったからだ。このおもしろくもない建物にはろくに目もくれず、ジャラルソンはしずくのぽたぽたたれる前方の下生えの中に入りこんでいった。
「やつがどこでおれに銃を突きつけたか、教えてやろう」と、彼はいった。「ここが墓地だ」
茂みの中のここかしこに、いくつかの墓を、時にはただ一つだけの墓を中にして、小さな囲いがあった。それらが墓だとわかったのは、きたならしく汚れた石や、いろんな方向にかしいだり、中には完全に倒れ、そして上下が朽ちかけている枝だの、それらを囲んでいるこわれた杭垣《くいがき》だの、あるいは数は少いが、落ち葉のあいだから砂利をのぞかせている土まんじゅうなどのせいだった。多くのばあい、哀れな人間の痕跡――それは「大きな輪をなして悲しむ友人たち」を置きざりにし、今度は彼らから置きざりにされた者たち――が横たわっていた場所を示すものは何もなかった。ただあるとすれば、喪に服した人々の心の沈みこんだ嘆きよりも永続した、地面に沈みこんだくぼみくらいのものだった。小道は、たとえ小道がかつてあったにしても、とうの昔に消えていた。かなり大きな木々が墓から生い育つことができた根や枝で、囲いの柵を押しのけていた。あたり一面に、忘れさられた死者の村にこれほどふさわしく、これほど意味ありげに見えるところはどこにもないような、あの顧みられず、朽ち果てている空気が立ちこめていた。
ジャラルソンが先に立ち、二人が若木の茂みをかき分けて進んでいた時、このすこぶる冒険心に富んだ男が突然立ち止まると、散弾銃を胸にかまえ、そっと警告の合図をして、じっと突っ立ったまま、前方の何ものかに目をこらしていた。連れは、茂みにじゃまされて何も見えなかったが、精いっぱい相手の姿勢にならい、じっと立ったまま、不測の事態に備えていた。だがすぐにジャラルソンは用心深く進んでいき、連れもあとに続いた。
もみの巨木の枝の下に、一人の男の死体が横たわっていた。二人は無言のままそばに立って、まっ先に注意をひく特徴を調べるように見下ろした――顔、姿勢、服装など、すべては、口にこそ出さないが、同情と好奇心の入りまじった疑問に対して、即座に、明白に答えていた。
死体はあおむけに、両足をひろげてたおれていた。片方の腕は上へ突き出し、他の片方は横に突き出していた。だが、後者は鋭角的にまげて、手はのど元近くにあった。両手ともしっかりにぎりしめられていた。姿勢全体は、必死ではあるが無益の抵抗を示していた――だが、何に抵抗したのか?
近くに散弾銃と獲物袋がころがっていた。獲物袋のあみの目から、獲物の鳥の羽根がのぞいていた。そこらじゅうに、はげしい格闘の跡が残っていた。つたうるしの小さな若枝がへしまげられ、葉も皮もはぎ取られていた。朽ちた落ち葉が死体の足の両側に、死体の足とは違う足でうず高く長くつみ上げられていた。腰の近くには、まぎれもなく人間が両ひざをついた跡がついていた。
格闘がどんなものであったか、死人ののどと顔を見れば一目瞭然であった。胸や両手は白いのに、のどと顔は紫色、いや、どす黒いといってよかった。肩は低い土まんじゅうの上にのっていた。頭は、ほかには考えられないような角度でのけぞっていた。かっと見開いた目はひきつって、足の方とは反対の方角をうつろににらんでいた。開けた口いっぱいのあぶくから、黒くふくれ上がった舌がだらりと突き出ていた。のどは、すさまじい打身の跡を示していた。単に指の跡だけではなく、やわらかな肉の中に食いこんでいったにちがいなく、しかも死んでからも長いあいだ力まかせにしめつけていたままの強力な二本の手で作られたあざや裂傷までついていた。胸、のど、顔はぬれていたし、衣服もぐっしょりぬれていた。霧が集ってできた水滴が、髪や口ひげに点々とついていた。
以上のことを、二人の男は口もきかずに、ほとんど一目で見て取った。やがて、ホーカーがいった。
「可哀いそうに! ひどい目にあったんだな」
ジャラルソンは油断なくまわりの森を見張っていた。散弾銃を両手に持ち、撃鉄を起こし、引金に指をかけていた。
「こいつは狂人のしわざだ」彼はまわりの森から目をはなさずにいった。「やったのはブランスコムだ――パーディだよ」
地面のふみつぶされた落ち葉に半ばかくれて見えない何ものかが、ホーカーの注意を引いた。それは赤皮の紙入れだった。ホーカーはそれをひろい上げて、開けてみた。中にメモ用の白紙の束がはいっていた。最初のページに「ハルピン・フレーザー」という名が記してあった。そのあとの数ページに赤でしたためた――まるであわててなぐり書きしたかのように、やっと判読できた――以下のような詩があった。それをホーカーは声を出して読み上げた。その間も、彼の連れは、二人だけの狭い世界のうす暗い付近を警戒しつづけ、重たげなあらゆる枝からしたたり落ちるしずくの音を耳にしながら気になるものに聞き入っていた。
[#ここから2字下げ]
不可解な魔力に呪縛され、わたしは
魔法の森のほの暗い中にたたずむ
森のいとすぎと桃金嬢《てんにんか》はたがいに枝をからませていた
意味ありげに、不吉な兄弟同士のごとく
思いに沈む柳は水松《いちい》にささやきかけていた
下には、イヌホウズキとヘンルーダとが
奇怪な、陰鬱な形に織りなした不凋花《ふちょうか》と
おぞましい刺草《いらくさ》と共に生い茂っていた
小鳥の歌声もなく、蜜蜂のうなりもない
若葉一つすこやかなる微風にもそよがず
空気は澱みきっていた。静寂だけが
木々の間で息づく生きものだった
陰に企む霊はおぼろ夜にささやき
墓場のしめやかな密誦が半ば聞こえてくる
木々はすべて血を滴らし、木の葉は
あざやかに朱に輝く魔女の光をあびてきらめいていた。
わたしは大きく叫んだ!――しかも呪文は解けず
わが気力と意志にのしかかり
精もなく、根《こん》もなく、希望もなく見棄てられて
わたしは怪異な兇兆と闘った
ついに目に見えぬ――
[#ここで字下げ終わり]
ホーカーは読むのをやめた。もはや読むべきものがなかったからだ。原稿は行の途中で途切れていた。
「ベーンを思わせる調子だな」と、ジャラルソンはいった。この男は彼なりにいささか学があったのである。警戒心はすでにうすらいでいて、死体をじっと見やっていた。
「ベーンて何者だね」ホーカーはさして好奇心もなくたずねた。
「マイアロン・ベーン、わが国の初期のころに華やかな名声を得たやつだ――百年以上も前にな。おそろしく陰気なものを書いてたね。おれはそいつの作品集を持ってるけどね。この詩は、作品集には入ってないが、きっと何かのまちがいで落とされたんかも知れんな」
「寒いなあ」ホーカーはいった。「引き上げようや。ナパから検視官に来てもらわなくちゃならんね」
ジャラルソンは何もいわずに、同意して歩き出した。死人の頭と肩がのっている土が少し盛り上がった端を通りかかった時、森の朽ち葉の下にかくれた何か固い物に、片足がぶつかった。彼はわざわざそれを蹴とばして、見えるようにした。それは倒れ落ちた墓標で、かろうじて判読できる文字で「キャサリン・ラルー」とペンキで書いてあった。
「ラルー、ラルーだ!」ホーカーが突然活気づいて叫んだ。「そうだ、これがブランスコムの本名だよ――パーディじゃない。それに――こりゃ変だぞ! いま急に思い出したが――殺された女の名前は、元はフレーザーっていったんだよ!」
「こいつは何だかよからぬ秘密があるぞ」と、ジャラルソン探偵はいった。「こういう手合いのやつは、おれは大嫌いだよ」
霧の中から――どうやら大変な遠くから――笑い声が、二人のとこまで聞こえてきた。低い、ゆっくりとした、生気のない笑い、獲物を求めて夜の砂漠をうろつきまわるハイエナのそれにも劣らぬ、ぞっとするような声だった。笑いはゆっくりと高まっていき、刻一刻大きくなり、さらにはっきりと、さらに明瞭になり、恐ろしくなり、ついに二人の狭い視野のすぐ外にまで迫っているように思えた。余りにも不自然で、非人間的で、悪魔めいた笑いだったので、さすがに図太い、この二人の人間狩りの男たちも、何ともいいようのない恐怖感でいっぱいになった。二人は銃をかまえるどころか、銃のことすら考えつかなかった。この恐ろしい声の威嚇は、銃などで対抗できるしろものではなかった。それは静寂から生じてきたように、また静寂の中に消えていった。まるで二人のすぐ耳もとで起こったかのような極限の叫び声から、次第に遠のいていって、ついに、最後まで生気のない機械的な調子を保ちながら弱まっていき、無限に遠い静寂の中に消えていった。
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マカーガー峡谷の秘密
インディアン・ヒルの北西方、直線距離にしておよそ九マイルのところに、マカーガー峡谷がある。峡谷といっても大したものではない――木の生い茂った、さほど高くもない二つの尾根にはさまれたくぼみにすぎない。その口もとから水源まで――というのも、峡谷は、河と同様に、峡谷特有の構造をなしているものだ――延長二マイルを越えず、底の幅も、一個所だけが十二ヤード余というにすぎない。冬には水が流れ、早春には干上がるこの小さな渓流の両岸のほとんど全域にわたって、平坦な土地はまったくない。クマコケモモや、シャミソーなどの茂みが、足もふみこめないほどびっしりと密生した山々の急斜面は、この水路の幅だけへだてられているにすぎない。
たまに冒険好きな近在の猟師などが、このマカーガー峡谷に入ってくるだけで、五マイルも離れると、その存在はもとより、名前さえ知られていないのである。その五マイル以内のどの方角にも、名前こそないが、はるかに人目をひく地形上の特色をなすものがいくらもある。だから、この峡谷の名前の由来を地元にたずねて確かめようとしたところで、むだというものだろう。
マカーガー峡谷の中程まで登っていくと、右手の山が、別の峡谷、短い涸《が》れ谷によって引き裂かれている。この二つの峡谷の合流点に、二、三エーカーの平地があり、そこに数年前まで、小さな一部屋きりの古い木造家が、一軒立っていた。この家の建築材料が、わずかばかりで粗末なものではあっても、ほとんど近づきがたいその場所にどうやって集められたのか、解いてみたい難問といったところだが、解決したところで、大きな満足感を味わうだけで、大した得にもなるまい。おそらく、この川床が、改良した道路にもなるのだろう。確かこの峡谷は、かつて山師たちがかなり徹底的に試掘したので、この連中がなんらかの手段を使って、道具や食糧をつんだ駄獣をつれて乗りこんできたに違いない。明らかに彼らのもうけは、マカーガー峡谷と、製材所を自慢のたねにしている文明の中心地とをつなぐためには、相当の出費があっても当然だとするほどの大した金額にはならなかったのだろう。それでも、とにかく、家はそこにあった。いや、その家のあらかたがだ。家はドアも窓わくもなくなっていた。泥と石で作った煙突はくずれ落ちて、ぶざまな山をなし、雑草が一面はびこっていた。かつてはあったに違いない粗末な家具や、下の部分の下見板のあらかたは、猟師たちのたき火のまき代りに使われてしまっていた。また、古井戸と井げたも同様に使われてしまったらしいが、その井戸は、わたしがこれから語るその当時には、すぐそばにかなり大きいが、それほど深くはないくぼみといった形でまだ残っていた。
一八七四年の夏のある午後、マカーガー峡谷が入りこんでいる狭い谷から、渓流の涸れ沢をたどって峡谷へ登っていった。わたしはウズラ射ちをやっていて、いまのべた家にたどりつくまでには、獲物袋に十二、三羽はつめこんでいたが、その家の存在については、その時まで何も知らなかった。大して気にもとめずにその廃屋をちょっと見てから、また猟を始めた。相当な上首尾に気をよくして猟をつづけているうちに、日没近くなった。人家からは遠くはなれてしまっていた――遠すぎて、これでは日暮れまでに人家には行きつけそうもないのに気がついた。だが、獲物袋には食い物もあるし、それに、シェラネバダ山脈の山のふもとの小高い丘で、暖い、露もかからぬ一夜の宿が必要となれば、あの古家でも雨露をしのぐ宿には結構すぎるではないか。山中では、かけぶとんなどなくとも、松葉をしいて気持ちよく眠れるというものだ。わたしは孤独を好み、夜を愛するから、「野宿をする」決心はすぐについた。
暗くなるまでには、部屋の片すみに木の枝と草とで寝床を作り、炉床で起こした火で、ウズラをあぶっていた。煙はくずれた煙突から出ていき、火明《ほあか》りはやさしい光で部屋を照らしていた。わたしは味もついていない鳥の簡単な食事をとり、この地帯では水の補給がつかないために、午後いっぱい水の代りをつとめてくれた一本の赤ぶどう酒の残りをやっていると、上等のごちそうや、上等の宿でもそうたやすくは得られないくつろいだ醍醐味を味わった。
にもかかわらず、何かが欠けていた。くつろぎの感はあっても、安全感がなかったのだ。気がついてみると、別にこれという理由もないのに、ぽっかり口を開けている戸口や、がらんとした窓の方をやたらと見つめている自分に気がついたのである。これらのがらんとした戸口や窓の外は真っ暗だった。わたしの空想はその外の世界を思い描き、自然な、また超自然的な悪意にみちたものがうようよいるさまを想像すると、なんとなく不安な感じをおさえかねた――それらの中でも、それぞれ種類は異にしても、まず主なものは、まだこの地方でも時おり見かけられるというおおぐまであり、もう一方は幽霊であるが、わたしはそんな幽霊など当然存在しないものと思っていた。ところが生憎、人間の感情というものは、確率の法則をいつも尊重するとは限らないのである。その晩のわたしにとっては、可能性のあることも、ないことも、いずれも同じように不安のたねだった。
こういうことに経験のある人ならば誰しも、現実の、または想像上の夜の危険に立ち向かうばあい、戸口を開け放った家の中よりも、野外にいる時の方がはるかに不安が少いのに気づかれたことと思う。いまこうして煙突のそばの部屋のすみで、木の葉や草で作った寝床に横になり、たき火の消えるにまかせていると、わたしはそのことを痛感した。ここには、何やらわからないが悪意を持った、人をおびやかすものがいるという感じが非常に強くなってきたため、深まっていく闇の中で戸口がますますはっきり見えなくなるにつれ、わたしは戸口から目を離せなくなっていた。そして最後の小さな炎がひとしきり明るくきらめいてから消えてしまうと、わたしはそばにおいていた散弾銃をひっつかむなり、いまは完全に見えなくなった入口の方角に本当に銃口を向け、撃鉄の一つに親指をかけ、いつでもそれを起こせるようにし、いきを殺し、筋肉をぎゅっと固く引きしめていた。
だが、しばらくして恥かしさと屈辱感からふたたび銃をおいた。何を恐れているのだ。また、なぜだ?――このおれが、このおれにとって夜こそはいつも
なつかしき顔
人の顔よりもいっそうに
なつかしかったというのに。人間の誰もが完全にはのがれきれぬ遺伝的な迷信の要素が、わたしのばあいには、孤独と闇と静寂にこそ、かえって心ひかれる興味や魅力を与えてくれていたのではないか! われながら自分の愚しさが理解できず、あれやこれやと推測しているうちに、推測していたこと自体がわからなくなった。わたしは眠りこんでしまった。そして、夢を見た。
わたしは見知らぬ土地の大きな都会にいた――その都会の住民たちは、わたしと同じ人種だったが、その言葉づかいや服装はちょっぴり違っていた。それでも、厳密にそれがどう違うのか、わたしにはいえなかった。違っている感じが、どうもはっきりしないのだ。その都会には、四方を見下ろす高台に大きな城がそびえ立っていたが、わたしにはその城の名がわかっているのに、口に出てこなかった。わたしはたくさんの通りを歩いていった。ある通りは広く真っすぐで、高い近代的な建物がたちならび、またある通りは狭く、陰気くさく、まがりくねり、その両側には風変りな古い家々の破風《はふ》がつらなり、のしかからんばかりの上の階は、木や石に凝った彫刻の飾りがほどこされ、わたしの頭上でほとんど触れ合わんばかりにあい接していた。
わたしはある人を探していた。その人にはまだ一度も会ったことがないのだが、見つかればすぐにわかるはずだと思っていた。わたしの探索は当てもない、行き当りばったりのものではなかった。ちゃんとした一定の方法があった。なんのためらいもなく、通りをつぎからつぎに折れまがり、道に迷う不安もなく、入り組んだ迷路のようなぬけ道を縫っていった。
やがてわたしは、とある質素な石造りの家の低い戸口の前にたたずんだのだが、それはかなりりっぱな職人の住居だったらしい。わたしは案内もこわずに、入っていった。部屋には家具もわずかで、小さなひし型の窓ガラス入りの、たった一つの窓から光がさしているだけで、男と女の二人がいるきりだった。二人はわたしの闖入《ちんにゅう》などまったく気にもとめなかったが、こういうありさまはよく夢の中ではあることで、少しも不自然には見えなかった。二人は話を交わしていなかった。離れて坐ったまま、別に何をするでもなく、むっつりとしていた。
女の方は若く、どっちかといえば太肉《ふとりじし》で、きれいな大きい目をしていて、きびしい美しさがあった。女の表情についてのわたしの記憶は、いまも非常に鮮明なのだが、夢の中では誰しも顔の細部には気づかないものだ。肩には、格子じまのショールをかけていた。男の方はかなりの年で、色浅黒く、悪人面をしており、それが左のこめかみのあたりから斜め下に、真黒い口ひげにかくれるまで伸びている長い傷跡のため、いっそう兇悪に見えた。わたしの夢の中では、その傷跡は顔についているというよりも、別なものとして顔に取りついているもののように思えた――そうとしかほかに言い表わしようがないのだ。その男女を見た瞬間、わたしには二人が夫婦だとわかった。
そのあとのことは、どうもよくおぼえていない。すべてがごっちゃになり、支離滅裂なのだ――おそらくちらっと意識したために、そうなったのだと思う。いわば、二枚の絵、つまり夢の中の光景と現実の情況とが、たがいに重なり合って混合し、最後には前者が次第にあせていって消えてしまったのだ。と同時に廃屋の中ではっきりと目がさめ、まったく冷静に自分がいまどこにいるかがわかった。
ばかげた恐怖はなくなっていた。目を開けると、まだすっかり燃えつきていなかったたき火が、落ちてきた小枝のためにまた燃え上がって、再び部屋を照らしているのがわかった。おそらくほんの数分間眠っただけらしいのだが、ありふれた夢がどういうわけか強烈に印象に残っていたため、もはや眠気はなくなっていた。しばらくして起き上がると、たき火のおきをかき集め、パイプをつけてから、ばかばかしいほど秩序立った方法で、夢で見た光景についてじっくりと考えてみた。
一体どういう点で、そんな夢が注意するだけの価値があるのかときかれたら、その時、わたしは返答に窮したろう。この件について真剣に考えてみた。最初にひらめいたのは、その夢の都会が、一度も行ったことのないエジンバラだとわかったことだ。そこで、もし夢が記憶だとすれば、それは写真や文章で見た記憶だったわけである。そうだとわかると、どういうわけか、わたしは深い感銘をおぼえた。それはあたかも、わたしの心の中にある何かが、意志と理性にさからって、事の次第の重大さを主張しているようにもとれた。そして、その力が、それがなんであれ、わたしの言葉をも自由にあやつろうと叫んでいた。わたしは、まったく無意識のうちに声に出して、いった。「なるほど確かに、マッグレガー夫婦はエジンバラからこの土地に来たのに違いない」
その時、その言葉の意味にも、そんな意味の言葉を口にしたということにも、自分では少しも驚かなかった。夢の人たちの名前も、その二人の来歴の多少を自分が知っているのも、まったく当然に思えたからだ。しかし、そのことの不合理が、すぐにわかった。わたしは大きな声で笑い出し、パイプの灰をはたくと、木の枝と草の寝床に再び長々と寝そべった。消えかけている火にぼんやりと見入っていたが、もう夢のことも、周囲のことも念頭にはなかった。
突然、たった一つ燃え残っていた炎が一瞬うずくまったと思うと、ぱっとはね上がり、炎だけがおきから離れて宙に浮かんで、そのまま宙に消えた。あたりは真っ暗闇になった。
その瞬間――その炎の輝きがわたしの目の前から消え去ってしまう前だったらしいが――にぶい、ずしんという音、何か重い物体が床に落ちたような音がして、わたしの寝ている床をゆすぶった。わたしははっと起き直るなり、そばにおいた銃をまさぐった。てっきり何か野獣が開いている窓からとびこんできたと思ったからだ。その衝撃でうすっぺらな床がまだふるえているうちに、なぐり合う音、あわただしく床の上で足のもみ合う音が起こった。それから――すぐにも手の届きそうなところからだと思ったが――断末魔の女の鋭い悲鳴がした。かつて聞いたこともなければ、思ってもみたことのないような、恐ろしい叫びだった。それで一挙にすくみ上がってしまった。しばらくは恐怖感のほか、何もおぼえがなかった。運よく、わたしの片手はさがしていた武器を見つけ出し、そのなじみ深い手触りに、いくらか元気を取り直した。ぱっと立ち上がるなり、目をこらして闇をすかして見た。兇暴な音はすでに止んでいたが、それよりもっと恐ろしい音が、どうやら長い間をおいて聞こえてきた。何か生きているもの、いや、死にかかっているものの弱々しい、とぎれとぎれのあえぎだった!
暖炉のおきのぼんやりした光に目がなれてきた時、まず戸口や窓の形が見えてきた。壁の黒さよりも黒々としていた。ついで、壁と床の区別がわかってきた。そして最後に、床の奥行と間口全体の広さと形がわかってきた。そのほかには何も見えず、あたりは静まり返ったままだった。
片手には銃をにぎりしめたまま、かすかにふるえる他の片手で火を起こすと、入念にあたりを調べた。小屋の中に何かが入った形跡はどこにもなかった。床をおおっているほこりには、わたしの足跡だけはわかったが、ほかには何もなかった。再びパイプに火をつけると、家の内側から一、二枚の薄板をはがして、たき火にくべた――外の暗闇の中へ出ていく気にはならなかったからだ――それからあとは、たばこをふかしたり、考えごとをしたり、まきをくべたりしながら、その夜を過ごした。たとえいのちを何年かのばしてやるといわれても、その小さな炎を二度と再び消えるにまかせる気になれたものではない。
それから数年後のこと、わたしはサクラメントでモーガンという男に会った。この男あての紹介状をサンフランシスコの友人からもらっていた。ある晩、彼の家で晩餐によばれた時、この人の狩猟好きを思わせる壁上の、さまざまな「トロフィー」を眺めやった。案の定、彼は狩猟好きだったが、手柄話をしているうちに、わたしが奇怪な経験をした地方にいったことがあるという話が出た。
「モーガンさん」と、わたしはいきなりたずねた。「あすこの、マカーガー峡谷と呼ばれているところをご存知ですか」
「知ってますとも。それにはわけがあるんですよ」と、彼は答えた。「昨年、あすこで白骨死体を発見した記事を新聞に提供したのは、このわたしなんですからね」
そんなことは初耳だった。どうやらその記事は、わたしが東部にいっていたあいだに出たらしかった。
「ところで、その峡谷の名前は、本来の言葉の訛りですよ。本当は『マッグレガー』と呼ぶべきだったんですな。ちょっと、お前」彼は細君に向かっていった。「エルダーソンさんが、ぶどう酒をひっくり返されたよ」
これはどうも正確な表現ではなかった――わたしはグラスもろとも、落としてしまったのだ。
「かつてあの峡谷には古ぼけた掘っ建て小屋があったんですがね」と、モーガンは、わたしのへまのためにこわれたグラスや汚れが片づけられると、話を続けた。「わたしがそこを訪れる直前に、吹き倒された、というよりも吹き飛ばされたんです。小屋の残骸があたり一面に散らばっていたからですよ、床板までが一枚一枚ばらばらになっていましてね。根太だけはそのまま残っていましたが、その根太のあいだに、わたしと連れは格子じまのショールの切れっぱしがあるのに気がついた。よく調べてみると、それは女の死体の肩にかけられていたものだとわかったんです。といっても、白骨のそばにほんの少しばかり残ってるだけで、その白骨も、ぼろぼろの衣類と、かさかさに乾いた皮膚が少しばかりついてるだけでね。しかし、家内のためにこの辺でやめときましょう」といって、彼は笑顔を見せた。モーガン夫人はたしかに、同情というよりも不快なようすを見せていた。
「しかしながら、これだけはお話ししておく必要があります」と、彼はまた続けた、「頭蓋骨には数か所、何か鈍器でなぐられたような骨折があったのです。そして、その兇器が――血でよごれたままのつるはしの柄でしたが――近くの板の下にころがっていました」
モーガン氏は夫人の方を向いて、「ごめんよ、お前」と、わざとまじめくさった顔つきをしていった。「こんな気持のわるいことをこまかく話したりして。夫婦喧嘩の、痛ましいとはいうべきだけど、当然な出来事なんです――むろん、運の悪い妻の不従順の結果にきまってますよ」
「あたしは、それを聞き流してなくちゃいけないとおっしゃるんでしょう」夫人は取りすまして答えた。「もう耳にたこが出来るほど、あなたはそうおっしゃって、あたしにたのんでらしたんですものね」
モーガン氏はこの話を続けるのをむしろ喜んでいるらしい、とわたしは思った。
「あれはこれやの情況から、検視陪審員は故人のジャネット・マッグレガーは、陪審員には不明のある人物によって殴打された結果、死に到らしめられたと認めたのです。さらに、証拠の示すところでは、被害者の夫トマス・マッグレガーが犯人であると大いに考えられると、つけ加えられていましたな。しかし、そのトマス・マッグレガーはまだ見つかっていないし、消息もつかめていない。この夫婦はエジンバラから来たということはわかりましたがね。しかし――あ、お前、エルダーソンさんの骨入れの皿に水がはいってるのに気がつかなかったのかい」
わたしはにわとりの骨をフィンガーボールに入れてしまっていたのだ。
「小さな戸棚に、わたしはマッグレガーの写真を見つけたんですが、それも逮捕の役には立たなかったですなあ」
「それを見せて頂けますか」わたしはいった。
写真には、色の浅黒い男が写っていた。悪人面をしており、それが左のこめかみのあたりから斜め下に、真黒い口ひげにかくれるまで伸びている長い傷跡のため、いっそう兇悪に見えた。
「ところで、エルダーソンさん」愛想のいい主人はいった。「余計なことかも知れませんが、どうしてあなたは、そのマカーガー峡谷のことをおききになったのですか」
「いつだったか、あすこで騾馬を一頭なくしたもんで」と、わたしは答えた。「その不運のために、どうも――すっかり――気が転倒してしまいまして」
「ねえ、お前」モーガン氏は翻訳している通訳のような機械的な調子でいった。「エルダーソンさんが騾馬をなくしたため、コーヒーに胡椒をお入れになってしまわれたよ」
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ある夏の夜
ヘンリー・アームストロングが埋葬されたという事実は、彼にとって自分が死んだことの証明にはならないように思えた。彼はいつのばあいも、容易なことでは納得しない、頑固な男だったからである。自分が現に埋葬されているということは、自分の五官すべての証言で、いやでも認めざるをえなかった。その姿勢――ぴったりと仰向けになり、両手は胸の上で組み合されて、しかも何やらすぐにも切れそうなもので結び合わされてはいるが、切ったところで事態が好転するわけでもない――全身完全に閉じこめられており、真の暗闇、深い静寂――これだけ証拠がそろえば、もはや反論のしようはなく、彼も屁理屈をならべ立てずに観念した。
では、彼は死んだのか――いや、違う。彼はただ大変な重い病気にかかっていたのである。そればかりか、病人特有の無関心さがあって、自分に定められていた異常な運命も、さして苦にならなかった。彼は別に哲人でもなんでもなかった――ただのありふれた、ふつうの男で、さし当って病気への無関心を神さまから授っているだけのことだ。つまり、さきざきのことを恐れる器官が鈍っていたのである。そんなわけで、焦眉の急を要する未来のことを特に案ずるでもなく、彼は眠りこみ、かくて、ヘンリー・アームストロングにとって万事は平和に落ちついていた。
ところが、頭上では、何やら起こっていた。暗い夏の夜だったが、音もなく光る稲妻の閃きが間をおいて闇夜をつらぬき、西の空に低くたれこめる雲を照らし出していた。嵐の前ぶれだった。この短い、きれぎれの閃光が、共同墓地の記念碑や墓石を不気味なほどはっきりと浮かび上がらせ、それらを踊らせているように見せた。確かな目撃者などが墓地のあたりをうろつきそうな夜ではなかったから、そこでヘンリー・アームストロングの墓を掘りにかかっている三人の男たちは、当然安心していた。
そのうちの二人は、数マイル離れた医科大学の若い学生だった。も一人は、ジェスという名で通っている大男の黒人だった。もう何年ものあいだ、ジェスは「万屋《よろずや》」として、墓地の仕事に使われていた。「墓地の住人はみんな」知っているというのが、この男の十八番《おはこ》の冗談だった。いま彼がやっていることの性質から判断すると、この墓地には、その台帳に恐らく記されているほどの人口はないと推定してよかろう。
塀の外の、公道からもっとも遠く離れた敷地の一隅に、一頭立ての軽い荷馬車が待っていた。
墓掘りりの作業はむつかしくなかった。数時間前に、墓穴に土をゆるく入れてうめただけなので、大した抵抗もなく、土はすぐに放り出された。棺を外箱から出す方が手間どったが、それも取り出された。この仕事はジェスの臨時収入になったからだ。ジェスは注意深くふたの木ネジをはずし、ふたをかたわらにおくと、黒いズボンに白いシャツ姿の死体がさらけ出された。
その瞬間、空中に炎が突っぱしり、ピシッとたたきつけるようなすさまじい雷鳴が、肝をつぶした墓地をゆすぶった。と、ヘンリー・アームストロングがすうっと起き上がった。わけのわからぬ叫び声を上げて、男たちは恐怖にかられ、てんでばらばらの方角にすっ飛んでいった。そのうちの二人はどういい聞かせても、戻るように説得できなったろう。だが、ジェスだけは別だった。
夜が明けそめるころ、不安に青ざめ、やつれはて、異常な事件の恐怖にまだ体じゅうの血がはげしくざわめいていた二人の学生は、医科大学で顔を合せた。
「お前、見たか」と、一人が叫んだ。
「見たとも!――おれたち、どうしよう」
二人は建物の裏手へまわっていった。すると、そこに、荷馬車をつけた一頭の馬が、解剖室の戸口近くの門柱につながれていた。機械的に、二人は解剖室へ入っていった。薄暗がりの中のベンチに、黒人のジェスが坐っていた。彼は立ち上がると、じっと見つめ、にやりと白い歯をむいた。
「手間賃をもらおうと待ってました」と、彼はいった。
長い台の上に、ヘンリー・アームストロングの死体が、すっぱだかで長々と横たわっていた。頭はシャベルで一撃を食らったため、血と泥でよごれていた。
[#改ページ]
月明かりの道
一 ジョエル・ヘットマン・ジュニアの話
ぼくはこの上もなく不運な男です。金もあり、尊敬もされ、相当な教育も受け、健康そのものである――ふつうは、こういうものに恵まれている人々からは重んじられ、恵まれていない人々からは羨望される有利な点を他にもたくさん持っているというのに――ぼくは時どき、もしこんなにも恵まれていなかったら、これほど不幸でなかったのではないかと思うことがあります。
なぜかというと、そうなれば、ぼくの外面の生活と内面の生活との対照的な違いに絶えず苦しいまでの注意を向けずにすんだからです。貧乏にあえぎ、必死に努力していなければならない境遇にあれば、推測にかりたてながらも、絶えずその推測の邪魔をする、あの陰鬱な秘密を時には忘れることができるかも知れません。
ぼくは、ジョエル・ヘットマンとジュリア・ヘットマンの一人息子でした。父のジョエルは裕福な田舎の紳士、母のジュリアは美しい、教養あるりっぱな婦人でしたが、その母に父は、いまになってみれば、嫉妬深くて、しかも押しつけがましいほどの愛情を抱いていました。わが家は、テネシー州のナッシュビルから数マイル離れたところにある、大きな、不規則に建てられた屋敷で、これといった特定の建築様式でもなく、道から少しひっこんで、深い木立ちと灌木のある領園につつまれていました。
ぼくがここに書き記しているその時のことというのは、ぼくが十九歳、エール大学の学生だった時です。ある日、父からの大至急帰れという電報を受け取り、わけはのべてありませんが、その要求に従って、すぐさまぼくは帰りました。ナッシュビルの駅に、遠い親戚の者が出迎えてくれ、ぼくが呼びもどされたわけを知らせてくれました。母が無惨にも殺されたのでした――その理由も、誰がやったのかも、誰一人見当がつかないのですが、その情況は次のとおりです。
父は翌日の午後には帰宅するつもりで、ナッシュビルへ出かけていました。何かの事情で用件がうまく片づかず、そこで、その夜のうちに戻って、夜明けちょっと前に家につきました。検視官の前で父がおこなった宣誓証言によると、父は鍵を持ってなかったし、寝ている召使たちを煩わすのもいやだったので、別にこれといったはっきりした当てもなく、家の裏手へまわっていったと説明しています。家の角をまがった時、ドアをそっと閉めるような音がして、暗闇の中に、ぼんやりとだが、人影が見えたと思うと、それはすぐに芝生の木立の中に消えてしまいました。侵入者はきっとこっそり召使に会いにきた者だろうと思いこみ、あわてて追いかけ、そのあたりをざっと探しまわったが、むだだとわかると、鍵のかかっていない戸口から入り、階段を上がって母の部屋に行きました。ドアは開いていました。真っ暗な部屋の中に足をふみ入れると、床の上の何だか重い物にけつまずいて、ころびました。こまかいことは、はぶきましょう。それが可哀そうなぼくの母だったのです。人の手で殺されていたのです!
何一つ家から盗み出されたものはありません。召使たちも、何の物音も聞いていません。ただ死んだ母ののど首に、あの恐ろしい指の跡があるだけでした――なんてひどいことだ! 忘れられるものなら忘れてしまいたい!――犯人の痕跡は何一つ見つからなかったのです。
ぼくは学業をあきらめ、父と共に暮らすことにしました。父は、当然のことですが、すっかり変わってしまいました。いつも落ちついた、寡黙なたちの人だったのが、いまは深い失望落胆の淵に落ちこんでしまって、何事も父の注意をひきつけることができませんでした。それでいて、何かしら――人の足音とか、不意にドアが閉まる音などといったものに――一瞬、発作的に関心を見せるのでした。それは恐れというものだったかも知れません。どんな小さな感覚の反応にも、父は目に見えるほどはっと驚き、時には真っ青になり、そのあとは前にもまして陰鬱な無関心に落ちこんでしまうのでした。父は俗にいう「神経がやられてしまったもの」になっていたのでしょう。ぼくの方はどうかといえば、当時のぼくは今よりずっと若かったのです――若さとは大きな力です。若さこそはまさに、いかなる傷《いた》みをもいやす乳香があるというギレアデの地〔旧約エレミア記八章二二節〕です。ああ、いま一度、あの魅惑の地に住むことができないものだろうか! とにかく、悲しみというものにはまだ経験がなかっただけに、ぼくは肉親を喪った不幸がどんなに大きなものか、見定めるすべを知らなかったのです。その打撃のはげしさを正しく評価できなかったのです。
この恐ろしい事件があってから二、三か月たったある夜のこと、父とぼくは市から歩いて家へ帰りました。満月が東の地平線上に昇ってから三時間ほどたっていました。あたり一帯には、夏の夜の厳粛な静けさがたちこめていました。ぼくたちの足音と、ひっきりなしにすだく馬追い虫の声だけが、ひときわ高く聞こえるだけです。道をふちどる木々の黒い影が道に斜めに落ち、道は影のわずかな合間で、おぼろに白く光っていました。わが家の門に近づくと、家の正面は影になり、家の中には一つも明りがついていませんでしたが、不意に父は立ち止まると、ぼくの腕をつかんで、やっと声をしぼり出すようにしていいました。
「あっ! あっ! あれはなんだ」
「何も聞こえませんよ」と、ぼくは答えました。
「だが、ほら――見てごらん!」父はいって、道に沿って真っすぐ前方を指さしました。
「何もないですよ。さあ、お父さん、家に入りましょう――お父さんは病気なんですよ」
父はぼくの腕を放すと、月光に照らし出された道の真ん中に棒立ちに立ちつくし、正気をなくした人のようにじっと見つめていました。月光を浴びたその顔は青ざめ、目はすわり、何ともいいようのない苦悩を現わしていました。ぼくはそっと父の袖を引きましたが、父はぼくの存在さえ忘れ去っていました。やがて、一歩一歩、うしろへひき下がり始めましたが、一瞬もその目を、父が見たもの、あるいは見たと思ったものから放そうとしません。ぼくは父のあとを追おうとして、半ば向きなおったまま、ためらって立っていました。何か恐怖感をおぼえたという記憶はありません。ただ突然、寒気をおぼえたということが、からだに現われた恐怖だとすれば話は別ですが、それはまるで氷のようにつめたい風がぼくの顔にふれ、頭からつま先まで全身をつつみこんだかのようでした。髪の毛にも、その風のそよぎが感じ取れたのです。
その瞬間、家の上の階からいきなり光が流れ出るのに注意を引きつけられました。女中の一人が、誰にもわからない神秘的な凶事《まがごと》の予感に目をさまされ、彼女自身にも名づけようのない衝動に従って、ランプをつけたのです。ぼくがふり向いて父を探そうとした時には、もう父はいなくなっていました。以来幾星霜が過ぎ去りましたが、父の運命についてのひそやかなうわさすら、臆測の域を越えて未知の世界からとどくことはついにありません。
二 キャスパー・グラタンの話
わたしは、きょうは、生きているといわれているが、あすは、ここのこの部屋で、余りにも長いことわたしであった土くれの、感覚なき姿を横たえていることであろう。もし何者かが、その不快なるものの顔から布きれをめくり上げてのぞけば、それはただ病的な好奇心を満足させるだけにおわるであろう。きっと中には、一歩突っこんで、「この男は何者だったのか」と、たずねる人がいるかも知れない。そこでわたしはこの文章で、わたしにできるただ一つの答えを用意しておく――すなわち、キャスパー・グラタンであると。
それだけで十分であろう。この名前は、どれほどの長さであったかわからぬ人生のうちの二十年余の間、わたしのわずかばかりの必要に役立ってくれた。たしかに、これはわたしが自分につけた名前ではあるが、他に名前がなかったのだから、そうせざるを得なかったのだ。この世では、人間は名前を持たなければならない。名前というものがたとえ本人であることを確定しなくても、混乱は防ぐことはできる。もっとも、中には番号で通る者たちもいるが、これまた不十分な区別に思われる。
例をあげるなら、ある日、ここから遠く離れたある市の、ある街路を通っていたが、その時、制服を着た二人の男と出会った。その一人が、半ば立ち止まるようにして、不審そうにわたしの顔をのぞきこみ、つれの男にいった。「あの男は七六七号に似ているぞ」何だかわからないが、その番号にはおぼえのある、恐ろしいものがあるように感じられた。わたしは制しきれぬ衝動に突き動かされて、横丁にとびこむと一目散にかけ出し、ついに田舎の小道にきてぐったり疲れきってしまった。
わたしはその番号を忘れ去ってはいなかった。それが記憶に浮かぶたびに、早口でしゃべりたてるわいせつな言葉や、けたたましい陰気な笑い声や、鉄の扉のひびきわたる音がいつもつきまとっているのである。だからこそ、たとえ自分でつけたものでも、名前の方が番号よりはましなのだ。いずれはやがてわたしは、無縁墓地の台帳に、その両方とも持つことになろう。大した繁栄ぶりではないか。
この手記を発見されるかたに、いささかご承知おき願いたいことがある。これはわたしの身の上話ではないということである。身の上話を書きたくとも、それだけの知識がわたしにはない。これはただ単に、きれぎれの、一見なんのつながりもない思い出の記録にすぎない。思い出のいくつかは糸につないだきらきら光るビーズ玉のように鮮明で連続しているが、またあるものは、遠くはなれた、見なれぬものであり、真紅の夢のような特徴をおび、夢と夢の合間は空虚で真っ暗である――さながら広大な荒野の中に静かに赤く燃える鬼火のようである。
永遠の岸辺に立って、わたしはこの世の見おさめと思って、自分のたどってきた道をふり返って眺める。二十年間の足跡が、かなりはっきりと見える、血を流している足の跡が。それは貧困と苦痛の中をたどってきている。重荷を負ってよろめく人の足跡のようにまがりくねり、おぼつかなげに――
遠く、友もなく、憂鬱に、足どりものろく
[#地付き]〔イギリスの詩人ゴールドスミスの詩「旅人」(一七六四年)〕
ああ「わたし」についての、この詩人の予言――なんと見事な、なんと恐ろしいほど見事な予言であろうか!
この「|苦痛の人生《ヴィア・ドロローサ》」――罪の挿話を背負った、この苦難の叙事詩――が始まる前の過ぎ去った彼方には、何一つはっきりとは見えないのだ。なぜなら、それは雲の中から伸びてきているから。それがわずか二十年間に及ぶことだとわかっているのに、それでいて、いまのわたしは老人なのだ。
人はおのれの誕生の記憶はない――話してもらうよりほかにないのだ。だが、わたしの場合は違う。人生は何一つ欠けるところなくわたしのもとにやってきて、ありとあらゆる才能と力を授けてくれた。それより以前の存在については、わたしも他人同様に何も知らない。なぜなら、人はすべて、記憶かも知れないし、夢かも知れないことは、口ごもりがちにほのめかすしかないからである。わたしの最初の意識は、自分が心身ともにもう成熟していたということ――しかもその意識を、少しも驚きもせず、疑いもせずに受け入れたということ、そのことだけはおぼえている。ただふと気がついたら、わたしは半ばはだかも同然で森の中を歩いていたのだ。足は痛み、いいようもなく疲れ、腹がすいていた。一軒の農家が目についたので、近づき、食べものを乞うた。誰かが食べものをくれて、わたしの名をきいた。自分の名は知らなかったが、それでも人はみな名前を持っていることは知っていた。ひどく当惑して、わたしは退散し、夜になったので森で横になって、眠りこんだ。
あくる日、わたしは大きな町に入っていった。その町の名はいわないでおく。また、いまや終ろうとしている人生のさまざまな出来事を、これ以上一々のべることもやめておく――いつ、どこにいても悪事の罰を受けるという圧倒的な罪悪感と、その罰を受けるという圧倒的な恐怖感につきまとわれていた放浪の人生であった。それを簡潔に物語りにまとめられるかどうか、やってみよう。
わたしはかつて、ある大都市の近くに住んでいたように思う。裕福な農園主で、ある女と結婚し、その妻を愛してはいたが、信用してはいなかった。わたしたちには一人の子供、輝やかしい才能に恵まれた前途有為の若者がいたような気が時どきする。彼の姿はいつもぼんやりとしていて、どうしてもはっきりと顔形が描き出せず、しばしばまったく思い浮かんでこないのである。
運のつきともいうべきある晩のこと、事実や仮空の話の文学になじんでいる人なら誰でもよく知っているような低級、陳腐のやり方で、妻の貞操をためしてみようと思いついた。わたしは明日の午後までは帰れぬと妻に伝えて、ナッシュビルへ行った。だが、わたしは夜明け前にもどってくると、家の裏手へまわっていった。というのは、一見、鍵がかかっているようには見えるが、実はかからないようにひそかに手を加えておいたドアから入るつもりだったからである。その戸口に近づくと、ドアが静かに開いて、また閉まる音が聞こえ、一人の男がこっそり闇の中へ消えていくのが見えた。内心ひそかに殺してやろうと思い、いそいで男のあとを追ったが、運悪く正体をひんむいてやるいとまもなく、そいつは影も形も見えなくなった。今になってみると時どき、それが人間だったと、われとわが身に説得することさえできないのである。
嫉妬と怒りに狂い、侮辱された男のすさまじい激情に盲目となり狂暴になって、家に入るなり階段を一気にかけ上がり、妻の部屋の戸口にいった。ドアは閉っていたが、そこの鍵にも同じように手を加えておいたので、難なく部屋の中へ入り、真っ暗闇ではあったが、すぐに妻のベッドのわきに立った。手さぐりしてみると、ベッドは乱れてはいたが、からっぽだとわかった。
「階下にいるんだ」と、わたしは思った。「おれがはいってきたのにおびえて、玄関の間の暗がりの中に逃げこんでいるんだ」
妻をさがすつもりで、すぐに向きなおるなり部屋を出ようとして、方向をまちがえた――いや、正しかったのだ! 部屋のすみにちぢこまっていた彼女に、わたしの片足がぶつかった。たちまち、わたしの両手は彼女ののどにかかり、悲鳴をおさえつけていた。わたしのひざは、もがきまわる彼女のからだにのっていた。こうして、そこの暗闇の中で、一言の避難、叱責も口にすることなく、彼女が死ぬまでのどをしめつけていたのだ!
ここで夢はおわる。わたしは過去形で夢を物語ってきたが、現在形の方がふさわしかったようだ。なぜなら、幾度となくこの陰鬱な悲劇が、わたしの意識の中でくり返し演じられているからだ――くり返しむし返し計画を立て、確認をし、まちがいを正している。それから、すべては空白なのだ。その後、雨がよごれた窓ガラスをたたき、あるいは、雪がわたしのわずかばかりの衣服に降りかかり、いやしい仕事にありついて、貧乏暮らしをしている、うすぎたない通りを、車輪ががらがら音を立てていく。日光がさしていても、わたしの記憶にはないし、小鳥がいても、歌わないのだ。
もう一つの夢、もう一つの夜の幻影がある。わたしは月明かりの道の暗い影の中にたたずんでいる。もう一人、そばにいるのはわかっているのだが、それが誰なのか、はっきりしないのだ。大きな家の影の中に白い衣裳がぼんやりと光っているのが見える。と、女の姿が道にわたしと向かい合って立っていた――わたしが殺した妻ではないか! 顔には死相があり、のどには指の跡がついている。目は無限の厳粛さをこめてじっとわたしの目をみつめているのだ。それは非難でもなく、憎悪でもなく、威嚇でもなく、また、わたしが誰であるかを知っている目つきよりもさらに恐ろしい表情がこもっていた。この身の毛もよだつ亡霊を前にして、わたしは恐怖にかられて退いていく――これを書いている時でさえ、その恐怖が襲ってくるのだ。わたしはもはや適切な言葉で書きつづっていくことはできない。見えるのだ! あの目が――
いまはもうわたしは落ちついているが、じつをいうと、もはや語ることは何もない。この事件は、それが始ったところで――闇の中で、疑念のままで――おわりを告げる。
そうだ、わたしは再び自制の心境にある。「われはわが魂の隊長」である。だが、それは死刑執行の猶予ではない。それは罪の償いのもう一つの段階であり局面なのだ。わたしの贖罪は、程度こそ一定しているが、種類は不定である。その変形の一つが静穏である。要するに、それは終身刑にすぎないのだ。「一生涯地獄の苦しみを受けろ」――愚かしい刑罰ではないか、罪人が自分の罰の期間を選ぶのだから。きょうで、わたしの刑期はおわる。
それぞれすべての人に、わたしにはなかった平安がありますように。
三 故ジュリア・ヘットマンの話
霊媒ベイロールズを通して
あたしは早くに寝室に引き下がり、ほとんどすぐに安らかな眠りに落ちましたのですが、なんともいいようのない胸さわぎをおぼえて目がさめました。こんなことは、以前の、あの世では珍らしい経験ではないと思います。こんな胸さわぎは、なんの意味もないことだと、あたしは十分われとわが身にいい聞かせるのですけれど、それでも消えませんでした。夫のジョエル・ヘットマンはよそへ出かけて留守でしたし、召使たちは邸の別のところで寝ておりました。でも、このようなことはよくあることで、それまで一度もそんなことを気に病んだことはございません。ところが、奇妙な恐怖はつのる一方で、ついにこらえきれずに、動きたくないのをむりやりにおさえて、ベッドの上に起き上がって、すぐわきのランプをつけました。あたしの期待とは反対に、ランプをつけても安心がいくどころか、かえって危険がますだけのように思えました。ランプの光がドアの下のすきまからもれて、部屋の外にどんな恐ろしいものがひそんでいるかも知れないのに、あたしがいることを知らせてしまうと思い直したからでございます。まだ生きておいでのあなたがたは想像上の恐怖に左右され、暗闇の中で夜の悪意にみちた存在から身の安全を求めることが、どんなに途方もなく恐ろしいことだろうと考えるものでございます。それは目に見えない敵のすぐ前に飛び出していくようなもの――絶望的な戦術でございます!
ランプを消すと、あたしは夜具を頭から引っかぶって、悲鳴を上げることもできず、祈ることも忘れ、声も立てずに、ただぶるぶるとふるえておりました。こんな哀れなりさまで、あなたがたのいわゆる何時間ものあいだ――あたしどもには時間はございません。時というものがないのですから――横たわっていたに違いございません。
ついに、近づいてきました――階段をふむ静かな、不規則な足音でした! それはゆっくりした、ためらいがちの、おぼつかなげな足音、ちょうど道がよく見えないものが立てる足音のようでした。あたしの混乱した理性には、それだけになおさら恐ろしいものでした。哀訴しても何もならない、盲目的で呵責ない悪意そのものが近づいてくるようでした。あたしは、玄関の間のランプをつけたままにしておいたに違いないと思ったり、あれが手さぐりしているところをみると、きっと夜の怪物に違いないとさえ思いました。これはばかげた考えですし、それに、さっきのランプの光を怖れたのと矛盾していますが、ほかにどうしようがありましょうか。恐怖には知力などございません。白痴も同然なのです。恐怖が与える不気味な証言と、恐怖がささやく臆病な助言は、なんの関係もございません。あたしたちは、このことをよく知っております。「恐怖の国」にはいりこんでしまい、前世のさまざまな場面にかこまれて常闇《とこやみ》の中をこそこそと歩きまわり、自分にも、お互い同士にも姿は見えないのに、寂しい所にぽつんと一人離れて身をかくし、愛する人たちと言葉を交わしたいと切望しながら唖《おし》のように口がきけず、その人たちがあたしたちを恐れるのと同じように、その人たちを恐れているあたしたちでございます。
時どき、この無力な状態が消えさり、法則が一時停止されることがございます。不死の愛や憎しみの力で、あたしたちは呪文を破ります――つまり、あたしたちは、警告を与えたい、慰めて上げたい、罰してやりたいと思う人たちから姿が見えるのです。その人たちにあたしたちがどんな姿に見えるか、それはわかりません。ただわかりますことは、誰よりも慰めて上げたいと思う人たち、誰からよりもやさしさと同情を求めたいと思う人たちをこわがらせるということです。
かつて女であった者の、こんなつじつまの合わぬ脱線を、何とぞおゆるし下さいませ。このような不完全な方法で、あたくしどもの考えを聞こうとなさっているあなたがた――あなたがたには、おわかりにならないのです。あなたがたは、未知のことや禁じられていることについて、愚かな質問をなさっておいでです。あたしどもが知っていて、あたしどもの言葉でお教えできる多くのことも、あなたがたの言葉では無意味でございます。あたしどもは、あなたがたご自身がお話しできるあたしどもの言葉のほんの一部を使って、霊媒のたどたどしい口を通して、あなたがたとお話をするよりほかにございません。あなたがたは、あたしどもが別の世界にいると思ってらっしゃいます。いいえ、あたしどもは、あなたがた以外の世界などは少しも知りません。ですけど、あたしどもには日の光もなく、暖かさもなく、音楽もなく、笑いもなく、小鳥の歌声もなければ、親しい交わりもありません。ああ、神さま! 幽霊になって、すっかり変わった世界でちぢこまり、おののきふるえて、恐れと絶望の餌食になっているなんて、なんということでございましょうか!
いいえ、あたしは恐怖のために死んだのではありません。あれは向きを変えると、行ってしまいました。あれがあわてて階段を下りていく音がしました。まるで、そのもの自身が急に恐怖にかられたようなぐあいでした。そこで、あたしは立ち上がって助けを呼ぼうとしました。ぶるぶるふるえているあたしの手が、やっとドアの把手をみつけたと思いましたら――なんという不運なことでしょう!――それがまた戻ってくる音が聞こえたのでございます。階段をまた上がってくるその足音はすばやく、重くて大きく、家じゅうにひびきわたるほどでした。あたしは壁のすみに逃げこんで、床にうずくまってしまいました。神さまに祈ろうとしました。愛する夫の名を呼ぼうとしました。その時、ドアがいきなりぱっと開く音がしました。あたしは一時、意識を失っていました。はっとわれに返ると、のどをしめつけられているのがわかりました――あたしの両腕は、あたしをうしろに倒そうとしている何ものかを、ただ弱々しく打っていました――舌が歯のあいだから突き出していました。こうして、あたしはこの世に来てしまったのでございます。
いいえ、一体何が何やら、あたしにはさっぱりわかりません。あたしたちが死ぬ時に知っていたことの総計が、あとになって、それ以前にあったことを知る尺度になるといいます。こちらでの存在については、あたしたちはたくさんのことを知っておりますが、それはすべて、ただ記憶の中に書かれているのです。あの不確かな国の混乱した風景を見渡せるような真実の丘はありません。あたしどもは、いまなお、「影の谷」に住み、その荒涼としたところにひそみ、いばらや茂みから、狂った悪意を持つ住人たちをひそかにのぞき見しているのでございます。どうしてあたしどもは、あの薄れていく過去のことについて、新しい知識を持つことがありましょうか。
あたしがこれからお話し申し上げることは、ある夜に起きたことでございます。あたしどもには、いつが夜なのかわかります。といいますのは、夜になると、あなたがたはそれぞれご自分の家にお入りになりますし、あたしどもはそれぞれのかくれ場所から出て、なんの恐れもなく、なつかしいわが家のあたりをうろついたり、窓から中をのぞきこんだり、時には家の中にはいって、眠っているあなたがたの顔をじっと見入っていたりすることができるからでございます。あたしは残酷にも、いまのこんなあたしに変えられてしまったわが家のそばから、長いこと立ち去りかねておりました。これは、あたしどもの愛する人や憎む人がそこにとどまっているあいだは、みんなしていることでございます。あたしは、なんとかしてはっきり示す方法、このあたしがまだそこにいることや、あたしの大きな愛情と切ない無念の思いを夫と息子にわからせる方法をさがし求めましたけど、むだでした。二人が眠っていても、いつも目をさましてしまいますし、あたしがもうやけになって、思いきって近づいていくと、二人は目をさましていて、生きている者の恐ろしい目をあたしの方に向け、ちらりと視線を投げかけて、あたしの願いとはうらはらにあたしをおじけづかせてしまうのでした。
その夜、あたしは、二人をみつけるのを恐れながらさがしまわりましたが、だめでした。家の中のどこにもいませんし、月明かりの芝生のあたりにもいません。と申しますのは、太陽はあたしどもからもう永遠に失なわれておりますが、月は、満月でも三日月でも、わたしどもに残されているからでございます。月は、時には夜に、時には昼に輝やいたりしますが、そちらのあの世と同じに、いつも昇っては、また沈みます。
あたしは芝生を出て、あてもなく、悲しい思いをしながら、青白い光と静寂につつまれた道に沿って動いていきました。不意に、仰天した哀れな夫の叫び声が聞こえ、つづいて、安心させ、思いとどまらせようとする息子の声がしました。と、そこに、一群れの木立の影のわきに、二人が立っていました――近く、ほんとに近くでした! 二人の顔はこっちを向いていました。夫の目は、じっとあたしの目に注がれていました。夫はあたしを見ました――とうとう、やっと、あたしを見てくれたのです! そう気がつくと、あたしの恐怖は、残酷な夢のように消えてしまいました。死の呪文がとけたのです。愛が法則に打ち勝ったのでした。うれしさで狂ったようにあたしは叫びました――叫んだに違いありません。「夫が見てくれている。見ている。きっとわかってくれる!」それから、自分をおさえて、進み出ていきました。笑顔を見せ、つとめて美しく見せ、夫の腕の中に身を投げかけ、愛の言葉で夫をなぐさめ、息子の手をにぎりしめ、生者と死者のあいだの切られた絆を結びなおす言葉をかけて上げようと思ったのです。
ああ! なんて悲しいことでございましょう! 夫の顔は恐怖で青ざめ、その目はまるで追いつめられた動物の目のようでした。夫は、あたしが進み出ますと、あたしからあとずさりして、しまいにくるりとうしろを向いて、森の中へ逃げこんでしまいました――どこへ去ってしまったのやら、あたしには知るすべもございません。
かさねがさね寂しく取り残された哀れなあたしの息子に、あたしが存在している気配さえ伝えることはとうとうできずじまいでした。やがては息子も、こちらの「見えない世」に移ってきて、あたしからは永遠に失なわれたものになるのでございましょう。
[#改ページ]
死の診断
「ぼくはそれほど迷信深くはないよ、きみたち一部の医者の連中ほどにはね――科学者なんて、そう呼ばれて喜んでいるくせして」と、ホーヴァーは非難されたわけでもないのに、そう答えた。「きみたちの中には――確かにごく少数ではあるが――霊魂不滅や、それを幽霊と呼ぶほどの正直さはないにしても、怪異な現象の存在を信じる連中がいる。ぼくとして確信が持てるのは、この程度だね。つまり生きている人間が、いまはそこに住んでいないのだが、かつて住んでいたことがある場所に、時どき、その姿を見せることがあるということだ――その人間が非常に長いこと住んでいて、周囲のあらゆるものに忘れられないほど強烈に印象を刻みつけていった場所だよ。実際にぼくは、人の周囲というものは、その人の個性にきわめて強い影響を受けるため、ずっと後になっても、他人の目にその人の姿が現われてくるものだ、ということを知っている。むろん、印象を刻みつける個性は、正常な個性でなくちゃいけない。それと同じく、その姿を見る目も、正常な目でなくちゃいけない――たとえば、ぼくの目のようにね」
「そうだ、正常な目だよ、それが狂った頭に感覚を伝達するってわけさ」と、フレイリー博士は笑いながらいった。
「なるほど、きみと比べたらね。人間てものは期待通りになると喜ぶものだな。これは、きみの返事のことをいってるんだよ。きみならきっと返事もしないなんて不作法なまねはしないだろうと思ってたからな」
「そりゃどうも失礼。だけど、きみは知ってるといったね。とんだことをいったとは思ってないんだね。それじゃ、どうしてわかったのか、聞かせてもらえないか」
「話せば、そんなものは幻覚だというかも知れないが」と、ホーヴァーはいった。「しかし、そんなことはどうでもいいさ」こう前置して、彼はその話を語り出した。
「去年の夏、ぼくは、きみも知ってるように、メリディアンの町へ避暑にいった。そこの家に滞在するつもりだった親戚の者が病気したんで、ぼくはほかを探した。いささか苦労はしたが、一軒の空家を借りることができた。その家の元の住人はマナリングという名の変わり者の医者とかで、何年も前によそへいってしまったが、どこへいったか誰も知らないし、その家の管理人さえ知らないっていうんだな。
家はその医者の建てたもので、年寄りの召使を一人使って、十年ほど住んでいた。大してはやらなかった医者の仕事も、数年後にはすっかりやめてしまった。そればかりか、世間とのつき合いもぷっつりやめて、世捨て人になってしまった。彼がいくらかでもつき合いを保っていた唯一の人物だったらしい村の医者から、ぼくは聞いたのだが、その閉じこもりの生活をしているあいだに、彼はただ一つの研究に打ちこんでいたんだね。その成果を一冊の書物にして見解を発表したのだが、どうもそれが同業の医師仲間のお気に召さず、認められるに至らなかった。実際、医師仲間は彼をまったくの正気とは考えていなかったのだね。
ぼくはその本を見ていないし、本の題も思い出せないのだが、かなり驚くべき説が述べられていたのだそうだ。健康状態良好という人でも多くのばあい、その人の死期を正確に、数か月前に予測できるという説を唱えたんだ。限度は十八か月前まで可能だったように思う。彼がその予知能力を――きみなら診断というかも知れないが――実際にやって見せたという話が、その土地にはいくつかある。しかも、いずれのばあいも、その友人たちには警告を与えられていたのだが、本人は、いわれていた時間に突然、これといった原因もなしに死んでいるのだ。しかしこういうことは、ぼくがこれから話すこととはなんの関係もないがね。ま、お医者さんがおもしろがるんじゃないかと思ったまでさ。
さて、その家は、彼が住んでいた時のまま家具類がおいてあった。世捨て人でも、学者でもないといった者にとっちゃ、いささかどうも陰気な住居だった。しかも、その家の性格がなんだかぼくにうつってきたらしい――おそらく前の住人の性格とでもいうのだろう。なぜなら、その家にいると、ぼくはいつもなんとなく憂鬱な気分になったからだ。そんなものは、元来、ぼくの性質にはなかったのだし、また、一人きりの寂しさからくるものでもなかったと思う。ぼくは住み込みの使用人はおいてなかったし、それに、きみも知っての通り、ろくに勉強もしないが、大いに読書に耽って、一人だけでいる方がむしろ好きだったのが、いつものぼくだからね。
とにかく原因は何であろうと、結果は憂鬱と、いまにも災難がふりかかってきそうな感じだった。これはマナリング博士の書斎にいると特にそうなんだ。書斎はその家中で一番明かるくて、風通しがよかったのだがね。博士の等身大の油絵の肖像が書斎にかかっていて、まるで書斎を完全に圧倒してるようなんだ。その絵はこれといって何も変わったところはなかった。その男は明らかになかなかの好男子で、年のころは五十、鉄灰色の髪、きれいにひげをそった顔、黒い、いかにもまじめそうな目、その絵の何かが絶えずぼくの注意を引きつけて放さないのだ。いつのまにか、その人の表情がぼくになじんできた。というよりも、ぼくに『憑《つ》きまとってきた』のだ。
ある晩、ぼくはランプを持って――メリディアンにはガスはないので――この書斎をぬけて寝室へいこうとした。いつものように肖像の前に立ち止まった。ランプの光で見ると、新しい表情、簡単にはいえないのだが、明らかに不気味な表情をおびるように思えるのだ。それがぼくには興味深かったが、別に不安な気持ちはしなかった。ぼくはランプをあちこちに動かして、光の位置を変えるとどんな効果が出るか眺めていた。そんなことをやっているうち、ふっとうしろを見たい衝動をおぼえた。ふり返ると、一人の男がまっすぐぼくの方に書斎を横切ってやってくるのが見えるじゃないか! ランプの光がその男の顔を照らし出すほど近くにきたとたん、それがマナリング博士その人だとわかった。まるで肖像が歩いているようだった!
『失礼ですが』と、ぼくはいささか冷やかにいった。『ノックをなさったのですか、わたしには聞こえませんでしたが』
彼は、腕をのばせば届きそうなすぐそばを通りながら、警告でもするように、右の人さし指を上げて、一言も口をきかずに、そのまま部屋から出ていった。といっても、彼が入ってくるのが見えなかったように、出ていくのも見えなかったけどね。
むろん、これがきみのいう幻覚であり、ぼくのいう怪異な現象であると、きみにいう必要はあるまい。その部屋にはドアは二つあるきりで、その一つには鍵がかかっていたし、も一つは寝室に通じており、その寝室からの出口はないのだ。このことがわかった時のぼくの気持は、この事件の重要な部分じゃないよ。
きっと、きみにはこんなことはごくありふれた怪談に思えるだろうさ――昔のえらい作家たちが作り上げたお定まりの手を使ってでっち上げた物語にね。もしそうだったら、たとえ本当だったとしても、わざわざ話して聞かせやしないよ。その男は死んではいなかったのだ。ぼくは、きょう、ユニオン街で彼に出会ったからね。人ごみの中ですれ違ったのだ」
ホーヴァーは話をおわった。二人とも黙りこんでいた。フレイリー博士は放心したように、指でテーブルをこつこつたたいていた。
「その男は、きょう、何かいったかね」と、彼はたずねた。「その男が死んでないと、きみに推論できるようなことをだよ」
ホーヴァーはじっと見つめたまま、返事しなかった。
「恐らく」と、フレイリーは続けた。「その男は合図か、身振りをしたろう――警告をする時のように、指を一本上げるとか。それは、あの男の癖――何か重大なことをいう時の習慣だよ――たとえば、診断の結果を告げる時などの」
「うん、したよ――ちょうど、あの男の幻がやったようにね。だけど、こりゃ驚いた! きみはあの男を知っていたのかい」
ホーヴァーは明らかにいらいらしていた。
「知っていたさ。どの医者もいつかは読むように、ぼくも彼の本を読んだことがある。それは今世紀でもっとも注目すべき、重要な貢献の一つなんだ。そう、ぼくは彼を知っていたよ。三年前、病気にかかった彼の治療に当ったからね。彼は死んだよ」
ホーヴァーはいすから跳び上がった。すっかり落ちつきをなくしていた。大またで部屋の中を行ったり来たりしていたが、やがて友人のそばに近よると、うわずった声でいった。「先生、医者として、ぼくにいうべきことがあるんじゃないですか」
「いいや、ないね、ホーヴァー。きみぐらい健康な男は見たこともないね。友人としてぼくは忠告するよ。もう自分の部屋にもどりたまえ。天使のように、バイオリンをひくんだよ。ひきたまえ、何か明かるい陽気な曲をやるんだよ。こんないまわしい、いやなことを、心から追い出してしまうんだよ」
つぎの日、自分の部屋でホーヴァーが死んでいるのが見つかった。バイオリンを首にあて、弓は絃に乗せ、前に開かれている楽譜は、ショパンの葬送行進曲になっていた。
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モクスンの主人
「本気なのか――機械がものを考えると本当に信じてるのか」
すぐに返事はなかった。モクスンはどうやら暖炉の中の石炭に気を取られているらしく、巧みに火かき棒で石炭をあちこちつついているうちに、彼が何に気を取られていたかを示すようにそれは勢いよく燃え上がってきた。わたしはもう何週間も前から、ありふれた、どんなにささいな質問をしても返事が手間どるくせが彼に昂《こう》じているのに気がついていた。ところが、彼のようすは慎重さというよりも、うわの空といったものだった。「何かを思いつめている」とでも言おうか。
やがて彼はいった。
「いったい『機械』とは何か。この語はさまざまに定義されてきた。広く使われているある辞書に、こういう定義があるよ。『それによって力が加えられ、効果的にする、あるいは望ましい結果をうみ出す道具、または機構』というんだね。では、それなら人間は機械じゃないのか。しかも、人間はものを考える――あるいは、ものを考えると思っているということは、きみもみとめるだろう」
「ぼくの質問に答えたくないんなら」と、わたしはいささか中っ腹になっていった。「なぜそういわないんだ――きみのいってることはただの言いのがれだよ。ぼくが『機械』というばあいには、それは人間のことなんかじゃなくて、人間が作ってそれを支配しているものだということぐらいは、きみだってよくわかってるはずじゃないか」
「それが人間を支配しない時にはね」と、彼はいって、不意に立ち上がると、窓の外を眺めやった。そこからは、嵐の夜の闇の中に何も見えなかった。一瞬後、彼はくるりと向きなおると、微笑を浮かべていった。
「すまない。ぼくは言いのがれするなんて少しも考えてなかったよ。この辞書を作った人の無意識の証言こそ暗示的であり、いささか議論してみるだけの価値はあると思ったんだ。きみの質問にはいとも容易にずばり答えられるよ。いいかね、機械はやっている仕事について考える、とぼくは本気で信じているんだよ」
なるほど、たしかにこれはずばりと答えたものだ。といって、そう喜んでばかりもいられなかった。というのは、モクスンが彼の機械工場で研究と作業に熱中してきたことが彼のためにはよくなかったのではないかという疑いが、残念ながらその答えによっていよいよ確実になりそうだったからである。まず第一に、彼が不眠症にかかっていて、それも軽症ではないのをわたしは知っていた。それが彼の精神に影響していたのだろうか。わたしの質問に対する彼の答えこそ、影響していた証拠だと、あの時のわたしには思えたのだ。いまだったら、違った考え方をしていたろう。あのころはわたしも若かったし、しかも若者にだけ許される天与の特権の中には、無知というものがある。そこで、議論を吹きかけてやろうという気に大いにかき立てられ、わたしはいったものだ。
「それじゃ、一つ教えてもらいたいな、機械はなんで考えるのかね――脳もないというのに」
いつもほど手間どらずに返ってきた返事は、彼の得意の反問という形をとっていた。
「植物はなんで考えるのかね――脳もないというのに」
「ほお、植物も哲学者の部類にはいるというのかい! それじゃ、その植物どもの結論のいくつかを教えてもらえるとありがたいねえ、前提の方は省略してもかまわないから」
「おそらく」と、彼はわたしの愚劣な皮肉に動じた色もなく答えた。「植物の行動からその確信ぶりを推論できるかも知れないね。あの敏感なオジギソウだとか、数種の食虫花だとか、遠くはなれためしべに受精させるため、蜜蜂が進入してくるとおしべをたれて、花粉をふりかける花などといった、よく知られている例はきみに話すまでもあるまい。だが、これはよく聞いていてくれ。ぼくは庭のあき地に、つるくさを植えたんだ。そいつがやっと地表から頭を出しかけたとき、一ヤードはなれた地面にくいを立てたんだ。つるくさはすぐにくいに向って進んでいったが、数日たって、も少しでつるくさがそれに届きそうになった時、ぼくはくいを数フィート移した。つるくさはすぐにその進路を変え、急角度にまがって、またもやくいへ向かって進んでいった。こんな作戦行動が何度かくり返されたが、ついにまるでがっくり気落ちしたかのように、つるくさは追跡をあきらめた。そして、なおも何度かそいつの進路をそらそうとした試みにはもう目もくれずに、ずっとはなれた一本の小さな木へ向かって進むと、その木にからみついて登っていったんだ。
ユーカリ樹の根は水分を求めて信じられないくらい遠くまでのびていくんだよ。ある園芸家の話によると、一本の根が古い排水管のなかにはいりこみ、それをつたって排水管がとぎれているところまでいきついた。そのとぎれのところで、管の進路を横切って石塀が建てられるために、排水管の一部が取りはずされていたんだ。その根は排水管を出ると、石塀をつたっていくうちに、石が一つぬけ落ちている穴をみつけた。根はその穴をくぐりぬけて、石塀の向こう側をつたって、また排水管のあるところまでもどると、未踏の部分にはいりこみ、その旅を続けていったのだ」
「なんだ、それだけのこと」
「きみにこの話の意味がわからぬはずはあるまい。これは植物にも意識があることを示しているじゃないか。植物も、ものを考えるということを証明しているんだよ」
「たとえそうだとしても――それがなんだっていうんだ。ぼくたちが話していたのは、植物についてじゃなくて、機械についてだよ。なるほど機械は部分的には木で――木といっても、もはや生命力をうしなってるがね――つくられてることもあるだろうし、あるいは全部金属でつくられているだろう。思考力は鉱物界にも存在する特質なのかい」
「でなければ、たとえば結晶の現象など、どうやって説明がつくんだ」
「ぼくはそんなものは説明してないよ」
「なぜなら、きみはじぶんが否定したがっていることを肯定せずには説明がつかんからだよ。つまり、結晶体の構成要素間には知的な協力運動があるっていうことをね。兵隊が横隊を作ったり、中空方陣を作ったりすれば、それは理性だと称する。飛んでいる雁がVの字形を作ると、それは本能だと称する。鉱物の均質原子が溶解して自由に動きまわって、きわめて整然とした形に配列していったり、あるいは、凍った水分の粒子が左右相称の美しい雪片の形になっていったりすると、人はもう何もいうことがないんだな。きみたちはその途方もない愚劣さをかくすための名称すら考えついてないってわけさ」
モクスンはただならぬ活気と熱意をこめて語っていた。彼が一息ついた時、彼のほかは何ぴともはいるのを許されない、彼の「機械工場」だと教えられていた隣りの部屋で、どすんとぶつかるような、変な音がした。誰かが平手でテーブルでもたたいたような音だった。モクスンも同時に聞きつけると、見た目にもわかるほど動揺し、立ち上がって、あわてて音がした部屋へはいりこんでいった。誰にしろ他の者がその部屋にいるとは、どう考えても変だった。それに、この友人に対する興味から――正直いうと、けしからん好奇心もいささか手伝って――わたしは一心に耳をすました。といっても、鍵穴からそっと盗み聞くようなまねだけはしなかったといえることは、ぼくとしてはもっけの幸いだ。まるでもみ合いか、つかみ合いでもしているような入り乱れた音がして、床がゆれた。はげしい息づかいと、「こん畜生!」というかすれた低い声がはっきりと聞こえてきた。それからしいんと静かになったと思うと、やがてまたモクスンが出てきて、いささかすまなそうな微笑を浮かべながらいった。
「あんなに不意にきみをおいてけぼりにしてすまなかった。あすこに機械がおいてあるんだが、そいつが腹を立てて、あばれたんだよ」
平行した四本のひっかき傷が横なぐりに走って血がにじみ出ている彼の左のほおに、わたしはじっと目をすえたまま、いった。
「その機械は、つめを切るにはどうやってするんだろうかね」
こんな冗談などいうこともなかったのだ。彼は冗談など意にも介さず、さっきはなれたいすにどっかと腰をすえると、何事もなかったかのように邪魔のはいった一人談義の続きをまたも始めた。
「むろんきみは、すべて物質には知覚があり、原子はすべて生命も感情も意識もある存在だと教えた人たちに(きみのような読書家には、その人たちの名前をいう必要もないけどね)賛成はしないだろう。だが、ぼくはするよ。死んで、動く力のない物質といったようなものはないんだ。物質はすべて生きているんだ。すべて現実的にも潜在的にも、力にみちあふれているんだ。その周囲の同じ力に敏感であり、それとかかわりのありそうな高等の有機体の中に存在する、より高級で微妙な力の影響を敏感にうけやすいのだよ。人間が物質を自己の意志どおりの道具に作り上げていくばあい、その人間の力に影響されるといったようにだ。それはその人の知性や目的を多少とも吸収するのだよ――それらの吸収の度合は、でき上がった機械の複雑さや、その機械の働きの複雑さに比例して多くなるんだ。
きみはひょっとしてハーバート・スペンサー〔十九世紀イギリスの哲学者〕の『生命』の定義を思い出さないかね。ぼくは三十年ほど前に読んだけどね。ぼくの知る限り、スペンサーは後にそれを改めたらしいが、しかし、その間、ぼくには変えたり、つけ加えたり、削除したりした方が有利だという言葉は、一語たりと思いつかなかったね。ぼくにはこれこそ最善の定義であるばかりか、ほかには考えられぬ唯一の定義だと思えるんだよ。
スペンサーいわく、『生物とは、種々の外的共存物と因果関係に対応する、同時的にしてかつ継続的なさまざまの異質の変化の一定せる結合である』と」
「それは」と、わたしはいった。「現象を定義しているが、その現象の原因についてはほのめかしてもいないじゃないか」
「いかなる定義でも」と、彼は答えた。「それぐらいのことしかできないのだよ。ミル〔十九世紀イギリスの哲学者、経済学者、論理学者〕が指摘しているように、われわれは前件として以外に原因については何もわからないのだ――結果についても、帰結として以外には何もわからないのだ。現象の中には、ある現象が起これば必ず他の現象を伴うものがあり、しかもそれは類似していない。時間の点で最初のを原因と称し、後者を結果と称している。うさぎが犬に追われているのを何度も見て、しかもうさぎと犬をそんなふうにしか見たことのない人だったら、きっとうさぎを犬の原因だと思うだろうね」
「しかしどうやら」と、彼はごく自然に笑いながらつけ加えた。「ぼくのうさぎは、本題の筋道からすっかりぼくを引きはなしているらしいね。追跡のための追跡のおもしろさとでもいうか、議論のための議論にふけっているんだな。きみに注意してほしいことは、ハーバート・スペンサーの『生命』の定義の中に、機械の活動もふくまれているということだよ――この定義には機械にも適用できないことは何もないんだからね。この誰よりも鋭い観察者にして、誰よりも深い思索家であるこの人によると、もし活動期間中の人間が生きているなら、機械もまた運転中は生きているというわけだ。機械の発明家であり製作者として、ぼくはそれが真実だということを知っているんだ」
モクスンは放心したようにじっと暖炉の火をみつめたまま、長いことだまっていた。夜も更けていたので、もう立ちさる時間だと思ったが、しかしどういうわけか、この一軒家に彼をぽつんと残していくと思うといやな気がした。親しみのない、いや、事によったら悪意があるとしか推測しようのない性質をもった人物が存在しているほかには、彼一人だけである。わたしは彼の方に身を乗り出し、一心に彼の目をのぞきこむようにしながら、片手で機械工場のドアのおくをさし示して、いった。
「モクスン、あの中に誰を入れているんだ」
いささか意外なことに、彼は気軽に笑って、ためらいもなく答えた。
「誰もいないよ。きみが気にしているさっきの出来事は、別に何かをやることもないのに機械を動かしっぱなしにしておいたぼくのくだらぬへまから起こったんだよ。その間ぼくは、きみの理解を啓蒙するというとめどもない仕事をやっていたってわけさ。ところで、きみは意識《ヽヽ》というものは|リズム《ヽヽヽ》の創造物だってことを知ってるかい」
「もうそんなものはうんざりだよ!」と、わたしは返事して立ち上がり、オーバーをつかんだ。「じゃ、もう失敬するよ。一言希望をつけ加えておきたいけど、きみがうかつにも動かしっぱなしにしておいた機械を、こんどきみがどうしてもとめなければならないと思った時には、彼女が手袋をはめてくれてるといいねえ」
このあてこすりの効果を見てやろうという気もなく、わたしは彼の家を出た。
雨が降っていた。あたりは真っ暗闇だった。まるで手さぐりするようにして、あぶなっかしい板張りの歩道に沿って進み、舗装してない泥んこの通りを横切っていく方角の丘の頂きのかなたの空に、市の灯火のかすかな輝きが見えた。だが、わたしの背後には、モクスンの家の窓がぽつんと一つ見えるほかは、なんにもなかった。その窓は、まるで神秘的な、運命的な意味をこめているかのように輝いていた。それはわたしの友の「機械工場」の、カーテンをかけてない窓であるのはわかっていた。そして、機械の意識だとか、|リズム《ヽヽヽ》の創造者だとか論じてわたしの講師役をつとめたために中断された研究に、彼がまたも取りかかっているのは疑う余地もなかった。
さっき彼の信念を聞いた時には何か奇妙で、いささかこっけいに思えたけれど、その信念が彼の生活や性格に――おそらくは彼の運命にも――何かしら悲劇的な関係があるという気持ちを完全にすてさることができなかった。といっても、彼の信念が狂った頭の生み出した突飛な想念だという考えはもう抱いていなかった。なるほど彼の意見については何とでも考えられようが、それにしても説明の仕方が余りにも論理的である。「意識はリズムの産物なのだ」という彼の最後の言葉が、しつこく何度も心に浮かんできた。この言葉はじつに大胆で簡潔ではあるが、いまになると無限に興味がそそられてきた。思い浮かんでくるたびに、その意味はひろがりを持ち、示唆は深みを加えていった。そうだ、これを基礎にして一つの哲学を組み立てられるのではあるまいか(と、わたしは思った)。もし意識がリズムの産物であるとすれば、万物にはすべて意識があるということになる。なぜなら、すべての物には動きがあり、しかも動きはすべてリズミカルであるからだ。はたしてモクスンは自分の思想の意味の重大さと幅のひろさ――つまりこの重大な法則化の範囲――を知っているのだろうか。それとも、観察というまがりくねった、不確実な道をたどってこの哲学的信念に到達したのだろうか。
こんな信念は、あの時に初めて聞いたものだったから、いくらモクスンが説明しても、わたしの考えを改めさせることはできなかった。しかしいまは、さながらタルソ人《びと》のサウロ〔使途パウロのもとの名。キリストの弟子たちを殺害しようとしてダマスコにいく途中、天より光がふり注ぎ一時盲目になるが、後キリストの弟子になる〕に降りそそいだ光のように、わたしの周囲に大きな光がひらめいたかのように見えた。と、外のその嵐と闇と孤独の中で、ルイス〔十九世紀イギリスの哲学者〕のいわゆる「哲学的思考の果しもない多様さと高揚」を経験したのである。わたしは知識のあらたな認識に、理性のあらたな誇りに有頂天になった。足も地をふんでいないようだった。あたかも目に見えぬ翼で高く舞い上がり、空を飛んでいるかのようだった。
いまはわが師、わが導き手だとみとめた彼から、さらに深い啓蒙の光を求めたい衝動にかられると、わたしは自分でも気がつかぬうちに後戻りしていた。そして、そんなことをやった自分に気がついた時にはもう、またもやモクスンの家の玄関に来ていたのである。雨でぐしょぬれになっていたが、少しも不快はおぼえなかった。興奮していたので玄関のベルが見つからず、本能的にドアのノブを回してみた。ノブが回ったので、なかにはいると、ついさっき出てきたばかりの部屋へ向かう階段を上がった。すべては暗く静まり返っていた。案の定、モクスンは隣りの部屋――つまり「機械工場」――にいた。壁を手さぐりしながら進んでいくと、隣りへ通じているドアがみつかり、何度か大きくノックした。だが、何の返事もない。きっと外のさわがしい音のせいだと思った。強風が吹きまくり、薄い壁にはげしく雨をたたきつけていたからだ。天井が張ってない部屋の上の屋根板をたたく雨の音はさわがしく、絶え間なかった。
わたしはこれまで一度も機械工場に招じ入れられたことがなかった――いや、事実は他の人々同様、入るのを拒否されていたのだが、一人だけ例外があった。腕のいい金属職人なのだが、この男のことについては、名前はヘイリーといい、無口なたちだということ以外は誰も知らなかった。精神の高揚に取りつかれていたわたしは、思慮分別も礼儀作法も忘れさって、かまわずドアを開けた。目の前に現われた光景を見るなり、哲学的な思念など一挙に吹きとんでしまった。
モクスンは、わたしの方に向かって小さなテーブルの向こう側に坐っていた。部屋の明かりといえば、テーブルの上あるたった一本のろうそくだけだった。彼と向かいあって、背中をわたしの方に向けて、もう一人の人物が坐っていた。二人の間のテーブルには、チェス盤があった。二人はチェスをしていたのだ。チェスのことはよく知らないが、盤にはわずかしか駒がないところから、ゲームがもう終りに近いことだけは明らかだった。モクスンは異常なほどの興味を示していた――どうやらそれもゲームそのものというよりむしろ、相手に対してらしかった。その相手にモクスンは一心に視線を注いでいるため、ちょうどその視野の線上にわたしが立っているにもかかわらず、まったくわたしには気づいていなかった。顔面は蒼白で、目はダイヤモンドのようにきらきら輝いていた。彼の相手はうしろ姿しか見えなかったが、それだけでもう十分だった。そいつの顔など見る気さえしなかった。
どうやらそいつの背丈はせいぜい五フィート、からだの釣合いはさながらゴリラを思わせた――物凄い肩幅、ふとくて短い首、幅の広いずんぐりした頭、その頭にはもじゃもじゃの黒い髪がのびており、てっぺんには深紅のトルコ帽をかぶっていた。それと同じ色の胴巻を着て、腰にはしっかりベルトをつけ、胴着のすそはそいつが坐っている――箱らしかったが――シートにまで達していた。すねや足は見えなかった。そいつの左の前腕はひざにおいているらしかった。右手で駒を動かしていたが、その手は不釣合なくらい長く見えた。
わたしは思わずぞっとなってあとじさりして、戸口のやや片側のかげになったところに立った。もしモクスンが相手の顔より先の方を見ても、ドアが開いているという以外には何も気づくはずはなかった。いまは中にはいっても退いてもならぬと、何かが命じたのだ。おれはいまやさし迫った悲劇に直面している。だからこのままふみとどまって、友人の力になってやれるかも知れないという予感――どうしてそんな予感がしたのか、今もってわからないが――そんなものを感じたのだ。のぞき見をしているという下劣な行為に対して抵抗らしい抵抗もなしに、わたしはその場にふみとどまっていた。
ゲームは迅速だった。モクスンはろくにチェス盤も見ずに駒を動かしていた。チェスについてはほとんど知識のないわたしが見ていても、彼はもっとも手近の駒を動かしているようだし、駒を動かす時の動作もいやに早くて興奮しているらしく、正確さを欠いていた。応じる相手も、動作を起こす時には同じように迅速だったが、あとはゆっくりした一定の機械的な動作でやっていた。どうも少々芝居がかった大仰な腕の動かし方で、それがわたしの忍耐にどうにもやりきれない試練に思えてきた。何かしらその動作の一つ一つに不気味なものがあり、思わずぞっと身ぶるいした。とにかく、ぐっしょりぬれていて、寒かったのだ。
得体の知れぬ人物は駒を動かしてから二、三度、かすかに頭をうなずかせていた。そのたびにモクスンがキングの駒を動かすのがわかった。不意にこの男はおしなのだという考えが浮かんだ。つづいて、こいつは機械だ――ロボットのチェスの差し手だと考えついた。いつだったかモクスンがそんな機械を発明したということを話していたことを思い出した。だが、実際にそれが作られたとは理解しなかった。彼が機械の意識だの知性だのと話したのもすべてはただ、結局はその装置を見せるにいたるまでの前おきにすぎなかったのだろうか――そんな秘密の装置があるとは知らぬわたしに対して、その機械の活動が与える効果を強烈にしてやろうという手にすぎなかったのか?
有頂天になっていた知的興奮状態――あの「哲学的思考の果てしもない多様さと高揚」――の、これがその結末というのか! わたしは嫌悪感にかられて戻ろうとしかけた時、ふとわたしの好奇心を引きつける事態が持ち上がった。そいつがいら立っているかのように大きな肩をひょいとすくめるのに気がついた。しかも、それがいかにも自然だった――まったく人間らしかった――ので、事態をあらたに見直して、わたしはあっけに取られた。いや、それだけではすまなかった。一瞬後に、そいつがにぎりこぶしでテーブルをはげしくたたいたからだ。その仕草に、モクスンはわたし以上にびっくりしたらしい。彼はあわてたようにいすをちょっとうしろへずらした。
すぐにモクスンは、彼の番だったので、片手を盤上高くかかげると、ハイタカのように自分の駒の一つにさっとつかみかかって「詰みだ!」と叫ぶなり、急いで立ち上がり、自分のいすのうしろにとびのいた。ロボットはじっと動かずに坐っていた。
風はもう静まっていたが、雷鳴のとどろきがしだいに間隔をつめ、刻々と大きくなってくるのが聞こえていた。雷鳴の合間に、低いうなりか、ぶんぶんいう音がするのに気がついた。それは雷鳴と同じく、一瞬ごとに大きく、しかも明瞭になってきた。それはロボットの胴体から出てくるらしく、しかもまぎれもなく歯車の回転するうなりだった。それはどこかの制御装置の抑止と調節作用の部分がはずれて、機械の調子が狂っているという印象を与えた――たとえば、つめ車の歯から歯どめがはずれでもしたら、その結果こんなふうになりそうだと思えた。だが、その音の性質をあれこれを推測するいとまもない内に、わたしの注意はロボット自体の奇妙な動きに引きつけられた。どうやらそいつは、かすかではあるが連続的なけいれんに取りつかれたらしいのだ。胴体も頭も、まるで卒中か悪感におそわれた人のようにふるえていた。ふるえは一瞬ごとに大きくなり、ついに全身が猛烈に震動してきた。いきなりそいつはぱっと立ち上がると、目にとまらぬほどの素早い動作で、テーブルといすをさっと跳びこえた。両手をいっぱいに前へ突き出して――まさに水に飛びこむ人の姿勢で跳びかかっていった。モクスンはつかまらぬように、さっとうしろへ跳びのこうとしたが、すでにおそかった。その恐ろしいやつの両手が彼ののどくびをしめつけるのが見え、モクスンの手がそいつの手首にしがみついた。やがてテーブルがひっくり返り、ろうそくが床に投げとばされて光が消え、すべては真っ暗やみになった。だが、格闘の音だけは恐ろしいほどはっきりと聞こえた。何よりも恐ろしいのは、のど首をしめつけられた人が必死になって息をしようとする時のしゃがれた、ぜいぜいいう音だった。この何ともすさまじい騒音をたよりに、わたしは友人を助けようとして跳び出した。だが、暗闇の中で一歩ふみ出すやいなや、部屋じゅうに目もくらむばかりの青白い閃光がひらめいて、わたしの脳裡に、心と記憶の中に、床の上で格闘している二人の姿をはっきりと焼きつけた。モクスンは組みしかれ、そののど元を、あの鉄の手でまだがっちりとしめつけられ、頭はうしろにのけぞらせ、目はとび出し、口はあんぐりと開け、舌はだらりと突き出していた。そして――何という恐ろしい対照をなしていたことか!――モクスンの暗殺者の絵具で描いた顔には、まるでチェスの詰め手の問題でも解いているかのように、深い考えにふけっている平静そのものの表情が浮かんでいたのだ! これだけを見たあと、すべては暗黒と静寂の世界に落ちこんだ。
三日後に、わたしは病院で意識を取りもどした。あの悲劇の夜の記憶が徐々に、痛む頭のなかでしだいによみがえってきた時、わたしにつきそってくれている人が、モクスンの信頼あつい職人、ヘイリーだというのに気がついた。わたしの視線にこたえて、彼がほほえみながら近づいてきた。
「あのことを聞かせて下さい」と、私はやっとのことで弱々しくいった――「何もかもくわしく」
「いいですとも」彼はいった。「あなたは気を失ったままかつぎ出されたんですよ、燃えている家から――モクスンさんの家からね。どうしてあなたがあの家に来ていたのか、誰も知らないんですがね。ちょいとばかりわけを説明しなくちゃならんかも知れませんよ。火事の原因も、ちっとばかり謎になってますんでねえ。わし自身の考えじゃ、あの家は雷に打たれたと思ってるんだが」
「それで、モクスンは?」
「昨日、埋葬されました――焼け残っていたものだけですが」
どうやらこの無口の人物も、ときによっては胸襟《きょうきん》を開くこともあるらしいのだ。ショッキングな消息を伝える時でも、大そうやさしく心を使ってくれた。この上もなくつらい心の痛手にしばし苦しんでから、わたしは思いきってもう一つ質問した。
「誰がわたしを助けてくれたんですか」
「ま、それが気になるというんでしたら――このわしですけどね」
「ありがとう、ヘイリーさん。そして、どうかそのことで神のお恵みがあなたにありますように。あなたはあれも救い出したんですか。あなたの腕になる、あの見事なやつ。そいつを発明した人を殺した、あのロボットのチェスの差し手をです」
彼はわたしから目をそらしたまま、長いこと黙りこんでいた。やがて、わたしの方を見て、重々しくいった。
「あれを知ってるんですか」
「知ってますとも」わたしは答えた。「あいつがやったのを見たんですから」
それももう何年も遠い昔のことになった。こんにち、そのことをきかれても、もうそれほどの自信もなく答えるよりほかはないだろう。
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猛烈な格闘
一八六一年の秋のある夜、一人の男がバージニア州西部の森の奥に、ただ一人坐りこんでいた。この地域は大陸の中でももっとも未開の地の一つ――チート山地方であった。しかしながら、すぐ近くに、人家がないわけではなかったのである。この男が坐っているところから一マイルたらずの場所に、いま、北軍の一個旅団全軍が、ひっそりと陣を張っていた。周囲のどこかに――もっと近い所かも知れないが――その数はわからぬが、敵の部隊がいた。このとおり、敵の兵力と位置がはっきりしないということが、その寂しい場所にこの男がいる理由を物語っていた。彼は北軍歩兵連隊の青年将校で、ここでの任務は、奇襲に備えて、陣地で眠っている味方を守ることであった。彼は小哨線を構成している分遣隊の指揮をとっていたのである。彼はこれら分遣隊の兵を、日が暮れると同時に、いま彼が坐っている数百ヤード前方に、地形上やむをえなかったのだが、不規則な線に配置した。小哨線は森の中の岩や、シャクナゲの茂みにひそみ、十五歩ないし二十歩の間隔をおいてひろがり、全員身をかくし、厳重な沈黙と一刻も油断ならぬ見張りの命令を受けていた。
四時間後に、何事も起こらなければ、左手後方のやや離れたところに、隊長の思いやりで目下休息をとっている前哨本隊から派遣されるあらたな分遣隊と交替するはずになっていた。部下を配置する前に、この青年将校は、自分と相談する必要が生じたばあい、あるいは自分が小哨線にかけつける必要が生じたばあいに、自分の姿がのぞめる地点に、二名の軍曹を配置しておいた。
そこはきわめてひっそりとした地点だった――古い森の道が二叉に分かれるところで、二本の分かれ道がまがりくねって前方の薄暗い月明りの中へ伸びていたが、その分岐点に、二人の軍曹は小哨線から数歩さがったところで部署についていた。もし敵の不意打ち攻撃をかけられて激しく後方へおしもどされれば――小哨が射撃をしてから、あくまでも抵抗できるはずはないから――兵士たちはこの二本の分かれ道にはいり、当然それをたどって分岐点まできたら、ここで合流して「隊形を立て直す」ことが可能のはずだった。規模は小なりとはいえ、この構想をねった青年将校は、なかなかの戦略家であった。もしナポレオンがウォタールーにおいて、これくらいに巧妙な作戦計画を立てていたら、あの記念すべき大会戦に勝利を収め、従って彼の転落も後にのびていただろう。
ブレイナド・バイリング少尉は、勇敢にして、有能な将校だった。年は若く、また実のところ、同胞を殺すという任務には比較的経験が浅かった。彼は戦争が始まって数日とたたないうちに、軍隊については一片の知識もなく一兵卒として入隊したが、教育があり、態度にも好感がもてるというわけで彼の中隊の曹長に取り立てられ、さらに、南軍の銃弾によって自分の隊長をうしなう幸運にぶつかった。その結果の昇進で、彼は将校任命の辞令をちょうだいしたのである。
彼はこれまでいくつかの会戦に加わっていた――たとえば、フィリッピ、リッチ・マウンテン、カーリックス・フォード、グリーンブライアーなどにおける戦闘である――そして、彼はとり立てて上官の注目を引くような颯爽たる武者ぶりもなくふるまってきた。彼にとって、戦いのわくわくするような爽快さはおもしろかったが、しかし死人を見ると、いつも耐えられない気分になった。死人の土気色の顔、うつろな目、こわばった体、しかもその体は、異常なくらい収縮しているか、さもなければ異常なほど膨張していた。
彼は死体に対して何かわけのわからぬ反感を抱いていたが、それはわれわれ人間に共通の、肉体的、精神的嫌悪だけではすまない何かがあった。むろんこの感情は、彼の異常なくらいに鋭い感受性に起因していた――つまり、美に対する彼の鋭い感覚であって、その感覚を、このいまわしい物が踏みにじるのであった。とにかく、原因が何であったにせよ、彼は嫌悪感なしに死体を眺めやることができず、その嫌悪感には憤怒《ふんぬ》の要素さえ加わっていた。他の者なら死を厳粛なものとして敬意をはらうところだろうが、彼にはそんなところはまったくなかった――いや、全く考えられないことだった。死は、憎悪すべきものだったのである。死は絵になるようなものではない。死には、やさしい面も、厳粛な面もありはしない――その表わしているもの、暗示するものは、どの点から考えてみても、いまわしい、陰気なものばかりだった。バイリング少尉は、誰もが知っている以上に勇敢な士であった。というのは、いつかはわが身にも招くと常に覚悟している死に対して恐怖を抱いていることを、何ぴとも知らなかったからである。
部下を配置し、二人の軍曹に指示を与え、自分の部署に退くと、彼は丸太に腰を下ろし、全感覚をとぎすまして、寝ずの見張りについた。体を楽にするため剣帯をゆるめ、重い連発拳銃をさやからぬいて、かたわらの丸太の上においた。ひどくくつろいだ気分でいたが、自分ではそう思っているわけではなかった。一心に耳をすまして、脅威の知らせになるかも知れぬ前線からの物音を一つも聞きのがすまいとしていたからだ――叫び声、銃声、あるいは、知る価値のある何事かを知らせに、軍曹のどっちかが近づいてくる足音などを。
頭上の、目には見えないが月の光の大海原から、ここかしこに、細い、きれぎれの光の流れが降りそそぎ、それがさえぎる枝々に当って、しぶきのように飛びちってくるかに見え、大地にしたたり落ちて、シャクナゲの茂みのあいだに小さな青白い水たまりを作っていた。だが、こうした木の間をもれてくる光はごくわずかで、彼の周囲の闇をいっそう濃くするのに役立つにすぎなかった。彼の想像力はたちまちその闇の中に、ありとあらゆる見なれぬものの姿、脅やかす不気味なものや、ただ奇怪なものの姿を住みつかせた。
大森林のまっただ中にはいると、夜と孤独と静寂とが互いに力を合せて途方もない陰謀を企てることぐらいすでに経験で知っている人には、それがまったくの別世界になる――ごくありふれた見慣れているものも、まったく別の性格をおびることは、いまさらいう必要もあるまい。木々がむれをなしているさまも、まったく異って見えてくる。まるで恐怖に襲われているかのように、ぴったりと身をよせ合っている。静寂までが、昼間の静寂とは異質のものになっている。しかも、半ば聞きとれぬささやき声が充満している――ぎょっとするようなささやき声――とうの昔に死んだ声の亡霊だ。生きているものの声、他の条件では決して聞かれぬものだ。名も知れぬ夜鳥の鳴き声、忍びよってきた敵と不意に出食わしたか、あるいは夢でも見ている小動物の叫び声、枯葉をかさこそひっかく音――野ねずみが跳びはねたのかも知れない。ピューマの足音かも知れない。あの小枝が折れたのはどうしてか――あの茂みにいっぱいいる小鳥が、おびえたように低くさえずっているのは、どうしたのだろう。何ともいいようのない物音、実体のない形、動くのが見えなかったのに空間を移動した物体、場所を変えるのが少しも気づかれないものの動き。ああ、日光とガス灯の中で育った者たちよ、おのれの住んでいる世界について、きみたちは何たる無知であることか!
周囲の少し離れたところに見張っている武装した友人たちがいるというのに、バイリングはまったく孤独を感じていた。この時、この場の厳粛にして神秘的な霊気にとらわれてしまうと、彼は目に見え、耳に聞こえる夜の情況や様相と自分がどうかかわりがあるのかも忘れ果ててしまった。森ははてしもなく広く、人間も、人間の栖《すみか》も存在しなかった。宇宙はただ一つの太古の真暗な神秘につつまれ、形なく、むなしく、彼ただ一人その永遠の神秘に黙々と問いかけていた。
このような雰囲気から生まれたさまざまの思いに耽りながら、彼はいつしか静かに過ぎていく時間に耐えていた。その間に、木の幹のあいだにさしこんでいた青白い光のまばらな斑点が、その大きさも、形も、場所も変えてしまっていた。近くの道ばたにある一つの斑点の中に、さっきまでは気づかなかった物に、彼の目がとまった。それは、彼が坐っているすぐ目の前にあった。さっきまでそんなものはそこになかったと、彼は誓ってでもいいたいくらいだった。一部分が影におおわれていたが、まさしく人間の姿だとわかった。本能的に彼は剣帯をしめ、拳銃をつかんだ。再び彼は戦いの世界にもどり、職業意識から暗殺者になった。
人の姿は動かなかった。拳銃を手にして立ち上がると、近づいていった。その人影はあおむけに寝ており、上半身は影につつまれていたが、立ちはだかるようにして、その顔を見おろした時、それは死体だとわかった。彼はぞっと身ぶるいし、吐き気と嫌悪感に襲われ、くるりと向き直って元の丸太に腰を下ろすと、軍人としての用心深さも忘れて、マッチをすり、葉巻に火をつけた。マッチの炎が消えた後、急に真っ暗闇になると、彼はほっと安堵した。もうあのいやなものが見えなくなったからだ。それでも、まだその方にじっと目をすえているうちに、またもやそれがはっきりと見えてきた。何だかわずかだが近くなっているようだった。
「こん畜生め!」彼はつぶやいた。「あいつ、何を欲しがってるんだ」
その死体の必要としているものは、魂以外にはなさそうだった。
バイリングは目をそらして、鼻歌をうたい出したが、一小節も歌わないうちにふっとやめて、死体を眺めやった。これほど静かな隣人はありそうもないのだが、その存在がかんにさわった。と同時に、これまで経験したことのない、何とも名状しがたい漠然とした感じをおぼえた。恐怖ではなくて、むしろ超自然的なものの知覚だった――彼はそんなものの存在など、信じてはいなかったのに。
「これは遺伝しているものだ」と、彼は内心考えた。「人類が進歩してこんな感情から脱却するには、おそらく千年は要するだろう――いや、一万年はかかるだろう。だが、こんな感情は、いつ、どこから始まったのか。おそらく、遠い昔にさかのぼって、いわゆる人類の揺籃期、中央アジアの平原だろう。いまのわれわれが迷信として受けついでいるものを、われわれの未開の祖先たちは、それなりに理由のある信念として抱いていたにちがいない。きっと彼らは、死体というものを、災いをもつ奇怪な力、恐らく災いを加える意志と目的とを授けられている悪意のこもっている物と考え、いまのわれわれには推測もできない種類の事実を経験して、自分たちは正しいのだと信じきっていたにちがいない。きっと彼らはある恐ろしい種類の宗教を持っていて、死体を悪意のこもっている物という考えが主要な教義の一つとなり、いまの牧師たちが霊魂不滅を説くように、彼らの神官たちがせっせとその教義を説いて聞かせていたのだろう。
アーリア人がコーカサス山脈の方へゆっくりと移動し、その峠を越え、やがてヨーロッパ一帯にひろがっていくにつれ、新しい生活条件が新しい宗教の組織化を生む結果となったにちがいない。死体の邪悪に対する古い信仰は教義からなくなり、伝統からさえ消滅したが、それは恐怖の遺伝となって残り、先祖代々伝わってきたのだ――そして、血や骨同様に、われわれの大きな部分になっているのだ」
こんなふうにとことんまで考えを追求しているうちに、彼はどうしてこんなことを考え始めたのか忘れてしまっていたのだが、やっと再び死体に目を落とした。今度は、影が死体に少しもかかっていなかった。はっきりと横顔が見え、虚空に突き出たあごが見え、月光を浴びて不気味なほど白い顔全体が見えた。服は灰色、南軍の兵士の軍服だった。ボタンがかけてないため、上衣と胴着が左右にはだけ、白いシャツがのぞいていた。胸が異常にふくれ上がっていたが、腹はへこんで、下の方の肋骨の線がはっきりと飛び出していた。両腕はだらりとのばし、左のひざは上に突き出していた。その姿勢全体から、どうすれば身の毛もよだつ恐ろしいものになるかを考えて、苦心をはらったという印象をバイリングは受けた。
「ふん、こいつは役者だな」と、バイリングは叫んだ。「死にざまを心得てやがる」
彼は目を引きはなすと、前線へ通じる道の一つを決然と眺めやり、途中で止めた思索にまたも戻った。
「もしかしたら、中央アジアのわれわれ人間の祖先たちには、埋葬の習慣がなかったのかも知れない。その方が、彼らが抱いていた死者の恐怖を理解しやすい。実際に、死体というやつは脅威でもあるし、害悪でもあったからな。死体から疫病が発生したのだ。子供たちは死体がころがっている場所を避けるように、またもし、うっかりして死体に近よったら、走って逃げ出すように教えられていたのだ。実際、おれもこいつから離れた方がよさそうだ」
彼はそうしようと思って立ち上がりかけたが、その時、前方にいる部下たちにも、また、自分と交替するはずの後方にいる将校にも、いついかなる時でもこの場所にくれば、自分がいると告げておいたことを思い出した。それはまた、誇りの問題でもあった。もし自分がこの持ち場を放棄すれば、みんなは自分が死体に恐れをなしたせいだと思うかも知れない。彼は臆病者ではなかったから、人から笑いものにされるのはいやだった。
そこで、再び腰を下ろすと、自分の勇気をためそうとして、大胆に死体を眺めやった。右の腕が――彼から見ると遠い方になるが――いまは影になっていた。前には見えたのに、シャクナゲの茂みの根もとにおかれてある手はほとんど見えなかった。別段、変わったようすもなかった。なぜだか自分でもわからなかったが、それで何となくほっと安心した。彼はすぐに目を引きはなすことができなかった。とかくわれわれは見たくないものに、奇妙に心を引きつけられる。時には抗しがたいほどに引きつけられるものだ。目を両手でおおいかくして、指のあいだからのぞき見をする女のことを小賢しげにいうものは、いささか見当違いの見方をしているのではあるまいか。
バイリングは、突然、右手に痛みをおぼえた。目の前の敵から目をはなして、右手を見た。抜いた剣のつかを力まかせに握りしめていたので痛かったのだ。それにまた、緊張した姿勢で、ぐっと体を前に乗り出していた――敵ののどもと目がけて跳びかかろうとしているローマ時代の剣士のように、前こごみになっていたのに気がついた。歯を食いしばり、息づかいも荒くなっていた。
だが、この状態はすぐになおり、筋肉がほぐれ、ふうっと長く息をつくと、こんなことのばかばかしさをいやというほど感じた。それで思わず笑い出してしまった。やっ! あの音は何だ。人間の陽気な気分をまねして、ふらちにもばか笑いしている愚劣な野郎は何者だ? 彼は勢いこんで立ち上がると、自分の笑い声とは気づかずに、あたりを見まわした。
彼はもはや、自分が臆病者だという恐ろしい事実を、われとわが身にかくしきれなくなった。完全におじけづいてしまっていたのだ! その場からかけ出そうとしたが、足がいうことをきかなかった。足からへなへなと力がぬけてしまい、はげしくふるえながら、またも丸太に坐りこんだ。顔はあせでぬれ、全身びっしょり冷あせをかいていた。叫び声を上げることさえできなかった。背後に、何かけものでもいるのか、しのびやかな足音がはっきり聞こえたが、肩越しにふり返ってみる勇気もなかった。魂を持たぬ生きものが、魂を持たぬ死人と力を合せたというのか――動物なのだろうか。ああ、それさえ確かめられたら! だが、どんなに意志の力をふるい立たせてみても、死人の顔を見つめている目を引きはなすことができなかった。
重ねていうが、バイリング少尉は勇敢で、聡明な男であった。だが、どうすればいいというのか。人間がたった一人で、夜と孤独と静寂と死人とが恐しい結託をしているものを相手に戦えというのか――人間の無数の祖先が、彼の心の耳に金切り声で卑怯な助言を吹きこみ、陰気な死の歌を彼の心に歌い、彼の鉄血の血潮から戦う意志を奪い去ろうとかかっているというのに。優劣の差は、余りにも大きすぎる――勇気とは、そんな手荒い扱いを受けるようには出来ていないのだ。
いまやただ一つの確信が、この男をつかんではなさなかった。死体が動いたという確信だ。月光が当っていた場所の端の方に、さっきよりも死体が近くなっていたからだ――それには疑う余地はなかった。それに、手の位置も動いていた。見ろ、両手とも影に入っているじゃないか! 冷たい風が一吹き、さあっとバイリングの顔をまともになでた。頭上の木の枝がざわざわとゆれ、うめいた。輪郭のはっきりした影が死人の顔をよぎったと思うと、その顔を明るく照らし出し、また影がおおって、顔をぼんやりと見えなくした。その恐ろしいものは、見まがう方なく動いていたのだ!
その時、一発の銃声が小哨線のあたりにとどろいた――人間の耳がかつて聞いたこともないほど寂しげであり、小哨線より遠いのに、はるかに大きかった。それは魅入られたようになっていた男の呪縛をといた。それは静寂と孤独を屠《ほふ》り、中央アジアから現れ出て妨害する大軍を蹴散らして、彼の近代的な人間性を解放した。獲物に飛びかかる猛禽にも似た叫び声を上げ、戦いに心は火と燃え、彼は跳び出していった。
いまや前線から銃声がつぎつぎにとどろきわたった。怒号と混乱、蹄の音、まばらな喊声《かんせい》が続いた。後方の、眠りこんでいた陣地で、ラッパのひびきと、太鼓のとどろきが起こった。道の両側の茂みをかき分けて、北軍の歩哨が総退却してきた。走りながら、うしろに向かってでたらめに発砲していた。逃げおくれた一団が指示された通りに道の一つに沿って退却してきたが、あわてて道ばたの茂みに逃げこんだ。五十人ほどの騎兵が蹄の音をとどろかせ、かけぬけざまに激しく剣で切りかかってきたからだ。がむしゃらな速度で、これら馬上の狂人どもは怒号を上げ、拳銃を乱射しながら、前にバイリングが坐っていた地点をかすめ、道の角をまがって姿を消した。
その一瞬後、小銃の一斉射撃がとどろき、そのあと、不規則な間隔をおいた射撃が続いた――騎兵が一線にならんだ前哨本隊に遭遇し、大混乱に陥って退却してきたのだ。乗り手をなくした馬が右往左往し、多くの馬は銃弾をあびて苦痛のために鼻嵐を吹き、とびはね、あれ狂っていた。すべては終った――「前哨地点の一事件」として。
小哨線はあらたな兵を加えて再編成され、点呼が取られ、逃げおくれてきた兵たちも再び隊列に加えられた。北軍の司令官が服装もととのえずに、参謀の一部を従えて、現場に姿を表わし、二、三の質問をし、すこぶるしたり顔をして、引き上げていった。野営中の旅団は一時間ほど戦闘隊形でいたが、「一言《ひとこと》、二言《ふたこと》祈りをとなえ」〔シェクスピア「ロミオとジュリエット」の科白〕また眠りについた。
あくる朝早く、作業班が大尉に指揮され、軍医に伴われ、死傷者を求めて地面をさがしまわった。道が二叉に分かれるところで、少し片側によって、二つの死体がぴったりとよりそって倒れているのを発見した。一つは北軍将校、も一つは南軍兵卒の死体だった。将校は心臓までつらぬいた剣の一突きで死んでいたが、どうやらその前に、敵に五か所ものすさまじい傷を負わせていた。死んだ将校は血だまりの中に、うつぶせになっており、剣は胸に突きささったままだった。作業班が彼をあおむけにすると、軍医は剣をぬき取った。
「何てこった!」大尉がいった。「バイリングじゃないか!」――も一つの死体をちらりと見やって、いいそえた。「猛烈な格闘をやったんだな」
軍医は剣を調べていた。それは北軍歩兵部隊の戦列将校が持つものだった――大尉がつけている剣とそっくり同じだった。じじつ、それはバイリングのものだったのだ。他に発見された武器といえば、死んだ将校のベルトにある、一発も弾丸は発射されてない連発拳銃しかなかった。
軍医は剣をおくと、も一つの死体に近づいた。すさまじい切り傷や刺し傷があったが、血は一滴もなかった。軍医は左足をつかんで、足をまっすぐに伸ばそうとした。強引に伸ばそうとすると、死体がずれた。死者は動かされるのを望まないのだ――それはかすかな、胸のむかつくような臭いを放って抵抗した。死体が始めにころがっていた地面に、数匹のうじがいて、愚鈍なうごめきを見せていた。
軍医は大尉を見やった。大尉も軍医を見やった。
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双生児の一人
故モーティマー・バーの書類の中から
発見された手紙
あなたのご質問は、双生児の一人としてのわたしの経験で、われわれの知っている自然の法則では何か説明のつきかねることに気づかなかったかどうかということでした。そのことについては、あなたのご判断におまかせします。なぜなら、われわれは必ずしも、皆が皆、同一の自然の法則を知っているわけではありませんから。ぼくの知らないことを、あなたはご存知かもしれないし、また、ぼくに説明つきかねることでも、あなたにはきわめて明瞭かも知れません。
あなたは、ぼくの弟のジョンをご存知でしたね――つまり、あなたはぼくが留守だと知ってらしたので、ジョンだとおわかりになったのです。しかし、あなたにしろ、誰にしろ、ぼくたち兄弟がそっくり同じに見せかけようとすれば、ジョンとぼくの区別はできないと信じております。両親にさえ区別がつかなかったのです。ぼくたちのばあいは、ぼくの知る限り、これほどそっくり同じという例は他に知りません。ぼくはいま、弟のジョンのことをお話ししているのですが、兄の名がヘンリーではなく、ぼくの名がジョンではないという確信もありません。ぼくたち二人は正式に洗礼名を授けられたのですが、後で、二人を区別するため小さな印を刺青《いれずみ》している最中に、刺青師が思いちがいをしました。なるほど、ぼくの前腕には小さなHがついており、弟にはJとついてはいますが、その文字は入れかえてはいけなかったのかどうか、まったくわかりません。
ぼくたちの少年時代、両親は、着る物だとか、その他簡単な工夫で、もっとはっきり二人を区別しようとしましたが、ぼくたちはしょっちゅう服を取りかえたり、その他、敵を出しぬくようなことをやっていたので、ついに両親もそんなむだ骨折りはやめてしまいました。ぼくたちがわが家で一緒に暮らしていたあいだは、みんなは事の厄介さに手を焼き、ぼくたちをどっちも「ジェンリー」と呼んですませていました。
はっきりと目立つよう、このぼんくらの額に焼印をおさなかった父の辛抱強さに、ぼくは何度か感心したものです。しかし、ぼくたちは、まあかなりいい子でしたし、人を困らせたり、うるさがらせたりする才も、殊勝なことに、ほどほどにしか使いませんでしたから、焼ごてはまぬがれたというわけです。父は、実際、珍らしいほどのお人善しでした。恐らく自分では内心ひそかに自然のいたずらを面白がっていたのだと思います。
われわれ一家がカリフォルニアに出てきて、サノゼの町に(この町でぼくたちを待っていた唯一つの幸運は、あなたのような親切な方とお近づきになれたことでした)落ち着いて間もなく、ご存知のように、同じ一週間のうちに両親が亡くなって、一家はばらばらになってしまいました。父は破産して死に、家屋敷は父の借金を払うために手放してしまいました。妹たちは親戚を頼って東部に戻りましたが、あなたのご親切のおかげで、その時二十二歳だったジョンとぼくは、地区こそ違え、サンフランシスコで職をえました。一緒に暮らすのは事情が許さなかったのですが、それでも時たま会っていました。一週に一度ぐらいのこともありましたが。ぼくたちには共通の知人もほとんどいなかったので、二人が異常なほどよく似ていることは、ほとんど知られませんでした。ここでいよいよ、あなたのおたずねの件に、ペンを進めることになります。
この市に来てから間もなくのある日のこと、午後もおそく、ぼくはマーケット通りを歩いていました。その時、りっぱな身なりの中年の男から声をかけられたのです。その人はいかにも親身のこもったあいさつをしてから、こういうのです。「スティーブンズ、むろんぼくは、君があんまり出歩かないのは知っているけど、君のことを家内に話して聞かせたら、ぜひ家におよびしたいって家内がいうんだよ。それに、うちの娘たちと近づきになるのも悪くないと思うんだがねえ。どうだろう、あした六時に家にやってきて、内輪だけで一緒に夕食でもどうだね。それで、もし女性たちのお相手で面白くないというんなら、ぼくがあとで、ちょっとばかり玉突のお相手になろうじゃないか」
これがじつに明かるい笑顔で、しかもひどく愛想のいい物腰でいわれたものですから、断わる気力もなくなってしまい、これまで一度も会ったこともない人でしたが、ぼくは即座に返事してしまったのです。「これはどうもほんとにご親切さまです。マーガバンさん。心から喜んでお招きにあずかります。どうぞ奥さまによろしく。きっとおうかがいしますと、お伝え下さい」
握手をして、快い別れのあいさつをして、その人は立ち去っていきました。彼がぼくを弟とまちがえたのは、もうはっきりしていました。そんなまちがいには、ぼくはなれていましたし、大切なことと思えない限り、一々訂正しない習慣になっていたのです。
それにしても、どうしてぼくにその人の名がマーガバンだとわかったのでしょうか。確かにこんな名前は、きっと当っているだろうと思っても、当てずっぽうに人に使ってみるような名前ではありません。実際のとこ、その人はむろんのこと、そんな名前すらぼくは知らなかったのです。
つぎの朝、ぼくは急いで弟の雇われているところへ出かけ、集金するはずのたくさんの勘定書を持って事務所から出てくる弟に出会いました。ぼくは弟をのっぴきならない立場にさせてしまったいきさつを話し、もし弟に約束を守る気がないのなら、ぼくが喜んで弟役を続けてもいいと、つけ加えたのです。
「こいつは変だなあ」と、弟は考えこんでいいました。「マーガバンは、この事務所でぼくがよく知っていて、好意が持てるたった一人の人なんだがね。けさ、彼が事務所にきて、いつもの通りお互いにあいさつを交していたら、何だか妙な衝動にかられて、思わずぼくはいったんだよ。『あっ、すみませんが、マーガバンさん。ぼく、ついうっかりしてあなたのご住所をおききしなかったのですが』それで住所を知ったんだけど、一体全体、住所をきいてどうするつもりだったのか、今の今まで自分でもわからなかったんだ。お前がそんな厚かましいことをやって、その報いはかぶるという申し出はりっぱだけどね。しかし、ぼくは自分でご馳走になりにいくよ、かまわんだろう」
彼はその家で何度も晩餐によばれました――何もご馳走にけちをつけるつもりはありませんが、彼には十分すぎるくらいに何度もだったのです。それというのも、彼はマーガバン嬢に恋をし、結婚を申し込んで、むごいことに、承諾されたのでした。
ぼくにその婚約が知らされて数週間後に、それまで都合がつかずに、ぼくはその娘さんと家族の方と近づきになるひまがなかったのですが、ある日、ぼくはカーニー通りで、ハンサムだが、どことなく身を持ちくずした感じの男と出会いました。ぼくはまるで何かにそそのかされるように、その男の後をつけ監視をしたのです。そんなことをやっても、ぼくは少しも気がとがめませんでした。
その男はギアリー通りへまがって、そのままユニオン広場まで来ました。そこで彼はちらりと時計を見て、広場に入っていきました。しばらく広場の小道をぶらぶらしていました。てっきり誰かを待っているふうです。やがて、流行の服装をした、美しい若い女がやってきて一緒になると、二人はストックトン通りの方へいくので、ぼくも後をつけました。今度は極度に用心しなければならないと感じました。というのは、その若い女はまったく知らない人でしたが、一目でぼくが誰だかわかりそうに思えたからです。
二人は通りをつぎつぎにいくつも曲って、ついに二人は、す早くあたりを見まわしてから――ぼくはそばの家の戸口にとびこんで、やっと見つからずにすみましたが――一軒の家に入りこみました。そこのきたならしい場所についてはとてもここに書く気になりません。しかし、それがどんな性質の家か考えれば、まだその場所の方がましなくらいでした。
ぼくがこの見知らぬ二人のスパイ役を演じた行動には、別にこれというはっきりした動機がなかったことは、ここで言明しておきます。それを見ぬいた人の品性を、ぼくがどう評価するかによって、恥ずかしいとも、恥ずかしくないともいえることになりましょう。あなたの質問から引き出される特に重要な物語の部分として、ここでは躊躇とか恥とかいうことはぬきにして、お話ししているのです。
それから一週間して、ジョンはぼくを自分の義理の父となるべき人の家へつれていきました。そして、もうすでにお察しの通り、しかし、ぼくにとっては心底からの驚愕でしたが、マーガバン嬢こそ、あの恥ずべき情事のヒロインだとわかったのです。彼女こそ、恥ずべき情事の、輝やくほどに美しいヒロインだということを、公正を期するためには、いやでも認めなければなりません。
ですが、この事実には、一点だけ重大なことがあります。彼女の美しさがぼくにはまさに息をのむほどの驚きだったあまり、本当にこの人が先日見たあの若い女と同一人だろうか、という疑念がふと浮かんだことです。かくも素晴しい魅力をたたえた彼女の顔が、どうしてあの時、こうもぼくの心を打たなかったのだろうか。だが、ありえない――間違えようはずはない。違うように見えたのは、それは衣裳とか、光線の具合とか、まわり全体のせいなのだ。
ジョンとぼくは、ぼくたち二人が似ていることから当然思いつくような、いささか悪どいくらいのからかいにも、長年の経験で別にびくともせずに受け流しながら、その家で一晩を過ごしていました。若いマーガバン嬢とぼくが、数分ばかり二人だけになった時、ぼくは相手の顔をまじまじと見やって、突然、まじめな口調で切り出したのです。
「マーガバンさん、あなただって、あなたにそっくりの人がいますよ。先週の火曜日の午後、ぼくはその人をユニオン広場で見かけましたよ」
彼女は大きな灰色の目をしばらくぼくに向けていましたが、その視線はぼくの視線よりもいささか心もとなげでした。そして、視線をそらすと、じっと自分の靴のつま先を見つめていました。
「その人、あたしに生き写しでしたの?」と、彼女はいささか度を越しているとも思える平然とした態度できくのです。
「それはもう、ぼくがついうっとりとなるほどよく似てましたよ。その人を見失いたくなかったもんですから、正直いいますと、後をつけていったんです。そしてついに――マーガバンさん、もうあなたにはおわかりでしょう?」
彼女はもう真っ青になっていましたが、それでも落ちつきはらっていました。そして、再び目を上げて、ぼくの目を見ましたが、その視線は少しもたじろいでいません。
「あたしにどうしろとおっしゃるの。ご心配には及びませんから、あなたの条件をおっしゃって。あたしは承知しますから」
よく考えてみる余裕もないほど短い間のことでしたが、こういう娘と取引するには普通の方法ではだめだし、ありきたりの要求などもむだだと、はっきりとわかったのです。
「マーガバンさん」ぼくはたしかに内心ひそかな憐憫の情をいくらか声に現わして、いいました。「あなたは何か恐ろしい脅迫の犠牲になってらっしゃるとしか考えようがありません。この上新たな困惑の原因を押しつけるぐらいなら、あなたの自由を取り戻せるように、あなたを助ける道をえらびますよ」
彼女は悲しげに、絶望的に首をふりましたが、ぼくは興奮して続けました。
「あなたの美しさを見ていると、ぼくは気おくれしてしまいます。あなたの、その率直さと、苦しみを見てますと、あなたをせめる気などなくなってしまいます。もしあなたが自由に良心に従って行動なさるおつもりなら、ご自分で最善と思われることをなさるものと、ぼくは信じています。もしその気がなければ――まあ、その時は神さまの助けを祈りましょう! あなたはぼくに何も恐れることはありません。ただ、この結婚に反対するばあい、ぼくとしては――別の根拠を持ち出すようにはしますけど」
これは、その時のぼくの言葉通りではありませんが、主旨はこの通りで、そのとき突然湧き上がってきた相反する二つの激しい感情をできるだけ正確に現わしています。
ぼくは立ち上がると、もう二度と彼女の方は見ずにそばを離れ、ちょうど部屋にはいってくる他の人たちに出会うと、できるだけおだやかにいいました。「お嬢さんにいまお別れのごあいさつをしたところです。意外にもう時間がおそいものですから」
ジョンも一緒に行くときめました。通りに出ると、ジュリアのようすが何だか変だったのに気がつかなかったかと、ぼくにきくのです。
「かげんが悪いと思ったんで、それでおいとましたんだよ」と、ぼくは答えました。それっきり何も話は出ませんでした。
その翌晩、ぼくはおそく下宿に戻りました。ゆうべのことで神経がたかぶって、気分が悪かったのです。外を散歩して気分をなおし、頭をはっきりさせようとしてみたのですが、何か悪いことが起こりそうな、ひどい胸騒ぎがして重苦しい気分でした――何とも説明のつかない予感でした。
その夜はひえびえとした、霧の深い夜でした。服も髪の毛もじっとりとぬれ、寒さで体がぞくぞくしました。化粧着をはおり、スリッパをはいて、石炭の燃えさかる暖炉の前にいても、ますますいやな気分になるばかりでした。ぼくはもうぞくぞく身ぶるいしているのではなく、がたがたふるえていました――同じふるえでも、違うのです。何かとんでもない災難が迫っているという恐怖が余りにも強く、気がめいる一方なので、現実の悲しみを呼びさまして、その恐怖を追いはらおうとしました――つらかった過去の思い出と取りかえることによって、恐ろしい未来の考えを払いのけようとしたのです。両親の死を思い起こし、両親のいまわのきわの、またそのお墓での最後の別れの悲しい光景に思いをこらそうと努めました。それもすべて、まるで遠い遠い昔に他人にあったことのようにぼんやりと、非現実的にしか思えなかったのです。
突然、こうしたぼくの考えの中に突きささり、はりつめた絃を剣の一振りで断ち切るようにぼくの考えを断ち切って――他に比較するものが思いつかないのですが――断末魔を思わせる鋭い叫び声が聞こえたのです! その声は弟の声で、窓の外の通りから聞こえてきたように思えました。ぼくは窓にかけよるなり、急いで開けました。すぐ前の街灯が、ぬれた舗道や家々の門前に青白い光を投げかけていました。警官が一人、上着のえりを立てて門柱によりかかり、静かに葉巻をふかしています。それ以外に人っ子一人見えません。ぼくは窓をしめ、日よけを下ろすと、暖炉の前に腰を下ろして、身のまわりのことに考えを向けようとしました。いつもやりつけていることでもすれば、少しはたしになるかと思って、時計を見ました。十一時半を指していました。
またもや、あの恐ろしい叫び声が聞こえたのです。今度は部屋の中、ぼくのすぐ側のような気がしました。ぼくはおびえてしまって、しばらくは動こうにも力も出ません。数分してから――その間の時間は、まったくおぼえがありません――ぼくは見なれぬ通りを大急ぎで歩いている自分に気がつきました。自分がどこにいるのか、どこへ向かっているのかわからないのに、やがて一軒の家の前の段をかけ上がりました。家の前には二、三台の馬車がとまっており、家の中では光が動きまわり、おし殺したような、あわただしい人声がしていました。それは、マーガバン氏の家だったのです。
その家で何があったかは、ご存知の通りです。一つの部屋では、ジュリア・マーガバンが数時間前に服毒自殺をとげて横たわっていました。別の部屋では、ジョン・スティーブンズが、自らの手で負わせた拳銃による胸の傷口から血を流して、横たわっていました。ぼくがその部屋にとびこんで、医師たちを押しのけ、彼の額に手をあてた時、ジョンは目を開け、うつろに見つめていましたが、ゆっくりと目を閉じ、何のそぶりも示さずに息を引き取りました。
それきりぼくは、その後六週間たつまで何もわからなくなり、それから、あなたのりっぱなお宅で、天使のような奥様の看護のおかげで生き返っていたというわけでございます。このことはもうすべてご存知のことですが、ご存知ないのはこれからお話し申し上げることです――もっとも、これはあなたの心理学の研究対象とは何のかかわりもないことです――少くとも協力をお求めになられました、あの研究部門には関係ございません。あなたは、あの独特のこまやかなお心づかいと思いやりから、も少しはお役に立ったのではないかと思えるくらい、余りお求めにはなりませんでしたが。
あれから数年後の、月の明かるいある夜のこと、ぼくはユニオン広場を通っていました。夜もふけて、広場は人気《ひとけ》もありません。過去のいくつかの思い出が、おのずと心をよぎっていくうちに、あの宿命的なあいびきをいつか目撃した場所に来ました。人間には不可解なひねくれたところがあって、無理にももっともつらいことをくよくよ考えるものですが、ぼくもそれにかり立てられるように、ベンチの一つに腰を下ろして、考えに耽っていました。
一人の男が広場にはいりこんで、散歩道に沿ってこっちへやってきました。両手をうしろ手に組み、首はうなだれていました。男は何も目にとめてないようすでした。ぼくが坐っている影の近くまできた時、数年前にその同じ場所でジュリア・マーガバンと落ち会うのを見かけた、あの同じ男だとわかったのです。しかし、何というひどい変りようでしょう――頭は白髪《しらが》に近く、げっそりとやつれ果てていたのです。どこをどう見ても、放蕩と悪の生活が歴然としていました。病気も一目瞭然でした。服装はだらしなく、髪の毛は不気味でもあり、また精神錯乱をまるで絵にかいたように、額にたれかかっていました。自由勝手にしているよりは監禁されている方がよさそうな格好でした――病院に閉じこめておくということです。
別にはっきりした目的もなく、ぼくは立ち上がって、その男と向かい合いました。彼は頭を下げて、まともにぼくの顔を見ていました。その時、彼の顔に現われた恐ろしい変化は、形容する言葉もないほどです。何ともいいようのない恐怖の表情でした――幽霊と向かい合っていると思っていたようです。しかし、肝のすわった男でした。
「畜生、このジョン・スティーブンズめ!」と、彼はわめき、ふるえる腕をふり上げて、ぼくの顔めがけてこぶしを弱々しくふり下ろしましたが、ぼくが歩み去ったため、砂利の上にまっさかさまに倒れました。
誰かが、その場所に石のように冷たくなって死んでいる彼を発見しました。彼についてはそれ以上何もわかりません。名前すらわかりません。一人の人間について、その人が死んだとわかるだけで、十分ではないでしょうか。
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亡霊の谷
一 中国ではどうやって木を伐り倒すか
ジョー・ダンファーの家から北へ半マイル、ハットンの家からメキシカン・ヒルへ向かっていくと、街道は日もさしこまぬ峡谷に落ちこんでいるが、その峡谷は好機熟せば秘密を打ちあけるぞといわんばかりに、何となく曰くありげに、両側に開けているのだ。
私は馬に乗ってこの峡谷を通る時にはきまって、まず片側に目をやり、ついで他の片側を見やって、秘密露見の時機が到来したかどうか知ろうとした。何も見えなくても――じじつ、何も見えなかったが――少しも落胆はしなかった。というのも、私には問い正す権利はないが、もっともな理由から秘密を明かすのは一時ひかえられているだけのことだと知っていたからだ。だが、いつかは必ず私にことごとく打ち明けられる。そのことを、ジョー・ダンファーの生きていることを疑っていないと同様に、私は疑っていなかった。峡谷はこの男の土地を流れていた。
うわさによると、ジョーはかつて、その土地のかなり遠くはなれた所に小屋を建てにかかったが、何かの理由でその計画を棄て、半分住居、半分居酒屋という、いわば異性同体といった現在の家を、道路わきの、自分の地所のとんでもない片すみに建てた。まるでいかに徹底的に考えを変えたかを示すつもりであるかのように、できるだけ遠くにはなしたというわけだ。
このジョー・ダンファー――近在ではウイスキー・ジョーという名で通っているが――この男、地元では非常に重要な人物だった。見たところ、年は四十がらみ、髪は蓬々《ぼうぼう》と長くのびている。深いしわを刻みこんだ顔、筋肉隆々たる腕、監獄の鍵束みたいに節くれだった手をしていた。毛深い男で、前こごみに歩くくせがある。いまにも何かにとびかかって八つ裂きにしてくれるぞという、そんな姿勢だ。
地元での通称の由来になっている酒ぐせについで、このダンファー氏のもっとも目立つ特徴は、中国人に対する根深い反感である。一度、私は彼が激怒しているのを見たことがある。理由は、彼の牧夫の一人が旅の暑さで参ったアジア人に、ジョーの居酒屋の端の前にある馬の水おけで、のどのかわきをいやさせてやったからというのだ。私はそのキリスト教徒らしからぬ精神に、それとなくジョーをいさめてみたが、新約聖書には中国人のことなんか何も書いてないと彼は説明しただけで、さっさと歩み去って自分の犬に当りちらして鬱憤を晴らしていた。聖書には犬も取り上げてないからとでもいうのだろうか。
それから数日後に、居酒屋で彼が一人でいるのを見て、私はおそるおそるこの問題にふれてみた。すると、私は大いに胸をなでおろしたのだが、あのいつものいかつい表情が見る見るやわらいで、何やらばかていねいとも思えるようすになった。
「あんたがた、若い東部の人たちは」と、彼はいった。「ちょいとばかりおとなしすぎて、この地方には向かんのですよ。おれたちのやり方がのみこめんのだよ。チリー人とカナカ人の区別もつかんような人たちなら、中国人の移民に寛大な考えを看板にかかげるひまもあるだろうけど、おおぜいの駄犬みてえな苦力《クーリー》を使って、食わんがために闘わねばならんやつには、ねごとみてえなことをいってるひまなんかないんでねえ」
おそらくはこれまで一日たりと真面目に働いたこともなさそうな、この長年の消費家は、中国製のたばこ入れの蓋をぱちんと開けると、親指と人さし指で小さな干草の山みたいに刻《きざ》みたばこを丸めてつまみ出した。さてこの増援物資を補給可能の近距離においといて、自信も新たに彼は攻撃を続行した。
「やつらは貪欲なイナゴの大群が飛んでくるようなもんだよ。やつらは、このありがたい土地の緑色をしたものを片っぱしからねらってくるんだ、うそじゃないぜ」
ここで彼は一息ついた。それから、再び、おしゃべりのギアをはずすと、またもや気焔を上げ出した。
「五年前に、おれはそういった苦力を一人、この牧場に使っていたんだがね。一つその話をして上げよう。そしたら、この問題全体の要点がわかってもらえるだろう。おれはその当時、さっぱり事がうまくはこばなかったんでねえ――医者にきめられてた量もかまわずにウイスキーは飲むし、愛国的なアメリカ市民としての義務なんぞどうでもいいってとこがあったようだったな。そこで、その異教徒を、まあ、コックみたいなつもりで雇ったのさ。ところが、向こうのメキシカン・ヒルでおれが一念|発心《ほっしん》して、みんながおれを州議会に立候補させる話をした時には、これでやっとおれも日の目が見られるという気がしたなあ。だが、おれはどうすりゃいいか。もしおれがやつを出せば、他の誰かがそいつを雇ってはくれるだろうが、人なみあつかいはしないかも知れん。おれはどうすればいいのか。いいキリスト教徒ならどうするだろうか。ことに、こういう仕事には経験がなくて、しかも人間の兄弟愛だの父なる神だといったことにどっぷり首までつかっている者ならだ」
ジョーは返事をきこうとして間をおいた。その表情には、あやしげな方法で問題を解決した人みたいに、満足はしていたが落ち着きがなかった。やがて彼は立ち上がると、まだウイスキーの一ぱいはいっているカウンターのびんからグラスについで、ぐいとひっかけると、また話を続けた。
「それに、そいつは大した役に立たなかったんだ――何も知らんくせして、妙にからいばりしてやがった。あいつらはみんな、そうなんだよ。おれがだめだといってはねつけると、そんなふうにいつまででも、くどくど泣き声で文句ばかりいうんだよ。それでも、こっちは七十七回もじっとおとなしくがまんしたあげく、そういつまでもやられちゃかなわんと、さいころにちょいと細工をしたんだ。思いきってそうしたのさ、おれは今じゃ大いに喜んでるのさ」
ジョーの喜びは、どういうわけか私には強い感銘も与えなかったが、当然のことのように、得意げになって彼はウイスキーで祝杯を上げた。
「五年ばかり前に、おれは小屋を建てにかかった。それはこの小屋を建てる前のことで、場所も別だった。おれは、アー・ウィーと、ゴーファーという名のちび野郎に木材を切らせたんだ。むろん、アー・ウィーが大して役に立つなんて当てにはしてなかったよ。なんしろ、あいつは六月のまっ昼間みたいな顔をして、大きな黒い目をしてやがったからな――この森の首ねっこあたりで、あんなくそいまいましい目つきをしてるやつはいなかったろうな」
まず世間一般の常識に、こうして手きびしい一突きをくれてから、ダンファー氏は放心したように、酒場と居間を仕切っている薄い板壁の節穴を眺めていた。まるでその節穴が、使用人として役に立つ能力を奪ってしまった大きな黒い目だといわんばかりのようすだった。
「ところで、あんたがた東部のとんまさんたちは、黄色い野郎どもに不利なことはいっさい信じないだろうがね」いきなり彼は、余り納得のできかねる真剣な顔つきで、かっと怒り出した。「おれにいわせりゃ、サンフランシスコの外では、中国人ほどつむじ曲りのやくざな人間はいないね。この情けねえ弁髪のモウコ人め、幹のまわりの若木をかたっぱしから切りはらいやがったのさ、まるで土の中の虫が二十日大根をかじってしまうみたいにな。おれはできる限り辛抱強く、そいつのまちがいを示してやって、ちゃんと倒れるように両側から木は切っていくもんだと手本を見せてやったんだ。ところが、たちまち、おれがそいつに背中を向けると、こんなふうにさ――」と、彼は私に背中を向けたが、したたか酒がはいったせいか、そのまねが大げさだった。「野郎、またやってやがるんだ。まったく、そうなんだよ。おれが見ている間は、いいかね」と、彼はいささかおぼつかなげに、明らかに私がいくつにも見える目つきで、こっちを見ながら、「ちゃんとやってるんだ。ところが、目をはなすと、いいかね」といって、びんから長々とやって――「おれをばかにしてるんだよ。それで、おれはとがめるように、じいっとやつをにらみつけてやると、いいかね、虫も殺さんような顔をしやがるんだ」
ダンファー氏はうそ偽りなく、じっと私を見すえた目つきで、ただひたすらとがめるように見せようとしたことは確かだった。しかし、武器も持たずに、そんな視線を浴びせられた人なら誰しも、最大の不安をかきたてられそうなほど異様だった。私はさっきから、彼のさっぱり要領をえない、だらだらした長話にすっかり興味をなくしていたので、帰ろうとして立ち上がった。だが、すっかり立ち上がりきらないうちに、彼はまたもカウンターの方を向いて、やっと聞きとれるような声で、「いいかね」といって、一気にウイスキーのびんをからにしてしまった。
どうしたことか! すさまじいわめき声だ! さながら巨人タイタンのものすごい断末魔を思わせた。ジョーは、そのわめき声を上げてから、とどろきわたる轟音を上げてうしろに反動する大砲のように、よろよろとうしろによろけたと思うと、自分のいすに崩れ落ちた。まるで肉牛みたいに、「脳天を一発がんとなぐられた」かのようだった――両眼はななめ上の壁に引きつけられ、恐怖の色を浮かべて見つめていた。
私もそっちに目をやると、壁の例の節穴が、たしかに人間の目になっていたのだ――いっぱいに見開いた。真っ黒い一つ目、それが世にも兇悪な底光よりもさらに恐ろしい、まったくの無表情で、私の目をじっと見つめているのだ。私は思わず顔を両手でおおって、その恐ろしい幻覚――たとえ幻覚であっても――を閉め出そうとしたに違いないのだが、ちょうどその時、ジョーの店の白人の雑用係りの小男がはいってきて、その呪文は解けた。私はもしやアル中の「振顫譫妄《しんせんせんもう》症」はうつるのではあるまいかと、呆然として恐れを抱きながらジョーの店を出た。馬は水おけの側につないであった。綱をほどいて馬に乗ると、馬の行くがままにまかせた。余りにも動転していたために、馬がどっちへいこうと気にする余裕などなかったのだ。
いまの出来事をどう考えたらいいのか、わからなかった。誰しもどう考えたらいいかわからぬばあい同じだろうが、私もさんざん頭をひねってみたが、徒労に近かった。一つだけ、とにかく納得のいきそうな考えは、明日になれば自分は何マイルか遠ざかっていて、まず二度と再びここに戻ってくる可能性は万々あるまいということだった。
突然ひんやりとした空気に、はっと我に返って、見上げると、私はいつの間にか峡谷の深い影の中に入りこんでいたのである。その日は、息がつまりそうに暑苦しかった。だから、情け容赦もない熱気の立ち昇るのが見える焼けつくような野原から、つんと刺すような杉の匂いがたちこめ、葉かげの避難所に逃げこんできている小鳥たちのさえずる声でにぎやかな、ひんやりとした小暗いところにこうして移ると、何ともいえぬ快さに生き返る心地がした。例によって、私はあの秘密を知ろうと眺めまわしたが、峡谷は教えてくれそうな気分にないらしく、そこで馬から下り、汗をかいている馬を下生えの中につれていき、木にしっかりとつなぎとめ、岩に腰を下ろして考えに耽《ふけ》った。
まず思い切って、この場所に私が好んで抱いている迷信を分析することから始めてみた。その迷信を、それを構成しているいくつかの要素に分解し、それらを適当な中隊と大隊に排列した。それから、私の論理の総力を結集して、金城鉄壁の前提からそれらを攻撃し、反撃不可能な結論をとどろかせ、戦車はうなり、全知力は喊声をあげて攻め立てた。やがて、私の知力の巨砲が、反対をことごとく粉砕し、ただの推測にすぎない彼方の地平線上にほとんど聞きとれぬほどひびきわたった時、敗走した敵はばらばらになって巨砲の背後にまわり、音も立てずに密集隊形を組み、身ぐるみ私を捕虜にした。名状しがたい恐怖が襲いかかってきた。私は立ち上がって恐怖をふりはらうと、大自然が小川を作るのを怠ったその代りとして、谷底に沿って流れているように見える、草のおい茂った古い牛道を通って、狭い谷を縫うように進んでいった。
小道がだらだらと通りぬけている木立は、行儀よく伸びた、何の変哲もない木々だった。幹は少しばかりひねくれ、枝は少しばかり風変りだったが、全体の様相には奇怪なところは少しもなかった。谷のくぼみの両側からころがり出て、谷底に独立した存在をかまえている、ぐらぐらした丸石がいくつか、あちこちで、小道をせき止めていた。だが、石そのものの静けさには、死の静寂を思わせるものは何もなかった。なるほど、まるで人の死んでいる部屋の静けさといったものがその谷にあったのは確かだし、頭上には神秘的なひそやかな音もしていた。風がこずえをそよがせていたにすぎなかった――それだけのことだった。
私は、ジョー・ダンファーの酔っぱらい話と、いま自分が探しているものとを結びつけてみる考えはなかった。だが、空き地にはいりこんで、小さな木々の切り株のけつまずいてから、やっと啓示のように頭にひらめくものがあった。その空き地は、見棄てられた小屋の跡だったのだ。くさった切り株が、まるで木こりらしくないやり方で、まわり中から斧を打ちこんで切り倒してあるかと思うと、また他の切り株は、手元の狂いもなく斜めに切りつけられており、その切り株と一致する幹の切られた元口には、熟練した斧の使い手になる、太いくさびを打ちこんだ跡がついているのに気がつくと、私の発見にまちがいのないことがわかった。
木立の中の空地は、せいぜい三十歩くらいの幅だった。片側に小さな塚――自然の小山――があって、灌木の茂みはなく、雑草でおおわれていた。その上に、雑草から突き出して、墓石があったのだ!
こんな発見をしても、格別何か驚いたという記憶はない。あのコロンブスが新世界の山々や岬を眺めた時もこうだったにちがいないといった感慨を何となく抱いて、私はその寂しい墓を眺めやっていた。墓石に近づいてみる前に、まずゆっくりと周囲を観察した。こんな中途半端な時刻に、おまけに余計なくらい入念、慎重に、懐中時計のねじを巻くふりをしたのにうしろめたい思いさえした。やがて、私はその秘密に近づいた。
墓は――かなり低いものだったが――明らかに古びて、ぽつんと一つだけあるにしては、不似合いなほどかなり手入れがゆき届いていた。しかも、まちがいなく庭で作った花が一かたまり、水をかけて間もない形跡を示していたことに、私はきっと驚きの目をむいていたにちがいない。墓石は明らかに、かつては玄関の前の石段として使われていたものだった。正面には、碑銘が彫刻されていた。いや、彫りつけたといった方がよかろう。碑銘はつぎのとおりだった。
[#ここから2字下げ]
アー・ウィー 中国人
年齢不明 ジョー・ダンファーのために働けり
この碑はこのシナ人の記憶をあざやかに止めんがためダンファーこれを建つ
同じくシナ人らが空威張りをせざるを戒めとして
こん畜生め!
彼女は上玉だったぜ
[#ここで字下げ終わり]
この異常な碑銘を見た時の驚愕を、とても適切に伝えることはできない。味もそっけもないが、故人が何者であったかは十分に伝えている文句、厚かましいまでの率直な告白、乱暴な呪い、性別と心情が一変しているこっけいさ――これらを考え合せると、この碑銘には、少くとも親しい者に先立たれた人と同じくらいに、気も狂わんばかりになっていたらしい人物の作とおぼしい情がにじみ出ていた。これ以上詮索しても、つまらない竜頭蛇尾におわりそうな感がした。無意識のうちに劇的効果を考えつつ、きっぱりと背を向け、その場を立ち去った。この郡のこの土地には、それから四年間、私は戻ってこなかった。
二 正気の牛を御する者こそ正気なるべし
「それっ、やい、このファディ=ダディめ!」
この風変りな叱咤《しった》激励が、まきをいっぱいつんだ荷車にちょこんと腰をかけた、おかしな小男の口から出ていた。二頭の牛は精一杯の努力をしているよう見せかけて、のんびりと荷車を引いていたが、ご主人様の目はごまかせなかったらしいのだ。この御仁《ごじん》がたまたまその時、道のわきに立っていた私の顔を真正面からにらみつけたので、私にそう声をかけたのか、牛に声をかけたのか、余りはっきりとはしなかった。また、その二頭の牛がファディにダディという名前であって、「それっ」という命令の対象だったのかどうかもわからなかった。
とにかく、この命令は牛にも私にも何の効果も与えなかった。そこで、おかしな小男は私から目をそらし、ファディとダディを長い棒でかわるがわる小突きながら、静かではあるが感情をこめ、「この皮だらけのやせ牛め」といっていたが、まるで三者ともお互い皮をかぶった身であるのを楽しんでいるかのようだった。乗せてくれという私のたのみは無視され、ゆっくりと荷車のうしろに取り残されるのに気がついて、私はうしろの車輪の輪の中に片足をのせ、ゆっくりと|こしき《ヽヽヽ》の高さにまで持ち上げられると、そこから遠慮なく荷車に乗りこみ、前へ這っていって御者の横に坐りこんだ――御者は私には目もくれず、またもや見境いもなく牛にせっかんを加え、それと同時に「本気でかかれ、この能なし野郎め!」と文句をつけていた。
それから、この荷車の主人は(いや、前の主人といってもよかろう。なぜなら、私はこの荷車全体を合法的に分捕ったというおかしな気持ちをおさえることができなかったからだ)奇妙な、しかも何となく気味のわるいほど親しげな表情を浮かべて、大きな黒い目を私に向けて、持っていた杖をおいた――その杖は私が半分期待していたように、花が咲いたり蛇に変わったりはしなかったが――そして、腕組みをして、もったいぶってたずねた。「おめえさん、ウイスキーをどうしたんだね」
当然私は、ウイスキーは飲むよと答えたところだろうが、その質問には何だかかくされた意味が感じとれたし、この男には、つまらない軽口をたたいてみる気になれないものがあった。そこで、とっさに別の返事をする心の用意もなかったので、だんまりをきめこんでいたが、何だかどうも自分に罪を帰せられているような気がしたし、黙っていれば自白していると取られそうな感じがした。
ちょうどその時、冷たい影が私の頬にさし、思わず上を見やった。あの峡谷へ下っていくとこだったのだ! 私を襲ったその時の感じを何と説明していいかわからない。四年前にこの谷が秘密を打ちあけてくれて以来、それっきり会っていないのだ。いまの私は、友人から遠い過去の罪を涙ながらに打ちあけられ、そのために卑劣にも友人を見棄ててしまった者のような思いがした。
ジョー・ダンファーの古い記憶、彼の断片的にもらした言葉、不得要領な墓碑の説明などが、異様なほどあざやかによみがえってきた。ジョーはどうなっただろうか――そう気になると、私は急にふり向いて、私の捕虜にたずねた。彼は一心に牛を見つめ、そのまま目をはなさずに答えた。
「それっ、この老いぼれ亀め! あの人はこの谷の上で、アー・ウィーとならんで寝ているよ。見たいかね。みんな、必ずあの場所に戻ってくるんだ――おめえさんも来るんじゃねえかと思ってたよ。どうどう!」
声をかけられると、脳なし亀のファディ=ダディはぴたりと止まった。そして、声のひびきが峡谷の上に消え去らぬうちに、二頭の牛は八本の脚を折りまげ、やせたからだがよごれるのもかまわず、ほこりっぽい道に寝そべった。おかしな小男はするりと地面に下り立つと、私がついてくるかどうか振り返って見ようともせずに、谷を登り出した。私はあとに従った。
私が最後に訪れた時と季節も同じなら、時刻もほぼ同じころだった。カケスがやかましく鳴きたて、この前と同じように、木々が陰気にささやいていた。私は何となくこの二種類の音に、ジョー・ダンファー氏のおおっぴらの自慢たらしい口調と、謎めいた多くを語りたがらぬ態度を類推させるものがあり、また、彼の唯一の文学的産物――あの墓碑銘――にあった、頑固さとやさしさとが入りまじっているものを類推させるものがある、と空想した。
谷は何一つ変わってないように見えた。変わっているのはあの牛道だけで、ほとんどすっかり雑草におおわれていた。ところが、例の「空き地」に出ると、ずいぶんと違っていた。切り倒された若木の根株や幹には、「中国流」に斧でたたき切ったものと、「アメリカ流」に切りつけたものとの区別がもはやつかなくなってしまっていた。それはまるで、旧世界の野蛮と新世界の文明とが、公平な腐朽という仲裁によって、それぞれの違いを融和させられたかのようだった――それが文明のあり方なのだが。
例の塚はそこにあったが、フン族さながらのいばらが蹂躙《じゅうりん》し、無力な草をほとんど抹殺し去っていた。貴族的な庭のすみれは、下層民の同胞に降服してしまっていた――おそらく元の種類に戻ってしまったのだろう。墓がもう一つ――長くて、頑丈な塚が――最初の墓とならべて造られていた。最初の墓は比較されるのをしりごみしているようだった。しかも、新しい墓石のかげに、この古い墓石は這いつくばり、あの奇怪な碑銘は堆積した落ち葉や土のために読めなくなっていた。文学的価値という点では、新しい方は古いのよりも劣っていた――その単純にして野蛮なふざけぶりには、反撥さえ感じられた。
ジョー・ダンファー |くたばる《ダン・フォー》
私は無頓着にそれに背を向けると、死んだ異教徒の墓石から落ち葉をはらいのけ、あの人を食った文句を元どおり明かるみに出してやると、長いこと埋もれていたところから出たばかりの碑銘には、何がしかのペーソスさえこもっているように思えた。
私の案内人もそれを読むと、真剣なようすさえおびたように見えたし、私の気のせいか、うわべは蛮人めいた物腰をしているが、そのかげに何か男らしさ、威厳ともいえるものがかくされているのが見て取れたと思った。だが、私が見ているうちに、彼の元の面、ほんのかすかだが人間ばなれした、ひどくいらだたしくなるほどなれなれしい面が、虫が好かぬが同時に人なつっこいあの大きな黒い目に、じわじわ戻ってくるのが見えた。私はできればこの際、あの秘密に結着をつけてやろうと決心した。
「ねえ、きみ」私は小さい方の墓を指さしてたずねた。「ジョー・ダンファーは、あの中国人を殺したのか」
彼は木にもたれかかって、空き地の向こうの梢をのぞきこんだり、さらに向こうの青空を眺めやったりしていた。彼はそのまま目をはなさず、姿勢も変えずに、ゆっくりと返事した。
「いいや、旦那、あの人は正当防衛で殺人罪を犯したんだよ」
「じゃ、本当に殺したんだね」
「殺したって? うん、まあ、そうもいえるかも知れんけど、誰でも知ってることじゃないんですかね。あの人は検死陪審員の前に立って、白状したんじゃないですかね。そして、陪審員は、『白色人種の胸中に働ける健全なキリスト教徒の感情によって死に到らしめた』という評決を出したんじゃなかったのですかね。そしたら、メキシカン・ヒルの教会がそのために、ウイスキーをおっぽり出したんじゃなかったのですかね。そしたら、上の有力な人たちが、福音を説く連中の仕返しに、あの人を治安判事に選んだんじゃなかったのですかね。あんたがいったいどこで育った人か知らんけど」
「だけど、ジョーは、その中国人が白人がやるように木を切り倒すのをおぼえなかったか、おぼえようとしなかったので、それをやったのじゃないのかね」
「確かにな!――記憶では、そういうことになってるし、それを真実にして正当だとしているよ。おれの方がよく知っているといったって、法律上の真実がどう変わるってもんでもないし、そんなことはおれの知ったこっちゃないし、それに、おれは弔辞をやれと頼まれもしなかったからな。だけど、じつはね、ウイスキーはおれにやきもち焼いてたんだよ」――そういって、みじめったらしい小男は、まったく七面鳥みたいにそっくり返り、鏡のつもりで目の前にかざした手のひらで具合をたしかめるように、しめてもいないネクタイをなおすふりをした。
「あんたにやきもちを焼いていたって!」行儀のわるいほど仰天して、私はおうむ返しにいった。
「その通りだよ。かまわんだろう――どうだ、ちゃんとりっぱに見えるかね」
彼は小馬鹿にしたように、わざとらしく気取った姿勢をして見せ、おんぼろチョッキのしわをぐいと引っぱってのばした。それから、異様なくらい甘ったるい低い調子に声を落として、つづけた。
「ウイスキーは、あの中国人をとてもだいじにしてたんだよ。どんなに可愛いがっていたか、おれの他には誰も知らねえな。中国人の姿が見えねえと、もうがまんできなかったくらいだったよ、あの細胞野郎の畜生め! ある日、ウイスキーがこの空き地にやってきて、やつとおれとが仕事をさぼってるのを見て――やつは寝てたし、おれはやつのそでから毒ぐもを取っつかまえて出そうとしてたんだが――おれの斧をつかむなり、思いきりおれたちにかかってきた。ちょうどうまくおれはかわしたんだ、その毒ぐもがおれにかみつきやがったもんだからな。だけど、アー・ウィーは横っ腹にもろに食らって、どうしようもねえほどころげまわっていた。ウイスキーは、おれの指にくもがかじりついているのを見て、おれがやったんだと思っていたが、すぐにとんでもないばかなことを仕出かした自分に気がついた。それで、斧をほうり出すと、アー・ウィーの横にひざまずいたよ。アー・ウィーは最後にぴくりと足を動かし、目をあけた――おれの目みたいな目をしてたやつだが――両手を上げて、ウイスキーのきたねえ頭を引きよせ、そのまましばらくじっと抱いていた。それも長くは続かなかったよ、痙攣《けいれん》が突っぱしったかと思うと、一声かすかにうめいて、息を引きとったよ」
この話をしているうちに、話し手はまるで別人のようになってしまっていた。あのおどけた、というよりも人を小馬鹿にするようなところが、すっかりなくなっていた。そして、彼がこの奇妙な情景をあざやかに描き出している時、私は平静をたもつのがやっとだった。しかも、まさに名人芸ともいうべきこの役者はとにかく私の心を巧みに操って、本来なら劇中人物によせられるべき同情がこの役者に捧げられるありさまになった。私は進みよって、彼の手をにぎりしめた。と、突然、彼の顔にほくそえみがちらりと浮かんだと思うと、明かるく、からかうように笑ってから、言葉を続けた。
「そのために、ウイスキーが気違いみたいになった時は、見ものだったねえ! あいつのりっぱな服が――あのころ、やつはまったくまばゆいほどの服装をしていたもんだが――もうすっかり台なしになってしまってたよ! 髪はくしゃくしゃになり、顔は――おれの見た限りだけど――とびきり真っ白なユリの花よりも白くなってたね。あいつは一度おれをじっと見てたけど、おれのことなんかどうでもいいみたいに、そっぽを向いたよ。その時だよ、毒ぐもにかまれた指から頭の芯まで、突きぬけるような痛みがつぎつぎに突っぱしったのは。それっきり、このゴーファーは気を失ってしまったよ。だから、おれは検死陪審に引き出されなかったのさ」
「だけど、その後もどうして口を閉じていたんだね」私はきいた。
「口がかたい性分だからさ」と、彼は答え、それっきり、そのことについては一言もしゃべろうとしなかった。
「それからというもの、ウイスキーは酒びたりになる一方だし、苦力への反感もますます猛烈になっていったね。だけど、あいつがアー・ウィーを片づけたからって、格別に喜んでたとも思わんけどな。あいつはおれと二人きりの時には、そのことについちゃ、それほど大口はたたかなかったね、あんたみたいな途方もない酔狂人に喜んで話を聞いてもらえる時ほどにはな。あの墓石は、あいつが建てたんだが、きまぐれな気分のままに、丸のみであの文句を彫ったんだ。酒の合間に彫って、三週間かかったね。あいつの墓は、おれが一日で彫ったよ」
「ジョーは、いつ死んだんだ」と、私はいささか上の空できいた。だが、その返事に息をのんだ。
「おれがあの節穴からあいつをのぞきみしてすぐ後だよ。あの時、あんたはあいつのウイスキーに何か入れたじゃないか、このボルジアの悪党め!」
この唖然とする言い掛りに不意を食らった驚きからやや立ち直ると、この不届千万な告発者ののど首をしめつけてやろうという気を起こしかけた。だが、突然、さながら天の啓示のように頭にぱっとひらめいた確信によって思いとどまった。私はきびしい目つきで彼をにらみつけ、できるだけおだやかにきいた。「あんたはいつから頭がおかしくなったのかね」
「九年前だよ!」彼はにぎりしめた両手を突き出して、わめいた。「九年前だよ、あの大男のけだもの野郎が、おれよりもあいつの方に惚れてやがった女を殺した時からだよ!――おれはその女のあとを追ってサンフランシスコから来たんだ。あいつはサンフランシスコで、ドロー・ポーカーをやって、その女をせしめたんだよ!――このおれはな、それまでもう何年も、女の面倒を見てやっていたんだよ。あの悪党は、女を手に入れておきながら、女をちゃんとみとめてやって、まともに扱うのを恥だと思っていやがったんだ!――このおれはな、女のためを思って、あいつのいまいましい秘密を守っていてやったのだよ、やつがその秘密で身を亡ぼすまでな!――このおれはな、あんたがあの野郎に一服盛った時、女のとなりに埋めて、その上に墓を建ててくれという、あいつの最後の頼みを果たしてやったんだよ! そして、それっきり今日まで、おれは一度も女の墓参りに来たことはねえんだよ。こんな所で、あの野郎と会いたくなかったからさ」
「あの人と会うだって。何をいってるんだね、ゴーファー、彼は死んでるんだよ!」
「だからこそ、あいつがこわいんだよ」
私はこの哀れな小男のあとについて荷車にもどり、別れぎわに彼の手をかたくにぎりしめた。日はとっぷり暮れていた。深まっていく夕やみの中で、その道ばたにたたずんで、遠のいていく荷車の黒々とした輪郭を見送っていると、夕暮れの風に乗って音が聞こえてきた――威勢のいいがたがたいう音が一しきり聞こえ――やがて、夜の闇から声が聞こえてきた。
「それっ、やい、このべっぴんさんのこん畜生め」
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シロップの壷
この物語は、主人公の死から始まる。サイラス・ディーマーは、一八六三年七月十六日に死んで、二日後に遺体は埋葬された。彼は村中の男、女、かなり大きくなった子供にいたるまで個人的によく知られていたので、葬式には、地方紙の記事にあったように「多数の会葬者があった」。その当時の土地のしきたりどおりに、棺は墓の脇で開けられ、友人、隣人の全会葬者が一列にならんで進み、死者の顔に最後の別れをつげた。それから、みんなの目の前で、サイラス・ディーマーは地下におさめられた。中にはいささか目を曇らしていた人々もあったが、しかし全般的には、この埋葬で儀礼を欠いていたとか、つぶさに見守る人目がなかったということはいえないだろう。サイラス・ディーマーはまちがいなく死んでいたし、彼が墓場から舞い戻ってきても当然だとされそうな儀式上の落ち度は、何ぴとも指摘できなかったろう。ところが、もし人の証言が多少とも有効であるとするなら(また事実たしかに、人の証言によって、かつてセイレム市内とその周辺に起こった魔女事件は終息を見た)、彼は舞い戻ってきたのである。
お話しするのを忘れたが、サイラス・ディーマーの死と埋葬は、ヒルブルックという小さな村でのことで、彼はこの村に三十一年間暮らしていた。彼は、合衆国(今は、いうまでもなく自由な国になっているが)の一部の地方では「小売商人《マーチャント》」と称されるものをやっていた。つまり、小売店を持っていて、その種の店で普通に売っているようなものの商いをしていたのである。知られている限りでは、彼の正直ぶりはいささかも疑われたことはなかったし、あらゆる人から高い尊敬を受けていた。どんなに口やかましい人が彼に文句をつけたとしても、余りに仕事に熱心すぎるということぐらいしかなかったろう。彼がそんな文句をつけられたことはなかった。もっとも、他の多くの同業者たちは、それほどまでに仕事熱心ぶりを示さなくても、こうも寛大には見られなかった。サイラスが仕事に打ちこんだといっても、それは大がい自分だけのことであった――おそらく、そこらに違いが出てくる因《もと》があったのかも知れない。
ディーマーが死んだ時、四分の一世紀以上も前に開店して以来、日曜日を除いて、彼が一日たりと店を休んだことがないのを、みんなは思い起こしたものだ。その長い間、彼の健康はいたって申し分なかったが、彼を帳場からふらふらおびき出そうとそそのかすものがあろうとなかろうと、いっさいそんなものの効力など彼の眼中にはなかった。こんな話もあった。いつだったか彼は、重要な訴訟事件で証人として、郡庁所在地に出頭を命じられていたのに、出頭しなかった。すると、したたか者の弁護士は、彼を「譴責に付すべし」という動議を出したが、裁判所としてはそのような申し出は「意外」なりと見なすと、いかめしく申し渡された。裁判官を驚かせるというのは、一般には弁護士としてはひき起こしたがらぬ感情であるから、その動議はあわてて撤回された。そして、もしディーマー氏が出廷していたら、かく言ったであろうというところで、相手側との合意が成立した――ところが、相手側は、その仮定上の証言の持つ有利な点を利用して、それを明らかに発議者に不利益なものにしてしまったのである。
要するに、サイラス・ディーマーはヒルブルックの絶対不動の真理であり、もし彼が空間を移動することがあれば、何か不吉な社会的悪か猛烈な災害がたちまち襲いかかることになるであろうというのが、この地方全体の感想になっていた。
ディーマー夫人と、二人の大きくなった娘たちは、店の二階を使っていたのに、サイラスは店の帳場のうしろにある簡易寝台でしか寝ないというのは、誰知らぬ者もなかった。そして、その寝台で、ある夜まったく偶然に、彼が死にそうになっているのが発見され、開店時間の直前に息を引きとった。もちろん何もいわずに死んでいったが、彼にはわかっていたらしく、これは彼を一番よく知っている人たちの考えだが、もし臨終が不幸にしていつもの開店時間よりおくれでもしたら、そのことでさぞや彼はなげいたことであろう、というのだ。
サイラス・ディーマーとは、こういう人物だったのだ――その生活、習慣において、かくも一定不変であったから、村の戯文家は(大学にもいったことのある人だが)いたく感じ入ってサイラスに「同所老人」の異名《いみょう》を奉ったほどだし、また、彼の死後、最初に出た地元新聞はいささかの悪意もなしに、サイラスは一日休業したと書いたほどだった。休業は一日だけではなかったが、記録によると、一か月とたたないうちに、ディーマー氏は死んでいる閑などないということを明らかにしたらしいのだ。
ヒルブルックのもっとも尊敬されている市民の一人は、銀行家のアルバン・クリードであった。彼は町でもっともりっぱな家に住んでおり、馬車も持っているし、いろんな点で尊敬すべき人物だった。彼は旅行の利点も一応は心得ていて、しばしばボストンへいったことがあるし、一度はニューヨークにもいったことがあると思われていた。もっとも、ご当人は謙虚にも、その輝やかしい栄誉を否定はしていたが。このことをここで引合いに出したのも別に他意はなく、いずれにしろそれがクリード氏にとっては名誉となるべき彼の真価を理解する一助にもなろうと思うからである――たとえ一時的であったにせよ、彼が首都の文化の接触にはげんだのなら、彼の知性に箔がつくというものだし、もし行っていなければ、彼のつつみかくしのない率直さこそ、まさに称讃に価するというものではないか。
ある快い夏の夜の十時ごろ、クリード氏は庭の門を入り、月光に皓々と照し出された砂利道を通り、りっぱなわが家の石段を上がって、ちょっと佇《たたず》んで玄関のドアに鍵をさしこんだ。ドアを押し開くと、妻と顔を合わせた。妻はちょうど居間から書斎へ行こうとして玄関を通りかかったところだった。彼女は快活にお帰りなさいと声をかけ、ドアをぐっとうしろへ引いて夫を入れようとした。ところが彼は入ろうとせず、うしろを向いて、敷居の前で足元を見まわし、驚きの叫び声を上げた。
「おやっ!――一体あの壷はどうなったんだ」
「どの壷なの、アルバン」と、妻は余り気のなさそうにたずねた。
「メープルシロップの壷だよ――店からずっと持ってきて、ドアを開けるために、ここにおいたんだよ。畜生、いったい――」
「まあ、まあ、アルバン。そんな悪態はつかないで下さいな」と、夫人はさえぎった。ついでながら申しそえておくと、多神教の名残りから、みだりに邪悪なものの名を口にすることを禁じているのは、キリスト教国の中で何もヒルブルックだけとは限らないのである。
ヒルブルックの第一級の市民が、メープルシロップの壷を店から持って帰ることができるというのも、おおらかな村の生活なればこそだが、その壷がないというわけだ。
「確かですの、あなた」
「お前、まさか男なんてものは、いつ壷を持っていたのか、それさえおぼえておらんとでもいうんじゃあるまいな。ディーマーの店の前を通ったんで、そのシロップを買ったんだよ。ディーマーが自分でシロップをくんで、壷は貸してくれたんだよ。それで、わたしは――」
その後の言葉は、こんにちにいたるまで、ついにいわれずじまいである。クリード氏はよろめきながら家の中に入り、居間に入ると、ひじかけ椅子に倒れこみ、手足をわななかせていた。彼は突然、サイラス・ディーマーが三週間前に死んだことを思い出したのだ。
クリード夫人は夫の側に立ち、驚きと不安の気持で彼を見ていた。
「後生ですから、どこが苦しいのかおっしゃって」
クリード氏の苦しみは、どう考えてもあの世のご利益《りやく》とは何の関係もなかったから、そう問い質されてもくわしく説明する必要はないと彼は思った。そこで何もいわずに、ただじっと見つめていた。長い沈黙がつづき、その沈黙を破るものは規則正しく時をきざむ時計の音だけだった。だが、その音も何となくいつもよりのろく思われた。まるで親切にも、二人が正気を取り戻すために時間を引きのばしてやっているとでもいうかのように。
「ジェーン、わたしは気が狂ってしまったんだ――それにきまっとるぞ」彼はかすれた声で、せきこんでいった。「お前がそういってくれればよかったんだ。このわたしが自分で気がつくほど徴候がはっきり現われる前に、お前にはきっとわかってたはずだ。わたしはディーマーの店の前を通っていたと思ったのだ。店は開いていて、明かりもついていたのだ――つまり、自分でそう思ったのだよ。むろん、店が開いてるはずはないんだから。サイラス・ディーマーは、帳場のおくの机のとこに立っていた。そうだ、ジェーン、わたしは彼を見たんだよ、いまわたしがお前を見ているのと同じくらいにはっきりとな。メープルシロップがいるとお前がいってたのを思い出したんで、店に入って、買ったのだ――それだけのことなんだ――メープルシロップを二クォートほど買ったんだ、死んで地下に眠ってるサイラス・ディーマーからな。だのに彼はそのシロップを樽からくんで、壷に入れて渡してくれたんだ。彼はわたしと話までしたんだよ、ちょっと重々しい調子でね――ふだんの調子より重々しかったのはおぼえているが、何をいったか、一言も思い出せないよ。だが、ちゃんと会っているんだ――確かに彼と会って、話もした――しかも、彼は死んでいるんだ! おれはそうとばかり思いこんでいたんだが、実はこの頭が狂ってたんだよ、ジェーン、おれは完全に気がふれてるんだ。だのに、お前はおれに悟らせまいとしてたんだな」
この長い独白が、彼女の持っている全力を集中するだけの余裕を与えた。
「ねえ、あなた。あなたはこれまで一度だって、気がふれてる気配など少しも見せたことはありませんわよ、信じて下さいな。そんなことは錯覚にきまってますわよ――それ以外に考えられないじゃありませんか。それにしてもひどいことだわ! でも、狂気なんかじゃ絶対にありませんよ。銀行であんまり猛烈に仕事をなさってるからですわよ。今晩だって理事会に出席なさらなければよかったのよ。あなたがご病気だってこと、誰が見たってわかりますわよ。何か起こるんじゃないだろうかって、あたしにはわかってたんですもの」
そんな予言は、事が起こるのを待ってからじゃ、もういささか手おくれではないかと、彼には思えたかも知れないが、そのことについては何もいわず、自分の健康状態だけが気にかかっていた。それでもやっと落ちつきを取り戻し、筋道を立てて考えることができた。
「疑いもなくこの現象は主観的なものだったのだ」と、彼はいささか取ってつけたような科学用語を使っていった。「仮に霊魂の出現、のみならず霊魂の肉体化の可能性を認めるにしても、半ガロン入りの褐色の粘土の壷――何から進化したものでもない、ただのざらざらした重い陶器――のお化けが出る――そんなことは、まず考えられないからな」
彼がそういいおわった時、一人の子供が部屋の中にかけこんできた――彼の小さな娘だった。少女はねまきを着ていた。父親のもとにかけよると、その首にだきついていった。
「いけないパパね。あたしにキスしにくるの忘れたりして。あたしたち、パパが門を開ける音が聞こえたんで、起きて、外を見たのよ。そしたら、ねえ、パパ、エディがいうのよ、パパがからっぽの小さな壷を持って帰るはずないよねえって」
この天啓のごとき言葉の意味するものが、アルバン・クリードにやっと完全にのみこめた時、彼ははた目にも見えるほど、ぶるっと身ぶるいした。この子供が夫婦のあいだの話を一言でも聞いていたとは考えられなかったからだ。
サイラス・ディーマーの家屋敷は、店の方は処分するのが最善だと考えた遺産管理人の手にゆだねられているので、店主が死んで以来、店は閉じられたままになっており、商品は一括して買い取った別の小売商人が運び出してしまっていた。二階の方もからっぽになっていた。未亡人と娘たちは他の町へ移ってしまっていたからだ。
アルバン・クリードの経験した奇怪な事件(これはどういうわけだか世間にもれてしまっていた)があったすぐ次の晩、おおぜいの男や女、子供までが、店の向い側の歩道にむらがってきた。店に故サイラス・ディーマーの幽霊が出るということは、ヒルブルックの全住人に知れ渡っていたのだが、多くの人は信じないふりをしていた。この人々の中でも、もっとも図太い連中で、それも総じてもっとも年の若い連中が、店の正面に向かって石をぶつけた。近づけるのはその正面だけだったが、よろい戸のない窓には気をつけて石が当らないようにしていた。信じないとはいっても、悪意はなかったのだ。数人の向こう見ずの連中が、通りの向こう側までいって、ドアを枠ごとがたがたやってみたり、マッチをすり、窓ぎわにかざして、真暗な内部をうかがおうとした。野次馬の何人かがはやしたて、うなり声を上げ、幽霊にかけくらべをしようじゃないかと挑戦して、大いに気力のあるところを見せつけようとした。
かなりの時間がたったが、何も現われなかった。野次馬の多くは帰ってしまった後、残っていた者全員が、店の内部にうす暗い、黄色な光がみなぎってくるのに気がついた。これを見て示威運動をやっていた連中はぴたりとやめた。ドアや窓ぎわにいたこわいもの知らずの連中も、また道の反対側に退却して、人ごみの中にまぎれこんだ。腕白小僧どもも石を投げるのをやめた。誰も声に出してしゃべる者はいなかった。みんな興奮してひそひそ声で話し、いまや刻々に明るくなっていく光を指さしていた。最初のかすかな光に気づいてから、どれくらい時間がたったのか、誰にも見当はつかなかったが、ついに光は店の内部全体が見えるほど明かるくなった。と、そこに、帳場のおくの机の前に、サイラス・ディーマーの立っている姿がありありと見えたのである!
群衆に与えたその効果たるや、まさに見ものであった。群衆はあっという間に両側から消えていった。臆病者が逃げ出したからだ。多くの者は足の動く限り速く走った。他の連中はも少し体面をつくろって立ち去り、時々、肩ごしにうしろをふり返って見たりした。最後に二十人かそこらが、大部分は男だったが、その場にふみとどまり、言葉もなく、目をこらし、興奮していた。内部の幽霊は彼らには目もくれなかった。どうやら帳簿に没頭しているようすだった。
やがて、三人の男がまるで共通の衝動にかられたかのように、歩道の人ごみから離れて、道の向こう側へいった。その一人の、強そうな男が肩でドアを押し開けようとした時、ドアは人の力も加えられないのに開いた。豪胆にも調べてやろうという三人は中に入りこんだ。三人が敷居をまたいだかと思うとすぐに、彼らがいとも不可解なかっこうで動いているのが、外でこわごわ眺めている連中に見えた。三人はそれぞれ両手を前に突き出し、ふらふらと勝手な方向に歩きまわり、カウンターや、床においてある箱や樽に、あるいはお互い同士、猛烈な勢いでぶつかっていた。三人ともぶざまに右往左往して逃げ出そうとしながら、あと戻りできずにいるようだった。わめいたり、悪態をついたりしている声が聞こえてきた。だが、サイラス・ディーマーの幽霊は、そんなことにいささかも興味を示していなかった。
野次馬がどんな衝動に突き動かされたのか、誰一人おぼえているものはないが、全群衆が――男も、女も、子供も、犬までもが――どっとばかりに、めちゃくちゃに入口めがけて殺到した。戸口で先を争って押し合いへし合い、もみ合った――やっと一列にならぶことに落ち着いて、一足々々、進んでいった。ある微妙な精神的な、あるいは肉体的な錬金術によって、観察は行動に変えられてしまった――つまり、見物人が見世物の仲間に加わってしまったのである――観客が強引に舞台を占領してしまったのである。
道の反対側にふみとどまっていた唯一の見物人――銀行家のアルバン・クリード――の目には、群衆のなだれこんでいく店の内部が依然としてくまなく照し出されて見えた。内部で起こっている奇妙なありさまがすべて、はっきりと見て取れた。店の内部にいる連中には、すべてが真っ暗闇だった。戸口から押されて中にはいると、誰もかれもが急に盲目となってしまったかのようになり、その降ってわいたような災難に狂ったようになっていた。めくら滅法に手さぐりし、人の流れにさからってしゃにむに出ようとし、押したり、ひじで押しのけたり、やたらとぶつかり、倒れてふんづけられ、立ち上がると、こんどは人をふんづけたりしていた。互いに人の服や、髪の毛や、ひげをひっつかみ、動物のように格闘し、ののしり、どなり、互いに口ぎたなく卑猥な悪口雑言を口にしていた。ついに、アルバン・クリードが、列の最後の人がその喧騒の中に入りこんだのを見とどけた時、その騒ぎを照し出していた光が突然消えて、中にいる連中同様に、彼にもすべてが真っ暗闇になった。彼はくるりと背を向けて、その場を立ち去っていった。
つぎの朝早く、物見高い群衆が「ディーマーの店」のまわりに集った。群衆の中には、昨夜逃げ出した連中もまじっていたが、今はお天道さまの照っているおかげで勇気がわいていた。また中には、毎日の勤めに出かける実直な人たちもまじっていた。
店のドアは開け放たれたままで、内部はがらんとしていた。だが、壁や、床や、家具には、服の切れっぱしや、もつれた髪の毛が残っていた。ヒルブルックの荒武者どもは、とにかく何とかぬけ出して、わが家へ帰って傷に薬をぬり、ゆうべは一晩中寝床から出なかったなどと断言していた。帳場のおくの、ほこりをかぶった机には売上げ帳がのっていた。その中の記入は、ディーマーの筆跡で、彼の人生の最後の日である七月の十六日で終わっていた。その後のアルバン・クリードに売った分は、記録に何もなかった。
これが話のすべてである――余談ながら、人々の興奮が静まり、理性が昔ながらの支配を取り戻した時、ヒルブルックでは、こう告白する人たちもいた。故人のサイラス・ディーマーには、新しい境遇の下でおこなった最初の商取引が何の害もなく、しかもまことにりっぱなものだったことを考えれば、あのまま元の場所で、野次馬さわぎをやらずに、ちゃんとまた商売をさせてやってもよかったのではあるまいかと。地元の郷土史家は、その人の未発表の著述から以上の事実をまとめたものであるが、右のような判断には、温い配慮をもって同感の意を表していた。
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ステーリー・フレミングの幻覚
話し合っている二人の男のうち、一人は医師だった。
「わざわざお出で願いましたものの」と、も一人の男はいった。「先生じゃ、どうもだめなような気がします。精神病の専門医を推薦して頂けませんか。わたしは少し気が変になっているらしいんで」
「何ともないようだがね」と、医師はいった。
「それじゃ、先生、一つ判断して下さい――幻覚が見えるんですよ。毎晩、目がさめると、わたしの部屋の中で、じいっとわたしを見つめている大きな黒いニューファンドランド犬が見えるんです。前足の白いやつで」
「目がさめるといったが、それは確かかな。幻覚というものは、どうもただの夢にすぎんことが間々あるんでねえ」
「そりゃ、まちがいなく、ちゃんと目をさましておりますとも。時には長い時間、じっと横になったまま、その犬のやつに負けずにじいっとにらみ返してやるんです――わたしはいつも明かりはつけっぱなしにしてるんで、もういよいよがまんできなくなると、ベッドの上に起きなおるんです――すると、もう何もいないんですよ!」
「ふうむ――その犬はどんな顔つきをしているのかね」
「何だか薄気味がわるいのです。そりゃむろん、絵なんかのばあいは別だけど、静かにしている動物の顔は、いつも同じ表情をしているぐらいのことは、わたしも知ってますよ。しかし、こいつは現実の犬じゃないですからね。ニューファンドランド犬てえのは、わりにおとなしい顔つきをしてるものですからな。こやつがどうかしたんですか」
「確かに、わたしの診断じゃ、何の役にも立ちそうもないねえ、まさか犬まであつかうつもりはないからねえ」
医師は自分で自分の軽口におかしくなって笑いながら、横目づかいにこの患者のようすを仔細にうかがっていた。やがて、彼はいった。
「フレミング、あんたのいまいった、その犬の顔つきは、亡くなったアトウェル・バートンの犬にぴったりだね」
フレミングはいすから立ち上がりかけたが、また腰を下ろし、ありありとわかるほど何気ない風を装おうと努めていた。「バートンならおぼえていますよ。確か――新聞に出ていたが――あの人の死には何も疑わしいとこはなかったはずじゃないですか」
今度は、医師は患者の目をまともにのぞきこむようにしていった。「三年前、あんたの旧敵、アトウェル・バートンの死体は、彼の家や、あんたの家にも近い森の中で発見された。彼は刺し殺されていた。以来、こんにちまで誰一人逮捕されていないし、手がかり一つない。われわれの中には、いろんな推理をした連中がいた。わたしもやったよ。あんたはどうかね」
「わたしがですか。とんでもない、わたしが知ってるはずはないじゃないですかね。先生もおぼえてるでしょうが、わたしはヨーロッパへ出かけたですからね、あのあとすぐぐらいに――かなりあとだったかな。帰ってからまだ二、三週間にもならんのに、わたしに推理しろといわれても、無理でしょう。実際のとこ、あの事件は考えたこともないですからね。彼の犬がどうかしたんですか」
「死体を最初に発見したのが、その犬だよ。そして、そいつは彼のお墓で餓死したんだよ」
偶然の一致というものに、果たして仮借ない掟がひそむものかどうか、誰も知らない。ステーリー・フレミングもむろん知るわけがない。もし知っていたら、夜風に乗って、開け放ってある窓から、遠くの犬の長い悲しげななき声が聞こえてきた時、彼がいすから跳び上がらんばかりになって立ち上がりはしなかったろう。医師がじっと視線をはなさず見つめているのに、フレミングは部屋の中を何度かせかせかと行きつ戻りつしていた。やがて、いきなり医師の前に立って、どならんばかりにしていった。
「そういうことと、このわたしの病気と何の関係があるんですか、ホールダーマン先生。なんで先生が呼ばれたのか、忘れてるんじゃないですか」
医師は立ち上がると、患者の腕に手をのせて、やさしくいった。「いや、どうも失礼。あんたのかげんの悪いのを、いますぐに診断はできないけど――まあ、あすにでもやりましょう。すぐにお休みなさい。ドアは鍵をかけずにおいて。わたしは今夜は、あんたの本でも拝借して、ここに泊っていて上げよう。起き上がらずに、わたしを呼べるかな」
「できますよ。電鈴《ベル》がつけてあるから」
「そりゃ結構だ。もし何かいやなことがあったら、起き上がらずにボタンを押すんだよ。じゃ、お休み」
安楽いすにゆったりと腰を落ちつけると、医師は赤々と燃える石炭の火をじっと見つめ、長いこと深い考えに落ちこんでいたが、どうやらほとんど無駄だったらしい。というのはたびたび立ち上がっては、階段へ通じるドアを開けて、一心に耳をすませては、また席に戻っていたからだ。
ところが、そのうちに彼は眠りこんでしまった。そして、目をさました時は真夜なかすぎだった。消えかけた火をかき立てると、かたわらのテーブルから本を取り上げ、その表題を見た。それはデニカー著の「瞑想録」であった。彼は行き当りばったりに本を開いて、読みはじめた。
「生きとし生けるものはすべて魂を持ち、従って魂の力を持っていることは、これすなわち神の定め給うところである。従ってまた、魂は肉の力を持ち、魂が肉体から出ていって、一個の別のものとして生存する時でさえも同様で、その証拠に生霊《いきりょう》が死霊《しりょう》によって加えられる幾多の暴力が示すとおりである。この事実は独り人間のみならず、けものもまた同様の災いを招く力を持つという人もあり、また――」
何か重い物でも落ちたように、家が鳴り震動したため、読書は中断された。読んでいた人は本を投げ出すなり、部屋からかけ出し、階段を登って、フレミングの寝室まできた。ドアを開けようとしたが、彼の指図に反して鍵がかけられていた。ドアに肩をあてがい、力まかせにドアを押し破った。乱れたベッドのそばの床に、寝巻を着たままフレミングがころがって、息もたえだえになっていた。
医師は、死にかかっている男の頭を床から起こすと、のどの傷に気づいた。「このことを考えておくべきだったな」と、彼は自殺だと思いこんで、いった。
男が死んでしまってから調査の結果、頚動脈にまで深く食いこんだ、まぎれもない動物のきばのあとが明らかになった。
だが、動物など何もいなかった。
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取り戻した記憶
一 歓迎の儀式としての閲兵
ある夏の夜、森や野原の広大なひろがりを見下ろす低い丘の上に、一人の男が立っていた。西の空に低くかかっている満月によって、彼には、それ以外には知るすべもないことがわかった。つまり、夜明けの時刻に近いということが。あわい霧が地面にたちこめ、風景の低い部分の特徴を一部おおいかくしていたが、霧の上には、高い樹木が澄んだ空を背景に、はっきりと輪郭を描いてかたまりをなし、姿を見せていた。もやをすかして、二、三軒の農家が見えたが、むろんどの家にも明かりはついていなかった。遠くでほえる犬の鳴き声の他、生きもののしるしとか気配らしいものはまったくなかったが、機械的にくり返しているその声は、風景の寂寥《せきりょう》感を追いはらうというよりも、むしろ強めるのに役立っているのみだった。
男は珍らしそうに四方を見まわしていた。そのようすには、周囲には見おぼえがあるのに、事態の経緯の中にあって自分がいま正確にどういう立場にあるのか、どんな役割を果たしているのかきめかねている人といった趣きがあった。もしわれわれが死者の世界からよびさまされて、審判に呼び出されるのを待つ時には、おそらくこのようにふるまうことであろう。
百ヤード先に一本の真直ぐな道が、月光の中にしらじらと見えていた。測量技師や航海士などがいうように、おのれの位置を測定しようと努めて、男は目路《めじ》のとどく限り道にそってゆっくりと視線を移していった。すると、彼の位置から南へ向かって四分の一マイルはなれたところに、霧の中にぼんやりと灰色にかすんで、一団の騎兵が北へ向かって馬を進めているのが見えた。そのうしろに、歩兵が縦隊を作って行進していた。肩にななめにかけた小銃がにぶくきらめいていた。彼らはゆっくりと音もたてずに進んでいた。またも別の騎兵の一団が、またも別の歩兵の一連隊が、さらにまた別のが、さらにまた別のが――少しもとぎれることなくすべてが、男の視点へ向かって進み、視点を通過し、さらに先へと過ぎ去っていった。そのあとに砲兵中隊が続いた。砲手たちは前車や弾薬車の上に腕組みをして乗っていた。さらになおも果てしもなく続くこの行進は南の闇から出てきて、北の闇へと消え去っていったが、人声も、蹄《ひづめ》の音も、車輪の音もまるでしなかった。
男にはさっぱり判断がつかなかった。自分の耳がつんぼになっていると思い、口に出してそういってみた。すると、声は聞こえたが、それでも、その声には聞きなれぬ、思わず狼狽を感じるような特徴があった。音質と響きという点で、わが耳を疑ってみたくなるようなところがあったからだ。それでも、つんぼにはなっていなかったので、一応はそれで満足した。
その時、ふと彼は「聴覚の影」と誰かが呼んだ自然現象があることを思い出した。聴覚の影に立つと、ある方角からの物音はまったく聞こえないのである。南北戦争のもっともはげしい戦闘の一つであるゲインズ・ミルの戦いでは、百門の大砲が発射されたというのに、一マイル半はなれたチカホミニー河流域の反対側にいた見物人たちには、彼らの目にははっきりと見えていながら、何の物音も聞こえなかった。ポート・ローヤルの砲撃は、その南方百五十マイルはなれたセント・オーガスティンでは聞こえ、からだにも感じられたというのに、その北方二マイルはなれたところでは、静まりかえった大気の中にありながら何も聞こえなかった。アポマトクスでの降服の数日前には、北軍のシェリダン将軍と南軍のピケット将軍の間で万雷のごとき会戦があったというのに、自軍の前線の後方一マイルのところにいたピケット将軍は知らなかった。
これらの実例は、いまここに記している男は知らなかったのであるが、それほど顕著ではないにしろ、同じ性質の実例に、彼は気づいたのであった。彼は心底から不安になったが、しかしそれは、この月明下の行進の不気味な静けさよりも、も一つ別の理由があったからだ。
「ああ、何てことだ!」と、彼はひとりごとをいった――しかもそれは、まるで別の人が彼の考えを口にしたかのような口調だった――「もしあの連中がおれの考えているとおりの者だとすれば、おれたちは戦争に負けたのだ。そして彼らはナッシュビルへ向かって移動しているんだ!」
すると、わが身のことを考えた――不安な思い――身の危険に対する強烈な感覚、別の人のばあいなら恐怖ともいうべきものが襲ってきた。彼はいそいで木のかげにはいりこんだ。相変らず大部隊は、物音一つたてずに、もやの中をゆっくりと前進していた。
突然、首のうしろに、ひやりと冷たい風が静かに吹きつけてきたので、風が吹いてきた方に注意を向け、東の方を向くと、地平線上にかすかな灰色の光が見えた――夜明けの最初のきざしだった。これが彼の不安をつのらせた。
「ここから立ち去らなくちゃいけない」と彼は思った。「でないと、みつかって、つかまるかも知れない」
彼は木のかげから出ると、灰色の光がさす東へ向かっていそぎ足に歩いた。杉木立の人目につかぬ安全な場所から、うしろをふり返ってみた。あの縦隊はすべて視界を過ぎ去ってしまっていた。真直ぐな、白い道が、月光の中にむき出しに荒涼としてのびていた!
さっきはさっぱりわけがわからなかったが、今は何ともいいようのない驚愕をおぼえた。あんなにものろのろと行進していた大部隊が、こんなにもすみやかに通過してしまうとは!――彼にはそのことが到底理解しかねた。一分、また一分と、いつの間にか過ぎていった。彼は時間の感覚を失っていた。この不可解な謎を解こうと、彼は必死になった。だが、むだだった。やっと放心状態からわれに返った時、太陽の縁《へり》が山の上に現われた。しかし、このあらたな状況の中にあっても、彼にはただ夜が明けたということしかわからなかった。彼の理解は依然として暗い疑惑の中につつまれていた。
どの方角を見渡しても、戦争や、戦争の破壊の跡を示すものは一つもない耕された畑がひろがっていた。農家の煙突から立ち昇るうす青い煙は、平和な一日の労苦を迎える支度を示していた。番犬は月に吠えるのをやめて、今は黒人の手助けをしていたが、その黒人は、二頭のらばに犂《すき》を引かせて土をすき、ならし、満足げに野良仕事をやっていた。この物語の主人公は、生涯に一度もこういうものは見たこともないかのように、この牧歌的風景をうつけたようにじっと見つめていた。やがて、彼は頭に手をやって、髪毛を手ですき、手をひっこめて、手のひらを注意深くじっと眺めやった――奇妙なしぐさであった。どうやらこうふるまって安心したらしく、自信ありげに道へ向かって歩いていった。
二 いのちを落としたら、医者に見てもらえ
マルフリーズボロのスティリング・マルソン医師は、七、八マイルはなれたナッシュビル街道沿いの患者の家に往診して、その日は夜通し、患者のそばにいてやった。夜明けと共に、当時のこの地方の医者の習わしどおりに、馬に乗ってわが家へ向かった。ストーンズ河の戦場付近にさしかかった時、一人の男が道ばたから近づいてくると、軍隊式に帽子のつばに右手をやって敬礼した。だが、その帽子は軍帽ではなかったし、軍服も着ておらず、軍人らしい物腰でもなかった。医師は、この見知らぬ男の一風変わったあいさつが、おそらくこのあたりが史蹟であるのに敬意を表しているのだろうぐらいになかば考えて、ていねいに会釈した。この見知らぬ男が明らかに何か話したがっているようすなので、医師は親切にも馬をとめて、待ってやった。
「失礼ですが」見知らぬ男はいった。「民間人とお見受けしますが、敵側の方でしょうね」
「わたしは医者ですが」という、どっちつかずの返事だった。
「いや、どうも」相手はいった。「わたしは、ヘイズン将軍の参謀の中尉です」彼はちょっと黙りこんで、いま自分が話しかけている人物を鋭く眺めやってから、いいそえた。「北軍です」
医師はただうなずいただけだった。
「教えていただけませんか」と、相手は続けた。「ここで何があったのでしょうか。軍はいまどこにいるのでしょうか。どっちが戦いに勝ったのですか」
医師はなかば目を閉じるようにして、この質問者を珍しげに眺めた。医者らしく仔細に、いささか礼を失しかねないほど長いこと眺めやってから、いった。「失礼ですが、事情を教えてくれとおっしゃる方なら、こちらから事情をおききしても、お気になさらんでしょうな。あなたは負傷なさっているのですか」と、医師は笑顔を見せながら、いいそえた。「大したことではない――と、お見受けするが」
男は、軍のものではない帽子をぬいで、頭に手をやって、髪毛を手ですき、手をひっこめて、手のひらを注意深くじっと眺めやった。
「弾丸が当って、一時、意識を失っていました。きっと軽い、|それだま《ヽヽヽヽ》だったんでしょう。血も出ていませんし、痛みも全然ありません。わざわざ治療して頂くほどのこともないと思いますが、わたしの司令部の所在地を教えて頂けませんか――北軍のいる所ならどこでもいいんです――もしご存知でしたら、お願いします」
今度も医師はすぐには返事しなかった。医師は、医学書に記録されている多くのことを思い出していた――自分が誰であるかわからなくなり、記憶を取り戻していくばあいの、見おぼえのある場景の効果などについて記されていた記録だった。ようやく医師は相手の顔をじっと見ながら、にっこり笑っていった。
「中尉さん、あなたは自分の階級と所属を示す軍服を着ていませんね」
これを聞くと、男はちらりと自分の着ている民間人の服装を見やり、目を上げると、ためらいながらいった。
「そのとおりです。自分にも――自分にもよくわからんのです」
鋭いが、同情をこめた目つきでなおもこの男を眺めながら、この医学者はぶっきらぼうにたずねた。
「年はおいくつかな」
「二十三です――これが何か関係あるのでしょうか」
「そうは見えませんな。とても二十三だとは見当もつかなかったですなあ」
男はしだいにいら立ってきた。「そんなことを議論する必要はないです。わたしは軍のことを知りたいんですよ。まだ二時間にもならぬ前に、わたしはこの道を北へ向かって移動している縦隊を見たのですからね。あなたはその部隊に出会ってるはずです。どうかお願いですから、その部隊の軍服の色を教えて下さい。わたしには、その色が見えなかったのです。これ以上もうお手間は取らせませんから」
「あなたはまちがいなく部隊を見たのですね」
「まちがいなくですって! 冗談じゃないですよ。一人々々、数えられるくらいでしたよ!」
「いやあ、まったく」と、医師は千夜一夜物語に出てくる、あのおしゃべり床屋に自分が似ているのをおかしく思いながらいった。「これはまったく興味深いですな。わたしは、部隊などには一つも出会わなかったなあ」
男は医師をひややかに見ていた。まるで彼自身も、この医師があの床屋に似ているのに気がついたかのような顔つきだった。彼はいった。「明らかに、あなたはわたしを助ける気がないんですね。勝手にするがいい!」
男はくるりと背を向けると、ほとんど出まかせに、露のおりた野原を大またに突っ切っていった。男をじらせた医師は、なかば後悔して、鞍の上という有利な位置から、木々の立ちならぶ彼方へ男の姿が消えていくまで静かに見送っていた。
三 水たまりをのぞきこむ危険
道からそれると、男は歩調をゆるめ、いまははっきりと疲労をおぼえながら、かなり曲りくねって前進を続けた。なぜ疲労を感じるのか、彼にも説明がつかなかった。たしかに、あの田舎医者のとりとめもないおしゃべりのせいだという説明はつくかも知れなかった。彼は岩に腰を下ろすと、片手をひざにおいた。手の甲が上向きになっていた。何気なくそれを見やった。それはやせ、しなびていた。両手を上げて、顔をさわってみた。大小のしわがきざみこまれていた。指の先でそのしわをたどることさえできた。何て奇妙なことだろうか!――ただ弾丸が当って、短い間、意識をなくしていたというのに、からだのどこにもひどい損傷を与えていないなんて。
「きっと長いこと入院していたにちがいない」と、彼は声に出していった。「そうか、おれは何てばかなんだ! 戦闘は十二月にあったんだ。そして、今は夏じゃないか!」彼は笑い出した。「あいつがおれのことを脱走した狂人だと思ったのも、当り前だ。だが、あいつはまちがっている。おれはただの脱走した患者なのさ」少しはなれたところにある、石垣でかこまれた小さな一画が彼の注意を引いた。別にこれといってはっきりした当てもなく、彼は立ち上がって、そばにいった。真ん中に、彫り刻んだ石の四角い、がっしりした記念碑があった。長い年月で茶褐色によごれ、角が風雨にさらされていたみ、こけや地衣が点々としみのようについていた。大きな敷石のすきまから、草がのびていた。草の根が|てこ《ヽヽ》の働きをして、石を押しのけていたのだ。この野心的な建造物の挑戦にこたえて、「時」はその破壊の手をすでに及ぼしていたのである。やがては、これも「ニネベやタイアと一つになる」〔十九世紀イギリスの作家キプリングの詩句〕のであろう。片側の碑銘に、なつかしい名が目にとまった。興奮にわななきながら、石垣からからだを突き出すようにして読んだ。
ヘイズン旅団
一八六二年十二月三十一日
ストーン河にて倒れし
その兵士たちの霊に
捧ぐ
男は石垣から倒れるようにうしろに落ち、失神しそうになり、吐き気をおぼえた。手をのばせば届きそうなところに、小さなくぼみが地面にできていた。くぼみには、つい近頃の雨がいっぱいたまっていた――きれいな水たまりだった。彼は気力を取り戻そうとして、水たまりへ這っていき、ふるえる腕で上半身を起こし、ぐっと頭を突き出した。と、そこに、鏡のように自分の顔がうつっていた。彼はすさまじい叫び声を上げた。がっくり腕の力がぬけ、顔を伏せたまま水たまりに倒れこむと、あの世とつながっている生に屈して息絶えた。
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幼い浮浪児
小さなジョーが雨にうたれて街角に立っているのを見たら、えらい坊やだなどとほめる人はまずいないだろう。どうやら秋にありがちのひどい吹き降りだったが、ジョーに降りそそぐ雨は(それが当然だとか不当だとかいえるほど彼はまだ年端もいかず、だからおそらくは公平な分配の法則の適用も受けていなかったのだろうが)、何かしら一種独特の性質をおびているように見えた。その雨は黒っぽくて粘着性があった――つまり、ねばねばしていた――という人がいたかも知れない。だが、いくらブラックバーグのような町でも、そんなことはまずありえないだろう。なるほどたしかに、この町では、大いに尋常でないことがいろいろとあった。
たとえば、十年か十二年前かに、当時のある編年史によっても信頼できる証言があるように、小さなカエルのにわか雨が降ったが、その記録の結論はいささかあいまいな記述になっており、この編年史家はそれをカエルを食うフランス人にとっては、まさに成育に絶好の天候だと思った、という主旨になっていた。
それから数年後に、ブラックバーグに深紅の雪が降った。ブラックバーグは冬場にはいると寒く、雪もひんぱんに降るし、深くつもる。このことについては少しも疑う余地はない――つまり、この時の雪は血の色をしていたし、溶けて、血と同じ色の水になったのである。たとえそれが血ではなくて、水だったにせよである。この現象は広く世人の注意をひいた。そして、それについては皆目何もわからない科学者たちと同じ数だけ、科学的な説明がおこなわれたのである。
しかし、ブラックバーグの人々――赤い雪が降ったという、その土地に何十年も暮してきて、こういう事について知っていることが多々あるはずの人々――は、頭を横にふって、いまにとんでもないことが起こるぞといっていた。
果たして、とんでもないことが起こった。翌年の夏、不可解な病気の流行によって忘るべからざる年になったからである――伝染病だか、風土病だか何だか医者にもわからぬ、神のみぞ知り給う病気で、そのために住民のまる半分の生命が奪い去られた。残りの半分のほとんどはこの土地を立ち去って、帰ってくるのに手間取ったが、結局はみんなもどってきた。そして今は昔同様に人口はふえる一方であったが、しかし、ブラックバーグは爾来、前とまったく同じというわけにはいかなくなった。
趣きはまったく異なるが、それでも「尋常でない」点では同じともいうべきことの中に、ヘティ・パーローの幽霊事件があった。ヘティ・パーローの結婚前の姓はブラウノンといった。この姓は、ブラックバーグでは、一般世人には考えられぬくらいの意味があった。
ブラウノン家というのは、遠い昔から――古い植民地時代のごく初期から――この町の指導的な一族だった。最大の金持ちであり、最高の家柄であった。だから、ブラックバーグの人々は、ブラウノンという令名を護るためには、おのれの卑しい血の最後の一滴までも流したことであろう。
一族の大部分の者はよその土地で教育を受け、また一族のほとんど全員がよその土地へ旅行をしたことはあったものの、ブラックバーグを去ってよその土地に永住した者はほとんどいなかったといわれているから、この一族は大人数になっていた。男たちは町の公職の大部分を占めていたし、女たちはあらゆる慈善行為で人の先頭に立っていた。この女たちの中で、ヘティは、その気立てのやさしさ、品性の清らかさ、類いまれな容姿の美しさから、もっとも愛されていた。彼女はボストンで、パーローという名の無鉄砲者の青年と結婚した。そして、いかにも人のいいブラウノンの一員らしく、彼をブラックバーグに一緒につれて帰ると、一人前のりっぱな男に仕立て上げ、市会議員にさせた。
二人は一子をもうけ、ジョゼフと名づけ、当時、この地方一帯の親のあいだの流行となっていたように、その子を盲愛した。ところが、二人は先にのべた不可解な病気にかかって死んだ。そのため、ジョゼフは満一歳の年で、孤児の身になったのである。
ジョゼフにとって不運にも、両親のいのちを奪った病気は、それだけでとどまらなかった。病気はなおもひろがって、ブラウノン家の一族全体から、婚姻による親類までもほとんど根絶やしにした。町を逃げ出した者は戻ってこなかった。伝統はこわれ、ブラウノン家の家屋敷は人手に渡り、この土地でブラウノン家に残っているものといえば、オーク・ヒル共同墓地の地下だけというありさまになった。じじつ、この地下だけが、周辺のやからが侵入してくるのを食い止めるだけの力がある彼らの安住の地であったし、また墓地の中でもっともよい場所を占めていた。だが、幽霊のことを語ろう。
ヘティ・パーローが死んでから三年ほどあとのこと、ある夜、ブラックバーグの大勢の若者が大型荷馬車に乗りこんで、オーク・ヒル共同墓地を通りかかった――この墓地へ行ったことのある人なら、墓地の南側に沿って、グリーントンへ通じる道が走っているのを覚えておられるだろう。
若者たちはグリーントンでの五月祭〔五月一日の春の祭り〕に行っての帰りだった。といえば、月日がはっきりするわけだ。皆で十二、三人はいたろうか。町が経験したつい近ごろの陰気な出来事が与えた重苦しい後遺症のことを考えると、まことに彼らは陽気な一行であった。
一行が墓地を通りかかった時、手綱を取っていた男が、驚きの叫び声を上げるなり、突然馬を止めた。たしかに驚くのも無理からぬことだった。すぐ前方の、墓地の中ではあったが、道端よりに、ヘティ・パーローの幽霊が立っていたからだ。それには少しも疑問の余地がなかった。なぜなら、彼女は、一行の青年男女の一人残らず、個人的にもよく知っていた人だったからである。これだけの確証があれば、幽霊の正体をまちがえようはずもない。この幽霊の特徴は、昔からのきまりきった型どおりのもの――経帷子《きょうかたびら》、長い、ざんばら髪、うつろな目つき――など、すべてがそろっていた。このおどろおどろしい出現物は、まるで宵の明星に哀願するかのように、両の腕を西の空へのばしていた。たしかに宵の明星は魅惑的なものではあろうが、どう見ても届くはずはないはずだった。一同の者は声も出ずにじっと坐っていると(話はそうなっているのだが)、この浮かれさわいでいた――といっても、ただコーヒーや、レモネードだけで浮かれさわいでいたのだが――連中の全員が、「ジョーイ、ジョーイ!」という名を幽霊が呼ぶのをはっきりと聞いた。その一瞬後には、もうそこには何もいなかった。むろん、このすべてを信じなければならぬというわけはない。
さて、ちょうどその時刻に、むろんこれはあとでわかったのだが、アメリカ大陸の向こう側、ネバダ州はウイネマカ近くのよもぎの原をジョーイはうろついていた。ジョーイは、死んだ父親の遠縁に当たる親切な人によってその町につれてこられ、その人の養子になって、やさしく面倒を見てもらっていた。ところが、その晩、この可哀そうな子はふらふらと家を出て、砂漠で消息を絶ってしまったのである。
彼のその後の身の上話は不明の部分につつまれており、空白の部分は推測によってしか埋めようがない。判明していることは、パイユート・インディアンの一家に見つけられ、この一家はしばらくの間、このみじめな子を家においてやっていたが、やがて彼を売ってしまった――実際に、ウイネマカから遠くはなれたある駅で、東部行の列車に乗っていた一婦人に金をもらって売りとばしたのである。この婦人の言明によると、あらゆる手をつくしてたずねてみたのだそうだが、すべては徒労であった。そこで、この人自身、子供のない、やもめ暮しだったので、その子を養子にした。
ジョーは、生涯のこの時に、孤児という境遇から完全に縁が切れそうに見えた。その痛ましい境遇と彼とのあいだに大勢の親代りになる人々がはいりこんできたおかげで、孤児の不利な条件をいつまでも長く負わされずにすみそうだった。
彼のいちばん新しい母親であるダーネル夫人は、オハイオ州のクリーブランドに住んでいた。だが、養子になった息子は、長くは彼女の家にいつかなかった。ある日の午後、彼がおぼつかない足取りでゆっくりと彼女の家から遠ざかっていくところを、その巡回区域にはまだ新米の警官にみつけられ、尋問されると、「おうちにかえるの」と答えた。
とにかく、彼は汽車で旅をしたにちがいない。というのは、それから三日後、彼はホワイトビルの町にいたからだ。この町はご承知のとおり、ブラックバーグからはずいぶん遠いのである。彼の着ていたものは一応ちゃんとしていたが、顔や手足は、それこそひどいよごれようだった。わが身のことを何も説明できないため、宿なしとして逮捕され、養護ホームに収容する宣告を受けた――そのホームで、からだを洗ってもらった。
ジョーは、ホワイトビルの養護ホームからも逃げ出した――ある日、森へ逃げこんだのである。それっきり、ホームでも彼のことはまったくわからなかった。
そのつぎに彼の姿を見出すのは――というよりも、最初の彼の場面にもどるといった方がよかろう――ブラックバーグの郊外の町角に、冷たい秋雨にぬれて一人ぽっちで立っているジョーだった。彼に降りそそぐ雨のしずくは、実は黒っぽくもなければ、ねばついてもいなかったと、ここで説明しておくのがよさそうである。雨は彼の顔や手のよごれを洗い落とせなかっただけのことである。ジョーは、まるで画家の手で描かれたかのように、恐ろしく、まったく驚嘆するほどきたなくよごれきっていた。このよるべない小さな浮浪児は靴もはいていなかった。両足ともむきだしで、赤くはれ上がっていた。歩くと、両足ともびっこをひいた。衣服はといえば――いやもう、身につけている衣類はどれ一つ取っても何とも名づけようもなく、一体どういう魔法を使って、それを着ていることができたかもわからぬありさまだった。彼が全身すみずみまで冷えきっていたことは、一点疑う余地もなかったし、本人自身にもわかっていた。その晩、その場にいた人があったら、誰だって寒かったにちがいないのだが、生憎と、その理由のために、他には誰もいあわせなかったのである。
一体どうやってジョーがそこにやってきたのか、いまにも光の消えそうな小さないのちにかけても、よしや百語以上の言葉を彼が知っていたとしても、彼には語ることもできなかったろう。あたりを一心に見まわしているようすから、自分がどこに(また、どうしてそこに)いるのか、彼には少しもわかっていないのだと察しがついたであろう。
それでも、彼はその年頃の子供にしては、まるっきりばかでもなかった。寒さと空腹に耐えかね、それに、ひざをうんとかがめ、まずつま先から地面におろしていけばまだ少しは歩けるので、長い間隔をおいて道に沿って建ちならんでいる家の内の、いかにも明かるくて暖かそうな一軒の家にはいろうと決心した。
ところが、この大いに分別のある決心にもとづいて行動を起こそうとした時、猛犬がうなり声を上げて飛び出してきて、ジョーをはねとばした。言葉には表しようもない恐怖におびえ、家の外に残酷なやつがいれば、家の中も残酷にちがいないと何の疑いも持たずに(それにも若干の理由はあったが)信じこんで、彼はすべての家からとぼとぼと離れていった。そして、右手には灰色のぬれた野原、左手にも灰色のぬれた野原、雨のため視界はなかばきかず、夜は霧と闇に深まっていくというのに、彼はグリーントンの方へ向かう道を歩きつづけた。ということは、オーク・ヒル共同墓地を通りぬけることができた人々は、グリーントンへ通じる道を歩いているというわけである。毎年、かなりな数の人々が、墓地を通りぬけられない運命にある。
ジョーは、通りぬけられなかった。
あくる朝、ずぶぬれになり、すっかり冷たくなってはいたが、もはや空腹をおぼえることのない彼が、墓地の中で発見された。どうやら彼は墓地の門からはいったらしかった――おそらく、犬なんかいない家にその門が通じているという望みを抱いたのであろう――そして、闇の中をまごついて歩きまわり、きっとたくさんの墓石にぶつかってころび、とうとう疲れ切ったあげく、あきらめたのだろう。
小さな亡骸《なきがら》は横向きにたおれ、よごれた頬をよごれた片手にのせ、もう片方の手は温めようとしてぼろ服の中に突っこんでいた。もう一方の頬のよごれは、やっときれいに洗い落とされていた。まるで神の偉大な天使のキスしてくれるのを待っているかのように。
その時は死体の身元がまだ判明しなかったので、まったく思いつかなかったのだが、実はこの小さな子が、ヘティ・パーローの墓の上で倒れていたことが判明したのである。しかしながら、その墓は彼をおさめるために開けられることはなかった。事情を考えれば、実際に墓を汚《けが》すことなしに、墓を開ける許可があってもよかったのではあるまいか。
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「死人の谷」の夜の出来事
――ありそうにない話
異様なほどに鮮烈な夜だった。ダイヤモンドの芯のように澄みきっていた。澄みきった夜は、気のせいか、身を切るような鋭さがあるものだ。真っ暗闇だと、寒くはあっても、それに気づかない。ところが、明かるいと、寒さが身にしみてくる。その夜は、まるで蛇の牙にかみつかれたかのように、身を刺すほどに明かるく冴えわたっていた。月はサウス・マウンテンの頂きを占める松の大樹の背後を、神秘的にゆっくりと移り、月光は固く凍《い》てついた雪にさして冷たくきらめかせ、黒々とした西空を背景に、コースト・レーンジの朦朧とした輪郭を浮かび上がらせていた。その山脈のかなたには、目には見えぬが太平洋があった。峡谷の底のひろびろとした平地にも、波のうねりのごとく高く盛り上がって見える長い尾根《おね》にも、波がゆれ、しぶきをまきちらかしたように見える低い岡々にも、雪が降りつもっていた。そのしぶきは、一度は月からはね返り、一度は雪からはね返って、二度反射してくる日光のようにまぶしかった。
この雪の中に、廃坑になった多くの掘っ建て小屋が埋もれていた。(船乗りならば、沈んでいたというところだろう)そして、不規則な間隔をおいて、|かけひ《フルーム》と称する流れをかつては支えていた高い構脚が頭を出していた。「フルーム」というのは、むろんラテン語の「|流れ《フルーメン》」から来た語である。いくつもの山をもってしても金鉱さがしから奪うことのできぬ特権の中に、このラテン語を使うという特権がある。金鉱さがしは、死んだ隣人のことをこういうのだ。「あいつは|かけひ《フルーム》を登ってしまったよ」。これは「彼の生命は、いのちの泉へ帰った」というのと同じ、うまみのある表現だ。
雪は、風の攻撃に備えて甲冑《かっちゅう》に身をかためながら、いかなる有利な地点をも見落とさなかった。風に追いまくられる雪は、退却する軍隊を思わせる。広い野原では、雪は列をなす大軍勢のようにつらなっている。確たる足がかりがえられれば、ふみとどまって抵抗する。地形を利用してかくれることができれば、かくれる。こわれた岩壁の破片のかげに、雪の一小隊全部が小さくちぢこまっているのを見かけることもあろう。山はだをけずり取って造った、曲りくねっている旧道は、雪がいっぱいつもっていた。この道筋によって、雪の中隊がつぎつぎに脱れようと苦闘していた時、突然、そこで風の追跡が止んだのである。冬の深夜の「死人《しびと》の谷」よりも荒涼、陰惨な場所を想像することはできない。だのに、ハイラム・ビーソン氏はここを住む場所にきめ、ただ一人の住人となったのである。
ノース・マウンテンの山腹をはるか登ったところに、松の丸太で作った彼の小さな小屋があって、小屋のただ一つのガラス窓から淡い光を長々と放っていた。小屋はまるでぴかぴか光る真新しい虫ピンで山腹に留めた黒いかぶと虫のようにも見えた。
その小屋の中で、当のビーソン氏がごうごうと燃えさかる火の前に腰を下ろし、このようなものはこれまで見たこともないといわんばかりの面持ちで、熱い火の中心部をじっとみつめていた。彼は顔立ちのととのった男ではなかった。髪はしらがまじり、服装はぼろぼろで、だらしなかった。顔は青ざめ、やつれていた。目はやけにきらきら光っていた。年齢はといえば、当ててみようとする人がいたら、四十七だろうといって、すぐに訂正し、七十四だといったかも知れない。本当は二十八歳だった。たしかに彼は、やせ衰えていた。ベントリー・フラットの貧乏な葬儀屋と、ソノーラに来た新米の、恐ろしく仕事熱心な検死官ともども、よくもこう思いきってやせられたものだと思えるくらいやせこけていた。貧乏と熱心とは、ひきうすの上と下の石のようなものである。このような二つの間にはさまれると、とんでもない第三者ができる危険があるというものだ。
ぼろを着た両ひじを、ぼろを着た両ひざの上にのせ、やせこけたあごを、やせこけた両手の中に埋め、寝床にはいるつもりも皆無らしいようすで、ビーソン氏がこうして坐っていると、ほんのちょっとでも動けば、彼はころげ落ちてばらばらにこわれてしまうのではないかとさえ見えた。しかも、この一時間のうちに、彼はたったの三回しか、まばたきをしなかった。
戸をはげしくたたく音がした。夜のこんな時刻の、こんな天候の時に戸をたたく音がすれば、一人の人間の顔も見ずに峡谷で二年間暮らしてきて、このあたりは人が通れる土地ではないことがわかっている普通の人間なら、誰だって驚くにきまっている。ところが、ビーソン氏は赤々と燃えている石炭から目を離そうとさえしなかった。そして、戸がおし開けられた時でさえ、何だか知らないが見たくないものを予期している人がよくやるように、彼はいっそうちぢこまるように肩をすくめただけだった。こういう動作は、墓地の付属礼拝堂で、うしろから棺が通路に運びこまれてくる時に女たちが示すのに気づかれるだろう。
ところが、毛布で作ったオーバーに身をくるみ、頭をハンカチでしばり、ほとんど顔全体をえりまきでつつみ、みどり色の防塵めがねをかけ、見える部分はまぶしいほど白い顔色をした、一人の背の高い老人が無言のまま、ずかずか入りこんできて、手袋をはめたかたい手をビーソン氏の肩にかけた時、われを忘れてぼんやりしていたビーソン氏はいたく驚いたようすで見上げた。何者を待ちもうけていたのかはわからないが、明らかにこんな人物に会うとは予期していなかったらしい。にもかかわらず、この思いもよらぬ客の姿を見ると、ビーソン氏の心の中には、以下のような感情がつぎつぎに生じた。驚愕の感情、満足感、深い好意の念などであった。
いすから立ちあがると、彼は自分の肩におかれているふしくれだった手を取ると、何とも不可解なほど熱烈に握手した。というのも、この老人のようすには少しも人を引きつけるものはなく、大いに不快を感じさせるものがあったからだ。
しかしながら、人を引きつけるというものは、それなくしては不快も存在しえないといえるほど、ごく一般的な特性である。この世でもっとも人の気を引くものは、本能的に布でかくしたくなるような顔だ。それがさらにいっそう魅力的――魂を奪うほど――になると、その上に七フィートの土をかけるということになる。
「ようこそ」と、ビーソン氏はいって、老人の手を放すと、その手はだらんと落ちて老人のももにぶつかり、静かなかちんという音をたてた。「まったくいやな夜ですね。どうぞおかけ下さい。お目にかかれてうれしいです」
ビーソン氏は、いかにも気のおけない、りっぱな礼儀作法をわきまえた口のきき方をしたが、これはどう考えても、意外に思えるほどだった。実際、彼の身なりと作法との対照のへだたりは、鉱山の社交的ないろんな現象の中でもっともありふれたものの一つにしては、甚だ驚くべきことだった。老人は、みどり色の防塵めがねのおくで落ちくぼんだ目を光らせながら、一歩、火のそばによった。ビーソン氏はことばを続けた。
「賭けてもいい。本当にうれしいんだよ!」
ビーソン氏のエレガンスは余り洗練されてはいなかった。つまりそれは、土地の好みに適当に妥協していたのである。
彼はちょっと口をつぐんで、えりまきでつつんだ客の頭から、毛布のオーバーを閉じ合せている、かびくさいボタンの列から、雪がくっついている、みどり色がかった牛革の長靴へと目を落としていった。靴についた雪がとけ出して、床の上を小さな川のように流れていた。彼は客の検分をすますと、満足そうな顔つきをして見せた。まさか満足しないわけにもいくまい。そこで、彼は続けた。
「あなたに何かごちそうをさし上げようと思っても、生憎と、ごらんの通りのこんなありさまです。でも、ベントリー・フラットでもっとましな所を探すより、一緒につき合って下さるなら、わたしとしてこんなありがたいことはありませんが」
異様なほどに洗練された、手厚く客をもてなす謙虚な口ぶりでビーソン氏はしゃべったが、それはまるで、刃物のように鋭く凍りついた積雪の中を、峡谷ののど元まで十四マイルも登ってくるのに比べると、こんな夜に暖かい丸太小屋に泊るのは、それに劣らずつらいことになるだろう、といわんばかりの口調であった。
客は返事代りに、毛布のオーバーのボタンを外した。小屋の主《あるじ》はあらたに石炭をくべると、おおかみのしっぽで暖炉をきれいにはいて、いいそえた。
「だけど、やっぱり一目散に飛び出していかれた方がいいんじゃないでしょうかね」
老人は火の側に腰をかけると、大きな靴の裏を火の方に向けたが、帽子はかぶったままだった。鉱山では、靴はぬいでも、帽子をぬぐことはめったにないのである。ビーソン氏はもう何もいわずに、自分もいすに腰をかけた。いすとはいっても、元は樽であって、原型を多分にとどめており、たとえばらばらにこわれてかまわない代物でも、取った砂金をしまっておこうという考えで作られたもののようだった。
しばらく沈黙が続いた。やがて、どこか松の木立のあたりから、コヨーテの低くうなる声が聞こえてきた。それと同時に、戸ががたがた鳴った。この二つの出来事には、コヨーテは嵐がきらいだということと、風が出てきたということ以外、何のかかわりもなかった。それでも、この二つには何となく、一種の超自然の共謀があるように思えた。ビーソン氏は漠然とした恐怖感でぞっと身ぶるいした。だが、すぐに気を取り直すと、客にふたたび話しかけた。
「ここでは妙なことがあるんです。全部お話ししましょう。そのあとで、あなたが出かけると決心なされば、道のいちばんひどいところまでお伴してもいいですよ。ボールディ・ピーターソンがベン・ハイクを射ったところまで――その場所は、あなたもたぶんご存知でしょう」老人は力強くうなずいた。まるで単にその場所を知っているというだけでなく、実際に自分がやったのだということをほのめかしているといったふうだった。
「二年前に」と、ビーソン氏はきり出した。「わたしは二人の仲間と一緒に、この家に住んだんですがね。ところが、フラット目ざしてゴールドラッシュが始まると、わたしたちも他の連中と一緒にここを出たんです。十時間もすると、峡谷には人っ子一人いなくなったですよ。ところが、その晩、わたしはだいじなピストルを(そこにあるやつですが)忘れてきたのに気がついて、それを取りに戻って、その夜は一人でここで過ごしたんですが、それ以来、毎晩ここで過ごしてきたというわけですよ。
ここで説明しておかなくちゃならんでしょうが、じつは、わたしたちがこの家を出る数日前に、わたしたちが使っていた中国人の召使が死ぬという不幸な目に会ったんです。なんしろ地面が固く凍りついていたもんで、普通のように墓を掘ってやることもできなかった。そこで、あわただしい出発の日に、そこの床板を切ってあけ、それでまあ、できるだけ手厚く埋葬してやったというわけです。
ところが、彼を埋葬する前に、とんだ悪趣味でしたが、わたしは彼の弁髪を切り取って、ちょうど彼の墓の上に当るあの梁にくぎで打ちつけといたんです。いまでも見えますがね。いや、なんなら、あなたがすっかり暖まって、眺めてやろうという気分になられてからでもいいですよ。
その中国人の死因はごく自然なものだったと、お話ししましたかね。もちろん、わたしはその死とは何の関係もなく、どうにも抵抗できない何ものかに引きよせられたとか、何か不気味な魅力に引かれて戻ってきたんじゃなくて、ただピストルを忘れたからにすぎないんです。これは、あなたにもはっきりわかってもらえるでしょうね」
客は重々しくうなずいた。この男は何かいうことがあっても、きわめて口数の少ない人らしかった。ビーソン氏は続けた。
「中国人の信仰によると、人間は凧《たこ》のようなものだ。尾がないと、天上へ飛んでいけないというんですな。ま、とにかく、こんな退屈な話を手みじかにいうと――しかし、これはお話しするのが、わたしの義務だと思ったもんですからね――その夜、わたしが一人でここにいて、彼のことなんか少しも考えていなかった時に、その中国人が弁髪を取りに戻ってきたのです。…彼はそれを取り返さなかったのですよ」
ここまで言って、ビーソン氏はいつのまにか完全に黙りこんでしまった。恐らく、しゃべるという慣れないことをやったために疲れたのだろう。あるいは、気をちらさずに思いをこらしていなければならぬ過去の記憶を、眼前にありありと思い浮かべていたのかも知れない。
戸外では風はもうかなり強まり、山腹の松林が異様なほどはっきりとうなっていた。話し手はまた続けた。
「その点がよくわからんとおっしゃるでしょうね。正直いって、わたし自身もよくわからんのです。ところが、彼はそれからずっとやってくるんですよ!」
またも長い沈黙が続いた。その間、二人とも、手足一つ動かさずに、じっと火に見入っていた。やがて、ビーソン氏はほとんど荒々しいほどの調子で沈黙を破った。目は、聞き手の無表情な顔の見える部分にじっと注いでいた。
「弁髪を彼にやったらですって! いやあ、このことでは、わたしは意見をうかがうためにどなたもわずらわすつもりはないんですから。きっと失礼はお許し下さるとは思いますが」――ここで彼は妙に説得的な調子になった――「わたしはその弁髪をしっかりと釘でとめるということをすすんでやったからには、少々厄介でもそれを守るのが自分の務めだと思うようになったんです。ですから、あなたの思いやりのある案に従って行動するのは、まったく不可能なんです。あなたは、わたしをモドック人〔オレゴン州、カリフォルニア州北部のインディアン〕だとでも思ってるんですか」
だしぬけに、こんな憤慨した抗議を客の耳に突き刺すように言った激しさときたら、恐らくこれに勝るものはなかったろう。それはまるで、鋼鉄のよろいの小手で、客の頭の横をなぐりつけたかのようだった。それは抗議ではあったが、挑戦にも等しかった。卑怯者とまちがわれること――モドック人だと思われること。この二つの表現は、じつは一つなのである。時には、中国人のこともある。貴様は、おれを中国人とでも思っているのか? という質問はよく、突如死んだ人間の耳に向かっていわれる文句である。
ビーソン氏のこの一撃は、何の効果も生まなかった。少しの間《ま》をおいて――その間《かん》に、土のかたまりが棺にぶつかった音みたいに、煙突の中で風がとどろいた――彼はまた続けた。
「だけど、あなたがいうように、そのおかげでわたしはもうへとへとに参ってるんだ。この二年間の生活は、まちがいだったような気がする――ちゃんと直せるまちがいにね。どう直すか、わかるでしょう。墓ですよ! いや、だめだ。掘ろうにも、誰もいないんだ。それに、地面は凍りついているし。だけど、本当によくきてくれましたね。なんなら、ベントリー・フラットでぶちまけてくれてもいいんだぜ――だが、そんなことは大したこっちゃない。あれはひどく固くて切れたものじゃない。あいつらは弁髪に絹をまぜて編むんだからねえ。クウォッ――」
ビーソン氏は目を閉じてしゃべっているうちに、とりとめもないことを口走った。最後に発したことばは、いびきだった。そのすぐあと、彼は長く息をすって、やっとのことで目を開けると、また一言しゃべり、それから深い眠りに落ちこんだ。しゃべったことというのは、こうである。
「やつらは、おれの砂金をくすねてやがるんだよ!」
すると、小屋にやってきてから一言も口をきかなかった客の老人は、いすから立ち上がると、おもむろに着ているものをぬいで、フランネルの肌着につつんだ骨ばった体を見せた。そのさまは、さながら今は亡きフェストラッチという、身長六フィート、体重五十六ポンドのアイルランドの女で、サンフランシスコの人々にシュミーズ一枚のわが身を見せびらかしていたというのを思わせた。それから老人は、寝棚の一つにもぐりこみ、この地方の習慣に従い、まず第一に拳銃をすぐ手の届くところにおいた。この拳銃は、彼が棚から取ったものであり、かつまた、ビーソン氏が二年前にそれを取りに峡谷に戻ったと話していた拳銃に他ならなかったのである。
しばらくして、ビーソン氏は目をさまし、客が寝たのを見ると、自分も寝ることにした。だが、寝る前に、異教徒の長く編んだ髪の毛のところにいくと、力まかせに引っぱってみて、しっかり、きちんと留まっているのを確かめた。二つのベッドは――といっても余りきれいでもない毛布がかけてある、ただの寝棚にすぎないが――部屋のそれぞれ反対側に向かい合せになっており、そのちょうど中間に、シナ人の墓へ降りていけるようになっている小さい真四角な揚げぶたがあった。ついでながら言っておくと、この揚げぶたには、打ちこまれた大くぎの頭がずらりと二列に横断していた。ビーソン氏は、超自然的なものに対抗して、物質的な用心をめぐらすことを軽視しなかったのである。
暖炉の火はもう弱くなり、青い炎が気まぐれに燃え、時々、ぱっと明かるくなっては、壁に奇怪な影をうつし出していた――影は、時には分かれ、時には一つになったりして、神秘的にうごめいていた。ところが、ぶらさがっている弁髪の影だけは、部屋のずっと離れた端の天井近くで、ふきげんそうにぽつんと離れ、まるで感嘆符のかっこうのように見えた。外の松林の鳴る音はいよいよ高まり、勝ち誇る讃歌のような壮厳さを帯びていた。その音の合間の静寂は、ぞっとするほど恐ろしかった。
その合間の静まり返った時に、床の揚げぶたが持ち上がってきた。ゆっくりと、上がってきた。すると、寝棚の老人の毛布をひっかぶった頭も、それを見ようとして、ゆっくりと、もち上がってきた。
やがて、家を土台からゆるがすような音を立てて、揚げぶたが完全にばたんとはね返った。と、揚げぶたに打ちこまれている醜い大くぎが、威嚇するように光った先を上に向けていた。
ビーソン氏は目をさましたが、起き上がりもせず、指を目におし当てていた。彼はぶるぶるふるえ、歯がかちかち鳴っていた。客の老人は片ひじついて横になり、ランプのように光る防塵めがねをかけたまま、なりゆきを見守っていた。
突然、一陣の風がごうっとうなりを上げて煙突を舞い下りてきて、灰と煙を四方八方に吹きちらし、一瞬すべてが見えなくなった。暖炉の火明りが再び部屋を明かるく照らした時、炉端のいすのへりに用心深く腰をかけた、一人の色の浅黒い小男が見えた。一見感じがよく、非の打ち所のない趣味のいい服装をして、親しげな、愛想のいい微笑を浮かべ、老人に向かって会釈をしていた。「てっきり、こいつはサンフランシスコからやってきたんだな」と、ビーソン氏は思った。恐怖からどうやら元気を取り戻した彼は、その晩の出来事を解こうと心の中でもがいていた。
ところが、ここにもう一人、役者が登場したのである。床の真ん中の四角い黒い穴から、死んだ中国人の頭が突き出した。そのガラスのような目玉が、骨ばった目の穴から上を向いて、何ともいいようのない熱望をこめた表情で、梁からたれ下がっている弁髪をじっとみつめていた。
ビーソン氏はうめいて、またも両手で顔をおおった。甘ったるいアヘンの匂いが部屋の中に立ちこめた。青い絹の刺子《さしこ》の短い中国服を一枚着ただけで、墓場の土だらけというこの亡霊は、まるで弱いらせん状のぜんまいで押し上げられてくるように、ゆっくりとせり上がってきた。亡霊のひざが、床の高さのところまできたと思うと、音もなく炎がぱっと跳ぶように、すばやくはずみをつけて跳び上がり、両手で弁髪をつかむなり、ぐいとからだを引っぱり上げて、不気味な黄色い歯で弁髪の先をくわえた。亡霊は一見逆上したように、凄い形相で顔をゆがめて弁髪をしっかとくわえて離さず、右に左にゆれ動き、ぴくぴく跳びはねて、梁からおのれのものを外そうと努めていた。だが、音一つ立てなかった。そのありさまはまるで、電池を使って死体に人工的にけいれんを起こすのに似ていた。その超人間的なはげしい動きと、その沈黙との余りの相違は、まさに身の毛もよだたんばかりであった!
ビーソン氏は寝床の中でふるえ上がっていた。色の浅黒い小男は組んでいた足を解き、靴のつま先でじれったそうに床を鳴らした。老人は真っ直ぐに起き直ると、そっと拳銃をつかんだ。
バーン!
絞首台から切り落とされた死体のように、中国人は弁髪をくわえて、下の真っ黒い穴にすとんと落ちていった。揚げぶたがはね返り、ばたんと音を立てて閉まった。サンフランシスコの浅黒い小男は、しなやかにいすから跳び下りると、子供がチョウをつかまえるように、帽子で空中の何かをとらえた。そして、まるで吸引力で吸い上げられるかのように、煙突の中にすうっと消えていった。
外の闇のどこか遠くから、はるか彼方のかすかな泣き声が、開いている戸口から風に乗ってただよってきた――長い、悲しげにすすり泣く声、砂漠の中で死神におさえつけられた子供か、あるいは、悪魔につれ去られた浮かばれぬ霊魂の泣き声のようだった。もしかしたらコヨーテだったかも知れない。
その翌《あく》る年の春まだ浅いころ、鉱山師の一行が、新しい採鉱場へ向かう途中、峡谷を通りかかり、見すてられた何軒もの小屋をぐるぐる歩きまわっているうちに、その一軒で、ハイラム・ビーソンの死体をみつけた。死体は寝棚に長々とのびていて、心臓部をつらぬいた弾丸の穴が一つついていた。弾丸は明らかに部屋の反対側から発射されたものだった。というのは、天井のかしの木の梁の一つに、青ずんだ浅いへこみができていたからだ。弾丸はそこの節《ふし》に当ってはね返り、下の被害者の胸に突き刺さったのである。
その同じ梁に、馬のしり毛を編んだつなの切れっぱしとおぼしきものが、しっかりと留められていたが、そのつなは、弾丸が節へ飛んでいく時に切られたのであった。
その他には、かびくさい、妙に不釣合な一そろいの服を除いて、これといって興味をひくものは何一つなかった。服のうちのいくつかは、後で信用のおける証人たちによって明らかにされたのだが、もう何年も前に死人《しびと》の谷で死んだ住人たちが、それを着せられて埋葬されたものだった。しかし、一体どうしてこんなことがありえたのか、これは容易に理解できないことだ。死神が変装してその衣服を着たというのなら話は別だが、そんなことは到底信じられるわけがない。 (完)
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あとがき
イギリスのある文学辞典によると、文学的に見た幽霊を次の五つに分類している。
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1 浮かばれぬ霊魂ともいうべきもので、これは、おのれに加えられた、またはおのれがなした非道の行為が正されるまでは墓場の中で安らかに眠れず、殺人という報復の形をとる。例、『ハムレット』の父王の幽霊。
2 いわゆる夢まくらに立つというもので、死者が、眠っている人間に何かを伝える、または警告のために現われる。例、チョーサーの『カンタベリ物語』の「尼僧の話」とか、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』
3 十六世紀ごろの新教徒は、幽霊を悪魔の使者が化けたものとも考えていた。王子ハムレットが父の幽霊を見て、果たしてわが父の幽霊か、悪魔かと迷うのがその例。
4 罪を犯した良心の苛責が生み出す幻覚も、多くは幽霊の形をとる。例、『マクベス』
5 第一のタイプのメロドラマ調の幽霊は、十八世紀後半のゴシック小説によく見られる。さらに、ビクトリア朝に入ると、コミックな幽霊(とばかりは限らないが)が見られる。例、ディケンズの『クリスマス・キャロル』。しかし、過去二百年間、本格的な文学作品に幽霊が出てくるのは、ブロンテの『嵐が丘』や、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』くらいで、珍しい例であるという。
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近代から現代に入るにつれ本格的文学作品に幽霊の出るのがまれになるのは当然だろうが、全くないわけでもない。D・H・ロレンスの作品にも幽霊の出るのがあるし、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』(一九二二年)にも、幻覚ではあるが亡霊を見る場面がある。
ここに『ビアス怪異譚1および2』として訳出したビアスの短篇は、ことごとく超自然的怪異現象を主題に扱った奇々怪々な作品の世界である。
アンブローズ・ビアス(一八四二〜一九一四?)は、アメリカ、オハイオ州の貧農の子として生まれた。ビアス家は植民地時代初期にイギリスから移住してきた。アンブローズは少年時代から働き、南北戦争(一八六一〜六五)が始まると北軍に加わって戦場におもむき、重傷を負うが、終戦まで在籍した。彼の文筆生活はそのあとサンフランシスコに移ってから始まる。新聞・雑誌の編集・発行・寄稿という生活の中から、やがて秀れた短篇集『生のさなかにも』などが著わされてくる。革命動乱のメキシコへ旅立った一九一三年末に、消息を伝える書簡を最後に、ビアスが謎の失踪をとげてしまったという事実は、『怪異譚』の最後にある「謎の失踪」と符号して何か不気味である。
「ありえない話」Can Such Things Be? は、一八九三年に刊行された短篇集である。「ありえない話」と訳したが、原題は「まさかそんなことがありえようか、とても信じられない」といった意味合いである。平凡な環境の中で、ありきたりの平凡な人間に起こる異常な、超自然的事件を語っているので、それだけに対照の妙を発揮し、読者の胸にすきま風のようなうすら寒い恐怖、神秘感をざわつかせる。何よりもこれらの作品群がもつ不気味さは、作者であるアンブローズ・ビアスという人自身の中にひそむものとしかいいようのないリアリティを感じさせる。
芥川竜之介の「藪の中」(大正十一年〔一九二二年〕正月号の「新潮」に発表)の粉本が、ビアスの「月明かりの道」にあったとしばしば言われているが、その発見者は吉田精一氏である。同氏著の『現代文学と古典』(昭和三六年・至文堂)や、同じ問題を取り上げてある長野甞一氏の『古典と近代作家』(昭和四二年・有朋堂)に、比較文学的に詳細な論考がある。
最後に、『ビアス怪異譚』にふさわしい話を一つご紹介しておこう。先にあげたイギリスの作家、『チャタレー夫人の恋人』の作者ロレンス(一八八五〜一九三〇)にまつわる話である。彼の有名な自伝的長篇『息子たちと恋人たち』の主人公ポールの恋人ミリアムは、実名をジェシー・チェインバーズ(一八八七〜一九四四)といい、ロレンスの初恋の人であった。二人の恋は小説に描かれている通り、永すぎた春のすえ、袂別に終った。以後、ロレンスの死まで、二人の間には一片の便りさえ交されなかった。ロレンスの死後、ジェシーは親しい女友達(ロレンスの友達でもあった)に送った長い手紙の中で、次のような不思議な経験を打ち明けた。
「彼(ロレンス)が亡くなる一年半ほど前から、あたしは時々、彼に心引かれる思いを痛いほど感じることがありました。すぐにでも連絡をとらなければという切迫した感じでしたが、どう連絡をしたものか迷いました。ただ手紙を書くだけですむことではなさそうだったんです。そんな気持ちが片時もあたしから去りませんでした(ジェシーがいう一年半ほど前というのは一九二八年秋ごろに当り、ロレンスは例によってフランス・スペイン・イタリア・ドイツといったぐあいに転々と移り、健康状態(肺結核)が悪化していた時である)。一度、ほんとにだしぬけに、まるで彼が話しかけたみたいに、こんな言葉がふっと頭に浮かびました。『ぼくたちはまだおんなじ惑星にいるんだね』こういったようなことが、ほかにもいろいろとありました。あなた、おぼえてるでしょう、D・H・Lが病気だったこと、あたしはちっとも知らなかったんです。彼が亡くなった日の朝のことですが、突然、彼はあたしにこういったんです。それがまるでこのあたしの部屋に一緒にいるように、はっきりと聞こえたのです。『ただ苦痛ばかりで、喜びなんか少しもなかったことを、きみはおぼえているかい』そういった彼の声があまりにも恨めしそうでしたから、あたしは思わず、いいえ、喜びもおぼえているわといって安心させて上げました。すると、妙に途方にくれたような調子で『すべては一体何だったんだろうね』と、彼はいいました。
つぎの日の朝、せっせと家事をしておりました時、不意に部屋じゅうに彼がいる気配がみなぎったと思うと、ほんの一瞬、彼の姿が見えたのです。昔知ってたころとそっくりに、頭のうしろにちょこんと小さな帽子をのせていました。ほんの一瞬、現われたその姿はほんとにうれしそうでしたから、これはきっと近い内にほんとに会える虫の知らせなのだと思ったくらいです。
その翌日、彼の死が新聞に報道され(ロレンスは一九三〇年三月二日の夜十時に、南仏のニースに近いヴァンスで死去。ジェシーはイギリスで暮していた)あたしは恐ろしいショックを受けました。あたしはただありのままに、あなたにお伝えしているだけです。笑ってお聞きすて下さってもかまいません。でも、この経験は、あたしがいまこうしてペンを持っているという事実とおんなじに本当のことだったのです。それが自己暗示だったとは思っていません。なぜって、彼が病気だったことを、あたしは少しも知らなかったのですから」
『ビアス怪異譚』はその作品のほとんど全部の訳が、芹川・奥田・猪狩、他数氏により、「ビアス選集」中の二卷本『幽霊1、2』として数年前に刊行されている。参考にさせて頂いたことを記し感謝を申し上げたい。
この翻訳の底本には、中村能三氏訳『生のさなかにも』と同じく、先にふれたゴージァン・プレス社の一九六六年刊の復刻版ビアス著作集第三卷を用いた。
[#地付き](訳者)